原田宗典 27 目 次  改良型アメリカン・クラッカー  恥じらいのベルボトムジーンズ  想像力とリカちゃん人形  昔の長髪  よせと言われてよさない寄席《よせ》  アホ炸裂の吉本新喜劇  プロレス初体験  ビューテホーな宝塚  手に汗にぎる大井競馬場  懐かしのボリショイサーカス  何か腹立つ都庁  華の「シラノ・ド・ベルジュラック」  いい味出してる花やしき 「うへー」なスーパー歌舞伎《かぶき》  頭よくなる科学博物館  広いぞ東武デパート  浮いてるリゾナーレ小淵沢  天王洲アイルで拍子抜け  音楽について  縁の下の宝物  父の一言  十年前の部屋  自画自賛  お芝居の世界  消えてなくなる夢  父としてのテビエ  音楽は大事よね  早稲田茜屋珈琲店のココア  男に贈る花の意味  揚げものベストナイン  六月、父の帽子  叱られ上手が成功する  幕の内弁当型リゾート  21世紀の畳  前売券、二枚  デートコース再訪記  続ける  負ける自分  ハンガリーの味  デパート一階の香り  ビンロー  使えないコンタクトレンズ  強情な歯ミガキチューブ  頭くるポテトチップス  やんなる除湿なんとか  エロチラシの真実  焚火にポイする快感  穿《は》けないコットンパンツ  「27」使用上の注意(あとがきにかえて)  改良型アメリカン・クラッカー  御存知の通り、観光地の土産物屋には背骨が折れるほどのけぞってしまうような品が、しばしば置いてある。ぼくは個人的にこういう品を�腰くだけグッズ�と呼んでいるのだが、余りにも下らないと、その下らなさ故に購入してしまうこともある。最近では、ハンガリーの出店で見つけた超腰くだけグッズ、眼鏡式水鉄砲などが好例である。  これは掌《てのひら》に隠し持てるサイズの水鉄砲の引金部分から、透明のチューブがプラスチック製の眼鏡につながっているものである。使用方法はいたってカンタン。まず、引金部分の蓋《ふた》を開け、中に水を入れる。次に透明チューブを上着の袖《そで》の中へ通し、襟元から出す。この先端を、眼鏡のつるに穿《うが》たれた穴へギュウッと差し込む。しかるのちに引金をチュバチュバ引くと、中の水がチューブを通って眼鏡の眉間《みけん》の部分から、 「じょわああーッ!」  と発射されるのである。  うわああー、だから何なんだ。眉間から水が出たから何だってんだよう、と叫んで発狂したくなる逸品である。ちなみにこの製品のケースの蓋には、ものすごくハンサムな金髪青年がこのおポンチな眼鏡をかけ、あくまでもカッチョよく引金を引いて、眉間から矢のような水を発射している絵が描かれていた。ところが実際にこれを購入して試してみたところ、チューブ内の水は勢いよく発射されることはなく、いくら懸命に引金を引いても、 「たらたらたらあー」  と眉間から水が垂れて、自分の顔が無闇《むやみ》に濡《ぬ》れるばかりなのであった。しかもこの眼鏡のフレームの内側に妙な突起がいっぱいついているため、かけると顔が痛くて十秒と耐えられない。アウアウ呻《うめ》きながら引金を引かなければならないのである。これぞ正に超腰くだけ。信じて買った私が馬鹿でした、しかし神様何故このような試練をお与えになるのですかあッ、と天に向かってシャウトしたくなるような品であった。  素朴な東欧の地ハンガリーにもこのような腰くだけグッズが存在するのであるから、いわんや日本に於《お》いてをや、である。三角ペナントや木刀、通行手形やコケシなどは既に腰くだけグッズの古典とも呼ぶべきものであるが、つい先日訪れた遊園地で、ちょっと変わった腰くだけグッズを発見した。それは一見したところ、プラスチック製のやじろベーのようなものであった。長さ三十センチほどの細い棒の先が、三角形に枝分かれしている。そしてこの三角形の頂点部分が球形に膨れている。 「なんじゃこりは?」  と思って手に取ると、三角形と先端の球は一対で、棒を支柱にしてくるくる回る仕掛けになっている。いったいどうやって使用するのか? さっぱり見当がつかない。 「うーむ。ううう……」  ぼくはビデオの予約録画を命じられたサルのように苦悩した。するとそこへ小学校五年生くらいの少年がやってきて、その謎《なぞ》の土産物を手に取った。棒の部分を持って、上下に小刻みに振り動かす。するとその動きに合わせて一対の三角形とその頂点の球が上下運動を始め、互いにブチ当たって「カチカチカチカチカチッ!」と音を立てた。 「おおおッ、これはッ!」  ぼくは驚きの声を上げた。実に懐かしい。この音は少年時代に聞いたことがある。あの一世を風靡《ふうび》したアメリカン・クラッカーの音である。なるほどそのつもりで眺めてみると確かにこの品はアメリカン・クラッカー改良型とも呼ぶべき代物であった。どこがどんなふうに改良されているのかというと、まず棒である。昔のアメリカン・クラッカーに棒はついていなかった。そして衝突する一対の球が、三角形の支柱によってこの棒に固定され、円運動しかしない、というのも改良された点のひとつである。  見たことのない人には一体何を言ってるのかさっぱり分からないかもしれないが、ようするに安全になっているのである。子供たちはこの棒の先っちょを持ってブンブン上下に振り回すだけだから、硬い球が手や腕にブチ当たって怪我をする心配はない。よくまあ考えたものである。  しかし! しかしである。本当にこれでいいのだろうか。改良して安全にすればいいってもんだろうか。ぼくはこの気の抜けたコーラのように味気ない改良型アメリカン・クラッカーをカチカチ鳴らしながら、むらむらと怒りが込み上げてくるのを感じた。 「ナメとんのかワレはあッ!」  という気分である。こんなもののどこがおもしろいのだッ。アメリカン・クラッカーの醍醐味《だいごみ》は、失敗すると腕や手や頭に硬い球がブチ当たり「いててててッ!」と叫んで泣きたくなっちゃう点にこそあったのだ。難しいからこそ、首尾よくやってのけた時の喜びもひとしおだったのである。  若い読者諸君のために一応説明を加えておくが、初期型のアメリカン・クラッカーというのは、すごくシンプルであった。まず金属製のリングがある。このリングから太めの紐《ひも》が二本垂れていて、その先に球が二個くっついている。これだけである。ぼくら少年たちはこのリングの部分を持って、はあはあはあと息を整えた後、 「うおおりゃあ!」  と渾身《こんしん》の力をこめて腕を小刻みに上下運動させる。するとその勢いで、球が上下上下上下上下と半円を描きながらブチ当たり、 「かちかちかちかちかちかちかちかち!」  と何とも騒がしい音を立てる、という仕組みであった。だからどうした、と言われてしまえばそれまでだが、ぼくら少年たちはずいぶんとこの遊具に熱中したものである。一時期は「日本全国総カチカチ」と呼ばれるほど少年たちの間で流行した。  そういえばぼくがこのアメリカン・クラッカーを初めて手にしたのは、ずいぶん早い時期だったように思う。まだ周囲の友達は誰も持っていない時期に、新しいモノ好きの父親が買い与えてくれたのである。 「何コレ。このヘンなもの?」  ぼくは眉《まゆ》をひそめつつ、父親に尋ねた。すると父親は、せっかくお土産を買ってきてやったのに素直に喜ばない息子に腹立ちを覚えたらしく、やや険しい表情をして、 「何だお前、知らないのか。貸してみろ」  そう言ってぼくの手からアメリカン・クラッカーを奪い取り、説明書の図解を眺めながら、リングを持って、 「ふむふむ。これはなあ、こうやって持ってだなあ、こうやって……」  と腕を上下に動かした。すると二つの球はブンブンと唸《うな》りを上げて半円運動を始めたが、カチカチカチと二、三回音を立てただけで当たり損ない、父親の腕や顔に、 「ぱこぱこぱこおーん!」  と炸裂《さくれつ》した。父親は、ワチャチャチャッなどと叫び声を上げたが、息子の手前、威厳を損ねるわけにはいかず、必死に痛みを堪《こら》えつつ、 「むむむ。つまりこういうことだ」  と呟《つぶや》いた。ぼくは子供心に、実に痛そうな遊びだなあと思ったが、せっかくの父親の好意だったので甘んじてこれを受け、二時間ほど痛いメにあった後に、見事にコントロールできるようになった。  この例にも明らかなように、初期型のアメリカン・クラッカーというのは父と息子の絆《きずな》を結ぶ効力をも兼ね備えていたのである。それが何だッ、現代のあの改良型アメリカン・クラッカーは! 何が安全遊具だ。子供をナメるのもいいかげんにしろってーの。  恥じらいのベルボトムジーンズ  人には「あのことだけは忘れたいッ」という思い出が、ひとつやふたつあるものである。しかしどういうわけか、忘れたい思い出であればあるほど、忘れられなかったりする。どうも人間の記憶というのはそういう厄介な側面があるようなのである。  例えばぼくにとってベルボトムジーンズなんてえのは、忘れたい思い出のひとつである。最近、リバイバルブームとやらで、このタイプのジーンズの人気が復活しつつあるらしいが、首をかしげてしまう。 「あんなもののどこがいいのだ」  と言いたい。今の十代の人たちなんかは、あのジーンズが本当に流行《はや》っていた時代を知らないから、 「昔っぽいのよねえ。いいのよねえ」  などと軽い気持で穿《は》いているのかもしれないが、ぼくみたいに思春期にベルボトムジーンズの洗礼を受けちゃった世代としては、何だか苦々しいような照れ臭いような気分が強いのである。そのことについてはあまり触れてもらいたくない。できれば知らん顔して避けて通りたいような気がする。  というのは、ベルボトムジーンズを見ると、同時にそれを穿いてイキがっていた頃のパッパラパーな自分の姿が浮かんできちゃうからである。ベルボトムジーンズのあの奇妙キテレツなフォルムには、思春期の最中にあった自分の恥知らずな行為や、失敗や、挫折《ざせつ》がぼんやりと重なるのである。  知らない人がいるとは思えないが、一応解説を加えておくと、ベルボトムジーンズというのは裾《すそ》部分がベルのように広がったタイプのジーンズのことである。つまりボトムがベルなのである。あるいはベルがボトムなのである。これが全国的に流行したのは確か七〇年代の初頭から後期にかけてであったと記憶しているが、まあ何しろ当時はすごかった。日本全国どこへ行っても、ジーンズのボトムはベルだったのである。  流行りはじめの頃は、ストレートの裾がちょこっと広がったくらいの遠慮がちなカタチで、 「こんなんしてみましたけど、おとなしいでえす」  とでも言い訳したそうな雰囲気のものだったが、年を追うごとにエスカレートしていって、どんどん遠慮がなくなってきた。ベル部分の広がり具合に遠慮がなくなり、まるで三味線のバチあるいはイチョウの葉みたいな形にまで進化してきて、一歩踏み出すごとにバッサバッサと風を巻き起こすほどになったのである。ちなみにこの時期、人口密度の高い東京などが妙にホコリっぽく感じられた原因は、この超バッサバッサのベルボトムジーンズにあるのではないかとぼくは推測している。  裾の広がり方に遠慮がなくなっただけではない。流行につれてベルボトムジーンズは、ちょっと収拾のつかない方向へと変化し始めた。  まず色である。赤とか黄色とか、派手な原色のものが出てきたかと思うと、青と白のぶっといストライプのものも出てきた。さらに裾をほぐしてビラビラにしたり、表面にニコニコマークやチューリップのアップリケなどをくっつけたり、星形の鋲《びよう》を打ったり、 「んもう、どうにでもしてッ」  という感じに遠慮がなくなってきたのである。確かにまあ個性的と言えば個性的であったが、馬鹿と言えば馬鹿であった。当時の大人たち、例えばぼくの母親なんかは眉《まゆ》をひそめ、 「どうして裾が広がっている必要があるの? 分からないわ分からないわ」  と疑問をあらわにした。しかし思春期でもあり反抗期でもあったぼくは、口をとんがらかし、 「うるせーなー。大人にゃ分かんねーよお。これがいいんだよお。アッと驚くタメゴーローオー」  などと主張して、裾でバッサバッサと砂埃《すなぼこり》を巻き上げながら日曜日の新宿へ出掛けたりしていたのである。  うううー、はっきり言って思いっきり恥ずかしいぞう。当時の写真なんかを見ると、ぼくは死にたくなる。そのファッションはほとんど冗談としか思えないものだし、その表情も自信たっぷりで世間をナメている感じがして、我ながらイヤんなっちゃうのである。  しかしまあ、若さというのは基本的にほとんど冗談としか思えないものであるのだから、これでいいのかもしれない。でも本音を言うと、ベルボトムジーンズだけは、二度と流行ってほしくないものである。やれやれ。  想像力とリカちゃん人形  ところでぼくには今年四歳になる娘がいる。  あどけない赤ちゃんだと思っていたところが、最近になって妙に知恵がついてきて、なぞなぞを出題したり嘘《うそ》をついたりするようになってきた。遊びにしてもかなり込み入った内容のものを好むようになってきて、相手をするのが結構大変だったりする。中でも特に大変なのが、リカちゃん人形遊びである。  言うまでもなくこの遊びは、リカちゃん人形を使って行うオママゴトのような遊びであるが、キャラクターの性格や生活環境を把握しておかないと、たちまちオママゴトの物語に破綻《はたん》をきたし、娘に軽蔑《けいべつ》されてしまう。 「ちがうでしょ! リカちゃんのパパは作曲家でしょ!」  などと叱《しか》られて、困惑することもしばしばで、三十男の面目丸つぶれと言っても過言ではない。  そうやって何度も叱られながらリカちゃん人形遊びをしている内に、ぼくはふと幾つかの疑問を抱いた。  リカちゃん人形の歴史はかなり古く、ぼくが小学生であった頃から、女の子の間ではポピュラーな遊びとして定着していたように思う。ただ当時と今とでは、キャラクター設定にかなり変化があるようなのである。  例えばリカちゃんのパパ。  現在のパパは作曲家であり、国籍はフランスという設定になっているらしい。しかしぼくが小学生であった頃のパパは、確かパイロットだったように記憶している。国籍も確か日本で、ママの方がフランス人だったように思う。ま、いずれにしてもリカちゃんはハーフである、という点だけは変わっていない。今も昔も、少女たちのハーフに対する憧《あこが》れは、かなり根強いものがあるようである。  今でこそ外人は珍しくも何ともない存在になってしまったが、ぼくが小学生の頃はめったにお目にかかることのできない、貴重な存在であった。たまの休みに繁華街などへ連れて行かれ、偶然外人とすれ違ったりしたら、 「ががががが外人だあッ」  などと目を丸くして見送り、んもう胸がドキドキしちゃったものである。当然、翌日学校へ行ったらまっさきにそのことを自慢し、 「おれは外人を見た!」 「目は青、髪は金色だった!」 「腕に毛が生えていた!」 「身長は十五メーターくらいあった!」  などとどんどん話を誇張し、友人たちを羨《うらや》ましがらせたものである。  この例にも明らかなように、少年たちにとっての外人観というのは、�強く大きくカッチョよく�という三点に代表されるものであったが、少女たちにとっての外人観というのも、似たりよったりであったろう。�スタイルがよくて美人でお金持ち�という三点を、少女たちは外人女性の中に見出していたように思う。  リカちゃんというのは、ようするにこの三点を満たしたウルトラC的存在であったのである。しかも完全な外人ではなく、 「半分日本人なのよね」  という点に、少女たちは親近感を覚えたのである。  三つ年下のぼくの妹も、例にもれず、このリカちゃん人形遊びに熱中したクチで、雨の日などに家の中で暇を持て余していると、しばしば遊び相手をさせられた記憶がある。 「じゃ、あたしはリカちゃん。お兄ちゃんは犬ね」  などと役柄を与えられて、犬をやったり猫をやったりしたものである。本来ならば、リカちゃんの相手役はアキラ君、もしくはワタル君という男の子の人形と相場は決まっていたのだが、生憎《あいにく》妹はそういう人形を持っていなかった。当時、リカちゃんファミリーはどんどん増えつつある途中であり、テレビのコマーシャルなどでも、 「リカちゃんトリオはなかよしだーかーらあー♪」  てなことを歌いまくって、少女たちにやれ買えそれ買えと迫っていたが、よほど裕福な家庭でなくては、リカちゃんファミリーを全員|揃《そろ》えるなんて夢のまた夢であった。  したがってぼくの妹も、たった一体のリカちゃん人形を中心として、ぬいぐるみの犬や、紙でできた人形なんかを相手にして�ごっこ�を構成するしかなかったのである。そういう妹に哀れを感じたのか、兄としてのぼくは結構協力的な態度で、飼犬や飼猫を演じてやった記憶がある。 「じゃあ、ここはリカちゃんのお家ね。ここが玄関でえ、靴のまま入れるの。そいでもって、ここが階段でねえ、ラセンになってるの」  などと言って、妹はいつも架空の家を六畳間に構築するのであった。確かリカちゃんハウスとやらが発売されたばかりの頃だったから、それに触発されての行為だったろう。  この架空の家造りという遊びは、少年であるぼくにとっても、かなり面白い遊びであった。別に特別な材料を必要とするわけではなく、そこらへんに転がっている積木や新聞紙、ノートや空缶など、何を使用してもよろしい。要は想像力の問題で、どんなに貧しい材料を使用しても、お城のように素晴らしい家が構築できるので、滅法面白かった。 「一階にロビーがあって、ここはねえ、ダンスができるくらい広いの。それでねえ、その奥がお風呂《ふろ》なの」 「いやいや、待て待て。中庭があった方がいいんじゃないのか」 「ナカニワってなーに?」 「中庭は中の庭だ。家の中に庭があるのだ。いいだろう」 「うん。いいような気がする」 「んでもって中庭の向こうに風呂があるのだ。だから風呂から中庭が見えるようになっておってだな、とってもワンダホーなのだ」 「ゆきこの部屋も庭が見えるところがいいなあ」 「お前の部屋は二階なのだ。二階の南向きで、広さも十畳くらいあるのだ」 「お兄ちゃんの部屋は?」 「おれの部屋は三階がいいなあ。広さは百畳くらいあって、全長二百メートルの豪華レーシングカーセットが置いてあるのだ。ぬははは!」 「ゆきこの部屋も百畳がいい」 「お前はダメ」 「ずるうーい!」 「お前は妹だから十畳でいいのッ! チビのくせに贅沢《ぜいたく》を言うな!」 「ひどおーい」 「るせいるせい!」  てな具合に、最後は喧嘩《けんか》になってしまうのが常であったが、ぼくと妹は小さな頭を寄せ合って、架空の家造りに勤《いそ》しんだ。初めはリカちゃんのための家であるはずが、いつのまにか自分たちの暮らす家を作ろうとしてしまうのが特徴であった。  あの遊びはなかなか楽しかったなあ、とシミジミ思うぞ実際。  昔の長髪  今どきのお嬢さんたちは御存知ないことと思うが、その昔、長髪というのは反体制的な意味あいをもつヘアスタイルであった。  まあ最初のきっかけはビートルズの髪型あたりにあったのかもしれないけど、六〇年代後半から七〇年代にかけては、髪を長く伸ばすことによって、 「俺《おれ》は逆らってんだかんな!」 「体制に対して怒ってんだかんな!」 「怒髪天をついちゃってんだかんな!」  というような主張を無言の内に知らしめる効果があったのである。ただカッチョいいから伸ばす、という人も大勢いたかもしれないが、もともとはそういう意味あいを含んでいたのである。  従って現在流行している長髪と、当時の長髪との間には、同じ長髪でも大きな隔たりがある。現在の長髪は、あくまでもファッション。 「みんな短い髪をしてるから、俺は長髪にして個性を際立たせちゃうもんね。目立っちゃうもんね」  という意識で髪を伸ばしている人が多い。だから長髪といっても不潔感は全然なく、オッシャレーに決まっているのである。一方昔の長髪というのは、前述の通りキナ臭い主張がこめられているために、清潔感とかオシャレ感はどっちかというと二の次であった。あるいは逆に不潔感があればあるほど、 「体制に強く逆らっている」  という意識があった。何も髪の毛で逆らうこたあねえだろう、という御意見はごもっとも。ぼくもそう思う。髪の毛が短くったって、青年の主張はできるはずである。しかし当時の青年たちはただもう闇雲《やみくも》に、 「まず髪の毛から逆らうのだッ」  と思い込んで疑わなかった。ま、時代というものであろう。  かく言うぼくも、そういう時代の中で青春期を送った男性の一人として、当然髪の毛を伸ばしていた。まあ小学生の頃は母親に命じられるまま、一月に一度は床屋へ赴き、ボッチャン刈りなどにしていたが、中学の半ばくらいから、 「これじゃいかーん!」  と思い始めて、床屋へ行くのをやめにした。ボッチャン刈りの�ボッチャン�という響きが、堪え難いほど恥ずかしく思えたし、周囲の友人たちも何となく長髪を支持し始めたからである。  また一方で、ちょうどこの時期に吉田拓郎の「結婚しようよ」という歌が流行《はや》ったことも、ぼくを長髪に駆り立てる原因のひとつとなった。この歌はぼくと同年代の人ならおそらく誰もが知っている歌だが、一応年少の読者のために歌詞を説明しておこう。 「ぼくの髪がー肩まで伸びてー、君と同じにー、なあったーらー、約束通りー、町の教会でー、結婚しようよー」  と、まあこんな具合の歌なのである。ぼくら単純な中学生は、歌い出しの「ぼくの髪が肩まで伸びて」という部分にえらくシビレた。 「やっぱ髪の毛は肩まで伸ばさなきゃいかん。じゃないと将来結婚できんかもしれん。拓郎もそう言っておる」  てなことを考えて、せっせと髪を伸ばし始めたわけである。  しかしながら三ヵ月も床屋へいかないでいると、髪の毛は非常にカッチョ悪い状態で伸びてくる。本来なら床屋なり美容院なりへ行って、カッチョよく見えるようにカットしながら伸ばす、という方法をとるべきなのに、そんなことはこれっぽっちも思いつかなかった。 「長髪にしたいなら床屋へ行かない」  これしかないッと思い込んでいたのである。  ところが現実には、ただ髪の毛ボーボー状態になるばかりで、一向にカッチョよく決まらない。四ヵ月めに突入した頃、どうしてなんだろうとようやくぼくも悩み始めた。  床屋へ行かずに放っておけば、やがて髪は肩まで伸びて吉田拓郎状態になる予定だったのに、どっちかと言うと林家ペー状態になってしまった。これはぼく自身の髪質にも問題があったのだろうが、ようするにサラサラと流れるような長髪ではなく、四方八方にボーボーに伸びまくって、 「妙に頭のでかい奴《やつ》」  という印象を醸したのである。これは実にカッチョ悪い。  さすがに恥ずかしくなって、朝、登校する前に髪の毛に水をつけてベタベタと押しつけ、何とかごまかしてはみたものの、二時間もしない内に水は蒸発して、授業中に頭がもりもりもりッと盛り上がってくるのが自分でも分かる。おかげでぼくは休み時間のたびにトイレへ行って、髪の毛を濡《ぬ》らさなくてはならなかった。間抜けもいいところである。  一方、口うるさい母親もそんなぼくの髪の毛を黙認するはずもなかった。顔を見るたびに、 「床屋行きなさいよ」 「みっともないわねえ」 「あたしゃご近所に恥ずかしいよ」  などと、考えつくかぎりの愚痴をこぼし、ぼくを悩ませた。  しかしそのような数々の逆境にもメゲず、ぼくは決して髪の毛を切ろうとしなかった。文句をつけられればつけられるほど、 「逆らうんだもんねッ!」  というかたくなな態度になるあたり、七〇年代なんだなあと思う。  さてそんなふうにして中学時代のぼくは、林家ペー的長髪を保ち続けたわけだが、高校に入学してしばらくすると、少々事情が変わってきた。詳しい経緯は角川文庫刊「東京困惑日記」に書いたからそっちを読んでもらいたい(おおっとチャッカリ宣伝だあ)のだが、ようするに高校二年生のある日を境に、ぼくは不良になることを決意したのである。まず服装から徐々に不良化していったのだが、しばらくすると、今度は髪型も不良化させる必要を感じた。ところがぼくは相変わらず長髪を維持し、これに執着心を抱いていたので、 「床屋へは行きたくないなあ」  と考えた。しかしながら長髪を保ちながら、なおかつ不良的な髪型を目指すというのは、かなり無茶な計画であった。不良の友人に相談してみたところ、彼はチックという強力な整髪剤があるということを教えてくれた。 「それで固めちゃえばいいじゃん」  というアイデアである。ぼくは早速この計画を実行に移してみた。大きめのスティック糊《のり》みたいな形をしたチックをベタベタ髪の毛に塗りたくり、これが乾いてしまう前に形を決める。 「やっぱリーゼントだよな」  と、長い前髪をぐっと後ろへやって、掌《てのひら》で整える。ところが余りにも髪の量が多いために、どうやっても上手くいかない。予想以上に盛り上がって、ウルトラセブンあるいは常磐津《ときわず》のお師匠さんみたいな髪型になってしまうのである。ぼくは目がくらむほどガッカリし、不良的髪型をあきらめた。と同時に、長髪に対する執着も嘘《うそ》のように消えてなくなってしまった。  よせと言われてよさない寄席《よせ》  おそらく若いお嬢さんたちは行ったことがないだろうが、寄席という場所がある。名前が名前だけに「よせ、よせ」と訪れるのを止められているような気がしないでもないが、行ってみるとこれが案外面白い。ライヴの楽しさというのは、こういうことを言うのだなあと、改めて実感できる。  例えばぼくがこの度訪れたのは新宿|末広亭《すえひろてい》の六月中席・夜の部であったが、パンフレットにずらららッと並んだ出し物とその演者の名前を目で追うだけでも、 「うー、面白そうだッ!」  と期待が膨らんでしまう。寄席だから落語ばかりだろうと思うのは素人のアサハカサ。漫談あり漫才あり講談あり奇術ありで、何しろ盛り沢山なのである。  ぼくが入ったのは午後七時を過ぎていたので、最初の方の演目をいくつか見逃してしまったのだが、その中には、 「曲ごま/やなぎ女楽」  なんてえのもあって、いったいどんなことをやったのだろう、爪先《つまさき》とか鼻の頭とかケツの上とかでコマをぐるるるーんと回したのだろうか、ちきしょう見たかったなあ、と後悔しきりであった。  寄席のお客さんはおおむねジジババで占められ、 「ジジイは暇ですけんのう」 「ババアも暇なのよね」  といった半ば投げやりな雰囲気が客席にみなぎっていたが、予想していたよりも若い人の姿も目立った。なかなか可愛《かわい》らしい女子大生風の娘や、 「ワタシことばワカリマセンけどヨセのフンイキたいすきでーす。アイラブらくごソーマッチ」  とでも言いたげな外人女性などが、桟敷《さじき》に座って真剣なまなざしを高座に向けていた。ちなみにこの外人女性は、最後まで一度も笑わなかった。あんなので楽しいのかしらん。  寄席の楽しみは、まあとっかえひっかえ色々な出し物で笑わせてもらうことだが、それ以外にも、情緒を肌で感じるような楽しみ方もある。寄席は普通の椅子《いす》席が中央にあり、両脇《りようわき》は桟敷になっていて、靴を脱いで上がる。高座の頭の上には「中村歌右衛門」なあんて書いた提灯《ちようちん》がぶら下がっていたり、上手の奥で三味線がベンベン鳴ったり、太鼓がどんどこ響いたりして、とにかくもう全体的に、 「おー、ジャパニーズ」  という感じなのである。さすが伝統芸能。しかし歌舞伎《かぶき》などと違うのは、やはりもともとが下世話なものであるからして、どことなくお茶らけた雰囲気が漂っているのがウレシイ。お嬢さん方も、たまにはジジババに混ざって、大いに笑ってみては如何《いかが》でしょうか。  アホ炸裂の吉本新喜劇  最近あの吉本がすごい、のである。  あの吉本というのは、言うまでもなく(なら言うなってーの)吉本興業のことである。その吉本の何がどうすごいのかというと、今まで関西の方でずうううーッとワンパターンでやってきたことが、ここへきて関西以外でも爆発的にウケ始め、調子づいた芸人たちが怒濤《どとう》のがぶり寄りで東京を制覇しつつあるのである。基本的に吉本の芸人たちというのは、いずれ劣らぬアホ揃《ぞろ》いであるからして、調子づいちゃうとハドメがきかない。とめどないアホパワーで「アヘアヘアヘ」あるいは「のーみーそパーン」もしくは「ごめんやしておくれやしてごめんやっしゃー」などと叫びつつ、東京一円をアホ一色で染め上げてしまいそうな勢いなのである。 「こんなことでいいのかッ!」  と、愛と正義の人であるぼくは唐突なギフンに燃え、東京のバカ代表として新宿シアターアプルに於ける吉本新喜劇特別公演へと向かったのである。  その結果。  いやー、わいの負けや。やっぱ何ちゅうかこう、関西のアホと関東のバカとではスケールが違うのでおますまんねんでっせ。吉本新喜劇のギャグというのは、んもう宇宙的なバカバカしさである。 「まゆげボーン!」  何故、これが可笑《おか》しいのか。説明できる者は誰もいない。 「カンカンヘッドは男のロマンやないけー」  これがどうして可笑しいのか。やはり誰も説明できない。ただ笑うばかりなのである。シアターアプルを訪れていた観客の多くも、そのへんのことは十分に分かっている様子で、一々理解しようなどとはせずに、ほとんど反射的に笑っている人ばかりであった。これこそ吉本新喜劇の正しい観賞態度である。  だからこそ、二部構成の第一部「寄席ごっこ」は少々食い足りない感があった。芸人たちがそれぞれに、それなりに稽古《けいこ》を積んで手品だの曲芸だの歌謡漫談だの浪曲だのに挑戦してはいたものの、何だかちょっと�理屈�になってしまっていた。観客の多くはそれでも喜んでいたが、心の片隅では、 「なーんか違うなあ。反射的に反応できんぞ」  と感じていたはずである。今さら素人芸に毛の生えたようなものを見せて、一体何になる? やはりアホはアホ一筋。アホを極めてこその吉本ではないか。  プロレス初体験  そういえばぼくはその昔、かなり熱心なプロレス少年であったのだ。秋田書店(だったと思うが)から出ていた「少年プロレス入門」などという本を購入して、4の字固めやカナディアンバックブリーカーやコブラツイストの研究をし、その研究成果を妹に試してみたりしたものである。おかげで妹は現在ずいぶん性格の歪《ゆが》んだ女になってしまったが、ぼくが悪いわけではない。プロレスが悪いのである。  もちろんその本に載っていたプロレスラーの名前なども暗記したし、テレビでやっていたプロレス中継も欠かさず観戦した。そしていつの日かタイガーマスクのように覆面を被ってマット界にデビューしちゃうもんね、リングネームはムネノリマスクっていうんだもんね、ほいでもって得意技は電気アンマだもんね、などと見果てぬ夢を思い描き、拳《こぶし》を固めたものである。  しかしながら、どういうわけか少年原田はプロレスを生で観たことは一度もなかった。あれほど好きだったのに、どうして試合会場へ足を運ぼうとしなかったのか、不思議でならない。やはり怖かったのだろうか。そうこうする内に少年原田は青年原田に成長し、プロレスに対する興味を急速に失っていった。 「あんなものはヤラセだ、ヤラセ」  などと広言して憚《はばか》らないようになってしまった。  ところが青年原田がおじさん原田に成長(というか単に年とっただけねこの場合)した今頃になって、プロレスを生で観る機会を与えられたのである。某月某日、ぼくは久し振りに少年時代の気持に戻って、何となくわくわくしながら後楽園《こうらくえん》ホールへと向かった。  このホールを訪れるのは二度めである。一度めはボクシングの四回戦ボーイの試合を観戦するために訪れた。ま、どっちにしても格闘技だから、会場の雰囲気は似たりよったりだろうと思っていたのだが、これが大違いであった。ボクシングの場合は、会場全体に冷たい緊張感のようなものがみなぎっていたのだが、プロレスの場合は何ちゅうかイキナリ大盛り上がり大会という感じである。まず何つってもプログラムの売れ行きが違う。ぼくも一冊購入したのだが、このプログラムときたら、んもう「プロレスですけんね!」という押しの強さなのである。表紙にどどーんとジャイアント馬場のアップの写真。赤字と金字で、 「創立19周年 栄光のジャイアント・シリーズ」  と百メーター先からでも読めるように銘うっている。有無を言わせぬインパクトである。中にはレスラーの紹介がずらずら並んでいるのだが、その一々にキャッチフレーズがついていて可笑《おか》しい。例えば、 「殺人医師/スティーブ・ウイリアムス」 「筋肉獣/ダグ・ファーナス」 「恐怖の宙返り男/ビリー・ブラック」 「怪猫火砕流/ファイヤー・キャット」  という感じ。んもうどいつもこいつもスゲエ体をしていて、こんな奴《やつ》とだけは夜道で会いたくないッ、イヤイヤッ、といった風体である。  席について待つこと三十分。場内が徐々にガヤガヤし出した頃、ついに第一試合のゴングが鳴った。力道山Jr.の百田光雄と新人浅子覚の試合である。始まってすぐに、 「おッ、これは意外と面白いぞ」  と思った。確かにプロレスはショーの要素が強い。だから本気ではなく嘘気《うそき》の部分で試合は進むのだが、白熱してくると、この本気と嘘気の境目が曖昧《あいまい》になってくるのである。 「あッ、今のは効いてないようだが効いてるようでもあり効いてないようでもあるが、やはり効いてるのか?」  と思えるシーンが続出するのである。第二試合のシングルマッチも、第三試合のタッグマッチも、そういう本気と嘘気の境目で勝負が続く。試合が進むにつれて、場内は徐々に興奮のルツボと化していく。観客には意外なほど女性の姿が多い。しかも、結構|可愛《かわい》い娘が多い。彼女たちも当然、ルツボの一部と化しているのである。 「リッチー、きゃああ。リッチー!」  なあんて叫んで、外人選手を応援したりしているのである。その様子を見て男性の観客はさらに興奮し、 「ばかやろリッチー、やられちまえー!」  などと叫ぶのである。このヘンの何とも言えない男女間の愛の葛藤《かつとう》が、これまたプロレスの楽しみのひとつと言えそうである。  さてぼくが観た日の試合で、一番の見所と言うと、やはりジャイアント馬場の出場する第四試合であった。ラッシャー木村とタッグを組んで、永源遙・大熊元司と戦ったのであるが、これがもう大笑い。試合と言うか、ほとんど漫才状態である。四人が四人とも年寄りであるから、リング上はジジイのルツボ。ババだけどジジなのである。  いやー、一服の清涼剤とでも申しましょうか。リングに咲いたジジイの花とでも申しましょうか。ジャイアント馬場は今や歩くのも大儀そうなのである。そういう状態であるにもかかわらず、パンツ一丁で試合をしているのだから、いかに可笑しいか想像できるであろう。 「馬場になら勝てるかもしれない」  そう思ったぼくは、ぐぐッと拳を固めるのであった。小説家なんかやめて、ムネノリマスク復活の夢を追い求めちゃおうかしら。うーむ。いいかもしれない。  ビューテホーな宝塚  いやあ、それにしても先月行ったプロレスの試合はおもしろかったねえ。と、感慨にふける間もなく、もう今月である。さて何を観に行こうかと担当編集者さだ坊(一応成人女性です念のため。坊というのは可愛《かわい》らしさを表現する接尾語であると理解してちょうだい)と話し合っていたところ、ぼくは唐突にヒラメいた。 「宝塚がいいぞう!」  宝塚というのは、もちろんあの宝塚である。略称ヅカ。女の人が男の格好をしてキンキラキンの衣装で現れ、 「あーいー。そーれはあああーまくう」 「こーいー。それはせつーなくう」  などと歌ったりする。あの宝塚のことである。  何故唐突に宝塚を観たいと思ったのかというと、ひとつには先月のプロレスとの対比という意味がある。プロレスは男の世界。そして、宝塚は女の世界。この対比がおもしろいのではないかと、考えたわけである。しかもぼくはこれが宝塚初体験。今までにも何度か観ようと誘われたことはあったのだが、どうも気恥ずかしくて腰が上がらなかった。何ちゅうかこう、女子トイレをこっそり覗《のぞ》いちゃうような後ろめたさがあったのである。しかし本心を言えば、覗いてみたくないこともない。 「一体全体何がどうなっているのか。ミナサンどうなさっているのか」  という好奇心は、常に抱いていたのである。隙《すき》あらば覗いてみたい。しかし恥ずかしい。でもやっぱ見てみたい。だが逃げ腰なのよね。というような文学的|懊悩《おうのう》を繰り返していたのである。だからこういう取材にかこつけて、 「仕事なんだかんね!」  という態度で観に行けるというのは、願ってもないことであった。  てなわけで某月某日、ぼくは日比谷《ひびや》にある東京宝塚劇場へと足を運んだ。担当編集者さだ坊と待ち合わせをしたのは十二時半であったのだが、見事に寝坊してしまい、到着したのは一時半であった。申し訳ない。  あせあせと漫画走り(足が八本くらい生えちゃう走り方ね)をしながら劇場前に到着し、息を整えつつ周辺を見回す。開演前と開演後はこの近辺、女の渦と化すのであるが、さすがに開演中は静かなものである。ふと見上げたポスターには、 「宝塚歌劇花組公演・ヴェネチアの紋章/ジャンクション24」  というタイトルが書いてある。何でも今回の公演は大浦みずきという花形スターの引退興行であるらしく、チケットがあっという間に売り切れたとか。従ってぼくら取材班は一般席ではなく、放送席から観劇するという手筈《てはず》になっていた。臨場感という点ではちょっといただけないが、まあ仕方ない。  入口前まで迎えにきてくれたさだ坊に先導されて、さっそく一階の放送室へと乱入する。舞台は既に幕開きから三十分ほど経っている。  ガラス越しに目を凝らすと、舞台上にはお城の中庭といったセットがあり、ハデハデの衣装をつけたマルコという男と、彼よりもさらにハデハデハデの衣装をつけたリヴィアという女が、ひそひそ話をしているシーンであった。いやー、すごい。インド人もびっくりの絢爛《けんらん》さである。 「うーむ。これはすごい」  と感心していたところ、隣にいたさだ坊がつッつッつッと顔の前で西洋風に指ワイパーをして、 「こんなもんじゃないですよう。さっき結婚式のシーンで主人公のアルヴィーゼとリヴィアがモレッカを踊ったんですけど、それがすごかったんですからあ」  と言った。うーむ。アルヴィーゼとリヴィアのモレッカか。何だかわけ分からんけどそれはすごそうだ。んもう名前だけでまいりましたッ、という感じではないか。それにしても宝塚はアルヴィーゼだのチュチュリーノだのラビアンローゼだのヴィットリオだのという巻き舌関係の名前が好きみたいである。こういう名前の人が何人も出てくると、ぼくなんか気が狂いそうになる。しかもこのハデハデ衣装とハデハデ舞台装置。じっと見つめていると、頭の中は果てしなくパパパヤーな世界にワープしてしまうのであった。  さて第一部「ヴェネチアの紋章」は、ぼくが遅刻したせいもあって、あっという間にわけも分からないまま終わり、二十五分の休憩を挟んで第二部「ジャンクション24」が始まった。これはまあ簡単に説明するなら、楽しい歌謡ショー、というヤツである。これを最後に引退する大浦みずきを中心に、宝塚花組が総力をあげて歌いまくり、踊りまくる。その眼目は当然「ハデ」ということである。何しろ衣装がすごい。ラメ入り、なあんて生易しいものではない。んもうラメラメもラメラメ、全ラメ状態なのである。基本的に地味な性格のぼくは、眺めている内にまたもや気が狂いそうになった。  特にすごかったのはやはりラスト。有名な大階段がどどーんと出てきて、主要な出演者が下りてくるシーン。トリをとった大浦みずきは全ラメのホワイトシルバータキシードに身を包み、お尻《しり》には巨大な羽飾りをつけて登場である。いやいや、すごいすごい。目の極楽目の極楽。すごすぎて拝みたくなっちゃうようなハデさである。  てなわけで、初体験の宝塚はやはり予想通りワンダホーでビューテホーでラメラメな世界であった。おじさんは驚いて頭痛くなっちゃったぞ。  手に汗にぎる大井競馬場  何なんだこの連載はァ! とお感じの読者も多いことでしょう。いやいや、ぼくもそう思います。何しろ落語から始まって吉本新喜劇、プロレス、宝塚ときて、今度は競馬だからなあ。一体何を考えておるのだ、というご意見ももっとも。せっかくだからその疑問にお答えしましょう!  何も考えてないのである。  おもしろそうだなあ、と思えば、それが別にイベントじゃなくても出掛けて行って様子を窺《うかが》ってくる、というのがこの連載の眼目なのである。わはははッ、どうだまいったか。  てなわけで今回は競馬である。  一昨年あたりから女性の競馬場進出のイキオイが激しい。特に夏のトゥインクルレースなんかは、ファッションとして捉《とら》えられているらしくて、女性客の姿がやけに目立つ。  確かに競馬は楽しい。だからぼくは女性が競馬場へ行くことに反対を唱えないけど、あまりにもあけっぴろげに楽しまれちゃうと、ちょっと一言ある。おじさんたちの立場に肩入れしたくなっちゃうのである。  基本的に競馬場というのは、哀しいおじさんたちの吹きだまりというか溜息《ためいき》というか、何ちゅうかこう陰性の風がぴゅうううーと吹いたりしている場所なのである。CMなどでは一生懸命に、 「明るくて陽気で楽しいですよう。だからガンガンお金使ってね」  という面ばかりを強調している様子だが、それはほんの一面にすぎない。日本の競馬場は、英国のそれのように社交場としての機能を果たすまでにはいたっていない。なーんか寂しいのである。博打《ばくち》なのである。だからそういう場所に、なあーんにもわきまえない女性が、 「大丈夫大丈夫、パンツ見えても大丈夫なんだからあ」  というようなキワドイ格好で大挙して訪れちゃったりすると、 「哀しいおじさんの立場はどうなる!」  と意見したくなっちゃうのである。頼むから競馬場にはパンツ見えないような格好で行ってくれい。パンツはそれ以外の場所で見せてもらえば文句はないぞ。歓迎だぞ。  てなことをわざわざ言いたくなるほど、夏のトゥインクルレースにはパンツ見えちゃいそうな女性が多く見受けられた。今回もそうなのだろうか、とぼくは期待いや心配していたのだが、さすがに寒い時期のしかも平日とあって、女性の姿はさほど見当たらなかった。  場所は大井競馬場。JRなら浜松町からモノレールでふたつめの駅である。ぼくと担当編集者さだ坊(♀)、そして何故かくっついて来たサッシー編集部のタカハシ(♀)の三人組は、 「うー、ちょっと寒いぞう」  と背を丸めながら、競馬場のゲートをくぐった。時刻は午後二時半。既に八レースが終了しており、残すところは三レースである。  まあ一レースめから目の色を変えて賭《か》けまくる、というテもないではないが、競馬初体験のさだ坊もいることだし、かるーく三レースいきましょうか、というノリである。競馬に限らず、賭事《かけごと》というのは中庸が肝心。ほどほどにしておかないとたちまち身を持ち崩して哀しいおじさんになり果てたりするのである。  さてぼくら三人は入口|脇《わき》で購入した競馬新聞を眺めながら、地下通路をくぐって馬場の内側の観客席へと赴いた。外側のスタンド近辺を「人生賭けてまっせ玄人ゾーン」とするならば、この内側の場所は「所詮《しよせん》遊びなの素人ゾーン」に相当する。券売場も百円から買えるし、全体的にアベックや女性の姿が目立つ。中央にレースの様子を映す巨大スクリーンがどどーんと立っており、この前がビヤガーデン風の造りになっている。夏はここでビールなど飲みながらレース観戦すると、最高に気持いいのだ。 「あのー、私この桃ってやつにします。ピーチだから」  などと、ピーチ編集部員のさだ坊が唐突なことを言い始めた。 「なぬ? 桃? そんな馬がいるのか」  と競馬新聞を覗《のぞ》き込むと、さだ坊が言っていたのは旗手のかぶる帽子の色のことであった。一応分かりやすいように、枠別に色違いの帽子をかぶる決まりになっているのである。 「うーむ桃ねえ。いいかもしれない。しかしよくないかもしれない」 「どっちなんです?」 「どっちだか分かれば苦労しないわい」 「当たらないんですか?」 「当たれば苦労はないわい」 「だって原田さん、儲《もう》けさせてやるって言ったじゃないですかあ」 「あれは冗談だ」  などとトンチンカンなことを話しながら、ぼくらはそれぞれ馬券を購入した。アレヨアレヨという間にレースは始まり、アレヨアレヨという間に終わった。競馬というのはこういうものである。実に呆気《あつけ》ない。 「今のどうなったんですか? 桃は勝ったんですか?」 「うーむ。よく分からんけど、ダメだったみたいね桃は」  と暗い顔をするさだ坊とぼくの脇で、タカハシが馬券を握りしめ、 「やりいッ! とったとったあ!」  などと叫んでいる。  悔しい。悔しいがいかんともしがたい。勝てば官軍。これが競馬場のオキテなのである。うううッ。  懐かしのボリショイサーカス  まだほんの子供だった頃、確か小学校に通い始めて間もない頃に、父親に連れられてサーカス見物に行ったことがある。場所は水道橋の後楽園、サーカスは言わずと知れたボリショイの一座であった。  当時は今と比べると子供の娯楽というのが極端に少ない時代で、「ガキは、棒っきれ持って原っぱで遊んでろ」というような風潮があったので、サーカス見物なんていうとこれはもう一世一代の大イベントなのであった。当然ぼくは見物日の数日前から異様な興奮状態に陥り、頭の中がボリショイボリショイボリショイボリショイと全面的にボリショイ状態になって、居間でくつろぐ父親や台所に立つ母親をつかまえては、 「本当に熊がオートバイに乗るのか?」 「本当に大男が綱の上を歩くのか?」 「本当にワタアメを買ってくれるか?」  などと矢継早な質問を浴びせかけるのであった。その蛇のようなしつこさには父親も母親もさぞウンザリしたことであったろう。  実際に見物する以前からそれほど興奮していたのであるから、当日ともなると大変であった。後楽園球場の横っちょに建てられたテントを見るなり、ぼくはおしっこ漏れちゃうほどの喜びに震え、卒倒しそうになった。座席についたらついたで、やれワタアメだポップコーンだと手当たり次第にお菓子をねだり、わくわくしながら開演を待った。  いよいよ始まったボリショイサーカスの公演は、んもう言葉を失うほど素晴らしかった記憶がある。具体的に覚えているのは巨大な灰色熊がオートバイに乗ってそこらじゅうぐるぐる走り回ったことと、竹馬を穿《は》いたおじさんが天井に届くほど高く跳ね上がったことと、銀ラメの衣装を着たねーちゃんがやけに色っぽかったことくらいだが、その華やか極まりないショーの印象は、少年時代の黄金の記憶として今もぼくの脳裏にぱんぱかぱーんと残っている。  そのボリショイサーカスに、ぼくは二十数年ぶりに行くことになった。いやが上にも期待がたかまってしまうのは、無理からぬことである。ぼくはあの黄金の思い出を自分の子供にも与えてやろうと考え、切符を二枚取ってもらった。もうすぐ四歳になる上の娘を連れて行き、その喜びの笑顔を眺めようと思ったのである。  某月某日、ぼくは娘の手を引いて、東京ドーム脇《わき》のボリショイサーカステントへと赴いた。平日の昼間だったので客席はガラガラなのでは、と思いきや、なんのなんの大入り満員である。テントを見ただけでぼくは軽い興奮状態に陥り、 「どうだどうだ、すごいだろう!」  と娘に自慢した。別にぼくがテントを建てたわけではないのだが、何だか自慢してみたかったのである。しかし娘はテントを見ただけでは大して驚かず、 「うん。すごいねえ。すごいから風船買ってね」  などと言うばかりである。どうやら彼女はサーカスよりも風船に興味があるらしく、後楽園のゲートを潜った時から、ずっとそのことばかり言っている。後で買ってやるからと言い含めて、ぼくらはテントの中へ入った。席は前から三番めで、熊の息がかかりそうなほどの距離である。 「うーむ、素晴らしいぞうッ!」  あくまでも風船にこだわる娘をよそに、ぼくは一人で興奮し、一人で盛り上がっていた。  待つこと三十分。生バンドの派手な演奏とともに、いよいよショーが始まった。キビキビとした動作で舞台上に団員が集まり、まずはシーソーを使ったアクロバット。竹馬を穿いて空中高く飛び上がる例のヤツである。ぼくが子供の頃に見たそのままの鮮やかさである。演者がシーソーを使ってぴょおおおーんと飛び上がるたびに、場内からは、 「おおおッ!」 「どよどよどよおッ!」  という歓声が上がる。もちろんぼくも大袈裟《おおげさ》に、 「ひょええー!」  などと叫んだが、隣にいる娘の方をチラリと見ると、彼女は意外にも冷静な顔をしてステージを眺めている。 「すごいでしょう!」  と尋ねてみると、彼女はうむうむとうなずき、 「すごいねえ。風船買ってね」  などと言いやがるのである。ぼくは猛烈に腹が立ってしまい、 「お前! 一生懸命やってる旧ソビエトの皆さんに悪いと思わんのかあッ!」  と娘に向かって説教したくなったが、そんなことをすれば逆効果である。子供とつきあうのは、こういうとこが難しいのである。  そうこうする内に演目は次々に展開され、いよいよお待ちかね、熊の曲芸と相なった。クールな娘も、これにはまいったらしい。ダンスを踊ったり、逆立ちをしたりする熊に、ヤンヤの喝采である。その様子を見てぼくは、 「連れてきてよかったー」  と泣きそうになったが、熊たちが曲芸を終えて去ってしまうと、彼女はぼくの顔をまじまじと見て、 「今の熊、本物?」  と尋ねた。ぼくは何だかガックリしてしまった。本当に子供って、親の思い通りにはならない生き物だなあと再認識した次第である。まったく熊の方がよっぽど扱い易いや。  何か腹立つ都庁  東京の人なら、誰でも東京都庁のことを知っている。いや、地方の人だってその存在は知っているだろう。  なにしろ目立つ。  完成前から議論百出、完成してからも都知事選挙にからんだりして、かなり話題になったから、日本中の注目を集めたと言っていい。  ところが、実際にこの都庁を訪れたことのある都民というのは、意外と少ないのではないだろうか。ちなみにぼくは周囲の友人十五人ほどに「都庁へ行ったことがあるか?」と尋ねてみたが、NOが十四人、YESはたった一人であった。YESと答えた女性は、都庁へパスポートの申請に行ったとのことである。 「へー、都庁でパスポート申請できるんだ?」  これは初耳であった。裏を返せばそんなことすら知らないのである。ほとんどの都民は都庁へ行ったら何があって、どんなことができるのかまったく知らないと言っていい。自分が払った税金でドドーンと建てたのに、そんなことでいいのか。使わなきゃソンじゃないの、えッ、どうしてくれるのよ。と、貧乏性のぼくなんかは思ってしまうわけである。そりゃあイヤイヤだけど、一応税金払ってるわけだから、ただ遠くから眺めるだけじゃなくて、一度くらい中を確かめておかなくちゃ、くやしくてしょうがないではないかコノヤロ。  てなわけで今回は、東京都庁の見学だあッ、ということになった。  場所は言うまでもなく新宿西口高層ビル街。新宿駅の改札をくぐって西口の地上へ出ると、林立する高層ビルの中にあっても一際異彩をはなつ風貌《ふうぼう》の都庁ビルが、 「どうだあッ!」  という感じで聳《そび》えているのが眺められる。巨大なのですぐそばに思えるけど、実際に歩いてみると、駅からは結構な距離がある。なかなか到着しないので、歩いている内に段々やんなっちゃう。ビル風は吹くし、辺りの風景は殺伐としてるし、見上げれば威圧感がひしひしと伝わってくるし、何だか疲れちゃうのである。  そういう疲労感を押し殺しつつ、駅から十五分ほど歩くと、ようやく都庁の正面玄関に到着する。いつもは遠くから他人事《ひとごと》のように眺めるだけだったので、ただ単に「でけえなあ」という印象しか抱かなかったが、いざ中へ入るという目的を持って近くへ行ってみると、その威圧感にはあらためて驚かされる。やー、でかいでかい。 「まいったと言え!」  という感じである。我々都民の一人一人からちょびっとずつ税金を集めるとこんなものが建っちゃうのね、ムネノリったらサプライズだわ、なんなのよこれは、である。 「ということはつまり、俺《おれ》が都民の一人一人から五百円くらいずつ集めて回ると、かなりの家が建っちゃうということよね。うーむ」  と、あらぬことを想像しながら、玄関をくぐり、ロビーへと足を踏み入れる。どーんと吹き抜けになった、たいそう立派なロビーである。実に広々としていて、ゆとりと言えばゆとり、無駄と言えば無駄なスペースである。こういう広々とした立派な場所へ来ると、ぼくはなんとなくオドオドしてしまう癖がある。 「しかし考えてみれば、このタイルの一枚の三分の一くらいは俺の税金でまかなったに違いないのだッ! だからエバッていいのだッ!」  と考えなおし、鼻息もムフムフとロビー内をうろついてみる。うろつくことによって、支払った税金分を取り戻してやるのだ、という魂胆である。しかしいくらうろついても疲れるばかりで、ちっとも得をした気分にはならない。馬鹿みたいである。 「そうだ噂《うわさ》の展望室だ! ぜひ昇るぞ。昇って税金分取り戻すぞ!」  そう思い返して、四十五階展望室行きのエレベーター前へと急ぐ。竣工《しゆんこう》直後はかなりの行列ができていると聞いていたので覚悟していたのだが、たいしたことはなさそうである。十五人乗りくらいのエレベーター前に、約百人の行列。エレベーターは一分で一階と展望室を結んでいるらしいから、十五分も待てば乗れる計算である。  ぼくは列の一番後ろにおとなしく並び、時を待った。するとそこへ守衛というか行列監視係というか、とにかくエレベーター前の行列の仕切りを仕事としているおじさんが現れ、やけに怒った様子で、 「はいはい、もっと詰めて詰めて。前へ詰めて。四列になって!」  と言い放った。おじさんはものすごくエバッているのである。 「このビルは俺のものなんだかんな、見せてやっから逆らうんじゃないよお前たちはあ!」  という感じなのである。おじさんはしきりに四列になれということを強調しながら、並んでいるぼくらを威嚇しまくった。ところがぼくの前に並んでいる二十人ほどの若者の一団は、おじさんの言うことをちっとも聞かずに、相変わらず二列や一列のまま、辺りをキョロキョロ見回している。おじさんは怒った。 「ちょっとあんたたち! 四列になれって言ってんのが分かんないの? 詰めるんだよ前へ!」  んもう顔真っ赤、である。するとそこへ前の方からおばさんが走ってきて申し訳なさそうにこう言った。 「すいません、この子たち留学生なんですう」  これを聞いておじさんは絶句し、何ともばつの悪そうな顔でじりじりと後ずさった。おじさん敗北の図である。辺り構わずエバリ散らすと、こういう恥ずかしい目にあうという教訓である。みんなもよく覚えておくように。  てな経緯の後に、ぼくは四十五階展望室へと至った。むろん入場無料である。なにしろ税金払って俺が建ててやったんだかんな、金取られてたまるかよニャロメ、という心境である。  確かに展望室からの東京の眺めは素晴らしかった。実に遠くまで一望のもとである。しかし、だから何だってんだ、という思いがこみ上げるのを抑えることができない。もっと謙虚なモン建てて税金下げろよなあ、と思うのはぼくだけではあるまい!  華の「シラノ・ド・ベルジュラック」  その日、ぼくは焦っていた。開演時間に遅れそうだったのである。  ピーチ編集部のさだ坊に頼んで、せっかく取ってもらった「シラノ・ド・ベルジュラック」のS席。驚くなかれ二万二千円の席である。二万二千円と言えば一万円札が二枚と、千円札が二枚である。ということはつまり、五百円のカレーライスなら四十四杯も食べることができるし、四百円の立ち食いソバなら五十五杯も食べることができちゃうのである。これはすごい金額ではないか。その二万二千円を、たかがお芝居のために! 「立ち食いソバ五十五杯の方がいいような気もするぞう!」  と、内心思いながらも、最早チケットは手元にあるのだからしょうがない。もう観るしかないのである。にもかかわらず、ぼくは開演に遅れそうになった。焦らない方がおかしいではないか。 「これに遅れたら立ち食いソバ五十五杯に対して申しわけない!」  などとあらぬことを考えながら、ぼくは厚生年金会館へとひた走った。走るだけじゃ間に合いそうになかったので、途中からタクシーに乗って急いだ。  おかげで何とか開演五分前に間に合って、ぼくは溜息《ためいき》をもらしつつ、ロビーへと足を踏み入れた。大変な賑《にぎ》わいである。 「老いたりとはいえ、さすがジャン = ポール・ベルモンド!」  と思わせる盛況。しかしながら料金が料金だけに、客層にかなり偏りがあるようにも思える。なーんか有閑マダム風、ブルジョワ風、お嬢さま風、金持ち風、といったお客さんが多い。そのへんの小劇場のお客さんと比べると、やっぱ着てる物が違う。紅茶のことを「お紅茶」なあんて言って、カップを持つ右手の小指がついつい立っちゃうような感じ……バブルの残り香とでも申しましょうか、つまりまあ全体的にバブリーなのである。 「うーむ、ついてゆけん」  ぼくはそう呟《つぶや》きながら客席内に入っていき、自分の席を探した。座席の番号を眺めながらどんどん前の方へ進んでいくと、「なあんと、前から四列め中央!」だったのである。これはもう、砂かぶりというか汗かぶりというかカブリツキというか、とにかく絶好のポジションである。 「これならばジャン = ポールの鼻毛まで見えちゃうなあ」  などと思う間もなく開演ベルが鳴り響き、ほどなく幕が上がった。いよいよ始まりである。  第一場は「ブルゴーニュ座」。金かかっとるなあ、と感心してしまうような豪華なセットと衣装である。フランスの小さな芝居小屋を模したセットのあちこちに、フランス人の俳優たちが勢揃《せいぞろ》いして、当然フランス語で台詞《せりふ》を喋《しやべ》り始める。 「おフランスだよ全員集合」  という感じである。  ぼくは大学時代に第二外国語として一応フランス語を選択していたのだが、これがアダとなって一年留年してしまった経験の持ち主である。恥ずかしながら、今ではフランス語で七まで数えることもできない。だから普段なら目の前にフランス人が現れただけでも、「ひええー、なんまいだなんまいだ」  と念仏を唱えたくなっちゃうところであるが、どっこい大丈夫。事前にチラシを読んで『字幕スーパー付き』だと明記してあることを確認しておいたのである。 「ふっふっふ。フランス語は苦手だが、日本語は得意なのだよアケチ君」  と余裕シャクシャクである。  ところが実際、この字幕スーパーというヤツには大きな落とし穴があった。どこに字幕スーパーが出るのかというと、舞台の上の方。はるか天井に近い部分……何つって説明したら分かり易いかなあ。えーと、人間の顔にたとえるなら、おでこの辺りに字幕スーパーが出るのである。これは二階席から見下ろす分には絶好のポジションなのだろうが、一階席しかも前から四列めから見上げるには最悪のポジションなのである。眺めるだけで首が痛くなっちゃう。しかも舞台上の演技にも目をやらなきゃならないので、上を向いたり下を向いたり上を向いたり下を向いたり上を向いたり下を向いたり上を向いたり下を向いたりし続けなければならない。ラジオ体操第二の首の運動をずーっと続けているような感じである。  やがて主役のジャン = ポール・ベルモンド扮するシラノが華やかに登場した。ぼくの意識は当然、舞台上に向かおうとする。 「おおお、ジャン = ポール。カッチョいいぞう! 華があるぞう!」  と感心するのも束の間、彼が喋り出すと慌てて上方の字幕スーパーを見なければ話の筋が分からない。マッハの速度でそれを読んで、 「なるほどなるほど、今シラノはそう言ったのね」  と理解するやいなや、すぐに舞台上に視線を移してジャン = ポールの動きを追い、 「なるほどなるほど、今シラノはそう動いたのね」  と理解しなければならない。あっちを読めばこっちが観られず、こっちを観るとあっちが読めない。にっちもさっちもいかない状況である。これを無理に両方堪能しようとするなら、マッハの首運動が必要となる。  このためにぼくは開演三十分もしない内にヘトヘトに疲れた。で、もう字幕を追うのはあきらめて、ジャン = ポール・ベルモンドつまりシラノ・ド・ベルジュラックだけを観ることにした。この人にはさすがに何十年もの間スターとして生きていた輝き、華があって、眺めているだけで楽しい。この舞台にかける情熱も、言葉ではなくて「気」の流れとして伝わってくる。  しかし周囲の役者がどうもイマイチであった。特にロクサーヌ。ちっとも魅力的に見えない。やや知的で内に情熱を秘めるタイプに役作りをしたのかもしれないが、完全に失敗している。二人の男が、特にシラノのような人が半生を投げうってまで愛するに足る女性とは、とても思えない。何かシンキ臭くて鈍感で独りよがりな女に思えただけである。どうしてあんなロクサーヌをジャン = ポールは相手役として選んだのか、今もって謎《なぞ》である。  いい味出してる花やしき  浅草はぼくの好きな街のひとつである。  どうして好きなのかというと、浅草は浅草だからである。そんなの当たり前じゃーん、などと言わないでもらいたい。浅草は、他のどの街にも似ていない。浅草はあくまでも浅草、誰が何つっても浅草なのッ、という態度を保ち続けているところがワンダホーである、とぼくは思う。  何しろ浅草には誇るべきものが沢山ある。雷門の巨大|提灯《ちようちん》、浅草寺《せんそうじ》、仲見世《なかみせ》、雷おこし、浅草|煎餠《せんべい》、浅草|海苔《のり》、浅草六区、最近じゃアサヒビールのビルの屋上にどどーんと意表をついて設置してあるワケ分からんウンチ的黄金オブジェなども、誇るべきもののひとつに数えられるであろう。  聞くところによると、あれはフィリップ・スタルクという有名なデザイナーの手によるもので、東洋的な魂をイメージしたのであるらしいが、どう見てもウンチとしか思えない。しかしながらその形状は確かに浅草的意表をついたものではある。  さて、このように数ある浅草の誇りの中にあって、忘れてならないのは、花やしきの存在である。  花やしき。  んもう名前だけでも浅草らしいではないか。ぼくがこの遊園地を最後に訪れたのは、小学校の四年生の時であるから、かれこれ二十数年ぶりである。あんまり昔のことなので、記憶が所々あやふやになってしまっているが、オバケ屋敷がやけに怖かったことは鮮明に覚えている。ビビリながら一歩足を踏み入れたとたん、頭上から巨大な生首がどひゃあーと落ちてきて、おしっこチビリそうになった記憶がある。それから花やしきの正門前にあった見世物小屋のことも忘れられない。 「世にも恐ろしいヘビ女」  とオドロオドロしい字で描かれた看板をはっきり覚えている。あんまり怖かったので中には入らなかったのだが、あの看板だけでも十分にインパクトがあった。  二十数年前のそんな思い出を反芻《はんすう》しながら、ぼくは久し振りに花やしきの門をくぐった。入場料大人五百円。東京にある他の遊園地に比べると、破格の安さ爆発である。しかも乗物もやけに安い。二百円、三百円がほとんどで、一番高いTP−1という乗物でも五百円である。 「おお、リーゾナボー」  と思わず拍手をしたくなっちゃう安さなのである。  さて園内に入ったぼくは、まず有名な花やしきジェットコースターに乗ることにした。これは日本最古というフレコミの、骨董《こつとう》的価値のある乗物である。値段は三百円。百回乗っても三万円である。  このジェットコースターの特徴を手短に述べるなら、安い・小さい・古い・短いという四点に尽きるであろう。最近のジェットコースターは何ちゅうかこう大仕掛けで、シートベルトなんかもメカニックな感じのものが多いのだが、花やしきは違う。まるでおさる電車のような規模で、ぼくみたいな大男が乗るのは少々|憚《はばか》られる。シートベルトだって、あるのかないのか分からんような代物で、ほとんど用をなしていない。しかもコースが短く、あっという間に終わってしまう。  しかしながらこれが、実際に乗ってみると結構怖い。何しろ古いので、途中で壊れちゃうんじゃないかという恐怖感がある。周囲に建て込んだ住宅の軒先をかすめるようにしてカーブを曲がるので、必要以上に怖い。その上、動きが乱暴なのである。曲がり方も落ち方も、まったく手加減なしにイキナリ「わッ!」とくるので、結構びっくりする。これで三百円はなかなかのお買い得なのではないだろうか。  さてジェットコースターの次は「衛星塔」というやけに未来的な名前の乗物である。ま、早い話が観覧車なのだが、これがまた実にもう浅草らしい。客の乗り込むブースが、家の形をしているのである。室内は三畳一間、といったオモムキ。この家がクレーンによって空中高く吊《つ》り上げられ、 「あー、だりいなあー」  といった速度でゆっくりと回転するのである。浅草|界隈《かいわい》のゴチャゴチャした家々が一望のもと。銭湯なんかもすぐそばに見えたりして、楽しいんだか楽しくないんだかさっぱりワケ分からん風景である。  花やしきにはこの他にも、最新鋭の体感マシーンTP−1をはじめとする乗物も一応|揃《そろ》ってはいるものの、これらに関しては取り立ててヤンヤヤンヤと騒ぐほどの感動はない。花やしきの良さは、やはり浅草らしさにあるのだから、他の遊園地では味わえないモボモガ的なムードを楽しむべきなのである。  それからぼくが爆笑してしまったのは、衛星塔下の売店。ここには謎《なぞ》の飲物「マリファナドリンク」というものが置いてある。厚いボール紙に汚い字で、 「ジャンキーな君もOKさ! 秘密の味わいマリファナドリンク」  などと書いて、堂々と販売しているのである。ま、どんなものであるかは、実際に花やしきへ行って試してみるがよろしい。  この売店のオバチャンというのも実にこういい味出している。ぼくが煙草を吸おうと思って、 「すいません灰皿貸して下さい」  と頼んだところ、ここは禁煙なんですと困惑顔で答え、 「でも止むをえない場合は吸ってもいいです」  と付け加えた。禁煙だけど止むをえない場合はいいなんて、実に浅草らしいアバウトな感じがニジミ出ていて、ぼくは身悶《みもだ》えして喜んでしまった。こういうオバチャンがいる限り、浅草は永遠に不滅だし、花やしきも永久にいい味出し続けることであろう。好きだなあ、浅草。 「うへー」なスーパー歌舞伎《かぶき》  市川|猿之助《えんのすけ》はすごい、という噂《うわさ》はだいぶ前から耳にしていたが、実際にその舞台を目にしたのは割と最近のことである。  二年ほど前に横浜アリーナで催された猿之助演出の「スーパーオペラ」なるものが、ぼくにとっての猿之助初体験であった。これはまあお芝居というよりも運動会に近い感覚のもので、とにかく唖然《あぜん》とするほど広い会場を、唖然とするほどダイナミックな演出で満たし、観客を「びっくりしたなモー」の世界へ引きずり込む、という大掛かりな見世物であった。ぼくが台本書きとして関わっている東京壱組の大谷亮介と余貴美子がこの舞台に参加していたので、新幹線に乗って新横浜まで見物に行ったのである。観終わった後の感想としては、 「すごいなぁ」 「派手だなぁ」 「まいりました」  という三種類の印象が残った。これはまあごく一般のお客さんが猿之助の舞台に関して抱く、ごくノーマルな反応であったろう。  後日、役者としてその舞台に参加した大谷に、猿之助の印象を尋ねたところ、 「とにかくパワフルでエネルギッシュな人だ」  という答えが返ってきた。何ちゅうかこう、カラダ全体からスタミナのオーラのようなものが発散されているのだそうだ。聞くところによると、猿之助は朝からステーキをもりもり食べるのだとか。 「うーむ、朝からステーキ……」  んもうこれだけでも「まいりました」という感じである。逆に考えると、朝からステーキを食べないともたないほど、エネルギッシュな舞台を創り上げているのだということである。  その後、役者としての猿之助を歌舞伎座へ観に行き(確か「義経《よしつね》千本桜」だったと思う)あらためて感服した次第である。ぼくよりもだいぶ上の世代の人が、こんなにもガンバッている様子を見せつけられると、 「いかん! こうしちゃいられない」  と居ても立ってもいられない気分になる。猿之助の舞台からは、そういう刺激的な何かがビビビと放射されているのである。  てなわけで今回、猿之助のスーパー歌舞伎「オグリ」鑑賞に赴いた。場所は新橋演舞場。猿之助という人は、まあスーパーオペラもそうだったが、やたらに�スーパー�が好きなようである。もちろんこのスーパーは、近所でネギ買ったりカレー粉買ったり豚肉コマギレ三百グラム買ったりするスーパーのことではなくて、すごいぞという意味の方のスーパーである。猿之助の歌舞伎は普段からスーパーであるのに、その上にわざわざ�スーパー�と冠しているからには、これはよほどスーパーなのだろう。つまりウルトラスーパー、あるいはスーパースーパーとも呼ぶべき舞台が展開されるのであろう。それはいったいどんなものなのだ。想像もつかないので観るしかあるまいと勢い込んで、スーパースーパーと鼻息も荒くぼくは新橋演舞場へ赴いたのである。  四時半の開演に五分ほど遅れて、ぼくは演舞場に到着した。五分くらい押して始まるだろうとタカをくくっていたのが間違いのモト。既に明かりが落ちて、場内は真っ暗であった。案内嬢の後に従って席へ向かいながら、ふと舞台を見上げると、キンキラキンの衣装をつけた役者が二人、正面を向いて立っている。その内の一人、下手寄りに立っているのが猿之助であると、一目で分かる。 「華だなあ」  とぼくは感心した。役者の華というのは、どこから滲《にじ》み出てくるのか分からないが、まるでオーラのようにその人の全身を包んでいるのである。以前この欄で紹介したJ = P・ベルモンドもそうであったが、やはり名を成している役者というのは、演技の上手下手を云々《うんぬん》する以前の特徴として、華を持っている。こればっかりは本を読んだり、他人の芝居を観たりして学ぼうとしても学べないもので、 おそらく本人にも、 自分のどの部分が�華�であるのか分からないであろう。もちろん菊人形のように全身に花を飾り、 「どうだどうだ。俺は花があるど。むろん鼻もあるど」  などと言い張っても無駄なことである。役者の華は、鼻や花とは違うのである。  てなことを考えながらぼくは猿之助の鼻、いや華に見入った。まあ見事なものである。スーパー歌舞伎「オグリ」は途中二度の休憩を挟んで約五時間にわたる壮大な物語であるのだが、各幕それぞれに見せ場をちゃんと設けて、観客を飽きさせない配慮がなされている。最初は上演時間五時間と聞いただけで、 「うへー」  と食傷気味であったが、実際に観てみるとあっという間(というのは大袈裟《おおげさ》だな。さすがに五時間も「あー」なんて言い続けられんもんな)に過ぎてしまった。  舞台装置は本来の歌舞伎とはかなり様相を異にするもので、大きな鏡やマジックミラーを多用し、レーザー光線ありの、ぐるぐる回るディスコ風照明ありの、多重構造回転盆ありので、とにかくもう「やれること全部やってみましたッ」という挑戦的な試みが感じられた。衣装、小道具、大道具を含めてあくまでも派手。金もうなるほどかかっている。  ただ鏡の多用は、どうだろうか。確かに最初こそ驚きもすれ、何度も繰り返し使用されると、少々飽きる。ああいうオドカシ的なものは、宙づりと同様に、 「ここぞ!」  というところで、 「どうだ!」  と使ってもらった方が、観客としては嬉《うれ》しい。  しかしまあ、これはぼくの個人的な意見かもしれない。何しろ隣に座っていたオバサンなんかは、鏡が出てきて転換が行われるたびに、 「すごいわー。すごいわー」  と連発していた。こういうオバサンを喜ばせるということは、見世物としてはとても重要なことなのである。ぼくみたいに少々ハスに構えた観客のことなど無視しても、最大公約数のオバサンに受入れられることの方が、よほど大事だ。  いやー、それにしてもこの長丁場の芝居を、毎日昼夜二回公演しているというのだから、実際驚く。猿之助もタフだが、周囲の役者および裏についているスタッフの方々も相当タフである。ぼくなんか五時間|椅子《いす》に座っているだけでもヘトヘトになっちゃったもんなあ。まいったまいった。  頭よくなる科学博物館  上野はいい。  若い女性たちの間ではどうも不人気で今ひとつパッとしないが、上野はいい。昔っからどうも泥くさくて、垢《あか》抜けない雰囲気が漂っているが、上野はいい。  ぼくが学生だった頃は、デートと言えば上野であった。ちょっと洒落《しやれ》っけのある連中は、とっくの昔に上野なんか見向きもしなくなっていたが、ぼくは個人的に上野派であった。理由は単純明快に、 「安く済むから!」  という一点である。  とにかく上野は安い。遊んでも買物をしても安い。現在でもその�安さ爆発神話�は生きていて、例えば動物園の入場料にしてもたったの四百円である。きょうび四百円で楽しめる娯楽が、どこにあろうか。同様に科学博物館の入場料も四百円。安いッ! しかも上野公園の散歩だけなら、タダである。これ以上|嬉《うれ》しいことが世の中にあろうか。  だから学生時代のぼくは、いつも上野|界隈《かいわい》でデートをすることにしていた。相手の女の子は呆《あき》れて、 「たまには上野以外のところに連れてってよう」  と文句を言ったものだが、頑として聞き入れず、 「いーや、俺《おれ》は上野が好きなのッ。愛してるのッ!」  と言い張った。  そんな経緯があるために、ぼくは上野にはちょっとウルサイ。動物園の動物たちの檻《おり》の位置関係なども熟知しているし、アメ横の裏通りの抜け道も熟知しているし、西郷さんの銅像が意外にでかいことも熟知している。とにかくもう上野に関してはいろんなことを熟知してジュクジュクなのである。カルトQで「上野なら俺にまかせとけってんだベラボウメ男特集」なんていうのがあったら、準優勝くらいはしそうなほどである。  ところが、こと国立科学博物館に関しては、今イチ知識が不足している。熟知とまでは到らず、半熟知くらいなのである。何故そういうことになったのかというと、この館の名前に原因がある。 「科学」  この言葉に、文系のぼくは滅法弱いのである。科学と言われただけで、何となくオヨビ腰になって、 「むずかしそー」  と思ってしまうのである。だから学生時代も、国立科学博物館に足を運んだことは一度しかない。その時は確か三時半頃に入館したら、すぐに閉館の時間になってしまい、ほとんど見ることができなかった記憶がある。その後は、二十代の後半に二度ほど足を運んだのだが、いずれも閉館まぎわに入館したために、やはり満足に中を見られなかった。 「いよおしッ! 今度こそ!」  というイキゴミで、今回は正午にこの国立科学博物館を訪れることにしたのである。  さて国立科学博物館は、意外なほど広い。本館の他に、自然史館、科学技術館、航空宇宙館、たんけん館と、いろんな館があるのである。正面入口を入ると、まず本館。ここは一階から三階までで、下から順に生命の発達の様子が展示されている。一階にある恐竜の骨の数々、二階にあるトドの剥製《はくせい》のバカでかさには、貴方《あなた》もきっと「ウゲゲゲッ」と驚かれることでしょう(ここんとこバスガイドさんの口調で読んでね)。  自然史館の目玉は、やはり何と言っても四階にあるメキシコから寄贈されたミイラ、および南米エクアドル産の人間の干し首。平日の夕方、一人でこのケースの前に立ったりすると、かなりホラーである。また二階には、あの有名な忠犬ハチ公の剥製もある。銅像ではなくて、もちろん本物。 「お前、こんなところにいたのかッ」  と思わず落涙モノである。それだけではない。南極物語で有名な、樺太《からふと》犬のジロの剥製もある。どうだどうだすごいだろう! って、ぼくが剥製にしたわけではないが、何となくエバリたい気分である。  さらに航空宇宙館では本物のゼロ戦や本物のヘリコプターや本物のロケットなどが見られる。国立科学博物館は、とにかく本物が好きなのである。ニセ物はないのである。  それからたんけん館。ここがかなり面白い。キャッチフレーズは「見つけよう・考えよう・ためしてみよう」という教育チャンネルふうのもの。この言葉に嘘《うそ》はなくて、確かにここはいろんなことを自分で試せる。今回一番笑ったのは、電子顕微鏡の実演。五千倍とか一万倍で、ハエの目なんかを眺めることができる。これはすごかった。ほとんど銀河系を天体望遠鏡で覗《のぞ》く気分である。電子顕微鏡というのは普通の顕微鏡と違って、ばかでかい機械に連動していてモニターで眺める。ちょっと前に公開されたクローネンバーグの「ザ・フライ」の一場面みたいに、ボタン操作ひとつでレンズがシャッシャッシャッ、と拡大されていく。何だかカッチョいいのである。  このコーナーの説明係のお兄さんはかなり暇だったみたいで、ぼくが話しかけたりすると、ものすごく嬉《うれ》しそうな様子で、尋ねもしないことまで事細かに答えてくれた。そしてひとしきり電子顕微鏡を試して、やや飽きてきた頃になると、「行っちゃイヤン!」とでも言わんばかりの様子で、傍らにある普通の顕微鏡を指さし、 「これも面白いですよう。ちょっと覗いてみて下さい。ね、ね」  と勧めてくれた。何だか申し訳ないような気もしたので、渋々覗いてみたところ、これがまた面白かった。観察したのは自分自身の指である。これがスゴイ。きれいに石鹸《せつけん》で洗って清潔にしているつもりでも、指の股《また》なんかを五百倍に拡大して眺めると、地獄のようにバッチイ。指と爪《つめ》の隙間《すきま》なんかも巨大なゴミが一杯に詰まっている。 「こんな指で俺は鮨《すし》をつまんだりしていたのか……うううッ」  とキモチ悪くなっちゃうほどなのである。  まあとにかくそんなわけで、国立科学博物館は様々な発見に満ちていて、実に面白い。子供の頃に社会科見学で行ったもーん、なんて敬遠しないで、大人の目でもう一度訪れてみることをお勧めしたい。頭よくなるぞ。  広いぞ東武デパート  その昔、まだ少年だった頃、デパートという言葉にはこの上もなく甘美な響きがあった。 「今日はデパートに行くか」  日曜日の朝、遅く起きてきた父親が気まぐれからそう呟《つぶや》くと、家族一同はたちまち色めきたったものである。母親はあわてて化粧をし始め、ぼくは新しい半ズボンを穿《は》いたり脱いだりし、妹はどうしたらいいのか分からなくてオロオロと部屋の中を歩き回ったりした。  何しろデパートにはあらゆるものがある。そこへ行けば、まあ買うことはできないにしても、欲しいものを眺めたり触ったりできる。しかも旗つきお子様ランチが出てくるレストランもあるし、屋上にはちょっとした遊園地まである。これで子供が喜ばないわけはない。  ちなみにぼくの一家が一番足しげく通ったのは、立川にある中武デパートというところで(今もあるのかなあ)、ここの屋上からは、当時まだ米軍のものであった立川基地が間近に見えた。十円で三分使える望遠鏡で、モスグリーンのヘリコプターや輸送機を眺めてはおしっこ漏らしそうなほど興奮した記憶が鮮やかに残っている。今にして思うと、この中武デパートというのは決して巨大なものではなく、恐らくイトーヨーカドーくらいの規模だったはずなのだが、子供の目には一大ワンダーランドとして映った。親たちもそういう子供心をよく知っていたため、ぼくや妹の御機嫌をとる時は、必ずと言っていいほど、 「デパート行くか?」  という誘いの言葉を使ったものである。  さて月日は流れ、ぼくは今やデパートに連れていってもらう存在ではなくて、連れていく存在になってしまった。いざそうなってみると、デパートというのがあまり魅力的な場所ではなくなってしまうのだから、人間というのは勝手な生き物である。特に日曜日の午後なんかに、 「ねーねーデパート行くゥ」  なあんて上の娘にねだられようものなら、たちまち熱唱する森進一顔になってしまう。混雑ぶりを考えるだにウンザリ、である。ああ、いやだいやだデパートなんて……と思っているところへ、当欄の新しい担当編集者フミナシが、 「今月は東武デパートに行ってみましょうよー」  と提案してきた。何でも最近リニューアルしたばかりで、日本一の売場面積を誇っているのだそうである。東武と言えばこの間まで、池袋の裏っかわの方に、 「申し訳ないっすねえ。ここにあるんですけど」  という感じで何となく控え目に存在していたデパートである。本館のレストランシティが充実しているという噂《うわさ》は聞いたこともあるが、何となく足を運びかねていた。いっつも西武ばっかり行って悪いなあ、と思わないでもなかったので、 「じゃ、行ってみっか」  と重い腰を上げたわけである。  まずJR池袋駅の改札を出て、地下の通路を西へと歩いていく。と、いつのまにかそこはもう東武デパートの一部になっている。何とも不思議なアプローチである。 「ここからここまでが駅で、ここからデパートね」  という境界線がない。非常にアイマイなのである。これならばもしかしたら隅っこの方にぼくの家をコッソリ建てても、気付かれないのではないかという気もする。  さてぼくとフミナシは東武デパート本館の地下を通り抜け、新しくできたプラザ館およびメトロポリタンプラザの地下へ出た。いかにも「ここは待ち合わせの名所にしたいの」という感じの泉があって、この脇《わき》からエスカレーターで一階へ上がる。なるほどできたてのホヤホヤで、足元のタイルがぴかぴかである。 「んー、で、どうすっかな」 「今、ちょうどバーゲンの時期ですから中を見ましょうよー」 「そうだなあ」 「三階が婦人服ですねー。私、バーゲンとかオフとかクリアランスとか値下げとか半値とか、そういう言葉に弱いんですう」 「うーむ。確かに俺も弱い。あと定食とか粗品とかサービスとか本番とか、そういう言葉にも弱い。えーとそれからセーラー服とかボディコンとかハイレグとか、そういうのにも弱い」 「何言ってるんですか?」 「何言ってんのかよく分かんなくなってきちゃった」  てなことを話しながら、ぼくらは三階へ上がった。  いやー、これは広い。平日だったのであまり混雑がなく、よけいに広く感じる。見渡しただけでもかなりの広さなのに、端っこかと思って行ってみた地点から、さらに奥へ奥へと店が連なっている。行けども行けどもデパートです、という感じである。もともと結構広かった本館に、プラザ館とメトロポリタンプラザ(あー長《なげ》え名前だッ! メトプラとかそういう名前にしろってんだ)がくっついたわけだから、ようするにデパート三軒分。広いわけである。どれくらい広いのか実証してみようと思って、本館の端っこからプラザ館の端っこまで、脇目もふらずてくてく歩いてみたところ、四分三十秒もかかった。カール・ルイスが全力疾走しても一分はかかるだろう。ただまっすぐに歩いただけでも、こんだけかかるのである。一階から八階まで、全部見て回ったらどれくらい時間がかかるか、考えただけで眩暈《めまい》がする。  さすがリニューアルしたばかりとあって、慣れていないのはお客ばかりでなく、店員さんも少々この広さには困惑している様子が窺《うかが》える。お客さんに何かの売場を尋ねられて、 「えーとそれはですねえ、七階……いや六階。いや五階かな。おーい鈴木君、時計修理はどこだっけ」  などとシドロモドロ状態に陥っている店員さんを目撃した。ま、無理もない。この広さなら売り場の隅っこに家財道具を持ち込んで住んでもバレないのでは……などと、またもやよからぬことを考えてしまうぼくなのであった。  浮いてるリゾナーレ小淵沢  故郷の山に向かいて言うことなし、と有名な歌を引くまでもなく、山はいい。ぼくは東京の新宿生まれだから故郷に山があるわけじゃないけど、見知らぬ土地の山に向かったとしても、 「う〜ん。言うことない」  という感激を抱く。山相手にどうこう言ってもはじまらないとステ鉢な気分からではなく、まことに素直な気持で山に対する敬意を覚え、言葉を失うのである。  そういうふうに山に対する素直な敬意を自ら認めるようになったのは、昨年、|八ヶ岳《やつがたけ》の麓《ふもと》に山荘を建て、ここで週末や休日を過ごすようになってからである。山で暮らすようになると、少年時代のことをよく思い出すようになる。誰しもが幼い頃には持っていた自然に対する触角のようなものが、体内に再び芽吹いてくるような気がする。  森の樹の匂《にお》いや草いきれ、足裏にヒタリと吸いつく湿った落葉の感触、焚火《たきび》の煙のいがらっぽさ、青空の高さ、原っぱを吹き抜ける風の匂い。忘れてしまっていたそれらのものが、旧友のように訪れてくる。 「やー、やっぱいいなあ山は。詩人になっちゃおうかな俺」  てなことを本気で考えたりしちゃうのも、山の効力のひとつであるかもしれない。当然生活のスタイルも山対応型のものになり、ごくごくシンプルな毎日を送るようになる。何しろ山の中であるからして、都会的な欲望というのは極力控え目にしなくては長く滞在できない。 「ちょっと映画でも観にいくか」 「喫茶店でコーヒーでも飲むか」 「本屋を冷やかすか」 「ディスコで踊っちゃおうかな」 「縄のれんで一杯やるか」  なあんて欲望は、一切|御《ご》法度《はつと》。そんなこと望んでも、八ヶ岳の山中で叶《かな》えられるはずもない。ま、そのテの欲望はすべて東京へ戻ってから叶えればいいわけだし、と自分を慰めつつ山を眺める毎日なのである。  ところが今年の夏。そんな静かな山の生活にちょっとした異変が起きた。山荘から車で十五分、小淵沢《こぶちざわ》駅の近くに何やらお洒落《しやれ》なリゾートホテルがオープンしたという噂《うわさ》が、東京方面から伝わってきたのである。その噂を耳にしたとたん、 「あー、あそこのアレか」  とすぐに思い当たった。二年ほど前から、小淵沢駅近くの広大な土地を塀で囲って、大掛かりな工事が行われているのを知っていたのである。一体ぜんたい何ができるのだろうと思っていた矢先だったので、ちょっと興味を抱いた。  名前は「リゾナーレ小淵沢」といって、バックにいるのは横浜のマイカル本牧《ほんもく》なんかを造ったりしたビブレ・グループであるらしい。噂の発信人に詳しく問いただしたところ、全体の設計をイタリア人のなんとかかんとか氏が担当し、かなり豪華かつお洒落な仕上がりで、波の出るプールもあったりするという話である。 「う〜む、これは行かねばなるまい」  ぼくは思わず海パンを握りしめて山に誓ってしまうのであった。  で、その翌日。ぼくは山荘から車を飛ばして、リゾナーレ小淵沢へ行ってみた。工事をしていた頃の面影はどこにもなく、まあ綺麗《きれい》なアプローチができあがっている。一見した印象は、 「森の中のヘンな形の建物」  といったものである。さすがにイタリア人のなんとかかんとか氏がデザインしただけのことはあって、ものすごくモダンで大胆な外観を有し、鄙《ひな》びた田舎である小淵沢の雰囲気とは、ハッキリと一線を画している。何ちゅうかこう東武東上線に赤いバラをくわえたアラン・ドロンが、 「セレレガーンス」  とか何とか言いながら乗り込んできたような感じである。この余りにもお洒落すぎるギャップに、地元の雰囲気をよく知っているぼくなどはまず瞠目《どうもく》せしめられた。 「まいっちゃったなあ、へへへお恥ずかしい」  と誰にともなく謝りたいような気分である。  自動ドアをくぐって中に入ると、まず広々としたフロントロビーがある。ここもカッチョいい。こせこせしたところがなく、鷹揚《おうよう》なイタリアンテイストがただよっていて、 「これ、タダで座っていいんですか? 本当に?」  と尋ねたくなるような豪華なソファセットが窓際に据えられている。座ったら五百円ですからねッ、と言われても、これなら払わないわけにはいくまい。  ホテル内はちょっとした迷路のように入り組んでいて、何だかドラゴン・クエストの城に迷い込んだような気分を味わう。ワケ分からないままエレベーターに乗り込んだりすると、とんでもないところへ出たりする。 「プールを見たいのですが」  とフロントの人に尋ねてみたのだが、その答えというのが、 「その裏手にあるエレベーターで一旦《いつたん》一階へ上がって、それから建物を周り込むようにして向こう側へ行って、またエレベーターに乗ってB1へ降りて、ぐるっとこう巡るように左へ行って三回まわってワン」  てな感じの複雑怪奇な説明だったので、さんざ迷ってしまった。  さてようやく辿《たど》り着いたプールは、その名も「イルマーレ」といって、これまたイタリアンテイストに裏打ちされた豪華かつお洒落なものであった。ただ水が溜《た》めてあってハイ泳ぎなさいよ、というようなものではなく、造形的にとても美しいのである。波の出るプールが扇形に広がっていて、その左翼にはロッカールームとカフェ。右翼にはスパやサウナやマッサージシャワーなどが完備されている。そして扇の弧にあたる部分はビーチに見立てられ、白いビーチチェアが幾つも並んでいるのである。 「おおお、これはいいじゃないの」 「アモーレじゃないの」 「ビバじゃないの」  と、ぼくは田舎者丸出しですっかりハシャイでしまった。  いやー、しかしまさか小淵沢にこんなものができるとは夢にも思ってみなかった。料金は少々お高いらしいが、これなら散財しても惜しくないぞ。  天王洲アイルで拍子抜け 「今回はテンノスアイルに行ってみましょうよ!」  担当のフミナシは電話の向こうでそう言った。ぼくは眉《まゆ》をひそめ、 「何じゃそりは?」  と訊《き》き返した。天むすがどうしたこうした、というふうに聞こえたのである。今さら天むすなんか食いに行っても、ちょっと流行遅れなのではないのかと訝《いぶか》ったわけである。 「えー、原田さん知らないんですか。テンノスアイルですよ。大井競馬場の少し手前にできた……」 「できたって何ができたのだ? 天むすができたのか?」 「天むすじゃなくて、テンノスアイルですよ。何かよく分かんないんだけど、色々あるらしいですよ」 「ふーむ」  てな経緯があって、ぼくと担当編集者フミナシは銀座で待ち合わせた。何が何だかサッパリ分からんけど、分からんからとりあえず行ってみっか、という物見高い気分であった。  銀座でお茶を一杯飲んでから、さて出発だとタクシーに乗り込み、 「テンノスアイルへ行って下さい」  と告げたところ、老運転手は不審そうな顔をして、 「え? 何が何だって?」  と訊き返してきた。 「テンノスアイルですよ!」  フミナシは大声で言い募った。すると老運転手は急に何事かに気づき、苦笑をもらしつつ、 「ああ、テンノウ�ズ�アイルね」  と�ズ�を強調して言った。しょっぱなからいきなりガチョーンである。天王洲はテンノスではなく、テンノウズなのであった。フミナシは赤面してうつむき、 「やだわやだわあたしったら」  と恥じ入った。しかしまあ、そんなこたどっちでもいいじゃねえかと、ぼくは、鷹揚《おうよう》な態度を見せ、 「それよりも天王洲アイルの�アイル�っちゅうのは何なのだ? アイウィルの略か? それともアイルランドか何かと関係あるのか? あるいはただカッチョいい感じがするからテキトーにつけたのか?」 「さっぱり分かりません」 「うーむ」  てなことを言っている内に、タクシーは天王洲アイル駅についた。銀座からは約二十分。料金は二千円ちょいである。 「へー、こんな駅あったっけ?」 「ここの開発プロジェクトに伴って、モノレールの新駅ができたらしいんですよね」  たいそうな力の入れようである。駅まで造っちゃうんだから、これは相当色々なものがあるのだろうな、と期待しながらエスカレーターに乗る。  まだ出来立てだから、そこらじゅうピカピカである。しかも平日の昼間とあって、人出が極端に少ない。まだ開業前なのでは、と疑ってしまうほど、辺りは閑散としている。  地上からのエスカレーターを降りると、右手が天王洲アイル駅。スゲエ名前である。たまプラーザ駅といい勝負張れるほど、ヘンな名前である。天王洲で十分だと思うのだが、そこへわざわざアイルを付けているのには何かふかあいワケがあるのだろうか。 「カタカナやアルファベットが付いてりゃ、何となく新しくて未来的でカッチョいい感じがするだろう! どうだどうだあ!」  と開発部長あたりが考えたのだろうか。だとしたらその人の頭の中はカビが生えているとしか思えない。E電なんてバカな名前をつけて失敗したことをもう忘れたのだろうか。  さてぼくとフミナシは天王洲アイル駅付近の様子を眺め、 「ただの駅だわね」  と拍子抜けした気分で、今度はシーフォートスクエアという場所へ行ってみた。受付に置いてあったパンフレットによると、ここは�大人がゆっくり遊べる街�なのだそうである。じゃあ何があるのかと言うと、レストランやバーや雑貨屋、本屋、ブティックなどがある。これまた出来立てのホヤホヤなので、どの店もピカピカで気持はいいのだけれど、 「だからどうした?」  という感じである。まあ客が少なかったせいもあろうが、なーんかこう覇気が感じられない。どの店もこれといった特徴があるわけではなく、 「入ってもいいけど入んなくても構わん」  という感想を抱かしめる店ばかりである。ようするに当たり障りがなくて、パンチ力に欠ける。  この脱力型ショッピング街シーフォートスクエアの一角には、第一ホテルがどどーんと建っているので、ぼくらは今度はそっちの方へ行ってみた。ここも当然出来たてホヤホヤなので、確かにキレイ。キレイだけれども、第一ホテルは第一ホテルなのである。この場所ならではのスゲエ特徴、というようなものはない。ま、ホテルというのは基本的に老若男女を相手にする商売であるからして、極端に奇をてらうようなことはないだろうから、これはこれでよろしい。清潔で部屋の使い勝手がよくて飯が美味《うま》ければ、ホテルに対して文句はない。  さて天王洲アイルの目玉とも言うべきものは、劇場である。アートスフィアという名前で、キャパは七百。近々ナタリー・コールのコンサートがあるらしい。中の様子は見なかったが、まあこれもキレイな劇場なのだろう。しかしキャパ七百の単なる劇場が、本当に目玉となりうるのだろうか? こんなに足を運びにくい場所にこんな劇場を建てて、先々やっていけるのだろうか。どうも日本のエライ人たちは、中に入れるソフトのことはぜーんぜん考えないで、外側の箱さえ作れば客が集まると信じているフシがある。これは譬《たと》えるなら、まだ画家が絵も描いてないのに超高級ピカピカきんきらきんの額縁を特注しちゃう画商みたいなもので、まことに愚かな行為である。 「うーむ」  ぼくはシーフォートスクエアを見下ろす階段の上に立って、腕組みをしてしまった。他人事ながら、天王洲アイルの行く末が心配になっちゃったのである。バブルの余韻でこんなもん造っちゃって、困ったもんだなあ。正直言って、拍子抜けだぞこりゃ。  音楽について  世の中には�宗教�と聞いただけで、 「あ、俺《おれ》ダメ。あっち行ってるわ。ひー、くわばらくわばら」  という態度になってしまうような、宗教アレルギーとでも呼ぶべき人が結構いる。実はぼく自身も、少し前までそういう人であった。興味がないわけではないのだが、一旦関わり合いを持つとどうも厄介なことになりそうな予感がある。強烈な宗教パワーに翻弄《ほんろう》されて、アレヨアレヨと自分を見失ってしまうのではないかと畏《おそ》れを感じる。やっぱ触らぬ神にたたりなしだもんなあ、イヤンイヤンと自分に言いきかせ、宗教には背を向けていたのである。  ところが一昨年あたりから、このアレルギーがきれいに失くなった。きっかけは長編小説の資料として宗教関係の本を読み始めたことである。がっぷり四つ、とまでは言わないけれど、目を覆った指の隙間《すきま》から垣間見《かいまみ》るくらいの気持で、宗教におそるおそる触れてみたら、これが実に面白い。用心深く接近すれば、翻弄されて自分を見失うこともないと分かった。しかも学問としての宗教は、呆《あき》れるほど奥が深い。 「うーむ。おもろいのう……」  としきりに感心していたところへ、音楽好きの友人から一枚のCDを勧められた。知る人ぞ知る「グレゴリオ聖歌」である。友人はこのCDをぼくに手渡しながら、 「夜中にさ、部屋を暗くしてお香でもたきながらこれを聴くと、トブぜえ」  などと意味深なことを言った。半信半疑のままCDを持ち帰り、彼に言われた通りに部屋を暗くして、お香はなかったので代わりに煙草を吸いながら、ヘッドホンで聴いてみたところ、 「おおッ!」  と耳からウロコが落ちる思いを味わった。確かにこれはトブ。自分の全然知らない世界へイッてしまうわけではなく、物心ついた時分から慣れ親しんできた何か——しかし慣れすぎて存在すらも忘れかけていた何かに、もう一度しっかりと触れてみるような感じであった。  回りくどい言い方をしてしまったが、ようするにその音楽はぼくにとって美しかったのである。音楽を聴いて素直に、 「美しい」  と感じるなんて、本当に久し振りのことだったので驚いてしまった。  この「グレゴリオ聖歌」をきっかけにして、ぼくは宗教音楽——というか宗教的な音楽のCDを立て続けに聴き始めた。すっかりハマッてしまったのである。  そうやって何枚かのCDを聴き比べてみると、宗教的な音楽には独特の共通点があることが分かってきた。簡単に言うと、ターゲットが同じなのである。他のジャンルの音楽、例えばロックとかポップスとかジャズなどの場合は、聴かせたいターゲットがまちまちで、だからこそ様々な価値観にあふれているのだが、宗教的な音楽の場合は常にひとつの価値観に支えられている。ターゲットは神様。つまり人間のための音楽ではないのである。キリスト教だろうがイスラム教だろうがヒンズー教だろうが、宗教音楽である以上はこのターゲットを外して創られることはない。神への献上物として創られ、演奏され、歌われる音楽であるからこそ、そこにはぼくの友人が言っていた「トブ」気配がもやもやーんと漂うのである。  てなことを書いている今も、ぼくの背後ではBGMとしてコダーイのミサ曲が流れている。下手をすると毎日葬式みたいな雰囲気ではあるが、妙に筆が進むのも事実なので、しばらくはこのスタイルでいってみようかと思っている。  縁の下の宝物  そういえば昔の家には縁の下というものがあった。  子供にとっては恰好《かつこう》の隠れ場所なので、少年時代のぼくは、しばしばこの縁の下に入り込んで大人たちの目をくらましたものである。大抵の場合は縁側の真下が出入口になっていて、いわゆる匍匐《ほふく》前進の状態で中へと入っていく。蜘蛛《くも》の巣を手で払いのけながら奥へと進み、ちょうど家屋の中心の真下辺りへ至ると、方向転換して縁の下から庭の方角を眺めやる。すると庭を歩き回る大人たちの足だけが見えて、その様子はどこかしら人形劇でも眺めているかのような錯覚を抱かしめた。そのたびにぼくは、足しかない宇宙人に襲われて縁の下へ逃げ込んだのだという物語を頭の中で構築し、一人でむふむふ興奮したものである。  縁の下には、特有の匂《にお》いがあった。  濡《ぬ》れた土や乾いた土、パウダーのようにきめ細かい埃《ほこり》、そして古い木材——これらが渾然《こんぜん》となった匂いである。腹這《はらば》いで全身土まみれになってこの匂いに包まれていると、不思議と落ち着いた記憶がある。  縁の下はまた少年にとっての宝物の宝庫でもあった。珍しい形の空壜《あきびん》や、見たこともないほど長い釘《くぎ》、錆《さ》びた蝶番《ちようつがい》やきれいなガラスの破片。大人たちにとってはゴミでも、少年にとっては宝物となりうる様々なものが、縁の下にはあった。少年たちがこれらをせっせと拾い集めては、泉屋のクッキーの箱か何かに貯め込んだのは言うまでもないことだ。もちろんぼく自身も、そういう他愛《たわい》のない少年の一人であった。  縁の下にまつわるそんな思い出を、久し振りに反芻《はんすう》したのは、今年のゴールデンウィークのことである。ぼくら家族は妹夫婦とともに、八ヶ岳の山荘で休日を過ごしていた。確か二日めの朝だったかに、妹が、 「フジマルがいない」  と騒ぎ始めた。フジマルというのは、妹夫婦が連れてきた猫の名である。二時間近くかけて、家の中や付近の森を探してみたが、どうしても見つからないと言う。厭《いや》な予感がぼくらの胸をよぎり始めた頃、一階のベランダにいた妹の旦那《だんな》が、 「いましたいました」  と声を上げた。どこだどこだと家族が近寄ってみると、フジマルはスノコ状に張り出したベランダの下にいた。ようするに縁の下に当たる部分に隠れていたのである。妹夫婦は必死でスノコの隙間《すきま》から、 「フジマル、出ておいで」  と呼びかけたが、怯えてしまったのか出てこようとしない。庭へ下りて、ベランダの下を覗《のぞ》き込むと、そこには木の葉が吹き溜《だ》まっていて、視界を遮っている。 「よし、久々に匍匐前進だ!」  そう言うなり、ぼくはやや浮き浮きした気分で腹這いになり、ベランダの下へ這い入っていった。そこにはあの懐かしい縁の下の匂いが漂っていた。木の葉を両手で脇《わき》へ避けながら前進する内に、ぼくは少年時代の甘い思い出を反芻した。あの頃の目当ては折れ釘や蝶番だったが、今回は猫である。 「こら、フジマル。こい!」  ぼくは無理な姿勢から右手を伸ばして、フジマルの後脚を掴《つか》んだ。柔らかく、妙に温かな感触であった。この生きた宝物を手に入れて、三十四歳のおじさん少年は縁の下、いやベランダの下から這い出た。体は土まみれ、木の葉まみれになってしまったが、何だかタイムマシンから降り立ったような気分であった。  父の一言  ずいぶん昔——まだ高校生だった頃に、漢文の教師が�父�という文字の字解について語ったことを、妙に印象深く覚えている。孫悟空に似たその漢文教師は、確かこんなことを言った。 「父という文字はなあ、右手に鞭《むち》を持っている様を表しておる。ようするに家長たる父はいつも鞭を持って、家族を率い、教え諭すものであったのだな」  これを聞いたぼくは、自分の父親が鞭を持って断崖絶壁の縁に立ち、口から火を吹いている様子などを思い浮かべて笑いそうになった。ぼくだけではなく、周囲のクラスメートたちも同じような感想を抱いたに違いない。十五年ほど前の話だが、既に当時から父親の権威は失墜しており、鞭を持って家族を教え諭す父親なんてちゃんちゃらおかしかったのである。  ぼくの父はいわゆるマイホームパパに代表される軟派な父親ではなかったが、かといって厳格でもなく、気儘《きまま》でとらえどころのない父親であった。息子のぼくを声高に叱《しか》りつけるようなことは滅多になく、とても話の分かる父親なのだが、目に見えない一線をちゃんと保っていて、この線を越えると嵐《あらし》のように怒り出す。そのくせ自分では余所《よそ》へ女を作ったり、博打《ばくち》を打って借金をこさえたりするものだから、息子のぼくとしては素直に尊敬できなかった。ようするに気まぐれで、いいかげんな父親だったのである。  男の子というのは誰でもそうだと思うが、中学から高校、大学にかけては家族を疎ましく感じたりするものである。中でも父親は最も疎ましい。できれば口もきかず、顔も合わせずに暮らしていきたいと願ったりするものなのである。ぼくもそういう高校生の一人として、意識的に父親を避けたりする時期がしばらく続いた。今考えるとまことに気の毒だが、父親の方もぼくがそういう乳離れの時期を迎えていることを悟ってか、進んで話しかけてくるようなことはしなかった。  しかしながら、だからこそ時折父親がぼそりと口にした一言は、重みのあるものとして心に響いた。アドバイスと呼んでしまうと何だか照れ臭いが、折につけ父親がぼくに与えてくれた示唆は、鮮やかな思い出を伴ってぼくの中に未だに生きている。父親としてはその場その場の思いつきを口にしていただけなのかもしれないが、息子のぼくにとっては他の誰に言われるよりも説得力のある言葉だったのである。  例えばある時こんなことがあった。  珍しくぼくは父親の車に同乗して、二人で繁華街へ買物に出かけた。レコードと本を買ってくれるとか、確かそんな話をされてお供をしたのだったと思う。車が繁華街に差しかかり、信号待ちで停まっている時に、偶然目の前の横断歩道を、ぼくのガールフレンドが通った。その半年ほど前から付き合い始めた同じクラスの女の子である。窓を開けて、声をかけようとした瞬間、ぼくははっとして息を呑《の》んだ。彼女はぼくの知らない男と、楽しげに何やら言い交わしながら歩いていたのである。窓から頭を突き出す格好で言葉を呑み込んでいると、彼女の方がぼくに気づき、 「あら原田君」  と声をかけてきた。ぼくは動揺を押し殺しながら、 「どこ行くのさ」  と尋ねた。彼女は悪びれた様子もなく、隣にいる男の子を中学時代の同級生だと紹介し、これから喫茶店へ行ってお喋《しやべ》りをするのだと説明した。そこで信号が変わったので、ぼくらは手を振って別れた。平静を装っていたが、ぼくの心の中は思春期にありがちな厭《いや》らしい嫉妬心《しつとしん》でいっぱいであった。運転席の父親はしばらく知らんぷりをしていたが、その内、独言のようにぼそりと呟《つぶや》いた。 「つまらない焼き餠《もち》は男を落とすぞ」  これを聞いてぼくは真っ赤になり、うつむいてしまった。同じ男としての父親に、強烈なカウンターパンチを食らった気分だった。以来、ぼくは自分の中に何らかの嫉妬心が芽生えかけると、この時の父親の言葉が甦《よみがえ》るようになった。  つまらない焼き餠は男を落とす——飾り気のない素朴な言葉ではあるが、これを父親に言われたという点が、ぼくにとっては重要だった。同じことを同じ状況で友人に言われたのだとしたら、きっとぼくはすぐに忘れてしまっただろう。  父親が思春期の息子あるいは娘に贈る言葉というのは、この例にも明らかなように、ツボを押さえてタイミングさえ外さなければ、たとえ短い一言でも十分心に響く。父権の失墜が叫ばれて久しいが、別に年がら年じゅう威張り散らしたり声高に物を言わなくても、父親の存在感を子供たちに知らしめることはできるのである。  十年前の部屋  渋谷《しぶや》にある仕事場を引っ越すことにしたので、知り合いのデザイナーに移転通知の葉書を作ってくれないかと頼んだところ、 「またか!」  と呆《あき》れられてしまった。学生時代から、ぼくはどうも引っ越し好きで、二年以上同じ場所に落ち着いているということがない。彼に移転通知を作ってくれと頼むのも二度や三度ではないので、いいかげん厭《いや》になっちゃうぜと敬遠されてしまったわけである。 「俺が長年愛用しているアドレス帳の�は�の欄を見てみろ」  そう言って彼が差し出す黒いアドレス帳を開いてみたところ、なるほど�は�の欄にはぼくの名前と住所、電話番号がいくつも書かれては消され、書かれては消されしている。仕事場だけでなく、自宅も何度も引っ越しているので、その数は相当なものだ。中にはぼく自身がすっかり忘れ去ってしまった所番地のものもある。それをぼんやり眺めている内に、何だか脱皮した自分の脱け殻を発見したような懐かしさと、照れ臭さがないまぜになった感情が湧《わ》いてきた。特に世田谷《せたがや》区の下北沢《しもきたざわ》にアパートを借りていた時の住所が、今のぼくにとっては面映ゆかった。  そのアパートに引っ越したのは、今からちょうど十年ほど前だから、ぼくが二十三歳の頃である。井《い》の頭《かしら》線の下北沢駅の改札から歩いて三分。立地条件は最高によかったが、それ以外は最低のアパートだった。不動産広告風に書くと、 「木造モルタル二階三号室。四畳半。トイレなし風呂《ふろ》なしベランダなし甲斐性《かいしよう》なし。北西向き日当たり悪し」  ということになろうか。バストイレ付きのワンルームが当たり前になった今の学生が見たら、顔を背けたくなるような種類のアパートである。  しかし当時のぼくはこの四畳半が結構気に入っていた。ここへ移る前は、借金をこさえて岡山から夜逃げしてきた両親と東長崎のアパートに同居していたので、たとえ狭くても一人暮らしの気儘《きまま》さを味わえることが嬉《うれ》しかったのである。  目をつぶると、その部屋の様子を鮮明に思い出すことができる。深緑色の安っぽいカーペットを敷いた四畳半で、正面に窓があり、白い組立式の机が据えてある。右手の壁際には高校の頃から使っている本棚。その脇《わき》に半間の押入れ。玄関のすぐ右隣に猫の額、というか鼠《ねずみ》の額ほどの流し——この流しにはずいぶんと世話になった。自炊や洗いものの際に使うばかりではなく、毎日の洗面や、銭湯代を節約したい時にはシャンプードレッサーとして活用した。夏には素っぱだかになって、よっこいしょっと流しへ上り、体を洗ったこともある。しかしこれは物理的に困難な作業でもあった。何しろ流しのステンレスを張った受けの部分は、横七十センチ、縦五十センチほどの大きさだったから、ここへ身長百八十センチの大男であるぼくが乗ったりすれば、ほとんどガリバー旅行記の世界である。しかし実際にそれをやったのだから、今にして思うと手品みたいである。 「よし。流しで体を洗おう。今日はデートがあるしな」  と計画した当初は、その狭苦しい流しの中で全身を洗うつもりであった。しかし試してみると、流しの中央には水道の蛇口がぐっと突き出しているので、上半身を洗うためにはヨガの修行僧のようにアクロバティックな格好をしなければならない。 「えー、右足をこっちへやって……左足はこっちで、右手がこう。左手はこうするってえと……いたたたたッ! 背中攣《つ》った!」  てなことになって大騒ぎである。結局、女の子とのデートに最も必要とされる局部ばかりを熱心に洗い、床をびしょびしょにしてしまった上に、水道の蛇口に背中をガリガリッと引っ掻《か》かれ、あうあう唸《うな》りながら出掛けた記憶がある。  よくもまああんな思いをしてまで、体を洗おうとしたものである。しかし当時のぼくは、それが不自然な行為であるとはこれっぽっちも思わなかった。若かったからか、純粋だったからか、馬鹿だったからか。今となってははっきりと分からないが、いずれにしてもそういう二十三歳の自分に対して悪い印象はない。それなりにがんばってるなあ、いいじゃないか、と肩を叩《たた》いてやりたい気分である。十年前、そうやって励ましてくれる年上の友人がいたら、どんなにか嬉しかったろう。あの頃のぼくに一番欠けていたのは、きっとそういう友人だったのだ。  自画自賛  平成五年四月十六日から下北沢本多劇場で「火男の火」というお芝居を上演することになった。例によって東京壱組に書き下ろすオリジナルの台本だが、ぼくの新作としては前回の「分からない国」以来、二年ぶりのことである。  よく雑誌のインタビューなどで、 「小説とお芝居ではどんなふうに書き分けているのですか?」  てなことを訊《き》かれるのだが、それに対してはこう答えることにしている。 「基本的には、小説で書けることは小説にします。だからお芝居の場合は、芝居でなきゃできないものを書くように心掛けています」  ようするに現在のぼくの力ではどうしても小説に仕立てることができない素材——しかし興味深くて、取り組んでみたい素材を、役者や演出家の力を借りて芝居に仕立てたいと考えているのである。例えば前回の「分からない国」の場合は、アルツハイマー病のおじいちゃんを抱えた家族の困惑ぶり、という素材だけなら小説でも書くことができた。しかしそこに、おじいちゃんの記憶の中の戦争や兵隊が現れてくるとなると、これは小説家としてのぼくの手には負えない。そこで芝居に仕立てて役者たちにリアリティを出してもらったのである。  で、今回の「火男の火」は、無謀にも時代設定を平安中期あたりにおいた物語を書こうと考えている。ようするに芥川龍之介《あくたがわりゆうのすけ》の「偸盗《ちゆうとう》」や「芋粥《いもがゆ》」の世界である。これはやはり芝居でなくては、ぼくの力では表現できない。強烈な個性をもった盗賊や姫などにリアリティを持たせるのは、台本を担当するぼくの力よりも、役者たちの力量に負うところが多い。決して手前ミソではなく、東京壱組の役者たちは、本当に実力のある人たち揃《ぞろ》いなので、この手強《てごわ》い台本をきっとねじ伏せてくれることと信じている。  お話の内容は、まあ簡単に言うと火男と呼ばれる醜い顔の盗賊が、さらってきた都の女との恋に身を焦がし、嵐《あらし》の海の小舟さながら翻弄《ほんろう》される、という筋立てである。時代は確かに現代ではないけれど、太古より変わらず男と女の間でもつれあう恋愛のややこしい、非論理的な展開を描こうと考えている。人が人を好きになり、我を失う——その根底にあるものは、平成だろうが平安だろうが鎌倉だろうが、全然変わっていないとぼくは思うわけである。  なにぶん時代劇(と呼ぶのは少々|憚《はばか》られるが)を書くのは初めてのことなので、自分自身でも「無謀だなあ」と思わないでもない。しかし必ずや、これを戯曲としての代表作に仕上げるつもりである。  お芝居の世界  大学生の頃、それこそ数え切れないくらい沢山のアルバイトをしたが、職場が変わるたびに感じたのは、 「それぞれにそれぞれのシキタリがあるものだなあ」  ということであった。シキタリと言ってもそんなに大袈裟《おおげさ》なものではなく、お茶を出す順番が決まってるとか、月曜の朝は就業前に社歌を歌うとか、そういった類《たぐい》のごくつまらないことばかりだが、臨時雇いのぼくにとっては一々驚きだった記憶がある。  今はずいぶんと慣れてしまったが、お芝居の世界に関わり合いを持ち始めたばかりの頃も、同様の戸惑いを覚えた。体質が古い、と言ってしまえばそれまでだが、お芝居の世界には、外部の人間の目から見たら甚だ奇異なシキタリが沢山残っているのである。  例えば劇場には、必ずどこかに神棚がある。建築年度の新旧、キャパシティの大小にかかわらず、どんな劇場にも神棚はある。そして劇団は劇場入りする際に、お神酒《みき》と称して日本酒の一升瓶を持参し、これを神棚に供えた上で舞台の無事を祈願する。以前、築地《つきじ》本願寺の中にあるブディストホールという小劇場で芝居をやったことがあるのだが、この場合は当然神棚ではなく、寺院内の立派な仏壇を前に安全祈願をした。もしキリスト教の教会が運営する劇場があるとすれば、そこにはおそらくキリスト教式の祭壇なり十字架なりが備えてあり、使用させてもらう劇団員たちは十字を切ってアーメンなどと唱えながら無事を祈願するに違いない。  いずれにしても劇場には、必ずどこかに何かの神様が祀《まつ》ってある。まあ芝居というものは、その成立を過去へ遡《さかのぼ》っていけば結局宗教儀式に辿《たど》りつくのだろうから、神様関係が未だに劇場内でハバをきかせているのも分からないではない。俳優の�俳�という字は、人に非ずと書く——つまり人間ではない何者かがそこに現れ、息づく空間が劇場であるのだから、ここはひとつ神様に押さえ込んでおいてもらわなくては、という心理が働くのも理解できる。  しかしまったくの素人として初めて舞台作りに参加した当初、このシキタリはやっぱり奇異なものとしてぼくの目に映った。舞台裏の隅っこの方にひっそりと祀られている神棚に向かって、ついさっきまで馬鹿なことばかり言ってふざけていた若い劇団員たちが、神妙な顔になって祈る姿はかなりヘンである。これが明治神宮や靖国《やすくに》神社へ出向いて祈願するのであれば、決して奇異ではない。あのごちゃごちゃした舞台裏の隅っこにある小さな神様に向かって祈願する、というところが何だかヘンなのである。  それから「初日おめでとうございます」と声をかけ合うシキタリ。これも最初の内はなかなか慣れることができなかった。普通、どこの劇団でもこれは慣例となっているらしいのだが、公演の初日に劇場入りすると、キャストやスタッフは顔を合わせる人ごとに、 「初日おめでとうございます」  と挨拶《あいさつ》を交わす。まだ幕も開いていないのに、一応初日の幕開けを待つところまでこぎつけたという喜びをこめて、この挨拶を口にするのである。慣れない内は、何だかこの台詞《せりふ》が気恥ずかしくてモジモジしてしまった記憶がある。本当に大変なのはこれからなのに、まだ全然おめでたくないのに、慣例上おめでとうございますと口にするのは結構照れ臭いものである。  あるいは公演後の打ち上げの際に配られる大入袋というもの。これもシキタリのひとつであるが、客が大入りでなくても一応配るというところがソコハカとなくヘンである。名前が大入袋だから、さぞかし中身も大入りなのだろうと思って開けてみると、大抵の場合は百円玉が一個。まことに寂しい。予算ギリギリで公演をうった時なんかは、配る前に制作の人間から、 「今回、お客さんは大入りでしたが装置と衣装と人件費の出費が予想以上だったので、大入袋は袋だけです」  なあんて説明をされ、カラッポの大入袋を受け取ったこともある。これじゃ大入袋ではなくて大無袋である。でもシキタリだから一応配る。何だか納得がいかない。悲しいと言っても過言ではない。  大入袋に関してはもう一点、困ったシキタリがある。袋には一枚一枚キャストやスタッフの名前を表書きするのだが、この作業は慣例上作家が行うことになっている。作家——つまりぼくである。達筆ならば別に困りもしないのだが、生憎《あいにく》ぼくはひどい悪筆なので、束になった大入袋と筆ペンなんかを渡されると、大変困惑する。制作の女の子に、代わりに書いてくれよと頼んでも、 「いえ。一応シキタリですから」  とケンもホロロの答えが返ってくるばかり。なかなか融通がきかないのである。  お芝居の世界にはこのように面倒で奇異なシキタリが山ほどある上に、特殊な業界語なんかもあるので、最初の内はギョッとしてしまうことも多かった。一番困るのは、長さの単位が相変わらず尺寸で表されることであろう。舞台装置の打ち合わせなんかをしている時に、 「だからさあ、奥行き四尺で幅が八尺の平台に七寸幅の板をさあ……」  なあんて言われると、頭を抱えて「今は何時代なのだあ!」と叫び出したくなる。まあ一旦覚えてしまえば簡単なのだろうが、麻雀《マージヤン》の点数計算と同様に、どうも覚える気になれない。お芝居に関わり始めてから既に八年にもなろうというのに、未だに会話の中に尺寸が出てくると、 「ふむふむ、なるほど」  てな顔をして聞いているが本当は全然分からんもんね、という状態が続いている。  この尺寸法を除けば、芝居の世界の業界用語というのはそれほど難しいものではない。ただインパクトの強い言葉が多いので、慣れない内は一々耳に引っかかってくる。例えばトンカチあるいはカナヅチ。これのことを芝居の世界では、 「ナグリ」  と呼ぶ。多分�殴る�から派生した用語なのだろうが、実にストレートでインパクトがある。トンカチなんて呼ぶと、何だか可愛《かわい》い大工さんがとんとんカチカチ鼻歌でも唸《うな》りながら楽しげに仕事している様子が思い浮かぶが、ナグリとなるとこれはもう血みどろの陰惨な殴り合いが連想されるではないか。陰惨で思い出したが、裏方さんたちの間では、何かを固定することを、 「コロス」  と言う。これは当然�殺す�という字が当て嵌《は》まるのだろうが、なかなか鬼気迫るものがある。例えば舞台装置の一部——円柱か何かを動かないように釘《くぎ》を打ちつけて固定しろ、と命令する場合には、 「ナグリで殺せ」  ということになる。まことに穏やかではない。釘に生まれなくてよかったなあ、なんて思ってしまう。  前述の通り、ぼくは作家としてお芝居に関わるようになってから既に八年になる。この四月の公演「火男の火」が五本めの戯曲になるのだが、未だにこの世界に馴染《なじ》むことができず、稽古《けいこ》場や劇場へ行くたびに何かしら驚かされる。しかしまあそれが楽しいから続けているようなふしもある。ギョッとさせられたり、困惑したり、理解に苦しんだり——そういう鮮やかな感情の起伏を求めて、ぼくはお芝居に関わっているのだろう。  消えてなくなる夢  ずいぶん昔の話だが、東京壱組の座長大谷亮介は、芝居のどこが面白いのだというぼくの質問に対して、こんなふうに答えたことがある。 「芝居って消えてなくなっちゃうから、いいんだよな」  ぼくはまだ二十代の半ばで、大谷は三十歳になったばかりだったと思う。東京壱組が旗上げ公演をする一年ほど前のことだ。実際に芝居の公演に関わったことのないぼくは、大谷のこの返答を解釈しかねて首をかしげた。どうせ消えてなくなっちゃうものが、何故いいのか? そこのところが門外漢としてはどうしても納得できなかった。 「お前も一度関わってみれば分かるよ」  大谷はそんなふうにつけ加えて、この青臭い質疑応答を打ち切ってしまった。言葉で説明しても始まらない、とでも言いたげな気配がその口裏には感じられたので、ぼくはそれきり問い詰めるのを止めたのだが、どうもすっきりしないものが胸の内に残った。  当時のぼくは小説家としての第一歩を踏み出したばかりで、ほとんど宗教とも呼べるほどの活字崇拝者であった。この世で一番崇高なものは小説であると信じて疑わず、それ以外の芸術や芸能に対しては鼻でせせら笑うようなきらいがあった。そしてその信頼感を中枢で支えていたのは、 「活字はいつまでも残る。決して消えない。だから長く広く伝播《でんぱ》する」  という確信であったように思う。だからこそ余計に、大谷の返答が不思議に思えた。消えてなくなっちゃうから、いい? そんな馬鹿なことがあるものかと、反発しか感じられなかったのである。  一九八六年六月、東京壱組は一年の準備期間の後に、築地本願寺ブディストホールで旗上げをした。演目は「愛は頭にくる」といって、ラシーヌの「アンドロマック」をベースにした変わった恋愛劇である。ぼくにとっても初めての戯曲だったので、かなり手こずった記憶がある。書き始めたのは前年の八月からで、第一稿を上げるまでに半年を要した。役者を集めて本読みをしたのは、二月半ば。公演の五ヵ月も前から稽古《けいこ》を始めていた計算になる。  本読みというのは、正しくは�台本読み�と書く。文字通り台本の読み合わせをするこどだが、稽古初日はここから始まる。プロデュース公演などの場合は、この前段階として�顔合わせ�という儀式があったりするらしいが、劇団の場合は既にキャストもスタッフも顔見知りであるわけだから、これは割愛する。  ぼくが初めて体験した本読みは、目黒区内にある住民センターの一室で行われた。その日は雪が降っていて、ズボンの裾《すそ》をぐしょぐしょに濡《ぬ》らして部屋に入っていった記憶がある。室内には長机がコの字に組まれ、そこに十数人の役者たちが座って、ぼくを待っていた。全員が揃《そろ》ったところで、大谷がリーダーシップを取って、役を適当に振り分けていく。あくまでも�適当�なのだが、演出家はこの段階で役者と役との適性について注意を払っているので、決して気は抜けない。一応、配役をし終えたところで大谷は、 「そういや昔は一番最初に�作者本読み�っていうのがあったんだよなあ。唐《から》十郎さんとか、ものすごい迫力の作者本読みをしたらしいぜ。原田、お前やってみるか?」  なあんてことを言い出した。もちろん冗談半分だったんだろうが、ぼくは他愛もなくビビッてしまった。頼むからそれだけは勘弁してくれと青い顔をして嘆願すると、皆いかにも楽しそうに笑い、場が和んだ。そしてト書きを読む若手の第一声から、本読みが始まった。  ただ声を出して台本を読む。それだけのことだが、耳を傾けている内に、役者によってて流儀が違うのだと分かってくる。丁寧にゆっくり読む者もいれば、最初から感情を籠《こ》める者もいるし、記号的に投げやりな読み方をする者もいる。この段階で演出家が、役者の読み方に口を挟むことはまずない。まず全体像の把握が目的であるわけだから当然だが、話が進むにつれて、役者たちは本能的に役の中へ入り込んでいき、全体のことなんかそっちのけになったりもする。そんな様子を垣間見ながら、ぼくはうっとりとした。自分の書いた話が第三者によって解釈され、目の前で声を出して読まれる——生まれて初めての体験だった。小説家には決して味わえない、戯曲家ならではの至福である。  本読みは、約二週間続いた。次の段階は立ち稽古である。これもまた役者それぞれに流儀があるらしく、いきなり相手に絡む者もいれば、ただ立って台本を読むだけの者もいる。立ち稽古を何日か続ける内に、配役の方も徐々に固まってくる。一方、舞台装置のプランも固まってきて、大体の配置が稽古場の床にビニールテープで記される。こうなると稽古も俄然《がぜん》熱を帯びてくる。ぼくは作者として、演出家からも役者たちからも助言を求められるが、基本的にはそばにいてただ眺めているだけである。しかしそこには何とも言えない幸福感がある。台本というのはどんなに書き込んでも、芝居にとっては骨組みでしかありえない。肉をつけるのは演出家で、命を吹き込むのは役者である。その様子をそばで眺めていると、自分の体の中にまで新しい生命が吹き込まれるような錯覚を抱く。ぼくにとっては新鮮な驚きであった。  初めての公演に向けての稽古であったためか、役者たちはいずれも粘り強く、研究熱心で、決してへこたれなかった。いや、役者だけではなく、舞台美術をはじめとするスタッフたちも異様なまでに熱心だった。中でも大谷の情熱には頭が下がった。朝から晩まで稽古をして、飯も食わずに美術のスタッフと装置の打ち合わせをし、夜中はぼくのところへ来て台本の書き直しについて話し合う。そしてろくすっぽ眠りもしないで、また稽古場へ出かけていくのである。 「何故そこまでして……」  とぼくは時々不思議に思った。金銭的なことを言うなら、客が満杯になっても儲《もう》けが出ないことは予《あらかじ》め分かっているのである。ならば彼は、役者たちは何を求めて情熱を傾けているのか? そこにはきっと何かがあるのだ、なければおかしい。  公演の数日前に、キャスト・スタッフは全員で劇場入りをし、仕込みを始める。これは舞台装置を建て込む作業のことである。通常は公演日の前々日に行われる。そして前日が照明や音響の仕込みと、役者たちの場当たり。場当たりというのは、実際の舞台装置の中で自分の動きを確かめることである。これらの作業がすべて終わると、ようやく衣装をつけた本番さながらの稽古——ゲネプロが開始される。ゲネプロは多くて三回、少なければ一回しか行われない。 「こんなにちょびっとしか本番稽古をしなくて大丈夫なのだろうか……」  とぼくは不安を覚えたが、役者たちにとってはいつものことらしく、緊張した様子はほとんど見られなかった。公演日を迎えて、キャスト・スタッフの中で一番緊張していたのは、多分ぼくだったろう。お客さんが沢山入りますように、役者たちが怪我をしたりしませんように、できれば誰も台詞《せりふ》をトチリませんように、裏方が段取りを間違えませんようにと、とにかくいろんなことを神様や仏様に祈った記憶がある。  客入れの直前に、ぼくは人気のない客席の中央に立ち、まだ新しい塗料の匂《にお》いを放つ舞台をぼんやりと見渡した。ほとんどが拾ってきた発泡スチロールと廃材で作り上げられた装置は、見事なものだった。ゲネプロを観にきた或る劇場のプロデューサーが、 「装置はこれ、七百万くらいですか?」  と真顔で訊《き》いたらしいが、無理もない。よくもまあ一日やそこらで、こんな大掛かりなものを仕込んだなあ、という驚きもある。ぼく自身も塗料まみれになってあちこち色を塗ったり、ナグリを手に釘《くぎ》を打ったりしたので、愛《いと》しささえ感じられる。いつまでもいつまでもそうやって自分一人で観賞していたい気分だった。  そんなふうにしてぼくら東京壱組の初めての舞台は、幕を開けた。  ついさっきまで空っぽだった客席がぎっしりと埋まり、舞台上に役者たちが現れて明かりが当たり、稽古場とはまた違った意味での命が吹き込まれる。客席の後ろの暗い通路に立って舞台を見つめている内に、ぼくは遠い夢を見ているような気分になった。一年も前から打ち合わせを始め、半年かけて台本を書き、本読みをし、立ち稽古をし、舞台装置のプランを練ったりポスターを作ったり……そんな様々な出来事が胸の内に甦《よみがえ》ってきた。それらすべてが、この僅《わず》か二時間の芝居の中に凝縮されているのだ。しかも約一週間の公演期間が過ぎれば、跡形もなく消え失《う》せてしまうのだ。  ぼくは今目の前で繰り広げられている芝居が、本当にかけがえのないものだと思い知らされた。芝居は消えてなくなっちゃうからいいんだ、という大谷の言葉に嘘《うそ》はなかった。まるで人の命そのもののように、消えてなくなるからこそ尊いのだなあと、考えている内にぼくは泣いてしまった。笑われてしまうかもしれないが、芝居作りに参加しないと絶対に味わえないセンチメンタリズムが、そこにはあった。  あれからもう八年近くが過ぎようとしているが、未だにぼくらは遠い夢を見ている。今度の夢の題は「チャフラフスカの犬」という。  父としてのテビエ  まだ大学を出たばかりの頃、芝居好きのガールフレンドに誘われて、日生劇場で「屋根の上のバイオリン弾き」を観たことがある。主人公テビエを演ずるのは、森繁久弥。円熟という言葉がぴったりくる余裕の演技を展開し、こちらとしては安心して芝居の中に身を委《ゆだ》ねられた記憶がある。 「屋根の上のバイオリン弾き」は今世紀初頭のウクライナ——つまり革命前のロシアを背景としたミュージカルである。アナテフカという小さな村に暮らす貧しいユダヤ人一家を主人公とした話で、テビエはこの一家の長にあたる。彼には五人の娘がいて、物語はこの娘たちの結婚の経緯を中心に進んでいく。いずれの娘も父テビエの意志に背いた相手と恋に落ち、まるで風に晒《さら》された葉が散っていくように、一人また一人と家族のもとを去っていく。そして最後には、ロシア当局からのユダヤ人退去命令を受け、テビエ一家は家財道具を荷車に積んで、故郷であるアナテフカの村を去っていく。  こういうふうに説明すると、ずいぶん暗そうな話に思えるが、決してそんなことはない。主人公テビエの陽気さ、素直さ、そして父としての愛情に溢《あふ》れた行動が、物語全体を明るく縁取っているのである。日生劇場の三階、一番安い席の片隅で息を殺してこのミュージカルを見つめながら、ぼくは不覚にも何度か涙を零《こぼ》しそうになった。特に、テビエ一家が荷車ひとつで村から追い払われるラストシーンは、他人事とは思えなかった。ちょうどこのミュージカルを観る数ヵ月前、ぼく自身の家族も岡山から東京へと、トラック一台で夜逃げをしたばかりだったのである。 「これは父親の物語だよな」  劇場を出て、有楽町に向かって歩きながら、ぼくはガールフレンドに語りかけた。彼女はすぐに反駁《はんばく》して、そういう偏った観方はよくないというようなことを言っていたが、ぼくにとってこのミュージカルは誰が何と言おうと父の物語であった。自分の父親がテビエのような男であってくれたら、と何度思ったかもしれない。貧しいけれど、愚痴は天に向かって零し、家族の幸せを何よりも思いやり、歌を歌いながら陽気に働く——そういう男が父であってくれたら、息子としての自分の生き方もずいぶん違うものになっていただろうにと、思えて仕方がなかった。  あれからもう十五年が過ぎようとしている。つい先日、ビデオでノーマン・ジェイスン監督の「屋根の上のバイオリン弾き」を観た。こちらはハイアム・トポルという俳優が、声量のある歌声で、陽気なテビエを見事に演じ切っていた。十五年前の舞台と、当時の自分の家のことを反芻《はんすう》しながらぼくは、やはりこれは父親の物語だと思った。ただし今度は、ぼく自身が子供たちのために、果たしてテビエのような父親として人生を全うできるだろうか、という問いを抱きながら。  音楽は大事よね  物心ついてから初めて結婚式に出席したのは、二十四歳の時だった。  新郎がぼくの高校時代からの友人で、仲間内では一番早く結婚をした。場所は高輪《たかなわ》にあるカッチョいいフランス料理店で、後に人から聞いた話によると、かなり有名な店であるらしい。今考えると、列席者は四十人ほどで、それほど盛大な披露宴ではなかったが、当時は何しろ初めてだから、 「こんなに沢山の人がッ!」  と驚いた記憶がある。この結婚式で、ぼくは新郎側友人代表の一人としてスピーチを頼まれていた。初めてなのに、いきなりスピーチである。ぼくがどれくらい緊張していたか、想像にかたくないであろう。前の晩はあまり眠れなかったし、地下鉄に乗って高輪に向かう車中も、 「スピーチスピーチスピーチスピーチスピーチスピーチスピーチスピーチ……」  と必死でスピーチ原稿を暗記しようとして、頭の中を全面的スピーチ状態にしていた。まるで試験会場に向かう受験生のような心持ちである。ところがぼくは式場に到着し、着飾った数十人の列席者を目にするなり、根性で緊張を抑えようとし始めた。これは昔からのぼくの悪い癖で、あまりに緊張の度合いが高くなりすぎると、その反動力が働き、外面だけはリラックスしているかのごとく装うようになる。まあ早い話が、 「結婚式に慣れてる!」  という自分を必死で演出したのである。この風変わりな行動は、飛行機に乗り込むおじさんたちなどに通ずるものがある。ほら、よくいるでしょう。国内線なんかに乗ると、 「ぼかーねえ、飛行機慣れてるのよ。もう二十回は乗ってるかなァ」  とでも言わんばかりに、飛行機に慣れてる自分を必死で誇示するおじさん。緊張を押し隠そうとする余り、何だか妙になれなれしくスチュワーデスに話しかけちゃったりするような人。初めての結婚式に出席した時のぼくは、ちょうどそんな具合だった。んもう頭のてっぺんから爪先《つまさき》まで、ガチガチーンと緊張しているのに、 「まあ結婚式なんてこんなもんかなあ。おほほほほほ」  と、表面上だけはだらしなくリラックスしていた。この調子は最後まで続いたので、もちろんスピーチも目茶苦茶なものになってしまった。地下鉄の中で一生懸命覚えたはずの原稿の内容を全部忘れ、頭の中が真っ白な状態で、 「……とか言っちゃったりしましてえ。あははははははは!」  とズレた冗談の一人時間差攻撃を炸裂《さくれつ》させ、大いに顰蹙《ひんしゆく》をかった。今思い返しても、脂汗が流れてしまう。ううー、恥ずかしい。  そんなわけで、ぼくは物心ついてから生まれて初めて出席した結婚式のことを、あまりよく覚えていない。ぼく以上に緊張した面持ちの新郎が、新婦を伴ってテーブルの間を歩いてきたことや、最後に�両親への花束贈呈�が行われて花嫁の父が泣いていたことくらいしか思い出せない。ただ、その会場のBGMとしてクラシックの名曲(タイトルは知らないのだが)が延々と流れていたことは、はっきり覚えている。その音楽は、式場の格調高い雰囲気によく合っていた。そして花束贈呈の際には、 「それ用にご用意いたしましたッ」  と言わんばかりの�盛り上げ系BGM�がぱんぱかぱーんと流れていた。ぼくも含めて列席者のほとんどは、花嫁の父の心境を思いやってではなく、この音楽のみで泣かされていたように思う。あれは何という曲なのかぼくも知りたいが、とにかく、 「泣けえーッ!」  と首を絞め上げてくるような�盛り上げ系BGM�なのである。  この経験から照らし合わせても、結婚式のBGMというのは思いの外重要である。これをCDとして後々まで取っておくことができれば、きっといい思い出になるのではないだろうか。十年後の結婚記念日に、このCDを流して、 「幸せかい、お前」 「ありがとン、あなたン」  なあんてオメーらええかげんにせえよ的な状況を楽しむのも、悪くないではないか。許す許すッ。  早稲田茜屋珈琲店のココア  歩く、というとやはりどうしても早稲田界隈《わせだかいわい》を思い出してしまう。  住処《すみか》を現在の三鷹《みたか》へ移してから、既に一年近くが経とうとしているのに、少しも馴染《なじ》むことができない。近所には大きな公園がいくつもあるし、目と鼻の先に国際|基督《キリスト》教大学のキャンパスも広がっているから、歩くには最適の環境に囲まれているはずなのに、その気になれない。この一年をやけに気忙《きぜわ》しく過ごしてきたせいかもしれないが、西早稲田に住んでいた頃は、しょっちゅう散歩ばかりしていたような気がする。書きものに一区切りついたり、行き詰まったりすると、家を出て、早稲田通りを大学の方に向かって下っていく。古本屋を一軒ずつ冷やかしながら、のんびりと歩く。途中気が向いたら、早稲田通りから外れて、水《みず》稲荷《いなり》の流鏑馬《やぶさめ》の道を歩いたり、戸山公園の中にある箱根山まで足を延ばしたりする。古本屋で買ったばかりの本を木陰で広げて読み耽《ふけ》ったり、子供らが草野球に興じる姿をぼんやり眺めたりしている内に、夕暮れが迫ってくる。歩くという行為に付随する、これらすべてのことを、ぼくはとても愛していた。その時はこれっぽっちも気づかなかったが、三鷹に引っ越してみて初めて、自分がどれほど深く早稲田界隈に溶け込んでいたのか思い知った。  同じく早稲田界隈に住んでいた友人のN君と、示し合わせてはキャッチボールをしたことも忘れられない。彼とは、二人きりで�西早稲田キャッチボール連盟�というワケの分からない組織を作り上げた仲である。連盟とは名ばかりで、結成以来六年経っても会員数が二名より増えないという体たらくだったが、活動だけは熱心に続けていた。晴れ上がった土曜や日曜の午後、軟球一個とグラブを持って、キャッチボールに適した空地を求めて歩き回るのである。これはというスペースを発見すると、すぐにそこでキャッチボールを始める。 「マキハラの胸元をえぐるカーブです!」 「さあ、野茂《のも》のフォークが出るか。出るか。おっと、ちっとも落ちません!」  てなことを自分で実況中継しながら、ボールを投げ合うのである。とはいえ二人とも三十過ぎのいい大人で、日頃の運動不足が重くのしかかっているから、長時間の投球に耐えられるはずもない。三十分もしない内に、 「ちかれたび〜」  と弱音を吐いて、やる気を失ってしまう。その後は、どこかの喫茶店に入って、休憩および今日の反省会という段取りになる。ぼくもN君もほとんど酒が飲めないので、キャッチボールの後にビールを一杯、というふうにはならない。喫茶店でアイスコーヒーでも飲めば、それで満足なのである。  さて、ぼくら西早稲田キャッチボール連盟の二人が、活動後にしばしば利用したのは、地下鉄早稲田駅近くにある茜屋《あかねや》という珈琲《コーヒー》店である。アユミブックスというなかなか個性的な品揃《しなぞろ》えの書店の隣にある階段を下りていくと、唐突にバロック風の雰囲気がぼくらを迎える。店内にはチェンバロが置いてあったりして、クラシックが流れている。カウンターの奥には、頑固でいかにも博学そうなマスターが一人と、その背景をなすように並べられた高級そうなカップが控えている。バンカラを宗《むね》とする早稲田イズムとは随分かけ離れた雰囲気のようにも思えるが、ぼくの目にはちゃんと町にも学生たちにも溶け込んでいるように見えた。  この店のお勧めは(もちろんぼくの個人的な意見だが)ココアである。ぼくもN君も前述の通り甘党だから、あちこちの喫茶店でココアを飲んだが、一昨年の冬にこの店で初めてココアを注文した折には、一口飲むなり、 「お……ッ」  と二人とも絶句して顔を見合わせた。実に美味《うま》かったのである。ココアというのは別名ホットチョコレートと呼ばれる通り、チョコレートが基本になった味わいであるはずなのに、茜屋のココアはどういうわけかキャラメルの風味がまろやかに漂う。どんな隠し味を施してあるのか想像もつかないが、とにかく尾を引く美味さである。 「これは美味いなあ……」 「量が少ないのが玉に傷だ。ううう、もっと飲みたい」  ぼくらはそんなことを声高に話し合った。感動的に美味しいのに、デミタスカップだったので物足りなかったのである。  ところがその翌週、ぼくら二人はまたもや活動後にこの店を訪れ、ココアを注文したところ、今度は大ぶりのカップで出てきた。おそらくマスターが、前週のぼくらの話を耳にして覚えていてくれたのだろう。その気遣《きづか》いは、ココアと同じくとても温かかった。こういう店があるから、ぼくは未だに早稲田界隈に未練を残しているのである。  男に贈る花の意味  つい先日のことだが、ぼくは生まれて初めて男性に対して花を贈った。  というふうに書くと、多くの人は誤解するだろう。ゲゲッとのけぞって、 「原田、お前そうだったのか!」  とハニワ顔になるに違いない。しかしまあ、そうではない。ぼくが座付作者として関わっている東京壱組という劇団の俳優が、他の劇団に客演として招かれ、舞台に立つので、いわゆる�ロビー花�というやつを贈っただけのことである。  わざわざ誤解を招くような書き方をしたのは、同性同士とくに男性間で花を贈ったり贈られたりすることが、非常に稀《まれ》であるということを強調したかったからである。考えてみれば不思議ではないか。何故男から男へ花を贈る習慣がないのだろう? 花を贈る、というと大抵の人は、男から女へと贈る図を思い浮かべる。男から男へ花が贈られる図を想像すると、たちまち冒頭のような誤解がそこに加味されてしまう。煎餠《せんべい》を贈ったり洋酒を贈ったり荒巻ジャケを贈ったりする分には、そんな誤解は生じないのに、どうして花に限って誤解が伴ってしまうのだろう?  ぼくらは日頃あまり意識をしていないが、ひょっとしたら花はかなりセクシャルなイメージを内含しているのではなかろうか。オシベとメシベじゃないけれど、花の中にはひっそりとセクシャルなイメージが隠れていて、誰かから誰かへ贈られるとたちまち、このイメージが贈り手のメッセージとして浮上してくるのではないだろうか。だから贈り手が下心はないと言い張っても、そこには�ただならぬ関係�の気配が濃密に漂ってしまうのに違いない。  なあんてことを考えてたら、いくらロビー花とはいえ、男に花を贈ったことが少々恥ずかしくなってきてしまった。やはり次からはドリンク剤とかお鮨《すし》とかノド飴《あめ》とかを贈るべきだろうか。悩むなあ。  揚げものベストナイン  生まれて初めて買い食いをしたのは、小学校一年生の秋であった。どうしてそんなことをよく覚えているのかというと、買う前の罪悪感と、買った後の満足感がかなり鮮烈だったからである。  母親から五百円札を一枚手渡されて、一人で床屋へ行った帰り道のことである。その床屋のすぐ隣に「スーパーことぶき」というマーケットがあって、店先からまことに芳しい香りが漂っていた。肉屋がコロッケを揚げていたのである。まっすぐ帰ってきなさいという母親の言いつけを破って、ぼくはしばらく肉屋の店先に立ちつくしていた。ポケットの中には百五十円ほどの釣銭が入っていて、これを指先で触りながら芳しい香りに鼻をひくひくさせている内に、どうしてもコロッケが食べたくなってしまったのである。値段は一個五円だったと記憶している。肉屋のおじさんが揚げたてのコロッケをホーローのトレイに並べていく様子を、ぼくはじっと見ていた。それからヤケクソの勇気を出して、 「コロッケ下さい」  と言ったのである。十円で二個買った揚げたてのコロッケは、実に実に実においしかった。肉なんかケシ粒ほどしか入ってなくて、今考えると随分ビンボー臭いコロッケだったが、買い食いの罪悪感が調味料となったためか、のけぞるほどおいしかった。  以来、ぼくは揚げもの大好き男としての人生を歩み続けてきた。デパートの食堂でサンプルケースを眺める時も、駅の売店で駅弁を選ぶ時も、定食屋の壁に貼《は》ってある品書きに目をやる時も、とにかく一番に揚げものを探すようになった。基本的には好き嫌いが多い方なのだが、揚げてあれば大抵のものはおいしく食べられる。トノサマバッタやイモムシでも、揚げさえすれば平気で食べられるような気もする。  そんなぼくが、�揚げもの球団�の監督としてベストナインを選ぶとしたら、どうなるだろう。考えただけでも唾《つば》が湧《わ》いてしまうが、胸ヤケ何するものぞ、の勢いで選んでみたいと思う。  さて一番。これは前述の�生まれて初めての買い食い�の一件に敬意を表する意味で、いもコロッケを選出したい。「一番センターいもコロッケ」。テスト生から叩《たた》き上げてきた苦労人で、守備の懐が深い。バッターとしては小技が得意で、足も速い。相手の意表をついて、大きな肉の塊が入っていることもあるので、勝ち負けとは関係のない局面でホームランを打ったりもする。そういえば小学五年生くらいの時に、学校帰りにカレー風味のいもコロッケをよく買い食いしたが、あれはうまかった。一個七円で少々小さめだったが、子供の腹を満たすにはちょうどいいサイズだったようにも思う。あのカレー風味のいもコロッケを、ぜひ我が軍団の一番バッターに据えたい。  二番。これはイカリングで決まり。他のフライと違って、形状がかなり特殊なので、相手チームのピッチャーは意表をつかれてむむむむッとたじろぐであろう。昔大洋ホエールズに近藤という変わったフォームのバッターがいたが、ああいう感じの二番バッターである。バッターボックスに入り、ぐぐっと構えると、相手チームのピッチャーは、 「何故真ん中に穴がッ!?」  と混乱して、ついつい甘い球を投げてしまうに違いない。守備位置はライト。ただし真ん中に穴が開いているので、時々フライを受け損ねたりもする。  三番。これはもうやっぱりトンカツでしょう。国民的に人気がある、長嶋《ながしま》みたいなバッター。ホームランも打てば、ヒットも打つ。空振りにしても、思いっきりバットを振るので厭味《いやみ》がない。人当たりのいい性格なので、カレーと仲良くしたり、卵とじと親密になったり、パンと親交を深めたりしている様子である。守備位置は当然サード。うまさには定評があって、かなり難しい球でも華麗にさばくことができる。  四番はぼく自身の個人的な趣味で、ビーフカツを選ばしてもらう。これはまあ大リーグの方から来日願った、外人登録選手と考えていただきたい。契約金は少々高いが、その分インパクトも強い。打者としては、力のあるロングヒッター。当たれば場外までどかーんと飛ぶ。外したとしても、犠牲フライくらいならお手のものである。守備位置はレフト。強肩なので、フェンス際からキャッチャーまでノーバウンドのいい球を返す。  五番はメンチカツ。巨人の選手にたとえるなら、原みたいな奴《やつ》である。それなりの数字は残しているのだが、肝心|要《かなめ》の局面で活躍しないので、評判はあまり芳しくない。どうも中途半端なバッティングが多いのである。決してまずいわけではないのに、何となくないがしろにされがちな存在とでも言おうか。守備はショート。サードのトンカツに憧《あこが》れて、いつもそばにいるのだが、地味な守備ぶりなのでどうも目立たない。  六番はエビフライ。タルタルソースの出来具合によっては、四番も狙《ねら》える実力があるのに、妙にプライドが高いためにチーム内での評判は今イチ。調子が悪い時は、控えのホタテフライと代えられることもある。守備はファースト。ワンバウンドの送球も、尻尾《しつぽ》で楽々と捕球する名手である。  七番はアジフライ。地味だが、その地味さ加減は玄人に好まれるところである。ホームランは滅多に打たないが、いい場面で渋いヒットを放つ。守備位置はキャッチャー。見てくれは凡庸だが、実は緻密《ちみつ》な計算が得意で、玄人たちからは「アジな真似を」などと賞賛されている。  八番。ここは一応ハムカツを入れておきたいが、ライバルのカニクリームコロッケと定位置争いを繰り広げているのが実情。セカンドを守っているのだが、美技を見せるほどの才能はないので、少々食い足りないと専らの噂《うわさ》である。  九番はピッチャー串カツ。七色の変化球を持ち、登板のたびにまったく別人のようなピッチングを見せる。相手バッターが、 「ネギかなー」  などとヤマを張って待っていると、いきなり肉だったり、意表をついてシシトウを投げ込んできたりする。控えの投手としては、カキフライを挙げたい。ただこいつは、シーズンオフの冬に本当の実力を発揮するので、監督としては困りものである。  というわけで揚げものベストナインを選出してみたが、なかなかおいしそうなチームである。フランス料理のフルコース軍団と闘っても、必ずや勝ってくれるだろう。  六月、父の帽子  まだほんの子供だった頃、家の中で妹と隠れんぼうなどをして遊ぶ折に、洋服|箪笥《だんす》の上へよじ登ったりすると、そこには寸詰まりの円筒形の箱がいくつも積んであった。開けてみると中には父親の帽子が、何とも言えぬ威厳を放ちながら収まっていた。手に取って、おそるおそる被ってみると、急に自分が偉くなったかのように思えたものである。  ぼくの父は、帽子好きな男であった。ぼくの父だけに限らず、父と同世代の男たちはみんな帽子を被っていた。外で知り合いとすれ違う際には、頭へ手をやって、軽く帽子を持ち上げて会釈する。その様子を、少年であったぼくは、 「カッチョいいなあ……」  と見上げていた。大人になったらきっと帽子を被って、ああいうふうに会釈をしようと心に誓ったものである。  父が被っていた帽子は、大人の男の象徴としてぼくの目に映っただけではなく、季節感をも伝えることがあった。秋から冬にかけては濃い茶色か黒、春には薄いグレーの中折れ帽を被っていたのである。そして六月——夏の気配が間近に感じられるこの時期になると、父は麦で編んだ中折れ帽を取り出してくるのであった。その涼しげなベージュ色を目にすると、 「夏が近いのだなあ」  と子供心に思ったものである。  現在ぼくは三十四歳で、二児の父という立場になった。あの頃の父のように、ちょっと気取って帽子を被ってみたい気もするが、果たして似合うだろうか。  叱られ上手が成功する  考えてみれば最近、誰かに叱《しか》られた記憶があまりない。これは単純にぼくが大人になったから、と考えるべきだろうか。物事の分別がつき、常識から外れない行動しかとらなくなったからだろうか。だとしたらそれはあまり喜ぶべきことではないのかもしれない。なにしろ少年時代のぼくは、そういう大人を心から軽蔑《けいべつ》していたのだから。  反芻《はんすう》してみると、少年の頃はいつもいつも誰かに叱られていたような気がする。塀によじ上れば叱られ、神社の境内でカン蹴《け》りをすれば叱られ、自転車を手放し運転すれば叱られ、水溜《みずた》まりの中をスキップすれば叱られ、泥をこねれば叱られ、石を投げれば叱られ、虫を採れば叱られ、歩けば叱られ、走れば叱られていた。 「このままでは息を吸っても吐いても叱られるのではなかろうか……」  という強迫観念にかられたことすらある。大人たちはとにかく少年のやることなすことすべてが気に入らず、全包囲否定型攻撃を仕掛けてきているように思えた。 「そんな少ししか御飯を食べないと大きくなれんぞッ!」  と叱られるので、やけくそになって沢山食べてみせると、今度は掌《てのひら》を返したようにコロッと態度を変えて、 「そんなに沢山食べたらお腹をこわすではないかッ!」  と叱られる。じゃあぼくは一体どうしたらいいのヨヨヨ、という気分であった。大人という生物は基本的に中庸を好み、少年という生物は基本的に極端を好む——この嗜好《しこう》の差が行き違いを生んでいたようにも思うが、それにしてもあんなに叱ることはなかっただろうに。  ぼくだけに限ったことではなく、少年たちの多くは、こうして叱られることによって徐々に極端な言動を控え、中庸の道を歩み始めるのであろう。確かに中庸は尊い。世間の常識というのは、これを中心に構成されているから、無理に逆らってはならない面も多々ある。それは世間の大多数の人によって踏み固められた道であるから、なるほど歩き易い。そこだけを歩いていれば転ぶ可能性も少ないだろうし、従って叱られることもほとんどないだろう。  しかし同時に、だからこそ中庸つまり常識は退屈でもある。少年時代のぼくは、その退屈さ加減にうんざりし、わざと極端なことをして大人たちの叱責《しつせき》をかっていたようにも思う。  少年にとって本当に面白く、好奇心をそそられることは、中庸の中にはない。発覚すればきっと叱られるようなことの中にこそ、楽しみはあった。だからぼくは叱られることを承知の上で、中庸の道から外れてばかりいたのである。  この性癖は現在にいたるまで、あまり変わっていないようにも思う。物書きなんて極端な職業に就くようになったのも、そこに原因があるのかもしれない。叱られないように道の真ん中を歩くより、叱られてもいいから道の端っこや、水溜まりの中をバシャバシャやりながら歩きたい。だってその方が楽しいんだもの、と考えているふしがある。もちろんその分、性根はすわっていて、水溜まりの中でコケて泥だらけになろうが、他人から後ろ指をさされようが笑われようが、動じないで再び歩き出すだけの心構えは用意しているつもりである。  そんな心構えができるようになったのも、少年時代から思春期、青年期にかけて、人並み外れて沢山の失敗を犯し、叱られ続けてきたせいだと思う。そのせいで、ぼくはずいぶん打たれ強くなった。少々の失敗は、気合さえあれば挽回《ばんかい》できると信じているし、叱責されたら素直に反省して次へ繋《つな》げればいいと考えている。「全日本叱られ上手選手権大会」なんてのがあったら、おそらくベスト8くらいには食い込めるのではないかと思うほどである。  そういうぼくの目から見ると、確かに世の中には「叱られ下手」な人が多い。偉そうなことを言うつもりは毛頭ないのだが、もうちょっと素直に叱られて猿みたいに反省してもいいのではないだろうか。あるいは叱られることを恐れるあまり、萎縮《いしゆく》して中庸の道ばかりを選ぶ自分を、改めてもよいのではないだろうか。特に思春期や青年期の中にある若者たち——この世代の人たちは、今の内に沢山失敗をして叱られておかないと、打たれ弱い性質がいつのまにか身についてしまう。誰かから思いっきり叱られた経験がないまま、三十歳を迎えてしまったりすると、ちょっとキモチ悪い大人ができあがっちゃうのではなかろうか。  そんな危惧《きぐ》を痛切に抱いたのは、一昨年に都立高校を訪れた時のことである。その時ぼくは高校生を主人公とした小説を書いていたので、実際にはどんな様子なのか覗《のぞ》いてみたいと担当編集者に頼み込み、彼の母校を取材させてもらったのである。事前に聞いた話によれば、その高校は都立の中でも中堅どころで、現代のニュートラルな高校生を観察するには、絶好であるということだった。  実際に訪れてみてまず驚いたのは、校内がやけに汚いことである。玄関や下駄箱近辺、廊下、教室にいたるまで、あちこちゴミが散乱して実に汚い。取材に協力してくれた進路指導の先生に、これはいったいどういうことなのかと尋ねると、 「生徒たちが掃除しないんですよねえ」  という答えが返ってきた。まあ、確かにぼく自身も高校時代は、教室や廊下の掃除なんてちゃんちゃらおかしくってよう、という反抗的な気分に支配されていたが、それにしても当番が回ってくれば一応格好だけでも掃除したものだ。もちろん先生の目をごまかしてサボることもあったが、それはあくまでも、 「バレれば叱られる」  という前提があった上でのサボリだった。叱られるからこそ、サボるのが楽しかったのである。しかしこの都立高校の生徒たちは、そういう前提をすっとばして、 「なんで俺《おれ》が学校の掃除しなきゃいけねえのよ? 俺に何の関係があるわけ?」  という感じなのである。これは掃除だけに限ったことではなく、授業中の態度なんかについても、同様のことが言える。ぼくは編集者とともに教室へ入って、一時間だけ英語の授業を受けたのだが、あまりの規律のなさに開いた口が塞《ふさ》がらなかった。授業が始まっても、男子生徒のほとんどはガムを噛《か》んだり、缶ジュースを飲んだりしている。あるいは隣のクラスの生徒が後ろの扉からフラリと入ってきて、 「今週号のヤングマガジン持ってっか? 貸してくれ」  などと座っている生徒に声をかけ、マンガを借りて、何事もなかったかのように自分の教室へ戻っていく。しかし先生は黒板に向かって英語の授業を進めるばかりで、一言も注意はしない。もちろん声を荒げて叱ることもない。 「うーむ。これでいいのだろうか……」  と、ぼくは頭を抱えてしまった。もちろん高校生には高校生の言い分もあるだろうが、これは明らかにどこかが間違っている。以前テレビの深夜番組で�校則反対同盟�みたいな団体の若い代表者が、現職の高校教師に向かって、 「どうして授業中にガムを噛んじゃいけないんですか!? それを禁止することは基本的人権の侵害じゃないんですか!? アメリカの高校生たちは、みんな授業中にガム噛んでるじゃないですか」  なあんて食ってかかっている様子を見たことがあるが、ぼくが訪れた都立高校の生徒たちも、この青年と同じ穿《は》き違えをしているのではなかろうか。彼らは何かを禁止され、叱責を受けることを、自由の侵害であると誤解しているふしがある。  ぼく自身、かなりオロカな高校生だったからあまり大きいことは言えないが、ここまでオロカではなかったと断言したい。少なくともぼくは、いくらこっぴどく叱られても、叱責の向こう側にある相手の真意を推しはかる程度の余裕はあった。ようするに叱られて反発する前に、 「自分は何故叱られたのか」  と吟味し、反省する余地を常に残していたのである。しかしぼくが覗いた都立高校の生徒たちの多くは、叱られ慣れていないためなのか、最初から相手と自分との間に見えない垣根をこさえ、 「叱るも叱らないも、俺のことは放っておいてちょうだい。関係ないんだから」  と、コミュニケーション自体を拒絶する雰囲気を漂わせていた。そしてそういう状態にいることを、自由そのものと勘違いしているようであった。  進路指導の先生の話によると、十年前と現在の高校生を比較した場合に、一番大きく変化した点は、離婚家庭の増大なのだそうである。十年前は一学年に十人もいなかったのに、現在は一クラスに七人くらいの割合で、離婚家庭の生徒がいるという。父親不在——つまり叱るべき目上の人間がそばにいない状態で暮らすと、若者たちはこんなふうに自由を穿き違えてしまうのだろうか?  幕の内弁当型リゾート  いきなり関係のない話題を持ち出すようで恐縮だが、ぼくは幕の内弁当のファンである。列車を使う小旅行で、駅弁を買うという段になると、必ずと言っていいほど幕の内弁当を買ってしまう。せっかくの旅行なのだから、その土地の名産を使った駅弁を買った方が目新しくていいとも思うのだが、どうも触手が動かない。いつもいつも幕の内弁当|一本槍《いつぽんやり》である。しかし考えてみれば、ぼくみたいな人が沢山いるから、全国どこの駅へ行っても幕の内弁当がメニューの中にあるのではなかろうか。それなりに人気があるから、置いてあるのである。  では何故、幕の内弁当は全国的に人気があるのか? この疑問に答えることは、同時に、日本人がどんな遊び方を好むのかという疑問にも答えることになるはずである。  さて幕の内弁当の人気の秘密というのは、ごく単純なことである。 「オカズが少しずつ色々と入っているので、得した気分になる」  これに尽きる。日々の食卓を改めて眺めてみれば分かると思うが、日本人というのは少しずつ色々オカズがある状態が基本的に好きなのである。大好きなオカズ一品を大量に食べるよりも、まあまあ好きなオカズを少量ずつあれこれ食べる方が幸せなのである。だからこそ幕の内弁当は幾時代の荒波を乗り越えて、現在も人気があるのである。  この�少しずつ色々�を好む日本人の気質は、そのまま余暇の過ごし方などにも当てはまりそうである。いわゆる欧米風のリゾートの楽しみ方——南の島のホテルに宿泊し、腰を据えて一ヵ月くらい休養するようなやり方は、実は日本人の気質に合っていないのではないかと思われる。この欧米風リゾート感覚というのは、食事にたとえるなら、一枚の巨大なステーキをじっくり時間をかけて食べるようなものである。言わばステーキ弁当。確かに美味《おい》しいかもしれないが、日本人がこれを食すと、すぐに胸やけがしてしまうのではなかろうか。  そこで登場するのが、幕の内弁当的リゾート。一応ゴハンを基盤として、そこに牛肉の大和煮《やまとに》とかアジフライとかウインナーとか卵焼きとか佃煮《つくだに》とかが加わるような感じで、二泊三日のグアムの旅の中に食事から買物、ダイビング、ヨット、ウインドサーフィン、ドライブ、射撃、ディスコ、ナンパと様々な遊びを詰め込む。一枚のステーキをゆったりと食べる欧米人の目には、 「おー、日本人イツモ忙シソウでーす。南ノ島デソンナニ一生懸命遊ブナンテ、クレイジーでーす」  というふうに映るかもしれないが、なんのなんの。所詮《しよせん》幕の内弁当の幸福感が分からない人には、日本人のリゾート感覚は永遠に理解できまい。確かに一枚のステーキを深く味わう欧米人にとっては、あれもこれもと小鉢に箸《はし》を伸ばす日本人の食事というのは、忙しいばかりでちっとも楽しそうじゃないように思えるかもしれない。しかし食べている日本人は忙しさを覚える前に、 「あれもある。お、これもある。それもあるしあれもある。ほほほー」  と幸福感を抱いている場合の方が多い。リゾートの過ごし方も同様で、一日にいっぱい予定を詰め込んでも、忙しさを覚える前に、予定がいっぱいあるということ自体を楽しむのが、日本人のやり方なのである。  だからそういう気質を無視して、リゾートは欧米型の長期滞在が正しい、などと決めつけるのはどうかと思う。遊んでる本人が楽しければ、幕の内弁当型リゾートでもいいではないか。 「日本人は働きすぎだから、もっと休みを多く取りなさい」  なんてことを諸外国の政府が指摘してくるのも、ぼくはどうかと思う。働くことは善、仕事が生き甲斐《がい》という気質が日本人の中にあるのに、それを掴《つか》まえて「働くな」と命令するなんて、何だかひどい話ではないか。もちろん休みは必要だし、大事である。しかしいつどんなふうにして休み、遊ぶのかは本人が決めることであって、外国の政府が決めることではなかろう。  何だか話が横へ逸《そ》れてしまったが、とにかく日本人の気質には幕の内弁当的リゾートが合っている。傍《はた》から見たら忙しそうでクレイジーかもしれないが、そこには日本人なりの楽しみがあるのである。  21世紀の畳  まだほんの子供だった頃、夢に思い描いていた21世紀の姿は何やらつるつる、ぴかぴかしたものであった。他の惑星への定期ロケットがひっきりなしに発着し、自動車は自在に空を飛び回り、人々は強化プラスチック製の機械化された家に住み、錠剤のような食事をとる。21世紀になったら、きっとそんな世界がぼくらを待っていると、他愛なく信じて疑わなかった。  ところが21世紀を具体的な未来としてイメージできる今、あらためて思い描いてみると、子供時代の空想とはずいぶん様子が違うことに気づく。どうやら21世紀になっても、人は強化プラスチック製の機械化住宅には住みそうにないし、錠剤みたいな食事もとりそうにない。さらに百年経って22世紀になったところで、日本人はやっぱり木の家が好きだろうし、米の飯を食らいおみそ汁を飲んでキュウリの漬物を齧《かじ》っているに違いない。ようするにぼくら日本人の五感に対して心地好さを訴えかけてくるものは、基本的に百年前も今も百年後もきっと変わらないように思うのである。  例えば畳。  これなんかも、今でこそフローリングの床に押されて肩身の狭い思いをしているふしもあるけれど、百年後に日本の住宅から姿を消したりすることは決してないだろう。いや、むしろその良さを見直されて、大いに幅をきかせるようになるに違いない。畳はいい。ぼくらが持ち合わせている五感の内の四感を満たす心地好さが、畳にはある。まず視覚的にキモチがいい。さっぱりしていてしかも柔らかい印象がある。触覚的にも同様で、畳を前にすると寝転がってその感触を肌で味わいたくなる。嗅覚《きゆうかく》的にも、畳はぼくらの心を落ち着かせる独特の匂《にお》いを持っている。あるいは聴覚。これも悪くない。畳を歩く足音や、衣擦《きぬず》れの音なんかはかなり耳に心地好いではないか。唯一味覚だけが仲間外れだが、まあ中には畳を煮て食うのが好きだ、なあんて人もいるかもしれない。少なくともフローリングの床をメリメリ食うよりは、ずっとましであろう。  そういうキモチのいい畳にごろりと寝転がって、大画面のテレビを眺める。考えてみれば、これは相当贅沢《ぜいたく》な快楽なのではなかろうか。もちろん百年後にだって通用しそうである。  前売券、二枚  女の子をロードショウに誘おうとしたことがある。  ぼくはまだ中学二年生で、女の子とまともに口をきいたことがないほど、ウブだった。バスケットボールに夢中で、毎放課後練習に明け暮れていたので、恋愛どころではなかったのである。今にして思うと、周囲にあんなにも沢山の女の子がいたのだから、少しくらい気にかけてもよさそうなものなのに、当時はまったく眼中になかった。もったいない話である。  中学二年生の夏休みを終えた頃、ぼくは懸命な練習の甲斐《かい》あってか、レギュラーのポジションを確保して、何となく気持に余裕ができた。すると不思議なことに、急に同じクラスの或る女の子のことが気になり始めたのである。  彼女はIさんといって、自他ともに認める優等生だった。園芸部に所属していて、放課後になるといつも花壇のそばにいた。彼女が花に水をやったり、両手を泥だらけにして球根を植えたりする様子を遠くから眺める内、ぼくは自分の胸の奥に甘ったるい霞《かすみ》のようなものが湧《わ》いてくるのを感じるようになった。  まあ早い話が、 「好きだなあ……」  と感じるようになっていたわけだが、何しろ今まで一度も女の子を好きになったことがなかったので、うろたえてすっかり自分を持て余してしまった。一体自分はどうしてしまったのだろうと訝《いぶか》り、朝礼や掃除当番の時に彼女と接近するたびに、おたおたして我を見失った。  Iさんはきれいな長い髪と、輝くばかりの美しい肌の持主だった。年齢が年齢だから、おそらくクラスの女の子のほとんど全員がつやつやした健康的な素肌をしていたはずなのだが、ぼくの目にはIさんの肌だけが特別きれいに見えた。特に夕暮れの柔らかな陽射しの中、一人で花壇の手入れをしている時の彼女は、神々しいほどの美しさを湛《たた》えているように思えた。  ぼくは下駄箱や渡り廊下のあたりからひそかにその横顔を眺めやり、ごく自然な欲求として、その肌に触れてみたいと願うようになった。 「あのつるつるした頬《ほお》に触れたら、どんな感じだろう」  てなことを考えては、不思議な胸苦しさに襲われて、居ても立ってもいられずにじたばたしたものである。  そんなある日。ぼくは父親に連れられて銀座まで映画を観にいった帰り道に、ロードショウの券を二枚買った。リバイバル上映される「ローマの休日」の前売券だった。翌日から、ぼくはこの二枚の前売券を常に学生服のポケットに忍ばせるようになった。休み時間や放課後になると、ポケットの中で前売券を握りしめて、Iさんのそばをうろうろし始めたのである。  最初の内こそ彼女は目が合うたびに、かすかな微笑《ほほえ》みを返してくれていたが、ぼくときたら近くをうろうろするばかりで何も言い出さないので、段々不審に思うようになったらしい。意識的にぼくから目を逸《そ》らすようになってしまったのである。 「一緒に映画に行こうよ」  この一言が、ぼくはどうしても言えなかった。  結局、一ヵ月近く二枚の前売券を握りしめて彼女のそばをうろうろし、何も言えないままぼくは一人でロードショウを観に行った。有楽町スバル座の座席にぽつんと腰かけて、半券をちぎっていない彼女の分の前売券を眺めている内に、情けなくて泣きそうになった記憶がある。  あの時、勇気を出して彼女を映画に誘っていたら、ぼくの人生はほんの少し変わっていたかもしれない。それとも、何も変わらなかっただろうか。  デートコース再訪記  デート。  甘い響きである。今や二人の子持ちになってしまったぼくのような人間にとっては、その響きの中に美しさすら感じてしまう。いいなあ、と羨《うらや》ましくも思う。だから楽しそうに手を繋《つな》いでデートをしている蜜月のカップルなんかを目にすると、邪魔してやりたいーッとも思う。  そんなふうに今ではデートに対してネガティブな思考回路しか働かないぼくではあるが、当然のことながらその昔は、非常に前向きでアクティブな姿勢を取っていた。デートと聞いただけで鼻の穴がおっぴろがり、はあはあはあと荒い息を漏らし、ガルルルッと唸《うな》りたくなるような時期——ようするに思春期の頃である。この時期ぼくは岡山に住んでいて、岡山県立岡山操山高校という岡と山だらけの名前の高校に通っていた。もう二十年近く前の話だが、当時胸に抱いたデートに対する燃え上がるような好奇心は、今でもよおく覚えている。  色っぽい誘惑に満ちた東京で生まれ育った割に、ぼくは結構オクテの少年であった。従って初めてのデートも、岡山に引っ越してからのことである。記憶に間違いがなければ、高校二年生の体育祭の直後に、クラスメートのJ子さんを誘ったのが初めてである。しかしながら最初は、一体何をどうすればデートしたことになるのか分からなくて、非常に困った。ようするにデートの定義というものが分からなかったのである。  一緒に公園を散歩すれば、それがデートなのか。映画を観ればデートなのか。喫茶店に入ればデートなのか。手を繋《つな》いで川沿いの道を歩けばデートなのか。この問題について、弱冠十六歳のぼくは大いに悩んだ。目が充血し耳から煙が出るまで悩んだ挙句、 「デートを逆さまに読めばトーデ……やはり遠出こそデートの基本なのだ!」  というアクロバティックな結論を得、相手の都合も考えずにいきなり遠出することにしたのである。  とはいえ十六歳の高校生の頭で考える遠出というのは、高が知れている。出かけた先は、岡山市内から車で三十分ほどの鷲羽山《わしゆうざん》および鷲羽山ハイランドであった。もちろん車もバイクも持っていなかったから、バスに乗って行った。どこが遠出なんじゃいッとお叱《しか》りを受けそうだが、当時のぼくにとっては十分遠出だったのである。人気のない所を選んで歩き、隙《すき》あらばあんなことをしたり、こんなことをしたり、そんなことまでしたりしちゃおうと、ガルルなことを考えていたのだが、結局恥ずかしくて何もできなかった。ただ黙々と山道を歩き、鷲羽山ハイランドで乗物に乗って、しおしおと帰ってきただけのことである。このJ子さんとはその後も長く付き合いが続いたので、岡山市近辺のありとあらゆる所へ行った。 「ようするに一緒にどこかへ行けば、それがデートなのだな」  ということに気づいたのは、ずいぶん後になってからのことである。  前置きが長くなってしまったが(いつもそうなのよね。んでもって前置きの方が面白いってよく言われるのよね)今回ぼくは岡山のタウン情報誌の招きによって、昔のデートコースを回ることになった。三十四歳、高校生の倍の年齢になっているのに、今さら何をしとんじゃいオノレは、という外野の声が聞こえてきそうでもあるが、まあお許しいただきたい。  岡山に到着して、最初に回ってみたのは、昔よくデートの待ち合わせに利用していた喫茶店である。文化センター前にあったイリミテ、表町《おもてちよう》の裏筋にあった白樺《しらかば》、紀伊國屋《きのくにや》書店裏にあったドンキホーテ、紳士服のはるやま地下にあったビートル。いずれも思い出深い喫茶店ばかりだが、今では影も形もなくなっていた。唯一当時のままの姿で営業していたのは、岡山大学近くのチャイヤである。開店したのはぼくが大学生の頃だったと記憶している。当時は青々と繁る畑の風景が店の窓から見えたものだが、今は殺伐とした駐車場に変わっていて、ちょっと残念だった。これは余談だが、当時も今も喫茶店に関して言えば、岡山という街はかなり恵まれている。これほど個性的で、居心地のいい喫茶店が沢山ある街を、ぼくは他に知らない。お世辞ではなく、東京大阪なんかよりもずっと優れていると思う。  さて喫茶店を巡った後に訪れたのは、旭川《あさひかわ》の川原である。これまた思い出が深い。生まれて初めてラブレターを渡したバスケット部のM本さんと会ったのもここなら、J子さんの手作りサンドイッチを食べたのもここ、一夏の恋で終わったN木さんに貰《もら》った指輪を棄てたのもここである。ありがたいことにこの場所は、昔のままの姿であった。いや、昔よりもやや整備されて、きれいになっているくらいである。東京のごちゃごちゃした街中に住んでいると、この旭川の川原のような場所が本当にありがたく感じられる。よく晴れた日曜の夕方なんかに、こういう川原に腰を下ろして、 「好きだぜ、ミコ」 「やだヨシオくんたら、エッチ」 「ふふふ」 「うふふ」  なあんてイチャついたりすれば、それだけでもういいじゃないの、他に何も必要ないじゃないの、という気もする。あーバカバカしい、デートでもトーデでも勝手にしてちょうだいッ、である。  次に訪れてみたのは、倉敷《くらしき》。これはもう岡山に住む年頃の男女にとっては、ちょっと外せないデートスポットであろう。何度も訪れているとアキちゃうかもしれないが、そこはひとつ知恵を働かせて、毎回目的を変えればいいのである。美術館・博物館を中心に攻めたり、喫茶店を徹底的に回ったり、下らない土産物を見つけるためだけに訪れてみても、結構楽しいと思う。ようするにデートをする上で大事なのは、場所ではなく、当人同士の想像力なのである。  倉敷では大原美術館(ずいぶん館内が広く美しくなっていたので驚いた)を見学し、お隣の喫茶店エルグレコでお茶を飲むといった正統派のコースを回った。高校生の頃はこの喫茶店の敷居がやけに高くて、入るのにちょっと勇気が必要だった覚えがある。我ながら微笑んでしまうほど世間ズレしてなかったのだなあ、と感慨ひとしおである。  さて最後に訪れたのは御存知鷲羽山。高速を使って行ったら、鷲羽山ハイランドのすぐ脇《わき》ヘ出たので、びっくりした。昔はあんなに大変な思いをして、バスでえっちらおっちら訪れたものだが……隔世の感とはこのことである。しかも鷲羽山ハイランドの駐車場からは、瀬戸大橋がぱんぱかぱーんと見えて、二度びっくり(実は初めて見たのだ)である。これは意見の分かれるところだろうが、ぼく個人としては、あんなバカでかい橋は嫌いである。海に橋をかけたりトンネルを掘ったりするのは、どうも自然の摂理に無理やり逆らっているような気がして仕方ない。  瀬戸大橋を遠目に観賞した後、今度は鷲羽山ハイランドに入ってみたのだが、昔に比べるとここはずいぶん変わっていた。ヤワな乗物ばかりだったのに、今や絶叫マシンが目白押しである。ぼくは知る人ぞ知る絶叫マシン愛好家なので、 「乗ってるとこ、バンバン写真に撮ってくださいね!」  などと余裕シャクシャクで乗り込んだのだが、これが意外なほど恐かった。今までに何度も乗ったことがある機種ばかりなのに、いつもの三割増しの恐怖感があった。おそらく他に乗客がなく、たった一人で乗ったために誰とも恐怖感を分かち合えなかったせいだと思う。 「絶叫一人時間差攻撃ィ!」  という感じで、ただただひたすら恐いばかりであった。写真の仕上がりは見ていないが、おそらく物凄《ものすご》い顔で写っているはずである。やっぱ絶叫マシンは恋人と二人で乗らなくちゃ、話にならない。一人で乗ったらただのマゾである  鷲羽山ハイランドでもうひとつ恐かったのは、乗物ではなくて、人間である。訪れる前に、同行の編集者が、 「ブラジルのサンバチームがいるかもしれませんよ」  てなことを言っていたのだが、そんなもの夏休み中だけに決まってるじゃん、と気にもかけていなかった。ところが実際に行ってみると、この秋空の下、ほとんど全裸に近い格好のお姉さんたちがうじゃうじゃいて、特設ステージで踊りまくっていたのである。しかもお客さんが五人もいないため、彼女たちの踊りはほとんどヤケッパチ状態で、殺気すら漂わせていた。昔っからぼくはこういう状況に遭遇すると、必ずや参加を求められる運命にある。長崎ハウステンボスでは、オランダ人と一緒にチーズ運びのデモンストレーションをやらされて笑いモノにされたし、八王子セサミプレイスではステージに上げられ、ピエロと一緒に風船を膨らませたし、ハンガリーでは噴水のある広場でジプシーに無理やり手を引っぱられて、ポルカみたいなダンスを踊らされた。 「うううッ、このままでは鷲羽山ハイランドでサンバを踊らされてしまう……」  危険を感じたぼくは、できるだけサンバチームのいるステージには近づかないように行動し、何とか事なきを得た。いやー、実に危なかった。  というわけで、駆け足で巡る昔のデートコース再訪は終わった。一言で感想を述べるなら、 「やっぱ岡山はいいよなあ」  ということになるだろう。高校時代、この街に住んでいる時は、退屈な街だぜいとうそぶくばかりであったが、この歳になって再訪してみると、岡山はいいとしみじみ思える。ぼくの父親が何故、東京からの引っ越し先として岡山を選んだのか、この理由を垣間見たような気がする。  続ける  基本的にぼくは�続ける�ことが苦手な男である。  子供の頃から飽きっぽい性格で、何をやっても長続きしなかった。遊びにしてもスポーツにしても勉強にしても趣味にしても、続けて熱中することができない。すぐに興味を失って、違うことをやりたくなってしまうのである。  ところがそんなぼくでも、たったひとつだけ長くながあく続けていることがある。それは他でもない�書く�という行為である。このことに関しては、自分でも呆《あき》れるほど長く続けている。最初に小説モドキのものを書いたのは小学校五年生の時だったから、指折り数えると二十四年。よくもまあ飽きもせずに続けて、職業にまでしてしまったものだ。自分にこんな根性があるなんて、我ながら驚きである。  しかしまあ逆に考えると、それひとつしかなかったからこんなにも長く続けられたのかもしれない。沢山のことを一遍に続けていくのは、確かに至難のワザである。けれどたったひとつだけなら、続けることもそれほどの苦痛を伴わない。もちろんそのひとつのことが、ものすごく好きであるという条件は必要であるが。  ここで誤解してもらいたくないのは、続けること自体を目的にしてはいけないということである。確かに、何かをずうっと長く続けることはそれ自体が尊い。しかし続けることにこだわるあまり、本質を見失ってはいけない。そのことが好きで、愛しているから、結果として続けられた、という図式が正常なのである。「続けられるから好き」なのではなく、「好きだから続けられる」のである。そのことをぜひ忘れないでいてもらいたい。  負ける自分  ぼくの父親は他でもない博打《ばくち》で身上を潰《つぶ》した男である。  もともと勝負事が好きな性格で、若い時分から麻雀《マージヤン》を中心に色々な博打を打ってきたらしいが、二十代三十代は彼の人生そのものに勢いがあったせいか、それほど負けが込むことはなかった様子である。だから博打を打っても、家にはそれなりの金を入れていたし、大きな借金を作ることもなかった。ところが四十代半ばに差し掛かった頃、父親の人生そのものの勢い——つまり運と呼んでもいいだろう、それが失速し始めた。  ぜんたいどんなふうに失速し始めたのか、その詳しい経緯を父親はいまだに語ろうとしない。というか、本人もよく分かっていないのだと思う。博打というものは基本的に、勝者よりも敗者に対して、より大きな錯覚を与える。負けが込めば込むほど、人は我を見失ってしまう。だからぼくの父親も、自分がどんなふうに坂を転がり落ちてしまったのか、上手く反芻《はんすう》できない様子である。夢中で博打を打っている内に、ふと顔を上げて周囲を見回してみると、家族は離散し、自らも素っ裸で立っていた、というのが正直な印象なのだろう。 「もともとは競馬で負けて、ノミ屋に払う五十万円ほどの金をサラ金で借りたことが発端だった」  と、父親は一度だけぼくに語ったことがある。その後のことは父親自身も曖昧《あいまい》にしか思い出せないらしいが、想像することはそれほど難しくはない。その五十万円を勝って返そうと考え、別の博打を打ったのだろう。そしてさらに負けて、またサラ金で借金をした。その繰り返しが、わずか五年ほどの間に、五十万円の借金を数千万円まで膨れ上がらせたのである。  ぼくが大学に入学し、上京した翌年に、膨れ上がった借金はとうとう破裂した。借金の利息返済を、別の借金でまかなうような絶望的な方法で何年も凌《しの》いできたのだが、ここへきて父親の名はサラ金をはじめとする金融機関のブラックリストに載り、どこへ行っても一銭も貸してもらえなくなったのである。当時はまだ規制法も何もなかったから、サラ金の取り立ては激烈をきわめた。ぼくら家族はその渦中に、いきなり放り込まれて唖然《あぜん》とした。父親はすっかりやる気をなくし、仕事もせずにぶらぶらと出歩く日々が続いた。この時期、ぼくら家族は父親が深夜になっても帰ってこないと、そのたびに、 「今度こそ帰ってこない。どこかで死んだんだな」  と本気で考えた。本気だったから、家族は誰もそのことを口にしなかった。  しかし父親はいつもぼくらの不意をつくような形で帰ってきた。生きているその顔を見ると、ぼくらは心のどこかでほっと安堵《あんど》の溜息《ためいき》を漏らし、一方また別の心のどこかでは、おめおめと生き恥を晒《さら》している父親を情けなくも、憎々しくも感じるのだった。  ぼくが大学を出たその年に、父親は夜逃げを決意した。カモフラージュのために住民票を北海道の見知らぬ土地へ移し、家財道具一切をトラックの荷台に積んで、岡山から東京へ逃げてきたのである。ぼくは息子としてこの夜逃げを手伝い、東京まで父親と交代でトラックを運転した。その車中で、父親は何度も同じ台詞《せりふ》を口にした。 「ツキがなかったなあ」  と言うのである。これを聞くたびにぼくは、怒りと憐《あわ》れみが入り混じったような複雑な感情に、胸を揺さぶられた。父親は責任を取ろうとしない。すべてをツキのせいにして、自分はその後ろに隠れている。人間としてのその弱さに対してぼくは、怒りと憐れみを同時に感じたのである。  さてそういう父親を持つ息子としてのぼくは、博打に対してかなり複雑な感情を抱いている。前述の怒りと憐れみではないけれど、二つの相反する感情が同居している。簡単に説明するなら、好きでもあり嫌いでもあるということになろうか。パチンコなり麻雀なり競馬なり、博打に手を出している最中は、負けていようが勝っていようが、 「ああ俺はこういうの好きだ……」  と純粋に思う。ところがそう思ったとたんに、逆噴射のスイッチが入って、 「でもやっぱ厭《いや》だな。勝っても負けても楽しくはない」  と打ち消しにかかる。好きと嫌いが自分の中でせめぎ合っている感じである。ロマンチックな解釈を施すなら、これはぼく自身の中に流れている血のせいだと考えることができるかもしれない。ぼくの母親というのは、父親とは正反対の生真面目《きまじめ》で朴訥《ぼくとつ》とした人間である。この二人の血がぼくの中に同時に存在するので、博打に対して相反する二つの感情がせめぎ合うのではないかと、最近考えるようになった。父親の血はぼくを博打に向かわせ、母親の血はぼくをそこから遠ざけようとする。  だからぼくは未だに博打と四つに組み合った実感がない。下手に組んで押さえ込まれたりしたら、家族のひとつやふたつ簡単に吹き飛んでしまうという畏《おそ》れがあるために、いつも距離を置いて、こわごわと向かい合うのである。そして自分の中の父親の血を牽制《けんせい》するために、 「きっと負けるだろう」  と予《あらかじ》め自分に言いきかせる。ならば最初から博打など打たなければいい、と思われるかもしれないが、ここんところがまたもや複雑なのである。ぼくは多分�博打で負けても大丈夫な自分�を確かめたいのだ。博打には確かに人間を翻弄《ほんろう》し、破滅へ向かわせる魔力があるが、その力に逆らうことのできる自分を実感したいのだ。だからぼくは時々、オヨビ腰ながらも博打に手を出すのだと思う。  ハンガリーの味  何年か前にハンガリーを訪れた時のことである。  ブダペストに一週間ほど滞在する間に、ぼくは確実に二キロは痩《や》せたはずである。理由はもちろん食べ物にあった。ハンガリーの主食、というか献立の中心はグラーシュと呼ばれるパプリカ入りトマト味のスープで、どこのレストランに入っても、まずこのスープの匂《にお》いが鼻先へホンワカ漂ってくる。決して不快ではなく、むしろ食欲をそそる種類の匂いである。最初の二、三日はこのスープをうまいうまいと食べていたのだが、徐々にげんなりしてきた。パプリカの味がきつい上に、中身もシチューと呼んだ方が適切なほどボリュームがあるので、毎日食していると胃にもたれてくるのである。しかもメインディッシュはこの後に控えている。多くは肉料理なのだが、これがまたグラーシュと同じ味つけがなされている。子牛のカツレツを頼もうがステーキを頼もうがチキンの照り焼きを頼もうが、とにかくグラーシュと同じパプリカ入りトマト味のソースが、 「さあー、どーんと食べて下さいようッ!」  とでも言いたげに、たっぷりとかけられているのである。基本的にトマト味が嫌いではないぼくも、さすがにこれが一週間も続くとレストランへ行くのが憂鬱《ゆううつ》になってしまい、 「ムネノリ早くおウチに帰りたいの」  という心情に支配されるようになった。  そんなある日。ブダペストを離れ、郊外のワイン倉を訪れる計画があって、ぼくら一行はマイクロバスに乗り込んだ。ハンガリー・グランプリが開催されるF1サーキットの脇《わき》を走り抜け、バスは左右に田園風景の広がる一本道を快調に飛ばしていった。  一時間半ほど走ったあたりのドライブインで、給油を兼ねた休憩ということになり、ぼくらは一旦バスを降りて背筋を伸ばした。この時、運転手のブッチさんという青年が、ドライブインでサンドウィッチらしきものを食べているのを見掛け、 「おッ、あれならパプリカ入りトマト味はしないのではないか!?」  と思ってぼくは色めきたった。早速そばへ寄っていくと、ぼくが興味を示していることを感じとったブッチさんは、サンドウィッチをぺらりとめくって中身を見せてくれた。しかしその中身を覗《のぞ》き込むなり、ぼくはガックリしてしまった。サンドウィッチの中には、生の長葱《ながねぎ》と生のパプリカが挟んであったのである。 「長葱サンド……」  ぼくも今まで色々なサンドウィッチを目にしてきたが、これほどインパクトの強い、奇妙なサンドウィッチを見たのは初めてであった。ハンガリーおそるべしッ、と肝に銘じた次第である。  デパート一階の香り  先日、デパートの中にある喫茶店で友人と待ち合わせをした時のことである。  約束の時間よりも二十分ほど早めに到着してしまったぼくは、中途半端に時間を持て余して、デパートの中を当てもなくうろついていた。しかし無目的にデパート内を歩き回るというのは、面白そうでいて実は結構つまらない。やはり購買意欲があってこそ、デパートは楽しい場所になりうる。そこで何か購入する必要のあるものはなかったかと頭をひねったのだが、何も思い浮かばず、仕方なく一階へ下りて煙草でも買うことにした。その時ぼくは三階にいたので、エレベーターを待つまでもなく、階段をとんとんとんと降りていったのだが、一階が近づくにつれて異様な匂《にお》いが漂い始めた。一階にごちゃッと固まっている化粧品売場からの匂いである。  もともとぼくは匂いには敏感な方なので、うッと息を詰めてしまった。化粧品売場からの匂いは、確かにひとつひとつ(匂いをひとつふたつと数えるべきなのかどうか疑問だなあ)を取り上げて嗅《か》いでみれば、芳香に違いあるまい。香水を筆頭に、どの化粧品もプロの調香師が腕をふるってブレンドした香りであるはずだから、好まれこそすれ嫌われるような匂いを醸すわけはない。ところがこれら完成された香りを有す化粧品が何百、何千と集まって、 「俺《おれ》が俺が!」  という感じでそれぞれの香りを主張しながら混ざり合うと、とんでもない香りを放ち始める。香りの闇鍋《やみなべ》、とでも呼べば適当だろうか。何が入っているのか分からなくて、ちょっと箸《はし》を出しかねる。人間の鼻には嗅覚《きゆうかく》疲労という便利な特典があって、大抵の匂いにはすぐ鼻が慣れてしまうから、化粧品売場をうろつくお客さんたちも平気な顔をしているけれど、ぼくの場合普通の人よりも鼻が強靱《きようじん》なのか、なかなか嗅覚が疲労しないので困ってしまう。  さて香水や化粧品の匂いにまみれて煙草を購入したぼくは、約束した時間を待って喫茶店に入り、友人と会った。短い世間話を交わした後に、ふと思いついて一階の化粧品売場の匂いの話をしたら、その友人はこんなギモンを提示してきた。 「そういえばさあ、どうしてどこのデパートも化粧品売場が一階にあんの?」  なるほど言われてみれば、これはギモンである。別に日本国憲法で定められてるわけでもなかろうに、どこのデパートも化粧品売場は一階。近頃|流行《はや》りの談合というやつだろうか? いやいやそんなはずはない。何かきっと、ふかあいワケがあるのだ。一階フロアと言えば、そのデパートの顔と呼んでも過言ではないはず。そこに必ず化粧品売場を据えているということは、やはり女性客の購買意欲に対して、何らかの効果を期待しているからなのではなかろうか。 「やっぱさあ、いい匂いを嗅がせていい気持にさせて、沢山買物してもらおうと、こういう魂胆ではないかなあ」 「うーむ。そうだろうか……」 「きっとそうだよ。だってさ、化粧品とか香水とかを買う女の人って、キレイになりたいとか好かれたいとか、そういう欲望があるわけじゃない。だからまず香りで美しさへの潜在意識を牽制《けんせい》しておいてだな、ハイ次は洋服、次は宝石……という具合に色々買わせようという発想だよ」 「うーむ、しかしデパートには必ず地下に食料品売場もあるだろう。だから地下から漂ってくる食品の匂いをごまかすために、一階にはわざと芳香漂う化粧品売場を設けてある、とも考えられんか?」 「なるほどー。お前結構頭いいな」 「しかし確証はない」 「むー」  てなことをぼくらは一時間近く話し合ったのだが、結局結論は出ないまま、虚《むな》しくなってしまった。どなたか答えを御存知の方、教えてくれませんか?  ビンロー  先日、台湾を訪れた時のことである。  台北《タイペイ》市街をうろついている最中に、煙草が切れた。東京ならばどこにでも自動販売機があるけれど、台北にはそんなものはない。代わりに、屋台の煙草屋というものがある。そこで買おうと思って、ぶらぶら近づいていくと、やけに目付きの鋭いおねえさんがかがみ込んで、何やらチョコレートのようなものを熱心にコネていた。 「ん? 何だ?」  煙草屋で自家製チョコレートも売っているのだろうかと訝《いぶか》りつつ、背後からじっと眺めていると、おねえさんは続いてドングリのような形の緑色の木の実を取り出し、ナイフで裂け目を入れ始めた。その作業が終わると、今度は先程のチョコレート状のものを裂け目へ塗りつけている。 「食い物だろうか?」  さっぱりワケ分からなかったので、翌日になってから地元ガイドの謝さんに尋ねてみたところ、意外な答えが返ってきた。 「あー、それはビンローですね」 「何ですかビンローって?」 「あー、何て言いますか……木の実ですね。ガムのように噛《か》むですよ。するとですね、顔がポーッと火照《ほて》って、ちょっとクラクラして目が覚めます。長距離トラックの運転手なんか、好きでいつも噛んでますね」 「ようするに覚醒剤《かくせいざい》みたいなものですか?」 「んー、まあ、そうですねえ。ちょっと違います。お酒みたいなものですね。台湾ではとてもポピュラーです」 「ふーむ」  この話を聞いて、ぼくはすっかり好奇心が刺激されてしまった。同行した友達も同様で、さっそく買って試してみようじゃないのと話がまとまった。  ビンローは漢字で書くと�檳椰�である。ちょうど煙草くらいの大きさの紙パッケージに十個ほど入って、値段は五十元。日本円に換算すると二百五十円くらいである。高い買物ではないので二箱購入して、そそくさとホテルの部屋へ戻り、どきどきしながら試してみた。  一個取り出して口へ放り込み、ガムのように噛みしめてみたところ、今までに経験したことのない奇妙な苦さと青臭さが口の中に炸裂《さくれつ》した。簡単に感想を述べるなら、 「ゲッ! まじー」  ということになる。正直言って、こんなにまずいものを噛んだのは生まれて初めてのことである。噛んだ瞬間、うッと吐きそうになるのを堪《こら》え、できるだけ鼻で息をしないようにしながら噛み続ける。 「うー、俺耐えられねえ!」  友人はすぐに吐き出してしまったが、ぼくは根性で(こんなとこで根性使うからいざって時にストックがなくなるのよね)五分近く噛み続けた。んもう口の中はビンロービンロービンロービンロービンロービンローと全面的にビンロー状態である。 「どう? 効いてきた?」  友人に尋ねられて、うーむと腕組みをしながら自分自身の変化を感じ取ろうとしたのだが、どうも何事もない。ほんの少し頬《ほ》っぺたが熱いような気がするだけである。 「むー、別に効かんなあ」 「これってさあ、余りのまずさに目が覚めるっていうモンなんじゃないの」 「それは一理ある……」 「……馬鹿みたいだ」 「確かに」  すっかり頭にきてしまったぼくらは、残りのビンローをすぐにポイしてしまった。一体何だったんだあれは!?  使えないコンタクトレンズ  それにしても出掛ける間際になって物が見つからないというのは苛立《いらだ》たしいものである。さあ行こう、と玄関の扉を開けたところが、鍵《かぎ》が見当たらない。あるいは腕時計がない。持っていくはずだった仕事のファイルが見当たらない——そんな経験は誰にでもあるものと思う。  先日、ぼくも出掛ける間際になって大切なものが見つからず、パニックに陥った。大切なものとは、コンタクトレンズである。他のものならともかく、これがないとぼくは出掛けるわけにはいかない。裸眼では車を運転するどころか、街をうろつくことさえできないのである。 「ううー、どこだどこだどこだ……」  人と会う約束の時間が迫っていたので、ぼくは髪の毛が逆立つほど焦って、洗面台の近辺をかき回した。いつもの習慣で、コンタクトレンズは円筒形のケースにしまい、洗面台の左側に立てておいたはずなのである。それがどうしても見つからない。まあどこの家庭でもそうだと思うが、洗面台の近辺というのはやけにゴチャゴチャしていて、物が失くなりやすい。特にコンタクトレンズのケースみたいに、小指ほどのサイズのものは一旦どこかに紛れてしまうと、なかなか見つからないのである。 「ひー、助けてくれ!」  十分ほどアセアセと探しあぐねた挙句、ぼくはギブアップしてカミサンを呼んだ。もしかしたら彼女がどこかへしまったのかと思ったのである。ところがやってきたカミサンは知らないと言う。 「指一本触れてませんよッ」  とケンもホロロのお言葉である。そうこうしている内に、時間は無情にも刻々と過ぎていく。 「一緒に探してくれ、一緒に」  切羽詰まったぼくは、カミサンを巻き込んで再度�コンタクトレンズ捜索作戦�を展開することにした。今度は洗面台の左から右へ、電気|剃刀《かみそり》の中まで開けて探すほどの徹底した捜索ぶりである。 「あら、これ違うの?」  やがてカミサンがそんなことを言って、洗面台の引き出しの中からコンタクトケースを摘《つま》み上げた。 「あ! それだ!」  慌てて受け取り、中を開けてみたところ、どうも様子がおかしい。確かにぼくが日頃使っているコンタクトケースとデザインは同じなのだが、何かが違う。よーく見ると、中に充填《じゆうてん》してある保存液がぼんやり濁っているし、コンタクトレンズ自体もひどく汚れている。 「これは……ずいぶん古いな。お前のコンタクトじゃないのか?」 「違うわよ。ほら、私のは眼の中に入れてあるもん」 「じゃあ、これは誰のだ?」 「知らなーい」 「俺のだろうか……」  いくら考えてみても、全然思い当たらない。おそらく以前、コンタクトレンズを新しく買い換えた時に、古い方を棄てずにしまっておいたのだと思われるが、一体いつのものなのか分からない。 「それ使ってみればいいじゃない」 「馬鹿言うな。こんなドロドロの液に浸《つ》かってた奴《やつ》を眼に入れられるか!」 「じゃあどうするの」 「……うーむ。棄てるしかないな」 「えー、もったいなーい」 「じゃ、お前使えよ」 「厭《いや》よ」 「俺だって厭だ」  てな会話を交わした後に、この正体不明のコンタクトレンズはポイすることにした。本当にもったいないと思うのだが、これを眼に入れる勇気はぼくもカミサンも持ち合わせていなかったのである。うー、何だか悔しい。  強情な歯ミガキチューブ  朝、起きて洗面台へ向かう。  ぼくは「全日本低血圧合戦」なんて大会があったら、多分ベスト3くらいには食い込めるのではないかと思うほどの低血圧男である。したがって朝(と言ってもこれはぼくにとっての朝で、現実の時間は正午なのよね)の寝起きは極端に悪い。たっぷり眠ることができればそうでもないのだが、ここのところ忙しくて睡眠が不足がちなので、ものすごく不機嫌である。日頃ぼくは、 「年がら年じゅう御機嫌な作家」  を目指しているのだが、これは十分な睡眠を取れた場合の話。睡眠時間が四時間とか三時間とかで起こされちゃうと、たちまち年がら年じゅう不機嫌な作家になってしまう。家族はそのことをよおく心得ているから、寝起きのぼくがムスッとした顔で、喋《しやべ》るのも面倒臭そうにしている場合は、あまりそばへ寄ってこない。  大抵の場合、ぼくはうーうー唸《うな》りながら寝床を抜け出し、はーはー溜息《ためいき》を漏らしながら階段を下り、あーあーアクビを噛《か》み殺しながら洗面台の前へ立つ。まず鏡を見る。そこには袋張りの内職を一晩で五千枚張って徹夜明けで道路工事に出かける田中邦衛みたいな、疲れきったぼく自身の顔が映っている。おそろしく不健康な様子である。しかも前夜、風呂《ふろ》へ入って髪も乾かさずに寝てしまう場合が多いので、寝グセがつきまくって頭が爆発状態になり、 「お前は林家ペーかッ!」  と叫びたくなるようなヘアスタイルになっている。これもまた情けない。死人のような顔に林家ペー的ヘアスタイル、目尻《めじり》には目糞《めくそ》をこびりつけ、口は半開き。世界一やる気のない男ここにあり〜、すんませんねェ〜、という感じである。  さて先日、例によって世界一やる気のない足取りで洗面台の前へ立ち、世界一やる気のない右手で電動歯ブラシを取り、世界一やる気のない左手で歯磨きのチューブを取り、世界一やる気のない様子で中身を絞り出そうとしたところ、なかなか出てこない。もう残り少ない——というかほとんど空っぽの状態である。そういえば前日の朝も、歯を磨こうとしたら歯磨きの中身の出が悪いので、 「くぬッ、くぬくぬくぬッ!」  と無理やり絞り出したのであった。一日経って、歯磨きは昨日よりもさらに出が悪くなっている。こういうちょっとした躓《つまず》きが、世界一やる気のないぼくからさらにやる気を失わせ、宇宙一やる気のない男におとしめるのである。 「うー、頭きちゃうなあ。新しいヤツ出すかな……」  頭の片隅でそう思うのだが、心とは裏腹に、手は必死で歯磨きチューブを絞っている。根が貧乏性なので、最後の最後の最後まで使い切らなきゃソン、という情けない本能が働いてしまうのである。 「一回分くらいは出るだろう。うりゃ! 出ないな……そりゃあ!」  しかし昨日も同じ台詞《せりふ》を口にしながらチューブを絞ったので、残りはほとんどない。チューブの尻の方から力まかせにぐるぐる巻いて、伊達巻《だてま》き状態でぎゅうぎゅう絞ってみたが、やはり出てこない。 「この強情者めがッ。こうしてくれるわ!」  ぼくはチューブの先っぽを口にくわえ、頬《ほ》っぺたの内側にアザができるほど思いっきり吸った。あんまり懸命に吸ったので何だか頭痛くなっちゃったが、この努力の結果、小指の爪《つめ》ほどの歯磨きペーストを吸い出すことができた。 「ふはははは! 人間様に逆らっても勝てるわけがなかろう。オロカ者め!」  不敵に笑いつつ、ぼくはノシイカみたいになった歯磨きチューブをごみ箱へポイした。まったくもう、朝から体力使わせんなよな。やる気なくなるじゃないか。  頭くるポテトチップス  昨年末から停滞していた書き下ろしの長編小説を力ずくで前へ進めるため、自主的に八ヶ岳の山荘に籠《こ》もることになった。  停滞していた原因は、ぼく自身のナマケ癖のせいもあるが、四月五月と東京壱組の公演があったためである。芝居を一本やるということは、本当に大変なのである。精神的にも肉体的にもヘトヘトになるし、もちろん時間もかかる。ぼくの場合は、演出家と構想を練り、台本を書き、稽古《けいこ》につきあい、舞台の幕が開くまでに約半年を費やすのが常である。一本やると、 「もう三年はやらんぞ」  といつも思うのだが、一年もすると、前の苦労などどこへやら、また芝居にかかわりたくなってしまうのだから不思議である。  まあ、とにかくそんなわけで懸案の長編小説は半年間停滞してしまった。まずは勢いを取り戻さなくてはッ、という決意のもと、ぼくは山荘に籠もったのである。  長坂という小さな町で食料の買いだめをし、山荘へと至ると、孤独すぎるくらいの静寂がぼくを迎えた。シーズンオフで、しかも平日だから、近所の別荘族たちの姿もない。五キロ四方に人っ子一人いない状況の、森の中である。 「孤独! これこそ今の俺が真に必要としているものなのだ!」  なあんて大袈裟《おおげさ》なことを呟《つぶや》きながら、すべての部屋の窓を開け放ち、空気の入れ換えをする。約一ヵ月ぶりに使用するので、山荘内の空気はひどく淀《よど》んでいる。壁際の辺りには綿ボコリが溜《た》まっていて、床のあちこちに虫の死骸《しがい》が散乱している。虫の種類は季節によって違うが、今回は蠅《はえ》とカマドウマの姿が目立った。特にカマドウマは脚が長かったりして大型なので、ひからびて床の上に転がっているといかにも、 「死にました」  という印象が強い。哀れである。これを掃除機で吸い取り、一仕事終えてから、ぼくは台所へ行ってお茶をいれた。大した仕事量ではないが、やれやれである。 「さてと。何かお茶うけはないかな……」  口が寂しかったので、台所の棚の上の方をごそごそ探してみると、ポテトチップスがあった。封は既に切ってあり、袋の口をくるくるッと巻いてクリップで留めてある。他に何も見当たらなかったので、 「ま、いいか」  という判断のもと、この食べかけのポテトチップスを持ってソファに座る。テレビをつけて、お茶を飲みながらポテトチップスの袋を開ける。 「あーあ、早くもかったるくなっちゃったなあ。書くのは明日からにしようっと」  なあんてことを呟きつつ、ポテトチップスを口へ運んだところ、これが地獄のようにシケッていた。 「うひゃー」  と叫んで吐き出すと、シケッているばかりか表面に青いカビまで生えている。袋の中を確かめると、上の方の何枚かにカビが見受けられた。下の方はシケッてはいるが、カビは生えていない。ぼくはうーむと唸《うな》りながら推理力を働かせ、これはおそらく二歳半になる息子が一旦ベロベロ嘗《な》めて、食べる気をなくしたものを袋へ戻したのではないか、と結論づけた。カビはポテトチップス自体に生えたのではなく、息子の唾液《だえき》の上に生えたのに違いない。 「ううー、頭きた!」  この唾液付きシケポテトチップスをぼくがポイしたことは言うまでもない。百五十キロの剛速球を投げ込むような勢いで袋ごとゴミ箱へ投げ入れ、その後すぐに口をゆすいで歯を磨いた。  初日早々この有様だから、何だか気が挫《くじ》けてしまい、執筆の方は思うように進まなかった。とほほほ。  やんなる除湿なんとか  それにしても今年の夏は一体何だったのだろう。 「もうこれくらいで勘弁してくれ。俺《おれ》が悪かった!」  と悪くもないのに土下座《どげざ》したくなるほどの雨。三十四年間の人生の中で、最悪の夏であったと断言してもいい。二日や三日の雨ならば笑って許しもしようが、その笑いがこわばってハニワ顔になるまで容赦なく雨が降り続いた。雨というのは文字だけ眺めていても憂鬱《ゆううつ》になる。  雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨雨。  ほおら、よおく眺めてごらんなさい。いやあな気分になってくるはず。文字だけでもこんなに不愉快なのだから、実際の天気がこれくらい雨続きだと憂鬱を通り越して、病気になりそうである。  この天気では元気よく外へ出掛けるというわけにもいかず、家に籠《こ》もって読書か書きものでもする他ない。あーあイヤだなあ、なあんて呟《つぶや》きながら、書斎でワープロに向かっていたところ、ふと押入れの方へ目をやると、扉の下から何やら水らしきものが床へ滲《にじ》み出ている。  不審に思って近づき、扉を開けてみると、押入れの下の段が水びたしになっていた。幸い布団類は上の段に置いてあり、下の段にはストーブとか古着くらいしか置いてなかったので大惨事は免れたが、それにしてもどこが水の発生源なのか? まさか雨が部屋を通り越して押入れの中だけに吹き込んだわけでもあるまい。  よくよく調べてみると、押入れの下の段に置いてあった�除湿なんとか�とか何とかいう除湿剤が、横倒しになっている。味噌桶《みそおけ》を小さくしたような形のパッケージで、これを押入れや洋服|箪笥《だんす》なんかへ置いておけば、湿気を取り除くというふれこみの商品である。押入れじゅうを水びたしにした原因は、この�除湿なんとか�にあった。 「何ということだ……」  手に取ってみると�除湿なんとか�のパッケージの上蓋《うわぶた》(ビニールのような素材で、ぺったんこと貼《は》りつけてある)の隅に小さな穴が開いていて、ここから水が漏れ出した様子である。穴が開いた原因はよく分からない。虫が食ったのか、子供が悪戯《いたずら》したのか、あるいは倒れた衝撃だけで破れたのか。いずれにしても、大量の水が押入れの中に漏れ出たのである。一旦押入れじゅうの湿気を吸収し、それを全部吐き出しちゃうなんて、まるで自分の尾を呑《の》む蛇みたいな話ではないか。 「これじゃ�除湿なんとか�じゃなくて�濡《ぬ》れ濡れなんとか�ではないか!」  ぼくは大いに頭にきた。これはもう明らかに欠陥商品である。押入れなんて色々なものを出し入れする場所なんだから、何かの拍子で�除湿なんとか�が倒れる可能性は非常に高い。だったら予《あらかじ》め倒れても絶対に水が漏れ出ないような工夫がなされていて当然ではないか。子供が悪戯をしても、ちょっとやそっとじゃ穴が開かないような蓋にしておいてもらわないと、親としては大変迷惑である。 「責任者出てこい責任者!」  ぼくはティッシュと雑巾《ぞうきん》で押入れの中を拭《ふ》きまくった後、水びたしの犯人である�除湿なんとか�のパッケージを手にして、責任者のもとへ怒鳴り込もうかと思った。が、パッケージの裏に書いてある責任者の住所がかなり遠方だったので、すぐに面倒臭くなって、代わりにカミサンを怒鳴りつけることにした。ところがよくよく考えてみると、カミサンは強い。逆に怒鳴り返されそうなので、これも諦《あきら》めて、パッケージをゴミバコに棄て、雨空に向かって、 「ばかやろー!」  と叫ぶだけにとどめた。あーあ、なんかスッキリしないなあ。  エロチラシの真実  渋谷にある仕事場に到着して、ぼくがまず何をするのかというと、郵便の整理である。マンションの一階にある郵便受けから、ごっそり取り出して部屋へ入る。  ここ二、三年でぼくの元へ届く郵便の量がものすごく増えた。私信はそれほどでもないが、雑誌がすごい。特に発売日が重なる月初や月末は、郵便受けに入り切らずに、管理人さんが預かってくれていたりする。仕事場に入ると、まずぼくは私信を読み、それからこれらの雑誌に目を通す。  と、大抵の場合、郵便物と郵便物の間に名刺大のチラシが挟まっている。通称エロチラシと呼ばれる、例のエッチなチラシである。ぼくは基本的にフマジメでエッチなおじさんであるからして、こういうチラシを目にすると、 「許せんなあ。許せん許せん」  などと呟《つぶや》きながら、つい手に取って眺めてしまう。眺めるだけではなくて、つい読んでしまったりする。ま、動物のオスとしての好奇心のなせるわざだが、読んでみるとこれが結構面白いのである。エロチラシなのだから目的はただひとつ、 「こんなにスケベでえす」  ということを伝えるためにあるわけで、当然文章の内容は煽情《せんじよう》的にならざるをえないのだが、お上の目を意識してか、どこかしら遠慮がちになっている。煽情的なんだけど、遠回し。その匙《さじ》加減がエロビラによって一々違うので、文章を商売にしているぼくとしては、なかなか勉強になる(ならねえか)。  例えば今日、つい今さっき郵便受けから取り出してきたエロビラの文句は、こんな感じである。 〈マッサージ。良い人|揃《そろ》っています。誠心誠意ご奉仕いたします〉  これは煽情的な面を極力控えめにした文句であるが、エロチラシに必要なポイントはきっちり押さえられている。まず第一に�良い人�という言葉。これは、分かりやすく関西弁に翻訳すると、 「ええ娘がおりまっせえ」  ということになる。続いて�誠心誠意�という言葉は、 「んもうコッテリ、サービスしまんがな」  という意味になろう。さらに�ご奉仕いたします�という文章は、 「もちろん本番一発、ヤラせまっせえ」  てなことを言いたいはずである。こうやって一々検討してみると、日本語というのが如何《いか》に奥の深いものであるか、よおく分かるはずである。 〈マッサージ。良い人揃っています。誠心誠意ご奉仕いたします〉  という何の変哲もない文章が、名刺大の紙に印刷されて郵便受けの中に入ると、たちまち内容が劇的に変化する。 〈売春。ええ娘がぎょうさんおりまんがな。んもうサービスこってり。本番一発、OKでっせえ〉  この二つの文章を比べてみてもらいたい。前の生真面目な文章が、後の煽情的な内容を表しているなんて、ちょっと信じられない。信じられないが、事実なのである。いやー、勉強になるなあ(ならんならん)。  とにかくそんなわけで、ぼくは毎日郵便受けの中のエロチラシを読んでは、笑ったり考え込んだりした挙句、ポイしている。一回くらい電話をしてみて、�良い人�に�誠心誠意ご奉仕�してもらいたいものだと思わないでもないが、�悪い人�が出てきて�最低最悪の行為�をされるんじゃないかという恐れもあるので、未だ電話したことはない。いや、本当だ。本当に一回もしたことはない。こういうことは否定すればするほど嘘っぽくなるが、本当に本当だ。本当だってば。うへー。  焚火にポイする快感  ところでぼくの趣味はキャッチボールと焚火《たきび》である。  キャッチボールに関しては�西早稲田キャッチボール連盟�というすばらしい連盟を組織(現在会員二名。七年前から一人も増えていない)し、日々|研鑽《けんさん》に励んでいたのだが、昨年初夏にぼくが三鷹へ引っ越してしまったので、事実上の解散に追い込まれている。今やその活動は半年に一回くらいの割合に落ち込み、 「これじゃあ、おじさんが気まぐれでキャッチボールしているようなものだ」  という会員からの不満も聞かれる。ぼくが三鷹から西早稲田まで届くような球を投げられれば問題はないのだが、そんなことができるくらいなら今頃小説家なんかやっていないだろう。  もうひとつの趣味である焚火——こちらの方は最近、俄然《がぜん》活気を帯びてきている。今までは八ヶ岳の山荘の庭で、月に一度くらい枯枝を集めてはテキトーに焚火をしていたのだが、つい先日、焚火用の炉が完成したので、んもう暇さえあれば何か燃やすようになったのである。この焚火用の炉というのは石を二十個くらい組み合わせて造ったもので、一見したところ、岩石露天風呂といった趣を漂わせている。もちろん造ったのはぼくではない。山荘から清里《きよさと》へ行く途中に、八ヶ岳|倶楽部《クラブ》というレストランがあるのだが、ここの庭があんまりカッチョいいので、 「ああいうの、どこに頼んで造ってもらったんですか?」  と尋ねたところ、倶楽部のオーナー自らが造ったという答えが返ってきた。顔見知りの人の庭なら、個人的にやってあげないこともないと言われたので、平身低頭して頼み込んだのである。このオーナーというのが誰あろう俳優の柳生《やぎゆう》博さんで、息子さんの真吾さんと二人してぼくの山荘へやって来て、せっせと庭造りに励んでくれたのである。駐車場から玄関先まで枕木《まくらぎ》を丁寧に敷いて歩きやすい道を造り、その道の途中に焚火用の石の炉を造る——素人目には大作業であるが、二人はこれを数日間でこなしてしまったらしい。三週間ぶりに山荘を訪れてみると、溜息《ためいき》が出るほど美しい庭に変身していた。特に石の炉は予想を遥《はる》かに上回った立派なものだったので、ぼくはすっかり嬉《うれ》しくなってしまい、毎日ここで焚火をせずにはいられなくなった。  焚火は楽しい。  どこがどういうふうに楽しいのか、説明するのは結構難しいのだが、まず焚火道の第一歩として、こう考えると分かってもらいやすい。曰《いわ》く、 「焚火とは炎を創造する作業である」  薪《たきぎ》を燃やして灰にすることが焚火なのではなく、満足のいく炎を創り出すことが焚火なのである。そういうふうに考えると、焚火は俄然クリエイティブな側面が拡大されてくる。自分の創り出した、その一瞬にしか存在しない炎をじっと見つめていると、何ちゅうかこうしみじみ愛《いと》しくなってくる。  そんなわけで、一週間ほど前から山荘に籠《こ》もっているぼくは、毎日焚火道を極め続けている。もちろん炎の元になる最大の原料は枯枝や薪だが、それ以外にも、燃えるものなら何でも炉に投入している。新聞、雑誌はもちろんのこと、ダンボールや古雑巾《ふるぞうきん》などの燃えそうな不要物は、どんどこ燃やしている。この方法でポイすると、ゴミ袋に入れてゴミの日に出すのとは違って、 「確かに俺がこの手で始末した!」  という達成感がある。この達成感は非常に大きく、すがすがしいものである。だから余計に、色々なものを燃やしてみたくなる。放火魔の快感ってこういう感じなのだろうかと、自分でも恐くなるくらいである。 「この際、山荘も燃やしちゃおう!」  なあんて思わないように、気をつけておかなくちゃなあ。  穿《は》けないコットンパンツ  ある日曜日。  自転車で近所をぶらりと散歩しようと思い立って、身仕度を整え始めた。箪笥《たんす》の引き出しを開けて服を出そうとしたら、奥の方に見慣れない色のズボンがある。 「こんなんあったっけ?」  と首をかしげながら取り出してみると、それは二、三年前によく穿いていたカーキ色のコットンパンツであった。 「あー、これか。すっかり忘れてたなあ。せっかくだからこれ穿いてくか」  と軽い気持で脚を通し、チャックを引き上げる。続いて胴回り部分のボタンを閉めようとしたところ、愕然《がくぜん》としてしまった。  ボタンが閉まらない……。  いや、閉めて閉まらないことはないのだが、んもうパンパンである。腹に「ンッ!」と力を入れたりしたら、ボタンがパツーンと飛んでしまいそうなほどギュウギュウである。シコなんか踏んだりしたら、ケツの縫い目がばっくり裂けてしまいそうなほどキツキツである。卍固《まんじがた》めなんかかけられたりしたら、チャックがめりめりと壊れそうなほどパンパンである。まあ普通の生活を送っていれば、シコを踏んだり卍固めをかけられたりすることは滅多にないだろうが、とにかくキツイのである。 「がーん!」  とぼくはショックを受けて、しばしその場に佇《たたず》んだ。わずか二年前にはこのコットンパンツを穿いても、何の不自由も感じなかった。それが今やあっちこち不自由で、どうにもこうにもならない。一体いつのまにこんなことになってしまったのだろう。  こういう場合(女性の方ならよおく分かってもらえると思うのだが)にわかには自分の非を認めたくないッ、という感情が働く。自分じゃなくて相手が悪い、つまり自分の腹じゃなくてズボンの方が悪いッと考えたくなっちゃうのである。 「これは縮んだに違いない。ったくモウ、しょうがないな」 「これだから安物はよう」 「長い間箪笥に入れておいたから、湿気を吸って縮んだのだなッ!」  などとむちゃくちゃな論理で何とかズボンが縮んだのだということを自分に納得させようとする。が、納得させようとする相手が自分であるだけに、一生懸命考えていると段々|虚《むな》しくなってくる。そこで今度はもう少し説得力のある言い訳をヒネリ出し、 「あ、そうかそうか。俺さっき昼飯食ったばかりだったあ。そうかあ、だからだな! そのせいだな!」  てなことでお茶を濁そうとする。これはなかなかいいテではある。女性の方なら(さっきからどうも女性の方の賛同を得ようとしてばかりいるなあ)誰しも心当たりがあろう。体重計に乗って目盛りがやや大きめの数値を指した場合、お腹の中の食物の重量を差し引きたくなるのは、何もぼくに限ったことではあるまい。  しかしながらそんな都合のいい言い訳を呟《つぶや》いている内に、ぼくはふと重大な事実を思い出した。昨年、ちょうど同じ時期に箪笥からこのコットンパンツを出してきて穿き、きつくなったことに愕然としたことがあったのである。この時も今回と同様、昼食を食ったばかりだったのだあと自分に言い訳し、引き出しの奥にしまい込んだのであった。まさに恥の上塗り、馬鹿プレイバック状態である。 「ようするにもうダメなのね」  と今回は観念し、腹についた脂肪を恨みがましく見つめながら、このコットンパンツはポイすることにした。それを知ったカミサンが、 「じゃあバザーに出すから」  とか言ってどこかへ持っていったけど、ぼくにとってはポイしたのと同じことである。あーあ、やんなる。 「27」使用上の注意(あとがきにかえて)  このたびは当原田宗典社製品「27」をお買い上げ下さいまして、まことにありがとうございます。 「27」を安全に、より快適にご使用いただくために、以下の注意事項にご留意下さい。 一、㈭に注意して下さい。(どうしてなのかは、後で分かります)とにかく㈭です。 二、「27」には多量の噴飯成分が含まれております。お食事中のご一読はできるだけお控え下さい。また、牛乳を飲んでいる人の背後での朗読もお勧めできません。白ッパナが出て呼吸困難に陥るおそれがあります。 三、「27」には爆笑成分が含まれております。通勤通学中の電車内やスカした喫茶店内、会議もしくは授業中等、笑うと恥かしい場面でのご一読は極力お控え下さい。また大切な方の葬儀の最中、恋人との別れ話の前、肉体の手術中等、どうしても真剣さを必要とする場面でのご一読は、絶対に避けて下さい。大変なことになります。 四、「27」は主に紙でできております。水中でのご使用はお勧めできません。 五、「27」の中には原田の血と汗と涙が少量ながら含まれておりますので、一読後に火中へ投じたり、燃えるゴミとして道端に放り出したり、ページを破いて鼻紙として使用したりしないで下さい。呪われる場合があります。 六、「27」は基本的に愉快なので、「もう一冊買っちゃおうかな」と思ってしまう場合があります。そういう時は、素直に自分の気持に従って下さい。陰で作者が大変喜ぶ、という特典がついてきます。 七、「27」はどうして「27」というタイトルなのかな、と疑問を抱いた方は、急いで注意事項の八を読んで下さい。 八、「27」というワケ分からんタイトルがついた由来は、以下のいずれかです。頭をひねって考えてみて下さい。また、どうしても分からない人は、注意事項の九を参照して下さい。 ㈰原田宗典の足のサイズが27�だから。 ㈪原田宗典27歳の時のエッセイ集だから。 ㈫27という数字が何となくカッチョいいから。 ㈬27篇のエッセイが収められているから。 ㈭原田宗典27冊目の本で、単行本の時のタイトルが「鉄本27号」というものだったから。 ㈮一読で27回爆笑できるから。 ㈯27回読み返すと本の中から角川文庫編集長宍戸健司が煙と共に現れてメシをおごってくれるから。 ㉀27冊しか売れそうにないから。 ㈷一人で27冊購入すると原田宗典に27冊分の印税が入ってホクホクだから。 ㉂特に意味はないから。 九、もう一度「一」をご参照下さい。 角川文庫『27』平成9年7月25日初版刊行         平成10年12月30日8版刊行