宇神幸男 消えたオーケストラ 目 次  プロローグI  開演とオーケストラ  消失とオーケストラ  誘拐とオーケストラ  プロローグII  象とオーケストラ  棺とオーケストラ  蠍とオーケストラ  終演とオーケストラ  エピローグ [#改ページ]   プロローグI  ——本番中のステージからオーケストラが消える?  ——そう、満場を埋めつくす聴衆の前から演奏中のオーケストラが煙のごとく消え失せてしまう……。  ——バカバカしい。現実にそんなことが起きたとしたら、前代未聞というほかはない。世間は蜂の巣をつついたような騒ぎになる。そんなことが……。まさか、小説でもあるまいし。  ——小説でも、いままでそんなことが書かれたためしはないでしょうね。  ——それを現実にやろうというのかね?  ——そう、衆人環視のステージから、オーケストラをまるごと消してしまう。荒唐無稽な夢物語……、常識からいえばそのとおりです。  ——舞台そのものが、芝居小屋の奈落のような構造になっていて、オーケストラごと落下する。そうすれば、聴衆の前から確かに消える。しかし、そんなコンサートホールは世界中のどこをさがしてもない。物理的にもできないのなら、あとは魔法か超能力ということになる。  ——物理的に消すなんて、そんな危険なことは考えていません。それこそ大惨事です。安全に、整然と、スマートに聴衆の前から消す。これは魔術でなくとも可能なんです。  ——どうやるというのだね?  ——コロンブスの卵のようなものでしてね。説明すればクラシックにくわしくないあなたでもなるほどと思うでしょう。だが、具体的なことは現段階では教えられない。敵を欺《あざむ》くにはまず味方から、ですからね。  ——もしこの計画が実行可能だとして、実際に事件を起こすとする。その場合、警察の出動などがあるのだったら、その計画は願い下げだ。社会事件はいっこうかまわないが、犯罪は困る。  ——とんでもないことをやろうというのです、多少の出血は覚悟しなければ。この計画を実行すれば立派な犯罪です。警察の捜査も当然行われます。しかし、これは殺人事件じゃない。凶悪犯罪ではないのです。  ——発覚すれば、すべておしまいだ。社の存続そのものが危うくなる。だいいち、消えたオーケストラはどこへ行くのだ? どこかへ隠すのだろう。  ——隠し場所は、絶好の場所を用意してあります。  ——一人や二人じゃない、オーケストラの全員を一定期間、誰の目にもふれずに幽閉しなきゃならないのだ。そんな場所があるというのかね。  ——それがあるのです。  ——それはどこなんだ?  ——残念ながら、いまそれをお知らせするわけにはいきません。  ——ま、それはそうだ。犯罪は内密に行なわなければ意味がない。ところで、団員の口封じについてはどう対応するのだ? まさか皆殺しにするわけじゃないだろう。  ——それは簡単です。全員、移動時は快適な眠りについています。  ——きみは顔を憶えられるが、いいのか? それとも変装でもするのかね。  ——顔を憶えられたって何の痛痒《つうよう》もない。長く日本にいるつもりはありません。  ——成功した場合の効果を考えると、私も血は騒ぐよ。日本中が騒然とし、すべての新聞がとりあげ、テレビ、ラジオ、週刊誌、あらゆるマスコミが注目し、連日連夜の報道合戦が展開するだろう。  ——ステラの宣伝費の年間予算は売り上げの約四パーセント、およそ四十億円前後といったところでしょう? その程度の効果はじゅうぶんにあがるでしょうね。  ——それ以上かもしれんな。美粧堂の宣伝費は莫大で、約七パーセント、百億を越す。それと同等、あるいはそれを上回る効果が見込めるだろう。たしかに魅力はあるが、しかし危険きわまりない企画だ。リスク・マネジメントを考えると、躊躇せざるを得ない。  ——この期《ご》におよんでしりごみですか?  ——へたすりゃ、ステラはぶっ潰れる。二の足を踏んで当然だよ。  ——成功すれば社長の椅子はまちがいないでしょう?  ——それはたぶんまちがいないが……。  ——おやりになりませんか。人生、冒険もたまにはやってみるものですよ。  ——T計画には最初から乗り気なんだ。ロマンを感じるし、もう有名女優やタレントを使う時代じゃない。この計画は悪くないよ。当節はやりのコーポレート・アイデンティティにはうってつけの人材だ。彼女の年齢からして使えるのは三年というところだろうが、それで不足はない。しかし、なにもオーケストラを消すところまでやる必要があるだろうか。いってみれば、これは愉快犯じゃないか。  ——正攻法じゃだめです。百円で百円の買物をするのと変わらない。それでは美粧堂を倒せないことは百も承知でしょう? 危険は危険だが、附加価値は甚大です。だからこそ、イカワもやるといっている。もっとも、あちらの台所事情はあまりよくありませんからね。特攻もやむなし、というところでしょう。  ——彼女はイカワにはもったいないくらいだ。できれば、この話はステラだけに持ってきてほしかったな。  ——お気持ちはわかります。美粧堂とステラの関係は、そのままハヤマとイカワに当てはまりますからね、私としてはボランティアのつもりですよ。  ——よくいうね。イカワとステラじゃ、格が違う。  ——それはわかってますよ。ただ、この計画にはイカワがどうしても必要なんです。  ——わかった。乗ろう。最悪の場合、遺書を書いて屋上から跳ぶさ。  ——専務さん、あいにく私は古典的愛社精神には興味がありません。  ——ところで、そちらの要求は? やはり金かね?  ——金には不自由していない。もちろんそれ相応の報酬はもらいますがね。  ——金以外に目的があるのか?  ——いわぬが花です。率直にいえば、私は生まれてこのかた人生の美酒とやらを飲んだことがなくて、一度は飲み干してみたい。そういうことです。これはあくまで個人的な事情ですがね。  ——よくわからないが……。  ——それでいいのです。その方がお互い永く友人でいられるというものでしょう。 [#改ページ]   開演とオーケストラ     1  鉛色の海は、みずからの沈鬱な重さを量《はか》っているかのように、寡黙に凪《な》いでいる。  左手の大桟橋には、白と水色に塗り分けられた優美な異国の客船が舫《もや》っている。湾内を幾艘もの小艇が、沖へ、あるいはこちらへ、また横ざまに、それぞれに白い航跡を曳《ひ》いて走り、目の前を鴎《かもめ》が、手の届く近さに二羽、三羽、飛翔する。  右手に繋留《けいりゆう》された氷川丸の白い船姿、その後方にマリンタワーが五月の空を截《き》っている。  並木|刑部《ぎようぶ》は山下公園の大桟橋寄り、海に突き出た半円形の堤《つつみ》に佇《たたず》んでいた。周囲には何組もの若い男女や親子連れの姿があり、子供たちが歓声をあげながら駆けだすと、そのたびに足もとからあわてたように鳩が飛び立った。  たそがれにはまだ早い。光はあふれ、微風がときおり頬をくすぐる。  並木はふとふり返る。公園の向こう、海岸通りの公孫樹《いちよう》の街路樹は新緑だ。惜しむらくは、このところの晴天続きでいささか埃っぽく、一雨降れば葉の緑はさらに美しさを増すだろう。並木道の向こうは、右のシルクセンタービル、左のミナト・ホテルと隣接し、前庭に噴水を持ち、水色のタイルで化粧仕上げされた五階建ての横浜臨港会館だ。この公共施設の舞台に立つ内外の演奏家は多士済々である。  並木の目的は、横浜臨港会館の大ホール、別名ベイ・ホールで今夜開催されるコンサートを聴くことにある。  島村夕子の指揮するオーケストラ公演だ。  昨年暮れの、あの空前絶後のイベントといわれたジェラール・バローの連続演奏会。並木は多忙のため、実演を聴くことができず、苦心して手に入れたチケットも姪《めい》に譲らなければならなかった。さいわいなことに、最近それらの実演記録がコンパクト・ディスクやレーザー・ディスクで市販されたので、そのすべてを購入し、毎晩睡眠時間を節約して鑑賞した。  結果は、万難を排しても聴きにゆくべきだったという、苦い後悔だけが残った。  昨年九月に始まったバロー騒動、まさにそれは音楽史上に残る一大事件だった。  第二次大戦前夜のヨーロッパを風靡《ふうび》した天才ピアニスト、ジェラール・バロー。戦後、ナチス協力のかどで演奏活動の停止を余儀なくされて以来、ふっつりと消息を絶ち、いつしか忘れられてしまったこの謎のピアニストの、突然の Historic Return……。  スイス高地の寒村に隠遁《いんとん》し、孤高の晩年を送る幻のピアニストが実に四十数年ぶりの新録音を行ったというニュース、よみがえる伝説の巨匠、そして、この巨匠の新録音を実現させ、幻のピアニストの復活劇を仕掛けた日本人女性島村夕子。……昨年九月、音楽雑誌にこのニュースを見つけたときの昂奮はいまも並木の記憶に鮮明だ。  世界で最も人気の高いピアニスト、五月に来日し日本中を沸かせたピアノ界の至宝ラノヴィッツこそが、ジェラール・バローの戦後のステージ復帰を妨害し、楽壇から葬り去った張本人であることも同時に暴露され、騒然となったが、ほどなくしてそのラノヴィッツが軽井沢で日本人音楽家達といかがわしいパーティに興じていたというスキャンダルが露顕するや、人々の関心はいやがうえにもバローに熱く注がれ始めた。  やがて、バローの録音が贋作《がんさく》ではないかという一片の新聞投書によって、事態はおもいがけぬ展開をたどる。批評家、愛好家ともに百家争鳴し、やがてバローの名を騙《かた》る代奏者がほかならぬ島村夕子ではないかという説が出現するにいたって、ことはにわかに犯罪事件の様相を呈してきたのである。  並木刑部にとって、この、いわゆる「バロー贋作盤事件」が、好楽家としてばかりではなく、司法にたずさわる者として人並み以上の関心事であったことはいうまでもない。職業柄、著作隣接権の侵害、刑法上の詐欺、信用及び業務に関する罪、あるいは不正競争防止法などを見直してみたものだったが、当のバローが来日し、記者会見の席上、演奏が自分の手になるものであると証言したため、島村夕子は法にふれることなく、その身は無傷となった。  島村夕子が代演したことは誰の目にもあきらかだった。かたくなに楽壇復帰を拒みつづける老ピアニストの再起を実現するため、彼女はおもいきった企《たくら》みを実践したのだ。まずは自らの演奏による贋作盤を市販し、やがて贋作説が浮上したところで、ことのしだいをバローに明かし、否応なくステージ復帰を決意させるという、芸術家の良心と矜持《きようじ》を前提とした奇策である。  成否紙一重のこの企ては、もくろみ通りにバローの翻意をうながしたばかりでなく、バローの来日公演に多大の宣伝効果をあげた。事情を知った人々は島村夕子の行為を快挙と見たし、土壇場でバローがまな弟子島村夕子の代奏を否定し、あえて自分の演奏だと主張した行為には喝采さえ惜しまなかった。バローが余命いくばくもないという事実も話題に拍車をかけた。それに、島村夕子が美貌であるということも。  こうしてジェラール・バローの日本公演は世界注目のうちに開幕し、あたかも宗教的秘儀にあずかるように人々はバローの演奏会にむらがったのだった。  結果的にはみごとに図にあたったわけだが、島村夕子のシナリオは近年の劇場型犯罪を想わせ、週刊誌のグラビア向きの容姿の持主ということを別にしても、並木はこの女の端倪《たんげい》すべからざるキャラクターに興味をいだかないわけにはいかなかった。  十七時二十五分   ホールに交響曲「運命」の雄渾《ゆうこん》な終楽章|結尾部《コーダ》がとどろいていた。  客席は無人で、舞台だけが明るい。  オーケストラは、凱歌《がいか》のような結尾部をめざして、しだいにテンポを上げ、突き進んでいた。  私服の指揮者は髪をふり乱し、全身を鞭《むち》のように撓《しな》らせる。指揮棒が激しく空を切り、左手は見えない何かをつかみ取ろうとでもするように宙を舞っている。  やがて、終結の一撃が客のいないホールに炸裂し、残響の尾を長く曳きずりつつ消えていった。  島村夕子は、なおしばらく凝固したように身じろぎしなかったが、 「けっこうでした」  すこしかすれた、しかし明瞭なアルトで告げた。 「金管楽器、わたくしの要求どおり音を割ってくださったのはよろしいのですが、音程が悪くなるのは困ります。本番ではきっとうまくゆくでしょうけど。……それではここまでといたしましょう。お疲れさまでした」  一揖《いちゆう》すると、オーケストラ団員は不揃いに答礼した。  本番前のリハーサルから解放された団員たちはそれまでとはうって変わった雑然たるくつろぎを見せつつ、それぞれの行動に移った。席を立つ者、隣同士の会話、曲をさらう者、欠伸《あくび》……。  ざわざわとした雰囲気の中で、指揮台の周囲にだけ緊張が残っていた。ここでは指揮者とコンサートマスターが総譜をのぞきながら最後の短い打ち合わせをしていた。  が、それもすぐに終わり、指揮者は指揮台に置いた上着を取ると、舞台|袖《そで》に退出した。  開演時間にはまだ一時間余りあった。眼前を、舷側に黒い廃タイヤを並べた小艇が、軽いエンジンの唸《うな》りを発しながら、いかにもあわただしげに沖に向かう。くすんだ空と、鉛色の海。大小の船と港湾施設。並木は風景に飽きて、踵《きびす》を返した。  公園の一劃《いつかく》に、黒っぽい服装の数人の団体を見つけて歩みを止めた。  その一団は申し合わせたように黒い衣裳を身につけていた。それが楽団員の舞台衣裳であることは、すぐにわかった。  今夜のオーケストラの団員にまちがいなかった。リハーサルを終え、開演までのひとときを過ごしている連中だろう。  管楽器奏者が本番直前まで楽器を吹奏して、響きを整えることは並木も知っていた。それを「吹き込み」といい、管楽器というのはなかなか機嫌を取るのが難しいのだと、大学時代、学生オーケストラで女だてらにホルンを吹いていた友人から聞いたことがある。だとすれば、この連中は弦楽器の団員なのだろうか。  開演前にオーケストラのメンバーを見かけるというのは、なんとなく興ざめなものだった。とはいえ並木は、なかば無意識に一団の中にテレビやグラビアで見知った島村夕子の顔をさがしていた。  並木の想像では島村夕子は孤独の翳《かげ》を滲《にじ》ませて、集団の中に際立っていなければならなかった。今夜の演奏会は島村夕子のデビューであり、ジェラール・バローという師を日本客死によって失った彼女の、音楽家としての将来の鍵を握るものであった。  バロー来日からおよそ半年、マスコミには再三登場したものの、音楽上の事業をいっさい行わなかった島村夕子のこの記念すべき出発が、東京ではなくここ横浜というのはいささか奇異な感じがする。  それは、東京がいまや世界有数の音楽過密市場であることの証左《しようさ》でもあろうが、そもそもこの演奏会の予告記事が音楽雑誌に載ったのもわずか一月前であり、主催者に「楽苑社」「グロリア・レコード」「関東新聞」など、ジェラール・バローの演奏会を支援した団体の名がどこにもないのも意外だった。近年、クラシックのコンサートはさまざまな企業が主催、後援、協賛に名を冠するのが常識のようになっているのだ。  島村夕子の演奏活動を期待する声はたしかに存在するし、音楽事務所もさだめし彼女の活動を慫慂《しようよう》したことだろうが、本来鳴物入りで華々しくデビューしてしかるべきところ、現実にはこのようなかたちになった。  それに、なによりもピアニストとしてではなく、指揮者としてのデビューであることが、大方の予想を裏切るものであった。  コンクール歴もなく、音楽的には何らの実績もない(あのバローのコンパクト・ディスクの影の演奏者、として以外には)島村夕子の演奏活動の着手が、彼女の謙虚さに裏付けられてこのような形になったのだとしたら、それはそれで納得は行くが……。  黒い一団の中に女性の姿はなかった。並木は再び公園出口に向かって歩きだした。  別に空腹というわけではなかったが、臨港会館の最上階のレストランで開演までを過ごすことに決めた。ぐあいよく窓際に席が取れれば、しだいにたそがれてゆく港湾風景を眺めるのもわるくあるまい。  公園を出ると、並木はもう一度ふりかえった。遠目にも黒服の一団はやはり目立った。  この時、その一団は、なぜかふと並木の目に、喪服を着た会葬者の群れのように見えた。  十八時〇五分   鏡の中の蒼《あお》ざめた顔。とても自分の顔とはおもえない。  笑いかけてみた。  微笑にさえならなかった。片目で泣き、もう一方で笑うピエロの顔のほうがまだましだった。  テーブルの上に置いた腕時計の秒針の音が、幻聴ではなく、はっきりと聞こえていた。まるで威嚇《いかく》するような時の刻み方。あと二十五分。……時を止めたい。  胸のロケットに手を触れてみた。蓋《ふた》を開ければ、ジェラール・バローがおだやかな微笑で迎えるだろう。しかし、それはためらわれた。  金管楽器の音が小さく聞こえてくる。ドアに隔てられて、はるかかなたからの響きのように鳴っている。  モニターテレビを視《み》る。ステージにはまだ誰もいない。もうしばらくすれば、二管一〇型編成、総勢四十五名の、東京管弦楽団選りぬきのメンバーが勢揃いする。 「天使と悪魔の棲《す》む所」  ステージをそう譬《たと》えたバローの言葉が泛《うか》んだ。  この舞台に天使などいはしない。舞台は悪魔の掌《てのひら》の上にある。  チャンネルを変えると、客席が映しだされる。すでに開場したのだろう、客の姿が散見される。やがて、ここも潮が満ちるように人で埋めつくされるだろう。  プルオーヴァーのシャツを脱ぐ。持ち上げられて、いったん額までずりあがったロケットが落ちて来て、乳房に冷たく触れた。ロケットを注意深い手つきではずし、いまいましい腕時計の隣に置く。スポーツ・ブラを着け、ドレスシャツを着る。燕尾服《テールコート》に正装するのは初めてだ。ジーンズを脱ぎ、二本の側章の入ったトラウザースに脚を突っ込む。  ホワイト・ボウに時間を取られる。次いで、カマー・バンド、ソックスはシルクの黒、靴はエナメルのドレス・パンプスだ。ダイヤのカフスを装着する。  髪を忘れてはいけない。長く重い髪を、ひっつめに、眉が吊り上がるくらいひきつめて、後ろで括《くく》る。  上着を手に、廊下に出る。重い扉を開けたとたん、管楽器の音が錯綜《さくそう》しながら耳に飛び込んで、緊張を煽《あお》る。  壁に埋め込まれた大きな姿身。鏡の周囲をおびただしい電球が縁取るように囲んでいる。スイッチを入れると、瞬時に点灯し、ぱっと自分の姿が浮かび上がった。  袖に腕を通す。これで終わりだ。  みごとな両性具有者《アンドロギユヌス》の出来上がり。  いや、忘れている。ポケットチーフ、それにフレグランスも。     2  開演にはまだ二十分ばかりあったが、並木刑部はとりあえず席を確認するため会場内に入った。席は一階のやや後方、ステージに対して右寄りである。並木はたいていそのあたりの席の前売券を購入するようにしているし、自由席でも早めに入場した時はまずそこに席を求めた。席による音響のよしあしはホールごとに異なるからいちがいにいえないが、ここだと演奏家の舞台登場がよく見えるということがある。舞台袖からいましも登場してくる演奏家の表情というものはなかなかいいものだ。  並木の席は端の席で、右側は通路にあたっている。これだと運わるく隣の客のマナーが悪い場合、左側の客だけの被害ですみ、両側から責められることはない。  隣の席にはすでに客が掛けていた。オリーブ色のジャケットに煉瓦《れんが》色のスカート姿の若い女である。  瞬時に並木は女を観察した。あまり美人だと落ち着かないし、バッグや手提げ袋の類を膝いっぱいに載《の》せているような人種であれば、雑音源として歓迎できない。  女は小さめのバッグを座席の袖と自分の膝との間に挟み、小ぶりの花束を足もとに置いていた。まずは及第というところだ。  並木はわざと席をやりすごし、かなり前方まで歩いてから引き返した。席の番号を確認する作業にかこつけて、それとなく女を見る。色が白く、眼も口も大きい。ややもすると派手な顔だちを、少年のような短い髪と、高すぎぬ鼻とで可憐にまとめた顔だ。  形式的に半券と席の番号とを照合し、席に着く。女は並木を見上げるように一瞥《いちべつ》した。並木がかるく会釈すると、女はわずかに眼で応じた。  席に座ってしばらくすると、女はバッグを開けて中を覗《のぞ》いていたが、手元をくるわせたらしく、バッグを並木の足もとに落とした。 「ごめんなさい」  女が取ろうとして手をのばし、並木もそれに続いた。手がぶつかり合った。並木があわてて手を引っ込めると、女もさっと引いた。それで、こんどはためらわずバッグを掴み、一気に持ち上げた。腕に思わぬ抵抗が来たのと女の小さな悲鳴があがったのが同時だった。 「あっ」  並木は驚いて声をあげた。  眼前に女の脚が浮いていた。バッグのストラップが足頸《あしくび》を引っかけて、クレーンのように持ち上げているのだ。スカートの裾が乱れ、下着がのぞいていた。 「なにをなさるの!」  鋭い制止に並木はうろたえ、やみくもにストラップを外す動作にかかった。片腕で女の足頸を持ち、片方でストラップを抜こうとする。脚は魚のように宙で撥《は》ね、ストラップは外れるよりむしろ絡《から》まった。 「やめてください」  周囲の客の視線が集中するのがわかった。  女はふりむかなかった。 「待ってください。故意にやったわけではないのです」  抑えた声を女の背中に投げたが、女は小走りに扉の前に辿《たど》り着き、一枚目の扉を開け、二枚目の扉の向こうへ消えた。  逃げ出すほどのことだろうか。こちらに悪意はないし、もともとバッグを落としたのは女のほうではないか。不愉快だが、一応の謝罪は止むを得まい。並木は広いロビーに出ると、視線を巡らせた。奥まった片隅の喫煙コーナーに、オリーブ色のジャケットと煉瓦色のスカートが見えた。 「ごめんなさい。どうか、席へ戻っていただけませんか。まもなく開演です」  女は頬を両手で包むようにして、並木を睨んだ。眦《まなじり》に怒りの色があらわだった。 「怒ってらっしゃるのでしょうね」  いささか度を越した女の怒りように閉口しながら、並木はつとめて慇懃《いんぎん》にいった。 「怒っています」女ははじめて口をきいた、「痴漢行為をされて、喜ぶ道理がありませんわ。どうかこれ以上つきまとわないでください」 「痴漢?」並木は思わず声高にいった、「それは心外だ。あれは完全な偶発事なんです。誤解されては困る」  いいながら、名刺を取り出し、さし出した。  女は名刺の端の方を摘《つま》み、遠目に読み取った。そうして、疑わしそうに名刺と並木を見比べ、 「横浜地方検察庁……、検事さんですか?」  念を押すように訊いた。 「そうです」 「あなたがこの名刺の並木、並木……」  刑部というのは若い娘ならずともなかなか読んでくれない。 「ぎょうぶ、と読みます」 「刑部?」女は並木の顔にまじまじと見入って、「ずいぶんいかめしいお名前ですこと。痴漢にはふさわしくない名前ね。でも、あなたが並木刑部という横浜地検の検事だとしても、痴漢ではないという証拠にはなりませんわ」  女はしかし、微笑のようなものをすでに片頬に見せていた。 「……どうやらわたしの誤解のようですね」  微笑とともに女は言葉を結んだ。 「じゃ、席に戻りましょうか」 「ええ」  並木が、女と歩みを揃えて歩きながら、あらためてやや事務的に詫《わ》びると、 「いえ、騒ぎ立てたわたしも悪かったですわ。ごめんなさい」  女は晴朗な調子で応じた。  そこへ、開演を報じるベルが鳴った。  十八時二十五分   神田|駿河台《するがだい》、楽苑社「音楽の苑《その》」編集室——。蓮見《はすみ》さやかは仕事が手につかない状態のまま、いたずらに紫煙を焚《た》いていた。  ぼつぼつ開演だ。失敗だった。島村夕子の演奏家としてのデビュー・リサイタルにほかならぬ自分が姿を見せないというのは、無言の抗議にしては代償が大きすぎる。いちばん聴きたい演奏家ではないか。  何を右顧左眄《うこさべん》している。もう遅い。いまから横浜に向かっても着いたときには演奏会は終わっている。とりかえしはつかない。蓮見は煙草を深々と喫《す》いながら思った。これでいい。これが正しい選択だ。  島村夕子のマスコミへの登場ぶりは常軌を逸していた。週刊誌に出たり、テレビのトーク番組に招かれて微笑をふりまく。若者向きの週刊誌のヌードのグラビア頁の次の頁に顔を出したり、深夜のバラエティ番組の内容空疎な対談に出てくるなど、およそ節度というものがうかがえない。  名声を、おそらく目の前にご馳走のように並べられて、所詮《しよせん》島村夕子は無力だったのだろうか。島村夕子とは、ジェラール・バローという不遇の天才ピアニストの再起を企ててみごとそれをなし遂げた人であり、不世出の芸術家の遺香を継承し、二十一世紀に伝えうる唯一の人であるはずではなかったか。  そんな島村夕子が、顔に整形手術を施すように思いがけない変身を遂げてしまった。  唖然とするようなこの変貌を、責めるのは筋違いかもしれない。だが、島村夕子の選択を容認することで自分までもが矜持を失いたくない。  あの日、芳泉堂の喫茶室に向かう前、週刊誌売場で島村夕子のポートレートを表紙に使った週刊誌をみつけた。いやな偶然だった。その場で買ったが、夕子と話しているうちにその雑誌を突きつける場面を演じてしまった。その日は、四月に入ったというのにときおり霙《みぞれ》に似た雨がぱらついて、まるで冬に後退したような寒さだった。蓮見は指定した時刻にはまだ三十分ばかり早い午後二時半過ぎ、池袋駅西口に出たが、頬を撃つ冷気に頸をすくめ、急ぎ足に約束の場所である芳泉堂書店に向かった。エレベーターで最上階の喫茶室へ向かい、店内に入るとまだ夕子の姿は見えなかった。奥の窓際の席に、窓を背にして席を占めた。  彼女と会うのは何日ぶりだろう。ずいぶんと長く会っていないような気がした。  新年を迎えることなくジェラール・バローが逝去《せいきよ》し、島村夕子は年が明けるとすぐに遺骨を抱いてスイスに発った。そのとき村井両平とともに空港で見送った。  バローの厖大《ぼうだい》な遺品の分類・整理におもいのほか手間どったという島村夕子が帰国したのは二月三日だった。このときも空港まで村井と出迎えた。  いつまでもホテル暮らしは不経済なので、村井と協力して、雪谷《ゆきがや》のもう十年以上も打ち棄てられた陋屋《ろうおく》に手を入れ、住めるようにしていた。夕子は喜び、三人で入居祝いのようなことをしたのだった。  三月はあの一連の演奏会の録音・録画のCD化と映像化にともなう雑事に協力したし、会っていないのはついこの一月ほどなのだが、遠い昔のような気がした。  姿を見せた島村夕子は、皺《しわ》を立てて古着めいた味を出した男っぽいトレンチコートに、華やかな花柄のスカーフが不釣り合いだった。サングラスをかけているのも、蓮見の気に入らなかった。いかにも人目を避ける風の、さながら安っぽい芸能人だった。  蓮見は前日の新聞を広げてみせた。いらだちの隠せない手つきで、乱暴に紙の音を立てながら開いた。芸能欄の、  �島村夕子 指揮者としてデビュー! 五月に第一回リサイタル�  と銘打たれた派手なカラー写真を添えた特報記事を。 「島村夕子のバーゲンセールというわけですね」  揶揄《やゆ》するような口調になってしまった。 「ご相談するべきでした」夕子はサングラスを取りながら、「それは、わかっているのです」 「誰をおいてもまずぼくに相談してくれなどといっているのではないのです。そんなことをいえる筋合じゃない」  想いとは裏腹なせりふだった。  夕子は斜めに顔を伏せた。 「今度のデビュー演奏会が『楽苑社』や『関東新聞』、それに『グロリア・レコード』といった、いわばあなたの協力者に対して、何の相談も協力依頼もなく計画されたこと、それはあなたの選択なのだから、まあいいでしょう。率直にいって、いい気はしませんがね」  語尾が皮肉な調子になった。 「ほんとうにもうしわけなく思っています」  テーブルの端に視線を落としたまま力なくいった。 「それはいいでしょう。音楽なんだから。あなたの天職なのですから」蓮見はさらに皮肉な調子になるのを感じながらつづけた、「しかし、タレントまがいの行状は感心できない。週刊誌や雑誌のグラビア、軽薄なテレビ番組、このところたびたびあなたを見かけました。まるで売れっ子のタレントだ。島村夕子がしだいに違う人になっていくのを快く思わない人間もいることを忘れないでいただきたい。編集長だっていささかあきれていた」 「舵川《かじかわ》さんはお元気ですか?」 「あなたを『音楽の苑』にひっぱりだす企画もあったのですが、舵川編集長が時期尚早だと唱えたため、保留にしておいたのです。それも当然でしょう、われわれはあなたが当分の間バロー先生の喪に服するものだと思っていましたからね。ところがあちこちの週刊誌にアイドルタレントよろしく顔を見せはじめる。なかなか魅力的な笑顔を浮かべたりして……。これじゃ、はぐらかされたような、だまされたような気がするのも無理はないでしょう」 「一言もありませんわ」 「お金ですか? お金じゃないでしょう。グラビアやテレビ出演は薄謝だ。アイドルになれる齢《とし》でもないし、あなたの目的はなんなのですか?」 「アイドルになりたいの」  島村夕子はふざけているというには、いささか自嘲《じちよう》の色の濃い表情で答えた。 「冗談じゃないといいたいところだが、薹《とう》の立ったアイドルにはなれるかもしれない。もし本当にあなたがそれをめざしているのなら」 「クラシックの世界も商業主義が蔓延《まんえん》しているからですか」 「第一に、あなたに性的な魅力があるということ。ただし、うぬぼれないでください。あなたより美人は星の数ほどもいる。そして第二に、あなたはいわくつきの人物だ。バロー事件の当事者としてね。つまり箔《はく》がついてる。第三に、おっしゃるとおり貪婪《どんらん》な商業主義がクラシックの分野においても浸透してきていること。これに関連して、クラシック音楽のファッション化、通俗化、大衆化がある。時代があなたを求めている、というか、商品としてかっこうの素材なわけだ」 「クラシック音楽は基盤を失い、解体しつつある。商業主義によって精神は侮辱され、個性は疎《うと》んじられ、平均化し、通俗化してゆく……。バロー先生はこのことを四十年も前に予見されていました」 「その先鋒に最愛の弟子がなろうというのだったら、実に悲劇だ」 「わたくしはどんなことがあっても先生を裏切ることはありません」 「それじゃ、これはなんのつもりですか」  さきほど買ったばかりの週刊誌をつきつけた。  島村夕子の目色がにわかに曇った。  蓮見は週刊誌の頁を繰り、ヌードグラビアをかざして、 「こんな調子だと、そのうちあなたが裸になってもぼくは驚かなくなっているかもしれない」  島村夕子は長い沈黙ののちに、 「わたくしは先生を裏切るようなことはしません」  さびしそうな声だが、凜《りん》とした調子で答えた。  ……あれは、自己顕示欲の前に自分の存在を裏切った女にしては、強い愁《うつた》えを思わせる口吻《こうふん》だった。  しかし……、蓮見は机の一劃《いつかく》に山積みされた週刊誌、雑誌、新聞等に視線を投げつつ思った。島村夕子の師こそは、芸術のなかで音楽のみが人を純粋な存在に変え、神性をもたらすと信じていた一時代前の偉大な演奏家たちの一人だった。これらが物語るのは、そんなバローが生きていれば大いに慨嘆せずにはいられない、いわば師への背信行為にほかならないではないか。  弁解の余地はないのだ。事実がそれを証明している。  しかし、何か釈然としない、このざらざらした気分はなぜなのだろう。  今夜の演奏会の前売り券は発売後数日を経ずして完売したという。外来の人気演奏家ならともかく、これは邦人演奏家としては異例の出来事だ。  それは、島村夕子が週刊誌、雑誌、テレビなどで顔を売ってきた成果で、あれら一連のマスコミへの登場ぶりは、この演奏会の布石だったのだろうか。  それはたぶん違う。千五百名のホールを満員にすることぐらい、ほかならぬバロー事件の立て役者である島村夕子には可能だったはずだ。  島村夕子の真意は何だろう。  蓮見の思考は指先を焼き始めた煙草によって中断された。  十八時二十九分   島村夕子は慎重にムッシュー・ロシャスを撒《ま》く。  時計を視る。 「あと一分……。五分押しか、十分押しか。どうせならきっぱりと定刻に始めてほしい。開演までに心臓が破裂してしまいそうだ」  待っているのはまちがいなく悪魔の舞台だ。  演奏はバロー直伝、自信を持たなければ……。島村夕子はテーブルの上の楽譜を眺めつつ思った。ジェラール・バローの書き込み譜。世界の至宝だ。開かれている頁の、なつかしいバローの筆跡。  島村夕子はブローチを手に取り、ゆっくりと確実に胸につけた。  蠍《さそり》を模したブローチは、バロック真珠を巧みに用いた胴体にダイヤモンドと黄金をちりばめ、眼と毒針の先端にルビー、鋏《はさみ》に透かしエマイユといった凝《こ》りに凝った造りで、華麗さとグロテスク趣味との大胆な共存を成功させた、時代ものの逸品であった。  ついで、島村夕子はいとしげな手つきでロケットの蓋《ふた》を開けた。  バローの肖像が優しい笑顔で迎えた。 「先生」  島村夕子はバローに呼びかけた。 「不肖の弟子の身のほどもわきまえぬ所業をどうかお許しください。いまからベートーヴェンとハイドンを演奏します。ベートーヴェンも今度ばかりはテレーゼを許してくれないかもしれません。でも、約束します。テレーゼは全身全霊をもって音楽の炎をかきたててみます。それだけは約束します。だから、先生……」  電話が鳴った。 「島村先生、そろそろ出番です。五分押しで開演です。……見事に満員ですよ」 「承知しました。まいります」     3 「開演五分前です。ロビーにおいでのお客さまは、どうぞお席にお着きくださいませ。まもなく開演でございます」  アナウンスの声を聴きつつ出入り口に向かいながら、並木刑部はこのとき初めて、女がかるく左足をひきずっていることに気づいた。並木が吊り上げたのは右足のはずだ。  扉の前で女はつと立ち止まり、 「これ、もともとなんです。右足はご心配なく、だいじょうぶです」  足頸を二度三度屈伸してみせた。  並木は一瞬胸をつかれたが、すぐに先にたって重い扉を開けた。  客席はほぼ満席だった。入りがよいだけに開演前のざわめきも大きい。舞台にはまだ楽団員は姿を見せていないが、遠くから管楽器の断片的な響きが届いている。  並木が先導する形で、席に戻った。周囲の客の中には二人に好奇の視線を向ける者もあった。  女はバッグを開け、なにやらかきまわしていたが、 「蓮見|典子《のりこ》と申します」  低声でいって、名刺をさしだした。   東都大学バイオケミカル・ラボラトリー   研究助手 蓮見典子 「学者さんなんですね」  肩書は意外だったが、あらためて見直してみると、いかにも白衣を着て顕微鏡を覗《のぞ》いている姿が似合うようにも思えてきた。 「見習いみたいなものです。毎日単調きわまる仕事のくりかえしなんです」  そういって大きな目で笑い、 「あ、始まりますね」  舞台に視線を向けた。  舞台上手からコントラバスを抱えた楽員が登場したところだった。 「始まりますね」  鸚鵡《おうむ》返しに並木もつぶやいた。  下手からヴァイオリンやヴィオラを手にした団員が、上手からチェロ奏者や管楽器奏者が、緊張を漂わせて続々と雛壇《ひなだん》に登壇してくる。席に着くなり音を出す奏者がいるし、黙って楽譜を見ている者、客席に視線を泳がせている者もある。指の体操のような動作をしているトランペット奏者、膝の上に楽器を載せて目を閉じているヴィオラ奏者、唇を何度も舐《な》めているホルン奏者……。 「『コリオラン序曲』、何分くらいの曲なのかしら?」  蓮見典子がひとりごとのようにもとれる口調でつぶやいた。  並木が音楽に詳しくない場合を想定しての配慮なのだとしたら、なかなかの気の回り方である。 「指揮者によってちがうけど、十分前後というところかな」 「有名な曲なんですか?」  顔を寄せるようにして訊《き》く。管、弦、打楽器のめいめいが鳴らす音がホールを不協和な響きで満たしているので、おのずと顔を近づけて話すようになる。香り高い花を目の前に翳《かざ》されたようなときめきを並木は覚えた。 「有名ではありますね。ベートーヴェンの数多い傑作の一つでしょう」 「コリオランというのは『プルターク英雄伝』に登場する英雄の名前だと書いてありますが、音楽に物語が表現されているわけですか?」  B5判のプログラムを、舞踏会の扇のように胸の前で広げて、典子が訊《たず》ねる。 「物語ではなく、イメージの表現でしょう。だからといって、それにこだわって聴く必要はない。あなたなりのイメージで聴けばいい」 「どうも音より島村夕子さんにばかり目が行きそうですわ」 「生演奏ですから、それも一つの鑑賞スタイルといえるのじゃないかな」 「クラシックは不案内なんです。あとでまた教えてください」 「私も単なる愛好家ですから、受け売りにすぎませんよ」  そういいながら、並木の顔はほころんでいた。  全楽員が揃ったにしては、編成がおもいのほか少ない。小編成の管弦楽団というか、むしろ大型の室内管弦楽団というか、総勢五十名に満たない陣容のようだった。 「なんだか人が少ないような気がしますけど」 「ええ、少ないですね」  並木は第一ヴァイオリンの総員を数えてみた。 「第一ヴァイオリンが五プルト、十名の二管一〇型編成。総員四十五名ですから、オーケストラとしては小型です」 「プルトって?」 「譜面台のことです。普通、弦楽器は二人で一台ですから、弦楽器奏者の数え方の単位として使われる」 「二管って何です?」 「管楽器をごらんなさい。フルートもオーボエも、各二名いるでしょう、クラリネット、ファゴット、ホルン、トランペットもそうです。だから二管という。ベートーヴェンはおおむね二管編成で作曲していますが、現代では倍の四管、弦楽器ももっと大幅に増やして演奏されることの方が多いのです。大きなホールだとそうしないと音量不足になりますからね」  蓮見典子は感心したような表情を見せたが、 「なぜこんなに少ないのかしら、予算の関係でしょうか」  新たな質問を寄越した。 「それも可能性の一つだけど」並木は苦笑を泛べて説明を始めた、「ベートーヴェンに限らず古典派の交響曲を小編成オーケストラで演奏するのは近年の傾向なんです」  日本ではまだ馴染《なじみ》がないが、楽器そのものも古楽器を用いて演奏するのが流行のようになっていて、レコードの新譜などではそんな演奏が多くなっている。コンサートホールの大規模化に応じてオーケストラも大型化してきたわけだが、ベートーヴェン時代の演奏に回帰してみようという試みである。それらはいたずらに時代考証的な瑣末《さまつ》主義に終わっている例もあるし、斬新《ざんしん》な感銘をもたらす演奏もときには生まれている。島村夕子もそういった最近の傾向を標榜《ひようぼう》しているのかもしれないし、それとも大編成より小編成オーケストラの方が指揮しやすいとか、音響的配慮から横浜臨港会館のホール規模に見合った編成を選んだとかということかもしれない。 「案外、あなたのいうように予算の関係かもしれませんね」  並木は説明の終わりは微苦笑で結んだ。人に解説するというのは悪い気分ではなかった。特に相手が若い女で、熱心な聞き手ときては。 「あ、女の人がいませんね」  典子はちょっとした発見のようにいった。  たしかに女性奏者が一人も見えない。いままで気づかなかったのが不思議なくらいだった。 「ほんとだ。これはまるでウィーン・フィルだ」 「ウィーン・フィルって女性がいないのですか?」 「男性団員に限定というのが伝統になっています」 「ウィーン・フィルのまねかしら」 「日本には弦楽器の半分以上が女性というオーケストラもありますよ。東管はどちらかといえば少ない方だが。それにしてもこれはどういうことなのだろう」 「指揮者が女性だから団員は男性に統一したということは考えられませんか」 「視覚的な配慮でそうしたという可能性はありますね。腕利きばかり選抜した結果、編成が小さくなったのではないかということも考えていたのだけど、それなら当然女性団員も残るわけです。だとしたら、女性団員を除いたために小編成になったと考える方が自然かもしれない」 「紅一点、おしゃれではありますね」  女性団員がいないという発見は、これから二人が遭遇する奇妙な事件において、かなり重要な意味を持つ事実ではあったが、もちろん二人はそれを知るよしもなかった。  やがてコンサートマスターが登場し、会場にパラパラと拍手が起こり、音響は潮が引くように消えてゆく。無人の指揮台の手前に立つと、オーケストラは完全に沈黙した。コンサートマスターは軽く客席に向かって答礼すると、オーボエ奏者へ視線を投げた。  オーボエがAの音を吹奏すると、すべての楽器がこれに合わせてチューニングを開始した。初めは雑然とした響きが、しだいに溶け合いながら会場に浸透する。客席の照明が徐々に落とされ、舞台が華やかに浮き上がってきたように見えた。  コンサートマスターが椅子にかけると、チューニングの響きは途絶え、会場は静寂となった。  ほどなくして、下手の舞台袖に乾いた靴音が起こり、指揮者が登場した。  照明を浴びて黒く底光りする燕尾服を端然と着こなし、ひっつめた髪といい、大股の歩きぶりといい、あたりを払うかのようだった。島村夕子の男装は、なにかしら痛ましいほどの凜冽《りんれつ》さをともなって、客席に衝撃波のようなものを与え、場内がためいきとともに揺れた。  靴音は高まる拍手に打ち消され、会場は怒濤《どとう》のような拍手で溢れた。  典子も伸び上がるようにして盛んな拍手を送っている。  島村夕子は指揮台の前で歩みを止め、聴衆に向かって二度三度と答礼した。ややぎこちない微笑に、緊張がうかがえた。腰を屈めて叩頭《こうとう》するたびに、胸元のブローチが信号をおもわせるような閃光《せんこう》を発した。  指揮者は指揮棒を左手に持ち替えると、コンサートマスターと短い握手を交わした。それから、もう客席には一瞥もくれず、至難な演技に入る運動選手のような苦痛の表情を泛べ、さっと指揮台にあがった。  指揮棒を島村夕子が顔の前、やや高い位置に構えると、空気の中に指揮者と楽員だけに見える何か秘密の鍵孔でもあって、そこにあやまたず鍵が挿し込まれでもしたかのようにオーケストラに一斉に緊張がみなぎった。  指揮棒の先端は細かく震えていたが、息絶えたように静かに落下を始め、島村夕子の腰がそれとともに沈んだ。ついで、指揮棒は一閃《いつせん》し、天をめざした。全ての弦楽器のふりしぼるようなハ音の強奏が、ホールの空気をゆるがした。その音はゆっくりと上昇する指揮棒にからみつくように引き延ばされる。指揮棒が天を抉《えぐ》る避雷針のように高々と掲げられ、島村夕子の全身も右肩から伸びきったかと思うと、急激に振り下ろされた。同時に、地鳴りのようなハ音は、金管楽器とティンパニの雷鳴に似た鋭い和音に否定される。  このいかにもベートーヴェンらしい劇的な宣告は三度反復されるが、三度ともバランスとニュアンスが異なるのは、最近の指揮者には見られない巨匠風な解釈で、弦楽器が分散和音を刻み始めたところで、満員の聴衆の声にならない溜息のようなものが洩れ出た。  小編成オーケストラに見合った、いくぶん速めのテンポで音楽は進んだ。英雄コリオランを象徴する第一主題はティンパニの強打と弦のえぐるような強奏が生きていた。間の取り方も緊張に満ちていた。コリオランの母の愛を描いているといわれる第二主題は、羽毛のような響きで、テンポも落とされ、ヴィブラートの効果的な用法などきわめて対比的に表現されていた。  演奏は大きなほころびも見せず、充分な説得力をもって進んで行く。  デモーニッシュな冒頭主題が再現されるところでは、指揮者のはげしく息を吸う音が客席まで届き、第二主題では旋律をきれぎれに口ずさむのも聴き取れた。この種の「雑音」を発する指揮者はそう珍しくもなかったが、女性指揮者だけにただならぬ雰囲気を聴衆に与えた。それは、魔に憑《つ》かれたような没入ぶりだった。  テンポがしだいに上がってきて、どことなくうわずった、制動が効かなくなったような印象が生じたが、すでに曲はコーダに到達しており、ここで突然音楽はテンポを落とし、遅くなるとともに音量が激増した。テンポの減速によってオーケストラはやや乱れを生じたが、島村夕子の指揮棒はあわてない実におおまかな動きを描きながら、粘りに粘った。ホルンをはじめとして金管群は荒れ狂い、弦がしぼりだすような唸りを立てた。崩れ落ちるような大音響の中に悲鳴に似た島村夕子の気合が聴きとれた。  身を乗り出す聴衆もいたし、のけぞる聴衆もいた。  女流指揮者のイメージを払拭《ふつしよく》する悪魔的ともいえる演奏だった。  力尽き、息絶えるコリオランを想わせるような最弱音で曲が結ばれると、しばらくは指揮者もメンバーも、そして聴衆も、凝固したようだった。  どこからかためらいがちに最初の拍手が鳴り、すぐに万雷の拍手に変わった。ブラヴォーの歓呼がそこかしこで飛び交った。オーケストラはここで初めて弛緩《しかん》したように揺れ、島村夕子は客席へ振り向いた。  二度答礼し、指揮台を降りると、コンサートマスターに握手を求めた。コンサートマスターは弓を持ち替えると、立ち上がり、握手に応えた。  一曲目からブラヴォーが飛ぶのも異例だし、コンサートマスターと指揮者がねぎらい合う光景も珍しかった。しかし、それも当然のこととして誰も訝《いぶか》しまないだろう。それほどの力演だった。  オーケストラのメンバー同士、会話を交わしている光景も見られたが、それは讃辞に違いなかった。  島村夕子は再び聴衆に向かって答礼した。会心の笑みが浮かんでいた。  拍手に送られて指揮者は舞台袖へと去った。  指揮者が袖へ消えてからも拍手はなおしばらく鳴り止まなかった。客席の照明が明るくなって、ようやく拍手はおさまった。  蓮見典子は目の縁をほの赤く染めていた。 「凄《すさ》まじい力演でしたね」並木はいった、「予想を上回る演奏だった。音だけ聴けば誰も女流指揮者とは思わないでしょう。後半の『運命』もおおいに期待できる」 「びっくりしました。とにかく、驚いてしまいました」 「演奏がですか、指揮ぶりですか?」 「演奏はただただ凄かったという印象だけで、なにがなんだかよくわからないままに終わってしまいました。フルトヴェングラー、ワルター、バーンスタインのCDを聴いてみたのだけど、なんとか曲の輪郭を覚えた程度だから」 「でも、かなりCDを持ってらっしゃるじゃありませんか」 「兄のです」 「お兄さんはクラシックファンなんですね」 「ええ、まあ。……曲が曲ですから、優雅な指揮ぶりを想像していたわけでもないのだけど、それにしてもあのアクションには度胆を抜かれました。女性の指揮者といったら合唱の、なんだか気取った、甘えたような指揮ぶりしかイメージがありませんから」 「あんな尻振りダンスとは一線を画していますよ。若手の指揮者とも違っている。いまの若手に共通する冴《さ》えたバトンテクニックは持っていない。不思議な指揮ですよ。草書体というか、要所要所だけ押さえて、ちょっと巨匠的な風格があって、でもよほどオーケストラが信従しているのだろうな、指揮には棒のテクニックよりもっと重要なものがあって、たぶん彼女にはそれがあるのでしょう」  会話は並木たちだけでなく、会場のそこかしこで潮騒のように響いていた。島村夕子の演奏のショックの大きさを物語るように、声高に感想を交わし合う声も聞こえた。  フルート、クラリネット、トランペットの奏者各二名、それにファゴット奏者一名がそれぞれ楽器を持って舞台の上手と下手へ去っていった。ティンパニ奏者も下手へ去る。  二曲目はハイドンの告別交響曲で、楽器編成は大幅に縮小される。管楽器奏者七名とティンパニ奏者一名の計八名が減り、管楽器はオーボエ二、ホルン二、ファゴット一の計五名が残ることになる。但し、弦楽器の減員はなく、第一ヴァイオリン十、第二ヴァイオリン十、ヴィオラ六、チェロ四、コントラバス二の三十二名は全員が舞台に残っている。総員三十七名の楽員は譜面台の譜面を整え、めいめいの準備を始めていた。  並木はプログラムの曲目解説に目を通してみた。 [#ここから2字下げ] 交響曲第四十五番嬰ヘ短調『告別』  一七七二年、ヨーゼフ・ハイドン(一七三二〜一八〇九)四十歳の時の作曲。題名の「告別」の由来に関しては、次のような有名なエピソードが残っている。  ハイドンが楽長として仕えていたエステルハージ侯は、一七六六年自分の領地にヴェルサイユ宮殿を模した宏壮・華麗な居城を建て、夏の避暑に使っていたが、一七七二年の滞在は例年になく長引き、侯に随行しているオーケストラの楽員たちはホームシック状態になってしまった。ハイドンはこれを見て一計を案じ、終楽章で曲が終わらないうちに楽員たちが次々に退席するという交響曲を書いた。侯はこの曲を聴いて、その寓意を察し、直ちに全員に帰宅の許可が与えられたと伝えられる。   この曲は有名な割には演奏機会が少なく、去年の東京のオーケストラの公演資料を調べてみたところ一回も演奏されていない。今夜の演奏はその意味からも意義深いものがあるし、終楽章の楽員退出がどう演出されるかも興味津々といえよう。退出楽員は譜面を照らす燭台の蝋燭を吹き消し、楽器を持って出ていったと伝えられるが、この初演時の演出に倣うのかどうか、最後に残る二人のヴァイオリン奏者の一人はハイドンであったという記録(つまり指揮者なし)もあり、今夜は指揮者を含めて最終的には三人が残ることになるとも考えられるが、楽員の退席が行われない可能性もあり、興味は尽きない。 [#ここで字下げ終わり]  解説は無記名だった。内容も簡潔で、島村夕子とオーケストラの写真と経歴、それに簡単な曲の解説が記載されているばかりだ。写真こそカラー印刷だが、B4を二つ折りにした簡素な無料配布のプログラムである。  やがて、あらためて楽器をチューニングする音が、会場のざわめきの中に浸透していった。  客席の照明が再び落とされ、チューニングが止むと、場内は深い沈黙に包まれた。  下手の舞台袖から跫音《あしおと》。  指揮者の登場。  拍手。  指揮者の登壇。  水を打ったような静寂。  ハイドンも冒頭からして力瘤《ちからこぶ》の入った演奏だった。音楽の勢いを重視した速めのテンポが設定され、ときにリズムが走って前のめりになった。しかし、よく彫琢《ちようたく》された響きはどこにも空虚を感じさせない、目のつんだもので、切羽つまったような表情を危ういところで支えていた。  音楽が高潮すると、島村夕子は上半身を後方に反《そ》るようにし、生き物のように先端がぶるぶると震える指揮棒を腰のあたりから突き出した。そうして左足を後ろへ引き、腰を少し沈めたりするさまは、オーケストラの力奏を全身で支えているように見えた。  それはどちらかといえばギクシャクとした動きで、女性的な柔らかさがなかった。というより意識的に女性的な動作が排除されているようにも見えた。しかし、そのことで逆に指揮者が女であることが強調される局面も生じた。  第一楽章が終わると、客席の咳払いがひどかった。挑戦的というか、それだけ聴衆に息をつめさせ、緊張を強いる演奏だったということだった。第二楽章は充分に落ち着いたテンポが取られ、安定していた。第三楽章も洗練され、いたるところに魅力的な表情が汪溢《おういつ》した。  終楽章の前に指揮者はやや長い間を置いた。ポケットチーフを取り出し、額の汗を拭き、そこにも汗をかいているのか右手の腹をズボンの脇で二、三度こすった。  そうして指揮棒を構えると、さりげなく、しかし確信に満ちた棒がふりおろされた。  全曲の白眉である終楽章が始まった。  プレスト(急速に)の指示を、いささか誇張しているのではないかと思われるほど、前のめりの、つんのめりそうになるリズムで島村夕子は押し進めていった。演奏はそこかしこに乱れを生じ、きしむような響きが頻出《ひんしゆつ》した。しかし、それはまた胃の腑《ふ》をしぼられるような迫力にも通じていた。ともあれ、手に汗握る緊張とともに音楽は進み、この曲の題名の由来をなす長大な楽章終止部に移った。大事に向かって急ぐような緊迫した音楽が突然終止し、転調してゆったりとしたアダージョが始まる。  アダージョは、諦めたようにも、何か過去を回顧するようにも聴こえる、不思議な平安を湛《たた》えた音楽で、「告別」の名のとおり、これから楽員達は自分のパートを弾き終えると一人また一人と舞台を去って行く。実際に一七七二年ハイドン自身が初演したときはそうだったのだ。しかし、ここではどう演出されるのか?  楽員は残るのか、退出するのか。  並木は蓮見典子が親しい間柄ならそれを賭《か》けてみたいくらいだった。  聴衆の注意は聴覚より視覚に移ったようだった。  最初に椅子から起ったのは第一ヴァイオリンの最後列、つまり舞台下手の袖に最も近い席のヴァイオリニスト一名である。席を起つと、そそくさと舞台袖に消えた。  聴衆から声にならない声がもれる。  これに続き、第二ヴァイオリンの奏者群からやはり最後部の一人が席を離れる。さらに、最右翼で演奏している二名のコントラバス奏者のうちの一人が、大きな楽器を抱き抱えるようにして舞台上手に引っ込んだ。忍び足だが、靴音が聞こえる。  ヴァイオリンやヴィオラ、チェロの奏者が一人、また二人と退席してゆく。楽器を抱え、パート譜を持って櫛の歯が抜けるように立ち去るのである。 「譜面まで持って出ていくのか……」  並木は口の裡で呟いた。  蓮見典子も舞台に視線を釘付けにされている。  ホルンの第二奏者が席を離れた。オーボエの第一奏者がこれに続く。乾いた靴音が音楽を寸断する。さらに、第一ホルンと第二オーボエが譜面をたたみ、ステージを去った。  やがてオーケストラから管楽器が消え、弦楽奏者も過半が姿を消し、十余名ほどの弦楽合奏団の規模となった。  まるで蝋燭が一本一本消えてゆくような、侘しい雰囲気が舞台に漂っているが、実際にステージの照明も徐々に落とされ、残った団員だけに光があたっている。ハイドンの初演時には楽員が譜面灯りの蝋燭を吹き消して立ち去ったというから、この照明演出は当を得たものといえよう。  響きも薄くなり、弦楽合奏のさびしい調べが呟くように曲を奏でている。コントラバス奏者が消え、チェロ奏者が一人だけになり、舞台上には数えるほどの人数を残すばかりとなったが、それも束の間、最後のヴィオラ奏者が去るとヴァイオリンの二名だけとなった。ステージはさらに暗くなり、スポットライトが二人のヴァイオリン奏者と指揮者だけを照らし出している。  すでに島村夕子は指揮棒を指揮台に置き、躯《からだ》を斜めに向けて、甲を下にした左手を腰のあたりに構え、手を閉じたり開いたり、あたかも蜜を吸う蝶の翅《はね》にも似た繊細な動きでテンポを指示しているばかりである。  ヴァイオリンが静かに弓を止め、弦から離した。拍手をここですべきかどうか並木が迷っていると、ヴァイオリニストは無愛想ともいえる無表情のまま楽譜を閉じ、手に持ち、コンサートマスターとともに席を立った。  舞台下手の袖へ向かう二人の靴音が静まり返った会場に高く響いた。  跫音が消えると、ただ静寂のみが残された。そして、白日夢を思わせる空虚な舞台があった。  暗い廃墟のようなステージにただ一人、島村夕子は身じろぎもせず立っていたが、ようやく客席に向かってゆっくりと振り向いた。  じらされていたように、拍手が堰《せき》を切ってわきあがった。照明が元に復した。  並木も蓮見典子も、のびあがるようにして拍手を送った。舞台ではただ一人、島村夕子がまだ緊張の消えやらぬ顔に固い微笑を泛べ、何度も答礼を繰り返していた。  誰も気がつかなかったが、このときすでに「犯行」の核心部分は完了していたのである。千五百人の目撃者の前で、しずしずと事件は進行していたのだった。 [#改ページ]   消失とオーケストラ     1 「実をいうと、休憩時間に楽屋を訪ねようと思っていたんです」  並木に促されてロビーに出てきた蓮見典子は、七時を過ぎてようやく暮れ落ちた屋外の風景に視線を向けたまま、いくらか恩に着せるような、しかし可憐な調子でいった。 「いまからでも間に合いますよ」  典子の視線に倣《なら》って、瓦斯《ガス》灯がぼうっと滲んでいる山下公園とその向こうの宝石を撒いたような夜の港を眺めながら、並木は答えた。 「終演後にします」  蓮見典子は港に見入ったまま、短くいった。 「花束を持って? いや花束は『運命』の後かな」 「花束抱えて舞台に駆け寄るなんてできません。コンサートあまり行かないから、そういうの馴れてなくて」 「馴れる馴れないの問題じゃないでしょう。ブーニンの時なんか、どうみてもクラシックファンには見えない小娘が、ステージに殺到してましたからね」  たしかにそれは蓮見典子には似合わない。足の問題は別にしても……。並木はふと典子の足もとに向かいそうになった視線を逸らしつつ、 「いまの『告別』どうでした?」  質問してみた。 「感動しました。実際にオーケストラのメンバーが舞台を出て行くとは思ってませんでしたから、びっくりしました。靴音とか楽譜を閉じる音とかが意外と大きく鳴ったりするのも面白かったし、たった一人ステージに残った指揮者というのも印象的。無言劇でも見ているようで」 「私も『告別』を演奏会で聴いたのは初めてだったから、面白かったな。この曲はコンサートではあまり演奏されないのです」 「じゃ、島村夕子さんは珍しい曲を選ばれたわけですね」 「ええ。追悼演奏会と銘打たれているわけではないけど、今夜の選曲はジェラール・バローの追悼演奏会にふさわしい曲が並んでいるように思えます」 「そういえば、『コリオラン』はバローの悲劇的生涯の象徴かしら。『告別』は文字通りバローとの告別で、『運命』には島村夕子さん自身を投影しているのでしょうか」 「ちょっと決まりすぎの感もなくはないが、まあ妥当な解釈でしょう。もっとも選曲というのはなかなか難しい問題があって、意外とそんなメンタルな意味は少なくて、音楽的な問題や、演奏上の都合からこういう選曲になったのかもしれませんね。たとえば調性の問題。短調の曲をずらりと並べています。聴きばえということもあるし、指揮の難易度の問題もあるかもしれない。たとえば『運命』は、『田園』や『第四』より振りやすいということがある」 「検事さんはほんとうにお詳しいのですね」 「お兄さんはクラシックファンのようだけど、クラシックについて教えてはくれませんか?」  この質問にはいくらか身上調査の含みもあった。 「ちっとも」典子は手を振りながら否定した、「……実は兄は楽苑社に勤めているんです。『音楽の苑』はごぞんじでしょう?」  いわれるまでもない。しかし、それだとたんなるクラシックファンなどというものではない。並木はいままでの会話を手繰り寄せてみた。半可通な、知ったかぶりはいわなかっただろうか。 「毎月購読してますよ。しかし驚いたな。そうか、『音楽の苑』のね。そうだ、お兄さんは今夜はおみえになっていないのですか?」 「切符は兄がくれたのです。仕事の都合で来られないとかで」 「それはさぞかし残念でしょうね」  並木は心にもないことをいった。 「検事さんはどんなお仕事をなさってるのかしら。取り調べ室で被疑者を調べたり、法廷で尋問したり、そんなお仕事?」  まずは常識的な想像だった。いや、犯人といわず被疑者といったのは偶然にしても上出来の部類ではないか。 「私は刑事部の捜査検事ですから、法廷には出ません」 「じゃ、やはり悪い人とわたりあって……? でも捜査というのは警察がするのではないのですか」 「おっしゃるとおり、第一次捜査権に基づく警察の捜査、たとえば足を使った聞き込みなどは普通はしません。でも現場に臨場するし、解剖に立ち会うこともある」 「どんな事件でも捜査なさるの」 「少年係とか暴力係とか風紀係とか、専門に分かれてやっていますからね、すべてというわけではない」 「風紀係なんて高校の生徒会みたい」 「猥褻図画《わいせつとが》図書、猥褻行為に関する事件。それに、賭博《とばく》関係などが風紀係の扱う事件です」 「検事さんは何を担当なさってるのですか?」 「外事と公害をやっています」 「公害はわかりますが、外事って?」 「外国人の事件を捜査する仕事です」 「じゃ、バイリンガルがご堪能《たんのう》というわけ?」 「堪能じゃないけど、一応英語だったら会話程度はね。それで外事係を担当させられたといえなくもない」  典子は星を鏤《ちりば》めたような夜の港へさっと視線を投げてから、 「横浜だとお忙しいのでしょう?」 「ええ、外国船の船乗りの傷害事件とか、密輸事件とかね。港とは縁が深いですよ。海洋汚染防止法に関連した事件なども扱いますから」 「重油の流出事故なんかがそうですか?」 「ええ」  休憩時間のロビーは人であふれている。トイレへ行く者もあるし、喫煙のために出てきた者もある。しかし、多くは客同士会話をするためだし、一人で来た者も誰か知り合いが来ていはしないかと、ここへ足が向く。それも演奏の感想を述べ合いたいという欲求からだ。ここでは誰もがにわか批評家である。  そんななかで、二人の会話はさきほどから場違いな響きを立てていたが、遮《さえぎ》るようにベルが鳴った。もうそんな時間かと思っていると、 「ご来場のお客さまにご案内申し上げます」  やや場違いな感じの太い男の声で、緊迫した調子のアナウンスが流れた。 「休憩後、後半のプログラムに変更がありますので、ご案内いたします。予定されておりました交響曲『運命』はオーケストラに事故があり、中止させていただきます。これに代わり、指揮者島村夕子がリスト編曲のピアノ版『運命』を独奏いたします。  くりかえし、ご案内申し上げます。オーケストラの事故により、プログラム後半の『運命』は演奏不能になりました。かわって、島村夕子がピアノの独奏をつとめ、リスト編曲のピアノ版『運命』の演奏でプログラムに代えさせていただきます。  料金の払い戻しには応じますので、ご希望の方はホール改札までおいでください」  並木は改札へ視線を向けた。  たぶんアルバイトだろう、モギリの四人の女の子が、緊張のおももちで立っている。  他の客たちもちょっと浮き足だったようすを見せている。潮騒のような話し声がいちだんと調子の高いものに変わっている。  ——団員に病人でも出たかな。  ——弦だったら一人や二人急病になっても、中止にはならないでしょう。  ——ピアノ版『運命』も悪くないな。島村夕子のピアノ演奏は以前から聴きたいと思っていたんだ。  ——払い戻しって全額かしら。  ——こんな椿事《ちんじ》はそうそうあるものじゃない。前半だけで帰る予定の客はともかく、払い戻しを受けて帰るなんて馬鹿な客がいるものか。  改札へ向かう客もあったが、払い戻しではなく、事態について質問するためのようだった。  やりとりのようすから、どうやらアナウンス以上の情報は得られないように見えたが、 「なにがあったのか、訊いてみましょうか」  典子が真剣な表情でいった。  放送でご案内したことしかわからない、というのがモギリ嬢の答えだった。  報道関係者らしいカメラを携《さ》げた連中がとりまいて事態の説明を求めている。音楽関係の記者だけでなく、新聞記者や週刊誌の記者もいるかもしれない。  この一団はさすがに一般客とはちがって食い下がり方が執拗《しつよう》だった。  ——スタッフなんでしょう、詳しい説明をしてよ。  ——これ、まともじゃないよ。事故っていわれても、どんな事故なのか説明するのはお客に対する礼儀じゃないかな。礼儀というより主催者側の義務でしょう。  並木はちょっと苦笑した。この連中はまずまちがいなく招待券で聴きに来ている筈で、それが客に対する礼儀だとか義務だとかいってつめよっているのがなんとなくおかしかったからだ。 「プログラム変更にご不満なのでしたら、入場料の払い戻しをいたします。全額の払い戻しに応じます。どうか、お申し出になってください」  一人がきっぱりとした口調で応じたので、一団はちょっと気を呑まれたようになって、しばらく静まった。払い戻しといわれても、彼らは無料の招待客なのだから、「御招待」とスタンプ印の捺《お》された半券をさしだすわけにもいかない。  そこへ四十代半ばとおぼしい、グレーの背広の男が駆けつけ、モギリ嬢に代わって応対を始めた。 「チケットの裏をご覧になればおわかりいただけるでしょうが、曲目の変更もありえますのでご了承ください、と明記されています。当方はそのうえ、払い戻しに応じる態勢でいるわけですから、誠意を認めていただけませんか」  男は質問とは別の応答によって問題をすり替えていた。  並木は男の前に半券をかざした。 「払い戻しをしてもらえますか」  男は意外そうな表情を浮かべた。払い戻しを請求したのは並木が初めてだった。蓮見典子が驚きの表情で並木を見上げた。 「かしこまりました」  男は肯《がえん》じて、厚紙の箱の蓋を開け、紙幣を取り出そうとした。 「……いや、払い戻しはいらない」  並木は遮るようにいった。 「そのかわりプログラム変更の理由を聞かせていただきたい」 「…………」  男はたじろいだように並木の顔を見た。 「演奏会の後半を放棄するのですから、一応納得してから会場を出たいんだ。なぜ、プログラムが変更になったのか。オーケストラの事故によるというが、その事故とはいったいどういうことなのか。おきかせ願えませんか」  男は黙ったまま窮《きゆう》したような表情を見せ、俯《うつむ》いた。それから、顔を上げ、検事の肩越しに遠くを見るような虚ろな目をした。  誰もが固唾《かたず》を呑んで見戍《みまも》る中、男はおずおずとした調子でいった。 「実は、オーケストラがいなくなったんです」  並木も典子も、誰もがしばし耳を疑った瞬間だった。 「オーケストラが、いなくなった?」 「ええ。消えたんです。まるで幽霊みたいに、オーケストラの全員がホールから消えてしまったのです。指揮者の島村先生だけを残して」  誰もが声を失って、エアポケットのような沈黙が訪れたが、すぐに休憩の終わりを報らせるベルの音がロビーいっぱいに響いた。 「後半の開演です。どうかお席にお戻りください」男は両手でポーズをつくりながら客たちをうながし、並木に視線を向け、「お客さま、お帰りになられますか?」  男の声には優位に立ったような調子が見て取れた。 「いや、気が変わった」  検事は蓮見典子の肩に手を置いて、場内へうながした。  場内はざわついていた。ロビーの客が席に戻ると、ほどなくしてざわめきは倍加した。オーケストラが消えた、この奇怪な事実は口から口へ伝えられて、またたくまに満場を埋める聴衆の知るところとなったようだった。客席に一種異様な雰囲気が漂っていた。 「信じられない。なんだかとても心配ですわ」  舞台へ視線を向けたまま蓮見典子は不安な面持ちでつぶやいた。  緞帳にさえぎられ、ステージを覘《うかが》うことはできない。 「緞帳が降りてますね。クラシックの演奏会ではきわめて異例な光景だな」  異例なのは舞台だけでなく、客席もだった。これほど喧噪《けんそう》な休憩時の客席を並木は経験したことがなかった。昂奮《こうふん》と不安、そして好奇と期待が、潮鳴りのようにそこかしこに氾《あふ》れていた。  この休憩が、並木と典子の二人にとって、およそ前例のない長きに及ぶことを、このとき二人はもとより知るすべもなかった。 「楽屋へ行くのでしたわ」  典子がぽつりと呟いた。 「……?」 「実はわたし島村夕子さんと多少の面識があって、だからとても気になるのです」 「面識が? どういうご関係なのですか」 「バロー来日の時、空港で花束持ってお出迎えしました。仕事上のこともあって兄の方が島村さんとは親しいのですけど」  並木刑部は名刺を取り出し、確認してみた。 「いま思い出した。あなたのお兄さんの蓮見さんというのは、バロー来日に関して尽力なさった方じゃないですか?」 「よくご存じですね」 「たしか、蓮見さやか、さん。マスコミでも一時騒がれた人だし、だいいちあの名前は忘れられない。じゃ、あとで楽屋を訪ねますか?」 「そのつもりです」 「だったら、私もお供しましょう」 「……?」 「終演後の楽屋付近はごったがえすでしょう。報道陣がつめかけるにちがいない」 「なるほど。それは考えられますね。こんなことっていままでにあったのかしら?」 「いや、演奏中にオーケストラが消えたなんて聞いたことがない。練習場に指揮者が来てみたら、一人もいなかったという事件は昔あったそうですが」 「それはボイコットか何かですか?」 「そう。あの小沢|征爾《せいじ》がやられてるんだな。若い頃に」 「小沢征爾が……。知らなかった。今夜の事件もボイコットかしら」 「その可能性がいちばん大きいのではないだろうか」 「ひょっとして……」 「ひょっとして?」 「いえ、これはあんまり小説的な発想だから、そんなことがあるわけはないでしょうけど、たとえば誘拐《ゆうかい》とか」 「集団誘拐ですか? まず考えられないな。五十名もの人間を拉致するのはリスクが大きすぎる。粗暴犯はともかく、犯罪者はそれなりに最も合理的な方法を選択するものです」 「おっしゃるとおりね。でも、心配だな。胸さわぎがします」 「ともあれ、終演後、楽屋に行ってみましょう。何かわかるかもしれない」 「お願いします」  緞帳が上がった。舞台中央に漆黒のコンサート・グランドピアノが据えられ、照明を浴びて底光りしていた。  指揮台は取り除かれ、指揮者に近い位置、ヴァイオリンやヴィオラ、チェロの陣取っていた空間の椅子と譜面台が撤去されていた。さすがに雛壇の山台までは撤収できなかったのだろう、譜面台と椅子を載せたままの状態だった。 「おや、スタインウェイじゃないですね」  並木がつぶやくと、典子がけげんそうな目をした。 「ピアノですよ」  並木は少し身を乗り出すようにしていたが、 「イカワだ……。イカワのフルコンサートピアノです。黄金いろの花文字が読めるでしょう」  漆黒の胴にIKAWAと花文字で記されている。 「その下に小さくアルファベットが並んでますが、ここからじゃ読めませんね」 「読めません。たぶんフルコンサートとか書いてあるのじゃないかな。イカワのフルコンは『Ikawa XE』と通常書かれてる筈なんですがね。特注品かもしれない。でも、イカワじゃがっかりだな」 「よくないんですか」 「やはりここは一般的なスタインウェイを使ってほしいところです」  客席の照明が徐々に落とされ、ざわめきは減衰していった。  下手から緊迫した靴音が鳴り、島村夕子が登場した。  拍手が起きたが、この拍手は気のせいかおずおずと鳴りはじめ、異様な響きがこもっていた。  島村夕子はピアノの前で立ち止まった。表情は硬く、わずかな微笑みさえうかがえなかった。客に対してほとんどそっけないくらいの一礼を返すと、すぐに椅子に掛けた。拍手はただちに熄《や》んだ。  島村夕子はぐあいを確かめるように椅子の上で上体を前後させ、その音は静まり返ったステージに響いた。  やがて、ピアニストは両腕を胸のところで交差して組み、項垂《うなだ》れた。それは儀式めいた、秩序ある動作で、心の奥底からの深い祈りをおもわせた。  俯いたり、あるいは宙に視線を泳がせたり、鍵盤をはっしと睨みつけたり、そんな動作はピアニストに往々にして見られるが、島村夕子の所作は劇的で、見る者の胸をつくものがある。映像で観たジェラール・バローが、たしか初日の演奏直前にそんな動作をしたが、してみるとバロー直伝ともいうべき独特の開始儀礼なのかもしれなかった。もちろんそれはこれから開始される演奏の出来|如何《いかん》では、ただの滑稽なこけおどしになってしまうだろう。  島村夕子は両腕を自然に落とすと、息を吸い込んだ。胸が膨《ふく》らむのが見えた。そして、静かに息を吐き出したかと思うと、短く息を切るような無声音に続いて、誰もが知っている冒頭の主題が打ち鳴らされた。  聴きなれた曲が、オーケストラではなく、ピアノで弾かれるのは奇妙な感覚だった。客席は寂《せき》としてしわぶき一つなく、ステージに吸い寄せられている。  三十分がまたたくまに過ぎていった。途中、変わったことといえば、第一楽章が終わったところで、小走りに出てゆく客がいたが、これはおそらく新聞記者で、編集部に連絡を入れるために違いなかった。入れかわりに制服警官が二人、入場してきた。警官の姿はやはりここでは非常に場違いだった。二人はひっそりと客席最後部の通路に立ったが、制服姿はいやでも目立った。ただ、聴衆のほとんどは舞台上に視線を奪われており、彼らに気づいた者はいないようだった。  島村夕子は、この楽章間にテール・コートの上着を脱ぎ、舞台に残っている雛壇の上に置いた。これによって、胸のふくらみや腰の量感がいっぺんに露わになったが、それなりに魅力的な姿で、男装のジョルジュ・サンドが帽子と上着を取って、ピアノを弾けばかくやと思われた。  全曲が終わるや否や、待ちきれないといったように拍手が湧き起こり、歓声が飛んだ。島村夕子はしばらくうつけたように凝固していたが、ピアノに左手をあずけ、それを支えにするように立ち上がった。聴衆の反応は熱狂的で、前の方の席では立って拍手している者さえあった。  そのまま、二度三度頭を下げる。薄く微笑を見せていた。やがて、疲労の色の濃い足運びで袖に去った。  拍手は鳴りやまず、島村夕子は再び舞台中央に戻り、答礼する。  若い女性が舞台に駆け寄って花束を捧げる。島村夕子は笑顔でこれを受け、握手に応える。つられたように一人、また一人、花束を持った女性が駆け寄る。背広姿の若い男の姿もある。  島村夕子は抱え切れないほどの花束を捧げ持って袖に退出した。 「アンコールはあるのかしら」  典子が訊ねた。 「どうかな。事態が事態ですから、ないのじゃないかな。ピアノリサイタルならアンコールの用意もあるでしょうけど。それにだいぶ疲れも見える」  島村夕子が登場する。正面の客、左右の客、そして二階席の客と四度に分けて挨拶した。そうして、短く何かいって深々と頭を下げ、こんどはやや急ぎ足に袖に退出した。口の形から「ありがとうございました」といったように見えた。 「やはりアンコールはないようです。たぶんもう出てこないと思いますよ」  並木は典子をうながして席を起《た》った。  嵐のような客席を後にして、ロビーに出ると、電話コーナーが人で埋まっていた。一目で、記者連中というのがわかった。  ——ブラヴォーが飛び交い、島村夕子は何度も舞台に呼び戻された。アンコールはなかったが、拍手は長く鳴り止まなかった。  ——変更プログラムの「運命」を完璧に弾き、楽章の途中では上着を脱ぐ余裕さえ見せた。全曲が終了すると、満員の聴衆は熱狂し、スタンディング・オヴェイションさえ起きた。……え? 立って拍手することだよ。総立ち? 総立ちとは違う。ロックじゃないんだ。なぜ消えたかだって? そんなのわかんないよ。いまからだ、いまから。  通話を終えるなり、楽屋通路へ向かう者。もどかしげにカードを挿入する者。ここはあわただしい緊張に包まれていた。  ホールの扉から人が大勢吐き出されはじめた。  誰もが昂奮を抑えられない表情を泛べていた。今夜目の前で起こった空前の椿事を一刻も早く土産に持ち帰るのだとでもいうような慌ただしい足取りの者もいるし、何か情報はないものかと名残惜しげな歩みの者もいた。 「行きましょう」  並木は典子の肩を押し、楽屋へ向かった。  通路は途中、扉が閉じられている所があり、「関係者以外立入禁止」の貼紙があったが、施錠はされておらず、鉄の扉は押すと簡単に開いた。  そこはやや広い部屋になっており、マイクスタンドや譜面台などが隅にまとめて置いてあった。ロッカーや、会議用の机、パイプ椅子などもある。  この部屋の奥がすぐに舞台下手の袖になっていた。そこには誰もいなかった。  袖から舞台を見る。そこにも島村夕子はいなかった。客席を見る。すでに客は退場していたが、まだ余韻《よいん》のようなものが燻《くすぶ》っている感じだった。  二人は舞台袖を横切ってステージの裏へ出た。コンクリートの壁を隔てて廊下がステージに平行して通っており、いくつか楽屋が並んでいたが、すでに何人かの人間がつめかけていた。中央付近の楽屋の前におしかけている。近づいてみると、ドアの名札入れに「島村夕子控室」とあった。  並木は廊下を急いで往復してみたが、舞台上手側の一番奥は湯沸かし室とトイレになっており、楽屋は全部で大小とりまぜて四室、島村夕子以外の楽屋は「東京管弦楽団控室(喫煙可)」「東京管弦楽団控室(禁煙)」「主催者控室」と貼り出されていた。ドアは半開きになっていたり、閉じてあったりしたが、すべて無人だった。一番手前、舞台下手側がリハーサル室で、ここにも「東京管弦楽団控室(禁煙)」とあった。リハーサル室と楽屋の間に下へ降りる階段があり、その右は広い空間で、鎖がさしわたしてある。下を覗くと、八畳敷きほどのリフトが控えており、ここはどうやら楽器や舞台装置の搬入搬出口のようだった。  島村夕子の楽屋前に戻る。  記者たちは騒いでいたが、業を煮やしたらしい一人が乱暴に扉を叩いた。 「島村さん、開けてください。報道関係の者ですが、二、三お訊ねしたいことがあります。お手間はとらせませんから、会っていただけませんか」  呼応して他の者も、 「島村先生、お願いします」 「開けてください」  呼びかけて、扉を叩くが、返事がない。  そこへ、休憩時に改札で接客にあたっていたグレーのスーツの男が、二人の制服警官と一緒にやってきた。 「ここで何をなさってるんですか?」  スーツの男が咎めるようにいった。 「何をって、取材に決まっているよ」 「先生は演奏を終えたばかりです。もうすこし気を遣《つか》っていただけませんか」  それではあなたに伺いたい、と一人の記者が質問を始めた。 「最初にオーケストラがいなくなったことに気づいたのは誰なんです?」 「おそらくマネージャーの佐々木君だと思います」 「あなたは楽団関係の方ですか?」 「東京管弦楽団の事務職員で、藤井と申します。いわゆるマネージャーです」 「佐々木という方もマネージャーですね」 「マネージャーは二人います」 「藤井さん、あなたはどのようにしてオーケストラの異変に気づいたのですか?」  一人の記者がポケットから手帳を取り出しながら、訊ねた。  藤井はちょっと考えるような表情を泛べていたが、 「ぼくはアルバイトの女の子たちと改札業務にあたっていましたから、休憩時間もロビーにいました。そしたら進行関係の仕事にあたっている佐々木君から楽屋へ来てくれという内線電話が入ったのです」 「内線電話?」 「楽屋とチケット改札口とは内部電話で連絡が取れるんです。私は急いで楽屋へ行きました。そしたら、佐々木君と島村先生が蒼《あお》い顔をして廊下につっ立っている。ちょうど、そこ」  藤井は取り巻いている報道陣を割るようにして、並木と典子を指さした。ふたりが振り返ると、そこは搬入搬出口のあたりだった。  藤井は指さしたまま、近づいてきた。記者たちもついてくる。  藤井の隣で警官が苦りきった表情をしていた。 「ここは楽器とか舞台装置などを搬入したり、搬出したりする出口で」藤井は外の闇へつながっている虚ろな空洞を手で示しながら説明を続けた、「楽器運搬のトラックが、後部荷台の扉を開いた状態でここに接続するわけです。ええ、バックの状態でぴったり付けておけば、荷下ろしも積み込みも簡単にできるんです」  記者たちはリフトを覗き込んで、なるほどとか、これが操作ボタンかな、とか口々にいいあっていたが、  一人がボタンにさわろうとしたとき、 「さわっちゃいかん」初めて警官が制止の声をあげた、「それから、この事件に関する事情については、まずわれわれが聴取する。きみらは余計なことをしないでもらいたい」  記者連中が口々に不平を唱えたので、警官はたじろぎ、二人は互いに声を殺して何事か相談していたが、やがて年長の警官が、 「これが何らかの犯罪ということになれば、ここは犯行現場ですから、現場保存をしなきゃならない。皆さんにはお引き取りいただきたい」  記者連中はさらに声高に不平を鳴らした。     2  警察の事情聴取が終わるまで記者たちはロビーで待機することとなった。並木と蓮見典子もこれに倣《なら》った。約二十分後、ロビー以外のホール内の施設をすべて立ち入り禁止にするという館内アナウンスが放送された。ついで、表にパトカーが一台到着し、四人の警官があわただしくホールへ入場した。  やがて、藤井と島村夕子、そして紺のブレザー姿の男の三人が姿を見せると、記者連中は一斉に藤井を取り巻いた。  島村夕子は近くで見ると、険のある眼が顔全体をひどく老けたものに見せ、並木は自分より年下という実感を持てなかった。初めてまみえる島村夕子は、これまでの写真での華やかな美貌のイメージからややかけはなれていた。  視線が島村夕子の手を認めたとき、並木ははっと胸をつかれた。手は骨ばっており、皮膚はやや黄ばんでいた。爪は伸ばされておらず、マニキュアもしていない、いかにも実用的な指だった。  並木はこのとき島村夕子をなぜか非常に身近な存在に感じた。  ロビーが記者会見場になるのに時間はかからなかった。  ——オーケストラが消えたのに最初に気づいたのはいつ、誰が、どのようにしてか?  紺のブレザーの男、東京管弦楽団マネージャー佐々木|梓《あずさ》の答えは次の通りである。 「僕が最初だと思います。ハイドンの『告別』が終わり、舞台には島村先生だけが残って、拍手にこたえておられましたが、ステージ・コールが三回にも及びましたので、完全に拍手が鳴り止むまで、舞台と袖を往復される島村先生を袖から見ていました。袖にいたのは僕だけです。『告別』の最後の奏者、第一プルトのコンサートマスターの木内さん、もう一人の山口さん、ともにそのまま袖を素通りして楽屋の方へ去って行かれ、袖には僕だけになっていたのです。ちょっとおかしいと思わないでもなかったけど、僕自身喝采の凄さに昂奮してましたので。ともかく拍手が消え、先生を楽屋までお送りしましたが、もうそのときは楽団員は一人残らずこの会館から消えていたわけです。しかし、そのことにまだ気がつきませんでした」  島村夕子がこれにつけ加えて、 「わたくしも演奏直後で昂奮していたため、楽屋に戻る途中、異変に気づきませんでした」  佐々木がさらに、 「先生を楽屋までお送りしたあと、無人の廊下、何の物音もしない舞台裏に初めて不審をいだきました。え、時間ですか? 演奏後の拍手が二、三分でしょうか、拍手が消えて、楽屋へはほんの一分もかかっていません。ですから、『告別交響曲』の最後の奏者ふたりが袖に退出し、楽屋廊下の方へ消えてからせいぜい三、四分しか経っていなかったと思います。……おかしいと思って控えの楽屋をのぞいてみたのですが、誰もいない。何ひとつ残っていない。衣裳も、楽器もありません。リハーサル室も無人です。そして、搬入リフトを覗き込んでみると、駐車してあったトラックが見えない。あわてて、藤井さんに内線で連絡し、楽屋の島村先生を呼びました」  残された三人はあまりの異常事態にしばらく唖然としていたが、演奏会の後半をどうするかで意見が交わされた。その結果は、休憩時のアナウンスの通りである。  ——オーケストラが演奏会の途中で消えてしまうなどというのは前代未聞の椿事だが、その理由について見当はつかないか?  島村「思い当たることは自分にはありません。オーケストラと指揮者の関係はとてもうまく行っていましたし、コンサートマスターの木内さんから、メンバーがたいへんわたくしを買ってくれており、この秋に楽団の推薦指揮者として客演の話が出ていることなど、演奏前に笑顔で聞かされたくらいです」  佐々木「ボイコットとかサボタージュとかですか? そんなことありえません。不満は言い出したらきりがないでしょうけど、演奏会を途中で放棄するほどの不満があったとは考えられませんし、かりに不満があったとしてもこんな手段に出るほど非常識な連中じゃありません」  藤井「かといって、これが何らかの犯罪にからむ事件だというのも、私にとってはちょっと現実味がないのです。五十人もの団員を誘拐する人間がいるとは思えない。ナンセンスです」  佐々木「僕も同感です。それならまだ神かくしだといわれた方が実感があります」  島村「わたくしにはさっぱりわかりません」  ——楽団の事務所には連絡は入れてみたのでしょうね?  佐々木「もちろんです。何の異常も発生していません。ええ、トラックは楽団のものですが、まだ帰っていないそうです。もちろん、まっすぐ事務所に向かったとしてもまだ帰れる時間じゃありませんが。脅迫? そんな事実はありません」  ——いまのところは、と注釈がいりますね。まだ、楽団消失から一時間も経っていないのですから。団員はホールへはどんな形で集合したのですか?  佐々木「自由集合ですから、電車で来た者もいるでしょうし、マイカー利用者もいるかもしれません」  ——専用バスで移動するのじゃないのですね。  佐々木「専用車は楽器運搬用のトラックだけです」  ——念のため、オーケストラのメンバーでこの横浜から一番近いところに住んでいる方の自宅に電話を入れてみてもらえませんか?  藤井「チェロ奏者に一人、川崎在住のメンバーがおり、さきほど自宅に確認を取ってみたところ、今夜は横浜で演奏会に出ているはずですが、というのが家人の応答でした」  ——団員が楽器運搬用トラックに乗ったということは考えられませんか?  藤井「今夜のコンサートの場合、やや小型のオーケストラですから積載した楽器はティンパニとコントラバス二本だけです。他の楽器は団員が各自持参します。したがって、車内はいつもより空間が多い。とはいっても、無理に積み込んでも五十人はとても無理です」  ——この事件に対してどのように対応されますか?  佐々木「犯罪が起きたというわけではないのだし、しばらく静観するほかないと思います。事務所もその考えです」  藤井「それが常識的な考えだと思います」  島村「わたくしは一応、帰宅します。たいへん疲れていますし、オーケストラの行方は心配ですけど……」  記者たちはここまで質疑応答を進めたが、オーケストラの蒸発という事実だけで充分に翌朝の朝刊を賑わすに足ると見たのだろう、それぞれに散って行った。入稿時間の制約もあるのか、皆急いでいたが、誰もがうしろ姿に一種の生気を漂わせていた。おもわぬ拾い物をしたとでもいうような。  報道陣の去ったロビーは急に静かになった。不安なほど静かだった。  ここで、まだ残っている典子と並木に初めて気がついたかのように、藤井がいった。 「あなたがたは? まだ何か質問がありますか」  典子がいい澱《よど》んでいると、島村夕子が目を丸くして、近づいてきた。 「あなた、蓮見さんの……」島村夕子はなつかしそうにいった、「たしか典子さんでしたわね。聴きに来てくださったのね」 「ええ。兄のかわりに」典子は花束を捧げながら、「いえ、わたしももちろん聴かせていただくつもりでしたけど」  二人が久闊《きゆうかつ》を舒《じよ》している隣で、並木は藤井にとも佐々木にともなく訊ねた。 「アルバイトの女の子はどうしました?」 「もう帰しました」  藤井は答えると、 「島村先生とご縁のおありの方ですか?」  逆に質問してきた。 「彼女はそうだが」並木は典子へ視線を投げていった、「私は無縁です」 「もう、お帰りになりませんか。そろそろホール管理の者が点検にやってきますよ」 「いえ、もうしばらくいます」 「あなたいったい何者なんです?」  いささか険悪な風向きになったところへ、島村夕子が割り込んできた。 「藤井さん、わたくしこれから帰ることにします。佐々木さんが送ってくださるそうですが、あなたは」 「いや、ほんとうにおつかれさまでした。ともあれ、今夜はゆっくりおやすみになってください。私はまだ仕事が残っておりますから」  島村夕子は典子に別れを告げ、表へ向かった。  並木が、 「あなたは帰らないのですか?」  典子に訊いた。 「並木さんは?」 「事務所に二、三訊きたいことがあるので……」 「じゃ、わたしもご一緒しますわ」  勝手にするがいい、そんな顔をして藤井は歩きだした。そのあとに二人は続いた。 「たいへんなことになりましたね」  事務所でモニターテレビをみていた職員は、そういいながら藤井を迎えた。 「いまのところ何が何だか状況がつかめないんですよ」 「ここにもいままで警察の方がおられましてね」 「ほんとうにご迷惑をおかけし、恐縮です」 「いえ、お客に混乱がなかったのが不幸中の幸いです。大事にならなきゃいいですね」  館長補佐 西田義孝、という名札をつけた職員は、机からバインダーを取り上げて、 「さっそくですが、空調、時間延長、設備、いずれも追加使用はありませんから、使用料の追加はありません」  事務的に告げた。  並木は西田という職員に向かって、 「ちょっとお訊ねしたいのですが、演奏中のホールの照明、音響などには何人の職員が従事しているのですか」 「今夜のようなクラシックの場合、最少人員で対応しています。照明のオペレーターが調整室に一人、音響係が一人、この二人を補佐する連絡係のような者が一人」 「というと三名ですね」 「いえ、その他にビル管理の係員がおります」 「管理の方はどういう業務を?」 「主催者からの要望や苦情の処理、たとえば冷房を入れてくれとか切ってくれとか、シャワー室に給湯してくれとか、その対応です。それと客の監督管理……」 「管理係員の姿を見なかったのですが?」 「ああ、それならたぶん楽屋や客席の点検でしょう。終演後、必ずやることになっているのです」 「オペレーターはこの会館の常駐職員ですか?」 「委託業者の派遣職員です。常駐というわけではありませんが、催しが結構多いので、ほとんど常勤しています」 「守衛室とかはないのですか?」 「ありません。だいたいこのホールの各施設が閉じるのは十時から十一時、そののちはセキュリティー会社の無人管理に切り換えます」 「オペレーターと管理係員の方にお会いしたいのですが」 「失礼ですが、あなたは?」 「並木と申します。横浜地検の検事です」 「検事さんがどうしてここへ?」 「検事もたまにはクラシックを聴きます」  西田は苦笑し、 「なるほど。で、彼らに何のご用でしょう?」 「調べたいことがありまして。そうですね、音響や照明のオペレーターにもお話を伺いたい」 「たぶん現場をまわっているのだと思いますが」  西田は机の上のリモコンを手に取り、ボタンを押した。  モニターテレビに映像が映し出され、ステージを動きまわっている警官やオペレーターの姿が見えた。  ここで、藤井が並木を胡散臭《うさんくさ》そうに見て、 「あなた、本当に検事さん?」 「身分証、バッジともにオフだから携帯していない。名刺は持っています」 「検事さんが、でもどうしてこんな警察みたいな真似をなさるのですか」 「検事に対してどうやら貧困なイメージしかお持ちでないようだ。検事は捜査もやるのです。検察庁法第六条に、検察官はいかなる犯罪についても捜査することができる、そう規定されています」 「でも、それは命令なくしてはできないのではありませんか」 「できます。私自身の判断でできるのです」 「釈然としません」 「検察官独立の原則によって、それができるのです」 「検察官独立?」 「検察官そのものが、つまり私自身が独立した検察庁であり、捜査権を有するという大原則です」  何も知らない人間を畏怖させるにはこれでじゅうぶんだった。     3  この夜十時近い時刻、中華街東門から少し歩いたところにある聘玉楼《へいぎよくろう》という粥《かゆ》専門店に、並木と蓮見典子はいた。食欲が湧かないという典子を並木はいささか強引に誘ったのだが、並木のすすめる青菜粥は典子の気に入ったらしかった。 「薄味だけど、コクがあって、とても美味しい」 「それはよかった。一日じゅう坐りっぱなしで、食欲が湧かない日が多くて、ついついここへ来るんですよ」  しばらくして、典子は事件の話題にまた戻った。 「やはり犯罪に関連した事件だとお思いになりますか?」 「なんともいえない」並木は事件をたどる目をしていった、「目撃者がいないのが不思議とは思いませんか?」 「ええ、たしかに。それに、あんな小人数のスタッフで演奏会が実施できるというのも意外でした。会館の関係者は五人でしょう?」 「そう、館長補佐の西田氏というのが事務室に一人、この人は主として電話の応対にあたっているので事務室を出ていない。音響係の黒田、照明係の二村、その助手の山下、この三人は調整室にずっといて、現場に立ち会っていない。ビル管理の清水、この人は演奏会の前半は会館の三階のギャラリーで展示物の撤収作業の監督をしていた。ホールに戻ってきたのは休憩後で事件のあとだ。何も見ていない」 「その人たちは横浜市の職員かそれに準じる身分の人でしょう。犯罪に加担しているというのはあまり現実味がないですわね」 「そうですね。これが仕組まれた出来事というのであれば、むしろ主催者側の方が事件に裏で関わっている可能性はあると思います。楽団のマネージャー藤井、それに佐々木、島村夕子さん、いずれも団員が消える現場を見ていないといっていますが、ウソをいっているとも考えられる。休憩時に私が払い戻しを求めた理由、わかりますか?」 「?」  典子は身を乗り出すようにして、目で訊ねた。 「事故が起きたから演奏曲目を変更する、ついては払い戻しに応じるから希望者は受付まで来るように……、このアナウンスを聴いて一つの疑問を覚えました」 「疑問?」 「ええ。払い戻し、です。今夜のコンサートは前売券を早くから完売し、当日券はなかった。また、プログラムは有料ではなく、無料配布です。CDやカセットの販売もありません。つまり、ホールでの現金収入はないわけです。だから、あえて払い戻しを要求してみたのです。藤井が持っていた箱の中を見ましたが、千円札と五千円札が二、三十枚はあるようでした。この程度の金は演奏会にはつねに用意しているのだと答えられたらそれまでですが、主催者側が事故を予測していたのではないかという推測の材料にはなるのではないでしょうか」 「なるほど、そういう見方もできますね」  典子は感心したようにいった。 「オーケストラが消えた事実を公表したのも藤井です。たまたま私がそれに一役買ったかたちになりましたけど、彼が告げたために演奏会の後半は異様な雰囲気となり、マスコミが殺到したのです」 「オーケストラ消失を終演まで公表しないでいたとしても、主催者側が非難されることはなかったでしょうね」  典子は溜息をつき、並木をまじまじと見た。 「私が楽団のマネージャーだったら、公表はしないし、警察に連絡することもない」 「たぶんわたしも。きっとどうしていいかわかんなくなると思います」 「まあ、そのへんの不透明が気になったし、関係者に質問したり、立ち入った行動を取ったのは、野次馬根性もあったけど、いまいったような不審を覚えたからです」 「不審といえば、わずかに数分の間隙《かんげき》を縫って事件が起き、五十人もの男たちを強制的に拉致するとしたら一騒動も二騒動もあったはずなのに、それがなかったというのも変ですわ。強制的にどこかへ連れ去られたとは考えにくいのでは?」 「オーケストラが演奏途中でホールから消え失せるなどというのは、客席に魔術師でもいて、演奏中に集団催眠でもかけなきゃまずありえない」 「案外そうかも」  検事はかぶりを振って、 「化学者らしくもない。私はバカバカしい例をあげてみたんであって、そんなことを本気で考えてもらっちゃ困ります」 「アメリカ映画だって、そんな荒唐無稽なプロットは使わないでしょうね」 「ハーメルンの笛吹き男、私はあれを思い出しましたね」 「ハーメルンの笛吹き男って、あのグリムの?」  典子が目をみはった。 「そう。ハーメルンの町にまだらの服を来た男がやってきて、町中の鼠を退治してみせるという。町は男に報酬を約束して鼠退治を依頼する。男は笛を吹き鳴らす」 「笛の音に誘われて家々から鼠が出てくる」蓮見典子は並木の後を受けて記憶を辿るように続けた、「男の周りは鼠だらけになり、男は笛を吹きながら町を出てゆき、やがて河に入る。鼠の大群は溺《おぼ》れて死ぬ」 「ところが、市民は報酬を支払うのが惜しくなって、男を追い払う。男は怒って去っていくが、再び笛を吹きながら町へやってくる。笛の音につられて家々から出てきたのは四歳以上の少年少女で、男にしたがって町を出てゆき、山に着くと男もろとも消え失せる」 「なんだかすごいお話が出てきましたわね。ハーメルンの笛吹き男、すっかり忘れていました」 「ところが、これが歴史的事実でしてね」 「笛吹き男がほんとうにいたのですか?」 「笛吹き男はともかく、千二百何年だったか、ある日突然ハーメルンの町から百三十人の少年少女が行方不明になったというのはまぎれもない事実なんです」 「信じられない。てっきりフィクションだとばかり思ってましたわ」 「この出来事はヨーロッパをよほど震撼《しんかん》させたのでしょう。百三十人の子供たちの失踪について今世紀までに二十五もの解釈がなされているそうです。子供の十字軍、聖ミカエルの巡礼、群盗による誘拐、ペストに似た疫病、野獣に食い殺された、ユダヤ教の儀式の生贄《いけにえ》となった、地下監獄に幽閉された、地震による山崩れで死亡した、その他もろもろの仮説が試みられています」 「でもいまは二十世紀、それも世紀末です。十字軍もいないし、ペストもない、野獣もここにはいませんし、地下監獄もない。笛吹き男にあたる者はいるのかもしれませんが」 「笛吹き男はいるでしょうね」  典子は箸《はし》を止めて、しばし考え込んでいたが、 「オーケストラのオーボエ奏者か何かが、何らかの目的で企てたことだったら、まさに現代のハーメルンの笛吹き男事件ですけど」 「それは面白いな。しかし、いまのところ、謎、謎、謎だ」 「謎のオーケストラ、というわけですね」  典子は無人の楽屋を思い出していた。楽器、楽譜はむろん、上着一枚残っていなかった。灰皿に煙草の吸殻、テーブルの上にジュースや清涼飲料の空き缶、空き壜《びん》、あとは新聞と週刊誌……、不気味な光景といえばいえた。つまり、現代の|幽 霊 船《メリー・セレステ号》というわけだが。  東京に帰る蓮見典子を石川町駅まで見送ると、十一時近くになっていた。  並木はタクシーを止めると、 「また、会っていただけるでしょうか?」  ほんの少しためらった末に、切り出した。  典子はしばらく考えるふうだったが、 「奥様に悪いですわ」  微笑とともにいった。 「ぼくは独りです。三十代半ばにしてまだ独身というのも情ないのですが……」  ドアのノブに手をかけて、いった。 「じゃ、いつとはお約束できませんけど、……お名刺いただいてますから」  そう答えてバッグを胸に掲げてみせた。  並木は苦笑を泛べ、半分車内に乗り込むと、 「ほんとうに今夜は失礼をいたしました。でも、おかげで楽しい、楽しいというのもへんですが、ともかく充実した夜でした。気をつけてお帰りください」  早口にいって、座席から手をふってみせた。  二十三時三〇分  「愛してるわ」  窓からは眼下に山下公園が、そして夜の港が一望できた。  青木|馨《かおる》は背中に囁かれた美江《みえ》の甘い声を夢のように聴いた。  しなだれかかってきた美江の声が、アルコール混じりの熱い吐息とともに頸すじを撫でてきた。 「ぼくもだよ」  ふりむいて、両腕に抱きとめる。 「夢みたい」  夢のようだという豊崎美江の述懐を何度聞かされたことか。今日から青木美江になったこの女が、今日までどのような恋愛を経験してきたか、想像はうまく像を結ばない。  身長一五九・五センチ、スリー・サイズは恥ずかしがって教えてくれないが、靴サイズ二三・五、それは知っている。プレゼントに靴というのは昔からの夢だった。なにかアメリカ映画みたいではないか。いま履《は》いているパンプスがそうだ。  色が白いので遠目にはそうでもないが、間近で見ると彫《ほ》りの深い顔だ。鼻が高くて、頬が少しこけている。頬にはいくつかそばかすのような、黒子《ほくろ》のような色素の沈着がある。それはきっと年齢のせいだ。すこし歯が出ているが、それも悪くない。  一月前に出会って、こんなことになるとは思ってもみなかった。まさしく夢だった。 「好きだよ」 「わたしこそ」  青木は輪郭をなぞるように美江の髪を撫《な》でてから、キスした。火のような息がかかった。歯がわかった。  顔を離し、カーテンを閉じると美江の陶然とした顔に少し緊張の色が翳《さ》した。  結婚してよかった、睫《まつげ》をふるわせている新妻を前にして青木は心からそう思った。 「さ、行こう」  青木は妻を腕に抱いて持ち上げた。重かった。美江の腰を右足で支えて、靴を脱がせ、ベッドに運んだ。すこし息が切れた。  ベッドに下ろそうとして、去年ピアノを動かしていて痛めた腰に記憶のある電撃が走った。おもわず腕を離した。美江はベッドに落ち、すぐに姿が消え、ドスンと音がした。青木はつんのめって、ベッドの鉄枠に鼻ッ柱を打ちつけた。目の前を星くずが散った。  なまあたたかいものが鼻の下から唇にかけて流れていた。  ベッドの向こう側から救いを求めるように両手が伸びてきた。  両手の下に、妻が苦痛と怒りに歪んだ顔を見せた。  すぐに笑い顔になり、泣き笑いの表情で、 「何? その顔……」  手を見ると血だった。鼻血はシーツに滴って、薔薇《ばら》のような形に染めている。  それを見て美江は、 「おかしいわ。だって、おかしいよ」  全身をわななかせ、笑いの発作をこらえるのに七転八倒し始めた。 「なるほど。こりゃ、おかしい」  青木もおかしくなってその場にくずおれ、必死で笑いをこらえた。笑うほど痛みが増し、涙が出てきた。 [#改ページ]   誘拐とオーケストラ     1  昭和六十二年五月九日・土曜日、日本列島は移動性高気圧に覆われ、特に関東地方においては一雨ほしいほどの晴天続きで、事件から一夜明けたこの日も空は雲ひとつない快晴だった。  事件に関する新聞報道は、各紙さまざまな扱いだったが、某中央紙は、 「遺族らへ募金開始」  という見出しの、朝日新聞阪神支局襲撃事件に関する報道と、 「事前確認制採用 通産省、野生生物の密輸阻止へ向け」  という、絶滅の恐れがある野生動植物の不正輸入に対する水際規制強化を報じた記事を両翼にしたがえて、 「オーケストラ消える!」  という大見出しを掲げ、社会面一頁の本文から約三分の二をあてて大々的に報道していた。 「東京管弦楽団消える。  横浜臨港会館で演奏中、  集団誘拐か? ボイコットか?」 「指揮者島村夕子さん、やむなくピアノで代演、  満場のかっさいをあびる」  などという見出しのもとに、島村夕子がピアノの横に立ち、喝采を浴びている写真、それにアップの顔写真が掲載されている。 「【横浜】八日夜、横浜のコンサートホールで、演奏会の途中、オーケストラが全員行方不明になるという事件があった。この前代未聞の出来事は、当夜の満員の聴衆や関係者を驚かせたが、いまのところ犯罪に関連したものかどうかは不明」  という前文に続いて、 「八日午後七時十五分頃、横浜市中区山下町三番一号、横浜臨港会館大ホール(ベイ・ホール)で、おりから演奏会の前半を終え、休憩に入った会場から、出演中の東京管弦楽団のメンバー全員(五十名)が突然消えてしまった。会場には、演奏会後半を指揮者島村夕子さんのピアノ演奏で代演することが放送されたが、帰る客は一人もなく、この異常な演奏会の終了まで席にクギづけになった。  この夜の演奏曲はベートーヴェン『コリオラン序曲』に始まり、続いてハイドンの『告別交響曲』、休憩をはさんでベートーヴェンの『運命』というものであったが、『告別』の演奏終了直後、会場からオーケストラの全員が消えていた。『告別』は演奏上の慣習にしたがって、終楽章の途中からメンバーが一人また一人、ステージから舞台の上手と下手の両袖に退出するという趣向がとられたが、全曲演奏後、ステージに残って拍手を受ける指揮者島村夕子さん(写真上)以外の全員が文字どおり会場に「告別」してしまった。  団員のボイコットか、大事件発生かと会場内は一時騒然とし、異様な雰囲気に包まれたが、休憩後の『運命』は、島村さんがリスト編曲のピアノ版『運命』で代演した。聴衆は一夜の演奏会でオーケストラとピアノのリサイタルを鑑賞することになったわけだが、ピアノ演奏が終わると、盛大な拍手に包まれ(写真下)、前列付近のお客が立って拍手するという、邦人演奏家のステージでは珍しい光景さえ起きた。  なお、ステージ退場後のオーケストラ団員を目撃した人はいまのところいない。また、舞台裏の搬入口に駐車してあった東京管弦楽団の楽器運搬用トラックも運転手ごと消えているが、このトラックには無理に詰め込んだとしても十数人しか乗れないため、メンバーがどのようにして会場から消失したかは謎である。  また、団員の控え室にあてられていた楽屋は全部で三室。団員の楽器、楽譜、衣服、バッグ等携行品はいっさい残されていなかった。  このことから、団員の会場退出はかなり整然と行われたと推察され、何者かによる強制的な拉致とも、団員みずからの意志による蒸発とも受け止められる。  演奏会を聴きに来ていた松原進さん(神奈川県逗子市・三九)は、『島村夕子の指揮者としてのデビューコンサートということで、期待して聴きに来た。休憩のロビーで、オーケストラの都合で後半のプログラムがピアノ版の�運命�に変わるというアナウンスを聴いて驚いた。客席に戻ると、オーケストラが消えたという話で騒然としていた。現代の神かくしなどという人もいたけど、誰かが島村夕子さんへのいやがらせで計画したことかもしれない』と語っている。  なお、楽団事務局(東京都文京区|小《こ》日向《ひなた》)、および一部のメンバーの家族に確認したところ、脅迫など犯罪に関連する事実はこの時点では発生していない」  駿河台の楽苑社「音楽の苑」編集部では、蓮見さやかが、新聞の紙面を食い入るように見ながら、何度も低く唸っていた。昨夜、典子の報告を最初は冗談だと思ってとりあわなかった蓮見だが、新聞記事を見れば、やはりこれは驚天動地の大事件だった。 「お、唸ってるな」  背中に声がかかったが、舵川編集長だった。 「おはようございます」 「おれも朝、そいつを読んでびっくりしたよ。オーケストラの天外消失だものな」 「天外消失! 忘れていた言葉だ。さすがですね」  舵川はちょっとむっとした顔をして、 「聴きに行かなかったんだろ? 何が気にいらないのか知らないが、やはり行くべきだったな」  机に向かい、坐るのと抽斗《ひきだし》を開けるのを同時にしながらいう。 「妹が行きました。事件はだから昨夜のうちに妹から聞かされて知っていました。しかし、新聞を見て、破格の扱いぶりにあらためてショックを受けているところです」 「こんな事件は」舵川は宿酔《ふつかよい》の薬を取り出し、蓋を開けながらいった、「前代未聞もいいところだ。破格というより当然の扱いだろう」 「天外消失ですからね。たしかにコンサートには行くべきでした」 「指揮者の先生に連絡はしてみたのか?」  錠剤を嚥《の》み下した苦い顔で訊く。 「何度か電話してみましたが、ずっと話し中で埒《らち》があかない」 「話し中ということは、いるのはいるのだろうな」 「そうとも限らない。電話が殺到していたら、話し中の信号音になるでしょう」 「行ってみるか?」 「かまいませんか?」 「それも仕事のうちだ。くそ、頭が痛い」 「宿酔ですか?」 「昨夜、駆け出し時代の同輩の結婚式、もちろんそいつの娘だが、出席したんだ。その後、銀座に出て痛飲した」 「夜、結婚式があったのですか?」 「夜に結婚披露宴をやるのはなにも芸能人だけじゃないぜ。時を選ばずやってますよ、世間は。おまえさんもグズグズしてたら一生結婚式とは縁がなく終わっちまうぞ。いいかげんで、年貢を納《おさ》めたらどうだ。……まさか、指揮者の先生のことを本気で考えてるのじゃないだろうな。釣り合わぬは不縁の基というぜ」  雲行きが怪しくなってきたので、蓮見は席を立った。     2  並木が出勤すると、 「お疲れのようですね」  検察事務官の酒井が机上の書類から顔をあげて穏やかにいった。 「昨夜、寝るのが遅かったもので」 「デートですか」 「それならいいのだけど。さて、きょうは誰を呼んでいましたっけ?」 「本牧《ほんもく》のホステス傷害事件の被疑者です」 「ああ、あの英国船員……。まだ時間がありますね」 「九時半の出頭です」 「それまでちょっと私用をさせてもらいます」  酒井事務官はうなずいて、書類に戻った。  検事は、文京区小日向にある東京管弦楽団の事務所に電話をかけた。もちろん、その後の経過を聴くためである。  電話に出たのは佐々木だった。  並木が名乗ると、 「ああ、昨夜の検事さん?」  すぐに思い出したふうだった。 「新聞がにぎやかですね。その後、何か変わったことはありませんか?」 「団員からの連絡はありません。脅迫状とか脅迫電話とかも、いまのところはありません」 「楽器運搬のトラックは?」 「それなんですよ」佐々木はにわかに深刻な口調になって、「トラックはまだ帰りませんが、運転手は昨夜戻って来ていたんですよ」 「運転手が? どういうことなんです」  佐々木の話によると、運転手は昨日の午後三時、予定どおりホールに到着すると、三十分ほどで楽器の搬入を終え、そのまま石川町へ遊びに出たのだという。運転手は移動の都度、業者から派遣させており、こういったことは別段珍しいことではなく、演奏終了までパチンコや喫茶店で時間待ちをするのは常識というが、八時になってホールに戻ってみると駐めていたトラックが消えている。パトカーが来ており、ただごとではないような気がしたので、終演まで待ってみたが、終演後は藤井も佐々木も報道陣に取り巻かれ、警官の姿も見える。辛抱強く待ったあげく、会場から帰ろうとする藤井に蒼い顔をして声をかけてきたという。 「キーを車につけたままだったこともあって、出るに出られなくなったようです。まだ若い運転手で、まじめな人だそうで、それだけにうろたえてしまったのでしょう」 「キーをつけたままというのはお粗末な話ですね」 「いや、それはそうともいえないのです」  キーを残して出て行ったのは、ホールによっては緊急時に備えてキーをつけておくよう指示しているケースもあるくらいだから、運転手としてはあながち落度ともいえない、というのが佐々木の説明だった。 「警察には届けたのでしょうね」 「ええ。藤井が山下署に昨夜のうちに報告しました。運転手は大目玉を食ったそうですが」 「今後、どうなさるんです?」 「今朝、団員の自宅全部に連絡を取ってみたのですが、帰宅している者は誰一人いません。もちろん家族の方たちは新聞やテレビで事情を知って大騒ぎです。それで、事務所が代表して一応捜索願いを出しました」 「なるほど、それは正しい判断だ」 「ついさっきまで詳しい事情聴取を受けていたところです」 「島村夕子さんには変わりはありませんか?」 「彼女からは電話がありましたが、マスコミの電話攻勢に遇《あ》っているようです。島村さんの自宅をマスコミは知りませんが、電話はどうしようもない。自宅だってそのうち嗅ぎつけられるでしょう。この事務所もそろそろ危ないみたいですが……。噂をすればなんとやらですね、いま一台車が来たところです。新聞社の社旗が見えます」  検事は次に横浜臨港会館に電話を入れた。 「私は横浜地検の並木と申しますが、西田館長補佐とお話がしたいのですが」 「横浜地検? あ、昨夜の検事さんですね、事件については西田補佐から聞いております。実はいま電話の応対で手が離せないのです。この電話もつながったのが不思議なくらいでして」 「取材攻勢ですか」 「そうです。ひどいものです」 「失礼ですが、あなたは?」 「私は館長の島瀬と申しますが、ご用件は?」 「その後そちらに何か変わったことはないかと」 「別段ありません。オーケストラ団員の自家用車が十六台、駐車場にそのままになってましてね、これで迷惑しているのと、早く現場を解放してもらわないと今夜のコンサートの仕込みができない、そういったところです」 「なるほど、警察はまだそちらにいるわけか。山下署ですね」 「ええ、そうです。二人待機しています。検事さん、館としては別に被害はなかったわけですし、警察にはお引き取り願いたいのですが、そうもいかんのでしょうね?」 「事態がどう発展するか予断を許さないところですからね、いたしかたないでしょう。お忙しいところ、失礼いたしました」  並木は送受器を置くと、煙草に火をつけた。  酒井事務官が興味深げな表情で、 「検事、昨夜は?」 「臨港会館のコンサートを聴きに行ってたんです」 「事件、どんなぐあいだったのですか?」 「だいたい新聞記事と変わらないのだけど」  そう前置してから、語った。途中、蓮見典子のことを話そうかと思ったが、話がややこしくなるので省いた。 「たしかに奇妙な事件ですね」  聞き終えると、酒井事務官は頸を傾げた。 「で、さっき楽団事務所に電話したのだけど、メンバーは全員未帰還という。かといって事務局あてに抗議文書が届いたわけでもなく、脅迫が行われたわけでもない。念のため、ベイ・ホールにも連絡してみたが、変わったようすはない」 「いまのところその後の動きはないというわけですね。じゃ、現時点では神かくしというわけだ」酒井事務官は面白そうにいった、「かりにこれが誘拐事件だとすると、最初から衆人環視のもとではあるし、マスコミとしては近年にない大ニュースですね」 「楽団事務所にもベイ・ホールにも取材陣が押しかけているようですよ」 「昨夜は」酒井事務官がちょっと調子を変えて訊く、「島村夕子本人とはお会いになったのですか?」 「ええ、近くで本人を見ました。直接話しはしませんでしたが」 「やはり、美人でしたか?」 「美人でした。なかなかのものです。でも、年齢はあらそえない。若いタレントのようなことはない」 「三十代前半でしょう。じゃ、色気があるんだ」 「ないない。ちょっとエキセントリックな顔立ちだし、生活感がない」  答えながら、並木は昨夜の島村夕子の顔をまざまざと思い出した。華麗で挑戦的な舞台姿とは対照的な、あの苛立ちを底に沈めたような疲労の顔。それはなにかしら人を魅きつけてやまない、神秘的といえば単純すぎるが、靄《もや》のようなものに一枚隔てられていて、見る者をしてそれを剥《は》がしてみたい思いにさせるような顔であった。  とりわけ、記者団の質問に答える場面では、険のある眼に緊張がみなぎって、女としては低い、燻《くす》んだような特徴ある声とあいまって、にわかに存在感を増した。 「なるほど、検事にとって色気とは生活感なんですね」  返事に窮《きゆう》しながら、島村夕子の指を思い出していた。あの指には何かしら素朴な真実の表情があった。記者の質問を受ける間、その指は落ち着きなく組まれたり、絡め合わされたりしていたが、なによりもそれが島村夕子の内面を暗示しているようにも見えた。 「休憩は何分あったのです?」 「十五分。いや、延長されたから二十分か」 「はなれわざだな」 「そうだね。実際にはそれより短い間に行われているわけです。彼らが自発的に消えて行ったのならともかく、誰かのしわざだとしたら五十人もの人間をまとめて抗拒《こうきよ》不能の状態にしなくちゃならない。冗談じゃなく集団催眠かと思いたくなる」 「え? そうじゃなく、いえ、それもたしかにはなれわざですが、私のいっているのは島村夕子さんのことです」 「どういうこと?」 「急遽《きゆうきよ》、プログラムを変更したわけでしょう? ぶっつけ本番なわけだ。準備もなしによくやれたものですね」 「聴く方も肝をつぶしましたけど。そうですね、たしかによくやったものだ」  新聞は島村夕子のプログラム変更、オーケストラの代わりにピアノで演奏したことを一種の快挙のように報道していた。並木自身、会場で聴衆の一員としてその演奏に接し、手に汗握るような昂奮を覚え、おもわず演奏の成功を祈らずにはいられなかった。おそらく会場の誰もがそうであっただろう。  島村夕子はみごとに期待に応え、満場の喝采を浴びた。まさしく、快挙だ。 「私は音楽のことはまるで門外漢ですからよくわからない。しかし、よくぞやったというより、ちょっと出来すぎなんじゃないかという気もします」  検事は酒井事務官のような見方もあるのかといささか目から鱗が落ちる気がした。現場に居合わせた者とそうでない者との違いで、並木も酒井の立場だったらそう受け止めたかもしれない。 「もうとっくに死んでますが、トスカニーニという指揮者がいましてね。彼はイタリア生まれですが、南米を巡演するオペラのオーケストラのチェロ奏者として出発しました。ところが、ヴェルディの『アイーダ』の上演時、指揮者が楽員や歌手たちの総スカンを食って、幕が開かないということになってしまった。代わりの指揮者はいない。さあたいへん、というところで、オーケストラの誰かがピンチヒッターに弱冠十九歳のトスカニーニを推挙したんです。指揮の経験はトスカニーニにはありませんが、彼ならやれるだろうということになって、幕を開けた。出てきた指揮者が若僧なもので、観客はざわざわしてまともに聴かない。しかし、この指揮者は楽譜も置かず、確信に満ちた指揮姿でオーケストラをコントロールしてゆく。やがて、騒いでいた聴衆も徐々に耳を奪われ、ついにはトスカニーニの音楽にすっかり引き込まれてしまった。そして、喝采の嵐。  これが大指揮者トスカニーニの誕生伝説です。もっとも、これは芸術家にはつきものの神話の一種であって、オーケストラといってもチェロ奏者の彼が指揮台に立つと、残ったチェリストが一人というお粗末なオーケストラだし、暗譜演奏というのも彼が強度の近視だったからなんですがね。それは余談として、突然の代役でデビューした演奏家はピアニストにも数多くいます」  検事はそんな説明をしながら、出来すぎではないかという酒井の感想がしだいに大きく心を領しつつあるのを感じた。 「出来すぎということでは曲も曲なんですよ」並木は続けた、「ハイドンの『告別』でさよならなんてのは、まるで絵に描いたようで、気にいらない」 「どういうことです?」 「つまり、『告別交響曲』という選曲そのものがオーケストラ消失のトリックになっているということです」並木は煙草を灰皿に揉《も》み消してから続けた、「ご存じかどうか、あの曲は終楽章の後半でオーケストラの団員が、一人また一人と舞台から消えてゆくという趣向で書かれているんです。有名曲のわりにはめったに演奏されることがないのですが、演奏するとしたらその趣向に従うか、純粋に演奏だけに徹するか、いずれかを取ることになる」 「ということは?」 「考えられることは二つ、あれが何者かによる拉致とか誘拐のようなものだとしたら、あの曲が演奏され、しかも楽員退出の趣向で演奏されることをそいつは事前に知っていたことになるのではないか。事前に知っていて、その趣向を利用したのではないか。もう一つは、事件そのものが選曲以前に計画され、つまり選曲した人間が事件の首謀者であるかもしれないという可能性です」  説明しながら並木は藤井というマネージャーの顔を想起していた。 「そうなると、案外オーケストラそのものも怪しいということになってきますね。もちろん島村夕子もその一人だ」 「そういうことです。さきほどの『運命』のピアノ代演のことも考え併《あわ》せると、彼女はきわめて黒に近い灰色ということになります」  並木は急に疑惑が胸につかえ、島村夕子に会ってみたい気が強くしてきた。藤井よりも島村夕子に。     3 「アカシアが今年もきれいに咲きましたね」電話が鳴っているが、村井両平はそれには構わず訊いた、「薔薇も今年はことのほかみごとです」  村井は縁側から、半身を乗り出すようにして庭を見ている。 「母がいちばん好きだったのは何かしら?」  島村夕子は、漆黒のシードマイヤーの閉じた大屋根に肘をついたまま、つぶやくようにいった。 「エリカです」 「エリカ? 温室のですか」  島村夕子は村井の横に立ち、庭の温室を見る。 「エリカがヒースなのだということはあなたのおかあさまに教わった。向こうでは秋に咲くのでしょう。ここでは冬ですけど」  電話はまだ鳴っている。 「そういえば母はよく温室で過ごしていました」  目に浮かぶとでもいうような追憶の口調でいった。 「花の好きな人でしたからね。あなたの名前ですが、エリカにしたいとおっしゃっていたこともある」 「え、ほんとうに? それは初耳です」  夕子が目を輝かせたのと電話が鳴り止んだのが同時だった。 「母がわたくしに夕子と名付けたのは、シューベルトの『夕映えの中で』が好きだったからと聞いています。よく、ピアノを弾きながら小さな声で歌っていましたもの」 「おかあさまがここに越してこられた時、たしか昭和二十九年でしたが、まだこの辺はこんなに開けてなくて、空き地がたくさんあった。夕焼けもいまよりきれいだった。この家も長く空家だったもので、庭なども廃園同様でしてね」 「ここに前住んでおられたのは、たしか伊達《だて》家の方でしたわね」 「ええ。仙台ではない、伊予の宇和島伊達家のご家老の裔《すえ》で、元は宮内省に出仕され、大戦中は連合艦隊の長門《ながと》だったか陸奥《むつ》だったかの艦長をなさっていた方です」 「伊予の伊達家だったのね。仙台とばかり思っていたわ」 「何かこう、ものすごいありさまでしたね。夜だと鬼でも立っていそうな。それを毎日すこしずつ手を入れて、丹精されて……」  村井もまなざしは昔を見ているようだった。 「その頃、両さんはどこに住んでらしたの?」 「池袋です。立教大学のそばです。ちょうど隣が江戸川乱歩の家でした」 「へえ、乱歩の……。じゃ、静かなところだったんだ」 「車も少なかったし」 「お庭は母がなくなってからはずっと両さんが丹精してくださったのでしょう?」  村井は微笑で答えに代え、調子を変えて訊ねた。 「夕子さんは今年おいくつになられますか?」 「三十一になります」 「あなたが生まれた昭和三十一年、おかあさまがその年やはり三十一歳でした」 「その年、あの人は三十四か五。両さんは?」 「私はあなたのおかあさまより三つ年下です」 「あの人は」夕子は少しくぐもった調子で訊いた、「伊原は、母を愛していたのでしょうか?」 「会長は、愛しておられました」 「母はたいていのそんな立場の女がするように、わたくしの認知をあの人に求めなかったのでしょうか」 「さあ、それは存じません」 「母は伊原については何もいわなかったし、日記はおろか、手紙一通残していません。だから、わたくしはただ想像をめぐらすばかりでした……」  夕子は何か思い出しでもしたように、村井の顔をまじまじとみつめた。  何かいいたげな唇だった。  また電話が鳴った。夕子は眉を顰《ひそ》め、業を煮やしたようにさっと起つと、電話機のある隣の部屋へ行った。  村井はシードマイヤーの蓋を開けてみた。飴《あめ》色に変色した白鍵の象牙が、おりからの朝陽を受けて鈍く輝いていた。  いま、島村夕子は何をいいかけたのだろう?  この国の経済界にあって抜きんでた山脈の一つである伊原産業の総帥《そうすい》伊原|頼高《よりたか》、そして、昭和二十年代後半から三十年代の終盤まで、伊原の片腕として伊原産業中興の一翼を担ったこの自分。あれらの風雪も過ぎ去ってみればセピア色の記憶にすぎない。しかし、伊原が情熱を傾けたピアニスト島村|峯子《みねこ》の記憶は、いまだに三十年の過去を昨日のように蘇らせる。結局、死んだ者のみが美しく、生きる者は虚しい。  このところますます髪は白く、腿《もも》は削《そ》げ、眠りはいつも浅い。家庭を持たずに過ごしてきたことのツケをひしひしと感じる朝が増えてきた。島村夕子がいなければこの世の実感はずいぶんと希薄なものになってしまうだろう。  島村夕子はもしかしてこの村井両平に父を視たことはあるまいか。いましがた、いいかけたのはそのことではないだろうか。  村井も島村夕子に峯子の面影を見出そうとしている自分にふと気づいて、狼狽《ろうばい》することが一再ならずある。そんな自分を島村夕子が実の父親ではないかと仮定してみることがあっても、不思議はないだろう。  村井両平は彼の島村夕子への献身が、伊原頼高に仕える者としての忠誠心からだけではなく、亡き島村峯子への想いの代償行為だということまでは自覚していたが、最大の理由がこれまでついに妻子を持たなかった自分の中の父性であることには迂闊にも気づいていなかった。  昨夜、聴衆の一人として客席にいた村井は、事件に一方的に島村夕子が遭遇したのではなく、むしろ事件の核心に島村夕子が何らかの形で関わっていると直観した。  会場に楽苑社の蓮見さやかの姿が見えないのも気になった。 「彼女、だいじょうぶでしょうか?」  スイスに見送る時、蓮見はそうつぶやいた。  蓮見は夕子が自殺するのではないかとまで考えていた。 「彼女には音楽がありますよ」  村井はそう答えたものだ。  何かが島村夕子の身の上に起きている。何かいまわしい力によるものであれば、それから守らなければならない。蓮見がいないのは釈然としないが、自分だけでも。  村井は終演を見届けると、その足で雪谷のこの家を訪ねたが、夕子はまだ帰宅していなかった。あまり遅いようであれば駅前の喫茶店で時間をつぶし、電話を入れてみることにしようか、などと考えているうち、車が坂道をのぼってきた。  楽団の乗用車で送られて来た島村夕子は疲労だけではない苦渋の色を泛べて、門の前に下り立った。佐々木は通りいっぺんの挨拶をして去って行ったが、これに答える島村夕子もつきなみな言辞だった。すくなくとも、この二人には何らかの共同謀議があるとは思われなかった。  佐々木の車が見えなくなってから声をかけると島村夕子はひどく驚いたが、すぐに安堵したような表情を見せ、家に請《しよう》じ入れた。 「コンサートには来てくださっていましたの?」  島村夕子は愁《うつた》えるような調子で訊いた。 「よほど楽屋を訪ねようかと思ったのですが、事務所の佐々木や藤井に私とあなたのことを妙に勘繰られたくなかったもので……」 「バローの、いえラノヴィッツ事件の後遺症というわけね」  島村夕子は曇った声を出した。 「そうです。あれがあなたの仕掛けで、私も加担したのだという事実はやはり知られてはまずい」  島村夕子は下唇を噛んで、俯いた。 「それより、今夜の事件はどういうことなのです?」 「どういうことって?」 「あなたが一枚も二枚も噛んでいると思われてなりません」  島村夕子は斜めに顔をそむけたが、肩が細かく震えていた。 「私は私なりにあなたを理解しているつもりです。これには何かわけがあるんでしょう? 単にあなたが不測のアクシデントに巻き込まれたのだとは思えない」 「それはなぜ?」  声も震えていた。 「あなたが全力投球型だということは知っています。バローの贋作盤を作る際の、あの常軌を逸した猛練習もそうだし、だいたい子供の頃からあなたは熱中型だった。……だから急遽プログラムを変更して『運命』をピアノ版で代奏するなんてことは、まずありえない。つまり、あらかじめ練習されていたことは明白です」  島村夕子の肩はまだ小刻みに震えていた。震えから逃れるように、仰向いて息を接《つ》いだ。形のよい鼻翼と、長い睫が表情を増した。 「それに、ここ数ヵ月のあなたの行動がそもそもおかしかった。売名行為としか見えないようなマスコミへの登場ぶり、それだけでも私には何かある、何かが進行しつつある、そんな危惧を否めませんでしたからね」  夕子は膝の上の手を強く握りしめ、骨が透けるように関節が白くなった。それが、村井の想像を絶する驚くべき事実の物語られる端緒だった。  ——島村夕子の明かした事実は村井を震撼させた。  村井は蒼白になり、肩を落とし、しばらくその肩を大きく上下させた。ずいぶんと長い沈黙ののちに、渋面を夕子に向け、 「率直にいって、いま聞かされた事実は私の想像をはるかに超えていました」  呻《うめ》くようにいい、また俯いて、否定するように何度かかぶりを振っていたが、 「このことを知っているのは」顔を上げて確認するようにいった、「私以外に誰がいますか?」 「誰もいません」島村夕子は眉根を寄せた、「警察はむろん、蓮見さんにも相談できなかった。だって、両さんにさえいままで黙っていたのですもの。でも、あの方にはずいぶん誤解を受けてしまいました……」  蓮見の姿が会場になかったのも肯《うなず》けた。 「平田が……。予想外でした。そこまでやる男だとは思わなかった」 「わたくしもです。彼にここまで見事に嵌《は》められるとは思いもよらなかった」  悔しそうにいった。 「あなたのことだから、むざむざと術中に落ちるはずはないとは思っていましたが、それにしても卑劣というか、子供まで巻き添えにしているのはどうにもがまんならない。なんとかして反撃に転じたいが……」 「いまのところはどうしようもありませんわ」  島村夕子は視線をテーブルの上の二枚の写真に落とした。  村井は写真を手に取って、 「まさか、合成じゃないだろうな」  遠視独特の遠ざけるような凝視で見入った。  一枚には山積みされた楽譜が写っている。いかにもむぞうさに積み重ねてあるが、それだけにこの写真に初めて対面したときの島村夕子の衝撃は察するに余りある。  もう一枚は、雪の野で遊んでいる少年の写真。金髪|碧眼《へきがん》の可愛いこどもだ。無邪気に笑っている。あまり写真を撮られることがないのだろうか、レンズを正視している視線には好奇の色もある。それが胸をつく。 「これはつまり、どちらも世界の至宝ともいうべき存在なわけだ」二枚を交互に見比べながらいった、「これじゃ、アキレスの踵《かかと》を両方とも奪われてしまったようなものです。あなたが手も足も出ないのも無理はない」 「スイスから帰国して半月もたたないうちにこの写真を受け取り、それからはほんとうに悪夢のような毎日でした」 「あまりにも手がこんでいるし、あまりにも芝居がかっている。狂気の沙汰だ」 「平田の真意がつかめません。お金が目的なのだったら、もう充分のはずです。あの楽譜だけで……」 「それほどの値打が?」 「値段のつけようのないものです。……でも、世の中にはなんにでも値段をつけて、お金に換えてしまう人もいますものね。サザビーやクリスティーズあたりに出たら途方もない額で落札するのではないかしら。そう、たとえばこのブローチ」  島村夕子は胸のブローチに触れながら、続けた。 「これなども値段の見当がつきません」 「それはコンサートのときの?」 「ええ」 「印象的でしたよ。ステージで星のように光って……。それもバロー氏の?」 「そうです。バロー先生がローゼンシュルフトの居城を買い取られたのは、第二次大戦前夜、先生の人気が最も高く、多忙な時代でした。城は当時ウィーンの新興成金の所有になっていましたが、第一次大戦までの城の持主であるハインツ・ゾネンコップフ伯爵の美術的価値の高い調度や食器類、アクセサリーなどの蒐集《しゆうしゆう》がそのまま残されていました。ゾネンコップフ伯爵は軍人でもあり、オーストリア‐ハンガリー航空隊の勇士でした。あの、『レッド・バロン』とよばれた撃墜王リヒトホーフェンのような存在だったそうです。伯爵のコレクションのこれは一つなのです」 「アール・ヌーヴォーですか?」 「青春様式《ユーゲント・シユテイール》です。ドレスデン工房派の作品ということですが、たいそう手の込んだものです」 「そういうものは他にも?」 「ガレのランプ、ヨーゼフ・ホフマンやリヒァルト・リーマーシュミットの装飾調度品、シュトックの絵画など、名品ぞろいです」 「それらもすべてあの男の手に?」 「たぶん」  村井は深い溜息とともにしばし無言に落ちた。 「あなたが日本に持ち帰ったのはそのブローチだけですか?」 「アクセサリー類を数点、楽譜数点、書簡類、わずかなものです」  溜息を村井は繰り返した。 「その蠍《さそり》のブローチですが、それを胸に飾ったのには何か特別の理由でもあるのですか?」 「別にありません」島村夕子は視線を落とし、長い睫を瞬《またた》かせていたが、 「お守りのつもりでした」  顔を上げ、村井に視線をかるく投げつけるようにして、短くいい添えた。  村井はふたたび沈黙に落ちていたが、 「あなたのこともおおいに心配です。このことであなたの名誉や将来に傷がついてはたまらない」 「わたくしのことはいいの。身のほどもわきまえず、オーケストラの指揮に乗り出した、それだけでわたくし自身、じゅうぶん傷ついていますから」島村夕子は自嘲的な口調でいった、「指揮はまだしも、わたくしはピアノを弾いてしまったのです。バロー先生のいないこの世でピアノを弾くなんて……。ほんとうに、とんでもない身のほどしらずをしてしまいました。そのことがいちばん辛い。たぶん日を追うほどにこのことをわたくしは悔やむでしょう」 「そこまで自分を責めることはないでしょう。あなたの選択は正当防衛とか緊急避難とかの類いです。少年の命と人類の遺産とがかかっているんです。誰でもあなたと同じことをしたでしょう」  いい終えないうちから、村井は自分の言葉が半ば見当違いであり、何の役にも立たないのを感じていた。島村夕子がもし自分の思うような会心の演奏をなし遂げていたら? この仮定が村井の胸のうちをかすめ、ふと異物を含んだような気分になった。  村井はそんな気分から逃れるように、 「いまいちばん気がかりなのは、誰かに事件の裏側を気づかれはしないかということです。そうなるとまずい」 「仕掛けはおそらく半分まで進行したのだと思われます。いつまで彼の指揮のもとで、この終わりの見えない難曲の、初見演奏を続けていかなければならないのか……」  島村夕子は嘆息をもらした。 「クッションをかぶせてみたり、抽斗《ひきだし》の中に入れてみたりしたけど、やはりうるさくて。あんまりいまいましいから、コードを抜いて息の根を止めてやったわ」  隣室から戻ってきた夕子は苦笑しながらいった。 「ここの住所と電話を知っているのは誰なんです?」 「わたくしと、両さんと、それに蓮見さん以外は……」 「あと、管理人と。いずれにしろマスコミに電話番号を知られているのは事実なんだ」 「電話番号は載せていないのに」 「NTTで登録原簿を閲覧する手があります。だから住所も知られている可能性がある。ということは、ここも時間の問題です」     4  文京区小日向の、窓から小石川植物園を望めるビルの一階にある東京管弦楽団事務所は、朝から電話が鳴り続け、報道関係の来訪もあいついでいた。音楽雑誌の記者や新聞の芸能や学芸担当の記者といったなじみの顔もあったが、大半は未知の連中で、取材というより「侵入」を思わせた。  出勤しているのはステージ・マネージャーの佐々木梓、楽団員の家族からの問い合わせの応対にかかりきりになっている広報マネージャーの藤井、男はこの二人で、あとは女子社員二名だが、傍若無人になだれこんできた取材陣に圧倒されてしまっていた。  名刺が次々に差し出される。週刊誌、新聞、音楽雑誌、テレビ局……。  初めは湯茶の接待をしていた女子事務員も、立錐《りつすい》の余地ない人込みの中で悲鳴を上げながら、頭上に盆を掲げてバレエの旋回を披露するに及んで、湯沸かし室に避難してしまった。  マスコミの機動力は警察よりも迅速《じんそく》且つ貪欲《どんよく》で、ここでの目的はたった一つ、犯人からの何らかの指示が来るのを待つことにあった。  マイク、携帯電話、テレビカメラなどを携えた連中は、口々に喋り交わし、指示を与え合い、機材を設置し、事務所は中継現場に早変わりしていた。いつのまにか、マンション前の舗道《ほどう》、裏手の狭い道路にも中継車が陣取っていた。  あっという間の出来事だった。 「テレビ全日本を点《つ》けてみてください」  事務員がいわれるままにテレビのスイッチを入れた。  ——今朝の『さわやかモーニングショー』は時間を延長して放送しております。番組の最初にご案内しましたように、これから「オーケストラ謎の消失事件」に関しまして現場からの中継をお送りいたします。最初は、昨夜東京管弦楽団が忽然《こつぜん》と消えてしまった演奏会場、横浜臨港会館前のようすです。現場にリポーターの早川さんが行っておりますので呼んでみましょう。  女のキャスターが早口に喋ったかと思うと、映像は横浜の山下公園に変わった。公孫樹並木の公園前通り、公園、さまざまな船舶を浮かべた港、氷川丸、マリンタワー、お決まりの風景が映し出されてゆく。  それに伴い、リポーターのナレーション。  ——こちら横浜、山下公園前からです。今朝の横浜は快晴、さて、わたしの立っておりますここは横浜臨港会館、ちょうど左手にミナト・ホテル、右手にシルクセンタービルを従えるかっこうで建っています。前の庭に噴水が涼しげな水を上げており、周囲に鳩が群れております。このおよそ犯罪や事件とは縁遠い場所を舞台に、昨夜おどろくべき大事件が発生しました。  リポーターはほぼ正確に昨夜の出来事を伝えていたが、佐々木にはあまりにも大仰な感じがした。  事務所に侵入してきた男たちの中から一人が、佐々木の前に立っていた。隣にどこかで見たような顔の女性をしたがえている。 「佐々木さん、こちらテレビ全日本のリポーター、永井です。あと、約十分後に中継現場がここに移ります。で、彼女のインタビューに答えるという形で番組を進めてゆきますが……」 「番組? ちょっと待ってください。ぼくがインタビューに答えるのですか」 「もちろんです。それで、カメラの位置が、あそこ、廊下になります。カメラは廊下から事務所内に入ってきますが、あなたは永井さんのマイクに向かって喋っていただければそれでよろしいですから、落ち着いて、ゆっくり、一語一語はっきりと……」  佐々木は気を呑まれていたが、やっとわれに帰った。 「なぜ、ぼくがあなたがたのインタビューに答えなければならないのです? どうしてあなたたちの番組制作に協力しなきゃならないんだ」 「あたりまえじゃないですか。オーケストラが演奏会場から消え、ゆくえは杳《よう》として知れない。まさに大事件です。金嬉老事件、あさま山荘事件、三菱銀行北畠支店の梅川事件、そういったテレビで実況された大事件に匹敵する、いわば昭和史の最後を飾るかもしれない、全国民必見の事件なのですよ。われわれはこの空前の事件を子細に、正確に報道しなければならない。当然、あなたはそれに協力しなきゃなりません」 「金嬉老事件、あさま山荘事件……。そ、そうは思えない」 「五十名のオーケストラ団員の生命がかかっているのですよ。そのオーケストラの事務局のあなたがなぜ知らん顔ができるのです? あなたはテレビカメラを通じて全国に呼びかけなくちゃならないでしょう。早く、団員を返してくれ、無事を祈っている、一刻も早く仲間を返してくれ、と」 「待ってください。まだ、誘拐事件と決まったわけじゃない。オーケストラの失踪については警察にも捜索願いを出してあります。しかし、まだ犯罪事件かどうかもわからない。それなのに、よくあなたがたは……」  佐々木はからからになった喉の奥からようやくのことで反論した。 「誰か、佐々木さんに水を持ってきて。よーし、本番七分前だ。永井さんのメークを点検。照明係、スタンバイOK?」  男は水を得た魚のようだった。  蓮見典子は研究室を出ると、かるく伸びをした。今日は土曜日なので、一週間の作業経過をパソコンに打ち込む仕事をしていたのだが、朝から調子が出ないのは寝不足のせいだろうか。起きた時から目が腫れぼったく、キーを打っているうちに眼の疲れがひどくなってきた。  目薬が切れていたので、作業の途中だったが購買部へ買いに行くことにした。  東都大学のいくつかの研究室でもバイオケミカル・ラボは、伝統と業績において抜きんでており、施設も独立した一棟を持っている。研究所から大学の購買部まではかなりあるが、裏門から街へ出て薬局へ行くよりは近い。  学舎へ渡り、廊下を行く途中、ロビーのテレビにふと視線を向け、おもわず立ち尽くした。  最初は画面いっぱいに映っている人物の顔に視線が奪われた。  それは、昨夜の佐々木という東京管弦楽団のマネージャーだった。  近づいてよく見ると、ニュース番組らしく、インタビューアーの質問に答えている。もちろん、昨夜の事件についてだった。  佐々木「オーケストラの世界というのは独特でして、旧弊な一面もありますが、東京管弦楽団は待遇面で他の在京のオーケストラよりはるかに条件がよいこともあるし、練習場なども完備している。アルバイトに関しても寛容です。欧米のオーケストラと比べるとどうか知りませんが、日本では最高の組織です。器楽奏者にとって東京管弦楽団の団員になるのは夢のようなことなんです。入団希望者は星の数ほどいます。だから、つまらない行動に出て、せっかくのポストを失うようなことをする団員がいるとは思えない」  ——ということは、やはり何者かの手によって拉致されたという見方を佐々木さんはなさっているわけですね。  佐々木「誰かが拉致したのだったら、目的は何でしょう。誘拐説のナンセンスなのは、もし身代金目的の営利誘拐だったらこの方法はあまりにも馬鹿げているということです。だいいち、五十名もの人間を誘拐するなんてあまりに不合理じゃないですか」  ——個人のレベルを超えた巨額の身代金を目的にしているのだ、という見方があるのですが。  佐々木「そんなお金は事務局にはありません。オーケストラ経営は赤字が常識なんです。それとも団員の家庭一軒一軒から徴収してまとめて払えとでもいうのですか? 楽器の長期月賦を抱えている団員はいても、まとまったお金を持っている者などいませんよ」  ——事務局とか家族というのではなく、東京管弦楽団のバックに控える伊原財団だったら多額の身代金の要求に応えることができるということなんです。  佐々木「伊原財団……」  佐々木は口ごもってしまった。ちょうど、このときだった。  周囲がにわかに騒がしくなった。  大声のやりとりの中に「脅迫状」という言葉が何度か繰り返された。  テレビの画面では、カメラがブレながら事務所の女事務員を捉えた。  女事務員は蒼白になって、震えていた。手に手紙を持って、茫然と立っている。  テレビ局の職員が声高にカメラに向かって指示を始め、佐々木はあっけにとられて立ち尽くした。  テレビ局員は奪い取るようにして女子事務員から手紙を取り上げると、怒号に近い声で仲間同士あわただしく応酬していたが、やがてリポーターがカメラに向かって切迫した声で喋りだした。 「たいへんなことが起こりました。予想はされたことでしたが、実にたいへんなことが起きてしまいました。ついいましがた、本当にたったいま、『オーケストラ友の会』と名乗る犯人からの手紙が届きました。繰り返します。ついいましがた、わたくしが楽団事務局マネージャーの佐々木さんにお話を伺っている間に、犯人からと思われる脅迫状が届きました。犯人側は『オーケストラ友の会』と名乗っています。内容ですが、これがその現物です。カメラさん、映してください。速達便です。宛名も、中身もワープロ打ちされていますが、ごく一般的な封筒に、これも普通のB5判のワープロ用紙が使われています。その内容はこうです。  オーケストラのメンバー五十名は『オーケストラ友の会』が預かっている。全員無事である。われわれは人質の生命の安全と引き換えに五億円を要求する。この要求に応じない場合、五十名の命の保証はしない。なお、団員を誘拐した証拠に、大塚駅のコインロッカーにピッコロ奏者所有のピッコロをケースごと入れておいた。金の受け渡しについては、また連絡する。なお、今後の連絡先は伊原芸術振興会の事務所とする。  以上が脅迫状の内容です。もう一度、繰り返します……」  典子の周囲はいつのまにか人でいっぱいになり、ざわめき、身動きできないほどになっていた。  典子は電話コーナーへ向かい、並木の名刺を取り出し、横浜地検の番号を回した。  並木検事は電話の主が最初誰だかわからなかった。蓮見典子だと気づいた時、典子も名乗っていなかったことに気づいたらしく、あわてて名を告げ、昨夜の食事の礼などをひどく慌てた調子でいい添えた。 「テレビ、仕事場だとご覧になれないのではありませんか」 「テレビが何か?」 「オーケストラの消失事件なんですけど、いまテレビのニュースショー番組が特集やってて、東京管弦楽団の事務所からの中継なんです」 「朝、新聞の番組案内で見ました。テレビ全日本でしょう、九時からの」 「そうです。いま偶然見てたのだけど、中継現場に犯人からの脅迫状が舞い込んだのです」 「脅迫状?」 「ええ、やはり身代金目的の営利誘拐事件でした。犯人は『オーケストラ友の会』と名乗っています」 「それはまた、人を食った名前だな。で、要求は?」 「五億円」 「五億? でも、いたずらということも考えられる。なにしろマスコミに公開されてるわけだから」 「いえ、それが犯人に間違いないんです。というのも、団員の持ち物である楽器、フルート、いやピッコロだったかしら、ピッコロですわ、それを大塚駅のコインロッカーに預けてある。それが証拠だというんです」  ピッコロ? たしか昨夜の演奏会でピッコロは登場しなかった筈だが。並木は不審に思ったが、すぐに得心した。ピッコロはプログラム後半の「運命」で、登場する。それも終楽章になってから、コントラファゴットやトロンボーンとともに演奏に加わり、低音と高音を増強する役目を担《にな》っている。  昨夜、ステージに姿を見せなかった団員がピッコロ一人、コントラファゴット一人、トロンボーン三人、計五人いたわけだ。たしか、「コリオラン」では総勢四十五名だったから、団員の総数は五十名ということになる。「コリオラン序曲」の演奏後に編成上減員された八名、そして「運命」演奏のために控えていた五名、計十三名も消えているわけだが、消失は「告別」をメインに、前後二回もしくは三回に分けて行われたとも考えられる。 「なるほど……。よく知らせてくれました。実は重大な疑問に突き当たったんです。職場の同僚と事件について話をしているうち、何かひどく腑に落ちない気分になって、ずっと考えていたのですが、ついさっき思い当たった。それをいまから横浜臨港会館に確認してみます。事件を解く重要な鍵になるかもしれない」 「…………」 「聞こえてますか?」 「ええ。なんだか身震いしてきちゃって」 「東京と横浜だとお昼に会いましょうというわけにはいかないから、夜会いませんか。ぼくが東京へ出て行きましょう。それから、テレビのことですが、今日のニュース番組関係はすべてビデオ録画を予約してますから、録画にざっと目を通してから出ることにします」 「じゃ、時間と場所」 「蓮見さんは仕事が終わるのは何時です?」 「五時過ぎです」 「研究所は祐天寺《ゆうてんじ》でしたね、自宅が奥沢《おくさわ》……、近いですね。ということは、一度帰宅なさったほうがいいかな。そうだな、七時半に大井町の駅前にいてください」 「JRですか、東急?」 「JRの大井町駅です。できるだけ定刻に着くようにします」  事件が前代未聞の大誘拐事件に発展したところで、別段蓮見典子と会う理由にはならなかったが、自然にそうなった。  電話を切ってから何となくそのことがおかしかった。 「今夜はデートというわけですね」  酒井事務官が微笑を泛べた。  電話の会話で、検事は酒井のことを「同僚」と表現した。検察事務官は同僚ではない。部下である。年上の部下に並木はそんなところで気を使っていた。酒井も察して、このコンビネーションは何かとうまくいっていた。 「そのようです」  いいながら、並木検事は送受器を取った。再度、横浜臨港会館へ電話をするために。  マスコミ対策上、島村夕子はしばらくはホテル住まいをすることとし、村井は大井町のホテルを予約し、早いチェックインをすることにした。  表札のない島村家の玄関から島村夕子と村井両平はひっそりと出た。島村夕子が先に立って近所の駐車場へ向かった。  家には庭はあっても駐車はできないので、そこに二台分のスペースを借りていた。  シトロエンとボルボが並んでいる。島村夕子はボルボのドアに手をかけた。  車に乗り込み、表通りに出ると、村井が安全ベルトを装着しながら訊く。 「この車はいつから乗っているんです?」 「つい最近。伊原がデビューのお祝いだって、寄越《よこ》したの。当日聴きに行けないが、成功を祈っている……、そんなメッセージといっしょに。シトロエンは自分で買った車だし、気に入っているのだけど、あんなブリキのおもちゃみたいな車は危ないからこれに乗り換えろって」 「あの妙な車を危ないといったのは私です」 「なんだ、やはり両さんの入れ知恵なのか。でも、これなかなかいいわ」 「なんていう車なんです?」 「ボルボ七四〇」 「いや、これだと安心して助手席に乗っていられますよ。おや、電話もついてますね。さっそくですが、使わせてください」  村井は四谷の伊原芸術振興会の番号をプッシュした。 「村井だが、変わったことはないかね?」  落ち着いた声で話し始めたが、 「脅迫?」  とたんに声音が変わり、緊迫した応答が交わされた。  身代金、小日向の事務所、テレビ中継、五億、四谷署……、車内にしばらく短い言葉が炸裂した。 「あわてないで、順序だてていいなさい。楽団事務所にテレビ中継が? それは何時頃だね」  村井は念を押すように相手の言葉を反復しながら通話を続ける。 「捜査本部が四谷署に置かれた? 特殊捜査班が来る? もう来てる……? わかった、すぐにそちらに行く」  電話を切った村井は、唇を引き結んで、緊張を満面に湛《たた》えていた。 「何があったんです?」 「小日向の楽団事務所に脅迫状が届いたそうです。ちょうどテレビ局が中継をしていた最中で、そのまま放送に流れたということです。犯人は『オーケストラ友の会』と名乗り、五億円を要求しています」 「信じられない」島村夕子は唇を噛み、眉間《みけん》に皺をきざんだ、「あまりに芝居がかっているわ。本気で五億円を狙っているのかしら」 「行きがけの駄賃ということかもしれませんね。しかし、やるとすれば速攻に転じるのも当然でしょう。どこに隠しているのかわかりませんが、五十名もの人間を人目につかないように確保するのは至難の業です」 「四谷署って聞こえましたけど、小日向の楽団事務所なら大塚署の管轄《かんかつ》じゃないの」 「犯人側の申し出があって、今後の連絡は四谷の伊原財団事務所を使うそうです。……事務所は私をずいぶん探していたらしい。電話に出たのも秘書の女の子なんだけど、半泣きになってた」 「じゃ、このまま四谷へ向かいましょう。とばしますわ」 「いや、中原街道でおろしてください。タクシーを拾います。それから夕子さんはこのままホテル入りしてください。テレビを見て、状況をつかんでおくこと。連絡は私の方からも適宜にしますが、もしこちらへ電話する場合は偽名を使ってください」 「名前、どうしましょう」 「そうだな」村井はしばらく考えていたが、微笑を泛べて「坂本和代にしてください」 「それは誰なんです?」 「私の姪です」  駅前に出る。遮断機が降りていた。島村夕子は駅になにげなく目を向けて、おもわず息をのんだ。  蓮見さやかは自由が丘駅で大井町線に乗り換えた。いつもここで乗り換えて九品仏《くほんぶつ》の自宅へ向かうところだが、逆方向の大井町行きに乗るのが何かなつかしい気がした。去年の暮れ、生涯の遺言ともいえる日本公演で燃え尽きたバローは、周囲の危惧したとおり、宿痾《しゆくあ》の白血病の急性増悪によって薨《たお》れ、島村夕子は年が明けると遺骨を抱いてスイスに発ったが、帰国後すぐにも入居できるよう雪谷の長くうちすてられた家を村井と協力して整備した。東急大井町線に乗り換えるのはその時以来である。  旗の台で池上線に乗り換えて、雪谷をめざす。  ここらあたりは沿線に高いビルもなく、ほとんどが一戸建て住宅である。  駿河台の会社を出てからかなり時間が経っているが、蓮見は雪が谷大塚駅に着くと、洗面所で身なりを確認した。ことさらゆっくり構えている自分を意識する。島村夕子と会うのは恋人とデートするようなわけにはいかなかった。いつも緊張を強いられた。改札を出る。駅前は踏切になっている。遮断機が降りていた。  外車が遮断機の前に停止しているのをちらりと横目で見て、雪の結晶をデザインした駅前の路面装飾を、ほんの少しなつかしく思いながら商店街に向かった。  商店街はしばらく歩くと尽き、やがてゆるい坂道になる。静かな住宅街を蓮見は歩いていった。ふと、ピアノの音を聴いたような気がした。村井と三人で入居祝いのようなことをした日のことがよみがえった。  帰途、駅まで島村夕子は送ってくれたが、夜更けの静けさの中におもいのほか大きな音でもれ聞こえてきたバイエルに、三人が申し合わせたように歩みを止めたこと、それがおかしくて笑い交わしていると、けたたましく犬に吠えたてられ、あわてて駆け出したこと、まっさきに駆け出した蓮見を、さもおかしくてたまらないというように夕子がいつまでも笑っていたこと……、遠い昔のことのような気がした。  坂の上に清明学園の幼稚園が見えてきた。夕子の家はちょうどその前である。こどもたちの歓声が聞こえてくる。蓮見はちょっと深呼吸のようなことをした。  坂をほぼ上りつめると左が幼稚園、道路をへだてて島村夕子宅である。園児がにぎやかな声をたてながら遊んでいる。  腰ほどの高さの門扉《もんぴ》は施錠されていなかった。ささやかな規模の前庭を数歩で横切り、玄関のチャイムを押した。  何度鳴らしても応答はなかった。  踵を返すとき、心の片隅に安堵《あんど》のようなものがかすめるのを感じたが、すぐに島村夕子のゆくえが気懸《きが》かりになった。マスコミの攻勢を避けるためだろうが、それにしてもどこへ行ったというのか。やはり、何の連絡もくれないことが蓮見の心をえぐった。  念のため、駐車場をのぞいてみた。シトロエンがいかにも無聊《ぶりよう》をかこつように駐まっていた。  村井はタクシーの運転手に行先を指示すると、シートに躯を沈めた。  昨夜の夕子の告白を思い返した。視線を斜めに落とし、膝の上で関節が白くなるほどこぶしを握りしめていた島村夕子がよみがえった。  夕子があかした事実は、村井にとってオーケストラ消失を上回るショックであった。  島村夕子がスイスから帰国して日も浅い二月の中旬、後を追うようにスイスから差出し人不明の一通の速達が届いた。開封してみると手紙はなく、ポラロイド判の写真が二枚。夕子はその二枚の写真を一瞥した瞬間、衝撃のあまりその場に昏倒《こんとう》しかけた。  写真の一枚は楽譜を撮影したものだ。楽譜は床の上にやや乱雑に数十冊積み重ねたものを俯瞰《ふかん》で撮っている。もう一枚はスイス高地の美しい風光の中で微笑を浮かべた健康そうな少年の写真である。いずれも島村夕子以外の者にとっては何の変哲もないスナップにすぎない。  しかし、少年はジェラール・バローが最晩年、おしみない薫陶《くんとう》を傾け、巨匠をして、 「この少年は将来、世界楽壇の宝となるだろう。そして人々はわれわれの名前など思い出すこともあるまい」  と長嘆息せしめ、島村夕子をして、 「誰もこの子の足もとにも及ばない。全身音楽のかたまり」  と賛嘆させた、ローゼンシュルフトの天才少年、フリッツ・ローゼンブルクだ。  また、写っている楽譜は夕子の言葉を借りれば「人類の至宝」とも「かけがえのない遺産」ともいうべき、モーツァルト、ベートーヴェン、ワーグナーといった大作曲家の自筆楽譜なのであった。作曲家が直接しるした楽譜だけでなく、それを複写した筆写楽譜、それらから印刷された初期印刷楽譜も含まれている。  自筆楽譜、筆写楽譜、初期印刷楽譜には単純な筆写ミス、印刷ミスなどから生じる異同が見られる。それゆえに学問的な価値ははかりしれないものがあるという。  もちろん自筆楽譜は蒐集の対象としても金銭的な価値がきわめて高く、大戦後の西ドイツ、イギリス、アメリカ、スイスには自筆楽譜市場が存在し、好事家の垂涎《すいぜん》の的となってきた。一九七九年七月、モーツァルトの『ハフナー交響曲』が落札したときの価格は四十万ポンド、邦貨にして約一億円と噂されている。  つまり、人類の遺産であり、同時に途方もなく高額な商品でもあるわけだ。  写真に写っている楽譜はまぎれもなくそういった大作曲家の手稿楽譜である。そして、その所有者はジェラール・バロー、……しかしそれはついこのあいだまではの話であって、いまはバローの遺言書に明記されている一人の女性、ほかならぬ島村夕子の所有に属するものなのだった。 「スイスからの帰国が予定より遅れたのには理由がありました」いつもの少しかすれた声に悲愴味を帯びた調子で夕子は説明した、「先生が日本でしたためられた遺言書にしたがって、先生の遺骨をフランクフルトの先生のお母さまのお墓の隣に埋葬すること、それがあの旅行の最大の目的でしたが、同時にローゼンシュルフトの居館に残された遺品の整理をすることも重大な仕事でした。その日、ローゼンシュルフトは人気もなく、空には雲が低く垂れこめていました」  バローの城の前に島村夕子は足を止め、しばしこの主人を失った館を仰ぎ見た。 「バロー先生のいない城を訪ねるのは初めてでした。何かわけもなく不安で、長いこと立ちつくしていました」  夕闇の中に影も濃く聳《そび》える城は、孤影悄然とも陰鬱とも見えた。島村夕子は、歴史のかなたの死者たちの呻きとも聴こえる、怪鳥《けちよう》の叫びのような声を幻聴し、はげしく身震いした。そうして、にわかに襲ってきた悪寒をふりきるように歩み出した。  ダイアローグ   ——テレビで見たが、なんてことをしてくれたんだ。  ——五億円のことですか。  ——犯罪じゃないか。しかも凶悪犯罪だ。約束が違う。もしものことがあればステラは破滅だ。  ——もしものことがあれば破滅するのはあたりまえですよ。それだけの覚悟は決めてらっしゃったのではなかったのですか?  ——身代金目的の誘拐ともなれば事情は別だ。  ——五億円のことは知りません。私じゃない。  ——なんだって? じゃ、誰がやったというんだ。  ——消去法でいけば一人しかいない。馬鹿なやつです。しかし心配はいらない。手は打っています。経営用語を使うなら、コンティンジェンシー・プランというやつです。  ——ほんとうにきみじゃないのか?  ——五億円は私にとっては端金《はしたがね》なんです。私の目的とは関係ない。私が握っているのはもうひとつゼロが多いのです。しかしこれはあなたがたには関係のない話です。美に関する経済学の分野ですからね。  ——じゃ、きみの目的は何なのだ?  ——私は人生の美酒を飲み干してみたいのです。それだけです。  ——ともかくいまからなら間に合う。手を引きたい。  ——なにをいまさら。もう手遅れです。  ——……助けてくれ。たしかに、もう間に合わない。準備は完了してるんだ。膨大な金を投資した。新しいポスターまで開発した。新宿駅のポスター掲示がどれくらいの費用がかかるか知っているか? これを没にすれば損失は致命的な額にのぼる。  ——いい言葉があります。一蓮託生。どうです、いい響きでしょう? ここまで来たらジタバタしたって始まらない。とにかく身代金の要求については手を打っているから心配いりません。私が東京にいるのだったら、すぐ解決なんだが、なにしろオーケストラのお守りという仕事をしてますからね。  ——それでは、予定通りでいいのだな。  ——そちらのプログラムに従ってやってください。幸運をお祈りします。     *     ——心配いらないと彼はいっているんだが。  ——私は覚悟を決めています。身代金誘拐だろうが、大量殺人だろうが、もうこうなったらどうでもいい。どかんと花火を打ち上げる。それも悪くない。  ——おたくはそれでもいいかもしれんが、こちらは特攻隊じゃない。脱出装置も安全装置も必要なんだ。  ——私は最初からT計画には危険を感じていました。社長とはもう話をつけてあります。心中しましょうってね。  ——悲壮だな。  ——ステラはそこまで追いつめられていないはずです。それなのにあなたはこの計画に乗った。あなたのスタンドプレイだ。あなたにしてもこれだけのことをやったんだ。失敗しても悔いはないでしょう。  ——そういう気持ちもないことはない。  ——やるしかありませんな。いずれにしても予定通り進行します。足並を揃えないと効果は半減します。逃げないでくださいよ。逃げちゃおしまいです。  伊原芸術振興会の事務所は、四谷駅の西側、文化放送の手前から赤坂方向に三百メートルばかり行ったところに、伊原グループ傘下の「伊原経済研究所」と併設され、三階建てのビルの一階にあった。  いつもとちがってこのビル周辺は殷賑《いんしん》をきわめていた。放送局の中継車や、報道関係の車が取り巻き、玄関前には四谷署のパトカーや警視庁の公用車が陣取って、大勢の人間があわただしく動いている。  その部屋は二十畳ほどの広さで、奥にはよく磨かれたマホガニーのデスク、中央に六人掛けの応接セット、壁は二面が書類戸棚になっており、うち一面にはB&O社の洒落たオーディオセットが組み込んであり、一面はいかにも凝ったつくりのクロス貼りで、放胆なタッチの書が飾ってある。窓のある壁面はブラインドが下ろされていた。  村井にとって毎日のように過ごす場所だが、あっというまにようすを変えてしまった。黒板、会議用の長机、パイプ椅子が搬入され、みるまに部屋を殺風景にした。とりわけ、両袖の大きな机の上の電話についいま仕掛けられたばかりの傍聴、録音、逆探知装置が、統一されたインテリアをぶちこわしにしていた。 「この字は有名な人のものですか」  特殊捜査班が設置作業を終えると、私服刑事は壁の額を指さして村井に訊ねた。 「中川|一政《かずまさ》です。画家ですが、書もなかなかいい」 「ほう、中川一政」  刑事は村井に背を向けたまま賛嘆の声をあげた。 「お好きですか?」 「いや、よくわからない。本物なんでしょう?」  話にならなかった。  刑事は書に見入っている。  村井はいらだって、机の煙草を取った。  刑事は振り返ると、村井の前にやってきて、 「警視庁捜査一課の伊東です。捜査本部を四谷署に置き、四谷署と合同捜査を行います。どうかよろしく」 「伊原芸術振興会の村井両平と申します。よろしく」  村井は煙草を元に戻すと、名刺を取り出し、渡した。  刑事の出した名刺では、伊東は警部補だった。  ソファに掛けていた三人の男が立ち上がって、村井の前に来た。  それぞれ名乗る。一人は四谷署刑事課谷警部とその部下の沢田刑事。警視庁からは伊東の部下である今井刑事と逆探係の山口刑事。 「この五人のメンバーで、対応します。事件が長引けばメンバーの交代もありえますが、そうはなりたくないものです」  伊東警部補がいった。 「連絡が必ずしも電話とは限らないでしょう」  村井がいう。 「なかなかするどいですね」伊東は笑いながら、「もちろん郵便物の類もすべてわれわれに見せていただきます。それから、電話の応対に婦人警官を一人、ここに常駐させます。かかってくる電話はすべて彼女が受けます。犯人からの電話であれば、彼女はわれわれに合図をする。できるだけ時間を稼がなければなりませんから、内線を一度経由させて、おもむろにあなたが出る、そういうことにしましょう」 「こういうことはテレビか映画の世界だと思っていた」 「ほんとうですね。私もそう思っていた」  伊東警部補は口の端で笑いながら、再び壁の書へ視線を向けた。 「私もそうですよ。誘拐事件を担当するのは初めてです」 「それはまた……」  村井は声に出して笑ったが、なんとなく厭な感じだった。 「私は一昨年まで二課で企業犯罪の捜査を主としてやっていました」伊東警部補は口調を改めていった、「企業というものがどんなに汚いものかもずいぶん見てきました。……最初からこの事件は気に入らない。犯人は衆人環視の中で犯罪を決行し、マスコミ注視の中で第一回のコンタクトを取ってきた。『オーケストラ友の会』などとふざけた名前でね。愉快犯とか、劇場型犯罪というのは私は好かんのですよ」伊東警部補は見透かすような厭な目付きをして続けた、「五億円の要求からしてリアリティに欠ける。身代金めあての誘拐事件において犯人側にとって最も危険で困難な局面がひとつだけあります。なんだと思われます?」 「……?」 「金の受け渡しです。犯人にとって不可避の一大危機です。五億円もの大金の受け取り、まず、これが最初から不可能に近い。ケース五個に収納するとして、一ケース一億円、一万円札が一万枚、どれだけの重さになると思われます? ざっと二、三十キロです。宅配便ででも送りますか。……犯人は別のところで動いているのではないか。率直にいいますと、裏取引が行われる可能性は大いにあると考えなきゃならない」 「裏取引?」  村井は思わず声を出した。  そうして、この警部補の奥歯にものの挟まったような感触の意味が読めた気がした。しかし、それは見当違いというものだ。 「これはあくまで私の妄想でしてね、聞き流してください。犯人側は水面上と水面下の二段構えで、事を運んでいるのではないか。とすれば、巨大な伊原グループをわれわれが監視できるわけもない。われわれもマスコミも、国民の誰もが知らないうちに取引が成立するのではないか。そんなことを考えていますとね、なんだか空しくなりましてね」 「つまり、『かい人21面相』のような事件を想定されているわけですか?」 「まあね。でも『かい人21面相』じゃないでしょうな、この事件《やま》は」  おそれるには足らないが、まちがいなく、警察も敵の一角なのだった。  十一時三十分  「一ヵ月前、君は何をしていた?」  青木が美江の耳元に囁《ささや》いた。  オーストラリアへ向かうボーイング七四七機のエコノミークラス、この新婚夫婦は妻の機嫌がいささか悪い。無理もなかった。昨夜、横浜港をのぞむミナト・ホテルのスイート・ルームでの、豪華でロマンチックな初夜の夢を新郎の突然のギックリ腰でだいなしにされたのだから。  よりにもよって花嫁をベッドに運ぶ途中に腰を痛める新郎がいるだろうか。世の中広いから、なかにはそんな間抜けもいるかもしれない。しかし、しかしだ。あまつさえ、可愛い妻を腕から取り落とし、あげくは自分の鼻柱をベッドにぶつけて鼻血を出すなんて夫があるだろうか。  その結果、ゆうべはボーイスカウトのキャンプみたいな、何事もない一夜に終わった。 「一ヵ月前君は……、なんだヘッドフォンを付けてるのか」  新郎は�カサブランカ�のハンフリー・ボガートの台詞《せりふ》を気取ってみたのだが、それが失敗に終わったことを知らされた。 「バーグマンみたいに歯にブリッジはしていなかったわ」  通じていた。この快適な当意即妙さよ。やはりフィーリングは合うのだ。だからこそ、出会いから一ヵ月足らずの電撃結婚となったわけだが。  しかし、豊崎美江が(いや昨日から青木美江だが)、怒ったように鼻翼をふくらませているのを認めて、青木はまずい台詞を吐いてしまったことに気づいた。  美江は美しい顔立ちだが、欠点は歯だ。少し外に出たがっている歯並びなのだ。  外人は八重歯や出っ歯・反っ歯の類いをことのほか嫌うという。八重歯など、日本では可憐さの代名詞みたいになっているが、ヨーロッパでは「ドラキュラの歯」だか「悪魔の歯」だかといって忌み嫌われているそうだ。  青木は少し心配になってきた。美江は日本では標準以上、充分に美人の部類に属する。しかし、いま向かっているのはオーストラリアなのだ。ひょっとして自分は醜い妻を連れ歩く、物好きな男だと思われはしないだろうか。 「ぼ、ぼくはピアノの新素材の鍵盤の名前を考えていたよ」  まずい。鍵盤から歯という連想を誘いはしないだろうか。いい加減で、歯から逃れなくては。 「きみはきっと重いバニティケースを携げて、チェーン店回りをやってたんだろうな」  ばかばかしい。一月前、わたしは上司によびだされて青木馨という男の写真と身上書を見せられ、因果を含められていたんだ。 「ママ、歯ブラシ忘れたわ。スヌーピーの歯ブラシ、忘れてきちゃった」  後ろの席で女の子が大声をあげた。 「歯ブラシはオーストラリアにもあるのよ」 「スヌーピーのもあるの?」 「さあ、コアラじゃない」 「やだ。スヌーピーの歯ブラシじゃなきゃ、やだ」  青木は一つ咳払いをした。  どうやらオーストラリア第一夜は歯に襲われる夢を見ることになるかもしれない。  昨夜の鼻血といい、幸先の悪い新婚旅行だ。どうか、墜落だけはしないでくれよ。 「コアラでがまんしな!」  美江が銀幕のローレン・バコールみたいな、抑えた、しかしドスが効いて、よくとおる声でいい放った。  おもわず、青木は頸がすくんだ。  腰にまた激痛が走る。 [#改ページ]   プロローグII  (秘)アイボリックスに関する資料 〔バイオポリエステル〕 [#1字下げ] 細菌・ラン藻類は細胞内に有機酸の一種、3—水酸化酪酸(3—HB)を多数結合したポリエステルをエネルギー貯蔵物として蓄えている。このポリエステルは脆《もろ》く、使えないが、餌《えさ》に工夫し、特定の位置に水酸基が付いている有機物を与えると3—HBと4—HBが多数結合(共重合)したポリエステルが細胞内で製造される。この共重合ポリエステルは3—HBと4—HBの組成比を変えることで、ゴムのような軟度からプラスチックのような硬度まで自由に作ることができる。微生物の酵素で分解されるため、プラスチック公害の解決も見込まれる。生体適合性もあり、利用範囲は各種繊維、フィルム、縫合糸、外科用綿、骨折固定材など広い。 〔バイオポリエステルと人工象牙〕 [#1字下げ] バイオポリエステルの利用として人工象牙があげられるが、当社は昭和六十年九月より人工象牙の開発に取り組んできた。基礎研究および実用化研究を各研究所、大学等に委託していたものであるが、昨年十二月、東都大学大塚研究室において実用化に成功した。本年早々、商品化に向けて試作品の製造を急ピッチで進めてきたが、三月末、当社開発部において別添見本のとおり、人工象牙(商品名アイボリックス)の製品化に成功したものである。 〔アイボリックスの特長〕 [#1字下げ]㈰感触があたたかい ㈪爪と同等の硬度 ㈫吸水性 ㈬摩擦係数が本象牙に近い ㈭吸音性に富み、(三五〇〇ヘルツ以下の音を吸音する)爪ノイズが出ない ㈮帯電性が少ない ㈯耐久性に富む ㉀汚れに強い 〔アイボリックス、本象牙、アクリルの特性比較〕  硬度特性   アイボリックス 鉛筆硬度F〜H           ロックウェル硬度一一一   本象牙     鉛筆硬度F〜H           ロックウェル硬度一〇八   アクリル    鉛筆硬度二H〜三H           ロックウェル硬度一二四  静摩擦係数(対セーム皮)   アイボリックス 〇・六六(象牙に近い感触を持つ)   本象牙     〇・六七   アクリル    〇・六二(象牙とはほど遠い)  吸水率(%)   アイボリックス 一一・三   本象牙     一三・七   アクリル     〇  経年変化   アイボリックス 淡黄変   本象牙     黄変   アクリル    微変  以上の通り、アイボリックスは本象牙にきわめて近い性質を有し、生産ペースが確定すれば本象牙よりも廉価(別添資料1参照)に生産できる。絶滅のおそれのある野生生物の国際商取引に関する国際条約「ワシントン条約」に対する各国の関心と理解が高まっているが、近年規制は強まる一方で、象牙の輸入はしだいに困難になりつつあり、将来的に供給はストップ(別添資料2)することも考えられる。  通常のアクリル鍵盤は家庭用ピアノには使用されているが、絶対的に象牙鍵盤が用いられてきた高級グランドピアノにこれを使用することは問題があり、ユーザーの理解は得難いと思われる。しかしながら、在庫の本象牙には限りがあり、試算によれば向こう五年間で底をつく(別添資料3)ことが予測される。このような状況に加え、羽山楽器においても人工象牙の試作研究が進んでいるとの情報も得ている(別添資料4)。このことから、当社においてもアイボリックスの導入は急務である。  コンサートピアノだけでなく、家庭用ピアノ(グランド、セミグランド、アップライト)にもアイボリックス鍵盤を積極的に導入することによって、羽山楽器との差別化に成功すれば、売上の向上に寄与するところ大なるものがあると考えられる(別添資料5)。  特筆すべきは、戦略的にこれを拡大利用し、人工象牙の早期導入に価値を賦与し、自然環境の保護、動物愛護等への貢献をイメージ化することで、当社の企業イメージの飛躍的向上を図ることも大いに可能ではないかと考える(別添資料6)。 「立派な企画書ですね。資料の6ですが、なかなかよくできてる。説得力がある。私が書いた原稿が見違えるようになってます。文才があるんですね」 「茶化すね」 「いや、ほんとうにそう思って。これだったら、頭の固い上層部も食指を動かすでしょう?」 「動かしたよ」 「そいつはいい。おめでとうございます」 「ステラとの交渉も始まった。向こうも乗り気だ。この奇抜な異業種提携も早晩実現することになるだろう」 「なかなかすばやいですね」 「いままでが遅すぎたのだ。一事が万事ね」 「乾杯しますか」 「それはまだ先のことだ。問題は彼女だ。おたくにはまかせたくない。おたくの計画は犯罪だ。まずは正攻法で交渉してみる」 「それは無駄だな」 「どうして?」 「ハヤマが先刻断られている」 「ハヤマが?」 「それだから駄目なんだ。そんな情報さえつかんでない。まったくなさけなくなりますね」 「彼女がハヤマを断ったのだったら、うちも無理、ということか……」 「そういうことです。だから、私にまかせるしかない。ところで話はかわりますが、十五年前、あなたは何をしていました?」 「十五年前?」 「一九七二年、昭和四十七年です。イカワに勤めていたのですか?」 「四十七年? まだ平の社員だった。開発部にいたよ」 「私はまだ学生だった。あの年、二月二日にグアム島から元日本兵が帰ってきた。一躍マスコミの寵児《ちようじ》となりましたが、昭和四十七年二月二日、ちょうど私の誕生日だったから、憶えているんです。私がいいたいのは、元日本兵のことじゃない。ちょっと、戦後史の復習をしてもらいたくてね。この年の二月、日本中を震撼させた大事件が起きましたが、憶えておいでですか?」 「その大事件とは何だね?」 「二月十九日、逃走中十四人の同志をリンチ殺人した連合赤軍坂東国男以下五人が、軽井沢の山荘にたてこもった」 「あれか……」 「籠城《ろうじよう》は二十八日までの十日間に及び、テレビは連日機動隊と連合赤軍との攻防戦の実況放送を続けた。特に、警備本部が最後通告をし、クレーン車が鉄球で山荘の破壊作業を始めた二十八日は月曜日でしたが、朝から晩まで日本中の目はテレビに釘づけとなった。私もあなたもその一人というわけです。民放までがコマーシャル抜きで現場中継を続けた。視聴率は空前絶後。最高のドラマ、史上空前の人気番組でした。しかし、あれはあなたにとって別の意味を持つ事件でもあったはずです」 「なんのことだ?」 「テレビはカラー放送で、当時、カラーテレビはほぼ完全に普及していた。ところが、私の記憶では白黒の映像なんです。雪の白さと機動隊の黒い制服だけが記憶に残っている。雪の斜面に建つ山荘も灰色。灰色の山荘、そう、『あさま山荘』です。もう誰も憶えていないでしょうね、『あさま山荘』が井川楽器の保養所だったということは。人質にとられ、二百十九時間にわたって監禁された気の毒な管理人の妻のことも、人はみな忘れています。彼女の救出後の第一声が、『早く犬と遊びたい』というすこぶるナイーブなせりふだったことも、人はもう憶えていませんよ」 「何がいいたいんだ?」 「象徴的じゃありませんか。あれがハヤマの保養所ではなく、井川楽器の保養所だったということがね。井川楽器の名前は連日のようにテレビで連呼され、新聞に書かれた。これを単純に広告宣伝費に換算すると、イカワの資本からすれば天文学的数字になるでしょう。イカワの名は全国に知れわたったが、企業としてのイメージははかりしれない損害をこうむった」 「運が悪かったんだ」 「運は実力のうちといいますよ。あの事件の怨念《おんねん》はいまだに井川楽器に取り憑いている。永田洋子や坂東のやった血で血を洗う『総括』という名のリンチ、説得と称して前線に出て行って撃ち殺された民間人、死んだ二人の機動隊員、……いまわしい怨霊がイカワにはいまだに取り憑いているんですよ」 「そんなことはない」 「いいですか、今度の計画は事件以来十五年を閲《けみ》して行われる悪魔|祓《ばら》いなんです」 「そんなばかな!」 「井川楽器の悪魔祓いなんだ」 「……一晩、考えさせてほしい」 「けっこうです。でも、チャンスはしっかり掴むものですよ」 [#改ページ]    象とオーケストラ     1  並木検事がいましも退庁しようとするところへ、電話がかかってきた。電話の主は、矢部という東京地検に奉職する並木の後輩検事だった。  相談があるから、今夜横浜の並木の自宅を訪ねてもいいかという。声に著しく生彩を欠いているので、並木は何か変わったことでも起きたのかと質《ただ》してみた。  矢部の応答は始めは要領を得なかったが、退職を決心したので今後の身のふりかたについて相談に乗って欲しいというのが結論のようだった。  並木はまたかと思った。矢部に限らず、一般刑事事件の担当検事に士気の沮喪《そそう》が蔓延《まんえん》し、去年あたりからまるで伝染病のように若い検事の退職があいついでいた。検事の任官志望者の減少傾向も加わって、人材の確保と育成が検察内部で深刻な問題になっている。  捜査の第一線に立つのは警察であり、刑事部の検事はいわば警察の後始末をする裏方とも黒子《くろご》ともいえる。法的に警察を指揮する権限がありながら、現実には現場の海千山千の古参警察官に若手検事はどうしても遠慮がちにならざるを得ない。しかも検事はつねに上司の統制の下に行動しなければならない。検察官独立の原則といっても、それはたてまえであり、いうならば画餅《がべい》である。万事、上司の裁可を仰がなければならない。そのため警察側としたら、出前迅速というわけにはいかない担当検事はいたずらに迂遠な存在であったり、煙たかったりで、ともすれば頭越しに事を運ぼうとする傾向がある。  こんなことから、欲求不満や屈辱を覚える若い検事が多く、自嘲的な気分が嵩《こう》じてアルコール依存症になり、正常な勤務ができなくなって退職した例さえあった。  並木にいわせれば、最近の若い検事が仕事と夢を混同しているからということになる。横浜地検でもこの問題は何度か論じられてきた。——統制色をなくし、検察内部の空気をもっと闊達《かつたつ》にすべきだ。——現場検事の権限をもっと尊重すべきである。——新世代検事の価値観や心情の変化に原因があるのではないか。  しかし、中堅検事である並木の主張はつねに簡明であった。すなわち、いやな者は辞めればよい——。  とはいえ、電話の向こうで意気悄沈している者に対して本音をいうわけにもいかなかった。 「もう少し待ってみたほうがいいんじゃないか。辞めるのはいつだってできる。これはまだ情報の段階だが、事態の深刻化をみかねて、近く首脳部が額を集めてこの問題について協議するらしい」 「いつごろですか?」 「来月か、再来月か、とにかくそれまで待ってみろよ」 「…………」 「おれの友人にもヤメ検がいるが、弁護士登録をしたものの、法律事務所を開く資金がなくて、いまはブラブラしている。世の中、なかなか思うようにいかない」 「はあ……」  矢部の応答はあいかわらず不鮮明だった。 「いずれにしても、今夜は都合がわるいんだ。ちょっと人に会わなければならない」  電話を切ってからも後味の悪いものが残った。  しかし、こだわっていてもしかたがない。並木検事は庁舎を出ると、駐車場へ向かった。  代官坂の自宅へ戻り、ビデオの録画を早送りや倍速再生を用いてざっと確認してみた。昨夜のオーケストラ消失に関するもの、現場の表情、関係者のインタビュー、そして「オーケストラ友の会」と名乗る犯人から届いた脅迫状に関するもの、犯人側が犯行の証明として指摘した大塚駅コインロッカーのピッコロの確認に関するもの、だいたいそういった内容だった。  それにおさだまりの識者の意見や推理というものが加わる。  並木の知らない、クラシック好きの推理作家だという宇神某などは、 「犯人は指揮者に憧れる無類の音楽マニアで、団員をどこかへ監禁し、自らの手でオーケストラを指揮しているのかもしれない。あるいは不遇の作曲家が自作の初演ができないためにやったことではないか?」  などという噴飯ものの妄想を披瀝《ひれき》して周囲の失笑を買っていた。  並木は着替えをするいとまもなく、再び車庫から車を出した。  新山下ランプから首都高速に乗り、スピードを上げると年式の旧いフィアット・アバルトは全身を痙攣させた。去年暮れ、飲屋の借金返済のため矢部から無理に押しつけられ、みかねて購入した車だった。礼金と車検費用でその年の賞与は消えた。 「外車なんかに乗りたがる検事が長続きするわけはない……」  並木は慎重に加速しながら、心につぶやく。 「辞めたい者は辞めればいい」  多摩川を越え、羽田海底トンネルを抜ける。京浜運河を渡って大井|埠頭《ふとう》の海浜公園を左に見ながら湾岸線をひた走り、東品川へ出る。道路は渋滞しており、並木はいらだって煙草に火をつけた。  駅前に近づくと、ピンク色のワンピース姿の蓮見典子が夕闇の駅頭に立っているのが見えた。  車を近づけると、典子の方で気づいたらしく胸のあたりで小さく手を振ってみせた。 「少し遅れてしまいました」 「いえ、そんなに待たなかったです」  シートベルトを|〆《しめ》ながら、笑顔を見せた。 「食事は?」 「え、まだですけど。でも、もっと遅くても……」 「じゃ、どこかへ行って、そこで話を。食事はその後ということにしましょう」 「外車にお乗りになってるとは想像もつかなかったですわ」 「好んで乗ってるわけではない。ちょっと事情があってぼくの所有になってる」 「なんて名前なんですか」 「車ですか? フィアット」 「イタリアの車ですね」 「あなたは免許は?」 「ペーパードライバーなんです」  他愛のない会話を交わしながら、並木は行先をお台場公園に決めた。 「お台場公園、行ったことありますか?」 「いいえ。なにか夜景がとてもきれいだって友達がいってましたけど」  友達とは男だろうか女だろうか、そんなことをふと思いながら、 「そうらしいですね。だから、行ってみようと思うのだけど」 「よろこんでお供します」  斜めに、ちょっとおどけた頭の下げ方をしてみせた。  東品川へ向かい、運河にかかる橋を渡って八潮北公園を抜け、大井ランプから湾岸線に乗る。東京港トンネルを抜けると、すぐ右手に客船を模した「船の科学館」が宵闇の中に仄白《ほのじろ》く浮かびあがる。左手はもうお台場公園だった。  土曜日の夜だけあって、車の量もおびただしかったが、海上は賑やかに灯りをともした宴会の屋形船が、これも数えきれないほど浮かんでいた。 「最近ここはウインドサーフィンのメッカみたいになっているけど、ここで練習すると上達が早いといいますね」  蓮見典子は面白そうにいった。 「なぜなんです?」 「落ちると海水が臭くて、耐えられないからですって」 「なるほど」  並木は汐風の中に、ヘドロの臭いを嗅いだような気がした。そして、つぎに助手席の典子の若い娘らしい甘い匂いを感じてたじろいだ。 「昼間はぼくも来たことはないが、ボートが浮かび、ウインドサーフィンのセイルが行き交い、釣り客が糸を垂れ、子供が砂浜で遊んでいるといいますね」 「ついこのあいだまで、蠅が飛び、鼠が走るゴミの島だったとは信じられません。でも、来てよかった。ほんとにきれいな夜景」 「東京にも捨てがたい風景がある」 「街全体が汚いから、ちょっとしたものがきれいに見えるのだわ」  典子は対岸の夜空に浮かぶ東京タワーや霞が関ビル、貿易センタービルを眺めながらいった。  それにしても車の多いことは想像以上だった。実にさまざまな種類の車がひしめくように停車し、車内はほとんどが男女の組み合わせだった。一つ一つ違った恋人同士が、多彩な、そして凡庸な、それぞれの恋愛の渦中にあるのだと思うと並木はその存在感のつきなみな重さにふっとためいきが出そうになる。  典子は事件について忘れてでもいるように、光と闇のおりなす夜の臨海公園に見入っていた。別の時間の流れの中にいるような気が検事にもしてきた。  並木は煙草を取り出し、ライターの火を点じた。揺れる焔が典子の顔をしばらく縁取った。それを合図のように、並木は話の核心に触れた。 「事件についてですが」  典子は並木に視線を向け、わずかに頸をかしげ、新たな緊張の表情で迎えた。 「不審な点はいくつもあるが、単純な疑問に気づかなかった。もっと早く、昨夜の現場で気づいてもよかったのですがね」 「なんですの?」 「ピアノです」 「ピアノ?」 「ピアノは調律を必要とします」並木は明快にいった、「ピアニストが、聴衆を前にして、調律のなされていないピアノで演奏することはありえない」 「ホールのピアノはつねに調律されているというわけではないのですね」 「そうです。ピアノが使用される場合、ピアニストの会場入りの前に調律師が調律を行います。本番直前まで、入念にチェックされることもあります」  並木はここで日本のある著名な女流ピアニストの例をあげて、自説を補強した。そのピアニストはホールが開場し、客が入ってからも、本番間際まで調律師にピアノをチェックさせる。そうすることで緊張を会場に醸し出す。はやくいえばもったいをつけると同時に、客を牽制《けんせい》する効果を狙っていた。 「調律師は原則として演奏が終わるまで待機します。昨夜は不測の事態というわけですから、調律師はいない。しかし、調律はなされていたはずです。ではピアノがどうやって調律されていたのか、ホールに問い合わせてみたのですが、その結果、意外な事実が浮かび上がってきた……」  並木は意図したわけではないが、ここで煙草を灰皿に揉み消す。期せずして、話術の効果を上げることとなり、典子は先を聞きたそうな顔をした。 「あれはホール備え付けのピアノではなかったのです」 「というと?」 「昨日のホールの使用状況を調べた結果、午前中に井川楽器のピアノ試弾会が入っていました。新製品のコンサート用ピアノの、発表展示会です。それが昨日とそして今日の午前中、二日にわたって行われています。お客はピアノ教室の講師とか、神奈川県下の音楽関係者……。つまり、一般客対象ではなく関係者のみの催しということです。井川楽器のコンサートピアノはXEという銘柄で以前から販売されていましたが、それが今度モデルチェンジしたのだそうです」 「ということは、そのピアノは調律されていたわけですね」 「試弾会だから、特に念入りに……」並木は言外に(試弾会にことよせて)というニュアンスを含ませていった、「幸運にもそのベストコンディションのピアノが、ピアノ庫に控えていたというわけです」 「なるほど。驚くべき偶然というわけですね」  蓮見典子は身を乗り出し、顔を斜めにして並木の話に聞き入っていたが、ためいきまじりに呟いた。 「辻褄《つじつま》は合っています。というより、できすぎです。すべてがあまりにも都合よく運んでいる。そもそもオーケストラが消えたのはハイドンの『告別交響曲』の終楽章、つまりあの夜の演奏会は『告別交響曲』がおあつらえむきに選曲されていた。しかも後半の曲が『運命』で、この曲にはリスト編曲のピアノ版が存在し、島村夕子がそれを持ち曲にしていた。さらに、午前中に井川楽器のデモンストレーションがあり、実にうまいことに状態の良いコンサートピアノがあった」並木は整然とした口調で続けた、「これらの事実から、島村夕子が事件発生をあらかじめ知っていたかもしれないという推測も導ける」 「ことによると、井川楽器主催の試弾会そのものも偽装工作?」  典子は額の前髪をかきあげながら訊ねた。 「ええ、試弾会が午前中だけなんてのはいかにも不自然です。それに関連してもうひとつ、実に面白いことがあるんです。イカワの新しいコンサートピアノの名前、なんだと思いますか?」  典子は頸を振ってみせた。 「これが驚いたことに、『テレーゼ』なんです。正式な名称は『イカワ フルコンサートピアノ テレーゼ』といいます」 「昨夜、客席で並木さんがおっしゃってた、ピアノの胴に書かれた花文字は『テレーゼ』だったんですね」  蓮見典子は斜めに顔を伏せ、「テレーゼ……」と二、三度呟いてから、「あっ」と息を呑むように叫んだ。 「彼女の代奏したバローのCD」典子はやや上擦《うわず》った声でいった、「あの贋作盤だと騒がれたCDに収録されていた曲……」 「そうです」並木は飲み込んだように答えた、「ベートーヴェンのピアノソナタ第二十四番、通称テレーゼ……」 「バローは島村夕子さんをテレーゼという愛称で呼んでいたそうです」 「バローの実況盤に島村夕子は解説を寄せていましたが、文中にそのことについて触れた一節がありました。ぼくはそれを思い出したとき、ちょっと眩暈《めまい》を覚えましたね」 「つまり、テレーゼというのは島村夕子の愛称でもあり」 「イカワの新製品のピアノの名前でもある」  けたたましいクラクションと轟然《ごうぜん》たる爆音が接近し、互いの声が聴き取れなくなった。何十台もの二輪の暴走族の通過だった。 「なるほど。暴走ライダーにとってもここらあたりは新天地というわけか」  走り去って行く暴走族を見送りながら、並木はつぶやいた。 「みんな、元気ね」  典子の鷹揚《おうよう》な感想は、なにがなし可憐な響きを持っており、並木を苦笑させた。 「何者かによって演出された事件であることはまちがいない。ことによると、島村夕子も佐々木とかいう男も事件に一役買っているのかもしれない」 「もしかして、オーケストラも?」 「その可能性もむろん考えなきゃならない。あの消え方からすると、むしろその方が合理的ともいえますからね。島村夕子が首謀者で井川楽器も東京管弦楽団も利用されているのかもしれない」 「それは納得できません。だって、島村夕子さんはそんなことをする必要はありませんし、むしろ井川楽器の企業戦略に巻き込まれたのかもしれない」  典子はそれが癖なのか前髪をかきあげ、並木の顔に見入った。 「単純な、偶発的な巻き込まれではありません。さっきいったように、それだとピアノのことが矛盾してくる。彼女は事前に事故発生を予測し得ていたのです」 「その根拠は?」 「リスト編曲のピアノ版『運命』です。あの曲は一般のピアニストのレパートリーではありません。レコードも一点か二点しか出ていない。曲そのものもかなり難しい。聴くとそうでもないのだけど、弾く側にとっては相当な困難をかかえた曲らしい。つまり島村夕子はかなりの練習を積んでいたはずです」 「でも、それは彼女が『運命』を指揮するにあたって勉強していたのかもしれないし、彼女自身好きな作品で、レパートリーにしていたのかもしれませんわ」 「たしかに……。かりに彼女を問いつめてそう答えられたら、否定のしようはない」 「並木さんはどう思われますか」典子は真剣な口調で訊いた、「島村夕子さんはどこまでこの事件に関わっているのか、すべては彼女の仕組んだことなのか、それとも部分的に事件に加担している、あるいはせざるを得ない状況にあったのか。首謀者は誰なのか」  目の前を、奇妙なほど明るい灯火を点じた、いかにも可憐な玩具のようにも見える釣り舟が、芝浦海岸か晴海《はるみ》埠頭をめざしているのだろう、軽快なエンジン音をたてながら懸命に走っているのに見入りながら、並木は黙考していた。 「法的にはどうなんです?」  典子がさらに訊ねた。 「というと?」 「井川楽器、島村夕子さん、それにあの楽団マネージャー、そういったところを捜査することができるのかどうかです」 「すべては推測の域を脱しませんからね。それはちょっと」 「個人的におやりになったら? 検察官独立の原則というのがあるのでしょう?」  並木検事は苦笑した。 「困ったな。小説に出てくる検事みたいにですか」 「そうですわ。それに五億円もの身代金を要求する営利誘拐事件に発展してるわけでしょう。積極的な捜査ができるはずです。五十名の人命がかかっているんですもの」 「その点がどうもしっくりこないんだな」 「どの点です?」 「身代金です。犯人が要求してきたという事実を聴かされてもピンとこなかった。伊原財団から五億をまきあげるのだったら、何もオーケストラをまるごと誘拐するような面倒なことをする必要はない。なんといっても、身代金目的の誘拐は凶悪犯罪です。オーケストラの消失と営利誘拐というのがどうも結びつかない」 「営利誘拐の罪は法律ではどうなっていますの? そうだわ、刑法の条文で答えてくださいます?」 「試験ですか?」並木は苦笑しながら、棒読みにいった、「刑法第二二五条ノ二〔身代金目的の拐取〕近親其他被拐取者ノ安否ヲ憂慮スル者ノ憂慮ニ乗ジテ其財物ヲ交付セシムル目的ヲ以テ人ヲ略取又ハ誘拐シタル者ハ無期又ハ三年以上ノ懲役ニ処ス……」 「……無期または三年以上。あとになって冗談でしたというにはだいそれていますね」 「そういうことです。本当に目的は五億円の身代金なのか? 偽装ではないのか? この疑問も払拭《ふつしよく》できない」 「便乗犯か、悪質な悪戯《いたずら》というのは?」 「それだと大塚駅のピッコロのことが矛盾してくる。ピッコロ奏者の妻が現物を見て、まちがいなく夫の楽器だと証言している」 「どうもよくわかりませんわ。何がどうなっているのか」 「わかりませんね。いまのところ五里霧中です」 「どうです、彼女にお会いになってみてはいかが?」 「島村夕子にですか?」 「ええ、何か見出せるかもしれません」 「そりゃそうだが」並木は口ごもりながらいった、「いや、ぼくはあなたなら彼女にそれとなく質してみることができるんじゃないかと、そう思っていたのです。だから、あなたにそれを頼んでみようかと」 「検事さんが直接、お会いになる方がいいわ。でも会えるかどうか。兄に相談してみますわ。会えるようだったら、連絡します」 「会えるとして、三人で会いますか?」 「いいえ」典子は胸元に指を立てて、ひとさし指で並木の胸を指していった、「あなただけ。わたしが会うということにして、実際は並木さんがお会いになればよろしいわ」 「それはまずいんじゃないかな。背信行為ですよ」 「わたしが島村夕子さんを信じているからですわ」典子は曇りのない声でいった、「あんな素晴らしい人が悪いことをなさるはずがない。よしんばそういうことがあっても、それは何か逃れようのない、のっぴきならない事情によるものだと思います。だから助けてあげてほしいの」  ふと、並木は典子を遠い存在に感じた。蓮見典子は島村夕子の無辜《むこ》を確信している。それは論理ではなく、感情的な確信だ。典子からすればかなり年上の夕子に磁石のように惹きつけられる魔力を感じたとしても当然かもしれない。若い娘というのはたぶんにそんな傾向があるのだろう。そんな典子に並木はいささか鼻白む思いだった。 「島村夕子さんはたしかに芸術に携わる女性であって、いわば美を司る女神なのかもしれない。そういう人が悪いことをしないかというと、これはむしろ逆なんじゃないか。サリエリはモーツァルトを毒殺したと伝えられるし、モーツァルトは性格破綻者です。ワーグナーはペテン師。チャイコフスキーもブルックナーも性的倒錯者だ。そもそも島村夕子という人はバローへの傾倒が嵩《こう》じて犯罪者になることすら厭《いと》わなかった女性です。一般に演奏家は自己顕示欲が強い。というか、それは必須条件かもしれない。自己顕示の強い人間というのは、乱暴ないいかたをすれば犯罪予備軍みたいなものです」  反駁《はんばく》を続けながら、並木はそれが一種の嫉妬であることには少しも気づかなかった。  島村夕子の顔が泛んできた。昨夜の島村夕子は、テレビや雑誌で見たのとは違い、意外と地味な顔立ちだった。薄化粧のせいか、目尻には皺が隠せなかったし、|顳※[#「需+頁」]《こめかみ》には浮き出た血管があった。それは並木に幻滅を齎《もたら》さなかった。至近距離で見た手の印象と同じく、はっとするほど斬新で、心の深部に刻みつけてくる何かがあった。  抗議したいのを抑えているような蓮見典子の目が並木を見上げていた。 「さて、食事にしますか?」  並木は穏やかにいった。  典子は微笑で答えに代えた。 「といっても、この辺はよく知らない。芝浦運河ぞいに朝までやってるレストランやバーがあるそうです。行ってみますか?」 「朝まで?」 「もちろんあなたの門限に従います。といっても移動の時間や九品仏まで送って行く時間を入れると、かなり遅くなるかもしれない」 「横浜はもっと遅くなりますわ」 「あしたは日曜日ですよ」 「じゃ、連れてってください。運転代わってさしあげたいのだけど、自信がないから、ごめんなさい」  典子はゼンマイ仕掛けの人形のような動作で頭を下げた。こういった可憐さとはずいぶん遠ざかっているような気がした。それは若い娘の持つ一般的な媚態《びたい》かもしれないが、並木は甘酸っぱいものを覚えた。 「その言葉だけでじゅうぶん」  並木検事は快活に答えて、イグニッション・キーを廻した。フィアットは一つ二つ身震いしてから、可憐な外観に似合わない猛々しいエクゾースト・ノートを響かせた。  芝浦桟橋には停泊中の貨物船が黒い影絵のように浮かび、艀溜《はしけだま》りの小舟には人影があった。対岸の工業地帯には灯火が手の届く近さにも遥かな蜃気楼《しんきろう》のようにも見えた。  東京タワーや世界貿易センタービルが、お台場公園からのそれと比べるとぐっと近づいて見える。  日の出桟橋との境のあたり、芝浦二丁目の運河沿いはちょっとした港の繁華街だった。倉庫を改造したファッション・アトリエやライブ・ハウス、ギャラリー、写真スタジオなどがそれぞれ凝った照明で妍《けん》を競っており、レストランやバーも想像以上に多い。 「こんな風だとは思わなかったわ」窓から忙しく風景に視線を投げかけていた典子がいった、「なんだか無国籍な雰囲気ですね。ニューヨークのロフト街日本版だと何かに書いてありましたけど」 「地価や家賃が廉《やす》いからじゃないかな。それにここらあたりは地の利からいってわりと便利なんですね」  華やかな照明を凝らした店舗の裏側が、何年も人が出入りしていないようなさびれた倉庫だったりした。  並木はとある倉庫の前で、この内部は煌々《こうこう》と真昼のように明るく、驚くべきことに消えたオーケストラの団員たちがいて、ある者は楽器の手入れに余念がなく、ある者はテレビの野球中継に興じ、別の一団はビールを飲みながら談笑し、また別のグループは麻雀の卓を囲んでいるのではないか、そんな突っ拍子もない想像に駆られた。  この想像を並木は典子に伝えてみるべきか迷ったが、幼稚に思えて止めた。典子も闇の底に溶けるような倉庫に視線を向けていた。こうしてみると横顔は大人っぽく秀麗で、しかし案外と並木と同じことを考えているのかもしれなかった。 『ファド』というレストランの前に車を駐めた。初めて入る店だが、名前が気に入った。無愛想な鉄板の壁にネオンが打ちつけてあるところなど、いかにも倉庫の名残《なごり》をとどめている。  典子の肩にかるく手を添えて、扉を引きながら並木は喉の渇きを覚えた。喋りすぎたせいだろう。冷たいビールを飲みたいと思った。車で来たのがちょっと悔やまれた。     2  家に明かりが灯っていた。兄より遅く帰宅したことがいままで何度あっただろうか? 時計を見ると十二時近かった。典子は玄関前で一つ深呼吸してから玄関をあけ、 「ただいま。鍵、かけとくわよ」  あかるい声でいった。  靴を脱ぎ、ついでにぞんざいに脱ぎ捨てられている兄の重い革靴を揃えていると、 「おそかったじゃないか」  不機嫌な表情の蓮見さやかが廊下に顔を出した。 「ごめんなさい」 「もう十二時だぜ」蓮見は腕時計を一瞥していった、「シンデレラじゃあるまいし」 「靴は無事よ」  典子は揃えたパンプスを指さしていった。 「なんだ、おれが買ってやった靴じゃないか」 「そう。よく似合うってほめられました」 「誰に? 男と会っていたのか。あ、酒臭い。酔っぱらいの相手はごめんだぞ」 「酔ってなんかないよ」  居間へ向かう兄の背中へ、 「ご機嫌、わるいのね」 「妹が午前さまで帰宅して機嫌のいい兄はいないさ」  蓮見はふりかえらず答えた。 「午前さまじゃないわ。……やっぱりそうなんだ」  蓮見は腰を下ろすと、煙草を取り出しながら、 「何がやっぱりなんだ?」  典子を見上げるようにしていった。 「昨夜《ゆうべ》の事件のことでイライラしてるんでしょう? それにしてもたいへんな展開になったわね。これほどの大事件になるとは思ってもみなかったわ。誘拐というのは昨夜、ちょっと考えはしたのだけど、現実にそうなってみると、昂奮しちゃうわ。きょうは仕事も手につかなかった。島村夕子さんには連絡とれたの?」 「なんでおれが島村夕子に連絡を取る必要がある」  兄の仏頂面がおかしかった。 「だって、心配でしょう」 「彼女とはとうに絶交しているんだ」 「へえ、初耳。お慕い申し上げているんじゃなかった?」 「…………」 「耳、赫《あか》くなってるぞ。タバコ、火ついていないよ」  蓮見は口から煙草を取り、立ち上がると、サイドテーブルからウイスキーを持ち出した。 「いまから飲むと、あしたつらいよ」 「うるさい!」  蓮見は典子に背を向けて、グラスにウイスキーを注いだ。  典子は冷蔵庫の氷を取りに立った。氷を用意しながら、話しかける。 「ほんとうのところ、わたしは兄さんと島村夕子さんとの関係が疎遠になるのは歓迎なの。というより、あの人のこと、そのままにしておいてはいけないわ」 「誰のことだ?」 「きまってるじゃない、沢木|圭子《けいこ》さん」 「…………」  蓮見の絶句にはかまわず典子はつづけた、「ときどきは彼女のこと、思い出す? わたしだって、週に一度くらいは思い出すのよ。街を歩いていても、後ろ姿や横顔なんか似てる人を見かけると、はっとするわ。どこで何をなさってるのかなって思うわ」 「おれだって、毎日彼女のことを思い出さない日はない」蓮見は苦い声を出した、「毎日机を並べて仕事をしていた。忘れられるわけがないじゃないか」 「わたし、バローの日本公演初日に沢木さんのなさったこと、兄さんから訊くのじゃなかったと時々思うの。彼女の気持ちを思うとなんだかつらくて、せつないわ」 「しつこく訊いたのはおまえじゃないか」 「だって、わたしは見たんだもの」典子は遠くをみる目になって、「沢木さんが泣きながらロビーを走って表へ出てゆくのを。驚いて声をかけることもできなかった。あの顔は忘れられないわ」 「もういうなよ」蓮見はさらに苦い声でさえぎった、「いまだって、高松の実家に時々は電話を入れて、ようすをきいているんだ。舵川編集長も、ずいぶん心配している。いつ帰ってきても迎えられるように、彼女のポストはあけてある。編集長が八方手を尽くして、そうしたんだ」 「……わたし、思ったんだけど」  典子はいい澱み、蓮見はいぶかしそうな視線を向けた。  典子は氷とグラスを持って蓮見の前に坐った。 「楽譜を隠すなんてあまりにも衝動的で、あまりにも彼女らしくない。やむにやまれぬ衝動だったのよ。そもそもバローと島村夕子さんが現れなければ、彼女はあんな不始末をせずに済んだのよ。そこのところ考えると、とても悲しいわ」 「おれだって、いろいろ考えたよ。しかし、結論として彼女は去ってしまった。どうすることもできない。いまは時間の経つのを待つだけだ。……典子、できれば話題を変えてくれないか。さもなきゃ、先に寝ろ」  兄の顔に苦渋の色が瀰《ひろが》っているのを認めて、典子は沈黙を選んだ。 「チーズか何か、出してくれないか」  蓮見の言葉に救われたような気分になって典子は台所に立った。 「雪谷の家を訪ねてみたんだ」蓮見がいった、「彼女、いなかったよ」 「彼女からの連絡はなかったの?」 「なかった。村井さんに連絡しようと思ったのだけど、あんなことになっただろ、ちょっと電話する気にはなれなかったな。さっきまで、ずっとテレビを見ていたんだ。最終のニュースでも、格別変わった動きは報道されていなかった。犯人から五億円の要求があり、楽団員を誘拐している証拠として、団員のピッコロを提示した。その後、身代金の受け渡し日時や場所、方法などの指示はまだない。いや、これは表向きで実際には動きがあったのかもしれない。その後の報道は新しい事実については何もいわない。途中で報道協定が敷かれたのかもしれない。ということは、すでに取引が行われたのかもしれないし、まだなのかもしれない」 「五億円の要求だけど、犯人側の真意だと思う?」 「真意とは、どういうことだ?」 「犯人の本当の目的は五億円ではなく、別のところにあるのではないかしら。だって、五億円稼ぐのに五十名もの団体を誘拐するなんて、実に効率の悪いやり方じゃない?」  典子はさらに、並木と交わした会話を再現してみようと思ったが並木をぬきにしては語れないので、それが面倒で、話すのをやめた。 「島村夕子さんだけど、会えないかな。なんとか連絡つかないかしら」 「彼女にか? 無理だと思う。村井さんがもしかして所在を知っているかもしれないが……」  兄を通じて島村夕子と並木とを対面させるというのは、やはりむずかしいかもしれない。  典子はオードブルの皿を蓮見の前に置きながら、ふと思いついて、 「ねえ、井川楽器って業界ではどうなの?」  藪から棒にたずねた。 「井川楽器?」  蓮見は掬《すく》い上げるような視線を典子に向けた。  羽山楽器と井川楽器が日本の代表的な二大楽器メーカーだということは蓮見典子も知っている。しかし、兄の話によれば、井川楽器の慢性的業績不振は周知の事実だという。 「従来、楽器業界にこの二社が君臨していたのは事実だ。ところが、電子楽器の普及にともなって電卓メーカー、家電メーカー、キーボードの先行メーカーあたりが激しい攻勢をかけはじめた。それに韓国、台湾のピアノメーカーの躍進もあなどれない。だいいちピアノそのものが伸び悩んでいる」 「ピアノ、売れないの? どうして?」 「理由は簡単だ。子供の数が減っている。そのうち、ピアノの先生の方が生徒より多いという時代が、冗談じゃなく来るかもしれない。これに対処すべく、ハヤマもイカワもチエをしぼっているところだが、イカワは人員削減による経営合理化や、多角化といえばきこえはいいが毛皮や貴金属、絵画の販売に乗り出すといったぐあいで、まるでビジョンがない。井川楽器は去年労働争議を起こしているくらいだ。ハヤマだって、ピアノ不振による人員の配置転換をやっているらしいが、いまのところ表だった問題は出ていない。これは懐の違いというか、もともと両者は資本も実績も桁違《けたちが》いなんだ」 「どうしてそんなにくわしく知ってるの?」 「いまいったようなことは仕事柄、常識といってもいい。それにおれは去年の五月、ハヤマにもイカワにも取材に出向いたことがある。ずいぶん雰囲気が違うんだ。社風の違い、業績の違い、前進している会社と足踏みしている会社の違い、そういったものは応対にも当然出てくる。とはいえ、あまりに違うから、ちょっと気になって少し突っ込んで調べてみたのさ」 「イカワとハヤマは仲が悪いの?」 「ハヤマ対イカワの戦争は業界では有名だ。戦後、何度も新聞沙汰の事件を起こしている。ハヤマはイカワの株を買占めて乗っ取りを画策したことがあるし、産業スパイ事件さえ起こしている。キャノン機関ともCIAとも関係していたことがあるという白系ロシア人を使って、イカワの偽装労働運動を起こさせ、イカワと大手レコード会社との業務提携を妨害したんだ。その後、イカワは月掛け予約制、つまりミシン会社の販促方法を真似してなんとかしのいできた。昭和四十年代になってイカワは増資につぐ増資がパンクしてしまい、銀行は融資の引き上げを通告した。社長は土下座したそうだ。ハヤマとイカワの泥試合はいまは鎮まったかに見えるが、遺恨はどうして根深いものがある」  そのイカワが起死回生というか、積年の怨念を一気に晴らす大攻勢を仕掛けているのかもしれない。典子はこの仮定を半ば確信したが、口に出しはしなかった。 「ねえ、イカワが新しいコンサートピアノを出すという話は聞かない?」 「新製品? いまのところそういう情報は入っていないな」  典子はなかなか寝つかれなかった。  兄から聞いた話はことによると、事件に何らかの光明を見出すきっかけになるかもしれなかった。  同日・同時刻 シドニー   美江の瞳が暗く燃えている。青木はその眼をまともに見返しながら、今夜こそ正念場だと心につぶやいた。昨夜のような失敗を繰り返したら、生涯後悔することになるだろう。それでなくとも、あれは大失態だった。  青木は妻の肩に腕をまわし、もう一方の手でやさしく髪を撫でながら、くちづけした。美江がのけぞって、大きく息をつくのをしおどきに、青木はシーツをめくった。美江はその手を制しながら、 「灯り、消して……」  吐息のような声でいった。  シーツの下の、美江の裸身が、網膜に焼き付いていた。名残惜しい気がしたが、青木はいわれるままに部屋を暗くした。  青木は口から胸、頸すじから背中、やや意表を突いてふくらはぎ、ふたたび胸と勤勉なキスを続ける。そして股間に顔を近づけると、「いや」と頭上で美江は否定した。 「お風呂のあとで……」  美江は青木の髪を優しく愛撫しながら制した。 「あとじゃなくてもぼくはいいんだよ」  青木が耳もとに囁くと、美江は顔を左右に振って拒んだ。 「いや、あとじゃなきゃ」  青木はバスルームに行き、湯のコックをひねった。  戻って、ふたたび口から胸、頸すじから背中、また胸へとキスを続けた。  バスに湯を溜める水音が部屋の中に響いていた。  突然電話が鳴り、青木は驚いて妻の乳首を噛んでしまった。 「痛っ!」  美江は小さく叫び、青木はうろたえたが、とりあえず電話を取った。  男の声が切迫した調子で何か訴えている。何をいっているのかわからないが、まちがい電話のようだった。 「ソーリー。アイム・ベリー・ビジー」  青木はわれながら気のきいた応答だと思いながら送受器を戻した。  美江はバスに行っていたらしく、 「お湯、まだ半分ほどだったわ」  いいながらしなだれかかってきた。  青木は妻の乳首に顔を近づけて、 「プラスのネジみたいだね。可愛いよ」 「バカ」  美江は青木の腕をつねり、ふたりは裸のままベッドの周りを追いつ追われつし、笑いながら取っ組み合った。 「お湯見てくるよ」  青木が離れようとすると、美江は背中から腕を巻いてきた。熱い息が青木の背で燃えあがり、冷たい手の感触が股間を襲った。  青木は美江のなすがままにされていたが、やがて耐えきれなくなって自分の下に組み敷いた。  青木が始めようとしたとき、美江は大きな声をあげた。それは拒絶とも幇助《ほうじよ》ともつかない、何か獣めいた声だった。  そのとき、ドアが激しくノックされた。一人ではない。二人か、三人が叩いているようだった。  青木は下着をつけ、ベッドを下り、電気を点けた途端、あっと声をあげた。部屋中白く煙って、一瞬火事かと思われた。しかし、火事ではなく、バスルームに湯があふれ出ているのだった。  ドアを叩く音はますます激しい。  青木は転ぶようにしてドアまで走り、解錠した。  大男が二人、凄まじい剣幕で口々に叫びながら飛び込んできた。  美江が英語で応答をはじめた。声が震えていた。  ——三十分後。 「美江、返事してくれよ。悪かった、このとおりだ」  青木は土下座し、ベッドの上の妻に哀願した。  暗澹《あんたん》たる気分だった。なさけないのを通り越して、何か悪夢を見ている気分だった。 「美江、まさか離婚するなんていわないよな。本当に悪かった、こんなポカは生まれて初めてなんだ」  床についた自分の両手を他人の手のように見ながら、青木は哀訴を続けた。  ベッドの上では美江が胡座《あぐら》をかいて、いらだたしげに煙草を喫っていた。 「あんなことは初めてですって? 初めてではすまされないわ」青木へは視線一つくれず怒りに燃えた口調でいった、「新婚初夜に花嫁を抱えそこねて落とす、自分はベッドに鼻面をぶつけて鼻血を出す、そんな人がどこの世界にいるっていうの」美江はここで初めて軽蔑《けいべつ》の視線を投げると、これ以上考えられないほど皮肉な調子でつづけた、「でも、それはまだご愛嬌《あいきよう》、そんな夫も広い世界に一人や二人、いても悪くない。まだ、それは人にもいえるわよ。でもね」 「もう、いわないでくれよ。貯金がある。なんとかするよ」 「いえ、いわせていただきます。電話で注意されても気がつかず、お湯をあふれさせて、二百万円を請求される。そんな人とはもう一緒にはいられないわ」 「二百万円、ほんとうにそういったのかい?」 「そうよ、疑ってるの? 英語くらい話してよ。なさけないわね」 「それはいいすぎじゃないか」 「なにがいいすぎよ。すぐフロントに電話してちょうだい。わたしに別の部屋を用意するのよ」 「そんなこといわないでくれよ」 「とにかく、今夜わたしは別の部屋で眠り、あした帰国するわ」 「あしただって?」青木はおもわず叫んだ、「どうしても帰るというのだったら仕方がないけど、そうだな、このままここにいるより帰ったほうがいいかもしれない。じゃ、あしたさっそく添乗員に頼んでみるよ。二人くらいだったら空席もあるかもしれない」 「二人? なにいってるの。帰りも別々にきまってるじゃない」     3  遅くまで寝つかれなかった典子は、翌朝早くに目を覚ましてしまったが、八時になるのを待ちかねて並木に電話を入れた。  並木本人が出た。  名乗ると、 「ああ、蓮見さん。日曜日だというのに早いですね」  ややくぐもっているが、声に皮肉な調子はなかった。 「昨夜はごちそうさまでした」 「こちらこそ遅くまでつきあわせてしまいました。遅かったから、お兄さんご機嫌悪かったでしょう?」 「帰宅するとまだ兄は起きていましたわ。それで、井川楽器のこと、訊いてみたのですけど、新製品の情報は届いていないそうです。『テレーゼ』という新製品の情報はゼロで、広告とか、新製品ニュースとか、なにもないのですって。このこと自体ヘンですけど、兄と話しているうちに、あることを思い出したのです。今度の事件とどの程度かかわりがあるのかはわかりませんが、ちょっと気になることなので」 「ほう、それはどういう?」  並木の声が鮮明になったので、典子は検事の午後の予定を訊ねてみた。 「休みです。別に予定はありません」 「気になることというのを、午前中に確認してみます。だから、午後、会っていただけますか?」 「もちろんけっこうです」  並木の応答は弾《はず》んでいた。 「それから『島村夕子との対決』ですけど、ちょっといまのところは手だてがないみたいです。連絡がつかないのです」 「マスコミ攻勢を避けてどこかに潜伏、ということでしょうかね」 「まず、それにまちがいないでしょう」 「ところで朝刊読みましたか?」 「まだですけど」 「今日もでかでかと出てますよ。さすがに大事件だ」  午後三時に典子が横浜に出向き、横浜臨港会館のロビーで落ち合うということにして、電話を切った。  兄はまだ起きてこない。典子は新聞と牛乳を取りこみ、新聞に目を通してみる。  事件は発生後三日目を迎えたわけだが、記事の扱いは大きかった。 「オーケストラはどこに?  いぜんとして行方不明 つのる家族の不安」  オーケストラの行方については、事件発生地である横浜山下署を中心に、警視庁、神奈川県警はむろん、全国に広域捜査網が敷かれたが、身代金の要求がされてから捜査が始動したため、緊急配備等の初動捜査ができなかったことが尾を引いて、手がかりはまったく掴めていない状態であると報じている。  当初、捜査当局はオーケストラ団員の行方については大人数であること、全員が黒の舞台衣裳で人目に立つことなどから、発見は時間の問題ではないかという楽観的な観測もあったほどだが、五十名の人間は煙のように消えたまま依然として何らの情報も得られず、しだいに焦りの色が濃くなっているという。 「五億円の要求 千ドル紙幣を指定 準備に手間どる」  犯人は九日午前十一時十分、文書でまず五億円の要求をつきつけたが、紙幣についての指定はなかった。とりあえず午後から現金の準備を始めた。ところが、夕方四時三十分になって犯人から電話による連絡があり、五億円はドル紙幣、しかも千ドル札で三日後の火曜日午後六時までに用意するよう指示してきた。「アメリカの伊原産業ワシントン支店に連絡し、ワシントンの連邦準備銀行で調達、ただちに成田へ向かうこと。紙幣はじょうぶな紙袋に入れ、待機せよ」というもの。伊原産業は警視総監を通じて政府にこの件を報告、ワシントンの大使館にドル調達を依頼することになった。  千ドル紙幣を指定してきたことから、犯人はかなり専門的知識を持っていると推察される。犯人は月曜日に東京外国為替市場で五億円とドルの交換決済を行い、ワシントンの外為銀行へ送金するよう指示している。国際金融についての知識がなくてはこういった指示は不可能だ。  千ドル紙幣を用いた場合、五億円は三百五十七万一千ドル前後に換算されると思われるが、わずか三キロ足らずの重量となり、受け渡しは犯人側にきわめて有利となる。日本円で揃えた場合、受取には車が不可欠となるが、三キロ弱の重さであると片手に持つことも身につけることも可能となる。また、犯人は受け渡し前に千ドル紙幣の束をテレビで公開するよう命じている。情報化社会ならではの犯罪というべき大胆さだが、ドルを指定した脅迫電話は三回に分け、それぞれ一分以内に終えるという慎重さもみせている。  借金返済に困って、といった一般的な誘拐事件とは根本的に異なり、犯人は知能犯。捜査当局は難事件解決に総力をあげている。………  典子は兄のために簡単な朝食を用意すると、外出の支度を始めた。  大学の研究室に出るつもりだった。研究室でスパイもどきの行為をしなければならなかった。それを思うと少し緊張を覚える。しかし、それよりも今日が休日であることをなによりも感謝したかった。休日出勤の理由を考えながら、クローゼットを開け、着るものを選んだ。服は結局、おとなしい水色のスーツに落ち着き、出勤の理由は単純に忘れものというところで決着した。 「スイミング・クラブの会員証を更衣ロッカーに忘れてきたことに気づいた」蓮見典子は、午前十時、祐天寺の東都大学バイオケミカル・ラボラトリーに姿を見せた。  学舎の守衛室から解錠カードとマスター鍵《キー》を借り出し、閑散とした学内を足早に歩き、無人の研究室棟の扉を開く。  研究室に入り、電気を点け、警備保障業者に入室した旨の電話を入れるとそれだけで気疲れを覚えた。  典子はまず書庫に入室した。大塚教授の書類棚の前へ行く。鍵付きのロッカーだが、抽斗は簡単に開いた。  重要書類や機密書類は金庫に収めてあるが、ファイル類の管理は比較的ルーズである。教授や助教授のなかには、鍵は失くすもとだから一切持たないなどという人もいるくらいだ。大塚教授もどちらかといえばそういうタイプらしい。そのことは以前大塚研究室で助手をしていた牧田順子の保証つきだった。順子とは週に一、二度、食事をともにしたり、お茶を喫んだりしたが、大塚教授の人柄については何度も聞かされていた。たとえば、銀行のキャッシュ・カードに暗証番号をマジックで書き込んでいたとか、宝籤《たからくじ》の当選番号を読み違えて銀行に取りに行ったとか、そんなたぐいの話を順子はいかにも可笑《おか》しそうに話すのだった。  牧田順子に「バクテリア・セルロース」の話を聞かされたのは去年のことだ。大塚教授がここ数年来取り組んでいるのはバイオテクノロジーを利用したバクテリア・セルロース、つまり微生物が生産する繊維の研究である。  蓮見典子が参加している小田原教授のチームは「プロテイン・エンジニアリング」と呼ばれる有用酵素の創出で、具体的にはアルツハイマー型痴呆症の原因と見られる蛋白質の研究とその治療応用である。  もっとも、大学の研究室の研究などといっても、ステータスのためというか、権威維持のためという色合いが濃い。大学の研究室というのは、意外とそんな不要不急の閑学問の研究の場というケースが多いのだ。ほんとうに実用化を進めているのは民間企業だし、研究資金も規模も比較にならない。  典子は自分の携わっている研究の話を他人にすることはほとんどないし、牧田順子もそれは同様だが、順子が「バクテリア・セルロース」の話をしたのは、典子の兄が音楽関係の仕事をしていることを知っていたからだった。 「微生物が作り出す繊維はこれまでスピーカーのコーンに利用されたりしてるらしいけど、いま作っている繊維はピアノの鍵盤に利用できるかもしれないの」  そんなふうに順子は切り出した。  そのとき、典子は六本木の最近評判の地中海料理店の客としてパエジャの出来上がるのを待つ気持ちの方に押されており、上の空で聞いていたのだが、順子の話によれば、細菌やラン藻類の細胞内にはエネルギー貯蔵物として蓄えられている一種のポリエステルがあり、餌に工夫することで、ゴムのようなものからプラスチックのようなものまで自由な硬度のポリエステルを作ることができる、というのである。生体適合性があるから、医療に利用できるし、プラスチックと異なり、分解するために公害の心配がない。象牙のようなものも作れるから、ピアノの鍵盤にも利用できる。  牧田順子はたしかそのとき、この研究は民間からの委託で、楽器製造業者が依頼主であるというようなことをいった。記憶があやふやなのは、パエジャのせいもあるが、この会話がなされたのがちょうど去年の暮れ、あのバローの来日騒動のさなかだったからだ。  心ここにあらずといった体《てい》の典子に、順子は話題を途中で変えてしまったから、実際には楽器業者の名前まではいわなかったかもしれない。  牧田順子は郷里の高校教師との見合いに乗って、先月釧路に嫁いで行った。結婚後、挨拶状が届いたが、電話番号の記載がない。一度向こうから電話を寄越して惚気《のろけ》話のようなものを聞かされたこともあるが、その時も番号をつい訊きもらしてしまった。  それでなければ、こんなスパイまがいのこともしなくてすんだかもしれない。  典子はファイルを手早く繰っていった。 「まるで産業スパイみたい……」  そんなことを思いながら、抽斗を次ぎつぎに開け、ファイルに目を通して行く。 「これだわ」  やがて典子は目的の書類に到達した。  そして、事前に電源を入れておかなかったことを少し後悔しながら急いでコピー機に向かった。     4  並木刑部が山下公園前の駐車場にフィアットを駐めると、約束の三時にはまだ十分ほど早かった。  ベイ・ホールの噴水のある広いアプローチを歩いて行くと、玄関前に水色のワンピースを着た蓮見典子が見えた。一昨夜初めてここで出会った時のラフなジャケット姿の方が似合っていたが、昨夜といい今日といい意識的に可憐な服装を選んでいるように思われ、それも悪い気はしなかった。  並木は右手を軽く肩のあたりまで上げて合図を送った。蓮見典子も伸び上がるようにして、手を振った。 「桜木町駅を出たとき微《かす》かな海の香りがして、うれしかった」  典子は挨拶のかわりにそんなことをいった。 「駅で海のにおいがしましたか」  たしかに、横浜は海の匂いがする街だ。しかしそれは、油脂と塗料と汚水にまみれ、船舶のおびただしい往還によって攪拌《かくはん》された海の、いってみれば長患《ながわずら》いの病人が放つ体臭のような海の異臭ではないだろうか。とはいえ、そんな残滓《ざんし》のような潮の匂いでも、東京住まいの典子の心を弾ませるものがあるのかもしれない。  食事にはまだ早すぎる、喫茶店というのも芸がないが、ここはやはりお茶でも飲みながら……、そんなありきたりのやりとりを交わしながら、ふと並木は何のためにでかけてきたのか忘れかけている自分に気づいて私《ひそ》かに驚いた。  典子は臨港会館の五階のレストランを所望した。  午後の港は活況を呈していた。窓から見る港湾風景は、完全な遮音《しやおん》の向こうに、音がないだけに奇妙な現実味を帯びて、強い陽射しと、遠くかすかにたなびく雲と、通俗なほどに青い空のもと、さながら港の堅実な日常を描いているのだとでもいう風に、各種の小艇を勤勉そのものの航跡を残しつつ走らせていた。 「今朝はお寝《やす》みのところを起こしてしまったのではないでしょうか?」 「いえ、起きていました。もっとも、まだ布団の中で、煙草をふかしながら新聞を読んでいたところでした」 「じゃ、お邪魔してしまいましたのね」 「どうして?」 「そういうの、けっこう黄金の時間じゃありません? 並木さんみたいに特にお忙しい方にとっては」 「忙しい……。そうですね、たしかに閑とはいえないな。警察や検察は閑であるにこしたことはないのですがね」  われながら、常套《じようとう》的な言葉だと並木が後悔しているのをよそに、典子は事務的な手つきで、顔の長い犬の紋章をあしらったバッグのファスナーを開けた。途中、思い出し笑いのような表情を泛べて、並木を見た。  このバッグが二人を結びつけたのだった……、並木も気づいて微笑した。  典子はテーブルの珈琲|碗《カツプ》を移動し、A4サイズのコピー紙をステープラーで簡略に綴《と》じた書類を、おもむろに置いた。 「これに事件を解く鍵がある、そういうことですか」  独語するようにいいながら、並木は書類を手にした。 「読ませてもらっていいのかな?」  顔をあげ、訊く。 「専門的な記述はとばして読んでくださってけっこうです。黄色のラインマーカーで指定してますから、そこは確実に目を通してください。とりあえず、お読みになって」  並木は黙ってうなずくと、書類に視線を落とした。  蓮見典子は並木の目の動きを追っていた。 「大塚研究室というのは、あなたがお勤めの研究所にあるのですか?」 「そうです。大学の各教授の研究室を、戦前からこの分野において先駆的で伝統も業績もある微生物学関係だけまとめて一棟に集合させたのが、東都大学バイオケミカル・ラボラトリーの発生母体なんです」 「あなたは大塚研究室なんですか?」 「いえ、ちがいます。つい一月ほど前まで大塚研究室にいた女性が、たまたまわたしのともだちで、結婚退職したんですけど、彼女がいつだったか『人工象牙』の話をしたことがあるのです。そのことを昨夜思い出して……」 「で、この書類を閲覧した」 「ええ、午前中。無断ですけど」 「無断?」並木はまじまじと典子をみつめて、「あまり無茶はなさらないでください。女スパイは似合わない。……ところで、これはなかなか興味深い資料ですね」ふたたび書類に視線を落として続ける、「象牙に代わるピアノ鍵盤の新素材の開発というのは、業界ではさしせまった問題なんでしょうか」 「ワシントン条約の関係資料や象牙の輸入問題の新聞記事を図書館で調べてきて、そこに添付していますが、最近、象牙の輸入規制がたいへん厳しい状況になってきているようなんです。日本はアフリカ産象牙の約六十五パーセントを輸入する世界最大の消費国で、これまで何度も野生動物の保護に消極的だと非難を受けてきているのだそうです」 「この資料によれば、三年前あたりまでの象牙取引の約八割が密猟、密輸といった違法行為絡み……、八四年十月に来日した世界野生生物基金総裁のエジンバラ公がワシントン条約の尊重をよびかけ、八五年の四月にはそれまで原産地証明書があれば輸入できたものが相手国の輸出許可書が必要となるほど規制が強化され」並木はコピーを繰りながら要所を音読する、「にもかかわらず偽造の輸出許可書を使ってウガンダから三十トンの象牙を不正輸入した業者が現れ、……この事件は記憶にあるな……、通産省は業者を事情聴取し、厳重注意、か。その後も規制は強化される一方、世界各国の日本への非難もオクターブを増すばかり、去年はワシントン条約事務局長ラポイント氏が日本政府と業者に対して協力要請……。たしかに日毎に状況が厳しくなってきているようですね」 「輸入象牙の用途は、ピアノの鍵盤と邦楽器が約一割、三割が宝飾品で、印章が約五割、割合からすると少ないようですが、なくてはならないものであることはまちがいありません。そして、将来において象牙の輸入が全面禁止されることはほぼ確定的だという見方が有力ですわ」 「象牙にかわる新素材の開発が急務になってきた、というわけですね」  並木は自分自身にいい聞かせるようにうなずいた。 「現在のハイテク技術を駆使すれば本物そっくりの代替品の開発は可能だと思います。でも、いまのところ業界で目立った動きはないようです。市場規模が大きくないということもありますが、企業がまだまださしせまったものとしてとらえていないのではないでしょうか」 「そんななかで井川楽器は開発に力を注いできているということですね。ところで、人工象牙に限らないのですが、大学の研究室への民間からの研究依頼などというのはよくあるのですか」 「企業はたいてい基礎研究から独自に行っているのが通例です。設備も人員も資金も比較になりませんもの。医学部あたりだと、製薬会社の研究の権威づけというか、箔《はく》をつけるための臨床試験の依頼などは枚挙にいとまがありませんけど」 「では、大学の研究室というのは基本的には教授の実績のために存在すると……」 「まあそういうことです。でも、例外はあります。なんといっても、民間企業は潤沢な資金を提供してくれますし、謝礼も莫大ですから、おいしい話ではあるわけです。大学時代の先輩で、ある大学の助教授なんですが、マリンバイオの研究をしていまして、特に魚類のセンサーに関して素晴らしいお仕事をなさってる人がいるんです」 「魚類のセンサー?」 「レーダーといってもいいかしら。鮭《さけ》が自分が生まれた川に産卵に帰って来ますね。神秘的といえばいえますが、あれは一種の超小型高性能の水質センサーを体内に持っているからなんです。生体模倣技術によってこれを解明すれば飛躍的な応用が可能になるというわけです。で、彼のもとへ政府機関の名で研究依頼があり、彼は応じたのです。ところが、仕事を進めてゆくうちにどうも軍事利用が目的ではないかという気がしてきた。本当の依頼主は防衛庁ではないだろうか。結局彼は途中で研究を断ったそうです。つまり象牙の塔である、いやこれは洒落じゃありませんけど、大学の研究室にもかなりキナ臭い研究が持ち込まれているということです。東都大学だって、潜水艦の塗装に用いる塗料の新素材の開発研究をやっていた例があります。どこからか学生に洩れて一騒動あったそうです。ずっと以前、わたしが入学する前の話だけど」 「潜水艦の?」 「ええ。深海魚の皮膚や、鰻《うなぎ》やマンボウの皮膚のヌルヌルの成分の研究」 「マンボウと潜水艦ですか……」並木は感心したような顔でつぶやいた、「象とピアノの問題に戻りますが、依頼主が井川楽器だということはまちがいないのですか」 「まちがいありません。依頼文書そのものは見つけだせなかったのですが、文書受付簿や発送簿を閲覧して、大塚研究室と井川楽器との間にしばしば文書のやりとりがなされているのを確認しましたし、他社は羽山楽器はもちろん邦楽器製作会社も見当たらなかった。印鑑の製造会社などもありません」 「それだと百パーセント確実か……」並木はうなずいた、「羽山楽器はどうなんでしょうね。ハヤマも開発していると考えたほうがまちがいないでしょうね」 「いままで楽器の改良とか目先を変えることでイカワがハヤマに先んじたことは何一つない、そう兄がいってましたわ。だから、人工象牙にしたってハヤマが一歩先を行っている可能性がある。で、帝国触媒化学工業、大日本理化学研究所、日興化学あたりに勤めている友人にも問い合わせてみたところ、帝国触媒が日本印章株式会社の発注でセラミックス系樹脂の代替素材を開発中ということですが、ハヤマの名前は出ませんでした。でも、ハヤマなら基礎研究から独自に進めているとしても不思議はないでしょうね」 「象とピアノというのは突飛な組み合わせではないけど、今回は象とオーケストラですからね、なかなか奇抜だ」並木は書類を畳みながらいった、「奇抜だが、今回の事件に井川楽器が一枚も二枚も噛んでいるのは確実ですね」  典子は目で同意し、 「事件は井川楽器の企てではないでしょうか?」  少し声を低めていった。 「目的は何です? ひっかかるのは身代金の要求です。五億円は私やあなたにとっては大金だが、イカワにとってはどうしても欲しいお金じゃない。だいいち、企業というのはものを売ってお金を儲《もう》けるものです」 「そこなんです。ここからはわたしの想像ということになるのですが」典子は周囲を見廻した、「そのまえに井川楽器と羽山楽器との確執についてお話ししておきたいのですけど……」客が立て込んできた店内を見て、典子はいい澱んだ。 「出ましょうか。どうやら場所をかえたほうがいいみたいです」  並木はさっと腰を上げ、レシートをつかんだ。  山下公園には無粋な修学旅行団や団体はなく、多くは二人連れか、数人の小グループが広闊《こうかつ》な臨海公園にほどよい点景人物となっていた。柔らかい午後の光がいたるところに躍っている。喉の奥から洩れ出るのどかな独白とは裏腹に、忙しそうにそこらを歩き回って餌をついばんでいる鳩を避けながら、並木と典子は岸壁へと公園を横切って行った。  ときおり、釦《ボタン》を掛けない並木の上着が風を孕《はら》んで帆のように膨らんだ。そういうとき、典子も風に髪を嬲《なぶ》られないよう掌で庇《かば》った。  岸壁の手摺《てすり》に並木は半身をあずけると、煙草を取り出した。両手で風防を作って煙草に火を点じようとすると、典子が風上に立って協力した。  蓮見典子は井川楽器と羽山楽器との積年の確執について語った。  聞きながら、並木は無意識に目の下の海に視線を落とした。皮膚病のような白斑におおわれた石積みを、塵芥《ごみ》を浮かべた海水が、小さく泡立ちながら無意味とも執拗とも思える反復でひた寄せている。  典子の話が一通り終わったところで、並木は短くなった煙草を海面に捨てた。小さく火の消える音を聞いたような気がしたが、気のせいかもしれなかった。 「井川楽器の新製品コンサート向けピアノ『テレーゼ』、現在日本で最も注目を集めているピアニスト島村夕子、そして人工象牙……」典子は落ち着いた語り口で続けた、「イカワが人工象牙を導入した新しいピアノを開発し、それに『テレーゼ』の名を冠し、イメージキャラクターにいま最も注目を集めている島村夕子を起用する、それはいかにもありそうな話で、もし島村夕子さえ落とせたら、社運をかけて一大キャンペーンを展開するだけの価値はあるかもしれません。なにしろ、ピアニストであり、ちょっとした女優だとハダシで逃げ出す美人、このところ週刊誌やテレビで知名度も急上昇している。ピアノなどというのはタレントを使うわけにはいかないし、かといってピアニストとなると適当な人物はそうそういない。まさにかっこうの素材です」 「では、あの事件もキャンペーンの一つだと?」 「そうです。キャンペーンのスタートとは考えられないでしょうか」  蓮見典子は確信したようにいった。 「たしかにそういう見方はできますね。しかし、イカワだけが彼女に目をつけるとは考えられない。イカワが考えることだったらハヤマも当然考える、お兄さんのお話からすればそうなりますね、ハヤマ以外の企業だって食指を動かしたにちがいありません。これがイカワの宣伝戦略だとして、彼女がハヤマではなくイカワを選んだ何か特別の理由があったのか」 「何かがあったのだと思います。井川楽器から事情聴取できませんか?」 「しかし、やはりひっかかるのは一企業がここまで大胆な、犯罪に類することをやるだろうかという疑問です。あまりにリスクが大きい。下手をすればイカワは破滅です」 「そこのところはたしかに釈然としません。島村夕子さんが井川楽器と組んでいるのは歴然といってもいいけど、事件そのものがとてつもない。それに並木さんがおっしゃるように五億円の身代金の要求というのが」  このとき、左手の大桟橋から汽笛が鳴りひびいて、会話は中断した。二人は桟橋に目を向けた。  青と白に塗り分けられ、いささかうす汚れた感じの、しかし風にはためく日の丸の旗だけが目にしみるほど美しい一隻の船が、拡声器から何やら喚きながら、陸との訣別《けつべつ》をいま始めたばかりだった。タグ・ボートに曳かれて船尾のほうから、徐々に岸壁を離れる。船首を沖へ向けるため、身悶えするように巨体をうごめかせ、長い岸壁から引き剥がすように離れつつあった。 「最近めずらしい光景ですよ」  出港風景を見るのは実に久しいことだった。  典子は初めてだという。  それで、二人は申し合わせたように黙り込んで、この光景に見入った。 [#改ページ]   棺とオーケストラ     1 「着払いの宅配便が届いてるんですけど、どうしましょう」  佐々木梓は事務員のさしだす伝票を苛立たしげにつかみ取ると、差出人の住所氏名を見た。 『蒲郡《がまごおり》市栄町三丁目二番一号 東海銘器製作所』  心当たりがなかった。  ——島村夕子さんの演奏会の入場者数は正確なところ何名だったんですか?  ——島村夕子のギャラはいくらなんです?  新聞や週刊誌の記者が口々に質問を浴びせるのを無視して佐々木は事務員に質した。 「荷物は大きいの?」 「ええ、冷蔵庫が入っていそうなくらいの木の枠で囲った箱です」  事務員は自分の頭の上に手をかざして、いった。  馬鹿にならない金額だが、差出人電話番号の市外局番を見て、電話で確認する気にもならなくなった。品名の欄に「楽器」と記されている。東海銘器製作所というのはおそらく家内工業的な零細楽器製作所で、試作品を寄越したのだろう。オーケストラで試奏してくれというようなことにちがいない。別便の依頼状が来ているか、そのうち届くか、たぶんそんなところだ。それにしても着払いというのは少々横着な話だ。佐々木梓は瞬時にこんなことを考え、事務員に捺印《なついん》して受領するよう指示した。  記者の質問攻めに佐々木はいい加減うんざりしていた。荷物は渡りに舟だ。しばらく記者の攻勢から逃れられるだろう。荷役の間、束の間の安息が得られるというものだ。 「今すぐ隣の酒屋からバールを借りて来てくれないか。荷物はぼくが受け取る。バール? ああ、釘抜きのことだ。……バールっていったらわかるよ。急いでね」  佐々木は事務員に命じると、記者を無視して足早に玄関に向かった。記者は追いすがってくる。まったくこの執拗さは不撓《ふとう》不屈というべきだ。  玄関に宅配便のトラックが停車しており、後部扉に凭《もた》れて不服そうな顔をした二十歳そこそこの運転手が佐々木を迎えた。待たされて苛立っているようすだ。  伝票を渡し、支払いを済ませる。腕組みをしている佐々木に運転手はさらに不満そうな表情で、 「手伝ってよ。重いんだから」  突慳貪《つつけんどん》にいう。  佐々木はしかたなく運転手の指示に従った。  木枠で補強した段ボール箱の荷物は想像したより大きく、非常に重く、玄関に搬入するのに一苦労だった。棺桶を二つ並べたくらいの幅がある。長さはさほどでもない。  それにしても、その重いこと。佐々木はとりあえず玄関内に置いたが、それだけで息を切らしてしまった。どこへ持っていくべきか思案していると、運転手は短く礼をいうやいなやトラックめがけて駈け去っていった。  取り巻いている三人の記者に手伝わせ、とりあえず箱を会議室に搬《はこ》び入れた。  事務員がバールを持って帰ってきたので、佐々木は額の汗を拭ってから木枠の解体にとりかかった。  ※[#「○に忠」]田中忠八酒店  と、何とか判読できる白ペンキの名入りの年季物らしいバールをしばし眺めたのち、佐々木は悪戦苦闘を始めた。  五分以上かかって木枠を解体した。途中、指に木のささくれでトゲを刺したり、何度も舌打ちしながらの作業だった。煙草をふかしながら気のないようすで眺めている記者もいて、佐々木はしだいになさけない気分になった。  ガムテープを剥がし、段ボールを開くと、黒いコントラバスケースだった。  このとき、不審を覚えなかった佐々木は迂闊としかいいようがなかった。コントラバスが入っているのであれば、これほど重いはずはなかった。こういう単純なことに気がつかなかったのは、やはり連日のマスコミ攻勢で疲労|困憊《こんぱい》し、思考力を著しく欠いていたせいだろう。ともあれ、佐々木は何の疑いもなくケースの蓋を開け、次の瞬間には短い叫びとともに後ろへ飛び退《じさ》り、壁に後頭部をうちつけてそのまま昏倒した。  警視庁捜査一課の伊東警部補は捜査本部のある四谷署の浴室を借り、あわただしい入浴を終え、脱衣場で伸びた不精髭《ぶしようひげ》をあたっているところだった。スーパーで買った新しい下着と靴下に替え、剃刀を滑らせていると、 「警視庁の伊東警部補、伊東警部補いらっしゃいますね」  緊迫した調子の声がかかった。 「おります。何か?」 「たったいま四谷の伊原芸術振興会事務所から谷警部の連絡があり、捜査中の東京管弦楽団誘拐事件に関連すると思われる、オーケストラ団員の死体が発見されたそうです」  伊東警部補は顔に泡を立てたまま、飛び出した。 「ご入浴中、たいへん失礼します」  敬礼で迎えたのはまだ若い警官だった。 「発見場所は小日向の東京管弦楽団事務所、刑事課の谷警部はただちに現場に向かい、署からも捜査員が出動しました。伊原芸術振興会事務所には警視庁の今井刑事、四谷署の沢田刑事が残っておられます。伊東警部補にはこのまま現場へ急行してほしいとのことであります」 「わかった。すぐに行く」 「パトカーが待機しておりますので、お急ぎください」  伊東警部補はあわただしく剃り残しの髭をあたった。  ——オーケストラの団員だといったな。身元は確認できたわけか。発見場所は東京管弦楽団事務所。待てよ、いったいどういうことなんだ。あの事務所には昨日事情聴取に出向いているが、団員の家族からの電話とマスコミの取材攻勢でバタバタしていはしたが、何のへんてつもない事務所だ。佐々木という事務職員、もう一人は藤井。あとは女子職員が二人いたが、あの小さな事務所に死体とはどういうことなんだ?  顎《あご》の下を剃りそこなって、糸のように血が滲んできた。顔を洗い、傷口を見るとたいしたことはなかった。  汚れ物の靴下と下着をスーパーのビニール袋に収めるとゴミ箱に投げ込み、上着を片手に、片方では頤《おとがい》をハンカチで押さえ、小走りに階下に向かった。  死体を見て伊東警部補は驚愕した。死体がショックだったのではない。死体は見馴れている。量は葬儀屋ほどではないが、質は比較にならない。凄惨なやつを何度も見ている。  しかし、コントラバスケース詰めの死体などというのは初めて見る。  だいいち、コントラバスのケースというものを初めて見た。  実に大きい。コントラバスというのがヴァイオリンのお化けのようなものであることは知っているが、それにしても大きい。 「普通、フェルト貼りの中敷きのようなものがあるそうです。楽器を保護する形に型押しした中敷きです。それが切り取られている。死体を詰めるにはこうする方がぐあいがいいということかな」  先に現場へ駆けつけた谷警部がいった。 「なるほど」  伊東はあいづちを打ちながら、死体に注視した。  年齢六十前後。小兵短躯。眼鏡なし。黒の礼服のような、オーケストラの舞台衣裳をきちんと着ている。  死体の腕で、アナログ式の腕時計が時を刻んでいた。伊東警部補は自分の腕に巻いた廉《やす》いデジタル時計と時間を照合してみた。一分ほどのズレは、おそらく伊東の時計の誤差だった。主人の異変をよそに、誇らしげに時の番人を続けているオメガを見ていると、伊東は一抹の哀れを誘われた。  顔に苦悶の表情はなかった。あったのかもしれないが、いまは認められなかった。口はわずかに開いて、右の方の歯がほんのわずかのぞいていた。何か思慮深いような、どこか皮肉っぽくも見える表情だった。  それが礼装とよく似合っていた。  概して、礼儀正しい死体だった。着衣が着衣だけに、どこか道化じみていて、見る者に悲哀と滑稽が入り雑じった複雑な印象を与えた。  伊東警部補の驚愕は、事件にこのような殺人沙汰が続発するとはまったく想像すらしていなかった、その意外性にほかならない。  とはいうものの、殺人とは即断できない。検屍と、正確なところは解剖の結果に待たねばならないだろう。しかし、コントラバスケースの中に入って自殺する者がいるだろうか。この小さな密室には外から止金がかかっていたのだ。  これはつまり無言の恫喝《どうかつ》ということだろうか。  だとすれば、残り四十九名の生命の危険も考えられる。  犯人は異常者なのか。  集団誘拐というそれ自体、まともではない。犯罪にまとももないものだが、身代金要求が犯人側の本心だとすれば、あえて五十人もの人間を人質に取るというのは狂気の沙汰である。だからこそ、この事件にはどこか芝居じみた、胡散臭いものを感じないではいられなかった。すくなくとも、人質の生命が危ぶまれるような気配は嗅ぎとれなかった。極論すれば、きわめて悪質な悪戯に類するもののような気もしていた。  しかし、殺人まで実行するとなれば話は別だ。 「死体の身元は?」  伊東は谷警部に質した。 「東京管弦楽団団員、頭師《ずし》国夫。五十九歳。オーケストラ草創期からの古参団員で、ヴィオラのトップ奏者だということです」 「誰が確認したのですか」 「事務所の女事務員です。今、洗面所で泣いているようです」 「第一発見者は? いや、そもそもこの死体はどこから現れたのですか」 「約三十分前、午後一時三十分頃、宅配便の配達があり、事務所の佐々木という職員が梱包《こんぽう》を解いたところ、中からコントラバスケースが出てきて、蓋を開けると死体が入っていた、というぐあいです」 「佐々木は?」 「死体発見と同時に気を失って、もう一人の事務職員の藤井に付き添われて河田町の東京女子医大病院に運ばれています」 「失神した? ほんとうですか」 「事実です。よほどショックだったんだろうな。それについては、週刊誌や新聞の記者も目撃しています。いちおう、彼らは別室に待機させています。ただやつら、警察に通報する前に死体の写真を撮ったり、事務員から被害者のことを聞き出したり、記事はすでに送っているようで……。あとでしぼってみましょう」 「むりからぬことでしょうな。豊田商事の永野会長刺殺事件のときだって、マスコミは報道最優先、目の前で行われる凶行を取材してましたからね」 「豊田商事!」谷警部は目を丸くした、「わすれかけていましたよ。たしか、一昨年の六月でしたね。あれはひどい話だった。……そうだ、佐々木ですけど、彼は死体を見た驚きのあまり後ろへ跳ね、壁に頭をぶつけて、そこのところ、チョークで印をつけてます、……打ちどころが悪くて意識不明になったんだそうです。念のため東京女子医大病院に確認を取ってみましたが、まちがいありません」 「宅配便の業者は押さえてありますか?」 「伝票がありますからね。署員をやっています。おっつけ状況が報告されるでしょう」  伊東警部補は死体を見下ろして、小さくつぶやいた。 「やはり殺しでしょうな」 「血は出ていないようですね。頸にも絞めた痕はない」 「検視は?」 「大塚署からそろそろ連絡がある頃です」 「どっちにしても浮かばれない死に方だなあ」 「まったく」  そこへ、制服警官があわただしく入室してきた。私服刑事を一人伴っている。続いて鑑識警官が入ってきた。 「やあ、クロさんか」  谷警部は懐かしそうに私服刑事を迎えた。 「ああ、谷ちゃんが来てたのかい。ごくろうさま。地検から代行検視の指揮をいってきた。いまからやります」  谷警部はうなずいて、伊東の方へいったん向き直ってから、 「こちら警視庁の伊東警部補。れいのオーケストラ誘拐事件で一緒に捜査している。このホトケさん、オーケストラの団員なんだ」 「ああ、あの事件のね」私服刑事は伊東に向かって、「大塚署の黒木といいます。谷君とは警察学校の同期でしてね。それにしても妙な事件で、たいへんですな」  白い歯を見せ、微笑しながらいった。 「いや、ごめんどうかけます。妙な事件、まさにそのとおりですよ。これが他殺ということになったら、……他殺じゃなくてもですが、さらに奇怪千万な事件ということになります」  黒木はコントラバスケースの中に安置された死体を一瞥し、大きく同意してみせた。  黒木がポケットから白手袋を出すと、それを合図のように検視が始まった。 「撮影、始めてくれ」  鑑識係が歩み寄り、ストロボが焚《た》かれる。 「どれどれ。着衣に乱れはない。頭部、顔面、頸部、いずれも外傷なし」  頭を持ち上げて、しばらく検分してから独語するようにいった。そして、着衣を部分的に撫でては手袋を見る動作を全身にわたって行った。 「出血、血痕なし」  さらに死体を半分起こすようにして背中の部分を眺めてから、「創傷は脱がせなきゃわからんが、どうもないみたいだな」  頭師国夫はふたたびコントラバスケースの中で眠りの姿勢に戻った。  黒木は死者へ接吻するように頭師の口に顔を近づけた。 「青酸化合物でもないな。酒も飲んでいないようだ」  鼻翼をうごめかせて、いった。  次に死者は四肢を、人形を操るように動かされた。 「硬直あり」  続いて、袖が捲くられ、腕が観察された。同様に足も観察される。 「死斑もかなり見られる」  さらに、黒木は床に手をついて、死者の陰部から肛門のあたりへ顔を近づけた。 「失禁はなし」  起き上がると、ふたたび頭師の顔に近づく。中腰になって、瞼を拡げたり、唇を捲ったりしている。  それが終わると、着衣のポケットの中を調べたが、内ポケットにハンカチーフが一枚あったきりだった。  黒木は部下を手招きして、ハンカチを渡した。 「ちょっと拝見してみようかな」  つぶやきながら、死体のズボンのベルトを緩め、ジッパーを開ける。  下腹部を露出させた。 「うむ。これ撮っといてくれ」  ズボンを元に戻すと、 「よし、外部所見を一通り撮影しといてくれ。撮影が終わったら、死体はこのまま署へ搬ぶように。遺族に連絡、署の安置室で確認してもらおう。これじゃ、見せられない」  警官に命じると、谷警部にコントラバスケースが梱包されていたかどうか訊いた。 「段ボール箱に入っていた。箱はさらに木枠で補強してあったそうだ。ちょうど、冷蔵庫みたいな感じだろう」 「じゃ、梱包材料と梱包を解いた道具も全部、お持ち帰りだな」  手袋を脱ぎながら、警官に命じた。 「木枠を外すとき、外した者が指に木のトゲを刺したらしい。ひょっとしたら微量に血痕が付着しているかもしれんよ。その男はいま病院に入院している。血液型を確認しておいた。AB型だ」  谷はいいながら、煙草を箱ごと差し出す。  黒木は手を否定するように振ってみせた。 「禁煙してるんだ」 「ほう、感心だね」  谷は空振りの煙草を自分で咥《くわ》え、ライターを取り出しながら、 「死後経過はどのくらいだと思う?」 「二十時間以上、三十六時間以内……、というところかな」 「そうだね。下腹部に変色が来ていたね。角膜も混濁していた。硬直のぐあいどんなだった?」 「かなりあるよ。特に下肢に顕著。まだ緩解が始まっていない感じなんだが、素人にはもう一つよくわからない」 「何が素人だよ。死体の名人のくせに」 「いや、裸にしてみればもっと分かるかもしれないけど、それより解剖を急いだ方がいいと思うんだ」 「どう、他殺?」 「なんともいえないね。とにかく、解剖してみなきゃ」 「解剖の結果が出る前に」伊東が割り込んだ、「四谷の伊原財団事務所へ犯人側から連絡が来るかもしれない。死体を宅配便で送ってきたんだ。状況からすれば他殺以外のなにものでもない」 「そうですね。何らかの連絡があるはずだ。帰りますかな、四谷へ」  谷が煙を苦そうに吐いた。 「おれも署に帰るよ」黒木は手袋をポケットにねじこみながら谷にいった、「すぐに手続きして、解剖してみよう。結果はわかりしだい連絡するよ」 「ああ、たのむよ。しかし、ふざけた真似をしやがる。遺族はたまらないよ。亭主が殺され、宅配便で発送される。しかも、亭主の愛用していた楽器のケースの中に詰められてだ」谷は黒い棺《ひつぎ》の中に視線を落として続けた、「ひどい話じゃないか」 「たしかに」伊東が相槌を打った、「ただ、愛用していた楽器のケース、ではない。この頭師さんというのは東京管弦楽団のヴィオラ奏者だそうだから」 「そうか。つい、勘違いしてた。そうだ、ヴィオラだったな。ヴィオラってのは、あれですね、宮様がやってる楽器だ。ヴァイオリンより少し大きい」 「よく知ってるじゃないか」黒木が笑いながら口をはさんだ、「クラシックなんか縁がなかったはずだぜ」 「これでも結婚前はコンサートに上野通いしてたこともあるんだ」 「へえ初耳だ。でも、いまはサントリーホールだそうだ」 「そうらしいな。女房に一度連れていってくれってせがまれてる。なんでも、残響が長くて、ヨーロッパのホールのような音がするそうだ」  警察学校同期生の音楽談義を聞きながら、伊東は何か心にひっかかるものを感じた。  ヴィオラ、宮様がやってる楽器……。  しかし、伊東はこの疑念を把握できなかった。 「死因もですが、発送の方法、場所等の捜査が急がれますね」  黒木が調子をあらためて伊東にいった。 「そうなんです。それはいま蒲郡警察署にやってもらってます。今日中にも結果が出るんじゃないでしょうか。宅配便ですからね。すぐにわかりますよ」 「しかし宅配便とは大胆だな。しかも着払いとはね」 「いや、だいたい見当はつきます」伊東は軽い調子で応じた、「着払いでなければ発送できなかったのでしょう」 「というと?」  黒木は質問の表情を泛べた。  谷も同じ表情で伊東を見た。 「つまり、犯人としたら宅配便業者に顔を見られてはまずい。顔を見られず発送する方法が一つだけあります。いや二つかな」 「手紙を郵便ポストに投函するようにですか?」  黒木が興味深そうに訊く。 「ええ」伊東はむしろ淡々とした口調で答えた、「宅配便屋の閉店後に店の前に置いておく方法です。所定の用紙に記入しておけば、翌朝宅配便屋はとりあえず発送するでしょう。請書は郵便で送ればいい」 「発送する前に電話で確認しませんか」  と、谷がさえぎる。 「するかもしれないし、しないかもしれない。することを前提に、架空の電話番号とか、何度かけても通じない電話番号を書いておけばいい。それはどうとでも工夫できます」 「なるほど。宅配便業界も競争が激しいようですからな、いちいち確かめたりはしないのかもしれんな」黒木刑事課長がいった、「で、もう一つの方法はなんです?」 「あらかじめ業者に電話をかけ、時間を指定して取りによこす。不在の家を利用するんです。差出人の住所氏名もそこにする。何時頃来てくれ、その時間は留守にしているが、荷物は玄関の前に出しておく。伝票は投げ込んでおいてくれ。これでいい」  黒木と谷は感心したように大きくうなずいた。 「たぶんそのどちらかでしょうな」  伊東は確信したようにいった。 「いや、それにまちがいないでしょう」谷が同調した、「あの業界は時間いくらで仕事をしてますからね。差出人より届け先優先、とにかく届けさえすれば金になるわけだ。それにしても殺した上に、宅配便で送るなんてのはどう考えても許せない。とんでもないやつらだ」 「おれの勘なんだが」黒木刑事課長は少し抑えた声でいった、「他殺じゃないような気もするんだ。殺された人間ってのはいままでの経験からいうと、殺されましたっていう表情がどこかにあるんだ。それがない」 「いや、他殺だよ」谷が反論する、「やつらは本気なんだ。冗談かとも思っていたが、本気で五億円を狙っている。手段を選ばないつもりだ。へたすると、まだ殺される人間が出てこないとも限らない」 「物騒なことをいわないでくださいよ」  伊東は肩をすくめ、 (まだ、四十九人もいるんだ)  と、これは口の裡《うち》で続けた。  どこからか蝟集《いしゆう》してきた野次馬や報道陣の囲みを破って伊東、谷の二人はパトカーに乗り込み、四谷に向かった。  途中、伊原財団の事務所から無線が入った。  伊東の予想どおり、犯人からの電話連絡が来たのだった。  ——死体を見たか。さらに犠牲者を出したくないなら、要求に百パーセント従え。また連絡する。  電話はそれだけで、逆探知もできなかったという。 「やはり本気なんだ。やつらを甘く見すぎていたようだ」  伊東警部補は低く呻いた。 「しかたないでしょう。われわれは良心的にやっている。次のチャンスにかけましょう。それに、宅配便業者の線もある。そこから割れるということも」谷警部は自ら慰撫《いぶ》するような調子で続けた、「やつらが本気で五億円を狙っているのなら、むしろ望むところじゃないですか。金に手を伸ばしてきたところを叩くのが最も確実です。普通の誘拐事件なら人質が殺害されてしまえば最悪の経過というところですが、逮捕のチャンスはまだ失われたわけじゃない。まだ、人質は四十九名もいるんです」  谷は一瞬しまったという顔で、語尾を呑んだ。「まだ四十九名」というのはたしかに不穏当な表現であるが、伊東は苦い気分になった。 「いずれにせよ大黒星です。電話番をやっているんじゃなきゃ、いまごろは総監室でコメツキバッタだ」  伊東は自嘲的にいった。 「わたしだって同じです。署長はもっと悲惨だろうな。こんなときは偉い人ほど辛い目を見る。とはいうものの、われわれだって、もう一人殺されるか、次のチャンスに犯人を押さえられなかったりしたら、どうなることかわかったものじゃない」  苦い声で谷が応じた。 「夕刊、でかでかと出るでしょうな。消えた団員たちはこの日本のどこかにおり、事件発生後三日目になっても、当局は団員をまだ発見できないでいる。五十名もの人間がどこかに監禁されているんだ。この狭い日本で発見できないのは怠慢じゃないかといわれても仕方がない」  伊東は腕を組み、渋面をつくった。 「それにテレビも」谷が煙草を取り出しながらいった、「……まったくこの事件は最初から報道関係がガラス張りなので、やりにくい。お偉方にしてもそこが辛いところだろうな」 「テレビはひどいな」伊東が応じた、「今朝の番組でも、発生時点で検問を敷いておけば楽器運搬トラックは発見できたはずで、最初から警察のミスだなどと騒いでいたが、山下署も耳が痛いね」 「山下署は大迷惑ですよ。コンサート会場からオーケストラの団員が消えたというだけで検問ができるんだったら苦労はない。あの東京管弦楽団のトラック運転手、あいつが早く出て来ていれば、結果はちがったものになったかもしれないが」 「よくない時というのは、えてしてそんなものかな」 「実際のところ、上層部《うえ》はいま報道関係と被害者の家族との対応だけで青息吐息でしょう」  さすがに、財団事務所は沈鬱な空気に包まれていた。 「お疲れでした」 「お帰りなさい」  四谷署の沢田刑事、警視庁の今井、山口両刑事がソファから腰を上げ、浮かぬ顔で戻ってきた二人を迎えた。 「警部、もうテレビがやってますよ」  沢田刑事が、音量を抑えたテレビを指さし、谷に告げた。  テレビは頭師国夫の変死体発見のニュースを流していた。画面に映っているのは、小日向の東京管弦楽団事務所で、谷たちと入れかわりにテレビ局の中継車が行ったようだった。揺れるテレビカメラが、事務所前で警備にあたっている制服警官や野次馬たちを映している。 「電光石火だな……」谷はあきれたようにつぶやくと、「署から連絡来ていないか? 宅配便の件だ」部下に訊いた。 「いえ、まだです」 「そうか。たぶんそのうち連絡が来るからな。蒲郡か……。ことによると、こちらから打って出ることになるかもしれん」 「そうなるといいですね。ここは息がつまる」  伊東警部補がネクタイを緩めながらいった。  村井両平の姿が見えない。伊東が指摘すると、 「着替えと入浴に二時間だけ帰ってもらうことにしたのですが……」  沢田刑事が不安そうに答えた。 「まあ、いいだろう。そういえば彼もずっとここに張りつけだったからな……」  伊東は村井のデスクを眺めながらつぶやいた。     2  村井両平はJR大井町駅の南口に出るとそれとなく背後を窺ってみたが、尾行者らしい人間は見当たらなかった。ホテルは歩いても数分だったが、タクシーを拾った。念のため目的地とは無関係の方向にしばらく走らせた。右左折を何回も指示し、追尾してくる車がいないか注意を払った。それらしい車輛のないことを確認し、そこではじめて目的の場所を告げた。  ホテルに着くと村井はすぐにロビーから電話を入れ、来訪を告げた上で島村夕子の部屋を訪ねた。  島村夕子は笑顔で村井を迎えた。 「缶詰はつらいわ。よく来てくださいました」  シートをすすめた。 「いや、お察しします。格子なき牢獄というところですね」 「牢獄というには豪華すぎるけど」  島村夕子はそういって、室内をさっと一瞥した。 「どうです? 居心地は」 「家具調度はもちろん、調律されたベーゼンドルファー、ハイファイ装置にAV装置、ワープロ、遠赤外線サウナ、エアロ・バイク、いたれりつくせりとはこのことですわ。よくこんなホテルをご存知だったわね」 「あなたのためのホテルですからね」  さりげなく村井が応じると、 「わたくしのため、そうおっしゃった?」  強い疑問の表情で訊ねた。 「このホテルは伊原産業の専用ホテルでしてね、今年の春オープンしました。一般客は紹介なしでは利用できません。会長が、あなたが必要な時に利用できる一室を設けるよう指示されまして、それがこの部屋というわけです」  島村夕子は唖然とした顔で、部屋を見回した。  ふたたび村井に視線を戻したが、なぜ黙っていたのかと眼が問いかけていた。 「このことをいうと、ホテル入りを承知なさらないのじゃないかと思いまして。いや、もうしわけありませんでした。しかし隠れ家としてはここしかありませんからね」  島村夕子は肩で大きく息をつき、両手を頬にあてると、 「またしても、あの人の助けを借りてしまったというわけね」  詠歎と自嘲の入り雑《まじ》った調子でつぶやいた。 「やはりご不満ですか?」  島村夕子は始めは大きく、それから小さく何度も頸をふった。それは否定とも肯定ともつかなかった。  村井が話題を変えようと思って視線をさまよわせると、目の前の応接テーブルのかすみ草をあしらった赤い薔薇が目に止まった。薔薇は何か濫費を思わせるほどの量だった。  夕子は村井の視線を認めて、 「ああ、その花、うれしかったわ。感動しました」  優しい声音でいった。 「でも、この取り合わせはまるでジゴロが届けさせたみたいだ。もっとしおらしい花を選んでほしかったな。なにしろ時間がなかったもので、適当に見繕《みつくろ》うよう伝えたのですが……」 「薔薇は好き。バロー先生も薔薇を愛されてましたの。白薔薇だけど」  島村夕子はいとおしむような視線を注いだ。すると、凝視するときの独特の斜視がかったまなざしになり、それが村井の心を痛痒《いたがゆ》く濡らした。あわてて村井は本題に入り、事件の経過を報告した。  テレビと新聞でたいていのことを知っている島村夕子は、おおむね平静に聴いていたが、村井が話し終わると、最も気になっているらしいことを質問した。 「五億円の支払いですが、伊原にとってどうでした?」 「どうとは?」 「五億円があの人にとってどういうものなのだか、わたくしにはよくわかりませんから……。でも、やはり恩に着なくちゃいけないのでしょうね。このホテル同様」 「われわれにとっての煙草代かコーヒー代くらいのものだとお考えになればいい」  村井は軽い調子でいったが、眼はそういっていなかった。 「スイスの宝のことを考えると」夕子は遠くを見る眼でいった、「五億円も微々たるもののように思えますが、しかしそれは誰も知らないことですし、ゆえなくオーケストラを誘拐されて五億円を要求されたというのが、表向きは今回の事件なのですから、これはやはりひどいお話ですよね」 「しかし、五億円の要求は意外でした」 「ええ」夕子は同意するようにいった、「わたくしも最初は意外な感じがしました。つまりこれは、事件の現実感の補強ということかしら」 「リアリティのためだとしたらちょっと薬がきつすぎませんか。やはり本気で五億円をほしがっているのではないでしょうか」 「でも彼はその十倍以上の値打を持つものを手中におさめているんです。渡欧し、エージェントを雇って競売にかける、あるいはブラックマーケットで売却すればいいんです」 「そのための資金では?」 「五百万もあればじゅうぶんではないかしら。なにも五億円を危険を冒してまで欲しがるとも思えないのですけど」 「ご承知かと思いますが、欧米では企業を標的にした誘拐は一種ビジネス化しており、警察に代わる専門の業者もあるくらいです。業者は犯人と交渉して身代金の額を値切ったり、金と人質の交換にあたったりする。たいていの場合身代金は取られて当然、人質が生還すればそれでよい」 「一流企業の社長や家族を身代金目的で誘拐するのはイタリアのお家芸ですわ」 「日本でもかい人21面相というグループが、食品メーカーを相手に大がかりな脅迫事件を起こしている。店頭の製品に毒を入れ、不特定多数の国民を人質にする。この事件は犯人グループが未検挙のままだし、企業のなかには裏取引に応じたものもあるのではないかといわれています。こんなことから、日本にも欧米なみの誘拐産業が出現するのではないかと危ぶむ声がある。マスコミも今回の事件をそういうものとしてとらえている。警察は警察で威信をかけて捜査に全力投球するでしょう。金を要求したということは警察の広域捜査に拍車をかけたことになります」 「しかし、マスコミにとってはより刺戟的でインパクトも強い……」 「両刃の剣というわけです」  村井も島村夕子も犯人側の真意をもうひとつはかりかねた。  平田佐一の、日本人にしては妙に黒瞳が淡く、削いだような頬にだけ翳の濃い、独特の風貌が思い出された。五億円と平田とはやはり結びつかなかった。 「あの『運命』だけど、いま考えてもぞっとします」  島村夕子が浮かぬ顔でいった。 「あれはなかなかの演奏でした」村井は賞賛の表情でいった、「どのくらい練習なさったのですか?」 「一ヵ月くらいかしら。シンフォニーと並行して勉強しました」  島村夕子はテレビに視線を向けた。テーブルのリモコンを取って、NHKにチャンネルを更《か》えた。そろそろ三時のニュースだった。 「あの程度のピアノ演奏を人前でやってしまったことが悔やまれてなりません。オーケストラのみなさんの安否もたしかに心配です。家族の方たちの心痛を思うと事件に手を貸してしまったことに苦痛を覚えます。でも、こんなことは誰にもいえないことだけど、時間を元に戻したい、事件後そればかりを考えています。あんな子供だましのようなピアノを弾いてしまったことが辛いのです。千五百人の聴衆の記憶を消すことができたらどんなに幸せかしら。そんな夢みたいなことばかり、埒《らち》もなく考えているのです。あのような演奏をして、バロー先生にどう申し開きができるというのでしょう」  島村夕子がオーケストラの団員の安否や家族のことに言及したのはこれが初めてだった。しかも、島村夕子は芸術家としてのエゴイズムを隠そうともしない。  村井はベッドの枕頭に楽譜が開いてあるのを認めた。リスト編曲の「運命」だった。鉛筆が挟んであった。  楽譜と対話しながら、新たな発見や創意をピアノで確かめてみたくなるのにちがいない。そう、村井は思った。  島村夕子が常人とは異なる秩序と美学の世界の住人であることを、いまさらのように思い知らされた気がした。まぎれもなく、それは美に囚われた人の不幸を物語っていた。 「そうだ、大事なことを聞き洩らしていました。オーケストラはあの演奏会の段取りをどこまで知らされていたのですか?」 「まったく何一つ知らされていなかったのではないでしょうか。『幻の運命』になるとも知らずに、彼らは実によくやってくれました。総練習《ゲネラル・プローベ》の演奏はなかなかよかった。ピアノを弾くことに比べると、オーケストラの指揮というのはある意味で大味なものです。ここから先はオーケストラの領域だという、ある種の隔たりを感じますわ。でも、あれはいい演奏でした。あれならバロー先生にお聴かせしたいくらい。もっとも合格かどうかはわかりませんけど」 「それは私も聴きたかったな。ところで、彼らは何も知らずにステージに登場し、プログラムに従って演奏を続けた。そうすると『告別』での楽員退場は事前に打ち合わせておいたのですか?」 「そうです。そうせよと指示されていましたから」 「ステージを退場してからの彼らの消失が不可解です。きわめて迅速かつ整然、まるで聞き分けのよい優等生の団体行動だ。舞台袖に誰かが待機していて、たとえば拳銃で威圧したとしてもその場は大混乱、騒ぎは会場の千五百人の耳にも届いてしまいます」 「土壇場になって知らせ、しかも否応なく従わせてしまう方法がないわけではありません。土壇場というより本番の真っ最中にオーケストラの全員に指令する方法が……」 「本番中に? つまり『告別』の演奏中にですか?」  村井は強い疑問の調子で訊ねた。 「そうです」 「千五百人の聴衆を前にしてですか?」 「そう。考えられるのはたった一つ」  島村夕子はいいかけて、テレビの画面にさっと視線を投げた。  それまでアナウンサーが報じていたのは、防衛庁の発表による次期支援戦闘機の米機購入案に関するニュース、ついで今朝八時四十五分収監先の八王子医療刑務所で獄死した帝銀事件の平沢貞通死刑囚に関する報道であったが、 「次のニュース、東京管弦楽団誘拐事件に関連するものと思われる団員死亡事件が発生しました。午後一時二十分頃、東京都文京区小日向の東京管弦楽団事務所に……」  アナウンサーの原稿をめくりながらのやや緊迫した調子に、村井も画面に見入った。  ダイアローグ   ——なんということをしてくれた。もうこれで完全に破滅だ。人殺しまでする必要がどこにある。身代金目的の誘拐、おまけに殺人。………破滅だ。ステラもこれでおしまいだ。訪問販売員を含めて全国二万人のステラの人間が路頭に迷うことになる。おまえは悪魔だ。悪魔の囁きに耳を貸したおれは大馬鹿者だった。ああ……。  ——そう悲観的になるものじゃありません。まだまだ勝負はこれからですよ。  ——何をいってるんだ。警察がこれで捜査に総力を投入してくるのは必定だ。日本の警察を甘く見るな。隠し場所が暴かれるのは時間の問題だ。  ——イカワ側から漏れなければ、まず百パーセント安全です。  ——隠しおおせたとして、人質解放はよほど慎重にやらないと危ないぞ。  ——その点も抜かりはありませんよ。人質はいま自分たちがどこにいるのかもわからない。わからないまま、やがてまた一眠りさせられて、信州杖突峠あたりで目を覚ますことになるのです。それより、私が電話したのはほかでもない。あれは殺人なんかじゃない、だから心配御無用とお伝えしたかったんです。  ——殺人じゃないって? テレビを見ろ。殺人と決めつけている。現に「これ以上、犠牲者を出したくなかったら要求に従え」というメッセージを送ったのはあんたなんだろう?  ——もちろん私です。有効利用ということですよ。  ——有効利用?  ——頭師国夫の死は病死です。  ——病死? ほんとうか。  ——これは私のミスでね、頭師は頭が悪い。音楽家にこんな馬鹿がいるとはね。こどもみたいにやみくもに逃げ出そうとしたんです。臆病なうえに頭が悪いのだから始末に負えない。状況がまるでのみこめていない。あいつはヒステリー女みたいに泣き叫んだあげく逃げ出した。そうして、運悪く発作を起こしましてね、心臓麻痺か何かです。他の団員に聞いたら、頭師は過敏体質で、日頃から病弱だったそうですよ。  ——しかし、世間は殺人に決めつけてる。  ——不慮の死を利用しない手はない。私は黒い素敵な棺桶まで用意してやったんです。殺人、けっこうじゃありませんか。そのほうが面白い。しばらくそう思わせておきましょう。解剖の結果、殺人なんかじゃないことが明らかになる。この殺人騒ぎはT計画の番外編だと考えればよいのです。  ——それじゃ、あくまで計画通りに事を運べばいいのか?  ——ステラは事件とは関わりがないのです。それは最初からそう決まっていたんじゃありませんか? 忘れちゃいけません。だから勇気をもって、あくまでもステラの計画を進めればいいのです。それでは、成功をお祈りします。     3  大桟橋の出航風景はおもわぬ拾い物で、並木も蓮見典子もしばし声もなく見入り、船が沖合にその船姿を指先大ほどに縮小するまで見送っていたが、やがてどちらからともなく、もと来た方へと歩み出した。  せっかくの休日、事件の推理をし合って別れるのも、いかにも芸のない話だと並木が思っていると、 「もしよろしかったら、横浜を案内していただけませんか?」  気持ちが伝播《でんぱ》でもしたかのように、典子が申し出た。  並木は喜色を浮かべて、 「つきなみだけど、港の見える丘公園にでも行ってみますか?」  快活に応じた。  典子は頭だけでなく、半身で同意した。  山下橋を渡り、公園内に入り、坂道をフランス山に向かった。  坂はかなり急勾配で、木々が鬱蒼と繁り、樹木の密度の高い所では足もとが小暗いほどだった。葉末を渡る風の音が騒がしく、きつい樹の匂いがした。  展望台は人で賑わっていた。  カメラやビデオを携帯した旅行者が目立ったが、ぴったりと抱き合っている遠慮のない男女も何組かいた。  並木はここで小休止した。山下公園と異なり、視界は俯瞰する形になるため、海がまた別の趣で眺められた。すぐ左手には山の稜線に中ほどから下を隠されたマリンタワー、その前に氷川丸が見えた。正面は港はもとより、京浜工業地帯まで遠望できた。 「見えますか? 非常に遠く、かすかに山が見えますけど」  並木は指さしていった。  典子は視線をさし向けた。 「あれは房総の山々です」 「いいですね、並木さんは。海が見たくなったらすぐですもの」  典子は羨望の調子でいった。 「こどもの頃から見てますからね。でも忙しい日が続くと何日も見ないことがあって、そういうときは見ると、やっぱり安心するというか、悪くないですね」 「贅沢だな」 「そうですか」並木は微苦笑して、「あなたは休みの日、何をなさってるんですか?」 「水泳にでかけたり、夜は彫金をやったり……」 「いい趣味ですね。彫金というのは鑿《のみ》や金槌やバーナーで金属を加工するあれですか?」 「ええ。夜遅くまでやってると兄の機嫌が悪いんです」 「噪《やかま》しいから?」 「それもあります。粉塵やガスがよくないし。でも、一度、一度だけですけど、バーナーを点けたままうたた寝してしまって、髪を焼いたことがあるんです。それで懲りたらしく……」 「あなたが懲りたのでは?」 「髪はまた伸びますわ」 「それはそうだ」  並木は声に出して笑った。  並木は、氷川丸の手前、遊覧船発着所から白い船がいま出航したのを認め、指さして典子に示した。船は山下埠頭に沿って、沖をめざし、白波を蹴立てている。 「窓の多い船ですね。遊覧船?」  典子は訊ねた。 「マリーン・シャトルです。この先、本牧《ほんもく》埠頭、根岸沖あたりから検疫錨地、扇島沖、火力発電所あたりを遊覧して帰ってくる。約一時間半のコース」 「船はいいな」  典子はつぶやいた。 「七月から納涼船が始まります。夜七時の出発ですから、夜景が楽しめますよ」 「じゃ、それに乗りにこようかしら」 「ほんとに、来ますか?」 「ええ、きっと」 「では切符を手配しておいてあげましょう」  典子は両手を打って、ちいさな歓声をあげた。  並木は典子のいささか少女めいた反応を微笑で迎えたが、 「オーケストラの話に戻りますが」声の調子を落としていった、「彼らが船でどこかへ連れ去られたという考え方も当然あり得ます」 「それは、たいてい最初に誰もが考えることでしょう。ベイ・ホールと海とは目と鼻の先ですもの」 「五十人もの人間が消えるとなると、陸よりはむしろ海の方がふさわしい感じがします。捜査は当然、海路にも及んだはずです。しかし、捜査状況についての報道はいっさいされていない。たぶん、報道管制が敷かれているんでしょう。犯人側を刺戟しないようにという、こういったケースでの定石です」 「新聞もテレビも、『オーケストラのゆくえ、いぜん手がかりなし』といった調子の報道にとどめているけど、捜査は必死に続けられ、もしかしたら手がかりの一つや二つはつかんでいるのかもしれない。そう、考えてもいいのかしら」 「ちょっと確かめに行きましょう」 「?」  近所へ煙草を買いにでも行くような調子に典子は戸惑いを見せていたが、 「すぐそこです」  並木は背後を振り返って茶色の建物を示した。  それは先端に触角のような避雷針を立て、音もなく滑らかに回転しているレーダーやアンテナを装備した白い鉄塔と、半円型の展望室のようなものを備えたビルだった。壁面に「東洋信号通信」と社名が見えた。通信の「信」が半分、木々に隠れて、その下の文字は見えない。 「東洋信号通信社を訪ねてみます。事件と船舶との関連はここでほぼ完璧に明らかにされるでしょう」 「東洋信号……通信社?」 「ええ。港に出入りする船舶のことならここがいちばんよく知っている」 「船のことは、たとえば港湾局とか、水上警察が把握しているのではないのですか?」 「その港湾局とか水上警察とかが情報を仰いでいるのがここなんです。この会社は、横浜港に入港し、バースやブイに繋留される船舶の状況を常にチェックし、税関や入港管理事務所などの諸官庁はじめ、船会社や代理店、荷役業者、クリーニング業者などに情報を送るという仕事をしているのです」 「民間会社なんですか」 「ええ、株式会社です」 「そういう仕事を民間がやってるなんて、ちょっと不思議ですね」 「たしかに。一年ほど前、不良外人の事件に関連してここに捜査の裏付けを取りに来たことがあります。たしか木下とかいったかな、なかなか親切な応対をしてくれて……、その人がたぶん憶えていてくれると思うのだけど」  玄関前に来ていた。  二階の事務所が見え、そこでは数人の男の社員が電話をかけていたり、机の書類を睨んでいたり、なかなか忙しそうだった。  並木は典子に少し待つよう言い置いて、中に入っていった。  五分ほどして、並木は緊張の面持ちで出てきた。 「警察からも照会があったそうです。結論からいえば、該当するような船舶はないとのことです。もっとも、何十トンとか何トンとかの舟はチェックしていませんから、たとえばボートに分乗したということも考えられなくはないが、何隻ものボートを連ねて逃亡するとなると犯人側にとってまた別の困難が種々生じてきますから、やはり海路の可能性はきわめて低いと考えるべきです」  並木は早口に告げると、一息入れ、 「それより、たいへんな状況変化です。歩きながら話しましょう」  先に立って歩きだした。 「小日向の東京管弦楽団事務所にコントラバスケース詰めの死体が届いたそうです」 「死体ですって?」  典子はおもわず歩みを止めた。 「ええ、オーケストラ団員の死体です。テレビのニュース速報があったそうです」 「殺人か……」  典子は呻くようにつぶやいた。 「殺人は困ります」典子は困惑の調子で続けた、「だって、それじゃイカワの書いたシナリオだという設定はまるで説得力がなくなってきますわ」 「たしかに」並木はふりかえり、「イカワと殺人は結びつかない。われわれがこれまで推理してきたのは、オーケストラ消失がイカワの起死回生の大博打で、そのことで世間の耳目を集め、それによる利益の獲得ということでしたが、殺人はまずい。犯人の顔がまた見えなくなってきた」 「これをイカワの書いた筋書だとし、大がかりな宣伝戦略だとすると、オーケストラの全員が生還することは必要不可欠の条件ではないかしら。陰惨な事件は誰も歓迎しません。たとえば、三菱銀行北畠支店の梅川事件、あれはひどい事件でした」 「人質の行員に同僚の耳を削がせたり、裸にしたり……。結局、警官と行員が、たしか四人殺されたあげく、梅川も狙撃班に射殺された」 「その結果、北畠支店は業績が上がるどころか、結果的には店名変更にいたりました。イカワが人工象牙を使った新製品のキャンペーンに事件を利用したのだとしたら、島村夕子さんが事件の渦中の人としてヒロインになり、オーケストラは無事保護され、犯人は捕らえられず、事件は謎のまま迷宮入りし、オーケストラ消失という輪郭だけを人の記憶に刻印し、そうして効果的な時機に彼女がイカワのイメージ・キャラクターとして登場する、こうでなければなりません。梅川事件のような経過はイメージ・ダウンもいいところですわ」 「おっしゃるとおり。しかし、現実の経過は猟奇的な殺人にまで発展してしまっている」 「原点に帰らなければどうしようもないのではないかしら?」 「というと?」 「島村夕子、東京管弦楽団の佐々木と藤井、すくなくともこの三人の事情聴取を徹底してやるべきではないでしょうか」 「彼女はいまのところマスコミ対策という大義名分、まさに大義名分もいいところですが、それを隠れ蓑《みの》に行方を晦《くら》ましている。捜査の手が彼らに及んでいないとは考えられないが、そろそろぼくも動いてみるべき時かもしれません」  パーキング近くまで来てみると、フィアットの傍らに人がいるのが認められた。  その男はこちらに気づいたのか、のびあがって手を振った。 「検事、さがしていたんです」  男は手を振りながら叫ぶようにいった。 「同僚の酒井検察事務官です。何かあったみたいです」  並木は歩みを速めながら、説明した。 「お休みのところ、もうしわけありません」  酒井は早口にいうと、典子に向かって会釈してから、 「矢部さんが亡くなりました。今朝だそうです」 「矢部が?」  並木は驚きの声をあげたが、みるまに表情は渋面にかわった。 「自殺、だそうです」 「自殺?」 「今朝、自宅で頸を吊っているのを家族の方が発見されたそうです」 「矢部が……」 「今夜がお通夜。お葬式はあしたの午後一時、目白教会だそうです」  同時刻 南太平洋上空  「成田に着いたらそこでサヨナラなんていうんじゃないよな。日本の土を踏めばまた考えも変わるよ」  気流が安定し、飛行機の揺れが落ち着いた頃を見計らって、青木馨はおそるおそる妻の座席に向かい、肩越しに声をかけた。 「成田でさよならはしないわよ」  美江は短く答えた。  青木はその言葉に力を得て、妻の前に回り、中腰になって語りかけた。 「ほんとかい? じゃ、希望を持っていいんだね。いや、本当にぼくが悪かった。反省してるんだ。日本に帰ったら新婚旅行のやり直しをしようよ。だいたいオーストラリアなんてあまり行きたくなかったんだ。谷本部長が否応なくセットしてくれて、それも格安だなんていうからつい乗ったんだけど、本当のところ山陰か九州の温泉がよかったんだ。やっぱり日本人は温泉に限るよ」 「いいかげんにしてよ」美江は顎から先に顔を上げ、口を歪めて言葉を継いだ、「いいこと、成田に着いたらすぐタクシーに乗るの。そして横浜に直行。もちろんタクシー代はあなたが持つのよ。どうしてもその日のうちに区役所に行くの。そして離婚届けに署名捺印。そこで初めて永遠にさよならよ」 「それはないよ。かんべんしてくれよ。みんなにどう説明したらいい」 「真実を話せばいいじゃない」  美江は冷たくいい捨て、再び視線を自分の膝の上に落とした。 「…………」  言葉を探して苛立っている青木に、 「そうそう。大切なことだけど」こんどは顔も上げず、皮肉な口調でいった、「離婚理由をあなたが黙っているのは勝手。でも、わたしに原因があるような創作はしないでね。もしそんなことをするのだったら、ただじゃすまないわ。こういう場合、傷つくのは女だということを忘れないでよ。そのかわり、わたしもあなたのことを黙っといてあげる。あなたが新婚第一夜に何をしたか、オーストラリアの第二夜にどんなことがあったか、それは誰にも黙っていてあげるわ」 「残酷だよ」  青木は痛切な声をあげた。 「なにが残酷なものですか」美江は青木の顔を斜めに見上げ、「もう自分の席に戻ったら? 眠いのよ。昨夜わたしに一睡もさせなかった理由をもう一度思い出したら? さあ、あっちへ行って」  野良犬を追っぱらうように手を振った。 [#改ページ]   蠍とオーケストラ     1  事件についてぜひとも会って話したいことがある……、島村夕子からの突然の連絡は蓮見さやかを驚かせ、昂奮させた。 「ご自宅にお電話したのですが、留守番電話でした。日曜日なのにお仕事なんですね。お忙しいのでしょう? ごめんなさいね」  霧のようにかすれていながら調子の明晰《めいせき》な声は、すぐに島村夕子と知れ、蓮見は思わず送受器を庇うようにして声をひそめた。 「あいさつは抜きで。それにしてもいったいどうしたんです? 何度電話してもつながらない。ご自宅にも足を運んでみました。それも一度や二度じゃない……」 「たぶん一度目でしょうけど、雪谷ではお見かけしました。雪が谷大塚駅の踏切のところで」 「どうして声をかけてくれなかったのです?」 「ごめんなさい。声をかけられなかった理由も含めて、お会いしてお伝えしたいのです。この事件についてわたくしの知っていることのすべてをお話しする決心が、やっとつきました。ご存じのことと思いますが、今日オーケストラの頭師さんがあんなことになって……」 「あれは驚きました。驚いているのはぼくだけじゃない、日本中です。震撼してる」 「事件はわたくしの予想外の展開を辿って、もうこれ以上手を拱《こまね》いているわけにはいかなくなりました。今夜会えますか?」 「ぼくはいつでも会えます。ところで、今どこにいらっしゃるのです?」 「大井町のホテル。……わたくしもオーケストラと同じように幽閉されているんです」 「幽閉?」 「見張りがいるわけではありませんが」 「おっしゃる意味がよくわからない。とにかく会いましょう」 「では今夜七時。ホテルに来ていただけますか?」 「じゃ、場所を教えてください。それと念のため電話も」  送受器を戻して蓮見はしばらく呆然としていたが、気をとりなおし、まずは腕時計を視た。事件発生後四十六時間、一連の出来事に島村夕子がなんらかの関わりを持っていることは疑いもなかったが、ついに夕子本人が面談を求めてきたとなると、来るべき時の到来という感がいよいよ深かった。  蓮見はしばらく迷ったあげく、舵川編集長には島村夕子のことは伏せておくことにし、早退を申し出た。 「その後、島村夕子からは連絡はないのか」  舵川はいきなり島村夕子を持ち出してきた。  舵川の勘は社内でもつとに有名で、蓮見は一瞬見抜かれているのかと焦ったが、電話の応答は声を抑え、断片的にしたつもりだ。メモもあえて取らなかった。 「ありません」  突慳貪《つつけんどん》な声になってしまった。 「そうか……」舵川はぽつりといって、「それじゃ、バトルのインタビューにはおれが行くことにするか」 「もうしわけありません」 「いや、気にするな」  舵川は眼だけで笑ってみせ、席へ帰るよう手で示した。  蓮見は一礼して自分のデスクに戻った。  ソ連の少年ピアニスト、キーシンの再来日、同じくソ連のヴァイオリンの天才少年ワジム・レーピンの初来日、ピアノ界の長老クラウディオ・アラウの何度目かの来日、そして最近にわかに脚光を浴びてきたソプラノのキャスリーン・バトルの初来日と、五月の来日演奏家も多士済々であった。  とりわけバトルは、去年秋から国内の大手ウイスキーメーカーがテレビコマーシャルに起用、ヘンデルの『オンブラ・マイ・フ』の調べに乗せてブラウン管に登場し、その透明至純の声と神秘的な容姿が人気を集め、いまや話題の人となっていた。バトルの独占インタビューには「音楽の苑」も力を入れており、投宿先のキャピトル東急ホテルを夕食を兼ねての会見場所とし、インタビューアーには評論家を立て、通訳とカメラマンも依頼し、記事は次号の目玉となるはずだった。  蓮見自身会見を楽しみにしていたのだが、島村夕子の前には何の意味もなかった。  七時までにはまだ時間があった。いったん帰宅して出ても充分に間に合う。髭も剃っておきたいし、最近新調したばかりの夏のスーツに袖を通す好機だった。  蓮見はふたたび舵川のデスクに向かい、 「今日はこれで帰りますが、いちおうポケベルを持って出ますので……」 「そんな無粋なものなんか持って出なくていいよ」  舵川は机から顔を上げずにいった。  神保町駅までタクシーを走らせ、地下鉄半蔵門線で渋谷に向かった。  蓮見はなかば昂奮し、なかば欣喜雀躍《きんきじやくやく》する気分だった。島村夕子からの連絡をどれほど待ち望んでいたか。いつ連絡があるかと四六時中、気が気でなかった。事件発生からまる二日になろうとしている。いささか遅すぎる感は否めない。連絡があるかないか、それを蓮見は、今後の自分と島村夕子とのゆくえを占う重大な鍵であるかのように考えていた。  バロー事件を通じて島村夕子という女性を他の誰よりもはやく識った。美に身も心も捧げ、師のためには犯罪も辞さないという冷たい炎のようなものを秘めた女。眦《まなじり》を上げて瞋恚《いかり》を瞳に宿すかと思えば、満面に鷹揚な微笑をおしげなく浮かべてみせる女。そんな女の、天使のようなエゴイズムに巻き込まれるかたちでバロー日本公演に挺身した数ヵ月。犬馬の労をいつまでもねぎらってほしいとはさらさら思わないが、現実にバロー日本公演を成功させ、ある意味では画竜点睛ともいえるバローの日本客死を看取った蓮見としたら、島村夕子は共犯者であり、共犯者には共犯者の倫理があるべきだった。  したがって、オーケストラの事件を知ったとき蓮見を見舞った感情はむしろ幸福感だった。救いを求めるのならば自分を措いてほかにはいない、そんな自負が証明される好機ではないかと身内を涵《ひた》す昂奮であった。  バローをめぐる迷宮に堂々めぐりさせられ、至高の美と破邪顕正をふたつながら成就させようという島村夕子の途方もない計画に加担し、死と隣り合わせのバローの演奏会を綱渡りで成功させ、バローの死で幕を閉じたあの夢のような日々。しかし、予想もしていなかったのはすべてが終わったあとの虚しさだった。  まるで脱け殻にでもなったような、自己不在感。たしかに、あのとき自分は一度死んでしまったのだ。  そんなおりもおり、伊能功《いのうこう》が寄越した手紙は、蓮見の心にしみた。 [#1字下げ]『バローが死んでしまった今、僕は絶望感しきりです。あの神のようなバローがすべての公演を終えたあの日、僕も死んでしまったのでしょうか。 [#1字下げ] 心にぽっかりと開いた空洞を誰が埋めてくれるのでしょう。 [#1字下げ] きみはだいじょうぶですか? [#1字下げ] いや、まだ僕たちはましなのかもしれない。島村夕子さんのことを思うと胸がはり裂けそうです。彼女はバローのいないこの世にあってなお生きていられるでしょうか。 [#1字下げ] 神のようなバローが死んだ今、世間にまだピアノを弾く人間がいることが不思議でなりません。僕はあの十二月二十日、人見記念講堂での最後のリサイタルを聴いて帰る道すがら、もう二度とピアノを聴きたくない、本気でそう思ったのでした。 [#1字下げ] しかし、日毎夜毎そこかしこで、芸術家の仮面を被った阿呆どもは、鉄面皮にもピアノを鳴らしているのです……』  島村夕子は師の後を追って死ぬのではないか、伊能の指摘に俟《ま》つまでもなく蓮見もそう思っていただけに、その変貌ぶり、師を喪失した人とも思えぬ不逞なまでのマスコミへの登場ぶりに我慢ならないものを覚えた。鉄面皮とはほかならぬ島村夕子のことだった。 「いずれにしても」蓮見は口の裡でつぶやいた、「二時間後、すべては判明するのだ。二時間後……」  渋谷に着き、東横線に向かっているときだった。突如、ポケットベルが鳴った。  舵川の口吻《くちぶ》りではまず鳴るはずのないポケットベルだった。蓮見は不安を覚えつつ公衆電話を探し、カードを挿した。  舵川が出た。 「蓮見か、いまどこにいるんだ?」 「渋谷です」 「奥沢に帰る途中か?」 「そうです」 「なんだか、喧しいな。聞こえるか?」 「ええ、なんとか」 「いいか、いまからおれのいうことをよく聞くんだ。自宅に帰ってから二者択一をしろ。つまり島村夕子を取るか、沢木圭子を取るかだ」 「なんですって?」  沢木圭子と聞こえた。聞きまちがいではない。 「沢木君が見つかったんだ」 「圭子ちゃんが?」  蓮見は耳を疑った。同時に、沢木圭子は死んだのではないかと思った。 「伊能先生からたったいま電話があった。仙台からだ」 「仙台?」  伊能は三日前から、宮城県の文化振興財団の招聘《しようへい》により仙台ほか宮城県下数ヵ所の講演旅行に出かけており、今日、講演先の仙台市民会館で午後三時開演の講演を行ったあと、会館前で主催者さし廻しの車に乗ろうとしたところで沢木圭子を見かけたのだという。  伊能は投宿先のホテルから連絡してくれたのだった。 「人違いじゃないのですか?」  死んだという報らせではないことにひとまず安堵しつつ、蓮見は質した。 「一瞬のことだったというのだが、伊能先生は圭子ちゃんのことがお気に入りだったからな、見誤る可能性は少ないと思うんだ。それに……」 「それに、なんです?」 「先生の講演のタイトル、『命を賭けた演奏会』というんだ」 「命を賭けた演奏会?」 「そうだ。サブタイトルが、不死鳥バロー最後の挑戦、という」 「それじゃ、伊能先生はバローをテーマに講演をなさってるんですか」 「そういうことだ。だから、彼女が講演会を聴きに来るというのはいかにもありそうな話だ」  蓮見はまちがいなく沢木圭子のような気がしてきた。 「島村夕子に会うのだろう?」  舵川は押さえつけるようにいった。 「え」蓮見は一瞬耳を疑ったが、「でも、どうして?」 「おれと何年のつきあいになると思ってるんだ」舵川はやや憮然とした調子でいった、「それくらいわからなくては日頃どなりつけてる資格もないというものだ。仙台に行ってみるか、島村夕子に会うか、選択するのは蓮見だ。そうそう、休暇を取るのだったら、それは勝手だ。心配はいらない。じゃ、切るぞ」  蓮見はなおしばらく信号の途絶えた送受器を耳にあてたまま立ちつくしていた。  帰宅すると、珍しく玄関まで典子が迎え出た。 「おかえりなさい」  続けて何かいいかけたが、蓮見と視線が合うとすぐに目を逸らした。  よほど思いつめた表情になっているのにちがいない、蓮見はそう思いながら、とりあえず洗面所に向かった。  鏡に映る顔は拍子抜けするほど凡庸な、日常的な顔だった。かくべつ劇的でもなく、人生の選択を迫られた人間の切迫などどこを探しても見当たらない、強いていえば病院の待合室が似合いそうな不安の面持ちだった。  だがこれはバロー以来久々に自分を襲った人事の紛糾だった。昂《たかぶ》っているのが自分でも明確に意識されている。たしかに今、自分の人生は煮え滾《たぎ》り、心の片隅ではこころよい戦慄が駆け抜けている。  蓮見はやはり右顧左眄《うこさべん》しないではいられなかった。  待ちに待った島村夕子からの連絡が届いた矢先、沢木圭子発見が報じられた。それは、あのバロー演奏会の初日、開演直前になって圭子によって楽譜が隠されてしまった事件の再現のようにも思われた。  蓮見は何か目に見えぬものの意志を感じないではいられなかった。  天命、という言葉が泛んだ。いつだったか、島村夕子に告げた言葉だった。島村夕子がバロー招聘に投身するのは天命であって、それだからこそ自分も協力するのだという意味のことを語ったのだった。それは、島村夕子への感情を糊塗するための単なる言葉の遊びではなかった。  今、天が命じているのは島村夕子なのか沢木圭子なのか。  物理的に手の届かなくなった沢木圭子と、日毎に遠い存在に変わっていった島村夕子。ここで沢木圭子を見捨てるのは、自分の冷酷さを受け入れることであり、そして、島村夕子に背を向ければ、それは怯懦《きようだ》ということになりはしないか。  いずれを択《と》っても、軽重の差はあれ、不幸な選択としか思えなかった。  蓮見は、妹に向かって重い声で事態を告げた。 「仙台で沢木圭子さんを見かけたという情報が、たった今あった。支度をたのむよ」  典子は驚愕をあらわにして目を瞠《みは》っていたが、すぐに矢のように質問を繰り出した。蓮見は簡略に説明した。 「なるほどね。ベイ・ホールに伊能先生のお姿を見かけなかった理由がわかったわ。仙台に出かけてらっしゃったのね」典子は得心したようにいい、「彼女、仙台にまだいるのかしら」  自分に問うようにつぶやいた。 「伊能先生によれば、旅行中というようには見えなかったというんだが、行ってみなきゃわからないな」 「そうね、いささか雲をつかむような話だけど、行ってみなきゃ始まらないわね」 「行ったところでつかまるかどうかわからない」 「そうじゃないような気もする。伊能先生の講演会に姿をあらわしたということ自体、無言のメッセージのようなものではないかしら」  妹に指摘されるまでもなかった。だからこそ、島村夕子に背を向けて仙台に発つのではないか。  蓮見はクローゼットを開け、衣服を物色しながら、 「島村夕子さんから連絡があった。七時に会いたいというんだ」  さりげなくいった。 「島村夕子さんが?」  仰天している妹に蓮見はかいつまんで説明し、 「だから、大井町には典子が行ってみてくれないか。のっぴきならない事情で兄は来られない、そう伝えてくれ。ことによると、事件の渦中に捲き込まれることになる。彼女が何を打ち明けようとしているのかちょっと見当がつかないが、ただごとではないのはたしかだ」 「そうね。ただごとじゃないわね」  典子は思案げに頤を引き、片頬を押さえた。  ホテルにはやはり蓮見が行くべきだ、仙台は後回しにしてでも。そんな妹の言葉を蓮見はどこかで期待していたが、典子は黙ったままだった。 「手に負えない話だったら、舵川編集長に応援を頼んでみてくれ。今夜はキャスリーン・バトルのインタビューでキャピトル東急にいる。九時くらいまでならそこにいるはずだ。その後は社に戻って、たぶん深夜まで仕事をしてる」  このとき蓮見は、選択に異議をさしはさまなかった妹をほんの少し憎んでいた。     2  矢部の訃報《ふほう》に接した並木刑部は、蓮見典子を桜木町駅まで送り、しばらく酒井事務官と故人についての話を交わした後、自宅に戻った。フィアットを車庫に入れたが、並木はその場を離れがたく、しばし車を眺め、先代の所有者に思いを馳せた。  フィアット・アバルト六九五SS。一時期の矢部の鍾愛の的、いまなおイタリアでも根強い人気を持つ絶版車だった。天に向かって鋏をふりかざした蠍の紋章。こころなしか、ブルーの蠍がたよりなげに見えた。  部屋に戻っても、何もする気がしなかった。ぼんやりしていると、フィアットの蠍が目の前をちらついた。蠍がなぜか並木の気にかかった。  そこへ電話が鳴り、矢部のことだろうと思って送受器を取ると、蓮見典子だった。  おもいがけない内容だった。 「千載一遇のチャンスです。島村夕子さん、ついに彼女の方からおでましですわ。兄に面会を申し込んできたのです。ところが兄は避けられない別件でどうしても会えなくて」  典子の話はしだいに昂奮の口調になって、並木もつりこまれて応答も声高になった。 「大井町ですか。七時でしたら、じゅうぶん間に合います。いまから矢部君のお通夜にでかけるところでした。もうちょっと遅いとこの電話も取れなかったでしょう」  矢部の自宅は駒込の六義園《りくぎえん》に近い住宅街で、年老いた両親と同居だった。  大井町で島村夕子との会見に臨み、中座して通夜に顔を出すのは不可能ではない。むしろ矢部家に長居しないですむ口実ができたかたちだった。 「彼女、あなたはともかくぼくが出向いたら驚くでしょうね。初対面というわけではないが、ぼくの身分も知っているわけだし」 「もう何日も前のことのような気がしますけど、島村夕子さんに会えないものだろうかとお台場公園でお話ししたのはつい昨夜なんですね」 「なんとなく事態が結尾《コーダ》に向かって動き始めたという気がします」 「もしかしたら急転直下の解決ということにならないとも限りませんね」  まず大井町駅で合流し、それから島村夕子のもとへということにして並木は電話を切った。  身仕度を調える。モヘアを混ぜたサマー・ウールの黒のスーツを選んだ。ネクタイだけは黒と濃緑のリバーシブルにし、緑色の側が見えるようにした。  外出を告げるため、台所を訪ねた。 「ちょっと出てきます。夕食はいらない」  母親は料理の手を休め、並木を見上げた。 「出るのならもっと早くいってくれなきゃ」並木の衣装を品定めするように眺めてから、「結婚式ですか?」  鷹揚にいった。 「結婚式ですって?」並木は苦笑を押し隠していった、「そうじゃない、お通夜なんですよ」 「どなたが亡くなったんですか?」 「矢部君です。うちへも何度か遊びに来たことがある」 「矢部さん?」母親は並木に向き直って、「まだお若いでしょうに。お気の毒ねえ」 「三つ下かな。三十になったばかりだ。自殺だそうでね、いやになっちまいますよ」 「自殺? それはますますお気の毒ねえ。奥様やお子さんはいらしたの?」 「独身でした」 「じゃ、ご両親もさぞかしお嘆きでしょうね。あなたが行ってもお慰めのすべもないでしょうが、事が事ですから口上には気をつけなさいよ。お亡くなりの子細なんかをしつこく訊くのではありませんよ」 「香奠《こうでん》は今夜持って行っていいのかな」 「お香奠? お葬式はいつなの?」 「明日、午後二時から目白教会だって」 「教会? クリスチャンの方のお葬式にはこれまで何度か参列したことがあるわ。偶然かもしれないけど、いずれも香奠は辞退、弔花だけということでしたよ。そうね、今夜持っていくのがいいかもしれませんね」  ことによると明日の葬儀には参列できないことになる予感がある。母の助言は正鵠を射ているようだ。  台所を出ようとする並木を母親がよびとめた。 「刑部さん、お通夜にそのネクタイはおかしいわよ」 「いや、これでいいんです」  並木はそういって裏側をめくってみせ、家を出た。  電車の中で、並木は喉に小骨がひっかかったような、何かが眼先で見え隠れしているような気分にとらわれていた。  その気分はいま急に始まったのではない。ずっと胸底に澱んで、自分を苛立たせている。それはいつからだったか。矢部の自殺の報を受けた時? いや、そうではない。もっと後だ。家を出た時からではないだろうか。そう、何かの言葉が胸にひっかかったのだ。 「結婚式ですか?」  長閑《のどか》な母親の声が、何か意味ありげに並木の胸にとどろいた。  ついで、並木の眼裏に山下公園を散歩する黒い服の一団が浮上してきた。  島村夕子の演奏会の開演前、並木は山下公園を連れ立って散策するオーケストラの団員にでくわした。その一団は公園の中にあって、他の人々を圧して目立ち、ほとんど異様でさえあった。並木にはふとそれが葬列のように見えたものだった。  何かを掴まえそうな予感に、並木は我ともなく慄《ふる》えた。     3  並木刑部が大井町駅南口に出たのは七時五分前だった。  蓮見典子はすぐに見つかった。  典子は、大きな二つの胸ポケットのある白いオープンシャツを、肘のところまで腕まくりして両腕を組み、茶色の幅の広いベルトを締めた花柄のスカートを夕風にそよがせながら、バレエの教師みたいに外股に立っていた。  典子は一人でいるときはおそらくいつもそんな表情でいるのだろう、固い怒ったような表情で佇んでいたが、並木を認めると腕組みを解き、満面をほころばせた。  煉瓦色のアスコット・タイが、全体に柔かく優しい感じを与えて並木の目をなごませた。 「アポジー・ホテルはご存知ですか?」 「いえ」  答えると、典子は左手の阪急デパートを示した。 「阪急の向こう、百メートルばかり歩いたところにあるそうです。島村夕子さんが泊ってらっしゃるくらいだから、たぶん高級なホテルだと思うのですけど、ちょっとラフすぎるかなって、いまになって心配になってきました」  典子は自分の服装を検《あらた》めるような視線を落としながら、いった。 「蓮見氏の代役としても、ぼくは敬遠されませんかね。彼女はぼくを憶えているだろうし、身分も知っているわけですから」 「先に私が会います」典子は歩きだした、「ロビーで待っててください。きっとだいじょうぶです」 「捜査本部に連絡を入れ、任意同行というかたちで彼女を捜査の網の中にからめとることもできます」 「そうなさるの?」 「しません。それじゃ、つまらない。それではベイ・ホールでぼくがあなたと出会った意味がない」  典子は実に晴れやかな笑いを泛べると、さっと右手を差し出した。  反射的に並木も手をさしのべ、人目も憚《はばか》らないやや長い握手を交わした。  ホテルは、小さな三階建ての、装飾的な白い壁がいかにも瀟洒《しようしや》な、ホテルというより高級レストランと見紛う外観だった。明るいが眩しくない、落着いた照明のロビーは、木を中心とした凝った内装が施され、パリ郊外のオテルを思わせた。非常に静かで、並木は別世界に来たような気分になった。  来意を告げる典子とフロントとの間に、「坂本和代」という人名が二度三度繰り返された。島村夕子の偽名であることを並木はすぐに察した。  酒井事務官に連絡を入れるため電話の使用を申し出ると、ロビーの奥まった所の電話室に案内された。木の扉は重く、ここも重厚な造りで、カード電話機がひどく不釣り合いだった。  蓮見典子を待ちながら、並木は居心地の悪いものを覚えた。逢引に使われても不思議はないし、かといってラブ・ホテルでもなく、ビジネスに使うには重厚すぎる、こういう趣味的としかいいようのないホテルがあることを並木は初めて知った。  典子がロビーに戻ってきたのはおよそ十分後だった。 「お待たせしました。お部屋で待ってらっしゃるわ。まいりましょう」  蓮見典子がノックすると、ドアはすぐに開いた。  並木の挨拶の言葉に対して、 「ようこそいらっしゃいました。どうぞお入りください」  島村夕子は落ち着いた声で応じた。  典子を先に、並木が後に続いた。部屋は広く、二間続きになっているようで、奥はうかがえなかったが、入ってすぐの部屋は立派な応接の間にしつらえてあった。  王朝風の内装と、アール・ヌーヴォーの調度との奇妙な饗宴は、このホテルの性格の曖昧さをさらに強く感じさせた。そして、人目につかないという点ではまさにかっこうの宿泊施設であった。 「わざわざお運びいただいて、心から感謝しておりますわ」 「いえ、蓮見さやか氏のピンチヒッターとしては頼りない限りで、緊張しております」  島村夕子は、前髪を少し残して後ろへ流し、顔の輪郭をあらわに見せていた。ボートネックの白いブラウスの上は丈の短いミッドナイトブルーのジャケットで、どこにもボタンがなく、打ち合わせの所が大きなボウになって、翅を展げた黒い蝶を思わせた。芥子《からし》色のスカートはごくノーマルなもので、衣裳は総じて地味でいながら妙に華やかに浮き立つものがある。  耳には親指と人さし指で輪を作ったくらいの大きさのシンプルな黄金《ゴールド》のリングをあしらい、胸元にも黄金の鎖を垂らしていた。  並木の目を惹いたのはブローチだった。蠍を象《かたど》った、一見すると悪趣味な、しかし見れば見るほど手の込んだ細工が施されていた。  島村夕子は並木の好奇の視線を認めたものか、ほんのわずか微笑を口許に泛べたようだった。  ルーム・サービスを命じていたらしく、ボーイがドリンクのオーダーを取りに来た。 「お食事、まだだと思いましたので」島村夕子は微笑していった、「スイスの家庭料理を用意してますので、お口に合うかどうかわかりませんが」  とりあえず、並木はビール、典子もこれに倣い、島村夕子はワインを注文した。「メルロ・デル・ティチノ・ロサーダ・プリメロ」というややこしい名前だった。 「いまの舌を噛みそうな名前のワインはどういう銘柄ですか?」  並木は興味深そうに訊いた。 「スイス南部のティチノ地方のワインですけど、ボルドー原産のメルロ種の葡萄《ぶどう》から造ったなかなかおいしいワインです。日本ではほとんどお目にかかったことがないのですが、ここは特別でして……、置いてあるのです」 「それはもしかしてバロー氏愛飲のワインだったとか、そういうことかしら?」  典子は微笑とともに訊ねた。 「そのとおりですわ。ぜひ、ためしてみてください」  島村夕子は嬉しそうに笑ってみせた。 「ところで、バロー氏もあなたのような後継者を残すことができて、さだめしあの世で満足のことでしょうね」  並木は島村夕子の眼を見据えていった。  島村夕子は顔を左右に振り、視線を落とした。 「バロー先生には顔向けできないことをしてしまいました」 「ベイ・ホールでのリスト編曲『運命』のことをおっしゃっているのですか?」  並木は訊ねながら、蓮見典子をうかがった。  典子は事件の核心に触れるよう慫慂《しようよう》する目色で迎えた。 「そうです」島村夕子はくすんでいるが芯のある声で答えた、「ピアノを人前で弾くことは終生あるまいと思っていました。バロー先生亡き後、この地上でいったい誰がピアノを弾けるというのでしょう。……いえ、一人、ただ一人だけそれを許される者がいるにはいますけど」 「ほう、それはあなたではないのですか?」 「とんでもない」  夕子は両手を振って否定した。  ボーイがビールとワインを運んできたので、会話はここでいったん途絶えた。 「とにかく乾杯しましょうよ。とりあえず三人の健康を祈って」  典子が提案し、三人は互いのグラスを打ち合わせた。  メルロ・デル・ティチノ・ロサーダ・プリメロは、果敢《はか》ないほどに淡いピンクのロゼワインだった。香りには気品があり、飲み口のさわやかさがスイスの高原を思わせる。 「美味しい」  まず典子が賞賛の声をもらした。  並木も同じことをいった。 「このワインは昔からある銘柄ではないのですが、バローの晩年をどれほど慰めたことか。スイスワイン中の逸品だと思います」 「どうやら長く忘れられない味になりそうです」  並木があらためて、その夢のように淡いピンクに見入りながら答えた。  ひとときの至福の後、 「さきほどの話に戻りますけど、島村さんのピアノ演奏は不可抗力だったのだから、そんなにご自分をお責めにならなくてもいいのではありませんか?」  典子はさりげない調子でいった。  水を向けたつもりらしいが、並木は単刀直入に迫ることにした。 「ぼくはただの音楽愛好家にすぎないが、バローほどのピアニストを知りません。バローの録音を聴くと、もうピアノは聴かなくていいという気がしてきます。そんなピアニストはいません。そう、バローの後でピアノを弾くなど、無知|蒙昧《もうまい》のきわみです」  島村夕子は眉根を寄せ、表情を硬化させた。 「演奏することだけが演奏家の任務ではない」並木は続けた、「演奏しないことも演奏家の良心であり、務めだと思います。演奏家だけじゃない。すべての芸術家はそうあるべきです。あの『月と六ペンス』に出てくる画家、会心の大作を描きあげ、それを焼き捨てた画家のようであるべきです。……しかしあなたは演奏した。ほかならぬバローの弟子であるあなたが」  並木はワインを飲み干した。ワイングラスに島村夕子が美しい液体を注いだ。 「いったい誰があなたにそんなことを命じたのですか?」  瞬間、島村夕子の顔に電撃が走った。  島村夕子はワインを口許に持っていったが、そのまま元に戻し、しばらくグラスに視線を結んでいた。やがて意を決したように顔を上げた。 「わたくしを脅迫したのは平田という男です」 「平田? 平田って、あのミネルヴァ東京の?」典子が頓狂な声をあげた、「兄から聞きましたけど、とってもイヤな男なんでしょう?」  島村夕子は困ったような微笑を泛べ、話をどう進めるか考えているようすだったが、やがて理路整然と語り出した。 「ご承知かもしれませんが、例の贋作事件のCD、わたくしが売り込み、販売にあたったのが平田です。平田はもともとグロリア・レコードの企画部に勤めていた男で、ヨーロッパの忘れられた巨匠たちを発掘し、その新録音を制作するという企画を立案し、一昨年の夏のこと、ヨーロッパ歴訪の途中、ローゼンシュルフト、これは通称で正しくはアルダンというのですが、アルダンの村にひっそりと建つバロー先生の居城をつきとめ、予告なく訪問してきた、という経緯があります。そのときわたくしはすでに先生の弟子としてともに暮らしておりましたが、先生は平田の申し出をきっぱり拒絶されました。その後平田はグロリア・レコードを辞め、独立して『ミネルヴァ東京』というレーベルを興《おこ》し、その記念すべき第一弾新譜にぜひバロー新録音を、と何度も手紙でいってきたのです」 「それが、あの『ジェラール・バローの芸術』というCDの発売にいたる伏線というわけですね」  並木が間《あい》の手を入れた。 「そうです。わたくしが平田を利用したのです。平田はすぐにとびつきました。平田を欺いたことになりますが、結果的にはあのCDは空前のベストセラーになったため、バロー先生の来日が決まった時点でただちに廃盤にするよう申し出たにもかかわらず、なかなか承知しなかったくらいです。彼にとってはドル箱ですから無理もありません。しかし、結局年末にはプレスを終了し、オリジナル・テープが返還され、それで平田とはもう縁はなくなった、と思っていたのですが、それがとんでもない誤算だったのです。バロー先生が日本で他界され、わたくしは年が明けて早々にヨーロッパへ向かいました。目的は遺骨をフランクフルトの先生の御母堂のお墓の隣に埋葬することが一つ、もう一つはローゼンシュルフトの先生の居城を訪ねるためで、この二つは臨終まぎわの先生のわたくしへの指示でした。アルダン城で、わたくしは先生の晩年の最愛の弟子フリッツ・ローゼンブルクと二人だけのお葬式をしました。フリッツはまだこどもで、バロー日本公演について行きたいと駄々をこねたことがあるだけに、かわいそうで……」  島村夕子は声をつまらせ、視線を膝元に落とした。やがて、顔を上げ、ふたたび毅然とした表情に戻った。 「重要なことは、そこにバロー先生の遺品が残されていたことです。おびただしいバロー遺品のうちには、歴史的なある物件に関する重要な機密事項も含まれています」  夕子がここで一区切りつけるように黙ったので、並木は、 「その機密事項とはなんですか?」  先をうながした。 「残念ですが、お話しするわけにはまいりません」  島村夕子は視線を落とし、否定した。  それから面伏せのまま静かに続けた、「とはいえ、このことに一切ふれることなく話を進めるのはわたくし自身も隔靴掻痒《かつかそうよう》ですから、輪郭だけお話しします。……それは、二千年にわたってヨーロッパの命運を支配してきたある秘宝に関する重大な情報なのです」夕子は顔を上げ、並木の肩越しに遠くを見るような目をして言葉を接《つ》いだ、「一九五四年五月、ローゼンシュルフトに隠栖《いんせい》するバロー先生を訪ねてきたフルトヴェングラーによってその宝物は持ち込まれました。フルトヴェングラーは最後の演奏旅行の途次、イタリア国境に近いルガーノでの演奏会、この模様はライブ盤が残されていまもなお多くの人に聴かれているということで歴史的な意味を持っていますが、この演奏会の直前、単身バロー先生を訪問したのです。フルトヴェングラーは大戦後の浮薄な音楽界に絶望していましたし、自身難聴が進み、将来に希望を持っていなかったといいます。世紀の大指揮者は年少の友であるバロー先生に愛用の指揮棒を残して去って行きました。その指揮棒は横浜の演奏会でわたくしが使ったものです」 「あの指揮棒、あれがフルトヴェングラーの……」  並木は低く呻くようにつぶやいた。 「そうです。あの指揮棒は去年のバロー日本公演の協奏曲《コンチエルト》でわたくしが使ったものでもあります」 「あのときのタクトだったのですね。いや、驚きました。なるほど、値段のつけようもない人類の遺産だ」  並木は感嘆の声をあげた。 「人によってはただの棒っきれにすぎませんけど……」島村夕子の目は言葉と裏腹だった、「フルトヴェングラーがバロー先生に託していったものはその棒っきれと、もう一つ、いまお話しした、ある重大な秘宝でした。バロー遺品は、その秘宝を含む、たいへん膨大な、おっしゃるとおり人類の遺産でした。大作曲家の自筆楽譜、初期印刷譜、書簡、バロー先生ご自身が校訂されたおびただしい楽譜、ロンドン滞在期にプレストン卿と共同で進めた演奏史に関する研究……、すべて途方もない価値を持つものばかりです。好事家にとっても研究家にとっても、演奏家にとっても垂涎の的といえましょう。そして、それらのほとんどが奪い去られてしまったのです」 「奪われた?」  並木と典子がほぼ同時に声を上げた。 「奪われたのはそれだけではありません。城の内部の宝飾品や絵画もです。それらはローゼンシュルフトの居城の先々代の所有者であるオーストリアの貴族が蒐集したもので、美術的価値ははかりしれません」  島村夕子の胸で蠍のブローチが光った。  ブローチに向けられた並木の視線を察したように、 「このブローチもその一つです」  島村夕子は蠍の胴を指で触りながら応じた。 「青春様式《ユーゲント・シユテイール》でしょう?」  蓮見典子がブローチに視線を結んだまま訊ねた。 「よくごぞんじですわね」  島村夕子は驚いたように蓮見典子をみつめた。 「ひところ、アール・ヌーヴォーとか、あのへんの美術に興味を持っていましたから」  典子はなおもブローチに見入ったまま答えた。  それは、今世紀初頭のドイツの青春様式《ユーゲント・シユテイール》の宝飾工芸家フィリップ・ヴォルフェンスの流れを汲むドレスデン工房派のベルシュタイン兄弟の傑作で、世界に二つとない逸品であった。  一九一三年、ヨハン・シュトラウスの喜歌劇「蝙蝠《こうもり》」のドレスデン公演初日、ドレスデン劇場の支配人夫人にザクセン国王から下賜された蝙蝠のブローチは、胴体にバロック真珠を巧みに用い、頭部、耳、四肢と翼の骨組みにあたる部分は黄金とローズ型ダイヤモンド、翼は透かしエマイユという代物で、社交界の話題をさらったものだったが、当時ドレスデンの富裕なユダヤ人銀行家の羨望の的となった。銀行家はさっそく蝙蝠のブローチと同じ手法による、妻の星座にちなんだ蠍のブローチの製作をベルシュタイン兄弟に依頼した。  やはりバロック真珠とダイヤモンドと黄金、それにルビーを巧みに用い、その出来ばえが世人を驚嘆させた蠍のブローチは、二つの大戦と七十余年の星霜をくぐりぬけ、数奇な運命に翻弄された末、いま隠れ家のようなホテルで燦然と輝いている。  並木はブローチの由緒を聴き終えると、 「いったい誰が奪ったのです? 平田なのですか?」  島村夕子は肩で大きく息を接いでから、うなずいた。 「平田の手に落ちたものはまだあります。というより、それこそかけがえのないものです。フリッツ、あの音楽の化身のような少年も彼の手中に落ちてしまったのです」  島村夕子はバローの遺言書に別記された浩瀚《こうかん》な財産のリストにしたがって、長い時間をかけて忍耐強くリストと品物との照合を行った。  リストは短時間でまとめられたものだけに、不備や不整合が多く、島村夕子は自分流にデータを作成し直し、適宜に脚注を加え、おもいのほか手間どった末、日本に帰国した。その際、日本に持ち帰ったものはいくつかの宝飾品、そして楽譜のごく一部である。  帰国してまもなく、島村夕子は悪夢のような書簡を手にすることになった。  それは平田からのもので、二枚の写真が添えてあった。一枚にはバロー遺品から楽譜や書簡類が撮影されており、もう一枚にはフリッツが写っていた。  平田は島村夕子を追跡してヨーロッパ入りし、島村夕子の帰国を待って、ローゼンシュルフトの居城に大手を振って入城したのだった。 「いわばこれは、城が陥され、王子を人質に奪われたようなものです。わたくしは平田のいいなりになるしかなかったのです」  並木も典子も、棒を呑んだような顔をしてしばらく無言に落ちていたが、 「ヨーロッパの命運を支配してきた秘宝とやらも彼の手に落ちたのですか?」  並木が訊ねた。 「バロー先生の遺言書によれば、その秘宝だけは、先生が来日なさる前に、ご自身の手によって人知れぬ秘密の場所に隠してしまわれたということです。隠し場所を示すヒントのようなものは遺言書にしたためられていましたけど、それがどこに秘匿されているのか、わたくしも知りません。遺言書は常にわたくしが身につけていましたから、平田は秘宝については知らないと思われます」 「ヨーロッパの命運を支配してきた歴史的物件」並木は独語するようにいった、「一九五四年、フルトヴェングラーがバロー氏に託した。……もしかして、その秘宝はナチに関連したものですか?」 「ご指摘のとおりです。金塊とか宝石といった換金価値のある財宝ではありませんが、ナチの再興をもくろむ人間がいるとすれば、万難を排しても手中にしたいと願う物件です」 「ナチス再興……。えらくキナ臭い話になってきたな」並木は低くつぶやいてから口調を改めた、「ところで、フリッツという王子を人質に取った平田の要求は具体的には何だったのですか?」  典子も満面疑問符にして身を乗り出した。 「平田の最初の指示は二つありましたが、その一つはわたくしにマスコミに積極的に登場せよというものでした。バロー日本公演の後、わたくしに対するマスコミの取材攻勢はほとんど狂気じみていました。グラビア出演、インタビュー、対談、テレビ出演、コマーシャル出演の要請から、原稿依頼、講演依頼、演奏会の出演依頼……、もう連日連夜の大攻勢で、しばらく日本を離れようかと考えたくらいでした。バロー先生の思い出がなまなましいスイスではないどこかの土地に長期滞在しようかと。平田は主としてテレビ、新聞、週刊誌に登場するよう指示してきました」 「失礼を承知でいわせていただければ、私など、島村夕子というのはなんて自己顕示欲の旺盛な女なのだろうと思っていたほどです」  並木が応じた。 「当然です。さぞかしイヤな女だとお思いになったことでしょうね」  島村夕子は自嘲するようにいい、テーブルの端へしばらく放心に似た視線を投げた。 「もう一つの指示は、ベートーヴェンの『コリオラン序曲』と『運命』、ハイドンの『告別』の勉強を始めよ、というものでした。『運命』はリスト編曲のピアノ版も練習せよとのこと。五月の中旬までに舞台にかけられるよう、練習を積んでおくこと。……奇妙な命令ですが、従わないわけにはいきませんでした。当初わたくしは、平田がわたくしの演奏会もしくはレコーディングを企画し、それを成功させるための伏線としてマスコミへの登場を命じたのではないかと想像していました。実に甘い想像でした」  話の腰を折るように、電話が鳴った。  島村夕子が出たが、 「並木様にお電話です」  どうしてここを知っているのだろう、そんな不審な表情でいった。  二分ほどの話の間、並木はほとんど相槌を打つだけだった。途中、ボーイが食事を運んで、室内に入ってきたせいもあった。  並木が送受器を置くと、 「酒井さんって、並木さんのパートナーの、たしか検察事務官の方でしたっけ?」  典子が訊いた。 「そうです。今日、山下公園で会った彼です」 「急用じゃありませんか?」  島村夕子が訊ねた。 「いえ、だいじょうぶです。さて、お話の続きを伺いましょう」  島村夕子はうなずいてから、 「平田からの第二の指示は月が変わって、四月の下旬でした」 「平田の指示は電話で行われたのですか?」 「いえ、直接面談です。週に一度は彼に呼び出され、食事につきあわされました。彼はわたくしに一週間の出来事を報告させました。まるで週に一度だけ逢う愛人に対する嫉妬深い情夫みたいに。平田はいつも落ち着いており、快活で……、なにかゲームを楽しんでいるように見えました」  つきあわされたのは食事だけだったのか、並木はおおいに気になったが、質問できることではなかった。 「一度、高輪のホテルに呼び出されたことがありますが、食事のあとお酒を飲み、踊りの相手をさせられました。そのとき、部屋を取ってあると耳もとに囁かれました。わたくしは聞こえないふりをしていました。平田は二度繰り返したのち、あっさりと要求を引っ込めてしまったので、ほっとしましたが」  答えが島村夕子自身の口から問わず語りに返ってきたので、並木はいささか驚いた。同時に、そんな率直さが、性格からきているものなのか、それとも無意識の媚態に属するものなのか、判じかねた。 「簡単に引き下がったのですか?」  典子が訊いた。 「ええ」夕子は微笑を泛べると冗談めかしていった、「よほど女としての魅力がないのでしょうね」 「そんな……」  典子が手を否定するように振った。  平田はなぜあっさり要求を引っ込めたのだろう。平田は島村夕子に対し、いわば生殺与奪権を握っている立場にあるのだ。高飛車に出ることも、卑劣に徹することも可能ではないだろうか。並木は釈然としないまま、 「彼の指示は何だったのですか?」  先をうながした。 「五月八日のコンサートへ向けてオーケストラとの練習を開始せよというものでした。想像してはいましたが、やはり驚きでした。リハーサルは四月に一回、五月に一回、演奏会当日に一回の計三回。四月の末に東京管弦楽団と最初のリハーサルが行われました。すべて平田のお膳立です。団員はたいへん協力的でした。それもやはりバロー先生の残してくれた遺産の一つだったわけですが、彼らは事情を知りませんし、わたくしも知らせるわけにはまいりません。練習を開始したことで、音楽的な意味での苦痛も始まりました。演奏会当日までに四キロほども痩せてしまいましたわ」 「演奏会にあのような事件が待っていることは知らされていなかったのですか?」 「最初わたくしは、『運命』をオーケストラ版とピアノ版で練習せよという指示についてはこう考えていました。つまり、オーケストラとピアノの二つの『運命』を収録したCDを発売することを平田は計画しているのではないか、という想像です。オーケストラ版は演奏会のライブ録音を用い、ピアノ版はどこかのスタジオで収録する」 「指揮者とピアニストの一人二役、いかにも企画賞ものだ」並木は微笑を泛べて同意した、「私があなたの立場だったとしてもそう考えると思います」 「オーケストラの団員が会場から消えてしまうことについては、まったく知らされていませんでした。休憩時に楽団マネージャーの佐々木さんから報告され、息が止まるくらい驚いてしまいました。『告別』での楽員のステージ退場まではもちろん知っていましたが、ステージどころか会場から去ってしまうなど想像していませんでした。調律されたピアノを用意している、後半はピアノ版『運命』で代演せよ、平田の最後の命令がそれでした。CDの発売などとは甘い甘い憶測だったのです」 「平田の命令は電話か何かだったんですか?」  典子が訊いた。 「彼はわたくしの楽屋にいました」 「楽屋に?」  並木と典子が口を揃えて訊き返した。 「ええ。『告別』を演奏し終えて、楽屋に戻ると平田がいたのです。彼はイヤな笑いをうかべてわたくしを待っていました」  平田は後半をピアノ版「運命」に代えること、事件については何も知らないということで通すこと、それだけ守ればフリッツの安全は確保されると伝えた。「……これは最後の命令ですが、あなたにしてみれば今日までピアノを練習した甲斐があったというものですよ。聴衆もこの趣向は大歓迎だ。今夜の趣向が何を目的としていたのかは、おいおいわかります。自分が果たした役割も知ることになる」  フリッツの近影だといって、平田はポラロイド写真をテーブルの上に置いた。最初の写真と同じ場所で、フリッツが笑っていた。背景の雪の状態から時間の経過が窺えた。近影というのは信憑性《しんぴようせい》が高かった。 「バローの遺産については後日連絡をさしあげる」平田は抑揚のない声でいった、「すべてが終わり、成功を見届けるまでは返せないな。一週間待てばいい。そのときすべてが判明する。計画の全貌が理解できるでしょう。いや、全貌ではない。ただ一つを除いてというべきか。しかし、その一つは……、まあそのうちわかる。ともあれ、オーケストラのメンバーは全員無傷で生還する。心配はいりません」  島村夕子は、ワイングラスに手を伸ばし、 「それからはご承知のとおりです」  グラスを胸に引き寄せ、話を結んだ。  三人は黙って各々のグラスに口をつけた。  これは平田の島村夕子に対する復讐ということでもあるのだろうか。並木はまだ見たことのない犯人の心理を忖度《そんたく》してみた。平田としたら、バローの録音だと称して贋録音をつかまされ、結局は島村夕子のいいように利用されたというところではないか。それによって相当の収益を上げたのは事実だが、一躍世間の耳目を集め、マスコミの寵児《ちようじ》となった島村夕子は平田の手の届かない所へ去ってしまった。平田の自尊心は傷ついたに違いない。自分が手をさしのべただけに、飼犬に手を噛まれたような憤懣《ふんまん》が残ったとしても無理はない。 「あなたの知っていることはそれだけなのですね?」  並木が念を押すように訊ねた。 「そうです」島村夕子は頤《あご》を引いて肯定した、「平田が約束した楽団員の生命の保証が反故《ほご》にされてしまった以上、黙っているわけにはゆかなくなりました。誘拐はともかく、殺人は許せません。知らないこととはいえ、わたくしも殺人に手を貸してしまったのです」  語尾を慄わせ、下唇を噛んで、俯いた。 「お気持ちはわかりますが、ご自分を責めるのはまだ早いようですよ」 「?」  夕子は顔を上げ、射るような目で並木を視た。 「あれは殺人ではありません」  並木は明瞭な声でいった。 「どういうことですか?」  島村夕子は身を乗り出すようにして、質した。     4 「あれは殺人ではなく、事故死です」 「事故死ですって?」  蓮見典子も驚きの表情で並木を視た。 「そのことについてお伝えする前に」並木は焦らすというのではなく、いかにも喉が渇いたようすでビールを飲み、あとを手酌で注いでから姿勢を正して続けた、「この事件の目的が何であるのか、それを知りたいものです。この問題については蓮見さんとも何度も話し合ってみたのですが、私はある程度は島村さん自身知っておられるものだと思っていました。しかし、どうやらあなたは平田のあやつり人形にすぎなかったようだ」  贋作CD売り出しの際の平田がそうであったように、とこれは胸の裡で続けた。 「目的は五億円の身代金、ということではないのですか?」  島村夕子がいった。 「あなた自身それを信じておられますか?」  並木は逆に質問した。 「いえ。五億円を危険をおかしてまで手に入れなければならない理由は平田にはないはずです。それに数倍する財産を彼は手中におさめているのですから」 「最初犯人は五億円を要求してきたが、すぐに要求は追加され、千ドル紙幣を指定してきた。千ドル紙幣の準備には数日を要します。千ドル紙幣のメリットは嵩《かさ》ばらないということで、国外逃亡を計るにしてもこれは大いに有利です。しかし、数日待たなければならないというデメリットも大きい。その間、オーケストラという大所帯を隠し続けなければならないのですから。一万円札で五億要求するのも、千ドル札で要求するのも、ともに危険きわまりない。そもそも身代金目的の誘拐が成功したためしは日本においては皆無に近い。とすれば、この誘拐を額面通り受け取っていいものか。これは狂言ではないか。一つの可能性は、犯人が何らかの目的で事件を大掛かりに仕立てようと意図している。もう一つは、裏取引をもくろんでいるのではないかということです。しかし、いま平田のことをうかがって、裏取引はありえないような気がしてきました。五億円の要求が偽装だとすると事件の真の目的はどこにあるのか? ところで、あのときあなたは井川楽器のピアノをお弾きになったわけですが、イカワとあなたとの間に何か特別な関係はありませんか?」 「特別なこととおっしゃいますと?」 「では、あれがイカワの新製品のコンサートピアノだったことはご存じですか?」 「いえ、あのときは少しでもよい演奏をしようと必死でしたから」 「あのピアノがテレーゼとネーミングされていたこともご存じではないのですか?」 「テレーゼですって?」  島村夕子は目を丸くして驚きを表した。 「それでは、何もご存じではないわけだ。井川があなたをイメージ・キャラクターに使うというような事実はありませんでしたか?」 「イメージ・キャラクター?」 「つまり、あなたは平田の指示によってマスコミのあらゆる要求に応じたわけですが、そのなかで井川楽器があなたを宣伝広告のイメージ・キャラクターとして起用したいというような依頼をしてこなかったか? ということです」 「いいえ。企業のその種の依頼はいくつもありましたが、井川楽器からはありませんでした。羽山楽器からはありましたけど。そうそう、思い出したことがあります。平田の指示は、あらゆるマスコミの要求に応じるようにというものでしたが、一応、その都度平田に報告することになっており、週刊誌や新聞、テレビについては平田は制約しませんでしたが、企業の広告出演についてはすべて断るよう命じられました」 「すべて、ですか?」 「いえ、一つだけ除いて、十指に余る依頼のすべてです」 「一つだけ除いて?」 「はい。平田が指定してきた仕事で、ステラ化粧品のコマーシャル撮影でした。そしてこれは、ステラが毎月発行しているPR誌『星暦《ほしごよみ》』のグラビア撮影も兼ねていました。まだオンエアされていませんし、グラビアも掲載されていませんけど」 「ステラ化粧品、ですね?」  並木は念を押すように訊き返し、片頬に意味ありげな微笑を泛べてみせた。 「それはどんな取材でした? つまり大規模に行われたかどうかということですが」 「スタジオ入りして、二日もかけて行われました。テレビカメラも廻っていましたし、写真はいったい何枚撮ったものか見当がつきません。ハッセルブラッドのシャッター音がまだ耳に残っているくらいですわ」 「そこで小道具としてピアノが使われませんでしたか?」 「使われました」 「そのピアノはイカワじゃなかったですか?」 「いいえ、無印でした」 「無印?」 「刻印が黒く塗りつぶされていました。また、普通は響板に商標が印刷されているのですが、そのピアノにはありませんでした。フルサイズのコンサートピアノでしたけど、スタインウェイともベーゼンドルファーとも、またハヤマとも違う製品のような印象を受けました」  並木は煙草を取り出し、火を点けた。何か考えに耽《ふけ》るように烟《けむり》を自動的に吸い、吐き、それを何度か繰り返した。 「なんとなく見えてきたようです。ぼんやりと。まだ霧がかかっていて、もっともそれは濃霧というほどではないが……。話を元に戻しますが、ベイ・ホールで『運命』を演奏されたとき、鍵盤について何か違和感はありませんでしたか?」 「いいえ、特に感じませんでした。なかなかいいピアノでした。弾きやすくて」 「鍵盤は象牙でしたか?」 「象牙? ええ、そうでした」 「ほんとに?」典子が口を挟んだ、「よく思い出してください。象牙じゃなかったはずなんです」  島村夕子は不審そうに典子を見ていたが、 「象牙とアクリルの区別はつきます。それは五歳のこどもにだって容易です。絶対に象牙でした」  少しムキになって否定した。  並木は典子に向かって、 「ピアニストが象牙と模造品をまちがうわけがない。あれは象牙だったのです。あの製品に限っては、本象牙の従来品の鍵盤を使用したのだろう。その方が演奏上も安全というものです。あれが象牙であっても、われわれの推理に矛盾はきたさない」 「その推理というのは何ですか?」 「事件が井川楽器の企業戦略ではないかという想像です。あの演奏会でイカワの新製品のコンサートピアノが使用された事実は重要です。スタインウェイでもベーゼンドルファーでもなく、ハヤマでもない、イカワの、しかも『テレーゼ』と愛称の冠せられた新製品コンサートピアノであったということは、それ自体雄弁に作為を物語っています。イカワが新製品の発売を企画しているという事実はいまのところ業界には浮上していません。しかし、蓮見典子さんのこれはお手柄なのですが、イカワが積年の競争相手であるハヤマに先駆けて、いや世界に先駆けて『アイボリックス』という精巧な人工象牙を完成させたことは事実なのです。これらのことから、われわれは島村夕子・井川楽器共謀説を仮定してみたくらいです」 「もっともその想像ははずれていましたけど」  蓮見典子が口を挟んだ。安堵したようないい方だった。 「つまり、井川楽器が『アイボリックス』とかいう人工象牙を使った新製品のピアノを開発し、それに『テレーゼ』という愛称を与え、わたくしをそのピアノの隣でにっこり笑わせて、大々的に売りだそうというのですか。それはどうでしょう。それでピアノが売れるのかしら」 「売れるでしょう」並木は断定的にいった、「キャスリーン・バトルの例があります。去年の秋から彼女はニッカウヰスキーのCMに登場し、ヘンデルの『オンブラ・マイ・フ』、ラフマニノフの『ヴォカリーズ』などの調べに乗って全国の家庭に映像が送られた。そうして、日本ではほとんど無名に近かったバトルはいまや大スターとなり、ニッカには連日問い合わせの電話が殺到、売上も増大し、企業イメージも飛躍的に向上した。クラシックを使ったコマーシャルとしては抜群の企画でした」 「バトルは日本でたいへんな人気のようで、わたくしはテレビをあまり見ませんから、なぜそんなに注目を集めているのかわからなかったのですが、それで納得できましたわ」 「ニッカのウイスキーにバトルという組み合わせ、これが功を奏したのです。ご承知のとおり、日本にはサントリーという、ニッカにとって知名度においても企業規模においてもとうてい太刀打ちできないライヴァル企業がある。ニッカとしてはこれに対抗するために、品質の優秀さ、マイナーこそ素晴らしい、本物なんだというメッセージを、いかにもさりげなく、スマートに主張する必要があった。バトルはまさしくそのイメージを伝える使徒のような存在だったのです。ニッカとサントリーの関係とイカワとハヤマの関係、ニッカとキャスリーン・バトル、イカワと島村夕子、これらは偶然にしてもよくできています」 「なんだか不思議なお話を聴かされているようです」 「それが資本主義社会の神話なのです。これは夢物語ではない。私はイカワ・島村夕子の線を信じています」 「でも、現実にイカワからそんな企画が持ち込まれた事実はありませんわ」 「ステラ化粧品の撮影が、それだったのではないでしょうか。ピアノが無印だったというのがむしろ信憑性が高く感じられるのです。たぶん、印刷の段階でTHERESEという花文字を鮮明に画面合成するのだと思います」 「でも、あれはステラの企画なんですよ」 「ステラも一枚噛んでいるのだと考えたら何の矛盾もない」 「異業種提携、というやつですか?」  典子が嘴《くちばし》を入れた。 「そういうことです。飛躍した想像とおっしゃるかもしれませんが、これには根拠があるのです」 「根拠?」 「それはあとで説明することとして、話を進めましょう。東京管弦楽団の頭師国夫氏の死についてです」 「殺人ではないとおっしゃいましたが?」 「そうです、あれは事故死です。その疑いは頭師氏がヴィオラ奏者であるという事実から私の中に頭をもたげてきました。コントラバスケース詰めの死体、いかにもセンセーショナルですが、それならコントラバス奏者を血祭にあげるのが妥当です。頭師氏は不慮の死を遂げ、それを犯人は、つまり平田ということになりますが、彼は利用したのです。死因について酒井事務官に四谷署に照会してもらっていたのですが、さきほどの電話がその報告でした。思ったとおりでした。解剖の結果、死因はショック死で、原因は現時点ではまだ不明だが、死体の臀部にかなり大きな腫脹《しゆちよう》があり、何か毒虫に刺された形跡と考えられるそうです。それが蜂なのか百足《むかで》なのか、何であるのかいま分析を急いでいるということだそうです」 「蜂に刺されて死ぬ人は毎年何人もいますけど、頭師さんは特別体質が変わっていたとか、そういうことなのでしょうか」  典子が質問した。 「特異体質で、蜂に刺されて死にかけたことがあると奥さんが証言している」 「お尻を蜂に刺されて亡くなるなんて、笑うに笑えませんわ」  島村夕子は半ば呆然とした表情でいった。 「蜂じゃないでしょう。……たぶん、それはきっと」並木はグラスから手を離し、右手を掲げながら、「そいつにちがいない」  島村夕子の胸を指さした。  島村夕子は突然指さされて半身を引き、胸の蠍はまるで蠢《うごめ》いてでもいるかのように妖しく輝いた。 「あれはアンタレス、蠍の心臓だ」  南天の一隅、釣針のようにS字形のカーブを描く星座を、平田は指でなぞるように示しながら、答えた。  二人はさきほどから夜明け前の空を見上げていた。視野の限りに展がる空に、おびただしい星が瞬いていた。蠍座の中心部に輝く赤い星を、女が火星を見つけたといって指さすので、平田は訂正したのだった。 「赤色超巨星、もちろん一等星で、直径は太陽の二百三十倍もある。日本では赤星とか酒酔い星とか呼ばれている」  平田はつけ加えた。 「なぜ、そんなに詳しいの?」  女が半ば笑いながら訊ねた。 「天体に興味を持っていた。小学六年の時、修学旅行でプラネタリウムを観たんだ。口も利けないくらい感動してね。中学になってから新聞配達を始めた」 「あなたが、新聞配達?」  女は揶揄《やゆ》するようにいった。星明かりに見る女の顔は立体感を失い、昼の顔よりも美しかった。 「それで、三年生の夏休みに天体望遠鏡を買った。天文学者になるんだと本気で思っていた」 「感心ね」 「天文学者にはなれなかったけどね」  平田は砂に腰をおろした。  女もそれに倣った。  ここでは、二人の他には蒼い闇の底に白々と続く砂丘と、暗い海、そして頭上に展がる空だけだった。汀《みぎわ》は遠く、波は倦《う》まずたゆまず寄せては返し、潮鳴りが穏やかに轟いていた。さらに遠く、水平線が曖昧に海と空を分けていた。近いのか遠いのかわからない船の灯りが、少しも動かず、あたかも海に象嵌《ぞうがん》された宝石のようだった。 「あなたは天文学者になるかわりに犯罪者になったというわけね」  女はつぶやくようにいった。 「犯罪者か……」平田は砂を手で掬《すく》いながらいった、「たしかにそうだな。ただ、おれはこれを犯罪とは思っていないが」 「犯罪でなければ何なの?」  平田はすぐには答えず、指の間から滑り落ちる砂を見つめていたが、 「芸術、といえば気取りすぎかな」  いってから、苦笑を泛べた。 「芸術はちょっとね」 「だが、すぐれた芸術は犯罪に似ている」 「人の心を奪うから? じゃ、その点では恋愛も同じ」 「かくして、芸術と犯罪と恋愛は皆兄弟というわけだ」  平田は唇の端で薄く笑った。  女は砂をしばらく指で触っていたが、よく乾いているのを確かめると、腕を頭の後ろで組んで、その場に仰向けに寝そべった。胸のかたちが誇張されて見え、平田は悪くないと思った。  そんな平田を見すかしでもしたように、 「あなたは手の届かないものを欲しがる人なのね」  空へ向けて右手を伸ばし、てのひらを閉じたり開いたりしながらいった。 「…………」 「星といい、バローといい」女は冷たい声で続けた、「島村夕子といい……」 「何をいってるんだ」  平田は女の上におおいかぶさっていった。胸をさぐる手が、強い拒絶にあって払いのけられた。  手と手がぶつかりあった。 「わたしは島村夕子のダミーなんだ」 「そんなことはないさ」  平田はセーターの上から乳房をさぐりながら、耳もとに囁いた。 「ごまかさないで」  女は立ち上がると、そのまま駆け出した。  平田は追った。砂丘は足もとをもつれさせた。追いつくと、二人はぶつかり合うようにして、その場に倒れこんだ。  女の荒い息が顔にかかった。 「わたしにスーツをプレゼントしてくれたことがあるわね」女は背を向け、乱れた髪をかきあげながら、肩越しに振り向いていった、「嬉しかったよ。でも、あとで無性に悔しくなって鋏《はさみ》でズタズタに切ったわ」  上下に喘《あえ》いでいる女の円い肩と、鋭く見すえる眼を色っぽいと平田は思った。 「そっくりのスーツを着たあの人を雑誌で見たんだ。そのとき、はっきり気づいたわ。あなたにとって、わたしが何であるのか」 「思い過ごしだ」  平田は女の肩に手をやり、上半身を搦《から》め取った。 「やめて!」  短い叫びが闇に尾を引くように消えた。  口を奪うと、唇は冷たく、息が火のように熱かった。 「こんなこと、あの人にできるの?」女は挑むようにいった、「見栄っぱりで、エゴイストで、臆病者のあんたにできるもんか。だから、こんな愚かで無意味な行為でごまかしているのだわ。何が芸術よ、くだらない自己満足の茶番劇じゃない」 「黙るんだ」  平田は手荒に女のセーターを剥ぎ取った。乳房がまろび出て、青白く揺れた。 「島村夕子が何よ」女は砂に両手を突き、平田を上目遣いに睨みながらいった、「あの人だって、おっぱいがあり、お尻があり、毛の生えた……」 「黙れ!」  平田は女を横倒しに倒した。  キュロット・スカートを脱がしながら、平田は荒い息をついた。 「もう夜が明けるよ。倉庫に帰らなきゃ。ね、やめて」  女は網にかかった魚のように跳ねながら、喘いだ。 「だめよ、こんなところで」 「誰も来やしない。それに、ここも今日限りだ。名残惜しいじゃないか」  逃げようとする尻が砂の上で毬《まり》のように躍っていたが、しだいに動きは弱まり、平田は砂を気にしながら、辛抱強く、確実に女を宰領《さいりよう》していった。 [#改ページ]   終演とオーケストラ     1  五月十一日・月曜日、事件発生から四日目、関東地方は四月からのカラカラ天気が依然として続いていたが、この日はめずらしく曇天であった。  並木と蓮見典子は休暇を取り、朝八時にアポジー・ホテルを訪ね、朝食もそこそこにボルボで出発した。並木の中古フィアットがいかにもたよりないので、車は島村夕子が提供し、運転には並木があたることにした。  車内の女二人はいずれも朝が弱いらしく、言葉も少なく、生彩がなかった。とりわけ後部座席の島村夕子は昨夜あまり眠っていないのか、頬に鋭角的な翳りを見せていた。  都心を避けて川崎インターチェンジから東名高速道路に乗ることとし、並木は馴れないボルボを慎重にころがしていった。  頭師を殺した犯人はおそらく蠍にちがいない——。  昨夜の並木の指摘は、島村夕子と蓮見典子をしばし唖然とさせた。  ホテルの室内に、蠍という単語は場違いな響きを立てた。  島村夕子は胸のブローチをまさぐりながら並木に訊ねた。 「蠍が日本にいるのですか?」 「私もよく知らないが、いないのじゃないかな」  並木の答えはそっけなかったが、典子が注釈するように、 「沖縄にいます。だけど、毒性は弱くて、せいぜい百足程度のものでしょう。もっとも、特異体質であれば蜂でも百足でも命を落とすことはありえますけど。蠍というのは、でもずいぶんと突飛な発想に思えます」  典子は不満げな表情で、並木の説明を待った。 「荒唐無稽といわれるのも無理はありません。頭師さんの死因が蠍ではないかという推測は、たったいま島村夕子さんのそのブローチを見て思いつきました。いや、ヒントは昨日からあったのです。私の乗っているフィアットは、亡くなった矢部という検事から譲り受けたものです。私は車を欲しいとは思っていなかったから、実は押しつけられたといったほうが正確かもしれない。もともといい車だし、矢部がなめるようにして大切に扱っていたから、よく走ってくれます。私は無味乾燥な男ですが、それでも昨日は先代所有者が死んだことを車に報告しないではいられなかった。その時、エンブレムの蠍が何か語っているような気がしたのです。フィアットのエンブレム、そして島村さんのブローチ……、単なる連想にすぎない、そうおっしゃりたいでしょうが、オーケストラの隠し場所についての私の推測と蠍とはたいへん相性がいいというか、うまく辻褄が合ってくるのです。この場合、蠍が日本に棲息しなくともなんら問題はありません」 「オーケストラの隠し場所も見当をつけてらっしゃるのですか?」  島村夕子が身を乗りだした。 「これも推測の域を出ませんが、浜松にオーケストラはいると思います」 「浜松?」  島村夕子と蓮見典子が異口同音に、訊き返した。 「この推測は、事件に井川楽器が関わっていることを前提としています。というのも、イカワは浜松に本社と工場を持っているからです。工場だけではない、倉庫、それも原木の貯蔵庫を持っているはずです」 「原木貯蔵庫、というのはピアノに使われる輸入木材の倉庫ということですね?」  典子が確認するように訊いた。 「そうです。ピアノには実に多種多様な輸入木材が使用されています」 「なるほど」蓮見典子が昂奮を抑えきれない調子でいった、「おおいにありそうなことですね。倉庫というのは五十名の人間を隠すのには最適の環境だし、そのうえ、事件の当事者が倉庫を所有しているというのですから好都合このうえない」 「蠍というのは輸入木材からの連想です。東南アジアからの輸入木材に蠍がまぎれこんでいたという事例はいままで何度もありました。南米やアフリカからの輸入貨物から毒|蜘蛛《ぐも》や蠍、ときには鰐《わに》なんかが出てきて大騒ぎになった例もある」 「ということは」島村夕子が話の整理に入った、「事件に井川楽器が関与しており、オーケストラの団員は浜松の井川楽器の貯木倉庫に幽閉されている。そして、頭師さんは運悪く倉庫に潜んでいた蠍の毒針に刺され、ショック死した。そこで平田は、頭師さんの死体をコントラバスのケースに詰めて発送し、猟奇的な殺人事件に見えるよう粉飾した。つまり、そういうことですね」 「ええ、まさにそういうことです」  そこへ再び電話が鳴ったが、並木への連絡だった。並木は応答しながらメモを取っていたが、送受器を置くと、快活な調子で、 「酒井事務官からの報告第二弾です」並木は紙片を眺めながら続けた、「蠍、と断定できないそうですが、人体に毒性を持つアミノ酸が検出されたとのことです。毒は神経毒の一種。蝮《まむし》でもハブでもない。蜂や百足とも異なる。これは私が特に急がせた中間報告ですから、やがては毒液の持ち主は特定されるでしょうが、待つ必要はない。頭師氏を殺したのは蠍に間違いないでしょう」並木は自信たっぷりな口調でいった、「この完璧に仕組まれた事件の中で、唯一の神話的エピソードというわけです」 「神話的……」  島村夕子は複雑な表情でつぶやいた。 「ところで、私は明朝、浜松に発ちます」 「浜松に?」 「お行きになるんですか?」  島村夕子と蓮見典子は驚いたように並木を見た。 「ええ、行きます。ご一緒しませんか?」  並木は、もうオーケストラを発見でもしたような顔で答えた。  ボルボは東名高速道路を浜松へ向かって疾駆した。たいした渋滞もなく、百二十キロの速度をほぼ保ちながら、厚木にさしかかった。ここで並木は二人の同乗者に訊ねた。 「道路事情もいいし、このまま富士川のサービス・エリアまでノンストップで行きましょう。あと一時間ちょっとです。いいですか?」 「富士川だったら浜松とのちょうど中間地点ですから、小休止するならそこですね」典子が答えた、「富士山見えるかしら」 「どうかな。右手が丹沢の山なみですが、霞んでいてあまりはっきり見えないでしょう。この分だと無理かもしれない」 「富士山なんて、忘れていましたわ」  島村夕子が無表情に口を挟んだ。  車窓の外へ視線をめぐらせている島村夕子に、並木は語りかけた。 「事件を操っている平田という人物について私は知りませんし、事件に井川楽器とステラ化粧品を巻き込んだのが平田であるのかどうかも判然としないのですが、イカワとステラが事件の背後で手を結んでいることは事実です」  並木が語り始めたので、島村夕子と蓮見典子は傾聴するように姿勢を正した。 「ホテルでは話が尻切れトンボになってしまって、このへんのことをお話しできなかった」 「あの後、お通夜にお出になったのでしたわね。やはりその方も検事をなさってたんですか?」  島村夕子が訊く。 「なかなか優秀な検事でした。それがつい一昨日、検事を辞めたいという電話を寄越したのです。忙しくて相談に乗る間がなかった。そうしたら昨日の朝、自殺したというのですからね。これは、辛い」  語尾はしめった声になった。 「お察ししますわ」 「でも、彼の自殺が事件の裏にイカワとステラが控えていることを教えてくれたようなものなんです」 「それはどういうことなのです?」  夕子の質問に対して、 「昨夜の私の服装を思い出せますか?」  並木は逆に訊ねた。  島村夕子は怪訝な顔をして、 「黒のスーツでしたわ。ネクタイはモスグリーン」 「そうです。昨夜は島村さんと会わなくちゃならないし、お通夜にも行かなければならない。かけもちだったため、黒と緑のリバーシブルのネクタイを使ったのです。家を出る時、緑色の側を見せていたのですが、おふくろがそのネクタイは変じゃないかという。これでいいんだよ、と言い置いてそのまま大井町に向かいました。思い当たったのは品川で乗り換える直前でした。最初、私の黒のスーツ姿を見るなり、おふくろはこれから結婚式かと訊ねたのでしたが、この勘違いは実に興味深いことを物語っていました」並木は微笑を泛べ、一息入れてから続けた、「錯覚というのは面白いですね。結婚式と葬式、こんな正反対のものを人はいとも簡単に取り違えてしまうこともある」 「どういうことなのですか?」  島村夕子が先をうながした。 「オーケストラが消えるための第一の仕掛けが何であったか」並木はおもむろに話を横浜に戻した、「いうまでもなくそれは『告別交響曲』です。この曲を選曲したことで、団員は整然とステージを退場できたわけです。交響曲の父……、小学生だったか中学生だったか、ハイドンのことをそう習いましたが、トリックを用意したのは交響曲の父ハイドンだったわけです。しかし、これだけでは消失は完成しない。舞台を退場した団員を会場の外へ誘導するための何らかの指示が必要だったはずです。どのようにして、大勢の人間を操ったか、それは依然として疑問ですが、そこで第二のトリックが使われたと仮定し、次の段階に進んでみます。団員はおそらくホールの裏手、楽器運搬用トラックが搬入搬出口へ接続されていたあたりへ出たはずです。そして、このトラックには『コリオラン序曲』演奏後、編成の都合上減員された八名、それに『運命』演奏のため待機していた管楽器奏者五名、合わせて十三名が積み込まれていたのではないかと思います。犯人はまず五人の管楽器奏者を強制的に乗せ、次いで『コリオラン序曲』の演奏後に減員の八人を乗せたのでしょう。この人数だったらなんとかなります。問題は『告別』を演奏した三十七人です」 「楽器運搬用トラックにはせいぜい十数人しか乗れないわけでしょう、もう満杯になってるわけだし」典子が応じた、「でも、駐車場にはこの夜、大型トラックやバスの利用はなかった」 「そうです。楽器運搬用トラックの他には大型車輛は出入りしていない。もちろんヘリコプターが舞い下りて来たわけでもない。ベイ・ホールはその名の通り港に面しており、海という出口があるにはある。だが、海へ出るために同じ黒服を来た連中がぞろぞろと移動すれば、そこで目撃されないわけはない。そもそも海路が使われた形跡がないことは確認済みです」  もちろん地に潜ったわけでもない。となれば、徒歩でどこかへ移動し、そこから大型車輛に乗り込んだのではないか。ではどこに移動したのか。黒の舞台衣裳を着込んだ大勢の人間が人目につかずに動くとなると、移動先の最有力候補はベイ・ホールに駐車場を挟んで隣接しているミナト・ホテルではないだろうか。そこならば距離は最短、道路を一跨《ひとまた》ぎだから目撃者の可能性もすくない。 「そしてこれが最も重要な事実なのですが」並木は口調をあらためて続けた、「その夜、ミナト・ホテルでは結婚披露宴がとりおこなわれていた」 「結婚披露宴?」島村夕子が不審そうに訊ね返した、「それがどうして重要なのですか?」 「そもそもその結婚披露宴がなければ犯行は成立しなかったからです」  並木の口調にはわずかにもったいぶるような調子があった。 「わかったわ!」典子が低く叫んだ、「つまり、団員を、黒のステージ衣裳の団員をカムフラージュしたのが披露宴だったというわけですね?」 「そうです。葉を隠すには森の中、人を隠すには人の中です」  車内にしばし沈黙が訪れた。  やがて、 「とっても面白い推理ですけど、一人や二人なら結婚式にまぎれこむこともできるでしょうが、たくさんの人間がいきなり結婚披露宴に押しかけたとしたら、大混乱ではないでしょうか? それに彼らは楽器と楽譜を手にしていたのです」  島村夕子が反論した。  典子の目も同じことを並木に質していた。 「ご指摘のとおりです。団員が大挙して押しかけたわけではない。蓮見さん自身、目撃しているではありませんか。『告別交響曲』のフィナーレでは、楽員は一人、また一人と去っていった。すなわち、ミナト・ホテルのロビーにも一人、また一人と現れたのではないでしょうか。披露宴の開始時刻は七時三十分、演奏会の前半の終了時刻が七時十分前後。それはちょうど結婚披露宴の列席者たちが三三五五集まって来るのと時を同じくしている。しかもこの日は朝から結婚式のラッシュ、この時間帯は前の一組との入れ替わりにあたっており、ロビーはダーク・スーツを着た人々でごったがえしていたそうです。まさに恰好の隠れ蓑ではありませんか? また、楽器と楽譜は移動の途中で誰かが取り上げて楽器運搬車に積み込んだと考えるべきでしょう」 「なるほど。だから、女性団員がいなかったのですね」 「女性団員?」並木は反問した、「女性団員が一人もいなかったことと、この仕掛けと関係があるのですか」 「ありますとも」典子は自信ありげに答えた、「だって女性団員だったら、舞台衣裳は結婚式に着てゆくには場違いですわ。女性団員の服装も最近はかなり自由になってきてはいますけど、せいぜいブラウスのデザインとスカートのデザインが異なる程度で、いぜんとして黒を基調にした、誰の目にも一見して演奏家のステージ衣裳とわかる服装です。結婚披露宴での女性の服装は、もっと派手で、色とりどりですもの」  並木はうなずいて、 「そこまでは考えてみなかったな。たしかにそれは正鵠《せいこく》を射ているかもしれません」  ここで島村夕子が口を挟んだ。 「つまり第三のトリックは、結婚パーティというわけですね」 「そうです」 「でも、なんだか出来すぎているというか、都合が良すぎませんか」島村夕子が反駁した、「ちょうど隣のホテルで結婚パーティが行われていただなんて」  反論をあらかじめ予想していたように、並木は応じた。 「そのとおりです。偶然だったら、これは出来すぎもいいところだ」 「では、偶然ではなかったのですか?」  蓮見典子がびっくりしたようにいった。 「もちろん。結婚披露宴もまた仕掛けの一つだったのです」  蓮見典子は目を丸くして並木の横顔に見入り、島村夕子は身を乗り出した。 「矢部が死んだことで、結婚式という正反対の概念が導き出され、結婚式とオーケストラとが連想によって結びついた。昨夜私が酒井事務官に調べてもらったのは、頭師氏の死因に関すること、そしてもう一つ、演奏会当夜のミナト・ホテルの催し物についてでした。酒井事務官がホテルで聴取した結果、結婚披露宴の件は、こういうことでした」  当夜ミナト・ホテルの大宴会室では、十九時半からこの日最後の組の結婚披露パーティが入っていた。  使用申請者は、新郎である青木馨、年齢二十九歳。勤務先は井川楽器・東京本社、開発研究部。  新婦は豊崎美江、二十六歳。勤務先はステラ化粧品・東京本社、営業部。  披露宴の規模は、二百人出席の立食パーティ形式で、ミナト・ホテルでは最大級の宴会であった。 「新郎が井川楽器の、新婦がステラ化粧品の社員……。こんな偶然はありえません。つまり仕組まれた結婚披露宴だったのです」  女二人はしばらく声もなかったが、 「なんてことなんでしょう」  島村夕子が呻くようにつぶやいた。 「そんなことが……」典子も呆れたようにいった、「……それにしてもその新婚さん、ご自分たちの結婚が事件の仕掛けになっていることを知っていたのかしら」 「参考人として事情聴取をしてみるまではわかりませんね。そうだ、その二人、事件の夜はそのままミナト・ホテルのスイートルームに宿泊し、翌朝オーストラリアにでかけたそうです」 「それじゃ、今頃はゴールドコーストあたりで泳いでるのかな」  蓮見典子は窓の外に視線を向けてつぶやいた。 「ともあれ、ミナト・ホテルのロビーに集まった団員たちは、結婚披露宴の出席者送迎用としてさし廻されていた車輛と楽器運搬車とに乗せられて、どこかへ運ばれたわけです。おそらくこれから行く浜松へ」  御殿場に近づいて、風景に緑が増していたが、曇っているうえに、長いあいだ雨に洗われていない樹木は、いくぶん冴えない色をしていた。富士は見えない。     2  富士川サービス・エリアの大型車駐車場はトラックで埋めつくされ、そのおびただしさに島村夕子も蓮見典子も感嘆の声を洩らした。 「これほど多いとは思いませんでしたわ」  島村夕子が感に堪えないようにいった。 「やはりトラックというのは陸上輸送の花形なんですよ。走る密室ですからね、オーケストラの団員が積み込まれていても誰も気づかない」 「夜ですしね」典子が続けた、「でも、中から壁をドンドン叩いたとしても、やはり気がつく人はいないかしら」 「走行中は聞こえないし、駐車しているときでも誰も気にとめないでしょう。それに私だったら浜松までいっきに走りますね」  小型車駐車場にボルボを駐め、三人は車を降りた。風が心地よかった。 「やはり見えませんね」  並木は富士山の方向に視線を結び、かるく伸びをしながらいった。 「富士山もだけど、海が見えないのもつまらないな」典子が不服そうにいった、「沼津を過ぎてちょっと見えたけど、なんだか汚いし、臭いし」 「ああ、田子浦はヘドロの海ですからね。ここを過ぎるとすぐに由比の海岸ですから、そこだときれいな海が見える」  レストランで三人は珈琲を注文した。  並木は煙草に火を点け、うまそうに烟を吐いた。  島村夕子が紫煙を目で追いながら、 「井川楽器とステラ化粧品も平田に脅迫されたのでしょうか?」  沈鬱な声で訊いた。 「平田の真の目的がわからないのですから、どう推測していいのかわからないが、井川楽器は慢性的な業績不振が末期的症状を呈していると噂されています。そうして、ちょうど新製品の発売という時機にあり、事件にその新製品を登場させている。ということは、やはり社運を賭けた起死回生の大攻勢と見るべきではないでしょうか。ステラも、創業以来のお家芸である訪問販売制が伸び悩んでいるらしい。なにしろ訪問販売員の高齢化が行きつくところまで行って、ステラの婦人販売員は杖をついている、などと美粧堂あたりに陰口を叩かれてるほどだそうですからね。ここらで大きなホームランを打たないと三流企業に転落してしまう」 「では、わたくしはニッカにおけるキャスリーン・バトルの役割を、ステラとイカワに対して果たすということになるのでしょうか?」 「そうです。あなたをモデルにした撮影が行われていることからして、まちがいないでしょう」 「いやだわ」島村夕子は感情をあらわにした声でいった、「わたくしの写真や映像が日本中に送られるなんて我慢できません。ステラもイカワもわたくしにとって何のゆかりもありません。イカワのピアノを使うことはありませんし、ステラの化粧品も使わない。ひどいわ」 「事件が解決すれば、阻止できるでしょう」  並木は慰めるようにいったが、 「鉄は熱いうちに打てですからね、イカワもステラも勝負に出るのは早いのではないかしら」典子が反対意見を述べた、「ことによると今夜にもテレビのCMが始まるのかもしれないし、ポスターも貼り出されるかもしれない。美人はつらいな」  こともなげにいう典子の肩を、 「おどかさないで」  島村夕子が手を伸ばしてかるく打擲《ちようちやく》する真似をした。 「典子さんはまるでそのポスターや、CMを見てみたいようなくちぶりですね。もっとも、ぼくもそういう気持ちがないでもないけど」 「そんな、並木さんまで」  島村夕子が怨《えん》じた。  並木はあらためて一連の事件に凶悪な影の落ちていないことを思った。頭師の死は他殺ではなく、五億円の要求にしても、並木が事件の弁護人だったら、犯人に初めから身代金を領得する意思がなかったことを主張するだろう。  捜査する者にとって、ただ忌まわしく憎むべき犯罪もあれば、犯罪者苦心のトリックを解明するにあたってある種の快感を覚える犯罪もある。平田の犯行はまぎれもなく後者であり、それは島村夕子の苦衷とは関係のないところに、あたかも芸術家の創造する作品のように存在している。こういう犯罪において、犯人と捜査官は攻守相反する双生児なのではないだろうか。  並木は、事件の経緯をもう少し待ってみたい気がしてならなかった。平田のこの奇妙な計画の結果を、平田の望んだような形として見てみたい。  由比の海岸が眼前に展がると、蓮見典子は歓声をあげた。  テトラポッドで埋め尽くされた海岸線はゆるやかな弧を描き、海星《ヒトデ》の形をした無粋なコンクリートの向こうには釣人の姿が見られた。沖ははるか視野の限りに駿河湾が広がっている。潮の香りが車内に流れ、これを迎え入れるように典子が窓を半開きにした。  東名高速と国道とJR線が並行し、その向こうが山という、いかにも窮屈な右手の風景とは対照的な、左手のひろびろと開放的な臨海図であった。  しかし、すぐに海は視界から去り、単調な景色に戻った。 「オーケストラを消す仕掛けで、私にはどうしてもわからないことが一つ残っています。島村さんはどうお考えですか?」 「とおっしゃいますと?」 「団員をステージから退場させるために交響曲『告別』が用意され、団員を人目につかず別の場所に集合させるために結婚披露宴が仕組まれていた。つまり、第一のトリックと第三のトリックは見破ることができたわけですが、第二のトリック、団員をミナト・ホテルのロビーに移動させるにあたって、いったいどのようにして誘導したのか、この伝達の方法がまったくわからないのです。事前に命令しておいたというのが最も簡単ですが、それだと演奏会そのものが開演できなくなる可能性がある。それに、これだけのことをやった犯人です、何か見事な方法を案出したのではないだろうか」 「舞台袖へ引き上げてきた楽員を武力で威嚇すれば、騒ぎはたちまち客席まで伝わります」典子は後部座席へ振り返っていった、「かといって、集団催眠術や魔術じゃもちろんありません。大の大人をどのようにして操ったのかしら?」  島村夕子はうなずいて、 「伝達の方法があるとすれば、たった一つだけ考えられます。譜面です」 「譜面?」 「団員たちは何も知らずにステージに登場した。もちろん、『告別』のフィナーレでステージから退出するという演出は、平田がわたくしにあらかじめ指示し、わたくしから団員に指示されていました。さてそれから後、上手と下手の袖に退場した団員が演奏会の後半を捨てて、ミナト・ホテルのロビーへ移動する、このことは最後まで伏せておかなければならなかったでしょう。最後まで伏せておくといっても、ひとたび演奏が始まったら、楽員が相手とするのは指揮者と楽譜だけです。千五百人の聴衆の面前で、楽員に伝達する方法がたった一つだけあります。それが楽譜です。オーケストラの団員は各自パート譜を見て、演奏します。パート譜を媒体にする以外、方法はありません」 「楽譜にあらかじめ書き込まれていたということですか?」  並木がやや昂奮した声で質した。 「たぶん直前に書き込まれたのでしょう」 「たしかにそれは実に巧妙な方法だが、誰が書いたのです? 楽譜は団員それぞれが持っているのではありませんか?」 「オーケストラには譜面係というものがあります。ライブラリアンと呼ばれており、楽譜の管理にあたっています。もし演奏会当日、たった一つのパートのわずか一枚の譜面でも失われていたら、その演奏会は混乱に陥ってしまいます。ライブラリアンはオーケストラにおいてきわめて重要な役割をはたしているのです。彼は演奏前に譜面台に譜面を並べ、演奏後はそれを回収するのです」 「では、そのライブラリアンが書いたということですか?」 「それ以外、考えられません。ライブラリアンは一人です。東京管弦楽団の場合、オーボエ奏者がこの任務にあたっています。おそらく演奏会前に脅迫され、いたしかたなく従ったのでしょう」 「オーボエ奏者、ですか?」  典子が訊き返した。 「多賀さんといって、なかなか優秀なプレーヤーです」  典子は並木に視線を向け、 「ハーメルンの笛吹き男はやはりいましたわね」  同意を求めるようにいった。 「いましたね。それにしてもオーボエ奏者とはね」並木も共感の調子で応じたが、「しかし、実際問題として」島村夕子に質問を向けた、「譜面に書き込みがあれば、演奏中にそれを読み取ることは可能だとして、演奏そのものがガタガタになりはしませんか?」 「なりました」  島村夕子はあっさりと認めた。 「それがこの問題に関するわたくしの推理の出発でした。本番の演奏は練習の時とくらべると、ミスの連発、響きもヒステリックで、指揮しながらわたくしは一体どうなったのだろうと不審に思わないではいられませんでした。結果的にはそれを演奏の迫力と聴いた人がほとんどだったのですから、なんだか皮肉な話ですけど」 「それにしても譜面に書き込みとは考えたものですね。団員が楽器だけでなく、譜面も持って出た理由もこれでわかりました」 「証拠|湮滅《いんめつ》というわけね」  典子が感じ入ったように結んだ。     3  浜松インターチェンジを降り、郊外をしばらく走って市街地に入る。井川楽器本社は浜松城と隣接した市役所のすぐ近くだった。  並木は駐車場に車を置いてから、受付で名刺を提示し、来意を告げた。  やがて中年の社員が迎え出た。  男はまず並木を、そして後ろに控える二人の女に視線を投げていたが、 「総務課長の岡本と申しますが、ご用件は?」  いくらか不安そうに訊ねた。 「東京管弦楽団の誘拐事件をご存じですね」 「ええ。新聞やテレビで……」 「事件に関連して、井川楽器の木材の倉庫を見せていただきたいのですが?」 「つまり、どういうことで?」  岡本課長はけげんな目をした。 「説明しなきゃなりませんか?」 「はい、できれば」 「貴社の倉庫にオーケストラの団員が監禁されている可能性があるので、いまから捜索したいのです」 「団員が? 倉庫にですか?」  岡本は目を丸くし、しばらく絶句した。  それから気をとりなおしたように応接ロビーに案内し、 「しばらくお待ちください」  そそくさと去っていった。  やがて、女子社員がお茶を運んできた。  お茶を飲み終えた頃、岡本課長はさらに年長の恰幅のよい社員とともにやってきた。 「わたくし、常務の井上と申します」  男は慇懃《いんぎん》に名乗り、名刺を差し出した。  並木は名刺を受け取り、島村夕子と蓮見典子を紹介した。 「これは、おみそれいたしました。あなたが、島村夕子さんですか。いや、どこかでお見かけしたような気がしましたよ。写真で見るよりずっとお美しいですな」  井上常務は歯切れの悪い社交辞令で迎えた。蓮見典子に対しては何の挨拶もなかったが、おもいがけぬ来訪者に内心穏やかならぬといったところのようだった。 「横浜からおいでになられたのですか?」  井上常務はソファに掛けて、並木に訊ねた。岡本課長はその後ろに立ったまま控えている。 「いえ、東京からです。車で来ました。いま着いたばかりでして」 「それは、ご苦労さまです」  頃合と見て、並木は核心に入った。  並木の話を聞き終えた井上常務の驚きは尋常一様ではなかった。何度もハンカチで顔の汗を拭った。その反応からして、計画はここまでは知らされていないことが窺えた。  常務はしばらく絶句していたが、 「もちろん捜索令状もあります」  並木が令状を呈示してみせると、 「東京営業所に連絡を取ったり、上司の決裁を仰ぐ余裕はどうやらないようですね」沈痛な声で答えた、「わかりました。ご案内させます。検事さんの見当違いであることを望むばかりですが……」  井上常務は岡本課長に指示を与え、力なく挨拶してこの場を去っていった。 「では、これから中田島工場の木材課長に連絡しますので、少々お待ちください」  岡本課長の顔は紙のように白くなっていた。  岡本課長がボルボに同乗し、並木たちは天竜川河口をめざした。  中田島工場は、天竜川河口の西に約十万坪の敷地面積を持つ井川楽器最大の工場で、ピアノやその他の楽器、家具などの木材加工部門を置いているが、一行が工場正門に到着すると、門の前で従業員らしい作業服を着た男が迎えた。 「お待ちしておりました」  男は丁寧に頭を下げた。  岡本課長と並木は車を降りる。 「木材課長の野村です」  男は帽子を取って、挨拶した。 「なかなか広くて、立派な工場ですね」  並木が視線をめぐらしながらいった。 「倉庫をご覧になりたいということですね?」  野村課長が訊ねる。 「原木を貯蔵している倉庫をまず拝見したいのです」 「原木は貯木池に貯蔵しているのですが」 「貯木池?」 「ええ、木は腐蝕や虫害、罅《ひび》割れを防ぐためにいわばプールのような池に貯蔵しておくのです。そうすると、何年でももちますから。ほら、ここから見えるでしょう」  野村木材課長が示した方向、工場のいちばん奥まったところに、鈍い陽を反射して鉛色に見える、四角い池が見えた。池の中で噴水のようなものが水を撒いていた。丸太を吊って移動している起重機《クレーン》も見える。 「倉庫って、実際にあるのかしら」  いつのまにか背後に来ていた蓮見典子が、不安そうに囁いた。 「ここには倉庫はないのですか?」  島村夕子が訊ねた。 「ええ、角材で輸入したスプルースなんかはあのようにそのまま野積みします」  野村が指さした一劃には、茶色のおびただしい角材が積まれ、スプリンクラーが散水している。 「それから、製材した板材は椪《はい》積みといいまして、積み重ねて天然乾燥します。あそこです」  薄い板をびっしりと積み重ねた塊が累々と連なっている一劃に、一同の視線が結ばれた。 「ですから、木材の倉庫というのはここにはありません」  倉庫が存在しないのなら、並木の推理はとんだ妄想ということになってしまう。 「屋根つきの倉庫はないのですか?」  並木は野村課長の前に立って、少し苛立たしげに質した。  野村はためらうように並木と岡本課長を見くらべていたが、 「岡本さん、ほんとうに案内していいのですか?」  不安そうな声で質した。 「ああ、ご案内しなきゃならんだろう」  岡本は勢いのない声で肯定した。 「倉庫はこの先の砂丘にあります」野村がおずおずと答え、岡本が後をひきとって、「この工場の木材は池の底の丸太にいたるまですべて税務関係の資産調査を受けておりますが、砂丘の倉庫は木材の一時的な保管場所で、部外者の出入りも禁じておりまして」内情を弥縫《びほう》するような不鮮明な調子で続けた、「井川楽器では原木の輸入については現地買付けと商社経由との二本立てでやっておりますから、現地買いの銘木は、自社供給だけでなく……、つまり他の業者に転売などもいたしておりまして……」 「そのへんの事情には興味はありません」  並木は岡本を遮り、野村に向かって、 「さっそく、そこへ案内してください」  語気鋭くうながした。  ボルボは、野村と岡本を同乗し、河口に向って下った。 「倉庫は、第一から第三まで三つあります。無人倉庫で、鍵は私が管理しています。だから、あそこに人が入っているはずはないのですがね」  野村は釈然としないようすだったが、 「鍵はどうとでもなりますよ」  並木はニベもなく否定した。 「それはそうですが」 「いちばん最近、あなたが倉庫に入ったのはいつですか?」 「三月に名古屋港に揚がったチークの丸太を搬入しました。それ以来、ということになります」 「その倉庫は木でいっぱいなんですか?」 「いや、各国が禁輸政策を打ち出して以来、木はなかなか入らないのです。丸太が入るなんてひさしぶりでした。ですから、三つの倉庫のうち二つは遊ばせています」  誰も気づかなかったが、並木は片頬に微笑を泛べた。  人家が途絶え、さらに行くと、正面に海が広がり、右手は林に変わった。  野村の指示に従って右折し、松林の中の道を進んだ。舗装されていた道路がやがて狭くなり、埃が舞い立つ悪路になったので、窓を閉めなければならなかった。  松林はところどころで切れ、そこから雄大な遠州灘が見え隠れした。 「あれがそうです」  野村が指さした松林の一劃は、きれいな四角形に整地され、倉庫は木の間隠れに、互いに間隔を置いて三棟、ひっそりと並んでいる。くすんだ灰色の防火壁と紺色の屋根を持つ、蒲鉾《かまぼこ》型の倉庫は、飛行機の格納庫を思わせた。  五人はあいついで車を降りた。  海からの風が、まず島村夕子の髪に黒いつむじ風を起こし、蓮見典子もあわててスカートを押さえた。烈風は轟々と林を鳴らし、その音の底にさらに唸るような絶え間ない響きが聞こえた。それはほとんど憤怒を思わせた。 「潮騒が聞こえるわ」  蓮見典子がオクターブ上げた声でいった。 「海鳴り、といったほうが正確じゃないかな。すごい音だ」  並木も高調子に答えた。  風には潮と樹脂の香りがほどよく溶け合い、鼻孔から胸に清涼な感覚が広がった。 「トラックが見えます」  岡本が指さした。  井川楽器の社名とロゴマークがボディに書かれている。 「あれはピアノ運搬用車両のいちばん大型のタイプです。空調設備があって、完璧に温度コントロールができる。主として、コンサートピアノを移動させる用途に使っていますが、こんなところに来てるはずはないのですがね」  岡本は不審そうにいった。 「あれが団員を横浜からここまで運んだのです」  並木が自信に充ちた調子で応じた。 「あっ」  島村夕子が立ち止まり、何かに聴き入るように頸をかしげた。 「何か聞こえますわ」  島村夕子は目を閉じ、両手を耳の後ろに当てた。  並木も耳を欹《そばだ》てた。  倉庫から何か音が洩れ聞こえているらしいのだが、並木は風と海鳴りの音と区別がつかなかった。しかし耳を澄ますと、何か愁えるような調子を帯びた響きが混在しているようにも思われた。何かの音楽の断片のような。  島村夕子は目に見えないヘッドフォンにでも聴き入っているようだったが、 「まちがいありません」  耳にあてがった手をはずし、潜水艦の索敵手のように叫んだ。     4  三棟の倉庫のうち、まず手前の倉庫の前に集まり、扉を開けた。施錠されておらず、簡単に扉は開いたが、中は暗く、湿った木のにおいが鼻孔を刺戟した。  目が馴れると、倉庫の内部はおびただしい材木の山であった。木は皮を付けたままの状態で、埃臭いような、黴臭いような独特のにおいを放っていた。  ここには木のほかにはなにもなかった。  ついで、真ん中の倉庫の扉の前に立った。音楽はこの倉庫から漏れ聞こえていた。これは鍵がかかっており、野村が解錠しなければならなかった。錠を外し、扉の右端にあるこれも施錠された操作盤の蓋を開ける。中のボタンを押した。モーター音とともに扉はギイッと軋んだ音を立てながら、左右に開いた。  五人の前にこのとき、オーケストラの、低い弦の荘重な調べが溢れ出た。  オーケストラは倉庫の中に扇型に展がってベートーヴェンを演奏していた。  指揮者はコンサートマスターが務めていた。指揮者の隣には主を失ったヴィオラが、段ボール箱の上に置かれていた。  演奏は、「英雄交響曲」の沈痛な第二楽章の葬送行進曲が、再現部のフーガを伴う凄惨な心の嵐に突入したところであった。それで、ヴィオラを載せた段ボール箱が祭壇であることが知れた。  五人は全身にベートーヴェンを浴び、呆然と立ち尽くした。  楽員が一人、また一人と演奏を止め、急速に音楽は足並を乱し、やがてまったく消えてしまった。  完全な静寂が来た。  コンサートマスターの木内が振り返った。  木内は島村夕子を認めて、右手の指揮棒をとり落とした。  島村夕子が頬を紅潮させ、両手を打ち鳴らした。  蓮見典子がこれに続き、並木も拍手を始めた。  島村夕子は拍手しながら、倉庫の中に入っていった。四人がそれに続いた。  木内も歩み寄り、 「ようこそ」  微笑みながら迎え、握手を求めた。 「みなさん、よくご無事で……」  島村夕子が声をつまらせながら握手に応えた。 「われわれは帰れるのですね?」  木内が訊いた。 「もちろんですとも」  ここではじめて怒濤のような歓喜のどよめきが起きた。そうして、楽員の誰かが拍手をはじめ、それは全員に広がった。ついで、楽員同士肩を叩き合ったり、握手したり、私語を交わしたり、あたりがにわかに賑わしくなった。  突然、車のエンジン音が聞こえた。並木は外へ出た。隣の倉庫の扉が開いて、そこからトラックが半分車体を出したところだった。  トラックのドアに、「東京管弦楽団」という文字と、「TOKYO PHILHARMONIC ORCHESTRA」という英語表記、それにTPOという頭文字をあしらったロゴマークがあるのを並木は認めた。楽器運搬車だった。  運転席に、女が見えた。  並木は急ぎ足で車へ向かった。 「平田の会社の事務員ですわ」  島村夕子が並木に足並を揃えながら、口早にいった。 「事務員?」 「ミネルヴァ東京、例のCDの発売元の」  並木はうなずき、 「車の前に出ないようにしてください」  島村夕子に短く注意した。それから、典子に向かって小声で何事か命じた。  並木は運転席に近づくと、 「そこから、降りなさい」  女を見上げながら明瞭な声で命じた。  女は口の端を歪め、無言のまま敵意にみちた目で見返した。  並木がドアのノブに手をかけようとしたとき、鋭い銃声が空気を裂いた。  並木は島村夕子の肩を両手で押さえ、その場に屈んだ。 「こんなに早く嗅ぎつけられるとは思わなかったよ」  トラックの向こう側から平田が現れた。  拳銃が手に握られていた。  平田は頬を歪めていた。笑っているようにも見えた。  突然、島村夕子が前へ躍り出た。 「フリッツは、あの子は大丈夫なのでしょうね!」  上半身を前のめりに折るようにし、両手でこぶしを作り、全身からふりしぼるような声で質した。  さらに何かいいかけたのを遮るように、銃声が轟いた。平田が空へ向かって第二弾を発射していた。  並木は島村夕子に駆け寄り、腰を抱いてその場から後退した。 「きみはなかなか優秀な刑事だな」  平田は島村夕子の存在を空気のように無視して並木に語りかけた。 「私は刑事ではない」並木はエンジン音に負けないように声をはりあげた、「横浜地方検察庁の並木だ。きみを窃盗、営利誘拐、死体遺棄等の容疑で逮捕する。銃刀法違反も追加だ。拳銃を捨てなさい」  並木はポケットから折り畳んだ紙を取り出し、掲げた。紙は風に煽《あお》られて、横に流れ、痙攣したように揺れた。 「なぜここがわかった? イカワの谷本が吐いたのか?」 「谷本? そいつがここの提供者なのか? じゃ、青木馨の上司でもあるわけだな」 「青木馨? そこまで調べているとは感心だな。谷本が吐いたのじゃないとすれば、どうしてここがわかったのだ?」 「頭師が教えてくれた。彼の死因だ」 「あれは病死だろう」 「知らないのか? 蠍だ。蠍」 「蠍?」 「彼は特異体質だった。蠍に刺されて、それが原因で死んだのだ」  平田はしばらく無言でいたが、やがて納得したように、 「てっきり病死だとばかり思っていた。彼は逃げ出したんだ。隣の倉庫に逃げ込んだ。あそこで蠍に? まいったね。それなら、わざわざ蒲郡まで出向いて発送することはなかった。とんだミスをしたものだ。なるほど、蠍と輸入木材、輸入木材と倉庫、倉庫とオーケストラ。検事さん、あんたは素晴らしい想像力の持ち主だよ」 「蒲郡市から死体を送っているのも隠し場所がここであることを物語っているような気がした。浜松から見て東京寄りの土地ではなく、名古屋寄りの蒲郡を選ぶのは自然な心理だ」 「あれは悩んだ結果だ。東京寄りの掛川とどちらにしようかとね。いずれにしても同じことだと思った。九州か北海道あたりから送ったようにみせかけることができればよかったのだが」  女がドアを開け、助手席に移動した。  平田は拳銃を腰の高さに構えたまま、後退し、トラックのステップに足をかけた。女が平田の腰を抱くようにして介添えし、車に乗り込んだ。  平田は片手でドアを閉じ、女に拳銃を渡した。女は両手で持ち、平田の肩越しに銃口を向けた。 「一つ、教えてくれないか」並木は手で制しながら訊ねた、「きみの仕掛けはなかなかの趣向で、感心させられたよ。結婚式とは考えたものだ。一つだけ、わからないことがあるんだ」 「団員の誘導か?」 「そうだ。楽譜を使ったんだろう?」 「よくわかったな。やはりあんたは頭がいいよ」 「それはおれの推理じゃない。島村夕子さんだ」  平田は島村夕子を一瞥し、片頬に傷痕に似た笑み皺を刻んでみせた。  並木はこの隙にすばやく視線をトラックの後部に投げ、典子がマフラーにハンカチを詰めているのを確認した。 「楽譜には何を書いたんだ?」 「団員に訊けばわかるじゃないか」 「きみの口から訊きたい」  並木は喋る速度を微妙に落とした。ハンカチだけでは足りなかった。この場で典子に機転が利くだろうか。ここにはうんざりするほど砂があるのだが。 「簡単な脅迫文をしたためておいたのさ」 「ライブラリアンを、嚇《おど》して、書かせたのだな」 「そうだ」 「命令に服従しなければホールを爆破する、とでも書いたのか?」 「それだと、団員たちはわれさきに逃げ出して収拾がつかなくなる。島村夕子を射殺すると書いたのだ。実際、ホール一階の最後部、出入り口の扉の前にライフルを構えた人間を用意しておいた」平田は助手席の女を指で示しながら説明した、「男装させてね」 「それはまた大胆だな。なるほど演奏中後ろをふりむく客はまずいないし、団員からは見える。盲点をついたな。だが、ライフルみたいな物騒なものを、いったいどうやって持ち込んだのだ?」 「本物を使うなんてことはしないさ。ガンマイクを知っているか?」 「ガンマイク?」 「ビデオ用のマイクでね、銃身そっくりだ。携帯ビデオに装着し、ビデオ本体には新聞を被せる、そうすると遠目にはライフル以外の何物にも見えない。演奏中、舞台は明るく、客席は薄暗いからな」 「妙案だな。感服したよ。楽器と楽譜、団員の携行品等はどうしたんだ?」 「藤井が取り上げて、このトラックに積み込んだのさ」 「じゃ、会場で犯行に従事したのはきみと藤井と、そこの女性というわけか」  並木がいい終わらないうちに、平田は女から銃を取り、宙へ向けて発砲した。並木はおもわず頸をすくめた。 「お嬢さん、おいたはやめな。さあ、そこを離れるんだ」  平田が車の後部に向かって怒鳴った。  典子は悔しそうに唇を噛み、手からは砂が風に流されて横ざまに滑り落ちていた。 「鏡は磨いとくもんだ」平田はサイドミラーを銃口で軽く叩きながら得意げにいった、「ゲーリー・クーパーならそういうところだ」  アクセルを踏み込み、エンジンをふかすと、マフラーからハンカチが白い鳥のように舞い出た。 「藤井は逮捕したのか?」 「藤井? ああ、あのマネージャーか。逮捕したよ」並木はそれらしくうなずいた、「今頃は四谷署の取り調べ室だ。あいつはおおいにきみの足をひっぱったな」 「そのとおり。あのバカが五億円の身代金を要求したのが、そもそも計画の最初の齟齬《そご》だった。藤井は指揮者志望だったそうだ。藤井にしても頭師にしても、音楽をやるやつはバカでいかん。おおいに反省したよ」 「きみは音楽はやらないのか?」 「音楽は聴くのがいちばんだ」 「同感だ」 「藤井が捕まったのなら、くどくど説明するまでもない。倉庫に素敵なポスターを残している。残念ながら、陽の目を見ることもなく焼却されることになるだろう。ぜひ、見ておいてくれ。T計画というんだ」平田は満面に笑みを泛べ、並木、島村夕子、典子と順に視線を送った、「TはテレーゼのTだ。それじゃ、これで失礼するよ」  トラックが発進し、三人は二、三歩退いた。  トラックは少し走ると、停車し、平田が窓から手だけを出した。手は二度三度振られて、それからトラックは猛然と走りだした。砂が舞い上がった。風に乗ってそれは並木たち、いつのまにかオーケストラの団員も加わった大勢の見送りの前に黄色い砂塵の幕を広げた。  並木はボルボに戻ると、自動車電話の送受器を取った。そうして、一一〇番をプッシュしたが、すぐに思いとどまって、いったんオフにした。それから、横浜地検の酒井事務官に連絡を入れ、事態を簡略に報告した。  並木は岡本課長にボルボのキーを渡すと、 「まもなく警察が来ますが、あなたがたはひとまず会社に。それからこれはお願いですが、市内のホテルに団員たちの部屋を確保していただきたい。それと、迎えの車も手配してください」  穏やかな口調で告げた。 「ここには社のトラックが一台ありますが」  岡本がおずおずと訊いた。 「あれはこのままにしておかなければならないでしょう。現場検証もありますし、団員の何人かもあらためてここに戻ってくることになるでしょうね。きっとあなたも」  岡本課長は悲壮な表情でうなずいた。  ボルボには野村も同乗した。乗る前に野村が、 「蠍がいたとは驚きました。この仕事、かれこれ三十年近くになりますが、蠍騒ぎはこれで二度目です。しかし、死人が出るなどとは。よほど運の悪い人だったんでしょうな」  まだ何かいいたそうなのを、検事は車に押し込んだ。  ボルボは砂煙をあげて、事件の余韻さめやらぬ砂丘をあとにした。  それは、殺風景な倉庫の中にあって場違いなだけに、奇妙な華やかさで見る者を唖然とさせ、押し殺したような嘆声をあげさせた。  最も衝撃を受けているのはやはり島村夕子で、のけぞるようにして、背後の壁に後手をつき、立ち尽くしていた。  最初のポスターは全体がモノクロームで、白っぽい衣裳をまとった島村夕子が、漆黒のグランドピアノに凭れている。ややきつい感じの視線を斜めに落とし、口もとはたよりなげに薄く開かれ、叡知と官能が同居した、不思議に奥行きのある表情だった。 「夏の夜の官能」  という、それだけまるで口紅で書いたような赤で刺戟的な惹句《じやつく》が添えてあり、ステラ化粧品の新商品「テレーゼ」の宣伝が白抜き文字で謳《うた》われていた。  もう一枚は、全体に明快な調子のカラーで、濃い緑色のピューリタン衿《カラー》のステージ衣裳に身を包んだ島村夕子が微笑を泛べて立っており、ピアノにはTHERESEという金色の花文字があしらってあった。 「テレーゼの提唱 地球にやさしいピアノをつくりたい」  という惹句も金文字で、画面の下には、横書きの明朝体活字が整然と並んで、次のような謳い文句がしたためられていた。 「イカワは約束します。美しい地球を守ることを。たとえば、イカワは世界にさきがけて鍵盤に象牙を使用することを止めます。芸術の名において、絶滅の危機に瀕した野生動物の保護に背を向けてはならない。天然の象牙以上に優れた人工象牙『アイボリックス』の開発に成功したイカワの、これが結論です。  また、イカワはピアノに使われる木材を人造素材に切り替えるための研究を続けてきましたが、これを実現する日も遠くないでしょう。それによって、加速度的に進む地球の砂漠化をほんの少しでも食い止められたら……。イカワは芸術の普及発展と地球環境の保護とを同じように大切に考えます。 『テレーゼ』はそんなイカワの新しいピアノ、弾く人だけでなく地球にもやさしいピアノです」  さらに数種のポスターがあったが、あとは同工異曲であった。  非の打ちどころがないという美人では決してない島村夕子の、多くの人の手にかかって作られたものとはいえ、古典的とも美術的ともいえる比類ない美しさは、この種の広告ポスターでいまだかつて見たことのないものであり、溜息を誘わずにはいなかった。  この見事な商業美術展の会場で、島村夕子は蒼ざめた顔のまま、壁一面に貼られたポスターに視線をさまよわせていた。  蓮見典子は、ショーウインドウのアイスクリームの前に立つ少女の目をして眺めていたが、やがて一枚のポスターの前に歩み寄った。すると、突然ポスターから音が鳴り響き、思わず後退した。それはピアノの音で、無音の場内にじゅうぶんな音量で響いた。  島村夕子は音のする方へ視線を奪われていたが、 「ベートーヴェンのソナタ、テレーゼですわ」  昂奮していった。 「そうですね」並木はわずかに頸を傾げて傾聴しながら、「第一楽章の呈示部、いいところだ。演奏はジェラール・バロー。いや、島村夕子……」  島村夕子は無言のままほんの少し仰向いて遠い目遣いをし、すぐに俯いて肯定した。  並木は魔法のポスターの前に近づいて、 「センサーが仕掛けてあるようです」  いいながら、ポスターに触り、裏側を覗き込んでいたが、 「ポスターの素材が特殊な樹脂で、全体がスピーカーのコーン紙のような働きをするようにしてあるようだ。これはけっこう金がかかってる」 「一枚いくらかかるのか知らないけど、社運を賭けたという感じですね」  典子が感心したような顔でいい添えた。  犯罪とはいえ、これはなんと壮麗な平田のパフォーマンスだろう。並木は思った。これらのポスターが全国に貼り出され、テレビに島村夕子が登場する。ジェラール・バロー復活劇の主人公《ヒロイン》であるばかりではなく、横浜のオーケストラ消失事件でみごとな指揮者兼ピアニストぶりを発揮して大向こうを唸らせた島村夕子が……。もし、これが首尾よく成功していれば……。一匹の蠍さえいなければ、平田の企ては成就したのだ。並木は想像するだけで眩暈がするようだった。 「平田に拍手を送りたいよ」  並木は島村夕子に聞こえないよう、抑えた声で典子に囁いた。そして、胸の裡でこう続けた。  ——オーケストラを消すという空前の仕掛けを案出しただけでも、喝采に値するとは思わないか。 「わたしもこのポスター、持って帰りたいわ」  典子も小さくつぶやいた。  一分ほどで、ベートーヴェンは鳴り止んだ。  並木はもう一度、ポスターの中の島村夕子をみつめた。憂いを沈めた微笑が並木を見返していた。それから島村夕子本人を見た。文句のつけようのない美貌ではなく、いくつか欠けたものがあることで人を惹き寄せてしまう顔だった。  砂塵とともに去っていった平田の顔が思い出された。女を連れていたが、平田は島村夕子に魅了されてしまっているのではないだろうか。平田のこの企てもそこに原因があるのではないだろうか。平田に初めてあいまみえた時、わけもなくそう思い、何か鮮明に腑に落ちたような気がしたが、それは正鵠を射ていはしまいか。平田にとっては、ステラの商品やイカワのピアノが売れようが売れまいが、そんなことはどうでもよかった。ステラもイカワも舞台装置にすぎない。平田は、島村夕子という女優を思いのままに操る演出家でありたかったのではないだろうか。そのために、奇想天外なシナリオを書いたのだ。ことによると、それは復讐というより、むしろ芸術の創造や恋愛に近い、一種の自己実現の欲求だったのかもしれない。  島村夕子はショックからなかなか立ち戻れないらしく、ほとんど生理的な苦痛に耐えている人のような表情になっていた。  コンサートマスターが、島村夕子の前に立った。  手に木の棒を持っていた。指揮棒にしては粗末で、曲がっており、握りの部分もなかった。 「オーケストラの希望です。再会を祝って、一曲やりましょう」  島村夕子の前に棒を掲げながらいった。 「急にそんなことをおっしゃられても」  島村夕子は棒を持たされてうろたえていた。 「毎日、われわれは演奏を続けていました。聴衆は平田と、平田の女、この二人だけでしたが……。心配ご無用、腕は落としていません」  ……やはり聴衆は二人だけだった。並木刑部と蓮見典子と。 「警察、まだなのかしら」  典子がいった。 「まだ、しばらく来ないでしょう」 「一一〇番したのじゃないのですか?」  典子は声をひそめて質した。 「しなかった。酒井事務官には連絡しましたが、警察へは三十分後に通報するよう指示しましたからね」 「どうしてそんなことを?」 「自分でもよくわからない。たぶん、簡単に平田が捕まっては困ると思ったからでしょう」 「どうして?」 「この事件の本質は平田と島村夕子さんの個人的確執です。幕切れにはまだ早い。ほんとうの解決はこの二人の間でなされるべきです」 「フリッツという少年の生死の問題をさておいてもですか?」 「こんなことをやる男が人殺しなどしますか?」  並木が微笑を泛べて答えると、典子は納得したように黙ってかぶりを振った。  開演を前に、団員は譜面台に楽譜を揃え、口々に語り交わしていた。  倉庫のホール、マホガニーの無垢板を並べて作った雛壇、平田が砂浜で拾ってきたという木の枝の指揮棒、すべてが異例だったが、演奏前の緊張感は最高のホールにひけをとらなかった。  オーボエ奏者がAの音を鳴らし、チューニングが始まった。 「ハーメルンの笛吹き男、ですよ」  典子が並木に目配せした。  並木は無言でうなずいてみせた。 「あの令状、見せてくださらない?」  典子が小さな声でいった。 「令状? ああ、いいですよ」並木は微笑しながらポケットから取り出した、「本物です」  たしかに、本物だった。並木自身が交付したものだ。 「こんなことなさっていいのですか?」 「こんなことは一生に一度あるかないかだ。かけがえがないのは何よりも自分の人生じゃありませんか?」 「おっしゃるとおり」典子は共感したように、「これ、記念にいただくわ」  ポケットにおさめた。  やがてチューニングが終わり、島村夕子が振り向き、並木と典子に向かって、ぎこちなく一礼した。  二人は拍手で迎えた。  島村夕子はたった二人の聴衆を相手に、ほとんど途方に暮れたような表情さえ見せていた。何度も溜息をついた。  そのとき、 「コラッジョ、テレーゼ、コラッジョ!」  並木が励ますように声をかけた。  典子は驚いたように並木を見た。  島村夕子はびっくりしたように眼をみはったが、すぐに微笑に変わり、頬にわずかに血の色が翳《さ》した。  島村夕子の書いた文章にあった、ジェラール・バローが生前、この女流のまな弟子を督励する時の常套句だったというイタリア語を、並木は思い出したのだった。勇気を、テレーゼ、勇気を!  島村夕子は決然と二人の聴衆に背を向けると、指揮棒を頭上に構えた。  空気がにわかに稠密《ちゆうみつ》さを増した。視線が見えない火花を散らしていた。  指揮棒の先端が揺れはじめた。島村夕子がはげしく息を吸い込む音とともに、棒は震えながら急速に落下し、腰のあたりで静止すると、「運命」の冒頭が倉庫の中に奔騰し、壁と天井をゆるがした。  並木はおもわず膝の上で拳をつくり、典子は両手を握り合わせた。  嵐のようなベートーヴェンの始まりだった。  弦が唸りをあげ、ティンパニが強打され、金管楽器が咆哮し、それに島村夕子の激しい呼吸音と気合がまじった。仮借ない、荒れ狂うような演奏で、形の崩れる部分も散見された。並木は、ほとんど眩暈を覚えながら、これはたぶん自分が聴く生涯最高の「運命」だと信じた。  思えば、交響曲「告別」とともに団員が消えて四日目、長い長い休憩後の「運命」であった。 [#改ページ]   エピローグ  藤井はオーケストラが「運命」を演奏し終わらないうちに逮捕され、伊東警部補の前にあっさりと自供を始めた。藤井が平田に手を貸すこととなった原因は、東京管弦楽団の女性団員との不倫をネタに脅迫されたためであった。五億円の要求は、女性クラリネット奏者にいれあげて借金の山を作った藤井が衝動的に思いついた杜撰《ずさん》な犯行だった。千ドル紙幣の指定は藤井のあずかり知らないことで、平田の攪乱作戦であると断定してまちがいなかった。  ステラ化粧品の叉野専務と井川楽器の谷本営業部長は、午後になって一斉にオーケストラ発見が報じられると、揃って四谷署に出頭し、谷警部の前に膝を屈した。  平田と女のゆくえは杳として知れず、夕刻になって、楽器運搬用トラックだけが浜松市郊外の廃車の墓場で発見された。  平田は東京に向かう新幹線の中、静岡を過ぎたところで、暗記している電話番号を回していた。  ——島村夕子です。ただいま外出しております。……  彼は留守番電話に向かって、無表情に喋った。 「平田です。今日はせっかくの再会でしたのに、あわただしくお別れしなければならず、残念でした。ところで、T計画の本当の目的をいい忘れていました。というより、砂丘では外野が多くていえなかったのです。T計画のTはテレーゼのT、ローゼンシュルフトで初めて会った時から私はあなたが気に入っていた。気に入るという感情はなかなか始末に負えないものです……。計画は竜頭蛇尾に終わってしまったが、この数ヵ月、実に楽しかった。あなたを自由に操ることができたのだから。次はスイスでお目にかかりましょう。その日をたのしみに、ごきげんよう」     *     島村夕子、並木、典子を乗せたボルボは横浜で進路を変え、東名高速を降り、山下公園に向かった。  誰からともなく、ベイ・ホールを再訪してみようという声があがったためであった。山下公園前のパーキングに駐車したとき、すでに陽は暮れ落ちて、空に星はなく、港は宝石を撒いたように美しかった。  三人は公園前の公孫樹並木の舗道から、横浜臨港会館を眺めた。  玄関前は煌々《こうこう》と明るく、ロビーに人が群れているのが見えた。 「今夜も演奏会をやってるようですね」  島村夕子がいった。 「休憩みたいですね」  並木が応じた。 「長かったわ」典子がいった、「四日前のちょうど今頃だったのですね、オーケストラが消えたのは」 「なんだか夢のようだな」  ホールに視線を結んだまま並木は答えた。 「終わったんですね」  蓮見典子がしみじみとした口調でいった。 「終わりなのかしら」  公孫樹の舗道からミナト・ホテルを眺めながら、豊崎美江がいった。 「え?」  青木馨が驚いたように訊き返した。 「離婚届けも出した。わたしの仕事は終わったわ。でも、これでわたしたちさよならしていいのかしら」 「だって、きみはぼくを愛していない。見合いも、結婚も、すべてが最初からの筋書きだった。新婚旅行の途中、ぼくの失敗につけこんで離婚に持ち込むというのも計画通り。ぼくはまんまと嵌められたというわけだ」 「たしかにそうね」美江は歩き出した、「ホテルの浴槽事件だけど、怒鳴り込んできた客、実はグルだったのよ。お金をつかませて、一芝居打たせたの。だから、賠償もウソよ。請求書も届かないわ。心配しないでね」 「あれもきみが……。なんだか、悲しすぎて怒る気力もない。請求書が来たほうがまだましだよ」 「ごめんなさい。でも、こんなバカバカしい事件の片棒を担がされていたなんて、たまらないわ。わたし自身もみじめだけど、なによりもあなたに悪くて……」  青木はあわてて美江の後にしたがいながら、 「それはぼくだって同じだ。ぜったいに谷本部長を殴ってやる」 「谷本部長というのね。あなたをひどい目にあわせた人」 「……感謝していたんだ」青木は力なくいった、「いい人を紹介してくれたって」 「わたしなんかを?」  美江は立ち止まり、青木の目を仰ぐように見た。 「オーストラリアは辛かったわ。だって、あなたってとっても優しいんだもの」  美江はここで湿った声になったが、すぐに昂然とした口調に戻って、 「ねえ、わたしも殴りたい人がいるの。叉野専務、谷本部長と手を組んだ男よ」 「手伝おうか」 「でも」美江は俯いて、「わたし叉野の女だったのよ」  青木は一瞬ひるんだ表情を見せたが、 「やっぱり手伝うよ」  美江の腕を取った。 「ありがとう」  夜の中にしみ透るような声が流れた。 「わたくしにとっては何一つ終わっていませんわ」  島村夕子が沈鬱な声でいった。  その言葉の意味するところは、ほかならぬ並木と典子のよく知るところだったので、二人は返す言葉に窮した。  そうだ、まだ終わっていないことがある……。典子は兄と沢木圭子の顔を思い出していた。兄は沢木圭子を見つけられただろうか。  バロー演奏会初日の開演直前、楽譜を隠して会場から去っていった沢木圭子の泣き顔が思い出された。バローが、島村夕子が現れさえしなければ、あの明るく聡明な圭子は、そんな不始末をしなくて済んだのだ。そうして、あるいは兄と結ばれていたかもしれない。このとき、不意に典子の脳裡をある鮮烈な想念が過り、胸の奥がおののいた。  平田がやったことも同じではないか。やったのは沢木圭子であり、平田佐一だ。でも……。  典子はおずおずと視線を島村夕子にさしむけた。  島村夕子は、静かに自分の内面を覗き込んでいるかのような、深い思念の表情で夜の海を眺めていた。そんな島村夕子が、蓮見典子にはふっと初めて見る人のようにも思われた。 「スイスへはいつ?」  並木が訊ねた。 「出発はできるだけ急ぎたいですわ」島村夕子はむしろ痛切とも見える微笑を泛べて答えた、「フリッツが待っていますから」 「フリッツ・ローゼンブルク、あなたの、いや世界の宝でしたね」  島村夕子はうなずき、典子に視線を転じると、 「スイスに発つ前に、ぜひとも蓮見さんにお会いしたいわ。沢木さんとも笑顔の再会ができればと思いますわ。いえ、それを望んでいます。お伝えくださる?」 「ええ」典子はいくらか口ごもりながら答えた、「きっと伝えます」  三人はそれからしばらく声もなく佇んでいた。  やがて、目の前を腕を組んだいかにも睦《むつ》まじい恋人同士がはなやかに笑いながら通り過ぎると、並木は忘れものを思い出したようにポケットからボルボのキーを取り出し、島村夕子に渡した。  島村夕子はキーを掌で受け、そのまま軽く指で包むと、 「ひとかたならぬご迷惑をおかけしてしまいました。本当になんと感謝申しあげてよいやら。お礼もさせていただかなければなりませんわね」 「お疲れでしょう。今夜は早くお寝みになることです」  並木はいささか事務的に答えた。 「でも、このままでは。どこかでせめてお食事でも。どうかしら、いまから三人で」 「いえ、けっこうです。お礼の必要なんかありませんよ。それでなくとも……」並木はあわてたように言葉を呑み、「どうかお気づかいなく」  なおしばらく島村夕子は名残惜しそうにしていたが、 「それじゃ、ここで失礼します。おやすみなさい」  軽く頭を下げ、踵を返した。大きな歩幅で去って行く島村夕子の背中には疲労の色が濃かった。一度も振り返らなかった。  孤独な靴音を残し、夜の向こうに島村夕子が消えてしまうと、典子が並木に訊ねた。 「さきほど、いいかけてお止めになったの、あれ、なんでしたの?」 「何をいったっけ?」 「お礼の必要はない、その次にいいかけたこと」  並木は答えず、穏やかに微笑するばかりなので、 「ねえ、なんだったの?」  典子がもう一度甘えるようにうながした。  矢部のことを考えていた、そう並木は答えたかった。矢部の死が事件解決のヒントを与えてくれたのだ。死ななくともいい男の死をまだ充分に追悼していない自分が、どうして食事を楽しめるだろう……。しかし、並木は晴れやかな微笑を見せると、 「だって、お礼なんかいらないさ。きみとこうしていられるのだから」  やや乱暴な調子で答え、恋人の腕を取って五月の優しい夜の中に歩み出た。 ・この作品は作者の虚構にもとづく完全なフィクションであり、現実の組織、施設、個人、事件等とは一切関係ありません。 ・本作品は、一九九一年四月、小社より刊行されたものです。 ・本電子文庫版は、本作品講談社文庫版(一九九四年七月刊)を底本としています。