宇神幸男 神宿る手 目 次  序奏  迷宮の扉  神宿る手  汚名の花束  鎌倉薪能の女  夜の中の顔  もう一人のバロー  金字塔計画  痩馬の蒼白き尾  かくて巨匠、舞台に……?   文庫版あとがき [#改ページ]   序 奏  一九八三年三月八日、現地時間午後四時四十分——、スイス・ベルン高地、インターラーケンの病院で一人の日本人青年が息をひきとった。  インターラーケンにほど近い山麓の村ラウターブルンネン。この寒村の、落差三百メートルの秀抜なシュタウプバッハの瀧《たき》の落下点付近で昏倒《こんとう》していた青年は、村人に発見されたとき、すでに半分冷たくなっていた。衰弱した躯《からだ》に肺炎を発病し、医師と看護婦のほかは誰も看取《みと》る者もなく、死んでいった。  死因は急性肺炎による呼吸不全。遺書もなく、臨終にいたるまで意識が恢復《かいふく》しなかったため、それらしい遺言もなかったが、あえぎながら譫言《うわごと》のように繰り返しつぶやいていたのは、「痩馬《やせうま》の蒼白《あおじろ》き尾」という言葉だけだった。このいささか謎めいた言葉は、詩人バイロンがシュタウプバッハの瀧を譬《たと》えた比喩《ひゆ》であり、それはもとより医師と看護婦の知るところだったが、二人は頸《くび》をかしげ、いぶかしげに顔を見合わせるほかはなかった。  警察による現場検証と周辺町村のホテルへの照会が行われる一方、遺体はベルンの州立病院へ搬《はこ》ばれ、検案されたが、とくに不審な点は発見されなかった。  青年は、身分証を二種携行していた。一つは学生証で、それによると国立ミュンヘン音楽大学の器楽科学生であった。もう一つは日本の文化庁の「芸術家在外研修員」の身分証明。つまり、給費留学生だった。  現地の新聞の報じるところによれば、ベルンの病院にはミュンヘン大学の事務局職員と日本人女子学生の二名が遺体の確認および遺品の受け取りに来たが、その日本人女性はインターラーケンに足をのばし、最期を看取った医師と看護婦に面会し、ラウターブルンネンを訪ね、シュタウプバッハの瀧の下に花束を捧げたという。 [#改ページ]   迷宮の扉     1  渋滞を抜け出してずいぶん経つのにシフトアップを忘れていた。蓮見《はすみ》はいまいましげに舌打ちし、トップに入れた。ラジオのスイッチをオンにする。なにかのオペラが騒々しい響きで車内を満たした。蓮見は再び舌打ちし、番組を変える。「冗談じゃないよ」と男の声、それに続いて女の嬌笑《きようしよう》、 男の高笑い。愚にもつかぬおしゃべりと聴取者の投書、そして時間つぶしの音楽で構成される内容空疎な番組。  冗談じゃないよ、蓮見は鸚鵡返《おうむがえ》しに独語し、三度目の舌打ちとともにスイッチを消す。  昨夜軽井沢での三日にわたる取材を了《お》えた蓮見は、編集部に電話して休暇を一日取っていた。日曜日にあたる今日とあした、ゆっくりと羽根を伸ばすつもりだった。アイスクリームを舐《な》めながら街を闊歩《かつぽ》する若者のようにはいかないまでも、おおいに骨休めをするのだと考えていた。  九時過ぎに起床し、旧軽井沢を愛宕《あたご》山から三笠あたりへ散歩して過ごした蓮見が、朝昼兼用の食事をホテルで済ませ、午後からは鬼押出しから嬬恋《つまごい》あたりを訪ねてみようかと考えていたやさき、  休暇は取消し、すぐ帰ってくるように——。  おもいがけない編集長からの電話が入った。 「ひどいな。冗談じゃないですよ」  不平を鳴らすと、 「だいたい軽井沢の取材なんてものがそもそも休暇みたいなものじゃないか。女の子にやらせたってよかったんだぜ。もんくをいわずに帰るんだ」  ニベもない答えが返ってきた。 「それならもっと遊び半分でやるんでした。こっちは脇目もふらずの三日間だったんですからね」 「もんくを聞いているひまはない」と舵川《かじかわ》は語気を強めていった、「おれはこの机が気に入っているんだ」  鉛筆で机を叩く音が聞こえた。編集長の椅子が危ういほどの事件とすればおだやかではない。 「そんな大変なことなんですか」  調子を変えて訊《たず》ねると、 「帰ってきたら説明する」そっけなく答えて、「夏休み最後の日曜日だろ、道路事情は悪いかもしれんが、とにかく早く帰ってくれ」  事務的に結んで電話を切った。  いつにない低調さとひどくいらだった感じが気に入らなかった。胸騒ぎのようなものが残った。まるで危急存亡の秋《とき》という感じじゃないか。  新聞や週刊誌とはわけが違う。音楽雑誌に一刻を争うような事件やスクープはありえない。たとえば、この「軽井沢夏期国際音楽フェスティバル」の取材。音楽大学として国立東都芸術大学と双璧をなす私学の雄、松芳《しようほう》学園大学が五年前から始めた夏のイベントだが、軽井沢という舞台効果もあってこの二、三年の成長はめざましい。それぞれが一流演奏家でもあるレギュラーの教授陣に加えて、海外著名音楽家の招待講師陣による各種セミナーの評判も上々、二週間の日程のうちおしまいの三日間を費やして催される野外演奏会はとりわけよびもので、興行的にも成功を収めている。とはいえ、これはあくまで夏枯れの音楽界にあって、グラビア頁をあてることができる埋め草記事にすぎない。かくべつ、他社に先んじて取材しなければならないような性質のものではないのだ。  ライヴァル誌の記者たちも姿をみせていたが、顔見知りの一人などは、 「眠くて、眠くて。ホテルに戻るから、あとで教えてよ。おごるから」  コンサートの途中で片手拝みして会場から消えていったくらいだ。  煙草が切れていた。沿道に自動販売機をみつけると蓮見は車を停めた。  降りると、林から降るような蝉《せみ》時雨《しぐれ》が聞こえてきた。落葉松《からまつ》の林を渡ってくる風の甘い匂いは、この土地を去る蓮見にとってやや心残りなものの一つだった。  自動販売機に隣接する電話ボックスはカードが使えるタイプだった。  受付嬢に内線番号を告げる。 「なんだ、蓮見か。いまどこだ」 「碓氷《うすい》バイパスの手前。……どうもあれからずっと編集長の電話が気になって運転に身が入らない。危なくてしようがないから、電話したんです。いったい何が起きたのです? カラヤンでも死んだのですか?」 「それなら結構なことだ。追悼《ついとう》特集の下ごしらえは去年からできてるよ。そんな自明の理ならあわてる必要もないさ」 「ほんとうですか」 「何が?」 「追悼記事です」 「ああ、やってますよ。抜かりはありませんね、いつでもどうぞだ」 「たいした人だな」 「見直したか」 「あきれちゃって……」  今秋、カラヤンは手兵ベルリン・フィルを率い、サントリーホールのオープン記念コンサートを飾ることになっている。追悼特集とはなんとも早手回しな話だった。 「カラヤンはそのうち死ぬさ。確実にな。しかしこれはちがうんだ。死んだ人間が生き返ったんだからな」 「怪談ですか。まあ夏向きではあるけど」  舵川は受話器の向こうでしばらくいい澱《よど》んでいる気配だったが、ややあって、とある人名を告げた。よく聴き取れなかった。 「なんですって?」  そう蓮見が聞き返したのと同時だった。突然、急ブレーキとタイヤの軋《きし》む音が蓮見の鼓膜を撃《う》った。  手を伸ばせば届くような距離に停めた旧式の箱型ブルーバードの向こう側に、反対方向から来た外車が、ちょうどブルーバードと尻を向けあうかたちで停車していた。  ロールスロイスだった。窓が開き、女が顔を出した。半分顔をのぞかせ、ブルーバードを見ている。どうやらこすったようだ。ワインレッドのフェンダーに真新しい傷痕があるのが視《み》えた。  蓮見はボックスから出、ブルーバードの向こう側に回ってみた。白い、というより、当初は白く輝いていたことがどうにか類推できるだけのボディの横腹を、ほぼ一直線に接触痕が走っている。これだけの幅員があってちょっと考えられない事故だった。緩《ゆる》いカーブにかかっているが、かなりとばしていたにちがいない。 「なかなか大胆なタッチだな。せっかくだけど、ぼくはこんな派手なワイン色のストライプは好きじゃないんです」  みごとな一筆描きで描かれた傷痕を撫《な》でながら、蓮見は鷹揚《おうよう》にいった。 「…………」  女は黙って答えない。  長めの髪にサングラス、ほとんど無表情である。端正な顔だけに、サングラスは女の表情を押し隠し、仮面のように抽象化している。茫然自失しているというのとは違っていた。意に介していないという感じだった。蓮見はすこし腹を立てた。 「なんとかいいなよ。とにかく降りてきたらどうかな」  蓮見がいい終わらないうちに女はハンドルに手をかけた。反射的に蓮見はナンバープレートに視線をくれた。  ロールスロイス・コーニッシュは深沈《しんちん》とした排気音を響かせ、そのまま疾駆して、あっというまに視界から消えた。  蓮見は車に戻り、取材帳にナンバーを控えた。  さて、どうしたものだろう。蓮見はふたたび電話ボックスの扉を開けた。当然ながら電話は切れていた。新しいカードを出してもう一度かけなおした。  舵川は怒っていた。蓮見はかいつまんで状況を説明したが、なかなか納得しかねるようすだった。 「どうしたものかと思ってるんです。東京に帰ってからだと事が面倒になるでしょう。現場検証なんかにまた戻ってこなくちゃいけないとすれば」 「どうせポンコツじゃないか。あきらめろ。むしろ外車のほうが被害者だ。修理代にしたっておまえのブルーバードとくらべりゃ桁違《けたちが》いだろう。忘れろ、忘れろ」 「よくいいますねえ。愛着の問題ですよ。それに相手が女だけに、どうにもおさまらない気分なんだ」 「なんだ女なのか。美人か、若いのか」 「サングラスで齢はよくわからなかったけど、なかなかの美人」 「だったら功徳《くどく》だと思って忘れるんだな」 「忘れはしませんが、ともかく帰ることにしますよ。ナンバーをおさえてますから、警察に届けるにしろしないにしろ、なんとかなるでしょう。……そうそう、さっきの話のつづきですが、誰でしたっけ、真夏の幽霊」 「ああ、あれか。バローだ、バロー」 「誰ですって?」 「バ、ロ、 ー」  舵川は発音練習のように区切って反復した。  聞きなれぬ名前だった。 「それは何者です?」 「四十年の眠りから覚めた亡霊だ」舵川は沈鬱な声で答えた、「ジェラール・バロー、その昔ラノヴィッツがはだしで逃げ出した天才ピアニストだそうだ」 「ラノヴィッツがですか? じゃ、超天才ピアニストじゃないですか。しかしバローなんていままで聞いたこともない」 「まったくおかしなのが出てきたもんだ。博物館で埃《ほこり》をかぶってりゃいいのに、忽然《こつぜん》とおでましになったのさ。おまえさんのいうとおり夏の夜のミステリーだ。おかげでこっちは昨夜一晩眠れなかった」  つづけて舵川は何かいいかけたが、カードの度数が超過し、電話は切れた。  外へ出ると、外車らしい屋根のない車が眼前をかすめていった。風が蓮見の頬を打った。  蓮見は車に戻った。しばらく走ったところで煙草を電話ボックスの中に置き忘れてきたことに気づいた。蓮見は舌打ちはしなかった。脳裡にバローという名が明滅していた。 「バロー、ジェラール・バロー、……バロー」  蓮見は呪文のように口のうちで唱え、どっちにしても人騒がせなやつだ、ひどく不機嫌にそう思った。     2  関越自動車道と碓氷《うすい》バイパスの開通以来、東京・軽井沢間の懸隔は昔日の比ではなくなったものの、夏休みの最終日と日曜が重なって、所要時間はふだんに倍するものとなった。奥沢の自宅に戻ると、すでに町は片影だった。  妹の典子《のりこ》は外出していた。妹との二人暮らしには広すぎる家は、いつもながら閑散としている。  シャワーを浴び、着替えをすると多少気分はあらたまった。玄関に施錠していると、背中に声がかかった。 「泥棒かとおもったわ。……軽井沢じゃなかったの」  買物|籠《かご》を携《さ》げた典子だった。 「ずいぶん買い込んでるじゃないか。兄の居ぬ間に誰か引き入れて、家庭料理なんぞ食わせて籠絡《ろうらく》しようってのじゃないだろうな」 「料理の腕前は先刻ご承知でしょ。夕飯どうするの、これから会社?」 「ああ、予定変更でね、今夜はたぶん遅くなるだろうから、晩飯はいらない」  駿河台《するがだい》の「楽苑社《がくえんしや》」に向かった。行き交う車のフロントガラスやリアウインドウが夕陽を砕いている。視界を、気の早いところは明かりをともし始めた見馴れた街衢《がいく》が、後方へ流れて行く。いつもと同じ都会の顔だった。  社の地下駐車場に車を入れ、トランクからカメラバッグを取り出し、裏玄関に飛び込んだ。  専門書や楽譜の出版、催し物の業務を扱う一階にはほとんど人影がなかった。エレベーターの電源が落とされているので蓮見は階段を駆け上がる。  二階の編集局は「音楽の苑《その》」「マイ・レコード」「マイ・オーディオ」という看板雑誌の他、「月刊音楽教育」「マイ・ポップス」「マイ・ブラス」「マイ・キーボード」などの月刊誌の編集部がひしめき合っている。冷房も落ちているのだろう、窓が開け放たれている。 「音楽の苑」は楽壇の動きや音楽会の情報、批評などを掲載する総合誌。「マイ・レコード」はレコードの、「マイ・オーディオ」はオーディオの、それぞれ情報誌である。「音楽の苑」は、社名を冠していることからわかるように、会社創立以来の長寿雑誌であり、楽苑社の顔であり、花でもあった。蓮見は「音楽の苑」の編集部員である。  戦後まもなく建てられたビルだから全体に蒼古《そうこ》とした雰囲気が漂っているが、六十坪ほどの床《フロア》を衝立《ついたて》で間仕切りしただけのこの二階は、それに加えてひどく雑然としている。しかし今はここも人影がなく閑散としていた。 「早かったじゃないか」  蕎麦《そば》を食っていた舵川が、蓮見をみとめて箸《はし》で手招きした。  蓮見は自分の机にカメラバッグを載せ、ファスナーを開きながらいった。 「ひょんなことからチェンバロをやってる女の子と親しくなりましてね、デートの約束をとりつけてたんだ。いま時分はだからどこかしゃれたカフェテラスなんかで冷たいワインを傾けて、その娘を口説いてたところなんだけどな」  撮影済みのフィルムをラボ用の集配袋に仕分けしながら、でまかせをいってぼやいてみせたが、舵川はそれにはとりあわず、 「……おや、いったんご帰宅のうえ、ご出勤ですか」皮肉な調子でいった、「石鹸の匂いなぞさせて余裕|綽々《しやくしやく》ですな。ま、それはいい。車のことだがな、ナンバーをそこにメモしておいてくれ。所有者を調べさせる。試聴室に上がっててくれないか。これ食ったらすぐに行くから」  背を向けた蓮見に、 「試聴室には圭子《けいこ》ちゃんが行ってる。尻なんか撫でるんじゃないぞ」  口にものを入れた不明瞭な声でいい添えた。  蓮見は手の甲で否定し、ドアに向かった。圭子にまで日曜出勤を命じているところをみると、やはりただごとではないようだった。  五階の試聴室の前で蓮見は立ち止まり、廊下の窓越しに八月最後の一日の夕暮れを眺めた。軽井沢には秋の気配があったが、ここはまだしばらくは夏だった。街は残照に包まれて一種悲哀に似た色を泛《うか》べている。  穏やかな夕景に情緒的なものを見てとった自分に、蓮見はとまどいと羞恥を覚え、その感傷をいくらか自嘲的な気分で疲労のせいにした。  沢木圭子はこちらに背を向け、ヘッドフォンをあてがい、テープ・デッキの前に腰かけていた。蓮見には気がついていない。たしかに魅力的な腰だが、と蓮見は思った。圭子はしかし自分の肉体が具《そな》えている魅力にすこしも気づいていないようなところがあり、そんなところがこの大学を出て間もない娘の美点だった。編集長ならずとも編集局全体の支持をあつめている理由もたぶんそこにあるのだろう。  肩を叩くとおおげさに飛び上がった。 「……おかえりなさい。せっかくの休暇なのに、お気の毒」  ヘッドフォンを外しながらほほえんでみせた。 「ああ、まいったよ。この会社は無能な社員は休ませないそうだ」 「あてつけ?」  ちょっと拗《す》ねたような目をしてみせる。 「きみが休めないのはみんなが重宝しているからさ。……クラシックの野外コンサートというのはなかなかいいよ。イベント会場は北軽《きたかる》の方なんだ。これが鄙《ひな》びていて、軽井沢にもあんなところがあるんだな、キャベツやレタスの畑があったりする。野鳥の飛入りがあったり、栗鼠《りす》がチェロに乗っかったりして、……まあ栗鼠は嘘だけど。去年より客も増えてたし、きみも来年は行ってみればいい。しかし、せっかく休暇を取って、さてこそと思ってたところへ、突然の帰還命令だからな。そうそう、そんなわけで土産もなにもないんだ」 「お気づかいご無用よ。編集長、ご機嫌悪かったでしょ」 「いつもだろ」 「そうじゃないの、きょうは特別。それはまあいいのだけど」圭子はデッキに向き直り、つづけた、「ダビングなんですが、マスターテープをいまつくったところで、これからカセットテープに複写しなくちゃいけないの」 「原版《もと》はなんだい?」 「コンパクト・ディスク。ピアノの曲がいくつか収録されてます」 「カセットテープの使用目的は」 「わかりません。十本ばかりダビングしておくようにって」 「そうだ、あすまでに十本つくるんだ」  舵川が背後に立っていた。仏頂面でいう、「ちょっと面倒なことが起きた。呼び戻して悪かったが、至急対策を講じなければならない」  舵川は乱暴な手つきで卓上に雑誌を置き、見ろ、というふうに頤《あご》でしゃくった。 「FMジャーナル」の最新号だった。隔週発行のFM番組案内であるが、ロックからクラシックまで広範な守備範囲をもち、クラシックは来日演奏家にスポットをあてたグラビア記事が中心だが、絵になる、見ばえのいいアーティストだけにしぼって特色を打ち出している。「音楽の苑」としたら、発行部数の多さや読者層の広範なことで一目置かないわけにはいかない雑誌だった。  手に取るとめくり癖のついた頁がひとりでに開いた。蓮見の目に「バロー」の三文字が飛び込んできた。  謎のピアニスト バローの再起!  という大見出しにはじまる見開き二頁の記事である。 [#2字下げ]あのラノヴィッツが畏怖《いふ》したただ一人のピアニスト [#2字下げ]天才バローの謎にみちた隠遁《いんとん》 [#2字下げ]ジェラール・バロー、突然の再起  小見出しが蓮見の頭の中を躍った。「バロー」という活字がひどく禍々《まがまが》しいものとなって蓮見を撃った。ジェラール・バロー、やはりどうやらこいつは疫病神らしい。  断 章   それは、別荘というより西洋館とよばれるのがふさわしい、この旧軽井沢地区に、冠絶した威容を見せる建物であった。  エリザベス朝様式のいくつもの破風《はふ》をもち、庭に沿って白い円柱が並ぶ側廊《アイル》にステンドグラスの採光窓《あかりまど》が象嵌《ぞうがん》されている、といった凝った建物は、しかし建坪に数倍する広大な敷地の白樺や樅《もみ》、落葉松、楡《にれ》などの高密度の林によって巧みに好奇や羨望《せんぼう》の視線からまぬかれていた。  塀は風景に融け込んで目立たず、門はほとんど平凡でさえあった。しかしワインレッドのロールスロイス・コーニッシュを、その変哲もない門扉が無人のまま開閉して迎え入れた。  車よりは馬車か騎馬の似合いそうな甃《いしだたみ》の道を、立木の影を鏡のようなボディに映しながらロールスロイスが静かに滑って、車寄せに停車した。  ポーチに男が迎え出て、頭を下げる。女はふりむいて車を指さし、なにごとかいう。男は車のフェンダーに視線を向ける。女はサングラスをはずし、ひきつめて後ろで括《くく》った髪をほどく。髪は黒い小さなつむじ風のように女のやや怒り加減の肩になだれ落ちる。そうしてまた男になにごとかいう。男はポケットから手帳を取り出し、女の言葉を確認するかのように復誦《ふくしよう》し、書き込みをする。女は屋敷の中に消え、男は車に駆け寄るとフェンダーの傷痕の前に腰を屈め、しばらく見ていたが、すぐに邸内に戻った。  男は古風な蒔絵《まきえ》の文箱《ふばこ》を、女の前に置いた。女は蓋《ふた》を開け、薄い書類を取り出した。緊張した面持ちで書類を検《しら》べる。  相沢堅一 松芳学園大学器楽部ピアノ科教授  妻 令子   浅野恭平 浅野音楽事務所社長  妻 綾乃  鵜崎清五郎 銀座楽器社長  妻 千栄子  門田伸治 信越新聞・文化部長  妻 秋江  酒井信雄 松芳学園大学器楽部ヴァイオリン科教授  義妹 井元かな子(デザイナー)  …………  女は名簿に列なる名前を追っていく。  狭間司郎 松芳学園大学器楽部指揮科教授  妻 えり子  マイケル・ホワイト 東京管弦楽団首席ホルン奏者  妻 エミー(陶芸家)  矢代春樹 東京管弦楽団常任指揮者   妻(代理)木戸麻美(東京管弦楽団フルート奏者)  …………  めざす人物の名前にきたところで女の視線は釘付けになる。  出欠の欄には出席に○が囲んである。備考欄に「八月二十六日電話確認済み。健康状態良好との由。三十日、午後成田着。当日二十三時頃、軽井沢プラザホテル投宿予定」と記入があり、投宿予定の「予定」の文字が二重線で消してある。 「彼は何時にここへ?」  女が訊《き》く。 「十九時の予定です。どうしてもおやりになるのですか?」 「ええ」 「いまからでも思いとどまっていただくわけにはいきませんか。このことがどんな結果を生むか……」 「…………」 「なんといっても彼は世界の至宝的存在のピアニストです。そんな彼を完膚《かんぷ》なきまでにたたきのめすことになるのです。世界楽壇の宝を抹殺するのです」 「わかってるわ!」語気強く答えた。頬を紅潮させていう、「彼は背中から撃たれても仕方のない前歴があるのです。それだけのことを過去にやっているのです。そしてのうのうと今日まで……」  そこまでいうと、女は悲しげな表情を泛《うか》べ、いくぶん調子を落として続けた。 「なにもかもわかったうえです。ご苦労でした。下がってください」  男が出ていくと、女は机の上に両肘《りようひじ》を突き、すこし慄える両手を握り合わせ、静かに目を鎖《と》じる。  バローの特集記事は次のような前説にはじまっている。 「次々と有力な新人ピアニストが登場し、ついきのう産声をあげたような新人から中堅、大家、巨匠にいたるほとんどのピアニストが来演を果たしているのは、まさに音楽消費大国日本ならではだ。  たとえば永くファンが熱望していた巨匠中の巨匠ドゥミトリー・ラノヴィッツのこの六月の初来日、本邦初公演。これこそ、今年のクラシック界の大事件であり、いまだにその興奮がさめやらぬところ。しかし、この高齢の巨匠のあるいは最後となるかもしれない来日公演によって、この国の土を踏まない巨匠は、ピアニストに限らずもはや世界のどこにも存在しない、という印象を受けたのも事実だ。  しかし、ほんとうにそうなのだろうか。  世界のどこかにラノヴィッツをもしのぐおそるべきピアノの名人が存在するのではないかという空想は、この情報化社会にあっては荒唐無稽な夢にすぎないのだろうか」  ここまで読んで、 「えらくおもわせぶりだな」  つとめて平静につぶやいてみせたが、蓮見は活字を追うのにすくなからず努力を要した。  記事は次のように続く——。 「ジェラール・バロー。一九〇四年ストラスブール生まれのこのピアニストの名を知る人はいまや皆無なのではないだろうか。しかし戦前においては数点のSP盤によって『バローおそるべし』の声が好楽家のあいだでささやかれていたと伝えられ、なみはずれたテクニシャンぶりが好楽家を狂喜させたという。第二次大戦中も華々しい活躍を、主としてドイツとフランスにおいて展開したこのピアニストは大戦後急速に人の口にのぼらなくなる。  戦後、日本は一九五〇年代を迎えて、コルトー、ギーゼキング、バックハウスといった錚々《そうそう》たる大ピアニストを招聘《しようへい》する。ところが、バローはついに姿を見せず、レコードも紹介されることはなく、生死のほども不明のまま。一説によると記憶喪失、また神経症による運動麻痺などによる演奏家生命の終わりが風評されたこともあったが、LPレコードの登場はSP盤を一掃し、ジェラール・バローの名もこの国だけでなく世界から完全に忘れ去られた。  バローは、しかし生きていた。奇《く》しくもラノヴィッツと生年を同じくするこの幻の天才ピアニストは、ピアニストとして現役のまま生きながらえていた。それはほとんど奇蹟、信じがたい伝説、現代の神話を思わせずにはいない。……幻のバローが帰ってきたのだ」  蓮見の衝撃はこの記事の持つ意味、すなわちこれが完璧な「FMジャーナル」誌のスクープであり、それはとりもなおさず「音楽の苑」の、音楽出版の老舗《しにせ》である楽苑社の大黒星を意味することにあったが、一方ではこのバローなる幻の天才ピアニストの復活劇に抗しがたく魅《ひ》き寄せられる自分を抑えられなかった。  誌面はここで一区切りついて、このあとはバローを発掘し、その録音に成功し、世界にさきがけてディスクの発売をみるにいたった「ミネルヴァ東京」なる新興レコード会社の提供記事に拠《よ》っている。  記事は、バロー復活に関わる一人の人物から「ミネルヴァ東京」が採ったインタビューの体裁をとっているが、談話の主は「島村夕子」なる女性で、プロフィールによれば、この女性はスイス在住の宗教美術史の研究家であり、はやくから渡欧して中世史を学んでいるうち宗教美術に傾倒、研究を続けてきたが、現在は西洋|拷問《ごうもん》史を勉強しているという変わり種である。 「へえ、拷問史か」  蓮見はつぶやきながら、島村夕子の写真に眺め入った。どこかのレストランか喫茶店で撮られたらしい写真はアンダー気味で、やや俯《うつむ》きぎみのほとんど横顔になっている。髪はセミロング、面長で、年恰好は二十代後半から三十にかけて。一見美人に見えるが、実物はどうだろう。いずれにせよ、拷問というイメージとはそぐわない。 「幻の天才ピアニストと日本人女学者のからみか、なかなかやってくれるじゃないか」  蓮見がわざとしりぞいた調子でつぶやくと、舵川が先を読めというふうに目でうながした。  写真は見開き二頁の誌面にモノクロが三点掲載されている。  一点はバロー若き日のポートレートである。 「一九二九年、プレイエル・ホールでのバロー。青年期のバローを伝える写真。当時バローはフランスはもちろんヨーロッパで最も多忙なピアニストの一人だった。右下のサインも興味深い。 写真提供・島村夕子」  ピアノに片肘をついたバローは長身|痩躯《そうく》、豊かな髪はうなじあたりで捲《ま》いており、若い頃のブラームスを思わせる端正な美男子ぶりは、さだめし当時ホールやサロンで人気を独占しただろうことを容易に想像させるものがある。写真の右下に流麗な署名がしたためられている。  蓮見は談話を読む。蓮見の目に活字は躍り、揺れ、あたかも意志を持つもののようで、停頓してなかなか先へ進めない。  島村 拷問史などという血なまぐさい研究をしておりますと、たとえば旅行者が夢見るようなまなざしで美しいお城なんかを眺めている一方で、わたくしなどはまるでモグラみたいに地下牢や幽閉塔などを這い回って、歴史の彼方の惨劇に想いを馳《は》せるわけですから、そういうことをひと月も続けていると、息抜きがしたくなって、あまり人の行かないようなところでしかも風光|明媚《めいび》な土地を探してぶらりとでかけたりします。  そんなことを繰り返していまして、いまから三年とすこし前になりますが、スイスの高地の或る小さな村で、僥倖《ぎようこう》のような偶然によってわたくしはバロー先生と出会ったのです。  ——それは何という村ですか?  島村 村の名前ですか? それは勘弁してください。聞くところ、最近この国の好楽家は異常なほどアーティストに熱をあげるらしくて、ツアーを組んで世界を股にかけて演奏会を追いまわす人たちも珍しくないそうですから、もしわたくしの日本滞在中にそういった連中が先生のもとへ押しかけるようなことにでもなったら、それこそたいへんです。  このようなバロー発見についての質疑応答に始まるが、質問の第二はなぜバローが第二次大戦後、楽壇から姿を消してしまったかを問い、島村夕子は概要以下のように答えている。  ……大戦がヨーロッパの音楽家たちに及ぼした不幸は枚挙に遑《いとま》がないが、バローもその例に洩れず、ナチス支配下のドイツにおいて、またナチス占領下のパリで演奏会を行った異例の存在の一人であったという閲歴が、戦後のバローの運命に大きな影響を与えることとなる。  フランス人を父にドイツ人を母に持つバローは、第一次大戦後は母の生地フランクフルトに移住し、デビューもドイツであったし、評価も人気もドイツとロンドンで高く、バロー自身自分の最も理解ある聴衆をベルリンやウィーン、それにロンドンに見出していた。もちろんフランス生まれということから、パリでの人気もすさまじかったが、活動の拠点はベルリンにあった。共演アーティストもまた多くがドイツ系演奏家であった。  もともと政治にはナイーブなバローは、バッハやベートーヴェンの鳴るところにこそ自由が存在する、という芸術家としては優等生だが、この時期にあってはいささか楽観的といわざるを得ない考えの持主であったため、ユダヤ系を始めとする多くの音楽家たちのように亡命することもなく、ましてレジスタンスに挺身《ていしん》することもなく、ピアニストとしての活動を継続した。ベルリン・フィルとの共演や、ドイツ各地での演奏旅行など、大戦中の活躍ぶりはめざましかった。  戦後、事態は一変する。ドイツ楽壇の領袖《りようしゆう》的存在であった指揮者ウィルヘルム・フルトヴェングラーを筆頭として、ドイツにとどまった音楽家たちに、連合国の厳しい処遇が待ち受けていたように、ジェラール・バローにも受難の時が訪れる。  ——フルトヴェングラーはナチス政権下で要職にあったという理由から、またカラヤンなどはナチス党員だったために連合国の処断を受けたわけですが、バロー氏の場合はどうだったのでしょう?   島村 バロー先生も戦後はあらゆる活動を停止されました。詳細はわかりませんが、先生の場合は一種の人民裁判のようなかたちで、故国フランスの人々によって裁かれたようです。たとえば、ナチスに協力したフランス女性が丸坊主にされたように。  ドイツの音楽家以外でもオランダの名指揮者メンゲルベルク、フランスピアノ界の大御所コルトーなど、ナチスに協力的だったということで戦後は辛い目にあっています。バロー先生の場合は「フランス生まれのドイツのピアニスト」という国際性を、たくみにナチスの芸術政策に利用されたという面も否定できませんが、しかし、このへんのいきさつは先生が最も口を箝《かん》して語られないところですのでくわしくはわたくしも存じません。  先生はスイス高地の小さな村の別荘に逼塞《ひつそく》されました。唯一の身寄りであるお母さまは空襲で亡くなり、先生は当時四十そこそこでしたが、独身でしたので、実にさびしい境涯というべきでした。しかし先生は楽壇復帰に真剣に希望をつないでおられました。バロー先生は当時最大級のレパートリーを持つオールラウンドなピアニストだったわけですが、それらの再検討を徹底してなさったということです。徹頭徹尾バロー先生は芸術家であり、芸術家以外の何者でもなかったのです。  一九四七年の先生のベルリンでの復帰演奏会がスムーズに行われたとしたら、世界はさらに高い進境を示すバロー芸術の神髄に触れることができたわけですが……。  ——カムバックの失敗の原因は何だったのでしょう?  島村 楽壇復帰の思わぬ挫折についても、先生はあまり語られることがありませんが、断片から類推すると次のようなことだったと思われます。  ベルリンでの復帰演奏会は三日にわたる連続のマチネーだったのですが、戦前から一部に存在していた反バロー派の悪質な妨害にあったことがその失敗の原因だそうです。初日で演奏会は中止されてしまいました。この妨害工作にラノヴィッツが関与していたという事実があります。  先生はパリでもリサイタルを試みるのですが、ここではさらにひどい演奏会阻止の大キャンペーンにあい、結局いちども鍵盤に触れることなく踵《きびす》を返すこととなりました。バロー先生は傷心をいだいて、再びスイスの別荘へ隠遁されました。  先生はここではっきりと引退を決意されたのでしょう。バロー先生はたぶんに狷介《けんかい》なところのある方でした。  そののち、今日にいたるまで先生はスイスの別荘を一歩も出ない、まるで隠者のような生活をつづけてこられたのです。  ——ナチス政権下で活動を続けたドイツの演奏家たち、たとえばバックハウスやギーゼキングなどがそうですが、戦後アメリカで演奏会を行うにあたって、苛烈なボイコットに遭遇したこと、その指導的立場に指揮者ではトスカニーニ、ピアニストにはラノヴィッツがいたこと、これはいまでは公然の史実とされていますが、バロー氏との確執はたぶんいま初めて明かされた事実と思われます。そのへんの事情をもうすこし詳細に話していただけますか?  島村 そうですね、ついでですからラノヴィッツとバロー先生との角逐《かくちく》についてすこし触れておきましょう。たまたま生年が一緒なのですが、このふたりは若い頃に一度だけ膝を交えて接したことがあるそうです。  一九二六年、ラノヴィッツがまだロシアからアメリカへ亡命する前のこと、ハンブルクで偶然ふたりは顔を合わせました。  先生がラノヴィッツの投宿先を訪ねたところ、ラノヴィッツは譜面台のとある楽譜を示し、一年ほど前から挑戦しているのだがなかなかうまく弾けなくて、と苦笑してみせたそうです。ピアニスト史上空前のテクニシャンといわれたゴドフスキーが書いた曲で、もともとピアニストを拷問にかけるために書かれたような、いわば超難曲です。バロー先生はその曲は初めてだったのですが、しばらく譜面を眺めてからやおらピアノに向かい、素晴らしいテンポで弾き通したのです。  このときのラノヴィッツの驚きは想像にあまりあります。自分が長い期間かかっても意図どおりに弾けない曲を——といってもここでラノヴィッツが弾けないというのは非常に高度な次元での問題でしょうけど——目の前のバローという青年は、初見で、易々《やすやす》と、しかも音楽性豊かに弾いている。崖から突き落とされたようなショックを受けたに違いありません。  ——プロフェッショナル・ジェラシー、職業的嫉妬というやつですね。  島村 まさにそういうことです。しかもハンブルクでの演奏会はバローが満員の聴衆を集め、ラノヴィッツは閑古鳥の鳴くホールを空しくあとにする結果に終わりました。これが後の訪米の際の悲劇の幕開けだったわけです。  さきほど述べたベルリンでの再デビュー時の妨害、記憶喪失とか運動機能障害とかの流言|蜚語《ひご》もどうやらラノヴィッツが画策したもののようです。つまり、反ナチズムという隠れ蓑《みの》で、彼はみごとに私怨を晴らしたことになります。  ——現在、日本で最も人気の高いピアニストであるラノヴィッツに関するこのような新事実は、たぶんあなたの想像される以上の反響を巻き起こすと思われます。巨匠はこの五月初めての来日公演を成功裡に終えたばかりですから、これは一種のスキャンダルといってさしつかえないでしょう。あなたの勇気に感謝します。  バローの近影も掲載されている。窓の大きな山荘のような部屋でピアノを弾くバローを写したものである。広角系で撮ったものか焦点《ピント》は遠景から近景までくっきりと合焦している。窓外に展開する遠景は高い山嶺《さんれい》で、絵葉書のような景色である。  聖職者の僧服めいた衣服をまとったバローは燿《かが》やくばかりの銀髪をいただき、鶴のように痩せた、荘厳な容姿である。カメラはバローを斜め前から捉え、右手は鍵盤を押さえ、左手は胸の前にまるで祈りのように止められ、仰向き加減の顔には、何か地上には存在せぬものを視認しようとでもするかのような精神の高い発揚と、ほの暗い憂愁が隣合わせている。 「バロー氏近影。スイスの山荘にて。窓の外はアルプスの名峰か。あたかも音楽史から抜け出したかのようなバロー氏の姿は、われわれに晩年のリストを想像させずにはいない。 写真提供(撮影も)島村夕子氏」  蓮見は煙草に火を点け、天井を仰いだ。舵川は黙ったまま不機嫌なときの癖の腕組みと瞑目《めいもく》をずっと続けていたが、そのままの恰好で口を開いた。 「読んだか?」 「…………」 「なんとかいえよ」 「やられましたね。この世界では何年に一度あるかないかの大事件だ」 「そうさ。そしてこの超|弩級《どきゆう》記事が『FMジャーナル』には掲載され、『音楽の苑』には載っていない、これがもう一つの切実な大事件でもある。少なくともおれにとってはな」 「そう悲壮がらないでくださいよ。しかしこの『ミネルヴァ東京』とかいう会社、アンフェアもいいとこだ。どうして『ジャーナル』にだけ提供したのでしょう。うちをさしおいてですよ。そこのところがわからない。いわばこれはルール違反じゃないですか」 「その『ミネルヴァ東京』から今朝、書留でサンプル盤のCDが届いた。……さて弊社におきましては今般世界にさきがけバロー氏の名演を優秀録音にて発売し、巨匠の芸術を広く世に問う栄誉にあずかりましたことは云々、しらじらしく挨拶状まで添付してな」 「発売日については書いてありましたか?」 「いや近日発売、とだけしてある。『FMジャーナル』には九月下旬発売予定と書かれてるだろう。やけにもったいぶるじゃないか」  舵川はいいながら手真似で珈琲を飲むしぐさを圭子に見せ、そそくさと席を起ち、壁面の一部を占領しているオーディオ機器群の、ほぼ中央に置かれた管制系の机の上から問題のCDを持ってきた。 「これだ」  わずかに文庫本ほどのサイズの、レコード盤とくらべればいかにもたよりないコンパクト・ディスクが、このときだけは重厚なものに見えた。  見本盤、と片隅にシールが貼ってある。装幀は全面に写真が使われ、写真はバローのポートレートである。モノクロームの写真は全体に沈んだトーンをたたえており、画面右上に日本語で「ジェラール・バローの芸術」と毛筆体で金色に印刷されているのが、この種のものとしてはやや異彩を放っている。もうひとつ目を惹《ひ》くのはミネルヴァ東京の商標で、ピアノの鍵盤が帯状に、ちょうどメビウスの環のようにねじまがっているというものである。  蓮見はパッケージをあけ、解説書を開く。記述はすべて島村夕子の手になるもので、 「ジェラール・バロー  ——当代最高のピアニストとの出会い——」  と題され、随筆風な文章に仕立てられている。  バローの演奏に関する論述は、かなりの音楽的教養をしのばせ、ややもすると衒学《げんがく》趣味が顔を見せている。もっとも、「マイ・レコード」あたりの読者の投稿欄には、ときに批評家顔負けの洞察力や知識に立った投稿が舞い込むこともあるから、そんなに驚くほどのことでもないのかもしれない。末尾には、 [#2字下げ]島村夕子 西洋拷問史研究家(在スイス)  と署名されている。 「この島村夕子という女学者は、つまりバローの秘書と解釈していいわけか」  写真をもう一度ながめながら蓮見はつぶやいた。 「ああ、秘書であり、エージェントというところだな。このCDが届いたのが今朝で、『FMジャーナル』の発売が昨日だから、つまりこれは『ミネルヴァ東京』の予定の行動だろう。とすればこれはむこうの作戦と思わざるを得ない」 「作戦?」 「そうさ、こんなことは会社創立以来の椿事《ちんじ》だ。うちはいつもリーダーシップをとってきたし、音楽ジャーナリズムの王道を歩いてきた。そこを頭越しにやられたんだからな、これはまるで挑戦じゃないか」 「いっそバローについては黙殺しましょう。それが見識ですよ。海のものとも山のものともわからないものにまともにつきあう必要はない。みすみすこんなマイナーレコード出版に踊らされるのも業腹じゃありませんか」 「かといってすっぱ抜かれて黙っているわけにはいかんだろう。バローを黙殺することもたしかに見識だが、豊富な情報を読者に提供することが至上命題だろう。……というより」  舵川はふといい澱《よど》んで、ポケットの煙草をまさぐった。 「なんです?」 「……会長がめずらしく嘴《くちばし》をはさんできた」  声がくぐもっているのは咥《くわ》え煙草のせいばかりではないようだった。 「会長が?」 「ああ。この記事を読んで驚いた人間の一人だったのさ。学者肌の人だからな、ケムに巻けないだろう。しかも悪いことにバローを知ってるんだ。パリ遊学時代にテアトル・シャンゼリゼで実演を聴いたことがあるそうだ。あとにもさきにもあれほどのピアニストを聴いたことはないという。懐かしがってな、死んだものと思ってたそうだ。どんな情報でもいいから収集して特集記事を組め、つまりそういうことだ」 「まいりましたね」 「まったく、まいったさ。えらいものが出てきたものだ。どっちにしても『ミネルヴァ東京』の狙いは図にあたったんだ。来月号にバローの特集を組まなきゃならない、それだけははっきりした事実さ」  圭子が珈琲をはこんできた。  舵川が調子を変えていった。 「圭子ちゃん、バロー先生の盤をかけてくれ。コーヒーでも飲みながら鑑賞会といこう。どうせ今夜は遅くなるんだ。じたばたしたって仕方がない」  断 章   姿見に映る貌《かお》が一瞬自分のものではないかのように思えたとまどいを、忠実に鏡は描き出して、さらに複雑な表情に変わった貌が、そこにあった。 「コラッジョ、テレーゼ、コラッジョ……」  そんな叱咤《しつた》激励の、いくどとなく投げかけられたなじみ深いことばを自分のためにつぶやいてみた。  肉に喰い入って離れない、蒼白の仮面。大事を控えた人のいまにも卒倒しそうな表情だった。  髪がかきあげられ、後ろでまとめて括《くく》られる。額があらわになると表情に別の緊張が描かれた。下着の肩紐を落とす。ためらいもなく、女は最後の衣類を脱ぎ去り、鏡はその一糸まとわぬ姿をくまなく映しだした。  難度の高い演技に向かう体操選手のような、うつくしい緊張を漲《みなぎ》らせた裸身が姿見を離れ、ベッドの上に投げ出された黒い皮革《かわ》の下着を手にした。皮革の匂いが猛々しく立ち上がる下着が胸と腰とに装着されると、ひっつめにした髪のせいでやや吊り上がった目がさらに切れ上がってみえた。射るような光をたたえた目は、しかしすぐに仮装用の翅《はね》を展げた蝶をおもわせる眼鏡の下に、その決然とした表情を押し隠された。  女は化粧台からスプレーを取り、4711社の「エクスターゼ ムスク」を、腋《わき》の下、手頸《てくび》、脛《はぎ》、に入念に吹きつける。この動物性の暗鬱な官能の匂いは階下の会場にもしたためてあるものだった。  寝室の重い樫《かし》の扉を開くと、階下に氾濫している喧噪《けんそう》の音楽がこの麝香《じやこう》と皮革の匂いに包まれた異装の女を迎えた。喧噪はどこかまったく無縁の世界から聞こえてくるもののようでいながら、もうあとには退くことはできないのだと嗾《けしかけ》る声のようでもあった。  回廊には男が待っていた。男も半裸に仮面という異装であった。  男は女を迎えて、正視に耐えられないというふうに斜めに目をそらした。 「どんなことがあっても連中に指一本触れさせません」 「まるで決闘にでかけるみたい」  女は笑ったが、その笑いは咽喉《のど》の奥にひっかかっていた。 「そんなに肩肘を張らないでください。この愚劣な催しにはそぐわないわ」  女は獣面の彫刻の施された壮麗な長い階段を降り、男がこれに続く。従者をしたがえて淫靡《いんび》な宴《うたげ》に登場する驕慢な美姫《びき》といった、浮世離れした場面が展開していた。  しかし女が口のうちで「コラッジョ、テレーゼ、コラッジョ」と叫んでいるのを、きつく鎖じられた唇の端がかすかに慄えているのを、光度を落とした弱い照明下ではとらえられない。     3  最初に収録されているのはバッハの三声のインベンション(シンフォニア)第九番ヘ短調である。  沈鬱な曲だ。なぜこんな暗い曲を冒頭に持ってきたのか蓮見は理解に苦しんだ。曲目解説によれば、曲頭左手が奏でる半音階的四度下行音型は、バロック時代においては別れや死の悲哀と不安、キリストの受難をめぐる情調を表現する場合に用いられた、とある。だとすればこれはバローの怨念の調べなのだろうか。バローは自分の閲歴をキリストの受難劇に見立てているのだろうか。  しかし、それに言及する記述は島村夕子の演奏解説には見当たらなかった。バローがバッハを演奏する場合、ひからびた考証主義や原典主義の陥穽に陥ることなく、自由なピアノ的美感をひたすら追求すると書かれているだけだ。  つづくショパンの練習曲作品二五第三番ヘ長調というのは、うってかわった活発な曲で、バッハとは好対照だった。演奏はテンポに微妙な工夫が凝らされ、一見なんでもないようでいて、委曲を尽くした名人芸だった。「バローのアゴーギクの至芸の粋が汪溢《おういつ》する」と島村夕子は指摘している。  次はシューマンの小品で、『幻想小曲集』という八曲からなる小品集の、第一曲「夕べに」である。バローの演奏は冒頭の響きからして聴く者をなつかしい憂愁に染めていくような柔らかさをたたえ、ともすれば巨匠が小品に向かう際にありがちな、くつろいだ遊び、といった安易さからはあくまでも隔たった地点に、ほとんど敬虔《けいけん》といってもいい世界を構築していた。「バローがアンコールによくとりあげた曲」と解説にはある。  ついでベートーヴェンのソナタ第二四番|嬰《えい》ヘ長調。いわゆる「テレーゼ」とよばれるソナタで、これがこのアルバムのメインをなしているようだった。第一楽章の短い序奏を聴いただけでもただならぬ演奏であることが知れた。  ふと、蓮見はきぬずれのような音を聴いた。幻聴だろうか。蓮見は音楽を聴くのとは別の耳を欹《そばだ》てた。どちらかといえばその方に鋭敏な耳だった。しばらくするとやはりスピーカーからその音は聞こえた。ときおり奏者の衣服のこすれる音が収録されているのだった。  べつに驚くことでもなかった。演奏家の息づかいや気合、ペダルを踏む音、譜面をめくる音などが耳につく録音はめずらしくない。ヨーロッパの教会などをスタジオにした録音においては、野鳥のさえずり、地下鉄の超低音、なかには、スタジオに隣接した倉庫に大型運搬車が到着、荷物を下ろし、また出ていくようすが如実にわかるような代物もある。  蓮見は記事の最後の部分にもう一度目を通してみた。録音の顛末《てんまつ》についてふれた部分である。  ——それではおしまいに、バロー氏の録音が実現するにいたった経緯について、お聞かせください。  島村 録音ではあれ、ここにバロー先生の芸術の一端をご紹介できるのは、先生の芸術と人となりに深く傾倒する者としてまたとない喜びです。この録音の実現には長期に及ぶ説得を要しましたが、先生の芸術をなんとかふたたび世に問いたいというのはわたくしの宿願でした。いまでもわたくしはこの結果を半ば信じがたい気分でうけとめているほどです。  なにぶんにも録音機材を持ち込んでのプライヴェートな私家版とでもいうべきものですし、楽器もスタンダードなスタインウェイではなく、かなり枯れたベッヒシュタインが使用され、編集や補完などもなされておりません。万全の条件下での録音ではなく、かならずしも先生のベストフォームを伝えるものではないのです。先生ご自身、出来ばえについては懐疑的で、いわばなだめすかすようにしてリリースの同意を取ったものでもあります。しかしこの録音からバロー芸術の片鱗でも感じとってくださればこれにまさる喜びはありません。  記述のとおり、たしかにこの録音は一般のものと異なっていた。ミキサーが介在して音を弄《いじ》りまわした、つまり整音処理のされたものにはない鮮度の高さがあるかわりに、付帯雑音の多いのも特徴だった。ペダルを踏む音や椅子のきしみなども盛大に拾っている。しかしそれがなまなましいリアリティを感じさせるのもまた事実である。ものがものだけに、そのことはむしろメリットになっているようだ。これもまた演出なのだろうか。  蓮見は、ピアノに対《むか》うバローのかたわらで譜面をめくる島村夕子の姿をふと想像した。そんな想像の不意打ちに自分自身驚いていた。たぶんきぬずれのような音からの連想だろう。テレーゼ・フォン・ブルンスヴィックなる貴族令嬢に献呈されたという、この曲の由来が齎《もたら》す印象のせいかもしれなかった。  おそらくバローの演奏は晩年のリストのような端正きわまるスタイルに違いなく、およそ無駄のない動きは、どの分野の名人にも共通する一見むぞうさなあの無為自然さで、あたりを払うだろう。そして隣に島村夕子がいる。  そんな光景を頭に描きながら、この録音にはロマンチックな趣きが夕映えのように燿やいている、と蓮見は思った。新譜でありながらそれを奏でるのは遠い過去の巨匠で、音楽史の秘話めいた復活劇がそこにある。そしてその伝説には邦人の、まだ若い、美人ときまったわけではないが、それらしく想像させる女性が関与している。それはまた、音楽史の闇のなかからバローという一つの財宝を発掘した、一女性の知的冒険|譚《たん》でもある。  第二楽章の、めざましいが単に技巧の空転に終わらない暢達《ちようたつ》なテクニックには、ベートーヴェン、リスト、ダルベール、そしてバローと継承されるピアノ演奏史の血の正統を示して、まことに光彩陸離《こうさいりくり》たるものがあった。いままでにこのようなベートーヴェンを弾いたピアニストが何人いただろうか。巨匠中の巨匠といわれる人々でもこれほどの「テレーゼ」を弾いた者はいないだろう。蓮見の驚嘆はすぐに、この希代《きたい》の名ピアニストを闇に葬った、——島村夕子の表現にならうなら「とりかえしのつかない歴史の誤謬《ごびゆう》」への慨嘆に渝《かわ》っていった。  このあとはブラームスとシューベルトの小品がつづくが、腕にまかせてバリバリ弾く若手とはさすがに一味も二味も違う。  プログラムはふたたびショパンとなり、バラード第四番へ短調。最後に収録されたマズルカなどとともにラノヴィッツの得意とするレパートリーである。この選曲にバローの自負と矜持《きようじ》を見るのはあながち見当違いともいえないだろう。  ……これは大人向けのメルヘンかもしれないな、バラードの絶妙な演奏を聴きながら蓮見の想像の翼は羽撃《はばた》いた。  お城の牢獄に幽閉された先代国王がバロー、長い髪を靡《なび》かせ白い馬に乗って救出に来たのが女剣士の島村夕子、してみると悪い王様はラノヴィッツ……。  蓮見はこの空想に苦笑した。つい二ヵ月ばかり前、来日インタビューに立ち合ったときの印象では、ラノヴィッツはピアニストということをぬきさってしまえば、変に腥《なまぐさ》い精気をにじませているものの、老耄《ろうもう》の始まりを思わせる一人の老人にすぎなかった。  バラードの結尾部《コーダ》が劇的な高潮をみせて終わった。  アルバムの掉尾《とうび》を飾るのはマズルカ作品六八の四ヘ短調で、この小品は終わりのない曲ともいわれ、調性のあいまいな、謎めいた性格を持っている。ラノヴィッツが来日公演のアンコールでとりあげた曲である。バローの演奏は、愁いに沈んだ主題がまるでゆくえを見失ったかのように調性の迷路をさまよったあげく、裸形の悲哀がこの世にあってはならないような美しさでうち慄えて立ち尽くすところで、終わった。 「この絶筆を病床のショパンはもう自らの痩せ衰えた手では弾けなかった、というその無念をショパンがバローの手を藉《か》りて霽《は》らしている。そう聴こえるのは私の感傷だろうか」と島村夕子は記している。あながち美辞麗句ではなかった。  バッハで暗澹《あんたん》たる始まり方をしたこのアルバムは、ショパンによってまたもや暗さに沈潜しながら、わずかに安堵のようなものを揺曳《ようえい》させて幕を閉じた。  試聴室は静かな嵐の去ったあとの真空状態に似ていた。アンプのトランスの唸りがごくかすかに即物的な音を這わせている。じっさい脳を走る血行の音が聞こえそうなくらい、この部屋の防音は完璧であるが、小一時間にわたって再現されたバローの余韻ははるかな大瀑布の遠い轟《とどろ》きのように嫋々《じようじよう》たるものがあった。 「これは売れるな」  あいかわらず仏頂面のまま、舵川がつぶやいた。感動を押し殺すためにそんな卑近な表現に出たことは疑いの余地がなかった。舵川が手放しの賞賛や、やみくもな否定とは無縁な人間であることを蓮見はわかっていた。  蓮見も、つとめて冷静に答えた。 「ええ、おそらく」  圭子は頬を上気させていたが、ふたりのやりとりに次のような質問で加わった。 「でも、ラノヴィッツってそんなに悪い人だったのですか」  ラノヴィッツという恰好の敵役を得て、日本的な判官|贔屓《びいき》に訴える要素にもことかかない、たしかによくできた神話だった。圭子の質問からして、その顕著な効果は証明されている。 「バローをどう思う?」  舵川が圭子に訊く。 「どうって?」 「単純な質問だ」舵川は片頬で笑いながらつづけた、「圭子ちゃんにとって、バローとラノヴィッツならどちらとデートしたいかってことさ」 「え、デートですか? それはもちろんバロー」 「どうして?」 「だって、ずっとハンサムですもの」 「ハンサム? じいさんが?」  舵川は肩をすくめ、蓮見に向き直って、訊ねた。 「演奏について、どう思う? ラノヴィッツとくらべて」 「より古風で、いぶし銀の味わいがあるようですね。ラノヴィッツのテクニックは何か人工的な冷たさ、もしくは芸人的な空虚さが人によっては指摘されるけど、バローはなんというか体温のあたたかみがありますね。それが最大の相違点かな。きっとラノヴィッツとの比較論でやってくる批評家も出てくるでしょう。こんなバラエティ・プログラムをやるピアニストはいまではラノヴィッツくらいのものだし、ライヴァルはやはりラノヴィッツですね。ついこのあいだラノヴィッツを口をきわめて絶賛した連中がこんどはバローを誉《ほ》めそやすのじゃないかな。それとも警戒して多くを語らないか」 「ともあれこれは批評家の能力を問う試金石かもしれないな」  舵川は沢木圭子に向かって、声の調子を上げた。 「圭子ちゃん、あしたからのきみの仕事を説明する」  圭子は手帳を取り出し、舵川の指示を待った。 「資料室にクレール版の演奏家事典がある。初版から最新版まですべて揃っている。バローに関する記述を拾って、邦文に翻訳してくれ。その他バローに関する資料をできるだけ多く集めること。もちろん写真があれば複写を手配しておく。それからバローのSP盤があったら、持出し許可を取って、おれのところへ」  圭子は無言でうなずいた。彼女なりに昂奮しているのが蓮見にはみてとれた。 「蓮見、おまえさんのあしたからの仕事だ。とりあえずは軽井沢の取材記事を早急に仕上げてしまえ。来月号だが、『バローを知っていますか』このタイトルで緊急特集を組む。入稿のリミットは十日が限度だろう。つまりあしたから十日間の勝負だ。さて、複写したカセットテープと携帯デッキを担いでの批評家めぐりだが、それはおれがやる。おまえさんは、こいつだ、この女狐とコンタクトをとってくれ」  舵川は「FMジャーナル」の島村夕子の写真を指さした、「もちろん『ミネルヴァ東京』にもあたってみるんだ」  舵川の熱意は、それが特徴の、ときおり吃音《きつおん》をともなう早口になったことでもあきらかだった。 「女狐だなんて……、なんだかずいぶんときれいなひとじゃなくって」  圭子が口をはさんだ。 「写真じゃわからないさ。女はあまり気が進まない。しかしこの女狐、わが楽苑社を完全に黙殺しているという点では、たいしたタマだからな。どんな女なのか御尊顔を拝したい気分はあるね」 「わたしだって拝見したいわ。美人だし、たいへんなスタイリストだし」 「スタイリスト?」  舵川が訊き返した。 「名文家って意味のスタイリスト」 「そのスタイリストか」 「たしかに文章はうまいね」蓮見はいくらか皮肉な調子でいった、「漢語の鎧《よろい》をまとっている。それに拷問史研究というミスマッチがなかなかいい」 「拷問だったらおれはもうじゅうぶんだ。これ以上はたくさんだね」  舵川が不機嫌につぶやいた。 「こんな人が西洋拷問史研究家なんて、ずいぶんロマンチック」  圭子が目を輝かせた。 「そんなものかね」  やはり不機嫌に舵川がいった。 「そんなものですよ」  蓮見は同調し、島村夕子の写真をふたたび眺めた。露出アンダーに加えてピントもすこし甘く、写真としてはあきらかに失格である。向かって右の横顔をとらえているが、すこし俯いて、視線ははずされている。肩を越える髪の一部が頬にかかっていて、情報量はきわめて少ない。単なる撮影の巧拙ではなく、撮られた人間の意図的な演出なのだろう。たしかにこの写真は記事の内容にふさわしい或る種のロマネスクな雰囲気をたたえている。虚心坦懐にながめて女は美貌である。このような写り方では現物はともあれ、そうとしか見えない。それがひとつの神秘性にもつながっていた。 「バローといい、島村夕子といい、まったく妙なのが出てきたものだ」  いいながら蓮見は、バローにもだが、何か抗しがたい力で島村夕子に惹きつけられている自分に気づいた。  ——これがやがて日本の楽壇に、いや世界の音楽界に空前のセンセーションをまきおこす「バロー事件」の幕開けであることに、むろん蓮見はこのとき想到し得なかった。 [#改ページ]   神宿る手     1  本来なら避暑地で迎えたはずの月曜の朝だったが、定刻に出社し、軽井沢音楽祭の記事づくりにかかった。バローと島村夕子がちらついて能率が上がらず、原稿を仕上げて帰宅したのは深夜だった。  あくる九月二日・火曜日、午前中に原稿を脱稿し、写真選択や割付けの引継ぎを済ませると、昼食もそこそこに六本木に向かった。  台風接近にともなう強い雨のなか、かなり歩き回ったあげくに見つけた「ミネルヴァ東京」は、表通りを外れた雑居ビルにあった。  朝から何度電話を入れても留守番電話が機械的な応答をくりかえすばかりで、なかば無駄足と覚悟していた蓮見だが、とりあえず共同郵便受けを覗いてみた。かなりの郵便物が入っているようだ。  郵便物が註文書とか受領書のたぐいだとすれば、この聞いたこともないレコード会社もまんざらいかがわしいものでもないらしい。マイナー・レーベルであってもベストセラーを出すことが不可能というわけではない。ジェラール・バローもことによると売上げチャートの上位に顔を見せるかもしれない。蓮見はそんなことを考えながらエレベーターに乗り込んだ。  平凡な明朝体で「ミネルヴァ東京」とシールコーティングされた扉《ドア》の前に立つと、鍵盤をメビウスの環のようにねじ曲げた独特の社章が目を惹いた。  鍵がかかっていた。やはり電話が通じないではどうしようもないか、と踵《きびす》を返そうとしたとき、背後に女が立っていた。  片手に郵便の束を抱え、もう一方に傘と鍵束を持っている。地味なワンピースの胸には名札こそないが、まずはミネルヴァ東京の人間であることに疑いの余地はなかった。女は不審そうな表情のまま身じろぎしないでいる。蓮見の次の行動を待っているようだ。 「このままにらめっこしていてもいいんですがね。あなたみたいなきれいな人だと退屈しないですむし……」 「何かご用でしょうか?」  無表情に訊ねる。まだ若い。三十前といったところか。 「ここの代表者はいらっしゃらないのかな。それともあなたがオーナー?」 「わたしは違います」  女はすこしむっとした表情を見せた。なんとか、いけそうだ。 「オーナーに会わせてくれませんか。申し遅れましたが、こういうものです」  蓮見は名刺を出した。両手のふさがっている女の困惑を見て、 「ともかく中に入ってはどうです?」  うながしてみたが、女はすぐに無表情に戻った。明朝体の「ミネルヴァ東京」という文字を思わせるとりすました女だ。  蓮見は名刺を女の目の前に掲げた。 「楽苑社・編集局『音楽の苑』編集部員 蓮見さやか」  女は棒読みに読んだ。 「笑わなかったですね。たいていの女の子は名前をきくと笑うのだけど」  いいながら女のポケットにすばやく名刺を挿《さ》し込んだ。女は避けるように身を引いたが、その動作はだいぶ遅れていた。 「社長は外出中です」 「待たせてもらいましょう」 「そういうことについては指示がありませんから」  エレベーターの方でなにやら囂《かまびす》しいやりとりが聞こえた。若い、というより少女の黄色い声である。やがて肩口やスカートの裾を雨に濡らせた二人の少女が現れた。駆け足でやってきて女の前に直立すると、「すみません、遅刻しちゃいました」口を揃えていった。 「たいした遅刻じゃないわ。わたしもいま来たところだから」  二人の女の子のうちの一人が女の手から鍵を取り、勝手知った感じで開けた。すかさず蓮見はなかに入った。 「困ります。出てください」女の制止も手遅れだった。  いぶかしげな顔をしている学生風の女の子に蓮見は訊く。 「きみたち、アルバイトかい?」  一人は女をうかがうように見たが、もう一人が蓮見にうなずいていた。蓮見はふりむいて、「事務員さん、あなたもつっ立ってないで、入って電気を点けてくれないかな」  蓮見は室内を窺う。薄暗い事務所の奥の窓際に誰かがいた。  目が馴れていくにつれ、しだいに明瞭な像を結んだ。蓮見はあっと声をあげた。声にはならなかったかもしれない。あり得べからざる光景だった。  窓際に端座し、無言で蓮見を迎えた人物はバローだった。 「驚かすなよ!」  舵川が頓狂な声をあげた。いっせいに店内の客の視線が集まる。小さな一杯飲屋である。舵川の大声は喧嘩と釈《と》られたらしかった。  どこか咄家《はなしか》を思わせる飄々《ひようひよう》とした顔を真っ赤にしている。舵川にはクラシック専門誌の編集長という一般的なイメージが見あたらない。出版関係と見ることがまず難しいが、あえていえば新聞の社会部あたりの古参記者といった雰囲気はあるかもしれない。 「蓮見、てめえってやつは……」適当な言葉がみつからないのか唸りながら頭を揺すっている。蓮見はつい吹き出した。  もうひとつ雷が来るかと思ったが、「さやかちゃん」一拍置いてこんどはなさけない声だった。「年寄りをいじめるもんじゃないよ」 「すみません。ま、おひとつ……」  ビールを注《つ》ぐ蓮見を、舵川はうながす。 「で、そのポスター、おまえさんが見まちがえたという、とんだ人騒がせなポスターですがね。販促用ということだな」 「まちがいないでしょう。ハトロン紙で包装された束がいっぱいありましたから」  舵川は渋面をつくった。街のレコード店の店頭にバローのポスターがにぎやかに飾られる日のことを想像しているのだろう。  いつバローの新譜が発売されるか、その点が気がかりだった。雑誌の性質上、新譜情報は新譜の発売に先んじていなければならない。つまりバローの新譜は二十日発売の「音楽の苑・十月号」より後になることが望ましかった。  レコード商組合(正式には全国レコード商組合連合会というのだったが)へ問い合わせた結果は次のようなものだった。  ——ミネルヴァ東京からは九月下旬という情報しか得てない。組合で発行している新譜情報紙の編集の際もこのことで大いに困り、いちおう十月新譜扱いにして十月号に掲載したが、この月のクラシックのCDの発売点数は一五三点、いちいち発売期日を明記する慣例になっているのを、この一枚だけ例外扱いで「九月下旬」と記載した。発売期日というのはあくまで参考程度に考えていただきたい。  念のため都内の大型小売店にも電話で確認してみた。 「入荷予定は下旬から月末にかけてとお答えするしかない、明確に何月何日発売としてあるものでも変更や延期が頻発している状態だから実のところ困っている」  とだいたい似たような対応だった。雑誌などに書いてある発売日や品番にはミスプリントがあるから気をつけてほしい、などと耳の痛いおまけつきだった。  時間も敵の一つ、と蓮見は思う。しかし現時点では暗中模索といった状態だ。「音楽の苑」十月号は、「FMジャーナル」にはない情報を盛って、老舗の面目を施さなければならない。しかも原稿の送稿期限まではおよそ一週間を残すだけである。 「ポスターの次に目にとまったのは厖大《ぼうだい》な量のCDとカセットテープでした。山積みしてある。なるほどと思いましたね」 「何がなるほどなんだ?」 「レコード盤だと在庫管理が大変でしょう。場所も取るし、ずっとデリケートだ。荷作りから発送・運搬にしたってなにかと手がかかる。ああいった零細なメーカーとしては思い切ってレコードを切り捨てたのは賢明ですよ」 「で、社長はつかまえられたのか?」 「ええ、待つこと一時間余り……」  女は蓮見にお茶こそ出さなかったが、椅子を勧めた。実力行使による侵入だから社長へのいいわけは充分にたつと考えたのだろうか。しかし蓮見の質問は背中で無視してアルバイトの女の子への指示を始めた。女の子たちはどうやら荷作り、発送の仕事に雇われたらしく、パソコンを使って女が打ち出す宛名ラベルの貼り込み作業や、製品の函詰《はこづ》めに従事していた。荷物は大小さまざまで、それに宛名ラベルが貼られると、いくつもの段ボール箱に収められる。段ボール箱は全国の地区別に仕分けされているようだった。この種のものは一般に全国一斉発売のかたちをとる。「ジェラール・バローの芸術」の発売が間近いことを物語っていた。  社長というのは年齢四十前くらいの知的な、しかしどことなく抜目ない感じの男だった。予想していたより若く、また音楽とはあまり縁がなくて、あえていえば商社マンのような雰囲気だった。蓮見は単刀直入にはいっていく方法を選んだ。 「おじゃましてます。事務所というより倉庫ですね」  名刺を差し出すと、一瞥《いちべつ》し、 「足もとの悪いところ、よくおいでくださいました」と無味乾燥にいって、「楽苑社さんがいらっしゃるだろうとはだいたい察しがついてました。事務員には話してなかったのです。失礼があったかもしれませんが、どっちにしてもお会いすることになると思ってました。ところでバローは売れると思いますか?」  スチール机の抽斗《ひきだし》から名刺を出してきた。   ミネルヴァ東京         平田 佐一  ミネルヴァ東京の文字の頭には例の鍵盤のロゴがある。裏面には窓際のポスターと同じ「伝説のバロー」の写真が印刷され、白文字でCDとテープの商品番号と価格、九月発売予定 予約受付中! とあり、住所と電話が記載されている。 「売れるでしょう、きっと。あなたはご商売がうまい。あのポスター気に入っちゃいましてね。さっきはいきなりおどかされたりして、いやこっちのことですが、なんだか他人とはだんだん思えなくなってきてるんです」 「だったらどうかお持ち帰りになってください。気に入っていただけて光栄です。ポスターはあれとは別にもう一種用意してます。そのほうがまだ印刷があがらなくて気をもんでいるところです。それはきっとご覧になったら驚かれると思いますよ」 「ほう、それが出回るのはいつごろですか?」 「さあ、いつになりましょうか」  なかなか味のある男のようだった。これまでの蓮見の経験からすれば、マネジメント・オフィスやレコード会社のお偉方というのは共通する独特の雰囲気を持っていた。愛好家、好楽家が嵩《こう》じて仕事になってしまったという一種の趣味人の雰囲気で、それは彼等の意志とはかかわりなく蓮見の嗅覚《きゆうかく》に訴えてきたものだった。それがこの平田という男にはない。 「特集記事、読みましたよ。むこうは喜んだでしょう。場外ホームランだ。しかしあなたも大胆な方ですね、こちらの神経をさかなでするようなことを平気でなさる」 「あちらの編集部はたいへんでした。いまもむこうへ寄ってたんです。バローの発売はいつなのか、問い合わせが殺到してました。で、電話をこちらへ回送する手配をつけてきたところなんです。きょうは結構多忙でした」 「手応え充分というところですか」 「いや薄氷を踏む思いでしたよ。あなたをお迎えするまではね。でも、『音楽の苑』が扱ってくださるのなら、——くださるのでしょう? まずは一安心です。なにしろ零細企業なものですから社運がかかってます」  どこまでが本気なのか判じかねた。 「小僧の使いじゃあるまいし、なんてことはない、六本木の雑居ビルで平田佐一という男に会いました、それだけじゃないか」 「まあ、おっしゃるとおりです」  平田との会見は結局のところ何の収穫もなかった。平田はバローについてもバロー発掘の顛末《てんまつ》についても、バローの新録音実現にいたる経緯についても、「FMジャーナル」に掲載されていた以上の何らの新事実も話さなかった。それが蓮見に釈然としない気分を残した。とくに気にいらないのは平田が島村夕子の所在を明かさなかったことである。舵川がいう�ミネルヴァ東京の狙い�からすれば本命は「音楽の苑」にあるわけで、編集部が乗り出したとなれば取材に積極的に応じて当然、むしろ待ってましたと食いついてくるはずではないのか。 「来月号で大々的にバロー特集をやろうってのに、情報はまるでなしなんてのはおかしな話だな。いまさらもったいをつける必要もあるまいし」 「してみると、実際むこうはバローについてよく知らないのかもしれませんね。バローを売り出すのに充分な情報さえ押さえてあればいいわけだし。発掘の顛末をあかさないのはちょっとひっかかるけど、くわしい情報を流して他の大手のレーベルに契約を奪われるのを恐れてるのだとすれば、それも納得がいきます。熾烈《しれつ》な争奪戦が展開する可能性はおおいにあるわけです」  舵川は大きくうなずきながら、 「充分にあり得ることだな。島村夕子をうかつに他社の標的にしたくないというところかな」 「ええ、平田は島村夕子の所在に関しては不明だというんですがね、それはどうも眉唾《まゆつば》だな。彼女はいまのところバローの唯一のエージェントなわけだから、バローの第二弾、第三弾の新譜や日本招聘に絡んで確実に彼女をつかんでおく必要があるはずです。……島村夕子は日本にいますよ。彼女としても自分が発掘した財宝のオークションに立ち合わないわけはない。つまり、敬愛してやまぬバロー先生の分身がこの国でどう評価されるか、知らないでいられるわけがない。スイスに戻るにしても、ある程度反応を見届けてからでしょう」 「ことによるとむこうから顔をみせるかもしれんな」  その可能性は大きいように思われた。まちがいないことのような気もする。 「とするとわれわれは焦《じ》らされてるんですね、おあずけをくった犬だな」  舵川は犬にされたような顔をした。 「しかし涎《よだれ》を垂らしながらじっと待ってるわけにもいくまい」 「わかってます。あしたはスイス大使館へ行ってみますよ。何かわかるかもしれない」 「それは圭子ちゃんに行ってもらう。おまえさんはたよりないからな」 「彼女、資料|蒐《あつ》めは終わったのですか」 「おまえと違ってあの子は優秀なんだ。もっとも彼女はバローにぞっこんだからな、熱の入れ方がちがう」 「それはそれは。で、SP盤のほうはどうでした?」 「戦前輸入されたバローのSPは四点あるそうだ。そのうち二点が資料室にあったそうだが、あとの二点はもう何セットも残っていなくて、数十万円という値段でずいぶん昔からコレクターからコレクターの手を転々としているらしい。今回の騒動でさらに急騰《きゆうとう》するだろう。そんなものに予算はとれないから、社にある二点、ここではそれで充分だ。さて、おまえさんはあしたから圭子ちゃんの集めた資料の整理とリライトをしろ。外に出たって棒一本くわえてこないんだからな」  今度は蓮見がやられた。  あくる三日も雨だった。蓮見は資料室を仕事場に選んだ。編集部のデスクでやれないこともないが、資料室のほうがなにかと進捗《しんちよく》した。  ワープロで眼を酷使するのは気が進まなかったが、この仕事には贅沢もいっていられなかった。蓮見はキイを打ちはじめた。 「ここに演奏家に関する古びた名鑑がある。一九五二年、パリの書肆《しよし》クレールから上梓され、現在まで増補・改訂されながら版を重ねている『クレールの演奏家事典』である。  全五巻の第三巻『器楽奏者編Ι』にバローの名前を見つけることができる。扱いは大きく、四ページにわたって詳細な記事が載っているが、五年後に発行された増補改訂第二版には〔ジェラール・バロー〕の名前はもうどこにも見当たらない。そういった音楽家がバローだけではないことや、あらたに楽壇にデビューした新人が収録されている事実に、注意深い読者は気づくだろうが、歴史の淘汰《とうた》の冷酷さをこの書物は教えてくれる。  しばらくこの革装、天金のほどこされた書物につきあっていただきたい」  読み返して、蓮見はなんとも大上段な文章だと苦笑した。舵川がまた訓戒を垂れるのが見えるようだった。しかしこのままで行こうと蓮見は思った。それが「伝説のバロー」には似つかわしい。 「一九〇四年、ストラスブールの富裕な銀行家の子として生まれたジェラール・バローはドイツ人の母親の手ほどきで幼少からピアノに親しんだが、七歳の頃にはすでに歌手あがりの母親の手には余る才能の開花を見せ、パリ音楽院教授として名教師の令名を馳せたディエメに師事することとなった。  バローがディエメの薫陶《くんとう》を受けたのはわずか数年にすぎない。第一次大戦に従軍したバローの父親の戦死、この不幸な運命がバローをフランスから立ち去らせることになった。母親がバローを連れてフランクフルトの生家に戻ったのである。バローはここで初めての公開演奏を行う。たぶんに経済的成功を期してのこのリサイタルは好評で迎えられ、|神 童《ヴンダーキント》の誕生に人びとは酔ったが、たまたま少年バローの演奏を聴きに来たダルベールの注目するところとなった。  オイゲン・ダルベールはリスト門下で天才と謳《うた》われた人である。その演奏の華麗にして重厚なことは当時比類がないといわれ、とりわけベートーヴェンの解釈には余人の追随をゆるさぬものがあった。多忙をきわめるこの大ピアニストはバローに薫陶を傾けるが、バローもよく師の期待に応え……」  蓮見の指がキイボードをせわしなく躍り、バローの輝かしい経歴を打ち続ける。全ドイツの征服、ロンドンへのデビュー……。 「ロンドン滞在は二年にもおよび、ベートーヴェンのソナタや協奏曲の連続演奏会はイギリス楽壇のよびものとなった。伝えられるところによると、バローをロンドンにとどめたものは、自筆楽譜の蒐集家、高度なディレッタントとして論壇に特異な位置を占めていたプレストン卿の存在があったという。バローの唯一の公刊された著書『プログラムに関する一考察』はこのプレストン卿の助言を得て書かれたものであるが、古今の演奏会のプログラムを例にとって、演奏会の変遷史から実際的なプログラム・ビルディングの方法にまで言及した貴重な書物といわれている」  バローのパリ楽壇デビュー、フランス各地での成功、名実ともにヨーロッパを代表するピアニストとしての名声を獲得するにいたる道筋……、ここまで書いて蓮見はワープロの手を休めた。 「FMジャーナル」に掲載されていたバローの若き日の写真を思い出し、順風満帆、行くところ可ならざるはない、得意の絶頂にあったバローが想像された。  エピソードはどの名人・大家の履歴にもつきものである。お伽噺《とぎばなし》や、活動写真や、偶然だらけの三文小説やらのひとこまが、芸術家の生涯には似つかわしい——、誰の本のなかにあった言葉だったろう、蓮見は紫煙を見送りながら思った。島村夕子さえつかまえることができたら、いまここに書きつらねているよりもっとバローを身近に感じさせるエピソードが手にはいるだろう。  蓮見は姿を見せぬ魔女に、あるいは妖精かもしれないのだがここでは魔女だった——翻弄されている感覚を味わった。  断 章   ——順調に運んでいますか?   ——ポスターBのほうの仕上がりがまずく、いま印刷所の尻をたたいているところです。小売店回りは順調に消化し、予約も相当の数にのぼっています。ジャーナルの記事が効いたようです。  ——読みました。あれでほぼ満足しています。読者の反響はどうなのかしら?  ——電話の問い合わせが殺到しています。ラノヴィッツ来日の余波にも助けられている。いいタイミングでした。  ——あとは楽苑社をどう動かすかですね。必要とあればわたくしが出向くことも考えていますが……。  ——ご心配には及びません。薬が効いたようで、むこうから飛び込んできました。かなりライヴァル意識を燃やしているようです。記者はちょっととぼけた奴でしたが、あなたの情報を欲しがってました。来月号にはまちがいなく特集記事が載るでしょう。  ——記者が来たのはいつでしたの?  ——きのうです。蓮見とかいう記者でした。  ——……蓮見? 蓮見とおっしゃった? フルネームはわかりませんか?  ——名刺を置いていきましたから、ちょっと待って下さい。……ああ、ありましたありました。いや、たいした名前だ。蓮見さやか、です。男ですよ。  ——…………。  ——どうかしましたか?  ——いえ、なんでもありませんわ。ではいまのところ万事滞りなく発売に向けて進んでいるというところですね。  ——そうです。ときに、あなたの居所を教えてくれませんか。連絡ができないとなにかと都合が悪い。蓮見記者にも知らないと答えたのですが、私が知っていてわざと隠しているように思ったかもしれません。  ——またスイスへ発ちます。いまのところスイスと日本の二重生活ですし、日本での住所も定まらない状態なのです。ですからそれはご勘弁いただきたいわ。  ——まあ、いいでしょう。それよりスイスへ発たれるのなら、例の件、先生によしなにお伝え願いますよ。私はバローに賭けてるんですから、招聘については万事おまかせください。早く手を打たないと、実際まずいのです。会場確保がうまく運ばなければ、まったくどうしようもありませんからね。  ——申し伝えておきます。わたくしの目的もそこにあるのですから。     2  煙草を灰皿にもみ消し、ふたたびキイに向かう。 「一九三二年恩師ダルベールの逝去《せいきよ》を見届けるようにしてバローは渡米、二年間にわたって主要都市で演奏会と教育の両面で活躍、新旧両大陸の征服を実現した。カーネギー・ホールでのベートーヴェン連続演奏会を当時の批評は次のように伝える。  ——バロー氏はハンマークラヴィーア・ソナタにおいて圧倒的な感銘を与えた。この至難な大曲の全貌を初めて確認することができたという偽らざる印象。冒頭の確信に満ちた和音の連続は、ホールを揺るがすかに思われたが、この瞬間われわれはバロー氏の手に神が宿ることを信じないではいられなかった」  蓮見はここでいったん文章を読み返すと、ディスプレイの冒頭に戻った。題名を入れていなかったのだが、ためらわずキイを打った。  ——神宿る手、と。  蓮見がプリント・アウトした原稿を持って編集部に降りると、舵川は取材から戻っており、原稿に朱筆を入れていた。この三日間、舵川は、音楽批評家、音楽に関心のある或いは造詣《ぞうけい》の深い文化人、ピアニストなどといった人間を相手にインタビューを取る仕事を精力的にこなしていた。  机の後ろの壁に大きなバローのポスターが貼ってあるのに蓮見は気づいた。それはきのう蓮見がミネルヴァ東京から進呈された全倍サイズのポスターだが、驚いたことに天地をさかさまに貼ってあった。 「ああ、これか。しばらく逆立ちしといてもらうことにした」  蓮見の視線に気づいた舵川が説明した。 「なにか意味があるんですか」 「べつにない」  舵川の稚気だろうか。さかさまになっただけでそれは異様な印象を見る者に与える。或る滑稽さも漂っている。くみしやすい感じにもなる。狙いがあるとすればそんなところだろうか。 「圭子ちゃんの資料を整理した原稿、できましたから、見といてください」  蓮見を見上げると横目で卓上の茶封筒を示した、「例のロールスロイスだが、おれのポン友が都税事務所に勤めていてな、チェホフの小説風にいえば鬼の執達吏《しつたつり》だ。課税台帳の写しが入ってるはずだ」 「どうも、助かります」  未開封の封書を開いた。  蓮見は所有者の欄に女名前を予想していたので、それが法人名だったことに多少意外の感があった。   財団法人 伊原芸術振興会 東京本部  というものである。 「なんだ、これは」  蓮見が頓狂な声を出したので、舵川は顔をあげた。目で質《ただ》している。 「伊原芸術振興会、だそうです」 「伊原?」舵川はびっくりしたように名前を復誦した、「伊原財団じゃないか」 「なんです、それは」 「あの、伊原|頼高《よりたか》を知らないとはいわせないぜ」 「伊原コレクションの?」 「そうさ。えらいものを釣り上げたな」  たしかに大物だった。およそこの国の美術界と音楽界を語るのに伊原財団を抜きにすることはできない。「伊原コレクション」とよばれる美術品の蒐集組織、日本クラシック界最大の音楽祭「東京フェスティバル」、国内トップの実力を誇る東京管弦楽団、私立音楽大学の雄・松芳学園大学、最も権威ある音楽賞「伊原音楽賞」、その他各種の音楽ホールや美術館、ざっと思い出してもこれらのものが伊原財団の麾下《きか》にある。  伊原財団は伊原産業の一種の外郭団体で、伊原産業の同族会社は銀行、ホテル、非鉄金属、精密機械、製薬関係と数え上げたらきりがないだろう。関東財界のなだたる山脈の一つが、伊原頼高を戴く伊原財閥だった。 「さすがは楽苑社の社員だな」舵川は破顔一笑していった、「同じあてられるにしても相手を選んでるじゃないか。ということは、おまえさんの車をあて逃げしたのは伊原財閥のご令嬢かもしれないわけだ。これは面白いことになったな」  蓮見としてはおもしろがってもいられなかった。いくつか想定はしていた。医者、財界人、政治家、芸能関係、それに、やくざ。危ない筋でなかったのは歓迎すべきだが、それにしても大物すぎて鬱陶しい。  たぶん文句をつけたところで、あのサングラスの女ではない不運な代理の誰かが頭を下げることになるだろう。そうしていくばくかの詫び料……。慇懃《いんぎん》無礼に厄介払いされるのが落ちだろう。警察に訴えて事故にしたとしても、……蓮見は想像をめぐらした。届け出の遅さをなじられたうえに、結局示談を勧められて……、いずれにしてもあの娘をどなりつけることはできそうにない。 「とにかく行ってみるんだな、伊原財団へ」 「行くとしても今日はその気分じゃないです。天気が恢復《かいふく》すればそのうちに」 「早いほうがいいのじゃないか」 「事故にするにはちょっと時機を逸した感じですし、あしたにしますよ。伊原財団となりゃ、逃げも隠れもする相手じゃないし。それより、今夜も残業になりますかね?」 「ああ、おれのほうの作業はいまのところ順調だし、沢木くんが何かつかんでくるかもしれないしな、今夜も頑張っていただこう」 「それじゃ、すこし眠らせてもらいます。なにかあったら仮眠室へ」 「おれもまたぞろ出なきゃならない。石神井《しやくじい》の三田先生と四時の約束だ」 「それはたいへんだ。せいぜいご機嫌を損じて、無礼討ちされないよう祈ってます」 「苦手は早く片づけておきたいからな」  沢木圭子が立っていた。微笑を泛べて蓮見をうかがっている。 「いくらコールしても返事がないから……。よほどお疲れのようですね」 「ああ、すっかり眠り込んでいたみたいだな」 「お客さまがみえてます。伊原財団の方と名乗ってらっしゃいます」 「女のひと?」蓮見は半身を起こし、強い語調で訊いた。  圭子は頸《くび》を振って否定した。 「女じゃないの?」 「ちがいます。五十年配の男の人です」  今度ははっきりと否定した。表情が硬化している。  エレベーターのなかで圭子はおし黙っていた。そうだ彼女は事情を知らなかったんだ、と蓮見は思い当たった。 「きみ、なにか誤解してるんじゃないか」 「誤解って何ですか?」  切り口上にいう。 「いや、べつに……」  これだから若い女はいやだ、蓮見は閉口する気分だった。 「大使館、収穫あったかい?」  話題を転じた。 「今夜のミーティングで」  やはり取りつくしまがない感じだった。 「今夜、今夜ね。きみも、その、たいへんだな。連日連夜だから」口ごもっていると、扉が開いた。蓮見は救われた気分で急ぎ足に応接室へ向かった。  応接室の前で、蓮見は当然の疑問にやっとこのときになって気がついた。なぜ伊原財団の人間が訪ねてきたかという疑問である。  なぜ伊原の人間が向こうからとびこんできたのか?  答えは一つしかなかった。サングラスの女は、あのときぽんこつブルーバードのナンバーを読み取っていたのだ。蓮見がロールスロイスのナンバーを咄嗟《とつさ》に記憶したように。  しかしあのときの女にそんな余裕があったとは、にわかには信じられない気分だった。また、どうして三日も経過した今になって顔を出してきたのか、という疑問もある。これには、ようすを見ていた、という単純な解釈しか見当たらなかったが。  ねぼけていてはまずい、しっかりしろ。蓮見は両手で軽く頬を叩き、背筋を伸ばし、ドアのノブに手を掛けた。  客は、もののよさそうな夏背広をきちんと着こなした、紳士然とした中年だった。  蓮見が名乗ると、男は深々と一礼した。人品|卑《いや》しからぬものがあるが、もちろん伊原頼高その人ではなかろう。秘書あたりか、いやもっと下っ端か。  名刺は、   伊原芸術振興会 東京本部・事務局長 村井両平  というものである。 「ご来意はわかってます」  あえて蓮見はあいまいな表現を取った。相手に喋らせなければ。 「本日はいかようにもおしかりを覚悟でまいりました」  そういって叩頭《こうとう》すると、そのまま動かない。どうやら蓮見が声をかけるまでは、そのまま頭を垂れ続けているつもりらしい。蓮見は内心舌打ちしながら、 「どうかお楽になさってください。本題にまいりましょう。単純な質問をまずさせてください。なぜあのときサングラスの女性ドライバーは逃げてしまったのか。なぜ、三日も経ってから、しかも本人ではなくあなたがおいでになったのか……」  こちらが警察に届けていないことを、ここはさしあたって伏せておくべきだと考えた。 「逃げたとおっしゃられるとたいへん辛いのですが、たしかに客観的にはそういう状況を呈しておりますので」  蓮見はさえぎっていった。 「まってくださいよ、客観的もなにも、逃げたのは事実なんですよ。たしかにわたしのポンコツなんかあの車からすれば道の小石みたいなものだ。ただのゴミです。しかしあれは立派なあて逃げなんです。しかもこちらは紳士的に、どなり声ひとつ発《た》てず、すこぶる穏便に話しかけたのですよ。もっとも彼女にしてみれば、わたしの顔が思わず逃げ出さずにはいられないような怖い顔に見えたのかもしれませんが。どうです、わたしはそんなこわい顔をしてますかね」  村井両平という男は両手で強く否定しながら、 「いえ、こわいなどということは、けっして……。むしろお優しい感じでいらっしゃいますというべきで……」  ハンカチを出し、額を拭いてみせる。  蓮見の背後で押し殺した失笑が聞こえた。振り向くと、圭子が背中を小刻みに震わせていた。  午後九時、「音楽の苑」編集部に残っているのは舵川と蓮見だけだった。圭子はすこし前に退社していた。  圭子が仕入れてきた情報は島村夕子をつかまえるヒントにはならなかった。  スイス大使館で閲覧した在住日本人の名簿に島村夕子の名はあった(圭子は、もしかして島村夕子というのは偽名ではないかとも思っていたのだった)が、住所〔生活の根拠地〕は州都クールとなっており、職業は歴史研究家、滞在目的〔事業〕の欄にはスイス中世史研究、とあった。生年月日や日本での本籍、住民登録などプライバシーに関することは圭子の粘り強い懇願も空しく、閲覧が許されなかった。ただ、スイスに入国する前はドイツに住んでおり、一九八三年の春からグラウビュンデン州へ移っているということを大使館職員が熱意に負けた形で教えてくれた。  結局、収穫らしいものはなかったわけである。 「このまま島村夕子がつかまらないとなればやはりまずいですかね」 「バローをひきずりださないかぎりは負けだ。その唯一の手蔓《てづる》の島村夕子の尻尾のさきっぽにも手が届かないのだからな……」 「やはり、おでましを待つしかないのかな」 「まだ一週間ある」  舵川はさすがに疲労の色が隠せなかったが、声には詠嘆の調子はなかった。しかしこのままでは「FMジャーナル」に遜色《そんしよく》のない記事で特集を埋めるところまでには到らないことははっきりしていた。一週間しかない、というべきだ。  遜色がないというのは、「音楽の苑」の特集記事が「FMジャーナル」のそれを質量ともに凌駕《りようが》していなければならない、ということである。そのためには島村夕子は必須の条件だった。島村夕子を介してバロー本人の寄稿、それが無理なら国際電話でのインタビュー、そこらあたりへ持っていきたい舵川の意嚮《いこう》である。最悪の場合でも島村夕子の原稿は取りたい。 「あしたから沢木くんには、楽苑社が寄稿や情報提供を委嘱《いしよく》している在外音楽家連中に電話を入れさせる。スイス、オーストリー、ドイツ、いやヨーロッパ全土のな。バローと島村夕子について彼等に訊く。それから文化庁の在外派遣の関係機関。これは島村夕子の線だ。手をこまねいているよりはましだろう」  蓮見は別のことを考えていた。島村経由でなくバローの所在を確認することも不可能ではないだろう。たとえばあの写真だ、あそこに写ったアルプスは重大なヒントになるだろう。アルピニストや旅行家に見せれば、あるいはバローの居場所をつきとめることができるかもしれない。ただ時間がない。それが致命的だ。 「今夜は店じまいするか」  舵川がいった。 「ええ、一杯やりますか」 「車だろう。いいのか」  机の上を片づけながら、舵川は質《ただ》した。 「あのポンコツは修理屋に行ってます」 「そうか、伊原財団、来たらしいな。どんなはなしになった?」  麻の上着に腕を通しながら、訊く。 「車の修理はむこうの責任において行う。ただし、検品してこちらが納得するという条件。そのときは念書を入れてくれるかというので、ドライバーを詫びによこさないかぎり示談書にサインはしないといってやったら頭を抱えてました。だいたいサングラスの女が何者なのかも、あの村井とかいう事務局長、言を左右にして、明かさないのですからね」 「だとしたら冗談じゃなくその女、伊原頼高の娘あたりかもしれないぜ。事務員なら詫びによこすだろう。おまえさんの希望するドライバーとの会見は実現しない公算が大きいな。しかしどう転んでも、楽苑社の社員として常識の範囲内でやってくれよな」 「それはどういうことですか?」 「へたをすると上のほうから手をまわしてくるかもしれないということさ。この会社も伊原財団と商売がら、まんざら縁がないわけじゃない。しかしこれは上司としての公式見解だ。好きなようにやるさ。ただ、あて逃げったって微罪に近いというのが弱いところだな。かりに軽井沢警察に届けていたとしても、軽井沢は半分は伊原財閥のものといっても過言ではない、おまえさんの気の済むようになったかどうか」 「……?」 「あそこには『伊原|倶楽部《くらぶ》』というまるで鹿鳴館《ろくめいかん》みたいなごたいそうな別荘があるだけじゃないらしい。ホテル、ゴルフ場、プール、おもだった施設の大半は伊原の息がかかっているらしいぜ……。では、行くか」  並んで二、三歩、歩きだしたところで舵川は忘れ物にでも気がついたように振り返った。 「バロー先生におやすみをいっておこう」  編集長の机の後ろの壁面の、逆立ちのバローに向かって舵川は手を振った。     3  四日は晴れたものの桁外《けたはず》れの猛暑で、外勤には苛酷な一日だったが、蓮見は舵川と組んで批評家回りに精勤した。  発売に先立ってレコード批評家に試聴盤を届けるといった業界の慣例を、ミネルヴァ東京は無視していた。そこは舵川の勘が的中していた。テープを持ち込んで、試聴させ、コメントをとる作業が連日続けられた。その場で回答をくれる者もいたが、後日文書回答するという慎重派もあった。「FMジャーナル」誌の特集のことを持ち出す者もいて、そのへんのやりにくさは後塵を拝すものの弱みだった。  元老格の野沢|晋一《しんいち》は一九三四年にロンドンのニュー・クインズ・ホールで実演を聴いたことがあるということだった。「楽苑社」の会長とほぼ同世代の野沢の懐旧の表現はただならぬものがあった。老評論家はこの春の脳卒中の後遺症で車椅子の人となっていたが、バローのニュースについては知っていなかった。 「バロー、バローが生きていた……」  とつぶやいたきり絶句した。  持参のB&O社のポータブル・デッキで鳴らすと、しばらくしないうちに滂沱《ぼうだ》の涙にくれ、障害の残る不明瞭な喋り方で問わず語りにバローを語ったが、すべてはセピア色の懐旧談に終始し、かんじんの復帰演奏に関してはいくら水を向けても言及することはなかった。舵川は蓮見に目で、だいぶ惚《ぼ》けてしまったな、というように伝えた。  とりあえず蓮見は野沢の昔語りをメモに取った。書き物机に向かってタイプでも打つような無愛想な弾きぶり、地味なアクションから信じられないような轟然《ごうぜん》たる最強音を出し、息づまるような最弱音は不思議な力でホールの隅々まで浸透したこと、聴きなれた曲に意表を突くような辛辣《しんらつ》な解釈をほどこし、それが舌を巻くような深い楽譜の読みから出ていたこと……。格別めぼしい話でもなかったが、実際に聴いたというところが値打ちだった。  批評家や演奏家のなかには時間がないので、後日回答するという者も多かったが、石神井の、本業が時代ものの作家であることから「殿様」と舵川はじめ楽苑社の連中が呼んでいる三田|庸介《ようすけ》もその一人だった。三田はバローのSPを所蔵していた。音楽には門外漢といってよいこの髷物《まげもの》小説家はレコードとオーディオに関する特異な権威として令名が高かった。  以下、|〆切《しめき》り直前に寄せられた回答の全文。 ㈰バローを知っていますか? 「古今未曾有のピアニスト。その演奏は華麗にして痛切。技倆の練達は悪魔のごとく、精神の純潔は天使のごとし。よくバローに伍してただ夭折《ようせつ》のリパッティのみがあるか」 ㈪バローについてのあなたの思い出を。(但し㈰に知っていると回答された場合) 「戦前、神品と珍重されしSP盤、数点あり。そこに聴くベートーヴェンはベートーヴェン生きてあればかくや、と想到せしむ天馬空を駆ける名演。ショパンの雅致、神韻|縹渺《ひようびよう》たるドビュッシーも忘れ難し。今次大戦後久しくバローの名を聞かず。案じつつ星霜《せいそう》移ってはや四十余年、今般『FMジャーナル』誌誌上にて、バローの名を目にするにうたた感慨を久しくす」 ㈫バローの新譜についての感想を。 「バロー、生き存《ながら》えて今日かかる名品を世に問うはまことに奇跡。一聴、かたじけなさに涙あふるる。集中、とりわけて小生に有り難き演奏は『テレーゼ』なり。老木に花というには、あまりの大輪なり。かのラノヴィッツ、過日わが国に来演して万雷の拍手に迎えられるを思えば、バロー来演すればいかなる仕儀とならん。  なお録音状態は最新録音と比べれば不満あるも、鑑賞に支障なし。使用ピアノは永年使用せるベッヒシュタインとのことなれば枯れた音も興趣ありて、一聴の価値あり」  三田庸介が絶賛派の最右翼とすれば、ピアニストの御薗生《みぞのお》鷹丸《たかまる》は早くも反バローの狼煙《のろし》を上げたかのごとき、痛烈な批判を下していた。御薗生はラノヴィッツに関する著書があるほどのラノヴィッツの信奉者である。  回答して曰く、 ㈰知らない。戦前のSPも聴いたことがない。 ㈫リスト、ラフマニノフ、スクリャビンといった真のヴィルトゥジティを要求される曲をいまなお実演において果敢にとりあげるラノヴィッツに比べて、技術的に逃げている感あり。実演でラノヴィッツほどの演奏ができるかはおおいに疑問。  実演を聴いてみたいという声が高かったのは、日本においてはこれまで「幻のピアニスト」だったラノヴィッツの初の来日公演の余韻がまだくすぶっている時期ではあるし、そんなラノヴィッツがおそれたピアニストとなれば興味はいちだんと増すわけだった。  島村夕子は入稿期限の十日を迎えてもついに姿を見せないままだったので、バローその人も島村夕子も登場しない記事が送稿され、舵川たちには不本意な終止符となった。  蓮見には敗北感が残っていた。舵川も同様のはずだったが、 「まだ勝負は終わったわけじゃないぞ。十一月号もある」  といきまいた。どうしてもバローを、島村夕子をつかまえないことにはおさまらないらしいが、実際には、いつまでもバローにかかずらわっていられないことは舵川自身が最もよく知るところだった。  秋の来日アーティストの主なものだけでも、オーケストラではオイゲン・ヨッフム麾下《きか》のアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団、セルジュ・チェリビダッケ率いるミュンヘン・フィル、ムラヴィンスキーのレニングラード・フィル、そして真打ちともいうべき帝王カラヤンのベルリン・フィル、ほかにもウィーン交響楽団、バンベルク交響楽団と多士済々で、ピアノでは巨匠リヒテルと十四歳の神童キーシンが、夏の来日で社会的現象とまで騒がれたブーニンに続いて、あいついでソ連から来訪するといった調子であった。  沢木圭子の調査は半ばまで進んでいたが、楽苑社が海外の音楽情報のアンテナにしている在外演奏家や研究家からはなんらの情報も得られなかった。文化庁の在外研修員の名簿にもスイスに関連する人物は見当たらなかった。  ただ、ちょっとひっかかるのが一人だけいた。一九八二年秋、すでに松芳学園在学中から国内のコンペティションのピアノ部門を総なめにし、まれにみる逸材と嘱望されて勇躍国立ミュンヘン大学に渡った遊佐《ゆさ》浩一郎なる青年で、一九八三年の一月にミュンヘンを失踪、二ヵ月後スイスで病死したという。  ドイツ留学日本人学生のスイス客死と、ドイツから島村夕子がスイス入りしたのがほとんど期を同じくしている偶然——。これに何らかの意味があるのか、まったく無関係なのかは判然としないが、あたってみる価値はありそうだ。  しかしいまはその余裕がなかった。英国楽壇の首魁《しゆかい》、世界でもっとも秀れた音楽評論家兼作曲家アーネスト・ヒース博士の来日があさってにせまっていた。  おりから引越し公演中の英国ロイヤル・オペラの紹介者として、また空前のクラシックブームといわれ来日演奏家のラッシュを呈している音楽消費国日本の音楽状況の視察者として、この国を初めて訪問する博士の約一週間におよぶ全日程が「音楽の苑」の取材の対象となっていた。  バローは経過観察というべき扱いをつづけるにしても「専従捜査」は不可能な状態だった。事実上は彼等の手を離れてしまったも同然だった。 「ともあれ打ち上げだ。今夜ははでに飲もうじゃないか。圭子ちゃんもへべれけになるまでつきあうんだぜ。あさってからはまた気骨の折れる仕事が待ってるんだからな」 「よーし、今夜は飲んじゃうぞ」  沢木圭子は腕まくりしてみせた。 [#改ページ]   汚名の花束     1  翌朝、ここしばらく電車通勤を続けている蓮見がスタンド売りの週刊誌、といっても盗撮写真を中心に編《あ》まれたペラペラの俗悪週刊誌だが、  醜態! ラノヴィッツも登場 楽壇の名士たち避暑地の乱行!  刺戟的な見出しにちょっと息をのむような気分になって中身を検《あらた》めてみると、宿酔《ふつかよい》にはいささか効きすぎる薬だった。  軽井沢音楽祭の全日程が終わったばかりの八月三十一日(日曜日)、音楽祭出演の教授陣を筆頭に、著名音楽家や楽壇と縁の深い名士が旧軽井沢の「伊原倶楽部」に集まり、深夜におよぶ打ち上げパーティを開いた。そのパーティというのはスワッピングとおぼしき乱交パーティで、しかもそこにはあのドゥミトリー・ラノヴィッツが夫人同伴で参加していたというのである。  掲載写真は二枚。一枚は裸の男女の交歓図で、床の上に肉団子になって転がって、あやしげな趣向に耽《ふけ》っている。蓮見としたらついこのあいだ取材をしたばかりだから、顔に黒ベタの|目隠し《トンボ》を刷ってあっても素面《すめん》同然だった。  もう一枚は楽壇名士の揃い踏みといったところで、横一列に並んだ男たちに女たちがとりすがっている。列のほぼ中央で目もあてられないような表情を泛べているのがまぎれもないラノヴィッツだった。  八月三十一日といえば、ちょうど蓮見が舵川の帰社命令を受けて軽井沢をあとにした日である。なかなか味のある符合だと興がっていると、顔に出たのか、 「あんまり面白がるのも素性が知れるぜ」  蓮見の右手に丸められた「週刊ターゲット」に視線をくれながら舵川がいったが、頬がゆるんでいる。蓮見はつくづくと舵川の顔を見て、 「どうも、えらいことになりましたね」  ひとごとのようにいうと、 「しばらく火事場見物で行こう」  と案外なことをいった。 「どういうことで? また馬車馬みたいにこき使われるのかとくさってたんですがね」 「遅刻しといていい気なもんだ。ついさっきまではここも阿鼻叫喚地獄だったんだぜ」  舵川がいうには、局長が血相変えて飛び出したかとおもうと、朝っぱらから緊急会議が招集される、重役連中から各編集長まで額を集めてわけのわからないことを言い合っていたが、そこへ電話が入って、今回の事件に関しては楽苑社はいっさい取り扱いをしない旨申し合わせてチョン、ということだった。なるほどこれは嵐の後の静けさだったのか、とそれで腑《ふ》に落ちた気になっていると、 「電話は社長がよこしたんだが、実際は会長の命令だろう。そして背後で伊原が動いたのだろうな」  とうがったことをいいだした。 「運野事件とは性格が違うというのが上のいいぶんだ」  運野事件。国立東都芸術大学のヴァイオリン科教授運野良男が引き起こした楽壇|開闢《かいびやく》以来の不祥事で、ヴァイオリン名器|贋《にせ》鑑定書事件の容疑者として東都芸大教授であり、NHK放送管弦楽団コンサートマスターという錚々《そうそう》たる肩書を持つ音楽家が東京地検特捜部に逮捕されるという未曾有の事件だった。  贋の鑑定書を書いて懐に札束などというのは一種の慣例で、楽器屋も購入者もそれでありがたがってまるく収まるわけだから、運野は運が悪かっただけだ、運野良男ならぬ運野悪男だと嘯《うそぶ》く連中もいたが、当時編集長の席に就いたばかりの舵川は、蓮見を督励してなかなか辛辣な特集記事を組んだものだった。蓮見も入社まもない新米社員だったが、音楽が美しいだけにそれにたずさわる人間の醜さは枚挙にいとまがなく、いいかげん腹に据えかねる思いがつのっていたところだったから、寝食を忘れるようにして暮れの何週間かを事件の取材に奔走した。——それからかれこれ五年近くになる。 「あれは贋鑑定書やら受託収賄やらといったれっきとした刑事事件だったし、公務員としての職務違反や脱税にまで発展して、公憤というテーマがあったから報道もしたし、特集も組んだ。今回はあくまで私生活のカテゴリーだし、ことが卑近も卑近、げびているから楽苑社の品位にかかわる、というんだ。まあ正論だ」 「シモネタだから扱うな、ということですね。震撼《しんかん》させられた連中も多いでしょう。当分はこの国の音楽家も清らかかな」 「いい薬にはなっただろう。それに『ターゲット』の姉妹誌がしばらく追跡特集をやるんじゃないか。あそこは資本系列がちがうから伊原の力もおよぶまい。とにかくめったにない素材だからな。テレビも食いつくだろうし。当分は楽しませてもらえそうだ」  などと気楽なことをいっているところへ沢木圭子がきた。 「会議中、御薗生《みぞのお》先生から何度も電話がありました。はじめは用件をおっしゃるのを渋ってたんですが、れいのバローのコメントは掲載しないでほしいということです」  舵川は蓮見にニヤリと目配せして、 「やっぱりおいでなすったか」 「あれだけラノヴィッツに肩入れしているんだから、一蓮托生といってもらいたいな」  まあ待てというふうに手で蓮見を制して、舵川は圭子に訊く、 「で、どう答えた?」 「会議がおわりしだい編集長には伝えますが、印刷にかかってますからたぶん無理ではないかと。いちおう、そういう線で答えておいたほうがまちがいないと思いまして……」 「ほんとにそう思って?」 「いえ、あんまりてのひらを返すようだから」 「そいつはいい」舵川は手を打ちながら上機嫌に答えた、「よしよし、三人の合意だ、やっこさんのはそのままにしとこうぜ」  惻隠《そくいん》の情はさらさらないが、ラノヴィッツが事件の主人公におさまっているのがひっかかる。スワッピングがアメリカあたりの一部知識階級でファッション化しているとは聞いているが、事件のラノヴィッツと記者会見での本人の印象とがちょっと結びつかない。  ラノヴィッツはその年齢から考えても再来日は考えられず、もう二度とこの国でピアノを弾くことはあるまいとファンは一抹の寂寥《せきりよう》を味わったものだ。そんなラノヴィッツがふた月と経たないうちにひそかに来日し、いかがわしいパーティに参加していたというのは、やはり怪談《ミステリー》じみていて、こういう離れわざができるとしたら、ラノヴィッツ来日公演の事実上のプロモーターだった伊原財団しかないが、スキャンダルを暴露されて嬉しいはずはないから、これは誰かが写真付きで情報を売ったと考えるのが自然だ。「ターゲット」がデータの出所をクレジットしていないところからして、あるいは参加者のなかにいるのかもしれない。  ともあれ、事件がラノヴィッツにとって致命傷であることははっきりしている。レコード会社の痛手も相当なものだ。今後ラノヴィッツの新譜の録音は見合わせられるだろうし、FMの電波にも彼の演奏が乗ることはないだろう。これまで販売された厖大な数のLPやCDが愛好家の手元で色褪《いろあ》せ、潔癖な人はさっそく叩き売るかもしれない。御薗生などはそのへんに抜け目なく、はやくもラノヴィッツ離れに邁進《まいしん》する気配だ。  この不祥事は「世界の至宝ラノヴィッツ」にとって最も痛手は大きいだろうが、伊原にとっても甚大な汚名だろう。伊原の手厚い庇護を受けてきた音楽家連中はどうなるのか。  松芳学園や東京管弦楽団に連なる者はその席を退くしかないだろう。伊原は彼等を切り捨てるしかあるまい。運野のように海外に活路を見出すものもあるかもしれない。それだけの実力があればの話だが。  しかしこれほどの大事件が仕事にならないで済んだのはもうけものだ、そう蓮見は思った。舵川のいうとおり、火事場見物をきめるにこしたことはない。  断 章   九月六日、午前八時過ぎ。日本橋、|東京シティ・エアターミナル《JTCAT》二階。  |フィンランド航空《FINNAIR》のカウンターで搭乗手続を済ませたらしい女がロビーのソファに戻ると、男が話しかけた。 「今年は五月に帰国なさってからというもの席のあたたまる暇もなく、お見送りするのはたしかこれで四度目。そのたびに不安で胸を締めつけられるようで」 「だから見送りはいらないといってるでしょう」女は薄く笑いながら、「両さんは海外旅行はまだだったわね。いつか暇をつくってよ、案内するわ」 「飛行機はDC10ですか」 「フィンエアーのパイロットは世界一優秀らしいの。あまり心配しないでくださいな」 「心配なのは私だけではありません。会長もいつも気づかっておられます」  女から笑顔が消え、しばらく無言でいたが、 「あの人はあいかわらず忙しくしてる? 円高の影響とか、たいへんなのではなくて?」 「…………」 「どうしたの?」 「いえ、あなたのほうから会長のことをお訊ねになるのは滅多にないことなので……。なかには縮小を余儀なくされた部門もありますが、伊原グループは健在です。……じつは今日お話ししなければと思っていたのでしたが、会長がどうしても会いたいと申されております」 「やはり軽井沢の夏の嵐のことで?」 「そうだと思います。スイス滞在はどのくらいになりますか?」 「先生のごようすしだいですが、二週間ほど予定しています」 「では下旬にいかがでしょう?」 「あまり気は進みませんが、そうね、承知したと伝えてください。逃げるのはいやですから。そうそう、あの蓮見さやかという記者、その後どうなりました?」 「ご心配には及びません」 「むずかしい人間じゃないのね」 「いえ、むしろその逆かと。興信所の報告がありますが、ご覧になりますか」 「帰国してからにしましょう。いやなことをさせてしまいました。おわびします」 「いえ、とんでもありません。それより私は……」 「わかってます。倶楽部の事件ではほんとうに申し訳なく思っています。ゆるしてくださいね」  女は男の手を取って微笑した。恐縮したように男は手を引いた。 「フィンランド航空AY二〇三便、定刻一〇時一〇分ヘルシンキ行きにご搭乗のお客様にご案内申し上げます。まもなく空港行きのリムジンバスが出発いたします。……」  女は男に笑顔を向け、男物のように見えるドキュメント・ケースを手にすると、さっと腰を浮かせた。     2  事件の反響はほぼ蓮見の予想どおりだった。  いくつかの週刊誌が取り上げ、新聞に囲み記事が載り、テレビはもっぱら事件の性的な部分を拡大して電波に乗せた。  報道は、日本の楽壇が東都芸術大学を牙城《がじよう》とする一門と伊原財閥をいただく松芳学園の系列に二分され、好むと好まざるに関わらず双方が覇権《はけん》を争い、互いに反目し、牽制《けんせい》し合っている事実にきまって触れ、楽壇の隠然たる権門、伊原財団の体質を批判し、伊原頼高幕下の著名音楽家たちの腐敗・堕落ぶりをいい立てた。  しかし、伊原の傘下にあるわけではないラノヴィッツが、やはり他を圧する知名度によって攻撃の集中砲火を浴びるかたちになっていた。  海外情報によれば、当のラノヴィッツは九月三日祖国ソ連にほぼ六十年ぶりの里帰り公演を行い、モスクワ音楽院大ホールは前例のない熱狂と昂奮に包まれたという。この帰参公演は、老ラノヴィッツの寄る年波からくる望郷の心情に、去年の米ソ首脳会談で合意をみた文化交流協定がからんでの産物だったが、モスクワ到着第一声の「わたしは平和の使徒としてこの国を訪れた」という言葉も、軽井沢事件を思いあわせると噴飯もので、このモスクワでの演奏会のライブ録音が日本では発売を見合わせられるだろうという噂も届いて、やはりこの国での失脚が冷酷な事実であることを示すばかりだった。  九月十五日発売の「FMジャーナル」は前号のバロー特集においてラノヴィッツの過去の汚点と目される事実に触れていただけに、ここぞとばかりにラノヴィッツ批判に誌面をさき、少数派ながらかねてラノヴィッツに批判的な評論家を総動員して俎上《そじよう》に載せ、徹底的な攻撃を展開していた。  蓮見にしてこの事件に快哉を叫びたい気分があるのも、伊原財団に含むところがあるというより、バローに贔屓《ひいき》する心情が生じているせいだった。  ラノヴィッツの失脚をバローのために歓《よろこ》びたい、というほどのものである。  したがって、この醜聞がバローの側からみればまことに時宜《じぎ》を得た、いわばお誂《あつら》えむきの事件であり、そこになんらかの意味が隠されているのではないか、そういった疑念も蓮見には起こらなかった。それゆえ、この二つの事象に偶然以上の何かを感じるという舵川の指摘も、蓮見は右から左へ聞き流して、すぐに忘れた。 [#改ページ]   鎌倉|薪能《たきぎのう》の女     1  ヒース博士の風貌をクリストファー・リーのドラキュラだといったのは蓮見だが、舵川はおおいに気に入って、以来ふたりの会話の中ではドラキュラ博士になってしまった。映画を観ていない圭子は面白くないらしく、見てくるといって本屋まででかけたのだが、戻ってきてもニヤニヤしているだけなので、 「どうだった? 御本尊は」  舵川が訊くと、 「たしかにそっくり。双子みたい」  と笑みくずれた。  ドラキュラ博士は、バローに関する質問に対して、私はバロー世代ではないので、と断ったうえで、バローの名前がイギリスにおいてももうすっかり忘れられていることを告げた。バローの師であったプレストン卿は英国人でもあることから、その著書はまだ現役で売れているということだった。  バロー復活は博士を驚かせたが、日本が世界有数の音楽消費国、とりわけ再生装置で楽しむ音楽が主流をなしているという特殊な音楽王国であることを考慮すれば、再起がまず日本で着手されたことも納得が行く、とうがった分析をしてのけた。いいかえれば、演奏家にとってステージから遠ざかることがいかに致命的か、いかに舞台への再起が困難な事業かということを博士はいいたいらしかった。  博士をもっと驚かせたのは、いうまでもなく「伊原倶楽部事件」とも「軽井沢スキャンダル」ともよばれる不祥事であった。博士はこれを驚天動地の出来事といい、新聞の求《もと》めに応じて特別寄稿した音楽時評には、 「この国は二つのショッキングな出来事を用意して私を待っていた」  に始まる一文を草し、 「ピアノにおける巨匠時代がラノヴィッツとともに終焉《しゆうえん》するだろうことは遠くない将来の現実だとわれわれは認識していたが、この最後の大ヴィルトゥオーゾが、まったく音楽不在の醜聞をその晩年の年譜に書き加えてピリオドを打つことになるとは予想しえなかった。まことに不幸かつ残念な事件でもある。十九世紀ロマン主義の残党である彼もまた時代の病理におかされていたのだと考えることは、この際あまり意味はない。性的スキャンダルで失脚した人物というのは時代を問わず存在したのである。  いっぽう、ジェラール・バローという忘れられた巨匠の復活劇はたいへん興味深い事実である。ヨーロッパにおいても大戦後は伝説上の人物でしかなかった彼の再起が今後どのように展開するか、帰国後もおおいに注目したい」  と結んだ。  広告効果からすれば、平田佐一は得意満面でこの記事を読んでいるにちがいなかった。島村夕子も……。  ドラキュラ博士が能を観たいというのは、日本招待の際に博士から註文された条件のひとつだった。滞在期間におりよく重なった鎌倉薪能は、だから最初から楽苑社の接待の一つに組み込まれていた。氏のもう一つの希望は日本庭園を観ることで、すでに各音楽大学での特別講義、講演、邦人音楽家および音楽団体とのレセプションなどを消化したヒース博士の日本滞在最終日は、六義園《りくぎえん》と浜離宮庭園、横浜へ足をのばして三渓園、それから鎌倉という日程であった。  生粋のロンドンっ子の博士は独、仏、伊、と語学に堪能で、フランス語のできる沢木圭子がガイド役を、運転手兼カメラマンとして蓮見が随行する。ヒース夫妻の清遊のもようはグラビア頁に組まれることになっていた。  九月二十一日・日曜日、この日は「音楽の苑・十月号」の発売日でもあったが、ヒース博士夫妻、蓮見、圭子の一行は夫妻の投宿先の赤坂のホテルを九時前に出発した。  十五日以降ずっと台風十六号にともなう悪天候がつづいており、十八日にやっと秋らしい晴天に恢復したとおもったら、二十日は横浜スタジアムのデー・ゲームが中止になるほどの降りで、おおいに気を揉ませたが、どうやら持ち直し、鎌倉の薪能も予定どおり開催ということで一安心だった。  駒込の六義園、築地の浜離宮庭園と観て、横浜の三渓園が遅い昼食場所を兼ねた。鎌倉宮の薪能は夕刻からだったので午後は北鎌倉の円覚寺から始まって、東慶寺、建長寺、鶴岡八幡宮、寿福寺などの訪問が組まれていた。  円覚寺をヒース博士はとりわけ気に入ったようだった。谷深く、堂宇、伽藍《がらん》がならび、山門や仏殿、方丈、庵、廟《びよう》、それらを導く石段や小径《しようけい》、鬱蒼たる杜《もり》、これらのすべてが円覚寺という禅刹《ぜんさつ》であること、そして昔は来る途中に見た北鎌倉駅のあたりまでも寺域であったことを圭子が説明すると、博士は感嘆し、その構築の一見とりとめもない寛闊《かんかつ》さを讃えた。雨に洗われた緑はあざやかだったが、秋寒の空気は低く澱んでいた。  夫人はところどころに咲く初秋の花について圭子に質問した。名残りの百日紅《さるすべり》、葛《くず》、木槿《むくげ》、それに芳香を放つ金木犀《きんもくせい》などが夫人を楽しませた。  仏日庵の庭に茶を喫する拵《こしら》えがあり、一行は床几《しようぎ》に憩《やす》み、一服を乞うた。  まだ咲き初めの萩のたよりない風姿に夫人は心を動かされたようすだった。博士に花を指さして何かいった。  圭子は今夜の能のことに心を砕いているようだった。プログラムは、「景清《かげきよ》」と「二人静《ふたりしずか》」で、ドラキュラ博士が観たがった「隅田川」などはブリテンの歌劇「カーリュー・リバー」の台本の典拠となっているから組しやすいが、源平合戦という歴史的背景を負っているこのふたつの作品をどう紹介するか。圭子は、翻訳の台本を作成し、イラストまで挿入して万全を期しており、斯界《しかい》からしかるべき人物を依頼して解説にあたらせるという案を蓮見がしりぞけたのも圭子の熱心な仕事ぶりに感じるものがあったからだ。  萩の白い真珠をつらねたように見える花の隣に、水引草がうちすてられた趣きで咲いており、見飽きなかった。  日曜日だが人出は少なく、法師蝉の声だけが啼き交わしていた。時間で行動していることをともすると忘れさせる。  茶が運ばれたところで夫人が撮影を所望した。  碗を口にもって行き、未体験の味覚に眉をしかめたところでシャッターを押す。そうしてあとは何枚か惰性で撮った。 「——こんどのことは目をつぶる。そういうことでしかわたしの愛情が示されないとしたらわたしたちはとても不幸だな」 「愛情ということばは撤回してください。まともにはきけません」  背後で抑えた声が交わされている。入口に近い床几にいつのまにか一組の男女が腰かけていた。こちらに斜めに位置している。 「手きびしいな。いつもおまえはそうだが……。わたしが腹を立てて、おまえに手をあげでもすれば愛情ということばは解禁か。しかしそういうわけにはいかん。わたしは自分に忠実でありたいからな」 「平行線なんです、わたしたち」  ややこしい話のようだが、抑えている分だけ響いてくるというもので、蓮見はそれとなく聞き耳を立てるかたちになる。男の声はよく練れていて徹るが、女のほうは遠い。すこしかすれた、それでいて甘味のある声だが、せりふは甘くないようだ。 「あれはかなり痛手だった。しかし帰ってきてくれたことで帳消しと思うことにした」 「帰ってきたわけではありません」 「そうか。それも余儀ないが、もうあまり面倒なことは困るな。わたしの力にも限度がある」 「それがあなたの本音?」 「……淋しい子だな」  圭子が席を立って勘定を払っている。出発だ。蓮見はヒース夫妻を呼んだ。そうして適当に並んで立たせ、ぐっと退いて、男女がファインダーの視野にはいるところまで後退した。シャッターを切り、指示し、また切る。その一方で蓮見はそれとなく観察した。  男は五十代半ば、濃紺のダブル・ブレストに白のトラゥザース、ホワイト・バックスの靴という軽快な身なりが重厚に見えてしまうおしだしのよさがあった。  女は着物なのでにわかに年齢を判別しがたいが、二十代の終わりというところか。横顔である。アップにした髪は漆黒で、うなじの白さをほとんど蒼みがかったものに見せている。老けてみえる髪型だから実際はもう二つ三つ若いのかもしれない。女の向こうで紫式部がつぶらな実をつけているが、その可憐な果実を簪《かんざし》にして挿《さ》してみたいような髪だった。輪郭の端正な横顔を鼻梁が秀でているのがいささか冷たく見せている。  縹色《はなだいろ》の地に菱井桁《ひしいげた》を白く抜いた、いかにももののよさそうなのを凜《りん》と着こなして、端然と掛けているが、ふだんから着物で生活しているむきには見えない。これがもっと艶な着こなしだったら男の庇護を受けている粋筋の女とも見えるが、そうは見えないし、かといって会話の調子から親子とも思われなかった。  圭子にせかされるかたちで、この場をあとにしなければならなかったが、女をもうすこし見ていたかった。  四人組が英仏日のまじった会話を交わしながら茶席を去るのを、その男女は一瞥で見送ったが、このとき蓮見は女の顔を直視した。横顔では高すぎる印象だった鼻も正面からだとほどほどで、口は可憐ともいえ、きっと見据えるような目もとだけがやや険のある印象を与えた。  濡れたような深みのある眼にほんのわずかたじろいだような色が泛んだが、すぐに流れるように瞳が逃げて、端麗な横顔に戻った。  駐車場まで降りたところで、圭子が蓮見に耳打ちした。 「さっきの男柄の着物のひと、ずいぶんきれいでしたね」 「立ち去りがたかったね」 「ああいう人、タイプなんでしょう?」 「いや、美人すぎて実感が持てないよ」  よく磨きあげられた漆黒のベンツが駐車し、白手袋の運転手が車の傍らで煙草をふかしていた。  あの二人を乗せている車だと蓮見は直観した。会社名のようなものは印《しる》されてなかった。お抱え運転手つきのベンツでやってくる手合いだから、縁のない人種ということだけは間違いない。     2  夕刻、鎌倉宮を訪れた。  鳥居の手前にしつらえられた能舞台をすでに千人近い観客が見戍《みまも》るなか、一行も予約した脇正面の席に着いた。  狂言が終わり、宝生《ほうしよう》流の「景清」がはじまる頃には夕闇が深く、篝火《かがりび》も赫々《あかあか》と燃えた。ときおり薪の爆《は》ぜる音が粛然とした空気を震わせ、火の粉が美しい憤怒を鏤《ちりば》めた。  平家に悪七兵衛ありとその豪勇を謳われた景清も、いまは落魄《らくはく》の身を宮崎の地に沈め、盲目の琵琶語りとなっている。はるばるとまだ見ぬ父を訪ねてきた娘「人丸」は景清が遊女に生ませた子である。  舞台で「人丸」は子供が演じている。一般に成人が演じる他の流派と異なり、この宝生流では「子方」が演じる習いで、だからいっそう美しく哀れなのだと、なかなか説明しにくいところを圭子は悪戦苦闘している。  少女を娘と知る景清の驚愕と悲嘆。景清は名乗らず、橋懸りに去る娘と残る景清の、沁《し》み渡る孤独。このあたりの透徹した心理描写を、圭子はどう伝えるのだろう。  夜ともなると空気は森閑として薄着には酷なくらいだった。ときおり風が渡る。その風に乗ってか、さきほどから或る馥郁《ふくいく》とした薫りがかすめていくのを蓮見は感じていた。金木犀ではないことはわかっていた。  ※[#歌記号]この物語過ぎ候はば かの者をやがて古里へ帰して給はり候へ  舞台では身を恥じて名乗りをこらえていた景清が、ついに人丸を抱きしめ、今生の別れに屋島での軍《いくさ》ぶりを語るところにさしかかっている。  ※[#歌記号]いでその頃は寿永三年三月下旬の事なりしに  三保《みほ》の谷《や》と兜の錏《しころ》を引き合う奮戦ぶりが滔々《とうとう》と語られる。ごく抑えた動作と扇の動きに、錏引き、一騎打ち、そして軍団の激戦が彷彿《ほうふつ》として現出するさまは能の独擅場《どくせんじよう》であるが、ヒース博士も頬を上気させて凝視していた。  また、甘く誘うように薫るものがあった。なにげなく振り返った蓮見は目を奪われた。円覚寺の男女がいつのまにか後方のかなり近い席で観覧していた。  着物に香を焚《た》き罩《こ》めているのか、薫りは女から匂い立っているものらしかった。  舞台照明と篝火の反映を受けて、女の仮面のように表情の動かない顔が、ともすると悲劇的な美しさに彩られるのに息を呑んだ。女の視線は舞台に結ばれて蓮見をとらえていない。それに乗じて無遠慮に眺めた。  女の顔がわずかに歪んだが、すぐにもとの端正な無表情に戻った。男が手を、女の腿の上で女の手の甲にかぶせているのに、蓮見は気づいた。それが男と女の仲であることを示しているようにも見えて、自分でもおかしいほど心が騒いだ。  脇正面は来賓関係の予約席だから、この一組も受付でなにがしかの確認を済ませて入場してきたものと思われる。蓮見は景清が終わったら主催者側に訊ねてみようと考えた。そういう気のまわり方にも蓮見は自分ながら驚いていた。  ※[#歌記号]さらばよ 留る 行くぞとの ただ一声を聞き残す これぞ親子の形見なる……地謡《じうたい》が物語の終わりを告げていた。蓮見の心は舞台にはなかった。  休憩と休憩後の狂言を蓮見は捨てることとし、人のざわめきをよそに席を立った。叢《くさむら》の虫のすだきが意外に高く、おびやかすもののようにも聞こえた。夜空はしだいに晴れてきているのか、やや欠けはじめた月がさえざえと中天にかかっていた。  事前に観覧や撮影許可について依頼した際、応対し、手配してくれた職員の名を覚えていたので、その係員をさがしてそれとなく質《ただ》した。その結果、ほぼ特定された人物の意外さに蓮見は言葉を失って席に戻ってきた。  金剛流の「二人静」が始まっていた。  空気がほどよく乾いているせいか、囃子《はやし》座の笛も玲瓏《れいろう》と冴え、大鼓《おおかわ》の音色も澄み切っている。地謡座からの声もよく響き合っている。 「どうかなさって?」  圭子が訊く。蓮見が返答をためらっているうち、ヒース博士の質問によって圭子は解説者に戻った。  雪の残る野に菜摘みをしていた女が亡霊に呼びかけられる。亡霊は回向《えこう》を願って菜摘み女に言伝《ことづて》する。菜摘み女は神社に戻り、ことのしだいを神職に告げるが、するうちに憑依《ひようい》現象によってようすを変え、判官殿に仕えていた舞姫だと名乗る。  女が静御前ゆかりの舞装束を着ける件《くだ》り、唐織を脱ぎ、静|烏帽子《えぼし》に長衣《ながぎぬ》を着て常座にすっくりと立つあたりは、圭子の説明にまたねばなかなかのみこめないところと思われた。  ここはとりわけ幻想的な場面で、生前の静御前の風姿をしたツレの背《うし》ろから後ジテの静御前の亡霊が、前折れ烏帽子、長衣、扇といった寸分違わぬ衣裳で、「菜摘みの女と思うなよ」と謡いつつ登場するところなど、一種鬼気迫ってぞっとする美しさである。  蓮見は背後をそっとふりかえった。男は鷹揚なようすで舞台に見入り、女はやはり背筋をぴんと伸ばし、あごを引き加減にして、あたりを峻拒するような緊張をたたえている。姿勢のよさは円覚寺からすでに印象的だった。女の向こうに掛けている男が円覚寺のベンツの運転手であることを蓮見は確認したうえで、注意深く視線を舞台に戻した。  かれらが、 「伊原芸術振興会  伊原頼高様ほか二名様」  と来賓名簿に記載された一行であることは疑いもない事実だったが、女の名前の記載がないのが惜しまれた。伊原とおぼしい男と女との関係も特定できなかった。それが蓮見をいらだたせていた。  男柄の着物の女は、ロールスロイス・コーニッシュに乗っていたサングラスの女と似ているようでもあり、まったく別人とも思われた。確信が持てない以上、つかまえて一文句つけるわけにもいかなかったが、それよりラノヴィッツ事件の余韻さめやらぬ今、敵意よりも興味のほうが先行していた。  舞台はツレとシテ、形影いずれとも見分けがたく、今夜の金剛の役者がまた丈といいようすといい、双子のように揃っているうえに、至難な演技をよくこなして間然するところがない。金色の前折れ烏帽子が篝火を映して、序の舞は華麗とも凄艶とも見える。  能面でほとんど視界をうしなっているため、このように二人の動きがピタリと揃うのはきわめて困難といわれています、……そんな圭子の説明に、 「どちらが贋物ですか」  博士はいささか見当外れな質問をした。 ※[#歌記号] 賤《しず》や賤 賤の苧環《おだまき》 繰りかへし 昔を今に なすよしもがな  簡素な舞台にまったく同じ風姿のふたりが存在しているだけで一場の夢のようでもあるのに、シテ、ツレともに舞うさまは凄絶な美しさだった。  意識の半ばを舞台に結びながら、蓮見はあてどない推測を繰り返していた。円覚寺で視線が合ったときの一瞬のたじろぎが、特別の心理を含むものなのか、それとも無遠慮なまなざしにあった人の一般的な反応にすぎなかったのか……、ふとしたかげんで鼻先をかすめる匂いが思考を中断して、また別のめまいに似た忘我に誘った。  薪が崩れたのだろう、パチパチと爆《は》ぜて火の粉が舞い、篝火はひときわ烈しく闇に燃え熾《さか》った。 [#改ページ]   夜の中の顔     1  バローの新譜発売の連絡が村野楽器から届いたのは鎌倉行きの翌日である。蓮見はただちに銀座へ赴《おもむ》いた。  地下鉄の車中、やはり蓮見の思考は昨夜の薪能の女に向かった。  あの女が伊原の娘なのか、娘だとしてロールスロイスの女と同一人物であるのか、そんな昨夜来なんども去来する疑問が蓮見を領していた。父子というには、伊原頼高が女の手を窃《ぬす》んでいたのがなんとしてもひっかかる。ロールスロイスの女との照合は、すでに軽井沢から一ヵ月も経過していることや、サングラス、着衣、髪型などその装いの殊異によって困難だった。蓮見は同一人であるという気がしてならなかった。  地下鉄を降り、しばらく歩くうち蓮見はおもいがけないものを発見した。宣伝ポスターに、バローの顔があった。演奏会の案内ポスターにまじってそれはひときわ目を惹いた。舵川のデスクの背後に貼ってあるポスターの縮小版である。重ね刷りしたらしい惹句が目につく。 「伝説のバロー あのラノヴィッツが畏怖した悲運の巨匠 幻の天才ピアニスト ジェラール・バロー 奇跡の復帰録音盤 九月二十二日緊急発売! この超話題作のお求めは全国有名レコード店にてお早めに」  はでにやるものだ、蓮見は足をしばらくその場に止めて見入った。  しかしこれはまだそう驚くほどのものでもなかった。たしかにコンサートの宣伝ポスターにならって新譜の販促ポスターをぶつけるというのはなかなか卓抜ではある。一見演奏会のそれと思わせるところに意外性もある。だが蓮見を驚かせたのはこれではなかった。このポスターなら事務所で毎日お目にかかっているものだ。  しばらく行くと向こうから目にとびこんでくる感じで蓮見を捉えたものがある。それは黒っぽいモノトーンの画面、手前にやや俯き加減の女、その向こうに大きくバローというイメージポスターである。  女は斜め下に視線を落とし、憂愁を含んだ端正な顔立ちが、背後のわずかに仰向き、渋面のなかにも敬虔な表情をただよわす求道僧めいたバローと好対照をなしていた。女が「FMジャーナル」のあの不鮮明な写真の人物、島村夕子であることは疑いもなかった。不鮮明な掲載写真が、ここでは新聞の粗笨《そほん》な印刷をオリジナルプリントで見るような鮮度でせまってきた。  一瞥だけならミステリー映画の宣伝とみまがうようだった。 「よみがえる伝説のバロー。悲劇の天才ピアニストが、四十年の沈黙を破り、いまあなたの耳とハートを直撃。この秋最高の話題盤ついに登場!」  映画の惹句さながらの口調で、いやがうえにも神秘的な雰囲気をかきたてていた。  平田の得意満面の顔が泛んだ。まだ見ぬ現実の島村夕子の挑むような顔も明滅した。  クラシック売場にはバローの専用ワゴンが置かれ、CDとカセットテープが堆《うずたか》く積んであった。ポスターはむろん、「FMジャーナル」と「音楽の苑」のバロー特集の切り抜きも抜け目なく貼り出してある。  蓮見が名乗ると女の店員は予約名簿をチェックし、包装済の商品を出し、先着二百名様に当店のプレゼントとなっております、二種類ございますが、どちらになさいますか? と手なれた調子でバローのポスターを示した。蓮見は当然ながら島村夕子のあしらってあるほうを望んだ。 「売れてる?」  訊ねると、それまでの営業用のものいいからすこし調子を変えて、 「予約だけでも昨日までに百件近くにのぼっておりますし、『音楽の苑』最新号が発売されましてからは、在庫の問い合わせはひきもきりません」  音楽の苑、と口にしたとき、てのひらを見せて下に向けたのは階下が楽譜・書籍売場になっていることを示しているらしかった。  地下鉄に乗り、楽苑社に向かった。すいており、坐って、見るともなく乗客たちを見た。写真週刊誌を見ている中年男。女子中学生らしい数名。幼児を連れた主婦。眠っている老人。漫画を見る学生。新聞をひろげる初老の男。放心している中年女。はたしてこのなかにバローを知っている者が一人でもいるだろうか?  毎日どこかで開かれているコンサート。大物から無名まで玉石|混淆《こんこう》、夜毎|妍《けん》を競う演奏会に顔を出せば、世間にクラシックを聴かない人間がいることがおかしいような錯覚にさえ陥る。  あの夏場のブーニン騒ぎはどうだ。たかだかショパン・コンクールに優勝したというだけの新人ピアニストが、著名アイドルなみの大仰な記者会見で迎えられ、超過密スケジュールのリサイタルが開かれる。一万人収容の国技館の、電気で増幅されたピアノの音に客は殺到し、花束攻勢にしのぎを削る。ショパン・コンクールのドキュメントを放送したことでブームの火付け役になったNHKはむろん、ふだんクラシックとは疎遠な民放までが負けじと特別番組を放映する。専門誌や新聞の文化・芸能欄はともかく一般の週刊誌までが競って報道し、「ブーニン・シンドローム」「ブーニン現象」なる新語まで生まれる。週刊誌は空前のクラシックブームの到来を報告し、演奏会へでかける行為が一種のファッション化の様相を呈していることを書きたてる。クラシックの復権、クラシック音楽のルネサンス……。しかしこの箱の中のいったい誰がブーニンを聴いただろう。そして、誰がバローの名を知っているだろう。  帰社すると蓮見は試聴室に入った。コンパクト・ディスクの封を切り、装置にセットし、ソファに横になった。  この部屋で舵川と圭子との三人でバローを聴いてから、三週間が経過していた。その間、この見えない相手に鼻面をつかまえられ、いいように翻弄されている自分がひどく卑小な存在に思いなされた。  記者としての閲歴にかくも震撼させられ、心を奪われた事件はなかった。謎めいた一人の日本人女性がからんでいることも興味に拍車をかけた。見えない糸にたぐり寄せられるようにして、バローと島村夕子の日々が過ぎていったが、これほどつかみ所がなく、不如意なままに経過した例もかつてなかった。  いっぽう、軽井沢を震源地とする「伊原倶楽部事件」は楽壇を恐慌に陥れ、ラノヴィッツは汚名にまみれて失脚し、バローがそれに替わるもののごとく擡頭《たいとう》のたしかな徴候を見せている。この三週間余りの音楽界の動向はめまぐるしかった。……しかし、それがどうしたというのだろう。  魂の底からのよびかけのようなバッハが、鳴りだした。蓮見はいくらもたたないうち、バローの演奏に否応なくひきこまれている自分を発見した。このにわか犬儒《けんじゆ》派はあらためてバローの至芸に感嘆せずにはいられなかった。 「たしかに、こいつはただものではない。それはまちがいない……」     2  バローの新譜は、好調な売行を示していた。村野楽器に問い合わせたところ、発売三日ですでに在庫分を捌《さば》いてしまい、あらたに追加註文を入れたという。購買層も多彩で、ふだんのクラシック売場には場違いな感じの客層もけっこう目立つのは宣伝の効果かもしれない、そんな店長の応答も弾んでいた。 「ラノヴィッツはどうです?」  蓮見はふと気になって訊ねた。 「これがいま売り切れの状態でして、一枚も在庫がございません」  意外な答えだったので、蓮見はもう一度聞き返した。 「あんなことがございまして心配しておりましたのですが、こっちのほうはいわゆる愛好家の方たちが一枚、二枚と買って行かれるようで、いまは完売の状態です。もっとも量からいえば十数種類あるラノヴィッツ盤の総売上枚数が、たった一点のバロー盤の二割に満たないといったところですが」  廃盤を見越しての投機的な購買意欲が働いているとも、たんに物珍しさが手伝っているともいえるが、マニアの間でのごく一時的な現象であることはたしかのようだった。  二十七日付けの関東新聞・夕刊は「バローの復活」と題する時評を掲載した。これがバローに関する新聞での最初の本格的な批評であった。  筆者は日本の代表的な作曲家である野上|真夫《まさお》で、めったにレコード批評の筆を執らない野上にしてはめずらしい仕事であり、蓮見は興味をそそられた。この種のものとしてはかなり長文の批評だった。  野上は文章のあたま三分の一を、おそらくは新聞社からの要請によってだろう、バローの閲歴と、新譜の発売にいたる顛末の紹介に費やし、残りを具体的な批評にあてていた。  批評は「ジェラール・バローの芸術」一巻の曲目編成に関する考察に焦点が絞られている。その部分は以下のようにしるされている。 「この一見雑多にならんだ曲も、すこし注意して眺めれば、きわめて音楽的な配慮によって配列されていることに気づかされます。それはまるでとりとめもないように並べてあるだけに、その周到な秩序に思いいたったとき、私は思わずわが意を得たりと膝を叩く思いでした。このことについて一般好楽家諸氏にとって、あるいはわずらわしい論述になることを承知で、あえて具体的に述べてみようと思います。  プログラム第一曲はバッハのシンフォニア第九番ヘ短調。ラメント・バスと呼ばれる伝統的な下行音型が主題を成しているが、この音型は嘆き、涙、悲しみを表現する機能を有しており、間奏部の『十字架象徴音型』や、ヘ短調という調性も含めてこの曲はひとつの磔刑図《たつけいず》であり受難図です。  この曲はヘ短調の同主調であるヘ長調の主和音、すなわちピカルディ長三度をもって安堵するように終わるが、次のショパンの練習曲はヘ長調であり、調性的に安堵から躍動へと無理なくつながっています。以下、かけあしで述べてみます。  第三曲シューマンの『夕べに』は変ニ長調で、ショパンとは三度近親調の関係にある。この接続は絶妙であり、心が中空に持ち上げられるような感覚にさそわれます。シューマンの主和音が異名同音《エンハーモニツク》転換し、嬰ヘ短調の属和音となることによってベートーヴェンの『テレーゼ』を導きます。さらにブラームスの『ラプソディ・ロ短調』と『間奏曲・変ホ長調』、シューベルトの『即興曲・変イ長調』、ショパンの『バラード・ヘ短調』、すべてに密接な調性関係が見られますが、全曲をしめくくるのが『マズルカ・ヘ短調』となれば、冒頭のバッハがヘ短調であったことによって、このアルバムの全曲はあたかもメビウスの環のようにはじめもおわりもないのです。けだし老獪《ろうかい》というべきでしょう」  ここまで読んで蓮見は、これまでぼんやりと感じてはいたものの、はっきりとした焦点を結ばなかった像がにわかに鮮明に浮かび上がった感じだった。野上の指摘は蓮見がもう少し注意していればあるいは気づいたことだった。 「私はプログラム配列を調性《トナリテイ》の面から眺めてみましたが、バローの論理的演奏家としての確乎たる美学といったものを認めざるを得ません。私はこういうプログラムの組み立てを見るだけでこのジェラール・バローというピアニストに強い興味をそそられるのです。ちなみに現役のピアニストではブレンデルやチモフェーエワにそういう論理的演奏家の顔をみることができます。  バラエティ・プログラムはたしかに一時代前のピアニストにしばしば見られたものですが、単純にバラエティ・プロだからいかにも往年の巨匠らしいという紋切り型の批評ではなく、この問題に関してわが国の批評家はもっと言及し、考察する必要があるのではないかと、まあこれはかねてより私の不満の一つでもあります。たとえばラノヴィッツもまた多彩な曲目編成をするピアニストですが、ラノヴィッツのプログラム美学に関する批評など寡聞にして私はお目にかかったことがありません。  演奏について分析するには紙幅も時間もなくなってしまいましたが、それについては有能な批評家諸氏にまかせることとして筆をおくこととします」     3  九月三十日・火曜日、夕刻に始まった「音楽の苑」「マイ・レコード」二誌合同会議が終わったのは八時を過ぎていた。  会議は、来日予定の演奏家の取り扱いについての確認とバローの新譜が焦点になった。前者はムラヴィンスキー率いるレニングラード・フィル来演における、当のムラヴィンスキーの突然の来日中止による編集内容の変更が中心で、バローに関しては「マイ・レコード」の次号にむけての対応の決定である。すでに「音楽の苑」がスポットライトを当てている以上、姉妹誌とのかねあいから一般新譜なみに扱うわけにもいかなかった。発売一週間にしてちょっと前例のない売れ行きを示している事実も見逃せない。新聞紙上で一新譜がとりあげられたのも異例なことだった。  会議の後は気の合った同士でちょっと一杯といういつものかたちになり、目当ての酒場へと雨の街へ連れ立って消え、舵川と蓮見もその例に洩れなかった。  酔いがまわるにつれ、舵川は饒舌になった。 「バローもいよいよほんものになったな。ところでラノヴィッツ盤が意外に売れてるというのは本当か?」 「ええ、事実です。まあ、サプライズ・ヒットというか、一過性の現象でしょう。メーカーも再プレスは手控えているといいますし、あの事件はやはり致命傷でしたね」 「あれだけマスコミが叩けばな」 「事件後のNHKのクラシック番組をチェックしてみたのですが、ラノヴィッツは完全に姿を消しています。制作済みの番組の使用盤を差し替えるとなると、演奏所要時間のズレなんかが出てくるから、おそらくたいへんな作業だったでしょうね」 「嬉しそうにいうじゃないか。そういえば、おまえさんは昔からアンチ・ラノヴィッツだったな。ラノヴィッツばかりじゃない、ソ連系の演奏家には手きびしいからな」 「いや、そうでもありません。モスクワからやってくるキーシンには注目してます」 「ああ、あの十四歳の神童か。モーツァルトの再来とかいうふれこみの」 「十四歳というのはただごとではありません。キーシンのマネジメント・オフィスはどこでしたっけ?」 「浅野音楽事務所だ、例の軽井沢スキャンダルの一員だった浅野恭平のな。もっともあの事件で浅野恭平は窓際に追いやられてしまったらしいが」 「いずれにしても伊原系列か」 「この国の音楽領土の半分は伊原のものだからな」 「おれだったらバローを招《よ》ぶ」  蓮見はひとりごとのようにいった。 「浅野がバロー招聘《しようへい》に乗り出すとでもいうのか」  舵川は目を輝かせた。 「いえ、それはどうか。でもおれが浅野だったら黙って指をくわえてなんかいない」 「えらいことをいいだしたな。たしかにミネルヴァ東京と島村夕子の線を除けば、日本でバロー招聘の可能性をもつのは浅野をおいてほかにはないだろう。島村夕子のシッポの先端にすら手の届かなかったわれわれとは組織も財布の中味も桁違いだからな」  これまでに招聘不可能といわれた演奏家を次々と呼び寄せ、リヒテル、ミケランジェリから「幻のピアニスト」というレッテルを剥落させ、難攻不落といわれたラノヴィッツを陥した実績からすればバローを日本に招ぶことも夢物語ではないはずだ。たとえ島村夕子という謎めいたエージェントにはばまれているとしても。 「もちろんバロー本人の意嚮《いこう》という大前提を別にしての話なんですが、浅野だったらまんざら実現不可能じゃないでしょう」 「壮観だな。カラヤンもかすんでしまう」  舵川は遠くを見るような目をした。輝く銀髪をいただき、深遠なまなざしをした求道僧のようなバローの、絢爛たる世紀の公演に思いを馳せているようだった。 「招びたいなあ。どんなじいさんかこの目と耳でたしかめたいじゃないか」  バローが仕事の対象としてはいったん手を離れたかたちの今、それは舵川の本音にちがいなかった。バローを三人で試聴したときの昂奮が蓮見にもよみがえった。しかし蓮見にしろ舵川にしろ、おそらく日本でもっともはやくにバローのファンになった沢木圭子にしても、それは夢物語でしかない。  蓮見は東京文化会館のステージにバローが登場するさまを思い描いた。舞台の漆黒のスタインウェイは照明を浴びて煌《きらめ》き、満席の聴衆がいまやおそしと固唾《かたず》を呑むなか、おそらくゆっくりとした足取りで舞台袖からバローがあらわれる。満場をゆるがす万雷の拍手にしばしたじろいで、歩みはいったん止まるだろう。そうしてほとんどそっけない一揖《いちゆう》に美しい銀髪が揺れ、拍手はいちだんと高鳴り、歓声が飛び交う。おもむろに椅子に腰かけ、しわぶきひとつない、針を落とす音さえ心臓につきささるようなおそろしいほどの静けさのなかに、未聞の輝かしい美音を鏤《ちりば》めてゆく……。  蓮見はしたたかに酔っていた。舵川のいきつけの小料理屋で飲んでいるうちはまだしっかりしていたのだが、別れて、銀座まで遠征したあたりからおかしくなった。  蓮見はもつれる足を運びながら自嘲的な気分にいた。社を出れば、おまえの前にはバローを知っている人間など一人もいない。夜ごとカラオケを歌う人間はおびただしい数にのぼるが、クラシックファンなど所詮は少数派だ。異端者だ。  コンサートのファッション化がなんだというのだ。まれにみる外来演奏家ラッシュも円高の影響といえばそれまでじゃないか。クラシック音楽の復権? 笑わせるじゃないか。昔から大衆は易きについてきたんだ。今後もそのことにかわりはありはしない。そしてほんの一握りの人間を相手におれはあくせくと仕事に追われているのだ。  蓮見は立ち止まり、煙草を取り出した。肌には感じないが風があるのか、なかなか火が点かなかった。電柱の蔭で、庇《かば》うようにして火を点けた。暗がりをライターの焔が小さく照らした。  目の前にバローがいた。一瞬蓮見は息が止まった。 「その手はくわない」  蓮見は電柱に貼られたバローのポスターに手をかけた。 「なにが悲劇の天才だ。それがどうした。いいか、おまえなんか知らない人間のほうが圧倒的に多いんだぜ。そいつらにはおまえの存在など関係ないんだ。おまえがカムバックしようが野垂死にしようがどうでもいいんだ……」  引き裂こうとすると、舗石を踏む跫音《あしおと》が背後に近づいたので、蓮見はあわてて歩きだした。  跫音は、蓮見の歩みに合わせるように追尾してくる。  気のせいかもしれなかった。蓮見は歩みをこころもち速めた。背後の跫音もそれに従って速度が上がる。  しばらく歩いて、曲がり角に来たところで、蓮見は一計を案じた。曲がって、そのまま靴音を減衰させながら足踏みを続ける。  角から現れたのは、女だった。  一瞬たじろいだように女は立ち尽くしたが、すぐに落ち着いたようすで右手をさしのべてきた。 「ライター、落とされましたわ」  すこし燻《くす》んだ、知的な声だった。 「足もとが危ないですわ、蓮見さん。よろしければお宅まで送らせていただけませんか」  嫣然《えんぜん》と微笑する。  鈍った嗅覚を、夜気をはらうような芳香が刺した。 「どうも酔っぱらっちゃって。ごめんなさい、誰だか思い出せないんだ」 「その先に車を停めてます」  蓮見がうなずくと女は先に立ってあるきだした。 「ほんとうにわたくしを思い出せません?」  蓮見は歩みを止め、女の顔をつぶさに眺めた。  記憶にない顔だ。取材でもしたのだったか。出版関係にもこの顔は覚えがない。妹の友人? 「すみません。やはり思い出せない」  しばらく歩いたところで、女はつと立ち止まった。そうして蓮見を見て、 「これでも思い出せませんか?」  いどむようにいった。  女の横にバローのポスターがあった。画面の島村夕子に倣《なら》うように、女は静止してみせた。横顔がぴったりと符合した。  衝撃に蓮見は頭一つのけぞった。     4  車はシトロエン2CV6チャールストンだった。この古典的な外観の、ワイパーからして割箸のような、万事に小体《こてい》な車が、島村夕子には似合っていた。助手席から蓮見は島村夕子の端正な横顔とハンドルを握る白い手を交互に眺めていた。  高輪あたりだろうか、清正公園が見えた。カー・コロンでもしたためているのか、車内には芳香があった。あるいは女が身につけているものか。甘く心を濡らしてくるようだった。  そしてその薫りはあきらかに何かを示唆しているようだ。 「いい香りですね。鼻は酔ってないらしい」 「きつすぎませんか? 湿度のせいでしょうか、日本ではむこうにいるときより余計に神経を遣います」 「きつくはありません。ただ、なんとなく大切なことを思い出せないでいるような、そんな気分かな。たとえば追憶調の香りなんていうものがあるんでしょうかね」 「薫りというのはもともとそういうものではないのかしら」  うまいことをいう、蓮見は思った。それはさきほどから蓮見の心を領していること、つまり島村夕子の身につけている香水がいつかそう遠くない過去において接したものではないかということの一つの説明にはなっていた。しかし車内にはアルコール臭がいくらも経たないうちに充溢してしまい、蓮見は窓を開けた。秋の夜風が舞い込んで、しかし女の長い髪は重い鉱物質の質感をたたえて、額にかかる幾条かがそよぐだけだった。  車は目黒通りに入った。 「なかなか優秀なドライバーのようですね」 「そうでもありません。……いえ、絶対に優秀なんかじゃないです」  言葉の終わりのほうはなかば笑い声に変わり、笑いは柔らかく口のうちに含まれて消えた。 「奥沢だとこのまま自由が丘まで走ればいいのかしら」  なぜ奥沢に住んでいることを知っているのだろう。やはりただのネズミじゃないな。しかしあわてることもあるまい。むこうから姿を見せた以上はそれ相応の意図があってのことだろう。おちつけ、おちつけ……。蓮見の敵は、さしあたってはまだしたたかに残っている酔いだった。 「奥沢は奥沢だけど、九品仏《くほんぶつ》駅のわりあい近く」 「だったら産業能率大学の向こうで左折かしら」 「よくご存知ですね」 「雪谷《ゆきがや》に住んでたことがあるんです」 「雪谷に?」  蓮見はあらためて女の横顔に見入った。奥沢と雪谷なら至近距離といっていい。 「だいぶん落ち着いてきました。ぼつぼつ時間外勤務に入ってよろしいですか?」  しっかり喋るんだ。呂律《ろれつ》がまわらないぞ。 「取材? それはけっこうだけど、あまりややこしい質問はだめ。優秀な運転手じゃないんです」 「質問の一、あなたは本物の島村夕子か。『FMジャーナル』掲載の写真、及び『伝説のバロー』のポスターの女性、これとあなたが同一人物だということはどうやらまちがいない。酔眼朦朧とはいえそれはたしかだ」蓮見は島村夕子の顔を直視し、あとを続けた、「しかし島村夕子かどうかは誰にも確認できない。……そもそも島村夕子なる人物が実在するのかさえ一度は疑ってみたくらいですからね」 「で、実在しました?」  燻んで、湿りを帯びた声が快活に訊き返す。 「ええ、名前だけはスイス大使館で確認しました。でも履歴書に記してあるようなことさえわからない。幻のピアニストに謎の女、この三週間というものさんざんでした」 「質問の二は何かしら?」 「質問の二、なぜいままで島村夕子は姿を晦《くら》ましていたか? もっとも島村夕子にしてみればそんなつもりではないかもしれないが、われわれはそう受け止めてましたから。質問の三、あなたのこの唐突な出現、これは予定の行動なのか? これに関連して質問の四と五、なぜあなたはぼくのことを知っているのか? あなたの目的は何か?」 「ずいぶんたくさんなのね」 「まだ何か重要な質問があるような気がしてならない。それがしかし曖昧模糊として出てこないんだな」 「あててみましょうか」 「……?」 「やっぱりやめておきます」うすく笑い、「質問の全部には答えられないけれど、まず質問の一の答え。ドライバーズ・ライセンスなら疑問の余地はないでしょう?」  島村夕子はグローブ・ボックスを開け、提示してみせた。国際運転免許証で、アルファベットと顔写真が目に飛び込んできた。蓮見は目を凝らした。生年月日を確認したところで島村夕子は元に戻した。一九五六年六月二十九日生まれ、一九五六年は昭和三十一年……。ということは……、蓮見は驚いた。とてもそんなには見えないが、しかしこの女は三十なわけだ。わずかだが自分よりも年上なんだ。 「質問の三と四、今夜はあなたを追跡してました。あなたのことは予備知識を得てます」  住所、氏名、年齢、学歴、職歴を島村夕子はすらすらとならべてみせた。  蓮見はたじろぎをごまかすように、わざと軽妙をこころがけていった。 「あなたは西洋拷問史だけでなく探偵もおやりになるのですね。なぜぼくなんかのことをお調べになったのですか?」 「そのうちおわかりになるわ。だからおしまいの質問についても別の機会にお答えします」 「別の機会? ともあれこれっきりではないとすればひと安心ですが」 「こんどはわたくしの番。質問その一、あなたはいつもマルガリータばかりお飲みになるの?」  蓮見は一瞬耳を疑った。この酔いの原因はたしかにマルガリータだが……。なるほど、銀座のバーですでに呉越同舟だったわけか。いやその前、たぶん社を出てからずっと……?  蓮見は自分の劣勢をはっきり認めざるを得なかった。  九品仏駅の間近に車は停まり、蓮見が降りると、島村夕子も続いた。  あらためて眺めてみると、紺系統の勾玉《まがたま》模様のオーバー・ブラウスに白のスパッツ式のパンツ、白のローファーという、一見そのへんの遊び好きな女子大生じみた装いだが、それが女臭さを強く愬《うつたえ》るものとなっているのはやはり三十という年齢のせいかもしれなかった。 「ご自宅、どちらの方向ですか」  蓮見は闇の向こうを指さして、 「こっちかな。この先に九品仏、その裏手ですから」 「妹さんが待ってらっしゃるのね」 「それもお調べになったんですか……。ちょっと足をひきずるのですが、大学卒業後も普通の就職をしないで、助手として毎日顕微鏡とにらめっこしているようです。バイオとかいう流行りのあれです。彫金の趣味があって夜遅くまでうるさくハンマーを叩いている。恋人がいるのかいないのか、縁談にも見向きもしない。おかげで兄もいまだにむさくるしいやもめのままだ。……そういうことも、調査済みですか?」 「そこまでは存じません。でも、妹さんが独身なのはおにいさんがいつまでも一人身でいるからじゃないかしら」 「やけに世俗的な話になった。話題を変えたいな」  なぜこの女は自分のことをここまで知っているのだろう。いや、それよりもそもそも一介のエディターごときをなぜ調べる必要があるのだろう。 「蓮見さんは、バローの録音をどう聴かれました?」  島村夕子は視線は遠くに結んだまま、さりげなく質《ただ》した。 「あのCDは個人的に購入しました。たいていの新譜は会社で聴けますから、自分で買うなんてことはあまりないのです。つまりそれくらい惚れ込んだわけです」 「もし、あの演奏がどこの誰ともわからない状態で、つまりブラインド・テストみたいなかたちで、なんの先入観もなくお聴きになったとしても、あなたは高い評価をなさったでしょうか」  島村夕子は視線を蓮見にまともに向け、挑発するような口調でいった。痛いところをついてくると蓮見は思った。たしかにバローというピアニストのもつ神秘性と島村夕子の存在が興味に拍車をかけたのは事実である。 「なかなか意地悪な質問ですね。面白い質問でもある」蓮見はひたと向けられた島村夕子の瞳に言葉を投げ返すようにいって、「ある水準を抜いた演奏の評価というのはきわめて困難で、コンピューターで解析できるような筋のものじゃない。技術に直接かかわる部分は別として、音楽が抽象的な芸術である以上は、その評価にさまざまな要素、ときには非音楽的な要素も介在してくるのは避けられない」 「お手本みたいな答えね」  島村夕子は片頬で笑うと、視線を遠くへ向けるようにして続けた、「バロー先生の芸術は万人に認められるべき或る絶対の高みにあるものです」  島村夕子の断定的ないい方は蓮見をすこし鼻白ませた。バローに傾倒している以上はそれも当然なのかもしれないが、島村夕子に限らず人がたったひとつの価値に絶対服従しているのは艶消しに思われた。 「そんな考え方は世界を狭くするだけじゃないかな」 「それはあなたがバロー先生をお聴きになったことがないからです」 「バローの実演を?」 「ええ、実際に先生の生の音を聴けばわたくしのいっていることがよくおわかりいただけるはずです。美はすべてを黙らせてしまう、そんな稀有の体験をなさることでしょう」  島村夕子のきめつけるようなものいいは、いささか辟易《へきえき》せざるを得ない或る種の信仰告白めいた響きをもっていたが、その昂《たかぶ》った表情の一種エキセントリックな美しさに蓮見は気圧《けお》された。 「しかしバローはあらゆる演奏活動からドロップ・アウトした人間でしょう」蓮見はすこし皮肉な調子をこめていった、「だとすればそれは夢物語にすぎないのではないですか。バローが姿をあらわして聴衆の前で演奏しないかぎり、いくらあなたがバローの素晴らしさを喧伝し、その演奏があらゆる聴衆を征服するようなものだと百万言費やしたって、それは納得できるものではない」 「バローの実演をお聴きになりたい?」  島村夕子は射るような目で訊ねた。 「それはもちろん。可能性があるものだったら万難を排してでも聴きたい」  島村夕子は視線を逸らせ、遠くを見るようにしていたが、 「それをうかがって安心しました。今夜はこのへんにしましょう。たいそうご迷惑をおかけしましたわ」  謎めいた笑みを泛べた。 「実はずっとあなたを捜していたんです」蓮見は調子を変えていった、「結局つかまえることはできなかったわけですが、心のどこかであなたの出現を信じていました。ですからぼくにとってこれは大事件発生というべきで、警察なら尾行をつけるところです」 「いずれまたわたくしのほうから連絡します。お力をお借りしたいことがあるのです」 「信じていいのですか」  蓮見は島村夕子の瞳をのぞくように見て、いった。 「お約束します」  信ずるに足ると蓮見は思った。身上調査めいたことまでしている以上、この女は、島村夕子はなんらかの目的をもって接近してきたのにちがいない。 「じゃ、ハンカチを預からせてくれませんか」 「ハンカチ?」  島村夕子は怪訝そうな微笑を泛べ、 「こんなもの、なんの保証にもならないのじゃありませんか?」  それでも素直にポケットから朽葉《くちば》色のハンカチーフを取り出した。 「これで安心して釈放できます」  シトロエン2CVは小排気量の軽快なエンジン音を残して去っていった。  夢を見ているような気がした。警察でなくとも尾行をつけたいところだった。どこへ帰っていくのだろう。蓮見はなんとなく、島村夕子を待っているのは灯りの点いていない孤独な部屋のような気がした。しかしそれも想像にすぎない。  さわれば切れそうに細い月が出ていた。深い闇に包まれている九品仏脇をそぞろに歩きながら、しだいに緊張の解けてくるのを覚えた。ふたたび酔いとも疲れともつかぬ状態が戻ってきた。夢のようなたよりなさのなかに、心の一点がはりつめていた。 [#改ページ]   もう一人のバロー     1  島村夕子の顔はあいまいな記憶しか残していなかった。あらためてポスターを眺めてみても、同一人物であることは紛れもないが、昨夜の生身の島村夕子の印象を喚起してこない。酔っていたのがかえすがえすも悔やまれた。 「鎌倉薪能での『二人静』なんだけど……」  圭子に質《ただ》したのは、昨夜の島村夕子に静御前の面《おもて》を連想させるものがあったからだった。もちろん能面のような顔であったわけもないのだが、島村夕子のなかに、茫漠と煙るような或る捉えがたい何かがあるのがそんな連想に誘ったようだった。  男柄の着物の娘の存在を、終演まぎわになるまで蓮見が報らせなかったことで、ずいぶんと拗《す》ねていた圭子だけに、いまさら訊くのはいささかためらわれたが、 「面は若女《わかおんな》だったのかな」  なにげないふうに訊くと、 「いえ、孫次郎だったと思います」  圭子は心得顔でその理由を述べた。「二人静」は三番目物だから宝生流は節木増《ふしきぞう》、観世《かんぜ》は若女、金春《こんぱる》と喜多は小面《こおもて》、そして金剛流は孫次郎をもちいる習いだという。さすがにここ数ヵ月というもの、専門書を渉猟《しようりよう》し、都内のおもだった能楽堂に足を運び、鑑賞ノートをつけていただけのことはあった。  孫次郎は小面よりもやや年嵩《としかさ》でそれだけに艶麗な表情がある……、分厚い能面の写真集を繰りながらの圭子の講釈をしばらく拝聴し、むしかえしになるのを覚悟で蓮見は訊いてみた。 「してみるとあの男柄の着物の娘……、といってもいささか薹《とう》のたった娘だけど、あれは能面にたとえるなら何だったろう。小面ではないな。若女か」  圭子の表情は十日ばかり過去に遡《さかのぼ》る遠目づかいになったが、 「増《ぞう》、じゃないでしょうか。神秘的な感じからすれば」  天女や女神を表現する清純無垢の増女に見立てている圭子は、着物の娘が男に手を奪われていた場面を知らない。あの場面は見過ごしにできない要素で、それからすればやはり孫次郎か若女と蓮見はいいたいところだが、男柄の着物をいかにも清冽に着ていたようすからすると増女説も捨てがたい。 「もっともわたしは誰かさんとは違ってほんの一瞥でしたから」  やはりチクリとやられた。 「ここはいつから『能楽の苑』編集部になったんだ」  舵川がいつにもまして不機嫌な顔を見せたところで、蓮見は昨夜の出来事を報告した。  舵川は渋い表情で聞いていたが、蓮見の話がハンカチーフのくだりに来たところでとうとう雷を落とした。 「そんな中学生の交換日記みたいなことをしてどうするんだ」  もともと島村夕子に羨望とも憧れともいえる特別の念をいだいている圭子は、蓮見の報告に手を拍《う》ったり、飛び上がったりの昂りようだったが、舵川のけんまくにみるまに萎《しぼ》んでしまった。 「とんでもないことをしてくれた。今朝の関東新聞を見たか。いますぐに読め」  圭子の姿が消えているとおもったら、衝立のかげから蓮見を目で呼んでいる。  圭子は新聞を手にしていた。  記事はまったく想像もつかない衝撃的な内容で、蓮見はおもわず自分の目を疑った。   話題のベストセラーCDに疑惑の影   ほんとうにバローの演奏?   浮上するニセモノ説 あわてる発売元  信じがたい文字が躍っている。軽井沢から呼び戻され、バローに遭遇したときより衝撃は大きかった。  記事の概要は以下のようなものである。  ——第二次大戦後、四十年余りも消息不明だったジェラール・バローなる往年の天才ピアニストの最新録音盤が、二十二日世界にさきがけて日本で発売、発売一週間を経て、ベストセラーのトップを独走している。発売元の「ミネルヴァ東京」は初版六千枚をプレスしたが、現在重版を急いでいるということである。  この二十七日、当社文化部に一通の匿名の投書が届いた。その内容はこの録音がバロー氏の演奏とは考えられないという趣旨で、当社は慎重にその書簡を検討し、ここに公開することとした。場合によっては法的な問題に発展する可能性も考えられ、音楽評論家、法律家など有識者との慎重な討議のうえ、新聞の機能を考え合わせ、なによりもすでにこの録音を購入したユーザーが多数存在するという事実を尊重し、公開に踏み切ったものである。  書簡は全文が掲載されている。内容は次のとおり。 「今月二十二日全国発売の新譜『ジェラール・バローの芸術』に関して、一音楽愛好家としてたいへん疑問に感じたことがあり、ここに筆をとりました。  この録音は本当にバロー氏の演奏なのか?  伝えられるところ、氏は一〇度の和音などいとも簡単につかむことのできる手の持ち主といいます。この曲集に収録されたショパンの『バラード第四番』に一〇度が出てきます。二〇三小節目の左手の一〇度で、同時に右手は八度を押さえるが、曲中きわめて重要な扇の要《かなめ》のような部分です。さて、この録音のこの部分はアルペジオ(※)で弾かれています。一般に手の小さなピアニストは指が届かない部分では音を省いたり、アルペジオで切り抜けることが多いが、だからといってこれがバローが弾いているのではないという証明にはもちろんなりません。大は小を兼ねる、のですから。しかし私はどうしても釈然としないのです。  昔のピアニスト、たとえばコルトーなどは和音をアルペジオにくずして一種の効果をあげる例も多かったのですが、この部分はアルペジオで弾かれてはならない部分で、指の届かないピアニストならここは誰かの手を藉《か》りてでも譜面通りに鳴らしたい場面です。  バローともあろうピアニストがアルペジオで弾くはずがない、これが私の以下に述べる仮説の出発点です。戦前のSP盤に同じバラード第四番が録音されており、その盤を聴いてみると、問題の部分はアルペジオではなく譜面通りに弾かれています。  これはいかにも往年の巨匠めかして弾かれた、しかし実体はまったく別物の演奏ではないか?  ほかにも重大な疑問がこの録音にはみられます。バローは演奏中気分の昂揚にともなって唸り声や、ハミングのようなものを発声したと伝えられ、それは旧録音からも聴き取ることができますが、この新譜にはまったく認められない。こういう癖はピアニスト、指揮者にしばしばみられ、たいてい終生変化しないものであり、現在のバローが発声機能を喪失していると考えないかぎり、きわめて不自然です。(新譜では演奏行為にともなう付帯雑音——きぬずれ、椅子のきしみなど——がたいへん目立ち、整音技術によって唸りやハミングだけがカットされたとは考えられない)  バローの新譜はバローよりも実力の劣るピアニストによる代奏ではないか?  バローその人ではない、もう一人のバローの演奏ではないか?  私のこの仮説にはこれという決定的な物的証拠をあげることができません。しかし虚心に耳を澄ませば、この一枚のなかに謎を解く秘鑰《ひやく》は存在するはずです。私があえて投書に訴えたのはそんな自負からであり、これを契機に優秀な日本の評論家諸氏の御賢察を伺いたく、また発売元、それにこの録音のプロデューサーでありバロー氏の秘書である島村夕子氏の回答を望むからにほかなりません。そうして音楽愛好家として願わくはバロー自身の証言と、そしてなによりも証言としての来日演奏を切望するものです。(原文のママ) [#2字下げ]※アルペジオ 鍵盤楽器において一つの和音の各音を同時に奏しないで、原則として低音から高音へ、分散してすみやかに弾くこと。(編集部・注)」  ミネルヴァ東京の回答。 「寝耳に水で驚いている。録音契約に関してはすべて島村夕子氏を通じて行った。実際の録音についてはスイスに簡易なPCM録音機材を送り、機材とともに返送された原版テープをもとに製盤した。  万一にも代奏が行われたとすれば島村夕子氏が関係しているはずで、バロー氏の演奏でないことが確認された場合は、こととしだいによっては島村夕子氏に対してなんらかの法的措置にうったえる事もあり得る。  早急に調査したいが、現在島村夕子氏と連絡がとれない。購入された方々に対しては事実が明白になるまでお待ちいただくほかはない」  さらに紙面は有識者の意見を二点掲載している。  一つは例のバローの新譜批評を書いた野上真夫である。 「話題盤ということで、つい最近求められて本紙に批評を書いたばかりで、正直なところ当惑しています。そのときは演奏にまで筆が及ばなかったのだが、投書の一〇度の和音に関しては指摘のとおりだと思います。  演奏の真贋については私はバローを実演・SPともに聴いたことがないのでよくわかりません」  小説家の三田庸介は次のような感想を寄せていた。 「われわれ好楽家はジャケットにカラヤンと書かれていればそれを信用して聴くわけで、もし代奏が事実としたら、送り手と受け手の関係を根底からくつがえしてしまうことになる。  この演奏を私はある雑誌で絶賛した。バローでない誰かの演奏だとしたら、その誰かを絶賛したことになるが、賞賛の気持ちにかわりはない。これはこれで世界に通用する演奏であると信ずる。  ついでにいわせてもらえば、プロだから名演をするとは限らないのである。むしろ演奏を日常化しているプロの場合、ともすれば教条主義や惰性に流れたり、プロという体面に制約された没個性な演奏をしがちである。この傾向は近年とくに顕著で、心あるファンにとって不満このうえない」  この書出しには当惑と、ある種の居直りの調子が透けて見える気が蓮見にはした。「ジェラール・バローの芸術」を高く評価した批評家は幾人もいて、この件でコメントを求められたことは想像にかたくないが、おそらくは言を左右にして逃げたにちがいない。その点では三田の態度は音楽批評が本業ではないということはあっても立派に思えた。 「この種の事件としては、フルトヴェングラーの新発見の録音が実は贋物だったとか、最も劇的な例では、リパッティの演奏として長く市場に出回っていたショパンのピアノ協奏曲のレコードが、実はポーランドの女流ピアニスト、ステファンスカのレコードと同一の音源だったという信じられないような事件がある。  しかしこれらは、フルトヴェングラーにしてもリパッティにしても、すでに他界していたために引き起こされたという見方ができるのだが、今回は本家本元のバローが存命なのだから話はそうむずかしくないはずだ。(ただし、事実バローが生きているとすればだ。こうなってくると、なにもかも信じられなくなってくる)  わが国で起きた事件でもあり、今後のなりゆきに注目したい。専門の評論家諸氏の眼力が試される時でもあり、島村夕子という美貌のエージェントとミネルヴァ東京という発売元がこの事件にどう対応してゆくのか、替え玉演奏だとしたら誰が何の目的でやったのか、まさに芸術の秋にふさわしいミステリーといえそうだ」 「バローの演奏は実はバローではない、これが本当だとしたら」  舵川が来て、苦い声を出した。 「もう一人のバローとはいったい誰なのか。それを知るための最も重要な参考人を、むざむざ取り逃がしたと聞かされりゃ、どならないでいられないじゃないか」 「面目ありません」  蓮見はなによりも自分自身に腹を立てていた。  蓮見に続いて記事を読む沢木圭子も表情をこわばらせていた。  シトロエンのハンドルを握る島村夕子が泛んだ。  お手本みたいな答えね。  バローの実演をお聴きになりたい?  ふと蓮見は、島村夕子がピアノを奏でる姿を想像した。それはシトロエンの運転姿よりもはるかに島村夕子に似つかわしい光景に思えた。  あの録音がバロー自身の手になるものではないとすれば、影の演奏者は島村夕子ではないか。  手を、指を見なかったのが悔やまれた。見なかったわけではない。気にとめていなかっただけだ。見たのは見たのだ。ハンドルを握っていた島村夕子の手……。どんな指をしていただろう。  爪を短く剪《き》っていたかどうか、それだけでも思い出せないか……。マニキュア……? 爪は伸ばされていはしなかったか? しかし爪を長く伸ばし、マニキュアが塗られているからといって、それが職業ピアニストではないという証明にこそなっても、ピアノを弾けないという根拠にはならない。 「参考人というより、犯人そのものを取り逃がしたのかもしれません」  蓮見は半ばうめくようにつぶやいた。 「なんだと?」舵川は目を丸くした、「……彼女が、あの島村夕子がもう一人のバローの正体だというのか」 「直観です。島村夕子本人と口をきいた人間の、直観ですが」 「ピアノを弾くったって、相当な腕前の持ち主だぜ。プロ級の。もっとも、島村夕子がそうでないという根拠もないわけだが。……だとしたら、おまえさんは、容疑者とちゃらちゃらデートしていたというわけだ。ハンカチをもらったりしてな」  舵川のいい方は、言葉の皮肉な調子とは裏腹に真実落胆の色が濃かった。蓮見にしても、この記事がもう一日早く掲載されていればハンカチーフ一枚で引き下がったはずもなく、そのことが腹立たしかった。  たった一日違いで……、この記事が昨日載ってさえいれば。  重大なミスを犯してしまったと思うと憤懣やるかたない気分になった。 「島村夕子かどうかはやがてわかると思います。彼女、きっと連絡してきます」 「それも直観か」 「いえ、約束です。島村夕子はおれのことを詳細に知っていました。身上調査をしているんです。何か目的なくしてそんなことをするはずがない」  蓮見は昨夜の出来事をさらに詳しく話してきかせた。 「なるほど。たしかに何かあるな」舵川は考えこむようにいった、「それにしても、釈然としない話だが。……しかし、まだバローの演奏が贋物だと決まったわけでもないんだ。投書の人物についてだが、関東新聞に問い合わせてみたところ、当然ながらいっさい不明ということだ。封書の宛先も内容もワープロ打ちされていて、消印の局名は牛込局、投函は二十七日の午前八時以前、手掛りはこれだけだ。音楽に関してはもちろん相当程度の知識を持ち、バローのSP盤を聴いているということからして高度のレコードマニア、それもかなり年配のディレッタントというような人物像が浮かんでくるが」  舵川は投書の人物にも関心を寄せていた。 「原文で掲載されているあの文章、そこいらの若者には書けない文体ですね。どんな人間でしょう。どこかで高みの見物を決め込んでいるこの人物にはたしかに興味をそそられますね」 「疑問は、なぜ匿名で投書したのかという点だ。ここに述べられていることがらは評論家のだれも指摘できなかったことだ。だとしたら、ふつうは鬼の首を取ったような気になるのではないだろうか」  舵川のいうとおりだった。自分の名前を出したくても出せなかったと考えるほうが理にかなっている。 「これは推測にすぎませんが、この人物が業界の人間だったら匿名にせざるを得ないのではないでしょうか。批評家の先生方に恥をかかせることになりますからね」 「なるほど。それもひとつの可能性だな……」 「この文章、なんとなくどこかで読んだような気がするのです」  圭子が口をはさんだ。 「文章? 誰かの文体に似ているということか?」  舵川が訊く。 「ええ。だからひょっとしてかなり有名どころの評論家かもしれない。ただ、文章のことですから、それで作者を特定することは無理ですけど。でも、なんとなくひっかかるんです」  蓮見は紙面に視線を結んだ。  誰かの手を藉りて  秘鑰  ですます体の一見平易な文章に稀用漢字が用いられた、ちょっといやみな文体である。  舵川が沈んだ調子で、 「しかし現実問題として投書の人物が誰であるかは調査不能だしな……。やはり島村夕子だ。なんとしてもここは島村夕子をつかまえないことには」  昨夜の彼女からはこんな成り行きが待っていようとは想像もできなかった。ずっと夢を見つづけているような気分だった。 「やはり女狐だったということか」  舵川はつぶやくようにいい添えた。 「あの」  圭子が口をはさんだ。 「実は島村夕子に関する調査でまだ報告していないことが……」  声がいくぶんうわずっていた。 「ヒース博士関係の仕事が終わってから、暇をみつけて島村夕子に関する情報収集は続けていたんです。バローについては一段落ついたかたちにはなったけど、私は個人的にもバローと島村夕子につよい興味をおぼえてましたから」 「それはよくわかる」蓮見がいった。 「結論からいえば、女流学者としての島村夕子に関する情報はまったく存在しなかったのです。文部省に頭脳流出に関する調査機関があるときいて、足を運んでみました。歴史学の関係機関にもあたってみたし、美術関係にも」 「で、島村夕子はどこにも見当たらなかったんだな」うながすように舵川。 「ええ、まったく影も形もなくて。専門の人にも尋ねてみたのだけど、島村夕子という名前を知っている人はひとりもいなかった。だからヨーロッパ中世史研究家、ヨーロッパ宗教美術研究家、拷問史研究家、というのはでたらめか、もしそうでないとすれば趣味の範囲を超えないものか、あるいはいまだに一片の実績もない在野の学者だということになります」 「いや、たぶんでたらめなんだろう」舵川は自分でうなずきながらいった、「……圭子ちゃん、この事実はかなり大きな意味を持ってるようだ。おれが社長ならきみの給料を倍にするんだが」  圭子はそれには反応をみせず、暗い表情のままだった。  三人に無言が訪れた。やがて沈黙を破ったのは蓮見だった。 「香水の専門店を知らないか? できるだけたくさんの銘柄を扱っている店」  沢木圭子はあっけにとられたような顔で蓮見を見上げた。舵川も同様だった。     2  雨の中を、圭子に教えられた銀座の香水専門店へ向かう途中も、蓮見のおもいは紛糾し、とりとめもない思考が渦巻いた。  あの録音がイミテーションだとするなら、贋ジェラール・バローの正体は島村夕子以外の何者でもないように思われる。実際にみずからの手で代奏したのではないとしても、あくまでシナリオを書いたのは島村夕子にちがいない。  ならば、その目的はどこにあるのか。印税? それはあまりに危険が大きく、報われない仕事だ。金が目的ではないことだけは確信できる。世間を欺くことに対する歪んだ情熱か。まだしもそのほうが信じるに足るだろう。  そもそも、ほんとうにバローは生きているのだろうか。バローが生きているというのは島村夕子の捏造《ねつぞう》ではないのか。はじめからバローの所在については明言を避けていたではないか。バローがすでにこの世にないのだとすれば、伝説のピアニストとか幻のピアニストとかいうありもしない幻影に牽引されてきただけということになる。しかし捏造だとすれば、いったいそれはどういうことなのか。  蓮見の想像はしだいに拡がり、ついには次のような仮定にまで及んだ。島村夕子は一種のボヴァリズムに陥っているのではないだろうか。現実には存在しないバローの幻影を想像し、みずから作り上げた架空の世界に挺身しているのではないか。だとすればそれは異常心理の範疇《はんちゆう》だ……。蓮見はしかしこの解釈の過剰な文学性が気に入らなかった。だいいち昨夜の島村夕子に狂気を思わせるものはどこといってなかった。  香水の店は、間口のせまいうっかりすると見過ごしてしまうような店舗だった。画廊か古美術店をおもわせる地味な構えである。  店内は白と淡い紫で統一された洒落《しやれ》た内装で、明るいのか暗いのかよくわからないような凝った照明が落ち着いた雰囲気を醸《かも》し出している。紫色のスーツ姿の女子店員が迎えた。  蓮見はいくぶん怯《ひる》む気分をおして訊ねてみた。 「いささか唐突なことをお願いしたいのだけど、ハンカチに残っている匂いから香水の銘柄を判別できますか」 「さあ、それは……」  店員は考え込む顔をしていたが、ともあれ現物をみせてほしいといった。蓮見は複雑な模様を持つペーズリーの朽葉色のハンカチーフを取り出した。匂いはかなり鮮明に感じられる。移り香ではなく、直接撒かれたものであるように思われる。  二十代の半ばと見える、知的な顔立ちをした店員は、しばらく鼻先にあてがうようにしていたが、 「いつごろ香水をおつけになったのか、おわかりでしょうか」 「このハンカチを手にしたのは昨夜おそくです。だからそれより以前であることは確かなんだけど……」  店員はなにか好奇心をそそられたらしく、 「承知しました。しばらくお待ちください」  店の奥に引っ込んだ。  他のスタッフと相談でもしているのだろうか、しばらく待たされた。ふたたび出てきた店員は、 「たぶん間違いないと思うのですが、なにぶんにもデリケートな問題ですので」と前置きしてから説明をはじめた、「おそらくギ・ラロッシュのジェ・オゼではないかと思われます。すこし温度をあたえてみましたら|後立ち《ラストノート》のような香りが漂ってまいりました。ジェ・オゼ独特のオリエンタルな後立ちに、このキャラクターはたいへんよく似ています。それにハンカチもギ・ラロッシュの品であることを考えあわせますと、ジェ・オゼの可能性がきわめて高いように思われるのです」 「なるほど。……ところで、ジェ・オゼというのはどんな意味なのかな」 「あえてわたしは何々をする、そういった意味だそうです」 「あえてわたしは……」  蓮見はたしかめるようにつぶやいた。 「おしまいにもうひとつ、この香水を着物のときにも使ったりすることはあるのでしょうか?」 「和服にもマッチするということでしたらうってつけの銘柄ですわ」  蓮見の眼裡《まなうら》に篝火が燃え上がり、空を切るような笛の音と、凜冽《りんれつ》たる大鼓《おおかわ》の響きを聴いた。  一つの仮定が、このとき確信にかわった。 「ありがとう。おかげで助かった。なにも買わないで悪いのだけど、必要なときはここを利用するようにしましょう」 「その節はよろしく」  昂奮が地下鉄に向かう蓮見の足取りに拍車をかけていた。  やはりそうだったか……。  円覚寺での毅然とした風姿が思い出された。篝火を映した凄絶なほどうつくしい横顔も泛んだ。  孫次郎と増女が蓮見のなかでひとつに重なった。  伊原頼高に手を握られるにまかせていた着物姿の島村夕子が泛んだ。  ロールスロイスの腹にこたえる排気音がよみがえった。  薪能での男柄の着物の娘、ポスターの島村夕子、軽井沢のロールスロイスの女、そして昨夜の島村夕子が、蓮見の中でぴったりと重なった。  ライター、落とされましたわ。嫣然《えんぜん》とほほえみかけてきた島村夕子の、すこしかすれた声が響いてきた。  ジェ・オゼ。あえて私は……。  狂気ではなく、なにか異常な情熱につきうごかされて島村夕子はとんでもない筋書を書いたのだ。  しかしいまはわからないことのほうが多すぎた。想像はあてどなく羽撃《はばた》いて、急ぎ足に歩く蓮見の心は千々に乱れていた。思い乱れながら、島村夕子のうしろ姿ばかりがちらついた。狷介《けんかい》な、近寄りがたい背中だった。  鎌倉薪能の女が島村夕子であり、軽井沢の女も同一人物である。この蓮見の報告は舵川と圭子を驚かせた。  圭子は宣伝ポスターの写真と、蓮見が円覚寺で盗み撮りしたスナップとを仔細に眺めていたが、 「いわれてみれば、蓮見さんのおっしゃるとおりのような気がします」  昂奮をかくせない口調でいった。 「鎌倉の女が島村夕子ならば、同行していたのが伊原頼高、軽井沢のロールスロイスは伊原財団所有の車……」  舵川もすこし色をなして、そういった。 「それからすると、鎌倉の女もロールスロイスの女も同じ島村夕子であるという可能性は、蓮見の主観を離れても、かなり高いな。昨夜、おまえさんに接触してきたことも、その線でつながってくるじゃないか」 「そうなんです。あの接触事故という偶然、というより相手が音楽雑誌の編集部員であるという偶然が、彼女にぼくを選択させたと理解するのが妥当のようです」 「そうそう。そういうことだ。べつにおまえさんの男ぶりとは関係がないんだ」  舵川得意の毒舌を苦笑で受けながら、沢木圭子の眉のあたりに暗い影が走ったのを蓮見は視線の端に認めた。 「それともうひとつ、伊原倶楽部のスキャンダルがバローのカムバックとほぼ同時期に起きていることも、やはりそこには何かがあるような気がおれにはしてならない」 「それもおおいに問題です。ひとつ見えてきたために、とにかくわからないことだらけになった」  舵川は、伊原と島村夕子の関係を知ることが急務だと昂奮した。  蓮見の印象では島村夕子は伊原の娘とも愛人とも見えた。またそれと同じくらいそのいずれでもない印象も受けた。  調査の結果、伊原には娘がないことが確認され、息子の妻、秘書、この二点の可能性についても否定された。島村夕子を伊原の愛人だとするのは、どこか不自然に思えた。それはたぶんに蓮見の主観に左右された見方だったが、伊原の愛人であり、バローの秘書でもあるという一人二役に無理があるように思われ、そうだとすればバローの復活に関して伊原の助力を求めるためにごく最近そういう関係が生じたと解釈するほうがまだしも自然だった。  事態はおもいがけない展開を示したが、すべては薮の中で、島村夕子からの連絡を待つほかはてだてがなかった。  蓮見は苛立っていた。  蓮見は誰にもいわなかったが、伊原と島村夕子の関係が最も気になった。わからないということがどれほど苦痛であるか思い知らされた。伊原の愛人であってほしくない気分が、やがては、どっちでもいいから、はやく知りたいという気持ちに変わっていった。  舵川と圭子は、事件に関して評論家からコメントを取る仕事にかかっていた。聴き出す側も聴かれる側も気まずく、ふたりとも冴えない表情だった。  伊能功《いのうこう》のことを蓮見は思い出した。伊能は音楽評論では代表的な一人だったが、ときに合唱や管弦楽の指揮をとったりもする。その批評も実際に即した具体性に富むもので、名演の鑑定士みたいなところがあった。ちょうどバローの名前が浮上するすこし前にヨーロッパ旅行に出ていた。蓮見は誰よりも伊能の意見を聴きたかった。  批評は理屈ではなく直観である、そんな伊能の持論を、ふと蓮見は思い出した。直観……、蓮見も自分の直観を確信していた。わからないことのなかでも、バローの代奏者についてだけはなぜか確信に近いものをいだいていた。もう一人のバローは島村夕子にちがいなかった。 [#改ページ]   金字塔計画     1  一片の新聞投書によって島村夕子がにわかに疑惑の人物となった以上、連絡はすぐにもあるに違いないと蓮見は予想していたが、その見込みははずれ、連絡がないまま数日が経過した。  サントリーホール開館記念公演を目前に控えたカラヤンが肺炎のため入院、来日不能の報がボンから届いたのは五日だった。代役候補の小沢|征爾《せいじ》の去就がにわかに注目されるところとなり、この事件は各紙の社会面にも報道されたほどで、当然ながら「音楽の苑」編集部も騒然とした。  十二日にキーシンが大阪で初日を飾り、バローの贋作事件に始まった十月の音楽界はめまぐるしい動きを見せながら中旬を迎えた。  依然として連絡がないままに、やがて島村夕子が渦中の人としてとある写真週刊誌に報道され、誌面を通じての、それが再会となったとき、蓮見はなにか翻弄されているような気分を覚えた。  写真は十月三日武蔵野市民文化会館で撮られたものであり、ことの顛末を記事は概略次のように伝えている。  当夜の武蔵野市民文化会館は巨匠スヴャトスラフ・リヒテルのピアノ・リサイタルということで独特の熱気と緊張感に包まれていた。そんななかで、とある女性が楽屋のリヒテルを訪れ、神経質なことで鳴るこのソ連の巨匠と親しく歓談したため、関係者はこのめざましい女性に注目しないではいられなかった。  服装からして大胆きわまりないもので、一九二〇年代前半のボーイッシュ・スタイルを忠実に踏襲し、一見今年流行のサファリ調と見誤りかねないが、胸の下でぐっとしぼった丈長の上着や、エッジからチュールのベールが垂らしてある帽子、長いボウ、袴《はかま》のように仕立てられたややこしいトラゥザースを見ればそんな安直なものではないことがわかる。女が、バローの贋作疑惑の当事者だと判明すると周囲はにわかに色めき立った。  写真はロビーで撮られたものだが、島村夕子の表情は昂然としている。  彼女が報道陣の質問攻勢に対して完全に沈黙を守ったというくだりに、島村夕子が事件について語るとすればそれは自分をおいてほかにはあるまい、そんな確信のようなものだけはかろうじて蓮見のなかに命脈を保った。  毅然とした表情もだが、そもそもリヒテルのリサイタルを聴きにくるということ、人目を惹く大胆な衣裳をまとっていること、その行為自体が夕子の無辜《むこ》の証明なのではないかと想像されたりもした。 「ジェ・オゼ……」  蓮見は心の中でつぶやいた。  バローの贋作盤事件は、新聞では関東新聞以外は扱わなかったが、某有力週刊誌と、「FMジャーナル」が大々的に報道し、さらにはNHKがニュース番組でとりあげたため、いっそう広範に耳目を集めることとなった。  これらの報道のなかに、推理作家芦川哲郎がある週刊誌に寄せた文章があった。芦川哲郎はクラシック好きのミステリー作家としてつとに知られる存在であるが、文章は次のように始まる。 「真贋問題で話題騒然のこのCD、実は発売と同時に購入していたのだが、忙しさにとりまぎれて未聴のままでいた。この原稿依頼をちょうどよい機会に、さっそく封を切って聴いてみた。  できるだけ先入観にとらわれないで鑑賞するようつとめてみたが、やはり分析的な聴き方になったのは無理からぬところだろう。  さて、聴き進めているうち、ある実に興味深い事実をぼくは発見した。  響きの向こうに、ごくかすかにだが、なにか鳥の啼き声のようなものが聞こえる気がしたのだ。その部分を何度も反復再生してみると、やはり、かすかに、ほんのわずかだが、聞こえるのである。たしかに鳥のさえずりのようなものが。  細部を聴き取るのに効果的なコンデンサー型のヘッドフォンを使い、前後三回にわたって、全編この『野鳥の声』らしき雑音をチェックしてみた。その結果、この『野鳥の声』がほとんど収録曲のすべてに散在していることがわかった。それがとくに明瞭に聞こえるのは、  ㈰シューマン『夕べに』の演奏開始後一分二二秒付近と㈪二分〇五秒〜〇七秒  ㈫シューベルトの『即興曲』の三分三〇秒〜三五秒  ㈬ショパンの『マズルカ』の一分〇八秒〜一〇秒  以上四ヵ所である」  蓮見は声をあげそうになった。芦川の指摘する「野鳥の声らしい雑音」にはついぞ気づかぬままでいた。耳には自信があるつもりだったが、これが事実だとするととんでもない見落としをしていたことになる。 「ぼくは問題の部分をテープにダビングした。このテープは事件における決定的な『物的証拠』となり得る可能性を持つのである。  ミステリー・ファンなら、いやミステリー・ファンならずとも、もうお気づきかもしれないが、この『野鳥の声』が何であるのか特定できれば、もちろんぼくの思惑どおりに都合よく運べばの話だが、この事件は決定的な局面を迎えるのである。つまり、この鳥がスイス高地には棲息しない野鳥であれば、『スイス高地 ジェラール・バロー山荘における自家録音』というクレジットは真っ赤なウソということになるのだ。  ぼくのダビングしたテープは編集部から鳥類学者のもとに持ち込まれ、鑑定されることとなった。  鑑定結果はあまりにも想像にたがわぬものであったため、ぼくは動顛するより拍子抜けしてしまったほどだ。すなわちテープから特定された鳥はスイスには棲息しないばかりか、なんと日本にしか、それも長野県を中心に、日本アルプス山系にしか棲息分布しない種類だった。  ……ぼくはこんなミステリーじみた空想に遊び、もしそうだったら面白いことになるなと思った。しかし現実はそうはいかない。事実は小説より奇ならず」  まんまとしてやられた!  蓮見は週刊誌を机の上に放り出した——。しかし、だまされたものの、「野鳥の声」が芦川の創作であることにほっと安堵する思いもあった。事実だったら、またしても舵川の雷が、それも大落雷が降ってくるにちがいなかった。  島村夕子からの連絡は十四日の夕刻、オフィスにかかってきた電話がそうであった。燻んだようでいて、芯のある独特の声に、蓮見は顔から血が引くのがわかった。  蓮見の緊張をよそに島村夕子は落ち着いた調子だった。事件のことにふれると、 「事実についてマスコミに公表するつもりでいますが、その日時や方法についてはいまのところおあかしできません。ところであしたお会いいただけますか?」 「もちろん」 「三時くらいからずっと夜までだと、お仕事にさしつかえるでしょうね……」 「いえ、あなたと会うことは私の重要な仕事です」 「あまりビジネス一辺倒というのも困りますわ。夜はキーシンをご一緒したいと考えていますのよ」 「キーシンをですか。たしか太子堂《たいしどう》の人見《ひとみ》記念講堂でしたね」 「連番で二枚、チケットの用意があります」 「じゃ、そのあと食事でも御馳走することとして、とりあえずご好意に甘えさせていただきます」 「午後三時、九品仏の前でお会いしましょう」 「九品仏ですか」 「お膝元はいけないかしら。なにしろ地理不案内なものですから」 「いえ、けっこうです」  梔子《くちなし》色のスーツの胸のあたりは、つくづくと見ると蔓薔薇《つるばら》模様を細密な写実主義で織り出したもので、胸元のゴールドの頚飾《ビブ》のこれも写実的な薔薇と照応するものらしかったが、白と黄金の配色といい、この国ではめったに成功することのないロココ趣味をさりげなく実現していた。写真週刊誌掲載の、武蔵野市に登場した際のあの衣裳であれば、さすがに蓮見も怖れをなすところだったが、このシックな装いにひとまず安堵をおぼえた。  それよりも、白日のもとにまみえる島村夕子が、あの夜の初対面の印象を裏切らぬ美しさをたたえていることに、蓮見は幸福を感じた。  参道が尽き、総門をくぐると子供たちの歓声があった。ボール遊びや縄跳びに興じている子供たち。 「幼稚園なんです」  蓮見が説明するまでもなかったが、島村夕子はうなずいて歩みを止めた。 「お寺の幼稚園ね。蓮見さんもここへ?」 「ええ、悪童でした。いたずらが過ぎて」と蓮見は|一ト本《ひともと》の公孫樹《いちよう》を指さした、「しばられて吊るされたことがある」 「うそ」島村夕子は肩をすくめ、笑いながら、「それじゃ、吉川英治の『宮本武蔵』じゃありませんか」  蓮見も声をあげて笑った。 「落葉の頃はここは黄金の絨毯を敷いたようになります」 「それはずいぶんきれいでしょうね」  やがて仁王門をくぐると広い境内である。堂宇の階《きざはし》に並んで腰をおろした。 「静かですね。時間を忘れますわ。来て、よかった」 「ここは初めてですか? このあいだの夜は別として」 「雪谷にいた頃に一度か二度、たしか小学校の遠足かなにかで来た記憶があります」 「もしかして、こどもの頃、どこかであなたと会ってるかもしれないな。ぼくは生まれてずっと九品仏で過ごしましたから」ふとほんとうにそんなことがあったような気になりつつ、蓮見は続けた、「ここは晩秋から初冬にかけてがいちばんきれいです。落葉を焚くけむりがまっすぐに昇って、杉の葉の焼けるいい匂いが漂って、そこへ木洩れ陽が斜めに光の箭《や》を走らせる。向こうに子供たちの歓声があがる。時間を忘れます」  話題がとだえ、沈黙が来ると、静かな微笑を泛べた島村夕子の横顔に、やはり一触即発といった翳りを認めないではいられなかった。 「事件が思いがけない方向に運ぶ一方で、二週間がまたたくまに過ぎていったという感じです。やはりあのとき尾行してあなたの居所をつきとめておくべきでした」 「お約束どおり、わたくしのほうからこうして連絡をさしあげましたわ」  柔らかい、包み込むような微笑でいった。 「……お訊ねしたいことがあります」  蓮見が調子をあらためていうと、島村夕子は硬い表情で蓮見を見た。 「贋作事件についてですね」 「そうです。まず最初に訊いておかなければならないことが一つ」蓮見も島村夕子に正面から視線を結んだ、「あなたはいったい何者なんです? 島村夕子、ジェラール・バロー秘書、拷問史研究家、……」 「…………」  島村夕子はおし黙って答えず、ただ蓮見に挑むような眼を向けているばかりだった。 「それが事実なのだとしたら」蓮見はおしつけるようにいった、「ロラン・ヴィルヌーブが拷問の動機をいくつに分類しているか、もちろんご存知でしょうね」 「ヴィルヌーブは九つに分類していました」  即答だった。蓮見はさらにたたみかけた。 「ベルン美術館所蔵のカルヴァン作『鞭打たれるキリスト』の左端には何が描かれてましたっけ」 「跪《ひざまず》く老人」  これも即答に近かった。  いささか焦りながら次の質問を探す蓮見に、唇の端に苦い微笑を泛べた島村夕子が躱《かわ》すようにいった。 「……よしましょう、蓮見さん」  島村夕子は蓮見から視線を外し、彫像のようによそよそしい横顔を見せた。そうして落ち着いた声でいった。 「お察しのとおりわたくしは学者でもなんでもない。宗教美術に関してはただの愛好家の域を出ません。だからあなたがお調べになった程度のことしか存じません」  めまいのようなものを蓮見は覚えた。なぜこの女は言下に否定してくれなかったのだろう……。職業詐称が事実とすれば、結論は出たようなものだった。 「肩書は嘘だった……」努めて冷静を保ちながら、ゆっくりと蓮見はいった、「なぜそんな偽りの肩書が必要だったのか。……子供にだって分かる理屈です。あなたは隠さなければならなかった、あなたの正体を」  蓮見はおもむろに、しかし確実な動作で島村夕子の腕を奪《と》った。手頸のあたりをつかみ、こぶしになっている島村夕子の指をほどいていった。 「マニキュアをしていても、爪を伸ばしていても、これはピアニストの手です」親指、人さし指、中指と順に拡げる、「つぶれた指の腹、充実した筋肉、よく拡がる指と指、まぎれもなくピアニストの手だ」  島村夕子は顔をそむけ、されるにまかせていた。  蓮見は島村夕子の薬指と小指の狭間を拡げた。それはほぼ水平に近い角度まで拡がり、島村夕子は眉間に苦痛の美しい表情を泛べた。中世の異端|糾問官《きゆうもんかん》が魔女の嫌疑をかけられた美女を拷問する光景が、頭の片隅を走った。同時にこころを甘い痛みが裂いた。 「しかし、この手では一〇度はつかめない。ショパンのあの一〇度はこの手では無理だ」  苦痛と恍惚のようなものが交錯して、女の顔はひどく美しかった。 「あなたは隠す必要があった。あなたがピアノを弾けること、それもバローの名を騙《かた》って代奏することができるほどにも堪能であること……。つまり、あなたこそがもう一人のバローであることを」 「…………」  島村夕子の睫《まつげ》が、なにかしら可憐な繊細さで慄えていた。 「なぜ否定しないのです? あれは自分が弾いたのではない、正真正銘バローの演奏だ、なぜそういわないのです?」  島村夕子は疑問の色を泛べ、蓮見を凝視した。瞳が寄って、やや斜視になった。その吸い込むような瞳の底へ蓮見は語りかけた。 「なぜ、そういって、くれないのです? ぼくはあなたが一笑に付して否定するだろうと思ってました。あれがあなたの演奏であっても、それは誰も証明できない。バロー自身が否定しないかぎり、あの録音の真偽など誰にも証明できないんだ」  島村夕子は答えず、斜視の眼が蓮見の視線から逃げた。  蓮見は奪った手を解放した。それから力なくいい添えた。 「なんのためにあんなことをしたんです?」  島村夕子は頚を折るようにうつむき、蓮見から二歩三歩離れ、言葉を継いだ。 「あの録音はバロー先生の真価の、その片鱗すらも伝えるものではありません」  なおも否定の言葉を切望していた蓮見は裏切られた。蓮見の内心にはかまわず、さらに島村夕子は続けた。 「あのような演奏でバロー先生を評価されては困るのです。あんな演奏がバローであるはずがないのです。世界に先生の真価を問わなければなりません。わたくしは先生をこの国に招き……」  島村夕子はにわかにいい澱み、しばらくためらっていたが、 「そのおそらくは最後の演奏を、日本と世界に伝えなければならないのです」  肩が慄えていた。  蓮見は一呼吸置いてから、漣立《さざなみだ》っている島村夕子の背中に訊いた。 「さいごの、というのはどういう意味なのですか?」 「つらいおはなしをしなくちゃいけません」ゆっくりと振り向いていった、「なぜわたくしがバローの名を騙ったか、そのことの答えでもありますけれど……」  しかし、島村夕子はそのままおし黙ってしまった。愁眉《しゆうび》を寄せ、しずかに面《おもて》を伏せた。 「場所を変えましょう」  蓮見は島村夕子の腕を取り、うながした。  蓮見は自分で運転することにした。  シトロエンの助手席でも、依然として島村夕子は黙し続けていた。そうして、ときおり目頭を押さえた。島村夕子と涙という連想は蓮見には持ち合せがないものだった。何を島村夕子がいい出すのか、蓮見は少年のようにおびえている自分を感じた。  蓮見はどこへともなく走らせていたが、芝浦埠頭へ進路を決め、その旨告げると島村夕子は黙ってうなずいた。それからは、それがやはり島村夕子には似つかわしい抑制された凜乎たる表情に戻った。     2  四角に区切られた海にも風は渡り、鉄と潮と塗料のにおいがした。  秋らしい晴天だが海は鉛色だった。窓越しに生気のない海を眺めながら、島村夕子はつねよりもかすれた、それだけに深沈とした声でいった。 「バロー先生はもう余命がいくばくもないのです。たぶんあと半年、長くても一年……」 「…………」  半ばは予想していたせりふであったが、やはり蓮見は慄然とした。 「今年の四月、しつこい風邪に罹《かか》って、それまで医者とは縁のなかった先生をむりやり病院にお連れしたのですが、そこで先生が助からない病気におかされていることがわかったのです。風邪と見えたのは血液の悪性疾患で、治療によっていったん症状は寛解《かんかい》し、いまはときおり発熱するといった症状にとどまっていますが、近い将来において死を免れないと医師は予告しています。さいわいなことにいまのところは目立った症状もなくて済んでいますけれど」 「バロー氏は病気のことを知っておられるのですか?」 「先生は毎週医師のもとへ治療に出向いておられますが、病気のことは知っておられ、戦後四十年余りにわたって営々と続けてこられた研究のまとめに休むひまもない状態です。この仕事が終わったら治療はもういらない、私の生命を神にお返しする、そんなことをおっしゃって……。わたくしは本当は一日たりとも先生のおそばを離れたくはないのですが、ある目的のため不本意ながらこの数ヵ月間日本とスイスをいくども往復してまいりました」 「その目的というのはバロー氏を舞台に立たせることですか」 「そうです。先生の比類ない演奏をふたたび世に問うことをわたくしはかねてからお勧めしてまいりましたが、先生はいつもおだやかにかぶりを振られるばかりでした。しかしわたくしはあえて先生のご意志に背《そむ》いても、どうしても、なんとしてももう一度聴衆の前に立たせたいと決心したのです。それが先生の余命を削ることになるかもしれない。そのことも踏まえたうえでわたくしはこの目的のためにあらゆる努力を傾ける覚悟を決めました。その決心の直接の原因となったのはラノヴィッツの来日公演でした」 「五月の、あのセンセーショナルな日本公演ですか」 「五月の帰国は、日本の血液疾患のオーソリティに面会し、最新の治療の実際についてガイダンスを受けるためでした。おりしも来日中のラノヴィッツの演奏会をわたくしは昂然とした気分で聴きにでかけました。たしかにラノヴィッツの演奏はすぐれたものでした。しかしわたくしはあの満場をうめつくす聴衆の熱狂、おしみない拍手が我慢ならなかったのです」  目蓋のまわりを紅潮させて、島村夕子の言辞に、ある激越な調子が加わってきた。 「新聞や雑誌での批評家たちの手放しの絶賛も、わたくしを憤懣やるかたない気分にしました。バロー先生が完全に忘れられ、先生を陥れたラノヴィッツが万雷の拍手で迎えられている。わたくしはどうにも黙っていられなくなったのです。こんな馬鹿なことがあっていいものだろうか。ラノヴィッツが世界のあらゆる聴衆と批評家を征服しているという紛れもない事実と、世界から忘れ去られたバロー先生がいまなおラノヴィッツなど足もとにも寄れないピアニストであり続けているという事実」島村夕子は否定の身ぶりでかぶりを両三度振った、「だって間尺に合わないじゃありませんか。こんな不条理があっていいものだろうか……。わたくしは決心しました。わたくしは万難を排してもバロー先生を舞台によび戻し、その実力を世界中にあまねく知らしめなければならない。なんとしても」  なんとしても……、やはりあの軽井沢のスキャンダルは偶発事件ではなかったのか。蓮見は足もとのほうから顫《ふる》えてくるのを覚えた。 「あの軽井沢の伊原倶楽部事件は、あれはあなたのたくらみだったのですね」 「そのとおりです。ラノヴィッツに汚名の花束を捧げ、バロー先生に満場の喝采を贈る。先生をステージに立たせ、ラノヴィッツにおしみない拍手を送った聴衆たちにその真価を知らしめ、ラノヴィッツに拍手を送ったその同じ手をラノヴィッツ以上の昂奮と熱狂で打たせる。うち倒された金字塔をこの手で再建する……、わたくしのそれがプランでした」 「不滅の金字塔……、金字塔計画というわけか」蓮見は胸のうちでつぶやいて、ためいきをついた。そして、にわかに思い当たって、「ではあなたは、あのスワッピングに参加したわけですね」  おもわず声高に訊いた。切実な調子を帯びたのを蓮見は後悔した。 「ええ」声がにわかに力を失い、不明瞭な調子でいった、「でも、わたくし、こんなことひどくいいづらいのですが、弁解めいてイヤなんですが、それに勇気がないといえばそれまでなのかもしれませんが、……途中で逃げだしてしまったんです」 「そんな勇気などなくて結構です」安堵の色があからさまになった声でいった、「正直にいいますが、それをうかがって安心しました。……話を進めましょう。ラノヴィッツの権威はあのスキャンダルで完全に失墜した。あなたの計画は図にあたった。しかしそのことをラノヴィッツ自身は認識しているのですか? あなたの行動の是非はともかくとして、あの事件が復讐劇ならば、報復の意図を知らしめなければその意義と効果は半減します」  島村夕子はうなずき、一呼吸置いてから、 「主は大いなる魚を用意し、ヨナをその腹に呑ませ給えり……」  暗誦《あんしよう》した。 「旧約聖書?」 「ええ。ヨナ書です。その一章と二章をバイブルから切り取り、ラノヴィッツに送りました。ほんとうは直接ラノヴィッツに会って、面罵《めんば》したかったのです。しかし、一連の計画のパートナーである、或る人物にそれだけはやめるよう説得され、やむなく、迂遠《うえん》な方法をとりました。わたくしの不覚です」 「不覚どころか、それでよかった。それでじゅうぶんです。ラノヴィッツとて十字を切ったことのない人であるはずはない。たしかヨナは鯨の腹の中から陸《おか》に吐き出されたのでしたっけ。その寓意をラノヴィッツが理解しないわけはないでしょう」 「まだ、バローは鯨の胃袋の中です。陸地は目前にありますが……。おはなしを元に戻します。わたくしは先生がどうしてもステージに立たなくてはことが済まないような状況を計画し、ほとんど手に余るような目論見《もくろみ》をひとつひとつ実行してまいりました」 「計画のパートナーというのは誰なんですか?」 「伊原財団の村井両平氏です。あなたもご存知の」 「やはりそうでしたか。たぶんあの方だろうとは思っていましたが」  蓮見は時間が逆流し、渦巻きながら、ひとつの整然とした秩序に統《す》べられてゆく感覚をほとんどめまいのように感じていた。軽井沢が思い出された。サングラスの女が。ロールスロイス・コーニッシュの乱暴な運転手が。 「ロールスロイスを運転していたのも、やはりあなただったのですね」 「そうです。もすこし運転がじょうずだとあなたとこうしてはいなかったでしょう」  そういう、ことだったのだ。急いでいたのだ。軽微な接触事故などにかまってはいられなかった。伊原倶楽部事件が起きたのはあの日の夜だ。島村夕子は復讐劇の幕を切るため伊原倶楽部に急いでいたのだ。島村夕子も時間がなかった。バローがそうであるように。そうして、あの事故がなければ、この女が自分の隣にいることもなかったのだ。 「村井さんの協力がなければ伊原倶楽部事件は実行できなかった。彼にしてみれば伊原頼高への背信行為ですから立場はとてもつらいものだったでしょう」  いつしか沖合にかなりの大きさの船が姿を見せていた。逆光のなかに鬱勃《うつぼつ》とした灰色の船影を現し、近づきつつあるにもかかわらずふと遠のくようにも見えるあいまいな姿態で、こちらへ向かい、なにやら儀式めいた勤勉さで膝行《しつこう》しつつあった。 「ここで確認をしておきたいのです」船影を目にとめながら蓮見はいった、「きょう最初に訊ねるつもりだった質問です。つまりあなたはいったい何者なのか?」 「わたくしは島村夕子」 「円覚寺の、そして薪能を見物していたあの着物の女も?」  島村夕子は蓮見を初めて見るような顔でみつめ、 「……同じ人間であることにいつお気づきになりました?」 「ハンカチです」 「ハンカチ?」 「あなたが島村夕子として現れた夜、別れ際ぼくはハンカチをねだった。あれは自分でも意外な行動でしたが、酔っていたことはいたけど、どうやらすこしは頭が回ったらしい。匂いに記憶があったのです。菱井桁の着物の女が同じ匂いをさせてました。確信は持てなかったのですが、翌日香水の専門店で銘柄を教えてもらい、それが着物にもマッチするという説明を聞いて、いや何よりも『ジェ・オゼ』という名前を知って、どうしても間違いないという気になりました」 「香水をつけてなければおわかりにはならなかった?」  島村夕子は揺れるように微笑した。 「わからなかったでしょう。衣裳も髪型も化粧もすべてが異なってましたから」  蓮見はハンカチーフを出し、島村夕子にさしだした。 「ご迷惑でなければ」夕子は口ごもるようにいった、「どうか持っていてください」 「迷惑ではないが、だれかの持ち物をもらうというのはなんだかせつないものだ」  われにもなく蓮見は苦い声をもらした。 「せつない?」 「物だけが残るような気がして」  島村夕子はすこしあわてたように視線を窓の外へ向けた。  蓮見も自分のせりふを後悔していた、「どうせならこのハンカチではなく、さきほどあなたの涙を吸ったハンカチを欲しい」むしろそんな恥知らずをいったほうがましだったような気がして。  たえまない鉄の騒音に聴き入るかのようにおし黙っていた島村夕子が、 「わたくしは神仏を信じません」  蓮見に顔を向けた。 「でも、ふつうの女ですから何かたよるべきものが欲しかった。どんなささいなものでも……。わたくしは気持ちを『ジェ・オゼ』に託して、ともすればめげそうになる自分を鼓舞してきました」 「わかるような気がします」蓮見はすこし声がふるえるのを感じながら、勇を鼓して訊ねた、「……伊原頼高氏とはどんな関係なのですか」 「父です」  ためらいもなく、答えが返った。 「伊原氏には夕子という名の娘はいないはずですが」 「戸籍上では他人ですから」 「…………」  蓮見は平静を装うのに二本目の煙草に火を点ける常套手段しか思いつかなかった。 「そのことについてもうすこし教えていただくわけにはまいりませんか?」  島村夕子は蓮見の煙草の烟《けむり》のゆくえを目で追うようにしながら、そのじつ何も見ていない、静かな放心にも似た微笑みを泛べて、落ち着いた声でいった。 「わたくし、私生児なんです。私生児の戸籍謄本をごらんになったことがありますか?」 「…………」 「あれは面白いですわ」蓮見に微笑をさし向けて、「続柄の欄はただ『女』とだけ記載されてますの。だからわたくしは長女でも次女でも三女でもない、ただの『女』ということになりますわ。でもこれは別の物語だと思います」 「ぼくにはのぞき見趣味はありません」蓮見はきっぱりといった。いったつもりだが、声は多少くぐもったかもしれなかった、「ぼくが聞きたいのは現在あなたと伊原頼高氏がどのような状況にあるかということです。あの事件があなたの手で引き起こされたのだとしたら、この父子《おやこ》の関係はちょっと尋常一様とは考えられないからです」 「たしかにおっしゃるとおりですわ」島村夕子はうなずいた、「わたくしはずっと伊原を憎んできました。母が亡くなったとき、通夜にも葬儀にも顔をみせなかった人です。わたくしは日本で義務教育を終えるとミュンヘンの高等音楽院《ホツホシユーレ》に入学しました。ものごころついたときからわたくしはピアノを弾いていました。わたくしの家には、父がいないかわりにシードマイヤーの、時代物ですがみごとなグランドピアノがありました。てほどきは母から受けました。母はピアニストでした。ほとんど無名でしたけれどいいピアニストでしたわ」  理路整然とした語り口がしだいに前後の脈絡を失い、要領を得ないものになっているのを蓮見は感じたが、黙って島村夕子の独白に耳を傾けた。 「あなたは十五歳になったらドイツへ行く、ドイツで音楽の勉強を続ける、そうしてはたちになったら一度帰ってきなさい、お母さまにピアノを聴かせるために……。母はよく幼いわたくしにそういいきかせたものです。あなたはベートーヴェンやショパンやモーツァルトを弾く、あなたがさらに勉強を続けるべきか、それともピアニストを断念すべきか、そのときお母さまが判断してあげる……」 「そのお母さまのおはなしは実現したのですか」 「いえ、母はわたくしが十九歳のとき死にました。ミュンヘンへしらせをくれたのは村井さんでした。彼はわたしたち母子《おやこ》のことを親身になって世話してくれていたのです」 「あなたはラノヴィッツの失脚を画策するとき、それが同時に伊原のスキャンダルにもなることを計算していたのですか?」 「そうとられてもしかたありません」島村夕子は顔をわずかに仰向け、いくらか早口になって、「鎌倉で伊原と半日過ごしたとき、伊原もそのように理解していました。伊原はゆるすといいましたわ。ゆるすなどということばを使う資格は彼にはありません。わたくしのミュンヘン行きは伊原の庇護のもとで経済的にはかなり恵まれていた母の考えたことでしたが、わたくしはそれが伊原の仕組んだことだとずっと信じていました。わたくしを遠ざけるための方便だろうと。わたくしは伊原によって流竄《るざん》の境涯を与えられたのだと信じていました」ここで島村夕子は一つためいきをつき、静かな調子でいった、「事実はそうではなく、母の、いじらしいような配慮だったことは、伊原本人から円覚寺で聞かされたのでしたが」  あのときの島村夕子と伊原頼高は父子再会のひとときを過ごしていたのだろう。あの、奇妙に感情を殺したような会話が思い返された。 「しかしそれもまたここでは別の物語なのでしょう」 「ええ」島村夕子は柔らかな微笑を泛べ、いくぶん弾みを帯びた声で続けた、「でも、あなたにならなんでもお話できるような気がしてます。それだけでもなんだかひどく幸福な気分ですわ。ほんとうに、日本ではわたくし話相手がほとんどありませんの。だからこの退屈な身の上話はこのへんにしておきましょう」 「事件に戻りましょう。ラノヴィッツを葬ることに成功したあなたの次の計画は、バローの録音の売り出しだったわけですね」 「そうです、ミネルヴァ東京……。去年の夏、バロー先生をたずねて日本からひとりの男がやってきました。彼は『グロリア・レコード』から派遣されたスカウトで、ある企画を携えてヨーロッパ各地を歴訪していました。その企画はマエストロ・シリーズといい、往年の名演奏家、埋もれた巨匠を発掘し、その最新の演奏を世に問うというもので、男はいくたの困難を経てはるばるとジェラール・バローにたどり着いたわけです。逼塞《ひつそく》後の先生を訪ねた人物はいくらもありません。フルトヴェングラーという大物がいるにはいますが、このエピソードは別の機会にお話しましょう。日本人ではこの男以前にはわたくしともう一人、ここではかりにXとしておきましょうか、このX氏についてはのちほどお話することになりますが、いずれにしろ先生を訪ねたのは三名だけです。ともあれ、先生はその日本人の驚異的な熱意に驚かれ、好意的ではありましたが、演奏については否《ノン》を繰り返すばかりでした。男は執拗に食い下がりましたが、先生を翻意させることはできませんでした」 「その男が平田佐一ですね」  蓮見は目の前を遮蔽している薄物の一枚が取れたような気になりながら質《ただ》した。 「ええ。平田の前身はグロリア・レコードの企画屋です。今年の二月、平田から手紙が来ました。わたくし宛てにです。グロリア・レコードを辞めて独立しようと考えているが、バロー先生のことがどうしてもあきらめられない。新会社創立の企画第一弾にバローの名演集をと考えている。ほかにも契約を結んでいるアーティストはいるけれども、ここはどうしてもバロー先生の録音で新会社を旗あげしたい。最高の条件を用意しているのでどうかよしなにお取り計らい願いたい。と、まあそんな調子でしたが、ヨーロッパで仮契約を結んだアーティストたちを独り占めしようとしているのではないかと、そんな想像がされてなりませんでしたから無視していました。しかしのちになってこれがきわめて好都合になりました」 「平田の申し出はつまり渡りに舟だったわけだ」 「そう。バローの録音をとにかく世に出してしまう。それはあるていど話題を呼ばなければならない。しかも、その演奏は誰の耳にも素人のものとわかるようなものであってはならない。ある水準を抜き、往時の巨匠を彷彿と想像させるものでなければならない。そして、やがてそれがバローの演奏でないと指摘されたとき、なるほどバローらしくないという疑惑の要素を具えていなければならない。そんな構想のもとに練習を積み、やがて平田に連絡しました。バローが録音を許諾《きよだく》、録音は自宅で行う、ただし、健康状態がかんばしくないため、調子をみながらマイクに向かうことになる、きわめて神経質な状態にあるため、大掛かりな装置や技術陣の派遣は見合わされたい、素人にも扱える録音機器を送付されるよう希望する。……平田は簡易なデジタル録音機と小型高性能のマイクを送り込んできましたので、わたくしはその機器をそのまま日本に返送し、伊原倶楽部のピアノを使ってひそかに録音をおこないました。伊原倶楽部のピアノは戦前に輸入されたプレイエルで、蒼古とした響きを持っていますから疑似演奏にはうってつけでした。外の雑音をマイクが拾ったりしますもので、新たに防音工事をほどこしたり、おもいのほか困難な作業でしたが、なんとかしとげ、平田に託しました。平田は欣喜雀躍したものです」 「なるほど……」  村井両平が、あの温厚そうな紳士が、ここでもまた島村夕子の助けになったのだろう。雨の日に社を訪ねてきた村井の、恐縮してしきりに額の汗を拭っていた姿が思い出された。彼ならずとも、このおれだって、あなたにならよろこんで協力したでしょう。そう心につぶやきながら蓮見は質問を続けた。 「そうしてあなたは、『FMジャーナル』に記事を売り込んだ」 「いえ、あれは平田のアイデアでした。わたくしは最初から『音楽の苑』で記事にしてもらうことを考えていたのですが……。それからポスターなんかも平田の発案です。わたくしは恥ずかしくてとても、あんな……」  島村夕子は髪に手をやり、無意味にかきあげるしぐさを反復した。それは、蓮見の目にどこか平凡な可憐さを感じさせ、安堵のようなものが胸をかすめた。 「あのポスターはバロー・ブームにかなり貢献してます」  島村夕子はそれには答えず、しばらく鉛色の海へ視線を向けていたが、 「たぶんもうお気づきと思いますが、あの新聞投書、あれもわたくしです」  おもいがけないことをさらりといってのけた。 「あれもあなたが!」  蓮見はおもわず声をあげた。  その可能性についてはさきほどから蓮見の脳裡をかすめてはいた。しかしそれまでが島村夕子の仕掛けだったというのはやはり一つの驚きで、蓮見は吐息のかかる近さにあってなぜか遥かな存在のようにも思われる夕子の横顔の、矜《ほこ》らかな高い鼻梁やつよい意志を宿したような口もとにつらつら眺め入らずにはいられなかった。  するうちに蓮見はあることに思い当たって溜息を洩らした。新聞投書の文体にどことなく記憶を喚起させられるような何かが感じられたのは、なるほどそういうことだったのだ。あれはほかならぬ島村夕子の文章、「ジェラール・バローの芸術」の解説文の、あの文体だったのだ。 「できれば誰か第三者の指摘に俟《ま》ちたいところでした。作曲家の野上真夫の批評は曲目編成に関してはみごとに正鵠《せいこく》を射ており、わたくしの意図をよく汲むものでしたが、彼がバローの戦前のSPを聴いていなかったのは残念でした。もし聴いていれば、彼だったら、演奏に関して釈然としないものを感じ取ったかもしれません」  蓮見は島村夕子の静かな語り口に聴き入りながら、はたしてそうだろうかと考えた。 「そうでしょうか。単純にいって、あのディスクの演奏が高いレベルにあったから、誰もが疑惑を感じなかったのではないでしょうか」 「そうかもしれません。わたくしは計算違いをしていたのかもしれません。バローが未知の存在であって、比較する対象がないというのが、やはり無理だったのかもしれません。聴き比べれば、わたくしとバロー先生の演奏の気が遠くなるような差は歴然です。あの、不羈《ふき》奔放なベートーヴェン、詩情あふれるショパン、天衣無縫のモーツァルト、ほんとうに先生は天才です」昂奮を抑えられない表情で島村夕子は語った、「バローのピアノを聴けば、誰だって、もっとたくさんの人々に聴かせたいと思わない者はいないでしょう」 「絶頂期のバックハウス以上ですか?」 「パハマンの音色、フィッシャーとケンプの滋味、リパッティとハスキルの純潔、コルトーの奔放、エリー・ナイの神がかり、グールドの機知、リリー・クラウスとハイドシェックのテンペラメント、……きりがありませんわ」  島村夕子は笑った。 「わたくしは曲目編成のなかにもあれがバローの手になるものではなく、別人の演奏、というより島村夕子の代奏であるひとつのヒントをしたためたつもりですが、おわかりになりませんでした?」 「いいえ」 「そうでしょうね。この国の批評家は誰ひとりとしてあれがバローの演奏であることに疑いを容れる者はいなかったのですから、ましてや別人の演奏であるとか、このわたくしの代奏であるなどとは思いも寄らなかったのでしょうね。それはわたくしの誤算でした。わたくしは探偵と犯人の一人二役をしなければならなくなりました。つまりそれがあの投書です」 「曲目にしたためたヒントというのは何ですか?」 「あとでお話します。べつにもったいぶってるわけじゃなくて、リサイタルの時間が気になるのです」  アナログ式の、いかにも実用的な腕時計を一瞥した。 「まあいいでしょう。ともあれ、批評家の誰もが代奏の可能性については気づかなかったし、多くは讃辞を並べるだけにとどまった。批評家とはそういうものでしょう。リパッティ事件にしたって批評家が指摘したのではなく、一愛好家が事実を発見したのでしたから。投書をきっかけに真贋問題が話題を呼ぶ。批評家たちは戦々|兢 々《きようきよう》となる。しかし事件の性質上、物証をあげて否定することはできない。結論はバロー自身にまたなければならない。バローへの関心はいやがうえにも高まる……」ここまでいって蓮見はリヒテルの演奏会に現れた島村夕子の行動が腑に落ちた、「なるほど、あのリヒテルの演奏会場に現れたのも演出なんですね。デモンストレーションというわけか。だとしたら、今夜のキーシンもそうですか」 「少々あざといとは思うのだけど、なにかしないではいられません」 「ところで、これは重要な質問ですが、バロー氏は、あなたのアクション・プログラムをご存じなのですか?」 「一切、バロー先生のあずかり知らぬことです。わたくしは事件の顛末をバローに報告し、人々がバローその人の演奏を翹望《ぎようぼう》していること、すなわちバロー日本公演がもはや不可避であることを伝えます。……あしたスイスに発ちます。もう一刻も猶予はないのです」 「先生はあなたのやったことをゆるしますか。たとえば破門などということに……」 「それは覚悟のうえです。しかし先生はなによりも芸術においてきびしいお方です。先生は世間から忘れられることは甘んじて受け入れられても、誤った評価に甘んじることは芸術家としての良心が断じてそれを許さないでしょう。わたくしごとき者の演奏がバローのものとして流布されることに耐えられるはずがありません。真正の、本当のバローの演奏を披瀝《ひれき》することをまちがいなく決意されるはずです」 「しかしあなたの計画にはひとつ重大な見落としがあります。バロー氏の来日が実現する、これは一大事件です。戦後最大の大物ピアニストの来日に切符はたちまちソールド・アウト、テレビ局は放映権の争奪に鎬《しのぎ》をけずり、大手のレコード会社がライブ盤の発売権をめぐって殺到する。レコード、CD、テープ、ビデオ、レーザーディスク、あらゆる媒体によるバローの商品化に躍起となる、それはいまから目に浮かぶようです。しかし現実にいまの東京で会場を確保することは困難です。群小ホールならいざしらず、バローほどの大物アーティストの受け皿だと限られてきますが、そういったホールはおそらく先の先まで予約でいっぱいでしょう。まずそこで暗礁に乗り上げる。どだい無理なはなしです」  いってすぐに蓮見は、浅野なら、と思った。浅野音楽事務所なら予約の先口《せんくち》に交渉し、あるいは圧力をかけ、割り込むことくらいのゴリ押しは可能だ。自分のところの演奏会に振り替えることだってできる。 「マネジメント・オフィスは通しません」 「ばかな。いま浅野音楽事務所のことを考えていました。伊原財団|傘下《さんか》の浅野ならことによるとやれるかもしれない」  遮るように島村夕子は繰り返した。 「浅野にはバロー先生は指一本触れさせません」  島村夕子のはげしい否定は、蓮見に伊原頼高と島村夕子との確執の深さを思わせた。「別の物語」だと島村夕子のいう言葉の重さがあらためて想われた。 「あなたにお願いしたいことの核心をお話しします。バロー先生の演奏会に関してご協力をいただきたいのです。会場確保の問題も含めて、あなたのお力添えをどうしてもいただきたい。今日お会いした最大の理由はそれです」 「私個人にですか、楽苑社に対してですか? いやどっちにしてもあそこに浮かんでいる船をそのへんの石ころを投げて沈めろというようなものですよ」  蓮見は沖合の貨物船に視線を結んで答えた。 「できないとおっしゃるの?」 「常識からいって不可能だといっているのです。まさかどこかの体育館で演奏するわけにもいかんでしょう。ずっと先のはなしならことは別ですが」 「先生には時間がないのです。やるとすれば年末あたりです。それが限度です」 「年末? 冗談じゃない」  島村夕子はかるく下くちびるを噛んでいたが、 「そう、じゃわたくしひとりでもやってみせます」  あっさりといった。すてばちなものいいに蓮見は話の接ぎ穂を失い、いたたまれない気分のまま、逃れるようにエンジンを始動した。独特の暢達《ちようたつ》な回転音に耳を傾け、ギアを入れ、発進する。軽やかな響きが港湾の騒音を縫うように鳴った。  島村夕子の申し出が蓮見の胸に失望のかるい痛みを齎《もたら》していた。いわれもなく島村夕子が接近してくるはずはない。わかりきったことだが、なぜか心がざらついた。 「ひとりでおやりになるのなら、なにもはじめからこんな役たたずをひっぱりだすことなどないのです」 「でも、ご無理はいえませんから」 「いやにつっぱりますね」 「…………」  島村夕子自身、自分をはがゆく感じているらしいことがうかがえた。 「あなたは無謀というかやみくもな人だ。しかし黙って見ているわけにはいかない。そこまでいわれて引き下がるのも業腹《ごうはら》です。やってみましょう」 「ほんとうに?」 「ぼくだっていまさら引き返せない。すべては軽井沢の偶然から始まっていたのだと考えます」 「うれしい」  口もとを綻《ほころ》ばせ、息のまじった声でいった。ひどく直截《ちよくせつ》な表現だった。匂いのきつい花をかざされたようで、胸がおののいた。 「社の事業部に話してみますが、事業部だっていままで大物演奏家を扱ったことはないのです。気の遠くなるような雑務、限られた時間。どこかの共催か後援をとらないことにはとてもこなせないでしょう。浅野以外の事務所ならかまわないわけですね」 「伊原財団の息のかからないところならけっこうです」 「もういちど確認しますが、確実にバロー氏を連れてくる成算があるのですね」  島村夕子は自信ありげにうなずいた。     3  世田谷の太子堂に向かった。  人見記念講堂は、赤坂にできたばかりのサントリーホールを別格とすれば、いまのところ評価の高い大規模ホールである。開演時刻にはまだ間があるというのに会場付近には気の早い観客の姿も見られ、静かな熱気が漂っていた。  地下駐車場に車を入れ、とりあえず開場時間までをグリルで過ごすことにした。島村夕子に訊ねなければならないことはまだいくらでもあった。 「このホールはピアノにはやや大きすぎます。大量動員の経済性からすれば、しかたないことなのかもしれませんけれど」  島村夕子はホールの問題をやはり気にしていた。 「ホールを選択する余裕はたぶんないでしょう。どこでも確保できればそこで弾いてもらわなければならない。最悪の場合、冗談ではなくどこかの体育館ということにもなりかねません。ピアノに関してはどうなのですか。たとえばスタインウェイはいけないとか、ベーゼンドルファーがいいとか」 「ピアノの銘柄に先生はあまりこだわらないと思います。どんなピアノからも信じられないほど美しい音を抽《ひ》きだしたというのはバロー伝説の一つです。もちろん状態のよいピアノにこしたことはありません」 「おそらく国内のピアノメーカーが大攻勢をかけてくるでしょう」 「残念ながら先生は国産のピアノをお弾きになったことがありません。わたくしはスタインウェイを考えています。普遍的・標準的なコンサートピアノを使うことで先生の稀有の音色、響きの美しさがいっそう理解されると思いますから」  ここにいる誰も、もう一時間もすれば会場を埋めつくすだろう聴衆の誰も、バローの来日について知らないのだ、そう思うと蓮見は昂奮を覚えた。  幻の老巨匠の招聘に自分も一役買っている、という想いもようやく実感として感じられてきたが、不安もまた募ってきた。 「バロー氏が漫然と今日まで過してきたとは思いませんが、現実問題として、四十年あまりもステージから遠ざかっていてはたして演奏ができるのでしょうか。また、今回の場合、準備期間というものはないも同然だ。そのへんはどうなんです」 「たしかにあらゆる意味で不利なステージです。これはむしろ冒険に属する行為なのかもしれません。空白の四十年というのはたしかに大きな不安材料で、とくに初日が問題です。聴衆とあいまみえるのが四十年ぶりということに加えて、その聴衆ときたら見知らぬ異邦の人々なのですから」 「舞台の勘というか、舞台感覚の問題ですね」 「ああ」島村夕子は嘆声をもらした、「初日の第一曲、その冒頭。それを思うと胸がしめつけられるようです」  島村夕子でなくとも肺腑をえぐられるような想像だった。別の見方をすればその点こそが未曾有のイベントである所以《ゆえん》であり、興味の焦点の一つでもあるわけだった。  島村夕子に声をかけてきた者があった。中年の男と若いカメラを携えた二人組で、中年のほうが名刺を差し出した。島村夕子は微笑で迎えた。 「休憩時のロビーということで」 「承知しました。他社の者にもそう伝えておきましょう」 「お願いします。ここはキーシンのリサイタル会場なんですから、どうかあまり騒ぎ立てないように、それだけは約束してください」  そんな会話の間にもカメラマンはいそがしくシャッターを切っていた。 「報道関係者を招んでいるのですか?」 「キーシンの取材陣が集まるわけですから、ちょうどよい機会だと考え、おもだったところへ連絡しておいたのです」 「…………」  蓮見はなおざりにされているような不満を覚えた。その感覚には覚えがあった。写真週刊誌に登場したのを見たときの感じに似ていた。島村夕子という存在のごく一部にしか自分は関わっていない、自分の知らない部分が茫洋と横たわっているのだ。マスコミ関係では自分が最も島村夕子に庶幾《ちか》しい存在であろう。しかし島村夕子のすべてを知ることはできない。それは、しかし当然のことだ。当然のことだが……。 「あなたとご一緒のところを写真に撮られましたが、まずかったかしら」  蓮見の想いをよそに、島村夕子の笑顔はほとんど無邪気を思わせさえした。 「たいして問題ではないでしょう。ぼくも音楽関係者の一人です」ほんの少し不機嫌な調子で蓮見はいった、「それよりいったい記者たちを集めて何をやるつもりなんです?」  島村夕子の瞳に湖水に映る雲のようなものが過《よぎ》った。 「いい遅れてごめんなさい。バローの来日について発表するつもりです」 「それは早手回しだ。……成算があるとおっしゃるのだから、それもいいでしょう。ひとつのプレゼンテーションとしていいかもしれない。しかし、絶対に真贋問題についてコメントしてはいけない」 「やはりその点を訊ねられるでしょうね」 「当然です」蓮見は周囲を憚《はばか》るように声をひそめた、「いいですか、あなたはあれがあなたの代奏であることを告げてはならない。黙っていれば分からないことです。九十九パーセントあれがニセモノであることが確信されても、最終的にはあなたとバローしかそれを証明できないのです。灰色のままにしておかなければならない」  島村夕子は自分に確認するように小さくうなずいてみせた。  可憐な少年ピアニストの公演だけに会場には若い女性の姿が目立った。蓮見たちの席は一階の右後方だったが、蓮見の左が島村夕子で、右は花束を用意した娘たちが三人並んでいた。  ショパンの夜想曲からプログラムは始まったが、蓮見の思考はともすれば別の方向へ向かいがちだった。  島村夕子もあるいは別のことを考えているのではないか、蓮見は端然とした姿勢で傾聴している隣席の女にしばしば視線が行くのを抑えられなかった。  日本の演奏会の雰囲気をつかんでおく、そういう意味もあるのかもしれないな。ちょっとした発見のように思って横顔を眺めていると、島村夕子はいぶかしげな微笑を見せた。  ショパンのロ短調ソナタが最後の和音を響かせ、盛大な拍手が満場を揺るがしたところで第一部が終了した。島村夕子は席を立った。蓮見もそれに倣《なら》った。ロビーへ向かう人々で通路は混雑している。  ロビーの一劃《いつかく》に、一目でそれとわかる取材陣の一団があった。知っている顔もある。蓮見に向かって手をあげる者もいる。社の同僚もいて、目で会釈をよこしてきた。想像以上のそれは人数で、島村夕子はすこしたじろいだのか一瞬歩みをためらった。 「本日はどうもご苦労さまです」  島村夕子は落ち着いた調子で第一声を発した。ストロボの閃光とシャッターの音がにわかに緊迫した空気を作り、一般の聴衆が好奇の目でこの異例の記者会見を遠巻きに囲んだ。 「誰なの」 「なんの騒ぎだろう」 「きれいな人ね。女優さん?」 「ほら、あのバロー事件の島村なんとかじゃない」  口々に言い合っている。  記者団の一人がマイクをさしのべた。 「さっそくですが、本日の重大発表というのは何でしょう。バローの新譜の真偽が物議をかもしているのはすでにご承知かと思いますが、そのことについてのコメントをいただけるのでしょうか?」  つぎつぎにマイクが突きつけられる。 「時間がありませんし、場所が場所ですから手短かにお答えします。……皆さまにお伝えします。バロー先生の来日公演が実現いたします」  歓声のようなものが起き、次々に質問が浴びせられた。 「バローが日本に来るのですか?」 「それはいつですか?」 「バロー氏はほんとうにステージに立つことができるのですか?」 「マネジメントはどこです?」  島村夕子はわずかに苛立ったように眉を顰《ひそ》めたが、 「一両日ちゅうにわたくしはスイスに出発します。バロー先生をお迎えするためです。……先生は血液疾患でいくらも余命がありません」  記者団がどよめいて、波のようにひと揺れした。島村夕子は反応を確認するかのように一呼吸置いたのち、続けた。 「したがって日本公演は先生のおそらく最後のステージになると思われます。なにぶんにも急なはなしですので、何の受入準備もできていません。ホールの手配もいまだできていません。数々の困難が山積しています。どうか皆さまのご協力を賜《たまわ》りたいと、この場をお借りしてお願い申し上げるしだいです」  カメラの放列は依然としてたえまなく閃光とシャッター音を発している。  血液疾患というのは何であるのか、質問があった。いわゆる白血病であるとの島村夕子の答えに記者団はさらにざわめいた。  島村夕子は来日の日時予定についておおよそのところを語り、ホールの問題や充分な前宣伝ができないこと、営利を目的とするものではないにしろ事業として最低限度の経済的保証を要することなどを語った。つまり島村夕子はここでホールの提供者、宣伝や切符売り捌《さば》きに関する協力をマスコミを通じて呼びかけているのだった。さらに島村夕子はバローの日本公演を海外へ向けて放送したい、ライブ盤を制作し、余力があれば滞在中できるだけ数多くの録音を収録し後世の遺産としたい、そういった希望を縷々《るる》述べた。たしかに蓮見ひとりの協力ではどうにもならないことだし、楽苑社の事業部でもままならぬ大事業であってみれば、島村夕子のよびかけもむりからぬことではあった。  バロー来日に関して一段落つくと、やはりインタビューの焦点は贋作問題だった。 「あの録音にまつわる疑惑について、どうしてもここでお答えをいただきたいのです。ここにはミネルヴァ東京の平田佐一氏もおみえになっていますが、誠実な回答をわれわれは望んでいます」  蓮見は平田の存在にはじめて気づいた。おそらく記者団の誰かが島村夕子と平田佐一の対決を演出し、この場に呼び寄せたのだろう。  平田はあおざめていた。バローの来日にショックを受けたのは疑いもなかった。バロー招聘はかねてからの平田のプランであったはずだし、そんな平田のあずかり知らぬところでことが運ばれたのはダメージにちがいなかった。 「どうなんです? あの録音はほんとうにバローの演奏なんですか」 「あなたがプロデュースしたのだから、島村さん、事実はあなたがご存じのはずでしょう?」 「バローに確認できない以上、われわれはあなたの回答を待つしかないのです」  しだいに取材陣の輪が島村夕子につめ寄ってゆく。  いけない……、蓮見は島村夕子の頭越しに記者たちのいきりたった顔をみながらあわてた。 「…………」  島村夕子の表情はうかがい知れないが、このままだと口をとざしていられないのではないかと不安になった。  記者たちは口々にいい募る。 「どうなんです? 答えてください」 「黙っておられるということは、あれが贋物だと解釈していいんですか」 「たくさんの人があのCDを買っているんです。あなたが黙っているというのは、犯罪とまではいわないまでも道義的に問題がありませんか?」 「平田さん、なにかおっしゃってください」  平田が後ろから押し出されて、先頭に出た。 「私はなにも知らない。バローの演奏だと信じていた。これがもし、取り沙汰されているように偽りの演奏だとしたら、私はむしろ被害者だ。ユーザーに対しても知らぬこととはいえ、たいへん迷惑をおかけしたことになる。私は場合によっては法的手段に訴えてでも、真相を明白にし、ユーザーに対して誠実な対応をしたいと考えています」  平田の表明は島村夕子へというよりも、対外的な保身の色合いが濃かった。  平田の言葉に勢いを得たように、記者たちはいっそう島村夕子への囲みをせばめ、なにか獲物を追いつめる凶器じみて見えるマイクを、さらに前へと突き出した。 「あの録音は」  島村夕子がかすれた声を洩らした。  いけない!  蓮見は胸のうちで叫んだ。 「あの録音がどうなんです?」  記者の一人がさしだすマイクが、意図的にではなかったが、島村夕子の胸を突いた。島村夕子は一瞬のけぞった。  蓮見は自分でも思いがけない行動だったが、槍衾《やりぶすま》のように突き出されたマイクを払って島村夕子の前に立っていた。 「あなたがたのやり方はすこし強引すぎる。これじゃ吊るし上げじゃないか」  一瞬、記者たちはあっけにとられて沈黙した。そこへ背後から島村夕子の切迫した声がかかった。 「あの録音は……、あそこで演奏しているのは」  蓮見はふりむきざま島村夕子の口を手でふさぎ、 「あの演奏の真偽についてはバローが来日し、その演奏を聴けばそれで解決だ。それでじゅうぶんだ」  記者たちに向かって声高にいった。 「なにをするんだ!」 「あんたは誰なんだ!」  怒号が飛び交い、混乱が始まった。蓮見は、背後に島村夕子を庇うようにして、自分でもわけのわからない言葉を繰り返した。報道陣は押し寄せ、こぜり合いになり、つかみあいになった。蓮見は頬に衝撃を覚え、よろめいて倒れた。頭の上に島村夕子の悲鳴を聞いた。  誰かが腕を取り、引き起こしてくれた。 「大丈夫ですか」  腕をつかんでいるのは村井両平だった。 「ええ、ちょっと足を踏まれちゃって」  振り向くと、記者団は島村夕子につめ寄って騒然としていた。  ——はっきり答えていただきましょう。  ——演奏はバローではないのですね。  ——代奏が事実だとすれば、平田さんのおっしゃるように法的な問題に発展しますが、どうなさるおつもりです? 「これじゃ収拾がつかない」  蓮見は悲鳴をあげた。 「大丈夫です。すぐにガードマンも来ます」  休憩の終わりを告げる予鈴が鳴った。 「車で待っていてください。彼女は私がお連れします」  いうが早いか、村井は記者の人波の中に身を投じていた。そこへ警備員や関係者らしい男たちが数名駆けつけた。  そのようすを蓮見は横目でみながら、うろたえて立ち尽くしている改札嬢の前を駆け抜け、駐車場へ一目散に走った。  シトロエンを始動し、出口に向かった。  記者たちをふりきって、島村夕子が駆けてきた。     4  まだ肩に喘《あえ》ぎを残しながら、助手席の女は俯《うつむ》き、両手で胸を抱くようにして身を竦《すく》めていた。  車の走行騒音にかき消されがちだったが、島村夕子がなにかきれぎれにつぶやいている声が聴こえた。 「コラッジョ、テレーゼ、コラッジョ……」  それは、日本語のようには思えなかったが、蓮見にはよく聴きとれなかった。祈りのような調子だった。  やがて、島村夕子は大きく肩で息をついでから顔を上げた。 「たいへんな騒ぎにまきこんでしまいました。どうおわびすればよいのでしょう」 「それより、結局告白はしなかったんですね」 「でも、やはり黙っているわけにはまいりません。大勢の人々を欺《あざむ》くことはできません」 「いってしまったのですか」 「いいえ。でも、いったも同然でしょう」 「そんなことはない。あなたの口からいったのではないのなら、それでいい。法律のことはよくわからないが、あなたの行為は民事犯に問われるおそれがあります。しかしここには物的証拠というものがない。あなたが黙っていればそれで済むのです。それに、あれがバローの演奏ではないことをいまここで証明してしまったら、バローにとってこの国で公開演奏をしなければならない理由がなくなってしまう。そのことは、あなた自身よくご存知じゃありませんか」  左頬から唇にかけてつっぱったようで少し喋りにくい。 「隠しているのがつらいのです」後方にしりぞいてゆく夜の街に視線を向けたまま、島村夕子はいった、「音楽はつねに真実と手を取り合っているべきだと考えます」 「しかし、いまはともかく暴露すべきではない。とにかくそれだけは確かです。軽井沢のスキャンダルも、贋作事件についても、あなたは黙っていなければならない」 「とても荷が重いわ。たいへんなことをしてしまったのですね」 「そうですよ。たいへんなことをしでかしたんだ。あなたは犯罪者なんです。いまさら引き返せない」  蓮見はわざと諧謔《かいぎやく》な調子をこころがけていった。  シトロエンは太子堂から都心へ向かって、青葉台あたりへさしかかっていた。  行き先を決めなければならない。 「どこへいきますか?」 「わたくしはどこへでも。それよりはやく冷やさないと」  島村夕子は心配そうに蓮見の顔を見た。唇が切れている。 「気のおけないところで飯でも食いましょう。この顔だし、格式のあるところは敬遠したい」 「あなたのいきつけのお店へでも行きましょう」 「会社の近くに安直な店があります。車も社の駐車場に置けるし、そこにしましょう。胸がいっぱいで食べられないかもしれないが」 「そんなに?」 「当然です。すこしとばします」  島村夕子は美しかった。ひとつの試練を終えたあとの虚脱と昂奮のようなものに、或る不安と脅えが綯《な》いまぜになって、それほどに美しく見せているのかもしれなかった。頬から目の縁あたりを上気したように染めて、ひどく色っぽいと蓮見は思った。 「ねえ、乾杯しましょう」 「よくそんな気になれますね」 「でも……。ほんとうに今日はご迷惑をおかけしてしまいましたから」 「胸が閊《つか》えてはいるが、酒は飲みたい気分です」 「だったら」  少女のような笑顔を見せ、ビールを勧めてきた。  蓮見はこのとき胸に甘い、またどこか痛いようなものを感じた。この女のためにできることがあればなんでもしたい、そんな昂奮が快い電撃のように心臓を走り抜けた。  しかしひとまずこの数ヵ月間の悪戦苦闘をねぎらいたかった。バローの死期を知ったときからこの女性はほとんど手に余るような困難を一つ一つこなしていった。ともかくもここまでやってきたのだ。よくやってのけたものだ、あなたをなんだか尊敬する気分だ……、口にできなかったがそんな気持ちを込め、島村夕子のグラスにビールをつぐためににじり寄ると、胸が熱くうずいた。 「じゃ、バロー来日の成功を祈って乾杯!」 「乾杯!」  島村夕子はひと息に飲みほした。 「もし、わたくしがあの演奏の秘密を公表したとすれば、その場合、ミネルヴァ東京はどうでてくるかしら」 「そうですね……。これは素人考えですが、この事件が法に触れるとしたら、まずバロー氏の立場からすると、著作権を侵害されたことになるでしょうね。バロー氏は著作権法でいう『実演家』で、著作隣接権を保護されています。著作隣接権、つまり実演を録音したり、放送したりする権利です。ただし、これは親告罪ですからバロー氏が告訴しなければ罪は論じられない。  ユーザーの立場からすると、看板に偽りある商品を購入したことになるわけですから、やはり被害は成立すると考えられる。しかし、レコード業界ではこれまでにも、たとえばフルトヴェングラーやクナッパーツブッシュなど歴史的大指揮者の演奏や、ピアノではリパッティの演奏と銘打たれたものが実は別人のものだったとかいう前例があるけど、それをユーザーが告訴したとか裁判沙汰になったとか、あるいは司直の摘発がなされたとかいう話を聞きません。これは発売元が偽りの商品と知りながら故意に発売したのではないからでしょう。同様に、平田も事情を知らないで販売したのだから彼自身は法的には問題はない。むしろ詐欺の被害者としてあなたを訴えることができる立場だ。ところで印税に関してはどんな契約なんです?」 「売上の十二パーセントを、三ヵ月ごとに精算してわたくしの口座に払い込むかたちです」 「あの録音が贋作だとわかれば、あなたを告訴し、悪くすると、印税を独りじめされたうえに賠償を取られることになるかもしれない」 「それはつまりディスクの回収に関する損害賠償ということかしら」 「ええ。しかし現実にはそういう事態にはまずならないでしょう。バロー・イミテーション・アルバム……、これは世紀の稀覯《きこう》盤だ。誰が返品しますか。プレミアム付きで取引されることはあってもね。だとしたらユーザーは告訴しない被害者ということになる。いずれにしても、憎むべき凶悪犯というわけじゃない」  蓮見はビールから日本酒に代えていたが、手酌で酌《く》むと、島村夕子はあわてて銚子を奪《と》った。それは不器用で、とてもピアノを弾きこなす人とも思えなかった。 「凶悪犯ですわ。きょうの騒動で実感しました。なんともだいそれたことをしてしまったんだなって……」 「バローとの出会いを教えてくれませんか?」 「音楽雑誌の記者として?」 「凶状持ちのともだちとして」  島村夕子はいたずらを咎められた少女のような顔をした。少女ではない女のそんな表情はたいそう艶冶《えんや》だった。 「凶状持ちには門限がないの。あとでおはなししますわ。それよりいまは飲みたい気分」 「いけるんですか?」 「わかりません」  いままで蓮見を隔てていたものがとれたような、そんな感じもした。それはおそらく今日まではりつめていたものから解放され、目に見えない心の鎧《よろい》のようなものを脱ぎ捨てたためだろうと想像された。 「そうそう、質問がある。忘れるところだった」 「なんでしょう」 「あのディスクのなかに島村夕子の代奏を暗示するヒントがあるという、あれです」 「ああ、あれ」  島村夕子は、小指を水で濡らして、座卓の上に文字を書きはじめた。   Des Abends Le soir Evening 「デス・アーベンツ……、ル・ソワレ……、イブニング、……夕暮れ、か」 「あのアルバムの第三曲、シューマンの『夕べに』はバローのアンコール・ピースの一つで、わたくしもたいへん好きな曲なんです」 「……なるほど。夕子としたためるかわりにシューマンで署名に代えたわけですね」 「ちょっといたずら気分もありました」  そうだろうか。蓮見は別のことを考えた。島村夕子はあのアルバムに自負するところがあったのではないか。自分自身の演奏としてひそかに恃《たの》むところがあったのではなかったか。彼女もまたピアニストならばそんな芸術家の自恃《じじ》は心のどこかにあったのではなかったか。それがこのような落款《らつかん》を印《しる》すこととなったとしても不思議はあるまい。  ふと、蓮見は思った。バローが死んだら島村夕子はどうなるのだろう。この膝を横に流し、斜めに視線を落とし、ぽっと上気して、なにかものいいたげな、それでいていつまでも黙っていそうな女は……。  二、三歩前をあるく島村夕子がふりかえり、後ろ歩きしながら音階練習の手真似をしてみせた。舗道に人通りは少なく、車道も閑散としていた。 「小学二年の時、作文を書いたわ。こうよ。わたしの家にはおとうさんがいません。でもすごく立派なグランドピアノがあります。ピアノがわたしのおとうさんなのかな。わたしは将来りっぱなピアニストになります。そして世界中の人にわたしのピアノを聴いてもらうのです。……ねえ、可愛いと思いません?」 「……いじらしいですね」 「中学を卒《お》えると、ミュンヘン留学。不思議に思った。そんな財力がうちにあるなんて信じられない」  島村夕子は酔いのせいか快活だった。歩みもときには舞踏に似た。妖精のようだと蓮見は思った。 「きみはちいさな胸を痛めたわけだ。あっ、そこは穴ぼこだ。危ないよ」 「区役所に行った。戸籍謄本をとるというのはこどもらしくない智慧ね。夏でした。役所のおじさんが謄本を渡すとき、一瞬だけど品定めするようにわたしを見た。お金が要ることを知らなかったのはやはりこどもね。帰りは日ざかりの道を歩いて帰った。途中で向日葵《ひまわり》がみごとに咲いていました」 「きみは夏帽子をかぶっていて、額に汗を浮かべている。足を止めて、向日葵を見上げる。蝉しぐれが降るようだ」 「そう、そうなの」夕子はふりかえり、目を輝かせた、「おっしゃるとおり。あの時間がとまったような夏の午後……」  島村夕子はふたたび歩きだし、背中で語り始めた。 「ものごころつく頃から、村井さんは月に一度くらい訪ねてきて、なにくれとなく母の力になってくれていました。わたくしが小学三年生のとき、彼が母の部屋から出てくるのにでくわした。目を赤くしていた。おとなの、それも男の人が泣くのを初めて見たものだからひどく印象的でした」 「もしかして村井氏はお母さまを愛していたのではありませんか」  拝領妻……、なぜか蓮見はそんな言葉を連想した。 「たぶんそうだと思いますわ。父と、母と、彼の三人をめぐってなにか恋の鞘当《さやあ》てみたいなものがあったのか、そうではなくて村井さんは母に同情していたのか、そのへんはわからないけれど、でも両さんはいまだに独身ですのよ」  蓮見は村井の静かな微笑を思い泛べた。あの穏やかな紳士が過去に辛口のロマンスを秘めているという想像は充分に無理がなかった。拝領妻の連想を蓮見は愧《は》じた。 「お父上との最初の対面はいつだったのですか」 「村井さんを責めるようにして、ミュンヘン留学の直前に。……母を捨てた人という認識しか持てなかったから、ミュンヘン留学は、しだいにむずかしい年頃になってきたわたくしを遠ざけるためなんだ、そう思いこんでいました」 「一門の禍根を回避するために庶子を出家させる、まるで歴史物語のような解釈をあなたはしたわけだ」 「ええ。でもそれはどうやらわたくしの思いすごしのようでした。わたくしのミュンヘン行きが母の考えによるものだったことを、伊原から聞かされました。わたくしがとしごろになったらヨーロッパへやるというのは早くから母が決めていたことで、やはり一門への遠慮もあったのでしょうね。伊原は松芳学園大学の付属高校へ入れることを勧めたけど、母が諾《き》かなかったらしいですわ」 「なるほど。それから?」 「それから、そうそれからは」歌うようにいった、「いろんなことがありまして、幾時代かが過ぎまして、いまその狷介な小娘はおばさんになってここにいますわ」 「えらく端折《はしよ》ったね」 「端折らなくちゃ、泣いちゃう。あ、きれいなお星さま」  島村夕子は頚を折るようにして空を見上げながら、危うい足どりで歩いて行った。泣いているのかもしれない。  足もとを乱し、よろめいて、倒れそうになるのを蓮見はすかさず抱き止めた。  島村夕子は死を装う小動物のように蓮見の腕の囲みの中で静止し、瞳だけが問うように蓮見をみつめた。  ジェ・オゼが甘く匂った。  蓮見は衣服を隔てた肉体を、その実感を一瞬もてあました。それを見透かしでもしたように、島村夕子は急に腕の囲みをふりほどくと車道に向かって手を振った。  タクシーを拾って、島村夕子が告げた行先は高輪のホテルだった。 「バーが深夜までやってます」  時計を見ると十一時を過ぎていた。  ホテルのバーは、落ち着いたいい雰囲気だった。白いグランドピアノを若い女性が弾いていた。大屋根を閉じ、控えめに鳴らしている。  島村夕子を迎えるスタッフたちの態度から、ここが島村夕子の常宿であることがわかった。 「お弾きになる?」  島村夕子はピアノの方へ視線を流してから、悪戯《いたずら》っぽくいった。 「あなたのピアノを聴きたい」 「何度もお聴きになってるわ」 「演奏姿を見たいんだ。ぼくの想像を確認してみたい」  夕子は笑いながら、男物のように見えるショルダー・バッグから紙片を取り出し、なにか走り書きした。  紙片を蓮見に渡すとピアノの方へ歩いて行った。酔っていたように見えたが足どりは確かだった。ピアニストと言葉を交わしながら、交代した。カウンターに戻ったピアニストは、拍手を送った。それで客たちもこの趣向に気づき、手を叩いた。  島村夕子はわずかに頭を下げ、それからおもむろに弾き出した。  楽器が違ったようだった。音量は控えているのだろうが、その響きの柔らかさや輝かしさはさっきまで鳴っていた同じピアノとはとうてい信じられないものだった。  ショパンの遺作の夜想曲だった。甘美で、憂愁と憧れにみちたこの曲は蓮見の偏愛の的だった。曲の結尾に印象的な上下する半音の音階があり、音階は四回異なる形で反復されるが、ここにはショパンの美が結晶していた。また、荒涼たる氷河を俯瞰《ふかん》するイメージが蓮見にはあった。初めて聴いたのが東京には珍しい大雪の日だった。ワイセンベルクのレコードが、また非情なほど抑制のきいた演奏だった。単純な音階がなぜこれほどまでに美しいのだろう! 心臓を氷の手でつかまれたような衝撃だった。  記憶のなかで美化されているワイセンベルクよりも、はるかに島村夕子は絶妙だった。そこにいたるまでの慎ましい憧れも、甘やかなよろこびも、終結部の一陣の吹雪にあとかたなく消えてしまう孤独の結晶体として弾かれているように聞こえた。  蓮見は紙片を見た。 [#2字下げ]ショパン「ノクターン遺作嬰ハ短調」 クララ・シューマン「ラルゲット」 ワーグナー「チューリッヒの恋人ワルツ」 ブルックナー「思い出」 スメタナ「束の間の思い」  蓮見の知っている曲はショパンのほかはワーグナーだけで、そのワーグナーにしても人口に膾炙《かいしや》しているとはいえない。しかし聴き進むうち、これほど知られていなくて、しかも誰でも一度で好きになるような曲ばかり、よく並べたものだと感心せずにはいられなかった。  島村夕子は端然と鍵盤にむかって、女性ピアニストに往々見られる過剰な、あるいはきどったアクションとは無縁の、きわめて淡々とした弾きぶりを見せていた。そっけないくらいのものだった。だが、紡《つむ》ぎ出される音楽は情緒に溢れていた。  どれも数分で終わる小品だったので、一場の夢のようにこの即興のサロン・コンサートは終わってしまった。  拍手はこういう場所としては珍しく盛大で、あまつさえアンコールが求められた。島村夕子は困ったような微笑を見せていたが、 「じゃ、あと二曲」  小さくいい、弾きはじめたのはスクリャビンの「アルバムの一葉」だった。ラノヴィッツがアンコールにとりあげることの多い曲である。ラノヴィッツとは解釈が違っていた。より遅く、即興的で、抒情が澄んでいた。消え入るような終わり方のはかなさはたとえようもなかった。ここにはピアニスト島村夕子の自信を見たような気が蓮見にはした。  二曲目で蓮見は声をあげそうになった。「夕べに」だった。この曲では島村夕子はときおり視線を蓮見に向けた。酔いのせいもあるのだろうが、ここには初めて見る上機嫌の島村夕子がいた。ピアノを弾く島村夕子は想像したとおり、魅力的だった。 「バロー先生に叱られますわ」 「おみごとでした。選曲も素敵だった」 「曲の配列を考える暇がなかったもので、なんだかとりとめもなく弾いてしまって、ああだめだわ。やっぱり酔ってたのね。ばかなことをしちゃいました」 「酔った勢いだなんていわれると拗《す》ねますよ」  さすがにバーのピアニストは賢明だった。彼女はピアノには戻らなかった。誰も島村夕子のあとを弾きたい者はいないだろう、そう蓮見は思った。ストリングスのイージー・リスニングが静かに流され、余韻さめやらぬバーがやっと旧態に復した。  それを汐《しお》にバローとの出会いを島村夕子は語り始めた。 「国立ミュンヘン大学ではヘルムート・シュタイン教授に師事していました。すぐれた先生で、汲めどもつきない教養と鋭い洞察にいつも感心させられました。テクニックはもう衰えていて、日本からの留学生のなかにはシュタイン教授を敬遠する人もいたけど、わたくしはシュタイン先生を生涯の師と傾倒していました。だからわたくしは卒業の後も研究員として大学に残り、生徒たちを指導するかたわらシュタイン教授の個人レッスンを受け続けていましたの。一九八三年の二月のはじめでした。ジェラール・バローの名を先生が初めて口にされたのは……」  それはワルトシュタイン・ソナタを手がけていたある日のことだった。ベートーヴェンの全ソナタのうちでも最もピアニスティックともいえるこの曲の、いつものように第一楽章の展開部に島村夕子は悪戦苦闘していた。  ト音の持続低音《オルゲルプンクト》からしだいに輝かしく壮麗な曙《あけぼの》に向かう困難な局面をシュタイン教授は渋面で聴き入っていたが、とつぜん椅子を立ち、展開部に記されているpp《ピアニツシモ》の指定を赤鉛筆で削除し、もう一度弾き直すよう命じた。楽譜の指示を無視することはシュタイン教授にあっては珍しいことではなかったが、この場面ではあまりに大胆な処理に思えた。ピアニッシモの指定を無視するのは雄渾《ゆうこん》な展開部をいっそう壮大にする意図なのだろうが、それには絶大な膂力《りよりよく》と烈しい精神の集中を要した。とまどいながらも島村夕子はふたたび鍵盤に挑んだ。  教授はかたわらに立って、唸り、指揮者のような手ぶりをまじえて島村夕子の演奏を督励した。音楽が極限の高潮に達したとき、  ——バロー、バローだ。そうだ、バローだ!  シュタイン教授は低く叫んだ。その声を遠くのもののように聞きながら、島村夕子は確実な制禦で曲を操り、長大なコーダへ導き、最後の和音へと到達した。  シュタインは握手を求めてきた。頬を紅潮させ、眼を輝かせて、たいへん素晴らしい演奏であったことをくちごもりながら伝えた。これほど手放しで褒《ほ》められたのは初めてのことだった。島村夕子は賞賛された嬉しさよりもバローという名前に強い興味を懐いた。バローなる未知の人物についておそるおそる質問してみた。 「夕子の演奏が忘れていた人を思い出させた……、シュタイン教授はそうつぶやくようにおっしゃって、バローのベートーヴェンがいかに輝かしいものだったか、古今無双のピアニストであり、なおかつ一介のピアニストを超越した天才音楽家であったかを夢見るような調子で語った。わたくしは人が人をあれほど絶賛するのをあとにもさきにも知りません。本来アーティストというものは他人に対してあまり素直でないものですからね。それが、バローの名前を知った最初でした」  第二次大戦の後はふっつりと消息を絶ったバローが、もしどこかに生きながらえて昔日の腕をなお保っているとしたら、彼の敵はこの地上のどこを捜しても存在しないだろう、けだしジェラール・バローこそは古今無双のピアニストだった。そんなシュタイン教授の言葉に島村夕子は昂奮を覚えた。バローを聴きたい、痛切に思った。  島村夕子の願望をくみとったのか、シュタイン教授は、戦前の録音が大学の図書館に所蔵されているはずであること、それはとうていバローの真価を伝えるものではないにしても一聴の価値はあるだろうと述べた。 「さっそく図書館を訪ねました。リストによれば八点の録音が所蔵され、そのなかには『ワルトシュタイン』も含まれているとあります。バローが聴ける。わたくしは快哉を叫びました。ところが、バローのSPはすべて貸出しされたあとでした。利用者は遊佐浩一郎という同じミュンヘン大学でピアノを学んでいる学生でした。遊佐さんは日本から給費留学している人で、稀にみるテクニシャンとして学内でも注目をあつめていました」 「ちょっと待ってください。遊佐浩一郎、たしかそういいましたね」  島村夕子に関する調査にその名前が浮かんだことを蓮見は思い出した。沢木圭子がキャッチした数少ない情報のなかに登場した人物である。松芳学園在学中に国内の主だったピアノ・コンクールを制覇した逸材で、文化庁の芸術家在外研修員として将来を嘱望されてミュンヘンに渡った留学生だが、スイスで客死したと伝えられている。遊佐浩一郎のスイス客死と島村夕子のスイス入りが踵《きびす》を接していた偶然に、蓮見はなんとなくひっかかるものを覚えたのだったが……。 「遊佐さんとは同じピアノを学んでいてもめざすところが違っているように思われて、ほとんど口をきいたこともなかったのですが、貸出日から二ヵ月以上も経っていたために、たぶん返却を忘れているのにちがいない、このまま待つより直接彼から借りよう、そう考えて遊佐さんを訪ねました」  遊佐浩一郎はいなかった。ちょっと旅行に出るといい置いたまま、すでにひと月以上も下宿をあけているということだった。ヒトラーから口髭をとり、でっぷりと贅肉をつけた感じの家主は、くどくどと遊佐浩一郎の悪口を並べたてた。遊佐は家賃を滞納しているらしかった。下宿先を変えたのかもしれない、そう島村夕子は考えてみたが、大学にも年明けからずっと顔を出していないことを知ると、ただごとではない予感がした。 「それからひと月近く経った三月九日、大学の事務局からおもいがけないことを報らされました。遊佐浩一郎がスイスのインターラーケンの病院で死亡したというのです。変死なので遺体はベルン州立病院で解剖され、そこに安置されている、引き取りにいかなければならないのだが、わたくしに同行してほしいということでした。このときは遊佐さんの死をバローと結びつけて考えてみることなど思いもよりませんでした。シュタイン教授からはバローはすでにこの世にいないと聞かされていました。わたくしはベルンを訪ね、遺体を確認し、そして、遊佐さんの遺品のなかからおどろくべきものを見つけたのです」  島村夕子はショルダー・バッグから一冊の手帳を取り出し、カウンターに置いた。 「この手帳がそれです。あとで読んでください」  角《かど》の擦れた、黒革の、やや大判の手帳だった。 「もうおわかりでしょうが、バローを訪ねた一人目の日本人Xとは、この遊佐さんです。この手帳には、ひとりの青年ピアニストが、伝説の天才ピアニストの存在を知り、抗《あらが》いがたい力によって惹き寄せられ、熱病に憑《つ》かれたようにその幻を追い求め、困難な彷徨《ほうこう》ののちについに所在をつきとめ、対面し、魅入られ、しかしそれによって自己に絶望し、ついには命を落とすにいたるまでの軌跡が克明に記されています」 「彼の死は自殺なのですか」 「いえ、一般的な意味での自殺とは違いますが……」  その手帳を読めばわかる、島村夕子の目はそういっていた。  蓮見は手帳を取り、頁をめくってみた。冒頭ちかくを斜めに読む。 [#地付き]一月三日  [#2字下げ] ヒトラーが家賃の督促にきた。守銭奴め。送金には手をつけないで温存しておくこと。企てがどれほどの時間を要するか、それにともない出費もどのくらいかかるかわからない。アルザスへ向けて明朝出発する。ストラスブール、バローの生地だ。  島村夕子は続けた。 「これは手記ですから、遺族の方がお持ちになるべきものなのですが、会津の遊佐さんのご両親のおたくにうかがった際、わたくしの手におあずかりしたのでした」 「それはどういうことなのですか」 「わたくしは遊佐さんのご遺族に報告を済ませミュンヘンに戻ったら、早々にスイスのバローを訪ねる決心をしていました。バローに会ってこの手帳を見せ、あなたの才能がひとりの有為の青年を死に到らしめた、もちろんあなたには罪はないにしても、あなたの魔力に憑かれた一青年の死に到る軌跡を見てほしいと報告するつもりでした。ご両親はわたくしの申し出を承知してくださいました。その後わたくしはバロー先生に師事するようになったのでしたが、会津へはいくどか手紙を書きました。毎年のように会津からもバロー先生をおたずねしたい、終焉《しゆうえん》の地となったシュタウプバッハも訪れたいと便りがありましたが、それが実現する前にバロー先生のほうから日本に現れることに、ほぼまちがいなくそういうことになったわけです」 「会津の遊佐さんはバローの公演を聴きにきますね」 「ええ、そのときこの手帳をお返しするつもりです。もし、万が一わたくしがバロー先生を日本へお連れすることができず、わたくし自身も帰らない場合、これを会津の遊佐さんに送ってください」  島村夕子が帰国しないこともありうるのだ、蓮見は慄然として思った。つとめて平静にいった。 「そうならないことを祈ってます。バローとあなたの出会いを、くわしく教えてくれませんか」 「そうですね。長いプロローグが続きましたわ。……アルダン、別名ローゼンシュルフト、このスイスの小さな村の名を知る日本人はそう多くはいないでしょう。またここを訪れた日本人もわたくしの知るかぎりでは、遊佐さん、わたくし、それに平田佐一、この三人だけだと思います。スイスといってもオーストリーに近い山中の、温泉を近くに控えた渓谷で、初めてこの村に足を踏み入れたとき、まだ雪に埋もれていましたけれど、桃源郷というのはこれだと思いましたわ。村人たちは牧畜とワインづくりで生活しています。ここらあたりはもうさすがに日本人旅行者を見ることもありません」 「ローゼンシュルフト……、ローゼンは薔薇ですね」 「シュルフトは渓谷を意味します。夏には薔薇が咲き乱れる美しい谷間の村です。この美しい村にバロー先生の居城があります」 「居城?」 「ええ、十二、三世紀の中世様式の城塞。第一次大戦前まではオーストリーの貴族の所有になるもので、第二次大戦直前に全盛期のバローが買い受けたのです。大戦では撃墜王として勇名を馳せたというその貴族の建てた居館風の住居も連結していますわ」 「第二次大戦後、バローは世を捨ててその城に引きこもったわけですね」  なんだか浮世離れした、夢のような物語だと蓮見は思った。 「遊佐さんの手記のなかで最も感動的な部分はバローとの出会いのくだりです。いくたの困難ののちにとうとうバローの居城の前に立った遊佐さんは、まずバローそのひとの奏でるピアノの音と対面するのですが、その部分の記述は圧巻といってもいいでしょう。……このように美しい、このように人の心にうったえかけるピアノの音をぼくは知らない。どこまでも透明でいながら、色彩に溢れ、自在さと堅固な様式感の両立はなにか鬼神のわざとも思われる。ぼくはあり得べからざるものを前にしてただ立ち尽くしていた」  内容とは裏腹な抑制された口調で島村夕子が語るのを蓮見は黙って傾聴した。 「これではだれだってバローに会いたい、そのピアノを聴きたいと思わないわけにはまいりません。そうして、わたくしは実際にバローを聴き、ことばの空しさを悟りました。遊佐さんの記述でもとうてい追いつかないすばらしさでした」  不安と期待の交錯する、緊張にみちたバローとの対面を、そしてバローの底知れぬ芸術世界との戦慄すべき出会いを、静かに語りついでゆく島村夕子の物語は、高貴な魂が触れ合って木霊《こだま》するロマネスクな貴種流離譚であった。  酔いのせいばかりとは見えない、ぽっと上気して艶冶《えんや》な島村夕子の横顔を見ながら、ふと蓮見は、まだ見ぬジェラール・バローに、バローという異郷の老人に、卑近な表現を用いるなら棺桶に片足をつっこんだ老い耄《ぼ》れに、なぜか嫉妬のようなものを感じている自分を発見してしばし驚いた。 [#改ページ]   痩馬の蒼白き尾     1  九品仏へ帰るタクシーのなか、酔いのせいともいいきれない一種の悲哀が、胸を吹き抜けるのを蓮見は訝《あや》しんでいた。それは別れの持つ一般的な感傷とも違っているようだった。  夜が明ければ、島村夕子はバローをめざして機上の人となってしまう。夕子とともに過ごした時間はひどく永かったようにも、ほんの須臾《しゆゆ》の間にすぎなかったようにも思い返されたが、あんなにも快い、緻密な時間というものを蓮見は知らなかった。  長い睫《まつげ》の繊細な瞬きや、練絹《ねりぎぬ》のような声や、肌の白さに静脈が緑色がかって透けていた手の甲や、そんな島村夕子の属性の数々が脈絡なく再現された。  運転手の背中にホテルへとって返すように命じたい誘惑が、いくども蓮見の胸を過《よぎ》った。  手がふとかたわらに置かれた手帳に触れた。  忘れていたわけではなかった。帰宅すれば、熱いシャワーを浴び、酔いを醒ましてからこの手帳に目を通すつもりでいる。しかしいまはこの手帳が疎《うと》ましかった。手帳だけでなく、バローでさえもが、いまの気分からすれば疎ましい。自分が音楽雑誌の記者であり、島村夕子がピアニストであり、バローの存在がある。そうしていくつかの偶然。そのために島村夕子が接触してきたのは紛れもない。しかしこの事実は蓮見を楽しませなかった。  バローなどこの世に存在せず、島村夕子がどこかの婚期を過ごした平凡な事務員かなにかだったら、リサイタルをふたりで楽しみ、こんなに遅くまででなくともいい、アフターコンサートのひとときを過ごし、いま別れてきたのだったら……。  遊佐浩一郎の手記  [#地付き]十二月二十日  [#ここから2字下げ]  バローのベートーヴェンのすばらしさ!  ベートーヴェンだけではない。SP盤に収録されたすべてが空前絶後の名演だ。まさに天才だ。  それにしてもこれほどのピアニストがなぜ消息を絶ってしまったのか?  バローは大戦中ナチスに協力したため、戦後しばらく活動を停止されたという。くわしいことはライヒ教授もシュタイン教授も教えてくれない。  ただ、バローは一九四七年にベルリンで復帰演奏会を試み、ライヒ教授はその演奏会を聴いたという。  演奏前からせきばらいと私語がひどく、それは演奏中もずっとつづき、第一曲の「ハンマークラヴィーア・ソナタ」が終わると、怒号と歓呼、そして聴衆同士ののしり合う声が会場内をうめつくし、収拾がつかなくなった。バローはピアノの蓋を閉じ、二度とステージにもどらなかった。  当時ライヒ教授は少年だったが、ピアノの蓋を閉じたバローの姿がいまも忘れられないという。 「あのとき、バローはうつろな微笑をうかべて、静かにピアノの蓋を閉じた。彼は聴衆の前に永久にピアノの蓋を閉じてしまったのだ」  その後の消息は不明。  もう死んでいるのかもしれない。生きていたとしても八十歳になろうという高齢だ。  ぼくは生きているほうに賭けたい。死んだという確認はされていないのだ。  バローに会いたい。  ぼくはバローをさがす。さがしだしてみせる。シュタインもライヒもぼくにはあきたらない。ぼくの才能をかれらは本当にはわかっていないのだ。天才は天才を知るという。バローならぼくの真価をわかるだろう。 [#ここで字下げ終わり]  遊佐浩一郎がバローの魔力につかまった一節である。しかしこの手記の白眉は遊佐がフランス、オーストリー、ドイツ、スイスのほぼ全土を渉猟したあげく、ついにバローをスイス山中のローゼンシュルフトに見出し、その謦咳《けいがい》に親しく接するくだりだった。 [#地付き]二月二十六日  [#ここから2字下げ]  ついにバローの居場所をつきとめた!  この日をどれほどまちのぞんだことか。  やはりぼくの方法は正しかった。しらみつぶしにあたればいつかはバローにでくわすと信じていままでやってきたのがむくわれたのだ。きょうも昨日につづいてチューリッヒの調律師と楽器店とを順ぐりにあたって、顧客名簿を見てまわったのだが、ジェラール・バローの名前はどこにもなかった。しかし、四番目に訪ねた楽器屋の顧客名簿に、  ジェームズ・バロウズ 在アルダン村。  このイギリス人かアメリカ人めかした名前を見いだしたとき、電撃が全身をかけぬけた。これだ! ぼくは直観したのだ。  楽器店主でもあるまだ若い調律師はバロウズなる人物の特徴について教えてくれたが、ぼくは確信を深めるばかりだった。  また、バロウズの発注した楽譜や本のタイトルはぼくの胸をときめかせた。それらからは最新の研究や新作に関する彼のなみなみならぬ関心がうかがえた。彼が決して過去の人ではないことが物語られていたからだ。  あしたぼくはバローの前に立つことになるだろう。待ちに待った日だ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]二月二十七日  [#ここから2字下げ]  アルダン(ローゼンシュルフト)は谷間の村だ。扇形の中央部にあたるところに丘というか小山というか、小高い丘陵があってその頂上はせまい平地だが、そこに城塞がそびえている。古い様式なのだろう、ぶこつな造りで、規模もあまり大きくない。絵本に出てくるようないくつもの尖塔を持つ華麗な城ではない。  つづら折りになった急勾配の道を登り、城門の前に立ったとき、ぼくはピアノの音を聴いた。全身を耳にして立ちつくした。—— [#ここで字下げ終わり] (——ここからは、島村夕子がホテルのカウンターで暗誦してみせた一節である)  蓮見はこの手帳がおそらく幾度となく読まれ、さまざまの感慨を島村夕子に与えたことに思いを馳せ、読みさしにして、煙草に火を点じた。  遊佐浩一郎がこのとき洩れ聴いた曲は、ラヴェルの「夜のガスパール」である。 [#ここから2字下げ]  気がついたときぼくは薄暗い広間にいた。すでに夕闇が迫っているのだろう、明かり取りからは淡い鉛色の光が差し込んでいるだけだった。  ピアノに向かうバローはこちらに背を向ける位置にあった。曲は〔絞首台〕から〔スカルボ〕の部分に進んでいたが、ラヴェルの巧緻きわまるピアニズムがここでは何の苦もなく弾きのけられて、妖怪スカルボの跳梁を実際まのあたりにするような白熱した幻想と、透徹したピアニズムはほとんどこの世のものとも思えなかった。  曲が終わり、バローは何やらぶつぶつとつぶやいていた。どうやら演奏が満足に行かなかったことを呪うことばのようだった。ドイツ語だった。やくざな手だ、とか、この指どもを猿にくれてやるぞ、とかいっているらしいがヒアリングに弱いぼくにはあまり理解できなかった。 [#ここで字下げ終わり]  こうして遊佐浩一郎はバローにあいまみえるわけだが、バローがこの遠い国から来た客を好意的に受け入れたのは、音楽に携わる人間との絶えて久しい対面だったことによるらしかった。訪れる者といえばローゼンシュルフトの村人ばかりで、村人たちは教会の半分壊れたオルガンを魔法のように奏でるバローを敬愛してはいるが、もとよりバローの真価を知る者はなかった。バローをバローと知って訪ねてきた遊佐浩一郎は最初の人間だったのである。その栄に浴する者としての厚遇に遊佐はあずかることができた。  遊佐浩一郎は居館の一室をあてがわれ、ピアノは城の広間のベッヒシュタインを自由にさせてもらい、バローから毎日一時間の時間を割いてもらうことになった。  最初に与えられたのはバッハの「ゴールトベルク変奏曲」で、一週間にわたってレッスンが行われた。バローはおよそ考えうるさまざまの解釈やスタイルでこの大曲に関する薀蓄《うんちく》を傾けた。  次に課せられたのはベートーヴェンの「幻想曲ハ短調」である。この曲を遊佐浩一郎はそれまで弾いたことがなかったが、とりあえず三日のあいだ集中練習し、バローの評を仰ぐこととなった。遊佐浩一郎はそうとうの自信をもって臨んだのだが、無慙《むざん》な絶望に直面することとなった。  その間の事情は次のように記されている。 [#ここから2字下げ]  ——たちはだかる難所をバローの指はなんなく滑り抜けていく。信じがたい美音を残しながら。しかし、たとえば音階《スケール》に関してはぼくのテクニックはバローになんらひけをとるものではない。いやむしろメカニックからいえばぼくの方が確実であると思われる。  ところが結果の、表現の、なんというちがいだろう。単純な音階がバローとぼくのそれとはまるで次元が異なるもののように響くのだ。速度感というのは音楽においては単純な時間の問題ではないのだ、とバローはいう。この曲にスケールが頻出するからといって、きみのようにスケールだけをまるでメスで切り取るようにして、そればかり練習する、それは無意味だ。そうバローはいって、全曲を弾いた。ぼくは気の遠くなるような距離をバローに感じた。 「あしたもう一度聴かせてもらおう」  あした、しかしぼくはバローを納得させる演奏をなしうる自信がない。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]三月五日  [#ここから2字下げ]  バローは悲しそうな目でぼくを見た。あの目を忘れることはないだろう。あれはあわれみの色だ。ぼくはあわれむべき無能なピアノ弾きなのだ。  どうしても弾けない。スケールがやはりダメだ。  ぼくはピアノを前にしてボーゼンと立ちつくしていた。  そこへ、村の少年らしい、十歳前後の大きな目をしたこどもがやってきた。彼はチーズを届けにきたらしく、バローは満面に微笑をうかべて少年に小銭を与えた。少年はぼくの存在にはおかまいなく、もの慣れた感じですばやくピアノの椅子にかけると、ハイドンのソナタを弾きはじめた。  その演奏!  すばらしいハイドンだった。しかも、少年は自分の才能やかがやかしい演奏をすこしも知らないかのように弾いているのだ。まるで自然に、かけたり、とんだりするような自在さで。 「フリッツをどう思うか?」  バローはきいたが、ぼくは答えられなかった。 「とてもいいピアノを弾くだろう。もちろんこの子にベートーヴェンやブラームスは弾けない。しかし、バッハやハイドン、モーツァルトをそれは見事に弾くんだ。フリッツは村の教会の息子でね、神さまがわたしの人生の終わりにお与えくださった贈り物だ。わたしのたった一人の弟子なんだ。しかし、この子が楽壇を征服する頃、わたしは生きていないだろう。それが残念だ」  もしかして、バローはぼくのためにこの少年を呼びよせたのではないだろうか。あきらめろというかわりに。 バローは少年を帰すと、窓の外に視線をむけ、きびしい声でいった。 「フリッツのような才能がきみにはない。それはわかるだろう? だとすればきみは努力するしかない。……学びたまえ。きみの演奏には豊かな感情の、あたたかく、脈々たる流れがない。自然の変化を見たまえ。自然には無駄なものがない。そして、神の法則と叡知にみちあふれている。きみのスケールは人工的な機械の匂いがする。……痩馬の蒼白き尾を見るがいい。始まりも終わりもない、あの瀧。まさに神の作品ではないか。万物に表現のヒントはあるのだ」  ——痩馬の蒼白き尾?  それがいったいなんであるのか、ぼくは質問した。  それはラウターブルンネンにあるシュタウプバッハとよばれる瀧で、かつてバイロンはその姿を「痩馬の蒼白き尾」と比喩したのだという。  明朝、ぼくはインターラーケンに旅立つ。シュタウプバッハの大瀧をこの目で見たい。この目で確かめ、バローの言葉の意味を考えてみたい。 [#ここで字下げ終わり]  手記は翌六日で終わっている。 [#ここから2字下げ]  正午過ぎ、インターラーケン到着。スイスの登山電車の普及に感謝。ブリエンツとトゥーンの二つの美しい湖にはさまれた町だが、アルプス登山の拠点だけあってか予想していたより大きな町だ。観光地という雰囲気で、あまり面白くない。ブラームスが滞在したことのあるトゥーンの町はここの西隣り。  一時、昼食。バターパン。スープ。ソーセージ。チーズ。何かの果実の干したもの。どれもこれもまずい。ワインはなかなか美味なり。セキ、止まらず、エフェドリン服用。熱があるようだ。  二時、ラウターブルンネンへ出発。 [#ここで字下げ終わり]  記述はここまでである。  次の頁からは空白が続くが、紙片が挿んであり、それは島村夕子の書いたものである。 『このあとの経過を以下に記します。  シュタウプバッハの大瀧落下点近くに倒れていた遊佐氏が村人に発見されたのは、この六日の夕刻。インターラーケンの病院に収容され、翌々日の八日午後四時四十分絶命。死因は急性肺炎。翌九日、遺体はベルン州立病院にて解剖。翌十日、ミュンヘン大学事務局職員ハイネマン氏とともに、遺体と対面。  警察の簡単な事情聴取あり。手記の内容について、変死の原因に関わる記載の有無を問われるが、そういう記述はいっさいみあたらないと答える。(遊佐氏の死の原因に関して犯罪を構成するなにものも認められませんでしたし、隠遁のバローをめんどうなことにまきこみたくなかったのです。私はバローに会えるということで昂奮していました)  二十日、日本へ帰国。会津の遊佐家を訪ね、両親と面談。  バローとは四月二日、対面。  遊佐浩一郎のことを報告するも、バローは遊佐氏の死を知らず、驚愕する。バロー終日喪に服す。  四日までバローの居城に滞在。ピアノに関して、また音楽に関し、バローに底知れぬものを感じる。師事したい気持ちを伝えるもバロー、遊佐氏の不幸のあとだけに、かたくなに拒む。  四月七日、ミュンヘン大学辞表受理。ミュンヘンの生活を切り上げ、同月十五日バローのもとにおしかけ、一方的に入門する』  シュタウプバッハの瀧に遊佐浩一郎が何を見、何を感じたのか、手記には記述がない。おしまいが落丁している推理小説のようだと蓮見は思った。  手記に書かれてあることはほぼ理解できるように蓮見は思う。しかし遊佐浩一郎のいうバローとの「気の遠くなるような距離」は、本人にしかわからない。  蓮見は一面識もない遊佐浩一郎を思い泛べてみた。孤独なうしろ姿を描いてみた。  ふっと島村夕子の弾くショパンの嬰ハ短調のノクターンが聴こえた。孤独が純粋結晶したような曲尾の音階の反復。  孤影悄然たる遊佐浩一郎のうしろ姿は、蓮見の想像では見知らぬシュタウプバッハの瀧ではなく、荒涼とした蒼い氷河をとぼとぼと歩く人の姿だった。ショパンの、美というものがともすれば不幸と手を携えていることをたくまずして語ったような、かけのぼり、かけおりる孤独な音階が一閃すると、そこには烈しい風が吹いて雪煙りが舞うのだった。その人はここでは遊佐浩一郎でなくともよかった。美に憑かれた人の背中だった。世界で最も不幸な人の。     2  翌朝、蓮見が昨夜の顛末《てんまつ》を舵川に報告していると、おりしも当の島村夕子から電話があった。昨夜はややこしいことにつきあわせて申し訳なく思っている、午後スイスへ発つ、バローの来日が確定すればただちに連絡するので待っていてほしい、というようなことだったが、蓮見としては舵川のてまえがあって、成功を祈っている、受け入れ準備については可能なかぎり努力してみる、という常套句を伝えることしかできなかった。  間合いを見はからって横から舵川が受話器を奪った。 「舵川と申します。ちょうどいま、バロー氏|招聘《しようへい》に関して蓮見から話を聞いていたところでした。よりによってたよりない男にあなたも声をかけたものですな。とはいうものの、かりに彼が辣腕《らつわん》だったとしても、今度の問題はあまりにも多くの障害を含んでいて、ご期待に添えるかどうか心もとない状態です。私はしがない編集者ですが、もちろん、私も、社もできるだけの協力をさせていただくつもりです。  なんとかなりますよ。世紀のイベントですから、なんとかしなくちゃいけません。ところで蓮見はどうやらあなたと一緒にスイスへ行きたかったようですな。顔にそう書いてあります。しかしそうもいきません。彼には今後はバロー招聘の担当者として働いてもらわなきゃなりませんからね」  吉報を待っている、と励ますようにいって、舵川は電話を蓮見に代わった。  蓮見はすこしためらったのち、 「シューマンの『夕べに』ですが、終生忘れがたい演奏でした」 「冷や汗がでます。なんてことをしたのでしょう」 「遊佐さんの手記、読みました。遊佐さんのご両親は、バローの来日公演にまっさきに招待しなきゃいけませんね」 「ええ」 「手記は三度、読み返しました。なかなか重い内容で……。そうだ、あなたにはきょうだい弟子がいるんですね?」 「きょうだい弟子? ああ、フリッツのこと? ……あの子はわたくしよりうまいの。彼はわたくしのもう一人の先生だし、ボーイフレンドなんです」  夕子の声がここではじめてのびやかな調子を帯びた。 「日本のチョコレートが好きで、きっと向こうのより甘いからでしょうね、空港でたくさん買わなくちゃ」  蓮見はちょっと間を置いてから、明るい声でいった。 「バロー招聘をあなたはさだめしご自分の天命だと思ってらっしゃるようだが、ぼくも覚悟を決めましたよ」 「天命?」 「そうです。いまでは死んでしまったことばですが」 「わたくしにはうれしい餞《はなむけ》のことばになりましたわ」  受話器を戻してから蓮見は舵川の顔を眺めた。  はからずも舵川の意嚮《いこう》が知れたかたちだった。 「いいんですか?」 「しばらく編集からはずす。圭子ちゃんもパートナーにしていい。事業部とは早急に打ち合わせをやろう。スポンサーだが、関東新聞はどうだ?」 「協賛とか後援のかたちですか?」 「ああ、主催はあくまでうちだ。非力とはいえ、依頼を受けたのはおまえなんだから、筋は枉《ま》げたくないじゃないか。関東新聞の事業部には知り合いはないが、学芸部長とは古いつきあいだ」 「NHKはむずかしいでしょうね。なにしろバローは贋作問題の主人公だから」 「民放を動かそう。しかし日程が定まらないことにはな……。日取りが決まるまでにやっておけることをチェックしておこう。とりあえずは各方面の根まわしをしておかなきゃいけないな。その際、伊原系列は避けなければならないから、これはなかなかむずかしい仕事だぜ。ポスターの制作などはいまからとりかかっても早すぎることはない。予告記事を出したいところだが、これも日程しだいか。いっそ、『FMジャーナル』にも声をかけてみるか。週刊誌はこんなときは強いな」 「それはまずいんじゃないですか」 「リサイタルの成功が前提だ。事業部始まって以来の大イベントなんだから、ここは超党派でいくこともやむをえんだろう。記事として扱ってくれるか、広告扱いか、断られるか、それはわからないが」  静かな昂奮が身内にわいてくるのを蓮見は覚えた。舵川と酒を酌みかわしながらバローの来日公演に思いを馳せたのはついこのあいだで、それがいまや多難な雑事を伴う現実の急務に変わっていることが蓮見には不思議な気がした。 「問題は会場だな」  舵川が渋面でいった。 「会場ですね」  バローが来日するとしても、会場を押さえられなければ、バローは港のない船にも等しい……。蓮見も眉間に皺《しわ》を刻んだ。  そこへ、沢木圭子が新聞の束を持ってきた。 「赤鉛筆で囲んであります。関東新聞は客観的に書いてますけど、東都新聞なんかは演奏が贋作で、島村さんの代奏だと決めつけてるような調子です。それから、二時からの新東京テレビのワイドショー、特集を組んでるようです。番組見出しがこれも過激です」  圭子が指で示した活字に、蓮見は顔から血の気がひいてゆくのがわかった。  ——やはり島村夕子の代奏? 目撃! 深夜、ホテルのバーでピアノ演奏  昨夜の行動が監視されていたとはおもいもよらなかった。胃の腑を搾《しぼ》られるような畏《おそ》れを覚えた。  ブラウン管に自分が映っている。  とりのぼせた蓮見が島村夕子の前に飛び出して釈明する場面、そして直後のつかみあい。テレビカメラが向けられていたことにまったく記憶のない蓮見は、ただ驚くばかりだった。 「——この蓮見氏という人物、実は『音楽の苑』という雑誌、クラシックの専門誌では最大の雑誌なんですが、その『音楽の苑』の編集部員ということなんです。  この蓮見氏が島村夕子さんとどのような関係にあるのか、取材ということだけが介在している間柄なのか、そうでないのか、はっきりしておりません。いまごらんいただいた騒動の直前、つまりキーシンのリサイタルの前、六時前後にこのふたりが人見記念講堂のグリルで一緒にコーヒーを飲んでいるのが目撃されていますが、それはたいへん親密な雰囲気だったということです。  また、この騒ぎのなかから抜け出した島村夕子さんと蓮見氏が、駐車場に駐《と》めてあったシトロエンのチャールストン、いま画面に映っている写真と同型の外車なんですが、ふたり手に手を取ってこの車でどこかへ姿をくらましたという報告もあります」  リポーターの報告を蓮見は茫然自失して聞いていた。「蓮見氏」というのがまちがいなく自分を指しているのに、見知らぬ他人のことのような実感のなさだった。  テレビに視線を釘付けにされている蓮見の背後に、圭子が立っていた。  蓮見は圭子の視線を痛いように感じた。 「どうもとんだことになっちまったよ」  返事はなかった。  画面が変わった。高輪のホテルである。映像はスチールになっている。 「人見記念講堂から姿を消した二人は、それから三時間後、この高輪のホテルのバーに顔を出します。このホテルに島村さんは常宿していまして、はやくからスタッフは監視を続けていましたが、ホテルのバーにあらわれ、なんと島村さんがバーのピアノを弾くという場面に遭遇したわけです」  映像はピアノにむかう島村夕子に変わる。これもVTRではなく、モノクロのスチール写真である。どこからかレンズを向けられていたというのも信じがたい気がした。蓮見は自分が捕虫網の中の虫のような気がした。  音が入ってきた。音質は悪いが、まぎれもなく島村夕子の弾くショパンだった。 「いま、聴こえていますのは、そのときの彼女の演奏ですが、三十分近く演奏を行ったわけです。曲目や演奏については、のちほど専門の先生をスタジオにお招きしておりますので、お話をうかがいたいと思いますが、問題のコンパクト・ディスクに収録されているシューマンの小品もこのとき島村夕子さんは演奏しています」  リポーターのおおげさな口調の報告はまだ続いた。 「蓮見氏はこのあと、バーを出、タクシーに乗り込みます。見送った島村夕子さんは部屋へ戻るのですが、それが十二時をすこし回った頃だった。だいたいこんなところです」  司会者がこれに応じて、 「なるほど。島村夕子さんがピアノを弾いたという事実からしますと、あのCDが贋作だとして、その影の演奏者が彼女自身である可能性が考えられます。というのも、島村夕子さんは西洋美術史、また西洋拷問史の研究家と名乗っているわけですが、彼女のピアノが趣味程度以上のものであるとしたら、なぜピアニストというふれこみをしなかったのか、この当然の疑問が生じ、西洋拷問史研究家というのは隠れ蓑《みの》なのではないか、そんな推理もできます。  そこで、われわれスタッフは島村夕子さんが西洋美術史、ヨーロッパ中世史、西洋拷問史といった分野ではたしてどれほど名が通っているのか、調査してみました。ところが、まったく意外なことに彼女の名前はどこにも存在しなかったのです。つまり、そういった分野では彼女はまったく無名ということです。  では、島村夕子のピアノはいったいどの程度の水準なのか、アマチュアの域を出ないものなのか、それともピアニストといえるような水準にあるのだろうか、これについて専門の先生にご意見をうかがうことにしましょう」  二流の音楽大学のピアノ科の助教授の肩書で登場した、その専門の先生というのは、蓮見の知らない男だった。音楽雑誌に執筆するような人物ではなかった。 「有名な人なんですか」  圭子がいい、返事をためらう間もなく、舵川が答えた。 「知らない先生だ。なんだかたよりないな」  蓮見は背後の舵川と圭子をふりかえることができなかった。 「結論からいいますと」男は、すこし吃《ども》りながらいった、「録音がもうひとつよくないのですが、プロ級の腕前だといってまちがいありません。弾かれているのが超絶技巧の曲ではないので、どこまでテクニックがあるのか、高度な技術を要する曲や、大曲をバリバリ弾ける人かどうかは判然としませんが、かなり堅実な技術を持っている人であることは事実です。もっとも、この程度に指の動く人は最近では学生あたりにもごろごろしていますからね。ただ、音や響きのつくり方がたいへんきれいですし、レガートといいますが、旋律をなめらかに歌う技術、これは相当のものがあります」 「といいますと、プロのピアニストとして通用する腕前だといってさしつかえない、ということですね」 「ええ、プロといってもピンからキリまでありますし、ステージピアニストになるには技術や音楽性だけではなかなかむずかしい面もあるわけですが、この人がステージピアニスト、コンサートピアニストだとしてもおかしくはないですね」 「曲について何かわかりませんか」 「二番目の曲、それから三番目、四番目、これらはちょっと曲名がわかりません。ロマン派時代の作風です。あまり演奏されることのない曲で、だいたい七曲とも演奏機会の少ない曲ですね。最後に弾かれたのがシューマンの『夕べに』でして、これはバローのCDの中に収録されている曲です」 「その演奏を比較して、どんなことがわかりますか?」 「録音条件がまったく違うので、比較はむずかしいのですが、演奏時間の比較ではCDが四分三十秒、島村夕子さんの演奏が四分四十秒、ともに遅い部類に入る演奏です。ルバートといいまして、テンポをゆらすように弾くスタイルは共通しています。最近のピアニストはこういう弾き方はあまりしませんね」 「ほほう、古風なタイプの演奏というわけですね」 「まあ、昔の演奏家のほうがこんな解釈をしましたね」 「ずばりいって、どうです? 両者は同じ演奏家のものだといえますか?」 「そういう乱暴な断定はできませんが、フレーズの頭にアクセントを付けている場所があって」  画面に楽譜が引用され、男はマジックで印を書き込んだ。 「ここと、ここ、そしてここです。このアクセントは両方の演奏に共通して存在します。まあ、非常に似通った演奏だということはいえます。CDの演奏がバローで、その演奏スタイルを島村夕子さんが踏襲しているという見方もできますね」 「同じ人間が弾いているとみることもできるわけですね」 「可能性としてはあります」 「どれくらいの可能性ですか」 「他人の演奏をまねるというのはなかなか困難なのです。島村夕子さんはコンサートピアニストの実力をじゅうぶんに持っておられるようですから、これくらいのレベルの人だと自分の音楽、音楽の息づかいというものができていて、なかなか他人の演奏のコピーはやりにくいのです。ですから、同一人の演奏である可能性もなくはない。ま、あくまで可能性の問題ですよ」  どうやら男はギャラにつられて出演に応じたのにちがいなかった。司会者に迎合的で、逃げ道も用意している。 「ここで、問題のコンパクト・ディスクを発売されている『ミネルヴァ東京』の平田佐一さんにお話をうかがいたいと思います」  平田までよんでいるとは……、蓮見は小さく唸った。 「へえ、これが平田か。これはなかなかむずかしそうな男だな」  舵川がつぶやいた。  平田は昨夜とほぼ同じことをいった。  もし贋作だとしたら、自分が被害者であること。今後、真相糾明に努力するつもりであること。 「いずれにしても、贋作かどうかというまえに、これだけ疑惑視され、物議をかもしているという事実は販売元としてたいへん遺憾であり、場合によっては返品に応じる態勢も整えたいと考えています。市場およびユーザーからの回収も考慮しています。そうなると、当社としては島村夕子氏へ賠償を要求することにもなりかねないでしょう」  悪い想像がどうやらあたっていたようだった。利益を独りじめしたうえに、賠償を求めてくるくらいのことはやりかねない。CDの売れ行きを睨みながら、それがピークに達した頃を見計らって形だけの回収広告を出し、法外な金額を吹っかけてきたとしても不思議はない。  この騒動で売れ行きが伸びることはあれ、下がることは考えられなかった。むしろ事態は平田の希むように運んでいる。  蓮見の胸を疑心暗鬼のおそろしい想像が過《よぎ》った。——平田佐一と島村夕子は組んでいるのではないか? バローはほんとうにこの世に存在するのか?  島村夕子のあの深い湖のような瞳を思い出すと、それは荒唐無稽な仮定であったが、蓮見はわれしらずポケットに手をしのばせた。てのひらに夕子のくれたハンカチーフがふれた。  場面がまた変わった。空港からの生中継だった。ここまで手を伸ばしているテレビ局のエネルギーに蓮見はあらためておそれをなした。島村夕子は数人のリポーターとカメラマンに追尾されている。 「これはひどいな。タレントならマネージャーがいるが、彼女はノーガードだからな」  舵川がいった。  島村夕子はサングラスをかけていた。リポーターは島村夕子を取り囲み、歩行にしたがって移動していた。たえまない質問が浴びせられ、かたくなに島村夕子は沈黙している。足取りが速くなり、画面が不安定に揺れる。  島村夕子は立ち止まった。  ——すべてはバロー先生の来日とともに解決します。どうかそれまで待ってください。  ——道をあけてください。行かなければなりません。バロー先生の招聘はわたくしの天命なのです。  蓮見はハンカチーフを持つ手に力をこめた。 [#改ページ]   かくて巨匠、舞台に……?     1  十月二十日、島村夕子から国際電話による第一報が届いた。バローが公開演奏を承諾、訪日準備にかかったというものであった。  二十三日、ファクスによる第二報。以下はその全文。 『十一月二十八日成田着。滞在期間は十二月末まで。プログラムは六種。うち三種が協奏曲、あとはリサイタル。再演は行わない。したがって演奏会は全六回。会場は東京およびその周辺に限る。協奏曲については至急共演オーケストラを手配されたい。但し指揮者は不要。  曲目は、モーツァルトのピアノ協奏曲第二〇番ニ短調K四六六、同第二七番変ロ長調K五九五、ブラームスの第一番ニ短調、第二番変ロ長調、サン=サーンスの第二番ト短調、ベートーヴェンの第四番ト長調、以上ピアノ協奏曲六曲。リサイタルのプログラムについては未定。  ピアノはスタインウェイ、ピッチは四四一ヘルツ。  なお、成田到着後ただちに聖路加《せいろか》病院に入院。滞在中は医師の監督下に置き、リハーサル及び本番には医師と看護婦を随行する。この件については村井両平に手配済み。したがって投宿ホテルの予約は無用。日程の組み立て、主催・後援関係の設定、会場手配、料金設定、広報宣伝、スポンサー、放送契約、録音契約等に関しては一任。報酬等については後日相談』 「いよいよやってくるか」  舵川は感に堪えたようにつぶやいた。 「ええ、やってきます」 「再演なしの六プログラムというのは豪気なもんだ。もったいないくらいだな。しかし協奏曲までやるとは想像していなかった。会場さがしに加えて楽団手配とまたひとつ難題が生じたわけだ」 「オーケストラは年末にかけてどこも手いっぱいでしょう。十二月は第九の時節ですから」 「そうだな。ところでこの指揮者不要というのはいったいどういうことなんだ?」 「バロー自身が指揮者を兼ねるということじゃないでしょうか」 「なるほど。ピアノと指揮の二役か。だとしたらさらに興味倍増というところだが、こっちはますます胃が痛くなってきた。当事者じゃなきゃ、近頃これほどわくわくすることはないんだがな」  舵川は遠くを見る目をして、ゆっくり描写するように語った。 「飛行機が到着する、タラップが懸けられ、出入り口がゆっくりと開く、そうして島村夕子に付き添われたバローがおもむろに姿を現す、ひしめき合っている歓迎陣と報道陣からどっとどよめきが起こる、フラッシュの閃光が花火のように氾濫する」 「それはたしかに劇的な一幕ですが、タラップではないでしょう。飛行機はサテライトに横づけされて、乗客はブリッジの動く歩道を運ばれてくる」  舵川は一瞬鼻白んだが、すぐに続けた。 「いや、タラップでなきゃだめだ。絵にならないじゃないか」 「そりゃ、そうですが。……どうもひどく時代がかってますね」 「まあ、そうかもしれん。しかし現実問題として出迎えは優に二百名を越えるだろう。ここはどうしてもタラップだ」  自分で納得したようにいい、ちょっと考え込む顔で、 「しかしこれは空港と航空会社に交渉しなきゃなるまい。いや、この演出はおれが責任を持って実現させる」  舵川のいい分はあながち大時代と片づけられなかった。バロー来日はいわば現代の神話であり、それにふさわしい舞台装置が欲しいというのは蓮見も同じ気持ちだった。コルトーやバックハウスなどプロペラ機で訪日した往年の大ピアニストがそうであったように、やはりバローもタラップをおもむろに降りて来なければならない。途中で歩みを止め、右手を高々と掲げて答礼しなければならない。  そもそも話題の火付け役となった雑誌だけに「FMジャーナル」はバロー来日に積極的な取組みを示し、十月末発行の同誌に「バロー来日決定」の特報を掲載した。  もはや「幻のバロー」ではなくなった——、蓮見の感慨もひとしおであった。  関東新聞は十一月一日から五日にわたってバローの来日特集記事を掲載した。バローの経歴から始まって、偉大なピアニストたちの系譜をあわせて紹介し、バローに期待する各方面の声で結ぶ大特集だった。とりわけ「ステージなき巨匠」という見出しで、来日決定にもかかわらず会場確保が思うにまかせない現況を訴えた最終日の記事は、公演成功の死命を制する重大な布石だった。  記事の反響は大きく、会場契約を譲ろうと名乗り出た演奏家が二名現れた。ひとりは新進女流ピアニストのN、もうひとりは中堅ヴァイオリニストのWだった。ほぼ同時に二人からの申し出が「楽苑社」の事業部宛てに寄せられたが、会場、日時ともにうってつけであった。  もちろんこの顛末は美談の体裁を取って、関東新聞の紙面を飾った。記事は、 「なによりも偉大なバロー氏の実演に接したい一心から出た行為であり、音楽家として当然の心情である」  というような両者ともほぼ同じ趣旨のコメントに、顔写真が添えられ、両名にとってもおおいに宣伝効果をあげるものだった。またマネジメント・オフィスは両者ともに大阪に本社を持つ中堅の「ムジカ工房」だったが、切符の払い戻し業務をはじめ、変更にともなう数々のリスクをすべて事務所の負担としたため、この美談の仲間入りを果たすこととなった。  放送に関しては民放各社が激しい争奪戦を展開、録音契約に関しても主要なレーベルがいっせいに申し込んできたため、蓮見たちの仕事はほとんど防戦いっぽうのかたちを呈してきた。蓮見や沢木圭子は連日帰宅できない日が続いた。  十一月はまたたくまに忙殺の旬日が過ぎ、下旬を迎えることとなった。  楽苑社の主力三誌も、二十日発行の十二月号には大々的なバローの来日特集を組み、おおいに前景気をあおった。  いっぽう、CD「ジェラール・バローの芸術」は贋作疑惑以来、記録的な売上げを示し、すでに発売枚数は五万枚とも十万枚とも噂されていた。ブーニンの数種のCDが半年で都合四十万枚に届こうという実績を記録して、週刊誌ダネになったほどだったが、これはそれをしのぐ破天荒の数字であった。  いまのところ平田に不穏な動きはなかった。予想をはるかに上回る売れ行きに誰よりもたじろいでいるのは平田のはずだった。ブームの鎮静化しないうちに一枚でも多く売ろうと血眼になっているにちがいなかった。  バローの録音・録画の出版契約に関しては「グロリア・レコード」が金的を射止めた。平田という飼犬に手を噛まれた会社が契約に成功したというのも何かの縁かもしれなかった。  放送についてはすべての民放が希望してきていたが、業界最大の「全日本放送株式会社」の「テレビ全日本」がテレビ放映権を、「ラジオ全日本」がFM放送権をそれぞれ獲得した。伊原系列である某局からも申し出があったが、島村夕子の意嚮を汲んで敬遠した。この動きに呼応するようにNHKから取材したい旨の申し入れがあり、初日の開演のもようはニュースとして各国へ紹介される運びとなった。さらにABC、NBC、CBSの全米三大ネットワークをはじめとして、英国BBC放送、フランス国営放送、イタリアRAI放送等、オーストリー、スイス、東西両ドイツ、東欧諸国の各放送局・放送協会が乗り入れを申し出てきた。  各国の新聞、週刊誌、音楽雑誌からも取材の申し入れがあいついだが、なかでもスイスのマックス・シュミットというルポライターから寄せられた書簡が蓮見の興味をひいた。シュミット氏はかつて「ベルン州報」紙の記者として遊佐浩一郎の死亡記事を書いた人物ということだった。英訳を付した記事のコピーが同封されていた。 「……なお、ベルン州立病院には国立ミュンヘン音楽大学の事務局職員と日本人女子学生の二人が遺体の確認および遺品の受け取りに来た。その日本人女性はインターラーケンに足をのばし、最期をみとった医師と看護婦に面会し、ラウターブルンネンの村を訪ね、シュタウプバッハの瀧の下に花束を捧げた」  記事の末尾に出てくる島村夕子を日本人女子学生としているのは誤報で、島村夕子は研究員の身分にあったわけだが、読み了えて蓮見は感慨を覚えた。  シュミット記者はその後新聞社を退職し、フリーのライターとして、映画・音楽・演劇の芸術総合誌「ヘルヴェチア文化」に音楽記事を提供している由で、はるかな日本で実現したバローの舞台復帰劇を、随時記事にまとめているという。来日の際は御高配を賜りたいと結んであった。  そもそもバロー事件はスイスで客死した遊佐浩一郎にはじまる。遊佐の死を取材したシュミット氏を逃す手はない。蓮見はさっそく関東新聞に紹介した。  かくて、一老音楽家の復帰演奏会は、全世界の注視のもとで開催されるという、まさに世紀の大イベントにまで発展したのである。  十六日付けの関東新聞日曜版にはローゼンシュルフトのバローの居城がカラー写真で登場し、バローの練習風景のスナップもあわせて掲載された。むろんかたわらには島村夕子が控えるという構図だった。  バローの跫音がそこに近づいている感じだった。すでにチケットに関する問い合わせはひきもきらなかったが、この記事と放送の影響は大きく電話が殺到しはじめた。  やむなく、日時、料金、会場は未定のまま、予約の受付を開始し、急遽、麹町《こうじまち》の関東新聞の一室に事務所が設置された。楽苑社からは蓮見と沢木圭子が、テレビ全日本と関東新聞の事業部からもそれぞれ一名、計四名のスタッフが業務にあたることになった。  来日を目睫《もくしよう》にしながら前売り券は未発売という異例の状況下、チケットに関しては発売と同時に完売になるだろうとの予測が立ったものの、かんじんの会場確保と共演オーケストラの問題は未解決のままだった。  二十一日夕刻、日本の代表的な火山が大噴火し、テレビの深夜におよぶ特別番組は人々の目を釘付けにした。蓮見もまた例外ではなかった。この二百九年の仮眠を経ての凄絶な噴火活動の映像を前に、蘇るバローをなぞらえる気分が、不謹慎ながら或る昂奮を伴いつつ身内を涵《ひた》すのを覚えないではいられなかった。  二十三日、会場と楽団の確保が解決できないまま心臓をしぼられるような焦りを覚えてきていた蓮見たちに、急転直下という感じで朗報を運んできたのは村井両平だった。  人見記念講堂での一件以来、蓮見と村井には一種の親愛の感情が生まれており、ときおり蓮見を名ざしで事務の進捗状況を案じる電話など入れてきていたが、村井もまた会場問題とオーケストラの確保を憂慮している一人だった。  麹町の事務所にやってきた村井は話を外でしたいようすだったので、地下の喫茶室にふたりは降りた。 「十二月の六日が東京文化会館、七日が神奈川県民ホールでしたね」  村井は手帳をめくりながらいった。 「そうです、あと四回の公演がいまのところどうにもならないのです」蓮見も予定表を取り出しながら答えた、「八日、九日と空いている大ホールもあるにはあるのですが、四日連続ではバローもお客も負担が大きすぎてダメです。二十日前後はどこも塞がっていますし、あまりおしつまってというのもなにかとまずい」 「十二日の金曜日、翌十三日土曜日、十九日金曜日、二十日土曜日、これでいかがでしょうか」  おびただしい書き込みのされた十二月の予定表から蓮見は視線を外し、うつけたように村井の顔に見入った。 「それは、もちろんそれは理想的な日程ですが……」 「十二日金曜日の東京文化会館は東京室内アンサンブルのバロック・コンサートですが、これがなんとかなります。十三日の中野サンプラザホールはジャズ・コンサートが入っていますが、これも中止にもっていけます。十九日は……」  蓮見は信じられない気分で村井の言葉を聞いていた。あり得べからざることが起きたとしか思えない。  説明を聞き終えてもなおしばらく蓮見は茫然と村井の顔に見入っていた。 「どうせおわかりになると思いますから、はっきり申します。この四公演はすべて浅野音楽事務所のマネジメントです」 「では、浅野をつついて……?」 「いえ、私の力が及ぶべくもありません。出すぎたまねだと叱られることを覚悟で、会長の助力をあおいだのです」  村井の表情に苦渋が過《よぎ》るのを蓮見は認めながら、出すぎたまねうんぬんが島村夕子を指しており、会長はいうまでもなく伊原だと想到した。 「どうやらこれは夕子さんの私的な心情は措《お》いて、この願ってもない話に乗るしかありません」 「それから」村井はすこし臆したように切り出した、「もうひとつの重大な懸案であるオーケストラの件ですが」  蓮見はちょっと息を呑む。 「東京管弦楽団なら使えます」  蓮見は止めた息を吐きながらうなずいた。島村夕子のてまえ、伊原系列にある大規模音楽ホールの「副都心文化センター」を会場手配の対象からはずしていたのと同じように、東京管弦楽団も最初から出演交渉の枠外に置いていたのだった。 「楽団事務局は会長からの指示であれば異存はなく、また会長にはすでに内諾を得ております」 「東管は優秀ですし、今回のようなリハーサルの時間も危ぶまれるケースにはおあつらえむきです」  村井は嬉しそうに相好を崩した。 「ただいかに優秀な楽団でも、軽井沢事件のことを考えると、不安にならざるを得ないのです。あの事件、つまりラノヴィッツの失脚と、それに呼応するようにして起こったバローの浮上、この二つの出来事をつなげて考える者がいないでしょうか。これが島村夕子さんのたくらんだプログラムであり、村井さんが共犯者である、このことを知るのは島村夕子、村井さん、伊原頼高氏、そして私という四人だけですが、現実には舵川編集長あたりもはやくからこれを一連の事件と推定していたくらいですから」 「舵川氏にはお明かしになったのですか?」 「いいえ。ただ、舵川編集長と社の沢木圭子、このふたりはうすうす勘づいています。しかしこの二人と私には、このことについて暗黙の了解ができているといっていいと思います。マスコミがこの問題を突いてこないのが不思議なくらいです。まさか……、これは奇抜な想像にすぎませんが、マスコミまで伊原氏が操作してるんじゃないでしょうね」 「そういうことはないと思います。ロス疑惑の例を持ち出すまでもなく、日本のマスコミの貪欲さは警察のお株を奪うくらいですから」 「東京管弦楽団の団員の中に真相を知る者はいないでしょうが、いきさつがいきさつですし、バローとの共演には不安を覚えます」 「ラノヴィッツ失脚とバローの復活を結びつけて考える人間はいないでしょう。あの事件によって、オーケストラは首席指揮者とトッププレーヤーを幾人か失った。副指揮者は優秀なトレーナーですが実際の演奏会では影が薄く、定期公演の観客動員は激減し、空中分解寸前の状態です。しかしいまバローが現れた。バローの棒のもとで演奏することは彼等の生涯の誇りになるでしょう」 「それなら願ってもないことになります。会場といい、オーケストラといい、村井さんにおんぶにだっこの形になってしまいました」 「いえ、すべて会長のお力添えです。今回のことについて会長はあらゆる援助を惜しまないおつもりです」  蓮見は伊原頼高が楽壇に持つ影響力をあらためて確認したような気がした。 「問題なのは彼女自身です……」村井はつぶやいた。 「バローはいまや彼女だけのバローではないのです」蓮見は強い語気でいった、「どれほどの人がバローの来日公演をまちのぞんでいるか。もはやバローは社会的存在です。世界中がバローに注目しているんです。彼女には私情はこのさい捨ててもらわねばならない。もっとも、いまは彼女も特別な心理状態にあるでしょうし、せっかくここまで漕ぎつけたのですから、内情を明かして元も子もなくしてはたまらない。事後承諾ということにしましょう。だからスイスへの連絡は簡略にして、そうだ、ここは古典的手法で電報を打ちましょう。〔カイジョウ、ガクダントモニテハイデキタ、ヒドリハ六、七、一二、一三、一九、二〇ヒ。アンシンサレタシ〕とでも打電します」  村井両平は安堵の表情を泛べた。 「調整は順調に進んでいるのでしょうかね」  村井は遠くを見るような目をした。 「われわれスタッフのやっていることもまるで綱渡りみたいなものですが、夕子さんにしてもバローにしてもたいへんな挑戦ですよ。とくにバロー氏の体調に関しては心配です。演奏途中で倒れるようなことになりでもしたら……」 「それを思うと胸がつぶれそうです」 「ときに、平田に動きはありませんか? 印税の支払いはありましたか?」 「第一回の振り込み日を過ぎているのですが、実はまだ振り込みがないのです」 「おもったとおりだ。最悪の場合、つまりバローが来日し、あれは自分の演奏ではないと証言したとき」 「しますかね」 「するでしょう。こんどの来日演奏にはそういうコンセプトもあるわけですから。そのときを平田は待っているはずです」 「最悪の場合、会長しかありませんな。もちろん夕子さんには内密裡に」 「純粋な人の陽明学的行動というのは周囲を困惑させますね。ぼくは喜んで困惑させられてますが」 「いや、あなたにはほんとうにご迷惑のかけどおしで、なんといったらよいか」  蓮見は村井を玄関まで見送った。 「忘れるところでした。スイスから連絡があり、コンサートのプログラムの件ですが、解説は伊能功先生に依頼済みだそうです。原稿がやがて届くでしょう」 「伊能先生はヨーロッパ滞在中と聞いていますが」 「パリで事件を知った伊能先生がバローを訪ねてこられたのだそうです。で、伊能先生はすっかりバローの虜《とりこ》になられたらしく、ローゼンシュルフトに滞在され、毎日のようにバローの練習を聴きにみえるそうです」  蓮見はいかにも伊能功らしいはなしだと苦笑した。  タクシーに乗り込む村井がVサインを送った。中年紳士のVサインを蓮見はひどく珍しいもののように眺めながら、一礼した。  深呼吸を一つしてから、蓮見はエレベーターへ向かって小走りに駆け出した。  蓮見の報告は一同を沸かせた。誰からともなく拍手が起こった。 「今夜は祝杯といきましょう」 「前祝いですか、それはいい」 「そういえば、ずいぶん長くごぶさただ」  蓮見は沢木圭子の肩をかるくこづき、電話を取った。舵川の欣喜雀躍する姿を思い浮かべながら。そうして、このとき一つの見落しをした。  舵川も加えたスタッフたちはこの夜、六本木に繰り出してはめをはずしたが、沢木圭子は用があるからといって早ばやと辞去した。 「疲れているようだな」  うしろ姿を見送りながら舵川がつぶやいた。  疲れている。蓮見は自分自身のことを指摘された気がした。目鼻がついたいま、どっと疲労が押し寄せてきた感じだった。今夜はあまり遅くならないうちに九品仏の家に帰ろうと思った。ここしばらく妹の顔も見ていない。  蓮見は何もわかっていなかったのである。  帰宅すると十一時を過ぎていたが、ひっそりした家の中に彫金の鑿《のみ》を打つ音が響いていた。音が止んで、居間へ典子が顔を見せた。 「お帰りなさい。あまりご無沙汰が続いたから、実の兄の顔を忘れるところだった」 「どうせ粗末な顔だから、忘れてもらってけっこう。それより玄関の鍵かけといてくれよ。不用心だぜ」 「帰るのだったら電話してよ。あ、また飲んでる」 「きょうは前祝いだったのさ。熱いコーヒーが飲みたい」 「前祝いって、バローの? じゃ、ホールが見つかったわけ?」  妹にはバローのことは何も話していない。 「典子はなんで知ってるんだ」 「新聞やテレビがあれほど騒いでるんですもの。当然よ」台所に立ち、背中でいう、「ねえ、わたしもバロー聴きたいな。招待券かなにか手にはいらない? 初日のだけでいいんだ」 「招待券は無理だな。チケットだって発売と同時に完売になるだろう。そうだな、初日の一枚、贈呈しましょう。なにかとご迷惑をおかけしてるようだから」 「ね、いちばんいい席、いくらするの?」 「まだ決まってないが、一万から二万円というところだろう」 「ラノヴィッツはずっと高かったのじゃない。バローってラノヴィッツよりえらいピアニストなんでしょ」 「ああ、問題にならない。でもバロー自身がギャランティに関しては恬淡《てんたん》としてるんだ。まあ、もうじき死ぬんだし、係累もないとくれば、金に執着もわかないのかもしれないな」 「冷たいいい方ね」 「それはともかくとして、バローには蓋を開けてみるまではわからないという危険があるからな。いや、演奏はミズモノだから、それは仕方がないとしても……」  料金の設定はあしたの仕事のひとつだった。会議は難航するだろう。蓮見は気が重くなった。蓮見としてはバローの入場料がラノヴィッツより廉《やす》いというのは我慢ならない気分があったが、演奏会そのもののリスクからいえば仕方がないともいえた。 「でも、ほんとうにバローが日本に来る前に亡くなったら、困っちゃうわね」  半年の余命を宣告された患者が一年生きることもあり、三ヵ月もたないこともある。来日前にバローの生命が尽きてしまう可能性も大いにあるわけだった。  舵川はその場合の損害を沢木圭子に試算させている。保険があれば掛けたいよ、そういいながら、舵川がみせてくれた試算額は、想像をはるかに上回るものだった。 「バローと心中さ」  災害や内乱、天変地異、いかなる理由に関わらず、バロー来日が不可能となった場合、すべての経費の賠償は島村夕子と楽苑社が折半する、契約書にはそう記されている。  舵川は辞表を用意している。もちろん蓮見もそれに倣《なら》うつもりだった。 「この事業に失敗すれば、会社辞めるからな」 「辞めなきゃならないわけ?」 「そういうことはないが、編集長は退職金を吐き出すつもりでいるようだし、おれだって男だからな」 「退職金はたいしてないでしょう」 「こころざしの問題だ」 「悲壮なんだ」  日ごと、雑務は海のように押し寄せる。そうして、バローが死ねば、すべては徒労に終わるのだ。 「花束、用意するわね。握手してもらお。サインも欲しいな。島村夕子さんもこの目で見たいし」 「気楽でいいな。いっそ成田到着の出迎えについてくるか。枯木も山のにぎわいだ。花束持って歓迎嬢をやってくれよ」 「テレビに映るかしら」 「もちろんニュースに出るさ」 「スーツ新調しなくちゃ」  到着予定の二十八日まで、あますところ五日間だった。     2  夜の空港に人々はそれぞれの思いをいだいてバローの到着を待ちかねていた。  到着時刻が約三十分遅れるというアナウンスがあって、一階到着ロビーはふたたび騒がしくなった。電話をかけに行く者があり、グリルに向かう者がある。ソファに掛けたり、トイレに行く者。  蓮見は朝からもしかして三桁に近くなるかもしれぬ煙草に火を点けた。舌がささくれたようで、味がなく、ただいがらっぽかった。空港周辺で見かけたバローのポスターを思い泛べていた。   ジェラール・バロー   ファイナルコンサート 全6夜   幻のバロー 世界最終公演実現!    世紀の連続公演   公演日程(予定)   十二月六日(土) 東京文化会館   〔ベートーヴェンの夕べ〕     第29・30・31・32番   十二月七日(日) 神奈川県民ホール   〔協奏曲の夕べ〕共演・東京管弦楽団   モーツァルト 第二〇番ニ短調K四六六   ブラームス  第一番ニ短調   十二月十二日(金)東京文化会館   〔協奏曲の夕べ〕共演・東京管弦楽団   モーツァルト 第二七番変ロ長調K五九五   ブラームス  第二番変ロ長調   十二月十三日(土)中野サンプラザホール   〔ショパンの夕べ〕   ショパン   ワルツとプレリュード全曲   十二月十九日(金)簡易保険ホール   〔協奏曲の夕べ〕共演・東京管弦楽団   サン=サーンス 第二番ト短調   ベートーヴェン 第四番ト長調    十二月二十日(土) 昭和女子大学人見記念講堂〔小品の夕べ〕     曲目は当夜会場にて発表されます。   全世界の注目を集め、奇跡の日本公演実現   世界の至宝、不死鳥バローの偉大にして厳粛なる挑戦!   生命の最後の輝きを渾身の六夜に集中   今われわれは演奏史上空前の大事件と遭遇する!  ポスターは京成電鉄の車内や空港駅にも目立った。空港ビルの中にも貼られていた。周辺の六軒のホテルのロビーにも手配してあるはずだった。実際にはポスターは本来の機能をはずれてしまった様相を呈していた。ポスターの配付以前に予約だけでほとんどチケットは完売の状態に近かったからである。  これでもしバローが来なかったら……、蓮見は数日前からにわかに繁く胸を過《よぎ》っている不吉な思いにまたしても捉えられた。飛行機が墜落するというのは昨日の朝見た夢で、今朝はタラップを降りつつあるバローが突然昏倒するという夢で目が覚めた。してみると、今夜あたりはバローがステージでたおれる夢だろうか……、蓮見は苦笑しつつ窓の外へ視線を向けた。  この夜空の彼方をバローは確実に近づきつつある。わかっていても、暗い夜のとめどなさはなにかすべてを非現実なものに変えてしまうようで、蓮見は熱でもあるようにおおげさに身震いした。 「遅れるそうだな、土壇場《どたんば》までハラハラドキドキの三文シナリオか」  快活にいいながら舵川が両手に珈琲を持ってやってきた。  蓮見は窓の向こうに茫洋と広がる夜の滑走路に視線を結んだまま、 「海を思わせますね」  つぶやくようにいった。  赤い進入灯、緑と赤の末端灯、青の誘導路灯などが暗い空の港を美しく彩り、作業車の尾灯がゆっくり動いて、それは沖をめざす漁船を思わせた。 「キザなことをいわないでくれ」 「なんだかさっきからボーッとして、とりとりめのない気分なんです。バローになんと挨拶するべきか、島村夕子にどう声をかけていいのか」 「疲れてるのさ。まあ、無理もないだろう。圭子ちゃんとうとうダウンしたそうじゃないか。過労だって?」 「ええ、花束嬢の代役探しに苦労しました。関東新聞の受付嬢になかなかの美人がいましてね、ピンチヒッターを頼んだら、急にいわれても衣裳の用意がないといって大騒ぎで、女ってのはどうも困ったものだ、貸し衣裳屋へすっとんで行きましたよ。圭子ちゃんは功労者なんだから、なんとしても彼女にさせたかった」  これでたしか五杯目だ、いやもしかして六杯か七杯目になるのかもしれない、そんなことを思いながら蓮見は舵川の持ってきてくれた珈琲に口をつけた。 「バローに二人、島村夕子に一人、計三人か。そういやぁ、妹さんもそうなんだろ、どこにいるんだ?」 「花束係は三人とも化粧室に行ったきり帰ってきません。ところで編集長はどこへ行ってたんです?」 「三階の保安事務所に呼ばれてたんだ。あそこからの眺めはみごとだな。円型待合室《サテライト》から滑走路が一望できる」  舵川は珈琲を一口啜り、続けた。 「警備室の監視テレビで見せてもらったんだが、表に若い連中がおしかけてる。バローを、いや正確にはバローと島村夕子を一目見ようという一団だ。チケットを買い損ねた連中もいるのかもしれん。空港署の署員と警備員が整理にあたっている。航務課長と空港署の保安係長にさんざんしぼられたぜ。事前に予測できなかったのかってな」 「いや、多少は想定してみないこともなかったのですが、やはりそうでしたか。若い連中ならカール・ベームのときと同じ現象ですね」 「ベーム老のときも若い男の子がおしかけたな。日本の若いクラシックファンの老巨匠志向は独特の現象だな。しかしこんどの場合は島村夕子見たさの手合いもかなりいるようだぜ。テレビ局がマイクを向けてたから、あしたのニュースで彼等の声が聴けるだろう」  蓮見はポケットから紙片を取り出した。バローを出迎える人たちの名簿である。 「錚々《そうそう》たるメンバーですね。ここには私や編集長が含まれていませんが、まかりでてもかまわないのかな」  舵川は愉快そうに笑って、 「そのなかにバローのなんたるかを知っている者が何人いると思う? 若い頃にパリで実演を聴いたという、うちの会長くらいのものだぜ。バローとまっさきに握手すべきは本当はおまえさんなんだ」 「なんだか変な気分なんです。あれだけこの日を待ち望んでいたのに、いまはふっとどこかへ逃げ出したい気がしましてね」 「この期に及んで尻ごみか。しかし確かにこれほどの大事を前にすると、ふっと逃げ出したくなるような気分にならなくもないな」  漁火《いさりび》のようだ、蓮見は夜の彼方へ点々と並ぶ灯火の列を眺めながら思った。赤や緑、青のそれらは、バローをこの国へ導く電気の篝火《かがりび》だった。 「そろそろですな」  村井両平がやってきた。  村井は四十前くらいの紳士を従えていた。頬からあごにかけて髯《ひげ》を貯えているが、なかなかの美男だった。 「ご紹介します。こちらは聖路加病院の宮原先生。血液疾患では臨床治療の第一人者でいらっしゃる。バロー氏滞在中の主治医をお願いしております」 「はじめまして、宮原です」  有髯の紳士は握手を求めてきた。舵川が、ついで蓮見が腰を上げ、握手を交わし、それぞれ名乗ったが、まるで耳に入らぬように、 「いやぁ、島村さんが五月に私のところへおみえになったときは、こういうことになるとは想像もできませんでした。きれいなかたですから、つい私も熱が入りましてね。しかし世紀のピアニストの命を預かることになろうとは、まったく予想外でした」  滔々《とうとう》とまくしたてた。医師にたまに見られる快活なタイプのようだった。「ごぞんじないかと思いますが」髯に手をやりながらなおも喋り続ける、「うちの病院にはピアノがありましてね。礼拝堂にでんと据えてある。ピアノのある病院は珍しいですよ。私はこれでピアニストになろうか医者になろうかとその昔深刻に悩んだ男でして、いまでもときどき患者を集めてリサイタルなんぞをやらかすんです。音楽療法というわけでもないのですがね。島村さんが見えたときは、たまたまそのプライヴェート・コンサートをやってまして、いや今にして思うと冷汗四斗です」  そういって高笑いしてみせた。おかしな男だ。冷汗三斗を四斗といったのも間違いなのかわざとなのか蓮見にはつかみかねた。尊大な、いやなタイプではなかったし、こういう軽薄なのが斯界《しかい》の泰斗《たいと》であるというのも面白いが、どこか不愉快な気分が残った。この男に対してではなかった。この医師がすでに半年も前から島村夕子に知遇を得ていたことに対するもののようだった。危険な徴候だ、蓮見は心に舌打ちした。 「ぼつぼつ来ますかな」  村井が窓のかなたへ向かってつぶやいた。三人もその視線に倣った。  真紅の尾翼に白く十字を抜いた、スイス航空B七四七機の巨大な胴体に、タラップが懸けられた。  南ウィング第4サテライトの左前方に機体は静止し、タラップ手前は報道陣と歓迎の一行とでごったがえし、飛び交う声や、取材車から発する電気の唸りや、空港の作業車やその他のわけのわからない音源が入りまじって、やはりここでも蓮見は海の底にいるような奇妙な現実感の希薄さのなかで人ごみに揉まれていた。  ふと視界にとびこんだ遠い空は満天の星だった。その下には海が広がっているはずだ。あっと声が洩れたが、誰の耳にも届かなかった。  飛行機はバローの特別機である。搭乗者はバローと島村夕子の他、ヨーロッパ各国のジャーナリスト、音楽家、評論家、愛好家などである。バローと同じ飛行機に乗って日本を訪れ、バローの歴史的演奏会を聴くというツアーがスイス観光局の発案で実現したのだった。タラップ使用に関する舵川の望みも叶ったのである。  乗降口の扉が開いた。照明がいちだんと明るくなったような気がした。スチュワーデスが二名出てきて、乗降口の両側に姿勢よく立った。ライトを目に入れたものか、一方のスチュワーデスが一瞬まぶしそうな顔をしたのが手にとるように見えた。  スチュワーデスが腰をかがめたと思うと、一人の人物が現れた。それは眼鏡の日本人旅客だった。嘆声のようなものがあたりに瀰《ひろが》るのが蓮見には分かった。客はちょっとたじろいだようすで、立ち止まった。どことなく剽軽《ひようきん》なものごしだった。 「あれっ、伊能先生じゃないか」  舵川が小さく叫んだ。  たしかに、伊能功だった。 「意表をつきますね。いかにも先生らしい」  蓮見は笑いそうになったが、声は震えて、笑いにならなかった。  スチュワーデスになにごとか囁かれ、うなずきながら彼はタラップを降り始めた。スチュワーデスが腰を折るたびに次々に客が現れ、降りてきた。バローはおそらく最後になるのだろう。これは島村夕子の演出だろうか。  警備員が人垣のなかに道を開けていた。そこから一般客はターミナルビルへむかった。客たちは、このおびただしい歓迎陣に視線を名残惜しげに残しつつ去っていくのだった。ストロボの閃光を走らせる者もいる。  ずいぶんと長い時間のようにも、あっという間のようにも思えた。数珠玉《じゆずだま》のように続いていた客の流れがとだえた。スチュワーデスが叩頭した。来るぞ、蓮見は身構えた。  コートを片手に持ち、背筋をのばした人物が現れた。銀髪がライトに映えて輝いた。人垣に波のようなひと揺れが来たかと思うと、次の瞬間フラッシュやストロボの閃光とシャッター音があたりに氾濫した。数歩降りたところで、バローは立ち止まった。すぐ後ろに島村夕子の姿が認められた。男物の書類鞄をさげていた。楽譜が入っているのだ、蓮見はほとんど確信のように思った。  夕子が背後から笑顔でなにか言葉をかけたようだった。バローは右手を胸の高さに挙げ、笑った。歓声が湧き、拍手が起こった。それに力を得たようにバローは右手を頭の上に高く掲げた。拍手と歓声はさらに高まった。  ——矍鑠《かくしやく》としたものだ。  ——ご立派でいらっしゃるわ。  ——素敵ね。  さまざまな感想が飛び交った。蓮見は自分でも意外だったが、なにか拍子抜けしたような気分に襲われていた。たしかにバローは偉丈夫である。銀髪は輝くように美しく、上品な容貌だ。晩年のリストはたしかにこんなふうだったのかもしれない。しかしどこといって普通の老人の範疇を超えるものではなかった。 「これがバローか。この老人がバローなんだ」  だれにともなく蓮見はつぶやいた。  バローは一歩一歩近づいてくる。飛行機は墜落しなかったし、バローの足どりはたしかだった。 「バローなんだ、八十三歳の年寄りだ、神でもなければ仙人でもない、はるばるとピアノを弾くためにやってきた人間だ。この人をわれわれは待っていたんだ」  蓮見は心の中につぶやいた。このときようやく胸に熱いおもいがこみあげてきた。  タラップを降りきったバローを花束の贈呈が待っていた。バローは微笑を泛べながら、手に持っていたコートを着込み、右手に、ついで左手に花束を受け取った。落ち着いた、よどみない動作だった。かつて世界の楽壇を制覇した経歴がしのばれる流麗なものごしだった。フラッシュのつるべ撃ちがいちだんと烈しく殺到した。花束は閃光を浴びて妖しい造花のように見えた。  最初にバローと握手したのは文化庁のお偉方らしかった。続いてスイス大使館関係、ついで楽苑社の会長、関東新聞の副社長、全日本放送の専務、グロリア・レコードの重役、あとは誰だかわからなくなった。出迎えの人々のなかに長身のバローは抜きんでていて、見下ろすかたちだった。島村夕子は人々の頭の波に見え隠れしていた。  バローが蓮見の目の前に来たとき、やはり足もとから震えがくるのを抑えられなかった。島村夕子がバローに何かいった。バローは大きくうなずき、手をさしのべてきた。なにごとか語りかけてきたが、わからなかった。 「お目にかかれて光栄です。公演の成功をお祈りしています」  英語で答えたが、声が通らなかった。たぶん聞こえなかっただろうと蓮見は思った。  人垣がバローを中心に円に似たかたちを描きながら、ターミナルへ向かって移動しつつあった。  蓮見と舵川は人々から取り残されて、広大なコンクリートの港に浮標《ブイ》のように佇《たたず》んでいた。 「夢じゃないだろうな」  舵川の声はうるんでいた。 「夢かもしれない」  蓮見は祭典を思わせる群衆の移動を見送りながらつぶやいた。 「夢なら醒めないでくれよ」  このとき、ふっと鼻先をなつかしい匂いがかすめていった気がし、蓮見はかるく身震いした。ジェ・オゼのようだった。そいつは闇のどこかから目に見えない妖精のように現れて、気紛れな悪戯を蓮見に仕掛けていったようにも思えた。 「いや、まぎれもない現実です」  しかし言葉が実際に発せられたのか、舵川の耳に届いたのか、蓮見自身にも判然としなかった。     3  深夜の病院はうつろな静けさに包まれ、どこからか低く伝わってくる空調の唸りのほかは物音ひとつしない待合室に、蓮見はただ一人、島村夕子の来るのを待っていた。  全館暖房といってもここはうそ寒く、コートを脱ぐわけにはいかなかった。ポケットからくしゃくしゃになった煙草の箱を取り出すと、二本だけ残っていた。ライターを点けると、常夜灯だけの室内の蓮見のすぐ前あたりが薄く明るんだ。  跫音が聞こえた。反響を帯びてそれは何かわざとらしい大仰さで聞こえたが、その跫音は島村夕子のものだった。煙草を灰皿に揉み消しながら、蓮見は心が波立つのを抑えられなかった。 「お待たせしました。遅くまでご迷惑をおかけします」  落ち着いた声で島村夕子はいった。 「夜遅いのはいつものことですから。どうぞお掛けになってください」蓮見はソファを勧めながら、「バロー氏のおかげんはどうですか?」  島村夕子はソファに形よく腰を下ろしながら答える。 「検査と診察を了えて、さきほどお寝みになったところです」  懐かしい薫りが蓮見を優しく迎えるように包んだ。 「空港でいいたかったのですが、なにしろあの騒ぎでしたから……、あらためておめでとうをいわせてください。よくここまでおやりになった」 「いいえ」  島村夕子は蓮見の手を取り、蓮見の両手をまるで何かから庇《かば》いでもするように自分の胸に導いた。  虚をつかれて蓮見はなすままにされていた。 「お礼はわたくしが申しあげなければいけませんわ。ほんとうに無理難題を押しつけてしまって。あなたにはどんなに感謝しても感謝しすぎるということはありません」  すぐ目の前で発せられる言葉を聴きながら、上等のものらしい生地の感触を通して島村夕子の温かく息づいている乳房がわかった。  ふっと島村夕子の口の匂いがした。漿《かね》臭い、熱を帯びたハンガー・ブレスだった。力を奪われるような感覚がきた。  島村夕子の顔は頬がすこし薄くなったようで、目も何か手を加えでもしたように陰翳を増している。髪を下ろしているからそうでもないが、これでひっつめにしていたら険のある顔になりかねない。  疲れているのだ、島村夕子は平静でいられないだけなのだ、蓮見はそう思いながら奪い取られた手をおもむろに抜いた。 「バロー先生は」蓮見は事務的な調子でいった、「なにもかも承知のうえで、来日を決意したのですか」 「なにもかもとおっしゃいますと?」 「ラノヴィッツの失墜工作を含めてあなたのやったことのすべてです」  島村夕子は眉をくもらせた。 「報告は先生を驚かせ、悲しませてしまいました」夕子は湿った声でいった、「ラノヴィッツのことでの先生の心痛は想像以上のものがあり、みるまに憔悴《しようすい》されてしまいました。叱責は覚悟のうえでしたが、先生の良心をひどく傷つけてしまったことは心痛のきわみでした。わけても、あなたと出会うべきではなかった、とおっしゃったときには目の前が真っ暗になってしまいました」島村夕子は肩で大きく息をついてから続けた、「贋録音のことも先生にひどいショックを与えてしまいました。わたくしはなりふりかまわず哀願しましたわ。先生の前に跪《ひざまず》き、涙ながらにうったえました」  蓮見はさりげなく夕子から眼をそむけた。映画のように師弟の愁嘆場が想像され、胸に苦いものがあふれた。 「先生はわたくしを抱き起こし、頬ずりをなさいました」島村夕子は持ちまえのくすんだ声をさらに影の濃いものにして続けた、「そうして、こうおっしゃった。あなたの羂《わな》は完璧だ。逃げ道はないようだ。夕子は私の唯一の弟子、あなたの罪は私の罪、あなたの過ちを師が償なうことを神さまもお許しになるだろう」  蓮見はまた島村夕子に視線を戻した。島村夕子の目が潤んでいた。 「しかし、バローは残念だといいました」夕子はさらに沈痛な声でいった、「残念なのはあなたが私の音楽をついに理解してくれなかったということだ」視線をあちこちに彷徨《さまよ》わせながら夕子は続けた、「あらゆる芸術のなかで、音楽だけが、神に近づく唯一のものであり、その叡知にはなにかしら人間の心性を高めるものがあること、私が夕子に伝えたかったのはほかならぬそのことだったのに。……このバロー先生のことばはわたくしの心臓を凍らせました。そう、いまでもわたくしは心のどこかが凍りついたままです」  島村夕子はわずかに仰向くと、目を閉じ、力なくいった。 「先生を舞台に呼び戻すための手段はほかにあったのではないか、痛切にそう思います」  島村夕子ならずとも、自分もそれは一再ならず考えたことだ。 「たしかにあなたの取った方法がかならずしも最良だったとはいえないかもしれない。しかしそれは結果論だ。ともあれバローはわれわれの前に姿をあらわし、舞台に立つ日はまぢかなのです。それで充分です」  島村夕子は涙に濡れた目でうなずいた。 「舞台復帰を決意されてからのバローはどのようでしたか?」 「決心なさってからの先生は昼夜を分かたぬ練習を始められました。それはもう傍で見ていてもこわいくらいで、失神されることさえありました」 「調整ではなくて、練習ですか? バローほどの人が猛練習を?」 「そう。バローほどの人にして、あの錬磨です。そこにわたくしは四十余年の空白の重さを見ました」 「たしか伊能先生が訪問されたと聞いていますが」 「ええ」島村夕子は唇の端にわずかに微笑を泛べた、「伊能先生はバロー先生の練習ぶりを夜叉羅刹《やしやらせつ》のようだとおっしゃいました。ローゼンシュルフトの見聞を一生忘れないとおっしゃってもいましたわ」  蓮見は伊能を羨ましいと思った。 「あなたは破門される。バローは来日しない、そんな夢を何度も見ました。空港で初めてバローを見たとき膝がガクガクしました。夢を見ているようでした。いまでも、まだ夢のつづきみたいです。……しかしこれが夢でない以上、仕事は進めなきゃなりません」  ポケットから蓮見はホッチキスで止めた薄い書類を取り出した。四つに折られ、角《かど》の丸くなった書類を島村夕子にさしだした。 「スケジュール表です」  手渡され、しかし開いて目を通すことを忘れてでもいるような島村夕子にはおかまいなく、蓮見は説明を始めた。  会場手配とオーケストラ選定の経緯を蓮見は語った。核心に触れるには勇気が要った。蓮見はつとめて事務的な口調で告げた。 「村井さんの手配ですね」  島村夕子は下唇を噛み、いどむような眼ざしを向けた。 「そうです。しかし現実にはお父上のお力添えにほかなりません。……村井氏がこの解決策を申し出てこられたとき、氏はあなたの心情をくんで、終始苦渋の面持ちでした。その案をその場で受け入れました。独断専行といわれても仕方ないのですが、しかし、ほかに手立てはありませんでした」 「…………」  島村夕子の唇が慄えているのを蓮見は認めた。 「お気持ちはわからないでもないのですが」蓮見は島村夕子の顔を見据えていった、「この際はっきり申しあげておきたいのです。バローはもはやあなただけのバローではない。日本の、世界の人々がバローに熱い視線を注いでいます。宣伝ポスターに『最終公演』ということばが入っています。もっとあからさまに『告別演奏会』などというコピーも出まわっている。はじめはこういったことには反対でした。余命いくばくもないという異常な状況を前面に押し出すやり方はいやだったのです。バローに対しても無礼というべきです」  島村夕子はうなだれた。 「しかし最後には折れました。問題は、なによりもバローの演奏会そのものなのです。演奏会の成功がすべてに優先するのだと思い直しました。おそろしい想像ですが、彼の演奏が無残な結果に終わったとしても、ぼく自身に後悔は残らない。しかしわれわれには可能なかぎり良好な条件を整えてバローを迎える責務があるのです。立派なホール、コンディションの良いピアノ、優れたオーケストラ、そして満場の聴衆……」  島村夕子の沈黙が重く垂れこめた。蓮見はさらに説得の言辞を考えた。言葉をさがしていると、 「わかりました」島村夕子は微笑んでみせた、「スイスにいてすべてをあなたがたに押しつけていたわたくしに否《いな》やもありませんわ」  声は恬淡《てんたん》としていた。 「理解してくださってうれしいです」  蓮見は席を起った。通用口に向かって長い廊下を歩く。 「スケジュール表、目を通しておいてください。あしたの記者会見、インタビューはこちらでメニューを作っていますが、フリーになったとき当然ながら贋作問題に関して突っ込まれるでしょう」 「覚悟はできています」 「真実が明かされた瞬間から」蓮見は調子を変えていった、「あなたは平田の挑戦を受けなければならない。ぼくはそういうつまらないことにあなたが足をすくわれるのがたまらないのです」 「ほんとうにつまらないこと」  島村夕子は吐き捨てるようにいった。  蓮見は歩みを止めた。 「?」  島村夕子はけげんな顔をした。  ——舵川は辞表を用意しています。退職金を吐き出す覚悟でことにあたってきたんです。それはぼくだって同様です。沢木圭子は体調を崩してしまいました。そう、蓮見はいいたかった。  島村夕子の表情がそれを諦めさせた。いっても無意味だった。というより、いえば恥ずかしくなるに違いなかった。  確認するように蓮見は島村夕子の顔を見た。天使のエゴイズムを蓮見は島村夕子の顔に見出していた。自分はみずから、この天使のようなエゴイストの軍門にくだってしまった……。 「いや、なんでもありません。かなりお疲れのように見えます。よく眠ってください」 「あなたこそひどくお窶《やつ》れになった。わたくしのせいで、ごめんなさい」  それもすこし、ほんのすこしだが間違っている、いい返そうとして、諦めた。島村夕子がそういえば、そうにちがいないのだと思った。  通用口の前で島村夕子は悪戯っぽく笑うと頚に巻いていたマフラーを外した。 「荷物にすると面倒だから身につけてきちゃいましたの。もらってくださるかしら」 「ありがたく頂戴します」 「それじゃ、あした」 「ええ、あした」  深夜の築地界隈は車の行き来もすくなかった。助手席に置いたマフラーを手に取ってみた。カシミヤが包み込むように暖かかった。  かすかに移り香があった。  ふと、沢木圭子が思い出された。島村夕子のあずかり知らぬこととはいえ、自分がこの品物を贈られるのだとしたら、圭子もそうであるべきだった。  あれだけ楽しみにしていた出迎えに来られないというのは、よほどひどいのかもしれなかった。あした出勤してこなければ、時間をつくって見舞いに行こうと蓮見は考えた。     4  関東新聞の大会議室は多数の外国人記者を含むおびただしい報道陣に埋めつくされ、一種異様な雰囲気に包まれていた。  バローを中央に、両脇に島村夕子、舵川、通訳が控える。歓迎の言葉から始まって、いくつかとおりいっぺんの質疑応答があったが、やがて質問は核心に触れる問題に入っていった。  ——今回の来日公演は長い沈黙を破っての、いわば番外の公開演奏という印象が否めませんが、この公演を決意された動機についてお教えいただけないでしょうか。  バロー「その答えは簡単です。唯一の門弟である島村夕子の勧めに従ったというわけです。彼女はかねてより公開演奏を行うことを熱心に勧めてきました。彼女の熱意が私を翻意させたのです。もとより私の余命がいくばくも残されてないこともこの決心に強く作用したのは否定できませんが」  ——われわれは少し違った印象で捉えていました。つまり、今回の来日公演はこの国の音楽界に大きなセンセーションを巻き起こした「バロー偽作事件」が原因であり、先生ご自身がステージに立つことで真正のバローの演奏を公開する、いわば疑惑に回答し、バロー芸術を自ら証明する、そういう見方をしていました。  バロー「偽作事件というのはあの『ジェラール・バローの芸術』というディスクをさしておられるのですか?」  ——もちろんそうです。  蓮見はこの応酬に息づまるものを覚えた。やりとりはいちいち通訳を介する。一般にはまわりくどくなるところだが、その迂遠さがここでは却って緊迫の度を高めるように働いていた。  蓮見の横では沢木圭子がメモを取る手を留守にし、息を殺して見入っていた。顔色が悪いのは体調のせいだけではないようだった。  島村夕子はここまで終始冷静な表情を保っていたが、唇をかるく噛み、ひっつめにしているためにやや吊りかげんになった目に険しい光が翳《さ》していた。  バローはしばしの無言ののち、その低い、しかし力のある声で語り始めた。  みるまに島村夕子に驚愕の色が過《よぎ》り、血の気がさっとひいてゆくのが見てとれた。ただならぬものを蓮見は感じ、通訳の言葉を待った。  通訳の中年女性が抑揚のない調子で語りだした。 「あれは私の演奏です。したがって偽作事件も私にとってあずかり知らぬことです」  満場に衝撃の波紋が拡がった。すぐになんともいえない押し殺したような嘆声がざわめき立った。  蒼白の島村夕子はバローに向かって二言三言、早口に、愬《うつたえ》るようにいった。バローは何かつぶやきながら微笑で応じた。なおもいいつのる島村夕子に、バローはひとさし指を自分の唇にあて、さらにその指を否定の身振りで二度三度横に振った。  この応酬は通訳も聴き取れなかったらしく、翻訳されなかった。  インタビューアーが昂奮を隠せない声で質した。  ——先生の演奏だとおっしゃったようですが、もう一度確認します。あのディスクの演奏がまちがいなく先生ご自身によるものだと、つまりそういうことですね?  バロー「そうです。あの演奏に関するさまざまの憶測、あるいは疑惑、さらには島村夕子があの録音の影の演奏者ではないかという巷説も聞き及んでいます。しかしそれはきっとなにかの間違いでしょう。私は彼女に公開の演奏をまだ許しておりませんから、もし彼女が私の知らないところでそれに類した行為を行えば、残念ながら破門しなければなりません」  ——しかし、あれが島村夕子氏の代奏ではないかというのは、この国のマスコミでは有力な見方になっています。島村夕子氏が先生のピアノの弟子であることを秘匿し、拷問史研究家という肩書であのディスクをプロデュースしていること、あの録音そのものにバロー先生の演奏とはとうていおもえない疑問がいくつかあること、そして、そういった疑惑の渦中に時を同じくしてバロー先生の来日が実現したこと、これらの事実の裏側にあるものをわれわれはこの席ではっきりさせたいと考えております。  バロー「さきほど述べたように、彼女には公開演奏を許していません。ピアニストと名乗らないのは彼女の美徳だと私は理解しています。……どうやら、釈然とされないようですね。ではここで私が証言します。あれは私の演奏です。私の演奏でないと証明できるのであればそれを見せていただきたい」  庇《かば》っているのだということは蓮見ならずとも納得の行くところだった。それにしても予期せぬなりゆきだった。ようやく人々は衝撃から恢復し、私語が交わされ、二百名になんなんとする人々のざわめきが活況を帯びて会場に響きはじめた。  宮原医師がどこからか現れて舵川の耳元になにごとか囁いた。舵川は二度ばかりうなずいていたが、安堵したように頭を下げた。宮原医師はすぐに引っ込んだ。  舵川はマイクに向かって声を張り上げた。 「ただいま医師の宮原先生より、会見をここで一時中断、休憩をとるよう勧告がありました。おそれいりますが、しばらく休憩ということにさせていただきます」  二時に始まった記者会見は三十分の中断をはさんで三時半過ぎに終わった。  バローは、村井、宮原、島村夕子の三人に付き添われ、裏口に蝟集《いしゆう》した取材陣の包囲網を破って聖路加病院にとって返した。  記者団が去り、閑散とした大会議室では蓮見、舵川、沢木の三人が嵐のあとの虚脱状態にいた。 「宮原医師とは事前に打ち合わせを?」  蓮見は舵川に質《ただ》した。 「いや、あれは彼のアドリブだ。あれでたすかった」 「なかなかやりますね。あのとき彼がずいぶんたのもしく見えましたよ。だてに髯はのばしていないというところかな」 「しかし寿命が縮んだよ。収拾がつかなくなる一歩手前だった。それにしても老人、なかなか憎いことをやるじゃないか」 「ええ、やってくれます」蓮見が感じ入った調子でいった、「まるで勧進帳だ。バロー氏一世一代のパフォーマンスか」 「ともあれ、意表を突く一幕だったな。平田はぎゃふんだぜ」  舵川は煙草に火を点けながら、面白そうにいった。 「平田はじだんだ踏んでますね。みごとにかわされた」 「マスコミもな。ときに次の予定はなんだっけ?」  うまそうに紫煙を吐き出しながら、蓮見にとも圭子にともなく訊く。 「六時から東京管弦楽団との顔合わせ。これは独奏ピアノは島村夕子が代奏をつとめるそうです。バローは指揮だけ。やはり体力的な問題でしょうね」  蓮見が答えた。 「指揮だけか」舵川は不安そうな顔をみせた、「次々と不安材料にはこと欠かないというわけか。胃に穴があく」 「リハーサルへは編集長も行かれますか?」 「おれはお偉方への報告がある。圭子ちゃんと二人で行けばいい」 「取材ということでしょうか」  圭子が訊く。 「べつに、そういうわけでもない。撮影は蓮見の仕事だから、とりたててやることもないわけだが、いいじゃないか、バローのリハーサルなどというのは見たくたって見られるものではないんだ、行ってくればいい。残業扱いにしとく」 「あの、できればきょうは定時に退社させてください」 「それはかまわないが……」 「せっかくの機会じゃないか」蓮見が口を挟んだ、「リハーサルのほうが本番より面白いなんていう音楽ファンもいるんだ。ましてやバローなんだぜ」 「それはたしかにそうだと思いますけど……」  気づまりな空気になって、圭子は俯いてしまった。 「いや、わかった。きょうは早く帰りなさい。それから、もし体調でも悪いということなら、あしたあたり休暇はどうだ。一段落ついたのだし、あしたからはアルバイトの連中も来る手はずだ。一日、ゆっくり休むといい」  場合によってはそうさせてもらう、圭子はそう答えて、仕事に戻るためにこの場を辞去した。 「低調だな」  舵川が圭子の去っていったあとへ視線を結んだまま、つぶやいた。 「へんにいこじですね」 「なあ、蓮見」  舵川は視線を戻し、煙草に火を点けながら、いった。 「公演が終わったら、公式のパーティとは別に三人で一杯やろうじゃないか」 「いいですね。ぜひ、やりましょう」  同調しながら、蓮見が思い描いていたのは、島村夕子と二人で酒を酌んでいる光景だった。十月十四日の夜、そうしたように。  リハーサル場所は青山のグロリア・レコードの録音スタジオで、参加者の全員に厳重な箝口令《かんこうれい》が敷かれていたが、蓮見がスタジオの職員通用門に来てみると、鼻の利く連中がガードマンに阻まれていた。  通行証を呈示し、なかに入る。  舞台にはすでに楽員が勢揃いしていた。管楽器は事前の吹き込みに余念がない。ミキサー室を覗くと録音ディレクターや技術者、テレビ局のスタッフたちが立ち働いていた。  舞台の袖には関東新聞とFMジャーナルの記者がいた。  島村夕子は別室でコンサートマスターと打ち合わせをしているということだった。そういえばさきほどから切れぎれにピアノの音が聞こえていた。  グランドピアノに島村夕子が対《むか》い、かたわらにコンサートマスターが控えていた。ピアノの大屋根は閉じられ、そこにそれぞれの楽譜が置かれて、入念なディスカッションが行われている。手持ちの録画カメラを手にしたスタッフがこの模様を撮影している。  島村夕子はジーンズにセーターの軽装で、ボーイスカウト風にスカーフを巻いていた。まるでクラシックとは縁のないような身なりが蓮見には面白かった。 「カデンツァはバロー自作のものが使われるはずです。たとえばこんなふうに」  島村夕子の両手が鍵盤に華麗な舞踏を開始し、輝かしい響きが撒き散らされる。  島村夕子の両手はあるいは平行し、あるいは反行し、めまぐるしく鍵盤上を行き交った末に重厚な和音で結ばれた。 「ここでオーケストラ!」  島村夕子はオーケストラ・パートをしばらく弾いていたが、 「アインザッツにはバロー先生はあまりうるさくありません。というより、フォルテの表現にはむしろ整然と揃うことを好まれません」 「カデンツァをあとで弾いていただけませんか」コンサートマスターがいった、「団員も全体の感じをつかんでおきたいでしょうから」 「それはあまり意味がないのではないかと思われます。先生はカデンツァをつねに同じように弾かれるとは限りません。今回の公演に際して新たに書き下ろされたかもしれませんし、そのときの気分によっては完全な即興演奏をなさるかもしれませんから」 「それは興味津々です。では、そろそろまいりましょうか」  二人はそれぞれ楽譜を取った。島村夕子は楽譜のほかに指揮棒を小脇にはさんでいた。長めの蒼古とした指揮棒だった。おそらくバローから託された由緒のあるものだろうと蓮見は見当をつけ、あとで質問しなければと考えた。  島村夕子は蓮見を認めて、近寄ってきた。 「ごくろうさまです。今夜は取材なんですね」  視線が蓮見のカメラに向けられていた。 「ええ。バローはまだなんですか?」 「病院からはべつに連絡は入っていませんけど、たしかに遅いですわ」  コンサートマスターは先に舞台に登ったのだろう、調弦の音が聞こえてきた。その霧のようにたちのぼる音の森へ向かって島村夕子は歩いて行った。  島村夕子をオーケストラはどう迎えるだろう。やはり蓮見は不安だった。団員のなかに伊原倶楽部の醜聞が夕子の策謀だったことを知る者がもしやいるのではないか。首席指揮者と優秀なプレーヤーの何人かを彼女が放逐したのだ。  島村夕子と伊原頼高との関係を知る者がいたとしたら、夕子に対してどのような心証を持つだろうか。  蓮見は舞台袖に歩みを止め、見戍《みまも》った。  島村夕子は指揮台の手前で立ち止まった。ヴィオラ奏者の一人が起立し、その周辺からばらばらとつられるように立ち、全員が起立した。  ここで初めて島村夕子は微笑んだ。人をひきつけずにはいないような微笑が、ゆっくりと全楽員にふりむけられた。 「はじめまして、島村夕子です。よろしくお願いします」  落着いた声だった。  楽器をかるく叩くオーケストラの独特の答礼がしばし潮騒のように響き渡った。  島村夕子はピアノに対い、椅子を調整した。  背後に慌ただしい跫音がし、ふりかえると伊能だった。 「やあ、蓮見君、ごぶさた」 「お元気でしたか? ヨーロッパはいかがでした?」 「大収穫だった。いやはやバロー先生はすごいぜ。話したいことがいっぱいあるんだが」 「原稿をご依頼することになります。ぜひとも、お願いします」 「バロー先生の姿が見えないが?」 「まだおみえにならないのです」 「心配だな」  舞台袖の電話が鳴った。コンサートマスターが出た。  コンサートマスターの眉間に皺が刻まれた。彼はふりかえり、不安げな島村夕子に送受器をかかげてみせた。  小走りに駆け寄り、送受器を取った。  あたりを緊張がおおった。  通話を終えると、島村夕子は全員にむかっていった。 「時差の関係もありましょうし、移動にともなう一過性のものらしいのですが、バロー先生の体調がおもわしくありません。本日の先生のリハーサルは中止させてください」  楽員にざわめきが起きた。 「指揮はわたくしが代わりに振ります」凜乎とした声でいった、「ピアノは伊能先生にお願いしたく思います」  島村夕子は舞台袖の伊能を見た。  伊能はうなずいた。  伊能が上着を脱ぎ、ピアノへ向かうと、島村夕子は指揮台にかるい身のこなしで上がった。  楽団全体が固唾《かたず》をのんでいた。  蓮見はほとんど無意識にメモを取り出し、島村夕子の言葉を待った。 「正直に申しますと、わたくしはいま不安でいっぱいです」夕子はよく徹る声で切り出した、「わたくしは専門の指揮者ではありません。指揮法はミュンヘンでケーニッヒ教授から学び、学生オーケストラを振るという実習も与えられました。ドクター・バローからも教えを受けました。しかし事実上キャリアはゼロです」  蓮見は団員に視線を投じた。全員、静粛に耳を傾けていた。リハーサルの代役とはいえ、と蓮見は思った。まだ若い、たぶん若いといってもいい、経験も実績もない無名のにわか指揮者を、しかも女の指揮者を彼等は受け入れるのだろうか。  そんな懐疑の目で眺めると、それぞれの楽員はまるで捉えどころのない無表情の仮面をかぶっているようにも見え、蓮見の不安は募るばかりだった。 「さきほどからわたくしの耳に『コラッジョ、テレーゼ、コラッジョ』とバロー先生の声が囁いています」島村夕子は厳粛な口調で話を続けた、「フルトヴェングラーがスカラ座公演で『ニーベルングの指環』の初リハーサルに臨んだときのことです。最初の棒の振り下ろしの、臆病とも見えるきわめて神経質なあいまいさでつとに有名なこの巨匠は、ここでもなかなかタクトを振り下ろせないでいたのでしたが、首席コントラバス奏者が『コラッジョ、マエストロ、コラッジョ』と大声で励ましたそうです。『勇気を、巨匠《マエストロ》、勇気を』とでも訳したらいいでしょうか。もっとくだけて、『度胸だ、巨匠《マエストロ》、度胸』とでも……。  この逸話をわたくしはバロー先生から聞かされましたが、先生はこの顰《ひそ》みにならい、わたくしにレッスンされる時、『コラッジョ、テレーゼ、コラッジョ』としばしばわたくしを励まされたものでした。テレーゼ、というのは先生がわたくしをよぶときの呼び方です。先生に最初に聴いていただいた曲がベートーヴェンの『テレーゼ』でした……。もちろんこれは余談です」  蓮見のメモを取る手が止まった。人見記念講堂で記者団をふりきって逃げたとき、助手席の島村夕子の、何か一心に祈っているようにも見えた、あの不可解なつぶやき、あれはこれだったのだ……。あざやかに腑に落ちて、蓮見は目が覚めるようだった。 「余談ついでですが、わたくしの持っているこの指揮棒、これはフルトヴェングラー遺愛の品です。一九五四年、フルトヴェングラーがベルリン・フィルを率いてルガーノへ巡演した際、ひそかに年少の友であるバロー先生を訪問されました。別れぎわ、フルトヴェングラーはふたたび会うこともあるまい、そうしみじみと述懐され、先生にこの愛用の指揮棒を贈ったのでした。フルトヴェングラーは半年後、みまかりました」  ここで島村夕子は楽員をゆっくりと見まわした。全員粛然と聞き入っていた。 「さて、モーツァルトのニ短調コンチェルトです。シンコペーションのただならぬリズムが何を告白しているのかわたくしにはわかりませんが、ここではたしかに大事が出来《しゆつたい》し、風雲急を告げていることは誰の耳にもあきらかでしょう。したがってシンコペーションは機械的にならぬよう、アクセントがつきすぎないように」  島村夕子は指揮棒を構えた。楽員も身構える。夕子の唇がきっと引き結ばれ、鋭い視線が睥睨《へいげい》する。  蓮見は自分の鼓動が聞こえるようだった。手と腋に冷汗をかいているのが分かった。  指揮棒が一閃し、弦楽器が低く唸るような響きを開始した。感動的な瞬間だった。沢木圭子を無理にでも誘うのだったと悔やまれた。  暗くて沈痛な前奏が、声をひそめたり、はげしく激昂したりしながら進み、やがて独奏ピアノを迎えた。ピアノとオーケストラの応答が幾度かあって、とつぜん島村夕子は指揮棒を止め、ピアニストを手で制し、演奏を中断した。そうしてほほえみながら、 「たいへん素晴らしくて、わたくしは音楽に合わせてただ棒を振っていただけのような気がします。指揮者にとってひとつの理想的展開でした」  楽員に笑いが起こった。好意的な笑いだった。蓮見は自分の危惧がどうやら杞憂に終わりそうだと感じた。 「全体にリズムが硬く感じられます。序奏部はさらに神秘的でなければなりません。もっと揺れてください。各パート譜にバロー先生の指示が書き込んであるはずです。独奏ピアノの最初のアインガングを導く部分、ここにはリタルダンドの指示が書き込まれていますが、もちろんバロー先生の解釈です。楽譜の書き込みとわたくしのタクトをよくごらんになってください。では最初から」  こんどの指揮は最初と異なり、あいまいな、融通|無碍《むげ》な感じのものにかわっていた。あえて指示する情報量を抑え、緊迫感を現出する意図とも蓮見には釈《と》れた。響きにそれは反映していた。情念のゆらめきが音に昇華し、確乎たる結晶を生成しているように蓮見の耳には聞こえた。  蓮見は舞台袖から忍び足でオーケストラ正面に移動した。指揮者を真後ろから見る位置である。島村夕子は大きく見えた。日本人としては小さいほうではなかったが、指揮台上ではひとまわり大きい印象だ。  カメラを向け、ファインダーを覗く。ピントを島村夕子に合わせる。ズーミングで引き寄せる。もう一度ピントを合わす。蓮見はジーンズの夕子の腰が意外なほどの量感を見せているのを認めていささかたじろいだ。躯を折るように前屈みになると何かはしたないような、煽情的な豊かさで迫ってきた。  脱げば、腰には尻靨《しりえくぼ》があるかもしれない、ふと蓮見はそれを確信のようなものに感じた。蓮見はファインダー越しに不埒《ふらち》な想像をたくましくしつつ、ほんのわずかの間だが呆《うつ》けたように見惚れていた。  蓮見はスタジオを縦横に歩いて、さまざまな角度から島村夕子の指揮姿を狙った。しだいに感動が胸に迫ってくる。  オーケストラの背後にまわって、島村夕子を斜め前から捉える位置をつかんだ。蓮見の直前はティンパニ奏者で、ここへは島村夕子の視線が矢のように飛んできた。そのたびに奏者ははげしくティンパニを打ち込んだ。それはズシンと蓮見の腹にこたえた。  蓮見はある光景を脳裡に思い描いた。  いまは私服の楽員たちが、黒の正装に身を包み、島村夕子は燕尾服をまとっている。それは何かで見た男装のジョルジュ・サンドを思わせる。遠目には少年のように見えるが、しかし胸と腰のふくらみは隠しようもない。髪を後ろで束ね、薄化粧の頬にほのかな血の色が翳《さ》している。なんという魅力的な、両性具有者《アンドロギユヌス》だろう……。 「バロー先生はお見えにならないそうですが、なんとかいけそうですな」  背中から低く抑えた声がかかった。サングラスで一瞬わからなかったが、村井両平だった。 「やあ、いらしてたんですか。いや、なかなかのものです。万一バロー先生の指揮とピアノの兼務が無理な場合、指揮は彼女ということでやれそうです。個人的な趣味からいえば、三つの『協奏曲の夕べ』のうち、一つはそれでいきたいくらいです。話題性からいってもそうだし、彼女にも花を持たせたいし」  村井は無言でうなずいた。  二人は喫茶室で、リハーサルの成功を祝った。 「練習でもあんなに力演するものなのかな。フルトヴェングラーの霊がのりうつったわけでもないでしょう。もともと東管は発足当時は熱演型だったと聞いていますが、ぼくの知っているこの楽団は技倆は抜群ながらいささか醒めた態度を示すオーケストラで、なんだか彼女によって新たな命を吹き込まれたような感じでした。正直にいって、驚きました。空中分解寸前、士気喪失状態とみていたのですが、これほど表面張力の高い演奏をやるとは……」 「あなたに黙っていたことがありました」  村井は珈琲を一口啜ってから、静かに語りはじめた。 「スキャンダル以来、定期公演での観客減はみるも無残なもので、たしかに外見上はただならぬ荒廃を思わせました。しかし士気は決して衰えてはいませんでした。むしろ意気軒昂たるものがあったのです。よい指揮者と聴衆に恵まれさえすれば、かつての、いやかつてない演奏をなしうる状態にあったのです」 「……?」 「伊原倶楽部の事件は、松芳学園大学の大掃除でもあり、このオーケストラの大手術でもありました」  スキャンダルに名を連ねた連中、指揮者矢代春樹をはじめとする演奏家たちはいずれもオーケストラにとって有害無益な者たちであった、そう村井はあかした。 「事件以前のオーケストラの内情をつまびらかにお話する時間はありません。どんな組織にもある派閥抗争、足のひっぱり合い、いわんやそれが芸術家の集団のなかで行われるのですから……。音楽家というのは程度の差はあれ一癖も二癖もある連中です。自己顕示欲、性的放縦、非常識、自己中心主義、数えあげればきりがない。もちろん高邁《こうまい》な人格者もいますし、おおむね好人物が多いのですが」 「おっしゃることはよくわかります。たとえば指揮者の矢代氏あたりにはどんな問題があったわけです?」 「矢代君を例にとってご説明するのはたいへんです。なにしろ彼は問題が多すぎた。団員補充に関して私情を挟むのも目に余りました。彼にとっては男性団員の場合は金、女性は肉体がものをいいました。フルートの木戸麻美も肉体を提供して入団した一人です。もっとも彼女は矢代君のほかにも数名の団員と情を通じていまして、内部告発もひどかった。ほかにもあります。松芳学園の指揮科教授|狭間《はざま》司郎と手を組んで裏口入学の斡旋をしていた。狭間は狭間で卒業証書と引き替えにやはり金品や肉体を搾取していました」 「もうけっこうです」  蓮見は話をさえぎった。 「それ以上は聞きたくありません。……つまりあのスキャンダルはたんにラノヴィッツの失墜を狙ったものではなく、同時に矢代をはじめとする不良団員を一掃する機会でもあったというわけですね」 「彼女の狙いはラノヴィッツだけでした。私は機会を利用したともいえます。もちろんこの内部浄化は副産物であり、ゆくゆくは穏便に処分するつもりだったのですが、いささか手荒なやり方で獅子身中の虫を処分する結果になりました。ともあれ楽団全体は、円満で健全、活動的な心理状態を恢復したわけです」 「村井両平という人物のもうひとつの顔が見えてきたようです。あなたは伊原財団にあってどのような存在なのですか? 訊かずともわかるような気はするのですが……。また、いまうかがった事情については夕子さんもご存じなのですか?」 「松芳学園大学と東京管弦楽団の健全運営を伊原会長から一任されています。人事決定権も私が掌握しています。もっとも決裁書類に私の名前は出ませんが」 「とすると、この国を代表する音楽大学とオーケストラの、あなたは肩書のないボスというわけですね」 「表だって私が名を連ねるわけにはまいりませんが、事実上は私の管理に委ねられています。大学や楽団の内情に疎《うと》い彼女が、スキャンダルの犠牲者たちの人選を私に一任なさったのは余儀ないことでした。そのことに関しては相当苦慮されたようですが、結局は会長への感情が決意をうながすことになったようです。素行に問題のある人物を選んでほしいという意嚮でしたので、選抜された連中がどのみち別の穏当な方法で放逐される運命にあったことをお伝えすると、いくぶん安堵されたようでした」  島村夕子は事件にこんな事実が隠されていたことを一言もいわなかった。なぜいわなかったのだろう。蓮見はしかしこのことについては不快な気分にはならなかった。もうひとつの夕子の顔を見たような気がした。弁疏《べんそ》や糊塗《こと》と無縁の、それはやはり彼女らしい毅然とした顔だった。  休憩を取ったのだろう、島村夕子があらわれたので話はここまでになった。 「どうです? 手応えは」 「なんとかいけそうです」素顔の汗ばんだ顔を輝かせて島村夕子は答えた、「すごく応答性のよいオケなんで、タクトをすこしぼかすくらいにしないと切れ味が鋭くなりすぎるようです」  笑ってみせた。 「バロー氏はどんなようすです?」 「やはりスケジュールそのものに無理があったようです。なにしろ飛行機に乗るのも四十何年ぶりなのですから」 「病状そのものが悪化したとか、そういうことではないのですね」 「それについてはわかりません。このあと、宮原先生とお会いし、経過について説明を受けることになっています」 「昼の記者会見も精神的にきつかったでしょうね。それにしてもあの一幕には胆をつぶしました」  島村夕子は目を閉じ、躯のどこかに痛みでもある人のようにほんのわずかのけぞると、「あんなことがあるのでしょうか……」  つぶやいたが、目蓋《まぶた》がみるまに膨れ、涙が噴き出した。いままでどこかに押し隠していた感情が一気に解き放たれでもしたようだった。 「あれでバロー氏はその人間性における新たな魅力を遺憾なく発揮した形です。われわれにとってジェラール・バローというのはいわば仙人でして、リアリティが持てなかったのですが、なにか身近な存在になったようです。あれはなかなかの見せ場だった」  いいながら、しかし蓮見はある疎外感のようなものも感じていた。いましがた聞かされた村井の話もこの疎外感の伏線になっているようだった。目の前の島村夕子が遠い人のように思えた。ジェラール・バローと島村夕子の羈絆《きはん》の深さが、二人がはるかな世界の住人であることがいまさらのように思われた。  同じ日の深夜、聖路加看護病院——。 「病勢が進んでいます。いままでは抗白血病剤一種とステロイドによる二剤の投与で症状をどうにか抑えてきたわけですが、再発といってよいでしょう」  宮原医師は甘味も渋味もない口調でいった。  島村夕子は眉間に皺を刻んだ。 「演奏は無理でしょうか」  蓮見がかわりに質問した。 「今夜から抗癌剤を増やしました。二剤ではなく、もっとラッシュに、四剤併用で投与してみることにしました。おそらく効果があがるでしょう」 「ピアノが弾けるほどに?」  島村夕子がおずおずと訊く。 「それはわかりません。劇的に効くかもしれないし、逆に副作用のほうが強く出るかもしれない。効果をあげ、ふたたび寛解に持ち込んだとしても……」宮原医師はいい澱み、机の上の煙草を無意味にもてあそんでいたが、やはり無表情な声でつづけた、「やがてかならず病状は反転し、悪化します。その際のリバウンドは、いままでになく大きいでしょう」 「助からないということですね」  蓮見がやはり島村夕子にかわって訊ねた。 「まずまちがいなく。……薬を増やすことは、バロー先生のご希望でもあります。一週間後から始まる連続演奏会、その期間だけでいいから、力を与えてほしい。そう、先生は申されました。私も最善をつくします」  宮原医師は最後に声をつまらせながら、結んだ。  島村夕子の肩がふるえ、悲痛な歔欷《きよき》がもれた。  蓮見は夕子の腕を取った。  エレベーターの中で島村夕子はこらえきれないかのように、蓮見の肩に頭をあずけてきた。蓮見はたじろいで自分の肩を他人のもののように感じながら、ふるえる声の夕子の愁《うつた》えに耳を澄ませた。 「フリッツが、わたくしたちと一緒に来たいといってきかなかったの。かわいそうに、もう会えないかもしれないのね」  見たことのない少年と、島村夕子とバロー、その三人が演じる別離の場面が想像された。別人のようにとりみだしている島村夕子の、まぢかな髪の匂いを斬新なものに感じながら、蓮見は見知らぬ少年にさえも嫉妬のようなものを覚えている自分に驚いていた。なすすべもなく肩の重みを支えるのがやっとだった。     5  昭和六十一年十二月六日、ジェラール・バロー演奏会初日。上野・東京文化会館大ホール、午後五時五分、巨匠の姿が舞台上にあった。  聴衆のいない会場を輝かしいピアノの響きが鏤《ちりば》めていた。音階は文字通り盤上|珠《たま》を転がす美しさで、顫音《トリル》は鈴を振るようだった。和音は虹のような色彩感に溢れ、鐘をおもわせる轟然たるフォルテが何の苦もなく打ち鳴らされるのは人間業ともおもえなかった。  バローが弾く手を休め、調律師に手ぶりを交えてなにごとか語りかけた。島村夕子が補足する。蓮見はシャッターを切った。調律師は満面に笑みを泛べ、丁重な一礼をし、舞台を辞去した。バローはピアノのコンディションに満足を示したようだった。  引き上げてくる調律師は安堵と自負の入りまじった表情をみせていた。  蓮見は声をかけた。 「おつかれさま。首尾よくいったようですね」 「いやどうも。やはり、なんといったらいいか、じつにたいしたものですね。後光が射してますよ」  調律師はハンカチを取り出して顔を拭きながら答えた。 「バロー氏の要求はどんなものでした?」 「これといったむずかしい註文はありません。ただタッチの軽さと粘りを両立させるのに苦労しました。でも先生のユーモアをまじえた表現が的確なのでイメージを捉えるのは楽でしたよ」  日本を代表するこの調律師はポケットから煙草を取り出して口に咥え、意気揚々たるうしろ姿を見せながら喫煙所をめざして立ち去った。  バローが島村夕子に寄り添われるようにして袖に向かって歩いてくる。蓮見はシャッターを切る。バローは歩みを止め、美しい女弟子の肩を抱いてポーズを作った。 「サンキュー、マエストロ」  蓮見は丁重に頭を下げた。  ふたりはなにか語り交わしながら去っていった。  ピアノの前に蓮見は行き、譜面台の楽譜の頁をめくってみた。今夜のベートーヴェンだった。紙面はセピア色に変色し、紙魚《しみ》が巣くっていた。予想に反して書き込みはほとんど見当たらなかった。めくり癖がついて、よく使いこまれたものというのは分かった。  バローが今回の公演で譜面を置き、譜めくりを従えるというスタイルを採ることを知る者は蓮見のほかは数えるほどしかいない。聴衆は譜めくりをつとめる島村夕子を舞台に見ることができる。それはむしろ彼等の望むところだろう。しかし、近年こういうスタイルで演奏することはきわめて異例なことで、暗譜は常識であり、このへんを批評家連中がどう受け止めるか、あるいはバロー批判の材料にするかもしれなかった。譜面を見て演奏することは一つのハンディを背負いこむことだ。バローの演奏がそれを単なる瑣末《さまつ》事にしてしまうほどの達成をなしうるだろうか。  蓮見は誰もいない会場を一望した。いまは空虚な客席をやがて聴衆が埋めつくす。そのなかへ歩み出すバローの心理的な抑圧はいかばかりだろう。バローは荒れ狂う海原へ漕ぎ出す水夫だ。万雷の拍手は岩を噛む怒涛のように聞こえるだろう。おそらく楽譜はここでは一種の護符の役割を果たすのにちがいない。  改札では、事業部の連中とアルバイト学生が最後の確認作業にあたっていた。 「立ち見券、どうだった?」 「五分で完売しました。殺されるかと思った」  学生が蓮見に手の甲を見せた。ひっかき傷がついていた。 「これはひどい。バーゲンだな」  録画カメラを担いでいそがしく行き来する技術者。通行証を胸につけた報道陣もあちこちにたむろしている。外国語が飛び交う。編集部の同僚が蓮見を認めて近づいてきた。 「きょうはごくろうさま。そろそろですね。晴れて、しかもあまり寒くない、絶好の初日というところですね」  雨が降っても、雪になっても今夜の予約客でここに来ない者はいないだろう、蓮見はそんなことを思いながら、 「ああ、いよいよだね」 「表はまるでお祭だ。いまインタビューを採ってきたばかりなんだけど、若い人が多いな。女の子もけっこう多いですよ。花屋は笑いが止まらないでしょうね」  表を窺うと、すでに玄関前は人波に埋め尽くされていた。この世紀のイベントに一刻も早く立ち会おうというのだろう。ここでもテレビカメラやマイクが人垣のなかを動き回っていた。人垣のなかからマックス・シュミット氏がめざとく蓮見を見つけ、のびあがるようにして手を振りながら近づいてきた。  頬髭をたくわえた、リルケを思わせる怜悧な風貌のシュミット氏は、人なつっこい微笑を見せて蓮見に握手をもとめてきた。 「コングラチュレーションズ! まるで森だか人だかわからない」会館正面の人だかりを指していい、「素晴らしい祝典ですね、ミスター蓮見。東京はききしにまさる音楽市場だと実感しました。ところで、玄関前の巨大なテレビは何ですか?」  大画面のモニターテレビが二台設置され、チケットを買い損ねた客へのサービスにあてられていた。プレミアムのついたチケットも買えず、当日売りの立ち見券も買えなかった不運な客のために、某電気メーカーがモニターテレビの提供を申し入れてきたのだった。もっともメーカーは抜け目のないもので、コンパニオンの美少女を二人配し、デモンストレーションに余念がない。  そういった事情を蓮見がおぼつかない英語で伝えると、シュミット氏はおおげさに感嘆し、カメラを向けてさかんにシャッターを切った。  事件が起きたのは、入場開始直前の六時前である。  舞台袖の仮設本部へ戻ってきた島村夕子が、緊張をまぎらわすように周囲と談笑しているうち、ふと舞台のピアノに視線を向け、けげんな顔でいった。 「楽譜、どうしたのかしら?」 「楽譜?」  蓮見は椅子から起ち、ピアノの譜面台を見た。たしかについ小一時間前にこの目で見、手でさわった楽譜が消えている。 「あなたが持っていったのではないですか」 「いいえ」  島村夕子の顔からすーっと血の色が消えて行ったかと思うと、楽屋へ向かって駆け出した。  舵川がステージに走り出た。沢木圭子は茫然と立ち尽くす。蓮見と他社のスタッフが舵川の後を追う。  漆黒のスタインウェイを前にして、 「大事にならなきゃいいが」  関東新聞の記者が不安な声でいった。  撮影班のカメラマンたちも集まってくる。 「ここにあった楽譜がなくなった。忽然《こつぜん》と消えてしまった。きみたちは知りませんか?」  蓮見が訊くと、 「そういえばカメラテストのときはありましたね」  三人のカメラ技術者は顔を見合わせていった。 「ライトの位置決めをしたのが一時間ばかり前、そのとき楽譜が反射しないか入念にチェックしたわけですから」  照明係がいう。  これだけの人間がいて誰もこころあたりがないとは……。 「三十分前には確実にあったんだ」  蓮見は不機嫌にいい捨てた。  蓮見の脳裡に一瞬のうちに最悪の状況が脈絡なく浮かんでは消えて行った。楽譜はみつからない、バローは譜面なしの演奏には難色を示す、村野楽器に問い合わせる、在庫がない、リサイタルはキャンセル。いや在庫はある、ただちに配達を手配する、途中渋滞にひっかかる、開演時間の遅延を案内する、会場がざわめく、車はようやく上野駅近くまでこぎつける、脇見運転のトラックが激突する、村野楽器の店員は路面に投げ出される、楽譜は路上に散乱し行き交う車のタイヤに踏みにじられる、リサイタルはキャンセル……。  島村夕子が蒼ざめた顔で戻ってきて、 「楽屋にもありませんわ。バロー先生と蓮見さんとわたくしの三人はほとんど一緒でしたから、心当たりがないのも当然ですけど」  沈痛な声でいった 「開場時間です、どうします」  蓮見は舵川にいった。 「遅らせるしかないな。お客には気の毒だが、いたしかたあるまい。圭子ちゃん! 沢木君!」  舵川は沢木圭子を呼び寄せると手帳に鉛筆を走らせながら、 「これを放送するように手配してくれ」  早口にいい、破って渡した。 「ピアノ調整の都合により、入場開始時刻がいましばらく遅れます。あしからずご了承ください」  圭子は棒読みに読み、踵《きびす》を返した。  村井がやってきた。 「なにかあったんですか」  舵川が説明する。  蓮見は悲痛な表情のまま棒立ちしている島村夕子に質《ただ》した。 「楽譜の版は何ですか? 芸大から借りる手があります」 「だめです」島村夕子は泣きそうな声を出した、「どこにもありません。あれは先生がロンドン時代にサー・プレストンとの共同作業で校訂し、プライヴェートに出版されたものなんです」 「ペータース版とかヘンレ版とか一般的な楽譜ではいけないのですか」  島村夕子は否定するようにかぶりを振った。 「どうしても暗譜演奏は不可能なんですか。バローほどの巨匠が楽譜がなければ演奏できないのですか」  蓮見は険悪な声になるのを感じた。 「四十年余りもの空白があるのです。デビューも同然です。しかも、こわいもの知らずの、むこうみずな若手のデビューとは違うのです。天使と悪魔の棲む所、先生はステージをそう呼ばれたことがあります。舞台の怖ろしさを知りつくした先生があえて譜面を置くとおっしゃっているのです。姿なき魔物に丸腰で立ちむかえとおっしゃるのですか?」  村井が口を挟んだ。 「楽譜に足が生えてどこかへ散歩するわけはないんだから、誰かが持って行ったとしか考えられないでしょう。しかし誰もこころあたりがない。不審な人間もみなかった。これではどうしようもない。探しましょう。それしか手がないようです」 「探すったって、どこをどう探すんです?」  関東新聞がいった。テレビ全日本が同感だというようにうなずいてみせる。  空気が重苦しく澱んでいる。そこへ、開場時間の遅延を知らせるアナウンスが虚ろな会場内にも大きく響き渡った。 「時間がない。こうして突っ立っていたってどうにもならないだろう。とにかく探してみよう。誰か受付へ行って、不審な人間が出入りしなかったか、あたってみてくれ。楽譜だ、ポケットに隠せるようなしろものじゃない」  放送を聞きつけたのだろう、調律師が小走りにかけつけて来た。顔から血の色が失せている。 「ど、どういうことなんですか。ピアノ調整の都合とは何なんですか。チューニングは滞りなく済ませている。バロー先生もすこぶる満足だったんだ」  目が吊り上がって、声も震えていた。  舵川がうろたえているのを見て、蓮見がとりなしに入った。 「まったく予想外のトラブルが起きまして……。しばらく入場を遅らせなきゃならなくなったんです。内情をそのまま放送するわけにもいかなくて、やむなく常套《じようとう》手段を使ったんですが」  調律師は蓮見に詰め寄りながら、 「なにごとが起こったというんです?」  荒い語気で質した。  険悪な、というより一触即発の感じだった。誰もがこの応酬を無言で見戍《みまも》っていた。 「楽譜がなくなったんです」 「楽譜?」  すこしたじろいだ様子を見せたが、やはり語気も荒く、 「それにしたって、調整が遅れているなどというのは我慢できない。常套手段とあなたはおっしゃったが、たしかに演奏家の不調や身勝手を調律師へ転嫁するのはこういう場合の一般的なやり方かもしれない。しかし私はこの仕事に全力を傾けたんだ。こんなやり方は我慢ならない」  たまりかねたように舵川が、 「放送の原稿は私が書いたのです。蓮見を怒らないでください。たしかにおっしゃることは分かります。お気持ちは充分に理解しました。ただ、わかっていただきたいのは」  このとき、カメラ技術者の一人が小走りにやってきて、舵川の言葉を遮った。 「実はこちらのミスなんですが、第2カメラのVTRを回しっぱなしにしてまして、一部始終が」 「録画されてるんですか!」  蓮見が叫んだ。 「いえ、それが映像入力はオフになってたものですから、音声だけなんです」 「音声だけ」  舵川が低く呻いた。 「問題の時間あたりを再生してみますと、跫音《あしおと》が録音されてます。楽譜をたたむような、それらしき音も聞こえます」 「それで結構。すぐに聴かせてください」  島村夕子が強い調子でいった。 「音だけでなにかわかりますか?」  舵川の問いに、 「聴いてみないとわかりません」  島村夕子は蒼ざめた顔を向けた。 「とにかくモニタールームへ行きましょう」  蓮見が促した。  島村夕子は目を閉じてヘッドフォンに聞き入っていた。 「三十秒ほど巻戻しして、ボリュームをすこし落として再生してください」  技術者は指示に従って、手ぎわよく機器を操作する。 「再生します」  一同は息を殺して見入っていた。  島村夕子はふたたび目を閉じて聞き入っていたが、唇を噛み、眉根を寄せた。  目を開け、ヘッドフォンをはずし、 「わかりました」  低くつぶやいた。  誰なのか、口々に浴びせられた質問に島村夕子は黙ったままだった。 「誰がやったのかより」舵川がたまりかねたようにいった、「楽譜のゆくえはどうです。わかりましたか?」 「おそらく前方の客席、舞台上手寄りの座席シートの下でしょう」  舵川が部屋をとびだした。村井と調律師がつづいた。  三人は狂ったように座席シートを確認して回っていたが、発見したのは調律師だった。  舵川と村井が両手で、調律師が指で、OKのサインをよこすのを確認すると、蓮見は島村夕子を促して部屋を出た。  島村夕子は後ろから扈《つ》いてきた。蓮見は蒼白になっているのを感じた。見られたくなかったので、ふりかえらず背中でいった。 「信じられない。悪夢です。なぜこんなことを。……ゆるしてもらえますか。さいわい大事にはいたらなかった。どうか、彼女をゆるしてください」 「……わたくしは名前を出しませんでした。それが答えです。おっしゃるとおり、大事にはいたらなかったのですから。でも、どうして沢木さんだと?」 「モニタールームへ沢木君は来なかった、だから。あなたはどうして? やはり靴音ですか」 「ステージ上での彼女の靴音のピッチでわかりました。彼女の靴音はFの音でした」 「絶対音感、というやつですか?」 「ええ。それが決め手でした。モニタールームへ向かう際、全員の跫音のピッチ、音色などの特性をすばやく頭に記憶させました。ちなみにあなたはC《ツエー》ですわ。沢木さんのFの跫音はその中にはすでになかったのですが、記憶の中から再生させることができました」 「隠し場所はどうしてわかったのです?」 「歩数から判断しました。ステレオ録音なので方向もだいたいつかめましたから」 「なるほど」 「でも、なぜ彼女はあんなことをなさったのかしら。ほんとうに隠すのならもっと適切な場所があるはずです」 「それなんです。さっぱりわからない。バロー招聘の功労者の一人なんだ。彼女には理由がない」  島村夕子は、ともあれいまは先生が気がかりだからと楽屋へ向かった。  舞台袖に戻った蓮見に舵川がやってきて、渋面を向けた。走ったらしく、肩で息をしていた。  舵川は一枚の紙を示した。 「受付の女の子が持ってた」 [#2字下げ] 人の前に顔をあげられないようなことをしてしまいました。なぜあんなことをしたのか自分でもわかりません。どうか、馘《くび》にしてください。楽譜は前列上手寄りの座席シートの下です。  走り書きだが、端正な書体で、しかも「首」と書いていないところに蓮見はへんに感心させられた。しかしいまは沢木圭子が見知らぬ人間のようにおもいなされた。動機が想定できなかった。 「それにしてもなぜ彼女はこんなばかなことをしたんでしょう」 「そんなことはわからない」  舵川は叫んだ。 「わからないが、わかるような気もする」 「ぼくにはさっぱりです」 「そろそろお客を入れるぞ」 「どうわかるような気がするんです? 編集長は思い当たるふしがあるんですか?」 「食いさがるじゃないか……」舵川は声の調子を落として続けた、「蓮見のいまの反応を見て、なんとなくそう思ったんだ。蓮見はあとを追おうともしなかった。きみは事実は知りたがるが、彼女を追うことは決してしない」  蓮見はさっと頬から血の気がひくのを感じた。自分が見知らぬ人間のように思われた。 「淋しかったんだろうな」舵川は湿った声で続けた、「彼女もまた誰にも負けないほどバローと島村夕子を愛していた。そしておまえに対してもな。バローの来日がしだいに現実のものになってゆく。来日への橋渡しには彼女なりに精魂を傾けた。彼女は優秀なスタッフだったよ。しかし近づけば近づくほど、遠く手の届かない存在であることが認識される。バローだけじゃない、蓮見さやかもだんだん遠ざかる」 「そんな……」  舵川は時計を見て、「開演時間を六時五十五分としよう。さあ、時間がないぞ」 「しかしこのままじゃ」 「いまさらなんだ。追いかけてつかまえるほうが酷《こく》というものじゃないか」  改札を見てくるといって、背中を向けて歩みだしたが、すぐに立ち止まった。そのまま振り向かずにいった、「過労ということもあるな。心神|耗弱《こうじやく》状態だったんだ。誰もとがめられない」  蓮見は楽屋へ向かいながら、会場が確定した前祝いの席を、風邪ぎみだからといって浮かぬ顔で退出した沢木圭子のうしろ姿を思い出した。空港にも最初のリハーサル会場にも姿を見せなかった圭子は、刻一刻幻から現実のものになろうとするバローに、逆に実感としてはしだいに自分の手から遠ざかってゆく虚しさを感じていたのだろうか。いわば対象喪失の悲哀とでもいう……。  そういう淋しさなら……、蓮見は煙草を取りだしながら思った。そんな淋しさは自分もしばしば感じた……。いまだって感じている。われわれのバローが、もうあとしばらくで世界のバローになる。たしかにそれはうれしいが、どこかに一抹の淋しさをともなってもいる。 「島村夕子に対してなら」蓮見はにがい紫煙を吐きながら心につぶやいた、「そんな気持ちはずいぶんと前から感じていた。出会って以来、会うたびに手の届かない人だということを確認してきたようなものだった」  通路に響く靴音を他人のもののように聞きながら、蓮見はバローの楽屋へ歩いた。沢木圭子はどこへ行くのだろう。自分はどこへ向かっているのか。Cだかなんだか知らないが、この跫音は、気持ちを伝えることもできなくて、毎日を雑事に没頭することで自分をごまかしてきた臆病者の跫音ではないか……。  バローの楽屋の前に来た。蓮見は立ちどまり、脚《あし》付きの灰皿の前で深々と烟《けむり》を吸い込んだ。遠くに潮騒のような観客のざわめきが聞こえる。客が続々と席を埋めていくのが見えるようだった。  耳を傾けると海にいるような気がした。  突然、ドアが開いた。島村夕子だった。蒼白だった。亡霊にでも出会った人間の顔だった。蓮見を認めると、くずおれるように倒れかかってきた。反射的に抱きとめながら、一瞬いやな予感が脳裡をかすめた。 「どうしたんです」 「先生が、先生が……」  島村夕子はふりしぼるような声でいった。  黒っぽいスーツが喪服のように見えた。  蓮見は島村夕子を抱えるようにして立たせ、片手でノブを回した。  バローは椅子に掛けていた。  うなだれて、まるでうたた寝でもしているように見える。流麗な銀髪が額に落ちている。  かたわらに、宮原医師が蒼ざめた顔でつっ立っていた。蓮見に、いけないというふうにかぶりを振ってみせた。 「ばかな!」  蓮見は激しく動顛《どうてん》しながらも、はじめからこうなることが分かっていたような気が心のどこかでするのを不可解に感じていた。 「うそだ」  蓮見はバローに駆け寄った。 「先生、うそでしょう! こんなことが……」  蓮見はわけのわからない声を発しながら、バローの肩を揺すった。意志のない肉塊の感触だった。 「あなたの聴衆が待っています。あなたを待ちかねているんです!」  なおも激しく揺り動かす蓮見を宮原医師が制した。 「悪魔が神に勝ったのです。なんてことだろう……」  悲鳴が起きた。  島村夕子の号泣だった。  島村夕子は扉を背に立っていたが、そのまま人形のようにくずおれ、激しく嗚咽《おえつ》した。  こんな場面を何度も想定したが、いざ現実として直面してみると、足もとが不確かで、首と胴が離れたような実感のなさだった。  蓮見はめまいを覚えながらも、焦点のない眼をした島村夕子に近づいた。ほとんど自分の意志とは別の何かによって島村夕子の手をつかんでいた。  手を引くと、島村夕子は起ち、二、三歩は意志を持たない人形のように従ったが、すぐにふりほどき、射るような目で訊ねた。 「どこへ?」 「舞台だ」 「……?」  いぶかしげな、どこかおびえたような視線が蓮見を見ていた。 「バローの代役はあなたしか務まらない」  しばし島村夕子は蓮見の言葉の意味をはかりかねていたが、電撃に触れたように全身で身ぶるいすると、 「できません。そんなこと、できません」  身もだえながら否定した。 「二千数百人の聴衆を見捨てるのですか」 「人々が来たのは、バロー先生を聴くためです」  島村夕子は両頬に手をあて、かすれた声で否定した。 「そう、ある人は遠隔地から、ある人はなけなしの財布をはたいてここへ集まってきた。バローをその目で見、その耳で聴くために」蓮見は自分の充分沈着な声に聴き入りながらいった、「しかしこれが一つの事業でもあることを忘れてはいけない。おびただしいスタッフたちの努力の結晶であることを。あなたは舞台に立たなければならない。聴衆にバローの死を報告するのはあなたしかいない。そうしてバローの代奏をつとめるのもあなたを措《お》いてほかにはいない」 「できません。できないわ」  島村夕子は涙声で叫ぶと、壁にすがりつくように両手をあてた。  軟体動物のように壁にとりすがって、背中を波打たせながら、ずるずると横ざまに滑っていく。蓮見の目にそれは舞台劇の俳優を思わせた。蓮見はかまわずその背中に語りかけた。 「あなたはただバローの死を報告し、バローの遺志にしたがって今夜のリサイタルを代奏することを告げればそれでいい。あとは場内放送がこう補足する。キャンセルは休憩時にロビーで受け付ける、混乱のないようおいでいただきたい。……みんなが帰ってしまうのか、あるいは誰も帰らないか、それは島村夕子の演奏しだいだ」 「ベートーヴェンをわたくしは先生のようにはとても弾けません」  島村夕子は壁にはりついたまま、小さく、ふりしぼるような声で反駁《はんばく》した。 「ではいわせてもらいます。バローがあの録音を自分の演奏だといったのはただ愛する弟子の窮地を救うためだけだったのだろうか。また、なんのためにあなたはバローのもとで音楽を学んできたのか。バローはあなたが代奏することを望みこそすれ、決してとがめはしないのではないか」  島村夕子は顔だけおずおずと振り向いた。 「…………」  涙に濡れたうえに、眼のまわりや鼻を赤くし、唇を慄わせている島村夕子は無力な幼児を思わせた。 「これが最後です。あなたが演奏しないのなら、あなたのこの半年間の苦労はどうなるのですか。ぼくや、仲間たちの不眠不休の努力もむくわれないのですか」  斜め下に視線を落とした島村夕子の睫《まつげ》は内心の葛藤を物語るように慄えている。 「やってくれますね」  島村夕子は顔をゆっくりと上げ、目を鎖じると、この世の最後の空気を吸う人のようにしずかに息を呑んだ。そうして眼を鎖じ、仰向いたままかすかにうなずいてみせた。  蓮見はスタッフにバローの死を告げた。  衝撃が全員を襲い、空気が凍結した。  声を失っている面々に目論見を説明した。賛同を得るまでもなく、つっ立っている一人に放送室への送稿を押しつけ、調整室の技術者と内部電話で連絡を取った。ようやくそれぞれは自分の役割に気づき、数名は観客への対応のためロビーへすっ飛んで行った。  開演時間が来た。  蓮見は島村夕子の肩に手を置いて、いった。 「残酷なお願いですが、われわれがすがれるのはあなたのほかには何もないのです」  島村夕子は蒼白な顔にぎこちない微笑を泛べてみせた。  舞台へ歩み出た。ざわめきが途切れ、すぐに拍手が起こった。拍手に私語が入り雑じって会場は緊張を帯びたどよめきに包まれた。  舞台のほぼ中央に島村夕子は歩みを止めた。  肩で大きく息をするのを蓮見は痛いような気分で見た。  美しい横顔だった。知性で研磨されたような可憐さをたたえた、人によってはただ生意気としか見ないかもしれない、しかし蓮見の好きな横顔だった。 「はじめまして、島村夕子です。今夜はようこそいらっしゃいました」  増幅された声は冒頭が少しハウリングぎみに割れたが、すぐに適正な音量で会場いっぱいに通った。ひとしきりの拍手ののち、会場は静けさに包まれた。 「突然の、信じがたい悲報をお伝えしなければなりません。わたくしは、悪い夢でも、見て、……見ているようです」島村夕子の声がうわずった。会場がざわめく。あとはひと息に続けた。「ついいましがた、先生が、バローが息をひきとりました」  光の箭《や》のように衝撃が会場を走り抜けていく、その異常な手応えを蓮見は感じた。会場全体が一つの意志を持つもののように、大揺れに揺れた。  指を焼く煙草の熱さに蓮見はわれに返った。ほとんどフィルターだけになった煙草を灰皿に棄て、大きく深呼吸した。  ——なんという馬鹿げた想像だろう! 悪夢のように駆け抜けて行った妄想に、蓮見は舌打ちした。疲労、睡眠不足、緊張、そしていましがたの沢木圭子のトラブル。神経がおかしくなっているのだと蓮見は思った。蓮見の中のもう一人の自分が、バローの死を望んでいることには少しも気づかずに。  遠くの潮騒のような観客のざわめき。緊張をたたえ、期待に満ちたさんざめき。耳を澄ませると海にいるような錯覚がした。自分の存在も含めてすべてが夢のような気がした。たよりなく非現実な感覚にいらだって蓮見は拳で強すぎるくらい強くノックした。 「はい、どうぞ」  ほぼ同時に、島村夕子とバローの声が答えた。バローの覚えたての短かい日本語に、蓮見は胸をつかれるような感動を覚えた。  島村夕子とバローは寄り添い、蓮見と宮原医師は少し離れてあとに続く。前を歩くバローは、病身にもかかわらず確かな足どりで運んでいる。広い肩幅としゃんと伸びた背筋は年齢を感じさせなかった。  しだいに会場のざわめきが近づいてくる。濃い紫色のドレスに身を包んだ島村夕子の背中に緊張がみなぎっている。バローは自然体に見えるが、内心の嵐は想像にあまりある。磔刑《たつけい》場に向かうキリストを蓮見は連想した。  舞台袖の出演者溜まりには舵川をはじめとして、スタッフの面々がそれぞれに緊張した顔をそろえていた。期せずして、拍手が起こった。音を抑えた、しかし心のこもった拍手だった。バローは一同に会釈し、椅子に掛け、温風器に両手をかざした。  ステージの中央で漆黒のスタインウェイがライトを浴びて輝いている。三台のテレビカメラと緊張の面持ちのカメラマン、録音マイク。そのコードの先端は別室の技術者たちにつながっていて、そこでも緊張した時間が支配しているだろう。舞台上手の袖には専門の写真家が三脚を立てている。  蓮見は村井に促されて、袖の控え室から観客席を一望した。 「ここはトーチカみたいですね。客からは見えない。なんだか悪いことをしているみたいだ」 「超満員です。みごとだ」  村井が同意を求めるようにつぶやく。  一階席中央のテレビカメラ周辺を除いて満席だった。 「二千六百人のバロー詣《もう》でですね」  蓮見はできれば客の顔を一人一人、見ていきたい気分だった。一人一人と握手をし、礼を述べたい、そんなことをひどく素直な気持ちで思った。感傷だとか少女趣味、舵川なら一笑に付すだろう。しかし、そんな舵川だとてこの光景を眼前にすれば胸を熱くするにちがいない。 「おなじみの顔がありますね。着物の人物は三田先生でしょう」  村井の言葉どおり、ひときわ周囲に目立つ羽織袴の三田庸介の姿がある。 「その左は楽苑社の会長です」  蓮見はどことなく政界の大立て者といったふうにも見える会長の姿にしばし見入った。三田庸介は会長と会話を交わしていた。三田が聞き手のようだった。会長は若き日のバローの話でもしているのかもしれない。 「会長の右が社長とその夫人。あのあたりは招待席です。関東新聞、全日本放送の重役連中、伊能先生の顔も見える、野上先生もいる。批評家の先生がた、俳優も来てますね、大使館関係、政界、文化関係、皇族、これは壮観だ」 「たしかに壮観ですな」 「遊佐さんのご両親もいる。……ピアニストもいるし、音楽家も勢ぞろいか。やあ、外人も目立ちますね」  会場を提供したピアニストのNとヴァイオリニストのWも席を並べて演奏開始を待っている。妹の顔もあった。膝にこぶりな花束を載せている。足許に置いてくれよ、蓮見は声をかけたかった。 「平田もどこかにいるかもしれませんね」 「平田がですか」 「そうそう、印税の振り込みが昨日ありました」 「それはよかった」蓮見はバローの大芝居を思い出して、おもわず口許をほころばせた。「それはまことに結構です。そうだ、伊原氏はみえていないのですか」 「おいでになっています」  村井の説明に従って視線を移動すると、一度見かけただけの伊原頼高が目に飛び込んできた。かなり前の席で目を閉じて腕組みしている。 「あの席だと夕子さんとまともに視線がぶつかる可能性もありますね。こっちまで胸がどきどきする」 「おっしゃるとおり。しかし私には特別の意味を持つ光景です」  村井はこれが父子和解の機縁になればと望んでいるのだろう。  一つだけ空席があった。沢木圭子の座るべき席だった。それはやはり蓮見の目に痛かった。  空席の斜め後方に平田の姿があった。目が合ったわけでもないが、平田は片頬に不敵に意味ありげな微笑を浮べ、蓮見はおもわず視線を逸らした。  予鈴が鳴った。  腕時計を見ると、六時五十分を示している。 「まもなく開演です。ロビーにおいでのお客さまはお席におつきください」  会場アナウンスのいくぶん緊張を含んだ声が響いた。  蓮見は村井を促して舞台袖へ向かった。  老巨匠は一同に背を向け、コンクリートの壁に対してうなだれていた。すぐ後ろに島村夕子が控えている。巨匠は何か精神の集中を図っているようだった。村井も舵川も、ここでは誰も声を発しなかった。  おそろしい魔物とバローは闘っているのにちがいなかった。バローはこういう場合たいていの巨匠が着用する燕尾服を着ていなかった。詰め衿《えり》のような、Vゾーンを設けたスタンドカラーの黒のスーツ姿だった。純白のシャツは典雅なウイングカラーで、衿元には真珠で止めた黒い絹のタイが小さな蝙蝠《こうもり》のように止まっている。燕尾服を避けたところにもバローの心が見てとれるようだった。  やがてバローはふりかえると、 「定刻に出よう」  英語でいった。島村夕子はうなずいて、腕時計を見た。蓮見もつられるように時間を確かめた。あと一分もなかった。  時間が音を立てて流れていた。聴衆のさんざめきが怒涛のように誇張されて聞こえてくる。  客席の照明が徐々に落とされ、会場は潮がひくように静まり返った。  バローの顔がこころもち蒼ざめているのを蓮見は認めた。昨日の協奏曲の総練習《ゲネラルプローベ》ではバローは余裕のある演奏をしてのけた。ところどころはしょり、ときには和音をパラパラと鳴らすだけで力をセーブしているところなど、さすがに老獪《ろうかい》な巨匠の面目躍如であった。しかし初日はリサイタルなのだ。バローはただ一人、おびただしい聴衆の前に歩み出て、息づまる静寂のなかに、決して引き返すことのできない、確信に充ちた、それだけで人の心を奪い取ってしまうような、最初の響きを鳴らさなければならない。  島村夕子が目で合図を送った。バローは頤《おとがい》を引き、銀髪を両手で一撫でした。ゆっくりと舞台と袖の境まで歩いていき、立ち止まった。ふりむいて一同に目でうなずいた。舵川が両手でこぶしをつくり、励ますように力強く振ってみせた。  バローが舞台に歩み出た。静寂を破って靴音がステージに響く。  どっとどよめきが起こり、拍手がこれに続いた。場内を揺るがすような万雷の拍手だった。 「ブラヴォー!」 「バロー!」  そんな歓声がいくつも飛び交う。  バローはたじろいだかのように立ち止まった。ほんの数歩しか歩み出ていなかった。  蓮見は客席から見えないぎりぎりの位置まで出た。かたわらには島村夕子がバローに続く間合いを見計らっている。  観客の一部は立ち上がっていた。両手を頭の上にかざして拍手している者もいた。会場はすでに昂奮の坩堝《るつぼ》と化していた。こんな光景は初めてだった。  バローは化石したように身動《みじろ》ぎしない。あきらかにパニックに陥っている。表情がうかがえないのがもどかしかった。モニターテレビは袖に設置してあり、そこにはバローの表情が描き出されているはずだが、頬は引き攣《つ》っているかもしれない。  蓮見の心臓が早鐘のように打った。このままではいかんともしがたい。歓声はますます高く、バローは無力な小児のように立ち尽くしていた。  突然、 「コラッジョ、マエストロ、コラッジョ」  島村夕子が叫んだ。  しぼるような声を、バローの動かない背中に投げかけたが、どよめく拍手と歓声にかき消されたようだった。  もう一度、こんどは蓮見も一緒に声をあげた。 「マエストロ、コラッジョ!」  バローの背中に痙攣《けいれん》のような漣《さざなみ》が走った。そうして、確実な一歩を踏み出した。声を聴き取ったのかどうかはわからなかったが、あとはピアノまでひと跨《また》ぎだった。  ピアノの横で巨匠は聴衆に答礼した。二度、三度、方向を変えつつ叩頭する。横顔に微笑が見てとれた。拍手はさらに高まり、空気をつんざくようだった。 「いいぞ」  蓮見は思わず声を出していた。  島村夕子が歩み出た。紫のドレスには裳裾《もすそ》が引かれてあり、譜面めくりとしてはいささか大袈裟《おおげさ》とも思われたが、厭味な感じは受けなかった。島村夕子の気合の入れ方がうかがえた。裳裾は蝶のように揺れ、靴音が乾いた響きで鳴った。  歩きながらわずかに頚をかしげ、聴衆へのめだたぬ挨拶を送ったが、それはたいそう優雅な動作だった。  バローが椅子に腰を下ろすと潮が引くように拍手は歇《や》み、うってかわった、おそろしいような静けさが来た。島村夕子が楽譜を開いて、なじませるように二、三度|綴《と》じしろの部分をこすった。その音が蓮見の耳にはっきりと聞こえた。  バローは椅子の上でいくぶん神経質に上体を前後させ、位置を点検したが、やがて両腕を交差するように胸に組み、銀髪の頭を垂れた。スタインウェイの大屋根がそんな光景を映しだしているのだった。見入る蓮見に、それは祈りを思わせた。非常に長い時間のように感じられた。 「神よ、始めます。どうか私のつたない演奏をお守りください」  そんな声を聞いたようだった。勝手な想像にすぎなかった。しかし、ぼーっとにじんできた眼前の光景を見ながら、それに誤りはないように蓮見は思った。  バローの左手が、神の宿る手がさりげなく、しかし虚空の何者かをつかみ取るかのような緊張をたたえて掲げられた。未曾有のベートーヴェンが、敬虔《けいけん》な静けさのなかに、いままさに鳴り響く瞬間だった。 [#改ページ]   文庫版あとがき  小著の文庫化にあたり、単行本上梓の際にお世話になった宇野功芳氏、宇山日出臣氏にまずは感謝の意を表しておきたい。ちなみに、単行本発行は平成二年四月九日、四六判二百八十四頁、装幀・装画宇野亜喜良氏、推薦文鮎川哲也氏、というものだった。  さて、今回読み返してみて、いささかの感慨があった。  その一つは、執筆時の精神の昂揚である。着手は昭和六十一年夏、すなわち物語の発端時期と軌を一にしており、作中経過と同時進行する形で書き進めた。この方法は偶然の動機によるが、世に迎えられぬ未熟な小説作者にとって、作品のリアリティ賦与に大いに裨益するものがあったように思われる。幻のピアニストの復活、というそれ自体ロマネスクな主題を、作者はあたかも日記を書くように展開し、変奏し、気づいてみれば一篇の物語が紡ぎ出されたのだった。今にして思えば、遠い昔に実践したことがある、恋愛開始と同時に日記をつけ始める行為に似ていなくもない。事実、これらに比肩できる執筆の昂揚感を他に知らない。  もう一つは、私がプロデュースしたエリック・ハイドシェックのライヴ盤が、偶然にも単行本刊行と同時にテイチクから発売されたこと。氏はかつて天才ピアニストと謳われながら、ある楽壇事情により第一線を撤退して不遇に甘んじていた人である。座視するに忍びなかったといえばおこがましいが、一ファンの自主制作によるCDは一躍ベストセラーとなり、これを契機に日本においてめざましい復活を遂げた。これは数少ない私の桂冠であり、人生の本懐である。  あれはオスカー・ワイルドだったか、芸術(小説)が人生を模倣するのではなく人生が芸術(小説)を模倣する、という意味のことを述べていたと記憶する。ハイドシェックを作中のジェラール・バローと見立てるなら、作者はいわばハイドシェックにとっての島村夕子であり、蓮見であったわけで、思えば私は小説と現実の両方で「幻のピアニスト復活」に与かったのだ。  以上、大上段に書いてきたが、蛇足と承知で一言。小著は音楽ミステリーと銘打たれて刊行されたが、作者の志は芸術家の物語を書くことにあった。優れた音楽ミステリーを書きたいという意図は、続編の「消えたオーケストラ」において濃厚となったが、本書においては少なくとも執筆時にはそういう意識は希薄だったのである。  ともあれ、デビュー作ということで格別の愛着のある小著が、比較的廉価な文庫によって一人でも多くの人に読まれることになれば、これにまさる喜びはない。なお、文庫版に若干の加筆と削除を施したので付記しておく。また、文庫出版部の杉山嘉美氏、カバーデザインの辰巳四郎氏に、記してお礼申し上げる。      平成五年二月三日 [#地付き]著者   ・この作品は作者の虚構にもとづく完全なフィクションであり、登場する現実の団体、個人、施設等とは全く関係ありません。 ・本作品は、一九九〇年四月、小社より刊行されたものです。 ・本電子文庫版は、本作品講談社文庫版(一九九三年四月刊)を底本としています。