岩城宏之 棒ふりの休日 目 次  わがヰタ・セクスアリス    どうして男に「初○」がないのか    オ○○コとは何ぞや    なぜ立つのか    潜在的ホモ志向      まつたけ  ぼくの自慢料理    おふくろの味パカーン    シャケがこんなにうまいとは  「ヒソカにニタニタ」の味    アスパラガスへ寄せる想い    再びアスパラガスへ寄せる想い      さんま  世界飲食考    オナシス的食生活体験記    ビールの話(その㈵)    ビールの話(その㈼)  �水割りの氷�物語    本場っていったい何だろう    パーティ狂騒曲  「米食でパワーアップ」  「違いのわかる男」後日談      はつもの  日本と西洋  「アイアムソーリー」と「すみません」    世界に冠たる日本語数詞    ドイツ風鼻のかみ方    富士は日本一の山    日本の温泉こそわが憧れ    オマル、トイレ、そして紙    検便についての一考察  おわりにひとこと  わがヰタ・セクスアリス  どうして男に「初○」がないのか  かねがね、「初潮」という言葉に、不満である。不満というよりは、|妬《や》いているといった方が適切かもしれない。  精液も射精ものっていない、小、中学生を対象とした国語辞典にも、初潮はちゃんとのっている。  しょちょう〔初潮〕(名)〔生〕最初の月経(ゲッケイ)があること。初経。(三省堂 国語辞典 金田一京助編より)  ぼくの不満は、この辞書に、次の項目がないからなのだ。  しょ○○○〔初○〕(名)〔生〕最初の射精(シャセイ)があること。初○。  ケシカランではないか。  われわれすべての男に必ず一度おこったあのショック——ある日突然ドロドロ白いものが出ちゃったことに、世間はこれといった言葉を与えていないのだ。  本当は何か言い方があるのかもしれないが、これを書いている今、ドイツに居る。さっきの子供用辞書では調べようがない。誰かに尋ねることも出来ない。  もしあったとしても、これほど調べなければならない言葉なら、普及していないということだ。  つまり、断然「初潮」は、スターなのである。男の方の「初○」は、差別されている。ちゃんとした言葉を作らなければならない。さしあたって名案が出て来ないので、「初○」と書く。シャクなことである。  ぼくの「初○」は、中学二年の時だったような気がする。時期的な記憶が|曖昧《あいまい》なのも、女の子と違って、単語もなく、学校で教わったこともないからだ。  敗戦の年の五月に東京を焼け出され、命からがら金沢に逃げて、敗戦の詔勅は、中学一年の耳にはさっぱり分らず、三学期には岐阜の山の中に移っていた。「初○」の時はギラギラ暑い夏で、もし中学一年の夏なら、戦争が終わったのと何らかのつながりがあるはずだが、そういう覚えはない。三年の夏は、二学期からの東京への転校試験にそなえて、東京にいたはずだ。  急に身体中に、吐き気のようなふるえが来て、目の前が暗くなり、同時にピカドンが落ちたみたいに、まわり中が輝き、ドロドロというかズルズルと、ヘンな白いものが出て来て、かすんでしまった目に、庭の木の暑い緑が、強烈な印象だった。だから二年の夏に違いない。やたら、いつだったかに、こだわるみたいだけれど。  多分、病気にでもなっていたのだろう。真っ昼間、ふとんの上にいたのだから。誰も家にはいなかった。退屈で、暑いからねまきもぬいでしまって、読む本も種が尽き、結局は、その頃何かというと手が自然にいってしまうオチンチンを、タテ、ヨコにブラン、ブランさせて遊んでいたのだった。  こんなことは、その頃いつもやっていて、決して気持良さを求めてしたことではなかった。自分だけでアソブとすると、なぜか手がそこへ行ってしまうのだ。だが、いきなり変な気持になって、ヘンなものが出て来たのには、おどろいた。  こんなところをさわって遊んでいた罰で、別の病気になってしまった。よく、吐いて、吐きつくした後、出るものがなくなって、白い粘液が口から出ることがある。つまり、ぼくは、オチンチンが吐いたと思ったのだ。  きもち悪い思いをして、敷布を拭いて、悩んだ。母に言わなければいけない。病気になった。吐くほどの重い病気らしい。  でも、何故かためらった。言っちゃいけない事のような気もした。二、三日たっても、まだ病気がなおらないようだったら、言えばいい。  翌日も、翌々日も、一日中こわごわで過ごした。そっとしておけば、オチンチンは吐かないだろう。ブラン、ブランと無理な動きなんかはさせないでそっとしておこう。  四日目に考えた。あのブラン、ブランは、ずい分以前からやっているのだ。この一年位の間。急に無理な運動をさせたわけではない。だから、またブラン、ブランをやって、同じようにオチンチンが吐いたら、病気は別のことが原因で、これはやはり絶対に母に言わなければならない。  まだ病気がなおっているか、いないかを、試した。また白いものを吐いた。でも母には、どうしても言えなかった。何日おきかに、時には毎日、病気がなおっているかどうかを、試すことになる。  そのうちに、オチンチンが吐く時に、体中を突き抜ける、あの変な震えの発作は、ヘンではなく、どうも気持の良いものであるような気がして来た。  結局、誰にも言わなかった。自分で何事かを自然に感じとっていたのかもしれない。病気だとしても、生命に関係はなさそうだ。なにしろ、この病気は気持いい。オチンチンに発作をおこさせて、吐かせる技術も、ブラン、ブランからは、かなり開発して能率もよくなった。  今の中学生なら、こんなことはないだろう。オナニーの方法を書いてくれている、親切な雑誌がいっぱいころがっているし。  当時としても、もっと簡単に、それが何事であるかを分ったヤツが、沢山いただろうとは思う。ぼくのは、全く性教育に関してタブー的であったといえる家庭の環境のせいかもしれない。ぼくの性質によるのかもしれぬ。友達にも一切言わなかった。転校につぐ転校で、友達もしょっ中変わり、こんなことまで話せる友達がいなかったことが原因かもしれない。  せっせと、病気であるかどうかを試して、実はもう、とにかく気持が良かったからなのだが、陰にこもって二年程やり続けた。友達が、こんな話をしているのを、偶然聞いてしまうチャンスがなかったのも、不思議だし、不運でもあった。  あまりに奥手で、恥ずかしい位だが、ナーンダ、みんなもやっていることだったのか、病気じゃなかったのか、と分ったのは、高校二年の時の野球部の合宿で、夜に、飛バシッコが始まった時だった。  ぼくに、あまりにもセックスに関する情報が無かったことを、うらめしくも思う。同時に、今となっては、二年以上も、せっせと病気かどうかを、試し続けた自分を、いとしくも思う。  そこで、最初の「初潮」にもどるのだが、女という動物は、なんとまあアッケラカンと、自分の性の開幕を迎えるものかと、感心してしまう。  これは、勿論、ぼくがあまりにも無知だったことから来る、偏見かもしれない。男三人兄弟の末っ子で、家に女の子というものが、いなかったせいでもあるだろう。  ある時、毛がはえて来る。このショックは、男女平等のはずである。オッパイが大きくなって来るのは、こちらが時々、オチンチンが固くなるのを、不思議と思うのと、対比出来るのではないか。  その次に来る、初潮と、初○(この際、「初吐」とでも言っておくか。しかし、初潮に於けるみごとに美しいゴマカシのニュアンスに較べて、やはり、あまりにもみじめではないか)のショックの時、片一方の多くは、赤飯で祝われるというのだ。  こちらはモンモンと、し続けるのだ。初潮を祝われて、恥ずかしさの中で、誇らしく思ったという女の人が多い。アッケラカンと。女陰、陽根は間違いで、女陽、陰根と言うべきだと思う。  オ○○コとは何ぞや  女の子のアソコを、どんな時に初めて見たかという話になると、多くの男は、お医者さんゴッコだったと言う。  勿論、他に沢山の幸運なケースはあるだろうけれども。  ぼくのお医者さんゴッコの記憶は、どう考えてみても、幼稚園以前のことで、 「ヒロちゃん、オクチ、アーンしなさい」 「アーン」 「こんどは、おむね、トントンしましょ、ハイ、トントン」 「ポンポン、イタイデチュカ?」  といった具合で、話にきく、本物のお医者さんゴッコを、やっていなかったように思う。  友達にきく「ゴッコ」の奥義は、小学五、六年のヤツラが、低学年の女の子をだまかしての、産婦人科ゴッコの面白さにあったらしい。  もっとも、これは、昭和ひと桁までの世代に言えることらしく、今の子供達が、こんなバカなまわり道をしているとは思えない。  しかし、ぼくの東京での小学五、六年は、病気、入院の連続で、空襲もだんだんはげしくなり、元気な時は、家にとじこもって、ひとりで木琴ばかり練習していたのだから、この奥義にふれるチャンスは、全くなかった。  ただ、友達と落書きあそびというのを、よくやった。  クラスの女の子の家の塀に、白墨で大きく書いて来るのだ。例の、マル書いて、タテに棒ひっぱって、真ん中にチョン、のヤツである。  これをみんなで、大いそぎでなぐり書きして、 「ナニ子ちゃんの、オ○○コ、でっかいぞ!」  と、三回位合唱し、いちもくさんに逃げて、また次の女の子の家に向かう。  この遊びは、たいていの男の子がやっただろう。時々、家人が、コラッとどなって出て来る。それがまたおもしろくて、逃げまわるのだった。  なにか、やってはいけない、タブーめいた絵を落書きし、口にしてはならぬらしい言葉をさけぶのが、やたらおもしろかったことはたしかだが、ぼくの興味はそれだけで、実は、絵が何のことか、オ○○コが、何を意味するかを、全然知らなかった。  父が役人の、男三人の、二番目の兄とは七つも年の違う末っ子で、セックスに関する会話を、家で耳にしたことは、ついぞなく、銭湯に行くチャンスもないし、女の子のハダカを見る機会が皆無だった。  しかし、ぼくは何故、友達に、オ○○コって何だいと、尋ねなかったのだろう。みんなは知っていたのだろうから。いや、たいしたことは知らなかったかもしれない。  とにかく、ぼくには、オ○○コは、女の子のどこかだということは、分っていた。だが、おどろくなかれ、アソコかもしれないとは考えてもいなかった。せいぜいが、オヘソだろう位の、なんとも貧しい想像力だったのだ。  中学一年になって、風邪をひいて、空襲のなさそうな日(大きなののあとは、三、四日は敵機来襲はなかったように思う)、それまでのかかりつけのお医者さん——それも小児科の先生の病院に行った。  診察室に入ったら、まだ、前の客がいて、赤ちゃんが、すっぱだかで、体重計の上に寝かされていた。  何気なく、その光景を見ていて、オヤと思った。オシッコをするもの、つまりオチンチンがないのだ。その時に初めてぼくは、女のアソコを、見たわけだ。よりにもよって、赤ちゃんのを。  エロな気にはなるはずはなかったし、身体中を、電流がかけめぐった、と書きたいところだが、そんなショックは、少しもなかった。  しかし、天啓とはこのことであるか。一瞬に、全て分ったのだ。あの落書きは、何のことだったかが。  わがヰタ・セクスアリスとしては、何とも貧しい話で、お恥ずかしい限りなのだが、オ○○コとは何ぞやを、明瞭に認識した、ぼく一生の、歴史的な瞬間だった。  マル書いて、タテに棒ひいて……。赤ちゃんのだったから、真ん中にチョンは、ちょっと分らなかった。チョンは見えなくても、とにかく全部ピンと分ったのだ。おまけに、落書きの時に、マルのまわりに、チョン、チョンと何本かの短い線を、誰かが書いていた。これも理解した。  オ○○コが何かを知ることが出来た以上、大人だって、それの場所は同じにきまっている。いつも母と風呂に入っていて、こちらのオシッコが出る場所あたりに、黒々とした毛の存在は、知っていた。落書きの、マルの外の短い線というか、テンテンは、毛のことだったのだ。  オ○○コのことが分って、もう何もかも、分ったような、壮大な気分になり、風邪のことなんかふっ飛んでしまい、診察してもらいに来たのも忘れて、お医者さんの家から足どりも軽くとび出して、口笛を吹きながら、意気揚々と帰って来た。  しかし、落書きでは、もう一つ、まだ分らないことがあった。マル書いて、タテに棒……の横に、よく友達が書いていた、なにか|胡瓜《きゆうり》のようなものと、その先端から、水の二、三滴が、タラタラ落ちている図だ。  それに、ナニ子ちゃんのオ○○コデッカイぞと合唱したけれど、オ○○コ小さいぞ、とはさけばなかったこと。何故、デッカイぞとだけさけんだのか。  この疑問が本当に解けたのは、実に、実に遅いことながら、満二十歳になる前の日に、つまり十九歳の最後に、悲壮な決意をして、自分で童貞を棄てに行った時であって、でもこれは前者の胡瓜のことで、後者の、何故、大きい、小さいは、その後、少しばかり経験をつんでから、なるほどと、分ったのだった。  こんな、自分の性のめざめの、|無知蒙昧《むちもうまい》さ、おくて加減さを、こうやって活字にして、よいものだろうか。  十二の時に、女の子のアソコを触った、なんていう、他人の体験談を読んだりすると、実に気恥ずかしく、それよりも、こちらがあまりにカマトトじみていると思われるのではないかと、余計心が痛む。なさけない。  だが、事実は事実で、しゃくだけれども、いたしかたない。  十九歳の最後の日に、全てを知ってからは、知識、経験共に、順調というか、むしろ急速に遅れを取り戻し、なんてことはない、あっというまに一人前になって、男として困ったことはない。逆に困ったことばかり、仕出かすことになる。  そこで思うのだが、性教育なんてものは、実は、必要じゃないのではないか。ぼくなんかは哀しいほどに、性に触れるチャンスに恵まれず、異常な程、親にセックス的なことから隔離され、それでいて、何となく、普通の一人前のセックス人間になったのだ。  この子は天才だと信じて、かわいそうにも、おさない子供に無理矢理に音楽教育をほどこし、二十過ぎればただの人で、親はがっかりかもしれないが、それはそれで、親の自業自得であるわけだが、がっかりされた子供の方は、たまったものではない。  無理矢理に、懸命に、ワレメチャンとか教えても、教えなくても、|所詮《しよせん》人間は、自然に、本能に従って、健全なただの人に、なるのではないか。  なぜ立つのか  小学校五年の頃から、オチンチンが、時々ピンと立つようになった。  と、書くと、どうもこれはウソのような気がする。なにしろ男の赤ちゃんだって、時には、ピンとかわいらしく立つことがあるのだから、ぼくのだって、きっと度々ピンとしていたのに違いない。  要するに、わがモノが、ピンと立つのを、自分で意識し始めたのが、小学五年頃だったと、言いたかったのだ。  ピンとなり出すと困ってしまう。当時は、人前でなって、それが恥ずかしいという訳ではない。何故、こうなるのかを知ってはいなかったし。立ちだして、角度が九十度の頃が一番困る。世の中の男がみんなこうなのだから、ことさらに書くことではないけれど、この九十度から、上にさらに九十度、合計百八十度上に向いてもらわないと、ズボンの中につっかえ棒が立つわけだから、歩きにくくて、ヘッピリ腰になったり、えらくイタかったりして、はなはだ困る。  友達四人位と、このことを相談しあったことがある。学校の帰り道だった。 「キミ、そんな時、どうする?」 「オレ、左のズボンのポケットの中を破っといてさ、手でグルリと上に向かしてやんのさ」 「フーン」 「オレは、右の方からやるなあ」 「オレ、オッタッちゃった時は、便所に走ってって、パンツおろして、上に向けてやってから、パンツとズボンを、下からかぶせるようにしてはいて、帰って来るな」 「便所がない時は、困るじゃないか」 「ウン」  洋服屋さんで寸法をとる時、洋の東西を問わず、初めての店では、必ず、左か右を尋ねられる。あるいは、腰のサイズを計りながら、何気なくさわっているのか、寸法を記入するアシスタントに、右、とか、左、とか言っている。エムボタンのどちら側に、モノがぶらさがっているかが、重要なわけで、これは、女性の方々には、あまり知られていないようである。  何故、左や右なのかには、諸説あって、最も有力なのは、マスをかく時の手、つまり右ききか左ききかで、きまると言う。ぼくは異論を持っていて、マスよりもっと|溯《さかのぼ》って考えるべきだと思うのだ。ピンと立つのを意識しだした頃に、どちらの手で、どの廻転方向で、上に向けたのかが、重要だと思う。  まあ、どっちみち、右ききか、左ききかの問題だから、同じことだが。  ぼくのは左側である。何も知らない女性の読者に、とんでもない誤解をされるのが心配だから、念をおす。別に、ヨコッチョについているのではありません。誰でも真ん中についている。   ※[#歌記号]かわいそうだよ ズボンのオナラ       右と左へなきわかれ  という|都都逸《どどいつ》があったけれど、真ん中から左のほうのズボンにむかって、たれ下がっている時が安定している、ということなのです。  有力説の、どの手をオナニーに使ったか、は魅力的な意見だが、そう簡単に、ギッチョかそうでないかで、解明されるとは、思えない。  ぼくは、生まれつきは左ききらしく、だが普段は、何でも右手を使っている。仕事で、手が非常に疲れている時、ふと左手で箸を使うことがある。  三十年程前から始めたオナニーでも、たいていは右手を使用して来たけれど、その時の気分によっては、左手を使う。わり合いは、三対一というところだろうか。そして、ズボンの中では、左に下がっている。右手が多いのだから、右でもよさそうなものだと思う。  完全にギッチョの人は、みんな「右」なのだろうか。だとすると、手を、反対側の方向に遠くおしやりながら、おこなうのだろうか。右手なら、右の方向にひきつけておこなう人はいないのだろうか。どうも分らない。だから、ぼくは、この有力説を、取らない。  ぼくに関して、絶対に確信をもって言えることは、オチンチンが立ちかけて来た時に、小学校高学年の頃から、常に百パーセント、左手をズボンのポケットに突っ込んで、左まわりに、上の方に向けてやって来た、ということだ。  左下がり、右下がりは、この長い伝統によって、どっちにしても、洋服屋さんに、お手数をかけるようになったのだと断言したい。  話を戻す。  立ちかけた時の方法論から、何故立つのかの疑問で、議論になった。  結局、みんな知らなかったのだ。 「なんか、こう、先生に急におこられると、立っちゃうんだ」 「オレは、暗いとこ歩いていて、オバケが出そうだなあって、こわくなる時にカタくなる」 「警戒警報がなって、防空壕に入ると、そうなるんだ」  等々、大体オッカナイ目にあう時に、カタくなる、という結論が出た。  ぼくの意見は、オシッコがたまって、我慢している時にオッタツのだ、というのだったが、みんなに認められず、不満だった。  今思っても、これは、ある意味では正しかったが、正解の一部ではあっても、残念ながら、問題の核心には、さっぱり触れていない。  こんな議論で、学校の帰りに道草をし、家に着いたら、大好きなエミちゃんが来ていた。十歳年上の大きい方の兄貴のガールフレンドだった。親父同士が、同窓で、兄貴は学徒出陣で海軍に行っていたが、今に結婚させたいと、両方の親が話をしていたような仲だったと思う。  エミちゃんに会いたかったが、それより大事なことが先にあって、便所にとびこんだ。大きい方である。  その頃、ぼくには妙な癖があって、上下スッパダカにならないと、ウンコに行けなかった。大人になってからも、|流石《さすが》に上までは脱がないが、下の方は完全にとらないと出来ず、不自由である。  便所から出て、一刻も早くエミちゃんに会いたくて、シャツだけを着て、すっとんで行った。どうして下だけをつけて行かなかったのだろうか。上だけの方が早かったからだろうか。とにかく急いだのだ。  茶の間で、エミちゃんは、母の前に、お行儀よく坐っていた。 「エミちゃんいらっしゃーい」 「まあ、なんて恰好でエミちゃんの前に来るの。早く|穿《は》いてらっしゃい」 「ウン、ウン」  とやっているうち、突如、ムズムズとオチンチンが立って来た。それ自体を恥ずかしいとは思わず、いいチャンスだ、この際オフクロとエミちゃんに、どうしてこうなるのか、聞いてやろう、と思った。 「ネエ、ネエ、時々こうなるんだけど、どうして?」  母はあわてた風だった。エミちゃんはうつむく。年頃のエミちゃんが男の子のハダカを見てうつむくのは分っているが、母におこられれば、おこられる程、奇妙におもしろくなって来て、うつむいているエミちゃんの前に突き出した。 「ネエ、どうして? どうして?」  さっきの議論で、どうしても分らなかった何かが、うつむいているエミちゃんの表情から、分ったような気がした。  エミちゃんは、二、三年後に亡くなり、兄貴のお嫁さんにならなかった。  潜在的ホモ志向 「マヌケな話だなあ。損だなあ、アホだなあ」  どこかで、飲んでいた時、知り合いの両刀使いのベテランが、感にたえたように、ぼくに言った。  彼に言わせれば、男にしろ、女にしろ、異性にしか興味を持てないヤツは、生まれて来た甲斐のない程の、バカ者だそうだ。 「なにしろ、ボクたちは、人間の全部を、候補の対象に出来るんだからね」  全部というのは、ちと|大袈裟《おおげさ》だろう。ヨボヨボのじいさん、シワシワのばあさん、ハナたらしのガキどもまでも、対象にはすまい。  だが、相手の数が、われわれ普通の人間の、約二倍というのは、たしかに、うらやましい。二倍に幸福かどうかは、分らないけれども。 「そういう意味では、異性好きの男女と同じく、ホモだけ、レズだけの人たちも、そうだよな。相手の数は、やはり、人類の半分だもんね」  両刀はツヨイ。佐々木小次郎は、マケタ。  彼の話によれば、人間は、だれでも全て、潜在的同性愛志向を持っていて、バランスの悪いのが、異性専門の普通人や、ホモやレズになるのだそうだ。つまり、両刀使いは、バランスの完全な、理想人間だということになる。  潜在的志向については、ぼくだって知っている。が、バランス論となると、マユツバものだ。  中学一年から、高校三年までの六年間に、ぼくにも、もしかして、そのままホモの道に走ったかもしれない心理状態が、三、四回は、あった。 危機があったとは、言わない。もし、そうなっていて自分で満足だったら、それはそれで良いではないか。残念ながら——残念がることもないが——自然にそうならなかっただけのことである。  中学一年の五月に、東京で焼け出され、父は東京に残り、母と二人で命カラガラ、金沢に逃げた。上野の駅で、窓からやっと汽車に乗れて、シラミだらけの身体で親戚を頼った。そこの世話で、金沢郊外の農家の二階に住んで、ちょっと落ち着いたら、戦争は敗けた。  その頃の一番の興味は、母の留守に、婦人倶楽部を眺めることだった。読んだわけではない。面白いわけがない。どの号にも、必ず「月経帯」の小さな広告が二つ、三つあるからだった。  絵が描いてあったはずはなく、活字だけの遠慮がちの広告だったけれど、何のことやら分らないくせに、見る度に、ドキドキした。ときめいた。女の身体に関する、何かだということは、カンで分っていた。  しげしげと、この広告に見とれ、そうすると、何故かぼくの心は、自分の下半身にばかり、行ってしまうのだ。広告を見て、すぐにアソコが、ピンと立つわけでもなかった。下半身といっても、勿論、自分の足には関心はない。お腹でもない。さりとて、不思議なことに、オチンチンにも関心はなかった。一日に何度となく、オシッコの時にさわっているのだから、そこが未知のことを秘めているとは、思っていなかった。  下への、この関心は、何だろう。懸命に考えた。自分の身体の中で、まだ見たことがない処が、「ソコ」ではないだろうか。  母の手鏡をとって来て、ヘンな恰好をして、オシリのアナを覗いてみた。たしかに未知のものだった。何十分も飽きなかった。自分の、何か分らないモヤモヤの相手を、やっと発見出来たような気持だった。  金沢近郊の農家の二階で、夏の真っ昼間、セミのジージー声を聞きながら、汗を流して、長いこと、オシリのアナを鏡にうつしていた自分を、時に、急に思い出す。ギャッと叫んでしまう。  何かしてみたくなった。エンピツのキャップを突っ込んでみたのだ。なんのことはない、|灌腸《かんちよう》と同じ気分だった。あれは、たしかに気持の良いものではあったけれど、すぐにお腹がゴロゴロ、グルグルして来て、便所に飛び込むので、嫌いだった。  灌腸のあとの、下痢のイメージで、自分の関心の対象を発見したうれしさも消えて、オシリのアナへの興味は、なくなった。もし、灌腸の経験がなく、便所に飛び込むあのイヤなイメージもなかったら、そのまま快感だけを追求して、一人前(?)になっていたかもしれない。  この農家に、二十位のきれいなおねえちゃんがいた。たしか大学に勤めていたと思う。ぼくが歌をうたっているのを聞いて、すごく褒めてくれた。特に声を。 「きれいな声や。女の人の声よりも、もっとおんならしいワ」  声変わりの前だから、ボーイソプラノだったのだろう。歌って声をきかせると、必ずやさしく頭をなでてくれた。頬ずりして、チュッとされたと書きたいところだが、残念ながら、そういうことはなかったと思う。頼まれる度に、はりきって「支那の夜」や、「愛染かつら」を歌った。一生懸命、女よりもおんならしく。  これは、わが潜在的ホモ志向への接近とか、隠れた同性愛的傾向の発見とかには、つながらないような気もするが、階下のきれいなおねえちゃんに、「女の人よりも……」と褒められて、ヤタラ、嬉しかった幸福感は、どうも、倒錯的快感だったような気がする。  中学二年の頃、毛も生え、自然にオナニーも覚え、だが、それから先のことについては、何も分らぬ。しかし、いくら箱入りムスコでも、ちゃんと普通に学校に行っていたのだから、現在の思春期の少年たちには、ほど遠かったにしても、少しずつは、性知識も増えて行った。  何のために、オナニーをしてしまうのか。女というものの存在のためなのだ、とまではよく分るようになった。次のホンモノの行為のことは、皆目、見当がつかなかったが。  家にあった美術全集を、眺めあさった。はだかの女を捜した。どうも、ヘンだった。おかしい。どの絵にも、写真にも、毛がないのだ。そんなはずはない。どこかにウソがある、と思った。  今だって、「黒」を出したら、お上にヤラレルのだ、わが国では。まして、なにしろ、三十年も前のことだ。完全な裸体画が拝めるはずがない。  それまで、ホンモノの女の人のハダカを見たのは、母だけだった。こちらの毛が生えるまでは、風呂に一緒に入っていたから。女の人にも、毛があるのだけは、だから、確信していた。だが、母は、「女」とは言えない。  ぼくは、男三人兄弟の末で、本当は、間に一人ずつ、男と女がいたが、ぼくが生まれる前に二人とも死んだわけで、実は五人の末っ子なのだ。したがって、ぼくが物心ついて、しかも毛も生え、オナニーをするようになった時は、母は相当にバアさんで、「女の人」とは思えなかった。ぼくは、なんとか、女のハダカを見たかった。〈女体〉にあこがれた。  名案を思いついた。オチンチンを、股の下に|挾《はさ》みこみ、足を内股にし、両膝をくっつけて、自分の下腹部を見る。これで女体を見た気になって、満足した。この満足は、二十秒とは続かなかった。コウフンして、変化を来たすと、この「女体」は消え去った。  潜在的ホモ志向の顕われだったのだろうか。それとも、女体見たさの、知恵だけだったのだろうか。 [#ここから2字下げ]  ま つ た け  十月だけは、なにがあっても、ぼくは日本にいたい。それが仕事の都合でいつもうまくゆかず、ここ十年位の間に幸福だったのは、一度だけだった。だから、毎年十月は、ヨーロッパでじだんだ踏んで暮らす。クヤシイ。  まつたけが宝石ぐらいに値上がりしたそうだ。好きなだけタラフクまつたけを食べられるのは、ワルイコトをしているヤツぐらいだろう、なんて思いながら、地球の裏側にいて、どうやっても食べられないヒガミで、日本中が今頃まつたけを食べているような気になってしまう。  かくして、ヨーロッパの十月のぼくは、一億の日本人へのヤキモチの権化になるのだ。  まつたけのシーズンが終わる頃、ぼくの機嫌はおさまって、なにしろ、日本でもう誰もまつたけを食べていないだろうと想像するのは、健康にもよい。  無理して捜せば、アルジェリア産のまつたけは手に入る。もともとヨーロッパ人はまつたけを好まず、それだけでも洋の東西の断絶は、もしかすると永久に解決がつかないかとも思うのだが、このアルジェリアのまつたけは、本物とは似て非なるもので、なによりも致命的なのは香りがほとんどないことだ。ヤキモチが大きくなるだけで、食べないほうがよいくらいだ。今年の十月は、バンザイ、ぼくは日本にいる。 [#ここで字下げ終わり]  ぼくの自慢料理  おふくろの味パカーン  ぼくはこれまでに、もう二回も、NHKの「私の自慢料理」というテレビ番組に、ゲストで出ている。  わざわざ「もう二回も」と書いたのは、つまり、出演回数の多さをジマンしているからに、ほかならぬ。一回だけなら、だれでも頼まれるだろう。だが、二回目となると、そうはいかない。  一回目のときの料理の、すぐれた独創性、実際にぼくのテレビをまね、作り、味わってみた聴視者からの賛辞と大感謝の手紙の山、「あなたさまの珍無類な斬新至極料理のおかげで、私の世界がパッと明るく開けたような気がいたします」なんてファンレターが、放送局の担当者の胸をくすぐり、「ぜひ、もう一度。なんでもいいですから」、と追っかけまわされることになる。  そこで、もう一度出演することにはなるのだが、すぐに引き受けるのは、貫禄がないであろう。珍料理大名人のコケンにかかわる。二、三年は、ナンノ、カンノといって、出演を引き延ばし、その間に次なるメイ料理を考える。「私の自慢料理」であるからには、世の中に存在しているかもしれない、一般の月並みなのを出すわけにはいかない。作家の生みの苦しみを味わう。  音楽家仲間に、この番組に二回出たフトドキなライバルが、もう一人いて、N響のホルン奏者の千葉|馨《かおる》氏である。一回だけしか頼まれない、普通のザコのことはどうでもいいのだが、彼の存在が気にかかる。どちらが、出演三回の記録を達成するか。  目下のところ、われに勝算あり。  なぜかというと、千葉氏の料理は、凝りにコリまくり、しかも、実にちゃんとしすぎているのである。あれでは、ミシュランの二ツ星ぐらいの、ヨーロッパのレストランのシェフが、テレビで上等料理を作ってみせるのと変わりがなく、面白味があるまい。それほどに立派な料理をご披露なさる。見るほうがコンプレックスを持ち、疲労するのである。  そうなると、ぼくのほうはすごいのだ。アイデアは斬新、誰でもその場でまねできるほど単純、つまり「写るんです」のカメラみたいなもので、これぞ前衛、コンテンポラリーなのだ。材料は何でもよいようなもので、失敗もありえない。  亭主を会社に送り出して、自分はまたベッドにもぐりこみ、たっぷり寝たあとは、テレビのよろめきドラマに夢中になり、子供を塾に追いやって、別の子にはとなりの部屋でバイオリンをギコギコ義務づけ、さて今晩のごはんは何にしよう、料理番組にチャンネルを変えて、何でもいいや、それを作っちゃおう、という日本中にあふれているバカママゴンたちにとって、キテレツ料理のぼくは、救世主であるに違いない。近く、三回目の料理番組出演をなしとげるであろう。まだ全然、なんにもアイデアがないけれど。  一回目の出演のときのヒット料理は、「パカーン」と、「キャベツのドボン」だった。  実のところ、「パカーン」はぼくの独創ではなく、いわばぼくにとっての、おふくろの味なのだ。  二十数年前に亡くなった母は、今にして思うと、料理が不得手で、しかも相当にものぐさだったらしい。  子供のころのぼくは、体がやたら弱く、入院、元気、退院、そして再び入院の連続だった。病気になりかけのときは、さあたいへん、めったにごはんツブにお目にかかれないようなうすいお粥に、白身の魚の煮たのと、ジャガイモのうらごしが定食みたいなものだった。  パンのときは、あたたかいミルク、半熟の卵。しかもパンは、食パンの真ん中をマッチ箱くらいに切ったのを、ほんのりと焼いて、これが二つだけ。  時には、今日は元気だから、マッチ三つヨ、なんて言われて、よろこぶ。パンの耳なんて、食べるものだとは思っていなかった。  家では、あれを食べてはいけない、これもだめと、好奇心は大いにあっても、ずっとガマンの子だったが、病気がひどくなって、また入院となると、逆に食生活はうれしくなって、なにしろ先生がOKと言うのだから、出されるものは何でも食べてよい。病院のごはんなんてたかが知れているようなものだが、そんなぼくには、夢みたいにバラエティに富んだように思えた。一生懸命何でも食べて、元気になって退院。  要するに、病気ばかりしている子供に、気を遣うあまりの両親の神経過敏のおかげで、何を食べてはいけない、これもいけない、の栄養失調の状態がいつも続いて、抵抗力がなく、すぐに病気になったのかと思われる。入院中に栄養がとれて、病院の霊験あらたかで、じきに元気になる。  母が料理にものぐさだったと書いたが、バチが当たるかもしれない。魚の白身とジャガイモのうらごしだけしか作れなかったのではないだろうが、家ではこんなものばかり食べさせられていたのだから、母の料理に不信の念を持つのも、しかたあるまい。  食い物のウラミ、特に子供のころの欲求不満は、今に至るも、長く続いている。といっても、普段は、食欲がなかったわけで、だからこそ、違う種類の、珍しいものが食べたかったのだ。いつも同じものばかりなので、母のものぐさのイメージが、頭の中にしみこんでしまったのだろう。  病院から元気になって退院して来ると、さすがに普通の子のように、もりもり食べたい。白身の魚や、半熟卵ではがまんできない。かたい、ちゃんとしたごはんも食べたいし、医者もそう勧めてくれた。  そこで登場するのが「パカーン」だったのだ。  発病していない子供に、栄養と消化が良いからといって、いつも骨を取り去った白身の魚、手数のかかるうらごしのジャガイモ、ユリの根をゆっくり煮たのに、お粥でもあるまい。  うまいもの食わせろと、ぼくは叫ぶ。 「じゃ、今日もパカーンにしましょう」ぼくはキャッキャッとよろこんで手をたたく。  皿の上に、ちょうどライスカレーのと同じようにごはんを盛る。  卵を二つ、よくといて、適量の醤油を入れ、砂糖をちょっと加え、さらにかきまぜる。ここまでは、子供用の卵焼きを作るのと同じである。  強火でフライパンを熱くして、バターを小匙一杯くらい落とし、フライパン全面によく行きわたらせる。こういう動作は、料理の専門家なら、一言ですませるのだろうが、そういうプロ的なことが言えないのが、わが単純救世料理家のユニークなところである。  フライパンに、かきまぜた卵を、ジャーッと落とす。  卵をフライパン全面にぶちまけるから、まんまるく薄い卵のせんべいができる。フライパンに接しているほうが、ちょっとこげたくらいで、反対側はまだかたまらず、少々じゅくじゅくしている段階が工程の終了である。  卵焼きや、オムレツなら、これからテクニックをもって、卵を畳むとか、丸めるとかするのだろう。(この作業だって、おサバ、おヤオヤさん、おトウフ、おエビ、おアジ、おスリバチなんて言っている、テレビの料理教室のブクブクぶとりの専門家のおバアさん先生なら、二言くらいで言ってしまうに違いない。ユニークというのは、ジレッタイですねえ)  その次は、卵焼きを作るのとは別の、技術を必要とする。左手にさっきのライスの皿を持ち、右手でフライパンをもち上げて、母はサッソウと立つ。 「はい、ヒロちゃん、できるわよ」  ぼくはかたずをのむ。いや、ゴクリとつばをのみこむ。 「見てるのよ」  大きな声で母が叫ぶ。 「パカーン」  これででき上がりなのだ。ライスの上に、こげたほうの面を上にして、卵の大きなおせんべが乗っかっている。  これをスプーンで食べるのが楽しかった。横から敵軍を攻めるように、きちんと線をつけながら食べていくのもよかったし、トンネルを掘るように、上の卵を傷つけないようにして、注意深く下のライスを平らげ、最後に卵だけを折り畳んで、口いっぱいに頬張るのもうれしかった。  卵の下の面の、じゅくじゅくが、ごはんの表面にとけて、特に熱いごはんのときは深く浸透して、上の卵をこわさずに、そこだけを最初に食べるのも難しく、面白かったし、冷えたごはんのときは、細いトンネルを開けることもできた。  パカーンの叫び声で、みごとごまかされ、毎度喜々として、ぼくにとっての、この最高料理を食べていたのだから、たわいない。  母が、どうも料理に関してものぐさだったのではなかろうか、というぼくの疑問は、いや、あれはどうして、たいした才能ではなかったか、とも思えてくる。掛け声ひとつで、幼いぼくを何年間もだまくらかし、よろこばせて、しかもこのインスタントカメラ的な料理は、恥ずかしながら、今でもぼくの大好物なのだ。  世の中には秘曲というものがあるが、ぼくにとって秘曲——ではない秘味というべきこれを、テレビなどで公開したくはなかったのだが、あえて日本中の単純ママゴンたちに教えてしまった。幸福な子供が増えたであろう。不幸なガキができても、知ったことではない。  もうひとつのヒットの「キャベツのドボン」は完全にぼくの創作である。  大きな鍋に、半分くらいの水を入れ、何でもいい、固形スープの素を入れて煮立たす。  キャベツを横に真っ二つに切り、下のほうの半円形の真ん中に、直径八センチくらいの穴をくりぬく。これを固形スープの煮立った鍋にドボンと入れる。字に忠実にドボンとやり過ぎると、やけどするかもしれないから、要注意である。「ドボン」は文学的表現なのだから。  キャベツがほどよく柔らかくなる少し前にコーンビーフをそっくりそのまま、くり抜いたキャベツの穴の中に入れる。もちろん、罐は取り除き、中身だけを入れるのだ。  コーンビーフがちゃんと熱くなったころ、鍋ごと食卓の上に置き、各人適量のキャベツとコーンビーフを鍋からもぎ取って食べるのである。  キャベツとコーンビーフは、もともと、いためてもよく味が合う。この両者に加うるに、固形スープの素と水と熱だけの、簡単至極の単純美、ハーモニーの明快さ。放映してから三年もたつ現在でも、時折り、あれ以来わが家ではよくドボンを作っております、なんていう方に出くわして、わがアイデアのすばらしさに、酔い痴れる。  最近の、二度目の出演の折りの目玉作品は「キャベツのバリバリ」だった。ぼくの料理は、どうしていつも、キャベツ、プラス擬声語なのだろう。なぜキャベジンが、CMをたのみに来ないのだろう。  このときの他の料理は、数種のだしを使ったオジヤと、ぼく流の一種のシチュウで、月並みと紙一重の危険さをともなっているので、ここでは略す。 「キャベツのバリバリ」は、外側の二、三枚のきたない皮を取ったキャベツを、そのまま卓の上に置き、各人がバリバリと皮をむき、ケチャップとタバスコを混ぜたソースをつけて、パリパリ食べるのだ。  自然のうまさだ。キャベツ本来の味が、口の中に広がる。 「料理ではない」と、担当者は反対したが、押し切った。手数も、上等もあるものか。うまくて楽しければ、これこそ料理の極意ではないか。わが独創に酔う。  このようなヒットを続けていれば、三度目の出演交渉は、ごく近い将来、必至である。  シャケがこんなにうまいとは  十年ほど前のことだったろうか。ミュンヘンの、ある高級ホテルのレストランで食事をしていた。オードゥブルやスープのことは忘れてしまったが、メインにサーモン・ステーキを頼み、ワインリストにモーゼルの白の一九五三年ものを見つけたので、すごくゴキゲンになった。  サーモン・ステーキが出て来て、これが実にもう、大した味だったのだ。  身はやわらかく、それでいて、ちゃんとひきしまっている。焼き方が|上手《うま》いのか、中のほうまでよく火が入っていて、まるで|茹《ゆ》でたように湯気がホカホカ立ち昇る。茹でたのではない何よりの証拠に、サーモンの身全体に、火で|焙《あぶ》ったこうばしいにおいが行きわたっている。  口に入れると、シャケとはこんなかぐわしいものであったか。自然にとろけて胃の中に入ってしまおうとするのを、それではならじと呼び止めて、せめて何回かは噛ませてほしい、何秒かもっと長く味わいたい気になるのだった。  皮がまたよかった。材料もよかったのだろうが、この焼け具合は、やはりコックさんのテクニックの勝利なのだろう。焦げ過ぎず、しかしちょっとシコッとしていて、こうばしいのだ。実に、実に、うまかった。  そこで、少しばかりオツな気分というか、キザなことがしてみたくなった。こんなに美味いものにしばらくお目にかかっていない。ひとつ、コック長さんを呼んでほめてやろう。  まずボーイ長氏を呼んで、「ワレ、コノ料理ニ満悦至極ナリ。コック長ニ、最大ノ賛辞ヲ与エンコトヲ欲ス。汝、カレヲコノ席ニ連レ来タルベシ」とのたまわったのだ。  シェフさんがやって来た。ぼくは、褒めにほめて、「貴下ノ材料吟味ノバツグンナル巧ミサ、オヨビ、料理法ノ幻想的ナ(直訳するからこうなる。要するに、ファンタスティッシュと言ったのだ)テクニックノオカゲデ、余ハ、ココ数年来マレナル幸福感ニヒタッテイル。感謝、感謝」とやった。  外国語というのは、こういうときに、たいへん便利だ。大ゲサにキザキザにほめまくる、なんていうのは、日本語ではやりにくい。せいぜい、 「やあ、美味しいでした。どうも」 「いえ、いえ」  で終わってしまいそうである。  これだけのセレモニーをやったからには、満足のしるしに褒美をとらせねばならぬ。おもむろに、ポケットに手をつっ込む。ヤ、ヤ! ないのだ。あったはずの十マルク札が。百マルク札しかない。あわてふためいても、もうおそい。涙の出る思いで、百マルクを賜わるハメとなる。百マルクは約一万円である。  コック長さんは、この莫大なチップの額に、少しも驚いた様子なく、うやうやしく引き下がって行った。キザ心のせいで、高い晩メシになってしまった。  数日後、この失敗談を、物|識《し》りの友人にしゃべった。ドイツ人である。これはまた外国語の不便なところで、こちらはコボしたつもりだったが、彼はそうはとらず、「それは良いことをした。チップの額も、まあ、まあ、適当である」と言う。この「まあ、まあ」にひっかかり、こちらのコボしたい真意をくわしく話したら、大笑いされた。 「大体、そんな高級なレストランで、シェフを呼びつけてほめる以上は、百マルクでは、本当はちょっとばかり、少ないんじゃないかな。キザがって、五百や千マルク渡しても、平気な顔をしているだろうよ。まあこれからは、美味いものを食べても、黙っていたほうが無難だな。オナシスなんかがやることなんだから。ポケットに十マルクがなくって、本当によかったよ。十マルクじゃ、大恥をかいたところだぜ」  百マルクで汗をかいたつもりが、この話をきいて、もう一度、冷や汗がどっと出た。  最近、北海道で、とびきり美味しい鮭を食べた。競走馬の産地で有名な、静内という町に、演奏旅行に行ったときである。  静内は、あくまで「町」で、「市」ではない。人口は二万。このたった二万の「町」に、音響効果も完璧で、何から何まで立派なコンサートホールがある。ここでシンフォニーをやると、千ナンボの客席が満員になるのだ。人口の二十分の一近くの人が、聴きに来てくれるわけになる。東京だったら、五、六十万という数になるパーセンテージの人が、音楽愛好家だなんて、静内は、世界でも稀有な文化の町だと言える。決して、ハイセイコーだけではないのだ。  この静内に二日いただけだったけれど、朝、昼、晩、掛ける二の、つまり、六回の食事に、すべて感激した。さもありなん。文化とは、絵画、音曲をのみさすのでは、もちろんない。人間の心の、豊かな営みの総合が、文化であって、当然、その頂点の一つに、「味」が来る。うまいメシがある。  静内の音楽の好きな人が集まり、ぼくの歓迎パーティをしてくれた。三、四十人もいただろうか。土曜の夜の幼稚園の遊戯室だった。園長さんや、せっせと日本一の馬を育てあげている人がニコニコして、イカす人なのはわかるのだが、おどろくなかれ、町会議員や、その議長や、教育長というオソロシイ人や、町長さんさえも、ほほえみながら、音楽の話を語り合っていて、ぼくにとっては、不思議な光景だった。  今まで、このたぐいの人々と、楽しく過ごしたことや話が合ったことなんか、あったためしがない。言い方が悪くてゴメンナサイだが、この種の顔役、つまり、町、市会議員とか町長とか、もろもろのナントカ長の皆さんは、たいていはイヤラしいヒヒオヤジだった。オバハンたちなどときては、もうヒヒなんて名前もつけられなかったくらいの印象だったのだ。  それが、この町で、例外中の例外と言うのか、とにかく、奇跡に出っくわしたのだ。静内のミナサンにゴマをすっているつもりはないし、また、すってもしようがない。あの町には、おそらく半永久的に行くチャンスはあるまいから。あんな町があることもあるのだから、やっぱり、日本は良い国だ。  別に、静内の町の人たちを食べて、感激したわけではない。あの町の幼稚園の歓迎会でご馳走になった、おいしい、美味しい「鮭」のことが書きたかったのだが、素敵な人たちのことで脱線してしまった。  その夜の出しものを書く。  まず、サッポロ生ビール。北海道のサッポロは、死にたくなるほど、ウマイ。(公平を期するために書くが、ビールは、キリンでも、レーヴェンブロイでも、アサヒでも、ピルゼンでも、サントリーでも、ハイネッケンでも、トゥボルグでも、すべて醸造の現地で飲む「生」に限る)  いくつかの前菜については略す。  圧巻は、メインの「海賊ナベ」だった。まず、鍋について。  縦四、五十センチ、横約二メートル半、深さ四、五センチの、要するに矩形の、蓋のない箱といったようなもので、ブリキで簡単にこしらえてある。ゴンゴンたたいておしまげ、角にはハンダのあとが雄々しく残っていて豪快である。これの下に、いくつかの固形燃料を置く。  もし、二メートル半の長さの鍋に、横にちゃんとガス管がセットしてあって、鍋の底にまんべんなく火があたるような装置だったら、ナンテことはなかったろう。ぼくには、この固形燃料がうれしく、海賊は何を燃したのかは知らないが、なるべく文明的な道具が揃っていないほうが、文化的に思える。  鍋一面に、においのないアブラを敷く。敷くというよりは流し込む。どの隅もくまなくアブラで一ミリぐらいぬれていなければならないから、鍋底は完全に水平になっていなければならない。二メートル半と、バカ長いから、結構むずかしい。だしとして、大量のコブの汁に、塩だけを入れてある。他に何も複雑な味をつけていないから、磯の香そのものが、邪魔なく味わえる。  何をこの鍋に入れるか。大きなシャケを一匹、それも、さっきまで太平洋で泳いでいたというヤツを二枚におろし(?)、片一方についている背骨はとって(こういうことを三枚に、というのだろうか)、いずれも皮のほうを下にして、二メートル半の鍋一面に熱くなっているアブラの上にジュッと置くのである。  鍋の面積はうんと大きいのだから、シャケのまわりに何でも置ける。新鮮な海の幸、山の幸ならなんでもいいだろう。ここでは、浜からとりたての、ホッキ貝、ホタテ貝、北海道名物の大きな生しいたけ、グリーンアスパラ、ねまがりだけという、柔らかくて香りの強い竹の子や、もやしなどを手あたり次第ほうり込んだ。ジュウジュウと、まあ、音のすごいこと。それにモウモウの湯気。  ホッキも、ホタテも、まだ生きているピンピンなのだ。熱いアブラと水分とのジュウジュウできこえないが、きっと、悲鳴をあげているだろう。貝がまくれあがるのを押えつける。えびのおどりにしても、この貝どもにしても、人間はなんとまあザンコクであることか。そして、これがまた、なんとうまそうにわれわれには見えることか。 「今の今まで、あの星で動きまわっていたヤツですよ」 「やあ、新鮮ですなあ、うまそうですなあ」  ジュウッ——ギャアーッ——  われわれの仲間も、どこかの星でやられているのではないかと思う。なら、公平じゃないか。ホタテ貝の悲鳴にスミマセンといちいち思うこともないだろうと、心の中をゴマかし、安心して、ホタテどものジュウ、ギャアによだれを流すのである。  昔からの無数の神隠しや、バミューダ・トライアングルの数々の航空機や艦船の失踪について、あれはただの遭難さ、と一言で片づける人はともかく、目をかがやかせてあれこれ論じられる方々は、他の星からの宇宙船につかまっただの、四次元移動で連れ去られ、きっと地球人の文明進歩度のテストをするために、サンプルにされたんだろうなど、想像なさっている。ノンキなことである。オメデタイ。あれは食べられているのだ。  次空間の瞬間移動は、新鮮な食料の運搬には最良の方法だ。黒、黄、白のおどり。どこかで、うまがっているだろうな。  さて、鍋の上の数々の新鮮の、ジュウジュウの音も、やっとおさまって来る。火が適当に中に通ったのだ。そこで用意のだし汁をジャッとかけ、鍋中平均一センチぐらいひたるようにする。これですべてOK。材料の新鮮さはもちろんだが、アイデアが実にいいわけだ。  あとは各人勝手に、シャケを切り取り、ホッキをモグモグやり、次はグリーンアスパラを一本というように、町会議員も、教育長も、指揮者も、ハイセイコー牧場のおやじも、みんな海賊になる。  さっきまで泳いでいたシャケの身の柔らかさ。たいていの生ジャケは、口の中でモゴモゴしてしまい、唾液の出方が足りないのか、ノドにつかえるのじゃないかと心配になり、ビールやらワインやら酒やらで流し込んでしまうなんて、味に対する暴挙を敢えてしなくてはならないのだが、これは違った。ホンワカと口の中で溶けてくれる。歯を使うことはない。シャケの一切れを舌で上あごに押しつけるだけで、口いっぱいにやわらかいシャケがとろけ出し、汁気もたっぷりだ。皮がまたうまい。太平洋の荒い、ひきしまった潮で、短い一生を、うすい塩味にして来て、しかも電気分解の塩水にひたしたのとはわけが違う。  元来、生ジャケはあまり好きなほうではない。ミュンヘンのも静内のも、こんなに感激度が大きいのは、つまり、めったにうまいと思ったことがなかったからなのだろう。  実は、ぼくは、シャケの罐詰が大好きなのだ。何はなくとも、シャケ罐さえあれば、その食事は満足する。これを書くのは、少気恥ずかしくもあるのだが、静内のシャケをつっ突きながら、ハタと、なぜシャケ罐はあんなにうまいのかが、わかった。シャケ罐が好きでも恥ではないと、自信を持ったのだ。  遠洋のどこかで、とったばかりの大量のシャケを、船の上でそのまま罐詰にしてしまうからなのだろう。つまり、材料がものすごく新鮮だからなのに違いない。  「ヒソカにニタニタ」の味  せんだって、山本直純と久しぶりに一緒に飲んだ。アルコールが入れば、だれかれのうわさや、悪口になる。音楽仲間のだ。  ナオズミがドナルように言った。 「オマエ、黛さんの本当の大好物が、何だか知ってるか?」 「黛さんの?」 「ギャハハハ……」  いきなり大口あけられて笑い出されても、こちらはさっぱり面白くない。 「あんなにスマした顔で作曲したりしてヨ、それに≪題名のない音楽会≫でペラペラしゃべりまくってヨ、しかも食通の権化みたいな顔をしててヨ、この間テレビで一緒にしゃべったときに、白状しヤガンノ。一番好きなのは、ソース焼きそばなんだってヨ。ギャハハハ……、ワッハッハッハッ」  生まれつきのバカ笑いか、スター・ナオズミの職業的大笑いなのか、こんなに大声でやられると、まわり中に、なんともきまりわるい。  でも、このナオズミのバカ笑いには、かの洗練の極致、文化人の中の文化人、趣味と教養の気高さについては、日の本一で、しかも茶道までも極めるなど、かの三島由紀夫先生ですら足もとにも及ばぬ境地におわします、黛敏郎氏のソース焼きそばの告白に、イタク感動した響きがあふれていた。  軽蔑笑いのようには、全然感じなかった。強いて言えば安堵笑いだろう。安堵での「ギャハハハ……、ワッハッハッハッ」笑いは理解しがたいけれど、やはりこれは、当然、尊敬のあまりのキチガイ笑いと、解釈したほうがいいだろう。  なぜ、黛さんがソース焼きそばが好きだと、尊敬したり、バカ笑いしなければならないのか。これすなわち、洋の東西の接点に花咲く、わが日本文化のデリケートなところであって、これについて書き出したら、何冊の本でも言いきれまい。  そして、日本に限らず、黛さんにこだわらずとも、たとえば、ローマ法王のナントカ何世が、実はホットドッグが一番の好物だったり、毛沢東さんがニッシンヤキそばで目を細めたとしても、それはそれで、うれしいではないか。世界はヒラケてきたのだ。  とにかく、人さまには意外であろうと、なかろうと、誰でも密かにナニカをときどき食べては、ニタニタしているのだ。これは、子供のころにいつも食べさせられたもの、つまり、オフクロの味とも、ちょっとばかり違うのではないかと思われる。  オフクロの味の中で、どっぷり育っている最中に、ふと道草をして、その折りに味わった強烈な印象が、「ヒソカにニタニタ」の味になるのではないだろうか。黛さんは横浜の生まれだから、きっと戦後の横浜駅裏のヤミ市なんかで、一皿十円のソース焼きそばにニタニタしたに違いない。  オフクロの味というものは、本来、ひとつだけの料理を指すものではなく、こんな感じからあんな感じまでの、漠然とした母親のレパートリーの中から、イモの切り方の大きさやら、醤油の濃さ、薄さ、オカカだったか、ニボシだったかなど、自然に自分の中にでき上がった自分の好みを言う。だから、なにもオフクロが作ったものでなくてもいいわけだ。  ぼくの場合、マヨネーズはキューピー、チーズは雪印、ハムは酒屋さんの店頭にころがっているマルハだかなんだか忘れたが、あの、魚の肉が入ったようなインチキくさいのとか、こんなのも全部、オフクロの味に入れたい。  フランスは三ツ星、ラセールやトゥルダルジャンの超一流のシェフがコリにこったマヨネーズでは、実のところ感心はしてもうれしくなく、ああ、いまキューピーがあったらなあ、なんてバチあたりなことを思う。日本にあまりいないため、本場のヨーロッパのチーズしか食べるチャンスがないくせに、ハウダの三年ものを食べながら、ふと雪印の|蝋燭《ろうそく》くさいのをなつかしく思ったりする。ヨーロッパのハムは、何千と種類があり、それぞれ独特の味とにおいで飽きないのだが、昔、中学、高校のころ、道を歩いていて、ふと食べたくなり、酒屋さんの店先でお金をはらうより先に、豚の腸だかビニールだかは知らないが、プチッと袋を破ってカブリついた、魚くさいハムが、いつまでたってもなつかしい。  これがみんなオフクロの味なのだ。オフクロの味つけの範囲内でしか育たなかった自分の舌の保守性の象徴がキューピーだったり、雪印だったり、魚ハムだったりする。誰でもそうだろう。後にどんなにうまいものを食べるようになっても、ことオフクロの味に関しては、人間、恥ずかしさを感じないのではないか。逆に大エバリに、開きなおったところがある。  ところが「ヒソカにニタニタ」のほうは、ちょっと違うのだ。黛さんのソース焼きそばのように、テレクサイ感じがある。  越山田中角栄氏が、保釈になり目白にもどって、まずコシヒカリとなにやらのヒモノと、母さまお手製のたくあんをボリボリやってホッとした、というのを新聞で読んでも、久しぶりのシャバのめしは、やはりオフクロの味なんだろうなあと、ナットクである。  しかし、その時彼が冷蔵庫から持って来させて、ニタニタしながらナメルようにして食べてしまったのが、ストラスブールのフォアグラだったというニュースが、もし新聞に出たとしたら、これはもう、すごくオカシイではないか。  角栄氏も恥ずかしいだろうが、読むこちらのほうもテレてしまうだろう。 「ヒソカにニタニタ」の味とは、このことなのだ。道草して何をやらかしたか、それがバレちゃったときの後ろめたさの、花も恥じらうあの気持だ。  故意に並べたわけではないから、どちら様にも怒ってほしくないのだが、黛さんのソース焼きそばとか、越山氏の、これはもう全く仮定のフォアグラなんて、さすがに大物の「ヒソカにニタニタ」の味というものは、多くの他人をまで、テレさせる。大したものだ。  さて、ぼくの「ヒソカにニタニタ」は、実は「シャケ罐」なのだ。シャケ罐と言ったって、だれもテレくさくないだろうが、ぼくには「ヒソカにニタニタ」であって、オフクロの味ではない道草の味なので、実に恥ずかしく、従って大好物で、これさえあれば、世界中どこでも元気にうれしく生きていけるし、だからますます自分だけのニタニタになる。  そもそも、ぼくにおけるオフクロの味の形成は、ものごころがついたあたりから、戦争もたけなわというか、負けいくさがはっきりしてきて、毎晩のように空襲があったころまでのと、戦後も何年かたって、物がそろそろ出まわってきたあたりからのとの、二期に分れるようだ。この中間の時期の、焼け出されて、命からがら東京から金沢に逃げたり、敗戦直後の岐阜の山奥で、何も食べ物がなかったころは含まれない。  大きな断絶があって、だから、同じオフクロの味でも、前述のパカーンと、店さきの魚入りのハムとは、つながらない。ちょうど、この断絶の間に、ぼくの「ヒソカにニタニタ」の味は、生まれ出たらしい。  子供のころは、体が弱すぎて、何も食べさせてもらえず、少し丈夫になったころ、小学三年、十二月に戦争が始まり、大詔奉戴日のときのキヲツケの時間の長さや、一億一心火の玉だ、鬼畜米英、※[#歌記号]兵隊さんヨありがとう……で、日の丸弁当を教室のストーブの上で温めた味ぐらいが、うまいものの唯一の記憶といっていい、情けない時期だった。味覚の断絶も無理はない。  このころは、いつも大人どもの食べ物のグチばかり聞かされた。昔のまんじゅうはデカかった。赤ン坊の頭ほどあったとか、どこそこのスキヤキはうまかったなど、聞かされるだけの子供の心を、どんなに傷つけたことか。  昔食ったことがあるならまだいいじゃないか。ぼくなぞは食べたことがないんだ。食い物の恨みというのはよくあるが、これは話を聞かされただけのウラメシサなのであり、三十数年たって何でも食べられるようになった今のご時世に暮らしていても、まだくやしいのだから、怨念といってもよいだろう。  しまいには焼け出されたが、何回かの東京大空襲のかなり最後のころまで小石川に頑張っていた。ずいぶん近所まで焼夷弾で焼けてきて、ちょっと前まで母校だった小学校がやられ、翌朝焼け跡を見に行った。中学一年のときだった。  防空頭巾やらもんぺやら、今だったらそれこそ難民の群れにしか見えないだろうが、昨晩焼け出された人、焼け残った人でいっぱいだった。  長い間われわれ生徒が近寄ることを禁止され、厳重な鍵がかかって、兵隊さんが二人、いつも立ち番で見張っていた倉庫があった。もともと学校の講堂だったのだ。なんでも、陸軍の大事なものが保管されているという話だった。ザマアミロ、そこが昨晩空襲でやられたのだ。  焼けて、近所の人たちに初めてわかったのだ。倉庫の中は、ナント、何十トンというシャケ罐だった。ナニが軍の重要物資だ。  アキレルより、オコルよりまず、誰もかれも、かかえられるだけのシャケ罐を、必死になって、焼け残った自分の家に運び込み、また走って取りに来ているのだった。焼け出された人たちも、焼け跡とシャケ罐の間を同じように気違いみたいに往復していた。  講堂全体が火に包まれたのだから、中のシャケ罐はほとんどがパンクしていた。火のおさまったばかりの灰の中から取り出すシャケ罐は熱くて、とてもじかに持てるものではなく、まだブツブツ沸騰中のもあった。  ぼくが異様な人の群れに近寄っていったのは、焼け跡特有のこげくさい臭いとは別に、なんともいえないおいしいにおいがしていたからなのだ。  軍としては、重要物資の秘密もバレ、「軍需物資」としての役にもたたなくなった以上は、近所の「一般人」に下げわたしたのだろう。  ぼくもリュックサックやら、ランドセルにつめるだけつめて、何度も何度も、家とシャケ罐の山とを往復した。となりのおじさんも、向かいのおばさんも走っていた。往復しながら、走りながら、おたがいに目が合って、少し複雑な色を浮かべはしたが、それどころではない。  パンクしていて、熱い汁がリュックの中にこぼれるのなんかは問題ではない。長い間一個も見なかったのが、突然何十トンのシャケ罐を拝んでしまったのだから、気も狂う。大ご馳走が何日も続いた。一家で全部食べ終わってからも、汁がいっぱいこぼれたリュックの中をクンクンかいでは、シャケ罐をしのんだものだ。  ※[#歌記号]B29サンよ ありがとう……  またどこかのおいしい「軍需物資」の所をやってくれないかな。空襲のたびに、ぼくは舌なめずりをしたが、そんなありがたいことが再びおこる前に、ぼくの家も焼けた。  以来、シャケ罐は、常にぼくの最大のご馳走である。世界中どこでも売っているし、日本製がないときでも、ソ連製、カナダ製と、どれかが必ずある。どれも同じようにうまく、ということは、つまり、もともと大したものなのではないのだろう。そんなものなのに、悲しいときシャケ罐を食べれば、ポパイのほうれん草の罐詰みたいに生きかえる、自分がなんとも恥ずかしい。 「ヒソカにニタニタ」の|所以《ゆえん》ではある。しかし、好きなのはいい。なぜこんなにテレくさいのだろう。一個でも多くをと、シャケ罐の山と家の間を走って往復していたときに、近所の人たちとかわしあった目を、いまごろになってふっと思い出す。  お互いに、うれしさまる出しの目だった。だから、いま恥ずかしいのだろうか。  アスパラガスへ寄せる想い  ぼくは、人としゃべっているとき、途中で座をはずすのがいやで、よほどのことがないかぎり、つまり、お腹の中がひっくり返りそうになって、生命の危機を感じて大にとびこむ以外は、たいていの小は我慢してしまう。もっともこれは、男だからこそ、かなり我慢ができるのかもしれない。つり舟の上での女の人の我慢も大変なものだろうけれど。  だから、おしゃべりなり、食事が終わって、これで解散というときには、猛烈な勢いでトイレにかけこむことになる。実際には、心の中は百メートル十秒みたいな勢いでも、外見上は、もちろんゆうゆうとエレガントに、ちょっと失礼、と行くのである。我慢のしすぎで速足すらが危険なときもある。やっと放出を始めたときの快感。どんなうまいものを食べた後でも、この気持のよさに比べれば、もののかずではない。誰でもしょっちゅう経験していることにきまっているが。  もうもうの湯気の中で、あれ、オレはアスパラガスを食べたっけなあと、ふと思うことがある。たまりにたまっていたのだから何十秒はかかる。その間、今しがたの食事の内容を思い出す。そういえば、最後のサラダの中に細いアスパラガスが二本入っていたっけ。  酒を飲んでも、その直後の湯気の中からは、かぎとれない。二日酔いの翌朝、湯気もうもうからムナクソ悪いにおいがたちこめて、もう二度と飲むまい、なんて誓いを年がら年中たてているけれど。  アスパラガスのにおいは、なぜ、食べた後四、五分しかたっていないのに、こんなにすぐに湯気の中に堂々と姿を現わすのだろう。  アスパラギン酸云々の成分で薬をつくって、活性ビタミンなんとやら、※[#歌記号]ア・ス・パ・ラでイキぬこうと、大騒ぎの薬もあったし、あの薬を飲むと、湯気もうもうが確かにアスパラガスを食べた後と同じではあった。だからあれは、きっと効いたのだろうと思う。  しかし、直後にすぐアスパラガスのにおいがもうもうからムッと顔を出すというのは、素通りのしすぎではないかとも思われる。あんなにすぐ出てしまって、効くのだろうか。体の中をすごいスピードでかけぬけるということ自体が、もろもろの老廃物への大スピード強制、無理心中の効果があるのだろうか。ニンニクだってあんなに早くオシッコに出てきはしない。上の口からはすぐに出るけれど。  六月の日本は、梅雨でなんともじめじめして湿気がひどく、この時期は汗かきのぼくには最もつらい。だから、長年六月の日本は避けて、たいていはヨーロッパで仕事をするようにしている。だが湿気だけのためではない。六月のヨーロッパはなまアスパラガスのシーズンでもあるからだ。  八百屋で、束にしたアスパラガスをバカみたいに安く売っているし、どんなレストランに行っても、ゆでたての新鮮なアスパラガスがうまく、ぼくにはいちばんうれしい季節だ。第一、毎日毎日いくら大量に食べても、もともとセルロースみたいなものだから、カロリーはゼロに近く、湯気もうもうの中のにおいだって、二日酔いのそれに比べて、決して不愉快なものではない。  自分でつくることだってある。つくるというほど大袈裟なものではない。包丁で外側のかたい皮をスッスッと削って、塩を少し多めに入れた湯で十五分から二十分、ぐつぐつ茹でればそれでできあがり。塩以外に|あく《ヽヽ》抜きのために重曹をちょっと入れる人もあるが、ぼくはアスパラガスの|あく《ヽヽ》そのものが好きなので、塩だけで十分だ。  ホカホカのあついのを二、三十本、皿にのっけて、子牛の薄いステーキといっしょに食べるのがぼくはいちばん好きだ。子牛は塩味を少々強くして焼いたそれだけのものがいちばん合うようである。ゴテゴテとパン粉をまぶしたりとか、そんな工夫のないナチュラルな焼き方が好ましい。  アスパラガスを食べるためには、ソースが大事で、ソースといってもブルドッグとか、ウースターなんてビンからのではない。塩味の効いたバターを溶かして液状にし、溶ける途中にレモンの汁を多めにふりかけ、レモンとバターが渾然一体と溶けあったところに、もう少々の塩をふってよくかきまわしたあついソースがよろしい。  ここで言っているアスパラガスは、もちろん白いヤツで、いわゆるグリーンアスパラガスではない。日本では、概して、アスパラガスの生料理は、グリーンアスパラガスのことをさすようだが、ぼくはあまり好きでない。  グリーンアスパラガスの歯ごたえは悪いとは言えないが、なぜかぼくにはアスパラガスにおける歯ごたえへの拒否反応がある。フワァッと柔らかくなければならない。グリーンアスパラガスの漬けものを食べたことがあるけれど、あれは邪道だと思った。柔らかいのを口に入れたとたんに感じる、かなり強烈でそのくせ柔らかく品のいいあのアスパラガスの神聖な香気を、なぜぬかみそのにおいで消してしまうのか。漬けもののあとでは、湯気もうもうからもアスパラガスは顔を出さない。かわいそうに。  生アスパラガスのよいところはもうひとつあって、ヨーロッパのどんな上等なレストランで食べても、手で直接食べてもかまわない数少ない料理の一つなのだ。もちろんフォークを使ったってかまわないが、あれは非常にむずかしい。むずかしそうに不自由に食べること自体、むしろ礼儀に反するのではないか。  それに非常にユニークなのは、根もとを手でつかんで、先のほうにバターソースをつけて口に入れるのだが、なにしろ長すぎるのだから、いっぺんに全部が口に入るわけもなく、食べられるだけを口でちぎり、残りを持ったまま口のほうはおいしく味わい、飲みこんだあとで手に残っている残りにまたバターソースをつけて何回かくり返す。根もとのほうのすじだらけのところを食べる必要はなく、皿に残す。食べきれず、ちぎりきれないアスパラガスの根もとは、お上品とは言えないかっこうで残ってしまう。  西洋料理の作法でこういうことが許される料理はほかにないと思う。一度食いちぎったものをまた皿におくなんてことは許されないし、だから肉などナイフでちょうど一口で食べられるだけの大きさに切って口に入れるわけである。大きすぎるかたまりをフォークで口にもってゆき、歯でかみ切って残りをまた皿におくなんてのは、代議士の先生が視察旅行とかで欧州をおまわりになるとき以外には、目にすることが不可能な風景だろう。  どこかの国の総理大臣で肉を絶対に食べない信念の人がいたそうだ。外国に行って、招待側の政治家たちと会食のとき出されるのは肉ばかりで、食べないのは外交上具合が悪く、仕方なしに口に入れては、かんだあとの食べかすをご丁寧に皿の上にお並べになるという話を、何度も随行して、そのたびに冷や汗をかいた人から聞いたことがある。  食べない信念なら一切手をつけずに、ナイフとフォークを皿の上にきちんとおいておけば、食べ終わったというサインなのだから、給仕人はそのままもってゆくし、ちっとも礼儀を損なうことにはならないのだけれど。相手の前で口から出した食べかすを皿におくなんてことは、大きなかたまりを口でちぎるよりもはるかにスサマジく、ご本人の肝臓にはいいかもしれないが、おつきの人や、相手側のキモを冷やして、健全な外交のためには、はなはだしく不健康である。  ちゃんとした食事のときに鳥が出てくることがある。鳥というのはにわとりもあるし、きじとかいろいろあるのだが、これをナイフとフォークでうまく食べるのは、非常にむずかしい。だから鳥料理のときは、手でつかんで口でかみきっても、そう悪いことにはならないのだが、やはりこれはたて前で、気心の知れた者同士ならともかく、不自由な思いをしながらナイフとフォークを使って、いちばんおいしいところを食べ損なったりして、世界中の人は無理をしている。  そこへいくと、アスパラガスは天下御免なのだ。ちゃんとフィンガーボールが出てくる。ソースだってバターソースだけではない。忘れてしまっていちいち内容は書けないけれど、ミラノ風、プロヴァンス風、オランダ風等々少しずつ違うのがあって、六月のヨーロッパでは、ぼくは朝はともかく昼・夜と幸福だから、一週間に二掛ける七の十四回うれしいのだ。  いっしょに食べるつけあわせだって——本当はアスパラガスのほうがつけあわせなのかもしれないが——子牛に限るわけではない。木の板の上に大きな生ハムを、それぞれ紙のように薄くきれいに切ったのが二、三枚のっているのを横にして、生ハムの縁のまっ白の脂のところと、上等な煙を吸いこんだおかげで、えもいわれぬきれいな赤の色になったハムの本体とを適当に切ってまぜ合わし、フォークで口に入れ、それを飲みこみ、右手のナイフをおいて、アスパラガスの先をちょんとソースにつけて口にふくむ。こういうとり合わせなら、毎日二食、かなりの満腹をやったって太ることはないし、のちにうれしいもうもうをかぐことにもなる。  グリーンアスパラガスのコリコリしたのをバターでサッといためて、これが北海道の自慢料理の一つだなんて言われると、ワァご機嫌とかなんとか言って喜んではみせるものの、内心はなぜか恐怖を覚える。  戦争中、中学一年のころ、よくお風呂屋さんに行った。やせたじいさんの肩には肉がなく、腹はたるんでシワシワで、もちろんもう現役ではないのだろうが、何十年も前に皮はむけて、幾歳月大海をもぐり荒波にもまれた末の一物の、ゴツゴツのぶら下がりを見ると怖かった。あれを思い出す。生アスパラガスの白いのは、まだその点、皮の中におさまったままの、箱入り息子そのものの新鮮な初々しさを思わせる。  アスパラガスのつくり方がまるっきり同じではないか。芽が出たアスパラガスをそのまま放っておいて成長させれば、どんどん伸びて、大気にあたり、お日さまに照らされ、雨粒にもぶつかられて、おじさん、おじいさんたちのたくましい一物のごとく、ゴツゴツと、色素はどんどん増えて、すなわちグリーンアスパラガスだ。  芽が出たとたん土をかけ、外気を遮断し、というよりは、世の中のもろもろの悪気から守ってやり、伸びるたびに柔らかい土をかけて、ひょろひょろに長く育って、最後まで外気にあてずに、そろそろ大人になった瞬間に切りとって、口にふくんでモヤシッコの柔らかさを楽しむ。  アスパラガスにとってどっちが幸福だかはこの際関係のないことで、そういえば、日本は一般に皮むけのほうが多いらしく、西洋のほうは皮かむりが多いらしいから、日本では生の白アスパラガスをほとんど食べないのだろうか。日本のご婦人はゴツゴツしたものこそが本物だと思っているのかもしれない。そうではないもののほうに、香り高く気高い本物の味があるのですぞ。  途中で土をもりあげるのをやめてしまって、先端だけがグリーンアスパラガスになったらどんなに珍妙なものだろう。生まれてこのかた、野にスクスク育ったグリーンアスパラガスさんはともかく、せっかくの生白アスパラガスを途中で手術なんかするのは、冒涜ではないか。  グリーンアスパラガスのゴツゴツや、かみごたえを喜ぶのとは、まるで反対のことだけれど、包茎アスパラガスを、それでも気がすまずに罐に入れて、完全真性包罐にして、これがまた世界でいちばんうまいのをどんどんつくっているという点で、わが国は不思議なところだ。  この矛盾をつくのはさておき、実は、ぼくは白包茎アスパラガスより、完全真性包罐アスパラガスのほうがもっともっと好きだ。これなくしては生きられない。  再びアスパラガスへ寄せる想い  アメリカのいろいろな街を動きまわっていたときに「弘田三枝子 刺さる!」のニュースがきて、気が転倒した。どこの街で知ったのだろうか、覚えていない。とにかく驚いた。心配した。  ニュースといったって、AP、UPI発、なんて大袈裟なものではない。世界のどこにいても毎週二回に分けてぼくを追いかけてくる、日本の新聞にのっている、女性週刊誌の広告で見たのだ。  バカ週刊誌自身をとってみたわけではなく、広告だけなのだから、「衝撃」とか、「特報」とか、「完全独占」等々、みな大きな字で大袈裟だが。こちらのほうが、「あの弘田三枝子さんが!」と、電撃ショックを受ける。  あの事件の女性週刊誌的、社会的意義についてのうんぬんは、あまりにバカげているから何も書かないが、広告だけでは、怪我の軽重がさっぱりだから、週刊誌ならなんでも読んでいそうな東京の知人に、電話をかけた。まあ怪我はたいしたことなくてよかった。前後、左右、三角の関係についてはぼくは関心はない。  わざわざアメリカから電話までして安否を気づかったのは、週刊誌的野次馬精神ではないのだ。はっきり言おう。弘田三枝子さんとぼくには二つの、強く堅い連帯があるのだ。  といっても彼女はなんにも知っちゃいない。この連帯感は、ぼくの方からだけのすこぶる勝手な片思いなのだから。  第一の連帯は、数年前彼女が苦心の大減量に成功して、この世の奇跡をテレビで国中に知らせたころ、そんなことをなんにも知らないでドイツにいたぼくも偶然同じ時期に、同じ奇跡に成功したということ。  二つめの連帯は、もっとくだらないといえばくだらない。時期としては減量よりはるかにさかのぼるのだけれど、ローティーンの弘田三枝子さんが※[#歌記号]ア・ス・パ・ラでイキぬこう、とクスリのコマーシャルを元気にやっていたことだ。  それだけのことなのだ。  アスパラギン酸ナントカとか、活性ビタミンうんぬんのビタミン剤の一種だったか。これだけのことが、ぼくの心の中では弘田三枝子さんとぼくとの間の連帯に短絡するのだ。彼女がアスパラガスの罐詰が好きかどうかは全然ぼくは知らない。たまたまアスパラと名づけたクスリのコマーシャルにでていただけのことでファンになり、その子の身の上のことでわざわざアメリカから電話をかけるなんて、いかにぼくがアスパラガスの罐詰が好きかという衝撃的告白の証しになるのではあるまいか。  CRADLE、アヲハタ、あけぼの、明治屋、※[#○に「は」]、日水、K&K、SANYO、デルモンテ、リビー、ホクレン、トーメン、こけし、雪印、仁丹、ノザキ、SMC、FFK。  ずらずらといっぱいヘンテコな名前を並べたが、なんのことかおわかりになるだろうか。日本で販売されているアスパラガスの罐詰の全ブランド名である。十八種類ある。たいしたものでしょう。そんじょそこらのなまはんか通とは違うのだ。  全世界のアスパラブランド名となると、これはちょっと把握困難で、たとえばアフリカや中近東には行っていないので無理である。しかし、しょっちゅう出入りしている国に出回っているものくらいはちゃんと頭に入っているのだ。今に、アスパラ大汚職なんてのがおきて、政・財界が大混乱に陥ったりしたときには、「アスパラ罐詰評論家」として、堂々全チャンネルに登場する自信がある。  とは言っても、評論家の常として、大体を知っているだけで、全種類を食べることはまだできないでいる。  たとえば「仁丹」。銀つぶのほうは子供のときから友達づきあいしているけれど、偏見かもしれないが、仁丹のアスパラからは、「お疲れの……強壮に!!」のイメージ強過ぎて、おそらく「しゃれた薄型 コンパクトな魅力」の罐なのだろうが、まだ買ったことがない。『やっとあいた電話でかければ「話し中」。また「話し中」。まだ「話し中」。そんなとき仁丹でも飲めば、待っている人に一回ゆずるくらいの心のゆとりが生まれます』ということだから、一度ためしてみなければならぬ。でも、においは仁丹と関係ないのだろうね。  十八種のうち十五の種類は、自信をもって食べたと言える。世のナントカ評論家なんて、彼らはナントカに関して本当の実体を七〇パーセント以上把握しているわけがないから、ぼくは「評論家」と称してはいけないのかもしれぬ。それ以上の位でなければならない。これからは「専門家」と称することにしよう。  中身を食べただけでは「専門家」ではない。罐のあき具合の微妙な違いだって、ぼくはわかるのだ。罐切りをつっこんだ瞬間にプシューウというのはよくない。ブリキが柔らか過ぎて、運搬中にデコボコへっこんで、中身は液体ではないのだから、わが繊細なる柔包茎のアスパラチャンは無惨にもひしゃげたり折れたりして、特に先端の大事なところがこなごなになって汁の中に浮いている。これはよくない。かわいそうだ。  それに、このプシューウは罐詰にしたときの中の圧力が少々インポテだったのではないかということも示す。銘柄は言わないが、こんなのは買うべきでない。  一方、罐切りの刃がたたないくらいの堅いブリキのがある。力まかせに押しこむと、プッという鋭い音と同時にドンと鈍い音がする罐がある。ドンのほうは罐の底と机が発する音である。これもよくない。堅過ぎる容器に押しこめられて、アスパラチャンがどんなに悲しい、イタイ思いで運ばれてきたか。かわいそうなアスパラチャンは、罐があけられたときに、いっぺんに緊張がゆるんでフニャフニャになるのだ。こういうのは罐の中の気体の圧力が強過ぎるのが多い。ついでながら言えば、これはアスパラに限らず、あらゆる罐の状態をよく知るためにも、今はやりの文化的電気自動罐切り機はいけない。  机の上で、左手でグイと罐切りのきっ先を罐に押しつけ、手のハラで肉体を通して罐の出来具合をまず味わう。それから右手を使ってグイグイやるなり、グルグルネジをまわすなりする。主に親指と人差し指を使うはずである。たまには中指も参加するだろうが、薬指、特に小指では罐の出来具合は味わえぬ。徐々にあけながら、罐の中から汁が少しでてきて、あけられつつある罐のふたの上を浸す。よくできた罐詰は、この浸し方も品がよろしい。  よくレコードやテープ音楽の悪口に「罐詰文化」という言葉が使われるが、あれもけしからんことである。罐詰は罐詰で、独自の世界をなしているのだ。電気じかけでガーッとあけてしまっては、罐詰の良さも悪さもわからない。第一罐詰への愛情がない。心をこめてあけて初めて、アスパラを味わえる。  ほめるためになら名前をあげてもいいだろう。CRADLE——クレードルは実にうまい。まちがいなしに、世界一だ。日本でのシェアが七〇パーセントだそうで、わが国民のものの味わい方が非常に正しいと、大いに嬉しい。つまり、自他ともにゆるす世界一なのである。この場合の「自」は、「アスパラ罐詰専門家」のぼくのことなのであります。念のためにつけ加えると、クレードル以外では、※[#○に「は」]、日魯、北連が大手だし、美味である。  数年前、クレードルの会社が倒産という記事を見て、仰天した。倒産救え、倒産反対のデモをやろうか、二千万人署名運動をおっぱじめようかと、悲愴な決意をしたこともある。クレードルのない世界なんて、水爆でなくなっちまえばいいのだ。ぼくのこの憂世の心情、天に通じたのか、会社更生ナントカ法だかなんだかで、またクレードルが食べられるようになったのはありがたい。  最近北海道で見たこともなかったアスパラガスの罐詰をもらった。これがうまかった。ジャンボサイズで、親指の太さなんてものではない。大を誇る方々のソレよりももっとフトイのが、ゆうゆうと十何本も罐の中でいばっていた。どんなに太くても真性包罐のやさしさを芯の髄まで備えていて、そのままトロリ、トロリと歯には関係なくのどにすべりこむ、先端は柔らかくふっくりとしていて、それでいて柔らか過ぎなく、やさしくかむこともできた。  この巨大な先端をかんだ瞬間に、相手はあとかたもなく口の中で消えうせ、のどの奥がヌルリ、ゴクリと動いて、体全体にアスパラの幸福感がひろがって、そのとき初めて、おれはアスパラの先っぽをちょっと前にかんだんだと思えるほどの、四次元みたいなアスパラガスだった。  あまりのうまさにこの罐の出所を追求した。やはりクレードルは神様だった。この罐はクレードルが一度つぶれた後、美幌という所の工場を、国分とトーメンと農協の北連が引き継いで、その中のトーメンの製品だったのだ。国分も北連も味わったが、クラスは全く同じ。スーパー世界一だった。  なぜこんなにうまいか。このスーパー世界一は、地元の美幌の人でないと食べられないのだ。六、七月にできたアスパラガスのいちばんいいのを罐詰にして、製品にして一カ月以内に食べないとこの味はないという。地元の人がいいのをみんな食べてしまうから、よそでは味わえない。だから倒産したのだとも言いたくなる。  クレードルのうまさは、クレードルの名前ではなく、どうも美幌という町の土にあったようだ。台湾でも、ベルギーでもないのだ。製品としてつくった罐詰のいちばんいいやつを、しかもいちばんうまい時期に食べつくしてしまうなんて、美幌の町の人は、アスパラ罐詰道の達人ぞろいなのだろう。シャクにさわることである。  罐詰アスパラの食べ方については、世の中すべてまちがっていると、「専門家」としては断言する。美幌の町の人は、たぶん、正しい食べ方をしているものと想像する。正しい食べ方を、メガホン片手に「みなさーん! 大日本アスパラ党が参りました……」と、ライトバンかなんかで、軍艦マーチを鳴らしながら、津々浦々を連呼遊説して歩きたい。  まず初歩の初歩で、これが最も大事な基礎なのだが、アスパラの罐詰の底をあけること。誰でも知っていそうで、案外守られていない。アスパラ罐を賞味する感性がないためか。  簡単なことだ。罐詰の絵や文字を逆様にしてプスッとやればいいのだ。そうやってあけると、アスパラのお尻が顔を出す。それを、ここがいちばん肝心なのだが、指でつまんで顔をななめ上に向けて、魚がえさを食べるときのように、そっとクレーンでさし入れるようにアーンとあけた口の中に、アスパラの頭のほうから一刻も早く入れてしまうのがこの道の極意である。  アスパラは罐の中で汁につかって密封されていた。その状態のまま食べるべきであって、一秒でも空気にさらされると、もう味がおちるのだ。皿の上に盛って人前に出すなど、厳罰にしたい。しかも、マヨネーズなどを上にのっけるバカモノが多い。禁止の法律をつくるべきである。サラダに入れて玉ねぎやクレッソンといっしょにしたうえ、ドレッシングなぞをかけたら、もう、無惨そのものだ。  大事なことはこれだけである。野球だって、ゴルフだって、バイオリンだって、ピアノだって、およそ物事の基礎はかくも簡単で、大事なのだ。そして、罐の中に残った汁を、これも外気にふれさせずに直接罐に口をつけてゴクゴク飲み干す。飲んでいる間は呼吸をするべきでない。飲み干したところで、目をとじて五秒くらいかけてゆっくり息をはく。ここまでいけばもう上級といっていい。  そして唄うのだ。  ※[#歌記号]ア・ス・パ・ラを食べぬこう! [#ここから2字下げ]  さ ん ま  秋になる。学校が終わって、でもすぐには家に帰らないで、校庭でみんなと泥だらけになって遊ぶ。夏と違って、汗まみれにはならないから気持よく、だが、そんなにたくさん遊んだとは思わないのに、暗くなってくる。日が短くなったのだ。暮れたら、大事なのはもう遊びではなく、さあ晩ごはんだ。  門を開けて、台所の方からのモウモウの煙を見て、ゴクンとつばを飲みこむ。腹がゴロゴロいう。 「さんまだ、サンマだ」  ランドセルをほうり出して、 「おナカ空いたヨウ」  ちゃぶだいの前に膝をついて、そこいらの茶碗を箸でぶったたく。 「ちょっとうるさいわョ。今おろしているんだから」  どうして、大根おろしというのは、あんなに時間がかかるんだろう。 [#ここで字下げ終わり]  世界飲食考  オナシス的食生活体験記  一年中、三度のメシをキチッと一日に三回ずつ食べる人って、どのくらい世の中にいるものだろうか。大抵の人はそうなのだろうが、寝坊して、朝を食べそこなったり、忙しくて昼を抜きにしたとか、徹夜マージャンで夜中にニギリメシをムシャムシャやったのが四度目で、明け方に五度目のメシを平らげて、これがカップヌードルだった、という人もかなりいるはずである。  三六五掛ける三は一〇九五で、これが一年中の三食を完全にこなす数だが、これのプラス、マイナス三〇といったあたりが、大方の一年間の食事回数ではないだろうか。  だが、朝食には料理という感じがない。朝食こそが最も健康に大切だと、栄養学者先生にオコラレそうだが。ジュース、トースト、ボイルドエッグ、コーヒー等で片づけるにせよ、ごはん、のり、みそ汁なんかでソソクサやってしまうにしても、ぼくは朝食に、何か事務的な作業を感じてしまうのだ。起きたから食べなければならない、みたいでもあるし、出かける前に必死にヤッツケルだけみたいな気がする。  よく、政治家の朝食会のことを新聞で見るが、あれこそ料理なんてものではあるまい。どこかのホテルの部屋を借り切って「洋朝食のA」などを前に置くのだろうが、何かがテーブルの上になければ派閥の相談ごとの格好がつかないからに違いない。どうせ、みそ汁、たくあんを、家で済ませて来ているのだろうし。  この際、朝食を人間の食事の勘定から除くことにする。すると、二掛ける三六五は七三〇だから、年に七三〇プラス、マイナス三〇とでもしておこう。休みの日に家でゴロゴロしていて、昼過ぎに朝昼兼用を食べた、なんていうのが多いだろうし、仕事から手が放せなくて、昼メシ抜きというのもあるだろうから、プラス、マイナスと正確ぶりたいのだが、マイナスの場合しかないかもしれない。  インチキな計算をしてきたけれど、結局これは、ぼく自身の食生活についてしゃべりたいからで、食いしん坊のぼくには、この、日に二回、年に七三〇回が何よりも重要な行事で、なぜかというと、それだけの回数、頭を痛めて考えなければならないからなのだ。  一年中、国から国へ、ホテルからホテルへと、移動ばかりの生活をしていると、いつも外食をしていることになる。昼は何料理にしよう、夜はどこそこ料理にしようと、いちいち考える。時には、前の晩からあれこれ頭を悩ます。その点、朝食はどこにいても、同じようなもので、考える必要がなくて、助かる。せいぜい、明日はホットケーキにしようか、くらいのものである。  世の中には、暗くなると、はしごを続けなければ気がすまぬ、ベロベロの午前サマが沢山いるだろうけれど、一般に、ビジネスマンたちは、夕食を家でとることが多いだろう。昼メシを、今日はどこのランチにしようかと、毎回頭をふりしぼるとしても、家で食べる夕食については、まず考えることはないだろう。その分だけ、奥さんがオツムを悩ましているわけだ。  独身の男女社員はどうしているのだろうとか、亭主持ちのOLはどうなんだろう、などと考えるときりがないので、ごく大ざっぱに、カアチャン持ちのビジネスマンについてのことにする。彼らは昼メシを何にしようかと考えるだけで、朝、夕についてはこの必要はないに違いない。これはぼくの悩みの半分ということだ。うらやましい。  昼、夜の二回のメシの計画を一生懸命練りに練るといっても、両方コルわけにはいかない。うまさだけ追求すると、どうしても栄養のバランスが悪くなるし、カロリーも大問題だ。プレスリーになってしまう。マンマルの一二〇キロだ。もっとも、あんなになる前に破産するだろう。  だから、昼を軽いサンドイッチ二枚にしておいて、夜はゴッソリ食べるとか、昼に重いものを食べてしまったから、夜はソバ一杯にしておこうという風に、味の探求もさることながら、でんぷん、コレステロールの配分に気をまわす。  そういった一切を考えて作ってくれる奥さんの料理を、一年中、「ボク、タベルヒト」になって、自分では何も考えないで暮らしている人が、ぼくには天国の住人のように思えるのだ。  三度、三度、コックさんに食事を作ってもらっている、という特別な人も世の中にはたしかにいる。天国をこの世に実現させているように思える。  日本人の場合、国内でそんな生活をしているエラーイ人は別にして、そんなにエラクない人でも、この天国をやっている人たちが結構いる。例えば、在外公館長、つまり外務省の大使とか総領事の人たちである。お客の接待という職業上の必要からでもあるだろうが。  けれど、いろいろな国でこういう方々と交際してみると、どうも案外、天国でもないらしく、わるいけど、ちょっとほほえましい。日本の調理学校を出たばかりの、バリバリ青年がコックとして来ているとする。誰でも、学校を出たばかりのころはクソマジメで、つまり基本に忠実なものだ。  このコック君は、日本料理を専攻していて、てんぷらと、スキヤキと、やき魚しか作らないのだ。他のものを作れないのではなく、作らないところに、彼の誠実さがある。彼の基本に忠実精神によれば、水炊きなんかは料理ではなく、シロウトがあれこれ熱湯の中にほうりこんで、なんとなく食べるモノなんかを、ご主人さま、及びそのお客さまに出すのは、良心が許さないのだ。勿論、何種類かの前菜は作る。おしんこも漬ける。おすましも、みそ汁も上手い。  しかし、これがレパートリーの全部だとすると問題である。客はいつも別のが来るのだし、三種類の定食の繰り返しでもなんとかなる。主人側は、これも仕事のうちと我慢もしよう。だが、お客の来ない日も、この良心的芸術作品のローテーションでは、作られるほうは気が狂う。 「だんなさまは、たまにスパゲッティも召し上がりたいみたいだわよ」なんて、奥さんは気をつけながらコックさんに言う。 「そうですか。でも、僕は西洋のものはチャンと習っていないので、お出しできません」と彼は毅然と言う。プロの立派さだ。 「ためしに、二人でやってみましょうよ」奥さんは勇気を出して言ってみる。「ハア」なんて気のない声が返って来て、とにかくスパゲッティ作りが開始される。  茹でることは簡単で、奥さんの仕事となる。問題はソース作りである。ところが彼は、トマトが大嫌いなのだ。ミートソースにしても、トマトソース、つまりポモドーレにしても、イタリア料理にトマトは欠くべからざるものである。おまけにニンニクが嫌いとくる。味見を絶対にしないのだ。テストされない料理を食べさせられるのはオソロシイことである。しかも奥さんは味見ができないのだ。プロを前にして礼儀というものがある。  こういう経験を何度か重ねると、主人側は降参する。あきらめる。 「今日はいいのよ」と言って、コックさんに自由を与えて、奥さんは亭主のために、キンピラごぼうと、いもの煮っころがしを作るのだ。コック君は町に出て、日本料理屋に行き、キンピラごぼうと、いもの煮っころがしを食べる。  マンガみたいだが、大体これが、平均的な大使一家とコックさんの日常攻防生活といってよいだろう。彼に腹を立てられて、やめられたら大変だ。だから、常に主人側が弱い。  こんな例をいくつか見ていると、今にうんとエラークなって、コックさんを家において、毎日うまいものを食ってやろう、という夢は消えてしまう。それぞれ違う特技の持ち主を何人か雇えばバンザイだが、それはオナシスかロックフェラー級のことであろう。やっぱり、カミさんを叱咤激励するとか、自分でワビシク台所でゴトゴトやるほうが無難である。  そういえば、以前、十年以上前に、ぼくはオナシス的理想生活を何回か、味わったことがある。スイスの山の中だった。  なんでも、スイスで二番目か、三番目の金持ちの奥さんがぼくの大ファンで、このおばさん、というよりおばあさんは、フラッと東京にやって来て、何か用事でもと尋ねると、 「あなたの今度のレコードは、まだヨーロッパでは手に入らないのでね」  なんて、かなり大袈裟なひとだった。  あるとき、ヨーロッパで二週間の暇ができ、かねてから、そういうときは、わたしの別荘にいらっしゃいと言われていたので、おばさんに電話した。  おばさん一家は、スイス中に七軒別荘を持っていて、別荘といっても、それぞれ部屋が十いくつもあるデカイ山荘で、その一軒をぼくに宛てがってくれた。レマン湖のほとりのモントルーから、車で一時間あまりの山の上だった。  それもただの別荘の提供ではない。コックが四人! スイス人、フランス人、イタリア人、スペイン人のスタッフ。それに身のまわりを世話する召使いのじいさん。妙齢の美人秘書嬢。休暇に秘書は要らないのだが、とにかく、つけてくれたのだからいいだろう。  毎日の食事が豪勢だった。スイス、フランス、イタリア、スペイン料理のバラエティ。一人で食べるのはツマラナイだろうというのが、秘書嬢の存在理由らしく、やはり食事はカワイコチャンと食べなければ意味がない。  朝、目が覚める。休暇なのだから、早く起きる必要はない。覚めるときに覚めるのだ。午後二時だったりする。ベッドの横のひもを引っぱる。遠くでリーンといっている。ややあって、召使いのじいさんが、片手にナフキンをかけて、映画のシーンそのものの姿で現われ、枕を高くしてぼくの背をもたれかけさせ、べッドの中で食べられるように朝食をセットする。食べ終われば、また、リーンとやればいい。再び、寝入ることもあるのだし。  しばらくして、起きることにする。秘書を呼ぶ。「われ、昼メシとしてスペイン風パエラを望む。ナンジ、つつがなしや。なお、昼メシは、午後四時半がよかろう」「イエス、サー」てなもんで、二週間を過ごしたのだ。  このときの経験で、ぼくにはよく分ったのだ。実にちゃんと理解できたのだ。なぜ、王様というのは、ほとんどが暗愚だったのか。なぜ、幾多の革命がおこったのか。  三年間こういうことが定期的にあったが、それで終わって、ぼくは暗愚の極にまでは行かずに済んだ。なぜかというと、おばさんがそのスイス第二、三番目の金持ちと離婚してしまったのだ。  バアさんになっても、さすがはヨーロッパの女、自己主張は強くて、でもやはり金権は亭主にあるらしく、おばさんには、もう別荘はない。しかも亭主は、大の音楽嫌いで、ぼくは会ったことがなかった。  よく、一年中ホテル住まいでは、さぞ大変でしょう、外食ばかりでは気も安まらないでしょう、と言われる。ええ、もう、気が変になりそうです、と答えれば話は短くてすむのだろうが、そうはいかないのだ。自宅でいつもメシを食べるということを、もうずいぶん長い間やっていない。キャリアがないのだ。想像できないというとオーバーだが、今にそうなったらどうしようと、むしろ少々オビエがある。このような日常や、精神構造を説明するのは、かなり難事で、くたびれる。  オランダのハーグに自宅はある。たしかにあるのだが、このところ行くチャンスがなくて、去年なんかは計十日間しかいなかった。カミさんも、ぼくと一年中ジプシー生活をやっているので、このチャンスに張り切って料理を作る。不完全ながら好きなものが食べられる。  だが慣れぬことゆえ、なんとなく落ち着かない。最近、メルボルンにいるときは、キッチン付きのホテルに住み、合計二カ月間滞在するので、少し慣れて来た。外食に対比させて「内食」と言っている。この街では、せっせとナイショクに励むのである。  ビールの話(その㈵)  日本はこんなにデカイ国なのに、なぜビール会社が四つしかないのだろう。沖縄のオリオンを入れても五つである。よそでは一つの街にそれぞれ三つか四つ、あるいはそれ以上の銘柄があって、国全体ではいったいいくつあるかわからない、といった国が多いのだ。でもわが国の日本酒の種類の百花撩乱さは、ちょうどこれと同じようで、そういえば日本のワインもえらく種類が少なくて、フランスやドイツの畑ごとに違う銘柄というのには程遠いから、伝統のない所に突如出現して「会社」という企業として始まったからなのだろうか。  そういえばアメリカのビールもそのわりに数が少ないような気がする。こちらが不勉強なのかもしれないが、アメリカじゅうどこへ行ってもバドワイザーかシュリッツぐらいしか飲んだことがなく、小さな会社のユニークなのがあるかもしれないけれど、テレビのコマーシャルでお目にかかるのも決まりきった大企業の製品名ばかりだ。  大企業が市場をおさえている国に行くと名の知れないのはなんとなくインチキくさい気がしてきて、有名品だけを安心して飲むようになるからヘンである。コーラだって、コカコーラやペプシコーラ以外にもいろいろな種類がどの国にもあるが、コリヤコーラなんて名前を目にすると、どうしても敬遠してしまう。いつのまにか大企業に毒されていて、未知の味への探求心が消滅してしまっているのだろうか。  その点ドイツのようなビールの本場に行くと、大メーカーの有名な製品は、新聞の全国紙のようにどこでも買うことができるが、それよりはその街、その村の独特のビールのほうが、むしろ地域的に幅をきかせていて、こちらもそこにいる間じゅう、普段、目にしたこともない各種のビールを、あれこれ飲み比べて楽しむ気持になれる。  だいいち、ビールはできたてのを、なるべく早く、できた所からごく近い場所で飲むのがうまいのだ。トラックに何千本も積み込んで、|日向《ひなた》を何時間もかかってチャポンチャポンと揺すりながら運んできたのは、もう重病のビールだと言っていい。朝暗いうちに昨夜できたのを、馬車で運んできて、着いたときから冷やしだし、夕方に来たお客にだすというのが最高だ。  馬車でゴトゴトもトラックのチャポンチャポンと同罪ではないかと思うのだが、いや、ビールは馬車で運ぶとうまくなるのだ、と頑固に信じたまま、いまだに馬車を使ってビールを配達しているビール屋さんがドイツの田舎にはまだずいぶん残っている。  しかし、しつこいようだが、馬車であれトラックであれ、やはり動かさないほうがよいに決まっていて、その証拠には、小さな町の、その町の銘柄をそこの飲み屋で飲むよりも、造っている醸造現場に行って、できたてのを飲むほうが断然うまい。  最近は世界じゅうで日本のビールも飲める。主に日本レストランでだけれども、そうでない所でも日本のビールを置いている所がある。だが、正直言って、まずくて飲めたものではない。だいいちに、輸出用のには防腐剤が入っている。それと、太平洋とか、インド洋を何十日もかかってドンブラコと揺すられてやってきたビールだ。ビールがかわいそうだ。本来ビールは、輸出すべきものではないと思う。  外国に行くチャンスのない人が、外国のビールを飲んでみたいのはよくわかるのだが、「ドイツ祭り」とかで、ミュンヘンのビールを飲んでみたが、案外うまくなかったと言う人に申し上げたい。何十日のドンブラコの後のビールにそんな判断を下すのは、そのビールに余りにも気の毒だ。世界じゅうどこのビールも、できた所で飲めば、われわれが日本でうまい日本のビールを飲んでいるのと同じように、それぞれの癖の違いや特徴も当然あり、その人の好み次第ではあるけれど、すごくうまいのだ。  日本国内だって、サッポロビールは北海道、特に札幌で飲むのが最高で、その中でも、会社直営のサッポロビール園で飲む味は、まさにビールの王様だ。アサヒは大阪の吹田とか、キリンは横浜というふうに工場の近くがよろしい。もっとも最近はたいていの大きな街にも全社の工場があるらしいが。  パリの日本レストランなどで、なにがしかの援助があるせいか、サッポロやキリンしかとり扱わない店があり、非常に困る。あれはそれぞれのビールの悪宣伝にしかならない。やめたほうがいい。  だがずっと外国旅行をしていて、久しぶりの日本のビールだと目の色を変え、感激して味のことなどは全然わからないで喜んでいる人のほうが多いかもしれず、ぼく自身がとやかく文句をつけることではないのかもしれない。しかし、とにかくあれはまずいのです。  アメリカで飲む日本のビールは、ヨーロッパで飲むのよりは少しはましである。太平洋をまっすぐ渡るだけだからだろうか。ヨーロッパのは、スエズ運河が長いこと封鎖だったこともあるし、インド洋をゆっくり渡ってアフリカの南端を遠回りして大西洋を北上してオランダのロッテルダムあたりに荷揚げされるのだろうか。想像できないほどの日数がかかっているのだろう。  スエズ開通で近道になったとしても、あんな暑い所をゆっくり通るのは感心しない。船倉の中まで砂漠の熱気が入り込むわけはないが、とにかくぼくにそういう偏見があるので、向こうでは一生懸命に飲まないようにして過ごす。なにも営業妨害をしようとするわけではないが、日本で飲めるレーヴェンブロイ、ハイネッケン、ベックス、トゥボルグ等の輸入品にも全く同じことが言える。  ミュンヘンの街に、ぼくは何十回行っただろうか。数カ月住んでいたこともあるし、自分では忘れてしまったほどたくさん出入りしているが、ミュンヘンに着けば、まずビールだ。  街のビヤホールに飛び込んで、ナマをジョッキで一杯。いろいろな種類のソーセージもあって、ミュンヘンは太らない努力をしているものにとって、つらい街だ。エーイ、どうせ一週間しかいないのだと心を励まし、いる間じゅう、ずっと、ビールを飲むのである。  有名なレーヴェンブロイ以外にも、たくさんの種類があって、だが人間妙なもので、何種類かの銘柄を飲んでいるうちに、だんだん自分の好みが決まってきて、結局はいつも同じものになってしまう。あんなにたくさん種類があるのだから、取っ替え引っ替え楽しんでもよさそうなものなのに。これはタバコの場合も同じで、さまざまなタバコが並んでいる店の前でいつも思うのだが、世界じゅうに何千とあるタバコのうち、二、三種の味しか知らないで、この世を終わるのもなんだかもったいない気がする。  人間というのは、案外貞節なところがあるのだろうか。千人切りと言ったって、全世界が三十億としてその半分の十五億の中の千人が相手とは、つつましいものだ。暴れ狂ったってどうせ千人なら、一人だけを守ったほうがカッコイイという見方も成り立つ。これは一般論としてである。  ビールはミュンヘン、ミュンヘンはビールとばかり言うのもちょっとミュンヘンにこだわり過ぎている感じで、ドイツじゅうどこもかしこもうまいビールがある。  さっき書いたベックスは、全国紙ならぬ全国麦酒だから別として、ドルトムントのビールもうまいし、ベルリン、ハンブルグ、フランクフルト、ニュルンベルグ……どこに行ってもとりたてのナマを飲んでいる感じで、味もそれぞれ、だいぶ違う。日本のビールは、なぜか、サントリーを除いては味がそっくりで、やはり全国ものは平均化しないとだめなのだろうか。  フランクフルトのヘニンガーというビールも好きだ。ビール工場の敷地の中に大きなタワーがあって、百二十メートルくらいの上空にレストランがあり、そこから下界を見おろしながら飲むナマの味は最高、なんて宣伝しているが、そんなところにはぼくは関心がなく、いつも、もっぱら塔の下にあるビール屋経営のボウリング場に行く。  ここでは三日続けて二百点以上をだしたことがあって、ヘニンガーのナマを飲みながら投げると、よい点がとれるというぼくの勝手な迷信が、このビールを好きにさせてしまったのだろう。  ニュルンベルグに行くと、ラウフ・ビーヤというのが飲める。直訳すれば煙ビールで、ビールの燻製とも言える。できあがったビールの中にその地方独特の木を燃やした煙を、ブクブク何時間も通して作るものらしく、このビールは色も濃くて、飲むと、本当に煙の後味がする。  やはり、この地方独特のソーセージがあって、やたらにまっ黒で、実に田舎っぽいのだけれど、かなり強い香料入りの、決して上品ではないこの一切れを口に入れて、煙ビールをゴクリとやると、なれないうちは異質な感じで変なものだが、好きになるとやみつきになる。タバコがなかなかやめられないのと同様、煙というものはビールの中に入っても習慣性をもたせるらしい。  とにかく変わった味なので、万人向きではないかもしれないが、ニュルンベルグとかバンベルグとか、いわゆるドイツのフランケン地方に行くチャンスのある方には、一飲を勧めたい。観光書には載っていないだろうと思う。大きなビヤホールでなく、居酒屋風の店で、お百姓さんみたいなドイツ人がガヤガヤしていたらこれが飲める店だ。ビン詰はなくナマばかりなので、ドイツの中でもこの地方だけでしか飲めない。  いつだか、ニュルンベルグで仕事をしたとき、日本の若い音楽留学生が見学に来て、仕事の帰りにコヤツを飲みに連れてゆき、この煙ビールが飲めなきゃ一人前の音楽家になれないとだまし、田舎まっ黒ソーセージといっしょに無理矢理一リットルを飲ませたら、突然ドイツのお百姓さんたちと入り混じって飲んでいる机の上に、ゲロゲロやりだしたのには閉口した。  このごろの若いヤツは、食べたこともないものを味わってみようという好奇心と勇気に欠けていて、だいいち、飲めないのが多くて困る。コカコーラとライスカレー、ハンバーガー、カップヌードルで育ったヤツラばかりなのだ。日本国の将来を深く憂慮する。  オランダの有名なハイネッケンは少々甘ロでぼくの口には余り合わないが、ハーグの自宅に滞在するときはこのハイネッケンでないと気がすまないから不思議である。ラテン系の国、つまり、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル等には、どうもうまいビールがない。ワイン専門なのだろう。  その点ドイツは、ワイン、ビールともに名物なのだから、嬉しい国で、だが、天は二物を与えずというわけか、ドイツ料理が世界最高級の芸術品だとはちょっと言いがたい。共産圏にもうまいビールがたくさんある。ユーゴ、ハンガリー、ブルガリア等のビールもけっこういけるが、やはりワインのほうがよいらしくて、ビール国の印象はない。  ソ連のビールは、だいたいちょっとなまぐさいというか灰っぽいといった匂いがあってぼくは余り好きではない。だが、リガ産のは例外だ。  ああいう国だから、全国のいろいろなものがいつも流通しているわけではないけれど、モスクワやレニングラードにいて、たまにリガのビールが手に入ると、これは第一級の味で、めったに手に入らないところを見ると、党のエライさんがみんな飲んでしまっているんじゃないかと思う。  洋の東西、政治の東西というか左右というのか、まちがいなく世界一は、チェコのピルゼンだ。ピルスナー・ウルクウェルという名で輸出しているから、日本でも、西ヨーロッパでもアメリカでも飲めるけれど、ピルゼンの街はずれのビール工場の中の、社員食堂で飲むナマの味は一生忘れられない。  体じゅうがのどになったような感じで、頭のテッペンから足の先までが、キューッとシビレ、一気に飲みほした後、フッと溜息がでるのである。  ビールの話(その㈼)  チェコのピルゼンに行ったのは、一九六二年の二月か三月で、雪が多く、ヨーロッパ全体が大寒波に見舞われた冬だった。前の年の初夏のころからウィーンに住み、何がなんでもヨーロッパ中のオーケストラを指揮したくて、せっせと各国のオーケストラに売り込みをやり、やっと仕事がぼつぼつあるようになったのが、この年の一月からで、最初の仕事はプラハだった。  前の年に半年以上ブラブラしていたウィーンは、七百万国民全員がワイン飲みだ。ワインのことは、いつかゆっくり書くつもりだが、酒・女・唄で有名なウィーンの三大要素の一つの「酒」は、無論ワインを指す。  ウィーンに住んでいると、毎日毎日ワインを飲まされる。どこへ行っても出されるのは例外なしに、白ワインだ。赤ももちろん存在するのだが、ワインというと白のこと、みたいな風潮があって、これはドイツでも同様だ。  だが、ぼくは昔からフランスのサンテミリアンとか、ボジョレなんかの赤が好きで、ラインやモーゼルの白はあまり好きでない。ウィーン、つまりオーストリアで出て来る白ワインも、どちらかと言えば苦手だ。グンポーツ・キルヘはぼくには味が重すぎるし、バッハウアもトロリと甘いのだ。クレムスの白ワインは軽いので、ウィーンでは仕方なしにいつもクレムス系を頼む。  そこでビールの話だが、ウィーン名物のワインがあまり好きではないのなら、それならビールを飲めばよいようなものだが、ウィーンのビールはぼくにとっては、世界のうちでうまくないほうのランクに属するのだ。あくまでぼく個人の嗜好の問題であって、ウィーンのビール商売の邪魔をする気はない。  大手ならシュベッヒャーとゲッサーがあって、なんだか妙に甘っぽく、ツーンではないが、ちょっとばかりプーンと来るようなにおいがあり、なぜかモスクワのビールに後味が似ていて、ぼくは好きになれない。こんなことを書くと、ウィーンの人が怒るだろう。いや、モスクワのほうこそハラを立てるかもしれない。  ちなみに、ぼくがあまり好きになれないヨーロッパのビールの国名を書くと、このオーストリアに、フランス、イタリア、スペイン、ポルトガル、ソ連のリガ地方以外、ポーランドということになる。ラテン系の国が多いわけだが、ラテン語諸国はどこもうまいワインを持っていて、ワインを飲んでいれば幸福だ。そうそう、イギリスのビールもあまり好きではない、ギネスはよろしいが。でも、スコッチがあるから、ぼくにとっての飲み物国の資格はある。  他の国々、大ざっぱにいって、ドイツ、スイス、オランダ、チェコ、ユーゴ、ハンガリー、それにスウェーデン、デンマーク、フィンランド、ノルウェー等の北欧諸国のビールは好きだ。ベルギーは国の半分がフラマン系といって、いわばオランダ的であるせいか、大変なビール国で、ビールが大変うまい。  アメリカはあまり感心しない。カナダのほうがよい。南米諸国は、要するにラテン系ということで、うまいのにお目にかからなかった。中近東、アフリカは行ったことがないので、知らないが、オーストラリア、ニュージーランドはうまい。特にオーストラリアは実にビールがよく、ドイツ的な味だ。国民一人あたりのビールの飲み量が、ドイツに次いで、世界第二位なのもわかる。  先に書いたように、ぼくはドイツのワインはあまり好きではない。だからドイツではビールを——現在でも二千の醸造元があるそうだから、あれこれキョロキョロいろいろ捜して、よろこんでいればいいし、フランスでビールを飲まなければいいのだ。  だが、ウィーンではちょっと困るのだ。ビールも、ワインも口に合わない。ワインの名産地に行って申しわけない話だが、フランスものを注文することになるのだ。ポチャポチャゆられてやって来る輸入物だから、感心できる話ではなく、しかも輸入税がかかっているわけで割高だ。  ビールもそうだ。わざわざ、ドイツのビールを頼んだり、チェコから輸入されているピルゼンの、ピルスナー・ウルクウェルを飲む。もちろん、ビン詰しかない。  飲み物ゼイタクというか、好きなものだけ飲みたい心は、一九六一、二年ごろのちっとも売れないビンボウ棒ふり時代にもすでに厳然とあって、これは余計な苦労でもある。だから、初めて指揮の仕事にありついてチェコに行く前から、ウィーンでピルゼンのビールを、ときどき飲んでいた。  最初にヨーロッパのオーケストラを指揮することになったプラハで、音楽会のことはともかく、ビールはうまかった。さすがだった。四、五百年は続いているみたいなビヤホールで、チェコ特有のブラスバンドがブカブカドンドンやっている横で「生」をのむ。  英語では生ビールをドラフト・ビアと言っただろうか。こんな単語はわざわざ辞書で調べたことがないので恥ずかしながら自信がない。そう言って注文すれば、いつも生が飲めるのだから、それでいいだろうと思ってはいるものの、いつか辞書が手元にあるときにひいてみようと思うのだが、そのときには「生」のことなんか忘れている。  ドイツ語で Bier vom Fass をくれと言って、長年「生」を飲んできたが、これもぼくなりの習慣でそう言ってきただけのことである。 「樽からのビール」という意味だが、一緒に飲むドイツ人どもがそう言うからだけの理由で、店のおもての看板にも、メニューにもそう書いてあるし、他にそのものズバリの「生ビール」という言葉はあるのだろうか。  今これを書いているのは、ドイツのザールブリュッケンという街で、すぐそこまで行けばフランスだ。あちらに行けばうまいフランスめしにありつけるので、毎日のように国境を越えて食べに行く。  シュライヤー誘拐暗殺、ゲリラハイジャック等、テロばかり続いてからは国境警備が厳重で、ときには本庁にコンピューターで問い合わせるのか、三十分から一時間もかけて調べられる。気軽にとなりの国のとなりの街に食べに行ける気分ではないけれど、うまいもの食べたさの気持のほうが熱心で、毎日通ってしまうのだが、今ぼくはドイツにいるのに、ドイツ語の辞書を持っていない。  最近は怠慢になってしまった。オランダの自宅に英、独、仏、伊の辞書は完備しているのだが、あと二カ月は辞書を見に行くチャンスはないので、当分 vom Fass とドイツ人が言っているとおりにやることになるだろう。  さて、そのプラハで、六二年の一月にこの vom Fass を飲んだわけだ。ウィーンでビン詰のピルゼンを飲んでいたのとは、あきれるほど違い、ホップのきいたピルゼンの、そのホップのかおりが明るく、派手で、生だから当たり前にせよ、本場のうまさに酔ったのだ。体中が、のどから発する喜びでフヤフヤにニヤケ、つま先までがデレデレに相好をくずしながら、のどもとにもう一杯と矢の催促をし、失神寸前ののどから右手に|懇請《こんせい》がとどいて、またゴクリ、ガブガブとなる、そのくらいうまかった。  どこにでも飲み物の名産地には、ぴったりのつまみがある。プラハのソーセージ、ハム、きゅうりの酢漬け。これだけを他の土地で食べたって、別になんてことはないのだろうが、プラハのビヤホールでつまむと、これのためにビールがあるのか、ビールがこのソーセージを作ったのかわからないほどに合っている。  その前の前の年、すなわち一九六〇年に、ぼくはNHK交響楽団との世界演奏旅行でプラハに行ってはいるのだが、公式旅行にはこういったビヤホールに行くような自由はなく、楽員の人たちはそれぞれ勝手に街を歩きまわったろうが、指揮者のほうはチェコのエライさんの正式宴会で、シャンペンやワインを行儀正しくたしなんでいた。  どこの国でも、演奏会のあとに、パーティがある。たいていはブラツク・タイ、つまりタキシードの元貴族や今成金どもが、にこやかにロングドレスしゃなりしゃなりの大勢のバアさんたちと入りまじって、今終わったばかりの音楽会について、てんでピントはずれな会話を優雅におやりになっていらっしゃる。シャンペン・グラスの乾杯の音。葉巻のけむり。こういうハイ・ソサエティの集まりでも、指揮者と独奏者は堂々とビールを要求できるのである。これは常識である。  汗だらけで夢中になって演奏してきた人間に、シャンペンなんてノドがモコモコするモノが飲めるものか。ハイ・ソサエティどもも、このことはちゃんと知っていて、われわれはタキシードの満座の中で、尊敬のまなざしを一身にあびて、ビールをガブガブ、品なくやるのである。 「まあおヒンの悪うござあますこと。ホホホ」なんて思うバアさんは、このパーティに誘われないのだ。  六〇年のときは初めての外国だったので、シャンペンにむせび泣かされた。ビールを要求してもかまわないことを知らなかったのだ。六二年のときは事情はもうわかっていて、演奏の興奮もさることながら、生まれて初めてヨーロッパのオーケストラを指揮した直後のピルゼンビールのうまさも忘れられない。前のときはチェコの関係者がきっとワルかったのだ。日本のオーケストラ史上初の公式訪問ということで、音楽のことを何も知らない政府関係者の宴会だったのだろう。汗だくの指揮者にシャンペンなんか飲ませやがって。  プラハのあとは、ローマとナポリに行って仕事をしたが、イタリア料理のうれしさについては、いつか書くとして、そのあとに再びチェコに行って、プラハ、ブルノ、マリエンスカラズィネ、ピルゼンとまわったのだ。ブルノはチェコ第二の都会だ。  マリエンスカラズィネはドイツ語的呼び方でマリエンバードと言い、有名な保養地で温泉の町だ。映画の題名にもなった。さていよいよピルゼンだ。車で二時間離れたプラハでさえ、気が遠くなるほどうまかったピルゼンビールだ。ピルゼンではさぞやだろうと思ったのだ。  そう。サゾヤだった。  ピルゼンのオーケストラの指揮者で、かなりのお爺さんが、駅に迎えに来てくれて、ホテルに向かう車の中で、初対面だったのだが、ぼくがピルゼンビールへのあこがればかりしゃべるので、ホテルより先に行こうということになり、ピルゼンのビール工場に直行した。  工場といっても、ドスンと高い砦のような塔に古いお城の館がついているような建物で、ぼくの知っていた日本のビール工場や、ジュラルミンの管が石油のコンビナートのようにはいまわっている現代的なミュンヘンの様相とはほど遠く、なんとも素朴でノンキというか、まのぬけた田舎の豪農の家といった感じで、ぼくが勝手にいだいていたイメージとピッタリだった。  一時間ほどホップのにおいにくるまって工場の中を歩きまわり、案外オートマチックな処理過程が少ないのに感心した。もっとも、今はもう、グンと現代的な工場になっているだろう。二十年も前のことなのだから。いちばん面白かったのは、生ビールを樽に詰める最終作業のところで、大きな地下室だった。大部分の工場は地下にあり、温度が一年中一定だからとのことだった。エアコンなんかに縁がないのだ。自然そのものである。  でかいジョウゴで人間がビールを樽に詰め、トントンと栓をして、足で樽をけっとばす。樽はほんのちょっと坂になっている床をゆっくりころがって、隣りの室に行く。そこでワクをはめて、またけっとばす。再び坂をゴロゴロ。全工程がこのようにわずかの坂を利用したオートマチックなのだ。四、五百年来同じオートメだと工場の人は笑っていた。  最後に工場の従業員用のビヤホールで、できたての「生」を飲んだ。それこそ正真正銘のホンナマ、本場のピルゼンだ。さっきから皮膚にしみこんでいるホップが先まわりしてのどのあたりで「生」を待っている。重くなく、軽くなく、明るすぎず……、ビールというのはこんなにかぐわしいかおりのものだったか。ワアー。今でも思い出しただけで、のどがゴロゴロなる。来年あたり、ビールだけのために、またピルゼンに行こうと思う。  �水割りの氷�物語  このところ、やたらに大西洋の上を飛んでいる。一九七七年の十一月から七八年の二月までだけに限っていえば、ヨーロッパ、アメリカ、ヨーロッパ、日本、アメリカ、ヨーロッパ、アメリカ、ヨーロッパ、というわけでそれぞれ約二週間ずつの仕事で動いているのだが、三カ月くらいの間に、大西洋を五回、北極を二回、太平洋を一回飛ぶことになる。  ヨーロッパからアメリカに着くと、ああ、ガサツなところにまた来てしまったなあ、ヨーロッパはしっとりしていたなあ、と思い、ヨーロッパに着くときは、ああ、不便なところにまた来たなあ、アメリカは便利だったなあ、といちいち思ってしまう。  この便利とか、不便の何分の一かが、ぼくにとっては氷のことなのだ。氷といってもピンと来ないかもしれない。アイスのことである。ウイスキーの水割りに使う氷のことだ。どこに行ってもホテルなのだから、この場合、各地のホテルでの氷の手に入り具合度、といってもいい。  今、ハンブルグでこれを書いていて、朝というか、まだ真夜中というべきか、午前三時半である。シカゴ、モントリオール、コペンハーゲンと乗り継ぎを重ねて昨日の昼ごろハンブルグに着き、いろいろな人に会って打ち合わせをしたりして、夜十一時前には時差で眠くてダウン、ベッドにブッタオレ、パッチリ目が覚めて三時である。  すべてをアメリカ時間でいうと、夕方の五時にシカゴを発ち、ジェットの中ではぼくは全然眠れなかったので、完全徹夜の状態で朝の六時にハンブルグに着き、そのまま夕方まで人に会い続け、五時にはたまらず昏倒して、これはいわば昼寝に当たり、だから午後の九時にパッチリで、そのアメリカ時間の午後九時は、今のハンブルグの午前三時ということだ。  パッチリしたら、もうどうしようもないから、いちばんの時間つぶしは原稿書きだ。  その前に、のどが乾いたから水を一杯、と思って冷蔵庫を開けた。ここはアトランティックというホテルでハンブルグのというより、西ドイツ中のホテルの中でも、最高の伝統と格を誇るホテルなのだが、最近ヨーロッパのホテルでは、ホテルのクラスが上にいくほど、部屋にミニ・バーと称する冷蔵庫が置いてあって、各種の飲み物が入っている。人件費の関係なのだろうか。日本やアメリカやオーストラリアとちょうど逆のようである。アメリカの良いホテルには、そんな冷蔵庫のようなハシタナイものは置いてなく、その代わりルームサービスを二十四時間やっている。  さて、この部屋の冷蔵庫を開けたはいいが、さしあたりほしいのはミネラル・ウォーターだ。水道の水は、なれてしまえばなんでもないのだが、久しぶりにやって来た街のをいきなり飲むと水あたりを起こすことがあり、着いてすぐにはガブガブやるべきではない。三日ほど経てば、ぼくはどこの国の水でも平気である。三日くらいの間におそらく、コーヒーや、食べ物や、食器についた水がだんだんと体に入って来て、慣れるのではないだろうか。  部屋の鍵に、冷蔵庫用のがついていて、いちいち鍵を開けて飲み物を出すのもバカげている。部屋に入った人間、つまり部屋の鍵を持った人以外、この冷蔵庫の中身を取り出せるわけがないのに、おかしなことだ。鍵の国ドイツの面目躍如である。  鍵を開けると、冷蔵庫になっている部分と、そうではないただの棚があって、グラスがいくつかと、ポテトチップスなどのつまみが置いてある。グラスとつまみを冷やすのは論理的でないからだろう。ドイツ的なことである。しかしなぜ、グラスまで鍵の中でなければならないのか。  ミネラル・ウォーターは、おどろくことに、グラスやつまみと一緒に入っている。各種飲み物は、下の冷蔵庫に入っていて、結構冷えている。ビール、コーラ、ジュース、シャンペンなどはちゃんと冷たいのだ。  このミネラルは、ファッヒンゲンといって、北ドイツの人たちがよく飲むものだが、なんでもありがたい鉱泉水だから、健康によいと、ビンに書いてあって、アワはないのだが、少々塩けがあり、苦く、なまぬるいと飲めたシロモノではない。  水の中に入っているミネラルの内容がちゃんと書いてあり、Na+が六〇二・五ミリグラム、六九・七四パーセント、K+は二八・一ミリグラム、三・二五パーセント、以下エンエンと、K+、NH4+、Mg2+、Ca2+、Mn2+、Fe2+(3+)と書いてあって、パーセントの合計が一〇〇になっている。ナルホド。Na、K、ぐらいまでは学校で覚えさせられたので、理解できる気もするが、それが小さく「+」とか、「2+」というのは何だろう。あとのMgや、Feなんというのは論外である。専門家以外のドイツ人にも分るはずがない。これもドイツ的という一言に尽きる。しかたがない。このニガショッパイのを飲むほかはない。ビールを飲む気が今はないのだから。ぼくの体は、今はアメリカ時間の夜九時を過ぎたが、頭はなんとかハンブルグ時間でものを考えようとしていて、朝の三時に原稿を書こうとするときに、ビールの感じではない。  ところが昨夜、ここのヨーロッパ時間の昨晩に、冷蔵庫の中の氷は全部使ってしまったのだ。氷といったって、一片一・五センチぐらいの極小のが十個できる氷作りの容器(こういうものに名前はついていただろうか)が二つあるだけで、二十個の小さな氷なんか、水割りであっという間に溶けてしまった。それに、この氷作りに水を入れて冷蔵庫に入れておくのを忘れたので、シブシブなまぬるいのを飲むことになる。  レストランでこのミネラルを注文しても、というよりは水を頼むと、これがくるのだが、氷と一緒に持ってくることはない。日本やアメリカのレストランで、水に氷を入れてこないところはあまりない。ラーメン屋さんは別として。  つくづく、アイスのない国に来てしまったなあと、今、この明け方の孤独な時間に、昨日までのアメリカが懐かしい。  友人で、最近離婚したヤツがいて、彼は東京で暮らしているのだが、離婚の前がお定まりの別居で、これが突発的に家を飛び出したというのか、追い出されたというのか、タタミ六畳と四畳半のわび住まいを、一年近くやっていた。  家具なぞあるわけがなく、また買う気もなく、センベイ布団とインスタントラーメンさえあれば、どうせ夜帰って寝るだけだから平気の様子だった。ある晩彼とバーで飲んでいたら、ボソボソしゃべりだした。 「ボロアパートに夜帰って、寝しなに一杯と思うだろ。ウイスキーを水道のチョロチョロで割ってさ。あのなまぬるいヤツはなんともワビシイものだぜ。ここ二十年ほど、冷蔵庫のない暮らしなんて、なかったもんな。こうやって、氷がたっぷり入っている水割りのグラスを持って、これが文明だなあってつくづく思うよ」  ウイスキーはストレートでグイとやるのが本格であって、水割りにするのは味オンチのやることだ、ましてソーダ割りなんて邪道きわまれり、なんて叫ぶ人もいるし、わざわざ水割りは氷なしで、と大声を出す人もいる。でもまあ、どうせ嗜好飲料なのだ。通ぶる人はそれとして、各人が好きな方法で楽しめばよいわけだが、ぼくは氷の入った水割りでなければだめである。たまにはオンザロックもやるけれど、とにかく氷がなければ、ウイスキーにはならない。  氷イコール文明説には強烈な実感がある。江戸時代には、将軍様だけが、夏に富士山のてっぺんからエッサカ、ホイホイと籠いっぱいの雪を運ばせて、融けないで残ったほんの少しの雪を、おう|甘露《かんろ》、甘露じゃ、とやれたくらいの大変なモノだったのだ。  ヤカン一杯の熱湯を作るのに何分も要らないが、同じ量の水を氷にするには何時間かかるだろうか。つまり、ものすごいエネルギーが要るのだ。誰でも、ネコも杓子も、ピンからキリまでが、どんな季節にでも氷を手にできる。文明の世はありがたい。  ベンダサンの、日本人は水と安全はタダと思っている、ではないが、アメリカ人どもは、どうも、氷はタダと、思っているような気がする。なにしろ氷使いが荒いのだ。アメリカのどんなホテルでも、廊下にデッカイ製氷機がブーンとうなっていて、部屋に置いてある氷入れのバケツを持って行って、ジャアッとすくってくればよいようになっている。  一流のホテルだと廊下にそんなのはないが、ルームサービスに頼めば、あきれるほどの量の氷を持って来て、翌日の午後になってもまだたくさんの氷がプカプカ浮いているほど大量なのだが、氷代をとらないところが多い。タダのものだけを持ってこさせるのには、こちらは少々気が弱く、ついついよけいなものを注文して、それにチップを加えると、そうバカにはならないのだが、それにしても基本的にはタダのものなのだ。  昭和ひと|桁《けた》心情というのは、こんなときにも顔を出し、ジャアッとすくってきた氷や、大量に運ばれて来た氷を前にため息をつき、このまま融かすのはもったいなく、あまりにおそれ多いので、氷を無駄にしないために必死になってウイスキーを飲み、翌日はひどいことになる。  その点、極小氷二十個のドイツのホテルは健全だ。ドイツに限らず、ヨーロッパ諸国では、普通の時間でも、ルームサービスに氷を頼むのが至難のわざである。かりに、水と氷つきのウイスキー(水割りのことである)を電話で頼むとする。部屋に持ってくるまでに融けかかって、二、三片の薄い氷がペラペラ浮いているのがくるに決まっている。  次に、ウイスキーと水と氷を別々に持ってきてくれ、氷はたくさんの量をたのむ、とやるとする。楽しみに待っていても、やはりガッカリすることになる。ウイスキーが下のほうに三センチばかり入ったグラスと、ミネラル・ウォーターのビンと、もう一つのグラスに氷がいっぱい入ったのをボーイが持って現われる。いっぱいといっても冷蔵庫製の氷六個ぐらいでグラスは満員である。アメリカ系のホテル、たとえばヒルトンとかシェラトンだと、さすがに氷のバケツが来て、それでもアメリカの六分の一ぐらいの量だ。  不思議なことに、どこのホテルでもシャンペンを頼むと、これはもう、アメリカなみの大きいシャンペン冷やし用のバケツに、たっぷり氷を入れて、その中にザックリとビンを差し込んだのを持ってくる。  思うに、アメリカとヨーロッパとの氷に対する考え方の根本的な違いは、アメリカ人は水でも、コーラでも、なんにでも液体の中に氷をブチ込んで飲むのが好きであり、ヨーロッパ人は、同じだけの氷を作る文明を持っていても、その氷はビンの外側から、中の液体を冷やすものなのだと思っていることのようだ。アメリカでも勿論、シャンペンやら白ワインは外から冷やす。つまりヨーロッパ人は、氷を口の中に入れるということをしないのだ。  以前、ベルリンのホテルにいたとき、友人たちがぼくの部屋に騒ぎにきて、総計八人になった。ウイスキーを持っていたので、こちらは大勢で元気があり、かまわないから氷だけを大量に持ってこさせようと、ぼくが電話をした。氷だけを頼むには実に勇気がいる。  ボーイが持ってきたのは、なんと、一人分がすでに大量で、それを八人分満載した、アイスクリームの盆だった。みんなでギャアギャアボーイを怒ったが、ラチがあかない。ボーイは言われたとおりに持ってきたのだから融けないうちに食べてくれと言う。  ピンときた。ぼくはドイツ語で注文したのだった。ドイツ語でアイスクリームは、アイスクレームである。だが一般には、単に「アイス」としか言わない。「アイス」を八人分大量に、とドイツ語で言えばこうなってしまう。  ドイツでは、いかに人が氷だけを注文しないかの表われである。口に入れるものではないのだから。それ以来、ドイツのホテルでは、こういうときには、英語で注文している。アメリカ的な発音をしたほうが、氷が無事にくる成功率が高いようだ。  本場っていったい何だろう  最近、週刊文春を眺めていて驚いた。なんと六十種類もの日本のウイスキーの銘柄がずらずら書いてあったのだ。ぼくの認識不足だったのかもしれないが、今までは日本のウイスキーと言えば、サントリー、ニッカ、オーシャンぐらいしかないと思いこんでいた。これらの大会社がいろいろな名前でだしている、オールドとかG&Gとかインペリアルなどという名前とは全然別に、何十の別々の小さなウイスキー会社が日本にあるとは知らなかった。  小さすぎて、生産量が少なすぎるのか、多くの会社の製品は、直売システムで直接買わなければ売ってくれない仕組みになっていて、相当の努力をしなければ、おめにかかれないらしい。その会社直営のバーでしか飲めない珍品的なウイスキーもあるそうだ。これからはこういう知られていない、だがなかなかうまそうな日本製ウイスキーを捜して歩こうと思う。  同時に、日本民族のウイスキーに対する感覚にも、なにか自信みたいなものをもった。日本酒のあの無数の種類を思うと、ウイスキーなら輸入のスコッチを除いては、誰でも彼でもダルマやリザーブや、G&Gというふうに、なんとわが国の人はウイスキーの味の種類に対して好みも何もないものかと、かねがね嘆いていたのだ。売れなくても、有名にならなくても、せっせと自分の好きなブレンドを造っている、六十以上の小さな会社があるのはすてきなことである。  昔ロンドンに仕事に行って、音楽会の前に記者会見をした。記者会見といったって、新聞社数社の記者がそれぞれのカメラマンを連れて来ている穏やかなやつで、終ってからみんなでお茶を飲んで一種の懇談会のような和やかなものだった。向こうの質問がひとわたり終ったので、かねがね聞きたいと思っていたことを、ぼくのほうから質問した。  ぼくはスコッチが大好きで、それも一種類だけにしがみつくというタチではないので、目につく限りのいろいろなウイスキーを飲んではおもしろがっているのだが、それにしても世界中でおめにかかるスコッチウイスキーは、たいていは有名品だ。ぼくのような外国人が知らない、いわば地酒といった国際的には無名なもので、輸出なんかはしないが、本当にウマイのがあるのではないか。そういったウイスキーの名前を教えてくれないかということを質問したのだ。  十何人いた記者、カメラマンどもは困ってしまった。みんなウーンと唸っている。ぼくでも知っているウイスキーの名前をベラベラ言いたてるが、そんな有名なのではないのをというのでなおさら困ったらしい。  今にして思えば、日本にも六十何種類かの無名のウイスキーがあるくらいなのだから、本場のスコットランドには、それこそ何百種類のそういった小さな会社があるに違いないとも思うわけだが、逆に本場だからこそ、そういった小さな会社がだんだんに統合整理されてきて、全部が有名な大会社の傘下になってしまい、もしかしたら記者どもが困っているように、ある村だけのウイスキーなんていうものは、もう存在しないのかもしれない。  しばらくたって、ある若いカメラマンが、私は普段、バーボンしか飲まないのです。スコッチを飲まないので……、と言ったので全員爆笑した。せっかくウイスキーの本場イギリスに来て、アメリカのバーボンしか飲まないカメラマンと話すとは思わなかった。ガッカリだ。  だが一面、ウイスキーの本場の人間のくせに、その本場にちっともこだわらないバーボン好きをみて、何だかとても心があたたまったのだ。  ぼく自身が外国渡来の西洋音楽というものをなりわいとしているので、つまり、いつも心のどこかにほんのちょっとスミマセンみたいな気持があるせいか、本場ものというと、ある国のものだけにパッと短絡してしまうくせがある。ウイスキー即スコッチという具合である。  この若者にとっては、スコッチは数あるウイスキーの一種で、それよりは別のタイプのウイスキーであるバーボンが好きだったというわけだ。この時以来ぼくは、わが国はサントリーやニッカの本場だけど、ぼく自身はスコッチのウイスキーが好きなのだ、と思うようになった。  たとえば、日本に、本場ものが百あるとしよう。そしてよそのそれぞれの国が百ずつ本場ものを持っているとしたら、今世界には国がいくつあるのだろうか。どちらかというとぼくには世界をわが国と外国、という二種類に分けて簡単に考える性質があった。この考え方でゆくと、外国には本場ものが何千、いや何万とあり、日本には百しかないということになってしまう。本場ものということについてはどの国もそれぞれ対等なのではないだろうか、と最近は思うのだ。  しかし、どこの国の人も、どちらかと言えば外国の「本場」に敏感であるし、憧れも強いようである。ハンガリーのブダペストで音楽会をやっていたときに、あまり何度も来る所ではないので、この際、ハンガリーの有名な作曲家のバルトークとコダイの全作品のレコードを、それも全部、ハンガリーの音楽家が演奏したのを買おうと思った。  全作品というのは膨大すぎて不可能だが、とにかくレコード屋で、知っている限りのバルトークとコダイの作品の名前をあげた。レコード屋といっても、銀座の日本楽器とか山野といった大デパートのようなものではなく、ごくささやかな、おばさんと娘でやっているような店で、しかし在庫品はけっこうたくさんあり、われわれ西側の人間がふだん買えないような共産圏のレコードが多かった。  レコード屋の太ったおばさんは汗だくになって、ぼくが次々名前をあげる作品のレコードを運んでくるのだった。ひとわたり作品の名前を言ってしまったら、百枚近くのレコードが積みあげられた。もちろん重すぎて持って行けるわけではないから、船便で日本に送ってもらうことにして、発送費ももちろんこっちが出すのだ。いっぺんに百枚近くも買うバカはまずいないだろうから、おばさんはホクホクだ。  ハンガリーの演奏家のレコードに限ると言ってはあったものの、念のために積みあげられているレコードをもう一度ぼくは調べだした。百枚近く売れると思っていたおばさんの思惑ははずれて、本当にぼくが買うことにしたのは三十枚くらいになってしまった。買わないことにした七十枚は、ソ連とかチェコの音楽家のバルトークやコダイのレコードだったのだ。  がっかりのおばさんは、なぜ買わないのかと恨めしげに言う。ハンガリーの音楽を、本場のハンガリーの音楽家が録音したレコードが欲しいのだと、ぼくが言う。でもこのソ連のレコードは、ハンガリーの音楽家のレコードよりも、ずっとよい演奏だという評判だ、とおばさんは不服そうだった。  全部が全部こうではないかもしれないが、ハンガリーの人たちは、ハンガリーの音楽はハンガリー人のでなくてはならぬ、本場ものでなくてはいけない、などと狭く考えてはいないようだった。他の国でも、何のことでも同じようなことは言えて、だから音楽に限らず文化というものは世界中ぐるぐるとうまくいっているのではないだろうか。しかも常に、よその国の本場を憧れながら。  このとき、ブダペストで、プログラムの中に日本の曲を一曲入れた。もっとも一年中、世界中でほとんど全部の音楽会のプログラムに、日本の曲を一曲は必ず入れているのだが、日本の曲にもいろいろあり、超現代的な前衛作品もあるし、聞きやすい日本的なムードがもりだくさんという曲もあり、さまざまだ。  ハンガリーは、共産圏の中ということもあって、前衛的作品は社会主義リアリズムに反する、人民のための心の糧にならないというソ連の圧力もあったらしく、ぼくなぞの好む世界最先端の新しい曲の演奏は数年前まで不可能だった。最近は、こういったことも解禁になり、どんどん西側の前衛的な作品が演奏されるようになった。でも、このときは十年以上も前なのである。ハンガリー当局や聴衆にすんなり受け入れられるような、わかりやすい日本的な曲をもっていったわけだ。  曲の一部に、フルートの長い独奏があり、日本の馬子唄を尺八で演奏するような音楽的効果をねらった部分だった。  楽譜というものは、かなり不完全な記号だということが言える。作曲者が書いたそのとおりを、演奏者が完全に理解するというわけにはいかない。しかし作曲者としては、他人である演奏者になんとか意図を理解してもらえるように、最大限の努力をはらって楽譜を書き上げるのである。最初の練習のとき、ぼくは何も注文をせず、曲の演奏をすすめていって、フルート奏者は日本的なことについて、なんの先入観もないまま、なかなかうまくこの馬子唄を吹いた。気に入って、こんなにうまいのだからと、翌日の練習ではこちらは逆にもっと欲がでる。  日本では|小節《こぶし》という節まわしの方法があって、喉をちょっとつめて、アアアというふうに即興的に演奏する、というようなことをドイツ語で説明した。日本でなら、ここはひばりのようにとか、そこは森進一のように、あそこは都はるみのようにとか言えば、いっぺんで通じてしまうことでも、なにも知らない外国のオーケストラにそういうことを注文することは、たいへん難しいことなのだ。  向こうは、一生懸命ぼくの注文どおりに演奏しようとする。なんとか、日本的に笛を吹こうとする。だが、何も日本のことを知っちゃいないのだ。無理もない。努力すればするほど、ぼくの要求するところの「日本的」なるものからどんどん遠ざかる。つまりフジヤマ、ゲイシャ、リキシャのイメージぐらいしかせいぜいない人が、それだけのイメージをふりしぼって「日本的」にしようと懸命になり、即興的ではない人工的な節まわしをすればするほど、似ても似つかないものになってゆく。  言わなければよかった、と後悔したがもう遅い。彼は夢の国日本を見事に表現したつもりで、いい気持になっている。本当は、架空の「日本的」なるものを彼につくらせずに、楽譜どおりにすんなりと演奏させたほうが、ずっと「日本的」だった。よけいなことを言わないで、作曲家の書いただけにまかせるべきだったのだ。  こういうことは、実は一年中経験していることで、なまじっかな説明をして、麗しき誤解からの協力を得ると、かえって困ることが多いものだ。ウィーン・フィルハーモニーの演奏するウィンナワルツだけが本物だと言われている。本当に彼らのウィンナワルツはすてきで、世界のどのオーケストラも真似ができない。真似ができないものだからよけい真似をしてしまうものである。  それで世界中のオーケストラはウィンナワルツのもつウィーン独特のリズムを、ウィーン・フィルハーモニーの何倍も大袈裟な演奏の仕方をして、実はウィンナワルツからどんどん遠いものになってしまう。本場のウィーンフィルは実にあっさりとこのリズムをやってのけていて、だがこのあっさりというのが真似ができないのだ。  ソ連のオーケストラは、思ったよりもチャイコフスキーをあっさりと演奏しているし、チェコのオーケストラは、ドボルザークをやはりすんなりと演奏している。一見、いや、一聴、ロシアらしくなく、チェコらしくなく聞こえる。だがこのロシアらしさとか、チェコらしさとか、日本らしさとか、ドイツ、フランス、アメリカ……らしさというのが、くせものなのだ。  本場の人たちは、自分たちの本物を、なんとか本場らしくやろうなぞとは、それぞれ、毛頭思っていない。本物ではないから、本場らしくやろうということになり、これ即ち本場らしくなくなることになる。本物でないものが本場のようにやろうということに、既に無理があるのだし、本場らしく、なんて思わなくなったときに、本場らしくなることが多い。だが本場っていったい何だろう。本来、存在しないものなのかもしれない。  パーティ狂騒曲  もし神様が、何かひとつだけ願い事を叶えてやろうとおっしゃってくださったとする。今のぼくは、一瞬もためらわずに、「カミサマ、あのパーティというのを、この世からなくしてくださいマシ」と叫びたい。というのは、このところ五週間連続アメリカで仕事をしていて、平均すると毎週三回は、パーティというヤツに悩まされている。今も、あのいまわしいパーティから帰って来たところなのだ。  このアメリカに限らず、ヨーロッパ各国でも、オーストラリアや、南米各国や、東南アジアでも、職業柄いつもパーティ攻めにあっていて、外務省在外公館の皆さんほどではないかもしれないが、けっこうぼくもパーティずれはしているはずだが、毎回拷問のようなものだ。  パーティに参加している幾十人の各国人の善男善女、紳士淑女にまじって、誰にもおとらぬほどニコニコ・パーティ人間ぶりを発揮してしまい、しゃべりまくって、ほっぺたがひきつり、終わって帰って来ると、これまでの二、三時間の愛嬌を取りもどさなければソンみたいに、ブッチョウづらになる。  そして、さっきのパーティでの自分の一生懸命のお務めぶりに腹を立てる。なんでオレは、ああマジメにパーティ人間をやってしまうのだろう。誰ともしゃべらずに、ブスッと隅に立っていて、ほんの数分くらいつきあって、ヒョイと消えてきてもよかったのに。  具合の悪いことに、指揮者という商売、どのパーティでも、概して主役であることが多い。十に三つは、頭がイタイとか、流感にかかりかけているとか、音楽会が終わったころから急にお腹がさしこんできた等々、デタラメを言って断わってはいるのだが、OKを言って出席した以上は、ブスッとしたままの堂々たる態度で押し通すのには大変な勇気が必要で、どうもぼくにはその勇気がなくて、だから余計に自己嫌悪になるのだ。  一生の全ての時間が、パーティの主役だ、みたいな天皇家の方々や、エリザベス女王なんかを、ぼくは心から尊敬してしまう。本当に大変な一生だろうなと思うのだ。もっともそれだけの生き方しか知らない方々の心情と、ぼくたちとの比較は無理かと思われる。少なくとも容易に想像できることは、一応の大人になってから、ある日突然、ぼくが英国女王さんの養子になってしまったら、間違いなく発狂するだろう。  つくづく、世の中の分業というのは、生物の偉大な知恵だ、と感心する。人間と言わなくて生物としたのは、蜂や蟻を含めて、ビールスだって、その分業をやっているかもしれないと、ふと思ったからである。  日本にいるときのパーティには、ぼくはあまりオビエテいない。大抵は断わるか、スッポカスかしているし、万一出かけて行ったとしても、あまりくたびれない。出席者が日本人だけのが普通だし、かりに外国人がまじっていても少数に過ぎない。こちらは自国内の多数派にまじって、というよりは、隠れて何かを食べていればいい。もっとも食べたいものはないが。  日本の人間は、世界に冠たるパーティ下手、またはパーティ|おんち《ヽヽヽ》であって、みんながみんな無愛想な顔をして、会場の壁にへばりついて立っている。運良く椅子が置いてあれば、ペタリと座りこんで、中央には大きな空間ができ、シラケのかたまりみたいな真ん中のテーブルに、どこに行っても同じような伊勢えびとかローストビーフが並んでいて、取りに行く気はさらさらなく、パーティには何の関係もないような銀座のオネエチャンたちが着物でシャナリシャナリやって来て、うすい水割りを渡してくれる。  しばらくの間、こちらも壁の花になっていて、誰かの長いスピーチの間に、戸口近くの人に、さも用事があるような意味ありげなすり足を見せ、そのままスルリと逃げてくれば、もう自由の身なのだ。  このような日本的典型のパーティは、実はパーティとは言い難く、あれは何だろう。セレモニーの一種ではあるのだが。ぼくが苦痛で、後に自己嫌悪のカタマリになる「楽しい」パーティは、日本にはほとんど存在しないようである。だから『パーティの本』なんてのがベストセラーになったりするのだろう。  勿論パーティにはいろいろあって、一国の首相主催のものに、各々黒ぬりの車からタキシードと長いジョロンジョロンのイブニングの降り立ちというのから、友人だけ数人が誰かの家に集まって、酒をのんでガヤガヤの楽しいものもあるし、二人だけの夜明けのコーヒーという最高のまで、ピンからキリまであるわけだ。どっちがピンだとは言えないけれど。大人数のほど、スルリと逃げてくるのが簡単で、小人数のは抜けにくく、大小のパーティの境は、二十五人以上か、以下かといったところだろうか。  ところで閉口するのは、アメリカやイギリス、オーストラリアといった、英語国民たちが、この二十人くらいのパーティをやたらと好きなことだ。さまざまな人、特に初対面の人たちが誰かの家に多く集まって、互いに「エンジョイ」しあうのがそもそもの目的なのだから、飲みもの、食いものにコルわけではない。  上等なワインを何十本も空けるのはもったいないから、どこでもケチって、スーパーで売っている大瓶のワインがドクドクつがれ、良くてローストビーフ、普通は各種のチーズと黒パンくらいのもので、なにしろ善男善女、パーティ族は金持ちが多く、食いもの目当てにガツガツ集まるヤカラはいないのだ。会話を「エンジョイ」なさっていらっしゃる。  いつかオランダでパーティに招待され、前もってお飲みものは何がお好きと尋ねられ、夕方七時からのパーティなのだから、メシにバーボンでもあるまい。ワイン、それも赤の軽いものが好きですと言っておいた。  パーティには、種々の飲みものが置いてあるのが常識だし、ヘンなことを聞くものだと思ってはいたが、当夜おどろいたことには、最初から最後まで赤ワインだけだったのだ。メシが出ないのだ。夕方七時からのパーティだというのに!!  十何人くらいのパーティだったから、帰るに帰れず、しかもその中の一人がぼくを車で迎えに来てくれて、そやつはワインをガブガブやるばかりで、十一時になっても|みこし《ヽヽヽ》をあげないのだ。十一時半ごろになって、ポテトチップスとチーズの小さく切ったのが出てきた。アサマシイとは思ったが、ガツガツ食べてしまった。  以来オランダでは、夕食時の招待を受けたときは用心して、少しばかり腹に入れてから行くことにした。そういうときにかぎってうまそうなものが出て来たりして、ママならない。  世界中同じことで、招待側に食事は出ますか? とは聞くことができず、あれだけは前もって向こうが言ってくれるべきだと思う。  ぼくの場合、殆どのパーティは音楽会の後で、出席そのものの面倒はともかく、着るものその他にあまり気を使わなくてすむ。というのは、さっきまでこちらはステージで汗をかいていたわけで、芸人の特権というべきか、タキシードやイブニングがキザな手つきでシャンペングラスを持っていても、堂々とビールを持って来てもらうことができ、満座の中でひとりジョッキをかたむけても、 「オオ、去年リヒテルさんも、終わったときのビール一杯のためにピアノを弾くのだと、おっしゃってましたワ」  なんて感心するオバサンがいたり、むしろ尊敬のまなざしを投げかけられる。しかも音楽会の終わったときのパーティには、必ずシブリ、それでもと強く言われると、パーティ用の洋服を今持っていないと答える。  きゅうくつなエンビ服を脱いだ後に誰がタキシードなんか着るものか。ネクタイなんかするもんか。セーターとジーンズで楽屋から出てくるのが普通である。こんな格好では、と遠慮のふりをするが、イエ、イエ、そのままでどうぞと言われて、天下晴れてジーンズでタキシードのまっただ中に入って行くことができる。  会話だって、なきに等しい。誰もが口々に、楽しかった、とか、こんなすばらしい演奏は、何十年このかた初めて聞いた、とか、要するに、口から出まかせのワンダフルを連発してくるのだから、こちらはニコッとしてサンキュウを言っていればメデタイのだ。  ときに音楽会の前日、前々日に無理矢理パーティにひっぱり出されるが、これは困る。初めての街だと、なにしろ演奏の前なのだから、まだこちらは王様にはなっていない。各人からバカなことを言われても、サンキュウだけで片づくことではない。にこやかに何かを答えねばならず、ヘトヘトになるのである。 「ワガ国ノ印象ハ?」 「何日ゴ滞在デ?」 「ドノ作曲家ガオ好キデスカ?」 「コノ街ノアトハ、ドチラニオイデザーマスコト?」………。  きまりきっている。バカバカしい。腹が立つ。しかしこういう質問にブゼンとして無言でいる勇気がなく、最初に書いたようにぼくはニコニコして答えてしまうのだ。気がついたらニコニコしゃべっていたと言うほうが正確かもしれない。  なぜぼくは、もっと毅然とした、よく映画に出てくるような、近よりがたい感じの大芸術家のようになれないのだろう。どうしてサービスをしてしまうのだろう。イヤダ、イヤダ。  アメリカのオーケストラは、ヨーロッパのと違って、国の補助を受けていない。それぞれの街の音楽好きの人たちがスポンサーである。はなはだ民主的なことで、文化に国家権力を介入させず、まさに市民による、市民のための音楽という感じで、さすがはアメリカと思う。  裏には、文化関係に寄付すると免税の特典があるとか、美しいことばかりではないのだが、大口から小口まで、何百人のスポンサーの名前がプログラムに並んでいるのは壮観である。大部分は、ミセス何々で未亡人のばあさんたちだ。この国では相続税がベラボウに高いそうで、これと寄付とは大きな関係があるらしいが、それはまあ、いい。  問題は、アメリカのオーケストラ関係者が、大量のばあさんたちに気に入られないと仕事ができないことにある。どの世界でも「泣く子もだまるスポンサー」なのだ。彼女らはパーティが大好きだ。音楽会の後にはパーティが必ずある。それぞれのスポンサーがまわり持ちで、毎週のパーティを自宅で受け持つ。  ケンタッキー・フライド・チキンとか、マクドナルドのように、全米パーティ・チェーンがあるのかと思うほど、どこの料理も同じだ。ガヤガヤみんなで一時間くらい酒を飲んで、別の部屋に料理を用意してありますの声で、大きな机の上に置いてあるローストビーフ等を、各自が勝手に皿に盛り、椅子の数が足りないから、出席者の半分以上は立ったまま食べる。勿論おしゃべりのほうが大事で、アメリカ人が殆ど絶対といっていいほど、右手のフォークだけで食事をするのは、これから来たのじゃないかと思う。左手で皿を持つからだ。  ゲスト・アーティストを囲んでおしゃべり、というのがパーティの目的であるから、受け答えをしていると何も食べられない。サンキュウだけを言っていれば済むにしても。  音楽家で、音楽会の後の疲れはてているときに、こんなところに行って数々の愚問に答えるのが好きなのは、超新人かモグリだろう。どの人も、行くのをシブルのである。そこで泣かぬばかりにして、パーティへの出席を口説くのは、オーケストラのマネージャーだ。  ゲストとしては、そこの経営に関係はないのだが、経営者の彼を助けたい気持もある。そこで、ばあさんたちをよろこばせ「エンジョイ」を大きくさせ、オーケストラへの寄付を増やさせるために、泣く泣くパーティに行く。全くのところ、芸者の心境である。全米各地で、毎晩ゲイシャ・パーティが何十と開かれているわけだ。  「米食でパワーアップ」 「お米を食べてパワーアップ」とテレビが叫んで、画面は、アメリカンフットボールのいかついの同士がガッキとぶつかり合っている。「エネルギーの持続にはライスが一番」ボクシングの選手がサンドバッグをぶったたいている。「粘りは米から」猛烈な勢いで水泳選手がターンする。  先だってオーストラリアで見たテレビのコマーシャルだ。所変われば……で、最近は日本でも米が余り過ぎているためか、「やはり日本人にはお米」、だったかどうか正確な文句は忘れたが、そんな意味の農協のコマーシャルをやっているが、豪州米の産地オーストラリアでも米が余っているのだろうか。  ごはんばっかり食べていると力が出ないとか、頭が冴えないとか、ステーキ即ち力の源泉みたいなことを、みんなが思っている日本とは正反対のように見える。  人間、いつもいつも食べているものに対しては、その食べ物に信仰心を失って、普段食べ慣れないものを尊敬してしまうことがあるようだ。実際にぼくなんかが、このようなオーストラリアのお米のコマーシャルを見ていると、そんなバカな、と叫んでしまったりするのだが、このコマーシャルを見て、なるほどそうか、ライスをもっと食べようと思うオーストラリア人には鰯の頭もナントカで、パワーアップの源泉になるのかもしれない。  ヨーロッパでもアメリカでも、とにかく西洋人の国にいて、お腹をこわして医者に見てもらったりすると、たいていの場合、食餌療法を命令され、当分の間ライスを食べろなどと言われる。  昔は日本でもお腹をこわすと、柔らかいおかゆに梅干と宣言されたりしたものだが、現在は大分変わって、こういう時にはなるべく栄養をとるべきだというふうに学説が変わったらしく、消化のよい魚とか、鶏とか、いろいろ勧められ、同時に、当分パンだけにしなさい、と言われることが多い。  いつもパンを食べている人種には、胃袋、十二指腸、小腸、大腸の気分転換のためだろうか、違う食べ物、即ち、ライスが調子をよくするのか。従って、米族にはパンがいいらしい。我々日本人には、ごはんこそが肥満の諸悪と信じている趣きがあるが、たいていの西洋人はライスこそ健康で、身体のきれいな線を保つ食べ物だと、思い込んでいるふしがある。  だって、日本人は小柄でキリッと身がしまっていて太り過ぎに苦労をしていないみたいじゃないか、あれはライスが主食だからに違いない、と目を輝かしてわめくデブがよくいる。とんでもない誤解だ。だが、よく考えてみると、一理あるような気もする。  今、主食という言葉を使ったが、彼らには主食という概念や言葉がないようだ。ライスの美容効果? とやらに目を輝やかせて、そのライスを何杯もごはん茶碗におかわりをするような食べ方をするはずがない。特別にパンをムシャムシャのヤツは別として、昼食にしても、正式なディナーにしても、彼らが食べるパンの量はびっくりする程少なく、せいぜい小さいのを一つぐらいのものである。  もし西洋語に主食という言葉があるなら、肉とか魚等の、日本語ならおかずに当たるものが、彼らの主食だろうと思う。そんなことを知らないで、一時、パンを主食にしましょう、身体にもオツムにもいい、みたいな愚かなキャンペーンがしきりと日本ではあったが、ごはん三膳と同じようにコッペパンを三コ食べたら大変だ。  しかもバターをぬりたくったりしたら、ごはんにバターをいちいちのっける人はまずあるまいから、カロリーの面で恐ろしく充実してしまって、代用食イコールモリモリになってしまうわけだ。ひょっとすると、日本人のこの主食への勘違いが、戦後の食糧難時代の我々のやせ衰えた身体を、戦前をはるかにしのぐ肉付きにさせたのではないだろうか。  西洋人にとって、パンは我々のごはんのような意味での主食ではないと言っても、ヨーロッパのホテル等で朝食風景を見ていると、やはりパンが彼らの主食だと言ってもいいような気がしてくる。  いわゆるカフェ・コンプレというやつ、オレンジジュースとかナントカジュースをとる人は、安いカリフォルニアやフロリダのオレンジに身近なアメリカ人ならともかく、ヨーロッパでは、少なくともホテルで見ている限りでは、余りいない。要するにコーヒーとパンだけである。  大きなカゴに、国によって、例えばフランスならフランスパンを七、八センチに切ったのを山ほど盛り上げてくるとか、ドイツやオーストリアだとゼンメルのような丸いパンを、これ又盛り上げてくる。バターの皿と二種類くらいのジャムがついてきて、これをぬりたくってムシャムシャやっている風景は壮観である。パンのカゴのおかわりを頼む人もいる。日本ならさしずめおひつをとり替えるわけだ。とにかく、呆れるくらいのパンを、彼らは朝たいらげる。朝食でおひつ二杯のごはんをたいらげて少々うんざりした人が、夕方の宴会でおかずだけをつまんでいるようなものだろうか。だからこのパン食いが、お腹をこわした時、ライスを食べると、胃腸の作業意欲を新鮮に刺激するのだろう。  ケチなビジネスホテル風な所だと、最近のわが国でもよくある、銀紙で包んだ小さなインスタントバターみたいなのが付いて来て、それでも日本みたいに一人に一個なんてケチなことはなく、無造作に何個かほうり込んだ皿が付いてくる。イカシたホテルだと小さな壺にきれいにバターを詰めたのが出てくるものだ。インスタントであれ上等であれ、西洋人どもは出てきたバターを全部使うようである。  節食だ、カロリーを減らさなきゃ、と騒いでいる中年の御婦人も、パンをごく少量にして済まそうとするらしいが、バターにはカロリーがないと思っているのか、まるでバターのついていないパンなんてクリープのないコーヒー……よろしく、小さなパンへの敵討ちの如く、パンよりバターの量の方が多かったりする。これでは太るだろう。  それに、カフェ・コンプレといっても大抵はハムとかサラミとかチーズが付いているから、これをパンに、山盛りにバターをぬりつけたその上に、さらに又のっけてむしゃぶりついている。彼らという人種ないし動物は、我々日本人よりはるかに沢山のカロリーを必要とし、即ち野獣の如きエネルギーをギラギラたぎらせているもののようだ。  例えば、古いかもしれないが、中年のヘップバーンのガリガリや、もう消えてしまって名前を聞かなくなったツィギーさんは、どんな食生活をしていたかは知らないが、痩せなければならない、大変ダワ、ワア、どうしようと騒いでいる女の子たちだって、昼も夜も食後にはでっかいケーキを召し上がる。ケーキのない食事は食事でないのだろう。  西洋人たちが日本に来て、憧れの旅館に泊まり、日本朝食を特に所望して、お膳の上の種類の多さに驚いて、なんと日本人は大食なのだろう、とヌカス。この誤解もはなはだしい。海苔が一皿、小さな塩ジャケが一皿、おしんこも、味噌汁も、申し訳みたいなガンモドキも確かに一種ずつで、カフェ・コンプレに比べれば、種類は確かに驚くほど多いけれど、おひつをとり替えるほどのごはんさえ食べなければ、全体としてはあっさりしたものだ。バターのようなカロリーの固まりなぞないのだから。  脂っこくないのに気がついて、世界中日本食ブームのようなものが、現在起こっている。日本食といったって、材料はなし、知識はなし、料理法も知らない。日本食の象徴は彼らにとってライスである。  なんにでもライスさえ付ければ、それに今頃はどこの国でも醤油を売っているから、醤油の一、二滴を皿にたらせばもうニホンショクなのだ。  朝はいつもの通りのバターこってりに決まっている。昼と夜の脂っこい肉を主とした料理は変わらず、それに一、二滴の醤油とライスでは、カロリーは増しこそすれ、減食のおまじないはむしろ逆になってしまう。その上ケーキをパクつき、ケーキには彼らの大好物の、大量の甘い、甘い生クリームがのっかっている。 「ライスを食べよう」のコマーシャルは、オーストラリアで見たのだけれど、他の国々でこんなことがもっと流行ってしまって、世界中が太り出したら、なんのことはない、日本は肥満まで輸出するのかと、又々世界中からフクロダタキに遭うのだろうか。日本政府は、外務省は、ライスの正しい食べ方、お米を食べても痩せません、という大PRキャンペーンを、国益のためにするべきではないのか。  男の肌なんてまあどうでもいいけれど、我が日本女性の世界に誇るもち肌は、脂を余り多く採らず、採ったって植物油が多いからなのだ。やはり総合的に見て、理想的な美容食を採っているせいなのかもしれない。  それに、おいしく炊けたごはんには、もちろん適当な水分が含まれていて、あの輝いた美しい奥行のある白さが、瑞穂の国の民の素肌に、例えようもなき美をもたらしているのだ。これはちょっとオオゲサ過ぎるけれど。でもパンと肉ばかり食べて、何千年経てきた種族の肌を見てごらんなさい。食パンを切って、二、三時間裸のまま放置したあの肌である。白いかもしれないが、お月さまのほっぺたではないか。カサカサしていて、蚊なんか止まる気にもならないだろう。  だから西洋には、あの夏の芳しい蚊とり線香の煙がうっすらと漂っていたりしないのだ。虫が好かないのだろう。吸いたいような魅惑的な肌に恵まれないから、中央ヨーロッパでは蚊が育たないのだと思いたい。どうも話がめちゃくちゃになってしまった。  久しぶりに夏の日本にいて、時々蚊にさされる幸福を、天照大御神に感謝の気持を持てる喜びに浸っている。  「違いのわかる男」後日談  去年(一九七七年)の五月まで、ぼくはまる二年間インスタントコーヒーのテレビコマーシャルをやっていた。例の「違いのわかる男——ネスカフェゴールドブレンド」だ。  ぼくは「違いのわかる男」としては確か第七代目だったと思うが、ぼくのが終わった後、清家清さんと野村万蔵さんがお続けになって、もう自分が関係ないくせに、テレビを見ていてあのコマーシャルが出てくる度に、他のコマーシャルを見るよりは、何故か凝視してしまう。お二人共お会いしたことは全くないのだけれど、すこぶる一方的に親近感を覚えたりなどして、どうも日本的なことだわいと、我ながら感心している。  共に同じ禄を食んだというようなことでは全くなく、ただ撮影の時に沢山の関係者の前で苦い思いをして、何十回も実際に飲んだり、飲む真似をしたあの同じ経験を味わわされた人なのだという一種の連帯感的なつかしさなのか、あんなことをやったおかげで、まず普段は絶対に飲まないあのインスタントコーヒーの一種の贔屓になってしまったのか、とも思えてニヤニヤしてしまう。  合計だと、ぼくをいれておそらく九人なのだろうと思うが、どうなのだろう。遠藤周作さん、北杜夫さん初め、一度もお会いしたことのない方ばかりで、あんなことはサラリとお忘れになっているかもしれず、ぼくだけがそのような勝手な連帯感を抱いているとしたら、これはマンガだ。唯一の例外は黛敏郎さんで、商売柄よくいっしょに仕事をするけれど、両者コマーシャルに関してのあのにがにがしいことに触れたくない感じで、一度もネスカフェの話をしたことがない。  ごく最近急に聞き慣れた音楽がテレビで聞こえてきて、ゴールドブレンドはコマーシャルの内容を一新したらしく、「違いのわかる……」のタイトルはなく、二谷英明さんがゆったりとした大人の笑顔で、内容と容器の一新をにこやかに説明なさっている。今までそれぞれ立派な仕事をなさっている方が、いつも無言でコーヒーカップをとりあげ、したり顔ですましていたところはなんとも素人的哀れさのおかしさがあって、何故かこちらは身をよじってしまうのだった。  自分の時は、コマーシャルが出る瞬間にたまらずチャンネルをかえ、汗ふきふき難を避けるのが常だったが、とにかく、同じ製品のコマーシャルで、二谷さんのような演技のプロ中のプロが、すこぶるプロらしくおちついてやっていらっしゃるのを見ると、本物の宣伝とはこれなり、と実によく違いがわかるのである。  ぼくを含めた九人の素人の時には、何故かハラハラして見ていたのと違い、実に気持がおちつく。ハラハラも会社側の手だったのだろうが、このおちつきこそ、ああもうこれでネスカフェは安心だと、まるで我が社を慈しむが如く安らかなる気持で二谷さんを見て、ウイスキーをなめるのだ。本当にプロのやることはいいもんだ。  考えてみると最近のコマーシャルは、やたらといわゆる素人がまかり出てくる。田舎のオッカサンの「野菜をとらにゃだちかんぞ」とか、電電公社の遠い故郷のオトッツァンの「息子よ元気かね」みたいな、いわゆる全く普通の方の素人としてのフィルムは別として、笛吹きとか絵描きとか指揮者などが、なんやかやと出てくるのを見ていると、お腹のどっかがかゆくなる。作曲家が豪華な車に乗っていたりしても、やはりお尻がむずむずする。同じ車でも吉永小百合さんと山村聡さんだとおちついて見ていられるのだ。  やはりコマーシャルというものはウソに決まっているという考えが頭の中にあって、役者はウソを演じるのがプロで、そのプロがウソを演じるのは真実であるから、その真実さに気持がおちつくのだろうか。自分を含めて、ウソを演じることの出来ない本物の素人が大ウソをやっているのは、誰がやっているのを見てもてれくさい。又このてれくささが視聴者の印象に残るからこそ大勢の素人が出ているのだろうけれど。  コーヒーをやっている頃は世の中実に狭くなって、恥ずかしい思いをして過ごしたけれど、その後遺症は今でも沢山残っていて、思わぬ時に赤面することがしょっちゅうだ。  去年ライプチッヒのゲヴァントハウス・オーケストラを指揮しに行って、このオーケストラとは二年ぶりだったから、最初の練習の開始の時に、おはよう、久しぶりにみなさんとの仕事なので嬉しいと言ったら、「マエストロ、カフェ、カフェ!」と叫ばれて一瞬なんのことかわからなかった。  外国は、日本とはコマーシャルのあり方が全く違っていて、正業についている人はコマーシャルなどまず絶対にやらず、もっとも共産圏にはコマーシャルなんかはないけれど、ぼくもごく正統的な指揮者であるというふうにやっていて、実は日本ではインスタントコーヒーのあれをやっていてねえ、なんてしゃべったことはない。  だが地球はいまや狭いのだ。ゲヴァントハウス・オーケストラが、つい最近日本演奏旅行をやっていたことをすっかり忘れていた。ぼくだって新しい国に着いた時、言葉のチンプンカンプンのフィンランドに行った時でさえ、退屈な時はホテルの部屋でテレビをつけて、なんとなく眺めている。彼らも日本に来てホテルにテレビがあればスイッチをひねるらしい。パリのオーケストラもそうだし、ベルリン・フィルハーモニーもウィーン・フィルハーモニーも、なにしろ世界中のオーケストラが、入れかわり立ちかわり日本に演奏旅行に来ているのだ。  あいつはすまして指揮をしているが、自分の国ではコマーシャルに出てカセイデいるのだぞ、と世界中の主なオーケストラにみんなバレてしまったではないか。かといって蔑視されたわけでは毛頭なく、逆に音楽家がああいう大きな宣伝に使われるということは、日本ではいかに音楽家が大事にされていて、即ち日本は大音楽国だなどと感心され、こそばゆい。  別の国で、これは日本に最近行っていないオーケストラだと安心していたら、休憩の時に指揮者係がコーヒーを持って来て、申し訳ありません、私共には今マックスウェルしかありません、とニヤリとされて、やはり最初はなんのことかわからなかった。世界中どこでも我々の言ういわゆるガクタイ同士の情報の速さは、電波よりも速いのではないかと思われる。  指揮者という商売をやっているぼくとしては、仕事をしている最中でも、ああ、あんなこと、つまりコマーシャルをやるんじゃなかったという後悔の連続が今でも続いている。日本のオーケストラとのリハーサルの時、「そこのところはかたい音を出して下さい。さっきのやわらかいところとの違いがわかるようにして下さい」などとうっかり言おうものなら満場爆笑になって、仕事にならないことがよくあるのだ。避けようとすればする程、一日にそんなに何度も言う言葉ではないはずなのに、まるで蟻地獄につかまった蟻のように、ずるずるとその言葉を使うはめになってしまう。  オーケストラの練習では、うっかり音をまちがえてしまう奏者がよくいる。そういうことをなくすために練習を一生懸命やるわけなのだが、百人近くの音楽家が一斉に音を出している中で誰かがまちがった音を出した場合、それを百パーセント指摘するのは、世界中に何人としかいないバケモノか、コンピューターのような耳を持った人間ならともかく、不可能なことである。  しかし、具合が悪いのは、まちがった音を出した奏者が、その瞬間に自分のまちがいに気がついて、即ち自覚することが多いことである。はっきり表情でしまったという顔をする人は、陽性の人に多いのだけれど、ほとんどの人は顔色には出さず、知らぬ顔のふりをして次にそこを演奏する時に、まちがいなくやろうと思っている。  だが中には、自分のまちがいに気がつかない人もいて、時にもっと複雑なのは、自分の意志で違う音を出しておきながら、はて、あの指揮者はオレのミスをわかっているのだろうかと、逆に指揮者の耳をテストするけしからんヤカラもいるのである。このヤカラは始末の悪いことに優秀な人が多く、こういった優秀な音楽家にこういう一種の勝負を挑まれることが多い。  常に油断がならないのだが、仕組まれた罠のようなこのテストに合格しないと、「へヘン、違いがわからないのかなあ」とせせら笑われることになるのだ。一、二回のことならお互いほほえましい関係とやらになるのだけれど、せせら笑われる回数がもし沢山だとすると、これは問題だ。ただでさえ四六時中そんな神経をつかっているところに、「違いのわかる男」をやってしまっては、これ以上の不利はなく、あれは自殺行為だったと悔やむのである。  あの「違いのわかる……」をなさった方々は、その後どういう運命を辿っていらっしゃるのだろうか。違いのわからぬ話、なんて座談会をやってこぼし合ったら、さぞやおもしろかろうと思う。  コマーシャルに出演するというのも、現代のショービジネスの一つの典型であって、当然ながらこまごまと面倒くさい契約書の交換という作業がある。もうとっくに終わってしまって契約書に縛られていた時期も過ぎたから、平気でこんなことも書けるのだが、数々の、あれをしてはならぬ、これもしてもならぬの制約事項が厳然とあった。  契約期間中の二年間と、終わってからの一年間をこの契約書で縛られるわけだが、例えば、撮影の時の内幕話を、新聞、雑誌や公の席での講演等でバラしてはならぬ、というのはしごくもっともだった。この合計三年間に、ネッスル社の販売しているインスタントコーヒーに限らず、他の全ての製品に関して、他の会社のコマーシャルに出演してはならぬ、というのも、あたりまえの話で、すんなりと理解できた。  契約書の項目を見て、なるほど業界というものは厳しいものだワイ、と感心したのは、この三年間に胃腸薬のコマーシャルに出てはならぬということだった。あっ、あの男、コーヒーを飲み過ぎて、胃を悪くしたのだな、というイメージを避けたいらしいのだ。  まるでマンガみたいにおかしい話だと思っていたが、ある時、会社側の心配は杞憂ではないというのがつくづくわかって感心した。どこかのナントカカントリークラブでゴルフをやっていた。手拭いでほおかぶりをしたキャディのおばさんが、こっちの顔をしげしげ覗き込んで、感にたえた声を出したのだ。 「アンタはん、ほんとに大変やねえ。一日中あんなにコーヒーを飲んでお腹へんにナラン?」  世の中の人の誰だって、一日に何回も出るコマーシャルは、もちろんうそごとに作られたフィルムをその度に放映しているのだと、ちゃんと知っているはずである。そこがテレビマスコミュニケーションにおける虚像と実像の混乱の恐ろしさで、このキャディのおばさんは、それを十分知っているにもかかわらず、実物のぼくを前にした時、ぼくの身体を本当に心配してくれたのだ。こういう善意の人が沢山いるに違いない以上、胃腸薬の広告をしてはならぬという契約の一項目は、実に生き生きと光ってくる。  日本の無数のコマーシャルをテレビで見ていたり、いろんな国の、それぞれのお国柄のコマーシャルを見ていると、自分があんなことをやる以前は思ってもみなかったこと、つまり、コマーシャルに出ている人々も、当然のことながら、みんな、みんな人間なのだ、コマーシャルというバケモノの手先なのではないのだ、ということがわかるようになった。 「人間みんな兄弟」。みんなが同じ人間だということがわかったこと、コマーシャルがオバケの仕業ではなかったということがわかったこと、即ち違いがないことがわかったことが、ぼくが「違いのわかる……」をやった最大の収穫だった。 [#ここから2字下げ]  は つ も の  子供の頃は、一年中はつものを食べていたような気がする。贅沢だったわけではない。日本中の人がそうだったのだ。季節が変われば新しい野菜や魚がでてきて、この間まで食べていたものは、来年まで食べられなくなって、今の今にふさわしいものだけが食卓にのぼった。秋になって初めて食べる白菜ははつものだったし、焼きいもにも季節があった。  この頃は、特殊なものを除いて、一年中なんでも手に入るし、だから、はつものを食べて喜ぶという贅沢がなくなってしまった。 「はつものを食べると、四十五日長生きする」  と言って、母は年がら年中いちいち喜んでいた。新米だってはつものだった。そういえば、最近は「古米」という字に新聞でよくおめにかかるが、新しい方にはおめにかかっていないみたいだ。  あんなにしょっちゅう四十五日ずつ寿命がふえたら、死ぬ人なんかいなくなってしまうじゃないか、と子供心に不思議だったが、その母はとうの昔にそのかいもなく、だが、はつものがなくなってしまった現代は、平均寿命がグンと延びている。|新嘗祭《にいなめさい》のたびに、新米に舌鼓をうって、四十五日の長生きの贈物に感謝しての短命というのは、なんとも豪勢な生きざまではないだろうか。 [#ここで字下げ終わり]  日本と西洋  「アイアムソーリー」と「すみません」  十年以上前のことである。ぼくの友人のオーストリア人が日本にやって来た。音楽家で、一年間東京で仕事をするためだった。  彼はウィーンでは大変によく稼ぐ売れっ子のバイオリン弾きなのだが、いわゆる「宵越しの銭は持たぬ」たぐいで、毎晩のように誰かをレストランに招待して、豪勢に飲み食いしてゴキゲンだし、それも客が一人だけというのはまれで、時には数人、十数人に|奢《おご》ってしまうのだ。自宅には年中、一人か二人の居候がいて、ぼくもその中の一人だったこともあるのだが、金がないと言えば、小遣いをくれたりして、その足で一緒に郵便局に行くと、自分のポケットは空で、ちょっとおまえ、切手代をよこせ、とくる。  寒い二月の真夜中に、ウィーンの郊外でぼくのガタボロ車がオカシクなり、エンジンをだましだましして、やっと彼の家にたどりついたことがあった。ガソリンスタンドがどこもやっていなかったからだ。彼をたたき起こす。 「そりゃ困っただろう。ストーブであたたまっていろよ」  機械いじりが好きなのだが、部屋着のまま外へ出て行って、三十分くらいかかって直してしまい、ガタガタふるえて部屋に飛び込んで来た。その間、こちらはぬくぬく火にあたっていたわけで、一時はこの男、気が変なのじゃないかと、思ったほどである。奢り癖と親切心が、はなはだし過ぎるのだ。しかしぼくは、親切とは何か、ということを、彼からずいぶん学んだ気がする。  こんなことばかりしていて、この男はいつもピーピーしていたし、奥さんも子供たちも同じタイプで、一家は豊かな火の車というのか、ウィーンでは大変だったのだ。  東京へ一年間仕事に来ることになって、条件もよいし、彼は一大決意をした。うんとケチをして、日本での稼ぎをそっくり持って帰るんだ。もうそろそろ五十歳、生まれて初めて貯金をするんだ。ぼくは東京での彼のケチに協力を約束した。親切というものである。  彼は最初、家族をウィーンに置いて一人で東京にやって来た。コペンハーゲンで待ち合わせ、彼と一緒に羽田まで飛んだのだが、日本に着いてから、彼のためにもう準備ができていたアパートに連れて行った。買い物をしたいから、つき合え、と言う。明日の朝食の仕度をしたいというのだ。着いた早々、明日くらいはどこかよそで食えばいいと言っても、貯金のためだ、パンとコーヒーが買いたいと言い張る。  そのパンが面倒くさいやつなのだった。ウィーン風のゼンメルというやつでないとだめなのだと言う。丸い、外側のかたいパンで、今ならどこでも買えるのかもしれないが、十年前である。|方々《ほうぼう》電話して、銀座のデパートの地下にあることが分って、二人で買いに行った。人さわがせな貯金である。  デパートの地下の食料品売場というのは、ぼくにもめずらしい風景で、キョロキョロ楽しんだが、やっとゼンメルを見つけた。ちょっと習って来た日本語で、自分でやりたいと、通訳を拒まれたので、勝手にやらせることにして、ぼくはニヤニヤ見ていることにした。なにしろ羽田に着いたばかりなのだから、初めて外国に行ったころの自分の困り方を、こいつにも味わわせてやろうという気持もある。 「コれ、ひーとツ、くうダさーイ」 「?」 「ひーとツでース。ひーとツ」  ゼンメルを一個だけなんて、売ったことがないのだろう。売り子さんは全然分らない。 「何で、ひとつだけ買うんだよ。せっかく来たんだから六つぐらい持って帰りなよ」とぼく。 「おれはな、朝は一個しか食べないんだ。いっぱい買ったら、あとはフヤフヤになってだめになるだろ。来る方法がわかったから、明日からひとりで来て、一個ずつ買うんだ。おれはな、ケチするのよ」 「ひーとツ、くうダさーイ」  やっと一個だけのゼンメルを買うことができた。十円だっただろうか、十五円だっただろうか。売り子さんは終始キョトンだったが、最後に手渡しながら、大きな声で、 「アイアムソーリー」  と叫び、ニコニコ笑った。  彼は飛び上がってびっくりし、一目散に出口に逃げて行った。追いついて、タクシーをひろい、彼のアパートまで走る間、やっこさん、口をきかないのだ。沈みこんでいる。やたらと悲しそうなので、行き先を変えて、どこかのホテルのバーに行った。 「おれ、ケチやめようと思うよ」  声までが小さくなっている。 「もともとゼンメル一個だけ買いに行くのは、おれの肌に合わないのは分っているんだ。だから心を鬼にして『ひーとツ、ひーとツ、くうダさーイ』と叫んでたんだぞ。本当は恥ずかしかったんだぞ。それが、あんな女の子にアイアムソーリーなんて、からかわれちゃって。おれはクサッタ。やっぱりレストランで豪勢に朝食をとることにした」 「ガイ人に何かガイコク語で言わなきゃと思って、あの子はとっさに知ってる英語を口に出したんだよ。サンキュウのつもりで何か言ったら、アイアムソーリーが出て来たんだよ。気にするなよ」  だめだった。彼は気にしてしまったのだ。貯金はやめて、ウィーンと同じ気軽で愉快な生活が始まってしまった。一カ月たって彼の家族も到着し、一年の契約がすんでウィーンに帰るころには、稼ぎは全部楽しく使ってしまって、彼は長年愛用していたバイオリンの名器を売り、そのお金で、喜望峰まわりの豪華船に乗って、一家うれしくヨーロッパに帰って行った。  彼の貯金計画をぶちこわした、デパートの売り子さんの、アイアムソーリーを、憎む。  最近、ハタと覚った。彼女は「どうもすいませーん」って言ったつもりだったのではないか。そういえば、「有難うございました」と言われるより、「スイマセーン」のほうがこのごろは多いような気がする。  先週行ったミュンヘンの日本レストランに日独会話豆辞典というのが置いてあって、Guten Morgen など簡単なのが出ている。中に、「すみませんが」Herr Ober! または Fraulein! とあってたまげた。ボーイさん! ウエイトレスさん! のことだが、「すみませんが」にはあきれた。しかし現実にぼくも含めて「すみませーん!」とたしかにみんな言っている。用がちゃんと足りるのもたしかである。 「すみませんが、ちょっとこちらに来てください」が正しい使い方だったのだろうか。もっと丁寧なのが、「おそれ入りますが……」で、「おそれ入ります」だけだと上等なサンキュウの意味であり、それに対比する「すみません」にもサンキュウの感じが出てきて、しかも同時にエクスキューズ・ミーを表わすこともでき、便利に使うようになってきたのだと、ぼくは勝手に推理する。こうやって、日本語は乱れてきたのだ。  しかし推理にあたって、サンキュウのことだとか、エクスキューズ・ミーと書くのも、われながら乱れているなあ。スイマセン。  この日本語の乱れに、絶えず抵抗して、悲憤慷慨、国を憂いて怒りの論文を発表なさる学者先生がたくさんいらっしゃる。ごもっともである。「ボーイさん!」を「すみませんが」とはナニゴトか。こんなあまりにひどいのはともかくとして、ぼくはこの乱れがどっちかというと、好きだ。言葉は生きものなのだ。古代日本語、中世日本語、現代日本語と移ってきたこれ自体、言葉の乱れの結果ではないか。  どの国の言葉にも、この流れは当然ある。ラテン系とゲルマン系と、大ざっぱに言って二つの系統がある中央ヨーロッパの言葉で、たとえば、ラテン語がイタリア、フランス、スペイン語等に分れていったのも、言葉の乱れからだと思えなくはない。いまだにガンコに独立を守っているケルト語なんていうのはケルト人が何千年も、言葉の乱れを嫌ってきたからなのか、あるいは表現欲に関して、それ以上を求めないという意味で、オンチだったのかと思ったりする。シロウトの言語学考はもうやめるが、フランスが大統領の音頭で、外来語の使用を取り締まる法律を作ったって、フランス中の英語風看板はちっとも減らないではないか。  先年ハンガリーで聞いたのだが、もともとハンガリー語には母音が十だか、十一だかいっぱいあり、今でも田舎の人はちゃんとそのとおり正しく几帳面に発音するのだが、都会の人は六つか七つの母音ですませているそうだ。つまり発音をやさしくして使っているのである。  これは万葉のころにはわが国の母音が、十近くあったらしいのが、今では五つだけになってしまい、字はあっても「い」と「ゐ」、「え」と「ゑ」なんて、われわれには発音の差の表わし方が見当つかないのに似ていて面白い。  ドイツの年配の人もよくコボす。最近の若いモンの言葉は……、というわけだ。だれもが、genau richtig と正しく最後まで言わずに、genau! と相槌を打っているとおこる。それに対して、こちらも「genau!」と言ってしまって、「あなた方外人にまで正しくないドイツ語が広まってしまった」と嘆くのだ。  genau richting は、直訳すれば「まさに、そのとおり」で、「まさに」という副詞だけで次の形容詞を略すことは、昔はなかったことなのだと、おじいさんはフンガイする。  われわれの、「ドウモ、ドウモ……」とよく似ている話で、まさに、genau なのである。日本製英語の「ナイター」が、「ナイトゲーム」しかなかったアメリカに逆輸入されて、使われているのも面白いではないか。  話はもどるが、貯金失敗のウィーン人の日本語は、一年の日本滞在中、「ひーとツ、くうダさーイ」から一歩も進歩しなかった。「ばかばかしい」とか「くるくるぱあ」とか、アヤシゲな単語ばかり増えて、日本語がしゃべれるところまでは、全然いかなかった。  三月ほど前、ベルリンにいたぼくのところに、仕事の打ち合わせのために彼がウィーンからやって来た。昔よりグーンとえらくなって、いまやあの世界の名門ウィーン・フィルハーモニーのプレジデントで、しかし親切と奢り癖は変わらず、相変わらずのピーピーらしい。ピーピーの度合いのケタは違っているが。 「昔おれが日本を離れたとき、たくさんの人にプレゼントをもらってねえ。有難いんだが、その後十年以上使ったこともないし、使いようもないのがいっぱいあるんで、そろそろ処分しようと思うんだ。これ、だれかがくれた掛軸なんだが、おまえにあのとき見せたら、スゴイ! 国宝級だ、と言ったろう。これを売りたいんだ。娘も息子も独立して住むというので、金もかかるんだ。これを売って一軒分が出れば有難いから、日本に持って行って鑑定してもらってくれよ。よい値だったらそのまま売ってきてくれ。まかせたよ」  とウィーンに帰って行った。  彼がこの掛軸をもらったとき、わりと古そうだし、ぼくには読めない達筆だったので、ヤツをよろこばせるために、まわりの仲間たちと一緒に国宝級だとデタラメを言ったのだった。  結果は出た。出る前に分っていた。先週ウィーンで、運転している彼に言ったのだ。 「一万五千円だってさ。どうする?」 「こーンチくシょう!」  彼はハンドルから手を離し、両手をあげて叫んだのだ。こういう日本語だけ、最も適切なときに、どうしてぴったり使えるんだろう。  世界に冠たる日本語数詞  日本語の数詞というのか、序数というのか、とにかく、一、二、三……や、第一、第二……という数を表わす言い方は、世界で最も簡単で、便利だと思う。  だれでも、どんな人でも、一から十まで覚えさえすれば、九十九まで言えるのだし、それから先も百とか、千とか、万とかを覚えるだけですべての数字を自動的に言うことができる。ぼくが日本人で、日本語をかれこれ四十数年間話し続けているからか。つまり、母国語であるからなのだとも思うのだが、しかし、どう考えてみても日本語の数の言い方はうまくできている。文字どおり、「第一」だ。  ドイツ語の数詞は、われわれ外国人には実に困った存在で、別にこちらが日本人だからというわけではなく、ゲルマン語系の、オランダ人やスウェーデン人やデンマーク人以外のすべての外国人に悩みの種である。  十九まではまあいい。英語と同じようなものだから。二十から先となると、いつも不愉快な思いをする。二十一は ein und zwanzig で、直訳すれば、「一と二十」ということであり、三十三は drei und dreiBig、つまり「三と三十」という具合にすすんでゆく。百七十五は ein hundert funf und siebzig で、「一つの百と五と七十」で、こんなことを書いていたら、無限大に話は続く。  たとえば、世の中二十四世紀になったとしよう。二千三百六十五年ということにする。英語でも twenty three sixty five というし、この形式はドイツ語でも同じだが、これが大変なことになるわけだ。「三と二十、五と六十」。なんでもこういうふうにひっくり返さなければならず、もう十何年もドイツのオーケストラと仕事をしていても、いまだにしょっちゅうまちがえてしまう。ドイツ語がいけないのである。  電話で番地なんかを聞くことが難しい。なんとか通りの七十六番地なんていう声が聞こえるとき、こちらはすんなりと七十六とは書けないのだ。sechs und siebzig、六と七十というふうに早口に言われてごらんなさい。手はまず六を書いてしまう。その六をまず書いて、その左に七を書くと、後で読むと七十六と読めることになる。  ところが、ドイツ人どもは生まれてこのかたこうやっているからなのだろう、六と七十と言われても、すんなり七と六と彼らは書くのだ。  古くさいオーストリアのウィーンなんかでは、ホテルで電話交換手に電話番号を告げるときもこれで、番号を言うときには、あらかじめ紙に書いておいて、読みあげるから失敗はないけれど、お留守中に○○さんから電話があって、電話をほしいということでした、番号はベラペラ……と全部さかさまに言われるとコトである。彼らはこうさかさまに言われながら、ダイヤルを順にちゃんとまわしているのだ。  こんな変な数詞の言い方をすることは、他の国の言葉、英語でもフランス語でも、ない。ドイツ人どもも、うすうすは困っているらしく、小学校の算数の時間で、あと十年もたったら zwanzig ein と、twenty one のように自然に書くように教育法を改めようという計画があることを聞いた。  英語はかなり自然に近いとは思う。しかし英語だって、十まで覚えれば全部言えるわけではない。たとえば、十一と十二の二つの数だけは絶対に覚えねばならない。こんな簡単なことまで、と言うかもしれないが、わが日本語にはイレブン、トゥエルブは必要ないのだ。十と一を知っていれば簡単なもので、十一と自然に言えるではないか。  フランス語もドイツ語よりはましのように見えるが、七十六なんかになるともういけない。「六十と十六」なのだ。なにしろ七十、八十、九十という言い方がないのだから、八十五は二十が四つと五という言い方だし、九十七は二十が四つと十と七、と言わなければならない。頭がいいからこういう言い方になったのか、オツムが悪いからこういう言い方をしているのか。  英語は相当に便利にできているとは思う。だが、さっき言った十一、十二はともかくとしても、序数はやはり日本語よりは面倒くさいのではないか。少なくとも first,second,third は覚えなければならない。日本語は第一、第二と言えばよいわけで、すなわち、「第」と「一、二、三……」さえ知っていれば全部の序数が言えるのだ。  一人、二人。三羽、四羽。五台、六台。七杯、八杯。九匹、十匹……のような、人、羽、台、杯、匹の言い方の複雑さになると、外国語をけなすのに、ちょっとヤバイのだが、この際は合理的数詞の発明に関するわが大和民族の偉大さをイバることにするので|一時《いつとき》のご猶予を。  日本語のことばかりを書いているが、もちろんすべてが中国から来たのだろうし、東洋の言葉については実は何も知らないので、少々申しわけなくも思う。はっきりとした自信は持てないが、東洋の数字の言い方すべてが、西洋よりすぐれているのではないか。  ヨーロッパ系の言葉にはない便利な数字の言い方がほかにもある。「万」だ。一万はどこの国の言葉でも十の千だ。一万五千とか、一万九千ぐらいまでは十五の千とか十九の千とかピンとくるのだが、十万を越えると本当に困るのだ。三十五万は、三百五十の千と言わねばならず、こればかりはいつまでたってもしばらく考えないと出てこない。九十九万が九百九十の千で、その後は一挙にミリオンがくる。  ミリオンはもちろん百万のことで、しかし、このことはちょっとおもしろいと思う。日本語にはミリオンというずばりの言葉がない。百の万というわけだが、百万で十分ピンと通じているわけだ。だがそのくらいの単位は、われわれはそういつも使うわけではないし、一万という単位を持っているほうがずっと合理的だとぼくは思うのだ。それなのに、である。日本の銀行とか会社の人は、なぜ ¥35,000- という書き方をするのか。  これは明らかに西洋から来た言い方で、三十五の千という意味ではないか。¥3,5000- と書くべきであるといつも思う。これでよく一桁まちがえてうろたえるのだ。千の単位に点を打ちながら、よく即座に三万五千と言えるものだと、ドイツ人のダイヤルまわしの不思議さを見るのと同じような感じもする。  西欧語には、「億」という言い方もない。  たとえば、一億四千二百七十六万円を横に書いてみよう。¥142760000  これに例の銀行マンたちのシャレた西洋的な点を入れるとこうなる。¥142,760,000  明らかに、百四十二のミリオンと、七百六十の千ということだ。¥1,4276,0000とこう入れれば、日本語として、一億で点、四千二百七十六万で点、あとはそれまでの「万」を表わすマルが四つあって、一目瞭然である。ほとんどの人たちが、One hundred forty-two million and seven hundred sixty thousand yen などと、反射的に言えるわけがないのに、点だけはこのように打てる不思議さ。きっと貿易の取引のために、涙をのんで点の打ち方を覚えたんだろう。泣けてくる。いっそのこと、「万」と、「億」という言い方を世界中に教えたほうが、世界文化に日本が貢献できるかもしれないのだ。  億の単位の話なんて、あまりにも縁がないから、身近な数字のことにしよう。  日本で、二十三円のものを買うときに百円を出したとする。この例は、億からの単位引下げが、オーバー過ぎて現実性にとぼしいが、ガマンしてもらいたい。  売り子さんは、一瞬考えて、いや、考えもしないで、「ハイ、七十七円のオツリ」と、五十円玉ひとつ、十円玉二つ、五円玉ひとつと、一円玉二つをくれるわけである。十円玉七つと一円玉七つのときもあるかもしれないが、まあいい。  なぜ、売り子さんは、パッと七十七円のおつりだとわかるのだろう。この計算には、「九九」は必要ないが、ニニンガシ、ロックゴジュウシ……といった「九九」はほとんどの外国ではないようだ。いま手元にある三省堂の新明解国語辞典という小さな辞書を見ると、  くく〔九九〕一から九までの各数を掛け合わせ・た一覧表(るときの数え方)  とある。〔数え方〕と書いてあるのが面白いが、これはつまり暗記法—丸暗記なのである。反射的に九九が出てくるようにするのが、わが国の教育なのだ。これと同様、百マイナス二十三は七十七というように、百の中の足し算、引き算も日本人は暗記させられているようだ。  これがヨーロッパ、アメリカ等のいわゆる西欧だとどうなるか。何度も言ってくどいけれど、日本以外の東洋でのことは分らないので気がひけるのだが、近く実地に、香港やバンコクで試してみる必要があると思っている。  アメリカで二十三ドルのものを買う。百ドル札を出す。最近は、百ドル札なんかを出しただけで、あやしまれてしまって、裏表をしつこく透かして見られたりして、イヤな気がするものなのだが、とにかく百ドル札を渡す。  まず、一ドル札二枚をくれて、これで二十五ドル。五ドル札はなかったから、順に一ドルを五枚出しながら、ハイ、これで二十六ドル、二十七ドル……と、三十ドルまでいく。次に二十ドル札が来る。ハイ、これで五十ドル。また二十ドルが出て来て、ハイ、七十ドル。次の二十ドルで、ハイ、九十ドル。最後に十ドル紙幣で、ハイ、百ドル。サンキュウということになる。こちらもイエスを連発するやら、うなずくやらで、相当たいへんな労働である。  このおつりの出し方は、アメリカ、カナダ、南米、オーストラリア、全ヨーロッパ……、要するに全世界の西洋人たちに共通である。バカバカしくも、まどろっこしいのだが、絶対にまちがいが起こることもない。むしろ日本の、ハイ、何十何円、という見事な暗記のほうが、計算まちがいの確率は大きいようだ。そう、人間はコンピューターではないのだから、暗記を百パーセント信頼できないはずである。  少々のろくて、イライラしても、まちがいのないほうが安心して暮らせるのか、相手の暗記を疑って、こちらも心の中で密かに暗算するほうがよいのか。国民性、民族性の違いだと片付けるのは簡単だが、それにしても日本民族の丸暗記応用生活様式は、一見能率的に見えて、とんでもないエネルギーの浪費と思えなくもない。ここで、丸暗記強制試験地獄悲劇日本論を書き出すと大変なことになるので避けるけれど、少なくともおつりの出し方は、西洋人たちの方式が、人間的でノンキ、かつ正確だと思うのだ。  以前、わが大尊敬作家、ぼくが全新作品を世界のどこにでも取り寄せて読んでいるほどにイレアゲている昭和の大文豪の井上ひさし氏が、オーストラリアに滞在なさったことがあった。ファンとしてぼくは、氏がオーストラリアについてどのような考察をなさるかと、ワクワクしていたのだが、氏は一年の予定を二、三カ月で打ち切って、|蒼惶《そうこう》として日本にお帰りになり、後は機関銃のように、なぜオーストラリアにいられなかったのかという論文を、方々に打ち出されたのだ。  氏の文をたくさん、たくさん読むことができるのはファンとして最大のよろこびではあるけれど、一つの例に、氏がオーストラリアのおつりの出し方のバカさ加減をあげていられるのを読んで、ぼくは少々悲しくなったのだ。世界中、外国はそうなのに。  文豪が日本以外の国に初めて行かれた地がオーストラリアだったのが、同国には大不幸だったのだ。井上さんが、初めて行かれた国がフランスだったら、さぞや痛快な、おフランス罵倒が読めたろうになあ、と残念だ。一、二、三の言い方の違い、考え方の相違が、どんなにか世界の平和を乱しているだろう。  ドイツ風鼻のかみ方  以前、そう、もう相当に昔の話で、かれこれ二十年近く前のことなのだが、一時、西ドイツのミュンヘンに住んでいたことがあった。  ぼくが外国というところに行きだしたごく初期のころで、ご多分にもれず、見るもの聞くもの何もかも珍しく、一日中キョロキョロ緊張して過ごし、言葉の不自由も相まって、睡眠時間をやたらと長く必要としたものだった。いつもは七時間くらい眠れば事足りていたのが、九時間か十時間は寝ないとだめだった。  ねむいというより、一日中頭がとても疲れていて、このために長時間眠らないとやっていけないのだ。ドイツ語で「ねむい」は、"mude"であり、「疲れる」も同じく"mude"と言う。「ねむい」ということだけを表わす"schlafig"はあるけれど、たいていの場合は"mude"と言っているようである。こんな言葉までも、自分の疲れ加減と朝の起きられなさ加減とから、実感として、いちいち感心したものだ。  電車に乗っていても、どこかの待合所にいても、レストランにいても、いつでもどこでも「ピイーッ」とか「プワーッ」というような、きたないバッチイ音がきこえてくる。ドイツ人どもが鼻をハンカチでかむ音だ。  男女を問わず、ポケットとかハンドバッグからハンカチをさっと取り出し、片手で派手にパッと広げ、その広げたヤツで乱暴にデカイ鼻をつかみ、もちろんこれも片手なのだが、そこでこの「ピイーッ」とか「プワーッ」を盛大にやらかし、これは一つの鼻の穴からなので、両方の鼻ヅマリでない奴はちょっと角度を変えて、もう一度「ピイーッ」とか「プワーッ」をやるのだ。それから今度は両手を使ってハンカチをまるめながら、まだこびりついている鼻汁の残りを拭うような感じで「プッ、プッ、プッ」とやり、ポケットなりハンドバッグに、まるまったきたないのを押し込んで完了である。  とにかく、一日中このひどい音にかこまれ、とくに食事時には食欲減退とまではいかなくとも、少なくともメシがまずくなる。  しばらくたって、こんなことにも慣れてきて、あまり気にしなくなったが、何ごとも郷に入れば郷に従えというわけで、こちらも時に「ピイーッ」とか「プワーッ」とやろうと思うのだが、これがなかなかむずかしい。下手にやると鼓膜が破れるおそれがある。どうしても静かにやってしまい、まわり中のフォルティシモに、どうも音が出なくてスイマセン、みたいな気になって、妙なことである。同じようなスイマセンは、ぼくには別なのもあって、もう長いこと、∃ーロッパに行くようになって以来、食べたり飲んだりするときに音をたてることを、自分に禁じてしまっているので、困るのは日本でおそば屋さんに入るときだ。そばを盛大にすすり込むことができないのだ。音をたてることのよし悪しには関係なく、こちらだけがモグモグとそばを飲み込んでいるのはなんとも恥ずかしい。  ミュンヘンに話をもどすが、ぼくが住んでいた下宿のすぐ近所に、東京から来ていたピアノの留学生の青年が二人住んでいた。一人のほうはかなりの蓄膿で、四六時中鼻をクスンクスン、クークー、グゥーッグゥーッいわせていた。  この男がある日、ヘルマン・プライだかフィッシャー・ディスカウだったか忘れたが、今晩シューベルトの「冬の旅」のリサイタルがあるから行こう、きっと当日売りもあるはずだからと、誘いに来た。今日は歌なんか聞きたい気分じゃない、ジャズのコンサートなら行くけれど、と断わって、蓄膿は一人で出かけたのだ。音楽会が終わってからぼくのところにやって来た。  どうせ酒盛りになるのだが、ちょうど留学生四人が集まり、みんなポーカーに夢中で、もうじきバクチは止めにするからそこで一人で飲んでいてくれといわれ、彼は部屋の隅でウイスキーをガブガブやっていた。  ポーカーが終わって、さて飲むことに専念しよう。鼻クスンクスンは、かなりのスピードでアルコールをまわらせ、シューベルトはどうだったねときかれても、憮然としてウイスキーのグラスに見入っている。ハハーン、きっと隣りの席のドイツ娘にチョッカイ出してフラレたんだろう。フィッシャー・ディスカウだかヘルマン・プライに心を集中しなかったからだよ、おまえバカだなあ、なんてカラカワれて、蓄膿は猛然としゃべりだした。 「横の席にデブデブのドイツじゃがいもババアが座ってやがってさ。始まって二、三曲たったら、いきなりハンドバッグからクリネックス二枚ひっぱり出して、手真似でオレに鼻をかめ、とよこしやがったんだ。とっさのことだったし、歌と歌との短い合間だったから、オレはそっと鼻をかんだんだ。それだけでも失礼きわまりないのに、ババア、もっと強くかめ、強く、強くと、手真似どころじゃない、顔真似、鼻まねをしやがるのよ。オレはハラが立って、カアーッとなって、音楽会が終わるまでシューベルトどころじゃねえや。あのじゃがいもババア。ああ、オレはドイツ人がたまんねえよ。ドイツがキライだ。ドイツなんてなくなっちゃえ!」と一気呵成にうっぷんをぶちまけたのだ。  そのときはみんなで、そうだ、そうだ、ド助のイモ! なんて叫んで、習慣の違いの腹だたしさ、自分たちのドイツ語の下手さからおこる毎日のくやしさ、悲しさへのフラストレーションをバクハツさせて、乾杯の連続をやり、まあ、ごく平凡、月並みの日本人留学生愚痴ウサバラシ大会になった。  しばらくたって、ぼくもヨーロッパ人たちの習慣になじんできて、いろいろなことが分ってきたころ、突如あのときのウサバラシ大会を思い出して、ひとり爆笑したのだった。鼻クスンクスン男の怒りもよく分るが、隣りのいもバアサンのイライラもよく理解できた。これは同情に値する。  われわれ日本人にはなんともブザマで行儀の悪い、あの「ピイーッ」とか「プワーッ」は彼らには雑音、騒音ではないのだ。少なくとも美しい音ではあるまいが、正確に言うと「ピイーッ」「プワーッ」は耳に入らない、存在しない音なのである。耳に入っても、全然気にならない音であって、だが、なくてはならない音であるらしい。鼻をかむときに「プワーッ」とやかましくやらないのは、生理的に耐えられないのだ。むしろ罪悪であり、気持悪くて気を失いかけるくらいイヤであるらしい。だからいもバアサンは、クリネックスをクスンクスンに渡してから、たのむから大きく音をたてろとやったのだろう。  こんなことがあった。ポーランドのワルシャワで仕事をして、放送のための録音だった。オーケストラの演奏を放送用のテープにとるのだが、全く同じことをするレコード録音とは少し違う。何が違うかというと、レコード録音のときは、レコードを買うお客さんが一枚のレコードを何回、何十回と聴くであろうことを前提として、テープのために録音する。だから何度でも、完璧な演奏の録音ができるまでやり直すし、時にはほんの四、五秒のところを百回も録音して、一番良いのを他の部分のテープとつなぎ合わせ、レコードによっては、一曲が何十といったこのようなつなぎ合わせででき上がっているものもある。  放送用の録音のときは、やはりパーフェクトな演奏を求められるのはもちろんだが、レコードのときよりは、どうしても楽にというか、雑になる。放送で一回か二回電波を出せば、このテープは捨てられる運命にある。レコードを作るのと同じ神経と時間をかけたら、仕事が成り立たない。まあ、日本やアメリカの放送局はこの点実に潔癖で緻密な仕事をするが、ヨーロッパ、特に共産圏の放送局の音楽の仕事は、彼らが放送とは中継であるという概念を持っているためか、わりと雑にやっているようだ。  さて、ワルシャワの放送録音のときに、演奏最中にコントラバスの誰かが、「プワーッ」とやったのだ。ぼくはびっくりして、演奏をやめてもう一度最初からやり直そうかと思ったのだが、どうせこのあとプレイバックを聴くのだし、今やっている曲の部分も、もう二回やっているのだから、三つのうちのベストを本番用にすればよいと思って指揮を続けた。  プレイバックになり、今演奏したばかりのを聴いて、やはり「プワーッ」がちゃんとマイクに入っている。他の二回の演奏テープも聴いたが、「プワーッ」の雑音こそ入っていないが、演奏自体よろしくない。「残念だな。三回目の演奏が一番いいんだけれど、ノイズが入っているから、だめだし、もう一回とり直そう」とぼく。 「どうしてですか? ノイズが入っているとは、思えませんが」  とプロデューサー。音楽の技術者の間ではノイズという言葉はもうちょっと違ったニュアンスがあり、サアーッとかザアーッという機械のどこからか発せられて、テープに入ってしまうような音のことを意味することが多いのだ。 「だって、ほら、ここのところで」  とぼくはスコアのある場所を指す。 「鼻をかむデッカイ音が入っているじゃない」 「ああ、これか。これは鼻をかむ音だからいいんです。放送に出してもなんてことはありません」  これにはタマゲタ。これは一九六二年のワルシャワの放送局のことで、いくらなんでも現在は彼らもこう無神経ではあるまいし、レコードの録音だったら当時でもこんなことはありえない。しかし「鼻をかむ音だからいいんです」は、ヨーロッパで仕事を始めたばかりのぼくには、強烈な印象だった。西洋人とはこういうものなのか。  あまりよいたとえが出てこないのだが、彼らにとっては、鼻をかむ動作が、わが国の歌舞伎の役者で、「プワーッ」は|黒子《くろこ》なのではないかと思うのだ。文楽にたとえてもよい。初めて見る人にとって、人形を見るためには人形遣いが邪魔になる。しかし両者が揃わなければ文楽は存在しない。鼻をかむのもしかり。動作プラス「プワーッ」で完成するのだ。  そのくせ彼らは、鼻をススル音に極度に敏感だ。鼻をススルだけではなく、どんな、いかようなる「ススリ」の音でも嫌悪する。洋の東西どっちもどっちと言ってよいのだが、日本人は一歩国外に出たら、スープをズルズルとやったり、コーヒーや紅茶をススルのを禁止して、違反者は死刑にする、くらいの法律を日本国は作るべきである。イルカさわぎにしても、世界中の日本経済フクロダタキにしても、根は日本人のスープズルズルからきているんじゃあないかと、思う。本当にあれは日本にとってソンだ。  ミュンヘンのいもバアサンは、音楽会の隣りの若い日本の男の、音なしの鼻かみに気が狂いそうになり、それよりだいいち、彼の絶え間のない蓄膿ススリに、それこそ生きた心地がしなかっただろう。  この情景は、何度思い出しても笑ってしまうのだが、鼻をかまされてプリプリ怒って帰ってきた彼も気の毒だったが、バアサンのほうはもっと苦痛だったろう。横で絶えず鼻をススられ、おまけに鼻をかむときは音を出してくれない。これは往復ビンタだ。可哀そうに。  ミュンヘンに住んでいたのは半年だけだったが、若いドイツ人の役者のグループと知り合って、滞在中よい友人たちだった。彼らにこの話をしたら、みんなころげまわって笑った。  しかし彼らが話すところでは、ドイツでも本当は人前での「プワーッ」は行儀のよいこととはされていないというのだ。ポーランドはどうか知らないが、ちゃんとした音楽会の演奏中に客席から「ピイーッ」はきこえてこないはずだと言うのだ。日本でも鼻をススルのはよくないし、スープのズルズルだって、やはりひどいことなのだ。茶の湯の席やざるそばは別として。  洋の東西、いろいろに善悪や好き嫌いが正反対のものが多くあるようにみえて、結局、本質的には、どうせ人間のすることだ、そんなに違いは大きくないのではないか。少なくとも、他人に不快感を与えないことに関しては。  日本一の山  ジェット機の速度が少し落ちたなあ、と気がついてしばらくして、ベルト着用のサインが出る。そのころは、高度は明瞭に下がっていて、だが、禁煙のサインまで、まだ十分位あるだろう。たばこに火をつけて、じっと窓の外を見る。  雲はまだかなり下のほうで、一面にぶ厚く広がっている。あれは、三千メートルくらいの高さの雲だろう。雲のじゅうたんまで、あと二千メートルほどだろうから、機の高度は、まだ少なくとも五千はあるはずだ。羽田まで二十五分くらいだろうか。雲のじゅうたんとは、うまいことを言ったものだ。  去年は、日本を七回出入りして、その他にも、アメリカやヨーロッパやオーストラリア間を何度も飛びまわったから、相当な時間を飛んでいる。一国内を動くときは、それぞれの国の国内線で飛ぶのだし、日本の中だって、東京—札幌を何回往復しただろうか。飛行時間は片道約一時間と十分だし、福岡にも行った。大阪にも数度飛んでいる。国の内外の全部をごく大ざっぱに合計して、三百時間は飛んだと思う。  こんなことを十七年間やっている。日本の出入りを、あるときは十五回なんてバカげたことをやった年もあったし、四回だけというシーズンもあった。少なく見つもっても、五千時間、もしかしたら六千時間以上、飛行機に乗っているかもしれない。パイロットだったら、ベテランだ。  飛行機の操縦は、ほんの少しだけ習いかけたことがあるが、お話にならないほどのちょっとのことで、それこそ三日坊主だった。だが、これだけ沢山の時間を乗客として飛んでいるから、日本に近づいたときなんか、どのルートで羽田に向かうのかとか、どれくらい高度を下げたか、なんてことが、だいたいわかるようになった。右の外側のエンジンが不調だなとか、ああやっぱり、あれを止めて三発で飛行しているな、というようなことが分ってしまうのは、少々困ったことである。あんなことに気がつかないほうが、客としては、飛行を楽しめるというものだ。  だんだんと雲のじゅうたんに近づく。近くなるとじゅうたんの目が粗くなって来て、海、それも大波の連続のように見えて来るが、やはりのどかで、なごやかそうにモクモク、フワフワしている。もうあと三、四百メートル降りたら雲の海の中に突入というころ、はるか遠くの、白い海の中にポツンと黒い島が見える。  富士山だ。  このポツンを見つける瞬間が、ぼくはとても好きである。また日本に帰って来たなあという実感がある。  長いこと待機していた、ぼくの頭の中のテープレコーダーがまわり出す。  ※[#歌記号]あーたまあをくうもをのー、うーえにだあしいー……、ふーじはにいーっぽんいーちのーやあまー  このテープは、まわり出すと、エンドレステープのように、二、三時間、演奏をくり返すのだ。つまり、羽田に降りて、パスポートやら、税関やらを通り、迎えの者と会ったり、都心に着いて、仕事の打ち合わせをやっている間も、頭の中で誰かが「富士の山」の歌を、何度も何度も歌い続けてくれるのだ。これには、毎度、閉口する。 『日本てやっぱりいいですね。生まれた国ですもの』というコマーシャルを、最近見る。週刊誌の見開き広告で、大蔵省だか銀行だかの宣伝だと思うが。  あの広告を見るたびに、ムカッ腹を立てる。  |生まれたから《ヽヽヽヽヽヽ》、いい国だと? テヤンデエ。あまったれるのも、いいかげんにしろ。バカ。ぼくはそのたびに叫ぶのだ。  だが、ぼくにもちょっとヨワイところがあって、頭の中の、「※[#歌記号]富士は日本一の山」のテープ演奏開始は、まごうかたなき、『日本てやっぱりいいですね。富士山が……』なのだ。 「※[#歌記号]ふーじはにいーっぽん……」が鳴り出すのは、勿論、ぼくにとって一種の条件反射に違いない。この条件反射は、状況に関して非常に厳格なところがあって、外国から日本に飛んで来て、雲の上にポッカリの富士のときにだけ起こるのだ。  札幌や大阪から、東京に帰って来るときには、同じものを見ても、条件反射が起きない。東京にいるとき、天気が良くてスモッグがない日、遠くにくっきり富士が見えることがある。もともとぼくは、富士山を人並みはずれて好きなタチなのかもしれないが、こんなとき、相当長い間ポケーッと見惚れるし、新幹線で大阪に行くときも、箱根をくぐり抜けた後は、右ばかりを見ている。雲が低く裾野のゆるいスロープだけしか見えなくても、大喜びである。だがこのようなときには、頭の中のテープは、音を出さない。外国から日本に着く直前にだけ鳴り出すのは、どういったわけなのだろうか。  韓国や、中国、香港、フィリピン等の国からのは別にして、遠い外国から日本に飛んで来る飛行機の多くは、午前中か、まだ多少は明るい夕方に、日本に到着するようである。少なくとも、ぼくがよく利用するのは、みんなそうだ。  アメリカからは朝か夕方、ヨーロッパからの北極経由は、夕方の五時ごろ、モスクワ経由は午前十一時前後、オーストラリアのシドニーからの直行便は、朝七時ごろ、というように。ジェットを送り出す国の出発時刻や、地球の裏側に到着するときの、共に都合のよい時間を考えると、日に何本も別の航空会社のが飛んでいても、同じ時間帯に、ほぼ同時に飛ぶことになるらしい。とにかく、日本到着がまっくらな時間の便が少ないのは、「※[#歌記号]富士は日本一の山」のぼくにはうれしいことである。  どこからの便のときに、どちら側の座席に座るかということは大事なことである。  北極回りの場合。  日本に近づいてからは、三陸沖を真っ直ぐ南へ下りて、銚子の上をかすめ、房総半島の南端を右にカーブすることが多いから、座席は左側のを、ヨーロッパで確保する必要がある。夕方に着く便なので、夕日を背にした富士が美しい。  モスクワ経由の場合。  日本海を渡って新潟あたりの上を通り、そのまま真っ直ぐ東京に向かうことが多く、だから右側の座席がよろしい。たまに銚子まわりをやられると、反対側になってしまって、泣きべそをかかなければならないが。  アメリカからの場合。  これは簡単である。昔のB29の来襲ではないのだから、伊豆半島南端から本土に近づくわけではない。まず間違いなく干葉からだから、左側が富士見席である。  シドニーからの場合。 「※[#歌記号]ふーじは……」としては、この便が最高である。朝の七時に到着するのだ。しかも東海道の南を北上するから、左側が良く、朝日に照らされる霊峰富士を、最も良い条件で、最も長時間、拝むことができる。  ワァー言っちゃった。「オガム」って書いちゃった。やっぱりぼくは、富士山を拝んでいるのだろうか。『日本てやっぱりいいですね。富士山が……』  ヨーロッパからの南回りの場合……。  もういいかげんにしよう。しかし成田が開港したらどうなるだろう。富士が見えるだろうか。心配だ。  ぼくがうれしく、ありがたくオガんでしまう富士山は、雲の海にポツリ頭を覗かせていなければならない。天気の良いときは、勿論山全部が見えて素敵だが、少しばかり、ありがた味がうすくなる。最悪は、何も見えないときだ。雲の海の表面の高度が、三七七六メートル以上の場合である。こちらは五千メートルくらいなのだ。見えるわけがない。しかもこういうときの雲は、イジワルで、地上近くまでたれこめていることが多く、雲をモグリ終えたら、富士山の八合目から下が見えた、というわけにはいかない。  こんな場合でも、ぼくの頭の中のテープはまわり出すことがある。まさに心眼だ。ジェット機の減速による震動の具合で、機の大よその位置が分り、したがって富士山の方向をちゃんとつかんでしまう。  話は違うが、ぼくにはもうひとつの、条件反射的、頭の中のテープメロディがある。  ぼくの入る風呂は、もう長いこと、西洋式バスだけである。日本に帰ってもホテルのバスだけ、別にまあ、どうってことはない。だが、温泉にあこがれる。まわりを岩でかこまれ、泳げるほどのたっぷりしたお湯にドップリつかって……、と夢にまで見る。  この夢は、ちょうど良い方面に、国内演奏旅行がないかぎり、地理的にも時間的にも不可能で、東京近辺では、たまにゴルフをやった後の大きな風呂でだけ、ドップリがかなえられる。人が多くて、泳げないのが残念だが、頭を洗ったり、背中を流したり、お湯の中で放心状態になっている、さまざまな男たちを眺めていると、必ず頭の中のテープレコーダーがまわり出す。テープは別のヤツで、  ※[#歌記号]……今日もガッコへ行けるのは、兵隊さんのおかげです。お国のために……兵隊さんよありがとう。  子供のころ、この歌をうたいながら、ありがとうなんて、別に思わなかったけれど、なぜか、兵隊さんはかわいそうだなあと、さびしい気がしたものだ。  経済戦争の真っただ中、いくさのあい間に、朝早くゴルフ場にかけつけ、ワンラウンドハーフとかツウラウンドを張り切っちゃって、今湯ぶねの中で目をとじている兵隊さんたち……。  他にぼくにはもう、条件反射のメロディはないのだが、マーラーとかストラヴィンスキーなんていう上等音楽をなりわいにしているプロにしては、「富士の山」と「兵隊さんよありがとう」は、少しばかりアドケナさ過ぎるのではないかと、誰にきこえるわけでもないが、ちょっぴり気恥ずかしい。しかし、それにしても古い歌が出て来るものだ。いや、こちらが古くなった、ということか。  今まで、アフリカを除くほとんどの国の上を飛んで、着陸前にはっきりと姿を見せる、それぞれの国の顔を、ずいぶん沢山見て来た。北の、氷に被われたきびしい顔。南の、一年中ギラギラ大笑いをしているみたいな、熱帯の顔。  一度、ニューデリーからモスクワに飛んで、途中タシュケントに寄って給油したが、あのときに見た、地図でいうとヒマラヤの左横あたりのはてしない高原地帯は、見渡すかぎり地平線まで赤茶けていて、火星に近づくときはきっとこうなのだろうと思ったのだった。アメリカのネヴァダの上もすさまじく、どちらも荒涼として、昔の三蔵法師と孫悟空たちや、百年ほど以前にしても、西部のガンマンたちの辛抱強さには、あきれる。シルクロードに沿って飛んだら、どんなにすごいだろう。  ヨーロッパは、さすがに長い時間をかけて、人間が住みこなしてきた感じがたしかにあって、かなり親しめる顔をしている。だが、えんえんと続く針葉樹の森など、人間の安易な生き方を、今でも拒否しているようで、ワーグナーのオペラの古代ゲルマンの伝説の血みどろの世界を、うかがい見る思いがする。  上空から見下ろす豊葦原瑞穂の国は、古代日本の天孫降臨はやはり本当のことで、彼らは上から見下ろして、住む場所を決めたのではないだろうか。温和だ。国中、島中が微笑んでいる。下界で誰も彼もが、微笑の生活をおくっているわけではないにしても。 「やっぱりいいですね。生まれた国……」と言うことのできない人々が、世界中にどんなに沢山いることだろう。インドの飢餓、ビアフラの惨事。だから、こういう言い方は、あまりに勝手過ぎる。しかし、上空から見る日本は、心のどこかに、「生まれた国……」を思わせる。ぼくが日本人であり過ぎるのだろうか。  富士山が見えてくる。※[#歌記号]ふーじはにいーっぽん……が、鳴り出す。  日本の温泉こそわが憧れ  一年中、温泉に憧れている。恋いこがれていると言ってもいい。外国にいるとき、あと二カ月で日本だ、羽田なり、成田から直行して、どこかの温泉に行こう、なんていつも胸をワクワクさせている。しかし、飛行場から温泉へ直行というのは、常に不可能で、なにしろ日本に着いた途端スケジュールが全部決まっていて、温泉に行くなんてとんでもないのだ。だから、日本にいる間も、結局温泉に行けなくて、四六時中憧れているだけである。  温泉そのものは、世界中どこにでもあって、そのつもりなら温泉に行くという行為自体は達成できるのだけれども、温泉だけは日本のでなくてはならない。  外国の温泉というのは、たいてい、その土地で湧き出ている硬泉水を使った保養所、療養所といった趣きで、したがって温泉に入るやり方だってちゃんとしたコースが決まっている。  二週間とか、一カ月なんていうコースで、朝早く起きて体操をさせられ、ぬるい温泉に三十分間つかり、そのまま午前中は温泉から出る湯気を吸いながら横になり、ときどき看護婦がもってくるまずい温泉の水をクスリのように飲み、すべての食事は食餌療法として病院側にコントロールされ、食事の後は昼寝、その後は二時間強制的に近所の山を散歩させられ……体のためによいのは分っているが、そういう所には行く気にならないのである。もちろん日本にもこういう所はたくさんあるそうで、温泉療養所として有名なのだろうが、そんな所はいやなのだ。  ぼくの思う温泉とは、二泊三日くらいのがいい。山奥のひなびた駅に着き、駅前は静かで、旗を持った旅館の番頭どもが大声をあげて、汽車から降りて来る客の奪い合いをしているような風景はなく、かといって、何もない本当の山奥の村でもなく、映画館が二つほどあり、その気になればパチンコ屋だって二、三軒はあって、静かな町なのだから、軍艦マーチなんかをガンガンやっているような感じでなく、駅前には数台のタクシーがノンキに待っている——。  と、こんなことをくどくど書いてもきりがないので、温泉そのものにつかることにしよう。まわり中が岩だらけでなければならない。こんこんと湯が湧いている中に身を浸すと、湯が静かに岩の隙間からあふれでて、湯の深さは腰をおろすとあごまであるくらいの、かなり深めがよろしく、広さは平泳ぎの二かきもできるくらいがいい。  よく東北のひなびた所の混浴の温泉を捜して歩く粋な人がいるが、ぼくにはあたりに男女とも、誰も人がいないのが好ましい。湯につかって目をつぶり、何分かして戸が開く音がして、誰かが来たのだろうが、湯煙で顔は見えず、面倒くさいあいさつの必要はないし、それぞれがミルク色の湯気につつまれて自分の世界を静かに守っている、そういった温泉に行きたい。  ところがこういった町や温泉は、めったにないのだし、二泊三日という適当な長さを楽しむにも、時間がなさすぎる。東京から新幹線で熱海や湯河原にすっとんで行って、日帰りとは言わないまでも、一泊五浴なんてことをやって、翌朝は新幹線で東京、みたいなのはいやだ。したがって、心の中の温泉を大事にするあまり、何年も温泉に行けないでいる。  必ずしも温泉でなくてはならないということではないかもしれない。ぼくの体の皮膚全体が憧れているのは、どっぷり湯にあごまでつかること、なのかもしれない。もう二十年以上も西洋風バスだけの生活になってしまったが、普段それで不満に思っているわけではなく、でもときどきあごまでどっぷりのあこがれがぼくを襲うのだ。  西洋風バスだってあごまでどっぷりやっている。しかしあごまでどっぷりという意味は、あくまで体が地球に対して垂直の状態でなければならない。アルキメデスの原理ではないが、湯の中でちょっと軽くなった自分の重みをお尻が意識して受けとめ、顔は心もち上向けにしてときどき気持よげに溜息をする。これが、わが日本人のフロ感覚ではないだろうか。  西洋バスの中で体を洗って、そのまま出てきて体をふくということに、ぼくは別に抵抗感を持ってはいないのだが、今書いた垂直重力問題とは別に、ぼくは西洋バスへの不満は、あれにつかって横になっている間中やることが、というより目に入ってくるもののすべてが、もっぱらオチンチンだということなのだ。  西洋風バスルームは、機能としては確かに便利にできているけれど、虚空を見つめて詩的感慨にふけるという感じではない。やはり垂直に限る。日本の風呂にあごまでどっぷりつかりながら、一生懸命深い湯の中のイチモツを見ている男を見たことがない。女のことは知らないが、みな、心もち顔を上に向け満足気に、しかも哲学的ではないか。  何年か前、N響と北海道に演奏旅行に行き、二週間くらいの間に、北海道のほとんどすべての主な町を訪問したことがあった。なんという町だったか今名前を思い出さないのだが、有名な温泉町に泊まることになって、前の晩からさあ温泉だ、温泉だと大騒ぎをして、憧れの温泉に朝早く着いたのだった。  着いた途端アシスタントの指揮者と、浴場に直行した。岩の間に湯煙が静かに、といったぼくの理想とはちょっと違い、まるで体育館のような広さに、小さなプールが何十と点在するような感じで、その湯の質と温度が一つ一つ違っていて、熱いのやら、ぬるいのやら、濁っているのやら、しょっぱいのやらとさまざまで、せっかく来たのだから全部の種類の湯につかろうじゃないかと、あっちにドブン、こっちにジャブンとかけまわったのだ。  時間のせいか、何十というプールのような湯ぶねがあるのに、誰も人がいなかった。女湯というのもあって、三つか四つの違うプールが別にあるのだが、垣根みたいのはとっくにとっぱらわれて、後で聞くと、ウーマンリブじゃないが、男湯が十五、女湯が四つというのは差別であるというわけで、いつも女の人たちが垣根を越えて広々とした男湯のほうに進出するのだそうだ。  二十全部の湯に入る願をたて、ドボンだけでは意味がないから、せめて三十秒くらいはつかろうじゃないか、とあちこちわたり歩いていた。どれもがプールみたいに大きいのだし、人もいないのだから泳ぐこともできた。  ぼくの憧れの温泉が、岩に囲まれて湯気しっとり、といういわば静だとすると、ここの東洋一と称する大浴場は動で、本当の意味でのぼくの趣味には合わないのだが、これはこれでおもしろい。十八くらいの湯をめぐり、クタクタになって湯ぶねに二人で腰をかけた。驚いたことに側に人が静かに座っていた。  なにしろこちらはアシスタントの青年と人なきを幸い、バシャンバシャン騒ぎまわり、行儀もマナーもあったものではなかったのだから、いたく恐縮した。というよりヘトヘトになっていて、湯ぶねにペタリと座ってハアハアしていた。あまりに恥ずかしくて、失礼しましたと言う元気もなく、うなだれていたわけである。  しばらくして、この人、かなり年配の日焼けしたお百姓さんのようだったが、声をかけてきた。 「いづもでれびで」 「ハ?」  もう一度同じことを言った。 「いづもでれびで……」 「ああ、ハア、ハア、ハア、いや、あのう、どうも、どうも失礼しました」  ぼくはあわてふためき、考えてみるとこの人は、ぼくたちが騒ぎ始めたころから、ずっと座っていたのかもしれない。大の男二人がフリチンでキャッキャ騒ぎながら湯から湯へ飛びはねていたのを、この人は、ああ、あれはいづもでれびで見でいるやづだべと、ずうっと思っていたに違いない。  それ以来大温泉とか、こういった動の温泉には、たまたま旅行中に通りかかったようなときでも行く気がしなくなった。多少とも人に知られる商売をしていると、ときにこう猛烈恥ずかしいことになってしまい、わが職業をのろうのだ。それに、やはり温泉は静に限るものだ。こちらが悪いのだ。静の温泉に静かに浸り、あごから上は彼方の虚空を見上げて哲学的雰囲気の最中、岩の間の湯煙の中から静かに、いづもでれびでと語りかけられたら、さぞや趣きもあったろうに。  たっぷりの湯にどっぷりつかる嬉しさは、最近、ゴルフのおかげでときどきあじわえるようになった。ゴルフについては、ちょっと以前まで、憎みに憎み、軽蔑し、亡国の輩どもめと罵倒の限りをつくしていたのだが、恥ずかしいことに、これも世の中のたいていの人がそうであるように、あれは食わず嫌いからの大誤解だったとかなんとか言って、自分の言動はケロリ、必死になってゴルフをやる時間を捜している。  外国ではゴルフの後、ロッカールームの横についているシャワーを浴びる。たいていの所は天井からシャワーの蛇口というのか、あの大きなひまわりが十くらい並んでぶら下がっている。シャワーとシャワーの間に境界のようなものはまずない。トイレの大だって隣りの人と顔を見ながら、しゃべりながらというのもスポーツ関係の場所には多く、アッケラカンとしたものだ。女性のロッカールームには大統領だって入れないから、知る由もないが、やはりケロッとしたものらしい。  ロッカールームで服を脱ぐ。パンツも何もかも脱ぐ。みんなそのままシャワーの所まで堂々と歩いて行くのだ。大コンペティションが終わった後、はだかの大男たちがノッシノッシと歩きまわっているのは、壮大な眺めである。  もちろんぼくもシャワーに行く。子供のときから、ほとんどオフロ屋さんに行くチャンスがなかったので、自然に前を隠しながら歩くという習慣がなく、ぼくは大手を振ってフリチンで歩いて行くのに平気なのだが、日本から来た日本紳士といっしょに遊ぶときなぞはちょっとした|見物《みもの》だ。  全部の人が大手を振って、ブラブラを恥ずかしむといった雰囲気が一つもないところに、一人の日本紳士が恥ずかしそうに両手で前を押さえて歩くと、これは実にワイセツに見える。バスタオルはシャワーの所にあるし、最初から手拭を持ってゆくわけではないし、両手でまるでじかに掴むように小走りに行ってしまう。  満座で一人だけ手拭で前を押さえたとしてもワイセツだろうけれど、両手で掴むように押さえながら歩くということは、必然的に前屈みの姿勢になる。声をあげて笑いたいくらいにおかしい格好なのだが、日本紳士は必死だ。それにまわりじゅうの外人たちも一瞬不審な顔にはなるが、笑うような非礼はしない。  日本のゴルフ場のフロは実にゴキゲンだ。ゴルフをやること、フロに入ること、ビールを飲むことが喜びの三大行事だと思うのだが、まわりじゅうがみんな手拭で前を隠している中で、自分だけがブランブランというのも恥ずかしく、だが、自分のを隠すという動作そのものにも自分自身なにかワイセツな気がしてこれも恥ずかしく、二重の恥ずかしさに耐え、憧れのあごまでどっぷりの幸福に浸るのだ。  ゴルフに夢中の紳士たちはタテ、ヨコ等の結果で頭がいっぱいらしく、はだか同士のときに、いづもでれびで……と言われたこともなく、この点も実に気楽にあごまでどっぷりを楽しめる。  オマル、トイレ、そして紙  子供のころ、ぼくはどんな紙でお尻をふいていたのだろう。記憶はあいまいで、もの心つく前のことはともかく、自分一人で便所の大に行けるようになって、つまり、自分でお尻をふけるようになったころのことを一生懸命思い出そうとするのだが、どうもだめなのだ。  そのころの日本の一般の家庭の大便所は、しゃがんだ右の前の角に、箱やら竹かごみたいなのが置いてあり、その中に紙が三、四センチくらいの高さに積んであったような気がする。どこの家に行っても右角で、これはやはり左ぎっちょが少ないということなのだろうか。  オマルにまたがって、母にふいてもらっていたころの紙はちゃんと覚えている。白くてやたらに柔らかく、どうも頼りなげで、すぐにすきとおってしまい、指までしみるのじゃないかと気が気でなかったのを覚えている。へんなことを考えたガキだったのだな。紙のせいでか、最後の最後まで完全にふいてくれてないような気がして、いつも欲求不満だった。  そうだ、だんだん思い出してきた。  自分でふけるようになったころ、便所の右角の白くて柔らかい上等のちり紙を、ぼくは拒否したのだった。つかみがいのある、ふきがいのある、安いやつをほしがったのだ。大人どもは閉口した。だからぼくの家の便所には右角に上等紙のかご、左角に下等紙の箱があったはずである。それからの習慣で、今でも紙を取るときに左の手でやってしまう。  ぼくの紙は、厚手の灰色っぽいゴワゴワしたやつで、片面がザラザラで、もむときに明るい大きな音がでた。いっぺんに五、六枚は重ねないといやだったので、たいそうもみがいがあった。そのザラザラ、ゴワゴワでオマル時代の欲求不満を解消したのだから、いつもこすり過ぎで血がでるのだった。長年、痔との共存を続けているが、原因はあのころに違いない。  昭和ひと桁生まれが、やっとお尻を自分でふけるようになったころの話だから、水洗便所というものを子供のときに使った覚えはない。もしあったとしても、デパートとかどっかの公共物の便所で小をしたときだろう。今でも同じようなのがどこにもあるけれど、みんなが壁みたいなのに並んで小をひっかけ、突然上のほうでガーと音がして、目の前の横に取り付けてある管からシャッーと水が吹き出し、壁一面にシャワーを浴びせ、そのとばっちりがかからないように飛びのく、という水洗便所で、大のほうの水洗の記憶は全くない。きっとよそでは大なんかしなかったのだろう。  しょっちゅう病気をしては入院、という生活が多かった割りには、病院の便所の覚えもない。入院中の寝たっきりのときには、あお向けオマルだったのだろうし、元気になって退院間際のときでも、検査のため、病室の中でオマルに座らされていたに違いない。  引っ越しも多く、小学校が終わるまでに四回家を替わってたが、どの家の便所もなつかしい。もちろんみんな汲取り式で、小はともかく、よその家で絶対大をしたくなかったのは、よその臭いがしたからなのだろう。自分の家族だけのなつかしい特定の便所の臭いというものは、確かに存在するのだ。  汲取り屋さんがなかなか来なくて溜まりに溜まったときは、落下点がかなり近くにあって、表面の模様などいつまで見ていても飽きなかった。あそこはとても暗いのだからよく見えなくて、それが生々しさを少しやわらげ、汲取り口の蓋の隙間から光がもれて、しゃれたスポットライトになり、脚光をあびて月の表面の山々の間に白い蛆虫がうごめいていたりするのを、飽きずに見ていたものだ。すべて痔に悪いことをやっていたことになる。  汲取りたての、壼の底まで見えるようになったときもおもしろかった。新世界の誕生のような新鮮な趣きもあり、|矛《ほこ》の先からポトリ、ポトリの国生み物語、古事記の復習のようで、着地場所はかなり下のほうへ行ってしまうから、落下の時間もずいぶん長くなり、戦争ゴッコの盛んな時代だから、爆弾投下ゴッコでもあった。孤独な遊びだけれども。いつも同じ所を爆撃するのはつまらないから、爆弾の出所をときどきずらす必要がある。ずらし過ぎると横にくっついてしまって、後で怒られるから、やはりこれは高度なゲームだった。  あるとき、仕事に熱心な汲取り屋さんの後だったのだろう。ぼくの飛行機は成層圏の高空からの爆撃をした。爆弾がたくさんなくても爆撃に励んだのだが、成層圏からのは格別だ。爆弾の着地を熱心に見届けていた時、まるでスローモーションのように下界から弾丸が一発のぼってきて、ぼくの鼻先にあたったのだ。細めの長いコップで水割りなんかを飲み、コップを立て直した瞬間チャポンと鼻先が濡れることがあるが、もののはずみはすごい。一つの水滴があんなに上にまではねあがるのだから。  アワアワとあわてたがもう遅い。顔を洗いに駆け出したいのだが、お尻もふかねばならない。だがまず鼻をふきたい。ごく小さい茶色の水滴だったのだろうが、なにしろ鼻の頭だ。その後一度もこういう経験がないので較べられないが、こんな強烈な臭いには以後お目にかかっていない。瞬間考えた。ぼく専用のゴワゴワ紙では鼻の頭がむけてしまうだろう。でもむけてしまうほど強烈にふきたいのだ。右角の大人用の柔らかいので何十回もふいた。爆弾口はもちろんいつものゴワゴワのやつでだ。  飛び出して洗面所に駆け込んだ。ここでも考えた。手を先に洗うべきだろうか、それとも鼻か。手をまず洗い、鼻のてっぺんを洗い、最後にもう一度手を洗えばよいのだと思いついた。手のほうは簡単だが鼻の先だけ洗うのは大変にむずかしい。何十回ふいたといっても、顔全体をまず洗うとすると、鼻の頭にまだごく微量こびりついているかもしれないのが顔全体に広がって、今の言葉で言えば地域全体の汚染になってしまう。  汲取り屋さんが行ってしまった直後、長いこと大の中に入っていて、それから何分か洗面台の前で静かに鼻の頭を洗っていたのだ。異常だったに違いない。母がやって来て、 「なにしてるのよ」ときた。 「———」  こんなこと人に言えるものか。翌日、鼻の頭が赤くはれた。酸だかアルカリだか知らないが、爆撃への反撃は強力だった。  敗戦直後はちり紙など手に入らなくて、ぼくの家の便所には、新聞紙だけが置いてあった。右角の場所は同じでも、中身は十五センチ角に切った新聞紙が五、六センチ重なったのがかごの中にあった。日本中がそうだったのだろう。  今ふと心配になったのだが、新聞の印刷はすごくインキがおちやすく、三種類くらいの新聞に目を通すと手がまっ黒になるではないか。世の中の新聞、どれも同じである。今でさえそうなのだから、戦後の国全体の大貧乏時代の印刷は、もっとひどいものだったに違いなく、あのころの日本人はみんな黒いお尻をしていたに違いない。  紙の質は今よりお尻にむいていたと思う。悪かったからこそよかっただろうということだ。最近実験をしたことがないからわからないが、今のは紙がちゃんとし過ぎていて、もみにくいような気がする。日曜版のピカピカ光った色刷りの新聞なんかではエライことになる。新聞は時代とともに歩んでいて、現在、トイレット・ペーパーの代わりをする気はないらしい。  何年か前、モスクワで音楽会があり、時間的に余裕があったので契約より一日早く行った。出迎えのロシア人通訳氏は、困った顔をしていて、ちょうどなにかの世界大会の最中なので、明日からのホテルはちゃんとしたのが予約してあるけれど、今日だけは一流ホテルの部屋がとれないので、我慢してくださいと言う。ちっともかまわない。こっちの都合で早く来たのだから、どこででも寝られるだけでいいと、こちらは上機嫌だ。  飛行場を出て、車はモスクワの街の真ん中を走り、ぼくの知っている一流ホテルの前をどんどん通り過ぎる。知っている限りの二流、三流のホテルの前もどんどん行ってしまう。やがて行ったこともないゴミゴミした一帯に入って、ガタガタのひどい建物の前に止まった。  ナントカホテルぐらいのロシア文字はぼくにも読めるはずなのだが、何も書いてない。ぼくの不審な顔を察してか、通訳氏は、これは全国のコルホーズの同志たちがモスクワに上京したときに泊まる宿泊設備で、もちろんロシアホテルのように一流ではありませんが、一晩だけ寝るには十分なはずですと言う。  中に入って驚いた。受付はあったが、ロビーとは言い難い玄関の前の木の裸椅子は、人種の|坩堝《るつぼ》で、モンゴール系、コーカサス系と世界中で共通の日焼けしたお百姓さんの顔、また顔なのである。みんな夢に見たモスクワへ着いたばかり、互いにキョロキョロ目を輝かせて、ナルホド、花の都モスクワには見たことのネエ人種もイルダベ、とこちらの一挙一動を見ている。ソ連の農協さんのまっただ中にとび込んだのだ。  受付の横に大きな荷物預け所があり、トランクを部屋に持って行ってはいけないと言う。二十人一部屋だとかで、みんなが荷物を持って入ると、都見物同士の盗難などが起こるかららしい。通訳氏の奮闘で、こちらは持って行けることになり、部屋も個室になった。といっても、要するに、十八の不要なベッドをとっぱらって、本来なら二十人収容のでかい部屋に、ポツンとベッドが二つ残されていたのだ。  確か十月だったが、もうかなりの雪で、ガランとした大部屋の隅に小さなスチームがあるだけで、このスチームはさわるとひんやりしていて、つまり、暖房というものがなにもないのだ。別の部屋では各地からのコルホーズ農協さんたち、二十人が部屋のまん中に輪をつくってかたまり、ウォツカをキューッとやって暖をとっているのだろう。  こちらの問題は、一晩だけにせよ、この寒さをどうやってしのぐか、である。雪まじりのすきま風がピューピュー入ってくる窓際にあった二つのべッドを、カミさんと窓からいちばん遠い所まで引きずって行く。もっともこれは簡単だ。今までに見たベッドの中でいちばん粗末なやつだし、したがってえらく軽かった。机の上にヘアドライヤーを置いてスイッチを入れた。太平洋にバケツの水を注ぐようなものだが、ないよりはましだろう。二時間もたたぬうち、加熱のためにこわれてしまった。まだ早いが、オーバーを着込んで薄い毛布の中に入るほかはない。要するに寝るしかないのだ。  部屋にはトイレがなく、感じではまっ暗な廊下の遠い向こうのほうに裸電球があって、どうもそれらしい。先に行って来たカミさんが、トイレの寒さはともかく、ものすごい臭いがすると言った。しかも中の電気がないので、懐中電燈を持って行ったほうがいいと言う。行ってみて驚いた。懐中電燈で見てみると、便所の隅に大きなかごがあり、そのかごが十五センチ角ぐらいの新聞紙、包装紙等をクシャクシャにして投げ込んだようなもので満杯なのだ。なおもよく照らしてみると、ヤヤッ! 尻をふいたあとの紙なのだ。  階に一つの便所だから、ソ連各地の田舎から集まって来た、それぞれ食い物の違う沢山の人たちが、お尻をふいた紙でかごはいっぱいだ。その横に座って用をたせば、これはウンコの臭いなんていうものではない、異様な、異常な臭いとしか言いようがない。  翌日、予約されていた外人用の一級ホテルにおちついてから通訳氏に聞いてみた。一般庶民のほとんどはこういう習慣だそうだ。都会には水洗便所が普及しているが、いわゆるトイレット・ペーパーはめったに手に入らない。新聞紙等の悪い紙を流すと、つまるからこういうことになっているらしい。一方、田舎には水洗がほとんどないから、その心配はないのだが、おそらくウンコと紙とは別々にという、農業上の習慣があるのではないかということだった。良い肥料を得るためなのだ。朝早く各家庭の前に出されたゴミバケツならぬ便所紙かごを集めて歩く職業もあるそうである。  日本では、外国ならどこも水洗便所と思っている人が多いだろうが、全世界規模で考えると、水洗の普及率はまだ二〇パーセントもいっていない、ということを誰かが言っていた。ソ連や共産圏以外でもフランスやイタリアの田舎では、ぼくもよくポトンを経験している。  後に聞いたところでは、ソ連の田舎の人にとって最も近い外国の、フィンランドのソ連国境近くの街のホテルのトイレには、ロシア語で、お尻をふいた紙はそのまま便器の中に入れて水で流してください、とわざわざ書いてあるそうだ。  検便についての一考察  検便というヤツ、あれにはもう長いこと悩まされてきた。苦労してきた。世の中の誰もが難しい思いをしているのだろうが、これについて人と話し合ったことがないので、いったい人様はどうしているのだろうかと思う。  ごく最近、一週間程前にもこの検便をやらされたが、毎年一回はやっているのだから、記憶の生々しいうちに来年に備えて、ちゃんと考えてみたいのだ。さもないと、こんなことはどうせコロリと忘れてしまうにきまっているから、来年の検便の時に、同じ苦労に直面してうろたえるに決まっている。  ごく最近の検便は、入院ドックでだった。もう十年近く、毎年ドック入りを続けてきて、趣味だとか、ドック魔だとかみんなに冷やかされているが、人に何を言われてもいい、昭和ひと桁、即ち現在、中年の典型、毎年一回のオーバーホールは我ながら良い心がけ、いや、当然のことだと思うのである。  ドック入りしている間は実によい休養になる、……と言いたいところだが、実はかなりの重労働で、普段起きたこともない朝六時に口の中に体温計をつっこまれたり、寝ぼけヅラにいきなりめったやたらと甘い液体を飲まされ、今から正確に一時間おきに三回オシッコを採って下さいと命令されて、緊張しなければならない。  もっとも甘いのといっしょに、一リットルの水を無理矢理飲まされるから、オシッコが出ないのじゃないかという心配はないが、なにしろ朝の六時か七時ぐらいに、気持の悪い甘いのを飲まされての一時間おきに三回なのだから、ねむいような、醒めたような、とにかく不快である。眠ってしまったって、病院側はこちらを信用してないのに決まっている。時間になると、尿はお採り下さいましたかと看護婦さんがやって来るのだから、大丈夫ではあるのだが、早朝に再び寝入った時の眠りは相当に深く、いきなり起こされ、ガバと起き上がって、尿とやらを採ろうと思っても、もともとが最初に起こされた時、昨夜からのを出させられているのだから、一時間おきにそう簡単に出るものではない。  紙のコップ三つを看護婦さんはおいて行くが、これはぼくが男であることの幸いで、病室の中でチョロチョロ、コップに注ぎ入れる。話は飛ぶようだが、インスタントコーヒーの自動販売機がアメリカ中の劇場の楽屋の廊下の片隅にある。紙のコップの中に入った熱いインスタントコーヒーを持って、遠い廊下の端から自分の楽屋に帰って来る時、ぼくは今まで、手の中の紙コップの中のコーヒーを、|零《こぼ》さずに歩けたことがないのだ。ソロリ、ソロリと歩いても、コーヒーはチャポン、チャポンゆれて、少々零れるだけならまだいいが、指に触れるとあれは結構熱いのだ。手の力を抜いて、紙コップを持っていることなど忘れたふりをして、サッサカ歩く方がよいみたいなのだが、それでもなんかの拍子に大量に零れ出て、手は火傷寸前、廊下にはインスタントコーヒーが汚なく飛び散る。喫茶店やレストランのボーイさんやウエイトレスさんたちを、いつも心から尊敬して見ている。  つまり、この紙コップからのチョボチョボが大変にコワいのだ。もし行儀よくオシッコ入れの空のコップをトイレに持って行って、アサガオに向き合って液体を入れたとして、これを持って帰る大事業を思うと、やはり部屋の中でコップへの注入をやってしまう。搬んで来る途中でチャポンチャポン指を濡らしても、まあいい。少なくとも火傷はしない。しかし、途中の廊下に撒き散らすのはなんとも感心しないではないか。そのまま黙って戻って来ればいいようなものだけれど、清潔な病院の廊下に対して、どうも良心というものがあるのだ。  それに、手は後で洗えばいいが、この種の動作をする時には、コーヒーの場合だが、ぼくはどうも両手でうやうやしくコップを捧げ持つ癖があって、だから余計にチャポンチャポンになるのだろう。やっと半分以上の流出を防いで部屋にたどり着いたとして、ドアのノブはどちらかの手で開けなければならぬ。これもいけない。かくして、再び言うが、だからオシッコは、部屋の中で注入するのだ。  ただ、部屋の中の作業に一抹の不安の陰りもあり、小さな紙コップ以上に出たらどうしようかということだ。検査説明書には、一杯で採りきれなかった場合は、尿を余さず別のコップに入れて、一時間後なら一時間後、二時間後なら二時間後の、その時の尿を全てお採り下さい、とあるのだが、これは少々無責任ではなかろうか。  一杯めのコップが溢れた後の二杯めまでの間をどうすればよいというのか。手は三本ないのだから、一本の手はイチモツ、一方は紙コップというわけで、これには左きき、右ききの別があるだろうが、まあどうでもいい。両手に紙コップではなんとも不安である。部屋の中に立っていて紙コップをはずしたら、一大事だ。  実感がないのでわからないが、イチモツなどなくて、従って手を使う必要のない御婦人は、この点、両手に紙コップを持つことができるから、コップからコップへの移動はスムーズにいくのではないだろうか。だが、滝の方向性と強さはどうなっているのだろう。  ビニールの袋に水をいっぱい入れ、袋の下に針で小さな穴を開ける。水はピューと細い糸になって下の方に勢いよくふき出す。しかし、まさか針の穴ではあるまいと思われる。穴を直径三ミリぐらいにしてみる。下の方角はそれほど変わらないのだが、袋の下の横の方にも少々水が伝わって、その水滴もポトポト下に落ちるから、これを小さな紙コップで受けるのは相当に難しくなってくる。張りつめた袋の真下に穴を開けてもこうなのだ。水の出る穴がごくわずかかもしれないが奥まった所にあって、しかも斜め下への斜面の途中にあるとしたら、これはもう紙コップでは不可能で、部屋の中での作業は絶対にだめだろう。  病院の看護婦さんには、病室にノックをしないで入って来る権利があるものと見え、紙コップへの注入中に不意をつかれる恐れもある。これに備えて、ぼくはドアの開く内側の方でやるのだ。  テレビの事件ものでも、襲われる側はこういう位置にいて、身を隠しながらピストルをかまえているではないか。  用心深いぼくは、ドアの回転軸のある壁の隅に向かって前記のようなかっこうをして立ち、ドアが部屋のどっち側にあるかによって二通りの方法があるのだが、要するに、ある程度以上ドアが開かないようにどちらかの足を踏んばって作業をするのだ。ドアを足で受けとめた時のショックでよろけたりしないように足を少し曲げて中腰になり、ショックを柔軟に受けとめるべく全身の運動神経を働かす。こういうことは女性には恐らく、絶対に不可能であろう。  ぼくがここ十年来ドック入りする病院の病室は、なんていったらいいのか、普通に開くドアの病室なので、横に開く引き戸が付いている病室の時の作戦はない。これは考えても難しそうだし、そのような戸の付いている病院には行かないつもりだから、考える必要はない。  検便がコトだ。ドック入りする三日前から無血食とやらで、肉はだめ、魚はだめ、およそ血の入っている食べものはすべてだめで、食べてしまうと、便を検べる際に、胃や腸に穴が開いていてそこから出た血なのか、ブタやマグロの血なのか見分けることができないのだそうである。  何故かエビは許される。エビには血がないのだろうか。あっても緑とか、白とかいわゆる赤い血がないからなのか。三日間エビばかり食べるわけにもいかないし、蛋白質を採るためには、豆腐かチーズ類ということになり、三日もすると身体中の血が青くなってきたようで、宇宙人になったような気がしてくる。最近は無血食の命令書がやたらと詳しく、うるさくなってきて、メロンはいけない、大根もだめ、酒もいけないそうで、このような禁止事項がたくさん増えるのは、医学の進歩に逆行しているのではないかと、腹がたつ。  技術が進歩すれば、ビフテキその他、魚類等なんでも食べてよく、どんなウンコでも検べればたちどころに、胃に穴が開いているかどうかを、ピタリ当てるようになることが出来るはずであって、あれもこれも食べてはいけないと言われて出来たウンコを見なければ、お腹の穴を見つけられないというのは、科学の堕落である。こんなことをブーツカ言っている割りには、毎年ドック入りするのだから、確かに趣味なのかもしれない。  問題は検便だ。いや、そうではない。検便のためのウンコを、どうやって親指の先ぐらいの大きさに採取するかである。  子供の頃はまだずっと楽だった。検便は、ぼくが覚えている限りでは、幼稚園の頃からあって、オマルにしゃがまされ、中でとぐろを巻いているヤツの上の方を、母が顔をしかめながら割箸でつまみ取り、マッチ箱の中に入れた。周り中をちり紙でグルグル巻きにして小さなボールぐらいになったのを、幼稚園に持って行ったのだった。この場合、まずオシッコ用の便所に行かされ、水気をなくして来てからオマルに座らされたように記憶するが、あまりはっきり覚えていない。  日本民族の多くは、男女を問わず大の時に小も同時に出るのだと聞いた。小の時に大が出るのではないから、安心してほしい。西洋人の場合、大の時は、まず大が全部出てから小が出るとか、その逆というふうにセパレートしてしまう人が多いそうで、なにかの本で、そんなこと出来っこないと言い張る西洋人たちの前で、大小を同時にやってのけ、沢山の賭け金を手にした日本人の話が載っていた。  ぼく自身、現在大小が同時かそうでないかを試したことはなくて、これを書いている今、実はわからないのだ。毎日平均最低一回を四十数年やってきて、考えてみると、いったい自分はどうやっているかが、さっぱりわからないことがごく身辺にあるというのも変なものだ。小を先にさせられてその後でオマルで大をという、なんとなくの記憶がある以上、ぼくはやはり大小同時なのだろう、四十年以上も前のおぼろげな記憶に頼って現在の自分がわかるなんて、おかしなことである。とにかく幼稚園の頃はこうだった。  小学校に行くようになって、ぼくは末っ子だったのだが、オマルはどこかにいってしまったらしい。屑屋さんが持って行ったのだろうか。検便の日がくると大騒ぎだった。当時の家の便所は日本式の汲取りだったから、検便のための親指の先っぽを採るのは、大層な難事だった。ぼくだけではない、世の中の人みんながそうだったのだろうが、このことの苦心談を書いたものを見たことがないので、私事にわたって恐縮ですが、と思い出してみることにする。  ぼくは新聞紙を三、四枚重ね、それを三つに折った。わりに太い帯が出来た。新聞を便器に橋渡しする。両端を両方の足の踵で押さえ、紙はピンと張っていては具合が悪く、真ん中は適当に壺の下に向かって弛んでいなくてはならない。  弛み過ぎていると回収の時に難しいから、この弛ませ方に神経を使う。つまり、新聞紙の弛み具合と落下物の重さのバランスが崩れると、受け場所の新聞紙が斜めに弛んでしまい、落下物が地すべりを始め、新聞紙にこびりついたヤツを割箸で泣く泣くかき集める他はない。親指の先大のかっこいいのを、学校に持って行けない後悔が残るのだ。  踵で新聞紙のどこらへんを押さえるかも問題だ。新聞紙が前の方過ぎてもいけない。空振りに終わって、はるか下の方に空しい落下音が聞こえる。お尻の穴というものは自分が思ったよりはかなり後にあって、だからといって、紙を後に下げ過ぎて、紙を押さえている踵が紙の一番前の端だけになると、紙がひものように細くなってしまい、結局は同じように空しく落下して行くことになる。  だから、紙を押さえる時は、踵の一点だけではなく、足の裏のかなりの面積でもって紙を押さえ、その両足で支えられた安定感のある十五センチぐらいの幅の帯の真ん中に、大がかっこうよくチョコンと落ち着くべきである。  大の量が多い時が又難しい。大は、非常に健康な時でさえ多量の水分を含んでいるから、H2OプラスGの力に新聞紙が負けることがある。それを防ぐために、大部分の大を先に投棄して、と思っても、もうスペアがなくなっていて慌てることもあるし、それに、投棄をいったん途中でやめながら、お尻を動かさないようにして、新聞紙の弛み具合や前後のポジションを調節するのは至難の技である。  もちろん、古い割箸を横に置いておく。首尾よく新聞紙の帯の真ん中に鎮座させることに成功して、それを用意してあるマッチ箱の中に割箸で適当につまみ採るには、手は前からなのか、後からなのか。これは男と女によって多少の違いがあると思われる。  ぼくは一度後から手をまわしてつまんだことがある。目は前から下を見下ろしている。相手はかなり下の方にたわんだ新聞紙の帯の上にあるのだ。だから、箸の先がかろうじて届くわけだが、つかみ採ってから、右手の箸の先をどのように我が身に安全な弧を描かせて、身体の前方にある左手のマッチ箱に入れるかだ。  一度めは弧の途中で右の足の横に落っことしてしまった。かくてはならじと二度めは、箸の先に神経を集中した。固いものをつまむのならそんなに難しくないが、あれは結構柔らかいものなのだ。神経を一点に集中し過ぎるとなにかがお留守になる。箸の先が右のお尻のほっぺたに接触したのだ。ギャーッ。どちらかの踵が上がって、新聞紙の帯の真ん中のものはストンと下へ落ちてしまった。  明日学校へ持って行かなければ怒られる。もう一度出るだろうか。なんてことよりも、お尻のほっぺたの第四種接近に泣く。大声をあげて母を呼ぶ。日本便所特有の難しさで、シャツの後をたくしあげながらしゃがんでいて、たくしあげた部分を両方の腋の下で押さえながらの動作だがら、かくも難しいのだ。そのままシャツを腋の下に押さえておかないと、もしシャツが下へズルズルと降りた場合、スソは当然お尻のほっぺたを撫でるのだ。大騒ぎをしてほっぺたを拭いてもらって、それから忘れずにお尻も拭いて、もちろんその前に割箸はいまいましげに下に投げ捨て、風呂場で右のお尻をゴシゴシ、ジャージャー洗う。右足の横に落っこったのは、踏まないようにそっと出て来たから、母がうまいこと始末をつけたのだろう。そんなことまで知っちゃいない。  その晩首尾よくもう一回チャンスがあって、手を前の方から回して割箸でうまくつまみ採った。この場合注意しなくてはならないのは、やはり弛みの下の方にあるのだから、箸の先がオチンチンの先っぽに触れないようにすることだ。その点、突起物のない女の子の方が楽なのではないか。  まあ、検尿の際のハンディもあることだし、お相子だろう。  最近は、検便容器と称してプラスチック製の小さな入れ物があり、パチンと蓋をすれば臭いももれず、しみ通りもなくて、近頃の子供は安心して学校に持って行けて、幸福だと思う。  ぼくたちの頃は、マッチ箱だけだったのだ。どんなに沢山、何重にくるんでも、ランドセルの中に教科書や弁当箱といっしょに入れるのは心配だし、いやでもある。結局、学校まで大事に手で持って行く。手をブランブラン振るわけにはいかない。さも大事そうに目の前に捧げ持って行くようになる。  マッチ箱にはあらかじめ何年何組何の某と書いた紙を貼っておくのだが、学校には、みんながマッチ箱を置く場所がある。グルグルに包んだ紙は取り去らねばならず、そうなると、当時の粗悪なマッチ箱だと表面にまで汁がしみ出るのである。自分のがコロコロの健康なのでも、マッチ箱が沢山積み重ねられ、中には下痢の蛔虫の卵ウヨウヨという箱もあるだろう。ソヤツのしみ出しがぼくのヤツの箱に触って、検査の結果、蛔虫退治のまずい薬を飲まなければならなくなったとしたら、これは冤罪だ。  デパートのトイレとかサービスのちゃんとしている公共の便所を除くと、今でも、音楽会場の楽屋であれ、駅の便所であれ、石鹸がちゃんと置いていない所がほとんどである。これは昔とあまり変わっていないようだ。  大の後で石鹸を使えないのは、なんだか指の先がいつまでもなまなま温かいような気がして気持悪いのだけれど、ぼくが小学校の頃、学校の便所に石鹸が置いてあったような覚えが全然ない。水分がしみ出たかもしれないマッチ箱を持った後の手を長い時間かけて水だけでジャージャー洗う。同じような気持らしいのは沢山いて、便所の手洗いの前には長い列ができる。  戦争がきびしくなる前は、余裕があったのか、石鹸はないものの、手洗いの横に桃色の|昇汞《しようこう》水を満たした洗面器とか、ごく薄い茶色のクレゾール水などが置いてあって、あの臭いもなつかしい。  現代の検便は、はるかに難しくなった。先週のぼくの場合、これは不可能に近い難事なのだ。西洋式の腰掛け便所というヤツ、いったいあれでどうやって大をつまめというのだろう。  検便というのは世界中どこの国にもあって、一度ハンブルグでやらされたことがあった。長期滞在のビザをとるために、無犯罪証明とか、身体検査が必要なのだ。胸などもいい加減なレントゲン検査をさせられ、国立の病院で、これも現在世界共通の検便容器をわたされる。  検便の場合、日本と恐らく非常に違うところは、容器と共に小さなプラスチックのスプーンのようなものをくれることだ。野外用のアイスクリームのケースに付いているようなあれである。なるほど、割箸なんていうものは向こうにはないのだ。割箸とスプーンの違いはあっても、そのスプーンをどういうふうに使えというのだ。そんなことは誰も教えてくれないし、だから、誰もが自分の知恵でなんとかするのだろう。  容器をわたされて病院の清潔な便所に行った。大に入って、扉を閉めて、さて考えた。昔やった新聞紙の帯はここでは不可能だ。両方の股に新聞紙の帯の両端を敷いて、帯を弛ませてみようと思ったが、弛みの先はうっかりすると下の水面に触ってしまう恐れがある。  第一、収集後の新聞紙をどうするのか。ヨーロッパの水洗便所はドカンが太くできているので、主婦たちは台所の余り物とか、野菜の切れっ端等を遠慮なく流し込んでいる。日本のもののようにすぐ詰まったりはしないのだが、それにしても帯状に折った新聞紙をまるごととなると、絶対に詰まってしまうだろう。  この病院のトイレが詰まろうと詰まるまいと、知ったこっちゃないというのは、西ドイツでこれから長期滞在のビザをもらおうとする外人としては、今後お世話になる国に余りにも礼がない。それに新聞紙なんかを持って来なかったのだ。もし備えつけのトイレット・ペーパーで厚めの帯を作っても、一時期落下をうまく支えたって、何分水分には弱い紙なのだから、スプーンですくうひまもないかもしれない。  便器に正常に座り、まともに落下させ、落下の途中をスプーンで受けとめることは出来そうもない。スプーンといったって、受ける所は親指の爪ぐらいしかないのだから。便器の水の中にブクブク浮き沈みしているヤツをスプーンでしゃくりとれというのだろうか。恐らくいろいろな人の蛔虫の卵やら、種々の菌などでウヨウヨに違いない。絶えず大量の水で流されているのはわかっているが、やはり衛生上好ましくない。衛生上というのは、不特定多数の他人の蛔虫の卵なぞをしょいこみたくないという意味だ。  思案にくれ、片隅を見たら汚物入れの蓋のちゃんと付いたのが置いてあった。女性用のトイレの中をのぞいたことがないのでよくわからないが、あちらのトイレに必ず付いているものであるはずだ。さすが病院だ。男用のにこれがあるというのは、やはり絶対に必要な時もあるからなのだろう。いやだったが蓋をとって中を見てみた。ある、ある、検便の苦心の跡みたいなのがある。  病院の入口にいろんなパンフレットが置いてあったが、その紙らしいのに落下物がくるまったみたいなのが例のスプーンといっしょに捨てられていた。なっとく。トイレを出て玄関まで行き、もっともらしい顔をしてパンフレット類を四、五枚持って来た。パンフレットの類は厚手の紙だし、水分のすき通りも余りスピードが速くないだろう。  さっきの汚物入れは新聞紙を二、三枚丸めたものが入る大きさではないが、これならうまくいくだろう。しかしそれにしてもどういう作戦に出るか。  誰の相談も指導も受けられないというのは寂しいことである。特に外国の病院のトイレの中で一人でモンモンとアイデアをふりしぼるのは孤独な作業だ。結局、日本民族の伝統にのっとることにした。  ズボンをとって便器に座った。とらなくったって膝までおろしただけでも用は足せるけれど、その後の作業のことを思うととらねばならない。その点、ヨーロッパではどこでも横の壁か扉の裏に引っかけるものが必ずあるので助かる。座り込む。その時両靴の間の所にあらかじめパンフレットを全部重ねて置いたのだ。まず三分の二ぐらいを放出する。  そこでおもむろに注意深く前方ににじり進む。実にみっともない格好だろうが、誰かが見ているというわけでもない。三十センチほどにじり出たまま、いわゆる日本でいう野糞の格好でしゃがむ。前へのにじり出方が足りないと後の便器で尾※[#「骨」+「抵」のつくり]骨を打ち、気絶することになるかもしれぬ。そう簡単に助けに来てくれる場所ではないので注意が肝要だ。  この時すでに左手には蓋を開けた容器、右手にはスプーンを持っている。残りの投下が終わり、そっと膝を伸ばし、ボディを上に押し上げ、さっきの何倍もの注意をもって慎重に、慎重に後ににじり下がる。原子力発電の燃料を扱っているような神経で、又便器に腰をおろす。位置をまちがえたら大悲劇である。手速くスプーンで親指の先ほどのをしゃくり採って容器に入れ、パチンと蓋をする。  つくづく割箸をなつかしく思う。アイスクリームを何人分か買って来る時、アイスクリーム屋さんは、しゃもじでしゃくりとって、こちらが持って帰るタッパウェアみたいなものに移しているが、あのような軟体を移し代えるのは結構難しいらしく、しゃもじにまだ大分くっついているものである。結局はしゃもじで容器の内側のへりをなすっているようではないか。  割箸なら先をチョンチョン、ぐらいで済むのだが、なすった後ではパチンと蓋をするのがなんとなく心配だ。外側にくっついていたらどうしよう。まあとにかく済ます。後は足の間の床にある三分の一マイナス親指位の大がのっかっているパンフレット類の四隅をうまいことつまみ上げ、もちろんこの中にスプーンは放り込んで、そのまま汚物入れにそっと入れて蓋をすればよい。  とにかくぼくはこうやって無事に長期滞在ビザを取ったのだ。なにもビザのためではなくても、一般のドイツ人たちも検便をしているわけだが、彼らはどうやってやっているのだろう。ぼくの前の人物がしたらしい唯一の痕跡を見ただけなのでいまだに皆目わからないし、人に聞いたこともない。  大体が、病院の中ならばこういうことは非常に多いはずだ。なぜ検便用便利便器なるものが存在しないのだろうか。発明してもノーベル賞はもらえないからだろうか。  痔もちとしてはドック入りの度毎にあそこも調べられる。まことに屈辱的な瞬間で、肛門鏡とやらいうらしい試験管みたいなものをさし込まれて、中をジロジロ見られているらしい。  あれになんかの装置が付いていて、パチンとかボロンとか、ニュラとかまあなんでもいいが、お医者さんの方で簡単に親指大を収集するのも一つの方法だろうと思う。もっともこれにはいやだという人が多いだろうから普及しないのかもしれない。  ぼくのドック入りはたいてい夏の真盛りだ。病院のトイレの中まではエアコンディションが届いていないので、なにしろ神経を使うこの作業、毎回汗だくになって終えるのだ。  最近は日本の病院でもスプーン方式である。あのハンブルグの長期滞在ビザ用検便作業の経験は尊い。少しは上達したようだ。  〈了〉 [#ここから2字下げ]  おわりにひとこと 『棒ふりの休日』は、『棒ふりの控室』(一九七五年刊)につぐ、ぼくの二冊目のエッセイ集です。この三年間、「週刊文春」「カッパまがじん」「宝石」「きょうの料理」などに連載されたエッセイに、新しく書き下ろしたものを加えて、一冊にまとめました。 一九七九年新春                    著 者 [#ここで字下げ終わり] 〈底 本〉文春文庫 昭和五十七年十二月二十五日刊