[#表紙(表紙.jpg)] 岩井志麻子 恋愛詐欺師 目 次  罰当たりの花園  恋愛詐欺師  夢見る終末  鳥の中の籠  淫らな夏風邪  満ち足りた廃墟  溺れた姉の春  悦楽越南物語  酷薄な天国  華やぐ末路  兎を飼う部屋 [#改ページ]    罰当たりの花園  いつか罰《ばち》が当たるよ。それは誰が誰に向かって言うべき言葉か。  自分を捨てて逃げた親や男に向かって千春《ちはる》が言うべきか。いや、その言葉は千春をなんとか普通のお嬢さんに育てあげようと苦労した祖母の口癖だった。  ばあちゃん、ごめん。流れ流れて千春はすぐヤラセるヤラれるそこいらの女から、それを生業《なりわい》とする風俗嬢になり、ついには経営者の側に辿《たど》り着いてしまった。  そのデリバリーヘルスP※※に集まる女達は、天罰なんて恐れもしない。そもそも悪い事をしているという気持ちなどないのだ。そのあっけらかんぶりは羨ましい。 「いい子にしてないと、男に騙されてもてあそばれるよ。いい子にしてないとちゃんとした所にお嫁に行けないよ。それが天罰っていうんだよ。……これ、死んだばあちゃんの口癖。もう、見事に天罰当たってるよ。いい子にしてたのに変ねぇ」  そう嘆く千春は今でも充分現役で通用するやつれた美人だが、遣手婆《やりてばばあ》に徹している。デリヘルだデートクラブだホテトルだと呼び名は様々だが、要は女を男の部屋に電話一本で宅配する商売だ。千春ママがデリヘルと言っているから、P※※はデリヘルでいいのねぇと、これまた所属する女の子達は投げ遣りに素直に受け入れている。  実にあっけなく女達は確保できる、と千春はこれも嘆く。あっけなく来てあっけなく仕事をしてあっけなく去っていく女達は、逞《たくま》しい精神力のもとに天も人も舐めていた。  壁紙から家具から女まで、すべてが安いこの部屋。金が欲しいか刺激が欲しいかに二分される女達。千春はもしかしたら、ばあちゃんの口癖であり呪《まじな》いであった天罰のシステムを確かめたいのかもしれない。この子達に本当に天罰は下るのか、と。 「生きてること自体が罰かも。なあんて、別に変な新興宗教にハマってやしないけど」  正面から煙を吹きつけてやりながら、千春は唇だけで笑う。はぁ? それに対して女が眉を顰《ひそ》めたのは、煙草の煙のせいだった。ちゃちなガラステーブルの前に窮屈そうに座った女は、受け答えに半音ずれる。極端に短い爪と今時珍しいガタガタの歯並びと、妊婦と見紛う下腹を突き出した女は、�異色の志願者�だった。 「フェミニズムを研究しています。いずれ大学院にも進みます」  と、冗談でも寝言でもなしに開口一番言い放ったのだ。第一印象はデブのブス。身も蓋もない表現だが仕方ない。  せせこましいP※※の1DKの事務所。入ってすぐのフローリングの部屋の方が、電話の応対や面接等を行なう場所であり、女達がだらしなく寝そべったり煙草を吸ったりしている奥の畳の間が待機場所だ。今そこにいる三人は、遠慮なく吹き出した。  新入りには刺すような敵意の視線を送るか無遠慮に観察しまくる女達なのに、その女に対してはニヤニヤと目配せを交わすだけだ。国立の受験に失敗して地元の名門女子大に在学中という自己紹介に嘘はないようだが、まったくもってソレガドウシタ。ここで一目置かれるのは、病気や監禁といったヤバいカードを引かずに効率よく金と男をあしらえる女が第一で、第二は客がドアを開けた途端に延長を考える美人だ。  間違いなくこの女は、即座にチェンジ要求で追い返されるか、本物の変態に当たって半殺しにされるかのどちらかだ。 「馬場弘恵《ばばひろえ》さんだっけ。まさかとは思うけど処女ではないよね?」  千春は電話番を三枝子《みえこ》にまかせ、一応テーブルを挟んで面接を始めた。ちなみに三枝子はもしその弘恵を採用すれば、チェンジ率No.1を返上できるはずの猛烈な腋臭《わきが》と歯槽膿漏《しそうのうろう》の大女だ。それでも控え目でしっかりしているから、雑用係としては重宝なので置いてやっている。  その質問を受けるなり、弘恵はニンマリした。まさにニンマリ。はい、私はちゃんと人間の男を勃起させられます! という誇りと喜びに満ち満ちた笑顔は、大抵の脅しには慣れた千春ですら青ざめさせた。 「私、同年代の男はバカにしか見えません。女を外見だけで判断するし、流行《はや》り物と車と女の話しかできない。だから私、年配の男性と付き合うんです。あの人達は少なくとも女に内面があることくらいはわかってますもの。え? 知り合う方法? テレクラです」  聞き耳を立てていた女達が一斉に吹き出したのも、この弘恵には感嘆のどよめきに聞こえたのか。自身が語る弘恵は、見る目のある男にだけ選ばれる孤高のいい女だ。千春はそれだけですべてを謎解きした。  つまりこの女子大生は、合コン等では若い男に徹底的に無視される。それは当然だ。自分が男でも、そこここにいる新人歌手もどきAV女優もどき良家の令嬢もどき普通の女の子もどきを選ぶだろう。一夜限りだろうが結婚前提だろうが、屈折も屈託もない可愛げのある女がいいに決まっている。  ところが弘恵には、それが不当な仕打ちとなる。相手が王子様でなく下賤な下郎でも、馬鹿な友達ばっかりチヤホヤするのが許せないという憤りは、月面宙返りみたいな勘違いを着地させた。女にも内面がある、どころではなく、ある意味切羽詰まったオヤジのうち、高いクラブの高い女や派手なキャバクラの派手な女の中から選ぶ度胸を持ち合わせないのが、コストは低いがリスクは高い見知らぬ女に電話をかける。  そんなオヤジの数人に|モテた《ヽヽヽ》弘恵は、まさにあっけなく舞い上がったのだ。私はちゃんと欲望の対象になれる女なんだ、と。そんなオヤジもまた自己評価が低いから、チャラチャラしたそこらの女に比べて君はちょっと違うとかなんとか、ベタな誉め方をするのだ。弘恵が真に求めるのは、チャラチャラしたそこらの女になることなのに。  だが、そのまますぐ高級クラブや高級ソープで稼げるとまで血迷わないところが、皮肉でなく名門女子大生だけのことはある。心の片隅には、自分は選考の末に選ばれる女ではないという自覚はあるのだ。  そこで選んだのがここだ。男は偉そうに、大勢の女の中から選んだりはしない。余程の理由がなければ、あてがわれた女を拒絶しないしできないのだ。あらかじめ自分は選ばれることが保証される。つまり傷つくことを回避できるだけでなく、上位に立つ錯覚も得られるのだ。  そこまで絵解きした千春は、はっきりと憐憫を抱いた。何だかんだ言っても、しょせん女は狭い世界でお姫様になりたいんだなぁ、と己れを振り返ってみもする。 「稼ぎはまるで期待できないけど、そこまで女を売りに出したいなら協力しなければならないかもね」  との呟《つぶや》きは胸の内だけに留めておいて、採用を決めた。  男に買われる、否、求められる自分が欲しい弘恵は、こうして異色のデリヘル嬢となった。何から取ったか千春にはわからないが、弘恵はローザなる源氏名まで用意していた。  まあ、デブ専は珍しくもないし、ブスのほうがいやらしくていいと要望する客も何人かいた。ちょうど今電話をかけてきた男も、どうやらぽっちゃりタイプがいいと告げたらしい。三枝子はそつなく受け答えをした。 「たった今入った新人さんがいますよ。純情可憐な名門女子大生ローザちゃんです。二時間コースでいいですか?」  弘恵は、上気した頬でうなずく。純情可憐な私が男に熱望されているわ、と。千春は料金とか、部屋に入ったらいつ電話してくるかなど、手短かに説明した。弘恵は試験会場にでも赴くような生真面目な面持ちになり、股間に塗るローションを持つと指定された部屋へ出向いていった。  たちまち待機中の女達が心ゆくまで笑いころげた。 「腹もスゲェ。客もナニが三十センチなきゃ肝心な所に届かないよ」 「確か吉田のオヤジがデブ専、細井センセイがブス好きだよ。回してやればぁ?」  ここにいない女の悪口を言い合う時だけ仲良しのふりをして連帯する辺りは、普通のOLや女子高校生と同じだ。千春だっていない所では散々なもんだろうが、別に気にはならない。稼いできてくれればそれでいい。 「ね、賭けようよ。あのデブいつ帰ってくると思う? あたしは三十分後! 気弱っぽい客なんだよね? チェンジはできない。ヤルだけヤッたら帰れ、だわ」 「嘘。あの顔見ただけでフニャけるわ。十分後に帰ってくる」 「う〜ん、一応通常コースはこなすかなぁ。とすると……」 「あのテの女は変態ウケするんだよ。あたしは大穴狙いで翌朝」  全員茶髪で全員眉を描いていて全員お金第一主義者だが、こういう賭けとなるとさすがに意見は分れる。千春だけが少し離れた所で苦笑していた。  ……結局弘恵は、言い出しっぺの浩子《ひろこ》を儲けさせてくれた。男の部屋との往復時間を除けば、実質十分で帰らされたのだ。  憤然と五千円を差し出したのを見れば、ちゃんと交渉は持ったのだろう。ちょうどその時は他の女は全員出払っていて、千春だけだった。 「申し訳ありませんが、今日はこれで帰らせていただけますか」  唯一敬語を使える女というキャッチフレーズが浮かんだが、価値ゼロだ。唯一ゴム無しでできる女、唯一ソープ並みの技を持つ女というのは、指名率No.1を競いあっているのだが。 「なぁに、そんな疲れたの? それとも変な目にあわされた? ヤバい時の暗号も教えておいたよね」  口先だけで千春が心配そうに声をかけてやると、物凄い三白眼で睨みつけてきた。憎悪の対象はさっきの客だとわかっていても、思わず腰が泳いでしまったほどの凄まじさだ。 「男は買った女にも無料の女にも、偉くないのに偉ぶりますね」  要は、客がチヤホヤしてくれなかったということだ。自分だって、買ってくれた男にも買ってくれない男にも、可愛くないのに可愛いぶるくせに。 「この商売、偉そうにされてナンボよ。こっちには後ろ暗さを換金できる突き抜けた明るさが要るの。できないんなら……今日限りにする?」  千春が突き放した笑顔を向けると、 「考えておきます」  弘恵は低く答え、それでもしっかり自分の取り分を持って帰っていった。自己の正当化に死に物狂いなのは犯罪者だけかと思っていたが、すべての人間がそうらしい。  ──翌日もその翌日も弘恵はちゃんと出てきた。 「ババはつかまされるもんじゃなくて、こっちから引くもんなんすね」  ひっそりと三枝子が囁き、なかなかうまいこと言うじゃない、と千春は笑う。しかし電話番が主になってしまった三枝子が気弱そうな一見《いちげん》客は弘恵に回すため、ちゃっかり一日に二人は取れるようになったローザちゃんなのだった。  一応育ちはいいから、他の女達をあからさまに見下したりはしないが、待機中ずっと小難しい本を読んだりレポートを書いていたりするため、当然浮いた存在ではある。ただ苛《いじ》められはしない。商売敵にならない女に、女は優しい。  そうしていつの間にか弘恵が異色の、ではなく地味なデリヘル嬢として定着してしまった頃、懐かしくもあり胸糞悪くもある客が来た。千春が以前、現役の風俗嬢だった頃に三度ばかり出たことがあるローカル局の深夜番組。そこのADの奥山《おくやま》クンだ。 「よくある特集だけどさ、フーゾクの女の子と良識ある主婦との対決、いや、対話を撮りたいんだ」  一度だけ寝たことがある。ベッドの中では正気に戻るのか、普段の薬物中毒ノリの陽気さは消え、黙々と苦行のように腰を動かす奴だった。 「出たがり口達者の主婦は即確保できたんだけど、ズバズバそれと渡り合えるフーゾク嬢はなかなかいなくて。それで思い出したのが千春ちゃんさ。画像処理も音声処理もするから、身元はバレないよ。どうかなあ」  千春は元より、他の女達も当然素知らぬ顔だ。そんな面倒くさい事をして微々たる謝礼を貰う暇があれば、二人客を取るほうがずっと楽だし儲かる。第一、主婦なんかと決闘も共闘もしたくない。 「勘弁してよ、そおいう銭になんない暇潰し」 「あっ、ひでーな。そんなこと言わずにさあ」  その時、割って入るような格好で弘恵が進み出てきたのだ。 「私が出ます。出させて下さい」 「なぁに? 研究発表に役立てたいって?」  投げ遣りに返事をする千春に反応したのは、奥山クンだった。研究発表? 何ソレと。三枝子がひっそりと、ローザこと弘恵の経歴を告げた。 「私、ダサいブスのくせに男を確保したというだけで偉そうにしてる主婦が大嫌い!」  その弘恵は瞬時に沸騰し、その深爪の手でテーブルを叩いて叫んだのだ。その場の女全員が脳波停止状態に陥ったというのに、奥山クンだけが、素早く携帯で局に連絡を取っていた。もちろん、大いなる勘違いのもとに「いただきっ」と叫んでいるのだ。 「フェミニストでインテリの売春ギャル。これはイケるっ」  しかし、千春は心配になる。ぴちぴち可愛い子ちゃんなら、主婦は敵愾心《てきがいしん》剥き出しで挑んでくるだろうが、これでは嘲り笑われておしまいだ。歪んだ社会だ狂った価値観だ変質する貞操観念だののハードなテーマが、ただ単にブスがセックスをガメちゃってる、で決着する可能性が高かった。  それでも弘恵はさっさと局に出向き、女の子達も待機しながらTVの前に集まった。 「出てるよお、ほら、真ん中がそうじゃない?」  いくらシルエットだけでも、この小太り体型は弘恵以外の何者でもない。千春は暗澹たる気分に陥った。嬉しがり屋の晒し者。なぜかこんな言葉が浮かぶ。  スタジオを仕切るのは、三流どころの漫才師。向かって右の雛壇にはありったけの貴金属を光らせた主婦が二十人ばかり並び、堂々その白塗りの顔をテカらせている。地方新聞の読者欄に、三歳までは母親が子育てをだの、PTA会長に選ばれ大変ですが充実した毎日ですだの、狭い世界で自分を肯定するのに躍起の投稿をして悦に入ってるのはこの手の女達だろうと、千春は舌打ちした。  いいなぁ、幸せでも不幸せでも豚みたいに肥《ふと》れて。犬みたいに自分より強いものと弱いものをあっという間に嗅ぎ分けられて。  向かって左側の席は磨りガラスの衝立てで隠されている。その向こうにシルエットで映る、高々と足を組む若い女が三人。奥山クンの配慮か、視聴者からだけでなく主婦からも風俗嬢の姿は見えないようにしてあるのだ。ブスもデブも放送禁止用語ではないが、不用意な主婦が弘恵を罵倒しては予定調和破壊の恐れがある。  音声も変えてあるが、とにかく真ん中が弘恵であるのは間違いない。カメラは時々磨りガラスの中に入るのだが、例の深爪や蕪《かぶ》のような足首はモザイク処理をされないのだ。おまけに司会者も、ローザちゃんは名門女子大生と紹介してしまった。  後の二人は絵に描いたような風俗ギャルで、人工陽焼け肌に少なくともこれだけは主婦に圧勝の光り物をライトに照り返させていた。どちらにも、千春は会ったことがある気がした。かつてP※※に在籍していたかどうかはともかく、同じ煉獄《れんごく》にはいただろう。  やがて討論に名を借りた口喧嘩は始まったのだが、千春はこの際弘恵に一目置かざるを得ない、と唸ってしまった。  いつもの頭でっかちぶりというか、理屈っぽさは影も形もない。とにかく弘恵は普段自分が忌み嫌っているはずの、いまどきのコギャルになりきっていた。つまり弘恵は、そんなコギャルを持ち前の勉強熱心さと優秀さプラス裏返しの憧れで、分析・研究を重ねていたのだ。その成果は如何なく発揮された。  ちょっと見にはただのバカギャルを装いつつ、本質をズバズバ突く怜悧さを武器に、並み居る主婦を鼻であしらい、やり込めてしまったのだ。  後の二人は超ムカつくじゃん、本人の勝手じゃん、の二語しか語彙《ごい》がないので、こちら側の主役は圧倒的に弘恵なのだ。主婦側にも口達者な三十前の美人がいて、どうにか弘恵を言い負かそうと善戦した。だが弘恵は技あり一本! ではないにしても有効技を次々決めていき、遂に判定勝ちといった結果にまで持っていったのだ。  しかし局側も、さすがにそれはまずいと判断したらしい。その鮮やかな赤のスーツ姿の美人主婦を、最後にアップにして光る白い糸切り歯を捉えた。 「あなたが今後悔しなくても、それ相応の結末は必ず来ます。天罰ってご存じかしら」  それ相応の結末は、翌朝P※※にかかってきた奥山クンの電話が報せてくれた。 「まいったよ、主婦からの抗議殺到」  抗議でも反響には違いないじゃん。千春が不機嫌に答えると、奥山クンは気弱に笑い、 「例のコには、身辺に気をつけるよう注意しといて」  妙なことを付け加えた。寝転がったままだった千春も、それには身を起こす。 「なにそれ。主婦が襲ってくるって?」 「主婦に限らず恐い人は、身辺にいて普通の顔をしているもんだからねぇ」  確かに。千春は深くうなずく。我が身の不満を神様に八つ当たりする代わりに、ちょっとだけ目立つ他人を神様の代理人に仕立てて駄々をこねてくる奴は、職業性別年齢を問わず、満遍なく存在しているものなのだ。 「訳わかんねぇ正義や大義や嫉妬心でセコい嫌がらせに奔走する奴は少なくないから。ま、店の名前や彼女の本名は出してないから、そんなビクつくこともないとは思うけど」  奥山クンとの電話を切った後、千春は寝直した。無茶苦茶に殴られ路地裏に転がる弘恵が夢に出てきた。いや、それは弘恵ではなく自分だったのかもしれない──。  次に悪夢を予告してくれたのは、夕方に出てきた浩子だった。タップダンスを習う浩子は同じ教室に通う若い主婦達が、休憩時間にひそひそ�ローザ狩り�の話をしているのを耳にしたという。 「許せない女の敵! をやっつけるって話。でも皆、肝心のローザの顔を知らないんだよね。もしかしてウチのローザ? とは聞けないから知らん顔してたけど」  次は、立て続けにかかってきた不特定多数の女からの電話だ。 「そちらにローザってコいますか?」  千春もいませんと答える他ない。その日、当の弘恵は遂にP※※に現れなかった。天罰を目のあたりにできるかもという予感は、昼食に行ったレストランでも休憩に入ったドーナツ店でも立ち寄ったデパートでも、たまたま聞いたDJ番組でも膨らまされた。女子高生が女子大生がOLが主婦が、あちこちで噂しているのだ。  P※※以外の居場所はインターネットカフェだけという三枝子も、あちこちで恐ろしい書き込みを目撃したと教えてくれた。それらは要約すると、ただ一言になる。 「糞生意気な許せないローザを、正しき女達が征伐してくれる」  さすがに千春は戦慄した。ローザこと弘恵は、何も�絶対に正しい清らかな女達�に挑戦状を叩きつけたのでも挑発したのでもない。弘恵はただ衝立《ついた》ての向こうの女はきっと小悪魔的美少女で、大勢の男を惑わせていると誤解してほしかっただけだ。  そう、あくまでもモザイクがかかった状態で。素のままの自分が下賤《げせん》な男にすら無視される女だとは誰よりもわかっているのだから、反対に可愛がってお仲間に入れてやんなよと、千春はため息をつく。  翌々日も弘恵は来なかった。友達等を装って自宅や大学に電話を入れてみたが、どうも弘恵は何食わぬ顔で家や大学には居るようだった。  ならいいか。千春は再び、柄にもなくしんみりする。主婦の反撃や追跡に恐れをなしたかどうかは知らないが、足を洗いたいならそれでいい。  随分と軽い業《ごう》だが、もう浄化できたのだろう。武装せずとも聖女にならずともセックスは出来ると実感できたのだ。�堕《お》ちた私�と�高みに立つ私�を同時に味わえたなら、無闇に他の女や男を敵視せずに済む。  ところが世の中も弘恵自身も、そんなにほのぼのとはしていなかったことを千春は深夜に思い知らされた。天罰のシステムは、因果応報ではなかった。清く正しければ天国が、悪事を重ねれば地獄が、ではない。天罰は、それを欲する者が自ら求めて与えられるものだったのだ。そしてそれは文字通り天の罰ではなく、あくまでも人間の執行代理人に委《ゆだ》ねるものだった。  最後の女が帰っていき、なんであたしがこんなこと、と千春が舌打ちしながら女達の食い散らかした菓子袋や弁当の空き箱をゴミ箱に突っ込んでいる時、それは突然来た。  手ではなく体ごとぶつけてくるノックの大音響に、千春は飛び上がった。酔っ払いか地回りのヤクザか警察かと灰皿を取り上げた千春の耳が捉えたのは、かすかな呻《うめ》き声だ。  もしかして? ドアを開けるなりゴミ袋みたいに転がり込んできたのは、弘恵だった。だが弘恵とわかるまでに、しばらく時間がかかった。  その特徴ある口許は粉砕され、両手の爪が皆剥がされていたのだ。潰れたトマトの口をし、赤紫のゴム手袋をはめた血まみれの女は、さっきそこで取り囲まれてやられた、とだけ呻き、その場に昏倒した。  警察も救急車も呼べない。千春はこういう時にと、ここの実質的経営者たる男が飼っている医者の元へ運ぶ手続きを取った。千春には空気の漏れる音にしか聞こえなかったが、まず駆け付けてきてくれたその男には聞き取れたらしい。 「あの番組に出ていた主婦が指揮してた、と言ってるぞ」 「なんで、あんたには色々な声が聞こえるの。身内でもなければ愛してもいないくせに」  男の運転する車が遠ざかる音を聞きながら、千春はソファに倒れ込む。そこでなぜか、ただ一度TVで見ただけの女を夢に見た。悪夢ではないのに赤色だけが執拗にまとわりつく夢だった。糸切り歯に狂おしく責められる夢だった。  ──退職届など貰ったことは一度もないが、以来ローザこと弘恵とは連絡が絶えた。思いがけない再会をしたのはおよそ三ヵ月後、誰かが待機中に読むため持参したファッション雑誌でだ。この雑誌は読者モデルとして女子大生が多数登場する。持ち物自慢が主だが大変な競争率で、誌面に登場するには高レベルの学校名と容姿が要求される。その巻頭ページ一杯にあの弘恵が一番大きく載っていたのだ。  もちろん千春は、すぐにそれが|あの《ヽヽ》弘恵とはわからなかった。その手のバッグが前から欲しかった物だったのでついじっと見入ったのだが、まず目の端に引っかかったのは朱鷺《とき》女学院という大学名だった。あのコが通っていたとこ? と気づき、今度はその女子大生の名前に視線を移す。紛れもなく�馬場弘恵さん(21)�とあり、雑誌を落としかけた。  まじまじ見入れば、確かに|あの《ヽヽ》弘恵だ。歯を全部折られたために差し歯にしたのだろう。そして爪は生えてきたのか付け爪か不明だが、見事に整えられた形のいいそれには深紅のマニキュアも塗られてある。千春は整形した女をごまんと見てきたから、大抵どこをいじったかわかる。だが弘恵は歯と爪以外はどこも直していない。  入院生活のお陰かすっきりと下腹や足の脂肪も取れ、どこから見てもお洒落で美人の女子大生に変貌している。ねぇちょっと見てよコレ、と千春は言いかけ、口をつぐんだ。弘恵がいた頃の女はもう一人も残っていなかった。ほとんどが三ヵ月で辞めるからだ。あの三枝子ですら、馴染み客と結婚して辞めていった。  電話鳴ってますよとうながされるまで、千春は茫然としていた。なんというオチだろうか。こんな女ならテレクラに行かずとも歩いているだけで男は寄ってくるだろうし、それこそ高級クラブでもソープでもNo.1を狙える。冗談じゃなく戻ってきて欲しいと願った。  かつて指名No.1を競ったゴム無しOK女は不可解な性病で入院中だし、ソープ並み技術女は本当にソープに鞍替えしていた。ちなみに奥山クンは別のデリヘルで中学生を買ったのが原因で局を辞め、今はモグリのモデルプロのスカウトマンをしていた。それでも声をかけるのは中学生ばかりだそうで、彼も天罰を欲しているのだろう。 「ばあちゃん。訳わかんないよ。あのコ、天罰が下ると思っていたのにいい目にあってるじゃん。善行なんか積んでないのにさあ。それとも、あのコにとってはデリヘル嬢やることは、大袈裟に言うと試練つーか、修業を積むことだったの?」  思わず、死んだばあちゃんに向かって語りかけてしまう。無論、返事はない。代わりのように、じゃんじゃかと電話が鳴り続け、天罰も変質者も将来も何も恐れぬ女の子達は男のもとに宅配されていく。  女の子が全員出払い、一人ぼんやりTVを眺めていた千春は、ワイドショーのニュースに遠くなりかけた記憶と怯えを呼び覚まされた。  良妻賢母と評判だった主婦が、デリヘル嬢をしていてホテルで殺害されたというのだ。その顔写真には確かに見覚えがあった。鮮やかな赤のスーツと美しい糸切り歯。あの時TVに出ていた主婦だ。 「いったい何故、幸せな家庭がありながら彼女はこのような事をしていたのでしょう」  一応深刻そうな声と表情を作ってはいるが、年増のリポーターは込み上げてくる下種《げす》な感情を押さえきれないようだった。派手な源氏名ではなく本名の坂本光代《さかもとみつよ》(29)として殺された女。彼女にとって幸せな主婦を演じることこそ嘘偽りで、だから天罰が下ったのか。  それ可哀相すぎる。神も仏もないねぇと、千春は仕方なく死んだばあちゃんを拝んだ。 [#改ページ]    恋愛詐欺師 「あたしバカだからわかんな〜い」  これは免罪符ではない。単なる口癖だ。免れたい罪などない。宮子《みやこ》だけでなく周りの女も皆口にする。本日六度目の使用。宮子は教師役の無名の漫才師に今の総理大臣の名前を聞かれ、そう答えた。笑いを取るためでも、台本通りの台詞《せりふ》でもない。本当に知らないのだ。総理大臣も宮子を知らないのだから、支障はない。 「じゃあミオリちゃんはお仕置きだ、お仕置き」  カメラがミオリちゃんこと宮子の尻をアップで捉える。わずかに腰をかがめただけで下着が丸見えのスカートを押さえ、宮子は嬌声をあげて狭いセットの中を逃げまどう。同じ超ミニの制服姿の女達も、スカートを跳ねあげ笑い転げた。この女達は、目の前で仲間が輪姦されていても笑い転げられる。  TVで見ても充分チャチだが、実際に立ってみれば本当にペラペラなベニヤ張りの教室のセットは、マイクでは拾えないキシキシという軋《きし》みに揺れた。はいOK。ADの合図で宮子は真顔に戻る。他の女達は笑顔を貼りつけたままだ。すぐに不貞腐《ふてくさ》れた素顔に戻るのは、この深夜番組の出演者の中では宮子だけだ。  誉められたことじゃない。たとえ視聴率二パーセントのお色気番組でも、○子ちゃんはカメラ引いてもニコニコして可愛いとか、画面の隅にいる時の×美ちゃんはブスッとして感じ悪いとか、わざわざ局にまで電話してくる奴は多いのだ。 「オツカレサマデシタ〜」  口先だけの挨拶を残し、宮子は控え室を出た。ここでは思う存分険しい素顔をさらす他の女達は、ほとんどが挨拶を無視した。宮子も気にしたり傷ついたりはせず、衣装より派手な私服でとっとと局を後にした。途端に、控え室には笑い声が弾けた。  宮子は物心つく頃から、女の集団に入ると必ず嫌われた。私って可愛いでしょ? 男なんてチョロいから、この顔と体で楽に世渡りしていけるわ。……どんなに口をつぐんでいても、こういう自意識は絶対に周りの女達に気づかれる。  その上宮子は、堂々それを口にもしてきたのだ。永遠に売れそうにないタレント仲間は大抵そのタイプだが、とりあえず女友達も持てる。本当の私は夢も友情も未来も信じられる良い子なの、と勘違いしているからだ。  だが宮子は、本当の自分なんかロクなもんじゃないよと、きつい覚悟を自分に突き付ける。それが他の女の神経を引っ掻くのだ。ナンパ同然のスカウトで最下層の芸能界入りを果たした時も、将来は人気女優に、などと寝呆けたことは考えなかった。  タレントという付加価値がついたことで、ますます男を騙しやすくなったとほくそ笑んだだけだ。あたしモデルよぉタレントよぉと毎晩ヒマそうにバーやクラブにたむろして、タダ酒たかるのが仕事みたいな女は掃いて捨てるほどいるが、そいつらとは一線を画すつもりだ。傍《はた》から見れば同じでも、気構えが違う。  笑顔仮面女達は、とにもかくにもTVに出られたチャンスを生かしたい上昇志向ギラギラ女と、飲み屋や道端でアッ、君知ってるぅ、と声をかけられるだけで至福を味わえる素人そのまんま女に二分された。  宮子だけがそのどちらでもない。宮子はもっと強欲で、ある意味純粋なのだ。  宮子の目当てはタダ酒ではない。舐められる前に舐めてやる。化粧と作り声と体だけでどれだけ世の中と男を馬鹿にできるか。その真剣勝負に挑む女戦士だ。女であることだけが唯一の拠り所、戦う根拠なのだ。  今の宮子は、それを大げさな表現とは思わない。のん気な主婦が、小さい子供が二人もいるから食事時なんか戦場よ、などと言ったりするが、それを聞くたび本当の激戦地へブチ込んでやりたいと憤慨した。宮子にとって、まさに街は戦場だ。何せ本気で命を狙っている敵が、少なく見積もっても十数人いるのだから。  自己破産するまで貢がせて捨てた土建屋の息子、写真とビデオをネタに一千万|強請《ゆす》った後で奥さんにあっさりバラして離婚させた運送会社社長、娘を騙して裏ビデオに出演させたのを知って自殺未遂をし、今も後遺症に苦しむ公務員とか、ちゃんと覚えているだけで片手を超す。当然、女の敵だっている。病気持ちの男に売春を斡旋《あつせん》し、見事にキツい性病を感染させてやった女子高校生が何人かと、割り当てのパーティー券が売れなかった責任を取れと組事務所に売り飛ばした女が三人、輪姦させて妊娠させた女子大生が二人、上司との不倫を聞きつけ強請った結果、神経をやられて入院中のOLが一人。  そんな状態でなぜ、堂々と顔をさらしてTVに出るのか。正面切って尋ねてきた人間はいないが、その時はもちろんこう答える。あたしバカだからわかんな〜い。  視聴率ヒト桁の深夜番組に週二回、それも十分少々の出演だし、かなり濃い化粧で顔立ちを変え、ついでに名前もミオリと変えてあるからまぁ大丈夫バレやしないというのもあるが、宮子にとってはそんな危険すらゲームの一つなのだ。宮子は不幸せなくせに退屈しきっているのだった。      *  この建物のある一角を仰いだだけで、ここら辺は高級住宅地なのだとわかる。一番安い部屋でも月三十万円というマンションの総大理石のエントランスに宮子が入っていけば、ここの住人に呼ばれた風俗嬢としか思われないだろう。しかし宮子はオートロックを簡単に解くと、悠々と実家の座敷より広いエレベーターに乗り込んだ。向かうのは客の部屋ではなく自分の部屋だ。たかが週二回のTV出演で住める場所ではない。当然、住まわしてくれる男がいるのだ。一流大学卒、一流企業勤務、いじめられっ子のまま成人した男。  鴨が葱|背負《しよ》ってというが、この場合の鴨は葱どころか鍋も調味料も背負い、自ら羽根を毟《むし》りながら現れた。これでは食ってやらない方が無慈悲だろう。  三ヵ月ばかり前。宮子は番組編成の都合でレギュラー降りてもらうかもと事務所に通告された上、同居していた男にも即刻出ていくよう責められていた。最初は手紙だった。見知らぬ男達からの手紙はそれまでにも多少は局宛てに届いていたが、皆読んだ直後に捨てていた。うんと知能は低いくせに性欲だけは高レベルで、さすがの宮子もコイツら汚れていると、まるで自分が清らかになった気分にさせられるものばかりだったからだ。  そんな中、伊藤尚文《いとうなおふみ》なる男からの手紙は違った。宮子でも知っている有名損保会社の便箋に書かれた字は、下手ではないが異様に小さく縮こまっていた。 『ミオリ様があんな番組に出ているのは辛いけれど、あの番組でしか会えないのはもっと辛いです』  久々に心底笑った。自分のいる場所だけはきれいだと信じている傲慢な善人。これは是非とも一度、あんな場所のあんな住人が観光案内をして痛い目にあわせてやらねば。念のため会社に電話して探りを入れてみたが、間違いなく在籍していた。身元確実と指を鳴らす。満ち足りた人々ばかりが退屈しているのではない。宮子はいつでも退屈している。  ついに部屋を追い出され近くのビジネスホテルに移った宮子は、備え付けの便箋に返事を書いた。彼の住所が高級住宅地なのは開封前に知っていた。 『来週水曜の放映中、あなたにだけわかる合図をします』  その日宮子はいつも通りに振る舞った。特別な合図などするものか。胸の谷間と尻を見せ、あたしバカだからわかんな〜い、と繰り返しただけだ。なのに翌日、速達が届いた。 『感激しました。でも皆に怪しまれませんでしたか? あんなに大胆に愛のメッセージを送って下さったりして』  宮子は小躍りこそしなかったが、煙草を吹かすたびに思い出し笑いした。純情だ善意だ愛情だ、それらは付け込まれるためにある。だからあたしはそんなもの持たない。流れゆく紫煙の中に札束やブランドもののバッグや宝石が浮かんでは消えた。どうしても欲しい訳じゃない。実体があるだけ持ちでがある。それだけだ。  深夜に近い時刻、宮子は手紙に記されていた電話番号を押した。まず出てきたのは母親だった。ここで宮子は多少ひるんだ。母親に相当甘やかされている男であろうことはほぼ百パーセントの確率で予想していたが、あっさり的中したからだ。  あからさまに不信感と敵意を剥き出した初老の女は居留守こそ使わなかったが、息子に替わってからもぴたりと電話機の側に張りついていた。次に宮子は、当の尚文の声に総毛立った。粘っこいとか爬虫類っぽいとか、そういう厭《いや》さではないが、どこかが恐ろしく病んで歪んだ声だったのだ。くぐもっているのに金属的な響きの声は、幼児のまま老衰した化け物を想像させた。  それでも宮子は気を取り直す。目前にぶら下っている獲物ならば、多少の腐敗や毒は仕方ない。尚文はTVのミオリちゃんがいきなり電話をかけてきてくれたことに驚愕し、喜びに上擦ってくれた。なのにそこから進めずにしどろもどろなのだ。  隣に母親がへばりついているのを差し引いても、よくそれで有名企業に勤めてられるねぇと、思わず言いかけたほどだ。いいわ、時間がない。宮子は聞こえないよう舌打ちしてから、ミオリちゃんの口調で囁き、即座に叩き切った。 「明日八時に局の裏門前に迎えに来てね」  翌日、局の裏門で宮子は氷柱《つらら》になった。生まれて初めての後悔をした。三秒ほどだが、真面目に生きようと更生を誓いもした。そこにいたのは、思いつく限りの厭な要素を結集した男だったのだ。  死後一ヵ月後に引き上げられた溺死体のような外見の男。今までも、生きたまま餓鬼道や畜生道に堕ちた男は何人も相手をしてきたが、この尚文は彼らの悲惨さとは異なっていた。天国の肥溜めとでも言おうか。いい境遇にいながら、廃棄され腐っている。  罠《わな》にかかったのは自分だったかと戦慄《せんりつ》した。だがそんな考えも三秒で叩き潰す。やってやろうじゃない。古今東西、悪魔に魂を売れる人間はごまんといる。 「母は飲み屋やってた頃、行きずりの男と寝てあたしを身籠もったの。そいつとはそれっきり。あたしが生まれたことも知らないよ。母はとにかくズボラで、妊娠も七ヵ月になるまで気づかなかったらしいし、子宮癌も末期までわからなかったの。あたしが四歳の頃死んだわ。母親? 愛してもいない男の子供を産むのは痛かっただろうね。それだけは可哀相。父親? 愛してもいない女に子供産まれるのは恐怖よね。それだけは同情する」  会員制の高級レストランで、これだけは一言も嘘を挟まない身の上話をしてやった。すべて宮子主導で事は進んだ。 「その後は自営業の子供がない夫婦に引き取られて、よくある、義父に犯されるってのはなかった。とにかく恐妻家だったもん。性的虐待はその継母の方にやられたわ。集金に来るオヤジ達に、あたしを利息代わりに貸し出してたんだから。死なない程度に何でもやって下さいってさ。まだ毛も生えてない頃からね。あはは、ほんと、死なない程度のことばっかりやられてた。家出したのは中学二年かな。別にタレントになりたくてたまらなかった訳じゃないけど、他にホラ、あたし何もできないもん。先のこと? あたしバカだからわかんな〜い」  宮子の一ヵ月のTV出演料より高いワインをぴちゃぴちゃ飲みながら、尚文は本気で泣いてくれた。鼻を啜る音に総毛立つが、宮子は歯を食い縛って耐えた。 「番組にはあんなに大勢女の子が出てるけど、ミオリちゃんしか見てないよ。これから僕がミオリちゃんを幸せにしてあげるからね」  幸せの意味知ってんのかよ、お前。一瞬殺意を覚えて凄みかけたが、すぐに特上の営業笑いを返す。蝋燭《ろうそく》の炎が不吉に揺れた。宮子は善意に包んだ侮蔑には敏感なのだ。 「じゃ、もう一つ教えてあげる。あたし本名は宮子っていうの」  ミヤコと、尚文がおずおず口にしかけるのを、宮子は銀のナイフを唇に当てておどけながら制した。本当はこれでそのぷよぷよの首を掻き切ってやりたい衝動を押さえている。 「もっと静かな場所で、その名前を呼んで」  悪魔の方が魂売りに来るわ。宮子はグラスの縁を噛んで笑った。  以前、内装店のオヤジといつも泊まっていたホテルのジュニアスイートルームで、尚文は最後までミオリちゃんミオリちゃんと呻き、叫び続けた。  ハイヒールで踏んでくれなんていうありがちな要求はなかったが、もし踏みつけたら楽に背中まで突き抜けそうなぷよぷよの腹にめり込んでいた性器は、予想とピタリ重なる代物だった。生まれたての兎か鼠そっくりの薄桃色の肉塊は、宮子の小指に満たない大きさで、一度も外気にさらしたことのないような柔らかさだった。  こんな物、鼻の穴を使わせれば充分だわと胸の内で毒突きながら、それでもミオリちゃんの甘い囁きは途切れさせなかった。そいつは遂に屹立《きつりつ》しないまま、白濁した液体を漏らした。芋虫が踏まれて体液を飛び散らす、ちょうどそんな感じだった。だがそれの後始末をする宮子は、初めてこの尚文に違う感情を抱いていた。  愛だの情だのではない。実に厭な親近感とでも言えばいいのか。お互い人間なんかに生まれてきたのが間違いね。牛か犬でよかったのに。尚文はまさにシクシクという擬音を発して泣いた。弛《たる》んだ腹と性器も、固まりかけのゼリーみたいに揺れた。 「ミオリちゃん、僕に嘘をついていたね。ひどい。嘘つきだ」  そう言いながら顔をあげた尚文に、宮子は危うく悲鳴をあげてベッドから転げ落ちるところだった。溺死体みたいな目が、溺死体より恨めしそうににらんでいたからだ。すんでのところで、ごめんなさいと絶叫するところだった。だが、続く尚文の言葉に唖然《あぜん》とした。 「煙草は吸えないって言ったのに。キスした時わかったよ」  安堵と笑いに、宮子も少し泣けた。苦い唾が湧く。 「ひどいのはどっち。あたしミオリじゃなくて宮子よ。一度も呼んでくれなかったわ」 「あっごめん、ミオ、じゃなかった宮子ちゃん。僕が悪かったよ」  たちまち尚文はうろたえた。立場など瞬時に逆転する。出会った時に決まる上下関係が不変なように、今さら心を入れ替えたって天国に行けはしないだろう。  翌週、尚文は宮子のために部屋を用意してくれた。父親の名義で入居者を募集中の物件だそうだ。尚文は初めて親に嘘をついた。そろそろ僕も自活したいからこっちに住むと。  尚文もそんなに社会性や常識がない訳ではない。即、宮子を親に紹介するのは躊躇《ためら》っているのだ。私生児で中学の卒業証書もなくて家出中で勘当されていて、タレントと言っても深夜の教育上よろしくない番組に顔ではなく尻を出している女とくれば、上流を自負する親は激怒して別れろと命じるに決まっている。よって尚文への宮子の口癖は変わった。 「あたし昼の連続ドラマに主演できそう。最終審査に残ったの」  煙草どころじゃない大嘘だ。事務所の社長は有望な女の子にしか、そんなオーディションは受けさせない。宮子に回される仕事は水着か裸か接待と称する売春だけだ。 「女優さんなら親も納得してくれるよ。ああ、早く昼のTVでミオリ、じゃない宮子ちゃんを見たい。そしたら結婚式も中継かな」  夢を見させてやるのは犯罪か。宮子は決して�結婚�は口にしない。それを口にすれば堂々たる結婚詐欺になってしまうからだ。あくまでも、ほのめかすだけ。宮子のもとを訪れる�幸せ�だって、ほのめかすだけで決して実体化してくれないのだから。      *  録音メッセージがあることを示すランプの点滅は、あの男の泣いた時の目を思わせた。宮子はくわえ煙草のまま、再生ボタンを押す。罪深くはないが業の深い男の声が流れる。 「今日は残業で行けないよ。嘘ばかりついてごめん。次は必ず」  嘘ばかりついてごめん。一体誰に謝っているのか。嘘をつかれる方は喜んでいるのだ。途中で切り、煙草に火をつける。インテリア雑誌のグラビアそのままだった部屋は、宮子が住み着いた途端に散らかし放題になった。宮子は整理整頓ができない。料理も掃除もしない。服や靴は高級ブランド品でなければ我慢できないのに、食べ物はファーストフードやコンビニの惣菜《そうざい》の方が好きだ。  バランスの悪い女との自覚はあるが、尚文など自分のバランスの悪さに気づきもしないのだから、それよりマシか。吸殻を流し台に叩きつけるように捨てた。今夜は尚文が来る予定だったから、煙草を隠す努力くらいはするつもりだったが、それも必要なくなった。  尚文との性交は当然楽しくはないが、拷問だの苦痛だのまでは嫌悪していない。あの鼠の子みたいな性器も見慣れれば愛嬌があるし、口に含むのもさほど抵抗はない。何せ、楽だ。あの水脹《みずぶく》れの巨体も乗られる分には苦しいが、上に乗ればウォーターベッドみたいで気持ちいい。地上には、耐えられない責め苦はないのだ。  物置きと化した北欧直輸入ソファのかろうじて空いているスペースへ寝そべると、尚文の携帯電話の留守電を呼び出した。いつでも所在のはっきりしている尚文だからこんな物など必要ないのだが、宮子が頼み込んで持ってもらったのだ。 「あのね〜、宮子、新しいエステサロンに行きたいの。入会金八十万円お願いできる? うんときれいになってあなたに見せたいの」  そう、この携帯は宮子の詐欺専用だ。持たせて二週間で五百万円に届く金を引き出させている。友達が手切金に困っているだの、前にお店やっててその借金が少し残っているだの、騙されて宝石を買っただの、理由は次々アドリブで思いつく。TVでは「あたしバカだからわかんな〜い」以外は出てこないのに。  巻き上げた金は皆、尚文がいない間の遊び代や装飾品に消えた。こんなに稼いでいるのに貯金がゼロなのはなぜかと、たまに考える時もある。自分に憑《つ》いている貧乏神だか福の神だかが吸い上げているんだと、結論はいつも五秒でそこにたどりつく。その次に思うのは貧乏神がいつ死神に替わるかということだ。少なくともここに居れば死神の手先は来ない。  でも……と宮子はヤニでうっすら染まった中指の爪を噛む。窓の向こうはあんなに煌《きら》めいている。ここが安全地帯でも、檻《おり》には違いない。敵だらけの戦地でも、あそこに降りていきたい。宮子が真に恐れる場所は、鬼だらけの地獄ではなく、一人ぽっちの楽園だ。  いったん思い始めたら、居ても立ってもいられない。ちゃんとした男とヤリたいとの欲望も、窓外の煌めきが煽り立てる。宮子はあえて危険を求めて出る。皆、生きたいように生きるものだ。居心地よい檻よりも、お楽しみの豊富な戦地の方が煙草も美味い。  再び起き上がると、今度は受話器を取り上げた。以前二度ばかり寝た男を呼び出す。尚文とは対極にいる男。地獄のスイートルーム在住の敬司《けいじ》は、ホストを生業《なりわい》としている。宮子の男版だ。同志愛など爪の先ほどもないが、会話して楽しく寝て気持ちよく、見ても嬉しい美男だった。同棲していたヘルス嬢が鑑別所に入ったため、とりあえずは一人暮らしだという。 「いいとこに来たな。俺、当分行方をくらますつもりなんだ」  尚文と違い一時間でも女の股に顔を突っ込んで奉仕できる敬司は、すでに死神の手配書が回っている顔色だった。宮子と同じくらい命を狙われている奴だが、それが笑い話ではすまない状況に追い込まれているらしい。  しかし宮子にはまったくの他人事《ひとごと》だ。久しぶりの完成品といった性器を突き立てられ、檻の外の心地よさを味わうのに没頭していた。敬司もさすが元AV男優のことだけはあった。アフターケアも金を払ってもいいほど丁寧で、迫真の演技どころか神懸かりの演技で耳を愛撫してくれる。……だが、今回は微妙に手抜きがあった。 「宮子にも居所は教えられねえ。アイツが出てきても隠れてるからな」  かなり切羽詰まった態度で帰ろうとするのだ。宮子も外に出ることにし、その前にトイレに入った。便器に腰かけると、敬司の体液が股間から伝い降りてきた。それで宮子は、敬司の死を予感した。死者と交わったかというほど、それは冷えていた。      *  敬司が行方をくらませてから一週間、宮子自身の危機はなかった。一時は危ぶまれた番組続投も決まった。他に出たがる女の子がいなかったからなのだが。  尚文とは三度交わった。もうじき昼のドラマに主演よ。結婚して幸せにするからね。だが死神の使者ではないにしても、確かに宮子を追い詰める強敵はきっちり一週間後に現れた。それは宮子の出演した回が放映される深夜。防犯設備は完璧なはずなのに、いきなり部屋に誰かの気配があって悲鳴をあげ、その正体を知って二度目の悲鳴をあげかけた。 「なぜ入れたかですって? 私はここの正当な所有者だからです」  息子とは対照的に、水気のない干涸びた初老の女。豪奢な和服と相俟《あいま》って、まるで王族のミイラだ。尚文の母親というだけで化け物の範疇《はんちゆう》に入る女は、立ちすくむ宮子に尖った顎で一方のソファを指した。乱雑だったそこは、この女によって片付けられていた。 「まったく。大抵はお金にだらしないか部屋がだらしないか男にだらしないかのどれか一つなのに。あなたはその全部なのね」  いきなりの悪意と敵意は、来訪の意図を明白に表していた。それでもこの場は素直そうな態度に出た方がいいと計算し、おずおずと腰を降ろす。尚文の母は、無言でテーブルに大きな封筒を投げた。  中から滑り出たのは、ワープロ打ちの報告書と写真だ。夜の盗み撮りにしてはどれも鮮明だった。特に昔馴染みの男と腕を組んでホテルに入る宮子は、三割増し美人に見える。宣材用に欲しいほどだった。 「もうおわかりね? あの子と別れてください。騙し取った金品は手切金として差し上げるから、明日中に出ていって。……結婚詐欺で訴えないだけ感謝してほしいわ」  押さえた口調でそれだけ言うと、一度も宮子の目を見ずに立ち上がった。そういえば宮子も尚文の目を一度も正面から見たことはない。尚文だけじゃない。誰の目もだ。宮子は無意識に、リモコンのスイッチを押していた。実にタイミング良くか悪くか宮子が現れ、Tバックの下着に辛うじて隠された尻をブラウン管一杯に映しながら叫んだ。 「あたしバカだからわかんな〜い」  続いて下手なウインク。宮子は自分と目を合わせてしまっていた。顔色を変えたのは尚文の母だ。乱暴にTVの電源を切ると金切り声をあげた。 「あなたが舐めているのは男や世の中ではなく、自分自身ですよ!」  うつむいて涙をこぼした。泣き真似で本物の涙を出すくらい四歳から出来た。代わりに本物の涙も四歳から出せなくなった。その目で素早く確認したのは、書類に記載された敬司の実家の住所と現在の潜伏先だ。転んでもただでは起きない。否、ただでは涙もこぼさない。宮子はそれを頭に刻み込んでから、神妙にうなずいて見せる。 「誰に復讐されるのが一番怖いかといえば、それは自分自身によ。あなたはそこのところ、思い知る必要があるわ」  尚文の母が憤然と出ていってから、急いで敬司の居所を書き付けておく。それから尚文の携帯に電話した。思った通り電源が切られていた。多分、懇々と親に説得され監視を受けているのだろう。ふと、あの鼠みたいなものが浮かんだ。もうあれには触れないと思うと、初めて淋しさを覚えた。  翌日、宮子は改めて街に出た。そこは敵地だ。高級な服も時計も宝石もバッグも、皆置いてきた。贖罪《しよくざい》のつもりではない。あんな物またいつでも手に入るからだ。そう思えば一万円も百万円も等価値だ。手に入らない物など、はなから求めはしない。とにかく今欲しいのは現金だ。敬司に騙された女を探しては、三万円よと例のメモをちらつかせた。  午後までに三十万近くをかき集めると、前にいたビジネスホテルに戻ろうと地下鉄の駅に降り立つ。人工の闇の中に本物の悪鬼を見たのはその時だ。手荷物すべてをベンチに投げ捨て駆け出していた。いきなり階段の中程に、宮子を狙う女が立っていたのだ。  尚文の母親だと直感する。対極にいるあの女、舐めてはいけなかった。宮子がここらをうろつき回っているという情報も、すぐに流してくれたらしい。  女は電車の轟音さえかき消す罵声をあげ、駆けあがってきた。宮子は反対側の階段を駆けあがりながら、心臓ではなく肺に激痛を覚えていた。雑踏の中を全速力で駆けていく宮子は自ら最悪の選択肢を選んでいる。  さっきの女をまいたと安堵したのは束の間で、顔をあげれば雑居ビルの三階と歩道橋の上に本気で宮子を殺したがっている男がいるし、駅のトイレに隠れようとしたら、さっきのとは別の女が待ち構えていたのだ。  足元がぬかるんできた。なぜアスファルトが泥沼に、高層ビルが密林になるのか。宮子は遂に無数の銃口から逃れるために、銃口を一つに絞ることにした。急所を外されて蜂の巣になるよりは、ただ一発の致命傷で楽になりたい。  世の中の男を舐めきった女と呼ばれてきたのは間違いだった。今恐れおののくのは追っ手ではない。尚文の母親がいみじくも教えてくれたではないか。  決して逃れられない死神。それは自分自身。まだ死んではいないのに、残像が浮かぶ。それは尚文。あんまりな末期《まつご》だ。  通りに飛び出した宮子はタクシーを止めた。行き先は尚文の会社だ。さすがにこの壮麗なビルに追跡者は乗り込んでこない。受付嬢に呼び出された尚文は、茫然としながらもロビーに降りてきた。煌めく高級そうな調度品の中、初めて宮子は尚文の目を見た。 「あんたの方が結婚詐欺師よ! 今までのこと大声で言うからね」  ここまで真摯に男と向き合ったのは初めてかもしれなかったが、完結したのは愛でも恋でもなく詐欺と恐喝だった。尚文はただ震えながら、目を逸らしてつぶやいたのだ。 「さようなら、ミオリちゃん」  ──取りあえず連行された警察署の取り調べ室で、敬司の死体があがったことを知らされた。女にやられたの? それともヤクザ屋さん? 訊ねる宮子に、あまり目を合わせようとしない大人しい警官は、初めて宮子の目を覗き込んで囁いた。自殺だよ、と。 [#改ページ]    夢見る終末 「傷口って、薔薇《ばら》色だよね」  それは自分の寝言なのか、解散した女暴走族仲間の口癖だったのか、さっき出てきた少年院の教官の捨て台詞《ぜりふ》だったのか。  ぎりぎりで標的の端をかすめた弾のような言葉に背中を撃たれ、真由美《まゆみ》は駆け出していた。季節は生暖かい春なのに、風が頬に痛い。 「あっ、駄目ですよ、ちょっと待って」  身元引き受け人として付き添ってくれていた保護司の肥《ふと》った中年女は、あらかじめ用意していた悲鳴をあげただけで、真剣に真由美を追おうとはしなかった。 「大丈夫だってば」  振り向きもせずに駆けながら、真由美は一応、捨て台詞ではなく労《ねぎら》いの言葉としてそれを投げつけた。 「ちゃんと真っすぐウチに帰るから!」  処分だか更生期間だかは済んで出たのだから、これは脱走ではないのだ。どこに駆けて行こうがどこに倒れこもうが、それは真由美の自由だ。  親が迎えに来てくれず適当な代理を寄越した、なんてことでいじけるほど真由美は従順に飼い慣らされてはいなかった。親も迎えも未来も要らない。だから、好きな方向に駆けさせてほしい。  金はまったく持っていないが、真由美は蛍光灯がやけに眩しい大型スーパーに入っていった。飢えさせられていたはずなのに、甘い菓子にも派手な色彩の服にも目はいかない。欲しいのは、本当に飢えていたのは、そんなものじゃない。  平和と安穏さを象徴する、台所用品の一角に足は進む。ここに、一番|煌《きら》めくものがあった。真由美を待っているものがあった。  小遣いだけはふんだんに与えられていたから、真由美は万引きは慣れてない。それでもまるで出所祝いかというほどにそれは容易《たやす》く成功した。それをジーンズのポケットに入れて、再び路地に出た。出た途端に、駆けた。ここでも追っ手はない。  逃げるのでも追うのでもなく駆け、真由美は息を切らせる。肺や喉の痛みは心地よい苦痛だった。一人で見上げる満月と一人でさまよう路地裏は、一人だけの楽園を味わわせてくれる。道に迷ったことにはとうに気づいていても、引き返して泣いたりはしない。  薄曇りなのに眩しいのは何故か。この薄汚れた塀の彼方に希望などないのに。それでも立ち止まれない。振り返ることも引き返すこともできない。  十七年間、ずっとそうだった。立ち尽くすことさえできず、ただ闇雲に駆けてきた。前を向けば向くほど道を逸《そ》れることも、わかりかけていたのに。 「ここ、どこなんだよ……」  さすがに息切れして、真由美は立ち止まる。邪魔な保護司の女を振り切るまでは、確かに見覚えのある街だった。女暴走族『死美人』の頭として、常に先頭切って走っていた真由美だ。標識と標的は見誤らない。だから、こんな様《ざま》でも生きている。      *  真由美の地元と少年院のあるこの街はかなり隔たっているが、かつて塀の中にいた仲間にクラクションと排気音を聞かせるため時々訪れた。だが真由美は、その爆音の子守歌は聞かせてもらえなかった。  真由美が捕まった直後、『死美人』は警察によって強制的に解散させられたからだ。愛車も廃車処分だ。もう誰からも頭、などとは呼ばれない。少年院を出てきたばかりのただの元非行少女Aだ。  父親は地元では知られた資産家だが、真由美はお嬢様の身分も早くに剥奪された。あれは確か、目の前の人間に施しみたいな愛想笑いができなくなった中学生の頃だ。  欲しい物も無くした物もない。親の方が遥かに強欲で未練がましかった。なのに娘はド不良で親は名士夫妻だ。こんな中途半端な地方都市では、名士も不良もたかが知れているとしてもだ。  とにかく道がわからない。こういう時の他人への頼り方もわからない。喧嘩のふっかけ方は、それこそ無制限にインプットされているのに。  初めて真由美は不安げに、辺りを見回した。周りを囲むビルはどれも背が低く、窓ガラスが汚れている。あそこにいる人間どもにも、道を聞く時は笑いかけなければいけないのか。立ち止まるあたしを見下ろすな。  本人はいつも忘れるが、真由美は美人だ。ただし可愛いとは形容されない、この国の男好みではない美人。どこにも丸味がない。鋭角的な輪郭に切れ長の目、薄い鼻梁と唇。身長は高いが胸回り腰回りは小さい。貧弱なのではなく、引き締め過ぎの印象を与えた。  お嬢様あがりの母は、そんな娘を生きた刃物扱いした。触れる時は恐る恐るだ。できるだけ遠ざけたい。施錠できる箱にしまっておきたい。  だから少年院送致が決まった日は、半狂乱の陰で安堵のため息をもらした。さらに研ぎ澄まされた刃物になるとも知らずに。  しかし真由美は、父とは蜜月時代もあった。家族の中で目を合わせられるのは父だけの日々もあった。 「あなた達はそっくり」  母に決めつけられたのは、中二の夏だ。それは死んでも天国へは行けないという意味だと、父が教えてくれた。その日から父も、真由美から目を逸らし始めた。逸らした先には天国も地獄もない。何もない。  真由美は危険な刃物だが、抜き身のままそこらに放っておいていいと父は微笑した。 「錆びようが他人に怪我をさせようが、それは刃物の罪であって持ち主とは関係ない」 「まずアンタを刺す」  真由美は微笑《ほほえ》み返した。すでにその微笑が尖っていた。  それにしてもこの道は頭にくる。つまらない出口しか用意してないくせに迷路を装うとは許せない。いい加減な所で壁をぶち破らなければ、ここで十八歳を迎える羽目になる。 「武器が欲しいんだ」  口に出し、真由美は震えた。少年院ではお喋りどころか独り言すら規制されていたために、その呟きは脳髄のどこかが擦り切れるほどに口の中で繰り返していた。  それは単車への欲望より強かった。夜毎《よごと》に見た銀の光彩に、瞼が痛んだ。口に出せば口が痛い。  自分はおもちゃのようなナイフしか持っていなかったが、父は本物の猟銃を所持していた。ただし撃つのは射撃場のクレーのみ。何百万だかの特別注文の機関部の彫刻を見せびらかすためだけだから、肝心の腕前は水鉄砲さえ持たせられないものだった。水鉄砲で撃たれて死ねばいい。  父ととりあえず親密だった頃、真由美は何度か射撃場に連れて行ってもらった。真冬でも五十発撃てば、銃身は素手でつかめないほど熱くなる。真由美のポケットの中のナイフは、いつでも冷えているというのに。  夕暮れ時、文字通り火を吹く銃口を見ながら、こんな男に抱かれる銃が不憫だと、初めて父を憎んだ。  そして十五の夏、ただ一度だけ銃を撃った。二発では銃身は熱くならなかった。冷えたままの銃身に自分の体温を与え、わずかな自由を放り出した。  撃ったのは壁でも罪状は重い。少年院に二年は充分に長い。土地勘がこんなにも狂っている。  他にも狂ったものはないか、不安になる。見える景色は本物なのか。聞こえる喧騒は現実なのか。出口あってこその迷路だろ?……恐怖より寒さの方が切実だ。  その迷路の障害物でも案内人でもなく、人影が現れた。  見様によっては幸せそうな顔を仰《あお》のけ、その男は傷だらけのコンクリート壁に磔《はりつけ》にされた格好でうずくまっていた。  スーツは着ていたが、堅気の者ではない匂いが立ち上っている。  怪我をしているのに気づくまで、一拍の間があった。左胸の布地が裂け血の染みが広がっていた。 「……あたしは殴り合いばかりだったから」  真由美はその男の前にひざまずいた。介抱のためでなく、道を聞くために。この男になら、不細工な愛想笑いは不要だ。 「刺し傷の程度はわからないんだ」  媚びるでも突き放すでもなく、耳元に口を寄せる。傷口は薔薇色ではない。すでに腐敗の匂う色だ。男は目を開け真由美を見上げた。肉食獣でも草食獣でもない。不思議な獣の目をしていた。狩られたことも狩ったこともある目だ。 「なら教えてやろう。これはかすり傷だ」  その目が光った。目そのものが強い光源だった。 「喧嘩に刃物を使わんのは、おまえの主義か誇りか」  ちらりと真由美は、タコだらけの拳に目をやる。別に隠しも見せびらかしもしない。二年間ほとんど殴り合いをしなかったため、慢性的なムチ打ち症は治ったが、これは消えなかった。 「そんな大層なもんじゃない。人より刃物の方が大事だから。そんだけのこと」  一発でカタがつく銃なんてやっぱり持たない方がいいと、今は心底思う。喧嘩の度、身内に残る燃え切らないくすぶりに苛立った。そのくすぶりが真由美を強くしたのだが、どんな喧嘩をしても相手の体温の方が高いのに茫然とした。 「……刺されたくて、待ってたのかもしれないな」  まるで刺した奴をかばうように、男はちょっと笑う。その笑いが消えてから真由美は首のスカーフを取り、黙って傷口を縛ってやった。  手荷物は皆ゴミ箱にブチ込んだが、それだけは身につけていた。大切だからではない。ただ首筋が寒かったからだ。いつかここに刃物か縄をあてがわれる予感に、いつも寒い。 「あんた、そいつのオヤジに似てたんじゃねえの」  黙って傷口をゆだねる男は、真由美の言葉にまた少し笑った。 「おまえのオヤジにも似ているか」 「全然。だからこんなに親切にしてやってんじゃないかよ」  実は少し似ていた。病んでいるくせに血は澄んでいるところが。 「道、教えてよ。多少は間違っててもいいからさ」  立ち上がると、真由美は背をそらせた。男は座りこんだままだ。 「そしたら、誰か呼んだげるよ。警察がいい? それとも救急車?」 「国道の方に出るなら、そっちだ。それと……」  男の方が低い位置にいるのに、真由美より高い処から見下ろしている。 「誰も呼ぶな。見捨てて立ち去れ」  首筋が寒いのを除けば、なかなかに快適な夕暮れだ。真由美は男も後ろも振り返らなかったから、男の傷口はもう見えない。それが薔薇色だったかどうかも忘れた──。      *  ××市では知られた女暴走族『死美人』に入って半年足らず、十五になったばかりで三代目の頭に推されたのは、真由美が物凄く喧嘩が強いとか単車に抜群の技術を持っていたからではなかった。  もちろん、乱闘になれば素手でも真っ先に切り込んでいく、一瞬も怯《ひる》まない馬鹿として知られていたし、生まれて初めての中型に人を乗せて、国道を飛ばした実績もあった。だが、一時は三十人近くいたメンバーが次々捕まり、主だった幹部が根こそぎ鑑別所や少年院送りとなったため、残ったのは�男にチャラチャラしたがるハンパ女�ばかりになってしまったからだ。  硬派の看板を掲げている以上、たとえ相手が暴走族の男でも車の助手席や単車のケツに乗せてもらうのは屈辱だ。だがそれを屈辱と受けとめ、実行しているのは真由美だけだったのだ。  男なら警官だろうがヤクザだろうが先公だろうが問答無用で敵だ。男がらみで抜ける仲間へのヤキ入れは、敵対する暴走族との喧嘩以上に苛酷だった。慈悲も憐憫《れんびん》もかける方が馬鹿だ。その時は暴力の方が誠実なのだ。  それに原則はある。本気《ヽヽ》の恋だ。ただ一人の男を男と認めることのみ、許された。  その証拠に先輩のほとんどは、そこらのババ主婦よりずっと夫に尽くす貞淑な妻になっている。その先輩達が真由美を三代目にと推したのだ。頭は彼氏を作らないという不文律があった。守れるのは真由美だけだと先輩達は見たのだ。  しかし真由美が男にチャラチャラしないのは、敵と見做《みな》していたからではない。敵とするにはチョロすぎるからだ。なにせ真由美の身近な男といえば、金だ女だ名声だと、現世利益にばかりガメつい父親と、神経症でいつも目の下を痙攣《けいれん》させ、自殺未遂が趣味の浪人生の兄だけなのだ。  クラスメイトも教師も、B級ホラー映画で真っ先にブチ殺されるマヌケみたいなのばかり。族の男は一緒に走る時なら笑いかけてやっていいという程度。こんな世界に生きていれば、白馬の王子様など待ち伏せしておいてブチのめしたくなる。  それならまだ、情緒不安定でも金切り声を発しても、女といる方がいい。  たとえ柵の腐りかけた偽楽園でも、この6LDKの幸せの囲いを倒したくないと半狂乱になっていたのは家の中のもう一人の女。母だ。しかしこの母は、真由美を同志扱いはしてくれなかった。  その十五の日を思い出せば、胸よりも耳が痛む。排気音より鼓膜を痛めつけるのは、母の叫び声だ。冬の匂う秋。風に棘《とげ》があった。溜り場の店の二階に寝泊まりしていた真由美が久しぶりに家に帰ってきた午後だった。 「この売春婦! 売女《ばいた》! あなたは淫売よ!」  庭木伝いに二階の自室に戻った真由美は、階下の金切り声に息が止まった。母が自分を罵《ののし》ったのでないことはわかる。真由美は処女だった。おそらく仲間の中ではただ一人。自慢も卑下もできない、ただの事実。  真由美はそっとドアを開けた。隣の兄の部屋も開いていた。兄も聞き耳を立てているのではない。性懲《しようこ》りもなくまた睡眠導入剤を飲んで、母に発見してもらうのを待っているのだ。  兄は意識があるのかどうか。吐瀉《としや》物に顔半分を突っ込んでいた。押さえつけて農薬でも流し込んでやりたい殺意に燃えたが、今は母の方が先だと足音を忍ばせて降りていく。ちらりと視界をかすめたのは、鏡に映る髪を金色に染めた泣きそうな子供だ。そうだ、あたしは子供なんだと思い出して、足元が揺らぐ。  階段の中ほどで、母を見下ろす。母もまた、水からあがって震えている子供のようだった。電話の相手は、例によって父の浮気相手らしい。悪罵の語彙が乏しい母の、最高の悪罵が「売春婦!」か。夫の浮気は、娘の非行や息子の自殺未遂と同じくらいの日常なのに、母は一々傷ついて泣いていた。  奇妙に辺りは静かだった。チューニングの合わないラジオの雑音みたいな風の音、兄の鼾《いびき》、母の荒い息遣い。それが音のすべてだった。  唐突に真由美は、この世の終末を幻視した。それは生々しい焼け跡でも風化した廃墟でもない。人は死に絶えても街はそのままで、ただ風と鼾と荒い息遣いだけが聞こえる世界だった。  なんて可哀相な女。お嬢様の流れついた先は、成金で俗物の男に囲われた終末の崩壊家庭とは。だから真由美は暴走する。暴力を日常にする。決してこの国の男好みの女にはならない。どんなに大切にされても、しょせん家畜は家畜なのだから。  当の父は、とっとと猟銃を持って別荘に遁走していた。あんな奴に撃たれる獣がいるはずないのに、例によって安価な女と高価な犬と銃をお供にあらゆる物を嗤《わら》っているのだ。  犬や女はともかく、銃は持つな。心から健全な奴と心から病気の奴は、武器なんか所持しちゃならないんだと、真由美は苦い唾を吐く。族の単車だってそうだ。ただ通行人を脅かしたいだけなら、すっ裸になって自分の足で走るがいい。  真由美は自分を突き放すように誉める。あたしは単車も武器も持てる女だと。その代償に華々しく人生を棒に振ってやる。 「やめて! どうしてあなたにそこまで言われなきゃならないの」  突然の母の絶叫で、真由美にも相手の台詞がわかった。奥さん、アンタも旦那オンリーの淫売でしょ。愛しても愛されてもないくせにぃ、金と世間体でしがみついてるだけじゃん、あたしを悪く言えるほど偉くないよ。  その後の母の声は、激しい金属音だった。ヒステリー発作の凄まじさは、安いホラー映画など消し飛ぶ迫力だ。呼吸困難におちいってもがく母の電話を、相手の女は無慈悲に切ったらしい。 「みんなして、みんなして私を笑い者にして。許せない」  それでも母は受話器にしがみつき、人間の声帯の限界みたいな高音を発し続けていた。真由美は自分が恐怖に痺れているのを認めたくなかった。だが現実に立ちすくんでいる。噛み切れない舌が邪魔だった。  その時、頭上から激しい足音がした。顎と胸元を吐瀉物で汚したままの兄が、転げ落ちるように降りてきたのだった。 「ママ、ママ! なんで僕を放っておくんだよう」  薬のせいで退行したか、幼児になりきってわめいている。妹の姿など視界をかすめもしないようだ。その二人の抱擁を、真由美は立ちすくんだまま見つめていた。 「ああ、ごめんなさい政《まさ》クン! ママにはもう、政クンしかいないの」  もはや、終末幻影も浮かばない。汚い大人だなんて、そんな臭いフォークソングみたいな形容もしない。こいつらは子供なのだ。壊れた玩具も自分も手放せない、子供なのだ。大人とは汚いものじゃなく、子供より立派なものだろう。  痺れは止まる。恐怖を緩和してくれたのは、真由美にとって最も安らぐ感情、怒りだった。猛烈な勢いで階段を駆け降りる。  結局は母も、頼るのは男だ。息子と近親相姦して夫と心中して、男との愛をまっとうしてほしい。  ……そこから後の出来事は、まだ来ぬ終末の風景とダブっている。父は外国製の高価な銃は持ち出しているが、もう一梃国産の安い銃をガンロッカーに入れていた。そのことは母も兄も知っていたが、鍵の在処《ありか》を知っているのは父と真由美だけだったのだ。  父の部屋から鍵を持ち出し、ロッカーを開ける。真由美は真摯な殺意を抱えて、その中折れ式の上下二連銃の薬室に散弾を込めた。上にも下にも、一発ずつ。  装填の済んだ銃を担いで、真由美は母と兄のいるリビングに乗り込んだ。兄は呆気に取られた顔で妹を見上げるばかりだ。  真由美は無言で銃を構えた。正式な構え方などわからない。台尻をきつく肩に押し当てて、頬を銃床に押しつける。母が何か金切り声で喚いた。 「人殺し」  それが合図となって、右の人差し指は引き金にかかった。真由美はただ、終末を夢見ていた。自分の愛する刃物よりも、軽蔑していた父の銃の重みがなぜこんなに心地いい。 「ちゃんと外してやるよ」  狙って外すのと、狙いを逸らしたはずのものが命中するのと、どちらが罪が重いのか。どちらに称賛は集まるのか。  銃声は落雷よりも激しかった。二百メートル以上飛ぶ散弾が十五畳のリビングで炸裂したのだから、衝撃波はそこにいた三人皆の耳を痺れさせた。  充分に広がり切らなかった散弾の銀の粒は、霰《あられ》となって厭《いや》らしい母子像に降り注いだ。命中したのは人体ではなく壁だったが、至近で浴びれば痛手は被るに決まっている。  母も兄も、顔面一杯に細かな擦過傷を負い、血を滴《したた》らせた。抱いていた真紅の花が破裂してそれを浴びたような、見様によっては綺麗な顔になった。 「死ね」  とは、真由美は叫ばなかった。唇を結んだまま、続けて二発目を撃った。肩に響く痛みは心地よい揺らぎだった。こんな忠実な存在があったかと、その時だけはナイフよりも銃を愛しく思った。  ただ一つ失敗があるとしたら、耳栓をしなかったことだけだ。銃床で強《したた》かに頬を打たれたことと相俟《あいま》って、気が遠くなる。  唇に、久しぶりの微笑が灯る。ただ、幸せだった。母と兄は抱き合ったまま、失神していた。洩らした小便の匂いだけが後々も記憶にしつこく残った。  いきなり大音響で、周囲の音が戻ってきた。世界の終末は廃墟に風が吹き渡るのではなくお祭り騒ぎをしているのかと、その時の真由美は聞こえない耳を澄ませた。  何のことはない、こんな気取った住宅地にあってはならない銃声が鳴り響いたので、辺りはすぐに大騒ぎになっていたのだ。  両腕を警官に取られ、銃が床に落ちる音とともに真由美は我に返った。 「ここは、どこなんだよお」  気絶から覚めた兄が、茫然と呟いた。傍らの母は死んだふりをしたままだった。ざらざらと雑音混じりの終末の旋律が響く。真由美は素直に、警官に従った。壁に食い込んでいた銀の散弾の粒は、壊れた家族の影絵を描いていた。  ──少年院への送致が決まったのは、それから一ヵ月もしてからだったろうか。  女暴走族を率いていたことで、真由美の余罪は後から幾らでも出てきた。書類にも審理にも、した覚えのない盗みや壊したはずのない器物損壊まで付け加えられてあった。  父はどう手を回したか、娘の罪状に「殺人未遂」が付くのだけは阻止し、銃の没収も免れた。結局、父だけが無傷で済んだのだった。……いつものことだ。 『死美人』四代目は決まらなかった。警察の熱心さで、遂に解散に追い込まれたからだった。檻の中にいては、仲間のその後もわからない。  少年院での二年の間、真由美が繰り返し夢に見たのは、走ることでも家族団欒でもなかった。ナイフを持つことは、たまに夢見た。けれどやはり待ち焦がれたのは、そこを出てから迎える終末だった。  それは生々しい焼け跡でも風化した廃墟でもない。人は死に絶えても街はそのままで、ただ風と鼾と荒い息遣いだけが聞こえる世界だった──。      *  何故、またあの終末の幻がやってきたのだろう。真由美はぼんやりと、生温かくなった風の中に座り込んでいた。  奇妙に辺りは静かだった。チューニングの合わないラジオの雑音みたいな風の音、兄の鼾、母の荒い息遣い。それが音のすべてだった。でも、そんなのはおかしい。母も兄もここにはいないじゃないか。 「まぁっ、まぁっ本当になんでこんなことに。どうしましょう私っ、私の責任にはなりませんよね!? だってあんなにいきなり駆け出されちゃ、後なんか追えませんよっ」  金切り声で喚《わめ》いているのは真由美の母ではなく、迎えに来たのを振り切って置いてきたはずの保護司の中年女だった。  そうしてここは、少年院でもなければ生々しい焼け跡でも風化した廃墟でもない。人は死に絶えても街はそのままで、ただ風と鼾と荒い息遣いだけが聞こえる世界だった。  いきなり大音響で、周囲の音が戻ってきた。世界の終末は廃墟に風が吹き渡るのではなくお祭り騒ぎをしているのかと、真由美は聞こえない耳を澄ませた。  これもまた、あの時と同じだ。両腕を警官に取られ、真由美は我に返った。 「ここは、どこなんだよお」  確かあの時の兄も、そう呟いていたのではなかったか。ざらざらと雑音混じりの終末の旋律が響く。真由美は素直に、警官に従った。 「どうせ迎えてくれるんなら、ちゃんと院まで来てくれりゃよかったのに」  途中の道で真由美を待ってくれていた父を何故刺したかと問われ、真由美は途方に暮れた表情でそう答えた。 「たった二年で、父親の顔を忘れるか……ってね、普通は思うよなぁ。でもあたし、ほんとにわかんなかったんだ」  脱走ではないけれど、保護司さんを振り切って逃げて、と取り調べの婦人警官は威圧的に繰り返した。その上あんたは、さっそく入ったスーパーでナイフを万引きした。それで迎えに来てくれたお父さんを刺した。幸い傷は深くなくて命に別状はなかったけれど。 「今度も親父、罪状に殺人未遂がつくのだけはなかったことにしてくれるのかなぁ」  机越しに、婦警の肩越しに、真由美は閉ざされた窓を仰ぐ。まるで散弾の銀の粒にも似た光が射していた。その向こうには恐るべき終末ではなく、ありふれた週末の景色が広がっているはずだった。 [#改ページ]    鳥の中の籠  十五階建てのマンションの十五階、南側の角部屋は、きっといい部屋なのだろう。  南向きの窓からは、いつも曇り空の下にあるような灰色の街並みと道路しか望めなくても、そのフロアの中では最も家賃は高いのだ。 「ねえ、何か見える?」  その窓を背に、美由紀《みゆき》はいつも聞く。聞かれた人は少し困った顔をして、答える。 「街並みと空があるだけです」  死霊達もまた、同じことを答える。  彼らは直接、口では言わない。その虚《うつ》ろな眼窩《がんか》に、灰色の景色をそっくりそのまま映し出してみせるだけだ。 「私にも、何も見えないの」  最近は、訪ねてくる人もほとんどない。死霊達もまた、このところ大人しい。だから美由紀は一人、窓辺に身を乗り出す。  青い鳥が飛んでこないか、見知らぬ友達やまだ逢えない恋人が来てはくれないかと、手を差し出してみることもある。  掴めるのは虚空《こくう》だけだ。だから、ここから出て自らそんな人を探そうとも思わない。  誰かが、そう、多分それは担当編集者の女だと思うけれど、 「みっきさんは、自ら『籠の中の鳥』をやってますよね」  そんなふうに呟いたことがあった。閉じこめられて出られないのではなく、自ら望んで閉じこもっているのだと。  みっきこと美由紀は、漫画を描くのが仕事なのだから、そんなに外に出る用事はない。それでも、美由紀の外出嫌いぶりは際立っていた。食料品も洋服も下着も雑貨も、すべてはネットや宅配を利用する。打ち合わせは電話やファックス、メールだし、原稿の受け渡しもバイク便だ。気がつけば、一ヵ月まったく靴を履いていないといった生活なのだ。 「私が、籠の鳥?」  窓から身を乗り出すのではなく、窓を背後にしてみっきこと美由紀は答えた。 「ちょっと、違うわ。ここは籠じゃないし、私は鳥じゃないもの」  籠は自由に出入りできない。ここは自分の手と足でドアを開け閉めできる。それに自分に、翼はない。ここから飛べば、死ぬ──。      *  美由紀が漫画を描けることに気づいたのは、中学生も終わりの頃だった。それは、かなり遅いと言われる。漫画だけではない。美由紀はすべてのことに、気づくのが遅い。 「だから、小さい頃から漫画家を目指した、なんてのはないんですよ」  あれから五年も経っていないが、今ではちゃんとそれを仕事としている。親に隠れて読んだ漫画、自分にも言い訳をしながらこっそり描いていた漫画なのに。 「私はいつも、強く何かを望むことはないんです」  だから美由紀は、インタビューではいつも同じ答え方しかしない。 「ええ。とてつもなく恵まれて育った訳ではないけれど、私ってそんなんです。漫画だけじゃなく、すべてのことにおいて」  創作をする者が無欲で謙虚なはずはないのに、インタビュアーは妙に納得をする。目の前の女が、本当にどこか途方に暮れた子供のような顔をしているからだ。 「それまでは大抵の女の子に覚えがあるように、授業中に回す手紙にイラストを添えてみたり、文化祭のポスターに人気漫画の模写をしたりはしていましたけど。特別に巧《うま》い、と自惚《うぬぼ》れたことはありません」  それがふと思い立ち、初めてケント紙にインクを使って描いた作品を雑誌の新人賞に投稿してみたところ、いきなり最終審査に残ってしまったのだ。 「でも。結局、受賞はできなかったし、そろそろ受験勉強も本気で取り組まなければならなかったから……」  言い訳までいつも同じだ。本当は何よりも両親が、そんなの自慢にも希望にもなるか、と不機嫌になるのを恐れたのだ。  有名な都市銀行に勤める父と、世間の人が幸せと言うものが幸せだと信仰する母に対して、美由紀は強い主張も言葉も持てなかったのだ。  弱ければ、パパママが守ってくれる。大人しくしていれば、神様も慈悲をくれる。だから私は、強くなったり自己主張をしたりしてはだめ。 「それはささやかな自慢としてごく親しい友達にだけ知らせて、この道を目指そうなどとは考えませんでした」  その後、口を噤《つぐ》む場面も繰り返された。美由紀はもじもじと、膝の上で指を絡ませながら言葉を選ぶ。当たり障りのない、身の上話と近況報告。  もしかしたら、美由紀が必死に隠していることも、インタビュアーや読者にとっては何てことのない凡庸な物語かもしれない。 「それでも、結局は漫画を描くことが好きだったんですね。いつのまにか依頼が来るようになって、それに応える形で描き始めたんですよ。それで現在に至る、って感じです」  商業誌でのデビュー作は親に隠れてだったから、ペンネームを使った。だが、そのペンネーム「みっき」は、いつの日か本名に取って代わる予感をもたらした。 「ペンネームの由来ですか。私の名前は美由紀でしょう。小さい頃の呼び名は、みっきだったんです」  みっきが本名になる日は、終末なのか新たな旅立ちの日かはわからないが、きっと晴れた日だという確信はあった。 「ええ。父にも母にも、そう呼ばれてました」  美由紀は幼いみっきの頃から、現世や現金で購《あがな》える物にはさほど興味も執着も持たなかった。おそらく、現世や現金に恵まれていたからだろう。  みっき。親にそう呼ばれていた時期は、ごく短い。 「みっきは大事な一人娘だ」「みっきは賢いわ」「みっきは可愛いお嫁さんになるぞ」「みっきのおうちは、幸せなおうちよ」……。  あの日々は、なぜあんなに晴れていたのか。なぜあんなによく眠れたのか。再びあの晴天と、眠れる日々は巡ってくるのか。  それからもう一つ。美由紀が自分に霊能力があると気づいたのは、漫画を描くよりずっと早い時期だった。      *  そんな人々の大半がそうであるように、美由紀もまた自分が特別だとは思わなかった。  通学路の四つ角に角が三本ある鬼の首が転がっているのや、繁華街に半透明な人々が浮遊するのを見るのは日常だったから、恐怖には結びつかなかったのだ。  恐怖はただ一つ。親に捨てられやしないかということだけだった。あんなにみっき、みっきと可愛がられていたのに。  それはある日、たまたまテレビの心霊特集とやらにチャンネルが合ってしまった時、思い知らされたのだ。美由紀は傍らの母に、つい言ってしまったのだった。 「こんなの怖いの? みっき、これよりすごいのよく見るよ」  母は物も言わずに教養番組に替え、それこそ悪霊のような顔で怒った。 「嘘つきはお家に入れませんよ」  その時、捨てられる自分に怯えながら窓を見上げた美由紀の目に映ったのは、去年死んだ祖母だった。  ママと激しく憎み合っていた、おばあちゃん。輪郭は白いのに、空洞の口は真っ黒だった。祖母はしばらくその口で笑ってから消えた。  その時以来、美由紀はそのことに関しては口を閉ざした。たとえ母の背後から、見知らぬ誰かの灰色の髪の毛がぞろりと肩にかかっていても、父の足元の影が半分に割れているのを見つけても、黙って知らん顔をした。  それが直接の原因ではないだろうが、ちょうどその頃から父と母は美由紀をみっきと呼んでくれなくなったように思う。  美由紀が再び漫画を描き始め、霊能力も公言するようになったのは十七歳を過ぎた頃だった。きっかけは、急激な家庭の崩壊。美由紀にとっては、ゆっくりと訪れた解放。みっきの晴れた日々が戻ってきた。  父が突然の脳溢血で倒れた。翌日、良くて植物状態だと医者に宣告された。母が半狂乱になった。それまで演じていた良妻賢母の仮面をはぎ取り、幸福な家族の舞台から飛び降りた。 「私が大学に行けなかったのは父のせい、私が仕事を辞めなきゃならなくなったのは夫のせい、私が好きなこと何にもできなくなったのは美由紀のせい、とにかく、何でもかんでも誰かのせいなのよ!」  母は故人や病人や娘を憎み罵《ののし》った。病的なほど整理整頓好きで潔癖で冷静だった母なのに、家の中は荒れ放題になった。手当たり次第に物や人に悪意のエネルギーをぶつけて暴れ、父も娘もほとんど捨て置かれた。  美由紀はそんな母に、幻滅などしなかった。 「やっと本来のお母さんに戻ってくれてよかった」  と、柔らかな憐憫の眼差しを注いだ。実際、荒れ狂う母は愛らしかった。物も言えず寝たきりになった父も、無垢な赤ん坊のようだった。  父は植物状態にすらなれず、あっけなく世を去った。しばらく惚《ほう》けていた母は、唐突にパート先の若く貧しい男と出奔した。美由紀は進学を断念した。  すべてが納まる所へ納まったのだ。ならば微笑《ほほえ》んでいよう。やっと美由紀は、そう親しくないクラスメイトや教師にも、 「漫画家になります。最終審査に残った所から、描いてみないかと誘われているし」  と打ち明けられるようになり、表札の自分の名前の横に、みっきの名前も書き加えた。  死んだ父の名前も不在の母の名前も、まだひっそりとその表札には残されている。実際にその名前の中でちゃんと生きているのは、「みっき」だけだった。  そうして、晴れやかな昼とゆっくり眠れる夜が来た。親しい友達や親戚が去っていったのと引き替えに、遠慮がちだった死霊生霊も堂々と訪れるようになった。  玄関にはいつも、腐った麦藁帽子をかぶる三歳くらいの女の子が座っていた。座敷の箪笥《たんす》の陰には、朝顔の模様の浴衣を着た男とも女ともわからない後ろ姿があった。台所の天井に、夫は必ず私の元に帰ってくるわ、と呟き続ける中年女の恨みの念が渦巻いていた。風呂場のシャワーから時々、異国の子守歌が流れてきた。居間のテレビの後ろからは、昼の十二時ちょうどに白い女の手が出て手招きをした。  彼らのことは描かなかった。なぜなら実際の怪異より、創造する怪異の方が漫画的には怖いからだ。本物の死霊達は皆、哀しそうだ。殺す殺すなどと快活に暴れている者はいない。完結し損ねた地上への未練だけが、わずかにこの世を歪ませている。  そんな中で黙々とペンを走らせ、ホラー物で美由紀はなかなかの人気を博した。連載も持った。アシスタントは付けず、一人で背景から服の模様まで丁寧に描いた。だから量産はできないが、その寡作ぶりもまた熱心なファンを呼んだ。  見知らぬ人にもみっきと呼んでもらえるようになり、死霊達までがみっき、と呼びかけてきた。だが、身の回りの怪異には慣れきっていた美由紀も、心底怯える現実はあった。  ファンからの手紙。いわゆるファンレター。大抵は編集部宛てに届けられるが、中にはどうやって調べたか、住所と美由紀の本名を正しく書いて投函したものや、切手を貼らずに直接ここのポストに入れていったものまであった。  もちろん、他愛ないものや好意的なものもあったが、半数はそれだけで生地獄みたいな不幸の手紙だった。 「電波で君との婚約を世界中に報せた」「よくも私の真心を踏み躙《にじ》ったな」「一緒に死にましょう」「お前は私の生まなかった子供だ」「生きて地獄に住みたい」「貴女の肺と肝臓を下さい」「僕の背中に咲いた花を贈ります」……。      *  他人との距離の取り方も、自分との折り合いの付け方も知らない人々からの脅迫状に混じり、その清潔な手紙はあった。  まるで硬筆のお手本のような、端正な硬い字だった。その封筒に触れた瞬間、美由紀は震えた。予知能力はないはずなのに、いつかこの人に酷《ひど》いことをしてしまう、そう思わされたのだ。 『僕はみっきさんの第一の、ではなく、大勢の中のただの一人のファンです。お邪魔にならない程度にお手伝いさせていただけませんか。僕は工業高校デザイン科の生徒です』  美由紀は初めて返事を書いた。いつでも来て下さいと。 「一刻も早くあなたに謝罪したい」  と、何度も書いては消した。その佐藤雅彦《さとうまさひこ》と署名された便箋を、繰り返し震える指でなぞった。  デザイン科の生徒ならそれなりに描けると思うが、その絵よりもこの字を書く手を見たかった。できれば触れさせてほしかった。きっときれいな骨格の、清潔に乾いた冷たい手だ。  雅彦は、美由紀の手紙が届いたと思われるその日のうちにやって来た。初め美由紀は彼を、新たに棲み着いた死霊と錯覚した。 「お言葉に甘えて、来ました。佐藤です」  玄関にたたずむ彼は、きれいな骨格の、清潔に乾いた雰囲気の男の子だったのだ。  手がやって来た、美由紀はそう思った。だから何の警戒もためらいもなく、仕事場にしている居間に招き入れた。  初夏なのにどこか寒々しい居間には、一人しか座らないのに大きなテーブルと四脚の椅子がある。食事もし、仕事もするテーブルだ。知らない人が見れば雑然と、多少は漫画の知識がある人が見れば整然と、画材が揃えられてある。  二人は、向かい合って座った。美由紀は窓を背にする。雅彦からは、美由紀と窓外の景色が見えるはずだが、その視線はとても遠い所に当てられていた。 「あ」  ふいに、雅彦は声をあげた。その視線をたどって、美由紀も窓の方を振り返った。 「どうかしましたか?」 「……何か、落ちてきたように見えたんです」  窓外には、何の変哲もないいつもの街並みと空があるだけだ。けれど美由紀は、目の前と背後に胸の高鳴りを覚えていた。  目の前とは、雅彦だ。背後とは、鳥がいたはずの空だ。 「どんな物だったの」 「ハンカチかな」 「じゃあ、飛んできたのじゃなくて」 「落ちてきたんです」 「どこから」 「ここ、十五階でしょう。だったら、十五階よりも上ですね」  美由紀は立ち上がり、窓辺に近づいた。サッシ戸を開けると、ベランダに出る。柵に手をかけ身を乗り出した。  下のコンクリートの路上には、何も落ちてはいない。 「何もないけど」 「じゃあ、僕の目の錯覚だ」  いつのまにか、雅彦も隣に来ていた。触れそうなほど近くにだ。美由紀は特に頑《かたく》なだったつもりはないが、男の子と交際をしたことがない。グループで遊園地に行ったり、ファミレスに寄ったりと、せいぜいがそんなものだ。  それでも、今日はあっさりと見知らぬ男を部屋に入れ、こんな近くにも来させている。あまりに自然で、美由紀は見慣れたカーテンでも見る目で雅彦を見ていた。 「どこからか、青い鳥が飛んでこないかなぁ、って思ってるの」 「いつか、飛んできますよ」  二人は老夫婦のように寄り添って、部屋に戻った。吹き込んできた風に、ペンと紙の位置が少しだけずれていた。そのずれは、そのまま二人にも当てはまった。さっきと、少しだけ位置が違っている。 「テストってほどじゃないけど、何か絵を描いてみてくれる?」  美由紀は紙とペンを滑らせる。雅彦は、目の前に置かれたそれにじっと目を落としていたが、もじもじとそのままの格好で言った。 「今日は、ストーリー作りの方をしたいんですが」 「何か、案があるの」 「そうですね。とりあえず、僕の身の上とか」  耳たぶのすぐ後ろで、風の音がした。いや、それは瀕死の鳥の羽ばたきだったのか。雅彦の語る両親の話は、美由紀のそれとよく似ていた。  それは運命の出会いなどと意味付けられるものではない。二人の両親は、ともにこの国ではありふれた両親なのだ。 「……で、父親はその若い女の所から帰ってこなくなったんです。母は、それでおかしくなって病院とか入ったりもしたんだけど」  玄関の、腐った麦藁帽子をかぶる三歳くらいの女の子が彼の隣に座っていた。座敷の箪笥の陰にいるはずの、朝顔の模様の浴衣を着た男とも女ともわからない後ろ姿は、ベランダの前にぼんやりたたずんでいた。台所の天井に、夫は必ず私の元に帰ってくるわ、と渦巻いている恨みの念は、やはり窓辺に拡散していた。風呂場のシャワーからは、異国の子守歌が流れてきた。昼の十二時ちょうどになったため、テレビの裏から白い女の手が出て手招きをした。 「突然なんか弾けちゃって、まるで高校生みたいに携帯の出会い系サイトで知り合った、僕とそう歳の変わらない男に入れ揚げてたんですよ。それで借金までこしらえて」  そのくらいなら、耐えられる苦しみだ、と雅彦は呟いた。 「その頃僕は、隣の女子高に通う女の子と仲良くなった。今時の子とは違って、なんて言うと年寄りみたいだけど、髪も真っ黒だし化粧もしてないし、真面目で控えめで、ほんといい子だったんですよ」  美由紀の瞼に、その女の子が浮かんだ。かなり正確に、その肌理《きめ》の細かい肌に、美由紀は嫉妬を覚えた。  そこで雅彦は、まるで自分の母親のように、どこかを弾けさせる。 「でもダメでした。彼女の親が、うちの親の悪い評判を聞いて、交際をやめさせられたんです。彼女、親の言うことよく聞くイイコだったから……」  衝動的に街に出た雅彦は、そこである新興宗教の勧誘に呼び止められたという。 「ウチの神様はあなたのような人を救います、求めます」  今はおどけてその勧誘者の口調を真似るが、その日のうちに入信したのだと告白した。 「その日のうちに、そこの神様にも信者にも幻滅しました」  自慢と悪口しか口にしない神様と信者。不安と猜疑心《さいぎしん》ばかりを増幅させる教義。神様ですら無償の愛はくれず、そこらの凡庸な大人以上に強欲だった。 「いきなりインチキな霊感商品販売のためのワゴン車に乗せられて、全国を回らされたんですよ」 「なぜ逃げ出さなかったの」  美由紀は、そこでようやく口を挟む。 「全国を回れば、素敵な死に場所が見つかると期待したから」  初めて、雅彦は嬉しそうに笑った。 「半年、車で生活しました。信じてもいない神様のために、珍味だの壺だのを売ってたからかなぁ。ここで死のうよぉ、って、低級な声ばっかり聞こえてきたんで、そんならうちの方がまだマシだと思って。先月ようやく逃げ出しました」  ここで死のうよぉ。幸いにというべきか、美由紀の耳にそんな声は入らない。 「あ〜あ、『青い鳥』のクソッタレ版てとこかな」  うちには最初から、青い鳥なんかいない。  そこで、雅彦は沈黙した。 「フラリと入った食堂に、みっきさんの漫画が載ってる雑誌があって」  雅彦はまた、美由紀の背後に落ちる鳥がいるかのように視線を滑らせた。 「デザイン科は嘘じゃないけど、一年で中退してます。すみません」  どうしようもない親や神様の次に選ばれたのは、自分か。それでもこの手には惹《ひ》き付けられる。この手に祈って貰えるなら、インチキな偶像のふりをしてもいい。御利益はない代わりに罰も当てないから。 「あ、上から落ちてきた」  雅彦は立ち上がり、手を突き出す格好をした。思わず美由紀も立ち上がる。雅彦の視線はベランダの向こうに据えられていた。  二人は並んでベランダに出る。雅彦は、上ではなく虚空を見つめる目をした。 「鳥だよ、みっきさん」  その眼差しは、すんなりと美由紀にも注がれる。美由紀は手摺りから身を乗り出し、下を覗く。そこには鳥の死骸などなかったが、無残な青い鳥の残骸は見えたのだ。それは二人にしか見えない鳥だった。  雅彦の手は、美由紀の手に置かれていた。ひんやりとした、清潔で乾いた手だった。  ──その日から、雅彦は美由紀の部屋に棲み着いた。一年で中退したと打ち明けてくれたが、雅彦はアシスタントとしてもかなり優秀だった。 「すごいわ、雅彦くん。今までもアシスタントは頼んだことあったけど、どの人とも合わなかったの」 「それは嬉しいな」 「なんていうか、絵柄より感覚が違うのね」 「僕はひたすら、みっきさんの絵を真似ているだけなのに」 「今までは、私の絵の中に、まったく異質なものが入りこんでくるのが息苦しかったけど。雅彦くんのは違う」  仕事場であり、居間であり、寝室ともなった部屋。ベランダからはいつものように虚空と、飛んでいない鳥とが見える。 「本当に、私がもう一本右手を得て、描いているみたいよ」  そう囁いて、隣に座る雅彦の透き通るほど白い頬を撫でようとした時だ。 「そうですよ、しっかりして下さい、みっきさん」  ふいに女の声がして、美由紀は椅子から転がり落ちた。  ばさばさと、激しい羽ばたきの音がして、開け放ったベランダから生温かい風が吹き込んできて原稿を散らした。  絶叫したつもりだが、それは喉でひっかかる擦《かす》れ声にしかならなかった。 「雅彦さん、どこ」  乱雑で、しかもすえた異臭のこもる部屋には、自分と担当編集者と小太りの管理人の男しかいないのだ。ついさっきまで隣にいたはずの雅彦が、文字通り消え失せている。 「そんな人、いません。しっかりして下さいよみっき、美由紀さん」  美由紀は這《は》いずりながらも、ベランダに近づいた。慌《あわ》てて取り押さえようとする担当を死に物狂いで振り切り、這いつくばったまま手摺りの下から下界を覗く。 「あっ。死んでる」  美由紀のあまりの狂乱ぶりに耐えかねて、編集者も細い悲鳴をあげた。美由紀の霞《かす》む視界には、確かに死んだ青い鳥と自分と雅彦の死体が映ったのだ。  それは風によってさらさらと吹き消されていき、後には乾いた路地だけが残された。      *  電話での受け答えがあまりに支離滅裂であったため、担当の女性編集者がみっきこと美由紀のマンションにやってきた。事情を説明し、管理人に立ち会ってもらって鍵を開けたところ、美由紀は栄養失調寸前の痩せこけた体で床に倒れていたという。  すぐに病院に運ばれた美由紀は、ようやく回復したところで、雅彦さんはどうしているの、と真っ先に訊ねた。 「つまらない悪戯の手紙ですよ。住所も名前も嘘だし、第一『僕は美由紀さんと一緒に美由紀さんのマンションから飛び降りて死ぬのです』なんて内容。悪質ですね」  美由紀さんはその手紙に惑わされて錯乱したのです。そう、担当編集者は言い切った。一階の病室の窓ガラスには、確かに青い羽根が一枚、貼りついていたというのに──。 [#改ページ]    淫らな夏風邪  昔、といってもそれは子供の頃ではなく、学生時代のことでもない。たかだか数年ばかり前のことだ。 「昔、その女の作家が好きで。その人のばっかり読んでたの」  わたしは昨日の午後から、トイレ以外まったく出ていけないリビングの隅にいる。およそ十二畳の部屋の、窓のない方の壁際だ。四人掛けのテーブルは、食卓でもあり仕事の机でもあった。今は、仕事の机として座っている。 「でも、本棚にはないですね」  反対のベランダ側には、革張りの二人掛けソファが置いてある。そこに一人で座っているのは、彼だ。  彼もまた、昨日の午後からここにいる。彼は、わたしよりはこのリビングを出ている。出前の受け取り。隣のコンビニまでのちょっとしたお使い。ロビーの隣にある郵便受けまで、郵便物を取りに行ってもくれる。 「昔の本も荷物も全部、前の夫の家に置いてきたから」 「新しく買い直す気はないんですか」  彼の声はいつも一定で丁寧で、哀しい安らぎを得られた。わたしはキッチンの方に背を向けて、いったいいつから向かい合っているのか曖昧になってきた、パソコンのキーを叩いている。眠たげな午後の逆光が、ディスプレイを眩《まぶ》しく光らせていた。 「全部、記憶しているからいいの。出ている作品は全部、読んでるし」 「それに、あの作家は死んでしまいましたものね」 「うん。新作が出ないんだもの」 「あなたの新作は、大勢の人が待っているんですよ」  エアコンから吐き出される冷気は、外の気温とそんなに極端に差がないよう調整してある。もちろんこれも、彼がしてくれた。  彼は、自分の勤める出版社が出している週刊誌を時折めくりながら、どこも見ていない眼差しをわたしに向けるふりだけをする。  その週刊誌に、彼は携わってはいない。それどころか、彼は確かにわたしの担当ではあるけれど、今書いている原稿はまったく違う出版社に頼まれているものなのだ。仕事を抜きにすれば、彼がここにいる理由はないのだった。  締め切りだって、差し迫ってはいない。それにこの原稿の担当は、どちらかといえば事務的にすべてを済ませたいという種類の、悪意もなければ情もない年配の女性で、それほどうるさく催促もしない。進行状況はどうだと聞きに来ることもない。書いて、渡して、終わりだ。  彼は、わたしに夏風邪を移しにきたのかもしれない。わたしは、だんだんとそんな気持ちになってきていた。 「どこまで話したっけ」 「大分、疲れているみたいですね。声が少し、変わったようです」 「……いつ、風邪ひいたのかな。思い出せないわ」  眠気は体に瞼に、ねっとりとまつわりついてくる。けれど、ここで寝てはいけない。ますます風邪は悪化する。  目を覚ますためにも小説を書かなければならないけれど、わたしは密かに彼に内緒で画面を切り替え、受信メールを確認する。まだ、来てない。仕方なくワープロ画面に戻す。  相手は、二年前に別れた夫だ。その女の作家の作品を愛読していた頃は、この男の妻だった。そうして、そこにいる彼を知らなかった。 「その作家がね、近所のお店に買物に出かけるのはいいんだけど、必ず何かを買い忘れるの。それをどこかの角を曲がった所で必ず思い出す、って」  わたしはそこで、ふっと寒気を覚えた。彼への軽い恐怖感などではない。現実に、わたしには微熱があった。嫌な曲がり角を、わたしも曲がってしまったことを実感したのだ。曲がって何かを思い出しても引き返せず、前に進んだ。だから、今わたしはここにいる。 「僕も、そんなことありますよ。あなたに会うといつも、小学五年生の夏を思い出すんです」  わたしは、切りのいいところで終える。どこか虫の鳴き声めいた軽い音を立て、昔好きだった作家のそれとは比べものにならない粗雑な物語をプリントアウトしていく。ワープロ画面を再び終了させてメール送受信に切り替え、ソファの方に行った。 「出来たところまで、見てくれる?」  彼に、数枚の紙を突き出す。彼はそれを静かに右手で受け取り、左手で隣に座るよう手招きをした。いつも丁寧な口調の彼は、そんな態度を取っても遠慮がちに見える。 「いいですけど。なんか、風邪っぽくないですか」 「そう。いつひいたかわからない」 「どこかの角を曲がったら思い出す、というもんでもないのですね」  彼の左側に座る。熱は火照りではなく寒気だ。エアコンの人工の風になぶられ、わたしは肌を粟立《あわだ》てる。無臭の彼は、エアコンを止めても汗をかかない。 「これがよかったら、僕の小学五年生の夏の話をしてあげますよ」  彼は膝の上で、右手だけを使って紙をめくって読み始めた。左手はわたしの二の腕を掴んでいた。盛り上がったりへこんだりしている訳ではないのに、彼の指はわたしの二の腕の微《かす》かな傷痕や黒子《ほくろ》の位置を正確になぞる。 ≪……何せ、安普請のアパートです。夏など窓を開けておりましたら、隣の部屋の物音は筒抜けなのでした。  誠《まこと》は隣に越してきたのが、正式な夫婦ではないことはすぐにわかりました。やつれ方が艶っぽい、くたびれ方が色っぽい女の方は、夜の勤めのようです。そうして甘い顔立ちなのに、妙な凄味と暗さを持つ男の方は、女より三つ四つ年下の感じでした。  たまに昼間会うと、主導権は年上の女が握っているようです。しかし夜は違います。年下の男の方が、主人なのでした。それは手にとるようにわかります。  甘い嬌声ではなく、ほとんど苦痛に耐える呻き声。女はいつも最後に泣きます。しかし誠は、その女よりも男の方に言い知れぬ感情を抱くようになっていったのでした。  といっても、誠は二十五になる今日までに、まったく同性愛の経験はありません。それほど多くはありませんが、付き合ってきたのも女でしたし、借りるアダルト向けのビデオもDVDも、好みの女が主演しているものに限られました。自慰をする時に思い浮かべるのも、当然女でした。  その男が引っ越してきてから、変わったのです。隣の男と女は、大抵は朝方に交渉を持っております。誠は堅気の会社員ですから、その時間は熟睡しています。だから彼らに度々、安眠を妨げられていたのでした。  眠りと覚醒の狭間で、誠は何時の間にか隣の女になっています。そうして、あの男にいいように弄《もてあそ》ばれているのでした。  夏の陽射しに焼けた畳に敷かれた、薄くて湿った布団。誠は男によって上に上に突き上げられ、畳に半身をはみ出させて喘ぐのです。そう、女のように。  男はその誠を捕まえて、恐ろしい力で背後から締め付けます。そうして、恐ろしい声で責めるのです。 「隣の男にも、色目を使っているだろう」 「ああっ、そんなことしていません」  責め立てる口調とは裏腹に、男が背後からまさぐる手つきの優しくも淫らであること。誠は泣いてしまうのでした。女のように、さめざめと。  そんな時、下着を汚して目覚めます。隣ではまだ、女が息絶え絶えの声をあげているのです。ああ、自分が夢の中でされていたのと同じことを、されているのだな。誠は激しく女に嫉妬するのでした──。  生活の時間帯がまるで違うので、隣の男女とは滅多に顔を合わせません。合わせるとしたら、どちらも休日の日曜です。ある日曜の昼下がり、誠は階段の踊り場で女の方に会いました。  女は水仕事をしていたようで、手を濡らしておりました。ひらひらとしたエプロンをつけています。女はなぜ、そのエプロンで濡れた手を拭わないのでしょう。まるでその手に頬を撫でられたように、誠は感じました≫  ……読み終えた彼はその原稿を、ソファの前にある小さなテーブルにほとんど投げるように置いた。かさかさとエアコンの風に原稿は鳴り、死んだ蝶の羽根を思わせた。 「つまらなかった?」 「これの担当は、こういう話を望んでいるんですか」 「……これの担当は、そもそもわたしの作品をあまり買ってないもの。今ちょっとだけわたしが売れているから、とりあえず一本、て感じに依頼に来ただけ」  わたしは彼に覆いかぶさったりはせず、そのまま隣り合った格好で手だけ伸ばした。彼の耳たぶを摘《つま》んだのだ。 「わたし、変な癖があったの。添い寝してくれる母親にも、預けられていた保育園のお昼寝の時間だと保母さんにも、耳、耳って手を伸ばしてね。触りながら寝るの」 「長じては、男の人にしていたのですね」  耳たぶをひっぱられながら、彼は静かに聞く。そこからは何の感情も読み取れない。わたしは自然に彼の首筋に顔を近づける格好になっているが、彼は行儀よく座って前を見ているだけだ。 「冷たいから、気持ちいいんですか」 「一番、先端という感じがするからかな」  わたしは目を閉じる。書いている小説の主人公、誠の気持ちにはなかなか感情移入ができないでいる。誠の隣に住む男はきっと、体臭が強いはずだ。それは明記していないけれど、そんな雰囲気だ。 「あなたって、本当に匂いがないのね」 「そんな神経質に、気を遣ってやしないんですが」  人工の風の向こうで、天然の風の音もした。台風はとうに去ったけれど、今日は時々強風が吹き付ける。  耳たぶから手を離して、わたしは滑り落ちるように床に座った。そこに行儀よく揃えられた彼の、裸足の指をなぞってみる。見方によってはちょっと奇怪なほど、長い指だ。一本一本が離れていて、隙間が清潔だ。爪だけは丸くて愛らしい。 「くすぐったくない?」  跪《ひざまず》く。というより、ほとんど這いつくばる。わたしは、そっと彼の右足の親指を口に含んでみた。誠の物語の続きが、突然に閃いた。当初の予定とはまったく違うものだ。彼は微動だにしない。嫌がりも悦びもせず、わたしに指を舐められるがままになっている。 「平気です」  わたしは、彼の指を離すと立ち上がった。彼は再び、テーブルから原稿を取り上げて読んだ。こちらには一瞥《いちべつ》さえくれず、紙に目を落としていた。  濡れた右足の親指だけが、真っすぐにわたしを指していた。  足音を忍ばせて机に戻ったわたしは、椅子を引いた。パソコンの画面に、メールが届いているという表示があった。元の夫だ。わたしは、クリックして、元の夫からのメールを開ける。 【先日は、どうも。そっちへ出張の度に会っていることを、今の嫁に知られたらオシマイじゃ〜。というか、二度目の離婚でしょう。  それはさておき。実は今、若い女の子と付き合っているのです。ほら、アンタも知ってるアオキ文具の息子。あいつのお古といったらなんかバッチイので、紹介、ということにしときます。いわゆる、援助交際ってやつか。  青木が言うには、何度会っても、「今、生理中なの」って言い訳するんだと。ひどい女だなあ。けど青木って妙なとこカッコつけだから、「じゃあ、いいよ」と引き下がる訳ね。金どころか、さんざんご馳走させられてアレコレ買わされてるってのに。ちょっと、昔のアンタのようですね。(笑)  でも私はもう、そんな甘い男ではなくなりましたよ。「あっそう、ボクは平気だから」と、今まで三度会ったけど三度ともばっちりやらせていただきましたとも。しかし潤滑のローションを隠し持ってて、それが巧妙にじゃないんで白けます。二度目からは、股間にべたべたそれ塗り付けてやって来たよ。もう、モロにプロ! という趣でしょう。これで繊細なところもあるわたくし、萎えます。(苦笑)  まあ、それはさておき。先日はホテルとって、壁際のソファでやってたんですよ。アナタとも、結婚前はよく行ったあのホテルですよ。アナタはベッドよりソファの方が好きでしたね。なんか、それが懐かしくて。  そしたら、突然に下の道路でけたたましいサイレンの音が鳴り響いて。パトカーも救急車も消防車も。ギャンギャンという感じに走っていって、こりゃどこかでクーデターが起こったか他国が攻めてきたか、と仰天。それでもしっかり腰だけは振っていましたけどね。  そうそう、あのビル火災ですよ。死者も相当出たとは、アナタもニュース等で知っているでしょう。風俗店ばかりのビルだったんですよ、あれ。  しかし、一夜のプレイ、と思い込んでいた男女が心中するはめにおちいるとは。柄にもなく悲哀を感じて合掌しました。やはり、死ぬほど好きな相手と死にたいですよね。  ともあれ、これからは余所でエッチをする時は、非常口に気をつけよう、と思いましたよ。あ、そうそう。来月の出張が決まりました。会えますか】  わたしは読み終えるなり、削除した。元の夫は、今頃になってわたしへの未練を隠さなくなっているのだ。その若い女のローションどころではない。  即座に、ワープロ機能に切り替えた。彼には何も気づかれてはいない。そのはずだ。わたしは生真面目な面持ちで、続きを書き始める。 「きっと、面白くなるはずよ」 「そうですね。そんな予感がします」  ちらりと彼の方を向く。足の指は涼しげに白かった。わたしの口の中はしかし、彼の指の味ではなく、元の夫の性器の匂いを反芻《はんすう》していた。 ≪その女は唐突に、誠にその濡れた手を押しつけてきたのです。両頬を挟まれて、誠は棒立ちになりました。 「あんた、可愛いわね」  ほんの少し、訛《なま》りがありました。日本のどこかの田舎ではありません。日本の近隣の他国の訛りでした。その女はすぐにひらひらと、階段を降りていきました。誠は立ち尽くします。隠微な風に、頬はすぐに乾いていきました≫ 「ああ、駄目。いきなりつまずいちゃった。ううん、ここからどうしよう」 「ここまではまずまずだったから、僕の小学五年生の夏の話をしてあげましょうか」  ワープロを終了させ、わたしは椅子から立ち上がった。 「あなたの話を聞きたい。ちょっと休憩していい?」  わたしはキッチンに立つ。コーヒーがあまり好きではない彼のために、紅茶をいれる。 「僕は大体、幼稚園の頃から大人しい子だったんです。どちらかといえば、いじめられっ子かな。どちらかといえば、という程度ですけれど」  丸い磁器のティーポット、四角な茶葉の缶。ティースプーンで四杯入れた。彼の分とわたしの分、そして小説の中の誠と、会社のパソコンの前に座っている前の夫のために。 「だから好きな女の子なんかがいても、一緒に遊んだり帰ったりということはできなかったんです。それが五年生の時、初めて僕の方から動いた、動かされた子がいたんです」  冷蔵庫から、ミネラルウォーターのボトルを取り出す。それを振って、酸素を多く含ませた。紅茶はインドのアッサム。晩春から初夏にかけて摘まれた花芽の多いこの紅茶は、甘く濃く、重い。 「その子も大人しい子で、あまり友達がいなかった。何人かと帰ってるんだけど、どこでその子が一人になるか、僕は知ったんです」  沸騰した湯をポットに注ぐと、傍らで砂時計を引っ繰り返す。五分間。深い赤になっていく紅茶の香りを分析すれば、薔薇と菫《すみれ》と鈴蘭だという。 「あなたが昔よく読んでいた作家のエッセイではありませんが、そこの角を曲がると……ですよ」  お湯を注いで温めたカップに、赤い紅茶を注ぐ。香りを吸い込んだ時、軽く咳が出た。僅かに鳥肌が立っている。さっきより、発熱しているはずだ。 「僕は待ち伏せをするようになったんです。そうして、虐《いじ》めるようになりました。例えば、そうですね、『生理っての、もう始まったんだってな』『お前、なんか気に触るんだよ』『さっき、パンツが汚れているの見たぞ』とか」  彼の前に、カップを持っていく。彼もわたしも、紅茶には何も入れない。ただ薔薇と菫と鈴蘭の匂いを嗅ぐ。それは心許ない幻の香りだ。実際に薔薇や菫は入っていない。ただ分析すれば匂いの成分が同じというだけだ。 「ああ、どうも。……ええっと、その子ね。虐められている時は泣くんですよ。僕を恐れて、逃げようともする。だけど」  わたしは彼から逃れるように、パソコンの前に座る。いつも丁寧に「です、ます」の口調を崩さない彼が、わたしに向けてではないとはいえ、唐突に乱暴な口調になったことに戦《おのの》いた。足の指だけは変わらず、わたしを指している。  それは甘美な恐れでもあった。この風邪がうんと重くて、自分を失うほどに輪郭を溶かしてみたいという思いにも似ていた。 「決して、帰り道も変えないし、帰る時間もずらそうとはしないんです。その子はどこかで、僕に虐められるのを待っていたんですね」  一口飲み、わたしは熱に浮かされた格好でキーを叩く。 ≪誠は部屋に戻り、隣の女を想って自慰をしようとしました。けれどなかなか、その気になってくれません。掌の中で、縮こまった性器はいつまでも皮を被っているのでした。小さめの性器は、緩んでいくばかりです。  そうこうしているうちに、疲れて誠はうつらうつらしました。下着の中に手を入れたまま、敷きっぱなしの布団に横たわります。その不潔に生温かく、しかしどこか懐かしい眠気の中に、その夢は立ち上ってきたのでした。  隣の女はただ一人、あのうらぶれたアパートにいます。すべての住人は何故か不在で、アパートには女一人です。隣の部屋の、誠の気配すらもありません。  突然、激しい爆音がしました。尋常ではない衝撃です。勤め先の店からもらってきた、捨てるには惜しいけれどほとんど傷んだ薔薇と菫と鈴蘭の花を活けた花瓶に、玩具の戦闘機が突っ込んでいたのです。開け放した窓から、入りこんできたのでしょう。潰れた花弁は、甘く濃く、重い匂いを放っていました。  女は恐る恐る、覗き込みます。途端に夢の舞台は暗転し、二幕目に移ったのでした≫  ぱちぱちと軽くキーを叩く音以外、何も聞こえてはこない。わたしは寒気のために、今が夏であることを忘れそうになる。彼は紅茶をゆっくり飲みながら、淡々と話を続けた。 「でも僕は、ただの一度もその女の子に悪戯するどころか、触れようとさえしなかったんです。いつもいつも、口で虐めるだけ」  カップを置いた彼は、こちらを見てはいない。けれどわたしは、射竦《いすく》められたその女の子の気持ちになる。  考えてみればわたしも、彼とは始終、二人きりでいる。時には夜を明かすこともあり、ほとんどこんなふうに軟禁状態に置かれる時さえある。なのに、一度たりともそういう関係になったことがないのだ。 「僕は、毎日その子を待ち伏せして。その子に暗示をかけていきました」  仄暗《ほのぐら》い路地裏が、ありありと描けた。行き止まりの塀の前に立ちすくむ小柄な女の子。立ちふさがって退路を断つ、幼いながらも今の奇妙な冷酷さを持ち合わせた彼。靴は履いているけれど、その細長い足の指は女の子を鋭く指している。 「僕はその女の子に、毎日続き物の話を聞かせていきました。いったいどこから、あんな話を思いついたのか、今となってはわからないんですが。『お前はバイクに乗った見知らぬおじさんに、さらわれるんだ。優しく騙されて、後ろに乗せられる。お前はそのままどこか遠くに連れていかれる。空き家だよ。そこでお前は、色々なことをされる』……その子は、しくしく泣きます。本当に、悪いおじさんにさらわれていくように」  息苦しさは、風邪のせいなのか。軽く咳をしてから、紅茶を飲み干す。何か別のものを混ぜられでもしたかのように、苦い。小説の続きを書こうとしたけれど、すぐには続きが浮かばない。わたしはまた、メール送受信の画面に切り替えた。  元の夫から、続けてまたメールが届いていた。 【いや〜、まいった。バチが当たったってことか。今のヨメの浮気判明! でもアホですね、あいつ。男と泊まったホテルの宿泊代金、自分のカードで支払ってやってんの。しかも、それボクの口座から引き落とされる家族カードだよ。  問い詰めたら開き直りやがった。ペラペラ、その若い男とあんなことしたとかこんなことしたとか、しゃべるんだ。もちろん腹は立つんだけど、奇妙にゾクゾクしたね。  そんなの聞かされていると、ぶん殴りたいのに興奮してきて、リビングのソファでやっちゃったよ。こないだ流産したばっかりなのに、いいのかなあ。そういや、アナタともよく、ソファでやったね。今はもう作家先生、恐れ多くてできません】  これもまた、読み終わるなり削除した。白い磁器のカップの底には、紅茶の滓《かす》が意味ありげな模様を描いていた。彼のカップの紅茶は、静かに冷めていっている。 ≪女は、アパートの裏にいました。現実のそこはせせこましい駐車場ですが、夢の中では茫漠たる草地でした。その真ん中には、なぜか薔薇と菫と鈴蘭の咲き乱れる花壇があるのでした。  玩具ではない、本物の戦闘機がそこに突っ込んでいました。そのコックピットを覗き込みます。ばらばらになった、しかしちゃんと男とわかる遺体がありました。  千切れた腕だけを見れば、一緒に暮らしている男のもののようです。しかし足元に転がる首は、きれいな金髪と透き通る白い肌をしていたのです。また、見開かれた瞳は空を映したかのように薄青いのでした。  女は、そっと乗り込みます。血で染まった軍服のズボンの前を探ります。取り出したそれは、いったい誰のものでしょう。見覚えはありません。 「もしかしたら、これは隣の男のものではないかしら」  女は縮かんでしまっているそれを握ります。女は、自分の手が濡れていることに気づきました。さっきまで水仕事をしていて、よく拭かずにきたからでしょうか。いいえ、違います。女の手を濡らすのは水ではありませんでした≫  わたしはそこまで進めて、はっと顔をあげる。何時の間にか、彼は背後に立っていた。薔薇と菫と鈴蘭の香りが、一瞬だけ鼻先にまつわった。彼自身には、まったくといっていいほど体臭がない。 「可哀相に」  と、彼は抑揚のない声で囁いた。 「あの女の子は、二重に記憶を封じ込めたんです。僕に虐められたこと。見知らぬ男に悪戯をされたこと。こっちの方は、僕が植え付けた偽の記憶ですけれどね」  わたしを、可哀相とは言ってくれない。パソコンだけで繋がっている、元の夫を思い浮かべてみる。創作の中にのみ生きている、誠の今後を想像してみる。まとまらなかった。何一つ。それはおそらく、質の悪い夏風邪のせいなのだ。 「可哀相に」  と、今度こそ彼はわたしに向かって笑いかけてくれた。その手が、背後から回される。 「本当に熱がありますね」  わたしはてっきり、首を絞められるのだと覚悟した。しかし彼の手は、わたしの額に当てられただけだ。彼の手は、ひんやりとしていた。 「なあ、まだ思い出さないか」 「……何を」 「小学五年生の夏だよ」  唐突に、口調が変わる。彼はわたしに話しかけているのか、小学五年生の夏に恋した女の子に話しかけているのか。目を閉じると、見知らぬどこかの町の路地裏が見えてきた。 「お前は、本当は僕を待っているんだろう。虐めてもらうのを、願っているんだろう」  優しく熱を計ってくれるふりをしているけれど、その手の指は本当に冷たかった。おそらく、口に含めばひんやりとしている。足の指よりも、ずっとずっと。やがて彼の冷えきった指は、ゆっくりとわたしの唇をこじ開けた。 [#改ページ]    満ち足りた廃墟  廃墟を予定して築かれる建物や楽園はあまりないし、別れることを前提に結ばれる男女もほとんどいないのだと、これらは親や教科書に教えてもらわずともあらかじめわかっていることだというのに。  華やかな建築物が崩壊し、喧噪に満ちた工場が廃《すた》れ、歓声に溢れていた遊園地が閉鎖され残骸が晒《さら》されるのを、人は割合に受け入れ受け流し、どこか優しさのある諦めの風の中にその廃墟を見る。  壊れた愛だか恋だか情だかも、あらかじめ壊れることを知っていたように言いたがる。最初の頃の思い出の中に、幸福だった絵の中に、すでに射していた不吉な陰りに気づいていたのだと──。  幼くても無邪気ではいられなかった由華《ゆか》の家庭は、わかりやすい必滅の予感を抱かせるものでもなければ、永遠にこの幸せが続くだろうと無責任な夢を抱かせるものでもなかった。由華の家よりも滅びの風が吹く家は、このアパートの同じ棟に幾らでもあった。  物心つく頃から由華の家のちょうど真上に住んでいた悟《さとる》の家は、父親が暴力を振るっていた。それは由華が殴られたと錯覚するほどに臨場感に溢れていた。無口で小柄なその父親は、地道に運転手や工場で働いている時と、パチンコしかしていない時とが順繰りにあった。  母親の方はやっぱり小柄で、子供心にもなかなかの美人と感じられ、気の強そうな女だった。悟は一人息子ということもあり、すべての夢と希望を担わされていた。悟はこの低所得者ばかりのアパートでは珍しく、有名な進学塾に小学生の頃から通わせられていたのだ。  どんなに殴られても息子のために気丈さを見せ続けた母親は、いつしか殴る夫をも押さえつけることに成功したようだ。激しい物音はいつしか止み、上はいつも静かになった。親しく悟の家に行くようになったのは、その頃だったのか。 「あの子は勉強できるからね」  金持ちだの貧乏だのが関係ないここでは、由華の母親はそれを基準にするしかなかったようだ。悟と遊ぶことは歓迎していた。そのくらいには娘に関心を持っていた。けれど由華は、「黙っていれば」いいとこの坊ちゃんに見える、色白で繊細な容貌の悟よりも、怖くて近付き難い隣の秀行《ひでゆき》を秘かに好きだった。  悟と対照的に色黒で大柄で、いつも怒った顔をしている。壁一枚隔てた向こうにいる秀行の家はしかし、かつての悟の家ほどに怒声や騒音が響いていた。秀行の唯一の身寄りである若造りの祖母が、常に男を入れていたからだ。 「隣の婆あに関わるんじゃないよ。放っときゃいつか刺されていなくなるから」  知らない人が見れば、秀行は高齢出産でもうけた子供かと思うだろう。若造りのその女は、界隈では有名だった。由華の母親は、娘のようなミニスカートや原色の服を着て飲み屋に勤める秀行の祖母を、そこにないもの、として無視していた。  いつか刺されていなくなる。その言葉の響きに由華は、なぜだか美しいものの匂いを嗅いだ。だからというのではないだろうが、小学校の校庭で意地悪な同級生に絡まれ、 「コイツんち、崩れそうなボロアパートでよ」  突き飛ばされた時、かばってくれたのは悟ではなく秀行だった。秀行は単に自分も住むアパートの悪口を言われて怒っただけだとしても、由華は秀行に守られた、と感じた。  近所の瀟洒《しようしや》な二階建てに住む白く膨れた同級生はあっけなく泣き、傍らに立ち尽くす悟は、自分はそんなアパートには住んでいないとでもいいたげに、知らん顔をしていた。興奮している秀行とは対照的な悟の白く冴えた横顔は、たとえアパートが炎上してもそのままだろうと思わせた。  ──いつどうしてそうなったか覚えていないが、土曜の放課後、由華は秀行と繁華街を少し外れた雑居ビルの中に遊びに出かけた。恐ろしく狭く暗い階段を昇った所に、その部屋はあった。廃墟だと、由華は見たのに。 「ばあちゃん、ここを買い取ったんだ」 「えっ、ここ、新しいの」 「そう。ばあちゃんの店を始めるんだ」  秀行は自慢げにそう言ったのだ。新しく始める店。それならきっと、新しい匂いや未来のきざはしが垣間見えるはずなのに、そこは紛れもなく廃墟だった。廃墟という言葉も意味も知らなかったが、由華は赤錆《あかさび》の浮いた風を頬に受け、小さく傷ついた。  やけに窓から射し込む光が眩しかった。後から思えばそんなはずはないのだ。陽当たりの悪い、雑居ビルの狭間にあったのだから。それでも窓は眩しかった。ただ、てらてらと異様に派手な椅子が怖かった。座っていた数えきれない数の人間が、きっと不幸な末路を辿《たど》るに違いないと思わせたからだ。  まだ乱雑に、荷物は床に重なっていた。なぜかトルソー、洋服を仕立てる時の人間の上半身を象《かたど》った模型があった。緋毛氈《ひもうせん》を思わせる赤の絨毯。客が残したか前の持ち主が残したか、壁の落書。由華には読めなかった人の名前。子、がついていたから女の名前だ。憎しみで書かれたことだけ、なぜわかったのだろう。  千切《ちぎ》れた電飾のコード、安っぽい壁紙、煤《すす》けた造花。てんでに並べられた椅子。靴の片方だけが転がっている。ちゃちな舞台の前の譜面台には楽譜が広げられ、割れたグラスと壊れたマイクがひっそりと寄り添っている。照明器具はちかちかと息切れをしていた。 「うちのばあちゃん、いい女だろ」  そんな室内を走り回って、秀行は言った。喜ばせるために、由華はうなずいた。色婆と蔑《さげす》まれていることは言えない。ひそひそと囁いているのは、由華の母親と近隣の女達だ。 「でも由華んちの父ちゃんも、いい男だよな」  いい女、いい男。秀行は大人をそんなふうにしか分類できないのだ。由華の母親は、 「悟は必ずここから出ていく。でも、秀行は出ていけないね。あれは、ずうっとこんな所で暮らす子よ」  そんなふうに分類した。それほど他人の家や未来がわかるなら、まずは我が家について語ってほしい。なぜ父親が働かないか、なぜ年の離れた姉二人が家出したかも教えて欲しい。 「父ちゃんは病弱だから。身体も、心もね。姉ちゃん達は親不孝。そんだけだよ」  父親は実際に車椅子にも乗っていたが、それは保護を貰うためだとこれは誰に聞いたのか。父親はちゃんと歩けた。いつか由華を背負って歩いているところを、役場に密告されたこともあった。由華は可哀相な子供、を演じることを要求された。そう強くではなかったけれど、少なくとも父親よりは、ボロは出さなかっただろう──。 「由華は美人になるんだからさ。こんなとこは抜け出せるよ。女は美人でありさえすれば、どこにでも行けるパスポートを貰えるんだから」  こんな大人びて嫌らしくて哀しいことを教えてくれたのは、当然、秀行ではなく悟だ。由華は悟とも、奇妙な廃墟を訪れたことがあった。そこは船舶修理工場跡だったが、船はどこにもなかった。由華は秘かに悟と乗れる船があるのではないかと夢想していたのに、あるのは錆びた残骸だけだった。  夕陽を断裁するかのように、鉄骨は高く張り巡らされていた。雑草は何かの悪を隠蔽しながら蔓延《はびこ》り、朽ちた木材と錆びた窓枠と割れたガラスは外界の酷薄な美を取り込んでいた。自分は不幸なのだと、言葉にして思ったのはそれが最初だったのかもしれない。      *  悟は隣町の進学校である中学に合格したのを機に、一家でアパートを出た。由華の母親の予言は当たったのだ。父親の勤め先も決まったと誰かが囁いた。そこは、きっと壊れることのない閉鎖されることのない場所なのだろう。  あの工場跡にはもう行けないのだ。悟は由華がいない間にひっそりと越していった。壊れた船に乗って。取り残された由華は、夜遊びする仲間を求めて街に出るようになった。  そんな由華を置いて、秀行も出ていった。祖母が客の男に刺し殺されたからだ。秀行は施設に引き取られるとも遠縁に引き取られるとも言われ、これも慌ただしく引っ越していった。ワイドショーのリポーターなども来たからだ。画面を通して見れば、ひどく惨めなアパートだった。まさに人の住む廃屋だった。  由華は、悟がいなくなった時より淋しかった。あの店は改装されたはずだが、由華の中ではいつでも廃墟なのだ。これから始まる廃墟。希望に満ちた終焉。だから、秀行とはいつかどこかで会えるのではないかと思った──。  その後の自分の生活は、転落だとも思わないし順当だとも思わない。あれから由華は閉鎖された船舶修理工場にも行くことはなく、最初から廃墟だった飲み屋にも入ることはなかった。悪い仲間に入って、一目置かれるようになっていた。といっても、コンビニ前にたむろして煙草を吸うとか、ゲームセンターで軽い恐喝をやるとか、そんなものだ。悟は連れ出しに来てくれなかったし、秀行も迎えに来てはくれなかったからだ。  由華に初めての妊娠をさせたのは、気まぐれに由華を苛《いじ》めていた近所の瀟洒な二階建てに住む商店主の息子だった。  体裁は整った家で、優秀な兄と比べられて悶々としていたその同級生の公明《きみあき》は、ますます白く膨れていた。苛められっ子になっていたのだ。しかし立場が逆転とは言い難い。学校には格差があったし、住む家は変わらなかったからだ。  仲間に金を巻き上げられて道端で呆然としていた公明を、なぜ誘ったか。別の廃屋を見せてくれると期待した訳でもなかったのに。これは、施しだろう。 「あいつら、ちょっと知ってるから。金は戻ってこないだろうけど、もうあんたに絡まないよう言っといてやってもいいよ」  そう、約束して帰宅した。父は本当に足腰立たなくなって、もう堂々と保護を貰っていた。錆付いた車椅子は、由華の家のあからさまな廃墟だった。  やがて由華が公明に誘われて家におずおずと行くと、そっくりな母親がいた。張り詰めた笑顔で菓子やら何やら持ってきてくれた。しかし後で、由華は聞かされる。 「あのコが来ると聞いて、一応は財布とか隠してたの。案外普通の女の子でよかった」  初めて連れてきたお友達、ということで入ることを許されたのだったが、怒りに目の前が暗くなった。そんなことをされるくらいなら、最初から「あんな子を連れてくるな」と拒絶されていた方がよかった。取り壊される予定のない花園の住人は、こんなに傲慢だ。  だから、というのではない。由華は公明を誘った。仲間のリーダー格の男と行ったホテルだ。国道沿いの安いそこは、やはり廃屋の匂いに満ちていた。  見下ろす中庭には、どういうつもりで拵《こしら》えたものか、ちゃちなセメントで固めた天使の像が据えられていた。ぎこちない笑顔と格好のその天使は、ギターともバイオリンともつかない楽器を奏《かな》でている。これも、元から打ち捨てられるために作られた物だった。  コンクリートのざらつく壁と、傾いた傘に包まれた黄色い電球と、黴《かび》臭いベッドと。由華は裸にした公明を弄《いたぶ》った。弄りながら、色々な廃墟を夢に見た。  悟と行った工場跡、秀行と行った店。誰と行ったかわからない、どこにあるかもわからない廃墟も幻になって現れる。半端に蝶番《ちようつがい》の外れたドアと窓の並ぶ、変電所跡。燦々《さんさん》と降りそそぐ陽射しだけが豪奢だ。汚れたペンキを塗った壁には、どこの国のものでもない言葉が書き殴られている。解読できればそれは天国への呪文になるか。昔の日本軍の毒ガス工場。あっけらかんと広いコンクリートの地面。錦繍《きんしゆう》の中に佇む、毒の水槽。無人なのに足音がする。 「いつからあたしを好きだった」 「苛めていた頃から」  公明は眼鏡を外して、間の抜けた白い顔を歪める。なぜ男は顔と性器がそっくりお揃いなのだろう。公明はどこまでも白くて膨れている。そんなひ弱な公明が突然、起き上がって由華を押さえこんだ。 「お前、悟とはやったか」 「やってない」 「秀行とはやったのか」 「やってないよ」  由華は目を閉じて、それを舐めた。呻《うめ》きながら、公明は同じ質問を繰り返す。 「お前、悟とはやったか」 「やった」 「秀行とはやったのか」 「やったよ」  無意味な質問と答え。二人の間には相応《ふさわ》しい。壊したのか。壊してない。壊したのか。壊した。そうして公明は後ろから入ってきた。未経験のくせに、知識だけはビデオ等で得ていたようだ。それは行ったこともない廃墟を知っているようなものだ。  終わった後、公明は不器用に由華を抱き締めて撫でてくれた。 「昔っから由華とやりてえな、と思ってた。いつも、後ろからやるのを妄想してた」 「妄想とおんなじ?」 「おんなじで感激した」  別れることを前提に結ばれる男女はほとんどいないと、教えられなくても知っている。壊れた愛だか恋だか情だかも、あらかじめ壊れることを知っていたように言いたがる。最初の頃の思い出の中に、幸福だった絵の中に、すでに射していた不吉な陰りに気づいていたと。そんな交わりだったのに、由華は妊娠したのだ。それを知った公明の母親は、財布を隠していたと言ったのと、おそらく同じ口調で吐き捨てた。 「本当に公明ちゃんの子なの」  由華の母親も言ったのだから、最初から生まれないために妊《みごも》られた子はもう全てを諦めて微睡《まどろ》んでいただろう。由華の家の狭い台所で話し合いが持たれた。公明は来なかった。ともに、父親も出てこなかった。  由華の父親は、車椅子で遠くに出ていった。煙草を買ってくる、と。公明の父親は、面倒臭いから行かない、とただ一言だけ伝えてきた。 「六ヵ月でも七ヵ月でも、堕ろせる病院を知っているの」  公明の母親は誇らしげに告げた。きっとそこは、月光の美しい廃墟の病院跡だろう。 「いいとこの奥さんなのに、よくそんな病院を知ってますね」  これは由華の母親の、精一杯の皮肉だった。 「ともあれ、公明ちゃんに高校をやめさせる訳にはいかないし」 「あたしは、やめて産めるけど」  せせこましい台所で、生臭い女が三人寄り添っている。由華は初めて公明の母親を正面から見据えた。まったくそんな気はないのに言ってみたのは、あらかじめ取り壊される花園と公明との仲を確認したかったのか。  たちまち、公明の母親は息子そっくりな顔を充血させ、がたつく食卓を叩いた。 「あなたと公明ちゃんじゃ、立場が全然違うの」  財布は盗ってやればよかったのだろうか。話し合いは決裂し、しかし決着を見た。それ相応の金を貰って、由華は中絶をすることになったのだった。がたがたと、由華の父親の乗った車椅子の音が響いてきた。初めて由華は、お腹に子供がいることを実感して涙ぐんだ。最初から産めないとわかっているのに、この子はどこかの花園を夢見ているのかと。      *  手術の前日、五、六回も経験のある陽子《ようこ》を呼び出した。高校をやめてふらふらしている陽子はいつでも暇なので、すぐ来てくれる。これもまた、最初から喧嘩別れがわかっているような友達だった。 「昔バイトしてたとこにさ、ミヤちゃんていて。その子が怖いこと言ってた。それこそ七ヵ月とかで無理矢理に堕ろしたって」  駅前のハンバーガー・ショップの二階だ。悪阻《つわり》のためだけではない吐き気を堪《こら》えて、由華は冷たいミルクを飲み下した。 「もう、充分に保育器とかでなら生きていける大きさだよ。そんくらいだと掻爬《そうは》じゃなくて、陣痛起こさせて出産させるの。そいで生まれてきた赤ん坊ね、一度だけ目を開けてミヤちゃんのこと睨んだんだって。ホラーだよねぇ、こえーっ」  中絶は決まっているのに、母体によくないコーヒーは避けてミルクにしている由華は、目の前の女を刺したいほど憎んだ。もしかしたら、公明の母親よりも。そんな殺意にはまったく気づかずに、陽子はシンナーで欠けた歯を剥き出して笑う。 「ミヤちゃん? ちょっとそれでおかしくなって、病院入ったよ。それから会ってないけど。うん、クスリもやってたからね、そのショックだけじゃないのかも」  その赤ん坊ではなく、病院を想像した。きっと苔《こけ》むした天使の像があるのだ。 「あたしの経験? んーとね。なんでかいっつも、おんなじ幻を見る。シンナーのとも大麻のとも違うんだよね。シンナーはあたし、やたらヤリたくなって弟につかみかかったことあるよ。大麻は、うん、眠くてたまんなくなるだけ。スピードは色々だよ。でも、中絶の時の麻酔で見るのはいつも、一緒」  陽子はゆっくりとコーヒーをかき回しながら、甘美なものを味わう目付きをした。 「やけに窓から射し込む光が眩しいの。後から思えばそんなはずはないんだよね。陽当たりの悪い、雑居ビルの狭間にあるんだもん。それでも窓は眩しかった。ただ、ボロボロになった椅子が怖かった。座っていた数えきれない数の人間が、きっと不幸な末路を辿ったに違いないと思わせたから」  由華は目眩を覚えた。それはいつか自分が行った廃墟だ。そう、秀行の祖母が買い取ったといった店。この話は、陽子にはしたことがない。いや、自分もクスリをきめている時にしゃべったのか。陽子は甘美な目付きを続ける。 「まだ乱雑に荷物が床に重なっていたの。そいで、なぜかトルソー、洋服を仕立てる時の人間の上半身を象った模型があるんだわ。緋毛氈を思わせる赤の絨毯。客が残したか前の持ち主が残したか、壁の落書。あたしには読めなかった人の名前。子、がついていたから女の名前ね。憎しみで書かれたことだけ、なぜかわかったの」  そんな時期ではないのに、下腹がうねった。堕ろされると知って暴れているのか。陽子はなおも、嫌な廃墟を語る。 「千切れた電飾のコード、安っぽい壁紙、煤けた造花。てんでに並べられた椅子。靴の片方だけが転がっている。楽譜が広げられ、割れたグラスと壊れたマイクがひっそりと寄り添っている。照明器具はちかちかと瞬いていた」 「ふうん。そんな幻を見るの。毎回毎回?」 「そう。毎回毎回」  陽子は形はいいけれど色の悪い唇を歪めた。 「ミヤちゃんは、やっぱりクスリも色々やってる子だけど、麻酔かけられるとクスリの時とは違う幻を見たって」 「どんなの」 「船舶修理工場だった」  由華は二階席を見渡す。敵も味方もいない。公明も悟も秀行も。 「でも、船はどこにもないって。秘かに、彼氏と乗れる船があると夢見てたのにね。あるのは錆びた残骸だけ」  その後は、由華が引き取る形で幻を見るのだ。夕陽を断裁するかのように、鉄骨は高く張り巡らされていた。雑草は何かの悪を隠蔽するかのように蔓延《はびこ》り、朽ちた木材と錆びた窓枠と割れたガラスは外界の酷薄な美を取り込もうとする。吹き抜ける滅びの風は優しい。 「嫌だな。怖いな」 「幻が? 中絶が?」 「……どっちも」  翌日の手術で、由華は何も見なかった。それはそれで怖い風景だった──。  付き添ってくれたのは母親だった。カーテンで仕切っただけの部屋。所在なげに母親は窓の向こうばかり見ていた。朽ちた天使の像でも見えるのか。 「あんた傷物にされたんだから」  廃屋は傷物なのか。公明もまた傷物なのか。父は。悟は。秀行は。アパートに戻ると父親は寝ていた。その寝姿に、天使の像が重なった。      *  それから一ヵ月近く、由華の出血は止まらなかった。いなくなった子供が、まだいるのだと戦《おのの》いた。貧血を起こすと様々な幻覚を見た。廃墟ばかりではない。白々しい花園や、淫らな妖精や、悟に似た妖怪、秀行と公明が合体した化け物もいた。  出血が止まる頃、退学届けを出した。それから家を出た。親は捜索願いを出したか出さなかったかわからなかった。公明は会えなくなっていた。わざわざ親戚の家に下宿させたからだ。その家は教えてもらえなかった。高校に行けば会えるが、それもしなかった。  家を出ようと決めた前の日、由華は通った高校ではなく、かつて悟や秀行も通った小学校に行った。ジャングルジムの中程に座って、小学校を眺めた。廃墟になるにはまだ遠いはずの、建て替えられて間もないきれいな鉄筋コンクリートの建物だ。束の間目を閉じ、それがぼろぼろと崩れていく場面を描いた。虚しくきれいな光景だった──。  それから由華は都会に出た。新幹線の中で拾った女性週刊誌に出ていた広告から、適当なものを選んだ。何よりもまず、住み込める所だ。それで選んだ寮というのは2LDKのマンションで、そこに七人から八人がいるのだった。年も幅広い。由華は若い方だった。 「由華ちゃんね。えっ、本名なの。ううん、ほんとに本名のままでいいの?」  マネージャーと呼ばれる初老の男は、垣間見た公明の父親に似ていた。由華が勤めることになったのは、そう激しいサービスはないキャバクラだ。寮には純朴な田舎から出てきたばかりの子もいれば、すれてしまったのもいた。最初から、別離のわかっている仲間。 「ここ狭いよね、たまんないよね、由華」 「あたし、もっと狭い所に住んでたから」  由華は売れっ子にもならない代わりにお荷物にもならなかったが、そこはしばらくして辞めた。より稼げる風俗店に移ったのだ。それに、四階から見下ろす街並みが以前のアパートから見下ろすそれとそっくりなのが嫌だった。もっときれいな、廃墟を見たいのだ。  念願の一人暮らしは、しかし続かなかった。名ばかりのマンションに越した翌月、ホストにキャッチされてついていき、その店に三度ばかり寄っただけで彼の方が転がり込んできたのだ。彼もまた田舎から出てきて、何人も詰め込まれた寮暮らしだったのだ。  鑑別所の話でも、暴走族時代の武勇伝でもなく、由華はユウキの廃屋の話に惹かれた。ユウキはベッドの中で、よく同じ話をする。 「ヤクザに攫《さら》われてさあ、鉱山跡に監禁されたの。なんか温室みたいだった。やたら陽射しが降り注いで。ロボットの内臓みて〜。なんかそんなこと思った。九八度だかのとんでもねえアルコール度数の酒かけられて、火ぃ点けられたんだぜ」  自分の焦げる匂いを嗅ぎながら、ユウキは確かに天国を垣間見た、と言い張った。地獄ではなく天国だったと。どのような場所かは説明ができない、と言った。 「行ってみなけりゃ、わかんないよ。だから俺、もう死ぬの怖くない。あそこに行くだけのことだって思えるから」  由華はいわゆる顔出しOK、だった。親バレ彼氏バレが怖い子は、スポーツ新聞や男性週刊誌等に顔は出さない。店のHPは勿論のことだ。しかし由華は、すべてに出た。こちらが顔を晒すということは、「あちら」も晒してくれるということだ。 「あちら」が具体的に何を、誰を指すかはわからないが、由華はにっこり笑って出続けた。悟が、秀行が、公明が、どれかを見てやって来てくれると期待しているのか。それは自分でもわからなかった。  地元で遊んでいた頃の男友達が二人ばかり、来たことはあった。問い合わせがきたこともあった。由華は誰を待っているのでもない。ユウキがいなくなったのと入れ違いに、待ち望んだ男が来た。悟だった。 「秀行? 立派にヤクザ者になってるって。公明は知らない。地道に暮らしてんだろ」  大学を出て、由華でも知っている銀行に勤めているという悟は、週刊誌で見たと言い、たまたまこっちに出張で来ることになってたんで、いい店チェックしてたら由華の顔があった、と淡々と語った。派手な下着姿の由華を正面から見つめて、表情ひとつ変えない。 「由華もいろいろあったようだけど、あのアパート出られてよかったじゃないか」 「悟も?」  個室に二人きりになり、由華はあるはずのない記憶を甦らせた。悟と二人、どこかの廃墟に暮らした日々だ。向かい合う悟は、しかしどこも見ていない。 「まあね。だけどここは、なんか廃墟みたいだ」  ベニヤ板とカーテンで仕切られた個室で、悟は居心地悪そうだった。 「終わったら、うちに来てくれる? あたし、一人暮らしだから」 「いや、やめとくよ」  手術台にも似た簡易ベッドに、由華はそっと悟を押し倒した。悟はされるがままだ。由華は悟の白い薄い手を取り、囁く。 「首を絞めて。本番、してもいいから」  死んだって、永遠の花園や永久の楽園はないのだと、これもわかっていることなのに。 [#改ページ]    溺れた姉の春 「造花が散ってる」  萌美《もえみ》は初めて、傍らの春樹《はるき》の腕をつかんだ。これから行く場所もこれから何をするかもわかっているのに、わざと春樹から間にもう一人入れるほどの距離を置いて歩いていた萌美は、公園を出てから初めて春樹に体を触れさせてきたのだ。 「……うん」  どこか途方に暮れた顔で、春樹は曖昧に頷《うなず》いた。寂れた商店街の入り口のアーチに飾られた、汚れた桜の造花。昨日からの強風のせいか、本物の桜のように花弁を落としていたのだ。乏しい街灯の下で、それはまさに花の死骸だった。 「おかしいね。人形が死んでるとか、そんな感じ」 「気持ち悪いたとえをするなよ」 「……ごめん」  萌美はほとんどしがみついてきた。人前で、外であまりくっつきたがらない萌美なのにと、春樹は肩を抱き寄せた。嬉しさよりも緊張が先に立つ。  といって、二人はいまどき珍しい純情な高校生などではない。ともに会社に入って十年近く経っているし、いわゆる合コンで知り合って付き合うようになってから、一ヵ月と経たないうちにお互いの部屋に泊まるようにもなっていた。  ただ、今夜は少し特別な日だ。折からの強風で桜はもうしまいだとわかった時、春樹は家族に会ってくれるかと切り出したのだ。前日、萌美に生理が遅れていると電話で知らされていたが、それだけが理由ではない。それはただの、きっかけとしたかった。  二人は互いに、探りあっていたようなところがある。どちらが決定的なことを言い出すか。どちらが主導権を握って、責任を取るか。いったい何をそんなに恐れて、何にそんな遠慮をしていたのか。花の下で、春樹はやはり自分から踏み出さなければなぁ、とどこか途方に暮れた顔で切り出すことにしたのだった。 「ええっと、アレ……まだ遅れている?」 「遅れてるよ」 「でも、明日あたり、来るかもしれない?」 「来るかもしれないし、来ないかもしれない」  風は強いのに生ぬるい。体臭にも似た匂いがある。それは死の匂いだと、誰が囁《ささや》いたのか。春樹は萌美の目ではなく、口元の辺りを見つめながらベンチに座らせた。 「来ても来なくても、萌美の子供の父親になるつもりだから」  夜桜は陳腐で、酔っ払い達は騒がしく、萌美は少し寒そうだった。 「じゃあ、あたしは」  ベンチで寄り添いながらも、萌美はやっぱりどこか離れていた。思えば春樹は、そんな雰囲気が気に入ったのだ。その前に付き合っていた女は、距離感の保てない女だった。初めはその密着ぶりも楽しかったが、次第に侵食されてくる恐さを覚えた。別れる時は派手に暴れられたが、そんな女は必ず次の男を見つけるのが早い。 「修羅場の後には、ああいう女がいいんだよ」  それは自分の呟きだったのか、隣にいた男が囁いたのかも忘れたが、いずれにしても春樹の方から萌美に惹かれた。合コンには、あきらかに同僚に付き合って出てきただけだという態度をあからさまにしていた萌美は、付き合うようになってからも春樹が誘ってきたから、という受け身の態度を変えなかった。といって、醒めているのでもない。好きかと聞けば好きだと答える。続けていくかと聞けば続けていきたいと答える。感じているかと囁けば、黙って小さく頷く。 「可愛くないでしょ。っていうより、可愛げがないよね、あたし。モテなかったよ」 「そんなことないよ。こういうのが好きって男も多い」 「春樹って、どうしても自分を凡庸な男にしたがるのねぇ」  決して萌美は、男にまるで興味を持たれない女ではない。人目を引くほどの華やかな美人ではないが、やや古風な雰囲気の整った顔立ちをしている。付き合いも仕事もそつはないようで、女友達もちゃんといるし、他にも萌美に目をつけた男もいた。  もう少し強くあいつらが出ていれば、萌美はそっちに行ってしまっただろう。今頃、あいつらの子供を身籠もっていただろう。桜の花弁が、風の吹く方に散っていくように。桜は責められない。だから春樹は、今夜はもう決めてしまうつもりだった。そうすれば萌美も変わるかもしれない。風に弱い花弁だとしても、最後に落ちる場所は、自分の所にしてやりさえすればいいのだ。 「じゃあ、寒いからゆっくり話をできるところにして」 「ホテル? それともウチ?」 「二人きりになれる場所じゃなくて、他の人もいる所がいい」 「え。なんで」  萌美は不意に立ち止まった。足元の造花を爪先で踏んでいる。小さな殺戮《さつりく》だ。 「ファミレスとかでいい。人がざわざわしている所」  まさか、逃げ出せるようにか。春樹は刹那、青ざめる。断って逆上でもされたら、ホテルや部屋からは逃げにくいと考えているのか。それにしては、腕を離さない。汗をかいた時だけ、抱き合った時だけに立ち上る匂いも発散させている。 「ここらでいうと、ああ、あった。あそこ入ろう、春樹」  萌美はさらにしがみついてきた。断られるはずがない。春樹は安堵した途端、突風に煽られた。造花の桜は激しく揺れ、枝ごと落ちた。萌美はそれを見捨てて行こうと促す。下腹を見た。そこに堆積していく桜の花弁のイメージは、感傷的過ぎるのか──。      *  当然あたしも、春樹をあたしの親とかに会わせなきゃならないんでしょ。それは全然構わないんだけど。父親はいないの。正確には、血の繋がってない、滅多に会わない父親はいる。肉親は母親だけ。それと……お姉ちゃん。でも、今お姉ちゃんは呼べない。一番、春樹に会わせたい人なのにね。  あたしがのほほんと平凡な家に育ったんじゃないことを、春樹も薄々勘づいてたんじゃないかな? うん、うち母子家庭。別に母子家庭なんか、珍しくもなんともないよね。父親が女作ったとか暴力ふるってたとか、そんなのもありふれた話よね。  母親は父親に出て行かれた後、健気《けなげ》だったよ。昼は普通の会社で事務員やって、夜はホステスやってた。あたしが言うのもなんだけど、なかなか美人だったから、しょっちゅう違う男がうちに来てた。  それは昼間の仕事の関係で知り合った、いわゆる堅気の男もいれば、夜の仕事で知り合った、ちょっと堅気とは言い難い素性の男もいたな。お母さんは、あたしから見て嫌な男ばかりを好きになってたな。嫌いな男しか覚えてない。感じの良かった人や、普通の人はすぐに忘れる。でも、こんなもんじゃないかな。あたし大人になってからも、嫌な男ばかり覚えてる。  もしもあたしに子供がいたら。そう、本当にデキてたら。春樹のことを覚えるかな。って、やだ、もしも子供ができてたとしたら、間違いなくあなたの子だけどね。  ──今から思えば、ちょっとは可哀相だったかもしれないな、あたしとお姉ちゃん。何せ、母親が夜はいない訳でしょ。二つしか違わないもん。そんな、保護者の代わりにはならないよ。お姉ちゃんとあたし、家で遊ぶことの方が多かった。外で遊んでると、みんなにはお迎えが来るじゃない。あたし達には来ない。そんなら最初から、家にいた方がいいってね。うん、ごく普通の遊びをしてたよ。漫画読んだりTV見たり。 「花屋のおじちゃん」は、不思議なおじちゃんだったな。風体が変とか、言動が変わってたとかじゃないの。すごく感じ良かった。優しかった。いつのまにかうちに出入りするようになってたんだけど、母親よりあたし達といる方が多かったんじゃないかな。おじちゃん、といっても今の春樹くらいの年頃だけどね。  いい人だったのに記憶しているのは……そう、本当はいい人じゃなかったから。  花屋のおじちゃん以外にもいっぱい、目撃したよ。母親とよその男が抱き合ったり、裸でじゃれあってる所。そんな時あたしは、針で自分の手とか足を刺すのね。自傷行為って言葉、その頃は知らなかったけど、今から思えばそれ。あたしは息を詰めて、皮膚にぷくっと赤い血の粒が浮くのを見てた。でも母親は全然気づかないの。男の香水とかにはすぐ気づくくせに。……そんな癖、その桜の季節で終わらせた。あたしはもうどこにも傷はない。 「萌美ちゃん、芽美《めぐみ》ちゃん、お花だよ」  ああ、芽美っていうのがお姉ちゃんの名前。花屋のおじちゃんは、いつもあたしの名前を先に呼ぶの。お姉ちゃんはそういうのに無頓着だったけど、あたしは敏感だった。そうよ、春樹がいつあたしを意識したかも、あなた以上にわかってる。  ま、いいか。そんなことより花屋のおじちゃんね。おじちゃんは多分、花屋として母親の店に出入りしていたんだと思う。客としてではなくてね。あたし達、何度か母親の勤めている店に行ったことあるの。あれって休みの日だったのかな。それとも開店前の昼だったのかな。母親はたいてい桃のジュースを出してくれてた。いつも凝った花が飾られてたよ。凝った、っていうのは今から思えばね。  ただのプリンのカップに小花を浮かせているのに、宝石みたいにきれいだった。何でもない野の花を無造作に投げ入れてあるだけで、野の気配が醸《かも》し出されていた。あたし達、お絵書きノートにその花をよく描いたな。  おじちゃん、不遇な芸術家だったのかな。母親の不遇さと同じ程度にね。……母親が店にいる間、花屋のおじちゃんはうちの方によく来てくれた。他の男は、当たり前だけど、母親がいる時にしか来ないのにね。  あれ、春だった。春だったってことだけはよく覚えてる。おじちゃんが、花見に行こうって誘ってきたから。おじちゃん、店だけじゃなくうちにもよく花を持ってきてくれてたの。知った花も知らない花もあった。この国の花も、この国には咲かない花も。季節の花も、温室でなければ育たない花も。 「本物の桜を見に行こう」  まるで、今まで自分の持ってきた花は全部が偽物、造花だみたいな言い方だった。気づいたのはあたしだけね。お姉ちゃんはただはしゃいでた。お姉ちゃんはお母さん似なの。繊細なのに鈍感。傷つきやすいのに無防備。うんと幸せになるか、途中で人生そのものがなくなっちゃうか、どっちかよ、そういう女。  あたしは、お母さんにもお姉ちゃんにも似ないでいようと決めて、こうなったの。まあそれは、春樹もわかってくるよ、今は、おじちゃんの話をしたい。昔の春の話をしたい。そう、おじちゃんの車に乗せられた。どんな車だったかは全然覚えてない。うん、さんざん警察の人にも聞かれたんだけど、何も答えられなかったものね。……え? 警察は警察よ。その話は後でね。  桜の下を通ったわ。怖かった。夜よりもおじちゃんよりも、死んだ人形みたいなお姉ちゃんよりも。それより何より、春が。めくるめく不幸の予兆が咲き乱れてるんだもの。 「あんたらのお母ちゃんはひどい女なんだ」  おじちゃんは、優しい口調だったなぁ。だから恨み言だとは思わなかった。おじちゃんはいつも優しかったから。後から警察の人にも親戚の人にも近所の人にも、あたしはまるでおじちゃんをかばうみたいに言い続けたよ。 「いい人だった。優しかった。お母ちゃんと喧嘩してるとこなんか見たことなかった」  だからあたし、未だに優しい声で怖いこと言う人が苦手。男ってそうじゃない。本当の目的は違う所にあるのに、優しい声で騙す。未来だ将来だ夢だ希望だ愛だ恋だ好きだ、そんな言葉で怖い欲望を隠す。偽の桜さえ散らす。もとから命のない人形も殺す。春樹は違う。春樹は正直よ。だからあたし、春樹の方に来たんじゃない。  それはさておき、花屋のおじちゃんね。 「散々、金も貸したんだ。あんたらのお母ちゃんには」  って、おじちゃんは言った。お姉ちゃんはいつのまにか起きていた。あたしは助手席、お姉ちゃんは後部座席に寝てたのね。これ、いつもだった。母親がいる時は母親が助手席ね。お姉ちゃんは、そこに座りたがったことはなかった。微妙に、そう、歳の分だけか性格なのか、お姉ちゃんは遠慮をしてた。  あのまま成長してたら、あたしはモテモテだったろうね。いいの、このままで。お姉ちゃんの行く末みたいなものを生きてる、あたし。お姉ちゃんはあたしと一緒に生きてる。  ともかくね、おじちゃんは延々と母親の悪口を繰り返すの。優しい口調でよ。 「結婚だって、真剣に申し込んだんだよ」 「それがどっちも、駄目だったの?」  不意に聞いたのは、お姉ちゃん。仰向けになったままだったのが、振り向かなくてもわかった。お姉ちゃんは視界いっぱいの桜を見てたんだね。 「そうだよ」  って、おじちゃんは答えた。やっぱり、優しい声でね。あたしは黙ってた。 「だから、どっちも今夜中にもう一度返事をもらう」  車はどこかの二階家の前に停まった。そこ、後から知ったんだけどおじちゃんの住む家ね。階下はお店。そりゃ、あたし達だってそんないい所に住んでた訳じゃないけど、子供心にもボロかった。あの頃はそんな言葉は知らなかったけど、廃墟、みたいだった。錆《さ》びた自転車が倒れてて、黒ずんだ発泡スチロールの箱が積んであったのだけを、くっきり覚えてるわ。どこかで痩せた猫が鳴いてたのもね。造花さえ作ってもらえない、侘しい雑草が咲いてたな。  あたし達は決して脅されたり、無理矢理に、じゃなく、おじちゃんの部屋に通されたの。そうよ、あたし達は人質として連れて来られたの。引き替えに要求するものは結婚と借金の返済。どっちもなんて凄いよね。それとも、どっちかが駄目ならどっちか一つだけでも、だったのかな。春樹ならどうする? どっちを目的にする? って、あはは、あたしは借金はしてないもんね。  そもそも春樹は、誘拐なんかしないよね。春樹はそんな追い詰められたことなんかないものね。色々な意味でよ。 「ちょっとの間だよ。ここで、おじちゃんと一緒にいよう」  異様に暗い部屋だった。それは記憶の中でそう変えられてるんだと思うけど、とにかく恐ろしく暗かった。ちゃんと蛍光灯は点いていたのに。寒々しいその色合を、たまに夢に見るほど覚えているのに。  そういえばあたし、おじちゃんの姿形っていうか、顔は覚えてないの。無理に思い出そうとすると、いろんな男が混ざりあった凡庸な影法師になってしまう。それはお母さんの男だったり、あたしが付き合った男だったり。……安心して。春樹は混ぜてないから。  そのおじちゃんの部屋は、散らかっていたのかな。意外に片付いていたのかな。それもあんまり覚えてない。でもやっぱり、人が住んでいない匂いがしたよ。布団も茶碗もテレビもあったのに。どれも使ったばかりの温もりや匂いがあったのにね。  あたし、おじちゃんの心象風景ってやつを見ていたのかもしれない。未だにあたしが、お姉ちゃんとの思い出をすべて春にしてしまうようにね。すごく陽焼けして痛かった海水浴も春、スキーをして足を挫《くじ》いたのも春、紅葉の山にピクニックに行ったのも春。  その頃は携帯電話はなかったから、おじちゃんはクリーム色のプッシュボタン式の電話をかけてた。まずはうち。それから、お店。お母さんはなぜかどっちにもいなかった。それからもおじちゃんは、あちこちにかけてた。その後ろ姿、唐突に実の父親を思い出させたよ。なんでだろうね。今もどこに生きているか死んでいるかもわからない実の父親。  そのうち、お姉ちゃんが眠いって言い出した。おじちゃんはいったん電話を切って、敷きっぱなしの布団に寝かせた。あたしはただじっと座ってた。おじちゃんは花屋なのに、お部屋には花を飾ってないんだな、と思った。 「あるじゃない」  おじちゃんは、あたしが口には出さなかったのに、ちゃんと見透かしたのよ。襖《ふすま》の向こうの台所を指したわ。小さな卓袱台《ちやぶだい》に、桜の枝が飾ってあった。でもそれ、造花なの。子供にもはっきりわかる、ちゃちなプラスチックか何かの造花。埃もかぶってて、色褪《いろあ》せてた。なんでそんなもの飾ってたんだろ。あれには何か思い入れというか、思い出があったのかな。きっと不吉な暗い春の思い出ね。  それとも、未来のために飾ってあったのかも。今になって思えばね。幼かったあたしがいつか色褪せた造花の桜の下で、さらに不吉な暗い春を迎える、そんなことを予想してずっと前から飾ってあったのかもしれない。 「あれは、偽物でしょ」 「いいや、散るんだよ」  薄い布団に仰向けになったお姉ちゃんを挟んで、あたしとおじちゃんはそんな会話をした。お姉ちゃんは死んだ人形だった。人形はもともと命がないものだから、生きているも死んでいるもないのに、確かにあの時のお姉ちゃんは死んだ人形だった。死んだ人形と、散る造花と。優しい声を出しながら、好きな女の子供をさらってきた男と。春は本当に……嫌な季節よ。毎日が誰かの忌日。  ──不思議なんだけど。そこからしばらく、記憶が途切れてる。真っ白に、そうね、本物の桜の下に立って見上げた時みたいに。視界いっぱいに白い花弁が広がってひしめきあって、ざわついている。そんな華やぐ闇。  あたしは橋の上にうずくまっていたんだって。夜明けの、あまり人通りのない時間帯。見つけてくれたのは、新聞配達のおばさん。あたしはじいっと欄干から川を見ていたんだって。川は覚えてない。裸足でガム踏んで気持ち悪かったことと、痩せた猫の鳴き声がしてたことは覚えてる。おじちゃんも、お姉ちゃんもいなかった。あたしはただ一人で、置き去りにされてたの。  ほとんど襲いかかられるように、お母さんに抱き締められた。警察署でね。ごめんね、だからあたし、未だに人前で抱きつかれたりするのが怖い。  おじちゃんは翌日、捕まったよ。最初から犯人は一人しかいないっていう事件だもの。 「連れてった男はわかっています」  お母さんもそう通報してんだもん。おじちゃんは……どっちも駄目だった。結婚もお金も。それどころか、しばらく本物の春の中に浸れない身の上になってしまった。鉄格子越しに、金網越しに、高い塀の向こうの春にしか触れられなくなった。差し入れに、花はあったかもしれないね。でも本当に愛《め》でていた、プラスチックの安っぽい造花は、もう触れないんだわ。あれ、どこにあるんだろ。今もあの暗い部屋にありそうな気がする。散ってしまってるんだ。造花のくせに。それとも、本物の花に変わってたりして。その方がおじちゃんにとっては重い罰だろうね。散らない本物の花の方がずっと怖い。  そんなおじちゃんは、あたし達に言ったのと同じことを警察でも言ったのね。結婚と借金のことと。いずれにしても、おじちゃんは未成年者誘拐だけじゃなく、殺人まで加わったんだから、死刑こそ免れたけど、無期懲役。まだ、いるよ。この春を知らない。来年の春もね。あの小さな萌美ちゃんが、やっぱり男に結婚を申し込まれていることも知らない。  お母さんは再婚したわ。正確には、再々婚ね。花屋のおじちゃんと二股かけてたのか、そもそも花屋のおじちゃんなんか男の内に入れてなかったのかわかんないけど、再婚は当時付き合っていた時計店の男と、これは三年くらいだったかな。あたしも暮らしたはずなのに、ほとんど記憶にない。どんな春の思い出もない。  それからしばらく法的には独身が続いてたけど、二年前に小さな開業医院をやってる、ほとんどお爺ちゃんといっていい男と一緒になった。あたし、暮らしてもないから全然知らない。まあ、悪い人ではないよ。少なくとも、子供はさらわない。気味悪い偽物の花を飾ったりもしない。だからあたしは、この義父とは春の思い出なんか共有しなくていい。  多分、春樹のことは気に入ってくれるよ。義父は何も言わないでしょ。造花も散るんだな、ふうん、みたいな目で春樹とあたしを見つめるだけだと思う。  ……お姉ちゃん? もうわかったでしょ。お姉ちゃんは殺されたの。あたしが置き去りにされていた川に落とされて。生きたまま落とされてたってことで、本当におじちゃんは鬼畜扱いされたんだって。あたしは見る気ないけど、昔の新聞や雑誌を検索したら出てくるよ。鬼畜鬼畜ってね。春にだけ、桜の下にいる鬼畜。そんな表現はないけど。  生きたまま、生きたまま、って。それはもちろん酷いけど。絞め殺して捨ててもやっぱり、絞め殺した上に川に落とすなんて、と非難されるよね。おじちゃんは直に絞めたりは怖くてできなかったのか、発作的に投げたのか。裁判では、こう申し開きしたらしいよ。 「溺れさせようとしただけだ」  あたしは……おじちゃんはもう、お姉ちゃんを死んでいる人形と見ていたんじゃないかと思う。最初からお姉ちゃんは死んでた。これはあたしも、証言できる。あの暗いおじちゃんの部屋にいた時も、桜の咲く公園を車で走っていた時も、もうお姉ちゃんは死んでいた。あたしは、死んだお姉ちゃんと一緒に身を寄せあって話をしていたの。こんなことって、春樹にはない?  あたしは、生きてる。コーヒーこんなに飲んだから、全然眠くない。都会の真ん中でもやっぱり、夜は暗いよ。こんなに賑やかに人がいて、外は煌々《こうこう》と街灯やネオンが瞬《またた》いていて、開いた店もいっぱいあって、本物の桜も偽の造花も咲き乱れてても、やっぱり春は暗いし夜は黒い。お姉ちゃんは本当に、春の川で溺れただけかもしれない。  ありがとう、春樹。あたしやっぱり嬉しい。あなたのご両親にも、会わせてもらう。あたしは……お姉ちゃんに会わせる、なんて言うと怖いかな。でも、大人しいふりして救いがたい男好きの母親とか、愛も憎も何もない萎《しぼ》んだ義父とか、そんなもんに会わせても仕方ないものね。といって、刑務所まで花屋のおじちゃんに面会に行くっていうのもどうかと思うし。  もう花屋ではなくなってしまった花屋のおじちゃんね、死刑にしてくれって望んだらしいわ。罪の春の中で、滅びの春の彼方で死にたいとかなんとか、気障《きざ》な作文だか手紙だか書いてたらしいよ。お母さんの許《もと》にも届いたようだけど、すぐに送り返したみたい。  だけどおじちゃん、何もわかってないね。春はいつでも罪の季節で、春はいつも滅びの彼方にしかないのに。造花でなくても、人は騙される。悪どい春。  今夜中に春樹は、どこかでお姉ちゃんに会うよ。わざわざこの人ですってあたしが紹介しなくても、必ず春樹はわかる。これがお姉ちゃんなんだな、って。  あ、すごい風吹いたね。もうこれで、桜は本当におしまいだよ。本物も偽物も。お姉ちゃんの浮いてた川面に、桜の花弁があったかどうかはわからない。お姉ちゃんの沈んだ川底に、造花の花弁はなかったと思うけどね。  なぜ、上の子だけを殺したか。なぜ、下の子だけを放置したか。そう問い詰められておじちゃんは、こう答えたって。 「一人を溺れさせたところで怖くなって、逃げ出した」  これは半分本当で、半分嘘だよ。おじちゃんはあたしの方を好きだったから、次の春やもっと未来の春も見せたかったんだよ。造花の散る冷たい次の春を迎えさせたかった。  ……ねえ、春樹。ちょっとだけ、あたしは眠りたい。眠れそうにないけど、眠るふりだけでもしたい。膝枕、いいかな春樹。大丈夫、あたしは必ず目を覚ますから。      *  深夜のファミレスは、昼間と変わらない賑やかさの中にあった。春樹と萌美は壁際の席に並んで、窓の向こうを見ていた。桜はどこにもない。本物も偽物も。煮詰まったコーヒーの香りと春の夜とは、どこか似ていることを知るだけだ。 「なんか、ほんとに眠くなってきた」  春樹は腰を引き、ソファに深く座り直す。萌美はソファに掛けたまま、上体だけを倒して春樹の膝に顔を伏せた。それはひどく子供じみた無防備な格好だった。春樹はまるで、そう、花屋のおじちゃんのような気持ちになりかける。このまま捨てて行きたいような、いつまでもこうしていたいような気持ちだ。 「寝ていいよ」 「じゃあ、少しだけね」 「俺も眠くなってきたな」 「だめ」  顔を伏せているのに、萌美が目を見開いたことはわかった。萌美は自分の膝ではなく、どこか遠い所の闇を見ているんだろうと春樹は想像した。それは自分は到底垣間見ることも叶わない、途方も無い暗闇だ。 「春樹まで寝たら、誰が起こしてくれるの。覚めない夢は……見たくない」  春樹はそっと、萌美の髪を撫でた。いるのかいないのか、まだわからない存在を探りたくて、今度はテーブルの下でそっと萌美の下腹を撫でる。萌美は本当に寝入ったようだ。  下腹は生温かく、湿っていた──。 [#改ページ]    悦楽越南物語      ㈵  書かずに終えた物語と書けずに捨てた物語ばかりを置いて、私はまたこの国に来てしまった──。  日本も嫌になるほど暑いというのに、さらに暑いこの国。正確には、ベトナムという国に用事があるのではない。どこか狂暴な美貌を持つ街、ホーチミン市にのみ用事と理由と欲望を持って訪れるのだ。  小説家ということになっている私は、物語を書くために取材に行くんだといえば、年明けに税理士に渡す書類へ、渡航費用を計上したものを紛れ込ませることは簡単だ。不正ではないはずだが、恋を税金対策に利用するのは良くないだろうか。  初めてこの国に来た私は、大抵のガイドブックに載っている高級ベトナム料理店に夕食を食べに行き、一人のボーイに、ありきたりで簡素な表現を使えば、一目惚れをした。禁欲的なくせに猥褻《わいせつ》な黒い上下の制服は、私を苦しめるほど彼に似合っていて、店を出た後も淫靡《いんび》な影となって私にまとわりついたのだ。  ベトナム語がまるでわからない私と、日本語は挨拶くらいしかできない彼との間では、壊れた英語でしか会話が成り立たない。よくそれで、大っぴらな愛の言葉が交わせたものだと思うが、何より強かったのは愛だの恋だのではない。情欲だ。  店員と客という関係で始まった私達は、幾つかの涼しい夜を経て、狂おしく暑い熱帯夜を迎えた。私は制服を脱いだ彼を見、彼は靴を脱いだ私を見た。それだけで充分に純情で淫らな夜だった。  帰国してからも、私は黒い服をまとった彼ばかり思っていた。無理に休暇をこしらえては、彼の国に通うようになってしまった。暑い国は懐かしく、熱い彼は恋しかった。暑くて熱い、ベトナムの恋人。  彼が勤めている店はすべてが黒く重かった。装飾過多な椅子も、青い磁器の皿も、何もかも。薄く切られた南洋の果実さえ、重く蜜を滴《したた》らせていた。綺麗に痩せた彼が椅子を引いてくれ、凝りすぎた料理の皿を持ってきてくれる。煙草に火をつけ、グラスに酒を注いでくれる。してくれないのは、いやらしいことだけだった。  まだ単なるボーイと客だった頃から、密やかに妄想していた。あの制服を着た彼と、したい。給仕をしてもらいながら、淫らなことをしたい。重厚な店内で、気取った客達の中で、そんな妄想が実現するはずもなかった。  彼が初めて制服も何もかも脱いだ姿を見せてくれたのは、もちろん店から隔たったホテルでだった。頑《かたく》なに私を拒んでいた黒い制服ではなく、凡庸なチェックの柄のシャツを着て現れた彼は、最初から接吻が巧かった。なのに乳首を噛む力は強すぎて、私は乳首でない場所にも傷を負った。  男だから女だからという区別よりも、金持ちだから貧乏だからという区別の方がわかりやすく潔い彼の国。お気楽な小金持ちの、しかもかなり年上の私が、日本円にして月給一万円程度の彼にデートのたびに服だの靴だの買ってやるのは、決して施しめいたものではない。  より有る方が無い方に与えるのは当然ではないか。より欲情している方が健気《けなげ》で愚かに可愛らしく見えるように。  私は客以外の者にもなったのに、黒い制服の彼を見たくてレストランに行く。清らかな暗い体が隠された彼を見に。細長い性器を隠して、澄ました顔で給仕をする彼を優しく嬲《なぶ》るために。  いっそ愛情などない方がいい。私は彼に愛されたいのではない。欲情されたいのだ。虚空に消える愛の言葉よりも、確かに耳を濡らす喘《あえ》ぎ声が欲しい。      ㈼  帰国後、彼と私はメール交換をするようになった。  彼は、今勤めている店を辞めるとメールしてきた。マネージャーとうまくいかないからと。私は彼のいうオーストラリア人の初老の男を幾度か見かけた。明らかに彼だけを贔屓《ひいき》しているのがわかった。薄い色の瞳に、気高い悲しみと濃い獣欲が宿っているのも見て取れた。なぜなら、オーストラリア男とこの日本女は同類だからだ。  彼にいわせると、最初に勤めたフレンチ・レストランにそのオーストラリア人は毎夜のみに来ていて、気に入られたそうだ。そして今度自分はベトナム料理店のマネージャーになるから、君も一緒に来いと引き抜かれたのだ。  それって恋愛なのと、私は直截的に彼に聞いた。彼は曖昧に笑うだけだった。そのマネージャーと喧嘩した原因は何か。まさか私ではなかろう。そんな栄光は、ただの色狂いの私には相応《ふさわ》しくない物語だ。  一日おいて、次のメールが来た時にはもう、彼は次の職場を見付けていた。その簡単な報告の後に、あなたの夢が叶うよ、とあった。何度読み返しても、その文意がわからなかった。彼のではなく、この私の夢が叶うとは何だろう。行くまで楽しみにしていると、返事を書いた。  転職したといっても、またレストランだ。彼の祖父はレストランを経営していて、戦前はかなり羽振りも良かったという。戦争ですべてが駄目になったと。ああ、そうだ。彼は私より十近く若いのに、戦中の生まれなのだった。兵役経験まであるのだった。しかし彼は今時のホーチミンっ子であり、戦争も侵略も兵役も知らない日本女のいいようにされている。  いずれにしても、彼は将来レストランを再建したいのだといった。嘘ではないだろう。彼は日本でいえば銀座四丁目といった辺りに住んでいる。ホーチミンのランドマーク的存在である、植民地式高級ホテル二軒の間にあり、ガイドブックの表紙を飾る市民劇場までが隣にある、そんな建物に住んでいるのだから。  外人にまったく物怖じしないのは、そんな環境がなせる業《わざ》だろう。もっとも、さすがに日本女は初めてだといっていたが。私だってベトナム男は初めてだと告げた。  そんな彼の新たなレストランは、前の所に比べればやや格式は落ちるが、ここも大抵のガイドブックに載っている店だ。前の店は全体的に濃密な黒で統一されていたが、新たな店は明るい緑に溢れていた。  彼の制服も当然、変えられていた。禁欲的で猥褻だった黒い上下ではなく、正確には何と称するのかわからないが、男のアオザイといっていい制服だった。紅色の、脇にスリットの入った中華風の上着だ。充分にいやらしいではないか。  おまけにその店には、個室といっていい部屋があった。彼は私をそこに案内し、担当になってくれた。これだけで、卑屈な私は途方に暮れる。前のレストランでは、何度も通ったが彼がテーブル付きになってくれるかどうかはまったく運任せ、店任せだったのだ。今は彼の方から来てくれる。  しかも、だ。卑屈なくせに貪欲な私は目が眩む。個室だから、制服を着た彼とあれやこれやの猥褻なことをするのも可能なのだ。ああ、これね。私は個室に通されながら、すでに目の前を霞《かす》ませていた。私の夢が叶うって、これ。  前の店に比べれば、すべてが軽やかだ。透かし彫りのドアも簡素な木の椅子も、凝りすぎていない料理も、紅色の制服の裾も、軽い風に翻《ひるがえ》っている。  素朴なバチャン焼きの皿に盛られた、中の果肉を刳《く》り貫《ぬ》いたココナツの皮。それを容器にして香草と海老を入れたトム・ハップ・チャイ・ユア。やはり海老を入れてある生春巻ゴイ・クォン・トム・ティット。緑のテーブルクロス。白い磁器の灰皿。彼が火をつけてくれるから吸う煙草。  私は海老をくわえたまま、すぐ隣に立った彼の上着の脇に手を差し込む。彼以外のベトナム人を知らないので断言はできないが、彼らはアンダーシャツは着ない。下着といえばズボン下にはくものだけだ。だから、すぐに素肌に触れられた。  これが一番美味しそう。私は真正面を見据えたまま、澄ました口調でいう。滑らかな脇腹の皮膚を撫でながらだ。性器にもつながっている皮膚だと思えば、私の方がくすぐったさに身を捩《よじ》りたくなってくる。  でしょう。食べていいですよ。彼は私に撫でさせながら、テーブルの上をてきぱきと整える。そうして、唇の端だけで笑う。私は撫で続ける。時折、ズボンの方にも手を滑らせてみる。下には無論、下着をはいている。その中に手を入れてもいいが、海老を咀嚼《そしやく》した後にしたい。  彼は生真面目な表情を作り、皿を置く。私の目を見ず、含み笑いをする。彼の肌は本当に美麗だ。思えばこんな、陽焼けした美しい肌は初めてではないか。これまでつきあってきた男は色白ばかりではないが、ここまで太陽に愛されている男はいなかった。  執拗に脇腹を撫でる私の手を、突然に彼が掴んだ。突っ立ったまま、彼はわざと生真面目な顔をしている。そのまま私の手をズボンの中に誘った。半ば勃起している。手触りだけで、どの下着をつけているかわかった。あの黒のだ。  彼は右手で私の手を掴んだまま、左手で器用にライターに火をつけた。そのまま私のくわえた煙草に近づける。早く彼のこれを吸いたいと思いながら、私は深々と煙を吸う。緩慢に、彼を愛撫しながらだ。  もしも誰かが見ていたら、とんでもない光景だと呆気に取られるだろう。ベトナム人のボーイと日本人の女の客が、食べながら給仕をしながら触りっこ、というよりはもうほとんど寝室での前戯に近いことをしているなどと。  じゃあ、次のを持ってくる。これとこれは、下げてもいいですね。彼はやはり寝室での囁きと同じ調子の声を耳元にくれる。長めの前髪が俯《うつむ》いた彼の表情を俄《にわ》かに陰らせ、私は触られた時よりも潤う。  空になった皿をいったん持ち上げた彼だが、そっとテーブルに戻すと再び唐突な強さで私の胸を掴んだ。優しくでも猥褻にでもなく、ただ乱暴に。その乱暴さもまた私が欲しいと願っていたもので、私は思わず足を閉じてしまう。  ココナツの皮の縁から、ねっとりとスープがこぼれている。それと同じことが、今私の身の上にも起こっていた。      ㈽  仕事を終えた彼と一緒に帰ることになったのだが、向かうのは私が泊まっている高級ホテルにではない。こんな悦楽の都なのに、社会主義国でもあるこの国。高級ホテルには、結婚していないベトナム人と外国人は決して泊まれないのだ。  だから、裏通りにある安ホテルに行く。ここは先に金さえ払えば黙って泊めてくれる。すでに何度も泊まっている。エレベーターにも薄暗いフロアにも、プロのベトナム女と他のアジア諸国の男しかいないのに、部屋にはベトナム語と英語とそして日本語でもきっちりと「売春行為は禁止」と書かれた紙が置いてある。  私達だけだ、日本女とベトナム男という組み合わせは。そして、宿泊代を女が払い、行為の後で女が金を受け取らないというのも、私達だけ。奇跡の恋人同士なのだ。少なくともこのうらぶれたホテルにおいては、こんな猥褻な恋人達でさえ。  前回、私が買ってやった小型のバイクに乗る。ホーチミン市内は、ドライブと夕涼みとを兼ねた恋人達や家族連れが、あてもなくぐるぐると日本製のバイクで回っている。ひしめきあう貧困と生命力と。両脇の、人々を詰め込んだ集合住宅や店舗は、生活感が溢れているのに私には神秘で恐怖だ。  きっと怪しい、淫猥なことをしているに違いないと想像と妄想をかきたてられる、けれどおそらくは凡庸な市井の生活が淡々と延々と続いているのだとわからせてくれる。奇怪なアルファベットに特殊文字は、すべてが呪文だ。  彼のバイクの後ろに乗る時、私は手をどうしているか。肩にかけている時は、楽しい気持ちでいる時だ。満ち足りている時だ。好奇心いっぱいに異国の町を見回し、この地でなら堂々と恋人と呼べる彼の温もりに安堵しきっている。  だが、彼の腰に手を回している時は、不安な時だ。気の遠くなる渋滞やすれすれに横切り追い越す他のバイクやトラック、タクシーに怯えている時だ。  そうしてもう一つ。欲情している時だ。彼は真摯な表情をしている時、最も私を蕩《とろ》けさせる。淫《みだ》らな笑顔よりも、ずっとずっと。初めて見惚れたのが、この表情の彼だからだ。背後からこうして彼の太股に自分の太股を密着させることの幸福と不幸は、私にありとあらゆる幸福と不幸の逆転を示唆《しさ》する。  こんな私がよく、悪名高いこの国の公安に捕まらないものだ。安堵しつつ、不満に思っている。早く破滅が来ればいい。来れば嘆くに違いないのに、私は待ち焦がれている。早く早く、私を破滅させてと。  ホテルに着くと、彼はバイクを預ける。従業員はもう私達を覚えてしまっているが、余計なことは話しかけてこない。狭苦しいエレベーターに籠もるのは、彼のでも私のでもない、従業員の体臭だ。  しかしこのホテルは少し不思議だ。些細な不思議に満ちている。料金は一律いつでも二十ドルなのだが、部屋がまちまちなのだ。スイートふうの応接セットを入れた豪華な部屋もあれば、いかにも安ホテルといったバスタブさえない狭い部屋がある。私達に必要なのはベッドだけだから、どこに通されようと構わないのだが、今回案内されたのは、中程度の簡素な部屋だった。  二つ目の夢が叶うじゃないか。二人きりになってから、彼はどこか卑しいのに稚気に満ちた笑いとともに囁く。彼は私の欲情のため息や台詞や譫言《うわごと》は、すべて覚えているらしかった。そう、彼は手にした紙袋から店での制服を取り出して見せた。  制服を着たあなたとしたいと思っていたと、私は囁いたのだ。彼は洗濯をするからと店にいって、脱いだそれを私のために持ち帰ってくれたのだ。彼は鏡の前で着替えた。建前上はこの国にはラブホテルはないことになっているが、実際にはある。ここがそうではないか。ヘッドボード、浴室のドア、至る所に鏡がある。  彼は洗面所のドアに貼られた鏡の前で全裸になってから、制服を着た。それから私を抱いた。さっきの鏡に私達が映っている。スリットが割れて、彼はすぐに全裸に近くなる。普段、浅黒いベトナム人の中に混じっている彼しか見ていないから、そんなにしみじみと彼は黒いと感じたことはない。  だが、鏡に私と一緒に映れば、改めて浅黒い肌が目立つ。どんなに密着しあっていてもきっちりと白と茶に色分けされているのだ。彼の胴体に巻き付く私の足、重なりあう腰。まるで体位の図解をしているようだ。  彼は制服をかろうじて身につけたまま、ベッドの真ん中で胡坐《あぐら》をかく。私は下着だけになって、彼の股間を枕にするような格好で仰向けになる。首だけ回して、彼のものを含んだ。私の体は無防備に開かれた。  彼は私に舐めさせながら、背を屈めて私に覆い被さり、乳房を覆う下着にも、性器を隠す下着にも、その繊細なのに強い指を入れてくる。いつのまに私は下着を取り去られ、全裸にされているのか。いつもわからない。  彼の指の動きに合わせて、必死に彼を吸う。彼も執拗に私を弄《いじ》る。私の口と性器は、同じ音を立てる。  彼のセックスはそんなにいいのかと問われれば、少しはためらわなくてはならないだろう。前戯はないに等しい。いきなり足を大きく開かせ、即座に自分の性器をこじ入れてくる。始まりは、やや痛い。  しかし抜き差しを繰り返されると、たちまち私はひどく濡れてくる。彼の性器は恐ろしく私に合っているのだ。入った瞬間、彼だとわかる。夢が叶った、と聞けば普通は清々しい場面や豊かな状態や可愛らしい情景を思い浮かべるものだろう。私の場合、ささやかとも途方もないともいえた。結局は、どこか滑稽で大いに猥褻なものだった。夢は夢に違いなくてもだ。  ホーチミンは今、雨期だけど。あなたはいつもここに来るときは雨期だ。  彼は何度も同じ冗談をいう。私達は極端に切り詰めた英語で会話しているから、これでいいのだった。彼にかき回されて、私は思わず歯を立てそうになる。こっちをこらえる方が苦しい。  彼が私を促す。私は焦《じ》らしていたのか焦らされていたのかわからないままに、体を起こして彼にしがみつき、それからまたがった。密着し合いたいのを少しこらえて、私は上体を起こす。枕元に貼られた鏡に映る自分達を見たい。  どこかヒステリックなほどに効いた冷房の中、私は朦朧《もうろう》としている。浅黒い彼の上にまたがる私は、鏡に向けて足を開き切っている。仄暗《ほのぐら》い照明の中で、自分の白さが最も猥褻だ。陰毛の黒さばかりが妙に目立つ。出し入れしている彼の性器だけが、最もこの世界で生きたものだと感じる。  彼が私の名前を、微妙にずれたイントネーションで呼んでいる。私もそんなふうに、彼を呼んでいることだろう。伸ばしてきた手は、私の乳房を下から掴んだ。それから彼は上体を浮かせて、右手は乳房から離さないまま、左の乳首をくわえた。  レストランでの彼と同じく、ベッドの中の彼も働き者だ。少しもどこも休まない。腰も突き上げ続けているし、左手はつながりあっている場所にくぐらせて、私の性器の最も敏感な箇所を弄《いじ》っていた。  そうして唐突に体を離して、彼は白い液体を私の腹や腿にではなく、自身の手のひらに受ける。最初はわりと感動した。ベトナム式かどうかはわからないが、少なくとも日本男でそんなことをしたのはいない。それから彼は洗面所に手を洗いに行くのだ。  夜に一度してから、眠る。日本男は事後に腕枕をしてくれても、夜中に目が覚めると背を向けて寝ていたりする。彼にはそれがない。いつ目覚めても私を抱いてくれている。私の寂しさを癒すためというより、彼の寂しさを解消するためだとしても、いい。そっちの方が私は嬉しいではないか。  それから私達は抱き合って眠る。朝はいつも彼の方が先に目覚めている。彼はまだ眠っている私に覆い被さり、私が完全に目を覚ました時にはもう、性器は挿入されているのだった。突かれながら、私はオハヨウ、といわされる。  布団の中には、二人の匂いが籠もっている。彼は不思議に体臭がないのだが、さすがに体液を出した後は匂う。きっと部屋中に籠もっていることだろう。彼に食べさせられた、きつい香草の匂いも混じっているか。食後に飲んだ濃いコーヒーは恥ずかしかった。底に沈んでいたコンデンスミルクが、彼のものにそっくりだからだ。  身仕度を整えてロビーに降りて、初めて私は恥じらう。彼が身分証明書を返してもらっている間、私はソファで娼婦に見えるよう不貞腐《ふてくさ》れた態度で煙草を吸ったりする。しかし従業員にも他の客にも簡単に嘘は見破られているだろう。娼婦がこんなにいつまでも欲情に濡れた眼差しを男に向けているはずがないのだから。      ㈿  昼間なら、高級ホテルにもベトナム人の「お友達」を連れ込める。中でお友達としてお茶を飲んだり歓談をしたりするのは許されるのだ。もちろん私達は、お茶を飲んだり歓談したりもするけれど、セックスをしている時間の方が長い。  彼がレストランに出勤するまで、と私達は部屋に入る。333というベトナム・ビールを飲んで、戯れる。戯れるといっても、私達は必死だ。  始まりは、彼が上だ。彼が乗ってくると、私は胴体に手を回す。まったく贅肉のついてない細い強靭な胴体だ。彼の右の腰には大きめの黒子《ほくろ》がある。手でそれを探り、ああ、彼だと確認するし確信できる。  彼はやや歯並びが悪く、八重歯がある。しかし接吻をしている時はとても整った歯並びだと感じるのは何故だろう。丹念に口腔を舐め合い探り合い吸い合っているというのに。左手の指先で彼の腰の黒子を弄っている間に、もう挿入されていた。  その時、枕元の電話が鳴り響いた。日本でなら、こんな状態の時に電話に出たりはしない。しかし、これは国際電話ではないか。私は彼の腹の上に乗ったまま、そして彼を中に挿《い》れたまま、受話器を取った。  相手は、担当編集者の一人だった。あれっ、なんか声が変。もしかして寝てた? と担当編集者は聞いた。う、ううん、そう、ちょっと昼寝してた。下にいる彼は、大人しく私の乳房をしゃぶったりしていた。腰は動かさないようにしてくれる。  小説家。という職業が、彼は今一つわかっていないようだった。ベトナムでは小説は、一般の人はあまり読まないのだ。学者や研究者の方に近いらしい。つまり彼は、この私をものすごいインテリではないかと勘違いしている部分もあるのだ。  まさか彼が、そんな記号めいたものに欲情しているとは思えない。彼はそんなコンプレクスや復讐心を抱くほど、心に奥行はなさそうだ。こんなふうにいうと軽んじているようだが、違う。彼のシンプルさにはいつも感動させられているのだ。  仕事の話をしているようだと、日本語がわからなくても雰囲気で感じ取れるくらいには、彼は目先の欲情は押さえてくれる。ともあれ彼が動かないでいてくれるので、私も冷静ににこやかに担当編集者に対応ができた。  あのさあ、原稿は帰国してから送ってくれればいいから。タイトルだけ決めてくれないかな。……セックスしている最中に、担当編集者から原稿催促をされたのは初めてだ。といいたいのをこらえて、私は告げた。  ええっと、『碧の玉』。あお、は紺碧のぺき。玉は真珠の珠の方じゃなくて、そう、簡単な方の玉。わかったわかった。ところでどう、ベトナム君とは仲良くやってる? そりゃあもう。わざとらしくはしゃいだ声をあげる。彼の細長く硬い性器は私の中に差し込まれたままで、私も濡れたままだった。  電話を切った後で、私達は再び腰を動かし始めた。窓の下には無秩序に流れるバイクの群れがあり、さらに向こうにはサイゴン川がある。時折、警笛が鳴り響く。どの船にも国旗が翻《ひるがえ》っている。赤地に黄色い星という、歴史や経緯を無視して見た目だけをいわせてもらえば、ひどく可憐《かれん》な旗。煌《きら》めきは汚濁の上にもあり、恋は好色なだけの恋人達の中にもある。悲劇の国にも悦楽はあるように。  生真面目に乳首を噛む彼の頬を両手で挟み、ありふれた奇跡や凡庸な不思議さに小さく震える。一目惚れした顔が、こんなところにある。これは私にとってわかりやすい印がつけられていたといっていいものか。つまり、彼が美男だということだ。  彼は美しい。そして貧しい。それこそが私の求めていたものの象徴だ。そう。そのものではなく、あくまでも象徴されるもの。私は何が欲しくて何が必要かこの歳までわかってなかった女だが、彼に出会ったことで少しわかりかけてきた。きっとそんなものはこの地上にはないのだと。  ベトナムの彼は、たとえ仮定にしても仮にしても、何かしら満たしてくれるのだ。完璧に一杯にではなくても、私の空洞がひたひたと漣《さざなみ》の音を立てるくらいには。あと何十年ももたない美貌や若さ。そんな刹那の煌めきに、私は永遠といった大げさなものさえ託したい女だったのだ。  そんな私に比べれば、彼はもっと無邪気だ。あなたはお金持ちで色白で乳房が大きいから好きだという。彼の無邪気な私の利用法に比べて、私はなんと汚れていることか。これは本気でそう思う。金と愛と体と。何に一番の価値や清廉さがあるのか。本当はどうでもいいくせに、私は悩むふりなどしてみせる。  シンプルに彼は美しい。これでいいではないか。それだけで充分すぎる言い訳や免罪になる。何をされてもいい。何を企まれても、美しい顔を股間に埋めてもらえるだけで、私は悦《よろこ》べるのだ。なお有り余るほどに。  終わった後まだ彼の出勤には時間があったので、一緒にご飯を食べに出た。庶民的な食堂だ。汚れたタイル張りの床。生温かい風を攪拌《かくはん》する旧式の薄青い扇風機。米の粉から作られた簡素な麺と、葉っぱそのもののきつい匂いと味の香草。彼が勤めている店のメニューと比べれば、0が一つ少ない。制服を着たボーイなどいない。上半身裸の親爺がいるだけだ。  隣のテーブルで、小さな子供が泣いていた。私はとびきり下手な英語で彼に聞く。あなたも子供の頃はあんなふうに泣いていたかと。彼が選んでくれた鳥肉入りの麺は、つるつると喉を降りていった。汁で唇を濡らす彼は、毎日泣いていたと笑った。悪戯《いたずら》をしては、母親にお尻を叩かれて泣いていたと。  私を玩《もてあそ》ぶ今の彼も愛しいが、会うことはできなかった子供の頃の彼も愛おしい。初めて彼に見惚れた日を追想する。あの端正な、ちょっと気取ったボーイに、お尻を母親に叩かれて泣いていた子供時代があろうとはまったく想像できなかった。猥褻な姿は何度も想像させてもらったけれど。  食べ終わると、彼はズボンのポケットから皺だらけの小額のドン紙幣を出した。ここは僕がご馳走するよ。だから日本に帰る時、お金貸してね。  ホテルまでバイクで送ってくれた後、彼は本当に屈託のない笑顔で手を振って走り去った。そんな彼を愛しつつ異国で独りぽっちの私も笑って、少しだけ涙ぐんだ。 [#改ページ]    酷薄な天国  自分を健気《けなげ》ないたいけな女だと勘違いしたこともなければ、魔性の女だ悪女だと自惚《うぬぼ》れた覚えもない。私はただの女であり、来年は三十にもなるのに誰かの安っぽい女神となることも叶わず、誰かの可愛い玩具に成り果てることもなかった。本当に、ただの女だ。 「何かにつけ、薫《かおる》は可愛げがないからな」  二年前に別れた、夫だった桂一《けいいち》。とりあえず三年も一緒に暮らしていたのに、その台詞《せりふ》くらいしか覚えていない。いい思い出も悪い思い出もそれなりにあって、子供は出来なかったけれど三年の間ずっと、一つ布団に寝ていた男だというのに。 「あんたが可愛くさせてくれないからよ」  桂一も、私のこの憎まれ口しか覚えていないかもしれない。それなりに、優しい声も尖った声も投げかけてやったはずなのに。  二流どころの商社に勤めていた頃、いわゆる合コンで知り合って交際を始めた時の桂一には、一緒に住んでいる女がいた。郷里の同じ高校出身で、自分を頼って上京してきたから住まわさざるをえなかったんだ、と言い訳をした。もちろん、初めてホテルにいって、そういう関係になってしまった後でだ。  騙したのねっ、と怒鳴る方がこういう場合はカッコ悪い、と考える育ち方をしていた私だ。それをいいことに、その後二ヵ月ばかり、桂一はいわゆる二股をかけた。  私は泣き喚《わめ》くとか狂言自殺を図るとか桂一の会社に乗り込むとか、そんな芝居がかった狂態こそ演じなかったけれど、 「あなたと結婚できないんだったら、あたしは一生結婚しない。そこまで覚悟をしていたのに。そこまで信じていたのに」  などと、こっちの方が実はもっと芝居がかっているといってもいい拗《す》ね方をし、さめざめ、といった擬音のぴったりな泣き方をしてみせた。それは育ち云々ではない。もっと後に、独自に学んだものだ。  正直にいうと、あの頃の私は同じ社に片思いをしている上司がいて、それとなく好意を伝えてはいたがはぐらかされてばかりいた。その独身の上司さえ受け入れてくれれば、即座に桂一は切るつもりだったのだ。何のことはない。どっちもどっちというやつだ。  ところが桂一は、住んでいた女を追い出してしまった。女にも浮気相手がいた、という寒々しいのだか間抜けなのだかわからない理由もあったが、それよりも私の拗ね方と涙が効いたらしい。  桂一は身長こそあったが、馬面で垂れ目で腹も出ていて、間違ってもいい男ではない。だが、気分だけは色男、心構えだけは美男だった。妙に自信があって、それでいてマメだったから、常に女がいたらしい。私も一時、その図々しい色男ぶりに、根拠のない美男の演技に惑わされたともいえるのだ。あれよあれよという間に、事は進んだ。  結婚式には、憧れの上司も来てくれた。彼にこそ、拗ねてさめざめと泣いてやりたかったのだ。そんな真似をしても、彼には戸惑いしかもたらさないであろうことはわかっていたけれど。その上司ももう、結婚したと聞いた。  桂一と暮らしていた女には勝った、といわれるのなら、その後に現れた女には負けた、といわれるのだろう。やられたらやり返せ、といった育ち方はしていない、やったことはやり返される、と説教されるような家に育った私だった。 「歴史は繰り返すっていうからねぇ」  ……思えばこれは、憧れの上司の口癖だった。上司は感情的に部下のミスを責めたりしない代わりに、苦笑してこんなことをいう人だった。そう。桂一は学習しない奴というのか懲《こ》りない奴というのか芸がない奴というのか、またしても合コンで意気投合した女と簡単にデキてしまったのだ。  私との時は「独身」といっていて、それはまあ嘘ではなかった。当時一緒にいた女とは籍は入れてなかったのだから、確かに法的には独身だった。しかし私とは正式に夫婦であったのに、その女には独り身だといっていたのだ。 「あんた、騙したわねっ」  ようやく、その台詞を吐かせてもらった。女の方もそれを喚き散らした。その女は自称フリーアナウンサー、実質はどうもアナウンススクールに通っているだけで、ごくたまにローカル番組のアシスタントなどさせてもらっている、というような女で、 「今来てくれないと死ぬから」  と夕食時に電話をかけてきたり、桂一の実家に押し掛けて妊娠しているかもしれない、などと暴れたりする女だった。  そうなると私も対抗して狂乱……はできず、ひたすらにハガキや原稿用紙に字を埋めることに没頭し、パソコンのキーを一心不乱に叩き続けた。  学生時代から文章を書くのはそこそこに好きだったし、結婚と同時に退職して桂一の給料だけで生活するようになってからは、謝礼目当てにレディスコミックのエッチな体験手記から少し真面目な週刊誌の投稿欄にまで応募するようになり、毎回は採用してもらえなかったが、そこそこの小遣いを得られるようになっていたのだ。  さめざめ泣きも突っぱった拗ね顔も一通りはやり尽くし、時には死んだ方が楽かも、などと半ば本気で呟いてみせ、桂一が彼女の所に逃げたり同僚の男と飲みに出たり一人でさっさと寝てしまったりした後は、ダイニングのテーブルでひたすらに書いた。  時には能天気な幸せな新妻になり、時には辛苦を舐め尽くした未亡人になり、またある時は女子高校生にも成りすまし、書きまくった。毎週、どこかの雑誌には載っているくらいにはなり、つまりは謝礼を貰って文章修業を積んだのだった。  そうして離婚が成立して、まずは桂一がその女と別のマンションに引っ越した後、駄目でもともとと受けた小さな編集プロダクションに採用され、ライターとして仕事をもらえるようになってしまったのだ。  もちろん、それだけでは食べられないが、桂一がしばらくは慰謝料の名目で生活費を出してくれるからやっていける。これは私の手柄ではない。実家の父が勝ち取った公正証書によるものだった。      *  今日の午後からインタビューするのは、映画やテレビではあまりお目にかかれないが、Vシネマではなかなかの人気だという、まだ十代の女優だった。媒体は若い男の子向けの雑誌ではない。オヤジ向けの週刊誌だ。 「あ、どうもどうも。お久しぶりです」 「や。元気そうじゃない。よろしく」  そこの副編集長の名刺を持つ四十前の肥《ふと》った男と、美人といえなくもないのに刈り上げた髪と男物のシャツを無造作に着て化粧っ気もまるでない若い女カメラマンは、以前にも二度ばかり仕事をしていた。していたというだけで、息も気も合うことはこの先ない。  ともあれホテルの部屋を借りるほどの予算もないので、その週刊誌を出している出版社の会議室を使う。小学生の頃通っていた、習字教室をいつも思い出す部屋だ。 「遅れてすみませんねぇ。道、混んでましてぇ」  怒鳴り声に近い声をあげながら入ってきたのは女優ではなく、マネージャーと称する大柄な女だった。  十分ばかり遅れてきた松山茜《まつやまあかね》という女優は、誰もが振り返るほどの美人ではないが、まあ合コンに来れば六人いる男のうち四人は興味を持つだろう、というくらいには可愛かった。もちろん桂一もその四人の中にいるだろう。  一通りの挨拶をしている間も、茜はずっとうつむいていた。髪の合間から、上目遣いの目が見えた。さすがにその眼差しは、素人にはない艶《つや》みたいなものがあった。 「えっと、化粧かぶれで吹出物ができちゃって……それであんまり、写真撮られたくないんですけど、いいですよね」  折り畳み式の椅子にかけながら、茜は呟くほどの声でいった。それに押しかぶせるように、マネージャーが付け加える。 「だから今日の茜は左側から撮って下さいよぉ。右側だけできてんですからっ」  二人が並んで座ってから、私もテーブルを挟んだこちら側の椅子にかける。隣に副編集長がきた。酒の匂いがする。顔は顰《しか》められないが。そして私には無愛想な女カメラマンは、可愛い女の子にはとても親切でけっこう冗舌になる。 「大丈夫、ライトで飛ばすし修正もするし。それにそんなに目立たないよ、吹出物」  では始めさせていただきます、と私はテーブルに置いたテープレコーダーのスイッチを入れる。来月から入る撮影、テレビにも準レギュラーが決まったこと、舞台も……と。茜はずっと左側のきれいな頬だけ向けて、丁寧に答えてくれた。  同僚や先輩のライターの中には、いつか自分がインタビューされる側になりたいと切望しているのがいるけれど、今のところ私にそれはない。離婚してから欲がなくなったのか怠け者になったのかはわからないが、虎視眈々ではなくただ淡々と生きていければいいよねぇ、になってしまっている。  欲をかきすぎて夢を見すぎて、そう、このマネージャーみたいに、意気がっていても時おり目の下に軽い痙攣《けいれん》が走るようになっている人達を、結構観るようになったからか。  ともあれインタビューはもう、まとめられるところまで進んだ。バイトの女の子が持ってきた紙コップのコーヒーはどれも生温《なまぬる》くなっている。もうテープは止めてもいいか、と判断した時、茜も察したらしい。ポーチを取り出してコンパクトの鏡で右頬を確かめた。 「あ、可愛いですね。それ。なんか東南アジアふう」  茜は初めて、撮影用ではない笑顔を見せた。女カメラマンももう、機材をしまいかけているのに。なんとなく、この子が今一つ売れないのは、その笑顔のタイミングのずれのせいではないかという気がした。あるいはもっと端的に、このマネージャー。 「あ、このポーチですか。大切なんです。ほら、ここに焼け焦げあるでしょう。だから大切。カレシと店でコーヒー飲んでて、あたしちょっとトイレに立った時、煙草を灰皿にちゃんと置いたつもりだったんだけど」 「ああ、はいはい、ここんとこ削除ね、ライターさん。煙草煙草。茜まだ十九だからっ」  ところが茜は、マネージャーを無視してその薄茶のポーチを私に突き出した。 「……なんでか、煙草は置いてたバッグの中に落ちてたんです。カレシも気づかなかった。バッグの中、底の方をちょっとと、もらったばかりのこのポーチに焦げ目ついちゃった。カレシにはいえなかった。なんで気づかなかったの、とも、焦がしちゃった、とも」  台本があって、それの通りにしゃべっているとも感じられるほど、さっきとは打って変わったはきはきとした口調だった。だから私は、ポーチの焼け焦げを凝視した。 「だからあたし、このポーチは大切にしようと決意したんです。焦げても別にポーチとしては問題ないし、これくらいあたしにだって繕《つくろ》えるって」 「この子は裁縫とか得意なんですよ。そこんとこは書いて下さいねっ」  茜はやはりどこか芝居がかった動作で、ポーチを膝の上に乗せると、ゆっくりと焦げ目を撫でた。いや、焦げ目を不器用に刺繍糸《ししゆういと》で繕った箇所をだ。 「たとえは悪いかもしれないけど、どこかに問題や障害のある恋人とかを持った人の気持ちって、これなんじゃないかな。多分このポーチに何事もなかったらあたし、他のポーチと一緒ですぐ飽きてしまいこむか無くすか誰かにあげるかしてたと思う」 「茜はほんとに飽きっぽいから」  マネージャーはコーヒーを一気に飲んだ。茜も、一気にしゃべった。 「でも欠損したものって、人には簡単にあげられないし、忘れられないですよね。それにほら、『これをこんなふうにしてしまったのは自分だ』って負い目みたいなもんが生まれるから、余計なんか意地になって、『ううん、これは素晴らしいもの。この欠けたところがかえって魅力になってるんだ。繕ったところは味わいがあるし手間をかけた分、愛も増す』っていい張れるじゃないですか。ううん、いい張らなきゃならない」  男の話をしているのだと、すぐにわかった。カメラマンはわざとらしくうなずきながら聞き、明らかに二日酔いの副編集長はこんないい話に欠伸《あくび》をしている。 「あなたは、そういうの、ないですか」  突然に茜は吹出物の出た頬の方をこちらに向け、ポーチを突き出すようにして訊ねてきた。私は茜が繕って持っている男の話も聞きたかったが押さえて、微笑《ほほえ》んだ。 「ううん、そうですね。自分自身かな」  気のきいた答えではなく、無難な答えだろう。やっと茜は紙コップのコーヒーを手にした。茜はすべてが小さく華奢《きやしや》なのに、手だけが妙に大きいのに今さら気づいた。しかしそれはいってはいけないだろう。本人は気にしているかもしれない。また、カレシとやらは案外その手を好きだったりもするのだから。  テープを止めてノートもしまってから、私も冷めたコーヒーを飲む。 「ところで茜さんは、やっぱりスカウト? それともオーディションかな?」  茜に代わって、マネージャーが答えた。軽く、目の下が痙攣した。 「この子、手が大きいでしょ。街を歩いていると、いろんなもんにこの手をつかまれるの。風俗の勧誘からホストクラブの誘いから芸能界へのスカウトまで」 「男……カレシには、つかまれたんじゃなくて。この手でつかんだんです」 「あっ、それもカットカットよ、ライターさん」  茜は不意にその手で、私の手を握ってきた。大きいけれど柔らかな、頼りない手だった。  だから私は、もちろんそれは書きませんと、茜にではなくマネージャーに答えた。 「書いてくれてもいいのに」  そういって茜は手を放すと、入ってきた時とは打って変わって堂々とした強い足取りで出ていった。  吹出物の出た、頬も隠さずに──。      *  所属はしているが正社員でもないので、毎日プロダクションのある雑居ビルには行かなくていい。朝起きて、といっても昼に近かったが、軽い食事をとってから直行したのは、わりと近所にある家だった。 「楽っちゃ、楽なんだけどなぁ。……金にはならないか」  今日の仕事はこれだけだ。地元のタウン情報誌。カメラマンも私が兼ねる。つまりは一人で取材だ。相手は、自ら売り込んできた。先輩ライターに押しつけられた仕事。  当の取材相手が送り付けてきたプロフィールとやらに、最初からうんざりしていた。小説家、という触れ込み売り込みだが、自費出版で一冊出しているだけだ。それで華々しいHPまで作り、宝塚のような、といえば宝塚の人に失礼な筆名をつけている。  添えられていた写真は、ふざけているのか本気なのか、三十年前のアイドルみたいだった。サテンというのだろうか、ペラペラのとにかく薄い化繊のピンクのワンピースは大きな衿と昔懐かしい提灯袖。プロフィールによると私と同い年のはずだが、長い髪には同じピンクのヘアバンドがついていた。  顔立ちそのものは悪くないが、どこかが激しく歪むか欠損しているのをわからせてくれる表情だった。自家製の天国に住むお姫様らしい。送られてきた本も、三ページ読むのが苦行といった代物だった。  私はさすがにここまで楽天的にも善良にも馬鹿にもなれない。とりあえず書くことは、生きる手段だ。プロダクションにも似たようなのは何人かいるが、深入りしない限りは、痛い箇所をつつかない限りは、いい人達だ。多分、この優凜野凪咲《ゆりのなぎさ》なる女も。  きちんと手入れもされた庭のある一戸建ての家は、かなりの豪邸だった。実質、無職で親がかりらしい。羨ましくも可哀相でもない。ただ私とは違う人、だ。そう考えれば腹も立たないはずなのだが──。 「いらっしゃいませぇ。私が作家の優凜野凪咲ですぅ。あ、今日はママがいないんでお茶出せません。ごめんなさいねっ。ママ素敵だから、お会いして欲しかったのに」  玄関先で迎えてくれた自称作家には、腹が立つのなんのより、軽い恐怖を覚えた。確かに写真の人物なのだが、ちょっと病的な感じの肥り方をしていた。着ているものもちぐはぐな印象を与えた。写真を撮った頃より三〇キロは増えていると思われた。肥えた頬を隠すためか、始終頬に手を当てる。手を当てたくらいで隠せるものなど、この世にはほとんどない。  玄関からリビングまでは、掃除もきちんと行き届いていた。その素敵なママがしているのだろう。ところが二階の自称作家の部屋は、足の踏み場もないとまではいかないが、雑然とした部屋だった。  よく見れば高価なものが無造作に転がり、押しやられ、かと思えば百円ショップで売られているような雑貨が大事そうに飾られていたり、埃まみれの造花と朽ちたドライフラワーがベッドを囲んでいたりする。 「ゆりの、なぎささんですよね」 「はいっ、小説家の優凜野です」 「ええと、お写真は随分と昔のなんですね」 「うん、そうだけど。でも、あの頃と今と全然変わってないからっ」  何かが突出しているのか後退しているのかわからない自称作家は、自分だけドカッという音をたてて椅子にかけ、私にはどうぞといわない。永遠にいいそうにないので、私から失礼します、と断って彼女の前に座った。テーブルにも色々と雑多なものが広げられていた。きっと彼女だけの王国なのだろう。小宇宙なのだろう。  写真を撮りたいといった時も、ずっと頬を押さえていた。考え込んでいるのでも恥じらっているのでもなく、お姫様自らが決めた法に従っているのだ。  送り付けてきた写真の服は着られなくなったのだろう。しかし今もまだ肌寒い季節なのに、ペラペラとした印象のバランスの悪い服装をしていた。  声だけが奇妙に大人、だった。ただし喋り口調は、先日の十九歳の女優よりも舌足らずで幼かった。ひとしきり、自分がどれほど学生時代はアイドルと呼ばれていたか、優秀だったか、卒業して勤めたのが一流企業だったか、を一生懸命に語った。  埋め草、といってもいいのかどうか、「街にこんな人います」なるコーナーで、全国区の有名人は出ない。地元でちょっと商売をしていたり何かの教室を開いていたりする人くらいだ。登場する人しか熱心に見ないコーナーなのだ。  私は少し意地悪な気持ちになった。前日、私は彼女が「私のファンが立ち上げてくれました」というHPを見ていたのだが、それは明らかな自作自演だった。つまりこの優凜野自身が「野辺の薔薇」なるファンを名乗っているのだが、時々それを忘れて優凜野の言葉を「野辺の薔薇」の名前で書き込んだりしてしまうのだ。 「ところでぜひ、『野辺の薔薇』さんにもお話うかがいたいなと思っているんですが、後でそちらにお電話さしあげてもいいですか」  突然、優凜野の態度が変わった。頬から手を下ろすと、どこかひどく疲れたふうに背を丸めて椅子によりかかった。年老いた猫のようだった。 「わたし正月休みに、パパとママと東南アジアを旅行したのね。ベトナムの女の子はすごい綺麗な子がいるの。それで白人や、他のアジアの男に連れられて贅沢させてもらってる。でも隣のカンボジアに行ったら……あんまり綺麗な子いないの。ていうかみんな黒いから区別つかない。フォローになってないかな。カンボジアの女の子の方が、ずっと気立ては良さそうだったけど。それでも、そんなブスな女の子も外人に連れられてたんだわ」  唐突に話を逸らした。それは意識してのことなのか。 「ベトナムの美人を見てると、美人に生まれるだけで得、ううん、結果として得にはならないにしても、ドラマチックってものは垣間見えるじゃない。でも、カンボジアだとすべては運、なの。全部おんなじようなら、たまたま金持ちの男の目に止まるか止まらないかだけ。そこにいたかいなかったかだけじゃない」  その目を見ていると、もう意地悪はできなくなった。 「わたしはどうなんだろう。ブンガクの神様に見初められたのは、目を引く確かなものがあったのか、たまたま神様の目につく所に居合わせたからだけなのかなぁ、って」  この人が異郷で、何かの天国と地獄とを見たのは間違いないらしい。けれど、自分自身はやっぱり見えていないようだ。 「あの。最後に。読者の皆さんに、何か伝えたいことはありますか」 「……遠くにいるので。今。ああ、野辺の薔薇さんのことだけど、野辺の薔薇さんに会ってみたいな。わたしを愛してくれて応援してくれてありがとう、って」  その目があまりに澄んでいたので、異郷のプールサイドの、デッキチェアに寝そべる彼女が見えた。青々と透き通る水をたたえたプールの中には、野辺の薔薇さんが泳いでいるのも、ちょっとだけ見えた気がした。……それは、書けないけれど。      *  今夜の仕事も、楽といえばそうなのだろう。電話インタビューだ。小説の月刊誌で、二ページ。恋愛特集のコメントをもらうのだ。相手はまだ二十代半ばの男の漫画家だ。  2DKのマンションとは名ばかりのうちのアパートの、唯一の畳の間には、先週から男が一人、住み着いていた。女性週刊誌の仕事で、何度か一緒になった。私はライターとして、彼はカメラマンとして。  偶然、住んでいる所が近いとわかり、私の方から家に呼んだりご飯を食べさせたりしていた。誘ったのも、私の方だ。彼、悟《さとる》は三つばかり年下で、一人で地味に生活するだけなら困らない程度には稼いでいて、何よりも前の夫だった桂一とは反対に、美男なのに自意識が美男でない男だった。  だからモテなかった。服装にもかまわなかった。私は可愛い何でもない男が欲しかったのだから好都合だった。今日はもう仕事のない悟は、ごろごろしている。  そんな彼も変なところだけ神経質で、こだわりがあって、ペディキュア、つまり足の爪にマニキュアを塗るのをひどく嫌がる。息苦しそうだとかいって、私の爪を見て色があれば落とそうとする。  私は足を投げ出して時計を見て、時間通りだなと呟いてから受話器を持ち上げた。足元には悟がいて、コットンと除光液の瓶を持って座っている。エアコンが物憂く生暖かい風を吹き出していた。すべてがきっちりと、するすると進行していた。外の季節も宇宙も。  電話の向こうにいる漫画家の新刊だけは読んでいた。ものすごく苦手な話というのでもないが何も残らない、私はもう読まないと思われる雰囲気のものだった。悟はコットンに除光液を浸している。私の足は少しだけ冷える。 「……はい、どうもありがとうございました。ゲラはすぐに送らせていただきます」  漫画家は一人でよくしゃべってくれた。私は相槌を打てばいいだけだった。電話の向こうの漫画家は、女性週刊誌のコメントではよく見かけた。先日の自称作家とは違って、本当にビジュアル的にもなかなかの漫画家だ。 「では最後に、恋愛のこと以外でおっしゃりたいことってありますか。近況報告の所に載せますので。やはり新刊のことですか。サイン会もあるとうかがったのですが」 「探し物があります、っていうのでもいいですかね」 「ええ。いいですよ」  悟はいつものことながら、丁寧に、緩慢《かんまん》に、マニキュアを落としていく。赤色だったので、コットンはまるで血を拭《ぬぐ》っているように痛々しい赤に染まっていく。 「ちょっと無理な探し物です。間違いなく見つからないでしょう。白黒の写真集なんです。タイトルも出版社もカメラマンの名前もわからない。モデルの名前さえ」  足元の男に聞こうかと思ったが、話を続けさせた。 「モデルの女は、みんなが認める美人っていうんじゃないです。人によっては、ブスっていうかもしれないな。病的に細長い、白い女なんですよ。悪女なのか純情可憐なのかもわからない。ただ、ある種の男は激しく惹きつけられるだろうな、って感じ」 「たとえば、あなたとか。あなたは、惹きつけられたんですね」  軽い、嫉妬を覚えた。この漫画家など好きではないのに。悟は右足に移っていた。左足は桃色の爪になっている。悪女の足か、純情可憐な女の足か。足だけではわからない。 「そう。……僕は女の写真集を、夢の中で手渡されるんです」  夢の中。私は聞き返しも咎めもしない。彼が真面目だというのは、電話でちゃんと伝わってきたからだ。彼もまた、私が真剣に、そう、足を男に預けてはいても真面目に聞いていることはわかってくれたようだ。 「夢の中の誰かがいうんです。『このモデルになった女を探して欲しい』って。いや、『探したい』だったかな。夢の中とはいえ、それって重大でしょう。目覚めた後も、今も……ずっと気になってます」  血がついた、としか見えないコットンが何枚か重なっていく。部屋には除光液の匂いが満ちていた。悟も満ち足りていて、優しく足の指の間を撫でてくれた。生温かい、幸福。 「探してくれという夢なら、頼まれた僕はその女を探す手立てがあるってことじゃないですか。ただ探したいといわれただけなら、僕に責任はない。頼んできた夢の中の人の、郷愁なり悪夢なりを想像するだけですむ」  すっかり爪が元の色に戻ると、悟はそっと離れていった。自分の部屋にしてしまっている畳の間の方に入っていった。そこで寝転ぶのが見える。私の足の先に見える。 「ああ、やっぱりこんな話、載せられないですよね。いいですいいです、新刊の宣伝をお願いしますよ。サイン会はええっと」 「そうですね。いい話だと思いますけど。現実に買える新刊の方がいいですよね」 「じゃあ、サイン会の日時も告知してもらおうかな」 「……夢の女の写真集。覚えておきます。私も探してあげますよ」  最後にそう付け加えたら、彼はちゃんと面白そうに笑ってくれた。  電話を切った後、私は畳の間に行って、悟の隣に寝転んだ。そのまま、写真集の話をした。夢の中で見たんだって、というのは伏せて。 「知らないな」  もちろん素っ気なく返されたけれど、桃色に戻った私の足の爪を眺めて、悟は確かに幸福そうに微笑んだ。 [#改ページ]    華やぐ末路  上の部屋からは下手な子供のオルガンの演奏が聞こえ、右隣の部屋からは一時間おきに掃除機の音が響き渡り、左隣の部屋からは宗派はわからないがくぐもった念仏の声が流れてくる。それらはどれも、叩き起こされるとか眠れなくなるという音ではない。  ただ、暗い音だ。春は陰気な季節だったか、昼下がりは陰鬱な時間だったか。そんなことを思わせる。嫌な、眠気を誘う音だった。 「でも、うちが一番うるさいんじゃないかな……」  里恵《りえ》は独り言を呟くと、携帯電話を持ったまま床に仰向けになった。四月に入ってすぐに、カーペットは取り去った。夫の賢二《けんじ》の命令だ。希望でも指示でもなく、命令。この2DKは、賢二の王国なのだ。そして妻である里恵は、従順な召使いなのだった。  体感温度も床も、生温かい。昨夜、倒れ伏した時はひんやりとしていたのに。賢二がいる時は、間違っても寝転んだりはできない。寝転んでいいのは、殴られて倒れた時だけだ。  つまり、この部屋から響く音が一番うるさい。賢二は日に一度は怒鳴り声をあげるし、里恵は三日に一度はアパートの前を歩く人を立ち止まらせるくらいの悲鳴をあげている。だが上からも右隣からも左隣からも、直接文句はいわれない。彼らはマンションの管理人にいうだけだ。管理人も、いわれたから仕方なく注意にだけは来ましたよ、という態度を取るのみだ。  皆、優しいのではない。近所付き合いはエレベーターの中の挨拶だけ、集合ポスト前の会釈だけにしたいのだ。だから里恵も、近隣の音をうるさいと堪え難くなれば、オルガンを売った楽器会社に、掃除機を作った家電メーカーに、どこにいるとも知れぬ仏様に文句をいいにいくだろう。  仰向けになって携帯電話を操作していると、頭蓋骨の内側からオルガンの楽曲が、右の耳から掃除機の音が、左の耳から念仏が聞こえてくる。何かを喪《うしな》わせる春の気配は、背中から這い上がってくる。  仰向けになって携帯電話をいじっていた里恵は、うたた寝してしまったようだ。点けっ放しのテレビが眠気を誘う。消さなくちゃ、電気代がもったいないと、怒られる。けれど眠くてだるくて起き上がれない……。  夢現《ゆめうつつ》で、里恵は立ち上がった。しかし奇妙な感覚だ。本体の自分は、床に寝ている。里恵は想像の中で起き上がって歩き、テレビを消すのだ。こんなふうに体が二つあったならいいと、いつもいつも思っていた。いつもいつも、殴られるようになってからだ。  テレビのスイッチを切る自分を想像して、床の上で寝返りを打つ。ふっと音が消えて、里恵は我に返る。携帯電話は、床に滑り落ちていた。  そうして里恵はテレビの前に座り込んでいた。これはどうしたことか。ぼんやりしながら考えてみる。ずきずきと頬が痛んだ。どうやら床から起き上がって歩いてテレビを消したのが、本体のというか、里恵自身だったらしい。床に寝ていた方が夢だったのか。 「あたし最近、ちょっとおかしいの」  ここにいるはずのない慶《けい》が、テーブルに座っている錯覚も起こる。半ば幻だ嘘だとわかっていて、話しかけてしまった。慌てて頭を振って携帯を拾いあげ、メールを打つ。 ≪昨日のは結構、キツかった。人の体って、本当に飛ぶんだよ。って、なんか他人事《ひとごと》みたいだけど。飛んでる間、ああ飛んでるな、ってわかったから≫  流されやすい性格だと、最初に里恵にいったのは誰だったのか。素直な性質だと、最初に誉めてくれたのは誰だったのか。  膝を抱えて座る格好で、里恵はひたすらボタンを押し続ける。 ≪家にいるとなかなかわかんないよね。外が寒いの≫  春は春であるというだけで、暖かいように。慶は男であるというだけで、支えとなる。慶は、父方の従弟《いとこ》だ。今は勤め先のガソリンスタンドだろうから、すぐには返事は来ないだろう。けれど、返事はきっと来ると思うだけで、春はさらに春になる。  起き上がりながら、送信ボタンを押す。それから食卓の椅子にかけた。狭い2DK。けれど逃げ惑う時、引きずり回される時は広大な場所となる。 ≪春なのにね〜。うちには、寒い風が吹いてます≫  携帯電話を置いてトイレに立ち、ついでに鏡を見たら胸に冷たい何かが流れ落ちる感覚を味わった。はっきりわかるほど、顔は腫れていた。  結婚して二年。下手なオルガンの曲と掃除機の音と念仏は、一年。ここに来る前にいたアパートでの一年は、まずまずうまくいっていた。二年目から殴り始めた。その時は熱いものが腹の中で燃え立った。今は冷たいものが流れ落ちる。  トイレから戻ってくると同時に、携帯電話が鳴った。メールがきたのだ。慶から、だった。賢二がゴメンネなどと寄越すことはありえない。 ≪今日は、わりと暖かいよ。昼飯、一緒に食う? おごるよ≫  椅子に座りなおして、返信のメールを打った。 ≪顔、みっともない。みんなに見られるよ。ひょっとしたら、慶ちゃんに殴られたんじゃないかって、周りの人に思われるかも≫  部屋は荒れていた。足の踏み場もないほど、といった散らかり方ではない。賢二がうるさいために、里恵は掃除はまめにしている。だから、カップが一つ転がっているだけで、雑誌が一冊投げ出してあるだけで、靴下が片方落ちているだけで、ひどく乱雑だと感じてしまう。いや、乱雑というより荒涼といった方が近い。 ≪それでもいいよ。食べよう≫  出ていくことにした。それで少しは気分も浮き立つ。といって、慶が愛しい男、恋しい男という訳でもない。慶は三つも年下の従弟だ。そういった目では、見られない。だが、今の里恵にメール交換をしてくれ、話を聞いてくれる男は慶しかいない。  この携帯電話を使って、いわゆる出会い系サイトで男を探そうとか、そんな情熱も切羽詰まった感もない。  この部屋にいて、オルガンや掃除機や念仏を聞いているだけで、何かが削《そ》がれ続けていった。賢二から逃げ出そうと積極的に動くことすら、もう面倒だ。それに慶なら、もしもメール交換や会っていることを知られたり見られたりしても、従弟だと言い訳できる。  流し台で洗い物をしている時、菜箸の先がもう限界なのに気づいた。里恵はほぼ毎日、これで揚げ物をしている。賢二が揚げ物を好きだからだ。木製の菜箸の先はすっかり焦げてしまい、片方はついにささくれて欠けてしまった。  しばらくその先を見つめ、この気持ちは惨めというものかな、とため息をついた。菜箸など、安い店なら百円で買える。けれど躊躇《ためら》う。賢二は自分の欲しいものは借金してでも買うのに、里恵の買物にはひどくうるさい。 「でも、これは買わなくちゃ」  独り言の声だけは明るい。自分はいつから、独り言の癖ができたのか。この前も慶に驚かれた。ああびっくりした、誰かいるのかと思った、と。 「いるの」  とあの時は答えなかったか。もう一人の私がいるの、と。  使い物にならなくなった菜箸は、捨てなくては。里恵は流し台の隅に置いた。捨てるにしても、洗って拭いてやりたい。これは、何かを象徴している気もした。多分、自分だ。      *  里恵の父はそんな人格者ではないが、我を忘れて怒鳴り散らしたりものを投げたり手をあげたり、ということはなかった。だらしない叔父だのはいたが、あまり癇癪《かんしやく》持ちの男は身近にいなかったから、最初は賢二の暴力はただ恐怖だった。  痺《しび》れたようになって、身動きできなくなった。前の夫はそれはなかったからだ。しかし賢二の暴力や暴言は、だんだんと白けた気持ちで観察できるようになっていった。滑稽ですらあった。怒り狂う、しかも些細なことでいい大人の男がわめくのは。  そのうち里恵は、自分から自分が抜けていく感覚を味わうようになっていった。怒鳴られている殴られている自分を、もう一人の自分が見ているといった、悲惨だけれどありがちな逃避の方法だ。  しかし考えてみればそれは、賢二から始まったのではない。前の夫の時だ。離婚を切り出された時はさすがに里恵も泣いて泣いて動揺して、必死に訴えた。感情を表に出すのは格好悪いと思っていたから、努めて冷静にしていたのだけれど。  切々と、心から訴えた、哀願したつもりだった。自分でも自分に泣けた。自分でもすごい、ここまで自分は真摯になれるんだと感動すらした。ところが前の夫は薄ら笑いを浮かべて、すべてを聞きおわった後にいい放ったのだ。 「本当におまえって、何も心が籠もってないよな。ほんと、口先だけよくそんなにべらべら動くよな」  あの時だ。あの時から……。  廊下にもエレベーターにも、騒音はない。下手なくせに悲歌を悲歌だと響かせるオルガンを弾くのがどの子か、敬虔《けいけん》な祈りのように掃除機をかけているのがどの女か、呪いとして念仏を唱えているのがどの老人か、実は知らない。しかし殴られて泣いている女が誰かは、皆知っているように思える。  お前は流されやすい性分だと、最初にいったのは誰だったのか。お前は素直な性格だと最初にいってくれたのは、どこの人だったのか。  里恵は特に恵まれても壊れてもいない家に生まれ育った。一人っ子ではあったが、特に甘やかされたり厳しくされた覚えはない。高校までは優等生でもなく道を外れもせず、それなりに男の子との付き合いもあった。  親が望んだから近所の短大に進み、先生が薦めてくれたから近所の化粧品会社に就職した。そこまでは、流されやすいと非難もされず素直だと誉められもしなかった。  勤めてすぐ、最初の結婚をした時初めて、その二つを同時にいわれた。短大時代バイトに行った喫茶店で知り合った二つ年上の男は、自称ミュージシャンで、自主制作のCDは出していた。小さなライブハウスでも歌っていたが、里恵の喫茶店でのバイト代の方が遥かに多いといった稼ぎしかなかった。  彼の方から強く押してきて、押し切られた格好で結婚した。親は反対したが、一年経って芽が出なければやめて実家の鉄工所を継ぐというので許したのだ。流されやすいと非難したのは親で、素直だと誉めてくれたのは最初の夫だった。  ともあれ、安アパートでのままごとめいた暮らしは、そんな悪いものでも不幸なものでもなかった。金がないと喧嘩はしたが、里恵はそんな華美な生活は望んでいなかったし、バイトに行くのも苦ではなかった。はっきりと彼の才能を信じて、健気《けなげ》に頑張っていたのではない。信じるふりくらいは、していたけれど。  もうそろそろ鉄工所を継ぐかという頃に、彼は知り合いが出張ライブをしてくれといってきたといい、地方に行った。そのまま帰らなかった。さすがに揉めたが、里恵は今度は親に押し切られて離婚した。彼はその地で再婚した。 「今度の女は、すげえしっかり者だ。前の妻とは正反対で」  彼がそんなふうにいっていたと、誰に聞いたのだろう。里恵の記憶は書き替えられて混乱して、慶だったというふうになっている。そんなはずはないのに。  従弟の慶は、結婚式には出なかった。何年も会っていなかったというのもあるが、元々里恵の一家はあまり、親戚付き合いをしない。慶は里恵の父の弟の子なのだが、父の弟である叔父があまり素行が良くなかったし、祖父の遺したわずかな金で揉めてもいた。小さい頃はそんな頻繁にではないが一緒に遊んでいたが、叔父の借金問題で父が絶縁してからは、慶とも会うことはなくなっていたのだ。  それから里恵は実家に戻って、バイトをあれこれした。どれも流されるがままの、素直に受けいれたものだ。といって、水商売や風俗関係はしなかった。それはできないと断ったのではなく、そんな切羽詰まって金が必要ではなかったという、ただそれだけだ。  そうしてその職場の一つで、お見合いめいたものをさせられた。 「相手もバツイチさん。一度失敗しているから、気兼ねはないよ。お似合いだよ」  他人はこんなにも、善意あるお節介をしたがる。  それで出会ったのが、賢二だ。その時はインテリア会社に勤めていた。そこを大喧嘩して辞めて、独立したのだという。それは知らなかった。事情があって、としかいわなかったのだから。彼は夢のある人に見えた。里恵はもしかしたら流されていく自分より、素直な自分が嫌だったのかもしれない。  独立した後、賢二は事務所を持った。車で十分ほどの雑居ビル。親は、家を建ててそこを事務所にすればと望んだが、彼は押し切った。反対されたり意見されると意地になるのだ。そこが里恵とは反対で、里恵はそれを素晴らしいこととしてしまった。  取り付け作業のために、外国人を何人も雇った。明白な不法滞在ではないが、就学ビザで来日して学校には行かずに働いている、というやつだ。  彼らへの賃金も苦しいのに、さらに秘書と称する女を雇った。その女が来てから、暴力を振るうようになった。 「おまえと別れて彼女と一緒になりたい」  はっきりいわれたが、さすがの里恵もこれにははいそうですかとは従えなかった。初めての、強い抵抗だったかもしれない。我を忘れて泣き喚くどなり散らす狂乱するのではなく、泣いている自分を、甲高い声をあげている自分をどこかもう一人の自分が醒めた目で見ている、そんな感じではあったが。  それに、肝心の彼女の方がうんといわないというのもあった。他にもカレシがいるのだという。しかし小遣いは貰えるし、仕事は楽だしで辞めたくないらしい。そういうことをまるで、悪怯《わるび》れずにいうのだ。  何度か、会ったことはある。話したこともある。今どき、の子だった。不貞腐《ふてくさ》れているのか大人しいのか、わからない態度。いまふうの格好なのかだらしない格好なのか、わからない格好。整った顔立ちなのに、しゃべるとものすごく唇が歪んだ。 「あたしはぁ、自分ていうものを、きっちり持っているからぁ。なんか他人のいいなりになって流されていくだけの奥さんが物足りないんだってぇ」  こういう人間には、決して勝てない。自分も、夫も。  そんな頃、偶然に慶に再会したのだ。スーパーで買物をして出たら、隣のファミリーレストランから出てきた細身の男に呼び止められた。やや長めの髪を茶色に染め、黒いシャツを着ていた。これで色黒ならホストだろうといった雰囲気の男で、里恵は戸惑った。まさかこんな、格好いい男の子が声をかけてくるなんてと。 「あの、間違ってたらごめん。もしかして知ってる人かなぁ」  元々そんなに派手に装う趣味はなかった里恵だが、その時は艶《つや》のないもつれた髪で疲れた素顔に寝巻のようなトレーナーを着ていた。まだ二十代だというのに、すっかりくたびれた中年主婦の雰囲気を漂わせていたと、自分でもわかっていた。 「里恵ちゃんじゃない? 俺だよ。ケイくん」 「えっ。慶……ケイくん?」  幼い頃の呼び名で、ようやくわかった。その時まで里恵は、慶がなかなかの美男だなどと、思ったこともなかったのだ。  慶は細面の繊細そうな、それでいてどこか悪擦れもしていそうな微妙な雰囲気をたたえていて、つまりは女癖の悪かった彼の父親にそっくりになりつつあった。しかし、あくまでも従弟だ。婚姻はできるとはいえ、近親すぎる。  ともあれそんな久しぶりに会った慶と隣のファミレスでお茶をして、やはり同じ敷地内にあるガソリンスタンドでバイトをしていると聞いた。高校ん時の先輩のすすめ、と。慶は高校を出た後、特に就職も進学もせずにバイトをしているのだと。 「付き合ってる子はいるけど。その子の親には就職して結婚しろってうるさくいわれててさ。面倒なんだよ。このままでいいから」 「ふうん。そういうの、自分をきっちり持っているっていうの」 「まさか。自分が従うのは嫌、世の中に従ってくれーっ、て。幼稚園児と同じ」  煙草を吸っている慶が不思議だ。唐突に、小さい頃に見た彼の性器が蘇った。あまりにもはっきりと、ありありと。改築前の実家の風呂場の光景までが、細部まで見えた。あの水色の懐かしいタイル張りの風呂に、一緒に入っていたのだ。 「でも、なんかおかしいな。あの小さいケイくんがこんなになって煙草なんか吸って、彼女もいるなんて。……一緒にお風呂入ったね、ちんちん覚えてるよ」 「何いいだすんだよ。恥ずかし。でも俺は覚えてないなあ、里恵ちゃんのナニなんて」  二度目の結婚をしたことも、慶は知っていた。しかし、その時はいわなかった。二度目の夫に殴られているとは。  携帯電話のメールアドレスを交換してからだ。伝えたのは。慶は短いけれど気持ちいい慰めと励ましをくれた。それだけだ。互いの親の話はしなかった。  そうだ、菜箸を買ったのはあの時だ。あれからずっとあの菜箸で揚げ物を作り続けた。後いくつ揚げれば幸せになれるか考えているうちに、菜箸が焦げて欠けた。  今日は、買い替えよう。新しい菜箸に。ケイくんとご飯を食べた後に。  まだ自分はどこか、分離していたけれど、菜箸を流し台に乗せて、外に出た。外は奇妙に静まり返っていた。オルガンも掃除機も念仏もなく、悲鳴もなかった。      *  ──自分は菜箸を買って、ファミレスの壁ぎわの席で微睡《まどろ》んでいたのだ。里恵はそう信じた。慶には、会わなかった。慶に会う、夢だけを見たのだと。 「ここがケイくんの部屋かぁ。想像していたのとぴったり」 「狭いだろ。でも、一人なら不自由ない」 「でも彼女、来るんでしょ」 「まあね。だから片付いてる」  他愛ない会話は細部まで覚えているのに、どうして一緒に風呂に入ることになったのかは、まるで思い出せない。風呂場はどこの風呂場にも似ていなかった。ベージュ色のすべてがプラスチックでできた、せせこましい風呂場。 「ケイくんの体、よく覚えてる。すごく大きくなっているのに、なんかあの頃のままって感じ。すべすべ、女の子みたいな肌で。ちょっと仰《の》け反《ぞ》ると肋骨が浮く。ほら。こんなに。背中も、背骨がこんなふうによく触れる」  慶の体は変わっているはずなのに、どこか十に満たない頃の面影があった。でもこれはずいぶん形が変わった、と性器を指差して笑った。  慶を洗い場の小さな椅子に座らせて、足を開かせた。慶は目を閉じていた。里恵はひざまずくと、それを含んだ。前の夫、今の夫にはほとんどいつも強制されてやる行為だ。慶には、自ら行なった。とても猥褻《わいせつ》なことをしているようでもあり、あの頃の他愛ない遊びの続きを、今頃になってやっているようでもあった。 「里恵ちゃん、そんなに美味しい?」 「美味しいよ、ケイくん」  これは、夢だもの。慶の腰に手を回して、ゆっくりと舐めながら自分にいい聞かせた。本物の自分はファミレスにいて、何かの温かな肉を噛んでいる。もしくは、とろりと甘いデザートを舐めている。ここにいる自分は、分離したもう一人の自分。  生暖かな春の、生温かい風呂場。こもって聞こえる慶の声。やはり自分は今ファミレスにいて、空想の中の自分が慶のアパートについていき、一緒にお風呂に入っているのだ。その証拠に、またしてもいつのまにか場面が変わっている。  バスタブの縁にしがみつかされ、背後から慶に抱かれていた。顔も体もあの頃の面影があるのに、ここだけすっかり変わってしまったと微笑《ほほえ》んだ性器は、尻の間から差し込まれていた。慶はこれも、喧嘩して泣いていた時にそっくりな懐かしい声を漏らした──。  自分がすっきりと戻ってきたのは、自宅の玄関ドアを開けた時だった。スーパーの袋には、ちゃんと菜箸も入っている。  廊下にもエレベーターにも、騒音はなかった。下手なくせに悲歌を悲歌だと響かせるオルガンを弾くのがどの子か、敬虔な祈りのように掃除機をかけているのがどの女か、呪いとして念仏を唱えているのがどの老人か、実は知らない。しかし殴られて泣いている女が誰かは、皆知っている気がするけれど。  光射す窓際。独りぽっちの自分。何も考えないようにしながら、ひたすらに掃除して片付けて。賢二に殴られて痛い箇所と、本当は痛みではないのに痛みになっている慶との痕跡を反芻《はんすう》していたら、あっという間に日は暮れた。 「さあて、ご飯の支度にしますか」  キッチンに立つ。アルミのボウルに天麩羅粉を入れて、水で混ぜて。それから野菜を切る。じゃがいも、人参、玉葱、大根葉も彩りに。小エビの殻を剥く。いつもの菜箸を取り出そうと引き出しを開け、あれっ、ない、と辺りを見回せば、流し台に置いてあった。  また出しっぱなしにしてだらしない女、と賢二に蹴られるところだった。里恵はそれをつかむとボウルに突っ込み、野菜をかきまわす。衣と混ぜあわせる。ふっとボウルの中に目を落とした里恵は、手を止めた。 「これ、なに」  入れたのはじゃがいも、人参、玉葱、大根葉、小エビ。薄黄色とだいだい色と白と緑と淡い紅だけが混ざりあっているはずなのに。黒いものが、点々と散っているのだ。粒もあれば、刻み海苔ほどの細長いのもある。とにかく入れた覚えのない、何なのかわからない黒いものが混ざりあっているのだ。  小さく声をあげていた。手にしていた菜箸を、流しに放り捨てる。無残にささくれた箸の先。黒焦げになった先が、天麩羅のタネの中に混ざっていたのだ。いつもの菜箸を何気なく手に取ったから、これがもう捨てるしかない状態になっているのを忘れていた。  しばらく茫然と、ボウルの中を見る。まるで何か美味しい隠し味のように、黒い箸の欠片《かけら》はある。これを一つ一つ取り除くなど、至難の業《わざ》どころではない。奇跡を望まなければならない。  いっそこのまま揚げようか、とも思ったが、たちまち賢二はなんだこれはと怒って、吐き出すだろう。じゃりじゃりした嫌な感触が蘇る。この天麩羅を食べたのではないのに、はっきりと食べた感触があった。顔を蹴られた翌日、何かを食べた時のようだ。  あきらめて捨てて、作りなおすか。床に置いたスーパーの袋を見る。あの中に入っているものはみな計画を立てて買ったのだ。じゃがいもと人参と玉葱はカレーにも使う。小エビの残りは唐揚げにも使う。計画が狂う。  そして、菜箸。買ったばかりの、菜箸。 「いい方法がある。賢二を殺せばいいの。それで済む」  床に寝ころがった、もう一人の自分がいった。  上の部屋からは下手な子供のオルガンの曲が聞こえ、右隣の部屋からは一時間に一度は掃除機の音が響き渡り、左隣の部屋からは宗派はわからないがくぐもった念仏の声が流れてくる。叩き起こされるとか眠れなくなるという音ではない。  ただ、暗い音だ。春は陰気な季節だったか、昼下がりは陰鬱な時間だったか。そんなことを思わせる。嫌な、眠気を誘う音だ。  ……気がつくと、自分は倒れていた。皿が飛び散っていた。自分は菜箸の欠片が入ったままの天麩羅を揚げて食べさせて怒られて、殴られたらしい。 「別れましょう」  そういったのは、どこかにもう一人いる自分ではない。転がっている自分だ。 「別れてもお前は、行くところがないだろう」  里恵には関心を持たないくせに、退路を断つような言葉だけは、投げかける。 「あるわ」  そう答えた。慶なら泊めてくれるだろう。自分はあの風呂場で暮らしてもいい。あそこは静かだった。オルガンも掃除機も念仏も悲鳴も聞こえなかった。  ──玄関のドアを開けると、制服姿の警官が二人も立っていた。彼らの背後には、色白で丸顔の可愛い小学三年生くらいの女の子と、神経質な感じに痩せた面長の若い女と、萎《しな》びているのに妙に色艶のいい肌をした老人とがいて、恐る恐るという感じに里恵の部屋を覗き込もうとしていた。 「通報があったんですが。大きな物音や、悲鳴がしたと」 「ちょっと、あがらせてもらっていいですね」  警官が交互にいうのを、里恵はやっぱり夢現に聞いていた。オルガンも掃除機も念仏も聞こえないのは、その音をさせていた人々が目の前に立っているからだ、とわかる。  そんな静まり返った生暖かな春の夜、里恵の手から滑《すべ》り落ちたのは携帯電話ではなく、血塗《ちまみ》れの包丁だった。 [#改ページ]    兎を飼う部屋  秋になると、忘れていた色々なことを思い出すのはなぜだろう。私が冬の初めに生まれたからか。母親の胎内にいた最後の季節を、胎児の私は懐かしんでいるのか。  今年の秋に思い出したことも、幾つかある。故郷に置いてきた娘が、もう十歳になること。月にはウサギがいると、今の娘の年頃まで信じていたこと。そうしてかつて自分は無名の少女小説家で、最後に書いた怪奇仕立ての小説もあっさり不採用にされたこと。とうに死んだ過去を、無理矢理に蘇らせるように思い出す。あれは確かこんな話だった──  くちゃくちゃ。私はこの音が一番嫌い。ぬかるみはこの音を立てるから、絶対に田舎には住めない。聡《さとし》は何を食べてもこの音を立てるから、「あんたとは生理的に合わない」なんて、身も蓋もない捨て台詞《ぜりふ》とともに振ってしまった。お料理は好きな方だけど、手のひらも指もこの音を立てるから、ハンバーグだけは作れない。  まだまだあるけど、もう思い出すのが苦痛。でも、最後に一つだけ。自分自身がこの音を立てるから、セックスってどうしても好きになれない……。  つまらない春だけど、とりあえず第一志望の短大に合格した。ろくに勉強しなかったのにと、親は不思議がった。小織《さおり》が地味〜に寮へ入るなんて、と高校時代の友達は不思議がった。でも私はそこそこ賢いし、心底ご陽気でもない。永遠に女子高校生の高値で流通できないくらい知っているもの。�地味�も�ごっこ�でするなら面白い。  だから同室の澄子《すみこ》ともうまくやっている。このコが成績トップで見た目もお嬢なのに、五人の男と同時進行中で毎晩寮を抜け出すことも、取り立ててどうこう思わない。まぁ、五人とそれぞれ異なったくちゃくちゃをやってて平気なのかという不思議さはあるけど、澄子はくちゃくちゃが好きなんだとしたら文句はつけられない。  私が何より不思議なのは、寮の一階ホールの隅でウサギが飼われていることだった。幼稚園でも動物園でもないのに、なぜウサギが常時七、八匹もいるのか。その世話をしているのは、一応はこの寮の舎監の先生ということになっている。ハイミスと言ったら可哀相だけど、いわゆる適齢期を超過してしまった佐倉《さくら》先生。  女の子をいびるお局《つぼね》様でもなければ、自分もギャルのつもりで仲良しごっこを仕掛けてくる勘違い女でもない。この寮で唯一の処女なんて冗談も囁かれるほど地味だけど、決してブスではない。その美人という印象のない美人は、寮中の女の子から寮の家具の一部くらいに無視されていて、ウサギよりも影が薄い。私だけが少々、先生を気にしている。  先生が飼っていることになっているのに、先生がウサギの檻《おり》に近づくのを一度も見たことがないからだ。檻の中はいつも掃除が行き届いているし、どのウサギも毛並みが艶々《つやつや》して太っているところを見れば、人知れず世話はしているに違いないのに。  生徒達の方が、檻を覗き込んだり抱き上げたりして可愛がっている。私もお気にいりの一匹に、よくサラダの残りをやったりしていた。そいつは全身真っ白なのに、なぜか左目の下だけ黒い毛が丸く小さく生えている。  そう。私と同じ泣き黒子《ぼくろ》があると、私より先に気づいたのは澄子だった。 「可愛い。このコ、サオリって呼ぼうよ」  そう言ってサオリを抱き上げて頬擦りしてくれたから、私は澄子に好意を持った。だから澄子が寮を抜け出す時は、佐倉先生に見つからないようにいつもアリバイ工作をしてやっている。  まだ若いはずなのに、枯れた老女の生活を送る舎監。見た目は優等生なのに、ギャルを超えてる澄子。私自身のことはさておき、ウサギもまた見た目と実態が随分違うことは、ちょっと観察すればわかる。こいつらの食欲と性欲は凄まじく、エサは入れるそばからなくなるし、暇さえあれば乱交している。あの佐倉先生が近づかないのはこのためじゃないかと、その痙攣《けいれん》する背中を見ながら苦笑いしたこともある。  しかし笑えないのは、少しでも弱っている仲間がいれば寄ってたかって虐《いじ》めることだ。その酷さは、ピラニアは一気に食べ尽くすだけまだ慈悲があるというほどのものだ。  今度の生贄《いけにえ》になんとサオリが選ばれ、背中の毛が半分以上むしり取られてしまった。左目の下の毛は無事だったけど、私はほとんどベソをかきながら、毛が生え揃うまで部屋で飼わせて下さいと佐倉先生に掛け合った。  いいわよ。取り替えた電球のせいか、妙に黄色い顔をした佐倉先生は微笑《ほほえ》み、私は一人っきりの夜をサオリと過ごすことになった。最近、照明のせいだけでなく顔色が悪い澄子は、以前にも増して抜け出すようになっていたからだ。  森口《もりぐち》さん三十五歳。既婚。子供は欲しいができない。苦手な音は妻の金切り声だそう。そんな彼に澄子は本気になってしまった。澄子にも本気、はあったのかとしみじみした。  ……金切り声もくちゃくちゃもない、深海のような夜。私はホールのソファにスカーフを忘れてきたことに気づいた。聡のプレゼントだからか、愛用しているつもりでも粗末に扱っていたらしい。静まり返ったホールへ降りる途中、ふいに階段で妙な音を聞いた。瞬間、舌を喉に巻き込んで死にかける。  くちゃくちゃ。嫌悪感でもなく、不快感でもない。これは恐怖感だと気づくまでに、数秒の間があった。ぬかるみだの聡の食べる音だのハンバーグだの、そんなのちょっと不快な雑音でしかなかったのだ。このくちゃくちゃに比べれば──。  ねっとりとした肉質、粘液質の音。とうに死んだ肉のくせに鮮血を滴《したた》らせている臭い音。耳をふさいで逃げ出すつもりだったのに、そのくちゃくちゃは異様な吸引力でもって私を引き寄せるのだ。覗き込んだ途端、スカーフを落とした。  サオリを一番虐めていた牝《めす》ウサギ。全身真っ白で目の下だけ可愛く黒い毛の生えているサオリに対し、コイツは顔だけが真っ黒。サオリの姿は愛敬があるのに、コイツは何というか、何かの刑罰でこんな姿にされてしまったような感じがして、以前からかすかな恐怖の対象ではあったけれど……。  そのかすかな恐怖の対象が、今はホール一杯に広がる恐怖を見せつけてくれている。  出産していたのだ。前世の悪業の報い、そんなおどろおどろしい形容すら浮かぶ、顔だけ真っ黒な白ウサギのかたわらに、ぬらぬらとピンクに濡れ光る仔ウサギが、いくつも転がって蠢《うごめ》いている。吐き気は、それを見たためではない。たった今産み終えたばかりの母ウサギが、その仔ウサギ達を食べていたからだ。後足の間から赤黒い粘液を垂らしているくせに、それ以上に赤い汁を口から滴らせ、せっせと我が子を貪《むさぼ》っている。  込み上げてきた酸っぱいものを押さえようと、とっさにスカーフで口元を覆うと、誰かが背中をさすってくれた。初めて檻に近づくのを見た、舎監の佐倉先生。 「まぁ。手足をむしり取られたウサギの赤ちゃんって、なんだか男のアレみたいね」  笑う口元がくちゃくちゃ鳴る。独身ではあるけれど処女ではないと知れたが、そんなことはどうでもいい。やっぱりこの先生は、しょっちゅうウサギの檻を覗き込んでいた。  もう大丈夫ですとかすれた声で告げ、その場を離れた。全身のネジが弛《ゆる》んだようにぎくしゃくしながら、どうにか部屋に戻った。くちゃくちゃ。それは階段を上がる時もドアを開ける時もまとわりつき、一歩ごとに内臓が腐ってくるようだった。  いつのまにか澄子も戻ってきていて、なぜかベッドにぐったりと伏せていた。 「……マズったわ。デキちゃってたの」  その裏返った奇妙な声に、あのウサギの仔の父親も森口さんじゃないかと想像してしまい、ついにスカーフに少量吐いた。 「妻にはできないから澄子が産んでくれだって。バカじゃないの。もうあんな男切る」  私は無意識にサオリの箱の前にしゃがみこんだ。くちゃくちゃ。膿《うみ》のような黄色い照明の下、サオリは何かを一心に貪っていた。 「澄子……サオリも子供産んだの?」  返事をしてくれない澄子の方を振り返る。不自然によじった足の間から、ねっとりした血の色がにじんで見えた。もう一度、ぼんやりと箱の中を覗く。くちゃくちゃ。サオリの口元が赤い。前足が押さえているのは、ピンクの肉塊。 「サオリじゃないわ。私よ」  面倒臭そうに足を引きずり、澄子は仔ウサギを一度だけ見に来た。 「森口さんに、よく似てる」  私が酷《ひど》い女なのは、子供を置いてきたことでも、こんな話を少女小説として発表しようとしたことでもない。忘れたふりをして、いつまでもいつまでも覚えていることだ。それを秋のせいにしたりすることだ──。  初出一覧    罰当たりの花園 「オール讀物」平成十三年二月号    恋愛詐欺師 「オール讀物」平成十三年四月号    夢見る終末 「オール讀物」平成十三年六月号    鳥の中の籠 「オール讀物」平成十三年八月号    淫らな夏風邪 「オール讀物」平成十三年十月号    満ち足りた廃墟 「オール讀物」平成十四年一月号    溺れた姉の春 「オール讀物」平成十四年五月号    悦楽越南物語 「オール讀物」平成十四年十月号    酷薄な天国 「オール讀物」平成十五年二月号    華やぐ末路 「オール讀物」平成十五年五月号    兎を飼う部屋 「別册文藝春秋」第二三四号  単行本 二〇〇四年三月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十九年三月十日刊