原田宗典 人の短篇集 目 次  電気工事夫の屈託  一瞬を生きる  郵便配達夫の片想い  人を喰《く》う本  調香師の不幸と幸福  骨董《こつとう》屋の見たもの  百点満点の家  気だるい獣医  遠くにいる自分  編集者の彷徨《ほうこう》  過去を訪ねて  ベルボーイの思い違い  小さく大きな舞台  空家の中に  降りてきた女  何もないデパート  彼の一千万円  タクシードライバーの憂鬱《ゆううつ》  スタンドボーイの夢  塩辛いおしぼり  レフェリーの勝利  電気工事夫の屈託  工業高校を卒業してすぐに、彼は親戚《しんせき》の紹介で町の小さな電気工務店に勤めるようになった。  大学へ進んで気儘《きまま》な四年間を過ごすことに魅力を感じないでもなかったが、生憎《あいにく》彼は勉強がからっきしだった。取り柄といえば中学高校を通じて熱中した野球の腕と、機械いじりが好きなことくらいで、他には何の能もないと自分自身でもよく分かっていた。  だからエアコンの取りつけやアンテナの設置、電化製品の修理などが主な仕事である工務店への就職は、決して間違った選択ではなかった。毎日同じ職場へ出勤し、部屋に閉じ籠《こ》もって書類に判を押すような仕事は自分には向いていない。外回りをして身体を動かし、機械をいじっている方が、よほど気が楽だ。年齢的にも体力を持て余している彼は、負け惜しみではなく、本心からそう思っていた。  しかし仕事というのは、どんな仕事でも基本的には退屈なものだ。面白い仕事なんて、もしかしたら世の中にはありえないのかもしれない。確かに彼の仕事は外回りをする分だけデスクワークよりは変化に富んでいたが、毎日続けているとそれは小さな変化にしか過ぎないことが、段々分かってきた。  二年もすると、彼は何とも言えない屈託を胸の奥に抱えるようになった。そしていつのまにか、無意識の内に舌打ちを漏らす癖が身についた。  高校生だった頃は、舌打ちなんて息の臭い大人がやることだと軽蔑《けいべつ》していたものだ。それが今や彼自身、そういう厭《いや》らしい大人の仲間入りをしつつあるのだ。そう思うと、たまらない気分になる。しかしだからと言ってどうすればいいのか、彼には皆目見当がつかなかった。  外回りの仕事は、軽トラックの荷台にエアコンやアンテナ、資材や工具類、脚立などを満載して、二人一組で回る。多い時で一日に三件ほどだが、夏のエアコン需要期をのぞけば、それほど忙しくはなかった。彼はいつも軽トラックの荷台にグローブと硬球をしのばせていた。その日のノルマが早めに終わってしまうと、年上の相棒は必ずパチンコ屋へ行って遊ぶ。もちろん彼も誘われるが、勝ったためしがないので苦笑いしてこれを断り、グローブと硬球を持ってそこいらをうろうろする。適当な壁を見つけて、一人でキャッチボールをするのだ。  高校の三年間、彼はずっと控えの投手だった。  懸命に練習したし、それなりの才能もあったのだが、運の悪いことに同じチームに彼以上の実力を持つ投手が二人もいた。毎試合、彼はベンチをあたためながら自分の出番を待ったが、結局公式戦のマウンドには一度も立つことがないまま、三年間の高校生活を終えた。 「九回裏ツーアウト満塁、カウント・ツースリー」  あと一球で勝負が決まる、という状況をいつも頭の中に描きながら、彼は壁に向かってボールを投げる。球種はたいていストレートだ。内角低めへ、渾身《こんしん》の力を籠めて投げ込む。大歓声が青空をさらに高く押し上げ、彼は勝利投手の甘い快感を味わう。同時に胸の奥の屈託が消え失せそうになるが、次の瞬間、彼は鼠色《ねずみいろ》の汚い作業服を着た自分に気づく。そして舌打ちを漏らす……。  ある日、町の中心地に十二階建ての雑居ビルが竣工《しゆんこう》した。この町に十階以上の建物は数えるほどしかない。電気関係の工事を彼の会社が請け負い、彼は先輩たちとともに軽トラックで現場へ向かった。 「アンテナ工事、頼むな」  そう命じられて、彼は一人で屋上へ上がった。広々とした眺めのいい屋上だった。一時間半ほどかけて、大型の共同アンテナを設置し終えると、彼は手すりに凭《もた》れ、煙草を吸いながらぼんやり町の景色を眺めた。  小さな町だ。  彼は舌打ちを漏らし、一階へ下りた。軽トラックの助手席に置いてある弁当を手にし、荷台からグローブと硬球を取り出して、もう一度屋上へ戻る。給水塔の下が、一人キャッチボールにちょうどいい感じの壁になっている。  彼は壁のそばに弁当箱を置いてホームベースに見立て、架空のマウンドへ向かった。息を整え、大きくふりかぶって、最初から思い切り投げ込む。跳ね返ってきたボールを軽くさばき、もう一度構えなおす。  二球、三球、四球めをなげ終えた時、彼は背後に人の気配を感じた。振り返ると、そこには彼と同じような鼠色の作業服を着た若い男が立っていた。顔を見て、彼は声を上げそうなほどびっくりした。  その男は高校時代、彼と同じチームで一番の背番号をつけていたエースだった。小さな町なのに、卒業以来会うのはこれが初めてだ。町内の工務店に勤めて、左官の見習いをやっているという噂《うわさ》を聞いたことがあるから、このビルへも仕事で来ていたのだろう。  二人はしばらく黙ったまま、相手の様子を見つめあった。驚いたことに、エースも彼と同じようにグローブとボールと弁当箱を手にしていた。彼は、エースの気持が痛いほどよく分かった。 「やるか」  やがてエースの方が、ぽつりと呟《つぶや》いた。彼はうなずいて何歩か下がり、エースとの間に適当な距離をおいた。  そして二人はキャッチボールを始めた。グローブに硬球が叩《たた》き込まれる小気味よい音が、屋上に響きわたる。二人とも一言も口をきかず、ただ黙々とボールを投げ続けた。  一瞬を生きる  同僚や先輩たちは、彼のことを�ボーヤ�と呼ぶ。  背が低く、顔立ちも年齢より幼い感じがするのでそんな渾名《あだな》がついたのだが、当然のことながら彼自身は気に入っていない。初めの頃はボーヤと呼ばれるたびに、むかむかしていた。  彼は今年二十三になる。  専門学校を出て二年ほどふらふらしてから、今の職場に就職した。と言うか、頼み込んで雇ってもらったのだ。  俗にスタジオマンと呼ばれるのが彼の仕事だ。広尾にある大きな貸しスタジオに毎日通い、アシスタントを必要とするカメラマンの手伝いをする。有名なカメラマンの多くは専属のアシスタントを何人も抱えているから、彼のようなスタジオマンを必要とするのは、若いカメラマンか二流三流のカメラマンばかりだ。当然仕事の内容も商品撮影が中心で、お世辞にも面白いとは言いかねる。しかもカメラマンたちは、自分がアシスタントをしていた時代にこきつかわれた復讐《ふくしゆう》をするかのように、彼に辛《つら》く当たる。返事が小さかったり、ストロボのコードにちょっと躓《つまず》いたり、コーヒーがぬるかったり、そんなつまらないことで怒鳴り散らされる。 「カメラマンのアシは奴隷扱いって言われてるけど、そんならスタジオのアシは奴隷以下だな」  先輩たちは自嘲《じちよう》気味にそう呟《つぶや》く。奴隷以下ということは、つまり虫ケラということだ。しかしそういうことを言う先輩に限って、これといった志もなく、ただ漫然とスタジオマンの仕事をこなすばかりなのだ。  しかし自分は違う。  口には出さないけれども、彼はそう思っていた。今は確かにフィルムを買う金もないが、いつか必ずいい写真を撮って賞を獲得し、のし上がってやる。アシスタントを四人も五人も引き連れてこのスタジオを訪れ、相変わらず愚痴ばかりこぼしている先輩たちを、鼻で笑ってやる。  しかしそうなるまでには、まだ多くの時間が必要だった。彼はなかなか変化が訪れない現状に、いつも苛々《いらいら》していた。  ある日、有名な老カメラマンがスタジオを訪れた。二十年ほど前まで精力的に写真を撮り続け、誰でも一度は目にした記憶があるような作品をいくつも残したカメラマンだ。その後は引退して、海外へ渡ったという噂《うわさ》を残したきり、行方知れずになっていた。彼のような若い、名もないスタジオマンにとっては伝説の人物と言っていい。  老カメラマンは一番広く、天井のタッパもある1スタを一週間予約した。そのことを知って、彼がアシスタントを申し出たのは言うまでもないことだ。この時ばかりは、先輩たちの無知とやる気のなさに感謝した。彼は大した苦労もなく、望み通り老カメラマンのアシスタントに付くことになった。  喉《のど》が渇くほど緊張し、おそるおそる1スタへ入っていくと、老カメラマンは壁際のソファにぽつんと座っていた。連れがいる様子はなかった。 「コーヒーを淹《い》れましょうか」  彼は近づいていって、そう訊《き》いた。老カメラマンは彼と目を合わすと、何とも言えない魅力的な笑顔を浮かべ、 「もらおうか」  と答えた。以前読んだカメラ雑誌によれば、年齢は七十歳に近いはずなのに、そんなふうには見えない。背が高く、がっしりとした肩幅をしていて、顔つきも精悍《せいかん》そのものだ。特にその力強い光を放つ瞳《ひとみ》に、彼は魅せられた。一流の男の風貌《ふうぼう》というのは、こういうことなのかと思った。  美味《うま》そうにコーヒーを飲む老カメラマンの横顔を眺めながら、彼は自分がちっぽけな少年にすぎないことを思い知った。緊張して、声を掛けることもできない。彼はじっと黙ったまま、老カメラマンが足元に置いている機材へ目をやった。それほど大きくないカメラマンバッグだ。中が見たくてうずうずしてしまう。何を使っているのだろう。何を撮るつもりなのだろう。  しかし尋ねることもできないまま、時間は過ぎた。老カメラマンはコーヒーを飲み終えると、何もないスタジオの空間をぼんやり眺めた。そしてそのまま一言も口をきかず、三時間が過ぎた。 「何を撮るんですか?」  彼はとうとう我慢しきれなくなって、尋ねた。老カメラマンは今初めて彼がそばにいることに気付いたかのような顔で彼を見、 「さあなあ」  と答えた。彼はつまらない質問をしてしまったような気になり、たちまち赤面した。老カメラマンの気分を害してしまったのではないかと、不安になった。 「何を撮るんだろうなあ。俺《おれ》にも分からないんだ」  ずいぶん長い間をおいてから、老カメラマンはそう答えた。ふざけている様子ではなく、真摯《しんし》な横顔だった。 「一週間、ですよね」  彼は掠《かす》れ声で尋ねた。 「うん。そうなんだが。その間に撮れるといいけどな」 「ぼく、何かすることがあったら遠慮なく言って下さい。何でもします」 「ああ……」  老カメラマンは気だるそうにうなずき、その日初めての煙草に火をつけた。フランスのゴロワーズというきつい香りの煙草だ。 「とりあえずもう一杯、コーヒーをもらおうか」  老カメラマンはそう言って煙を吐き出し、その煙の行方をぼんやり目で追った。彼は大きな声で返事をして、すぐにコーヒーを準備し始めた。  老カメラマンがスタジオに入ってから、三日が経った。  しかしその間、シャッターを切るどころか照明のセッティングもせずに、ただ時間だけが過ぎた。何が被写体なのか、それすらもはっきりしない。アシスタントとして付いた彼は、徐々に苛立ちを募らせていった。老カメラマンは朝十時にスタジオ入りし、のんびりとコーヒーを飲み、何もない空間をただじっと見つめているばかりなのだ。そうやって六時になると、老カメラマンは帰っていった。昼飯すら食べようとしない。 「何か……弁当でもとりましょうか?」  二日めの正午近くにそう尋ねてみたのだが、老カメラマンは嬉《うれ》しそうに微笑《ほほえ》んで、 「君の分だけとりなさい」  と答えた。もちろん彼は我慢した。三時頃になると、腹が鳴って切ないほどだったが、平気な顔を装った。それに気づくと老カメラマンは苦笑を漏らし、 「結構だね。カメラマンは腹ぺこの方がいいんだよ。満腹でシャッターを押しても、いい写真は撮れない。まあカメラマンに限ったことじゃないな。人間というのはね、少し空腹の方が鋭くなるようにできているんだ」  そんなことを言った。  この時の会話がきっかけとなって、老カメラマンと彼は少しずつ言葉を交わすようになった。二人は広いスタジオの隅っこに据えてある長椅子《ながいす》に並んで腰掛け、コーヒーをすすりながらぽつりぽつりと話した。 「君は今幾つだ?」  老カメラマンは毎日この質問をした。彼が答えると今度は、 「そうか、写真が好きか?」  と尋ねる。好きですと答えると、老カメラマンは満足そうにうなずく。それから、今までに自分が撮った女優たちの話や、訪れた異国のことを話し始める。彼は一言も聞き逃すまいと、熱心に耳を傾けた。老カメラマンの話は機知に富んでいて、しかも驚くべき表現力を備えていた。まるで目の前にその風景が広がっているかのように、遠い異国の様子を説明する。その時の光はどうだったのか、山の端がどんな色をしていたのか、シャッターを押す時どんな気分だったか……。話を聞いている内に、彼は自分もその国へ行ってきたかのような錯覚を与えられた。  四日めの朝、老カメラマンはそれまでと違う顔でスタジオを訪れた。入ってくるなり、機材の準備をし始めたのだ。カメラバッグを開けて|8×10《エイト バイ テン》を取り出し、三脚に据え、照明を整えた。彼が手伝おうとすると、老カメラマンは厳しい顔でそれを制した。指一本触れさせようとしない。 「とりあえず君を撮ってみようかと思う」  老カメラマンはそう言った。そして有無を言わさず、彼をレンズの前に立たせた。彼は面食らってしまった。まさか自分がモデルにされようとは、夢にも考えていなかった。どんな顔をしたらいいのか分からなくて、彼はうつむいた。 「君は今幾つだ?」  すべての準備を整えると、老カメラマンはいつもと同じ質問をした。 「二十三です」  彼が答えるのと同時に、ストロボが光った。絶妙のタイミングだった。ポラを引き抜いてしばらく間を置いてから、写り具合を確かめ、照明の位置を直す。そして今度はフィルムを装填《そうてん》し、 「自分の歳について、どう思う?」  そんな質問をした。彼が答えようとする直前に、ストロボが光った。 「どうって……若くて厭《いや》だなあと思います」 「どうしてだい?」  淀《よど》みない会話を交わしながら、老カメラマンはシャッターを切り続けた。はじめの十枚ほどは緊張が隠せなかったが、いつしか彼は自分が被写体になっていることを忘れた。  一時間ほどそうやってシャッターを切り続けた後に、老カメラマンはふっと淋《さび》しそうな表情になって、 「もういいかな」  そう呟《つぶや》いて、壁際の椅子へ腰かけた。疲れ切った様子だった。 「明日と明後日は、スタジオに誰も入れないでくれ。もちろん君もだ」  老カメラマンはそう言い残し、機材をそのままにして帰ってしまった。彼はスタジオに一人残されて、茫然《ぼうぜん》と佇《たたず》んだ。どういうことなのか、さっぱり訳が分からなかった。  翌日と翌々日、老カメラマンはいつも通り午前十時にスタジオ入りし、一人でひそかに何かを撮り続けた。何を撮っているのか、誰にも分からなかった。そして一週間のレンタルの予定を一日早く切り上げて、二度とスタジオには顔を見せなかった。数日間アシスタントとして傍に控え、乞《こ》われるままモデルまでつとめたのに一言の挨拶《あいさつ》もなかったことで、彼は深く傷ついた。せめて何を撮ろうとしていたのか、教えてくれてもよさそうなものなのに。そう思うと歯痒《はがゆ》くて仕方なかった。  老カメラマンの訃報《ふほう》を聞いたのは、それから二週間後だった。全身を癌《がん》に蝕《むしば》まれていて、立って歩いていたのが不思議なほどだったという。最後にスタジオで撮ったフィルムは、故人の遺志により、現像されないまま柩《ひつぎ》に収められた。  その話を聞いて、彼は老カメラマンが最後の二日間に何を撮ろうとしていたのか、分かったような気がした。そしておそらくその試みは上手《うま》くいったのだ。だから老カメラマンは、そのフィルムを現像しないまま柩に収めるよう言い残したのだ。彼はゴミ箱から拾っておいたあの時のポラロイドを眺めながら、そう思った。  そこには「二十三です」と答えた瞬間の、あまりにも生き生きとした若者の姿が鮮やかに捉《とら》えられていた。  郵便配達夫の片想い  誰かに職業を尋ねられると、彼はとりあえずこう答える。 「公務員です」  たいていの場合、相手はそれ以上詳しいことを訊《き》こうとはしない。公務員は公務員。おそらく相手の頭の中には、彼が鼠色《ねずみいろ》のスーツに白いワイシャツを着て、山と積まれた書類に判を押したりボールペンで書込をしたりする姿が浮かんでいるはずだ。しかし現実はかなり違う。  彼は郵便局に勤めている。  小さな町の、小さな郵便局だ。彼はそこで郵便物の配達業務を担当している。地味で、辛《つら》い仕事だ。しかし彼は、局内の机に向かって書類の作成や整理をしたり、窓口で礼儀をわきまえない客の相手をするよりも、余程ましな仕事だと思っている。少なくとも外の空気が吸える。それだけでもありがたいことだと、彼は考えていた。  郵便物の配達には、赤と白のツートンカラーに塗った50�のバイクを使う。地域ごとに細かく区分けされた郵便物の束を、配達|鞄《かばん》と荷台につけた箱の中に満載し、白いヘルメットをあみだに被《かぶ》って、彼はバイクに跨《また》がる。就職してからまだ二年にも満たないが、その間事故を起こしたことはないし、誤配などの苦情を受けたこともない。彼はそのことをひそかに誇りにしていた。  彼は無口で、真面目《まじめ》な男だ。まだ二十歳になったばかりだが、これといった野心もなく、不満もない。そういう意味では、郵便局の地味な仕事というのは彼に相応《ふさわ》しいのかもしれない。  雨の日は黒い雨合羽《あまがつぱ》を着込み、晴れた暖かい日は袖《そで》を捲《ま》くり上げて、彼はバイクを駆る。住宅地ではあまり飛ばすこともできず、二メートル乗ってはすぐ降りるようなことを繰り返すわけだが、すべての配達を終え、身軽になって局へ戻る際には、少し遠回りをして四車線の広い道を行く。両側の歩道に常緑樹が植えられた気持のいい国道だ。昼少し前、あるいは夕暮れ時にこの道を走ることが、彼にとってはささやかな楽しみだった。  ある日、この国道で信号待ちをしている時に、彼は美しい女性に出会った。彼女は白いスポーツサイクルに跨がって、横断歩道を横切っていった。長い髪に、桃色の唇。その横顔は、古い日本映画で石原裕次郎の相手役を演じていた何とかいう女優に似ていた。おそらく市内にある女子大に通う学生だろう。彼は彼女の後姿を見送りながら、今までに覚えたことのない甘い疼《うず》きを、胸の奥に感じた。しかし後を追って名前を尋ねる勇気などあるはずもなく、彼はただじっと、その場にたたずんでいた。  二度目に彼が彼女を見掛けたのは、配達途中の住宅地の路上だった。彼女はこの前と同じ白いスポーツサイクルを漕《こ》いで、ハンドルにコンビニエンスストアの袋をぶら下げていた。息を呑《の》んでその後姿を眺めていると、すぐ先の二階建てのアパートの陰へ消えた。慌てて後を追うと、彼女はそのアパートの外階段の下へスポーツサイクルを停《と》め、一階の右端の部屋の扉を開けるところだった。彼はバイクのもとへ取って返し、配達鞄の中を探った。そのアパートの右端の部屋の住人に宛《あ》てた手紙が一通と、ダイレクトメールが一通見つかった。  彼は彼女の名前を知った。  とても美しい名前だと思った。彼はどきどきしながら、その手紙とダイレクトメールを彼女の部屋の郵便受けへ入れた。  その日から彼は、彼女宛の手紙や葉書が届くことを心待ちにするようになった。いけないことだと思いながらも、葉書の場合は文面に目を走らせた。旅先の友人からの、他愛《たわい》もない内容だったりしたが、彼は胸をときめかせた。そしてまるで自分がその葉書を書いて投函《とうかん》したかのような錯覚に浸りながら、彼女の部屋の郵便受けへそれを入れた。  そんなふうにして彼は、彼女に対する想いを深めていった。  初めて彼女を見掛けてから半年ほど経ったある日、彼はほんの気紛れから文房具屋に立ち寄って、上品なレターセットを買い求めた。仕事を終えて家へ帰り、彼女に宛てた手紙を書いてみる。もちろん投函するつもりなどなかったが、書いている内に、自分の想いがどれほどのものなのか、あらためて自覚されるのだった。  彼は何通も何通も、彼女に宛てた手紙を書いては、机の引き出しの中へ溜《た》めていった。そしてちょうど百通目を書き終えたある夜、それを彼女のもとへ届ける決心をした。  翌日、彼はすべての配達を終えた後に、制服の内ポケットから自分の手紙を取り出し、配達鞄の中へ入れて、彼女の住むアパートへ向かった。緊張して、途中何度も引き返そうとしたが、何とか思いとどまってバイクを走らせた。  やがて彼女のアパートが見えてくる。  建物の前の道に引越屋のトラックが停まっている。彼はバイクを降り、自分が書いた手紙を右手に握りしめて、近づいていった。彼女の部屋の郵便受けにそれを入れようとした矢先、扉が開いて、中から彼女自身が顔を覗《のぞ》かせた。大きなダンボール箱を抱えている。彼はあからさまに動揺して後ずさった。彼女はそしらぬ様子で、彼の脇《わき》を通り過ぎて、ダンボール箱をトラックの荷台へ積んだ。そして足早に戻ってくる。 「お引越し、ですか?」  彼は掠《かす》れた声で尋ねた。 「ええ、そうなんです。私に何か手紙、きてます?」  彼女は微笑《ほほえ》みながら言った。彼は自分の手紙を後ろ手へ隠し、 「いいえ」  と呟《つぶや》きながら首を横に振った。 「別に何も……今日は何もきていません」  人を喰《く》う本  彼の父親は若くして亡くなってしまったが、数冊の研究書を著しそれなりの評価も受けたドイツ文学者であった。  当然家に残された蔵書もかなりの数にのぼり、彼は幼い時分から本に囲まれて育った。兄弟もなく、あまり外向的な性格でもなかったために、本が彼にとっての友人の役割を果たした。母親は彼が父親と同じ文学者の道に進むことを願っていたが、生憎《あいにく》彼は表現する才能に欠けていた。確かに彼は幼い頃から数えると膨大な量の読書をこなした。しかしそれはあくまでも自身の楽しみとしての読書で、そこから何かを生み出そうとする行為につながるものではなかった。  結局、彼は二流の大学を出ると、本屋に勤めることになった。本屋といっても全国に二十以上の店舗を持つ大型書店だから、これはもう立派な会社である。もちろん出版の部門もあったが、彼は編集という仕事には興味が持てなかった。売場に配属されることを希望し、毎日本に囲まれて過ごす環境に自らを置いた。彼は満足だった。  入社して半年ほどたったある日、彼の職場である書店の売場に、一風変わった老人の客が現れた。もう夏も近い季節だというのに、黒いフロックコートを着て、白い手袋を嵌《は》めている。日本人離れした鷲鼻《わしばな》に、白い顎髭《あごひげ》をたくわえた容貌《ようぼう》は、いんちき臭い奇術師を想わせる。  老人はゆっくりと売場を一周して書棚を物色し、ちょっと困ったような表情を浮かべて、レジに立つ彼の方へ近づいてきた。目が合うと微笑《ほほえ》みかけてきたが、それは決して友愛の意味を込めた笑顔ではなかった。何か相手を貶《おとし》めるような、厭《いや》な笑いだ。彼は一瞬ぞっとして、後ずさりしそうになった。 「すまんがね」  老人は掠《かす》れ声で話しかけてきた。 「ちょっと本を探してもらいたいんだが。探せるかね?」  その言い方には、どうせお前には探せまいというニュアンスが感じられた。そのために彼は少々むっとして、 「もちろんです」  と答えた。老人は満足そうにうなずき、彼の目から視線を外さずに、 「本の題名は『人を喰う本』というのだが。聞いたことはないかね」 「著者と出版社名が分かれば……」  すかさず彼が答えると、老人は人を小馬鹿にしたように鼻で笑い、 「それが分かれば自分でも探せるよ」 「じゃあ書名だけで検索してみましょう」  彼はレジ脇《わき》にあるコンピュータの端末に向かい、書名を打ち込んでみた。絶版でなければ、手間もなく分かるはずだ。その様子をレジカウンターの向こうから眺めながら、老人は舌を鳴らし、 「とても古い本だ。聖書と同じくらいにな」  そう言って首を振った。やがて端末の画面に�該当書ナシ�の表示が現れた。からかわれたのだと思い、彼はあからさまに不愉快な表情を浮かべて、 「うちは古本屋じゃありませんから、絶版書は取り扱っておりませんが」  冷たく突き放した。すると老人はやれやれと呟《つぶや》いてレジカウンターを離れた。二三歩行って振り返り、 「しかし君はその本を読みたいだろう? 違うかね」 「その本を探してるのは貴方《あなた》でしょう。ぼくが読みたいわけじゃありません」 「そうかな……」  老人は意味ありげな笑いを残し、ゆっくりと立ち去った。  書店には時々、こういったわけの分からない客が訪れる。よくあることだと言ってしまえばそれまでだ。  ところが老人の言動は、妙に彼の記憶に残った。特に『人を喰う本』という本の存在が気にかかる。頭のおかしな客の戯言《ざれごと》にすぎないと、自分に言いきかせてはみたものの、どうしても忘れられない。  古い本だと言っていたが、一体いつごろの本なのだろう。作者は誰で、どんな内容なのか。装丁はどんなデザインなのだろう? 考えれば考えるほど気にかかり、奇妙な胸騒ぎすら覚えてしまう。  数日後には、彼は夢の中で『人を喰う本』を読んでいる自分を発見した。夢を見ている間だけは、確かにその本は自分の手の中に存在し、装丁も内容も作者もすべてはっきりしている。しかし目醒《めざ》めると、何の手掛かりも残っていない。  彼は狂おしいような気分になり、勤めを休んだ。そして国会図書館に通い詰め、古書誌を調べ始めた。それは気の遠くなるような作業だった。聖書が生まれた頃から現在までの間に発刊されたすべての本の中から、たった一冊の本を探し出す。せめておおまかな発刊時期か、著者名だけでも明らかであれば、もう少し作業を絞り込むことができたろう。しかし逆に、厄介であるからこそ彼はその作業に熱中した。  翌月、彼は無断欠勤のために職を失った。しかしもう、彼にとって働くことなどどうでもよかった。今や彼は『人を喰う本』を発見するために存在していた。  長い年月が流れた。  図書館で閲覧できるほとんどの古書誌を調べつくし、それでも発見することができずに、彼は深い失望の淵《ふち》に立たされた。いつのまにか風体も、頭のおかしな男のそれに変わっている。彼はふらふらと街を彷徨《さまよ》い、とある書店の中へ入っていった。店内の書棚を物色した後、レジへ行って係の若者に向かって、こう言った。 「ちょっと本を探してもらいたいんだが。探せるかね?」  調香師の不幸と幸福  彼は風邪をひいた。  ということは、つまり仕事ができない状態を意味する。たとえ軽い症状で、行動に支障がなくてもだめだ。出勤したところで何の役にも立たず、ひどく手持ち無沙汰《ぶさた》な一日を過ごすしかない。  彼の職業は調香師なのだ。  ある化粧品メーカーの研究所に勤めていて、一日じゅう鼻で仕事をしている。ローズ、ジャスミン、ゼラニウム、ベルガモット、バルサム、ジャコウ、竜涎香《りゆうぜんこう》、霊猫香……。植物性、動物性、合成のありとあらゆる香りをブレンドし、それを嗅《か》いで詳しいリポートを作っていく。  だから風邪をひくということは、彼にとっては職業上致命的なことだ。日頃から気をつけてはいるのだが、病気というのは容赦がない。束の間気を緩めたところへ、すかさず忍び込んでくる。 「三分たった?」  リビングルームの方で、女の声がする。彼は押し黙ったまま、耳を澄ます。流しの水の音が止み、彼の寝ているベッドルームに向かって足音が近づいてくる。 「ピッて音、した?」  女が言っているのは、彼が腋《わき》の下に挟んだ体温計のことだ。デジタル式で、熱を計り終えると電子音をたてる。 「どうかな」  彼は答えながら身じろぎをする。 「どうかなって、あなた耳ないの?」 「ぼんやりしてたんだよ……」 「鼻はいいけど、耳は悪いのね」  笑いながら、女は彼の腋の下へ手を差し入れる。ひんやりした感触……水を使っていたからだろう。肌に触れられると、妙に心地好い。ということはやはり、熱があるのだろうか。  女はデジタル体温計の目盛りを光に翳《かざ》すようにして眺め、 「三十七度」  と半ばつまらなそうに言った。その反応を見て、彼は不機嫌になる。まるで熱がある方がいいみたいな言い種《ぐさ》じゃないか。誰のせいでこうなったと思っているんだろう。  昨夜、女が彼の部屋へ泊まっていったことが、間違いなく風邪の原因だった。裸のまま眠り込んでしまったことは彼自身にも責任があったが、寝相が悪くて掛け布団を剥《は》いでしまったのは女の方に責任がある。彼はそのことで女を責めてやりたい意地悪な気持にかられた。 「熱がなくても大問題なんだよ」  彼はわざと弱々しい声で言った。 「鼻がきかなきゃ、俺《おれ》は手足をもがれたも同然だ。転職を考えなきゃならない」 「何言ってんの。これくらいの風邪なんてすぐに治るわよ」  女はあくまでも明るい声で言い放ち、彼の鼻を優しくつまんだ。瞬間、彼はその掌《てのひら》の匂《にお》いを感じたような気がしたが、はっきりと意識する寸前で霧散してしまった。いつもならば、掌にからみついた匂いを鋭く嗅ぎ分けて、さっきまで何をいじっていたか当てることさえできるのに。 「全然だめ?」  女は、彼が調香する時の顔つきになっていることに気付いて、訊《たず》ねてきた。首を横に振ってみせると、ちょっとがっかりしたような顔をして、 「お米をといでたのよ。分からない?」 「全然分からない」 「おかゆを作ろうと思って。あなた具は何が好きなの? 卵? それとも塩だけ?」 「塩だけがいいな」 「了解しました」  女は急に威勢よく言って、立ち上がった。ベッドのそばを離れ、キッチンの方へ去っていく。  一人ベッドの中に残された彼は、溜息《ためいき》をついた。鼻がきかなくなることが、こんなにも憂鬱《ゆううつ》だとは思ってもみなかった。一時は、匂いに関して鈍感だったら、もっと幸せになれるかもしれないと考えもしたのに。  彼は一度離婚を経験している。その原因はききすぎる鼻にあった。匂いに関して必要以上に敏感であるあまり、知らなくてもいいことまで知ってしまったのだ。  結婚して二年ほどたったある夜、彼はベッドを共にした妻の体から、いつもとは違う匂いが漂ってくるのを感じた。それは男の体臭だった。妻は風呂《ふろ》に入り、石鹸《せつけん》を使ってきれいに体を洗った後だったが、彼の鼻は犬のそれのように執念深く敏感に、男の残香を嗅ぎ分けてしまったのだ。  ——職業病というやつだな。  彼は妻との激しい言い争いや、その後の厄介な離婚手続きなどの経緯を反芻《はんすう》しながら、ぼんやりと天井を見つめた。そしてゆっくりと目をつぶり、ベッドの中へ溶け込んでいくように眠りについた。  小一時間ほども眠ったろうか。揺り起こされて、彼は目覚めた。女の顔がすぐそばにあって、柔らかく微笑《ほほえ》んでいる。 「おかゆ、できたわよ」  半ば夢の中で、彼はその声を聞いた。意識がはっきりしてくるにつれて、鼻先へ何か懐かしいような匂いが流れてきた。彼はあわてて上体を起こし、女の体から漂ってくるその匂いを嗅いだ。 「どうしたの?」  女は不審そうな顔で訊《き》いた。 「治ったみたいだ」  言いながら、彼はその匂いの正体を知って微笑んだ。  それは彼自身の体臭だった。女の体から、彼の体臭が漂っていたのだ。その匂いは、キッチンの方から流れてくるおかゆの匂いと混ざり合って、何とも言えぬ家庭的な、幸福な雰囲気を醸《かも》し出していた。  骨董《こつとう》屋の見たもの  二年ほど勤めた後に、彼はその会社を辞めた。  直接の原因は女性の上司との折り合いが悪かったことだが、ちょうどその時期に父親が亡くなり、かなりの額の遺産が転がり込んだことも理由のひとつだった。その金を元手にして、彼は商売を始めた。  アンティークの店だ。  少し無理をして渋谷の外れに店舗を借り、勤めていた時のコネを使って商品を買い揃《そろ》えた。立地条件と品揃えさえしっかりしていれば、アンティーク屋はそれなりに集客率が上がる。彼は自信があった。  初めは、アンティークのロレックスを中心に品物を揃えていったところ、これが当たった。彼の店へ行けば、よそにないロレックスが手に入ると口コミで噂《うわさ》が広がり、贔屓《ひいき》の客が増えた。  一年ほどアンティークのロレックスばかりを扱った後に、彼は少しずつ商売の間口を広げていった。次に流行《はや》るのは和風のものだと彼は読んでいたので、所謂《いわゆる》日本の骨董の類《たぐい》を仕入れ始めたのだ。  これは上を見るとキリがないので、仕入れ値が一番の決め手だった。渋谷を訪れる若い客が、それほど無理をしなくても手が出せる値段。そのためには仕入れ値を極力抑える必要がある。既にできあがったルートから仕入れていたのでは、埒《らち》があかない。そこで彼は月に何日か店を他の者にまかせ、自らの足で地方へ出掛けた。田舎の村を訪ね、土蔵があるような民家を回るのだ。収穫がまったくないことも多かったが、運がいいと、息を呑《の》むほどすばらしい器や壺《つぼ》などを、二束三文で仕入れることができた。  半年ほど続ける内に、彼は店に立って商品を売ることよりも、仕入れることの方に夢中になった。気の向くままに旅をして、何となく辿《たど》りついた田舎家の縁側で、埃《ほこり》をかぶった器などを眺めていると、自分がまるでその器に呼ばれてそこへ来たような錯覚を覚えた。それは彼にとって、この上もなく幸福な錯覚だった。  その日も彼は、そんな旅の途中だった。  羽田で空席待ちをして飛行機に乗り込み、札幌に着いたところまでは予定通り。そこから先は何も決めていない。空港でレンタカーを借りて、地図も見ずに走り出す。車さえ確保しておけば、たとえ宿がとれなくてもその中で眠ればいい。  二時間ほど闇雲《やみくも》に走ったところで、彼は小さな村を見つけた。走りながらざっと見たところ、三十軒ほどの集落だ。ここのところ、彼の勘は的中し続けている。この村にも、何かがありそうな気がした。  彼は車を降り、村へのだらだら坂を歩いて上り始めた。右手に、漆喰《しつくい》の剥《は》がれ落ちた土蔵と母屋が見えてくる。彼は躊躇《ちゆうちよ》なく、この家の敷地へ入っていった。手入れのされていない荒れ放題の庭先には、半ば野生化した鶏が数羽、虫をついばんでいた。おそらく老人だけの家なのだろう。だとしたら彼にとっては幸運なことだ。 「ごめんください……」  彼は土間へ通じる引き戸を開けて、中へ声をかけた。ややあってから、奥で返事がある。老婆の声だ。 「何です?」  現れたのは、腰の曲がった貧相な老婆だった。そばへ来ると、老人特有の厭《いや》な臭いが漂う。しかし彼は表情を変えずに、 「私、東京から来ました骨董屋です。古いものを探してるんですが」  と率直に言った。老人相手にあまり回りくどいことを言うと、話がややこしくなることが多いのだ。彼は言いながら名刺を取り出し、老婆に手渡した。おそらくこの老婆は、名刺を誰かから貰《もら》うなんて生まれて初めてのことなのではないだろうか。受け取ると如何《いか》にも珍しげにためつすがめつし、 「古いもの、どうするで?」  と不思議そうに訊《き》き返してきた。彼は快活に笑った。 「譲っていただきたいんです。もちろんお金はお支払いします」 「買うんかい? 古いものを? 買ってどうするで?」 「東京へ持って行って売るんです。私は、そういう商売をしてるんです」 「商売かい」 「そうです」  老婆はそれでも納得がいかないらしく、しきりに首をかしげながら、 「古いって、どんなもんだ? 古けりゃ何でもいいか?」 「例えば器とか掛け軸とか……古い雛《ひな》人形や掛け時計なんかでも結構です」  彼はお定まりの文句を口にした。老婆はもう一度名刺と彼の顔とを交互に見やり、しばらく考え込むような表情で押し黙った。その間に彼は視線を動かして、老婆の背後——家の奥の方の様子を窺《うかが》った。人の動く気配はない。こんな年寄りなのに、一人暮らしなのだろうか。 「ちっと待ってくれるか」  老婆は彼の無遠慮な視線に気づいたのか、くるりと踵《きびす》を返すと家の奥へ消えた。押し入れでも引っ掻《か》き回しているらしい。彼は引き戸から一歩中へ踏み入り、土間に立って周囲を見回した。  まるで百年前で時が止まったかのような雰囲気だ。ここには何かすごいものが隠されているに違いない。根拠はないが、彼の勘がそれを教えてくれる。一体何が出てくるだろうかと、彼はひそかに胸をときめかせた。  老婆は、なかなか戻ってこなかった。  彼は焦れて、土間縁の上へ膝《ひざ》をつき、老婆が去った奥座敷の方を覗《のぞ》き込んだ。壁際に厭というほど綿埃の溜《た》まった真っ直ぐな廊下が、奥へ延びている。右側は庭に面したガラスサッシ。これはつい最近|設《しつら》えたものだろう。左側に、襖《ふすま》がいくつか並んでいる。老婆が押し入れを探る物音は、一番奥の襖辺りから聞こえてくる。  むろん躊躇《ためら》いはあったが、彼は靴を脱いで勝手に上がり込んでみた。見咎《みとが》められても、相手は老婆だ。どんなふうにもごまかすことはできるだろう。  言い訳を考えながら、彼は一番手前の襖をそっと開けてみた。細く開けた隙間《すきま》から、中を覗く。  人気のない、薄暗い和室だ。二階分を吹き抜けにしてあり、やけに天井が高い。使われなくなってから、ずいぶん経つのだろう。室内には湿った黴《かび》の臭《にお》いが満ち、あちこちに蜘蛛《くも》の巣が張っている。室内には調度らしい調度はひとつもなく、がらんとしている。薄闇に目が慣れてくるにつれ、左側の壁際に何か大きなものが立てかけてあるのが分かってくる。彼は目を凝らし、それが何であるのかを知るなり、息を呑んだ。  それは巨大な座椅子《ざいす》だった。  背凭《せもた》れの高さだけでも、ゆうに二メートルはある。横幅も、やはり二メートル近い。肘掛《ひじか》けと座板の間には無数の蜘蛛の巣が張っていて、まるでレースの布が被《かぶ》せてあるかのように見える。  彼は室内へ一歩、足を踏み入れた。足裏にじゃりじゃりした感覚がある。そばへ寄って眺めると、あらためて座椅子の巨大さに圧倒される。まるで自分が小人になってしまったかのような錯覚がある。一体これは何の冗談なのだろう? 「入っちゃなんねえよ」  不意に背後から声をかけられて、彼は跳び上がりそうになった。振り向くと廊下の所にさっきの老婆が立って、彼の背中を睨《にら》みつけていた。 「すみません……」  彼は素直に詫《わ》びた。 「声は掛けたんですけど、聞こえなかったみたいで……手洗いを探してたんです」 「手洗いは外だ」  老婆は冷たく言い放った。両手に古ぼけた壺と茶器のようなものを持っている。彼は慌てて駆け寄り、老婆の手にしたものへ目をやった。壺も茶器も確かに古いものだが、あまりセンスがよくない。ただ古いだけで、どこにでもあるガラクタだ。一目でそれが分かったが、彼は大袈裟《おおげさ》に声を上げた。 「ああ、これはいいですね」  老婆は面食らった様子だった。彼は壺と茶器を受け取り、ためつすがめつした。やはり安物のガラクタだ。 「これ、譲っていただけますか」  彼はかなりの高額を提示した。老婆は驚いた。 「そんなに……いいのかい」  瞳《ひとみ》の奥に強欲な光が宿ったのを、彼は見逃さなかった。彼はすかさず言った。 「この座椅子もいいですね。大きくて……とても面白い」  それを聞くと、老婆はふっと顔色を変えた。急に仏頂面になって首を横に振り、だめだめと呟《つぶや》く。 「それは悪いけど売れないね」 「二十万でどうです?」  老婆はその金額に一瞬動揺したが、やはり譲れないと言って首を振った。彼は心の中で舌打ちをしながらも、顔には笑みを湛《たた》えたまま、 「残念だなあ……」  そう呟いた。振り返り、もう一度座椅子を眺めてから、老婆の顔色を窺う。 「これは、ずいぶん大きいですけど何に使われたものなんです? 祭りか何か?」 「うん……ああそうだ。祭りのな。昔の古いもんだで」 「譲ってもらえませんか」 「だめだ」  老婆は頑固に否定し、彼の手を取って強引に部屋から出るよう促した。従うと、背後の襖を閉ざしてしまう。彼らは廊下に突っ立って向かい合う恰好《かつこう》になった。右手のガラスサッシ越しに、庭の隅に建つ土蔵が見える。彼はそれを視界の隅で捉《とら》え、胸騒ぎに似た興奮を覚えた。  あそこに何かある——彼の勘がそう言っている。 「こういう湯呑みとか、皿とかはもっとあるで。持ってくるか?」 「ああ、そうですね。是非」 「ちょっと待ってろ」  老婆は言い残すなり、そそくさと奥座敷へ向かおうとした。その背中に、彼は声をかける。 「手洗い、外でしたよね」 「ああ、出て右側だ」 「ちょっと拝借します」  老婆はいいとも悪いとも言わずに、奥の襖へ姿を消した。それを見送ると、彼は大慌てで靴を履き、小走りに表へ出た。なるほど老婆の言っていた通り、すぐ右手に厠《かわや》らしき小屋がある。強烈な肥《こえ》の臭いが、鼻先へ漂ってくる。  しかし彼は反対方向へ走り出した。できるだけ足音を立てないように庭を横切り、土蔵へ向かう。壁の漆喰がぼろぼろに剥がれ落ちた、廃墟《はいきよ》のような建物だ。ただ屋根だけはしっかりと補修がしてあり、雨露の侵入を拒んでいる。ということはつまり、中に何か大事なもの——濡《ぬ》れては困るものがあるに違いない。  土蔵の正面には、木製の巨大な引き戸がある。  彼は母屋の方へ気を遣《や》りながら土蔵へ駈《か》け寄り、この引き戸を確かめた。腕ほどもある太さのカンヌキが金具へ通してあるが、鍵《かぎ》はついていない。  彼は一瞬迷った後、静かにカンヌキを外した。とにかく時間が惜しい。こうして迷っている間に、さっさと中を検分してしまった方が話は早いではないか。  引き戸はかなり滑りが悪く、開けるのに苦労した。こんなに重い戸をあの老婆が一人で開けられるとは思えない。どこか他に出入り口があるのだろう。  土蔵の内部は薄暗く、目が慣れてくるまでほとんど何も見えなかった。足を踏み入れると、たちまち強烈な黴の臭いが鼻先へ漂う。黴だけではない。何か味噌《みそ》のような……野菜の腐った臭いもする。堆肥《たいひ》を蓄えてあるのだろうか。  次第に目が慣れてくる。半開きにしたままの戸口から差し込む表の光が、土蔵内部をぼんやりと浮かび上がらせている。左手に瓷《かめ》のようなものがある。かなり大きい。人間一人くらいなら、入れそうだ。近寄って蓋《ふた》を取り除き、中を覗き込んでみる。ちょうど半分くらいまで、何か白い粒のようなものが入っている。触ってみると、米だ。  ——贅沢《ぜいたく》な米櫃《こめびつ》だな……。  そう思いながら瓷の裏へ回り込むと、陰に隠すようにして、流しと竈《かまど》があった。わざわざ水道を引いているらしく、ちゃんとした蛇口がついている。竈は薪《まき》で焚《た》く方式のごく古いもので、江戸時代を想わせる。何の気なく手で触れてみると、ほんのり暖かかった。つまり使用されているということだ。あんなに立派な母屋があるのに、わざわざここで食事を拵《こしら》えているのだろうか。一見したところ一人暮らしのようだったが……。  彼は首をかしげながら、振り向いた。ちょうど反対側の壁際に、二階へ上がる階段らしきものが見える。階段というか、梯子《はしご》に近い角度だ。  あらためて天井を見上げる。太い頑丈な梁《はり》が何本も組み合わせられ、その上に二階の床が載っている。土蔵にしてはずいぶん強固な造りだ。彼は二階へ上がる前に、戸口から表へ首を突き出し、母屋の様子を確かめた。  老婆の姿はない。まだ奥座敷を探っているのだろう。できるだけ時間をかけてくれるとありがたいのだが。  足音を忍ばせて階段へ駈け寄り、一段ずつ足元に気を配りながら昇っていく。二階には窓があるらしい。昇るにつれ、薄明かりが感じられる。階段は、二階の床に穿《うが》たれた穴に寄り掛かるような形で設えられていた。彼はまず上半身を突き出し、二階の様子をおそるおそる確かめてみた。  そこは二十畳ほどの、がらんとした空間だった。右手——おそらく北側に明かり採りの窓がひとつ。その明かりを頼りにして室内を見回す。家具は何ひとつない。ただ二十畳の中央に、大きな布が広げられている。  ——何だ……?  目を凝らしながら彼は首を突き出し、次の瞬間はっとして息を呑んだ。  それは単なる布ではなく、巨大な布団だった。目測でも八畳……いや十畳ほどもあろうか。異様に大きい。しかもその布団には、人型の膨らみがあった。誰かがその中に寝ているのだ。  彼はしばらく息を殺して観察した後、強烈な好奇心に背中を押されるようにして、残りの数段を上り切った。二階の床に立って、布団を見下ろす。  確かに、誰かが寝ている。  しかし布団の膨らみ方から想像すると、その人間は余りにも巨大すぎる。身長三メートル半はあるだろう。そんな人間が実在するはずはない。  ——人形だな。  自分にそう言いきかせながら、静かに枕元《まくらもと》の方へ回り込んでみる。少しずつ、頭が見え始める。巨大な頭だ。  薄暗い上に窓からの明かりが逆光になって、その人物の表情は塗り潰《つぶ》されている。どうやら男性のようだ。老人らしい。顔に多くの皺《しわ》が刻まれている。実によくできた人形だ。彼は腰をかがめながら、その顔にじりじりと近づいていった。触って、確かめてみたい欲求にかられたのだ。恐怖心よりも好奇心に、彼は支配されていた。  手を伸ばし、その額に触れかけた刹那《せつな》、人形であるはずの老人が目を見開いた。片方は白濁しているが、もう片方は血走って生気がある。  彼は短い叫び声を上げて跳びのいた。生きている。この巨人は本物だ。そう思うのと同時に、ついさっき母屋の方で見た巨大な座椅子が頭に浮かんだ。あれは、この老人の座るものだったのだ。 「ここへ入っちゃいけねえよ」  背後で声がした。驚いて振り向くと、老婆が階段の所に立っている。彼女は左手に古ぼけた壺を、そして右手には鉈《なた》を持っている。 「村の者だって、ここに入った奴《やつ》ァいないんだ」  老婆は壺を床へ置き、鉈を構えながら、彼に近づいてくる。表情は真っ黒に塗り潰されて、何も読み取ることができない。彼は慌てて逃げ場を探し、後ずさった。すると布団の中から巨大な手が現れて、彼の足首を掴《つか》んだ。ものすごい力だった。 「ここへ入っちゃいけねえんだよ……」  老婆はもう一度言った。そして振り上げた鉈を、彼に向かって力一杯振り下ろした。  百点満点の家  リース業を主体とするその中堅商社を彼が選んだのは、海外勤務を希望していたからだった。社内に強力なコネもあり、面接が終わった時点では彼の希望もたやすく受け入れられそうな話だったのに、いざ入社してみると、彼はレンタカーの営業所に配属されてしまった。  彼はくさった。  すぐにでも辞めてしまおうとも思ったのだが、コネをつけてくれた人物への遠慮もあって、ずるずると一年が過ぎてしまった。退屈な一年だった。  彼の勤務先であるレンタカーの営業所は、都内の高級住宅街の一角にあった。駅前から桜並木の坂道をだらだらと上りつめ、信号を右へ曲がる。周囲は瀟洒《しようしや》な住宅が建ち並んでいる。美しい街だ。いや、美しすぎる。そのことが、一介のレンタカー屋にすぎない彼を却《かえ》って苛立《いらだ》たせるのだった。 「いったい何をどうすればこんな家に住めるようになるのだろう」  通勤路である駅前の桜並木を歩きながら、彼は毎日そう思った。左右に並ぶ家々は、いずれも広々とした土地に、思い思いの趣向を凝らした設計がなされている。豪邸を絵に描いたような家ばかりだ。  ある日彼は通勤の退屈しのぎに、それぞれの家に点数をつけることを思いついた。駅に近い順から一軒ずつ、七十五点、九十点、八十点などと、彼なりの満足度を数字にして表すのである。彼の年齢がまだ若いせいか、和風の家は概《おおむ》ね点数が低く、洋風の家の点数は高かった。  その中に一軒だけ、彼が百点をつけた家があった。  桜並木を上り切った信号の右側に建つ、洋風の家だ。土地はおそらく三百坪くらいはあるだろう。門から建物まで煉瓦《れんが》が敷き詰めてあって、所々に花壇が設《しつら》えてある。庭には青々とした芝生が広がり、東屋《あずまや》が見える。ほとんど使われた形跡のないバーベキューセットが、いつも気掛かりだった。鉄筋の建物には上品なベージュのレンガタイルが貼《は》ってあり、規格サイズよりもずっと大きな窓がいくつも開いている。室内の様子を窺《うかが》うことはできないが、大体の想像はつく。大理石の床に、革張りのソファ。風呂《ふろ》は彼のアパートの部屋くらいの広さがあるだろう。  溜息《ためいき》が出るような豪邸だ。  日曜出勤した時に、彼はこの家の家族を垣間見《かいまみ》た。四十代前半の日焼けした逞《たくま》しい主と、髪の長い美しい妻。小学校低学年の娘と、幼稚園児らしき息子。四人の家族は、まるで降り注ぐ日差しそのもののようにキラキラした笑顔を浮かべながら、煉瓦敷きのエントランスを歩いて来、門の脇《わき》にあるガレージの車に乗り込んだ。メルセデスの新しいSLとジャガーとレンジローバー。車は三台ある。息子がレンジローバーを指さして、これで出掛けたいと言い張っているのが聞こえる。父親は苦笑を漏らしながらその言葉に従った。  桜並木を下っていくレンジローバーの後姿を見送りながら、彼は虚《むな》しさにも似た奇妙な感情に支配されて、しばらくその場にたたずんでいた。  また次の一年が過ぎた。  客の少ない平日の午後に、男が一人ふらりと訪ねてきた。屋根つきの小型トラックを借りたいと言われ、彼は書類を用意した。必要事項を記入してもらう際に、ふと目を合わせると、男の顔には見覚えがあった。どこで会ったのだろうと一瞬考えあぐね、すぐに気づいた。  あの百点の豪邸の持主だ。ひどくやつれた様子で不精髭《ぶしようひげ》を生やしているが、絶対に間違いない。彼はにわかに男の顔から目が離せなくなった。 「お引越し、ですか?」  必要事項を書き終わるタイミングを見計らって、彼は思い切って訊《き》いてみた。男は怒ったような顔で彼を見つめ、一瞬返答に詰まってから、ふっと寂しげに溜息を漏らした。 「都落ちってやつだね」  独言のように小さく呟《つぶや》くのを、彼は聞き逃さなかった。男は既に疲れ切っている様子だった。表情も髪型も服装も、以前見掛けた時とは別人のようだった。 「もっと大きいタイプのトラックも扱ってますけど……」  気をきかせたつもりで、彼はそう言った。しかし男は力なく首を振り、 「そんなに大した荷物じゃないんだ。小さいやつで十分」 「そうですか」  彼は自分が余計な質問をしたことに気づき、書類へ目を落とすふりをした。と、目的地の欄が空白のままになっている。 「どちらまで行かれるんですか? あのう、ここの欄なんですが」  営業用の声音で尋ねると、男は不快そうな顔をしてもう一度ボールペンを取った。聞いたこともない埼玉の地名を走り書き、大股《おおまた》で表へ出ていく。彼はすぐに後を追って、トラックの説明をし、車検証を手渡した。が、男はずっと上の空のまま彼の説明を聞き流し、トラックに乗り込んだ。  翌日、彼はいつも通りに駅前からの桜並木をだらだら上り、信号の手前で立ち止まった。百点の家は、相変わらずそこに建っていた。しかしガレージには一台も車がなく、建物の中にも人の気配はなかった。たった一日で、何かが大きく変わっていた。 「五十点……いや、二十五点」  彼は呟いた。そして以前、レンジローバーを見送った時よりも遥《はる》かに虚しい気持を噛《か》み締めた。  気だるい獣医  駅前から続くだらだら坂を上り切ると、急に視界がひらける。  春、この坂の上からの眺めはすばらしい。特に道の両脇《りようわき》に植えられた桜が一斉に花を綻《ほころ》ばせる時期は、しばらく立ち止まって見惚《みと》れてしまうほどだ。しかし季節が夏に近づくにつれて、彼は坂の上で立ち止まらなくなる。それどころか憂鬱《ゆううつ》な気分すら味わう。  坂の上からは、彼が勤める診療所の古ぼけた建物が眺められる。一応鉄筋の三階建てだが、手入れが行き届いていないので、廃墟《はいきよ》のように見える。その建物から、厭《いや》な臭《にお》いが坂下からの風に乗って、吹き上げてくる。犬猫の体臭や尿《によう》が入り交じった臭いだ。この臭いが彼を憂鬱にする。  彼は獣医だ。  獣医師の免許は持っているが、独立するほどの才覚も意欲もないので、今のところ叔父《おじ》の診療所に助手として勤めている。給料はよくもなく、悪くもない。  午前九時。彼は診療所に出勤し、白衣に着替える。彼の身体には、犬猫の体臭や尿、そして消毒液の強烈な臭いが滲《し》みついている。既に十年余もこの臭いに親しんでいるはずなのに、未《いま》だに慣れることができない。  本当のところ、彼は獣医の道を選んだことを後悔している。人間を相手にするよりは気が楽だろう、という安易な気持でこの道へ進んだものの、実際に仕事として動物を相手にしてみると、彼らは思いのほか扱い難く、わがままで不潔だった。しかも動物は単独で通院してくるわけではない。必ず飼主がそれを伴ってくる。結果的に彼は、動物と人間の両方を相手にしなければならない。  その日も彼は午前九時に出勤して、いつも通り白衣に袖《そで》を通した。つまらなそうな顔をして診療室へ赴き、椅子《いす》にかける。患者は既に二、三人待っている様子だ。彼はゆっくり煙草を吸い、それを揉《も》み消してから、鼻の下へメンソレータムを塗った。こうすると少しだけだが、臭いの影響から逃れられる。彼は机の上に並べられたカルテを手に取り、ざっと目を通してから、 「どうぞ」  と待合室へ声をかけた。  ややあってから扉が押し開かれ、背の高い細面の女性が入ってきた。年齢は三十代半ばといったところか。整った顔立ちをしているが、笑うと妙に眠たそうな顔になる。彼女は白いブラウスの胸に、黒猫を抱いていた。 「どうしました」  彼は尋ね、彼女の手から黒猫を受け取った。背中の部分の毛が、ごっそり拳大《こぶしだい》に抜け落ちている。無理やり引き抜いたものらしく、地肌に血が滲《にじ》んでいた。 「喧嘩《けんか》ですか」 「そう……らしいんですけど」  彼女は答えた。心配そうな声だったが、一瞬、その横顔が嬉《うれ》しそうに緩んだような気がした。 「たいしたことはなさそうですね。少し恰好《かつこう》が悪いけれど、これなら放っておいても大丈夫です」  彼は猫の背中を撫《な》でさすりながら言った。猫はひどく怯《おび》えていた。今にも逃げ出そうとして隙《すき》を窺《うかが》い、身を硬くしている。ここへ来るほとんどの猫と同じ反応だ。彼は外傷薬を取り出して傷口に塗り込み、 「まあ化膿《かのう》するようなら、もう一度いらっしゃって下さい」  そう言って猫を返した。彼女はそれを受け取ると、丁寧に頭を下げて診察室から出ていった。  それから二週間後。細面の女性は再び黒猫を抱いて、診療所を訪れた。彼は彼女のことを覚えていたので、会釈して迎えた。黒猫は以前診た時よりも毛艶《けづや》が悪く、ひどく衰弱していた。 「前脚を怪我《けが》したんです」  彼女は言った。猫を受け取って調べると、なるほど右の前脚にひどい傷を負っている。手先の指の部分が、何か重いもので押し潰《つぶ》されたようになっている。これでは歩くのも難渋するだろう。 「椅子の後ろにいたんです。それを知らないで私が座ったまま椅子の位置をずらそうとしたら、前脚を挟んでしまって……」  彼女は説明した。彼はそれを聞きながら、前脚の手当てにかかった。化膿止めを塗って添え木をし、手袋をかぶせて包帯を巻く。入院させるかどうか、微妙なところだ。 「ちょっとひどいですね。入院させて面倒をみましょうか?」  そう尋ねると、彼女は困惑した表情を浮かべ、しばらく考え込んだ後に首を振った。 「いえ、結構です。家で世話します。いけませんでしょうか?」 「いや、添え木を外さないように注意して下されば、結構です。それにしてもずいぶん鈍重な猫ですね。普通なら、脚を挟まれる前に素早く逃げますよ」 「ですよねえ」  彼女は苦笑いした。そして彼から猫を受け取り、頭を撫でた。猫はこの間よりも、もっと怯えていた。怯えることにすら疲れ果て、諦《あきら》めている様子でもある。 「やられたんですか、ここ?」  彼は彼女が右手に包帯を巻いていることに気づいて、尋ねた。 「そうなんですの。怪我をした時に、あわてて抱き上げてやったら興奮していたらしくて、思いっきり引っ掻《か》かれました」 「猫は意外なほど凶暴ですからね。どうぞお大事に」  彼はそう言って彼女を送り出した。そしてその後姿が消えるのを見届けてから、ほっと溜息《ためいき》を漏らした。  あの猫の傷は、彼女がやったものだ。おそらく以前の、引き抜かれた毛も彼女の仕業だろう。確証はないが、そんな気がした。  遠くにいる自分  時々彼は、どうして自分はこんなことをしているのだろうと不思議に思うことがある。得意先の社員のつまらない冗談を聞いて、愛想笑いを返したりする時だ。何をへらへら笑っているんだ俺《おれ》は——そう思うと自分が厭《いや》になる。  小学生の頃、彼が卒業文集に書いた将来の夢は科学者だった。試験管やビーカーやプレパラートに囲まれている自分、あるいは複雑なロボットを組み立てている自分を夢みて、わくわくしたものだ。他愛《たわい》ないと言ってしまえばそれまでだが、彼は彼なりに本気で考えていた。きっと科学者になれる、素晴らしい発見や発明をすることができると、純粋に信じていた。  ところが現実はどうだ。彼はコピーの機械のメンテナンスマンにすぎない。毎日九時に出社すると、修理道具一式を抱えて得意先を回る。一日平均五件。その間に何度もポケットベルが鳴って、もう一件急いで片づけてくれないかと指示される。夜の十時までかかって、一日十件をこなしたこともある。大抵の場合は、トナー切れとか紙詰まりとか、ごく単純な故障ばかりだ。  彼はそれでも文句を言わず、黙々と仕事をこなす。科学者とはえらい違いだと思うけれど、それを口に出したところで何にもならない。  ただ時々、仕事の最中にぼうっとして、自分は何をやっているんだろうと考えてしまうのだ。こんなはずではなかった。自分はもっと別のことをやりたかったのに——そう思い始めると、急にコピーの機械が憎らしくなり、唸《うな》り声を上げながら叩《たた》き壊してやりたい衝動にかられる。  そういう時、彼はいつも高い所に上った。仕事で立ち寄ったオフィスビルの屋上とか、高層ビルの展望階などである。高ければ、どんな所でもいい。見晴らしのいい場所へ行って、眼下に東京の街を眺め、気持を落ち着ける。それが彼にとってのストレス解消法だった。 「馬鹿と煙は高い所へ上る、か」  彼は自嘲《じちよう》気味に呟《つぶや》き、窓越しに、あるいは鉄柵《てつさく》越しに東京の風景を眺める。人も車も建物も、すべてがちっぽけなものとして彼の目に映る。これだけ沢山の建物があって、その中に部屋が沢山あり、部屋の片隅にはコピーの機械が置いてある。そのコピーの中に一枚の紙が詰まると、彼のポケットベルが鳴り出すのだ。  そんなことをぼんやり考えていると、いつのまにか自分が一枚の薄っぺらな紙になって、この東京という街のどこかに詰まっているような気がしてくる。誰かメンテナンスマンが駆けつけて、彼をこの閉塞《へいそく》状況から摘《つま》み出してくれないかと夢想する。しかしそれは夢想にすぎない。彼はにっちもさっちもいかず、東京の街の中に詰まったまま一ミリも動けずにいる。  ある日、彼は仕事の途中で東京タワーに上った。芝公園の得意先でその日のノルマを終え、会社に連絡を入れずに、例によって高い場所を目指したのだ。  夕暮れが迫っていた。  エレベーターを降り、展望ルームをぐるりと一巡りしてみたが、平日のせいか人の姿はほとんどなかった。彼はぼんやりと硝子《ガラス》越しに東京の風景を眺め、それから売店へ行って缶コーヒーを買った。ぬるくて、不味《まず》いコーヒーだった。  それを飲み終えると、彼はもうすることがなくなってしまった。売店脇《わき》のベンチに座って、帰ろうかどうしようか迷っていると、高校生らしきアベックが彼の前を横切り、はしゃぎながら望遠鏡のそばへ行った。百円を投入すると一分間眺められる、観光地によくあるやつだ。 「おもしろそうだな……」  彼は単純にそう思った。今までは遠く、ちっぽけな風景を眺めるばかりで、望遠鏡で覗《のぞ》いたことはない。一度くらい、拡大された風景を眺めるのも悪くないだろう。  早速手近の望遠鏡に近づいて、百円を投入した。  かちゃりと小気味よい音が響いて、覗き穴のシャッターが開く。顔を押しつけるようにして覗くと、意外なほど拡大された風景が彼の視界を支配した。ちっぽけだと思っていた建物や車や人が、急に成長したかのように迫ってくる。  彼は夢中になって、望遠鏡をあちこちへ向け、貪《むさぼ》るように眺めた。百円分の時間が過ぎると、すぐに次の百円を投入した。  その時ふと、自分が誰かに見られているような気がした。背後からではなく、正面からだ。そんなはずはないと思いながら目を凝らすと、十五階建てのビルの屋上に立っている人影が視界に飛び込んできた。その男は彼と同じようなスーツを着て、同じような工具ケースを足元に置き、双眼鏡を目に押しあててこちらを見ていた。  二人は、拡大された風景の中で、視線を重ねた。彼ははっとしたが、相手も驚いた様子だった。まるでもう一人の自分を発見してしまったような気分だった。  彼は、じっとその男の姿を見つめたまま、視線を逸らさなかった。相手の男も同様に、じっと彼を見つめていた。二人は数百メートルの距離を隔てて、見つめ合った。  かちゃりと音が響いて、覗き穴のシャッターが閉じた。目の前が真っ暗になる。ポケットを探ってみたが、もう百円玉は尽きていた。彼は舌打ちを漏らし、今度は肉眼でビルの屋上を探した。しかし、それらしい男の姿はもうどこにも見当たらなかった。まるでそんな男は最初から存在しなかったかのように、うそ寒い東京の風景が広がるばかりだった。  編集者の彷徨《ほうこう》  午前十一時に、彼は社を出た。  地下鉄を乗り継いで新宿へ出、十一時四十五分発の特急に飛び乗る。平日のせいか、自由席には空席が目立った。彼はほっとして座席に腰を下ろし、上着を脱いだ。前夜に深酒をしたのがたたって、軽い頭痛がする。烏龍茶《ウーロンちや》で頭痛薬を嚥《の》み下し、目をつぶるとすぐに眠くなってきた。  彼は大手出版社に勤めていて、文芸書籍を担当している。配属になってからまだ半年も経たないが、六人の作家を任されている。その内の五人は若手や新人だが、一人だけ、なかなか原稿を書かないことで有名な老大家が混じっている。本当ならベテランの編集者が担当となるところだが、彼はこの作家の作品を学生時代から愛読してきた。だから自ら担当を申し出たのだ。上司は笑って、どうせ誰が行っても原稿は取れないに決まっているのだから、と半ば捨て鉢な言い方で彼の申し出を受け入れてくれた。彼は喜んで老大家のもとへ足繁《あししげ》く通った。そして驚いたことに、老大家は二ヵ月もしない内に三十枚ほどの短編小説を、彼のために書いてくれたのだ。 「別荘にいるんだが、都合をつけて取りにいらっしゃい」  老大家から電話を貰《もら》って、彼は今すぐに伺いますと答えた。そしてその日の仕事をすべてキャンセルして、十一時に社を飛び出したのだ。  一時半に、列車は目的の駅についた。すっかり眠り込んでいた彼は、あやうく乗り過ごすところだった。網棚の上に、新宿駅で買った手つかずの駅弁を置き忘れて降りてしまったが、少しも惜しくはなかった。彼は人気のないホームを歩いて改札を出、駅前で客待ちをしているタクシーに乗った。  老大家からは、別荘への簡単な地図をファックスで送って貰っていた。これを見せると、タクシーの運転手はしばらく難しい顔をして眺めてから、車を走らせた。空はどんよりと曇っている。彼は厚い雲を見上げ、傘を持ってくればよかったと後悔した。  山中の舗装路を十五分ほど走ったところで、タクシーは停車した。着いたのかと思って、周囲を見回してみたが、ただ深い森が広がるばかりで、別荘らしき建物の姿はない。タクシーの運転手は振り返り、面倒臭そうにこう言った。 「そこの林道をまっすぐ行った突き当たりだと思うんだけど、ここでいいかな。入ってくと、もしかしたら切り返しできないかもしれないから」 「ここで結構です」  彼は答え、料金を支払うと急いで降りた。タクシーが走り去る音を背中に聞きながら、老大家の別荘までの地図を広げる。確かに運転手の言っていた通り、林道を進めば自然に家の前へ出るようだ。  彼は歩き出した。  車一台がやっと通れるほどの林道の両脇《りようわき》には、赤松の林が広がっている。彼は先を急いだ。タクシーを降りると同時に、小雨がぱらつき始めていたのだ。雨は一足ごとに強くなり、五分もしない内にどしゃぶりに変わった。彼は林道を一目散に走った。  林道の突き当たりに、へし折れた巨木が見えてくる。赤松だろうか、直径二メーター近くありそうだ。ちょうど人間の背丈の辺りでぽきりと折れ、無残な切口を晒《さら》している。おそらく雷でも直撃したのだろう。その折れた巨木の奥に、建物が見える。ひとつも別荘らしくない、古ぼけた平屋だ。  不審に思いながらも、彼は雨に追い立てられるように平屋の玄関先へ走り込んだ。表札を見ると、違う名前が書いてある。彼はもう一度地図を見た。 「上下逆様だろうか?」  彼は周囲の森を見渡した。雨に煙っている上に、霧が発生し始めていて視界が悪い。仕方なく彼は玄関の呼び鈴を押した。ややあって、扉が内側から開かれる。そこには青白い顔をした中年の女性が立っていた。目が合ったとたん、彼はわけもなくぞっとした。雨に濡《ぬ》れたせいかもしれない。そう自分に言いきかせながら、 「こちらは**さんのお宅では……?」  と尋ねた。女は無言のまま首を横に振った。彼は慌てて地図を広げ、老大家の別荘の所在地を知らないかと訊《き》いてみたが、女はただ首を振るばかりだ。 「電話を貸してもらえますか?」  玄関の下駄箱の上に置いてある黒い電話機を指さしながら、彼は懇願した。女は、ようやく首を縦に振った。  受話器を取り、老大家の別荘の番号を回すと、呼出音が鳴るか鳴らないかの内に相手が出た。老大家自身だった。 「すみません。迷ったみたいなんです」  彼は大いに恐縮し、タクシーを降りて林道をまっすぐ来たことを説明した。すると老大家は不思議そうな声で、 「それなら突き当たりにレンガ造りの建物があるはずだが」 「いえ……なかったですけど。あるのは古い平屋だけでして。今、そこのお家で電話をお借りしているんですが」 「古い平屋? そんなものはこの辺にはないよ。林道の突き当たりには、私の別荘しかないはずだ。へし折れた大きな赤松の樹が庭先に立っているのが目印だ」 「折れた赤松の? この平屋のすぐ脇に立ってますけど……」  彼は顔を上げ、さきほどからうつむいている女を見た。彼女は彼の視線に気づくと、ゆっくり顔を上げてにやりと笑った。 「もしもし……。君、いったいどこにいるんだね? もしもし……」  受話器の向こうから聞こえてくる老大家の声が、段々遠くなっていく。  過去を訪ねて  彼がその小さな町を訪れるのは、十五年ぶりのことだ。  新宿から西へと延びる私鉄沿線の新興住宅街。現在ではそんなふうに呼称されるが、学生時代に彼がアパートを借りていた頃は、単なる田舎町だった。トイレも炊事場も共同の六畳一間で一万二千円。その家賃すらも滞納するほど貧しい学生生活だったが、不思議と楽しい思い出ばかりが残っている。  その日彼は得意先の課長の家に小用があって、新宿から私鉄に乗った。途中、懐かしい駅の様子を車窓から垣間見《かいまみ》て、帰りがけに立ち寄ってみようかと気紛れを起こしたのである。  小用を済ませ、もう一度電車に乗り込んで新宿方面へ向かう。駅で電話を入れてみたが、急いで帰社する用事は何もなかった。彼は甘酸っぱい思い出に胸を膨らませながら、懐かしい駅に十五年ぶりに降り立った。ずいぶん様子が変わってしまった駅前の商店街を抜け、国道に架かった歩道橋を渡る。昔は一面のキャベツ畑だった場所が、今ではほとんどが宅地になっている。歩道橋を渡り切った地点から見やると、まっすぐ延びる道の彼方《かなた》に信号が見える。その信号の右手にパン屋が一軒あるはずだ。  学生時代、彼は週に三日、午前中だけこのパン屋でアルバイトをした時期があった。近所にはスーパーが一軒と、飲み屋が二軒あるくらいのものだったから、小さなパン屋なのにかなり繁盛していた。経営者は夫婦者で、五十過ぎの無口な主人が奥でパンを焼き、まだ三十代前半の奥さんが忙しそうに店を切り盛りしていた。後妻かもしれないという噂《うわさ》を何度か耳にしたが、そんなことはアルバイトの彼にとって関係のないことだった。朝八時に店へ行って、オーブンの見張りをしたり、食パンをビニールに詰めたり、接客の手伝いをしたりする。それだけのことだ。時給は四百円と高くはなかったが、彼は生真面目《きまじめ》に仕事をこなした。背の低い、気弱そうな奥さんは、彼に気を遣って、帰りがけにはいつも調理パンを四つ選んで持たせてくれた。 「沢山食べて、沢山勉強してね」  というのが奥さんの口癖だった。彼はその言葉を聞くたびに、母親にやんわりと諫《いさ》められたような、居心地の悪い思いを味わうのだった。  一年ほど、このパン屋でアルバイトをした後、彼は大学近くのアパートへ引っ越すことになった。羽振りがよくなったわけではなく、クラスメートの女子学生と同棲《どうせい》することになったのだ。辞めさせてもらいたいと告げると、パン屋の主人は無表情のまま、 「分かった」  とつまらなそうに答えた。一年もアルバイトをしたのに、この主人と言葉を交わしたことは数えるほどしかない。無愛想で、難しい男なのだ。代わりに、奥さんの方が大袈裟《おおげさ》に残念がり、彼を引き止めにかかった。遠くなるけど通ってきてくれないかと何度も請われたが、彼は断った。もっと条件のいいアルバイトはいくらでもあるのだ。奥さんは涙ぐみ、寂しくなるわと言って彼の手を握りしめた。帰りがけには、いつもより二つ多く調理パンを持たせてくれた。  その夜。十二時を過ぎてそろそろ寝仕度にかかっているところへ、彼の部屋の扉がノックされた。大学の友人が訪ねてきたのかと思って、上半身裸のまま扉を開けると、そこにパン屋の奥さんが立っていた。彼の胸を見て、彼女はさっと目を伏せながら、 「餞別《せんべつ》、持ってきたの」  と小声で言った。胸にウイスキーを抱えている。彼は恐縮してそれを受け取り、お茶でも淹《い》れますと言って彼女を迎え入れた。彼女は、小さな体をさらに縮こまらせて、部屋へ入ってきた。風呂《ふろ》から上がったばかりなのだろう、洗い髪のいい匂《にお》いがした。彼はTシャツを着て一旦《いつたん》部屋から出、共同炊事場でお湯を沸かした。薬罐《やかん》が吹いてくるのを待つ間、彼は胸の奥に小さな火が灯るのを感じた。今までアルバイト先の雇い主としてしか意識していなかった彼女が、急に女に変身して目の前に現れたような気がした。  沸き上がったお湯を急須《きゆうす》に注ぎ、それを持って部屋へ戻る。彼女はカーペットの上に、所在なさそうな顔をしてぺたんと座っていた。傍らを通る際にちらっと見下ろすと、だぶだぶのTシャツの襟ぐりから乳首の先が覗《のぞ》けた。彼は動揺を押し隠して、勉強机の上へ急須を置き、湯飲みを用意した。その瞬間、彼女は背後から彼に抱きついてきた。意外なほど大きく、柔らかな乳房の感触を背中で感じながら、彼は動けなくなった。彼女は蛍光灯の紐《ひも》を引っ張って明かりを消した。そして無言のまま服を脱ぎ、カーペットの上へ彫像のように横たわった……。  彼が引っ越したのは、その翌々日のことだ。パン屋の奥さんとは、その夜限りの関係だった。しかし彼は十五年経った今でも、その夜のことを鮮明に覚えている。  パン屋は相変わらず繁盛しているだろうか。奥さんは元気で店を切り盛りしているだろうか。遠くから垣間見るだけでもいい、そのことを彼は確かめてみたかった。  歩道橋を渡り終えてから、彼は少しずつ早足になっていった。信号が少しずつ近づいてくる。右手にあの懐かしいパン屋の看板が、もう見えてもいい頃だ。  彼は足を止めた。  パン屋の二階家が建っていたはずの場所は、道路になっていた。昔、一方通行だった道が二車線になっている。彼はしばらくその場に立ち尽くし、ぼんやりと宙に視点を結んでいた。薄汚れた軽自動車が黒煙を撒《ま》き散らしながら、彼の脇《わき》を走り抜けていく。遠くで大型トラックのクラクションの音が、わあんと響いて、後は静かになった。  ベルボーイの思い違い  彼がそのホテルに就職して、既に五年が経った。  その間、彼はずっとベルボーイとして働いている。不服はないと言ったら嘘《うそ》になるが、仕方のないことだと自分に言いきかせている。先輩の誰もが、最初の五六年はベルボーイや客室係などを経験している。目立たない上にきつい仕事だが、忍ばなければならない。入社一年めからフロントを任される人間など、どこにもいないのだ。  ベルボーイの仕事は、客の荷物を持って部屋まで案内すること。これは当たり前のことだが、ただむっつりと押し黙って案内すればいいわけではない。客に話しかけられれば、笑顔とともに答える。外国人の場合は、英語で冗談のひとつも添えなければならない。それから常連客の顔と名前を覚えること。これも大事な仕事だ。 「ご常連のお客様の場合は、きちんとお名前をお呼びしなさい。自分の名を覚えられているということで、お客様は喜ぶ。そういうものです」  生真面目《きまじめ》なベルボーイ長は、彼の顔を見るとそう忠告する。確かにその通りかもしれないが、積極的に顔と名前を覚えようとするのは、結構むずかしいことだ。見たことのある顔だな、と気づくのは簡単だが、名前がなかなか出てこない。もし勘違いして、違う名前で呼んだりすれば、取り返しのつかない大失態だ。  ある日、彼はその大失態をやらかした。  その女性客の荷物を彼が運ぶのは、三度めだった。二十代後半の清楚《せいそ》な女性で、二度めに世話をした時、彼女は特徴のある白いワンピースを着ていた。三度めも同じ服装だったので、彼はすぐに思い出した。名前は確か山岡という。  だから彼は躊躇《ちゆうちよ》することなく、彼女のことを「山岡様」と呼んだ。しかし彼女は怪訝《けげん》そうな顔をして、 「私は島田ですけど」  と答えたのだ。彼はたちまち赤面し、平謝りに謝った。これほどはっきり記憶に残っているのに、どこでどう勘違いしてしまったのだろう。彼は自分の記憶力を訝《いぶか》った。  ところがそのことを先輩のベルボーイに話すと、意外な答えが返ってきた。 「ああ、あの白いワンピースの美人だろう。あれはお前、高級|娼婦《しようふ》だよ。だからいつも偽名でチェックインするんだ」  彼は口がきけなくなるほど驚いた。てっきりどこかのお嬢様だと思い込んでいたのだ。あの清楚な横顔、上品な仕種《しぐさ》からは想像もつかない。彼女が娼婦なら、この世の女はすべて娼婦だ。彼はそう思った。  この一件がもとで、彼はますます強烈に彼女のことを記憶にとどめるようになった。フロントの近辺に気を配っていると、彼女は必ず水曜日の午後五時に現れてチェックインをする。部屋はいつも新館のダブルルームだ。一晩過ごして、翌日の十一時にチェックアウトをする。男の影はどこにもない。しかし彼女が娼婦であることは、ホテルの中でも半ば公然の事実だった。一人で泊まったのかどうかは、客室係が清掃をすれば明確に分かる。彼は彼女のそんな噂《うわさ》を聞くたびに、胸が切なくなった。  好奇心の強すぎるホテルマンは決して出世しない。昔からそう言われているのは知っていたが、彼は彼女に対して必要以上の好奇心を抱いた。何故《なぜ》、そんな商売をするようになったのか。私生活は、どんな様子なのか。どんな客をとっているのか。本名は何というのか……。  毎週水曜日、自分から進んで彼女の荷物を部屋まで運ぶたびに、彼は様々な問いを胸のうちに蟠《わだかま》らせた。しかしそれを口にすることはできなかった。  その内に、彼は彼女に対して淡い恋心を抱いている自分に気づいた。彼女が見知らぬ男とベッドで絡みあっている姿を想像すると、かっと頭が熱くなる。身悶《みもだ》えするほどの苦痛を感じる。そんなことはあってはならない。彼女はそんなことをするべき女性ではないのだ。もし自分に勇気があれば、彼女を救ってやることができるかもしれない。いや、きっとできる。時を経るにつれ、彼はそんなふうに思い詰めるようになった。  そしてある水曜日、彼は勇気を出した。いつものように新館のダブルルームへ彼女を案内した後、鍵《かぎ》を手渡す前に、こう尋ねてみたのだ。 「本名は何と仰《おつしや》るのです?」  彼女は不審げに眉《まゆ》をひそめながら、何故そんなことを訊《き》くのか、と言った。彼は動揺し、萎縮《いしゆく》しかけたが、もう後戻りはできないと観念して続けた。 「あなたのことをもっと知りたいのです」 「私のことを?」 「はい」 「それは何、つまり個人的にってこと?」 「そうです」  彼は真摯《しんし》な表情で答えた。すると彼女は急に笑い声を立てた。 「馬鹿ねえあなた。何も分かってないのね」  そう言いながら近づいてきて、彼の手を取った。温かい手だった。彼は驚いて手を引っ込めようとした。彼女は彼の手をしっかりと掴(つか)んで、驚いたことにスカートの下へ引き寄せた。自分の股間《こかん》に手をあてがわせ、彼女は低い声でこう言った。 「もっと勉強してから来なさい、坊や」  その瞬間、彼は自分がとんでもない思い違いをしていたことに気づいた。  彼女は、女ではなかった。彼女は�彼�だったのだ。  小さく大きな舞台  それはもともと彼の望んだ職場ではなかった。  全国に何百というビルを所有しているその会社に就職した時、彼は新しい都市計画などを立案し実行するプロジェクトチームの一員として働くことを希望した。何千何万という人々の集う器を作り、周囲の環境を整え、滞りなく運営していく。それはきっと神のように創造的で、手応《てごた》えのある仕事に違いない。彼はそう思っていた。  内定をもらった日、彼は生まれて初めて東京タワーに上った。そして第二展望台から東京の街を見下ろし、自分がこれから創り上げていくであろう街の姿を想像して、何ともいえない興奮を覚えた。確かに子供っぽい想像には違いなかったが、夢としては上質の部類に属するのではないかと、彼は自分を褒めてやりたい気分だった。  しかし現実のスケールは、彼の夢を千分の一に縮小したような規模だった。入社してすぐに彼は管理課へ回され、研修期間を終えると同時に、会社が所有している都内の劇場に出向させられたのだ。  それは気が抜けるほど小さく、古ぼけた劇場だった。客席数二百七十。劇場と呼ぶのもおこがましいほどの規模だ。主にお手軽な講演会や会社のセミナーなどに使用されるらしく、照明機材や音響などの設備もお粗末なものだった。  彼はひどく失望した。  こんな所へ出向しても、彼にはやるべき仕事もない。何かを創り上げるわけではなく、既に出来上がっている器を貸し出して、料金を受け取るだけの仕事だ。そんなことは高校生のアルバイトでもできる。実際この劇場のスタッフは、事務を担当する二人の臨時雇いの女性と、支配人と呼ばれる上司と彼の四人で成り立っていた。しかもこの支配人というのがまったくやる気のない男で、劇場にはほとんど顔を出さずに、近所のパチンコ屋でぼんやり玉を弾《はじ》いてばかりいる。おかげで彼は着任早々、劇場のすべてを一人で運営しなければならなかった。 「ああ、厭《いや》だ厭だ」  臨時雇いの中年女性二人は、口癖のようにそう呟《つぶや》きながら机に向かう。血の繋《つな》がりはないはずなのに、二人は容姿も性格も驚くほど似かよっていた。確かな年齢は分からないが二人とも四十代の後半で、独身らしい。一週間に一度美容院へ行くことを無上の楽しみとしていて、異様なほど化粧が濃い。この二人と机を並べて帳簿などをつけていると、彼は自分が年老いた税理士にでもなり果てたような脱力感を覚えるのだった。  退屈な一年が過ぎた。  彼が本気で転職を考え始めたある日、劇場にちょっとした変化が訪れた。見ず知らずの若い劇団から、ホールを使用したいという打診があったのだ。もともとこの劇場は親会社の関連会社のみに貸し出す方針であり、公に使用を認めているわけではなかったので、無関係の劇団などから打診が入ることは皆無だった。それが、どこで聞き齧《かじ》ってきたのか、その若い劇団の座長は何のコネクションもなしにいきなり電話をかけてきたのだ。  支配人が受けたのなら、絶対に首を縦には振らなかったろう。しかし幸運にも、電話を取ったのは彼だった。そしてこのささやかな変化に、賭《か》けてみる気になった。  彼は退職を覚悟の上で、その若い劇団に一週間ホールを貸す約束をした。後になって本社の人間からあれこれとケチをつけられるに決まっていたが、今さら意に介す必要もなかった。  そして劇団の公演の日がきた。  いつもホールを使用する人種とはまったく違う、若く生き生きとした人間が劇場に集まり、舞台装置の仕込みが始まった。その頃になって、支配人はようやく事態を呑《の》み込み、青い顔で彼を叱《しか》った。 「すべて君一人の責任だからな」  支配人はそう言い残して、事務所に引っ込んだ。  彼は痛快だった。じっとしていられなくて、背広姿のまま、劇団の連中に混じって仕込みを手伝ったりした。芝居の演目はシェイクスピアの「リチャード三世」で、舞台上には中世の城の一室を想わせるセットが組まれた。照明機材が運び込まれ、実際に明かりを当ててみると、そのセットは目を見張るほどリアルに浮かび上がった。  彼は、自分の劇場がこんなにもすばらしい物を造り出す可能性を秘めていたことを知って、唖然《あぜん》とした。劇団員たちは衣装をつけて、セットの中で嬉々《きき》として跳ね回り、彼をますます驚かせた。  その夜。  事務所の連中も劇団員もいない、がらんとした劇場の客席に、彼は一人座っていた。薄明かりの中に浮かび上がる舞台上のセットをしばらく眺め、それから静かに立ち上がる。舞台へ上り、中央に立ってみる。そして昼間見た劇団員たちの動きを模して、動き回ってみる。  まるで中世の偉大な王になったような気分だった。彼は舞台上をくまなく歩き回り、上手《かみて》に設《しつら》えられた塔のセットの上に立った。見下ろすと静まり返った客席は、いつだったか東京タワーの上から見た東京の街に似ているように思えた。わずか二百七十席にすぎない小さなこの劇場の中に、東京がすっぽり収まっているようだ。  ——もうしばらく、この劇場にいてみよう。  彼は思った。 ——この小さな劇場の小さな舞台に、どれくらい大きなものを入れることができるのか、試してみよう。  その瞬間、彼の胸の裡《うち》にある幕が静かに上がり、遠い喝采《かつさい》が聞こえてくるような気がした。  空家の中に  彼は就職に失敗した。  もともとあまり働く気がなかったので、いいかげんに勉強をし、いいかげんに面接を受けた。当然と言えば当然の報いである。二三年アルバイトでもして、やりたいことが見つかるまで凌《しの》げばいい。そんなことを考えているところへ、バブルが崩壊し、世間は急に不景気になった。両親は彼の行く末を案じ、伯母《おば》の経営する不動産屋でとりあえず働くことを勧めてきた。彼としては余り気が進まなかったが、アルバイトよりもずっと割のいい給料を提示され、心が動いた。  実際に働き始めてみると、不動産の斡旋《あつせん》業は彼の性格に結構似合っていた。子供の頃、建築家に憧《あこが》れていた時期もあったので、建物を見るのはとても好きだし、その善し悪しを見分ける力もある程度は備わっている。客とお喋《しやべ》りをするのも、嫌いではない。上手《うま》く説得して、一ランク上の物件を契約させたりすると、快感すら覚えた。伯母も彼の実力をすぐに認め、ボーナスに手心を加えてくれたりした。このまま不動産屋として身を立てるのも悪くないと、彼は思い始めていた。  ある日、彼は伯母から物件を下見してきてもらいたいと頼まれた。新しい大家で、一軒家を賃貸に出したいと申し出てきたらしい。バブルが崩壊して不動産屋の売買が滞っているので、この手の話は数多い。 「すぐ近くなのよ。ほら、東町の四丁目に消防署があるでしょう? あの脇道《わきみち》を上がっていった右側の公園の横。赤い屋根の二階家。大家さんはまだ住んでるらしいから、ちょっと様子を見てきてくれる?」  伯母に言われて、彼はさっそく出掛けることにした。歩いても十分とかからない距離だったが、車を使い、二分もしない内に目的地についた。  赤い屋根の二階家はすぐに見つかった。一目で、まだ築年数が浅いと分かる。二年、いや一年半くらいだろうか。素人が見れば、まったくの新築と勘違いするほどきれいな建物だ。木造モルタルで決して豪華な造りではないが、これなら家賃さえ欲張らなければすぐに借手が決まるだろう。そんなことをぼんやり考えながら、彼はインタホンのチャイムを押した。 「はい……」  ややあってから男の声で応答があった。インタホン越しなので、特徴のない陰気な声だった。彼は努めて明るく、営業用の声色で自分の身分を告げた。 「どうぞ。鍵《かぎ》は開いてます」  相手はそう言った。  ノブを握り、扉を開けて中へ入るのと同時に、彼はちょっとした違和感を覚えた。きれいに掃き清められた玄関口には、靴が一足もない。そこから覗《のぞ》く家内の様子も、整然としていて生活感というものがまったく感じられなかった。既に引っ越してしまった後のようなのだ。伯母は確か、まだ大家が「住んでいる」と言っていたはずだ。他の物件と勘違いでもしたのだろうか。  訝《いぶか》りながら彼は靴を脱ぎ、家の中へ上がり込んだ。短い廊下の突き当たりに、扉が見える。おそらくリビングルームかキッチンだろう。 「お邪魔します……」  遠慮がちに呟《つぶや》きながら、扉を開ける。同時に、何とも言えない動物臭が鼻をついた。獣の檻《おり》のような臭《にお》いだ。思わずハンカチを取り出して鼻を押さえ、辺りを見回す。  十五畳ほどのリビングには人気がなく、冷たく静まり返っていた。家具ひとつ置いていないところを見ると、やはり引っ越した後なのだろう。右手の壁に、インタホンの受話器が掛けられている。さきほど返事をした男はどこへ行ったのだろう。 「ごめんください……」  彼は大きな声で呼び掛けた。しばらく待ってみたが、答えはない。代わりに、獣臭い臭いが鼻先へわっと漂ってきた。彼は眉《まゆ》をひそめ、異臭が漂ってくる方向へ目を凝らした。右手の流しの辺りだ。彼は辺りをもう一度見回し、誰もいないことを確かめてから、流しへ近づいてみた。  フローリングの床に、何か黒い塊がぽつんと落ちている。一瞬ゴミ袋かと思ったが、よくよく見るとそれは黒猫だった。ずいぶん以前に死んだらしく、身体をくの字に曲げたまま硬直している。異臭は、その猫の死骸《しがい》から漂っていた。 「どなた?」  不意に背後から声を掛けられて、彼は跳び上がるほど驚いた。振り向くとそこには、見覚えのある男が立っていた。 「何だ君か。どうしてここへ?」  それは駅前にあるGという不動産屋に勤める中年男だった。彼とは商売敵の関係だが、商店街の寄り合いで二三度顔を合わせたこともあり、険悪な仲ではない。 「ここの大家さんに言われまして……物件を見にきたんですよ」  彼はハンカチで鼻を押さえたまま答えた。中年男はそれを聞くと不審そうな顔をし、 「大家? ここのかい?」 「そうですよ」 「そりゃおかしい。だってここは今、銀行に押さえられてて、ウチで管理をまかされてるんだよ。あーあ、何だ、猫か。まいったな。どこから入ったんだろう」 「でも……さっきここに男の人がいましたよ。インタホンで話したんです」 「そんなわけないよ。ここの大家はさ……」  中年男はそこで言葉を切ると、急に声を低くして続けた。 「借金で首が回らなくなって、一家心中したんだぜ。誰もいるわきゃないよ」 「でも……確かにさっき誰かが……」  二人は顔を見合わせ、それから示し合わせたように黒猫の死骸を見やった。  降りてきた女  その夜、彼は上機嫌だった。  ショールームにふらりと入ってきた中年の紳士が、セダンとカブリオレの二台を購入したいと言って、あっというまに契約が成立したのだ。外回りの営業から戻って、たまたまショールームで油を売っていた彼にとっては、僥倖《ぎようこう》以外のなにものでもなかった。彼は労せずして新車二台分の歩合を手に入れた。中年の紳士が購入したのは、輸入車の一番高いクラスのものだったので、歩合といってもかなりの額だ。 「長いことセールスやってるけど、あんな客は初めてだな」  彼の上司は嫉妬《しつと》のこもった瞳《ひとみ》で彼を睨《にら》みながら、そうボヤいた。日頃、小言ばかり言われている彼は、聞こえないふりで納車書を仕上げながら腹の中で笑った。  昼間そんなことがあったために、彼は久し振りに美味《うま》い酒を飲んだ。行きつけのバーへ行って、顔見知りの客に何杯か気前よく奢《おご》り、上機嫌でそこを出た。酔いをさますためにしばらく街中をうろつき、鮨《すし》をつまみ、深夜喫茶でコーヒーを飲んでから、車に乗った。既に午前二時を過ぎていた。  国道を西へ三十分ほど走ったところで、フロントグラスが濡《ぬ》れ始めた。雨ではなく、雪だった。彼は間歇《かんけつ》ワイパーを動かし、エアコンの温度を高めに調節した。酔いは、既にすっかりさめていた。  幹線道路から住宅街へ入って、住処《すみか》が近くなってきた頃、彼は前方にハザードランプの点滅を見て速度を落とした。駐車中にしては少し様子がおかしい。その車は、斜めになって道を塞《ふさ》いでいた。 「事故か……?」  彼は口に出して呟《つぶや》き、前方に目を凝らしながらブレーキを踏んだ。いつもならそのまま通り過ぎてしまうところだが、事故車は他でもない彼の会社が輸入販売している車種だった。ひょっとしたら自分の客かもしれないと思って、彼は車を停め、表へ出た。  奥歯に滲《し》みるような寒さだ。雪まじりの風が横なぐりに吹きつけ、彼は震えながら歩き出した。路面がうっすらと雪に覆われて、足元が覚束ない。  事故車はフロントの左側からガードレールに突っ込み、ボンネットの内側から煙を上げていた。おそらく不用意にブレーキを踏んでスリップしたのだろう。見たところ、事故から五分と経っていない様子だ。  彼は近づいていって、運転席側の窓から車内を覗《のぞ》いた。ガラス越しに、運転手と目が合う。暗くてよく分からないが、初老の男らしい。 「大丈夫ですか?」  彼は車内へ聞こえるように、大きな声で尋ねた。同時にドアが開き、車内灯がともって初老の男が表へ出てきた。恰幅《かつぷく》のいい、高級そうな背広を着た紳士だ。 「大丈夫だ」  紳士はそう答え、軽く頭を振った。 「スリップですか?」 「そうだ。視界が悪くてな」 「あのう……余計なことかもしれませんが、私、この車の輸入販売会社に勤めてまして、何だか放っておけなくて……」  彼はそう説明しながら、ガードレールに激突したフロント回りを調べた。かなりひどく潰《つぶ》れていて、バンパーがフロントタイヤに食い込んでいる。 「走れそうかな」  背後から紳士が尋ねてきた。 「ちょっと無理ですね」  彼は答え、体を起こした。その拍子に、助手席に座っている女の顔が目についた。髪の長い、若い女だ。怪我《けが》でもしたのだろうか、ハンカチで口許《くちもと》を押さえている。 「|JAF《ジヤフ》を呼びましょうか」  彼は老紳士のそばへ行って、提案した。しかし老紳士はそれを聞くと顔色を変え、それは困る、とあわてて言った。そして急に声を低くして、 「すまないが助手席の女を送ってくれないかな。タクシーが拾えそうな場所まででいいんだが……」 「ええ。それは構いませんけど……本当にJAFはいいんですか。これ、自力じゃ動かせませんよ」 「結構だ」 「なら、お二人ご一緒にお送りしますよ」 「いや、彼女だけでいい」  老紳士はかたくなだった。何か訳がありそうだったので、彼はそれ以上勧めることは止めた。 「じゃあ、お送りします」 「悪いが先に車へ戻っていてくれ。女に話すから」 「分かりました」  彼は素直にうなずいて、自分の車へ戻った。かなり雪が激しくなっていたので、言われるまでもなくそうしたかった。  運転席へ乗り込んで、エアコンの設定温度をさらに上げ、彼は待った。カーラジオのスイッチを入れると、皮肉なことに真夏の海岸をテーマにした歌謡曲が流れてきた。  五分ほどして、ようやく事故車の助手席のドアが開いた。女の細い脚がまず見えて、次に全身が現れ、彼の車へ向かってゆっくり歩いてくる。彼の車のヘッドライトに照らされて、女の姿が黄色く浮かび上がった。先程まで口にあてていたハンカチを、今度は目頭にあてている。泣いているのだろうか。  彼は内側から助手席のドアを開けてやり、女を迎え入れた。彼女はドアの手前で一瞬ためらい、それから何かあきらめたかのような表情で乗り込んできた……。  彼は女が座り、助手席のドアを閉じたのを確認すると、サイドブレーキを外してギアをリバースに入れた。  雪は小止みになる様子もなく、視界をちらちらと遮っている。  後輪がスリップしそうになるのを慎重に宥《なだ》めながら、彼は車をバックさせた。事故車との距離を適当にあけ、ギアをドライブに入れなおして、いったん対向車線に入る。ゆっくりとアクセルを踏んで、事故車の脇《わき》をすり抜ける。  老紳士は車の中にいて、運転席からこちらの様子を眺めている。思い詰めたようなその表情が、彼の視界をかすめたかと思うと、遠くなってバックミラーの中に消えた。  カーラジオからは、真夏をテーマにした歌謡曲がまだ流れている。  助手席の女はうつむいたまま、何も話そうとしない。  彼はハンドルを操りながら、時折横目で彼女の様子を窺《うかが》った。紺色の地味なワンピースの上に、男物のコートを羽織っている。おそらく先程の老紳士のものだろう。コートの裾《すそ》から形のいい脚が見えていて、妙に艶《なまめか》しい。長い髪が乱れて頬《ほお》を覆い、横顔の表情を隠している。 「お住まいはどちらですか?」  彼は訊《き》いた。女はふと顔を上げて、彼と目を合わせた。きれいな瞳だ。彼は思った。泣いていたせいなのか、潤んで輝いている。彼女はそこに彼がいることに初めて気づいたかのような顔をし、 「え?」  と不思議そうに尋ね返してきた。 「お送りするように言われたんです。お住まいはどちらです?」 「いえ。結構です。タクシーを拾いますから、どこか大きな通りまでで……」 「この雪じゃタクシーはなかなか拾えませんよ。お送りします」 「いえ、いいんです」 「そんなふうに言われたら、私も困ります。送りますよ」  しばらく押し問答をした末に、ようやく女はあきらめて住所を告げた。それほど遠い場所ではなかった。雪に注意しながらゆっくり走っても、二十分ほどで着くだろう。  彼はラジオの選曲ボタンを押し、静かなインストゥルメンタルが流れている局に合わせた。女はしかし、音楽など聴いている様子はなかった。うつむいて、じっと宙に視点を結んでいる。彼は居心地の悪さを感じ、つい話しかけたくなった。 「スリップしたんですか?」  そう尋ねると、女はまた不思議そうな目で彼を見つめ返してきた。 「何?」 「車ですよ。この雪でスリップしたんでしょう?」 「ええ……」 「JAFを呼ぶように勧めたんですけど、呼ばなくていいって仰《おつしや》ってましたね。大丈夫なのかな」 「…………」  女は彼から顔を背け、窓外の風景をぼんやりと眺め始めた。どうでも話したくない様子だ。  彼は親切を無にされたような気がして、不愉快になった。いったいどういう理由があって、こんなに塞ぎ込んでいるのだろう。事故を起こしたことは確かにショックかもしれないが、大事には到らなかったわけだし、ましてや助けの手を差しのべた彼に対してこんな態度を取るいわれはないはずだ。  彼はもう話しかけることをあきらめて、フロントグラスの彼方《かなた》を見つめたまま、この女と先程の老紳士との関係について、想像力を働かせた。一見したところ、会社重役と秘書のような感じだ。あるいは愛人か。いずれにしても正式な夫婦ではないだろう。JAFを呼ぼうとしないのも、そのへんに理由がありそうだ……。 「すみません」  不意に、助手席の女が言った。 「車を戻して下さい」 「戻すって?」 「さっきの場所まで戻って下さい」  女は真剣な目で彼を見据え、腕にしがみついてきた。彼は動揺し、アクセルを緩めた。 「お願いです」  女はなおも嘆願してきた。彼はしばらく曖昧《あいまい》に返事を濁したが、結局女の語勢に押されるようにブレーキを踏み、車をUターンさせた。 「ごめんなさい」  女は先程までとはうって変わって弱気な態度になり、しきりに謝った。彼はもう何も言わなかった。こんなことに係わった自分を苦々しく思うだけだった。  事故車はまださっきと同じ状態のまま、ガードレールに突っ込んでいた。老紳士は相変わらず車の中にいるらしい。女はそれを確かめると、物も言わずに助手席のドアを開け、雪の中へ走り出た。事故車まで一気に駈《か》けていき、中へ乗り込む。  彼はその後姿を見送りながら、アクセルを踏んで事故車のそばを離れた。こんな真夜中に、つまらないことで時間を費やしてしまった。まったく馬鹿みたいだ。彼は誰に対してというのでもなく毒づき、アクセルを踏む足に力を籠《こ》めた。  翌日。彼はいつも通りに出社し、いつも通りの退屈な営業の仕事をこなした。雪が積もっているからといって、外回りをさぼるわけにもいかない。忙しかったので、彼は新聞を読む暇もなかった。  時間さえあれば、彼はタブロイド版の夕刊の片隅に載っている小さな記事に気づいただろう。そこには老紳士と女の顔写真とともに、「心中」云々《うんぬん》の活字が控えめに並んでいた。  何もないデパート  屋上にはいつも強い風が吹いている。  彼はベンチに腰かけて、右手で目の上へ庇《ひさし》を作る。  ちっぽけなメリーゴーラウンドを中心にして、幼児向けの様々な乗物やゲーム機がぎっしり並んでいる。どれも他愛《たわい》のない、子供だましの機械ばかりだ。平日の昼間とあって、客の姿は少ない。  のどかな風景だ。しかし彼の胸の内は穏やかとは言いがたかった。  彼がこのデパートに入社してから、三年になる。最初の年は希望通り広報に配属されて、彼は張り切った。しかし張り切りすぎたのが仇《あだ》になって、大きなミスをいくつかしでかした。上司ともソリが合わず、翌年、売場に転属させられた。彼はくさった。接客態度が悪く、同僚とも打ち解けない彼を、上司は見放した。紳士服、スポーツ用品と売場を転々とし、結局今年から屋上の担当に回されてしまった。 「上りつめたってわけだな」  同僚たちは皮肉めいた陰口を交わした。 「二十代で屋上へ回されるなんて、当社始まって以来じゃないのか」  誰もが、彼は辞職するに違いないと思っていた。  ところが彼は辞めなかった。辞令に従い、屋上の担当に回った。そしてアルバイトの学生たちに混じって、黙々と働いた。屋上などに何の仕事があるのか、と思われがちだが、担当してみると仕事はいくらでもあった。機械の点検、土日のぬいぐるみショーの企画、新しいゲーム機の導入、ペットショップの管理……。  黙々と仕事をこなしてはいるものの、彼は本当は退屈だった。こんなはずではなかった。どうしてこんなことを俺《おれ》はやっているのだ。いつもそう感じていた。  昼食後のひととき、屋上の隅にあるベンチに腰かけて煙草を吸うのが、彼の習慣になっている。強風に目を細めながら、彼はゆっくりと煙草をふかし、やかましい音楽を奏でて回るメリーゴーラウンドを眺める。  子供たちはみんな楽しそうだ。何の屈託もない笑い声をたて、この狭苦しい屋上を駈《か》け回っている。彼はその幸福そうな様子を、憎らしく感じる。  デパートには子供の欲するものがすべて揃《そろ》っている。しかし俺の求めているものは、何ひとつない。そんなふうに思う。  やがて一時が近づき、彼は煙草を揉《も》み消して、持場へ戻ろうと立ち上がった。その時、隣のベンチに腰かけてソフトクリームを嘗《な》めている女の子に気付いた。年齢は三歳になるかならないかくらいだろう。あどけない表情で一心にソフトクリームを嘗め、口の回りを真っ白にしている。色落ちしてみすぼらしくなったピンク色のオーバーオールに、汚い靴下。一見して貧しい暮らしを連想させる。  周囲を見回してみても、親らしき姿は見当たらない。迷子だろうか。彼は訝《いぶか》ったが、しばらく声をかけるのは躊躇《ためら》われた。もう一度ベンチに座りなおし、横目で女の子の様子を観察する。  十分ほどもそうしていたろうか。女の子はソフトクリームを食べ終え、ベンチにちょこんと座ったまま人待ち顔になった。泣き出しはしない。ただ、時間が経つにつれて落ち着かない様子で、辺りをきょろきょろ見回している。彼はとうとう放っておけなくなって、声をかけた。 「お嬢ちゃん、どうしたの?」  女の子は彼と目を合わせると、不安げに瞳《ひとみ》を曇らせた。彼はできるだけ優しい顔をして見せ、言葉を継いだ。 「誰と一緒にきたの?」 「おとうさん」  女の子は小声でそう答えた。 「おかあさんは?」 「いない」 「お家にいるの?」 「いないの」  彼はかがめていた腰を伸ばし、女の子の父親らしき人影を周囲に探してみた。しかしその時間、屋上にいるのは子供と主婦ばかりだ。男の姿は一人もない。 「おとうさんどこ行っちゃったのかな?」 「しらないの」 「お嬢ちゃんのお名前は?」 「みさこ」  迷子だ。彼はそう思って、近くにいたアルバイト学生を呼び、店内放送をするように言いつけた。みさこという名前、ピンク色のオーバーオール。それが目印だと告げた。 「じゃあ、お兄ちゃんと一緒に、おとうさんが戻ってくるのを待とうか?」  彼はそう言って女の子の手を取ろうとしたが、あっさり拒絶された。 「ここでまってなさいって、いわれたの」 「そう……じゃ、お兄ちゃんもここで一緒に待ってていい?」 「いいよ」  彼は女の子の隣に腰かけた。しかし父親はなかなか現れなかった。  一時間経ち、二時間が経過した。女の子はそれでも泣き出さずに、じっと何かに耐えるような表情で待ち続けた。  父親の身に何かあったのだろうか。あるいは捨て子なのか。彼は不安を募らせた。自分が泣き出したい気分だった。  やがて辺りが暮れなずみ、閉店が近くなった頃、女の子はベンチの上に横になり、眠り込んでしまった。彼はその体をそっと抱き上げ、店員の休憩室へ運んだ。  結局、閉店になっても父親は現れず、女の子の身柄は警察に引き渡された。彼は何もできなかった。ひどい無力感を覚えた。  その晩、彼は珍しくしたたかに酔い、前後不覚になった。そして翌日、彼は退職願いを提出した。  彼の一千万円  彼は醜い。  そのことは自分でも厭《いや》というほど分かっている。小さな頃から、顔のことは言われ続けてきた。目と目の間がやけに離れていて、唇が厚く大きい。友人たちは彼のことを本名で呼ばず、�ナマズ�と言った。ぴったりの渾名《あだな》だと、彼自身も思う。  そんな面相をしているから、女性とはまったく縁のない青春を過ごした。童貞は二十歳の時に棄《す》てたが、商売女が相手だった。自分の母親くらいの大年増だったが、とても優しかった。ただキスをしようとすると、それだけは止めてくれと断られた。彼はひどい口臭があるのだ。女は彼に抱かれている間じゅう、しっかり目を閉じて、口で息をしていた。彼は少なからず傷ついたが、この機を逃したら一生童貞のままかもしれないと思い、必死で腰を動かした。  大学を出ると、彼は中堅どころの不動産会社に、経理として就職した。地味でぱっとしない仕事だが、自分にはちょうどいい職場だと思った。  彼は経理課のフロアの一番隅っこの席を与えられ、一日じゅう数字だけを眺めて過ごした。女子社員はもとより、男性の同僚も誰一人として彼に声をかける者はいなかった。昼食も、夕食も、彼はいつも一人だ。けれどそんなことは幼い頃から慣れっこなので、さほど気にはならなかった。 「数字は裏切らない」  彼はいつもそう思った。社内一の美人が扱おうが、彼が扱おうが、一足す一は二だ。明快で、そこには何の差別もない。美しい数字とか、醜い数字とか、そんなものも存在しない。だから彼は、数字を扱っていると気持が落ち着いた。 「仕事熱心だなあ、君は」  経理課の上司は、時々彼の肩を叩《たた》いてそんなことを言った。確かに、彼ほど熱心に数字と向かい合う社員は他にいない。しかしそんな勤務態度が評価され、昇進につながることはなかった。彼は相変わらず醜く、うだつが上がらず、一人ぼっちだった。  そんな彼にも、たったひとつだけ夢があった。  一千万円貯めることである。これといって使う当てもないので、入社したその年から、彼は給料の半分以上を銀行に預金していた。通帳に記帳するたびに、増えていく数字を眺めるのが楽しみだった。  最初の内は、ただ漠然と貯金しているだけだったのだが、金額が大きくなってくるにつれて、一千万円という目標が見えてきた。彼は胸がざわざわするのを感じた。目標を意識し始めるのと同時に、一千万円を何に使うかぼんやりと考えるようになった。  車、マンションの頭金、海外旅行……。  思いつくのはありきたりの使い途ばかりだった。しかし彼は、そんな俗っぽいことに一千万円を使う気にはなれなかった。堅実に貯めた金を堅実に使っても、何の意味もない。もっとばかばかしいこと、あるいは周囲の人間たちがあっと驚くようなことに使いたい。浪費したいのだ。  しかしながら一千万円という金額は、浪費するにはあまりにも大きかった。彼は考えあぐね、これといった使い途を思いつかないまま、数年が過ぎた。  二十八歳の誕生日に、彼の預金通帳の残高は九百七十万円になっていた。目標の金額まで、あとたったの三十万円だ。彼は焦りを感じた。一千万円貯まったら、即座に使い切ってしまいたかった。  そんなある日、同僚が経理課の全員を昼食に誘った。競馬で大穴を当てたので、飯をおごると言うのである。彼は手弁当があるので結構だと断ったが、同僚が全員出ていってしまった後で、不意にひらめいた。 「……馬券を買おう」  そう思いついたのだ。一千万円貯まったらその日の内に全額引き出し、それを持って競馬場へ行く。そしてとても入賞しそうにない馬に賭《か》けるのだ。  彼はそのアイデアに夢中になった。翌日からスポーツ新聞を買うようになり、熱心に競馬欄を読み耽《ふけ》った。 「もし万馬券がきたら……」  そう思うと、胸が潰《つぶ》れそうなほどわくわくした。一千万円が、十億円になるのだ。十億円! それは宇宙的な数字だ。もしそんな金額を手にすることができたら、醜さすらも帳消しになるかもしれない。  そしてその日はきた。  給与振込みの日に記帳してみたところ、残高が一千万を超えていたのだ。それを確認すると、彼は懐から銀行印を取り出し、預金引き出し用紙に捺印《なついん》してから、 「一千万円」  と金額を記入した。  窓口へ出すと、金額が大きかったために不審な顔をされ、ずいぶん時間がかかった。十五分ほど待つ間に、彼はびっしょり汗をかいた。息が止まりそうだった。  やがてスーツ姿の銀行員が現れ、彼を応接室へ案内した。紙袋に入った一千万円を渡されると同時に、彼は失神しそうになった。紙袋はずしりと重かった。中の札束を検《あらた》め、彼はソファから立ち上がった。  その時、応接室の壁にかけてある鏡に映る自分の姿が、ふと目についた。彼はその場に立ちつくして、自分自身の醜い容貌《ようぼう》をまじまじと眺めた。こんなふうにまともに鏡を眺めるのは、数年ぶりのことだ。 「どうしました?」  銀行員が不審がって声をかけてくる。彼は我にかえり、もう一度紙袋の中へ目をやった。それから肩を落として、こういった。 「これを……やはりもう一度預金して下さい」  タクシードライバーの憂鬱《ゆううつ》  名前なんかなければいいのに、と彼は時々思う。  人間同士がいがみあったり、気を遣ったり、見栄を張ったり、殺し合ったりするのは、もしかしたらそれぞれに固有の名前があるせいなのではないかと、ぼんやり思ったりするのだ。名前があると、みんなその名前を大事にするあまり、いろいろと面倒なことが起きる。全員が名なしの権兵衛だったら、いっそ気が楽なのに。  日がな一日、クラウンのハンドルを握りながら彼はそんなことを考えている。いつもそうだ。別に答えを出そうとか、何かを解決しようとか、そういう心積もりは一切ない。ただぼんやりと物思いに耽《ふけ》るのが好きなのだ。今ではほとんど習慣になっている。そんな習慣でも持たなければ、この商売は続けられない。  彼はタクシードライバーだ。自分自身の名前は好きではないし、いっそない方が気楽でいいと考える割には、この職業名についてはひどくこだわりがある。運転手ではなく、ドライバー。口に出して言うことは滅多にないけれど、彼は自分をそう呼んでいる。おそらく昔観たデ・ニーロの「タクシードライバー」という映画の影響だろう。大学を中退して、ぶらぶらしている時期に、彼はこの映画を劇場で観た。そして翌週から教習所に通い始め、半年かけて二種免許を取得した。  きっかけはほんの気紛れだったが、彼はこの職業を愛していた。勤め人のように複雑な人間関係はないし、進んでおべんちゃらを言う必要もない。物思いに耽る時間もたっぷりある。何より彼は、車の運転がすこぶる好きだった。 「俺《おれ》はトラヴィスとは違う」  彼は時々映画のワンシーンを反芻《はんすう》しては、そう呟《つぶや》く。トラヴィスというのは「タクシードライバー」の主人公の名前だ。自閉症的な気質を持ち、今の自分にも今の世の中にも不服を感じてじりじりしている男として描かれていた。 「俺は今の自分に満足している。銃をふりかざして気違い沙汰《ざた》を起こす必要もないし、英雄になりたくもない」  まるで呪文《じゆもん》のように、彼は自分にそう言いきかせていた。唱えることで、自分の胸の奥底に飼っている得体の知れない動物を手なずけることができるかのように。  ある冬の夜、彼は六本木の防衛庁付近で初老の男を乗せた。  恰幅《かつぷく》のいい紳士で、高級そうなコートを着ていることを、彼は乗車の瞬間に見て取った。後部座席の扉を閉じると、夜の街の匂《にお》いとともに、男が纏《まと》っている甘ったるいオーデコロンの香りが車内に満ちた。 「信濃町《しなのまち》」  男は不機嫌そうに言った。 「はい」  彼は低く、短く答えた。ギアをローに入れて走り出す。近くも遠くもない、ちょうどいい距離だ。降ろしたら靖国《やすくに》通りへ出て、新宿方面へ流そう。そう思った。  走り出して二分もしない内に、後部座席の男は携帯電話を取り出して、何事か商談を始めた。株とか債券とか、そういう単語がいくつか聞き取れる。初めは低い声だったのが、その内に口論のようになって男は電話を切った。そしてまた男は別の番号を押し、同じような内容のことを話した挙句に激昂《げつこう》して電話を切った。そんなことが何度か続いた。  青山一丁目の交差点を過ぎた辺りで、ようやく男は携帯電話をしまい、煙草に火をつけた。厭《いや》な匂《にお》いのする煙草だったが、彼は息を詰めて我慢した。 「若いね、君は」  後部座席の男は唐突に話しかけてきた。嗄《しやが》れ、疲れた声だった。 「はい」  彼は答えた。できるだけ会話を交わしたくなかったが、仕方がない。 「まだ二十代か?」 「いえ。三十過ぎました」 「ふうん」  男は鼻を鳴らし、同時に大量の煙を吐いた。そして乗り出すようにしてこう言った。 「私も三十代の頃、三年間タクシーの運転手をやってたことがあるよ」 「そうですか」  彼は興味なさそうに答えた。すると男はそれが気に入らなかったのか、ますます身を乗り出して言い募った。 「本当だよ。あれは何ていうか、時代が悪かったんだろうねえ。私がタクシーの運転手やってたんだから。自分でも信じられないよ。でもまあ、要は才覚だね。人間、才覚ひとつでどうにでもなるものさ」 「そうですね」  彼は相槌《あいづち》を打った。ちょうど信濃町の駅を過ぎたところだった。 「その路地を右へ」  男は言った。曲がると、すぐ左側にレンガ貼《ば》りの瀟洒《しようしや》なマンションがあった。その前で止まるように、男は命じた。一万円札を差し出しながら小指を立て、 「コレのところだよ。忙しいよまったく」  男はそう言って卑《いや》らしい笑い声を漏らした。バックミラーに映る男の表情を見ると、その顔はアザラシに似ていた。 「男は才覚だよ。君も頑張りな」  男は釣銭を断り、そう言って車を降りた。彼はギアをローに入れ、静かに走り出した。百メートルほど走った所の信号でブレーキを踏み、青に変わるまでの束の間に、彼は溜息《ためいき》をふたつ漏らした。 「あの男は幸せそうではない」  彼はそう思った。 「何か重大な勘違いをしている。トラヴィス以下だ」  信号が青に変わった。  スタンドボーイの夢  彼が就職したその会社は、今でこそ他業種に手を広げているが、もとをただせば郊外にぽつんと店を構える小さなガソリンスタンドだった。  現在は会長職に就いている創業者がかなり目先のきく人物で、東京近郊を中心として徐々にチェーン展開をはかり、同時に石油関連商品を商い始めたという話だ。当初はタイヤだのカーステレオだのの自動車に付随する商品ばかりだったが、タイルや建材などを扱い始めるにつれて、建設業にも手を広げた。現在では後者の方が、扱い高が大きい。  しかし彼は建築資材や建設業などには、これっぽっちも興味がなかった。彼が好きなのは車だ。就職試験の面接の時もそのことを明言し、自ら進んでスタンド勤務をかって出た。同期入社の新入社員の中で、この汚く辛《つら》い仕事を希望したのは彼一人だったので、上司からは重宝がられ、同僚からは呆《あき》れられた。しかしそんな周囲の反応を、彼は一切意に介さなかった。  彼には夢があった。  何年かかけて今の会社でスタンド経営のノウハウを覚えたら、潔く独立し、自分一人で小さなガソリンスタンドを経営するのだ。場所は海辺がいい。理想的には小高い岡《おか》の突端で、眼下に海を一望できるような場所が望ましい。別に東京近郊でなくたって構わない。海さえ一望できれば、北海道でも九州でも四国でも沖縄でもいい。  そういう場所に鉄筋三階建てのステーションを建てる。  一階はスタンドの客および従業員の休憩所となる。中央に細長いテーブルを据えて、無料でとびきり美味《うま》いコーヒーを出す。北側と南側に大きく窓を切り、光がいっぱいに差し込むようにする。ここでコーヒーを飲みながら北側を眺めると、ぴかぴかに磨き上げられていく車の姿が目に飛び込んでくる。振り返って南側を眺めると、ゆったりとたゆたう海が広がっている。これ以上すばらしい風景が他にあるだろうか?  二階にはビリヤード台を二台置く。ポケットと四つ玉を一台ずつだ。新しいやつじゃなくて、ポケットに網がついているような古いタイプがいい。それからピンボールマシン。業者に頼んで、二ヵ月に一度は新しいマシンと替えてもらう。電子音のうるさいテレビゲームは御法度だ。アルコールも置かない。コーラとオレンジジュース、それからホットドッグを用意しよう。ソーセージと一緒に、本格的な刻みピクルスを挟んだやつだ。気が向いた日には、ハンバーガーも作る。かぶりつこうとすると顎《あご》が外れるほど、ボリュームのあるやつがいい。  三階は彼の部屋だ。ベッドと書き物机、写真集のいっぱい詰まった書棚、それからナカミチのオーディオセット。窓には白いブラインドをつける。朝、彼はベッドから起きあがると、まず南側の窓のブラインドの隙間《すきま》から海を眺める。朝日の乱反射がまぶしくて、彼は目を細める。それから今度は北側の窓からスタンドを眺める。まだ客の姿はなく、がらんとしている。右手にガレージがあって、彼の車の鼻先が見える。赤のコルベットだ。それを見ると、彼は胸がどきどきする。今日もすばらしい朝だ……。  それが彼の夢だった。  しかし今、彼が暮らす現実は、油と埃《ほこり》と泥にまみれたものだ。配属されたのは米軍基地のある町に近い国道沿いのスタンドで、周囲の風景は実に殺伐としていた。一日中からっ風が吹いて、表へ出ると目も開けられない。車は、磨いても磨いても埃が覆《おお》いかぶさってくる。ステーションは暗く、物置のように未整理で、腰を落ち着ける場所すらなかった。しかも直接の上司である所長はスピッツみたいに口うるさい男で、彼が生真面目《きまじめ》に働けば働くほど、却《かえ》って仕事のアラを見つけては罵《ののし》るのだった。  しかしそれでも彼は堪《た》えた。  毎日誰よりも早く出勤し、一番最後に帰る生活が二年続いた。ステーションの中を懸命に整理し、トイレやガレージをきれいにし、客が来れば愛想よく応対した。彼はできるだけ現実を意識すまいとしていた。自分が、夢のスタンドの中で立ち働いているのだと、無理にでも思おうとした。  ある日、スタンドに赤のコルベットが入ってきた。  彼は胸がどきどきした。ハイオクを満タンに入れ、フロントグラスを拭《ふ》き、灰皿の中身を棄《す》てる間じゅう、幸福で体が震えそうだった。オーナーは彼と同い年くらいの、背の高い二枚目だった。ほんの十五分ほどだったが、彼は懸命にコルベットに尽くし、料金を受け取った。  車通りの激しい国道へ出て、安全を確認してから送り出すつもりで、彼は走った。走りながら、肩越しに振り向いて、もう一度コルベットの姿を見ようとした。それがいけなかった。あっという間の出来事だった。彼は車道の端ギリギリを疾走してきたバイクに跳ね飛ばされた。バイクの車体に絡みつくようにして十数メートルもふっ飛び、頭からアスファルトに激突した。  即死だった。  まだ二十四歳だった彼の遺体は、海辺の小高い岡の上ではなく、何の変哲もない市営霊園におさめられた。埃っぽい風が一日中吹く、つまらない場所だ。そして一年も経たない内に、彼という人間が存在したということすら、誰もが忘れ去った。  人生とやらには、時としてこういうことが起きる。仕方のないことだ。仕方のないことだけれども、もし人生を司《つかさど》る神が存在し、空の上から彼を見ていたのだとしたら、そんな神なんて糞《くそ》っくらえだ。彼の夢は正しく、彼の生き方も正しかった。だから彼のこんな死は正しくない。認めたくない、絶対に。  塩辛いおしぼり  暑い日曜日だった。  喫茶店の窓際の席へ腰を下ろすと、彼はシャツの第一ボタンを外して襟口をぱたぱたやり、風を入れた。  銀のトレイを手にしたウエイターが現れ、メニューと水とおしぼりを置いて、一旦《いつたん》引き下がる。彼はおしぼりに手を伸ばし、袋を破って取り出すと、一瞬動きを止めた。何か考え事をするような顔で、束の間おしぼりを見つめてから、顔を拭《ぬぐ》い、手を拭った。 「男の人はいいわね」  向かいの席に座った彼女が、声をかけてくる。 「そうやって思いきり顔が拭《ふ》けるでしょう。すごく気持よさそう」 「君もやってみればいいじゃないか」  気のない様子で、彼は答える。彼女は大仰に首を横へ振って見せ、 「女はだめよ。お化粧してるもの」 「化粧? してるのかい」 「今日は素っピンだけど、できないわよ。何だかはしたないじゃない」 「そうか……」  彼は使い終えたおしぼりを両手で弄《もてあそ》びながら、呟《つぶや》いた。 「はしたない、か」 「そうよ」  そこへウエイターが再び現れ、注文を訊《き》いた。彼はアイスコーヒー、彼女はアイスティーを頼んだ。  ウエイターが行ってしまうと、彼はまたぼんやりした顔つきになって、おしぼりを弄び始めた。伸ばしたり、丸めたり、卓の上へ広げてみたり。 「何してるの?」  不審気な顔で、彼女が訊いてくる。彼はふと我にかえり、何でもないと答えた。そしておしぼりの両端を小さく畳み、ころころと転がして使用前とそっくり同じ形に戻した。その手際があまりにも見事なので、彼女は小さく声を上げて感心した。彼は苦笑して目を伏せ、水を一口飲んだ。  まだ彼が少年だった頃、彼の父は貸おしぼり業を営んでいた。もともとはタオルやハンカチの縫製を生業としていたのだが、行き詰まって転業したらしい。彼の父はもともと楽天的なところのある男だったので、儲《もう》かるという話を誰かから聞くなり、あまり後先も考えずに決断したという。  当初、父の商売は順調だった。まだ喫茶店でおしぼりを出すのは物珍しかった時代で、競争相手となるような会社が存在しなかったのだ。父は精力的に繁華街を回り、得意先を着々と増やしていった。  彼の家は下町の小さな二階家で、一階が父の作業場だった。大型の洗濯機と、おしぼりを丸めるための作業台と、袋詰めをする大袈裟《おおげさ》な機械、そして大量の白いおしぼり。家にはいつも蒸れた布の匂《にお》いが漂っていた。  父の奮闘ぶりは、子供であった彼の目にも痛ましいほどだった。最初の何年かは母と二人きりで、回収から洗濯、配達まですべての工程をこなしていたから、眠る間もなかったはずだ。父は黙々と働いた。博打《ばくち》も打たなかったし、酒もほとんど飲まなかった。  何年かして、従業員を雇う余裕ができた。一人、また一人と雇っていって、彼の記憶では最終的に五人の若い人間を使うようになった。それでも父は、従業員の誰よりもよく働いた。彼はそんな父が好きだった。がっしりした肩と広い背中を持ち、愚痴ひとつこぼさずに働く父が好きだった。  しかし不幸が彼の家を訪れた。  まず大手の会社がこの業界に参入し、父の仕事を少しずつかすめとっていった。商売が思わしくなくなるにつれ、父親は塞《ふさ》ぎ込むようになった。幸福というのは滅多に重ならないが、不幸というのはいつもまとめてやってくる。ある日、父は配達の帰り道に事故にあった。腹と胸をしたたかに打って、病院に担ぎ込まれた。命に別状はなかったが、術後の経過が思わしくなく、結局七ヵ月も入院してしまった。  そして父の退院を三日後に控えた夜、母が失踪《しつそう》した。ありったけの金を持って、若い従業員と逃げてしまったのだ。あまりにも唐突で、なかなか現実感の湧《わ》いてこない出来事だった。彼はまだ小学五年生だった。自分の家に何が起きたのか、しばらく理解できなかった。  父が退院して何日か経ったある夜、彼は寝つかれずに寝床を抜け出した。自分が眠っている間に、母が様子を見に帰ってくるのではないかという気がして仕方がなかったのだ。階段の途中から一階の様子を見下ろすと、作業場に明かりが灯っていた。足音を忍ばせて下り、扉をそっと開けて隙間《すきま》から覗《のぞ》くと、父の背中が見えた。  父はたった一人で作業台に向かい、山と積まれたおしぼりをひとつずつ丸めていた。左右の両端を折って一定の幅にし、掌《てのひら》を使ってくるくると丸める。彼は父の手元に目を凝らした。  父は泣いていた。  声も立てずに、ただぽたぽたと涙を流していた。その涙は広げたおしぼりの上に落ち、たちまち吸い込まれたかと思うと、父の掌によって丸められていった。そのことに気付くと同時に、彼はそっと扉を閉め、急いで自分の寝床へ帰った……。 「ねえ、何を考えてるの?」  彼の沈黙を訝《いぶか》って、彼女が声をかけてくる。彼は伏せていた目を上げ、彼女の顔を見た。父のことを話してみようかと、一瞬口を開きかけたが、すぐに思い直した。 「何でもない」  彼は言った。そして丸めたおしぼりが目につかないよう脇《わき》へ除《の》け、つまらない世間話を始めた。  レフェリーの勝利  彼は地方公務員だ。  東京郊外の市役所の健康保険課という、傍目には地味な職場で働いている。しかし誰かから職業を尋ねられた場合、彼は悪戯《いたずら》っぽい笑顔を浮かべながらこう答えることにしている。 「ボクシングのレフェリーです」  相手が意外そうな顔をして何か尋ねたそうにしたら、 「本業は公務員なんですけどね」  とつけ加える。ボクシングのレフェリーだけで飯を食っている人間は、日本には存在しない。たとえ世界タイトルマッチのレフェリーをつとめたとしても、ギャラは高が知れている。ましてや彼のように初心者で、四回戦のレフェリーしかつとめたことがない者は、ほとんどがノーギャラである。ようするにボクシング好きが昂《こう》じて、趣味としてレフェリーを選んだ者ばかりなのだ。  もちろん彼も、そんなボクシング好きの一人だった。といっても、選手としてのキャリアがあるわけではない。小さい頃から彼は運動音痴で、これといったスポーツにのめり込んだことはなかった。中学高校大学を通じても、ずっと文化系のクラブに所属し、本ばかり読んでいたのだ。  大学を出て、公務員としての地味な毎日を一年ほど送った頃になって、彼は唐突にボクシングに目覚めた。きっかけは、高校時代の友人がプロボクシングのライセンスを取得し、遅いデビューを飾ったことだった。応援にかり出されて、初めて訪れた後楽園ホールの客席で、彼は今までに味わったことのない興奮を覚えた。もちろん今までにテレビで観たことは何度かあったが、生の試合はまったく別物だった。生身の人間と人間が、地位でもなく名誉でもなく金でもなく、もっと崇高な何かのために殴り合う。リングに上がったボクサーは、ただ相手を倒すためだけにそこに生きている。その圧倒的な存在感は、曖昧《あいまい》きわまりない人生を歩んできてしまった彼にとって、まさに驚きだった。  以来、彼は暇を見つけては後楽園ホールへ通うようになった。別にタイトルマッチでなくとも、四回戦でも六回戦でもいい。ボクサーのそばにいて、同じ空気を吸い、同じ興奮を分かち合うことが彼にとっては大きな喜びだった。半年ほど足しげく通っている内に、何人かの顔見知りができ、選手やトレーナーに紹介された。 「レフェリーの資格をとったらいいじゃないか。そうすりゃ、ボクシングをもっと近くで見られるよ」  冗談半分でそんなアドバイスをしてくれたのは、都内にある小さなジムの会長だった。本業は質屋なのだが、この男もまた趣味が昂じてボクシングにのめり込んでしまった人間の一人だった。  彼はこのアドバイスに従い、すぐにレフェリーの資格をとる勉強をし始めた。それは運転免許を取得するよりもほんの少しだけ難しい程度のものだった。五ヵ月後に、彼は日本ボクシング協会のレフェリーライセンス試験を受け、これを取得した。大学に合格した時や公務員試験に受かった時よりも、はるかに嬉《うれ》しかった。  初めて彼がリングに上がったのは、四月半ば——桜が散った頃だった。真夏の太陽のようにカッと照りつけるライトの下で、彼は自分の名前がアナウンスされるのを聞き、緊張と興奮で頭がぼうっとしてしまった。黒いズボンに白いシャツと蝶《ちよう》ネクタイ。すべて自前で新品のものを揃《そろ》えた。試合はもちろん四回戦だ。ボクサーは二人ともこれがデビュー戦だった。つまり三人のニューフェイスがリングの上に集まったことになる。  試合に先立って彼は二人のボクサーをリング中央へ呼び、マニュアル通りに試合上の注意を与えた。声が震えているのが、自分でも分かった。ゴングの前に客席を見回すと、四回戦にしては意外なほど客が入っていた。デビュー戦同士だから、応援の友人知人たちをできるだけ掻《か》き集めたのだろう。全員が、二人のボクサーを食い入るように見つめるばかりで、レフェリーの彼に気を止める者は一人もいなかった。しかし彼は満足だった。  試合は白熱した内容だった。二人の選手は技術こそなかったが、負けまいとする気迫は世界ランカーに劣らないものがあった。玉砕覚悟の闇雲《やみくも》なパンチの応酬で、三回半ばには双方ともに血まみれになった。ブレイクを分けるために割って入るたびに、彼の白いシャツにも血糊《ちのり》がついた。  三人ともに必死だった。  結局、四回に赤コーナーの選手が放ったまぐれ当たりのアッパーで、青コーナーの選手はマットに沈んだ。壮絶な試合だった。赤コーナーに近い客席からは、潮騒《しおさい》のような歓声が上がった。その歓声は、すべて勝者のものだ。レフェリーの彼のために拍手をおくる者は誰もいない。しかし彼は、今までに感じた経験のない深い充実感に浸ることができた。 「俺《おれ》はリングに立った」  控え室で血のついたシャツを脱ぎながら、彼は呟《つぶや》いた。 「俺は闘った」  相手はいないけれど、お前は勝った。よくやった。よくやった。そう自分に言い聞かせている内に、彼は涙がこぼれてくるのを抑えられなくなった。  二十数年間の人生で、彼は生まれて初めて何ものかに勝つ喜びを、ひそかに噛《か》み締めていた。 97年1月、角川書店より単行本として刊行 角川文庫『人の短篇集』平成11年12月25日初版発行