岩城宏之 棒ふりのカフェテラス 目 次  A マルタ・アルゲリッチ  B レナード・バーンスタイン  C 千葉 馨  D ディーン・ディクソン  E 延命千之助  F ジャン・フルネ  G ジョージ・ゲイバー  H ヤシャ・ハイフェッツ  I 岩城宏之  J オイゲン・ヨッフム  K ヘルベルト・フォン・カラヤン  L ウィルヘルム・ロイブナー  M 黛 敏郎  N 中村紘子  O 長田暁二  P ペンデレツキー  Q 邱捷春  R スヴャトスラフ・リヒテル  S アイザック・スターン  T 武満 徹  U ハンス・ウルリッヒ  V ニノ・ヴェルキ  W 渡辺暁雄  X ヤニス・クセナキス  Y 山本直純  Z ニカノル・ザバレタ    ルービンシュタイン   あ と が き  A───   マルタ・アルゲリッチ     (ピアニスト)   Martha Argerich 「ワァー、わたし、もうピアノやめるわ」 「ほんと、オレも音楽なんか、よしちゃいたい!」  大声で叫んで、思わず抱き合った。両方とも興奮のあまり、勢いがよすぎて、ドシンという感じで、胸のところで何かがグシャといったようだった。  アムステルダム・コンセルトヘボーでの、ルービンシュタインのピアノリサイタルが終わって、ロビーの|人混《ひとご》みの中で、マルタ・アルゲリッチとばったり出会ったのだった。あまりにも素晴らしい演奏に接した時、われわれ音楽家は、こんなふうになってしまう。ルービンシュタインのさっきのショパンが、どのように良かったかなんてことを、言葉に出して言いたくないのだ。しゃべることなんかない。素敵な音楽に接して、ただもう感激で、何かを口走る。  二人でルービンシュタインの楽屋に行って、巨匠の手を握っても、口は動いているが声が出ず、かえってルービンシュタインに、「落ち着いて、落ち着いて」と、やさしくなだめられる始末だった。楽屋には大勢の人が来ていて、静かな熱気がムンムンしている。|煙草《たばこ》が吸いたくなった。アレ? ポケットにない。どこでなくしたのだろう。 「タバコ、ない?」  とマルタに言う。  彼女はうなずいてハンドバッグを開ける。ハンドバッグというよりは、ズダ袋といったほうがピンとくるような大きいヤツで、|恰好《かつこう》だって、ヨーロッパの夜の音楽会の常識的なものではない。ヒッピーがスーパーに買い物に、といったようなものだ。煙草が見つからない。しばらくゴソゴソやっていて、いきなり「アア、そう、そう」と言って手を胸の中に突っ込んで、ヨレヨレになったマルボロの箱を取り出した。 「まだ二、三本あるわ」  有難かったが、吸えなかった。みんな折れていた。人混みで抱き合った時のグシャは、これだったのだ。  一九六〇年代の終わりごろだったから、もう十年以上も前のことだ。「ワァー」なんていって人混みの中で抱き合ったり、「タバコ、ない?」などと長年の交際のようにみえるかもしれないが、実はこの日の午後に、ぼくはマルタ・アルゲリッチに初めて会って、オーケストラとの練習を一緒にやったのだった。「初めまして」「よろしく」は、たしかに言った。型通りに。だが、もう何年も知り合っていて、何十回も一緒にコンチェルトをやったような感じだった。ぼくは世界中でこんなに明けっぴろげで、正直で、自由で、奔放で、気のいいピアニストをほかに知らない。  マルタはアルゼンチンの生まれだが、そのころヨーロッパの舞台にいきなりおどり出て、そう、月並みな言い方だが、|彗星《すいせい》の出現そのものだった。こういう新しいバリバリのスターと初めて共演することになると、対面する前にあれこれ思うものである。あること、ないこと、いろいろなうわさもきこえてくる。さぞかし鼻っぱしの強いナマイキなヤツだろうとも思う。ヨーロッパで突如人気ピアニストになるなんて、|勿論《もちろん》ピアノが|上手《うま》いにきまっているが、個性も強烈に違いないのだ。まして女、しかも美人である。相手が急速に有名になった人物であるほど、こちらは偏見的先入観を持つ。最初の練習でガーンと一発お見舞いして、なんて思う。ナグルわけではない。言葉では言えない音楽家同士の戦いがあって、特に指揮者と独奏者の場合、その最初の一発でコンチェルトの主導権が決まってしまう。現在日本語ではコンチェルトを「協奏曲」と訳していて、協調、協力しての演奏とはうるわしいかぎりだが、明治のころは「競走曲」と書いたらしい。本来はこのほうが正しいのではないかとも思う。  どえらい大物の年寄りと初めて共演する時がある。なにしろ相手は超一流だ。主導権は初めから向こうにあるようなものだが、人間としてどこかイヤな人物だと、最後までコンチクショウの抵抗を試みることもあるし、まあ、二匹の猿が山の中でばったり出会ったらこうなのだろう。要するにどちらがノミを取る側になるかということである。心からにしても、イヤイヤにしても。  マルタは全く違うケースだった。  コンセルトヘボーはオランダ語で、コンセルトは無論音楽会、ヘボーは建物のことで、つまりなんのことはない、アムステルダム・コンセルトヘボーとは、アムステルダムの音楽会場ということである。有名なコンセルトヘボー・オーケストラは、この会場を根拠地にしている交響楽団のことだ。コンセルトヘボーは、ホールとオーケストラの両方を意味しているのでヤヤコシイのだが、マルタとの最初の仕事は、この日の午後の二時からの、オランダ・ラジオ・フィルハーモニーと、コンセルトヘボーのホールでのショパンの第一協奏曲の練習だった。  練習は午後二時からで、そのちょっと前にオーケストラのマネージャーに紹介されたところなのだ。大抵の場合、そのまま協奏曲の練習をすることはなく、翌日の本番のプログラムでは最後になる交響曲の練習を先にやる。その間、独奏者は楽屋で待っていて、一人でピアニストならピアノ、バイオリニストならバイオリンを、さらっている。  一時間半ほど交響曲の練習をやって、休憩になる。ぼくは指揮者の部屋でコーヒーを飲んでいた。ドアが勢いよくノックされ、返事をする間もあらばこそ、誰かが入って来た。わりと小柄でがっちりした体格のようだったが、入って来るなり大きな声で、 「マエストロ、しばらくだったな。会いたかったよ」  とぼくの首に抱きついてきたのだ。ルービンシュタインだった。 「君の練習をきかせてもらっていいかい。それに、マルタ・アルゲリッチという、今評判の女の子を見てみたいのでね」 「先生の今晩のリサイタルに、勿論うかがうつもりだったんですが、こんな午後に、先生、お休みにならなくていいんですか」 「かまわない、全然平気だよ。そんなことより、この|歳《とし》になっても、好奇心のほうが強くてね、あんたたちのショパンがききたくてね」  マルタはこのことを知らなかった。休憩が終わり、ショパンの協奏曲が始まって、始めの部分をオーケストラだけが演奏している時、彼女は誰も居ないガランとしたコンセルトヘボーの大きなホールの、自分の目の下の第一列目に、品の良い老人がニコニコ行儀よく坐っているのを発見したのだ。仰天したのも無理はない。思いもかけぬ、あのルービンシュタインがいたのだから。  ぼくとの最初の練習でのマルタの演奏はメチャクチャだった。あがりきって、目もくらんだだろう。だが、才能あふれる美人ピアニストが、心そこにあらずみたいにあがって弾くメチャクチャさも、実に魅力があるものである。人を人とも思わない強心臓の女ピアニストだといううわさもきいていたが、全然そんなことはない。いいとこあるじゃないかと思った。ファンになったと言ってもいい。  ルービンシュタインがこの場に居あわせなかったらどうだっただろう。マルタの強烈な個性のゆえに、彼女とは絶対にウマが合わない指揮者は世界中にたくさんいる。ぼくも初対面の主導権争いで、彼女と火花を散らしていたかもしれない。だがマルタにはそんな余裕はなかった。目の前のルービンシュタインだけが頭にあった。ぼくだってルービンシュタインがそこにいて、平気でいられるわけがない。マルタに対抗するどころではない。ショパンだけに必死になる。お互いのショパンヘの必死──ルービンシュタインという神様にきかれているという夢中さを通じて、なぜか二人の最初の出会いから、不思議なほどのウマの合い方になったような気もするのだ。  その晩、ぼくは無論ルービンシュタインのリサイタルに行った。マルタも行ったのだ。お互いに音楽会に行くことは知らなくて、そして、リサイタルが終わったあとのロビーで、バッタリ出会ったのだ。煙草もつぶれて折れてしまうわけである。  翌日のわれわれの音楽会は、いわゆるマチネーで、終わったのは午後五時ごろだったが、それから「カイザー」というコンセルトヘボーのとなりにある、音楽家たちが巣くっている名物レストランで、マルタと六時間ぐらいもしゃべり合っていた。今終わったばかりの自分たちの演奏のことをしゃべったのではない。それぞれの|憶《おも》いをこめて、共通の神であるルービンシュタインのことばかりで時がたったのだ。  その後、ずいぶんたくさん彼女とは共演している。お互い、調子のよくない時もある。調子の出ない時はそれゆえに、良い時は素敵さのゆえに、ぼくはますます彼女のファンになった。  いつかポルトガルのポルトという街の音楽祭で、一緒に演奏したことがある。粗末な会場で楽屋は一つしかなく、音楽会の前に、二人とも着替えなければならない。|燕尾服《えんびふく》を着るということは、大変面倒な仕事で、シャツから何から全部を替えなければならず、勿論スッパダカになるのだ。女性が演奏会用のドレスに着替えるより、大変かもしれない。ぼくが先にやることになって、その間マルタはドアの外に出ていた。終わって交代し、ぼくは廊下に出て待っていた。まだ一、二分しかたっていなかったはずだが、 「もういいわよ」  と声がして、中に入っておどろいた。例のズダ袋からひっぱり出したらしい黒のロングドレスを、パッパッと空中でしわを伸ばして頭からかぶっただけらしいのだ。感心に靴は演奏会用の銀色のをはいている。肩まで無造作にのばした美しい黒髪の先のひとつかみを、いつもの癖で口にくわえ、左の指先には煙がユラユラのシガレットをはさみ、右手はこれから演奏する曲の楽譜をパラパラめくっている。そこまではいい。部屋の窓際に靴の片一方が、反対の大きな電気スタンドの下にもう一つが、投げとばされた感じでころがっている。脱ぎ捨てたさっきまでのヒッピー風ワンピースは、壁のところのソファの上にほうり出されている。化粧なぞ、生まれてから一度もしたことがないだろう。自然そのもの、本当の美女とはこういうのではないだろうか。  音楽会が終わって、お客がわれわれの楽屋につめかける。なにしろひどい部屋で、おまけにせまいときている。マルタとぼくは机に向かい合って、サインのお客が二人を二重、三重にとりかこむという|塩梅《あんばい》だ。机の上の、丁度われわれの真ん中に例のズダ袋がおいてあって、サインをしながらマルタは何かを取り出した。ふたをしめないのだ。見るつもりは毛頭ないのだが、自然に中が見えてしまった。たまげた。タンパックスの箱がまる見えだ。しかも少し開いている。机のまわりには、たくさんのポルトガルのお客がサインを待って立っている。 「マルタ!」  小声で注意をする。しまったという顔つきでズダ袋をしめる。ちょっとたつと、また何かを取り出し、またしめ忘れている。こちらも忙しくサインをしながら、気が気ではない。指揮者というのは、独奏者のこんな世話までするものかとハラもたつのだが、これほどに自然な無頓着は、芸術だということもできるような気がする。  恋も多い。子供はもう三人になるだろう。結婚も、もう三度目のはずだ。なにもかにも一生懸命で、そのくせあっけらかんと無頓着で、ピアノはますます|冴《さ》えている。  このピアノの精とは、ここしばらく一緒に演奏していない。  B───   レナード・バーンスタイン     (指揮者)   Leonard Bernstein  初めてバーンスタインの名前を耳にしたのは、昭和三十年代の、ごく初めのころだったと思う。なにかの音楽雑誌の、アメリカ作曲界のニュースだったような気がするが、はっきり覚えていない。アメリカ作曲界に新星現わる、というような内容で、交響曲第二番「不安の時代」という作品が話題になっていたのだった。  そのうちに別のニュースが雑誌に出て、記事は小さく、例の作曲家が指揮を始めたという、なんてことのないニュースだった。  このニュースもぼくにとっては余り大きくはなく、指揮をしたい作曲家はゴマンといるから、そんなのの一人がまたふえたのだろうと思っていた。バーンスタイン指揮のレコードもチラホラ出てきて、思ったよりはこの作曲家、やるものだワイと思っていた。  昭和三十四年ごろ、歌手のペギー葉山さんの家で「ウェストサイド・ストーリー」のレコードを初めて聴いた。そのころ、黛敏郎さんのミュージカルの公演とか、その他実に様々な仕事を彼女といっしょにしていて、音楽に夢中な二十代のよい友達だった。ぼくのほうもかなりの音楽好きのはずだったが、ペギーさんほど一日中音楽のことだけに夢中になっている人間に、それまで出会ったことがなく、びっくりし、あきれながらも、一日中彼女と音楽の話ばかりしていたものだった。  そのころ彼女はニューヨークに行って、「ウェストサイド・ストーリー」の実演を、ブロードウェイで見て来たのだ。帰って来てから何週間|経《た》っても、彼女の興奮はさめず、口を開けば「ウェストサイド」の話で、買って来たレコードは、まだ日本には何枚とはなかった貴重なものだったろうに、すり切れるほど聴かされ、しかも彼女の舞台説明入りなのだった。ぼくだけでもあれだけ何回も聴いたのだから、あのLPは何百回も回されたに違いない。当時の音楽関係者というか、劇場関係者の沢山の人間が、彼女の熱気にあてられて、ミュージカルとしてはむしろ超前衛とも思えた「ウェストサイド・ストーリー」から、ミュージカル入門をしたのではなかっただろうか。ぼくの頭の中でバーンスタインはミュージカルの作曲家として定着した。  そのころバーンスタインの出世作、交響曲「不安の時代」のレコードも入ってきていた。この指揮もする作曲家のファンになっていたぼくは、現代風のキビキビとした作風とテクニックを駆使して、一見聴きやすそうなミュージカルに仕立てあげているにもかかわらず、「マリア」だって、「トゥナイト」だって、「アメリカ」だってその恐ろしく高度な作曲技法にたまげ、こういうすごい才能は、指揮をしてもただものではないのではないかと思ったのだった。  こんなことを|暢気《のんき》に思っていたぼくがオメデタイのであって、そのころ既にバーンスタインはスーパースター指揮者だったのだ。まだ今ほど情報伝達手段が世界中張りめぐらされていなくて、外国に行ったことのなかったぼくなど、世界中の音楽に関しては純朴な田舎の青年でいることが出来たわけで、現在の、世界中のことをなんでも同時に知ってしまっている音楽青年たちから見ると、恥ずかしいようなものだ。  昭和三十五年にぼくは生まれて初めて外国に行った。初めての外国への行き方はすごいことになってしまって、NHK交響楽団との世界一周の演奏旅行の指揮者として行ったのだ。インドで始まり、ほぼ全部の共産圏諸国、西ヨーロッパのおもな国全部、最後にニューヨーク、ワシントンという八十日間の大旅行だった。日本のオーケストラが外国に出たのも、これが初めてのことである。  誰でも初めての時はそうだろうが、なにぶん外国語の会話は苦手ときているし、戸惑うことばかりで、それから以後今まで二百回以上日本と外国の出入りをしている今、あのあわてふためいた初外国旅行が、なにもかもなつかしい。  この演奏旅行のハイライトの一つだったが、ベルリンの音楽祭に二晩出演した。  飛行場では大勢のカメラマンが待ちかまえていて、ロビーでたちまち記者会見。ホテルに着いてからも、別の大広間で派手な記者会見があり、全部の質問が終わった後で、七、八人のカメラマンに囲まれて、撮影会をやらされた。二十七歳だったし、連日どの国でもこういうことが続いたので、ぼくは大スターになったような気になっていた。本当は「ヘエー、東洋の島国の人間がオレたち西洋の音楽をやるんだってヨ」とヨーロッパ人どもの興味のまっただ中に、飛び込んだだけだったのだ。  スターだったから、いや、自分がスターだと勝手に錯覚していたから、一生懸命スターのようにふるまった。撮影会が長引いて、スターとしては不機嫌にならねばならない。ろくろくしゃべれないと、不機嫌を示すことは大変にやさしいのだ。中に一人、もう一枚、あと一枚としつこいカメラマンがいて、慰め顔というかゴマスリ風に、「明日のあなたの音楽会と同じ時刻に別の会場でニューヨーク・フィルの演奏会がある。指揮者はレナード・バーンスタインだ。どうもおれはアメ公が嫌いでね。あなたの音楽会のほうがずっと我々ドイツ人に喜ばれると思うよ」と言った。今思えば随分無責任なゴマスリだったと思うが、ぼくという二十七歳の田舎からのスターは言ったのだ。カタコトのドイツ語だったからこういうことになる。「然リ、ワレ信ズルコト、同ジアルヨ」  この時があのバーンスタインと同じ街にいるのだという実感を持った最初だった。だが、なにしろ初外国演奏旅行、異常緊張、興奮の最中だったから、「なにがニューヨーク・フィルでえー。なにがバーンスタインでえー。この音楽祭では、絶対オレのほうが勝ってやるんだ」と本気に思ったのだった。ああ、ぼくという人はとてもかわいい人だったのだ。  かわいかったぼくも、少し時が経って物心がつくと、かのバーンスタインを狂気の最中とはいえ、あのように意識したことに恥じ入るようなことにもなり、罪ほろぼしにせっせと彼のレコードを買ったり、同業とはいえ、なんのことはない、ただの大ファンになった。  それから随分経って、何年か前の夏、ぼくは日本にいて、同じころニューヨーク・フィルが何度めかの来日公演をした。考えてみると、ぼくはバーンスタインの実物の指揮を見たことがなかったのだ。大阪に飛んで、フェスティバルホールで彼の実物を初めて見た。指揮ぶりの印象などを書くのは、ぼくの文章力では不可能だし、またそういう印象は、ぼくだけの内に秘めておきたい気持ちもあるから、書かないことにする。その日のプログラムはベートーヴェンの交響曲第四その他で、その他と書くのは忘れてしまったからだ。  演奏はよくなかった。まるで練習をしないでニューヨークを出発して、旅行の真ん中へんの大阪で、初めてこの曲を演奏したかのようだった。我々の言葉でいうブッツケである。ニューヨーク・フィルと同行していた小沢征爾君が、バーンスタインに会いに行こうと言う。ファゴットが一小節速くとびだしたり、ティンパニーが出てこなかった日は、どんな指揮者でも機嫌が悪いに決まっている。今度機嫌のいい日に楽屋に行くよと逃げようとしたのだが、無理矢理に引っ張って行かれてしまった。楽屋ではミドル級のボクサーみたいなのが、すっ裸の上に畳二枚分ぐらいのバカデカイ白タオルにくるまって、湯気をたてていた。 「こんなオーケストラはつぶしてしまえ! なくなっちまえ! オレはもうニューヨークに帰る!」  まわり中の人にどなりまくっていた。怒り狂っているのだから、人の区別がつかないのだろう、小沢君と楽屋にそうっと入ったぼくにも|罵声《ばせい》が飛んできた。これが初対面だった。  東京の音楽会も見に行った。はっきり見に行ったと書く。見るのが目的だからステージの袖にいた。  プログラムはマーラーの交響曲第九番だった。長い長い曲で、これだけで一晩全部なのだ。この晩は、彼は最初から機嫌がよくて演奏の前にも、とっくに顔見知りになったぼくと冗談を言ったりしていたが、急に真剣になってステージに出る所の床をトントンと|拳《こぶし》で打ち、|恐《こわ》い顔をしてステージに出て行った。トントンはおマジナイである。  なにしろ長い曲で二時間近くかかるのだ。驚いたのは、長い第三楽章が終わった時に、彼がいきなり指揮台からスタスタと袖に戻って来たことだった。この第三楽章では長い長い間、指揮者が大暴れしていなければならず、後にこの曲を自分が指揮してからは、彼のこの時の気持ちがよくわかるのだが、とにかく彼がひっこんで来た。お客はびっくりしていたようだった。袖にひっこんで来て、黙って左手を出した。心得たもので、マネージャーがコップの水をさし出した。一気に飲み干す。その時彼の右手は宙をさまよっている。即座に火をつけたタバコが指にはさまれた。二、三服というか、四、五服というか、たて続けにプカプカやって、タバコを左手のコップの中にジュッと投げ込んで、コップをわたしてステージに出て行ってしまった。再び長い第四楽章が始まった。  音楽会の後でM氏の家でパーティがあった。彼は二時間も遅れて来た。音楽会の後、そのままM氏の家に行っていた我々と違って、彼は六百人ものファンにサインをしていたのだった。しかも日本語で自分の名前を書くのを覚えたばかりだったので、やたらと時間がかかったのだ。パーティで焼き鳥を山のように食い、寿司を何十個とたいらげた。自分のロンドンでのヴェルディの「レクイエム」のビデオに見入り、まわりにいるみんなに「そら、ここでオレは振りまちがえた」と大騒ぎをする。真夜中に室内プールに入って、みんなで沈めっこをして一時間以上もキャッキャと騒ぐ。でっかい湯舟のお風呂にもつかった後、自分のミュージカルのさわりをピアノで弾き、しゃべり|唱《うた》う。絶えずウィスキーを飲む。ミュージカルの原型はここにあると言って、サリヴァンのオペレッタ「ミカド」の一幕を、ピアノを弾きながらみんな唱って聴かせる。「ラプソディ・イン・ブルー」も全曲弾いてしまった。朝の五時ごろに彼は帰って行ったが、いっしょに遊んだぼくたちはクタクタだった。  この日の彼は朝十時からニューヨーク・フィルと新日本フィルの野球の試合で大騒ぎをし、午後は東京見物をし、その後は朝の五時までここに書いたとおりだったのだ。スーパースターの狂気のエネルギーとしか言いようがない。  最近のことだが、ぼくのウィーン・フィルハーモニーとの初日の練習の前の晩が、バーンスタインの音楽会だった。ちょうど楽屋に入って来たところの彼と久しぶりに会えて、握手をして飛び上がった。痛かった。最近はなにかヒッピー風のマジナイにこっているらしく、とがった、割と大きなつぶつぶの数珠を手にしていて、数珠のままの手で握手をするのだから、こちらはたまらない。柔らかい手だったが数珠の痛さがまだぼくの手に残っている。  C───   千葉 馨     (NHK交響楽団首席ホルン奏者)   Kaoru Chiba 「カラヤンからのメッセージなんだけどね、カラヤンがバーチにベルリン・フィルのトップになってほしいってさ。その気があったら、一カ月以内にザルツブルグのカラヤンの別荘に来てくれって言ってきたよ」とぼく。  千葉馨(ちばかおる)という大男、通称「バーチ」は、急にキヲツケをしたように見えた。そうではなかった。瞬間、息を大きく吸いこんで、そのまま彼の時間は停止した。こういうことを大男がやると、下の方からはまるでキヲツケに見えるのだ。  バーチの顔は真っ赤になった。そのまま十数秒過ぎた。それから目がクルクルまわり出した。「ウ……、ウウウウン、まあね、ウ、ウ、ヤ、ヤッパリネ、でもネ、ウン、やっぱりベルリンには新鮮なうめえ魚がないだろうからね、ウン、まあ、遠慮するよ。ウン、そういうわけだ」  ことの起りはこうだった。  一九六四年だったか、六五年だったか、今はっきり覚えていないのだが、この年の春にカラヤン率いるベルリン・フィルハーモニー管絃楽団が、何回目かの日本演奏旅行にやって来た。歓迎レセプションとか、彼らがわがNHK交響楽団の練習所を使ってリハーサルをするのを手伝うとか、両方の旧知の楽員たちの飲み会やらなんやらでテンテコマイはいいが、ベルリン・フィルの最初の東京での演奏会を聴けないまま、N響は北米、南米旅行に飛びたったのだ。  一カ月以上して、われわれが日本に帰って来た時、ベルリン・フィルは勿論日本を去っていた。  われわれが南北アメリカ旅行に出発した後、日本中をぐるぐる動いていたカラヤンとベルリン・フィルが、大阪で音楽会をやった時のことだったそうだ。曲はブルックナーの何番目かのシンフォニーで、その時にブルックナーでは最も重要なホルンが、たて続けに音をミスしたらしい。音楽会のあと、不機嫌なカラヤンが、突然事務局長に言ったそうだ。 「そうだ、この国にチバという上手なホルン吹きがいる。彼の電話をあんた知らないか」 「……?」 「ベルリン・フィルの事務局長の立場として、世界中の第一級の奏者の住所を、全部知っているべきじゃないか」  カラヤンは一九五五年だかに、N響をかなり長期間指揮していて、ホルンのトップの演奏ぶりをちゃんと覚えていたのだ。この人は相手の顔も、名前も、主としてどの国の言葉を話すなんてことまで絶対に忘れないのだ。 「明日から、チバを演奏に参加させよう。そのむね、NHKに頼んでくれたまえ」 「あのう、N響は先週から南米に演奏旅行に行っていて、日本にはいませんよ。そのミスター・チバも、だから旅行中のはずです」 「かまわん。南米から呼び返せ」  帝王というのは、こういう時にまことにわがままである。ひとのオーケストラの楽員を、しかも遠い南米に演奏旅行中のトップ奏者を連れてこい、と言い出すのだから、メチャクチャだ。  とにかく呼び返すのは不可能だとなって、さっきの伝言になったのだ。その頃東京にいた、カラヤンと親しいウィーン・フィルの音楽家が、ぼくに伝えたわけである。  戦後、カラヤンがロンドンでフィルハーモニアというオーケストラを組織して活動していた頃、このオーケストラのホルンのトップが、デニス・ブレインだった。ブレインは一九五五年頃、自動車事故で亡くなったが、今でも世界音楽史上最大のホルン奏者として、伝説的人物だ。千葉馨は、このブレインの弟子でもある。  カラヤンはブレイン的というか、イギリスタイプのホルン吹きが好きなようで、ベルリン・フィルの常任指揮者になってからも、|屡々《しばしば》イギリスの若い奏者をオーケストラに入れている。しかしどれもうまく行かない。ベルリン・フィルは強烈な個性と音色を持っている。ホルンのセクションは特にドイツ的である。そこへいきなりカラヤンがイギリス的なのを連れて来ると、人工臓器の移植の時のように拒否反応がおきるのである。みんなでよってたかって演奏上の意地悪をして、結局はイビリ出す。カラヤンが指揮している時はまだしも、しかしベルリン・フィルの年間のスケジュールの、三分の一か四分の一しか、カラヤンは指揮しないのだ。今まで何人かがいたたまれず、去ったのだった。  バーチは、「ウーン……」とうなっている間にコンピューター的な早さで、このことを考えたのだろう。それにしても、 「ベルリンにはうまいさしみや、焼き魚がねえからなあ」  とは、よくも言ったり、である。ぬけぬけとこんなことを理由に、カラヤンの切なる希望を断わったヤツが、世界にいるだろうか。  バーチという男は、不思議なガクタイである。これほどガクタイらしくないガクタイもいないし、こんなにガクタイ的なガクタイもいないように思われる。意味不明だろうから説明しよう。 「ガクタイ」というのは、主にオーケストラに関係する音楽家のことを言う。指揮者や作曲者も関係するから、ガクタイと称してもいいのだけれど、よほどオーケストラの内部に深いかかわりがないと、その資格がないようである。ピアノやバイオリンの独奏者のお嬢さんは、ガクタイとは言えず、だが、江藤俊哉さんはガクタイの仲間である。海野義雄さんも勿論そうだが、最近芸大教授というエライ面が多く目立って来て、|一寸《ちよつと》ガクタイ的でなくなって来た、なんていう風に使う。  かく言うぼくは、昔、オーケストラのタイコたたきだったし、自分のことを百パーセントガクタイだと思っている。他人さまがどう思っているかは知ったことではない。音楽大学の指揮科を卒業して、どこかの国のコンクールの賞を取って来たくらいでは、われわれはガクタイとは認めない。仲間に入れてやらない、と言ってもいい。作曲家の場合、黛敏郎さんや石井真木さんはガクタイである。他の方々だとなんとなく芸術家的気位の気高さが、ガクタイと言うのにちょっと抵抗がある。  要するに、「ガクタイ」というのは、オーケストラマンを中心とした仲間が、他の世界の人間とを、自ら|蔑称《べつしよう》をもって区別し、本当はそこに大きな誇りを感じている呼び方だろうと思う。  ブンシ、ブンヤ、トコヤ、ヤクニンなんて言い方にも同じような感じがあって、自分達の仲間うちで言っていることが重要で、例えば他人に、あんたがたブンヤは、と言われるとムッとするくせに、おれたちブンヤは、と言う時には|何故《なぜ》かプライドを身の内に感ずるらしいのだ。  一般に、大酒飲みで、食い道楽で、バクチならなんでも強く、とにかく遊び好きで、その上本職の腕が際立っているヤツが典型的ガクタイであり、ガクタイとは千葉馨を指すための言葉だと言いたくなるほどである。  バーチは料理をすれば、本職はだし、いや、本職そのもので、これは芸術的好奇心ではなく、ガクタイ的何でもやってみようの執着心プラス、センスの当然の帰結だと思われる。車のことも何でも知っていて、買ったばかりの新車のエンジンをいじくりまわし、自分好みにチューンアップして、初ドライブで火を吹いて車はまる焼け、内部を改造した車には車屋は補償してくれなくて、泣きべそをかく。マニアと言ってもいいだろう。  葉巻の選び方にもうるさく、どうやって火をつけると葉の分子構造を壊さずに、最後までうまい煙を吸えるか、そのためにはくゆらし方もこのように、とか、パイプにたばこをつめる時はこうしたほうがいい等々。スポーツに関してだけは、実行面で大男総身にナントカらしくダメらしいのだが、|凡《およ》そありとあらゆることにやたら詳しく、しかも信用出来るのだ。  いつかぼくが超音波の泡風呂にこったことがあって、世界中に持って歩きたいがこの機械は重いので、と嘆いたことがあった。ヨッシャ、作ったると、彼はたちまち一日で完成した。女の人が髪をセットするもので、頭にすっぽりかぶって、その中に温風を吹き込む式のを改造しようというのだ。これなら携帯用に有難いとよろこんだが、実験の段階で失敗だった。空気の圧力が弱すぎて、風呂の湯をおしわけてブクブクと出来なかったのだ。  よろず何事にでも興味シンシンで、しかもすべてに専門家はだしで、その上、NHK交響楽団組合の委員長をやっていた。選ばれたからなったのだろうが、とにかく楽員の代表を四年はやっていたはずである。その上でよくもまあ、日本で一番上手いホルンが吹けるものだ。|即《すなわ》ち大変ガクタイ的であって、同時にガクタイ的でないとも思えるのだ。  どうです。ガクタイという言葉のニュアンスが少しは分かって来ましたか? ますます不可解になったかもしれないが。  バーチについて、|所謂《いわゆる》ガクタイ的でないと思えることに、彼がとても文化人だということがある。  この文化人という言葉は、ぼくは嫌いで、日本では何かのジャンルの芸術家が本職がもう駄目になってしまって、他の色々な分野、つまり審査員とか、クイズとか、エッセーとか、えらい人といつもパーティで一緒とか、日中親善等やたら顔を出し、とても有名に活躍しているような人物を指すようだ。バーチはそのような意味での文化人ではない。他に言葉がないからしかたがないが、岸田衿子さんに「大男のホルン吹きがやって来た」という詩を書かせてしまったり、沢山の絵描きが彼をモデルにしたり、ダウン・ビート誌の人気投票ナンバーワンの秋吉敏子さんと親友だったり、サキソフォンを吹くタイの王様と徹夜で一緒にホルンを吹いたり、とにかく芸術界全般との付き合いがおそろしく広く、しかも深いのだ。良い意味で顔が広いのだ。ヘンなホルン吹きだ。  以前にN響と演奏旅行したヨーロッパやアメリカの街に、ぼくはひとりでしょっちゅう仕事に来る。よくきかれる。「あなたのオーケストラの、あの背の高い、すてきに上手いホルン奏者は元気ですか?」カオル・チバという名前を知っているわけではない。聴衆の一人だっただけなのに、こういうことを言う人が実に多い。ガクタイらしくないことである。  大分以前に、三晩続けて同じ曲をやる音楽会だったが、一カ所、音楽の中でどうしてもバーチと気が合わないところがあった。練習中から既にそうで、両方でさぐり合ったまま本番になったのだ。二晩目が終わって、やはりうまく行かない。夜おそくまでぼくは一人で悩んでいた。ベルがなった。三時過ぎだった。「あそこんとこ、どうしよう?」  こういう音楽家、ガクタイと仕事が出来ることは、指揮者|冥利《みようり》につきると思う。  二十年間、N響を振る度に、バーチに勝負をいどんでジタバタやって来た。説明するのは不可能だが、音楽の内面で勝ちたいという意味である。まだ一度も勝てないのだ。  N響はぼくには世界で一番大事な、好きなオーケストラだが、時々、でも一体どうしてなんだろうと思う。その度に、N響とは千葉馨その人を指すことだ、バーチがぼくのN響なのだと思うのだ。  ひとには全く分からないだろうが、ぼくが心の中で繰り返し叫ぶ言葉がある。 「長嶋茂雄は、ジャイアンツの千葉馨なのでーす」  D───   ディーン・ディクソン     (指揮者)   Dean Dixon  よほどのクラシックファンでない限り、もうこの人の名前を知っている人は、少ないだろうと思う。アメリカ人の指揮者で、長いことフランクフルト放送交響楽団と、シドニー交響楽団の常任指揮者をしていた。日本にも一度、NHK交響楽団を指揮しに来たことがあるが、まあ、どちらかと言えば、地味な指揮者だった。  ディーン・ディクソンは黒人だった。黒人で、世界音楽史上初めて一流の域に達した指揮者だった。  戦後、|颯爽《さつそう》とデビューし、ニューヨーク・フィルハーモニー等アメリカの一流のオーケストラを指揮して、世界中の大きな話題になったものだった。地味だったと、初めに書いたけれど、どうして、どうして、大変に派手な存在だったわけだ。しかし彼は六十歳になる前に、指揮者としては比較的短い一生を、ヨーロッパで終えた。  アメリカの音楽界は、ディクソンを新人の指揮者として、センセーショナルに迎えたが、すぐに彼を追い出したのだ。抹殺したと言ってもいい。黒人だったからだ。  第二次大戦後間もなくの頃だったのだから、アメリカでの黒人の立場は、今では想像もつかない程ひどかったに違いない。プロ野球にもまだ黒人選手を入れなかった頃だったのだ。バーンスタインがニューヨーク・フィルハーモニーに、|囂々《ごうごう》の非難を押し切って黒人のバイオリン奏者を入れたのは、戦後十五年も後の|筈《はず》だ。白人のエリート・スノブ社会の文化の中心とも言えるオーケストラの舞台に、いきなり黒人の指揮者が登場したのだ。風あたりがすごかったろう。  アメリカのオーケストラは、市民達の援助で成り立っている。国や州には助けを求めず、したがって介入もさせず、自分達の文化は自分達の手で育てる、と|流石《さすが》はデモクラシイの本場の国だ。  今手元に、ぼくが先週指揮して来たデトロイト交響楽団のプログラムがある。  最初のページはこのオーケストラの経営に参加している市民達の名前で、理事が十四人並んでいる。理事長は自動車産業の中心地デトロイトらしく、フォードの会長である。その後に経営委員達が百五人、ずらり。  次のページは、オーケストラのためのパブリシティ等、いろいろな種類の委員達の名前が沢山のっている。ウィーメンズ・アソシエーションとか、ジュニア・ウィーメンズ・アソシエーションというのもある。奥様方や、若奥様達のファンクラブの代表みたいなものだろう。このミセスなんとかさん達の名前が、合計三十二人。次のページは、ミシガン州のいろいろな町のデトロイト交響楽団を援助する団体とその名前でうずまっている。  次のページにオーケストラのメンバーの名前があって、五ページ目に初めて、本日の指揮者や曲目が出て来る。ここからしばらくは曲目の解説なんかが続いて、音楽会のプログラムらしくなるのだが、後半の十ページ位に、無数と言いたい程のミスター・アンド・ミセスの名前が出ている。一ページ平均、百八十組の夫婦の名前が並んでいる。それにまた、ミセスだけの名前も、何故か、沢山ある。壮観だ。  様々のグループに分かれて、それぞれ名称があり、訳してもニュアンスが出ないから、片仮名で書くけれど、「フレンド」が一シーズンに一ドルから百四十九ドルまでの額の寄付をする人達、「アクティブ」が百五十ドルから二百四十九ドルまでの人、だんだん高額寄付者のグループになって来て、「コンダクターズ・サークル」というのは二千五百ドルから四千九百九十九ドルまでだし、年間二万ドル以上寄付する大物グループの名称は、やたらとえらそうに長い。"Major Sponsoring Members of the Maestro's Circle"というのだ。  こういったページが全部で十二ページもある。曲目解説や指揮者、独奏者の紹介が八ページで、他に広告だけのが十二ページといったわけである。  このデトロイトに限らず、アメリカのオーケストラの運営は、どこも|殆《ほとん》どこれと同じで、だからプログラムも似たりよったりである。つまりスポンサーの名前のページの方が、音楽に関するページよりずっと多いのだ。沢山の寄付者の中には、勿論音楽に関心のない人も多いだろう。だがこうやって寄付をすれば、プログラムに名前がのるのだし、パーティに明け暮れるアメリカ善男善女社会でのステータス・シンボルとして、非常に重要なことなのだ。  こんなに寄付を集めても、アメリカのオーケストラは人件費が高いので、どこも経営に苦しんでいて、寄付者をもっと、もっと集めたい。したがって名前ずらりのページがますます増えて行く。  それこそ、「お客様は神様」だ。その神様のお金でオーケストラはやって行けるのだが、問題も大いにある。つまり、金も出すが口も出すのだ。膨大な数のスポンサー達の大半が、おばあちゃんなのである。要するに金持ちの未亡人、有閑マダムのスノビズムが、その街の音楽を支配することになる。指揮者も、オーケストラの支配人も、おばあちゃん達の投票でいっぺんに首がとぶのだ。人気稼業だからしようがないにしても、アメリカではおばあちゃん達に気に入られないと、音楽家は仕事が出来ないといっても、そう|大袈裟《おおげさ》ではない。  随分長いこと話が横にそれてしまったけれど、ディーン・ディクソンがデビューした頃の、今から三十年以上前のアメリカの文化界は、百パーセント白人で占められていた。そこに才能にかがやく若い黒人の指揮者が登場したのだ。最初のうちこそすばらしい! センセーション! と叫んでいたかもしれないが、寄付者達はじきに不愉快になったのではないだろうか。オール白人の聴衆、スポンサー、オーケストラの中心に、何故ニグロがいるのだ。あんなのに指揮させるな。  ある一つの街の白人スノブ階級からニグロ・コンダクター追放の声があがり、こういうことはすぐに伝染して、ディクソンは全米のオーケストラから締め出されたのだ。  西ドイツのフランクフルトの放送局が、失意の彼を、常任指揮者に迎えた。楽員に尊敬され、関係者に|惚《ほ》れられ、途中でシドニー交響楽団の常任も兼ねたが、死ぬ二年位前まで、二十年近くずっとフランクフルトの指揮者をやっていた。得意はブラームスとかブルックナーのようなドイツの重厚な音楽で、彼のドイツものに|惹《ひ》かれるドイツ人のファンが多かった。彼が黒人であることに何の障害もなかった。  ぼくが最初にディクソンに会ったのは、十年位前に、彼のオーケストラと録音の仕事をやった時だった。  録音の最中、ミクサールームに、突然黒い顔が見え、技師達が立ち上がって、ていねいに|挨拶《あいさつ》をしている。ははあ、あれがディクソンだなと横目で見ながら録音を続けていた。  休憩になり、ぼくはプレイ・バックをききにミクサールームに入った。彼とお互いに初めましての握手をかわし、厚い、大きくてやわらかな手だった。ところが握手もそこそこに、彼は一寸失礼と言って、小走りに出て行ってしまった。おかしな人だなと思いながら、プレイ・バックをきいていた。  すると、ハアハア大きな息遣いがきこえ、ディクソンが大きなタオルと、冷たいコーラを持って来てくれたのだった。そんなに大きい人ではなかったが、相当に|肥《ふと》っていて、その|身体《からだ》であえぎながら、かなり遠くにある自分の部屋からタオルを取り、ついでに放送局の長い廊下の先の自動販売機から、コーラを買って、急いで持って来てくれたのだ。汗だくの顔でプレイ・バックをききにミクサールームに入って来たぼくを見て、心配してくれたのだった。  翌日彼の家に招かれ、ディクソンの手料理を|御馳走《ごちそう》になった。先祖伝来のアフリカ料理だそうで、ピリピリとからかった。家には他に誰もいなくて、ラジオの音楽を小さくつけながら、二人だけでこのピリピリを食べ、話がはずんだ。  きくともなしにつけていたラジオの何かの言葉に彼はとび上がった。米軍用の英語放送だった。肉をつきさしていたフォークを放り出し、ラジオにとびついてボリュームをあげた。マルティン・ルーター・キング暗殺の臨時ニュースだったのだ。  ニュースをききながら、ディクソンの大きな目の玉がもっとふくらんだ。涙だった。|溢《あふ》れて|頬《ほお》を流れた。「アメリカはどうなるんだ。こんなことばかり続いて、アメリカはどうなる……」とつぶやきながら祈り、祈りながらニュースをきくのだった。  きき終わって、猛烈にしゃべり出した。どんなに自分がアメリカの将来を心配しているか。アメリカの現在をどんなに憂えているか。どんなに自分がアメリカを好きか。祖国を愛しているか。祖国という言葉を何度も言うのだった。  M・キングのニュースはぼくにもショックだったが、ディクソンにもおどろいた。フランクフルトの放送局の関係者の間では、なるべくアメリカの話を、彼の前ではしないという配慮があるときいていた。彼がアメリカを憎みに憎んでいるからということだった。別に亡命しているわけではないが、アメリカの楽壇を石もて追われ、差別の犠牲者なのだ。彼の涙を見、祖国への愛をきいて、アメリカで指揮活動を出来ない彼の不幸が、より痛切にぼくの心を突き刺すのだった。  ディクソンは死ぬ五年程前に、幸福な再婚をした。ぼくのウィーンでのマネージャーだった人の秘書で、スイス人の明るいお嬢さんだった。別れた奥さんはフィンランド人で、これが大変な悪妻だったそうだ。この人とディクソンと三人で一度食事したことがあるが、絶えず人前でも亭主を罵倒し、それくらいならよくある猛妻だが、最後に必ず亭主の色のせいにする、心ない人だった。彼は円満な人だったから、寂しそうにニヤリとするだけだったが。  だから回りの人がすごく気をつかい、気をつかい過ぎて、いつも不自然だった程だ。シドニーの関係者にきいた話だが、イギリス系の国ではコーヒーや紅茶を注文すると、必ず、ブラックですか、ホワイトですかときき返される。彼と一緒に食事をする時は、横で先手を打って、この方にはミルク入りのを上げて下さいと言わねばならず、テレビの白黒は「モノ」と言うようにしたり、とにかく彼との会話には一切「色」の話をしないようにする、とかの苦労があったそうだ。  二度目の奥さんは、思いやりのある頭の良い人で、ちょっとの間に、魔法のようにディクソンの色コンプレックスを取り去った。彼自身平気で自然に「コーヒーのホワイトを」と言うようになったし、関係者も安心して色のことをしゃべれるようになった。一体どうやって、長年「色」に痛めつけられた彼の心を明るく開放してしまったのか、|謎《なぞ》である。  ディクソンは死ぬ一年前から、再びアメリカの一流オーケストラを指揮するようになった。  何年も前から、黒人の指揮者が何人か活躍するようになっていたし、黒人のオーケストラの楽員の存在も普通になった。アメリカも変わった。ディクソンヘの招待ももう数年前からあったらしいが、今度は彼が拒否を続けたのだ。  彼の心を解きほぐして、アメリカでのカムバックを実現させたのも、再婚の夫人だった。そして、カムバックをはたしてすぐ、ディクソンは死んだ。  目のきれいな人だった。表情豊かで暖かく、慈愛のこもった美しい目だった。やっと愛する祖国で再びという時、指揮棒は折れてしまった。  E───   延命千之助     (NHK交響楽団事務職員)   Sennosuke Enmei  ものすごくお目出たい名前である。出来過ぎているし、一度きいたら、まず絶対に忘れないだろう。だが、芸名とかペン・ネームではない。本当の本名なのだ。  延命さんは、われわれ日本の音楽家の間では超有名人だ。彼を知らないのは、ガクタイとしてモグリだと言っていい。N響と仕事をする世界中の指揮者や独奏者の間でも、名物的存在だ。そういう人達とヨーロッパで会うと、延命さんをサカナにして、話がはずむのだ。  しかし一般的には、延命さんの名前を知る人は、全くいない筈だし、それに彼自身、少しでも人に名前を知られるなんてことを、病的に嫌い、いやがる人なのである。この「E」の項に彼の名を出したのがバレると、どんなに嘆くだろう、悲しむだろう、怒るだろう。それを思うとぼくの胸も、今キュッと痛んでくる。  延命さんは、N響の裏方の人なのだ。  オーケストラというのは、百人前後の音楽家の集団である。バイオリンや、チェロや、フルートや、ホルン等、ステージの上にならんでいる沢山の音楽家達が、一斉にかなでる音楽に、お客さんはうっとりする。陶酔しなくとも、やっと連れて来た女の子の手をそっとにぎるのに成功することもあるだろうし、アラを探しに来て、予定通りにオーケストラの下手なところを発見出来、プリプリ怒って、それが趣味だという人もいるだろうし、とにかくオーケストラの演奏をナマで聴くことは楽しい。  だがオーケストラの演奏会が無事に始まるためには、実にびっくりするほど沢山の裏方さん達の働きがあるのだ。音楽会の一年以上も前からホールを予約したり、勿論指揮者や独奏者と出演交渉をしたり、ひとつひとつはそんなに重くないにしても、合計するとやたらかさばる楽器類を丁寧にトラックで会場に運んだり、プログラムを作って、経歴が間違っている、キャリアに|疵《きず》がついたと、ピアニストに怒鳴りこまれたり、ハイ始まりですと指揮者を楽屋からステージに導いたり……、こういった裏方さん達の種類や、人数は大変なものである。裏方は表面に出ないから文字通り裏の人で、だが裏方の仕事がどの部門で欠けても、音楽会は成り立たない。  オーケストラの裏方さんは、大抵の場合、分業がはっきりしていて、事務だけの人とか、楽器をかついでステージにセットだけする人とか、譜面係といって、楽譜を整理し、ステージの上の譜面台にいちいち配って歩く人もいて、中世ヨーロッパだったら、いったいいくつのギルドが出来るだろうくらいの職種に分かれるのだが、延命さんはそのどれにでも関係していて、忙しく一年中かけまわって太るひまもなく、だから三十年来いつもハリガネみたいで、「イエス・サー」、「オーライ、オーライ」、「マエストロ、プリーズ」、「結構でしたア」など、|真面目《まじめ》とも冗談ともつかない大声をあげて、スーパーマンみたいに働き続けている仕事の鬼なのだ。  彼の正式の職名はN響の事務局の主管ということで、この主管というのはぼくにはよくわからないが、一般的な名前に訳すと課長といったことになるか。部も課もない筈だから、こういう変な名前になるのだろうか。N響には音を出す人、つまり楽員が百十二人いて、音を出さない事務局の人が二十三人いる。もしかしたら事務局なんて立派な名前ではないかもしれなくて、ただの事務所と言うのだろうか、毎日来て仕事をしている常務理事という人と事務長という人がいて、延命さんはこれに続くナンバー3という存在だと思う。理事長とか副理事長というエライ人もいるが、別室におわしますから事務所の兵隊の位に入れなくてもいいだろう。乱暴な話だが、もう二十何年N響に関係しているくせに、ぼくはよく知らないのだ。  オーケストラの事務局というのは、大体こんなもので、普通の会社と|較《くら》べるとなんともチッポケな超零細企業そのものだが、世界中でN響の事務局の人数は大変多い方といえる。  延命さんの職名も営業部長とか人事課長だったらピンと来るのだが、彼の事をなんて言ったら分かるだろう。企画をたてる人、楽員の出欠や遅刻を調べる人、指揮者の世話をする人、バンドボーイの親方、ステージ・マネージャー、ナンバー3だから組合には入れず、当然管理者側の人だから、いつも組合にいじめられる人……。  こういう複雑な忙しさの人が世界中どこのオーケストラにもいて、それぞれ呼び方が違ったり、していることも少しずつ変わっているのだが、ぼくは総称して「エンメイさん」と言っている。「ここのオーケストラのエンメイさんはデブだね」とか、「ベルリン・フィルのエンメイさんは今病気だそうだよ」という風に使うのだ。  延命さんを初めて知ったのは、もう二昔も三昔も以前のことだ。ぼくは芸大の学生だった。知り合ったのではない。こちら側から一方的に延命さんの存在を知っただけで、名前は無論分からず、N響の強力な番犬としてのおそろしさに手をやいたからだ。同時に延命さんも、こちらの存在を、悪質なゲリラ的モグリとして知った筈である。  今に「Y」の項になったら、山ほど書くことがあるのだが、山本直純はその頃からぼくの無二の親友であり悪友なのだ。ぼくは打楽器科で、ナオズミは一年下の作曲科の学生だった。ぼくが芸大の二年生の時からの交際で、というのは二年になった時にナオズミが学校に入って来たからだが、それから二年半程の間、朝から晩まで、晩から朝まで、いつでも二人で一緒にさわいでいた。さわいでいたといっても、音楽のこと、特に指揮のことばかりで、なにしろ二人とも、なんとか今に指揮者になりたくて、なりたい、なりたい、とわめき合っていた学生生活だった。  音楽会にもいつも二人で行った。あやしまれないように言っておくが、われわれはアヤシゲな関係ではない。ナオズミの顔を見れば分かるでしょう。われわれはホモには全く無縁である。要するにオーケストラの演奏会を勉強しに行ったのだ。つまり、終わったあとで、その日の指揮者をクソミソにけなすのが勉強で、両者のけなし方が全く一致することはまずないから議論になり、ケンカになり、晩から朝までになったのである。  勉強に一番良いのは、N響の定期演奏会に行くことで、けなすことだけではない。N響は当時もとびぬけて立派な大オーケストラだったし、マルティノンとかカラヤンなんて大物が時々指揮したりして、本当に勉強になったのだ。ただ、ナオズミとぼくのモットーは、N響の音楽会だけは、絶対に切符を買わずに、必ずモグル──裏口から忍びこんで、タダで大指揮者や大オーケストラを勉強することだった。  昭和二十七、八年当時、他に東京フィルハーモニー交響楽団や、東京交響楽団が演奏活動をやっていたが、ぼく達学生の目から見ても、N響に較べていかにも貧乏そうに見えた。N響は日本音楽界の「体制」だった。だからわれわれ二人は、東フィルや東響の音楽会には必ず切符を買って入ったし、N響以外のどんな演奏会にも、モグルなどという|不埓《ふらち》な考えは持たなかったのだ。  ぼく達二人の、体制への挑戦の当面の最大の敵は、延命さんだった。名前を知らなかったから「番犬」と呼んでいた。われわれは番犬に見付かると、追い散らされ、どなりまくられる被害者だった。だが本当の被害者はモグられる方のN響だったのはもちろんだ。われわれのモグリの成功率はきわめて高かったのである。番犬にはばまれたのは二回だけだったと記憶する。  N響にCIAがあったとはとても思えないが、二人がこれからN響定期演奏会の日比谷公会堂に向かいつつあるという情報を、どこからかつかんでいたに違いないと思える程、警戒は厳重で、ぼく達が行かない時に、たまたまモグった奴の話では、案外ゆるやかだったということで、番犬と札付き共とのゲーム化していたような気もする。  カラヤンが第九をやった時、こういう鳴り物入りの音楽会は、番犬の緊張もすごいだろう、いっちょうヤッテやるかと、また挑んだのだ。|先《ま》ず、黒服に黒の蝶ネクタイで、身を固めた。コーラスと同じ恰好をして、日比谷の裏口を大勢の合唱団と一緒にぞろぞろまぎれ込んだ。通行証は勿論持っていないが、こういう時は、自分がそれを持っているのだと、しっかり思いこめば大丈夫だというナオズミの意見だった。係の人はこっちの手をいちいち見るわけではない。堂々たる態度が肝心だそうだ。首尾よく楽屋の入り口を突破した。  せまい楽屋のロビーで、大勢のコーラスと満員電車よろしく、押しあいへしあいをしながら考えた。これからどうやって楽屋と客席の間の次の関門を通るか。第一のよりもっと厳重だろう。 「オイ、せっかく入ったんだから、指揮者の部屋のドアを開けて、カラヤンを見て行こうじゃねえか」とナオズミがささやいた。コーラスを押し分けて、カラヤンの部屋に近づいた。残念、扉の前に延命さんが立っているではないか。 「あっ、こいつラッ!」  番犬がとびかかって来た。どうやってびっしりのコーラスの中を通り抜けたか、覚えていない。楽屋から客席へ行ける通路はもう駄目だ。|咄嗟《とつさ》にわれわれ二人はステージに走り出て、客席に飛び降りた。オーケストラはまだステージに出ていなかったが、かなり沢山のお客がもう席に着いていた。同じくステージから飛び降りて追って来る延命さんとぼく達二人は、日比谷公会堂の客席の通路でまだ席をさがしているお客の間を、一階から二階、二階から三階と走りまわったのだった。  二人一緒に逃げるのは、この際セオリーに反する。だがモグリに成功した場合、二人で一緒にカラヤンの指揮を眺めたいし、終わってからの議論のためにも、そうでなくてはならない。だからぼく達はそう遠くに離ればなれにはならずに、逃げ続けた。一人が捕まりそうになると、片方がわざと近よったりして陽動する。番犬に気の毒なのは、客席では大声を出せなかったことだった。  それでもあわやという時、天の助けか、開演五分前のベルが鳴った。チェッという声を残して番犬は三階から降りて行った。ナオズミとぼくは、通路の階段にヘタリこんで、ハアハアあえいでいた。カラヤンが出て来て、第九が始まった。  今思っても感心してしまうのだ。同じようにハアハアの延命さんは、三階の客席から楽屋にすっとんで帰って、 「マエストロ、オン・ステージ・プリーズ」と、カラヤンをステージに導いた筈である。どうやって、ハアハアを鎮めたのだろう。プロというものは、こういうもんだと思うのだ。  このゲームは、ぼくが芸大の四年の九月に、突然終了した。あろうことか、N響指揮研究員というのに、ぼくがなってしまったからだった。その後何年かは、ナオズミはぼくを仲間にしてくれなかった。それはそうだろう。ある日ぼくが突然、あの体制側の人間になり、番犬の仲間になってしまったのだから。  さて、仲間になった延命さんは、百パーセント頼りになる人だった。チンピラ指揮見習いが、N響を振るチャンスも時々あった。チンピラでもその日のN響を振る人間は、大事なN響の指揮者という信念なのだろう、こちらのあらゆるコンディションに気を配ってくれた。それ以来二十年以上の交際だけれど、すべての指揮者にその配慮は変わらない。個人的な好き嫌いからではなく、強烈なN響愛に根ざしたものなのだ。いや、プロ根性といってもいい。  慶応美学の出身。本当はインテリだ。ぼくより十歳近く年上だ。あと二、三年で定年ときく。こういう人に定年というものが、あっていいものだろうか。  F───   ジャン・フルネ     (指揮者)   Jean Fournet  羽田のVIPルームで初めて会ったジャン・フルネは、とても大きい人だった。写真で知っていたフルネはもっとひきしまった小柄なフランス男、という印象だった。それがいきなり、かなり上の方から、低音でゆっくりボンジュールと言われ、同時に大きな手にぼくの右手全部をすっぽり包まれたような具合で、強くにぎられたのだ。  痛かった。表面はゴワゴワで、中身はやわらかそうだが、がっしりぶ厚く、指は冷たいのに、手のひらの真ん中は温かくて、妙な感じだった。  あの頃、一九五〇年代の終わり頃だが、ぼくにはいわゆる外人サンと接する機会なんかほとんどなくて、紅毛|碧眼《へきがん》は実に苦手だった。今は若い音楽家たちに、握手をする時は相手の目をじっと見ながらやれとか、やかましく言っているが、フルネとの初対面の時の、彼の手のことばかり覚えているところをみると、きっとうつむいて握手したに違いない。だから、ボンジュールも上の方から聞こえたのだ。  ジャン・フルネは、ぼく達の間で神秘に包まれた伝説的な存在だった。フランス人の指揮者は、世界中にちらばっているのを捜しても、数が少ない。恐らく日本の聴衆が最初に接した第一級のフランスの指揮者は、一九五三、四年頃N響を指揮しに来たジャン・マルティノンだったと思う。大分後になって、シャルル・ミュンシュが来たが。  敗戦から何年もたっていなかった当時の日本の音楽界は、目が|碧《あお》く、鼻が高ければ、どんなインチキでも世界的巨匠と宣伝出来、お客は音楽会に押し寄せるのだった。現在、来年は一九八〇年という今だって、世界の情報は何でも日本に入っている筈なのに、この傾向はあまり変わっていない。変な国、不思議な国民だ。  一九五〇年代にぼく達が|固唾《かたず》を飲んで見た指揮者が、ヨーロッパの新進気鋭、ウィーンのニュー・スターなんて触れ込みで、実は最初の本格的な正式のコンサートが東京のだった、なんてことの真相を最近知る度に、切歯|扼腕《やくわん》するのだが、なんてことはない、当時ぼくはこの指揮者に大感激していたのだ。ぼくの二十代前半の、あの時の興奮を今になって否定したくはないのだが、どうも変な気になる。  芸事とは|所詮《しよせん》、人に夢を売ることだろう。芸人自身に夢はなくとも、人さまが夢を感じれば、その芸事は成功といえるだろう。情報皆無の状態も捨てたものではない。今よりも多くの感激、感動があったかもしれない。  しかしそういった素朴な夢を、いっぺんに覚ましてくれたのが、ジャン・マルティノンだった。夢見る幸福なイナカ日本の聴衆にも、本物というのは、特別にきらめいた。一度本物を知った客は、ニセモノが分かるようになる。  ウソ物しか知りようがなかった日本の聴衆に、本物というのはスゴイモノだと感じさせたマルティノンは、戦後日本の音楽界に最大の貢献をしたことになる。最初のショックだけに、その翌年に来たカラヤンより、はるかに重要だったと思うのだ。  マルティノンがN響を指揮しに来た頃、ぼくは芸大に入ったばかりの学生で、切符を並んで買ったり、楽屋口からもぐりこんで、運よくステージの裏から、今なら指揮者をアップで撮るためのテレビカメラがある位置のところで、マルティノンの顔だけを拝んだりした。フランス風の演奏というのはこういうものだったのかと、電気に打たれたように感動したのだった。  それまでは、外国から来る指揮者は、ドイツやオーストリーからにきまっていて、日本の音楽界は極東の片田舎から、はるかかなたの音楽の都ウィーンやベルリンに熱いまなざしを送っていたわけである。ごく少数のフランス派はいて、パリ音楽院で正式に学んだ人はめったにいなかったが、うまいこと外貨の割り当てをもらってちょっとでもパリに滞在した人は、もう根っからのフランス信者になってしまい、ぼくたち普通の音楽学生には鼻もちならなかった。ぼく自身は、全くのドイツ派とかいうものではなかったつもりだけれど、なにしろ日本の音楽家の殆どがドイツ風の音楽教育を受けていたので、フランスぶる連中がとてもイヤラシク見えた。  そこに登場したのがマルティノンだったのだ。今までフランス派の連中からきかされていたフランス音楽なるものが、彼らの麗しい誤解によるものだということがよくわかった反面、ぼくにとってあまりに新しい音楽の世界だったので、むしろそれまで以上にぼくのフランス音楽観は混乱してしまった。  |茫然《ぼうぜん》とマルティノンを見、聞きして、たちまちぼくの指揮者の理想にまつりあげたのはいいが、御本尊さまはほんの一カ月で日本から消えてしまい、ぼくのフランス音楽に対するコンプレックスは、マルティノンが日本に来る前よりひどくなったようだった。フランス派たちへの不快感もあって、フランス音楽をきくことも、勉強することもやめてしまった。フランス音楽から逃げたわけである。音楽を勉強するのに一番大切な時期にバカげた空白期を作ったものだと思う。  何年かたって、もう一人のフランスの指揮者が日本に来ることになった。ジャン・フルネだ。フルネの名前も、もうとっくにぼくたちの間では知られていた。マルティノンとは違い、フルネに対してはむしろ神秘的なあこがれを持っていたのだ。前者は世界中で売れに売れていて、ヨーロッパ各地での活躍ぶりや、アメリカでの成功のニュースも伝わって来ていた。ところが後者についてはそういう仕事ぶりはきかず、フランス国内でじっくりフランスものを演奏し、マルティノンのように、外国人に分かりやすいフランス音楽をやったりはせず、妥協のない態度で純粋なフランス風演奏スタイルを守っている、孤高の人であるということだった。ドビュッシーのオペラ「ペレアスとメリザンド」の日本初演のための来日で、オペラはパリから連れて来たテノール以外は全部日本の歌手達が歌い、当時出来たばかりで張り切っていた日本フィルハーモニーが演奏することになっていた。オペラの|稽古《けいこ》が始まる前に、一度だけN響の公開演奏会を指揮する筈で、このスケジュールは、それまでに日本に来た他の指揮者たちとは違っていて、つまりひどく単純で、ぼくにはより孤高の人に見え、ありがたく思えたのだった。  ぼくはフルネを羽田まで迎えに行った。ただのファンとして眺めに行ったのではない。マルティノンの頃とは違い、一応まだ学生ではあったが、同時にぼくはN響の指揮研究員だった。いわば指揮の見習いである。副指揮者というには程遠く、アシスタントというカッコよさでもなく、やはり見習いは見習い、なんでもかでもオーケストラにこき使われていたのだった。それが修行であるゾヨ、なんていわれながら。  飛行場に人を迎えに行くような面倒なことは、だからぼくの仕事だった。羽田にはオペラの関係者が沢山来ていた。日本フィルからも何人かが来ていて、NHKからは一人、N響の人間は勿論ぼくだけだった。要するにフルネは、歌劇「ペレアスとメリザンド」を練習期間を含めて約一カ月指揮するために日本に来たのであって、N響を振るのは、そのついでに、ということだったのだ。税関から出て来たフルネは、大勢の人が待っているVIPルームに連れて来られた。  |米搗《こめつき》バッタのようにお辞儀している人や、大きな声で片仮名のボンジュールを叫ぶ人でごったがえしている部屋の隅で、ぼくは小さくなっていた。と、フルネに付き添っていた通訳の人がぼくを呼んでいる。フルネがN響関係の人間に会いたいと言っているそうだ。N響からはぼくしか来ていない。仕方がない。そこで、下を向いての握手、上からのボンジュールになったのだった。  どんなに沢山のオペラ関係者に迎えられようと、差し当たってフルネの最初の仕事は、明日のN響との練習なのだ。彼の第一の関心は最初に仕事するオーケストラにある。  矢継ぎ早に質問がきた。 「オーケストラはどんな編成か」 「十六から八までです」  これは解説の必要があるだろう。十六人の第一バイオリン、十四人の第二バイオリン、ヴィオラが十二人、チェロが十人、コントラバスが八人ということで、間を抜かして十六から八と言えば、オーケストラ関係の人間にはピンと来る。十六型とも言う。例えば、十四型とは第一バイオリン十四、以下二人ずつ減ってコントラバスは六人、十二から四と言えば絃の奏者が計四十人のオーケストラを指す。管の数は楽譜通りだから言う必要はない。 「オーケストラはフランスの音楽に慣れているか」 「いいえ、あまり……」 「ジュドゥ・タンブルはあるか」 「……?」  当時のぼくはそんなのを聞いたことがなかったのだ。|鍵盤《けんばん》を使って弾く鉄琴のことで、フランスで発明された楽器である。彼は肩をすくめた。 「私は大変疲れている。明朝はあなたにオーケストラの練習をやってほしい。勿論私は横で見ていて、色々注文は出す。ではこれで」  返事するチャンスもなく、フルネはもう別のオペラ関係の人と話をしている。通訳を通してなので余計そう感じるのかもしれないが、なんて冷たい人だろう。ニコリともしない。一言も無駄を言わない。  さあ大変だ。フランス音楽から逃げていたぼくに、とんでもない災難だ。ラヴェルをフランス音楽の神様の前で指揮しなければならない。通訳め。ぼくのことをN響の副指揮者だなんてオーバーに紹介しやがって。まさか見習いにはこんな大それたことをさせないだろうが。  その日はラヴェルの「スペイン狂詩曲」と「ダフニスとクロエ」の勉強で徹夜した。文字通り一夜漬である。  翌朝、どう指揮したか、オーケストラにどう練習をつけたか、全然覚えていない。あがりにあがって汗みどろの指揮台のぼくの横に、神様が腕を組んで、ツンと冷たくすまして坐っていた。午前いっぱい拷問は続き、ニコリともしない「メルシー」でぼくは解放された。二十三歳のぼくにとって、フルネの前でラヴェルを指揮したのはチャンスだったかもしれない。しかし屈辱としか思えなかった。フランスものへのコンプレックスはもっと大きくなり、それから十五年位たってパリのオーケストラでフランスものをちょくちょく振るようになるまで、えんえんと続いた。  代りに練習をさせられた身としては、そのまま二日後の演奏会までフルネに付き添って、薫陶を受けるべきだったが、ぼくは東京をとび出てしまった。内容はカラッポだが、一寸した稼ぎの仕事が大阪にあったのだ。この仕事のイヤさと、自分の無能力さに愛想が尽き、ウィスキーばかりひっかけて二日後にフルネのテレビがあった。違う曲のように整然と見事にN響は演奏していた。フルネは指揮中も人を突き放したように冷たく、だが音楽は美しく流れるのだった。涙が出た。口惜しかったのだろう。  それっきりフルネには会わなかった。二十年ぐらいたって、ロッテルダムの彼のオーケストラを指揮した時に、会いに来てくれたのが再会で、その以後はよく会った。ぼくは三十キロ離れたハーグの指揮者だった。  その後フルネはロッテルダムを辞めて、パリの近くに新しい自分のオーケストラを作った。ぼくがハーグをやめたあと、後任の指揮者はマルティノンだったが、就任後八カ月で亡くなった。  G───   ジョージ・ゲイバー     (ティンパニー奏者)   George Gaber  今、ジョージ・ゲイバーと書いても、誰も名前を知らないだろう。いや、今でなく、たとえ二十年前だとしても、日本で彼の名を知っていた人の数は、ほんのひとつかみだったろうと思う。  ゲイバーは、NBC交響楽団のティンパニー奏者だった。トスカニーニのために作られ、誕生の最初の日から世界の超一流のオーケストラとして出発し、トスカニーニの引退で|忽然《こつぜん》とこの世から姿を消してしまった、あのNBC交響楽団のメンバーである。  プロ野球のファンなら、子供に限らずおとなだって、沢山の選手の名前を知っているものだ。現在のは勿論のこと、昔のチームでも、昭和二十何年の東急フライヤーズとか、優勝した時の松竹ロビンズのレギュラーはとか、大毎オリオンズはどの球団から誰と誰を引き抜いたとか、生き字引の人がいっぱいいて、おどろかされる。  野球に較べてファンの数が|何桁《なんけた》も小さい音楽好きについても同じことが言える。ポピュラー歌手の名前だって、あれだけ毎年、入れかわりたちかわり出て来るのを、どうやって覚えるのだろうと、あきれてしまうほどの物知りにいつも出会うのだから、ソ連の音楽家の名前を何十人もベラベラ挙げる人がいてもおかしくはない。好きこそものの……ということだ。  オーケストラのメンバーの名前となると、相当に地味なことでもあり、これの物知りというのはそんなに多くはないけれど、時々すごい人にお目にかかって、どぎもをぬかれることがある。先日アメリカで在米五十年という実業家で、帰化しているわけではなく、だからいわゆる一世でも二世でもない普通の日本人だったが、一九三〇年代のニューヨーク・フィルのメンバーのほとんどの名前を言える人に会って感心した。それも、ブルーノ・ワルターが指揮した何年何月何日のプログラムはどうで、一曲目と二曲目の木管のトップ奏者はだれだれで、三曲目はどういう人達と交代したとか、バルビロリが指揮者だった頃のアシスタント・コンサート・マスターは誰だったが、彼はその後どこのオーケストラに移った等々、一晩しゃべりまくられ、ぼくはただもう、|唖然《あぜん》としていたのだった。  ぼくだって高校の頃はかなり知っていたと思う。N響の定期演奏会をききに行って、開演前にオーケストラがステージに出て来て音を合わせている時に、今日は誰さんがフルートの二番だとか、コントラバスの誰さんが居ない、病気かな、なんていう風に客席からワクワク眺めていた記憶があるのだから。東京フィルハーモニーに行っても、東京交響楽団の会場にいても、同じようだったし、かなりうるさいアマチュアだったわけだ。うるさいと書いたが、後年プロの音楽家になってから、こういうのに出会うと、何か不気味に思えて、なんとか話から逃げ出そうとするようになってしまった。例のニューヨークの物知りくらいの化物になると、腰がぬけてしまって、最後まで拝聴することになる。  ぼくは音楽ファンと音楽の話をするのが苦手で、こういう人達は大抵すごい物知りであり、|嘗《かつ》ての自分の姿を見てしまうのに苦痛があるのだろうか。専門になると深く狭くならざるを得ない必然が、広く浅い知識を持つことの出来る暇のないことへの|嫉妬《しつと》を感ずるのかもしれない。  トスカニーニが引退した。冷たいものだ。NBC放送局はトスカニーニ抜きのオーケストラは意味がないというわけで、あの世界のトップ・オーケストラを解散してしまった。オーナーが手を引いてしまったオーケストラに次の引き受け手はいなくて、百人近くの楽員達は路頭に迷うことになった。昭和二十年代の終わりの頃だった。もともとトスカニーニのためにNBCが金にあかせて作ったオーケストラである。世界中の|選抜《えりぬ》きの奏者達を集めて作ったのだから、当時の一番人件費が高いオーケストラだった筈だ。路頭に迷うといっても、名人ぞろいなのだから他のオーケストラからの引く手あまたで、すぐに生活に困るといったことは毛頭なかっただろうが、「NBC」の名前を取りあげられて、楽員達は「シンフォニー・オブ・ジ・エアー」という名前で結束した。この場合、エアーは放送の意味で、だがぼくは、NBC交響楽団という最高のオーケストラを、経済的な理由であっさりドライに解散させてしまったスポンサーヘの、あの幻のオーケストラという意味を含めた、抗議の気持ちも感ずるのだが、これはぼくの日本人的|駄洒落《だじやれ》英語解釈かもしれない。  このシンフォニー・オブ・ジ・エアーは、十年ぐらい続いていただろうか。スポンサーのない演奏団体の|哀《かな》しさで、一人減り、二人消え、最後の頃はNBCトスカニーニの残党とは言えぬ、似てもにつかない別の人達による、内職的なオーケストラのようになってしまい、それこそ空気のように消えてしまった。  シンフォニー・オブ・ジ・エアーは、昭和二十九年に来日した。スポンサーには逃げられたが、トスカニーニの音楽を音楽史に永遠に残して行こうという、名前は変わったが、あのNBC交響楽団そのものの意欲とプライドを持っていた頃だった。大正の末か昭和の初めの日露合同オーケストラの演奏というのは記録に残っているが、ちゃんとしたオーケストラが初めて日本に来たという点で、大袈裟ではなく、日本の音楽史上最大の出来事の一つだったと思う。レコードを通じてしかきくことの出来なかった、外国のオーケストラのナマがやって来たのだ。しかも超一流が。シンフォニー・オブ・ジ・エアーは、言わば黒船で、幕末に歴史の浅いアメリカ合衆国の黒船が日本を開国させたのに似て、音楽の場合もヨーロッパに較べれば歴史の浅いアメリカのオーケストラが「黒船」になったのも面白い偶然だと思う。  その頃ぼくはN響のアシスタント・コンダクターと言えばきこえは良いけれど、要するに指揮の見習いで、それまでの打楽器奏者、つまりタイコたたきをやめたばかりだったが、本当の指揮者になったわけでもなく、タイコを全然やめたわけでもなく、まだ中途半端な状態だった。指揮の見習いの月給はひどく少なく、昭和二十九年の頃でも暮すのには無理な額だった。背に腹はかえられず、指揮者になった筈が、内職に行ってカセグお金はタイコの仕事だけで、おまけに指揮の見習いは、オーケストラのために、何もかも命じられればやらなければならぬ規則で、N響での仕事は写譜や打楽器セクションの手伝いばかりだった。勿論、月給のうちだった。  黒船オーケストラを初めて見たのは、日比谷公会堂の二階の客席で、シンフォニー・オブ・ジ・エアーの最初の演奏会のあった日の朝の練習だった。練習を音楽の学生に公開するというので、ぼくはまだ芸大の四年の学生でもあったから、学生としてみんなとゾロゾロ日比谷に行ったのだ。  タイコたたきとしてかなり稼いでから指揮の見習いになったとはいえ、ぼく自身にはまだかなりの物知りの気も残っていて、生まれて初めて見るNBC交響楽団の──演奏する方もきく側も依然としてNBCの気分だったのだ──奏者達の名前を大部分そらんじていた。どうして知っていたのだろう。音楽雑誌はペラペラ薄かったし、今みたいに大量の情報があったわけでもない。きっとWVTRといったか、FENといったか、進駐軍向けのアメリカ放送の音楽番組にいつもかじりついていて、NBC交響楽団の中継の時にアナウンサーがハープ奏者のヴィトーがなんて言うのを、一回ごとに頭に|溜《た》め込んでいた蓄積があったのだろう。  一番うれしかったのは、長いことピシッとしたしまりのある音にあこがれて、ラジオからもきき知った、あのNBCのティンパニー奏者の実物を見られたことだった。ゲイバーってあんなにガッチリした身体をしていたのか。太っていて強そうだな。少しイジワルそうに見え、威張ってティンパニーの前に|傲然《ごうぜん》と坐っていて、指揮者が何を注文しても全く無視し、自分の好きなようにティンパニーをたたいていた。  オーケストラ全員が同じような感じで、指揮者がどう指揮しても、一拍としてそのテンポに従うつもりはないらしく、一応興行上は仕方がないから指揮台に指揮者を置いてやってはいるが、あくまでオレたちはトスカニーニのオーケストラであって、ザ・マエストロの音楽を守るためにやっているんだという風だった。  初めて見、聴く黒船オーケストラの印象は強烈だった。バイオリンとかチェロとかピアノの独奏者の巨匠達はその頃でもちらほら日本に来ていたから、そのすごさを知ってはいたが、オーケストラの中でしかきけない楽器、つまりエス・クラリネットという普通より小さいクラリネットとか、コントラ・ファゴットというファゴットの大型の楽器とか、そういう特殊な楽器に特におどろいたものだ。あんなに大きな音がするものなのか。  ティンパニーのゲイバーのテクニックにもびっくりした。手や手首を全然動かさずに、フォルティッシモのトレモロをやっているのだ。指だけをあやつってこまかく|撥《ばち》を動かしていた。今では日本の打楽器奏者の誰もがやっている常識的テクニックだが、なにしろ黒船だったのだ。何もかも。  シンフォニー・オブ・ジ・エアーの日本での最後の演奏会は、後楽園球場でのN響との合同野外コンサートだった。特設のステージがセカンドとセンターの中間あたりのところに作られ、内野席全部が聴衆でうずまり、丁度キャンディーズやピンク・レディーの公演と同じスタイルだった。クラシックのシンフォニーでピンク・レディーのような風景になったのだから、よき時代だったのだろうか。黒船だったからなのだろう。ステージにNBCとN響の二百名の大オーケストラが坐り、すべてのパートを両方の楽員が一緒に弾いて、ぼくはシンバルをアメリカさんと並んでひっぱたいた。しかもあこがれのゲイバーのとなりに坐ることが出来た。  はっきり覚えていないが、最初に芥川也寸志さんの曲を合同で演奏し、次にアメリカの曲をNBC側だけがやり、最後がベートーヴェンの運命を両オーケストラでという曲目だった。黒船の中に入って、まわり中のNBCのサムライ達の巨大な身体と音量をじかに感じて、何もかもが初体験だった。おどろきだった。  芥川さんの曲の本番の最中、一緒のシンバルとゲイバーがぼくにすがるような目をした。知らない曲だし、われわれの世界でオッコチルといって、次にいつたたくのかが分からなくなったらしい。OKのサインを送って、しばらくしてから曲がピアニッシモのところで、ぼくは大きくシンバルをたたく|真似《まね》をした。ウソなのだ。彼らは|騙《だま》されてドカーンとやってしまい、指揮者はびっくりしてひっくりかえりそうになった。  十年程前だった。ロサンジェルス・フィルハーモニーを指揮していた時、休憩の時間に年をとった楽員がコワイ顔をして指揮者の部屋に入って来た。何か文句でも言いに来たのかと思ったが、彼はコワイ顔のままで言った。 「大分以前に、あんたが東京の音楽会の最中にイタズラしたタイコたたきの顔を、覚えているかね?」  ゲイバーだった。年をとって少しやせて分からなかった。ロサンジェルスに居る間、毎晩彼のアパートで飲み明かした。  H───   ヤシャ・ハイフェッツ     (バイオリニスト)   Jascha Heifetz  子供の頃から神様のように尊敬し、あこがれていた人には、なるべくなら、直接に会いたくないものである。理由は、第一にこちらがガタガタにあがってしまい、身体が硬直して、声なんか出ないにきまっているだろうことと、第二に、そういう人には遠くから熱い|憧憬《しようけい》を持っているだけの方が、ぼくの無責任なファン心が、より満足出来るような気がするからだ。  例えば、美空ひばりさん、長嶋茂雄さん、王貞治さん達には、永久にお目にかかりたくない。今までに雑誌での対談というチャンスがなかった訳ではないが、そんな|畏《おそ》れ多いことなどとんでもないと、御辞退申し上げて来た。目下、山口百恵さんがぼくの神様だから、世界中彼女のテープを持って歩いているが、たまに日本に帰った時にテレビでお顔を拝めれば、十分に満足で、というよりは、そうでなければならないのだ。好きだ、ファンだと称して週刊誌で対談している作家の方々は、ファンとしてはニセモノに違いない。よくもまあ、あんな図々しいことが出来るものだ。不敬のきわみである。  クラシック音楽の場合、ぼくも世界中の沢山の巨匠達のファンだったが、これまでに大抵の大物とは共演出来て、そうなると、今でも無論尊敬の念やあこがれは変わらないけれど、一緒に仕事をしたという親近感がわき、同じ人間として見ることが出来るようになる。  亡くなったオイストラッフや、今や第一線の演奏活動からは引退したが、元気いっぱいのルービンシュタインやメニューインにしても、現役バリバリのリヒテルやフィッシャー・ディスカウといった巨匠達を仕事仲間というのは、なんとも畏れ多いとは思うけれど、やはり同じ音楽家同士であり、世界は広いとはいっても、仕事の上での|繋《つな》がりを持ってしまった人の盲目的なファンには、ぼくはもうなれなくなってしまった。  ひばりさんや、長嶋さんや、王さんや、百恵さん達とは、そういった接点がまず絶対にないだろうという安心感が、ぼくにはある。  クラシックの音楽家にだって、ぼくが盲目的なファンになれる人達が沢山いる。モーツァルト、ベートーヴェン、ブラームス、バルトークといった大作曲家達や、レコードを通じてのクライスラー、リパッティ、デニス・ブレイン、フルトベングラー等のもう物故した過去の名演奏家達だ。安心してこれらの神様のファンになっていられる。一緒に共演したり、仕事をするチャンスがあり得ないからだろう。現在活躍中の大物でも、まだ一緒に仕事をしたことのない人は何人かいるが、まだ偶然共演の機会が無いだけのことで、いずれは共に仕事をすることもあろうからと、職業的雄々しさということになるのだろうか、その時になって全身硬直では商売にならないから、今のうちから自分の中の盲目ファン気質を封印してしまう。  ハイフェッツは、ぼくの盲目的な対象だった。それこそ子供の頃から、「彼等に音楽を」とか何本かの映画の中のハイフェッツにあこがれ、レコードを聴きまくってきた大ファンなのだ。ハイフェッツ、ピアティゴルスキー、ルービンシュタインの百万ドルトリオのレコードもぼくは好きだった。ドルの価値の下がった今では、百万ドルとはひかえ目な表現だが、戦前についたあだ名なのだ。現在ではもう表現する言葉がない程の大物だ。三人ともぼくの神様だった。三人が三人とも超大物だったわけである。  ところがこのうちルービンシュタインだけはぼくにとって神様でなくなった。誤解のないようにいうが、神様の座からひき降ろしたのではない。依然として神様ではあるのだが、度々共演する素敵なチャンスに恵まれて、それに世界のいろいろなところでぼくをバックアップしてくれた大恩人というわけで、ぼくは彼をまるで自分のおじいさんのように身近に感じるようになったのだ。葉巻の吸い方の極意もルービンシュタインに教わったし、会って食事をすれば話は尽きないし、よく説教もくった。  百万ドルの他の二人、ハイフェッツとピアティゴルスキーの方は、これはもうぼくにとって別の世界の、というより異なる次元の宇宙人で、共演の可能性が全く無いのだから、安心してファンでいることが出来た。この二人は、もう長いこと正式な演奏活動をしていなかった。同業として見る気持ちはなく、唯、神様としてだけ思っていればよいのだ。一緒に仕事をすることがあり得ない以上、会うこともない筈なのだし、第一、ぼくは神様には会いたくないのだ。  ところがこの二人の神に突然会うはめになったのである。  十年以上前、三年間連続してぼくはハリウッド・ボールの夏の音楽祭に出演した。ひとつの夏には二週間続けて指揮するのだが、プログラムの違ったのを何種類かやるから、かなり忙しい。どの年だったか忘れてしまったが、音楽会のあとの、どこかのドエライ金持ちの大邸宅でのパーティだった。  こういうのは毎晩あって、大金持ち達がまわり持ちでパーティをやって、その晩の出演者や、お客の中の親しい人達を|招《よ》んで、軽いスナック的な食事が出る家もあるし、各自が席につく正式なディナーのもある。  その晩のパーティはその中間位のもので、大きな庭にかがり火を沢山たいて明るくし、方々に炭のかまどを置いて、バーベキュー形式だった。ぼくと共演したソリストは、ペナリオというアメリカの中堅ピアニストで、迎えの車で一緒に行った。  玄関を入ると、広間は人でいっぱいだった。食事の前のカクテルで、この家の主人に、片っ端からハリウッドの善男善女に紹介される。みんなさっきの音楽会をきいた人達で、ハリウッドのスター達もかなり混じっていたが、ワンダフルとか、どんなにあなたの演奏をエンジョイしたかとか、同じようなことを言う。こちらはただニコニコして「キュー」を連発していればよろしい。「キュー」とは沢山の人に「サンキュー」と言っていると、|終《しま》いにはこれだけ発音しているようになってしまうからである。 「イワキさん、ハイフェッツさんとピアティゴルスキーさんをご紹介しましょう」  人混みできき取れぬということはなかったと思う。突然過ぎて、意味が分からなかったのだ。 「エ?」  ときき返す。同じことをもう一度家の主人が言って、ぼくが気を鎮める間もあったものではない。四、五人がかたまって立ったままカクテルを飲んでいるところに連れていかれた。 「今夜の指揮者のミスター・イワキをお連れしました。こちら、ミスター・ハイフェッツ、こちら、ミスター・ピアティゴルスキー」とやられてしまった。  ぼくはあわてふためき、声が出ない。  こんな時に、かねてから私にとって夢の巨匠のお二人にお目にかかれて、どんなに光栄でしょう、なんて立派なことが言えるものではない。言葉なんか出て来ない。思わず、 「ウーウー……」  みたいな声がのどから出て、握手と同時に最敬礼までしてしまう。  かがり火を背にして、庭でテーブルをかこんで食事をした後に、真夏でも夜がふけるとハリウッドはかなり冷えるから、邸内に客はみんな──そう、五十名ぐらいいただろうか──入って、それぞれのグループに分かれ、ソファに坐ったりして食後酒を飲む。その時にぼくはハイフェッツの横に坐らされ、ぼくの向かいはピアティゴルスキーだった。  坐らされたと書いたのは、最初に神様に紹介されてびっくり仰天した時、「ウーウー」の挨拶もそこそこに逃げ出し、別の気楽そうなアメリカ人がいっぱいいたバーで飲んでいたし、食事も、インフォーマルで定められた席はなく、ジュージュー焼けたバーベキューをかまどのところで受け取り、庭の各所にあるテーブルの、自分の行きたいところへ持って行って食べれば良かった。かがり火の赤い、だがほの暗い明りを利用して、ハイフェッツと一緒に食事をさせようという主人から逃げ出し、害もない人達とステーキを食べ終わったところを、主人に見つかって、ハイフェッツのいるソファに連れてこられてしまったわけなのだ。  その時に初めてハイフェッツの恰好をゆっくり見たのだが、彼はすごいおしゃれだった。明るい紺の上着は、生地がビロードらしかったが、それにアイボリーホワイトのフラノのずぼん、靴は上着と同じ生地だった。こういう夏の夜のパーティでは、アメリカ人達は大抵が上が白で下が黒、それにブラックタイ、つまり白のタキシードを着ていて、女性は夏用のだけれど、ちゃんとした、というよりいささか大時代的なロングをジョロンジョロンさせている。だからハイフェッツはひときわ目立っていた。ぼくにはただでさえ後光がまぶしく、映画で昔食い入るように見入ったあの顔の実物を時々おそるおそる拝み、ところで向かいに坐っているピアティゴルスキーは、何ともヤボッたいドイツの移民そのもので、ゴツゴツしてくたびれた茶色の背広を着ていた。  彼等はもう長いこと引退も同然で、でもその当時ハイフェッツは二、三年に一枚の割でレコードを作っていた。レコーディングといっても、小品を何曲も集めたもので、その短い曲をちょっとずつ何カ月もかけて録音し、要するに無数のテープを|継《つ》なぎ合わせてのレコードだったらしい。もはやあの世界一のテクニックはなく、小曲でもそのまま通して演奏して録音するのは不可能だったのだろう。人前での演奏は勿論もうやめていた。  ピアティゴルスキーの方は、まだ少しばかり現役に近く、何カ月かに一度人前で演奏をしていたし、数年後に日本に演奏旅行に行くと言っていた。後日、彼の来日は病気のためにキャンセルになり、間もなく亡くなったことが新聞に出ていた。  その晩のぼくのソリスト、ピアニストのペナリオ氏は、ハリウッドに住んでいて、御老人、いや神様二人の、半ば趣味的なピアノ・トリオのお相手だったのだ。ハイフェッツ達は、ぼくのために音楽会に来たわけではなかった。  一緒にコニャックを飲みながら、ハイフェッツがきいた。 「あなたのファースト・ネームは?」 「ヒロユキですが、みんなはユキと言っています」 「そうか、ユキ、じゃあ私のことをヤシャと言ってくれ」 「………」  これだからアメリカは困る。ヘイ、ジョン! ハアーイ、ビル! は結構だが、初対面の、しかも長年の神様に、 「ねえ、ヤシャ」  なんて言えるものではない。でもお互いファースト・ネームで呼び合うことになった以上、ミスター・ハイフェッツなんて言ったら、逆に失礼になる。心を鬼にして、「ヤシャ」と言おうとするのだが、声にならなかった。  神様のバイオリンの方は、トランプのポーカーのことばかりしゃべり、チェロの方は、選挙とか政治の話ばかりをしていた。  思い出した。このパーティの翌々日、ロバート・ケネディが同じ街で暗殺されたのだった。  I───   岩城宏之     (指揮者)   Hiroyuki lwaki  ABC……と順を追って来て、「I」になった。前から恐れていたことが現実になった。「I」がイニシャルになる音楽家で、ぼくと何らかのふれ合いのある人があまりいないのだ。  日本の音楽家には「I」が沢山いる。音楽家でなくとも、日本人の姓には「I」が沢山ある。伊藤、石田、岩田、岩井、井上、石橋、市川……と、すぐに沢山思い浮かんで来る。  ところが何故か、「I」のつく日本の音楽関係の人で、ぼくが書きたい人物が、頭の中に出て来ないのだ。人はいっぱいいる。新進指揮者で、ぼくがとても好きなヤツがいる。コイツとのからみ合いを書けば、四百字十二枚すぐに出来てしまうのは、分かっている。だが、読者には多分面白いであろうコイツとのことは、書けば恐らく彼の将来のためによくないと思われる。  ぼくの恩師も「I」だ。もう何年も前に亡くなったのだが、この先生からぼくがクソマジメにタイコの教えを受けていた頃の話は、ぼく自身にはとてもなつかしい話なのだが、これは他のマジメな「わが師を語る」みたいな場所で書きたいのだ。なにもこの交友録を不真面目だとは思っていないけれど、ぼくが今やりたいこととは一寸違う。この先生に関してのおもしろおかしいこともいっぱいあるが、そうなると、わが師については、ぼくはマジメになってしまって、書くのがいやなのである。  日本の音楽関係者の「I」はあきらめた。外国の人を考えよう。ところが意外、どう考えても出て来ない。  アメリカに昔、ホセ・イトゥルビという名ピアニストがいた。しかし子供の頃レコードで聞いただけの関係で、何らかのぼくとのふれ合いを書くことにはならない。そういう風に交友録を広げれば、イニシャルはこの場合違うけれど、相手選びに困った時は、ベートーヴェンでもシューベルトでもワーグナーでも、誰のことだって書くことが出来る。ホセ・イトゥルビさんよりはるかにふれ合いは深い。でも交友録と称している以上、趣旨に反するではないか。  そもそも「I」をイニシャルとする姓が、西洋人にはとても少ないのだ。アイザック・スターン。これだとひざをたたく。でもアイザックの「I」は姓名の「名」の方である。「ドナウ河の|漣 《さざなみ》」の作曲者のイワノビッチ。この曲は昔ぼくが幼い頃木琴でよく弾いたけれど、それ以上何も知らないし、なにしろベートーヴェンさんのことも書いてはいけないのだから、無論だめだ。イワノフという指揮者がソ連にいる。しかし名前を知っているだけで、会ったことはおろか、演奏をきいたこともない。フランクフルト放送交響楽団の常任指揮者にインバルという人がいて、日本にも二度来ている。一度軽く一緒に飲んだことがある位で、書けるようなふれ合いは何もない。  今これを書いているのは、オーストラリアのメルボルンなのだが、何かヒントはないか、忘れている名前を思い出すきっかけにならないかと、電話帳の「I」のところを開いてみる。  オーストラリアは、アメリカと同じように人種の|坩堝《るつぼ》である。英国系が一番多いが、あらゆる国からの移民で出来ている国だ。当然世界中の名前が電話帳にのっている。「I」の項はやはりとても少なかった。メルボルンは人口二百七十万で、電話帳の人名をイニシャルで探すところだけが千七百二十三頁あるが、「I」の項はなんと、十二頁だけだった。一パーセントにもならない。この少ない頁の中で、イトウとかイシダとかイシドウとか日本の名前が散見されて、頁数を増やすのにかなり貢献している。  ちなみに、最大の頁数は「M」で百七十三頁の威容を誇る。順に「S」が百五十六頁、「B」百五十三頁、「C」百四十六頁、「H」百十一頁となって、わが「I」は二十一位で、直前の二十位の「V」が二十六頁だから、それの半分以下である。下には下があって、ふた桁ギリギリにぶらさがっている「I」の次は「Y」と「Z」の七頁で、その先は「U」の五頁、「Q」の三頁で、最下位は「X」の一頁である。  とにかく、XQUZYのような通常使われそうにないイニシャルはさておき、沢山出て来そうな「I」が、同じようなところを低迷しているのはオドロキである。したがって、世界中の音楽家の中で、イニシャル「I」が|如何《いか》に少ないか、探しようがないかが、証明されようというものだ。  テレビの番組で、よく、ゲストの「御対面」というのがある。ゲストにとって、およそ覚えのないような昔の知り合いが出て来て、ゲストは大ヨワリ、誰でしたっけねえと頭をかかえ、司会者はあれこれひやかして間を持ち、「あの時にお弁当をかえっこしたナニちゃんだ!!」となって、めでたく終わるやつだ。放送局の人にきいたことがあるのだが、予定していた御対面の人が、突然何かの都合で来られなくなって、ナマのテレビに穴があきそうになることがある。何かの都合と言ってもいろいろあり、テレビ局に来る途中でポックリということだってあり得るのだ。そんな時も、予定の「御対面」は放送されなければならない。こういう時のために、さきほどゲストを放送局に運んで来た局差し回しのハイヤーの運転手さんを、番組中必ずスタジオの隣にキープしておくのだそうだ。まさかの場合に、その運転手さんを「御対面」に出せば、ゲストは先ず顔を覚えていないし、最後に、「ああ、さっきの運転手さん!!」ということで、分かるまでは一応オカシクて、まあテレビ番組の保険のようなものだ。  イニシャル「I」を誰にしようかは、ABC……を始めた時から悩んで来た。どうしても思い付かなかった時は、自分自身を「御対面」の運転手さんにすればいいとは思っていた。そしてABC……と毎月進んで来て、ついに「I」になり、やはり困ったことになってしまったのだ。  だが、自分である岩城宏之と岩城宏之氏自身とのふれ合いなんて、書けるわけがないではないか。  昔、指揮者になりたての頃の、昭和二十九年、三十年あたりのことだった。指揮者になったといっても、N響の指揮見習いというわけである。見習いだから、指揮の仕事など何もなく、いわんや、N響を振らせてもらうことなんか夢の夢で、かといってそれまでかなり稼いでいた打楽器を、指揮に転向するんだと勇ましく|止《や》めてしまった以上、もうあとには引けない。  月給は五千円、手取りで四千五百円。親父の家にいたから食うに困ることはなかったが、昭和二十九年当時としても、四千五百円では小遣いにもならなかった。その頃の大学卒の初任給が一万二千円位だった時代である。四千五百円の小遣いでよさそうなものだが、なにしろ、勇躍指揮に転向したつもりのその直前まで、ぼくはタイコで月平均十万円は稼いでいたのだ。それをパッパカ使っていたものだから、収入が二十分の一以下に減ったのには、エラク困っていた。  やっと時々仕事を頼まれるようになって、忙しくはなったが、仕事というのは、NHKラジオのポップスの指揮をすることだった。ポップスといったって、最近のポップ・ミュージックとは違い、所謂、コステラネッツとかマウントバーニとか、パーシーフェイス風のムード音楽の時間が、レギュラーで週二本あり、それの殆どを指揮させてもらっていた。  年度末に方々から源泉徴収の合計が送られて来て、NHKからのを見て、その年に六十万円稼いだのを見て驚嘆した。ぼくのその頃の放送料は、一回千二百円だったのだ。練習を沢山やるオペラの仕事もたまにはあり、練習代は本番の二割、つまり二百四十円なのだが、そんなのを沢山やったって中々六十万にはならない勘定だ。シャンソンの時間で名前を出さずに毎週棒を振っていたのを合わせて、とにかくものすごい数の放送の仕事をこなしていたことになる。かりに六十万を千二百で割ると五百になる。さっき言ったように、練習代その他があるから、年間五百回出演したことはあり得ないにしても、まあよくも沢山やったものだ。その中でクラシックの仕事なんて、二、三パーセントにもならなかったのではないかと思う。  NHKは公共放送だから、連続ドラマなんかに出る人を除いて、特定の個人が週に一度以上出演してはいけないのだそうだった。本当かどうかは知らないが、ポップスの番組の担当者達が困っていた。週二回のムード・ミュージックの番組の度に、「指揮は岩城宏之さんでした」ではいけないのである。  折も折、ぼくは広島に行って、NHKの広島放送管絃楽団と音楽会をやった。クラシックをやるのだ! ベートーヴェンを指揮するのだ! 滅多にないチャンスだった。  広島の音楽会は、中国地方だけの中継放送でもあったが、アナウンサーの若い美人と本番の直前にお茶を飲んだ。 「いつも岩城さんのNHKポップスをきいていますわ。でも岩城さんって、ベートーヴェンも指揮なさるんですね」 「………」  これはショックだった。  勿論、ムード音楽の時間は、本名でやっていた。だが、将来はクラシックの指揮者になる大望を持っている身である。美人の言葉にションボリしてしまった。ポップスは好きだった。今だって大好きだ。それに毎週新しいアレンジを指揮して録音をまとめるのは、大変勉強になることだった。だが、「ベートーヴェンもなさるんですね」は困る。  東京に帰って、担当者に訴えた。向こうも、公共放送|云々《うんぬん》のことがあるから大賛成で、ぼくの変名が三つ四つ出来上がった。元来、誰の指揮だからどうのこうのという番組ではない。毎週入れ代り立ち代り色々な名の指揮者が登場した。  放送用だけである。複数の名前に、ちゃんと字があったわけではなかった。発音があればよかったのだ。もう自分の変名を全部覚えていないが、オオキジロウというのが時々登場した|他《ほか》、ミズキヒロシの名前を最も沢山使ったと思う。そのうちに何故か「水木ひろし」という字が定着して、水木ひろし君はレコードも何枚か出したのだった。  NHKのテレビでも、司会の、「アイ・ジョージさんどうぞ! 江利チエミさんどうぞ!」の声で、ステージのまん中まで走って出て、ピョコンとお辞儀して帰って来るような、歌合戦的な公開ものに出て、「水木ひろしさんどうぞ!」でとび出して行ったこともある。  こういう仕事をしなくなって十何年も経つ。オゴソカな仕事でないと、と思われるようになって、こういう楽しい気楽な仕事を頼まれなくなったのだろう。第一ムード音楽をいちいち録音して放送するような無駄が消えた。水木ひろしもいなくなった。  最近、札幌のバーで飲んでいたら、誰かに尋ねられた。 「昔、水木ひろしという人の放送をいつもききました。大変にファンだったのですが、あの人はその後どうしたんですか。さっぱりききませんが」  こんなにうれしかったことはない。二メートルも三メートルもグラスを持ったまま跳びたかった。しかし静かに答えたのだ。 「さあ、どうしたんですかねえ。消えてしまいましたねえ。とても才能のある人だったんですが、惜しいですねえ」  J───   オイゲン・ヨッフム     (指揮者)   Eugen Jochum 「今度はどちらにおいでになりますか?」 「ウィーンに行きます」 「ああ、ドイツですか。あそこはいいですね。音楽の都だから素敵ですね」  というようなやりとりに、今でもよく出くわす。  もちろん、ウィーンはオーストリーの首都であって、オーストリーがドイツだなどと言ったら、オーストリー人はカンカンになって怒るだろう。だが、日本に限らず、アメリカ人なんかも、大抵はそう思っているようだ。  オーストリーもドイツ語を話す国である。ドイツ語といっても、いわゆるホッホ・ドイチュという、ハノーヴァー近辺の北ドイツで使われている、標準ドイツ語とは大きく違い、別の言葉だとまでは言わないが、アクセントのまろやかさ、言い方のニュアンスの柔らかさは、ものの本によれば、ドイツ語から分かれていったものではなく、違う言葉の形態がドイツ語に近づいていったのだそうで、このことは学者さんにでも聞かなければよくわからないことだが、オーストリーに接しているミュンヘンあたりの方言が、比較的オーストリー方言に似ていることからいってもうなずける。  ドイツ語文化圏は、ヨーロッパのそんなに大きな地域を占めるわけではないけれど、他にスイスの一部分がそうだし、又怒られるかもしれないが、スイスの一部だといってもいいようなリヒテンシュタインがそうだし、イタリアの北の一部分も、やはりドイツ語を話す。それでもやはり、「ウィーンヘ」、「ああ、ドイツヘ」というように、いつもドイツだと誤解されているのがオーストリーだろう。  言葉だけでもそうなのだから、世の中にドイツの音楽家だと思われている人の中で、随分沢山の人が実はオーストリー人なのである。それに、ドイツ系のユダヤ人で、ヒットラーの暴虐から危うく逃れて命を長らえ、現在も世界的な活躍をしている人のことも含むと、もっと複雑になってくる。指揮者だけに限定して言えば、最も有名なカラヤンは、ドイツを代表する、そして世界一のベルリン・フィルの指揮者ではあるが、ザルツブルグ生まれのオーストリー人なのだ。もっと元をただすと、カラヤンのおじいさんがアルバニアに近いギリシャの寒村を夜逃げして、ザルツブルグにたどりつき、その三世がカラヤンなのだそうである。ヘルベルト・フォン・カラヤンという名前、つまりフォンという字が入っているから貴族のような名前なのだけれど、ぼくは一度彼のパスポートを|覗《のぞ》いたことがあるのだが、ヘリベルト・カラジャンとあった。ヘリベルトというギリシャの田舎によくある名前をドイツ的にヘルベルトと直し、それにフォンをくっつけて立派にしたように思われる。だから、大指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンという名は、もしかしたら芸名だと言うことができるかもしれない。こういうことを一切隠していた巨匠であるが、数年前にベルリン・フィルを引き連れてアテネに初めて行った時に、記者会見で、故郷に帰って来て|嬉《うれ》しいと言ったのが、大層な話題になったことがある。  ちょっと話は脱線するが、レナード・バーンスタインという素敵な名前も、芸名であるらしいと、誰かから聞いた。余り確かではないけれど、本名はジョン・スミスというのだそうだ。指揮のお師匠さんだったクーセヴィツキーが、将来指揮者で身を立てるには、そんな「山田太郎」みたいな名前ではとてもだめだからといって、考えてつけてくれた名前なのだそうである。名前というのは難しいもので、特に芸能人の場合、余り簡単過ぎて、そこらへんにゴロゴロ転がっているようなジョン・スミスではよくないし、さりとて誰にも覚えられないような名前ももちろん不利なのだ。  ドイツの指揮者の名前に戻るが、やはり一般的に、ドイツの巨匠のようなことになっているカール・ベームは、純粋のオーストリー人でグラーツの生まれである。ブルーノ・ワルターはドイツ人だけれど、正確に言えばドイツ系のユダヤ人で、だから戦争前からアメリカに逃げて生涯をアメリカで過ごしたわけだし、戦争中から日本に長くいて、現在のNHK交響楽団の育ての親であり、日本音楽界全体の父みたいな役割を果たしたヨセフ・ローゼンシュトックは、日本に来る前、ドイツのマンハイムの音楽監督で、これもユダヤ人であったため、ナチスに追われて日本に来たわけだ。  ヨーロッパの中央文化地帯は、長い歴史を、侵略、被侵略のくり返しで過ごしてきて、そもそもが何人だ、ヤレ何人でないなんていうことを神経質に考える必要がないのかもしれない。そういえば、ナチスドイツ総統ヒットラー閣下は、インスブルグ生まれのオーストリー人だったのだし。  ピアニストでもバイオリニストでも、ドイツの巨匠と思われている人の大部分がユダヤ系で、ナチスドイツが大量のユダヤ人を虐殺したり、アメリカ等に追い出したりしたために、音楽の本場であったはずのドイツは、戦後、レベルがひどく落ちたのだ。ドイツの音楽をしょって立っていた優秀な音楽家達のほとんどが、ユダヤ人だったとも言えるのである。アメリカの音楽界が戦争直前くらいから急速に発展して、戦後、ある意味では、世界最大の音楽国となったのも、これと重要な関係がある。つまり、大量のユダヤ系の音楽家が、ドイツからアメリカに渡って活躍したことと、同時にこの人達が優秀な音楽の先生として、アメリカの若者達にレベルの高い教育を施したからなのだ。  現在世界中で活躍している純粋なドイツ人指揮者となると、これはもう本当に数が少ない。  とっくの昔に亡くなったフルトベングラーはまぎれもない純粋のドイツ人だったが、その後というと、名前の知られているような人では、オイゲン・ヨッフム、フェルディナント・ライトナー、ホルスト・シュタイン、ウォルフガング・サヴァリッシュぐらいのものではないか。我が尊敬するヨセフ・カイルベルトは数年前に亡くなった。ドイツが音楽の本場の国であるというのは、ウソだと思えてくるほどである。  今書いた何人かの純粋ドイツ人指揮者の中では、オイゲン・ヨッフムが最長老だ。七十をとっくに越しているはずだが、詳しいことをぼくは知らない。ぼくが音楽を志した頃というと、もう三十年近く前になるわけだが、その頃既にレコードでヨッフムの名前を知っていたところをみると、ぼくの頭の中ではもう長いこと巨匠であるわけだ。  ヨッフムに初めて会ったのは、ハンブルグの音楽会場の指揮者の楽屋だった。十年ぐらい前のことだったろうか。ぼくも関係していたバンベルグ交響楽団とヨッフムが演奏旅行をして、南から北ヘドイツの主な街を巡演してきて、その最後の街がハンブルグだったのだ。その頃ぼくはハンブルグに住んでいた。  自分の住んでいる街に関係のあるオーケストラが来るのはなつかしく、音楽会直前の会場練習の時に、ぼくはホールヘ行ってみた。誰でもそうなのかどうかは知らないが、こういう場合初対面の指揮者の所に行ってまず「コンニチハ」なんていうのは、なんとなく面倒なことだ。バンベルグ交響楽団のメンバー達と、ヤアヤアなつかしがって騒いでいるうちに、練習の時間がきた。  楽員達の話によると、この演奏旅行はギネスブックに載ってもいい程のすさまじいスケジュールの旅行で、なんと、二十三日間に二十三回の音楽会をやったとのことである。ぼくも何度かこのオーケストラとハードスケジュールをこなしたことはあるのだが、二十三日間毎日とは驚いた。こういうスケジュールの時は、ぼくは、何種類かの曲目を持って歩いて、これは毎日同じのを続けると、指揮者も楽員もお互いに飽きてきてマンネリになり、気の抜けた演奏になることが多いのを避けるためだ。毎日のように曲目が変わる方が新鮮な緊張感が続くのである。 「それがジイサン、一つだけのプログラムでやっちゃってサ、オレたちはもう、気が狂いそうなんだけど、ジイサンは全然まだ飽きてないらしいんだ。今日の音楽会が最後で、二十三回めだが、それでもきっとしつっこい練習をやるに決まっているよ」と楽員達は嘆いていた。  曲はメンデルスゾーンの交響曲第四番「イタリア」と、ブルックナーの第六交響曲だけだった。演奏旅行で毎日同じプログラムを続ける時は、本番前の練習は、新しいコンサートホールの音響を調べる程度の、軽い練習になるのが常である。ドイツ語でもジィッツ・プローベといい、直訳すれば「坐る練習」という意味だが、オーケストラ全員が自分達の位置に坐り、ステージが小さかった場合、バイオリンの弓を動かすのに、お互いじゃまにならないかどうかを確認したり、ちょっと音を出して音響効果を調べるくらいの意味なのである。  楽員達の恐れは的中した。二時間の練習時間をジイサンは完全に使いきった。同じプログラムの二十三回めをである。七十いくつになって体格はガッチリ見上げるような巨体で、太縁の眼鏡をかけ、マンガのように優しい目で絶えず笑いながら、髪ふりみだし、汗ダクダクなのだった。それに声がバカでかい。  ブルックナーの交響曲では、ピアニッシモが長く続き、次はフォルティッシモになって何分も鳴りわたり、その間絃楽器はトレモロといって、弓で糸を細かくこすり続けなければならない。これを二十三日間二十三回連続演奏するということは、毎日の練習を計算に入れると、四十六回連続ということになる。  練習の最中のオーケストラのうんざりさ加減は、ぼくが誰も人のいない客席で見ていても、一人で転げまわって笑いたくなるくらいのものだった。ジイサンは、そんなことに知らん顔で、実に頻繁に演奏を止め、オーケストラに注意を与える。おそらく同じことを二十三回聞かされてきたのだろう、楽員はその度に絶望的な顔をして、わかった、わかったと、おざなりに首だけ振って|頷《うなず》いている。中にはその度に何かメモをしているヤツがいる。ヨッフムじいさんの注意をメモしたりするような、クソマジメな人間は世界中のオーケストラにいない。メモは、じいさんが何回演奏を止めて注意するかの、回数を書きとめているのだ。練習の前に楽員の誰かが胴元になって、何回止められるかの、回数を|賭《か》けているのだ。これも世界中のガクタイ気質の典型で、ぼくもどこかのオーケストラとレコーディングしていた時に、終わりの頃NGが出て演奏を止めたところ、第二バイオリンの後の方のヤツが、ワアーと飛び上がってバンザイをしたので驚いたことがある。ストップ回数を予想し合った楽員の中で、彼の予想回数が最大だったのだそうで、ぼくのストップが彼の回数に達した以上、その後どんなにぼくが止めても、彼の勝ちは動かないという歓喜のワアーだったのである。  しかし、それにしても七十いくつのじいさんのエネルギーには感心した。感動したと言ってもいい。肉食動物というものは、我々草食動物とは違うものだなと思ったのだった。  音楽会が終わってヨッフムの楽屋に入っていった。一瞬目を疑った。ドイツにもステテコ?! でっかいじいさんがソファの上にあお向けになって、赤ン坊がお|尻《しり》をふかれるような感じで、奥さんにエンビのズボンを脱がしてもらっている最中だった。ズボンは半分程もう脱げていて、じいさん、まわりじゅうの人と絶えず陽気にしゃべるものだから、足がバタバタ動いてしまって、彼の奥さんというか、ばあさんは、動かないでと、どなっていた。上は既に脱がされていてランニングシャツ一枚だった。半分脱げたズボンの下にステテコがヒラヒラしていて、それ以来、ブルックナーのレコードを買う時は、ぼくは必ずヨッフムじいさんのを買うことにしている。  K───   ヘルベルト・フォン・カラヤン     (指揮者)   Herbert von Karajan  突然、カラヤンが指揮を中断して、こっちを向いてどなった。 「うるさい! こんなにうるさくて、練習ができるか。あの電車を止めてくれ。イワキ、電話をかけて止めさせろ」  一九五七年の冬だったと思う。冬というよりは遅い秋だったような気がするから、十一月頃だったかもしれない。記録を調べればわかることだけれど、ベルリン・フィルハーモニーが初めて日本にカラヤンとやって来た時のことだ。彼らは日本中でたくさんの音楽会をやり、最後の音楽会はNHK交響楽団との合同の音楽会だった。ベルリン・フィル、N響の合同となると、オーケストラは約二百人になる。二百人をのせることができるステージなど当時は東京にはなかった。なにしろちゃんとした音楽会場は、日比谷公会堂だけだったのだから。  そこで、カラヤン指揮の日独合同演奏会は、千駄ヶ谷の体育館に、特別の大きなステージをしつらえて行なわれたのだった。  千駄ヶ谷の体育館は、国電の中央線のすぐそばにある。中央線が絶えず通過して、その度に国電の|轟音《ごうおん》でオーケストラの音などふっとんでしまい、現在ぼくがあの場所でオーケストラの練習をしたって、腹をたてるに決まっている。だから、あんな所では、もう長いこと音楽会は開かれていないだろう。それに大人数を収容する武道館や、普門館などの会場も完備されているのだから。  カラヤンが国電の騒音にヒステリーをおこした時、ぼくはN響のアシスタント指揮者として、ガランドウの客席の前から十番めぐらいのちょっと右よりに一人で坐っていて、二つの合同オーケストラの音量のバランスを聞く役目をもっていたわけだが、それよりもカラヤンの指揮ぶりを夢中になって見ていたのだ。  ぼくの場所も悪かった。運が悪かったという意味だ。いつもこういう時は、同じアシスタント仲間の外山雄三が一緒で、彼はぼくとは違い、英語がベラベラだったから、ぼくは常に何もしないで済んでいたのだ。きっと外山が席を外していた時だったのだろう。  ぼく自身の経験によっても、指揮者というものはオーケストラとの練習中に、オーケストラのメンバーではない誰かに、「オーイ、なんとかをナントカしてくれ」なんて叫ぶ時は右後ろの方角にやることが多い。右手の方がいつも動いていて、だから右の方に向きやすいのだろうか。左手の方が表現や強弱を表わす時が多くて、変な言い方だが、むしろ人をおさえるような体勢にいつもあるからだろうか、よくわからない。ぼくは本来は左ききだったらしいのだが、普段は右ききの暮しをしている。左ききで、指揮棒までも左に持って完全に逆をやっている指揮者は、ぼくが知っている限りでは世界に一人しかいなくて、この人と、どっちをふり向いてどなるかという話をしたことがないので、これはちょっとわからない。  とにかく、カラヤンがパッとふり向いたその方角に、運の悪いぼくがいたわけだ。  二百名の合同オーケストラは唖然とした顔をして演奏をやめた。ぼく自身はまだドイツ語がしゃべれなかった頃だし、だから、カラヤンはぼくに英語でどなったに違いない。この人は、世界中のありとあらゆる知り合いが何語で話すのが得意かを、コンピューターのように記憶していて、何年ぶりで会っても、ヤア、しばらくからして、その人用の言葉をしゃべるので有名だ。  今にして思えば、ベルリン・フィルの楽員たちは、マエストロの例のヤツがまた始まったというようなニヤニヤ顔をしていたような気もする。N響側はキョトンとしていたわけだ。曲はベートーヴェンの第五交響曲「運命」の、ちょうど、第二楽章の静かなところだった。  合同演奏というのは、たとえば第一バイオリンのトップの第一コンサートマスターがベルリン・フィルで、その内側がN響のコンサートマスター、第二列めは外側がN響、内側がベルリン・フィルといった具合で、完全に入り混じっていっしょに演奏するのだ。管楽器も同じように混ぜこぜになっていて、二つのオーケストラの楽員が、その時だけ一つの巨大なオーケストラになって演奏をするというわけだ。このベルリン・フィルとの合同の二年ぐらい前だったと思うが、NBC交響楽団とN響の合同演奏も、同じように入り混じって、会場は後楽園の野球グラウンドだったし、ごく最近ぼく自身が、北京でN響と北京のオーケストラとの合同をやってきたのも同じスタイルだった。何故かこの合同演奏には、偶然かどうか知らないが、ベートーヴェンの運命交響曲が演奏される。最初が劇的で、最後が壮大で、しかもどんなオーケストラにもレパートリーであるということが大きな理由なのだろう。本当の意味では「第五」は最も演奏の難しい曲だけれども、「第五」を弾けないオーケストラなんか、オーケストラじゃない、とも言えるからだろう。  カラヤンはぼくに、電話をかけて電車を止めろとどなったのだ。国鉄の電話番号なんか知るものか。ぼくは知らん顔をして、というよりはあきれて、坐ったままカラヤンを見ていた。変なにらみ合いが続いて何秒かたち、と、カラヤンは急にぼくをピストルで撃つかのようにじっと指さすではないか。こうなったらしょうがない。ぼくは立ちあがり、すごすごと横の公衆電話がある所に歩いたのだ。カラヤンはずっとぼくを凝視している。もうこの問題に関しては野次馬になってしまった二百人の合同オーケストラも、ニヤニヤ、ヒソヒソやりながらぼくを見ている。  受話器をとりあげ、十円を入れ、めちゃくちゃの番号をまわし、どこかの誰かさんが電話先にでた。ぼくはわけのわからないことを丁寧に、しかも多少の命令口調でもってしゃべり、カラヤンはかなり離れた所からぼくを見ているのだし、日本語がわかるわけがないから、こっちのしゃべり方の態度が重要なのだった。電話にでたどこかの誰かさんは、さぞやタマゲただろう。知ったコッチャない。受話器をおいて、大声でカラヤンに報告した。 「マエストロ、数分ぐらい後に電車は止まるそうです」  楽員たちはどっと笑った。カラヤンもニヤリと笑って、「OK、さあまた練習を始めよう」と指揮をしだした。  もちろん国電が止まるわけもなく、電車の騒音はそれからもずっと何分かおきに続いて、第二楽章の後だってしょっちゅうピアニッシモはあるのだし、演奏のしにくさはちっとも変わらなかったのだが、カラヤンはもう一度も気にしないのだった。  ぼくの、どこの誰かさんにメチャクチャな電話のかけ方も、かなりのものだったとは思うのだが、どうもカラヤンの方がやはりはるかにうわてだったのだと、思ったのは、随分後になって、アシスタントではなく、一人前の指揮者として世界中のオーケストラと仕事をするようになってからのことである。  カラヤンは、電車の騒音に楽員たちがイライラし始めたのに、先手を打ったに違いない。誰もがあきれかえる程の非常識さで、国電を止めろとどなったのだ。なんの打ち合わせもなく、ぼくが国鉄(?)に電話をかける芝居までは計算していなかったかもしれないが、二百人の楽員の誰よりも先に国電を怒り、誰もが考えなかった要求、つまり「電車を止めろ!」をやったことによって、全体をマンガチックな雰囲気にしてしまったのだ。  ぼく自身、カラヤンにレッスンを受けたこともあるし、その後も会う度ごとに、音楽についてのいろいろな相談をもちかけ、カラヤンの|蘊蓄《うんちく》を少々ずつではあるが盗み取るという好運が続いている。ただちょっと困るのは、このマエストロは機嫌のよい時と悪い時の差がとても大きくて、悪い時は、おはようと言っても、ぶっきらぼうにうなずくだけだったり、よい時は、こちらのスケジュールにおかまいなしにしゃべりまくり、そろそろこちらには次の予定が、などと言えないことだ。  ストラヴィンスキーの「春の祭典」の、一番最後のアコードの振り方を、最近、こういう風に思いついたと、嬉しそうに自慢気に、何回もやって見せてくれて、その次に会った時に、あれはやっぱりだめだった、君にも勧めないなど、若い指揮学生同士が指揮法についていつまでも語り合っているような時もある。  もちろん、カラヤンは、世界のナンバーワンの存在だ。この世界のことなのだから、つまり、芸術の世界のことについては、当然、誰にでも好き嫌いはあり、もしかしたら世界の音楽ファンのうちの半分が、アンチカラヤンかもしれない。真の偉大なスターにはこういうことはつきものであって、アンチが強烈であればある程、実はやはりカラヤンファンなのだと思うのだ。こんなことを書くと怒られるかもしれないが、ぼくは熱狂的長嶋ファン、ジャイアンツファンなので、アンチジャイアンツのヤカラどもも、結局はジャイアンツファンなのだと割り切って勝手に得意なのだが、カラヤンのことは、そんなチッポケな規模ではないと思う。  第一に、我がジャイアンツのように弱くないのだ。常に本当に強いのだ。強いというのだけではなく、能力がすごいのだ。  カラヤンの優美な指揮ぶり、あの特殊な美しいマスク、どちらかと言えば小柄と言ってもいい中肉中背の均整のとれた身体、スキーとか、ジェット機の操縦とか、七十歳の誕生日のエヴェレスト登山とか、やることなすことがいつもはでだし、それからくるミーハーの人気だってバカにならないだろう。だが、人気がありすぎることからくる、カラヤンヘの世界中の誤解という、不幸も実に膨大ではないのか。彼の指揮者としての恐ろしいまでの才能と能力については、世界中のカラヤンファンの、いったい、何分の一が知っているだろうか。知らなくてもいい。とにかくナンバーワンなのだから、一枚のレコードを出せば、最低一億円は、稼いでしまう人なのだし、世界の演奏会の形を、無数の世界中のミーハーを、正統な、妥協しないクラシック音楽の魅力に引き込んでしまったように、変えてしまったのだ。これはやはり、革命と言ってもいい。世の中の人気を、カラヤンと共に分け合っているバーンスタインの存在も、革命ではあるけれど、バーンスタインの方が、シリアスな作曲、ヒットミュージカルの作曲、テレビ番組での青少年への語りかけ等、あらゆる面を駆使しての指揮者としての革命というならば、カラヤンの方の革命は、ヨーロッパ音楽の伝統をそのまま背負って、何も他のことをせずに、世界の聴衆を変えてしまったという、もっと恐ろしい革命だと思うのだ。  カラヤンと同じ時期に、ウィーンの音楽院で学んだことがある人が、何年か前にカラヤンを自宅に訪ねて、久しぶりに語り合った時の話を聞いたことがある。N響の育ての親の有馬大五郎氏なのだが、カラヤンは有馬さんに、しみじみと言ったそうだ。 「世界中の人間は、自分のことをこれだけの地位、人気を保っているのだから、さぞや自分が政治的にも、実務的にも、権謀術策的にも、あらゆる手を使っているだろうと思っているだろう。そういわれていることはよく承知している」  といいながら、カラヤンは右の腕をさすって、 「だがなあ、アリマ、本当はこの右手一本だけなんだぜ。この歳になっても音楽の勉強をし続けて、この右手で表わすことだけをやっているだけなんだ」と少し寂し気に笑ったそうだ。  世界一の人というのは、なんと孤独なのだろう。カラヤンは少年の頃から今まで、一貫してトスカニーニを尊敬し、トスカニーニをめざしている。  L───   ウィルヘルム・ロイブナー     (指揮者)   Wilhelm Loibner  昭和三十一年の終わり頃だっただろうか。いや、三十二年の初めだったかもしれない。朝早く、ぼくの家の玄関のガラスの格子戸を、ガンガン、ガンガン、しつこくたたき続けるヤツのせいで目が覚めた。  前夜おそくまで友達と飲んでいたぼくには、えらく早くに思えて、目は覚めたものの、居留守を使うことにして、ふとんを頭からかぶった。借金取りかもしれない、というとなんだか落語じみるけれど、新聞代とか受信料とか、あんなので安眠を妨害されてはたまらない。  だがガンガンはあきらめない。ウルセエなあ。ぼくは二階に寝ていたのだ。その頃は、親から独立したてのホヤホヤで、金もないのに一軒家に住みたくなって、上目黒の方に家を借りていたのだが、なるべく大きな家に住みたいことと、家賃の安いこととの接点は、バカデカイがボロボロのお化け屋敷みたいな気味の悪い家だった。二十年以上も前のことなので、東京のど真ん中にも、まだそんな貸家があったわけである。  もう四、五分たったはずなのに、戸をたたいているヤツはまだあきらめない。時計を見た。九時ちょっと過ぎだ。そんなに早いわけではないのだ。  パジャマに何かをひっかけて階段を降りる。寒い。すき間風のお化け屋敷なので、猛烈に寒い。ミシミシヘこむ廊下の冷たさが素足に痛い。 「どなたですかあ」 「吉田です。ヨッちゃんだよ」 「あっ、先生! 今すぐ開けますから」  N響の首席フルート奏者で、日本のフルート界の神様的存在の吉田雅夫さんだった。  当時のぼくは、N響の指揮研究員だったし、まだ芸大の打楽器科の学生でもあった。吉田さんは芸大の先生を兼ねていたから、ぼくにとって彼は、N響に行っても、芸大に行っても、エライ、コワイ人なのだった。  タクシーを待たせてあって、話は車の中でするから、とにかくすぐに服を着て、オレについて来いということだった。そのまま顔も洗わずに何かを着こみ、オーバーをひっかけて、タクシーの中で待っている吉田さんの隣に乗り込んだ。 「何ですか先生? どこに行くんですか?」 「どこにって、定期の練習に行くのさ」  定期演奏会の練習だか、何の練習だか知らないが、指揮研究員のぼくは、本当は毎回出席して指揮者とオーケストラの練習ぶりを見学し、同時に様々な小間使い的な仕事──アシスタントとしての──をしなければならない義務を持っていた。だがぼくは、学生である芸大と同様、実によくサボっていたのだ。 「昨日の夕方からロイブナーさんが急病でね、N響の事務局が君を探しまわっていたんだ。何度も君の家に来たそうなんだが、留守だし、それに君のところは電話がないだろ。それで最後の手段で、オレが朝、君をなんとかつかまえてN響に連れて来ることになったんだ。ロイブナーさんの代りにね、今日は君が定期の二日目の練習をするんだ」 「エッ!」  オーケストラというものは、定期演奏会のためとなると、普段の何倍も緊張していて、つまり恐ろしい雰囲気になっている。そのN響の定期の練習の指揮を、もしかしたら一生指揮出来ないかもしれないのを、いきなりやれというのだ。第一、サボリっぱなしなので、曲目が何かも知らないのだ。 「楽譜は、ほら、オレが持って来たから、N響に着くまで車の中で勉強しなさい。分からないことは教えてあげるよ」  冗談じゃない。二十三歳のペーペーのぼくに、プロコフィエフの古典交響曲、バルトークの第三ピアノ協奏曲、ラヴェルのラプソディ・エスパニョールを、練習とはいえ、いきなり指揮させようというのだ。どの曲も勿論指揮したことはないし、バルトークやラヴェルは聞いたこともないくらいだ。第一、今までそんなに編成の大きい正式なN響を指揮したことがなかった。ピアニストも練習に来るという。松浦豊明さんで、当時もうベテランだ。  こういうことが降ってわく話は、映画の中とか、外国の物語の世界でだけだと思っていた。複雑なスコアを生まれて初めて指揮をし、立ち往生して、将来本物の指揮者になりたいぼくの夢は、今日でおしまいかと、目の前がマックラになった。  その日の練習は、とにかくなんとかやり終えた。十時から三時十五分まで、昼休みの一時間はともかくとして、ハラハラ、ヒヤヒヤの連続だった。  練習が終わって、事務長の有馬大五郎さんに申しわたされた。今日が二日目の練習で、明日もう一日の練習がある。あさってが定期演奏会の初日の本番だが、もしロイブナーが明日の練習も病気のために出来ない時は、本番もオマエにやってもらうことになるから、明日までにうんと勉強して来い、というのだった。  ぼくは張り切った。一生に一度のチャンスが来たのだ。今日の練習は、それこそ誘拐みたいに連れて来られて、いきなりやらされたから不本意だったが、明日までに|完璧《かんぺき》に勉強してやるぞ。夢だったN響の定期を指揮してやるぞ。ヤルゾ、ヤルゾ。  といっても、よく知らない曲ばかりなのだ。感心しない勉強方法なのだが、レコードをきいて耳にたたきこむ他は、なにしろ時間がない。NHKの資料部というところに行って、レコードを借り出し、まっすぐ家に帰った。午後五時だったから、明日の練習まで、十七時間ある。  家で早速レコードをかけた。ヤヤ! レコードがまわらない。ずいぶん長いこと使っていなかったので、モーターがおかしいのだ。油がきれているのか、|錆《さび》ついてしまったのか。レコードプレーヤーといったって、お粗末なもので、簡単なアンプが内蔵されているボロなターンテーブルをラジオにくっつけ、かろうじて何の曲が演奏されているかが分かるだけのシロモノで、今だったら博物館ものだろう。  ミシン油を買って来た。あちこちに油をさしてみる。ちょっとまわるようになったが、まだ聞けるほどではない。きっと他のどこかが故障しているのだろう。プレーヤーをバラしてしまった。分解したのだ。  と書くとさもメカニックに強いようだが、さにあらず、ぼくは猛烈な器械オンチなのである。でもなんとかレコードをきけるようにして、明日のための勉強をしなければならない。一生に一度のチャンスが来たのだから。  でも、どうしてこんなことをやったんだろう。誰か友達の家に行って、そこのプレーヤーを使って勉強すればよかったのに。今推測すると、そういう風にヤッツケ勉強をするのを、誰にも見られたくなかったんだろうと思う。いきなり、カッコよく、ロイブナーの代役として、N響の定期を指揮したかったのだ。孤独な作業だった。  レコードがまともにきけるようになったのは、明け方の四時過ぎだった。夕方にやり始めたのだから、十時間もかかったことになる。  それから本来の勉強にとりかかり、勿論、一睡もせずに夢中になってスコアを頭にたたきこみ、さあ、もう大丈夫だと、意気揚々九時半ごろ、N響の練習所に行った。  いつもは指揮者室なんて、見習いの身分には敷居の高いところで、本物の指揮者に呼びつけられない限り、自分で入って行けないところなのだ。だが今朝は違う。オレは定期をふる指揮者なのだ。大威張りでソファに坐った。もし、もう一日、ロイブナーの病気が治らなかったら、といわれたことなんか、とっくに忘れている。十時まであと二十五分。気狂いみたいにレコードプレーヤーを直し、徹夜して勉強して来たのだ。昨日オロオロ指揮をした、その仇をとってやる。武者ぶるいする。  ドアが開いた。ロイブナーが有馬さんと入って来た。目がくらんだ。  ロイブナーは、いつもの温厚なやさしい目で、昨日はご苦労さん、おかげで助かった、と言ったようだったが、ぼくは席をけたてて指揮者室から走り出た。お早うございますも言わなかったように思う。気がついたら新橋のガード下のコーヒー屋に坐っていたのだが、当時N響の練習所は田村町のNHKの裏にあったのだから、新橋までぼくは走ったのだろうか。それっきりN響に行かずに三週間程たった。ロイブナーが指揮した定期演奏会にも、顔を出したりするものか。ずっと荒れ狂っていた。口惜しかった。ロイブナーのヤロウめ、病気なんか治りやがって。  N響の事務長から呼び出しがあった。あれっきり練習所に行っていないので、無断欠席のお説教だろうと、しぶしぶ行ったわけだ。 「この間、君があんまりすごい顔をして出て行ったので、ロイブナーと大笑いをしたんだが、あとでロイブナーが可哀そうだと同情してな、君のことをだ。さぞや張り切っていただろうに、自分の病気が治ったせいで、イワキはチャンスを無くしてしまった。来週の音楽会を君にふらしてやれと言うんだ。自分は、本当のウソの病気になるからとな。曲目はコレコレ……。安心して勉強しなさい」  なんていい人なんだろう。心の優しい人なんだろう。そもそも、ぼくが血相を変えたり、ガッカリしたり、すねたりするのが間違っていたのだ。ぼくは見習いでアシスタントなのだから。  ロイブナーは、ウィーンの国立歌劇場の専属指揮者だった。そのポジションを保ったまま、日本にN響の常任指揮者として、二年間赴任したのだった。  最初の仕事は、ベートーヴェンの第六交響曲「田園」の放送用の録音で、その時の練習風景は、今でもはっきり覚えている。それは、それは、しつっこい、あくまでウィーン風のベートーヴェンの音色をオーケストラに出させるための、粘り方だった。その頃のロイブナーとN響の仕事を、今テープやレコードできいても、たまげるのだ。なんとウィーン風であることか。ウィーン・フィルハーモニーがものすごく下手になったら、このような音になるのではないか。それにしても、日本のオーケストラは、どうしてその時の指揮者の国籍によって、こうも違ってしまうのだろう。その抵抗のなさ加減に、時には寂しさを思うことがあるのだけれど、そう、ロイブナーは生っ粋のウィーン人だった。  N響との仕事が終わってから、ウィーン国立歌劇場の指揮者に復帰したが、生来の人の良さは同じで、──自分の病気の全快のおかげで、アシスタントの張り切りをガッカリさせてしまったのを苦にして、次には仮病になって、彼にチャンスを作ってやるような──カラヤンを初めとする数々のスター指揮者達の尻ぬぐいばかりさせられ、いつも損ばかりをして、結局はくたびれて死んだのだった。だから、お終いまであまり出世しなかったが、今でもウィーンで彼のことを悪く言う人に会ったことがない。  N響との任期が終わって、最後の音楽会だった。ハイドンの第何番かのシンフォニーが、いよいよお別れの曲で、最終楽章が始まった時、彼はいきなり指揮台を離れて、ステージのわきに歩いて行った。オーケストラは茫然としながら弾き続け、彼は彼で、N響は自分が去ってもこのように立派にやって行くのだと、客に示したのだった。  突然演奏が乱れた。長い休止のフェルマータがあったのだ。打合せも何もなく指揮者が消えたら当然おこる混乱だった。ステージわきにすまして立っていた彼のおどろきぶりが今でも目に浮かぶ。正直な人だった。  M───   黛 敏郎     (作曲家)   Toshiro Mayuzumi  芸大に入りたての頃だったろうか。それとも二年になってからかもしれない。ぼくは学校の食堂の隅で、仲間数人と馬鹿ばなしをしていた。午後の三時ぐらいだった。季節ははっきり覚えている。梅雨だった。じとじとしていた。食堂は学生たちで満員だった。  いきなり反対側の入り口の、たてつけの悪い戸が、すごい音をたてて開いて、女子学生が息を切らしてとびこんで来た。たばこの煙もうもうで、それに、なにしろ若い学生でいっぱいなのだから、ガヤガヤぶりも相当だったのだが、その女の子の血相かえたとび込み方の迫力に、食堂中が一瞬シーンとなった。 「マユズミさんがカツラギさんと校門……」と叫んで、あとはハアハア|喘《あえ》ぐだけだった。きっと、かなり遠くの、通称美校の門、つまり美術学部の入り口の方から歩いて来る黛夫妻を見かけて、一刻も早くと走って来たのだろう。  食堂中が一斉に立ち上がった。みんなわれがちにと走って出て行った。女の子は黛さんを見るために、男の子は桂木さんを見るために。 「チョッ、新進作曲家が何だってエンダ。松竹のスターがナンデエ。あさましいなあ。あんなに走って行きやがって。見たきゃ、どうせあとでここに来らあナ」  打楽器科の同級の白木秀雄がつぶやいた。食堂にはぼくら二人だけが|憮然《ぶぜん》としていただけだった。本当は二人とも走って行きたかったのだが、お互い、|牽制《けんせい》し合う何かがあったのだ。  何分かして、黛敏郎、桂木洋子の御両人が静かに食堂に入って来た。 「アラ、しばらく、セエーンセ! おかわりなくてえ?」  と食堂のおばさんがハシタナイ大声を出す。もっとハシタナイのは、さっき走って出て行った大勢のヤツラだ。夫妻の五メートルぐらいあとを、ゾロゾロ無言でついて来る。ミーハーっていうのは、だからイヤになっちゃう。  でも、なるほどスターというのはああいうものなんだなあ。まわりのムシケラ共には目もくれず、 「うん、おばさんも元気?」  なんて涼しい声で言っている。映画スターの方は、ただ黙って作曲のスターに寄り添っているだけだった。それがまた、一層尊く見えるのだ。 「チキショウ、おれもああなりてえなあ」  と、となりの白木がつぶやいた。当時もう、白木は世の中でかなりのスターだったのだが、ジャズドラマーには、大勢の尊敬の|眼差《まなざし》の真ん中に立っている黛さんが、よほどうらやましかったのだろう。作曲家がスターで、しかもオクさんが映画スターだなんて邪道だ、作曲家というものは、ビンボウくさくなきゃあ、なんて思いながら、ぼくの目も黛さんの一分の|隙《すき》もない着こなしぶりのうしろ姿に|釘《くぎ》づけなのだった。  古今東西、無数の作曲家の中で、黛さんのように、作曲家としてのデビューの最初から、きらびやかな存在だったという人は、まず絶無なのではないかと思う。音楽学校の卒業作品一発で世の話題をさらい、遠いヨーロッパの国際作曲賞もこの作品でもぎとり、ジャガー──正確にはジャグワールのスポーツカーを乗りまわして、週刊誌の掲示欄に「日本で時速二百キロで走れる道路があったら、お教え下さい」なんてカッコイイことを書いちゃったり、人気映画スターとポンと結婚したり、世の人にはすこぶる難解なはずの作曲をし、ミュージック・コンクレートとか電子音楽なんてものに誰よりも先に取り組み、だからこそ前衛の旗頭で、不思議なことに、こういう仕事なのにウンと稼ぎ、チャラチャラのタレントとは違い、日本中の尊敬とあこがれにつつまれた本物のスターだったのだ。しかもこれは昭和二十年代の後半の、日本がまだまだビンボウだった頃のことだから、驚嘆のほかはない。勿論、そういう時代だったから、ということは言えるだろうが、でもそれからずっと現在まで、黛さんはスターのままなのである。  昭和三十三年の「|涅槃《ねはん》交響曲」の衝撃的な発表は、大袈裟ではなく、その後の日本の作曲界の方向を全く変えてしまった。しかも同時に、彼は日本の最初の世界的な作曲家になったのだった。その後の作曲家としての作品の産み出し方は、少し静かになってしまって、音楽家のぼくにはちょっとさびしいのだが、テレビのコマーシャルにバンと派手に出た最初の作曲家も彼で、これだって前衛的影響を他の作曲家に与えたという点で、「涅槃」に較べたくなる。 「題名のない音楽会」の司会ぶりというより、あの番組自体、黛さんそのもので、あれを何百回も続けていたら、作品の数も減るだろう。歌劇「金閣寺」をベルリン・オペラのために書きあげているけれど、今の黛さんの音楽的行動は「題名」をえんえんと続けて、一部の現代音楽好きだけにではなく、全国の大きな聴衆に、音楽|啓蒙《けいもう》の運動をするのにしぼられているようだ。これも前衛的な態度を持ち続けている姿勢と思える。 「題名」にしぼっているわけではないかもしれない。超保守的な多方面の思想的行動がある。この「超保守」も、彼の前衛精神のほとばしりだと、ぼくは理解している。  食堂の隅で、本当はあこがれていたのに、テヤンデエなんて白木とヒガンでいた時から二、三年の後に、ぼくはあのスターと直接口がきけるようになった。チンピラ指揮者だったのに「涅槃交響曲」の世界初演の指揮をさせてもらったり、黛さんには様々の世話になって、以来ずっとファンのままで、誰かが右翼ぶりをカラカッたり、最近の創作の少なさにケチをつけたりする時、ぼくはいちいちムキになって怒るのだ。  昭和三十三年の夏だった。第二回の軽井沢現代音楽祭のために書いた黛さんの作品に、「|阿吽《あうん》」というのがある。|大鼓《おおつづみ》と小鼓と笛の、三人の奏者のための室内楽だったが、作曲者は西洋のオタマジャクシで書いていて、当時はこういう和楽器の奏者で西洋楽譜が読める人が非常に少なかった。そこで口説かれて、小鼓をぼくがやることになった。小鼓なんてやったことがなかったので、あわてふためき、知人の宝生流に何回か通って、チーとかポなどの打ち方をインチキながらも、なんとか出来るようになった。  大鼓は、これも本職が見つからず、作曲者が自ら演奏することになり、黛さんは何流かに駆けつけて手ほどきを受けたのだった。笛吹きもいなくて、かわりに先年亡くなった林リリ子さんがピッコロでやることになった。  大鼓と小鼓が、お互い、何回かのレッスンをそれぞれすませて、そろそろ合わせの稽古にかかれそうになって来た頃、電話がかかって来た。 「どう、調子は? ところで、今これから二時間程時間ないかい?」  間もなくジャガー運転の黛さんがやって来て、どこに行くのかも知らぬまま、着いたのは日本橋の三越だった。 「生まれて初めて人前で鼓を打つんだから、二人で|揃《そろ》いのちゃんとした恰好をしようと思ってね、君の分は記念にプレゼントするよ」  それでも何のことか分からず、どんどん歩いて行く黛さんに従って、三越のエレベーターに乗ったのだった。 「次は○階、呉服売り場でございます」  の声で、ぼくはやっと、何のための三越本店かが分かったのだ。そう言えば四、五日前に、いきなり電話で、背丈と体重をきかれたっけ。家の紋は何だ、なんてヘンな事を尋ねたのもこのためだったのか。今日は紋付き、|袴《はかま》の仮縫いなのだ。ジャガーに乗って──昭和三十三年頃の日本に、ジャガーのスポーツタイプなんて、何台あったろう──三越本店の呉服部とは、いかにもこの人らしいと感にたえたのだった。 「イヤーーアッ、ポン」  と何回か二人で練習した。ドシロウトの二人がやっても、日本人が日本の楽器を持つと、どちらかがかける「イヤーーアッ」のあとの「ポン」が絶妙にピッタリ合って、西洋風に三、四と指揮をされたって、こうは合わないね、とぼくが感心すると、だから「阿吽」というんだと、作曲者は威張るのだった。  軽井沢のステージ練習では、──星野温泉の旅館の大広間が、われわれのカワイイ現代音楽祭の会場だった──ピッコロの林リリ子さんが、どうしてもとだだをこね、鼓の二人が紋付き、袴で正座している真うしろに|屏風《びようぶ》をたて、その蔭でピッコロを吹くのじゃないといやだというのだ。黛さんが彼女の和風正装のことを忘れていたのか、リリ子さんは洋服だけで軽井沢に来ていて、紋付き、袴のわれわれの横にツゥ・ピースでは恥ずかしいのかと思ったら、さにあらず、ぼくたちの「イヤーーアッ」の時の顔を見る度に、笑いころげてしまって、ピッコロが吹けないのだ。ぼくだってしょっ中ニタニタして、それでも「ポン」とたたけるのだが、笛吹きが吹き出したら、音にはなるまい。だから本番では、正座の鼓二人のうしろに、豪華な金屏風がたてられ、姿のない「ピイーッ」が聞こえたのだった。  演奏会では、旅館の大広間を埋めつくした聴衆は、といっても二百二、三十人だが、終始、われわれの「イヤーッ!ポン、ヤッ!ポン」に抱腹絶倒、笑いころげていた。「イヤーーアッ!」とやりながら、ぼくには見えたのだが、指揮者の森正さんなんか、われわれの勇姿を撮ろうと何十回もカメラをかまえ、シャッターを切るたびにプッと吹き出して、結局は一枚も撮れなかった様子だった。  ひとり、大鼓奏者だけは、一度たりとニヤリなんてしなかったのだ。左の小脇に大鼓をかかえ、かたい紙をまきつけた右の人差し指と中指でハッシとタイコを打つ時も、カン高い、ホソイ声で「イヤーーアッ」と叫ぶ時も、無念無想に半ば目を閉じ、いと高き「阿吽」の境地におわしましたのだ。  時々屏風のうしろから、笛の音ならぬ、ケッケッケがきこえて来る。ぼくはといえば、やはりハシタなくもお客の誰かれと目が合うと、どうしてもニヤリとしてしまい、共演者でありながら、少しばかり見物側の気持ちもあって、「ポン! ポ!」とやりながら右隣の大鼓の顔を横目で盗み見てしまう。目を半ば閉じていることは、半分開けていることにもなるが、これは楽譜を見ているからで、譜面を読む時に、目の前の笑いころげている客と目が合いそうなものだが、心魂の神性はいささかも動かされていないらしい。  終わって、満場大拍手大爆笑の中を、打ち合わせ通りに両手をついて深々と辞儀し、その時もぼくはニタニタしてしまい、となりは固い表情のままでパーフェクトだった。  楽屋で彼は初めてニコリとした。リリ子さんとぼくに、 「うまくいったね。有難う」  と言った。ニコリはおかしかったのではなく、ぼくたちへのねぎらいだったのだ。この「阿吽」とそっくりなのが娘道成寺の一部にあって、「阿吽」は現代音楽界への痛烈な|諷刺《ふうし》なのではないかと何度も尋ねたのだが、答はいつも「NO」だった。  時々思うのだが、黛さんの行動のすべてが、非常に高い次元からの、世の中へのカラカイのような気がするのだ。きけば無論「NO」だろう。われわれにそう思われるのは百も承知で、彼の言動はやはり真面目、真剣そのものなのかもしれない……とまたこう思わせておいて、本当は……というように、もしかしてこの人は宇宙からか、四次元からの人かもしれない。つきあい始めてから二十年以上経つ。ぼくはいつも黛さんが好きだし、尊敬している。だが不思議な人である。  N───   中村紘子     (ピアニスト)   Hiroko Nakamura 「岩城さんたち、郵便局にいらっしゃるんだったら、コレ、ついでに出して下さらない」 「オーケー、オーケー」  外山雄三とぼくは、十枚くらいの絵はがきの束を受け取り、ホテルのロビーから出た。郵便局なら歩いていけばそこら辺にあるだろう、と|呑気《のんき》なものだった。  場所はロンドン。時は昭和三十五年の秋。NHK交響楽団の世界一周の演奏旅行は、ほとんどの日程をこなし、このロンドンの次はニューヨーク、ワシントンで、東京にはあともうちょっとのところだった。古い映画の題ではないが、丁度八十日間の地球ひと回りだった。インド、ソ連、ポーランド、チェコスロバキア、ユーゴスラビア、西ドイツ、スイス、オーストリー、フランス……と、ここまで外山とぼくとで全部指揮して来て、最後の三カ所を、N響の当時の常任指揮者だったウィルヘルム・シュヒターがやることになっていた。ロンドンの音楽会も昨日無事に終わり、つまり昨日からは外山もぼくもヒマになって、もう責任はなく、気軽に二人でロンドン中をうろついていたのだった。  日本のオーケストラが海外に出たのは、これが史上初めてのことだったし、ぼく自身にも生まれて初めての外国だった。その頃ドイツに住んでいた園田高弘、松浦豊明の両ピアニスト氏が、途中で二、三回ソリストとして加わった以外は、中村紘子さんと、チェロの堤剛君が、世界一周の全行程を独奏者として同行したのだ。二人は十六歳と十七歳だったと思う。  外山とぼくは、土産を買い過ぎてトランクがしまらなくなったので、要らないものを船便で送ってしまおうと、包みをかかえてロビーにおりて来たところを、紘子さん──いや、もう二十年来の交際なのだから、いつも言っている紘子ちゃんと書こう──に絵はがきの束をたのまれたのだ。 「今頃はがき出したって、自分の方が先に日本に着くのにな」 「ロンドンから出すってのが大事なんだろう」  郵便局はなかなか見つからなかった。 「はがきなんて、ホテルのフロントに頼めばいいのにな」 「ホテルはあてにならないことがあるし、郵便局からの方が少しでも早いだろうっていうのが、十六のオネイチャンの乙女心っていうわけよ」  わけ知りは、いつも外山である。  人に尋ねるのもシャクだし、あてもなく歩き続けてもしようがない。ちょっとシャレて、パブでいっぱいやるかということになった。 「ロンドンのパブなんだから、スタウトにしようよ」  ぼくが言い出して、好きでもないのに黒いのを飲む。  黒ビールの泡がテーブルにこぼれて、大変だ、紘子ちゃんの絵はがきが|濡《ぬ》れてはと、束を横に移した時に、字が書いてある方が上になり、なんとなく二人の目に入った。  出すのを頼まれたはがきを盗み読むような下劣な教養なんか、われわれは持ち合わさなかったのだが、一番上のが自然に目に入って来たので、つい見てしまった。 「ママ、昨日はショパンのコンチェルト、とてもうまく行きました。シュヒターさんの指揮、すごく素敵! 本当に弾きやすいでした。岩城さんや外山さんとはさすがにダーンチ!」  外山と顔を見合わせ、一瞬あって、同時にプーッと吹き出してしまった。あやうく大事な絵はがきに、黒ビールの霧がかかるところだった。 「やりやがったな、あのガキめ!」  長いことゲラゲラ二人で笑っていて、あまりの|可笑《おか》しさに、スタウトを無理するのはもうやめて、普通の生ビールを注文した。  日本を出てから、二十回近く紘子ちゃんとコンチェルトをやって来た。その度に、アリガト、とてもやりやすかったワ、外山さんはすばらしかったワ、岩城さんステキ! なんて言われて、この娘っ子め、うまいこと言いやがる、なんて思いながら、十六歳のかわいい女の子にペチョペチョ褒められるのは、悪いものではない。二人とも鼻の下を長くして、ニヤニヤ、ニコニコして来たのだ。われわれは二十七、八歳だった。経験も何もない、まだほんのチンピラ指揮者で、こんな新米に突然降ってわいたN響との世界旅行という、どえらいチャンスだった。目をパチクリさせながらのこれまでだったが、十六歳の少女には一生懸命オジサンぶって、一人前の指揮者ヅラをしてきたのだ。だが、あの子にはみんなバレていた。  ベテランのシュヒターに歯が立たないのは分かり切っている。腹も立たない。外山と二人で笑いころげたのは、こんなことを書いた絵はがきを、こともあろうに、この二人に託したという紘子ちゃんの幼さが、たまらなく可笑しく、可愛かったのだ。 「なんのかんのコマッチャクレタことばかり言いやがって、大人をオトナとも思わねえような口をきいてよ。大天才少女さま、なんといってもおん年十六歳でいらっしゃるよなあ。やっぱりまだオンナノコだなあ。カワイイとこもあるじゃねえか」  ジョッキの最後の残りをグイとやった。パブの誰かに尋ねて郵便局に行こう。ガキの絵はがきも出してやろう。  外山が笑いながら言った。 「分からないぞ。大人をからかうことだけが生きがいみたいな小才女だからな。オレたちが読むに決まっていると計算して、わざと持たせたのかもしれないぞ」 「まさか……」  どちらでもよかった。われわれはすごく楽しんだのだった。出発してからもう七十日、十六歳にからかわれるのには|馴《な》れっこになっていたし、それにこっちだって紘子ちゃんを毎日からかって、ヤッツケルのに智力を尽くして来たのだから。  船便を無事に出し、例の絵はがきの束も、郵便局員がスタンプを押すのまで見とどけたから、ちゃんと日本に送られた筈である。  このことはあれから二十年、一度も彼女に話したことがない。人さまの他人|宛《あて》のはがきを盗み見た罪を自白するのはオソロシイことだが、二十年というのは、ロッキードだって、三億円だって、とっくに時効を通りこす長さなのだから、紘子ちゃんがカンカンになって怒っても、ぼくがコワがることはないのだ。  とにかく、今でもぼくは外山説をとらない。つまり、あんなことを書いて、わざとぼくたちに託したのではないということだ。前の晩にオフクロさんにはがきを書いて、何を書いたかなんて忘れてしまって、しかもわれわれの紳士ぶりを信じて、安心して郵便局に行くなら、とカワイク頼んだだけなのだ。この可愛さと、ちょっとヌケたところが、あの旅行以来二十年間、一緒の演奏の度にケンカばかりしているくせに、結局はいつでも、「ボクの一番大好きなピアニスト」みたいな、いわば、やっぱりオレはずっとアイツにホレて来たんだろうかと、自分自身に感心するみたいなところに繋がるのだ。  彼女と共演する。彼女がどこかでちょっとミスるとする。ぼくはカンカンに怒るのだ。中村紘子のそんなミスは絶対許せないのだ。あのヤロウ、コマーシャルの出過ぎだ。写真とるひまがあったら、もっと練習すればいいんだと、まわり中にアタリちらす。亭主の小説の挿絵を書く時間なんてないはずだ。ピアノをさらえ! 勿論こんなことは畏れおおくて、御本人に言ったことはなく、あたりちらされるまわりの人達が、迷惑するわけである。  反対に上手く行った時は、また、大さわぎだ。だれかれに中村紘子を自慢して歩く。|誉《ほ》めまくって歩く。テレくさいから本人にはあまり言わないのだが、これは日本的でよろしくないかもしれない。とにかくあんな大スターのことを今さら誉めまくって歩いても、まわり中の人達は、そんなこと常識だ、みたいな顔をして、さわいで歩くぼくは、やはり大勢に迷惑をかけているのかもしれない。  とにかく、ぼくにはそこいらのチャラチャラした紘子ファンとは厳然と違うという、本物のファンとしての自覚と自信があふれていて、ということは、やはりずっとホレて過ごして来たのだろうか。  あのロンドンの四、五日後、N響はワシントンにいた。  ヨーロッパからの時差もあって、ただやたらにねむく、午後のわりに早めだったが、ホテルの部屋でこれからひる寝をしようとしている時だった。ドンドンドンドン……と気が狂ったようなノックだった。紘子ちゃんだった。十六歳のマンマルだった紘子ちゃんの地球儀みたいな顔は、涙の洪水だった。何を言っているか、よく分からない。ギャーギャー、ワーワー泣きながら何か叫んでいる。やっとききとったら、もうお嫁に行けない、と言っているのだった。  涙のヒック、ヒックの合間に、やっと聞きとったのはこうだった。  彼女はホテルの部屋で体操をしていた。スッパダカで元気にやっていた。ふと窓の外を見ると、ホテルの中庭をへだてた向こうの窓から、N響の裏方のRさんがワタシをじっと腕ぐみして見ていた。ハダカを見られてしまった。だからもうお嫁に行けないノ。  ぼくはゲラゲラ笑ってしまった。それは第一に、紘子ちゃんがいけない。ハダカで体操したからさ。ぼくが仮にRさんの立場だったら、やはり喜んで見るよ。窓からフト外を見ていて、向かいの部屋で女の子がハダカで体操していたら、見ちゃうよ。腕をくむかは別にして。Rさんは悪くないよ。これからは、ハダカの体操の時、カーテンをしめなきゃ。  紘子ちゃんは、からかうばかりのぼくに腹をたて、泣きながら出て行った。彼女は、N響で一番オッカナイ、オーケストラのヌシみたいな有馬大五郎さんの部屋に駆け込むようだった。ヤジ馬となったぼくは、紘子ちゃんについて走って行った。  彼女は有馬さんに泣きながら訴えていた。ジイさんは真面目に、深刻にうなずき、Rは日頃から行状がよくないようじゃ、厳重に処置をしなければ、とつぶやいていた。Rは東京に着いたらクビになるかもしれない。ぼくはふと思った。十六歳の紘子ちゃんの泣き叫びの訴えだけで、Rが処罰されるのはどうだろうか。ぼくはシャーロック・ホームズになった。 「紘子ちゃんの部屋は何階だっけ?」 「十一階」  泣きじゃくっている。交換手を通じてRさんに電話をした。 「Rさん、今まで何してた?」 「何って、ねむれないし、退屈だから、窓の外を見てましたよ。それが?」  ちょっと、ヤバイではないか。 「で、何見てた?」 「中庭に|栗鼠《りす》がいっぱいいましてね。かわいいですよ」 「?………。Rさんの部屋、何階?」 「四階です」  これで分かった。紘子ちゃんは、体操の合間にひと息ついて、窓から外を見た。ハダカで。はるか下の方の向かい側の窓に、腕組みをして栗鼠を見ているRさんを見たのだった。向こうは四階、こちらは十一階。Rさんは無罪だった。  こんなオッチョコチョイの紘子ちゃんがぼくはとても好きなのだ。こんなオッチョコチョイの女の子が、悪口を書いたはがきを、わざと見せようなんて出来るものだろうか。  結局ぼくは、ずっとホレっぱなしのようである。  O───   長田暁二     (レコードディレクター)   Gyozi Osada  正月が来る度に、ぼくは長田さんからの年賀状を楽しみに待つ。ぼくだけに限らず、日本の音楽関係者なら、誰でもそうだろうと思う。これはもう�名物�と言っていい。  何の変哲もない官製の年賀はがきに、小さな活字がギッシリ印刷してあって、全部読むのには相当時間がかかるが、実に楽しいのだ。  去年の彼の仕事上の収穫、家族の近況、今年のプラン等が、底ぬけに明るく、おおらかに、しかも大声で書いてある。選挙演説の下手な政治家達に、長田さんの年賀はがきで勉強させたくなるほどである。  最新のを、長田さんには無断で、みなさんにお見せする。彼はきっと怒らないだろう。 [#ここから2字下げ] 謹賀新年  恒例により近況をお知らせ申上げて、新年のご祝詞に換えさせて頂きます。 ○ 十二月二十一日付をもって制作部部長プロデューサーに任命されました。学芸部長在任中賜わりました皆様方の御厚情と御支援に対し、先ず心より厚く御礼申上げます。人事異動と八〇年代の初頭を迎えるに当り気持を一新して、原田直之、ダーク・ダックス、サンリオフィルム「アフリカ物語」の音楽作りに集中し、専門職プロデューサーとして八〇年代も私の人生にとって意義あるものにしたいと考えております。何卒、今後とも一層の御指導をお願い申上げます。 ○ 昨年も、色々のところから執筆依頼を受けました。一部主なものは次の通りです。別冊NHKグラフ�紅白歌合戦30回の歩み�に=「世相史とともに歌謡三十年」(NHKサービスセンター)。農業富民4月号に=「民謡ブームとその背景」(富民協会/毎日新聞社)。ダーク・ダックスによる日本と世界の愛唱歌集に=「日本の抒情歌他の解説」(小学館)。日本の海の歌=星野哲郎氏等5名で共同執筆=(日本海事広報協会)。�子供の歌35年��幼い日の歌�連載=(共同通信)。�人生手帖�連載=(世界日報)等。今年もレコードディレクターの体験を通して眺めた音楽評論を勉強してゆく所存です。 ○ 日本の伝統ある劇場芸能を助成、振興し、もって我が国独自の文化、芸術の保存及び向上に寄与することを目的とする「松尾芸能振興財団」の運営委員に任命され、大変光栄に思っています。芸能文化の向上のため、陽の当らぬ人々にも陽をそゝげればと念じています。公正なセレクトが出来ますようあらゆる情報をお知らせ下さいませ。 ○ 原田直之のヒット曲作りとアメリカ公演の成功、来年に控えたダーク・ダックス結成30周年祭の地固め、「アフリカ物語」のインザワールドに通用する音楽プロデュース。これが私の今年のターゲットです。50歳にして出来る仕事をしたいものと、それのみ念じております。         一九八〇年 元旦 [#ここで字下げ終わり]  今年のには家族の近況はなかったが、いつもは犬の|仔《こ》のことまでも書いてある。  長田さんは背が小さい。低過ぎはしないが、とにかく高くはない。骨太で、骨のまわりには密度の大きそうな肉が──サーロインではなく、上質のフィレ肉が沢山ついている感じで、フィレという以上、勿論アブラでも筋でもなくて、そういった上等な肉でマンマルに見える。声はガラガラ大きく、絶えず健康なワイセツ言葉が飛び出す。田中角栄氏と※[#「登」+「おおざと」]小平氏の体格を足して二で割り、これにうんと若さとエネルギーを加えれば、長田さんになるのではあるまいか。  別のたとえで言えば、ドカベンのバイタリティと、銭ゲバの如き仕事への意欲と積極性、それにタブチクンの明るさをミックスしたような人である。  長々と描写して来たが、誤解のないように願いたい。これはぼくの、長田さんを誉めたたえたいための、ありったけの表現の羅列なのだ。  長田さんは長い間、キングレコードのディレクターだった。本当は何々第二制作課長とか部長とかだったのだろうが、ぼくは専門的業界用語をまるで知らないので、ただ、キングレコードの長田さんとだけ思っていた。というよりは、キングレコード、即ち長田さん、だと思って来た。  大昔、キングレコードの社屋は、ひどく古い木造のオンボロで、指揮者になる前のタイコたたきのぼくは、今日はあのオバケ屋敷で仕事だといっては、よく稼ぎに行ったものだった。廊下の床の板は腐っていて、そっと歩かないと、ふみ抜いて怪我をする恐れがあった。ディレクターが大声で「ハイ、本番願います」と叫ぶと、スタジオの壁がバラバラとこぼれ落ちた、と書くとちょっと大袈裟過ぎるだろうが、そんな若い長田さんの仕事ぶりを、ぼくはいつもオーケストラの中から見ていたが、両者意識しての付き合いは別になかった。  指揮者になって初めての正式なレコーディングの仕事は、長田さんとだった。正式とわざわざ書くのは、それまでに非公式というか、名前を出さない──出してもらえないレコードの指揮の仕事をちょくちょくやっていたからだ。  長田さんとの初仕事は、オリヴィエ・メシアンのサンク・ルシャン〈五つの歌〉だった。東京混声合唱団が、キングレコードと「合唱の歴史」というLP十枚近くになる大仕事に取り組み、古典・バロックの指揮を田中信昭氏が担当し、ロマン派は森正氏で、ぼくは現代合唱曲の録音の指揮をしたのだ。メシアンの他に、シェーンベルグや色々のものをレコーディングしたが、とりわけこの〈五つの歌〉は難曲で、先ず合唱団と六カ月の練習をして、音楽会をやり、さらにまた三カ月みっちり練習し、キングとのレコーディングに臨んだのだ。  昭和三十一、二年の頃だった筈だが、つくづくこの時の仕事をなつかしく思う。難曲中の難曲で、当時の日本のレベルでは、演奏を不可能視されていた曲だった。だからこそ挑んだのだったが、合唱団はあの頃、発足したばかりのものすごい貧乏で、だからこそ|厖大《ぼうだい》な量の練習に経済性をものともせずに──経済性もクソもなかったのだ──意欲だけでぶつかったのだし、ぼくだってものすごく時間があって──売れていなかったのだ──良い音を作り出すことだけに、毎日の時間を夢中で費やしたのだった。やはりあれが、青春というものなのだろうか。  ぼくのレコード会社への要求は、一日のレコーディングは、休憩時間を含めて六時間、それを十二回、つまり合計七十二時間をかけたいというのだった。〈五つの歌〉の演奏時間は、たったの十二分なのである。一回、六時間のレコーディング・セッションで、レコードになるのはたったの一分なのだ。そのために、時には一小節を何百回もくり返してテープに入れ、その中の最良であり、完全なテープを、ひとつだけつなぎあわせ、他の全部を捨てるのだ。 「ようガス、ヤリヤショウ」  と長田さんは大きな声でいった。  この「ようガス」が、どんなにすごいことなのか、読者にはお分かりにならないだろうから、説明する。  キングレコードの第一スタジオを、ぼくがメシアンのレコーディングのために独占する、六時間掛ける十二は、七十二時間。これだけの時間があれば、会社は七十二曲の流行歌の録音が出来ることになるのだ。出来ている曲がそんなにないかもしれないから、これは純粋に数字上の計算になるが、メシアンは十二分しかなくて、LPの四分の一にしかならないにせよ、このメシアンが入ったレコードは、千枚以上売れる見込みが絶対にないのだ。いや、五百枚も出ないかもしれない。  七十二曲の流行歌は、すなわち三十六枚のシングル盤である。このうち一、二枚がヒットしたって、合計百万か二百万枚にはなるのである。  十二回のレコーディングのうち、一回は、合唱団員の一人が風邪をひいて声が出ず、ぼくは「今日は止めます」と長田さんに言ったのだ。現在のもの分かりが良くなっているぼくなら、こんなことは言えなかったかもしれない。なにしろ、キングレコードの第一スタジオを、六時間空白にしてしまうのだから。  長田さんは、 「ようガス」  とひとこと言っただけだった。経済効率の上で、六時間のスタジオの空白を、どんなに会社のエライさんに責められることだろう。そんなことはおくびにも出さなかった。 「皆さん、次のレコーディングのために、ゆっくり休養して下さい」  だけだった。ぼくはこの人を、芸術至上主義の、神々しい使徒だと感動した。  録音の最中や、そのあとのプレイ・バックの時に、ぼくは不思議に思うようになった。どうもこの人は、何の音も分かっちゃいないらしい。もしかしたらオンチらしいのだ。だが、演奏が上手く行った時に、長田さんが出すOKは、実に、実に的確なのだった。スタジオの中の緊迫した空気が、演奏が本当にうまく行って、一瞬ホンワカとなごむ時がある。その瞬間を彼はキャッチするのだ。まさに動物的なカンだ。天才としか言いようがない。  こうやってこのレコードは出来上がり、当時の世界での難曲中の難曲の、最初のレコード化が成功した。長田さんは完成したレコードをメシアンに送ったらしくて、遠い遠い夢の巨匠から感謝の手紙が送られて来た。ぼくたちは涙を流したのだった。  その後、だんだんに知る長田さんは、決して芸術の使徒なんてモノではなかった。ペギー葉山の「南国土佐を後にして」の大ヒットや、数々のダーク・ダックスのヒットも、キングレコードの殆どのヒット、つまりカセギは、長田さんの仕業だと、ぼくにも分かって来た。軍国リバイバルを敏感に感じ取り、軍歌集なんてのを出して、ブームを作ったのも彼だった。  ゲイジュツのゲの字も自身の感性にはなく、会えば「ドーンとやりましょう」とひとを神楽坂に連れて行き、芸者をあげて、鉄道唱歌の※[#歌記号]汽笛一声新橋をから、八十何番まで全部大声で歌って、こちらを|辟易《へきえき》させる。キングレコードが新しいビルを建てた時は、あれの殆どは長田が作ったのだという|噂《うわさ》が出たくらいに、どこに出してもハズカシイような、売れるだけのレコードを、大量に作って会社を稼がせ、かと思うと、損するだけだからやめろというぼくの忠告を無視して、観世三兄弟とのストラヴィンスキーの「兵士の話」を強引に作らせたりする。寿夫さん亡き今、このレコードは日本文化史の重要な遺産になっている。  不況のひどい一九七四年だったろうか、長田さんがやって来た。 「何かオモロイことやりませんか。オクサンとグリークなんてのはどうです」 「そんなの全然興味ないなあ。メシアンのピアノとオーケストラのための四曲全部なら、おもしろいけど」 「それ、それ」 「大損しますよ」 「ようガス、ようガス」  この二枚ひと組みは、日本の芸術祭の賞には一顧もされず、売れもせず、すぐに廃盤になってしまったが、フランスで発売されて、なんとグラン・プリ・ディスクをとってしまった。日本製作のレコードとしては、初めての世界レコード大賞だった。  ニュースが来た時、すでに長田さんはキングのトップと意見が合わず、手勢を従えてポリドールに移っていた。キング時代の長田さんとの仕事のグランプリを、ポリドールの長田さんと乾杯し、彼は鉄道唱歌をダミ声で|唱《うた》ったのだった。  P───   ペンデレツキー     (作曲家)   Krzysztof Penderecki  一九六〇年に作曲した「広島の犠牲者のための哀歌」という曲で、ペンデレツキーは一躍世界的になった。ぼくはこの曲を、今世紀の最も重要な曲のひとつだと思っている。  音楽を文字で説明するのは、全く不可能だが、絃楽合奏だけで書かれている、この「広島の犠牲者のための哀歌」は、暗く、恐ろしい予感に始まり、原爆にやられた人達の苦しみと、阿鼻叫喚、死者への哀悼と、戦争に対する怒りと憎しみを、赤裸々に、しかも深い心で表現している。そしてこの曲で彼が用いた作曲技法は、当時非常に新しく、一般的な拍節という観念のないやり方で曲の殆どが書かれていて、指揮者用の楽譜の多くのページは、真っ黒な太い線や塊だらけで、まるで抽象画のようだった。今では、こういう作曲法が普通になってしまい、猫も|杓子《しやくし》もという|按配《あんばい》だが、初めてこういうことをやってのけたペンデレツキーは、二十世紀後半の世界中の作曲家に大きな影響を与えたわけである。「ペンデレツキー・サウンド」と一般にいわれた。まあこれは彼のパテントであり、世界の作曲界の、一方の旗頭と当時言われたし、教祖的な存在だった。彼はポーランド人で、現在は西ドイツに住んでいる。  ある時、ポーランドの音楽関係者に、ぼくはショッキングな話をきいた。  ワルシャワ・フィルハーモニーが日本に初めて演奏旅行をすることになった時、ペンデレツキーの新作を曲目の中に入れることになった。ポーランドは、現代音楽を非常に盛んに推進している国で、毎年ほぼ一カ月続く「ワルシャワの秋」という現代音楽祭は、長年続いていて、国を挙げての規模の大きさ、内容の充実の点で、この種の音楽祭の中では世界最大のものである。  自分の国の新進のバリバリの曲を、外国への演奏旅行に持って行こうという、ワルシャワ・フィルの姿勢には頭がさがる。わが国に限らず、どこの国のオーケストラも、外国旅行には興行上安全な、つまりお客にうけるプログラムを持って行こうという、傾向がある。現代音楽への国の大きなバックアップがあるからこそ、ワルシャワ・フィルではこういうことが可能なのだろうが、うらやましい限りだ。  さて、日本旅行のため、オーケストラはペンデレツキーの新作の練習を開始した。「作品何番」というだけの、ひどくあっさりした題名だったこの曲を、何度か練習しているうちに、関係者の誰かが言い出したのだそうだ。この曲の鬼気せまる、不気味な、恐ろしい雰囲気と迫力がすさまじい。まるで原爆みたいだ。「作品何番」という題名より、せっかく日本に演奏旅行に行くのだから、広島の原爆に|因《ちな》んだ名前にしたらどうか。その方が成功するだろう。ペンデレツキーは同意して、「広島の犠牲者のための哀歌」という題名にしたのだという。  作曲者がこれを作った時は、純粋な絶対音楽として書きあげたわけだ。例えば、ベートーヴェンの第五交響曲は、最初のダダダダーンのことを、ベートーヴェンが「運命はかく戸を|叩《たた》く」と誰かに言ったとか言わないとかから、「運命」といわれるようになったのだし、いわばニックネームであるにすぎず、ベートーヴェンのあずかり知らぬ題なのだ。 「広島の犠牲者のための哀歌」の場合は、これとは正反対だ。まわりの人達の意見に作曲者が従って題を変えた、という|稀有《けう》な例だろうと思う。  とにかく「広島の犠牲者のための哀歌」は、日本での大成功以後、またたく間に世界に知れ渡り、二十世紀後半の最も重要な名曲のひとつになった。原爆のことなど、全然イメージになくて書いた「作品何番」は、ただの「作品何番」としてもすばらしい曲なのだ。だが、「広島の犠牲者のための哀歌」としてこの曲が世に出なかったとしたら、あんなに早く、世界の、いわばスーパー・ヒットになっただろうか。  勿論この話は、当時の関係者の一人にきいたわけで、本当にそうだという確信は、ぼくにはない。後に、ペンデレツキーと一緒に仕事をした時、本人に尋ねて確かめたいと思ったのだが、作家の心の中をフォークでかきまわすような気がして、仕事の合間にいつも一緒に飲み食いしていたのに、どうしても言い出せなかった。 「広島」以後のペンデレツキーは、今や世界の現代音楽界の重鎮である。現在指揮者としても活躍している。偉大なペンデレツキー・サウンドを発明してからの彼の作品は、殆どいつもそのスタイルで、自分の|莫大《ばくだい》な貯金の利子で食っている感じがなくもない。でも、ベートーヴェンのどの作品をきいても、最初の一小節でもうベートーヴェンだと分かるし、ブラームスもそうではないか。あれほど何度も生涯に作風のスタイルを変えたストラヴィンスキーだって、ピカソだって、どれをきいても、どれを見ても、一瞬にストラヴィンスキー、ピカソだと分かってしまう。大作家とはそういうものなのだろう。  ペンデレツキーは、実に元気な、陽気な人だ。「広島」の音からは想像出来ない。黒い太ぶちの眼鏡をエネルギッシュな濃い髭がとりかこみ、バカでかい声でゲラゲラ笑う。わが山本直純に少し似ている。  彼のカンタータで、大オーケストラと大合唱と、何人もの歌のソリストと、二人のナレーターという大曲を、ベルリンで指揮したことがあった。この曲のアメリカ初演の時、指揮者のズービン・メータと意見が合わず、メータとペンデレツキーが取っ組み合いのケンカをしたということをきいていたので、少々心配していたのだが、ぼくとはそういうこともなく、すこぶる無事に、楽しい仕事が出来た。  演奏会のあと、主催のベルリンの放送局の|肝煎《きもい》りで、あるビヤホールを借り切った盛大なパーティがあった。この時の音楽会は、「現代の音楽」というタイトルで、ペンデレツキーの他に、石井真木と高橋悠治とドイツの新進の作曲家の最新作が演奏されたので、ベルリン在住の殆どの若い作曲家がパーティにやって来た。大部分がドイツ人だからビールをガブガブやって騒ぐ。今きいたばかりの四曲の新作が|肴《さかな》である。ところがペンデレツキーがいつまでもパーティに現われないのだ。ビールが大分まわって、沢山の若い作曲家どもの、ペンデレツキーヘの欠席裁判が盛大に始まった。  一時間ほど遅れて、ペンデレツキーが入って来た。みなさん、すまん、すまん。会場からここへ車で来る途中に、追突事故にあって、あと始末に時間を食ってしまった。オレの身体は何ともない。安心してくれ。  一寸だけシーンとした。無事でよかった、という小声がどこからかきこえた。  と、いきなり若い大声が、そりゃあそうだよなあ、あんたはここ十年以上追突され続けだもんなあ、とヤジったのだ。全員が長いこと笑いころげた。ペンデレツキーは、さびしそうにニヤリと笑ってビールを飲むだけで、ヤジには何も言わなかった。  ぼくは笑う気にならず、ただ、ビールを飲んでいた。作曲家同士の戦いというのは、かくもすさまじく、残酷なものか。ペンデレツキーが、「ペンデレツキー・サウンド」という新技法を確立してから、世界中の若い作曲家がペンデレツキーの真似をし、自分のものにした。そして今や「体制」となったペンデレツキーを、多くの作曲家が追い越しつつあり、つまり彼はドカンドカン追突されていることになる。ぼくのすぐ横でペンデレツキーは飲んでいた。気の毒で、彼の顔をまともに見ることが出来ず、何杯もビールの代りをしたのだった。  Q───   邱捷春     (作曲家)   Qiu Jie‐chun  春になって、ぼくは芸大の二年生になった。新学期から異様な男が学校中を歩きまわるのが目についた。小柄で、色はあくまで黒く、といっても東洋人の顔をしていて、非常に堅そうな骨と筋肉が想像されるのだが、スポーツで鍛えたという感じではなく、人間から水分を極度に取り除いたらこんな風になるのではないかと思えるのだった。そしてぼく達より相当な年上らしく、学務課に行って調べたヤツがいて、やはり彼は四十をもう越していた。台湾から来た作曲の新留学生ということが、だんだんみんなに分かって来た。大きな五線紙の入った巨大な楽譜|鞄《かばん》をかかえた彼が、コトコト靴音をたてながら近づいて来て、「ヤア、キミ、ドウ? ゲンキ? ヤッテル?」と大声で話しかけても、びっくりしなくなった。邱捷春という名前だった。  芸大に楽聖が突如出現したのだ。そう、邱さんはベートーヴェンにそっくりだった。もともと顔が似ているのに、誰か作曲科仲間のワルイのにそそのかされて床屋に行き、「キミ、ボクノアタマ、コレソックリニスルヨ、イイネ」  と、おっかないベートーヴェンの肖像画を見せて、昭和二十七年の上野に楽聖が誕生したのだ。  邱さんは学内の人気者になった。やること、なすこと、なにもかもベートーヴェンのようだったし、おまけに書く曲も、彼の理想のモデルにそっくりで、「邱さん、この曲は田園交響曲によく似ているね」と言うと、「ソウ、ソウ、キミ、ヨクワカテクレルネ」と、すごく喜ぶのだった。  大変なことになった。邱さんがぼくのガールフレンドに横恋慕してしまったのだ。もっとも彼からいえば、熱烈に恋している女神に、ぼくという邪魔者がくっついていたことになる。 「オヤガキメタアイテナラ、ボク、アキラメル。ジブンカッテニキメタコト、ユルサナイ。イワキ、ケシテヤル」  うそか本当か知らないが、なにしろまわり中がワルイ。作曲科のヤツラはイタズラのためだけに生きているのだ。邱さんが東京中の中華そば屋四百人を連れて、ぼくの家を焼討ちに来るなんて、デマが飛んだり、彼はナントカ|拳法《けんぽう》の達人で、胸をポンと打つと、三カ月後に急に内臓が分解するという、証拠の残らない術を知っているそうだ、とからかうヤツもいて、ぼくはデマのおかしさに笑いながらも、だんだん怖くなって来た。それからというもの、邱さんに出会わないように、ぼくと彼女は学校中をコソコソ逃げまわり、長い間コワイような、オモシロイような毎日が続いた。  結局彼女とぼくは別れ、女神は遠い外国へ行ってしまった。  虚脱状態のぼくを、いきなり邱さんが家に訪ねて来た。ギョッとした。オレもう、きみに無罪の筈じゃないか。 「ショウブ、マダツイテナイ。ダケド、ボク、ボウリョクヤメタ。ブンカノチカラデ、キミニカツコトニシタヨ。ボクサッキョクカ。キミシキシャ。サッキョクカエライ。エンソウカドレイ。ボクノキョク、キミシキスル。キミニブンカノチカラデカツ。イイネ?」  大変結構だ。文化的奴隷になって邱さんに勝ってもらうのは、すごく有難い。暴力反対だ。音楽っていいもんだ。  ぼくは邱さんの作品発表会を指揮した。どの曲もベートーヴェンに似ていて、彼は幸福そうだった。ぼく達は親友になった。  もう六十をとっくに越している筈の邱さんは、台湾の作曲界の大御所として活躍中ときいている。作風も、ベートーヴェンからブルックナーあたりまで変わったに違いない。あれから二十数年経っているのだから。  R───   スヴャトスラフ・リヒテル     (ピアニスト)   Sviatoslav Richter  パリに着いてホテルのチェックインをしたら、リヒテルからのメッセージが置いてあった。〈アヴェニュー・ナントカの何番地のムッシュー○○○○○の家に居ます〉というのだった。  一九六七年のイースター直前のパリは、まだ春のはずなのに、恐ろしく暑く、ムシムシしていて、ドイツの北の方から飛んで来たぼくは、パリのオルリー空港からのタクシーの中で、まずコートを脱ぎ、上着を脱ぎ、もうあとは脱ぐわけにはいかなくて、グショグショのハンカチをあてると、顔の方が濡れるくらいだった。  リヒテルと言えば、幻のピアニストとして西の世界に登場してから、当時既に数年たっていたのだけれど、依然として幻のままで、それから十年以上たった今でも、やはり幻の存在のような気がする。リヒテルの超絶的テクニックや音楽の恐いほどの大きさや、彼の言動のすべてが、誰にでもこの世のものではない音楽家と思わせるのだ。自分のコンディションが、少しでも悪い時は弾かない。超満員のお客が待っていて、いざこれからステージヘという時になって、今日はやめた、と言って帰ってしまうこともあったらしい。その逆に、音楽会を終えて客がホールから一人残らず消えてしまった後、その日の自分の出来に満足できなかったと言って、そのまま朝までステージで一人で弾き続けるということもあった、と聞いていた。  一九六一年に、ぼくはリヒテルの御本体を、ウィーンで初めて拝んだ。長いこと並んでやっと買った切符だったが、スカルラッティのソナタのテンポの余りの速さと、しかも全曲ピアニッシモで弾いてしまったのの記憶しかなくて、だから、なおさらぼくにとっても、幻だったような気がする。  六七年の春の、フランスのロワイヤンの現代音楽祭での、ぼくの音楽会のソリストに、リヒテルが決まったと聞いた時は、キャンセルしようと思ったくらいだった。そんな幻の巨人といっしょに演奏するのなんて、思っただけで身体中が震える。リヒテルが弾くのはバルトークの第二ピアノ協奏曲で、これだってちょっと不思議なことだった。この現代音楽祭は、当時の世界の中での、最先端の最前衛の音楽ばかりを演奏するので有名なフェスティバルだった。バルトークをロワイヤンのプログラムに入れるのは、少々古くさくはあるけれど、幻のリヒテル引っ張り出しのためには、超前衛性を少しは犠牲にしてもという、音楽祭当局の妥協があったのだろうと思う。  アヴェニュー・ナントカに車をとばした。ベルを押したら、ランニングにパンツの汗だくのおじさんが出て来て、ぼくはあわてふためいて、あなたサマと共演できることになった自分の光栄さなんかを、クドクド丁重に言ったのだが、トンチンカンなことになってしまい、このランニングはアヴェニュー・ナントカの家の人で、フランスの中堅ピアニストであり、彼はリヒテルに、自宅とピアノと、オーケストラパートをピアノで弾いてリヒテルの練習につき合う稽古相手としての自分を、提供していたのだった。考えてみると、ぼくは幻の巨匠を近くで見たことがなかった。その幻からのメッセージで、いそいそとアヴェニュー・ナントカにかけつけただけで、出て来た西洋人をリヒテルと思ってしまったのは、相当なオソマツだった。  御本尊は、家のベルが鳴ったくらいで自分の練習を中断されるのは、もったいないらしく、中でピアノを弾き続けていた。やはりランニングにパンツだった。パンツといってもショートパンツなぞという立派なヤツではない。それこそ下着のパンツ、西洋サルマタそのものなのだ。初対面だったが、ぼくとしても、直前に違うオヤジに初共演の光栄云々と麗々しくしゃべってしまって、スッポ抜けたような気持ちだったし、リヒテルの方も、ただぼくと一秒でも早くいっしょに練習したかっただけらしくて、両方「こんにちは」だけで、すぐにバルトークの稽古にとりかかった。  普通こういう時は、ソリストはあくまで自分のペースで弾き、一度きき終わって、こちらに彼の理想とするテンポがなんとなくわかり、打ち合わせが終わりとなる。ぼくもその調子で、二人のランニングが異常高温のパリで、汗みどろにバルトークをやっているのを、スコアを見ながら聞いていた。リヒテルはふとピアノをやめて、自分に向かって棒を振ってくれと言うのだ。ぼくも既に上着は脱いでいたが、なんとなく拍子をとる感じで、気軽に手を動かしていた。と、そうではない、とまたピアノを止め、あなたが本当のオーケストラを前にして指揮するように、やってくれと、頼むのだ。わたしがあなたの指揮に今日一日かかってなんとか慣れたいのだ、と言う。  横を見ると、ぼくのレコードが、何枚かピアノの側に|拡《ひろ》がっていた。ヨーロッパで買ったらしいのもあったけれども、あとから聞いたところによると、ぼくという初対面の指揮者の音楽性をトコトン知りたくて、人に頼んで、東京からモスクワに送ってもらったのだそうだ。  とにかく、しょうがない。そこまで幻の巨匠に頼まれてはノーとは言えない。ただの打ち合わせへの呼び出しだと思って、もちろん指揮棒はホテルから持って来なかった。棒なんかなくてもかまわないが、ランニングの二人を前において本物のように振るのは少々照れくさいけれど、ぼくは本気になって振り始めた。なにしろ暑い。シャツはビショビショだ。ぼくはリヒテルたちとは違い、シャツの下に下着を着ないたちなのだ。シャツを脱いで上半身ハダカになり下の方は彼らと同じく下着をつける習慣なので、つまりパンツ一枚になって汗だくで指揮を続けた。アンサンブルを重んじるリヒテルは、たちまちランニングを脱いでパンツ一枚になってくれた。  まだ|日射《ひざ》しの強い午後──きっと三時頃だったろう──から始めて何時間やっていただろうか。クタクタになってホテルに帰って、寝たのは午前四時だった。その十時間もの間、彼から音楽上の注文というのはほとんどなくて、彼の言ったとおり、まさしくぼくの指揮に慣れたいために、ぼくが全力で振る棒に合わせて、リヒテルは何回も何回も、バルトークのコンチェルトを、音楽会で弾くのと同じ全力で繰り返したのだった。時には彼のテンポが急に速くなったりすることもある。これを我々の言葉で「走る」というのだが、彼が走るのにぼくがテンポをつけると、今のは私が悪かったのだから、決して私にはつけないでくれ、私があなたの正しいテンポにつけて弾かねばならないのだから、と言うのだった。また、曲がのろくなるところで、今のは私にもう少し時間をくれないか。だからといって私のリタルダンドにあなたがつけるのではなく、私によいリタルダンドをさせるために、あなたが私を指揮してくれ、すべてあなたの指揮のとおりに私は弾くから。  ぼくはそれまでコンチェルトの指揮というのは、もちろん、協奏曲と言うくらいだから、ソリストと指揮者の両方が、音楽的に協力しつつ反応するものとは思っていたけれど、所詮、ソリストたちは名人芸的に勝手に弾きまくり、指揮者たちはそれにヒョイヒョイとテンポを合わせてやり、合わせ方のうまいのがコンチェルトの上手な指揮者であって、しかも合わせてやりながら、コノバカタレ合わせてやったぞ、ザマアミロ、というのがコンチェルトだと思っていた。指揮者とソリストが、オーケストラとの練習が始まる前の段階で、パンツ一枚で十時間近くも汗みどろになって両方の音楽を確認し合ったようにやるのが、本当のコンチェルトなのだということを、思い知ったのだった。  オーケストラは、パリのフランス国立放送交響楽団だったが、普通の場合、こういったコンチェルトの練習は、合計三時間か四時間のオーケストラとの練習で本番にしてしまうものだ。この時は、しかし特別で、一回三時間のオーケストラとの練習を、リヒテルは九回要求した。フランス国立放送交響楽団は一流のオーケストラだから、二回の練習でもう立派に演奏会にかけられるくらいには弾いているのだが、リヒテルはその後七回、つまり合計二十一時間、もう一度、もう一度と、オーケストラと自分との完成度の積み重ねを要求し、試み、どの演奏もまるで音楽会のように、百パーセントの必死さでやるのだった。一方ぼくの他のプログラムだって難曲がそろっていたのだ。シュトックハウゼンが二つとマユズミが一つと。この方に、ぼくはやはり九回の練習を要求していた。しかし考えてみると、三曲で九回のぼくの方と比べると、バルトーク一曲で九回のリヒテルの執念度は、けた違いだったということになる。  パリでの沢山の練習を済ませて、オーケストラは五百キロほど離れたロワイヤンの街に行ってしまった。音楽祭で別の指揮者との音楽会が、ぼくの音楽会の前日にあるからだった。ぼくはパリに四日残って、別のオーケストラと普通のプログラムの音楽会をやった。  これが終わって、ぼくのパリのマネージャーの運転で、ロワイヤンに着いた。ホテルにメッセージがあった。〈ナントカ幼稚園で待っています〉  もう暗かった。幼稚園というのは世界中同じらしくて、ホールの隅に子供用の小さな|椅子《いす》が沢山積んであり、ガランドウに暗い裸電球が一つついていて、アプライトのボロピアノの前に、リヒテルが一人坐っていた。オーケストラパートを弾く人間もピアノもない。また始まった。ぼくは振るだけ。リヒテルは弾くだけ。何時間かたち、一服しようということになって、昨日あなたはパリで音楽会をやったそうだが、何をやったか。ムソルグスキー=ラヴェルの「展覧会の絵」でした。ああ、あれはすばらしい。だけど私はやっぱりラヴェルのオーケストレーションの方ではなく、ムソルグスキーのピアノ曲の原曲の方が好きだ、と言って彼は弾きだした。もうそうなったら曲を愛するあまり止まらないのだ。ぼくだけのために幼稚園のアプライトで全曲を弾いてくれた。ムソルグスキーを弾きだしたら、ムソルグスキーに対して百パーセントなのだ。ぼく一人のための豪勢な音楽会だった。再びバルトークの練習だ。そして一服。今度はプロコフィエフの話になる。彼の親友だったそうで、交響曲の第三番と四番の話になったら、また弾きだすのだった。徹夜になってしまった。こういうリヒテルを見ていると、自分の身体をよいコンディションにもってゆくということは、どこかに妥協性みたいなものがあるように感じてしまう。つまり彼はコンディションもくそもない、自分の気の済むまで勉強するだけらしい。  翌朝のオーケストラとのジェネラルリハーサルで、弾き終わった時、会場の音響状態を今の時点のままにしてくれと彼は主催者に頼んだ。田舎の街の音楽祭だから、会場も古い映画館みたいなもので、ステージのまわりの壁は|剥《は》げ落ち、きっとこの劇場は何年も使われていなかったシロモノなのだろう。  夜、本番の一時間前に、リヒテルとぼくは会場に行った。会場はきれいな幕が張ってあって壁の汚い所は隠れ、音楽会にふさわしく木や花がステージの前面に置かれて華やかだった。リヒテルは激怒した。朝、自分がこれでよいと言った時には、こんなものはなかった。あの時の状態に戻さなければ弾かない。客入りの時間はもう迫っていたが、急いで飾り道具がとられ、劇場内部はもとのオバケ活動小屋に戻ってしまった。主催者のフランス人たちは、泣きべそをかいている。なにしろ客はタキシードにイブニングなのだから。  音楽会が始まって、シュトックハウゼンとマユズミを、オーケストラとぼくだけで演奏した。次はリヒテルのバルトークだ。リヒテルが断固とした調子で主催者に言った。一度お客を客席から全員出してくれ。朝と同じ音響状態になっているかを試したい。オーケストラと五分間だけ練習させてくれ。私が満足した朝と同じ状態にならない限り、今晩はやらない。  幸いリヒテルのOKが出て演奏することになった。お客はまたゾロゾロホールに入れられた。楽屋で待っている間、誰かがぼくの部屋をノックした。ミネラルウォーターの小びんを持ったリヒテルが入って来た。入って来たと言うよりは、よろけ込んで来た。あがってしまって歩けないと言った方がいい。ガタガタ震えていて手も氷のように冷たい。心細くてとても一人ではいられないから、せめて本番までの数分間いっしょにいてくれと言うのだ。  いよいよ係が呼びに来て、ステージに向かって、一緒に暗い廊下を歩いて行った。歩いて行ったなんてものではない。震えているリヒテルは歩けないのだ。あがっていないぼくがささえて歩かせることになる。ガタガタ震えながらリヒテルが言った。 「イワキさん、コンチェルトが終わって、もしお客の拍手が鳴りやまなかったらどうしよう。バルトークの第三楽章をもう一回やろうか」 「バルトークはキャラクターが強過ぎるから、もう一度やらない方が、かえってよくはありませんか。アンコールなしの方がいいと思います。何度も何度も出たり入ったりして、おじぎだけでおしまいにするようになさったら」  リヒテルはそうしよう、そうしようと、震え声でつぶやきながら、ステージに歩き出した。  S───   アイザック・スターン     (バイオリニスト)   Isaac Stern 「今年は、音楽会を二百九十回やってしまった。いくらなんでも、これは多過ぎる。来年からは数を減らして、もっとじっくり音楽にとりくもうと思うんだ」、と十年程前、アイザック・スターンに言われて、仰天したことがある。  今はもっと、もっと、二、三倍になっているだろうが、その頃の世界の相場だって、彼は一晩五千ドルはとっただろう。それ掛ける二百九十倍……! ワァーッ、なんてはしたない驚き方はしたくないが、それにしても四日に三回のペースで、この人はリサイタルやコンチェルトを、弾き続けたことになる。しかもどの演奏も、健康ですばらしく、世界のナンバーワンとしての内容の充実と魅力を発揮しているのだ。  普通、あの人の音楽は健康だ、というと、我々の世界では、|翳《かげ》りのない、元気いっぱい過ぎて、なんでも大声でやってしまうような、肥満児が童謡をニコニコ唄うみたいな感じがあって、余り褒めた言葉にはならないのだが、スターンの音楽の健康さに関してだけは、健康というのは本当にすてきなものだ、なにもかも兼ね備わっているものだ、という賛美になるのだ。先にあげた|貶《けな》し言葉の「健康」は、あいつバカじゃなかろうか、ちょっとパーだよな、ということだが、たとえばミロのヴィーナスを見て、バカとかパーを我々は全く感じない。完全な「美」を感ずるはずである。この「完全」という言い方にも、ほんのちょっと心にひっかかるものが、チョッピリあることを、否定はしないけれど。  それにしても二百九十回というのはすごい。想像を絶する。  バイオリニストに限らず、ソリストは、ぼくのような指揮者とはちょっと違い、演奏回数だけの問題なら、はるかにたくさんの音楽会をやることができる。  たとえば、指揮者とオーケストラは、たいていの場合、演奏会の前の二日とか三日間を、練習だけに過ごす。特に珍しい協奏曲でない限り、独奏者は演奏会当日の朝の、最後の練習に我々とつきあうのが、普通である。多くの場合、このプログラムは繰り返されて、翌日と翌々日……というふうに、毎日一回の音楽会ができるわけである。三日連続の音楽会の場合、指揮者とオーケストラは、練習三日、本番三日というわけで、六日間に三回の音楽会をすることになる。独奏者の場合は、本当はあり得ない極端なことを言うと、こちらが練習だけをやっている三日間の間に、よそのオーケストラと、三回演奏会をやっているという場合もあって、つまり、六日間に六回が可能なのだ。乱暴な計算をすると、指揮者やオーケストラは年に百八十二、三回の音楽会がマキシマムということになり、ソリストは、三百六十五回が可能だと言うことが言い得る。この場合のソリストは、スターンのような大物を言うのであり、こういう大物たちは、もう何十というレパートリーを持っていて、その日に自分の引き出しからメンデルスゾーンとか、ブラームスとか、シベリウスなんかを、取り出せばいいようになっているのである。  さて、人間の体力と気力は二日にいっぺんの割、毎日一回の割というふうには絶対にいかない。休みというものが必要だ。ベルリン・フィルハーモニーやニューヨーク・フィルハーモニーは、年間百八十〜二百回の音楽会をこなしているが、二日にいっぺんのペースでやっているわけではない。このくらいうまいオーケストラになると、練習に三日もかけない──必要としなくて、普通一日でやってしまい、しかも同じプログラムを何回か繰り返すから、そこで世の中の人と同じぐらいの休日をつくることができるのだ。それに十数回かためてやる演奏旅行もある。  それに、メンバーの中で多少の交代が可能だから、このスケジュールが続いてもなんとかやっていけるのだが、もし仮に、ある一人の指揮者が、そのオーケストラの一年中のスケジュールをやったと仮定すると、これは体力と気力の問題で、全く不可能だ。なにしろこの商売、やはり神経と体力をベラボウに使うから、なんとか、人様よりはたくさんの休みを、つくらなければならない。それに、何日にいっぺんずつの休日も大切だけれど、夏の頃に、一カ月か二カ月の休暇をドカンととらなければ、次のシーズンがだめになってしまう。次のシーズンだけではない、先の先の音楽家としての見通しがなくなってしまうのだ。まず第一に音楽が嫌いになってしまう。義務的になってしまう。仕事だから、商売だからという感じになってしまう。そうなったら、お客さんは厳しくて、こういうことをたちまち見破ってしまうから、こちらが音楽会を頼まれなくなってしまう。頼まれなくなったら、もう音楽家ではないとも言えるわけだ。  だが、アイザック・スターンは、一体どういうエネルギーで、もう何十年も、世界中でのこんなスケジュールをこなしているのだろう。しかも、いつでも世界一の演奏レベルを保っていて、いつだって音楽が大好きでたまらないようだし、普段しゃべっている時も、音楽のことばかりで、つきあっていて辟易するのだ。本当にどういうエネルギーなのだろう。不可解だ。バケモノだ。  スターンだけではない。世界中の超一流の演奏家の九〇パーセント以上が、ユダヤ人だと言える。彼らのほとんどがこんな調子なのを見ていると、ユダヤ人の体力、気力その他もろもろのすべてのエネルギーが、全世界の民族の中で飛び抜けていることに、改めて驚嘆するのだ。彼らの言うように、やはり神に選ばれた唯一の民ということを、信じざるを得なくなってくる。  十年程前、ポルトガルのリスボンの音楽祭で、スターンと共演したことがある。メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲だった。ポルトガルは残念ながら音楽国とは言い難く、オーケストラのレベルも低く、実にへただった。今はもうあるかもしれないが、その頃はちゃんとした大きいコンサートホールもなくて、会場は七千人くらいを収容できる、サーカス用の建物みたいな所で、普段はボクシングやプロレスをやったりしているそうで、時々オペラを上演したりするのだということだった。他に小さな音楽会場はあるのだが、千人くらいの収容しかできず、せっかくの音楽祭でアイザック・スターンなどの大物を沢山の人が聞くことができないから、サーカスが会場になったのだった。カラヤン、ベルリン・フィルが普門館でやったり、昔になるが、ルービンシュタインの日本での最後の演奏会が、武道館で行なわれたりしたのと同じことで、音響効果の犠牲には目をつぶっても、沢山のお客の希望を満足させるために、どこの国にもこういうことがよくある。主催者のカセギのためというのが、本当だが。  曲目は、何だったかは忘れたが、日本の曲で始まり、次がスターンのメンデルスゾーン、最後にチャイコフスキーの交響曲第五番という、ありきたりのポピュラーなものだった。ぼくは三日前からオーケストラと練習をしていて、毎日、へたさ加減に、アタマにきていた。例によってスターンは、演奏会当日の朝の、最後の練習にやって来た。実は彼は、前の晩にぼくと同じホテルに到着していて、部屋に電話がかかって来て、ホテルのバーでいっしょに飲んだのだった。 「オーケストラはどうだい?」 「ウー……」 「わかった、わかった」  我々音楽家同士の会話は、こんなやりとりで、お互い全部がわかってしまう。  普通メンデルスゾーンなんて、どんなオーケストラでも、最もポピュラーなレパートリーなのだから、一度通して演奏すれば、それでいいということになるものだ。だが当日の朝、リスボンのオーケストラがあまりヘンな音を出し続けるので、何回も演奏を中断して、ぼくはオーケストラに注文をつける。スターンもギャーギャー文句を言う。第二楽章のまん中くらいまできたところで休憩にした。楽屋でぼくがこぼす。 「あのホルンとオーボエじゃあ不可能だ。フルートもどうしようもないね」 「そんなもんじゃない。全部替えなきゃ」  なんて言って、スターンも苦笑している。なんとかまあ、二人で一生懸命努力して、夜の音楽会で、切符を買って来るお客さんの前に「商品」を聞かせられそうになった。  夜、超満員の客だった。メンデルスゾーンのバイオリン協奏曲は三楽章でできているが、楽章のあい間の中断はなく、全曲が流れるように、続けて演奏されるようにできている。たとえば第一楽章が終わった後、ファゴットだけが一本の音を引っ張っていて、それがそのまま第二楽章の初めになるというふうに、切れ目がないのだ。演奏はなかなかうまくいっていた。第二楽章の最後のあたりの、最初のテーマがピアニッシモで戻ってくるところで、突然スターンがバイオリンを弾くのをやめてしまった。なにしろ本番の最中だ。お客はキョトンとしている。ぼくだって何が何だか分からない。スターンが小声でぼくに言った。 「客席の最前列の床を見ろ。これじゃあ弾けない」  小さな黒猫がチョコンと坐っていた。そのくらいいいじゃないか。おとなしくしているんだから。スターンがお客にしゃべり出した。フランス語だった。 「みなさん、わたしはポルトガルのヒューマンにバイオリンを聞いてもらいに来ました。キャットにではありません。すぐにつまみ出して下さい」  大騒ぎになった。守衛みたいなのが三人がかりで猫を追いかける。猫は七千人の超満員の客席の中をかけまわる。つかまりそうな瞬間、黒猫がピョンと飛んで守衛が空振りをする度に、客は拍手して笑い転げる。つかまえるまでに十分ぐらいかかっただろうか。そこで、本来ずっとつながっている曲なのだが、第二楽章の最初からまた始めた。だがもうスターン自身、さっきまでの流麗な演奏になっていない。そのまま、なんとなく欲求不満的な演奏で、メンデルスゾーンは終わってしまった。翌日のいくつかの新聞に記事が載って、みなスターンに批判的だった。「ライオンや豹がいたならともかく、なんであのかわいい黒猫のことで演奏を中断したのだ。しかもあの猫は、我々リスボン市民のマスコットなのだ」だいたいそういう論調だった。  後で聞くと、これはスターンの分が悪かった。この猫は、サーカス小屋の裏方さんが飼っていて、音楽がものすごく好きで、この小屋での音楽会、オペラを、いつも同じ場所でチョコンと聞いている名物だったのだ。ボクシングやプロレスは見ないのだそうだ。でもこれは、いきなりやってきたスターンやぼくには、わからないことだ。そしてアメリカ系のユダヤ人は、黒猫を恐ろしく忌み嫌うのである。  終わってからスターンの機嫌が悪くて、日米両国大使主催のパーティヘの出席を、断わってしまった。頭痛がひどくすると言って断わっちまったが、オマエどうする? オレはホテルで、サンドイッチでも部屋にとって、待っているぜ、とぼくにささやいて帰ってしまった。日米両国大使主催のパーティに、日米の指揮者とソリストが行かなければ話にならないだろうが、|憤懣《ふんまん》やるかたないスターンにつきあってやるのも、友達の義務だ。あっちが頭痛なら、こっちは食当たりというわけで、シンフォニーの後、ぼくは急にお|腹《なか》が痛くなってしまって、ホテルに戻った。六月のリスボンは暑かった。スターンの部屋の戸をたたいたら、パンツ一枚の彼が出て来た。テーブルの上には山ほどのサンドイッチがおいてあって、朝の練習以来見たことのない、嬉しそうな顔で笑うのだった。  スターンはルービンシュタインとともに、戦後、今までずっと、ナチスドイツヘの告発姿勢を変えずに、ドイツでは絶対に演奏しない数少ない音楽家の一人である。  T───   武満 徹     (作曲家)   Toru Takemitsu  芸術家にとっての罪は、彼をとり囲む社会との関係において、即ち、とりもなおさず、彼の内面でとりかわす会話の言語所有者たる彼自身との関係において、自己を|諾《ゆる》すという行為にほかならない。  ぼくは、芸術がこの社会に対して果たす役割について、確かな信念をもつものではない。芸術は、あるいは、この生産的社会には容れられないものであるかもしれぬ。  芸術は、音楽家がTVの乳白色の画面の上で、すみやかに啓蒙者として変貌する論理、あるいは|倫理《モラル》とは全く関りのない、反社会的な理想行為ではないか。許容したり、許容されたりする、曖昧な社会的関連の外にあって、真に人間社会の|核《コア》と触れあう存在としての芸術は、今日、可能だろうか? 「ぼくにとって音楽は可能だろうか?」  ぼくを進めて行くものは、今日、自己へのこの問いしかない。       武満徹『音楽の余白から』(新潮社)より  武満さんは著作も多い人だ。もらったばかりの彼の最新作の本が、今ぼくの手元にある。彼の文章を読む度に、いつもぼくはクタクタにくたびれる。恐ろしく難解だ。しかもすばらしく美しい。ページをめくる度に、宇宙から来た人なのじゃないかと思って、コワくなる。このコワイは、恐いではなく、|畏《こわ》いの、コワイなのだ。それと同時に、うすもも色の冷たい霧がぼくの背中を包みこんでくるような気配が、首筋に感じられ透明な夢に浸っている思いもして、よく考えてみると、コンプレックスがいささか具象され、肌がそれに触れてしまったということなのらしい。  昭和三十年頃だから、二十五年も前のことになる。初めて武満さんの曲を録音することになり、内幸町にあった、昔のNHKホールのミクサールームで、彼にあった。曲は有名な「弦楽のためのレクイエム」だった。その頃の武満さんは、室内楽ばかりを書いていて、まだオーケストラのための曲を多くは書いていなかった。だから「弦楽のためのレクイエム」は、指揮者のぼくにとって、彼の音楽にじかに触れることができる、数少ない音楽だった。  こちらは新進指揮者と言えば聞こえはいいが、棒振りになりたてのホヤホヤで、もっとも武満さんだって新進の作曲家だったのである。ずっと前から、実験工房という前衛の芸術家の集まりに属し、厳しい芸術活動をしていたことは、よく知っていた。超新米の指揮者には、そんな世界ははるか遠くにあり、たまに指揮ができる時は、「コッペリア組曲」とか、ハチャトリアンの「ガイーヌ」なんかに汗みどろになっているだけで、初めて武満さんの曲にじかに触れるのが、とてもオソロしかった。何日も前から、ドキドキ、そわそわしていたのを思い出す。もしかするとその時まで、ぼくは彼の曲を、一つも聞いたことがなかったかもしれない。聞いたことも会ったこともない作曲家が、どうしてあんなに|畏《こわ》かったのだろう。同じシチュエーションでコワくもなんともない作曲家が、世界に無数にいるのだ。確かに新進作曲家の武満さんについては、いろいろ聞き及んでいたけれど、音楽家仲間の評判から推しはかって、「バリバリの……」という感じではなく、といっても、「|飄 々《ひようひよう》と……」といった風でもなく、氷のように人の心を見通し、鋭く、しかしあたたかい音楽を持っている異次元の人間のように、ぼくは勝手に想像していた。  ミクサールームには、ぼくのイメージというか先入観にぴったりの人物がいて、きっと前に彼の写真を見たことがあったのだろうと思った。人のうわさだけで、顔から身体つき、声までもこんなに完全に頭の中で創りあげていた筈はない。 「はじめまして」  恭しく挨拶した。小さい声で言ったに違いない。 「あなた、ひどいな、この前会ったじゃないですか」  ギャッと仰天し、恐縮したがもう遅い。そのことを、ぼくは全く覚えていなかった。うんと若かったのだから、ベロベロに酔っぱらったって、記憶喪失が起こる歳ではないし、それにしても、どうしてぼくは、こんなに畏れおののいている当の相手に会ったことを、覚えていなかったのだろう。この時の彼が、ぼくのイメージにぴったりだったのも、もう既に会ったからなのかもしれない。生まれて初めての街に行って、町角のタバコ屋、その前のポスト、向かいの空地など、よく知りつくしている風景に出会って、びっくりすることがある。夢の中でよく来ている街だったり、いつのまにか我が魂が旅をしていてくれたのかと、それこそ|魂消《たまげ》ることがよくあるものだ。だからミクサールームでの対面以前に、武満さんに会っていたということが、どう考えてみても、二十五年経った今でも、信じられないのだ。ぼくのお化けが、武満さんに会いに行ったのに違いなく、彼にはそれが見えたのか、あるいは異次元の彼がこちらの夢をもう食べていたのだろうか。  とにかく、このぼくにとっての初対面の時の恐縮が、そのまま二十五年間、どんな瞬間にも絶えることなく続いているのだ。彼のオーケストラ作品のほとんどを、繰り返し演奏するチャンスに恵まれてきた。一曲献呈してもらって、その曲を世界初演した時の感激もずっと続いている。だがどんな時にも、こちらの恐縮さとコワさ──つまり|畏敬《いけい》の|怯《おび》えと、それからくる得体の知れないコンプレックスが、我が身をおおって、いつもぼくは武満さんに関しては、緊張の連続なのだ。  といったって、いっしょに飲みもする、騒ぎもする。適当にアルコールがまわると、彼は無類の流行歌好きで、ナツメロをかたっぱしから歌い出す。カラオケの伴奏でなんて、ハシタナイことはしない。次から次へと思いつくままに、どうせ我々音楽家は、歌詞を覚えていても、せいぜい一番止まりで、カラオケオジサンみたいな、ちゃんとした歌い方みたいなのは、大嫌いなのだ。音楽家でカラオケ大好きというヤツがいたら、ぼくは潔く商売を換えたい。  突然、超ナツメロを武満さんは歌い出す。「この歌知ってるかい?」知ってると言うと、顔中くしゃくしゃにして喜ぶのだ。貧乏作曲家の頃、さる有名な歌謡界の大御所作曲家の工場にいたことがあるそうで、こういう偉い先生は、何人かの書生みたいな作曲家の卵どもに、節をつくらせ、いいのを採用し、自分の曲としてヒットさせ、卵はなにがしかをもらうことがよくあった。本当はこれ、僕が作ったのよ。他にもいくつかあるよ、と歌い出す。ねえ、僕はたいしたメロディメーカーでしょう、と威張るのだ。  こういう時でも、ぼくは武満さんがコワイのだ。|畏《こわ》いのだ。だからといってかたくるしくつき合っているわけではない。長いこと、よい友達を続けてきたとも思う。だが彼を前にして、ぼくは緊張している。妙にくたびれる。  彼の前にいなくても疲れる。武満さんの文章を読んでいても、文が美しくも難解であるということ以外に、ぼくは威儀を正し、襟を正し、寝転んでなどはとんでもなく、ちゃんとした椅子で、ちゃんとした姿勢で読むのだ。本当にこの異星人からは、彼の書いた字が一個であっても、強力な放射能が、常に飛んでくる。  だから、武満さんの新作の曲のスコアを勉強している時のぼくの緊張、疲れ、コンプレックス、畏敬が、どんなにすごいかを、わかって欲しい。そして翌日、オーケストラとの練習の時に彼が立ち合ってくれようものなら、こちらは蛇ににらまれた蛙、蛙の鼻先の蠅、ホイホイの中のゴキブリになってしまうのだ。棒を振りながら、緊張のあまりドジをやる。たちまち武満さんはとんで来て、そこんとこはもっとこういうふうにやってほしい、と注文し、ぼくはなるほどと恐縮して大汗がふき出るのだ。どうも、尊敬し過ぎるというのは、仕事上よくないことかもしれない。  武満さんの名前が一躍世界的になったのは、ニューヨーク・フィルハーモニーが創立百二十五周年を記念して、彼に新作を依頼し、この新作「ノヴェンバー・ステップス」が一九六七年に、バーンスタインの指揮によって、世界初演されてからだ。もちろんそれ以前に、十分彼は世界中に知られていたわけで、だからニューヨーク・フィルハーモニーが彼に新作を委嘱したわけだ。パリのIMCの国際作曲大賞も取っているし、ぼく自身も一九六六年にパリで彼の「テクスチュアズ」を指揮した時に、客席の熱狂的な武満信者の拍手とブラボーが、いつまで経っても止まらず、次の曲を始めることができなくて大いに困ったことがある。当時は、主にロンドン、パリ、アメリカのいくつかの大都市、カナダ、オーストラリア等に、熱狂的な武満ファンが多く、ぼくも方々の主催者に彼の曲の演奏を頼まれたものだ。 「ノヴェンバー・ステップス」の初演の時に、ニューヨーク・フィルが作曲者を招きたいが、予算がなく、小沢征爾君を介して日本総領事館に、この世界的作曲家の、日本政府派遣についての要望をしたのだそうだ。実はこの話はまた聞きなので、事実と違っていたら申し訳ないのだが、ニューヨークの日本外務省文化担当官氏が小沢君に、そんなどこのウマの骨かわからないヤツに、政府の金が出せるかと、暴言を吐き、小沢君が、コノヤロウ、武満を知らないでなにが文化担当官だと、役人氏の胸倉をつかんで、あわや大乱闘という話を聞いたことがある。  今でこそ、日本で武満さんは、芸術院賞をはじめ沢山の日本の賞も取って、さすがに日本の文化担当の役人も、「武満」の名前を知らないのはもういないだろうが、ニューヨーク・フィルとバーンスタインが、世界で最も優れた現役の作曲家の一人だからこそ、百二十五周年記念に新作を依頼した六七年頃の、日本の文化担当官氏の認識は、そんなものだったのだ。  どの国でも、よその国で先に売れて、その上で自国に迎えられる、というケースは多いものだけれど、我が日本では特にこの傾向が顕著である。外国で先に売れ出しても、一応、バイオリンとかピアノとか指揮者等の演奏家の方は、自国でもテレビとかラジオに出るチャンスがあり、文化担当官氏にウマの骨なんて言われることは余りない。だが自分の芸術に対して一歩の妥協もせず、最先端の前衛的な作曲に打ち込んで、世界中のオーケストラや指揮者に沢山のファンをつくった作曲家のことには、日本の一般の多くは、こういうふうだった。数々の芸術性の高い映画の音楽でも、武満さんは有名だが、さりとて彼は、「男はつらいよ」の音楽は書かない。十年以上経って、なにが今頃芸術院賞だ、と腹だたしい気もするが、一方、これだけ妥協のない仕事を続けてきて、沢山の賞を日本でももらうようになったということは、日本も捨てたものじゃなくなった、とも思うのだ。  ロンドンやパリで「TAKEMITSU・WEEK」も何度かひらかれた。その一週間の間、それぞれの街の全部のオーケストラが、彼の曲を演奏するのだ。こういうWEEKが済んで、沢山の武満作品に接した人に会うと、皆同じことを言う。二十世紀を代表する三人の大作曲家は、ストラヴィンスキー、バルトーク、タケミツだ。  武満さんの前で、ぼくがやたら緊張を感じてしまうのは、つまり、ぼくが音楽家としてノーマルだからと、自慢してもいい。日本の誇りなんてケチなことは思わない。このような作曲家と、同時期に地球の上で生きていることを、嬉しく思う。  U───   ハンス・ウルリッヒ     (バンベルグ交響楽団バイオリン奏者)   Hans Urlich  先だって、あるオーストラリア人が、仕事の打ち合わせのために、東京にやって来た。国立放送局の人事担当部長で、日本は初めてなのだが、午前中に電話がかかって来て、どこどこのホテルに着いたと言う。夕食を一緒にすることにして、七時半にホテルのバーで待ち合わせた。日本語は一言も話せない。  うす暗いバーに、約束より少し遅れて、彼が入って来た。ごめんごめんと言いながら、やたらに嬉しそうだった。手にかなり大きい紙包みを持っている。 「ヨドバシカメラに行って来たもので」 「……?」  仕事はともかく、初の日本行きで、彼が最も楽しみにしていたのは、カメラを買うことだったという。オーストラリアで買うと、日本製のはベラボウに高いのだ。  成田に着いて、出迎えなどはなく、ちゃんとバスに乗って、箱崎のシティ・ターミナルまで来て、そこからはタクシーで渋谷のホテルまで来たという。荷物を部屋に置き、仕事にとりかかる前に、プライベートの目的を先ず済ましてしまおうと、コクデンに乗ってシンジュクに行ったのだそうだ。かねて知り合いに、地図を教えてもらっていて、彼は夢のヨドバシカメラに直行したのだ。  日本人はどうもガイジンに親切すぎる。あんなに一生懸命にやってやる必要がどこにある。やり過ぎるから、しばらく日本に滞在した外人は、みんながみんな、不良外人になるわけではないにしても、どうもイヤな人間になってしまうのが多い。初めての国に来た人間は、当然のことながら、言葉も習慣も違うのだから、オドオドしてしまう筈である。これが正常なのだ。そういうのにサービス過剰をしてしまって、不自由さを味わわせないのは、友人として良くないことだ。オレたち日本人が、よその国に初めて一人で行った時、どんな目にあっているか。外国とはそういうものなんだ。彼らのためにも、日本はちゃんとした外国になってやるべきだ……なんていつもワメイてはいるものの、初めての街で、国電の切符をちゃんと買って、新宿の駅から地図を頼りに、ヨドバシカメラに行って来たとは、驚いた。普段さわいでいるのとは裏腹に、東京に初めて来た外人は、一人では何も出来ない、と思い込んでいたぼくも、実は対外人サービス過剰の日本人の一人だったみたいである。  以前に、同じようなたくましいドイツ人がいた。ハンス・ウルリッヒというおじさんだ。西独のバンベルグ交響楽団の第一バイオリン奏者である。一九六七年に、ぼくはこのオーケストラと、日本演奏旅行をした。チャーター機で羽田に着き、税関を通り、飛行場からホテルまで団体バスで行って、部屋のチェックインを各自終えてから、その日は自由行動、ということになっていた。  ハンスは仲間に荷物をよろしく頼み、団体バスには乗らずに抜け出し、タクシー乗場に向かった。日本のオーケストラの外国旅行なら、各々のバスごとに点呼を取って、全員乗車、ハイ出発、となるのだが、各人の責任を重んじるドイツのオーケストラは、前もって通達してあることに、それ以上の手取り足取りはしない。税関終了三十分後に、ホテル行きのバス三台が出発する。遅れたヤツは自分で責任を取れば良いということで、点呼も取らないし、全員が乗らなければいけないわけでもない。  ハンスは羽田からタクシーで、かねてからあこがれていた鎌倉の大仏に、直行したのだった。「カマクーラ、ダイブーツ」  と叫ぶだけで、これは難しいことではなかっただろう。  大仏に最も近い角で、タクシーに料金を払い、案内書で調べてある境内を歩きまわり、大仏を心ゆくまで眺め、満足して帰ろうとして、ふとポケットに手をやって、|愕然《がくぜん》とした。裸で入っていた筈の五万円がないのだ。思い出した。さっきタクシーに払う時に、ポケットの金を座席に並べ、馴れない日本円を調べながら料金を運転手に渡し、心はもう大仏にあって、イソイソと車を出て来たが、金をあのままにして来てしまったのだ。自分が悪いのだ。タクシーを拾い、東京のホテルまで行って、そこでドイツマルクを両替して払えばいいや、と思いながら、偶然、さっき東京からのタクシーを降りた角に来た。オレはここで金のことなんか忘れて、夢中でタクシーから出て来たんだなあ。バカだなあとつぶやいて、なんとなくあたりを眺めまわした。  人が沢山歩いていた。角に立っていたお婆さんが、いきなり右手を高く挙げた。一万円札が何枚かヒラヒラしている。お婆さんは手まねで車のハンドルを動かす真似をし、背の後に札をヒラヒラさせて、ポカンとしているハンスの手に、何枚かの一万円札を、押しつけて行ってしまった。鎌倉に着いた時から、もう二時間経っていた。彼を降ろした後、タクシーの運転手さんは、うしろの座席に五万円を発見し、きっとさっきの外人だろう、羽田の国際線から出て来て、いきなりここまでやって来たのだから、さぞ困っているだろうと、引き返して来たらしい。だがその外人は、もういなかった。偶然、そこに立っていたお婆さんを見て、あとできっと外人がキョロキョロしながらここに来る、その人に渡してくれと言って、走り去ったのだろう。そしてお婆さんは、それから二時間も、あてもなくずっと同じ場所に立っていたわけなのだ。  以上は、興奮して帰って来て、ホテルにチェックインしてから、ぼくの部屋にやって来たハンスの推定なのだが、彼は涙ぐむのだった。ヨーロッパじゃ、考えられないことだ、と何度もくり返した。運ちゃんがそのまま行ってしまうか、婆さんが受け取ってドロンするかの、どちらかに決まっていると言うのだ。 「二時間も町角にあてもなく待っているなんて……」  と絶句し、 「いい国に来た。素晴らしい国だ。日本が好きだ」  と天井を見上げて、涙を目にいっぱいためていた。  十三年前だったが、当時だって、こんな良い人たちがまだ日本に居るのかと、ぼくも胸がジーンとなった。当時、ぼくはバンベルグ交響楽団の指揮者で、親玉は巨匠のヨゼフ・カイルベルトである。その頃の西独の、ベストスリーのひとつの、このオーケストラの、初の日本演奏旅行だった。カイルベルトとぼくが、指揮者として同行したのだ。  バンベルグ交響楽団は、ヨーロッパでは一流のオーケストラだ。名門である。だが、ベルリン・フィルやウィーン・フィルとか、ニューヨーク・フィルのように、世界のスーパー・ファースト・クラスとしての名前はない。日本の一部のレコードファンには、おなじみのオーケストラだったが、一般には、それほど名の通ったオーケストラではない。日本の音楽ファンには、きびしい面というか、まあ、本当のことを言うと、後進的な面があって、例えば、カラヤン、ベルリン・フィルが演奏中にミスをやると、ああ、彼等もやはり人間なのだ、と感激するくせに、ちょっと名を知らない音楽家や団体がミスをすると、すぐに三流だときめつけてしまうところがある。  あの旅行が成功して、バンベルグ交響楽団は、日本でとても有名になったけれど、一緒に日本に飛んできたぼくの胸の内は、大変に複雑というか、せっぱつまったものだった。  このオーケストラの良さを、なんとか日本の聴衆にわかってもらいたいという、神様に祈りたいような気持ちと、もう一つは、初めて日本に行く楽員達に、自分の国を良く思われたい、という自国愛の板ばさみだったのだ。  ハンスの鎌倉の話をきいて、第二の点に関しては、もう大丈夫だと安心した。嬉しかった。彼はおしゃべりだ。感激をみんなにふれて歩くに決まっている。  ハンス・ウルリッヒは、このオーケストラの、ある種の最重要人物のひとりだった。ある種と言うのは、彼がトップ奏者でもなんでもなく、十八人いる第一バイオリン奏者の、八番目に位置する人で、世界中のほとんどのオーケストラでは、二人ずつ並んで坐っている絃楽器奏者の席順は、前から後に、収入の順を表わすのだ。技術の順でもある。きびしいことである。  ハンスは当時五十六、七歳で、ドイツでは六十二歳が停年だから、それまではあと数年あったが、バンベルグ交響楽団の古参下士官というか、鬼軍曹というような存在だった。  世界中、すぐれたオーケストラには、必ずこのような人が何人かいる。決してトップのスター・プレーヤーではないが、経験豊かで、新人にはガミガミうるさく、だが心はものすごく暖かくて、怒られる相手に尊敬され、愛される。こういう名物が一流オーケストラの音楽的底力を支えているのだ。  オーケストラというのは、ハッキリ言ってしまえば軍隊である。ぼく自身、終戦の時が中学一年で、だから、全く軍隊の経験がなく、こんなことを言うのはおこがましいが、軍隊というのは、将校と兵隊とだけで成り立っているわけではない、と思うのだ。古参の下士官というのがいて、両方をつなぐわけだ。悪い場合は下士官根性といって、新人いじめの代名詞だが、こんなのがいる隊は強くはないだろう。将と兵がうまく機能しないからである。古参の軍曹が|物識《ものし》りで、経験豊かで、しかも人情みあふれる人物の時に、部隊のすべてがうまくいくのではないだろうか。  オーケストラの場合、トップの奏者達が将校で、あとは兵隊ということになる。兵隊には西も東も分からない新人が多くいて、しかも将校だって、最初から将校として入って来る人が多いのだ。技術の試験でこういう結果になるのだが、良い古参の下士官は、新人の将校にも新兵にも、最良の教師なのだ。指揮者は隊長だか連隊長だか知らないが、新人の指揮者は、最初から隊長商売をする、何も知らないアワレな存在である。  若い指揮者のぼくにとって、ハンスは有難い先生だった。オーケストラの中堅──下士官としての仕事を完璧にやり、練習の最中にオドケタ野次をとばしたりして、こちらの未熟をよく救ってくれた。そして時々、個人的にそっと、すべてを知り尽くしたベテランとして、あそこはこう指揮したらどうかなどと、|秘訣《ひけつ》を教えてくれたりする。今夜は天気が悪くて湿気が多いし、客の大半が年寄りだから、少しテンポをゆるめにしたらいいとか、バンベルグ交響楽団との四年間、ハンスに沢山のことを教えてもらった。  若いコンサートマスターが、経験不足から曲の同じ個所を何度もトチリ、その度にこちらは注意せねばならず、いつの間にか練習の雰囲気がシラケルというか、険悪になることがある。いきなりハンスがオーケストラの中から大声を出す。コンサートマスターに、 「コラッ、おまえのおかげで、オレタチも指揮者に何度もしぼられるんだぞ。なんとかせい!」  どなり方がユーモラスで明るく、彼のひと言が、全員の重苦しい空気を変えてしまう。  バンベルグだけではない。NHK交響楽団でも、新米指揮者の頃、ぼくは古参軍曹に恵まれた。亀井さんという大阪弁むき出しの人で、音楽が無茶苦茶に好きな、通称カメヤンの陽気なベテランだった。洋の東西が違っても、何故かハンスと亀井さんは顔も声も似ていた。ぼくは勝手に、二人にあだ名をつけていた。家人だけが知っていたことだったが。 「今日はハンスにパイプを強奪されたよ」  と言う時はN響との仕事の期間中で、 「カメヤンがよろしくって言ってたよ」  はバンベルグを指揮している時だった。  二人ともそれぞれ停年で、オーケストラを去って行った。さびしいことだ。  最近は世界中どこでも、この二人に限らず、古参軍曹のような存在が減ってしまったみたいである。  V───   ニノ・ヴェルキ     (オペラ指揮者)   Nino Verchi 「イタリアオペラ」というのは、もちろんイタリアの作曲家が作ったオペラのことだ。普通名詞だが、ぼくにはどうも「イタリアオペラ」という固有名詞としてでしか、ピンとこない。昭和三十一年に、NHKがイタリアの、主にスカラ座の歌手たちを中心に集めたイタリア歌劇団を|招聘《しようへい》し、「イタリアオペラ」という名称で約二カ月東京と大阪で公演を行なった。その後はだいたい二年か三年に一度ずつ、この興行を続けてきた。たしかもう八度くらいやった筈である。今のNHKホールが出来るまでは、東京では東宝劇場だった。この数年間は、ぼくが日本に余りいないせいかもしれないが、イタリアからの歌劇団招聘の話題をほとんど聞いたことがないから、もうやっていないのだろうか。それに、ベルリンのドイツオペラや、ミュンヘン歌劇場や、ウィーン国立歌劇場、ニューヨーク・メトロポリタン歌劇場の東京引っ越し公演等がしょっちゅうある最近だ。NHKの「イタリアオペラ」も、もう目立たなくなったのかもしれない。  でも、戦後の十年をちょっと過ぎた昭和三十一年からの、続けざまの「イタリアオペラ」は、日本中の音楽ファンに衝撃的な影響を与えた。日本人はこの公演で、初めて本当のオペラを見たと言ってもいいだろう。  今思ってみても、ドエライ歌手たちが来たものだ。マリオ・デル・モナコ、シミオナート、ゴッビ、プロッティ、ステルラ等々、当時の世界第一級の、それこそナンバーワンたちが、「オテロ」や、「アイーダ」を演じてくれたのだ。二年後の二回目、また次の回にも、超一流は皆そろっていて、テバルディやタリアビーニの美声や名演技を楽しむことができた。ふた昔以上も前のことなので、当時のスーパースターたちの名前をこうやって書いていても、もう有史以前のナツメロ大会を、土地の古老がなつかしむような感じがしてしまうけれど、日本の初期の本格的なオペラ上演が、このような歌手たちで行なわれたという点で、日本のオペラファンは|贅沢《ぜいたく》な出発をしたものだと思う。このことが、同時に、日本人歌手によるオペラ界への圧迫になったことは確かだが、本物がある以上、ファンにはそれを知る権利があるし、それより、「イタリアオペラ」が、日本のオペラ界への、大きな良い|刺戟《しげき》になったと言う方が、正しいと思う。その頃には夢にも考えられなかったことだが、今やヨーロッパの主な歌劇場で、日本の歌手の主役や、準主役が活躍していないところは、もうないだろう。  第一回と第二回の「イタリアオペラ」では、ぼくは補助指揮者という名目で、舞台裏を運動靴でかけまわっていた。イタリア人の歌手たちが日本に到着する何カ月も前から、合唱の下稽古で、朝、昼、晩働いたし、スカラの指揮者が来る二週間ぐらい前からは、その頃までオペラなど演奏したことがなかったN響の、慣れぬイタリア歌劇の演奏の下稽古をするのも、大事な仕事だった。最近の、ウィーンやベルリンの歌劇場の日本公演は、オーケストラも合唱もみな大挙してやって来るが、当時の「イタリアオペラ」は、主役、端役等のソロ歌手たちと、演出家と二人の指揮者とプロンプターが、イタリアからやって来るだけだった。  公演は秋だったから、コーラスの練習は夏の間中ずっと行なわれた。冷房装置というようなものを、見たこともなかった頃の、夏の練習だったが、夏は暑いものだと誰もが思っていたから、暑さは余り問題ではなかった。大変なのは、日本の合唱団にイタリア語の歌詞を、空で|唱《うた》えるようにしこむことだった。森正さんがコーラス・マスターという、合唱についての責任者だった。ぼくと外山雄三は合唱に関しても、オーケストラに関しても、およそこのオペラ公演についてのありとあらゆることに関する補助指揮者という立場で、朝の十時から夜の十時まで、徹底的にコキ使われたのだった。確かこの年は「アイーダ」、「トスカ」、「フィガロ」、「ファルスタッフ」の四つが出し物で、イタリア語なんかチンプンカンプンのコーラスに、もっとチンプンカンプンの我々が|暗誦《あんしよう》を強制するのだから、サワギだった。コーラスの人たちはそれでも歌の専門家なのだから、発音には余り問題なく、なにもかも知らないのはこちらの方で、わけもわからず、もう一回、もう一回をくり返すので、練習場はいつも険悪な空気だった。コーラスは二期会合唱団で、ほとんどのメンバーが、ぼくの芸大の同期生か一年上の連中といった按配だったので、お互いに仲間意識があり、遠慮もなく、どなり合ってばかりいて、コーラス・マスターの森正さんに、よく仲裁してもらったものだ。  オーケストラの下稽古は、外山とぼくの二人の担当で、下稽古といっても、我々の世界では譜読みといい、楽譜のミスなどをチェックするための、予備的な仕事で、N響は、ぼくたちの指揮で本当の演奏をしている気など、さらさらなかった。だがこちらは一世一代の大張り切りで、いない歌手に代わって、でたらめの大声を張りあげたりして、いい気なものだった。  いよいよ本番の指揮者が到着した。一人はヴィットリオ・グイという長老の名指揮者で、ぼくも既に偉いマエストロとして、名前を聞き及んでいた大物だったが、一人はニノ・ヴェルキという、未知の人だった。ヴェルキは、おそらく副指揮者のような格で、日本に来たのだろうと思う。ぼくたちの譜読みという、下稽古の前の段階の予備の練習の次に、ヴェルキの本当の下稽古が始まった。マエストロ・グイは本番の二、三日前から指揮棒をおとりになるのだ。本番では、グイは「アイーダ」、「ファルスタッフ」、「フィガロ」を指揮し、ヴェルキは「トスカ」だけだったが、副指揮者というのは、全部の出し物の下稽古をするのだ。 「ボンジョルノ!」  最初の練習で、指揮台にかけ上がりながら、彼は大きな声でオーケストラに挨拶をした。やけにカン高く、しかもダミ声だ。低いダミ声というのはよくあるが、こんなキンキンなのは、聞いたことがない。チャールズ・ブロンソンを小柄にして、しかもモーレツに|醜男《ぶおとこ》にし、チョビ髭だけは残し、目とか眼鏡は古賀政男で、しかも顔中うぶ毛だらけの、マンガみたいな人だった。スカラ座専属の指揮者だと聞いていたので、なんとなくマストロヤンニみたいのがくるつもりになっていたのが、ズッコケてしまった。眼鏡の奥の目は怒れば怒る程笑っているように見え、笑うと怒っているように見えた。当時|流行《はや》り出したダッコちゃんのような腕が肩から出ていて、胸のポケットから七センチぐらいのちびた鉛筆をとり出し、しかもそれを剣道のように両手にもって「トスカ」の指揮を始めたのだった。鉛筆だと思ったのは間違いで、まぎれもない指揮棒だったが、折れて短くなった指揮棒を、大事に使っているというのではなく、この人は、このような短い指揮棒を愛用していたのだった。一拍ごとに、小さなズングリの身体が、二回ずつボヨンボヨンと弾む。絶えず「カンタービレ!」と例のカン高いダミ声で叫ぶ。ぼくはまだ二十二歳ぐらいの若さだったし、指揮者になりたてというか、なりかけの頃だった。世の一般の若者と同様、指揮とはカッコイイものと思っていたぼくには、強烈なショックだった。こんなのでも指揮と言えるのだろうか。でもこの人はれっきとしたスカラ座の指揮者の一人なのだ。ヴェルキは、それまで指揮法について、型にはまった概念しか持っていなかったぼくの目を、大きく変えてくれた恩人ともいえる。ぼくがそれまで学んでいたのとは、似ても似つかない動作が、オーケストラに、豊かで大きな歌を|謳《うた》わせていた。そしてこの人は、オペラ小屋の中で産湯をつかったのに違いないと思える程、オペラの隅から隅までを知っていた。その後、随分沢山のオペラ指揮者の仕事ぶりを見たが、彼ほど、身体中がオペラそのもののような人を、見たことがない。それに彼は「指揮」ではなく、まさしく「オペラ」をやっていたのだった。練習であれ本番であれ、オペラをやっている最中、ただもう嬉しくてたまらず、オペラをやっていない時、つまり指揮していない時も、昨日オペラをやったのだし、明後日またオペラをやるという嬉しさでいっぱいで、要するにいつも幸福そうだった。オペラというものがこの世に存在する以上、それだけでもう彼ははしゃげるといった風だった。  彼は、一、二、三、四の拍子をちゃんと指揮するというようなことに、余り関心がないようだった。棒の振り方より先に、ヴェルディが、プッチーニがあるのだった。N響との三日目の練習の休憩の時、オーケストラのある楽員が自分の席にぼくを呼びつけた。 「ねえ、チョット、チョット……」  アシスタント指揮者のぼくは、オーケストラの中で最年少だった。楽譜を指さして、怒ったような口調でぼくに言うのだ。 「四つに振らなきゃいけないのに、あの指揮者はここを三つに振るんだ。なんとかしてくれよ、キミ」  そんなことを言ったって、ぼくが指揮をしているわけではないのだ。ぼくが怒られる筋合いではないのだが、アシスタントというのは、こういう目によく合う。ぼくは考え込んでしまった。ヴェルキさんに直接言いに行くのは、はばかられた。アナタハ、マチガッテシキヲシテイマス、なんて言えるものか。それでなくても当時は、外人がオソロシクて、なるべく直接顔を合わせないようにしていたくらいなのだ。休憩中だったから、ヴェルキはもちろん指揮台にはいない。指揮者室でマネージャーと、身振り手振り大袈裟に、イタリア式大騒ぎをやっているのだろう。結局、そこに置きっぱなしの彼のスコアを開いて、彼が間違って振るという小節に、大きく「4」と赤鉛筆で書いて来た。休憩がすんで練習が始まり、例の箇所に演奏が近づいてきた。ぼくは固唾をのんで見ていた。曲がそこにさしかかる瞬間、ヴェルキはハタと指揮を止めて、短い棒を胸のポケットに入れた。ぼくは身を縮めた。 「OH! SI、SI、SI! グラツィエ、モルト・グラーツィエ!」  オーケストラはなんのことかわからない。もしわかったとしても、さっきぼくを呼びつけた楽員ぐらいなものだろう。  ぼくは怯えていた。「誰だ! こんないたずらをしたのは」とやられるものと思っていたのだ。オーケストラがキョトンとしているので、ヴェルキはぶ厚く重いオペラのスコアを持ち上げ、みんなに、大きく赤く「4」と書かれたその箇所を示した。彼は自分の今までの思い違いを指摘してくれた誰かに、心から感謝しているのだった。 「グラーツィエ、モルト・グラーツィエ!」  顔をクシャクシャにして笑い、スコアを再び譜面台に置いて、右のポケットからハンカチを取り出し、顔と眼鏡を|拭《ふ》いた。そのまま余り濃くはない髪の毛をかきわけ、頭の中を拭きまくり、ついでに大きな音をたてて鼻をかんだ。さて再び七センチの棒を胸のポケットから取り出して、カン高いダミ声で叫んだのだった。 「アンディアモ、シニョーリ、プレーゴ!」  ぼくはほとんど、この人と会話をしなかった。当時ぼくは、少々の英語はしゃべれたが、イタリア人の常として、ヴェルキは英語が全くだめで、でも、たまに東宝劇場の地下の裏方用食堂などで、コーヒーを飲んでいる時にいっしょになったりすると、アンダンテとか、プレストとか、ドルチェ等の音楽用単語を羅列すれば、なんらかの意志の通じ合いは可能だった。そこ抜けのお人好しだった。スカラの副指揮者ならもう立派なものだが、これ以上出世するとは思えなかった。天使であり過ぎた。  いつだったか、ニューヨークのぼくの楽屋に彼が突然訪ねてきた。英語を少し話せるようになっていて、メトロポリタン歌劇場の専属指揮者の一人になっていた。スカラでも、とっくに「副」の字が消えていて、世界のオペラ界の重要な人物になっていたが、貫禄はちっともついていなかった。それが彼のウレシイところでもあるのだ。一九七八年に、突然|癌《がん》で死んでしまった。  W───   渡辺暁雄     (指揮者)   Akeo Watanabe  昭和二十七年、ぼくが芸大の二年の秋に、渡辺暁雄さんはアメリカ留学を終えて、芸大の指揮科の先生になった。渡辺暁雄という名前は、芸大生になるずっと前から、ぼくはよく知っていた。主に室内楽の、バイオリンとかヴィオラの名奏者としてだったが、既に指揮者に転向もしていて、実際に実物を見たのは、日比谷公会堂の客席から仰ぎ見た、東京フィルハーモニーの指揮台の上の、背の高い後ろ姿だった。ぼくは大の渡辺暁雄ファンだった。  その|憧《あこが》れのスターが指揮の副科の学生を募集することになり、そのテストがある、という|貼《は》り出しが掲示板に出た。ぼくは作曲科の学生だった山本直純と、連れだって試験場に行った。試験場といったって、小さな教室で、普段は安川加寿子さんが、ピアノのレッスンに使っていた部屋だったと思う。新任の先生には自分専用の教室がまだなく、人のを借りたのだろう。  新任かどうかは、ぼくにははっきり分からないことだった。もしかしたら、渡辺先生はアメリカに留学する以前から、芸大の先生であったかも知れず、まして非常勤講師だったか、常勤だったか、助教授だったのか、教授だったのかなんて、ぼくたちには関係のないことで、大事なことは、あの「渡辺暁雄」が先生としてぼくたちを教えてくれる、ということだった。テストにうまく合格すればの話だが。  学校の暗い廊下で、先生とすれちがったことはあった。先生には、我々学生どもがガヤガヤ騒いでいる食堂なんかに入って来るような、ハシタナサはあり得なかった。食堂から、少し離れた図書館に出入りする姿を、拝むことができるくらいのものだった。印象的だったのは、白いナイロンのワイシャツだった。当時日本には、まだそんなワイシャツはなく、時々見る映画の中で、ハンフリー・ボガートやスペンサー・トレーシーが着ていたのを見たものだ。ピラピラの襟が小さく、たまに近くですれちがう時に、会釈したこちらの目に入るのは、柔らかく透きとおっている、そのワイシャツの胸のあたりだった。これが文化なのだな、アメリカの香りなのだな、と憧れたものだ。木綿とかポプリンにガッチリと|糊《のり》づけアイロンをしたような、他の先生たちのオジサンみたいなワイシャツと較べると、渡辺先生のは、洗うとすぐ乾き、アイロンなしにそのまま着られて、これこそが話に聞く花咲けるアメリカ文化の象徴で、ヨーロッパ留学の昔話ばかり聞かせる他の教授たちとは、全然違う新鮮さだった。  それに、背がとても高く、実にスマートで、顔もまるで洋画から抜け出して来たようだった。あたりまえの話で、先生のお母さんはフィンランド人で、つまり先生は混血だったのだ。カッコ良かった。  なによりも尊敬したのは、一度外国からの音楽家が、公開教授のために学校に来た時だった。この音楽家になにかを言われる度に、どの教授も、オー、イエス! とか、ノー、ノー、ノー……と出来ぬ片言を補うため、見ていても恥ずかしいほどの身振り手振りをやっている中で、渡辺先生だけは、腕を軽く組んだまま、何事もないように静かに話をしていた。  一面識もない頃から、ぼくたち生徒は先生を「アケチャン」と言っていた。「アケチャンが、今トイレに行ったゾ」という按配である。その頃、棒を持たずに指揮をしたアケチャンのスタイルも、これ又新鮮だった。「オーケストラの少女」のストコフスキーとは全然違う、ハッタリなどのない、几帳面で美しい手さばきが、ぼくたち指揮を志す仲間に魅力的だった。学生のオーケストラを指揮する時だって、一度も怒鳴ったりせず、いつも静かな声でさとすように説明し、ぼうっとアケチャンに見とれ、弾くのを忘れている女の子にも優しく注意したりして、又それにみんなは惚れたのだ。  副科の指揮クラスのテストの教室に、山本直純と入って行った。もう先着が十何名もいて、部屋の中は水を打ったように静かだった。部屋に入った途端に、ナオズミは「おはようございます!」と大声を出し、ぼくは飛び上がったが、低い静かな「おはよう」が返ってきて、横のぼくは余計緊張した。そう言いながらアケチャンは、ゆっくりとナオズミを見つめ、その目がこちらには向いてはいないのに、ぼくは怖くてガタガタ震えた。本当はちっとも怖い目なんかしてはいない。ただ、今までで一番近くに憧れの先生を見、例のナイロンの襟が上着からちょっとはみ出していて、それが、よりスターの間近にいる実感を大きくした。  テストは聴音で始まり、ベラボウに難しいものだった。アケチャンが十本の指でピアノの鍵盤をたたき、「下から二番めの音を聴き分けて音を出してごらん」とか、「上から三番めの音を……」という調子である。ちゃんとした和音ではないし、むしろメチャクチャと言ってもいい、十の音の塊の中から特定の音を選ぶのは、受験していた十何名かのほとんどに、全く不可能なことだった。みんなは皆目わからないから、ただ当てずっぽうに「ア──」と声を出し、まるで耳鼻咽喉科の診察室のようだった。その度にアケチャンは下から二番めの音をポンとたたき、「ちょっと違ったね」と優しくさとし、それが又なんとも言えずコワイのだ。  一年だか、二年上の大町陽一郎君も「ア──」とやって、これがあっていたかどうかは、今覚えていないが、アケチャンは一言だけ言った。「君はいい目をしているね」ナオズミは天才的な耳を持っていて、彼の耳の感度は、恐らく日本一、二だと思うが、それでいてすごいオンチでもある。|喉《のど》から自分の思っている音が出ないだけなのだ。今でこそ※[#歌記号]オーケストラがやって来た、と毎週ドナッていて、メロディもはっきりわかるけれど、これは長年の職業的熟練の賜物だろう。このナオズミにアケチャンは、ギャーンとピアノをひっぱたいてから、「下から四番めの音の五度上を言ってごらん」と途方もないことを言った。ナオズミはすかさず「ギャ──」と叫んだ。不思議なことに、ちゃんとあっていた。ナオズミの実力からすれば当り前のことなのだが、こういう大事な時には、思った通りの音が喉から出るらしい。念のため、同じようなことをもう一度やった後、「君はすごい耳をしているね」とささやくようにアケチャンは言って、ほほえみながら大きな目で、じっとナオズミを見つめるのだった。次の番のぼくの|踵《かかと》がガタガタガタと音をたてた。ぼくの時は、ただメチャメチャな音を「ヒ──」とやったら、アケチャンは正しい音をポンとたたいて、「違うね」と言っただけだった。  こんな難しいテストに合格するヤツなんて、世界中に何人といない筈だ。今にして思えば、アケチャンはニューヨークでやられてきた、一番スゴイのを、ぼくたちに試したに違いない。自分だって、出来なかったに決まっている。唯一の本当の合格のナオズミや、「いい目」の大町君を含め、結局は誰もテストに落ちなかったようだった。翌週からのレッスンには、耳鼻咽喉科でア──をやっていた全員がそろったのだから。  レッスンは厳しくもなく、といってだらけていたわけでもなく、思い出すのは、いつも楽しく、みんなが先生に遊んでもらったような、気がすることだ。みんなで先生を遊ばせたような気もする。ナオズミみたいな役者がそろっていたし。レッスンの時間が終わりに近づくと、先生はいつも突然ナゾナゾを出したりするのだった。黒板に大きなマルを書き、中にくっついたマルを二つ書く。「君たち、なんだと思う?」みんなはシーンとしている。「じゃあ言ってあげよう。これは塀の穴から、行水しているお姉ちゃんのお尻を覗いたとこよ」ちっともおかしくないが、ナオズミがギャハハハ……とバカ笑いし、みんなは彼のギャハハハがおかしいのか、マルがおかしいのか、まあどっちでもいいが、とにかく笑いころげて、その日はおしまいになるのだった。  十何人の授業はずっと続いたけれど、本当に指揮を志していたのは、ナオズミとぼくの二人だけだったようで、いつのまにか我々二人だけがアケチャンのところの指揮科のようなツラをして、学校の中をのさばり歩いていた。大町君は、途中からクルト・ウェスのクラスに行ってしまったようだった。  よその大学に、こんなことはあったのだろうか。芸大には、毎年遠足があって、これに行くと、体操の何時間分かの単位がもらえるのだった。例年、学年|毎《ごと》に別々の場所へ行くことになっていたが、声楽科の何十人と、絃楽器科の十何人と、作曲科の何人と、管打楽器の数人と、十何人の邦楽科が、いっしょに河口湖に行ったって、おもしろいわけがない。ぼくが四年の時の六月の遠足は、各楽器の担任の先生と直接の学生たち、つまり弟子どもが沢山のグループに分かれて、勝手な所に行ってもよいことになった。ぼくは打楽器、ナオズミは作曲科の三年だったが、我々は自分たちこそが指揮科だと勝手に決めて、アケチャンとどこかに行くことにした。副科でない専門の指揮科の学生はいたのだが、ガールフレンドの声楽科の遠足に行ってしまった。  箱根に行くことになった。アケチャンの上の息子二人と、総勢五人だ。息子と言っても上が七歳ぐらいだったろうか。三番めももういたが、まだ赤ン坊だったので、この人数になったのだ。先生の奥さんにおにぎりをつくってもらって、みんなで勇ましく東京駅に行った。折り返しの電車のドアが開いて、ナオズミとぼくは当り前のように二等車に乗り込んだ。アケチャン一家もゾロゾロついて来た。一等、二等、三等の頃である。車掌が検札に来て、三等との差額は、アケチャンがごく自然に払うのだった。小田原の手前でナオズミが、「先生、ここで降りて車をつかまえて、箱根をぐるぐるして、また小田原まで帰って来ましょうよ」と提案した。「ウン、そうね」タクシーなんかが駅前に沢山待っている時代ではなかったが、ナオズミがどこかからバカでかいアメリカ車の白タクを捜して来た。「夕方まで契約しました」と威勢がいい。「そう、よかったね」仙石原のど真ん中で弁当を食い、あっちへ行け、こっちへ行けと乗りまわし、すぐ腹がへって箱根ホテルで豪遊し、お金を払っている先生を残したまま、もう我々は走っていた。「ヤスオチャン、キクオチャン、モーターボートで芦ノ湖をまわろう」アケチャンがゆっくり追いついて来た。「先生、二台借りましたよ」アケチャンはしばらく黙っていた。「君たち四人で、一台で行ってらっしゃい。ぼくは岸で手を振っていてあげる」ぼくたちは操縦つきの豪華なモーターボートから、岸に近づく度に喚声をあげ、アケチャンはその度に上品に手を振ってくれるのだった。車で山を降り、アケチャンが大人三枚子供二枚の切符を買うのを待って、もちろん三等だったのだが、ぼくたちは再び当然のことのように二等に乗り込んだ。車掌が来た。「君たち、この差額だけは自分で払いなさい。本当は学校の遠足なんだよ」ぼくたちは、何故かビックリした。  何年も経ってから聞いたのだが、アケチャンは、豪遊、モーターボート、まる一日の白タクを払って、もうスッカラカンだったのだそうである。  その年の秋ぼくは大失恋をして、たいていの友達は、ぼくの顔を見ると逃げるようになった。ベソベソぐちを言うからだ。冷たいヤツラだ。こうなるとメソメソしに行くのは、アケチャンの所しかない。「そう、そう、……そう」といつまでも付き合ってくれる。夕方先生の家へ行って、快く慰められているうちに、十二時をとっくに過ぎていた。このまま泊まってゆきなさい、と言われて、ぼくはうなずいたが、ハテ、この家はどこに客を泊めるのだろうと、不思議だった。その頃の先生の家は小さくて、この板の間の応接間に寝かされるのか、二階にはそんな部屋はないし、と思っていたら、アケチャンと奥さんがフトンをかかえて二階から降りて来た。フトンを敷き終わってから、二人でコソコソなにか相談していたが、しばらくして先生が二階からまた降りて来て、細長い敷布を敷いてくれた。幅が五十センチぐらいしかなく、ちょうどフトンの真ん中に、小川のように白い敷布が流れている。「ゆっくり寝て、明日は元気になりなさいね」先生は上にあがって行った。変な敷布のある家だな、と思いながら横になったが、ふと見ると、縦に裂いた跡があるではないか。きっとその日は夫婦用のが一枚しかなかったのだ。ぼくのために三分の一を切り裂いたのだろうと思うと、それまでの失恋のメソメソに、別の涙が加わった。  X───   ヤニス・クセナキス     (作曲家)   Yannis Xenakis  クセナキスは、現代の最前衛と言われている作曲家である。もっとも前衛という言葉にはひどく|曖昧《あいまい》な点があって、その時代、時代で、新しい、珍奇とも思われるような、冒険を勇ましくやってしまうタイプの芸術を意味することが多いようだが、クセナキスの作風は、珍奇ではなく、大きな岩がどっしり大地に根を生やしているような、強情な重厚さがあるようにぼくには思える。彼はコンピューターを使って作曲をすることもあるが、音の組み合わせによる無数の可能性を機械にはじき出させ、人間の頭では考えられないような複雑さを|創《つく》り出して、それを生きた人間、つまり生身の人間である演奏家に、非情に押しつける。演奏している者にとっては、たいていの場合、彼の曲は苦痛であるけれど、後でテープを聞いてみたり、時に聴衆の側にまわってみると、身震いするような宇宙空間的効果に感心するのだ。  ひと頃ジョン・ケイジたちがやっていた、ピアニストがステージに出て来てピアノの前に坐り、そのままピアノを凝視するだけで一時間も二時間もじっと音を出さず、それに対する聴衆の心理的反応が音楽自体なのだ、といったような奇妙キテレツな方法を、クセナキスはとらない。あくまでオーソドックスに複雑きわまる音譜をゴテゴテ書きつらね、演奏者には心を入れる余地を与えず、絶対に正確な再現を要求し、出てくる音は、つかみどころがないが、人の心に何か異常な興奮や不安を強く刻みこんでしまう、といった音楽なのだ。ぼく自身クセナキスの音楽を何回か演奏しているが、クセナキスが好きだと言ったら大ウソになるけれど、演奏の度に、なんてスゴイヤツだと、終わってからも四、五日は身も心もクタクタになってしまう。コンピューターが魂を持つようになったらこうなるのではないかと思う。  今現在の文化活動的レベルがそう高くなくても、歴史の中のある時期に、一時世界を制覇した国の|末裔《まつえい》がやっている芸術には、時々、途方もない個性や大きさが出てきて、非常におもしろい。スペインがそうだし、ローマ帝国の子孫のイタリアも、ナポレオンが大暴れしたフランスも、オーストリー・ハンガリー帝国を築いて繁栄したハプスブルグ家が君臨したウィーンも、歴史的には近過ぎるかもしれないが、世界中をかきまわしたヒットラーというドエライ男のいたドイツも、すべてそんな感じがする。現在のアメリカとソ連にも同じことを感ずる。世界制覇や他国侵略やファッショやナチスを誉め|称《たた》える気はさらさらないのだが、とにかくある時期世界でエバリくさっていた国の子孫たちに、芸術上大きな仕事をしでかす人間が出てくるのは事実のようである。別の意味で、英雄が出た国と言いかえてもいい。悪いけれど、息子の頭にリンゴをのせて、みごと矢で射落として、悪代官に勝った、くらいの英雄というか、チッポケなお話をもっている国の芸術は、おもしろくない。早くから社会保障がゆきとどき、国民全体の生活レベルが世界一高い国にも、魅力のある芸術は育たないようだ。かつての悪逆|無道《ぶどう》の血というかエネルギーが、民族に伝わって、そこからとんでもない天才が生まれてくることの方が、多いようである。所詮、芸術とは理不尽なものであるのか。  スペインの現在の一般的音楽レベルからは、カザルスとかセゴビアのような偉大な音楽家が出ることが理解できないし、その点でギリシャも同じである。ギリシャの音楽界は、これといった優れた点がないように思うが、マリア・カラスとか、ヘルベルト・フォン・カラヤンとか、ディミトリ・ミトロプロスのような巨大な音楽家が、ポコン、ポコンと出てくるのも、西洋文明の発祥の何千年前のエネルギーが、時々そういう形で現われるのだろう。クセナキスもこの点で、まぎれもない何千年の文化エネルギーを引き継いだ、ギリシャ人なのである。  最近、オーストラリアでギリシャ人ばかりのパーティに出て退屈な思いをした。メルボルンはギリシャ人の移民が多いので有名で、ここのギリシャ人街は、一つの所にギリシャ人がかたまっているということでは、アテネにつぐ規模なのだそうだ。ギリシャ人と握手をしたら、後で気をつけて指の本数を数えてみろ、という冗談がある。この冗談は、ユダヤ人と……とか、ダッチと……というように、いくつもヴァリエーションがあって、抜けめのない民族がよくこういう風にからかわれるのだが、確かにギリシャ人は抜けめがなく、エゴという言葉がギリシャ語の自分を指さすことから始まったように、自分や自分たちさえよかったらいいのだという感じを、彼らから時々受ける。彼らは売り込みの天才でもある。オーストラリアに移民したギリシャ人たちが、口々にギリシャの作曲家のことをぼくに売り込むのには閉口した。話を聞いていると、世界最高の作曲家たちはみんなギリシャ人のようなのだ。たくさんのギリシャの作曲家の名前を聞かされ、その場でみんな忘れてしまったが、もし日本人の移民の集団だったとしたら、よその国の人に、お国自慢をこれ程までにするだろうか。しかし誰の口からもクセナキスの名前は聞けなかった。余りにも前衛で新しく、一般のギリシャ人たちの理解をはるかに越えたところに、クセナキスはいるのだろう。突然世界をリードするような天才的作曲家が出て、恐らくは自分の国よりは二百年くらい先を行っているのかも知れず、その点でクセナキスの音楽の孤高さが理解できるような気がした。  十年以上前、パリでバッタリ知り合いの日本の女の子にあった。洋の東西を問わず、何故かいろいろな作曲家と友達になってしまうひとだった。 「いつからパリなんだい? 驚いたな」 「おとといからよ。仕事?」 「ウン。リハーサルが終わったとこなんだ」  一時間程そこらのバーでアペリティーフをいっしょに飲んだ。 「今からなんにも予定がないから、うまいもの食べに行こうや」  ぼくはさっさとタクシーをつかまえて、サン ジェルマンの方に走らせた。めざす魚料理のうまい店の前で車を止めたが、後から車を降りて来た彼女は、アッ、アーと大声を出した。しょんぼりした小柄な男が立っていた。彼女はかけ寄って、小声で早口になにか一生懸命弁解しているようだった。男はただ寂しそうにニコニコ笑って、弱々しく手を横に振るのだった。二人の会話は英語のようだったが、いきなり彼女がぼくを紹介した。 「こちらクセナキスさん。こちらイワキさん」  かねがね尊敬している高名な作曲家にいきなり会えて嬉しかったが、彼の寂しそうな微笑の方が気になった。 「じゃあまたね、バイ、バイ」  と彼女は威勢よく手を振ってクセナキスの目の前のレストランにぼくと入ったのだ。席に坐って、ペロリと舌を出し、 「あいつバカね。シャンゼリゼで一時間も私のこと待ってたんだって。|諦《あきら》めてこっちまで来たら、目の前で私たちがタクシーから降りて来たんだって。偶然バッタリ会っちゃって、照れくさいったらありゃしない」  ぼく自身はスッポカシに関係ないにせよ、以来、彼の強力な前衛的作風の曲に取り組む度に、あの時の気の弱そうな微笑が目に浮かんできて、少々心がうずくのだ。  Y───   山本直純     (作曲家・指揮者)   Naozumi Yamamoto 「オー、ハラ減ったなあ。食いに行かねえか」 「ウン」  答えたぼくの声には、力がなかった。ポケットに三十円しかなかったのだ。ペコペコなのはたしかだ。ナオズミのでかい声が腹に響く。 「S、どうする?」  となりで|膝《ひざ》小僧をかかえてうずくまり、ポリポリ足の指の水虫をかいているSに、ぼくは元気のない声をかけた。こいつが二十円しか持っていないのも、何故かぼくは知っていた。 「そうだな。明日はまあ、なんとかなるな。行くか」  昭和二十八年だった。ぼくは芸大三年の打楽器科で、ナオズミとSは一年下の作曲科の学生だった。ぼく達は目白駅の近くのSの下宿でダベっていた。屋根裏みたいな三畳で、天井が低く、しかも斜めになっていたから、隅に坐ったやつは必ずうずくまらなければならない。ぼく達は、客として至極当然に、背を延ばせる場所にあぐらをかき、三畳のあるじは、うずくまらざるを得ないのだった。  Sは真面目の上にクソの字がつく程の勉強家で、だが、ナオズミとぼくは、彼の三畳の屋根裏下宿がことのほか気に入り、殆ど一年中ここでダベっていたし、時には二十四時間の滞在、つまり三畳でゴロ寝もしょっ中だった。部屋の主は、迷惑そうに勉強したり、われわれに引きずりこまれて一緒に騒いだり、黙って水虫をかいたりしていた。 「|薮蕎麦《やぶそば》ってとこかな、今日も」  Sがボソリと言って、三人は近くのそば屋に出かけた。有り金が三十円とか二十円では、昭和二十八年だって、もりそばしか食べられない。 「オレは今日、カネうんと持ってっから、あっちで寿司食ってくるな。おめえら、こっちで安いの食ってろよ」  ひどい奴だ。最近、この薮蕎麦に寿司コーナーが出来て、どうもそば屋としては邪道だと思うのだが、ナオズミはもうカウンターに坐って、大トロ! なんて叫んでいる。腹が立つが、仕方ない。  この日、ぼくは家に帰ろうと思っていた。三日ぐらい帰っていなかったし、Sのところの三畳でのゴロ寝にも飽きていた。Sの迷惑なんて知ったことではない。これが学生生活、青春時代というものなのだ。当時、目白からぼくの家の荻窪まで、国電が二十円だった。バスのある時間に着けば、プラス十円だが、歩いたっていい。二十五分のテクテクはなんていうこともない。家に帰れば、台所に冷えためしとみそ汁くらいはあるだろう。ねこ飯は大好きだった。  今、もりそばで二十円使うと、またSの三畳に寝て、明日は十円で上野の学校まで行き、誰かに金を借りて、午後は放送局で内職がある。千八百円の筈だ。それはそれでいいのだが、ぼくが泊まるとなると、結局はナオズミもそのままということになる。勿論部屋の主もいるから、そろそろ六月だし、蒸し暑い。第一、ナオズミときたら、まるでまぐろかオランウータンの肉塊のようになってしまって、大いびきをかくのだ。Sはもりそばで一文無しになるのだが、どうせ明日、誰かが遊びに来るだろう。そいつに借りるに違いない。とにかくもりそばを食べ、そば湯ももらって一滴も余さなかったが、腹はまだ空いている。あっちでは、ナオズミがまだ寿司をパクパクやっている。これみよがしに大口を開けて、うまそうにほうり込んでいる。イマイマしい野郎だ。  芸大では生徒の学外演奏は一応禁止されていた。そんなことはおかまいなしに、ぼくはタイコで稼ぎまくっていて、月に十万入った時だってあった。今だったら百万をはるかに越すだろうが、そういう時には友達をいっぱい引き連れて豪遊し、スッカラカンになると、家、つまり親のところでゴロゴロしていた。国電やバスの定期代を、年に何回か親父にもらうのだが、そんなのはその日に無くなってしまうので、いちいち切符を買わなければならなかった。  ナオズミも、稼ぐ時は結構大きかった。忙し過ぎるとか、能力がないとかの作曲家のセンセイの代りに、映画の音楽をバリバリ書いていたのだ。当然ぼく達のつき合いは、金の面で目茶苦茶で、お互い、ぼくの金はナオズミのもの、ナオズミのはぼくのものといった調子で、結局二人は、いつもかなりな豪遊をしていたのだった。  二、三日前に、われわれが指揮を習っていた、渡辺暁雄先生に、説教された。 「君たちは実に仲がよくて結構だが、お金のことだけはきちんとした方がいいよ。金のために友達を失うということがよくあるんだから」  二人は誓い合った。おまえを失いたくないから、これからは貸し借りは絶対にやめよう。徹底ワリカンで行こう。  二、三日前のこんな誓いがなかったら、今日は何事もなく、三人はナオズミの金で寿司を食っていた筈なのだ。  薮蕎麦から屋根裏にもどり、十時も過ぎた。 「おまえら、今日は帰れよ。出てってくれよ」  Sがブツブツ言い出した。無理もない。 「ナオズミ、十円だけ貸してくれよ。荻窪まで十円足りないんだ」 「ヤダヨ」 「おまえ、友達だろ」 「だからよ。おれはおまえを失いたくないんだ」 「バカヤロ」  Sは、二人とも帰れ、とわめく。ナオズミとぼくは、十円貸せ、貸さないで取っ組み合いをする。三畳でドタンバタンだから大変だ。隣の下宿人にも怒鳴られ、二人はSのところを追い出されてしまった。  十二時を過ぎていた。終電も行ってしまった。もっと早かったら、東中野まで歩いて行って、そこからなら十円で荻窪まで|辿《たど》り着けたのだが、もう遅い。 「おまえの友情とかのせいで、こうなったんだぞ」 「おれだって、タクシー代を貸してやりたいよ。だけどな、おまえが大事な友達だから貸せないんだ」 「いい加減にシヤガレ!」 「こうしよう、な、オレ、おまえの家まで一緒に歩いて送って行ってやるよ。タクシーで行くのはよくないよな。オゴルことになるから。おまえを失うもとだもんな」  目白から荻窪のぼくの家まで、何時間かかっただろうか。明け方に着いて、それからナオズミは一週間程、ぼくの家に居候していた。二人の間のお金のことも、すぐに元の|木阿弥《もくあみ》になり、こうやって長く歩くことは、もうなかった。  それから一年が過ぎて、秋だった。夏にぼくは失恋した。本当は、ガールフレンドと別れたのだ、と書きたいが、負け惜しみじみるので、いさぎよく失恋と書こう。彼女はウィーンに行ってしまった。Sの下宿に入り浸って、ベソベソ嘆き暮し、仲間達に慰めの強要をする毎日が続いた。みんなは、さぞウンザリしただろう。ナオズミだけは、いつまでも親身になって、ぼくの愚痴を聞いてくれた。いや、親身そうにやってくれたのかもしれないが。 「おい、近所の映画館で、ピノキオをやってるから、行こうよ」  ディズニーのマンガでも見せれば、ぼくも笑ったりするだろうし、その方が親友というかお守りとして、助かると思ったのだろう。  こんなことを書くのは、われながら情けなくもあり、恥ずかしいのだが、「ピノキオ」の中にかわいいお姫さまが出て来て、もうそれだけで、行ってしまった彼女を思い出し、ぼくは涙ぐんでしまうのだった。暗い館内で、となりのナオズミはすぐに気が付き、出ようか、と言って、向かいの喫茶店に二人は入った。コーヒーを前にして、ションボリ黙っているぼくに、 「一寸待っていろよな」  と言って、どこかに行ってしまった。暫くして、大きくて立派なピノキオの絵本を持って入って来た。 「オマエ、今日は家に帰って、これ読んで気晴ししなよ」  失恋に絵本か。ぼくはプッと吹き出しそうになったが、同時に、ナオズミの底抜けの暖かさに、ホロリとしてしまうのだった。またどこかに走って行ってしまった。今度は、紙袋を持って帰って来た。 「オマエ、これ着て寝ろよ」  なんと、明るい、派手なパジャマだった。もう彼女のことは、ふっ飛んでしまった。ただもう、ナオズミの友情に、ホロホロしてしまうのだった。  タクシーを呼んで来た。 「荻窪までいくら? アアそう、ウン」  前払いまでしている。車に乗せられた。 「運転手さん、ちょっと待っててね」  また走って行った。今度は、大きなバラの花束を持って来た。きれいな赤いバラだった。 「オマエ、今日は花にうずまって、あのパジャマ着て、絵本読んでろよな。ハイ、運転手さん、お願いします」  車が動いた。 「バイバイ、元気出せよ」  大声で手を振っている。ナオズミが|霞《かす》んで、見えなかった。  ぼく達は、本物のオーケストラの指揮がしたくてたまらなかった。この気持ちを、われわれだけの言葉で、「フリヨク」と言った。指揮したい欲のことである。教室の中で、ピアノに向かって指揮をするのは、もうウンザリだった。何がなんでも本当の指揮がしたかった。学校では、他にかなりの人数が指揮を習っていたが、われわれに言わすと、 「あいつら、フリヨクがねえな」  だった。  どうすればいいか。実際にオーケストラを作ればいいのだ。二人で陰謀をたくらんだ。作曲科や、ピアノ科や、絃楽器のソリスト志望の学生達の代表をまき込んで、学友会交響楽団という、ドエライのを組織した。大義名分はあった。作曲科の学生は、自分の曲を実際に音にして聴くことが出来る。ピアノや絃楽器の学生に、コンチェルトを本物のオーケストラと共演するチャンスを与える。みんな在学中は、ピアノ伴奏でしか弾けないのだ。オーケストラの学生達も、一年かかって二曲ぐらいだけ先生に指導されるような授業では、将来プロになった時に困るだろう。古今の名曲を片っ端から味わうことが出来る、etc……。本当は、ぼく達二人が指揮したいだけだったのだ。  大勢が趣旨に賛同したが、第一回の練習の時に、誰も来なかった。朝早くからナオズミと奏楽堂のステージを片付け、譜面台や椅子を並べて待っていたのに、である。  何度かこういう目に合って、ナオズミが一計を案じた。練習に来てくれた人には、出前を取って、モリソバ二杯ずつオゴル、とポスターに書いたのだ。なんと八十人がやって来て、二人は真っ青になった。だが約束は約束だ。お互いが当てにしていたのだが、その日は二人とも持ち合わせがなく、そば屋のニイチャンに午後中追いかけられ、夕暮までどこかの教室のグランドピアノの下に隠れていた。学校中駆けまわっていたニイチャンの下駄の音がやっと遠ざかり、それでも用心深く、夜おそくまで二人でじっとしていたのだった。  あの時の百六十四のモリソバの代金は、後でちゃんと払ったのだろうか。ぼく達も食べたから百六十四という数になるのだが、お互いが、アイツが払ったものと信じたまま、二十五年以上経ったとしたら、コトである。今度、ナオズミに尋ねてみよう。  Z───   ニカノル・ザバレタ     (ハーピスト)   Nicanor Zabaleta  前に、スペインのカザルスやセゴビアという巨匠のことに触れたが、スペインにはもう一人現役の巨匠がいる。ハープのザバレタだ。ハーピストは世界にたくさんいるが、ソリストとして実際に世界中で活躍している人は、ほんの二、三人しかいない。フランスのラスキーヌは今でも演奏活動を続けているそうだが、もう九十ぐらいになっているだろうか。大変なおばあさんの筈だ。ヴィトーという、もとNBC交響楽団のハーピストも名人的なソリストだったが、今はマイアミのオーケストラのハープ奏者兼ライブラリアンとして暢気に余生を送っている。第一回のイスラエル・ハープ国際コンクールの優勝者のミルドニアンはアルメニヤ人で、女優になってもスターになったに違いない美人だが、離婚とか結婚の騒ぎで少々くたびれてしまったらしく、最近あまり名前を聞かない。他にも何人かが独奏者として日本にもやって来ているが、ぼくにはあまり印象深い人たちではなく、名前も忘れてしまった。なんといってもぼくにはニカノル・ザバレタだけが、ハープの独奏者として世界で唯一の存在だ。  ザバレタは、チェロのガスパール・カサドと、ピエール・フルニエの両方を合わせてもっとハンサムにし、もうちょっと憂いを含ませて、気高い気品をもたせたような顔をしている。そして音楽はカザルスやセゴビアの偉大さの域に達している人なのだ。日本に何回も来ているが、世界のどこであれ、ポスターを見かけるとぼくは相当の無理をしても音楽会にかけつける。つまり、大ファンなのだ。もうザバレタは七十を越しただろうか。テクニックのすばらしさ、音楽の品のよさ、音色の美しさはもちろんだが、なによりも男のハーピストであることがすばらしい。  どうして世界中、ほとんどのハープ奏者が女なのだろう。大変古い楽器で、エジプトの壁画では、男が弾いているのに、現代ではそろいもそろって女の子がハープを奏で、女性的楽器の代表のように思われているが、本来男の頑丈な太い指が七十本からの弦を力強く奏でて、柔らかい優しい音を出すようにできているはずなのだ。  大ファンとして嬉しいことに、ぼくにはザバレタと共演できるチャンスが時々ある。ある時ドイツのニュルンベルグのオーケストラとコンチェルトをやった。最後のステージリハーサルで、ザバレタがボエルディユーを美しく弾いている最中に、金管楽器の方で大音響が起こった。ザバレタのハープのあまりの美しさに聞きほれていたホルン奏者が、うっとりし過ぎて、椅子の足が台からはみ出していたのに気がつかず、椅子といっしょにホルンをかかえたまま転落したのだった。ホルンはペチャンコになった。この話を後から聞いて、ザバレタは新品のホルンを、感激して転落したヤツにプレゼントしたそうだ。  ザバレタはコンチェルトの演奏の時、緊張のあまり硬くなり過ぎて、どちらかというとミスが多い。そしてアンコールになるとリラックスして、この世のものとは思えない美しい演奏をする。コンチェルトを終わった後は、ぼくはただの一ファンと化す。いつもなら舞台のソデに引っ込んでしまい、ソリストだけがステージでアンコールを弾くものだが、この時ばかりは指揮台の所にずっと立ったままいることにしている。ザバレタの一番近くにぼくがいる。ファンとして幸福な時である。  音楽会の後、長い時間いっしょに飲んだことがあった。家はスペインのサン・セバスチャンにあって、特別製のベンツにハープを積んで、田舎への演奏旅行には、自分で運転してゆくのだそうだ。ベンツの後部座席にハープを立たせ、もちろん屋根は低いから、特別にハープ用に屋根が開くようにして、上窓から突き出たハープの糸が風に鳴って、私はサン・セバスチャンが好きだ、などとうっとりした顔をしてしゃべってくれる。いちいちカバーをしてでないとハープを運ばない、湿気の多い国のハープ奏者たちには、裸のままのハープを屋根から外に突き出したまま車で走るなんて、無茶苦茶な話だろうが、スペインは乾いた所だし、スペイン人は陽気で、おおらかだし、ザバレタは世界一の名人なのだ。  朝の七時くらいまで話がはずんで、彼がそろそろ行かなければならないと言うので時計に気がつき、大変恐縮した。 「寝かさないですみません。あまりに楽しかったものだから」 「いえいえ、私も本当に楽しかった」  彼がそろそろ行かなければと言ったのは、次の街に車で三時間走って行って、十一時に音楽会があるということなのだ。九時間以上もいっしょに飲んでいて、明日の朝早く出発せねばならず、しかも朝のうちに音楽会があるなんてことを、一言も言わない人だった。女のハーピストだとこうはいかないだろう。  番外───   ルービンシュタイン     (ピアニスト)   Artur Rubinstein 「ジョージ・セル夫人が聴きに来ているよ。音楽会の終わった後のディナーもいっしょのはずだ」  オーケストラの音合わせも終わり、これから舞台に二人で出て行こうという時に、ルービンシュタインが嬉しそうにぼくに|囁《ささや》いた。演奏の直前にショッキングなことを聞かされるのは、大変に困る。もっともルービンシュタインは、一年前に亡くなった偉大な指揮者ジョージ・セルの未亡人が、わざわざ音楽会に来てくれたのが嬉しくてたまらないから、ぼくに言ったのだし、自分と同じようにぼくも嬉しいと思って言ってくれたのだろう。だがぼくにはショックだったのだ。大指揮者ジョージ・セルには個人的に面識がなかったし、遠くから拝むとか、レコードを通じてとても尊敬していた。セルの奥さんという人ももちろん知らない。ジョージ・セルが聴きに来ているのならともかく、その未亡人が来ているだけでぼくが緊張するのは、考えてみるとおかしな話だが、でもその時は、ワア、大変だ、セルの奥さんが来ているのならうまくやらなければ、などと緊張して、余計な力も入ろうというものだ。  チューリッヒのトーン・ハレ・オーケストラとの音楽会だった。ただ音楽会と書くのはちょっと正確でないかもしれない。要するに、ルービンシュタインの夕べとも言うべき音楽会で、十年ぐらい前のことだが、ルービンシュタインのような、世界で最も愛され、尊敬された巨匠が、ヨーロッパのオーケストラの定期演奏会で一曲だけのコンチェルトを弾くということは、まずなかった。だからこの音楽会は、ぼくの音楽会というわけにはいかない。ぼくは完全な伴奏者の役だった。ルービンシュタインは当時とてもぼくをかわいがってくれて、こういう音楽会をやるたびに、ぼくを指名した。この時のトーン・ハレ・オーケストラは、もちろんヨーロッパの一流オーケストラではあるけれど、どちらかというと堅く冷たい感じのするオーケストラで、いわゆる燃えるような演奏をするタイプではない。こういうオーケストラとの練習の時、ルービンシュタインはたちまちナーヴァスになり、機嫌が悪くなった。誰とでもとても仲良くなり、いつも楽しそうに見えても、この巨匠は、実は大変にナイーヴな人で、とても人見知りでもある。だから、練習の時オーケストラの演奏に少々不満があると、やたらにぼくにあたりちらす。この朝オーケストラとの最後の練習で、ルービンシュタインはシューマンのコンチェルトの出だしのところを忘れてしまい、二、三回失敗して、ぼくはオーケストラの前で、あたりちらされたのだ。この偉大な巨匠の癖をぼくはよくわかっているから、あたりちらされるままに練習を終え、ルービンシュタインはぼくを昼食に誘った。本当にこの人は大変にてれ屋なのだ。見知らぬ顔のオーケストラに不満をぶっつけることができないからのとばっちりの被害者のぼくに、予定になかった昼食をご馳走してくれたわけである。レストランに坐った途端に、世界中が知っているあのニコニコ顔の幸福なルービンシュタインに戻って、あとからあとから冗談話も飛び出すし、笑いながらオーケストラの悪口も言っている。さっきは、ピアノの上の方の鍵盤が湿っていると言って、ぼくを怒鳴りつけ、こちらはしょうがないから自分のハンカチで拭いてやったりしたが、このおじいさん、虫の居所の悪さをぼくにぶつけることしかできなかったのだとわかりすぎるくらいわかっているので、こう言っちゃなんだが、余計にカワユクなる。ルービンシュタインは、世界でぼくが最も尊敬するピアニストだし、一番好きな人でもあり、ぼくを世界中に紹介してくれた恩人でもある。  音楽会の後、三十分くらい車で山をあがり、チューリッヒの湖を見下ろす大層金持ちそうな家でのパーティに行った。ヨーロッパに限らず、アメリカでもよくこういうパーティがあるのだが、大金持ちの音楽ファンがどこの国にもいるということだ。こういうパーティはたいてい同じ形式で、その家の大広間に招待された何十人かの人がカクテルを飲んでいる。パーティの主催者の知り合いで、さっきの音楽会を聴いていた善男善女のおしゃべり大会である。彼らはぼくたち出演者とは違い、音楽会が終わるとそのままこの家まで来ている。こちらは楽屋で汗だくの燕尾服を着替えなければならない。そのままでは必ず風邪をひくし、着替えた後は楽屋にやって来るファンにサインするのにも時間がかかる。もっとも、ルービンシュタインほどの大物となると、汗などかかないから、巨匠はピチッとした燕尾のままディナーにもいらっしゃる。だが、彼には大量のファンが押しかけるから、結局は、我々のパーティヘの到着は、お客さんたちより四、五十分は遅れてしまう。  玄関に入り、待ちかまえていた主人に大広間に連れて行かれる。そこで必ず変な拍手をあびる。変な、と書いたのは、全員が必ずなんらかのグラスを片手にしているからで、空いている方の手で胸とか、グラスを持っている手の腕なんかをたたくので、変な音になるのだ。  まっ先にルービンシュタインは、ぼくをセルの未亡人に紹介した。恭しく挨拶したが、後から後から善男善女の大群に紹介されるので、こちらも忙しい。こういうパーティでは、ひとしきりグラスでの歓談のあと、メインゲストは別室に招き入れられ、当家の主人と小人数で正式なディナーが始まるものだ。当日のメインはもちろんルービンシュタインだ。彼にくっついた形でぼくも無論メインである。あと数人いたが、この中に当然ジョージ・セル未亡人もいる。あちらの大広間でまだ飲んでいるたくさんの人たちは、いつまでもガヤガヤやっているが、彼らは八時とか八時半に始まる音楽会に来る前、食事をして来ている。音楽家のほとんどは、音楽会の前には食べないから、我々がいかに特権階級のように別室に招き入れられても、なにしろお腹がすいているのだ、当然の権利だとも言える。このメインの部屋でわれわれといっしょにディナーを食べる人は、それこそ特権階級的な人というわけで、だから、相当なジイサン、バアサンばっかりである。  ぼくは再び緊張した。なにしろセルの奥さんといっしょにごはんを食べるのだ。大きなテーブルの真ん中にルービンシュタインが坐り、ぼくはその正面だった。ルービンシュタインの右隣に品のよいおばあさんが坐っていた。スープが終わった頃、ぼくはこのおばあさんに丁寧に話しかけた。 「先生のことを、長い間尊敬していました。先生のレコードをぼくはほとんど買っていますし、先生のレコードほど参考になり、勉強になるレコードは他にありません。お亡くなりになられて、本当に……」  突然、ぼくの向こう|脛《ずね》が誰かに蹴っ飛ばされた。おばあさんにぼくが話し出した時、人の足を軽く踏むヤツがあるとは思っていたが、こういう金持ちの家には大きな犬がいたりして、テーブルの下に寝そべっていたりすることがあるのだ。すぐその後で踏む力が加わったのだが、ぼくは気にもかけなかった。蹴っ飛ばされるとなると、これは人間がやったに決まっている。靴の先でガツンなのだから、かなり痛い。当然正面の人間の仕業に違いない。おばあさんへの話しかけを中断して前を見たら、ルービンシュタインの顔が随分下に見えた。彼はガッチリした体格だが、かなり小さい人だし、顔をテーブルぎりぎりまで下げ、足をのばしてぼくを蹴っ飛ばしていたのだ。何故かぼくを|睨《にら》んでいる。 「私の主人はレコードなぞいれなかったと思いますが」  とおばあさんが言い、 「いえいえそんなことは……」  とぼくが続けると、もう一発ガツンと蹴っ飛ばされた。ウインクというのはたいていニヤニヤしながらする感じが強いものだが、あんなに恐いウインクを見たことはなかった。ルービンシュタインに恐い顔のウインクをされたのは、ぼくぐらいかもしれない。なんだかまずいことを言ってしまったような気がして、ぼくは話題をかえた。ルービンシュタインの顔は元の位置に戻って、再びあのニコニコの顔になって楽しい話が続いた。話題がなんてことのない話に戻ってから気がついたのだが、このおばあさん耳が相当遠くて、誰の話も半分以上わからないらしかった。ルービンシュタインもこれに気がついたとみえて、話の合間にぼくにそっと小声で鋭く言った。「オレの隣はオレもよく知らないが、だいぶ前に死んだ、地元の昔の指揮者の奥さんらしいぞ。セルの奥さんはずっと右のテーブルの端だ」  あっと驚いた。さっき大勢の中で紹介されたので、それっきり顔を忘れてしまっていたのだ。だからぼくはかなり歳をとったおばあさんを巨匠のセルにふさわしい未亡人と思い込んでしまったのだ。本物のセルの奥さんはわりと若かった。外国の音楽家の巨匠たちの離婚率というものは、日本の音楽家たちのそれよりもはるかに高いのではないだろうか。老巨匠の奥さん、即ち老婦人と思うととんでもないことになる。  ルービンシュタインとの初対面は、東京のホテルニューオータニの特別室だった。ルービンシュタインを読売新聞社が招いて、ぼくが読売交響楽団と東京で三回の音楽会をやることになった。三回の音楽会で彼は八つのコンチェルトを弾いたのだ。最初と二番めの音楽会が三つずつのコンチェルトで、東京文化会館でやり、三番めはチャイコフスキーとベートーヴェンの「皇帝」の二曲を武道館でやった。  一番最初の練習の前日に、ルービンシュタインが打ち合わせをしたいということで、ぼくはホテルに彼を訪ねた。エレベーターが上っている間中、ぼくは生きた心地がしなかった。幸いエレベーターの中は誰もいなくて、エレベーター内が禁煙なんていうことは百も承知だが、気をおちつけるために、タバコに火をつけた。煙をすったかすわないところで目的の階についてしまい、廊下の灰皿に長いのを押しつけ、もう一度深呼吸をして、教わった部屋のドアをノックした。勢いよくドアが開いて、映画「カーネギーホール」や、レコードのジャケットでお馴染のあの顔が、やあ、イワキさん待っていました、と大きな声でいい、ぼくは握手するのも畏れおおくて、最敬礼したのだった。特別室のスイトには、二台のスタインウェイの大型が置いてあって、コンチェルトの打ち合わせというからには、こちらもオーケストラのパートを二台めのピアノで弾かなければならないのかと、|蒼白《そうはく》になった。幸いそういうことはなく、ピアノの前は素通りして、別の部屋に招き入れられた。飲みものも用意されていて、坐るなり、ルービンシュタインが言った。 「演奏していて、なにか気がついたことがあったら、なんでも言って下さい。いっしょにやる指揮者に忠告されると、本当にためになります」  ぼくは仰天した。同時に、この人ちょっとおかしいんじゃないかとも思った。ぼくみたいなチンピラに、世界最大の巨匠がこんなことを言うなんて、初対面の挨拶にしても礼儀とか謙虚とかを通りこして、オーバーすぎる。それからは、なんのことはない|四方山《よもやま》話をして、肝心のコンチェルトの打ち合わせはなにもしなかった。もっとも短期間に八曲のコンチェルトをやるのだ。八曲分の打ち合わせなんかいっぺんにやれるものではない。段々わかってきた。ルービンシュタインは、ぼくという初対面の、見たことも聞いたこともない若い指揮者と、とにかく一度しゃべってみたかったらしいのだ。料理の話、ワインの話、なんかになって、突然彼は、隣の部屋の様子をうかがうような顔をして小さな声になった。隣のスイトには、奥さんと当時十七歳ぐらいだったお嬢さんがいたのだ。 「イワキさん、あなたはまだ三十の真ん中ぐらいだろうが、わたしはね、四十五になるまでは、女のことだけを考えてましたよ。音楽に一生懸命になったのは、それからです。あなたの歳の頃には、まだ音楽にだけ夢中になってはいけませんよ」  と言って今度は大きな声で笑うのだ。あの時ルービンシュタインはもう八十か八十一だったはずだ。  翌日の最初の練習で、ぼくは緊張の極だった。長くなるが、二日おきくらいの短期間にやった八曲のコンチェルトは、さっき書いた二曲以外の曲を書くと、順不同だが、ショパンの二番、サンサーンスの二番、モーツァルトのニ短調、シューマン、ベートーヴェンの三番、四番だった。この歳になると、自分の引き出しの中から、その時その時の曲を引き出して人の前でやるだけで、だから、演奏の直前に突然曲目を変更しても同じことなのだ、とか、自分は練習が嫌いなたちなので、部屋で一人でさらっていると全然一生懸命やらないものだからなんにもならないから、お客の前でやる時が、その曲の次の時のための練習だと思っている。お客がいっぱいいると一生懸命に練習ができる、など恐ろしいことを言って笑うのだ。  最初の日の練習がサンサーンスとショパンで、この両方ともぼくはその時までまだ指揮をしたことがなかった。ショパンの一番はさんざんやっていたが、二番の方は、特に二楽章の合わせが難しすぎるので、それまでいつも敬遠していた報いがきたのだった。後悔したがもう遅い。これまで逃げまわっていた曲を、あのルービンシュタインと最初にやるはめになるとは。正直を言うと、前の晩ぼくは完全に一睡もしなかった。徹夜して勉強した。ルービンシュタインがどうルバートしてもついていけるように準備をしたら、夜が明けてしまったのだ。  文化会館の楽屋に朝早く着いて、ぼくはもう一回スコアを睨んでいた。いきなりドアを誰かがノックして、 「マエストロ! グーテン・モルゲン!」  と本当のマエストロが入って来た。  緊張の最初の音合わせが終わって休憩になり、彼はコーヒーを飲みたいと言った。どこかから取り寄せると時間がかかるし、この文化会館の中に食堂がありますが、ガヤガヤしていますよ、と言ったが、そんなことはちっともかまわないと言って、八十歳のルービンシュタインはスタスタ歩き出した。  文化会館の食堂に坐り、周り中の人が尊敬と好奇の入り混じったジロジロの無数の目の矢を注いでいる中で、彼は陽気にしゃべるのだった。始まると止まらない。 「あんたの国はおもしろい国だね。この間の記者会見でビートルズをどう思うかと聞くから、とぼけて、あの車は小さくてガタガタするから、もう何年も乗っていないと言ってやったが、わかっただろうかね」  フォルクスワーゲンは英語圏ではカブト虫、つまりビートルとも言われていたのだ。 「この間もどこかの国で連中とかち合った。大きな会場だったが、わたしの方が千人客が多かった。わたしはビートルズに勝ってしまったよ。あいつらの音楽会にはおまわりが中に千人入っていたのでね。わたしの方にはおまわりがいらなかったから、それだけお客が多かったわけさ、ハハハ……」  その日、ちょうどビートルズが武道館で、あの歴史的な日本での演奏会をやったのだった。その同じ会場で、一週間後に自分の日本での最後の演奏会をやることを、後はちゃんと知っていたのだ。 「イワキさん、カツラを二つ買って来てくれないかな。一週間前の連中と同じ頭のカッコウをして、二人でやらないかね」  そんな冗談ばかりを言っているうちに、休憩が終わりになって、二人して文化会館の客席をテクテク歩いてステージに戻った。  二晩の上野文化会館の演奏会が終わって、いよいよ武道館での練習の日が来た。ああいう大きな会場というのは、いったいどうなっているのだろう。朝の練習のために会場に入った途端に、蚊の大群の猛烈な襲撃を受けたのだ。蚊というのは、汚い水|溜《たま》りがある所にいっぱいいるものだとは知っていたが、読売日響のオーケストラの人たちや、ルービンシュタインやぼくは、楽屋にいても、ドデンと広い武道館の中に特設されたステージに上がっている時も、絶えず蚊にさされたのだ。ベートーヴェンの「皇帝」の練習が始まり、この曲は最初にピアノが豪快なカデンツァの後、相当長い間オーケストラだけの演奏がある。その間中、ほとんど一小節に一回ぐらいの割合で、ぼくの左側のうしろ、つまりピアノのソリストの位置で手を打つ音が聞こえた。それも、小節の第一拍ごとにちゃんとリズムに合って、オーケストラがフォルテの時は大きく、ピアニッシモのところでは柔らかく。そして音源は必ずしも一箇所ではなく、縦、横約一・五メートルの空間を動きまわっていた。最初はなんのことだかわからなかったし、この一週間いつもいっしょにいたとはいえ、やはりルービンシュタインとの練習は常に緊張で、ぼくにはその音の方を振り返る余裕はなかった。それに、ぼく自身は蚊のことを忘れていた。指揮者というものは、いつも手を振りまわしているので、練習を始めてからは、ぼくは蚊にさされることがなかったのだ。ピアノが出てくるちょっと前に、オーケストラを止めて、注文を出した。その時に、ルービンシュタインがピアノの席から立ち上がって、ぼくに近づいた。いつでも嬉しそうな、幸福そのもののトレードマークの顔をしている人だが、あんなにニコニコした顔のルービンシュタインを、その後見たことがない。 「わたしはね、これまでオーケストラの練習の時に、こんなに沢山の蚊をとったことはない。もう三十匹やっつけた」  ピアノを弾き出してからも、ちょっとの休止符の一瞬にも、巨匠は蚊をとり続けた。  その晩の本番は約一万五千のお客だったということだ。真ん中の平土間に並べられた椅子全部と、武道館本来の観客席も、見渡す限りのお客で、もしかしたら、おまわりさんの数だけ、やはりルービンシュタインは、ビートルズに勝ったかもしれない。後で聞いたら一週間前のビートルズ以来、武道館では興行その他がなにもなく、ガランドウのままになっていたそうだ。そういう時に蚊というのは集団発生するものだろうか。  朝の練習の後半、蚊は大分減った。休憩の間に、主催者があわてふためいてステージの周りにDDTだかBHCだかを、まるで雪が積ったように|撒《ま》き散らしたのだった。今はもうその種の薬は、人間への害が強すぎるから禁止されたが、オーケストラの何人かが練習中に気持ちが悪くなったくらいだったのである。ぼくもちょっと吐きっぽくなった。だがおじいさんはびくともしない。この巨匠の体力というか人間力はもうバケモノとしか言いようがない。  後にぼくがメキシコの音楽祭にN響と行って、なにしろ着いた日にもう演奏会だったので、あの有名な空気の薄さに全員がやられたことがある。二千メートル近い高所だから、メキシコオリンピックの時も世界中の選手が、何週間も前に到着して、空気の薄さに慣れようとした所である。ちょうど我々の二日前がルービンシュタインの音楽会だった。入れ違いだったので会えなかったけれど、次に会った時、変になりませんでしたかと尋ねたら、いや、ゼーンゼン、と言っていた。みんなが苦しむ時差なんかも感じないらしい。  武道館の音楽会が終わり、ルービンシュタインの車に若いファンが殺到し、次に続くぼくの車も何百人に囲まれて、これはおそらくどっちの車にルービンシュタインが乗っているかわからなかったからだろうが、狂喜乱舞の若者たちが車の屋根の上に飛び乗って踊り出し、車は何十分も立ち往生で、大変恐かった。この時ばかりはルービンシュタインも、少しお客が減ってもいいから、整理のおまわりさんが欲しかったろう。  何年かたってぼくがハーグのオーケストラの常任をやっていた時、ルービンシュタインに、二日間弾いてもらったことがある。大分以前にこのオーケストラとやった時、その時の指揮者を彼が非常に気に入らず、あのオーケストラとは二度と共演しない、とルービンシュタインが自分のマネージャーに言っていたと聞いていた。例のチューリッヒの音楽会の後のパーティで、ジョージ・セルの奥さんとまちがえてトンチンカンなことを言い出したぼくの足を蹴っ飛ばして、ディナーの後にまた沢山の人が飲んでいるラウンジに歩きながら、ぼくの失敗をゲラゲラ機嫌よくからかうルービンシュタインに、チャンスとばかり頼み込んだ。 「ねえ、先生、ハーグ・フィルは今はぼくがやっているオーケストラだから、いいでしょう? ぼくを助けて下さいよ」  彼は快諾してくれて、何年ぶりかで、ハーグでの彼の演奏会が実現したのだった。  二晩同じプログラムだったが、何かのオーヴァーチュアをぼくがやった後、ショパンの第二協奏曲、休憩があって、ベートーヴェンの「皇帝」だった。この時彼はいくつだったのだろう。最初に会ってからもう数年たっていたのだが、この歳までも彼の音楽は明らかに進歩というか前進を続けていた。音楽がますます偉大になってきた。世界人類史上奇蹟としか思えないことだ。だが、やはり歳は歳で、調子の悪い時には、時に歳を思わせることもぼつぼつ始まっていたし、突然、演奏の途中で忘れてしまったりすることもあるようになってきた。若いバリバリの演奏家だって、時々こんなことをやっているのだから、あたりまえの話だが、八十を過ぎるまではそのようなスキが彼には絶無に近かったことは、世間周知のことだ。  ハーグの音楽会で、ショパンの二楽章の真ん中ぐらいから、何故か彼のピアノがちょっとおかしくなってきた。三楽章に入り、メロメロははっきりわかるようになって、終わった時、彼はお客に深々と頭を下げ、こんな演奏をお聞かせして申し訳ありません、とつぶやいているのをぼくは聞いた。一緒におじぎをしていたから聞こえたのだが、勿論、聴衆にわかった筈はない。お客はこの老巨匠にわれるような拍手を送ったが、ルービンシュタインは楽屋に引っ込んだままで、ステージに再び現われず、そのまま休憩になった。  彼の楽屋に行った。目をつりあげて怒っている。オーケストラの関係者、マネージャーがオロオロしている。ぼくは聞いた。 「マエストロ、何を怒っているのですか。機嫌を直して次のベートーヴェンをやりましょうよ」 「コーヒーを持って来てくれ! 濃いのを五つだ!」  なおも子供のようにわめき続けるルービンシュタインをなだめすかしながら、何を怒っているのかを聞き出した。  彼はその朝起きた時にちょっと風邪気味だったのだそうだ。ルービンシュタインの奥さんはこの日の午後にスペインに飛ぶことになっていた。世界中にいくつかある彼の別荘の一つで、ハーグの音楽会を終えた後、巨匠が休養をとるために、亭主を残して、彼女は、家を片付けに行ったのだ。しかし奥さんは心配でならないから、午後ホテルにお医者さんを呼んでおいた。ルービンシュタインはものすごい医者嫌いである。 「いやがるオレに無理矢理医者を押しつけて、彼女は行ってしまった。その医者というのが、ワシの胸をはだけさせて聴診器をあてた。口をアーンなんかさせやがって、風邪だとなどぬかしやがった。それだけならまだしも、クスリを無理矢理口の中に何錠かおしこんで、行っちまった」  老巨匠は大のクスリ嫌いでもあり、すべてを知っている奥さんは、その夜の音楽会が心配のあまり、前もって医者に耳打ちしておいたらしい。医者に、ふいうちに口に錠剤を入れられた無念さは、よくわかる。風邪グスリには飲んだ後眠くなるのが多い。その眠けとボンヤリが、今のショパンの二楽章の途中から急に出てきたのだそうだ。 「もう離縁じゃ! 医者なんか、みんな世界中死んじまえ! とにかくワシは、永久にもう医者とは口をきかないぞ」  コーヒーが届いた。彼はガブガブコーヒーを飲み始めた。なにしろ濃いのを五杯注文したのだから、我々は心配になって、 「先生、二杯だけにしといたら……」  など一生懸命止めるのだが、言うことをきかない。五杯とも飲んでしまった。 「今日のお客はさっきのメロメロショパンで、もうルービンシュタインもおしまいだと思っているだろう。絶対にワシは|挽回《ばんかい》する。してみせる」  急に彼の顔は輝いて、いつもの赤ん坊のようなツヤツヤの肌の色になった。目も三角でなくなり、いつもの陽気なルービンシュタインになった。そんなに早くコーヒーが効いたとは思えないが、気のせいで老巨匠がこんなに元気になってしまったのにも驚く。朝からほとんど何も食べていないという彼の胃も心配である。  ちょっと長めにしてあった休憩が終わり、ベートーヴェンが始まって、ぼくは驚嘆した。こんなことを口ではよく言えないが、彼はとにかく信じられないほどの最高の演奏をしたのである。急に四十歳ぐらい若返ったような感じだった。コンチェルトが終わり、これだけ名演したのだからもういいだろうと思うのだが、ルービンシュタインは五曲もアンコールを弾いた。それも、「小犬のワルツ」なんかのような短い曲ではない。「英雄ポロネーズ」のような長い大曲を、何曲も何曲も弾くのだった。彼がアンコールを弾いている間、ぼくはステージの横で息を殺していた。一曲弾いて戻ってくる。客席のブラボーの声はますます高くなる。彼はステージに戻ってゆく。往復のたびに、 「今度は何を弾こうか。何がいいと思う?」  なんていいながらステージに戻り、次のアンコール曲を弾くつもりでピアノの前に坐って、それからしばらく考えたりしている。そんじょそこらのピアニストなら、音楽会で弾くであろうアンコール曲を、前もって用意し、練習しておくものだが、彼は自分の無数の引き出しから咄嗟に引き出して、弾き始めるらしい。  もう今度が五曲めのアンコールという時、マネージャーが舞台のソデで頼み込んで、彼にオーバーを着せた。オーバーを着込んだ彼が又ステージに出て行く。これでもうおしまいというゼスチュアをしたが、お客は承知しない。そこでオーバーを着たまま彼はショパンの「ノクターン」を静かに弾き始めた。もうこの時彼は八十代の半ばなのだ。こういうシーンがあと何年見られるだろうかと思うと、ぼくはどうしても泣けてくるのだった。  やっと音楽会が終わって、オレは見事に挽回したぞ、と上機嫌のルービンシュタインを囲んで、ハーグの一番おいしいフランス料理屋で関係者のパーティをやった。上機嫌の彼のしゃべること、しゃべること。それよりも、その食べっぷりにも、いつものことながらあきれるのだ。  彼はいつも極上のハバナの葉巻を持っている。胸のポケットに必ず三本入っている。その時は、キューバで演奏した後、カストロ首相が贈ってくれた、とかのを持っていて、「ルービンシュタイン」と名付けられたものだった。アメリカはキューバに禁輸措置をとっている。だが、カストロ首相がルービンシュタインのアメリカの家に、定期的に贈ってくるこの葉巻だけは、アメリカ政府は黙認しているのだそうだ。  一応の節制をしているつもりなのか、彼は夕食の後に一本か二本の葉巻をくゆらすだけである。それが又嬉しそうに、楽しそうにくゆらすのだ。ぼくはルービンシュタインの葉巻の弟子でもある。吸い口の切り方、火のつけ方、ちょっと乾きすぎている時にそっと|嘗《な》めるやり方、くゆらせ方のすべてを、ぼくは彼に習ったのだ。ただし、胸の三本の葉巻は、よほど機嫌のいい時でないとくれない。  この晩の上機嫌さなら、「ルービンシュタイン」をくれるのはまちがいないだろう。テーブルの彼の正面にいたぼくは、そっと立ち上がって彼の後にまわり、後から手をのばして、彼の胸のポケットから一本盗んだ。みんなに昔話をしているルービンシュタインは、気がつかない。ぼくは席に戻って、葉巻を高くさしあげ、ヘッヘッヘとルービンシュタインの目の前に突き出した。大笑いになり、 「こういうめにいつも|遇《あ》うから、この男と音楽会をやる時、わたしはいつもより多めの葉巻を用意してくるのだ」  たちまち葉巻の吸い方の楽しいレッスンが再び始まった。  ルービンシュタインは、もう九十を越えた。二年ほど前に目が完全に不自由になって、公開の演奏から引退した。世界中の音楽ファンを、いつも幸福にさせていた何十年の演奏生活だったが、戦後はドイツとオーストリーにだけは、ついに絶対に行かなかった。ユダヤ人として決してナチスを許さなかった。何人かの肉親が虐殺されたこと、及びとにかくナチスの思想と政治を許さなかった。世界的な音楽家では前にも書いたが、アイザック・スターンとルービンシュタインの二人がこの姿勢を最後までくずさない。  ルービンシュタインは、今は主にパリに住んでいるが、ぼくはパリに行くたびに悩む。彼の住所も電話番号もぼくは持っている。訪ねて行ったら喜んでくれるだろう。なつかしがってくれるだろう。だがこれがぼくの日本人的なところなのか、東洋人的なところなのか、今は目が不自由になって、自分だけのために時々ピアノを弾いたり、回想録を口述したりして静かに暮している老巨匠を、そっとしておいてあげたいという気持ちがある。本当は行くべきなのだ。ルービンシュタインは、だが、恐ろしくおしゃれな人でもあった。今の今までダンディを通している。ぼくをかわいがってくれた大恩人が、不自由になった自分を人に見せるのが、もしかしたら苦痛であるかもしれないという気持ちがぼくにはある。あともうちょっとで百歳なのだ。やっぱり訪問しよう、いや遠慮しようと思い迷いながら時が過ぎてゆく。  あ と が き  あとがきを一番最後に読む人もいらっしゃるかもしれないが、ぼくには、どの本を読む時もあとがきの方を先に読んでしまう癖がある。これは、読書法としてはよいことなのか、悪いことなのか。どっちでもよいことだろうが、自分の癖に従って、この本をお読みになる方が、このあとがきからスタートするであろうことを前提として今これを書き始めている。  この「棒ふりのカフェテラス」は、一九七九年の一月から八〇年の十二月まで二年間、雑誌「ミセス」に「ドレミファ交友録」というタイトルで連載したものである。アルファベットの数は二十六あり、二年間の連載は二十四回ということで「P」と「Q」を一回に、「X」と「Z」をひとつにというふうに、つじつまを合わせて、合計二十六人の人々のことを書いた。イニシャルによっては、書きたいと思う人がどうしても見つからず、たとえば「I」のように、自分のことを書いて、その月の義務を果たしたこともあったし、もっとも、たいていの場合は、たくさんの候補がありすぎて、どの人にしようかと迷ったことの方が多かった。特に困ったのは「R」で、一応雑誌の時にはリヒテルのことを書き、この本にする時に特別番外として、ルービンシュタインの章をつけ加えた。ルービンシュタインはぼくの心の中で、世界中のすべての音楽家中、別格官幣大社であり、雑誌のための、アルファベット一つにつき四百字十二枚という制約の中では彼のことを書きたくなかったのだ。だから、書き下ろしとして書きたいだけ書いてしまった。  本来、ぼくは音楽のことを書くのが好きでない。昔から演奏家や作曲家の方々が音楽について書いた本を読むたびに、いつも得るところが多くあるにせよ、どうも専門家が専門のことを書くのは、専門そのものの論文的なもので勉強するのを除いては、なにかちょっとうさんくさい気持ちがして、というより、ちょっぴりテレクサクなってしまうのだ。というわけで、この「棒ふりのカフェテラス」を出すのは、どうも矛盾したことになる。なんとも恥ずかしい。  お読みになればわかることだろうけれど、登場したぼく自身を含めての二十七人の音楽家について、その人のことを書いたのではなかったような気がする。つまり、その人とぼくとのこと、あるいはぼくとその人のことを書きつらねたわけで、結局は自分自身のここ二十年近くの歴史を、たくさんの音楽家を通じて書き|綴《つづ》った、ということになるかもしれない。  白状してしまうと、「U」の項の「ハンス・ウルリッヒ」は架空の人物である。外国の名前には姓が「U」で始まる名前がわりと少ない。もしいたとしても、ぼく自身と、心に残るなんらかの接触があった音楽家がどうも見付からなかった。日本人の音楽家の場合、外国に比べて「U」のイニシャルは多いのだが、書きたいと思う人がでてこなくて、最も悩んだ章だった。ちょうどその頃、ぼくは生まれて初めて小説というものを書いた。「ぼく」という指揮者が自分の家の屋上に牛を飼うという、なんとなく本当らしくて、実は全部ウソッパチというナンセンスなのを書いたのだが、初めて書くウソッパチがおもしろくなって、どうしても「U」が見つからないのを幸い、悪のりしてしまった。ハンス・ウルリッヒのモデルになった人物は、確かにぼくが関係していた西独のバンベルグ交響楽団のバイオリン奏者の中にいた。同時に出てくるNHK交響楽団の亀井さんは、正真正銘の実在の人物である。実際にぼくがバンベルグのカメヤンと言っていた人物のイニシャルは「U」ではなかった筈だが、とにかく、ぼくはその人物の名前を全く忘れていたので、もっともらしい名前を作ってしまったのだ。この人のような、オーケストラの中でのよい意味での下士官的存在の理想像を、名前を失念したこの音楽家の実像を借りて書いたのだ。世界中のどのオーケストラにも必ずいるこういった人物のキャラクターを全部総合してしまったのが、ハンス・ウルリッヒである。  他の二十六人については、すべて本当のことを書いた。もちろん伝記ではないし、あくまでぼくから見たその人物のことだったり、その人から自分が得た人間的、あるいは音楽的影響を書いたのだから、そこは偏見自在、細かく調べていったら、きっと無数の事実との相違があるに違いない。だがそれはウソということではない。ぼくの心の中での本当のことなのだ。  ABC順に二十六人の人とのことについて書こうとした時、一応は最初に二十六人の全部のリストを作っておいて、|緻密《ちみつ》なプランをたてておいてから、出発しようと思った。だが結局は、まるで滅茶苦茶で、毎月毎月の原稿締切のデッドラインのその日まで、誰を書くかを決められなかった。始める前に、有名な人、別に名前があるわけではない人、日本人、外国人等のバランスをとって書くつもりだったが、結局は毎月毎月の苦しまぎれのあげくに、デッチアゲたのだから、そんな方針を実行するのは不可能だった。でも全部終わってみると、ちょっとばかり自画自讃になるけれど、案外よいバランスになったように思う。  書きたい人がたくさんいるアルファベットの場合も、非常に困った。一文字につき一人を厳守したかったので、どうしても一回に一人でなければならなかった。だから書きそびれた人たちができてしまい、しかし、よく雑誌等がやるような「日本の百人」のようなものではないのだから、まあ、いいだろう。ぼくがその人のおかげで育ったような人、つまり大恩人とか、その逆に、ぼくがその人のデビューのためのなんらかの手伝いをした、というような関係の人は省いた。あくまで、なんのこともないような淡い出来事が二人の間にあった人に限った。  書きそびれた最大の人は、有馬大五郎先生だった。N響の育ての親でもあり、タイコをたたいていたぼくを、何故かいきなり、指揮者になる気はないかと、N響の指揮研究員にしてしまい、その後の今日までのぼくの音楽家としての行動全部のあと押し役でもあり、監督でもあり、こわいこわいオヤジでもあった。有馬先生のことを書くと、恩になったことばかりになってしまいそうで、おもしろおかしく無責任であるべきぼくの交友録にはならなくなる。連載が「W」になった頃、先生は大往生なさった。ぼくは日本にいなかったので、葬式にも出られず、なんともやりきれない気持ちだったが、ちょうど日本に来ていたウィーン・フィルハーモニーがN響といっしょに告別式で合同演奏をし、日本の音楽関係者の中では、歴史的な葬式だったと、電話で聞いていた。  連載二十四回分の、四百字詰原稿用紙二百八十八枚は一冊の本には不足で、何人分かを書き足してこの本にしようと思っていた。有馬先生の大往生を知って、非常に申し訳ないことだが、これはチャンスだと思ったのだ。あんなこわい先生が読むかと思うとすくんでしまい、それが連載の第一回の「A」を有馬先生にしなかった理由でもあった。「読みましたで。音楽家は音楽以外の余計なことをするのはやめなはれ」とおこられるのがわかりきっていたし、先生の前でぼくが小さくなって直立不動になり、「ハッ」と最敬礼をする情景が目に浮かんで「A」を逃げてしまったのだった。だがもうこわいオヤジはいなくなった。怒られたらどうしようなど、想像しただけで身が縮むような存在がいなくなった。本にする時に「有馬大五郎」を書き足そうと、それこそ不敬極まりないけれど、勇みたったのだ。  だが恐ろしいオヤジがいなくなり、もう誰にも遠慮しなくていいと思うようになることは、乃木大将のように殉死したくなるようなくらい、寂しい、哀しい、空虚が続くことだった。二十六人の有名、無名、洋の東西を問わない音楽関係者とのことを、おもしろおかしく無責任に書きつらねて一冊にするつもりのこの本には、ぼくの痛切な哀悼の気持ちや、どれほど自分が育ててもらったかの事実を書き綴るのは、どうも合わないような気がした。有馬先生が日本の音楽界をつくりあげた、この五十年の偉大さを、ぼくは別の機会に一冊の本にしたいと思っている。  他にも書きそびれた人はたくさんあり、石井真木君もその一人である。外国の電話帳を捜しまわって、「I」を思い出そうと徹夜したり、日本の「I」にはどうも書きたい気が起こるようなオモシロイのがいなくて、窮余の一策に、自分のことを書いたわけだが、書きあげた後で、アッ、と気がついた。何故石井真木君を思い出さなかったのだろう。ぼくが指揮する音楽会のうち、特に外国では、年間のプログラムの中の三分の一ぐらいの回数の音楽会で、ぼくは彼の曲を指揮している。同じくらいの割合で武満徹さんの音楽もやっているが、要するに、ぼくはこの日本を代表する二人の作曲家の創作活動のおかげで、よその国で日本の音楽家としての正式なパスポートを持つことが出来ている。武満さんはぼくよりちょっと歳上で、先輩ということもあるし、彼の作品に対する感動と尊敬を通じて、親しい中にも常にこちら側には畏敬の念があり、それが程良い距離になって、「T」の章は、初めから武満さんに決めていた。ところが石井真木君とぼくはあまりにも親しすぎ、近すぎたのだ。彼の曲のおかげで、ぼくは指揮者として食っているのかもしれないが、いっしょにいる時は、ただ飲み、騒ぎ、酔っぱらってイタズラの競争をやり、翌日は昨夜のことをケロリと忘れて、又飲んだくれて、同じバカ騒ぎをやっている仲である。どうもぼくは、「マキさん」の姓が石井だということをさっぱり忘れていたようである。  同じ近くても、山本直純のこととなると、これはもうあまりにも近すぎて、だから、ABC……を始める前から「Y」は決まっていた。ナオズミのことを書こうと思い、それがこの交友録をやり出すきっかけになったのだ。まだ「Y」までに二年あるか、といつも待ち遠しかったものである。彼のことは書き出したらきりがなくて、文中にあるように二人とも滅茶苦茶のことをいつもやってきたが、同じ事柄について書くのでも、彼が書けば又全然別の見方になる筈である。そんな気がナオズミにあるなら、ひとつの事柄が常に二つの面から語られて、さぞ面白いだろう。向こうも出せばいい。そうしたら狐狸庵先生とドクトルマンボウの関係の如く、両方バカバカ印税がかせげるかもしれないではないか。だがああいうベストセラー、人気バカ話の交換ゴッコが、印税大収入のビッグビジネスに直接つながっているように見えるのは、本当はお二人共相当テレクサイのではあるまいか。テレクサイからますます狐狸庵・マンボウのやりとりは続いて行く。一作ごとにぼくは買って来て、ゲラゲラ笑いながら、テヤンデー、てめえら同士の話でカセギやがって、とヒガムのである。ナオズミとぼくとでは、活字に関しては商売にはなるまいが、以上のようなヘンな理由で、ナオズミを四百字十二枚だけに押し込めてしまった。今後、ナオズミのことはもう書くまいと思う。彼とのことは、いわばぼくの青春そのものであり、大事にしまっておきたい気がする。  このような形の本に共通の欠点、あるいは欠陥を、ぼくはとても感じてしまう。どうも、「ちょっといい話」ばかりになってしまった気がする。二十七人中の全員と、もちろんぼくは知り合いで、そのうちのほとんどは活躍中の人たちである。つまり存命中なのだ。半分ぐらいは外国人だけれど、今の世界は狭くて、誰がどこで何語に書いても、本人に知れないという保証は何もない。恐ろしい世の中になった。それに、こんな連載を書いているというぼくの話を聞いて、英訳して出版したいと言ってきている某国の出版社もあるのだ。だから、どうしても「ちょっといい話」の一冊になってしまった気がする。誤解のないように言っておくが、この本で書いた二十七人については、書こうと思っても「ちょっと悪い話」はないだろう。つまり、ぼくが好きな人たち、ぼくを嬉しくさせてくれた人たちばかりを選んだということになる。「悪口交友録」なんてものが自由自在に書けたら、どんなにおもしろいだろう。この本にあげた二十七人以外に、大袈裟に言うと、世界中でぼくの知り合いの音楽家及び音楽関係者が五千人はいるとして、五千マイナス二十七──四千九百七十三人の中には、ABC二十六人ぐらいの「悪口交友録」にあたる人々がいるかもしれない。だがこれは、ぼくが商売替えをするとか、死後五十年後に出版せよというような形式でなければ出せないだろうし、でも悪口ABC……二十六人というのは「ちょっといい話二十六人」の何十倍も難しいだろう。つまり、二十六人もいないかもしれないからだ。結局は、ぼくは誰も彼もたいていの人を好きであるらしく、恐らく「ちょっと悪い話」を書いたにしても、一人当たり十二枚はもたないだろうと思う。 「A」を有馬先生から逃げたと書いたけれど、といってマルタ・アルゲリッチで誤魔化したわけではない。彼女はぼくの一番好きなピアニストの一人で、もちろんピアノだけのことではなく、人間が好きだし、それにお互い、何故かウマが合うという仲なのである。  彼女のことを書いて、これが第一回だったのだが、雑誌にのったその翌月に、ぼくはミュンヘンで彼女といっしょに音楽会をやった。本文にここしばらく一緒に演奏していない、と書いたが、これは本当のことだった。だが、来月久しぶりに彼女との音楽会がある、と書くのはなんだかつまらないような気がして、そのことには触れなかった。我々の仕事は大体二年先ぐらいまですべて契約書で決まっているから、雑誌に「A」が載った翌月に、偶然、彼女との音楽会があったわけではない。  ミュンヘン・フィルハーモニーとの音楽会で、彼女はラヴェルのピアノ協奏曲を弾いた。本番の前の日の朝に、マルタはオーケストラとの練習に来るはずだったのだが、都合でどうしても来れない、という知らせがあった。そんなことはよくあることだ。だが、その日の夕方の練習にも、彼女は現われなかった。彼女のマネージャーからミュンヘン・フィルハーモニーに金切り声の電話がかかってきた。彼女はスイスのベルンに住んでいるのだが、昨夜予定通りにミュンヘンに飛ぶつもりで、飛行場に行き、ハンドバッグに入っているはずのパスポートを出そうとして、忘れて来たことに気がついたのだそうだ。家にとって返した。それが今朝の練習に来れなかった理由だ。そして家でパスポートを捜しまわった。ない。見つからないのだ。紛失したらしい。世界中、パスポートの紛失には、特にやかましくて、これは、赤軍派とかゲリラたちが人のパスポートを改造して潜入するのを防ぐためである。彼女のパスポートが|盗《と》られたとする。彼女の現在の国籍がスイスかどうかはっきり知らないが、その場合、スイスの外務省が世界のあらゆる国の外務省に彼女のパスポートナンバーを知らせ、それぞれの外務省が在外公館に通達して、紛失した彼女のパスポートが世界中で完全に通用しなくなって初めて、新しいパスポートの交付がある。こんなに大変なことなのだ。再発行には、最低一週間ぐらいは、どうやってもかかることになる。  翌日の朝、つまり本番の日の最終リハーサルにも彼女は来れなかった。パスポートなしではスイスから出られないし、隣の国のドイツに入国が出来ない。その夜の音楽会に彼女が来て弾くことも、ほとんど絶望的だった。それに備えて、別のベートーヴェンの短いシンフォニーをぼくたちは練習した。ただ、万が一にも彼女が夕方ミュンヘンに来れた場合を想定して、ラヴェルのピアノ協奏曲のオーケストラだけの練習もちゃんとやった。そして夜八時が音楽会の開始時間なのだが、アルゲリッチが到着した時のために、オーケストラは六時に会場に集合することにした。  そして、その六時に、彼女は飛び込んで来た。スイス、ドイツ両国政府の難しいが緊急のやりとりがあって、この音楽会のために、パスポートのかわりの特別の公式の紙切れ一枚で、ミュンヘンに来ることができたのだ。そのかわり、三日間のミュンヘンの演奏が終わったら、その紙っ切れでスイスの自宅に戻ること、その後は正式なパスポートの再発行まで自宅でおとなしくしていること、という条件の両国の好意的な処置だった。  そういえばなんとなく思い出した、と彼女は言った。二週間程前にベルンの自宅に戻った時、机の上に放り出したハンドバッグから、彼女の幼い子供がパスポートを引っ張り出しておもちゃにしていたので、青くなってとりあげ、子供には絶対に見つからない、どこかに隠したのだそうだ。 「それがどこだかが、どうしても思い出せないのよ」  家中なにもかもひっくり返して火事場の騒ぎだったらしいが、とにかく来れてよかった。それこそ久しぶりの彼女とのコンチェルトは実に楽しかったし、アルゲリッチのラヴェルは、相変わらず世界の最高級のすばらしさだった。  初日の本番のあと、いっしょにごはんを食べた。彼女は自分の弟子の一人を、付け人のように連れて来ていた。日本人の女の子で、ドイツ語もかなり上手なようだった。 「マルタのことを書いちまったから、今晩ドイツ語に訳して聞かせてあげて下さい」  とその女の子に言って、マルタには何が書かれていても怒らぬことを、約束させた。  翌日の夜会場に行ったら、彼女がぼくの楽屋に入って来た。 「書いたわね! よくも書いたわね! 読んだわよ!」  彼女はぼくにつかみかかろうとし、狭い部屋の中をぼくたちは鬼ゴッコのように走りまわった。もちろん彼女は怒っていなかった。二人ともゲラゲラ笑いどおしの鬼ゴッコだった。 「言っとくけどね、わたしはね、あんなモノを、今はもう、ハンドバッグに入れていないのよ」  その晩も音楽会のあと、また楽しい食事をした。  彼女の場合のように、こちらから積極的に書いた当の相手に読んでくれと言った例は、他にない。ぼくが連載に書いた二十六人は、外国の音楽家たちはもちろんのことだが、日本の音楽家の方々が、部数百万部を越えるという雑誌「ミセス」の愛読者であることは、まず絶対にないだろうと思う。ほとんど男を書いたけれど、唯一の例外の中村紘子さんだって「ミセス」を読んではいないだろう。おかげで今まで知らんぷりをしてこれたが、本になった以上、書かせていただいた二十七人の方々にお贈りしなければならない。これから二十七人の誰に会っても、「書いたな!」「書いたわね!」の鬼ゴッコをすることになるのだろうか。  スイスのチューリッヒで、仕事の合間にこの本のゲラを直しているのだが、二つのことがおこった。  Gの項のジョージ・ゲイバーが手紙をくれた。彼は今、アメリカのインディアナポリス大学の音楽科の教授をしているのだが、同じ大学の教授でチェリストの堤剛氏夫人に、雑誌「ミセス」のコピーをもらったのだそうだ。まだ全部を訳してもらっていないということで、だがあんな昔のことをよく覚えていて、日本の大きなマガジンに書いてくれた、あなたの友情に感謝する、とあった。手紙はヨーロッパ、オーストラリア、日本と転送されていて、こういう時は船便になってしまうことが多く、実に一年以上も地球上を船でウロウロして、ぼくのところに着いたのだった。ぼくは彼がどこに居るかを知らなかったし、実は生死のほどもわからなかったのだ。日本の雑誌に書いたすぐあとで、書かれた本人が知ってしまっているなんて、世界は本当に狭いと感心した。  もうひとつは、昨日偶然に、ルービンシュタインがここチューリッヒの山の上のホテルで休養しているというのを聞いて、丁度今、訪問して帰って来たところ、という事件だ。今現在、一九八一年二月二十五日の深夜である。  数年ぶりに会う巨匠は、とても小さなおじいさんになっていた。昨年大きな長い手術を二度もやったとかで、両手首の点滴のあとが痛々しかった。 「わしは九十四歳だが、まあ、あんたもこの歳になったらわかるだろう。こうやって目も見えなくなって、じっと暮しているのも、良くも悪くもないってことかな」  さびしい冗談を言った。  丁度持っていた彼の自伝にサインをしてもらった。to Mr. IWAKI と書きながら、 「ね、めくらになったので手さぐりで書いているんだ。のろいだろ」  と言われても|相槌《あいづち》が打てなかった。物事をなんでも楽しそうに話そうとするルービンシュタイン気質は、全然変わっていなかった。自分の名前のサインだけは鮮やかに速く、そして昔の書体と全く同じだった。驚いたのは、25.2.81 と日付けをすらすら書いたことだ。ぼくなどは、いつもそばの人に、今日は何日だっけ? と聞かなければ書けないのだが。  三十分程で帰らなければならなかった。ルービンシュタインの身体のコンディションのために、夕方の六時に会いに行ったのだが、八時十五分からぼくの音楽会が始まるのだ。さよならの握手をして初めて気が付いた。彼の横に坐り、巨匠の手をとってしゃべっていたので見えなかったのだが、ルービンシュタインがちょこんと小さく坐っているソファのうしろの棚に、沢山の一種類のクッキーの缶が、山ほど積んであった。  ドアをしめる時に、もう一度おじいさんの顔を目に焼きつけようとしっかり彼を見ようとしたのだが、ぼくにはもう彼がかすんで見えなかった。話をしている間中、ぼくは何度もハンカチで顔を拭いたのだったが、目の見えなくなったルービンシュタインが、冬なのになんて汗かきなんだろうと思ってくれていたら、と思う。 「先生のことを沢山書いちゃったから、本になったら送ります。誰か日本の人に訳してもらって下さい」  と言って来たが、そういうことになったどなたかにお願いする。このあとがきの内容は、聞かせてあげないで下さい。 『ミセス』昭和五十四年一月〜五十五年十二月 原題『ドレミファ交友録』 昭和五十六年五月文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 昭和六十一年五月二十五日刊