[#表紙(表紙.jpg)] 夜啼きの森 岩井志麻子 目 次  序 章  お森様  サネモリ様  さむはら様  提婆様  荒神様  終 章 [#改ページ]   序 章  誰が泣いとるんじゃろうか。いや、何が啼《な》いとるんじゃろうか。  聞こえんのかな、あんた方にゃ。聞こえんなら聞こえんでええでしょう。わたしが変なんじゃけえな。  普通、こねえな婆さんになったら耳は遠ゆうなるはずじゃけど、わたしは違うんですらあ。と言うても、肝心な物音はやっぱりよう聞こえんのです。  冴《さ》えて聞こえるんは、この世にない音ばっかしじゃ。それはわたしが、あの世の方が近い婆さんじゃからと、思われますかな。  いんにゃ。これは、子供の時分、娘の時分からなんじゃわ。なんでかわたしは、聞こえんはずの音が聞こえるだけでなしに、妙なところで物覚えが良すぎたり、勘が働きすぎたりしてなあ。  いんにゃ、学校での勉強はできませんでした。ようできたんは、弟じゃ。勉強は、ほんまにようできた。  ああ、やっぱりどうしても、弟の話をせん訳にゃあいかんわ。そうじゃなあ、まずはうちらを育ててくれた婆やんの話から始めんとなあ。  うちらの婆やんが一番嫌がったんは、わたしが、 「弟が生まれた時のことは覚えとらんが、自分が生まれた日のことは覚えとる」  と口にする時じゃった。その癖、婆やんは確かめたがる。 「どねえな日じゃった」  大正三年の夏じゃ、と、わたしはきっぱり答えたわ。 「森の外れの竹藪《たけやぶ》に雀がわんわん繁殖して、辺りの米や野菜を食い荒らしたんじゃったなあ。森中が、雀の啼き声で割れそうじゃった」  そん時わたしはいつも、もうどこにも飛んどらん鳥を追う目ぇして、空を仰ぐんじゃ。 「村中総出で、網を持って捕まえにいったろう。十五貫を超すくらいの雀が捕れたんじゃったなあ。喧《やかま》しいゆうたら、なかった」  死んだ婆やんは、そこでいつも眉《まゆ》を顰《ひそ》めたで。肌が粟立《あわだ》つあの雀の大群の鳴き声を耳に蘇《よみがえ》らせるんじゃ。 「それから母しゃんに、近所の誰かが乳酸菌の入っとる牛乳を持ってきてくれた。母しゃんはどうしてもそれを飲めんかったなあ」  婆やんは、辛《つら》そうに答えてくれるんよ。 「確かにさや子が生まれたんは大正三年の夏で、その日は雀の一斉駆除があって、さや子のお母しゃんは生臭い牛の乳をどうしても口にできなんだ」  そうじゃわ、あん時はほんまに仰山の雀が捕れたけん、誰もが肉を擦り潰《つぶ》して団子にしたんよ。わたしは目も開かん赤子じゃったのに、毟《むし》られ舞い上がる雀の羽根を見たんじゃわ。恨めしい目なんぞ、覚えとらん。散って舞う羽根だけじゃ、覚えとるんわ。 「もうええ、さや子。そんだけ覚えとるんなら、後のことは忘れてええ。死んだ雀や臭い牛乳の思い出なんぞ、どうというこたあねえ」  わたしはな、鳥の死骸《しがい》の山に祝福されて生まれてきたんじゃ。そねえな可哀相なわたしに、婆やんは必ずこう言うた。 「ええか。怖い、きょうてえのは、『森』だけなんじゃ」  ああ、なんか婆やんの思い出を話しょうたら、ほんまに雀の鳴き声が聞こえてきたわ。……違うか。雀じゃないんか。  そいでも、誰かが泣いとる、何物かが啼いとる、あの後ろの森じゃ。 「その日が不吉な突風の吹く、きちがい日和じゃったことは言うてもよい」  そんなふうにな、婆やんはきつうに言い聞かしてくれたんよ。 「さや子が生まれて四年後にお父が死に、その翌年に自分が死ぬことを、おっ母がきっちり言い当てていたことじゃて、口にして構わん」  ただ、あの「森」で生まれたことだけはいけんぞ。……とな。 「昭和の代になって、こねえな辺鄙《へんぴ》な岡山の山奥にじゃて電気は通じるようになったがのう、それでも因習は生きとるんじゃ」  きょうてえわ。なんかわたし、死んだ婆やんが乗り移っとるみたいじゃわ。自分でもびっくりするくらい、よう似とる。今の喋《しやべ》り方は、死んだ婆やんそのまんまじゃったわ。  ああ、そうなんよ。わたしゃ、その死んだ婆やんの歳をとうに追い越してしもうた。  あの森は今頃、どんなんなっとるんじゃろ。弟があの事件を起こしてから、一ぺんも村に帰っとらんからなあ。おかしなもんじゃわ。婆やんと弟と暮らした家より、通うた学校の跡より、働いた田圃《たんぼ》やよう遊んだ公会堂の広場より、あの森が懐かしいんよ。  ……そうじゃった。弟の話をせにゃあいけんのよな。弟はな、ええ子じゃった。わたしと婆やんにとっては、ええ子じゃったんよ。  今も、弟はあの森におる。もう、ないはずの森におる。生きとらんはずの弟が、おる。  なんでて、ほれ、啼いとろうが。ああ、啼いとる啼いとる——。 [#改ページ]   お森様  陰暦一日は、月は最も暗い面を地上に向けてくる。この村の中央に繁る森は、半月の頃から満月にかけては大層美しくその月影を映えさせるものだが、新月の夜はただ暗黒の森でしかなかった——。 「春を嫌うて狂うたわしのために、用意したんは桜の襖《ふすま》か」  春は変調を来す者が多い季節らしいが、糸井仁平も納戸《なんど》という名の座敷牢《ざしきろう》に暮らし始めたのは春だった。仁平にとって嫌なことは、大抵春の新月の宵に始まっている。  いずれにしても白々しく華やかなのは、襖に描かれた桜だけだった。外では本物の藤の花房が揺れていても、そこにはひっそりと動かぬ桜があった。 「お父《と》っつぁん、調子がええんなら外で草取りでもしてきたらどうじゃ」  蓄音機をいじりながら、息子の政雄《まさお》はうんざりした顔を向ける。ざらつく支那《シナ》の音楽が流れる中、久しぶりに団欒《だんらん》の間に出てきた仁平に、息子は冷たい。囲炉裏の火で茶を煮出している女房もまた、息子にそっくりな冷やかさで亭主をあしらう。 「父っつぁまはいつも頭が春じゃけ、蓄音機なしでも極楽の音楽が聞こえてええのう」  ならば、この哀切な支那の音楽も幻なのか。鳥のように囀《さえず》る少女の曲芸師の歌は夢なのか。それらの謎は、自分がいつから狂ったかを問うようなものなのか。  仁平は再び、納戸に戻った。この四畳間は、前は厩《うまや》で裏は森。日がな陽は射さぬ。厩も暗いが、森はもっと暗かった。この岡山の北の果ての村で、何よりも暗い場所だった。  そんな暗い森を囲むように、この集落はある。全戸、二十三。百人ほどの小さな集まりだ。元を辿《たど》ればすべて血が繋《つな》がっている。それは考えれば考えるほどに恐ろしいお伽話《とぎばなし》ではないか。この集落の者は一人残らず因果の子、罪の子なのだ。  始まりは流刑された高貴な身分の一族だったという伝承もあれば、いや追われた山賊の一党が住み着いたのだという言い伝えもある。いずれにしても、夜這《よば》いで番《つが》い合い増えていったことは間違いなかろう。己れもそうだ。己れの女房もそうだ。そうして己れの子供もまた、闇に乗じての淫猥《いんわい》な習慣でこの世に産み落とされたと、仁平は身震いする。  余所者《よそもの》も、いることはいる。だが直に血は濃く混じり合うのだ。狭い土地で同じ物を食い、同じ女と番い、同じ墓所に葬られる。憎む相手にも恋う相手にも、同じ血が流れている。それ故に、村人達の憎しみと恋情はごく近しいものとなる。  この村では、欲望も絶望も日常もすべてが共有だ。おそらく夜半に見る夢も。いや、行き着く彼岸さえも。今も森の前を通り過ぎる誰かが、村の暗い行く末を喋っている。 「血の濃い者ばかしが、この森を囲んで生きとるんじゃ」 「きょうてえ。恐ろしいことじゃのう」  村人達は口々にそう言うが、あの森をなぜ「お森様」と呼ぶか、その由来だけは誰も知らぬ。神聖な場所が落ちぶれたのか、元から忌まれる場所だったのかもわからない。 「お父っつぁまは、この村以外を知らんのじゃろう。そんなら、その気違いの元はやっぱり、この村のどこからか拾うてきたんじゃ」  寒い、と囲炉裏端に出てきて板の間に寝転がる仁平に、女房は露骨に嫌な顔を向けた。元々|萎《しな》びた水気のない顔だが、火影に照らされれば一層深い皺《しわ》が傷のようだ。 「どこで拾うたとぬかすんじゃ」  言い返す声には怒気を含ませるが、仁平は無気力に寝転がったままだ。 「あの森じゃないんかな」  女房は吐き捨てて土間に降りると、藁《わら》を打ち始めた。まるで仁平の頭をこの槌《つち》で叩《たた》き割ってやりたい、とでも言いたげな力の込めようだった。仁平はのっそりと納戸に戻った。  赤茶けて傷んだ納戸の畳には、死んだ年寄りや赤子の臭いが染みついている。仁平はそこに寝そべり、ここで死んだ者を指を折って勘定してみる。女房の父方の爺《じつ》つぁまに婆やん、二親、女房の歳の離れた末の弟……随分と、死んでいる。  仁平はこの家の婿養子であった。だから、この家の死者達とは直接の血縁はない。いずれどこかで繋がっているのは明白だが、それでも空々しい他人の家なのだ。舅《しゆうと》、姑《しゆうとめ》に当たる者達は早々とこの家から死の旅立ちをしてくれたが、自分だけが土間にも座敷にも居心地の悪さを味わわされていた。  可笑《おか》しくもあり哀しくもあることだが、仁平には隔離された納戸が最も居心地が良い。そこで仁平はゆったりと、ここで死んだ者の思い出を手繰り寄せたりしている。  末の弟の臍《へそ》の緒を切ったのは、あの森の端に生えている竹でこしらえた刀だった。仁平はその竹の刀を濡《ぬ》らした血を今も思い出す。爺つぁまより婆やんよりお父つぁまより、生まれて一週間かそこらで死んだ女房の末の弟の死に顔が生々しい。  いや、婆やんもなかなかに忘れがたい。友引に引っ掛かって、真夏というのに何日も納戸に遺骸《いがい》を置いていた。臭いも激しかったが、仁王様の如く膨れあがった黒い顔と半ば開いたあの白目が今も時折、悪い夢に出てくる。  自分はどんな顔で死ぬのか。仁平は萎びて硬い己れの掌《てのひら》を、闇の中で凝視した。  かつて全国で米騒動が起き、岡山でも町役場や米穀商の倉庫が襲撃された年として憶《おぼ》えられているあの大正七年は、仁平の兄である藤吉《とうきち》が死んだ年でもあった。  しかし仁平はその年を、米騒動の年でもなく兄の死んだ年でもなく、大規模な野犬狩りのあった年として覚えている。兄も死んだが、犬も死んだ。死んだ犬の亡骸《なきがら》はやはり、汚れた春の最中に打ち捨てられた。それを照らすのは人には見えないはずの新月であったと記憶する。  後楽園裏の旭川原《あさひがわら》に、捕えた野犬は晒《さら》された。三日経っても飼い主が現れない場合は、その場で撲殺するのだ。それは当時としては、進んだ処理の方法とされた。野犬は見付け次第、その場で撲殺するのが従来の処置だったからだ。 「わしも、わしを取り戻すまでという猶予を与えられとるようじゃな」  川原のそこここに無造作に打ち込まれた杭《くい》と、それに荒縄で括《くく》り付けられた野犬達と。川原を見下ろしている仁平は砂埃《すなぼこり》の中に佇《たたず》み、飼い主ではなく死を待つ犬の眼に、己れの目を重ねた。 「期限が切れたら、わしも棒で殴り殺されるんか」  独り言を呟《つぶや》く仁平の背後で、派手な着物の娘が傍らの軽薄そうな男にわざとらしい甘え声を出して、身をくねらせていたと思い出す。 「可哀相じゃなあ。全部に飼い主が出てきたらええのになあ」  そんならお前が全部飼うちゃれ。思わず言い返しそうになり、仁平はその場を離れた。口だけの慈悲なんぞ、野良犬もわしも不要じゃ、と胸の内で毒突いていた。  憂鬱《ゆううつ》さに胸を塞《ふさ》がれながら家に戻ると、母のイヨが青ざめた顔で居た。何も言わなくとも、兄の容体が急変したと知れた。耳に、旭川の野犬の鳴き声が蘇《よみがえ》った。  肺結核であることはとうにわかっていたのに、藤吉は入院もしていなかった。 「かまやせん。養生しとったら治る」  家督を継いだとはいえ、田畑がわずか三反に、森の一部を所有するだけだ。自給自足が精一杯の生活で、入院も叶《かな》わなければ自宅で養生するのも難しい。すっかり傷んで傾いた家屋の中、兄は病み衰えた顔で天井ばかりを眺めていた。痩《こ》けた頬が寒々しかった。  すっかり寝付いてからやっと医者に診せたが、その時はもう手遅れだったのだ。仁平には臨終の際の兄の青黒い顔が、確かにあの後楽園裏の河川敷にもあったように映った。  死の間際にいる兄を間近にすれば、骨格だけは大きいのに、皮膚の弛《たる》んだ皺の多い老けた風貌《ふうぼう》がつくづく自分に似ていると、仁平はまた胸を塞がれる。痩けた頬もそっくりだ。 「おえんのか、おえんのか」  枕元のイヨは放心した表情で、藤吉ではなく天井を仰いでいた。蝋燭《ろうそく》を吹き消すようにではなく、隙間風に消されるようにして、兄は死んだ。 「チンチン様じゃ、チンチン様になったんじゃ」  藤吉の枕元で、まだ舌の回らぬ息子|辰男《たつお》が叫んでいた。鉦《かね》の音から転じて仏様を指すようになった幼な子の言葉だ。藤吉の女房の多代は途方に暮れた顔で、そんな辰男を膝《ひざ》に抱いていた。傍らに立つ娘のさや子は、妙に大人びた表情で死にゆく父を見下ろしていた。  イヨはやはり、放心していた。仕方なく仁平は、母の丸まった背を撫《な》でた。骨の感触が直《じか》に凍えた掌に伝わってきた。それで仁平は兄の死を実感したのだ。 「仁平、組合長さんのとこに、報せに走ってくれや」  イヨに命ぜられ、仁平が動いたのはそれだけだ。慌ただしく役場や医者への届け出が済むと、通夜が執り行われる。その後は、仁平よりも集落の青年団の面々があれこれと立ち回ってくれた。頼りない喪主だと、暗に非難されている気がして仁平は沈んだ。息子の政雄が、しゃんしゃんと立ち働いているのさえ小面憎かった。 「ええお参りじゃった。ええお参りじゃった」  成仏が約束される挨拶《あいさつ》を、皆が交わす。凍《い》てつく風と雪の中で通夜は執り行われ、集落の女達が寄り集まって死者の着物を拵《こしら》えた。仕来り通り、物差や鋏《はさみ》を使わず器用に布を切り裂いてゆく。乏しい灯火の下で、女達こそ死者の顔色をしていた。 「藤吉さんが死に患いの床についてすぐ、黄色い火の玉がお森様に向こうて飛んでいきょうるのを、うちの孫が見たんじゃ」  ふいに仁平は、目眩《めまい》がした。それをどんな言葉で表すかは知らないが、未来の情景を見せつけられた気がしたのだ。それは自分の葬儀のようにも思えた。  昼日中でも暗い土間で、女達は針を動かしながらも喋《しやべ》り続ける。 「それほどの年寄りでもねえのに、火の玉はふらふらぁと、低い低いとこを飛んでおったそうじゃ」 「因縁が深いんかのう。おお、こねえな事を口にしてはいかん」  その経《きよう》帷子《かたびら》を着せられても、兄はなかなか瞼《まぶた》を下ろさなかった。膝を抱えて坐棺《ざかん》に入れられてからも、うっすら瞳《ひとみ》を開いていた。苦悶《くもん》して死んだ仏様はなかなか目を瞑《つぶ》らないと教えられたのはいつの日だったかと、仁平はその白く濁った硝子《ガラス》玉のような兄の目を覗《のぞ》く。  瞼を下ろせん心残りは子供にあるんか、まだ若い女房にか。仁平はそっと語りかける。 「まだ、菌が飛んどるかもしれんで」 「子供を近寄らせちゃあ、おえんぞな」  仁平は硬く冷えた手を、もっと硬く冷えた兄嫁の肩に置いた。 「困ったことがあるんじゃったら、何でも相談してくれえ」  遺《のこ》された子供らと一緒に、途方に暮れた顔で座り込んでいた兄嫁は、ただ頷《うなず》くだけだった。それでもしっかりと、集まってくれた集落の者への気遣いはしていた。 「野辺の送りの枕飯は、わたしが持たにゃあいけんのじゃったな」  多代が仁平に相談したのは、ただその一言であった。  この仁平の兄嫁は、若かった。兄の藤吉は日露戦争に従軍した後、見合い結婚したのだが、相手は一回り年下であった。つまり仁平には年下の兄嫁だ。とうとう三十にもならぬ間に後家となってしまった。  そうじゃこの嫁は若いんじゃと、仁平の目には今更ながらに痛ましく映る。これからも若い後家はどんどん増えるはずだ。病よりも支那での戦局の方が死傷者を増やしている。しかし支那の兵隊にも女房子供はおるなどと、口にしてはならぬ。  遺された子もまた、わずか五歳と二歳であった。上がさや子、下が辰男だ。葬儀の間中二人はくっついていた。身体のどこかが繋《つな》がっているのではと思えるほど、ぴたりと寄り添っていた。その姿に幾人もの村人が貰《もら》い泣きしたが、仁平はぼんやり眺めるだけだ。  仁平にとっては姪《めい》と甥《おい》になるが、滅多にその子らに会うことはなかった。同じ村でも端と端に家が離れていたためもあるし、藤吉の胸の病の所為《せい》もある。  それに仁平の人嫌いの傾向はこの頃から進んでいた。通夜の時も、村中の者に会って挨拶をするのがなんとも苦痛であった。死者はええのう、安気で。仁平はそうまで思った。  翌日の葬儀は、曇天の下で執り行われた。時折、その灰色の空からは重い雪が落ちてきた。村のほとんどの者が手伝いと参列に来てくれた。  改めてその者達の顔を眺めると、この村の者が皆、血が繋がっているというのがよくわかる。仁平は兄の死よりも、そのことに恐ろしさを感じて胃の腑《ふ》が痛んだ。  女達はさや子と辰男に向け、大げさに悲痛な声を出して身を捩《よじ》る。 「不憫《ふびん》な子らあじゃ」 「イヨさんは、可愛ゆうて可愛ゆうてかなわんじゃろ」  可愛い、は可哀相の意味をも含む。母のイヨは干涸《ひから》びた影のようであった。低い軒先に吹き付ける凍てた風は、イヨのほつれた白髪をさらに乱していた。 「姉しゃん。姉しゃん。行ったらおえん」  辰男は母でもなく祖母でもなく、姉のさや子を一番の頼りにしているふうだった。さや子が便所に立つだけで、必死に後を追っていく。その姿にはさすがに胸が塞《ふさ》がった。 「辰男、姉しゃんはどこへも行かん。ここにおる」  大人びたさや子に、奇怪な色気を感じて仁平は狼狽《うろた》えた。そのさや子は百姓の子には珍しい、色の白い線の細い娘だった。多代にだんだん似てくるじゃろ、と仁平は呟《つぶや》く。笑っている時も哀しそうな、生まれついての泣き顔だ。このまま別嬪《べつぴん》に成長しても、安穏とした女の仕合せは掴《つか》めない予感を抱かせる。  そのさや子に飛び付く辰男もまた、多代似だ。藤吉や仁平のような逞《たくま》しいがごつごつと強《こわ》ばった身体には成長しそうにない。繊細な小刀の先で削ったような切れ長の目元は、やはり自分から仕合せを遠ざけそうな青白さに冴《さ》えていた。 「なあ、仁平さんよ。こうなりゃほんまに、甥っ子姪っ子は可愛いかろう」  背後からどの女かに声をかけられ、仁平はああ、まぁ、と口籠《くちご》もる。仁平は甥っ子姪っ子どころか、女房にも実の子にも常に分厚い硝子板でも隔てたようなぼんやりとした感覚しか抱いてはいなかった。無論、兄に対しても。もっと言えば自分自身にもそうだった。 「辰男は、どっかお前に似たとこがあるのう」  母のイヨがいつだか、ぽつりと漏らしたあの一言は何なのか。このぼんやりとした感覚が似ているとでも言いたかったのか。仁平は敢《あ》えて訊《たず》ねようとはしなかった。  やがて血の濃い親戚《しんせき》筋に当たるとされる男達が、順々に凍てた森の土を掘っていった。お神酒《みき》の匂いと線香の細い煙とが、向こう側に立つ幼い姉弟にまとわりついている。穴に降ろされた棺《ひつぎ》に手を差し伸べ、多代が何やら甲高い声をあげた。  途端に辰男が火のついたように泣きだした。暗い森にそれは響き渡り、荒涼とした冬枯れの森はその身を震わせた。枝葉に積もっていた雪が、野辺送りの列に落ちてくる。 「姉しゃん、姉しゃん、姉しゃん」  仁平は耳を塞いでしゃがみこんだ。いったん止んでいた雪が再び降り始め、新しい死者を呑《の》みこんだ地を清らかな白で覆い隠した。恐る恐る、仁平は顔を上げる。雪のためだけでなく、今宵《こよい》は新月のために空はひたすら暗い。  安らぐ彼岸は本当にその彼方《かなた》にあるのかと問うてみたい高処から、雪は落ちてくる。それは死の国への入り口だけでなく、暗い森の秘密をも隠すかのような重い雪だった。  それから半年も経たぬ内に、その兄嫁までが寝ついてしまった。当然のように、胸の病であった。これもまた当然のように、忌まれることだ。  死は全て忌まれるものだが、殊に重い出産によるものや、家の外での不慮の死などは恐れられた。だがこの時代、遠い異国での戦死は珍しいことではなくなりつつあった。今何より恐れられているのは、不治の病であり感染する結核だ。 「肺病は血筋なんか」  女房は良く言えば物静か、悪く言えば陰気な女だが、時折相手をひやりとさせる言葉を投げ付ける。これもまた酷《むご》い問い掛けだった。 「そねえなことが、あるもんか」  不平不満で凝り固まった矮小《わいしよう》な姿形の女房に、仁平は声を荒げる。 「そいでも、あんまり近付かん方がえかろう」  小馬鹿にした調子で言い返すと、女房は土間に置いた藁打《わらう》ち石の前にしゃがんだ。着物の裾《すそ》を絡げて、枯れ木ほどの脚を覗かせている。はみ出す腰巻きは汚れた襤褸布《ぼろぬの》だ。まだ夫婦《めおと》となっていない頃は、その下から覗く腰巻きの色にときめいたものだ。  その女房も今は色褪《いろあ》せ、筋張った手で槌《つち》を振り下ろしている。愛らしかった娘の時分を思い起こそうとしても、あの皺《しわ》ばんだ手が邪魔をする。  その女房から逃れるためではないが、仁平は兄嫁の見舞いに出かけたことがある。何かの用事のついでだった。ちょうどイヨは出ていていなかった。 「おるんかい」  辺鄙《へんぴ》な集落のこととて、戸締まりなどしていない。そう声をかけただけで土間に入った仁平は、そこに立ちすくんだ。  昼間も暗い六畳の間の、薄い藁布団に寝る多代は、森に棲《す》む物の怪《け》ほどに美しかった。すぐ傍には子供も寝ていたが、すでにその子供と多代は遠く隔たっていた。健やかな成長の過程にある子供と、死にゆく者との隔たりだ。兄嫁はもう、彼岸の方に向かってその白い足を投げ出していたのだ。  死の匂いは、患者の出す肺の膿《うみ》だ。仁平は兄嫁の顔の上を仰いだ。貧しいこの家には天井というものがなく、格子に組まれた竹を透かして屋根の茅《かや》が覗いている。そこから何やら恐ろしい死の使いが睥睨《へいげい》しているとわかったのだ。 「姉しゃん」  ふいに、隣に寝ている辰男が寝言を言った。弾《はじ》かれたように仁平は戸外に飛び出した。  その後間もなく、兄嫁は兄の後を追った。いや、お森様に向かって飛んでいく火の玉を目にした者はおらぬから、別な彼岸に一人で行ったのかもしれない。  兄の時と違って、穏やかな春だった。岡山が温暖なのは、瀬戸内海側だけで、この北の果ての春は短いが、その日は本当に閑《のど》かな一日だったのだ。  その報せを受けた時、仁平は自分でも狼狽《うろた》えるほどの喪失感を味わった。  小柄で割合に別嬪ではあったが、短気な気性もあって、それほど親しかった訳でもなかったのだ。兄の嫁。それ以外の何者でもなかったはずなのだ。 「まだ、菌が飛んどるかもしれんで」 「子供を近寄らせちゃあ、おえんぞな」  兄の葬儀でも囁《ささや》かれた言葉が、繰り返された。子供らはやはりあの時のようにぴたりと寄り添っていた。父を失ってまだ半年と経たぬうちに、母をも失ったのだ。 「不憫《ふびん》な子供らじゃ」 「とうとうお父もお母もおらんなった。因縁の深い子らあじゃ」 「そいでも、そういう子供は将来、偉うなるかもしれんど」  皆がもらい泣きをする時も、仁平は兄嫁の死に顔を見つめていた。兄と違って、ちゃんと瞼《まぶた》を閉じていた。代わりにやや唇がめくれ、小粒な歯が覗いていた。  生きて動いて喋《しやべ》っていると凡庸な女だが、なぜ寝姿はあんなに美しかったのだろう。後から思えば仁平は、死に寄り添う兄嫁に欲情したのだった。兄の結核に感染して死んだことは、何やら淫猥《いんわい》な感じさえ受けた。  そんな仁平の母親、つまり遺《のこ》された子には祖母にあたるイヨは気丈に家を守り、二人の子供を育てた。倹《つま》しくひっそりと、貧しい田畑を耕すようにだ。 「あの家は肺病筋」  などと陰口を叩《たた》いていた村人も、「イヨさんは立派じゃ」と素直に讃《たた》えた。 「ほんに、辰男のしっかりしとること。ありゃあ、頭がええ」  辰男は確かに、利発な印象を与える子だった。しかし我が子と引き比べて僻《ひが》むのではないが、その頭の良さが良い未来に結びつくかどうかわからない危うさも、仁平は感じ取っていた。この村で利発は不要のものというより、むしろ邪魔ではないのかと、辰男の大人びて鋭い眼差《まなざ》しに、仁平はいつもおどおどと俯《うつむ》いてしまうのだ。  草取りに行く村人達が、今も畦《あぜ》で辰男らの噂話をしている。 「お姉ちゃんの方も、ええ子に育っとるがな」 「おお、そうじゃ。因果の子じゃなしに、果報の子じゃ」  そうじゃなあ。仁平は納戸で、暗い桜の絵を見つめる。そこにさや子の整った横顔が浮かぶ。さや子はどんどん死んだ母親に似てきていた。寝姿も死体になった姿も晒《さら》したことはないが、首筋のほつれ毛まで母親に似てきていた。  寝姿を覗《のぞ》きたい。仁平はそう願うたび、自分の病も重くなるのを感じて肩を落とす。  大正十一年は、小作料の引き下げを要求する農民運動が最も盛んになった年として、岡山の百姓には記憶されているが、仁平は母親のイヨが近所に引っ越してきた年と覚えていなければならないのだろう。 「親のことより、そねえなことばかし気に留めてからに」  しかしイヨには嫌な顔をされても、その年は何より近郊の神社に「首吊《くびつ》り厳禁」の立て札が立ったことの方をよく覚えている。その神社で、立て続けに三人が首を括《くく》ったのだ。  あれはやはり、浅い春の日のことだ。仁平はそっとその境内に行ってみた。ぬかるむ土を草鞋《わらじ》で踏めば、汚れた桜の花弁が足指に貼りついた。ここに死に場所を求めて来る者はもう、死者の気持ちになっているのだなと、仁平にはわかった。  仁平がそこで初めて目のあたりにした縊死《いし》体は、最後の三人目であった。桜の花弁をようよう散らすほどの弱い風に、痩《や》せた体は揺れていた。何人かの村人がそのぶら下がる老いた男の下に集まり、ぽかんと口を開けていた。 「どねんして、降ろしたらええんじゃ」 「こりゃあ隣の村の者じゃろが。なんでわざわざここまで来るかのう」  どこか閑《のど》かな野次馬達は、縊死体よりも萎《しな》びて老いたそこの神主に、 「この松の枝振りは、そこにぶら下がる死人にとっちゃあ最も彼岸を美しゅう臨める位置にあるんじゃ」  とわかったようなわからないような説明をされ、とりあえず頷《うなず》いていた。仁平だけが、こんな風に揺られるほど人は軽いのだと、切なかった。手を合わせながら、自分もまたその風に震えた。狩られ損なった野犬だろうか、森から凶々《まがまが》しい遠吠《とおぼ》えが響いた。  巡査を呼び、死者を引き降ろし、ひとまず検証や簡単な聴取が終わった後も、仁平はしばらく境内に佇《たたず》んでいた。縄の張られた大木に立て掛けられた竹箒《たけぼうき》は、死者の流した黒い体液を吸って黒ずんでいた。この箒はまた使うんかい。仁平はぼんやり、そんな思案をする。  さすがにそのまま家に帰る気になれず、仁平は母のイヨの元に寄ってその話をした。死体はおどけてあかんべえをするように、舌を長く突き出していたと語る仁平に、 「わしは、そねえに簡単に死ぬこともできんがな」  土間で縄をなっていたイヨは、奇妙に明るい返事をしてくれた。 「この可愛い孫らぁを、一人前にするまではのう」  そのイヨの皺だらけの手から伸びてくる縄が、仁平は少し恐ろしかった。それが自分の頸《くび》に巻き付く錯覚に、後退《あとずさ》りした。イヨにまとわりつく辰男とさや子は、そんな仁平を朗らかに残酷に嘲《あざけ》り笑った。  それから幾日も経たぬ花冷えの午後に、イヨは饅頭《まんじゆう》の箱を抱えて近所周りを挨拶《あいさつ》に回った。仁平の嫁は感情をあまり顕《あらわ》にはしない女だから姑《しゆうとめ》がすぐ近くに越して来たことには頓着《とんちやく》しない態度を取った。つかず離れず、淡々と付き合うことにした様子だ。 「まあ、大きゅうなって」  幼い姉弟はやはり、しっかりと手をつなぎ合って埃《ほこり》っぽい風の中に立ち尽くしていた。  お座成《ざな》りに、女房が愛想《あいそ》をする。さや子も辰男も、何か途方に暮れた表情で仁平夫婦を仰いでいた。それは不安な行く末をも見つめている眼差しだった。  イヨ達が帰っていった後、女房は貰《もら》った饅頭の箱を何か汚れたもののように退けた。 「何も、あねえな家を買わんでも」  嫌そうに呟《つぶや》く。あねえな家。因果な家。森の真前にある家。それは、イヨが無理をして買い取った新居を指している。  今まで暮らした家は老朽化が進み、風のない日も屋根や柱が軋《きし》んでいた。それよりもイヨは、長男夫婦を相次いで亡くした暗い思い出をその家とともに封じたかったのかもしれない。いや、それよりも忌まわしい原菌の染みついた家と白眼視する村人を恐れたのかもしれない。  とは言え、次の家もまた明るい陽射しの中にあるものではなかった。新居といっても古い農家で、長らく空き家になっていたものだ。その家には、深く重い因縁があった。  元は同じ集落に住む馬場の婆さんが住んでいたのだが、その婆さんの先夫が無理心中を起こしていたのだ。五十年以上も昔の話だが、知らない村人はいない。  なんでも馬場の婆さんの先夫は隣村の人妻と密通し、それがその人妻の夫に露見した。その夫が乗り込んできた所を返り討ちに斬り付け、その妻をも斬り、最後に自分も喉《のど》を突いて果てたというのだ。残された妻は、馬場に再嫁したという訳だった。  無論、畳は入れ替えてあるが、水に浸かったほどに血で膨らんでいたという。今もよくよく目をこらせば、柱に刀傷が残っているのがわかるともいう。  それでも貰った饅頭は食いながら、女房は顔を顰《しか》める。 「突風の吹く日の夜にゃあ、長え悲鳴が後を引くて、噂されとるで」 「ええ加減な噂じゃろうが。そねえなもん」  仁平も久しぶりに囲炉裏端で茶を淹《い》れてもらうが、素っ気なく横を向いた。 「いんにゃ。馬場の婆さんですら、何も好き好んであねえな家に住まんでも、と陰口|叩《たた》いとるんじゃで」  その馬場の婆さんも今は相当な貧乏暮らしをしているから、因縁は家にではなく人にもついて回ると、逆に陰口を叩かれてもいる。 「あねえな家やこう、買わんでもええがな」  買うと決まった時、仁平は一応イヨに意見したのだが、 「どこの家にもどの人間にも、何かしら因縁はついとるもんじゃ」  そう言い切られてしまった。それはまったくその通りである。ただイヨは、可愛い子供達が「肺病の家系」と誹《そし》られることだけは我慢ならなかったのだ。  それならまだしも、あの家は心中のあった家、と囁かれる方がましなのだ。その心中事件はまったく、イヨとその孫達には関係のない過去なのだから。  だが仁平にはその大きく古い家は、なんとも陰鬱《いんうつ》なものに映るのだった。背景の森に溶け込み、夜など灯を点《つ》けていても真っ暗だ。障子紙に不吉な影絵が射しはせぬかと、母の住む家だというのに足早に立ち去りたくもなる。いまだ兄嫁がどこか真っ暗な部屋に寝ているのではないかと、そんな悪い夢にもうなされそうになる。  そうして因縁のためかどうか、イヨは体を悪くした。幸い胸の病ではなく、軽度の胸膜炎らしく短期の入院と自宅療養で済んだのだが、結核になることを恐れたイヨは、仁平にしばらく孫を預かって欲しいと頼んできたのだ。長男の亡き後には、息子は仁平しかいないのだ。 「やっぱりのう、娘の嫁ぎ先には頼みづらいけん」  家の中に入らず、庭でその相談をした。それは新月の晩で、イヨは闇の中で手探りをする格好で仁平の腕を掴《つか》んで哀願した。 「そうか、うちが預かるより他にないんじゃな」  仁平の嫁は淡々と引き受けてくれた。元々、あまり物事を深く考えないのだ。それはこの集落に生きる最上の処世術でもある。 「食わして、寝させときゃあええんじゃろ」  相談をした時、女房は囲炉裏端で繕い物をしながら淡々と頷いた。 「ああ、そうじゃ。余計な情も手間もかけんでええ」  悪意もなければ情もない性質は、考えてみれば仁平とは似合いの夫婦であったかもしれぬ。  それに姉のさや子は大人しくしっかりした娘で、辰男も手のかからぬ子だった。辰男はまだ学校にはあがっていなかったが、その頃から妙に頭の良い子という印象があった。特に教えもしないのに新聞など拾い読みができたし、大人の会話もかなりわかっているふうだった。  幼さを顕にするのは、さや子の姿を失った時だけだ。姉しゃん、姉しゃんと必死の形相で捜し回る辰男の目付きは、傍《はた》の者に何かしら恐ろしいものすら感じさせた。 「大きゅうなったら、そねえな調子で女の尻《しり》を追うんじゃろ」  学校から帰るなり、麦刈りの手伝いに連れ出されたさや子の後を追って畦《あぜ》を駆けようとした辰男を捕まえ、政雄は嘲った。掴んでいた襟首を放すと、辰男は畦に尻餅《しりもち》をついた。 「いんにゃ。わしは女より、男と遊ぶ方が楽しい」  それでも必死に子供らしく言い返す辰男を、政雄はまた笑う。従兄にあたる政雄は、辰男をこんなふうに時折いじめた。しかしその政雄もさや子には何も悪さはしない。 「大人しい者ほど屁《へ》が臭い、て岡山じゃあ昔から言うけんのう」  黙って立ち上がるだけの辰男を、政雄は挑発的に見下ろす。 「辰男、おめえのような者がちょうどそんなんじゃで」  それでも子供達は特に深刻な喧嘩《けんか》も諍《いさか》いもなく、淡々と生活を共にしていた。幼くとも草取りや水汲《みずく》みの手伝いくらいはできるし、後はただ食わせて着させて寝させておけばよいのだ。仁平の女房は必要なこと以外は子供らと口もきかなかったが、姉弟はそれに頓着してはいなかった。ここでは、食わせて着させて寝させてもらえるだけでいいのだと、大人のように諦《あきら》めることを知っていた。 「ちょっと見ん間に、さや子は娘らしゅうなっていくのう」  たまに仁平の具合がよくて、親戚《しんせき》や近隣の男達が集まる囲炉裏の端に、さや子は座っていることがある。そんな時いつも不機嫌に台所の隅にいる仁平の女房に代わって、たどたどしい手付きながら酌をしたり皿の上げ下げをしたりもするのだ。 「別嬪《べつぴん》になるで。そしたら、学士様に貰うてもらえるかもしれんど」  そんなふうに大人の男にからかわれる時、さや子は大人しいながらも、妙な媚《こび》を含んだ品を作れるのだ。それに密《ひそ》かに気づいているのは、台所の隅にいる女房だけだった。 「嫌じゃわ小父《おじ》つぁま。なにしい、百姓の娘が学士様に貰うてもらえるじゃろか」  何よりさや子は大人の女のように、自分の器量がどの程度で、どの程度の男なら引き付けられるかをかなり正確にわかっていた。今はやはりこの家の主人たる仁平に気に入られておくべきだと、膝《ひざ》はいつも仁平の方を向いている。 「さや子は子供の癖に、尻の辺りゃあ立派に女子《おなご》じゃのう」  湯呑《ゆの》みに入れた酒を口元に持っていきながら、仁平は頬を緩める。そんな彼らに嫌な顔をするのは、板の間の隅で寝たふりをしている辰男であった。  仁平の家も藤吉が継いだ家も、この集落ではごく普通の経済状態であった。といえば聞こえはいいが、特に金持ちがおらず、皆貧乏というのもある。目立った金持ちといえば、高台に住む砂子の家くらいか。  陽気の良さにふらりと遠回りして田圃《たんぼ》に出た仁平は、その高台から降りてくる砂子の主人の泰蔵とすれ違った。尊大に反り返って太鼓腹を突き出す泰蔵は、当然のように仁平を無視した。伊部《いんべ》焼の狸《たぬき》そっくりの泰蔵は、しかしいい着物を着ていた。 「オナゴの所に行くんじゃろ」  その後ろ姿に、仁平は吐き捨てる。泰蔵は金の力にものを言わせて、村中の女と関係している。そこの女房は何を考えているのやら、特にそれで騒ぐとか喧嘩をしたとかいう話は伝わってこない。辺鄙《へんぴ》な村には珍しい、おっとりと品のある女だ。  お高いと敬遠する者もいるが、仁平はそう悪くは思わない。この集落の女どもときたら婆も娘も人の悪口ばかり囁《ささや》いているが、砂子の女房はそれをしない。はあはあと、相槌《あいづち》を打つだけだ。無論、亭主の愚痴もこぼさない。別嬪とは言い難いが、扁平《へんぺい》な丸顔はいかにも育ちの良さげな柔らかさがあった。 「やっぱり、お嬢さんじゃからのう」  村の女達はそう解釈しているようだが、仁平はそりゃちょっと違うじゃろ、と胸の内で呟く。自分とはまたちょっと違ったふうに、あの女房も他人に興味がないからだ。  見上げてみれば、ちょうどその女房が行商の爺さんと庭先で何やら立ち話をしていた。爺さんは風呂敷《ふろしき》包みを担ぎ直し、老人とは思えない足取りで坂を降りてきた。砂子の主人とは違い、仁平にすら如才無く愛想《あいそ》笑いと会釈をしてくる。 「砂子の奥さんは、良う買うてくれるんか」  だから仁平も、珍しくこちらから声をかけられるのだ。それはこの行商の爺さんが、村の者ではない、完全な余所者《よそもの》だという気楽さもあった。  目付きだけは鋭い痩《や》せた爺さんは、身を捩《よじ》って砂子の女房の物真似をした。 「わたしが好きなんは、お芝居と小説じゃ」  架空の人間に感情移入できるとは、それもまた仁平ら村人には理解できなかった。 「金持ちの考えるこたぁ、わからんのう」 「いんにゃ、旦那《だんな》。金持ちだけじゃねえ。他人の考えるこたぁ、皆わからんもんじゃ」  二人して、苦笑する他ない。この集落では嘲《せせ》ら笑いもまた、連帯の一つなのだった。  その行商の爺さんと入れ替わるように、畦を辿《たど》ってくる者がいた。月もない宵だというのに、その姉さん被《かぶ》りの手拭《てぬぐい》から半ば覗《のぞ》く顔は艶《なまめ》かしく白かった。いや、砂子の奥さんの品のいい白さとは違う。この女はただ単に栄養不足で顔色が良くないのだ。 「おしめんせえ」  それだけ素っ気なく告げて、馬場の女房はすたすた行ってしまった。お疲れ様、とでもいうような意味合いの挨拶《あいさつ》だが、仁平が返すより先にもう行ってしまったのだ。  西の空を仰ぎ、この女に似とるな、と呟《つぶや》く。砂子の家とは逆に、目立って貧乏なのがその馬場の家であった。長男が海軍に入営中で、老いた夫婦と嫁と幼な子がいる。例の不吉な家にも住んでいた婆さんの一家だ。  婆さんに不吉な匂いがあるというよりも、あの嫁に淫靡《いんび》な匂いがする。何もつけてないのに白粉《おしろい》の匂いがある。夜這《よば》いの盛んな村だが、女も誰でも受け入れる訳ではない。しかしあの嫁は娘の時分から誰をも拒まなかったという噂がある。事実、仁平もそうだった。  森の野生の百合《ゆり》に似た匂いが長く指先に残ったと、夜這いをした後の夜を思い出す。あれも新月の夜だった。肌を合わせたはずなのに、その冷たさはどうだ。  畦に立ち尽くし、仁平は譬《たと》えようのない不安感に苛《さいな》まれた。新月と一緒に隠れてしまった馬場の女房の所為《せい》だけではない。仁平は戦いたいのだった。何かわからぬものに怯《おび》えたのだった。おお、きょうてえのお!! ひたひたと迫り来る黒い靄《もや》が、背中に被《かぶ》さっていた。 「もうじき、きょうてえことが起きるど」  家に帰るなり、仁平は叫んだ。庭先では女房が何か喚《わめ》き、囲炉裏端ではさや子と辰男が抱き合って怯え、納戸から飛び出してきた政雄が険しい形相で何やら怒鳴ったが、仁平はいきなり着物を脱ぎ捨てて庭先に引っ繰り返ったのだ。  元々そういう性向はあった。些細《ささい》なことを気に病む性質ではあった。だがいきなり屋根に登って「死人が来る」と騒いだり、素裸で家の周りを歩いたりしたことはなかった。以前は、なかった。その新月の宵より後から、仁平の病は進んだのだ。  とてつもなく恐ろしいことが起こる予感がある。森が暗い。何者かの声がする。辰男とさや子はそんな時いつも、仁平から目を逸《そ》らせてぴたりと寄り添い、やり過ごした。 「お父。あんた、ちぃと休みんせえ」  それから何ヵ月か後の、やはり新月の宵。突然に女房が優しげな顔と声で近付いてきたかと思うと、成人したばかりの政雄がほとんど力ずくで仁平を納戸に押し込めた。 「休むて、ここでか」 「そうじゃ。ここが静かでええ」  こんな時には実に息の合う動きを見せる女房と息子は、その後イヨへ告げる言葉も慎重だった。もっとも自身も病んでいるイヨは、見舞いにもそう来れないのを見越していた。 「胸の病なんぞであるもんか。お父っつぁんは疲れが出たんじゃ。養生でじき治る」  イヨには一応の気遣いをする女房だが、辰男らには聞こえよがしに吐き捨てた。 「厄介者ばかりじゃのう、この家は」  そんな時も辰男は透き通るような眼の色で、森の方角を透かしているだけだ。辰男の目は月に似ていると囁《ささや》いたのは、さや子だ。仁平の怒鳴り声が恐ろしい夜などは、二人は当てもなく家の周りを歩いた。新月の下なのに森は黒々と濡《ぬ》れ光っていた。  その後もどこで聞きつけたか、拝み屋の石野夫婦がやってきた。人の不幸や不吉な気配には大層鼻の利くこの夫婦は、すでに怪しげな白装束に身を包んでいる。その癖、足袋《たび》は汚れて黒ずんでいる。その足元の汚らわしさに、仁平は竦《すく》んで家から出られなかった。  庭先でその夫婦は、わざとらしく大袈裟《おおげさ》な格好で得体の知れない呪文《じゆもん》を唱え始める。 「我がさむはらの神様を拝みゃあ、悪いものはすぐ逃げていくで」 「うんうん、悪い気は、森の方角からじゃ」  彼らは唯一の余所者、流れ者の一家だ。大阪から来たと称しているが、関西|訛《なま》りはほとんどない。そこそこ夫婦とも整った顔立ちなのに、一度は畜生道に堕《お》ちたような卑しさを漂わせていた。  しかも、そこの娘は有名な淫乱《いんらん》だ。血が混じり合うのは早かろう。誰よりどこの家より強固に、この地に殖えていく逞《たくま》しさと図太さを持っている。  即座に、息子の政雄が追い返した。出ていく前にその夫婦は、嫌味のつもりか予言のつもりか、仁平ではなく柿の木の下に佇《たたず》む辰男を指して吐き捨てた。 「この子は、将来ぼっけえ事をしでかすで」  この時だけは、女房が妙に気色ばんで辰男をかばった。 「いらん世話じゃ」  それでも石野の亭主の方は、なおも辰男の顔に正面から指を突き付けた。 「眉《まゆ》の辺りに、強欲さが現れとるじゃろう。それに比べりゃあ」  続く言葉に、今度こそ仁平の女房は眉を逆立てた。 「ここの主人の病なんぞ可愛いもんじゃ」  当の辰男は相変わらず何を考えているのやら、その眉をわずかに顰《ひそ》めただけだった。 「さむはらさむはら」  夫婦はけろりとした顔で、奇怪な呪文を唱えながら去っていった。  仁平はその後も、大人しくしている日と、「あの家は焼き払わにゃあ、おえん」と騒ぐ日とがあった。あの家とは、イヨが住む家だ。 「わしは見たんじゃ。馬場の婆さんの先の亭主が、日本刀を持って走っていきよった。わしの身体を突き抜けて行ったで」  と喚く日もあった。仁平には実際に見えたのだ。耳元に振りおろされる音を聞いたのだ。耳たぶに血が滲《にじ》んだのが何よりの証拠だ。女房にはあっさりと、「ブヨに食われたんじゃ」と知らん顔をされたが、仁平にとっては確かに切傷だったのだ。  仁平の女房は、近所周りには亭主は病気と言い訳をした。時折泣いたり、さや子と辰男に当たったりもしたが、次第にすべてを日常にして受け入れてしまった。狂っているのが日常となったのだ。戦争をしているのも日常なら、食物に不自由するのも日常だ。  また今年も桜が咲いたと、あたかも去年の桜がそっくりそのまま蘇《よみがえ》ったように人は喜ぶが、それは違う。去年の桜と今年の桜は別物なのだ。去年の桜は死に絶えた。今咲いているのは、去年の桜の亡霊なのだ。  白々しく閑《のど》かな春の午後、仁平は納戸でぼんやりと座っていた。庭先から女達の笑いさざめく声が流れてきた。何を喋《しやべ》っているのかまではわからないが、女房と金中の娘だ。娘とはいっても結婚はしていた。そこは入り婿なのだ。  自分も入り婿ではあるが、女房とは又《また》従兄妹《いとこ》に当たり、姓も同じだ。そうそう遠慮ばかりさせられる身分でもない。だがこの金中の婿は、あからさまに種馬として貰《もら》ってやったという態度を露骨に突き付けられている。ぼんやりとした大柄なその入り婿は、どこにいても大人しい。ふいに、仁平は涙が滲《にじ》んだ。 「暗うなって心配じゃけん。迎えに来たんじゃ」  その入り婿が迎えにきたのだ。やや知恵は遅れているが無類のお人好しの男だ。その声に無性に泣けた。近くて遠い場所に、仕合せな若い夫婦、つまり自分がなくした世界があるからだ。仕合せも若さも、桜ほどにすぐに散る。  そうだ、あの若夫婦もいずれ不幸せを味わうのだと、一人で決め付けてそれに涙したのだ。これは哀しい予感なのだろうか。嫌な期待と呼ぶべきなのだろうか。 「そんなら、塩漬けの蕗《ふき》があるけん、持って去《い》なれえ」  楽しそうな女房の声に、仁平は沈む。あれは他人だ。息子も可愛くはない。姪《めい》、甥《おい》とてただ血が繋《つな》がっているというだけだ。濃いはずの血がさらさらと薄まる感覚に、また仁平は奇声をあげかける。  自分が得たものはこの派手な桜だけだと嘆く。襖《ふすま》だけは派手なものを取り付けてくれたのだ。  それでもその暗い納戸で、仁平は滅多に興奮して暴れることはなくなった。一日塞ぎ込む時もあるが、女房や息子はそんな日を機嫌のいい日と勘定している。  そんな仁平が、姪のさや子にだけいい顔を向けるようになったのはいつ頃からか。納戸で子供のようにままごとをしていたり、一緒に食事をしたりする。女房は素知らぬ顔でやり過ごす。息子は覗《のぞ》いている時がある。  さや子も大人しく、嫌がりもせず側に付いていた。ただ、辰男は決して近付こうとはしなかった。  仁平が一番好きなのは、昼寝ごっこだ。さや子を寝かせる。それを覗き見する。そう、いつか見た兄嫁の寝姿だ。このまま死ぬのではないかという恐れと期待。そうなれば、葬るのはあの森だ。自分だけの印をつけよう。墓標には猪の骨などが似合うかもしれない。  子供とはいえ女の身体は丸い。辰男と比べてみれば尻《しり》の形がまったく違う。辰男のそれは背中から続いているというだけの、すとんと滑らかなものだ。だがさや子のは、立派に女の形を成して丸い。胸はまだ扁平《へんぺい》なのに、尻は丸い。 「叔父《おじ》やんは、どこが病気なん?」  納戸《なんど》に来てくれるのは、そのさや子だけだった。女房は鶏小屋を覗きに行くのと同じ態度で納戸を覗くだけだ。そうして、卵を産めなくなった鶏を見る目で一瞥《いちべつ》するだけだ。 「外からはわからん所じゃ」  短い絣《かすり》の着物の裾《すそ》から、そこだけ鮮やかな色彩の腰巻きが覗く。仰向《あおむ》けにさせたさや子は作りかけの人形に似ていた。仁平はその腰巻きの下に手を入れる。滑らかなその肌ざわりと比べれば、己れの手の干涸《ひから》び方が一層よくわかる。 「外からは見えんのんか」  怯《おび》えと嫌悪を隠すため、さや子は殊更に無邪気な声を上げる。仁平は目を瞑《つぶ》り、さらに手を奥へと潜り込ませる。そこには終わる冬と始まる春の端境にある、温《ぬく》いぬかるみがあった。その微温に仁平のささくれた指先は浸されて、束の間若返る。 「さや子のここも、外からは見えんじゃろが」  太股《ふともも》だけは、老いも若きも変わらない。老女のそれも幼女のそれも、ともに仄《ほの》白い。溜《た》まった垢《あか》の臭いは、畦《あぜ》を流れる川の藻に似ていた。 「痛い。なあ、痛い」  人形と同じにされるがままでも、泣き声をあげるところは人形とは違う。その手を抜くと、仁平は仰向けに寝転がる。どこからか、さらに哀しい泣き声がする。蓄音機から流れる支那の恋歌だ。その間に、さや子はいなくなる。  仁平の女房は特にさや子らを苛《いじ》めたりはしなかったが、愛情は薄い。納戸でさや子が仁平から性的な悪戯《いたずら》を受けているのはわかっていたが、見て見ぬふりをしていた。  悪戯をした後は、仁平もさや子を哀れむ。ここを離れては生きられぬことをわかっているから、さや子は決して泣き喚《わめ》くことはない。拒むこともない。  そうしてもう一つ、さや子はやっと腰巻きをするようになった幼い子供とはいえ、この村に生を受けた濃い血を持つ強《したた》かな女だ。足の間にあるぬかるみで、男をいいようにあしらえることを知っていた。  弟の辰男も、色々な事を嗅《か》ぎ取っている。仁平とさや子が籠《こ》もっている間は、決してそこに近付こうとはしない。 「あの姉しゃんは、姉しゃんではないんじゃ」  ふと、仁平の耳に入った辰男の言葉だ。辰男は誰に向かってそう告げたのか。おそらく自分自身にだろう。辰男にとってのさや子はあくまでも姉であり、時には幼い母だ。  だが仁平と、その息子であり辰男らとは年の離れた従兄に当たる政雄も、時折さや子に悪戯をしていた。それはさすがに自宅でではない。裏の森でだ。そこから帰ってくるさや子は、辰男に対して罰の悪そうな顔をする。まるで、浮気が露見した女房のような態度だった。それを黙って許す辰男もまた、気弱な亭主のようだった。  二人はまるで不幸なのに別れがたい夫婦のように、花冷えの日々をやり過ごしていた。瞼《まぶた》を閉じれば、仁平の目の奥にはあの森の闇が広がる。あそこはなぜ、「お森様」と尊称されるのか。いや、恐れ忌まれるのか。  起きた仁平は、囲炉裏端に寄り添う幼い姉弟の会話を聞いた。 「自分にしか見えん桜が咲いとるんよ」 「どねえな桜じゃ、姉しゃん」 「ぼっけえ、嫌な色なんよ」 「血の色なんか。それよりわしは、あの森から聞こえる啼《な》き声が嫌じゃ」 「聞こえる。うちにも聞こえるわあ。ほんま、嫌な声じゃ」 「そうじゃろう、姉しゃん。人ともつかん獣ともつかん、嫌な嫌な声じゃろう。あれ、わしらを呼んどるんじゃ。しゃあけど安心せえや。わしだけ、行くけん」  仁平には冷えきった板の間にうずくまる二人が、その森に棲《す》む奇怪な獣の子に思えてならなかった。その嫌な幻聴には仁平も脅かされていた。そうした時は必ず具合が悪くなった。その時も仁平は唸《うな》り声をあげ、板の間を踏み鳴らして二人に近付くと、いきなりさや子の首を掴《つか》んだ。 「やめてつかあさい、やめてつかあさい」  辰男が仁平の腕に取りすがり、激しく泣いた。仁平は本当にさや子の首を絞めて、死体にしようとしたのだ。それはすんでのところで、飛び起きてきた政雄によって止められた。さすがに血相を変えた政雄は、父親を突き飛ばした。女房は柱の陰から、怯えているとも嫉妬《しつと》に悶《もだ》えているともつかない表情で白目を剥《む》くさや子を睨《にら》みながらも、怒鳴りつけた。 「うちから、縄付きを出す訳にゃあいかんじゃろが」  さや子の喉笛《のどぶえ》から流れた啼き声は、森にこだました。その癖、鬱血《うつけつ》したさや子に、仁平は再び欲情した。虐めておいて、後で可愛い可愛いと哀れむ。これほど気持ちのいいことは他にない。抱き上げて、すまんかったすまんかったと詫《わ》びた後、丁重に寝かしつける。壊した人形を箱に仕舞う手つきだ。  外では、残りの桜を散らす強風が吹き荒れていた。壁の隙間から射し込む星の光さえ揺るがしている。新月の夜だというのに、明るすぎるのが空恐ろしい。 「明日の晩にゃあ、子ができる」  障子の陰で、辰男はどこかで覚えた猥歌《わいか》を呟《つぶや》いた。  春が終わる頃、イヨは孫達を迎えに来た。予告もなしで、突然来たのだ。外便所から戻ろうとしていた仁平は、辰男が庭先に飛び出してきたので立ちすくんだ。 「婆やん、婆やん、良うなったんじゃな」  仁平の女房は、慌てて姑《しゆうとめ》を迎え入れた。囲炉裏端で、イヨは軽い咳《せき》をした。わずかに女房が顔をしかめた。鉄瓶がちんちんと鳴る音の他、何もなかった。空っぽな昼下がりだ。雲雀《ひばり》は支那の女歌手の声で囀《さえず》った。  辰男を抱き抱えるようにして、イヨは他人行儀な礼を述べた。さや子は着物の裾《すそ》を固く握り、神妙に俯《うつむ》いている。 「婆やん、老けたのう」  ぼそり、と仁平は呟いた。確かにイヨは萎《しな》びてしまっている。それには返事をせず、菓子折りを置いた。女房が曖昧《あいまい》に挨拶《あいさつ》を返した。その時突然、さや子が顔をあげたのだった。 「わたしら、叔父やん叔母《おば》やんに、ぼっけえ良うしてもろうた。まだ、ここにおりてえくらいじゃ。なあ、辰男」  さや子のそれは、本心なのか嫌味なのだろうか。まさかこんな子供が嫌味を言えるはずもないが、本心であるはずもなかろうに。 「そうかそうか。そりゃあ、えっぽど良うしてもろうたんじゃな」  イヨはまた、曖昧に笑う。女房もだ。仁平は途方に暮れた顔つきで、立ち上がる三人を仰いだ。烏《からす》の鋭い鳴き声がした。森からの不吉な啼き声ではない。ささくれたイヨの足の指が寒々しく、仁平は身震いをした。  擦り切れたイヨの着物の袖《そで》に隠れながら、辰男が上目遣いにこちらを睨んでいた。その辰男の将来を暗いと予言したのは、因業な拝み屋の石野夫婦だった。  イヨは辰男とさや子の手を引いて帰っていった。すぐそこなのに、もう会えない異国にでも去ってしまうようで、仁平は突き上げる寂しさを覚えた。だが暴れはしなかった。政雄はまたどこかに悪い遊びをしに出ていた。仁平は幼い頃の政雄を思い出そうとしたが、どうしてもできなかった。  納戸ではなく縁側にぽつねんと座る仁平は、ふいにぱちぱちと爆《は》ぜる火の音に我に返った。庭で女房が焚火《たきび》に何かをくべていた。さや子の残した草履だ。  人を焼く臭いがしたと思ったのは気のせいばかりではなかった。森の烏が啼いたのだ。それは人を焼く匂いを嗅ぎ付けたからだ。仁平はそっと指先を鼻に持ってきたが、そこにはもう、さや子の匂いは残ってはいなかった。  ふいに仁平は立ち上がり、縁側から飛び降りた。炎に照らされる女房の顔はまさしく般若《はんにや》であったが、仁平に気づいても無言のままだ。仁平は畦に駆け出した。棘《とげ》のある葉を踏みしめて、中程に立ち止まった。そこから、母の住む家が臨めるのだ。  陰鬱な花曇りの空の下、イヨの帰る家はどこより暗い雲に覆われていた。黒い影法師が三つ、その庭先に佇《たたず》んでいた。仁平を嘲笑《あざわら》うかのように、やけに大きな影法師だった。  仁平はその晩、納戸で一人うなされた。薄く粗末な藁布団《わらぶとん》は寝汗を吸って重くなり、ますます夢見を悪くした。その夢の中の桜は真っ黒だ。見る見るうちに黒い影法師に覆われてゆき、森は恐ろしい怪物に変わる。庭ではまだ煙が燻《くすぶ》っていた。その煙は、いつまでも人の焼ける臭いを漂わせていた。  さや子達がイヨの元に戻ってから、仁平は徐々に正気を取り戻していった。気難しく無口なことに変わりはなかったが、どうにか田畑の仕事も近所付き合いもできるようになっていた。悪い夢にうなされることも少なくなった。  政雄の蓄音機でレコードもかけてみた。ちょうど一円のレコードからは、懐かしい近松情話が流れてくる。懐かしいと感じるのは、昔これを聞いていた時が仕合せだったからだろう。よろけた拍子に針が飛び、歌声も歪《ゆが》んだ。  人と視線を合わせることはできないままだが、寝起きも元の部屋になった。隣に寝ている女房は色気も何もない。死体にも見えぬし、少女にも見えぬ。寝返りを打った拍子に、腿《もも》がのぞいた。そこだけは水死人のような色合いだった。 「おい……」  仁平はそっと、死んだ兄嫁の名前を呼んでみた。呼んだ後、本当に背後から返事が返ってきたらと戦慄《せんりつ》したが、それはなかった。女房の軽い鼾《いびき》が返っただけだ。  そっと寝床を抜け出し、仁平は元の納戸に入ってみた。一人、寝転んでみる。闇に溶けて虚《むな》しい派手な桜は見えぬ。ここに寝ていたさや子もいない。 「嫌な季節じゃのう、春は」 「……そうじゃなあ」  襖《ふすま》の向こうから、死んだ兄嫁の声がしたような気がした。  翌年の春、本来なら辰男は小学校なのだが、イヨは病弱を理由に行かせなかった。女房は関心もないようだが、仁平は多少は叔父《おじ》らしい心配もした。 「あねえに過保護でええんか」 「えかろう。辰男は利発と評判じゃけえ、一年くらい遅れてもなあ」  言葉では優しいが、女房の唇は皮肉な形に開いていた。  対照的に、少々の風邪くらいでは学校も休まないさや子は、遠目には子供らしい子供でしかなかった。そんな姉が学校から帰るのを待ちかねて辰男が飛び出してくるのを、仁平は度々目にしていた。そういう時の辰男もまた、屈託のない子供なのだ。  そのまま森に吸い込まれてしまうのではというほど、遅くまで二人は遊んでいた。黄昏《たそがれ》時など、二人が溶けてくっついてしまうのではないかと危うい気持ちを抱かせた。 「わしとはもう、遊んでくれんのか」  鍬《くわ》を肩に担ぎ、仁平は唇を歪める。だがもう、森に奇怪な幻想を抱くこともない。啼き声も聞こえない。たまに、寝床に寝姿の女がいると錯覚して驚く時があるだけだ。  それはさや子ではなく、死んだ兄嫁なのだった。白く透き通る頬が怖い。いつか、死んだとわかっていながら呼びかけた所為《せい》だとしたら、どうすればいい。 「気違いだった頃」を、時折ぼんやり思い返す時もある。暗い思い出は新月の夜空のようだ。何もかも春が悪いのだ。無論、さや子に対して行なったことも覚えてはいる。しかし記憶は常に書き替えられ塗り替えられすり替えられる。記憶の中では、悪さをしたのはさや子で、苦痛を味わわされたのは自分だ。  それはさや子があまりに従順であり、抵抗らしい抵抗を一切しなかったため、逆に自分が何もかも従わされている気分になったからだ。それは辰男にも当てはまる。異様な素直さは、かえってこちらを圧迫してきた。  何よりさや子は、死体の真似がうますぎた。寝ているのを通り越して、本当に死んでしまうのだ。薄い胸の上下がなければ腐敗の臭いすら立ち上りそうな姿だった。梅雨時など本当に匂った。女の匂いだった。桜の襖絵はすっかり色褪《いろあ》せた。 「のう、お母。そのうちさや子は、砂子の親爺《おやじ》にやられるで」  さや子の話題になった時、女房は冷淡に笑った。言ったのは息子の政雄だ。上座に座る亭主は無視して、親子で嗤《わら》っている。仕方なく仁平は胸の内で、死んだ兄嫁に愚痴る。女房はずっと冷淡で、息子はますますわしを嘲《せせ》ら笑うようになったんじゃ。 「まあなぁ。砂子の親爺も村一番の助平というのに、あねえに取り澄ましたのが女房じゃあ、面白うなかろうで。ついつい、女に手を出しとうもなるわな」  悪口を言い合う時だけ、母と息子は仲がいい。  仁平にとっての昭和は、村の女達の野良着が裾を絡げて腰巻きを覗《のぞ》かせた着物から、色気も何もないモンペに変わった時代であった。古女房はますます干涸《ひから》び、かつて娘時分に赤い腰巻きをちらつかせて心ときめかされたのが、別の世界の他人の話のようだ。  いや、女房ばかりは責められまい。自分もすっかり老いさらばえた。明日が、未来が思い描けない。かつて住んだ納戸はほとんど朽ちていた。  レコードも一円では買えなくなった。政雄は一度結婚して子供も三人もうけたが、女房は三人を連れて里に戻ってしまった。政雄はまたしても、あちこちの悪所に出掛けては悪い女にひっかかってくる。元は整った顔立ちなのに、どんどん悪相になってゆく。  女房とは、ほとんど会話らしい会話はしない。女房は他の家の女房連中とは、実によく喋《しやべ》る。大半がそこにいない者の悪口だ。村の者達は支那との戦局よりも、隣の夫婦|喧嘩《げんか》の方に耳をそばだてる。  たまにすれ違うさや子と辰男は、見るたび成長していた。自分がこんなに老いたのだから、それも当然か。永遠に変わりないのは、死んだ兄嫁だけだ。 [#この行1字下げ] ——春は浮気の 春は浮気の 花化粧 サノミンサイ キンサイ ヨンサイナー 備前岡山よいところ—— 「備前岡山」を口ずさみながら、前の畑を歩いていったのはどこの女房か。仁平は道でさや子や辰男に会っても、知らないふりをして逃げ出すことがままあった。気まずいのはさや子で、怖いのは辰男だ。  さや子を暗い納戸に連れ込んでいるのを、辰男は子供なりに意味までわかっていた。しかし、この家を追い出されてはどうにもならないこともわかっていたので、見て見ぬふりをしていたのだ。仁平にとってその後ろめたさは、昭和の代になっても消えていない。  さや子と辰男が、仁平宅でのことをイヨにどう語ったかはわからない。その後はあまりというより、ほとんど付き合いをしなくなったからだ。イヨはこのところめっきり曲がった腰で、畦《あぜ》を歩いていく。  イヨは仁平の家でさや子や辰男がどんなふうに扱われていたか、薄々わかっているような気がした。それでも狭い村の、しかも親戚《しんせき》ということもあり、黙っているのだろう。元々イヨは長男の藤吉ばかりを可愛がっていた、と仁平は僻《ひが》む。  だがその忘れ形見の辰男は、イヨの望んだようには育っていなかった。小学校では級長も務めた秀才だったが、イヨの力だけでは中学にやれず、その上に親ゆずりの結核で徴兵検査も落ちていたのだ。  たまにすれ違うと、その辰男の目つきに仁平はぞっとする。慣れない愛想笑《あいそわら》いまでしてしまう。それは進学断念や病気や徴兵検査不合格、治療のための農工銀行からの借金といったはっきりとした理由だけであれほど鬱々《うつうつ》とはしていないだろうと感じるからだ。  幼い頃、仁平の家での鬱積した憎しみと罪悪感があの目つきを育てたのだ。仁平はそう確信する。 「辰男は医者に、『激しいのはしたらいけん』と止められたんじゃて」  村の女どもも、寄るとさわると辰男の噂話をしている。やれ色狂いの、年増《としま》好きのと。評判がいいのは砂子の息子の恵一だ。親爺の方は誹《そし》られても、息子は誉められる。  若い娘達は寄るとさわると、そこにいない者の悪口ではなく、男の品定めをしているのだ。仁平は爺さんと見られているから、聞かれているとわかっても草取りをする娘達は平気で明け透けな話をする。 「『激しいのはいけん』て、ほんなら、ほどほどのはええんか」 「ほどほどの、てどんくらいじゃ」  娘達の甲高い笑い声は、何時の間にか流行《はやり》の歌に変わっている。 [#この行1字下げ] ——春は浮気の 春は浮気の 花化粧 サノミンサイ キンサイ ヨンサイナー 備前岡山よいところ——  地味なモンペ姿でも、華やいだ色彩に映る。仁平には眩《まばゆ》く、痛い。 「砂子の恵一つぁんなら、激しいんでもええがのう」 「よう言うわ」  砂子の息子は父に似た放蕩者《ほうとうもの》ではあるが、青年団の長も務めて人望はある。政雄は不器用な田舎者の遊び好きだが、砂子の息子は巧妙に年寄りや女達には好青年を装う。その砂子の息子が度々、辰男を叱責《しつせき》しているのは知っていた。  さっきも病院からの帰りらしい辰男を、砂子の恵一は居丈高に畦で呼び止めていた。その下の田圃《たんぼ》でうずくまって草取りをしていた仁平は、息を詰めてそれを聞いた。 「なんで出征兵士を見送りに来んのじゃ」 「……そん時、わしは出かけとったんじゃ」 「辰つぁん、青年団の集まりにも来んじゃろが。たまにゃあ顔だけでも出して、わしの顔も立ててくれえや」  それは仁平の息子もよく言われているが、辰男は不機嫌に生返事をするだけだった。政雄は適当に追従もしているが、辰男はそれができない。その表情は、さや子が座敷に入っていく時に見せたあの表情だった。  草取りを終えて家に戻っても、仁平は辰男の陰鬱な眼差《まなざ》しから逃れられなかった。仁平にとっての憂鬱の種は他にもある。一人息子の政雄だ。砂子の息子と違って器用に適当に遊ぶことができず、いつも過ぎてしまうのだ。それが原因で、息子の嫁は里に戻った。あのつんけんした嫁はどうでもいいが、孫には未練がある。  政雄は岡山市で商売をしては失敗し、飲み屋の女に入れ揚げたり、遠く神戸や大阪の遊廓《ゆうかく》にまで遊びに出ているのだ。早く兵隊に取られてくれればいい、とさえ願うようになっていた。 「あんたがおらん間にああなったんじゃ」  憎々しげに女房は呻《うめ》く。おらん間。それは納戸にいた間のことだろうか。  仁平にとって、春はいつでも不吉な季節だ。毎年毎年、最も不吉で不幸な春は今だと恐れるが、今年こそは間違いない。おまけに今夜は新月というではないか。 「おお、どしたんなら」  土間に、仁平は立ちすくんだ。囲炉裏の前に座っていたのは、辰男だったのだ。政雄が辰男を家に連れてきたのだ。おずおずと鍬《くわ》を壁に立て掛け、仁平は追従笑いをする。 「二人とも、気まぐれで青年団の会に顔を出したんじゃ」 「そしたら、ぼっけえ久しぶりに会うてしもうてな。話も弾んだんで、ここへも来いということになったんじゃ」  辰男はちゃんと、愛想もした。仁平はその辰男を異様に大きく感じる。背丈も肉付きもこの年頃の男としてはごく普通なのだが、子供の頃にそこに座っていた姿と比べるからだろう。部屋いっぱいに塞《ふさ》がっていると感じる。女房までが作り笑いをしている。 「姉しゃんの方は、どねんしとるん」 「姉しゃんか」  辰男はそこで、叔母《おば》にではなく仁平の方に顔を向けた。 「姉しゃんもとうとう見合いで、嫁入りが決まったで」 「ほう、あのさや子が、もうそねえな年になったんか」  おどおどと框《かまち》に腰掛ける仁平に、辰男はあくまでも朗らかに続ける。 「そねえに、特別早うはなかろう。ちょうどええ年頃じゃろう」  膝《ひざ》に目を落とす仁平は、さや子ではなく死んだ兄嫁の寝姿を思い出していた。動悸《どうき》が激しくなった。思わず胸を押さえる。 「婆やんも、喜んどるじゃろ」  そこで茶碗《ちやわん》を置いて先に立ち上がったのは、政雄だった。すでに中年にかかっている政雄と若い盛りの辰男。年月は様々な逆転を生むのだ。 「わしら、ちょっとゆっくり話し合いてえことがあるんでな」  それはいいが、なぜに二人はあの忌まわしい部屋に入っていくのか。 「懐かしいのう」  障子を通して、辰男がそう感嘆する声が聞こえた。仁平は凍り付く。  そんなはずはない。辰男はそこに入ったことなどないではないか。汚らわしい、というならわかる。なぜ懐かしい。  気になった仁平はどうにも落ち着かず、納戸《なんど》に近付く。なぜか漏れてくる話し声は、二人して自分を殺そうという相談に聞こえて仕方ない。  青ざめて立ち尽くす仁平に、背後から老いた女房が素っ気なく告げた。 「また病気が出そうなんか。今度はもう面倒見切れん」  政雄が持ち込んだか、蓄音機から流れる音楽が始まった。女房を振り切って襖《ふすま》の前に立てば、中からちょうど嘲笑《あざわら》う声がした。怯《おび》える仁平に、背後の女房はとことん冷たい。 「この次はもう森にでも独り、入ってもらうしかねえで」  それだきゃあ、こらえてくれえ。へたりこむ仁平の尻の振動で、蓄音機の針が浮いた。女房はそんな仁平を放ったまま、台所に戻っていった。 「あんたら、豆が煮えたで、食うかな」  女房は別人のように朗らかな声をあげ、納戸の政雄や辰男を呼んでいる。 「叔母やんの煮豆も、久しぶりじゃのう」  襖を開けた辰男は、座り込む仁平をきれいに無視した。そのまま板の間に歩きながら、同じく朗らかな返事をするのだ。自分の脇を通り過ぎた足の逞《たくま》しさに、また仁平は身を縮めた。蓄音機を止めて出てきた息子もまた、仁平を一顧だにしなかった。 「さや子よ」  そこにいるはずのない者の名前を、仁平は呻く。無論、さや子が駆け寄ってきてそこに仰向けに寝て、好きにさせてくれるはずもなかった。  その後も政雄と辰男は、時々会っているようだった。従兄弟《いとこ》なのだし近所なのだし、これまで疎遠だったことの方が不自然なのだ。 「森だきゃあ、嫌じゃ。こらえてくれえ」  仁平は自分から再び納戸に入るようになった。襖絵の桜が作り出す偽の春に苛《さいな》まれる。もう、さや子は世話には来てくれない。仮にもし来てくれたとしても、もう思い通りにはならないだろう。こちらは老いさらばえ、あちらは結婚も決まっているのだ。  瞼《まぶた》を閉じると、森の方から奇妙な啼《な》き声が響いてくる、と思ったのは錯覚で、自分の喉《のど》から出ている悲鳴であった。女房は無言で、蓄音機の音量をあげた——。  何日か経ち、少々具合のよくなった仁平は、杖《つえ》をついて外に出た。大根を抜こうと畦《あぜ》を辿《たど》る。春だというのに枯れた草がちくちくと足を刺した。ふいに大きな影が射した。  仁平は腰が抜けそうになった。辰男だったのだ。手に持ったただの草刈り鎌が、恐ろしい凶器に映る。それにしても辰男は異様に大きい。とても肺病病みとは思えぬ。 「ど、どっか出かけとったんか」 「政雄と一緒に、大阪の女郎屋に行ってきたんじゃ」  辰男の声も口調も、ねっとりしていた。夕陽に、顔は深々と陰影を刻む。名実ともに大人の男になった辰男に、仁平はなんとか上手を言おうとするが、うまく舌が回らない。 「そうか、そりゃあ……まあ、おめえも大人じゃしな」  辰男はそれには答えなかった。唇が妙に赤いのは、夕陽のせいか病気のせいか。まさか女の血を吸ってきた訳ではあるまい。 「せえにしても、辰男は」  杖にすがり、ようやくお世辞にもならない言葉をかける。 「死んだお父によう似てきたのう」  だが辰男は、冷淡に返した。 「わしはお父もお母も、顔すら覚えとらんけんの」  森がざわざわと蠢《うごめ》いていた。辰男は奇妙に貼りついた笑顔のまま、まるで仁平を通せんぼするように立ちはだかる。 「その女郎に、やっぱり従弟じゃ、政雄さんによう似とると笑われた。まいったのう。あねえな所で、そねえなこと言われてものう」  それは「濃い血」を憎む口振りなのだ。 「わしはそれがぼっけえ、不愉快じゃったけん、悪さをしてやった」  政雄に似とるんは不愉快か。それより先に、仁平は訊《たず》ねた。鎌から目を逸《そ》らせたい。傍らの桜の木に、仁平はほとんどすがりつく。 「その女郎に、何をしたんじゃ」 「叔父《おじ》やんが昔、うちの姉しゃんにしたのと同じことじゃ」  ざらつく春の砂混じりの風が、桜の花弁を散らした。喉を塞ぐのも花弁か。熱病の匂いのする風か。  仁平はその後、どういうふうに挨拶《あいさつ》をして、どういうふうに家まで帰りついたかわからない。病んではいないはずなのに、粘つく汗が流れる。悪寒が悪い幻を呼びそうだ。  家に帰りついた仁平は納戸の襖を外し、庭で焼き捨てた。偽の桜はあっというまに燃え上がり、崩れて灰になった。心底汚らわしそうに仁平を睨《にら》む女房に告げたのは、ただ一言だった。 「嫌な春が終わるんじゃ」  その後ほどなく、母親のイヨが挨拶に来た。新調した着物できっちり髷《まげ》を結った母は、よそよそしいほど丁重な物腰だった。まるで他人のようだと仁平は寂しかった。 「さや子がとうとう貰《もら》われて行くことになってな」  そりゃあ目出度《めでた》いことじゃ。女房は珍しく朗らかだ。 「あんたも結婚式にゃあ出てくれんとな」  仁平はまたしても恐る恐る尋ねる。辰男は喜んでいるのかと。 「いや、その、ありゃあ姉ちゃん子じゃったけん」 「これまではさや子姉しゃんの縁談いうたら、ええ顔せなんだけどな」  すでにイヨは涙ぐんでいる。筋張った首が震えていた。 「もうええ頃、あれも大人になったんじゃろ。道具を揃えるのも手伝うとる」  わしら風呂敷《ふろしき》包み一つで、野良着のまま嫁入りしたもんじゃがの、とイヨは笑った。そこそこの道具を揃えてやれたのが自慢らしい。仁平もつられて、目が潤んだ。  当日は桜も散ってしまったが閑《のど》かな気候の日だった。婿の家で酒を振る舞われた後、青年団の者は皆、糸井の家の前に集まった。村の女達もほとんど集まってくれ、賑《にぎ》やかに配膳《はいぜん》の手伝いやらをしてくれた。  親族ではないのだから晴れ着は着ていないが、新しい着物を着ているだけで他の娘達までが華やいだ色彩を帯びている。その下の腰巻きが時折|覗《のぞ》き、仁平は目眩《めまい》がした。  砂子の放蕩《ほうとう》息子もさすがこういう時の仕切りはうまい。政雄も青竹を持ち、縁側に並べられた道具を綱でくくっては担ぎ出す。掃き清められた座敷に、吹き込んだ花弁が散っている。石野の拝み屋夫婦も、さすがにこの日ばかりは不吉な予言はしないでいる。  新郎となった近郊の農家の跡取りは、神妙にしているせいもあるだろうが、生真面目な堅い印象の男であった。石野の親父がすっとんきょうな濁声《だみごえ》を上げた。 「こりゃあ、ええ男じゃ。どねえなことがあっても、嫁と添い遂げる覚悟をしておる」  それは聞きようによっては不吉な予言だったが、皆笑っただけだった。 「それにしても、ようお似合いじゃあ」  イヨが泣き通したこともあるが、さすがに仁平も万感胸に迫った。ただ、花嫁はちっともこちらを向いてくれない。つんと人形のように澄まして前を向いているだけだ。弟の辰男もまた、かしこまっていた。こうして見ればつくづく美しい姉弟ではあった。  薄絹の白の被衣《かずき》を被《かぶ》ったさや子は、どこもかしこも白かった。 「藤吉さんが生きとったら、どねえに喜んだじゃろうか」 「死んだ多代さんに、ほんによう似とる」  仁平はふいに、棺《ひつぎ》の中の兄嫁を思い出した。あの時の兄嫁も真っ白な着物を着て、どこもかしこも白く、こっちを見てはくれなかったと。……仁平は少し悪酔いをしたようだ。  その晩、辰男とイヨはさや子の行った道を逆にたどって家に帰った。仁平夫婦、政雄もそれに付き添った。  空は、春とは思えぬ冴《さ》え冴《ざ》えとした星空だ。刃物に譬《たと》えるのは、この目出度い夜には相応《ふさわ》しくなかろう。それでも深い藍色《あいいろ》の夜空は、その星々のために一層|淋《さび》しい。僅《わず》かな星明かりが照らす森もまた、一際暗い。 「いやそれにしても、きれいな花嫁さんじゃった」  誰かがそう改めて誉めた途端、辰男が弾《はじ》けるような泣き声をあげた。 「姉しゃん、姉しゃん、姉しゃん」  幼い日に、姉の後を追って泣いていた声と同じだ。誰もが無言だった。声は森に届き、奇妙な啼《な》き声となってこだました。そうして仁平はまた具合が悪くなる予感を得た。  辰男はすぐに泣き止むと、今度は突然に朗々とした声を張り上げた。「花嫁御寮」を歌い始めたのだ。誰もが黙って、その哀切な旋律に耳を傾けた。婚礼の夜にというより、何故だか新月の夜に相応しい歌だと誰もが心の中で唱和した。 「今頃さや子は初夜の寝床か」  政雄が呟《つぶや》く。揶揄《やゆ》している口振りではなかった。しみじみとした響きがあった。  死人のように青ざめて美しいさや子が白無垢《しろむく》の着物に包まれているところを想像し、仁平は家に帰り着くと納戸に倒れこんだ。だが、もうそこに襖《ふすま》はない。ただ黒々と闇があるばかりだ。新月の空は、射し込むほどの光を持たない——。 [#改ページ]   サネモリ様  二日の夜に空にかかる月は二日月と呼ぶのだと、モトに教えてくれたのは父であった。父は何でも教えてくれた。 「眉《まゆ》よりも細い月じゃと、覚えるがええ」  父は、その二日月の夜に首を吊《つ》った。傍らにもう一人、ぶら下がる女がいた。まさにその女の眉は、二日月ほどに細かった。その女とどうして並んで死んだのか。後になってモトは知る。何でも教えてくれた父なのに、肝心なことはいつも教えてくれなかったと。 「おんねもり さんねもり……」  虫|祈祷《きとう》の声が聞こえる。それは不気味な呪文《じゆもん》とも、野卑で陽気な歌声ともつかない。 「……あともさきも さがえた」  野良着のままの人影が、ぞろりぞろりと畦《あぜ》を渡っていく。これもまた、陰鬱《いんうつ》な葬列にも見えるし、和気藹々《わきあいあい》とした祭り行列にも見える。 「……もう、サネモリ様の時候なんじゃなあ」  縁側でぼんやりと団扇《うちわ》を使っていたモトは、汗の粒が浮く胸を押さえて起き上がった。村で最も高い位置にある砂子の家からは、この集落のほぼ全景が見渡せる。狭く息苦しく小さな集落。だが、そこに住む者にとってはこれが世界のすべてだ。  そうしてもしも今が昼間なら、辺りは見渡す限り狂おしいほどの緑だ。田の畦も苗も渡る風も、水に映る杉木立さえもが青臭い。この夕闇の中にあってさえ、緑の気配は肌を刺す。胸苦しい季節だ。  隣の国と戦争をしていようと、村から次々と若い男が徴兵されて行こうと、夏は変わりなく来て毒虫は変わりなく飛び交う。陰暦二日には、二日月が昇る。  すでに陽は落ちているのに、息苦しいほどに暑い。洗いざらしにした浴衣《ゆかた》の背は、もう水をかぶったほどに濡《ぬ》れている。微《かす》かな寒気はその所為《せい》なのだろうか。  この集落で土用の行事といえば、虫祈祷だ。しかしモトは嫁いで四十年、ほとんどそれに参加したことがない。いつもこうして高い処《ところ》から眺めるだけだった。高い処に住んでいる奥様、そう呼ばれる身分のモトは、村の行事に参加せずとも排斥される心配はない。 「おんねもり さんねもり……」  モトは独り、呟く。この季節の風物詩とも言える虫祈祷は、サネモリ様と名付けられた藁《わら》人形を掲げ、集落中の畔道を行ったり来たりする。  昭和十二年、夏。戦争は勝つまで止められぬが、虫祈祷はすぐ終わる。影法師の抱くサネモリ様は、もう輪郭を夜に溶かしていた。照らす二日月の光はあまりにも弱い。  サネモリ様が斎藤実盛《さいとうさねもり》からきていることを学んだのは、モトがまだ幼い頃だった。中学校の校長まで務めた父は、モトに何でも答えてくれた。いや、男の扱い方だけは教えてくれなかった。何でもわかっているはずだった父も、娘の行く末と相手の男に関しては何もわからなかったのだ。そんな父が、当の自分よりも哀れだった。  何はともあれ実盛様の霊魂は、なぜか害虫となって作物を食い荒らすらしい。だからその実盛様の名前がついた藁人形は、虫を追い払うのではなく、招き寄せるのだ。化身であるその藁人形に害虫を封じたことにし、それを捨てに行く。  他の集落では、捨てる場所は隣村との境であったり人の通わぬ山の奥だが、ここでは違う。森だ。「お森様」に捨てるのだ。敬称をつけて呼ぶ場所に、穢《けが》れを捨てる。  高台に立たずとも、視界のどこかに必ず入るあの森。モトはその森も嫌いなら虫祈祷も嫌いだった。何より夏が嫌いであった。太り気味で、さらに虫が嫌いでならないモトには一年で最もしんどい季節だ。  それにしても、今年の夏の虫祈祷はいつにも増して賑《にぎ》やかだ。それは、あの病気のせいだろう。おお、気味悪い。モトは舌打ちをする。  大正の終わり頃から、岡山では毎夏「眠り病」という死亡率の高い病気が流行した。正しくは日本脳炎だが、ここでは誰もそんな名前では呼ばない。その眠り病については、今年になって岡山医大が大きな発見をしていた。ビールスの媒介体は「蚊」であると。  それゆえ、ますます虫祈祷は盛んになったのだ。モトにしてみれば、恐ろしい虫がますます恐ろしくなったということになる。 「そのビールスとやらも、サネモリ様の人形は持っていってくれるんかな」  乱暴に団扇を使いながら、モトは呟いた。答えてくれる者はない。夫はいつものようにどこぞに飲みに出ているし、息子は青年団の長を務めているため、それこそ虫祈祷の先頭に立っているのだ。人付き合いの苦手なモトと違い、彼らは如才無い。  小作人達も皆、虫祈祷の行列に加わっているか見物に出ている。自分は除《の》け者だからとモトは闇を透かし見る。 「もっと持っていって欲しい、悪い虫もおるわいな」  モトは大げさなため息とともに、また独り言を呟く。振り返って見れば、今邸には囲炉裏の燠火《おきび》より他に灯はないので、薄ぼんやりと浮かぶ梁《はり》や柱が不吉に重い。  奥の座敷から寝たきりの姑《しゆうとめ》の咳《せき》が微かに聞こえた。続いて、 「おるんかい、モト、モト」  嗄《しやが》れた声で呼ばれた。夕飯の給仕も襁褓《おむつ》の取り替えも、さっき済ませたばかりではないか。どうせ背を擦《さす》れとか、足を揉《も》めとかだろう。モトは虫を嫌う時と同じ顰《しか》め面をし、その声を聞こえなかったことにした。どうせ動けないのなら、いっそ二階に寝てほしいとまた団扇を乱暴に動かす。そうすれば少しはあの汚らしい咳から遠ざかれるものを。  砂子家は、ここらの農家では珍しい二階建の家だ。農家の縁側といえば、穀物の干し場か縄編みや機織り等の手内職の場所だが、この家では正客のための玄関だ。  今はモトのための夕涼みの場所となっている。まるで誰かを待っているようだとモトは思うが、それは夫でもなく息子でもなく、嫁いだ娘達でもない。  ふいに闇に蠢《うごめ》く何かを感じ、誰かが帰るまでここにいようと子供のように怯《おび》える。 「おめえは、夢のようなことばかし考えるけんのう」  夫の泰蔵はいつもそう吐き捨てるが、嫁に来る前まではそれを愛《いと》おしそうに口にしてくれたではないか。同じ台詞《せりふ》をなぜ今は憎々しげに口にするのだろう。行けるはずがないとわかっているのに、誰かが迎えに来たら一緒についていきたいと、モトは夢想する。  砂子家は、この集落では一番の資産家なのだ。温室で桃や葡萄《ぶどう》の栽培もし、蚕も村中の娘を手伝いに来させるほど飼っている。祭りの寄付金などは、他の家と同額では許されない。兵士を送る際の壮行会の費用も大分持たされる。  その代償が、これなのか。いや、まだあった。村の者達は、モトくらいの年頃の女はおばやんと呼ぶが、モトだけは奥さんだった。婆あ、と口汚く罵《ののし》るのは泰蔵一人だ。  教養はあったが吝嗇《りんしよく》に近いほど質素な生活を尊び、優しくはあったが細かいことを気に病む父とはすべて正反対の夫に、最初は心|惹《ひ》かれた。  モトは父親を敬愛していた。女学校を出る年までは、父親はこの世で一番偉く頼もしい男であった。まさか自分とそう年の変わらない代用教員の女と、山中でともに首を吊るなど、未《いま》だに受け入れることができないでいる。  あれも真夏のことで、父とその女には夥《おびただ》しい虫がたかっていた。蠅は屍体《したい》を狂おしく恋慕うかのように唸《うな》りをあげて飛び交い、産み付けた蛆《うじ》は丸々と肥えて二つの屍《しかばね》を震わせていた。狂暴な蜂も羽音を立て、異様に足の多い蚰蜒《げじげじ》やら百足《むかで》やらも、排泄物《はいせつぶつ》を垂れ流した足の下にのたくっていた。  巡査や村人とともにその現場を目のあたりにしたモトの母は、一年にわたって失語症に陥った。モトは一人娘である自分がしっかりせねば、と異様に気を張っていたため、正気は保つことができた。  ただ、その時から自分でもはっきりこれは異常だと自覚できるほど虫を恐れるようになったのだ。夏が近付くたび、モトの憂鬱は増す。神経はささくれる。 「なんじゃあ、虫がきょうてえんか。阿呆《あほ》じゃのう。そうそう食い付きゃあせん」  百足も平気でつまみ、蜘蛛《くも》も平然と素足で踏みにじる磊落《らいらく》な夫は、同じようにモトのこともポイとつまんで踏みにじる真似をする。だが、モトは泰蔵を憎み切れない。  父の不幸な死に方は、地元の村に知れ渡った。無論、泰蔵とて知っている。しかしどんなに夫婦|喧嘩《げんか》をしてモトを罵ったり時には打ったりしても、決してモトの父親の死に様については口にしないのだ。 「……あともさきも さがえた」  父の恐ろしい死に様の思い出を振り切るように、モトは強く団扇で煽《あお》ぐ。すでに闇に没した虫祈祷の行列を探すかのように、闇に目を凝らす。蛍ではない光る虫が視界に入り、目を瞑《つぶ》る。二日月より乏しい蛍の灯の残像が映し出すのは、若き日の自分と泰蔵だ。 「あの頃のあんたは、どこに行ったん」  婚約中にモトの村とこの村とを結ぶ橋が壊れかけたことがある。その時夫は手を引いてくれた。不安な時にこうして目を瞑ると、必ず浮かぶ優しい絵だ。  モトはあの情景を思い出すだけで、様々な苦労に耐えられるのが不思議だった。着物を買ってくれたことも、息子を産んだ時の喜び様も覚えているのに、それはそれでいい思い出なのに、ふっと追想するのはいつもあの橋の上だ。  壊れても落ちても、この手にさえすがっていれば大丈夫だと信じた。今も新しい女が発覚するたび、罵られるたび、時には腰の辺りを蹴《け》られたりする時でさえ、モトはあの橋を思う。若い日の、泰蔵の囁《ささや》きがよみがえる。 「あんたの手は冷てえのう」  金持ちとはいえ、農作業は小作人に任せきりという訳にはいかず、泰蔵の手はごつごつとして荒れていた。そして、暖かかった。 「しゃあけど、手の冷てえ女は情が濃いというけんなあ」  あれからモトの手は冷く、情も濃いままだ。そのどちらも、もう泰蔵は忘れているのだろう。いつかあの橋の上の泰蔵は戻ってくるのか。迎えに来てくれるのが、あの若い夫であればどんなにいいだろう。 「……待っとるのに。いつ迎えに来てくれるんじゃろか」  その橋は何時の間にか修復され、今では出征兵士も渡っていく。彼らはその橋で何を思う。探る手の先には何がある。今は密《ひそ》やかに、虫|祈祷《きとう》の列が渡っている——。  モトは再び、団扇《うちわ》を物憂く動かす。今は母も亡い。娘は皆嫁いだ。そうだ、離れ座敷にはまだ姑がいた。しかしあの姑が側にいることを考えると、より一層孤独は募る。  意地の悪い姑は、何かといえばモトを「役立たずの癖にお高い」と貶《けな》す。無論、父親の死に様についても無神経な誹《そし》り方をする。今は当人が足腰立たなくなり、モトの世話がなければどうにもならないのに、それでも腐す。険しい黒ずんだ顔はいつもモトを睨《にら》む。  その姑の寝る離れは、今は静まり返っていた。汚れた藁人形が今この手元にあれば、あの姑目掛けて投げ込んでやりたいとさえ思う。  夫である泰蔵は、もう六十を過ぎているというのに、財力にものを言わせて村中のあらゆる女と関係を結んでいた。これもまた姑によれば、モトのせいだそうだ。 「悪い虫も追えんのか」  あの母と息子はそっくりだ。二人ともモトと違って、小説や芝居になどまるで興味がなく、その上女に人格や感情があるということすら想像できない。  モトは辺鄙《へんぴ》な農村には珍しく、上品でおっとりした女と評判だが、その泰蔵の度重なる浮気にも黙って耐えていることで、尊敬と軽蔑《けいべつ》をともに受けている。 「あの奥さんは利口なんか阿呆なんか、どっちかじゃ」  虫祈祷にも、決して誘われない。先日も公会堂の前で行き合った何人かの村の者達に、からかわれた。真ん中の糸井の政雄は、いつも人を小馬鹿にした口元で笑っていた。 「奥さんは汚れることはしとうなかろう」 「大体、わしらのような小汚い者らぁと一緒になりとうなかろうが」  モトはその丸い肩をできるだけ縮こめて、弱々しく愛想笑《あいそわら》いを浮かべ続けた。 「明日は虫祈祷じゃけどなあ、奥さんは迷信のようなもんは馬鹿にしとるじゃろ」 「いんにゃ、そんなこたあないんよ。ただ、ここんとこ姑の具合が良うないんで、あまり外に出られんのじゃ」  目をやれば、彼らの背後には眉《まゆ》のようなというより、鎌のような二日月が沈みかけていた。この政雄にそっくりな母親もいつだったか、 「あねえに、浮気する旦那《だんな》でええんか」  などと聞いてきたことがある。この村の者は図々《ずうずう》しさと遠慮の加減が少しもわかってはいない。土足で踏み込んでくる癖に、肝心なところで腫物《はれもの》に触る手つきしかしない。  もっとも、微妙な距離の取り方などはこんな狭い寒村では必要がない。だからモトも、内心の軽侮を隠して気弱に微笑むことにしている。 「仕方ないんよ。あの人はああいう人じゃけん」  確か、そう答えたはずだ。モトは彼らにも丁重すぎるほどにお辞儀をし、立ち去った。こうしておけば、嫌われ者にはならずに済む。除け者と嫌われ者では、村ではまるで意味が違うのだ。敬して遠ざけられるのならば、良しとしなければならなかった。 「婆あ、おるんか」  泰蔵が帰ってきた。虫祈祷も終わったようだ。自分が参加せずとも、こうして夫や息子が如才無くやってくれる。自分はこうして孤独を託《かこ》っていればよい。  若い頃は浅黒く引き締まってかなりのいい男だったはずだが、今はモトより太って緩んで、それで色だけは黒いままなのだから、まるで汚れた伊部焼きの壺《つぼ》のようだ。村の悪童達は、狸爺《たぬきじじい》と呼んでいる。モトはふっと、それを思い出して苦笑いした。 「何を笑うとるんじゃ」  汗で湿った着物を泰蔵は脱ぎ捨てる。肌には点々と、蚊に食われた痕《あと》が散っている。大方どこかの女と、裸になるようなことをしていたのだろう。モトの笑いはすぐ消えた。 「いんや、別に」 「気色悪いのう、婆あは」  モトの耳元を、そそ毛だつ羽音を立てて蚊が掠《かす》めていった。モトは身震いし、その脱ぎ捨てた着物を振った。どこかの女の匂いがした。  それから何日経っただろうか。モトは縁側で転寝《うたたね》をし、幼い頃の夢を見た。モトの生まれた村では、この季節に少し変わった御田植え祭りがあった。  境内で行なわれるのだが、男の子二人が田植えと収穫の舞を踊り、新米を食べる演技もする。その背後で殿様に仕える家来が、様々なおどけた格好をする。この時、殿様が笑うと不作になるという言い伝えがあった。  神妙に踊る片方の男の子と、家来役をした小学校の代用教員と。これが小説風に言えばモトの初恋、恋心を抱いた最初の男だった。どちらを先に好きになったかはわからない。代用教員の方は当時には珍しく、子供達をよく笑わせていた。そしてあの男の子は生真面目だった。  夢の中で、モトは殿様になっている。幼い頃から笑わぬ子とされてきたモトは、よくあの殿様役をすればいいとからかわれていたのだ。無論、本当にその役をしたことはなかった。女はそんな神事への参加は許されなかった。  今、夢の中ではなぜか糸井の辰男が殿様になっている。自分は家来だ。どうすれば面白いことができるのかわからず、脂汗を流している。あの代用教員も同級生だった男の子も冷たく、助けてはくれない。  泰蔵に腰の辺を軽く蹴飛ばされ、モトは目を覚ました。 「婆あ、着物を着替えるで」  モトは水をかぶったほど汗で濡《ぬ》れている。蚊が飛んでいた。羽音に総毛立つ。目覚める瞬間に確かに辰男が笑ったと思ったのだが、確かめる術《すべ》はどこにもない。 「寄り合いじゃ。遅うなるで」  家来のように、無理に殿様を笑わせる役回りはやはり自分には合わない。モトは女の元に行くであろう夫の帯を締めながら、夢の中の辰男の白い顔を思い出していた。 「なんなら、寝呆《ねぼ》けた顔をして」 「……ああ、いや、やっぱりわたしゃ、暑いんは苦手じゃわ」  掴《つか》む帯にすら、汗が滲《にじ》む。モトは肩で息をした。そんなモトに、泰蔵は鼻を鳴らした。 「もうちいっと、痩《や》せえや」  力なく苦笑いし、モトは泰蔵を送り出す。振り返りもせず出ていった夫の背中を追いながら、モトは、今さかんに「病気持ちの色気違い」と陰口を叩《たた》かれている糸井の辰男のことを考えていた。モトは、辰男にさほど悪い気持ちは持ってはいなかった。  仲間意識というほどではないが、色白の腺病質《せんびようしつ》な雰囲気も農村には珍しいから好ましかったし、学校に通う頃は秀才と誉められていたのも覚えている。 「小説も書いているらしい」という噂も気になってはいた。その辰男もまた、虫祈祷や青年団の集まりには出てこないという。息子もそのことでよく辰男を罵《ののし》っていた。 「兵隊さんの見送りは、せにゃあいけんで」  いつだったか公会堂前で辰男を通せんぼし、息子の恵一は責めていた。モトは息子からも辰男からも身を隠し、その場を離れた。辰男のあちら側が透き通るように白い頬は、微《かす》かに染まっていた。あれは夕陽のためだったのか、怒りのためだったのか。 「今度は、行く」  不貞腐《ふてくさ》れてそう答えていた辰男自身は今も、あの橋を渡って出征できないままだ。モトとは違うふうに、村では浮いた存在だった。子供の頃の可愛らしい利発な様子を知っているだけに、モトは辰男に痛ましい思いを抱いている。  あの子はいつだったか、親戚《しんせき》の結婚式に向かう晴れ着のモトを仰いで、無邪気に感嘆してくれたのだった。 「小母やん、きれいじゃのう」  あの頃は愛らしい目をしていた辰男は、その目でまじまじとモトを見つめたのだ。 「今この村で、一番|別嬪《べつぴん》なんじゃねえんか」  その時のモトは、娘のように羞恥《しゆうち》した。そして、嬉《うれ》しさに上気した。子供に口先だけのお世辞など言えるものではない。あの時の辰男は本当に心底そう叫んだのだ。モトを美しいと信じてくれたのだ。 「ほんまかな。この小母《おば》やんは別嬪じゃろか」  その時、傍らにはさらに派手な着物を着たモトの末の娘もいたはずなのに、辰男はモトだけを見上げていた。長らく容貌《ようぼう》に劣等感を抱いてきたモトにとって、たとえ相手が幼い子供でも、男に美しいと心から誉められた記憶はそれだけなのだった。 「着物もきれいじゃ。お姫さんのようじゃ」  若い日の夫の手の感触と、幼い日の辰男の無邪気な感嘆と。モトは集落一の分限者の女房でありながら、宝物はごくささやかな記憶だけなのだった。 「まあまあ、村で一番の秀才さんに誉められたら、そりゃほんまのことじゃろな」  そう答えたモトの言葉を、当の辰男はとうに忘れているだろう。モトはその時の辰男が遠くに学校帰りの姉を見つけて駆け出した、その後ろ姿まで覚えているというのに。  今その辰男を大っぴらに誉めることはできない。当たらず障らず、皆が噂しあう場所に行き合ってもふんふんとうなずくだけにしている。  藍色《あいいろ》に暮れなずむ空は、黒い森と対比すればまだ明るく感じられる。モトは所在なげに庭先に佇《たたず》んだ。虫は怖くても、家に入れば堪《たま》らない蒸し暑さなのだ。 「ほんまに、眉に似とるなあ」  眉より細い二日月もすでに西の空に沈んだ頃だろう。小作人も皆帰り姑《しゆうとめ》も寝付いた。息子はやはり帰ってこない。この暑さは秋の収穫を約束してくれるだけで、戦争の勝利や眠り病については何の保証もしてくれない。それでも耐えなければならないのだ。  ふとモトは、家の軒先で腰を屈《かが》めた。石垣の下に伸びる小道を、古風な提灯《ちようちん》をぶら下げた雑貨商の男が行くのを見付けたのだ。思わず呼び止めてしまう。 「爺っさま、寄っていきんせえ」  すでに店仕舞いだろうが、風呂敷《ふろしき》包みは抱えている。好々爺《こうこうや》だが、素性についてあれこれ詮索《せんさく》する者もある。ヤクザ者だったとかだが、時折それらしい台詞《せりふ》や目付きもする。小柄ではあるが骨組みだけはがっちりとして、なるほど喧嘩《けんか》は強かった雰囲気がある。  しかしモトは、さほど警戒しない。これもまた、某《なにがし》かの連帯感かもしれなかった。 「おお、奥さんか。こりゃええわ。本だけが仰山売れ残っとってなあ」  商売っ気のためとはわかっていても、男に嬉しそうな声を出されればモトは頬が緩む。 「ちょうど、欲しい思うとったんよ」  行商の老人は宵闇の中、老人らしくない足取りで駆けあがってきた。モトはさっそく縁側に座らせた。下に置かれた古風な提灯は、月明かりよりは明るい。 「ええもん、あるじゃろか」 「まあ、見てやってつかあさい」  これほどの老人ならば、二人で並んでいるのを見られても悪い噂にはならないだろう。それでもモトは一応、辺りを見回す。覗《のぞ》き込んでいるのは、空にまたたく星だけだと、小さく息を吐く。 「この村で、本のお得意さんは奥さんと糸井の辰男だけじゃ」  歯の欠けた口元で笑いながら、老人は風呂敷包みを広げる。すべて古本だが、なかなかにいい品揃えだ。当人は文盲と称しているが、「啄木《たくぼく》詩集」など本好きでなければ手に入らない物まで用意している。  粗悪な鼻紙や鉛筆の他、化粧水の壜《びん》や電球まであった。モトは雑誌だけが目当てだ。改造本と称される、古本に表紙だけ新しいのを貼ったものだ。 「辰男のぼんは、何を読みょうるん?」  できるだけさりげなく、雑誌の表紙を眺めるふりをしながら聞いてみる。 「少年|倶楽部《クラブ》とかキングじゃが、ありゃあ子供が読むもんじゃ」  そこで行商の老人は、意味ありげに笑う。 「ええ歳で読むんはどうかのう。もう大人じゃろ、充分にのう」  避妊用のルーデサックまで売っているこの行商人は、それを仄《ほの》めかした。 「この頃は買うもんが本だけじゃのうなったで」  モトはこんな時、とぼける役割を与えられていた。まぁまぁ、そんなん買うんかな、などと身を乗り出しては、またどこで妙な噂となって伝わるかわかったものではない。 「そうじゃなあ、たまに行き合うと、子供の頃の面影がもうのうなっとるんで驚くわ」  いかにもモトらしい、当たり障りのない相槌《あいづち》だけを打っておく。それにしても辰男への悪口は、何故こうも多分に性的な匂いに満ちているのか。忌むだけではなく、蠱惑《こわく》の色を湛《たた》えているのだ。そこが自分の夫とは違う。 「何でも売るわしも、嫁だきゃあ持っていってやれんけんな」  さすがにこの行商人の老人も、相手がモトではあまりに鄙猥《ひわい》な冗談は口にできない。そそくさと風呂敷を包み直した。  そんな彼を見下ろしながら、なぜかモトの口からはモトらしからぬ冗談が出た。 「……新しい婿さんを売っとったら、わたしも買いてえけどなあ」  困惑した笑いを浮かべる老いた行商人から、モトは婦人向け雑誌を二冊とゴム紐《ひも》を買った。無論、ルーデサックなど要らぬ。月経はとうにあがっているというのもあるし、夫とは随分長い間その関係はない。 「いや、ほんなら今度は新しい婿さんを売りに来にゃあ、おえんかな」  それでも軽口で返すと、行商人は提灯を掲げ、再びモトの家の石垣の下に降り、再びくねった小道を戻っていった。モトはしばらくぼんやりと、夜空を仰いだ。 「そねえに辰男は、大人になってしもうたんか」  呟《つぶや》く声の寂しさに、モトは自分でも寒気を覚える。辰男はどの女にも声をかけるというが、やっぱり自分の処には来てくれない。待ち望む訳ではないのに、焦燥するのは何故だろう。奥さんと言われる立場だからか、年老いているからか、嫌いな男の母親であり妻であるからか。  仕方ない、とモトは皺《しわ》の増えた手の甲に目を落とす。二日月がやがて半月になり満月になっていくように、無邪気な子供は小狡《こずる》い大人になっていく。  もう辰男は、モトが美しくないことを知っているのだ。  自分の父親と同じように、息子もまた見栄えばかりがいい頭の空っぽな女を好む。  いつだったか鏡台の鏡を覗きこんで、吹出物に薬を塗っていたモトの背後で恵一は、 「痘痕《あばた》になってもならんでも、お母には関係なかろうが」  無邪気に嘲《あざけ》ったのだ。その鏡にちらりと映りこむ息子は、憎らしいことに若い日の泰蔵に似てかなりの良い容貌を持っていたのだった。 「お母は、器量が悪いんじゃけえ」  板の間の囲炉裏の端で、それを受けて泰蔵は馬鹿笑いをした。その時はモトの瞼《まぶた》の裏を赤い虫が乱舞した。ちくちくとした痛みとともに。血の涙こそ流れはしなかったが、未《いま》だにその腫《は》れは引いていない。あの時の吹出物も、薄く痘痕になっていた。 「お母、おるんか」  その息子が、行商人と入れ違いに戻ってきた。こうして暗い所から出てくると、ますます父親の泰蔵に似てきているのがわかる。悪い方にばかり似てきていると、モトはうんざりしながらも立ち上がって板の間に入り、急須《きゆうす》を出す。 「茶ぁでも、飲むかな」 「ああ。そりゃそうと、ほんまに糸井の辰男は困ったもんじゃ」  囲炉裏の前に座るなり、恵一はそう吐き捨てた。婦人雑誌を傍らに置いて、モトは茶を淹《い》れる。辰男、の名前に胸のどこかが微かに疼《うず》いた。 「また辰男がもめ事を起こしたんかな」 「ああ。こないだ石野の娘を追い回して、親父に殴られたばかしじゃいうのに」  モトは立ち上がり、水屋から茄子《なす》の漬物の鉢を出した。辰男よりも、石野の娘の顔を小憎らしく思い浮かべる。なんでお前のような女が辰男に追われるんじゃと。 「金中の娘に迫ってのう。母親に金出して、お前でもええと迫って」  心底嫌そうに歪《ゆが》む息子の横顔を、モトは白けた気持ちで眺めていた。恵一は先月も女で失敗《しくじ》り、大金を費やしていた。女給に入れ揚げただけならいい。その女についていたやくざ者にも脅されたし、隣村の素封家の娘を堕胎させた時は裁判|沙汰《ざた》にまでなりかけた。  然《しか》るべき有力者を立てて仲裁してもらったが、それにもどれだけ金がかかったことか。また、どれだけ頭を下げさせられたことか。モトも力を込めて漬物を噛《か》む。 「そいで、お母に殴られたんじゃと。おえりゃあせんのう」  泰蔵は自分にも後ろ暗いところがあるため、息子の不始末には目を瞑《つぶ》っている。  あまり辰男のことなど責められた義理でも立場でもなかろうに、茄子の漬物で煎《せん》じた茶を啜《すす》りながら、恵一は毒突いた。 「何か虫が好かんのじゃ」  その陰のできた顔は、夫そっくりだ。息子には、あの橋のような確たる思い出がない。何時の間にか大きく悪くなった。無論、可愛くはある。不始末の尻拭《しりぬぐ》いには駆け回った。しかし、それが喜びや支えには変わらないのだ。 「あれじゃあ婆やんも姉ちゃんも、いつまぁでも安心できんがな」  それにしても恵一はいつも、糸井辰男を目の敵にしていた。その姉のさや子に言い寄って冷たくされたというのもあるらしいが、少し気にし過ぎなほどだった。 「恵一、帰っとったんか」  そこへ、泰蔵がのっそりと入ってきた。白粉《おしろい》の匂いをさせながら、重い音を立てて上座に座る。モトは黙って、茶碗《ちやわん》や小皿の用意をする。そんなモトを泰蔵は一顧だにしない。 「茶ぁくれ、婆あ」  使用人に対するのと同じ横柄さで、モトから茶を淹れてもらうのだ。モトも使用人のように大人しく、白粉の匂いに気づかないふりをする。そうして一通り茶の支度が済めば、今度は使用人どころか置物のように静かに隅に座るのだ。 「なあ、お父。糸井の辰男の悪い噂はわんわんあるじゃろうが」  モトは恵一の頭越しに、天井を見上げる。いくら集落一の金持ちであっても、灯火は暗い。部屋の隅は見えない。モトは煤《すす》けた天井と梁《はり》に、物の怪《け》を勝手に重ねて怯《おび》えた幼い日を思い出す。あの頃はさらに部屋は暗かったのに、今よりずっと仕合せだった。父は膝《ひざ》にモトを乗せ、いろいろな話をしてくれたのだ。 「まあまあ、ええがな」  何か後ろめたそうに肩をすくめ、泰蔵は茶を啜った。いつもは誰彼かまわず、すぐにあの者はおえん、あの者も銭にならんと罵《ののし》るのに、不思議に泰蔵は辰男には非難をしない。辰男の話題になると、決まって口籠《くちご》もるのだ。 「ええこたあ、ねえ。この村で働きもせんとぶらぶらしとるのは、辰男だけじゃ」  泰蔵は答えず、モトの方を向いた。 「婆あ、白菜の漬物も出してくれ」  モトは湿った土間に降りて、漬物の樽《たる》を開ける。嵌《は》め殺しの窓の枠から覗《のぞ》ける夜はどこまでも暗く侘《わび》しい。あの果てのさらに果てに戦火があり、夥《おびただ》しい死者がいる。自分がいる場所はここでよいのか。ここで生きていてよいものか。  あの虫|祈祷《きとう》の晩から幾日経ったか。二日月はそろそろ半月になっているか。この窓からは塗り潰《つぶ》された森の闇しか見えない。 「お父からも、会うたらちぃと注意しちゃれえや」  モトも噂では知っている。辰男が結核のため徴兵検査に落ち、それで青年団の集まりにも来づらくなったことをだ。そりゃあ、来づらかろう。モトは白菜を漬物樽の縁で刻みながら、ひっそりとため息を洩《も》らした。 「ありゃあ、おえん。辛気臭いし陰気臭いし、オナゴも皆嫌がっとるで」  殊に、辰男が出征兵士の見送りも何かと理由をつけて来ないのを、恵一はいつも強い調子で非難している。今も父親相手に捲《ま》くしたてていた。 「オナゴだけじゃねえ。男もじゃ。もうあれの相手をするんは子供くらいじゃで」  しかしそれをたしなめるのはモトではなく、泰蔵なのだった。 「あんまり、辰男をいじめん方がええ」  モトが板の間にあがり、白菜の漬物の鉢を泰蔵の前に置いた時だ。泰蔵は突然ぱちんと大きな音を立て、手のひらを合わせた。誰かの血を吸った蚊を叩《たた》き潰《つぶ》したのだ。  モトは瞬時に背中や腕の産毛が立った。自分が食われたのではないか。夫の手に散った血は自分のものではないのか。 「なんじゃあ、お父。辰男に庇《かば》うようなとこがあるんか」  泰蔵は汚れた手を膝《ひざ》の辺りで拭《ぬぐ》うと、青ざめたモトをちらりとだけ見やった。 「辰男のお父っつぁまには借りがあるんじゃで。このわしはな」  しかし必ずそれを言っておきながら、その「借り」の意味はモトにも恵一にも一切教えない。恵一はさほど興味もないようだから、しつこく訊《たず》ねはしない。 「そいでもなあ、お父よ。日露なんぞ、遠い昔じゃろうが」 「そりゃあまぁ、そうじゃが」  泰蔵と辰男らの父親が、ともに日露戦争時に激戦地の遼陽《りようよう》にいたことだけはモトも知っていた。しかし泰蔵は、その件に関しては頑《かたく》なに口を閉ざす。 「差し迫っとるんは、今の戦争じゃ。兵隊にも行けん辰男はどねんもならんじゃろが」  モトはふと、辰男に尋ねてみたい気になる。しかし辰男の父親は、戦争のことは話したがらない男だったと村人達は語った。その辰男の父親の顔を、モトはもうはっきりと思い出せない。武骨な、しかし誠実な顔立ちだったようには思う。辰男は母親の方に似たようだ。 「わかった。そのうち、会うたらわしからも注意くらいはするで」 「そうしてくれえや、お父。あ、お母。わしもう茶はいらん」  辰男は何も知らないのかもしれない。モトは辰男の父親の血と泥に塗《まみ》れた幻影を、密《ひそ》かに描く。下腹に小蛇が這《は》う、隠微な感触を覚えた。その父親から辰男は何かひっそりと、とんでもない秘密の話を打ち明けられているのかもしれない。 「ほんなら、もうご飯にしょうかなぁ」  さっきとは打って変わってモトは明るい声を出し、板の間から土間に降りた。そんな物語があるならば、是非とも自分に教えてもらいたいものだ。夫より上位に立てるかもしれないではないか。再び土間に降りると、窓から月光が射していた。もう二日月ではないのだろう。その光は煌々《こうこう》と明るかった。  奥さんだからといって、田植えをせずに済むはずはない。農繁期にはモトとてこき使われる。モンペを穿《は》いて、四国からの日雇い人を迎えねばならない。 「わしら、麦ばかしの飯に慣れとるけん」 「ここじゃあ、御馳走《ごちそう》が食えるけえのう」  三割方が麦なのに、彼らは大喜びで食らう。牛馬よりも逞《たくま》しく働く彼らは、月のない国から来た者達であった。照りつける太陽の下だけで生きてきたように、モトには思えた。  泥を掻《か》き、苗代を作り、野卑だが明朗な田植え唄《うた》や牛追い唄をがなる。それらは猥褻《わいせつ》な替え歌にもなったが、突き抜ける蒼天《そうてん》の下ではそれすら清々《すがすが》しい。 「しゃあけど、なんか田植えもだんだんと色気はのうなっていくのう」  顔の泥を拭《ぬぐ》いながら、誰かが言った。そうじゃなあと、モトも腰を伸ばす。モトが娘の時分は、女は着物を絡げて腰巻きを出していた。赤い襷《たすき》に赤い腰巻きは、ある種の晴れ着でもあった。 「そいでも、こねえに暑けりゃ、実りは多かろう」 「おお、豊作じゃあ。戦争も勝ちょうるしのう」  眩《まぶ》しい夏だった。泥に塗れていたはずなのに、夏は目に染みたのだ。あの赤はいつまでも眩しかった。自分も、美しくはないが若かった。  今はただ泥だ。腰巻きを出すのは老女だけで、田植えの時はモンペだ。男も股引《ももひき》だ。四国から来る日雇い人は、力が入らないといって褌《ふんどし》でいる。彼らは実に飯もよく食う。煮た野菜などのおかずを用意してやっても、ひたすらに飯を旨《うま》そうに貪《むさぼ》る。  だが、去年に比べれば日雇いの男達は年を取っていた。逞しくはあるが、痩《や》せている。四国にも等しく、徴兵は行なわれているのだ。モトは目眩《めまい》を覚え、しゃがむ。  若い男が次第にいなくなる。赤い腰巻きもない。泥だ。支那との戦いも泥沼だと、声を顰《ひそ》めて語られる。それはいけない。勝つことしか口にしてはいけない。 「ヨーイ、ヨイヨイ、ヤレコリャセー……」  田植え唄が息継ぎで途切れた時、赤い腰巻きがモトの視界に入った。日雇い人達が何やら荒い方言で猥褻な冗談を叫んだ。赤い腰巻きはひらり、と着物の裾《すそ》に隠れた。石野のみち子だ。太いが白い足で畦《あぜ》に立つと、桃色の歯茎を剥《む》き出して笑った。 「田植えもせん癖に」  モトは舌打ちし、苗を乱暴に植えた。そのモトをさらに苛立《いらだ》たせる甲高い声があがる。 「精が出るなあ、みんなぁ」  石野は各地を放浪した挙げ句にこの集落に住み着いた怪しい一家だ。そこは自称「さむはら教」の開祖だ。そんな神様なんぞ、聞いたことがない。なのに彼らは森の真前に怪しげな鳥居や小屋を建てている。  何時の間にかちゃっかりと居着いてしまった余所者《よそもの》の癖に、モトよりずっと村にも村人にも馴染《なじ》んでいるのも腹立たしい。 「みっちゃんよ、今日は別嬪《べつぴん》じゃのう」 「何言よん。うちはいつでも別嬪じゃろが」  俯《うつむ》いたまま、モトは一瞥《いちべつ》もしてやらない。そのみち子という娘は、大変に淫蕩《いんとう》な娘なのだ。もともと夜這《よば》いは盛んな集落だが、それでも誰かれ構わずという女は少ない。みち子は正に誰かれ構わずの一人なのだという。  街の女を思わせる、目鼻の大きくはっきりした顔立ちだった。体付きも豊満で笑い声も大きく、どこにいてもよく目立つ。本人もそれを充分わかっている目立ちたがりで、座の中心は自分でなければすぐに不機嫌になるといった気性も持ち合わせていた。  そのみち子も、「肺病」と恐れられる辰男だけは断ったらしいが、最近は息子の恵一までが手を出したらしい。  泰蔵も何度かはあるようだが、みち子の方も泰蔵には執着していない。だが恵一にはかなり執拗《しつよう》に関係を続けるよう望んでいるらしいのだ。  糸井の政雄とも、みち子が原因で大喧嘩《おおげんか》になったことがあり、泰蔵はさすがにあの娘はほどほどにしとけと注意をしたようだが、聞き入れてはくれない。 「虫女」  モトは呟《つぶや》く。勝手にモトが付けた、みち子のあだ名だ。あれは嫌な虫だ。虫|祈祷《きとう》であの森に、いや、いっそ異境に捨ててきたい。  腰を伸ばして仰げば、みち子が背後に従えるかのようなあの森は、黒々と重い染みだ。いかがわしい神様など、気にも留めていないといった冷ややかな風情だ。  そもそもモトは、開祖を名乗る男が気味悪くてたまらないのだ。萎《しな》びた小男なのに、頭ばかりがやけに大きい。その団栗《どんぐり》めいた目も濁って気味悪い。いつか難癖つけて、金でも強請《ゆす》りに来るのではと、モトは気を揉《も》んでいる。娘とそっくりな騒々しさと図々《ずうずう》しさと顔形を持ちながら、絶えず目の前の人間を小狡《こずる》く値踏みしている女房の方も汚らわしい。  何より、あの娘。余所者の引け目から、村の男を脅したという話は今のところ聞かないが、だからといって油断はできない。 「虫女の父親は、虫男じゃ」  モトは嫌な嫌な記憶を手繰り、植えたばかりの苗を踏み躙《にじ》りたい衝動に駆られる。あの男にいつぞや、胸をはだけて手拭《てぬぐ》いで身体を拭《ふ》いている所を覗《のぞ》かれてしまった。モトはあの時の嫌な目線が忘れられない。その時|腸《はらわた》までを腐らされた気がしたのだ。  縁側の真ん中に座っていたモトは咄嗟《とつさ》に身も隠せず怒鳴ることもできず、慌てて着物の前を合わせて縮こまった。するとあの男は、下品な笑いとともにこう言ったのだ。 「ええ身体をしとんのに、旦那《だんな》には構うてもらえんのんかい」  あの時モトは、真剣に殺意を抱いた。思い返してまたその殺意が蘇《よみがえ》る。いや、あの時自分は殺されたとも思う。この強い目眩《めまい》は炎天のためばかりではない。 「おう、みっちゃんも手伝いをしてくれんか」  泰蔵が白々しく声をかければ、みち子もわざとらしく裾《すそ》を捲《ま》くって田圃《たんぼ》に入る真似だけをしてみせる。ふいにモトの瞼《まぶた》に、虫祈祷の行列が蘇った。夕闇の中、異形の群れと藁《わら》人形がこちらを向いたと見たのは、もちろん錯覚だろう。モトはその夜、久しぶりに父の夢を見た。夥しい虫にたかられ、それでも父は静かに揺れているだけだった。  肌に痒《かゆ》い斑点《はんてん》を見つけると、モトは戦慄《せんりつ》する。瞬時に熱が上がる。だが、どんなに蚊遣火《かやりび》を焚《た》こうが蚊帳《かや》を吊《つ》るそうが、農村にいてこの季節に虫に食われずに済むことはありえないのだった。  三日にわたって微熱が続いたある日の午後、モトは怯《おび》えながら村でただ一軒の診療所に出かけた。軒の低い診療所の板壁は、降りしきる蝉《せみ》時雨《しぐれ》の中で乾き切っていた。 「さっきまで辰男が来とったで」  なぜか老医者はモトにそう告げた。硬い診療台に寝かされ、モトはまた熱を意識する。 「ありゃあ、肺というよりゃあ怠け病じゃけん」  微熱は性欲を昂進《こうしん》させる。昨夜の雑誌で読んだのか。それを老医者に尋ねることはできない。彼の性欲がひたひたと身に迫る。開け放した窓から、きつい花の匂いがした。  辺鄙《へんぴ》な田舎の黄昏《たそがれ》どきの道は、本当に暗い。侘《わび》しい外灯が蛍よりも頼りなく点《とも》っているきりだった。皺《しわ》だらけの老医師の指で触診された肌はどこか冷えている。森の木々は恐ろしく膨れあがり、天より遥《はる》かに黒かった。しかも、懸かる月は不吉な二日月ではないか。 「ちょい、奥さんよ」  診療所の帰り道で、モトは金中の婆さんに声をかけられた。危うく悲鳴をあげそうになった。婆さんが、腐った藁人形に見えたのだ。  慌てて会釈をする。この婆さんは、割に気やすく声をかけてくれるが、とにかく人の悪口や噂話が好きなのだ。その癖変に信心深く口煩《くちうる》さいとあって、とかく鬱陶《うつとう》しい。  モトも何かの言葉を思いもよらないふうに捻《ね》じ曲げられ吹聴されたことが幾度かあり、警戒するようになっていた。泰蔵や恵一も、色々と言い触らされている。中には当のモトでさえ知らない話まであった。 「はあ、なんじゃろか」  はあはあ、と曖昧《あいまい》にうなずくのが一番だ。 「今年の夏は特別に『眠り病』が流行《はや》るらしいで」  今年の夏、眠り病はあんたが流行らせるらしいで。  そう聞こえて、モトは息を呑《の》んだ。懐中電灯を落としかける。ざわつく苗が病人の産毛のように震えていた。金中の婆の窪《くぼ》んだ眼が、どんよりと澱《よど》んでいる。 「蚊がビールスを運んでいる」という噂は、このような僻地《へきち》でも皆が知っていた。森に唸《うな》る藪蚊《やぶか》は、いつにも増して恐ろしい。だが、大雑把な性質の泰蔵は気にもしていない。モトは毎晩神経質に蚊帳を吊り、蚊取り線香を焚いていた。  敵がはっきりとわかる戦地の敵兵と、形の見えないビールスとやらはどちらが手強《てごわ》いのだろう。自分の行く末と我が子の将来と夫の老後は、どれが一番不幸なのだろう。  しかし金中の婆とは、そのような話はできない。 「きょうてえのう」 「やよひちゃんは特に気をつけんとなあ。そろそろ子供もできるじゃろうし」  金中の、気弱な婿の顔が浮かぶ。善良で穏やかな青年だが、その美点はこの村では小馬鹿にされる。不憫《ふびん》な。と、モトは呟く。聞こえぬ金中の婆は、ひとしきり婿と娘の自慢をした後、 「奥さんは、どねんしたんじゃ」  取って付けたように顔を覗《のぞ》きこんできた。 「……腰が痛うてなあ」  微熱があるなどと教えれば、肺病かもしれんの眠り病かもしれんのと言い触らされるだろうから、そう答えておいた。金中の婆が何か答えようとした時、 「虫にゃあ、気をつけえよ」  近くを例の拝み屋一家が通りかかった。悪い虫や嫌な虫をまとわりつかせ、生臭い風とともにやってきた。モトは瞬時に熱が上がり、肌が粟立《あわだ》った。  どこの家の誰を騙《だま》しに行くのか救いに行くのか知らないが、暗い中では母親と娘はそっくりだった。男が二人の妻を従えているような感じだ。風がねばっこい。白粉《おしろい》の匂いはどちらからなのだろう。 「眠り病か」  嫌らしい男の声。金中の婆もこの男は嫌いなようで、返事もしない。モトは曖昧に、誰にともつかない格好で会釈だけした。 「我がさむはらの神さんに祈るがええ」  嫌らしい女の声。これは女房の方だ。隙間の多い歯が剥《む》き出される。 「虫にも、効くで」  しどけない浴衣《ゆかた》姿のみち子は、確かに男達の目を引くだろう。夜目にも唇が赤い。熟れた白桃の匂いまで漂ってくる。その三人が行き過ぎた後、金中の婆は吐き捨てた。 「虫がつくんは、あの娘にじゃろう」  丁重すぎるほどのお辞儀をしてから、モトは金中の婆を残して帰り道をたどった。森の前を通り過ぎる時、ふと腐った藁の匂いを嗅《か》いだ。虫祈祷に使って捨てた藁人形はもう朽ちているだろうが、悪い虫は本当にあの森で死に絶えたのだろうか。  ……眠り病の蔓延《まんえん》と、戦争の激化と。悪いものは勇敢な兵士のように突撃してきたりはしない。父にまとわりついていた毒虫のように、隠微に蠢《うごめ》きまとわりついてくる。忌まわしいものはいつもそうだ。  相も変わらず、泰蔵と恵一は遊び歩く。家には小作人や手伝いの者が常にいるが、モトは陰鬱な場所に独り取り残される思いを抱く。誰にも見付けられずに朽ち果て腐敗し虫にたかられている自分を想像し、刹那《せつな》身動きとれなくなる時がある。  そんな時は周りの者が怯えの色を表すほど、除虫菊を焚き薬剤を撒《ま》き散らす。長年の煮炊きの煙に燻《いぶ》された巨木の梁《はり》は、今や除虫菊の匂いの方が勝っていた。  辰男の噂もますますひどくなっていた。どこそこの婆さんまで襲ったの、亭主が隣に寝ているのに夜這《よば》いをかけてきたの、自分の婆さんに怪しげな薬を飲ませて殺そうとしたらしい、などというとんでもないものまであった。  その辰男の祖母にも、ある日偶然出会ったことがあった。帽子で顔を隠して、古風なマントを羽織った辰男の姿がちょくちょく見かけられると噂になった頃だ。 「辰男が徴兵に落ちたんは、もう噂になっとるかのう」  いきなりそんなふうに聞かれて、モトは口籠《くちご》もった。 「いんにゃ。うちは知らんかったよ」  辰男の祖母は藁人形よりも軽く小さくなっていた。 「わしが悪かったんじゃ」  陽の落ちた小道に、イヨは吸い込まれていくようだ。モトは怯える。 「賢かったのにのぅ、心配で中学によう行かさんかったけん。学校さえ行かしとったら今頃は、ええようにいっとるのに」  何々さえしとったら、今頃ええようになっとったのに。この考え方と言い回しは、モトは極力しないよう努めてきた。それは娘の頃からだ。もし父があの中学に赴任しなかったら。もしあの代用教員の女が別の学校に行くか他に縁付いていたら。詮《せん》ない堂々巡りの後で、いややはりどうしたって最後には虫に集まられて腐るのだという結末に落ち着く。 「さや子ちゃんは、ええように暮らしとるんじゃろうが」  モトは話を逸《そ》らせようとした。自分の頭の中の虫をも追い払いたかった。さや子の方は嫁いでまだ間がない。思わずイヨの手を取ってしまう。乾ききった小さな手だった。 「きれいな花嫁さんじゃった。さぞかし婿殿にも可愛がられとるじゃろう」  辰男の祖母はようやく、泣き笑いの表情を浮かべた。手を握り返してくる。 「さや子も、辰男だけが心配なようじゃ。辰男はのう、先生にも役人にもなれんなら、小説家になりたい言うてな」  辰男は天井裏に小さく狭い部屋をこしらえ、日がなそこで書き物をしているという。 「それ、できたら読まして欲しいわぁ」  思わず、華やいだ声が出た。村人には当たり障りのない社交辞令しか口にしないよう努めてきたモトなのに、それは本心からの言葉だった。イヨは少しだけ嬉《うれ》しそうに笑った。 「辰っちゃんは小さい頃は、ほんまに賢い可愛い子じゃった」  そう慰めながら、それはうちの恵一もおんなじじゃ、と呟《つぶや》く。その呟きは、辰男の祖母には届かなかったようだ。二人は並んで、なんとはなしに空を仰ぐ。もう月はなかった。  そろそろと盆市が近付く。時局柄あまり派手なことはできないが、それでも皆は楽しみにしている。こういう時に仕切るのが好きな泰蔵と恵一は連日出ずっぱりだ。  モトは腰が痛いのを表向きの理由に、家にいようと決めている。大体、モトが出ていかずとも、陰口は叩《たた》かれない。何よりモトは虫が怖かった。  病院に形ばかりの診察を受けに行った帰り、糸井の主人に行き合った。噂では、神経を病んでいるとのことだ。異様に痩《こ》けた頬に不精髭《ぶしようひげ》が伸びていて、目に生気がない。  モトは一瞬|怯《ひる》んだが、仁平は大人しかった。尋常でない感じもあったが、弱い微笑まで浮かべてくれた。そうだ、この男はあの辰男の叔父《おじ》なのだった。面影も少しはある。  従兄にあたる政雄は恵一を苛《いじ》めたこともあり、あまり可愛いとは思わない子だったが、この男は元は真面目な大人しい男であった。 「あの医者は、なんでも診るのう」  肩に担いだ鍬《くわ》を下ろして、唐突に話しかけてきた。声は意外にしっかりしていた。 「肺病も、腰痛も、気違いも」  気違いとは誰を指しているのだろう。自分のことか。モトは仕方なく、曖昧な笑みだけを浮かべた。うかつに、そうじゃなぁなどと相槌《あいづち》は打てない。 「しゃあけど、どれも治せん」  耳の形が辰男にそっくりなことに気付き、モトは不思議に思った。辰男の耳などそんなに気をつけて見た覚えなどない。  鍬を担ぎ、すでに仁平は背を向けていた。銃声が近くで聞こえた。森の中だ。猟師か。いや、演習か。いずれにしても、その音は啼《な》き声のようにこだました。  モトは森の入り口で、花を摘んだ。女郎花《おみなえし》、桔梗《ききよう》はボニバナ、盆の花と教わってきた。祖先の依代《よりしろ》、仏様にはご馳走《ちそう》なのだとされるが、彼岸にこれらの花はないのか。モトは蚊を恐れながら花を摘む。今は地獄よりも死後よりも虫が怖い。  集落の中心地、火の見|櫓《やぐら》のある広場で盆市は立つ。地味にと抑えても浮き立つものだが、モトだけが憂鬱《ゆううつ》だ。嘘だったはずの腰痛も実際に出た。泰蔵はそんなモトに気遣いどころか舌打ちまでする。 「婆あ、何をごろごろしとるんじゃ。盆市に出るだけは出えや」  結局盆市に行ったモトは、蒲《がま》で編んだセゴと呼ばれる背負い籠《かご》を背負い、供え物や蝋燭《ろうそく》、線香を買う。死者がさりげなく交じっていても誰も気づかない雰囲気と賑《にぎ》わいだった。屋外には石で竈《かまど》をこしらえ、娘達が南瓜《かぼちや》や干瓢《かんぴよう》などを持ってきて、手分けして五目飯を炊く。  青年団の者達は、茣蓙《ござ》を敷いて水棚の飾り付けをしている。酒も出ている。娘達の品定めもしているのだ。竹を四本立てて縄を巻き付ける。これは無縁仏、つまり祀《まつ》ってもらえない死者を祀るのだ。  森に向けて立てる。森の向こうには墓地がある。この集落は元をたどれば皆|縁戚《えんせき》で、無縁仏の墓などないのだが、それでも祀る。  モトはいつのまにか辰男を捜している。いない。恵一は赤い顔をしている。その隣にみち子がいた。モトは腹の底が熱くなる。うちの息子にたかる虫だと、叩《たた》き潰《つぶ》したくなる。  藁《わら》人形を抱く息子の幻影が揺れる。いつのまにか泰蔵が来ていて、息子に話しかけるふりをしながら盛んにみち子に手をかけようとしている。あの手はいつか、橋の上で支えてくれた手なのに。モトは盆花を投げ付けたいのを堪《こら》えた。  森に、蚊が激しく群れているのがわかった。唸《うな》るような羽音が、まるで森の啼く声のようであった。その啼く声は、モトの身内からも沸き上がってくる。不吉な音だ。ぶら下がって腐っていた父の姿の記憶は僅《わず》かずつでも薄らいでいくのに、虫の羽音や蠢く様は年々激しくなっていく。耳朶《じだ》に直接響く。 「やめてえな。聞こえる。嫌らしい音じゃ」  それは無縁仏が水棚に向かう、哀れな音にも重なった。 「あれ、さや子は里帰りか」  背後で誰かがそう言うのが聞こえた。腰をかばいながら伸び上がってみれば、向こうに辰男とその姉のさや子が見えた。二人は姉弟なのに、恋仲にある男女のようだった。その様子は何かの古風な挿し絵に似ていた。 「別嬪《べつぴん》になっとるが」  ふいに耳に飛び込んできた、背後の含み笑いは誰だ。モトは立ち尽くす。ふと息子の恵一の声がした。盆の花を抱いて、後ろには石野のみち子を従えて歩いてきたのだ。  自分が派手ということを知り、男の目を引くことを意識しているみち子を、モトは嫌いでならない。騒々しく、常に主役の座にいなければ気の済まない軽薄な女。なぜそんな女がいいと、恵一に舌打ちした時だ。  その二人の前に突然辰男が割って入り、立ちふさがったのだ。しかし恵一は如何《いか》にも小馬鹿にした調子で、軽く辰男に何か言っただけで押し退《の》けて進んでいった。 「またなぁ、辰っちゃん」  嘲《せせ》ら笑うみち子は、大仰に手を振った。この女はそこにいた皆の注視を集めたことで、はしゃいでいるのだ。さや子が背後から、暗い目をした辰男の着物の袖《そで》を掴《つか》んでいた。  そのまま辰男はぎらぎらとした眼差《まなざ》しで、恵一とみち子の方を睨《にら》んでいた。自分もあんな目をしているのではないか、とモトはよろめく。  息子は母親も無視し、みち子と森の方に抜け出していった。その女について行くな、という代わりに漏れたのは、 「その森に行ったら、いけん」  という言葉だった。悪い虫に食われる。父親のように若くてきれいというだけの詰まらぬ女に騙《だま》されて、荒縄で首を絞められることになる。そうして蟻《あり》や百足《むかで》や蜘蛛《くも》や蜂に這《は》い回られ、刺され、齧《かじ》られていく。  自分も腰から食われてぼろぼろだ。モトは食い荒らされた身体の中を、風が通り抜ける音を聞いた。力の抜けた手から盆花が落ちて、散らばった。  その翌日、体中が痒《かゆ》いという息子にも塗り薬を貰《もら》うため、モトは診療所に行った。別に発熱などはしていないが、胸がざわついた。みち子が憎かった。夫と息子を拐《かどわ》かし、辰男を冷たくあしらっている。自分はどの男にも相手にされぬというのに。  あんな嬌声《きようせい》はどうすれば出るのか。男はすべて言いなりにできるという自信は、どうやったら得られるのか。そこまで考え、モトは恐ろしい蚊の羽の音を聞いた。こんなに軽蔑《けいべつ》しているのに、実は自分はみち子になりたいのではないか。 「さや子が色っぽうなっとるのに驚いたのう」  老医者はそんなふうに洩《も》らした。モトは素知らぬ顔で、さりげなくみち子の名前を出してみた。ところが老医者は無造作に薬袋に軟膏《なんこう》を入れながら、鼻で笑った。 「派手に振る舞うとるが、あのオナゴは本来はしんねりむっつりじゃ。よう観察してみんさい。きょときょと、人の顔色ばあ窺《うかご》うとる。母親とおんなじじゃ」  帰り道、モトは森に向かった。いや、森ではなくその前にある石野の家に向かったのだった。茅葺《かやぶ》きの傾きかけた家からは、葬式でもないのに年中線香と菊の香がする。  ここは一応、さむはら教の社となっている。いかがわしいのは教祖だけで、さむはらの神は清らかなのかもしれない。 「もしもし、おられるんかな」  みち子は派手な縞柄《しまがら》の着物姿で、その家から出てきた。こんなにあっさりと出てくるとは予想せず、モトは戸惑った。  それは、みち子の方もそうらしかった。粗末な草履をつっかけた足は、しかし農作業をしないために街の女のように白く滑らかだ。嫌な女ではあるが、色香があることは間違いなかった。自分がそれに遥《はる》かに及ばぬこともだ。 「あれまあ、珍しい。砂子の奥さんじゃが」  自分はこんな女になりたかったのか。ふと、モトは思い、慌てて打ち消す。だが、夫は自分がこの女なら可愛がってくれるだろう。  日暮れてきても、蝉の声は降り注ぐ。この庭に立っているだけで悪い蚊が寄ってきそうで、モトは浮き足立つ。早く済ませて、この場を立ち去らなければ。 「いや、ちょっとお願いがあってな」  精一杯、愛想《あいそ》をする。自分は旧家の奥様で目の前の女は得体の知れない流れ者だ。それでも女の格付けは若さと容貌《ようぼう》に負うところが大きい。モトはそれを思い知らされていた。 「お願いて、うちにか?」 「そうじゃ。みち子さんにじゃ」 「奥さんは、うちらのことを嫌いなんじゃろかと思よったで」  あけすけに、みち子は笑った。桃色の歯茎が濡《ぬ》れている。 「そんなことは、ありゃあせん。なんでそんなん思うんじゃ」 「うちは、小《こ》んまい頃から何もせんのに、女に憎まれたり嫌われたりしたんじゃ」  何もせんのに? 嘘じゃ、あんたは意地の悪いことを女にしたり言うたりしとるんよ。モトは口には出さずに吐き捨てる。 「代わりに、何もせんでも男にゃあ寄ってこられたけどなぁ」  それも嘘じゃ。あんたは全身全霊で男を誘うとるがな。しかし目の前のみち子はそんな意地悪な観察をするモトに対しても、気を逸《そ》らさぬ可愛らしさと愛想の良さを振る舞う。それもまた自分にはできぬことだと、モトはまた敗北感に打ち拉《ひし》がれる。 「まあ、入りんさい」  社とは名ばかりの、漬物小屋を改造した掘っ立て小屋に招かれた。灯《あか》りは何もない。適当な寄せ集めの祭具があり、筵《むしろ》に近い畳を敷き詰めて、一応は座敷の体をなしている。戸を開けておかねば真っ暗だ。  みち子は面と向かって喋《しやべ》ってみれば、それほど悪どい感じは受けなかったが、モトには虫|祈祷《きとう》の藁人形にしか映らない。父と死んだ女もきっとこんな女だったはずだ。  そうじゃ、これに悪い虫をつけて捨てりゃあええ。  モトは密《ひそ》かに胸の内に呟《つぶや》く。眠り病を運ぶ蚊も、稲を食う恙虫《つつがむし》も、自分に巣食う悪い男の虫も、いまだに父を食らう蛆虫《うじむし》も。おまえが虫を連れてあの森に捨てられればよい。 「あんたも知っとろうが」  モトは、それこそ熱に浮かされたように切り出した。座ったまま、にじり寄る。 「わたしには息子がおる」  みち子は素知らぬ顔で、嘲ら笑った。だらしなく投げ出した腿《もも》がのぞく。白い。虫でなくとも、あそこに止まりたい血を吸いたいと狙うだろう。 「はあ、そうじゃったな」 「実はもう一人おったんよ」  モトは裏手の森を指す。みち子の顔に微《かす》かな怯《おび》えが走る。モトの指先は震えた。水子が来たかのように、指先がたわんだ。 「樹の下に、水子になった息子を葬ってある」  モトは物語を朗読するように続けた。何度も口の中で練習したので、滑らかな口調だ。 「ほんまなら、恵一の兄になっとったはずじゃ」  それは違法な堕胎であった。子|堕《お》ろし婆の冷たい手の感触だけが太股《ふともも》に残っている。死んだ胎児の姿も何も覚えていないというのに。  埋めたのも、その婆さんだった。無論、とうにその婆さんは死んでいる。知るものは自分と泰蔵と、森に眠る水子だけだ。あの日もきっと二日月だったろう。 「うちのお父さんを誘うて、一緒に拝んでやってえな」  泰蔵は、すでにそんな者のことは忘れ去っている。吹出物を潰したくらいにしか感じてはいなかった。モトは流れる額の汗を手で拭《ぬぐ》い、微笑してみせる。 「この頃あの森から、水子の息子が啼《な》く声がするんよ」  耳たぶに、形にならぬ赤子の泣き声を感じる。あの森に、違法な堕胎で葬られた水子が大勢いることは公然の秘密だ。誰もが知っている。いや、この村にいる者なら、必ずやあの森に生まれてこなかった子、永遠に年下の兄や姉や従兄といった者を眠らせている。  啼き声は誰の耳にも届く。それぞれが違う声を聞く。 「そいでもうちのお父っつぁんは、気のせいじゃと行ってくれん」  大仰な音を立て、蛾が障子に当たった。何かの化身のような蛾だった。目玉に似た羽根の紋様が禍々《まがまが》しい。あれは父にもまとわりついていた。  床の間の白い花が目に染みる。死者を隠して山奥の夏の宵は深く美しい。この女もまた悪さを隠して可憐《かれん》だ。いや、自分もまた、夜叉《やしや》を隠しながら優しげな声を出す。最も隠しているのはあの森だ。村の秘密を、汚穢《おわい》を隠し通して繁るのだ。 「あんたが誘うたら、きっと行ってくれるじゃろ」  みち子は、雛鳥《ひなどり》のように可憐な声で笑った。今は私の方が悪い女じゃわ。モトは奇妙な快感を覚え、前金まで払った。森から飛んできた藪蚊《やぶか》が、細い羽音を立てた。 「いやな声じゃ」  みち子はその包みを懐にねじ込んだ。外に出たモトは、森の向こうの空を拝んだ。  翌日、モトはわざと恵一に金を与えて岡山市まで遊びに出させた。また入れ揚げている女がいるらしいが、それは後でまた悩めばいい。 「なんぞお母は悪いことを企《たくら》んどるんか」  機嫌よく軽口を叩《たた》いた息子に、モトは引きつれた笑顔を向けた。 「おんねもり さんねもり……」  恵一はあの歌を歌いながら出ていった。  新聞には支那での戦局と同じくらいの大きさで、日本脳炎の記事が出ている。藪蚊には気をつけよ、と。ああ、気をつけにゃあな。モトは丁寧に新聞を畳んだ。  もうじきみち子は泰蔵と森の中で二人きりになる。何度かは逢引《あいび》きをした二人でも、森の中は初めてだろう。モトは昨夜、大量の藪蚊が発生したのを見届けていた。必ずや泰蔵は、そこでみち子に手を出すはずだ。 「おんねもり さんねもり……」  モトは一人で藁人形をこしらえた。釘など打たぬ。サネモリ様なのだ。さむはら様が何者かは知らぬが、モトはこの時ばかりはこちらを信じる。  高台に建つ邸の縁側から森を見下ろした。派手な縞柄《しまがら》の着物は映える。手を引く夫に、モトは胃の腑《ふ》が重くなった。あの手はどうしてそんな女の手を包んでいるのか。夏にしては冷えた風が吹きつける。今宵《こよい》浮かぶ月は眉のような二日月ではなく鎌のような三日月だ。  泰蔵とみち子が森に入るのを見届けて、モトは下駄《げた》をつっかけ外に出た。森はざわざわと、二人を歓迎するようにざわめいた。そういえば、と古い記憶が唐突に蘇《よみがえ》る。  いつだったか、辰男の母親があの森に男と入っていくのをモトは見た。あれは亭主の藤吉ではなかった。  では、それは誰だったのか。村の男には違いないのに、どうしても思い出せない。あの女もやはり、どこか得体が知れなかった。儚《はかな》げでありながら、太い感じもする女だった。辰男がそっくりになってきている。  何はともあれ、モトは外に出る。別に手を下して二人を殺す訳でもなければ、モトがどこにいても誰に咎《とが》められることもないのだが、森の見えない所に行きたかった。  出ていく前に、庭の焚火《たきび》に藁人形を放りこんだ。あっけなく燃えつきた人形は、死人の匂いを噴き上げた。  そうして道端で、モトは珍しい人に会った。糸井の辰男だ。開襟シャツは目に染みる白さだ。頭は丸刈りだが、脆弱《ぜいじやく》な風貌だ。  通信教育を受けているの、専修学校に通いはじめたのという噂もあった。そうじゃわ、あんたはこんな村で百姓するより岡山に出て勤めをした方がええ、咄嗟《とつさ》にそう口をついて出そうになる。  夕闇の中で透き通るような肌の色をしていた。本来は不吉な病の肌の色なのに、それは美しいものとしてモトの目には映った。 「奥さんよ」  その辰男のほうから声をかけてきたのだ。滅多にないことだ。いや、初めてだろうか。幼い頃の辰男と重ね合わせようとしてみる。 「いや、びっくりしたがん。辰男さんか」  声が裏返った。悪事を見透かされたと感じた。向かい合った辰男のぎらつく目は、森にいる獣を思わせた。目の前の男は今も、自分をきれいだと思ってくれるか。 「みち子を見んかったかな」  モトは背筋が寒くなる。村中の女の尻《しり》を追い回していると陰口を叩《たた》かれているのは、あながち大げさな作り話ではなかったか。  そのみち子は今頃、自分の夫と、とは教えられない。 「……ありゃあ、ようない女じゃで」  ようやくそれだけ言うと、辰男はにやりと笑った。 「奥さんもじゃろうが」  モトは思わず顔を手で覆う。そしてその手を離した時、もう辰男は背を向けていた。埃《ほこり》っぽい土の道は生暖かく、夥《おびただ》しい虫の死骸《しがい》が落ちていた。 「奥さんはきれいじゃと、もう言うてくれんのじゃな」  あんたももう、村で一番の秀才で将来が楽しみで、と言うてもらえんようにな。モトはその場に立ち尽くしたまま、辰男の背中が闇に溶けるまで見送った。その向こうに白い着物の女がいたと思ったのは、やはり錯覚だろう——。  モトは家に帰るとさっそく除虫菊を焚き、急いで寝間に蚊帳《かや》を吊《つ》った。寝室の天井は割り竹を並べただけだ。そこに黒く何かの虫が蠢《うごめ》いている。百足だ。モトは小さな悲鳴をあげて壁に立て掛けてあった箒《ほうき》を取り、叩き落とした。廊下に掃き出して、箒の柄で嫌らしい毒虫の頭を叩き潰《つぶ》す。死骸を土間に捨てようと箒を動かした時、戸口が開いた。 「おい婆あ、薬はないんか」  囲炉裏端に上がるなり、泰蔵は上半身を脱いだ。こうして見ると恰幅《かつぷく》がよかった夫も年を取った。暗い部屋の中で、囲炉裏の火だけに照らされる身体は皺《しわ》と衰えを暴きだす。 「どうしたん、そねえに食われて」  自分の優しい声にぞっとする。瞼《まぶた》に刃物めいた月の影が映る。 「いや、竹を切ろうとしてな、藪蚊に散々食われた」 「眠り病にかからんとええなあ」  だから、わざと冷ややかに言い捨ててみる。 「阿呆《あほ》。そねえなもんになるか」 「ほれ、薬じゃ。塗ったげるけん、こっち向いてみ」  泰蔵は大人しく言いなりに背中を向けた。夫の肌に直に触るのは何年ぶりか。案外、これは自分の思いのままになる存在ではないか。モトは残酷なのか慈悲なのかわからない思いに浸る。久しぶりの肌は、懐かしい匂いがした。 「……さっき、糸井の辰男に会うたわ」  無論、泰蔵はさっきみち子に会うたわ、とは答えない。 「遼陽でも、虫にゃあ苦しめられた」  泥沼、暗い森、痩《や》せた土と汚れた人間とざらつく風と。遼陽とこの村はよう似とる。うっとりと目を閉じ、薬を塗ってもらいながら泰蔵は呟《つぶや》く。そういえば母も父にこうしていた。あの時の母は優しく、あの時の父の背は滑らかだった。  しかし密《ひそ》かに自分が虐《いじ》めておきながら、可哀相可哀相と撫《な》でさすることの、なんという心地よさ。耳元を蚊が掠《かす》めていった。泰蔵の血もモトの血も吸わず、森から来て森に帰っていく。蚊は死者の血は吸わないのだ。  モトの思い通り、泰蔵だけでなく、みち子は森の中でさんざん蚊に刺された。診療所に薬をもらいに来るみち子とすれ違ったのだ。  顔にまで赤いものが散っていたが、それでも小憎らしく愛らしく、ぴんぴんしている。潜伏期間とやらはどれぐらいだったかと、モトはぼんやり考える。 「悪い虫にやられてなあ」  みち子の赤い唇から、犬歯が覗《のぞ》いた。蚊などよりよほど沢山の男から沢山の血を吸えそうだ。うちのお父もじゃ、と言いかけてモトはやめた。  泰蔵は翌々日、高熱を出した。思い通りになりすぎた。それはそれで空恐ろしい。今までが思い通りにならないことばかりだったから、些細《ささい》なことでも叶《かな》えば空恐ろしい。  モトは恐れるあまり、殊更夫に親切にした。贖罪《しよくざい》になるかはわからぬが、寝ずに看病をした。自分で自分の看病をしているようだった。  泰蔵は時折、寝言とも譫言《うわごと》ともつかない言葉を口にする。 「息子が来とる。恵一じゃねえ。上の方のじゃ」  埋めた胎児の血を吸う蚊がいるとは思えぬし、その蚊が今まで生きていることもありえない。モトは転がるように外に飛び出し、診療所に駆けていった。 「往診に来てもらえんじゃろか」  よほど青ざめていたらしい。老いた医者は微苦笑した。 「蚊に食われたからいうて、即それが眠り病にやこう、なりゃあせん」  それでも医者は、この後で行くと約束してくれた。わんわんと、蚊がモトの頭にまとわりつく。慌てて振り払おうとして、医者に妙な顔をされた。その羽音は、モトの頭の中だけで鳴っていたらしい。  遠くにみち子が見えた。さっさと歩いていくその姿に、悔しい気持ちと安堵《あんど》が半々だ。誰かに打ち明けたい衝動に駆られた。なぜか辰男が浮かぶ。探偵小説を読み返してみなくては。自分が行なったことは罪になるのか。  医者は日が暮れてから来てくれた。擦り切れた鞄《かばん》を枕元に置き、脈をとっている。蝉はまだ盛んに鳴いていた。開け放した戸口から、生温《なまぬる》い風が入ってくる。途方に暮れた顔で団扇《うちわ》を使いながら、モトは医者をも扇《あお》ぐ。 「まだ、脳炎とは言えんな」  泰蔵はぼんやりと暗い天井を見上げている。赤ん坊はよく何もない一点を凝視していることがあるが、泰蔵の目はそれを思い出させた。何を見とるん? 赤ん坊の恵一には、愛しげにそう話しかけたものだ。  だが、今の泰蔵にその質問をするのは怖い。答えられるのが怖い。 「岡山の大学病院に行った方がええかもしれん」  銀の針が泰蔵の腕に刺さるのを、モトはじっと見つめた。蚊の食い痕《あと》が痛々しい。 「いや、婆あの看病の方がええ」  モトは泰蔵のその言葉に酔った。酔いながら、献身的に看病をする。枕元で団扇を使いながら、しかし蚊帳を開けて森からまた蚊が飛んでくるように仕向けるのは何故だ。自分で自分を抑えられない。この愛らしい夫を逝かせたかった。このまま献身的な妻として。 「遼陽でわしは上官を殺してしもうた」  譫言を呟く夫に向けて、不吉な羽音が飛ぶ。その虫はきっと月から飛んでくるのだ。 「糸井に頼んで拝んで、敵に殺されたことにしてもろうた」  モトの頬にも蚊がとまり、血を吸っていた。しかしモトは微動だにしない。 「糸井はええ奴じゃ。それを恩に着せることもせんと、わしを脅すこともせんかった。それのになあ、わしは恩を仇《あだ》で返した」  モトはそっと夫の手を握る。あの時、こうして握り合うたなぁ……。 「敵に捕われた糸井を捨てて逃げたんじゃ」  幸いに、糸井は自力で逃げ出したという。しかし片足を引き摺《ず》るようになってしまったのだ。それでも泰蔵を責めはしなかった。 「済んだことじゃけん、とな」  夫は手から力を抜いた。布団に乾いた音を立てて落とす。 「糸井のお父っつぁんは、ほんまにそのことを誰にも言うてなかったと思うんかな」  モトは死人の色をした手をなぞる。糸井の萎《な》えた足もこのようであったか。泰蔵の眼差《まなざ》しに、怯《おび》えが浮かぶ。 「婆さんにゃあ、教えとったんじゃないんか。婆さんが辰男にでも話しとるかもしれんで」  泰蔵は目を瞑《つぶ》った。手が震えている。モトはそれを持ち上げ、死者の組む形に置いてやる。頭上を蚊が飛び回っていた。 「支那の森にも、蚊は仰山飛んどったなあ」  泰蔵はまだ死んでいない証拠に、目を瞑ったままそんなことを言う。モトは確かに雨に煙《けぶ》る支那の森の毒虫の羽撃《はばた》きを聞いた。そこにもきっと、あの細い月は浮かぶのだ。  見えないその虫が、モトと夫を食いにくる。モトは自分が血塗《ちまみ》れになる幻影を描いた。辰男がやってくる。毒虫を従え、血を吸いに来る。そこでモトは、はっと我に返る。 「妙な夢を見たで。なぁ、お父っつぁんよ」  泰蔵の返事はない。モトはそっと、泰蔵の手を握った。そいでも、わたしは守ってあげらあ。あんたを殺すんは、わたしでないといけんのよ。 [#改ページ]   さむはら様  月が一番美しいのは三日月だと、無理|遣《や》りに讃《たた》える者がいる。彼らはその後必ず、満月はこれから欠けていくだけの月なのだとも言う。そんなことを言う者は無論、満月にたとえられるような日々を送ったことがない者達ばかりだ。  そうして放浪をしてきた者ならば、各地の三日月の伝承が異なっている事もわかるであろう。神の強い弓であると讃える地方もあれば、浮かぶのを見ただけで不幸になると忌む地方もある。何《いず》れにしても、三日月は鎌に似ている。刃物に似ている。  背後には生温い夏の名残があるのに、伸ばした手の先には冷えた風がある。実りの季節というのに、枯れて乾いた色彩は物寂しい。  朝晩は野の花に露が宿っている。岡山が温暖だというのは、瀬戸内海に面した南の方だけを指している。この集落のある鳥取との県境の村は、北国の趣すらあった。  総《すべ》てが押し潰《つぶ》されたように軒も地平もすべてが地面にへばりつくこの景色の中、森から伸びる梢《こずえ》だけが天空を指している。  その梢を従えて紫紺の空に懸かるのは、刃物にしか見えない三日月だ。森の上空に浮かぶ月はしかし、美しい。梢に切り掛かってきそうな鎌の月だとしても、妖《あや》しい艶《つや》を湛えている。よくよく目を凝らせば欠けた丸い部分さえ淡く照っている。 「三日月をそねえに眺めとったら、気が狂《ふ》れるで」  土間にしゃがんでいたみち子は耳元で誰かに囁《ささや》かれ、振り向いた。誰もいないし、何者の姿もない。空耳か。  いいや、とみち子はその格好のまま、開けた戸口から覗《のぞ》く月を見上げた。森に棲《す》む妖かしが囁いたのだ。みち子は幼い頃から、この世ならぬ者から語りかけられることが度々あった。それは、不吉な三日月を眺めすぎた罰かもしれない。  石野みち子は、すでに底冷えのする土間で掌《てのひら》に息を吹きかけた。灯火が何もないここは夏の昼間でも薄暗い。  村中に鈍い金の波がそよぐ秋、みち子は追われた故郷を想う。今もみち子は貰《もら》った大根を樽《たる》に漬け込みながら、中空を仰いでいる。いったん干して萎《しな》びさせた大根は、弛《ゆる》んだ皮膚にそっくりだ。  みち子の親は、追われたなどとは口にしない。捨ててきたのだと強がる。 「わしの生まれた家はのう、元は大層な分限者じゃったんで」  呑気《のんき》に囲炉裏端で、煙管《きせる》に煙草を詰めているみち子の父親の悟一は、普段もたまにそんな自慢にもならない自慢をするが、 「この時分にゃあ、庭に溢《あふ》れるほど米俵が積まれとったんじゃ」  秋にはほとんどそれが口癖になった。いつも不機嫌だが従順で言いなりの母あいは、ふんふんと適当に相槌《あいづち》を打つだけだ。囲炉裏の火と、その向こうにぶら下がる裸電球の灯だけの中で、母の横顔には濃すぎる陰影が刻まれる。  母は亭主や娘に向かっても、自分のことは語らない。黙々と樽の底に並べていく大根に唐辛子を千切って振りかけながら、顔を上げもしない。 「小作人どもにそれを蔵に納めさせとったんでなあ」  どこまで父の話を信じているのか、いや、父そのものをどこまで信頼しているのか。みち子の母はまるで感情を表さないために娘にもわからない。 「米の蔵、味噌《みそ》の蔵、酒の蔵もあったのう」  ふいにみち子には、その土蔵が瞼《まぶた》の裏に映る時がある。眩《まぶ》しく白い壁の遠景は閑《のど》かな青空だ。どこの記憶なのか。間違っても父の生家ではない。みち子が物心つく頃は、すでに一家は放浪に出ていた。垢染《あかじ》みた着物にちびた下駄《げた》に、栄養不足で赤茶けた髪。常に空腹で寒かった。そんな自分をみち子は影絵のように思い描く。  あの頃から父親はすぐに母や自分を殴り、あの頃から母は卑屈に目の前の人の顔色ばかりをうかがっていた。自分はあの頃からませて色気があると、近隣の男の目を引いていた。  陰気な昭和も十二年目の秋だ。石野一家にとっては、ようよう迎えた十年目だ。こんなに長く居着いたのは、夫婦にとってもみち子にとっても初めてだ。確か、尋常科の四年生あたりからここにいるのではなかったか。 「おい、聞いとるんか。みち子よ」  自慢話で勝手に上機嫌になっておきながら、相手が望む通りの相槌を打ってくれなければたちまち不機嫌になる。みち子はそんな幼稚な父親が嫌いだった。 「ああ? うん、聞いとるよ」  素直に答えておかなければ、すぐに拳骨《げんこつ》か足が飛んでくる。その場の主役になってちやほやされなければ気の済まぬ父。そこで一番目立つ存在になれなければ猛烈に不機嫌になる父。実はその性質はしっかりと、みち子が受け継いでいた。 「わしには子守りが三人もついとってのう。大事なお坊っちゃんじゃけん、何かあったら一大事じゃと、屋敷の奥に閉じこめられとった」 「しゃあけど、その子守りにゃあ、よう遊んでもろうたんじゃろ」 「おう、相場の何倍もの子守り賃を払うとったんじゃけえ、わしの望むこたぁ、何でもやってくれたで」  本来、座の中心になるのは機嫌のいい人のはずだ。だが、悟一はほとんどそれが強迫観念となっていた。真ん中にいて、人を惹《ひ》き付けていなければ皆に見捨てられてしまうのではないかと、常に不安なのだ。  父を嫌いなのは、自分に似ているからだ。これは母に指摘された。母は反対にむっつりといつも隅にうずくまっている女だ。父に打たれすぎて歪《ゆが》んでしまったその容貌《ようぼう》と、心根と。これまたみち子は嫌いであった。  その母は必死に少ない焚《た》き付けで、風呂《ふろ》を沸かそうとしていた。その横顔は骨張ってはいるが、昔日の美貌《びぼう》の残滓《ざんし》だけはある。そうなのだ、ただ一つインチキな神様さむはら様でもよいが感謝しなければならないのは、みち子が容姿は母親に似てハイカラな顔立ちで太り肉《じし》の豊満な体付きであることと、性格は父親に似て気が強く派手好みで座持ちする話術にそこそこ長《た》けていることだ。 「おっ母。火ぃ点《つ》かんのかな」 「……もうじき、点く」  母の返事はいつも、独り言に近い。これが逆なら悲惨だった、とみち子は大根をまた叩《たた》きつける。貧相に痩《や》せこけて萎《しな》びた父に姿が似て、しんねりむっつり陰気で恨みがましい母に性格が似ていたら、この世では何一ついいことも報われることもないではないか。 「みち子に、わしの生家を拝ませてやれんのは残念じゃのう」  あからさまな嘘や見栄《みえ》には、返事をしないのが思いやりというものだろう。みち子の記憶は大正の終わりから、そして当てのない放浪から始まっていた。  それが秋だったかどうかまでは覚えていないが、度々不安な夢に出てくるのは、枯れた景色だ。すべて自分に向かってそよいでくる薄《すすき》野原だ。鋭い切っ先をこちらに向ける三日月だ。その尖《とが》った月はどんなに逃げても、追ってくる。  逃げて逃げて、最後に辿《たど》り着いたのがここだ。こんな辺鄙《へんぴ》な岡山の北の果てが、最も長く居着いた場所なのだ。みち子はそれを思うと暗澹《あんたん》たる気分になる。同じ岡山でも、せめて明るく拓《ひら》けた南の瀬戸内海側にたどり着けなかったものか。  岡山市でなら、この容貌を生かしていくらかは華やかな生活ができたはずなのに。その近郊の農家であれば、もう少し明朗で頼もしい男達に求められ、真っ当な暮らしが立てられたはずなのに。今からでも遅くはない、この地を出ていきたい。  しかし、一からまた新天地でやり直すには、三人揃って疲弊しすぎている。それに夢の土地はこの世のどこにもないと解りすぎた。今更岡山市に出ても夢はあくまでも夢でしかないだろう。考えてみればここは、疲弊した人間にとって居心地のよい処かもしれない。 「お父。風呂も沸いたで」  大根を叩きつけ、それでも無表情なまま母は言った。父は煙管を置くと、これも無言で立ち上がる。みち子はぼんやりと、抱えた膝《ひざ》に目を落とした。 「みち子よ、後でうちらは一緒に入ろうで」 「……ほんなら、薪《まき》がもうちょっと要るなぁ、おっ母」  そこでみち子は立ち上がった。薪に使う木を切ってくるのも、焚き付けるのも、母かみち子である。父は何もしない。何故なら、父は「さむはら様」の使いだからだ。  奥の座敷では、集会が始まったようだ。この集落の者が数人、近在の村からも一人か二人は来ているらしい。玄関からは入らず、森に面した納戸の方から入ったようだ。それは土間で母娘《おやこ》が風呂に入っているからばかりではない。  あの森。わざわざお森様側から入っていかせるのだ。母は泥のついた足で座敷にあがられるのを嫌がるが、はっきり口に出しはしない。お森様から入るのが重要なのだ。 「ああ、ええ塩梅《あんばい》じゃ」  湯に沈む時だけ、母は華やいだ声をあげる。みち子はそれを痛ましいものに聞く。木の桶《おけ》の風呂は、いつも棺桶を追想させる。風呂桶に木板を沈めて入る、いわゆる五《ご》右衛門《えもん》風呂は、この集落にはあまり普及していない。  いまだ、持ち運びのできる据え風呂だ。夏には庭先や川べりに持ち出し、今の季節には家の土間に置いている。 「風呂の中で死ねたら、極楽往生じゃなあ」  風呂桶の横腹に鉄釜《てつがま》を差し込み、そこで火を焚《た》く。入浴が済めば、汚れた水は木栓を抜いて捨ててしまう。据え風呂とはいえ、風呂を持ったのもこの集落に来てからが初めてだった。それまでは貰い風呂だったのだ。 「縁起でもねえ。早う出てん。うちゃあ、寒いがな」  交替し、みち子が入る。母の体臭がした。哀しい匂《にお》いだった。母は今、框《かまち》に全裸で腰掛けて手拭《てぬぐ》いで身体を拭《ふ》いている。みち子は風呂桶の中でぼんやりと遠くの秋を想った。星も雲もない孤独に白い三日月の下の自分を想った。  子供の頃から、貰い風呂をする度に男に覗《のぞ》かれていた。当初はよくわからなかった。男が覗きたがる意味も、覗かれる自分が何を発散しているかも。  初めて嫌悪を感じたのは、どこの町だったか。わざと挑発するのを覚えたのはどこの村だったか。少なくともこの村ではない。この村はまだ何もくれない。  初潮を見たのも、確か風呂場ではなかったか。あの時は怪我《けが》をしたと勘違いし、悲鳴をあげた。自分はここで死ぬのかと、倒れそうになった。あの時、自分は溺《おぼ》れていればよかったのかもしれない。  みち子は母を冷徹に眺める。母はさっきの萎《しな》びた大根にも似た体付きだ。ああなる前に樽《たる》の底に漬けこまれる前に、自分はここを出たい。みち子は暗い中でも仄《ほの》白い己れの肌を愛《いと》しみ、惜しむ。 「……こりゃっ」  寝巻の浴衣をひっかけただけの母が、突然仁王立ちになって怒鳴ったものだから、みち子は足を滑らせて湯を飲んでしまった。  咳《せ》き込みながら、身体を立て直す。 「どしたん、お母」  左手で前を押さえながら、母は右手で戸口を指した。ぴったりと閉めてあったはずなのに、三寸ばかり開いていて、白い月光が射し込んでいた。細い三日月の光にしては、煌々《こうこう》と明るいものであった。さぞかし、濃い影を映し出すだろう。 「誰かが覗きょうたんじゃ」  ちりちりと音を立てそうな鋭い月光は、確かに何者かの視線を思わせた。母は土間に降り、戸をきっちりと閉め直す。しかし閉め直したとて、結局は何にもならない。厳重な戸締まりだの施錠だの、ここらの村でそんなことをする者はいなかった。つまり、覗きなどしようと思えば幾らでもできるのだ。 「誰じゃろうか、おっ母」  風呂の縁に身を隠す格好をしながらも、みち子は戸口を向く。 「糸井の辰男に思えたがの」  みち子の問いに、母は珍しくはっきりとした口調で言い切った。 「咳き込む音が聞こえたけん」  座敷からは、少しも耳に慣れない奇怪な節回しの 詔《みことのり》 が流れてくる。みち子は少しだけ身震いをした。寒さと悦《よろこ》びのためだ。相手が誰であっても、求められるのは悦びだ。 「あねえな嫌な咳《せき》をするんは、糸井の辰男以外におらんけんな」  みち子は、森の道を咳き込みながら駆けていく、重い足音を聞いた気がした。うちの身体を想うておるんか、と口元を綻《ほころ》ばせた。  もっさりと田舎臭い姿形をしていながらも、政雄は女を口説く時はいい声を出す。誠実そうな顔つきをする。 「みち子はほんまに、可愛いのう」  暗い湿った納戸の中で、みち子は政雄にもたれかかる格好をしている。 「どこが、どねえに可愛いんじゃ」  政雄は体臭が強い。殊に酒を飲んできた日には、布団どころか納戸中に熟した匂いが残るほどだ。直《じか》に政雄のはだけた胸に鼻先をつけていると、それは自分の匂いにまでなってしまう。その最中はいいが、次の男を迎え入れる時に困惑する。 「全部が、可愛いがな」  それでも、ここまで真摯《しんし》に求めてくれるのだ。匂いくらいは愛しいと思ってやってもよい。みち子は政雄の太い二の腕を柔らかく噛《か》む。 「なぁ、早う。早う」  早う、してえな。早う、うちを違う所に連れて行ってえな。声には出さず、みち子は身をくねらせた。  みち子を一時でもこの陰鬱《いんうつ》な家や村や世界から解き放ってくれるのは、男だけだ。特定の誰彼ではない。男。男であればよいのだ。  手放しの賛辞や身も世もない求愛は男しかしてくれない。肌を求めてくれ髪を誉めてくれ、永遠ではないにしても「これからもずっとずっと」と未来まで約束してくれるのは、親でもなければ女の友達でもない。  男を待ち、男を待たせ、男のために装う。そのためだけにみち子は命を繋《つな》いでいた。自分は自惚《うぬぼ》れでなく、辺鄙な寒村には珍しい大きな目鼻立ちをしている。  こんな田舎で別嬪《べつぴん》いうてもたかが知れとるじゃろ。おおそうじゃて、よう見てみいや下品な顔立ちじゃがな。……などと他の女達は陰口を叩《たた》くが、それすら心地よい。陰口や意地悪とて、自分がその場での主役を張っていることの証明になるからだ。 「おい、みち子よ。おめえは、どの男にもそねえな甘え方をするんじゃろうが」 「しゃあなかろう。わたしゃ、まだ結婚しとらんのじゃけえ」  他の男との関係を詰《なじ》られる時も、みち子は恍惚《こうこつ》とする。たまに殴られたり突き飛ばされたりということもあるが、それすら後になって甘美な記憶に書き替えられる。 「そいでもなあ、おめえはちいっと、やりすぎじゃ」  政雄は乱暴にみち子を突き倒した。突き倒されてもみち子は笑っている。政雄も突き倒したみち子を押さえ込む時は優しいのだ。  それに同じ糸井でも、政雄は嫌な咳もしないし、余所《よそ》の家の風呂《ふろ》を覗きにも来ない。あの辰男と従兄だというが、外見には少しも似たところはなかった。辰男の方がずっと痩《や》せて色も白いが、いざという時の膂力《りよりよく》は強い気がする。女に本気の暴力を振るいそうな危ない気配も漂わせている。  だが、その辰男は来ない。来ない男を想って別の男と一緒にいる。そんな自分を淫《みだ》らだと、みち子は酔う。 「何を考えとるんじゃ」 「……政雄さんのことに、決まっとろうが」  父と母が余所の家や隣の村まで拝み手として出ていくと、どこでそれを知るのか村の男達が必ずこうして夜這《よば》いに来る。青年団の集まりで順番でも決めているのかどうか、鉢合わせすることはない。  今夜来たのは糸井の政雄だった。この政雄と砂子の恵一が、この集落では「よう遊ぶ」とされている。無論みち子は両方と遊んでいた。  見た目は恵一の方が垢抜《あかぬ》けていて、政雄はいかにも辺鄙《へんぴ》な農村の男だが、寝てみれば大差はない。振り返ってみても、みち子は誰か特定の男に逆上《のぼ》せたことはない。男はあくまでも一括《ひとくく》りの男だ。みち子にとって男は愛の対象ではない。逃避の場所なのだ。 「嘘つけや」 「ああ、痛いことはせんといて」  しかしこの性急さ。従弟《いとこ》の辰男に似ていると、これもまた醒《さ》めているみち子は考える。背後から抱き起こされ、乳房を掴《つか》まれる。 「なあ、別のことを考えようるじゃろうが」 「……子供の頃のことじゃ」  何故、正直にそう答えたのだろう。まだ吊《つ》ったままの蚊帳《かや》の中で、政雄も夏の名残を留《とど》めた肌の色をしている。夏草の匂いも籠《こ》もる。 「なんで今、そねえなことを思うんじゃ」  食い込む手が本当に痛い。喘《あえ》ぎ声になるのは苦痛のせいもあった。 「政雄さんは、どねえな子供じゃったんかなあ、と思うたからじゃ」  嘘だ。自分はどんな子供だったかを考えていた。自分が思い出せない。住んでいた、放浪していた町は思い出せるのに。  猥雑《わいざつ》な裏町もあったし、寂れた漁村もあった。港湾の街もあったし、澄まし返った城下町もあった。やたらに烏《からす》のいた村は、顔と首を真っ白に塗り立てた女達がいた街はどこにあったのか。もう二度と行くことはない、消えた町や水没した村。  おっ父ぅ、おっ母ぁ。幼いみち子はよく道に迷い、路地裏に迷い込み、二人を呼んで泣いた。そうだ、あの頃の自分は親を慕っていた。必ず探しに来てくれると信じていた。  そんな父と母は機織りの内職をしていたこともあったし、魚の行商をしていたこともあった。港湾で荷役の作業もしていたし、縁日で売るための風鈴をこしらえていたこともあった。物寂しい光景なのに、懐かしい。  本物の父と母はどこかの町に置いてきたのではないかと、ふとそんな錯覚に襲われる時もある。いや、自分自身もどこか別の場所にいるのではないのか。  幻灯機に映し出される絵のように、あの頃の父母の影絵が瞼《まぶた》に浮かぶ。あの頃は父も母も、黙々と働いていたのだ。  だから、その間に兄が二人ともやさぐれてしまい、父母は流れついた果てでいんちきな神様商売を始めたのがどういう経緯かわからない。  その兄二人はいつのまにか、行方知れずになった。大柄で陽気な兄と、痩せて大人しい兄だった。みち子はもう、二人の顔を区別できなくなっている。  二人とも、みち子は兄しゃん、と呼んでいた。一緒に山に通草《あけび》を取りに行ったのは、どっちの兄だったか。長屋の隣に住んでいた三味線弾きの後家が、男をひっぱり込むのを一緒に覗《のぞ》いたのはどちらの兄だったのか。  二人とも関西にいると、どこかで聞いた覚えはある。ともに、やくざ者になっているとも聞いた。おそらく、もう会うことは叶《かな》わないだろう。だから石野の子供といえば、この地で成人した娘みち子だけだ。  しかしみち子は、この地を故郷とするには抵抗があった。どこかで自分は都会の子なのだという自負があったのだ。  そうだ、記憶はないが生国は大阪なのだ。度重なる商売の失敗と借金から親が西日本を転々とし、岡山のこんな僻地《へきち》に流れつくことがなければ、今頃は華やかな街で美しく装っていられるだろうに。  三味線の音色、芝居小屋の呼び込み、美人カフェーの女給達の嬌声《きようせい》、幼い日の思い出にはそれらがある。ここらの者には、そんな子供時分の思い出はなかろう。ここらの子供の思い出といえば、喧《やかま》しい蝉だの侘《わび》しい蛍だの痩せた麦畑だのしかない。 「帰りてえなあ」  低く、みち子は呟《つぶや》いた。背後で忙《せわ》しなく動く政雄には、それは聞こえなかったようだ。政雄の右手はみち子の乳房を掴んだまま、左手は臍《へそ》の下に下りてきている。掻《か》き回されながら、みち子はもう一度吐息とともに呟く。 「帰りてえわあ」  どこへ、と具体的に地名は浮かばない。この陰鬱な集落でなければいいのだ。  父の悟一と母のあいは、すっかりこの陰気な村に馴染《なじ》んでいる。百姓仕事はしていなくても、同じ土色の顔と手足になっている。元からこの集落で生まれ育った者と言っても充分に通用する。  純朴な農民を口先で丸め込んでの「宗教」は、なかなかに繁盛していたからだ。何も元手がいらず、始められる商売としてはこれしかなかった。 「女は女であるだけで、商売になるがのう」  母はそうも教えてくれたが、みち子はそれを疑っている。商売というからには、儲《もう》けがなくてはならないだろう。みち子には確かに男はよく来るが、それだけだ。もたらしてくれるものは、刹那《せつな》の快楽だけだ。  金をもたらしてくれる訳ではない。それどころか、無料《ただ》でいいようにされているだけではないか。だいたい母にしても、いい目になどあってない。  もっとも、村の男に嫁に請われてもありがた迷惑だ。土色の男に抱かれて土色の子を産み、土色になって土に還《かえ》るなぞまっぴらだ。  だからか、みち子はどの男と抱き合ってもどんなことをしようとも、心底から気持ち良くなれない。いつも一点が醒めていて、その部分で男と自分を見下ろしている。政雄の息が耳にかかっても、その向こうのしゃんしゃんと鳴る鈴の音を聞いている。  板の間で誰かが、祝詞《のりと》を唱えているのだ。夜にも忍んでくる客はいるのだ。政雄はほんの少し動きを止めたが、すぐにまたみち子をまさぐり始める。 「また拝みょうるんか、おっ父とおっ母は」 「そうじゃ。さむはら様は、霊験あらたかじゃけんなぁ」  父も母も百姓仕事は嫌がるため、生活の糧は祈祷《きとう》料といったものだが、それだけでこの集落においては、並みの上といった辺りの生活は維持している。  もっとも大半が貧乏人の集落では、そんなことはちっとも自慢にならない。一番の金持ちのはずの砂子の家とて、飯の三割は雑穀だ。奥さんと呼ばれるそこの女房とて、炎天下で草刈りをしたり厳冬期には内職などしている。 「この名前は古事記から取った由緒正しいものじゃ」  父はそんな適当なことを吹聴しているが、「さむはら教」なる適当な神様を祭祀《さいし》し、時節柄「弾丸除《たまよ》けに効能あり」と宣伝したのだ。  昨年の昭和十一年、特高によって「類似宗教は禁止」と社殿を壊されるまで、近隣の村も含めて数十人の信者を得ていた。皆、意外にあっさりと宗旨変えができるものだなとみち子は妙な感慨を抱いた。  何よりも、娘が信頼していないあの二人の親を、あっさりと他人が信じたというのも不思議だった。  ふりだけをしているが、みち子はさむはら様も何も信じてはいない。母も父を心底信じてはいない。父もまた、何も信じてはいない。  戦争に勝つことだけは、皆信じている。しかし、みち子もこれだけは確信があった。この国は勝つんじゃと。この国が強いからでも正しいからでもなく、勝つことはぼんやりと透けていた。認めたくはないが、みち子には確かに得体の知れない力はあった。  毎日こっそりと参拝に現れる者は跡を絶たない。それは父悟一の口の巧さや、母あいの意外な如才なさもあったが、自分の女としての力が最も大きいはずだと、みち子は自覚している。  夜這《よば》いに来られたのも早かった。すでにその男は出征している。感慨はない。そんなふうにみち子は物心つく頃から女であり、流浪の子供だった。 「おめえはいっつも、違うことを考えようる」  立て付けの悪い木戸を、森からの風が揺すぶっていた。それに合わせるように、みち子も揺すぶられる。自分の中にも風が吹いている。寒い処を吹く、青ざめた風だった。 「いんにゃ、政雄さんのことを考えようる」 「嘘ばかしつくのう、おめえは」  みち子は仰向《あおむ》けにされ、足を抱えられた。みち子の足は白くて太い。赤い腰巻きからそれがちらちら覗けば、どの男も見惚《みと》れる。 「ほんなら政雄さんは、うちに惚《ほ》れとるか」 「……惚れとる」 「男も、嘘ばかしつくけんなぁ」  濃く脂の乗った白い腹の向こうに、必死の形相の政雄がいる。何故だかそれが可笑《おか》しくて、みち子は笑った。膝《ひざ》で立つ政雄はもう、そんなみち子には気を取られる余裕がない。上半身は布団に、下半身は政雄に委《ゆだ》ね、みち子は白い腹を震わせ続けた。  やがて事が終わり、政雄は少し白けた顔でそそくさと身仕度を済ませた。 「気ぃつけて帰ってんな。お月様も隠れとる闇夜《やみよ》じゃけん」  政雄が来た時と同じように、こそこそと闇夜に紛れて帰っていった後、みち子はしばらく気怠《けだる》い身体をそのまま投げ出していた。着物を羽織る気にもなれず、隙間風に全身を撫《な》でられる。  やがてみち子はのろのろと起き上がった。外便所に立つためだ。だらしなく着物を羽織って下駄《げた》を突っ掛けて出れば、月は森に隠れてしまっていた。 「嫌な森じゃ」  吐き捨てる。ざわざわと、触手にも似た木々のざわめきが人の囁《ささや》きにも聞こえる。ここに住み着いた時から、どうにも好きにはなれぬ景色だ。  しかしその不吉な森は、今のところ石野一家には悪い場所ではない。いつか祟《たた》るという予感はあるが、いつかはいつかだ。みち子は刹那の男の方が大事だった。  集落の者にとってその森は、畏《おそ》れと信心の対象だった。なのに、村人はちゃんとした森の恐ろしさの由来を知らない。ただ何とはなしに、昔から畏れられているというだけだ。  色々なことを言う者はいる。ここの村人すべての先祖となった落人が、余所《よそ》の地から連れてきた悪霊を封印した場所なのだとも、かつて村で大層な乱暴|狼藉《ろうぜき》を働いて皆を苦しめた男を私刑にしてここに埋めたのだとも、住み着いた山賊の一味が通り掛かりの旅人を片っ端から殺して埋めたのだとも、伝わっている。  いずれにしても、今その森は沈黙していた。悪意を隠した素知らぬ顔でだ。みち子は森の一番高い木の梢《こずえ》を凝視する。その瞳《ひとみ》には何も映らない。隠れた月はどんな形をしているのか、闇が森が深すぎてわからなかった。 「なぁ、おるんかな。みっちゃんよ」  石野の家の納戸は、森に呑み込まれそうだ。障子戸に枝葉は触れ、突き破りそうに伸びてきている。剪定《せんてい》など無駄だ。特にこの季節は伸び放題だ。  その障子戸を叩《たた》く手があった。田畑を持たぬ石野の一家は、目覚めが他の村人に比べれば四、五時間は遅い。 「おるん?」  寝呆《ねぼ》けていたみち子は最初、夜這いの男かと勘違いした。しかし外はすでに明るい。  その声が女であったため、みち子は乱暴に障子を開けた。途端にまだ熱気の残る初秋の風が流れこむ。籠《こ》もっていた政雄の匂いは、それに圧《お》された。 「ああ、あんたか。どしたん」  そこにいたのは、金中のやよひだった。背後に家来か下男のようにいつも従えている亭主の虔吉《けんきち》はいない。ふと、男の匂いがした。おそらくやよひは、この近くの森の中で男と会っていたのだ。 「公会堂に集まってん。オナゴはもう大体集まっとるよ」 「娘組の集まりは、今日じゃなかったじゃろ」  やよひもだが、森を恐れながらも村人はここで逢引《あいび》きをする。この夏、みち子も砂子の泰蔵と森の中でさんざん蚊に食われて困った。酒臭い泰蔵は蚊を呼び寄せ、みち子も全身を食われた。その後、泰蔵は寝付いたという。  幸いそれは眠り病などではなく、重い風邪で済んだ。献身的に尽くしたというあの大人しい上品ぶった女房が、みち子は嫌だった。あれは従順なのではない。実は周りの者を支配しているのだ。あの威張りくさった泰蔵とて、実は従わされているのだ。  それに比べれば、やよひは可愛げがある。みち子の仲良しといえば、このやよひだけなのだ。やよひもまた、男にはだらしない。 「寝呆けたらおえんで、みっちゃんよ」 「ああ、もしかしたら千人針か」  二人は仲良しではあるけれど、互いに牽制《けんせい》している。どちらがより男を惹《ひ》きつけられるか。これまた互いに、自分の方が上と信じているのだ。友愛が壊れるのは、きっと決定的に女としての差がついた時だろうと、みち子はぼんやり感じ取っている。やよひはそこまで頭は回ってないと、みち子は推し量る。 「そうじゃ。皇軍勇士の肌の守りじゃ」  平べったいやよひの顔を見下ろし、みち子は含み笑いをした。 「肌の守り、か。うちら、村の男の肌はよう知っとるけどな」  それを受けて、やよひの歯並びの悪い口元が野卑に開いた。 「もう、朝っぱらからみっちゃんは」  そこまでは機嫌よく、支度するけんちょっと待って、と着物に袖《そで》を通していたみち子だったが、畳の縁に腰を降ろしたやよひの言葉に唇の端が歪《ゆが》むのを覚えた。 「女だけで針仕事をするいうのになぁ、勝手に男どもも公会堂に来とるんよ。うちの姉ちゃんが手伝いに戻ってきとるけん」 「……ああ、そうなんかな」  やよひの姉は、今やこの村ではちょっとした有名人になっていた。やよひと違って小学校からよく勉強ができ、特に美貌《びぼう》というのでもないが怜悧《れいり》な印象を与えるすっきりした顔立ちだった。経済事情から進学こそできなかったが、推薦を受けて下津井鉄道の事務員となったのだ。  それだけでも村では有名になったが、この春から観光に力を入れていた下津井鉄道は、ハイカラなガイドガールを採用した。背広の制服に長いスカート、白い靴を履いた選《え》りすぐりの美女と宣伝される娘が、鷲羽《わしゆう》山での観光ガイドやレールカーに乗って名勝の案内等をする。やよひの姉もそれに選ばれたのだ。  それは県下の新聞でも大きく報道され、やよひの姉の垢抜《あかぬ》けた制服姿も紙面を飾った。 「お姉ちゃんは、わざわざ来たんかな」 「そうじゃ。それにな、お姉ちゃんを見てえ男が仰山おるじゃろ」 「まあ、新聞にも載っとったしなあ」  できるだけさりげなく答えたつもりだが、その声は上擦った。やよひの姉が来るということは、自分がその場の主役にはなれぬということではないか。男の目がやよひの姉に注がれるということではないか。  同じ貧乏村の貧乏所帯に暮らしていた仲間だというのに、みち子は俄《にわか》に自分がとてつもなく惨めな貧相な女になった気がした。それに引き替え、あちらは光り輝いているように思える。  みち子は子供のように、行きとうない、と喚《わめ》きそうになる。やよひは、他の女には時にはみち子以上に嫉妬《しつと》深いが、さすがに実の姉のことは自慢なのだ。最も、姉は行かず後家で自分はちゃんと婿養子を取っているという自負もある。  草履をつっかけ、みち子もそこから出た。森の籠もった青臭さと熱気に、汗が噴き出した。二人は小道を掻《か》き分けて下の畔道《あぜみち》に出ると、そのまま公会堂を目指した。 「お姉ちゃんも、派手な仕事もええけど嫁にも行かんとな」  刺々《とげとげ》しくならないように、みち子は小首を傾げて言う。 「この村に、姉ちゃんに釣り合う男がおるかいな」  隣のやよひは、姉を馬鹿にするとも自慢するともとれる笑い方をした。 「うちのお姉ちゃんは、岡山市の大学を出た男じゃねえとおえん、とか生意気なこと言いよるで」  脳天を炙《あぶ》られた気がした。何を生意気なことをほざいとるんじゃ。ほんまなら、うちの方がずっと美人なんじゃ。派手な生活をして注目を集めとるはずなんじゃ。 「ほおん。やよひちゃんのご亭主みてえに、働き者のええ人いうだけじゃあ、おえんのんか」  瀬戸内海側に比べれば常に五度は気温が低いとされる中国山脈沿いの村だが、この月はまだまだ夏の名残が色濃い。季節はずれの蝉の生き急ぐような鳴き声にも何かしら焦りを覚えて、みち子の頬は引きつった。 「おえんわ。姉ちゃんはちやほやされっぱなしじゃけん、どんどん図に乗りょうるで」  しかしやよひにもって回った皮肉は通じない。満更でもなさそうに笑うだけだ。みち子は俄に疲れを覚えた。昨夜はあまり眠ってない。  千人針など本当は参加したくない。支那の戦局は遠い。今のところ日本は勝っている。それはやよひもだろう。この女達が危急に恐れるのは、眠り病と明日の食い扶持《ぶち》と男のことだけだ。 「あ」  ふいに、やよひが立ち止まった。いつのまに近付いてきたのか、すぐそこに糸井の辰男がいたのだ。白い開襟シャツが異様に眩《まぶ》しい。 「行こ」  みち子は顔を強《こわ》ばらせ、やよひの袖を引く。しかしやよひは、にいっと笑った。その笑顔を叩きのめしたい衝動に駆られる。  さすがのみち子も、糸井辰男だけは気味悪かった。それに比べれば、鬱陶《うつとう》しい政雄だの単純な恵一だのは可愛い。いくらでもあしらえる自信がある。  子供の頃は、秀才と誉められていても、今はただの穀潰《ごくつぶ》しだ。そこそこにいい男ではあるが、陰気で嫌な険がある。 「辰っちゃん、あんたもうちの姉ちゃんを拝みたいんか。公会堂におるで」 「……いんにゃ。わしはこれから、津山まで出るけん」 「何しぃ」 「まあ、色々じゃ」  やよひの肩越しに目が合い、みち子は背筋が冷える。子供の頃は仄《ほの》かな憧《あこが》れを抱いたこともあったが、今は近付きたくない。みち子は露骨に嫌悪感を顕《あらわ》にしてやる。  辰男はやよひを通り越して、みち子を睨《にら》んだ。縮み上がりそうになる。彼には度々、後をつけられたりした。だが嫌っているのはわかるらしく、めったに家にまではやって来ない。  辰男が背を向けて遠ざかってから、みち子は唾《つば》を吐いた。やよひは口元を弛《ゆる》める。 「どこで覚えたんじゃろうなあ。秀才さんは、あれも巧いで」  野卑にそう言って笑った、乱杭歯《らんぐいば》の口元が嫌らしい。やよひはいかにも田舎娘の風貌《ふうぼう》だが、自分は別嬪《べつぴん》だと信じている。その妙な自信が、ある種の風格めいたものを加味しているのはみち子も認める。 「巧いんか」 「うちのよりはな」  やよひは、何度か関係を持ったようだ。やよひは人がいいだけが取り柄の夫を、完全に舐《な》め切っている。罰当たるで、みち子は呟《つぶや》く。  火の見|櫓《やぐら》の立つ公会堂は、燐寸《マツチ》一本で燃えつきそうな油照りの中にあった。白木綿に次々と針が刺されていく。しかし到底この村だけで千もの糸は縫い付けられず、ここである程度たまれば津山の大きな寺社まで運ばれる。  七月の日支事変以来、岡山の第十師団にも動員下令が出た。歩兵第十連隊、工兵第十連隊が北方へ向けて続々と出征していた。殊に、赤柴部隊と呼ばれた歩兵第十連隊は津浦線に向けて快進撃を続けていた。 「ああ、お姉ちゃんじゃが」  やよひがわざとらしく駆け出した。公会堂は手狭なため、臨時にテント張りの受付がこしらえてあるのだ。そこの机の前に座っていたのがやよひの姉だった。 「こねえな別嬪が、ようまあこの村から出たもんじゃ」  この濁声《だみごえ》は泰蔵だ。みち子は腹の底が熱くなった。なんじゃ、あんな女。澄まし返っても、所詮《しよせん》この村の女じゃろうが。  やよひの姉は、人を馬鹿にした含み笑いを浮かべている。なのに、取り巻く男どもは上気していた。それは野卑な好色な、いつもの眼差《まなざ》しではない。  そう、やよひやみち子に向ける目ではないのだ。といって、銀幕のスターに憧れる遠いものでもない。譬《たと》えて言えば、新任の美しい女教師に向ける小学生の男子の目なのだ。 「つまらん顔じゃがん」  例えばあの辰男の姉などは顔立ちは美しいのに、それを恥じているふうなところがあった。それが頑《かたく》なな印象を与えているようで、男を遠ざけたのだ。  その姉のさや子に、辰男の面差しはよく似ていた。だから嫌なのに来て欲しい気持ちもどこかにある。来れば嫌だが遠ざかれば淋《さび》しい。まるで身持ちの悪い身内のようだ。  森で美しい毒茸《どくきのこ》や、鮮やかな毒蛇を見た時のような気持ちでもある。怖いのに触れてみたい誘惑にも駆られる。触れれば、ただでは済まぬ。  そこでわざとらしく無視して、みち子は公会堂に駆け込んだ。  公会堂の入り口の框《かまち》では、やよひの母親が偉そうに指示をしていた。大人しくその横で黙々と針を渡したり白木綿を重ねたりしているのは、砂子の奥さんだ。あまり公の場に出たがらないが、さすがに千人針には出てきたようだ。  口を開けば、人と会えば悪口と噂話ばかりの村人だが、さすがにこの時ばかりは厳粛に針を動かすだけだ。外では男達が、出征の激励会の相談などでやや騒がしい。 「糸井の辰男は、送りにも出てこん」  ふいに辰男の名前が聞こえてきて、みち子はそちらを向く。老いた猿そっくりのやよひの母親が、隣に座る馬場の婆さんに話しかけていたのだ。大人しい馬場の婆さんは、小さな髷《まげ》をつけた頭を上下に振るだけなのだが、 「あそこの婆さんにまで夜這《よば》いをかけおった」  やよひの母親は娘によく似た乱杭歯《らんぐいば》を覗《のぞ》かせて、辰男を罵《ののし》っている。やや困惑した顔で馬場の婆さんも、ようやく小さく答えた。 「そうじゃなあ。徴兵落ちてからますます、顔つきが暗うなっとるのう」  時折そのようなひそひそ声は漏れるが、概《おおむ》ね静かにしている。いつもの集まりなら、外見も行動も派手なみち子が何かと話題の中心になるのだが、さすがに今日の集まりではそうはいかない。黙って白布を渡されるだけだ。  第一、ハイカラなガイドガールが鎮座しているのだ。みち子は、自分がますます田舎臭いみすぼらしい女になった気がして、焦燥した。針もなかなか進まない。  皇軍武運長久を祈祷《きとう》する千人針だが、しかし公会堂の中は和やかだった。まだ戦死の報が届いた家はないし、隔絶された山間《やまあい》のこの地では、あまり血腥《ちなまぐさ》い話も伝わってこない。  みち子は外に出たくない。出たいのに、出られない。いつもならまとわりついてくる男達が、そわそわとやよひの姉ばかり気にしているのが悔しくてならない。といって、地団駄踏んでこっちを向くよう喚《わめ》くのもみっともない。みち子は膝《ひざ》に布を置いたまま、 「なあなあ。糸井の辰男は来とらんの」  思い切って、大声を張り上げる。皆、この時ばかりはみち子に一斉に注目した。みち子は上気する。こうでなくてはならない。自分は誰よりも、その場で目立つ女でなくてはならないのだ。男は誰よりも自分を求めなくてはならないのだ。 「もう、うちは困っとるんよ。辰男につきまとわれてなあ」  テントの中のやよひの姉が、微《かす》かに眉《まゆ》を顰《ひそ》めたのも心地よい。 「ああ、風呂《ふろ》も覗かれたんじゃったわ」  そのみち子を制したのは、意外にも砂子の奥さんだった。みち子の腕を押さえると、静かな口調で諭した。 「今は、そねえなことを口にする時じゃあなかろう」  普段物静かで控えめなだけに、モトの口調は有無を言わせぬ迫力があった。決して脅しつけるようなものではないが、その一言は辺りを静まらせた。  自分が望んでいない目立ち方をしたことに、みち子は混乱した。注がれる視線すべてに悪意を感じる。これが他の女ならば、すぐにちょっとした憎まれ口を叩《たた》けただろうし、その女とてまぁまぁ、で済ませただろう。しかし、今回はちょっと相手が違う。 「悪かったなあ」  刺々《とげとげ》しい第一声が出た。自分で自分に興奮し、みち子は乱暴に白木綿を下に置いた。 「奥さんも、旦那《だんな》や息子の監視をようせられえよ」  言ってから、しまったと血の気が引いた。ますます静まり返ったからだ。一見気の強い奔放な女ではあるが、放浪の長かったみち子だ。その場の強い立場の者には逆らわぬ方がいいのは身に染みている。 「みっちゃんよ。それくらいにしとき」  ぴしゃりと、やよひの母にたしなめられた。それがまた、みち子の体温を上げた。その澄まし返った表情が、やよひの姉にそっくりだったからだ。 「おばやんも、何ぞええ気になっとるんじゃないんか。あねえなちゃらちゃらした行かず後家、嬉《うれ》しそうに連れてきてからに」 「うちの娘がちやほやされて、悔しいんじゃろうが。あんたとは、元の出来が違うんじゃけえな」  やよひの母親も、罵り出すと止まらなくなるのだ。 「そもそもあんたらは、インチキ拝み屋じゃろうが」  この罵倒《ばとう》には、みち子も目の前が真っ赤になった。しかしそこには蹴飛《けと》ばすには重すぎる座り机と、さすがに蹴散らす訳にはいかない千人針の白木綿と裁縫箱しかない。 「さすがにあんたんとこのお母ちゃんは来とらん。あんたも、もう来んでええぞ」  無勢だ。身体を震わせながらも、みち子はどこか冷静に考える。勝ち目はない。異様な雰囲気に、男も何人か覗きに来ていた。 「……もう、帰りんさい」  そっと囁《ささや》いたのは、モトだった。それはやよひの母とは違う、思いやりのあるものだった。みち子は毛穴から火を噴きそうになりながらも、立ち上がる。  誰ももう何も言わなかった。押さえ付けたように天井の低い古い公会堂を出て、みち子は人混みをかき分けた。いつもは心地よい大勢の視線が、今日は棘《とげ》となっている。  やよひは騒ぎを聞きつけたか、入り口にいた。さすがに罰が悪い顔だ。みち子は何も声をかけずに素通りした。 「どしたんなら、血相変えて」 「今晩、行ってもええかのう」  何人かの男に声をかけられたり耳打ちされたりしたが、強《こわ》ばったまますべて無視した。だが、吸い寄せられるように一点に目がいった。  辰男だ。魚の腸《はらわた》にも似た夕焼けの下、青ざめた顔で立ち尽くしている。この腹立ちと遣《や》る瀬なさは、この男としか分かち合えないとみち子は直感した。 「……うちと、森に行かんか」 「ああ」  奇形の根がくねり、苔《こけ》むした巨木が横たわる一角に腰を降ろすと、辰男はまず草履を脱いで座った。異様に足が生白い。  みち子はその辰男の足に、なんとも扇情的なものを感じ取った。足の指が妙に長い。それは上品とも好色そうともつかない形だった。 「あんた、病気なんじゃてな」  主導権を握るために、いたぶる。辰男は仰向けになったまま睨《にら》みつけてきた。白目が透き通る。手をいきなり引っ張られた。みち子が被《かぶ》さる格好になる。 「嫌な村じゃのう、ここは」 「そうじゃ。しゃあけど、出てもいけん」 「嫁に行きゃあ、出ていけるじゃろ。わしは出られん」  微熱は病の印だ。胸に木枯らしの音がある。 「嫁に行きてえんか」  みち子は小さく笑った。辰男を笑ったのか自身を笑ったのかわからぬままに、笑った。 「遠い処にじゃったら、行きてえわ」  ここらの者は皆、歩いて日帰りできる距離の所にしか縁付かない。仲良しのやよひだって、同じ集落の男を婿に取った。 「あんた、やよひのとこにも行ったじゃろう」 「……かなわんのう。女子同士で、どねえな話をしょんじゃろうか」  やよひの婿は頭がぼんやりしていて、嫁と姑《しゆうとめ》の言いなりだ。善良だけが取り柄のあの婿を見ていると、みち子はいつも気が滅入る。  やよひには悪いが、この常に薄暗い湿って陰気な村で、あの男と死ぬまでへばりついているのかと思うと裸足《はだし》で闇雲にどこかへ駆けていきたくなる。  あれなら辰男の方がましではないか、とまで思う。その辰男は、みち子に情愛も肉欲もない力をこめてくる。それは静かで冷えた憎しみであった。 「わしも、この村の者は皆憎い。お前も、内心じゃあわしを馬鹿にしとろうが」  細長いそれはすでに隆起していて、いきなりみち子の肉に食い込んできた。  秀才でいい子で可愛らしゅうて。辰男もまた、主役の座から滑り落ちた者だった。であれば仲間ではないか。ただ、自分の方がましだ。辰男は今やへのけ[#「へのけ」に傍点]だが、自分はそうではない。男を惹《ひ》き付けられるのだ。求められるのだ。たとえ一時の獣欲にしてもだ。 「しとらん。しとらんよ」  みち子はまだ乾いたままなのに、強く腰を動かした。この痛みは幼い日を想う時の痛みだ。譫言《うわごと》のように呟《つぶや》きながらも、みち子は辰男に覆いかぶさった。二人はしばらく繋《つな》がったまま、愛してもいない相手に暗い未来を描いた。一緒に逃げてえな。逃げれんわ。 「中に出したら、いけんよ」 「わしも、こねえな村に子供は残しとうないわい」  それにしても、辰男の苦痛と快楽を堪《こら》える顔は美しかった。無防備な足の指ほどに。  急いで抜き取られた時、みち子は辰男の上から振り落とされた。突然に遣る瀬なさが押し寄せ、みち子は再び辰男にしがみついた。辰男はぼんやりと仰向けになったままだ。  その辰男の肩越しに、沈む田畑が覗《のぞ》く。緑陰が目に染みれば染みるほど、みち子は憎んだ。鄙《ひな》びた村を、息詰まる集落を、詐欺師の親を、流れついた自分を。汚れていなかった親と自分はどこに置いてきたのか。 「ほんなら、うちは帰るで」  濡《ぬ》れた太股《ふともも》だけを簡単に拭《ぬぐ》って、みち子は立ち上がる。心地よい不快感というものがあるのだ。辰男は何も答えない。ただ、覆いかぶさる暗い木立を見上げていた。  暗い森の入り口で、薄《すすき》の穂が俄雨《にわかあめ》に濡れていた。山並みの異様な黒さ、不吉な夕焼け。どれを取っても遣る瀬ない景色だ。萎《しぼ》んだ性器を出したままの辰男を残し、みち子は家路を急いだ。不吉に赤い空にみち子は肌寒さを覚え、家に走った。  父も母もいるようだ。みち子は無言で入るなり、囲炉裏の前に上がった。 「公会堂に行っとったんか」  母は奥の間の箪笥《たんす》から出してきた冬物の着物を広げていた。虫除《むしよ》けに入れた干した銀杏《いちよう》の葉と唐辛子が、ひび割れた足元に散っている。 「千人針、刺しに行っとったんじゃ」  不機嫌に答える。母には先刻のちょっとした騒ぎのことも、すでに耳に入っているかもしれない。しかし母は咎《とが》めたり心配したりしない。母は総《すべ》てが面倒臭いのだ。ぼんやり目の前を通り過ぎていきさえすれば良いらしい。砂子の奥さんとおんなじじゃがな。みち子は顔をしかめる。 「おい、おるんか」  父の呼ぶ声にみち子は我に返った。草臥《くたび》れた着物を尻絡《しりから》げして、父が出てきた。祝詞《のりと》をあげる時などはそれらしい格好もするが、こうして家にいる時はだらしなく半裸でいる。 「なんじゃろか」 「わしゃ、拝みに出てくるけん、留守を頼んだで」  昭和になっても、この近隣の者達は何かあると医者や巡査ではなく「拝み手」を頼む。父と母はそれらにもよく呼ばれていた。  だがみち子の父親に、まったく霊感などない。無論、母にもだ。二人ともはったりだけで宗教を商売にしている。言い換えれば、それゆえの商売繁盛であった。  武運長久祈願の参拝が多くなった今、またしてもこの「さむはら教」が賑《にぎ》わい始めたのだ。当局に再び睨《にら》まれるのも間違いない。しかし、稼げるうちに稼ぐつもりなのだった。この村で富裕といっても知れているが、ここで安楽に暮らすつもりなのだ。  村の信仰の対象のお森様とて、この夫婦はただの商売道具としか見ていない。だから、みち子は己れの霊感を隠す。いつからかはわからないが、死霊の気配や生霊の残像なども感付いた。しかし自分はいつか出ていくのだ。こんな所でさむはら様の遣いなど出来ぬ。  父の悟一はそれに気付いてもいない。それでいい。下手に商売に利用などされたくなかった。その力によって村に縛られるなど、真っ平だ。 「ほんまに、霊感やら何やらある人はおるんかな」  みち子はこんな陰気な田舎で、怪しげな拝み屋などになりたくはない。いつか遠くの街に出て、明るく華やかに暮らしたいのだ。だから、そんなふうに投げ遣りに吐き捨てたのだ。早く早く出ていきたい。 「おるで。いや、おったで」  父は、母屋の土間の柱にかけた草履の中から一番いいのを取りながら、ふと洩《も》らした。 「忘れられんのは、糸井の多代という女じゃ」  みち子ははっとする。その多代という女は、あの辰男の母なのだった。一度も会ったはずのないその女の顔が、瞬時に浮かぶ。母は無表情に、父の脱ぎ捨てた着物を畳む。 「亭主が寝付くようになってから、わしの元に通うてくるようになった」  十五か六も歳の離れた夫婦でのう、と付け足しながら、父は突っ立ったままだ。その背後から母が、少しだけ良い着物を着せかけてやる。  みち子の記憶にその女はいない。物心つかないうちにとうに死んでいるのだ。だから、辰男の記憶にもないはずだった。それでもさっき閃光《せんこう》とともに浮かんだ顔は確かなものだった。三日月の下に立てば似合う、凶々《まがまが》しくも美しい顔だ。 「間違いなしに糸井の主人の病気は結核じゃったが、入院をさせんと自宅で療養させとった。世間体を気にしとったんじゃろう」  あの婆さんの屈《かが》んだ背中が浮かぶ。たまに気の強いところは見せるが、それは辰男を庇《かば》う時に限られた。普段は大人しい老婆だ。  子供の頃、ふざけていて男の子の誰かが辰男の目のすぐ上を傷つけたことがあったのだが、婆さんは学校とその子の家に怒鳴りこんできた。血相変えたその形相はまさに鬼婆だったと記憶している。 「あの婆さんは、さむはら教なんぞ似非《えせ》に決まっとろうが、と決め付けとったんでな、多代は隠れて来よったんじゃ」  それを聞くみち子の目の前に、鮮やかな幻影が広がった。舞台はあの森だ。ああ、見とうない。透き通るような肌の女がいる。会ったことも見たこともない辰男の母親だ。辰男に面差しがそっくりだ。  整っているのに険のある表情、農村にいるのに肌理《きめ》細かい肌。なぜ笑っているのか。死期が近いとわかっている顔なのに。  その情景も鮮やかに浮かんだ。奇形の根がうねうねと湿った苔《こけ》の上を這《は》う。動物とも人ともつかぬ太い白骨が辺りには散らばり、微《かす》かな腐敗臭のある花の匂いが漂う。梢《こずえ》にきらめくのは死肉を好む鳥だ。  みち子の想像の中で、その男女はいつのまにか自分と辰男になってしまう。自分が辰男を求めている構図も浮かぶのだ。  背景の森に、奇怪な唸《うな》り声が響き始める。何の啼《な》き声か。女が歓喜に啜《すす》り泣いているとも聞こえる。まさか自分の声ではあるまい。  女の白い肌が、異様に冴《さ》えている。実際に瞼《まぶた》が痛むほどにだ。 「そうこうするうちにな、わしら出来てしもうたんじゃ」  父は実の娘相手に、好色そうな笑みを浮かべる。背後から着物を着せかける母は、眉《まゆ》一つ動かさない。 「いっつも、森ん中で会うとった」  ふとみち子は、今母が背後から首を絞めにかかったらどうなるのだろう、と不安を覚えた。あっさり、父は絞められるだろう。 「あの女も、早晩自分も逝くことがわかっとったなあ」 「お父は、きょうとうなかったんか。病気が伝染《うつ》ると思わなんだんか」  みち子は、努めて朗らかに尋ねた。背後の母が父の首を絞めぬようにだ。 「わしも若かったけん」  父は、もしかしたら母に絞め殺されたいのではないかと疑わしいほど、好色さを顕《あらわ》にする。帯を締めてもらいながら、薄く笑った。 「病気が感染するのなんのより、ひっつきてえ思いの方が強かったけんな」  父が言うには、その辰男の母は気づいてないのか、それとも気づかないふりをしているのか、自分などよりよほど強い霊感を持っていたそうだ。  しかし、それを打ち消したがっていたらしい。  そんなもん、あったら困る。辰男の母は、それを度々口にしたという。  ……あの森な。あそこは、きょうてえ。 「もっときょうてえことが起きる。森で会うたんびに、そう口にしとったなあ」  みち子は鉤《かぎ》に吊《つる》した鉄瓶の中の茶袋を鉄の箸《はし》でつつきながら、ふと聞き返す。 「きょうてえこというて、旦那の死ぬことじゃったんかな」  そうじゃ、と短く父は答えた。 「間もなしに、糸井の亭主は死んでの」  菌が飛んどるかもしれんと村人達は恐れながらも、老いた母と若い後家と幼すぎる子供達のために、丁重に葬式を手伝ったという。 「多代は、その葬式ん時もこそっとわしに耳打ちしたで」  父は草履を履きながら、妙に饒舌《じようぜつ》だった。女の声色まで使いながら、その辰男の母の言葉を続ける。土間では入りこんだ鈴虫が侘《わび》しく鳴いていた。  血で真っ赤になっとる夢をよう見る、と、辰男の母は心底|怯《おび》えていたという。 「お父っつぁんの病気よりも、もっときょうてえことが、うちの家には起こりそうな気がするんじゃ……とな」  父もまた不吉な言葉を残して、家を後にした。母は何も言わず、みち子の横に座る。大豆の煎《い》り豆で茶を飲んだ後、母はやはり黙ったまま繕いものを始めた。小箱には継ぎ当てのための端布が幾枚も入っている。 「うちは、あの多代ちゅうのは好かなんだな」  その中には、みち子が尋常小学校の頃に着ていた懐かしい着物の端布も混じっていた。それを目にすれば、赤茶けた景色が浮かぶ。痛痒《いたがゆ》い、甘苦い昔を蘇《よみがえ》らせる。密《ひそ》かに、辰男に恋心を抱いたことを。こんな辺鄙《へんぴ》な村でただ一人、街を連想させてくれたからだ。  しかしその祖母のイヨが悟一のこともみち子のことも嫌ったため、なかなか遊べなかったのだ。あの婆さんも、みち子の色気を汚らわしいものとしていた。  だが、月日は流れ、辰男もみち子も小学校を出て年頃になった。何の因果か、二人は同じあだ名がついていた。 「色気違い」  みち子の母あいは多代を嫌っていたためか、辰男のことも同様に嫌悪している。 「あの者だけにゃあ近付かんとき」  今も母は針を使いながら、唄《うた》うように繰り返す。 「肺病じゃし金はない」  本来なら、そんな者こそ信仰の道を開いてやるべきだと、父も母もさむはら様も言いはしない。神様は時に人間より強欲で残酷だ。  やがて母は、囲炉裏のある板の間で寝入ってしまった。父は夜中まで帰らないだろう。今もあの森で、父は辰男の母と逢引《あいび》きをしているのではないかと、みち子は灰を突つきながら夢想する。  納戸の自分の部屋に入り、横になる。がたがたと戸口が鳴っている。父ではなかろう。どこかの男が夜這《よば》いに来ているのだ。  板の間で寝ている母は、それに気づいても気づかないふりをする。すべてに見て見ぬふりをし続けてきた女だ。いや、もしかしたら、みち子や父には見えない何かをしっかりと見据えてきたのかもしれなかった。 「みっちゃんよ、みっちゃんよ」  暗闇から、猫なで声がする。若い声ではない。若い体臭もない。みち子は返事をしないでいる。灯は何もつけてないのに、辺りは妙に青く冴《さ》えている。今夜は満月なのか。 「わしじゃ」  横になったみち子は、その肩に置かれた手で相手がわかった。砂子の泰蔵だ。眠り病ではないかと疑われたほどの重い風邪は、どうやら癒《い》えたらしい。すでに森に藪蚊《やぶか》はいないが、今の季節では寒すぎる。それで、家に来たのか。  面倒だったが、昼間の砂子の奥さんの白い目付きを思い出した。馬鹿にしてからに。復讐心《ふくしゆうしん》から、甘い毒を含む声が出る。辰男よ、あんたはうじうじと暗い目で復讐の気持ちを持て余すだけじゃが、うちは違う。実際に、恨みは晴らせるんじゃで。 「嬉《うれ》しいわあ。あの金中の娘に獲《と》られんか心配しとったんよ」 「阿呆《あほ》じゃのう。あねえな取り澄ましたのより、みち子がええに決まっとろう」  勝ったというより、比べられたことで屈辱を覚える。徴兵検査とおんなじじゃ。 「この間は、息子の方が来たで」  肩に手を置かれたまま、みち子は冷ややかに言い放つ。だが、肩に置かれた手は何の躊躇《ちゆうちよ》もなく乳房の方に滑り降りてきた。  みち子は前をはだけられながら、砂子の女房の白々とした眼差《まなざ》しを思い浮かべていた。板の間で息を殺している自分の母と、血のつながっていない姉妹のようだ、と思う。男に惚《ほ》れてもらえない。それは自身に惚れてないからだろう。 「どねえなら、気持ちええんか」  この台詞《せりふ》は、まったく息子と同じだ。これに気づいた時は、みち子も薄く笑った。  弾《はじ》けるような蝉の声がなくなった代わりに、秋の虫は騒々しい。足音にいったん鳴りを潜めても、またぞろ羽根を擦《こす》り出す。  いつからこの森を恐れだしたのか。幼い頃は遊び場で、長じては逢引きの場所となった森は、いつでもひんやりと清い。その梢《こずえ》は満月も半月も同じに浮かべ、闇を際立たせる。  森に入ると、感覚が研ぎ澄まされるのがわかる。もやもやと、死霊や妖《あや》かしの気配がさまようのもわかる。  聞こえる啼《な》き声は何物なのか。みち子にはそれが不吉であることしかわからない。  花を摘みに、みち子は森に分け入る。ふと、冷気を感じた。奇形の根を土から突き出している古木の下に、細い何かがいた。  辰男に似た女だ。  金属音がして、みち子の耳は痺《しび》れた。足が根でも生えたように動かない。喉《のど》が干上がった。その女は瞬《まばた》きをした後、消えた。  転がるというより、這うようにしてみち子は家に戻った。節約のために点《つ》けるなと言われている裸電球の螺子《ねじ》を捻《ひね》った。 「どしたん、みち子」  機織りをしていた母が、さすがに驚いた顔で踏み木を踏む足を止めた。 「嫌なもんが、森におった」  それだけは言えたが、あれは辰男の母だった、とは口にできなかった。 「……灯明あげて、拝んどき」  乾いた音を立てて糸車が回った。母は口を引き結んで、また踏み木を交互に踏み込む。父はすでに、襖《ふすま》の向こうで寝ていた。  さっき、お父の好きな女に会うたで。嫌な女じゃのう。  みち子は、それはもう腹の中だけで呟《つぶや》くにとどめ、黙って神棚に向かった。そうしてみち子はもう森には行くまいと決める。  霊感などない方がよい。これ以上そんな力が増したとて、よいことはないのだ。  収穫が終わり、秋祭りの日が近付いた。瀬戸内海に面した南部と違い、北のこの村では鮮魚が食えるのはこの時だけだ。公会堂の広場に、行商人が臨時の魚市を立てる。生魚は「ブエン」(無塩)と称され、秋祭りの大きな楽しみとなる。  普段は眠っているような死んでいるような陰気な村も、この時期は何がなし浮き立つ空気になる。人も村もだ。 「おしめんせえ」  お仕舞いにしなさい。道で、畦《あぜ》で、家の前で行き交えば、人はこの挨拶《あいさつ》をする。私はもう仕事を終えたから、あなたも終えろという意味だ。  普段は、相手を気遣うとも、自分より稼ぐなともとれる言葉だが、この時期は違う。早く祭りの準備をしろという意味になるのだった。 「おかん、魚買うてこいや」 「鯖《さば》と鰯《いわし》でええんかな」  みち子は家の中にいても、生臭い魚の匂いを嗅《か》いだ。凝視すれば奇怪な生き物である魚の銀の光沢や淀《よど》んだ目玉に、色付く枯葉が降り掛かる様も目に浮かぶ。  青年団の集まりでも、娘達の集まりでも、今はあまりに浮かれたことはできないが、村人達は千人針よりも祭りの話に夢中になった。  そうして、秋祭りは始まった。無彩色の村に、赤や青や金の極彩色が躍る季節だ。稲作の終わる時期と彼岸の入りが一緒なのは如何《いか》なることかと、みち子の父などに聞く者もあるが、父は拝みんさいを繰り返すだけだ。 「七日七夜は撞木《しゆもく》を下に置かぬ」とばかりに、集落中の阿弥陀《あみだ》堂や観音堂に参り、念仏|鉦《がね》を叩《たた》きながら拝み続ける。 「ナンマイダンブ」  さむはら様の文句とは違うが、今日は父もこの念仏を唱えていた。鉦を打ち鳴らす音はまるで、自分を追い詰めてくるかのようだ。  派手なことこそ制限されているが、森の最高樹齢を数える神木に七五三縄《しめなわ》が張られ、公会堂の前で櫓《やぐら》も組まれて、皆が踊る。  みち子は祭りの華やかさよりも、今夜の闇を思っている。いったい何人の男が忍んでくることやら。しかしみち子はいつもいつも、 「あの人は来てくれなんだ」  と常に落胆している。といって、その「あの人」が誰かと問われたら答えられない。 「うちの、生まれた村の祭りとは大分、違うのう」  珍しく、母が思い出話めいたことを口にする。だが、その続きは話してはくれない。母もまた、死ぬまで誰かを待って待ちくたびれるのだ。  公会堂の周囲には、ほぼ村中の人間がいた。皆が笑っているのは、良い光景であるはずなのに、みち子は何か暗澹《あんたん》たる思いを抱く。泥沼の戦局、枯渇する田畑、蔓延《まんえん》する眠り病に貧困。それらを押しやり束の間笑っている村人が愛《いと》しくもあり、哀れでもある。 「また、後でな」  すれ違いざま、何人もの男に声をかけられる。みち子は笑うだけだ。死者がさりげなく混じって、そう声をかけてきているかもしれないではないか。うっかりと返事はできはしない。もっとも、男も死者も勝手に訪れる時は訪れる。  そろそろ月が沈み始める頃だ。広場には多くの露店も出た。毒々しい煮イカ、飴《あめ》細工、天狗《てんぐ》の面。行商人の老人も、ひっそりと古本など並べている。  砂子の奥さんが珍しく来ていて、その古本を品定めしていた。表紙だけ貼り替えた古本など、みち子は手にとることも思い付きはしない。あの砂子の奥さんは、本の中からこっそりと悪意や不吉なものを拾い読みしていそうだった。  糸井の仁平がふらふらとした足取りで歩いていく。常軌を逸した目つきだというのに、誰も振り返らない。口ずさむのは、壊れた蓄音機から流れるレコードの歌のようだ。  その歌の中、あの辰男の姉が、婆さんと一緒に歩いてきた。こんな時にしか里帰りはできないのだが、二人は仲良さげに語り合っていた。いつまでも娘のようだと見ていたが、こうして遠目に見れば艶《あで》やかな年増《としま》だった。嫁に行くのもええなぁ。みち子はふと、呟く。そうして悲しくなる。自分が悲しいのか、さや子が悲しいのかわからないままに、ナンマイダンブと唱えてしまう。  死者もさり気なく混じっている。笛は死者を招く旋律を流し、太鼓は異界の者を呼び寄せる響きを轟《とどろ》かせる。 「みっちゃん」  振り返ると、それはやよひだった。結婚しているというのに、歩くとぽこぽこ音のする赤い下駄《げた》など履いている。隣には、朴訥《ぼくとつ》な幼なじみの亭主を従えていた。 「夫婦でええなあ」  みち子の軽口に、照れ笑いをしたのは亭主の方だけであった。当のやよひは、何やら落ち着かない様子だ。  みち子にはわかっている。それはこの日が、堂々と夜這《よば》いや逢引《あいび》きがなされる日でもあったからだ。去年など、父と息子が鉢合わせという騒ぎが何件かあった。みち子の元にも、泰蔵と恵一が一時間置いてやってきたのだ。 「誰を待ちょん?」  ひっそり、みち子は耳打ちをしてやる。やよひは口の動きだけで男の名前を口にした。しかしそれは、みち子にはよくわからなかった。辰男、ではなかったのだけはわかる。隣の大人しい亭主はぼんやりと、櫓の方を向いていた。 「うちも、男を待ちょうるんよ。いつもいつも、男を待ちょうるんよ」  神輿《みこし》がみち子の隣を、まさに行き過ぎた時だった。みち子はふいに、腕をつかまれていた。それほど強く握っているのではないのに、異様な意志を感じさせる指先だった。  みち子は、あの死霊を見た日のように、足を竦《すく》ませた。  今日ばかりは森は神域だ。自粛気味とはいえ、太鼓や鉦の音は鄙《ひな》びた秋と村に色を付ける。音にも色があるのだ。あそこには、行けない。  今年は戦いの勝利を祈るという名目で、何体もの神輿が担ぎ出された。恵一も政雄もいる。金中の婿もいる。だが、当然そこに辰男はいない。いなかったはずなのに。  歓声があがり、神輿は高々と掲げられる。高さを競うのだ。男達の全身が張り詰めている。女はこの時、必ずどの男かに心を奪われる。西空にかかる三日月が、異様に鋭く大きい。その切っ先が真直ぐに男達を射していた。  みち子はもう、男からも三日月からも逃れられない。すでに男には腕を取られている。 「森に来えや」  辰男だ。みち子は命じられるままに森に分け入った。あの古木はもう、ただの木だ。 「さっきここで、母しゃんの幽霊を見た。母しゃんはあんたの父親に未練を残しとる」  この前寝た場所は、木立から漏れる月光に冴々《さえざえ》と明るい。三日月が何故そんなに明るいのか。ふいに森から啼《な》き声がした。女の死霊だ。辰男はそこにみち子を突き飛ばした。みち子は剥《む》かれながら、泣き笑いをした。下から必死に辰男にしがみついた。 「あんたが可哀相で泣いとるんじゃ」  辰男は病気のせいか、生暖かかった。胸に耳をつけると、木立を抜ける風にも似た荒い呼吸音がした。この前よりも性急な動きだった。足の指は変わらず白く好色そうだった。 「あんた、どえらいことをするのう」  微熱のある男は気持ちがいい。吐く息も熱い。性器までが熱い。 「しゃあけど、それをわたしに止めることはできんのじゃ」  辰男は何も答えず、黙々とみち子を汚した。仰ぐ三日月はどこまでも冷たかった。  祭りの後にひっそりと、さむはら教の集会が行なわれた。不幸が染みついた暗い顔が並ぶ。すでに底冷えのする夜、火鉢の火はいかにも頼りない。袷《あわせ》を着ていても、足元から腰から冷えは忍び寄る。灯明は不吉な揺れ方をし、供えた蜜柑《みかん》の色だけが鮮やかだった。  辰男の祖母のイヨも来ていた。余程の苦悩があるらしい。元々小柄ではあったが、今は藁《わら》人形ほどの嵩《かさ》しかない。燐寸《マツチ》一本で燃えつきそうだ。 「拝みんさい」  破れた障子に影が映る。尻尾や角が生えた影はないが、数が実際にいる人間より多い。森の獣の啼き声は、父親の怪しげな祝詞《のりと》をかき消す。 「さむはら様を拝みんさい」  すでに壁や戸口に吹き付ける風は冬のものだった。長く深い雪に耐えるべく、岡山の北の家は分厚い屋根と太い柱を持っているが、それが陰鬱《いんうつ》さを煽《あお》る。 「みんな殺されるど」  森の獣の啼き声のように、男の吠《ほ》える声がした。家の周りを仁平が徘徊《はいかい》しているのだ。しかし母親のイヨも他の者も、誰一人動かなかった。仁平は叫び続け、走り続ける。 「早う逃げんかい。鬼は、もう森におるんじゃ」  はっとみち子は顔をあげる。戸口が風のせいばかりではなく、少し開いているのだ。そこから、三日月が覗《のぞ》いていた。いや、白っぽい辰男の目が覗いていたのだ。  いつか、風呂《ふろ》を覗いていた目だ。みち子はその目と目が合った刹那《せつな》、小さな悲鳴をあげて突っ伏した。それから恐る恐る、顔をあげる。周りの者は自分の不幸と闇を凝視するのに必死で、みち子の怯《おび》えにも戸口に立っていた「森の鬼」にも気付いてはいない。  すでに戸口には誰もいなかった。黒々と虚空が口を開けているばかりだ。 「さむはら様」  初めてみち子は、祈った。信じてもいない神様にどれだけ通じるかはわからぬが、一心に祈った。 [#改ページ]   提婆様  満月を真ん中で断ち切った形の月は、半月と呼ばれている。しかし半月には二通りあるのだ。新月から満月に移る途中の半月が、上弦である。日没時に南中し、弓の弦を上にして真夜中に沈む。  逆に、満月から新月に変わる間の半月は下弦と呼ばれる。これは真夜中に昇りはじめ、弓の弦を下に向けて正午頃に沈む。  どちらも、新月と満月を繋《つな》ぐ痛ましい月であった。  二度咲き、帰り咲きといえば穏やかな小春日和を味わわせてくれるのに、狂い咲きと呼んだ途端に怖い季節に変わる。  束の間の暖かさに騙《だま》されて咲いた野生の菊が、凍《い》てついている。人を食いそうに伸びた薄《すすき》野原を、治夫は洟《はな》を垂らしながら泣き泣き歩いていた。  この北の果ての村は岡山で最も生産力の低い地帯であり、金持ちといってもたかが知れているし、村人は皆貧乏人といってもいいのだ。なのに同じ学校に通う同じ村の同じ貧乏人の子に、石を投げられる。憎むべき貧乏の象徴として、治夫は罵《ののし》られる。 「貧乏たれ」  なんでじゃ。わしじゃて、貧乏は憎んどるのに。薄野原の真ん中で、治夫は立ち止まった。素足に草鞋《わらじ》履きの足は凍えているが、頭は熱い。筒袖《つつそで》で洟を拭《ふ》くと、これもまた凍てついた風が霜焼けの耳たぶを噛《か》む。 「昔っから岡山じゃあ、大人しい者ほど屁《へ》が臭いというけんの」  爺《じい》やんは決して名指しで人の悪口は言わないが、村人は敵だと暗に教えてくれていた。 「何かしそうな者は、案外何もせん。するのは、一見大人しい害のなさそうな者じゃ」  こんなに大人しくしていても苛《いじ》められる自分は、ひょっとしたら「何か悪さをしでかしそうな者」と見られているのであろうか。 「あの森ぃ行ってみようか」  心細げに辺りを見回していた治夫は、震え声で一人|呟《つぶや》く。これもまた、爺やんに教えてもらっていた。いつからかはわからないが、岡山では昔から「鴨西の提婆《だいば》は人を食う」と恐れられたという。様々な神様はあるが、大抵は災いを除き福を招くものだ。 「あの森にゃあ、さぞかし強《こえ》えもんがおるんじゃろうな」  治夫の爺やんは、そう教えてくれた。本当かどうかはわからない。だが、確かに村人にとってあの森は恐れられ忌まれながらも頼られる拠《よ》り所ともなっていた。  提婆と呼ばれる荒神《あらがみ》は、岡山のあちこちの野山に点在するともいわれる。周りには他にも、恨みをはらすための神様や呪いをかけるための祟《たた》り神が存在した。殊に岡山にはそんな神様が多いという。それは岡山の者が、他の地方の者に比べて特別恨み辛《つら》みの念が強いからなのだそうだ。 「おい、治夫じゃねえんか」  森から、恨み言を聞いてくれる何やら恐ろしいものが声をかけてきたのかと、治夫は飛び上がりかける。だが、薄を掻《か》き分けて現れたのは糸井の辰男であった。 「すばろうしい顔をして」  情けない顔をして、とはいつも辰男が治夫に声をかけてくる時の決まり文句のようなものだった。こうして会う時、大抵治夫は苛められているからだ。  治夫は、分厚い袷《あわせ》の長着を着込んだ辰男にまとわりつくように、ついて歩き始めた。年は一回りほど離れてはいるが、辰男は自分の友達なのだと信じていた。  辰男はかつて、治夫ら子供達の人気者だった。雑誌を読ませてくれ、面白い物語を語って聞かせてくれ、勉強も見てくれた。色白でつるつるした印象の辰男は、大人という感じがあまりなかった。 「なんでもねえ」  しかし、いつからだろう。子供達が一人減り二人減り、ついには治夫だけになった。治夫には怒ってくれる親はいない。父親は海軍入営、母親はいつもむっつり黙っている。祖父母は仏さんとも称されるほど、他人の悪口を言わない。 「辰っつぁんは、友達おるんか」 「おる。治夫じゃ」  辰男は大人だから、石を投げられたり棒で叩《たた》かれたりというような苛め方はされていないが、他の大人の男と仲良さげにしているところを見たことがないから、やはり自分と同じ除《の》け者なのだろうか。  友達と言ってもらえたことに上気しながらも、治夫は重ねて聞く。 「大人の友達はおらんのか」 「……おらん。しゃあけど、ええ」  辰男は特に家が貧乏ということもない。それどころか、「あいつは頭がええけん」「男ぶりは、ええんじゃがのう」などと、称賛めいた噂もされるほどなのだ。実際に、子供の治夫から見ても辰男は賢い大人だし、体格もなかなかのええ男だ。  それでも、自分と同じ除け者なのだ。子供にはわからんでもええことなんかのう、と治夫はまた洟を啜《すす》る。 「あの森の神さんは、人を呪うてくれるんか」 「なんなら。治夫はそねえな嫌な者がおるんか」 「辰っつぁんは、おらんのか」 「……ようけ、おりすぎる」  辰男の陰鬱《いんうつ》な表情に、治夫はかすかに怯《おび》えた。それでも、離れることはしない。 「家まで送っちゃる」  と言ってくれた辰男について歩きながら、治夫は思案する。子供心にも、兵隊の検査を落ちたんじゃてな、というのは絶対に言ってはならないことだとわかっている。  また、治夫はそれに大して興味はなかった。おっ父は海軍に志願して入営中なのだが、今ひとつ戦争は遠いどこかのことだった。どこから飛んでくるかわからぬ銃弾よりも、すぐそこから飛んでくる石《いし》飛礫《つぶて》の方が治夫には切実に痛かった。 「なんで岡山にゃあ、祟り神ばかしおるんじゃろ」 「そうじゃな。あのお森さんにも、きょうてえのがおる」  こんなふうに辰男はいつも澱《よど》みなく答えてくれる。ある意味、辰男が治夫にとっての神様だった。しかも、供え物は要らない神様だ。 「そねえなもんも、神様いうんかな」  薄野原を抜け、畦《あぜ》に出た。枯れた草は痛く、吹き付ける風もまた痛い。 「そうじゃ。別嬪《べつぴん》でも婆あでも性悪でも何でも、女は女といわれるようなもんじゃ」  辰男はこんなふうに、わかったようなわからないような、しかし妙な説得力のある答えを必ずくれる。  治夫は歳の近い兄弟もない。学校の友達の中に入れば必ず苛められている。だから、辰男に懐く。  辰男もまた、同じ年頃の男からは爪弾《つまはじ》きにされているらしい。滅多に人の悪口を言わない爺やんが、誰かに辰男のことを告げ口しているのも聞いた。 「あれじゃあイヨさんが可哀相じゃ」  糸井の婆やんとは呼ばず、治夫の爺やんは必ずイヨさんと呼ぶ。その響きには何か、これもまた子供が知ってはいけない秘密めいたものがあった。  雑木林を抜けながら、治夫はその梢《こずえ》から空を仰ぐ。また雪が降るのか、真っ白だ。何かを隠して不吉な鈍い白銀の色に、治夫はまた凍える。 「しゃあけど、わしはお森さんも提婆さんも、信じとらん」  辰男の背中に棘《とげ》のある実がいくつかついている。辰男は振り払っても振り払っても、棘のある何かを身につけている。 「そんなら、何を信じとるんじゃ」 「わしは、わしの神様を信じとる」 「ええ目にあわしてくれるんか」 「いんにゃ」  辰男はそこで立ち止まり、微《かす》かに笑った。 「わしの神様も、祟り神じゃ」  その時、一斉に鳥が飛び立った。祟り神が本当に姿を現したのではなかったが、治夫は驚いて空を仰ぐ。森の一番高い木の天辺《てつぺん》に、大鷲《おおわし》が止まってその異様に大きな羽を広げていた。何かを祈ろう、願おうとしてできなかった治夫は立ち尽くす。 「神様の話はもうええ」  治夫は叫んでいた。互いに仲間から外れているが故の結びつきだが、辰男は治夫を可愛がってくれたし、治夫も辰男が好きだった。治夫がなりたい大人は、辰男だ。兵隊に行けなくても村人に仲間外れにされても、辰男は一目置かれているではないか。  何よりも、辰男は物語が作れるのだ。治夫の胸をときめかせる話を語れるのだ。 「あの話の続きは、どねえなっとんじゃ」  小説家というものになりたいのだという辰男は、公会堂の前の広場や家の前に子供らを集めては、色々な話を語ってくれた。 「ありゃあ『少年|倶楽部《クラブ》』や『講談倶楽部』に載っとった話の焼き直しじゃ」  誰かがそんな陰口も叩いていたが、治夫にはそんなことはどうでもよかった。そんな遠い処の小説家より、身近にいて語ってくれる辰男の方がよほど立派な小説家だった。  辰男の悪い噂が立つようになり、次第にまとわりつく子供の数は減っていったが、治夫はその方がよかった。辰男を独占できる。 「へのけ同士で仲良うしとる」  と馬鹿にされれば、さらに辰男との結束が強くなる気にもさせられた。辰男が「肺病持ち」で「女の尻《しり》を追い回すばかり」で「徴兵検査も落ち」て「家に引きこもっとるかその辺をぶらぶらしとるだけの役立たず」であることなど、何程のものか。  偉い兵隊さんでも、あんな物語を作れはしないだろう。それは勇壮な海洋冒険|譚《たん》でありハイカラな異国の街の探偵小説であった。 「なあ、辰っつあん。あの話の続き……」  振り返った治夫は、切りつける風に曝《さら》された。辰男はいつのまにか、いなくなっていたのだ。枯野のどこにも、辰男の姿はない。取り残された治夫は、家まで走った。 「治夫。早う入り」  庭先に佇《たたず》むおっ母は、なぜか険しい表情で立ち尽くしていた。その母の顔から視線を外し、治夫は森を仰ぐ。雪を隠した鈍色《にびいろ》の空は、重く山脈にのしかかっていた。 「わしんとこは、一番の貧乏じゃけえな」  この辺りは昔から毎年|飢饉《ききん》で、百姓は津山城に強訴を続けたと、爺やんに教えてもらった。強訴谷の別名があるのもそのためだ。  百日雪の下。ここはまた岡山きっての豪雪地帯でもある。瀬戸内海に面した南部地方が滅多に雪を見ず、小賢《こざか》しいの何のと妬《ねた》まれるほど豊かなのに比べ、なぜにここは色々なものに見離されているのか。 「じゃけん、人一倍働かにゃあならんのじゃで、治坊」  土間で、爺《じい》やんは縄をなっている。火の気のまったくない暗い土間は、戸外と少しも変わらない冷気に沈む。しかし爺やんは、いつもそこで何かをしている。 「そうじゃ。そいで人一倍の信心もせにゃあならんのじゃ」  婆やんとて負けずに我慢強く働き者だ。嫁入り道具に持ってきたという古い機織りで、屑糸《くずいと》を器用に撚《よ》り合せ、色々な布を織っては紡いでゆく。  おっ母とて、遊んでいる時はない。治夫の家は自活できぬほどの田畑しか持たぬため、あちこちの家に手伝いに出ている。蚕の時期は、砂子の家の作業場に泊まり込みに行く。そうして、志願しておっ父は海軍に入った。 「それのになんで、こねえに貧乏なんじゃ」  治夫はそれを口にできない。いつも口の中で呟《つぶや》くだけだ。治夫はつい先日も、ここらは今も岡山で一番貧しいと習ったばかりだ。しかしそんなことは、習わずとも知っていた。確かに貧しい。ことに自分のうちは貧しい。貧しい者の中でも目立つほど貧しい。  家は降雪に耐えられるよう柱も梁《はり》も太く造ってはあるが、それも大分傾いていた。烏威《からすおど》しと呼ばれる、屋根棟に載せる木材がある。四寸角か七寸角の栗材を天辺に据えるのだが、これの数で家の大きさは測れる。  偶数はよくない数のため、大抵が九つだ。砂子の家だけが十五ある。馬場の家だけが五つしかなかった。  屋根に雪が積もれば、すぐに柱がみしみしと軋《きし》む。森から聞こえる啼《な》き声は、荒れた地面や枯れた木々を震わす冷えきった風なのか。昭和十二年も暮れてゆく。  治夫が、うちは他の家より貧しいのだとわかったのはいつだったのか。殊にこんな冬には、ひしひしと感じる。  貧しい家の子は、早くに色々なことに気付く。普通の家の子や、豊かな家の子がなかなか気付かないことに、幼いうちから気付く。  十歳の治夫は、爺やん婆やんが「ええ人」と呼ばれ、おっ父がお国のために海軍入営中ということはちゃんと知っていた。  その上、家を守るおっ母は「身持ちが固く」、叔母《おば》やんは玉の輿《こし》に乗って市内の学士様に貰《もら》われたこともわかっていた。それらは、誇らしく他の人に語ってもよいことまで、わかっていたのだ。  そうして、集落の者にはあの糸井辰男は評判が悪いということも、わかってはいた。  だが、辰男は治夫には優しかった。勉強も教えてくれたし、雑誌も貸してくれた。何より色々な面白い物語を語ってくれた。その中には、はしこいはずの治夫にもよくわからない話もあった。  それは魅惑的だったが、おっ父おっ母に言ってはいけない、ということだけわかった。 「治夫の爺さんとわしのとこの婆さんは、昔恋仲じゃったんじゃで」  いつか辰男は、そんなことを教えてくれた。あの歪《ゆが》んだ唇は何を語ろうとしていたのだろう。辰男はこのところ、しょっちゅうあの表情をしている。 「わしの爺さんも早死にじゃった。それにゃあ、治夫の爺さんが関わっとったんじゃ」  何やら不吉な思い出話を語る時も、辰男の薄い唇は笑う形になっていた。 「治夫のお父は中島|遊廓《ゆうかく》にも通うとったが」 「治夫の叔母やんの嫁いだ先はええ家じゃが、そこの主人は火付けで捕まったこともあるで」 「治夫のお母は砂子の親爺《おやじ》のコレじゃったんで」  ……自分の家の秘密を、辰男はこんなにも知っている。それを共有するのは治夫にとっては心ときめくことだった。辰男はさすがだ、と尊敬もした。 「子供は何も知らんふりをしとりゃあ、可愛いというてもらえる。オナゴもな」  辰男はこんな大人びた処世術まで教えてくれる。 「いずれ、治夫をオナゴのとこに連れていってやるけんのう」  それは大変魅惑的な冒険に思え、楽しみだった。さすがに、そこに淫靡《いんび》な匂いまでは嗅《か》ぎ取れない。オナゴとは何をして遊ぶのだろう。よくない遊びは魅惑的だ。辰男もそれをしているのか。  だが、このところ辰男はなかなか姿を現さない。村の女達が家の前辺りで、 「辰男はなんぞ悪いことを企《たくら》んどるんじゃないんか」 「ちぃと大人しゅうなったんが、余計に恐ろしげじゃがな」  と噂しあうのを、治夫は寝たふりや遊びに熱中するふりをしながら聞き耳を立てていたのだ。病院に度々姿を現すというのも聞いた。 「肺病も、相当悪いらしいで」 「鉄砲持って森ん中うろうろしよんのは、なんなんじゃ。ずどんずどん鳴らす割にゃ、獲物をぶら下げとる姿も見んで」  と噂するのも聞いたりはしていたが、治夫の許《もと》には来てくれない。それにしても辰男の悪口を言うのに、女達はなぜあんなに嬉《うれ》しそうなのか。  他の男の悪口を言う時と、明らかに雰囲気が違うのを治夫は感じ取っていた。  遊び。それに関係しているのだろうか。辰男はよくない遊びが好きで、上手で、それ故に女達に疎まれつつも待たれているのではないか。  しかしその話の輪に加わるおっ母は、どこか憂鬱《ゆううつ》そうであった。はぁ、はぁそうじゃなあ、としか相槌《あいづち》を打たず、他の女達のためにせっせと茶を淹《い》れたりしている。  治夫の家の者は皆いい者、とされていた。それは馬鹿にされているのと同義だとは、その頃の治夫にもうっすらとわかってはいた。  溶けない根雪。百日はあまりに長い。中国山地に抱かれたこの村では、つまり百日は草鞋《わらじ》ではなく稲藁《いねわら》で作った長靴、通称フカグツを履いて過ごす。治夫の爺やんはそれを作る名人であった。  新しく作ってもらったそれを履き、治夫は表に出た。陽射しばかりが白く明るい。元々|色褪《いろあ》せた侘《わび》しい山間部だが、今はすべての色彩を失っている。 「治坊、ええフカグツを履いとるのう」  そこに、金中の虔吉が通りかかった。この男もまた、微妙な疎外感を感じているはずだった。ただし、辰男のように「わしは除《の》け者じゃけん」と、暗い目はしていない。いつも気弱そうな、済まなさそうな笑顔の男だ。  頭は子供のまま身体だけ大きくなったような、嫁の尻《しり》に敷かれっぱなしの、姑《しゆうとめ》の言いなりの、少々足りない男。それが村での評判だ。小学校の子供からも、馬鹿の虔吉と呼ばれたりしていた。  それ故、治夫はこの身体ばかり大きな男には連帯感は持てないでいた。子供はこのような位置付けに敏感だ。 「爺やんに作ってもろうたんか」  治夫が返事をしなくても、虔吉は気にする様子はない。炭俵を背負った虔吉は、それもまた少しも重そうな顔をせずに笑いかけてくる。 「そうじゃ」  さすがに治夫もきまり悪くなって返事をしたが、この男は辰男とは違う。辰男は仲間外れでも頭がいい。虔吉はしかし、辰男のような嫌われ方はしていない。村の男からも年寄り連からも、虔公、虔公と子供のように親しまれてはいた。 「なあ、森にはきょうてえ神様がおるんか」  ふいに、虔吉にまで聞いてみたくなったのはなぜか。森の一番高い木で羽を広げる大鷲《おおわし》が、じっと治夫を凝視し狙っているように思えたからか。 「そんなんより、蛇はきょうてえど」  意外にも虔吉は、辰男も知らなかったことを教えてくれた。 「道通いう法者はな、小っせえ蛇を使うんじゃ。それは骨と皮だけになっても、呪う相手を追いかけてくるんじゃで」  それはなかなかに恐ろしく面白い話であった。もっとそれを聞きたかった。だが、治夫はあっと小さく叫んで駆け出していた。立ち枯れた雑木の群れの向こうに、久しぶりに辰男の姿を見たのだ。  治夫は虔吉に何も言わずに、辰男に向かって駆け出していた。背後の虔吉がどんな表情をしているかなど、頓着《とんちやく》しない。  子供は弱い者を見抜く。辰男と虔吉、本当はどちらが弱いかはわからないことだとしても、今は辰男の方が魅惑的なのだ。  虔吉に優しくされても、遠くに辰男が見えればそちらに駆け出していく。虔吉は寂しげに佇《たたず》んでいたが、荷を背負い直して行ってしまった。 「なんで、鉄砲を持っとるんじゃ」  治夫が近付くと、辰男は担いでいた鉄砲を下ろした。獣を獲《と》る訳じゃなし、何をしとるんじゃろうかと、村でも評判になっている。今、辰男の傍らにはその猟銃が光っている。爺《じい》やんが昔持っていた旧式のものとは違う、黒光りのする重厚なものだった。 「兵隊に行きたいんか」  と聞いて、治夫はしまったと硬くなる。これは多分、言ってはいけないことなのだ。しかし辰男の白い横顔は変わらなかった。 「わざわざ戦地に行かんでも、ここでも人を殺すことはできるけんのう」  治夫はなぜかその弾痕《だんこん》だらけの幹に、女の形があるのを見た。何もない幹に向けて撃っているのではない。確かに辰男は憎い者の幻を撃っているのだ。 「すまんのう、ほんなら頼まぁ虔吉つぁん」 「いや、困った時はお互い様じゃけえ」  家鳴りがする。虔吉が屋根の雪下ろしに来てくれているのだ。口で礼を言うしかない婆やんが、必死に腰を屈《かが》めて拝む格好をしていた。虔吉は誰かに誉められると、どこか苦しげな顔をする。そんな顔をしながらも、いつも黙々と誰かのために働いている。  そんな虔吉から目を逸《そ》らし、治夫は火の気のない土間に駆け込んだ。冷えは骨をも蝕《むしば》むようだ。今、治夫の家にはまったく男手がない。  その上、子供心にも冬の厳しさをますます感じることが重なった。先週から、爺やんが寝つくようになったのだ。 「爺やん」  そっと声をかけても返事はない。治夫は独り、乏しい火種しかない囲炉裏の前に座る。納戸《なんど》に粗末な藁布団を被《かぶ》って寝ている爺やんは、生きた死者だった。  麦だけの飯は真っ黒で、僅《わず》かな田畑は荒れ果てていた。烏威《からすおど》しの屋根には、せっかく払ってもらったのにまた雪が降り積もる。  祖母と母が貧しい田畑を耕し、以前にも増してあちこちの家に手伝いに出たり内職をしたりもした。それでも暮らしぶりは厳しいままだった。豊かだったことなど一度もないのだが、その厳しさは子供をもかじかませる。  麦飯は麦雑炊になり、俗に言う天井|粥《がゆ》となった。つまり薄すぎて天井が表面に映るという代物だ。いつも空腹なので、それが当たり前になった。慣れる苦痛と慣れることのできない苦痛とがある。  ……何時の間にか囲炉裏端でうたた寝していた治夫は、家の前から聞こえてきた母親の声に目を覚ました。治夫は土間からそっと外を覗《のぞ》いてみる。 「ほんまに、ほんまに、有り難いことですらあ」  母がまさに苦痛の色を浮かべて、砂子の奥さんに頭を下げている。集落で一番の金持ちの砂子の家からは、たびたび色々なものを借りたり貰《もら》ったりしているのだ。 「いや、そんな、まあお宅も今大変じゃしなあ」  地面がどこまでも真っ白なために、そこに佇むおっ母は本当に汚れて小さなものに映った。干し大根の入った籠《かご》を押し戴《いただ》いて、おっ母はまるで命乞《いのちご》いをするかのように頭を何度も下げていた。  砂子の奥さんは娘のお古なのか、派手な色彩の半纏《はんてん》を羽織って立ち尽くしている。この砂子の奥さんも虔吉と一緒で、人のために何かしてお礼を言われても、嬉しそうな顔をしない。むしろ苦しげだ。  その砂子の奥さんが、戸口に隠れて立つ治夫に気づいた。懐から小さな紙袋を出しながら、不器用に雪を踏んでこっちに近付いてきた。なんでいつも、ちょっと困ったという顔をしとるんじゃろうか。大きな白い顔に見下ろされ、治夫は俯《うつむ》く。 「坊が、しっかりせにゃあ、おえんよ」  砂子の奥さんは、その袋をくれた。治夫は黙って頭を下げる。こんな時、おっ母のように必死に頭を下げねばならないのかと思いながらも、すぐに後退《あとずさ》りをした。  砂子の奥さんは、そのまま畦《あぜ》を辿《たど》って帰っていった。その後姿から、おっ母もすぐに目を逸らした。元々はおっ母の方が別嬪《べつぴん》じゃのに。と、治夫は袋を開ける。 「なぁ、おっ母」  あの奥さんは、金持ちなのになんで仕合せそうにないんじゃろうか。そう訊《たず》ねようとした時おっ母の顔の険しさに気づいて、違うことを言ってしまった。 「あの婆やんも、仲間外れなんか」 「…………」  貰った煎《い》り豆を齧《かじ》りながら、治夫はそっと砂子の奥さんを思う。おっ母は何も答えてくれず、家の中に入ってきた。抱えた大根の籠を乱暴に土間に置く。納戸から、爺やんの苦しげな咳《せき》が聞こえた。 「辰っつぁん、おるんか。入ってもええか」 「治夫か。もう学校は済んだんか。もう、そねえな時間か」  白く凍る森を迂回《うかい》して、治夫は最近一人で辰男の家に遊びに行くようになっていた。フカグツはまた破れていたが、治夫は辰男の許《もと》に行きたかった。  辰男は囲炉裏の前でやっぱり、帳面に何やら書き付けている。そんな姿を見ていると、治夫はどうしても尊敬の念を抱いてしまう。  せっせと雪を下ろしてくれた虔吉には持てない念を、抱いてしまうのだ。  土間でのろのろと機織りをしている辰男の婆やんは、壁の染みのようだった。手元の赤い色彩が余計に寒々しい。いつも大人しい婆やんは治夫にも、 「良三さんは、按配《あんばい》はどんなじゃ」  ぼそりとそれだけ聞いて、機織りの手は休めない。 「……うん、まあまあじゃ」  それだけで会話は終わる。治夫はすぐに辰男の隣に座り込み、砂子の奥さんのことを聞いてみた。あの奥さんはなんで、金があるのに仕合せそうにないんじゃと。 「砂子の婆やんか」  辰男は物憂げに顔をあげ、少し笑った。 「亭主に相手にしてもらえんからじゃ」  わかったようなわからないような、そんな返答だ。その傍らには鈍く光る猟銃が置いてある。撃てば燃える銃口も、今はしんと冷えきっている。 「そんなんより、話の続きをしてえな」  治夫は身を乗り出し、辰男の帳面を覗き込んだ。辰男の物語は丁寧に書き付けてあるのだが、まだ治夫には読めない漢字が多すぎる。それに自分で読むより、辰男に語ってもらう方がいい。  ふと辰男は半身を真直ぐ起こすと、治夫を正面から見つめた。 「この帳面はいつか、出来上がったら治夫にやるけえな」  治夫は胸をときめかせた。周囲が明るくなったと感じたほどだ。 「ほんまか。それはいつなんじゃ」 「……近いうちにじゃ」  しかし改めて見回せば、やはりこの家も暗い。まだ配電の時間でないため、揺れる裸電球も冷え冷えとした色だ。 「そうか、近いうちなんじゃな」  近いうちに。その言葉は本来は嬉《うれ》しいもののはずなのに、治夫は辰男の物語が終わってしまうことに寂しさをも抱いた。  それにしても、と治夫は帳面を覗き込む。こんな立派な「小説家」をなぜ村人は疎み、恐がるのか。それを言えばあんな優しい砂子の奥さんを、なぜ女達は遠巻きにしているのか。何よりも、いい人いい人と誰にも誉められるうちの家族が、何故に一番貧乏をしなければならないのか。 「もう、終わりは近いんじゃ」  揺れる裸電球を見上げ、突然辰男は強い口調で念押しをした。もう、終わりは近いんじゃ。治夫はぼんやりと、傍らの猟銃を見た。  春は本当に、遠かった。いや、だんだんと遠ざかっていくようだった。夜中に目が覚めると、隣におっ母がいないことが度々あるようになった。 「治坊。早う寝んといけん」  おっ母は乱れた髪を直しもせず、どこか切羽詰まった様子で治夫を促す。爺《じい》やんの世話をして納戸から出てきた婆やんまでもが、 「なんなら婆やんと寝るか」  皺《しわ》だらけの手を治夫に伸ばしてくるのだ。治夫は不貞腐《ふてくさ》れて、一人で寝床に潜る。なぜに、自分をそんなに寝かせたがるのだ。 「おい、治夫よ」  隣の納戸に寝たきりの爺やんが、襖《ふすま》越しに妙にはっきりとした声を出した。 「起きとったら、きょうてえものが来るで」  その爺やんの声に、治夫は怯《おび》えた。きょうてえもの。怖い何物かは、頬の痩《こ》けてしまった爺やんにも忍び寄っていると感じたからだ。  きっぱりと断ち割られた半月が、森の彼方《かなた》に沈み始めていた。雪に氷に月光に凍る森の木々は、村人が悪口を囁《ささや》くようにざわざわと揺れているのが、土間の窓から覗ける。  治夫が「起きとったら来る、きょうてえもの」に出会ったのは、そんな半月さえ天空で凍り付く厳冬の夜中だった。  一番奥に爺やん、真ん中に婆やん、そして襖の手前に寝ていた治夫は、その向こうの囲炉裏がある板の間から奇怪な呻《うめ》き声が漏れてくるのに目を覚ましたのだ。 「おっ母……」  治夫はその自分の声に、闇の底に突き落とされる恐ろしさを覚えた。あの奇怪な呻き声は、そのおっ母のものであったのだ。  婆やんと一枚の布団を着ているために、治夫は掛け布団をかぶって襖ににじり寄る訳にはいかなかった。そうすれば婆やんが目を覚ましてしまう。治夫は凍えながらも、寝間着一枚で襖に膝《ひざ》で歩み寄った。 「どんなんなら。もっと声を出してみんか」 「おえんわ。子供が起きるがん」  治夫はどこからか射してくる、半月の白い光を受けた。その中に、恐ろしい光景が広がっていた。おっ母は砂子の爺さんに組み敷かれていたのだ。  治夫のどこかが痺《しび》れていた。いや、全身が痺れていたのか。爺やんの荒い鼾《いびき》と、婆やんの規則正しい寝息は何時の間にか途切れている。爺やんも婆やんも、板の間で何が行なわれているかわかっているのに、寝たふりをしているのだ。  おっ母は寝間着を纏《まと》ったまま、森の獣のように四つん這《ば》いにさせられていた。絡げた着物の裾《すそ》から、異様に白い尻《しり》が覗《のぞ》いていた。砂子の爺さんはそのおっ母の尻を抱えて膝で立ち、何やら忙《せわ》しなく腰を振っていた。  おっ母が細く高い声をあげている。治夫は這いずって、布団に戻った。中に潜り込んでも、凍り付いた全身は震え続ける。婆やんはまだ寝たふりを続けている。ならば子供の自分もそうしなければならないと、治夫は歯を食いしばる。 「ええよ、ええよ」  おっ母のいない寝床は寒い。けれど治夫は硬く縮こまり、夜が明けるのを待つしかなかった。真夜中には、上弦の半月は沈む。 「どねんなら。ええんか」 「ええよ、ええよ、ぼっけえ、ええわ」  母のあの声は、ただ苦悶《くもん》するだけのものなのか。 「ああ、寒。治夫、茶碗《ちやわん》を出してきんさい」  翌朝、何事もなかったかのような母がいる。日向《ひなた》の中に佇《たたず》んでいる。その陽もまた、白々しいほどに明るい。昨夜の刃物みたいな半月は、どこにもない。  婆やんは、納戸《なんど》まで粥《かゆ》を運んで爺やんに食べさせている。囲炉裏の端で朝飯を食うのはおっ母と治夫だけだ。治夫は黙って立ち上がり、僅《わず》かな家具の一つである水屋から茶碗を出した。その時、下の段の引き出しが少し開いているのに気づいた。ここには、僅かながら金を入れた布の財布が入っているのだ。  古い布で作ったその財布から、紙幣がはみ出していた。紙の金など、この家では滅多に見ない。なんでこねえに金が、と目を凝らした治夫は慌ててその引き出しを閉めた。  砂子の爺さんに、貰《もろ》うたんじゃ。これからも、貰う気なんじゃ。  治夫は慌てて茶碗を捧《ささ》げると、囲炉裏の前に座った。それを言ってはいけない。 「今日は雪降らんかったらええなぁ、治夫」  おっ母は何事もなかった顔で、自在|鉤《かぎ》にかけた鍋《なべ》を掻《か》き回していた。ふと、辰男に聞いた怖い昔話の鬼婆を思い出し、治夫はその母の痩《や》せた腕から目を逸《そ》らした。  さすがに毎晩ということはなかったが、その後も治夫は何度も夜中に目を覚まさせられた。森の底から昇って森の上空に光る今頃の半月は上弦の月で、これは次第に膨らんで満月になるのだ。その月光の下、昼間も怖い砂子の爺さんが、夜にはさらに恐ろしい者になってやってくる。 「おっ父」  治夫は、遠いおっ父に呼び掛ける。もちろん、おっ父は助けに来てはくれない。おっ父以外の誰か来てくれないものか。母はその時、まるで森から聞こえる気味の悪い啼《な》き声のような声をあげていた。その声は治夫の耳にこびり付いた。 「どねんなら。ええんか」 「ええよ、ええよ、ぼっけえ、ええわ」  板の間で砂子の爺さんに嬲《なぶ》られるおっ母は、歯を出して笑う表情をしていることすらあった。治夫はおっ母の肌を白いと感じたことなどない。おっ母の体を女の体などと思ったこともない。  しかし母は白くて女で、物語の雪女そっくりの恐ろしいものになった。吹雪の夜など、森からそっくりそのままおっ母の声が聞こえる時もある。本当に雪女だったらどうしようかと、砂子の爺さんに跨《また》がって笑うおっ母に悲鳴をあげかけたこともあった。  一度だけ治夫は、裸にされているおっ母と目が合ったことがあった。あれはおっ母の目ではなかった。森に棲《す》む奇怪な何物かだった。 「撃ってくれえ」  治夫は辰男に祈った。いや、辰男についているはずの怖い神様に祈ったのだ。  雪で学校が休みになった日、久しぶりに辰男に行き合った。辰男は鉄砲を提げていて、いつになく元気そうだった。着込んだ黒い詰め襟の服は、何か盛装を感じさせた。その眼差《まなざ》しには異様な光さえあった。 「兵隊さんみたいじゃ」  口にしてから、治夫は背中が冷えた。兵隊の検査に落ちたことを、またしても口にしてしまった。そうだ、これはあの母のことを誰にも言ってはいけないのと同じなのだった。 「そうじゃろう」  しかし、辰男の方から口にしてきた。 「わしはいつか兵隊に行ける日も来ると思うてな、こうして運動がてら鉄砲を撃つ練習もしよんじゃ」  村の女達の噂は、辰男にだけは届かないのだろうかと、治夫はふと思った。女どもは、 「うちらに相手にされんなった辰男は、脅すつもりで鉄砲持ってうろうろしよんじゃ」 「しゃあけど阿呆《あほ》じゃのう。それでうちらを好きにできるとでも思よんかな」  と、憎々しげに口にしていた。 「森から銃声が響いたら、生きた心地がせんぞ」  突然に辰男は、腰を落として治夫を抱き上げた。可愛い可愛いと、頬摺《ほおず》りするためにではないと、その腕と眼差しの硬さが伝えてきた。 「のう、治夫。これからわしん所に来んか」  辰男の胸から木枯らしの音がした。病んだ肺の音だ。しかしそれがこの前と違う強さをも感じさせる。治夫は何かの予感に身震いした。  すでに勝手を知った辰男の家に、あの縮こんだ婆やんはいなかった。 「治夫、ちょっと待っとれ」  言い置いて、辰男は屋根裏に上がっていった。頼りなげな囲炉裏の火は遠く、治夫は凍えながらも土間で従順に待った。  その土間には秤《はかり》が置いてある。錆《さ》びた重々しい金属の秤もまた、冷えきっていた。  やがて注意深く梯子《はしご》を降りてきた辰男は、重たげな風呂敷《ふろしき》包みを抱えていた。治夫が辰男に続いて板の間に上がると、辰男はそれを開いた。治夫はぼんやりと、その中身を見下ろした。  猛獣用の実弾、散弾の実包、薬莢《やつきよう》、雷管、火薬、鉛弾。それらが無造作に何箱もある。それから、黒く光る猟銃。さらに布に包まれた匕首《あいくち》、日本刀。さらに懐中電灯が二本、胸にぶら下げられるよう紐《ひも》をつけた懐中電灯や、布製のゲートルもあった。  それらを改めて確かめると、辰男は土間に降りて治夫を手招きした。 「治夫、体重量っちゃる」  その金属の錆びた重々しい秤に、治夫は乗せられた。辰男は真剣な眼差しで重りを片方に下げていく。それから治夫を下ろし、今度は荷物を載せた。予《あらかじ》め量ってあったかのように、ほとんど同じところで針は止まった。  辰男の風呂敷包みの中身と、治夫はほとんど同じ重さなのだった。 「思うた通りじゃ」  治夫は何かしら空恐ろしいものを背中に受けながらも、嬉《うれ》しかった。辰男の何かと自分は同じだけの価値を持つのだ。辰男は再びそれらを大事に包み直した。そうして屋根裏に持って上がる。治夫は秤を見た。何も載せてないのに、目盛りが揺れていた。 「治夫、話の続きをしちゃるけん」  突然に辰男はしゃがみこんだ。治夫に背中に乗れというのだ。父親が不在の今、自分を背負ってくれる大人は他にいない。治夫は飛び付いた。胸の病と忌まれても、辰男は充分に若い。背中は大きく血の温《ぬく》もりも感じられた。 「行くで」  低く囁《ささや》くと治夫を背負ったまま、辰男は家を出た。治夫は束の間目を閉じる。自分が猟銃や日本刀になった気がした。辰男は自分を背負っていると思っていないのではないか。ふと感じたのだ。辰男は、さっきの武器を背負って走っているつもりなのではないか。  頬を切り付ける風も心地よい。大人はこんな目線で世の中を景色を他の人間を見ているのだ。自分も早く大人になりたい。見下ろす世界を持ちたい。嫌なことだらけの世界を見下ろし、破壊してみたい。  いじめっ子を撃つ、斬る、叩《たた》きのめす。辰男は森を横目に駆けた。何故に徴兵検査を落とされたかというほどに、力強く駆けた。治夫はその背にしがみつくだけで必死だった。  辰男は自分の親戚《しんせき》の家の前に立ち止まる。どこの家もそうだが、陰鬱《いんうつ》な家だ。ここの主人は頭の病気と噂されていた。ここの辰男の従兄《いとこ》も、治夫はあまり好きでない。 「糸井辰男将軍と馬場治夫大尉は、ジャングルの前で躊躇《ちゆうちよ》したのであります。熱帯の風は狂暴なほどに吹き荒れておりました」  突然、辰男は物語を始めた。治夫は必死に耳を傾ける。異国の虎や鳥が舞う情景を思い浮かべようとする。勇猛な辰男と従順な自分をも。突破口で躊躇《ためら》ってはならないのだ。走りだせば、戦いが始まれば、突き進むしかないのだ。 「ジャングルには、どのように恐ろしい敵が潜んでいるのかわかりません。しかし、二人の勇猛なる兵士は棘《いばら》だらけの草も行く手を阻む毒蛇をも恐れはしないのです」  辰男は幻の銃口を向けると、玄関に撃ち込んだ。治夫は確かに黄昏《たそがれ》の中、辰男の幻の銃口から長く青い炎が噴き上がるのを目にした。 「糸井将軍は、思わぬ油断をしたようです。前に進むことに必死であったために、すぐ後ろに潜む敵兵に気づくのが遅れてしまったのでした」  そのまま辰男は踵《きびす》を返し、村道を駆け上がった。点在する家はどこも暗く村道の両脇にへばりついている。悪い吹出物のようでもあった。治夫はすでに、物語の登場人物になりきっていた。この世界で味方は糸井将軍だけなのだと、辺りに潜む敵を探す。 「その間一髪を救ったのは、馬場治夫大尉の銃弾でありました。たちまち、どうと倒れ伏す敵兵の姿。しかしそれで安心はできません。すぐに大きな獣の咆哮《ほうこう》が聞こえます」  辰男は高台に向けて駆け上がった。そこは村で一番の金持ちとされる砂子の家だ。家もまた威張っている。あの老人がいるのではないかと、治夫は恐れと嫌悪とでいっぱいになる。辰男もまた、そうであったらしい。そこでは幻の日本刀を抜いた。 「さすが、名刀長船でありました。糸井将軍の太刀は月光よりも鋭く閃《ひらめ》くやいなや、虎はあっさりとその頭と胴体とを切り離されたのであります」  まだ実際には陽は落ちていないが、辰男と治夫は闇夜を駆けていた。そうじゃ、あの嫌らしい爺さんには鉄砲より日本刀じゃと、治夫は辰男の背中で拳《こぶし》を握る。 「死してなお恨めしげに見開いた、その虎の目の大きなこと」  突風に雪が舞う。唐突に仰ぐ空の深い色が治夫を押さえ付けてきた。月はまだ出ない。藍色《あいいろ》の空の下、さすがに辰男は息切れがしてきたようだ。 「治夫の頬っぺたに、夕陽が映っとる」  突然に辰男は立ち止まると、物語を語るのではない普段の辰男の口調に戻った。高台に立ち、治夫を背負ったままで息を整える。ここからは砂子の家がよく見渡せた。金持ちの砂子の家にはいつもたくさんの人がいる。雪掻《ゆきか》きに来ている村人達が、ちらりとこっちを向いた。黒い影法師だ。安らぎの風景ともいえるのに、この侘《わび》しさは何なのか。 「ええのう。治夫にゃあ、この先の世界がなんぼでもあるんじゃけ」  背中にその頬をつけると、木枯らしの音はますます強くなった。それでも治夫を背中から降ろそうとはしない。 「しんどいんじゃねんか」 「いんにゃ。わしはまだ死ねん」  辰男はしばらく呼吸を整えてから、また駆け降りた。村人の真っ黒な幾つもの影が、治夫に石を投げ付ける格好をしたと見えたのは、辰男の気持ちに感応したからか。いや、確かにあの者達は自分達を嘲笑《あざわら》ったのだ。今に見とれ。唸《うな》るのは辰男ではなく治夫だ。  遠い異国で、国同士が戦うというのもあるが、こんな狭い所で元を辿《たど》れば血の繋《つな》がった者達が、好きだの嫌いだの生きるだの死ぬだのと騒いでいる。 「殺されるともしらずに、呑気《のんき》じゃのう」  この呟《つぶや》きも辰男ではなく、治夫の口から漏れたものであった。童子らしく頬を陽の色に照らしながらも、治夫は災いの言葉を呟く。  ここは拝み屋と呼ばれる石野の家だ。煙突から煙が出ている。もう風呂の支度か。あの派手な肥った女が思い出される。ああいう女より自分の母親の方が女として怖いなどと、どうしてこんな幼い頭で直感できたのか。爺《じい》やんの薫陶の賜《たまもの》か。 「何をうろうろしよんじゃ」  出てきたみち子がずけずけと言う。捕えた鼠をすぐに殺さぬ猫の目だ。女も猫も大した武器も腕力も持ってはいないのに、なぜにああも自分は強いのだという顔をする。 「子供しか相手にしてもらえんのんか」  こいつらは敵じゃ。治夫は辰男と一体化した。村人はすべて敵だ。これは爺やんも密《ひそ》かに教えてくれた。日本も敵国と戦っている。自分も戦わねばならない。厄災は何も遠くから怪物となって現れるばかりではない。  誰もが期待しているのだ。一息に楽になれる破滅を。破滅に導いてくれる荒神を。退路を断たれることは逆に捨て鉢な猛獣になれることだ。  辰男は小さく物語の続きを呟く。殺戮《さつりく》は静かに密やかに行なわれた。早く次へ、と治夫は祈り、促す。敵はまだいる。くつろげる時間など戦場にはない。 「わしゃ、みち子にも相手をしてもらえたがのう。つい最近まではな」 「そねえなことを、言い触らすもんじゃねえ。村の者がお前を何と言うとるか知っとるんか。肺病の色気違いじゃ」  唾《つば》を飛ばす女を、辰男は睨《にら》むだけだった。その背にいるだけでみち子の死の間際の悲鳴は伝わってきた。石臼《いしうす》で碾《ひ》き潰《つぶ》された真っ赤な顔に見えて、一瞬治夫は目を瞑《つぶ》る。  すぐに辰男は走りだす。そこにはちゃんと手順がうかがえた。辰男はただ闇雲に駆けているのではない。走る道順、かかる時間、辰男は冷徹に計っているのだ。治夫は目線が大人になったためか、それらがよくわかった。  最後に辰男は金中の家に着いた。あの夫婦はいないが婆さんがいた。汚らわしいものとして、辰男と治夫を睨んでいた。 「治夫の上にまた一つ、悪い何かを背負うとる」  婆さんが黒い口元を歪《ゆが》めた。辰男はすでに肩で大きく息をしている。それは治夫の胸をも痛ませた。もう、ええんじゃないんか。追っ手はもう、撒《ま》けたんじゃないんか。 「やよひはどうしとるんじゃ」  荒い息の下から、辰男は呻《うめ》いた。切ない、惨めな響きだった。聞きたくなかったと、治夫は背中に顔を伏せる。 「婿と出掛けとるわ」  婆は言い捨てて家に入っていく。何か幕を引くように辺りは沈んだ。 「敵兵を倒してもまだ密林の中で油断はできません。敵は前から襲ってくるとは限らないからです。背後からも頭上からも足元からも忍び寄ってきます」  辰男は森に入っていく。最後に行き着くのはここなのか。治夫は震えた。森には何者もいない。敵はすべて村に、暖かな灯のともる家の中にいるのだ。それを実感した時、治夫は獣の咆哮をあげかけた。 「まだまだ冒険|譚《たん》は続くのであります」  辰男が甲高い声をあげた時、治夫は我に返った。 「うちで飯食うていくか」  辰男は治夫を背負ったまま、家に連れて戻ってくれた。土間で秤《はかり》が揺れていた。イヨが囲炉裏の前にいる。見る度に縮んでいくようだ。 「良三さんは具合はどうじゃ」  治夫のかじかんだ指先にはなかなか感覚が戻ってこない。辰男の味方はここにいる自分と婆さんだけか、と思ったら寂しさに浸された。逞《たくま》しい大人の男と美しい大人の女はすべて辰男を嫌っている。  この寂しさは辰男のものか自分のものか、治夫はわからなくなった。 「爺やんは、時々ここの婆やんの話をする。イヨさんはどねんしとるじゃろうか、て」  弱い炎の陰影に、束の間イヨは女に戻る。いっそ鬼婆になれれば楽かもしれぬ。老いて萎《しな》びて、希望は何もない。煮豆も何の味もしなかった。  辰男と別れたその晩、治夫は布団の中でいつもと違う奇怪な啼《な》き声を聞いた。森で誰かが鉄砲を撃つ音だった。憎しみの籠《こ》もった音だった。板の間には今夜も砂子の爺さんがいる。母が身をくねらせて、悲鳴をあげている。治夫の耳は、確かにそれを捉《とら》えた。耳を塞《ふさ》いで布団をかぶれば、それは村人すべての悲鳴に響いた。 「辰男、頑張れ」と治夫はつぶやいた。  辰男が語ってくれる物語は、波瀾《はらん》万丈の冒険譚だった。そこに登場するのは、辰男とおぼしき青年将校と、多分これは治夫を想定してくれているはずの少年兵だ。二人は海洋に繰り出し、様々な敵と渡り合い勝ち進むのだ。治夫は瀬戸内海すら見たことがない。 「そいでも、婆やんは辰男に優しいじゃろが」 「そうじゃ。わしゃ、優しいものの言いなりになってのう、牙《きば》を抜かれてしもうた」  治夫はふと錯覚に陥る時がある。本当の自分は本当の辰男とともに、今頃どこか遠い南洋の海にいるのではないか。こんな閉ざされた貧しい村にいる自分達こそが夢物語の登場人物ではないのかと。  もしかしたら、辰男もそう夢想しているのではないか。 「なあなあ、それより終わりはどねんなるんじゃ」  辰男の家の囲炉裏の前で、治夫は膝《ひざ》を乗り出している。辰男はこのところ常に猟銃を傍らに置いている。だが、治夫には危険な感じはしない。慣れてしまったのもあるが、実際に火を噴くところは知らないのだ。 「終わりを早うに知りてえんか」  無表情に鉛筆を動かしながら、辰男は言う。改めて聞かれると、治夫は困る。どんな結末が待っているのだろう。待ち遠しくもあるが、終わりがいつまでも来なければいいのにとも思うのだ。  だが辰男はそこで、ふと顔をあげた。 「ところで治夫のお母は、最近どねんしょんじゃ」  辰男はあのことを知っているのだろうか。砂子の爺が来ていることや、あの奇怪な啼き声のことも。治夫は咄嗟《とつさ》に、こう答えてしまった。 「わしは婆やんと寝とるけん、わからん」  辰男は口元を歪めて笑った。 「元気かどうか聞いただけじゃのに」  帳面に立てたままの鉛筆は、強く紙に押しつけられて震えていた。 「治夫のおかんが、夜中に何をしとるかまでは聞いとりゃせんで」  そこへ、辰男の祖母イヨが入ってきた。イヨはいつもその手で治夫の頭を撫《な》でる。 「良三さんは、どねんじゃ」  治夫の爺やんがイヨさんと呼ぶように、このイヨもまた治夫の爺やんを良三さんと呼んでいる。そこには、母のあの夜中のような淫靡《いんび》さはない。ただ、物悲しさだけがあった。 「……寝とる」  としか答えられない治夫の横で、また辰男は無表情に鉛筆を動かし始めていた。物語の中の人間は皆、勇ましい冒険をして優しい故郷を持って、清楚《せいそ》な美女や雄々しい英雄と恋をする。なのになぜ現実に生きる人間は、ただ飢えて老いて死ぬだけなのか。  治夫はそんなふうに辰男の物語を聴けば、心ときめくのと同時にいつも遣《や》る瀬ない痛みをも覚えるのだった。  銃声がすると、治夫は喜んで森に駆けていく。どこにいる。捜し当てた辰男は、銃を置くなり座りこんだ。雪の上に辰男の口から出た血が糸を引いていた。 「ええんじゃ。治らんでええんじゃ」  辰男は蒼白《そうはく》だ。弾痕《だんこん》だらけの樹によりかかる。治夫は立ち尽くすだけだ。銃だけが熱く湯気をあげていた。 「小便か」  だからいきなり辰男がズボンをずらした時、治夫は安堵《あんど》したのだ。正気になって立てると思ったからだ。だが、小便にしては不思議な動作をした。 「よう見とけえよ。わしゃ、もう勉強も教えてやれんし村の仕来りじゃあ何じゃあいうものも、教えれん。しゃあけえ」  大人のそれをまじまじと間近に見たことはそんなにない。父親や爺《じい》やんとは風呂《ふろ》に入らなかった。母親を貫く余所《よそ》の男のあれは、剣のようでただ恐ろしい異形のものだった。  しかし今目の前で行なっていることは何なのか。千切れるのではないかというほどそれを扱《しご》いている。辰男は苦悶《くもん》の顔をしている。やがて手が止まった。痙攣《けいれん》が走った。 「こりゃあ、女とすることの代わりじゃ。しゃあけど、ほんまはこっちの方が気持ちええんじゃで」  白濁した液は、口から吐かれた血よりもねばっこく糸を引いて雪の上に滴った。しばらく死んだようにぐったりと辰男は木によりかかる。  傍らの銃はすでに冷えきっていた。銃口からはもう弾も炎も出ない。銃はそれでも硬いままなのだった。辰男は少し笑った。  治夫の爺やんは、良くなったり悪くなったりを繰り返した。近場の畑に出られる日もあれば、一日寝つく日もあった。辰男の祖母が来て、睦《むつ》まじく肩を支えてやりながら散歩をしている日もあった。そんな時、治夫の婆やんは手伝いに出ている。 「まだまだ、治夫を置いては逝けれん」  死ぬ、と口にするよりも、「いく」という言葉に治夫は戦《おのの》いた。死なれては困るというより、自分が置いていかれることが怖かった。  爺やんにふと、あの森での辰男のことを話したくなる。爺やんも、あれをしたんかと。あれをしたら生気が蘇《よみがえ》るのではないかとも思うが、やはり言ってはならないだろう。教えられなくても、こんなことはどうしてわかるのだろう。  そんなある日、学校からの帰り、治夫は辰男と母が森の中にいるのを見た。昼日中だというのに、母は夜の顔をしていた。  二人は何やら言い争っているふうだった。辰男が鉄砲を撃ちはしないかと青ざめたが、あの夜中の母ならば撃ち殺してくれてもよいと思った。  凍える地面を蹴《け》って治夫は家に帰り着いた。爺やんの苦しげな鼾《いびき》が聞こえた。  囲炉裏の前に座り込み、治夫は凍える指を折る。辰男に、いや、辰男の神様に罰を当ててもらうのは誰と誰がいい。  いつも苛《いじ》めにくるあいつとあいつ。それに砂子の爺さんも。それから、あれとあれと……治夫は勘定する。しかしその通りになれば、村の人間はいなくなってしまう。いなくなればいい、とも思うが、それはあまりに怖い夢だ。  帰ってきた母は、何事もなかったような顔をしていた。 「治坊、婆やんと寝んさい」  それは合図だ。男が忍んでくるということだ。婆やんはわかっているのかいないのか、いや、わかっているから、治夫を招く。  婆やんはまた、イヨ婆さんとうちの爺やんの隠微な何かをちゃんと知っているのか。架空の物語と違って、現実の物語は心ときめくものばかりではない。  治夫はその夜、なかなか寝つかれなかった。午後から降りはじめた雪は積もっている。柱は元々傾いでいるが、屋根が鳴るのが不気味だ。森から吹き付ける風の音には敵意すら感じる。囲炉裏の火以外に明かりはない。 「寝んと、子取りが来るで」  寝床でも治夫は凍えた。辰男に聞いた物語の、怖い箇所ばかりが思い出される。怪魚に底なし沼に人食い人種、巨大な猛獣に毒を持つ虫や花。闇の底から、女の形をした化け物が現れる。婆やんには昔もう一人の亭主がいて、それが大層恐ろしい者だったというのも思い出す。……目を覚ました治夫は、隣室から漏れる声を聞いた。 「なんであんたが来るん。困る」 「砂子の爺さんが来るからか」  隣の婆やんは、恐ろしい眼差《まなざ》しでじっと天井を睨《にら》んでいる。まだまだ子供には見てはいけないもの、聞いてはいけない音があるのだと、治夫は固く目を閉じた。 「とにかく、帰ってん」 「わしが肺病じゃからか」 「そうじゃ」  押し殺した男女の声は、隣の婆やんにも届いているはずなのに、寝たふりをしている。やがてがたがたと、建て付けの悪い戸口が開く音がした。あれは辰男であるものか。治夫はさらに固く目を瞑《つぶ》る。  その後、砂子の爺さんがやってきたかどうかはわからない。治夫は寝入ったからだ。怪奇な悪夢はもう見なかった。  ふいに訪れた穏やかな一日。庭先で、治夫の婆やんと辰男の婆やんが囲炉裏の火に当たりながら、ひそひそと喋《しやべ》っていた。老いた女二人はそっくりだ。 「わしも、家に戻るんがきょうてえ」  辰男のところの婆やんは、また小さくなったようだ。寒そうに縮こまっているのもあるが、ほつれ毛までが寒々しい。 「そりゃまた、なんでじゃ」  そのすぐ側で寝たふりをしながら、治夫は聞き耳を立てた。 「辰男がきょうてえんじゃ」  少し離れた場所ではしんしんと冷えが忍び寄ってくるが、治夫は聞き入っている。 「ありゃあ、頭がおかしゅうなっとるんかもしれん」  治夫は薄目を開ける。いつのまにか婆やんが半纏《はんてん》を掛け布団代わりにかけてくれているので、見え難《にく》い。それでも、辰男の婆やんの眉間《みけん》の皺《しわ》は見えた。 「わしは殺されるんじゃねえんか」  その向こうで、囲炉裏の鉤《かぎ》を上げ下げする魚の形のものが、泳ぐように揺れている。尻尾《しつぽ》の部分は縄で結ばれ、その縄は天井近くの梁《はり》に括《くく》られている。 「いや、こうなったんもわしが悪かったんじゃ。可愛い可愛いで育てて、可愛がりすぎた。こんな婆一人、あの子ははね除《の》けれん弱い子になった」 「そねえな阿呆《あほ》な話はなかろう」  治夫の婆やんの呆《あき》れた声を、辰男の婆やんは押し殺した声でさえぎった。 「いんにゃ。あんたも覚えとろうが」  釣り下げられた土瓶が盛んに湯気を立てていた。だが、その前の老女達は身じろぎもしない。ふいに、爺やんの咳《せ》き込む声がした。と思ったら、その寝ていたはずの爺やんがかすれた声をあげた。 「辰男の爺さんも、そんな時があったな」  すでに死の淵《ふち》にいるはずの爺やんが、異様に明瞭《めいりよう》な思い出話を語り始めていた。 「話をつけようと森に連れ込まれてのう」  目を固く瞑っても、薄目を開けても、闇はある。 「あん時は鳥目のあいつが迷うてくれたけん、わしはこうして生きとる」  闇はその深い森からやってくる。こんな皺だらけの三人にも、生々しい男女の時があったのだ。そういえば、婆やんの元の家に今は辰男の一家が住んでいると聞いた。あれは因縁の家じゃと、誰かに耳打ちされた。婆やんの因縁と爺やんとうちのお母と、辰男と。因縁とはどのように結ばれていくものなのか。  相変わらず森からは、銃声が聞こえる。それは辰男の死んだ爺《じい》さんが、治夫の爺さんに殺される最期の悲鳴にも聞こえた。 「そねえな昔のことは、ええ」  ぴしゃりといつになく強い口調で、治夫の婆やんがさえぎった。辰男の婆やんは何も答えなかった。ただ、辰男がきょうてえ、と繰り返した。  池に氷が張り、その上にまた雪は降り積もった。治夫は凍える。透けている蓮《はす》の葉がまた寒々しい。明日は田圃《たんぼ》を凍らせ、明後日《あさつて》は森をも凍らせるのではと、治夫は戦く。  治夫はこっそり、秤《はかり》に乗ってみる。こんなにいつも腹を空《す》かしているのに、なぜ少しずつ体重は増えていくのか。辰男の背中にはもう乗せてもらえなくなるのか。自分より少しずつ軽くなっていく、あの風呂敷《ふろしき》の中身。  そんな厳冬の真昼に、治夫の祖父は死んだ。  学校から帰ってくると、庭先に婆やんが泣き腫《は》らした顔で立っていたのだ。 「爺やん、死んだんよ」  爺やん、出掛けたんよ。治夫には、それくらいの響きしかなかった。冬ざれた村に、死者の出た伝達は手際よく流れていく。  治夫は途方に暮れた。悲しみよりも、置いていかれたことに微《かす》かな怒りさえ覚えた。凍てつく森は素知らぬ顔で、背後にこれから昇る半月を隠している。 「わしも、ついて行きてえ」  婆やんは呻《うめ》いた。死者が出ても出なくても、村の侘《わび》しさは変わりない。色のない木々の梢《こずえ》の間を、よく通る声で鳴きながら鳥が逃げていく。落ちた羽根だけが雪の上に鮮やかだった。遠くに霞《かす》む雪風巻《ゆきしまき》に、激しい寒気を覚えた。治夫はそこでようやく涙が出た。 「正月には塩鰤《しおぶり》も食わした。小米の残りで団子も拵《こしら》えた。春の祭りにゃあ豌豆《えんどう》の混ぜご飯もしたじゃろ。爺やんの好物、一通り作ってあげたなあ。もうちぃと待っとったら、茄子《なす》の漬物が食えたのに。それだけが、心残りじゃわ」  お母は、爺やんの好きだった食べ物を挙げていく。お母はちゃんと、爺やんを好きで大事にしとったんじゃ。治夫はお母に抱きついた。茄子の漬物食えなんだ爺やんが哀れだ。  集落の者が、通夜に訪れた。その中には、辰男はいなかった。辰男の婆やんはいた。何やら呆然《ぼうぜん》とした表情で、寒風の中に立っていた。 「おえんかったんか。しゃあけど、ええお参りじゃったんじゃろうが」  呪文《じゆもん》のように呟《つぶや》いた後、辰男の婆やんはいきなり治夫を抱き締めた。 「治坊、治坊、最後に爺やんと、何をしゃべったんじゃ」 「……覚えとらん」  お母は、爺やんに食わした好物の名前を一々挙げていた。しかし自分は、爺やんとの思い出をここで語れば胸が潰《つぶ》れそうになる。  雪は止んでいたが、あちこちの田畑に屋根に白いものは積もって凍っていた。飛ぶ烏までが凍えていた。凍てついたのは爺やんの死骸《しがい》だけではなかった。 「すぐにみんな来るけんのう」  てきぱきと青年団や娘組を束ねて指揮するのは、糸井の政雄や砂子の恵一らだ。無論このような場面で、辰男が重用されることはない。治夫からすれば、嫌な大人ほど役に立つのだ。  婆やんは固まって、小さな人形になったように腰を屈《かが》めて俯《うつむ》いていた。誰かが入営中の父に報《しら》せねばと走ってくれ、たちまち葬儀の相談はまとまった。  慌ただしさの中、肝心の爺やんの死体だけがとり残されてのんびりとしていた。  村外れにちゃんと墓地はあるのに、治夫は爺やんは森に埋められるのだと思えて仕方なかった。すぐそこに爺やんの死骸はあるのに、すでに本物の爺やんはあの森にいるのだと信じた。  皆が寄り集まって通夜をし、葬式を出した。辰男はいなかった。治夫は慌ただしさの中でぼんやりと過ごした。偉そうに仕切る砂子の爺さんが威張っていた。 「ほれ、これで洟拭《はなふ》けや」  虔吉が来て相手をしてくれた。虔吉はこういう時にとてもいい相手だった。嫁のやよひは、何やら偉そうに女達を指揮してあれこれ走らせている。 「ええ、お参りじゃったんよ」  口々に煮炊きをしている女達が言う。それは、成仏を約束されたという意味合いの決まり文句だ。しかし、それは本当だと治夫は唇を噛《か》む。  村の境には地蔵が立っている。家の外での死は、この集落ではひどく恐れられた。爺やんは家の中で死んだのだから、成仏するのは間違いないのだ。たとえ何かに、そして誰かに心を残していたとしても、彼岸に楽々と辿《たど》り着けるのだ。  祖父の枕元には屏風《びようぶ》が逆さに置かれ、魔除《まよ》けの刀も供えられた。一本|樒《しきび》と一本線香が、火の気のない貧しい部屋で寒々と震えている。  誰かが火鉢を持ち込んでくれ、祖父の遺骸もわずかに緩んだ。 「こらっ」  と、鋭い怒鳴り声が飛ぶ。拝み屋の石野の親爺《おやじ》だ。猫は火車になって死人を盗《と》ると信じられている。土間に入りこんだ猫が追い払われたのだ。その猫は森の方に逃げていった。 「ああ、もうこんなんじゃいけんわ」  石野の娘はこんな場にそぐわない、派手な太い縞《しま》の着物だった。わきまえない、と顰蹙《ひんしゆく》を買っても石野の娘はやはり、自分がその場で一番注目を集めなければ気が済まない。これもまたてきぱきと色々な指示を出して人を動かしている。嫌な女の方が役に立つ、と婆やんの言葉を思い出す。  お母のような女は、おえんのじゃ。言いなりになるような女は、おえんのじゃ。治夫は拳《こぶし》を握り、土間に立つ。ここで、辰男に教えられたことをしてやろうかとまで思った。訳のわからない怒りで身体が熱かった。 「お国のためとは言うても、わしゃ親不孝じゃのう。親爺の死に目に会えなんだか」  入営先の広島から久しぶりに戻った父が、何時の間にか家にいた。治夫は父を見て初めて泣いた。爺やんが死んだことが、これで決まってしまったと打ちのめされた気持ちだった。  しかし、兵隊の格好をした父は何かとても遠い人だった。抱き上げられてもなかなかに温《ぬく》もりは伝わってこなかった。 「爺やんと、最後に何をしゃべったんなら」 「……茄子の漬物、食いたかった、じゃ」  母が砂子の爺さんに変なことをされとったと告げたかった。しかし告げれば誰かがまた死ぬと思って黙った。父は来てくれた村人を見回し、呟いた。 「糸井の辰男は葬式にも来てくれんのか」  祖父は坐棺《ざかん》におさめられた。深い棺《ひつぎ》に膝《ひざ》を抱いてうずくまる祖父の横で、祖母も同じ格好で放心していた。  代わって辰男の祖母がまるで本妻のように、食い別れに使う豆腐汁を煮ていた。死者よりも生きた者の方が凍える夜だった。 「治夫、おるか」  治夫は弾《はじ》かれたように立ち上がった。戸口にいたのはやはり辰男だった。異様に青ざめている。人目を憚《はばか》るように、ひっそりと佇《たたず》んでいる。 「爺やん、死んだんじゃ」 「知っとる……」  一足先に死後の世界など見てきた、そんな顔つきだった。その辰男が、治夫に何かを差し出した。帳面だった。あの、いつ果てるとも知れない物語を記したものだ。その帳面もまた冷たかった。 「どしたん」 「おめえに、やるけえ」  その帳面を持ち上げた途端、治夫はそこに不幸な結末があると確信した。登場人物の名前は書き替えられて、予想通りめでたしめでたしとは言い難い結末が記されていた。  難しい漢字や言い回しだらけだ。なのに結末だけが、苦労せずに読み通せたのはなぜだろう。これまで聞いたどんな話より治夫には真に迫った。  ……その村では立て続けに葬式を出すことになりました。それは村を襲った鬼のせいでありました。治夫少年はその夜の惨劇だけは、長じてからもなかなか忘れることができずにおりました。  鬼はいつだか、治夫少年を背負って空を飛んでくれたこともありました。治夫少年と同じ重さの宝物を運ぶために、先にどのくらい重いのかどのくらい時間がかかるのか、調べておきたいと鬼は考えたからでした。  治夫少年を背負って飛んで、それらを確かめることができた鬼は治夫少年に感謝しました。思った通りの時間、つまり追っ手が来るまでに、すべてやりおおせるとわかったからです。  お礼に、鬼は魔法を教えてやりました。憎らしい女をすべて消せる方法をです。いずれ大人になれば、それは役に立つことでしょう。  あちこちで、森の啼《な》き声がしました。それは銃声であり、悲鳴であり、怒号でありました。何人もが血に塗《まみ》れ、肉片が散ったのです。鬼になった男が、村を駆け抜けたからです。  しかし鮮明に覚えているのは、最後にこの家にやってきた鬼の奇怪な笑顔でした。懐中電灯を頭に括《くく》りつけた異様な姿の鬼は、 「帳面と鉛筆を貸してくれい」  と言いました。腰を抜かす祖母や母に、 「お前等は、わしの悪口を言わなんだけん」  と唇を歪《ゆが》めて笑いました。  血塗れの鬼が、森を目指して駆け抜けていき、治夫少年は茫然《ぼうぜん》とそれを見送りました。  森には亡霊が何人かいました。死んだばかりの祖父もいます。そうして、なぜか鬼の姿もありました。  鬼はいつか見た赤い血も白い血も吐いていました。いくら鬼でも死ねば可哀相です。ああ、死んだんだなと、治夫少年は震えました。すでに春だったというのにです……。 「森の神様から、亡者のために土地を貰《もら》うんじゃ」  婆やんはそう言い、寺から地取札《じどりふだ》を貰ってきた。なぜか辰男が、進んで穴掘りに来てくれた。村人は腫物《はれもの》に触る態度だった。辰男は殊勝にしていても怖いものらしい。やよひ、みち子らは露骨にそっぽを向いている。  凍えた地面に零《こぼ》れる花弁、お神酒《みき》と線香の匂い。森閑とした森を控え、死者は二度と戻るなと様々な約束事をさせられる。爺やんの葬儀は静かだった。 「あの話の終わりは、変じゃ」  とはどうしても言い出せない治夫は、穴に次第に隠れていく辰男を拝んだ。爺やんよりも先に亡者の国を知っていそうな眼差《まなざ》しが、確かに光った。 「しゃあけど、あの終わり方は……正しいんじゃな」 「わしも一緒に入りてえ」  婆やんが声を放って泣いた。その傍らで支えるのは、治夫の母親ではなく辰男の祖母だ。  一通り片付いた後、治夫は久しぶりに辰男に行き合った。辰男は借金をたくさんしているという噂だ。この狭い集落では、何でもすぐに伝わる。こんな子供にまで伝わる。 「ちぃっとばかし、重とうなっとるな」  辰男は再び治夫を背負った。駆けてくれるかと期待したが、辰男はゆるゆると歩くだけだった。しかも、村の入り口の電柱まで行っただけだ。それだけで胸の木枯らしは強く聞こえた。電柱には金具が左右に取り付けられており、足を掛ければそこに登れるのだ。  送電線は黒く空に模様を作っていた。風に揺れて泣き声をあげている。電気は五時から通るのだが、治夫の家には届かない。五分|芯《しん》のランプしかないのだ。 「あれが切れて停電になりゃ、真っ暗じゃ」 「わしんとこは、電気は来んけえ、いっつも暗いで」 「死んだらいつでも真っ暗じゃけん、かまわん」  新月が膨らむのではなく満月が欠けていく時の月は、下弦の月だ。この半分だけの月は真夜中に昇るため、まだどこにも見当たらない。なのに森は月影に黒々と浮かび上がる。  辰男の背で治夫は、再び大人の男の視線の位置を得た。それでも村が希望に輝いたり富める家々に変わったりはしない。  治夫は送電線に切り取られた格好の空を仰ぐ。何の希望もない低く重い空は、もっと鋭利な何かで切り刻まれるのを待っているかのようだ。五時になればもう暗い。何件かの家に灯《あか》りがついた。ついても暗いのには変わりなかった。 [#改ページ]   荒神様  今宵《こよい》は満月であると囁《ささや》く時、その者は必ずや悪い想いを抱いているはずだ。  月の顔を長く見つめることは、月の光に照らされて眠ることは、あらゆる国のあらゆる時代の人々が戒めてきた。本来は冥界《めいかい》に射すはずのその輝きを、地に生きる者の心の暗夜が捉《とら》えるのは良くないことに違いない。  この村の森は、満月と同じほどに悪い言い伝えに包まれていた。森があまりにも暗く、抱え込んだ闇があまりにも深いため、森の背後に広がる空はその対比で明るいとさえ見えた。深夜だというのに、清浄な青色に澄み渡っていた。  だからそこに昇る磨かれた満月の鏡には、すでに惨劇が映し出されているのだ。  夜より暗い森の中で、啼《な》き声がする。それは満月に向かって、啼いているのだ——。 「なあ、あんた。麦がよう熟れるんはええけど」  昨夜の雨に湿った畦《あぜ》を並んで歩きながら、やよひは手にした鎌で脇の雑草を薙《な》ぎ払う。 「刈るんはしんどいなあ、うちは行く前からうんざりするで」  岡山で一番早く冬を迎えるこの土地は、岡山で一番遅く春を迎える。夏まで生き急ぐかのような春は、急激に花をつけ草を伸ばし、作物を熟れさせるのだった。 「そうじゃのう。しゃあけど」  背負《しよ》い籠《かご》を揺らしながら、隣の虔吉は突き抜ける蒼天《そうてん》をぼんやり仰いだ。 「わしゃ、そねえに苦にはならんけえ」  その閑《のど》かな答えが返ってくる間、やよひは姉さん被《かぶ》りにした手拭《てぬぐ》いの端で額の汗を拭っていた。細い身体なのに、やよひはよく汗をかく。 「今頃は兵隊さんも、支那《シナ》の麦畑を進みょうるんじゃろうなあ」  やよひは流行の軍歌の一節を口ずさむ。こんな隔絶された山間《やまあい》の村からも、どんどん男は兵隊に取られていた。今まさに日支事変の最中でもあり、連日新聞には敵国の死者の数字が華々しく躍る。  徐州城には突入が済んでいた。今後さらに日本軍は前に前に進めるのか。進めばさらに戦火は拡大する。男は村からいなくなる。 「……わしも、そろそろ取られるんかのう」  しかしやよひや虔吉にとっては遠い戦局よりも、飢える己れの腹の方が切実なのだ。  姉さん被りの手拭いの下に、腫《は》れぼったい瞼《まぶた》がある。いつも人を睨《にら》んでいるような、妙な力と艶《つや》のある眼差《まなざ》しを虔吉は好きでたまらなかった。 「あんたには、まだ行ってほしゅうないけどなぁ」  やよひはその目で、掬《すく》いあげるように虔吉を見上げた。夫婦《めおと》になって一年が過ぎたというのに、まだ女房のそんな愛らしさに胸が高鳴る虔吉だった。婿養子であるという立場を差し引いても、女房には頭が上がらないのだ。 「麦刈りも、してもらわにゃあならんし」  癇《かん》の強さ、不実さ、傲慢《ごうまん》さ、それらは普通、短所であり悪口のもとなのに、やよひにだけは美点となる。それは虔吉にだけ効くものでもない。やよひは結婚前も後も、色々な男との噂が絶えなかった。 「……ん、ああ、麦刈りはなんぼでもやるで」  虔吉の受け答えはいつも、一拍ほどずれる。それでも慣れているやよひは頓着《とんちやく》しない。いや、虔吉そのものに頓着していないのだ。  娘とまったく同じ性格の姑《しゆうとめ》との三人暮らしは、村の者達の揶揄《やゆ》の的にもなった。やよひに思いを寄せていた男達のやっかみが主なのだが、 「婿養子にしてオナゴのええように使われとるんじゃ」 「虔吉はちぃっと頭が弱いけんのう」 「そうじゃ、オナゴに世話してもらうんが似合うとる」 「取り柄は、よう働くことだけじゃ」 「そんなら牛でもええんじゃがのう。いや、嫁にも婆にも、牛と思われとるんじゃろ」  男どもに聞こえよがしに言われもする。そんな時、虔吉は少し哀しげに、そしていつもの気弱な笑顔を向けるだけだった。からかわれるのは好意を持たれているからだと、虔吉は解釈することにしているのだ。  なぜならあの糸井の辰男は、からかいの対象にはならないからだ。陰では皆悪口を言う癖に、本人がいると目を逸《そ》らす。そうして辰男は、暗い陰鬱《いんうつ》な目を彼らにちらりと向けるだけだった。  薄ら馬鹿で婿養子という立場など、辰男に比べれば何程のものでもない。辰男は肺病持ちで徴兵も落とされ、借金が千円近くあるというではないか。まるで返せる当ても快復の見込みもない身の上で、どのように明日を思っているのか。 「明日、か……」  やよひに聞こえぬ小さな呟《つぶや》きを、虔吉は洩《も》らす。明日が暗いのは虔吉や辰男だけではなかった。出口も夜明けもはっきりしない戦局や、生きている間は決して改善されない貧乏暮らし。村人すべてが、明日を明るいとは思っていない。  だから、辰男や虔吉は村人にある意味必要とされている。下には下がおる。そう見下すことで、多少は救われるのだから。  しかし同類ではあっても、虔吉は辰男を見下すことはできない。辰男の孤独な後ろ姿を思えば、自分はこのまま薄ら馬鹿として全うしてもいいとすら思う。「へのけ者」と「笑い者」では大違いだ。  辰男の家の前を通る者達が、「肺病が伝染《うつ》るど」と聞こえよがしに鼻を摘《つま》んで走り過ぎたり、あちらから歩いてくる辰男を娘達が露骨に顔を顰《しか》めて道を空ける所を、虔吉は何度も見た。虔吉はさすがに、そんなことは一度もされたことがない。ないが、辰男の立場を自分に置き換えて想像しただけで指先まで凍えた。  今はあの婆のイヨがいるから、辛うじて祭りや行事には声をかけてもらっているが、いずれ辰男だけになれば完全に孤立するだろう。そうすれば田植えも稲刈りも屋根の葺《ふ》き替えも、何も手伝ってもらえなくなるのだ。窮乏した時にも、米は貸してもらえない。  そんなふうに、へのけは死活問題に関わってくる。元を辿《たど》れば皆|親戚《しんせき》というこの集落で孤立することは、想像するだに恐ろしい。  その想像は、近々行かされるはずの南京での死の行進よりも恐ろしいものだった。薄ら馬鹿と蔑《さげす》まれようが、金中の家に男は自分しかいない。性質は同じでも姑は疎ましいが、隣にいるやよひは自分が守らねばならぬのだ。  すでに隣からは、熟れた麦の匂《にお》いがする。その汗ばんだやよひの匂いを愛《いと》しいものと嗅《か》いだ時、やよひは突然に棒立ちになった。 「どしたんなら」  と声をかけた虔吉だが、すぐに口を噤《つぐ》んで立ち止まる。森から彷徨《さまよ》い出た亡霊をも思わせる男がいた。糸井の辰男だ。青白さの増した辰男は、その手に中古の村田銃を提げていた。不吉な黒光りに、背筋が冷える。黒い詰め襟が喪の衣装のようだ。 「おい、仲のええことで」  ところがその辰男が珍しく、話しかけてきたのだ。 「あ、ああ。どしたんなら辰っつぁん」  虔吉はやや狼狽《うろた》えながらも、笑いかけた。虔吉は決して辰男を嫌いではない。 「何を撃ちょんじゃ」  辰男は蝋《ろう》のような顔色だった。そんな辰男がしばしば銃を提げて森にいることは、村でも評判になっていた。その旧式の村田銃は、どこか辰男に似通っている。威力は侮れなかった。 「熊じゃ、と言いたいとこじゃけどな」  辰男はちらちらとやよひを盗み見ながら、どこか疲れた調子で答えた。 「浅え中国山地に、熊はおらん」 「そうじゃのう。鳥か狸くれえしか、獲《と》れんじゃろ」  隣のやよひを気にしながらも、虔吉はふと先日の青年団での集まりで耳にした悪い噂を思い出した。辰男が鹿だか猪だかと偽って、野良犬の肉を食わせたというものだ。しかも従兄《いとこ》にだ。それは悪ふざけというより、とてつもない悪意を感じさせる出来事だと、虔吉もまた吐き気を覚えたのだった。 「ほうか、何も獲れなんだか」  こうやって立ち話の格好をしているが、もう話が続かない。お前もむっつりしとらんで何か喋《しやべ》れや、と虔吉が隣を向いた時、やよひは露骨に顔をしかめると道具を虔吉に押しつけ、さっさと先に行ってしまった。やよひはとにかく、遠慮というものがない。 「おい、やよひ」  虔吉は少し慌てたが、辰男は何を思っているのか能面のように無表情だった。しかしその目がやよひを追うのは、怖い。いっそのこと、なんじゃお前の嫁は、と怒ってくれた方が虔吉は気が楽だ。 「しょうがねえのう、愛想《あいそ》がのうて」  虔吉は取り繕うが、辰男は片頬で少し笑っただけだった。 「やよひは、昔っからああじゃったろう」  まるで自分の昔の女を語る口調の辰男に、虔吉は嫌なことを思い出す。今は女房となったやよひも、実は娘の時分に何度か関係は持ったらしいのだ。それでも今はああして逃げる。それは隣に夫がいるからだけではない。 「じゃなあ。やよひは気性が強いけん」 「せえにしても、相変わらずおめえはオナゴの尻《しり》に敷かれとるのう」  辰男は子供の頃のように威張って笑う。虔吉は同じように、照れ笑いを返した。 「そうじゃのう。それにわしゃ婿養子じゃけん」  実際、敷かれているのだ。虔吉は言い返すことなどできない。  それでも苦痛ではない。やよひには惚《ほ》れているし、そもそも虔吉はあまり物事を深く考えない。それに彼はお人好《ひとよ》しだった。寄ると触ると人の悪口ばかり言っている村人の中で、照れ笑いをしているのは彼だけだ。  その性格と性質で、虔吉が子供の頃は辰男の子分扱いだった。さほど暴君ではなかったが、まるで下男のように扱われた。それに対して虔吉は、苦痛も抵抗もほとんど覚えなかった。  命令を聞いている方が楽なのだ。自分はええ兵隊になれるかもしれん。虔吉はふとそんなふうにも思う。 「それより辰っつぁんよ、姉ちゃんは元気にしょんか」  本当は早く立ち去りたいが、虔吉はきっぱりそれができないのだ。ついおどおどと、会話を続けようとしてしまう。辰男にしてもいい話題は、もはや嫁いだ姉くらいしかない。 「おお、姉しゃんは働き者じゃし別嬪《べつぴん》じゃし、あっちで可愛がられとるじゃろう」  辰男も、たった一人の姉であるさや子を語る時は顔から険が消える。 「そうじゃろう。田植えの祭りん時にゃあ戻るんか」  何より辰男の姉のさや子は優しく愛らしかった。虔吉にとっての初恋の相手はさや子なのだ。イヨは辰男ばかりを偏愛しているように映ったが、それは辰男が腺病質《せんびようしつ》な上に大事な跡取りだったからだ。さや子はきちんと愛された者の明るさがあった。 「わからんのう。向こうの村でも祭りゃあ、同じ頃にあるじゃろうからなあ」  辰男の機嫌のいい話題で終わらせて、もう行こうか。虔吉は遠くに霞《かす》むやよひの後ろ姿を見やりながら、そわそわとする。その遠いやよひの後ろ姿を、辰男も見ていた。虔吉はその辰男に、過去を甦《よみがえ》らせた。あの頃の辰男は確かに、やよひに惚れていた。  実際、夜這《よば》いをかけて何度か関係はしているのを、目のあたりにしたことすらあった。  その時はこちらの方が恐ろしい思いをした。辰男は閨《ねや》では恐ろしく執拗《しつよう》な獣であった。 「うちには亭主がおるんじゃで」 「前は、そねえなこたぁ、言わなんだのに」  形だけの抵抗をするやよひを、あっさり捻《ひね》りあげていた。  夜這いの盛んなこの村ではある。自分とてやよひとは夜這いが最初だし、それで馴染《なじ》んで結婚にまでなったのだ。しかし、人妻に忍んでいくのはさすがに許されない。それでも辰男は平気で来ていたのだ。しかし、今は違う。今はこのように、やよひが嫌っている。虔吉はぼんやりと、今の自分は辰男に勝っているのだろうかと思う。  なのに目の前にいる辰男は、相変わらず偉そうでこちらを見下した態度だ。 「お前、兵隊に行くことになったら、やよひが心配じゃろ」  あのことを言っているのだろうか。虔吉は血の気が引くのを覚えた。すでに夏さえ予感させる強い陽射しに、どこかの皮膚が痛んだ。  先日、砂子の主人が夜這いに来たのだ。しかもそこで虔吉に出喰《でく》わしているのだ。しかし虔吉を舐《な》めきっている砂子の主人は、 「まあまあ、こういう場合は酒を一升持ってきたらそれで治まると、昔からの決まり事があるけんのう」  と慌てもせず、本当に酒を一升持ってきたのだ。ぬけぬけとそうしたことをして、本当に許されると思っているのだ。さすがの虔吉も、怒気を顕《あらわ》にして砂子の主人に対峙《たいじ》した。しかしこういう場面で、どうにも虔吉は巧く言葉が出ないのだ。  ただ青ざめて怒りに震える虔吉に追い打ちをかけたのが、やよひであった。 「あんたかと間違えたんよ。暗かったけん」  と、とぼけ通した。しかしあの夜のやよひは決して、夫と間違えていた訳でもなければ嫌がりもしていなかった。  そんな女房を殴ることもできず、虔吉はようやく低く一言だけ言えたのだった。 「今度だけは、許す」  しかしその後も虫歯や腫物《はれもの》を、痛いとわかっていながら突いてみずにはおれないように、虔吉は幾度となくその場面を思い出していた。辰男とのこともだ。  憎くて愛《いと》しくてたまらぬ女は、夫ではないとわかっていたのに、確かに歓喜の声をあげていた。だが、どんなふうにそれを責めれば救われるのだ。  詫《わ》びの印のその酒は、今も土間の角にある。忌ま忌ましいが、酒の弱い虔吉は飲みきれないのだ。といって、勿体《もつたい》なくて捨てることもできない。  それを姑《しゆうとめ》がちびちびと飲んでいる。無論、砂子の主人とやよひとの間のことは承知だ。しかし婿たる虔吉には何の言い訳もない。 「しょうがねえ爺《じい》さまじゃのう、あれも」  姑もまた、この婿には何をしてもいいのだと信じ込んでいる。この酒はうまい、と平気で酔い、神棚に供えたりする。訳のわからぬ呪《まじな》いを唱えながら酔っ払ってそこで寝込む。  目の前の辰男は、それらのことをすべて知っているような口振りであった。いや、辰男は当事者ですら知らないようなことを色々と知っている。幼い頃からそうだった。あんなに勉強ができたのに、決して無邪気に慢《おご》らなかった。 「こねえな田舎で秀才でも、先は知れとるで」  辰男は幼い可愛らしい顔で、口元を歪《ゆが》めていた。あの時から虔吉は辰男に逆らえなくなったのだ。事実、その幼い日の予言は当たっているではないか。  その頃の面影を残す辰男は、あの日と同じにその唇を歪めた。 「亭主が兵隊に行っとる間に、女房どもは何をしょうるかわからんで」  まだそんな季節ではないのに、辰男の手にした銃からは陽炎《かげろう》が立ち上っていた。 「馬場んとこの嫁とかもな」  虔吉は馬場の嫁には関心がないのと、人の悪い噂を面白おかしく話すのも苦手なので、それには答えなかった。 「そりゃあ、まあ、そうなんじゃろうけど」  すっかり見えなくなったやよひを気にしながら、虔吉はおどおどと答える。兵隊に連れていかれることよりも、今はなにか別の恐れを抱く。汗一つかかない辰男の透ける頬が怖い。虔吉の握る鎌の柄はすっかり湿っているというのにだ。 「まあ、後のことを心配しても仕方ないけんのう」 「そうじゃあ。仕方ねえ仕方ねえ」  あの日と同じ暗い笑い方だ。先の先まで見通す、しかも不幸なことだけを見通す笑い方だ。だから、辰男には未《いま》だ逆らえない。やよひとのことでも憎みきれない。  それともう一つ、この問答は答えに困った。辰男が徴兵に落ちたことは虔吉も知っていたが、さすがにそれを指摘するのはまずい。 「辰っつぁんとこの麦の出来はどんなんじゃ」  おどおどと、当たり障りのない会話に持っていこうとしたが、辰男は平然と言った。 「まあまあじゃ。それにわしは兵隊に行かんでええけん、のんびり麦も見れる」 「……あ、ああ、そうなんか」  徴兵に落ちたことは相当な傷となっているはずなのに、目の前の辰男はもう淡々とした様子だ。それは虔吉にも薄々わかった。辰男のせめてもの虚勢なのだった。 「しゃあけど虔吉、お前は行かにゃならんけん」  またそこに持っていくか。虔吉は途方に暮れる。 「麦どころじゃねえ心配事があろうが。のう」  辰男は完全に下に見ていた虔吉にやよひを取られたという敗北感、徴兵検査でも負けたという劣等感は、口にすらできぬほど身のうちにため込んでいるのだ。はっきり言葉にできずとも、ひしひしとそれは伝わる。 「いや、もう仕方ねえ」  しかし虔吉は下に見られ、命令に従う方が楽なのだ。やよひが他の男といまだに色々関係しているということも、あからさまに自分の前に突き付けられない限りはなんとか平静を保てる。 「わし、あんまり物事を深うに考えれんけん」  曖昧《あいまい》に答えると、辰男はまた小馬鹿にした笑いを残して行ってしまった。離れてからやっと、辰男の胸の辺りから嫌な呼吸音がしていたな、とぼんやり思う。 「やよひ、やよひ。待ってくれや」  すでに麦畑で待っているはずの女房を、虔吉は慌てて追った。 「やよひ、おるんかい。あの話は聞いたかのう」  腰が曲がりかけているのに、せかせかと小刻みな歩き方で姑が戻ってきた。庭で薪《まき》割りをしている婿には目もくれず、娘を呼ぶ。  お喋《しやべ》り、陰口、噂好きの揃ったこの村でも、一番か二番じゃと評判の虔吉の姑がまた、何やら噂話を聞かされてきたのだ。おるよ、と土間からやよひの声がした。 「聞いたかやよひ、辰男がとうとう警察に引っ張られたんじゃで」 「……ああ、みち子らぁが届けたんじゃな」 「なんじゃ、やよひも知っとったんか」  土間で豌豆《えんどう》の選《え》り分けをしていたやよひは、しゃがんだまま大きく舌打ちをした。 「うちも、誘われたんじゃけどな。面倒くせえけん、放っといたんじゃ。そうか、やっぱりみっちゃんらは行ったんじゃのう」  黙々と薪割りをしている虔吉は、素知らぬ顔で聞いていた。噂話にほとんど乗ってこない婿には、お喋り好きの姑も相槌《あいづち》など求めない。框《かまち》に座ると、娘を相手に唾《つば》を飛ばして語り始めた。大仰な身振り手振りで、みち子ら若い娘の口調をも真似る。 「殺されると覚悟しましたらぁ、ありゃあ、ほんまにやる気じゃった……と、オナゴどもは訴え出たんじゃと」  辰男はこのところ本当に、色気違い呼ばわりされても仕方ないほどに夜這《よば》いに出るようになっているとは、虔吉も色々なところで耳にしていた。女に拒否されれば脅し、そこの夫に見咎《みとが》められれば、やはり脅す。しかも銃を携えていたというから、穏やかに一升瓶と話し合いで済まされるものではなかった。  みち子の父親には、はっきりと「この肺病の死に損ないが」と罵《ののし》られ、辰男は本当に引き金に指をかけたらしい。そこは普段は何を考えているかわからないみち子の母親が、身体を投げ出してまで庇《かば》ったために大事に至らなかったそうだ。  また、どこぞの家では母親と娘を取り違えて母親の方に忍び込み、ここでも手酷《てひど》く怒鳴り付けられたそうだ。 「兵隊にも行けん穀潰《ごくつぶ》しが、一人前のことをしくさって」  そのお喋りな母親の方は、言い触らした。ぶるぶる震えて引き金にも手をかけることができなかったと。そんな噂に、なぜか虔吉の胸が疼《うず》いた。自分の痛みとしたのは何故だろうか。乱暴に切り株に薪を載せ、しばらく斧《おの》を凝視した。 「薄ら馬鹿の癖に一人前なことを」  それは虔吉自身もこれまでさんざん言われてきた言葉なのだ。無論、辰男のように憎々しげに吐き捨てられたのではない。揶揄《やゆ》と親しみを込め、しかし決して言い返してはこないだろうと舐めきった村人に投げ付けられたのだ。 「ほんまに、殺《や》っちゃりゃあえかったのに」  それは自身に呟《つぶや》いたのか、辰男に呟いたのか。何はともあれ、辰男の尋常でない様子はもう静観しておけぬと、村人を動かしたのだった。  虔吉は、薪以外の何かも断ち割る勢いで斧を振りおろす。 「警察が動いたんは、そんだけじゃあないんじゃ」  戸口の向こうで興奮した姑が手を振り回しているであろう姿が、虔吉にはわかった。醜いのう、と呟く。辰男にではない。猿そっくりな姑にだ。 「とうとうイヨさんまでが、仁平つぁんの所に逃げ込んだんじゃがな。わしゃあ辰男に殺される、言うてな」 「そりゃまた、なんでじゃ」  さすがにやよひも、素《す》っ頓狂《とんきよう》な声をあげた。 「よう効く薬じゃと言うて、イヨさんにぼっけえ臭いのする何かを飲まそうとしたんじゃそうなで」  届け出を受けた駐在所の巡査は、これはちょっとただ事でないと感じたのだろう。その巡査は津山署まで出向いた。それで四名もの警官が辰男の許《もと》を訪れたのだ。このような物々しい出来事は、いくら戦時中とはいえ寂れた寒村では滅多にあることではなかった。 「脅しが過ぎたということですらあ」  しかし辰男は冷静かつ堂々と、そんなふうに申し開きをしたらしい。 「無論、ほんまに撃つ気なんぞありゃあしません。しゃあけど、皆を怯《おび》えさしたのは本当じゃ……と、言い繕うたらしいで、辰男は」  その時イヨは庇《かば》い、辰男もまた神妙に言い訳をしたという。元々、辰男はそういう場面での切り抜け方がうまいというのは、虔吉も知っていた。じっとりと汗ばむ背中に、着物が貼りつく。その不快さを増すのが、姑が声色を使って語る辰男の言い訳だった。 「わしはこれから心を入れ替えてまずは農作業から励んで、後は教員の免許を貰《もろ》うために家で療養しもって勉強しようと計画立てとります……じゃと」  その姑《しゆうとめ》の口真似は、あまりにも巧かった。 「婆やんにも楽さしちゃらにゃあならんけんのう。そう言うて辰男は涙まで流してみせたんじゃと」 「そうじゃ。辰男は、そういう言い訳だきゃあ、ほんまに巧いんじゃけ」  鋭いやよひの声が飛び、虔吉は斧を持ったままぼんやりと子供の頃の辰男を想った。辰男は心がないけん、いい人や賢い人のふりがいくらでもできるんじゃと吐き捨てたのは、もしかしたら昔のやよひではなかったか。  虔吉は夕陽が斧の刃を鈍く照らすのを、ぼんやり見つめた。かつての自分もそうだったのではないか。辰男は命令をした後、時折機嫌をとってくれる。心がないから、どんなにでも優しい言葉が吐ける。自分は大事にされているのかと錯覚する。そうしていつも辰男の子分に甘んじさせられるのだ。  照り返す刃の色が、忘れたいことばかりを思い出させる。やよひの許に夜這《よば》いに来た辰男は、猫撫《ねこな》で声でやよひの耳元に囁《ささや》いていたではないか。 「惚《ほ》れとるで」 「口ばっかしじゃ、あんたは」 「そねえなことがあるもんか。わしは心底やよひに惚れとるんじゃ」  辰男は女に肉欲以外のものを求めないため、甘い言葉が幾つでも出てくる。それを拒絶されれば、拒絶されたという一点のみに執着して怒りをたぎらせる。  あの夜の辰男が度々夢に出てきて、虔吉は苦しんだ。辰男は虔吉にも甘い言葉を囁く。決してそれに逆らうことはできない。女のように言うことを聞かされる。  やよひもまた、自分にはその手を使う。しかしそれが手であろうと抵抗はできない。 「しゃあけどおっ母、とりあえず鉄砲は取り上げられたんじゃろうが」  薪割りを済ませて虔吉も土間に入れば、囲炉裏にかけた鍋《なべ》の中で豌豆《えんどう》が煮えていた。青臭く甘い匂いの中、やよひと姑はまだ辰男の噂を続けていた。二人は茶を飲んでいるが、虔吉の茶碗《ちやわん》は出していない。 「それがのう、辰男は家の屋根裏にぼっけえこと武器を隠し持っとったんじゃと」  土間を出入りして、割った薪を積み上げていく婿にはまったく目もくれず、姑はせかせかと鍋を掻《か》き回した。  虔吉もまた、そんな話にはまるで関心が無いといった顔で黙々と作業を続ける。姑の聞き込んできたところによれば、取り上げられたのは、虔吉も見慣れたあの旧式の村田銃だけではなかった。 「それにゃあ巡査もたまげたじゃろう」  塩壺《しおつぼ》から塩の固まりを掬《すく》いながら、姑はまるでその場に居合わせたかのように語った。その屋根裏に隠していた日本刀、雷管、火薬、散弾実包はすべて没収され、辰男は巡査に眼光鋭く問い詰められた。にも拘《かかわ》らず、まったく怯《ひる》まなかったそうだ。神妙に、 「このご時勢じゃけん、火薬や散弾は値上がり必至じゃろ。そうなる前に買《こ》うときたかった。そんだけじゃ」  と押し通したという。このように閉ざされた家屋の中で起こる騒動も、翌日には集落の者のほとんどが知ることになる。特に辰男の動向は筒抜けとなる。  だから辰男が、従兄《いとこ》の政雄を身元引受人として釈放されたことや、その間もずっとうな垂れていたらしいことも知れ渡るのだ。  巡査の説諭に、辰男は涙を流していたという。村人はとりあえずそれを安堵《あんど》の材料にした。だがその涙は違うと、愚鈍なはずの虔吉だけがわかったのは何故なのか。  辰男は悲しむふり、傷ついた演技、そうして慰められて心を入れ替える自分を好きなんじゃ。辰男は自分はええ人で、村の者こそが悪党じゃと信じとるんじゃろうな。さすがに一息入れようと虔吉が、藁打《わらう》ち用に埋め込んだ石に腰かけた時、 「きょうてえ、きょうてえ。恐ろしいいうたら、ないで」  信心深い癖に人を蔑《さげす》むばかりの姑は、鍋に塩を振り入れながら大げさに身震いしたが、 「うちの婿は、悪知恵が回らんだけええわ」  と付け加えたのは、悪意のないものとはいえ配慮のないものではあった。この母娘《おやこ》は弱者ほど傷には敏感であることを、辰男や自分の婿を見ていても気づけないのだ。  しかし姑とやよひとでは違う。虔吉は、やよひになら傷つけられてもいいと承服した上で一緒になったのだから。 「あんたもお茶にするかな」  まるで何かのついでに思い出したという口調だが、やよひは急須《きゆうす》を持ち上げて虔吉を呼んでくれた。たちまちさっきの胸の棘《とげ》は抜け、虔吉はいそいそと囲炉裏の傍に来る。何だかんだ言ってもやはり、やよひは可愛い。自分で茶碗を出してきて注いで貰《もら》いながら、辰男にはそんな女がいないことを哀れに思う。  いや、もしかしたらその女は嫁いでいった姉のさや子なのか。だとしたら、それも可哀相だ。さや子はすでに他家の嫁なのだから。  何《いず》れにしても警官も周りの者も、辰男の神妙な態度に一先《ひとま》ず安心をした。祖母のイヨも報《しら》せを受けて駆け付けた姉さや子もだと、姑は豌豆を一粒|噛《か》んで硬さを確かめながら付け加えた。しかしその口を蠢《うごめ》かしながら、さや子の口真似をしたのは嫌らしかった。 「婆やんはもう年寄りのに。あんたがしっかりせんといけんじゃろうが。姉ちゃん心配でここから戻れん。……言うて、さや子は泣いたらしいで」  虔吉は甘いような苦いような胸の痛みを覚えた。他人の不幸の予感はどうしてこんなに甘い。好きな女の哀れさは、なぜにこれほど胸震わせるのか。  そのさや子は心配して、何日か実家に泊まったらしい。やよひと連れ立って田圃《たんぼ》から戻る途中で虔吉は、さや子に会ったのだ。絣《かすり》のモンペは新品らしく藍《あい》が鮮やかだ。 「虔吉っつぁん」  そのやつれた笑顔が、虔吉の胸を疼《うず》かせた。さや子はきれいで不幸せそうだった。 「お久しぶりじゃのう」 「……もう、辰男が心配でなぁ」  どぎまぎした虔吉は曖昧《あいまい》に頷《うなず》くことしかできなかった。傍らのやよひは値踏みする目付きでさや子を眺めていた。 「辰男と時々は話ぃしたり、連れ立って歩いたりしちゃってんな」  媚《こ》びるのでもなく、さや子は眉根《まゆね》を寄せて本当に切なそうに言った。姉さん被《かぶ》りの手拭《てぬぐ》いの下から、やつれているのに穏やかな笑顔が覗《のぞ》く。不幸せな女は何故にこんなに美しいのだろう。虔吉は途方に暮れる気持ちだが、無遠慮なのは傍らのやよひだ。 「ええがん、さやさん。辰男さんはなんじゃかんじゃ言うても、元は頭がええんじゃけえ。うちのコレは身体が丈夫以外なぁんも取り柄はないけんな」  かすかに眉をひそめたさや子と、泣き笑いの虔吉と。じゃあ、とさや子は立ち去った。虔吉はその後ろ姿に、早死にした自分の母親を重ねていた。  うちのお母もそうじゃった。婆やんに苛《いじ》められ、父っつぁんに蔑《ないがし》ろにされ、擦り切れるように若死にしたお母。  やよひには全然似ていない。しかし、不幸の気配はどちらにもある。さや子にもある。この村の女には、みなある。この村の女はすべて自分のものにしたいという秘《ひそ》かな虔吉の暗い情欲は、ここの男なら誰もが抱くのだろうか。辰男はきっと抱いているに違いない。 「不幸が染みついとるよなぁ、あそこは」  やよひは肩をすくめた。  虔吉とやよひが再び辰男に行き合ったのは、青田が盛んに風にそよぐ午後であった。偶然にではなく、辰男が待ち構えていたようなのだ。 「そんなら、うちは先に行っとくけんな」  隣にいたやよひはまた、怯《おび》えた様子で先に田圃に行ってしまった。背景の森は梅雨を待ち構えているかのように、重く湿っている。青葉は影と光とをともにそよがせ、何かの凶事の予兆を垣間見《かいまみ》せていた。 「頼みがあるんじゃ」  と、辰男は蒼白《そうはく》な顔で頭を下げた。いくらものを頼むにしても、辰男のそんな態度は初めてだった。手には、無論何の武器もない。鎌すらない。 「わしに、できることなんか」  おずおずと、虔吉は聞き返した。たとえそれが到底無理な相談でも、自分に断れるはずがないとわかっている。  辰男の単衣《ひとえ》の着物もだいぶ草臥《くたび》れていた。農作業をせぬために、手足は白い。もうじき盛んになる蚕の繭を連想する。胸に巣食う病と、まだ何か飼っていそうな透き通る頬に寒いものを予感させる。 「金を貸せとはいわん。おまえんとこは貧乏じゃけんな」  虔吉とて、金を貸せと頼まれるとは思っていない。自分に必ずやできることであり、不吉な匂いのすることであるとだけわかった。  事実、辰男の頼みとは明らかに不穏なものだった。 「銃が欲しいんじゃ。刀も欲しい。火薬も散弾も要る」  聞いているうちになぜか虔吉は、自分にもそれは必要なものではないかと拳《こぶし》を握った。辰男は例の事件があってから、自分は銃を買いに行けない、というのだ。 「金を渡すけん、銃砲店に行って買《こ》うてきてくれ」  何か答えようとするより先に、辰男は封筒を差し出していた。中には、本当に紙幣がぎっしりと入っている。 「こねえな大金、どしたんじゃ」  虔吉はあっけにとられた。次に、空恐ろしくなった。この重みは本気の重みなのだ。 「農工銀行で借りたんじゃ」  姑も噂しとったあれは、本当なんじゃな。虔吉は紙幣の封筒に目を落とす。なんでも辰男名義の田畑、山林はすべて抵当に入っていて、もうあの家には何もないのだという。辰男は隠すでもなく、それをさらりと言ってのけた。 「去年に借りたんは四百円、今度は六百円じゃ」 「返せる当てはあるんか」  集金に行ったら金を出せなかったと、姑《しゆうとめ》がぶつくさこぼしていた。イヨさんが縮こまって可哀相じゃったと。恐る恐る訊《たず》ねる虔吉に、辰男の久しぶりの笑顔が向けられた。 「死んだら、チャラじゃ」  その明るすぎる言い方に、また虔吉は目眩《めまい》を覚える。死はそんなに簡単なものか。死はそんなに辰男に近いものなのか。辰男はそんな虔吉に、また一歩近付いた。 「とにかく、頼みはおめえだけなんじゃ」 「わし、だけか」 「おめえだけじゃ。わしはほんまに、頼れる者がおらん」  にわかに、震えがきた。これは嬉《うれ》しさなのだと、しばらくしてわかった。今の辰男は、自分を愚鈍な男と軽んじるのではない。心底、自分を同志として頼りにしてくれているのだ。自分の中の暗い炎をわかってくれるのは、辰男だけなのだ。 「姉しゃんは嫁に行ったし、家にはあねえな婆さんしかおらん。元より親はおらん。親戚《しんせき》いうたら、やっちもねえ叔父《おじ》じゃの、銭にならん従兄だのだけじゃ」  その辰男は懇々と説明をしてくれた。警官に対して行なったのと同じ言い訳を、延々としてくれた。予《あらかじ》め、きれいに帳面に書き付けて整理したような、淀《よど》みない言葉だった。  それでも虔吉はその必死さに、心打たれた。心底、辰男は武器と自分を欲している。 「名義を貸してくれるだけでええんじゃ」  鉄砲や日本刀といったものから、火薬や雷管などもだ。警察に取り上げられたものを、すべて取り戻すのだという勢いで、辰男は迫ってきた。 「そうじゃな、取り戻すんじゃな」  虔吉は、自分の口から出た「取り戻す」という言葉に頷いた。 「そうじゃ。自分の物を自分の許《もと》に戻すだけのことじゃ」 「しゃあけど……こねえに、『武器』を集めてどないするんじゃ」  武器、という言い方に辰男は目を上げた。確かにそれは、武器を持つに相応《ふさわ》しい目であった。しかし、明確には答えてくれなかった。いや、その沈黙が答えなのだった。  虔吉は支那に行ければよいのに、と言いかけてやめた。支那に行かずとも武装はできるのだ。  辰男は、そこで咳《せ》き込んだ。痰《たん》の絡む重い咳《せき》であった。命を削る音がする。 「武器とは物騒じゃの」  落ち着いた辰男は、口元を手拭いで拭い、取ってつけたような言い訳をした。 「百姓も性に合わんけ、猟師でもやろうかと思うとる」  中古ブローニング一二口径。それが、辰男の欲しい銃であった。その百五十円近い銃を、虔吉は買うことを引き受けた。手の中で封筒はまた厚みを増した。 「綺麗《きれい》な銃じゃ」  美しい銃に比べれば金など汚れた紙でしかないと、辰男は夢見る表情で付け加えた。 「狸なんぞ撃つのが惜しいような銃じゃ」  なら、何を撃つのが相応しいのか。虔吉は聞かず、だから辰男も答えはくれなかった。 「なあ虔吉」  行きかけて立ち止まり、辰男は振り返った。酷薄な表情だった。 「猿は、命乞《いのちご》いをするて知っとったか」 「……ああ、胸の前で両手を合わして拝む、というんじゃろ」 「わしなら、撃つがのう」  酷《ひど》い、と責められるはずがない。支那では正に、人間相手にそれをやっている。虔吉はあたかも銃口を向けられたかのように腹の下が冷えた。  だが、支那に行かない辰男がどこでどんな「命乞いするもの」を撃つというのか。虔吉が顔をあげた時にはもう、辰男はいなかった。  虔吉は黙々と薪《まき》を割っていた。鋼鉄の刃の鈍い光が煌《きら》めく。ふと何かの気配を感じて振り返れば、辰男だった。辰男はじっと斧《おの》を凝視していた。 「ああ、買物はこれを済ませてからにするんじゃ」  影法師そのものと思ったのは、彼が黒セルの詰襟学生服を着ていたからだ。これは軍事教練用にゲートルとともに村の若い男が皆買わされていたものだ。辰男は教練に出ないため、新品同様であった。 「そうか。頼んだで」  辰男は斧から視線を外さず言うと、 「よう切れる上に、おめえは力がある。樫《かし》の木も、痛みは全然感じんじゃろうな」  ちょっと貸してくれとその斧を手にした。振り上げず、重量だけを確かめていた。 「わしんとこの斧とおんなじじゃ。こねえに重かったんか。しばらく触ってねえからなあ。そいでも、こんだけ重量がありゃあ、わしじゃて断ち切れるじゃろう」  断ち切る。その響きに虔吉もまた、どこかを断ち切られる音を聞いた。庭先に出てこようとしたやよひが、はっと立ち止まり、すぐに家に駆け込んだ。辰男の眼差《まなざ》しは確かにやよひを断ち切るような鋭さを湛《たた》えていた。  その日の午後、虔吉はやよひの目を盗んで津山銃砲店まで出かけた。それは虔吉にとてつもない興奮をもたらしてくれた。  鴨西村よりは街だとはいえ、南部の岡山市や倉敷市には比ぶべくもない寂れた街を、虔吉はまさに行軍した。ただ一人の斥候として進んだ。  軒の低い銃砲店には、小柄な店主がいた。銃架には新旧様々な銃が並び、その暗い鈍色《にびいろ》をひっそりと光らせていた。すでに亡い祖父が持っていた村田銃とは全然違う。しかし撃つ人間様がいなければ、ただの鉄の固まりにすぎない。  しかしあの銃とて、宵闇には銃口から美しい青の炎を噴き出していた。立て続けに撃った銃は特に夏など、素手で触れなくなるほど銃身が熱される。  今ここにある銃はどれも冷えている。それでも一度火を噴けば、銃身は燃えるのだ。虔吉は身震いした。精悍《せいかん》で美しい銃の前に据えられれば、自分は猿のように哀れに命乞いなどしない。武者震いして拳を握った。 「あれを、見してもらえるじゃろか」  だが、声は気弱になる。店主はあからさまに怪しんでいるのではないが、あれはどうだこれはどうだとは話しかけてこない。だから虔吉は意を決して、一歩踏み出した。 「わしは猟師なんじゃが」  それだけの誤魔化《ごまか》しのため、滝のような汗を流した。店主は別段怪しむこともなく、言われるままに銃架からその一|挺《ちよう》のブローニング銃を降ろしてくれる。明らかに村田銃とは違う傲岸《ごうがん》な輝きを、破壊力を誇示している。 「これが、スタンダードといわれとる形じゃ」  そのまま手渡してくれた。しかしここでまた虔吉は汗を流す。村田銃とは違い、自動五連銃の扱いがわからないのだ。  猟師と名乗った手前、どうすれば薬室に弾を装填《そうてん》できるのか、弾倉へはどうやって何発の弾を入れればいいのか、訊《たず》ねる訳にはいかない。 「そりゃあ村田とは比べ物にならんわ」  店主は流れるような動作で模擬弾を弾倉に入れてみせ、槓桿《こうかん》のレバーを引く。その乾いているのに重い音は、虔吉の心臓に直《じか》に響いた。  獣を撃つのではない、そう、これは人を撃つ凶器の音だとわかった。  いずれその時が来れば、自分も支那に渡って人を撃たねばならない。だが、この銃は異国に渡らずとも人を撃つ。そんな音だった。そんな輝きだった。 「ええ銃じゃ」  呟《つぶや》く虔吉には、さっきまでの上擦った調子はない。手だれの猟師になりきり、笑みすら浮かべていた。そんな自分に虔吉は酔った。 「あと、雷管と猛獣用の弾も二百ほど欲しいんじゃが」  店主は何の疑いもなく、言われるままに淡々とそれらを用意し包んでくれた。  辰男に預かった金ではあるが、虔吉はこのような大金を無造作に使いきることに奇妙な興奮をも覚えていた。今までこんな経験はまるでなかったのだ。  思えば、こんなに嘘を重ねたこともなかった。しかも、自分はその嘘に酔い痴《し》れているのだ。虔吉は最早、辰男に頼まれて買い集めている、とは思えなくなってきた。何やら恐ろしくもときめく期待のために、自身が銃を手にしている気がした。 「しゃあけど、ぼっけえ買物ですなあ」  やっと店主がお愛想《あいそ》を口にした。愚鈍な虔吉の中には、何かが目覚めていた。それは確かに何か破滅を望む気持ち、復讐《ふくしゆう》を望む思いなのだった。 「まるで支那へでも乗り込むような装備じゃで」  包んで貰《もら》った銃砲や火薬類を抱え、虔吉は町に出た。この武器を持って、遥《はる》かな戦地に赴く気分だ。それはあの辰男もそうに違いない。 「そうじゃ、乗り込むんじゃ」  不穏な空気は遠い戦地だけではない。こんな孤立した寒村にも、ひたひたと迫る暗い予感はあった。それは戦争や貧苦だけではなかった。  辰男は再び、銃を抱えて山歩きを始めていた。これ見よがしにではなかったが、 「森ん中で鉄砲持った辰男に行き合うと、生きた心地がせん」 「なんで、また鉄砲を持てたんじゃ」 「もう一ぺん、警察に頼まんとおえんかな」  やよひも含めて、女達はまた騒ぎ始めていた。夫や兄弟が兵隊に取られるのも深刻な問題だが、兵隊に行かぬのにあたかも戦いの準備を始めているような脅威が身近にあった。 「しゃあけど、今は大人しゅうしとるけん」  ちゃんと所持許可を持っている上、警察にも今は「大人しく更生している」と思われている。そのあたりの辰男は実に巧妙であった。 「あの目付きが嫌じゃ」 「ありゃあ、ただ事じゃねえわ」  喧《やかま》しく庭先で女どもが喋《しやべ》っているのを、虔吉は黙々と土間で藁打《わらう》ちなどしながら聞いている。女どもの話題の中心は常に辰男だ。間違っても虔吉の名前など出ない。 「さや子さんがおる時は、まだましじゃったのに」 「おお、そうじゃのう」と女達は口々にいった。  その若い女達の中心にいるのは、やよひとみち子だ。この集落では派手な二人が連れ立っていると、人目を引いた。その内の一人は自分の女房なのだと誇りたいが、虔吉は誰に向かってどこに向けてそれを自慢していいかわからない。 「どねんもならんで、あの男は」 「警察は、もう取り合うてくれんのかな」  しかし誰もが忌むものについて喋っているのに、まるで楽しいことを喋っているように聞こえるのはなぜなのか。虔吉は槌《つち》を力任せに叩《たた》きつけた。  もしや、皆の心の内には自分と同じく、破滅を望む気持ち、言い換えれば辰男が暴れてくれるのを待ち焦がれる気持ちがあるのではないか。  狭い村、出口のない貧困、代わり映えのない明日と今日、夢の花園などどこにもない。ここにあるのは暗い森だけだ。延々と繰り返される陰気で単調な毎日だけだ。  何はともあれ、派手でお喋りな二人の女が触れ回ったのだ。ますます、辰男の悪い評判は広まった。その二人以外の女達も、集まるとどんなふうに辰男に口説かれたか報告しあうのを楽しみにしているところがあった。 「またしちゃあ、あれは色狂いを始めたで」 「うちは昨日、風呂《ふろ》を覗《のぞ》かれたで」  そういう時の女達は、妙に艶《なま》めいていた。どうして自分はそういう話題の主役になれないのか。辰男は悪口を言われているはずなのに。そうして自分はお世辞混じりとはいえ、 「やよひちゃんとこの婿はええ婿じゃ」  と誉められているのに、なぜ心は弾まないのだろうか。きっとそれはやよひが、そう誉められても鼻で笑うだけだからだ。辰男の悪口を言う時の方が、やよひはずっと目をきらきらさせている。嬉《うれ》しそうにしている。自分の男を語る口調をしている。自分は男ではないというのか。虔吉はこれまで蓄めていたどす黒い感情が湧き上がるのを感じた。 「わしは、なんなら。いったい」  麦も熟れてしまった季節。その辰男に命じられるまま、虔吉はまた「武器」を買い集めに出た。刀剣を集めるのが趣味の医者の許《もと》に行き、軍刀を買い入れた。どういう伝手《つて》があるのかはわからないが、わざわざ大阪まで行かされた店で匕首《あいくち》も手に入れた。 「なんぼなんでも、もう辰男も変な気は起こさんじゃろ」 「そうじゃ。物騒な物は皆、警察に持っていかれたんじゃけえ、それは安心じゃ」  あちこちで村人の呑気《のんき》な話し声が聞こえてくる度、辰男に代わって虔吉がほくそ笑む。辰男は改心などするものか。ふりをしとるだけじゃと、彼らを嘲笑《あざわら》いたくなる。  見知らぬ町を歩いて、銃やら刀やらを買っていると、差し迫った戦局とは別の何やらもっとわくわくする戦いの準備をしている気になってきた。火薬は重く刀身は輝き、それを持つ自分も何かを背負っていく。 「虔吉っつぁんよ」  ある日やよひが買物に出かけている時、虔吉は姑《しゆうとめ》に詰問された。 「あんた、最近ちょくちょく余所《よそ》の方に出かけて行きょうるらしいのう。何をしょんじゃ。やよひが心配しとるで」 「……いや、うう、その、大したことはしとらん」  元々、口が巧く回らない虔吉ゆえ、もじもじしておけば取りあえずは切り抜けられる。 「ほんなら、ええんじゃけどな。いや、わしは最近悪い予感がしてならんのじゃ」  虔吉は黙り込む。姑は人の悪口しか言わないのに、なぜか信心深い。よくわからない呪《まじな》いやらに詳しかった。それを商売にしている石野一家よりもだ。 「虔吉っつぁんが厄災を持ってくるたあ、思うとらんけどな」  その姑が最近、怪しげなことを口にするようになった。しかも大勢の村人の前でだ。 「近々、支那の戦争よりきょうてえ何かが起きるで」  戦争がここで起こるというのだ。無論、みんな相手にしない。戦地は支那なのだ。何故にこんな僻地《へきち》の村で戦いが起こるだろうかと、村人は苦笑いする。  しかし姑は、真顔で言いつのる。 「いんにゃ。何かある。何かようないことがあるんじゃ」  いつもは半信半疑の虔吉が、この不吉な予言だけは信じた。土間の入り口から射し込む光の加減か否か、その時の姑にはどす黒い死相とも言うべき翳《かげ》りが浮かんでいたからだ。  娘のやよひすら気づいてはいないが、虔吉には未来が透けていたようだ。  そのやよひに決定的な何かを突き付けられたのは、緑陰が滴るほどの明るい初夏の宵だった。森も田圃《たんぼ》も畦《あぜ》も、蒸れた青臭い匂いを放つ日だった。 「うちの人か。ありゃあ、ほんまに」  養蚕の手伝いにでかけたやよひに届け物を持っていった際、虔吉は偶然に女達の話を聞いてしまったのだ。砂子の家の養蚕小屋だ。  母屋の隣に茅葺《かやぶ》き平屋の納屋があり、奥に十二畳の養蚕室をしつらえてあった。すでに繭を作る時期にあるため、女達は半数近くが交替でここに手伝いに来る。天井に空気抜きは拵《こしら》えてあるが、大変な熱気が籠もっている。  虔吉の頭も熱く蒸れた。 「馬場の子供とでも遊んどりゃええ」  女達は炭酸を入れて三升|鍋《なべ》で繭を煮ている。土間には籠《かご》があり、桑葉があふれている。藁の芯《しん》で作った箒《ほうき》の先でかき回し、糸口を出す。 「頭の中身はおんなじぐらいじゃけえ」  砂子の養蚕小屋に娘達は五、六人来ており、化粧気も何もなくとも華やかで女らしい空気があった。 「村の男ん中じゃあ、馬場の子供が一番気が合うみてえなわ」  虔吉はその貧しい家の子にありがちな、早くに色々なことに気づく可哀相な賢さを身につけた男の子を思い出していた。あの子は辰男に憧《あこが》れの気持ちを抱いている。そうして、早くも虔吉は軽んじてもいい男と気づいている。  それでも虔吉は、彼を可愛がってやっていた。同年代の子供に苛《いじ》められているのは哀れであったし、こちらを軽んじながらも懐いてはくれたからだ。将来は、辰男に似るか自分に似るという予感もあった。 「何を罰あたりな。虔吉っつぁんはええ人じゃが」  だが、こんなふうにやよひが陰で笑っていたとは。しかも大勢の前でこのように亭主を貶《おとし》めていたとは。即座に庇《かば》ってくれる声があがった時は、涙が出そうになった。  蚕を煮る胸に迫る異臭の中、女達は奇怪にてらてらと照る顔色をして笑い合っていた。裸電球の下の女達は皆同じ顔だ。戸口から覗《のぞ》き込む虔吉は、自分を庇ってくれた女を探した。  その女は石野みち子だった。とかく噂のある女だが、やはり暗いランプの下でも艶めかしい。こんな時でも派手な着物を着込んでいる。この女は小馬鹿にしている相手だけを誉める。その相手が少しでも浮上しかけると、激しく叩《たた》く。  やよひとも、本当は友達ではなかろう。自分のような薄ら馬鹿が亭主なので、みち子は安心しきっているのだ。 「ほんなら、あんたにあげようか」  きゃあ、という嬌声《きようせい》があがる。それは真っすぐに虔吉の胸を射貫《いぬ》き、抉《えぐ》った。 「いらんわ」  女房は、その灯の下では奇怪な陰影の浮く嫌な顔をしていた。姑そっくりだ。  春先はただでさえ、もやもやと妙な気分にさせられる時期だ。これは怒りなのか性欲なのかもわからぬまま、虔吉は立ち尽くした。  女達の話題は、また辰男になっている。  やよひは器用に糸を繰る。三つくらいの繭から撚《よ》り合せて一本にする。小さな枠型に細い棒を差し込んで、右手で回しながら左手で糸を支えて巻き付けた。糸が細くなると他の繭の糸を取り揃え、糸の太さにむらが出ないようにした。みち子は実は器用でないが、器用に思わせるはったりだけは長《た》けていた。 「せえにしても、辰男はアレのこと以外考えれんのんかのう」 「しかも、婆さんにまでさしてくれぇさしてくれぇ、て迫るんじゃろ」 「まぁ、なかなか巧いのはほんまじゃけどな」 「いやらしい。あんたも、したんかな」  自分は嘲《せせ》ら笑われて、いい加減に誉められて、それで終わりだ。しかし辰男の話題はずっと続く。自分の情夫を語る口調で、いつまでも続ける。  おまえらほんまは殺されたいんじゃろ。殺されりゃあ、ええ。  届け物の荷物だけ戸口に置いて、虔吉はその場を離れた。蚕が肌の下を這《は》うほどに、むず痒《がゆ》い感覚があった。  虔吉は勢いをつけて歩く。すでに暮れた暗夜の畦を進みながら、再びあの武器を取り上げられてはならぬ、と歯を食い縛った。  あれは自分の武器でもあるのだ。あれは自分のものでもあるのだ。引き金を引く者だけが恐れられるのではないことを、誰彼に思い知らせてやりたい。 「辰男はおかしいけん、気をつけえや」  辰男の叔父《おじ》である仁平の訪問を受けたのは、生温《なまぬる》い風のある宵だった。気が狂《ふ》れたとの噂もあったが、意外にしっかりとした足取りと口振りだった。地下足袋《じかたび》を履いて、きちんと仕事をしている格好だ。 「何が、おかしいんじゃ」  虔吉は黒ずんだ顔の仁平に低く聞き返した。 「よからんことを、企《たくら》んどる」  一瞬ひやりとしたが、仁平は辰男が虔吉に武器を集めさせていることはわかっていなかった。だから虔吉は、むっつりと相槌《あいづち》だけを打っただけだが、その庭での立ち話は、重く疲れさせた。仁平は一頻《ひとしき》り辰男の素行のことを並べ立て、婆やんの苦労をこぼした後、虔吉を哀れむ目で見据えた。 「あんたは人がええけん、あれにうまいこと使われよんじゃろ」  この斧《おの》を凝視していた辰男が、閃光《せんこう》のように脳裏に閃《ひらめ》いた。 「わしはそれほど阿呆《あほ》じゃねえ」  自分でも驚くほど、強い口調だった。仁平も怯《おび》えた表情をした。最近、人がええというのは誉め言葉ではないことを思い知らされている。斧を投げ付けた剣幕に、仁平は後退《あとずさ》りをした。斧は割った薪《まき》の上に鈍い音を立てて落ちた。 「いや、誰もあんたを阿呆とは言うとらんが」 「言うたも同然じゃ。せえにな、阿呆でないんは辰っつぁんもじゃ」  土間から覗く姑《しゆうとめ》が、はっきりと怯えていた。しかし姑は真正面から婿と向き合い、話し合うことはしない。戸口にしがみ付く格好は、心底醜く映った。 「そんならええけどな」  やよひに告げ口した後は、得体の知れない神様だか仏様をぶつぶつと拝むだけだ。 「辰男との付き合いは、ほどほどにしといた方がええ」  そのまま仁平は口の中で何やらもぐもぐとはっきりしない言葉を呟き、出ていった。  虔吉は森から聞こえる奇怪な啼《な》き声に陶然とする。それは辰男の撃つ銃の音だった。 「森の神さんが、怒っとられる」  背後では姑が、嗄《しわが》れ声で怒鳴った。  しかし虔吉は、獰猛《どうもう》で美しい獣の咆哮《ほうこう》と聞いた。辰男はきっと何かどえらいことをしでかす。それは予感と期待と絶望だった——。 「どけえ、行くんじゃ」  自分の独り言で、虔吉は目を覚ました。隣に寝ているはずのやよひがいない。桜がすべて散った夜、やよひはこっそりと寝床を抜け出し、家も抜け出していたのだ。  囲炉裏の火だけが頼りない灯《あか》りだ。戸板の割れ目から月光が射し込んでいる。虔吉はその月明かりの中を走るやよひを夢に見た気がした。他の男に会いにいく女房は、いつにも増して可愛らしく若々しいのだ。 「鬼が、来るで」  それは姑の寝言だった。起きていても寝ていても胸糞《むなくそ》悪い女だ。 「どねえな鬼じゃ」  そのままの格好で、聞き返した。寝言を言う者に話しかけてはいけないと、言い伝えられているのは知っている。激しく疲労するからだとも、寝ている間に抜け出した魂が話しかけられたことでびっくりして帰ってこられなくなるからとも聞いた。無論、そうなるのを願って虔吉は問い掛けたのだ。  だが姑はもう、その鬼について答えてはくれなかった。それでいい。自分はその鬼を知っている。ひんやりした布団の中で、虔吉は女の匂いを嗅《か》いだ。自分の横にその身を横たえている時から、やよひは他の男を思って発情していたのだ。  視界いっぱいに闇は重くのしかかり、納戸《なんど》からは姑の軽い鼾《いびき》が聞こえてくる。闇の中で目を見開いていた虔吉は、不吉な予感に苛《さいな》まれた。それはしかし、奇妙な期待にも満ちていたのだった。  自分も、鬼になれる日が来るのではないか。阿呆のお人好《ひとよ》しのと蔑《さげす》まれる日を脱却できるのではないか。しかし鬼に食われる心配もある。 「鬼」  再び姑の寝言だ。それに弾みをつけられた。しばらく考え、虔吉は起き上がる。五月の闇は深くても心地よい。暑くもなく寒くもない、裸で誰かに逢《あ》ったり狂ったりするにはいい季節だ。  虔吉はそっと後をつけていった。やよひは森に行くのだと確信した。その通りだった。あと少しで満ちる月の下、辰男とやよひは逢引《あいび》きをしていた。声をかければ届く位置なのに、虔吉は太い古木に身を隠したまま動けない。 「おえん。もう、これっきりじゃで」 「前も、そう言うた」  水底ほどに蒼《あお》い草叢《くさむら》で、二人はもつれあっていた。やよひの声が、まさに森の啼き声となって響いた。白い単衣《ひとえ》が美しい幽霊を思わせる。それを脱がされてやよひは嬉《うれ》しそうに泣いた。膨ら脛《はぎ》の白さが悪意を持って目に鮮やかだ。あんな声は聞いたことがない。 「これ以上続けたら、うちは死ぬ」 「わしの方が先に死ぬわい」  撃ち殺したい。燃える頭で虔吉は、だが自分は銃を持っていないことを知る。刺し殺したい。同じく自分は刀も持っていないことを知る。 「わしも、辰っつぁんと夜毎に逢《お》うた女のようなもんじゃ」  辰男は今、何も持っていない。なのに何か恐ろしい武器を隠している。森の芳《かぐわ》しい匂いに陶然としながらも、虔吉は呻《うめ》いた。  咲かない花と散った花の匂い。得体の知れない大きな獣の骨。奇形の根を這《は》わす巨木。黄泉《よみ》から飛んできた鳥。闇を閉じこめた木陰。そこで交わる血の濃い男女。出ていけない楽園が、ここにあった。  いや、楽園は戦場にしなければならない。そうすれば、逃げられる。 「……わしも、その戦争に行くんじゃけえな」  翌日、やよひは素知らぬ顔で朝飯の支度を整えていた。菜を刻んだ雑炊は、閑《のど》かに湯気をあげる。姑もまた、婿が何に煩悶《はんもん》しているかなど爪の先ほどの想像もせず、仏壇の前で念仏を唱えていた。五月の陽射しは異様に明るい。  虔吉は青年会の集まりに行くの、苗木を買いに行くのと口実をつけ、辰男のために武器を集めに出た。自分は忠実な斥候なのだ。  正直だけが取り柄と信じてきた自分が、すらすらと幾らでも嘘や言い訳ができるようになったことは、賢くなったということかと、屈折した喜びもある。 「麦刈の手伝いもあるけん」  辰男に銃砲を渡す時、これに撃ちぬかれる自分を想像した。辰男に匕首《あいくち》を渡す時、これに刺し貫かれるやよひを夢想した。なんと甘美な想像か。しかし姑などどうでもいい。生き死にすらどうでもいい虫けらなのだ。  猿は撃たれる時に命乞《いのちご》いをする。虫は、しない。自分が踏み潰《つぶ》されることすら知らず、その命を散らす。戦地の兵隊はどうだ。  死のうが生きようがどうでもいい。死にたいのは自分だ。殺したいのは愛するものだ。そして辰男はその同志なのだ。 「待っとれや」  惨劇は森の彼方《かなた》から幕開けをしたと思わせておいて、実際は森の中からだった。  黒詰め襟にゲートル、頭にはナショナル懐中電灯を括《くく》り付け、たった一人でこの村に戦地をこしらえた辰男だった。 「鬼が来るで」 「辰男じゃ。糸井の辰男じゃあ」  誰かの叫びを聞いた。鬼が来るという叫びは、あちこちから上がった。辰男は猟銃と日本刀を振りかざし、森の周辺一帯の家を襲ったのだ。  目の前の人間ではなく、もっと大いなる背後の敵を撃つかの如く、辰男は走ったのだ。日本刀は血を滴らせるが、銃は人殺しの証拠を残さない。ただ銃身を熱くするだけだ。  予《あらかじ》め辰男が電線を切断していたため、辺りは暗かった。停電など日常茶飯のため、誰も不審がったりはしない。最寄りの駐在所まで駆けるのにどれくらいかかるか。目指す相手の家の位置と距離。辰男は用意周到だった。 「走るんじゃ、駐在所に走るんじゃ」 「誰か自転車を出せや」  同じ重さの子供を担いで、予行演習までしていた。夜な夜な、夜這いに向かうふりをして、各戸の戸締まりなどを調べていた。  森は暗黒の色だった。死者の魂が飛び交い、激しく撃ち鳴らされた銃声と悲鳴が混じりあい、不思議な啼き声をこだまさせている。 「来た。鬼が来たんじゃ」  その刹那《せつな》、虔吉は自分の中にも鬼を招いた。いや、鬼と一体化した。自分は今、あの武器を携えてこの呪わしい村と戦うのだ。辰男に取り憑《つ》いた鬼は、平等に自分にも来てくれた。虔吉は居ながらにして、辰男の疾駆する姿と視界とが手に取るようにわかった。 「みんな、やられた……」  隣の爺さんが血塗《ちまみ》れで、土間に転がり込んできた。腰の抜けたやよひが、その場に倒れ伏した。年中|湿気《しけ》た村道は、血の匂いに溢《あふ》れかえっている。薄明るい空に、巨大な満月が昇った。待ち構えていたかのような光る月であった。 「死んどるんじゃあ、血でいっぱいじゃあ」 「やめんか、村中の者を殺す気か」  誰かの絶叫が届く。土間を這いずって框《かまち》にしがみついたやよひは、半狂乱で喚《わめ》いた。 「うちらも殺されるんじゃ、みんなやられるんじゃ」  そんなやよひを前にしていると、虔吉は奇妙に落ち着いてくるのだった。表で騒ぐ男達の声に、あの忌ま忌ましい偉そうな政雄や恵一のそれは混じっていない。きっともう殺されたんじゃ。虔吉の唇に、微笑が灯《とも》る。  虔吉は満月の光を全身に浴びて表に出た。満月に照らされても村は森はあまりに暗い。もうじき辰男が来る。ここにも必ず来る。虔吉は恐れつつ辰男を待った。 「鬼はやっぱり来たんじゃ」  少し惚《ぼ》けのきた姑《しゆうとめ》が、卯《う》の花を竹の先につけて屋根に上がっている。 「悪いもんは、待っとったら来るんじゃ」  人の生命が危ない時に扇ぐと息を吹き返し、行方不明者には敷居で燃やすと居場所がわかるという、およそ仏教の花祭りとは関係ない呪《まじな》いの言葉だ。紙細工ほどの小さな花弁は災いを招くとしか思えない。 「おうおう、戦争じゃ戦争じゃ」  奇声をあげ、姑は屋根に火をつける。その燃やした煙はみな、森に向かって流れた。死者の魂はみなあそこに流れていくのだと、虔吉はその行方を追う。  嘲《せせ》ら笑うのは川のせせらぎだ。牛が激しく吠《ほ》えていた。何人かが村道を駆けている。這いずっている。絶叫は森にこだまし、立て続けに重い銃声が轟《とどろ》いた。満月さえも撃ち落とせそうな轟音《ごうおん》だった。 「やよひ。どこなら、やよひ」  虔吉は土間に戻るとやよひを捜す。暗闇なので、やよひがどこにいるのかよくわからないのだ。すでに死者の数は夥《おびただ》しいはずだ。ここにいるだけで血の匂いに咽《む》せる。 「イヨさんが首、はねられて死んどる」  瞬時に、あの時の辰男の顔が浮かぶ。愛してくれる者を残していくのが不憫《ふびん》で殺したのか。それともただ邪魔だったのか。決意を固めるためにはそうしなければならなかったのか。いや、鬼の前には愛する者も憎む者もないのだ。 「鬼じゃあ。婆やんまでやるとは、鬼じゃあ」  誰かが喚いたのを耳にした直後、金中の家の戸は蹴破《けやぶ》られた。家の中からではなく、外から激しい悲鳴があがった。  虔吉は、待っていたと言いかけてやめた。 「虔吉」  辰男の呼び掛けは、奇怪な中にも優しい響きがあった。血に塗れても頬は白い。 「ついに、その時が来たんじゃな、辰っつぁん」 「おまえが集めてくれたんは、皆ええものじゃったぞ」  異様な姿の辰男ではあるが、それは物語の中の勇猛な兵隊さんにも見えた。 「この鉄砲も、刀もな」  自分達も殺されるのだ。冷静に、虔吉は受け止めた。 「仁平も政雄もやった。一発で撃ち抜けたで」  虔吉はその刹那《せつな》、何故だか子供の頃の思い出が甘く思い出された。校庭で乱暴なチャンバラごっこや、厳しい修練体操をしている場面が胸|疼《うず》く間に流れ去る。 「砂子の一家もじゃ。奥さんだきゃあ可哀相なことをした」  辰男は紅潮していた。戦争ごっこの成果を報告するように、辰男は紅潮していた。寝巻姿の虔吉は、生真面目な部下のようにその戦果を聞く。二人に取り憑いたはずの鬼は、もはや辰男の方にしかいなかった。 「拝み屋の一家も、全部片付けたわ」  一番勉強のできた辰男が、折り目正しくひっそりと窓際の席につき、何やら帳面に書き付けている静謐《せいひつ》な姿がふと過ぎる。その記憶はいつまでも鮮やかだ。 「虔吉。おめえは、撃ちゃあせんで」  それは猿のように命乞いをせずともよいという許しなのに、虔吉はさすがに全身の震えを止められなかった。 「撃たんとって」  納戸に隠れていたやよひが、耐えきれず飛び出してきた。  あの夜と同じ、白い浴衣《ゆかた》だ。これを撃てばどんなに赤が目立つことか。 「わたしはほんまは、あんたに惚《ほ》れとったんよ」  そのままやよひは、辰男の足元にすがりついた。堅くゲートルを巻いたその足は、微動だにしなかった。  何か芝居の場面を、しかも退屈な場面を観る眼差《まなざ》しをやよひに向ける。それは辰男も虔吉もだ。すでに死者達はひっそりと従順だ。生きている者だけが浅ましい。 「うちの馬鹿亭主より、よっぽどよっぽどあんたの方がえかったんよ」  虔吉はそのやよひを引きずり戻し、抱き締めた。筋書きは、もう出来ているのだ。自分の台詞《せりふ》も動作も、予め決められているのだ。 「ほれ、今じゃ」  狂ったように暴れるやよひを、虔吉は力一杯抱き締める。 「撃ってくれ」  辰男が躊躇《ちゆうちよ》した。鬼が人間になりかかっている。それはいけない。鬼であり続けろ。虔吉は心の中で叫んだ。鬼じゃ、お前は浅ましい人間でなしに、無慈悲で強い鬼なんじゃ。 「敵前逃亡は、一番罪が重いんじゃで」  辰男は目を瞑《つぶ》り、引き金を引いた。虔吉は銃口から噴き出る青い炎を捉《とら》えた。一瞬それは真っ暗な森を青白く浮かび上がらせた。  弾《はじ》けたやよひは、胸の中でようやく従順な女になった。すべてを預け、もたれかかってくる。もう、虔吉を馬鹿にしたりはしない。こうして、虔吉だけのものになったのだ。  それから辰男は落ち着いた様子で外に出ると、屋根の上の姑をも撃った。卯の花を振っていた姑は、長い啼《な》き声をあげて軒下に転がり落ちた。 「森は、村は、終わるんか」  呪いの煙は真っすぐに、森の方に流れていく。やよひは即死だったが、虔吉はまだ息を繋《つな》いでいた。死の間際には満月ほどの明かりが相応《ふさわ》しいようだ。 「終わりゃあせんわい」  すでに刃こぼれしている日本刀を振って、辰男は吐き捨てた。 「そうじゃな、終わらんな……」  それは呪いや悪意、悪の芽もだ。切っても除いても貪欲《どんよく》に生えてくる。繁茂してくる。あの汚れた赤い血と白い汁から生まれる者どもは、森を食い尽くしてもなお生き長らえて子孫を残す。 「おまえら殺したところで」  返り血で斑《まだら》になった顔なのに、辰男の頬は透き通っていた。頭の両脇に括《くく》り付けた懐中電灯は、彼自身の眼差しの強い光源となっていた。 「根っこまで除《の》けることはできんのじゃ。じきに、わんわんと繁殖してくる」  切れ長の涼しげな目元には、狂おしい色はなかった。むしろ哀しみの色が強かった。皮肉な形にいつも歪《ゆが》んでいる唇も、こうして見上げれば微笑む形だ。 「虔吉。ほんならわしも、もう行くけん」  それは逢引《あいび》きをした後の女に投げ掛ける、優しい別れの言葉だった。 「……ああ」  満月を背に立つ辰男は、振り返らずに駆け出していった。虔吉は急激に寒さと暗さの中に落ち込んでいった。白々と明けかけた晩春の夜明け、虔吉は森に向かって駆けていく辰男の後ろ姿を捉えた。  やがて、森から最後の啼き声がした。躊躇《ためら》いも心残りも何もない、夜明けに一層鮮やかな炎を噴き上げる咆哮《ほうこう》だった。満月が震えるほどの響きがあった。 「死んだんじゃな」  それはこの村に鳴り響いた、最後の銃声だ。その余韻の中、虔吉は目を閉じた。森を呑《の》みこまんばかりに膨れあがった満月が、辺りを月世界のような静寂に導いた。 「辰男も死んだんじゃな……」  虔吉が最後に見たものと辰男が最後に見たものは、あの暗い森だったのか満月だったのか。腕に抱えたやよひに頬を寄せ、目を瞑る。お前が見たんは、亭主のわしじゃ。  いずれにしても、辰男が最後に聞いたものは、暗い森からの啼き声だったろう——。 [#改ページ]   終 章  弟の辰男があのきょうてえ、恐ろしい事件を起こした時、わたしは身籠《みご》もっておったんです。  しゃあから、離縁はされずに済んだんですらあ。そりゃあ、針の筵《むしろ》は当然じゃろ。産んだ後も、わたしは半年ばかり表に出られなんだけんなあ。嫁いだのは別の村じゃけど、元のあの村の親戚《しんせき》やら何やらも、近所になんぼかおられましたけん。  ……それにしても、ほんまに弟はようまぁ、一晩であんだけ殺せたもんじゃ。いや、こんなん感心したらいけんのじゃけど。身体も丈夫でないし、大人しい性質じゃったのに、やっぱりああいう時にゃあ、人には鬼が憑《つ》くんでしょうかなぁ。  わたしゃあ朝晩どの仏さんにも平等に手を合わしとりますけど、特によう覚えとるのがなんぼか、おります。うちと親戚じゃった糸井の家は仁平の爺《じい》さまと政雄が死んだが、そこの娘らぁは皆|余所《よそ》に嫁いどったけん、助かった。今頃はええ婆さまになっとるじゃろ。仁平の嫁は確か、ちょっとだけ生き延びて翌年くらいに死んだんじゃなかったかのう。  あの爺さまと従兄《いとこ》の政雄は随分と昔から、辰男を密《ひそ》かに恐れとった。自分らが復讐《ふくしゆう》というもんをされると、怯《おび》えとった。復讐て……それはまぁ、今ここでは言うことはできんのんですけどな。  そいから村で一番の分限者、金持ちじゃった砂子の家。そこの爺さんは辰男がわざわざ行かんでも、あんまりろくな死に方はせんと思われとったけどなぁ。健気《けなげ》な奥さんは可哀相じゃった。  なんでも、さんざん浮気やら何やらで苦しめられてきた旦那《だんな》を庇《かぼ》うて撃たれたというんじゃから。つくづく男運の悪い人じゃった。そこの息子は、撃たれた後も走って駐在所に報《しら》せに行って、そこで死んだというんよ。生きとる間は偉そうじゃったけど、それを聞いたらなかなかの男じゃったなあ、と思えるわ。  似非《えせ》拝み屋の一家も皆死んだんじゃけど、行方知れずじゃったそこの娘のみち子の兄貴の一人が、家財道具引き取りに来たんじゃてな。遺骨も持っていったそうじゃが、どこに墓を作ったんじゃろうなあ。  その者がまた、どこぞでやっぱり似非の宗教の開祖になっとるいう噂もあったな。いつの世にも、進んでインチキの神様に騙《だま》されたいと願う者はおるんよなあ。  そいでもな、辰男は誰彼構わず殺したりしたんじゃないんよ。馬場の家にも押し入ったけど、何もせなんだ。そこの坊と仲良かったこともあるんじゃけど、馬場の者は人の悪口を言わなんだ。じゃけん、辰男の悪口も言わなんだんよ。  普段から心がけとくことじゃな。実はあの爺さんは、なかなかの悪党じゃったんよ。誰もわかっとらんかったけどな。いや、今更言うても詮《せん》ないことじゃ。わたしは、知っとった。しゃあけどそれはうちらの婆やんにも関わってくることじゃけん、ここでは言えん。  それよりあの坊はその後どうなったんかのう。辰男に似とったけん、出世しとるか壊れとるかどっちかじゃ。  一家全滅というたら、金中の家もそうじゃったな。婆さんと娘は意地悪じゃったけど、入り婿はお人好《ひとよ》しの優しい男じゃったんよ。なんで、辰男はあの虔吉っつぁんまで撃ったんじゃろうか。それだけが、いまだにわからんのよ。  まぁ、もしかしたら間違えて撃った、手元が狂うたんかもしれん。おおそうじゃ、あの嫁は身籠もっとったそうじゃわ。死んだ後に調べてわかったらしいんじゃ。  そいでも結婚しとるのに夜這《よば》いやら逢引《あいび》きやら盛んにしとったというけん、旦那の子じゃあなかったかもしれん。ひょっとして辰男の子じゃったんじゃないんか。そう思うたら惜しいのう思いますらぁ。  あれから六十年が過ぎたんじゃなあ。岡山も街になったもんじゃわ。森も今はのうなったんじゃ。  事件を覚えとるんは、わたしのような年寄りばかしじゃ。若い者は知らん。そいでもなあ、あの森は別じゃ。  ……これは一体、何の因果なんじゃろうなあ。政雄の嫁がつれて戻った娘が産んだ、一番小んまい男の子が、今度また大それた事件を起こしてしもうたとはなあ。  最初はテレビのニュースで見て、きょうてえのう怖いのう、としか思わんかったけど、こうして警察の人じゃテレビじゃ新聞の人じゃ、わらわらとこねえな辺鄙《へんぴ》な所に住む婆さんまで捜し当てて話を聞きに来るんじゃけえ、仰天しましたで。  わたしにはもう、何が何やらわかりませんがな。何せその男の子の親、わたしの従兄の孫はみな東京で生まれたもんじゃけ、一ぺんも会《お》うたことなぞなかったんよ。  辰男に似て、よう勉強できる子じゃったんで。何がいけんかったんか。胸も患《わずろ》うとりゃせんし、今は徴兵検査もないけんのう。  なんかよう知らんけどせっかくええ高校に入ったのに、途中から行けんようになってしもうて。ずうっと、家に籠もっとったらしいわ。そりゃあ、辰男とおんなじじゃ。  自分が認められんのは世の中の方が悪いんじゃ、と暴れたんじゃと聞いた時は、これもまた辰男とおんなじじゃがなと溜《た》め息が出たわあ。  仲良うしとった女の子に冷とうされて首を絞めたんも、悪口を言い触らしたいうて、その子の家族にも切り付けたというんも、同じじゃ。女に認められん、世間に認められん、そりゃ、自分で自分を認められんのじゃけん仕方なかろうに。  じいさんの従弟《いとこ》に当たる辰男のこたあ、一切知らなんだろうに。なんでまた、同じように森に入っていったんじゃろうか。まさか、辰男が呼んだんじゃあなかろう。なんぼなんでも、そりゃあ恐ろしすぎるでしょうが。  辰男はしまいに、自分で自分の胸を撃って死んだんじゃが、あの子は首|吊《つ》る縄しか持っとらなんだてな。そいでも銃声がしたて、村の何人もが聞いたんてなあ。そりゃあ空耳じゃあないんよ。あの日はちょうど、満月じゃったしな。  その森にゃあ変な噂はなかったんじゃろ。満月の夜にゃあ、銃声がするとかなあ。実はわたしには聞こえたんよ。あの森のあの木にぶら下がって啼《な》いたあの子の声が聞こえたんじゃ。いっつも聞こえてきたあの不思議な啼き声。あれは、あの子の声じゃったんじゃろうか。  ……おや、誰が泣いとるんじゃろうか。いや、何が啼いとるんじゃろうか。  聞こえんのかな、あんた方にゃ。聞こえんなら聞こえんでええでしょう。わたしが変なんじゃけえな。  普通、こねえな婆さんになったら耳は遠ゆうなるはずじゃけど、わたしは違うんですらあ。と言うても、肝心な物音はやっぱりよう聞こえんのです。  冴《さ》えて聞こえるんは、この世にない音ばっかしじゃ。それはわたしが、もうあの世の方が近い婆さんじゃからと、思われますかな。  いんにゃ。これは、子供の時分、娘の時分からなんじゃわ。なんでかわたしは、聞こえんはずの音が聞こえるだけでなしに、妙なところで物覚えが良すぎたり、勘が働きすぎたりしてなあ。  今もあの森で、わたしの可愛い弟と、従兄の孫は啼いとるんです。わたしにゃあ、聞こえてくるんです。何せほれ、あねえに大きな満月が昇ったけん——。 角川ホラー文庫『夜啼きの森』平成16年5月10日初版発行