原田宗典 海の短編集 目 次  取り憑く島  何を入れる箱  願いをひとつ  黒魔術  成長する石  デジャヴの村  岬にいた少女  夕陽に間に合えば  人の魚  中には何が  贋のビーチ  美しすぎる風景   あとがき  取り憑く島  その島の森の奥には、�エニ�と呼ばれる悪戯《いたずら》好きな魔物が棲《す》んでいるという伝説がある。エニに取《と》り憑《つ》かれた者は、急に自分の働いた悪事を洗いざらい白状し始めたり、延々と三ヵ月も笑い続けたり、気が狂って凶暴になったり、何も告げずに姿をくらましたり、とにかく尋常ではない様々な奇行に及ぶらしい。  この話を、私は宿泊先のホテルのボーイから聞いた。彼はいつも白い歯を見せて客に笑いかけ、冗談ばかり言っている陽気な若者だったが、エニについて話している最中は真剣な表情をしていた。聞いている方の私もそれを冗談半分として受け止めたわけではなく、神妙な気持だった。  海へ突き出すような形に設計された、眺めのいいプールサイドに私たちはいた。私はデッキチェアに寝そべり、彼は銀色のトレイを手にしたまま傍らに膝《ひざ》をついて話し込んだ。つい先刻、プールで奇妙な事件があったばかりだった。この一件のためにエニの伝説は信憑性《しんぴようせい》を帯び、深刻に受け止めざるをえなかったのだ。  事件の内容というのはこうだ。  午前十一時。寝坊をした私は遅い朝食を取り、そのままプールサイドへ出た。Tシャツを脱いで短パン姿になり、デッキチェアに寝転がる。文庫本を持ってきていたので、これを広げ、しばらく読み耽《ふけ》った。そこへビーチハウスの方から、一人の白人男性が歩いてきた。自分では靴の紐《ひも》も結べそうにないほど腹がせり出した中年のアメリカ人だ。彼とはこの島へ渡るフェリーで一緒だったから、目が合えば会釈くらいは交わす。  しかしこの時の彼は少し変だった。目が合ってもにこりともせず、思いつめたような表情で真っすぐにプールに向かっている。まるでプールの中に強烈な磁力があって、彼は鉄の塊となってそこへ引きつけられているような感じだった。しかも彼は腕が回り切らないほど大きな石を、胸に抱えていた。  何をするつもりだ?  そう思った矢先、彼は服を着たままプールに飛び込んだ。抱え込んだ石を放さなかったらしく、彼の体はプールの底まで沈んだ。大人でも背が立たない、一番深い辺りだ。水深二メートルはある。私は上体を起こし、プールの中を見やった。  飛び込んだ余韻で、水面はゆらゆらとたゆたっていた。彼は石を膝の上へ載せ、水底で胡座《あぐら》をかいているらしい。その姿が、透明な水の奥に揺れている。私は苦笑した。アメリカ風のジョークの一種なのかと思ったのだ。人前で馬鹿なことができるかどうか、友人と賭《か》けでもしたのではないか。そんなふうに思った。  ところが彼はいつまで経《た》っても上がってこなかった。私の頬《ほお》は徐々にこわばってきた。その時プールサイドには私の他に四人の宿泊客と、二人のボーイがいた。全員が、私と同じような反応を示した。プールサイドに緊張が走り、私たちは互いに顔を見合わせた。誰も口をきくことができなかった。  沈黙を切り裂くようにして、年長のボーイがプールサイドを疾走し、プールへ飛び込んだ。そして既に二分近く水の中へ沈んだままのアメリカ人のもとへ潜っていき、膝の上の石をどけた。アメリカ人はうつぶせの状態で水面へ浮いてきた。それを見て、宿泊客の何人かが飛び込んだ。私もプールの縁まで走った。  プールサイドにいた全員で、太った彼を水の中から引き上げた。騒ぎを聞きつけたホテルの従業員が、フロントの方から走ってくる。最初にプールに飛び込んだボーイが、すぐに人工呼吸を始めた。二十回近く息を吹き込んだところで、アメリカ人は呻《うめ》き声を上げ、水を吐いた。それだけではない。彼は続けて信じられないほど大量の砂利《じやり》を、ざらざらと吐いた。プールサイドから海岸へ続く小道に敷きつめてある細かい砂利だ。力まかせに腹を押すと、いくらでも出てくる。  結局、洗面器二杯分ほども砂利を吐かせたところで、ホテルの従業員たちは彼を担架に乗せた。島の中に一軒だけある病院へ運び込むのだという。プールサイドにいた者全員が、唖然《あぜん》として彼の巨体を見送った。何とコメントしたらよいものやら、誰も見当がつかなかった……。 「どうしてあんなことをしたんだろう?」  騒ぎがおさまったところで、私は飲物を運んできた若いボーイに尋ねた。答えを期待していたわけではなかったが、誰かに訊《き》かずにいられなかったのだ。すると若いボーイは深刻な顔をして声をひそめ、 「エニのせいだと、思います」  真っすぐに私の目を見つめたまま、そう言った。そして言葉を選びながら、この島に伝わるエニの伝説について、説明してくれたのだ。 「エニはどうして人に取り憑くんだ? 何か取り憑かれる理由のようなものは、あるのかい?」  私は尋ねた。右手に、若いボーイが運んできてくれたレモンソーダのグラスを持っていたが、一口も飲まない内に中の氷はほとんど溶けてしまった。 「別に理由はありません」  若いボーイは答えた。 「無差別攻撃か」 「そういうことです。ただ……そうですね、心に疚《やま》しいことがある人ほど、取り憑かれやすいようです」 「誰だって疚しいことの一つや二つはあるさ」 「そうなんです。だから、ようするに無差別なんです」 「さっきのアメリカ人みたいに、砂利を飲んだりする奴《やつ》を見たことあるか?」 「さあ……ああいうのは初めてですね。でも大抵、エニに取り憑かれた人間は周囲をあっと言わせるようなことをします。私の従兄弟《いとこ》もエニにやられたんですが、自分の首をナタでごりごり切り落として、体だけで三日間島じゅうを走り回った挙句に死にました。首の方も三日間、ずうっと喋《しやべ》り通しだったんですよ」  若いボーイは自分の話に興奮したのか、徐々に早口になった。私はようやく思い出したように、レモンソーダを口に含んだ。気の抜けた酸っぱさが、喉《のど》をぬるぬる滑り落ちていく。ひとつも美味《うま》くなかった。 「何かこう……エニを避けるための手立てはないのかな?」  遠慮がちに、そう訊いてみる。若いボーイは傍《そば》には誰もいないのが分かっているはずなのに、肩越しに振り向いて背後を確かめ、静かにうなずいてみせた。 「あります」 「どうすればいい?」 「この島には魔術師が三人います。彼らが祈祷《きとう》したものを身につけていれば、エニはそれを厭《いや》がります」 「祈祷したものって?」 「例えば布とか、人形とか、髪飾り……小石みたいなものでもいいんです」  言いながら彼は白服のポケットを探り、小石を二つ取り出した。親指の爪《つめ》ほどの大きさで、ひとつは赤っぽく、もうひとつは黒い。意味ありげに指先でつまみ上げ、赤い方を私に差し出す。 「二つあるから、ひとつ差し上げます。島の魔術師が祈祷を捧《ささ》げたものです」  私は礼を言ってそれを受け取り、間近に眺めた。何の変哲もない小石だ。こんなものが本当に魔除けになるのだろうか。訝《いぶか》しく思ったが、もちろん口に出すことは控え、その代わりに短パンのポケットから紙幣を出して何枚か彼に渡そうとした。 「そういうつもりで差し上げるのではありません」  彼は少し憤慨したように言い、紙幣を私の手へ戻した。 「気を悪くしないでくれ」  私が言うと、彼は微笑《ほほえ》みを漏らした。いつもの人なつっこい笑顔だ。立ち上がり、 「よい休日を……」  と言い残して、フロントの方へ歩いていく。その後姿に向かって、私は声をかけた。 「なあ、もうひとつ教えてくれ」  彼は振り向いた。プールサイドに整然と植えられたパームツリーが、彼の顔にまだらの影を落としている。 「エニは、どんな姿をしている?」 「さあ……」  彼は少し困ったような顔をした。しばらく考え込み、答える。 「その時々で、色々です。岩に化けている時もあるし、魚や犬の姿をしている時もあります。あるいは白服を着たボーイ……」  私は笑った。彼は満足そうに微笑み、言葉を継いだ。 「いずれにしてもエニは、取り憑く前に、その相手に対して予告をします」 「予告?」 「これからお前に取り憑いてやるぞ、という印を相手に渡すと言われています。例えば……」  彼はそこでいったん言葉を切り、急に別人のような顔になった。鮫《さめ》のように冷酷な瞳《ひとみ》で私を見据えてから、 「赤い小石とか」  そう言い残すなり踵《きびす》を返し、足早に建物の陰へ消えた。  何を入れる箱  Fという名のその島に私が滞在したのは、夏の終わりだった。  最初の四日間は連れがいたのだが、彼は自分の仕事をさっさと済ませると、忙しそうに帰国してしまった。私は残りの三日間を、一人で過ごした。もっともそれは最初から決まっていたことで、私は自ら孤独を望んだのだった。  南の島に、一人きり。  何もせずに、ぼんやりと空を見上げたり、ホテルのプールで泳いだり、エアコンのきいた部屋で眠ったり、そんなふうにして三日間を過ごすつもりだった。  ところが一日そうやってぼんやり過ごしてみると、これが結構退屈だった。連れがいれば、退屈だなと愚痴をこぼすことで退屈は紛れる。しかし一人きりの退屈は、いかんともしがたい。  二日め。私はホテルにいるのが厭《いや》になり、タクシーを呼んで繁華街へ出ることにした。別にこれといって当てがあるわけでもなかったので、タクシーに乗り込むなり、運転手に何か面白い場所はないかと尋ねた。 「面白いっていうのはあんた、どういう意味だい?」  インド系らしき運転手はバックミラーの中で私の顔色を窺《うかが》い、ずるそうな笑みを浮かべながら尋ね返してきた。 「別にどういう意味でもない」 「女ってことかな?」 「いや、そういう意味ではない」 「じゃあ景色か?」 「景色は沢山だ。この島にしかない珍しいものを売っている店とか……、あるいはショーみたいなものでもいい」  運転手はむずかしそうな顔をして、考え込んだ。  窓外には広々としたサトウキビ畑が続いている。それを刈る農夫の姿、好き勝手に歩き回る牛の群れなどが、猛烈なスピードで飛び去る。ホテルを出てからというもの、運転手はアクセルを床につくほど踏みっ放しなのだ。どこかへ行くまでもなく、このタクシーでドライブするだけで、スリルがあって面白いと言えば面白い。 「いい店を一軒だけ知ってる」  やがて運転手はそう言った。 「どんな店だい?」 「ちょっと変わってるんだ。きっと気に入ると思うな。箱屋、というんだ。店にはありとあらゆる箱が置いてある」 「箱? そんなもの、どうするんだ」 「使うのさ」 「何に?」 「だから物をしまったり、隠したりするじゃないか。日本じゃ箱を使わないのか?」 「そりゃ使うけど、わざわざ店で買うほどのものじゃないよ」 「箱を買わないのか? じゃあどうやって手に入れる?」 「箱なんて、買わなくても何となく手に入るものさ。誰かから貰《もら》ったりして」 「そうなのか……」  運転手はがっかりしたようだった。私はバックミラーに映る彼の困惑しきった表情を目にし、少々気の毒になった。だから助け舟を出すつもりで、 「しかし他に当てもないから、とりあえずそこへ行ってみよう。近いのか?」  と訊《き》いた。運転手はたちまち瞳《ひとみ》を輝かせ、肩越しに振り向いて、 「すぐ近くだ」  と答えた。私はうなずいた。  それから五分ほど走ったところに、彼の言う「箱屋」はあった。繁華街からはかなり外れていて、海の見える高台にぽつんと置き去りにされたような恰好《かつこう》で建っている。プレハブを簡単に改装しただけの、実に粗末な造りの店だ。  私はタクシーから降り、店の正面に立って中を覗《のぞ》いた。  なるほど運転手の説明通り、ありとあらゆる大きさの箱が並んでいる。大きいものは店先の軒下に積んである。 「いらっしゃい」  店の奥から、見上げるほど背の高い老人が現れた。ゆうに二メートルは越えている。巨人と呼んでも差し支えない。 「どんな箱をお探しで?」  巨人老人は気だるそうな口調で尋ねた。私はたじたじとなりながら、 「ちょっと見せてもらうよ」  と断って彼の脇《わき》を過ぎ、店内に足を踏み入れた。  とたんに何とも言えない黴《かび》臭い匂《にお》いが鼻先へ漂ってきた。しかもむっとするほど蒸し暑い。私は一瞬、立ちくらみを覚えた。  店内にはそれこそ足の踏み場もないほど、数々の箱が無造作に積み重ねられていた。小指の先ほど小さなものから、人が二人入れそうなほど大きなものまで。素材も紙や木、金属のものまで揃《そろ》っている。もちろん色や柄も様々だ。民芸調のものもあれば、ただ鮮やかに彩色しただけのものもある。 「すごいね、これは」  私はその品揃えに圧倒されて、正直な感想を漏らした。何も入っていない箱がこんなに積まれているのを、生まれて初めて見た。巨人老人は私の反応に満足したらしく、嬉《うれ》しそうに微笑《ほほえ》んだ。そして私をそばへ呼び、虫眼鏡を差し出した。意味が分からないままそれを受け取り、首をかしげて見せると、彼は人差指を私の目の前へ翳《かざ》した。虫眼鏡で見てみろ、ということらしい。  虫眼鏡を彼の人差指へ近づけて、片目を凝らしてみると、そこには砂粒ほどの小さな箱が付着しているのが見えた。ちゃんと蓋《ふた》もついているが、これでは中に蟻の触覚も入らないだろう。 「うちの店で一番小さな箱だよ」  巨人老人は自慢げに言った。私は大袈裟《おおげさ》に感心してみせ、 「誰が作ったんです?」 「私だよ。私が作った。何度も失敗して、三ヵ月もかかった」 「しかしそんなに小さくては、何も入らないでしょう。中に何を入れるんです?」 「さあな……」  巨人老人は一瞬返答に詰まり、遠い目をしてから、 「魂かな」  と答えた。私はその答えがひどく気に入り、その箱の値段を尋ねた。巨人老人はずいぶんと控え目な値段を言ったので、これを買い求めることにした。 「一番大きな箱というのは、どれです?」  商談が成立した後、私は尋ねてみた。おそらく店先へ出してあった箱が一番大きいのだろうと目星をつけていたのだが、巨人老人はちょっと申しわけなさそうな顔をして、 「一番大きいのはここにはない」  と答えた。 「どこにあるんです?」 「少し離れた場所に置いてある。見てみたいか?」 「そうだな。あまり遠くなければ」 「なら、ついてきなさい」  巨人老人はそう言って、裏口から外へ出た。私は後に続いた。  店の裏にはかなり深い茂みが続いていた。巨人老人は時折振り返りながら、獣道を進んだ。やがて海の気配が濃厚になってくる。茂みが途切れ、不意に視界が開けた。岬の先の切り立った崖《がけ》縁に、いつのまにか私たちは立っていた。 「ほら、あそこに置いてある」  巨人老人は眼下の海を指さした。おそるおそる見下ろすと、海の中に巨大な箱が沈んでいた。素材はおそらく金属だろう。一辺が五十メートルもあるほどの箱だ。私は言葉を失って、ただ唖然《あぜん》とした。 「あれも作るのが大変だった。何度も失敗して、三ヵ月もかかった」  巨人老人は自慢げにそう言った。私は彼の顔を見上げ、 「あんなでかい箱、どうするんです。何を入れるつもりなんです?」  と素朴な質問をした。巨人老人はにやりと笑い、こう答えた。 「魂かな」  願いをひとつ  夜中に一人で机に向かって書きものをしていると、私には時折妙なことが起こる。筆の進みが悪くなって、ぼんやりと原稿用紙を見つめている内に、ごく短時間だが気絶をするらしいのだ。  らしい、というのは確証がないからである。何度かそういうことが自分の身に起きたものの、誰かがそばにいて指摘してくれたことはない。ただ時計を見ると、思いのほか時間が経《た》っていることがままあるのだ。零時半だったはずなのに、一瞬の後に一時五分になっていたり、二時半だったり。  その夜も、私はちょうどそういう状態にあった。  筆が止まり、原稿用紙の茶色い枡目《ますめ》をじっと見つめている内に、頭がぼんやりしてきた。ずっと昔のことを考えたり、これから先のことを考えたり、死んでしまった人のことが浮かんできたりした。同時に頭の片隅で、ああまた気絶してしまうのだな、と意識したことも覚えている。  その時不意に、背後に人の気配が生じた。どこかから入ってきたという感じではなく、まったく唐突にそこへ現れた気配だった。私ははっとして身を固くし、ほとんど反射的に振り向いた。  そこには鮮やかな赤地に黒の袖《そで》がついたウエットスーツ姿の男が立っていた。水中ゴーグルをかけ、ダイビング用のボンベを背負い、レギュレーターをくわえている。しかも男は全身びっしょり濡《ぬ》れていた。  私は叫ぼうとしたのだが、声が喉《のど》の奥で凍ってしまい、叫ぶことができなかった。ただ目を一杯に見開いて、ほんの少し後ずさっただけだ。ところがウエットスーツの男も私同様に驚いている様子で、恐怖に身を固くしている。  私たちはしばらく息を呑《の》んだまま対峙《たいじ》し、相手の顔をまじまじと見つめ合った。最初に口をきいたのは、男の方だ。彼はしきりに首をかしげ、ゴーグルを顔から外すなり、小声で私の名を呼んだ。  私はあらためて彼の顔を見た。古い友人のMだった。 「どうしたんだ?」  ようやく落ち着きを取り戻してそう尋ねると、Mはまた首をかしげ、 「よく分からないんだ」  と答えた。そうする間にも、Mの身体《からだ》からは水がしたたり落ち、フローリングの床に小さな水たまりを作った。 「分からないって……とにかくまずそのボンベを下ろしたらどうだ。やけに重そうじゃないか」 「ああ、そうか」  Mは窮屈そうに身じろぎをして、背中のボンベを床へ下ろした。それからレギュレーターとライフジャケットを外し、その場に座り込む。私は彼の脇《わき》をそっと通り過ぎ、台所へ行ってウイスキーとグラスを取ってきた。部屋へ戻る途中、ふと思いついて玄関へ行って鍵《かぎ》を確かめてみたところ、きちんと施錠されていてこじ開けた様子はなかった。いったいどうやって中へ入ったのだろう? 「飲むか?」  訊《き》きながらグラスにウイスキーを注いでやると、Mはまだ半ば夢の中にいるような表情で私を見上げ、ああと気抜けした声で答えた。私はMの横に座り、自分はボトルの口から直接飲んだ。キリキリと滲《し》みる液体が、喉を転がり落ちていく。 「どうやってここへ入ったんだ?」  私はあらためて尋ねた。Mは答える代わりに、腰に巻いたウエストバッグの中から何かを取り出した。壜《びん》のようだ。 「どうやってここに来たのか、俺《おれ》にも分からないんだ」  Mは壜の中をじっと見つめながら答えた。中には巻紙のようなものが入っている。曇ったブルーのガラス越しに、私にもそれが見える。 「俺、ついさっきまでサイパンの海の中にいたはずなんだ。島の最北端にあるグロッドというダイビングポイントだ」 「ちょっと待てよ。お前、自分がいってること、分かってるか?」 「ああ正気だよ」 「少し眠った方がよくないか」 「大丈夫。まあ聞けよ」  Mは壜の口に嵌《は》まったコルク栓を抜いて、中に入っている巻紙を取り出した。古ぼけてすっかり黄ばんだ紙だ。広げると中には、何とも言えない不思議な文字が羅列されている。日本語でもなければ英語でもない。アラブ文字やハングル文字とも違う。象形文字のような、実に変わった文字だ。ところが驚いたことに、その文字を目にした瞬間、私の頭の中にはその意味がひらめいた。 〈ひとつ願いなさい。叶《かな》えてあげます〉  そういう言葉が、反射的に浮かんできたのだ。まるで頭の中に直接語りかけてくるような感じだった。 「お前、この意味分かるか?」  Mは訊いた。 「分かる。どうして分かるのか、自分でも分からないけど」 「だろう?」  Mはしばらくじっとその文字に見入り、それから顔を上げて話を続けた。 「グロッドで水深三十メートルあたりを彷徨《さまよ》っている時に、俺は一緒に潜っていたパートナーとはぐれた。潮の流れが急に変わっている箇所があって、流されたんだ。あっと思った時には、もういくら足ヒレで掻《か》いても無駄だった。どれくらい流されたかな。五百メートルか、一キロか……全然覚えていないんだ。潮の流れが途切れた時、ボンベのエアはほとんどゼロに近い状態だった。焦《あせ》ったよ、実際。俺はあわてて海面へ向かって泳ぎ始めた。思いのほか深いところまで沈んでいたらしくて、いくら泳いでも海面が見えてこなかった。右手に、塔のような岩が立っていてな、この岩肌に沿って、俺は海面を目指していたんだ。するとその途中で、この壜が岩肌にめり込むようにして刺さっていた。エアがなくて焦っていたはずなのに、俺はやけに落ち着いてこの壜を手に取った。手に取っただけじゃなくて、中を開けて読んでみた。そしたらこの台詞《せりふ》だ」  私はもう一度その紙片の文字を読んだ。やはり読める。ひとつ願いなさい、叶えてあげます、と書いてある。 「俺はこの壜をウエストバッグに入れ、再び海面を目指した。少しずつ、辺りが明るくなってきた。頭の上から陽の光が降り注いできたんだ。俺は必死で泳いだ。エアはもうゼロになっていて、レギュレーターが渋くなってきた。その時、背後に黒いものがさっと横切るのを感じたんだ。振り向くと、そこに八メートルはあるホオジロ鮫《ざめ》がいた。俺は息を呑んで、岩を回り込んだ。陰に隠れて、鮫をやり過ごそうとしたんだが、エアがもう入ってこなくなった。鮫はゆったりと尾を振りながら、俺のそばを回遊し始めた。俺は気が遠くなった。もうだめだと思った。それで、気絶する寸前に願ったんだよ。日本へ帰りたいって。日本で死にたかったって」  Mはそこで言葉を切り、辺りを見回した。そして不審そうな顔で、 「ここ、日本だよな?」 「もちろんそうだよ。それで? 気絶した後はどうなったんだ?」 「気がついたら、ここに立ってたんだ」  Mはそう言って、深い溜息《ためいき》を漏らした。私はしばらく言葉を失って彼の様子を見つめ、それからくすくす笑い出した。あまりにも荒唐無稽で、信じられるような話ではない。私はMの手から紙片を奪い取り、 「馬鹿を言うなよ。じゃあ俺が、お前なんか消えちまえと願えば、叶えられるって言うのか?」  そう言ったとたん、目の前のMの姿はさっと掻き消えた。  驚いて辺りを見回すと、私はいつのまにか机に向かい、原稿用紙の枡目をぼんやり見つめていた。いつものように短い気絶をしていただけなのだろうか。だとしたら何故《なぜ》、私の背後の床は、こんなにびっしょり濡れているのだろう?  黒魔術 「黒魔術に気をつけなさい」  空港からホテルまで送ってくれたタクシーの運転手は、車から降りてフロントへ向かおうとする私を呼び止め、そんなことを言った。私は肩越しに振り返り、首をかしげてみせた。運転手は駈け寄ってきて辺りを憚《はばか》るように声をひそめ、 「この島には黒魔術を使う男が何人かいます。恨みをかうようなことはもちろん、大金を見せて妬《ねた》みをかうようなことも控えた方がよろしいです」  私は笑いそうになった。そのことに気づくと、彼は憤慨した様子だった。黒目がちな瞳《ひとみ》を剥《む》いて私を睨《にら》みつけ、 「私は親切で言ってるのです」  と吐き棄てるように言った。チップが足りなかったのかもしれない。そんなことを考えながら私はポケットを探り、日本円の硬貨を何枚か渡そうとした。 「結構です。そういうつもりで言ったのではないです」  彼は毅然《きぜん》とした口調でそう言い、硬貨を私に返した。 「すまない」  私は彼の態度に驚き、素直に詫《わ》びた。 「笑うつもりはなかったんだ。ただ急に言われたものだから……」 「信じる信じないは貴方の自由です。ただ私はこの島が好きです。この国を愛しています。だから貴方にもこの島に対していい思い出だけを持って帰ってもらいたいのです」 「分かるよ」 「そのためには黒魔術に気をつけることです。魔術師たちは一見、普通の人間と区別がつきません。ただ左手の掌《てのひら》に青と赤で不思議な模様の入墨をしています。そういう掌の男を見かけたら、決して近づかないことです」 「分かった。ありがとう」  運転手は私が礼を言うと、浅黒い肌の中で一際《ひときわ》目立つ白い歯を覗《のぞ》かせて右手を振った。 「ごきげんよう。あなたにいい思い出が残りますように」  私は土地の言葉でさよならを言った。運転手は車に乗り込むと、バックミラーの中で私と目を合わせ、微笑《ほほえ》んで見せてから走り去った。  島の海はすばらしかった。ホテルのプライベートビーチへ初めて出た時、私はあの運転手がこの島を愛していると言った真意を理解できるような気がした。  貝殻が少なく、きめの細かい白砂の浜辺が弓形に延々と続いている。その上を歩くと、なんとも形容しがたい快感が足裏に残る。まるで熱いシャーベットのように、甘い感触なのだ。  波のほとんどない入江は、この白砂のために驚くほど透明度が高い。太陽は真上にあるときに小舟などを漕《こ》ぎ出すと、まるで宙に浮いているかのように見える。もちろん小魚の豊富さも目を見張るばかりだ。警戒心を抱かないこれら蛍光色の鮮やかな魚たちもまた、光線の加減によっては宙を彷徨《さまよ》っているように見える。  私はホテルのプライベートビーチの外れにあるこの入江に毎日出掛け、水に浸《つ》かったり白砂の上で身体《からだ》を焼いたりした。ホテルはまだオープンしたばかりとあって、泊り客の姿もほとんどなく、入江は私の私有物と化していた。  滞在して三日ほど経《た》った火曜の夕方。私は地元料理を試してみようと、ホテルのシャトルバスで街へ出た。ほんの二十分程の距離だ。  街は思ったよりも人通りが多く、活気に溢《あふ》れていた。目抜き通りの両側には、粗末だが売り気満々の土産物屋が軒を連ねており、観光客と見ると大声で呼び込もうとする。どの店の軒先でも、店の人間と観光客との間で熱の籠《こ》もった値段交渉が交わされている。買物好きの人種には、この通りの光景は堪《たま》らないだろう。  私は煙草を吸いながら、通りの店をぶらぶら歩いた。買物は食事を済ませてからと考えていたので、冷やかしのつもりだった。呼び込みの声には耳を貸さず、興味をひかれた店だけを軽く覗き込む。竹細工の小物屋や骨董屋《こつとうや》、細かい彫刻を施した木工芸品を扱う店などが面白い。  五軒目に覗いた骨董屋で私は不思議なものを見つけた。  それは店の奥のレジカウンターの脇《わき》にあるガラスケースに飾ってあった。軒先から覗いた際にふと目につき、何だろうと思いながら中へ入っていったのだ。店内は十畳ほどの広さで、三方の壁に設《しつら》えた棚にぎっしりと骨董品が並べられている。どこからか、ハッカのような香の匂《にお》いが漂ってくる。頭の芯に響く匂いだ。私は真っすぐにガラスケースへ歩いていき、腰をかがめた。ガラスに鼻を押しつけて中を覗く。  一見したところ、それはチエの輪のようなものだった。  ちょうど指ほどの太さの丸と三角と四角、この三つを複雑に絡み合わせてある。材質は硬そうな木だ。継目がないところを見ると、一本の木材からこのような複雑な形を彫り上げたものらしい。素人目にも、それが如何《いか》に高度な技術であるか分かる。  私はそのチエの輪に魅せられた。普段はこの手の木工芸品に興味を覚える方ではないので、我ながら不思議だった。 「高いよ、それは」  レジ脇から声がかかった。いつのまにそこに立っていたのだろう、男が一人、私に背中を向けて立ち、新聞を読んでいた。存在感の薄い、中肉中背の男だ。ガラスケースの中には様々な骨董品が並べてあるのに、こっちを振り向きもせずに、私が目をつけたものがどれなのかどうして分かるのだろう。 「何ですか、これは?」  私は尋ねた。店の男は背中を向けたままの体勢で新聞を捲《めく》り、ばさばさと音をたてて折り目をつけてから、 「何でもないよ。ただの飾りだ」 「この丸と三角と四角を組み合わせたヤツですよ?」 「そうだ。ただの飾りだ。しかしとても高価なものだ」 「幾らするんです?」  男はしばらく考え込んだ。視線は相変わらず新聞へ落としたまま、振り向こうとはしない。この通りの店の人間にしては、珍しく商売気のない様子だ。 「そうだな……」  男は口籠《くちご》もってから、日本円に換算すると三十五万円近い値段を口にした。私は驚いた。とても買えないと言い残して、店を出て行こうとした。しかし男は引き止める様子もなかった。私は足を止め、振り返って五万円でどうだ、と言ってみた。 「こいつは値引きできないんだ。厭《いや》なら帰ってくれ」  男は答えた。私は苛立《いらだ》ち、少しずつ値を上げていった。しかし男はもう返事もしなかった。こんな役立たずのものに、どうしてそれほどこだわってしまうのか自分でも分からないまま、私は諦《あきら》め切れずに三十万円近い値段を口にしていた。 「金持ちなんだね、あんた」  男は苦笑まじりにそう言った。 「そうだ。キャッシュで払ってやるから、売ってくれ」  私は半ばヤケになって言った。男はようやく振り向いた。その顔にはどういうわけか見覚えがあった。 「誰かの妬みをかうようなことは止めておけと言ったろう?」  男は新聞を畳みながら呟《つぶや》いた。私は思い出した。空港からホテルまで送ってくれたタクシーの運転手だった。 「君は……?」  何か言おうとしたとたん、目の前が真っ暗になった。急に足元に穴が開いて、その中へ落ち込んでしまったような感じだった。叫び声を上げる暇もなく、私は穴の奥底へ落ちていった。  気がつくと私は、ホテルの前に立って右手を上げていた。驚いて辺りを見回す。同時に、自分がこの島へ到着したばかりであることが分かった。足元へ置いてあったはずの、旅行鞄《かばん》がない。はっとして腰へ手をやると、パスポートや現金、トラベラーズチェックを入れてあるウエストバッグも消え失せていた。目の前に、私が今乗ってきたタクシーが停まっている。  慌てて駆け寄ろうとすると、タクシーは猛烈なスピードで走り出した。バックミラーの中で、運転手の男と目が合う。彼は苦笑していた。そして窓から左手を出して、ゆっくりと振ってみせた。その掌には、青と赤で不思議な模様が入墨されていた。ぐんぐん遠ざかっていくのではっきりとは見えなかったが、それは丸と三角と四角を絡み合わせた模様のようだった。  成長する石  早朝、海岸で拾ったその石はちょっと変わった色をしていた。  さくら色、とでも言えば適当だろうか。砂浜に落ちている時は、そういう色をしていた。ちょうど波打ち際の黒く濡《ぬ》れた砂の上にあったので、そのさくら色は目をひいた。何の気なく取り上げて、あらためて間近に眺めてみると色が変わっていた。  黒い、何の変哲もない小石だ。  私はこの意外な変化に驚き、試しにもう一度その石を砂の上へ落としてみた。すると元通りさくら色に変わる。目の錯覚か?  私は石を拾い上げたり、また落としてみたり、何度も同じことを繰り返した。目の錯覚ではない。確かに石の色は、黒とさくら色の間をいったりきたりするのだ。 「珍しいものを拾ったね」  不意に、背後から声をかけられた。ついさっきまで海岸に人気はなかったので、私は驚いて振り返った。派手なヤシ柄のアロハが目に飛び込んでくる。中年の太った男だ。肌の色からすると、地元民だろう。顔には人なつっこい笑顔を浮かべている。 「それはこの海岸にしか落ちてない石だよ。色が変わるだろう?」  男はそう言いながら近づいてきた。私の手元を覗《のぞ》き込み、ああやっぱりと満足げにうなずく。 「不思議な石だな」  私は打ち解けた口調で言った。男は手を差し出して石を受け取り、ためつすがめつしてから私に返した。 「あんたはついてるよ。地元に住んでても、拾えない奴《やつ》は一生拾えないんだ。神様に感謝するんだな」 「そんなに珍しい石なのか?」 「うん。俺《おれ》もこの年になるまで、三回しか拾ったことがない」  男は言いながらアロハの胸ポケットを探り、外国煙草を取り出してくわえた。続けてライターで火をつけようとするが、海風が強いためになかなか上手《うま》くいかない。私は短パンのポケットからジッポーを出して火をつけ、彼に差し出した。 「ああ、どうも」  彼は礼を言って火をつけた。大量の煙を、美味《うま》そうに吐き出す。私は掌の中の石に再び目を落とし、 「指輪にでもすれば、女が喜びそうだな」  半《なか》ば冗談のつもりでそう言った。すると男は腋《わき》の下をつつかれたように笑い出し、その拍子に煙にむせた。 「そんなことをしたら……」  男は激しくむせ、苦しげに笑いながら言った。 「……ああ可笑《おか》しい。そんなことをしたら女は動けなくなっちまうぞ」 「動けなく……どうして?」 「そりゃあお前、試しにその石を持ったまま少し歩いてみな」  私は首をかしげた。しばらく男の顔を見つめ、それから納得のいかないまま、言う通りに歩いてみた。  足元を濡らしては引いていく波打ち際に沿って、ほんの二十メートルほど。掌の中で変化が起き始めた。見ると驚いたことに、石が大きくなっているのだ。拾った時は親指の爪《つめ》ほどの大きさだったのに、今はその三倍くらいに膨れ上がっている。 「成長する石、と呼ばれているんだ。この海岸にしかない」  後ろからついてきた男が、自慢げに言った。私は平らにした掌の上へその石を載せ、目の前に翳《かざ》したまま再び歩き出した。一足ごとに石は確かに成長し、重みを増してくる。最初に拾った位置から五十メートルも歩くと、拳《こぶし》大の大きさになった。ずっしりとした重量感を伴い、支えきれなくなってくる。 「不思議だ。どうなってるんだ?」  私は振り返り、男に尋ねた。彼は肩をすくめて見せ、 「どうなってるのか俺にも分からんよ。誰にも分からんさ」 「しかしこれは……だって大発見じゃないか。博物館へでも持っていけば、みんな大騒ぎするぞ」 「博物館? どうやって持ってくんだ」  男は屈託のない笑いを漏らした。もう一本煙草を取り出して火を移し、短くなった方を海へ投げ捨てる。 「五十メートル動かしただけで、十倍にもなるんだぜ。博物館まで持っていったら、地球くらいの大きさになっちまう」 「そうかな……」  私は納得がいかず、石を持ったままもう一度歩き始めた。せめてホテルまで持っていければ、台車か何かがあるだろうと思ったのだ。しかし十歩と歩かない内に、石は人間の頭ほどにも成長した。私はなおも諦《あきら》め切れずにそれを肩に担《にな》い、歩き続けた。 「おいおい、よせよ。潰《つぶ》されちまうぞ」  背後で男の声がする。私はしかしそれを無視し、肩に食い込んでくる石の重みに堪えながら歩いた。 「あんたみたいに無茶する人は、初めて見たよ。もうそれくらいにしとけよ」  男は苦笑混じりに言った。石は両腕が回り切らないほどの大きさになっていた。私はとうとう我慢できなくなり、それを放り出した。石は重々しい音を立てて砂の中にめり込み、さくら色に変わった。荒い息を吐いてその場にへたり込んでいると、男がようやく追いついてきた。 「この石を海岸から持ち出した奴は、一人もいないんだ。無理なんだよ」  男は私の肩を軽く叩《たた》き、立てよと促した。私は石に手をついて立ち上がり、 「惜しいなあ」  と呟《つぶや》いた。男は笑った。 「さて、元の位置へ戻してやろう。あんたが動かしたんだから、手伝えよな」 「ああ」  私たちは二人がかりで石を持ち上げた。短い距離とはいえ、よくもこれを一人で担《かつ》いだものだ。私たちは互いに顔を見合わせ、くすくす笑いながら石を運んだ。元いた方向へ戻ると、一歩ごとに石は軽くなってくる。実に不思議な感覚だ。  やがて石は頭ほどの大きさになり、拳ほどになり、親指の爪くらいに縮んでいった。私は掌の中で、それを握りしめた。 「この辺りだったかな」  男は言った。私はうなずき、掌の中の石を確かめた。元通りの大きさだ。 「海へ投げてやれよ」  男は顎《あご》先で海の方を指し示した。 「そうだな」  私は答え、大きく振りかぶると、思い切り遠くへ石を投げた。石は美しい放物線を描きながら徐々に小さくなり、海面へ落ちる前に消えて失くなった。  デジャヴの村  浜辺には小さな家屋が林立している。  この島は気候が温暖で滅多に台風の直撃もないために、大袈裟《おおげさ》な建築は必要とされていないらしい。森に密生している名もない樹を伐採して丸太のまま適当に組み上げ、ヤシの葉で屋根をふけば、それで十分に暮らしていけるのだ。よしんば嵐がきて家屋が倒壊したとしても、二日もあれば同じものが出来上がってしまう。気楽なものだ。  私と三人の友人たちは、そんな簡素な家屋の一つを借り受けた。旅行会社の話ではコテージということだったが、訪れてみるとそこには島民が暮らしていた。まだ二十代の若い父親とその妻、そして乳飲み子が一人。三人の貧しい家族が、そのコテージに住んでいたのだ。  私たちは大いに驚いた。何しろKという町にある地元の旅行代理店でコテージの鍵《かぎ》を受け取った際には、そこに誰かが住んでいるなどとは一言も聞いていなかったものだから。しかも扉の鍵を開けて中へ入った時、若い夫婦はベッドの上で重なっている最中だった。私たちは扉の前で凍りついたように立ちつくしてしまった。一方、若い夫婦は私たちが扉を開けた気配に気づいたものの、動きを止めようとしなかった。夫の方は白目の際立つ瞳《ひとみ》で私たちに一瞥《いちべつ》を投げながら、妻の腹の上へ堂々と射精した。今までに見たこともないほど大量で、長い射精だった。私たちは目を逸《そ》らすことも忘れ、唖然《あぜん》としてその様子を眺めていた。ひとときの気まずく気だるい沈黙の後に、夫婦はそそくさと下着をつけた。同時に、隣のベッドで眠っていた乳飲み子が泣き出した。妻はその子を胸に抱き、ベッドの脇《わき》にある窓から表へ出た。夫も素早くその後に続いた。 「何だあいつら……」  友人のSが拍子抜けした声で呟《つぶや》いた。その言い方が可笑《おか》しかったので、私は思わず噴《ふ》き出してしまい、他の二人もつられて笑い声を立てた。 「勝手に窓から入り込んで暮らしてたみたいだな」  室内を一通り見渡してから、Sは憮然《ぶぜん》とした調子で言った。生真面目な男なのだ。私を含めた他の三人は、旅先でこういう目にあうことに慣れている。Sはさんざ毒づきながら、テーブルの上に置いてある食べかけの食器だの、ベッドの上に吊《つ》るしてある洗濯物だのを手に取っては窓から表へ放り出した。そして片づけるのが容易ではないということを悟ると、癇癪《かんしやく》を起こして、 「こんなところには泊まれない」  と言い出した。私たちは彼を宥《なだ》め、今さら余所《よそ》へ移るのは時間的にも無理があると説得した。Kという町までは車で片道一時間はかかる。既に夕暮れが迫っていたので、今から車を飛ばしていっても、旅行代理店は閉まってしまうだろう。 「まあ今夜だけ我慢しようや」  私はそう言ってSの肩を叩《たた》き、さっきまで若い夫婦が寝ていたベッドに腰掛けた。同時に、男と女の何とも言えない匂《にお》いが鼻先へ漂う。赤ん坊の乳臭い匂いも、そこに混じっている。  その匂いを嗅《か》いだ瞬間、私は奇妙な錯覚を抱いた。  デジャヴ——既視感と呼ばれている感覚だ。以前もこれと同じ状況に自分があったような錯覚。人によってはしばしばこの錯覚を抱くらしいのだが、私個人に関して言えば、そんなことは今までに一度もなかった。いや、あったのかもしれないが、それはごく曖昧《あいまい》なもので、五分もしない内に薄れてしまう錯覚に過ぎなかった。  ところがこのコテージのベッドに横座りになっている自分の姿は、まるで本物の記憶のように私の脳裏に甦《よみがえ》った。いつだったのかは定かではないが、私は確かにこの家のこのベッドに座ったことがある……。 「どうしたんだ、ぼうっとして?」  急に表情を変えて無口になった私を気づかって、Sが声を掛けてきた。 「いや……変だな」  私は首をかしげた。そしてSや他の二人の友人たちの顔を見た。彼らと一緒にこのコテージにいた記憶はない。私は、一人でここにいたのだ。 「どういうわけか分からないが、俺《おれ》はここに来たことがあるような気がする」 「馬鹿言え」  Sは意地悪く鼻で笑った。 「俺が厭《いや》がるもんだから、一芝居打とうってわけか。分かった分かった。もういいよ。今夜はここに泊まろう」 「や、そうじゃなくて……」 「その代わり明日は御免だぞ。朝一番でK町へ戻って、余所を探す。いいな」  Sはそう言って、他の二人の友人を促してコテージを出た。表に停めてある車から、食料を運んでくるつもりだ。私は一人コテージに残されて、ぼんやりと壁の節目を見つめていた。  やはりこの家には見覚えがある。時間がたつにつれて、既視感は消え去るどころかますます強くなってくる。こんなことは初めてだ。しかし記憶は、鮮明に思い出そうとすればするほど、油を塗ったビーチボールのように私の腕の中からつるりと逃げてしまう。ここを知っている、という漠然とした記憶だけがあって、詳細が浮かんでこない。  私はひどく苛立《いらだ》ち、コテージを出た。そこへちょうど友人たちが食料の袋を抱えて戻ってくる。 「どこへ行くんだ?」  先頭のSが尋ねてきた。 「散歩だ。ちょっと一人にしてくれ」  私は答え、彼らの脇をすり抜けて浜辺への道を下っていった。  潮騒が近づいてくる。空は少しずつ茜色《あかねいろ》に染まり始めている。私は足を速める。舗装路が途切れ、細かい砂の道が続く。海が見渡せる位置まで来て、私は足を止める。  右手に岬、左手に漁村。浜は爪《つめ》の先のような形に、美しい弧を描いて広がっている。私の背後には、手を差し延べるように枝を繁らせたブーゲンビリアの樹……この浜辺の風景にも、確かに見覚えがある。  私は記憶を辿《たど》りながら、左手の漁村へと歩いていった。私たちが借り受けたコテージよりも数倍簡素な平屋が、延々と続く。軒先で涼んでいる漁民たちは、私の姿を見ると、好奇心とも悪意ともつかぬ光を、瞳の中に湛《たた》える。そういう視線にも、覚えがある。  私は左右に気を配りながら、漁村の間をうねうねと抜ける砂の道を歩いた。そしていつしか道に迷った。  もう一度浜辺まで出れば、自分のいる位置も分かるはずだったが、どういうわけか海の気配がない。方向感覚がおかしくなってしまったのだろうか。  私は焦りを感じた。何度も同じ家の前を通過し、同じ辻《つじ》を曲がった。その度に漁民たちは鋭い視線を私に投げかけてくる。私は疲れはて、四辻に佇《たたず》んだ。 「また道に迷ったのか?」  不意に、英語で話しかけられて、私は振り向いた。そこには十五歳くらいだろうか、地元の少年が立っていた。頭に籠《かご》を載せ、小魚を一杯に積み上げている。 「そうだ。道に迷った」  私は答えた。その少年の顔にも、どういうわけか見覚えがあった。 「また、というのはどういうことだ?」  私は尋ねた。 「このあいだも迷っていたじゃないか」 「このあいだ? いつだ?」 「半年くらい前かな。あんたここで迷って、道を訊《き》いたじゃないか」  少年は不審げな顔で答えた。 「半年前?」  私は頭を抱え込んだ。半年前に旅行などしたはずはない。私は日本にいた。それはパスポートを見れば分かる。 「それともあんたは二人いるのかい?」  少年にそう言われるのと同時に、私はもう一人の自分が今は日本にいて、いつも通りに暮らしている姿を想像した。だとしたら彼も今頃は既視感に囚《とら》われて、往生していることだろう。  いや、しかしそんなはずはない。錯覚だ。この少年にしても、日本人の顔はみんな同じに見えるのだろう。 「海はどっちだ?」  私は気を取り直して尋ねた。少年は笑って、頭の上の籠から魚を何尾か落とした。 「半年前も同じことを訊いたね。変な人だあんたは。海はあっちだよ」  少年は私の背後を指差した。振り向くと空には、既に夜の気配が迫っていた。  岬にいた少女  岬へのなだらかな傾斜を、私はゆっくりと上っていく。  もともと火山島だったせいもあって、足元の土は茶というよりも赤に近い色をしている。岬の付近は潮風で湿っているからいいようなものの、内陸部ではこの土が強風に煽《あお》られて舞い上がり、目も開けられない有様だ。そのせいで島の人間たちの多くは、常に充血した目をしている。子供たちはまだ土埃《つちぼこり》に慣れていないためにきれいな瞳《ひとみ》を保っているが、目尻《めじり》にいつも涙を溜《た》めている。  この島へ来てからというもの、私は顔を顰《しか》めて歩く癖がついた。たとえサングラスをかけても、土埃は容赦なく目の中へ忍び込んでくる。実に厄介だ。  私が岬へ行くのは、これが二度目のことだった。  一度目は昨日、午後三時頃に訪れてみた。波が荒く、潮も満ちる時間帯だったので、岬から見下ろす風景は勇壮なものだった。しかし私が求めていたのは、そういう風景ではない。ホテルの部屋に置いてあった小冊子によると、その岬の突端にはシュノーケリングに適した岩場があるということだった。ごつごつした岩の磯が広範囲にえぐれていて、ちょうど海のプールのような具合になっているのだ。ただしこのプールが出現するのは潮が引いている時間帯だけで、満ちてくると海の中へ没してしまう。もちろんそれでもシュノーケリングはできなくはないが、波によって岩肌へ叩《たた》きつけられる危険を覚悟しなければならない。ようするに引き潮の時間帯を狙《ねら》って訪れた方が無難なのだ。  私はいつもの癖で顔を顰めながら、だらだら坂を上り切り、海を見下ろした。岬の突端には、岩肌を荒っぽく削ってコンクリートで補強した階段が設《しつら》えてある。海面まで一直線に続く急な階段だ。  一段目へ足を踏み出し、下り始めようとした矢先、岩場で蠢《うごめ》く何かの気配を感じた。動物かと思って一瞬身構えたが、それは人間だった。七、八歳の少女だ。褐色の肌に、黒い髪。上半身は裸で、男の子が穿《は》くような膝《ひざ》までのズボンを着けている。  彼女は海へ向かってせり出した大岩の陰に隠れて、こちらの様子をじっと窺《うかが》っていた。目が合うと、束の間|躊躇《ちゆうちよ》した後に白い歯を見せて笑いかけてくる。屈託のない、いい笑顔だ。私も笑い返した。そして右手を軽く上げて挨拶《あいさつ》をし、ゆっくりと岩の階段を下りた。 「危ないよ」  私が階段を下り切ると同時に、彼女は声をかけてきた。 「すごく滑るの。危ないよ」  確かに彼女の言う通り、海水に濡《ぬ》れた岩肌はぬるぬるしていて、気を抜くと足をとられてしまいそうだった。私は用心深く足元を確かめながら、彼女の立っている大岩の陰へと歩み寄った。右手に、例の海のプールが広がっている。潮が引いているので、そこはくっきりと海と切り離され、高い波も侵入してこない。シュノーケリングにはおあつらえの状態だ。 「潜るの?」  少女は私が手にしているシュノーケルとゴーグルのセットを指さして尋ねた。私はうなずいた。 「ここはあんまり面白くないよ。魚も小さいのしかいない」 「でも安全だからね」  少女は岩陰から姿を現し、私の隣に立った。好奇心に瞳をきらきら輝かせながら、私を見上げる。 「私の兄さんたちは岬の向こう側で潜ってるよ。あっちの方が大きい魚がいる。食べられる奴《やつ》。モリで突くの」 「でも波がきついだろう?」  私はゴーグルにシュノーケルをセットし、レンズに唾《つば》を吐いた。指先で塗りつけ、腰をかがめて海水で洗い流す。 「そうね、波はきつい。去年二番めの兄さんが無理して、岩に叩きつけられちゃって左腕の骨を折ったよ。放っておいたら腕が腐ってきて、みんな困った」 「そりゃあ困ったろう」 「でももう大丈夫」 「大丈夫って?」 「切っちゃったから」 「左腕を?」 「そう。切ったら治ったよ。左腕でよかったって、みんな喜んだ。右腕があれば、魚は突けるからね。今もあっちで突いてる」  私はゴーグルをかぶり、シュノーケルをくわえて、目の前の海のプールへ飛び込んだ。細かい無数の泡が、体の表面を激しく転がっていく感触。潮騒が遠ざかり、シュノーケルの筒の中を行ったり来たりする自分の息の音が、それに代わる。透明な、美しすぎる海中の風景が視界を占めている。少女の言っていた通り小さな魚の姿しか見えないが、私にはこれで十分だ。  小魚を追って泳いでいる内に、脳裏の片隅を片腕の少年の姿がよぎった。果たして右腕一本で、上手《うま》くバランスがとれるものなのだろうか? 試しに左腕を背中へ回して折り曲げ、右腕と足だけで泳いでみたが、思ったほど支障はない。これなら魚を突くことも可能だろう。  私は海面から顔を上げ、岩場に佇《たたず》む少女の方を見た。彼女はずっとそこにいて、私が泳ぐ様子を眺めていたらしい。目が合うと、また屈託のない笑顔を返してくる。 「君は魚を突かないのか?」  シュノーケルを口から外し、私は尋ねる。少女ははにかんで目を伏せ、 「あたしはまだチビだから、モリに触らせてもらえないの」 「退屈だろう? 泳げばいいじゃないか、ここで」 「水に入ってもいけないって言われてるの」 「どうして?」  少女は口籠《くちご》もった。私は水から上がり、体じゅうから水滴を滴《したた》らせながら、彼女のそばへ行った。比較的岩が平らになった場所を選んで、腰を下ろす。無性に煙草が吸いたかったが、指先が乾くまでは無理だ。少女は顔を上げ、私が泳いでいた海のプールを見つめながら言った。 「ずっと昔ね、ここに鮫《さめ》が迷い込んだことがあったの。今までに見たこともないほど大きい鮫。ハリケーンが来て、波に運ばれてきたの」  少女は私の隣へしゃがんだ。私は黙って海のプールを見やり、そこへ迷い込んだ大鮫の姿を想像した。 「ハリケーンが去った後に、村の人たちみんな出てきて、鮫を見物したのね。男の人たちはモリを持ってきて、岩場から鮫を突いたんだけど、なかなか死ななかった。それで、その時あたしのお母さんがね、さっきあなたが上がってきた辺りに立って見物してたら、足を滑らせて中へ落っこっちゃったの。鮫はさんざモリで突かれて気が立ってたから、あっという間にあたしのお母さんに食らいついて、飲み込んだのね。みんな大慌てで鮫の頭にモリを突き立てて……でも鮫はなかなか死ななかった。三十分くらいかけてようやく殺して、あたしのお父さんが鮫の腹を裂いたんだけど間に合わなくて、お母さんは死んだの」  少女は小石の数でも数えるかのように、淡々と話した。彼女が言葉を切ると、潮騒が急に耳元へ迫ってくる。私はまるで剣山のように見えるまでモリを突き立てられた大鮫の姿と、真っ赤な血で染まる海のプールを思い浮かべた。同時に、眩暈《めまい》がするほどの胸騒ぎに襲われる。 「君はそれを見ていたのか?」  そう尋ねると、少女は苦笑した。 「あたしは見てるわけないよ。だってあたしはお母さんのお腹の中にいたんだもの。お父さんがね、死んだお母さんのお腹を裂いて、あたしを取り上げたの」  私は絶句した。  潮が満ち始めたらしい。さっきから少しずつ海のプールの水位が上がっている。拳《こぶし》ほどもある大きな黒い蟹《かに》が、私の足先辺りの岩穴から顔を覗《のぞ》かせ、様子を窺っている。私は足を引っ込める。 「村の人たちはみんな、あたしのことを鮫の子って呼ぶのよ。水へ入ったら鮫が来て、あたしのことをさらっていくって。だからあたしは水に入っちゃいけないの」  少女が話し終えると同時に、海のプールの岩が切れる辺り、波が打ち寄せる岩盤の向こう側に鮫の背鰭《せびれ》のようなものが、ちらりと見えた。私は身を硬くした。  しかしそれは多分錯覚だったろう。海面に目を凝らしてみたが、その背鰭のようなものは二度と見えなかった。尖《とが》った岩が光を弾いただけだ。私は自分に言い聞かせ、もう一度少女に声をかけようと振り向いた。  しかしいつのまにか彼女はいなくなっていた。ほんの十秒ほど目を離しただけなのに、影も形もない。私は立ち上がり、岩肌に設えられた急な階段を見上げた。あれは蝉だろうか、子供が泣きじゃくるような声がどこか遠くから聞こえてくる。まるで海の底から響いてくるような、くぐもった声だ。しかし耳を澄ますなり、その声はふっつりと途切れた。  あとには潮騒だけが響くばかりだ。  夕陽に間に合えば  その海岸から眺めるインド洋の夕陽は格別である。 と、ガイドブックには書いてあった。私はその言葉を信じて、わざわざ一眼レフを片手に海岸へ向かった。地図で見ると、私の宿泊先のホテルからその海岸までは数キロの距離で、タクシーを飛ばせば十五分もかからないはずだった。  ところがどういうわけかタクシーの運転手は、まったく逆方向へ車を走らせたのだ。私の勘違いかとも思ったが、やはりおかしい。ホテルを出てから、タクシーはずっと夕陽を背にして走っている。つまり目的の海岸とは逆方向ということではないか。  私は地図を取り出して運転手に示し、この海岸へ行きたいと何度も言い募《つの》った。運転手はしかし短い一瞥《いちべつ》をくれるだけで、分かっているとうなずくばかりだ。顔色を変えて理由を問いただすと、ようやく運転手は口を開いた。 「道がないんだよ」  彼は不機嫌そうに言った。地図の上ではホテルから数キロしか離れていないのだが、実際に車でその海岸へ行くためには六十キロ近く迂回《うかい》しなければならないらしい。それが厭《いや》なら、獣道を一時間ほど歩くんだね、と彼は言った。 「飛ばしてくれ。夕陽を見たいんだ」  私はそう言って急《せ》かしたが、彼は気のない口調で、 「どうかなあ」  と呟《つぶや》き、請《う》け合おうとしなかった。夕陽は私の背中にあってどんどん遠ざかり、光を失っていった。私は腕時計を見た。六時五十分だった。 「あと、どれくらいかな」  ルームミラーに映る運転手と、目が合う。睫《まつげ》が長く、白目の際立つはっきりとした瞳《ひとみ》だ。年齢は四十代と思われるが、その瞳のせいで、角度によっては若々しく見える。 「さあ、飛ばしても五十分てとこかな」  彼は素っ気なく答えた。 「じゃあ無理だな」  私は溜息《ためいき》を漏らした。夕陽の名所へ、陽が沈み切ってから行っても話にならない。出直すしかないだろう。 「ホテルへ戻ってくれ」  私は言った。運転手はルームミラーの中で私の表情を窺《うかが》っている。声は聞こえたはずなのに、なかなかブレーキを踏もうとしない。距離を稼いで、料金を高めに取ろうという肚《はら》だろうか。 「戻れと言っているんだ」  私は声を荒げ、もう一度言った。運転手はようやくスピードを緩めた。  車はちょうど町の商店街に差し掛かるところだった。商店街と言っても、レストランが二軒、土産物屋が一軒あるだけの貧弱なものだ。昨日の日曜日、市が立つという話を聞いて、私はここを訪れたばかりだった。農作物を中心にした退屈な市だったので、失望してすぐにホテルヘ帰ったのだが。 「ひとつ方法があるんだが」  運転手はブレーキを踏みながら、そう言った。昨日市が立った広場の前で、車は停まった。 「何の方法だ?」 「だから夕陽を見る方法さ」  運転手は答え、ギアをニュートラルへ入れてから振り向いた。後部座席へ身を乗り出して、 「金は持ってるかい?」  と訊《き》いてくる。 「持ってないこともない」 「そんなに沢山かかるわけじゃないよ。そうだな……」  彼は一瞬考え込み、頭の中で計算してから日本円で三万円ほどの金額を言った。 「金でどうこうできる問題じゃないだろう」  私は冷たく言い放した。彼はにやりと笑い、さらに身を乗り出して低い声で言った。 「その広場を横切って……ほら、向こう側に大きな樹が見えるだろう? あの樹を右へ曲がるとすぐに小屋がある。扉の前に男が座っているから、そいつに金を渡して『四時間売ってくれ』と言うんだ」 「何を?」 「だから四時間だよ」 「四時間何を売るんだ?」 「時間だよ。時間を売ってもらうのさ」  運転手はごく当たり前のことのように言った。私は一瞬|眉《まゆ》をひそめ、それから笑った。 「時間を? そりゃ面白い」 「言っとくけどこれは冗談じゃないぜ」 「四時間買ったら、どうなる?」 「四時間前に戻るさ。そうすりゃ、あんたは今日の夕陽に十分間に合うだろ」 「なるほど。理屈だ」  私はなおも笑い続けた。運転手は機嫌を損ねたらしく、舌打ちを漏らして前へ向き直った。 「降りてくれ」  彼は端的に言った。その声には迫力があったので、私は笑いをおさめた。 「俺《おれ》は親切で教えてやってるのに、何だお前は。降りてくれ」 「おい、待てよ……」 「いいから降りろと言ってるんだ」 「私は別に、そういう……」 「叩《たた》き出されたいか」  彼は恐ろしい目をして、ルームミラーの中で私を睨《にら》みつけた。私は降りざるをえなかった。  扉を開け、表へ出る。と同時に、タクシーは後部座席の扉を半開きにしたまま、猛烈な勢いで走り去った。  私は広場の前に一人取り残された。通りには、人の姿はほとんどない。既に陽も暮れて、辺りは薄闇《うすやみ》に支配されつつある。二軒、並んで建っているレストランの明かりが、遠くに見える。そこへ行って不味《まず》い夕食をとり、タクシーを呼んでもらうのが最良の方法だった。しかし私はちょっとした気紛れを起こし、運転手が言っていた小屋へ行ってみる気になった。ホテルヘ帰るのは、いつでもできる。退屈しのぎに、冗談に乗ってみるのもいいかもしれないと思ったのだ。  人気のない広場を横切り、大きな樹——バオバブに似た樹を右へ曲がる。一足ごとに闇が濃くなるような気がする。電灯など当然ないので、足元が覚束《おぼつか》なくなる。ありがたいことに運転手の言っていた小屋は、樹を曲がってすぐの所にあった。  なるほど小屋の前に男が一人座っている。地面にゴザを敷いて、座禅を組むような恰好《かつこう》でぼんやりしている。近づいていくと、だるそうに目を開け、私を見据えてくる。かなりの高齢だ。八十歳、いや、もしかしたら百歳かもしれない。 「四時間売ってくれないか」  私はそう言って、ポケットの中から札を何枚か取り出した。冗談のつもりだったので、その老人がまともな反応をするとは思っていなかった。ところが彼はうなずいて札を受け取り、背後の扉を顎《あご》で指し示した。入れ、とその目が言っている。  私は急に落ち着かない気分になって、老人の前に立ったまま躊躇《ためら》った。しかし既に老人は金を懐ヘ入れてしまった。今さら返せとは言いにくい状況だ。つまらぬ散財をしてしまった。そう思いながら、私は老人の脇《わき》を擦り抜け、扉の前に立った。  何の変哲もない、木製のバラックだ。ただ扉だけが、不釣合いなほど立派な印象がある。樫《かし》か何かだろう、実に頑丈そうだ。扉についたノブも、鉄製の重々しいものだ。握ると、ひやりとした感触がある。  私は扉を開けた。  室内は八畳ほどの空間だ。窓はなく、閉ざされている。私は中に入り、後ろ手で扉を閉めた。室内には、天井からぶら下がった裸電球を除けば何もない。ただのがらんどうだ。天井も床も壁も、すべて同じ材質の板でできている。私は部屋をゆっくり一周し、裸電球の真下に立った。  何の変化もない。  私は苦笑を漏らした。帰国してから、この出来事をどういうふうな土産話に仕立て上げようかと考えたのだ。冗談にしては少々高くついたが、仕方あるまい。  裸電球の下を離れ、扉へ向かう。ノブに手をかけて、押し開ける。  同時に、私は顔を顰《しか》めた。強烈な陽の光が瞳に飛び込んできたのだ。一歩踏み出して天を仰ぐと、頭上には雲ひとつない青空が広がっていた。広場を隔てた向こう側の通りには、沢山の人が行き来している。  私は唖然《あぜん》として辺りを見回した。扉の前に座っている老人が、肩越しに振り返って私と目を合わす。明るい陽の光のもとで見ると、彼の左目は白濁していた。 「三時だよ」  老人は自分の左手首を指さしながら、静かな声で言った。私はあわてて腕時計へ目をやった。 三時五分過ぎだった。確かに、これなら夕陽には十分間に合う。十分すぎるほどだ。  人の魚  その日、フィッシングツアーに参加したのは私一人だった。 「いつもこんな調子なのか?」  小船を操るインストラクターに尋ねると、彼は大袈裟《おおげさ》に肩をすくめて見せ、 「一人っていうのは初めてだな。ツイてねえや」  と答えた。いつもビーチハウスに詰めているものの、彼の身分はホテル職員なので、別に歩合制で稼いでいるわけではない。しかしながら客が一人では、さすがに張り合いに欠けるのだろう。あからさまに退屈そうな顔をして、舵《かじ》をとっている。  海の色が薄青から群青に変わり始めた。波はほとんどない。振り返ると、海岸に建つホテルの建物が遠く、小さく揺れている。小船は群青の海を斜めに切り裂くようにして、白い泡を左右へ押しやりながら東へまっすぐ進んでいた。 「何が釣れるんだっけ?」  私は足元に置いてある釣竿《つりざお》を手に取り、軽く振り回しながら訊《き》いた。艫《とも》で舵をとるインストラクターは、迷惑そうな顔で釣竿の先を見つめながら、 「何が釣りたいんだ?」  と逆に尋ね返してきた。 「何って……別に。よく分からないよ」 「大物を狙《ねら》うのか。それとも食って美味《うま》い小魚がいいのか。狙う獲物によって、釣る場所も深さも竿も違うんだよ」 「なるほど」  私は納得し、釣竿を置いた。振り向いて艫にいるインストラクターと目を合わせ、しばらく考え込む。浅黒い肌に、厚い胸板。牛のように重量感のある逞《たくま》しい男だ。笑うと前歯の真ん中が二本抜け落ちているのが目立つので、何だか情けない表情になるが、口を閉じて黙っていると凶暴そうに見える。まるで逆さにすると表情が変わるだまし絵みたいな顔だ。 「簡単に釣れる方がいいな」  私は彼の反応を窺《うかが》いながら、言った。 「あまり釣りをしたことがないんだ。だから難しくない方がありがたい」 「分かった」  インストラクターはうなずき、舵をほんの少し動かして船の向きを変えた。既にホテルの建物は見えなくなっている。三百六十度、群青の海に囲まれている。私は少し不安になった。 「まだ沖へ出るのか」  そう尋ねると、インストラクターは残忍そうな笑顔を浮かべながら、 「恐《こわ》いのか」  と呟《つぶや》いた。私はあえてそれを否定せず、苦笑をもらすにとどまった。海を恐れない奴《やつ》なんていないだろうと、本当は言い返してやりたかった。インストラクターはそれきり軽口を叩《たた》こうとはしなかった。私も黙り込み、舳先《へさき》の彼方《かなた》に揺れる水平線をぼんやりと眺めやった。  やがて艫のエンジンが停止した。  振り向くとインストラクターは握っていた舵を固定し、足元の錨《いかり》を海へ投げ入れた。派手な水音が響いたかと思うとすぐに静まり返り、小波《さざなみ》が船腹を打つ規則正しい音だけが辺りを支配した。身を乗り出して見下ろすと、海は群青よりも黒に近い色をして、ゆったりと揺れている。  インストラクターは無言のまま釣竿に餌《えさ》をつけ、私に手渡した。餌はゴカイに似た奇妙な形の虫だ。とても手で触れそうにない。インストラクターは自分も同じ準備をした竿を握り、手本を示してくれる。頭上でくるりと弧を描くように竿先を回し、遠くの海面へ放り投げる。糸の先には針とは別に鉛の重りがついているので、驚くほど遠くまで飛ぶ。私も見よう見真似で釣竿を振り回した。偶然だが、一度めで上手《うま》くいって、インストラクターの浮きよりも遠くへ飛んだ。 「やるじゃないか」  彼は笑った。その拍子に前歯の隙間《すきま》が覗《のぞ》いたので、私もつられて微笑《ほほえ》んだ。  太陽は真上にあったが、厚い雲がそれを覆い隠していた。しかし雨の気配はない。太陽の回りだけに雲があるのだ。日光浴には邪魔な雲だが、釣りにはありがたい。  二十分ほどそうやって釣糸を垂れていたが、魚信は一度もなかった。といって私は不服を感じたわけではない。もともと魚を釣ることよりも、こうしてぼんやりと海上で過ごす時間のためにこのツアーに参加したのだ。一匹も釣れなくても、文句を言うつもりはなかった。 「だめだな。少し動いてみるか」  しかしインストラクターは責任を感じてか、焦《じ》れったそうに呟いて竿をひいた。と、同時に私の浮きに魚信があった。ぐいっと深く沈み込む手応《てごた》えがあってから、再び海面へ浮いてくる。  インストラクターは動きを止め、そのまま待てと手で示す。私は息を殺して待った。二十秒もしない内に、もう一度手応えがある。 「上げろ!」  インストラクターは叫んだ。同時に竿を引き上げると、魚の姿が海面へ現れた。それほどの大物ではない。 「巻け巻け! リールを巻け」  言われた通り懸命にリールを巻くと、魚は大した抵抗も見せずに寄ってきた。ぐったりした様子だ。インストラクターが慌てて艫の方からたも網を持ってくる。 「もうちょっと寄せろ。もう少し……」  私は掌の皮がすり剥《む》けるまでリールを巻いた。魚はまるで自ら捕らえられるのを待ち望んでいるかのように、他愛なく船腹へ寄ってくる。たも網が海中ヘ差し入れられる。一瞬の後に魚は私の足元へ放り出された。四十センチくらいの青い魚だ。腹は銀色、背は所々まだらになっている。釣られた拍子にどこか傷ついたのだろうか、口から大量の血を吐いている。 「何ていう魚だ?」  私が尋ねると、インストラクターは困ったような顔をした。 「これは……あれかな……」  彼が口籠《くちご》もるのと同時に、どこかで別の誰かの声がした。私ははっとして辺りを見回した。しかし海の上だ。私とインストラクター以外に、誰かがいるはずもない。 「痛い……痛い……」  また声がした。英語で、確かに�痛い�と言っている。私はインストラクターと顔を見合わせ、それから足元の魚を見た。 「痛い……殺してくれ……早く……」  その言葉は、ぱくぱくと開閉される魚の口から発せられていた。私は唖然としてその口許《くちもと》を見つめ、動けなくなった。 「聞こえないのか……早く殺せ……痛い……早く早く……」  魚はなおも言い募った。喋《しやべ》るたびに、口の奥でごぼごぼとうがいをするような音が響き、粘性の血の塊が吐き出されてくる。私はどうすることもできずに、ただその口許を見つめ続けた。 「早く……殺してくれ……」  不意に、私の背後に立っていたインストラクターが身を躍《おど》らせた。私は目を閉じた。鈍い、厭《いや》な音が何度も響く。小船は横波を食らったかのように激しく揺れた。私は目を開けた。インストラクターは右手に血まみれの棍棒《こんぼう》を握りしめていた。魚は彼の足元にごろりと転がっていて、絶命していることが一目で分かった。  インストラクターはしばらく肩で息をした後、舳先《へさき》の方へいって工具箱のようなものの中を探っている。包丁と調味料らしきものを手に戻ってくると、無言のまま、たった今殺した魚を捌《さば》き始めた。尾と頭を切り落とし、腹を裂き、内臓を取り出す……。 「……何だったんだ、今のは?」  私はようやく我にかえり性急に尋ねた。自分でも厭になるほど声が震えていた。 「聞いただろう? この魚……喋ってた。喋ってたよ」 「分かってる」  インストラクターは魚を捌く手を止めず、静かに答えた。 「この島じゃ、悪人は死んだら一旦魚に生まれ変わると言われてるんだ。こいつは……相当悪い奴だったんだろう」 「そんな……」 「喋る魚の話は俺《おれ》もじいさんから聞いたことがある。滅多に釣れるもんじゃない。もし釣れたら、こうしてやれと教えられた」  インストラクターはその魚を器用に捌き終え、身の一切れに塩と胡椒《こしよう》をまぶすと、私に差し出した。 「どうしろって……?」 「食うんだよ」  インストラクターは真剣《まとも》な表情を崩さず、毅然《きぜん》とした口調で言った。 「食う? 冗談じゃない」 「釣った本人が食ってやるんだ。そうすればこいつはまた別の生物に生まれ変わることができる。もしかしたら今日、可愛《かわい》い赤んぼうが島のどこかで生まれるかもしれない」 「厭だ。食えない」 「ただの魚だぜ。日本流に言うと、ほら、サシミってやつだ」 「ただの魚じゃない。喋った」 「もう喋らないよ。さあ、食ってやれ。気の毒じゃないか」  私は拒み続けた。インストラクターはしばらく魚の切り身を私に向かって差し出していたが、その内にふと視線を逸《そ》らし、寂しそうな顔になった。そして切り身を海へ放り、足元に散乱している魚の頭や尾や内臓を両手ですくい上げて捨てた。それらはゆっくりと海中へ没し、すぐに見えなくなった。船上には血糊《ちのり》だけが残った。 「可哀《かわい》そうにな」  インストラクターは呟いた。 「これであいつはまた魚だ。釣り上げた誰かが食ってくれるまで、魚のままだ。永遠にこの海で彷徨《さまよ》うんだ」  私は視線を遠くに馳《は》せ、ぼんやりと水平線を見つめた。雲が流れ、頭上に太陽が顔を現した。強烈な日差しが、私の体に降り注ぐ。群青の海は静かに揺れている。  中には何が  そのビーチには見えない境界線がある。  ホテルのプライベートビーチと、パブリックビーチとの境界線だ。別に砂の上に石灰で線が引いてあるわけではないのに、その境界線は厳然と存在する。  物売りの少年やマッサージ嬢(と呼ぶには年をとりすぎているが)は、決してこの線を越えてプライベートビーチに入ってこようとはしない。それを越えて商売をすると、ホテルのセキュリティに酷《ひど》い目にあわされるらしいのだ。だから彼らは境界線ぎりぎりのところに立ったり座ったりして、じっとこちらの様子を窺《うかが》っている。そして目が合うと、こっちへ来いとしきりに手招きする。それこそ千切れそうなほど手を振るのだ。  ところで私はプライベートビーチの熱い砂の上へ直接寝転がり、肌を陽《ひ》に焼きながら本を読んでいる。「殺人全書」というぶ厚い文庫本だ。どうしてこんな本を旅行|鞄《かばん》の中へ入れてきたのか自分でもよく分からない。ぶ厚くて読みごたえがあるから、かもしれない。内容も確かめずに携えてきたのだが、読んでみるとそこには日本で起きた様々な殺人事件の全容が記されていた。はじめは少々違和感があったが、読み進むにつれて、その凄惨《せいさん》な内容があっけらかんとした南国の太陽に意外なほどしっくりくることに気づいた。実際に人を殺す瞬間というのは、どろどろと粘つく嫌悪感を伴うものではなくて、もしかしたらこんなふうに目もくらむほど明るくて呆気《あつけ》ないものなのかもしれない。 「ねえ、ねえ、ねえ!」  狐つきになった母親の首をノコギリで切り落とす少年の話を読んでいる最中に、どこかで声がした。顔を上げて辺りを見回すと、左手の境界線の向こうに、日焼けした老婆の姿があった。目が合うと、顔をくしゃくしゃにして笑いかけてくる。 「マッサージ? マッサージ十五ドルでオーケーよ。一時間|揉《も》むよ」  日本語でそう言う。私は苦笑して首を振った。 「ノーサンキュー」 「十二ドルでいいよ。いい気持」  老婆は執拗《しつよう》に話しかけてきた。私はそれを無視して、再び本の世界へ入った。しかし老婆は一向に黙ろうとしない。 「ねえ、ねえ、ねえ!」  という日本語の呼び掛けが、耳障りでしょうがない。私は根負けして本を閉じた。立ち上がり、背中に付着した砂を掌で払い落としながら、老婆のそばへ行く。  見えない境界線を越えると同時に、老婆は飛びついてきた。私の手を取り、十メートルほど先にある東屋《あずまや》へ連れていく。そこは周囲では唯一日影のある場所なので、いつもはマッサージの老婆や物売りの少年たちが大勢たまっている。ところがその時に限って、東屋には人気がなかった。私は腕時計に目をやった。正午を少し過ぎたところだ。おそらくみんな昼飯を食べに一旦引き上げたところなのだろう。  東屋は砂に柱を打ち込み、その上へヤシの葉でふいた屋根を載せただけの簡素なものである。広さは日本流に言うと十二畳ほどだろうか。老婆は私を屋根の影の下へ連れてくると、小脇《こわき》に抱えていたバスタオルを砂の上へ敷き、そこへ寝ろと身振りで指示した。私はそれに従った。  うつぶせに寝ると、薄汚れたバスタオルからは安っぽいココナッツオイルの臭いが漂ってきた。口の中が砂でじゃりじゃりする。私は唾《つば》を吐き、本を広げた。老婆は地元の言葉で何事か話しかけてきながら、私の背中にオイルをたらした。それを丁寧に擦り込み、背骨に沿って揉み始める。老婆の手はひどく荒れていて、しかも砂粒が付着しているために、揉まれると肌がぴりぴり痛んだ。しかししばらく我慢していると肌が麻痺《まひ》したのか、痛みは消え、代わって心地好さが私の背中を支配し始めた。  私は読みかけていた本を閉じ、その心地好さに身を委ねた。  どれくらいの時間そうしていたろう。私は束の間眠っていたらしい。ふと目を開くと老婆は私の足の裏を揉む手を休め、やれやれといった様子で私の顔の近くへ這《は》ってきた。全身に、揉まれた気配が残っている。 「いいもの、買う?」  老婆は日本語でそんなことを言った。私の脳裏に浮かんだのは、マリファナだった。前日、同じようなマッサージの老婆に売りつけられて、試してみたばかりだったのだ。あまり上物ではなく、大量に吸っても頭がぼうっとする程度だった。 「ガンチャかい?」  私は訊《き》き返した。老婆はそれを聞くとちょっと意外そうな顔をし、首を振った。 「ガンチャ、ノー」 「じゃあ何を買うんだ?」 「ボックス買う」 「ボックス? 箱か。ノーサンキュー」 「フェアリーボックス。いいもの」 「フェアリー?」  私はその意味が分からなかった。老婆は私の顔色を窺いながら、籐《とう》の籠《かご》から辞書ほどの大きさの箱を取り出した。木製で、何の変哲もない箱だ。ちょっと見には、箱根細工に似ている。 「ノーサンキュー」  私は一瞥《いちべつ》するなり、もう一度言った。そして上体を起こし、胡座《あぐら》をかいた。老婆は真正面にしゃがみ込んで、 「中に……フェアリー。モンスター。分かるね? スモールモンスター」  言いながら箱を自分の耳にあてて見せる。どうやらその箱の中に、小さな怪物が入っていると言いたいらしい。老婆はしばらく耳を澄ます振りをして見せ、満足そうに微笑《ほほえ》みながら私にそれを手渡した。聞いてみろ、ということらしい。おおかた虫か何かが入っているのだろう。面倒だったが、私はそれを受け取り、耳に当ててみた。  確かに箱の中からは物音が聞こえた。ごそごそと這い回る音……、それから話し声だ。虫の鳴き声ではなくて、それは知性のある生物の会話であるように聞こえた。もちろん私が理解できる言語ではないのだが、ある一定の法則に基づいた言葉のように思える。会話を交《か》わしているところから推察すると、単独ではなく、複数であるようだ。 「スモールモンスター?」  私は老婆に訊いた。彼女は私の反応に満足したらしく、微笑みながらうなずき、 「十五ドル、オーケー」  そう言った。私は短パンのポケットを探り、三十ドル入っていることを確かめてから、それを老婆に手渡した。インチキだとしても、高い買物ではない。  老婆は金を受け取ると、大袈裟《おおげさ》に何度もお辞儀をした。バスタオルを丸めて籠に入れ、立ち上がる。私も箱を手にして同時に立ち上がった。  私たちは境界線の上で別れた。  ホテルの建物に向かって歩きながら、私は何度も箱を耳に押し当て、中から聞こえてくるその不思議な会話に集中した。それからあらためて箱をためつすがめつした。ところが箱は、どこからも開かない仕掛けになっていた。切れ目がどこにも見当たらず、ただの木の塊のようなのである。  そんなはずはない。どこかに仕掛けがあるのだ。でなければ、スモールモンスターはどうやって中に入ったというのか。  この不思議な箱を手に入れてから、既に半年が過ぎた。中からの会話は途切れなく聞こえ続けている。いったい何がいるのだろう? 確かめるためには、これを開けてみるしかないのだが……。  贋のビーチ  うたた寝から覚めた時、私は一瞬自分がどこにいるのか分からなくて混乱した。妙に現実的な夢をみていたらしい。覚めると同時に、それがどんな内容の夢だったか、すっかり忘れてしまったのだが。  私は浜辺にいた。  木陰のビーチチェアに仰向《あおむ》けになって、ぼんやりと空を見上げている内に、うたた寝してしまったのだ。生憎《あいにく》腕時計をしていなかったので、どれくらい眠ったのか正確には分からない。  私はビーチチェアから身体《からだ》を起こし、日向《ひなた》に歩み出た。  熱く焼けた砂の一粒一粒が、足の裏に食いついてくる。肩と脳天が、じりじりと音を立てそうだ。見上げると、高い高い青空の真ん中に栗鼠《りす》の尻尾《しつぽ》のような形をした雲が浮かんでいる。  私は駈《か》け出して海へ入り、身体を存分に濡《ぬ》らした。足の爪《つめ》の形まではっきり見えるほど透き通った海だ。波はほとんどない。ちょうど風呂に浸《つ》かるような恰好《かつこう》で肩まで水に入り、しばらくじっとしている。  浜には誰もいない。  風が耳元で鳴っている。  私は海から上がり、また砂浜を駈けてヤシの樹の林を抜けた。ホテルの建物が見えてくる。  プールサイドには沢山人がいた。水中バスケットボールに興じる白人の子供たちが、黄色い声を上げている。その横を過ぎて、ホテルの建物に入ろうとしたところへ、背後から声を掛けられた。 「こっちよ。ねえ」  振り返ると、プールサイドの白いチェアに座った彼女が、手を振っていた。抽象画の一部分のように、奔放に塗り重ねた色の水着を着ている。すっかり陽に焼けて、笑うと白い歯が一際目立つ。  私は手を振り返し、彼女の方へ近づいていく。陽に晒《さら》されたプールサイドの白いタイルはもしかしたら砂よりも熱くて、飛び上がってしまう。その恰好を見て、彼女は笑い声を立てる。 「どこへ行ってたの? 探したのよ」 「浜だよ。眠ってたんだ」  私は答える。 「眠ってばかりね、あなたは」 「今、何時だ?」  チェアの肘掛《ひじか》けの上へ載せてある腕時計に目をやりながら、私は尋ねる。それは私の持ち物だ。彼女は腕時計をしない主義だから、時々こうやって勝手に私のを借用する。買ってやると申し出ても、片方の腕が重くなるから厭《いや》だと言ってきかない。 「あら? 変ね」  腕時計を手に取った彼女は、不思議そうに眉《まゆ》をひそめる。 「十一時のわけないわよね。止まってるみたい」  手渡されて確かめると、なるほど時計の針は十一時を指している。よく見ると、ガラスカバーの内側に水滴がついて、部分的に曇っている。 「昨日、潜ったのがいけなかったかな。水が入ってる」 「そんなことがあるの?」 「贋物《にせもの》だからね」 「ロレックスじゃないの、それ?」 「去年香港で買ったんだよ。五千円もしなかった」 「なあんだ」  彼女は笑った。私は腕時計を腕に巻き、あらためて彼女を間近に見た。きれいな顔をしている、と今更ながらに思う。南の島へ来てプールサイドに水着で寝そべると、大抵の女はいつもより美しく見えるものだが、彼女の場合はそういう錯覚とは無関係だ。私は目で撫《な》で回すようにして彼女の顔を見つめ、何とも言えない満足感を覚えた。彼女の方は私の不躾《ぶしつけ》な視線に辟易《へきえき》したのか、不意に立ち上がり、 「泳いでくる」  と言い残して、目の前のプールへ飛び込んだ。水|飛沫《しぶき》が上がり、彼女の姿は歪《ゆが》みながら青いプールの底へ吸い込まれていった。私は微笑《ほほえ》み、彼女の座っていたチェアに腰を下ろそうとする。  その時ふと、私は忘れ物をしたことに気づいた。  先刻うたた寝をした際には、サングラスをしていたはずなのだ。浜辺のチェアの周辺に置き忘れてきたらしい。私は舌打ちを漏らし、踵《きびす》を返した。  プールサイドを駈けて、ヤシの樹の林を抜け、元いた浜辺へ引き返す。さっきは誰もいなかったが、今度は数人の人影が浜辺にある。黒人の親子連れと、地元の物売りらしい男の姿が、浜に沿って弧を描くように配置されたビーチチェアの間に、ぽつんぽつんと眺められる。  私が寝入ってしまったチェアはどれだったろう? 一瞬、混乱して辺りを見回していると、物売りらしい男が振り向いて私を見た。目が合うと、人なつっこそうな笑顔を浮かべて手を振る。その右手には、私のサングラスが握られていた。私は警戒を緩めずに近づいていき、男の傍らに立った。 「いいものがあるよ」  男は拙《つたな》い英語で言った。間近に眺めると、彼は地元の人間ではないようだった。アラブ系の顔立ちとでも言うのだろうか。鼻も目も眉も顎《あご》も、すべてが大きい。 「そのサングラス、私のものだ」  私は男の言葉を無視して、端的に言った。男は右手にサングラスを持ったまま肩を竦《すく》めて見せ、 「そうかもしれないが、そうじゃないかもしれない」  と答えた。明らかに何かを売りつけようとしている。話を聞かなければ、簡単には返してくれないだろう。私はそう判断して、男の隣のチェアに腰を下ろした。 「こんなサングラスよりももっと素晴らしいものを持っている。見たいか?」  男は早速切り出してきた。私はあからさまにうんざりした顔になり、 「何だ?」  と訊《き》き返した。男は指を一本立てて、さあ見せるぞという意思表示をしてから、傍らに置いてあった麻袋の中を探った。 「こっちのサングラスの方が、ずっと素晴らしい物」  そう言って、見るからに安っぽいサングラスを出して見せる。私は無言のままそれを受け取り、掛けもせずに掌で弄《もてあそ》んだ。男は同じものをもう一つ取り出して掛け、 「掛けてみな。このレンズを通して見ると、贋物は赤く見えるんだ」  そんなことを言った。つまらない冗談だ。私は苦笑して首を振り、 「いくら欲しい?」  と直截《ちよくせつ》に尋ねた。男はちょっと驚いたような顔をしたが、すぐに値段を口にした。決して高くはなかったが、安くもない。微妙な値段だ。  私は考え込んだ。サングラスを盗んだ奴《やつ》がいるとホテルのセキュリティに訴えたところで、戻ってくるまでに男は姿を消すだろう。事を荒立てるのは面倒だ。私は早く彼女の元へ戻りたい。戻って、一緒にプールで泳ぎたいのだ。 「分かった。買う」  私は不愉快を押し殺しながら言った。そして短パンのポケットから濡《ぬ》れた札を何枚か取り出し、男に手渡した。 「ありがとう」  男は仰々しく礼を言った。 「日本人は話が早いね。こっちのつまらないサングラスも返してあげよう」  私は自分のサングラスと、男に売りつけられたサングラスを両手に持って、すぐに立ち上がった。足早に歩き出すと、男は私の背中に向かって、 「なあ、そのロレックスは止めた方がいいんじゃないか。あんたは金持ちなんだから、ちゃんとした奴を買いなよ」  そんなことを言った。私は振り向かなかったが、男の言葉に少々動揺した。一目でこのロレックスが贋物と分かるとは、かなりの目利《めき》きだ。あるいは言葉通り、男の売りつけたサングラスは贋物を見抜くのだろうか? 「馬鹿馬鹿しい」  私は日本語で呟《つぶや》きながら、売りつけられた安っぽいサングラスを掛けてみた。別に何ということはない。ふと視線を落として、腕時計を眺めてみる。  驚いたことに、贋物のロレックスが真っ赤に見えた。  周囲の風景はそのまま薄いブラウンに減光されて見えるのに、ロレックスだけが異常に赤いのだ。こんなふうに見えるはずがない。私はサングラスを掛けたり外したりして、何度も確かめた。一体どういう仕掛けになっているのだろう。  そのことを確かめようと、肩越しに振り向いてみると、男の姿は既に消えていた。見通しのいい、広々とした浜辺なのに、影も形もない。しばらくその場に佇《たたず》んで男の姿を探してみたが、無駄だった。  私はプールサイドに向かって歩き出した。実に不思議な気分だった。歩きながら、サングラスを掛けたり外したりする。やはりロレックスだけが、真っ赤に見える。  ヤシの樹の林を抜けて、プールサイドに出たところで、私はサングラスを掛けたままあらためて周囲を見回してみた。別に異常はない。唯一、プールバーのカウンターに腰掛けてビールを飲んでいる日本人の中年男だけが、ちょっとおかしかった。髪の毛が部分的に真っ赤なのだ。サングラスを外して見ると、何の異常もない。普通の七三に分けた髪なのだが、サングラスを掛けて眺めると前髪から脳天にかけてが真っ赤に染まって見える。 「鬘《かつら》か?」  私は口に出して呟く。そして不意にこみあげてくる笑いを押し隠すのに苦労する。どうやらあの男の言っていたことは本当らしい。贋物だけが赤く見える。どういう仕掛けなのか分からないが、これは素晴らしいものを手に入れた。  私は笑いを堪えながら、早く彼女にも教えてやりたくてプールサイドを走った。さっき彼女が座っていた白いチェアのもとへ駆けつけ、辺りを見渡す。そこへ、ちょうどプールから彼女が上がってきた。ずっと泳いでいたのだろう、息を弾ませて、プールの縁に設《しつら》えられた短い梯子《はしご》を上ってくる。 「おい」  私は声を掛けた。彼女がふっと顔を上げる。目が合う。  同時に私は頬《ほお》をこわばらせた。笑いが凍ってしまう。彼女の顔は真っ赤に見えた。鼻と目尻《めじり》と口許《くちもと》と顎、そして頬骨までもが真っ赤に染まって見えたのだ……。  美しすぎる風景  受付にいたのは、愛想のない中年女性だった。私が国際免許を出すと、不審そうな顔で眺め回し、 「今、全部出払ってるのよ」  と素っ気なく言った。まるで豹柄《ひようがら》のようにひどいそばかす顔だ。まともに見つめるのが悪いような気がして、私は目を伏せ、自分の国際免許へ視線を落としながら、 「表にオフロード車が一台、あったように思うんだが」  と遠慮がちに言った。 「あれは予約済み。悪いけど」 「多分その予約を入れたのが私だと思う。ホテルのコンセルジュに頼んだんだ。調べてもらえないかな」 「どこのホテル?」  私は海辺に建つホテルの名前を言った。彼女は面倒臭そうに頭を掻《か》きながら電話の方へ歩いていき、受話器を取った。ややあってから短い会話を交わし、すぐに受付へ戻ってくる。 「確かにそうみたいね。じゃあこの用紙に記入して。パスポートナンバーもね」 「支払いはカード?」 「当然よ」  私は申し込み用紙に必要事項を記入し、彼女へ戻した。室内には様々な臭いが満ちている。強烈なのは表から漂ってくるガソリンの臭いだが、そこへオイルやゴムの臭い、さらには菓子類や残飯の臭いまでが混ざってひどい有様だ。ガソリンスタンド兼レンタカー兼雑貨屋兼食堂、とでも呼べばこの店を正確に言い表したことになるのだろうか。  受付の中年女性は私が記入した用紙をじっくり確認した後、ついてこいと手振りで示して表へ出た。店の横手に停まっている青いオフロード車のそばまで行って振り返り、 「新車よ。壊さないで」  と眉《まゆ》をひそめて言った。見たところ確かにまだ新しいようだ。 「シフトノブの後ろについているボタンを押せば四輪駆動。もう一回押すと前輪駆動。分かる?」 「ああ、分かる」 「オフロード走ったこと、ある?」 「あるよ。大丈夫だ」 「自信たっぷりね」  彼女は言いながらこの島の略図らしきものを取り出した。性能の悪い機械でコピーしたものらしく、あちこち掠《かす》れてひどく見すぼらしい。 「この……×印がついてるとこがあるでしょう。ここは行かないで。戻って来られなくなるから。いい?」 「それはつまり……」 「危険だってことよ。沼があったり、崖《がけ》になっていたりするから」  あらためて地図を見ると、×印は島内に五箇所あった。私は現在位置を確かめ、それから車に乗り込んだ。 「もうひとつ」  彼女は運転席の中へ身を乗り出すようにして言った。 「この北の岬。ここは一応車で入っていけるけど、行かない方がいいわ。本当はここが一番危険なのよ」 「どうして?」 「崖になっていてね、そこに立つとわけもなく飛び下りたくなるのよ」  私は笑った。彼女はそれで気分を害してしまったらしい。 「笑う前に、行ってみることね。ものすごく美しい岬よ。美しすぎるから、みんな飛び下りたくなるんだわ。あんたみたいな旅行者が死ぬには最高の場所よ」 「なるほどね」  私は車を走らせた。バックミラーに映る彼女の姿がどんどん小さくなる。もちろん彼女の勧めに従って、その危険で美しい岬へ行ってみるつもりだった。  南北に細長い、小さな島だ。端から端まで車で走っても、二時間とかからない。島内には小さな飛行場が一つと、町が一つ、ホテルが三軒。舗装路は一本だけで、これを逸《そ》れると爆撃直後のようなラフロードが細々と続いている。  受付の女性が言っていた岬は、町から四十分ほどだった。曲がり角があるわけでもないので、地図を頼りに北へ向かえば、厭《いや》でも辿《たど》り着くことができる。ただし後半の三十分は獣道のようなラフロードなので、運転に骨が折れる。道の左右からしなだれかかってくる密林に視界を阻まれ、舌を噛《か》みそうになりながら、私はアクセルを踏んだ。  やがて密林が不意に途切れ、視界が一気に広がる。  フロントグラス一杯に空が見える。一瞬、誤って空中へ飛び出してしまったのかと錯覚し、私は小さな叫び声を上げた。すかさずブレーキを踏む。  そこが北の岬だった。  私は車を降り、突端に向かってゆっくりと歩き出した。岬は急勾配《きゆうこうばい》の上り坂になっている。ミサイルの発射台のように、空に向かって突き出す恰好《かつこう》の岬なのだ。二十メートルほど歩いてから、私は辺りを見回した。人気はない。左右には海が、眼前には空だけが広がっている。  束の間、自分がどこにいるのか分からなくなる。強烈なマリファナをやった時のような感じだ。もう何時間も何日も前から、ここに立っているような気がする。私は頭を振り、この奇妙な感覚を追い払おうとした。振り向くと私の乗ってきた青いオフロード車が、じっとこちらの様子を窺《うかが》っている。私はそれを借り受けた時のことを思い出し、やや自分を取り戻す。  再び歩き出そうとしてふと左手を見ると、いつのまにかそこには立札が立っていた。上ってくる途中では気づかなかったのだが、かなり大きなものだ。英語ではっきりとこう書かれている。 〈この立札を越える者は神の胸に抱かれるだろう〉  私は立札の前に佇《たたず》み、何度もその文句を読み返した。視線を上げ、岬の突端を眺めやる。どこが一番端になるのか、その位置からでは確かめようがない。恐らく突然、崖になっているのだろう。高さがどれくらいあるのか、それも定かではない。  耳元で風が鳴っている。実に安らかな気持だ。私は呼吸を忘れてその場に立ち尽くし、岬の突端を見つめた。そこから眺める風景は美しすぎると、あの女性は言っていた。しかしそれがどれくらい美しいのか、知っている者は誰もいない。あそこに立ったら決して戻って来られないと、はっきり分かる。  私は迷った。  次第に頭がぼんやりしてくる。岬の突端が私を呼んでいるような気がする。遠い潮騒が聞こえる。  あとがき  普段ぼくは小説作品に関してはあとがきを付けない主義なのだが、この短篇集は少々特殊な経緯から編んだものなので、あえて一言つけ加えさせてもらう。  ここにおさめた十二の短篇の原形は、ごく短いものだった。四百字詰めの原稿用紙に換算すると一枚半から二枚。ほとんどショートショート、というか小話に近い形のものばかりである。何故そんなに短い話を書く必要があったのか。そのへんの経緯をちょっと話しておきたい。  この一枚半から二枚のごく短い作品群は、もともとラジオ放送用の原稿として書いたものである。番組の名前はTOKYO FMの「ジェット・ストリーム」。今は亡き名ナレーター城達也氏による番組の、金曜日の夜の原稿を一九九一年からぼくが担当していたのである。といっても構成や音楽などに関してはノータッチで、番組中に語られる少々不可思議な短い物語の部分だけをぼくが書いた。一晩に三話の構成だから、一月で十二話。二年間で二百八十八話の短い物語を書き続けた計算になる。  さてそうやって延々と書き続けてきた多くの短い原稿を、一冊にまとめてみたいという話が持ち上がってきた。本になるのは、物書きとしては大変ありがたいことだが、ぼくとしては少々|躊躇《ためら》いがあった。もともと放送台本用として書いてきたものが、果たして活字として読むにたえるものなのか? そのつもりで読み返してみたのだが、やはり原稿用紙一枚半の世界というのは、狭い。読者としては食い足りない。そこで大幅に手を加える作業が必要になってきた。一篇を八枚から十二枚くらいの長さに書き改める——この作業はゼロから短篇を紡ぐに等しかったので、難航するに違いないと思っていたのだが、実際に書き始めてみると、決して苦痛ではなかった。書くことをひさしぶりに楽しんだ、と言ってもいい。理由のひとつは物語の舞台が海、しかも海外に限られていたことが挙げられるだろう。これによってイメージが拡散せず、的を絞り込んで発想することができた。  そんなふうにして本書はようやく短篇集の体をなしたわけだが、単行本として出版した際には「透明な地図」というタイトルがついていた。これを今回文庫化する際に「海の短篇集」とあらためたのは、ぼくの我儘《わがまま》からである。もともとぼくは小説家としてデビューする以前から、いつか海を舞台にした短篇ばかりを集めて「海の短篇集」を編んでみたい、ということを夢想していた。単行本の時は、ちょっとストレートすぎるタイトルなので、どんなもんかなと遠慮してしまったのだが、文庫化を機に、夢を叶《かな》えさせてもらうことにしたわけである。 92年11月、TOKYO FM出版より刊行された『透明な地図』を改題 角川文庫『海の短篇集』平成9年2月25日初版発行            平成13年7月10日8版発行