TITLE : 村 の 名 前 〈底 本〉文春文庫 平成五年八月十日刊 (C) Noboru Tsujihara 2002  〈お断り〉 本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。 また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉 本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。 目  次 村 の 名 前 犬 か け て タイトルをクリックするとその文章が表示されます。 村 の 名 前 村 の 名 前  天井から、扇風機のはっきりしない風が降りてくる。音ばかり大きくて回転がのろいから、三枚の鉄製の羽根のかたちがぼんやりとみえる。涼しくもなんともない。風を送る以外の目的で回っているとしか思えない。  羽根の先に、一匹の銀蝿《ぎんばえ》が平気でとまっていた。はじめは死んでいるのかと思ったが、さっき一度離れて窓のほうへ行き、闇に塗りつぶされた黒いガラスにへばりついて外を眺めるかしたあと、舞い戻ると、何の苦もなくもう一度羽根にとびつき、それっきりもう動かない。  まわりは体温とほとんど同じ暑さだ。空気が体の輪郭をあやふやにした。橘は、動くのも、手や足がどこにあるか感じるのも億劫《おつくう》なほどだ。このままなめくじみたいに溶けだしてしまうかもしれなかった。  橘はベッドから体を起し、天井の釘から紐で吊した麻の蚊帳《かや》を引きおろした。彼の体はすっぽり靄《もや》のように包まれた。隣では同じように蚊帳を降ろした加藤さんが、うめくようないびきをかいて眠っている。扇風機を切り、枕許の電灯を消しても、まだどこかで何かが回っている気配が残って、橘は耳を澄ませ、あたりを見回した。ふたつのベッドのまっ暗なはざまで、渦巻の蚊取線香が、尖端だけをちょっと照らして浮かび上った。  一時間ほど前、加藤さんは、極楽、極楽、とつぶやくとさっさと眠り込んだが、橘は日なたの犬のように体をあちこち動かしつづけたあげく、左脇下になって両膝を掻き寄せ、顔を窓のほうへむけると、やっと少し落ち着いた。  日程表どおりなら三日のはずが、ここに辿《たど》り着くのに五日もかかった。成田から香港を経由して、広州までは予定どおり一日半の行程だったが、長沙《ちようさ》行きの飛行機が悪天候のために飛ばず、広州で二日間足留めをくらった。天気が回復したかと思うと、エンジンの故障でまたぐずぐずする。業を煮やして、ふたりは、昼前の武昌《ぶしよう》行きの二四八次直快列車に飛び乗った。全体がくすんだ緑色の列車だ。一、四三五mm広軌レールを、東風4形ディーゼル機関車が牽引する。  最後尾の一等寝台に乗りこんだ。花県《かけん》、源潭《げんたん》、英徳《えいとく》と来て真昼を過ぎると、外気が体温よりよほど高いことが分った。身動きするたびに、皮膚が抉《えぐ》られるように痛い。  英徳駅のプラットホームで、西瓜売りに出くわした。それからは、停車する駅ごとに窓に西瓜売りが現われ、それがいつも上半身裸の痩せこけた男で、どこまで行っても幻のように変らない。筋肉質の、銅色の胸板に汗が光っている。男はこの列車に乗り込んでいて、停車駅ごとに飛び降り、プラットホームをはしからはしへ西瓜を売って歩く、そうとしか思えない。なぜ列車の中で売らないのだろう。男の持籠《もつこ》の中の西瓜が駅ごとに変ってゆくのもあやしい。最初の英徳駅のラグビーボール状の長いものから、北上するにつれ、だんだんまるいものに形が変ってゆくのだ。表皮の黒いギザギザ模様も鋭く折れ、くっきりとしてくる。橘と加藤さんは、そいつを二度買って食べた。真昼の英徳駅のいちばん長いものと、長沙に近い深夜の株洲《かぶしゆう》駅の完全にまるくなったふたつ。長いほど祖型に近いというふうなことをいつか小耳に挟んだことがあったから、十七時間の鉄道の旅の間に、ひととおり西瓜の歴史も辿ったことになる。西瓜の始まりと終りだ。そのとびきり長い時間の感覚が、眠れない橘をすこし慰めた。まるいほうにうんと甘味がのっていた。広東《カントン》は湿気がありすぎてだめなんだ、と加藤さんがきめつけた。  午後四時ごろ、列車が深い川峡《せんきよう》にさしかかると、空のどこにも雲はないのに、大粒のはげしい雨が落ちてきた。真っ茶色な川面に、それは光りながら熊手のように突き刺さる。鉄橋を渡り切ったとたん、ぴたりと止んだ。始めと終りが、舌の上のソーダみたいに際立った。斜面の小さな日干し煉瓦の町の空気は、通り雨を浴びて甘味を含んでいた。  夜になっても暑さはゆるまない。橘と加藤さんは向い合って窓に凭《もた》れ、外の闇にばかり視線を投げていた。 「危いねえ」  と加藤さんが、いきなり不眠特有のしゃがれ声をあげた。 「さっきからみてると、どの車も暗闇をライトもつけずに走っている」 「あれは、対向のときだけ両方で点滅させるんです。この国ではどこへ行ってもそうですよ」  と橘は説明した。 「大きな蛍みたいにピカピカさせながらすれ違う。ふしぎだねえ」 「あれで、バッテリーを節約してるんです」 「つけたり消したりのほうが減るんじゃないかねえ」 「そうです。減りますよ。でも、彼らはそうなんですよ」  それきりふたりは押し黙った。  加藤さんが胸に顎《あご》をうずめてうとうとしかけたな、と橘が思って外に顔を向けると、いきなり熱風が吹きつけ、すぐそばをまっかに燃えている炉が横切った。炉の周囲に、何人もの上半身裸の人影が、長い火掻き棒を持って動いている。同じ光景がいくつも続く。よほど大きな工場だ。こいつはどこかでみたぞ、という思いがつきまとって離れない。熱い火のまわりに、裸の大人たちが火掻き棒を持って……、たったいまみたものの記憶にすぎないのだろうか。それとも物心もつかない頃の……、あるいは成田から香港までの飛行機のまどろみの中……、といきなりそれが途切れると、列車は数秒間、トンネルに入りでもしたような暗闇を走り、ポイントをひとつ越えた。橘は腕時計をみた。もう長沙に入っているころだ。  列車は立て続けに右にふたつ、左に三つ、ポイントをジグザグに越えて揺れた。赤、橙《だいだい》、青の信号灯がずいぶん高い位置にみえた。蒸気の濃いにおいが鼻をついた。無数のレールがうねり、くねっている。島式プラットホームの先端が浮かんだ。やがて、白地に黒の、長沙の駅名表示板が流れた。橘は、加藤さんの膝を激しくゆすった。  暗灰色の大気の中で、連結器がぶつかりあう音や、機関車の蒸気を逃がす音が響いた。高く舞い上った蒸気の煙に巻かれた跨線《こせん》橋には、貿易公団の李《リー》さん、同じ課の女の李さん、人民保険公団の朱《ジユウ》さんたちが待っていた。なまず髭の若い尹《イン》さんの運転で出発する。  湖南省の、湘江《しようこう》や江《げんこう》沿いの水田地帯に茂る藺草《いぐさ》で畳表《たたみおもて》を織らせ、買い付けるのが今回の旅の目的だ。この話は加藤さんから持ちこまれた。加藤さんは公社、公団の社宅用の畳を一手に納品している広尾の畳卸《おろ》しだ。岡山や高知や熊本などの藺草の生産量はこの十年で三分の一になってしまった。農民が、手間のかかる割に儲けの少ない藺草を作らなくなった。離農者も増えている。台湾や韓国からも輸入しているが、年々高くなっている。そこで、加藤さんは中国に目をつけた。橘のところは中堅どころの、手堅い商売で定評のある商社で、今回も、いっさいのリスクは加藤さん持ちということで手伝うことになった。数パーセントの仲介手数料だけいただく。料率はまだ決めてない。  貿易公団の李さんとは、手紙とテレックスで打ち合せをして乗り込んできたが、実際どんな展開になるのか、李さんという男は信頼できるのか、湖南省の藺草が畳表用として使いものになるのか、そもそも湖南省にはほんとうに藺草はあるのか、色々不安の種はあった。そのうえ、畳表を織る工場について、李さんの連絡は最後まであいまいなままで、橘にはそれが故意の言い落しにすら思えた。といっても、こんなことは中国との取引きでは特に珍しいことではなく、目くじら立てるほどでもない。とにかく日本人を呼んでおいて、それからあちこち引っ張り回すうちに話を詰めてゆくというやりかただ。しかし、もうひとつ心に引っかかることがあった。出がけに、いとこの亨《とおる》が、大垣で車に轢《ひ》かれて死んだ。橘は、岐阜の大垣に母親をひとり残していた。その母親を、亨が見舞ってくれての帰り、飴の辻の交差点で、信号無視のトラックにはねとばされたのだ。社内規定では、海外出張の変更や緊急帰国は、三親等までの死亡、または重態しか認められていない。橘はスーツケースに旅行道具を詰める手を休め、立ち上って広辞林で親等を確かめた。いとこは四親等だった。帰れない、と告げると、あんたなんかシナから一生もどらんでよろしい、もう二度と巣南《すなみ》の土地を踏ませない、と電話口で母親の罵《ののし》り声が響いた。 「ああ、また白髪がふえる!」  鎖を引きずった犬のような、うっとうしい旅立ちになってしまった。  トヨタのヴァンは明けきらない長沙市内でもたつき、二度も迷路のような小路に入って、そこでさらにふたりの男を乗せた。彼らについては紹介も何もない。座席は向い合せに改造してあり、左窓際に加藤さんと橘が対面して坐り、加藤さんの隣が女の李さん、橘の隣が男の李さん、助手席に朱さん、うしろの橘たちのスーツケースのはざまに、途中で乗り込んだひょろ長い男とまるっこい小柄な男、という配置だ。このふたりはくっついて離れず、ひっきりなしにかん高い声でしゃべり、くすくす笑いあってばかりいる。橘は、列車で食べたふたつの西瓜を思い出した。  目的地への到着は午後四時ごろの予定だ、と李さんが告げた。橘は李さんの白っぽい顔をみつめ、歳は四十五ぐらい、北京から流れてきたな、と踏んだ。そして、いったいあなたは我々をどこへ連れてゆくつもりなのか、と問いかけた。大変いいところなのだ、きっとあなたがたを満足させると信じている、と李さんはにやりとした。しゃべると、たばこの脂《やに》の臭いが口辺から出て広がる。なんというところなのかと追うと、それは着けば分る、言わぬが花と言う、とかわされた。 「李さん、何いってるの?」  加藤さんが向いからせっついた。 「行き先をもったいつけて、教えないんですよ。言わぬが花なんていって……」 「それゃきっと花のあるところなんだ。いいよ。こちとらはどこだって行く気で来たんだから、連中に任せようや。取って食おうってんじゃないだろう」  しかし、橘はすっかり用心深くなって、我々は観光で来たのではない、と李さんに釘を刺した。当然だ、と李さんは首を振って同意する。そこには良い管理の花莚《かえん》工場があるから心配するな。話はついているのか。おお、当然、当然、とさらに首を大きく振る。我々貿易公団は大変力があるのだ。問題は全くない。安心して、外の景色をみてはどうか、と李さんはたばこを挟んだ指を窓にのばした。車はちょうど高い、大きな橋を渡るところだった。  湘江だ、と李さんがいった。湘江よ、と女の李さんがちょっとハスキーな溜り声で繰り返す。 「いま渡る川が湘江だそうですよ」  橘は、加藤さんに向って日本語で繰り返した。赤褐色に濁った、重たそうな流れが大きく、深く丘に切れ込んでいる。橘子洲頭《チユイズジヨウトウ》だ、と李さんが橋の下を指さした。橘子洲頭よ、とまた女の李さんが繰り返した。大きな砂洲だ、と橘が応じると、この砂洲から長沙の名がついたのだ、と李さんは得意げに解説する。行き先についてはあいまいにするくせに、途中をやたらと詳しく説明する気配だ。  車は穴ぼこだらけの道を、尹《イン》さんの曲芸的なハンドル捌《さば》きでかいくぐって行くが、至るところに不意打ちがあり、尹さんはだんだん疲れて投げやりになった。やたら追いこしをかける。屋根に、野菜や羽毛や自転車を積んだ、窓ガラスのない満員の乗合バスが、妊婦みたいな腰つきで前を行くのを、クラクションを鳴らしっぱなしにして攻め立て、道を譲らせる。粉石炭を運ぶ騾馬《らば》の牽き車、ピンク色の豚の群れをこれみよがしに追い抜いた。何もない道でもうるさくクラクションを鳴らすから、穴ぼこそのものに向ってやっているとしか思えない。みなは、頭が天井にぶつかるほど飛びあがった。眠っていた加藤さんが目をさました。ふたりは、飛行機や十七時間の汽車の旅のあとだけに、この揺れにはじめのうちは新鮮な感じを持ったが、それも小一時間も続くと苦しくなった。時折、追い抜いてゆくものや、周囲に展開する景色について答のいらない、断片的な言葉を交し合った。加藤さんが急に声を落し、顔を橘に寄せてきた。 「あのね……。李さん、ちょっと色っぽいね」  女の李さんはおめかししてきている。しみとそばかすだらけの肩を剥《む》き出し、小さなくぼみのあるふっくらした手の甲から急に先細りに尖った指をしきりに動かす。ハンドバッグを開き、ハンカチであおぎ、日傘を持ちかえる。口紅を引き、加藤さんからもらったチョコレートをむき、そういう物のあいだを彼女自身行ったり来たりする。うしろのふたりにチョコレートを手渡すために体を伸ばすと、熟れ切った彼女の体がはっきりした。加藤さんはそんな李さんを眺め回したあと、 「中国の女とは、ご法度《はつと》なのかね」  と耳打ちした。 「危険ですね。まずスパイ容疑で拘束、それから国外退去でしょうね」  と橘は加藤さんの目つきが不快で、すこし重々しい調子で応じた。 「きついんだねえ。だけど、ほんとうかなあ」 「実際、私の同僚にも、北京でそんな憂きめにあったのがいます」 「信じられんねえ。昔っから中国人は好きもので通ってんだがなあ。共産党はすごいねえ」 「八路軍の伝統でしょ。例の井崗《せいこう》山にたてこもったとき、『八項注意』という規律があって、その第七番が、婦女をからかうなかれ、と……」  加藤さんの瞼が落ちた。ゆっくり動いたので、瞼がひどく皺《しわ》が寄って、広くみえた。橘には、目的地の他に分らないことがまだある。途中で乗り込んできたふたりの男と、人民保険公団の朱さんのことだ。取引きもはじまらないうちから保険の人間が同行するのはおかしいし、ちびとのっぽのふたりは、どうみても貿易公団の人間とは思えない。しかし、これもいずれ目的地に着けばはっきりすることだ、と思い直し、道々の集落口の、煉瓦壁や杭に、白や赤のペンキで描《か》かれている地名に注意を払うことにした。それを、アタッシェケースから取り出したポケット判の「中国道路地図・湖南省」のページで捜し出そうとする。しかし、通り過ぎたばかりの二、三の村名がなかなか地図の中にみつからない。太いのやら細いのやら、赤い道路線が、体中の血管のように紙の上を縦横に巡っている。橘は意地でも、李さんの助けを借りずに車の走っている道を確定したい。やっとひとつ、三、四十分前に通過した村を地図上につきとめた。ひとつみつかれば、あとは芋づる式だ。車は西北に向っている。到着予定の午後四時まであと六時間、炎熱の中を行かなければならない。車の速度からして六時間で行ける距離を暗《そら》で計測し、輻輳《ふくそう》する道路の先に目的地を探り出そうとした。  車は橘がひそかに予想したとおり徳山に入り、濁りの少ない川の流れを逆に併走しはじめた。江だ、とやはり李さんが間髪を入れず告げた。既に渡った湘江、資水と同じく洞庭湖《どうていこ》に流れこむ。洞庭湖の水はどこに出るのか、と橘のほうから問いかけると、どこにも出てゆかない、と李さんが平然としているので、それじゃ海と同じではないかと橘は反論する。そうだ、洞庭湖は海だ、とにやりとする。ところがしばらく黙っていた女の李さんが、どこにも出てゆかないようにみえるが、洞庭湖の水は結局、長江に流れて海に出るのだ、とはじめて李さんに逆う説明をした。そうではない、と李さんのつぶやく声がした。長江の水も洞庭湖に流れこむのだ。それじゃ東シナ海の水が洞庭湖に逆流することになる。その考えを、橘は李さんに皮肉っぽく口にしかけた。そのとき、彼の目に、李さんの顔だけが一瞬、黒く抜けてみえた。橘は地図をもう一度膝の上にしっかり置き直し、目を皿にして道を追った。  地図上の道は、徳山を抜けてから五、六キロ行くと大きくふたてに分れている。右に取れば江を渡って、常徳に着く。常徳には市じるしの大きな二重丸がついている。もし左に取るなら、江から外れてヘアピンカーブを描き、些細な枝道を無視して五つ、六つと村を抜けてゆき……、ふいに橘の視線は、ちっぽけなひとつの村じるしの上に釘付けになった。そのとき、脇から別な視線を感じた。それがひどくくすぐったい。振り向くと、李さんが同じ村じるしに注意を留めているらしい。橘はどぎまぎして咳払いし、答案用紙を覗き込まれた生徒みたいに地図を閉じた。  村の名前は、桃源県桃花源村《とうげんけんとうかげんむら》だ。橘の胸は軽くときめいた。中国にそんな名前の村がほんとうにあるとは、いまのいままで知らなかった。  ……あれはどんな話だったのだろう。高校時代の漢文の時間といえば退屈を絵に描いたようなしろものだ。その退屈というやつがじつは意外とくせもので、記憶を繭のようにくるんで保存する。車の揺れに身をまかせながら、橘が糸を紡ぎ出してゆくと、中で徐々に記憶はうごめきはじめ、読んだおぼろげな筋が甦ってきた。  むかし、漁師が谷川に迷ううちに、満開の桃の林に出会った。水はその林の奥から流れてくる。漁師はとてもふしぎに思い、どんどん溯《さかのぼ》って行った。やがて林が尽きると、水源があり、そこに山があった。山には小さな穴があり、そこから明るい光が射してくる。漁師は舟を捨て、その穴に入ってしばらく行くと、突然目の前にひとつの村がひらけた。立派な家が並び、よく肥えた田と美しい池があり、桃はもちろん、桑や竹が繁っている。鶏の鳴き声と犬の吠え声がきこえてくる。漁師は村人に歓迎され、あちこちの家に招かれ、酒や鶏をたらふくごちそうになった。彼らは何百年もむかし、戦乱を逃れてここにやってきて住みつき、それ以来、一度も外に出たことがない。皇帝がたくさん変ったことも知らない。漁師は数日滞在して、帰ろうとすると、村長が、この村のことは口外無用といって、送り出す。漁師は外に出て、もとの舟をみつけ、ずる賢く、道に目印をつけて町に帰ると、太守に村のことを話す。太守はすぐ人を派遣して、印をたどらせたが迷ってしまい、桃の林をみつけられなかった。その後、何人か桃花源に行こうと試みたものがいたが、ただ迷うばかり、それからはもう誰もそこへゆく渡し場を尋ねようとする者はいなくなって久しい。……陶淵明の「桃花源記」だ。  橘はあらためて窓の外をみた。相変わらず赤茶けた禿山と麻畑の広がりだ。やがて、前方に鉄のアーチの大きな橋がみえ、道は地図どおりふたてに分れている。尹さんは左に大きくハンドルを切った。案の定だ。これで行き先ははっきりした。さっきの李さんの目付きからしてもまちがいない。道はだんだん細く、曲りくねって急な登りになり、赤茶けた山が、ところどころ黒っぽい岩肌に変ってゆく。いよいよだ。橘は、眠っている加藤さんを揺り起しかけて思い直した。まだ黙っていよう。李さんは、言わぬが花といった。……千年以上もの間、言及され尽した架空の村、それと全く同じ名前の村が、この赤茶けた山と曲りくねった坂道のずっと先にある。名前が残っているだけでもおもしろい。帰ったら、早速みんなに吹聴してやろう、と橘はちょっぴり興奮し、大きく伸びをした。あくびがこみあげた。涙で滲んだ目で、前方にぼんやり視線を投げると、道ばたで、銅色に日やけした上半身裸の男が、遠くから担いで来たらしい、大きな自分の麻袋の上に倒れ込むようにして眠っていた。あいつ、列車の西瓜売りだ。先回りして、こんな道ばたにいる、と橘はつぶやいた。何の根拠もなかった。顔つき、体つきは似ているかもしれない。しかし、時間的にはありえなかった。彼が長沙で、橘たちと一緒に降りたとしても、どうして歩いて先回りすることができるのだろう。橘は、目を覚まそうとするように首を振り回した。男は身じろぎひとつせず、うしろに遠ざかって行った。  道のようすがおかしくなった。土砂崩れや陥没のあとが頻出し、タイヤは路肩すれすれを行く。尹さんの運転ぶりもなんだか心もとなげだ。高度はずいぶんあがっている。ある崖廻りの道で、土砂が道をふさいでしまって通れなくなった。車は延々一キロもひやひやさせられるバックをして、とても車道《くるまみち》とは思えない森の中を行った。加藤さんが首をしきりに振り回して、不安げな様子をした。ここで、目的地の村の名前を告げたからといって、はたして彼は安心するだろうか。橘だって不安だ。載ってもいない道を走っているのだから、地図はもちろんあてにならない。李さんがしきりにあれこれ尹さんに道順の指示をしている。しかし、その李さんだって、目つきにも声にも落ち着きがなくなっている。  橘は、だんだん来た道の遠近がぼやけてきた。もう長沙をたって何日も走っているようにも思えるし、たったいま出たばかりのような気もする。いまと長沙の朝との間に濃い靄がかかってしまった。  どうにかトヨタのヴァンは進んだ。道はうねりくねり、上ったり下ったりして、やがて深くて狭い、岩肌が剥きだしの切り通しを抜けたとたん、眼前が明るく開けた。村だった。だらだら下りの急坂の下に、小さな蛇行する川があり、そのはずれに三百戸ほどの集落が見えた。中国の他の僻村と何の変りもない眺めだ。  トヨタのヴァンは、鳥のように平地の道におりたった。まっかに塗ったけばけばしい村の門が近づいた。熱烈歓迎、桃花源、と金字の横断幕を掲げた冠木《かぶき》の下を、車は跳びはねるようにくぐった。  こうして、穴ぼこだらけの道を十時間、骨と頭をさんざん揺すぶられ、埃だらけ、体じゅう痺れたようになって、夕方、工場のあるこの村の招待所にたどり着いた。  橘は、体をくねらせて目をさました。隣のベッドで、加藤さんがいびきではなく、苦しそうにほんもののうめきをあげている。橘は、ここが村の招待所だと納得するのに二、三秒かかった。  電灯をつけた。加藤さんはベッドが軋《きし》るほど体中を激しく震わせている。蚊帳をめくってそばに近づくと、橘の頬がほてるほどの熱が、加藤さんの全身から寄せてきた。 「すみません。どうかあたしの上に馬乗りになって、押えつけてください。そうでないと、体が飛び出しちまうんです」  あえぎながら声を押し出した。橘は尻込みした。 「だいじょうぶですよ。押えつけてもらうだけで、だいぶらくになるんですから」  橘は思い切ってベッドに上り、ためらいがちに加藤さんの、昔、尾道の草相撲で横綱を張ったという図体に馬乗りになった。 「そう、遠慮なく、体すっかり乗っけて……」  と歯を打ち鳴らした。 「……いえ、あたしはインパールの生き残りでね。ひどいもんでした」 「しゃべらないほうがいいですよ」 「いえ、しゃべったほうがいいんです。こいつはデング熱というやつでね。四十度ぐらいになります。……あんたもしゃべってください」 「……テング熱ですか」 「いや、デング。テングじゃありません。デング熱です。あんときは、こいつで気が狂って、たくさんの兵隊が死んだもんです」  インドやビルマで兵隊が死んだのは戦争だからしかたないとして、いまここで、戦争でもないのに死なれては困るな、と橘は気が気ではなかった。しかも、選りに選ってこの村で……、人を食った話ではないか。  加藤さんは村の名前に気づいているだろうか。加藤さんは、車があのけばけばしいコンクリートの門をくぐった時も、招待所の正門や玄関を通り抜けた時もぐっすり眠っていたから、知らないのではないかと思う。村自体は、岐阜あたりの山の寒村といった感じで、なんの変哲もない。岐阜県養老村、といったところだ。一見して、村には余り仕事がない。うだるように暑くて、赤茶けた土埃がたえず舞い上り、食糧は満足にあったためしはなく、いつもみんな腹をすかせている。こんな村が、なんで桃花源なのか分らない。村の名前は、迎えに出てきた幹部連からふんだんに、耳にたこができるほど聞かされた。いったいこの村にいつからそんな名前がついたのか。つい四、五年前のことかもしれないし、本当に千年以上も前のことかもしれない。招待所の食堂で開かれた夜の歓迎宴では、ぞろぞろ出てきた村の共産党幹部たちが挨拶に立ち、口々に「千有余年の歴史」を強調した。橘には村人たちの言葉はからっきし分らない。李さんも半分以上聞き取れないらしいが、大体のところを北京語に直してくれた。橘はそれをまたかいつまんで、しかし村の名前だけは落して加藤さんに通訳した。ところが、さっき寝入りばなに、極楽、極楽、と加藤さんは繰り返した。いつ知ったのだろう。 「デング熱の後遺症でね。しかし、おかしいなあ。もう十年出てなかったんだが……」  加藤さんは、小刻みに悪寒の走る体を波打たせながら、必死で言葉を発しようとした。橘も懸命に力をこめた。大きな、暴れる獣を組み敷くようなぐあいだ。 「ついでに、両手で肩も押えつけてください」  骨と筋肉の底深い力の反発が、橘の全身に食い込んできた。 「すみませんね。小一時間でおさまりますから。とんだ迷惑をかけますな」  橘は笑みを浮かべ、手や脛《すね》の骨を立てて、こっそり、意地悪く加藤さんの力を押し返した。 「むかし、息子を連れて三熊野詣《みくまのもうで》をしたとき、本宮《ほんぐう》の宿でこれが出ましてね。いつも女房のやつに押えつけてもらうんですが、みせちまいました。十二歳の息子に、いまあんたにやってもらってるのと同じようにやらせました。息子のやつ、泣きじゃくってましたよ。なんだかそれ以来、まずくなっちゃってね。一時ぐれちまって……」  しゃべるうちに、加藤さんの震えもおさまるようすがみえた。十一時をすこし回ったところだ。橘は力をゆるめ、深い息を口から吐いた。すると、いきなり外のしじまが戻ってきた。彼の五官が、加藤さんの体からすこし窓の方に移行した。外はひそかな音に充ちていた。コーッ、コーッとタマシギが歌っていた。招待所の裏の養魚池で、魚が跳ね、もっと遠くで、細い水が広い水面に落ちる音が聞こえた。  しばらくして、橘はその水音の強弱の細かな襞《ひだ》のひとつに、あるかなきかの響きが潜んでいることに気付いた。それがしだいに近づいてくる。コップの縁《へり》を唇で鳴らす、そんなか細い響きだ。ふと、もしそれが、寸分の狂いもなく彼をめがけて飛んでくる銃弾だとしたら、と突飛な考えがうかんだ。そっと下の加藤さんの顔をうかがった。まだ何も聞きつけていないようだ。そのうち消えてゆくだろう。  しかし、やっぱりどう考えても近づいてくる。すでに水音を離れ、水音を打ち消すほどに大きくなった。それは何か回転するもので、周囲で空気が激しく撃たれている。加藤さんはまだ気付かない。橘は、自分だけがこの響きに結びつけられているのだ、と思いついたとたん、彼の中から、何かがその響きにむかって飛び出して行った。次の瞬間、そいつは一挙に具体化した。近づくのではなく、大きくふくれあがり、闇を食い破って、はっきり喉を裂く叫びとなった。女の声だ。 「どうしたんだろう?」  加藤さんの声だ。彼にも聞こえている。橘はぼうっとなっていた。 「眠ってたのかい?」  加藤さんが下から腹を波打たせて、馬乗りになった橘の体を揺さぶった。 「眠ってなんかいませんよ」  橘はむっとなって、喉に唾をなくした干からびた声を出した。  どこかで、中からバルコニーにむかって扉が開き、最初に非難する男の声があがった。それをしおに、左右と向いの建物でも人が起き出し、バルコニーに出る気配が池面から跳ね返った。やがて、叫び続ける女にむかって、あちこちからどなり返す男女の声が入り乱れた。  招待所の中も動き出した。左隣の部屋が男の李さんと運転手の尹さんだ。右隣に女の李さんが入っている。朱さんやのっぽとちびのふたりはどこの部屋だか分らない。彼らもみなバルコニーに出たらしい。火事でも見物する雰囲気だ。 「重いんだな。おりてよ」  加藤さんが不快げに言った。 「すみません。もういいんですか」  文句をつけられるのは割に合わなかった。  外では村中そっくり起き出し、叫びにむかって殺到する勢いだが、女はいっこうにひるむようすもなく、高いひと筋の声で叫び続けた。橘はスリッパをつっかけて、バルコニーに出た。真下に池がある。煉瓦建の招待所や他の建物が池をコの字形に取り囲み、その影が、コの字の開口部を除くすべての池の面を黒々と蔽っていた。  のっぽとちびが、真上のバルコニーから身を乗り出して、がなりたてた。湖南の強い方言だから意味はとれないが、そこには、とても手荒で高圧的な調子がこもっていた。  子供だろうか、と女の李さんが右手のバルコニーから誰にともなく声をかけた。女だよ、と尹さんが応じた。おばかさんなのね、と女の李さんのつぶやき声がした。顔はよくみえないが、そのとき、彼女の目が磯の貝のように光った。あんなふうではきっと喉から血を噴くぞ、と意外と彼女の近くで、朱さんの声がした。男の李さんの姿がみえない。  女は、それまでの高いひと筋の金切り声から、何か喋ろうとする喚きに変った。橘は、まわりのざわめきが、遠巻きからしだいに輪を縮め、回りながら彼女を追いつめ、閉じ込めようとするのを感じた。声はかすれを帯びはじめ、波打ち、捩《よじ》れ、もつれたが、途切れることなく続く。彼女はもう引き返せないのだ。誰だって、真夜中、腹の底から、頭を割って叫び出したいと思うことがある。そして、いったんそいつをはじめたら最後、もう止めることはできない。  何百人ものざわめきが、叫び声の中心にむかって押し寄せていた。女は犬のように殴られ、蹴とばされ、水を掛けられるだろう。いきなり、サイレンの音がした。遠くから、右に左にジグザグを描きながら近づいてくる。女の叫びとサイレンがからみ合う。サイレンの音だって、よく耳を澄ませていると、これもさっきの響きから生まれてきたもののようにきこえなくもない。そのとき、ふと橘は、そのふたつの叫びの渦巻に引きずりこまれそうになり、慌てて両手で耳を押えた。はなすと、もうサイレンはやんでいた。きっと、パトカーは騒ぎの中心に突っ込んで停ったのだ。 「こんな村にもパトカーがくるんだなあ」  と加藤さんがうしろの扉口に立った。加藤さんのいう通りだ。この村とパトカーの取り合せなんて奇想天外そのものだ。しかし、そういう加藤さんのデング熱とこの村とだって相当奇妙な取り合せではないか。  どうやら女は猿轡《さるぐつわ》をかませられたらしく、くぐもったうめき声に変った。周囲のざわめきがぴたりとやんだ。 「どこだろう?」  加藤さんがバルコニーまで出てきた。 「どうも左側の建物の、右のいちばん上のような気がするんですが」  と橘は指さした。どの窓も、力のないぼやけた電灯を点《とも》していた。橘がさした窓だけが暗く、その中をいくつもの懐中電灯の光がせわしなく飛び交った。ひょっとして、彼女もデング熱にかかったのかもしれないな、と橘は思いついた。そして、それを加藤さんにぶつけてみたい気もしたが、やめた。  女のうめきは、やがてまたひと筋の声に細まり、橘の耳にさっきの水音が甦ると、その襞のひとつに吸い込まれるように還って行った。パトカーのサイレンが再びけたたましく鳴りだし、近づいた時と同じジグザグの軌跡を逆にたどって遠ざかった。 「どこへ連れてかれたんだろう?」  加藤さんが問いかけるのを、橘は尹さんにむかって中国語で訊き直した。尹さんは女の李さんを振り返り、同じことをたずねると、李さんは首をひねって、上のふたりにかん高く声をはね上げた。  県の公安だ、とちびのまるいほうが手ラッパで答えた。警察らしい、と橘は加藤さんに通訳した。  あちこちのバルコニーで、扉の閉まる音が重なった。窓の灯もすっかり消えた。真上のふたりが、揃って喉をはげしく鳴らす下品なあくびをした。しんとなったあとに、虫を追う魚の飛び跳ねる音が響いた。さっき懐中電灯の飛び交った、いまはまっくらな窓から、白っぽいごみが三つも四つも池に投げ込まれた。男の李さんはとうとう最後まで起きて来なかった。  橘は手すりに手をかけ、はじめて空を見上げた。激しく動いているらしく、真上の雲が切れるところだった。覗いた星の光がひとつだけ水面に落ちた。同時に、そのほんの数センチ先で魚が跳ね、鱗が鈍く光るのもみえた。奥深く覗いた空が、ほとんど青空と見紛うほどだ。ふしぎなものは何もない。ふしぎなのは、自分がいまここにいるということだ、という思いがこみあげた。しかも、そのここが曲者なのだ。自分がここにいることに、感じまいとしても何か感じる。真夜中に女の叫びがきこえたというそのことばかりでなく、ふしぎなのは、彼がここにやってきた一連の出来事なのだ。彼は、ここに呼び寄せられた、惹き寄せられたという思いから、いまは離れることができなかった。  池からの声で目がさめた。飛び起き、加藤さんを見舞った。すっかり熱は下がった。蚊帳を巻き上げた。 「魚を獲ってるんだよ」  と加藤さんは窓を指さしてご機嫌だった。橘がバルコニーから覗くと、二人の老人と少年がひとり、裸で池に入り、幅一杯に網を張り渡して沈め、胸もとまでくる水の中を両側から向う岸へゆっくり曳いてゆく。橘は漁をみるのが好きだ。食い入るように体を前に傾けた。岸のところどころに突き立てた竹棒の一本に、ミサゴがとまって魚を狙っている。竹の先端をつかんだ鋭い爪や、灰色の鱗状の脚がくっきりみえた。  老人と子供が、両側から歩調を合せるために声をかけあった。それが、ホウ、ホウ、とリズムを刻んだ。橘は、ふたりの動きを追っているうち、ふとどっちが老人か子供か分らなくなる瞬間があった。向って左岸を、痩せてやんちゃそうな顔つきの少年がゆく。右岸を、丸坊主の、肋骨がくっきりうかんだ眠たげな表情の老人がゆく。それがあっというまに入れ替わる。もちろん錯覚にすぎない。  網が向う岸に五、六メートルというばかりになると、水が色濃く、こんもり盛り上った。やがて曳き終えられ、絞りはじめられると、水しぶきが次第に高くなり、やがて何百匹もの草魚の群が迫りあがってきた。水を打つ音、魚同士がぶつかり合う音も烈しく、白い腹で朝の光が飛び散った。岸で、蛙坐りして待ち構えていた、顎から白い鬚《ひげ》を長く垂らした老人が、網を手繰りながら片手で魚をつかみ、素早く大きさを目で測り、まだ規定の大きさに達していないものを池に投げ返してゆく。ミサゴはまだ動かない。漁人たちの動きとは全く別に、幼魚の浮上を狙っているのだろう。  橘と加藤さんは、茶色っぽく濁ったなまぬるい水にタオルを浸して、べとつく体を拭いた。汗は拭くはなからにじみ出てくる。洗顔をして服をつけ、別棟の食堂へ行こうとして中庭におりると、朝顔の吐息がこもっていた。三方を囲む日干し煉瓦の高い塀沿いに、青い朝顔が隙間なく咲いている。その中に、橘はふと視線を感じて立ち止った。花と葉が荒々しくそよいだと思うと、のっぽとちびの顔が朝顔の茂みからのぞいた。ふたりはこちらに横目をくれながら、花を次々と毟《むし》り取っては、子供のように蜜を吸いはじめた。  うしろから李さんがおりて来て、彼の強いたばこが朝顔の匂いを追い払った。女の李さんが別の出口から現われ、水玉模様の日傘を開くと、それをくるくる回しながら中庭を横切った。  食堂には、招待所所長で村の共産党幹部の陶《タオ》さんが、すっぽんスープの大鉢と、山のように積み上げた饅頭《マントウ》を前にして待っていた。ゆうべはよく眠れたか、と橘にむかってきいた。橘は、暑さや女の叫び、加藤さんのデング熱を思い出して一瞬躊躇《ちゆうちよ》したが、大変よく眠れた、こんなに快い眠りは久しぶりのことだ、と応じたあと、きっとこの村の、他にはない特別な、暖かな雰囲気のおかげだ、と言わずもがなのことを口にした。そう言っていただいてうれしい、と陶さんは体を折ってほほえんだ。なにしろ、この村の取り柄は、千年来の平和と村人の淳朴さなのだから。  みんなにぎやかに食べはじめたが、だれひとり昨晩の騒ぎのことを口にする者はいない。加藤さんだってひと言も触れない。デング熱を思い出したくないのだろうから、橘も切り出しにくかった。  食事がすむと、招待所を裏門から出て、水田や桑畑の間を歩いて工場へ向った。腋の下にはもう汗があった。一行はちょっとした行列を作った。出迎えにきた工場長の仇《ジユウ》さんが先導に立ち、あとを長沙組と陶さんが三々五々続く。その周囲を、いつのまにか現われた老人と子供たちの一団がにぎやかに、飛び跳ねるようについてくる。ちびとのっぽのふたりが彼らの中にいた。加藤さんと橘にぴったりついた陶さんが、訛《なま》りの強い言葉で話しかけてくるが、橘にはほとんど聞き取れないから生返事ばかりでやりすごした。 「あのふたりは、いったいなんです?」  と加藤さんが怪訝《けげん》そうに、子供たちの中にいるちびとのっぽを指さした。橘ももうそろそろ彼らが何者なのか、はっきりさせておくべきだと考え、うしろを来る李さんを振り返った。最初、李さんは聞こえないふりをし、重ねての橘の問いに、気にしないで、彼らを無視してほしい、と渋い顔で答えた。たしかに、来る道も宴会でも、李さんや朱さんは、あのふたりをまるでそこにいないみたいに扱っているのが目についた。ふたりのほうもしょっちゅう手をつないだり、笑ったり、朝顔の蜜を吸ったり、とても無邪気にみえる。そのくせ、昨晩の女に対するどなりようには、とても横暴な感じがあった。豹変ぶりが気になる。なぜ李さんは教えないのだろう。無視していればすむことなのか。たしかに、この国の応対には、故意の言い落しや秘密めかした部分が多くて戸惑わせられる。警察国家特有の匂いだ。しかし、李さんはなんといっても貿易公団の人間だ。この国では貿易公団だけが、まがりなりにも国際貿易の共通ルールにもとづいて仕事をしている唯一の機関なのだから、彼を信用しなかったら、もう頼るものは何もなくなる。  橘は、ふたりは李さんと同じ貿易公団の人間だ、と加藤さんに言い繕った。 「あんな調子で、公団の人間だなんて信じられんね。だけどまあいいさ。シナ人であることには違いないんだ」  加藤さんは大股で歩きながら腰のタオルを抜き、ひたいから頭、首へと回して汗を拭き取り、そのまま鋭く絞り切った。指の間から汗がしたたって、地面まで落ちた。 「だけどおかしいや。こうやって見回しても、どこにも藺草が植わってないじゃないの。花莚を織ってるというけど、藺草がなくて、どうやって織るのかね」  橘はすぐ、藺草田《いぐさだ》はどこか、と李さんに詰め寄った。すると、李さんが同じことを陶さんに訊いた。長沙から来る道ではあんなに自信にみちた様子だったのに、村の藺草田のことにすら李さんは通じていない。商人の橘には、取引き相手のこういう怠慢が何よりもこたえる。  藺草は隣村から買っている、という答が陶さんから返ってきた。我々はもっぱら緑豆と粟《あわ》を作っているのだ。ところで、あなたたちが桃の花の季節に来られなかったのは、誠に残念だ。あの岩山の裾まで、村は花の香にむせ返るのだ。 「藺草は別の村から来るそうです。ここではもっぱら緑豆と粟を作ってるんです」  と橘は通訳した。 「なんだ、なんだ。この村に藺草がないってのか」  加藤さんは思わず声を張り上げた。その時、道に平行した溝と水田の間の細い畦道《あぜみち》を、両手でしっかり平衡を取りながら走っていた子供たちが、藺草《リンツアオ》、藺草、と高く澄んだ声を揃えた。歌うように、うしろからも反対側の畦道からも同じ声があがった。ちびとのっぽのふたりも子供たちにまじり、首と手を振って藺草、藺草、と喚いている。 「やつら、何て言ってるんかね」  加藤さんが不安げにつぶやいて、たばこに火をつけようとした。たばこを持つ手、ライターを持つ手、ふたつとも激しくふるえた。橘はデング熱の発作が気にかかり、目をそむけながら答えた。 「藺草《いぐさ》だ、藺草だ、って」 「なんというんです?」 「だから、藺草だ、と」 「あたしにゃそうは聞こえないが」 「そりゃそうです。中国語ですから」 「だから何というんです?」 「リンツァオ、と発音するんです。リンツァオ」 「へん、リンツァオか……」  と加藤さんは舌打ちした。  土手に出た。あの岩山の切り通しからはじめて村を目にしたとき、最初にとびこんできたのがこの川だ。幅は三、四十メートルほどで、澄んだ水がたっぷりあり、ゆっくり西に流れている。平凡な流れだが、両側は、柳や野ぐみやすかんぽのはえた、とても自然な土手で、橘の故郷の揖斐川《いびがわ》には、もうどこを捜してもこんな土手は残っていない。  水の上を何十匹ものこうもりが、風にまといつくように飛んでゆく。夕暮しか飛ばないと思っていたのに、昼間でも飛ぶのだろうか。橘は四、五秒立ちどまって、じっと動きを追った。たしかにあれはこうもりだ。橘たちは木の橋を渡った。いきなり、藺草の、蒸れた甘酸っぱいにおいが鼻腔に飛びこんできた。工場の門の前に着いた。  この国には、もともと畳というものがない。そこで、学識ある李さんは、音からとって、々米《タタミー》という字を当てることにした。村の花筵工場の人たちも畳をみたことがない。外国人をみるのもはじめてだ。工場はみすぼらしかった。なだらかな丘の勾配《こうばい》に、日干し煉瓦の全く同じ型の棟が五つ並び、棟と棟との間には雑草が生い茂っていた。雑草の中からは、牛のような声で蛙が泣くのが聞こえ、キリギリスが飛び跳ねた。橘たちが工場内を移動するにつれて、工員たちが持場を離れてぞろぞろついてきたから、丘のいちばん上の藺草倉庫に辿りつくころには、ほとんど工場の全員が集まってしまった。百人は下らない。彼らに畳そのものを理解させるのに、通訳の骨は折れた。李さんが北京語で扶《たす》けてくれたが、どこまで彼らに通じているのか、先に進めば進むほど心もとなかった。加藤さんのほうは、工場の設備と技術が貧弱なこと、人々の熱意のなさ、なにより藺草の質の劣悪さにだんだん不機嫌を募らせて行った。しかし、加藤さんが、日本から持参した畳表の見本を広げたとき、みなは唇をすぼめ、賛嘆めいたうなりをあげた。それは、一本一本の藺草を厳選して織りあげた、銀緑色の、落ち着いた光沢を持つ、稠密な一枚の京間畳《きようまだたみ》だった。  棟の中を移動してゆく先々の窓に、子供と老人たちが相変らず姿を見せた。彼らのうしろで、やっぱりちびとのっぽのふたりが背のびして覗きこんでいる。彼らはさっきまでの藺草《リンツアオ》という叫びに代って、々米《タタミー》、々米、と連呼しはじめていた。  内部で移動する群の中にも、工場で働く少年や少女が多数まじっていた。そんな中にひとり、目の大きな、痩せた小さな少年がしきりに首を突き出し、熱心な顔つきでついてくる。やがて、じりじり前に出ると、加藤さんが持った畳表の見本を手のひらで撫で回しはじめた。  これが々米か、と少年はうっとりと、つぶれたような目つきで、何度も叫んだ。リンツァオ、リンツァオ、と窓の外から声が掛かった。加藤さんは少年に気付くと、もう一度畳表を彼の前に広げ、 「そうだ、これがたたみだ。なんてったって、草が生命なんだからねえ」  と大きな骨ばった体を折って、熱っぽく少年に話しかけた。加藤さんの息が荒い。デング熱がぶり返すのかもしれない。仇さんが少年を追い払おうとすると、加藤さんは少年の手をつかんで放そうとしなかった。加藤さんは、畳について、なにもかも少年にむかって語りかけようとした。それを橘が、仇さんや他の大人にむかってまずい通訳をする。少年は、橘の中国語をいかにもまどろこしげに聞いていた。強い、生臭く、火のような息を吐き、急きこんだ嗄れ声で問いかけてきた。しかし、橘にはその言葉は全くといっていいほど聞き取れない。李さんは、少年など完全に無視しているから北京語に直してはくれない。それとも、彼もまるっきり分らないのかもしれない。そのうちに、加藤さんの講釈は、朝露のあるうちに刈り取った藺草を粘土水に浸けて干す、日本の畳表独特のやりかたに入って行った。これは、藺草の色と香りを自然のまま保存するためのものだ。朝の藺草は、茎髄に水分をたっぷり含んでいる。それを素早く粘土水に浸けて天日に干すと、茎髄の水分が、日に灼かれた粘土の薄膜を透って蒸発してゆく。この蒸発作用が、粘土を茎皮表面に陶磁化して固着させる。できた陶磁の薄膜が、藺草を生きた状態に保つのだ。  橘は、自分が果してうまく訳しおえたかどうか、とても心もとなかった。少年は目を輝かせてしきりにうなずいている。《ろう》たけた矮人《こびと》のようだ。彼は理解したのだ。橘がほっとして、名前をたずねると、少年は白目を多くして、いくつも唾をのみこんだ。橘は少年の手を取った。熱く、ざらざらと乾き切っている。いじめられやすく、早くから皺の寄るたちなのだ。 「この子に、これをやろう」  加藤さんがポロシャツの胸ポケットからボールペンを抜き取った。少年は橘の手をはねのけると、万引きでもするみたいに素早くボールペンを握り込み、引っ込めた。橘はもう一度名前をたずねた。  リンツァオ、と窓の外で子供たちがはやし立てた。橘は最初、また彼らが藺草《リンツアオ》といっているのかと思ったが、よく耳を澄ますと、声調が違う。藺草のリンツァオは、リンが第四声、ツァオが第三声だ。いま子供たちがはやしているのは、どうやらリンが第二声、ツァオは同じ有気音ながら声調は第一声のようだ。彼らは藺草といっているのではない。  子供たちが静まったところで、やっと少年がかん高く口を開いた。 「そうだ、おれの名前はリンツァオさ」  橘は、繰り返し声調を確かめながら漢字を探り、やっと正確に少年の名前を発音した。 「林操《リンツアオ》?」 「そうだ」  少年は得意げに肩をいからせ、ボールペンを握り締めた手を橘に突き出した。  昼は工場の歓迎宴が開かれた。小学校の教室に似た会議室に、白い布を掛けた丸い大きなテーブルが五つしつらえられ、中央のテーブルに橘たち、李《リー》、陶《タオ》、仇《ジユウ》、それに工場の経理主任の六人がついた。窓の外の草地の斜面にもテーブルがたくさん並べられ、喧騒が中にも押し寄せてきた。  橘の背後の高い壁には、毛沢東の複製肖像画と、この村をうたったあの長い漢詩を刺繍した麻布が、額に入れて掲げてある。これと同じものは招待所のホールでもみた。暑さなどいっこうに鎮めてくれない扇風機の風が、前と左右、上からもやってきて、橘を落ち着かなくさせた。 「朱さんと女、いない、あるよ」  加藤さんが室内を見回しながら、変な中国式日本語を口にした。ちびとのっぽのふたりと、運転手の尹《イン》さんは窓際のテーブルにいる。 「いつから、いない、あるか?」  と橘が問いかけても、加藤さんにも覚えがない。気にもとめなかったが、考えてみると、工場を回っている時もみかけなかったようだ。朝食は一緒に摂り、招待所を出たところも覚えている。途中はどうかはっきりしない。李さんに訊いてもどうせまともな返事はもらえないだろうし、特にいまここで彼らがどうというわけでもない。橘と加藤さんは、陶さんや仇さんがついでくれるビールを受けた。 「早く引き揚げようや。あたしはとにかく早く横になりたい、あるよ」  と加藤さんは真剣な、疲れ切った声でささやいた。陶さんの挨拶がはじまった。  親愛なる日本の友人、貿易公団の各位、ならびにわが村の同志諸君、と陶さんは切り出した。彼の話は延々と続いた。……この村が国内の無数の騒乱、飢饉を尻目に千年このかた平和な眠りの裡《うち》にあったこと、しかし、このたびの日本の友人の来訪を機に、長い眠りからさめ、村の門戸を世界に向って開くことにした、といったものだ。李さんがかいつまんで北京語に直してくれる。それをまたかいつまんで、加藤さんに向って日本語にする。……千年の無為にはもう飽きた。そこで、このたび村の党委員会は、党中央の対外開放政策にならって、積極的に外資を導入することに決定した、と陶さんは、天安門の壇上にいるみたいに、立てた人差指を振り、肩をいからせた。そして、遠来の日本の友人に乾杯、と声を張りあげると、室内も戸外もいっせいに立ち上って、乾杯を叫び、ビールのグラスを打ち合せた。  橘はひととおり、グラスを挙げて応じると、あとは坐って、壁に掛かった漢詩の行数をかぞえていた。何度かぞえても三十から三十五の間で一致しない。  仇さんが、橘に挨拶を促した。彼は立って、由緒ある貴村を訪問できたことは身に余る光栄だ、貴村とはぜひ畳表の取引きを成功させて、緊密な関係を築き、日中友好の証《あかし》としたい、と簡単に中国語で述べ、すぐ白酒《パイジユウ》の杯を挙げた。喉も胃の腑も焼けるような強さだ。湖南の酒だというが、五、六十度はあるだろう。  ふしぎな、みたこともない調理の料理が次々と運ばれてきた。陶さんがいちいち説明をする。どれもこれも鶏料理で、このへんあたりは、うしろの額に書かれてある話のとおりだ。羽根と毛以外のもの、嘴《くちばし》、鶏冠《とさか》、足も含め、すべてそれぞれ唐辛子とにんにくと油と酢を使って煮たり、焼いたり、揚げたり、和えたり、漬け込んだりしてある。  わが村の鶏は由緒ある、とびきりの上肉なのだ、と陶さんは胸を張った。陶さん、あなたはひょっとしたらあの有名な陶淵明さんの子孫なのではないか、と橘が額を指さしながら問いかけると、彼は大声で笑いながら、中国には、陶、という姓の人間は、三千万人もいる、といい、将棋の駒ほどの赤紫色のものを箸でつまんで橘の皿にのせた。何かと訊くと、手のひらを頭の上にもっていった。鶏の鶏冠だ。加藤さんに告げると、唇が飛び出すほど激しく顔を震わせた。彼は鶏が苦手で、さっきからピーマンと皮蛋《ピータン》にしか手をのばさない。日に日に食欲をなくしてきて、成田をたったときに較べると頬がげっそりこけた。橘は鶏冠を焼いたのを食べた。モツ焼きに似ていた。すかさず、仇さんが何かを皿にのせる。橘はそれを躊躇せずに口に放り込み、これは足先を揚げたものだろう、というと、そのとおりだ、と仇さんがうなずいた。  加藤さんがいらいらしてきた。橘は、宴会をなんとか早く切り上げようとやっきになった。そのくせ、だんだんひとりの給仕の女から目が離せなくなる。印花布のブラウスに明るい青のズボンをはき、しっかりした胸と肩の上に、折れそうなほど細くて長い首をのせた若い女で、色々な料理を、橘たちのテーブル専門に、ひっきりなしに運んでくるが、ひと言も発せず、誰の顔もみない。ほんの僅か斜視で、口がとても大きい。口紅はつけていないが、唇は蘇芳《すおう》に色づいている。橘にひっかかるものがあった。どことどう特定できるわけではないが、それでもどうやらうなじから耳のうしろにかけての辺に、ブーンと回転するかすかな動きの気配がある。ぴんときた。ゆうべ、公安に連れてゆかれたのは、この女ではないか……。回転する気配が、ゆうべの叫びを思い出させるのだ。橘は、彼女が室内に現われるたびに注意をこらした。といっても、具体的にふたりの女をひとつに結びつける証拠は何もない。彼はゆうべの女の顔を知らないし、給仕の女の声を聞くこともできない。彼女の名前を知りたい。どうやって聞き出すか思案した。ひとには訊きたくない。村の名前だって、リンツァオだって自力でやった。女のことだからなおさらだ。  李さんが手洗いに立った。と、素早く陶さんが、橘にむかって体を開き、折って顔を寄せ、小声だがはっきりした北京語で話しかけてきた。李には気をつけろ、という。なぜだ、と冗談ぽく返すと、李は熱心すぎる、そこがおかしい、と李さんの消えた扉口にちらと目をやった。熱心なのは当然ではないか、と橘は笑いながら切り返した。我々は、李さんはまだ熱心さが足りないと思っているのだ。加藤さんは彼の仕事ぶりに満足していない。  陶さんは体を折った上目遣いで、いっそう声を落し、李はあなたたちにこっそりと何かを要求しなかったか、例えば日本のカレンダーとか腕時計とか……、と途切らせた。橘が目で続けるよう促すと、李さんはきっとあなたに、人民元と外貨兌換券《だかんけん》の交換を要求したに違いない、そうしないはずがない、と断言した。橘は首を強く振って否定した。  陶さんはたばこに火をつけるために体を起し、最初の煙を天井にむかって吹きあげてから、また橘のほうに屈み込んできた。そして、李と朱は夫婦だというのを知っているか、といった。橘は、まだ李さんの悪口の続きと勘違いして、一瞬ぽかんとした。すぐ女の李さんのことだと気づいた。  陶さんによれば、ふたりは最近結婚したばかりで、出張に便乗して、この村に新婚旅行としゃれこんだというのだ。ふたりは結局、畳表の仕事とは何の関係もなかったのだ。そして、あのちびとのっぽのふたりはいったい何者なんだ。橘のいらだちは募った。陶さんのたばこの濃い煙が橘の眉毛にひっかかって、指で払うまでとれなかった。橘はいらだちの勢いで、ゆうべの女の叫びのことを持ち出してみた。陶さんが目を白黒させた。……それは何かのまちがいだ。村にはそんな真夜中に叫ぶような女もいなければ、パトカーなども存在しない。  橘は、李さんが戻ったらふたりで陶さんを締め上げてやろうと考えたが、ふと、李さんがゆうべ起きてこなかったことを思い出した。証人にはなりえない。ちびとのっぽと尹さんは、ずっと遠くのテーブルで飲み食いの真っ最中で、声も手ぶりも届かない。橘は奇妙な孤立感に襲われた。陶さんがたばこを皿でもみ消しながら、再びこれみよがしに屈み込んできた。低い、しっかりした声なのだが、ところどころで裏声のひゅうひゅういう音がまじって耳障りだ。彼が切り出したのは、村が畳表の仕事にはあまり乗り気ではない、というものだ。彼らが考えているのは、世界中に村の名前を大いに喧伝し、外資を導入してホテルを建て、日本やアメリカから観光客を呼び込むことだ。  橘はがっくりきた。李さんはまたどうしてこんな村を選んだのだろう。陶さんは真剣な口調で、貿易公団を無視して、直接我々の観光開発に投資をしないかと持ちかけてきた。李さんが戸口に現われた。それをみて、橘は加藤さんに手で合図を送り、陶さんや仇さんには、加藤さんの体調の不調を言い訳にして席を立った。途中で李さんをつかまえると、そのまま回れ右をさせて、廊下に出た。  長い、仄《ほの》暗い廊下のはてに、矩形の玄関がみえた。そこにひとひとりの黒い影が佇《たたず》んでいた。さっきの給仕の女だった。 「姑娘《クーニヤン》!」  と橘は思わず声をかけた。女の肩がぴくりと動いた。李さんが驚いたように彼をみた。今の中国では、小姐《シヤオジエ》、と呼びかけるのがふつうのところを、若い日本人が古風な、姑娘を使ったものだから注目したのだろう。給仕の女だって、内心きっと同じ反応をしたに違いない。それなら橘の狙い通りだ。  橘たちが数十歩のうしろに近づくと、女は腕を伸ばし、凭《もた》れていた柱を突き飛ばすように離れて、外に出て行った。  廊下を行くうちは、戸口の枠の中に遠ざかる彼女の姿をしっかり捉えていた。しかし、橘が戸口に立った時、暗がりからいきなり移ったせいで視野が濁って、その姿を見失った。彼女をもう一度みるためにだけでも、午後、工場に来てみよう、と橘は思った。  野道に出ると、橘は李さんに不満をぶつけた。さっき陶さんとじっくり話した。彼らはやる気がない。工場は、技術も設備も管理もお話にならない。おまけに、肝心要《かなめ》の藺草は、他の村から調達しなければならないときているではないか。我々には時間がないのだ。来る道で三日も無駄にしているから、あしたはどうしても長沙に帰り、あさっては北京に出る。  李さんが立ち止った。並んで歩いていた橘は、ちょっと先に出てから振り返った。李さんは黙ってうつむき、手のひらを額に何度か打ちつけ、それを開襟シャツの胸ポケットのたばこに持って行った。ひたいからそこまでたいした距離ではないのに、橘には、李さんの毛のない腕がずいぶん遠くまで伸びて行ったような気がした。李さんはたばこをつけ、深く吸い込んだ。どこからも煙が出てこない。ふたりはまた並んで歩きだした。加藤さんが三メートルほど先を行く。  土手にあの女がいた。しかし、向い側の土手だ。橋は前方にひとつしかない。いったいどこからどう向うへ渡ったのだろう。ちょうど橘と真横に並んで、同じ上流の方向に、しっかり腕を振って急いでいる。彼女に遅れないために、先を行く加藤さんを追い抜き、さらに五歩も六歩も前に出た。  彼女とは四十メートルも離れた対岸同士とはいえ、いかにも肩を並べて散歩するとでもいうように並行した。彼は彼女をみつめ、横顔をうんと手近に引きよせて、ためつすがめつする。時々、彼女もこっちをみる。しかし、土手は平行して交わらないのだからふたりがほんとうにいっしょになるには、このまま歩き続けて、この川の流れの源まで溯らなければだめなのだ、という考えにつきまとわれた。  女がいきなり土手から消えた。アヒルの群れがやかましく這いのぼってきて、橘は彼らを通すために立ち止った。その間に、李さんと加藤さんが追いついた。アヒルたちは、水辺にむかっていっさんに駆けおりてゆく。水に浮かぶと、とたんに優雅にしずまった。橘は、飲んだ二杯の白酒と照りつける太陽のせいで、こめかみが疼《うず》いた。加藤さんは荒い息を吐いた。うしろをいつのまにかのっぽとちびのふたりが、腕をしっかりピストンのように振ってついてきていた。彼らは白酒をしこたま飲んでいるはずなのに、足もとが実にしっかりしている。  曳舟を眺め、橋を渡った。土塀に囲まれた小さな庭や野菜畑の一隅に、辛うじて屋根に届く程度のひょろっとした桃の木が点在する。こんもり繁った葉っぱが、走り回るように風に鳴っていた。しかし、陶さんがいったような、花の季節には村を埋め尽すほどの数とはとても思えない。けっきょく村には、藺草もなければ、頷《うなず》けるほどの桃の木もないのだ。  招待所の裏門から中庭に入って、ようやく李さんが口を開いた。午後、尹の運転で他の村を回り、満足のゆく藺草を調達してくるつもりだ、といった。それなら工場の連中にもやる気を起させ、今日じゅうにかたのつくようにしてほしい、我々はどうあっても、明日じゅうには長沙に戻らなければならないのだ、と橘は厳しく念を押した。  階段口に、八、九人がかたまって騒いでいた。服務員たちだ。女の李さんの日傘も揺れている。彼らは、最初はてんでんばらばらに視線を浮かせていたのを、橘たちが近づいてゆくにつれ、こちらにだんだん向け直した。女の李さんが、日傘を高く掲げて駆け寄ってきた。朱さんもついてきた。  彼らは、朝から祠《ほこら》や詩碑など村の名所巡りをし、昼は川に舟を浮かべた。そして、ついいましがたのことだ、舟が下流の閘門《こうもん》を滑り抜けようとしたとき、閘の柱のひとつに、女の死体がひっかかっているのを船頭がみつけた。ゆうべ叫んでいた女だった。それは、やがて駆けつけた村の連中の交す言葉で分った、と女の李さんが喋った。彼女はまだ興奮が収まらず、女の膨んだ腹や、草魚に食われた眼窩《がんか》などを、朱さんのとめるのもきかず、目に涙をうっすら浮かべて喋り続けた。  橘はショックを受けたが、これで陶さんのしらばっくれぶりもはっきりして、ものごとが考えやすくなった。貿易公団の李さんたちとは別個に、陶さんたちとの交渉もいっそう用心して進めようと決心した。はっきりしたことがもうひとつあった。ゆうべの女と、花莚工場の給仕の女とは別人だったことだ。加藤さんには何も通訳しなかった。  コンクリートの階段のふたつめの踊り場まで来たとき、李さんが大声で話しかけてくるみたいな、ながながと響くおならをした。橘は、それがどこかで聞き覚えのある声のような気がして、首を傾げながら階段をあがった。服務員が廊下を近づいてきて、隣部屋が空いたことを告げた。昨日、着いたとき、もう一部屋を要求しておいたのだ。橘が引き移ることにした。加藤さんがちらっと不安げな素振りをみせたが、橘は黙っていた。スーツケースを新しい部屋に向って引きずって行き、ドアの甘いノブをがちゃがちゃやっていると、ふと、首筋にかすかなうなりを聞いた。見回しても、誰もいない。スーツケースごとドアを押し開き、それでドアを開いたままにして、汗だくの体を藺草のベッドに投げ出した。うなりは消えた。  なんだか変、あるよ、と加藤さんの中国式日本語をまねてつぶやいた。陶さんたちがしきりに強調するけれど、ここには桃源郷らしいところなど露ほどもない。それどころか、深夜に気違い女が泣き叫んだかと思うと、その女が川で溺れ死ぬ。あのうなりはいったいなんなんだろう。ビンのふちを吹くようにはじまって、あの女の叫びやパトカーのサイレンへとつながり、またリンツァオや給仕の女のうなじで聞こえ、ついいましがた、ほんの一瞬だったが、橘自身の首筋でも聞こえた。おまけに花莚工場の無気力ぶり、陶さんの韜晦《とうかい》ぶり、それから、加藤さんに起きた十年ぶりのデング熱の発作、と彼の不審を募らせることだらけだ。  妙だ。この村にはみんなが空想している牧歌とはまるで違った、何か暗い特別な力が潜んでいる。そいつが橘を引きずりこもうとしている。……ばかばかしい。すべては、暑さと食べつけない料理、不眠と通じない言葉のせいなのだ、と思い直した。村の言葉は、李さんでさえごく部分的にしか聞き取れないくらいだから、橘にはお手あげだ。言葉が分らないと、なにごとも陰謀めいてくるものなのだ……。いつのまにかうとうとしていたらしい。はっと目をさますと、ベッドのうしろに李さんが立っていた。もう工場へ行く時間だ。  工場には人の姿がまばらだった。李さんは新しい藺草を用意していなかった。加藤さんが、実際に畳表を織ってみようと、編機の前に立った。しかし、だれひとり藺草の準備をする者もいなければ、機械の電源を入れる者もいない。四、五人の男がぼんやりと酒に酔った赤い目をし、手に何も持たず、だらんと垂らしたまま遠巻きにするだけだ。李さんがひとりに何か言いつけると、ぷいとどこかへ行ったきりもう戻ってこない。陶さんも仇さんも姿をみせず、李さんが、こんなに員数の少ないわけを、ひとりだけ酔っていない中年のきまじめそうな男に問いただすと、工場は昼の歓迎宴でみんな酔いつぶれ、急遽休みになったという。李さんは怒って、事務室へ掛け合いに飛び出して行った。橘と加藤さんは何もかも諦め、肩を落して壁によりかかった。橘がなによりもがっかりしたのは、工場のどこにも、給仕の女の姿をみかけることができないことだ。これでもう二度と会うこともない。彼があこがれ、胸を焦がし、しかも知り合うためしのなかった数百人の少女や女たち、望みのない損失の気分をかきたてながら、彼のすぐわきを去って行った女たちのコレクションに、またひとつ付け加わったというだけの話だ。  橘はしらふの中年男に、思い切って北京語に手ぶりをまじえて、リンツァオについて問いかけた。……リンツァオはあんな子供のくせして、実に畳表についてのみこみが早い。加藤さんも期待しているのだ。彼はいまどこにいるか。  男は怪訝そうに目をしばたたき、小首を何度も傾げた。それから、すこし敵意を含んでぶっきらぼうに、それは何かの間違いだ、子供のリンツァオなんかこの工場にはいない、と答える男の訛りに耳を集中して聞き取り、なんとか意味を捉えた。それでは、朝、我々のそばで熱心に聞いていたのはもうひとりの、工場の子ではないリンツァオなんだ、と橘が念を押すように訊き返すと、リンツァオという名の人間はこの村にひとりしかいない、それが今朝のリンツァオで、彼はもう八十三歳の老人だ、と中年男はきまじめな表情に返って断言した。すごい訛りだ、と橘は目をまるくした。自分には、この男が、リンツァオは八十三歳だ、といっているように聞こえる。何度きいても、変らない。ついに、橘は不安になった。リンツァオはいったいいくつなのだ。橘はだんだん狐につままれた気分に落ち込んでいった。しかたなく紙切れに、八十三、と書くと、男は舌打ちしながら、そうだ、と答えた。橘は一瞬めまいがした。  気配がめまいに変った。たしかに、この村には何か得体の知れないものが隠れている。例えば、ゆうべの女の叫びは、そんな隠れ、潜んでいるものの一時的奔出ではないだろうか。しかも、あの叫びは最初、橘をめがけて銃弾のように飛んできたのだ。給仕の女やリンツァオのうなじの、何か小さく回転するもののうなりだって、得体のしれないものの気配だ。しかも、朝にはせいぜい十歳にしかみえず、橘に妙に人なつっこくまつわりついていたリンツァオが、あの唯一しらふの男によれば八十三歳だという。いっぽう李さんは、事前のちゃんとした詰めを怠って、使いものにならない工場に橘たちを引っぱり込み、必死に糊塗して、成約にこぎつけようとしている。彼が長沙から連れてきた、あのちびとのっぽのふたりはいったい何なんだ。おまけに、朱さんと李さんは新婚旅行だという。村の共産党の陶さん、工場長の仇さんは、畳表の仕事を妨害して、橘たちを合弁ホテルの建設話に引きずり込もうとしている。それが党の方針なのだ。  橘をめぐって、以上三つの対抗する勢力が存在する。それぞれが陰謀をめぐらして、音も立てず、目にもみえず、しのぎを削っている。陰謀は、あると思えば必ず存在する。ひとつがみつかれば、あとはいたるところにみつかる。  ……ゆうべの女は殺されたのではないか、という気がした。深夜、公安に拉致《らち》された女が、その翌朝、溺死体となって川に浮かぶなんて、どう考えても公安がおかしい。あの女の叫びには、胸をえぐるような暗い、悲痛な思いがこもっていた。もし彼女が、共産党に反対する反革命分子だったとしたら、陶さんたちが橘たちに向ける人当りのよい態度のかげで、党は彼女を抹殺することをためらわない。  土手にのぼる斜め道で、橘は苦い唾をしきりとのみこんだ。汗が胸をしたたり落ちた。いやな感じだ。二、三歩前を、押し黙った李さんと加藤さんがゆく。すこし離れて、うしろを相変らずちびとのっぽが、子供が道草を食っているような歩きぶりでついてくる。橘は、自分はここでは赤ん坊のようなものだ、と思った。言葉も分らなければ、満足に村を歩けもしない。長沙に戻る方策は、尹さんの運転する古いトヨタのヴァン一台と、穴ぼこだらけの細い一本のうねりくねった道の組み合せしかない。そして、その道といえば、全くの迷路ときている。しかも、間違った道を取ると、行き止りのない迷路なのだ。長沙に帰れるどころか、世界の果てまで連れ出されかねない。……危険はまだどんな形も取っていなかった。しかし、間違いなくあった。もうすこし形を取るのを待とう。あわてたりして恥をかきたくなかった。警戒して、よく目を見開いていれば、何かがみえてくる。  警戒する新しい目で土手の上に出た。斜面がすかんぽを茂らせて、狭い川原におりていた。川原にはまた別の草があった。小砂利の中洲に陽炎《かげろう》が立ち、浅瀬では水と光が信じがたいほど細かなまざり方をした。川はゆるく蛇行しながら、まるい昼の白い月のかかった山あいに逃げてゆく。右手の木の橋、向う岸の柳の列、そのうしろの桑畑の中にこれから橘たちが帰ってゆく村の集落があった。こうして土手からみると、村が、高地の小さな盆地にできた、さらに小さな扇状地にのっていることが分った。ちょっと昔の揖斐川に似ている。土手には桜が、河原から水際までは吹きこぼれるほどに菜の花が咲いていた。もちろん揖斐川はもっと大きくて、ここはそれを何分の一かに縮小した模型のようなものだけれど。  三人は橋にさしかかった。加藤さんが責め立てるように話しかけてくるが、橘の耳には入らない。入らないまま、何を言っているのか、見当はつく。どうせ今回の出張は、とんでもない骨折損だった、と橘の詰めの甘さを言い募り、一刻も早く引き揚げたがっているのだ。その点について、橘は微妙に気持が変化しつつある。すこし滞在を延ばしてもかまわない。この村が、錯覚かもしれないが、何か橘に言い寄ろうとしている気配を感じるのだ。得体の知れないもの、どこか妙になつかしさを掻き立てるようなものがあって、せめてそれがもうすこし形を取るのを見届けるのも悪くない。そのとき、一瞬、川が、木橋の上に橘をのせたまま、軽く身をよじったように見えた。  招待所に戻ると、橘は、一階の湯沸室から、加藤さんのぶんと自分のぶんの湯をバケツで三階まで運び上げ、それで体を拭いて下着を替え、洗濯をした。満員だというのに客の姿はあまりみかけず、五、六人いる若い男の服務員ばかりが、あちこちの部屋をどたんばたん、ドアを開けたてしてうるさく出入りしているのに、部屋を掃除するでもなく、シーツの交換をするわけでもない。  夕食は六時半だからまだ二時間以上あった。橘が明日発たなければならないことに変化はない。なにしろあさっては、北京で加藤さんを送り出したあと、名古屋からの別の客を出迎えてウルムチに行くことになっているのだ。だから時間がない。といって、こんな中途半端な気持で村をあとにしたくなかった。給仕女の名前すら知らないままだなんて、悔しい。  待っていても村は動かない。こちらから動けばきっと何か反応してくる。まずリンツァオをみつけだし、話をしてみることだ。そう思いつくと、橘は部屋を飛び出した。彼には確信があった。朝、工場についてきた大勢の子供たちがいる。連中のひとりでもつかまえて、訊いてみれば、すぐにリンツァオの居場所は分るはずだ。  階段を二段とびで駆けおりた。ほんとうは外国のいなかくんだりで、二段とびで駆け上ったり駆けおりたりするようなまねは、なんだか見知らぬ人を挑発するようで気が引けたが、とびおりてしまったあとではどうしようもない。案の定、中庭に、陶さんと仇さん、それに工場の経理主任の張《ジヤン》さんが待ち構えて、橘を塀沿いの、萎《しお》れた朝顔のほうへ押し込めるみたいに誘った。  合弁ホテルの件は考えてみてくれたか、と陶さんが北京語でせきこんでたずねた。具体的な細目はこれから煮詰めることとして、基本協議書だけでも交しておきたい。他にも色々アイデアがある。もしこれが日本資本と協力して実現できるなら、この村は文字通り世界の理想郷となるはずだ。  顔をしかめて動こうとする橘に、陶さんはうっとりと手を鼻先でこすり合せながら立ちふさがった。仇さんも張さんも、陶さんに合せて滑るように動く。表向きはおだやかでも、じわっと取り囲んで逃さない、ごろつきじみたやりくちだ。この連中が直接手を下したのでなくても、こういうやりくちがゆうべの女を殺したのかもしれないと考えると、橘は怒りと恐怖に捉えられた。こわばった口からなんとか言葉を押し出し、そんな話には全く興味がないし、たとえあっても自分にはそんな権限はない、とつっけんどんな調子で答えた。私はいま、ひとりでぶらぶらしたいのだ、邪魔をしないでもらいたい。散歩なのか、と陶さんはしぶい顔に豹変した。だめなのか、どうやらここは未開放地区らしい、と橘が不服げに訊くと、もちろんかまわない、あなたたちは村はじまって以来の外国人客なのだから、村の内部なら自由に歩き回ってよろしい、と言いながら陶さんは、橘を先に出すために道をあけた。  四人は裏門から外の道に出た。仔豚の群れが狭い道一杯に広がって通りかかり、四人とも足もとを彼らに埋め尽されて立ち止った。橘の協力がぜひほしい、と陶さんは仔豚の、きしむような高い鳴き声に掻き消されそうに訴えた。あなたの協力が村を生き返らせるのだ、とちょっと眉をしかめ、深刻な顔つきをした。  仇さんと張さんは慣れたようすで、足をあげさげして仔豚を通過させる。橘は、何度もこっそりと、小さく力をこめて五、六匹を蹴り飛ばした。仔豚の群れを追う人間の姿がどこにもない。それでも彼らはほとんど水が流れるぐあいに進み、やがてカンナの花を踏みつけて左の路地へ消えて行った。橘はふと気まぐれに陶さんにむかって、このあいだの人民日報に、北京での反革命分子の摘発のことが大きく載っていたが、村にも反革命分子がいるのではないか、と口にした。  そんなことはない、と陶さんは即座に首を振った。千有余年のわが村の歴史の中で、一度たりとも、治安上の問題は起きたことがないのだ、と強調した。そして、わが共産党が指導をはじめてからというもの、団結はいっそう強固になった。  その否定ぶりが、昼の宴会で、橘がゆうべの叫びやパトカーの出動について訊いたときとそっくりだった。これで、村に反革命分子が存在することを橘は確信した。日ざしを避けようとして手をかざしている陶さんの顔色をうかがった。手暗がりの下の扁平な顔が、とても酷薄にみえた。これで二度、陶さんを挑発するようなことを自分は言ったことになるな、と橘はすこしばかり怖気《おじけ》づきながら考えた。  橘は、ひとりでぐんぐん、でこぼこのささやかな上り道を進んだ。うしろで、陶さんが手ラッパで叫んだ。今夜は党の歓迎宴だ、六時半に招待所の食堂に来るように。  一日半の滞在で、歓迎宴が三回もだ。しかも、明朝は発つというのに、まだ歓迎宴だ。やっぱり連中はどこか狂っている。陶さんがまた何か言った。今夜のがほんとうの、村の正式な歓迎宴だ、なぜならば、犬が出るからだ。  橘は驚いて立ち止り、振り返った。そんな宴会は中止してもらいたい、中止がだめなら、犬抜きにしてほしい、と訴えた。それに、そんな接待のことはどこにも書かれていなかったはずだ、と付け加えた。昔から、ほんものの、正式な宴会は犬ときまっている、だから中止も省略もできない、と陶さんが声を張り上げると、横に並んだ仇さんと張さんも手を打ち合せて大きくうなずいた。  橘は大股で坂道をのぼった。韓国や広東のいなかでは赤犬を食うと聞いているし、事実、食った日本人がいるのも知っている。しかし、湖南省で犬を食うというのは初耳だった。橘は、五歳の時から中学に上るまでに三匹の雑種を飼ったが、特に溺愛した記憶はない。通りいっぺんの、まあ平均的な犬への愛情だ。しかし、それを食うこととなると話は別だ。ヘビを食った、猿の脳味噌を食った、とげてもの《ヽヽヽヽ》趣味を吹聴したがるのがいるが、こういう手合いには話の途中でそっぽを向くことにしている。とにかく、今夜の宴会だけは断固ことわることにして、汗を拭くためハンカチを取り出そうとズボンのポケットに右手を入れたとたん、うしろから走ってきた何者かに突き飛ばされ、激しくつんのめった。なんとか踏みとどまって前をみると、二、三歩先は十メートルほどの崖崩れの場所だ。  振り返ると、道にはいつのまにかたくさんの人が行き交っていて、突いたのがどの人間か見当もつかない。経理主任の張《ジヤン》さんに似たうしろ姿を、ずっと前方の木陰にちらっとみかけたような気がするが、確信は持てない。犬にかまけて、まわりにほとんど注意を払っていなかったのがいけなかった。もし誰かが故意に突き落そうとしたのだとすれば、相手は早速動き出したのだ。いったいどういう勢力なのだろう。女を殺された反革命分子の一派が、復讐に動き出したとも考えられる。なぜ橘をねらうのか、推理はかんたんだ。陶《タオ》さんたち党を窮地に追い込むには、村の観光開発計画を頓挫させることだ。その鍵を握る橘を消すのが手っ取り早い。……ハヤカワ・ミステリーの読みすぎかな、と橘は額の汗を拭きながら苦笑した。  しかし、疑い出せばきりがない。ふと、さっき扁平な陶さんの顔にさした酷薄そうな表情が甦った。彼からの脅迫、というまるっきり正反対の可能性についても考えてみるべきだ。あれはやっぱり経理主任の張さんで、彼がうしろから駆けてきて、橘を突き倒して走り去ったと考えられなくもないのだ。これはきっと、死んだ女にも、反革命分子にも口を出すな、という陶さんの警告だ。橘の協力が村を生き返らせる、と陶さんは言った。協力の協と血は、同じシエという発音だ。声調は第二声と第三声とすこし違うが、聴いて明確に区別できないことがある。だからあれは、橘の血が村を生き返らせる、と言おうとしたのではないだろうか。つまり、最初は言葉による警告、そして二番目が、いまの肉体的衝撃による脅しだ。  考えすぎじゃないのか、と自分に言いきかせた。しかし、考えまいとして、考えている。もし、給仕女に手を出したら、いったいどんな制裁が待ち構えているだろうか……。  村の目抜き通りに出ていた。早くリンツァオを捜し出さなければならない。リンツァオこそ、橘がいま陥っている疑心暗鬼を払拭してくれる。そう信じこもうとした。リンツァオが、十歳であり八十三歳であるとするなら、彼は仙人みたいなものではないか。彼は、ほんとうは千年以上を生きているのかもしれない。そういうリンツァオなら、いま、村の中で進行しつつある陰謀など児戯に等しく、得体の知れないものなどかんたんに明るみに引き出し、なめくじみたいに溶かし去ることができるに違いない。橘は子供たちを捜してあたりを見回した。しかし、声を掛けられそうな手近なところに彼らの姿はない。橘はすこし急ぎ足で歩きはじめた。  目抜きは、両側にそれぞれ五棟ずつの煉瓦建の三階家と、その向うに五、六十メートルほど続く切妻屋根の二階家で構成されていた。繁るにまかせたプラタナスの枝が高く差し交し、三階家の窓からは洗濯物がびっしり棒で突き出され、ちょうどプラタナスの大きな葉と触れ合い、仲良く微風に揺れた。道は、プラタナスと洗濯物に日ざしをさえぎられて仄暗く、水を打った石灰舗装の上を、自転車やオート三輪や徒歩の人々が行き交い、屋台からは香ばしく甘い煙が立ち昇った。三階家の一階は村の公共的機関が占めている。米など穀物の配給所、石炭、練炭などの燃料配給所、電報局、郵便局、党委員会、診療所、薬局、農民銀行がある。どの戸口からもそれぞれ村人の長い行列が延びていた。地べたに敷いた茣蓙《ござ》の上では、物売りたちがかん高い声を張り上げた。売られているのは、茸、叉焼《チヤーシユー》、たばこ、電気のソケットやさしこみ、桃や自転車のサドルなどだ。  橘の姿を村人たちは振り返り、互いにつつきあったりしてじろじろとみつめ、みろ、日本人だ、といったようすの声を交した。ふたりの日本人が村を訪問していることを知らないものはいないのだ。それにしても、子供の姿をとんとみかけないのがおかしい。橘はじりじりしだした。  大きな爆発音をたてて、藺草を満載した耕運機が橘を追い抜いた。藺草の山の上には、五、六人の子供たちが乗って、みんな棒アイスをわいわい言いながら食べている。ひと目みて、草は、工場にあったのとは較べものにならないほど良いものだ。なんだ、あるじゃないか、と橘はつぶやき、子供と草を追いかけた。耕運機は、藺草のにおいと子供たちの歓声を撒きちらしながら、やがて石炭置場の吹き抜けの倉庫を左に曲った。橘も続いて曲った。軽くたたらを踏んでしまったほど、そこは、いきなり急な下りの路地だった。耕運機は、藺草で両側の家壁をこすりながら駆けおりて行く。子供たちは、次々と藺草の山からとびおり、路地からまた枝分れした路地へと姿を消した。橘も耕運機を追うのをやめ、ゆっくり歩きながら両手を広げると、左右の壁にぴったりと手のひらがくっつく。壁は煉瓦でなく、土を練って塗り固めたものだ。表通りの党委員会や配給所や、バルコニーの付いた建物とはずいぶんようすが違う。崩れた壁土の木舞《こまい》の奥からきゅうりが生え出て、黄色い花がいくつも咲いている。  路地を道なりに下って、まるっこい角を曲ると、ごく自然に橘は、傾斜面の野菜畑の中に立っていた。にらやなす、にんにくや豆やキャベツなどが、ばらばらに、何の区切りもなく植わって、鶏が五、六羽、走り回っている。斜面の底に、白壁と切妻の瓦屋根の、小ぶりな農家が二、三十戸、ぎゅっと身を絞るように集まっているのがみえた。長沙からこの村までの道筋のどこにも、こんな古風なたたずまいの集落はなかった。どの屋根も野地板ごと崩れ落ち、壁はねじれ、かろうじて一戸一戸身を寄せ合うことで倒壊を逃れているといった風情だ。きっと五十年や百年ではない、もっと長い時間の中で、壁が朽ち、木舞がはねあがってきたのに違いない。  背戸《せど》の丘から、こんもりした竹藪が屋根に目深く垂れ下り、ざわめいていた。風が目にみえるような気がした。どこにも人っ子ひとり見当らない。橘は、はっとなった。この集落は廃屋なのだ。廃屋など見慣れたものなのに、なぜかひどく心に引っかかってならない。かつて、ここが村の中心だった、そんな気がする。それが、中国じゅうどこへ行っても、同じ煉瓦や安手のコンクリートの共産党的建造物へと村の中心が移って、そこが目抜きとなった。  竹の幹を敲《たた》く、高く澄んだ音が響き渡った。いったいだれが敲いているのだろう。橘は野菜畑の中を五、六歩進み、一戸の、傾き、ねじれた土間の闇をすかし見た。そのとき、この廃屋の集落は、たったいま崩れ落ちるぞ、という予感に襲われた。目をつむった。ざあーっと竹藪がいっせいに鳴った。幹を敲く音が乱調子で高まった。目を開いた。まだ崩れてはいなかった。しかし、彼の目には、それは断層のいちばん下に埋もれた巨大な化石のようにみえた。  踵《きびす》を返しかけたとき、左肱《ひじ》を強く掴まれた。例のふたりの、ちびのほうだ。のっぽもうしろに控えていた。  ちびは背伸びして、脇道に入ってはならない、必ず表通りだけを歩くよう、橘の耳許で告げた。言葉つきは柔らかだが、肱を掴んだ手は厳しい。いつもの子供の道草のような調子ではなかった。橘はふたりに向き直ると、忠告には従うが、いったいあなたたちは何者なのか、といって肱を返した。ちびの手ははずれた。ふたりは顔を見合せ、怪訝そうに首を振った。のっぽが一歩橘のほうに出てきて、それでは李は何も説明していないのか、と頼りない声を出した。  彼らは長沙の公安だった。このあたり一帯は、まだ外国人の立ち入りが許可されていない。李さんから公安に出された日本人二名の旅行許可申請は一度は却下され、二度目に、公安局員の同行を条件に許可されたのだ。その時、李さんは、畳表の取引は莫大な外貨収入をもたらす、と当局に吹聴したらしい。  あなたたちが公安だとは意外だったが、なぜ李さんは黙っていたのだろう、と橘が問うと、李は長沙でも物ごとをはっきり言わない男で、トラブルが多いのだ、とちびが打ち明けた。  たったふたりの日本人に、公安がふたりもつくのはすこし大げさな気がする、あなたたちの本当の目的は、この村の反革命分子にあるのではないか、と橘が鎌を掛けると、我々はいつもふたり一組で行動することになっているのだ、とちびのほうがむきになった。それに反革命分子や腐敗幹部はいつでも、どこにでもいる、こんなちっぽけな村のことに我々はいちいち関わっているわけにはゆかないのだ、と続けながら歩き出すうち、ちびがたばこを橘に勧めた。橘は断った。吸わないのか、としつこく訊くので、そうではないが、旅先では禁煙と決めている、と答えた。事実そうなのだ。日本では吸う。中国では吸わない。ちょっとしたけじめ、ただそれだけのことだ。  表通りにもどった。ゆうべの女が死んだことを知っているか、と橘は思い切って口にした。すると、のっぽがとてもそっけなく、もちろん知ってはいるが、我々の関知するところではない、これは県の公安の管轄だ、と応じた。当然あなたがたは、ゆうべ、あの女の叫び声を聞いたはずだが、と橘はたたみかけた。うなずくふたりに、さらに、陶さんがそれをパトカーもろとも否定したことを暴いた。すると、のっぽが歯から息を抜きながら、外国人が首をつっこむべきことではない、ましてあなたは日本人だ、昔のことをまだ忘れていない中国人がいるのだから、と釘を刺すようにいった。橘は急速にふたりに対する興味をなくして、あたりに子供の姿を追った。その時、あの西瓜売りの声が聞こえた。 「西瓜《シーグワ》、西瓜《シーグワ》!」  ずらっと並んだ物売りたちの、いちばんはずれに彼はいた。莚《むしろ》の上には、英徳から株洲までの、ラグビーボール状からだんだんまるくなってゆくいろいろな西瓜がごたまぜに積んである。上半身裸の、銅色の筋肉質の胸板に、流れる汗を光らせ、蛙坐りをして濁った声を張り上げた。やっぱりあの男に似ている。橘が近づき、立ち止ると、ふっつり声を途切らせた。  橘は目を閉じ、首を激しく振って、つきまとうこの幻覚じみた二重像を追い払おうとした。と、いちばんはじっこだと思っていたのに、西瓜売りの隣にもうひとり物売りがいた。歯のすっかり削げた小さな老婆で、莚の上に、たった三つの糸巻きを正三角に並べてある。橘は近づき、屈んで近々とそれをたしかめた。手の中に握りこめそうなほどの、いびつな円筒形で、中心に穴が通っている。木製の粗削りな仕上りだ。しかし、ほんとうにこれは糸巻きなのだろうか、と疑いが起きた。完全な円筒形ではない。片方がいくらかすぼみぎみだ。しかも、まんなかからすこし外れたところに細い一本の棒が斜めに挿しこまれていて、さらにその棒からもこんどは直角に細い棒が突き出し、糸巻きの形体からどんどん逃げてゆく。橘は、こんなものをいつか、どこかでみたことがあるような気がした。思い出そうとしながら、老婆にそっと声をかけた。何の反応もない。三度呼び掛けた。かすかに皺の集中した口もとが動いた。しかし、それっきりだ。橘もけっきょく何も思い出せない。昔、ほんの五、六歳で、はじめてナイフを持つのを許されたころ、何かの枝を剪《き》って、削ってゆくとあんなものが手の中に残ったような漠然とした記憶があるが、やはりそんなものではない。コマ、凧の糸巻き、竹トンボ……何か回転するもの……分らない。  ひょっとして老婆はミイラで、この変な糸巻きは、あの千年も昔からここにあるのではないか、そうとでも考えるよりほかない。橘は諦めて、その場から五、六歩寂しい方に離れると、背後で再び西瓜売りの呼び声が上った。  しばらく歩くうちに、橘を落ち着かなくさせるものが視界の隅で動いた。小さな、まるっこい反射光が、プラタナスの葉の繁りや壁や雑踏の上をさっと滑るのだ。橘は立ち止り、あちこち見回したあげく、やっと向いの三階のバルコニーに出どころを探り当てた。女が背を向けて、洗い髪を梳《す》いていた。鏡の留めがゆるくて、鏡面が時々落ちる。そのとき光がバルコニーを飛び出すのだ。給仕の女だった。  橘は釘付けになった。廂《ひさし》をかすめた太陽のかけらが、ちょうど高く上げた女の肱の三角形の中で燃えあがり、彼女がちょっと肱を動かすと、燃え尽きて消えた。彼女の白いブラウスの袖に、黒い腕章が巻かれている。彼女はゆうべの女の妹なのだ、と橘は信じた。あのバルコニーの奥の部屋に、彼女の死体があるのだ。 「好《ニーハオ》!」  いきなり女から声が降ってきた。さっき工場の戸口で、姑娘《クーニヤン》と呼びかけた、それに対する遅い返しのようでもある。橘は信じられない気持で、同じ挨拶を慌てて、つぶれた声で投げた。女が、まだ乾き切らない髪を束ねながら微笑むのが分った。それが、はっとするほどとても哀しげにみえた。姉を亡くしたばかりなのだから当然だが、もっと何かある。そいつは、あの老婆の糸巻きにつながるような何かだ。ここには、やっぱりふたつの村があるのだ。陶さんたち共産党が支配する層の下に、押しつぶされ、塞がれ、息もたえだえな古層の村がある。彼女やリンツァオや老婆は、あの廃屋めいた集落にいた人たちに違いない。そのとき、もう一度、 「好《ニーハオ》!」  と呼ぶ声がした。それは、声を殺した悲鳴のようにきこえた。橘が手を挙げて、彼女のほうに歩みかけたとたん、彼の前を、工場の経理主任の張《ジヤン》さんが、いやに勿体ぶって、挨拶もしないで横切った。 「小張《シヤオジヤン》!」  とバルコニーに向って張《ジヤン》さんが呼びかけた。彼女も張《ジヤン》という姓なのだ。バルコニーで、彼女が立ちあがった。そして、金だらいの水を、張さんを狙ってぶちまけた。張さんは素早く跳び、ほんのすこし飛沫を浴びた程度で、何か上に向って穏やかな調子で呼びかけた。女は、手を頭の上で激しく振りながら、中に消えた。張さんは平然とその家に入って行った。  橘は、張さんのあとから女の家の戸口まで進み、女がぶちまけた小さな水溜りに足をつけた。その水は、小張《シヤオジヤン》の体の隅々までを拭き、髪を洗った水だった。このしぐさをどこかで、公安がみているに違いなかった。  とても日が長い。橘は、浮き浮きと女の姿を思いうかべながら、桑畑の中の道を下り、再び土手に上った。川の上をたくさんのこうもりが飛び交っていた。晒《さら》し上げたばかりの真っ白な麻を積んだポンポン舟が、三隻一列に下ってゆく。すかんぽの葉を揺すって、なまぬるい風が吹きあげ、橘のひたいをなぶった。舟の上以外、人っ子ひとり見当らない。光が舟を取り囲み、その中で舟はぽっかりあいた穴のように黒ずんでみえた。橘は、訳もなく身につまされた。彼が子供の頃は、揖斐川の土手のどこかに、必ず仲間が隠れていたものだ。土手にさえのぼれば、誰かに会えた。亨にも会えた。チャンバラで、誤って亨の木刀が橘の目を突いたのも土手の斜面でのことだった。  彼の父親は、大垣の曲げ硝子屋で、小型トラックの荷台にしつらえたウマに大きな曲げ硝子をくくりつけて、毎日土手を走って行った。あたりがもう暗く、ただ川明りだけをたよりに斜面をごろごろしていると、納品帰りの父親のトラックが停って、 「ええかげんにしいや。家《うち》に、帰るぞ!」  と叱声が降ってきた。  樽見鉄道を、奥美濃・神海《こうみ》の駅でおりて、根尾川《ねおがわ》の土手伝いに一キロほど歩くと、母親の実家があった。根尾川が、揖斐川の支流のひとつで、結局いつもの土手とつながっているわけだと知ったのは九歳のころだった。なんといっても、土手が惹きつけるのは、その尽きることのない斜面だ。子供は斜面が大好きなのだ。なにしろあの頃は、世界中の土手がひとつにつながっているようにみえた。中国だってインドだって、アメリカへだって行ける。  だから橘は、ここで、リンツァオに会えそうな気がした。  向う土手を、一匹の茶色の犬が行く。何かくわえている。よくみると、白い鶏だ。橘は犬と平行に、観察しながら歩く。疲れたのか、犬は口から鶏を下に落した。あたりをきょろきょろ見回した。しかし、視線は川を越えられず、橘には気付かないようだ。再び鶏をくわえこむと、すこし速足になって進み、ぽつんと一本、丈高く伸びた柳の木の根方に隠れて、出てこない。犬は、きっと木のかげで鶏を屠《ほふ》っているのだ。今晩の党の宴会に出るのがまさかあの犬ではないだろうが、昼の宴会で鶏の毛以外はすべて食べ、夜は犬料理か、と考えると気が滅入る。鶏を犬が食い、人間が犬を食う。しかし、その先は考えない。  このまま行っても、子供たちにもリンツァオにも会えそうもなかった。公安のふたりが、ふだんの子供っぽい調子に戻ってあとをついてきていた。すこし先で、川は左に大きくふくらんで右に屈曲する。そこまで行って戻ることにした。  橘がいるのは、下流に向って右側の土手だ。下には扇状に小さく川原が広がり、水に近いところを石と砂が占め、土手に近づくにつれ葦やすかんぽの原っぱになっていた。向う岸の屈曲部では、土手の真下まで、えぐるように深くて速い水がところどころ小さな渦を巻いて流れる。土手から石段が、用心しいしい、そんな渦のひとつへおりていた。  石段の先端に、橘はひとりの老人をみつけた。一心に、河心に視線を据え付け、肩を開くようにして、長い竹棹を水面に平行に振り回した。リンツァオかもしれない。しかし、橘は老人のリンツァオをみたことがないのだから確信が持てない。ただなんとなくそんな気がしただけだ。  棹が空を切って、ビュー、ビュー鳴った。何をしているのだろう。橘は川原におり、足音を忍ばせて水のほうに近付き、老人とは反対側から河心に目を凝らした。……いた。河心から上空十メートルぐらいの一点に、おにやんまが現われ、銀緑色の薄翅が光った。微妙に調整される竹棹のうなりと、気流の変化に誘われ、おにやんまがほんのすこしずつ老人の岸のほうに吸い寄せられてゆく。棹の先には鳥黐《とりもち》のようなものは何もついてない。手網《たも》の類もない。たとえ近づいてきたって、いったいどうやって、あのすばしっこいやんまの王を捕えるのだろう。揖斐川の土手も、昔はおにやんまの宝庫だったが、しおからやショウジョウトンボはいざ知らず、おにやんまが、素手で捕まるほど何かに眩惑されるなど思いもよらないことだった。  しかし、おにやんまはいよいよその複眼を回し、尾端の二本の鋏を震わせながら岸に近づいてゆく。老人はやがて竹棹を短く寄せ、回転の輪を小さく、速くした。そして、ほう、ほう、と聞こえる声をか細く発した。その時、橘は思い当った。その声は、ゆうべ水音の中から響いた、あのコップの縁《へり》を唇で鳴らす音だ。それが何か回転するうなりに変り、やがて闇を食い破る人間の叫びとなったのだ。  おにやんまは両翅と尾端を激しく振り、複眼をくるくる回転させながら竹棹の周円の中に入ってきた。老人はいきなり棹の動きを止め、声を切り、静かに、ゆっくり獲物に向って左手を差し出した。信じられないことが起きた。おにやんまは、やすやすと、ほとんど眠りに落ちるように、老人の手のひらにとまったのだ。老人は再び、別のおにやんまが潜んでいる熱気の青空にむかって、棹を振りたてようとした。 「リンツァオ」  と橘は呼んだ。老人は手をとめた。 「リンツァオ!」  と橘はもう一度声をかけた。老人は顔をしかめ、竹棹を担ぐと背を向け、すたすたと石段をのぼりはじめた。腰から糸でくくったおにやんまが、老人の周りを飛ぶ。石段をのぼり切ると、土手を川下にむかった。橘も川原の水際を平行に追いかけた。老人が時々、ちらっ、ちらと橘をうかがう。走りだした。老人の走りではない。もうまちがいなく、身軽な、躍動する少年の身のこなしだ。  忽然とリンツァオは消えた。完全な十歳の姿に変身しながら、土手を降りたり、物陰に隠れたり、遠ざかって小さくなるでなく、走りながら、何かが水の中に溶解するように消えた。  なぜあんな忍術みたいなことがおきるんだ、と橘がじっとリンツァオの消えた向いの土手の一点を眺めていると、女の子の声がした。振り向くと、こちら側の土手の斜面に、山羊をひいた五人の少女が漂うように立っていた。山羊が鳴きながら少女たちを引っぱって、斜面を駆け下った。可愛い悲鳴があがった。結局、彼女たちは首につないだ縄を放して、山羊を自由にすかんぽやすすきの原っぱに駆け入らせ、自分たちはわざと草の中に転げ落ちた。起き直ると草の中に集まり、顔を寄せて何かこそこそ話し合っていたかと思うと、いきなり橘のほうを向き、 「日本鬼子《リーベングイズ》!」  と声を揃えて叫んだ。けさがた、々米《タタミー》とか藺草《リンツアオ》とか声を上げたのと同じ調子だ。橘は、彼女たちによく分るように大きな、笑顔をつくって近づいて行った。  来た、来た、日本鬼子《リーベングイズ》が来た、と口々に言い交した。日本侵略者がやって来た、という意味だ。橘は、子供たちの喋る言葉がたいがい分るのがふしぎな気がした。 「おーい、何してんだい?」  と問いかけると、彼女たちは聞こえないふりをした。 「山羊を放ったらかして、だいじょうぶなの?」  と続けると、 「自分で勝手に草を食べるからだいじょうぶ!」  と叫んだ。  少女たちの群れで、せわしない動きがはじまった。いちばん小さい、五歳ぐらいの女の子がひとり残され、他の四人は大きな声で数をかぞえながら川原に散って、葦やすすきやはんのきに隠れ、二十をかぞえてしずまった。鬼になった子は、顔から両手の目かくしを外すと、目をこすってまぶしそうにあたりを見回した。最初にみつけたのが橘の姿だった。彼女は手を口にあてて跳び上り、 「あっちへ行け!」  と叫んだ。橘は笑顔をむけて動かなかった。女の子は舌打ちすると、草を鳴らし、半弧を描いて行ったり来たりしはじめた。日焼けした顔に汗をかき、髪も濡れて、ひたいに小さないくつもの束になってかたまっている。少女の動きは、さっきの竹棹の軌道に似ていた。しかし、彼女の場合は、誰ひとりかくれがからおびき出すことができなかった。やがて疲れたのか、何度も転んで泣きべそをかき、とうとうもとの場所に戻ってくると、泣き声をあげてうずくまった。  上の子たちが、それぞれのかくれがから罵りながら首を突き出した。集まってきて、鬼を取り囲んだ。しばらくひそひそひたいを集めていたかと思うと、輪の中から、目を泣き腫らし、まだしゃくりあげている鬼の子が突き飛ばされるように走ってきて、 「日本鬼子《リーベングイズ》、鬼になってよ!」  と橘にむかって要求した。 「リンツァオに会わせてくれるかい?」  少女はうなずいた。  橘は、少女たちが決めた場所に立った。足はじしばりやはこべを踏んだ。目を閉じ、そのうえさらに両手を置いた。戸外で、こうして立ったまま目をつむるのは何十年ぶりのことだろう。あれもまた揖斐川の土手だった。重たい汗が胸と腿を伝い落ちた。彼はかぞえはじめた。子供たちの声が遠ざかり、しずまった。水の流れだけが聞こえた。橘は、十をかぞえた時、ふっと足もとがたよりなくなるのを覚えた。そして、数を唇でふやしてゆくごとに、たよりなさは増していった。もし目をあけて、そこに何もなかったらどうする……、そんな考えにつかまった。 「最後までかぞえなくちゃ駄目!」  少女たちの叱り声がした。  草が荒っぽく鳴る音がした。リンツァオだな、と橘は思った。やっとリンツァオに会える。色々話がきけるだろう。そうすればすべて氷解だ。 「兌換《トエホワン》!」  西瓜売りの声だ。橘は振り向きながら目をあけた。 「兌換《トエホワン》、兌換!」  すり寄ってきて、橘の左肱に軽く触れた。橘が振り解こうとすると、男の指先が素早く肱に食い込んだ。 「一・五倍だ。兌換券を売ってくれないか。頼むよ」  裸の肩をこすりつけて、男は哀願するように囁いた。そのとき、別の荒々しい声が響いた。ふたりの公安が、何か喚きながら土手を滑りおりてくるのがみえた。西瓜売りは、犬のように跳びはねながら川の中へ逃げて行った。山羊たちはのんびり草を食んでいた。  机の上に、ぶあつい硬紙《かたがみ》の、毛筆で書かれた今晩の宴会の正式な招待状がのっていた。党委員会からだった。招待状というより召喚状に近い。犬を屠《ほふ》って食うのだ。加藤さんは断固拒否した。彼は飼犬を亡くしたとき、一カ月酒を断ったほどだ。同席するのもけがらわしいという。  六時半がすぎた。橘はまだ踏ん切りがつかず、加藤さんの部屋でぐずぐずした。 「出るだけ出ます。だけど、私は絶対に食べませんよ。それだけは信じてください」 「そううまくゆくかね。彼らは勧め上手だから」  そこへ尹さんが呼びにきた。しかたなく橘はひとりでおりて行った。敵陣に乗り込む覚悟だ。  さして広くもない食堂は、三十人の人いきれでむんむんしていた。天井の五つの扇風機がカタカタ鳴る。それぞれの扇風機の真下に配置した大きな円テーブルも五つだ。真ん中に主賓、つまり橘がつくテーブルがあった。陶《タオ》さん、李《リー》さん、張《ジヤン》さん、それから初顔の、四十がらみの首の細い、ごま塩頭の男がいっしょだ。加藤さんの椅子は片付けられ、村の党書記だというその男が橘の隣になった。北京語を少し、陶さん程度にはしゃべった。朱さん夫婦、尹さん、長沙の公安は、窓がわのテーブルにひとまとめにされていた。  今夜はしょっぱなから宴会場の空気が、とてもうわついているのを橘は感じた。村祭の座敷の雰囲気だ。きっと犬が出るからだろう。陶さんの型通りの挨拶がすむと、テーブルのカンナを生けた花瓶が取りのけられ、いきなり白酒《パイジユウ》での乾杯がはじまった。ここらへんが、ビールや紹興酒《しようこうしゆ》でおとなしくはじまったこれまでと違うところだ。橘は、テーブルに並べられた料理の皿を警戒の目でみやった。いちいち隣の党書記に訊いてみる。知らずに犬を食っていたのでは情ない。テーブルのもの、片されたあとから次々と運ばれてくるもの、それらはいまのところどうということのない、アヒルや豚や草魚の、唐辛子とにんにくを過剰に使った揚げもの、炒めもの、あえものだ。陶さんが、またぞろ合弁ホテルの話を蒸し返してきた。彼の大きな骨ばった手の甲は、この村が載っている扇状台地そっくりだ。その手を悠然と、川のように伸ばして杯を掴み、掲げて、高価な、なみなみとつがれた五十六度の白酒をぐいぐいやる陶さんを見ていると、こういう宴会腐敗幹部こそ長沙の公安は摘発すべきなのに、隅っこのテーブルにいるちびとのっぽのふたりは、とても彼らを内偵したり、摘発したりできる状態ではないようだ。公安は、狂ったように中テーブルをぐるぐる回して箸を伸ばし、頬ばり、骨や殻を床に吐き散らし、食べたものからにじみ出た獣脂《ラード》で唇の周囲をぎとぎとさせ、陶さんとほとんど同じペースで白酒をあおっている。橘は党書記に二杯目の白酒の乾杯を強要され、しぶしぶ干すと、かっと顔がほてり、頭の芯に酔いが刺しこむのを覚えた。すかさず陶さんがなみなみと注いできた。橘は、注がれる酒と陶さんの顔を交互にみつめながら、思わず、人殺しめ、と浴びせてやりたくなった。そいつをなんとかこらえてのみこむと、今度は李さんに向って、今日夕方、村の目抜きで、とても上質の藺草をみかけた、あれなら上等の表《おもて》ができる、なぜ工場は協力しないのか、と穏やかに詰問した。陶さんも仇さんも素知らぬ顔をしている。明日、早速調べて手配する、と李さんは頼りなげに答えた。何を言っているのか、我々は明朝帰るのだ、と橘は気色ばんだ。その時、李さんが深く吸ったたばこの煙をのみこんだまま奇妙な顔つきをした。右の口許をぴくつかせ、左目だけで二、三度まばたいたのだ。橘はそこに、おととい長沙からの車中で行き先をたずねたとき、彼が、言わぬが花、と応じたのとそっくりな表情をみとめた。つづけて、彼は何事もはっきりいわない男、と評したちびの公安の言葉も甦った。  橘は、李さんの視線を逃さないために、じっと目を注いで、明朝の出発に何か故障が起きたのか、もう言わぬが花なんて言わせない、我々はいったい何のために金と時間をかけてこんなところへ来たのか、言葉を尽してこそ花は咲くというものだ、とからんで行った。  日本人はなんてせっかちなんだ、と李さんが舌打ちして、つぶやくのが聞こえた。煙がまたしても李さんの体のどこからも出てこない。橘はむっときて、すり替えないでほしい、これは国民性の問題なんかではない、ときつい口調で反論した。  脇から党書記が、今夜は仕事のことを忘れてほしい、もうすぐ犬がくる、と口を挟んだ。々米《タタミー》についてもホテルの合弁経営についても、あしたじっくり、友好第一で話し合えばきっとうまくゆく。そばで陶さんが、しつこくつまようじを使いながら党書記の言葉に何度もうなずいた。誰も、橘が明朝帰るとは思っていないかのようだった。  白酒がものすごい勢いで、次々とからっぽになってゆく。橘は警戒しながら酔った。いつどこで、犬肉がまぎれこんでいるとも限らない。そのぶん、白酒に対して気がゆるんだ。五、六杯は干した。全身がかっかして、汗がとめどなく吹き出してきた。こいつはデング熱みたいだ、と橘は思った。  まむかいの席に張さんがいた。この男に、彼女がバルコニーの上から金だらいの水をぶちまけたのだ。同じ張《ジヤン》姓が敵対している。しかし、あの時、張さんは平気の平左であの家に入っていった。どういう関係なのだろうか。橘に嫉妬めいた気持が湧きあがった。立って、白酒の瓶をつかむと、張さんの杯に金だらいの水をぶつけるつもりで注いだ。席に坐り直そうとしてよろめき、自分と党書記の杯やビールグラスを倒してしまった。酔ったのだ。しかし、どこか不快に醒めている。その醒めている部分で、橘は剣呑《けんのん》さを募らせた。そして、張さんにむかって、……さっき目抜きで、張さん、あなたをみかけた、と苛立たしげに声をかけた。あなたは女の家に入って行った。工場の宴会で給仕をしてくれた女性だと思うけど……。いけない、こんなふうに口を滑らせるのは酔った証拠だ、と思いとどまろうとしたが遅かった。……彼女は張さんに金だらいの水をぶっかけようとした、なぜか。  一瞬、テーブルがしんとなった。橘はその静かさにびっくりした。張さんはそっぽをむいてピーナツの殻をむいている。彼女は張さんの姪《めい》っ子なのだ、と陶さんが、すぐ温和な笑顔を取りもどしてその場をつないだ。彼女は腕に喪章をしていたが……、と橘は体を陶さんに向って右に屈めた。身内に不幸があったのだ、しかし、ずいぶん興味がおありのようだ、と左の党書記から声がして、橘は陶さんに屈めた体を振り起した。……不幸とは彼女の姉の死のことだろう、と橘はいきなり窓のほうを指さした。彼女の姉の存在は、あなたたちの権力支配を脅かしかねなかった、そこで彼女の一家を村八分にして追い詰め、音を上げさせ、公安に拉致させ、あの川で溺殺したんだ……。  彼はたったひとり、同席者の誰ひとりとも関係なく、しかし、陶さんや党書記をかわるがわるみつめて、日本語でしゃべっていた。陶さんも党書記も口をぽかんとあけ、にこやかにしきりにうなずくばかりだ。そこでにわかに、彼はこの話への興味が萎《な》えてゆくのを感じ、皿にのった草魚の頭を、こいつが小張《シヤオジヤン》の姉さんの目玉をくったんだ、とにらみつけた。  扉口で、どよめきがあがった。大きな鍋が運ばれてきた。運び手が小張であることに気づくと、橘は動転した。それぞれの中テーブルが手早く片され、煮立った湯鍋をのせた低い七輪が据えられた。彼女が湯鍋の上に蓋をした大きな土鍋を置いた。これが犬鍋だ。なんてことだ。彼女はこんなことの給仕までさせられているのか、と橘は怒りがこみあげた。  山盛りの青菜がきた。陶さんが、犬がどれほど夏ばての体によいか、講釈を並べ立てた。李さんも相づちを打ちながら、例の観光案内ふうの口つきで乗り出してきた。医食同源とはよくいったものだ、犬鍋こそその最たるものだ。肝心要はよく口ごもるくせに、こういう点にかけては実に具体的で滑らかで、押しつけがましい。  小張が蓋を取った。彼女は、工場での宴会同様、誰の顔もみなければ、ひとことも発しない。鍋のまんなかの煙突状の突起から蒸気が勢いよく吹きあがって、彼女の顔をおおった。この蒸気熱を蓋をした鍋の中に回して、肉やしいたけや、なつめや蓮の実をゆっくり煮こんであるのだ。陶さんが青菜をごっそり放りこんだ。五、六秒後、陶さんは橘の皿に青菜ごと中のものを盛り上げようとした。橘は自分の皿をつかんで拒否した。心尽しはうれしいが勘弁してほしい、日本人は食べてはならないのだ、と訴えた。そんなことはない、犬ずきな日本人を何人も知っている、と言い返された。そいつは日本人じゃない、そんなやつは犬に食われろ、と橘はひとりごちた。  朱さんも女の李さんも、公安もみんな嬉々として、汗を吹き出させながら鍋にくらいついた。こっそり陶さんの皿の中を覗くと、豚の角煮のような肉が湯気をたてていた。長い箸につまみ、口をとがらせ、息を吹きかけてさまし、口のなかでも転がしてまたさまし、熱した息を吐きながらかみ砕く。誰もが小止みなく橘に、是非食えと勧めつづけた。彼に食わせさえすれば、万事ことなれりといった調子なのだ。橘はしかたなく、白酒の杯を挙げて乾杯に逃れた。乾杯はだれも拒否できない。だからその時だけ勧誘は止む。  橘は、貪欲に鍋にむかう勢いにほとんど抵抗の気力を失くしそうになった。犬はきっとリンツァオや小張や糸巻きらの仲間に違いない。とすると、陶さんたちは、こうして彼らに反対する勢力の肉を食って、いっそう弾圧の活力を得ているのだ、と橘は邪推した。リンツァオはいまごろ、どこで、どうしているのだろう? この集団的犬食いの光景をみたら、涙を流して悔しがるに違いない。給仕させられる小張の心情を思うと……、それとも……、と橘はとつぜん浮かんだ意外な思いつきにぎょっとなった。リンツァオも食うのか? 彼も小張も、姉やあの老婆も食うのか?  橘は、自分の皿を引きもどす気力を失くした。一瞬のすきをつかれた。陶さんが、党書記が、仇さんが彼の皿を鍋の近くに運んで、青菜の上にしいたけ、たけのこ、犬の肉を盛るのを茫然と見送った。……もし犬が、リンツァオや得体の知れないものの仲間なら、そいつを食うことは彼らを知ることにつながるのではないか。彼らの考えや力を身につけ、一体化することになるのではないか。突拍子もないことだ。しかし、いとしいものは食べてしまいたい、と誰しも思うことがあるのではないか。……彼女の肉を食べる。橘は箸を伸ばした。あとは一気呵成だ。味など分らない。周りはどよめき、彼に向って手を拍った。彼はよそわれた肉をぜんぶ食った。ふしぎとそれからは、白酒をいくら飲んでも酔わない。日本に帰っても、決してこの村のことは誰にも言わずにおこうと決心した。  お茶が彼らのテーブルに、ひとりひとり小張の手で配られた。蛍焼きの小碗だ。彼女はただ黙って、手際よく渡していった。橘は、彼女がそばにきて、彼の肩口から茶碗を持つ腕をのばしたとき、ほんのわずかに振り向いて、彼女の唇の周囲のうっすらとした汗ばみようと、鬢《びん》の解《ほつ》れ髪に指先をそえるのを捉えた。  彼女が陶さんの前に茶碗を置こうとしたとき、陶さんがいきなり彼女の手をぶった。そして、何か威嚇するような声を放った。彼女がどんな失敗をしたのか、橘は皆目わからない。彼女の顔が赤く染まり、伏せた目が凝《じ》っと内に向けてきらめいた。これで陶一派がいかに小張たちを権柄ずくに扱っているかがよく分った。かといって、彼女のために橘に何ができるというのか。自分の無力が情なかった。  彼女は引き下って、もうそれきり現われなかった。お茶はぬるそうだった。橘はいやいやそれを口許に運んで、目をみはった。湯の中に、ほころびかけた桃の花がひとつ、浮かんでいるのだ。隣の党委員会や陶さんの茶碗を素早く盗み見たが、彼らのには何も入ってない。色の薄いただの緑茶だ。橘は、茶碗をそっと左手で囲うようにして隠した。  蘇芳色の、鮮やかな、まちがいのない桃の花だ。花びらの二、三枚は、外側に身をそらすようにめくれ、形も色も、薄緑の萼《がく》や花托もほとんど傷んでない。桜湯なら鎌倉で、蘭茶なら広州の蘭園で飲んだことがある。もし、この村に桃湯なり桃茶の風習があるのなら、それについて陶さんあたりからひと言あるはずだが何もない。彼女が、橘にだけ淹《い》れてくれたのだ。あるいは、陶さんが小張に何かいったのは、このことかもしれない。彼はうっとりとなって見入った。茶碗を持つ手の微動につれ、桃の花は、蛍焼きの、白く、仄かに明るい水の中でゆっくりと旋回し、底に落ちた自分の影のほうへ沈みかけては、浮きあがってくる。唇を近づけると、緑茶の香りの奥から、かすかに花の匂いが漂った。彼は顔をもっと水面に近寄せた。  映画で、画面を波打たせて、回想や夢のシーンをはじめる旧式の技法がある。ちょうどそんなふうに、たったひとつの花を浮かべた揺れる水の中から、なつかしい、まだみたこともない花ざかりの桃の林が、立ち現われそうになった。  党書記からおひらきの声がかかって、橘はあわてて茶を飲み干した。花も飲みこんだ。  橘はコンクリートの高い階段を、しっかりした足取りでのぼった。あれほど飲んだ白酒がきかないのがふしぎだった。そして、たったひとつの桃の花に酔った。  どの部屋も暑さしのぎに、ドアを開けっ放しにしていた。加藤さんの部屋の前で、橘は足音を忍ばせた。中は暗く、眠っているようすだ。今夜、デング熱が出なければよいが、と念じながら、犬を食ったことが加藤さんにばれた時のことを考えると、とても憂鬱になった。  部屋に入って、扇風機のスイッチを入れたが回らない。ベッドに横たわった。とうとう犬を食った、と思わず口をついて出た。鶏も食った。犬も食った。桃の花もたべた。三点セットだ。あした目がさめたら、はたして今の自分を見出せるかどうか疑わしかった。少くとも体のどこかが変ってしまっているかもしれない。  それにしても、桃の花には驚いた。もうまちがいない。彼女こそほんものの、あの桃花源の姑娘《クーニヤン》だ。春先の花が、六月も半ばの、悲鳴をあげたくなるような暑い夜までどのようにして運ばれてきたのか、というような穿鑿《せんさく》は野暮というものだ。  怖れと酔い心地と、何かばくぜんとひそかな期待のうちに、彼は眠った。  とても美しい月が、開け放した窓から入ってきて、それがほのかな桃の花の匂いを放った。橘は苦しくて、目がさめた。  加藤さんのうめき声がきこえた。ベッドがきしむ音もまじる。しかし、橘はもう彼の上に馬乗りになるのはうんざりだった。それにやっぱり十杯以上も飲まされた白酒がいまごろ威力を発揮して、頭ががんがんする。胸もとに汗が吹き出す。十一時を少し回ったばかりだ。まだ一時間と眠っていなかったのだ。しかし、当分寝つけそうにもなかった。ふと、昼間みた野菜畑のむこうの集落のことが浮かんだ。あれはまだあそこにあるだろうか。ひょっとしたら、夜になると化石の身から躍り出て、村の中心になって賑っているかもしれない、そんな空想をした。いくらなんでも、こんな夜更けに公安はあとをつけて来やしないだろう。橘は服をつけ、廊下に出た。加藤さんの部屋の前を通る。放って置いて死ぬようなことはないだろう。ただの発作だ。  階段をそっと一段ずつおり、中庭を最短距離で横切って裏門から外に出、表通りにすべり込んだ。たしか昼間は、藺草を追って石炭置場を左に曲ったはずだ。しかし、いくら目をこらしてもそんな路地口はみつからない。狐につままれたみたいだ。昼間、つままれたのか、今そうなのかは分らない。三度行ったり来たりして諦め、小張の家の前に立った。彼女のバルコニーが、昼間よりずっと高く、美しくみえた。扉の面で、月の光が水のようにかがよっている。彼女はあの中で眠っているのだ。橘は、彼女のことを考えると胸苦しくなった。おまけに滅法暑い。土手に行こう。土手にゆけば、少しは風も吹いてましだろう。  土手の上は、昼のように明るかった。さっき夢でみたのとそっくりな、大きな月が中天にかかっていた。あれが窓から入ってきたのではなく、自分が窓からここまで誘い出されたのだという思いがした。すると、あのとき、ほんとうに苦しくて目がさめたのかどうか、ひょっとしたらもうひとつの夢の中に入っただけなのではないか、疑わしくなった。下流に向って少し歩いた。頭の痛みも胸苦しさも徐々に薄れはじめた。対岸に、リンツァオがおにやんまに向って棹を振り回していた石段をみつけると、すかんぽの斜面を、露をとばして駆けおりた。瀬音だけが耳を打つ。靴と靴下を脱ぎ、浅瀬を歩いた。水は、月の光を浴び、小石の間にレースの縁飾りのように広がっている。  中国、湖南省の山奥に迷いこみ、ひとっ子ひとりいない深夜のせせらぎに、子供みたいに足をひたす。いま、ここにいることの不思議さは、何千キロという距離のせいばかりではない。おにやんまや土手や桃の花に掻きたてられたなつかしさのせいだ。明日、きっとあの老婆の、糸巻きのようなものを買って帰ろう、と橘は決めた。何か証拠の品を持ち帰らなければ、あとでもうこの村に来たことが信じられなくなるような気がした。  ちょうど昼間、女の子たちにつかまったあたりに来ていた。橘はそこから土手に上って引き返そうと、細い、あるかないかの川原道をたどって、葦とすかんぽの混生の中に分け入った。ぐみの木が二、三本はえている。ぽつんぽつんと熟した赤い実をみつけた。あれは食べるとおいしいんだ、と手を伸ばしかけたが、毒ぐみかもしれないので引っこめた。  いくら行っても、鬼ごっこで目をつむった、あのぽっかり開けた場所には出られない。橘の服は、汗と露でずぶ濡れだ。 「日本鬼子《リーベングイズ》!」  ぐみの木のかげに小張《シヤオジヤン》がいた。長い首を傾げ、顎を藍染めの印花布のゆるやかな胸ぐらに埋めている。なぜ彼女はいま、ここにいるのだろう。  彼女が、ぐみの木から離れ、近づいた。十歩ほどの距離だ。橘も動いた。 「貴姓《ニイグイシン》?」  名前、なんていうの? 橘は問いかけた。答えようとして、彼女の口もとがゆっくりほころびかける。 「貴姓《ニイグイシン》?」  ともう一度。彼の声は、名前をきく喜びに顫えた。 「張《ジヤン》チエン。我姓張《ウオシンジヤン》チエン」 「ジャンチエン?」  と発音しながら、橘は彼女の唇に唇を重ねた。桃の花の匂いだ。さめるなよ、この夢、と橘は念じて、回した両腕に力をこめた。  チエンというのはどんな字を書くのか、と唇が触れあったまま問いかけた。彼女が何か答える。しかし、ちょっとこみ入った話になると、彼女の村の言葉が聞き取れない。もどかしげに舌を鳴らした小張は、橘の右手を取り、手のひらに指字で書いた。 「張倩《ジヤンチエン》!」  相手の女の名前を、はじめて正確に発音する喜びがこみあげた。倩《チエン》とは、みたこともない漢字だ。あとで辞書を引くことにする。 「貴姓《ニイグイシン》?」  こんどは彼女がきいた。 「橘博《ジユイボウ》」  彼もまた張倩の手のひらに書いた。 「橘博《ジユイボウ》?」 「そうだ、ぼくの名前は橘博《ジユイボウ》さ」  彼女がくすっと笑った。橘は、彼女のうなじに鼻をすりよせて、彼女の匂いを思いきり吸いこんだ。いま、自分はあの古層の村にいるのだ、と疑わなかった。  ふたりは、互いの名前をきりもなくささやき、足をもつれさせあいながら、もっと深いすかんぽの林の中へ入っていった。首ほどの高さまである葉の繁りから、夜露がスコールのように飛び散った。土手下にたどり着くと、橘はずぶ濡れになりながら、すかんぽを五、六本押し倒し、ふたりだけの場所を作った。月しか覗くことのできない、深い穴のような場所だ。彼女はその縁《ふち》でためらった。橘は彼女の手を引っぱった。倍以上の力で抗《あらが》ってきた。手を放すと、そのまますっと、彼女がすかんぽの闇に消えてしまいそうな気がし、慌てて力をこめた。彼女は近づいたが、急にまたためらうように脇を向いた。 「張倩《ジヤンチエン》!」  彼女は、ちょっと黒ずんだ目でこちらを向き、再び顔をそむけたまま、橘の肩に顎をあずけてきた。  腰をおろすと、月の光が半分になった。その半分は彼女の領分だ。橘は、リンツァオのことや彼女の姉のこと、糸巻き、なによりも彼女自身について聞き出したかったが、村の言葉が立ちはだかって口にできない。しかし、もし村の言葉ができたとしたら、逆に何も訊かなくても分るだろうという気がした。いま、ほしいのは、彼女を笑わすことのできる、ほんのちょっとした冗談口なのだ。  低い、か細い声がした。彼女が歌っているのだ。いきなり歌が心に浮かぶというのは、何を意味しているのだろう。彼女の、虐げられ、砕かれた心なのか。橘は耳を傾けた。いま、ここにいる自分以外、いったい誰が彼女を理解するだろう。  それは、彼もきれぎれに知っている日本の流行歌だった。彼も一緒に小声で歌った。片方は中国語で、片方は日本語で。それから彼女は、村の古謡を歌った。異国の歌が、異国の女が、なぜこんなにしみじみとなつかしさを掻き立てるのか。橘はふと、浦島太郎のはなしを思い出して、苦笑し、そして怖くなった。あれはほんとうにあった話なのかもしれない。  故国から何千キロも離れた異国の山奥の、深い穴の底で、こうして異国の女と体をすり寄せあって歌をうたう。こんなことがいつか自身の身に起りうるなんて、橘は考えたことさえなかった。それが現に自分の身に起きている。危険でないはずがなかった。  彼はほぼ十年かけて、なんとかいまの生活を自分のものにした。外国語をひとつ習得し、貿易会社に就職して外国に行く。これが彼の目標だったのだ。父親が早く死に、全日制高校への進学を諦めなければならなかったあと、その目標を我が物とするために、いくつもの資格試験の不安に耐えてきた。そして、二十七歳になったいまも、自分が手に入れたものを忘れないように、少年時のあらゆる不安が彼の中に残っている。この不安がなくならない限り、自分はいつまでたっても子供のままだという気がずっとしていた。とすると、一人前の男になるには、やっと手に入れたこの生活を手放さなければならないのだ。そのときがやってきたのかもしれない、と思った。中国女とこうなってしまって、無事ですむはずがない。会社は馘《くび》になるだろう。橘は、もう一度浦島太郎のはなしを思い浮かべた。浦島子は、いっきに大人を通りこして、白髪の、よぼよぼの老人になってしまったのだ。  彼が、小張を斜面の湿った草の上に押し倒したとき、彼女は唇のはしをすこし引き下げた。おずおずとしたあざけりか、それともただの困惑なのか、橘は一瞬ひるみかけた。その隙に、彼女は体を起した。そして、何か猛烈にしゃべりはじめた。  最初、それは音楽のようにきこえた。耳を傾けるうち、ある音が繰り返し出てくるのが分った。それから、その音がひとつの言葉であることが聞き取れるようになった。 「兌換《トエホワン》!」  やがて、この「兌換《トエホワン》」を中心として、水にインクが広がるように、村の言葉が橘の頭の中に形をとりはじめた。 「お願い。あたしに三千元を兌換して。姉さんは狂って死んだわ。あたしたち、日本人が来ると聞いて、このチャンスを逃したら、もう永久に香港に逃げられないと思ったわ」 「どうして? なぜここにいるのがそんなにつらいの? だってここは、桃花源村じゃないか」  言わずもがなの質問だと自分で思いつつ、橘も起きあがり、彼女の目を覗きこんだ。奥で、何万分の一にも縮小された月が光っている。それが、遠い夜空の果てで起っているかのようにはぜた。 「もうだめ。あたしたちの村はもうおしまい」 「そうか、やっぱりあの村はほんとうにあったんだ。だけどそれがもう死にかかっている」  橘は、瀕死の村の残り香を嗅ぎ、吸いこもうとして、激しく唇を押しつけ、舌を硬く尖らせて彼女の歯をこじあけようとした。舌と舌が触れあい、唾液がまざりあった。これがあの村の最後の一滴だ、と言いきかせつつ吸った。 「お願い。あたしに三千元を兌換して!」  濡れ場で、お金の話を聞くのがとても情感をそそった。……小張《シヤオジヤン》のひたいはなんてすべすべしているのだ。瞳の光の量はとても多いし、鼻はひんやりとして、唇をつけると気持がいい。あったかい、とろけるような彼女の息、広い、なつかしい腰、腋の毛叢を濡らしている汗の味のうまさ……。橘は自分の唇と指を、彼女の体に這わせながら、このように日本語でつぶやき続けた。小張《シヤオジヤン》、おまえは中国女、夢にまでみた、古い古い中国の女だ。おまえのなにもかもを食べてしまいたい。犬だって食ったんだ。おまえを食べるなんてわけはない。  張倩はいぶかしげに彼をみ、ふっと顔をそむけると、またあの唇のはしを少し引き下げる表情をした。 「ごめんね」  と橘は中国語で、自分の考えにかまけていたことを詫びた。そして、さらに、わざわざ詫びたことについても、 「うるさくない?」  と詫びた。 「おまえが好きだ」  思い切って、ゆっくり、力をこめて橘は発音した。すると、張倩がはじめて能動的に、激しく彼の目を覗きこんできた。彼女の目の光が強くて、一瞬、橘は彼女の姿を見失った。彼女の言葉が静かに響いた。 「あんたたち日本人が来るとなってから、党は村の古物狩りをやったのよ」 「古物狩り?」 「あたしたちの村に、昔から残っている、古い、汚い物や人間よ」 「古い、汚い物や人間ってどういうこと……」 「あたしたちがくさいって。だけど、あたしたちはくさくも、汚くもない。それどころか、貧しいけれど、みんな党の連中よりずっと身ぎれいよ。そうでしょ?」 「それどころか、きみは桃の花のにおいがするよ。そうだ、花をありがとう。そっくり呑みこんじゃったよ」  と橘はまた鼻を彼女のうなじにすり寄せた。あのビンのヘリを吹く音が、彼女がさっき歌った古謡の伴奏のように聞こえた。 「古物って、たとえば、あの糸巻き?」  と質問を発したとたん、橘は、あのビンの響きは糸巻きの回転する音なのではないか、という気がした。もしかしたら、楽器なのかもしれない。 「あら、あれ、みたの?」 「うん、みた。だけど、いったいあれはなんなんだろう。最初、糸巻きかと思ったけれど、そうでもないみたいだし……いや、やっぱりそうなのかなあ。それとも古い楽器……」  アイヌの楽器にもあれと似たようなのがなかったかしら、と橘は思い出そうとした。 「あれは、もう何百年もあのままなの。だけど、あたしたち、だれもそれがいったいなんなのか知らないわ。糸巻きでも楽器でもないのよ。むかし、たしかに何か目的があって作られたものだわ。だけど、それっきり作られもしないし、使われたこともない。あたしたち、それがなんだったか、忘れてしまったのだわ」 「じゃ、あれは、何百年も前に作られた残りの三個ってわけ?」 「そうよ。だけど、婆々《ボーボー》、よく守ったわ。あたしたち、てっきりあれは党の古物狩りに引っかかって、焼かれたものとばかり思ってた。……ああ、姉さん」  彼女の黒ずんだ目から、涙がにじみ出るのが縁のかがやきで分った。 「よくいっしょに藺草を刈ったり、花莚を織ったのよ。たのしかったわ。姉さんはね、花莚織りの、そりゃもう名人だったんだから」  李さんがこの村を選んだのは、あながち的はずれというわけでもなかったのだ。張倩は嗚咽《おえつ》しながらすかんぽの葉を毟り取ると、両手で揉みしだいた。青っぽい、草汁のにおいが漂った。 「姉さんは死んでしまった。あんなになつかしい昔のはなしを、みんなに聞かせながら。小博《シヤオボウ》、あんたも聞いたでしょう。ゆうべの姉さんの声を……」  そうか、あの叫び、あれは、なつかしい昔話だったのか。 「もうだめ。だから、あたしは香港へ逃げる……」  張倩《ジヤンチエン》は、橘の膝の間に深く顔を伏せた。 「この村を見捨てるのかい?」  彼女はぱっと顔をあげて、透きとおった、苛立たしげな声をだした。 「見捨てるんじゃないわ。これが、たったひとつの、たすける道なのよ!」  たすける《ヽヽヽヽ》道? 橘は聞き違えたのかと思った。彼女がたすかる《ヽヽヽヽ》道が正しいんじゃないのか。村の言葉はむつかしい。問い返そうとしたとたん、はっと気がついた。そうか、張倩自身が、彼女こそが村そのものなんだ。 「いったいどうやって逃げるの? どこだって公安がわんさといるのに」 「地下トンネルがあるの。三千元でだしてくれるの」 「ひとつきくけど、きみはここで、ぼくを待っていた。どうして分ったの?」 「あなたには長沙の公安がついているでしょ。会えるとしたら、ここしかないって思ったの。だって、まさか二度も同じ場所とは公安も思いもよらないでしょ」 「二度も? それじゃ、あの西瓜売りは……」 「そう、あたしの夫。……あたしは念じたの。あなたがもう一度ここへやって来ますようにって、お月さまに一心に念じたの」  ああ、道理で月に誘い出されたような気がしたのは、このせいだったのか、と橘はつぶやいた。 「兌換《トエホワン》してくれる?」  おずおずと、黒ずんだ水のようなまなざしを向けてきた。 「兌換《トエホワン》、兌換《トエホワン》、兌換《トエホワン》か」  橘はため息をついて、繰り返した。兌換といっても、張倩の人民元をいくらもらったって、外国人である橘は、それではホテルにも泊れなければ、汽車にも飛行機にも乗れない。彼女の人民元は橘にとってゼロなのだ。要するに、彼女は、三千元の兌換券と、自分の体を引きかえにしようとしているのだ。橘は、自分の膝の間の闇に落ちてゆきたいほどの虚脱感を覚えた。……ここまで桃の花を追ってきたけれど、やっぱり古層の村なんて錯覚だったのか? このまま彼女を抱いてしまったら、よくある、日本の商社マンが、異国のいなかで女を買ったということにすぎない。  だけど、この三千元は、彼女の逃亡資金なのだ。彼女を助けることは、古層の村そのものを、……いや、そればかりでなく、橘の中の最も大事なものを救うことになるのではないだろうか。  彼はすかんぽの穴の底で、途方に暮れ、膝を抱えこんだまま身動きもできなかった。すると、そっと張倩の指が、彼の耳たぶに伸びてきた。軽く、やさしく愛撫する。橘は目を閉じた。そして、鬼ごっこと同じに二十をかぞえ、彼の心は決った。 「兌換してあげるよ。だからもう帰ろう」  と橘ははっきりと声に出し、立ちあがろうとした。そのとき、張倩の体が、ふわっと包みこむように彼にかぶさってきた。橘の体は、眠るようなぐあいに草の上に横たわった。 「あしたでいいのよ」  と張倩はあたたかな息でささやいた。 「だけど、ぼくは、あした朝、早くたつんだよ」 「たぶん、あんたたち、あした、たたないと思うの……」  と張倩は言いながら、服を脱ぎ始めた。花が開くようだ。橘は、自分の体が、張倩の桃の花のにおいに包まれてゆくのをおぼえた。  やがて、細い一本の、はてしないさびしい道を通って、助けを求めるような声が張倩の喉からほとばしった。 「ワレ チヨウサヨリホクセイニ 400キロノサンカンニアリ コシヨウアリ 4ヒ ペキンイリデキヌ テハイコウ コンマ カトウサン ブジ タタミ ジユンチヨウリニ シヨウダンススミオル シヨウサイアト コンマ 2、3ヒゴ ワレ チヨウサモドリシダイ デンワイレルガ シキユウノバアイ ワレアテサキ コナンシヨウ ジヨウトク・ク(ジヨウハ ツネ トクハ ドウトク クハチヨダク)トウゲンケン(モモノミナモトノ ギフケン)ムラノナマエハ トウカゲン(モモノハナノミナモト トウエンメイノ ユウメイナ シニアリ サンシヨウサレタシ)シヨウタイジヨアテ デンポウコウ ストツプ ココ ホテル ゴウベンノ ハナシアリ ワガカイハツブキヨウミアリヤナシ タチバナ」  橘は深く眠ってすばやく起き、服務員に頼んで東京に電報を打った。電文は、眠りの中で練り上げていたかのように、すらすらと自動速記的に書き上げた。そのあとほっと息をついて、ぼんやり腑抜けたようにベッドに腰をおろした。テーブルも扇風機も窓框《まどがまち》も、なにもかもがだぶってみえた。池ではまた魚をとっているらしいが、ゆうべの悦楽につきまとわれて、橘の頭は物ごとを正常にまとまって聞いたり、考えたりすることができない。  犬を食ったことはまちがいないとして、疑わしいのはそれ以降のできごとだ。ほんとうにゆうべ、桃の花が茶碗の中に舞い降り、彼女とあの土手で会ったのだろうか。椅子の背に投げ掛けたズボンもシャツもまだ濡れていて、草汁に染まっている。たぶん、まちがいないことだ。しかし、たとえ夢にしたって、あんな強烈なことってあったものではない。彼はポケット中日辞典を取り出してひいた。倩は、容姿の麗しいこと、にこやかな笑みをたたえたさま、とあった。 「張倩《ジヤンチエン》」  何度もつぶやいてみた。まだ体の芯のうずきがおさまらなかった。彼女のための三千元を用意して、ポケットに入れた。日本円にして、約十二万円の金だ。  たとえ彼女が幻だとしても、その幻は、この村でしか味わえないのだ。今夜も彼女にあう。彼女は、あなたは明日たたない、と妙なことをいった。どういうことか分らないが、橘自身も何か手を打たなければならない、そう考えて、彼は東京に勝手に滞在延期の電報を打ったのだ。頭が痺れ、混乱しているぶんだけ、くそ度胸がついた。問題は加藤さんだ。出発の延期をどう説明し、納得させるか。  加藤さんが入ってきた。顔に、デング熱の発作のあとの、ひんまがった感じがある。皮膚はざらつき、ベッドを飛び出してしまったのか、ひたいに打ち傷までこしらえていた。 「あんた、ゆうべ、犬くったんじゃないの?」  と加藤さんが、のっけからそのことをいった。 「まさか……」  橘はどぎまぎした。平然と嘘がつけない。犬だけでなく、女のことが深く引っかかっているからだ。 「そんならいいけど。あんなもん食ったら、ろくなことないよ」  犬をくらい、異国の女とあんなふうになって、無事ですむはずがない。公安が見逃すなんて考えられなかった。長沙への連行、外事公安によるスパイ容疑の取り調べ、国外退去。日本に帰れば、会社の査問委が待ち構えている。やっぱり橘は尻込みした。加藤さんの帰り仕度はもうすっかりできあがっていた。やっぱりこのままさっさと引き揚げたほうがよさそうだ、と橘はポケットの三千元のぶあつい札束を握りしめた。  李さんと尹さんが、いかにも困ったという顔つきをして入ってきた。車のオイルが抜かれて出発できなくなった、と尹さんが説明した。ゆうべのことだ。橘は、ははんとぴんときた。これで張倩のいったことも合点がゆく。  村の給油所にオイルはない。長沙に連絡を取ったところ、公団の車は出払っているから、午後四時ごろにしか向うを発てない。村への到着は深夜になる。今日の出発は無理だ。橘は、村の車を出すことを要求した。李さんは、一応そのことを掛け合ってみたという。しかし、いま長沙まで行ける車は村にはない。これは党委員会の正式な回答だ。パトカーがあるじゃないか、それを出せ、と加藤さんはいきり立った。橘は内心にやりとした。  いい藺草が調達できた。一日延びた訳だから、加藤さんに是非とも表を織ってみせてもらえないか、と李さんが持ちかけた。加藤さんはむくれて、部屋に閉じこもった。  橘は、あの糸巻きを買うために目抜き通りに向った。そして、村のはずれから来た百姓さながら、もの珍しげに人ごみの中をうろうろしはじめた。きのうはひどくぎこちなく同じところを歩いたが、きょうはもう通いなれた道を歩いている気分だ。何もかも張倩《ジヤンチエン》の色に染まってみえる。彼自身がいちばん濃く染められている。物売りの声が聞こえた。それがきのうより鮮明に響く。声だけで、何を売っているのかが分った。焼きたての叉焼《チヤーシユウ》、上海製の最新デザインの丈夫なサドル、もぎたての桃、とれたてのきのこなどだ。客とのかけあいや、行き交う村人同士の会話も耳に飛び込んできた。  ……お茶はもう飲んだかい、ときのこ売りの男が、人垣から半身《はんみ》で首を出した客に声をかけた。ああ、飲んだ、ありがとう、とその女は答えた。それから、黄色いきのこを手に取ると、こいつは傷ものだから半分にしてよ、と値切りにかかった。ふたつ買いな、ふたつでお代はひとつだ、ときのこ売りは応じた。別な方角から、薬はきいたかい、と鼻にかかった女の声が横切ると、だめだ、つける薬はないらしい、と応じる男とも女ともつかない声がした。ひと月もしゃっくりが止まらないなんて、死んでしまうぞ。鼻にかかった同じ女の声だ。お茶っ葉、すこしもらってゆくよ、とうしろの建物の上のほうからだみ声が降ってきた。いいよ、あしたも網を入れるから、来ておくれ、と同じところで発せられた。朝、池で漁をしていた老人ふたりだ。橘はいっそう耳をとぎ澄ませた。リンツァオの声も降ってきそうな気がしたのだ。 「もう来ないよ。……うんざりなんだ」 「何が? 漁がかい」 「おまえさんがさ」  声は軽くて無造作に落ちて、しずまった。橘は、あちこちでのんびり紡ぎ出されるのを聞いていた人声が、急転して険悪な調子にゆきついたことに驚き、立ちどまった。そして、もっと驚くことに思い当った。……こうして自分は村の言葉をほぼ完全に聞き分けている。いったいいつからなんだ? どうして? 犬を食い、村の女と寝たからなのだろうか。彼は、ゆうべ張倩と交した会話を思い出した。あれは、いったい何語でやったのだろう。よく思い出せなかった。  橘は、西瓜の山の前にぼんやりと立っていた。西瓜売りの姿はなかった。なんだか拍子抜けがした。プラタナスの木洩れ日が、西瓜の上に、紋白蝶みたいにとまっていた。あの老婆もいない。彼女だけでなく、莚も糸巻きもあとかたもなく消えている。ふと、あたりがひどく翳《かげ》った。風が抜け、葉のそよぎが聞こえた。そのとき、石炭置場の煉瓦柱の陰に、少年のリンツァオの姿をみかけた。橘は駆け出した。間《あいだ》の距離を測るために、一瞬、柱から目を離した。もうリンツァオはいなかった。柱をみつめてぼんやり立っていると、こんどはうしろで、リンツァオの声が聞こえて、振り返った。西瓜売りの前に、老人のリンツァオがいて、こっちをちらちら窺っているような気がする。距離は二十メートル以上はある。追いつくまでに、また逃げられてしまうだろう。よくみると、西瓜売りの前ばかりではない。配給所の列の中にも少年の彼がいた。してみると、何人ものリンツァオがいるのだ。鶏小屋の前にも、竹林の中にも、耕運機が運んでくる藺草の山の上にもいた。  プラタナスの繁りの大きな穴から、翳っていた太陽が再びのぞいた。月明りのような太陽だ。これがリンツァオの村なんだ、と橘は胸をときめかせた。  気がつくと、彼女のバルコニーの下に立っていた。緑色の扉を押すと、かんたんに開いた。一歩踏みこみ、扉を盾にのぞきこんだ。外の暑さが、暗がりの中でほんのすこしやわらぐ。焦げた獣脂《ラード》や八角のにおいが漂ってきた。壁に、六つの粗末なベッドがコの字に押し付けられている。人の気配はない。緊張した橘の心臓は、闇に慣れてくるにつれ鎮まった。コンクリートのきつい階段があった。壁に背中を這わせてのぼりはじめた。食べたあとのひまわりの種殻《から》が無数に散らかっていた。最初の踊場に、薄い日だまりがあった。その中に立ち、方向を変えると、上から濃い藺草のにおいがおりてきた。  二階の窓側の隅に、素朴な木製の編機があり、いまのいままで、誰かがそれを動かしていた気配を漂わせていた。三分の二ほど編み上った花莚が、横心棒の向う側に垂れ下って、これもたったいま、ひと目、編目が繰り出されたばかりといった感じで、かすかに揺れていた。橘はそれを手のひらで撫でた。上質の藺草を使っている。向うに垂れた部分を掬《すく》うように掲げて、ひろげたとたん、橘は息をのんだ。この村の一角とおぼしい風景が、何色もの染め草を使って精巧に編みあげられている。集落の中に一本の道があり、道に沿って白壁の塀が続き、ひとりの男が、いましもその塀の角を右に曲ろうとしている。そして、構図は、集落の上方に川の流れを置き、土手は一面の花ざかりの桃の林だ。男にはまだ桃の林はみえていない。右に曲ったなら、そこにいきなり彼はみるだろう。  これを、ついおとといまで張倩の姉が織っていたんだ。これは古い、優れて伝統的な手芸に違いなかった。陶さんたちの工場の粗雑な、大量生産の技術とはなんという違いだろう。橘は、加藤さんの京間表を前にしたときのリンツァオの熱狂ぶりを思い出した。 「誰なんだい?」  三階にむかう階段の上のほうから、しわばみた声が落ちてきた。誰何《すいか》というほどでなく、待っていた相手に問いかける調子だった。橘は階段に近づいて見上げた。踊場の薄い日だまりの丸椅子に、老人が腰かけてたばこを吸っている。のぼってゆくと、暗がりを透かすように、椅子の上で体を屈みこませた。 「日本人だな」  左手にボールペンを握って、頭《ヘツド》をひっきりなしにパチパチ鳴らした。加藤さんがリンツァオにやった、あのボールペンだ。 「無断で上りこんですみません。上には誰かいますか」  村の言葉がすらすら口をついて出た。 「誰もいないよ。みんな出かけている。何か用かい?」  橘はまごつき、口ごもった。そのとき、下から重たい靴底の音が響いた。振り向くと、長沙の公安のふたりが、両腕をピストンのように振って、何か喚きながら階段を駆け上ってくる。橘は上に逃げようとした。しかし、すばしっこさと力では向うはプロの諜報員だ。のっぽは、あっというまに橘の脇を駆けあがって上をふさぎ、下からちびが橘の腕を掴んだ。そして、激しい強《こわ》ばった身振りで両側から挟み込むと、下にむかって引っ立てた。橘はうしろを振り向き、 「わたしは、あなたがたの味方だ。はるばる日本から、噂をきいて尋ねてきた者だ。どうか小張に伝えてほしい。今夜、ゆうべのところで、約束のものを持って待っていると……」  と震える村の言葉で、老人に呼びかけた。公安はきっと、橘が日本語で何か喚いていると思ったに違いない。老人が、ボールペンを握った左手を軽く腰のあたりで、橘にむかって振ったような気がした。  通りに出ると、彼らは橘の腕を放し、ただ両側から挟むだけにして招待所に向った。おまえは警告を無視した、とのっぽが責め立てた。度が過ぎる、いったい何を探りたいのだ、とちびが詰問してきた。橘は唇を噛んで、何も答えない。手荒だったのは最初だけで、彼らの扱いは徐々に丁重になっていったが、招待所に着き、階段を上るにつれて再び厳しくなり、最後はやっぱり強ばった激しい身振りで、橘を彼の部屋に押し込んだ。  陶さんと仇さんと張さんの三人が、橘のベッドに腰かけていた。陶さんはにこやかに、張さんはいかめしい顔つきをし、仇さんが無表情で迎えた。橘はとっさに、三人が三様の表情で、彼を混乱させようとしていると考えた。掻き回して、支配する。鷹の眠りを乱して調教する、鷹匠のやりくちだ。ひとの部屋に勝手に入りこみ、彼のベッドに坐りこんで動こうとしない。橘は壁ぎわの籐椅子に腰をおろし、むっとした顔を彼らに向けた。  我々はあなたの帰りを待っていた、と陶さんが切り出した。私はあなたの自由を保証する、これからもずっと保証します、と続けながら一枚の紙を振りかざした。指をうまく使って、彎曲《わんきよく》させながらぴんと立てる。橘が、そいつが私の自由身分保証書か、ときくと、陶さんは急に大声で短く笑った。そうともいえる、しかし、厳密には全くそういうものではない。これは中日合弁ホテルの協議書だ。ざっとご覧いただきたい。不適切な部分は指摘していただき、双方協議の上訂正すべきは訂正する。  橘はさとった。彼らは何もかも知っている。これは脅迫だ。そして、とても悔しいことだが、彼らの力は圧倒的だ。橘を拘束するには、陶さんが公安に目配せひとつするだけでいいのだ。この国は二度と橘に対してビザを発給しないだろう。  橘は、協議書にいやいや目を通した。彼と会社をそれほど縛る内容ではない。ホテル建設と観光開発を協力して進めてゆくことで初歩的な合意に達した、といったものだ。こんなのほとんど意味のない、茶番めいた儀式にすぎない。橘は脛《すね》に傷を持つ者として、しかたなく、軽い気持でサインをした。いつか我々を日本に招んでもらいたい、と陶さんが、調印の堅苦しい握手をおえてからいった。それには桜の花の咲くころがいちばんだ、と橘は上っ調子で応じた。そして、こうしたやりとりを村の言葉でやってみたい誘惑にかられたが思いとどまった。  加藤さんが入ってきた。寝起きのようすだ。おなかが空いた、橘が携行したカップラーメンを食べたい、と不機嫌まるだしで注文した。橘がそれをスーツケースの奥から取り出し、魔法瓶から湯を注いでいると、めざとく加藤さんは机の上の協議書をみつけ、これは何だと言った。合弁ホテルの協議書だと答えると、あんた、早まったことをするねえ、とあきれ顔になった。橘は苦笑し、蓋をしたラーメンを手渡しながら、三分間待つのだぞ、とおどけてみせた。陶さんら三人が調印を祝って、加藤さんに握手を求めた。あたしは畳屋だ、ホテルなんかとはいっさい係わりになりたくない、と加藤さんは手を出さない。三分間たったかね、と橘を振り返り、ラーメンを啜《すす》り込みはじめた。  李さんが、ふらりと立ち寄ったというようすで顔をのぞかせた。ところが、彼もやっぱり紙片《かみきれ》を持っている。畳表の契約書だ。数量と価格欄は空白になっている。彼もまたあのことをネタに、サインをさせようというのだ。  値段や数量や積期はここで相談して決める、まず日本側の希望をきかせてほしい、と李さんが提案した。とんでもない、と加藤さんがカップラーメンを放り出して飛んできた。これまで、いったい橘はどんな話をしてきたのか。橘の中国語はほんとうに彼らに通じていたのか、と顔をまっかにした。橘は唇をかんだ。すると、李さんは、枚数は十万枚、値段は香港渡し、一枚当り八元四十銭でどうか、と切りこんできた。橘は、李さんの一変した押しつけがましい態度に、狐につままれたような思いだ。藺草の調達方法もはっきりしない、畳表をどんなふうに織るのかもあいまいなまま、どうして李さんは契約書を持ってきたりできるのだろう。  陶一派が相変らずベッドの上にのって、李さんに調子を合せるようにしきりにうなずいている。橘は彼らに向き直って、ところで、あなたがたの工場は、李さんの言う通り十万枚をほんとうに生産するつもりなのか、と訊いてみた。三人は真剣すぎるほどの顔つきでうなずき、請け合った。陶と李は互いの利害を調整し、野合したのだ。  大体、ここにははじめから狐につままれたようにやってきた。たしかなものなど何ひとつなかった。ビジネスマンとしては失格だ。連中にしても、橘を国外退去にしたなら、ホテル建設も畳表の話も元も子もなくなることぐらい分っている。分っていて、攻めてきているのだから、ほんとうは橘だって知恵を絞って駆け引きに精力を傾注すればいいのだが、彼の頭は女にかまけて怺《こら》え性がなくなっている。  彼が黙っていたものだから、既に李さんは、自分が切り出した通りの数量と値段を契約書に書きこんでしまい、それを突きつけてきた。橘は、見本確認条件、つまり、先に製品見本を送らせ、それが問題ない場合にだけ買い取るという条項を、押し返してなんとかのませたうえで、この条件さえ入れておけば、いざというときなんとか逃げられるだろう、とにかく早くこの場を切りあげたいばかりに、李さんから契約書を引ったくるようにすると、 「加藤さん、こんなのただの紙っきれですよ」  といいながら、思い切った崩し字で、大きすぎるサインをした。 「あんた、シナ人にいいようにされて」  加藤さんが顔をひん曲げ、かん高い声をあげた。 「犬を食ったろ。隠したってだめだ。あんたはまちがいなく食った。それみろ、ろくなことはない。あんた、それで狂ったんだ」 「加藤さんこそ、デングになったじゃないですか」  橘は、サインに使ったボールペンの頭を鳴らした。 「あんた、それでもニッポン人か。あんた、いったい何人あるか?」  と加藤さんが詰め寄ってきた。 「桃花原人ですよ」  と橘はやけに落ち着いた、そんなことも知らないのかといった調子で答えた。加藤さんは、化け物をみるような目で彼をみた。  夜が来ると、橘は尻込みする気持などすっかり消え、彼女との約束の時間をじりじりして待った。周りの空気は相変らず体温と同じ暑さだ。待ちきれず、十時に中庭を横切った。裏門のかんぬきはかかっていなかった。目抜きを通ってゆくことにした。何度も振り返って、公安をたしかめた。つけてくる気配はない。サインをしたから、彼らはもう監視をやめたのだろうか。寝静まった中を、橘ひとりが足音を忍ばせ、靴底と道の石灰面を擦《こす》り合せるように歩く。どこかで、犬の低いうなりがきこえた。彼女のバルコニーを横目でにらんで通り過ぎた。  日干し煉瓦の壁に、プラタナスの葉の隙間から、月の光が赤ん坊の手のようにいくつも伸びてきて、遊んでいる。橘は、張倩の姉が織っていた花莚の絵柄をそっくり思い出した。旅人は、村の目抜きをずっと歩いてきて、いましも、白壁の塀を右に曲ろうとしているところだ。土手には桃が花ざかりだ。橘は、胸を躍らせて日干し煉瓦の塀を右に曲った。  土手は思ったほど明るくなかった。もちろん桃の木などどこにもない。月は雲に隠れ、ただ冴えない川明りだけが、土手と川原と水のありかをぼうっと浮きあがらせた。橘は、柔かな土とはこべやすすきの草を踏み、昨夜の場所にむかって歩いた。靴が露に濡れて重くなる。歩くうち、この土手はこのまま茫漠と奥美濃のあたりまで延びているのではないか、このまま歩いてゆけば、土手下の目深い瓦廂の母の実家にたどり着けるような気がした。……すると、ほんとうにみえてきた。そうだ、庭には一本の桃の木があった。花ざかりのその木の下に、若く美しい女が赤ん坊を抱いて立ち、彼を待っているのだ。近づき、のぞきこむ。笑っている小さな赤ん坊は橘自身だ。 「日本鬼子《リーベングイズ》!」  橘ははっとなって振り返った。張倩の声ではない。斜面のすかんぽとすすきの間から、小さな黒い影がいくつものぞいている。 「日本鬼子《リーベングイズ》! 鬼になってよ」  きのうと同じ、いちばん小さな女の子の声だ。 「こんなに遅く叱られないのかい?」 「明るいからだいじょうぶ。あとで、山羊さんに、夜露たっぷりの草を刈って帰るの」 「なぜ夜露たっぷりなの?」  橘は斜面をおりながら問いかけた。 「お乳がたくさん出るのよ」 「日本鬼子《リーベングイズ》! 目を閉じて」  橘は言うとおり目を閉じ、子供たちが草を踏み、小石を蹴って散ってゆく音に耳を澄ませながら、ゆっくりかぞえはじめた。かぞえてゆけば、きっと張倩は来る、と確信した。  十二まできたとき、草を踏みしだく音がした。きっと張倩だ。近づいてくる。目をつむった橘の胸の鼓動が速くなる。ひとりの気配ではなかった。真横にきて止った。橘は目を開けた。西瓜売りの男だった。男は、鬼ごっこのいちばん小さな女の子の手を引いている。 「兌換《トエホワン》! 日本鬼子《リーベングイズ》、三千元、兌換《トエホワン》してよ!」  と女の子が叫んだ。張倩の娘なのだろうか。西瓜売りが、静かに、とでもいうように強く女の子の手を引っ張りながら、片方の手を橘のほうへ差し出した。橘はつられるように、ポケットの三千元をつかみ出すと、それを西瓜売りの手にのせた。 「謝々《シエシエ》」  下から女の子が、腹話術の人形みたいに、小声でいった。西瓜売りは黙ったまま三千元をポケットにつっこむ。橘は男をみつめながら、ポケットに金を入れる動作をしているのが自分であるかのような錯覚に陥った。張倩といっしょに逃げるのは自分のほうなのだ、とぼんやり考えていると、いきなり男が女の子の手を引いて走りだし、葦の中に躍りこんで消えた。  土手の先で、エンジンの音が響いた。近づいてくる。ああ、やっと長沙からの迎えの車が来たんだな。ライトもつけず、飛ばしに飛ばして……。真上の土手に来たかと思うと、いきなりヘッドライトがついて、橘を照らした。おおぜいの人間が斜面を駆けおりてきた。 「クルマが来たぞ! これを逃すと帰れないんだぞ!」  公安のふたりが声を揃えて叫んだ。ぐるっと、陶《タオ》さん、仇《ジユウ》さん、張《ジヤン》さん、党書記など、村の幹部連中が彼を取り囲んだ。李《リー》さんや朱《ジユウ》夫妻の姿も、うしろのほうにぼんやりとみえる。 「ほら、橘さん、日本へ帰るぞ!」  土手の上から加藤さんの声がふってきた。橘は、いちばん明るくて、声のしたほうへふわっと足を運んで行った。目の前に、土手の斜面があった。 犬 か け て 一  白い黒つぐみというやつは存在しているのだがあまり白いので目にみえないのだ、と深夜サウナのソファベッドで隣りあわせた中年男が濡れた灰の口臭をたててしつこく五円玉の耳にささやきかけた。そして、黒い黒つぐみはその影法師にすぎないのだ。  五円玉は男の言葉が耳について寝つかれず、しかたなく汚れない春子というやつは存在しているのだがあまり純潔なので目にみえないのだ、と言いかえてみたりした。現在の春子はその影法師にすぎないのだ。  フロントからひと晩三百円で借りた垢じみた毛布をひたいまで引きあげて、かれはそのなかでずっと目を開いていた。汚れない春子をみるにはどうすればよいのか……。  闇のなかで目をこらすよりいっそ目をつぶって歩いたほうが安心だ。春子をどうして黒つぐみの話と結びつけるようなことをしてしまったのか。はじめは要するに退屈しのぎにすぎなかった。  五円玉は息苦しくなって毛布をはねのけ、隣をうかがうと黒つぐみの男はもういず、別の大男が大きないびきをかいている。 「彼女、泳ぎにいっても絶対に水着をつけないんだ」  大きな鉢植のゴムの木のある片隅から若い男のひそひそ声がした。 「どうして」 「八つのころ尻の蒙古斑《もうこはん》が背なかにきて、それっきり消えないんだと」 「だれが言ったんだ」 「彼女自身がそう言ってた」 「そんなことあるんか」 「あるんだと」 「寝るときはどうなるんだ」 「まだ寝てない」 「バカ。そういうことは先にすませてから話すもんだ。おい、……ちぇっ、もう寝たのか」  やがてすっかり静かになった。五円玉はいよいよ目がさえて眠れない。ハエかなにかのように目だけが大きくなって体の半分も占めていそうだ。  その日、かれは午後から神田の本社での月間敢闘セールスマン三多摩地区表彰式に出席した。かれは先月に二十一台のミシンを売りあげて小結牌を授与され、三日間の金星《きんぼし》休暇をもらった。小結牌には安手のデジタル式腕時計がついた。大相撲ファンである小柄でやせた社長が小結牌、金星休暇三日と叫ぶ。すると五円玉は力士が懸賞金を受けとるかっこうを真似ねばならなかった。これまでも表彰のたびに屈辱で顔をまっかにしてこの敬礼の強制に従ってきた。かれは金星休暇をもらうのははじめてだ。なぜ自分に金星休暇がついたのかはわからない。過去にこの金星休暇というものを実際に使ったセールスマンはかれの営業所内ではひとりしかいないことになっている。表彰を真にうけるような者はほとんどいない。  かれは入社以来大関牌を二回と小結牌を六回うけている。しかし、今後もう二度と表彰されるような成績をあげることはないという気がしていた。最近万事になげやりなふうがでてきて、オレは危ないなと感じていた。つい一週間前にもミシンから油がもれて娘の振袖がだいなしになったという客のクレームにあっさり応じてしまった。以前なら執拗に粘って決して自分の負担や落度になるような交渉はしなかったのだが途中ですっかりどうでもよくなった。四万円払うことでけりがついた。三日以内に振込まねばならない。この件が所長に知れればひと悶着《もんちやく》は免れず、弁償金は全額かれの負担になるだろう。春子にこのことを話せばまたくしゃみの回数が増えることになる。春子はアレルギー性鼻炎で、杉の花粉がとぶ春とブタクサの咲く秋口にはとりわけ鼻水やくしゃみや頭痛がひどくなるが、かれが乱暴に抱いたりよけいな出費をもちかけたりしてもとたんに連続くしゃみがでる。花粉のとぶころ春子はサングラスをかけ活性炭マスクを二枚かさねて外出する。  五円玉はむかし九州女を東京女と思いこんで熱をあげたことがある。その女もアレルギー性鼻炎で、彼女に、粘膜の存在を感じるのよ、とあかされるとまるで絶対音感の持主とわかったときのように感心した。かれは二十五になり、二十七歳で結婚して拝島段丘の公営アパート群に住みついた。  春子は岩手県岩泉の出で、集団就職で上京した。岩泉のあたりではくさめという。盆地のあちこちに点在する義経のくさめ石と大きな鍾乳洞が彼女の自慢である。鍾乳洞で歌をうたうとすばらしい声が返ってくる。春子の夢はいつかそこで思いきり大きなくしゃみをすることだ。……すると義経もアレルギー性鼻炎だったんだな、と五円玉がまぜっ返すと春子は、自分には鍾乳洞と東京と五円玉があればいい、とふとんのなかで裸になってしみじみと繰り返す。 「東北本線で上野に入ってくるとね、ほんとうに東京は華だなあって気がするん。長い筒望遠鏡のはじに、東京ちゅう花がぱっといちめんに、勢いよく咲きでているんよ」  五円玉はそういう春子をぱっと勢いよく抱きしめてやりたくなる。  おとといのことだ。立川の営業所で、一日平均百二十軒を訪問し、月平均三十五台のクルマを五年間連続して売りつづけ、必殺のセールス・トークを夢のなかで開発すると称する日本一セールスマンの講演会があった。春子は母親の看病に朝早く岩泉にむけて発っていた。 「あいつが福生《ふつさ》のキオスクと結婚したあいつか」  と席のうしろで声がしてふり返ると狭山《さやま》営業所のバッジをつけた男が五円玉の同僚としゃべっている。福生のキオスクとは春子のことだ。あとは同僚が制したので狭山の男は声をひそめた。ミシンのセールスの世界は女に関する情報にかけてはしっかりしている。かつての福生の鉄道弘済会の女が狭山の男の見込客カードに詳細に記載されていてふしぎはない。あとでエガワという別の同僚がかれのそばにきた。五円玉はそいつが嫌いではなかったけれどもときどきあいつなぜいつもやってくるんだろうと思わずにいられなかった。まるでかれをつけ回しているみたいなのだ。そいつが耳打ちした。春子は狭山のあるいかがわしいソシキに属していた。今もすっかり切れてないらしい。こんなことは前にもあったように思えた。そしてその日かれは深夜サウナでほとんど眠れずに夜をすごした。結婚以来春子が帰郷するのも五円玉が家をあけるのもはじめてだった。数人の男とサウナバスに閉じこもり、春子のいない部屋を思いうかべながらついにきょうは家に帰らないと決めたとき、かれらの2DKは小舟のようにのり捨てられた。纜《ともづな》も切った。それからもう二日もかれは夜ごと深夜サウナをさ迷っている。2DKも拝島や青梅あたりの空をからっぽのまま漂っているのだ。きのう、きょうとひどいセールスをした。一件の契約も取れなかったのはいいとして、客から客、セールス・トークからセールス・トークへと流れというものが必要なのにそれがまるでない。時間がバラバラにとび散って、ときめくものがない。何時間も働いていたみたいな気がするのに太陽はちっとも動いていないのだ。商品のモデルをとり違え、場違いに卑猥な冗談がついてでる。だれかにあとをつけられているように思いこんで路地にとびこみ、むこうから自分が歩いてきた表通りをずっと見張っている。  汚れない春子をみるには虫のようにちいさくなって、春子の粘膜まで感じなければならないのだろうか。すると急に鼻がむずがゆくなって毛布が波打って浮きあがるほどの大きなくしゃみをした。深夜サウナのロビーは音がよく響く。隣の男が目をさまし舌打ちをして再び目をつぶったがそれっきり寝つかれぬらしく、二、三度大きなため息をつくとうつぶせに返ってタバコに火をつけた。壁の角にのびたゴムのかげがしきりに揺れている。五円玉はなんとなく気になって体を起す。ここからあそこへ歩いて行ったらもう自分は自分でなくなっているのではないか。かれはトイレに立つふりでそこまでたしかめにゆく。換気扇の風がかすかに葉をふるわせ、それが壁で拡大されているのだ。オレはツチヤノボル、とつぶやいてみる。だいじょうぶだ。ロッカーのアタッシェケースから名刺とチラシを一枚ずつだして、もどってきて隣の男の耳もとでささやいた。 「うるさくてすいませんね。起しついでにちょっとうかがいますが、こういう男、ごぞんじないすか」  と差しだしたチラシは若い男の人相書だ。 「じつは弟をさがしているんです。十年前に家出をしましてね」  男は半身を起して肘《ひじ》で支え、メガネをかけてチラシをのぞきこんだ。強いタマネギのにおいがする。 「いま弟さがしのためにミシンのセールスをやってるんです。商社にいたんですけど。こうして遅くまで飲んで深夜サウナなんかで夜明しするのもひょっとして弟がと思うからなんで……。こんな商売まともじゃやっていけません。女房のほうは実家に帰ってます。ミス・キオスクで水瓶座なんです」 「逃げられたのかい」 「もう十年になります」 「ミス・キオスクにさ」 「まさか。母親が病気で。あした帰ってきますよ」 「帰ってこないんじゃないの」  五円玉の顔色が変ったのをみて男は早口でつけくわえた。 「トオルさんさ。知らないけどね。十年もたってるんじゃもう他人だね」  とチラシを返してきた。しゃべるといっそうタマネギがにおう。 「たしかにいいかげんこの仕事にもくたびれました。他人どころか死人になってるかもしれませんしね。ちょっとお名刺をいただけませんか」  五円玉はチラシのかげにかくし持った自分の名刺を差しだした。かれのお名刺をという口調には相手が断りにくいなかなかの迫力がある。かれらの世界に深夜の名刺配りというセールス法があって、寝しずまった家々の郵便箱にただ名刺を投げ入れてくるだけのことだがこれが意外と効果があるのだ。  男はしかたなさそうにロッカーから名刺を持ってきた。 「ちょうだいいたします。ヒガシさま……」 「アズマだ」 「お嬢さまは短大でいらっしゃいますか」 「いらっしゃらないよ」 「ちょうどよかった。このエクセル・タイプというのはですね、あらゆる縫いのパターンをですね、高三の娘さんに代って覚えて……」 「いらっしゃらないといってるだろ。もう寝かせてくれ」  大きな手で顔をひとなでしてむこうへ寝返りを打つととたんにいびきをかきはじめた。帰ってこないんじゃないの、とまだ男の声が耳もとに残っている。トオルどころではない、自分の妻が行方不明になったも同然ではないか。春子はかれのいない部屋に何度も電話をかけたにちがいない。浮かび漂っているかれらの2DKに電話だけが鳴りひびくところを思い浮かべた。  もうひとつの電話がある。それは一カ月に一度のわりでかかってきて、受話器を取ると無言のままちょうど五秒ばかりつづいてプツッと切れる。このごろではこっちも黙ってむこうが切るまで待つ。ただのいたずら電話だ。しかし、あるときふとそんな気がして、トオルか、と声をかけたこともある。春子が帰郷する前の日にもそれがあった。彼女が急に岩泉に帰ると言いだしたのはあの電話のあとかそれとも前だったろうか。あれは狭山のソシキからの呼びだしの合図ではないだろうか。ばかばかしい。狭山のソシキなんてなにかのまちがいだ。春子はいまごろきっと上野にむかう夜行列車のなかだ。筒望遠鏡のなかにいるみたいに終夜灯の下でほの暗く、あおざめて。……帰ってくるだろうか。帰ってきたとして看病と夜行で疲れきった彼女に四万円もの弁償金をどんなふうに切りだしたものか。頼るのは彼女のカネしかないのだ。あると仮定しての話だが。いまかれの手もとには五百円しか残っていない。それと五円硬貨が十二枚。やがて不如意の思いにかきたてられた悔いとちいさな憤激の渦のなかに春子がほんとうは岩泉なんかでなく狭山に行ったのではないかという疑惑が芯になって残ったままかれは眠りにおちた。  春子でもつぐみでもなく母親と弟の夢である。母親と弟と五円玉自身がいる。大きかった家をあけ渡して谷間の掘立小屋に移り住んで出直すことになった。そこへ父親が現われてなにかと三人の生活の足手まといになる。 「あかんよ、お父さん。いまごろ帰ってきてからに。うちらのやりかたに慣れてもらわな。あんたがうちらといっしょに生きてゆきたいかぎりは」  と母親がいう。あれほど献身的だったのに父親が故人なのであなどっているなと五円玉は思う。たしかに大柄でずぶとかった父親がちいさくすぼみ、愚鈍で頼りなげで死を恥じている様子で、必ず体のどこかから血を流しているのを発見することになる夢の結末は悲しい。変らないのは夢のなかでも父親がトオルのほうばかりみつめて話すことだ。それともトオルと父親はもう同じ世界にいるというしるしなのか。  母親はいまいなかの町営アパートで息子からの月々三万円の仕送りと二万五千円の国民年金でひとり暮しをしている。吃音ですこし足を引きずっていた二つ違いの弟は高校二年生のとき振り回したコウモリガサで同級生を失明させて家をとびだしたままだ。  五円玉は十九歳の夏から秋にかけて弟をみかけたという十三の情報と「日本高等地図帳」、母親からあずかった十万のカネを持って大阪から東京までさがし歩いたことがある。しかし、かれのほんとうの目的はオリンピック見物だった。大阪の天王寺で二日間、京都と大津で三日間、それからヒッチハイクをしながら彦根、金沢、高山と廻る。かれは行ってみたい町しか決してさがさない。名古屋に出ると三日間たてつづけに十五本の映画をみて──スクリーンの街角にだってトオルがいるかもしれない──、しびれたようになった頭のまま夜行列車にとびのって翌朝東京駅に着いた。高山で一度ほんものの弟の姿がかれの前をかすめたように思ったことがあったし、天王寺で会った男はたしかに弟を知っていた。しかし、この男は弟から三万円借りていて兄が取り立てにきたのだと思って詳しく話を聞かないうちに逃げられてしまった。かれはさらに旅をつづける。いったん市ヶ谷のユースホステルに落ち着くと二、三日どぜう《ヽヽヽ》や十円ずし《ヽヽヽヽ》やチャーシューメンを食べ歩き、東京がどこからも山がみえないことに感心した。母親にさらに十万円送らせた。こっちからは栄太楼飴を送った。ずっと下痢をしていた。ベッドに寝転って交通公社の旅行案内書『東北ふるさと篇』を手放さず、ほとんど空で覚えてしまった。それらのなかからかれは行ってみたい町を選びだす。かれが行ってみたいと思った町こそトオルが行った町なのだ。二日して下痢がおさまると上野から東北本線にとび乗った。  行った先々の町でトオルらしき影のかけらやほのめかしが必ずみつかった。須賀川から父親と乗ってきた斜めむこうの座席の少年は十分の一秒の間ならすっかりトオルの姿になりきった。真室川駅の出札係の情報は確実に思えた。話すうちに十年ももっと前のことだと分った。それでも年老いた出札係は五円玉にむかって、あれは弟さんにちがいないと断言した。岩泉線のとある各駅停車の小駅の昼下り、枕木の柵にそってピンクや白のコスモスがいっせいに咲き乱れているそのむこうで郵便配達夫が自転車に乗ったまま少女に手紙を手渡している。あれはトオルからの手紙ではないだろうか。  行く先々で、トオルの姿は分岐し、同時に尾花沢と遠野に現われたり、左沢《あてらざわ》線の小駅の改札口からふっと消えては一関、北上、雫石《しずくいし》から花巻に合流してまた宮古と横手に分れ、宮古からは久慈と釜石に、横手からは寒河江《さがえ》と小国《おぐに》にときりがなく──無精をきめこんで地図と旅行案内書だけですませたところもある──、その足跡は一本のケヤキの木のようで、その枝筋をさすらう五円玉自身いつとはなく自分のほうこそ家出をして放浪していると錯覚しそうになる。じじつ村上では弟を知っていると称するムラカミという男に貸した九万円を返せと本人に代って追いかけられたりした。そして、弘前では、無数の梢《こずえ》の迷宮のはてにモズにやられたカエルのむくろとなって引っかかり風に揺れているトオルを夢にみた。  オリンピックがはじまってあちこちの町の街頭テレビに人だかりがしていた。急いで東京に帰ることにした。三沢から郡山ゆきの夜行にとび乗った。闇のなかで列車がひとつのレールから別のレールにとび移る。そのたびにかれはトオルになったりノボルになったりした。  夜明けに郡山で上野ゆきの準急に乗りつぎ、大宮あたりで暮れかかると、向いの座席でいねむりをしていた中年男がとつぜん顔をあげて、 「火事だ、東京がもえてるぞ」  と叫んで窓の外を指さした。五円玉は窓にとびついた。大きな日が地平のギザギザを赤く煙るように染めて落ちかかろうとしている。振り返ると男はまた目を閉じて首を落としていた。 「三月十日だ、三月十日だ」  とつぶやくのがきこえる。何度も肘掛けにのせた腕を滑らせて、そのたびに通路に体が傾く。いまは十月なのに寝ぼけて三月十日などといっている。家を出てから一カ月以上たち、もうすっかり秋だった。  五円玉はオリンピックをたっぷり見物し、女を知り、出発前よりも四キロもふとって帰ってきた。母親はそのあいだにすっかり白髪が増えてふけこんでしまっていた。翌年、広すぎてさがしきれなかったがトオルはきっと東京にいる、こんどは腰をすえてやってみる、と母親を説きふせてかれはふたたび上京し、頭にマンモスと蔑称つきで呼ばれる私大の商学部に入学した。  旅慣れた人間がすべてをみようとするのをあきらめてかかるように五円玉は弟さがしを端折ることを覚え、それを探索行の洗練化と錯覚した。都心のしゃれた店にゆくこと。食べ、飲み、買い、観る。アイビー・ルックをきめ、パーティと名のつくものにはこまめに顔をだす。シブヤ《ヽ》をシ《ヽ》ブヤ、ハル《ヽ》をハ《ヽ》ルと発音する。山手線のなかでなきゃ東京でないよ、ときくとなるほどと感心し、励行して新大久保の三畳間にわざわざ移りすむ。そこはたしかに山手線の内側すれすれで、電車が通るたびに部屋はまるで鳥籠のように揺れるのだった。すっかり東京人になったつもりだ。すべては弟さがしの口実のもとにやすやすとおこなわれた。なぜならトオルは東京のどこかに隠れているからだ。自分が東京化すればみつけたも同然だ。やがてそんな熱意も失い、自分では万事にすれっからしになったつもりで、あとは指名手配や身元不明死体の掲示、殺人、強盗、詐欺などの記事をまんぜんとみる。それらのいくつかにはトオルの痕跡があった。たとえば江戸川河口の身元不明死体はそっ歯で小柄だった。自動車レーサーを装った詐欺師は吃音でそっ歯だったし、木更津信用金庫を襲った強盗は小柄で足を引きずっていた。四年前、母親の金でチラシを二千枚刷ったがこれはセールス・トークの小道具として大いに役立った。  母親からはふた月に一度弟さがしを訴える手紙が届く。母親は電話をつかわない。息子の仕事は人さがしにうってつけなのにまださがしだせないのはきっとセールスマンとして無能なのだろうと書いて寄こしたりする。さがしだすまでおまえは一人前ではないともいう。  母親は無能ときめつけたがかれは腕のいいセールスマンである。なかなかドアをあけてくれない団地の女たちの攻略に五円玉を使ってそれでしばしば成功した。 「奥さん、五円玉が落ちてますよ」  とドアののぞき窓から叫ぶ。会社名や姓名はひとことも言わず、ただ五円玉が落ちていると繰り返すのだ。うまくドアがあいて売込みに成功したときは、ご縁がおち《ヽヽヽヽヽ》でした、と笑わせる。以来かれは五円玉で通っている。  しかし、ほんとうの武器は弟である。 「行方不明の弟をさがしております。じつはこちらのアパートに伊藤というかたがいらっしゃるときいたんですが。ああ、おたくが伊藤さんでいらっしゃいますね」  のぞき窓ごしに手短かに弟が家をとびだしたいきさつ、その後の半ばでっちあげた弟さがしの物語を語る。まずドアをあけない女はいない。手順として弟のチラシを、それからおもむろにミシンのカタログをさしだす。春子を口説いたのもこの伝だった。  ……トオルのやつ、汽車のまねがうまかった。こうやってどこまでもゆけるんだって真顔で言うんだ。ギッチョで、野球がうまく、すごいスピードボールを投げた。野球部の監督は百人か千人にひとりの自然なフォームだって。コントロールはちょっとだったけどね。トオルたち野球部が砂をとるので雨が降ると運動場の砂場はいつも水溜りになってしまった。逆立ちして坂道を三十メートルものぼった。そっ歯でチビで頭はオレの三倍はいい。家庭のなかでいちばんいい人間でもあった。人があれはいいやつだというあらゆる意味でね。およそ人に腹を立てたなんてことは一度もない。あいつは天然パーマで背がオレより高く、十四のときまでみんなから「赤ちゃん」て呼ばれてたんだ。すこし足を引きずり、すこし吃音で、乱暴なトオルが家をとびだしたんでオフクロもオレもほっとしたなんて、ウソだ……  まず春子にトオルにほれさせるのが肝心だといわんばかりにそんなことをとめどもなくしゃべりつづけた。  しかし、かれはこう考えている。弟さがしのふりだけしていたってかまわないじゃないか。結局さがしているのと同じことなのだから。誰だって眠るときはまず眠るふりをする。こわいのはほんとうにトオルがかれの目の前に現われることだ。弟が不在で、不在の弟をさがしているという物語がすっかり身についてしまって、夢のなかで死んだ父親が帰ってきて母親を困惑させたように、トオルが姿を現わしでもしたら、しまった、と思うだろう。  総員起し、と軍隊式の号令でサウナの客たちはたたきおこされた。録音の起床ラッパが流れだし、店員はぐずついている客の毛布をはぎとってゆく。  浮浪者のように深夜サウナから追いだされた男の群れが窓のない五階からおりてきて、じかに路面に接しているエレベーターのドアが開くと朝焼けの陽と風が待っていた。男たちはおっと声をあげて、すぐにおしだまった。五円玉は声のなかにかすかにゆうべの黒つぐみの男を聞きとがめて振り返った。しかし、そこにあるのは十数人のただのっぺらぼうな顔の壁だ。爪先立ってうしろのほうをさらによくみようと伸びあがったがみえるのは塗装がまだらにはげたエレベーターの金属壁にすぎない。オレはいつもひとさがしをしているみたいだなと思う。急ぐ男たちのあとを追って路地を抜け、地下鉄駅へむかうちいさな矩形の広場へ出た。  まわりをシャッターのおりた映画館、劇場、パチンコ屋などの雑居ビルがびっしり取り囲んで、ビルのすきまには裏から日が差しこみ、そこだけ一本の弦のようにかがやく。その光が、あるはずもない大きな原っぱをビルの裏に予想させる。上映中と次週上映の高くて大きな映画の看板。疾走する馬、何かに驚いて振り返った大写しの女の顔、波しぶきでなかば消えかかった突堤。波しぶきはそのまま広場の上の白茶けた空に溶けこんでゆき、架け渡された何十本もの太い電線がその矩形の空をぐるぐる巻きにする。広場のまんなかは一段高くなったちっぽけな公園で、荒れはてた花壇と涸《か》れたまるい噴泉がある。どこか路地の奥にあるゲームコーナーが雨のふりしきる音をたてはじめた。  とつぜん、完璧な偶然がこの広場から五円玉以外の人間の姿を一瞬消しさった。あたりはがらんとし、ざらつくような風に支配された。かれだけが野良イヌみたいにとりのこされ、むきだしにされている。だれかにみられている。その目には銃口のようなきびしさがあった。どこにいて、だれがみているのか。  ひとつの光景が甦る。かれはがらんとしたいなかの小学校の運動場にいるのだ。教師も児童たちもみんな教室のなかにいて、かれが雨のなかを走るように頭を垂れ、トオルの手を引いて運動場を横切るのをざらつくようなまなざしで窺っている。くやしさがこみあげる。それは父親が死んだと学校に知らせがきたのだったか、それとも母親が錯乱した日のことだったのか。ぎゅっと握り返すかれの手のなかでトオルの手はまるい貝殻のようにちいさくて固い。……教室にいるやつらからトオルを守ってやれるのはこのボクしかいないのだ、とノボルはつぶやき、手が痛いと泣きじゃくる弟の手を怒ったように引っぱりつづける。たどりつくべき運動場のはじの丈高いポプラの白い裏葉がかぎりなく遠くにふるえてみえる。  五円玉はすこし足を引きずるようにしてただわけもなく直線をはずすまいときめて広場を対角線に進んだ。とつぜん、うしろでざわめきがして振り返ると、ちゃちなオモチャみたいな噴水が自分のうちでよろめきながら二メートルばかり噴きあがってはまたみずからのなかに崩れおちている。かれのなかにちいさな憤激がうまれる。あの噴水のてっぺん、あれを生首のように撃ちおとす、と思いついたとたんザーッともう一度水の音がたかまって噴水は切られ、てっぺんはみずからの支えを失って一瞬紡錘形のかたまりとなって宙に残ってから落ちた。  かみての、奥に私鉄の終点駅をひそめたいくつもの路地から地下鉄に乗り換える通勤者の群れが最初はにじみでるように、やがて奔流となってあふれ広場をみたした。 二  ベランダから差しこむ光がワニスがけの台所の床板に照り返して、椅子やトースターやフライパンの影をわずかに立ちあがらせている。まるいちいさなテーブルのうえにはのみさしのガラスコップがのっていて、水の表面とグラスの底で同じ光がふるえている。五円玉は結局都心の盛り場のサウナから営業所に出るのをやめて拝島に帰ってきた。ドアも窓もあけっぱなしで南のベランダから北の寝室へ細かな風が吹きぬけ、脱ぎすてた春子のスカートがあり、手をつっこむとまだあたたかい。水屋の脇の電話の受話器の片方が斜めにずれて浮きあがり、掛台の舌が白目のようにのぞいている。春子をさがして家じゅうをうろうろする。半ば引きだされたままの鏡台のひきだしのなかやまるめた飴色のパンティストッキングのなかまでのぞいて最後にベランダに出ると、そこは土くれ、朽葉、イエグモの死骸、綿ゴミなどのふきだまりになって、風が渦巻き、みんなすこしずつきれめなく動いている。春子はベランダに出たがらなかった。そそくさと洗濯物を干しおわるとすぐにもどってきてうしろ手でベランダ窓をしめる。まるでベランダにいるときは息をつめ、目をつぶっているといったぐあいに。かれは五階の高さの手すりからのりだして下をのぞきこむ。春子がおちていないか。  ふいに首筋のうしろに温気《うんき》がふれた。それをかれは春子の荒い息と勘違いして振り返った。かすかな温気の流れを辿ると浴室にゆきつく。しかし、そこにはすこしの湯気と濡れた壁のところどころに石鹸の泡が消えがてに残っているだけだ。脱衣かごの下着のなかに缶入りの小岩井バター飴と笹カマボコの包みが置きっぱなしになっている。  吹きぬけのコンクリートの階段にかかとの高いビニールサンダルの音が反響した。ふたりの女の話し声がだんだんあがってきて踊り場ごとにはっきりしてくる。 「おかしい。帰ってるなんて」  相変らず間のびのした春子のいぶかり声を真下の踊り場にきくと、彼は帰ってきて最初に春子を追いかけた台所と居間のふすまのかげにとっさに身をひそめた。みつかるよりもみつけることだ。背なかをぴったりふすまにくっつけたかれの目にむこう壁のモモの絵のカレンダーがとびこんでくる。その大きなモモがきょうは異様につややかだ。しかし、こんなものに感心していてはダメだ。オレはまず春子から四万円をもぎとり、それからもっと手荒なことをしなくてはならないのだ。 「いいの、あがって。笹カマがあるんよ」  春子がつれて入ってきたのは二カ月ほど前に越してきた同じ棟の左隣の女だ。魚が水の外に出ようとしないように春子は左隣としかつきあおうとしない。春子はまずあいていたベランダ窓をきっちり閉めきると、さがすそぶりもみせないですぐ五円玉のいるふすまのかげまできた。 「どうしていまごろいるの……」  と黒いふすまの桟をつかんでのぞきこみ、さっと足もとのパンティストッキングをかれのほうに蹴りこんだ。看病にやつれ、夜行で寝不足のはずの春子の目が子供っぽくすきとおり、下ぶくれの頬が斜めの日ざしをうけてまだすこし固いモモみたいにつやだっている。黒つぐみ、と五円玉は思った。嫉妬より嫌悪が湧いた。 「どっかお悪いんですか」  左隣の女がのびあがって春子のうしろからそっ歯の顔をつきだして声をかける。かれらの団地でこの女だけが五円玉がミシンのセールスマンだと知っている。春子が恥じて商社マンだといつわっているのだ。左隣の女とはつい最近、立川駅のパチンコ屋前の街展で子供たちにゾウやキリンのミシン刺繍をしてやっているときにばったり出くわしてばれてしまった。そのとき彼女に五千円貸したままだ。まるで口止料みたいな口ぶりの借金の申しこみだった。 「金星休暇だ」  春子にむかってかれはつっけんどんに答える。 「なにそれ」 「金星休暇だといったろ。どこへ行ってたんだ」 「岩泉よ」 「わかってる」 「なぜきくの」 「かあちゃんのぐあい、どうだ」 「やせちゃった。うちに帰りたい、帰りたいって」  涙ぐみかけてあわてて春子は笹カマボコとバター飴を脱衣かごまで取りにゆき、包みをていねいにほどいた。やがてふたりの女はテーブルにむかって最初はゆっくり、それから勢いよくパクつきはじめた。五円玉はバター飴を三ついっぺんに頬張り、朝刊をさがして居間をうろうろする。バター飴だって笹カマだっていまは都心のターミナル駅のキオスクならどこでも売ってるんだ。 「きょうの新聞ないぞ」 「きょうは休刊日ですよ」  と隣の女が笹カマボコをもうひとつの舌みたいにくわえて振りむいた。 「あすはツチヤノボル氏の金星休暇につき朝刊は休ませていただきます。きのうの新聞にそう書いてあったのか」  とつぶやきながらかれは押入れにつみあげた下のほうから新聞を引っぱりだし、居間にもどると寝転って音たかくめくり返す。ちょうど一カ月前の朝刊だった。きょうのでなければ新聞は古ければ古いほどよい。 「でもほんとにオスとメスなのかしらね。だってオスにはアレがないっていうじゃない」  熱いお茶を吹きながら左隣の女がしゃべりだす。 「アレって」 「アレって、あれよ。とびだしてるもの」 「まあ、どうやってやるのかしら」 「問題はそこなのよ。パンダってさ、指が六本あるんだって。だからその六番めの一本がどうもくさいんだな」 「いつの新聞にでてたんですか」  と五円玉は首をもたげた。 「アタシの想像、たんなる想像」  六番めの指か。こいつはちょっとしたセールス・トークになりそうだ。 「あなたたちのほうはどうなのよ。ダンナさん、足りないんじゃない」 「休暇、何日あるの」  春子が真剣な顔で問いかけた。 「三日間」 「いま?」 「たっぷりね」  とすぐに隣の女が割って入り、含み笑いをもらすと春子の頬をなぶるように手の甲でなでた。 「ねえ、三日あとにずらせない」 「できない。もう取っちゃったじゃないか。なぜいまじゃいけないんだ」  春子がふくれっつらをする。昼間オレがいてぐあいが悪いのか。 「きっと金星ベビーよ」  と左隣の女が指をパチンと鳴らした。早く帰ってくれ。こっちはベビーよりマネーがいるんだ。この女はオレからカネを借りていることなどおくびにも出さない。きっと貸したときと同じで街でばったり会ったときしか返さないつもりなんだ。  新聞のかげからテーブルの下に女たちの脚がみえる。ストッキングをとおして春子のすね毛が顕微鏡のプレパラートのような科学的明晰さで浮かびあがる。春子にこんなにすね毛があったとは意外だ。オレは脚をみてこの女を選んだはずではなかったか。  三年前、営業所の筋からトオルらしき男が狭山あたりにいると聞込んで三日ばかりクルマで飛びこみで流したことがあった。武蔵大和のガソリンスタンドで通りすがりの男に所沢駅前のエデンという喫茶店に行くことを勧められた。そこにはトオルのかわりに春子がいた。春子は昼間、福生のキオスクに勤め、夜はアルバイトでウエイトレスをしていたのだ。彼女は鼻が広がりすぎ、輪郭のはっきりしない額は狭くて頬骨は高く張っている。もっと早く会っていたら彼女を醜いと思ったにちがいない。しかし、脚は完璧だった。  電話が鳴った。春子はいつ受話器を直したのだろう。春子の膝がぴくつき、両すねをこすり合せるようにした。みあげると彼女は客の茶碗に茶をつぎたし、注いでいる茶をじっと見守ったまま立とうとしない。かれがあわてて動こうとすると六つめで切れた。隣の女がけげんそうに春子をみた。 「いいの、また鳴るわ」  三人は黙りこんで耳をすませたがいつまでも電話は鳴らない。急に隣の女が目にみえてふきげんな顔つきになり、ごちそうさま、と立ちあがった。 「あの話、考えといてね」  ドアの外から送りに出た春子に呼びかける声がした。春子がもどってくる。すぐにありつける。しかし、春子は途中でまた消え、浴室で洗濯にとりかかった。彼女がさっき居間に蹴りこんだパンティストッキングを取りにきたとき、かれは下からスカートを引っぱった。 「四日ぶん、たまっちゃってるのよ」 「オレも四日ぶん、たまっちゃったよ」 「バカ。母ちゃん、ガンなのよ。背戸のまっさおなフキの道をもういっぺん歩きたいって」  また涙ぐむ。 「あの話って、なんだ」  ほんとうは五円玉は四万円を切りだすつもりだった。しかし、声はいきなり高まった洗濯機の音にかき消された。その震動が寝転ったかれの体にまで打ち寄せてくる。 「すごいなあ。こわれてるんじゃないのか」 「こわれてなんかないよ。脱水のときおまえうちにいたことないから」  柱にまきつき体をねじってむこうから声をはりあげた。 「洗濯機のつかいかた教えておかなくっちゃ。アタシがガンで死んだら、おまえ、洗濯機もつかえない」  春子が狭山にもどったり他の男のところへ走ったりする以外に春子が死ぬといういなくなりかたもあることに五円玉ははじめて気づいて思わずタタミから起きなおった。まっさおなフキの道か、……ああ、たしかに春子は岩泉に帰ったのだな。かれはまたゴロリと横になった。  たっぷり細切りのブタ肉とキャベツを入れたヤキソバの昼食をとった。途中でちょっとおがむまねをするとビールが出てきた。 「昼から酒がのめるぞ」 「一本だけよ」  三本のんで酔ってねむくなった。春子が寝かせまいとしてかれをゆさぶる。 「ゆうべぜんぜん寝てないんだ」  きらっと春子の目がひかった。その光をみて五円玉は、そうだ、オレはこの女をいじめてカネと泥を吐かせなければならなかったんだ、と思った。  夕方目をさますと母親から手紙が来ていて春子がふくれっつらをしている。母親から手紙がくるといつもそうなのだ。いつかの手紙──トオルのことをすっかりあきらめたような口ぶりで、トオルのために積み立てていた郵便貯金をノボルに、つまり五円玉名義に書き替えたからいずれ父親、母親、トオルが三人いっしょに入れるような大きな墓をたててくれと寄こした手紙のなかで、春子と書くべきところを腫子と書いてあってそれを見た春子の顔が急に泣きだしそうになり、かれは折り返し抗議の手紙を母親に出したが相変わらず腫子によろしくと手紙の中程か末尾に書いて寄こす。文頭はいつも、愛するトオルさんヘ、という呼びかけではじまる。母親の手紙とむかいあっていると、彼は影像をほんの心もち引きのばすか縮めるかする鏡の前にいるようにおちつかなくなってしまう。書いてよこすことの大半は弟のトオルと死んだ父親のことだ。ヒトの人生なんて短くはかない。たったひとりの故人すら忘れてしまうだけの時間もないのだから、と書いてきたこともあるが、むかし彼女には故人をすっかり忘れたふるまいが何度かあった。しかし、息子はそのことよりも母親はここで父親を楯にして、ふたりが私を忘れようたってそうはさせない、とおどしをかけているのだととった。このごろではかれ自身も母親の手紙を読まないで破いて捨てることが多い。危うく手に入れた春子との生活が稚拙な、当て字や誤字に露骨で粗削りな感情をにじませた南からの手紙によって急にさざ波をたて、うしろめたいものと変るのだ。  かれはトイレに入って封を切った。屋根瓦が三枚風に吹きとばされたとか和式のトイレは血圧によくないから洋式にかえたいが十万円はかかる、酒屋の次男が阪大の医学部に受かった、有本のマアちゃんとこはとうとうたんぼを売って出てゆきました、峠のカツエはんはたれ流しのまま死んでゆきました、といったいつもと変らぬ近況報告のあとを、郵便貯金はやっぱりトオル名義にすることにしたとつづけていた。その他の家財産もぜんぶトオルに残すことにした。母をうらむより自分をうらめ。いつぞやトオルがサヤマとかいうところにいるらしいと書いてきたがその後どうなったか。まだ行ってないのか。サヤマは東京からそんなに遠いところなのか。自分はもう絶望だ、なにもかもトオル名義で残して首をくくるつもりだ。それがノボルがトオルにした仕打ちに対するワタシの罪ほろぼしなのだ。  オレがトオルになにをしたというのだ、とこのごろ母親に覚える諦めに似た調子でつぶやいた。濃い夕焼けがはねあげ式のちいさな高窓の梨地ガラスにあたってこまかく砕けている。今度にかぎって、春子によろしく、と正しく書いたあとに手紙は異様な文章で結ばれていた。 「おとうちゃんも元気です。こんどの町議選に出るんだと言い張りますが私は絶対反対しているのです」  かれは母親の声をかき消そうとして水洗のコックを乱暴にひねって水音をあふれさせた。父親が選挙に出て落選したのは十五年も前の話である。かれは手紙をこまかく引きちぎると何度もコックをひねって流しこむ。最後はコックの音ばかり高くひびいて水は一滴も流れなくなった。  そのまままた寝床にもぐりこんだ。春子が追いかけてきたので手荒に引きずりこみ、服をはがしにかかった。はじめはまるで母親がけしかけたかのように、手紙を引きちぎる気持で。春子は両のこぶしをつくってかれの胸を小突いて生理だという合図をした。 「ゴメンネ。せっかく金星ベビーなのにね」  かれはからかわれていると感じた。おまえまでそういうのか。そのとき、黒っぽくて、二重の輪郭を持つぐにゃとしたものが彼の視野の角に触れた。そいつは春子の腰のくぼみを波のようにまたいだ。コイツがオレのコドモだといったい誰が証明してくれる。手でつかもうとすると消えた。 「さわらせろ。下までいかないから」  といって、かれは宙でものを扱うように春子に触れた。 「四万円、いる」  ぶっきらぼうに口をついてでた。春子のからだがぴくっとはねた。それからうなずいた。かれはほっとため息をつく。まるでヒモの手管だ。しかし、女というものはこれくらいのところで扱うべきだと得意になって、彼女のからだを滑ってゆく。乳房の曲線をかたどり、腹のあたりでとまって上目で春子の顔をうかがう。船首みたいに顎が大きくのしあがって、右の二の腕をまぶたにのせている。目をつむればいいと思っている。オレはまずこの目でみる。みてから疑う。疑った以上証拠をつかむ。あとは証拠次第だ。  五円玉はソシキの手が触れた跡を追い、狂気じみた注意深さで触れ、見知らぬ疑わしい浮気女の肌ざわりを探し求める。しかし春子のからだはたどればたどるほどとめどがなくなり、なめらかにみえた肌がゴツゴツと隆起し、ひだにはまたひだが隠れていて、毛のなかには風が吹きすさぶ。彼女はひとつの地平となって広がりつづける。水溜りもあれば丘や谷もある。これはどこの地形だろう。ときどき肉自体がちいさく限定された場所で悲しそうに痙攣《けいれん》する。どこも動きもしないのに関節が鳴る。これらはなんの合図なのだろう。五円玉は泡立つ。熱いうねりが腰のあたりにうまれて追いかけてくる。かれは逃げる。逃げながら春子を追う。  あの頃はどうだったろうか。彼女をはじめて抱いたのは狭山湖畔の「アリス」という連込宿だった。湖は丘の上にある。壁も天井もすっかり鏡張りのちっぽけな部屋で、動くたびにかれらのからだはちぎれてバラバラにはぐれてゆき、天井や四つの壁のむこうにとびちり、暗くなるまで繰り返され、ベッドにいる生身の自分たちさえもなにかたよりない紙の断片のような気がして、どうやってひとつに取り集めて精魂をこめればよいのか途方にくれるうちに目をつむってことはすんだ。春子ははじめてだったのかそうではなかったのか。そんなことは詮索する必要のないことだと思っていた。だがいまとなっては見届けなかったことがくやまれる。彼女は痛がったかそれともかれのものに手をそえて導くようなまねまであえてしたのだったか。記憶をそこにむかって集中しようとするたびにかれの頭のなかでなにかがあのときの部屋でと同様あちこちにとび散り、取り集めようもなく、ジーンとしびれたようになってしまう。あのへんには売春をやってる女が多いという情報が営業所筋で流れたことがあった。あくどい女性専科のセールスマンが手びきをするそうだ。最初は内緒の売春仲間だったのがやがて秘密グループとなり、次第にノウハウを身につけた組織となった。いまごろになってそんなことを思いだすなんて。エデンに行くことを勧めたガソリンスタンドですれ違ったあの男はいったいだれなのだろう。かれが春子を五円玉に紹介したも同然だ。ゆうべサウナで白い黒つぐみのことで謎かけをした男はだれか。いま五円玉はまともに思いだそうとしてみて、かれらの顔も形もろくすっぽ覚えていないことに気づく。春子は五円玉より先に狭山営業所の男の見込客だった。ガソリンスタンドの男はトオルに似た男をエデンでみかけたといった。エデンを介してトオルと春子がすれ違う。五円玉はこれまでのんきに春子とは生まれたときからずっといっしょだったかのように錯覚していた。執着が時間を延長するからだ。しかし、かれと出会ってからの春子でない春子がたしかに存在する。そういう春子を知っている人間すべてに五円玉は嫉妬した。かれらがみんなソシキの一員にみえてくる。  狭山営業所の男の白い見込客カードには春子についてどんなことが書かれていたのか。年齢、職業、出身県、干支《えと》、趣味、月収、見込度の百分率、それからたくさん書きこみのできる裏一面の備考欄。そこはきっと興信所の尾行調査に似た記載でうまっている。春子がソシキとかかわりを持ったのはカネのためなのか。男がいたのか。かれらは彼女に何を与えたのか。ウソだ。みんなでたらめだ。思いすごしだ。狭山営業所の男はきっと別の女と勘違いしたかまったく別の女のことを話していたのだ。  五円玉は春子のからだをむこうへ返した。欲情の波がいまにもかれに追いつきそうになった。足指が火のつきそうなほど熱くそり返ろうとする。うしろから彼女の腰にしがみつく。彼女に手をつかわせ、かれはその手を濡らした。脇をむいた春子の乳房がシーツに流れている。かれはそれを掬いあげ軽く愛撫する。紫を帯びないバラ色の乳首。すその広い乳房。押すと骨まで指が届くほど柔らかい。豆粒ほどのしこりがかれの指先に触れた。そのとき春子が、 「アタシのオチチとどっちが白い」  とカレンダーのモモを指さした。かれは振り返った。黒いのはおまえだ、とつぶやいてもう一度しこりをさぐった。もうどこにもない。 「アタシも母ちゃんとおんなじだ。いつかここにガンができるんだ」  ガンのソシキが春子をむしばむ。彼女の背に回した両腕に力をこめた。自分ひとりではもろい。しかしふたりであればもっと鋭くとがったもろさがある。静かなしびれるような思いがそこから放射してきた。殺す破目になることもある。そういう春子のいなくなりかたもある、とはっと気がついた。もう一度回した腕に力をこめた。半醒の春子のからだはぐんにゃりとして、応えるものがない。あした狭山へ行こう。まず営業所の男から当ってみる。見込客カードはセールスマンの財産みたいなものだからみせたがらぬだろうがからめ手でやってみる。別のそっくりなカードを用意し、取りかえ、読んだあとは焼いてしまう。あした休みというのはありがたい。そうか、オレは狭山行きのために金星休暇を取ったのだった。かれは金星休暇をいつもと変らぬ行動表に従って実行しようと決める。明朝六時起床、六時半朝食、地図で聞き込み先と調査地点をチェック、ルーティング。出発は七時半、九時、狭山営業所着。ホンダの調子がよければの話だが。こうしてかれは過去もっとも活動的であった時期と同じくらいの気概とプログラムをとりもどす。ソシキをつきとめ、ほんとうの春子を取り返す。ついでにもう一度狭山からトオルの足どりを追ってみる。まるで三年前とそっくりだ。そのときはトオルをさがしに行って春子をつれてきたのだから。それから、母親に首なんかくくるなとできるだけ長い手紙を書く。今夜かぜを引くこと。かぜのときがもっともかれのセールスとセールス・トークがなめらかに稼動するのだから。  ほんとうの春子、と何度もつぶやく。それが狭山のどこかに連れさられ、隠されていて、いまかれの脇で眠っている生身の春子にはまるで気づかぬげに。やがてかれもかぜを引くためにわざと左脚をまるまるかけぶとんの外に出して、過去に金星休暇を取ったたったひとりのセールスマンのことをいろいろ空想しながらいつしか眠りに落ちた。 三 「アタマ、いたいよう。毛穴、一本一本ぜんぶいたいよう」  春子が唾くさい息を吐きながら外にも聞こえるほどの叫びをあげた。 「一本一本って……、毛穴は三十万個あるんだ。三十万個ぜんぶいたいんじゃおまえ死んでしまうぞ」  五円玉は目覚しに目をやってからこめかみに軽く指圧してやる。熱もすこしある。七時だ。予定より一時間も遅れている。ふたりの白い息がみえる。外は冷えこんでいそうだ。かれは頭を振り、唾をのみこみ、鼻をすすってみる。ひっかかるところはなにもない。どうやらかぜは引けなかったようだ。しかたがない。代りに春子が引いた。起きようとすると下からぐいっと強い力で引っぱられた。 「行かないで」  もう狭山へ行くと知っているのか。つかまれた手を払いのけようとして彼女の左の小指が目に入った。春子が下でそっとなにかつぶやいた。むかしどこかの曖昧宿で買った女の指が目に入ったことがあり、一日中、目をまっかにしていた。慌しい身づくろいや排泄の音を残していつも女が先に帰ってゆくのを聴いていた欺し窓の部屋。あのころのかれはどんな女ともきまって女の左側に寝ていたものだ。春子といっしょになってからはずっと彼女の右側だ。春子との結婚はなにもかも出直しの気持だったからこまごましたことを変えたりひっくり返したりして新しくするのはたのしかった。それに従来のくせを続けることは春子を汚すことにならないか。しかし、今朝かれは春子の左側にいた。あれらの部屋とここがもう区別のつかないものとなった。狭山の客は春子の右に寝るのかそれとも左に寝るのか。 「おきろよ」  右目を手でおさえ、嫌悪と憎しみをこめて上から春子の胸を小突いた。しかし春子は起きられない。鼻水がとめどなく流れ、目もあけていられないのだ。かぜよりもむしろひどいときのアレルギーの症状だ。彼女の場合、生理とアレルギーがかさなったら一日ベッドを出られない。しかし、いまは十一月でスギの花粉もブタクサの花粉も飛ぶ季節ではない。春子が枕許のティッシュペーパーの箱に手をのばしたすきに五円玉はとび起きた。 「おねがい。ひゃくしょうのおねがい。うちにいて」  春子は怖気づいたんだ、と五円玉は決めこんだ。おれを狭山へ行かせまいとわざと生理とアレルギーの合併症をひきおこしたのだ。かれはゆうべ彼女に対し自分がどんな扱い方をしたか忘れているのだ。トイレを使っていると陶器の水槽のなかで水がはるかな音をたてる。それがふと電話の音に聞こえてかれはドアをあけて台所のほうに首をつきだすが電話は鳴っていない。そのとき、突然めざめぎわにみた夢を思いだした。かれが弟の部屋に電話をかけている。トオルはいず、五円玉が呼ぶ電話だけがしつこく鳴りひびく。かれがきいているこの呼びだし音があんなはるかなトオルの部屋でそっくりそのまま鳴っているのか。弟の黒い電話機が見える。どうして白くないのだろう。きっと白い電話機というのは存在するのだが白すぎて目にみえないのだ。それは鳴るたびに心もち震える。やがてかれの目に電話機がのっている緑のフェルトまがいの麻雀卓がうかび、麻雀卓がそのまわりのねずみ色の綿がはみだしたざぶとんを、ざぶとんが衣類の脱ぎちらかったタタミをといったぐあいにおのおのが隣接をひろげて形をとり、すこしずつ弟の部屋がみえはじめる。そこにいないトオルのことがかつてなかったほどせつなく苦しく感じられる。そして、ふりつもるベルの音の間隔に合せてだんだんトオルに化けかかってゆく自分をみる。 「きて」  春子の声がした。 「ひゃくしょうのおねがい。エミに電話して」  とトイレの五円玉にむかって息をあえがせた。かれはエミを春子の話でしか知らない。岩泉中学の二年先輩で狭山のキオスクの寮でもしばらくいっしょだったことがある。いまは目黒の美容院にいるらしい。毎年、岩泉中の女子卒業生の数人が盛岡駅から夜行列車に乗りこんで東京のはずれ、盛岡よりももっとさびしいいなか駅のキオスクに就職するのだ。 「きょう、つごう悪いっていって」 「それでわかるのか」 「きのう夜行でいっしょだったの。バーゲンに行く約束したの」  ハンドバッグをたぐりよせてなかからちいさな春子だけの住所録をとりだした。ちょうど掌の大きさだ。結婚する前からのもので赤い糸の表紙がぼろぼろになっている。 「サのところみて。サノ・エミ」  五円玉は住所録を台所の電話台のところまで持っていってサのページをめくる。どこでどう勘違いしたのか、かれはてっきりサヤマという人物も存在するものと思ってサノ・エミのあとにサヤマという姓をさがしていた。気がつき苦笑してアからワまでざっと繰ってみる。春子にはカ行の知りあいがいちばん多く、つづいてサ、マ、ヤの順でラ行にはひとりもいない。ア行にはひとつ、喫茶店「エデン」の電話番号だけが書いてある。  サノ・エミが直接出た。妻のぐあいがよくない、きょうの約束はまたの機会に、と断っておいてかれは声を低めた。 「エデン、知ってますか」 「一回しか行かないわ」 「ハルコは何回行きましたか」 「かぞえきれないんじゃない」 「というと五十回、百回……」 「いくらなんでも。でもハルコがディーンのブロマイドいちばん持ってたわ。アタシはどっちかというとマックィーン」 「ディーンはとっくに死にましたね」 「マックィーンもだわ。ガンよ」 「ガンですか。狭山時代のこと、なんでもいいから思いだしてください」 「狭山湖のサクラ、ひと目三十万本」  春子の毛穴も三十万個、と五円玉がつぶやいているすきに、おだいじに、というそっけない声とともに電話は切れた。かれは受話器を耳にあてたまますかさずエデンの電話番号を回した。ピンと張った糸の切れるような中継音がふたつして、ながい沈黙のあとチャイムが鳴った。 「あなたのおかけになった電話番号は現在つかわれておりません」  とテープの女の声がした。鼻づまりの春子の声とそっくりだ。 「もう一度おたしかめのうえおかけ直しください」  春子が必死でオレとエデンのあいだを妨害している。かれはテープの声にむかってぼそぼそつぶやいた。 「おまえはエデンでお茶をのんだ。それからエデンで働いた。エデンはソシキの店だった。おまえは白い黒つぐみ」 「……現在つかわれておりません」 「ながいのね」  声は電話の奥からしたが、トイレに立った春子がまうしろにいたのだ。顔をすっかり泣き腫らしている。腫子、とかれははじめて母親の言葉をのどの奥でつかった。そして、声を大きくした。 「エデンのヒガシさん、おひさしぶりです。いつぞやはサウナでおせわになりました」  はやく、と春子がせきたてる。 「客なんだよ」  と振り返る。 「お嬢さんは月々わずか三千円の二年割賦でソーイング教室の講習もうけられるんですよ」 「もう一度おかけなおしください」 「わかりました。それではみょうにち午前十一時にもう一度かけさせていただきます」  しゃべりながらかれは、十一時ヒガシ、と手帳に書きこむ。  春子に電話を枕許におかれてしまった。五円玉は手足をもぎとられたも同然だ。しかたなく洗面台に立って鏡をのぞきこみ、ヒゲののびぐあいをたしかめた。金星休暇中は剃らないでおくつもりだ。二ミリはのびた。しかし鼻の下はまんなかがだめでどうやらナマズヒゲにしかならないようだ。春子はすね毛をどこまでのばすつもりなのだろう。鏡の脇のレモン石鹸を手に取ってためつすがめつする。まんなかに黒い深いクレヴァスがあり、裏返すと髪の毛が一本こびりついている。爪で取ろうとすると毛はいろいろの曲線を描くがなかなか出てこようとしない。爪の先に石鹸ばかりがたまってゆく。彼の歯ブラシがすっかりちびてしまっている。春子の歯ブラシは子供用のものだ。こっそり口に入れてみる。自分のより三分の一もちいさく感じる。動かしてみる。はじめはくすぐったいがだんだん歯と歯、歯と歯茎のあいだにうまく毛があたるようになり、もういまではこの大きさがいちばんしっくりくる。それから遅い朝食にとりかかった。トーストを五枚とコーヒーを三杯のんだ。いつもの三倍の量だ。トーストはぜんぶ焦がしてしまった。食べながら読んだ朝刊には十一月十八日現在の首都圏の水ガメの貯水率が出ている。狭山湖、多摩湖、相模湖の貯水率は二十パーセントで、このところ一日一センチずつ水位が低下している。去年のこの日より六十四センチも水位が低く、これまで最も低下した昭和十四年の百三センチに近づいており冬場の渇水期が心配だ。……だけど狭山湖だけはどんな渇水にもだいじょうぶなはずだ。この前たしか新聞に出ていたことだが、狭山湖の何百メートルも下には宙水《ちゆうみず》というのがあって、こいつは深い地下水の流れから上方に離れてぽっかりうかんだ大きな水のレンズで、昔、この暗い地下の湖が一度地上にあふれた出たことがあり、それが狭山湖の原形だというのだ。いまでも宙水は地下に閉ざされているのだろうか。ほんとうに狭山湖が涸れてしまったらまた何万年も昔のように地上にあふれでることがあるのだろうか。そのへんのところが知りたい。いつの新聞だったのだろう。  たべおえ、げっぷをたてつづけに三つして、さてオレは春子のひゃくしょうの願いに閉じこめられた、動かずにいてできることはなにか、と自問する。ふと窓をみると窓の高さを布きれのようなものが横に飛んでいった。それからそのことを思いだしたとき、かれはもう布きれが白い色だったか黒だったのかもわからなかった。  立ちあがると、押し入れに頭をつっこんで新聞をさがしにかかった。三カ月分は溜っている。この崩れそうな紙の山からちっぽけな宙水の記事を引っぱりだそうなんてトオルを追っかけるようなものだ。指を印刷のインクで黒く染めて結局かれは途中であきらめた。そして、宙水の代りに押し入れの底板のすきまにはさまったオセロのコマを一枚みつけた。以前はしょっちゅうふたりでやったものだが、ある日コマが一枚急にみえなくなってよくさがしもしないままやらなくなってしまった。かれは無造作に上からひとつかみの厚さの新聞を取りだすとテーブルにもどり、社会面と三多摩面を手際よくひろげて狭山に関係する見出しだけをまんぜんと拾っていった。 「他人の土地転売図る 狭山の地面師グループ 不動産登記法を悪用」「路上で女性刺殺さる 東大和のホステス殺人」「また台湾コレラ 所沢 狭山などで十二人」「病院で覚せい剤取引 所沢“仮病入院”の暴力団幹部」「“紳士録恐喝”所沢でまた逮捕五人」  殺人、詐欺、麻薬、みんなソシキのしわざだ。そして、十月三日の夕刊の最下段にちっぽけな次のようなニュースをみつけたとき、かれは興奮した。 「所沢駅前で喫茶店焼く 三日午前一時半ごろ所沢市日吉町二の一七の二〇 山本栄さん(四五)経営 喫茶エデンから出火、モルタル二階建て一六〇平方メートルを全焼した。所沢署の調べでは、火元は一階喫茶部厨房の天井裏。漏電によるものと思われる」  ケイサツは何をやってるんだ。漏電でなんかあるはずがない。かれはこのニュースがいわばかれ個人にあてられているという印象を禁じることができなかった。たんねんに繰り返し読んだ。記事の調子に犯罪をほのめかすところはないか。失火という活字のうしろに放火という字が、焼跡には死体という字体が埋めこまれているのではないか……。かれはアタッシェケースから折れ角があちこち破れた「東京都多摩全図」をとりだし、所沢駅前、エデンの番地をボールペンで黒く塗りつぶす。春子はエデンが焼けたことを知っているだろうか。もし知っていたなら──そしてそれをかれに教えなかったのだから、春子の疑惑はいっそう深くなる。告げて、反応をたしかめるべきだろうか。振り返ると、春子は軽く寝入ったようすだ。まだ手の内はあかさないでおこう。  エデン。油じみた深すぎるシートと窓際にツデイの鉢植をずらっと並べていた喫茶店。いつもほとんど客はいなかったがコーヒーはとびきり旨かった。ふたりのデートはエデンを出て狭山丘陵を歩き回ることからはじまった。かれは生まれてはじめて地層や鉱物、植物、鳥、虫、雲の名を真剣に覚えようとした。いまではもうなにも覚えていないけれど。そのためにかれは狭山についての一冊の本を買った。やがてやっと公団の2DKが当って、引越しのどさくさでなくしてしまった。ひとつひとつはすっかり忘れてしまったがそこには狭山丘陵のことならなんでも書かれていたという気がする。狭山の狭(さ)がちいさいという意味の接頭語だということもこの本で知ったことだったかもしれない。  五円玉は地図の上で春子とはじめてデートした湖の岸辺や谷間、遊歩道、鏡の国のアリス、所沢オデヲンや西武シネマ、所沢ピカデリーなどの映画館をたどり、そこに赤いボールペンでまる印をつけてゆく。そのころのかれは八王子に住んでいた。まだクルマも持てず、八高線と拝島線とバスを乗り継いでかよった。この恋を成就しなければオレはバラバラになる、と思いつめて。いま、かれは青く塗られ、ふたつの乳房のように並んだ狭山湖と多摩湖をみおろす。完全に未知とはいえぬこの丘陵。しかし、ひだの下にひだを隠しているコートのようにみずから偽装しているこの丘陵。いったいどれだけの知恵と忍耐をつぎこんだらそのコートをはぎとり、あかるみにひきずりだすことができるのだろう。いまがんばらねばほんとうにあの噴水の水のようにバラバラにとび散って崩れてしまうぞ、オレは。思いを一心に集めてまず浮かんだのは春子のすね毛だった。それからレモン石鹸の黒いクレヴァス、こびりついた髪の毛、焼け焦げのトースト、窓を横に飛んでいったもの、オセロのコマ。次々と浮かんでくるこれらに共通するものはなにか。すべてはエデンの焼跡をさし示しているのではないか。これらほとんどゴミのようなものにでも何かしら共通項があり、ほのめかしや類似が点滅し──黒子《ほくろ》がひとつみつかれば、あるいは草のなかにヘビイチゴがひとつみつかればまもなくいたるところに同じものがもっとたくさんみつかるものだ──、それらを取り集め、つないで、クモの糸のように微妙な角度と明るさがなければ目にみえぬ網の目を織りあげ、春子を巻きこまないやりかたで白日の下にさらす。それだけでもきっとソシキはのたうち回り、ズタズタになり、溶け、絶命する。あっと驚くめざましい意外な真実がとびだし、汚れたものは洗い清められ、よりいっそう無垢な白い春子が引きちぎられたヴェールのむこうに立ち現われる。はじめて上野駅におりたったときの春子。長い筒望遠鏡のむこうで東京が水中花のようにだんだんふくらみ、花開き、大きくなってゆくのを息をつめてみていた十五歳の春子。  眠った春子の顔がみえる。ひたいと唇がかるく同時に動いた。きっと夢をみているのだ。かれは突然、いま自分がみたり考えたりしているそのことが春子の夢を紡いでやっているのだという気がした。椅子に浅く坐り直すとアタッシェケースから新たにとりだした「南関東全図」を広げ、そこに十五歳の春子の上野からの足どりを素早く追ってゆく。まず上野に着くと春子はその足で護国寺の親戚をたずね二泊した。さらに江古田の先輩のアパートでも二泊してからやっと白山にあるキオスクの寮に落ち着いた。プラットホームの売店ばかりに立って、神田、日暮里、恵比寿、田町、浜松町と半年ぐらいずつ勤務してほぼ山手線を一周し、武蔵野線の秋津の駅舎の売店にうつると寮も狭山に変った。秋津から福生に移ったころ五円玉とめぐりあったのだった。彼は春子が身を寄せた親戚や寮を一本の線でつないでみる。するとそれは上野を起点にしてエデンの焼跡まで西から北におよそ二十度の角度で照射された一本の線上にほぼ並ぶことを発見した。エデンと狭山湖を行きすぎた線は青梅、鳩の巣を通り、鷹ノ巣山、大菩薩峠、朝日岳の山頂を横切って八ヶ岳の南麓や諏訪湖の南岸をかすめて地図の外にとびだす。そのとき、春子が大きくむこうへ寝返りを打つのがみえた。かれはそのまま地図の外へ、テーブルの上からさらに部屋の宙のなかへ想像の線を引きつづける。電灯の紐のつまみにあたってタンスの上置きの硝子戸棚に達し、そのなかのちいさな裁縫箱をさし示す。かれは立ちあがり、線沿いに居間を横切って戸棚をあけ、裁縫箱の蓋をとり、のぞきこむ。一枚の薄青いカードが紙製の糸巻きのあいだにはさまっていて、抜きだしてみると、福生の産婦人科医院の診察券だ。発行日は十月二日、エデンが焼けた前の日だ。かれは春子が産婦人科に行ったことを知らない。しかも福生くんだりまで。こうしてエデンの焼跡の一直線上で診察券がみつかり、診察日と焼けた日付が連続する。かれは裁縫箱をもとに返してテーブルに戻ると、「多摩全図」のほうで狭山までの最短距離を選んでクルマでゆくコースをしるしづける。急に福生に回らねばならなくなったから最後のほうでいくらか苦労したが、セールスのルーティングの要領でコースは割とかんたんにできあがった。昭島駅から北進して五日市街道に出て東進し、立川をすぎ国分寺まで出る。府中街道につきあたって左折して再び北進、小平、東大和、東村山をジグザグに横断して所沢へ出るコースだ。帰りは新青梅街道をまっすぐ福生に直行する。直線距離十一キロ、走行距離およそ二十五キロ、チェックポイント、エデンの焼跡、湖、狭山営業所、福生の産婦人科医院の四ポイント、所要時間約三時間。地図を右手にかざして伸びをしながら立ちあがる。ベッドで枕に片頬を押しつけて春子がじっとこっちをみている。顔はまたいっそう腫れあがり、まるめたティッシュペーパーが枕許に山となって電話機まですっかり隠しこんでしまった。このままではとても出かけられない。なぜか春子に対する嫌悪は薄らいで、うっとうしく重苦しいものに変る。この女のおかげでソシキと闘う破目になってしまったという恨みめいたものがある。しかもソシキについて知りえたことといってはまだ網の目のほんのごく一端にすぎない。これからつらくてのろい、もっと重苦しい知り方が待ちかまえているのだ。  動作の鈍い動物の目で春子は五円玉をじっとにらんだまま毛布をひたいまで引きあげる。毛布のなかで連続くしゃみをつぶす音がする。そのたびに春子のなかでなにかがこわれてゆくような思いがつのり、いらだちがこみあげる。それがこわすものに対してなのか、こわれてゆくものに対してなのか分らない。分らないからいっそういらだち、たかぶる。することがなにもない。しかたなく累積カードの整理をはじめた。カードはコウモリミシン所定の縦十五・六センチ、横十・五センチの厚手の紙で、白が見込客用、黄色が顧客用だ。女の名前ばかりだ。かれは白い新しいカードにツチヤハルコと片仮名で書きこむ。出生日、年齢、干支、出身県、夫の勤務先とぜんぶ片仮名で記入してゆく。むかし海軍出身の老いた同僚がいて、かれのカードはすべて片仮名で、まるで戦闘報告のように書かれていた。カードを裏返し、備考欄をみつめる。ここに狭山営業所の男は何をどのように書きこんでいたのだろう。五円玉はそこにインキで黒い流れ星を、八角形の渦巻きを、卑猥なヒゲのはえたマルなどをいたずら書きする。これはぐるぐると視界のなかにあやしく浮かびあがってくる物のかたち、かれと春子の世界に闇のなかから侵入してくるものの最小の微粒子、つまり花粉やフケ、ダニやオトコたちなのだった。 「フンベツゴミ、忘れてた」  とつぜん春子がフトンをドサッと腹まで折り返して悲しそうに訴えた。彼女はゴミ出しについてはいつも真剣なのだ。そして、分別《ぶんべつ》ゴミをフンベツゴミと呼ぶ。この時間だと集会場の中庭を渡って北地区のゴミ置場まで運ばなければならない。しかもぎりぎりの時間だ。かれは家じゅうのゴミを大きな黒いビニール袋にかき集める。枕許のティッシュペーパーもつめこむ。生ゴミと燃えるものと燃えないものとをちゃんとフンベツしてくれと何度も首をもたげて春子はたのんだが、めんどうくさくてただ生返事をするばかりで茶っ葉もタマゴの殻も缶もビンもいっしょくたにしてしまう。大きくふくらんだ袋をひきずってたたきまで出たとたん誰かがドアをノックした。とっさにゴミ袋を抱くようにしてドアの下にかがみこんだ。 「ツチヤさあーん」  左隣の女の声だ。 「いるすかしら」  とつぶやき、 「かわいいベイビィ、ハイハイ」  とうたいながら遠ざかる。五円玉はその声が足音といっしょに階段の下に沈みこんできこえなくなるまで待ってからチェーンロックをはずし、ドアをこきざみに開いた。コンクリートの踊り場に柔らかな日ざしと風があった。まるで何日ぶりかで外に出たようだ。下におりたつとゴミ袋を振って伸びをした。あくびも出た。ソシキなんて、あんなことはみんな悪夢かばかげた妄想だ。ツツジとジンチョウゲの植込みを突切り、砂場のなかをゴミ袋をかついだ自分の影をみながら歩いた。  ゴミ置場につくとやっぱり北地区の収集は終っていた。かれはしかたなくゴミ袋を細長いコンクリートの囲いのなかにひとつぽつんと置きざりにする。五、六歩ゆきかけるとうしろでゴソッと動く気配がして振り返ると、そいつは黒くてぶかっこうな大きなかたまりのままそこにあった。その足で急坂を下って、遠く立川の上あたりに漂う大きなレンズ雲をみあげながらスーパーマーケットに回り、歯ブラシとトリガラを一キログラム、それに醤油を買った。歯ブラシは子供用のミッキー・マウスの絵のあるやつ、トリガラは春子のために──トリガラスープはアレルギー性鼻炎にきくのだ──、醤油は春子がいつも買うキッコーマンのうすくちでなくヤマサのこいくちを。  果物棚の角でばったり左隣の女と出くわしてしまった。彼女はちいさな重たそうなダンボール箱を抱えていてそれを胸の前で振りながらかれにむかって、 「金星ベビーよ」  と叫んだ。近くにいてまちまちの方角に顔をむけていた別の三人の女の買物客がいっせいにそのダンボール箱を振り返った。五円玉は顔を赤らめた。それをみた左隣の女が、 「まあ、かわゆい」  とかれにむかってもう一度ダンボール箱を振った。かれはカゴのなかのヤマサやトリガラを隠すようにして女をにらみつけるとレジに急いだ。いったいあのダンボールの中身はなんだったのだろう。カネを返せ。  帰りみち、営業所に電話をするために坂の上のボックスに入った。ふたつ並んだ隣のボックスには紺のセーラー服の少女が四人ぎゅう詰めに入っていて白いトウモロコシ歯をみせて黄色い受話器を押しつけあっている。  電話口には古株の女事務員のクボノが出た。 「無断欠勤なんかしてどうしたのよ。七つの大罪よ」 「なにいってるんだ。金星休暇じゃないか」 「まあ、ショッてるのね」 「酔ってないよ、……前にいちど金星休暇とったやつがいたってね。どんなやつだった」 「知らないわ」 「だってアンタ、十年もいるんだろ」 「アタシはきいてるだけ。会ったこともない。噂だけ。アタシの知ってる金星とったオトコはアンタがはじめて。ほんと、ショッてるわ」  そういってクボノは電話を切った。ショッても酔ってもいないぞオレは。ふと隣のボックスに目をやると少女たちは消えて、白い受話器だけが垂れさがってまだ揺れていた。  五円玉は一時間近くもトリガラを煮込んで濃厚スープをとり、こいくちのヤマサを数滴毒のように垂らして、刻んだワケギをうかせた。鳥という字さえ苦手な春子はそれを五円玉に強制されて鼻をつまんで飲んだ。途中で涙ぐんでさえいた。やりすぎたかな、とかれはすこし後悔した。飲ませおえてからかれはちょっと春子から離れてじっと様子をうかがった。毒のききめをはかるように。彼女のほうからサヤマについてなにか秘密をもらしはしないかと。すると、春子が小声でそっとささやいた。 「ほんとは子イヌのキモがきくのよ」  彼女はまた鼻水があふれてティッシュで顔をおおった。 「アタシ、一匹みつけてあるの。クジラの谷にいるわ」 「じゃあとってきてやる」  と五円玉はいきなり立ちあがった。  活性炭マスクを二枚かさね、偏光サングラスをかけた。子イヌのキモを口実に勢いをつけて家をとびだすつもりだ。アタッシェケースを小脇に抱え、ドアをあける。うしろで春子がひゃくしょうのおねがいを連発している。  ホンダはナツメの木の下に路上駐車してある。エンジンがかからない。ピニオンギアがいかれかかっているのは分っていたがずっと修理に出している暇がなかった。車検の期限もとうにすぎている。やっと滑らかな震動が応え、慎重にアクセルを踏みこんでふかしつづけながらハンドルの上に多摩全図を広げ、四つのチェックポイントをセールス中の習慣に従って指差点呼で確認して発車する。団地の丘をおりるとすぐに左手にクジラの谷がみえてくる。何年か前この谷でクジラの化石が発掘された。谷壁の基底の砂礫層からいつも水が湧き出て、いちめんの枯れたヒルムシロやミズオオバコの上を白い薄膜をなして流れている。かれは通りすぎてしまってからそっと谷間を振り返り、急にアクセルを強く踏んでホンダをせきたてた。子イヌのキモは五番めのチェックポイントとして帰りに寄ることにする。  昭島駅脇の踏切を渡って北に進み、やがて五日市街道に出て東進する。地図のルーティングの通りだが、都心にむかうクルマが渋滞して二十分で一キロ進むのがやっとだ。おまけにこの街道はやたらと信号が多くいらいらさせられる。青信号で発進の遅れた前のクルマにむかってうるさくクラクションを鳴らしたり、割りこみのクルマをはげしく追跡していやがらせをしてみる。坂の途中の信号停止でサイドブレーキが甘いことに気づいた。急発進するとエンジンがガクガクする。立川をすぎて五、六キロも走れば府中街道に突き当るはずなのに、二つの工事迂回の指示板に従って脇道に入ったばかりにいつまでたっても交叉しない。しかたなく空地のセイタカアワダチソウの群生にクルマを突っこみ、フロントガラスに土ぼこりやパサパサになった蛾やハンミョウの死骸をあびながらUターンする。途中でもうひとつ迂回指示があったのを見逃したのだった。恋ヶ窪の踏切をこえ、国分寺線沿いにしばらく進んでやっと府中街道に出ると北にむかう。クルマの時計が三時をさした。予定より四十分近く遅れている。かれはスピードをあげる。ハンドルがちょっと重い。左の前タイヤが石ころをはねとばした。その擦過感が春子の乳房のしこりを思いださせた。春子は気づいていないようだ。それは魚のようにうかびあがってすぐまた胸の奥深く潜りこんでしまったのだ。ハンドルがすこし左に引っぱられるように感じて強く握り直した。突然府中街道が消えた。クルマを左に寄せて地図のルートを追う。府中街道は直交する青梅街道にいったん消えたのち六十メートルほど西にずれてまた北へとつづいているのだ。正確に進まなければだめだ。このルーティングがソシキに対抗するソシキを刺繍するのだ。  クルマの窓をひとりの女が駆け抜けた。かれはあわててブレーキを踏んだ。女の姿は消えていた。首が異様にひょろ長い三十すぎの女の影がフロントガラスの左隅にシミのようについてなかなか消えなかった。そのことがあってからパンクしたわけでもないのにクルマはいっそう左に強く引っぱられるようになった。バックミラーに注意を集中して徐行して進む。赤いおんぼろのカローラがみえかくれする。あれは昭島駅の踏切で、後続して遮断棒のむこうに取り残されていたカローラではないかしら。それから恋ヶ窪の踏切のむこうにもいて、かれのホンダのあとを追うように急発進したのも赤いカローラだった。もしこの三つが同じカローラだとしたらつけられているのだ。かれがクルマを停めるとカローラはそのままゆっくり追いぬいて行った。逆光のせいでなにもみえない。あとを追おうとして発進した。加速するとたえずまだ左に引っぱられるハンドルに微妙な操作を要求される。引っぱられるときハンドルも同じ側にむかって切りつづけなければならない。  カローラが先に曲ったT字路に出たが姿はどこにもみえない。相手はうんと徐行していたはずなのに。T字をやむなく左に折れてしばらくゆくと、道が急に狭くなって忍び返しのついた灰色の高いコンクリート壁がまっすぐのびている。むこうから小型トラックがクラクションを鳴らしながら突っこんでくる。道幅一杯ですれ違ったときトラックの運転手が何か叫んだ。一方通行路を逆に入ってしまったのだ。かれはこのまま突っ切るかバックするか迷ったあげく細い脇道に逃れた。電柱の住所表示板は東村山市萩山町二─一だ。しかし、かれが入りこんだ道は地図にはのっていない。太陽は空の四分の三点に大きく輪郭をくっきり刻んでレンガ色に燃えている。かれは活性炭マスクをはずして窓をあけ、外の空気を光ごと食べるように深く吸いこむ。なにごとかがかれのまわりで仕組まれ、かれを妨害し、近づいてくる。  ハンドルはとうとう右に切れなくなってしまう。T字路が連続する。どんな拡がりももう左側にしか存在しないかのように左に曲りつづけるよりほかなく、一度通過した道を何度も横切り、いたるところで倉庫やグラウンドに突き当る。住所表示が東村山市萩山だったり小平市栄町だったり、東大和市桜ヶ丘だったり立川市幸町とめまぐるしく入れかわる。四つの市が接して渦を巻きながらある一点に合流しようとしている。道は高い塀やついじのかげに沈んでどんどん暗くなってゆく。空はまだじゅうぶん明るいというのに。  かれはアクセルを踏みこみ、思いきってハンドルを禁じられた右に切った。広い道に出た。ほとんど同時に左方向まぢかで急発進してきしむタイヤの音がきこえた。日をまうしろからあびた図体の大きな外車がコロナのように黒ずんで猛スピードでむかってくる。五円玉はあわてて左に切り直してブレーキを踏んだが外車はそのままホンダの右前部をかすめるように走り去った。ホンダは歩道のエンジュの木に衝突して、五円玉は胸をしたたかハンドルにうちつけた。すぐ道のまんなかにとびだして外車の姿を追うと、そいつはなだらかなのぼりになっている坂のむこうへ消えてしまった。むかいのガソリンスタンドから若い男がとびだしてきて、だいじょうぶかとたずね、つぶれた右ライトやへこんだフロントバンパーを軽く右手でたたきながら、こいつはひでえやとつぶやき、ボンネットをあけてのぞきこむと大きな亀裂の入ったオイルパンを指さした。それから男は道のむこうの同僚に声をかけた。 「キャデラックの八〇年だったな。このへんのクルマじゃねえな」  五円玉はそのとき、ここが三年前トオルをさがして通りすがりの男にエデンに行くことを勧められたガソリンスタンドであることに気がついた。西武拝島線の武蔵大和の駅近くだ。電線の高さに狭山の丘のくぼみの松林がみえる。心なしか松林の上から水のにおいが吹き寄せてくるようだ。五円玉は歯をならし、ふるえていた。ここで三年前、見知らぬ男が通りかかってエデンをさし示し、いま外車が猛スピードで襲いかかってきたのだ。赤いポンコツのカローラはきっとオレをここに追いこむ役だった。相手は逃げ回る獲物ではなかった。刃向ってくる獲物だ。引き回したり、跡をごまかしたり、にせの手がかりを残したり、さらに目ざわりな証人を抹殺することもためらわない。かれはもうどうにも動かなくなったホンダをキィといっしょにガソリンスタンドにあずけて武蔵大和の駅から電車にとび乗った。あやうく殺されそうになったと思いこんでしっぽをまき、夢遊病者みたいに目はうつろで、頭のまわりではげしい羽ばたきの音がした。日が落ちて、寒さにふるえながら拝島まで逃げもどった。たしかに一般に予想されるよりもはるかに多く、陰謀を企てられていると感じる人間をめぐってある種の陰謀が存在する。  気がつくとかれは石ころやジシバリの茎に蹴つまずきながらクジラの谷を歩いていた。かれはやっとあたりの暗さに目をとめ、空をみあげた。雲のまったくないからっぽの空を消えがての夕焼けが甘ずっぱそうに染めている。頭のまわりでしていた羽ばたきの音はもう消えていた。かれは両手に水をすくって顔に押しあてた。そのとき、谷の奥から子イヌのなき声がして、そっちのほうにむかって歩きだした。……子イヌのキモはどうやってとればいいのだろう。山に入ってドングリやアケビを採るようなわけにはいくまい。殺すのか……。子イヌのなき声が消えた。谷壁のくぼみに一台のリヤカーをみつけた。両輪は小石をはさんで固定され、錆びついたながえ《ヽヽヽ》ははねあがらないように大きな石がのせてある。捨てられているのではない。荷台には薄いフトンのようなものが敷いてある。子イヌの家だろうか。もっと近づいて上からながえ《ヽヽヽ》のなかをみおろすと薄闇の底からいろいろな物が、石油コンロやヤカン、フライパン、ガラスコップにさした子供用の歯ブラシ、マナ板とその上に腐りかけた白菜のかけら、水をいっぱいにはったバケツなどが徐々に浮かびあがってくる。こぎたなくても、フライパンのなかに石鹸、すすけたヤカンにつっこんだ包丁といった意表をつくしかけで配置され、ながえ《ヽヽヽ》の外、いわば玄関口にあたるところにサツキの鉢植まで飾ってある。花は半分かたひらき、淡い紅紫で、花弁の中心が白く抜けている。  とつぜん、サツキのそばに大きな男が立った。黒ずんだ谷壁の岩のなかに紛れていたのだ。五円玉はあとずさりし、リヤカーから五、六メートルの間隔をとった。  男はあちこち破れめのある垢まみれの毛布を体にまきつけ、そのなかでまっくろに干からび、ヒゲを胸もとまで垂らして、大きな体をもてあましぎみに静かに足踏みをつづけている。濃い魚のにおいが男からたちのぼる。やがて男はながえ《ヽヽヽ》のなかに入り、荷台の奥から一升瓶に入ったコメをとりだし、ちいさな金だらいに水をくんで指先で念入りにとぎ、コンロにかけて火をつける。腐りかけの白菜のかけらを刻んで塩もみしてへりの欠けた小鉢に盛る。すべては手早いのに魚のようにゆったりと水のなかにたゆたう気配がある。さらに男はちいさな刷毛のようなもので地面を掃きならし、水を打つ。狭いながえ《ヽヽヽ》のなかで大男はちっとも窮屈そうでなく、のびのびして間断するところがない。動きは目にそれととらえられないほど緩慢でしかも時計の針のようにかくじつに流れている。五円玉はくいいるようにみつめる。男は動かない。五円玉がまばたきする。と男の影はヤカンからバケツまで移動している。この男にとってながえ《ヽヽヽ》のなかは広大な庭なのだ。  五円玉はふしぎな思いにとらえられる。なぜならあたりはもうすっかり暗いはずなのにながえ《ヽヽヽ》のなかだけがよくみえるのだから。光がなければものはみえないというのは嘘なのかもしれない。男の緩慢さはふつうのひとの三倍はあるだろう。つまり時間のたつのがここでは極端に遅く、ふつうの三倍にひきのばされるのだ。みえないものがみえてくる。五円玉はジャガイモやトウモロコシの伸びる速さをみることができたアイダホ州のチャーリーさんのはなしを「リーダーズ・ダイジェスト」で読んだことがある。チャーリーさんはニューヨークに出てきて、自動車の速さにびっくりして気がふれてしまった。  コンロのかゆが煮たってふきこぼれそうになった。沸騰の時間は変らないらしい。男は火をちいさくした。突然五円玉にこの男にミシンを売りこむという考えがうかんだ。乞食を相手に必殺のセールス・トークをあみだす。日本一セールスマンは夢のなかで開発する。殺されかけてしっぽをまき、何の成果もあげられなかった狭山行きの失敗のつぐないに乞食にエクセル・タイプを一台売りこむ。かれはこの思いつきにしがみついた。  男は五円玉にまるで注意をむけない。男の目が動く。しかし、それはなにか目にとまったものがあるとあわててそれを振り払うためだ。そして、とろ火でかゆが炊きあがるのを待つ間、荷台のへりに腰かけ、たちまち首を落していねむりをはじめた。五円玉はからだを傾け、新しいセールス法をあみだそうと心を集中してぶつぶつひとりごとをつぶやく。……小道具として、トオルのチラシ、五円玉、カタログ、こんなものにはもう頼れない。五円玉セールスなんてだれが本気にするものか。女房すらミシンの客ほどもものにできず、裏切られ、弟ひとりさがしだせず、母親を母親自身の亡霊みたいにこわがっている。だれも夢想だにしなかった、えげつなくて、すれっからしでとびきり上等のやりくちはないか。全国セールスマン協会に登録されているセールス法のかずかず。瞬間セールス、英国式、ブァトン風、カントン式、ヨコイ・オノダ式、ロシア・パーティ、ハギノ式。どれもこれもだめだ。むかし読みあさったセールス入門書、体験記のたぐい。そのなかにこんなことが書いてあった。……ショッパサの度合いは違っても生きて動いてしゃべるものなら絶対に売りこめない客というものはこの世に存在しない。もし存在するとしたらそれは神と死んだ者だけである。しかも神もホトケも存在しない。  乞食は生きて動いて存在する。そうだ、まずリヤカーのなかに置けるようにミシンを三分の一に縮めよう。……子イヌのか細いなき声が再びした。五円玉は自分の目がきらりとひかるのがわかった。乞食もはっと目をさまして、かれにむかってにやりとした。そして舌なめずりをして声のほうに耳をのばした。この男が喰ったのかもしれぬ。だがそれは子イヌの声ではなかった。木が風に揺れて樹皮をきしませる音なのだ。  かゆがこげついて芳しい匂いをたてた。男がすわったまま投げた石ころが五円玉の脛にあたって水のほうにはねかえった。最初にあたったのをおもしろがって次々と投げてくる。だんだん強くなる。五円玉はあとずさりし、アタッシェケースごと手をあげて男に挨拶すると踵を返して走りだした。  オレはこの世でもっともショッパイ客にあたってしまった。かまうものか。ショッパサだけがいまのオレの唯一の味覚なのだから。走りながらかれはクジラの谷を振り返った。谷はすっかり暗やみに吸いこまれている。だが谷はみえなくなっても、乞食もリヤカーもみんな夜のなかに確実に含まれて、それをみたしているのだ。  かれのいるC5棟だけがまっくらだった。窓にあかりがなく階段口に五、六人の女が寄りあって上を眺めており、かれが黙って通りすぎようとするといきなりふせていた懐中電灯をかれの顔にあびせた。 「ツチヤさん、停電なんですよ。東京電力がもうきます。奥さんどうしてるかしら」  かれは急に胸さわぎがして五階の窓を見上げ、階段を駆けあがった。中にとびこむと居間に押入れから茶箱がふたつ引きだされ、寝室ではタンスのひきだしが四つもベッドのうえでからっぽになっているのが外のあかりにぼんやりと浮かびあがる。ハル、と呼んでうっかり家じゅうのスウィッチをパチパチやる。途中で停電だと気がついて春子より先に何かあかりになるものをさがして食堂と居間を手さぐりする。ひんやりする水屋のガラスに手を這わせ、ざらつく壁をつたうと砂粒が足の上にぼろぼろと落ちてくる。流しの蛇口にさわったのでちょっと栓をひねってみる。停電でも水は流れるようだ。指を浸すとはね返った水だけが闇のなかでキラキラ光る。壁のなかでは水道管が唇に指を立てるようにシーッと鳴り、どこかはるか下のほうで下水管が喘息《ぜんそく》を起したみたいにあえいでいる。結局ロウソクも懐中電灯もみつからない。しかたなく当矢《あたりや》印の徳用マッチを水屋のひきだしから持ちだし、居間のまんなかにすわりこむと灰皿の上で最初の一本をつける。思いがけない明るさが部屋じゅうを照らしだした。いつもより部屋がふくらんでみえる。まるで駅のホールにいるみたいだ。そこに春子がいた。どこかに旅立とうとでもするようすで茶箱をベンチ代りにむこうむきにすわっている。その影がタタミを這って折れ曲り、タンスから天井までコの字を描いてのび、濃くなったり薄くなったりする。さっきたしかに茶箱をみたのにどうして春子だけに気がつかなかったのだろう。彼女がそのつもりなら自分もいっしょに汽車に乗る気持で五円玉は春子のそばに同じかっこうをしてすわる。 「ごめんよ。ずっと子イヌのキモさがしてたんだ」 「いいのよ」  春子のものとは思えない妙なしゃがれ声を出す。 「アンキモじゃダメか」 「子イヌじゃなきゃダメ」  最初のマッチが燃えつき、火がかれの指を焦がしてちいさな燠《おき》のかたまりが糸を引いてタタミに落ちた。 「線香花火だ。どんどんつけよう」  やっと春子の声にもどった。次の炎が燃えあがったとき、なぜか春子がかぶりをはげしく振った。横に流れた髪に火のかがよいがまつわりついた。かれが子供のころ、父親に髪に火をつけられた少女がいた。彼女はずっと坊主頭で学校に通ってきた。秋祭の夜、少女は学校の体育庫に火を放った。十月二日、福生の産婦人科で春子の身になにかが起り、翌日の十月三日、エデンは全焼した。 「所長からいやみな電話があったんよ」 「なにがいやみだったんだ」 「どうして休んでるんだって。金星ですってとっさに出てこなくって、ちょっとかぜをひいてって言っちゃった」 「バカ」 「そいじゃ病欠扱いだって。ねえ、ほんとうに金星休暇ってあるの」  それはかつて春子がかれに、トオルってほんとにいるの、ときいたのと全く同じ口調だった。かれはとっさに返事ができず、灰皿のなかの燃えがらを手にもった燃えさしでひっかき回しながら、 「あるといえばある、ないといえばない。オレはあると思っている。だからある」  ぼそぼそとつぶやくようにいった。トオルについては何と答えたのか思いだせない。しかし、もし金星休暇もソシキもかれの妄想で、トオルは母親の妄想だとしたら。やっかいなのは妄想かそうでないかゴミのようにはかんたんにフンベツがつかないことだ。また火がなくなってふたりは闇のなかに沈んだままだった。もしも、とかれはみえない春子のぼうっとしたかたまりのほうに目をこらしながら考えた。もしもこの春子すら妄想だとしたら、オレはいったいいままで何をやってきたんだ。オレはこれまでものごとを本気で考えたことがない。考えようとすると頭がしびれたようになる。……本気で考えたことだけが存在するんだ。春子のことを本気で考えてみようとする。トオルのこと、サヤマのことや白い黒つぐみ……、だけど考えようとすればするほどなんだか自分がバラバラに飛び散ってゆきそうになる。  かれはふたたびマッチをすった。火を遠くへ、春子へ近く持ってゆく。ふたりの息がこすれあって間歇《かんけつ》的に炎が揺れ、春子の腫れぼったい顔を追い回すようにちらちらと踊る。かれは火をさらに春子にこすりつけるように伸ばしかけて、彼女が炎でなく、かれのほうをじっとみていることに気づいた。それは目というより一個の渦巻きだ。めまいがした。ここにいるのはほんとうに春子なんだろうか。もし春子が幻だとしたら、オレはいったい誰なんだ。  階下から潮騒のような音がひびいた。それが踊り場ごとにだんだん大きく明確になってくる。さっき下にいた女たちが五階まであがってくるらしい。やがて玄関前に達して、そこで動かなくなってがやがや騒いでいる。おちついたしゃがれた男の声がまじった。炎のむこうで春子の顔が急にこわばってみえた。炎が目に鏃《やじり》のように突き刺さっている。 「ツチヤさん、ツチヤさん」  扉をたたいて女たちが呼んだ。 「いないのかしら」 「おかしいわ。それじゃさっきあがって行ったのは幽霊だったのかしら」 「ツチヤさん、工事のためにちょっとおたくのベランダに行く必要があるんです」  五円玉には叫んでいる女たちがドアを通してみえるような気がした。 「あけないぞ」  と春子がつぶやき、タタミを鳴らして五円玉にからだを投げつけ、のしかかってきた。 「キモをとってこなかったからおまえに本気でアレルギーをうつしてやる」  そういって春子はかれの上でなにをするでもなく獣じみた熱い息を吐きかけてくる。ほんとうにうつるかもしれない。かすかに血のにおいがたちのぼる。いったい何人のオトコに抱かれたんだ。胸のしこりはどこへ行ったんだ。そのとき、電話が鳴った。停電でも電話は鳴るのか。六つめで切れた。やがて外でビニールサンダルを引きずる音が近づいて、 「出ないわ」  と左隣の女の声がきこえた。 「出ないけどいるのよ。いるけど出てこれないの。いまが大事なときなのよ、あのふたり」 「ツチヤさあーん」  郵便受の舌を押して投げこまれる声を聞くたびに春子がからだをぴくつかせる。それにつれて彼女のからだが重くなる。大きくもなる。 「しかたありません。ここからむこうへ渡ります」  大男らしい声がして靴の鋲《びよう》や腰につけた工具の鳴る音がやたらとひびいた。 「危いわ」 「なれてますから」 「まあ、サーカスみたい」  五円玉はこれらのやりとりをききながら無言の春子の下でだんだん縮んでゆく自分を感じだしていた。どこまで春子は大きくなるんだ。彼女のなかからこんこんと湧いて流れおちる血の音がきこえる。春子は血に似ている。ソシキのなかを、このたわけごとのなかをめぐる血だ。  電気が突然ついた。まるで電気が音をたてたかのようだった。外で歓声が沸き起った。ドアのむこうに大勢の女たち、ベランダに作業服姿の巨人の東京電力がいてこちらにむかってさかんに拍手をしている。五円玉に一瞬そんな光景がうかんだ。ふたりはまぶしくて目をしょぼつかせ、あたりをきょろきょろ見回しながら起きあがった。 「おさわがせさま」  階段を下へ沈んでゆくがやがや声にまじってかん高い左隣の女の声がした。春子はトイレに血を捨てに行ってもどってくると茶箱やひきだしのあと片付けをはじめた。五円玉も手を貸して茶箱を押入れにもどす。こんな重いものをふたつもどうして春子は持ち出せたのだろう。アレルギーの力なのか。 「左のムラカミさんね」  と茶箱のむこうを持つとぽつりと春子がいった。 「彼女に四万円借りてるの」 「はやく返せ」 「ないよ。おまえがそっくり持っていった。あれは母ちゃんからもらったおカネ」  おまえがこっそり稼いでいるカネはどこへいったんだ。 「彼女って変なこというのよ。四万円借りてるのはアタシなのに、アタシが貸してることにしてくれって」 「オレはあの女にカネ貸してるぞ」 「いくら」 「五千円」 「返してもらわなくっちゃあ」 「まてよ。オレが借りたことになるんか」  夕食は抜くことにした。風呂にも入らない。妙に電気のあかりになじめなくてベッドに入るとすぐに電気を消す。いま春子のどっち側に寝ているのだろうと考える。すると、娼婦はオレの左だったかオレが娼婦の左だったのか、春子はオレの右だったのかオレが春子の右だったのか急にわからなくなる。やがて、どっちでもいいと思う。深く考えないことにする。いずれにしろオレのせいなんだから。 四  海がきて、谷間がちいさな湾になり、乞食が化けたクジラが泳いでいる。クジラがなにかぼそぼそつぶやきだす、トオルの声で。しかもトオルの好きなセロファン紙を口につけた響きだ。五円玉はなんとかききとろうと手を貝にしてクジラのほうへからだを傾けてゆく。からだは四十五度にも傾く。でも倒れない。  暗やみのなかに矩形のあかりがみえる。奇妙な内密さを放っている。それをかれは闇のなかであけている自分の目だと思う。クジラの声はまだつづいている。 「ダイジョウブヨ、オカアサン。トオルハイキテイマス」  トオルの声ではなくトオルのことを話しているのだ。目だと思ったのはあけっぱなしの冷蔵庫の四角なあかりだった。ああ、やっと電気がきたんだな、とまだ停電中だったと勘違いして五円玉はつぶやいた。春子が夜なかに腹をすかせて目をさまし、冷蔵庫をあさっているところに電話が鳴ったのにちがいない。 「トオルはアタシが必ずみつけます。アタシがそういうのですからオカアサンは安心してもう寝てください」  真夜中に錯乱して電話をかけてきた母親を落ち着かせようとしてしかたなくしゃべっている言葉だとしても、春子の口調はなめらかで自信にみち、まるでトオルとなじみで、いどころさえ知っていそうな口ぶりだ。トオルハイキテイマス。トオルの存在を疑っていた彼女がどこでこんな確信を身につけたのだろう。 「ノボル、呼びませんよ。わかりました。あした」  電話を切った春子がやってくる。春子は裸だ。四角い冷蔵庫のあかりをまうしろからあびて肩や腰が熟れきった瞬間のモモの柔毛《にこげ》におおわれる。きっとカレンダーのモモが化けきれなかったのだ。まぢかにきた春子の腹がサランラップでぐるぐる巻きにされている。なぜそんなことをするのだろう。 「おきたの。オカアサンよ。あした、トオル名義のかよい《ヽヽヽ》と権利書を持ってヒコーキでくるって」 「こないよ。ヒコーキなんかに乗れるはずがない」 「でもくるって。もうアンタらにまかせておけない。結婚までしてふたりになっていながらたよりない、情けない。おカラスさまにみてもらった。そしたらトオルはヨシツネの方角にきっといるって」 「ウソにきまってる」 「なにが」 「おカラスさまもヨシツネもトオルも」 「おカラスさまぜったいウソつかないって……」  かれはもう春子の声をきいていなかった。ふとんを頭まですっぽりかぶった。ヨシツネの方角……、トオルのやつ、汽車のまねをしながらそんな遠くまで行ったのか。  翌朝早くかれは半信半疑のまま羽田にむかった。出がけに春子にふたつのことをたのまれた。井の頭線渋谷駅のガード下で宝くじを買うこと。そこはよく一等の出る売場らしい。それから、子イヌのキモの代りにサツキの鉢を盗んできてほしい。要するに乞食からドロボーしろと勧めているのだ。それからもうひとつ彼女がいったこと。カネがない。どうしていつも足りないのだろう。  南の大きな半島からのYS11の最後の男客が大きなふろしき包みをかついで、ぶあつい自動ドアを踏んで出てきた。見覚えのある五円玉のいなかの男だった。しかし、だれかは思いだせないままかれは母親にむかって黄色い電話のダイヤルを回した。 「のってなかったやないか」 「なにがや」 「かあさんがや」 「なににや」 「ヒコーキにや」 「うちはせんからここにおりる。どこにも飛ばん」 「ゆんべデンワでハルに来るてゆうたやないか」 「デンワなんかせえへん。そや、ちょどよかった。ビントクボウの黄色いクスリ、はよう買うて送って」 「ビントクボウてなんや。そんなん知らん」 「知らんてか。トオルは知ってるぞ。トオルにきいてみよ」 「いま、そこどこやない」 「カネないんか」 「そういうことやない。カネもないけどな」 「いま、そこどこや」 「ハネダや。ハネダのヒコウジョウや」 「ビントクボウの黄色いクスリ、たのんだで」 「もう切れるよ」 「ハルにはいっぺんそっちへ行くよって……」  かあさん、サヨナラだ。オレはいつかあんたの鏡をバラバラにするよ。電話が切れてジーッという機械音に変った。かれはまるで母親が焼けこげるようなその音からしばらく耳を離せなかった。そのまま十円玉で春子を呼んだが出ない。  空港から湾岸道路経由、夢の島循環の都バスに乗って海岸一丁目でおり、だだっ広い桟橋通りを浜松町にむかった。真正面にずっと東京タワーがそびえていた。来るときはまるで気がつかなかった。今度はそいつをわざと見ないようにして駅まで歩いた。かれがトオルをさがしにはじめて上京したとき、最初にやったことはそいつにのぼることだった。そこからトオルがみえるとでもいうように。しかし、そのころかれはまだ狭山という地名すら知らなかったのだ。春霞のたちこめた地平の西北方にかくまわれていた狭山。そこからかれが苦渋のすえに連れだした春子。そこに姿をくらましたトオル。こうしてこののっぺらぼうな地平も神秘的になりうることがわかった。いま、かれはまるで海からあがってきたゴジラのように自分の背丈をそいつより高いと確信し、そいつを無視して歩きつづけた。  駅のホールの片隅で立ちぐいそばをかき込み、ゆでタマゴをむいた。朝から何も口にしていなかった。タマゴの殻と白身のあいだにちいさなすきまがあった。こんな密なタマゴにすらすきまがある。どうしてだろう。駅前の銀行からクレームの四万円を客あてに振り込んだ。春子に電話するとこんどはすぐに出て、さっきは移動八百屋を追いかけて行ったのだといった。 「オフクロ、乗ってなかった。ゆうべデンワなんかしないって。ビントクボウの黄色いクスリ送れって。ハル、おまえきいてるか」 「そんなのアタシ知らない」  むくれたようすが手にとるようにわかる。むくれて、鼻で息を吐く音を送話器がくっきりととらえた。かれはふと電話なら春子を問いつめることができると思う。表情がわからないそのぶんよけい声や息の変化をききわけることができる。かれがそのための言葉を選ぼうとしてぐずぐずしていると、 「まっすぐ帰って……」  と春子が言葉を送る途中で十円の通話時間がきて電話がきれた。けちって十円ぽっきりしか入れておかなかったからだ。まずカネをつくることが先決だ。かれは飛田給《とびたきゆう》の客の滞納金をあてにした。おんぼろ都営住宅に住む個人タクシーの運転手の妻で、そいつを取りたてて一カ月ばかり流用させてもらう。  外回りの山手線に乗る。品川をすぎて電車が急角度で曲ると、まるで東京タワーがくるっと寝返ったかのようにみえた。  渋谷でおりて、春子に言われたとおり井の頭線のガード下で宝くじをバラで千円ぶん買うとぐずぐずしないで新宿に出た。地下広場の大きなデジタル時計がトランプカードをめくるみたいに十一時ちょうどを表示した。時計をみたときのいつもの癖で手帳をめくる。十一時、ヒガシTELとメモしてある。反射的に公衆電話のところに急ぎ、名刺をみながらダイヤルを回す。 「ヒガシさん……」 「ヒガシじゃない、アズマだ」  といってガチャンと切られた。受話器をもどしかけたが、一瞬その黄色いプラスチックのぬくもりを惜しむ気持がおきて放すのをためらった。すると手の先からかすかな話し声がした。 「行けないのよ」 「じたばたするな。武蔵小山の駅前だ」 「ひどいわ」  混線してとびこんできた声なのだが、かれはちいさく息をのんだ。男と女の声がふたつともだれかの声に似ていた。狭山の狭は小さいという意味だった。  手近な階段を駆け足でのぼりつめるとバスターミナルの停留所の島のまんなかに出た。路線系統ごとにたくさんの島があり、それぞれに地下広場から専用階段がついている。かれが立ったのは「宿07」の狛江《こまえ》行きの島だった。バスはエンジンをふかして尻を振っていた。狛江まで出ればそこで飛田給を通るバスに乗りつげるだろう。急ぐ気になった。  バスは甲州街道に出てまっすぐ中央高速道の真下の影を走り、環状七号を越えたあたりで脇道から現われた空《から》の外車の霊柩車と併走をはじめ、下高井戸あたりでふっと消えていった。そのあいだに街路樹は一度ケヤキからトウカエデに変り、またケヤキにもどっていた。雨降りという名の停留所があった。どこだかはっきりしなかったが左に、つまり南西に折れるととつぜん狭い道になりそのまま環状八号を横切り小田急の下をはすにくぐった。いくつもの路線のバスとひっきりなしにすれちがう。そのたびに運転手同士が白手袋をはめた右手を軽くあげて挨拶を交す。五円玉はそれが繰り返されるのをみるうち、東京じゅうの路線のバスの運転席で交される何千何万という白手袋を思いうかべ、いらだちがつのってきて、やがて前方にバスが近づくたびに窓の高さの歩道のプラタナスやハリエンジュの枝ごしの空に目をそらした。空はちょうどゆでタマゴの白身に閉じこめられた鈍い青色をしていた。すこし傾いだレンズ雲がそのなかにひとつぽかんとうかんでいる。あれはきのう拝島の丘から立川あたりにみた雲でないかしら。きっと上空では風が吹きすさび、風のなかに波があって、その波があんなレンズ雲を生むのだ。  バスは玉川通りに出て仙川を、ついで野川を渡った。水と枯草のにおいがのぼってきて、武蔵野段丘から多摩川低地におりたことが知れた。駒井あたりでセイタカアワダチソウにまぎれた茎の長い一本の赤い花がとても猥褻《わいせつ》にみえた。飛田給で取りたてたカネでこんや春子を買うことを思いついた。  狛江で路線系統図の塔をみて飛田給を経由する唯一の路線、緑の線の「武51」、武蔵小金井行きに乗る。途中、密集する小住宅のなかに茅葺きの農家や庭のケヤキの大木が島のように点在する。飛田給でおりて取り立て先をめざす。ちっぽけな黒ずんだ平屋の一群のなかに入る。まず長屋を建て、それからわざわざそいつをカマボコふうにひとつひとつ切り離して並べたぐあいで、こういう連子《れんじ》窓とスレートを多用した貧相な住宅はかれが子供のころいなかの駅舎に隣りあった駅長や助役の宿舎に相似のものだ。きまって便所の半窓の外にはヤツデが植わり、ヤツデの葉っぱはいつも手水《ちようず》の水で濡れていて、台所の連子窓の外にはナンテンが赤い実をつけていた。  かれはなかなか取り立て先の家をさがしだせない。何度も一劃をぐるぐる回り、いつも同じちっぽけな空地に舞いもどってくる。たしかにこの場所だった。家が跡形もなく消えてしまったのだ。タクシーの運転手と妻とふたりの年子の男の子がいたはずの場所がきれいに整地されたただの地面に変り、鉄条網を張りめぐらされ、「立入厳禁 東京都住宅局」と大きな立札が立っている。一杯くった気がした。踵を返しかけたとき一本のナンテンがみえた。そこはたしかに台所の半窓があったところで、つづけて居間だったとおぼしきあたりの地面に一家四人の影がぼっと輪になってうかんだ。ふたつのちいさな影は小学校四年生と二年生の男の子のものだ。かれはすっかり踵を返した。再び駅前にもどると調布からきた国分寺行きを走ってつかまえた。  野川とそのむこうの段丘崖を右手にみて、そこから離れたり近づいたりしながらバスはほぼ西北西にむけて走る。崖を彩る紅葉はクヌギやコナラ、カエデやヤマウルシだろう。バスは丘にのぼり、丘を巻き、切通しや侵食谷を進む。武蔵野はバスの高さだけがいい。屋根と木が美しい。子供の頃、屋根返しという遊びがあった。かくれんぼうのひとつで、オニがゴムボールを持ってコドモをさがす。みつけるとコドモの名を呼んで庭から屋根にボールを投げあげる。コドモは屋根の下に走ってきてボールをじかに受けなければならない。だけどボールはいつも思いがけない軒の先からとつぜん落ちてくるのだった。いつまで待っても落ちてこないこともある。そんなときは樋《とい》や瓦溝にひっかかったか屋根のてっぺんをこえてむこうがわへ行ってしまったのだ。五円玉のゴムボールを青い毛糸編みのカバーで包んでくれた少女がいた。ある雨の日、応接間で女の子はその青いボールでマリつきをしてみせた。彼女は教室でいちばんのつき手だ。だがその日、ボールは他の手にあやつられたかのように彼女の手から高くそれ、いくつものバウンドをかさねてだんだん低くなりながら大きな長椅子の下に消えた。のぞきこんでもボールはみえず、火箸やはたきをつっこんでも空振りばかりで、ときどき出てくるのはボタンや綿屑ばかり、長椅子は重くてノボルとトオルがふたりしてもびくともしない。少女は泣きながら帰ってゆき、ボールは忘れられた。その直後あたりからだ。彼女がトオルの目ばかりみつめて話すようになったのは。そして二年ほどたったある日、少女はとつぜん坊主頭で登校し、さらに一年半後小学校の体育庫が焼けた。彼女の閉じこめられ凝集された怒りが自然発火したにすぎない。少女と体育庫、春子とエデン。ここにはあきらかな平行関係が存在する。  父親が死に、家をあけわたすことになって、大きくなったかれと弟の手で長椅子はかるがると動かされた。と、あざやかな青いボールが闇のなかから信じがたいほどのなつかしさで矢のように走り出て窓際までころがった。あらわになった床には埃が厚くふりつもり、へりにくっきり少女のちいさな手とスカートの裾を引いた跡が残って、そこにはまた新しい埃がうっすらと降りていた。  バスは西武多摩川線のガードをICUのわきでくぐった切通しの坂道で追突事故の渋滞にまきこまれてのろのろ運転になった。窓に切通しの断層が迫り、四つのロームが教科書的にくっきりうかびあがってくる。最上部の、木の根がはみだして垂れさがっている白っぽい土の部分、つづいてすこし暗い色でわれめの多い層、粘土化した灰色の土に白や黄色の軽石がはさまった層、底部にかすかに青灰色の粘土の露頭がみえる。このすぐ下には砂礫やシルトの扇状地が東京湾まで広がり、さらにその下には深い岩の層がある。扇状地の上に何十万年もかけて古富士からの火山灰が間歇的にシャワーのように降り注いで四つの厚いロームが形成されたのだ。  五円玉はひたいを窓ガラスに押しつけて、青いボールは青灰色の粘土の露頭に埋めようと思う。スカートのあとに降りつもった埃は白っぽい土の部分にまき散らそう。重い長椅子はどこに埋めようか。断層の上から下まで一瞬目を走らせたとき、突然かれは思いだした。ビントクボウとは父親がむかし長椅子を買ったという上海の通りの名前だ。黄色いクスリはきっとその通りの薬局で売っていたにちがいない。そんなはるかな幻のクスリを息子の五円玉はどうやって買えばいいのか。かれは長椅子を砂礫やシルトの扇状地に埋めることにする。ビントクボウと黄色いクスリは軽石の層に、そして少女の怒りや春子の胸のしこり、さらに五円玉が少女をめぐってトオルに覚えた疼《うず》きや、父親がどんなときもトオルしかみつめて話さなかったことに対する父親への怒り、それらすべてを深い粘土層の宙水のなかに魚のように閉じこめよう。厚いロームを形成したのは火山灰だけではない。この地層はオレの記憶の総量だ。たとえマリつきの少女など存在したことがなかったとしてもこの地層だけはかくじつに存在する。  バスがすこし進むと断層を上から下にギザギザに縦走する黒い縞が現われ、やがてそれがきのうの黒いポリのゴミ袋のかたちをとりはじめた。宙水にさえ閉じこめきれないものがある。そいつがこうしてあふれ出て、無分別に寄り集まり、ひとつのかたまりになり、バスがまたすこし進むとつられてそいつも動く。たちまち崩れ、雲のようにとび散りながら断層のなかを流れ、再びなにかのかたちに集束していこうとする。クルマと併走する子供のようにかれを追ってくる。トオルかもしれない。もうすぐトオルの姿になるぞ。しかし、そうなりきる前にもう崩れだし、別の形へと急ぎ、とつぜん凝縮しはじめ、手に握りこめるほどちいさくなったかと思うと無音のまま爆発し、とび散り、砕けた石炭となって地層のなかで渦を巻きはじめた。五円玉のからだはバスを抜けだし、渦に吸いこまれそうになる。やっとバスが渋滞を抜けだして速度をあげた。  国分寺駅についた。ひどく腹がすいていた。狭山へ行くまでにカネの工面もしなければならない。かれはバス路線系統図の塔をみあげた。いくつもの路線が色を違えてもつれた糸の束のように描きこんであり、乗換点や交叉点のすべて、同一線上を並んで走る路線の全番号が記入してある。この網状ソシキのなかから狭山へむかう路線をさぐる。おずおずとたどり、つっかえて立ちどまり、迷い、見失い、後退し、やり直し、ついに狭山へと直続する一本の曲りくねった路線を発見する。それは深紅の色で描かれた線、「狭99」だ。めぐる春子の血だ。  駅前のサラ金でふしぎな書類にハンコを押して五万円を借りた。あまりむつかしいことを言われなくてすんだが、男の店員は壁のへこみでもみるような目付でかれを追った。カウンターに山とつまれてあったティッシュペーパーをごっそりポケットにつっこんでそこを出た。きのう中断した狭山行きをいよいよ実行する時だ。五円玉は毎朝営業所でやる「店訓唱和」をぼそぼそとつぶやいた。進んでするのは上の上、まねてするのは中の中、言われてするのは下の下なり。 五 「狭99」のバスは、国分寺と小平の町と郊外を、氾濫原や洪積崖の半島の動かないうねりにしたがってのぼってはおりてゆく。工場や住宅展示場、野菜畑や苗樹園、ちいさな黄色い葉っぱを無数に風に飛ばしている丈高いケヤキの林などがひろがってはまた閉ざした。コロコロ、コロ、五円玉がころがってゆく、とかれは小声でうたった。「この下、地下溝」という表示が道路の脇に繰り返し現われる。狭山、多摩両湖の水が都内に配水されるのだ。バスはほぼ地下溝にそって走っているらしい。窓の下のしげみはノコンギクの匂いを漂わせた。  狭山丘陵は古多摩川のいちばん古い扇状地の残片で、四十万年前の最古の多摩ロームが丘陵全域に二十メートルの厚さで露頭する関東ローム層中唯一の島だ。海抜は五十メートルから六十メートルある。木の葉の形をして波状の起伏をつくり、谷は複雑に入り組み、分岐する。丘陵の下盤には関東ローム被蔽域中もっとも大きな宙水がある。深井帯で水にめぐまれない武蔵野台地のなかでの宙水は砂漠のなかのオアシスに匹敵する。この暗い地下の水のレンズが地上にあふれ出て狭山湖の原形が形成されたのだ。  バスはどんどん進む。地面ばかりみているとずいぶん遠くに運ばれているという気分になる。バスのなかでは遠い惑星のうえでのようにすこしずつ新しい生活に似たものができあがっていた。立野から乗ってきた中年男が座席のなかで葬式用の靴下とネクタイに取り換えだした。若い母親は背なかでむつかる赤ん坊をボールみたいに胸前に持ってくる。五円玉は真ん前の大きな背なかの老婆にどこまで行くのかと声をかける。しかし、老婆からはなんの答もなくて、ただ自分の声をきくことだけになってしまった。  とつぜん丘陵がみえはじめる。あちこち雲間を洩れるななめの陽光のなかでそれは水をのせてじっと動かぬうねりにふくらんでいる。そいつがかれを苦しめる。同時にそいつに対し奇妙なあこがれめいた気持が湧き起った。探偵も犯人にこんな気持を抱くものだ。  目の前で、老婆の広い背なかが波打ちだし、大きくうねった。長いしなびた手が背なかに伸びてきて、荒々しく何かを払うしぐさをしたかと思うとすぐに引っこんだ。背なかがかれを惹きつけた。うねりはまだやまない。きっとどこかがかゆいのだろう。かれはそこに目だけで武蔵野の地形を描いた。そして、地形の上にかれがこれまで架け渡し、織り込んだ網の目を転写していった。網の目のひとつひとつに谷や丘や水溜りや林がみえる。ああ、たしかにこれは春子のからだだ。そのとき、ふたたび老婆の手が背なかに伸びてきてせわしなく這いずり回り、かれがその手をずっとつけてゆくと、かれが描いた地形のなかでたくさんの回り道やためらいや逆もどりを繰り返したあげく、やっとひとところにたどりついた。 「ああ、ここだ」  と老婆は指で掻きむしりながらうれしそうな声をあげた。そこはちょうど狭山湖のあたりで、かれがひろげた春子のからだのいちばん暗い場所とぴったりかさなりあった。みつけたぞ、とかれはつぶやいた。そこへ行くことがなにもそこへ行き着くことじゃないんだ。  窓外を畑の黒褐色の土が吹きあがり、渦を巻き、銅色の壁となって南に走っている。畦道を一匹の黒白ぶちのイヌが走ってきて、壁のなかに立ちつくした。バスがとまった。名前がどこにも書いてない停留所だ。かれは立ちあがり、ドアが閉まる寸前にデッキの手すりをつかんで身を投げだすようにして飛びおりると、そのまま走りだしたバスのあとを追いかけて二十メートルほど走って立ちどまった。  東大和の駅から拝島線に乗りついで福生まで出た。電柱の広告についてゆくとかんたんにめざす産婦人科医院にたどりついた。ショートケーキみたいな白い建物だ。かれが入ってゆくと待合室にいた五人の患者がニワトリみたいに一瞬浮きあがって、それからじろじろこっちをみた。壁のあちこちにバラやアザミのドライ・フラワーをあしらい、低くかすかにBGMが流れている。ふつうの医院とはずいぶん勝手がちがう。産科なんてどうせ中絶の場所なのだ。  受付で初診申込書に書き込み、ハンコを押さされた。まるでサラ金でのやりとりを繰り返しているみたいだ。待たされるあいだかれは五人の患者を壁のへこみでもみるようにみやった。壁には受精から出産までの絵解きや啓蒙の標語がべたべたと貼ってある。 「人工妊娠中絶手術は優生保護法によって認められる次の五つの場合以外は厳しく禁じられております」  ザル法さ、どうせ、と五円玉はつぶやく。 「精子と卵子の出会いは正しい時と正しい場所で」  色刷りの絵解きは、ぼうっとした紡錘形のかがやきのなかのゼリー状のものからはじまり、右に一枚進むごとにだんだん大きく形をなしてゆき、青い羊水のなかで魚になったり鳥になったりまだニンゲンになるのをためらって色々形を変えてみているようだが、とつぜん瞳孔がひかり、手足や耳が出、骨の芯が血管みたいに縦横に赤くすきとおってゆく。  受付の女が顔を真横にして五円玉を呼んだ。すぐ診察室に行けという。なぜ他の五人より先なのだろう。看護婦がふたりいる。 「やっとダンナがきたな」  と年とったほうの看護婦が椅子をすすめて、自分も五円玉に対面してすわった。 「早めにいっしょにくるようにすっぱく言ってたんだ。コドモがほしい、コドモができない。それをまだ女ばかりのせいにする風潮が残っている。原因は半々なんだ。だから奥さんだけ調べてもダメなんだよ」  医者みたいな男言葉をきく。 「あんた、オタフクカゼやった……」  早口でたたみかけてくる。たぶんやってない、と五円玉はあいまいに答えた。 「リンビョウは……」  首を振って口ごもって、……オレはいったい何を疑っていたのだろう、と考えていた。すると、ふっと自分のぜんぶの考えがほんとうに久しぶりに立ちどまり、キョロキョロとあたりを見回し、そのうちに考えが消えてゆき、かれはどこかがらんとしたところに出た。看護婦の声がきこえた。 「あんた、コウガンという漢字、書けるか」  どう書くのか。思い出せない。いや、これまで一度も漢字で書いたことなどなかったのだ。……こんながらんとしたところで、オレはいったい何をさがしていたんだろう。そうだ、トオルだって何かをさがしていたんじゃないだろうか。オレとトオルはけっきょく同じなんだ。だからさがす必要なんかなかったんだ。愛するトオルさんへ、と手紙の冒頭に必ず書いてきた母親はとっくにそのことを知っていたんだ。かれは今夜母親に手紙を書いてやろうと思った。こんなふうに。……十年たったらトオルの顔はボクとそっくりになっていました。泣かないでください。トオルは死にました。安心してください。ボクがトオルになります……。 「書けないか。でもちゃんと持ってはいるんだろうな。このあいだ奥さんがあんまりあんたのこと心配するもんだから冗談で、イヌのキモがきくよ、っていったんだ」 「子イヌじゃないんですか」  看護婦の目付がさっきからちょっと変だ。彼女の視線を追ってみるとそれが五円玉の唇にたどりつくことがわかる。唇に妙な圧力を感じる。こっちが言おうとすることを先に読みとろうとしているのだ。かれも相手の唇をみることにした。 「それじゃ検査の順番を説明するよ」  といって五つの検査法をあげた。精液は用手法で採る。次は前立腺検査だ。とても先に読みとれるような内容ではない。 「そいつはどうやって採るんですか」 「コウモンに指をつっこむんだ」  と相手はひとさし指を立て、それを何度も折り曲げた。五円玉は思わず腰を浮かせ、 「だれがやるんですか」  と小声でたずねた。看護婦はもうひとりの若い女をちらっとみてから、 「自分でにきまってるじゃないか」  といった。五円玉は立ちあがって若い女にむかって、 「先生呼んでください。どこにいるんですか」  と声をふるわせた。 「先生はアタシよ」  目の前の女がいった。 「しっかりなさい。精子はアタマでつくるものよ」  ほんとうだ、この女の言うとおりだ。アタマがよくなくては疑いや嫉妬から離れられない。  医者が何か壁のものをかれにむかって指さしていた。五円玉は診察室を飛びだしながら、指さしたあとも指が花の上であともどりする蝶のように宙に残っているのを目の隅にみた。  うしろを振り返り振り返りアスファルトの道を走った。道の両側の電線がなぜかいつまでも目の高さにあるような気がした。電車に乗り、拝島でおり、駅からまた走った。曲り角ごとにまだ沈みきらぬ夕日に出会った。春子が福生くんだりまで行ったのはただ女医の産婦人科をさがしてたからなんだ、と思い当ってからもうそのことを疑わなかった。疑ったりさがしに出かけたりするより、オレにはイノチがけで守らなければならないものがあったんだ。  イヌが製粉工場の引込み線で貨車に轢かれそうになった。すべての視線をさえぎる黒い鉄のかたまりが通過して開け放たれると、そいつはむこう側の草むらで別の雌イヌとつがっている。五円玉のそばで蒼ざめていた男の子が、 「クロのバカヤロウ」  と泣きだしそうな声で叫んだ。アイツにはみえないのかなあ、とぶつぶつ言っている。まさかむこうに雌イヌが隠れていたとは知らなかったが、五円玉はクロが吸いこまれるように飛びだしていった気持がよくわかった。踏切の寸前で一瞬轟音《ごうおん》と振動が、そして貨車そのものが静止し、そこへかれのなかから一匹の黒白ぶちのイヌがのんびりと歩きだして行くのがみえたのだから。  クロがふっと全身の力を抜いて思慮深げな顔を空にむけた。雌が低く鳴いた。男の子がクロの名を呼んで小石を投げた。 「クロ、なにしてるの」  夕日のなかでクロがしていることが輝いてみえた。オレのコドモをほしがっているひとりの女がこの世にいる。そいつが春子なんだ。オレはその春子をはらませることのできるたったひとりの男なんだ。医者の力を借りなくたって、あの瞬間、クロのようにふっと力を抜けばうまくいきそうだ。力を抜けばいろんなものがみえてくるんだ。  気がつくとかれはクジラの谷のなかを走っていた。頭は葉の落ちつくした木のようになった。これまでほんとうにこんなにアタマを使ったことがなかったからオレはきちがいになるぞ、と思った。立ち止って暗闇のなかをすかしてみた。乞食の姿もリヤカーの影もすっかりなくなっていた。かれは地面に這いつくばり、できるかぎり身を縮めた。すると、丘のクヌギの樹間の地面すれすれのところにいくつもの星がまたたいているのがみえた。星たちは灌木のなかで子イヌのようにじゃれあっていた。あの光は春子やトオルにも届いているだろうか。いや、我々もまた星の素材でつくられたもの、星屑なのだ。  谷間を出て振り返ると、奥はひっそりと静まり返り、さっきと同じ星がこんどは林の上で輝いていた。  団地の広場で、小型トラックの荷台の幌《ほろ》をおろして帰りじたくにかかっている移動八百屋に出くわした。かれが五メートルほどに近づいたとき荷台の裸電球が消え、声をかけると二、三秒してまたいっせいについた。それは街の果物屋より豪勢にみえた。 「安くしますよ」  と運転台から若い男がゴム長靴を鳴らしてとびおりてきた。そして人なつっこく次々と品を手に取らせ、手に取ったものはすべてダンボール箱にほうりこんでいった。 「これぜんぶ買うといくらだい」  五円玉は指でぐるっと荷台をなどった。 「二十万てとこかな」 「買ってもいいよ」  かれはぼんやりと、これで店をやりたいな、と考えていた。八百屋は手をとめてかれを横目でうかがった。そして、急にいっぱいになったダンボール箱をかれに押しつけると、 「カネはいらないよ」  と言い残して運転台にとびのり、灯を消し、発車させた。  C5棟につくと、かれは子供たちのひそみにならって手すりにしがみつき、からだ全体を引きあげるように二段ずつゆっくりのぼった。ドアをあけるために廊下から身をのりだした春子がなつかしく匂った。のびきったからだがとても新しくみえた。はだしの足指の一本一本までが異常につややかだ。かれは野菜と果物のダンボール箱を高くあげて彼女にむかって振ってみせた。それから箱の中身をテーブルにぶちまけた。カボチャ、シイタケ、ニンジン、ウドやトウモロコシ。そして、イチゴにナスの紫紺の光沢が隣りあうと、そのあたりに回転する動きのようなものがうまれた。ピーマンは中で種のころがる音がする。かれは今夜カボチャを煮てくれるようくどくどと頼んだ。 「ごしょうだからむだづかいやめて。こんなのぜんぶうちの冷蔵庫にあるんよ」  五円玉はそれには答えず野菜をひとつひとつ手に取り、写生でもするみたいにあちこち並べかえてはためつすがめつする。レモンがない。たしかに入れたはずなのに。どこへやったのかどうしても思いだせない。そのとき、ザーッと水のあふれる音が耳の奥でかすかに鳴った。春子が果物と野菜をひとつ籠に盛ると、にぎやかだったテーブルのうえが急に静まり返った。それから彼女は急に秘密めかして長たらしい数字を何度も繰り返した。五円玉はいったいどこの電話番号だろうかと思案した。 「あたったのよ」  と椅子の背に腹を押しつけた。 「キモくったのか」 「宝クジにきまってるじゃない。岩泉で買ったやつよ」  二千万だろうか、二十万だろうか。 「一万円。万がつくのはじめてだわ」  そいつでこんやオレを買ってくれ、と五円玉はつぶやいた。それから井の頭線ガード下の宝クジを取りだすと、春子は手を急いでエプロンで拭いてちょっと拝むまねをしてからサイフにおさめた。  春子は夕飯のしたくにとりかかった。五円玉は一度居間のタタミに寝転り、しばらくぼんやり天井をみていたがそれ以上何もすることがないので立ちあがった。そして、立ってもまた何もすることがないので乾いた洗濯物のなかにもう一度寝転った。レンゲ畑を思いだした。やがてまた半身を起して、さもいい思いつきであるかのようにテレビのチャンネルをガチャガチャいわせる。 「金曜ってどうしてなにもないのかなあ」  と口にしたとたん、切りかわった画面に釘付けになった。渇水のニュースだ。かれは急いで音を消した。長い堰堤《えんてい》と赤いとんがり帽子の取水塔が映し出された。むきだしになった岸のロームはとっくにひびわれ、木と鳥の影を落している。水の上では水自身のこまかな影が揺れている。空には速い雲と遅い雲と動かない雲がある。夕焼けが近いのだ。ふと古い水とクルミの樹脂の匂いが鼻づらをかすめた。鳥が鳴いた。キルリキルリときこえた。かれの足は水にひたされた。 「入って。いい湯かげんよ」  とうしろで声がした。あわててスウィッチを切って振り返ると、春子がカボチャを持って立っている。 「煮てあげるからさっさと入って」  と流しにもどり、カボチャを切りはじめた。うしろからのぞきこむと、中身はほんとうにあたたかな黄色をしている。  春子は切りわけたカボチャを水と砂糖とミリンと、こいくちのヤマサで味付けをして鍋にしっかり蓋をした。それでもまだ五円玉は子供のようにぐずついた。あちこちに服を脱ぎちらかしながらやっと湯につかった。ザーッと大きな音をたてて湯があふれた。かれははっとなった。ずっとこの音が耳の奥で鳴っていたのだ。それがいま耳の覆いがすっかりとれて、いっぺんに何倍もきこえるようになったみたいだ。キルリ、キルリ。もう一度、こんどはもっとはっきり、鋭く鳴いた。黒つぐみの声にちがいない。  春子が替えの下着や湯上りタオルをひとつずつ持ってくる。その影がドアのすりガラスごしにみえる。鼻歌をうたいながらトイレに入ったり、タンスの上置きのガラス戸棚をあけたり、ベランダに出ていったりする。湯のなかにいてもそんな春子が手に取るようにみえる。もうさがさなくてもいいのだ。春子はやっぱりここにいたんだ。かれはいつもよりもていねいに力を込めてからだを洗った。ポリの湯槽《ゆぶね》はちっぽけだが、湯はふしぎに遠くまで広がった。  春子が煮付けたカボチャはうまかった。あとは春子自身を味わうだけだ。しかし、かれはすこし酔って、カボチャの煮付けをほめてばかりいた。カボチャにすがる気持だった。  こわごわテレビをつけ、音を消して誘いをかけようとするが彼女はいっかな乗ってこず、テレビの脇の鏡台で軽く唇の内側をかみながら化粧瓶をかき回したり、息を吐きかけて鏡をみがいたりする。かれが読み散らした夕刊をたいして音もたてずにまとめあげ、四つん這いにのびて押し入れの中にしまう。もどる途中で長い自分の抜け毛やかれが飛ばした切り爪をみつけて反対側の屑籠に捨てる。紙をまるめ、布をたたみ、チリやホコリを取り上げ、それらはまたたくまにどこへともなく消えてゆき、散らかった部屋は最初にすわった場所からたいして動きもしない春子の手でひとつずつ片付いてゆく。すべては手早いのにゆったりと水のなかにたゆたう気配がある。彼女の動きはチリやホコリの精細さに匹敵する。じつはそれはなにも今夜に限ったことでなく、彼女のアレルギーよりも古く、これからも繰り返し繰り返しつづくのだ。  春子を目で追うその追いかたがしつこかったのか、彼女に立たれてテレビの画像だけが残った。テレビは白黒の映画がかかっていて、古いフィルムの雨が長い白壁を苦しめている。伊豆で震度三、と画面の下をテロップが流れた。 「ハル、こい。伊豆で震度三だ」  そばに立った春子をみあげ、思いきって手をのばして尻を撫でる。 「こんややればできるんだけどなあ」  春子は風呂に消えた。湯をつかう彼女に耳をすませていると、張りだした木の枝の下の浅瀬の音がする。かれはその音に誘われる糸トンボのように近づいていった。ドアのすりガラスにぼうっと春子の影が映っている。静かだ。まるで宙水そのもののようだ。  かれは引き返してガラスコップの水を飲み干し、腕立てふせを二十回やった。  風呂あがりの春子のからだはチーズのような肌をしていた。かれは自分が腰の骨を中心に集められてゆくのを覚えた。深い入りかただった。底の感覚があった瞬間、春子のまなざしに湯気のようなかげが出た。からだはかれの下にいるのにきりもなく浮きあがってくる。彼女はけっして沈まない。水鳥はそのおびただしい羽根の容積のゆえに水底の泥に触れることはないのだ。 「ひどいわ」  煙ったような目付のまま春子がいった。 「きっとうまれるわ。わかるのよ」  五円玉はいったいどこで力を抜いたのかも覚えていなかった。ただキルリキルリと鳴く黒つぐみの巣になってゆくのを感じた。  ※ 犬かけて ton Kuna  ところが、アテナイ人諸君、私は誓って言うが(犬かけて ton Kuna)──なぜなら諸君には真実を語らなければならないから──、私は実際ほぼ次の如きことを経験したのである。 『ソクラテスの弁明』  犬かけて、とはソクラテスが神の名を挙げることをはばかる場合にその代りとして愛用した誓言法で、フランス人が PAR DIEU の代りに PAR BLEU というようなものである。 岩波文庫版 『ソクラテスの弁明』訳者注 初出誌 村の名前「文學界」一九九〇年六月号 犬かけて「文學界」一九八五年十一月号 単行本 一九九〇年八月文藝春秋刊 文春ウェブ文庫版 村 の 名 前 二〇〇二年三月二十日 第一版 著 者 原 登 発行人 堀江礼一 発行所 株式会社文藝春秋 東京都千代田区紀尾井町三─二三 郵便番号 一〇二─八〇〇八 電話 03─3265─1211 http://www.bunshunplaza.com (C) Noboru Tsujihara 2002 bb020303