原田宗典 家族それはヘンテコなもの 目 次  家族それはヘンテコなもの   一 娘の結婚相手   二 夫婦喧嘩の顛末   三 週末の家の顛末   四 皇太子御成婚の話題   五 さようなら、まあちゃん   六 朝の風景   七 水を笑う   八 ナオちゃん語録   九 遊びの時間   十 子供のビョーキ   十一 愛しの動物たち   十二 勘違いの女王  恋愛それはヘンテコなもの   一 ままならぬ出会い   二 身勝手な接近   三 想像過多のデート   四 激烈な接触願望   五 面倒な合体   六 難解なプロポーズ   七 親との遭遇   八 美しい結婚式とは   九 新婚旅行は飴《あめ》であるか   十 新居は妥協の産物だ  青春それはヘンテコなもの   一 自意識過剰との闘い   二 勉強って何だ?   三 妄想との闘い   四 方言との闘い   五 不良への憧《あこが》れ   六 泣いたおそ松くん   七 世界一愛すること  家族それはヘンテコなもの  一 娘の結婚相手  先日、結婚式に出席した。  なんだか久し振りである。三十三歳ともなると、さすがに友人および同僚の類はほとんど片づいてヤレ一息といったところなので、ここしばらくはお呼びがかからなかったのである。ぼくは基本的には式とかパーティとか宴会とか会合とか座談会とか煮魚とかセロリとかは苦手なので、 「あーよかった」  とひそかに胸を撫《な》で下ろしていた。ところが今度は後輩連中の結婚ラッシュが始まったのである。  先日結婚したU君は、ぼくが大学在学中から厄介になったコピーライターの事務所の後輩である。といっても同じ事務所で机を並べて仕事をしたことはない。ぼくがその事務所を辞めてフリーランスになるのと入れ代わりに、彼が入社というか入所したのである。初めて会った時のU君は、まだ大学を出たばかりで実に初々しい好青年であった。七年後の現在、久々に会ってみると彼はすっかり男の顔になっていた。まあタキシードなんか着ちゃって、しかも緊張しているところだからそう見えたのかもしれないが、とにかく既に青年ではなくなりつつあった。 「うーむ、あれがあーなってこーなって、こういうおじさんになるのだろうなあ」  ということまでも予想される顔つきで、美しい新婦の隣に立っていたのである。  もちろんぼくも他人のことをとやかく言えるような立場ではない。しっかりおじさんになりつつある自分を、最近では十分に自覚している。例えばその結婚式の最中にも、ぼくは自分自身の中に巣くう�おじさん的なるもの�を二度も自覚してしまった。  一度めは、神父が取り仕切る式の最中である。新郎新婦が神の御前にて永遠の愛を誓い合う時に、 「健やかなる時も病める時も、富める時も貧しき時も……」  という例の台詞を口にするわけだが、これがやけに胸にこたえた。何ちゅうかこう、今までになくシミジミもしくはジーンあるいはズキーンとしてしまったのである。二十代の頃は、誰かの結婚式に出席してこのお定まりの台詞を聞いたところで、これといった感慨も抱かなかった。 「うんうん、そうね。そうよね」  とワケ知り顔でうなずいたり、あるいはまったく逆に、 「ケッ」  と反発を覚えたりするくらいのものだったのだが、これはいったいどういう心境の変化なのであろう。  続いて今度は神父からのありがたいお言葉を聞く、という段取りになったのだが、これまたぼくはジーンとしてしまったのである。話の内容は聖書にのっとり、 「夫は妻を慈しみ、守り、なんとかかんとかがかんとかです。そして妻は夫を労《いたわ》り、従い、なんとかかんとかがなんとかなので、なんとかかんとかです」  とかなんとかいう当たり障りのないものだったにもかかわらず、ぼくはシミジミしてしまった。  自己分析してみると、この�シミジミ�の中にはぼく自身の経験してきた結婚生活の様々なニュアンスが籠《こも》っていたように思う。今まさに永遠の愛を誓い合う若き二人を目の前にして、 「あー汚れてしまった私」  を再確認し、恥ずかしさを噛《か》みしめながらのシミジミ。あるいは涙する新婦にありし日のカミサンの姿を重ねつつ、 「うッ、申しわけねえ……」  と我が身の様々な後ろめたさを悔いるシミジミ。また一方では意地悪なヤッカミ半分の意識も働いていて、 「とはいってもキミタチ、結婚生活の至福は長くは続かんのよ。ふーんだ」  と長く退屈な結婚生活を皮肉るようなシミジミ。このように様々な形の�シミジミ�がぼくの中で渦巻いちゃったのである。このテの�シミジミ�は、はっきり言って若者が抱く感慨ではない。実におじさん的シミジミなのである。 「いやー、いかんなあこれでは。いかんいかん」  と自分をいさめ、物書きとしては常に若々しい精神を保たなくちゃいかんのよね、と思った矢先。今度はご両親への花束贈呈という定番セレモニーを遠目に眺めている最中に、またもや内なる�おじさん的なるもの�を自覚してしまった。  今までぼくは花束贈呈を眺める際には、常に新郎新婦側に立って想像力を働かせていた。つまり自分が新郎だったら、こういう気分であろうとか、こういうふうに花束をカッチョよく渡しちゃうぞとか、こんなふうに新婦を労っちゃうもんねとか、そういうことばかりを考えていたのである。ところが今回、このセレモニーを目の前にして考えたことは、驚くべきことに、 「手塩にかけて、せっかくここまで育てたのに……くくくッ」  というようなことであった。つまりぼくは無意識の内に父親の側に立って想像力を働かせていたのである。これはまさにおじさん的というかお父さん的発想である。瞬間、こりゃいかんと思ったのだが、身勝手なぼくの想像力はもう留まるところを知らず、あっというまにワサワサッと翼を広げてしまった。たちまち涙ぐむ父親の姿にぼく自身の姿が重なり、花束を手渡す新婦の姿にぼくの娘、佳苗の姿が重なった。口に出して取り乱したりはしないだろうけど、胸の中には、 「ううー、おまえが嫁に行ってしまうなんてえー。あんなに、あんなに、あんなに可愛《かわい》がって育てたのにー。そりゃないぜセニョリータ」  という思いが渦巻いているに違いない。表面上はニコヤカに取り繕いながらも、本当は新郎を「この盗ッ人!」と罵倒《ばとう》したくなるに決まっている。うー、想像するだに頭にくるなあ。一体どんな奴がウチの娘をたぶらかすのだ? 許さん許さんッ、お父さんは絶対に許しませんからね!  ……というようなことを、ぼくは花束贈呈の間じゅう考えていた。我ながらバカみたいだと思うのだが、まあ考えてしまったものは仕方ない。  さっそく帰宅後にこの件についてカミサンに話したところ、案の定、 「バッカじゃないのー」  という答えが返ってきた。なにしろ娘の佳苗はまだ四歳だから、そういうことを考えてクヨクヨ悩むのは二十年早い、と言うのである。 「うーむ。まあそりゃそうなんだけどさ」 「大体あなたはね、いっつも想像力過多なのよ。考えすぎよ」 「それはおまえ、職業病だから仕方ない。物書きというのはだな、想像力過多くらいでちょうどいいのだ」 「想像力過多人間の相手をする方の身にもなってよ」  ぼくは反駁《はんばく》するカミサンの顔を見つめながら、ああこいつも昔は新妻だったのになあと考え、何だかゲンナリしてしまった。「夫を労り、従い……」という神父様のありがたい言葉を聞かせてやりたいぞこいつにッ、という気分である。 「おまえじゃ話にならん。やはりこういうことは本人と話をするのが一番いいのだ。佳苗はどこへ行った佳苗は?」 「ロフトで遊んでるわよ」 「そうかッ」  ぼくはむふむふと鼻息も荒くカミサンのそばを離れ、階段を上った。彼女が言っていた通り、佳苗は弟の直弥(二歳)と一緒にロフトで遊んでいた。ぼくは佳苗の前に立ちはだかり、腰へ手を当てて結婚問題について問いただそうと思ったのだが、いざそのあどけない顔を見ると、 「えー、何と申しましょうか……」  と口籠《くちごも》った。いくら想像力過多でも、四歳の娘を相手に「貴様、誰と結婚するつもりだ!!」と声をあらげるわけにはいかない。しかも問題がナイーブであるだけに、切り出し方が非常に難しい。 「んーとねぇ、あのうー……」  と言いあぐねているところへ、カミサンが様子を見にきた。そしてぼくの困惑顔を横目で窺《うかが》いながら、 「ねー、佳苗ちゃんはあれだよねぇ、将来お父さんと結婚したいんだよねぇ」  と助け船を出した。すると佳苗は一瞬きょとんとした表情を浮かべた後に、さも当たり前のことのように、 「うん。そうだよー」  と答えた。おお何という嬉《うれ》しい展開。お父さんはその言葉を待っていたよウンウン、よしよし、買うちゃる買うちゃる何でも買うちゃる、とぼくの頬《ほお》が緩みかけたところへ、カミサンは足払いをかけるかのように、 「でも迷ってるんだよねー?」  とつけ加えた。ぼくは顔色を変えて、 「ん!? 何を迷ってるんだ」 「もう一人花婿候補がいるのよ。ねー佳苗ちゃん?」 「誰だッ。どこのどいつだ!」 「あのねー」  佳苗は半ば申しわけなさそうにモジモジしながら、こう言った。 「ガチャピン」 「あ?」 「お父さんと結婚するか、ガチャピンと結婚するか、迷ってるの」 「何だガチャピンてのは!」 「あのね、ひらけポンキッキの緑色の奴。こないだ羽つけてねー、びゅーって空飛んでたの。かっこよかったの」 「うーむ……」  ぼくは絶句してしまった。意外な側面からのライバルの出現に、言葉を失ってしまったのである。結婚相手として、第一番めにお父さんと言ってくれたことは嬉しい。しかしながらそのライバルがガチャピンとなると、これは喜んでよいのやら悲しんでよいのやら、さっぱりワケ分かりまへんがなの世界に突入である。  ぼくは美しく成長した佳苗の横に、緑色で短足のガチャピンが並んで立っている様子を思い描き、何とも言えずフクザツな気持になった。恐らく娘を嫁に出す父親というのは、みんなこういうふうにフクザツな気持を噛みしめるものなのであろう。  二 夫婦喧嘩の顛末  このあいだ久々にカミサンとものすごい喧嘩をしてしまった。いや、正確には喧嘩ではなくて、一方的にぼくが叱《しか》られたのである。その時の経緯をちょっと書いてみたい。こんなことを公にしたら、カミサンまた怒るだろうなあ。うー、怖いぞ怖いぞ。でも書いちゃうもんね。  その日、ぼくはいつも通り午後一時に三鷹の家を出た。明け方まで書きものをして、六時から正午まで眠るのがぼくの生活パターンなのである。従って家を出るのは午後一時ということになる。いい天気の日なんかは、 「もったいないなーッ!」  と心底思うが、仕方がない。もうちょっと暇になったら昼型に変えようと思いながら、もう五年近く忙しいままの生活を続けているのである。  さて午後一時に家を出たぼくは、電車を乗りついで二時に恵比寿《えびす》の仕事場についた。明るい内は取材やら来客やらが相次ぎ、あっという間に夕方になった。エッセイの締切が二本あったので、六時くらいからこれを書き始め、ウンウン唸《うな》りつつも九時に書き上げた。やれやれである。  近所のラーメン屋へ行って遅い夕食を摂り、仕事場へ戻って、今度は郵便物に目を通し始めた。この日は月初めだったせいもあり、十冊以上の雑誌が送られてきていた。自分が連載しているものもあれば、そうでないものもある。パラパラとやっている内に、十時半になってしまった。 「あー、帰るの面倒くさいなあ」  ぼくは時計へ目をやりながら思った。以前は西早稲田に住んでいたから、恵比寿の仕事場との往復もそれほど面倒ではなかった。電車でも山手線で一本、わずか六駅だったし、遅くなってタクシーを利用しても二千円かからずに帰れた。  ところが三鷹に引越してからは、そうはいかない。山手線で新宿まで出て中央線に乗り換え、武蔵境で降りる。しかも自宅は駅から歩いたら三十分以上かかるので、バスかタクシーに乗らなければならないのだ。 「何だそれくらい! 俺《おれ》なんかあ、東北新幹線と常磐線と銀座線と日比谷線を乗り継いでよう、片道二時間半かけて会社まで通ってんだかんな。俺の人生の五分の一は通勤時間だッ。ナメんなよお! ううッ……泣けてきちゃった」  と反論なさるお父さんも数多くいらっしゃるだろうが、許していただきたい。何しろ交通至便な西早稲田での生活が長かっただけに、三鷹までの距離が実際以上に面倒くさく感じられちゃうのである。 「あーあ、引越しなんかするんじゃなかった。西早稲田が恋しいよう」  てなことを考えながらグズグズしている内に、時刻は十一時を過ぎてしまった。カミサンも子供たちも、とうに眠っているはずである。  こういう場合の男性心理というのは実に独特で、女性——特に家庭の主婦には理解しがたいものであると思う。家というのは働き手である男性にとって、当然帰るべき暖かい場所であるのだが、年に数回、多い人は月に何回か、 「なーんか帰るのが面倒くさいなあ」  と思えてくることがある。一旦《いつたん》そう思い始めてしまうと、 「どうせ帰ったってカミサンも子供も寝てるから、俺も寝るだけだし。そいでまた明日ゴソゴソ起きて出勤するんだよなあ。明日またここへ来るのに、どうしてわざわざ苦労して帰らなきゃならんのだ?」  てなことを考え始めてしまう。確かにまあ理屈はその通り。ずうーっと会社に寝泊まりしていれば、通勤時間はゼロで済むわけである。聞くところによると、あの怪人荒俣宏氏などはここ何年も平凡社の一室に泊まり込んでいるとか。職住隣接どころか、職住合体の好例である。  さて帰宅するのがすっかり面倒になってしまったぼくは、西早稲田に住む友人のナガオカ君に電話をかけた。彼とは西早稲田キャッチボール連盟という立派な団体を組織し、会員二名しかいないのに七年も運営し続けてきた仲である。 「三鷹は遠くてよう」  てな愚痴をこぼしつつ話し込んでいる内に、十二時近くになってしまった。ますます帰宅するのが面倒になったぼくは、 「今日泊めてくんない?」  と切り出したところ、気のいいナガオカ君は二つ返事で「いいよ」と応じてくれた。友人というのはまことにありがたい。ほんじゃまあ明け方までバカ話でもすっか、ということで相談がまとまり、ぼくはタクシーに乗って西早稲田のナガオカ君宅へ向かった。  ちなみにナガオカ君というのは現在独り身で、ぼくなんかから見ると実に気儘《きまま》な生活を送っている。職業はグラフィックデザイナーで、結構忙しいらしいのだが、何だかいつもノンビリしているように見える。おかげで本を読んだり映画を観たりする時間もたっぷりあるらしく、話題も豊富で、話相手としてはこれ以上の人物はいない。しかもナガオカ君の部屋というのが、これまた何とも言えず居心地のいい場所なのである。適度に広く、適度に散らかっていて、まるで学生時代の部屋そのままの雰囲気が漂っている。だから彼の部屋へ行くと、ついつい長居をしてしまうのである。 「うーむ、いつ来ても居心地がいいなあこの部屋は」  ぼくは29型テレビの前に据えられたコタツに足を突っ込み、ナガオカ君の煎《い》れてくれたコーヒーなど啜《すす》りながら、次第に自分が若返っていくような錯覚を覚えた。もちろん話も弾んで、最近読んだ本のことや映画のこと、お芝居や絵のことなんかをダラダラと脈絡なく語り合った。  そこへ突然電話が鳴った。真夜中の三時過ぎである。ナガオカ君は受話器を取り上げ、寝惚《ねぼ》けた声で応対してから、 「本間ちゃんだよ」  と言って受話器をぼくに差し出した。本間ちゃん、というのはぼくのカミサンの旧姓である。 「何だこんな夜中に……?」  不審に思いながら電話に出ると、受話器の向こうから只事《ただごと》ならぬ様子のカミサンの声が聞こえてきた。彼女はぼくが「もしもし?」と言うなり、 「あんた! そこで何してんのよッ!」  と叫《さけ》び声を上げた。まるでゴジラが口から放射能をんばばばばッと発射するような勢いであった。ぼくはその放射能をくらって逃げまどう村人さながら、たじたじとなってその場に伏せた。 「何してるって……何もしてないよ」 「どおおおおおして電話一本かけられないのよ! 何考えてんのよ!」 「やー、だってさあ、もうキミタチ寝てるだろうと思ったからさあ。電話で起こしたら気の毒だと思って……」 「起きてるわよ! 一時まで起きて待ってたんだからね!」 「あー、悪い悪い」 「悪いで済んだら警察いらないわよ! 御飯だって用意してたし、話することだってあったのに! どうして勝手に外泊するの!」 「まーまーまー、いいじゃないかこうして居場所もハッキリしたことだし」 「そおおおおいう問題じゃないわよ!」 「そんな金切声を出すなよ」 「無責任よ! 今日出がけに頼んだことだって忘れてるでしょう!」 「え? あー、えー、何だっけ?」 「ほら! ほらほらほらほらほら!」 「はらほろひれはれー」 「お金がないから銀行で下ろしてきてって、キャッシュカード渡したでしょ! どうすんのよ! お金がなきゃ、明日からあたしたちは飢え死によッ!」 「まーまー、そんな大袈裟《おおげさ》な……」 「馬鹿たれ! もうお前なんか帰ってこなくていい!」  同時に叩きつけるようにして受話器が置かれ、電話は切れた。ぼくはハニワ顔で受話器を握りしめたまま、�秘孔を突かれてお前は既に死んでいる状態�に陥り、しばらくその場で石化した。これほどまでに怒っているカミサンの声を聞いたのは、数年ぶりである。たかが電話をしなかったことだけで、よくもまあそこまで怒れるものである。  一方的に叱られたので、しばらくぼうっとしてしまったが、驚きから回復するにつれ、むらむらと腹が立ってきた。どおおおして一家の主であるぼくが、こんなふうに頭ゴナシに叱られなきゃならないのかッ! そりゃ銀行で金を下ろすのを忘れたのは悪かったし、電話もせずに友人宅へ泊まろうとしたことも悪かったけど、そんなふうに放射能を撒《ま》き散らして怒ることはないだろ! いっつも子供と一緒に九時過ぎにはガーガー寝てやがるくせに、ふんッ! 何だこういう時だけ電話よこせなんて言いやがって。きー!  ぼくはすっかり頭にきて、心配げな顔のナガオカ君をよそに、フテ寝してしまった。もう絶対に家になんか帰るもんか、二ヵ月くらいホテルで暮らしてやるーッ、という気持であった。  その翌日。  ぼくは例によって昼過ぎにナガオカ君宅で目覚め、指にネリ歯磨きを塗りつけて歯をねりねりと磨いた後、恵比寿の仕事場へと向かった。腹が立って腹が立って、ちっとも仕事が手につかなかった。生活費がないとカミサンは言っていたが、この際稼ぎ手である旦那のありがたさを思い知るがいい、ほーっほっほっほ兵糧《ひようろう》攻めよ、ざまあごらんあそばせ、という気分であった。  ところが夕方にかかってきた一本の電話で、ぼくのこの怒りはあっという間におさまってしまった。仕事の電話かと思って受話器を取り上げると、娘の佳苗の声が響いてきたのである。 「もしもしー、お父さん? あのねー、あのねー、今日早く帰ってくるう?」  というあどけない声を耳にするなり、ぼくはたちまち日溜《ひだ》まりの猫顔になってしまった。それでも一応威厳を保って、 「んー、どうかなあ」  などと惚《とぼ》けると、佳苗はここぞとばかりに哀れっぽい声で、 「早く帰ってきてねー。佳苗ちゃんねー、シンデレラのビデオが欲しいの。お土産に買ってきてー」 「お母さんは? 何してる?」 「お母さん? 怒ってるー。でも帰ってきてねー。あたし起きて待ってるから」 「分かった。じゃ、お父さん今から帰るからね。待っててねー」  結果的にはこの電話がきっかけとなって、お父さんVSお母さんの史上最大の決戦は、闘わずしてイタミ分けということになった。ぼくは尻から煙を出すような勢いで仕事場を後にし、シンデレラのビデオとケーキを買ってそそくさと帰宅した。その晩はさすがにカミサンとは口をきかなかったが、翌日からはいつも通りの生活に戻った。  子は鎹《かすがい》、とはよく言ったものである。  三 週末の家の顛末  我が家には三鷹の自宅とは別に、もうひとつ生活の拠点がある。  八ヶ岳の森の中に建っている山荘で、いわゆる�別荘�というやつだ。しかしぼくはこの�別荘�という呼び方が嫌いで、取材で訪れた女性編集者なんかに、 「原田さん八ヶ岳に別荘をお持ちなんですよねぇ?」  なあんて訊《き》かれたりすると、恥ずかしくて机の引出しの中へ隠れたくなる。�別荘�という言葉の語感には、何だか奢《おご》りたかぶる感情の粒がひそかに含まれているような気がしてしょうがない。�別荘�と口にしたとたんに、言葉の周囲に、 「どうだどうだ。んー。俺って別荘持ってんだぞ。どーだ。うりうり」  といった気分が漂うような気がして、それが嫌なのである。だから自分ではあの山荘を別荘と呼びたくないし、他人からも、 「週末はやっぱりあれですか、別荘の方でお過ごしですか?」  なあんてことも言われたくない。とにかく恥ずかしいのだ。ついこの間まで四畳半のアパートに独り暮らししていたくせに、ちょっと羽振りがよくなったらそんなもん建てちゃってえー、という声がどこからともなく聞こえてくるような気がする。おそらく二十歳の時のぼくが、今のぼくを見たら、 「けッ!」  と舌打ちを漏らし、思いっきり軽蔑するだろう。当時のぼくは貧しいけれど志だけはものすごく高くて、あらゆる俗なるもの、あらゆるブルジョワ風のものに対して強烈な反発を覚える青年だったのである。左ハンドルの車や別荘なんて、成金趣味そのものではないかと一蹴《いつしゆう》するに違いない。  しかしちょっと待ってほしい。少しだけ言い訳させてもらいたい。確かに�別荘�という言葉の周囲には、成金とか贅沢《ぜいたく》とかハイソとか、そういったイメージがつきまとう。でも我が家の場合は、そんな大層なものじゃないのだ。そのへんの経緯を、ちょっと聞いてもらいたい。  八ヶ岳の森の中の土地を購入したのは、娘の佳苗がよちよち歩きを始めた頃だから、三年と少し前のことである。ぼくは三十歳になったばかりだった。物書きとしては、初めての長編小説『スメル男』を書き上げた頃で、周囲は少しずつ慌ただしくなっていた。とはいえ、 「いやー、儲《もう》かって儲かって笑いが止まらんよコバヤシ君、ぬっはっはっは!」  と笑えるほどの大金を手にしていたわけではなく(現在もそうである)、ぼくら三人家族はごくつつましく西早稲田の賃貸マンションで暮らしていた。  世間にはバブルの嵐が吹き荒れていた頃で、東京の地価はものすごい勢いで上がっていった。幼年時から新聞折り込みの不動産チラシを眺めることを趣味としているぼくは、週末ごとに上がっていく建売住宅やマンションの価格に、脅えすら感じていた。  そんなある日、例によって朝刊に折り込まれた不動産チラシを眺めながら、ぼくは溜息《ためいき》をついた。 「こりゃーもうダメだな。東京で家を買うのは完全にアウトだ」  と絶望的に呟《つぶや》くのを、そばにいたカミサンが聞きつけたらしい。 「別に東京じゃなくてもいいじゃない」  と、彼女にしては画期的な意見を言った。ぼくは眉《まゆ》をひそめ、 「じゃ何かい。秋田にでも家を建てろと、こう言うわけ?」 「そうじゃないわよ。あなたの商売は紙と万年筆とファックスがあれば、どこでもできるわけでしょう? だったら富士山の麓とか相模湖とか長野とか、自然がいっぱいあるところに週末の家を建てて、仕事場として使えばいいじゃない」 「なるほど……一理ある」 「新宿に住んでたりすると、緑も土も少ないでしょう? 私、子供がちょっと可哀そうかなあって思うの」 「なるほど……二理ある」 「そういう所なら、土地の値段だって安いわけでしょう?」 「なるほど……三理ある」  と、まあこの三理あることによって、ぼくは本気で週末の家を建てることを検討し始めた。住宅情報誌やリゾート物件ガイドなんてものを読み漁《あさ》り、頭の中で夢の別荘生活を描き始めたわけである。  しかし現実はキビシイ。  まず手始めに、馴染《なじ》みのある富士山麓を訪れ、別荘地を見て回ったりもしたのだが、今ひとつピンとこない。�別荘地�と呼称されると、何だか高級そうなイメージが漂うが、実際にはただの山中である。火山岩なんかがそこらじゅうにゴロゴロしていて、冷たい風がひゅうーなんつって吹いちゃったりして、何だか殺伐とした風景が広がるばかりなのである。しかも価格も思ったより高かったりする。 「やっぱりダメかなあ」 「ダメねえ」  ぼくらは溜息をついた。富士山麓にすら家を建てられないのだなあ、という深い敗北感にうちのめされた。  そんなふうにして半年ほど、ぼくらはダメだダメだと呟きながら過ごしてきた。その内に東京の地価はさらに上がり、影響が別荘地にまで及び始めた。 「あ、う、あたしもうダメ。完全にダメ。あ、あ」  という感じである。  そんなある日。ぼくらは新聞の不動産広告を見て、遊びがてらに八ヶ岳を訪れた。小淵沢から少し上がった辺りの、泉郷という別荘地である。どうせダメよね、という思いがあるために、全然その気ではなかった。ま、いい空気を吸って、お弁当食べて、さっさと帰ってきましょ、という心積もりである。  ところが案内してもらった売地は、とても感じがよかった。やや傾斜のある赤松林で、ぼくらが�週末の家�に抱いていたイメージにすごく近かったのである。佳苗を抱いたカミサンはこの土地を見るなり、 「あらあ、これはいいわあ」  と夢見がちな乙女のような声を上げた。この瞬間、彼女が頭の中に描いている風景は、ぼくにも手に取るように分かった。よく晴れた日のことで、目の前の赤松林は実に気持のよさそうな木陰をあちこちに作りながら、ゆったりと揺れていた。ぼくらはしばらく何も言わずに、その光景を眺めていた。  三十分ほど、そうやって赤松林をぼんやり眺めた後に、ぼくらは泉郷の営業マンと一緒に、別荘地内にあるレストランへ行った。彼はまだ入社したてで、素直な感じのいい青年だった。彼の説明によると、土地の広さは約二百坪。値段の方は一坪約十万円ちょいで、総額約二千百万円ということであった。  二千百万円!  見たこともない大金である。ぼくは正直に、自分が出せる範囲の金の話をし、一体幾らくらいまでローンが組めるのかを尋ねた。営業マンの答えは明確だった。 「九十パーセントまでなら貸せます」  つまり頭金は十パーセント、二百十万円で大丈夫だと言うのである。それならば何とかなるかなあ、と思いながらも渋い顔をしていると、彼は続けてこう言った。 「この後、夕方にもお客さんをご案内するんですが、あれはいい物件ですからねえ。ご決断は早ければ早いほどよろしいかと……」  今にして思うと、これは不動産屋の常套《じようとう》手段、決まり文句なのであろうが、この時のぼくは頭の中が二千百万二千百万二千百万ローン九十パーセントローン九十パーセントローン九十パーセント二十五年払い二十五年払い二十五年払いわああーッという状態になっていたために、冷静な判断力を失っていた。こんな大きな買物なのに、ほとんど後先も考えずに、 「じゃ買います」  と言ってしまったのである。隣に座っていたカミサンは椅子《いす》から五センチ八ミリくらい飛び上がるほど驚いた。しかしもっと驚いたのは、他でもないぼく自身である。口にしたとたん、あ、あ、とんでもない決断をしてしまったと思った。すぐにでも前言を翻そうとチャンスを窺《うかが》ったのだが、営業マンは嬉《うれ》しそうにニコニコして契約書類などを机の上に広げ始めている。これは困った。 「嘘《うそ》だぴょーん!」  などと道化て叫んでも、通用しそうな雰囲気ではない。 「えー、本日の手付け金のことなんですが、一パーセントつまり二十万ちょっとご用意いただけますか?」  営業マンはマニュアル通りに話を進め始めたが、ぼくはこれを聞くなり「断るチャーンス!」と思った。遊びがてらに来ていたので、二十万なんて現金は持っていなかった。これを理由に、断るなり保留してもらうなりしちゃおうと思ったのである。 「あのー、現金そんなにないんです」 「あ、そうですか。いかほどなら……?」 「えーと、帰りの高速代は残しとかなきゃならないから……えーとですね、お前幾ら持ってる?」 「私? 二千円くらい」 「俺は三千円だから……全部で五千円しかないです」  営業マンもさすがに呆《あき》れたらしい。一瞬きょとんとした後、 「五千円、ですか?」  と尋ね返してきた。そりゃそうである。二千万の買物をするのに、五千円しか持ってきてない奴なんて、滅多にいないだろう。しかし若い彼はすぐに気を取り直して、 「ちょっと待って下さい。上司に相談してまいります」  と言って、一旦引き下がった。ああ、これでとりあえず冷静に考える時間ができた、とぼくは胸を撫《な》で下ろした。  ところが五分ほどして戻ってきた彼は、さっきよりもさらに嬉しそうな顔をしていた。驚くべきことに、手付け金五千円で構わないと言うのである。ぼくはまたもや頭の中が二千百万二千百万二千百万ローン九十パーセントローン九十パーセントローン九十パーセント二十五年払い二十五年払い二十五年払いわああーッという状態になり、失神しそうになった。 「では、こちらに判を……」 「あ、あ、ハンコも持ってきてません」 「じゃ、拇印《ぼいん》で結構です」 「ひょえー」  てな具合に、ぼくはあっという間に契約書に拇印を押し、五千円払って、たちまち土地所有者になった。嘘みたいである。カミサンは佳苗をあやしながら、ぼくの隣で微笑《ほほえ》んでいたが、心の中では、 「この男、正気なのかしら」  と訝《いぶか》っていたに違いない。日本広しといえども、五千円と親指だけで土地所有者になったのは、ぼくくらいのものだろう。我ながら呆れてしまう。  とにかくまあそんな経緯があって、ぼくは八ヶ岳の土地を手に入れた。当然、建物を建てる余裕などなかったが、一年半ほどしてカミサンの母親がお金を貸してあげると申し出てきた。小学校の先生を勤めあげ、退職金が入ったというのである。ぼくはへへえーと平身低頭してこのお金を借り、建物を建てた。んもう三百六十度借金状態、である。だからこそ今ぼくはこうやって必死こいて働いているのだ! うー、ちっとも優雅じゃないぞ。  四 皇太子御成婚の話題  それにしても皇太子御成婚、である。  まあどこの家庭でもそうだと思うが、「皇太子妃、小和田雅子さんに内定!」のニュースが流れてからしばらく、我が家でもその話題で持ちきりであった。いや、積極的に御成婚の話ばかりをしていたわけではないのだが、帰宅してお茶など啜《すす》りながらテレビをつけると、どのチャンネルでも取り上げているものだから、ついついそれにつられてしまったのである。  まず、内定の第一報が流れた直後の原田家四人の反応は以下の通りであった。 「まー、よかったわねえ」 「美人じゃないか! 驚いた」 「きれいな服! あたしもああいうの着てみたあ〜い」 「だあだあ! だあ!」  四人めの直弥の反応は、一般の人にはもちろん父親であるぼくにすら解読できないのだが、カミサンによると、これは「チャンネルを換えてアニメを見せろ」と言っているらしい。直弥は既に二歳半を過ぎているというのに、言葉が遅く、未だに喃語《なんご》中心でコミュニケーションをはかろうとする。親としてそれを理解してやろうと一応の努力はしているつもりなのだが、 「ちょっちゃあ、ばび、ぼご!」  なあんて真剣な顔で話しかけられても、即座には返答できない。喃語の単語をひとつひとつ吟味して、そこに手掛かりを探し、類推して、 「なあに? トーマスのおもちゃ?」  などと訊《き》き返す。しかし大抵は的外れであるらしく、直弥は困惑し、ますます真剣な顔になって、 「ちょっちゃあ、ばび! ぼご!」  と言い募るばかりである。この�火星人VS日本人�じみた対話をしばらく繰り返していると、頭の中が段々まっしろけのケーになってくる。そしてお互いに理解し合えないまま物別れに終わるのが常である。まことに虚《むな》しく、実りの少ない対話ではないか。あんまり虚しいので、最近では直弥が、 「あばち! だで? だで?」  などと話し掛けてきても、その真意を汲《く》もうとする努力をハナから放棄し、 「うむ。そうかそうか。なるほど」  と即座にうなずくことにしている。本当は全然なるほどじゃないんだけど、とにかくうなずいてやると、直弥はぼくが理解したものと誤解し、 「でへえー」  と心底|嬉《うれ》しそうに笑う。その顔を見ると、ぼくも分かり合えたような気になって、安心する。ひょっとしたらこういうのを、理解を超えた親子の絆《きずな》と呼ぶのかもしれないなあ、なんて思ったりもする。  おっとっと。話がすっかり横道へ逸れてしまった。  閑話休題。皇太子御成婚の話である。  内定のニュースから明けて翌朝。ぼくは新聞を読みながら、流しで洗いものをしているカミサンに向かって、 「いやー、それにしてもなあ……」  と話しかけた。ちょうど新聞の記事で、知識人や有名人、雅子さんの知人などの短いコメントを読んだ直後である。 「どうして新聞社は俺《おれ》のとこへコメントを取りにこないのだろう。けしからん」  と手の甲で新聞をばしばし叩《たた》きながら言うと、案の定カミサンは好奇心に瞳《ひとみ》を輝かせ、洗いものの手を止めて鼻息も荒く訊き返してきた。 「あら? あなた小和田雅子さんのこと、何か知ってるの?」 「雅子さんではない。皇太子殿下の方だ」 「え!? あなた浩宮様と何か関係あるの?」 「うむ。実は今まで黙っていたが、深いふかあい関係があるのだ」 「へー、初耳! 何? なあに?」 「まあまあ、焦るでない」  ぼくはお茶をずびりと飲み、話す態勢を整えた。 「あれは確か小学校一年生か二年生の頃のことだ……」  当時ぼくの家は父親が働き盛りで、稼ぎも多く、ささやかながら贅沢《ぜいたく》をする余裕もあった。ぼくの父親というのは博打《ばくち》好きで、持っているお金は即座に使わないと気の済まない人だったので、後先も考えずに車を買ったり旅行をしたりしていたのである。  夏のある日、ぼくら一家四人は軽井沢へ出掛け、バンガローを借りて、身分不相応な避暑のひとときを過ごしていた。父親は上機嫌で、まだ幼いぼくと積極的に遊んでくれた。山道を散歩したり、森へ分け入って虫を採ったりした後、 「そうだ。ボートに乗ろう!」  てなことを言い出した。軽井沢には、冬はスケートリンクになる池があって、夏の間はここでボート遊びが楽しめたのである。もちろんぼくは賛成し、嬉々《きき》として父親の後に続いて手漕《てこ》ぎボートに乗り込んだ。岸を離れてしばらくは父親が漕いでいたが、その内に疲れてきたのか、 「お前、漕いでみるか?」  と言ってオールをぼくに手渡した。ぼくはそれを受け取り、生まれて初めてボートを漕いだ。もちろんまっすぐに進むことはできなかったが、父親にいいとこ見せようと思って必死で漕いだ。  その時、ちょうど池の真ん中あたりでジタバタ漕いでいたところ、舳先《へさき》の部分に不意の衝撃を感じて、ぼくはオールの手を止めた。振り返ってみると、別のボートがすぐそばで激しく揺れている。どうやら衝突してしまったらしい。そのボートにはぼくと同い年くらいの子供と、白髪の老人が乗っていて、老人の方は衝突の衝撃に驚いて中腰になり、 「あらららら……」  などと言いながら必死で体勢を整えようとしていた。子供の方はオールを持ったまま、静かな落ち着いた表情で老人の様子を見上げている。一方ぼくの父親は、どういうわけかハニワ顔をして二人の様子を見ていた。やがてボートの揺れがおさまった頃、白髪の老人はぼくらに向かって頭を下げ、 「どうも申し訳ございません」  と丁寧に謝ってきた。 「ここここここちらこそ、すみません」  父親も謝り返した。それに対し、オールを持っていた子供もちょこんと頭を下げて挨拶《あいさつ》をしてきた。四人の中で謝らなかったのは、ぼくだけである。  しばらくしてお互いのボートが十分な距離をとった頃になって、父親は不意に我にかえったような顔になり、 「おい、今の誰か分かるか?」  と尋ねてきた。ぼくが首を横に振ると、父親はこう言った。 「今の男の子はお前、浩宮様だぞ」 「ふうん」 「浩宮様だぞ!」 「ふうん」 「皇太子様のご長男だぞ!」 「へー」  ぼくが全然感動しないのが悔しかったらしく、父親は何度も浩宮様浩宮様浩宮様と連発した……。 「……な、というわけなのだ」 「なあにが、というわけなのだ、なのよ」  カミサンはぼくの話を聞き終えるなり、再び洗いものの手を動かし始めた。 「だから、そういう深い関係にあるのだ。コメントを取りにくればその時の経緯をじっくり話してやるのに!」 「どこが深い関係なのよ」 「だから俺と浩宮様はだな。ボートをぶつけあった仲なのだ。あの時俺がもう少し気をきかせて積極的に働きかけていれば、今頃ヒロちゃんムネちゃんと呼び合う仲になっていたやもしれぬ」 「あほらし」 「あ、お前、俺をケーベツしてるな。今の目は! お前は知らないだろうけどなあ、浩宮様というのは、ああ見えても実に気さくな人なのだぞ」 「はいはい」 「長岡の友達で、浩宮様とテニスをしたことがある奴の話、したっけ?」 「知らない」 「よしよし。話してやろう」  何年か前に聞いた話である。  友人の友人で、A君という人物がいる。この男がイギリスに滞在していた時のこと。詳しい経緯は定かではないが、英国留学中の浩宮様と偶然テニスコートで邂逅《かいこう》し、一、二ゲームお相手をつとめることになったらしい。A君はアガッてしまって、全然試合にならなかったらしいが、浩宮様は厭《いや》な顔ひとつせず、別れ際には、「とても楽しかったです。また日本でプレイしたいですね」と優しい言葉までかけてくれたそうだ。A君はいたく感激し、 「ええ、ぜひ」  などと答えてその場は別れた。しかしまあ日本へ帰って本当にお誘いがあるだろうなんて、期待できるはずはない。単なる社交辞令に過ぎないと、A君は解釈した。  ところが帰国してしばらく経った頃、浩宮様は本当にテニスの誘いの電話をかけてきたのである。電話がかかってきた時、A君は不在で、代わりに奥さんが応対した。しかし奥さんは相手が浩宮様だなんて夢にも思わなかったので、完全に友達ノリで喋《しやべ》ってしまったらしいのである。 「ご主人様はご在宅でしょうか」 「主人? 主人は会社ですけど。平日の昼間ですからねぇ!」 「あ、左様ですか。実はテニスをご一緒になさらないかなと思いまして……」 「テニス! またテニスなのォ! ったく、しょうがないわねえ」 「本日は何時頃ご帰宅でしょうか?」 「さあねぇ。いつもテキトーなんですよ本当に。ウチの馬鹿は」 「では機会をあらためまして、お電話差し上げます」 「あら、こっちからかけさせますよ。番号何番です?」 「いえ……それはちょっと」 「じゃ、電話があったことだけ伝えますね。どちら様?」 「はい。浩宮と申します」 「はいはい、ヒロミヤさんね。分かりましたあ! ガチャ」  てなことがあって、何も知らない無邪気な奥さんは、帰宅したA君と飯などもそもそ食いながら、 「そういえばあなた、今日ヒロミヤとかいう友達から電話あったわよ」  という話をし始めた。A君は不審そうに眉《まゆ》をひそめ、 「ヒロミヤ? 誰それ?」 「あたし知らないわよ。またテニスするんでしょう。まったくもうテニスばっかりなんだから」 「テニス……? ヒロミヤ……?」 「たまには買物にでも連れてってよ!」 「テニス……ヒロミヤ……おいおいッ! それ、ヒロミヤじゃなくてヒロノミヤだ!」 「誰よ?」 「だから皇太子殿下の浩宮様だよ! 前に一度イギリスで一緒にプレイしたって、話しただろう!」 「しぇー!」  この時、奥さんが背骨も折れるほどのけぞったことは想像にかたくない。さぞ大量の冷汗をかいたことであろう。  五 さようなら、まあちゃん  本当にそれは突然だった。  二月にしてはほんのりと暖かい、よく晴れた日の午後。ぼくは仕事場へ向かう前に近所のガソリンスタンドに寄って、車を洗車機に入れた。スタンドマンに訊《き》くと、二十分ほど時間がかかると言う。 「じゃあ、ちょっと近所をぶらぶらしてきますんで」  そう言い残して、ぼくはガソリンスタンドを後にした。すぐ近くに、佳苗の通っている幼稚園があるので、そこへ行ってみようと思ったのである。五分ほど前に、彼女を迎えに行くカミサンと別れたばかりなので、今なら佳苗の顔が見られるはずだった。  行ってみると、案の定幼稚園の玄関先にはお母さん方が大勢たむろして、雑談を交わしながら子供が出てくるのを待っていた。ぼくのカミサンと直弥もその中にいて、何が可笑《おか》しいのか二人とも大口を開けて楽しそうに笑っている。背後から声をかけると、びっくりした顔で、 「何にしに来たの?」  と言われてしまった。 「何って、佳苗の様子を見にさ」  そう言ってぼくは園舎を回り込み、窓硝子越しに教室の中を覗《のぞ》き込んだ。ちょうど「さようなら」の挨拶《あいさつ》をする直前で、若い保母さんが園児たちを前に何やら注意を与えていた。佳苗は大勢のお友達に囲まれて、神妙な顔をして聞き入っている。リボンのつもりなのか、赤いハリガネ状のものをぼよよーんと折り曲げて作ったものを、頭のてっぺんにくっつけている。 「可愛《かわい》いなあ……」  我ながら親馬鹿だが、そんなことを呟《つぶや》きながら玄関口へ戻り、カミサンと無駄話をしているところへ、佳苗が出てきた。ぼくが迎えに来たことが驚きだったらしく、不思議そうな顔をしている。 「佳苗ちゃんはねえ、これからお友達の家へ遊びに行くのよね」  カミサンがそう説明し、佳苗はうなずいて見せた。  ぼくら家族四人は一塊になって、幼稚園の玄関から門のところまで歩き、そこで手を振って別れた。佳苗はお友達と一緒に歓声を上げながら駆け出し、直弥はカミサンの自転車に跨《また》がり、ぼくはその場にしばらく立ち止まって彼女たちの後姿を見送った。周囲には背の高い常緑樹が整然と植えられていて、緑の匂いがした。見上げると空はクレヨンの空色をしていて、そこに置き去りにされたような雲がいくつも浮かんでいる。日差しは、眠たくなるほど暖かかった。いい日だなあ、とぼくは独言を漏らした。そして空を見上げながらガソリンスタンドへ戻り、洗いたての車に乗って、仕事場へ向かった……。  そういう穏やかな、幸福な二月の午下がりに猫のまあちゃんは逝ってしまった。  仕事場について、五分もしない内に電話が鳴った。出てみると相手はカミサンで、何を喋《しやべ》っているのか分からないほど極度に興奮していた。 「まあちゃんが、まあちゃんが死んじゃったの。まあちゃんが……」  彼女は電話口の向こうで、何度も何度もまあちゃんの名を口にした。それから嗚咽《おえつ》を漏らし、ひとしきり泣いた。ぼくは受話器を握りしめたまま、何も言わずに待った。やがてカミサンは涙声で説明し始めた。 「ご近所の方から電話があって、Mさんちの裏の細い通りで猫が倒れてたって言うの。お宅のまあちゃんじゃないかって。私、そんなはずないと思ったんだけど、一応行ってみたの。そしたら本当にまあちゃんだったの。私、どうしたらいいの」 「事故か?」 「分からないの。外傷はないのよ。Mさんが見つけた時はまだ生きてて、ぶるぶる痙攣《けいれん》してたんですって。私が行ったら、Mさんがまあちゃんのこと抱いてて……たった今死んだところだよって」  カミサンはそこで言葉を切り、また激しく泣いた。ぼくは頭の中が空っぽで、何も言葉をかけてやれなかった。 「今ね、まあちゃんのこと抱いてるんだけど、みるみる冷たくなっていくの。寝てるみたいな顔してるのに。どうしたらいいの。どうしたらいいの」 「佳苗は?」 「まだお友達の所。もう少ししたら迎えに行かなきゃならないんだけど、私行けない。あの子に何て説明したらいいの」 「……君がうろたえちゃいけない。ちゃんと説明して、まあちゃんを見せてやりなさい。それから一緒に泣きなさい」  ぼくはできるだけ落ち着いた声で言い聞かせ、帰りは遅くなるけどとにかくお前がうろたえるなと付け加えて、受話器を置いた。奇妙な気分だった。哀しさよりも先に、虚しさがぼくを襲った。カミサンのように涙が溢《あふ》れるわけではなく、ただ胸のどこかにぽっかり穴があいたような具合だった。  猫のまあちゃんが家に来たのは、八月の暑い日だった。カミサンと子供たちが近所のバス停でバスを待っているところへ、工員服を着た若い男が子猫を抱いて現れ、 「ほら、可愛いだろ?」  と声をかけてきたのだそうだ。子供たちは動物好きだから、すぐに貸して貸してとせがんで抱かしてもらった。するとその工員服の男はカミサンにこう言った。 「ウチの工場へいっつも餌をあさりに来る猫なんだけどね、困ってるんですよ。できればもらってくれませんか?」  カミサンは一旦は断ったが、無理やり押しつけられるような形で受け取ってしまったのだと言う。仕事場から帰宅したぼくは、カミサンの腕に抱かれた茶色い子猫をいきなり見せられ、少々困惑した。佳苗も直弥もアトピーの気があるので、犬猫が好ましくないことはカミサンも分かっているはずだった。 「でも飼うわ。ねえ、いいでしょう。きっと大丈夫よ」  カミサンはそう言って、茶色い子猫をぼくに手渡した。ぼくの片手に載るほど小さくて、あどけなくて、可愛らしい声で啼《な》く猫だった。猫というのは——特に子猫は、一旦抱いてしまうと手放すのが難しい。いつまででも抱いていたくなってしまう。 「名前はねぇ、まあちゃんって言うの。佳苗ちゃんがつけたのよ」 「どうしてまあちゃんなんだ?」 「私も同じこと訊いてみたんだけど、どうしてもそうなんだって。まあちゃんっていう感じだから、なんだって」  ぼくらは笑った。そしてその茶色い可愛らしい子猫を飼うことにした。  まあちゃんは小さな体に似合わず、驚くほどの大食漢だった。一日に五回でも六回でも食事をねだる。その上、ぼくらが食事をしていると足元へ寄ってきて、少し分けてくれと言わんばかりにニャアと啼く。小さな肉でも放ってやれば、誰かに取られまいとして慌てて駆け寄り、実に幸福そうにがつがつ食べる。驚くべき食欲だった。  おかげでまあちゃんはみるみる大きくなっていった。しかし愛嬌《あいきよう》のよさは子猫の時のままで、子供たちがいくら手足を引っ張ったりしても、滅多なことでは怒らなかった。ただ迷惑そうな顔をして、 「こいつらはヨー。早く大人になれよナー」  とでも言いたげに、ニャアと啼くばかりである。本当に気のいい猫だった。  それからまあちゃんは近所を散歩するのが大好きだった。雄猫だからテリトリーを広げるために外へ出たがったのか、あるいは早くも恋人でもできたのか、ぼくらが玄関の扉を開けると、遠くから走ってきてするりと外へ逃げ出してしまう。しかし決して遠くへは行かず、近所を流して歩くだけである。  亡くなる四日ほど前に八ヶ岳へ連れていって、雪の残る山道を一緒に散歩した時のことが忘れられない。まあちゃんは果敢にも、ぼくらの長い散歩に付き合ったのである。アイスバーンになった道を、珍しそうに、こわごわ眺めたり、道端の樹に素早く登ったりしながら、まあちゃんは一時間近くぼくらの後を一生懸命ついてきた。  あんなに健気で、元気なまあちゃんが死んでしまうなんて。ぼくにはなかなか信じられなかった。だから哀しさよりも先に、虚しさを感じてしまったのだ。  その夜、ぼくは芝居の打ち合わせがあって午前二時過ぎに帰宅した。正直言って気が重かった。まあちゃんの骸《むくろ》は、まだ家のどこかに安置してあるはずだった。  まず自分の部屋へ行き、服を脱ぎかけたところへ、二階からカミサンが下りてきた。目が真っ赤で、顔がひどく腫《は》れていた。ずうっと泣き通しだったのだろう。ぼくの顔を見ると、彼女はまた泣き出した。 「私のせいよ。私のせいでまあちゃんは死んじゃったんだわ」  カミサンは、自分がまあちゃんに色々と辛く当たったことをしきりに悔やんだ。あんまり煩《うるさ》く食事をねだるので、叱《しか》ってばかりいたこと。夜寝る時、まあちゃんの毛が直弥のゼンソクに悪いからといって、寒いのにベランダへ出していたこと。自分の気分にまかせて、可愛がってみたり叩《たた》いたり、色々と理不尽をしたこと。そんなことを彼女は言い募り、激しく泣いた。 「見てやって、まあちゃんのこと」  カミサンはやがてそう言って、ぼくをリビングの方へといざなった。ぼくは覚悟を決めて彼女の後へ従った。  まあちゃんはリビングの扉の手前に置いてある小さなダンボール箱の中に、丸くなっていた。見た瞬間、眠っているだけのように思えた。いつも通りの、しなやかな寝姿だった。愛用のピンクの毛布を敷いて、周囲には佳苗が入れたのだろう、花や猫用ミルクの缶やビスケットが入れてあった。大好きな食物に囲まれて、まあちゃんは幸福そうな寝顔をしていた。 「眠ってるみたいだ……」  そう言いながら、背中に触れてみると、茶色い毛はまだしなやかさを保っていた。ただその体は、嘘《うそ》みたいに硬くなっていた。その手触りを感じた瞬間、ぼくの胸は石のようになった。本当に逝ってしまったんだ——そう思った。 「猫はね、その家の誰かの身代わりに死ぬって言われてるのよね。きっと直弥か佳苗に悪いことが起きるはずだったんだわ。まあちゃんはそれを知ってて、代わりに死んでくれたのよ」  カミサンはやや落ち着きを取り戻して、そう言った。 「神様の猫になったんだなあ。まあちゃん可愛いから、神様が早く自分のものにしたがったんだよ」  ぼくはそんなことを言って、カミサンを慰めた。  ぼくらはそうやってまあちゃんの骸のそばに一時間近くも座っていた。不思議なことに涙は出なかった。カミサンがぼくの代わりに沢山泣いて、ますます目を腫らし、ふらふらした足取りで寝室へ帰っていった。  ところが二時間ほど仕事をして、明け方に寝床へ入ったところ、ぼくは猛烈な哀しさに襲われた。もうあの猫はいない。二度と一緒に散歩することもできない。二度と肉を放ってやることも、抱いてやることも、しっぽを掴《つか》んでからかってやることもできない——そう思ったら、涙が零《こぼ》れてきた。一日、自分でも気づかないまま堪えていた涙が、一気に溢れ出して枕を濡《ぬ》らした。  まあちゃん、神様にせがんで沢山ごはんを頂きなさい。それから、調子に乗ってあまり遠くまで行かないように。ぼくもカミサンも、しばらくしたらそばに行くから、そうしたらまたきっと君を飼ってあげる。一緒に散歩をしよう。ごはんもぼくらと同じものを、好きなだけあげよう。約束するよ。  六 朝の風景 「ニューヨークの朝はコーヒーで始まる」  このフレーズを耳にしてピンとくる人は、おそらく三十歳以上の年齢かと思う。現在三十四歳のぼくは、もちろんピンとくる。何のフレーズかというと、これは大昔のネスカフェのCMコピーである。  はっきりした時期はうろ覚えで上手《うま》く思い出せないが、小学校の高学年か中学の頃だったと思う。テレビ朝日の日曜洋画劇場(淀川さんのサイナラ、サイナラ、サイナラというやつだ)を観ていると、必ずネスカフェのCMが流れ、このフレーズが耳に飛び込んできた。 「ニューヨークの朝はコーヒーで始まる」  画面には言葉通り、ニューヨークの朝の風景が映し出される。爽《さわ》やかな朝の日差し。林立する摩天楼。それらを見下ろす大きな窓のあるオフィスで、溜息《ためいき》が出るほどカッチョいいアメリカ人のビジネスマンとその秘書らしきとびきりの美女が、美味しそうにコーヒーを飲んでいる……。  このCMを目にするたびに、ぼくはあんぐりと口を開けて、 「何というカッチョいい世界なのだッ」  と感心することしきりであった。絵に描いたような美男美女。ぴかぴかのオフィス。窓の外には摩天楼。爽やかな朝の日差しの中で飲むコーヒー。ニューヨークっていいなあ、どうして俺《おれ》はアメリカ人に生まれなかったのだろう。ちぇっちぇっ。と、舌打ちを何発も漏らしたものである。  このCMのおかげで、少年原田の頭の中には�ニューヨーク=コーヒー=カッチョよろしい�という図式がぱんぱかぱーんと確立された。当時のぼくにとっては、これが究極のカッチョいいシチュエーションだったのである。 「大人になったら絶対にニューヨークへ行って、朝のコーヒーをぐいぐい飲むのだ。何しろニューヨークの朝はコーヒーがなければ始まらんのだからなッ」  少年原田は拳《こぶし》を固め、山に向かって(山なかったけど)誓うのであった。もちろん誓いを立てるだけでなく、将来へ向けての予行演習として、 「小平市学園西町三丁目の朝もコーヒーで始まる」  てなことを悦に入って呟《つぶや》きながら、ネスカフェを飲んだ。まだ子供だったから、ちっとも美味しいとは感じなかったが、これは大人になるための試練だッと自分に言いきかせながら、無理やり飲んだ。母親はさぞ驚いたことであろう。昨日までゴハンに味噌汁《みそしる》、卵焼きなんかを食べて水を飲んでいた息子が、唐突に、 「マザー、コーヒーを入れてくれ。シュガーも忘れるんじゃねぇぜ」  などとほざき、すっかりアメリカ人気取りでコーヒーカップ片手に縁側へ出て、まぶしげな顔でニワトコの木なんか眺めたりし始めたのだから、母親としては、 「頭にギョー虫でもわいたのかしら」  と心配するのも無理ない話である。しかしぼくの方は、母親の心配をよそに、すっかりその世界に浸り切っていた。慣れてくると、砂糖とミルク入りコーヒーの味もなかなかオツなものとして感じられるようになり、 「これで一歩、ニューヨークに近づいたわけだッ!」  などと拳を固め、海に向かって(海なかったけど)誓いを新たにした。しかしながら、誰でもそうだろうけど少年少女時代の夢というのはなかなか叶《かな》わない。三十四歳になった現在でも、ぼくはまだニューヨークへ行ったことがないし、摩天楼を眺めながらコーヒーを飲んだ経験もない。今後、もしニューヨークを訪れる機会を得たら、必ずや早起きしてコーヒーを飲みながら、 「ニューヨークの朝はやはりコーヒーで始まった!」  と呟いてみたいと思う。  さて少年時代のぼくが抱いていた究極のカッチョいい朝のシチュエーションは、只今述べた通りの世界だったが、現実にはどうなっておるのか。その大きな隔たりをここに紹介してみたい。  現在のぼくのタイムテーブルというのは、普通の人と比べると六時間くらい大幅にズレている。まず、起床時間は正午から午後一時の間。起きたら昼飯(ぼくにとっては朝飯)を食べ、二時くらいに渋谷の仕事場へ行く。取材を受けたり、エッセイを書いたりして夜の七時になる。空きっ腹を抱えて帰宅し、八時または九時に夕食をとる。子供たちと一、二時間遊んだ後、テレビのニュースを観たり雑誌を読んだりする。午後十一時か午前零時くらいから机に向かい、朝の六時まで小説を書き、倒れるように眠る。これが基本的なぼくのタイムテーブルである。明らかに六時間ズレていることが、よく分かるだろう。おかげでここ数年は、朝の爽やかな日差しとか小鳥たちの囀《さえず》りとか出勤風景なんかとは、まったく無縁の暮らしを送っている。  子供たちの目から見ると、父親の生活ぶりはかなり変わったものとして捉《とら》えられているらしい。特に五歳の佳苗にしてみれば、自分が起きる時も幼稚園から戻った時も、父親はグースカ眠っているわけだから、 「お父さんはいつも寝ている」  という感想を抱くのも不思議ではない。さぞグータラな父親に見えるだろう。それを思うと、ぼくとしても少々心が痛む。自分が一生懸命働いているところを、間近に見てもらいたいと思う。しかし商売柄、小説家というのは一生懸命働けば働くほど、何もしていないように見えてしまうので困りモノである。手元明かりひとつ灯した薄暗い部屋で、椅子《いす》に座って煙草を吸いながら、ぼんやりとワープロの画面を眺めている——それがぼくの一生懸命働いている姿なのである。 「どこが一生懸命なんだッ!」  と後頭部をどつかれても、反論のしようがない。凜々《りり》しく逞《たくま》しく、汗を飛び散らせながら懸命に働く爽やかな労働とは、対極に位置する……。懸命に働けば働くほど、陰気になっていくという厄介な職業なのである。ああ、ヤダヤダ。  閑話休題。朝の風景の話であった。  朝(といっても実際には昼だが)ぼくの目覚めは甚《はなは》だよろしくない。二十代の頃は、睡眠時間が四時間くらいでも、一旦目覚めてしまえばシャキッとしたものだが、最近はどうもそういう具合にいかない。慢性睡眠不足および慢性疲労および慢性頭バカ、という感じで、なかなかベッドを離れることができないのである。  一応正午過ぎに自然と目は覚めるものの、布団の中でいつまでもぐずぐずしている。誰しもそうだと思うが、この起床直前の�寝床でぐずぐず状態�というのは実にこう何ちゅうか心地の好いものである。特に冬、一月とか二月とかの寒い季節に於ける�寝床でぐずぐず状態�は至福のベストスリーにランキングされてもおかしくない。 「うー、外は寒そうだな。しっかっし! 布団の中はほーかほかのぶーにゃぶにゃ。あああ、いいなあ布団。俺、布団と結婚してもいい」  などとバカなことを呟きながら、あたたかい布団にくるまれている喜び。これ以上の幸福があるだろうか。  ところがぼくのこの至福のひとときを無残にも打ち砕く狼藉者《ろうぜきもの》がある。他ならぬ子供たちである。特にお姉ちゃんの佳苗には、ずいぶん小さい頃から泣かされた。知らぬ間にぼくの布団の上へポテトチップスのクズを撒《ま》かれたおかげで、朝起きたらすっかり頭がいも臭くなっていることもあった。ぐっすり眠っていたところ、いきなり腹の上へ、 「ジャーンプ!」  なあんて乗っかられて悶絶《もんぜつ》したこともあった。眠っている間に鼻の穴へ鉛筆を挿入されたこともあった。気をきかせて持ってきてくれた水を、眠っている顔の上へ零《こぼ》されたこともあった。  何をされてもぼくはなかなか起きない、という点が、子供の好奇心をそそるらしいのである。だから眠っている枕元へ来て、いろんなことをする。想像してもらいたい。少年時代のぼくの夢であった「ニューヨークの朝はコーヒーで始まる」の世界が演出するリッチでビューテホーでマイルドな朝の風景と、両方の鼻の穴へ鉛筆を挿入され、いも臭い頭をぼりぼり掻《か》きながら必死で眠り続ける現実の風景。あまりにもギャップが大きすぎて、泣きたくなる。  しかしまあ最近では佳苗も物の分かる年になってきたので、以前ほどの狼藉は働かなくなった。例によって正午過ぎに�寝床でぐずぐず状態�を楽しんでいると、幼稚園から帰ってきた佳苗の声が、階段に響く。カミサンに「お父さんを起こしておいで」と頼まれて寝室へ上がってくるのである。 「じゅうにじはん、じゅうにじはん、じゅうにじはん、じゅうにじはん……」  と彼女は呪文《じゆもん》のように呟きながら、階段を上がってくる。カミサンから現在時刻を告げられ、それをぼくに伝える前に忘れてしまわないよう、口ずさみながら来るのである。ほどなく扉が開き、佳苗はぼくの枕元へすっとんでくる。 「じゅうにじはんですよう! 起きてくださーい!」  大きな声でそう宣言し、まずぼくの掛け布団を勢いよく捲《まく》る。寒い朝などは、これが結構効く。今までぬくぬくのほかほかのぽにゃぽにゃだった気分が、いきなりガチガチのキリキリのシャキシャキな気分になってしまう。それでも我慢して身を丸め、 「ううーん……」  なんて唸《うな》っていると、佳苗は続いて枕元に置いてある眼鏡を手に取り、 「はい眼鏡。かけてかけて。起きて」  などと言いながら、無理にかけさせる。それから今度は足元へ回り、ぼくの足にスリッパを履かせる。それでもまだ起きないと、セーターを持ってきて、ぼくの体の線に沿うようにあてがってくる。ちょうど厚紙でできた着せ換え人形のような具合に、セーター、ズボンなどとあてがうのである。これでも起きないと、彼女はあきらめて寝室を出ていく。カミサンを呼びにいくのである。  そんな調子だから、はっと目覚めるとぼくはベッドの上でスリッパを履き、眼鏡をかけ、体の上へ洋服一式を載せていた、なあんてことがよくある。知らない人が見たら、何と思うであろうか。 「小説家って、やっぱへンよね。何もスリッパ履いて眠ることはないじゃないの」  と陰口を叩《たた》かれてしまうかもしれない。  佳苗だけでなく、二歳半の直弥が一緒に起こしにくると、状況はかなりの変化を見せる。佳苗の方はいつも通りのパターンでぼくを起こしにかかるが、直弥の方はそれをことごとく邪魔するのである。眼鏡をかけると、それを外そうとする。スリッパを履かせると、これも脱がせようとする。洋服を体の上へキチンと置けば、これまた目茶苦茶に散乱させようとする。 「もー、直ちゃんたらあ! 止めて!」 「ぼぐもー、ぼぐもー」 「止めてってば! 私が起こすんだから」 「ぼぐー、おこしゅー」 「あっち行って! 嫌い!」 「ぼぐー、めがにぇ、かけゆ!」  てな具合に、枕元で大騒ぎが始まる。まるで頭だけ日曜のディズニーランドへ行ったかのような騒がしさである。 「えーい、うるさいッ!」  とうとう我慢しきれなくなって、ぼくは起床する。決して爽やかとは言いかねる朝の風景である。  それにしても少年時代のぼくが、二十数年後の自分の起床状況を知ったら、何と思うであろうか。ニューヨークの朝はコーヒーで始まるはずだったのにィ……と、泣いてしまうかもしれんなあ。  七 水を笑う  先日ある雑誌の取材で、目黒にある寄生虫博物館という一風変わった博物館へ行った。日本、いや世界にひとつしかない珍しい博物館なのだそうである。ここの創設者であり現在の館長でもある亀谷博士に色々とお話をうかがったのだが、実に楽しいひとときであった。  亀谷博士は明治四十二年の生まれというから、かなりのご高齢でいらっしゃるのに、実に聡明で昔の話も鮮やかにお話しして下さった。博士が太平洋戦争の頃、満州にある満鉄の研究所に勤めていたという話を聞きながら、ぼくが思い出していたのは、父方の祖父のことである。  実はぼくの祖父も、太平洋戦争前から技師として満鉄に勤めていたのである。もともとは長野の人間であったが、青雲の志に燃えて満州へ渡ったのだという。そして大正十五年、ぼくの父が生まれた。だから父は、終戦を迎えるまで日本の土を踏んだことはなかったらしい。  生まれた地というものが、その人の人生にどれほどの影響を及ぼすのかはっきりとは分かりかねるけれど、少なくともぼくの父を見る限りでは、大陸生まれであることが後の人生にかなりの影響を与えているように思えてならない。父を見ていると、その背後に大陸の風景を感じることがしばしばある。簡単に言うと、大雑把で物怖《ものお》じしない。もちろんその性格は、いい方ばかりでなく、悪い方へも働いているのだが。  この大陸的な性格が無意識の内に働くためなのか、父はぼくが小さい時分から、一箇所に定住しようとしなかった。始終引越しを繰り返し、家族を翻弄《ほんろう》したものである。その父の後にくっついて、ぼくは小学校だけでも三回転校した。一番最初に入学したのが、国分寺第三小学校。二年生の半ばから四年生までが、新宿区の戸山小学校。五年生からは小平の第四小学校に通った。後者の二校については色々と思い出も多いのだが、最初に入学した国分寺第三小学校の頃の思い出は、極端に少ない。はっきりと覚えているのは、三つの思い出である。  ひとつは小学校一年生の時に湯たんぽ(若い人は知らないだろうなあ)で向こう脛《ずね》に火傷を負い、大きな火膨れを作ってしまったこと。母親お手製の、味噌《みそ》を練って作った薬を塗って包帯を巻き、いつも通り学校へ行ったところ、その包帯に目をつけたクラスの暴れん坊に、 「けんけん相撲をしようぜ」  と挑まれたのである。けんけん相撲というのは、土俵を作り、片足で相撲を取る遊びであった。怪我をしているからといって退くわけにもいかず、ぼくは果敢にも彼の挑戦を受けて立った。暴れん坊は最初からそのつもりでぼくの包帯を狙《ねら》い、空いた方の足で蹴《け》りを入れてきた。相撲の勝敗については忘れてしまったが、蹴られた拍子に火膨れが破れてしまい、足がひどく痛んだことははっきりと覚えている。その結果、現在もぼくの向こう脛には五百円玉くらいの火傷の痕《あと》がある。  もうひとつの思い出は、小学校二年生の春に、クラスの仲間内で�かっぱらい�という遊びが流行《はや》ったことである。早い話が万引きなのだが、まだ年端もいかない子供だったので、ほとんど罪悪感がなかった。スーパーマーケットへ行って、大人たちの目をごまかして菓子などをかすめ盗《と》る。別に菓子が欲しかったわけではなく、大人たちの目をごまかすスリルが面白かったのである。今考えるととんでもない話だが、ぼくらは鬼ごっこや缶蹴《かんけ》りをするのと同じ感覚で�かっぱらい�を楽しんでいた。  二ヵ月ほどして、この遊びには強烈な終止符が打たれた。仲間の一人が�かっぱらい�の現場を見咎《みとが》められてしまい、親たちの知るところとなったのである。ぼくの母というのは、普段は滅多に怒らない仏様のような人であったが、この時ばかりは魔女ゴーゴンのような勢いで怒りまくった。腰紐《こしひも》でぼくを柱に縛りつけ、ハタキの柄で容赦なく折檻《せつかん》したのである。 「お前のような悪い子は、警察に引き渡して牢屋《ろうや》に入ってもらうしかない!」  そう言って母は警察へ電話をかけるふりをした。そして五分もしない内に、偶然にも遠くからパトカーのサイレンの音が響いてきたのである。この時の恐ろしさは、筆舌に尽くしがたいものがあった。ぼくは大声を上げてわめき、泣きまくり、 「人生一巻の終わりだー! うううッ、短い人生だったあ。とほほお」  と観念したものである。まあ、もちろん警察に引き渡されはしなかったが、この一件がもとで、ぼくの胸の中には、 「絶対に盗みを働いてはならぬ! じゃないとパトカーがウーウーだぞ。おおお、くわばらくわばら」  という概念がしっかりと根づいた。ここぞとばかりに思いっきり叱《しか》ってくれた母親に、今は感謝しなければなるまい。  あーあ、ずいぶん長い前置きになってしまったが、ここからがようやく本題。三つめの思い出——これは小学校のプールである。国分寺第三小学校には、校庭の隅っこにまだ新しい二十五メートルプールがあった。ここでぼくは、生まれて初めて自分一人の力で泳いだのである。  小学校一年生の夏。初めてのプール実習の時のことである。ぼくは友達とふざけてプールの中ではしゃぎ回り、その際にふと、悪戯《いたずら》のつもりで仰向けになった。ぼくらの頭上には、十二色クレヨンの水色のような屈託のない青空が広がっていた。 「いい天気だなあ……」  と、ぼくは自分が水の中にいることも忘れて、しばらく青空に見入った。そして気がつくと水の上に浮いていたのである。そばにいた先生がそれを見て驚き、 「原田君原田君! そのまま足をバタバタやってごらん」  と素頓狂《すつとんきよう》な声を上げるので、ぼくは言う通りにした。すると自然に体が前(というか頭の方向ですね)へ進み、苦もなく泳げちゃったのである。周囲にいた友達が、口々に「すげえ」と声を上げたので、ぼくは鼻ターカダカーであった。まるで自分が巨大な戦艦と化して、水の上を悠々と滑っているような錯覚に囚われた。 「ふっふっふ。ぼくのことは今度から戦艦ハラダ丸と呼んでくれい」  などと友達に自慢して回り、顰蹙《ひんしゆく》をかったものである。  そんなふうにして、少年時代のぼくはごくスムースに泳ぎを覚えてしまったものだから、カナヅチの人の心情というのがなかなか理解できない。泳ぎなんて、息を吸って止めて仰向けになれば、誰にでもできると思ってしまうのである。  ところが現在、我が家の人間というのはぼくを除いて全員がカナヅチである。カミサンはまあ五メートルくらいなら泳げると言い張るのだが、ぼくに言わせればそんなものカナヅチに毛が生えた程度のもの(書いてみて思ったが、毛の生えたカナヅチというのはなかなか気持悪いなあ。握れんぞ)である。五歳の佳苗も、二歳半の直弥も、当然泳ぐことはできない。ついでにぼくの母親もカナヅチである。 「うー、情けない奴らだ!」  業を煮やしたぼくが、家族を連れて小淵沢にあるリゾナーレというホテルのプールへ行ったのは、昨年の夏のことである。このホテルは八ヶ岳のぼくの山荘から車で十五分ほどの位置にオープンしたばかりであった。プールにはご丁寧に「イルマーレ」という名前までついていて、なかなかお洒落《しやれ》な造りになっている。波の出るプールの他に、クロレラ入りのジャグジーバスやサウナなんかもあって、結構楽しい。 「さあさあお前たち、恐れずにがっぱがっぱと泳ぐのだ!」  水着に着替えた子供たちを急《せ》かして、早速プールに入れてみるが、最初はどうも要領を得ない様子である。お姉ちゃんの佳苗の方は、おそるおそるながらも浮き輪にしっかり掴《つか》まって水の中へ入ったが、下の直弥は怖がってどうしても水に入ろうとしない。無理に入れようとすると、カミサンにしがみついて今にも泣き出しそうな顔をする。 「それでも男かッ!」  と叱咤《しつた》しても、まだ言葉が曖昧《あいまい》にしか通じないので、何の効果もない。ふと見ると、直弥は長坂という田舎町のスーパーで買った青い海パンを穿《は》いていて、横っちょに�サーフ・マインド�なあんて刺繍《ししゆう》がしてあるのだが、 「その脅えた顔のどこがサーフ・マインドなんじゃい!」  と怒りたくなってくる。抱き上げて、無理やり水へ入ろうとしたら、とうとう泣き出してしまった。  仕方ないので直弥の方はカミサンに任せ、佳苗の面倒をみることにした。一緒に水に入り、浮き輪をひっぱってやったりすると、楽しそうにキャッキャッと笑う。なかなかいい調子である。 「よおし。じゃあ今度は水に顔をつけてごらん」  頃合を見計らってそう言ってみたところ、佳苗は困惑した表情を呈し、 「えー、何で?」  と訊《たず》ね返してくる。 「何でもいいから、顔をつけてごらん」 「えー、でもー。そんなことしたら顔が濡《ぬ》れちゃうよう」 「濡れてもよいのだ」 「じゃ、タオル持ってきて」 「どうして?」 「濡れたらすぐ拭《ふ》きたいから」 「それじゃあ何にもならん。濡れたら濡れっぱなしでよいのだ。プールとはそういうものなのだ!」 「やだよう! やだよう!」 「えーい。面倒みきれん!」  そんな調子で、結局佳苗は水に顔をつけようとはしなかった。仕方がないので、今度はカミサンのスイミングコーチを務めるべく、子供たちをプールサイドへ座らせて、カミサンを水の中へ入れる。 「さあ、五メートルは泳げるんだろ。泳いでみろ」 「うーん。自信ないわあ」 「いいから泳げ」 「じゃ、ちょっとだけね。笑わないでよ」 「笑わん笑わん」  カミサンはぼくの勧めに従って、いっせーのせーで泳ぎ始めた。しかしその様子を見たとたん、ぼくは笑ってしまった。一応クロールのつもりらしいのだが、どうやったらそんなに水シブキが上がるのだ、と問いただしたいほどの勢いなのである。泳いでいると言うよりも、喘《あえ》いでいると言った方が適切で、手の施しようもない。溺《おぼ》れ泳ぎ、とでも命名したい有様である。やがてカミサンは三メートルほど泳いだ(溺れた)地点で、 「がはーッ! がはがはがは」  と荒々しい息を吐きながら顔を上げた。ぼくは大笑いしながら、 「お前なー、溺れてんのか泳いでんのかはっきりしろ。迷惑だ」 「何よう。笑わないって言ったくせに」 「お前、オリンピックに水シブキ競技というのがあったら、金メダルが取れるぞ。うははははッ!」 「何よう!」  この会話が夫婦喧嘩に発展したのは言うまでもないことだが、とにかくカミサンが三メートルしか泳げないことははっきりした。ぼくに思いっきり笑われたのが余程悔しかったのか、彼女は今年から自宅近くのスポーツクラブの水泳教室に通っている。子供たちもこの春から、幼児水泳教室というのに入って、日々精進を重ねている。  彼女らのカナヅチが一日も早く木ヅチになることを願って止まないぞ実際。  八 ナオちゃん語録  育児書をくわしく読んだわけではないからあまり偉そうなことは言えないのだが、どうやら子供には�肛門《こうもん》期�と呼ばれる時期があるらしい。 「ヘンな名前の時期だなー」  と思われるかもしれないが、これは別にぼくが付けた名前ではない。偉い児童心理学の先生方が名付けたのである。この時期、子供はどういうふうになるのかというと、早い話が下世話になるのである。ビロウ好きになると言ってもいい。ようするに好んで、肛門周辺の出来事にこだわるようになるのである。よく子供が動物園へ行った時などに、動物自体よりもその排泄物《はいせつぶつ》を見つけたことに喜びを覚えたり、あるいは風呂へ入る時などに生殖器に異常なまでの興味を示したりする、あれである。  大人たちはそういう子供たちに対して、大いに照れたり、あからさまに不快感を示したりするわけだが、まあこれは自然の摂理のなせるわざなのだから、いくら叱《しか》っても仕方がない。特に親としては、肛門期を迎えた子供を前にして、鷹揚《おうよう》に対処するしかないであろう。  と、頭では分かっているのだが、さすがに公共の場所で子供が肛門期の特色をことさらに披露すると、いたたまれない気持になる。恥ずかしくて、思わず子供の口にさるぐつわを嵌《は》めたくなっちゃうのである。  かく言うぼく自身の息子、ナオちゃん(二歳半)も現在この肛門期にあるらしく、覚えたての言葉を駆使して、ことさらにビロウな話題を展開しがちである。まあ家の中にいる間はこちらも鷹揚に構え、 「やだなあ、そんなこと言ってえー」  などとやんわり注意する程度にとどめているのだが、人込みの中で唐突に肛門関係の単語を連発されると、これはさすがに恥ずかしくて顔色が変わってしまう。  つい先日もこんなことがあった。  八ヶ岳の山荘から車で十五分ほどのところに、えほん村という可愛《かわい》らしい施設がある。日本はもとより世界各国の絵本を集め、自由に閲覧できる図書室を中心に、手作りの人形や小物などを売るコーナー、�おさんじのいえ�という名前の喫茶室、それから最近できたばかりの人形劇の劇場などで構成される、小さいけれどもなかなか充実した施設である。ぼくら家族は以前からここのファンで、二年ほど前に村民となった。村民になるためには別に難しい審査が必要なわけではなく、ただ年間の村民料をおさめるだけである。  このえほん村で、五月の連休に仮装大会が催されるとの話を聞いて、ぼくらはいろめき立った。昨年は忙しくて参加できなかったのだが、今年こそはッと拳《こぶし》を固めたのである。早速カミサンと相談して、一家で「不思議の国のアリス」の登場人物の仮装をすることにした。  お姉ちゃんの佳苗は当然アリス。もと洋裁師だったぼくの母親の手を借りて、青いドレスに白いエプロンを作ってもらい、髪の毛もスプレー(洗髪すれば色落ちするという優れモノの着色料があるのだ)で金髪に染めることにした。ナオちゃんは、アリスを翻弄《ほんろう》する時計を持ったウサギに仮装させた。白のトレーナーと半ズボンに白いタイツをはかせ、頭にはウサギの耳をつけた体操帽を被《かぶ》らせて、ボール紙製の大きな時計を首から下げて一丁上がり、である。カミサンは花の精。緑色のサマーセーターに色紙で作った花をいっぱいくっつけ、緑色のタイツをはいて、ドぎつい化粧でバシッと決めた。本人はそれなりに気に入っていたらしいが、傍から見たら相当ヘンな人であった。しんがりに控えたぼくは、トランプの兵隊。大きなダンボール紙を二枚用意してくっつけ、真ん中に穴を開けて、頭から被るようにする。つまりサンドイッチマン状態である。ダンボール紙の表面には、当然トランプの柄を描く。白のスウェットスーツを着て、このトランプ柄ダンボール紙をエイヤッと被り、槍《やり》などを持てば、トランプの兵隊のでき上がりである。  仮装の衣装を作っている最中は、それなりに夢中だったから楽しかったのだが、いざ四人でこれを着て車に乗り込むと、 「もしかして俺たちって、相当バカな家族なのでは……?」  という羞恥心《しゆうちしん》が芽生えてきて、オウチに帰りたくなってしまった。しかしせっかく手間暇をかけてここまで衣装を作ったのだから、今さら参加を断念するのも悔しい。この格好でオウチの中だけに閉じ籠《こも》り、夕食をもそもそ食ったりするだけなんて、却《かえ》ってバカみたいではないか。  そこでぼくらは破滅的な勇気をもって、この格好でえほん村へと突入した。仮装大会とは言っても、訪れるお客さんで仮装をしているのは、ぼくらくらいのものである。ただえほん村のスタッフの人たちは、かなり意匠をこらした仮装をしていたので、ぼくら家族ばかりが目立つことはなかった。 「よおし、ねり歩くぞ!」  しばらくえほん村の内外をこそこそと移動している内に、段々その気になってきたぼくらは、調子に乗ってそこらじゅうを四人でねり歩き始めた。近隣から訪れていたお客さんたちが好奇の目を向け、 「おおッ、気合入っとるな」 「やりましたねえ」 「わあお! アリスとウサギだ!」 「花の精は何だかワケ分からんぞ!」 「トランプの兵隊だ! 触ってもいい! その槍貸して!」  なあんて声をかけてくるので、ぼくらはまんざらでもない気分であった。  そうこうする内、えほん村の村長さんが気を遣ってくれて、ぼくら四人を人形劇の劇場へ案内してくれた。本当は切符を買わなきゃいけないし、満員だから次の回まで待たなくてはいけないところを、無理やり送り込んでくれたのである。  劇場の中は子供たちの熱気でむんむんしていた。客席には百人近い観客が立ったり座ったりしていて、まさに立錐《りつすい》の余地もない。そこへぼくらアリス軍団は攻め込んでいき、どうにかこうにか場所を確保した。舞台ではちょうど「大きなカブ」という人形劇が幕を開けたところである。  ぼくはこの出し物を最後まで見た後、あまりの熱気に閉口して一人だけ先に表へ出た。ベンチに座ってやきそばなど食べているところへ、ウサギの格好をしたナオちゃんがちょこまかやって来て、ぼくの顔を見るなり楽しそうにこう言った。 「ねーねー。はぢまりはぢまり、ちんちんプルプルー!」  口にするなりナオちゃんは大口を開けて、わははははーッと笑った。いったいぜんたい何のことを言っているのか、ぼくにはさっぱり分からない。 「あ? 何だい?」 「ちんちんプルプルー! あはははは!」 「ちんちん? プルプル?」  首をかしげているところへ、花の精の格好をしたカミサンが遅れてやって来て、ナオちゃんの台詞を聞くなり爆笑した。 「今ねえ、人形劇の後に魔女の格好した人が出てきて、こう言ったのよ。『さあ、これから面白いお話が始まりますよう。始まり始まりちちんぷいぷい!』って。ナオちゃんたら急に喜んじゃって、大声で『はぢまりはぢまり、ちんちんプルプルー!』なんて言い出すもんだから、私恥ずかしくて出てきちゃったのよ」  ようするにナオちゃんの頭の中では�ちちんぷいぷい�という言葉が、肛門期回路を通ってヘンなふうに増幅され�ちんちんプルプル�に聞こえたらしいのである。何もそんなふうに歪《ゆが》めなくてもと思うのだが、一旦《いつたん》そういうふうに思い込んでしまったナオちゃんは、この台詞がいたく気に入ったらしく、んもうその辺にいる誰彼を捕まえては、 「はぢまりはぢまり、ちんちんプルプルー! あはははは!」  と連発している。連発するだけならまだしも、しばらくするとこの台詞を口にしながら自らのちんちんをプルプルさせるポーズを取るようになった。これは恥ずかしい。親として、家で子供に何を教えているのかと疑われてしまうではないか。 「原田さんて普段はおとなしそうな顔してるけど、家へ帰ったらちんちんプルプルさせてるのよ。ヤだわー」  なあんて思われたら、ぼくの栄光の作家人生に取り返しのつかぬ傷がついてしまうではないか。だから頼む、頼むからその台詞だけは公の場で口にしないでくれい。と、何度も重ねて言いきかせたのだが、相手は二歳半の肛門期幼児なので、一向に言うことをきいてくれない。  結局ナオちゃんは、仮装大会から一ヵ月を経過した今でも、相変わらず「はぢまりはぢまり、ちんちんプルプルー」と大声で叫んではバカ笑いをしている。まことに困ったことである。  ナオちゃんのこの言動に触発されてか、既に肛門期は通りすぎているはずの佳苗までが、ヘンなことを言い出すようになった。先日も一緒にお風呂へ入って、上がり際に水のシャワーを浴びさせたところ、 「ねーねー、どうしてお風呂から上がる前に水を浴びるの?」 「んー、それはねえ、君とナオちゃんは二人ともアトピーでしょう。だからこうやって水を浴びて、新陳代謝を高めて肌を強くするわけだよ」 「えー! ちんちん体操!!」 「違う違う。しんちんたいしゃ、だよ」 「わーいわーい、ちんちん体操だあ!」  などと言い出した。すぐ隣で体を拭《ぬぐ》っていたナオちゃんも、これにすぐ呼応し、キャッキャッと笑いながら、 「ちんちんたいそー!」  などと声高に言い放ちながら、ちんちんに体操をさせる始末である。どうしてそこへ話を持っていくのッ、と頭を抱えたくなってしまう。  肛門期とは直接関係ないと思うが、特にナオちゃんは言葉を覚え始めたばかりなので、話を聞いていると色々と激しい勘違いがあっておもしろい。例えば歌ひとつ取ってみても、結構笑える。 「迷子の迷子の子猫ちゃん、あなたのオウチはどこですかー!!」  という歌も、ナオちゃんが歌うとものすごくヘンなことになる。 「まーごのまーごのこねこたんー、あーたのおーちはどーですかー(中略)えーのーのーおままりさん、こってしってわんわんわわんわんわんわわん!!」  という具合である。�犬�が�えの�になってしまうあたり、なかなかシュールで、もしかしたら�えの�という生物がこの世に存在するのではないかという錯覚すら抱かせる。�おままりさん�という単語も、何だかふざけんぼで滑稽なおまわりさんの姿を想像させて楽しい。  ここに紹介し切れないのが残念だが、ナオちゃんはこの他にもヘンな勘違いをいっぱいして、ぼくらを毎日笑わせてくれている。ありがたいことである。  九 遊びの時間  ある日曜日。  家族を連れてデパートへ買物に出かけたところ、例によって子供たちが、 「オモチャ売場! オモチャ売場へ行きたいんだよう!」  と騒ぎ始めた。彼らの頭の中では、デパート=オモチャ売場という図式が成立しているらしい。デパートへ行ったのにオモチャ売場へ寄らないなんて、彼らの常識では考えられないことなのである。混んでいたし、早く帰って書かなくちゃならない原稿もあったのだが、二人の子供の大攻勢にあってぼくはたじたじとなり、結局オモチャ売場へと足を運ぶことになった。  オモチャ売場のフロアに着くと、子供たちは目の色を変え、物も言わずにオモチャの棚へと突進していった。スポンサーである親のことなんて、お構いなしである。ぼくは子供の様子に横目で注意を払いつつ、その辺の棚を観察することにした。  それにしてもオモチャもずいぶんと様変わりしたものである。ざっと見た印象では、やはりキャラクター・グッズが多くの棚を占めている。アンパンマンだのミッキーだのしんのすけだのセーラームーンだのミンキーモモだのと、ほとんどのオモチャは何らかのテレビアニメや漫画、映画などのキャラクターが絡んでいる。  ぼくはセーラームーンの変身セットとかいうものを手に取って眺めながら、うーむと唸《うな》った。セットの中にはいかにもニセ物でございといったイヤリングや髪留めなどが、ごちゃごちゃッと入っている。 「こんなものを手に入れて、本当に面白いのだろうか……」  と我が子らの顔を見ながら、つくづく考えてしまった。内容は子供騙《だま》しのちゃちいものなのに、値段の方は一人前である。この値段に見合うような遊び方を、果たして子供たちはしてくれるのだろうかと、疑問を覚えたのである。と同時に、ぼく自身は子供の頃にどんなオモチャを愛していたのか、ということも思い返してみた。  考えてみれば、いわゆるキャラクター・グッズというものが出回り始めたのは、ぼくが小学生の頃であった。当時のキャラクター・グッズは、とにもかくにもまずプラモデルから始まる、というのが基本であったように思う。文房具だのお菓子だのに波及することももちろんあったが、キャラクター・グッズ化の第一歩はプラモデルであったように記憶している。  ぼくが小学校低学年の頃の人気キャラクターといえば、ゴジラ、ウルトラマン、おそ松くん、オバケのQ太郎、鉄人28号、伊賀の影丸、サイボーグ009といったところだろうか。これら漫画やテレビアニメ、映画から飛び出したキャラクターたちは、まず百円とか二百円くらいの安っぽいプラモデルになって、ぼくら少年たちの目の前に現れた。安いぶんだけ組み立てるのも簡単だったから、ぼくらは少ない小遣いをためてこれらのプラモデルを買い、両手をセメダインだらけにして作ったものである。  今でもよく覚えているのは、おそ松くんシリーズの安いプラモデルである。値段は確か二百円か二百五十円。完成品の大きさは、ちょうど煙草のパッケージくらいだったと記憶している。ぼくが買ったのはイヤミという気障《きざ》で出っ歯のキャラクターが、台の上で「シェー」のポーズをとっているというものであった。ぼくはこのキャラクターが相当気に入っていて、当時の写真を見ると必ずと言っていいほど、 「シェー!」  のポーズをとっている。おそらく本書の読者諸君はご存じないことと思うので、一応解説を加えておこう。シェーのポーズとは、まず右手を真っ直ぐ頭上に掲げ、手首を直角に折る。そのまま肘《ひじ》もゆるく曲げて、掌《て》が頭の真上へ位置するようにする。左手はぶらんと下ろした状態から肘を曲げて、胸の前へ掌がくるようにする。足は左足を伸ばした状態で、右足は膝《ひざ》のところでカクンと曲げ、左足と直角にクロスさせる。うーむ、文字で書いて説明すると、ものすごく難しそうなポーズに思えてきたぞ。実際には赤んぼうでもできるほど簡単なのだが、とにかくこのポーズは、当時の少年たちにとっては、 「世界一ヘンテコな格好!」  のポーズであった。だからこそみんなこのポーズを好んでキメキメし、大人たちの顰蹙《ひんしゆく》をかいまくっていたわけである。  このシェーするイヤミプラモデルを手に入れたぼくは、購入後三十分で組み立て、机の上へぱんぱかぱーんと飾って悦に入った。これを見た母親は、 「何それ? ヘンな人形」  という感想を漏らし、呆《あき》れ顔をしていた。今にして思うと、母親の感想はもっともなことである。シェーする出っ歯男の人形なんかを机の上ヘ飾って喜ぶ少年の心理状態は、大人にはなかなか理解しがたい。しかし少年であったぼくは、そのヘンテコな人形の中に、大人には察知できない�何か�を見つけて楽しんでいたように思う。少年少女には、少年少女だけしか理解できない世界があるのである。  さてこのイヤミ人形に代表されるプラモデル以外で、ぼくが愛していたオモチャというと、やはり単純なものになる。電池を入れて動かしたり、ラジオコントロールで操縦したりする複雑なオモチャも、当時からあるにはあったが、値段が高くてとても一般庶民の子供の手には入らなかった。特にラジコンなんて、今では三歳児のオモチャにも応用されるほど普及しているが、当時はとにかく高価なオモチャの代名詞であった。 「ラジコンとは、高くて手が出ないもの」  という概念が、相変わらずぼくの中にはある。何しろぼくの小遣いが月に三百円だった時代に、ラジコンの飛行機や戦車、船などは一万五千円とか二万円の値段がついていたのである。これはもう子供にとっては天文学的値段であった。  だからぼくら少年たちは、普段遊ぶオモチャにはできるだけ安価で手軽なものを選ばざるをえなかった。例えばビー玉、メンコ、ベーゴマなどである。少女の場合は綾取り、おはじき、リリアンなどであろうか。父親や母親の世代から受け継いだクラシカルでベーシックなオモチャばかりだが、これらを使って本気で遊んだ最後の世代がぼくらであったと思う。  これらのクラシカルなオモチャは、まことにシンプルで単純だったが、いざその気になって遊び始めると、どれもなかなか奥が深かった。特にぼくが熱中したのはメンコで、町内には敵なしッ、というほどの連戦連勝ぶりであった。若い読者のためにまたもや一応解説を加えておくと、メンコとは丸もしくは四角の厚紙でできたオモチャである。大きさは小さいもので百円ライターくらい、大きいものだと大人の掌くらいであった。遊び方はまず土俵を決めることから始まる。土の上へ円を描いてもいいし、敷石一枚を土俵に見立ててもいい。自分のメンコを地面にはたきつけて、相手のメンコを裏返すか土俵の外へ押し出すと勝ち。勝ったら相手のメンコは自分のものになるという、まことにシンプルなゲームである。 「そんなことして面白いのか?」  というご意見もあろうが、なんのなんの。これが面白いのである。特にチイメン(小さいメンコのことね)でオオメン(大きいメンコのことね)を引っ繰り返した時などは、思わずチビってしまいそうなほど興奮した。相手から奪った戦利品は家へ持ち帰り、ダンボール箱にためていたのだが、日曜日の昼下がりなどに一枚一枚メンコを眺め、手入れをする時間はまさに至福の時であった。新しいものは布で磨いたり、古いものは蝋《ろう》を垂らして重くしたり、角を折ってセロテープで補強したり、とにかく少年の頭で考えつくあらゆる方法を用いて手入れをした。何故だか分からないが、一週間土の中へ埋めると強いメンコになると友達に教わり、これを実行に移してみたりもした。近所の少年たちの間で�史上最強�と呼ばれていたビッグXのメンコを、家の庭の片隅へ埋めてみたのである。 「もっと強くなるぞう。わくわくわく……」  と指折り数えて心待ちにしていたのだが、一週間たって掘り出してみると、三日めあたりに降った雨がいけなかったのか、大事な大事なビッグXメンコはべろべろのふにゃふにゃのクレープ状態になっていた。史上最強のメンコが、史上最弱のメンコに変わり果ててしまったのである。ぼくはハニワ顔でその場に立ちつくし、友人を呪《のろ》ったり親を呪ったり神様を呪ったり、とにかくいろんなものを呪ってみたのだが、もう取り返しはつかなかった。  メンコ以外で、一番使用頻度の高いオモチャといえば、これはもうグローブとボールにとどめを刺すだろう。キャッチボールというこれまたシンプルな遊びである。この遊びに関しては、ぼくは現在も�西早稲田キャッチボール連盟�という連盟を作って(連盟結成以来、既に七年の歳月が流れたのに未だに会員二名、という点が玉に瑕《きず》だが)活動を続けているほどだから、少年時代の熱中ぶりは想像にかたくあるまい。空が晴れてさえいれば、とにかくキャッチボール。近所の原っぱで友達とボールを投げ合って、それから別の遊びに移行するというのがいつものパターンであった。  少年時代のキャッチボールに関しては、ひとつだけ良い思い出がある。  小学一年生の秋だったと記憶しているが、父親に誘われて、二人で近所の原っぱへ出向き、キャッチボールをしたことがあった。ぼくは父親にいいとこ見せようとして、懸命に投げた。父親の方はかなり手を抜いて相手をしていたはずだが、その内飽きてきたのか、急に顔つきが変わり、 「一球だけ、カーブ投げるぞ」  と言うなり、思い切った球を投げ込んできた。グローブを構えるぼくの目の前で、その球はぐぐッと鋭角的に曲がった。ぼくは後ろへ逸らしてしまった球を追うことも忘れるほど、びっくりした。まさか自分の父親がこんなによく曲がるカーブを投げられるとは、夢にも思わなかったのである。この球筋を見届けた瞬間、ぼくの頭の中は、 「親父ってすごいなあ!」  という尊敬の念でいっぱいになった。父親の方はそんなことに気づきもしなかっただろうが、ぼくが生まれて初めて父親を心から尊敬した瞬間は、この時であった。今でも目をつぶると、あの時の球の曲がり具合が鮮やかに蘇《よみがえ》ってくるほど印象的だった。  千の言葉よりも、一球のカーブ。  これだけで息子というのは父親を尊敬してしまうものなのである。身を以てそれを知っているから、ぼくは来るべき息子とのキャッチボールに備えて、今からカーブの練習に余念がないわけである。  考えてみれば、父親と息子がキャッチボールをするということは、取りも直さずその家族が上手くいっているという証明に他ならない。家庭に何らかの深刻な問題がある場合、父親と息子は決してキャッチボールをしない。そういった意味で、父親と息子のキャッチボールには特別な幸福感が伴う。ケビン・コスナー主演の『フィールド・オブ・ドリームス』を思い出していただきたい。あの映画は最後に、若き日の父親の幻と主人公とが晴れた日のグラウンドでキャッチボールをする、という行為によって和解し、大団円を迎える筋立てであった。これは、キャッチボールでなければ成立しない大団円であるとぼくは思う。父親と息子が幸福に和解する上で、もっともふさわしいシチュエーションというのは、キャッチボールなのである。この映画のラストシーンを観てぼくがホロホロ泣いてしまったのは、話の筋に感動したわけではなく、そこに父親と自分との幸福な過去を重ねたからであった。  今度は父親として、ぼくは間もなく息子とキャッチボールをする日を迎えるだろう。果たしてあの時の父親のように、見事なカーブを投げ、息子を感服せしめることができるだろうか。そして彼に、人生で一番幸福な瞬間をプレゼントできるだろうか。  十 子供のビョーキ  それにしても子供というのは思うにまかせないものである。ありとあらゆる局面において、親の意に反し、物事を厄介な方へ厄介な方へと導こうとする。  例えば、病気。  病気なんだから仕方ないだろうというもっともな意見もあろうが、子供の病気、特に風邪や腹痛などの軽い病気に限っては、何やらそこに悪意のようなものを感じる時がある。独身の方には、何のことやらさっぱり分からないかもしれないが、子供というのはどういうわけか日曜日とか深夜、あるいは旅先などで急に発病したりする。ようするに医者が休みの時や、医者の手配がしにくい場合などを狙《ねら》いすましたかのように、風邪をひいたり腹痛を起こしたりするのである。 「こんな時に熱でも出されたら困るだろうなあ……」  なあんてぼんやり心配していると、必ずそういう時に熱を出す。 「どうして昨日熱を出さなかったのッ! 昨日なら医者もやってたのに!」  と怒っても始まらない。仕方なく親は発熱した子供を抱えて、医者探しに東奔西走することになる。なかなか見つからなくて、子供の具合がますます悪化してきたりすると、親としては気が狂うほど焦り、混乱して、 「お前、わざと俺《おれ》を困らせようとしているんじゃないだろうな……」  などとオカド違いの悪意をそこに感じたりする。  かく言うぼく自身も、二人の子供の父親として、今までに数えきれないほどそういう目にあってきた。実はこの原稿を書いている今現在も、そういう目にあっている真っ最中である。経緯をちょっと説明しよう。  昨日の土曜日、ぼくら家族は八ヶ岳の山荘で休日を過ごしていた。雨続きで、思いっきり身体を動かして遊ぶことがしばらくできなかったので、ここはひとつ室内プールにでも行って遊ぼうじゃないのと相談がまとまり、ぼくらは水着を持って出掛けることにした。行き先は小淵沢にある「リゾナーレ」という場所である。  ここは昨年の七月にオープンしたリゾートホテルで、イルマーレという名の波の出る室内プールがある。小淵沢みたいな片田舎に、こんなお洒落《しやれ》なホテルを造っちゃって大丈夫なのだろうかと、他人事《ひとごと》ながら心配になるほどキレイなホテルである。初めてここを訪れた時は、 「何だかバラの花をくわえたジュリア・ロバーツが、ランバダを踊りながら東武東上線に乗り込んできたような感じだなあ」  なあんてトンチンカンな印象を抱いた記憶がある。  さてここのプールでぼくら家族は三時間ほど過ごし、夕方を迎えた。予定ではプールから上がった後、ホテルの喫茶室でオムライスでも食べてから、車で東京へ帰るつもりであった。ところがいざ引き上げようという段になって、長女の佳苗が、 「頭が痛いの」  と言い始めた。見ると顔色が悪く、どことなくグッタリしている。よくよく尋ねてみると、プールに入る前からお腹が痛かったのだと言う。 「とりあえず山荘まで戻ろう」 「そうねそうね、そうしましょう」  てなやりとりがあって、山荘へ帰り、熱を計ってみたところ三十九度もある。いつのまにひいたのか謎《なぞ》だが、とにかく風邪のようである。 「また始まったか……」  ぼくは頭を抱えた。土曜の夜、しかも八ヶ岳の山の中。そういう状況を狙《ねら》いすましたかのように、子供は発病する。しかも今回は、翌日午後からカミサンの実家である秋田へ行く、という予定まである。 「一体どうすりゃいいのだ」  とぼくもカミサンも困惑の色を濃くした。このまま八ヶ岳に留まるか、あるいはちょっと無理をして車で東京まで帰るか、もしくはさらに無理をして翌日飛行機に乗って秋田まで行くのか、選択肢は沢山ある。  悩んだ末に、ぼくらはとりあえず夜中に東京へ戻ることにした。幸い家の車はワゴンなので、後部座席を倒せば、布団を敷いて子供を寝かせることができる。秋田行きは、東京へ戻ってから様子を見て決めよう、ということにした。  さて翌日——つまり今日現在であるが、佳苗の具合はあまり思わしくなかった。熱はやや下がって小康状態を保っているが、相変わらずグッタリした様子。飛行機は四時五分の便だったが、判断が難しいところである。行くべきか行かざるべきか。さんざ悩んだが、結局ぼくらは出発することにした。最大の決め手は佳苗本人が、 「行きたい」  と希望したことである。ぼくらは大慌てで荷物をまとめ、奮発してタクシーを呼んだ。荷物はできるだけコンパクトにまとめるべく、海外旅行用のでっかいサムソナイトのケースを使用することにした。が、いざ出掛ける段になって、アレもあるコレもあると余計な荷物がうじゃうじゃ出てきた。中でも厄介だったのは、二週間ほど前に縁日で買ったカメ吉とカメ夫の水槽である。中には小石と水が入っているので、さすがにサムソナイトのケースに放り込むわけにいかない。 「ううー、何ちゅう厄介な……」  悪態をつきながらぼくはカメの水槽を右手に持ち、左肩にショルダーバッグを下げ、背中に佳苗をおんぶし、サムソナイトのケースをガラガラ押しながら家を出た。空港まではタクシーだったから大した問題はなかったが、空港についてからが大変だった。折しも夏休み初めての日曜日とあって、空港ロビーは大混雑。この混雑の中を、ぼくはカメ吉とカメ夫と娘とショルダーバッグとサムソナイトのケースを抱えて、うろうろしなければならなかった。むろんカミサンも同行していたが、彼女は彼女で手提鞄《てさげかばん》一個と息子の直弥をだっこしなければならなかったから、頼りにはできない。まさに孤立無援、オイオイ泣き出したいような状況であった。にもかかわらず、カミサンはハタと膝《ひざ》を叩《たた》き、さらに荷物を増やすようなことを言い出した。 「親戚にお土産、買ってかなくちゃ」  二千円くらいのお菓子を三つ、というオーダーである。 「菓子を買うならカメ吉およびカメ夫を棄てよう」  とぼくは提案したかったが、そんなことを言えば子供たちが大騒ぎして、さらなる混乱を招くことは火を見るよりも明らか。かといって、 「カメがだめなら娘を棄てよう」  と提案するわけにもいかない。渋々カミサンの言に従って、お土産を買うことにした。結果としてぼくは、カメ吉とカメ夫と娘とショルダーバッグとサムソナイトのケースとお土産の入った紙袋を抱えて、搭乗口まで歩かなければならなくなった。まるで子泣きじじい一ダースに取り憑《つ》かれた運の悪い男のような有り様。んもうヘロヘロのメロメロのクタクタのヨレヨレである。  そんなこんなでぼくらは午後五時過ぎに、秋田に到着した。空港からタクシーに乗って約四十分。カメ吉とカメ夫と娘とショルダーバッグとサムソナイトのケースとお土産の入った紙袋を持ってカミサンの実家の玄関先に立った時には、 「おいどんはやりもうした」  と声を放ってオイオイ泣き出したい気分であった。  早速布団をのべて佳苗を寝かせ、厄介者のカメ吉とカメ夫(ちなみにこの名前は子供たちが命名したのだが、他に何か考えられんもんだろうか)の水槽をテレビの横に置き、ぼくは一風呂浴びさせてもらうことになった。さっぱりした気分で上がったところへ夕食の準備が整い、これをガツガツ食った。さすが秋田は米どころだけのことはあって、御飯がやたらに美味しい。特にカミサンのお母さんが炊いた御飯は何か秘伝でもあるのか日本一の味わいである。三杯もおかわりして大いに満足し、 「いやー極楽極楽」  なんてことを言いながら、発熱でふーふー苦しむ佳苗の横へ行って、たちまち眠りに落ちてしまった。我ながら子供のような他愛のなさである。  しかし習慣というのは恐ろしいもので、真夜中一時にふと目が覚めて、ごそごそと起き出し、人気《ひとけ》のない台所でこの原稿を書き始めた次第である。  書いている途中、ちょうど二枚めに差しかかったあたりで、ネボケ眼《まなこ》の佳苗が寝室から現れて、水が欲しいと声をかけてきた。オデコを触ると、大分熱はひいた様子である。水を汲《く》んで与え、 「具合、どう?」  と尋ねると、 「うん、大丈夫だよ」  と殊勝なことを言う。可愛《かわい》いものである。水を飲み終えた後、彼女はしばらくぼくの横にいて原稿を覗《のぞ》き込み、 「お父さん何してんの?」  と尋ねてきた。ぼくはちょっと誇らしげな気分で、お仕事だよと答え、 「こんな夜中に働いて、お父さんて偉いでしょう。へへへ」  と付け加えた。すると彼女は不思議そうな顔をして、 「何で昼間に働かないの? お友達のお父さんはみんな朝から働いているよ」  ともっともな質問を返してきた。ぼくはむむむむッと返答に詰まり、頭の中で言い訳をコネくり回した挙句、 「お父さんはね、ちょっと変わってるんだよ。作家だから」  と説得力に欠ける説明をした。佳苗は分かったのか分からないのか判然としない表情でぼくを見つめ返した。彼女の目から見ると、ぼくはいつも昼過ぎまで寝ているグウタラ父さんにしか映らない様子である。あまりじっと見られると何だか恥ずかしくて仕事にならないので、 「さあさあ、もう寝なさい」  と急《せ》かし立てると、彼女は素直にうなずいて寝室へ戻った。ほっとして、再びこの原稿を書き始めたのだが、五枚めに差しかかった頃、またもや佳苗の足音が響いた。 「頭冷やすヤツ、欲しいの」  台所の扉を開けて、今度はそんなことを言う。頭冷やすヤツ、というのはアイスノンのことである。冷蔵庫の冷凍室を探ると、それらしきものがあったので取り出し、手渡してやったが、佳苗はなかなかその場を去ろうとしない。ぼくの顔と書きかけの原稿を交互に眺めながら、 「これ、何書いてんの?」  などと尋ねてくる。真夜中に台所でいい大人が、何を悪戦苦闘しているのか、不思議でしょうがないといった風情である。 「今ね、ちょうど佳苗ちゃんのこと書いてたんだよ」  と答えると、彼女は急にむっとした表情になり、 「私の悪口書いてんでしょ」  なんてことを言う。自分の知らない所で自分のことを書かれるのは、さすがに子供でも愉快なことではないらしい。ぼくは慌ててそれを否定し、悪口じゃないよ、褒めてんだよと弁解したが、よおく考えてみるとこの原稿の冒頭部分は、やはり悪口に当たりそうなので少々胸が痛んだ。  それにしてもカメ吉とカメ夫と娘とサムソナイトのケースとショルダーバッグとお土産の入った紙袋を抱えて、ようやく辿《たど》りついた秋田の実家の台所で、夜中にこうやって原稿を書かなければならない孤立無援の父に、誰か救いの手を差し伸べてくれないものだろうか。辛いわ辛いわ。  十一 愛しの動物たち  その女性編集者は、ややアガッている様子であった。  ある雑誌の特集記事の取材で、インタビュアーとしてぼくの仕事場を訪ねてきたのだが、入社一年目の新人であるせいか、立居ふるまいが妙にギクシャクしている。そのギクシャクぶりはとても微笑《ほほえ》ましいものだったので、ぼくは終始ニコニコして機嫌よくインタビューに答えた。  小一時間ほどでインタビューを終え、その後雑談を交わしていたところ、彼女はやや唐突にこんなことを言った。 「あの……まあちゃんのこと、とても残念でしたね」  瞬間、ぼくは何のことか分からなくてきょとんとした顔をしてしまった。すると彼女は自分の言葉が舌足らずだったことに気づき、顔をあからめながら話を継いだ。 「連載のエッセイで読んだんですけど、私泣いちゃいました。私、猫がすごく好きなんです」  これを聞いてぼくはようやく納得がいった。まあちゃんというのは今年の春先に急死してしまった我が家の飼猫の名前である。その死の詳細については、女性誌の連載で書いた。彼女はそれを読んで胸をしめつけられるように感じ、ぼくと会う機会があったら、ぜひ猫についての話をしてみたいとかねてより考えていたらしい。まあちゃんの名前を口にした時、彼女は思いつめたような瞳《ひとみ》をしていた。  可愛がっていた飼猫の名が初対面の人の口から発せられたことに、ぼくは戸惑いを禁じえなかったが、同時に嬉《うれ》しくもあった。飼猫の死なんて、飼主とその家族にとっては確かに深刻な出来事かもしれないが、それ以外の人たちにとっては取るに足らないちっぽけなことで、書いたって何の意味もないんじゃないかと半ば疑っていただけに、彼女の一言はぼくにとっての福音であった。  さて彼女が相変わらずギクシャクした態度で帰っていった後、ぼくはまあちゃんのことやこれまでに飼った他の犬猫について、ぼんやりと思いを巡らせた。今回はその時に反芻《はんすう》した、とりとめもないことについて書きたいと思う。  まず、まあちゃんのことである。  彼が急死してから既に半年が経とうとしている。まだ幼い面影が残る内に死んでしまったので、生きていれば今頃はすごく大きくなっていたかもしれないなあ、なんて考えるのは、死んだ子の歳を数える母親の心境に似ているだろうか。そんなことを惜しんでも何もならないと分かっていながら、どうしても時々思い出してしまう。それはぼくだけに限ったことではなく、カミサンや子供たちも、折につけまあちゃんの名前を口にする。特に子供たちにとっては、生まれて初めて直面する�愛する者の死�であったために、思い入れも深い様子である。娘の佳苗は今でもしょっちゅう茶色い猫の絵を描き、 「まあちゃんて字、どういうふうに書けばいいの?」  とぼくのところへ持ってくる。何だかやけに胴長の、蛇みたいな猫の絵である。いわゆる優等生的な上手い絵ではないけれど、彼女がそれを描きながら、 「好きだなあ、まあちゃん。また一緒に遊びたいなあ」  と考えていたことがひしひしと伝わってくる。茶色い胴長のまあちゃんがド真ん中に描かれていて、その足元に赤や黄色の花が添えられ、空には真っ赤なお日様が輝いている——そんな絵である。ぼくは彼女にせがまれるまま、クレヨンを借りてお日様の隣へ�まあちゃん�と書いてやる。すると彼女は豪華な玩具《おもちや》でも買ってもらったかのように瞳を輝かせ、しげしげとその字を眺めてから、 「ありがと!」  と短く言い残して、風のように去る。ぼくはその後姿を見送りながら、 「まあちゃんは生きているんだなあ」  としみじみ思う。もちろん現実には、まあちゃんはもういない。けれど子供たちの頭の中には、ヤンチャで可愛らしくて大食いのまあちゃんが、半年前と同じそのままの姿で生きているらしい。  佳苗はぼくたち四人家族の絵を描く場合も、必ずその足元に茶色い小さな物体を描き添える。最初はそれが何を意味しているのか分からなくて、 「これなあに? 切株?」  などと尋ねたら、佳苗はほっぺたをパンパンに膨らませて怒り出し、 「まあちゃんだよッ!」  と泣きそうな声で訴えた。あのちっぽけで気の毒な猫のことを、父親はすっかり忘れてしまったのだと誤解したらしい。ぼくは大慌てで彼女に詫《わ》び、罪滅ぼしにまあちゃんの絵を一枚描くことで、ようやくお許しをいただいた。  まだ三歳にもならない直弥にしても、まあちゃんの思い出は鮮やかな形で残っているらしい。町中で茶色い猫を見かけると、どんなに急いでいても足を止めて、 「まあちゃんがいた! まあちゃんがいたよう!」  と大声を上げたりするし、佳苗が描く胴長まあちゃんの絵を見ても、瞳をきらきらさせていかにも嬉しそうに反応する。  ちょっと話が横道へ逸れるかもしれないが、直弥を観察していると、まだ物心のつかない子供の目には、大人には見えなくなってしまったものが見えているのではないかと思える瞬間がある。さっきまでギャアギャア騒いでいたのに、急に静かになるものだから、どうしたんだろうと様子を窺《うかが》ってみると、思いつめたような顔で虚空に視点を結んでいたりするのである。 「何見てるの?」  と尋ねると、でへへへーとだらしなく笑って再び遊び始めるのだが、あれは一体何を見つめているのだろうか。実はまあちゃんが死んだ数日後にも、直弥は不思議なことを言って、ぼくらを大いに動揺させた。夜、家族全員で布団に寝転がって絵本を読んで聞かせていたところ、なかなか寝つかない直弥が急に天井の片隅を指差して、 「まあちゃんだよー。ほら、ほらあ」  と言い出したのである。ぼくもカミサンも一瞬ひやりとして顔を見合わせたのだが、考えてみればまあちゃんの幽霊なら悪さもしないだろうと思い至り、 「本当? じゃあきっとナオちゃんに会いにきたんだねえ」  と答えてやった。直弥は嬉しそうにうむうむと頷《うなず》き、しばらくすると静かな寝息を立て始めた。あの時、まあちゃんはもう一度ぼくらにさよならを言うために戻ってきていたのだろうか? 確かめる術《すべ》はないのだが、もし本当なら、ぼくとカミサンにも見えるように戻ってきてもらいたかった。水臭いじゃないのお前、と言ってやりたい。  さてまあちゃん以外に、過去ぼくが飼ったことのある動物の話に移ろう。  物心ついてから一番最初に飼ったのは雑種の犬で、名前はジョンという。ぼくはまだ五歳で、国分寺に住んでいた。どういう経緯で飼うようになったのかは覚えていないが、いなくなった時のことはよく覚えている。夏のある日、近所の原っぱで泥んこになって遊んでから帰宅すると、犬小屋が空っぽになっていたのである。どこへ行っちゃったのかと母親に尋ねると、遠いところへ行ったという答えが返ってきた。 「ジョンはね、ジステンパーっていう病気だったの。とても悪い病気なの」  母親はそんなふうに説明した。今考えると、おそらく保健所へ連れていって安楽死させたのだろう。もちろん当時はそんなことまでは思い至らなかったが、ジステンパーという変わった響きの単語は、ぼくの幼い脳裏にしっかりと刻みつけられた。そういう名の黒い悪魔が現れ、ジョンを小脇《こわき》に抱えて連れ去ったような絵を思い描き、 「ジステンパー……恐ろしい奴。ううッ、くわばらくわばら」  と恐怖にうち震えた記憶がある。  ジョンがいなくなった半年後に飼い始めた犬は、コロといった。垂れ耳の茶色い雑種で、少々卑屈なところのある犬であった。いつも上目遣いで人を見上げ、尻尾《しつぽ》を弱々しく振りながら、 「ぶっちゃヤですよ。ね、ね。優しくして下さいよ。ね、ね、ね」  とでも言いたげな態度でスリ寄ってくる。幼心にも、なーんかカッチョ悪い犬だなあと拍子抜けしたものである。この犬もまたジョンと同じように、ある日突然ぼくの目の前から姿を消した。失踪《しつそう》したのだと言い聞かされたが、今にして思うと、ちょっとタイミングがよすぎる気もする。コロの失踪後、数週間してからぼくの父親と母親が別居し始めたことと考え合わせると、そこに作為的なものを感じてしまう。  その後、ぼくの家族はくっついたり離れたりしながらアパート住まいが続いたので、犬猫の類は飼いたくても飼うことができなかった。ようやくお許しが出たのは、岡山へ引越して高校に入学した後のことである。つきあっていたガールフレンドの友人の家に、子犬が沢山生まれて困っているという話を聞き及び、 「よーし。いいとこ見せちゃう!」  と張り切ってもらい受けたのである。そうすることによって�動物を可愛がる優しい原田君�というイメージを、ガールフレンドに抱かしめようという不純な動機である。もらったのは黒い子犬であった。オールブラックではなく、足先だけがちょんちょんと白い雑種である。この犬にはガロという名前をつけて、家族全員で可愛がった。とても頭のいい犬で、一度|叱《しか》られたことは二度とやらないような賢さがあったので、父母にも評判がよかった。  このガロもまた、一年ほど飼ったところで病に倒れた。獣医に診せたところ、心臓に虫が湧《わ》いてもうどうしようもないと言われた。冬のことで、ぼくら家族はガロを表の犬小屋に寝かせておくのが忍びなく、玄関の中へ入れてやった。寒そうにガタガタ震えているので、毛布を敷き、そばで石油ストーブを焚いてやったところ、ガロは嬉しそうにキュウキュウと啼いて、ぼくの手を嘗《な》めた。ぼくが学校へ行っている間、玄関のタイルの上では寒かろうと同情した母親が、上がり口の廊下の上へ毛布を敷いて、 「ガロ、ここに寝なさい」  と抱き上げて横たわらせてやったのだが、ガロはそれを拒絶した。以前、泥足で玄関から家の中へ上がろうとした際にこっぴどく叱られたことを覚えていて、また叱られるとでも思ったのだろう。廊下の毛布の上へ何度寝かせても、しばらくして様子を見にいくと、玄関のタイルの上へ戻ってぐったり横たわっている。その余りにも純朴な態度は、ぼくら家族の涙を誘った。  しかしこうやって反芻してみると、ぼくは自分が飼った犬猫との蜜月の日々はすっかり忘れ去っているくせに、別れの時のことばかり鮮明に覚えている。やはりそれだけショックも大きかった、ということなのだろう。確かに犬猫は人間に比べるとちっぽけな存在かもしれない。けれどその命の大きさは人間と何ら変わりはない——そんなことを教えるために、犬猫はぼくらに飼われているような気すらする。  十二 勘違いの女王  ところで勘違いというのは、誰にでもあることである。  例えばこの�勘違い�という単語自体を勘違いしてる人も多い。ぼくの著書の中に『スメル男』という長編小説があるのだが、これに対するファンレターの中に、 「私、最初は『スメル男』のことを『スルメ男』と感違いしてしまって……」  なあんて書いてあることが、よくある。いや、「スメル男」を「スルメ男」と勘違いするのは何の問題もない。実はこのタイトルを決める際にも、出版社サイドから、 「これはスルメと勘違いしそうですけど、まずいんじゃないでしょうか」  という意見が提出されたのだが、作者のぼくとしては、勘違いされた方が妙なインパクトがあると推測していたので、無理やり突っぱねた経緯がある。だからこのタイトルは、勘違いされて当然。天下の朝日新聞すら書評欄で、 「スルメ男」  と誤植したくらいだから、普通の読者が勘違いするのは当たり前である。ぼくが言いたいのはこのタイトルのことではなく、勘違いの�勘�という文字についてである。もう一度、前述のファンレターの文章を読み直してもらいたい。よおく目を凝らしてみると(別に凝らさなくてもいいんだけど)�勘違い�を�感違い�と書いている。この間違いが意外なほど多いのである。ほらほら、貴女も勘違いしてませんでしたか? 勘違いを感違いと勘違いするなんて、勘違いもはなはだしい。うー、何が何だかワケ分かんなくなってきちゃった。とにかく、勘違いという文字そのものすら勘違いされるくらいなのだから、世の中にはいかに勘違いが多いか想像にかたくないだろう、ということをぼくは言いたかったのである。  当然のことながら、かく言うぼく自身もしばしば勘違いをする。個人的な経験にそくして言うなら、勘違いには瞬間的な勘違いと長い年月にわたる勘違いと、二種類あるように思う。ここでは仮に前者を�瞬勘違い�、後者を�長勘違い�と呼ぶことにしよう。最近、というかちょっと前になるが、ぼくが犯した瞬勘違いのひとつに、 「ティーバック勘違い」  というものがある。ま、今でこそティーバックと言えばあのTバックであることは明らかで、耳にするなりうへへうへへと鼻の下が二センチ五ミリくらい伸びちゃうわけであるが、一番最初にTVの深夜番組か何かで耳にした時は、穿《は》くものではなく飲むものであると勘違いをした。素人っぽいリポーターが黄色い声で、 「今年の流行一番オシは、やっぱティーバックでえええす!」  なあんて叫《さけ》ぶのを、夜食の即席ラーメンをすすりながら横目で眺めていたのだが、瞬間的に、 「うむうむ、イギリスも失業とかで大変だしなあ。紅茶のティーバッグを流行《はや》らせて、輸出を増やそうという魂胆だな。やはり仕掛け人はリプトンあたりかな……」  てなことを考えてしまったのである。勘違いが厄介なのは、いったんそう思い込んでしまうと軌道修正がなされないまま誤解が誤解を生むことがある点である。ティーバックを紅茶のティーバッグと勘違いしたぼくは、その後も番組の中で関西系の芸人が、 「あんなんよう穿きますねえ。恥ずかしゅうないんですかネ」  なんて言っているのを聞いて、これはもしかして紅茶のティーバッグのようなスケスケの素材でパンツを作って流行らそうとしているわけかな、だとしたらえらいことだ、こうしちゃおれんぞ、いずこへ行けばそれは鑑賞できるのか、知りたい知りたいッ、などと馬鹿なことを考えたりした。  この勘違いが正しく軌道修正なされたのはそれから数日後のことだったが、真実を知った時、ぼくは恥ずかしさとともに「惜しいなあ」という複雑な思いを噛《か》み締めたのであった。  一方�長勘違い�に関しては、ぼくの場合、歌の歌詞の中に多く見出すことができる。これはおそらく誰にでも心当たりがあるだろう。子供の頃に勘違いして覚えていた歌詞を、ずうっと長年引きずって、数十年後に軌道修正がなされたりすることは、結構ありがちである。ぼく自身の経験の中で一番長く勘違いしていたのは、Xマスになると耳にする「ジングルベル」の歌詞。 「今日はー、たのしい、ソリの遊びー。ジングルベー、ジングルベー………」  この�ソリ�の部分を�トリ�だと勘違いし続けてウン十年、軌道修正がなされたのは何と二十二歳の時であった。童謡の歌詞に関しては他にもたくさん長勘違いしてることがあったが、一々挙げていたらキリがないのでここには記さないでおこう。  さてここからが本題。  実はぼくのすぐそばに、勘違いの女王と呼ばれる人物が一人いる。他でもないぼくのカミサンである。この人の勘違いはいつもツボを心得ているというか愛嬌《あいきよう》があるというか馬鹿というか、とにかく笑えることが多い。仲間内では既に伝説化されている�三大勘違い�というのがあるので、これをひとつずつ紹介してみよう。  その1——八ヶ岳山荘牛事件。  八ヶ岳山中に、いよいよ山荘を建てる計画が進みつつあった頃の話である。ある日、建築を請け負った別荘地管理会社の営業のYさんから、我が家に電話が入った。受話器を取ったのは、カミサンである。 「設計の試案ができましたので、図面を持ってお宅にお伺いしたいのですが」  という話を聞いて、彼女はややハシャギながら、 「はいはい、ではお待ちしております」  と答えた。この時点で彼女の頭の中には、新緑の八ヶ岳山中にぱんぱかぱーんと出来上がった山荘が浮かんでいたらしい。嬉《うれ》しくてちょっと舞い上がっちゃっていたのであろう。営業のYさんは訪問の日取りと時間を述べ、最後にこうつけ加えた。 「では、牛を連れてお伺いしますので」 「え? 何ですって?」  たちまちカミサンは眉《まゆ》をひそめ、怪訝《けげん》そうな顔になって訊《き》き返した。 「いや、あの、お伺いする際にですね、牛を連れてまいりますので」  営業のYさんは同じ台詞をもう一度繰り返した。この時点でカミサンの頭の中には、八ヶ岳山麓に放牧されている牛に綱をつけて、遠路はるばる東京まで引っぱってくるYさんの姿が髣髴《ほうふつ》としていたらしい。何しろ山深い場所に山荘を建てるので、ブルドーザーではなく牛の力を借りて、大地を均《なら》したりするに違いない——その牛を見せに来るんだわ、困るわ困るわこんな狭いところに牛なんか連れてこられても、とカミサンは焦った。そこで遠慮がちにホホホなんて笑いながら、 「あのお、牛は困りますう」  と答えた。営業のYさんは電話口の向こう側で、しばし絶句したらしい。何が何だか話が分かんなくなっちゃったのであろう。しばらくの沈黙があった後、Yさんはおずおずとこう言った。 「いえ、あのー、牛じゃなくて、設計士の牛尾でございます」 「設計士の牛?」 「いえ、ほら、設計を担当しております牛尾です。彼をお連れして、色々とご説明申し上げたいと……」 「あー!」  カミサンは一声叫んで頬《ほお》を真っ赤に染めた。ちょうどこの時、ぼくはすぐ傍らに寝そべって本を読んでいたので、彼女の叫び声に飛び上がってしまった。そして恥じ入って受話器を置いた彼女から話の一部始終を聞き、呆《あき》れたり笑ったりした。  普通、人間には推理力というものが備わっているから、会話の中に聞き取りにくい単語があったり、辻褄《つじつま》が合わない単語があったりしても、そこに修正を加えて話の筋を正しく見通せるはずである。ところがカミサンは根が単純というか馬鹿なので、この推理力をまったく行使せず、言われたことをまともに受け取っちゃうようなところがある。Yさんとの会話にしたって、ちょっと推理力を働かせば、本物の牛を連れて新宿のマンションにやって来る奴なんているわきゃない、と即座に分かるはずである。まことに愚かとしか言いようがない。  その2——戯曲集事件。  牛事件からおよそ二年後のことである。劇団東京壱組にかかわって、何本かの戯曲を書いたぼくにとって、幸福な日が訪れた。集英社から戯曲集を上梓《じようし》することになったのである。  タイトルは『箱の中身/分からない国』。既に小説やエッセイ集は何冊かものにしていたが、戯曲集はこれが初めてだったので、喜びもひとしお。見本刷を枕元に置いて寝たほど、ぼくは嬉しかった。  この戯曲集がいよいよ明日発売、という日の夕刊を読んでいたところ、結構大きめの広告が載っていた。ぼくはますます嬉しくなって、その広告を何度も読み、読むだけじゃ満足できなくて、夕餉《ゆうげ》の支度をするカミサンのもとへ行き、 「おい、聞いてくれ。�待つこと久し第一戯曲集�だってよ」  と広告のキャッチフレーズを読んで聞かせた。するとカミサンは包丁の手を止め、きょとんとした顔で、 「誰の戯曲集ですって?」  と訊き返してきた。ぼくはちょっとカチンときて、 「誰って、俺の戯曲集に決まってるじゃないか。広告が載ってるんだよ」 「じゃあ松子と久志って、誰よ」 「だから俺だよ。みんな待っててくれたんだよ。待つこと久し第一戯曲集だよ」 「だからあ、松子と久志って誰よ? 登場人物の名前?」  んもう何をか言わんや、である。この時ばかりはガックリきて、カミサンの勘違いを軌道修正してやる気にもならなかった。まさにオロカ度百パーセント。怒濤《どとう》の勢いの勘違いである。  その3——御食事券事件。  これは割と最近のことである。自宅のリビングのソファに寝転がって、ぼくはぼんやりテレビのニュースを見ていた。例のゼネコン疑惑の問題がしきりに取《と》り沙汰《ざた》され、いいかげんウンザリしてきちゃったので、リモコンでチャンネルを換えた。  今度はクイズ番組である。画面には何人かのお笑い芸人が大映しになっており、何が面白いんだか自分たちだけでギャアギャア盛り上がっている。どうやら何か賞品が貰《もら》えるゲームをしているらしい。 「下らんなあ……」  と思いながらもしばらく画面を眺めていると、司会者らしき女性アナウンサーが飛び上がって、 「おめでとうございますッ! 大当たり。うなぎ御食事券でえす!」  てなことを叫んだ。うなぎ御食事券が当たったタレントは、ちょっと困ったような表情を呈し「いやあ」なんて言いながら頭を掻《か》いている。女性アナウンサーはそのタレントから何とか感想を引き出そうとし、 「いかがですか、うなぎ御食事券!!」  なんてことを尋ねていた。この時、流しで洗い物をしていたカミサンが、不意に口を挟んできた。彼女はいかにも腹立たしげに、こう言ったのである。 「いやあねえ、またオショクジケン?」 「またって、何がさ?」 「だって……今度は何、うなぎ汚職事件って浜松?」 「…………」  ぼくは絶句してしまったが、考えてみればこれはアッパレな勘違いであると言えないこともない。うなぎ御食事券とうなぎ汚職事件、まるで落語みたいではないか。  ともあれ、こういう愚かなカミサンがそばにいるもんだから、夫たるぼくは日毎に賢くならざるをえないのである。悪妻は百年の不作らしいが、愚妻はそれなりに夫を育ててくれたりするものである。  恋愛それはヘンテコなもの  一 ままならぬ出会い  ずいぶん昔、あれは確か小学校の三年生か四年生くらいの頃だったと思うが、テレビを観ていたらやけに髪の長いナヨナヨした男がステージに立って、歌を歌っていた。親に尋ねると、この男の名前は布施明といって大変人気があるのだ、という答えが返ってきた。ぼくはふむふむと納得して、その男の歌に聴き入った。歌の内容は概《おおむ》ねこんな感じであった。 「恋というものはァあー、不思議ィなものォなんだあー!!」  ぼくはほほお、と感心した。幼かったけれど、この歌詞のコイは恋であり、鯉ではないということくらいは分かった。恋と鯉の違いは分かったが、では恋とは何ぞやと訊《き》かれると返答に詰まる。恋って何だ? よく分からないけど、布施明の説によれば不思議なものであるらしい。なーるほど、恋というものは不思議なものなんだ。それ以上のことは何にも分からんけど、とにかく不思議なのだ。小学校三年生にして、ぼくは恋の神秘を垣間見《かいまみ》てしまったぞ。まいったなあ。  てな経緯があって、ぼくは一人で大いに照れ、何となく人間的に成長した自分を誇らしく感じた。そして学校へ行くとさっそく友人を集めて、 「お前ら知ってっか。恋というのはなあ、不思議なものなんだぜ」  などと講釈したりしたのである。そしてそれを聞いた友人たちも、まんざらでもない様子でうなずき、 「なるほどおー、やっぱ恋は不思議なのか。ぬふふふふ」  と意味不明の忍び笑いを漏らしたりしたのであった。  さて、このようにして恋の不思議さに目覚めたぼくではあったが、以来二十余年、三十|面《づら》下げたいいおじさんになっても、やっぱり恋は不思議である。 「布施明ただしかったッ!」  と唸《うな》らざるをえない。恋を重ねれば重ねるほど、その不思議さは深さを増すようにも思われる。  そこで真実の人ハラダは立ち上がった。解明できるかどうか甚だ不安ではあるが、この際恋の不思議さに迫ってしまうぞ、というのがこの章の趣旨である。ただ闇雲《やみくも》に迫るのでは、何が何だか余計分からなくなる可能性も大きいので、恋を細かくステージ分けして解説しようではないか、という作戦を展開する。素晴らしい作戦だなあ。はい拍手拍手。ぱちぱちぱち、っと。  そんなわけで今回は恋の第一ステージ、出会いについてのお話。  出会い。  やはりこれが恋の第一歩である。とにかく出会わないことには、恋は始まらない。しかも出会う相手は人間であることが最低条件である。ぶらりと入った鮨屋《すしや》で、湯飲みと出会ったからといって、 「これが恋の始まりなのね。ああ好き好き。鯖《さば》とか鮪《まぐろ》とか鯛《たい》とか鯵《あじ》とか難しい漢字がいっぱい書いてあって素敵ッ」  などという展開を見せることは、まずない。しかしその鮨屋の板前さんと出会い、恋に落ちることはありうる。やはり出会う相手は人間、しかもできれば異性に限った方がよろしいように思える。  さて出会いの一番難しい点は、当人同士の意志とはまったく無縁に、実に唐突に出会ってしまうことである。お見合いとか合コンとか、そういう意図的な企画に進んでのらないかぎりは、 「今日こそ出会いたい!」  と願っても、なかなか叶《かな》うものではない。そういうことを願ってない時にかぎって、ばったり出会ってしまったりする。これが結構厄介なのである。  男も女も、自分が恋をする相手とは、最高のコンディションで出会いたいと願う。顔の造作を変えることはできないが、せめてカッチョいい服を着て、カッチョいい車に乗って、カッチョいいマンションから颯爽《さつそう》とカッチョよく現れたところで出会いたい。しかし現実は意地悪である。ちょっと近所で買物するために、ジャージ上下にサンダルなどを履いて、髪の毛もウニのように逆立っている状況で、ぼんやり商店街を歩いている時などにかぎって、運命の人と出会ったりする。みなさんにも心当たりがあるでしょう? ちなみに今自分が付き合っている人と、どこでどういうふうにして出会ったのか、胸に手を当てて考えてみてごらんなさい。結構カッチョ悪い出会い方をしている人が多いはずである。  確かに出会う前までは、色々と楽しい想像が膨らむ。こんな人と、あんな場所で、こんなふうに出会えたら素敵よねえ。などと、恋に敏感な年頃の女性ならば、そういうことをあれこれと想像するであろう。年頃の男性にしても同様のことが言える。ぼくも十代後半とか二十代前半の頃は、毎日毎日そういうことを想像して一人でにやにやしていた。 「やっぱりそうだなあ、劇場のロビーとかがカッチョいいなあ。俺《おれ》はタキシードなんか着ちゃって、幕間《まくあい》の休憩に劇場のバーでマティーニなんか飲んでる。と、カウンターの端っこにすごい美人が一人でジンライムかなんかを飲んでるのだ。そしてその美人が俺の方へすり寄って来て『お芝居なんかよりもっと面白いことを二人でしましょうよ』とか何とか話しかけてくるのだ。くーッ、たまらんなあ。いやー原田困っちゃう」  てなことを毎日考えていたわけである。しかし現実には、ぼくはタキシードも持っていないし、めったに劇場へも足を運ばない若者であった。だから今の女房とも、毛玉のいっぱいついたセーターを着て、寝起きのボケた顔をしてる時に、乃木坂《のぎざか》の路上でその他大勢の一人として出会ったのであった。  現実ってそんなもんだよ。ちょっと辛いけどなあ。  二 身勝手な接近  さて恋の展開図第二回のステージは、ずばり「接近」である。  男と女が出会った後にどうなるかというと、やはり「接近」しかない。まあ出会ったとたんに「離脱」しちゃうケースもあるけど、好意さえ介在すれば、二人は接近するはずである。  接近というからには、近づくわけである。一メートルでも十センチでも一ミリでもいいから好きな人に接近したいッ、と思うのはこれ人情というもの。  しかしながらここに問題が生じる。  恋愛というのはままならぬものであるからして、必ずしも男女両者が接近を望んでいるとは限らない。片方が接近したがっているのに、もう片方は離脱を望んでいる場合が、ままある。  いわゆる片思いというヤツである。  こういう場合、接近を望んでいる側の人間はツライ。苦労して一センチ接近したのに、相手が一メートル離脱してしまったら、差引九十九センチ離れてしまう計算になる。これを必死で取り返そうとして、一メートル九十九センチ接近すると、相手はそれを見て三メートル後ずさったりする。  接近しても接近しても、ちっとも近づけない。まるで自分の影を追い掛けているような気分になる。吉田栄作なら、 「わあああああああーッ!」  と海に向かって叫《さけ》びたくなってしまうところであろう。織田裕二なら、 「大好きだああああーッ!」  と踏切の前で雨に打たれながら叫びたくなってしまうところであろう。余談だが、どうも最近の二枚目はやたらと叫びたがる傾向があって鬱陶《うつとう》しい。これは流行なのだろうか。最近の年頃の女のコは叫ぶ男、通称シャウトガイが好きなのだろうか。そういえばこのシャウトガイという奴は、かなり昔から何年かの周期で現れては消えているように思う。例えばぼくが小学生の頃には美樹克彦という男が暗い顔で、 「かおるちゃん!! 遅くなってごめんね」  と歌った後に、 「ばかやろおおおー!」  とシャウトしていたし、その後数年して中学生になった頃には、かの有名な青春の巨匠森田健作がハカマ姿で、 「おりゃあ! 俺は男だああー!(そんなこたあ見りゃ分かるって)」  とシャウトしてヤンヤの喝采を浴びていた。その後またもや数年して高校に入った頃には、西城秀樹というビラビラのパンタロンを穿《は》いた暑苦しい男が、 「ろおらああああー!」  などとシャウトしていた。吉田栄作や織田裕二がシャウトする姿は、どうもこれらの先人たちの姿とダブる。見ているこっちが恥ずかしくなっちゃうから、一刻も早く静かにしてもらいたいものだ。  話が横道へ逸れてしまった。すまん。  閑話休題。  接近の話である。片思いだと、なかなか接近するのがむずかしいという話であった。こういう時にどうすればいいのか? 何かいい方法はあるのか?  いい方法は、ない。  離脱したがっている者を、無理に引き寄せるのは至難のワザ。無理じいをすればさらに離脱が激しくなるばかりである。例えばぼくは子供の頃牛乳が何となく嫌いであったが、親や先生に無理やり「飲め飲め」と強要されている内に、ものすごく嫌いになってしまった。未だに牛乳を飲むことができない。これと同じ理屈である。  だから本当は、接近を試みた相手が離脱の態度に出た場合、すんなりとあきらめるのが一番よろしい。異性なんてこの世にゴマンといるのだから、他に探せばいいのである。ところが、そうはいかない。若ければ若いほど、純粋であればあるほど、この理屈はまかり通らないのである。恋に目がくらんでいる人の多くは、相手が離れようとすればするほど、追い掛けたくなっちゃうのである。 「いや、嫌い嫌いも好きの内、という諺《ことわざ》もあるではないか」  などと言って、無理やり自分を納得させようとする。 「彼女が俺を避けるのは、もっと激しく追い求めて欲しいからに違いない」  などと、すべて自分に都合のいいように解釈しようとする。胸に手をあてて考えてみてごらんなさい。みんな身に覚えがあるでしょう。恋というのは基本的に自分勝手なものであるから、すぐに自分に都合のいいように解釈しようとする力が働きがちなのである。  むろんぼくも例外ではない。  恋に目がくらんでいた時期、例えば高校生の頃なんかは、接近を試みた相手に激しく拒絶され、 「私、つきあってる人がいるんです」  と決定的な言葉で断わられても、まだ自分に都合のいい解釈をして、 「しかし本心ではそいつと別れて俺とつきあいたいに違いない。ああ運命の悪戯《いたずら》! 可哀そうなヨシコさん!」  などと考えたりした。まったく厚顔もいいところである。今思い出すと冷汗が流れてしまうよな実際。  ま、しかし考えようによっては、この接近と離脱の複雑な関係こそが、その人の人間性を高めるコヤシとなるのかもしれない。トントン拍子に事が運ぶ恋愛ばかり経験してきた奴なんて、何だか信用がおけないではないか。ヤッカミ半分かもしれないけど。やっぱカッチョ悪い恋愛をいくつもしないと、人間の輪郭がしっかりしてこないのではないか、というのがぼくの持論である。  三 想像過多のデート  デート 。  何という快い響きの言葉であろうか。まだ女の子とオツキアイしたことのない頃、ぼくにとってこの言葉は甘美この上ないものであった。 「デートというのは結局のところどうやってやるものなのだろう?」  という疑問を抱き、ああするのだろうかこうするのだろうか、それともこんなことまでしちゃうのだろうか、うわあーエッチだなあ信じられん、まいったまいった、などと一人で勝手に想像をふくらませては赤面したりしていたものである。  ぼくが中学高校生の頃は今のようにマニュアル本や情報誌なんて全然なかったから、正しいデートの方法については自分で考えるしかなかったのである。もちろん仲の良い友人同士の間では、それぞれに聞きかじっている情報を交換したりもしたが、何しろワケ分からん同士であるからして、情報はかなり錯綜《さくそう》した。 「俺《おれ》の知ってる先輩は、デートと言えば映画にトドメを刺す、と断言していた」 「いやいや、俺の父ちゃんと母ちゃんは一緒に中華料理屋へ行って、テーブルの下で手を繋《つな》いだと述べておったぞ」 「ウチのねーちゃんは大学生の彼氏とボートに乗ったらしい」 「四組の担任のコバヤシ先生が、女の人と一緒に山に登ったという未確認情報がある」  などと色々な情報が飛び交い、いったいぜんたいどれが正しいデート、デートの中のデート、ザ・キング・オブ・デートと呼べるのかが把握できなかった。結局、デートというのは女の人とどこかへ行けばいいわけだな、という程度の曖昧《あいまい》な認識にとどまったわけである。  このデートに関する曖昧な認識というのは、これだけマニュアル本が全盛を誇っている現在にあっても、あまり進歩がない。ちっとも明確化されておらず、相変わらず曖昧なままである。 「正しいデートはどこへ行くべきか」  という疑問は、そっくりそのまま今も残っているようである。おそらくこれは永遠に答えの出ない命題のひとつであろう。  ぼくの場合、初めて女の子とデートしたのは高校二年生の時のことであった(遅いかなあ)が、やはり行き先の選定でえらい苦労した記憶がある。友人に相談したり、彼女に直接希望を尋ねたりして、結局バスに乗って海を見に行くことにしたのだが、わざわざ下見をするほどの熱の入れようであった。この時の経緯に関しては、既に「スバラ式世界」というエッセイ集に書いてしまったので詳しくは触れないでおこう。知りたくばこれを買って読むがよろしい。爆笑間違いなしだぞ。どうだまいったか、うわはははッ!  閑話休題。  初デートの話はそんなわけで、ここでは割愛する。二度めのデートの話をしよう。  初めてのデートがあまりうまくいかなかった高校二年生のぼくは、 「次こそはッ!」  と海に向かって拳《こぶし》を固めちゃったのであった。初デートは何しろ明るい場所へ行ってしまったことが失敗のモトだ、などと考え、今度は暗い場所へ行くぞと誓ったのである。このヘン実に短絡的な発想であるが、十代の男なんて短絡が学生服着て歩いているようなものである。暗いところへ行きさえすれば、何かこうめくるめく陶酔の世界が展開し、ふっふっふお嬢さんおとなしくしな、ああいけないわ原田君たらそんなこと、何をおっしゃる兎さん、ああ私悪い女になっちゃう、てな具合になるのではないかなどと考えていたわけである。バッカみたい、と思われるかもしれないが、基本的に男というのはバッカみたいな生き物であるからして、致し方ない。  とにかくこのようにバッカみたいな発想のもと、ぼくは二度めのデートの場所として、映画館を選んだ。一見、まことにポピュラーである。しかしながらその裏側に、様々な下心が隠されていたことは言うまでもない。まず第一に映画館は暗い。そして第二に、映画館では隣合わせに座る——つまり接近度が高まる。さらに第三に、恋愛映画を選んだりすれば彼女の心に付け入る隙《すき》ができやすい。その結果どういうことが起きるかというと、暗闇《くらやみ》で手を握っちゃったりして肩に腕を回しちゃったりしてさらにそれ以上の行為に及んだりして、ああいけないわ原田君たら、何をおっしゃる兎さん、ああ私悪い女になっちゃう、というゴールデンコースへの展開も約束されているわけである。  ぼくはこのインビな想像を頭の中で膨らませた挙句、 「まいったなあ。パンツ新しいの穿《は》いてかなくちゃ!」  なあんて、妙にハシャいで当日の朝、風呂にまで入ったりした。んもうどこからでもきなさいッ、という感じである。もちろん約束の時間よりも一時間も早く待ち合わせ場所に到着し、 「一番最初の台詞は何と言うべきか」  という問題について悶々《もんもん》と悩んだりした。可愛《かわい》いものである。  待ち合わせ場所は、駅前の桃太郎の銅像の前、というシンプルなものであった。それは十一月の寒い日曜日のことであったが、ぼくは北風も何のその、血をカッカとたぎらせて彼女を待ち続けた。  何とも言えずドキドキする。しかしこういう場合、ドキドキしている素振りを彼女に見破られてしまうのは何だか恥ずかしい。やっぱ男は堂々としてなくてはいかん。ヤキモキそわそわしているのではなく、余裕を持って、しかもカッチョよく彼女を待つのだ。 「うーむ、どういうポーズがいいかな」  ぼくは悩み始めた。まず問題は、座って待つのがいいのか立って待つのがいいのか、という点である。どちらかと言えば座って待つ方が余裕シャクシャクといった感じなのだが、あいにく銅像の前には椅子《いす》がなかった。となるとシャガミコミ状態、ということになる。これはあまりカッチョよろしくない。股《また》を開いて唾《つば》を吐いたりしたら、ツッパリみたいではないか。それは避けたい。すると必然的に立って待つことになる。 「しかしただ茫然《ぼうぜん》と立っているだけでは馬鹿野郎みたいだしなあ」  ポケットに手を入れてうつむく、というのもなかなかだが、覇気《はき》がないようにも思える。哀愁が漂うのはよいとしても、下手をするとイジケて見えるかもしれないし、デートに対する期待感みたいなものが表現できないではないか。となると……腕を組むというのはどうだろう。うむうむ、いいぞいいぞ。これは男らしい。すっくと屹立《きつりつ》し、腕を組んで、右斜め四十五度の中空へ視線をやる……と。うーん男らしいッ。これだこれだあ!  しかし彼女はなかなか来ないのであった。ぼくは桃太郎の銅像前で背筋を伸ばしてすっくと立ち、腕を組んで右斜め四十五度の中空を見つめたまま、四十分も待った。馬鹿みたいだが、いつどこから彼女が出現するか分からないので、せっかく作ったこのポーズを崩せなかったのである。ようやく彼女が現れた時には、ぼくはへとへとに疲れ切っていた。 「ごめんなさあい。待ったでしょう?」  と彼女に謝られ、いやあなんのなんのと口では答えたが、本当は泣きそうであった。しかし彼女はぼくの苦労を知るよしもなく、あくまでも朗らかに、 「で、何の映画観るの?」  と訊《たず》ねてくるのであった。ぼくはすぐさま気を取り直し(このヘンの立ち直りの早さ、若かったんだなあ)よくぞ訊いてくれたといった表情で、 「うん、『ある愛の詩』なんかどうかなあ、と思って」  と田村正和風の声で答えた。当時、ぼくにとってまことに都合のいいことに、この愛の名作が駅前の映画館でリバイバル上映されていたのである。んもうデートにはこれ以上の映画はなあいッ、というくらいにハマッた作品である。ぼくはまだ観たことはなかったが、仲のいい友人が、 「あれを観たら女は泣いちゃってメロメロになるぞう」  と勧めてくれたのである。ぼくとしてはそのメロメロになったところに下心を差《さ》し挟《はさ》む余地があるのではないか、と期待したわけである。  さて『ある愛の詩』を観ると告げられた彼女は、それを聞くなり「キャッ」とか何とか言って、嬉《うれ》しそうにその場で跳ねた。その仕種《しぐさ》は実に可愛らしくて、ぼくは胸がキュンとしてしまった。十代の男というのは、こういう他愛のないことで、胸がキュンとしてしまうものなのである。 「じゃ、行きますか」  ぼくは彼女の先に立って歩き始めた。本当は手くらい繋ぎたかったのだが、照れ臭くてそんなことは言い出せなかった。手を繋ぎたいけど、断られたら恥ずかしい、でも繋ぎたいなあ、しかし照れ臭い……などと考えている内に、映画館に着いてしまった。 「ここが映画館です」  ぼくは生真面目にそんなことを言い、言ってしまってから何言ってんだ俺は、と後悔した。切符を二枚買って中へ入り、 「席は前の方がいいすか、真ん中がいいすか、後ろの方がいいすか」  などと訊ね、訊ねながらまた馬鹿なこと言ってるぞ俺は、と後悔した。ようするにぼくはアガッていたのである。彼女もそのことに気付いているのか、ぼくが何か一言質問するたびにクスクス笑っている。ぼくは新しいパンツを穿いてきたことまで見透かされてしまったような気がして、ますますアガッた。赤面して、対応がシドロモドロになった。 「原田くんて、何かおもしろーい」  彼女はそんなことを言った。ぼくはおもしろいことをしているつもりはこれっぽっちもなかったが、 「そうでしょう。おもしろいでしょう。でへへへへへ……」  などとヤニ下がって、内心自分がイヤになったりした。  場内は気が抜けるほど空いていたので、ぼくらは真ん中の一番よい席についた。いよいよ待ちに待った問題の状況である。手と手が触れ合うほどの接近、そして周囲を包み込む闇である。しかも周囲はおあつらえ向きに人気が少ない。ぼくは下心がむくむくと盛り上がるのを押さえ切れなかった。  基本的には今でもそうなのだが、ぼくは映画館へ女性と二人で入り、並んで腰を下ろすと、何ちゅうかこう非常に間を持て余してしまう。上映までに少々時間があったりすると、本当に困る。別にむっつりと黙り込んで中空を見据えていたって構わないのだが、そういう態度では自分の胸の奥にどよよーんと漂っている下心を見透かされてしまい、 「まあヤダ。この人ったら、エッチなこと考えてるわ」  などと誤解(というか正解)されるのではないかと不安になっちゃうのである。だからぼくは映画館で腰を下ろすと、上映までの束の間、妙におしゃべりになる。内容はたいてい他愛もないことばかりで、 「座れてよかったっすね」 「俺、背が高いから後ろの人は迷惑なんすよね」 「今朝はハムエッグを食ってきました。うまかったっす」  などと、どうでもいいことを話す。そして話している内に映画が始まり、ホッと胸を撫《な》で下ろすのがいつものパターンである。三十三歳にもなって、このパターンから抜け出すことができないのはまことに情けない。  いい年こいた現在でもこの有り様なのであるから、ウブを絵に描いたような高校時代はさらに大変だった。初めて女の子と二人で映画館に入ったこの時も、ぼくは座席に腰を下ろすなり、 「うーむ、何か気まずい……」  と感じた。こういう時はやはり女の子をリラックスさせるような洒落《しやれ》た会話、ソフィステテテッ(舌噛《か》んじゃった)ソフィスティケイトされた会話が必要なのだあ、とぼくは思った。しかし考えれば考えるほど、何を話したらいいのか混乱してしまう。ぼくは「えーと」とか「あのう」とか「そのう」とか曖昧に言葉をモゴモゴさせた挙句、 「空いてますね」  と実に当たり障りのないことを言った。それを聞いて彼女は、 「そうね」  と答えた。またもや会話が途切れ、ぼくは額に脂汗をたらーりたらーりと流した。よく漫画などで、お見合いの時に双方言葉が出なくて畳をむしってしまうようなシーンがあるけど、あの気持が実によく分かった。映画館の座席が畳製だったら、ぼくはそれをむしりまくっていただろう。 「原田君この映画観るの初めて?」  ありがたいことに、彼女の方が気を遣って話しかけてきてくれたので、ぼくは全身アンドロイド状態の緊張から解放され、ほっと肩を落とした。 「初めてです初めてです」 「そう。悲しい話なんでしょうこれ?」 「悲しいです悲しいです」 「私泣いちゃうかな」 「泣いちゃうです泣いちゃうです」  ぼくはまるで水飲みラッキーバードのように、ガクガクとうなずくばかりであったが、彼女はそれでも楽しげに微笑《ほほえ》んでくれた。その笑顔を見てぼくは、 「何でだかよく分からんけど、うまくいってるッ!」  と確信した。  そうこうする内に上演ベルが鳴り響き、場内が薄暗くなった。明かりが落ちてくるにつれ、ぼくは「ぬぬぬぬッ!」と緊張を高めた。いよいよ辺りが暗くなり、接近度および親密度が高まる時がきたのだ。男として、このチャンスを逃すテはないぞ。最低でも手を握るくらいのことはしなくてはッ。そこからさらに進んで、肩に手を回すような展開になるかもしれんし、ひょっとしたら脚を絡めたりすることも起きるかもしれん。そうなるともうアレがああなったら、コレがこうなったりしちゃうかもしれんし、うわあ困ったどうしよう、とりあえず新しいパンツ穿いてきてよかったなあ。  などとぼくは血液中に大量のアドレナリンを分泌させながら、横目で隣の彼女の様子を窺《うかが》った。と! 何という超ラッキー。彼女が膝《ひざ》の上へ載せていたコートがちょっとずれて、太腿《ふともも》の一部分があらわになっていたのである。彼女は膝くらいの丈のスカートを穿いていたのだが、座った拍子に意外なほど脚が露呈していたのである。 「おおおおー、神よお!」  声には出さなかったけど、ぼくは神さまに感謝した。そしてあと五センチ、スカートが上へずれないものかと天に祈った。仏にも祈ったしキリストにも祈ったし、マホメットにも祈った。んもう映画どころではなかった。しかしながら、横を向いてあからさまに彼女の太腿をギロギロ鑑賞するわけにはいかない。顔はあくまでも正面のクリーンを向いたまま、視線だけを横へ注がなくてはならない。これは試練であった。  こうしてぼくは約二時間、右目でスクリーン、左目で彼女の太腿を見つめる作業に没頭したので、しまいには顔がひんまがって、写楽の描いた歌舞伎役者みたいな表情になってしまった。映画が終わり、彼女はその悲恋物語の結末にシクシク涙を流していたが、ぼくは別の意味で泣きそうであった。  こんな経緯があるので、ぼくは『ある愛の詩』を映画館で観たにもかかわらず、詳しい筋立ては未だによく知らないのである。現在顔がちょっと歪《ゆが》んでいるような気がするのも、きっとこの時の経験のせいに違いない。  四 激烈な接触願望  以前『マンウォッチング』という本の中に、男性が正面から歩いてくる人とすれ違う場合の行動について、なかなか興味深い記述があった。  歩いてくる人が自分と同じ男性である場合、彼は背中を相手に向けるような格好ですれ違う。ところが歩いてくるのが女性である場合、彼は逆に胸の方を向けてすれ違う。つまり男性同士ですれ違う時はお互いに防御の態勢になり、女性とすれ違う時には接触の態勢をとる、というわけである。 「ほんとかなあ」  と思ったぼくは、それ以後、歩いていて誰かとすれ違う際に、自分がどのような体の向きになるのかを自己観察してみた。その結果として、 「なるほどお、ほんとだあ」  という確信を得た。無意識の内に、ぼくは男性に対しては背中、女性に対しては胸を向けてすれ違っていたのである。  これはどういうことなのかというと、つまり男性というのは、んもう無意識の内に「女性と触れ合いたいッ!」と願っちゃう生物である、ということである。別にエッチな下心などなくても、自然と体が女性に対して反応しちゃうわけである。まるで痴漢みたいな言い種だが、 「そこに女性がいるから、俺《おれ》は触るのだ!」  という論理である。  接触願望。  これは自然の摂理にのっとって、生殖能力が高い時期、つまり若い時分にピークに達する。具体的には十代後半から二十代を経て、三十代の半ばくらいまでだろうか。特に十代の頃は、そこに激烈な好奇心も加味されるわけだから、接触願望はいやがうえにも高まっちゃうのである。 「ううう触りたいッ! ほんの一秒、爪の先っちょだけでもいいから触りたいッ!」  と、ハイティーンの男の子は身悶《みもだ》えするほど願う。五十歳とか六十歳になっても、こういう願望を強烈に抱いている人も中にはいるけど、普通は分別がそれを抑え込む。触りたいけどここは我慢だ俺ジジイだし、と自制するわけである。しかしハイティーンの場合は、この自制がなかなかきかない。特に相手が、交際している彼女だったりすると、自制のタガは簡単に外れてしまう。 「交際するということは、つまり触ってもいいということなのだ」  と、大抵のハイティーンの男の子は考えている。しかし神様はそのへんも考慮して人間をお造りになっていて、ハイティーンには青年期特有の�自意識�と�羞恥心《しゆうちしん》�をお与えになった。これがなければ、ハイティーンの男の子はみんな野獣と化してしまうであろう。実によくできている。  むろんぼくも例外ではなく、触りたいという欲望と、羞恥心のせめぎあいに苦しむ青春を送った男性の一人である。デートをして、周囲に人気がなくなってくると、んもう頭の中はこのせめぎあいで一杯。 「触りたいでも恥ずかしい触りたいでも恥ずかしい触りたいでも恥ずかしい触りたいでも恥ずかしい触りたいでも恥ずかしい触りたいでも恥ずかしい触りたいでも恥ずかしい触りたいでも恥ずかしい」  というような状態になって、手を出したり引っ込めたり出したり引っ込めたりしたものである。  しかもこの接触願望というヤツは、徐々にエスカレートしていくところが厄介なのである。最初は、並んで歩いている時に肩先がほんの少し触れ合うだけでも、 「ワンダホー!」  と感激するのだが、事態がそこからちっとも進展しないと、たちまちワンダホー度が下がってくる。そこで羞恥心とせめぎあいながら、さらなる進展を目指して、今度は手を握っちゃおう、と考えるわけである。で、手に触れたら、次は肩へ腕を回しちゃおう、その次は腰へ腕を回しちゃおう、その次はいよいよ唇と唇の接触をば……とエスカレートしていく。  しかしこの唇と唇の接触というのは、男性の接触願望の中でもかなり特殊な位置を占める。ようするにその前段階と比べると、大きな飛躍があるのである。手を握るだけならば小学生でもフォークダンスの時に経験できるが、接吻《せつぷん》となるとそうはいかない。まったく未知の、大人の行為である。  それだけに接吻に関して、ハイティーンの男の子は特別な思い入れがある。いつ、どこで、どのようにすべきか。事前にかなり頭を悩ますのは当然のことである。ぼくの場合はまだ交際する相手もいない内から、実に熱心に接吻の稽古に励んだ。 「やはりベロと唇を鍛えなきゃいかん!」  という発想のもとに、コカコーラのホームサイズの壜《びん》を相手にして、連日レロレロチュバチュバと訓練を怠らなかった。あるいは妹が所有していた�くまさんだっこ人形�をひそかに部屋へ連れ込んで、 「さゆりさん……好きですッ!」  などと叫びつつ抱きついて、強引に唇を奪うような練習を熱心にした。おかげで妹のくまさんだっこ人形の口の周りは、ひどくツバ臭くなってしまい、人形ながらも哀れであった。  このように日々鍛練を怠らず、ぼくはその日を待っていたわけだが、いざ本番という時はやっぱりアガッてしまい、全然練習の成果を生かすことができなかった。ぼうっとしちゃったのであまりよく覚えてないんだけど、なにしろ勢いをつけて、 「おおりゃあ!」  と接吻しようとしたがために、唇と唇の前に、鼻と鼻が激突して鼻血が飛び散りそうなほど痛かったことだけ記憶に残っている。ううう、情けないなあ……。  五 面倒な合体  ここに男と女がいるとする。  二人は一応肉体的にも精神的にも健全な男女だとする。  この場合、二人の関係の到達点というかゴールというか最終目標というのは、いったい何であろうか。宇宙と同じで、男女の関係には果てがないのだろうか? それとも果てはあるのであろうか?  果て、と呼ぶのが適当かどうかは分からないが、そこまで行けば「やれ一安心」という区切りみたいなものはあるように思う。まず第一の区切りは�合体�。そして第二の区切りは�結婚�である。今回はこの第一の区切りである�合体�について考察してみたいと思う。  男は、女性と交際し始めた場合、誰しもがこの合体行為を目指して奮闘努力する。例外というのはほとんど考えられない。百人いれば百人ともが、一人残らず合体行為を念頭に置く。その願いの成就のためにのみ、女性と交際する輩《やから》も多い。 「合体なんて一時の快楽に過ぎない。後には虚しい風がひゅるるうーと吹くのみではないか。つまらんことさッ」  などと頭では考えたりするものの、下半身に住む暴れんぼう将軍はひたすら一時の快楽を追ってハイヨーと先走ったりしてしまうのが常。男は下半身だけ人格が別物、と言われるのは、他ならぬこの暴れんぼう将軍のせいである。  特に血気盛んな十代後半から二十代半ばにかけては、状況の判断を脳ではなく、下半身の暴れんぼう将軍が下すことも多い。 「いかんいかん。そんなハシタナイことをしちゃいかん!」  と脳が必死でストップをかけても、 「バーロー、どけどけい!」  と暴れんぼう将軍が見切り発車をしようとするのである。これには本人も大変往生してしまう。  だからこの年代の男性というのは、脳と下半身とのせめぎあいに常に苦しむ。デートをして食事が終わりに近づいた頃に、男性がふと黙り込んで難しい顔をし始めたら、十中八九このせめぎあいに苦しんでいるのだと判断していい。で、せめぎあった結果どうなるのかと言うと、大抵の場合、下半身の暴れんぼう将軍に軍配が上がる。とにかく将軍なんだから、我《わ》が儘《まま》なのである。  さて、かように深き懊悩《おうのう》の末に、暴れんぼう将軍の命により、いざ合体をばという段取りになるわけだが、事はそう上手く運ばない。何しろ合体行為というのは、そのへんでパッパカ行えるような内容の行為ではないのである。モトを正せば動物的な生殖行為であるのだからして、犬君や猫君みたいに遠慮せずにいつでもどこでも誰とでもホレホレーとやっちゃってもよさそうなものだが、そうはいかない。そうだったらいいのになあ、と世の男性はみーんな夢見るけれど、それは所詮《しよせん》夢に過ぎない。  現実には、人間としての尊厳を保つべく、合体行為ができるだけ他人の目に触れないような場所選びから始まる。男性にとっては、これが結構大変なのである。  一番手っとり早いのは、自分の部屋もしくは相手の部屋へ行く、という作戦。しかしこの作戦展開が可能なのは、お互いが一人暮らしであるという条件付きである。例えばまだ高校生や大学生で、親と同居している場合は家で行うわけにはいかない。じゃあ思い切って森の木陰でドンジャラホイ、しゃんしゃん手拍子足拍子、という作戦はどうだろう。ワイルドでいいかもしれない。いいかもしれないが、かなり勇気も必要である。場合によっては人間としての尊厳が傷つけられる展開も予想される。そういう展開はいやだわいやだわ、と誰しもが思う。  そこでにわかに脚光を浴びてくるのが、ラブホテル突入作戦である。ま、確かにそれなりの金はかかるが、この作戦展開ならば、人間としての尊厳が傷つけられるケースは少ない。入ってしまえばこちらのもの、大奥が暴れんぼう将軍を待ってます、という世界ではないか。  しかしながら年若い男性にとって、このラブホテルというのも結構敷居が高いものなのである。ぼくなんかは未だに恥ずかしくて苦手である。 「ラブホテル行こうぜい!」  なあんて明るい口調で宣言することは絶対にできない。どうしてもこそこそモジモジふにゃふにゃドキドキしてしまう。  三十面下げた現在でもその調子だから、まだ合体初心者であった高校生の頃なんかはホントに大変だった。交際していた彼女を何とか騙《だま》して、そういう所へ連れ込みたいと切実に願い、計画を立案したまではよかったが、どうやって入ったらいいのか分からない。岡山の市内にひっそりと建つ「ホテル西川」というラブホテルの前を、 「このヘンは静かですねえ!」  などと言いながら、何度行ったり来たりしたか知れない。彼女の方も、ぼくがその気でいることに気付いているらしく、 「ほんと静かねえ」  などと目を伏せて答え、まんざらでもない様子だったが、ぼくはどうしても中へ入る勇気がなかった。恥ずかしくて恥ずかしくて、気が狂いそうだったのである。あてもなくホテルの周囲をぐるぐる歩き回った挙句、あまりの緊張と羞恥のために、気持悪くなっちゃった記憶がある。  合体行為というのは、本来気持いいものであるはずなのに、そこに至る過程において、男は時として気持悪くなっちゃうものであるのだなあと、高校生のぼくは感じ入った。この時の経験がもとで、合体って面倒くさいなあと未だに思うぞ、いやホント。  六 難解なプロポーズ  プロポーズはむずかしい。  男性としては、この文句を考えることで随分と悩む。何故そんなに悩むのかと言えば、やはりカッチョよく決めたいと願うからである。カッチョ悪くてもいいかあ、と割り切ることができるのならば、そう悩む必要はないだろう。風呂上がりにステテコ一丁であぐらをかいて、ウチワなどバサバサ使いながら、しかも青ノリなどくっついた状態の前歯を見せて、 「いっちょう結婚でもすっか!」  などとプロポーズしてもいいや、と思い切ることができれば、これは楽である。しかしそれはないだろう、と誰しもが思う。プロポーズなんて一生に一度くらいしかしないものなんだし、やっぱりもうちょっとカッチョつけたい。  何故そんなにカッチョを気にするのかと言うと、理由はただひとつ。相手に断られたくないからである。女性としてはやはり、ステテコ姿よりもスーツ姿でプロポーズされる方が嬉《うれ》しいであろう。ウチワをバサバサ使われるよりも、指輪など差し出された方が嬉しいであろう。前歯に青ノリがくっついているよりも、オードトワレの香りが漂っている方が嬉しいであろう。という具合に考えていくと、これはどうしてもカッチョつけざるを得ないのである。  そこでプロポーズの言葉および周囲の状況は、できるだけカッチョいいものが望ましいという結論に達し、男性は悩み始めるのである。 「プロポーズに適したカッチョよさとは、どんなものであるのか?」  これは大命題である。何しろ場合が場合だけに、普通のカッチョよさでは通用しないような気がする。単純に考えると、新品のイタリアンスーツなどを着用し、ぴかぴかの靴を履いて、もちろん散髪へ行った直後の髪型で、バラの花束および給料三ヵ月分の指輪を持って颯爽《さつそう》と登場すれば、 「んもう決まりネ」  という感じがしないでもない。まあ普通のデートならばそれでもいい。しかしことプロポーズに関しては、この格好ではいただけない。 「俺は全身でガンバッてる!」  という主張が前面に出すぎて、かえってカッチョ悪く思われてしまうに違いない。全身ガンバリズムが裏目に出て、かえって軽薄な感じがしてしまうのである。  といって前述のようなステテコ一丁ファッションでは無神経である。軽薄と無神経、この隙間《すきま》を縫うようにして、誠実さと責任感と清潔さが溢《あふ》れるカッチョいい格好をしなければならない。  格好だけではない。  プロポーズをする際の周囲の状況設定。これもおろそかにはできない。公衆便所の裏に彼女を待たせ、覗《のぞ》き窓からぴょっこり顔だけ出して、 「結婚しよう」  などと言っても上手くいくはずはない。あまりにも人が沢山いる場所も避けたいし、酔っぱらった勢いにまかせて言うのも誠実さに欠ける。女性はもっとロマンチックなものを求めているに違いないのだ。しかしながら港潮風遠い汽笛こんばんは五木ひろしです、などという横浜たそがれ的なざーとらしい状況設定も、かえってシラケそうである。適度にロマンチックで適度に誠実で適度に意表をついた場所、これが望ましい。しかしそんな都合のいい場所がどこにあるのだ!?  しかも格好と状況設定がうまくいったとしても、肝心の台詞はどうする? 何と言ってプロポーズすればいいのか、これこそが一番の問題ではないか。  言葉の選び方はむずかしい。何しろその一言で、これからの人生のコースが変わってしまう可能性もあるわけだから、いやがうえにも慎重になる。 「もしよかったら、嫌じゃなかったらでいいんですけど、結婚してくれませんか」  などと気弱なことを言うのは、いかにも生活に自信なさそうでダメだし、 「君の心はお見通しさ。ふッ……ぼくと結婚したいんだろ」  などと田村正和風の声色で自信たっぷりに言うのも厭味《いやみ》だし、 「ハラダムネノリ、ハラダムネノリを何とぞ何とぞよろしくお願い申し上げます。ハラダムネノリあと一歩、あと一歩でございます。何とぞご結婚下さい!」  などと絶叫して訴えるのも恥ずかしい。もちろん�結婚�という言葉を直接出さずに、暗に訴える方法もあるが、下手な言葉を選んでは誤解を招きかねない。 「ぼくと一緒に同じ夢を見ないか」  などと抽象的なことを言っちゃうと、ワケ分かってもらえずに、 「それどういう意味?」  などと訊《き》き返されるかもしれない。抽象的にカッチョつけた台詞がすべった場合の恥ずかしさたるや、筆舌につくしがたいものがある。ちなみにぼく自身はこのテで何度も恥ずかしいメにあっている。  とにかくまあそんなわけで、プロポーズはむずかしい。仮にファッション、状況、台詞ともに素晴らしいアイデアを思いつき、 「よおおしッ! これで決まりだあ!」  と実行に移したところで、 「ごめん。私ね、他に好きな人がいるの」  という大ドンデン返しが待ち受けていないとは言い切れない。だから男性は、プロポーズに関しておおいなる脅えを感じているのである。だからこそ最近、お見合いなどというシステマチックなものが流行《はや》ったりしているのではないだろうか。  七 親との遭遇  結婚というのは面倒臭い。  女性にとってはそうでもないのかもしれないが、男性の立場から言わせてもらうと、ひどく面倒臭い。一から十まで、おしなべて面倒臭い。中でも特に厄介なのは�相手の親と会う�という一大イベントである。  これがもし見合い結婚であれば、お見合いの席で相手と相手の親と一挙に会えちゃうから、男性にとってはかなりラクである。  しかし恋愛結婚となると、そういうわけにはいかない。一応相手とはそれなりの交際があって、いよいよ結婚という段取りになってから、相手の親と会う。何故会うのかと言うと、ようするに例のアレである。 「娘さんをぼくに下さいッ!」  と森田健作風に潔く告げて頭を下げちゃったりする、アレである。  ぼくは頭を下げることに関してはいささかもヤブサカではないが、ほとんど初対面の人に向かって「くれ」とか「よこせ」とか「いただきだぜ」などと言うことに関してはかなり抵抗を感じる。照れ臭くて恥ずかしくて自分が厭《いや》になる。できれば口頭ではなく、申込書に「貴殿ノ娘ヲ所望ス。承諾書ヲ返送ナサレタシ」てなことを書いて送りつけ、署名|捺印《なついん》してもらって一件落着、という具合に済ませたいものだが、そうもいかない。やはり相手も人の親。娘の相手がどんな男であるのか、自分の目で確かめもしないで簡単に承諾するわけはない。  ぼくの場合は、結婚相手の親が秋田に住んでいたから、事は余計に厄介であった。何しろ遠いものだから、気が向いた時にフラリと訪ねていって告白する、というわけにはいかない。何月何日どこそこで、と段取りを決めて、それなりの席を設けなければならなかった。席を設けるということはつまり、これは何が何でもその席で告白しなければならないということであり、ぼくとしては著しい緊張を強いられるわけである。 「キチッと話してね。お願いよ」  などと彼女に釘《くぎ》を刺されるにつけ、ぼくは段々ユーウツになってきた。できればそういうことは話さずに、何となくいつのまにか結婚してました,というのが理想だよなあ。ああ厭だ厭だ。などと頭を抱えている内に月日は流れ、あっという間に彼女の両親と会う当日になってしまった。  場所は銀座にあるイタリアンレストランである。席をリザーブするとか、そういうことすら面倒臭くて嫌いなぼくは、すべてを彼女にまかせっきりだったので、この店へ行くのもこれが初めてであった。彼女が言うには、 「この店のスパゲッティ、美味《おい》しいのよう」  ということであったが、ぼくとしてはスパゲッティが美味《うま》かろうが不味《まず》かろうが、ラザニアが熱かろうが冷えてようが、そんなことは関係なかった。カチコチに緊張しちゃってそれどころではなかったのである。  当日ぼくはガラにもなくネクタイを締め、ジャケットを羽織ったサラリーマン風スタイルに身を固め、彼女を伴って銀座へ出掛けた。五分ほど早く着いたのだが、彼女の両親は既に席に座って待っていた。 「うッ、しょっぱなから悪印象を与えてしまったかッ!!」  ぼくはたちまち身の竦《すく》むような緊張のルツボへと陥った。それをとりなすように、彼女が間に入ってアレコレと話をしてくれたのだが、ぼくの耳には右から左であった。食事が始まり、次々に運ばれてくる皿の中身を平らげながら、 「いつ言えばいいのだあ〜」  と、ぼくは絶望的な気分になった。食事の前に言っちゃうべきだったろうか、それともスープの後だろうか、あるいはデザートを食べながら告白するのが正しいのか。考えれば考えるほど、こういう告白のタイミングというのは難しいものである。「今かなッ?」と思って、 「えーと実はですねえ……」  などと話し出そうとすると、彼女のお父さんが急に、 「そういやこのあいだ会社でな……」  などと世間話を始めちゃったりする。んもう神様のイジワルッ、知らない知らないッ、という感じである。  そんなふうにしてぼくは話し出すタイミングを悉《ことごと》く失い、彼女の両親の世間話にふむふむとうなずくばかりで、フルコースの食事を終えてしまった。そしてコーヒーも飲み終え、テーブル上空に「こいつ何も言わないつもりか……?」という雰囲気がもやもやーんと漂い始めた頃になって、 「じゃあ、まあそういうことで一緒になりますんで、よろしくお願いします」  と早口に言って、席を立った。我ながらまことに中途半端でカッチョ悪い告白であった。しかしまあ、それでもこうやって人並みに結婚できてるわけだから、別にいいのだ。放っておいてちょうだい。  八 美しい結婚式とは  最近の若い女性の結婚観を耳にするにつけ、ぼくは他人事《ひとごと》ながら少々心配になることがしばしばである。 「やっぱり六月でえ、お色直しは三回か四回してえ、新婚旅行はオーストラリアでえ、みたいなー感じですう」  なんてことをシレッとした顔で言われちゃうと、必殺の右回し蹴《げ》りを炸裂《さくれつ》させたくなってしまう。  どうも彼女たちは、結婚式と結婚を混同しているようなフシがある。結婚というのは、結婚式の翌日からの五十年六十年の退屈な生活のことを指すはずなのに、彼女たちの頭の中は白いウエディングドレスやキャンドルサービスや指輪交換やてんとう虫のサンバやご両親に花束贈呈や冗談の滑る司会者や政治家からの祝電や、そういうものでいっぱいであるらしいのだ。  ま、彼女たちの多くは夢見るお年頃だったりするわけだから、そういうことを考えるなと言うのも無理な話なのかもしれない。確かに五十年六十年と続く退屈な結婚生活のことばかりを考えていたら、すっかり暗くなっちゃって結婚なんかする気にはなれないに違いないし。もしかしたらそれをゴマカすためにこそ、華やかな結婚式というのが催される習わしなのかもしれない。  しかしそれにしても結婚式に豪華さや華やかさばかりを求める風潮は、そろそろ何とかならんものだろうか。帝国ホテル富士の間やホテルオークラ孔雀《くじやく》の間や平安閣やハワイの教会もいいけれど、何か他にないのか、と言いたい。  ぼくが個人的に素晴らしい、美しいと感じる結婚式というのは、例えば三浦哲郎の小説『忍ぶ川』の中で描かれているような、小さくて質素で、しかし真実の愛情がそこに籠《こ》められた結婚式である。この結婚式は、主人公の若い二人が貧しいために、東北の片田舎にある新郎の実家にて取り行われる。出席者は新郎新婦と新郎の両親、姉。新婦は天涯孤独の身の上であるゆえ、たった五人の結婚式である。母親がいつもよりもほんの少しだけ贅沢《ぜいたく》な料理を作って供し、全員がこれを食べる。そしておごそかに酒を酌《く》み交わす内に、それまで黙り込んでいた父親が急に高砂《たかさご》を謡い始めるのである。父親は体が悪いために、謡っている内に段々手が震えてきて、お膳《ぜん》がカタカタ揺れる。周囲のみんなは心配して止めようとするのだが、父親は決して謡うのを止めようとしない……そういう結婚式である。もしこの世のどこかに、神様というものがいらっしゃるのなら、おそらく彼は六人めの出席者としてこの結婚式に臨席しているはずだとぼくは思う。こういう二人を祝福しない神様なら、そんなものはこっちからお断りである。  それから三年ほど前にオーストラリアの西部にあるパースという街を訪れた時、ここで見掛けた結婚式も素晴らしかった。会場は街中を流れるスワン川のほとりにある、広々とした敷地の教会。出席者は、この教会の庭に集まる。刈り込んだ芝生が敷きつめられた気持のいい庭である。時刻は午後三時。みんなお茶を飲みながら、新郎新婦の幸福を祝うのである。ガイドの人に尋ねたところ、この庭の使用料はタダ。申し込めば、誰でも使うことができるらしい。午後三時の明るい日差しの中、芝生に寝転んだり、木陰に座ったりして、お茶を飲みながら歓談する出席者たちの姿を眺めている内、 「もう一度結婚式をしてみたいッ」  という思いにかられてしまった。彼らはとても美しかった。そしてここにも、きっと神様が出席しているように思えた。  さて、じゃあそういうお前はどんな結婚式を挙げたのだ、と問われると、答えるのがちょっと照れ臭い。  式自体は仏前結婚というやつである。池袋にある大きくも小さくもないお寺で、式を挙げた。出席者は双方の両親兄弟親戚のみ。所要時間約一時間——式自体は三十分足らずのものであったと記憶している。  式を挙げた後は、友人関係を会費制で招いて、原宿にあるスタジオVという花屋さんの地下で、披露宴とやらを催した。幸いぼくには劇団東京壱組という強い味方があったので、宴は大いに盛り上がった。親戚や友人のスピーチは必要最小限におさえ、後はもう壱組の役者さんたちの歌や踊りで楽しませてもらったわけである。終盤、ぼくが自分で脚本を書いた『二十年後の原田家』というお芝居を演《や》ってもらい、これも大いにウケた。このあいだ久々に読み返してみたら、思った以上におもしろかったので、我ながら驚いた次第である。  この時用意した引出物は、日本酒の入った陶器の招き猫で、値段は確か一個七百円だったと思う。安っぽくて下らないものだが、先日友人の家を訪れた際に、この招き猫が玄関の靴箱の上に飾ってあるのを見て、何とも言えず幸福な気持を味わった。ぼくの結婚式にも、果たして神様はご出席して下さっていたのだろうか?  九 新婚旅行は飴《あめ》であるか  何故、人は結婚をすると新婚旅行へ出掛けるのだろうか?  よくよく考えてみると、これは不思議なことである。結婚をしたからといって、式の直後に旅行へ出掛けなければならないいわれはどこにもない。新婚旅行があるのなら、新婚餅つきとか新婚木登りとか新婚水泳とか新婚玉乗りとか新婚重量上げとか、いろいろあってもよさそうなのに、そういうものは一切ない。あるのは新婚旅行だけである。  何故、旅行でなければならないのか? ここんとこが甚《はなは》だギモンである。  つらつらと考えてみるに、これはやはり日本古来の伝統儀式としての�結婚�のありかたに、大きな理由のひとつが求められるのではなかろうか。ま、簡単に言うと「鞭《むち》の前に飴を」という発想からきているのではないかと、ぼくは推測するのである。  ようするに日本の結婚というのは(今でも本当はそうなんだけどね)詰まるところが家と家の繋《つな》がり。女の人は男の人の家へ�嫁入り�し、その後の数十年間を男の人の家族と一緒に暮らすわけである。これは想像するだにツライ。意地悪もされようし、厭味《いやみ》も言われようし、時にはひっぱたかれたりもするだろう。しかし嫁はそういう仕打ちに堪えて家事をこなし、子育てをし、旦那を立てなければならない。結婚=嫁入りというのは、つまりそういう傍若無人なシステムだったのである。  しかしながらそういうシステムの全貌《ぜんぼう》を、嫁入り前の娘に最初から明かしてしまっては、来る嫁も来ない。そこで鞭の前に飴を与える意味で、 「まあまあ、若いお二人でゆっくり湯治でもしてらっしゃいな。もちろん子作りにも励んでちょうだいね。ひっひっひ」  てなことをヤリ手婆あ風の姑《しゆうとめ》が言って、二人を旅へと送り出したのではないだろうか。嫁の方はこの姑の言葉にホロリときちゃったりして、 「ありがとうおっかさん。あたし帰ってきたら一生懸命働きます。オロロン」  なあんて健気なことを言いながら、新婚旅行へと出掛けたのではなかろうか。そうだそうだきっとそうだ。新婚旅行というのは、きっとこういう背景から生まれたのだ。  が、時あたかも平成の世。女性たちは強くなり、家族制度が崩壊し、結婚=嫁入りの図式も成立しなくなった。つまり鞭がなくなっちゃったのである。 「そんなことないわッ。私なんか姑と同居させられてツライんだから本当に!」  と反論する人もいるだろうし、あるいは本当に鞭で「ぶってぶって!」とぶたれるのが趣味である人もいるだろうが、ま、おおむね現代の結婚というのは、昭和初期などに比べれば鞭的要素が少なくなったことは事実。一方で、飴の方はどんどん大きくなって、収拾がつかない。一個十円や二十円の飴ならば問題はないのだろうけど、現代の女性が欲しがる飴はやたらに高価なのである。  当然、飴のチャンピオンとしてばんばかばーんと君臨する旅行も、どんどん内容が高価になっている。 「いやいやッ、だってよしこちゃんとこは新婚旅行ハワイだったのよ。私は絶対オーストラリアじゃなきゃイヤ」 「はるみちゃんはオーストラリアだったんだから、私はイタリア・スペインの旅じゃないと釣り合い取れない!」 「中野さんとこはイタリア・スペインなんだから私はヨーロッパ一周じゃなきゃ絶対にイヤイヤッ」  てなことを言って、際限がない。  まあ若い内に海外へ出て、異文化に触れるというのはとても良いことだから、ぼくもそれを全面否定はしない。しかしどうも新婚旅行のカップルを見ていると、異文化に触れて何かを得ようという意欲があるとは思えないので困りものである。 「みんな行ってるから私も行く」  というノリで海外へ新婚旅行し、ありきたりな名所旧跡をザッと見て、エネルギーの大半をブティックや免税店で使い果たしているようにしか思えない。これじゃあイタリアへ行こうがアメリカへ行こうが熱海へ行こうが同じである。控え目に意見するけど、ちょっと情けなくないですか?  しかしまあ、ぼくもあんまりエラそうなことは言えない。何しろ新婚旅行はやっぱり海外へ行ってしまったからである。しかしぼくの場合は、これが生まれて初めての海外旅行だったから、得るものも大きかったと断言したい。買物はほとんどしなかったし、写真もそれほど撮らなかったけど、鮮明に記憶に残る旅であったという自負がある。  できればもう一度、新婚旅行をしてみたいと願って止まないのだが、どうやらそれは見果てぬ夢であるらしい。うう残念だ。  十 新居は妥協の産物だ  男と女がここにいて、互いに恋をする。精神的にも肉体的にも繋《つな》がりを持つ。さて次の段階として何を願うのかというと、 「一緒に暮らしたいッ」  ということを願う。寝食を共にして、できるだけ多くの時間を一緒に過ごしたいと思うわけである。  同じ屋根の下に暮らす。  もしかしたら結婚というのは、この願望から派生してくるものなのかもしれない。ま、その前段階として同棲《どうせい》という形もあるわけだけれど。  同棲、結婚、いずれにしても同居するために必要になってくるのは、やはりスペースである。同じ屋根の下に暮らすためには、屋根がなければ話にならない。 「いーや、屋根がなくても同居はできるッ! 愛さえあればッ!」  と拳《こぶし》を固めて言い張る人もいるかもしれないが、それはやっぱ無茶である。愛があっても、どうすることもできないことが世の中には存在するのだと悟るべきである。  そういう無茶な人はひとまずこっちへ置いとくとして、普通の恋人たち、あるいは新婚さんは、二人のための住処《すみか》を探し始める。これが結構タイヘンな作業なのである。住宅事情のいい田舎ならばまだしも、東京や大阪などの大都市での部屋探しは困難をきわめる。よほど金持ちの二人でないかぎりは、妥協との戦いになることは必至である。  新居探し。  おそらく愛し合う二人は、この言葉に対して大いに甘い期待を抱くことであろう。現実をとりあえず横っちょに置いといて、二人の暮らしの青写真を思い描くことは、確かに楽しく、夢膨らむ行為である。 「窓際にソファを置いて、ダイニングに丸いテーブル置いて、サイドボードの上に花瓶置いて、それからねーそれからねー、可愛《かわい》いシェードのスタンドも置いて、冷蔵庫も大型のやつ置いて、食器洗い機も置いて、観葉植物も置いて、えーとえーと……」  などと、いろんなものを置こうとする。しかし現実はキビシイ。そんなにいろんなものを置いたら、自分たち二人の身の置き場がなくなっちゃうのである。実際ぼくの友人で、結婚と同時に奥さんの実家から�超豪華嫁入り家具五点セット�がどどーんと届き、部屋じゅう家具だらけになって途方に暮れまくった奴がいる。 「俺《おれ》って、何だか箪笥《たんす》と結婚したような気がする」  と、彼は愚痴をこぼしていたが、本当に気の毒である。親というのは自分の見栄のために目がくらみ、こういうありがた迷惑なことをしがちなので、これから結婚を考えている二人は注意しなければならない。  ま、とにかく実際に新居探しを始めるなり、愛し合う二人は現実のキビシサを知ることになる。新婚早々、百パーセント満足できる住宅を購入するにしても、賃貸の部屋に住むにしても、新居探しの最大のポイントは�妥協�である。 「不動産に掘り出しモノはない」  と、ある不動産会社の社員も言っていたが、本当にその通りである。不動産には厳然たる相場というものがあって、これよりも安い物件というのは、必ずそれなりの理由があるのである。  例えばぼくの大学時代の知り合い某君は、不動産屋でそれこそ掘り出しモノの物件を発見して小躍りしたが、よくよく部屋を見てみると、やはり妥協ポイントが見つかった。駅から近く、日当たりもよく、快適そのものなのに家賃が相場よりも安いのは、ただ一箇所の妥協ポイントのためであった。  それはトイレである。  どういう意図からか、この部屋のトイレは扉を開けるとキン隠し(和式便器のあのでっぱった部分ですね)がこちらを向いて据えつけてあった。ようするに入った人は、いきなりキン隠しとごたーいめーん、という状況になるわけである。不動産屋の説明によると、大家さんが占いか何かに凝っていて、方角が悪いとか何とか言って、無理やり便器を反対向きにつけたのであるらしい。 「んー。ま、いいか」  某君はこの奇妙なトイレに関して、即座に妥協した。便器の向きよりも、家賃の安さの方を優先したのである。ところが実際にこの部屋に住んで、トイレを使ってみると、これが使い難いことおびただしい。トイレへ入るたびに、一々壁を伝って向こう側へ回り込む必要がある。しかも向こう側は便器と壁との間が十五センチくらいしかなく、小用の場合は爪先立って壁にへばりつくようにしなければならない。馬鹿みたいである。  まあ普通の住宅はここまでヘンな欠点は少ないだろうが、しかし多かれ少なかれ妥協ポイントは存在する。男女の間でこのポイントにズレが生じ、別れ話に発展しちゃうこともあるくらいだから、たかが新居探しといって油断してはならないぞ。いやホント。  青春それはヘンテコなもの  一 自意識過剰との闘い  高校時代、ぼくはさまざまなモノや人とバトルを繰り広げていたが、中でも特に激しい闘いを展開したのは、他でもない自分自身であったと思う。  ようするに自意識というやつ。  多くの高校生が陥る自意識過剰のふかあ〜い泥沼に、ぼくもどっぷりハマッていたのである。この泥沼のおそろしいところは、泥沼の存在自体が分かりにくいという点であろう。泥濘《ぬかるみ》の中に腰まですっぽりハマり込んでいながら、本人は全然そのことに気づかないというところが怖いのである。  まあ自意識というのは多かれ少なかれ誰にでもあるものだが、高校生の場合、これが過剰気味になっているかどうかを知る手掛かりは、登校前にある。寝坊をして焦っているにもかかわらず、洗面所でじっくり髪型をなおしたりするようになったら、要注意。鏡の前で頬《ほ》っぺたにできた小さなニキビをしきりにいじくって、気にし始めたりしたらもう危ない。 「ヤだなあ、こんなところにニキビできちゃって。すごくカッチョ悪い」 「ううッ、すごく目立つ」 「ニキビがあんまり目立つと、こいつ欲求不満じゃねえのか、なあんて思われちゃうかもしれないし。ヤだなあ」 「とにかくすごく目立つ。困った……どうすればいいのだ」  なあんて高がニキビ一つで、ずいぶんいろんなことを考えたりするわけだが、実際にはオメーのツラなんて誰も見てねーよバカというケースがほとんどである。しかし自意識過剰になっている高校生は、自分の顔が誰からも注目されていないなんて、これっぽっちも思っていない。ニキビが一つ頬っぺたにできていると、道行く人もクラスメートも先生も皆が皆、そのニキビに注目してあらぬ感想を抱いているのではないかと思ってしまう。だからよけいに気になる、という悪循環を繰り返しているわけである。  もちろん自意識というのは、こういったマイナス要因に対してのみ働くものではない。プラス要因の場合も、思いっきりせっせと働く。  例えば新しい革靴なんかを買って、これを学校に履いていった場合。そこには強烈な自意識が働いて、履いている自分と同じくらいのテンションで周囲の人間たちもこの靴に注目している、と思い込んでしまう。道行く人も犬も猫も鳩も電柱も、その新しい革靴に目を止めて、 「おッ、いいじゃ〜ん」  と思っているような気がして、歩き方がついギクシャクしたりする。その状況に慣れてきて、どうやら誰も注目していないみたいだぞと薄々感じてくると、今度は逆噴射のスイッチが入って、人前でこれみよがしに脚を組み換え、 「見てくれ見てくれ見てくれここだここだ足だ足だ足だっつーのッ!」  と主張したくなったりする。まことに自意識というのはコントロールしがたい、厄介なものである。  高校時代の三年間で、ぼくがこの自意識と一番|熾烈《しれつ》な闘いを演じたのは、忘れもしない三年生の冬であった。十一月の末で、周囲は当然のことながら受験へ向けてのラストスパートに入っていた。ところがぼくは十一月の半ばに私大への推薦入学が決まっていて、友人たちよりも三ヵ月も早く受験から解放されていた。  もう勉強しなくていい、というのは確かに嬉《うれ》しかったが、ほどなくぼくは言いようのない孤独感に苛《さいな》まれた。孤独感というより、孤立感とでも言った方が適当か。ようするに遊んでくれる友達が、一人もいなかったのである。受験のプレッシャーから解放されて、すっかりはしゃいで友人宅を訪ね、 「遊ぼうぜー」  なあんてお気楽な調子で受験勉強の邪魔をしたりすると、露骨にイヤな顔をされたりやんわりと皮肉を言われたりした。立場が逆だったらぼくも同じように迷惑に感じただろうから、まあ当然のことである。  従ってこの時期、ぼくはどうしても一人で過ごす時間が多くなった。一人遊びというのはつまらないものである。最初の内は喫茶店へ行って本ばかり読んでいたのだが、ぼくの若い肉体と精神は新しい変化を常に必要としていたので、毎日毎日喫茶店で読書するだけでは耐えられなくなった。友人の助けを借りずに一人だけで楽しめる新しい遊びは何かないのかッ?  あったのである。  ある日喫茶店からの帰り道に、通学路からはちょっと外れた通りを自転車で走っている途中、ぼくは映画館の前を通りかかった。第二ニシキ館という、裏ぶれた三流映画館である。上映されているのは日活系のポルノ映画三本立てで、 「若妻むんむんむらむら日記」 「未亡人下宿湿ってます」 「悶絶OL物語」  なあんてすごい題名のポスターがべたべた貼《は》られたりしていた。視界の片隅でこの桃色ハデハデポスターを捉《とら》えるなり、ぼくは急ブレーキをかけて、 「これだッ!」  と思った。  高校の入学当初から、この映画館の前を時折通るたびに、一度でいいから入ってみたいと歯ギシリをしていたのである。友人の中にはこの映画館に学生服のまま堂々と入っていく奴もいたが、ぼくは前述の通り自意識が異様なほど過剰だったし、臆病でもあったから、どうしても近づくことができなかった。 「やっぱ十八歳未満お断りって書いてあるしなあ……」  なあんて急に道徳的な言いわけをひねり出して、勇気のない自分をごまかし続けていたのである。  しかし今ならば、ぼくは入れるような気がした。何せ大学にはもう半分入ったも同然なんだし、十八歳の誕生日まであと四ヵ月ちょっとだし、誰にも文句は言われまい。しかもこの時のぼくは、幸運にも私服を身につけていた。 「よしッ!」  ぼくは勢い込んで決意し、映画館を回り込んだ脇にあるパチンコ屋の前で自転車を降りた。頭の中はもうポルノポルノポルノポルノポルノと、ポルノ一色である。ぼくは頬を上気させ目を釣り上げ鼻の穴をおっぴろげて映画館に向かった。  自転車を降りた直後はこんなにも興奮して我を見失っていたにもかかわらず、映画館の看板が見え始めるなり、ぼくはハッと我にかえって歩く速度を落とした。興奮と入れ代わりに、自意識がどかんと芽生えちゃったのである。 「入るところを誰かに見られたりしたら」  そう思うと、急に気力が萎《な》えそうになった。しかしここで引き返しては、高校一年や二年の頃と同じ挫折感《ざせつかん》を味わうばかり、ええいお前はもう大学生なのだ、そうなのだ、と自分を励ましながら何とか前へ進む。 「まずは偵察だ」  そう思って、一度めはゆっくり歩いて映画館の前を通過する。その際に鋭い視線を券売場に飛ばし、値段や上映作品を吟味する。入場料は四百円ということがすぐに分かったが、上映作品の方は似たようにエッチな題名が三つも並んでいるので、とても覚え切ることができず、 「若妻股間温泉OLセーラー服ぬれぬれの秘め事更衣室」  とごちゃごちゃに混ざって頭の中にインプットされた。んもう何が何んだかワケ分からんが、とにかくとびっきりスケベな映画が三本上映されている、という大事なことだけは分かった。 「よし……四百円四百円」  ぼくはポケットの中をさぐり、そこに五百円以上入っていることを確かめてから、再び踵《きびす》を返して映画館方面へ向かった。スケベな看板が見えてくる、券売場が見えてくる、その奥にある怪しげな扉も見えてくる。しかし近づくにつれて、またもや自意識が顔を出してぼくの行動に待ったをかけた。 「もし! もし万が一、友人の母親なんかに入るところを見つかって、後で告げ口されたりしたら……」  そう思うと、たちまち頬が赤くなってきて頭の芯《しん》がじんじんした。おかげでぼくはまたもや映画館の前を素通りして、最初のパチンコ屋の前まで戻ってしまった。 「馬鹿馬鹿! おれの馬鹿!」  ぼくは自分自身を罵《ののし》り、もう一度気合を入れ直した。 「誰も見てない! 周りを見てみろ、誰も見てないじゃないか!」  ぼくは慎重に周辺の人通りの具合を確かめ、もう一度映画館に向かって歩き出した。映画館前には幸いにも人気《ひとけ》がなかった。今こそチャンスだッ、と思ってぼくは歩く速度を上げた。ポケットの中に手を突っ込んで四百円を握りしめ、既に用意は整えてある。あとは券売場に行ってこの四百円で入場券を買えば、はいスケベ一名様エッチな世界へごあんなーい、むちむちのぷりぷりのうっしっしですよう、という段取りになるわけだ。  ところがぼくはまたもや映画館の前を素通りしてしまった。券売場の中にすわっているおばさんと目が合ってしまったのである。その視線は暗黙の内に、 「あんた高校生でショ! だめよあたしの目をごまかそうったって!」  と語っているような気がしたのである。いざ券を買おうという段になって、おばさんにそんなふうに注意されたりしたら! その恥ずかしさを思うと、どうしても映画館の前で立ち止まれなかった。  結局ぼくは、何度も映画館の前を行ったり来たりした挙句、過剰な自意識との闘いに敗れて、パチンコ屋の前に置いておいた自転車に跨《また》がり、とほほほと家路についた。ポケットの中でずうっと握りしめていた四百円が、汗でぬるぬるになっていたのを印象深く覚えている。  二 勉強って何だ?  高校時代からのぼくの友人でNという男がいる。  この男は高校の頃からかなり変わり者であったが、現在はそれに輪をかけて変わり者になりつつあり、ちょっと手がつけられない状態である。しかしながら�ちょっと手がつけられない�のは社会的なオカタイ通念に照らし合わせた上でのことであり、人間的にはここ数年で目ざましい成長を遂げた男でもある。彼は今や長年自らが指揮をとって運営してきたデザイン会社をあっさりと棄て、毎日ぶらぶらして、絵なんか描いたりして暮らしている。一体どうやって収入を得ているのかは謎《なぞ》だが、とにかくそんなふうにして哲学的、芸術的な生活を楽しんでいる。  現在のぼくはこのNのことを精神上の先生として尊敬し、�西早稲田の真理先生�などと呼んで彼の言葉には逐一耳を傾けているわけだが、先日、 「うーむなるほど!」  と膝《ひざ》を叩《たた》いて立ち上がってしまうようなことをいきなり言われた。彼の頭の中にあることは確かに哲学的なのだが、その言葉は常に分かりやすく、スッと胸に入ってくることが多い。この場合もそうだった。ぼくは彼に対して、 「文章というのは難しい。結構長い間書いてきたわけだが、書けば書くほど難しいということが分かってくる。んもう本当に嫌になっちゃう」  てな愚痴をこぼしてウサ晴らしをしていたのだが、これに対する彼の答えは以下のようなものだった。 「難しい難しいってお前、難しいから面白いんだろ。簡単だったり単純だったりすることってつまらないじゃないか。難しいからこそ面白い、面白いから長い間やってられるんだろう?」  これを聞くなりぼくは、漫画だったら「ガーン!」とかフキダシが頭の横に出そうなほどのショックを受けた。こんな簡単な真理にどうして今まで気づかなかったのか、不思議であった。簡単ですぐに誰にでもできてしまうようなことは、確かにつまらない。チャップリンの『モダン・タイムス』を例にひくまでもなく、単純な作業、簡単な仕事というのはすぐに飽きてしまって身が入らない。一方難しいこと、達成が困難なことは、なかなか上手《うま》くいかないからこそ面白い。本当にその通りである。ひょっとしたら学問や勉強の基本というのは、ここにあるのではないかとさえ思う。  ぼくがこの真理にもっと早く——例えば高校時代なんかにちゃんと気づいていれば、きっと勉強も面白く感じられただろうになあ、と思わずにはいられない。高校時代のぼくはいわゆる進学校というのに通っていたので、結構熱心に受験勉強とバトルを繰り返していたが、それはあくまでも受験のテクニックを身につけるための勉強であって、それ以上のものではなかった。だから当時のぼくにとって�難しいこと�は、イコール�嫌なこと�でしかなかった。表面的にちょこちょこっと学んでみて分からなかったりすること、あるいは最初から難しそうな気配を漂わせていることに関して、ぼくはすぐに及び腰になり、さっさと身を退くのが常であった。そして自分にとって�簡単�なことばかりに近づいて、問題集を解いて〇の数が多かったりすると、一人で悦に入ったりしていた。しかし今にして思うと、学問や勉強の本当の面白さというのは、当時のぼくにとって�難しい�ことの中にこそあったように思えてならない。避けなければよかった、もう少し�難しい�こと自体を楽しんでみればよかった、と後悔ひとしおである。  さてそんなわけで高校時代のぼくは、勉強に関しては完璧《かんぺき》に受験のための勉強しかしなかった。面白いとか面白くないとか、そういう次元で勉強をした記憶は一切ない。んもう最初から最後まで受験オンリー。高校入学直後から、ぼくは私立文系しか狙《ねら》わないつもりだったから、三教科のみを勉強して、それ以外の授業はほとんど棄ててかかっていた。現代国語、古文、漢文、英語、世界史。これだけがぼくにとっては勉強であり、他の教科は勉強ではないと思っていたのである。  おかげで理数系のテストなんかは、本当に目を覆いたくなるような出来であった。一番ひどかったのはやはり受験前、三年生の時の理数系のテストで、見事零点をとったこともある。小中高と結構長い間学生をやってきたわりには、零点だけはとったことがなかっただけに、この時はショックだった。  今でもそのテストを解いている時の心境はぼんやり覚えている。例によって、 「あー、ヤだなあ数学」  と溜息《ためいき》をつきながらテスト用紙を表に返して解き始めたのだが、五分もしない内にさっぱりちんぷんかんぷんであることが分かった。せめて零点だけはとらないようにしようと心掛け、最初の方の数式の問題にかなりの時間を割いた記憶がある。中盤から後半にかけては関数と図形の問題で、これはぼくにとって本当に難問だったが、一応白紙ではなく答えらしきものを書いた。 「ま、十点くらいはとれるだろう。いいんだ俺、私立文系だから。零点でさえなけりゃいいのいいの」  と自分に言いきかせつつテストを終えたわけだが、数日後、先生から返されたテストを見た瞬間、ハニワ顔になってしまった。解答用紙の上には赤くでっかい×がずらずら並んでいて、一番上に「0」と書いてあるのを目にするなり、全身脱力状態になった。本当は恥ずかしいので誰にも言わずにおきたかったのだが、同じクラスのH君という仲のいい友達にこの点数を垣間見《かいまみ》られ、 「お前、すげえ点数だな!」  と茶化されてしまったので、もう隠してはおけなかった。 「一生懸命答えを書いて零点というところがすげえな! 白紙で出せば、もう少しカッコついたのになあ!」  結構いい点数をとったH君は、鼻の穴をぷくぷくさせながらそんなことを言った。確かに彼の言う通り、こんなことなら最初から白紙で出せばよかったッ、一生懸命頭を使ってソンしたッ、と心底思った。  しかしながら今にして思うと、そういうセコイ考え方をしているからダメなのである。あの頃、どうして「何故自分にとって数学は難しいのか?」という根本的な問いかけをしてみなかったのか。前出のN君やクラスメートのH君は、二人とも文系でありながら数学は面白いと言っていた。特にN君は、 「数学はロマンチックだよ」  とさえ言っていたのに、ぼくはその真意を汲《く》もうともせずに無視し続けていた。実に物分かりの悪い高校生だったんだなあ。イヤんなっちゃう。  さてぼくにとって苦手で�難しい�理数系の教科に関する態度は、前述の数学のテストに代表されるようなものだったが、それ以外の、受験に必要な教科に関してはどういう態度で臨んでいたか? これはもう他の受験生の例に漏れず、記憶中心の勉強であった。とにかくもう何でもかんでも頭に詰め込んで覚える。漢字だろうが英単語だろうが年代だろうが、まず記憶。そのためにぼくが一番活用したのは、あの名刺の四分の一くらいの大きさのカードであった。表に英単語を書いて、裏に意味を書いたりして使う奴。あれを常に学生服のポケットの中に忍ばせておいて、しょっちゅう出しては記憶を確かめていた。原始的な方法ではあるが、こと記憶術に関してはこれが一番効果的であった。  当時ぼくは小説モドキを書き始めていたのだが、その原稿用紙もものすごく小さなサイズのものを使っていた。B6判というのだろうか、能率手帳くらいの大きさで四百字詰めだったから、一文字は蟻のような大きさになる。数学や物理や倫理など、自分に直接関係のない授業の最中に、教科書の陰にこの小さな原稿用紙を隠して、小説をしこしこ書いたりしていたのである。  ぼくは身長百八十センチの大男であるから、受験勉強用の小さな記憶カードと、この小さな原稿用紙をいつも携帯してちょこまか勉強したり小説を書いたりしている様子は、傍から見るとかなり滑稽であったらしい。まるでガリバーがフォークとナイフで空豆を食べているように見えたのだろう。 「お前、すごくヘンだよ」  と何度友達から言われたかしれない。しかしぼくはこの�ちょこまか式記憶術�と�ちょこまか式小説執筆術�を棄てようとはせず、高校卒業までこれを押し通した。後者に関しては確かに得るものはあって、現在こうして曲がりなりにも物書きとして生活しているわけだが、前者の記憶術に関して正直言って何の得るものもなかった。まあ確かに受験をクリアするという意味では役立ったかもしれないが、ただそれだけ。三十五歳の現在の自分にとって、あの頃ちょこまか記憶したことが何かの役に立っているかというと、答えは当然NOである。 「高校の勉強なんてそんなもんだよ」  と現在受験で苦しんでいる諸君は言うかもしれない。ひょっとしたらそういう受験生をかかえている親や先生も、そう言うかもしれない。しかし本当に高校の勉強ってそれでいいんだろうか?  正直に告白すると、ぼくは大学に入ってから、何をどういうふうに勉強したらいいのか分からなくて非常に困惑した。勉強イコール受験イコール記憶、という図式しか頭の中になかったから、大学の授業もそういうふうに受ければいいんだと思っていたのである。おかげでぼくは大学時代、ずうっと劣等生だった。小説を書く、という志があったからよかったようなものの、もしそれがなかったら本当にただの馬鹿である。  三十五歳になった今頃になって、ようやくぼくは勉強の仕方とか学問の仕方を掴《つか》みかけている。遅咲きで恥ずかしい次第である。高校時代にどの教科の先生でもいいから、 「馬鹿だなあ原田君、難しいから面白いんじゃないか。記憶するんじゃなくて考えるんだよ!」  と教えてくれる人がいたら、ぼくの人生はかなり変わったものになっていたのに、と思われてならない。  三 妄想との闘い  考えてみればぼくは少年の頃から夢見がちなところがあった。  いや、夢見がちというか、妄想癖と言った方が適切かもしれない。一人でぼんやりしている時だけならまだしも、友達と缶蹴《かんけ》りをしている最中などに、何かの拍子でふっと自分の世界に入ってしまうと、周囲の状況をまったく忘れて妄想に浸っていたりした。  例えば空地で遊んでいる時に、叢《くさむら》に手頃な石が一個転がっているのを見つけたとする。その石をじっと見つめている内に、拾い上げる自分の姿がもやもや浮かんでくる。それから野球のピッチャーのように振りかぶって、塀の向こうの家のガラス窓を狙《ねら》って投げる自分の姿が髣髴《ほうふつ》とする。ガラスがこなごなに割れ、その一部が部屋の中に飛び散る。ところが運の悪いことに室内には赤ん坊が寝ていて、その額にガラスの破片が突き刺さる。逃げ出すこともできずに立ち尽くしていると、やがて警察が現れ、ぼくを連行する。そして火曜サスペンス劇場でよくあるような厳しい取り調べがあり、ぼくはカツ丼を食っておいおい泣きながら、 「おらが悪かっただ!」  などと謝るが時既に遅し。ぼくは裁判にかけられ、死刑の宣告を受け、哀れ絞首台のツユと消えてしまう……。  というような妄想を、一個の石を見つめるだけで抱いたのである。そして数秒後にハッと我にかえり、 「石を投げなくて本当によかった。人生終わりになるところだった」  と心底ほっとしたりしていた。今にして思うと、このテの妄想癖はある意味で物語の構成力を高めるトレーニングになっていたはずだから、現在のぼくの仕事にも少なからず影響を及ぼしているかもしれない。つい先日も仲のいい友人から、 「原田は何でもかんでも物語にしたがる。無理にでも物語にしようとする」  という指摘を受けたのだが、改めて考えてみると確かに彼の言う通り。いつのまにかぼくは周辺にある様々な現実の断片を、必ず物語に置き換えて考えるような癖がついてしまった。友達がくしゃみをしても欠伸《あくび》をしても、滑っても転んでも犬に噛《か》まれても猿に犯されても、即座に頭の中でそれを一篇の物語にしてしまう。それもこれも元をただせば、少年時代からの病的な妄想癖に原因があるような気がする。  まあ小説家としてはそれがある意味で役立っていて文句もないのだが、思春期特に高校生の頃は、この妄想癖ははっきり言って邪魔であった。ちょっとしたことですぐに妄想を抱いてしまうから一々時間もくうし、翻弄《ほんろう》されて現実生活に支障をきたしたりもしたのである。  中でも邪魔だったのは、やはり性方面の妄想。これは強烈だった。何がどうなってるのか現実にはさっぱり分からないのに、友人などからの真偽入り混じった情報ばかりが沢山入ってくるもんだから、ぼくの妄想はかなり歪《いびつ》な形に肥大していた。高校時代に最も激しいバトルを演じたのは、他でもないこの性的妄想に対してであったように思う。  例えばある時、こんなことがあった。  高校二年生の夏休み前だったと記憶している。放課後、ぼくは例によってクラブ活動をサボり、行きつけのジャズ喫茶で文庫本を読んでいた。ちょうどこの時期くらいから、長年続けてきたバスケットボールのクラブ活動に見切りをつけ、不良文学青年というものを目指していたのである。そのジャズ喫茶には同じ高校ばかりでなく、市内の様々な高校から不良文学青年を気取る学生が集まっていた。ここへ来て一杯百五十円のコーヒーを飲みながら、これみよがしに煙草を吸い、難しい本を利口そうな顔をして読むのが、市内の不良文学青年たちのカッチョいいパターンだったのである。  今にして思うとホント馬鹿みたいだが、みんな結構その気になっていて、青臭い文学論議なんかを闘わせていた。初めてこのジャズ喫茶に入り、周囲の不良文学青年たちがしたり顔で、 「やっぱ三島がさあ」 「いや太宰がな」  なあんて喋《しやべ》っているのを耳にした時、ぼくは何の疑いもなく、 「カッチョいいなあ」  と思ってしまった。有名な作家たちの名前をフルネームではなく、友達みたいに苗字だけで呼び棄てにするのが、すごくカッチョよく思えたのである。だからぼくは足繁《あししげ》くこのジャズ喫茶に通うようになり、そこにたむろする不良文学青年たちとも少しずつ言葉を交わすようになった。  その日は同じ高校のH君が隅の方の席にいて、退屈そうにぼんやり考えごとをしていたので、彼の向かいに座ることにした。いつも通りコーヒーを注文し、学生|鞄《かばん》の中から佐藤春夫詩集(カッチョつけてるなーッ!)か何かを取り出して読み始めたところ、H君は急に身を乗り出して、 「原田おまえ知っとるか。ハンドボール部のA君の話」  と訊《き》いてきた。知らないと答えると彼は鼻の穴をやや広げて、 「あいつKとやったらしいぞ」 「やった!?」 「じゃからアレじゃアレじゃ」 「アレをやったのか! AがKと?」  Kというのは一年の時にぼくと同じクラスで、誰にでもサセる所謂《いわゆる》サセ子であると噂《うわさ》が立っていた女生徒である。別に不良少女でもないし、肉感的な雰囲気を漂わせているわけでもないので、噂は単なる噂に過ぎないのかもしれなかったが、どこの高校でもそんなふうに不名誉な呼称を与えられる女生徒が、一人や二人いるものである。 「どこでやったのだアレを!!」 「それがどうやら青カンらしいんよね」 「げ! 外でアレを!」 「うむ叢でな」  たちまちぼくはお得意の妄想の虜《とりこ》になった。叢の中で絡み合う高校生男女の姿。むっとするような草の匂い、照りつける太陽、ヤメテヤメテと嬉《うれ》しそうに呟《つぶや》くKさん、どひひひッと笑いながら学生服を脱ぎまくるA君。肌と肌が重なり合い、足と足がもつれ、手と手が絡み、問題の箇所と問題の箇所がアンビリーバボーに結合し、喘《あえ》ぐKさん。うひゃあー。てなことをマッハのスピードで妄想したのである。 「Aの奴、地べたでやったから膝小僧《ひざこぞう》が擦れて痛いのなんの、怪我しちゃったよ、なあんてことを得意げに話しやがった!」  H君は憤懣《ふんまん》やるかたないという顔でそう言った。一方これを聞いたぼくは、 「があゎん!」  と金槌《かなづち》で側頭部を強打されたようなショックを覚えた。地べたでやったから膝小僧が擦れて痛いのなんの——この描写は、当時まだ童貞だったぼくにとって、リアルこの上ないものであった。なるほどそうか、地べたでやれば膝小僧は痛いわけか。そうかそうかそうだったのか!  続いてぼくは�膝小僧が擦れて痛い�というたった一つの描写から、ならば太腿《ふともも》はこういう位置でこう絡んで、胸はこう、手はこう、口はこう……と二人の全身の絡み具合をマッハで妄想し、一人で鼻の穴を全開にしてふがふが言ってしまった。それは甘く切なく心地好く、そして何とも言えぬ悪徳の香りが漂う妄想であった。  H君と別れてジャズ喫茶を後にし、家に戻ってからも、この妄想はぼくを支配し続けていた。夕食の食卓を囲んで、おふくろやオヤジの顔を見ている内こそ、 「萎《な》え萎え〜」  という気分になったが、自分の部屋に戻って一人になり、机に向かうとたちまち妄想が浮かんできて、勉強も読書も何もかも手につかなくなった。 「いかん! 何をやっちょるのだおまえは。いかんこんなことではッ!」  と自分を必死で諫《いさ》め、漢文の勉強などに専念しようと思うのだが、全然集中できない。頭の中がもやもやして、やがて叢が目の前に浮かび、そこにスッ裸で寝転がっているKさんの姿が髣髴としてくる。妄想の中ではいつのまにか、Kさんの相手はA君ではなくぼく自身になっている。 「ふっふっふKさん、聞いたぞ聞いたぞ。A君ととんでもないアヤマチを犯したそうではないか」 「いやん」 「この際だからもう一回とんでもないアヤマチを犯したくはないかね。このぼくと。はあはあはあはあ……」 「いやいや。はあはあはあはあ……」 「はあはあはあはあはあ」 「はあはあはあはあ」  なあんて妄想に身を委ねているもんだから、ふと我にかえると、漢文の参考書の李白の似顔絵か何かをじっと見つめながら、はあはあ荒い息を吐いていたりする。これじゃあ馬鹿みたいだッ。いかんいかん、学生の本分は学問にあるのだ。と自分をもう一度諫め、今度こそ勉強に集中しようとするのだが、参考書の漢詩の中に偶然、 「性」  なんて漢字が見つかったりすると、もうダメ。 「うーむ性か。性な。性性……はあはあはあはあはあ」  なあんてたちまち息が荒くなっちゃうのである。たかが�性�という漢字一文字で興奮するなんて、ちょっと異常なのではないかと女性のミナサンは思われるかもしれないが、ぼくの周囲の男性に尋ねてみると、みんな多かれ少なかれ同じような体験をしている様子である。辞書で性的漢字——例えば「乳房」なんて漢字を引いて、じっと見つめている内にヘンな気分になってきた体験は、男性ならば誰しもあると思う。  その日だけではなく、ずいぶん長い間、ぼくはA君とKさんの一件のおかげで、性的妄想に苦しめられた。学校でKさんの姿を遠く垣間見《かいまみ》た日なんかは特にひどくて、物理の授業中だろうが倫理社会の授業中だろうが、すぐにはあはあはあ状態に陥ってしまったほどである。  まあぼくは基本的に臆病な高校生だったから、はあはあはあ的妄想を現実のものとして実行に移すようなことはしなかったのだが、今にして思うとよく耐えたものである。三十五歳にしてあのような妄想に取りつかれていたら、ぼくは間違いなく性犯罪者になっていたことだろう。ひー。  四 方言との闘い  最近はすっかり廃れてしまったが、ちょっと前まではぼくらにとって非常に重要な意味を持っていた言葉のひとつに、�スカす�という言葉がある。どういう漢字をあてるのか分からないので、今辞書をひいてみたのだが、俗語なので充当する漢字はないらしい。意味のところには、 「気取る」  とだけ書いてある。まあ確かに�スカす�は気取るという意味だが、それだけでは少々舌足らずな感じもする。あえて補足するなら、単に気取るだけじゃなくて、唾棄《だき》すべき気取り方をする、とでも説明すれば分かってもらえるだろうか。少なくともぼくの世代の男性諸氏にとって、�スカす�という言葉が肯定的に使われることはなかった。使われる時は常に否定的に、 「スカすんじゃねーぞこの野郎」  などと使われたものである。  この�スカす�という言葉が伴うインパクトはかなり大きくて、特に少年期から思春期にかけては、第三者からこの言葉を浴びせかけられないように結構気を遣った記憶がある。例えば真新しい運動靴なんかを、これ見よがしに学校へ履いていったとして、まんざらでもないなふふふ、なあんて思っているところへ、 「スカした靴じゃねーか」  といきなり友人に指摘されたりしたら、これはもう絶句して赤面するしかなかった。スカしてる、と断定されてしまうと、対抗する言葉がなかったのである。まあせいぜい弱々しく、 「おれスカしてねえよう。靴が新しいだけだよう」  なあんて言い返すくらいが関の山だったろうか。スカしてる、という言葉の中には、他のどんな言葉の中にもない類の、全人格否定的な響きがあった。それを言われちゃオシマイよ、という感じである。だからぼくらは必死で�スカしてない自分�を演出すべく気を遣い、新しい靴をわざわざ汚してから履いたりしていたわけである。  さてこの�スカす�と似たようなニュアンスを含む言葉に、�カッコつける�という言葉がある。こちらの方は前者に比べると、やや生やさしい感じだが、それでもやはり第三者からこの言葉で指摘されると、絶句せざるをえなかった。特に自分でも、 「ちょっとカッコつけてるかなーおれ」  と感じてるところへ、 「おまえ何カッコつけてんだ」  なあんて言われちゃうと、もうシオシオのパ〜である。返す言葉なし。一から出直してきまーす、という感じであった。ずいぶん引っ込み思案でシャイな感覚だなあ、と思われるかもしれないが、これは別にぼくだけに限ったことではなく、当時の青春を送った同世代の男の子はみな似たような感覚を共有していたように思う。  最近の高校生や大学生をぼんやり観察すると、このへんの感覚がずいぶん変わってきたように思われてならない。彼らはスカしたりカッコつけたりすることに対して、あまり抵抗感がないようである。上から下まで全部買ったばかりのぴかぴかの服を着て、床屋じゃないや美容室へ行ったばかりの髪型で、耳にピアス、うっすらと化粧までして、平気で渋谷を歩いていたりする。しかも恐ろしいことに、それが自分の個性だなんて勘違いしていたりする。うひ〜恥ずかしい!  まあ美意識が変わったのだ、と言われてしまえばそれまでかもしれないが、いずれにしてもぼくが高校生だった頃は、周囲からの糾弾が恐ろしくて、そう易々とはカッコつけたりスカしたりすることはできなかった。もちろん高校生というのは、基本的に自意識過剰な生き物であるから、 「隙《すき》あらばカッコつけてみたい!」  と思っているのだが、あからさまにそれを表へ出すのは、どうしても憚《はばか》られた。だからわざと汚い格好をしたり、靴の踵《かかと》を踏んで履いたり、女生徒の嫌がることをしたりすることで、逆方向にカッコつけたりしていたわけである。  さてぼくが高校に入学すると同時に、まずバトルを繰り広げなければならなかった相手は、他でもないこの�スカしてる自分��カッコつけてる自分�というものであった。いや、ぼく自身は全然そんなつもりはなかったのだが、傍目《はため》にはそう映ったらしいのである。何故か? 理由は簡単である。  ぼくは中学卒業まで東京郊外に暮らし、高校入学と同時に岡山へ引越した。まったくの別天地である。まあ引越しは初めてではなかったし、小学生の時に何度も転校したことがあったから、自分ではすぐに周囲に溶け込めると信じていた。しかしその考えは甘かったのである。東京の中でちょこちょこ引越すのと、東京から岡山に引越すのとでは雲泥の差がある。同じ日本の中じゃないの、とは言うものの、まず言葉が違う。ぼくはごく当たり前のようにして標準語を喋《しやべ》っていたのだが、どうやらこれが周囲の同級生たちには、 「スカしとるなあこいつ」  というふうに受け止められたらしい。  例えば入学式の直後、教室で隣合わせになった男子生徒に向かって、ぼくはできるだけ親しみを籠《こ》めた口調で、 「おれさあ中学まで東京だったんだ。岡山のこと全然分かんないから、ひとつよろしく頼むよ」  てなことを言ったのだが、相手は奇異なものでも見るような顔つきで、 「おう」  とぶっきらぼうに答えるばかりであった。多分彼の耳には、ぼくの言葉は思いっきりカッコつけているように聞こえていたのだと思う。明らかにたじたじとなっている気配があった。ぼくはそれほど鈍い方ではなかったので、自分の標準語が相手に与えている印象についてすぐに思い当たり、 「やばい。このままでは妙にカッコつけた奴としてクラスの中で浮いてしまう! やばいやばいやばい!」  と焦った。しかしながらつい昨日まで標準語で喋っていたのを、今日から急に岡山弁に直すわけにはいかない。何しろ生まれてこの方十五年も標準語を使い続けてきたのだから、自分の手足と同じようなものである。一日や二日で左利きが右利きに直らないのと同様、そう簡単に岡山弁に切り換えるわけにはいかないのである。  そこでぼくは最初の内、岡山弁を使い慣れてくるまで無口な青年を装うことにした。カッコつけてる奴、とみんなに思われるくらいならば、寡黙でつまらない奴と思われる方がまだマシであると判断したわけである。しかし当然のことながら、学校にいる間じゅう一言も喋らないわけにはいかない。例えば授業中、先生に指されたりしたら、これは答えないわけにはいかないではないか。ところがこの答え方が標準語であることを、冗談半分にからかう先生もいたりして、ひどく傷ついた記憶がある。 「原田君、えれえカッコええ言葉で喋りよるが! ええがええが! うはははは!」  とその岡山弁丸出しの現国の先生はぼくをからかった。先生としては、余所《よそ》から引越してきて緊張しがちな生徒の気持を和らげるつもりがあったのかもしれないが、だとしたらこれは逆効果だったと思う。ぼくは三年間この先生の一言を恨みに思い、隙あらば湯呑《ゆの》みの中に唾《つば》でも入れてやろうと狙《ねら》い続けていたものである。  さて周囲のクラスメートたちから何となく余所者扱いされ、先生にまで馬鹿にされてしまったぼくは、本気で岡山弁をマスターしようと努力し始めた。まず周囲の人たちが使っている岡山弁に耳を傾け、なるほどなるほどと理解し、次に自分の中でそっと呟《つぶや》いてみる。一番抵抗感があったのは、やはり自分のことを「わし」と言うことである。それまでは「ぼく」とか「おれ」とか言っていた弱冠十五歳の高校生が、急に自分を「わし」として認識するのはかなり難しい。一人で勉強している最中などに、 「勉強しているわし……」  なあんて呟いてみると、何だか自分じゃないお年寄りの誰かが勉強しているような気がした。  同様に、語尾に「じゃ」をつけるのもかなり抵抗があった。基本的に岡山弁というのは、「わし」で始まり「じゃ」で終わる。標準語を使い慣れた者の耳には、おとぎ話に登場するものすごいジジイが喋っているように聞こえる方言なのである。 「わしは勉強しとるんじゃ……」  一人で呟いてみると、何だか全身から気力が失せ、腰が曲がり肌がシワシワになり白髪が生えて番茶をずびずび啜《すす》りたくなるような気持であった。弱冠十五歳の高校生にとって、これほどの抵抗感を抱かしめる言葉は他にあるまい。  しかし岡山の町を歩くと、十五歳どころか保育園に通う三歳児ですら自分のことを「わし」と言い、語尾にはちゃんと「じゃ」をつけて喋っている。慣れれば何ちゅうこともなかったが、最初の内はかなり異様なことのように思えて仕方なかった。 「わっしゃあ五月で三歳じゃ」 「わしゃあ一人で保育園に行かにゃならんけえのう」 「わしの半ズボンどけえいったんなら」  なあんてことを真顔で喋っている三歳児なんて、何だかヘンではないか。  しかし友人たちから�カッコつけてる奴�と思われないためには、やはりどうしてもこの抵抗感のある岡山弁をマスターする必要がある。ぼくは必死だった。最初の内は自分のことを、 「わし……」  と言うたびに、うわあー本当は違うんだあおれはわしじゃないんだあーッ、と胸の内で煩悶《はんもん》を繰り返していたが、徐々に抵抗感が薄れてきた。慣れ、というのは恐ろしいものである。  入学以来、約三ヵ月。一学期が終わる前までに、ぼくは見事に岡山弁をマスターした。そして自分のことも、 「わしはわしじゃい」  と認識できるようになった。ぼくが友人らしい友人を作り、高校生活を心から謳歌《おうか》できるようになったのは、この直後からである。いやー、言葉ってホント、難しいけど大事なのよね。言葉を操ることを生業《なりわい》とするようになった現在でも、重々肝に銘じている次第である。  五 不良への憧《あこが》れ  正直に告白すると、ぼくは不良というものに対してかなり強烈な憧れを抱いていた。いや、過去形で述べるのが適当かどうかすら怪しい。三十も半ばを過ぎていいおじさんになってしまった現在でも、心のどこかではやはり不良に憧れを抱き続けているようにも思える。  人は、特に思春期から青年期にかけての若者は、それぞれに複雑な理由から不良に憧れを抱き、自らを少しずつ不良化していく。そういうものなのだろうな、とぼくもつい最近まで思っていた。しかし自分が不良に憧れた理由について、あらためて思い巡らせてみると、我ながら意外なほど単純なところへ着地する。これはぼくだけに当てはまることなのだろうか。いや、そうではなくてほとんどの青少年たちも同様、不良に憧れ、不良になってしまう理由は、実は単純だったりするような気がする。それを複雑にしているのは、保護者をはじめとする大人たちではないだろうか。大人たちは常識やルールや論理が大好きだから、自分の子供のことを考える場合でも、大人側のフィールドで判断を下そうとする。しかし大人たちの常識やルールというのは、基本的に世間の平均値に合わせて作ってあるものだから、青少年サイドから見ると、すごく平凡でつまらないものとして映る。だから大人側のフィールドから判断を下され、平均値に押し籠《こ》めようという力を働かされると、青少年たちは、 「やれやれ」  と感じてしまう。ここでハイハイと素直に言うことをきけば、表面上はいわゆる�いい子�ということになるのだろうが、腹の中にはわだかまりが残る。このわだかまりが時々ふとしたはずみで表面化し、世間一般のルールから外れた行動に出たりすると、大人たちは大慌てでこれを論理的に解釈しようとする。そしてどんどん問題を複雑にしていく。しかし当の青少年にとっては、単にルールを破ってみたいという衝動だけで行動していたりするのである。これでは折り合うわけがない。大人か青少年か、どちらかが相手のフィールドに立って物を考えなければ、両者は永遠に平行線を辿《たど》るばかりだろう。では、どちらが歩み寄るべきか? これは当然、自らも青少年時代を経験したことのある大人の方が、相手のフィールドに立つべきだろう。論理で解釈したり難しく考えようとするのをまず止めて、問題をできるだけ単純化することが必要である。そうやって不良の核心へと細い綱を辿っていくと、そこにはすごく単純で分かりやすい理由がひとつだけあったりするのである。あまりにも単純で、論理に長《た》けた大人たちには逆に見えにくいような理由……。  うーむ書いている内に、話が何だか教科書っぽくなってきてしまった。単純に考えるべきであるということを、複雑に書いてしまったような気がする。あー恥ずかしい。ぼくは何も偉そうなことを言って、青少年の不良化阻止に一役買おうなんてつもりはさらさらない。かつて不良に憧れ、現在もそのきらいがある自分自身のことを、ちょっと聞いてもらいたいだけである。  閑話休題。話を元に戻そう。  ぼくが不良に憧れ続けている最大の理由は、つい最近になって明らかになった。古くからの友人たちと酒を飲みながら雑談している際に、いきなり指摘されたのである。確か賭事《かけごと》についての話題が中心になっている時に、ぼくが自分の父親についての昔話をし、それを受けたある友人がそれこそ単純にこんなことを言った。 「結局、おまえは親父さんに憧れているんだよなあ」  言われたぼくの方ははっとして、絶句してしまった。雑談の雰囲気にふさわしくない、やけに真摯《しんし》な反応だったので、友人たちは逆に愉快に感じたらしい。悪意のない苦笑がぼくを取り囲み、別の友人が今度はこんなふうに言った。 「そうだよなあ。おまえ高校の時とかも、わざわざ不良っぽい奴を選んで金魚のフンみたいにくっついていたけど、あれも考えてみれば親父さんに少しでも近づく道を選んでいたんだろう。違うか」  確かに彼の言う通り、ぼくは高校時代の一時期、不良に憧れて、不良になろうとしていた。しかしその理由が、実は自分の父親にあるなんて、この年になるまで考えてもみなかった。『理由なき反抗』じゃないけれど、大人たちの作ったルールに理由もなく逆らってみたかっただけだと、自分では思っていたのである。  しかしあらためて考えてみれば、友人たちの言う通り、ぼくが不良を見る時、その向こう側に父親の影を感じていたことは否定できない。ファザーコンプレックス、なんていう大人たちの作った論理でこれを解釈してもらいたくはないが、大きすぎる息子となってしまった現在でも、ぼくの中には父親からの影響が少なからず存在する。  過去に書いた小説の何篇かを読んでいただければ分かると思うが、ぼくの父親というのは問題の多い人物である。簡単に説明するなら、不良なのである。満州で生まれて、中学生の頃に結核で実母を失ったあたりから、ぼくの父親は不良になっていったのだと思う。昔話に耳を傾けると、中学の後半には学校をサボッて映画館に入りびたっていたらしい。その後、戦争を経て、命からがら無一文で内地に帰り、ヤクザまがいの土建屋に雇われて、荒々しい雰囲気の中で働いたり、一時は闇屋《やみや》をやって食っていたりしたそうだ。どこまで本当か分からないが、昭和のフィクサーと呼ばれた人物に仕えた時期もあって、香港だか台湾だかから何やら怪しげなものを密輸する途中で、中国の海賊に襲われて、機関銃をぶっぱなしたこともあるという。おそらくこの時期、父親は博打《ばくち》を覚えたのだろう。ぼくが生まれた頃、父親は日本全国を飛び回る腕利きのセールスマンとして大いに稼いでいたが、その一方で派手に遊んでもいた。酒は体質的に飲めないのだが、それ以外の二つ——打つと買うに関してはかなり盛んだった。特に博打の方は、ほとんど病気と言っていい。小学二年生の時、父親はぼくと妹を連れて女の元へ走り、三年後には再び元の鞘《さや》に収まるのだが、その間もずっと博打を打ち続けていた。それでもまあセールスの仕事の方が順調な内はよかった。時代の趨勢《すうせい》から訪問販売という形式がすたれていくにつれ、傍から見ると父親の人生は窮《きわ》まっていった。しかしぼくの母親が気を揉んでいたほどには、父親は悩んでいなかったように思う。その後、金銭的に行き詰まってサラ金に手を出し、莫大な借金が膨れ上がっていった際にも、やはり父親は深く苦悩することはなく、なりゆきまかせで博打を打っていた。そして皺寄《しわよ》せはすべて、ぼくら家族に覆い被さってきた。  ぼくの母親はそんな父親を�ろくでなし�と呼んで憚《はばか》らない。ろくでなし、つまりは不良である。ぼく自身も学生時代から社会人になりたての頃、父親には何度も裏切られ、手痛い目にあってきたから、母親と同じ気持で「ろくでなしめッ」と言い棄てたいところなのに、何故か完全には否定し切れなかった。家族をぷいと棄てて女の元に走ったり、仕事もしないで博打を打ったり、平気で借金を踏み倒したり——そういう反社会的なことばかりをしているにもかかわらず、父親にはどこかしら魅力的な部分が残っていた。少なくとも血を分けた息子であり、同じ男であるぼくの目にはそう映った。不良と言ってしまうと分かりにくいが、これを�無頼《ぶらい》�と言い直すと少しは分かってもらえるだろうか。文学の世界に置き換えると、太宰治に代表される無頼派の作家たち——彼らが身辺に漂わせていた反社会的で、だからこそ魅力的な雰囲気をぼくの父親も持っていたのである。  友人の指摘によれば、そういう父親にぼくはひそかな憧れを抱き続け、そのために表面上は否定的な言葉を吐きながら、腹では肯定しているという図式が成り立つらしい。さらにこれをもう一歩進めて、では何故父親の不良性に憧れてしまうのかという疑問にも、友人たちが答えを出してくれた。 「そりゃあおまえ、憧れっていうのは基本的に自分にはないものに対して抱くものだろ。だからおまえは元々社会的で健全な気質を持っているんだよ。なのに小説家なんかになっちまったもんだから、その気質が邪魔なんだなきっと。そのせいもあって、真反対の不良とか無頼に憧れてるんだよ」  これまた図星、である。ぼくの体の中には父親と母親の血が流れているわけだが、この母親の血というのが社会的で健全な気質を担っている。ぼくの母親は、よくぞこの女をあの父親に与えたものだ、神様ナーイス、と天に向かって喝采を送りたいような人である。真面目で忍耐強く、地味だがこつこつと約束をこなしていく——父親とはまったく正反対の気質の持主である。この母親の血が、ぼくの血の中に色濃く反映されている。しかし当然、色は薄いかもしれないが、父親の血も確かに混じっているわけで、これが時々ひょっこり顔を覗《のぞ》かせては、不良的な衝動へとぼくを駆り立てるのである。  ま、父親の血と母親の血とのせめぎ合い、とでも説明すれば適当だろうか。前者はぼくの中で不良への憧れを形作り、そこへいざなおうとする力を働かせ、後者はそれを必死で食い止めて社会的なスタンスを崩させまいとする。だからぼくは思春期の頃から現在に到るまで、不良に憧れはするが不良そのものにはなり切れない宙ぶらりんの状態で生きてきたように思う。  考えてみれば高校時代に、作家になりたいと願うようになったのも、裏を返せば不良になりたかったからだと説明がつかなくもない。高校二年生のある時期、ぼくは学内でも最も過激な不良の友達にくっついて、鞄《かばん》をぺしゃんこにしたりボンタンを穿《は》いたり髪をいじくったりしたのだが、どうにもついていけなくて文学青年に転向した。今でこそ作家と言えばご立派な人物で、それこそ社会的な存在だったりするわけだが、ぼくが高校生の頃は、作家にはまだほんの少し不良の気配が残っていた。社会的な常識を鼻で笑い、新しい自分だけのルールを作ったり、わざと無茶なことをしたりして、それを描く。毒だか薬だか分からないものが目の前にあったら、誰よりも先にそれを飲んで見せ、 「どうだあ!」  と胸を張る。昔の優れた作家たちにはそういう気配があって、ぼくはそこに憧れを抱いた。ようするに当時のぼくにとって、作家とは不良の一変形だったのである。作家を気取ることによって、ちょっとした不良の気分を味わう——やってみると分かると思うけど、このナルシシズムは深く浸れば浸るほど居心地が好い。特にぼくみたいに、常識人と不良との二種類の血がせめぎあって成立している気質の人間にとっては、まさに適度な不良っぽさがここにある。しかも�作家�という響きには、どこかしら治外法権的な雰囲気もある。実に小狡《こずる》い考え方だと自分でも思うが、例えばぼくの父親のように単なる不良であるだけだと、社会人として失格の烙印《らくいん》を押されてドロップアウトするばかりだが、不良でも作家という肩書さえあれば、社会は逆にこれを認めたりする。たとえ常識から外れたことをしても、それを血の通った小説に仕上げれば、制裁を受けるどころか賞賛される。まことにありがたい職業である。  こうやって素直に道筋を辿《たど》っていくと、現在ぼくが作家になっている理由が不良への憧れにあり、その憧れの源にはぼくの父親の存在があるのだと、ご理解いただけたと思う。単純でしょう? これって評論家なんかが原田は何故作家になったのかと論理的に解釈しようとしたら、一冊の本になるくらい複雑なものになってしまい、かえって本質が見えなくなるはず。大人たちが青少年の不良化や非行の原因を考える場合も、この評論家と同様の勘違いをおかして本質を見逃しがちなのではないだろうか。  青少年、特に不良と呼ばれる若者たちは、一様に大人たちとの対話を嫌う。分かり合えないと、頭から決めてかかっている。これはやはり大人たちが、あまりにも自分サイドの論理やルールや常識をふりかざして迫ってくるからである。不良に憧れる気持や、ルールを破りたいという欲求は、実は誰にでもあるものだとぼくは思う。今ではすっかり常識人になってしまった人でも、かつて青少年であった頃には、常識を無視したい欲求にかられたはずである。そういう自分を反芻《はんすう》することによって、せめて片足だけでも青少年側のフィールドに立って、単純で他愛もない対話から始めてみてはどうだろう。不良を百パーセント否定するのではなく、自分の中にかつて存在し、ひょっとしたら今も息づいている不良的な部分と照らし合わせた上で、肯定的に考えてみたらどうだろう。ながーい目で見れば、ぼくみたいに若い時期に不良への憧れを抱いたからこそ、結果的に上手《うま》くいった例だってあるわけだし。  六 泣いたおそ松くん  まだ小学校に上がって間もない頃のことである。  ぼくは三月生まれなので、周囲の友人たちの誰と比べてみても発育が遅く、勉強の方も遅れ気味であった。何しろ四月生まれの友人と比べれば、一年近く人生経験が少ないわけだから、無理もない話である。成人してからならばまだしも、小学校一年生での一年近い遅れは、かなり決定的なものだったと思う。だから当時ぼくは誰かに物を教えることよりも、教わることの方が多かった。遊びも勉強も、いつも誰かの後にひいひい言いながらくっついていた記憶がある。  例えば漫画なんかもそのひとつだ。  小学校に入って親からお小遣いをもらうようになっても、ぼくは自分の金で漫画本を買うなんて発想はまったくなかった。いつも駄菓子屋へ行って、飲み食いにお小遣いのほとんどを遣ってしまうのが常で、文化的(かなあ?)な方面への投資はゼロに等しかったと言っていい。  漫画本というのは自分で買って読むものなのだ、と教えてくれたのは、同じクラスで駄菓子屋仲間のH君だった。彼には四つ年上の兄貴がいたから、その影響なのかもしれないが、とにかくいつも漫画本を持っていて、それをぼくらクラスメートに気前好く貸してくれていた。  ある時このH君がドッヂボールをしている最中に、実に奇妙なポーズを取って、周囲の仲間たちを大いに笑わせたことがあった。間近から投げられたボールを間一髪のところで避けたかと思うと、脚を4の字に組み、両手をヘンなふうに曲げて飛び上がり、 「シェーッ! 危ないざんすう!」  と叫んだのである。ぼくらはこれを見て反射的に笑った。それはぼくらがこれまでに見たこともないほど奇妙で、馬鹿丸だしのポーズに思えた。面白い面白いとぼくらが囃《はや》し立てると、H君はえっへんどうだまいったかと言わんばかりの態度で、 「これは少年サンデーの『おそ松くん』に出てくるイヤミというヘンなおっさんが得意とするポーズなのだ!」  と教えてくれた。世間ではまだ�シェー�が流行《はや》り始める前だったから、H君はなかなか先見の明があったと言わざるをえない。面白いもの、奇妙なものについて、少年というのはかなり敏感なのである。当然ぼくらはH君の真似をして、みんなで競い合うようにしてシェーシェーシェーシェー言い始めた。これには親たちも先生方も、さぞ驚かれたことだろう。 「自分の息子は気が狂った!」  と思っておろおろしたに違いない。何故そんなポーズを取らなければならないのか、どうしても理解できなかったはずである。しかしぼくらは親や先生に、 「シェーするんじゃありませんッ!」  と注意されればされるほど、却って面白がってシェーをした。んもう雨が降ろうが嵐がこようが授業中だろうが放課後だろうが食前だろうが食後だろうが、とにかくシェーを連発した。そして会話の語尾にはイヤミの口癖である「なんとかざんす」をくっつけて、できるだけ厭味《いやみ》な感じに喋《しやべ》るのが流行った。今はぼくも二児の父だからよく分かるが、親たちは自分の子供がある日突然シェーシェー言い始めるのを見て、相当情けなく感じたに違いない。  しかしながらそうこうする内に�シェー�は全国的に流行し始めた。ぼくらの学年だけでなく小学校全体に、そして隣の小学校、日本全国の小中学校、果ては大人たちまでもがシェーシェー言い始め、最終的にはゴジラまでシェーをするようになった。ぼくは三十四年の人生で、あのフレーズほど老若男女、日本全国に流行した言葉を他に知らない。まあ確かに「おー、モウレツ」とか「あっと驚くタメゴロー」など、当時は一年にひとつくらいは強烈な流行語があったものだが、�シェー�の伝播《でんぱ》力には遠く及ばなかったように思う。  さてこの�シェー�の生みの親である少年サンデー連載の「おそ松くん」だが、こちらの人気も言うまでもなく当時絶頂を極めた。少年たちはみんな「おそ松くん」を読んでいた。サンデーを買う金がない奴は、友達に借りて読んだ。おそ松をはじめとする六つ子たち、チビ太、イヤミ、デカパン、ダヨンのおじさん、トト子ちゃん……登場人物たちの顔もキャラクターも、未だに目を瞑《つむ》ればちゃんと浮かんでくる。もう三十年近くが経とうとしているのに、これだけ鮮明に覚えているということは、やはり相当インパクトが強かったのだろう。  未だによく覚えているのは、小学校二年生の頃、長野の山中にある母方の実家へ帰省した折に、バスの中で読んだ「おそ松くん」の一篇である。この話は一応チビ太が主人公として描かれていた。六つ子たちの住む街に流れてきた、元金庫破りのプロというのがチビ太の役どころであった。足を洗って真面目に働く彼を、影のように監視する厭味な刑事がイヤミ。ところがある日、六つ子の一人が悪戯《いたずら》をして、金庫に閉じ込められてしまい、これを助けるべきかどうかチビ太は悩む。金庫破りの腕をここで使っては、監視しているイヤミ刑事によって逮捕されてしまう。しかし金庫の中の空気は刻々となくなっていく。結局チビ太は我が身を犠牲にして、閉じ込められた六つ子の一人を助ける。しかしそれを目撃したイヤミ刑事は、何も見なかったと言ってカッチョよく去っていく——そんな筋立てであった。  後になって、この話はユゴーの『ああ無情』に想を得た一篇であることを知ったが、当時はそんな真面目な小説は見たことも聞いたこともなかったので、大いに感心し、バスの中で泣いた記憶がある。 「チビ太、お前は何ていい奴なんだ。イヤミ、お前もいい奴だぞう!」  と感激して泣いたのである。ギャグ漫画である「おそ松くん」を読んで泣いたなんて、嘘《うそ》みたいな話だが本当である。  この一篇が掲載された薄っぺらい少年サンデー(値段は五十円か六十円だった)は、やはり感激したので棄てるのが惜しかったのか、ずいぶん長い間、母方の実家の納戸《なんど》の中にしまわれていた。再会したのは大学生の時。一人で祖父母のもとを訪れた折に、暇にまかせて納戸の中を探っていたところ、この少年サンデーが奥の方から出てきたのでぎょっとしてしまった。早速ページを開いて「おそ松くん」を読み返してみたのだが、今度は全然泣けなかった。あの時の、あの感動は一体何だったのだろうとぼくは自分で自分を訝《いぶか》った。もしかしたらあの時、ぼくは少年にしか感知できない何かを、この漫画から受け取っていたのかもしれない。大人には絶対に分からない、何か大切なもの——そんなふうに考えるのは、ちょっとロマンチックすぎるだろうか。  七 世界一愛すること  あれはいつだったろう。  父が出奔して、母子三人で小平《こだいら》のアパートに暮らしていた頃だから、小学校の五、六年だったと思う。妹はまだ小学校の低学年で、母は四十代の前半だった。  その日は日曜日で、とてもいい天気だった。ぼくは縁側に出て、地面を這《は》う蟻たちを眺めたり、膝《ひざ》の瘡蓋《かさぶた》を剥《む》いてみたり、空を仰いだりして退屈していた。やがて背後に掃除機の音が近づいてきた。母が台所の方から後ずさりながら、掃除をしてきたのだ。  その時、ぼくは蟻の巣のそばに何かキラリと光るものが落ちているのを見つけた。何だろうと思って腕を伸ばし、拾い上げてみるとそれは缶コーラのプルトップだった。べろのような形の金属に、丸いリングがくっついている。  退屈だったので、ぼくはそのリングを指に嵌《は》めてみたり、縁側の板をごしごし擦って傷をつけたりした。が、すぐに飽きてしまい、今度はリングの部分を執拗《しつよう》に何度も折り曲げて、もいでしまった。手の中に残ったプルトップのべろの部分は、縁が鋭くて、危険な感じがした。ぼくはそれを持って部屋の中に戻り、何を思ったのか畳と畳の合わせ目にぐいっと押し込んだ。合わせ目から、プルトップの鋭い角が一センチほど覗《のぞ》いているような状態にしたわけである。 「これは危ないなあ……」  ぼくは他人事《ひとごと》のようにそう思った。 「こんなものを素足で踏んだりしたら、それこそ大変だ。痛いだろうなあ」  そんなことを考えながら母親の方を見やると、彼女は相変わらず掃除機をかけながら後ずさりして、ぼくの方へ近づいてきた。まさか踏むまいと高をくくっていたので、ぼくはしばらく母親の後姿を眺めた後、急につまらなくなって視線を縁側の方へ移した。その刹那《せつな》、不意に母親が、 「あ痛ッ!」  と声を上げてその場に倒れた。驚いて振り向くと、母親はぼくの仕掛けたプルトップ地雷を素足で踏んで、足の裏から血を流していた。ぼくは顔から血の気がひくのを感じた。大変なことをしてしまった、と反射的に思った。叱《しか》られる、という恐怖心も同時に湧《わ》いていたと思う。ところが母親は足の裏に刺さったプルトップを呻《うめ》きながらぐいっと引き抜くなり、ぼくを見てこう言った。 「ああ……貴方が踏まなくてよかった」  怒るでも叱るでもなく、母親はまず最初にそう言ったのである。ぼくは横っつらを張り飛ばされるようなショックを受けた。自分の悪戯《いたずら》が母親を傷つけてしまったこともショックだったが、それ以上に、彼女が一番にぼくの身を案じたことがショックだった。ぼくはその場でわっと声を放って泣き出したい気持だったが、青ざめた顔でじっと黙っていた。すぐに謝ることができないほど、申し訳ない気持で一杯だった。  もう二十五年も前のことなのに、この一件は母親がいかに少年のぼくを愛していたのかを印象づける思い出として、胸の奥に残っている。愛されている実感が欲しい時、ぼくは未だにこの思い出の中へ還る。母親にとっては些細《ささい》なことで、今はもう忘れているに違いないけれど、ぼくにとってはそれほど鮮烈な出来事だった。  ご批判は覚悟の上で極端なことを申し述べるなら、ぼくは子供たちにとって�社会�が果たす機能というのは、大したことないのではないかと思う。子供たちがのびやかにすくすく育つために必要なのは、理路整然としたルールや整備された環境ではなく、実は�誰かに世界一愛されている�という実感なのではなかろうか。その実感さえあれば、たとえ劣悪な環境の中でも、子供たちはすくすく育つことができる。ぼくはそう信じる。  そんなに大袈裟《おおげさ》なことをする必要はどこにもないのだ。母親は母親として、父親は父親として、自分の子を本当に世界一愛してやり、子供もそれを実感すれば十分ではないか。 '95年5月に角川書店より単行本として刊行 角川文庫『家族それはヘンテコなもの』平成10年10月25日初版発行                   平成13年9月10日6版発行