円地 文子 源氏物語私見 目 次  源氏物語私見   桐壺に見る恋愛   空蝉の顔かたち   夕顔と遊女性   恋人の位   賢木の巻   朝顔の斎院   源氏物語の端場   源典侍考   「われながらかたじけなし」の思想   頭中将考   女にて見奉らまほし   光源氏と初、中、後の恋   恋の仲立ち   年上の女   紫の上のヒロイン性   近江の君の滑稽味   罪の意識について   女二の宮   ホームドラマ   歌のない女   六条御息所考   三人の女主人公—匂宮・紅梅・竹河   宇治十帖についての私疑   仮名文の文体など   口語訳の言葉あれこれ  源氏物語紀行   住吉詣で   住吉と遊女   嵯峨あたり   光源氏のモデル   作者の声  源氏物語の魅力   源氏物語は女の文学か   源氏物語を書かせたもの   光源氏と女性群像   源氏物語の構造   源氏物語を生き継がせたもの   源氏物語は何故訳されるか [#改ページ]  源氏物語私見    亡き友津田節子に捧《ささ》ぐ————   桐壺に見る恋愛 「源氏物語」をこれまで読んで来たけれども、それは好きに委《まか》せてのことで、机に向って学習したことは一度もなく、欄外の注などを辿《たど》り辿り、いつか自分よみの「源氏」にしてしまっていたのであった。  口語訳をすることになって、初めて、本文の一句一句に当って見て、兎も角も正確に解読した上に、自分流の意訳も加筆もして見ようと心を決めてから、そのつもりで読み直して行くと、あらためて、気のつくことも多く、これも又、私の手前勘なのかも知れないが、思ったままを書き記して置くのも何かの栞《しおり》になるかも知れない。  光源氏の恋愛遍歴が、顔も覚えぬ幼い時に死に別れた美しい母に対する憧憬を根としていることは今では定説になっているし、その母代《ははしろ》の恋愛感情の対象として、藤壺《ふじつぼ》の宮との密《ひそ》かな愛が一|篇《ぺん》の芯《しん》になっていることもその通りである。  藤壺、紫の上、女三の宮とつながって行く所謂《いわゆる》「紫の物語」の系譜に「源氏物語」の本流のあることは私は早くから呑みこんでいたが、冒頭の「桐壺」の巻については、光源氏の出生や生い立ちを印象づける為《ため》に描かれた序章のようにしか見ていなかった。  しかし、「桐壺」を細かく読み直してみて新たに気づいたことは、これは、単に帝と寵姫《ちようき》との間の、愛を与えるものと受けるものの関係ではなくて、愛し合う二人の男女とそれを許さない周囲の厚い壁との間に醸《かも》し出される、きらびやかではあるが暗い闘争の劇であるということだった。「桐壺」には玄宗と楊貴妃の恋愛を歌った白楽天の「長恨歌《ちようごんか》」が度々引用される。確かに帝が更衣の死を傷む恋々の情を叙した部分には「長恨歌」の影響は生々《なまなま》しく滲《にじ》み出ているが、勿論《もちろん》、当の更衣は楊貴妃のような権勢を恣《ほしいまま》にする性格ではない。いやこれまでは、私はむしろ更衣を、夕顔に近い、いたいたしいほど可憐《かれん》な、男の愛情に湿《うる》おってのみ花ひらいているような女性に感じていたのだが、それが私の読み方の未熟だったことにあらためて気づいた。  更衣は帝に熱愛されたに違いないが、愛されることだけに生きたのではなくて、自分も帝を愛し、愛すことの深さによって他から軽蔑《けいべつ》されたり迫害されたりする苦しみを精一ぱい耐えて、宮仕えをつづけたのである。  かしこき御かげをば頼み聞えながら、貶《おと》しめ、傷を求め給ふ人は多く、わが身はか弱く、物はかなき有様にて、|なかなかなる物思ひ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をぞし給ふ。  この「なかなかなる物思ひ」の内容には、清涼殿に通う道々の廊下の戸を両方から閉めて立ち往生させたり、汚物を床に撒《ま》きちらしたりするような具体的な厭《いや》がらせもあれば、「かかることの起りにこそ、世も乱れあしかりけれ」と、国を乱す妖婦《ようふ》扱いした穏やかならぬ陰口も交っている。しかも、その原動力は権力者の右大臣家であってみれば、更衣がほんとうに夕顔のようなものはかない女であったらば、どんなに帝に愛されていたとしても、自分から身を退《ひ》いて行ってしまったであろう。  元よりここは「源氏物語」の発端として描かれているので、更衣が夕顔であっては話にならないのだが、普通に考えられている以上に周囲の攻勢に対する抵抗は更衣の側で強くなされていることを私は言いたいのである。  そうして帝と更衣との結びつきが宮廷全体の「ゆるしなき」雰囲気《ふんいき》を押し切って帝が自らの地位をさえ賭《か》けているように見えるところに、単なる宮仕えの主従関係を超えた、一対一の恋愛を感じるのは私の思い過しであろうか。  私はそうした理解を援ける一つの例として、更衣が死の前に帝と別れる件《くだり》の二人の対話を挙げたい。  〔帝〕「『限りあらむ道にも、後れ先だたじ』と契らせ給ひけるを、さりともうちすてては、え行きやらじ」  とのたまはするを、女も、「いといみじ」と見たてまつりて、   「かぎりとて別るる道の悲しきに       いかまほしきは命なりけり   いとかく思う給へましかば」   と息も絶えつつ、聞えまほしげなることはありげなれど……  とあって、ここに、更衣の言葉として、自分のあとに残して行く幼い源氏に対する母としての悲しみや不安は一言も語られていないのである。  これが徳川時代の「源氏」のアダプテーションである柳亭種彦の「田舎源氏」になると、この件で、更衣に当る花桐にその子との別れを演じさせている。江戸時代の戯作者の神経では、愛妾《あいしよう》が病気にかかって主人の御殿を下る時、自分の生んだ若君に別れを惜しむことは当然なのであった。  更衣の場合にしても、帝との愛情が切羽つまったものでない限り、ここに自分の生んだ幼児《おさなご》への名残り惜しさが顔を出して来るのが自然な筈である。それを敢えてさせていないところに、この心憎いまでに行き届いた作者は、親子の情よりも、恋愛感情の強さを強調したかったのだと思う。そうして又、この稀《まれ》に深く結ばれた二人の愛情から生れ出たものとして、光源氏の魅力がこの世のものとも思われぬほどに輝かしいことが、当然予約されてもよいのではないだろうか。   空蝉《うつせみ》の顔かたち 「源氏物語」をはじめから細かく読み直してみると、今まで、何度も読んでいながら、読み過していたところで、どうにも|ひっかかって《ヽヽヽヽヽヽ》気のすまない箇所が新しく出て来るのに驚かされることが多い。  例えば、「帚木《ははきぎ》」から「空蝉」の巻にかけての女主人公として登場する伊予の介《すけ》の後妻空蝉にしても、どうして、「源氏」の作者は彼女の容貌を美しくないように描かなければならなかったのか、首を傾けずにはいられない。  空蝉は今では伊予の国の次官(実際には国守《くにのかみ》が欠官になっていてその代理を勤めている)で、自分とは遥《はる》かに年の違う男の妻になっているが、曽《かつ》ては右衛門の督《かみ》(中納言)の娘で、亡くなった父親は空蝉を時の帝の後宮にさし出すことを望んでいた。そのことを帝は思い出されて、息子の光源氏に話されたことがあるほどで、帝の更衣にさし出そうとするくらい評判の娘だったことが、中川の邸へ泊った夜源氏と空蝉の継息子《ままむすこ》の紀伊《き》の守《かみ》との会話でまず知らされる。 「器量よしという評判の人だったがほんとうに美しいの?」  と源氏が訊《たず》ねるのに対して紀伊の守は、 「悪くはございませんでしょう」  と答えている。  源氏は中川の流れを堰《せ》き入れた紀伊の守の邸に方違《かたたが》えに泊りに来た晩、空蝉が自分のすぐ隣の間にいるのを知って、前からきいていた噂《うわさ》が元となって恋心をそそられ、彼女の寝所へ忍ぶのであるが、はかない契《ちぎり》を結びながら、女の顔は碌《ろく》にみることも出来ない。その後空蝉は源氏を恋しながら、再び身をゆるそうとしないので、源氏は彼女のもとへ忍んで行っては本意なく帰ることになる。そうして、ある夕暮空蝉の弟に案内させて、忍び入った御簾《みす》の間から、あけ放した部屋の奥で碁を打っている女の姿を垣間《かいま》みる。問題はそこの描写なのであるが、  目少し腫《は》れたるここちして、鼻〔筋〕なども、あざやかなるところなうねびれて(すっきり通っていず)、〔何となく老けて〕匂《にほ》はしきところも見えず。言ひ立つれば、|悪きによれるかたち《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》をいといたうもてつけて(大そうたしなみ深く振舞って)、この優れる人(継娘)よりは心あらむ(一段立ち優《まさ》っている)、と眼とどめつべきさましたり。  とあって、結論に於《お》いては、空蝉が魅力のある女性であることを証明しているのであるが、どうも、その前の更衣に上る筈であったという話や、紀伊の守との問答から類推して、読者の予想している優婉《ゆうえん》な美女とは当てが外れるのである。  私は前にも、この件《くだり》の描写をよんで、ふっとこれは紫式部が空蝉に自画像を描いて見たのではないかと考えたことがあったが、今でもその疑問は残っている。「紫式部日記」の中には自邸に陰気くさく閉じこもっている作者の様子が描写されているが、それに、空蝉の容貌はちゃんと当てはまるようである。しかも若い光源氏が、この年上の大して美しくない人妻の底知れぬ魅力にひきつけられて、結構深はまりしてゆく経緯は考えようによれば女作者のナルシズムの極致と言えるかも知れない。 「源氏物語」の中には別に心の正しい醜女《しこめ》として末摘花《すえつむはな》が描かれているし、容貌の優れていないことを少しもコンプレックスにしていないおおらかな花散里《はなちるさと》も登場して来る。しかし、そのいずれもには、そうした容貌と個性がぴったり当てはめて描かれているが、空蝉の場合にだけは、前段との矛盾を意としないで、敢えて、美人でない女の魅力を強調しているところに、特徴があるように思う。   夕顔と遊女性 「源氏物語」の作者は、光源氏を繞《めぐ》る数多くの女たちをいみじく描きわけていると言われているが、光源氏と女とが最初に出会う場面にとりわけ意を用いているように思う。「若紫」のはじめに、北山の奥の聖《ひじり》に瘧《おこり》の祈祷《きとう》をして貰いに行った折に、某《なにがし》の僧都《そうず》の山住まいを垣間み、そこに、童女の紫の上が雀の子を逃がして泣き顔でいる姿を見染める場面も印象的であるし、花宴《はなのえん》の果てた後、酔いすぎた源氏が後宮の庭をそぞろ歩いた末、弘徽殿《こきでん》の細殿《ほそどの》に忍び入り、「朧月夜《おぼろづきよ》に似るものぞなき」となまめかしい声で朗誦《ろうしよう》しながら来る若い女(朧月夜の尚侍《ないしのかみ》)をやにわに捕えるところも、この物語中屈指の濃艶《のうえん》な場面であろう。その例は他にもいくつも挙げられるが、何といっても、源氏と女との最初の出会いがそのまま巻の名にもなっているし、誰にも知られているのは夕顔であるに違いない。 「六条わたりの御忍び歩《あり》きの頃」と書き出したこの巻では、源氏が宮中から退出して六条の御息所《みやすどころ》の許《もと》にゆく途中で、自分の乳母《めのと》である大弐《だいに》の乳母が病気で尼になったのを見舞に五条大路に面したその家に立寄るところから始まる。突然の訪問で門が開いていなかったため、車を道に立てて待っていると、隣に新しい檜垣《ひがき》などしてある粗末な家があって、女たちの簾《すだれ》越しにのぞくのが見えた。垣根には真青な蔓《つる》が生いかかって白い花が咲いている。源氏が「あの花は何という花か」と問うと、随身《ずいじん》の一人が「夕顔」と答える。源氏は花を折って来るように命じる。随身がその家へ入って行って花を折ると、内から女童《めのわらわ》が出て来て、香の染《し》んだ扇をさし出し、「これにのせてお目にかけるように」という。あとでみるとその扇には歌が美しい字で散らし書きしてあった。   心あてにそれかとぞ見る白露の      光そへたる夕顔の花  源氏は思いもかけぬ粗末な造りの家の女から、雅《みやび》やかな歌をよみかけられて心が動き、返事を書いて贈る。それが縁になって夕顔の宿の女に源氏はなれ染めるようになるのであるが、身分を隠さねばならないので、わざと、衣服も粗末にやつし、馬に乗ったりして、顔も覆って見せないようにしているものの、女への打ち込み方は一通りでなく、一日の間にも、「今朝のほど、昼間の隔てもおぼつかなく」思えるまで通いつめるのである。そんなに夢中になるほどの女でもない筈なのにと思ってみても、自分で自分がどうにもならない。 「女の様子は、呆《あき》れるほどやわらかに、おっとりしていて、考え深いとか重々しいというところはつゆほどもなく、ひたすら、若々しくみえるものの、|男女の仲をしらぬというでもない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」という風に描写されているが、源氏はこうした夕顔の底のない軟らかさや、捕えどころのないはかなさに魅惑されて、二条の院までそっと連れて来てしまおうかと思ったりもする。そうして、女の素姓について何もきかぬ内に一夜、五条の宿を出て某《なにがし》の院へ行き、そこに泊った時に夕顔は、物《もの》の怪《け》に襲われてあえなく命をおとしてしまうのである。夕顔が曽《かつ》て、源氏の友人である頭《とう》の中将《ちゆうじよう》の愛人で女の子まで儲《もう》けた仲だったということは、生前にも源氏は大体推量しているが、はっきりそれを知るのは夕顔の死後、侍女の右近の口からである。そうして夕顔自身も源氏をそれと確認するのは、某の院へ来た時、そこの留守居役が源氏に対してとる丁重な礼儀と、源氏自身が自ら覆面をとって、   「夕露に紐《ひも》とく花は玉鉾《たまぼこ》の       たよりに見えし縁《えに》こそありけれ   露の光やいかに」   とのたまへば、〔夕顔は〕尻目にみおこせて、    光ありと見し夕顔のうは露は       たそがれ時のそら目なりけり  という応答の件《くだり》によるのであるが、この夕顔の歌はひとえになよなよとはかなびて男に頼りきっている女のそれとしては、ちょっと曲者《くせもの》という感じを受ける。  つまり、「光源氏と呼ばれる私はどんなものでしょう」とよびかけた男に対して、「光源氏なんておっしゃって、すばらしく見えたのは夕ぐれ時のそら目だったからですわ」と軽く|いなし《ヽヽヽ》ている形である。  この余裕のあるやりとりに、私たちは夕顔の中の無意識な娼婦性を感じられないだろうか。  そう言えば、そもそも夕顔の花をのせる扇にかきつけた歌にしても、ああした呼びかけを女の方からするのは、当時の貴族の女君の正統派でないことは確かである。あの歌を夕顔自身でなく周囲の女房たちの作と見る向きもあるようだが、光源氏ほどの男が、手蹟《て》と歌を見れば、大体女の教養の程度はわかる筈であるから、あれは物語の筋の発展から言っても夕顔自身の歌と見るべきだと思う。  唯あの時五条の宿に来ている夕顔の境遇というのは、既に第一の男であった頭の中将からは身を避けなければならなくなり、さしたる財力もありそうにはみえないから、女の子一人を抱えて、夕顔の乳母や、周囲の女たちにしても、この女主人に第二のよいパトロンを見つけようとしている時だったことは確かである。  光源氏が身分を隠して夕顔の宿に忍んで通っている頃も、夕顔は大方は彼が源氏であることを知っていたし、周囲の者は誰と確認出来ないながらも、頭の中将などと比較して略《ほぼ》それと同格の貴公子であることは信じられたのであろう。そうであればこそ、彼らは正体の知れない男に大切な女主人を同車させて、右近唯一人を供としてどことも知らず外出させもしたのである。  言いかえれば、夕顔の従者の側にも夕顔の女としての魅力でよりよい条件の男君を得ようとする希望があったのであろうし、夕顔自身の内にも、柔和なもの怖《お》じする小動物のような愛らしさと一緒に、男を知らず知らずあやなすような撓《しな》やかな巧みが成長しかかっていたのかも知れない。そんなことを考えていると、あの夕顔の宿の半蔀《はじとみ》から額を透かせている女たちの姿まで、少し後の遊女の宿を写した絵巻の風情にどこか似ているように思われるのである。   恋人の位  昔の絵を見ていると、遠近法などは全く無視して、ある人物を大きく、ある人物を小さく描いているのがあって、仏画などの場合、そのことで対象の比重を端的に物語っているようである。 「源氏物語」を読んでいると、光源氏を繞《めぐ》る多くの女たちが、一つ一つ、違う花の趣に心憎く描き出されていて、興をそそるのであるが、私は、今度、口語訳をしながら源氏の恋人たちの間にも、昔の絵の中に大柄にかかれている像や、ほどほどの大きさ、又小さくかかれていることが魅力でもあるような種別のあることを新たに発見した。これは、「源氏」の研究者にとっては別に新しい発見ではないのかも知れないが、私にとっては寄り添っていた扉がふと開かれたような、思いがけぬ気持でもあり、楽しさでもあった。  絵に譬《たと》えて大きさということは、別の言葉で言えば、恋人の位と言ってもいいかも知れない。  光源氏の恋愛の対象となる女性は、正妻の葵《あおい》の上《うえ》、紫の上、女三の宮をも籠《こ》めて、藤壺の中宮、六条の御息所(前《さき》の東宮妃《とうぐうひ》)、朝顔の斎院《さいいん》、朧月夜の尚侍《ないしのかみ》、玉鬘《たまかずら》、秋好《あきこのむ》中宮、明石、花散里、夕顔、空蝉、末摘花などであるが、その内で、光源氏が少女の頃に見つけ出し、自分の手で申し分のない女君に育て上げて生涯の妻とし、その死の後には自分も出家を決心するに至る、言わば、一篇の女主人公とも言ってよい紫の上は、絵でいうと、大きく描かれるべき女性かというのに、必ずしもそうではない。源氏の彼女に対する愛は父性的なものをも籠めて深いには違いないけれども、源氏の内にある、より高きものに憧憬《あこが》れる思い……常に眼を上げて、見上げていなければすまされぬ男の夢を満たすものとしては、紫の上はあまり常識の枠《わく》にはまり過ぎた優等生すぎて、女として、妻として完全であればある程、永遠の女性にはなり得ないのである。環境から言っても、彼女は、源氏が自分の手でたずね出し、藤壺の姪《めい》であるという由縁《ゆかり》にひかれて、その憧憬れる人を常に心に置いて育て上げた藤壺の身代りなのであった。紫の上の美しさも賢《さか》しさも、おさおさ藤壺に劣らないものに成長したには違いないが、源氏の内に秘められている藤壺の量り知られぬ雅やかさや、幾重ともない帷《とばり》の奥の底知れぬ深い心の翳《かげ》りにはどうしても触れられぬもどかしさがあって、自分の手の内にしっかりこの人を握りこんでしまうことは源氏にはついに不可能であった。  つまり、紫の上に比して、藤壺は恋人の位として、明らかに上位の女性なのである。そのことは、藤壺が死後、源氏の夢の中に姿を現わして来るときに、生前よりも一層はっきりと表現される。  同じことは、六条の御息所についても言われる。私は十年ぐらい前に、「女面《おんなめん》」という小説の中で六条の御息所についての小論を書いたことがあるが、この女性をややもすると、弘徽殿の大后《おおきさき》並みの悪役扱いにして、軽く見過す傾向のあるのは、大変残念なことだと思う。  御息所と、源氏との恋愛が何となく|ちぐはぐ《ヽヽヽヽ》なものになったのは、御息所が年上であったということではなくて、その当時の源氏の心に既に藤壺という一つのはっきりした偶像があり、その人との間の満たされないものを満たす相手として、最もふさわしい美貌と教養と前《さき》の東宮妃の地位とを兼ね具えたサロンの女主人を選んだことが、一応は自然なように見えながら、拠《より》どころない違和感を生む結果になったのである。源氏は御息所の敏感すぎる情緒に自分の隠して置きたいものすべてを見透されるようで息苦しくなり、御息所は若い源氏の自分にあぐねているのを知りぬきながら、彼の眼もあやな情緒に深入りして行く。しかし、源氏が御息所を愛していなかったかと言えばそれは嘘になるので、源氏は藤壺に、永遠の女性の一つの典型を見ているように、御息所にももう一つの典型を見出《みいだ》している筈である。 「葵」の巻には、葵祭の神事に、光源氏が勅使の一人として行列に加わることが書かれている。それを見ようとする群集の中で、源氏の正妻と六条の御息所の車が所争いをして微行《しのび》の御息所は恥を見せられた。その怨恨《えんこん》が生霊《いきりよう》となって妊娠中の正妻を苦しめ、とうとう正妻は子を生んだあとで死ぬ。人は誰も気づかなかったが、源氏は妻に御息所の生霊の憑《の》りうつるのを自分の眼でまざまざと見て、興ざめるのである。源氏と御息所との恋愛関係はこのことによって一度絶えるが、一年の後、御息所が娘の斎宮《さいぐう》と共に伊勢に下ろうと決心して野の宮にいる時、別れを惜しみに行って、一夜を過して帰る。 「源氏物語」には、六条の御息所以外に、生霊となる、つまり物の怪の正体をなすような超現実的な女性を一人も描いていない。それだけに、御息所の生霊はドラマチックに扱われて、能や歌舞伎などにも生かされているが、紫式部自身は生霊の存在を信じていたらしくは家集などからも思われない。その作者が「源氏物語」の中で六条の御息所という女性だけに唯一人|憑霊《ひようりよう》の能力を与えたということには、考えてよい多くの問題がありはしないだろうか。  私は六条の御息所を藤壺と対照的な意味で、源氏にとって、見上げる位置の女性であり、それはある意味で永遠の女性でもあると思うのである。   賢木《さかき》の巻 「賢木」の巻は「源氏物語」の内で大変重要なものを多く含んでいる巻である。この巻には、最初に娘の斎宮と共に伊勢へ下る六条の御息所を源氏が訪ねる野の宮の別れとそれにつづく斎宮母子の出立、その後を承《う》けて桐壺帝の死という、光源氏にとっての一大衝撃が描かれている。  父帝の死後、源氏は政治的に反対勢力から疎外され、藤壺への恋をのみつのらせるが、藤壺はすべてを破局へ導くことを怖《おそ》れて拒み通し、遂に出家を決心する。桐壺帝の死後一年目に催した法華八講の最後の日に、藤壺はそれまで誰にも告げなかった決意を実行に移して落飾してしまう。その行為によって源氏の執拗《しつよう》な恋慕にはっきり関を据えてしまうのである。  その後には源氏が時の帝の寵姫《ちようき》であり、自分を憎悪の的としている弘徽殿の大后の妹でもある朧月夜の尚侍との埒《らち》を越えた密会に溺《おぼ》れこんで行き、ついに、自分を流謫《るたく》の破滅に逐《お》い込む原因をつくってしまうのが「賢木」の巻の最後の部分である。  父帝の死によって源氏は父性愛と最大の政治的背景を失うと同時に、源氏はこの巻で、二人の最高位の恋人を失う結果になる。しかも、それは、病死とか他動的な事故によってではなくて、二人が二人とも、はっきり自分の意志によって、源氏から自分を離して行くのである。言いかえれば、藤壺も六条の御息所も、当時の最高貴族の女性で行動の自由を束縛されぬいている環境を破って、自分の意志を源氏に示したことになる。  御息所が自我をはっきり持っていることは、憑霊現象を意識しない自己分裂の中で行動に移している点でも説明出来るけれども、外側からの描写に頼るだけでも、  野の宮の御移ろひの程にも、〔御息所が〕|をかしう今めきたること多くしなして《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、「殿上人どもの、好ましきなどは、朝夕の露分けありくを、その頃の役になむする」など、聞き給ひても、大将の君(源氏)は、「理《ことわり》ぞかし、故《ゆゑ》|は飽くまでつき給へるもの《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》を、もし世の中に飽き果てて下り給ひなば、さうざうしくもあるべきかな」、とさすがにおぼされけり。(「葵」)  なほ、かの六条の古宮を、いとよく修理《すり》しつつ、繕ひたりければ、みやびかにて住み給ひけり。〔御息所が〕|よしづき給へること《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|ふりがたくて《ヽヽヽヽヽヽ》、|よき女房など多く《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|好いたる人の集ひどころにて《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、物寂しきやうなれど、心やれるさまにて、経給ふほどに……(「澪標《みおつくし》」)  などとあって、御息所自身の趣味教養がサロンの女主人公として、群をぬいていることを語っている。実を言えば、この恋愛関係では、源氏は御息所をもてあましていたことになるのだが、御息所は、あり余る未練を自分からふり捨てて、伊勢へ行ってしまう。形の上では源氏が捨てられることになる逆な行為に自分を踏み切らせるのである。こうした驕《おご》りは他のどの女性も源氏に対してとりはしなかった。  藤壺については人柄への賛辞は至るところに述べられているが、日頃は、おいらかにやさしくばかり見えるこの人の内にすぐれた知識や深い教養が蔵《しま》われていることは、紅葉賀《もみじのが》の後に源氏の舞を見た藤壺の歌の返しに「青海波《せいがいは》」が唐楽であることを詠《よ》みこんであるのを見て、「既に后の品位を具えた言葉である」として源氏が感嘆するところや、落飾する時の法華八講の仏事の装飾その他を、  〔藤壺中宮が〕世になきさまに整へさせ給へり。  |さらぬことの清らだに《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|世の常ならずおはしませば《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、まして理《ことわり》なり。(「賢木」)  と述べているところなどに見られる。  この八講の最後の日に、藤壺は自らのことを結願《けちがん》として、出家することを仏前に誓うのである。  その前に、藤壺はこのわが身にとっての一大事を、源氏は元より兄の兵部卿《ひようぶきよう》の宮にも腹心の侍女にも語っていない。全くわが心一つに決めて、落飾の導師である僧侶《そうりよ》とのみ相談したものであろう。  この処置は、まことに水際立っていて、重い衣装と長い黒髪にまつわられて、身動き一つするにも人手を借りねばならないように見えた貴婦人が、突然|凜乎《りんこ》として立上ったような印象を受ける。  源氏はここでも、完全に藤壺にうち負かされるのである。しかしこの敗北感は、決して不快なものではなく、藤壺が源氏のうちで見上げられ、永遠の女性としての座を占めつづけるのに少しの支障も生じはしなかった。  唯、こうして二人の見上げる位置の女性から見捨てられた源氏が、最も現実的な朧月夜との濃厚な密会にわが身を賭けるようになって行くのは、極めて自然な推移と言わなければならない。  もう一つの面白い対象は、「澪標《みおつくし》」の巻で御息所が死に、「薄雲」の巻で藤壺が亡くなった後に「槿《あさがお》」の巻があって、朝顔の宮への源氏の片思いが、異様なほどに烈しくなって行く一時期のあることである。藤壺の身代りに紫の上を、御息所の代りにその娘の秋好中宮を置いてみても、前の二人の持っていた大きさや高さには見上げられないもの足りなさが、源氏にこの二人に亜《つ》ぐ位の高い恋人として、朝顔を期待させているように思われるのは私だけの偏見だろうか。   朝顔の斎院 「源氏物語」の巻名に古く見える「槿」の字は、後世の槿《むくげ》であって、江戸時代から民間に呼びならわされた朝顔とは違うようである。平安朝時代には桔梗《ききよう》でも槿でも、蔓草《つるくさ》の類でも朝咲く花をアサガオといったという説もあるが、私は、「夕顔」の巻の六条の御息所邸で、朝まだきに源氏が侍女の中将の君を朝顔の咲きまじる園の高欄《こうらん》に押し据えて詠む、   咲く花にうつるてふ名はつつめども      折らで過ぎ憂きけさの朝顔  や、「槿」の巻で、朝顔の斎院に贈る、   見しをりの露忘られぬ朝顔の      花のさかりは過ぎやしぬらむ  前《さき》の斎院返し、   秋果てて霧の籬《まがき》にむすぼほれ      あるかなきかにうつる朝顔  の贈答歌などから勝手に想像して、やっぱり、現在蔓草に咲く朝顔の花を連想せずにはいられない。  若い頃、源氏を読み出したころ、私にとって最も不思議な女性はこの朝顔の斎院であった。朝顔は式部卿の宮の姫、即ち源氏の父桐壺帝の弟宮の王女であるから、源氏とは従妹に当り、結婚相手にも、充分数えられる身分の姫である。 「源氏物語」には高貴な女性ほど、源氏とのはじめの交渉について書かれていないのが例であるが、朝顔が物語の中にその名をあらわすのは、「帚木《ははきぎ》」の巻の後段、紀伊《き》の守《かみ》の中川邸に源氏が方違《かたたが》えに来た夜、空蝉の侍女たちが、彼の噂をしあっている中に、  式部卿の宮の姫君に、朝顔たてまつり給ひし歌などを、すこし頬ゆがめて語るも聞ゆ……  とあるのが最初である。当時若い色好みな青年の源氏が自分と同じ年ごろの桃園《ももぞの》式部卿の姫へ恋文を送るのは不思議ではないが、前述の「槿」の巻の「見しをりの露忘られぬ」の歌に朝顔自身強い反駁《はんばく》は加えていないところに、若い日の源氏と朝顔の間にいくらか立入った関係があったようにも憶測される。もっとも、「賢木」の巻で、加茂の斎院である時の朝顔に、源氏が、   かけまくはかしこけれども|そのかみの《ヽヽヽヽヽ》      |秋思ほゆる木綿襷かな《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》 「|昔を今に《ヽヽヽヽ》」と詠みかけるのに対して、朝顔は、   そのかみやいかがはありし木綿襷《ゆふだすき》      心にかけてしのぶらむゆゑ  と袖をはらうように言ってのけている。しかしこれは見方によれば、当時の朝顔の現斎院としての重い身柄をわきまえてのことともとれるので、若い源氏と若い朝顔との間に、恋愛というには淡々《あわあわ》しいとしても何かの交渉があったと見てもよいのではあるまいか。源氏は、政治的な意味に於《お》いて早く左大臣の婿に定められるが、その前に、藤壺という生涯の恋人をおもかげに抱いている。藤壺に対する果せないあくがれが正妻以外の女へ向いて行くのは当然であり、その場合、結婚の相手としても当然世評に上ったに違いないいとこ同士の朝顔への思慕が浮んで来ない筈はないのである。  朝顔は源氏の求愛を受入れていない。仮にもののまぎれに姿を垣間みられるようなことがあったとしても、それ以上には源氏を自分の内にひき入れようとはしなかった。葵祭の当日にも、勅使として、まばゆいほど美しく装った源氏の馬上の姿を桟敷から見て朝顔は、彼の自分によせる好意に快さを覚えるが、彼をめぐる女の一人となろうとは思わない。源氏もそうした朝顔の気位の高く、つつましい人柄を一種の女友達という風に感じて、葵の上の死後にも慰めを求める文を送り、朝顔もそれにふさわしい返事をしている。こういう風にある隔たりを置きながら折々あわれを語りあわす女友達としてこの方が必要なのだと源氏が思ったりするのは、朝顔という人柄をやっぱり、藤壺や六条の御息所に亜ぐ位高い恋人の一人に数えていることだと思う。  その結果がはっきり物語の上に出て来るのが、「槿」の巻であると思う。  私は若い頃に、この件《くだり》でどうして中年近くなった源氏が気でも狂ったように年たけた朝顔の宮に執心してその邸へ通い詰め、紫の上にまで不安な思いをさせるのか、そうして又、その情熱が、雪の降ったあとの夜の紫の上を相手の貴婦人たちに対する批評のあとで、ふっととだえてしまうのかがわからず、いかにも不思議に思われたものであった。しかし、この頃になって読み直してみると、ここに、朝顔の宮を、源氏がもの狂おしいほどの恋心で追い求めるのは、朝顔それ自身というよりも、当時としては朝顔だけに残されている「気品」とか「位」とかいうものに、源氏の恋人に求める、見上げる眼が自然に集まって行った結果に外ならないと思う。この巻の前の「薄雲」の巻で源氏はかけがえのない永遠の恋人藤壺を失っているし、その前に怖れと愛の混淆《こんこう》によって、どの女性よりも強い影響力を生涯を通じて与え通した六条の御息所の死にあっている。この二人の大女性に較べると、源氏は自分を撓《たわ》めたり、おし沈めたりするような力のある高貴な恋人を知らず、そのことが知らず知らず自分と同じぐらいか、あるいは年上かも知れない朝顔の宮に向っての切な求愛、結婚にさえ及びかねない情熱に変って行くのである。  朝顔はしかし、源氏の時外れの情熱によって、決して形を崩そうとしなかった。そうしてこの情熱を中断させたものは、紫の上への愛やあわれみではなくて、源氏の内に生きている亡き藤壺の強い抗議の声であったと私は解釈する。藤壺は夢の中で自分との秘事を忘れている源氏を許さない意志をはっきり示すのである。   源氏物語の端場《はば》  他の語り物のことは知らないけれども義太夫の段物を語るのには、「口《くち》」、「奥《おく》」などの用語と一緒に「端場」という言葉があるらしい。「仮名手本忠臣蔵」でも、三段目の刃傷《にんじよう》の前の所謂《いわゆる》進物場(桃井若狭助の家老本蔵が賄賂《まいない》を持って高師直《こうのもろなお》の駕籠脇《かごわき》へ行き、師直の家来の伴内を買収して主人の危急を救う件《くだり》)とか、「伊賀越道中|双六《すごろく》」の沼津の段で十兵衛がお米を見染める場面などがそれに当るであろう。つまり、義太夫の場合で言えば、その次に、一段の骨子となる劇のクライマックスが来る前とか、そういう緊張した場面の間とかに客の心を解きほごす軽味のある場面が必要なので、劇の主人公などもこういう場面には余り登場しなかったり、或いは登場しても端場に相応した軽味のある語り口なり演技(歌舞伎の場合)を要求されるように出来ている。  ところで、私はこの頃、「源氏物語」を訳していると、貴族生活を主として描写している物語の間を縫って、数多くではないけれども、この浄瑠璃《じようるり》の端場に類する場面が、ちょいちょい顔を出して来るのに気づいて、面白いと思っている。そうして、又、その端場に登場して来る人物は、能と狂言の違いのように、階級から言うと庶民に近い男女(或いは庶民的な感情の持主)が多く、実生活の喜怒哀楽を露《あらわ》に出すことでユーモアとペーソスが適当に味つけされている。それほど粗野ではないけれども、明らかに「今昔物語」の世界と全く無縁とは言えないものであるが、こうした端場がそれ自身として独立しているのでなく、必ず、といっていいほど主人公の光源氏の眼に映る姿として捕えられているところに私は新たな興味をそそられた。  今、ちょっと眼についただけのそうした場面を「桐壺」から「須磨」の巻あたりまでで拾って見ただけでも、まず「空蝉」の巻で源氏が軒端《のきば》の荻《おぎ》に逢って後、小君とその家を忍び出ようとする時、渡殿《わたどの》の口に忍んで立っていると、老いた女房が源氏を背の高い若女房と間違えて話しかけて来るところがある。源氏が黙っているのでその老女はさしよって、 「あなたは今夜、奥さまのお伽《と》ぎだったの……私は一昨日からお腹《なか》を悪くして、苦しいから下っていたのに人が少ないからと呼ばれて昨夜お勤めに出たけれど、もうとても我慢出来なくて」とぶつぶついって、「ああ、痛! 痛! 後で又」と言いながら行ってしまうという件など、正に源氏的みやびの世界ではない。  次には有名な、夕顔の宿の八月十五日の満月の夜、源氏が女と共にあやしげな板屋の閨《ねや》にいると、隣が近いので、暁近くなるころには、早、あたりの者が眼をさまして、 「ああ寒いことだ。今年は家業《あきない》もうまく行かなそうで、田舎の行商もまるで駄目なので全く心ぼそい。北隣さんや、お聞きかい」などと愚痴をこぼしながら、暮しのために起き出してがたぴし音をさせ歩いている。  このあとに源氏は夕顔を愛す余りに車に載せて某《なにがし》の院まで連出し、とうとうそこで枉死《おうし》されてしまう悲しみに見舞われるのであるが、その凄艶《せいえん》なドラマの前に五条の町屋の「おのがじしの」生活に営々としている庶民の声を源氏の耳に聞かせているのは、端場を単なる端場として見ていない作者の用意であろう。  第三の端場は、「末摘花」の巻に見られる。常陸《ひたち》の宮の荒れた御殿に、古風一点張の姫君に仕えている女房たちは、衣食住ともに時代後れの万事ひもじい生活をしている。その有様を、通って行った源氏が、そっとのぞいてみると、四五人、女房がいて、御前から下って来た食器などは唐土《もろこし》渡来の由緒つき品であるけれども古びて碌《ろく》に食べるものもないのに、それを皆して食べあさっている。白い着物は煤《すす》けてうす黒くなっているし、上裳《うわも》もきたないのに、御所の女官のように櫛《くし》だけは額にさしたりして、古めかしい慣例だけが残っていて現実にそぐわない様子が滑稽に見える。「何て寒い年でしょうね。こんなみじめな世の中もみるものですかね」と泣くのもあり、「亡き宮さまのいらしった頃をどうして、あれでも辛いなどと思ったのかしら」などといいあいながら、鳥の飛び立つばかりに身ぶるいしているのである。  今様のきらびやかに飾られた人や物に囲まれてばかりいる若い源氏は、そういう滑稽な、同時にあわれでもある世に忘れられた古人《ふるびと》たちの姿を見まもっている。  その次に面白いのは、その夜、末摘花のもとに泊って、雪の光に姫君の赤い鼻を見つけてがっかりさせられたあと、さて帰ろうとすると源氏が外へ出るべき門は開かないので、鍵《かぎ》の管理人をたずねると、ひどく年よった老人が出て来た。そうして|その娘なのか《ヽヽヽヽヽヽ》、|孫なのか《ヽヽヽヽ》(多分妻なのではあるまいか)どちらつかずの大きな女が着物は雪に照らされて煤けかえって見えるのに、寒いと思う様子で、|何やら妙なものに火をほんの少し入れて袖に包んで持っている《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。爺さんはがたぴしやってもなかなか開かないので、その女も傍へよって助《す》けているが甚《はなは》だ無器用である。  私は多くの端場のうちで、この雪の朝の常陸の宮邸の門守《かどもり》の翁《おきな》と何やら関係のわからない女の出て来るところの描写が、実にいきいきしていて、気に入っている。同時に、こういうところの筆つきには、女くさい匂いは全く感じられないのも否めない事実である。   源|典侍《ないしのすけ》考 「源氏物語」の多くの女達の中で、源の典侍という桐壺帝づきの女官は、年も五十七八と、明示してある上に、容貌なども、  扇を顔にかざして見かえった眼は大そう瞼《まぶた》がたるんでひきのびて見えるが、黒ずみ、落ち窪《くぼ》んでいて、扇からはずれたところの髪の毛はそそけてけば立っている。  と細かく記している。しかし、男との噂《うわさ》の絶えない色好みの老女で、末摘花とは異った意味で異色のある存在である。  源の典侍が物語の中に顔を出し、ちょっとした主役を勤めるのは「紅葉賀《もみじのが》」の巻であるが、その後にも、「葵《あおい》」の巻と、「槿《あさがお》」の巻にも、稍《やや》、唐突な感じでちらりと顔をのぞかせる。  そのことについては別に述べるとして、この有名な色好みの老女官の人柄を作者は次のように説明している。  その頃御所に大そう年とった典侍があった。素姓も立派なもので、才気もあり上品で結構尊敬されていながら、唯一方ならず浮気な気質で、身持ちの方のことでは兎角に噂が絶えず、こんなに年のゆくまでどうしてそうも色めかしいのかと、源氏の君も不審に思われたので、冗談を言いかけてごらんになると、典侍は一向不似合と思っている様子もないのだった。  この老典侍と二十歳未満の源氏は情交を結び、又、それに刺激されて、源氏をライバルとしている頭《とう》の中将《ちゆうじよう》も典侍と関係する。典侍は源氏の方をより多く愛しているが、兎角逃げられることの多い心慰めに頭の中将とも情を通じているし、まだ他にも別の情人もありそうである。夕立の過ぎたあとの涼しい宵、源氏は内裏《だいり》内の温明殿《うんめいでん》のあたりをそぞろ歩いていて、そこに琵琶《びわ》を弾いている源の典侍の影を見出す。典侍は帝の御前での男たちの合奏にも交って琵琶を弾じるほどの名手なので、その爪音《つまおと》は時にとって一入《ひとしお》興深く源氏の心に響く。典侍は弾きながら節面白く歌をうたっているが、やがてそれもやめてもの思い乱れている様子なので、源氏も情緒をかき立てられて、自分も催馬楽《さいばら》を誦《くちずさ》みながら近よると、典侍もそれに応えて、和歌を取りやりしたりして、結局その場で一つ寝する。この様子を立ち聞きしていた頭の中将がからかってやろうと、暗い中から誰とも知られぬ体《てい》にもてなして、怒った様子でおどしにかかる。太刀をぬいて足ぶみするので、流石《さすが》にこうした場合に慣れている筈の典侍も仰天して、源氏を庇《かば》いながら、「御勘弁、御勘弁」と手を合わせる。源氏はその間に、脅しの相手が頭の中将だと見破って、二人とも冗談半分にからみ合い、とうとう帯をとられたり、直衣《のうし》の袖をちぎられたりしながら、大変な恰好で二人とも帰って来る。翌日になって、清涼殿の詰所で公用を捌《さば》きながら、真面目な顔を見合せて二人の貴公子は苦笑の目を見交わすというのがこの風流|滑稽譚《こつけいたん》の終りである。  源の典侍が「伊勢物語」のつくも髪から尾を引いた老女の好色物語の一例であり、こういう種類の話も一つは取入れるということには、前に述べた「源氏物語」に於ける端場意識の現われもあるかも知れない。  しかし、それにしても、「紅葉賀」の終り近くに、源の典侍の好色物語が挿入されていることに、何となく違和感を感じさせられるのは、私ひとりの偏見だろうか。  つまり、私がそういうことを考えるほど、「紅葉賀」という巻は、それまで受け身にばかり見えていた藤壺の宮の源氏に対する恋愛感情が彼との密通の結果としての懐胎がだんだん月を重ねて行き、終《つい》にこの秘密の恋の結果が世にも美しい王子として誕生するに至っては母として成長して行く心身と共に女としても|応えるもの《ヽヽヽヽヽ》を多く持つようになる過程で、藤壺の心の抑制が厳しくなるだけにその下からこぼれ出す濃やかな情緒もより人間的な振幅を大きくして、それだけ源氏の煩悶《はんもん》や憧憬をも強くおし揺らがさずにはいない。  まず、初めの部分の紅葉賀の試楽《しがく》に源氏が「青海波《せいがいは》」を舞い、その美しさに満場の参列者を魅了して、アンチ源氏の総帥である弘徽殿《こきでん》の女御《にようご》をして、  神など空《そら》にめでつべき容姿《かたち》かな。うたてゆゆし  とまで感嘆の交った呪詛《じゆそ》を口ばしらせたほどのはなばなしい成功の後に、藤壺は源氏からの切々とした思いを訴える歌を受取って、  眼もあやなりし御様《おんさま》容貌《かたち》に〔藤壺が〕|見給ひ忍ばれずやありけむ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》   唐人《からひと》の袖ふることは遠けれど      立居につけてあはれとは見き   大方には  と答えている。この「大方」にはいろいろな解釈があるようであるが、私は、「あなたの舞姿を並み一通りの気持ちでは眺められませんでした」の意に解している。こういう積極的な恋の表現は次の「花宴《はなのえん》」の巻でやっぱり源氏の舞を見たあとの、   おほかたに花のすがたを見ましかば      つゆも心の置かれましやは  の独りごとと共に藤壺の場合には珍しい。そうしてそれは、源氏との縁が密《みそ》か子《ご》によって切れないものであることを伴った嘆きと喜びであり、源氏の側からは永遠に満たされない憧憬の深まって行くことなのである。この二人の主要人物の恋愛感情の深まって行くところに、ひょっこり、源の典侍の風流滑稽譚が挿《さしはさ》まれる。これは、間狂言《あいきようげん》として必要なのだろうか、それとも、男というものが、あらゆる場合に持っている息苦しい緊張感をゆるめるための無意識の機智をこの挿話で物語っているのだろうか。私には疑問が残る。   「われながらかたじけなし」の思想 「源氏物語」の中で「須磨」という巻は、主人公の光源氏が、流謫《るたく》に等しい落魄《らくはく》の生活を送る劇的な設定の上に成立っている一時期を扱っているだけに、古来、最も愛誦《あいしよう》されたところらしく、源氏が秋の夜半のねざめに秋風の音をきく件《くだり》の、  ひとり目をさまして、枕をそばだてて、四方《よも》の嵐を聞き給ふに、波ただここもとに立ち来る心地して、涙落つとも覚えぬに枕浮くばかりになりにけり。  と歌いあげた文章は通俗化されるほど、「源氏」中の名文にされている。紫式部が上東門院の命を承《う》けて石山寺に籠《こも》り、秋夜、湖水に映る月影をみて「須磨」の巻の想を得てこの物語を書きはじめたなどという伝説も、恐らくは、このあたりの文章への感動が先にあって、生れたものであろう。  帝の皇子として生れ、稀有《けう》の美貌と才能に恵まれた一代の驕児《きようじ》が、位官を剥奪《はくだつ》され、危うく遠流《おんる》にも及びそうな危機を、自ら退去という形で辛《から》くも食いとめて、隠棲《いんせい》し謹慎して暮す須磨の日々であってみれば、それは、世の栄誉からも、相愛の美姫《びき》たちからも、縁を絶った、まことに侘《わび》しい明け暮れであらねばならない。  源氏はここへ来るのに生活を出来る限り簡素化し、数人の心を許した近臣のみを伴っただけで、侍女をさえ召しつれていない。都や伊勢の愛人たちとの間に文のやりとりこそつづいているが、源氏の恋愛遍歴史の中で、女気の全くない実生活は須磨での丸一年間だけである。唯一度筑紫から上京してきた情人|五節《ごせち》の君が舟から文をよこすのに答えるのが最も間近な女との交渉にすぎない。  この須磨の生活の最後は三月|上巳《じようし》の日に海面《うなづら》で祓《はら》いをした時、俄然《がぜん》突風が起り風雨に雷鳴さえ加わって、閉居に逃げ込んだ後も、この不時の暴風雨は、数日つづいて止《や》まず、果ては源氏の住む家の廊に落雷し、そのあたりが燃えて彼自身も台所のような場所に避難しなければならないような最悪の状態にまで運ばれて行く。この災難の果てに源氏は夢に父帝を見、明石入道の迎えをうけて明石へ舟出することになるのであるが、自殺、火事(宇治を除く)、その他不時の天災、事故という事柄を殆ど語っていないこの物語の中で、須磨の海辺の暴風雨が異常に長く源氏を苛《さいな》むさまは、漠然と前掲の名文を朗誦した時とは違う凄《すさ》まじい残酷な印象で新たに私のうちに残った。ここで作者が一度源氏をうちのめしている感じが強いのである。勿論《もちろん》、突風も迅雷も、それにつづく烈しい風雨や火災が思うさまに暴威を揮《ふる》うのも、須磨という海辺の出来事であるだけに、一向不可思議な事実ではないが、春の好日に海面に向って源氏が祓いをし、   八百《やほ》よろづ神もあはれと思ふらむ      犯せる罪のそれとなければ  と歌い出でた瞬間、今までうららかだった海面に俄《にわ》かに風が立ち舞って空が曇ったと記してあるところに、その他には何一つ批判がましいことは書かれていないに拘《かかわ》らず、私は、源氏に対して厳しくなっている作者を感じないではいられない。  この時の衝撃は源氏のうちに深い畏怖《いふ》と生きる力になって終までも残って行くが、このことばかりでなく、須磨(明石をも含む)の生活を経て後の源氏には、その前の彼よりも、他人を見るのに、表と裏を見通して、猶《なお》、表を表として見て行けるような心のゆとりと、濃《こま》やかさが添って来ていることは争えない事実である。  須磨の時代には、源氏を訪問したり、詩歌の贈答をしあったりすることさえ、時の権力者から忌まれ、自分自身の地位を危うくすることであった。そうした逆境の彼を、自己保存の本能さえ冒しておとずれるものはまことに稀《まれ》であった。源氏は寒い冬の夜、自分とは段違いの技術しか持たぬ近臣を相手に管絃まがいの合奏をしたり、ひとり絵日記をかいたりして僅かに心を慰めている。その間に彼は、山に柴を刈ったり浜で魚をとる庶民の生活を見、都の生活では直接口をきくこともない下人の話をもきく時がある。  親友の頭の中将(当時宰相)が訪問して来たときにも、  海人《あま》どもあさりして貝つもの持て参れるを召し出でて御覧ず。浦に年ふるさまなど問はせ給ふに、さまざま安げなき身の憂へを申す。「|そこはかとなく囀るも心の行方は同じことなるかな《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」とあはれに見給ふ。  と見えている。  ところで私は「須磨」「明石」を口語訳していて、訳しにくくもあり、心持の上でも素直について行けない言葉に二カ所ぶつかった。  一つは紫の上を迎えるには余りに田舎びた土地だと思い返すあとで、  見給へ知らぬ下人の上をも、見給ひ馴らはぬ御心地にめざましう、|かたじけなく《ヽヽヽヽヽヽ》、|身づからおぼさる《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》。  の一段であり、二は「明石」のはじめのところで風雨の中を京から紫の上の使いの下人が辿《たど》りついたとき、人か何かと怪しまれるほどの汚れた姿で、  まづ追ひ払ひつべき賤《しづ》の男《を》のむつましう、あはれにおぼさるるも、|われながらかたじけなく《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、屈しにける心のほど思ひ知らる。  の箇所である。  一応は二つとも、「われながら、勿体《もつたい》ない」とか「情けない」とか言えばすむことであるが、この言葉のうちに含まれている源氏自身の帝王の子であるという誇りと、「海人《あま》の囀《さへず》り」というような表現によって、全く庶民の言語、動作のすべてを、自分と隔絶した場所に置いている感覚は見過されない。そうして又、そういう帝王の子である源氏が、自然の暴威のもとには高い矜持《きようじ》も脆《もろ》くふみ破られてしまうし、「追ひ払ひつべき賤の男」の話もなつかしく聞かねばならないことになるのである。須磨明石から帰京後の源氏に前掲のような性格の進展のあるのは当然であろう。  作者は「須磨」の巻で、単に流謫の悲劇の主人公に源氏を仕立てただけでなく、この、最愛のヒーローを自然の力を借りて最も惨酷にうちのめすことによって、より振幅の大きい魅力ある男性に育てて行く努力をしているようである。   頭中将《とうのちゆうじよう》考 「源氏物語」の中には空蝉《うつせみ》や夕顔のように巻名になっているもののほかにも「朧月夜《おぼろづきよ》の尚侍《ないしのかみ》」とか、「秋好《あきこのむ》中宮」とか「落葉の宮」などというように、物語の中のその部分を読まなければわからないような名が便宜上の通称となっているものが可成りある。あの有名な朧月夜にしても、本文では唯、「かの有明《ありあけ》」とか「院の尚侍」「かんの君」などという呼び方をしていて「朧月夜の尚侍」などといっているところは一カ所もない。 「秋好中宮」にしても、源氏がこの女御にほのかな恋心を抱いたまま春秋の優劣について話し込み、問いかけた時に、女御が、  そんな難かしいことは私にはわかりませんけれども母|御息所《みやすどころ》のはかなくなられた秋の夕ぐれが私には一入《ひとしお》あわれ深く思われます。  と答えて、そのなつかしい答え方に一層源氏は情緒をかきたてられる。それ以来この中宮は、六条の院での御殿も秋の紅葉を主にして紫の上の春と終始対比させているが、「秋好中宮」という言葉は、後人の通称である。「落葉の宮」に至っては朱雀院《すざくいん》の第二内親王であるにかかわらず、父の院が妹の女三の宮ばかりを愛したために、求婚者から軽んじられ、表面降嫁の形で結婚した。夫からも心からは愛されず、   もろ|鬘《かづら》|落葉を何にひろひけむ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》      名は睦《むつ》まじきかざしなれども  と溜息《ためいき》を吐《つ》かせている。そのひとりごとの歌の「落葉」が、そのままこの女二の宮の通称になったのである。  こうした例は数えれば切りがないが、これは、つまり「源氏物語」という書物が後世に行くほど熱心な愛読者、研究者を多く持ったために、あれだけの長い時代に渉《わた》り、四百数十人とかの人物が登場するというのに、はっきりした名で呼ばれているのは、侍臣(惟光《これみつ》)とか侍女(侍従、右近)とかいうあの物語の中としては身分の低い人物だけであって、あとの主要人物は、男は殆ど官位、女は、父や夫に付随した家名に従って、区別されるだけであるから、講義をして行く上でも、質疑応答する場合でも、いや独りで修得しようとするにさえ、大変不便であったに違いない。  そこで、先に書いたように本文から敷衍《ふえん》した通称が女の方にも出来たし、男にも、これから私が語りたいと思う頭の中将という官名は、「源氏物語」の注釈ではこの一人の人物に集中されて、実際には数十年の間に、頭の中将、即ち蔵人《くろうど》の頭《とう》であり、近衛の中将である若い貴族は何人かある筈なのであるが、太閤《たいこう》さんと言えば秀吉の異名で通るように、源氏で「頭中」と言えば、別の誰をも想像するものはない。  実際には、頭の中将は、光源氏と従兄弟関係の藤氏の嫡々、左大臣家の長男として、第一巻「桐壺」の巻に既に登場して来る。この時はまだ蔵人の少将であるが、器量すぐれた公達《きんだち》なので仲の悪い右大臣家でも、他家にとられるのは惜しく四番目の姫君の婿にした。しかし、頭中が本妻を気に入らないことは、光源氏が頭中の妹の北の方|葵《あおい》の上《うえ》を好かないのと似たものである。  源氏は、帝王の皇子というこの上ない誇りを持ち、美貌才能あらゆる点で匹敵するもののない天才として描かれている。しかし頭中はこの天才の源氏に常に、負《ひ》けをとるまいという競争心を持ち、それが滑稽に見えない程度にすべてに於《お》いてすぐれてもいるし、努力もする男なのである。  物語の上で、源氏は常にシテであり、頭中は常にワキにまわらざるを得ない。時には苦々しい惨敗を味わうこともあるが頭中はそれにめげる男でもないし、卑屈にかがみ込む性質でもない。作者は源氏に対して、眼のないほどの愛情を惜しみなくふりこぼすのに較べて、頭中に対しては、時に源氏の引立て役として程々に扱い、時には、半分|敵役《かたきやく》じみた意地わるさに突きはなしながら、主に物語の中のリアルな面をこの人物によって表現しているように見える。しかしその一つの目的で結構読者を満足させながら、一面、彼が大きな物語の流れの中では、結局違和感を与えるものでないことも事実である。  頭中は光源氏に比して、遥《はる》かにあの時代の現実の貴族政治家に近い面を持っていながら、実際には物語の次元を少しも乱していない。私は、頭中の「源氏」正篇《せいへん》に於いての副人物としての役割に可成り深い興味を動かされるので、少し精《くわ》しく後の物語に現われて来る箇所について書いて見ようと思う。  光源氏という絶対者に対して、頭中がライバルの意識を持つ第一の条件は、母が帝の妹|即《すなわ》ち内親王であるということ、父も国家の柱石として帝が頼みとして愛子光源氏の後見を委《ゆだ》ねたほどの権力者だということであろう。つまり権門の子弟の内の彼は第一の秀才であり、恐らく光源氏のような存在がなかったならば、容貌においても、学才や音楽舞技あらゆる貴族としての資格においても、第一を誇れると自認していたであろう。「帚木《ははきぎ》」の巻で、  頭の中将は源氏の君と誰よりも親しんで、音楽や遊技をも人よりなれなれしくなさっていた。御自分の御邸でも御部屋飾りなど輝くばかりにして、君が出入りなさるにもつれ立って、夜昼、学問も、音楽なども、御一緒になさって、|いっかな負けをとらず《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、何処《どこ》でも離れずいられるうちには自然に窮屈な隔てもなくなり、かくしごとも話しあって、睦まじくしていられた。  とあって、例の雨夜の品定めにも、源氏はむしろ陪聴《ばいちよう》側にまわり頭中は当の聴き役で、女の品定めが始まるのである。 「帚木」の巻の雨夜の品定めの件《くだり》で、頭の中将は女通の左馬《さま》の頭《かみ》の話の熱心な聴き役で、説法でも承るように気を入れていると書かれているが、それだけかというと決してそうではなく、この夜の問わず語りの中に、後に源氏が五条の宿でみそめて青春の情熱を傾けつくす夕顔の以前のパトロンであり、二人の間には女の子まであったのに、本妻の嫉妬《しつと》に怖《お》じて、夕顔の方で姿をくらましてしまった事実が物語られる。夕顔の敢えない死の後にも、源氏はついにこの女のことを頭の中将に語らないが、十数年の後に遺児の玉鬘《たまかずら》をみつけ出して自分の養女にし、後に実父に対面させるという実《み》のある後話が残されるのである。  若い頃の頭の中将は、何ごとによらず源氏に負《ひ》けをとるまいと学問にも技芸の面にも精進し、源氏はそれを軽く|いなし《ヽヽヽ》ながら、さりとて侮れる相手でないことも知っている。  例えば末摘花《すえつむはな》の住む常陸《ひたち》の宮に源氏が眼をつけて通い出すと、頭の中将もそっと後をつけて、忍び歩きを見あらわされることになり、頭の中将自身も負けずこの姫に文を通わすし、又、前に述べた老女官源の典侍を仲にしての浮気沙汰では、正に両方とも肉体関係を結んでいて、最上流貴族にあるまじい騒ぎを三人で演じ、着物を引き裂くような始末にさえなる。しかし、こういう乱暴な女出入りを遠慮なく源氏相手にやれるものは自分ひとりだというところにも、存外頭の中将の高い誇りは維持されているのである。 「紅葉賀」で源氏と二人「青海波」を舞ったとき、  片手には、大殿《おほいどの》の頭の中将、かたち、用意、人には異なるを、たち並びては、|花のかたはらの深山木なり《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。  と完全に源氏の絢爛《けんらん》な美貌の引立て役に扱われている。  次の「花宴《はなのえん》」になると、源氏はちょっとシテ方を譲った形で「春鶯囀《しゆんおうてん》」の末の方を一くさり舞って喝采《かつさい》を博すが、その後に、「頭の中将は何処にいる、遅いではないか」と帝の仰せをうけて、頭の中将は「柳花苑《りゆうかえん》」という舞を舞う。  これはすこしたっぷりと、かねてこんなこともあろうかと準備していたらしく、大そう面白いので、帝の御衣《おんぞ》を賜わり稀にみる面目を施した。  とある。ここには頭中の負けぬ気と努力主義の効果があらわれている。 「葵」の巻で、頭の中将の妹である源氏の正妻は死ぬが、舅《しゆうと》の左大臣及び頭の中将と源氏を結んでいる縁は解けない。  ここにはそもそもはじめからこの物語の物語性が仕組まれているので、第一に、権力者である左大臣がどれほど光源氏の美貌才能に惚《ほ》れこんだにしても、唯一人しかいない美人の娘を東宮妃に入内《じゆだい》させずに、天皇になる筈のない源氏の妻にするということは当時の現実の社会では考えられないことであるし、たとえ、葵の上が長生きしたとしても、桐壺の帝が亡くなれば、政権は、政敵の弘徽殿の女御《にようご》の父右大臣へ移って行くのは当然すぎることなのである。  普通だったら、父の左大臣を仮にそういう政権欲のない人柄としても、二代目の頭の中将、源氏の親友であると同時にライバルでもある頭の中将は、同時に次代の権力者右大臣の娘の婿でもあるのだから、当然この時期に自己の政治的な位置を拡張するために活動すべきであるのに、作中の頭の中将は、この時代に於いてひどく硬骨漢で、右大臣の一族が宮廷を専有する中に、  〔頭の中将が〕かの四の君をも、なほ、かれがれにうち通ひつつ、めざましう(人もなげに侮って)もてなされたれば、心とけたる御婿の中にもいれ給はず、「思ひ知れ」とにや、このたびの司召《つかさめし》(任官)にも漏れぬれど、いとしも思ひ入れず。大将殿(源氏)、かう静かにておはするに、世は、はかなき物と見えぬるを、「まして〔自分など〕ことわり」と、おぼしなして  とあって、源氏の邸へ来たりこちらへも招いたりして、世をすねたように遊び戯れている。公の務めをなおざりにしてまで、韻塞《いんふた》ぎだ、詩作だと会を催しているのを世間では怪《け》しからぬことのように言い出すというのであるが、そのうちに源氏の方には例の朧月夜の尚侍との密通事件が露見したりして、いよいよ、政治的な失脚が歴然として来る。  そうして、源氏が公然流謫の汚名を着ないうちに、われから須磨へ退去して、自分を隠遁《いんとん》生活に送りこんで、謀叛云々《むほんうんぬん》の穏やかならぬ取沙汰は、一応解消するのだが、須磨に住むようになってからの無位無官の源氏にも、都から訪れる知友があると、反対勢力は彼らに対して眼を光らせるので、わが身の危うさ恐ろしさにおびえて、問い音ずれるものとてもない。  そういう情勢の中で頭の中将は、当時|三位《さんみ》の中将に昇進して、世間からも人物を買われているが、  〔源氏の君のあらぬ〕世の中、いとあはれにあぢきなく、ものの折ごとに〔源氏を〕こひしう思《おぼ》え給へば、「事のきこえありて、|罪にあたるとも《ヽヽヽヽヽヽヽ》、|いかがはせむ《ヽヽヽヽヽヽ》」と、おぼしなして、にはかに〔須磨に〕まうで給ふ……  謫居《たつきよ》中の源氏は久しぶりに語り甲斐《がい》のある友を得て、心から喜び迎えて、海辺の侘《わび》住居《ずまい》に一夜を詩を作り、楽器を玩《もてあそ》んで泣きつ笑いつ、情懐をつくす。  そうして、その翌日、頭の中将は、又急いで都へ帰って行くのであるが、この部分の交歓の場面では、頭の中将は曽《かつ》て立ち並ぶもののない誇りに輝いていた源氏の落魄《らくはく》した姿を憐《あわ》れむというような意地悪さではなく、むしろ、昔、源氏が花やいでいた時に負けまいと競いあった情感の濃さ、強さが、時代に対して小さな抵抗を試みる意地になって、力強く押し出されて来ている。つまり一口に言えば、王朝くさくない男の意地という言葉が「源氏物語」のここでだけ頭の中将を通して生きているのが面白い。  帝の代替りがあり、須磨から帰った源氏があらためて内大臣として権勢の座につくと、それと共に頭の中将の父の隠退した老大臣があらためて太政大臣となり、頭の中将は権中納言として、長女を祖父の猶子《ゆうし》として幼帝のもとに入内させる。第二次弘徽殿の女御がこれである。  普通の場合ならば、光源氏にはこの時、まだ娘が生れたばかりであるから、弘徽殿と拮抗《きつこう》する後宮の対立者はない筈であるが、源氏はここで、今まで深く親しんで来た左大臣家の思惑を無視して、六条の御息所の遺児、前《さき》の斎宮を、自分が後見して帝の女御に入内させることを、藤壺の宮との間の相談で取りきめ、実行してしまう。斎宮の女御は帝よりも十歳近く年上であるが、優雅に美しく、絵をよく描くことなどから、次第に帝の寵《ちよう》を得るようになり、絵合せの勝負にも源氏の後援のおかげで、結局斎宮方の勝ちになってしまう。  この頃から、後宮のいどみ合いを中にして、頭中は、源氏の所謂《いわゆる》「大人げない」振舞を見せるようになるが、公平な読者ならば、あれほど失意時代の源氏にも、裏切ることなく情を通わせた親友に対する仕向けとしては、源氏の秋好中宮への偏頗《へんぱ》なまでの肩入れは、むしろ批難されるべき自己拡張の行動とも言われるであろう。この政治的な敗北の鬱憤が、その後の「乙女」の巻では内大臣に昇進していた頭中の片意地になって、源氏の長男、夕霧と娘の雲居《くもい》の雁《かり》との幼い恋仲を無理にひき裂いてしまう悪役にまわることになる。  その後の頭中は、一向、悪役ぶりが栄えないで、雲居の雁は夕霧との汚名がたたって東宮へ入内させることも出来ず、源氏も夕霧も折れて出ないままに手持ち無沙汰に月日を送った上、とうとう自分の方から前非を悔いた形で夕霧を婿にとることで一段落つくのである。(「藤裏葉《ふじのうらば》」)  その間には夕顔と自分との間に出来た玉鬘を源氏に引きとられたり、落胤《らくいん》の近江《おうみ》の君という上流向きでない娘を呼びよせたりして世間から笑いを招くようなことにもなる。  しかし、政治家としての頭中は結構精勤して、太政大臣まですすみ、音楽や遊技についても、第一流の才能を持っている。「若菜下」の女楽の件《くだり》の夕霧の言葉に、  和琴《わごん》は、かの大臣《おとど》(頭中)ばかりこそ、かく、折につけて、こしらへなびかしたる音など、心にまかせて掻《か》き立て給へるは、いと、殊に物し給へ。  とあり、「若菜上」の蹴鞠《けまり》の場でも源氏が、  太政《おほき》大臣《おとど》(頭中)の、よろづの事に立ち並びて、勝負の定めし給ひし中に、鞠なん〔私は〕え及ばずなりにし。  と語るところがあって、蹴鞠の名手であったこともわかる。  しかし、その他のことで何につけても、どんなに努力しても、ついに打ち勝つことの出来なかった源氏に、頭中は、彼自身ゆめにもそれと知らず、……それどころか思いがけない悲愁に閉ざされなければならないその晩年に於いて、いみじくも光源氏に復讐《ふくしゆう》し得たのである。彼自身ではなく、彼の長男の柏木衛門《かしわぎえもん》の督《かみ》が、光源氏の正室であり、朱雀院の内親王である女三の宮を密《ひそ》かに犯し、宮は彼の子を妊《みごも》るという、源氏の生涯を通して、最も汚辱に満ち、誇りをふみにじられる衝撃を、彼はライバルとして曽て彼を凌《しの》ぎ得たことのなかった頭中の息子の青年から蒙《こうむ》らざるを得ない破目になるのである。  この秘事を知って以来の「若菜下」以後源氏の憎悪、嫉妬、煩悶、反省などは、「源氏物語」の作者が、これまで溺愛《できあい》して来た源氏自身を、突然高い断崖《きりぎし》から突き落すほどの迫力と残酷さをもって私には迫って来る。勿論、源氏をそれほど苛《いじ》めている作者は姦通者の柏木に対してはより容赦なく彼を責めたてて、結局死にまで逐い詰めてゆき、童女のような女三の宮さえ、源氏の表面何ごともないようでいて、二人きりの時の意地悪い冷たさにいたたまれないで落飾させてしまう。これだけの犠牲を払わせた後に、源氏は柏木の胤《たね》である薫《かおる》を自分の袖のうちに抱きとってしみじみとその顔をみつめ「五十八翁、正《まさ》に後有り、静かに思ひて喜びに堪へ亦嗟《またなげ》くに堪へたり」と白氏の詩句を表向き誦《よ》みながら、「汝《なんぢ》が父に似ること勿《なか》れ」というそれにつづく言葉には、若くして恋にあたら生命を果してしまった柏木を惜しむ思いをこめている。そうしてそのあとに、  〔柏木は〕親たち(頭中とその夫人)の「子だにあれかし」と、泣い給ふらんにも〔この子を〕え見せず、人知れず、はかなき形見ばかりをとどめおきて、さばかり思ひあがり、およずけたりし身を、心もて失ひつるよ。(「柏木」)  と柏木に対して哀憐《あいれん》の情をよせるのである。頭中のこの長男を失った嘆きは大変なもので、  御髭なども、とりつくろひ給はねば、しげりて、親の孝より、けに、やつれ給へり。(「柏木」)  と見えて、婿の夕霧の訪問に対して、綿々と子に先立たれた嘆きをくりかえしているところも、昔の圭角《かど》のあった性格の片端もなくくずおれている。頭中の登場するのはこの後夕霧が柏木の未亡人落葉の宮に懸想して娘の雲居の雁との夫婦仲が面白くなくなる件《くだり》が最後であって、「源氏」正篇の終った後には「故《ヽ》致仕《ちじ》の大殿」とその死が見えているにすぎない。  要するに、頭の中将という人物は「源氏物語」の中の重要なワキ役で、主に生活のリアリスチックな面を担当しているように見えながら、大きな物語の流れの中では、奔流にもならず、別の流れにもなれず、何げなく動き去って行く世界の中に一種の違和感を感じさせながら、それなりの諧調《かいちよう》を作っている。私が彼について長々と書きたかったのは、彼がどこまでも物語の中の人間であるということについてであった。   女にて見奉らまほし 「源氏物語」を口語訳していると、どちらにでもとれる言葉に出あって戸惑うことが度々である。先人の訳を見ても、意見としてはそれぞれに分れていても、全訳となれば、この言い方もあり、あの言い方もありでは文章にならないので、訳者自身の判断でその一つが選まれて、文脈が形づくられている。つまりそれを口訳者の解釈と見てよいわけであろう。 「帚木《ははきぎ》」の巻の雨夜の品定めと「紅葉賀《もみじのが》」「賢木《さかき》」にも見えている「|女にて《ヽヽヽ》見たてまつらまほし」の「女にて」の意味などにも、いろいろ学説は多くあるようであるが、私自身|未《いま》だにはっきりした結論を出すことが出来ないでいる。唯、感じとしては自分はこうだろうと思う方をとって、最後の定稿にするつもりだけれども、一番はじめ雨夜の品定めの件《くだり》では馬《うま》の頭《かみ》の女通の話を黙ってきいている源氏の姿を形容して、  白き御衣《おんぞ》どものなよよかなるに、直衣《なほし》ばかりをしどけなく着なし給ひて、紐《ひも》などもうち捨てて、添ひ臥《ふ》し給へる御|火影《ほかげ》、いとめでたく、|女にて見たてまつらまほし《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。  と見えている。  普通、「女にしても見まほしい」と形容で男の美貌をたたえる言葉は、江戸時代までつづいているから、この場合でも、この「女にて」をそういう風にとるのは極く自然で、一座のものが源氏のように世にも美しい女がいたら素晴らしいだろうと感じたことになる。しかし、もう一つのこの言葉のとり方には「女にて」の主格を光源氏にせず、対者自らに置きかえて、こんな素晴らしい美貌の男性を自分が仮に女の身であって、親しく見ることが出来たらどんなに烈しい恋心を燃やすであろうという一種の性の倒錯感を現わしているともとれるのである。私は、昔から自分勝手な読み方では、後者の自分が女になって源氏をみる方ばかりをつづけて来た。しかし、ある友人は、「源氏物語」の時代にはまだそうした男女の性の入れ代りのような綾《あや》の多い心理は、歌の世界などでも完全に現われて来ていないのではないかという。  私は和歌の方面のことはまことにくらいのだが、「万葉」には、勿論そういうドラマチックな要素はないし、「古今」以後の題詠とか歌合せとかに象徴される「寄[#レ]物述[#二]心緒[#一]」流の風流にしても、それが完全な性の転換になり了《おお》せ、劇的な効果を上げるのは「新古今」の時代になってからではないかと思う。その意味で、中世の能に新古今調が綴《つづ》れの錦《にしき》のように織込まれているのは、まことに当然すぎる結果である。そういう推理から行くと、「とりかへばや」などほどに頽廃《たいはい》していない源氏の時代には、「女にて見たてまつる」は素直に、女にしても見たい美貌、ととるべきかも知れないが、私の感性はどうもこの解釈に従いたくないのである。  第二の「女にて」の現われるのは「紅葉賀」の巻で、藤壺が懐妊中三条の宮に帰っているとき、源氏が訪問する。源氏は藤壺と密会したいのだが、相手はかたく拒んで逢おうとしない。  拠所《よんどころ》なく女房を相手に話していると、そこに藤壺の兄に当る兵部卿の宮が訪ねて来て、源氏と対面する。宮の風采は、 いと、よしあるさまして、色めかしうなよび給へるを、|女にて《ヽヽヽ》見むは、をかしかりぬべく  と源氏が眺めたと書かれ、又、宮の方でも、  〔源氏の〕御さまの、常よりことに懐《なつか》しう、うちとけ給へるを「いとめでたし」と見たてまつり給ひて、「むこに」などはおぼしよらで、「女にて見ばや」と、色めきたる御心には思ほす。  とある。  このはじめの方の、源氏が兵部卿の宮を「女にて見むは、をかしかりぬべく」というのは、宮の風流めいた容姿から推して、女から見たら、好もしい男に見えるであろうという風に私はとりたい。それというのが、この時源氏は藤壺に情熱を燃やしているが、兄の兵部卿は藤壺とは兄妹でも一向似ていないらしいので、その人にこの場合、女だったらという浮気心をそそられるのは不自然だと思うからである。  そうして、その反対に宮の方で源氏を「女にて見ばや」と色めいた心で思うという方は、この美しい人がこのまま女だったら唯はおかない、という風にもとれるのである。この場合はむしろ、後の方が素直な取り方かも知れない。  三番目の例は「賢木」の巻で、藤壺が、落飾する前に東宮《とうぐう》御所へ行き、わが子の東宮に対面するところで、  〔東宮が〕御歯の少し朽ちて、口の内黒みて、笑み給へる、かをり美しきは、|女にて《ヽヽヽ》見たてまつらまほしう、清らなり。  と見えていて、この部分は、母子の対面の場面であるから、童形《どうぎよう》の東宮の美しさが、女にしても見まほしいと素直によみとれるのであるが、前の二例、殊に、「帚木」の巻の光源氏を他の男たちから見ている眼には男の素顔でいいのか、女面《おんなめん》をかけていいかわからないで困るところがある。こういう箇所は、あながちこの「女にて」に限らず、他にもいく度も出て来てその度に壁に突き当るが、私は結局、自分の読み方を主にして文章を進めて行くことにしている。それが私自身の「源氏」から伝えられた言葉だと信じているので。   光源氏と初、中、後の恋 「源氏物語」には、光源氏の出生から晩年に及ぶまでが描かれているが、彼の恋愛巡礼の中で遭遇する多くの女たちの中で、青春期と、成年期と晩年と、いかにも年齢の差をはっきり意識させるのは、夕顔と玉鬘と女三の宮の三人についてである。  夕顔は周知のように源氏が六条の御息所の邸へ通う道に乳母の病気を見舞い、偶然その隣の垣に咲いている夕顔の白い花に興味を覚えたのが縁になって知合う女君である。頭の中将の忍び妻であったらしいという事実が少しあとでわかる程度で、どういう家の娘ともわからぬままに、通って行くようになり、間もなく源氏ほどの当代随一の貴公子が、この、得体の知れない、狐などの化けたのではないかと戯れにもいうような女に夢中になって、 「便《びん》なく、かろがろしきこと」とも〔源氏自身〕思《おぼ》しかへし侘《わ》びつつ、いとしばしば〔女の家へ〕おはします。かかる筋は、まめ人の乱るる折もあるを、〔源氏は〕いと、めやすくしづめ給ひて、人の咎《とが》め聞ゆべき振舞は、し給はざりつるを、|あやしきまで《ヽヽヽヽヽヽ》、「|今朝のほど《ヽヽヽヽヽ》、|昼間の隔ても《ヽヽヽヽヽヽ》、|おぼつかなく《ヽヽヽヽヽヽ》」など、おもひ煩はれ給へば、かつは、「|いともの狂ほしく《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、さまで、心とどむべき事のさまにもあらず」と、いみじく思ひさまし給ふ。  とあり、一方相手の夕顔の様子については、  人(女)のけはひ、いと、あさましくやはらかに、おほどきて、もの深く重き方はおくれて、ひたぶるに、若びたるものから、|世をまだ知らぬにもあらず《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。  つまり娘ではなく、男を知った女であることを記している。源氏はこの呆《あき》れるほどやわらかな、何処もここも花びらで出来ているような女の巧まない娼婦性の虜《とりこ》になって、一時の間も逢わないではいられないほどに恋いこがれ、ついには、二条の院へ連れて来てしまおうとまで思いつめる。  しかし、そんな思いきった行動に出ないうちに、たった一度の外遊びに連れ出した某《なにがし》の院で物《もの》の怪《け》に襲われて、夕顔は敢えなく死んでしまい、のぼりつめた恋の絶頂で源氏は添伏している女の急死に唯一人で立ちあうという、思いもかけない経験に出逢うのである。  夕顔の死後の源氏の傷心の烈しさは、東山の庵堂《あんどう》に遺骸を見ての帰り道、河原で馬から滑り落ちて、道ばたで死んでしまいそうだと狂おしく崩おれてしまうところや、その嘆きからひき起した病で一月近く寝こんでしまうのでも知られる。  源氏の生涯を支配する恋人は藤壺であるが、青春の一時《いつとき》を、最も青年らしい情熱で燃え上らせるのは夕顔との短い恋愛である。  源氏は三十を過ぎ、太政大臣に昇進する。六条の院を造って、主なる妻妾《さいしよう》たちのほかにも、曽てゆかりのあった女たちの寄るべのないものさえ引きとって世話をする大パトロンになっている。時代とすれば正に中年である。  この時代になって、青春の日、若い情熱を傾け、恋の飽満を味わわないうちに死の手にうばい去られてしまった夕顔の遺児玉鬘が筑紫から上京して来て、ゆくりなく、源氏の庇護《ひご》を受ける身となる。  玉鬘は、亡き夕顔と、源氏の友人頭の中将(内大臣)の間に生れた娘であるが、源氏がそのことを実父にかくして、玉鬘を自分の姫のように世間には知らせ、多くの貴公子たちが美しい玉鬘に求婚して来るのを、複雑な眼で眺めている。  玉鬘の容貌は、母の夕顔よりも立ち優《まさ》った美人で、父方の才気をも身につけている。  いとをかしき色あひ、面《つら》つきなり。ほほづきなどいふめるやうに、ふくらかにて、髪のかかれるひまひま、美しうおぼゆ。まみの、あまりわららかなるぞ、いとしも品高く見えざりける。…中略…昨日見し〔紫の上の〕御けはひには、け劣りたれど、見るに笑《ゑ》まるるさまは、たちも並びぬべく見ゆ。八重山吹の咲き乱れたる盛りに、露のかかれる夕映《ゆふばえ》ぞ、ふと、思ひいでらるる。(「野分《のわき》」)  これは野分の朝に屏風《びようぶ》や几帳《きちよう》など片よせあって、常よりもよく隙見される玉鬘の容貌を源氏の長男の夕霧が垣間《かいま》みた時の感想である。同じときに夕霧は、自分には異腹の姉であるときかされている玉鬘に対して、実父の筈の源氏が何とも不思議な馴れ寄り方を見せ、玉鬘もそれに靡《なび》くようなすねるような様子をみせているのを見て驚くことが記されている。娘といっても同じところに育たなかった人には、こんな男と女の間の恋仲に見られるような馴染《なじ》み方もあるものかと夕霧はうとましくなるのであるが、実は、源氏にとって玉鬘は、娘ではなく他人なのであり、養女として手もとに置いて、琴や和歌、手蹟《て》など教えているうちに、彼女自身がはじめよりも目立って立派なマイフエィア・レディに育って来、同時に、折々、忘れることのない青春の象徴のような母の夕顔の面影がふと玉鬘の立居に添って感じられるに従って、源氏の恋心は、揺られずにはいない。  彼は毎日のように玉鬘の部屋をたずねては、表面親のように振舞って、玉鬘の求婚の相手の文など見ながら、自分自身も彼女を捨てては置けない気持になるのである。 「玉鬘」にはじまって「藤袴《ふじばかま》」に終る九巻は、六条の院の栄華絵巻であると同時に玉鬘に対する貴公子達の求婚譚《きゆうこんたん》であり、この部分には、「竹取」以来の「妻問い」の要素がとり入れられているようにも思うし、現代では「源氏物語」の口語訳を果した後で、谷崎潤一郎が書上げた長篇「細雪《ささめゆき》」には、源氏の影響という中にも、この玉鬘求婚譚あたりの雰囲気《ふんいき》が一番濃く匂っていると私は思っている。  兎も角、源氏が玉鬘に惹《ひ》きつけられ、秋の夜の月のない宵に、琴を枕にして一緒に添い伏しながら、今一息、ほんとうに身体で契ることはしない微妙な情感と心理の綾は、青年の源氏には見られないもので、中年の恋の分別と女の出方一つで乱れきりもしかねない放埒《ほうらつ》さが同時に感じられる。玉鬘の方では、年は二十歳を越していても、男を知らないので、源氏に抱かれたことで既に処女を失ったと錯覚して悩むのであるが、「真木柱」の巻で、玉鬘が髭黒大将《ひげくろだいしよう》という最も風采《ふうさい》のあがらない野暮な男によって手籠《てご》め同様に妻にされてしまった後、源氏は、新しい夫に少しも満足していない玉鬘をあわれにもいとしくも思って、  今になってあなたも、私がどんなに気の長い世に例《ためし》のないほど阿呆らしい男であったかがおわかりだろう  と言う。玉鬘も暗にその心を汲《く》んで、二人は二人だけの間にわかりあえる和歌の贈答をする。源氏の本心は、自分の実子である帝(冷泉院)に、寵姫《ちようき》としてでなく尚侍《ないしのかみ》(公職)として玉鬘をさし出し、宿下りを養家である自分の邸にしておいて、密《ひそ》かな恋をたのしもうというにあったらしいが、その心の底をいみじくも見破っていたのは、本妻の紫の上と実父の内大臣(頭の中将)であった。  源氏には、紫の上その他|歴《れつき》とした妻妾が多いので、その中で玉鬘を今更一人前に立てて置くことは出来にくく、半分捨てるような気持で実父の自分にも知らせ、御所でも尚侍という公の職分につけておいて、実は御自分のものにしておくとはなかなかお利口な、うまいやり口だ。(「藤袴」)  と内大臣が蔭《かげ》でいっていることを息子の夕霧が源氏に報告し、源氏は、よくそこまで気をまわしたものだと表面は笑いながら、痛いところを突かれた実感を拭えない。  玉鬘の髭黒への結婚を許したのは、源氏よりもこの実父の方の常識主義の勝利のようである。  源氏の晩年の恋の対象としては、私は、結果において源氏をうらぎった唯一人の女、女三の宮の尼になって後の一時期にそれを感じる。  女三の宮と柏木との忍び逢いは、源氏によって知られ、女三の宮の時ならぬ懐妊もその胤《たね》を妊ったためであったとわかる。  源氏のあらゆる誇りと栄光はこの一つの事件によってつき崩され、彼はみじめなコキューとして、過去に自分がその父に犯したままつぐなわなかった罪の傷から血を噴くのさえ見なければならない立場に立たされる。この秘密を知っているものは、ほんの僅かな二三人に過ぎないし、源氏の栄華を支えている外界は無限に大きく、広いとしても、源氏自身のうちのめされた心のやり場のない怒りと悔いとは、彼を地獄に突き落さずにはいない。彼は柏木を只一度の対面で再び立つことの出来ないほど痛めつけたが、女三の宮に対しても、表面は何げなく見せながら、二人だけの場所では、陰険にこの無力な美しい小動物のような内親王を虐《しいた》げ、居たたまれないようにした。  源氏の真綿で首を締めるような迫害にじりじりと心身を痛めつけられながら、その間に、女三の宮の内に柏木への愛と源氏の妻の座を退こうとする意志が芽生えはじめると見るのは私だけの僻目《ひがめ》だろうか。柏木への愛について殊に首肯する人が尠《すく》ないかも知れないが、年の違う源氏に苛めつけられるうちに、若いひた向きな柏木の求愛をいとおしむ念は、宮の心に起ってもよさそうである。柏木の臨終近い最後の手紙の返事に女三の宮は「あなたの病気と先を争って私もはかなくなるでしょう」という意味の歌のあとに、「おくるべうやは(死に遅れてなるものですか)」と珍しく強い言葉を書きつけている。私はこの「おくるべうやは」にこれまで見なかった女三の宮の烈しい思いの向きを知るように思うし、それから間もなく、産後に父の院を招《よ》び迎えて、尼になりたいと願うところでも、女三の宮ははじめて内親王らしく、表面夫の源氏の意志に副《そ》わない行動を敢えてやってのける。  この件《くだり》で、源氏が本気になってしきりに宮の剃髪《ていはつ》を押しとめようと言葉を尽しても、女三の宮は「頭《かしら》ふりて、『いと、つらうのたまふ』とおぼしたり」と源氏の見せかけの涙をはっきりはねのけてしまう。  こうして尼になった女三の宮に対して、源氏は新たに「かくてしも、うつくしき子供の心ち」する魅力を感じるのである。  数年の後の秋、紫の上の死の少し前、女三の宮の住むあたりの庭一面に鈴虫を多く放たせて、源氏は猶《なお》離れ切れない思いを琴《きん》のことによせて弾くのである。宮も、琴の音に耳を傾けてきく。そのうちに夕霧やその他の公子たちが音ずれて来て、琴、笛を奏でるにつけて源氏は、今は世にない柏木のことが何の折々にも偲《しの》ばれると話して、御簾《みす》の内の尼宮もその人のことを思い出していられるであろうと推しはかる。  この一段は、ほんとうに何げなく書き流されたように見えるけれども、曽て北の方であったうら若い尼宮への、晩年の源氏のとり返されぬ慕情を淡く描いたものとして、私には印象が深い。   恋の仲立ち  男女の交際が自由になり、恋愛にも「秘すれば花」的な面白味のなくなったのは最近のことで、日本に限らず、洋の東西を問わず、恋の仲立ちにとりどりの役割の振り当てられているのは、そこに「シラノ・ド・ヴェルジュラック」のようなシテ方まで現われているのでも知られよう。 「源氏物語」の主人公光源氏は皇子であるから、勿論《もちろん》、彼の恋の冒険には常に影の形に伴うように離れない従者の惟光《これみつ》がいる。惟光はいつでも、源氏の秘密に与《あずか》っていて行動するのであるが、彼の活躍の最も顕著なのは夕顔の変死のあとであろう。惟光は光源氏が夕顔の咲くあやしげな宿の女に夢中になって通って行くのにいつも供をしていたが、主人がこの女を某《なにがし》の院という廃院へ連れ出して一夜を明かす間、よそへ行っていた。その間に物の怪におそわれて、女は敢えなく死んでしまう。若い貴公子の光源氏は悲嘆するばかりでこの始末をどうつけていいか分らない。朝になって伺候した惟光は、まず夕顔の死体をむしろに巻いて車に乗せ、東山に近い自分の懇意な尼の庵《いおり》へ運び、僧を呼んだり、形ばかり葬いをする手順をつける。その間にも源氏がもう一度夕顔の死顔に会いたいと駄々をこねるので、人知れず連れて行って対面させたり、帰り道に馬から滑り落ちて死にそうだという主人をなだめつすかしつして、邸まで送り込むのである。そもそも夕顔との縁のはじめが惟光の母に当る乳母《めのと》の病気を源氏が見舞いに行き、その隣家の軒に咲いている花に心をひかれるのが発端なので、夕顔の家の様子をさぐるのから、女が源氏と逢うようになるまでの段取りも惟光が全部取計らうのである。  惟光は、勿論源氏の落魄時代にも須磨明石まで一緒に行く。そうして後には参議にまで出世するのも、つまり源氏の恋愛遍歴に秘書の役割を忠実に勤め上げたためで、ドン・キホーテのサンチョ・パンサとは違うけれども、光源氏とは切っても切れない脇役の一人である。  さて、女の方から言うと、当時の貴族の姫を口説くというのは大変面倒な手続きのものだったらしい。実際には招婿婚《しようせいこん》の形の維持されていた時代であるから、一応両方の家で親たちが認めている場合でも、男の方から妻問い風の和歌を詠みかけ、女もそれに応じるという段取りを取って行くのが慣例だったのであろう。その中に自然、美人だとか才女だとか噂《うわさ》の高い人があるとそれに人気が集まって、あちらこちらから懸想文《けそうぶみ》(恋歌)を書き、取次ぎを頼んで届けて来る。  その場合の橋渡し、つまり恋の仲立ちをするのが、その姫に仕えている女房(侍女)なのである。 「源氏物語」では、ちょうど光源氏の栄華の最盛期に、夕顔の遺児|玉鬘《たまかずら》を養女として六条の院に迎える。そして源氏自身美しい玉鬘に好色心《すきごころ》をそそられながらも、同時に多くの貴公子たちが彼女に婚姻を求めて言いよって来るのを傍観者として興味をもって眺めてもいる。  源氏は玉鬘の侍女たちに、求婚者のそれぞれの熱心さや気立てをよく見て、軽々しく文のやりとりなどの仲立ちをしないようにと注意している。  私は、「源氏物語」を主にして考えるだけであるが、どうもこういう姫についている侍女たちというのが、恋の仲立ちをするにもそれぞれの筋があって、この人はこの侍女に頼み、別の人は別の侍女に頼むという風であるらしい。そこにはいろいろなリベートもあったであろうし、侍女が女主人に文を見せる以外に、送る側の男の人柄などについても批評することによって、当人の思いなしが違って来るということもあったかも知れない。  兎も角、「源氏物語」に描かれているのは正式な結婚譚ではなくて、忍ぶ恋路の物語が主である。  第一に、物語の根幹をなす藤壺の宮と光源氏の恋愛、それによって冷泉院《れいぜいいん》の誕生となる一条が、秘中の秘とも言うべき忍ぶ恋の典型であって、藤壺の宮はその死の前に源氏がよくこの秘密を保ち通してくれたと心に礼を言っている。しかし、こうした極端に人目を忍ばねばならなかった恋愛が、誰によって手引きされたかというと、宮と親族関係の王命婦《おうみようぶ》という侍女の手によってであった。当時の貴婦人は母屋《もや》の帳台の奥深く姿を隠して、周囲には屏風、几帳など幾重にもめぐらされていたけれども、一度手引きするものがあって、いくつかの関を越え、そこまで潜入してしまえば、守り刀を抜いて追いはらうような粗暴な行動《ヽヽ》は絶対にしない習性に育てられていた。最高貴婦人の藤壺から、中流婦人の空蝉《うつせみ》にいたるまでその点は同じで、唯、その闖入者《ちんにゆうしや》が源氏である場合、彼は次の瞬間から、女にとって凌辱者《りようじよくしや》ではなくて、見事な恋人に変貌《へんぼう》するということなのである。  その点、前に書いた玉鬘の場合には、色々な人々が彼女に思いをかけるが、賢い玉鬘は誰にも許そうとしない。その底には源氏への複雑にない交《まざ》った恋心があるのだが……ところが、ついに突然、閨《ねや》に入りこみ、彼女をわがものにしてしまった男は髭黒大将という玉鬘求婚者中の最も美しくない容貌のむくつけな政治家であった。光源氏自身もこの闖入者にはあっと驚かされた。玉鬘も勿論彼を嫌って、無理にそうされたことをはっきり示した上で結婚する。しかし長い間玉鬘に思いをかけていた髭黒大将は、有頂天に喜んで「石山の仏をも|弁のおもと《ヽヽヽヽヽ》をも」一緒に拝みたいほどに思っている。この「弁のおもと」が即ち玉鬘の侍女で、髭黒を玉鬘の閨まで引き入れる働きをした女である。  概して恋の手引きをする女は、乳母などのような中年者とは違って、自分自身も恋愛感情のなかに生活していて、自分の仕えている女主人に恋して来る男に対しても、間接に好悪を抱いてい、それが自然女主人にまで伝わって行くような運びになるらしい。  葵《あおい》の上《うえ》や紫の上のような源氏の夫人の侍女で、源氏の召人《めしうど》というほどではなく、手のついているという関係の女も可成りあるらしい。  朧月夜《おぼろづきよ》の尚侍の侍女、中納言や女三の宮の侍女、小侍従なども、皆世に許されぬ恋の手引きをしながら、自分もその危うさのうちに、恐怖と異様な喜びを主人たちと共に体験していたのではあるまいか。   年上の女  古来、早婚の風習のある処では女の方が年上で妻になる場合が多い。一時代前の韓国などもそうであった。 「源氏物語」にも貴族の男性がまだ少年期に結婚する例が物語られていて、その場合相手の女性は年上であることが多い。主人公の光源氏は十二歳で宮廷で元服し、左大臣の息女葵の上を妻とするが、この姫は源氏より四つ年上であって、そのことを気にしている。しかし、源氏が葵の上をほんとうに愛すことの出来なかったのは彼女が年上だからではなくて、彼女のうちに彼の求める甘美な情緒が欠けていたためであった。  思ふには頼もしく、見るには煩はしかりし人ざまになん……(「若菜下」)  離れていて考えれば頼みになるが、逢っていると、気のおける人だった、と後年、源氏は愛妻紫の上を相手に述懐している。しかし、源氏が葵の上を愛し得なかった原因はもう一つその奥に、源氏自身のうちに忘れ得ぬ恋人の面影が既に厳存してい、その恋人が又、妻よりもさらに二つ年上の藤壺の宮である事実に外ならない。  藤壺は父帝の寵妃であり、源氏の心の母代《ははしろ》でもある。そうしてこの場合、藤壺が年上であることも、処女でないことも、源氏にとっては何一つ恋愛の障害にはなり得ないのである。  私は王朝の歴史に精《くわ》しくはないがこの物語の書かれた一条朝に於《お》いても、天皇自ら十一歳で五歳年上の中の関白の女定子《むすめていし》を入れて中宮とし、この后との愛情は深かったと推定されるので、貴族の早婚は実社会にもこの時代には実在し、又成功していたことも確かである。  そう言えば、源氏が青春時代に恋愛の相手として熱中する女は、空蝉にしても、夕顔にしても、人妻か他人の忍び妻であった女かで、自分より年上である。夕顔は源氏より年上で子持ちであることが、その死後、侍女の右近の述懐によってわかるが、空蝉については年齢の記述はない。  しかし、空蝉は曽《かつ》て、その父が源氏の父帝の更衣として宮廷に献じようとして志を得ないままに死に、そのあとで、年の違う伊予の介《すけ》の後妻になったという下降の運命を辿《たど》った女としてみる時、当時十七歳の源氏よりも、年若い人妻とは思われない。それなればこそ、彼女は、源氏の眼もあやな情緒に唯一度身を委《まか》せながら、その後は、継娘と閨の中で入れ交って、蝉のぬけがらのような薄衣《うすぎぬ》だけを、失望した源氏の手に、恨み多く残して行くような一種の恋の手管も持ち得たのであろう。あのままに、無理な首尾をして若い源氏を自分の閨に引き入れる女であったら、源氏は決して、所謂《いわゆる》「中《なか》の品《しな》」の女の空蝉にいつまでも忘れ得ない執着を持ってはいなかったに違いない。ここでも、年上の女の練達した情緒と智性が異種の魅力になって源氏を惹きつけている。  六条の御息所《みやすどころ》については別の項でも書いているから、管々しくは述べないが、この前《さき》の東宮の未亡人に対する恋愛の始まりについては、藤壺の宮との最初のことと共に物語の中には書き記されていない。それが最初に筆に乗って来るのは「夕顔」の巻のはじめの「六条わたりの御忍び歩きのころ」に始まっていて、その時はもう、光源氏は、御息所のもとに通って行きなれ、稍倦怠《ややけんたい》を覚えはじめている時期の愛人として描き出されている。  御息所は、生前はもとより死後もその満たされない恋愛感情の執念で、長く源氏を苦しめつづける。それは、この高貴な女性の矜持《きようじ》を傷つけた報いとして、源氏自身の内にもふさわしい罪の意識として残るのであるが、はじめに、若い源氏が才色双美の前《さき》の東宮妃を得ようとあくがれ求めたものは、この年上の貴婦人によって、藤壺の宮に代る、母代を兼ねた完全な恋人を夢みたためであった。  六条わたりもとけがたかりし御気色を、おもぶけ聞え給ひて後、「ひき返し、なのめならんは、いとほしかし。されど、|よそなりし《ヽヽヽヽヽ》御心惑ひのやうに、強《あなが》ちなることはなきも、いかなることにか」(「夕顔」)  と物語の作者が語っているように、源氏は御息所の優雅をもって世に聞える教養、風格、容姿の一つ一つに心もそらにあくがれて近づいて行き、そうしてその熱望が叶《かな》えられた後に、世評の一つも嘘でない事実に驚かされるにつけても、彼女自身の底に沈んでいる自我の強さ、情緒のひき切りにくい粘り強さにあぐねはじめたに違いない。  それは年上の、母代でもある女性に求めていたものであって、同時にその反対のものを持ちすぎていたとも言える。源氏が御息所から離れて行く心にはそういう二律背反の動きがあり、そのことが、御息所の死後十数年を経た後まで、彼女の死霊を、源氏の最も重んじなければならない女性たち(紫の上、女三の宮)にとり憑《つ》かせなければならないのではあるまいか。  源氏は、御息所への贖罪《しよくざい》の意味もあって、自分と藤壺との間の密かな子である冷泉院の帝に御息所の息女を養女として入内《じゆだい》させ、中宮にまでした。この中宮は、冷泉院よりも十歳前後の年長であるが、この人を入内させる前に源氏と藤壺の宮が相談するところで、藤壺の言葉に、帝がまだ幼くていられるので、女御たちも若い方ばかりではお人形遊びのようで他愛なさすぎる、「大人《おとな》しき御後見《おんうしろみ》」があるのは大変結構だ、という意味のことが語られている。「大人しき」とはつまり成人した女のことであるが、この二人の相談の結果は成功して、秋好《あきこのむ》中宮は母の御息所とは違い、晩年まで年下の冷泉院に愛されて睦《むつ》まじく添いとげるのである。   紫の上のヒロイン性 「源氏物語」は、ある時代には「紫の物語」とも呼ばれていたという。それは、篇中の紫の上が理想的な女性として描かれていること、又、彼女については、少女期から始まってその終焉《しゆうえん》まで殆どその一生が作中に語り尽されているためでもあろうか。  現在でも、「源氏」についての主題やモチーフを解釈する人は多く、意見もそれぞれであるが、その中には、紫の上に象徴される一夫多妻の社会に於いての女の苦悩ということにそれを絞って見る向きもあるようである。周知のように紫の上は、現実の生活で光源氏の最も愛した女性であり、正妻ではないが最初の妻葵の上の死後は準正妻の資格を与えられるようになって行く。養女の明石姫が宮中に入る時、紫の上は附添って行って帰りには輦車《てぐるま》を勅許され女御に等しい待遇を受けるのである。しかし、紫の上と源氏との結びつきは、徹頭徹尾二人の間の愛情が主になっているので、家と家との間で結ばれた結婚でないことは確かである。  若い日の源氏が北山の僧院で、世にも稀《まれ》な美貌の少女を見つけ出し、それが藤壺の宮の姪《めい》に当り、その面影を伝えているという二重の奇遇が、源氏の心をあやしいほどこの少女に惹きつける。彼は唯一人の祖母を亡《うしな》った姫を父宮の手へわたすまいと、自ら抱きかかえて、自邸へ奪って来てしまう。掠奪《りやくだつ》結婚の遺風がはっきり出ている場面で、この部分の源氏は空蝉の閨に忍び込むときとは較べものにならないほど、男っぽく、野性を帯びている。「源氏」のうちで「伊勢物語」をなぞった構想の部分は多いが、「昔男」の野性が雰囲気として漲《みなぎ》るのは、「若紫」のこの件《くだり》だけのように思う。  さて、源氏は、奪って来た幼い姫を自分の理想の女に教育しようとする。音楽、手蹟《て》、和歌、立ち振舞い、そうして勿論、性の開眼まで、紫の上の女を育て導いて行くものは、常に男の源氏であり、紫の上は、彼の指導に素直に従いながら、己れの個性を生かして行く珍しい秀才の弟子であった。かくして、美貌、教養、趣味、情緒……、その上家妻としての染色や裁縫にまで、行き届いた完全な女がつくり上げられる。彼女の欠点は、源氏の愛に馴らされて嫉妬《しつと》ぶかいことであるが、それさえ魅力にしてのけるほどの優婉《ゆうえん》な情趣を心身に湛《たた》えている。  多くの女の品定めをするにも源氏は、  君こそは、さすがに隈《くま》なきにてはあらぬ物から、人により、事に従ひ、いとよく、二筋《ふたすぢ》に、心づかひはし給ひけれ。|さらに《ヽヽヽ》、|ここら《ヽヽヽ》(女は多く)|見れど《ヽヽヽ》、〔あなたの〕御有様に似たる人は、なかりける。いと、気色こそ物し給へ。(「若菜下」)  と紫の上の美徳を最上に讃美《さんび》している。  この讃美は、彼女の晩年、若い内親王である女三の宮が正妻として六条の院の寝殿に住むようになった後、一層、深い愛情の裏づけをもって、源氏の心を捕えるのである。  準正妻の紫の上は位置に於いては二品《にほん》内親王に競うことは出来ない。三の宮の若さの魅力も恐らく年の違う源氏を強く惹くであろうと世間は噂する。紫の上は、源氏の浮気を既に幾度か経験していたが、その度に、源氏は彼女の地位をおかすような女とついに結ばれなかった。是非ない外的な事情があったとしても、三の宮の降嫁によって、紫の上の心に源氏に対する不信がきざしたことは間違いではない。しかし、作者は紫の上の孤独と離愁を救おうとして(?)三の宮をはじめから、他愛のない性格の女に設定した。同じ藤壺の姪という点で、三の宮の降嫁に抗しがたい魅力を感じた源氏は現実の三の宮の張合なさにがっかりする。  そうしてその反動として、三の宮に正妻の地位を奪われながら、何げなくすべてを処理し、その間に自分に対する言葉にしがたい不信をなまめかしく滲《にじ》ませて見せる紫の上の女としての見事さに、慌てるほど惹きつけられるのである。  女三の宮は柏木との密通が契機となって尼となり、紫の上は長い病気の間中、源氏の心からの看護を受けて、命を終って行く。 「御法《みのり》」の巻の紫の上の死の後には、一年の光源氏の服喪の生活がのべられ、やがて彼も出家を遂げることを暗示して、「源氏物語」の正篇《せいへん》は終るのである。  しかし、私は、紫の上を「源氏物語」の女主人公とは思わない。勿論、彼女の源氏に愛されながらその愛の純一でないことへの不信に悩むことが作品の一つのテーマでないとは言えないであろうが、物語のヒロインとして、紫の上は余りに庇《かば》われすぎていると私は思うのである。  もともと、彼女は、藤壺の形代《かたしろ》として源氏の前に現われる。源氏が紫の上を育てて行く基本には、藤壺という、永遠の女性があったわけである。紫の上を藤壺に似るように育て、それは、全く理想通りに成就した。いやむしろ才能の点で紫の上は藤壺に優っていたかも知れない。しかし、ドラマとしてみるとき、藤壺には、どんなにそれ自身完全であっても、どうにもならない大きな破れが宿命として与えられている。藤壺がヒロインであり、紫の上がヒロインでないのはその一点の違いである。  例えば須磨明石の源氏の落魄《らくはく》時代に孤閨《こけい》を守っていた若く美しい紫の上に対して、何一つ、誘惑らしい事柄は起っていないではないか。継子の夕霧が野分の朝垣間みて思いしみた彼女への恋にしても、僅かにその死のあとに、死に顔の美しさを見させるだけにとどめて、それ以上深入りさせていない。作者は紫の上という女性を、光源氏の好配として、並べて置くたのしみをうち消さないために、彼女のまわりに、無法者の立ち入れない魔法の帷《とばり》をかけ渡したのである。  紫の上のドラマは「若紫」の幼女の部分と「御法」の死の前後にあると私は思っている。   近江《おうみ》の君の滑稽味 「源氏物語」の中に滑稽譚として語られているのは、まず雨夜の品定めの中の大蒜《ひる》を食う女学者の話、次は末摘花、源の典侍《ないしのすけ》などであろう。  大蒜食いは別として、末摘花の初めの方の部分は、鼻赤の姫君と知らずに肉体関係を結んでしまうプレイボーイの失敗を描いているし、源の典侍の方は前にも書いたと思うが、六十に近い老女を二十歳前後の源氏が遊び相手にし、友人の頭《とう》の中将《ちゆうじよう》もからんでこの老女官を中にしてとち狂う粋狂な話である。しかしこの二つの話ともに、源氏が相手の女と身体で交わっている点では青春絵巻のうちの一|齣《こま》に取入れられる挿話なのである。  ところで「源氏」正篇の中端《なかば》、六条の院の栄華を背景にして玉鬘の求婚譚が物語られる数帖のうちに、同じ内大臣(頭の中将)の落胤《らくいん》の一人として近江の君という剽軽《ひようきん》な娘が登場して来る。  大体この物語では頭の中将はいつも源氏に対して負け犬にならねばならぬように仕組まれているのであるが、この場合にも、内大臣は源氏が玉鬘という素晴らしい娘を(実は頭の中将の娘なのだが源氏はそれをずっと後まで打明けない)探し出して世の貴公子たちの心を惹きつけているのを聞いて胸安からず、しきりに自分の落胤の世に埋もれているのを探し出させる。そういう望みに答えて名乗り出、又、確かに娘であることが認められて、内大臣の屋敷に引取られて来たのが、近江の君である。恐らく近江あたりにいたためにこの名があるのであろう。本文には折々「内大殿の今姫君」とも見えているが、姫君らしい人柄でもなく、そういう扱いも受けていないらしい。  最初に近江の君のことが話題にのぼるのは、「常夏《とこなつ》」の巻のはじめで夏の暑い日に源氏が若い貴公子達と共に釣殿《つりどの》に出て涼んでいる時に、世間話をせよと持ちかけておいて、自分の方から「内大臣はこの頃、落し胤《だね》の息女を迎えられたときいたが」と問いかける。  そこで、内大臣の子息の公達《きんだち》が、近江の君を引取った事情を語って、暗にわが家の誇りとなるような姫でないことを含めた答え方をする。  源氏は自分の息子の夕霧に内大臣が幼ななじみの雲居《くもい》の雁《かり》(娘)をゆるさない仕打ちを面憎《つらにく》く思っているので、「内大臣は沢山の女があるのに何でそう落穂《おちほ》あさりまでされるのか。若い頃には随分つまらぬ浮気沙汰もあったから、そんな折に儲《もう》けた子だったらあんまり立派とは言えまいに」と珍しく批難らしいことを言い、そのあと夕霧に「おい、お前はそんな落葉を拾ったらどうだ。姉妹《きようだい》ならいいじゃないか」とはっきり厭味《いやみ》をいう。  ところでこの近江の君であるが、内大臣はその前|夢占《ゆめうら》によって、今まで隠れていた新しい立派な娘を得られると言われて娘探しに力を入れ始めたのであるが、それは実は玉鬘のことだったのである。  内大臣は、近江の君の無教養で包みかくしのまるでない貴族趣味皆無の性格にがっかりするが、今更追い返すわけにも行かず、姫君と女房との中間ぐらいの待遇をしながら、何とか形をつけようと考えている。近江の君の容貌は、  け近う愛嬌《あいきよう》づきたるさまして、髪うるはしく罪軽げ(身綺麗《みぎれい》)なるを、額のいと近やかなる(狭い)と声の淡つけさ(軽々しさ)とにそこなはれたるなめり。(「常夏」)  と見え、恐ろしく早口でものを言い、すぐ笑い、すぐ頬をふくらす、典型的な田舎娘なのである。  内大臣はこの娘を困ったものと思いながら、一の姫の弘徽殿《こきでん》の女御《にようご》が里下りしている御殿へやって教育して貰おうと考える。その話をすると近江の君は忽《たちま》ち勇みたって、「女御さまのところへまいるなら何でもいたします。大御大壺《おおみおつぼ》(便器)運びでも何でも……」というので内大臣は失笑して、「そんなことをされてはこっちが困ってしまう。一体そなたのその舌の早く動くは直らないものかな。それがないとこちらも少し命がのびるのだが……」とからかう。近江の君は真顔にうけて「これは私の生れるときに産屋《うぶや》にいたお坊さまの早口に似たのでしょう。どうしたらなおるかしら」と騒ぐのである。  このあと、近江の君は、女御の御殿に行く前にわけのわからぬ妙な歌を詠んで笑われたり、そちらに行ってからも、ちぐはぐなことばかりして近くにいる男女の笑いものにされている。  しかし、彼女自身は、自分の心を内へ内へと畳みこんで容易《たやす》く表に見せないことを教養とし、美と感じる貴族社会に、少しも溶けこめない野性をそのまま持ちつづけて、いきいきと動きまわっている。この生活の不調和なところに、滑稽が生じ、笑われるのはいつも近江の君の側であるが、実際には、逆な滑稽もこの作者の意地悪い眼は見透していたかも知れない。  玉鬘が尚侍《ないしのかみ》になるときくと、近江の君は「自分も尚侍になりたかったのに」と恨みごとを云い、流石《さすが》にそのときになって、  めでたき御中に数ならぬ人は交るまじかりける。中将の君ぞつらくおはする。賢《さか》しらに迎へ給ひてかろめ嘲《あざけ》り給ふ。少々の人は、え立てるまじき(一緒にいられない)殿のうちかな、あなかしこ、あなかしこ(ああ、おそろしい)。(「行幸」)  と眼尻を上げて睨《にら》むのである。  それでも内大臣は彼女をからかって、尚侍になりたかったら文を作って申し出るように、などといっている。気の重い時には近江の君を見ると紛れるともいう。ここには彼の貴族としての自尊と自卑が混淆《こんこう》して、自分の血をひいた娘を嘲弄《ちようろう》しているのである。  しかし近江の君の、生れたままに生きている心身に、この貴族の生活は正に「あなかしこ」に違いないのである。近江の君を嘲弄しているものは逆に自分を嘲弄しているのを、作者はひそかに意識していたであろうか。   罪の意識について 「源氏物語」五十四|帖《じよう》の中から「罪」という字を拾い出して見たならば、その数の多さに恐らく読者は驚くかも知れない。  この場合、仏教の罪業《ざいごう》の意味が主因になっているのは、作品の世界全体を蔽《おお》うほの暗い紗幕《しやまく》が当時の貴族仏教(天台、真言)の雰囲気《ふんいき》から来ていることを思えば当然と言わなければなるまい。  例えば伊勢大神宮を祭る斎王《いつきのみこ》(主に内親王)の卜定《ぼくてい》は王朝時代には賀茂の斎院などと共に天皇の代変りごとに行われる重要な人事で皇室と古代神道との結び目の一つでもあったらしい。源氏の中にも、「葵」の巻には賀茂の新斎院の御禊《ごけい》の日に葵の上と六条の御息所との有名な車争いの起ることが記されているし、次の「賢木《さかき》」の巻では源氏との恋の破綻《はたん》をどう弥縫《びほう》しようもない御息所が、われから娘の新斎宮と共に伊勢へ下って行く一段が描かれている。須磨明石の流謫《るたく》生活を経た後、源氏が廟堂《びようどう》に復活し、新帝の後見として栄え始めた時、御息所は娘の前斎宮と一緒に都に帰って来る。そして間もなく死ぬのであるが、その死病の間に尼になる件《くだり》で、  |罪深きほとり《ヽヽヽヽヽヽ》に年経つるもいみじう思《おぼ》して(「澪標《みおつくし》」)  とあって、伊勢神宮の神事を掌《つかさど》る斎王(娘)と一緒にいて自然|仏縁《ぶつえん》から遠ざかっている期間の長かったことを、「|罪深き《ヽヽヽ》」と言っている。  朝顔の斎院が斎院である間に、仏道の修行を怠ったという意味のことを述べている箇所もあったかと思う。  ここでは罪という言葉は、仏教でいう過去現在を埋め尽している輪廻《りんね》の意味でその浮世の執着から逃れ出るためには、ひたすら仏道の修行に努め、濁世《じよくせ》の煩悩から離脱するより他《ほか》にはないと語っているようである。  一方では神に仕え、神の言葉をうけつぐ筈の巫女《みこ》的存在が、その職務を終ると同時に、古来の神に仕えて、仏に遠ざかっていたことを「罪深い」と感じるのも、信仰の問題として見れば、既に、元始神道はその対象でなく、仏教の摂理が、貴族社会を支配していたとみてよい。  ここに主人公の光源氏を別の例に取ってみよう。源氏は多くの女との恋愛関係を重ねながら、殆ど謡《うた》い文句のように自分はいつも出家|遁世《とんせい》の志を抱いているが、さまざまの絆《きずな》にひかされて果せないと嘆くことをやめない。それは一見滑稽なようで実は源氏自身の罪(煩悩)にまつわられぬいた心の真の告白に違いないのである。  彼は父帝の后藤壺の宮と情を通じて、その胤を妊《みごも》らせてしまう。そうして自分の弟として誕生した皇子を父帝がめでいつくしむのを見て、  中将の君(源氏)面《おもて》色かはる心地して、恐ろしうも忝《かたじけ》なくも、うれしくも、あはれにも、かたがた移ろふ心地して(われながら心の色が変って行くようで)涙落ちぬべし。(「紅葉賀」)  と記しているが、特に罪深いという意識は目立っていない。藤壺の側には、源氏を愛しながら彼の情熱のままにひきずられて行かない弾力の中に、罪の意識が感じられるのに、男の源氏の側には、父親に対してそういう罪の意識を持つのは、それから三十年近い後である。  つまり、晩年の正妻女三の宮が柏木衛門《かしわぎえもん》の督《かみ》によって犯され、やがてその子が、わが子として誕生する。源氏はその密事《みそかごと》を知った時にさまざま思い乱れた果てに、昔を思い出して、  故院の上(父帝)もかく御心には〔藤壺と自分の秘事を〕知ろしめしてや、知らず顔をつくらせ給ひけん。思へば|その世のことこそはいと恐ろしく《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》あるまじき過ちなりけれ。(「若菜下」)  と思い、その子の誕生をみては今自分がこの苦盃《くはい》を飲みほすことで、  さてもあやしや、「|わが世と共に恐ろし《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」と思ひしことの報いなめり。この世にかく思ひかけぬことにてむかはり来ぬれば(報いをされたので)後の世の罪は少し軽むらむや。(「柏木」)  と思う。しかし、彼は実際、それほどそれまで父帝への背信行為を悔いていたであろうか。  敵対勢力に圧迫されて、須磨へ隠棲《いんせい》する前にも、源氏は父帝の御陵に参詣《さんけい》し、その亡き面影を幻に見るし、須磨の浦で高潮に悩まされて仮寝している時にも夢に父帝をみて、甘えかかっている。源氏の夢幻にみる亡き帝はいつも限りなく彼を愛し、庇う父であって、最愛の子に裏切られた怒りや悲しみに心を濁らされている人ではない。  言い換えれば、父の寵妃《ちようき》と愛しあい、わが子を父の子として、その嘘をそのままにあばかずにいても、いや、仮にそれをあばいたにしても、父は、以前と少しも変らぬ父として自分を愛し、藤壺を愛すという途方もない信頼感を源氏は持っていたのである。そうして、自分自身にも父帝ほどの度量が自然に具わっていた筈なのに、女三の宮と柏木の事件を通して、源氏は自分が完全に、コキューであり、負け犬である弱みを内心に感じる。  ここまで来てはじめて、光源氏という理想像はつき崩され、自分の父の心境を推量したり、女を奪った相手の青年を心底憎みぬいたりする、不態《ぶざま》な人間性を曝露《ばくろ》する。  その後にもう一度調和が帰って来た時、源氏のうちの「罪深さ」は、その前に多くの女を相手に口にしているそれとは質の違う、深さと大きさとを湛えているのである。  源氏の父帝に対する底ぬけの信頼や甘えに罪の意識を見出《みいだ》し得ないのより、私にとって不思議なのは、この物語中のほかの二人の人物、即ち冷泉院と薫が、いずれも自分の公然の父と実の父、又密通によって自分を生んだ母親に対して示す反応と、罪の意識の有り方についてにほかならない。  若い冷泉院の帝に過去の秘密を告げ知らすのは、その母藤壺中宮の死後、帝のお傍《そば》近く勤行している夜居《よい》の僧の口からである。この僧都は藤壺の「御母后《おんははきさき》の御世よりつたはりて、つぎつぎの御祈りの師」である。この時代のこういう僧侶《そうりよ》は、他人に固く隠すような最高貴族の秘事でも仏への祈りのために語られなければならないために、カトリックの告解をきく神父のような役目を負わされていたように思う。  この老僧は老いて、自分の一身の栄辱は問題にしていない。唯、当時天変地異が多く、不意に貴人の死ぬことのあるのなどから推して、冷泉院が正系の帝位に即《つ》くべき人ではなく、その事実を当人が少しも知らないのが、親の代から始まっている罪を天が罰しているので、これを言わないままにしては、「天の眼《まなこ》恐ろしう」「仏天の告げあるによりて奏し侍るなり」といっている。  要するに現世的には、故人になられた先帝のためにも、故中宮のためにも、現に政治の中心である光源氏のためにもよろしからぬことで、遠慮すべきであるが、右のような止《や》むに止まれぬ気持で、自分がそれによって罪を得ても構わぬ覚悟で申上げると前置きして、冷泉院を懐妊した時から帝に立つまでの藤壺と源氏が祈祷《きとう》のためにしたと、告白の内容を全部、帝に物語るのである。  そうして、この老僧は、  主上が幼くていらしったころは、よかったのですが、一人前にものを弁《わきま》えられるお年頃になると、自然と罪をもお知らせ申すようになるのです。すべて御親の代から始まっていることです。御自身、|何の罪とも《ヽヽヽヽヽ》御存じないのが恐ろしいので、黙し通すつもりでした禁を自ら破りました。  と言ってしおしおと退出して行く。  冷泉院は、この突然の告知に、勿論《もちろん》恐ろしい衝撃を与えられる。  問題はこれから以後の帝自身の罪の意識にかかっている。はじめには、  主上は、夢のやうに、いみじきことを聞かせ給ひて、色いろに、思し乱れさせ給ふ。故院(桐壺帝)の御ためも後めたく、大臣(源氏)の、かく、ただ人《うど》(臣下)にて世に仕へ給ふも、あはれにかたじけなかりけること〔と〕、かたがた、思し悩みて……(「薄雲」)  とあって、正式の父である桐壺帝(実は祖父)には、「故院に対しても後《うしろ》めたく」という程度しか感じていない。「後めたく」は今も残っている言葉であるが、相すまない、面目ない、などより軽く、きまり悪くとか、後ろぐらい程度で、さして強い罪の意識ではないし、「お気の毒な」「何とも申しようのない」などの気持は少しも含まれていない。これは幼少に別れた人のこととて仕方ないとしても、母中宮に対しては最後まで一言の批判も加えていない。  これは一体どういうことなのだろう。  尠なくとも、冷泉院にとって、母后は理想の母であり、女性である筈であるのに、その母が自分の兄と信じていた人との間に情交があり、自分はその間に生れた子であったということは、知らされた事実の内の一番強い衝撃であらねばならない。  私はここを読んでいると、いつも、突飛な連想かも知れないけれども、ハムレットが、母の王妃の姦淫を責める場面を思い出してならない。あんなに苛《いじ》めつけられては、母親の方がやり切れないと思うが、息子と母親の間にはああした愛と憎悪の交りあった執《しつ》こいもののあるのが本当だと思う。 「源氏」の作者は、そんな騒ぎを起さないように、上手にその前に藤壺中宮を病死させているし、冷泉院も、別の見方をすれば、一面では女御を二人も持って大人扱いされているが、年齢を調べると十二三歳ではないだろうか。して見れば、夜居の老僧都が|やっき《ヽヽヽ》となって「天の眼恐ろしう」などといっても、相手の応え方はそれほどでないのが当然かも知れない。  帝の関心は亡き父母よりも、生きている実父の光源氏の方へ向いて行く。  そうして、桐壺帝の眼を盗んで源氏が藤壺と通じたことは、さして問題にならず、それよりも、帝の心に一番辛く、|罪深く《ヽヽヽ》思われるのは、実の父を父と呼べず、自分の臣下として、わが前にひれ伏させている事実なのである。  帝ははじめこの辛さから免れようとして自身退位することを源氏に相談するが、勿論《もちろん》説得されてしまう。次には人に問い訊《ただ》すことも出来ないので、頻《しき》りに一人で和漢の書を読んで、こうした例を見ようとする。  さまざまの文《ふみ》どもを御覧ずるに、唐土《もろこし》には、顕《あらは》れても忍びても、みだりがはしきこと、いと多かりけり。日本《ひのもと》には、さらに、御覧じ得る所なし。|例ひあらんにても《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|かやうに《ヽヽヽヽ》、|忍びたらむ事をば《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|いかでか伝へ知るやうあらんとする《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。(「薄雲」)  余談になるが、この終りの文章が、そのままに宮廷で愛読され、書き写された藤原道長の時代というものに、私は興味を感じる。  そうして冷泉院は終に光源氏を王族に戻して天皇の位に即けようかとまで思うが、源氏に固辞されて意を果さない。  この後も、冷泉院の源氏に対する孝道は変らないで、彼を准太上《じゆんだいじよう》天皇にまでするのであるが、この実の親を知るということ、それに孝を尽すということが、あの夜居の老僧の予言した天の怒りをなだめることになるのであろうか。  私は孝という観念についても、「源氏物語」のそれが儒教の影響なのかどうかよくのみ込めていない。  もののまぎれ(姦通)の結果として生れて来た子の第二の例は、続篇、宇治十帖の主人公になる薫《かおる》である。薫の母は朱雀院《すざくいん》の内親王、女三の宮で、准太上天皇である光源氏と結婚し、薫はその次男として源氏の晩年に生れた。つまり、母方の身分としては長男の夕霧を凌《しの》ぐ最高級の貴族ということになる。源氏の死後も、時の中宮は異腹の姉であり、帝は母宮の兄弟、先帝の冷泉院も薫を光源氏の実子と思い込んでいるので、密《ひそ》かに自分の弟であると信じてとりわけ眼をかけるというわけで、官位の昇進なども、格段に速い。  しかし、薫自身の内には幼い頃から、何となく解けない謎《なぞ》があって、それが常に心を翳《かげ》らせている。  幼き心地に、ほの聞き給ひしことの、折々、審《いぶか》しう、おぼつかなく、思ひ渡れど、問ふべき人もなし。(「匂宮」)  幼い薫の耳にまで三の宮の忍びごとが入っていたというのは、何となく受取れない話で、後段の「橋姫」の件で弁の尼が薫に当時の精《くわ》しい物語をして柏木の遺書めいた文まで渡すときに、  小侍従(三の宮の侍女)と弁と放ちて、〔ほかに〕また、知る人侍らじ。一言にても、また、他人《ことひと》に、うちまねび侍らず。  と言っているのから推しても、こういう秘中の秘は、中に立った女房たち自身の身の上にも及ぶことで、固く秘密は守られねばならない筈である。  しかし薫自身は何となく自分の出生についての疑いを持っていて、母の三の宮もまだ花盛りの年頃だというのに、どうして源氏の正室の位置を退いて尼になったものか、それほど信仰の深いという人柄でもないのにと疑っている。彼が、当時の実情を聞き、真実の父が光源氏でなくて、密夫の柏木衛門の督であることを知るのは、何度目かに宇治を訪れた時、弁の尼が、柏木の遺書を入れた袋を持って来て細々と物語る話をきいた時からである。  その話をきいた後で、薫のまず言うことは、  かかる〔弁の尼との〕対面なくは、|罪重き身にて《ヽヽヽヽヽヽ》、|過ぎぬべかりけること《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。(「橋姫」)  とあって、この罪深き身とは、実父がどういう人物とも知らないで生きているのは、子として罪深いことだという意味にとれる。  宇治から帰って後、唯一人の部屋で、その黴《かび》くさい袋をあけて、母宮の手蹟《て》の艶書や柏木自身の縷々《るる》と書きつづけて、生れた子(薫)のことまで詠んだ歌をみたあとでも、もしこれが落ち散りでもしたらと考えて、「こんなことが世にあってよいものか」と今更に人に語れない物思いが添い、つい御所へ行く気もなくなってしまう。  母宮のお部屋に何となく行ってみると、いつもの無邪気に若々しい御様子でお経を読んでいられたのが、薫の顔を見てはじらって経をさし置かれた。  どうしてこのお方に、こんな昔のことを自分がゆめにも知っているとさとらせるようなことが出来ようか。  と思うのが薫の母女三の宮に対する唯一の感懐である。  柏木についても、薫はその後実父のために密かな供養でもして罪を軽くしたのかどうか、生前のことについては、そのことがあってから、彼についてより多くを知りたいとそれとなく他の誰かにきいて見せるようなことは書かれていない。そして彼の関心は八の宮の死や大君《おおいぎみ》中の君への恋愛へ移って行くのである。  名だけの父である光源氏についての自責のようなことは、元より少しも本文には現われて来ない。  薫が、恋愛にも消極的な態度に終始する時には、いつも、「世を捨てたい」とか、「憂き世ははかないものであるから」とかいう俗世|厭離《えんり》的な思想が根になっているが、それならその思想に徹底するかというと、最愛の大君に死別した時にも、浮舟を生死不定のままに見失ったときにも、はっきりした態度はとっていない。  浮世はいとわしい、辛い、厭なところだということは、自分の出生の秘密を知って、いっそう深まった筈であるのに、彼は相変らず、光源氏の次男として官位は昇進を続け、帝の第二皇女の婿君にさえなるのである。  ここで、薫の「罪深き身なれば」の「罪」は、一体何を指すものであろうかという最初の問いに私は立戻らずにはいられない。  実の母親が、公認された夫以外の男によって自分を世に送り出した。全くこれは生れた子供自身の責任ではないことだし、原始社会でも、又、未来の社会でも問題ではないことであろう。しかし尠《すく》なくとも、男系と女系のそれぞれの身分に厳しい優劣をつけて、それによって区別されることが社会の階級をなしていた王朝貴族社会では、冷泉院や薫の置かれた地位は、あばかれれば侵される危うさを持っている地位であって、それを支えたのは、前者の場合に母の藤壺であり、後者の場合には、原告の立場にある光源氏その人であったわけである。  薫も冷泉院《れいぜいいん》と同じく生母は内親王であるから、その点では、父系の血統がいくらか降《くだ》っても彼の誇りは傷つけられないのかも知れないが、薫の性格に籠《こ》められている陰影がこの誕生の秘密にあるだけに、柏木の遺書をよんでの後の薫に、それがさしたる影響になって変って来ないのは私には不満である。冷泉院が終始ワキ役であるに対して、薫は宇治十帖の主人公なのだし、濁世厭離思想と罪の意識とは、もう少し鋭く切りあっていてほしい気がするのである。 「罪の意識について」という大仰《おおぎよう》な題で、光源氏、冷泉院、薫という「源氏物語」中の人物の当面した真摯《しんし》な問題について語って来た。それはつまり、出生をめぐる親子関係に焦点をしぼったことで、そこには、男女間の愛欲に尾をひく子の代《だい》の負担も罪という言葉に集約されていると思ったからであるが、前記の文章を読まれた方には分るように、「源氏」の作者の所謂《いわゆる》「罪深き身なれば」の「罪」は、結局するところは仏教の摂理に基づいて、煩悩無安の娑婆《しやば》に現じるはかない諸相の茫漠と捕えがたい冥妄《めいもう》を言っているものであろうか。  ここで立ち留まって私は罪という言葉について考えて見るが、当然のこととして答えは出て来ない。キリスト教も仏教も人間に罪を科すことには躊躇《ちゆうちよ》しないことに於《お》いて一致しているところを見ると、人間は罪を意識する権利によって、神をも仏をも見出す権利を得ているものらしい。 「源氏物語」の中に描かれた罪の意識の中に、実の親を知らず、それに対して孝を尽さないということが数えられるが、これは東洋的な思想ではないだろうか。西洋の伝説や物語に、親族の復讐《ふくしゆう》や愛着について語っているものは多いが、孝行という美徳は中国や日本ほど尊まれていないのではないか。  私は西洋同様中国のことにも一向不案内だけれども、孔子は礼を重んじたことの中に、祖先や親への死後の祭事を大切にすることを度々教えている。「源氏物語」の中の孝行の思想は儒教的なものではないかと言われた人があったが、あの時代の貴族の漢籍の素養というのは、徳川氏が朱子学を倫理の基盤にしたのとは大分違うのではないだろうか。科挙の制度などを大学寮などに取入れながら、全く違ったものにしてしまっているところに、弛緩《しかん》したと言えば弛緩した、靉靆《あいたい》といえば靉靆とした一種の王朝的雰囲気があり、その美しいものも醜いものも一緒に溶き籠めてたゆたう雲の間にこそ、「源氏物語」は輝き出たのだと思うのである。  私は、詮索《せんさく》ついでに、「源氏」の作者が愛読したと思われる「史記」の中の秦《しん》始皇のところを読んで見た。「始皇本紀」よりも「呂不韋《りよふい》列伝」の方が精しくて面白い。秦始皇帝は先王の実子ではなくて、母太后と権臣呂不韋の間の子であった。実は呂不韋の妾《めかけ》であって妊娠していたのを、秦の王子に贈り、王子の子として、誕生したのが始皇である。  父王の死によって始皇がまだ幼くて王になった時、呂不韋は、仲父(父に亜《つ》ぐ尊称)を得、大臣として最高権威者となった。太后との関係はずっと続いていたが、始皇帝が成長する頃になって、呂不韋は別に|※[#「女+摎のつくり」]毒《ろうあい》という男を探し出し、宦官《かんがん》を装わせて太后に侍《はべ》らせた。多淫な太后は※[#「女+摎のつくり」]毒を溺愛《できあい》し、始皇と別の地に移り住んで、遂に二人の子を生んだ。このことは、やがて、発覚して、始皇は※[#「女+摎のつくり」]※毒が宦官でなかったことも、又この事が呂不韋によって企まれたことをも知った。  始皇は母后の生んだ二人の子を殺させ、※[#「女+摎のつくり」]※毒を車裂きの刑に処し、その三族を絶やした。  その後で、母后を宮中に戻し実父の呂不韋を都から放逐して、遠く河南の領地へ行かせた。  呂不韋は人望があったのか、元の地位へ戻すように嘆願状が内外から殺到して来る。始皇はこのまま捨て置くと不穏な事が起るのを怖れて、呂不韋に書を送った。  卿《おんみ》は秦にどんな功があって、今の身分に出世したか。  卿は秦にどんな親しみがあって仲父と称されるのか。(逆に言えば、自分はお前とは何の関係もないの意)  卿にはこの領土と地位を受ける理由がないから、今から僻地《へきち》の蜀《しよく》に行くがよい。  この三ヶ条を突きつけられて呂不韋は、次に自分の上に来るものの死であることを予知した。そして酖毒《ちんどく》をあおって自決した。  この時の呂不韋の胸中はどういう風であったか。尠なくとも、権力を手中に握った時、始皇帝は手を下さずに実父を自滅させたのである。  しかし母后はそのままにして置いて、死んだ後では「帝太后」と諡《おくりな》し、その夫であった襄王の墓に合葬した。  始皇の孝とはこういう形のものであった。私はこの非情な毒々しい「始皇本紀」と「呂不韋列伝」を読みながら、これらの中の記述が微妙に変形し、屈折して、王朝的な幽暗な翳りの中に、藤壺の宮となり、光源氏となり、冷泉院の帝となって漾泳《ようえい》しているのを感じないではいられない。  もう一つ、紫式部が、多分読んでいたであろうと思われるものに源信|僧都《そうず》の「往生要集」がある。  源信の「往生要集」は昔一度読んだ時、その地獄の描写のリアルで迫力のあるのに圧倒されたものだが、最近、川崎|庸之《つねゆき》氏とこの本のことについてお話する機会があったので、読み直してみて、改めて日本の宗教人にもこんなに執《しつ》こい描写力を持った人のいたことに感心した。勿論経文から出た地獄の解説であろうが、その表現が抽象的でなく、具体的な惨酷さに徹している点では、ダンテの「神曲」を引合いに出すよりも、キリシタンの殉教史のように生《なま》な凄惨《せいさん》さで、日本では最初の地獄変相ではないだろうか。  藤原道長が行成に「往生要集」を書写させた記録が日記に見えているというし、その前にも、「往生要集」の別の写本はあったらしいというから、紫式部が「往生要集」を読む機会はあってもよい筈である。 「鈴虫」の巻で源氏と秋好《あきこのむ》中宮が六条の御息所《みやすどころ》の死霊のことを話しあって「焔《ほむら》の中にさまようのを救いたい」という言葉が出て来るが、「源氏物語」の世界の焔《ほむら》と「往生要集」の凄《すさ》まじい焦熱地獄の火焔《かえん》とは、どうも燃え方に大分ひらきがあるように思われる。   女二の宮 「源氏物語」正篇《せいへん》の終り近くに「夕霧」の巻がある。前に、「若菜」上下二巻と「柏木」の巻の正念場がずっしり坐っていて、その余韻ともいうべき「横笛」、「鈴虫」の短章によって、それぞれ柏木、女三の宮、源氏のその後のあわれが尾をひいて叙されている。「夕霧」の巻の後には、紫の上の死を描いた「御法《みのり》」の巻と、出家遁世を心に極めている光源氏のその後一年余の生活を既に叙した最終の「幻《まぼろし》」の巻がつづく。 「夕霧」の巻はこの間に挿《はさ》まって、ちょっと違和感を味わわされるほど長い。 「横笛」、「鈴虫」とつづいて来た秋の夜の空のように深く美しい情緒が、そのまま「御法」「幻」へ移って行ってもよいように思われるのに、作者はそこに、抒情《じよじよう》的なものとは裏腹な、リアルな家庭生活の姿と共に、親も世捨人であり、夫には先立たれ、ただ一人残っていた女親にも死に別れて、自分を庇《かば》ってくれる楯《たて》のすべてなくなった、高貴な一人の女性の抵抗を可成り執の深い筆つきで書きつづけている。  この巻の男の主人公夕霧は、光源氏の長男であり、曽《かつ》て、「乙女」の巻で、内《うち》の大臣《おとど》(伯父)の姫(雲居《くもい》の雁《かり》)との幼い恋仲をさかれ、長い、隠忍の末にやっとその姫と結婚することの出来た有名な実直人《まめびと》で、今は近衛大将に昇進している男であるし、女の方は、朱雀院の第二皇女、つまり、柏木衛門の督の密通した女三の宮の姉に当り、同時に、柏木の妻でもあった。彼女の夫が、女二の宮が三の宮ほど美しくないのを嘆いて、   もろ葛《かづら》落葉を何にひろひけむ      名は睦《むつ》まじきかざしなれども  と詠んだのから、源氏読みの通称では「落葉の宮」で通っている。この女二の宮が未亡人になって母の御息所と淋しく暮しているところへ夕霧は亡友の弔問に屡々《しばしば》訪れる。これは、「柏木」の巻からはじまっている話であるが、夕霧は落葉の宮の奥ゆかしい人柄や、琴の冴《さ》えた爪音《つまおと》に心|惹《ひ》かれて、たずねる足のしげくなるうちに、幼|馴染《なじ》みで心驕《こころおご》りしている妻の雲居の雁は嫉妬《しつと》しはじめて、騒がしい夫婦|喧嘩《げんか》がはじまる。幼い子供は沢山いるし、妻は夫に遠慮する風など少しもなく、怒ったり泣いたり、仲直りしたりする情景は、源氏の六条の院に囲っている女君たちとは全く違う世界の人である。恐らく、実際にはこうした大将や北の方が多かったのであろう。もっとも、ここはいくらか玉鬘《たまかずら》物語の件《くだり》の髭黒《ひげくろ》の家庭のバリエーションでないこともない。  しかし、落葉の宮と夕霧との関係はそれとは違って、後段の宇治の大君と薫の間を暗示させるものがないでもないが、勿論それとは違っている。  落葉の宮は、夕霧がいかに親切に自分や母の御息所のために世話をしてくれても、それを、自分に対する求愛と結びつけては考えたくない。御息所にしても、夕霧の変らない情誼《じようぎ》を感謝しているので、心の奥底ではどう思っていたか分らないが、自分が更衣という高くない身分であったために、内親王と云いながらも、娘の二の宮が何となく侮られるような立場の続いていたことが耐えられなかった。小野の山荘に移って病気を養っている間に、夕霧が訪ねて来て、二の宮の部屋に夜を明かして帰ったと告げる僧があった。宮は勿論、夕霧にゆるしはしなかったが、御息所はそのやり方に侮辱を感じて、悩みながら死んでいってしまう。  二の宮も、母の病気が悪化し、その死を早めたのは、夕霧が自分の許《もと》へ来て帰らなかったためと思うとうらめしくて、その後いくら日が経っても、夕霧に頼るようにと御息所の縁者や侍女たちがどんなに説きすすめても、頑《かたく》なに夕霧に逢おうとはしない。とうとう、小野の山荘から連れ戻して一条のもとの宮へ帰ることにする。その頃にはもう世間では、夕霧が、二の宮と縁を結んで、妻にしたのだという風に噂《うわさ》しているので、正妻の雲居の雁は怒って、里へ帰ったりする騒動になっている。  夕霧自身も、おもて向きは一条の宮に居坐って、いかにも宮の夫らしく構えているが、実際には、宮は塗籠《ぬりごめ》にこもってしまって、寄せつけようともしないのである。  この巻は落葉の宮の抵抗のまま終っているが、続篇の八九年後の「匂宮《におうみや》」の巻では、落葉の宮が夕霧の夫人になって、実直人《まめびと》の夕霧右大臣は三条殿(雲居の雁)と一条の宮を十五日十五日に分けて、きちんと通っていると見えているから、つまりは、男の強引な求愛は成功したことになるのである。  私は、今度、「夕霧」の巻を改めて読み直して見て、一つ、気がついたことがあった。  それは、二の宮があれほど、孤立無援の状態になった時、男の熱心な求愛を、頑なに拒みつづけさせたままにこの巻を終らせたのには、前段の女三の宮との対比を意図していたのではないかということである。  女三の宮の閨《ねや》に柏木がはじめて忍びこむとき、「恐れ多くて手もふれられないのではないか」と思ったのが、思いのほかに「なつかしう、らうたげに、やわやわとのみ見え給ふ御けはひ」に思わず情を通じてしまうことを書いたあとで、作者は同じ内親王であって、その本質としての誇りや怒りや恥を、飽くまで身心に沁《し》みつかせているある意味での気難かしい女性を、しっかり書いて置きたかったのではないだろうか。   ホームドラマ  テレビの番組にホームドラマというのがある。似たか、寄ったかの筋であるがよく飽きずに放送されるところを見ると、視聴率が高いのであろうか。  私は家常茶飯事《かじようさはんじ》に適度に味つけしたり、水割りしたりしたホームドラマの、井戸端会議の延長のようなのが性に合わないので余り見ないのだが、テレビが茶の間に入って来るものとすると、一時代前の新派大悲劇よりも、一般の好みに合うのかも知れない。  こんなことを何故《なぜ》書くかというと、「源氏物語」の中にも、ホームドラマ風のところが二カ所ある。  その一つは、前章に述べた夕霧と正妻の雲居の雁との夫婦喧嘩であり、雲居の雁は落葉の宮との間を嫉妬して、「自分は鬼になってしまった」などと幼馴染みの夫に、遠慮会釈なく嫉《や》きたてるし、夕霧の方でも、「この鬼は見馴れて怖くないから、少し恐ろしげをつけよう」などとからかい半分に応酬している。それでもとうとう雲居の雁は子供をつれて里方へ示威運動に帰るところまでこの騒ぎは発展する。勿論、最後は元の鞘《さや》におさまるのであるが、月夜に、よその女の家から帰って来た夫が、子供の大勢寝ているごたごたしたわが家で家妻《いえづま》が恨みごとを並べながら、幼児に乳房を含めているのを見る情景などは、いかにも現実にありそうで、正にホームドラマである。  もう一つの髭黒大将と、物《もの》の怪《け》に悩む北の方の別れ話の方も、髭黒が玉鬘という新しい恋人を得てから急速に離婚の方向へ傾斜して行く。北の方の物の怪はヒステリーの発作であろうと説く人もあるが、兎も角、雪もよいの寒い宵、玉鬘のもとへ行く夫に病み呆《ほう》けた妻がくどくどと愚痴を並べていたまではあわれげであったが、男がめかし込んで出かけようと衣装に香をたきしめている背後から、突然火取りを取って、頭から灰をかけてしまう。髭黒は顔も髪も灰まみれになって、とうとうその夜は玉鬘のもとへ行けなくなってしまった。おかしみとあわれさが一緒になって読者も途方にくれる場面であるが、これも芝居で言えば「世話場」であって、ホームドラマの一種と言える。  ところで面白いことに、この二例をみても分るように、これらのホームドラマ的場面は、きまってと言ってよいほど光源氏の登場していない件《くだり》で展開されている。  これは一体どういうことを意味するのだろうか。  光源氏の行動を主に恋愛を主として捕えて行く場合、彼は、決して、唯一人の女性を永遠に愛しつづけるようなアリアン民族的な人格ではない。  彼にとって永遠の恋人である筈の藤壺の宮に、常に憧憬し、愛しあうことさえあっても、一方に、正妻|葵《あおい》の上《うえ》の他にも六条の御息所をはじめ空蝉《うつせみ》、夕顔、朧月夜《おぼろづきよ》の尚侍《ないしのかみ》などをそれぞれに愛し、ついに、藤壺のゆかりの紫の上を得、六条の御息所に面影の似る明石《あかし》の御方と結ばれるに至る。  しかもそうした青春の恋愛遍歴の間に、光源氏は、末摘花《すえつむはな》のような鼻の赤い醜い王女とそれと知らずに契ってしまって、不如意な勝手元の世話をする羽目になったり、源の典侍《ないしのすけ》のような六十近い色好みの老女官と肉体関係を結んで、競争相手の頭《とう》の中将《ちゆうじよう》と張合うようなことになり、闇の中で、老女を中にして、袖をもぎ取ったり、帯を解いて来たりするような痴態も演じている。  作者はこの場合光源氏をプレイボーイとして扱っているので、結構、実直人《まめびと》の夕霧や髭黒、薫などには真似の出来ない「乱りがましき」振舞をしているのである。  いや、単なる風流|滑稽譚《こつけいたん》ばかりでなく、光源氏は、その本来の資質に於いて「末の世にこのような、輝かしい方も生れ出るものか」と心ある人に驚嘆された美貌や才能と同時に、ホームドラマ的な微温性を踏みにじる猛々《たけだけ》しいものを内に持ってい、そのことが彼の周囲を常に多彩で変化に富んだ本格のドラマに彫り上げているのではないか。「帚木《ははきぎ》」のはじめに、  さしも仇《あだ》めき目馴れたる、うちつけのすきずきしさなどは好ましからぬ御本性にて、稀《まれ》には、|強ちに引きたがへ《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|心尽しなることを御心に思しとどむる癖なん《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|あやにくにて《ヽヽヽヽヽヽ》、|さるまじき御振舞も《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》うち交りける。  とあるように光源氏の最初に言い寄る女として本文に現われて来るのは、空蝉であり、仮令《たとえ》、階級は低くても品定《しなさだ》まりたる(主《ぬし》ある)身であることを|はっきり《ヽヽヽヽ》自覚している女である。この自己に対する矜持《ほこり》を持っている女を口説き、一度は肉体的にも結ばれるところに源氏の「あやにくなる癖」があらわれるので、これはどうにもホームドラマ的ではない。  そう考えてみると、藤壺との恋愛は勿論として、前《さき》の東宮妃であった未亡人の六条の御息所に情熱をかきたてられて通いつめながら、相手が自分をゆるした瞬間から、その重すぎる情緒にあぐねて逃げ腰になったり、浮気の相手としては、この上なしに面白くあでやかな朧月夜の尚侍も相手の親から許されたとなると逃げてしまって、天皇の寵姫《ちようき》となって後に危い橋を渡って忍び逢うことに憂き身をやつすようになる。つまり、光源氏の恋愛巡礼はいつでも満たされないものへの憧憬と、希求とを内に秘めているので、後年六条の院に多くの妻妾《さいしよう》を住まわせて栄華の生活を送っている時でも、彼の心は夕顔の遺児玉鬘の、母よりも美しく生《お》い優《まさ》った現《うつ》し身《み》を逐って、養父と恋人との間の感情を常にさまよいつづける苦しさを味わわずにはいられない。  こうした光源氏の周囲にはいかに紫の上が完全な妻として坐っていようとも、ホームドラマは起りようはない。起るのは、「若菜」以後の晩年の陰惨な悲劇だけである。   歌のない女 「もののあはれ」を解さぬ人は「よき人」とは言われぬ。それは、世間で言う道徳的規範とは違うのだと、本居宣長は「玉の小櫛《おぐし》」の中で言っている。藤壺の宮や、光源氏は、密通という不道徳な行為を犯していても、その行為に至る経緯においても、犯してからの煩悶懊悩《はんもんおうのう》においても、人のこころの底をゆする「あはれ」を失っていない点で、「よき人」の条件を傷つけていない。  その反対に、源氏を弾劾《だんがい》する立場の弘徽殿《こきでん》の大后《おおきさき》は、徹頭徹尾我意を張る行動に終始し、他の感情を大切にする、即《すなわ》ち「もののあはれ」を無視した行動者である点で、「よき人」の仲間に入ることが出来ず、後世の無情な分類者の一部は、彼女を「悪后《あくきさき》」の名で片づけているものさえある。  しかし客観的に見ると、弘徽殿の女御《にようご》(後の大后)は、別にそれほど指弾される人物でもなさそうである。  なるほど、藤壺の宮の母の皇后をして、  あな恐ろしや、東宮の女御(弘徽殿)のいとさがなくて、桐壺の更衣のあらはにはかなくもてなされし例《ためし》もゆゆしう(不吉)……(「桐壺」)  と言わせている通り、桐壺の更衣の殊寵《しゆちよう》を憎んで苛《いじ》めぬいた後宮の女人群の弘徽殿が総帥であったことは事実であるし、更衣の死んだ後にも、「なくてぞ人の恋しかりける」などとはゆめにも言わず、「死んだ後まで人にもの思わせる女かな」と憎さげに言ったり、帝の傷心をよそに見て、間近ではなやかに管絃の宴を催して、「よくも」と口惜しがらせたりもする。  第一番に入内《じゆだい》した最古参の女御であり、右大臣の娘のいう以上に、気性の強さで帝を抑えているので、この強妻に文句をつけられると、帝はいつも、後退せずにはいられないのである。逆に言えば、こういう強力な個性の女性があって、更衣を熱愛する感情が高揚して行ったと見ることも出来る。  しかし、弘徽殿にしても、鬼でも蛇でもない。その証拠には、母を失った後の世にも美しい幼い源氏を、帝がその許《もと》へ連れて行って「母もいないことゆえ可愛がってくれ」と頼むと、その愛らしさに憎みあえず、微笑《ほほえ》まずにはいられないのである。  弘徽殿が源氏と再び仲の悪くなるのは、藤壺の宮という新しい競争者があらわれ、その人を母のように源氏が慕うようになってからのことである。  弘徽殿の女御、またこの宮ともおん仲|そばそばしき《ヽヽヽヽヽヽ》ゆゑ、うち添へて、〔源氏への〕もとよりの憎さも立ち出でて、ものし(不快)とおぼしたり。(「桐壺」)  と本文に見えているが、これは当然のことであって別に弘徽殿が悪いということにはならない。少年の源氏は藤壺が母に似ている美しい人として慕い、それが初恋に発展して行くので、弘徽殿の女御とすれば、自分になつかない源氏を可愛く思わないのは当然である。その上、源氏のために帝は左大臣の長女葵の上を北の方に選む。これも弘徽殿の生んだ東宮の女御にと所望した時には左大臣は態《てい》よく断わり、弟の源氏の妻にゆるしたのであるから、弘徽殿とすれば、自分とわが子の誇りを同時に傷つけられたことに違いない。  物語の上の源氏は英雄であるから、常に人間以上の特権を与えられているように振舞うが、こうした源氏の行動に掣肘《せいちゆう》を加え、果ては政治的失脚に逐いこむものに弘徽殿の強固な意志がある。  桐壺の帝の在世中、是非なく雌伏していた弘徽殿の女御は、わが子が皇位を践《ふ》むに及んで仮借するところのない、「いちはやき」性格を露出して、敵対勢力を宮廷から追放してしまう。老いた父右大臣の余り思慮の足りない性急で単純な性格よりも、大后《おおきさき》はずっと執念深く、自分を過去に蔑《ないがし》ろにしたと思う者をどしどし罰して行く。  藤壺の宮の剃髪《ていはつ》する前の述懐に、「戚《せき》夫人の見たほどの憂き目にはあわないとしても」と言う言葉があって、ここでははっきり、司馬遷《しばせん》の「史記」の中で漢の高祖の死後その正妃|呂后《りよこう》が、夫の寵姫戚氏を極端に虐待した記述を譬《たと》えに引いている。恐らく、作者の心にこの時、弘徽殿の大后と藤壺を呂后と戚夫人に準《なぞら》える底意があったであろう。  弘徽殿はその妹朧月夜の尚侍との密通が露見したとき、よい機会が到来したとして、光源氏を無位無官におとし、謀叛《むほん》の名さえ負わせようとした。源氏の須磨明石の放浪生活はこの原因によって起るのであるが、弘徽殿の大后はもののあわれを知らぬことによって、悪后と呼ばれたとしても、世の常識から言えば、それほど、批難されることをしたわけではない。  わが子の帝の治世を確立するために、光源氏のような、人気のある、不安な人物を中央から追放するのは当然なことで、実際の歴史の上では王朝時代にこれ以上の理不尽なことが何度も行われ、しかも光源氏のように、政治的に復活した例はまずないようである。  天災が多く天皇自身も眼をやみ、先帝の遺戒に背いたことを不安がって、源氏を流謫《るたく》の生活からよび戻そうとする時も、母の大后は厳然として、  雨など降り、空のあれた夜などは心もおだやかでなく夢も騒がしいものです。軽々しく夢など信じて一度罪したものを、間もなく呼びかえすなどとは朝廷の権威に関《かか》わる。  というのである。まことに正論で女丈夫だとも言える。  女が意志をはっきりと示すことが悪とされた世界では、たしかに彼女は悪后であったろう。そうして「源氏物語」の中の女性で和歌を詠んでいないのはこの大后と葵の上だけではないだろうか。   六条|御息所《みやすどころ》考  本居宣長の若い頃の文章に「手枕」というのがある。宣長が松坂で「源氏物語」の講義をはじめた三十歳前後のものらしいと大野晋氏は推定していられるが、私の読んだのは有朋堂文庫の雅文小説集という徳川時代の擬古文の小説ばかり集めてある終りの方に組入れられていた分のであった。  いかにも「源氏物語」に心酔していた人の筆らしく、文章はそのまま「源氏」の中にその一節をはめ込んでも違和感を感じないであろうと思われるほど、そっくりに書かれている。内容は、あと書きに門人大館高門が、  この文は源氏の物語に|六条の御息所の御事のはじめ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の見えざなるを、わが鈴屋大人《すずのやのうし》の、かの物語のふりを学《まね》びて、|はやく《ヽヽヽ》ものし給へりしを、おのれ、こたみ(今度)倩《こ》ひもとめ出でて、同じこころの友どちのために、板《はん》に彫《ゑ》りつるなり。  と記している通り、六条の御息所のもとへ光源氏が通いはじめ、ようやく馴れ染めるまでの経緯を格別の趣向を加えずに描いている。  書出しからして、  前坊(前《さき》の東宮)と聞えしは上(帝)の御同朋《おんはらから》におはしまししを、御世のはじめより坊に居給ひて、大方の御覚えはさるものにて、内々の御有様はたいとあはれにやむごとなくおもほし交《かは》し給ひ、世の人もいと賢き儲《まうけ》の君とたのみ所に仰ぎきこえさせつつ、行末めでたく飽かぬことなき御身を、いかなる御心にか物し給ひけん、世を味気なきものに思ほしとりて常はいかでかう苦しく処《ところ》せき(窮屈な)身ならで、生ける世の限り、心安くのどやかに思ふこと残さず心のゆく業して明し暮す業もがなとのみおぼし渡りけるほどに、遂に御本意のごと東宮をも辞し聞えさせ給ひて、六条京極わたりになん住み給ひける。…中略…坊に在《おは》しましし時その頃の大臣のむかひ腹(嫡妻の子)に、いと二無くかしづきたて給ひし御女《おんむすめ》、本意ありて参り給ひける。御心ざし浅からず、あはれなる御中らひにて、…中略…清らに美しげなる女宮をなん生み奉り給ひける。  という調子であるから、この一節を試験にでも出されれば、うっかり「源氏」の中にこんな文章があったかと思うかも知れない。  特に、御息所や光源氏について、眼に立つ解釈があるわけでもなく、未亡人となった御息所を慕って源氏が通って行き、女はなかなか許さないが、とうとう折れて「手枕」の契りを結ぶことになるという、他のいくつかの恋愛での常套《じようとう》の場面を繰りひろげているに過ぎないのだが、私が問題にしたいのは、この短い擬古文で、若い宣長が何故殊更光源氏と「六条の御息所の御ことのはじめ」のないのを残念に思ったかという一点なのである。 「源氏物語」の特徴の一つとしては、主な巻々のヒロインとなる女性たちの、最初に源氏の眼にふれる場面の描写が、際立って冴えていることが数えられる。 「若菜」の巻で、扇をひろげたように髪の美しい童女が、雀を逃がしたのを口惜しがる泣き顔で走って来る北山の桜の散る庵室《あんしつ》、絢爛《けんらん》な観桜の宴の後の酔心地にさまよい入った後宮の細殿《ほそどの》に思いがけず、「朧月夜に似るものぞなき」と朗詠する若々しい女の声が大胆に聞え、誰とも知れぬ高貴な美しい女がふらふらさまよって来るのを、やにわに掻《か》き抱いてしまう「花宴《はなのえん》」の夜半、継娘と碁をうっているつつましい人妻(空蝉)の横顔とそれに相対している白いふくよかな胸も露わな、しどけない娘の姿を照らしている大殿油《おおとなぶら》の灯影《ほかげ》……  それらは、雪が朝日にとけて眩《まばゆ》い白一色の光の中に、隠しようもなく見あらわしてしまった赤い鼻の醜女《しこめ》(末摘花)の顔などと対照的に、一々の女の個性を生々と表現して行くと同時に物語に艶《つや》と匂いをふんだんにふり撒《ま》いて行く。  しかし、こうした生彩ある女性の出現絵巻をよそにして、「源氏」の作者は、最高貴族の女性に対しては、用心深く最初の光源氏との恋愛の場面の印象を読者に与えることを避けているように見える。  源氏の永遠の恋人である藤壺の宮との密通にしても、読者の前に初めて現われて来るのは既に曽て二人の肉体が結ばれたことのあった後の場面からであるし、前の東宮妃、六条の御息所にしても「六条わたりの御忍び歩きの頃」と「夕顔」の巻の初めに、ぼんやり書いているだけで、御息所が姿を現わすのは勿論《もちろん》既に源氏の愛人となっている貴婦人としてである。  一時、源氏の恋心を無性にそそり立てる朝顔の斎院(親王の王女、賀茂の斎主となる)に至っては、「帚木」の巻に「式部卿の宮の姫君に〔源氏が〕朝顔たてまつり給ひし歌などを、少し頬ゆがめて語る」女房たちの噂話によって、事ありげにほのめかされながら、その件については一切描かれていないばかりか、源氏の好色事《すきごと》の相手にされることを嫌って、ついに出家してしまうまで、終始、一種のプラトニックラブの相手としてしか存在させていない。  仮に、源氏と関係の深い高貴な身分の女性を、藤壺の宮、六条の御息所、朝顔の斎院の三人に限ってみたとしても、宣長は何故、戯文にもせよ書き加えて見ようとするのに、藤壺や朝顔、殊に藤壺との最初の密会を選まずに、御息所との馴れ染めを選んだのだろうか。  勿論、藤壺の場合には、単なる「源氏」の文章を摸して擬古文を作るだけでは飽きたりない夥《おびただ》しすぎる内容が必要であったかも知れない。恐らくそのことが第一の難関であったとは思われるが、それだからといって、唯、補足したいというだけのことだったら、「六条の御息所の御こと」以外にもいくらも別の例は書ける筈である。  或いはこの短篇の筆をとった時、宣長は御息所と源氏について、それほど重く考えていなかったかも知れない。そう言えば「紫文要領」にも「玉の小櫛」にも、六条の御息所と光源氏の関係について特に述べている部分は見当らない。  しかし、これらの源氏物語論を通して、宣長がどれほど彼以前の研究者よりも、「源氏」を愛し深く理解しているかが窺《うかが》えるにつけても、私には、かりそめに書かれたこの「手枕」という短篇は、はしなくも宣長自身「源氏物語」全篇の構成に六条の御息所が不協和音として、どんなに重要な役割をしめているかを、暗に認めている現われのように思われる。  便宜上初めに六条の御息所の「源氏物語」に現われる件《くだり》を逐次的に記して行くと、御息所の名のはっきり出るのはずっと後であって、「夕顔」の巻のはじめに、   六条わたりの御忍び歩きのころ  とあるのが最初である。  若い源氏は六条通いの途中、五条の乳母《めのと》の病気を見舞い、その隣家の垣根に咲く夕顔の花が縁になって、はしなくも、そこにいる素性の知れぬ美しい女に心をひかれる。  御心ざしの所(六条)には、木立、前栽《せんざい》などなべての所に似ず。いとのどかに、心にくく住みなし給へり。|うちとけぬ御有様《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》などのけしき異なるに、ありつる(夕顔の)垣根おもほし出でらるべくもあらずかし。…中略…今日もこの蔀《しとみ》の前わたりし給ふ。来し方も過ぎ給ひけんわたりなれど、ただはかなき一|節《ふし》に御心とまりて……  とあって、ここでも「うちとけぬ御有様」の女君が、情趣豊かな御殿に住んでいるらしいことだけはわかるが、どういう身分の人であるかは、まったく記されていない。面白いのは、「夕顔」の巻のはじめから、六条通いの道すがらとして書きはじめられ、御息所への光源氏のしっくりしない恋愛感情が、それとまったく反対の性格の夕顔によって狂おしいほど昂《たかぶ》って行くバランスが暗々の裡《うち》に対照されて描かれていることである。  秋にもなりぬ。…中略…六条わたりも〔御息所の〕とけ難かりし御気色をおもぶけ聞え給ひしのち、「ひき返し、斜《なの》めならんはいとほしかし。されどよそなりし御心惑ひのやうにあながちなる事はなきもいかなる事にか」と見えたり。女はいと、物を、あまりなるまで思《おぼ》ししめたる御心ざまにて、齢のほども似げなく、人のもり聞かむにいとどかくつらき御夜がれの寝覚め寝覚め思ししをるる事、いとさまざまなり。  これが次にある描写であるが、ここでも「とけ難かりし御気色」、即ち恋仲になろうなどとは思っていなかった相手の高い気位を無理に突き崩して、思いを遂げてしまった源氏が、後になって、前にひたぶるに通いつめた時ほどな情熱を示さないのもどういうことなのかと作者はいぶかり顔に首を傾けている。  ここでもまだ、女君の素性についての説明はないままに、ただ、物事を底の底まで考えつめなければいられない気性で、源氏との年齢の違いや世間の噂になることなどをひどく気にしていると言っているのは、男と女との関係においても、彼女が無条件に男を許したり、甘えさせたりすることの出来ない強い自我の持主であったことを語っている。その点「蜻蛉《かげろう》日記」の著者などからも、存外御息所の性格の一部は借りられているかも知れない。  光源氏について、私は別に、光源氏論を書くつもりでいるが、彼は、女を庇護《ひご》したり、ものわかりのよい処置をとったりして人気のある男には違いないが、彼が物語の表面でこの上なく雅《みやび》やかに装われ、女に劣らず涙を流すのに騙《だま》されて、優柔不断な弱気な男と思ったら大間違いである。「帚木」のはじめの方に、     うちつけのすきずきしさなどは、好ましからぬ御本性にて、稀には、|あながちに引きたがへ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|心尽しなる事を御心に思しとどむる癖なん《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|あやにくにて《ヽヽヽヽヽヽ》、さるまじき御振舞もうちまじりける。  とあるように唯の浮気など面白くない、危い橋を渡って、時には一身の大事に及ぶような冒険の伴うところに恋愛の歓喜も昂揚《こうよう》されるという、一種の理想主義者であり現実破壊者でもあるのだ。  彼の最初の冒険が、物語の上では低い階級の人妻空蝉を犯すところからはじまっているのも象徴的であるが、実はその前後に、彼は先帝の内親王であり父帝の第一の寵妃《ちようき》である藤壺の宮を犯している筈である。源氏の場合は、これらの強《あなが》ちな行為が、強姦にならず複雑な恋愛に発展して行くのは、彼自身の内のそれだけの魅力と威力によるのではあるが、私自身も、光源氏の着重ねている数多い糖衣をはがして見るようになったのはつい最近のことである。  六条の御息所に対する源氏の求愛も、恐らく、藤壺に対する満たされぬ思慕を、別の高貴な女性によって満たそうとする現われであって、美貌・教養・情緒その他の面で御息所は恐らく藤壺に拮抗《きつこう》し得る唯一の貴族女性であったに拘《かかわ》らず、それだけに二人の女性の底に深く沈んでいる本質の違いも男の力でどう動かすことも出来ぬものであったに違いない。  源氏は七つ年上であるから御息所に興ざめたのでもなく、彼女の世に聞えた才華や美貌……周囲を統率して行くサロンの女主人としての大きさ、それらのすべてに感動もし、近まさりも覚えながらそうした理知に統一された貴婦人の底深く潜んでいる鋭い触覚を持った情熱に、本能的な畏怖《いふ》と崇拝とを同時に感じたに違いない。恋愛関係を結んでから後、「よそなりし御心惑ひのやうに強ちなる」ことのないのを、後年、源氏自身、紫の上に向って、六条の御息所は「さま殊に心深くなまめかしき例には」まず思い出でられるがと前置きして、余りすき間なく人をも自分をも見つめ過ぎているようで朝夕一緒にいてはこちらが見貶《みおと》されるだろうと思った(「若菜下」)と述懐しているように、彼女のうちにある巫女《みこ》的なものを、源氏の敏感な心が肉体を通して早く知っていたとも見られるのである。  兎も角、源氏は拒んでいた御息所を無理に自分の愛人にしたが、この尊貴なるべき恋人に充分の礼は尽さなかったらしく、父帝からも、御息所の処遇について、軽々しい浮名を立てて相手を傷つけるようなことをしてはならぬと戒められたりする。  しかし、「夕顔」の巻での御息所は、唯六条わたりの由緒ある屋形の女主人としてしか読者に知られず、その年上の身分の高い恋人を少しもて扱い気味の光源氏が、夕顔の宿の女に夢中になって、一夜一昼《ひとよひとひる》の間さえ恋しいほどに思いこがれて、下町の侘《わび》住居《ずまい》のような家へ顔を隠してまで夜ごと訪ねて行く。  夕顔は六条とはまったく反対で、どこに芯《しん》があるとも解らないほどやわやわとして男のいうままに靡《なび》き従いながら、ふっと、いつか眼の前から消え去ってしまいそうな捕えがたい魅力を身に具えている。  夕顔と一緒にいると、源氏は、自分も身分や体面のすべてを忘れてありのままに和みくつろぎ、戯れることが出来る。勿論この女を相手に道々《みちみち》しい話や言うに言えない悩みをうちあけようなどとは思いもしない。唯逢ってさえいれば、他愛のないことを言って戯れているだけで、理知や教養でどう始末しようもない悩みや悲しみの溶けて行く至楽に恵まれるのだ。  六条わたりの女君はゆめにも夕顔の宿の女の存在を知らない。彼女は、自分のもとをしげしげ訪れて来ない光源氏の行方に人をつけて探させるようなはしたない真似を仮にもする人ではない。彼女の悲しんでいるのは、唯自分の身の上と、自分を別の女にしてしまった源氏に対する愛執だけである。しかし、彼女が「御夜がれの寝覚め寝覚め思ししをるる事、いとさまざま」なのは、自己と他の融合すべくして融合し得ない核についての悩み苦しみであるが、その核がやがてわが身を離れて、自己の意志を恣意《しい》に表現し他を圧殺するほどの力を持つことについても、彼女自身まったく知らない。  由来「源氏物語」の解説者は、六条の御息所を後妻打《うわなりうち》めいた嫉妬《しつと》の権化のように取扱うことが多いが、ああした見解の固定化したのは能の「葵《あおい》の上《うえ》」に六条の御息所の生霊《いきりよう》が劇として表現されて以来ではあるまいか。  事実、御息所の生霊が歴然と姿を現わすのは「葵」の巻の葵の上の産前においてである。「夕顔」の巻で、光源氏が夕顔を、某《なにがし》の院へ誘って、遠出の楽しみを味わっているその夜、夕顔の変死という突然の変事が起る。  宵過ぐるほど少し寝入り給へるに、御枕上にいとをかしげなる女ゐて、「おのがいとめでたしと見奉るをばたづね思ほさで、かく、ことなる事なき人を率《ゐ》ておはして時めかし給ふこそ、いとめざましくつらけれ」とて、この御かたはらの人(夕顔)をかき起さんとす……  とある。この「いとをかしげなる女」を御息所の霊と見るか廃院に昔から憑《つ》いている物の怪と見るかは昔から諸説があって、物の怪と見る論者は、源氏自身がこの「いとをかしげなる女」の姿を、二度(夕顔の死後の夢とも)も見ていながら、御息所らしい疑いなど少しも持っていない点を推している。しかし、この「いとをかしげなる女」の幻の現われるすぐ前に、源氏は自分の行方知れずになっているのを父帝も心配していられるであろうと推量するすぐ後に、  六条わたりにもいかに思ひ乱れ給ふらん、恨みられんに苦しう、理《ことわ》りなりといとほしき(気の毒な)筋はまづ思ひ聞え給ふ。何心もなき〔夕顔の〕さし向ひを、「あはれ」と思すままに、〔御息所の〕あまり心深く、見る人も苦しき、御有様を少し取捨てばやと思ひくらべられ給ひける。  と両極にある二人の女を比較してみている。そのすぐあとに、例の「いとをかしげなる女」が夢うつつに見えて、夕顔をとり殺すのであるから、私にはどうもこの物の怪も、「葵」の巻の前提としての六条の御息所の生霊であると思われる。  ただ、夕顔の場合には、御息所の身分もはっきりさせず、六条あたりに優雅に住みなしている高貴な女君とだけぼかしてあって、女君自身も夕顔の存在さえ知らない。まして、八月十六日、その夜、六条の邸を訪れない源氏が、そんな女と、人里離れた廃院で、隠れ遊びしていようなどとはゆめにも知らないで、車争いに敗れた後、葵の上を憎むようなはっきりした対象として、夕顔が呪《のろ》い殺される筈はないのである。  しかし、御息所の凝《じ》っとものを見据え、考えつめて動かない心の底には、自分でも気づかない微妙な働きがあって、愛執している光源氏の行く方向へさまよって行き、彼が自分を見失うほどにうちこんでいる女を自然みつけ出しもする。  人の棲《す》まぬ荒れはてたひろい廃院の一間に屏風《びようぶ》や几帳《きちよう》をわずかな蔽《おお》いにして、さして恥じるでもなく、素直にしなやかに光源氏の愛撫《あいぶ》に応えている女、そんな女を美しい小動物のように愛しぬいている男……眼にあまるものが見え、言葉がするすると喉《のど》をはしり出る、同時に抱きあってうち伏している女の細い首に手をのばすと、骨の両側へ冷たい手をきつく当てる……もうそれだけで女は息が忙しくなり、汗みどろにあえいでいた……  御息所は御帳台の中で、喉をふさがれて苦しく、かき払おうとすると胸が痛んで眼ざめた。  自分がのどを塞《ふさ》がれたようで、長い吐息が洩れた。 「どうか遊ばしましたか」  とお傍《そば》にやすんでいる中将の君が御几帳の帳《とばり》をあげてそっとうかがう。 「何か怖いゆめを見たのかしら、汗にあえて」  女君は静かにいう。ほんとうに、あの廃院も眼鼻立ちの仄《ほの》かな女の顔も、それを好もしそうにかき抱いていた光源氏の輝かしい眉目《びもく》さえ、女君の心には今残っていなかった。ただ何かに惹《ひ》かれているものが、自分をうつろにし、また、自分のうちに帰って来る息苦しさに汗を流したのである。 「源氏」の作者は「夕顔」の巻の物の怪も、「葵」の巻と同じ六条の御息所として設定していると私は思っている。しかし、それをはっきり御息所の生霊であるとは、彼女自身も知らず、光源氏も知らない。源氏の眼には唯枕上に「いとをかしげなる女ゐて」と見えるように書いているところに、「葵」の巻での鮮かな生霊の出現と区別される一線がある。  御息所の身分を曖昧《あいまい》にぼかしながら、唯、高貴な通い所の女主人が、若い光源氏を独占し得ないで、矜持を傷つけられ悶々としている、その眼に見えぬ執着は、源氏の心にも常にまつわりついていて、夕顔との恋に酔いしれている瞬間にも、ふっと、その人のことが煩わしい面紗のように眼さきを蔽うのである。廃院での物の怪おかしげなる女は、その御息所と源氏との断ち切れない思いの接点が、誰とも知れぬ美しい女の影となって、あっという間もなく、夕顔の命を奪ってしまう結果になる………言わば「葵」の巻の前提ではあるが、読み方によっては、どうにでもとれる幅とゆとりを持たせてある。  私は今度の口語訳で宣長の故知にならって「夕顔」の巻のはじめに六条の御息所の身分を明らかにする筆を加えたが、今考えてみると、これは飽くまで口語訳の一方法であって、原文が、六条わたりの御忍び歩きと書き出して、この巻全体に御息所の身分を明らかにしていないのは不合理ではあるが、一種特別|幽晦《ゆうかい》な雰囲気《ふんいき》がこの女君と源氏との間に生じることを暗示させている手法と見られないこともない。  一体紫式部は理知的な作家で、死霊生霊など当時の文献に多く現われて来る現象であるのに、「源氏」の正篇中では、六条の御息所だけに規定して、憑霊《ひようりよう》の働きを述べているだけで、他には、名ざしされる物の怪は現われない。(宇治十帖の浮舟の家出の時に、美しい男が誘い出したのが物の怪として扱われている)  それだけに、唯一の、霊能力の司宰者としての六条の御息所の存在は「源氏物語」の全巻を通じて、重い役割を担っていると私は思っている。  私は、十四五年前に書いた小説「女面」の中で「野々宮記」というエッセイを女主人公の作品として、紹介しているが、その内容は、大体私自身の意見であって、六条の御息所についてなのである。今でもその考えは大体違っていないので、前文と多少重複する箇所もあると思うが、二三カ所を抄出して、この文章の補助としてみたい。  ——一般には源氏の物語の基調をなすものは桐壺、藤壺、紫の上の物語であって、六条の御息所は傍系的な挿話として語られるか、弘徽殿皇太后に似た悪型として扱われているが、私には「源氏物語」の中での六条の御息所の位置はそういう軽いものにはどうしても思われない。「源氏」の作者が、光源氏の中のエジプス・コンプレックスを中心にして、藤壺、紫の上、女三の宮という同じ血筋の女性による源氏の恋愛経験、人間完成を主眼にしていることは私にもうなずける。その他にもう一つ、天皇の血統をうけて生れて来た源氏を動かすものに、古代からの巫女的な能力が存在することも確かであろう。古|倭《やまと》民族がウラル・アルタイ系のシャーマニズムを日本に伝えたことは「日本巫女史」などによっても説かれている。天照大神《あまてらすおおみかみ》が女神だというのも、つまり古代の神が巫女に憑《の》りうつるというシャーマニズムの形態を伝えたものであるし、「古事記」の仲哀記に神功《じんぐう》皇后に神が憑《つ》いて三韓征伐を託宣するのもその伝統の継承である。そういう巫女的な能力を光源氏に及ぼしている六条の御息所の存在が、全篇《ぜんぺん》を通じて強い不協和音になって、「源氏物語」のシンフォニーを完成していることは疑えないように思う。…中略… 「源氏」の解説者は大抵、六条の御息所が、極めて嫉妬深く執念深い性格で、そのことが男の源氏にはやりきれないで逃げまわる結果になるという風に説いている。仏教的に見て女の冥《くら》い業の典型として、高貴な身分の御息所が生霊になって、源氏の本妻葵の上を悩まし、遂にとり殺す物語が描かれているというのである。  しかし、私は「源氏」の作者はそれほど御息所を指弾して書いたのではないと思う。その証拠には、葵の上の死後、源氏が御息所とうとうとしい関係になることは、例の生霊を眼のあたりに見たための余儀ない隔離であるけれども、それから一年以上経ったあと、御息所が娘の斎宮と一緒に伊勢へ下ろうと決心した後、名残を惜しみに野の宮の斎宮仮御所を源氏が訪ねる件《くだり》には、全巻中の白眉とも思われる別離の美しい抒情《じよじよう》が歌われているし、いよいよ斎宮と御息所の出立の日に、二人の輿《こし》を逐わせて贈る源氏の別離の和歌も、慌しい旅の宿から来る御息所の返歌も、ともに情景兼ね具えた秀歌である。   ふりすてて今日は行くとも鈴鹿川      八十瀬の波に袖はぬれじや(源氏)   鈴鹿川八十瀬の波にぬれぬれず      伊勢までたれか思ひおこせむ(御息所)  御息所と源氏との恋愛を不幸な溶けあえないものにしたのは、御息所の中に重く沈澱《ちんでん》している自我が源氏の眼もあやな男の情緒によって遂に染めかえることの出来なかったということで、同時にその根強い自我は一切の行動を制約された当時の最高貴族階級の女性の教養の中で憑霊的なものとして、発展して行くより仕方のなかったように思われる。源氏は御息所の自我や執着について、それを無理ではないとして肯定している。葵の上に取りついたのは六条の御息所の生霊であったにしても、後段に紫の上や女三の宮の病床にまで御息所の死霊が姿を現わすのは、死霊であるよりも、御息所への贖罪《しよくざい》を果していない源氏自身の心の鬼が描き出す反射作用であると見てもよいのではないか。源氏は御息所の溶解しない自我にあぐねると同時に天皇の血をひいたものの伝統として自分の中に持ち伝えて来た女性の霊媒的な能力に畏怖《いふ》を抱きつづけていた。六条の御息所の娘を自分の妻妾とせずに、冷泉院の中宮に献じるのも、御息所の霊と和解しようと願ったのであったが、そうした肉親への奉仕では猶《なお》ゆるされない罪を源氏は晩年まで御息所に対して負うていたのである。そうでなくて、どうして柏木との密通の胤《たね》を分娩《ぶんべん》したあとの女三の宮が落飾するという源氏の最も暗い心境の瞬間に、侍女の一人に憑りうつった「物の怪」が「とうとう一人は尼にしてやった。紫の上の生命を取りとめたと喜んでいられるのが嫉《ねたま》しかったので、この御殿にそっと隠れていたけれど今は思いが晴れたから帰ろう」と快げにうち笑うというような残忍な復讐《ふくしゆう》を御息所にさせなければならなかったろうか。六条の御息所について、読者は娘の中宮の栄華によって執念は疾くに消じ尽したと信じているのに、作者は猶源氏に和解しない唯一人の女性として、六条の御息所をこの暗澹《あんたん》とした源氏の晩年に生きかえらせて来るのである。  その意味で、藤壺の宮や紫の上が男をゆるす苦しみの中に自分のすべてを溶解して男の中に永遠の花を咲かせる女であるならば、六条の御息所は男の中に磨滅することの出来ない自我に身を焼きながら、現実のいかなる行動にもよらず、憑霊的な能力によって、自分の意志を必ず他に伝え、それを遂行させねばやまぬ霊女なのである。  六条の御息所が娘の斎宮に従《つ》いて、伊勢へ下ったあと、父帝の死による敵対勢力の暴力的な進展、藤壺中宮の落飾、朧月夜《おぼろづきよ》の尚侍《ないしのかみ》との情事の露見など、源氏には悲運が重って来て、遂に官爵を剥奪《はくだつ》されて須磨に謫居《たつきよ》するという、生涯で最悪の一期間に逐いこまれるのである。見方によればこれも御息所の呪詛《じゆそ》とも言えないことはない。伊勢へ行った後も二人の間の文通は絶えずつづいているのであるが、元来御息所の憑霊的能力は、葵の上の病床を襲って髪を手にからんで打擲《ちようちやく》するような狼藉《ろうぜき》を働いている時でも、自分自身がそのような荒々しい振舞をしようとはゆめにも思っていないことでも知れる。  相手を深く憎み呪ってはいるが、それは現実の御息所に於《お》いてはどこまでもわが心一つに封じこめている秘密なので、その呪詛は行動に移し得ないものと信じているのに、いつか心中の執着がはっきりした形をとって大胆に相手に障礙《しようげ》を与えて行き、その能力の凄《すさま》じさに御息所自身も圧倒されるのである。  源氏が須磨に籠居《ろうきよ》して女気のない生活に沈みこんでいる時、数多い愛人達は文を寄せてその孤独を慰めるが、その中でもみちのく紙に何枚となく書きつづけた最も情緒|纏綿《てんめん》する長文の主は御息所であった。恐らく「同是天涯淪落の人」の情が伊勢にある御息所の抒情性を思うままに掻き立てたものであろう。そうして又、失意の境遇にある源氏もこの御息所の美しい抒情性に充分動かされて、遠く心を伊勢の宮に通わすのである。  ここでは御息所の主我的な愛情は気味悪い憑霊作用には陥らず、美しい抒情に溶けて文学性を強調する。御息所の自我が哲学的に個我と彼我とを究明しようともせず、宗教的な諦観《ていかん》も得られず、抒情と憑霊との間を彷徨《ほうこう》しているのは特徴的である。  源氏が御息所に対する嫌悪感を殆ど忘れていることは須磨から明石に移ってから後、はじめて明石の上に逢う件で、明石の上の第一印象の高雅な有様を、  仄かなるけはひ、伊勢の御息所にいとよう覚えたり。  と記していることで知られる。御息所に似ていると思ったことで、源氏の情緒は少しも後退せず、しばらく絶えていた濃《こま》やかな愛情の生活が明石の上との間にはじまって、やがて女児の母となった明石の上を京都へよび迎えて、紫の上に亜《つ》ぐ愛姫とするのである。  明石の上は自分の身分が源氏の他の愛人達に比して低い国司階級の娘であること、田舎に生い立ったことなどを深く恥じて、一生を遜《へ》りくだって過すのであるが、内心の気位の高さでは他の妻妾と較べものにならないものを持っている。琴や琵琶《びわ》の才にかけても、男性の達人に伍すほどの技倆《ぎりよう》があるし、素性を卑下しているといっても、その裏には先祖は親王や大臣であった誇りを忘れてはいない。つまり明石の上の謙遜《けんそん》は強い自我の反動としての劣等感なのであって、例えば同じ源氏の愛人でも花散里《はなちるさと》のように、自分をはじめから源氏の愛を受けるのにふさわしくないふつつかな女であるという風に心から信じこみ、その柔軟な性格によって、別趣の愛情の完成をみる肌の可憐《かれん》な女性とは全く趣きを異にしている。  それだけに明石の上は、自分の生んだ明石姫をやがて後宮の后妃となる予備工作として、源氏が紫の上に育てさせることを企画した時にも、涙ながらにもその方が娘自身のためにより幸福な人生を歩み出させるに違いないという分別から幼い娘を手離す犠牲に耐えるのである。明石の上の愛情は大乗的な理知に磨かれているとも言えるが、一面からは自分を客観して見られる冷静さと功利性を持っている。この常識的な理知は御息所のように憑霊的に自我を放散せず、抒情性を巧みに美化して自分を整える様式にした。明石の上が「物語」風の文章をつづっていることが「初音」の巻に見えているが、この文章を書く才能に長じているところにも御息所と明石の上とに共通する抒情、叙事の文学性が見られる。  明石の上は知的なリアリズムで御息所の憑霊性からは遠く離れ、源氏から「際《きわ》なく心深き」人と信じられて生涯愛されるのであるが、折々源氏が明石の上に厭気《いやけ》のさすのは、明石の上の抑制された自我が知らず知らず頭をもたげて愛らしくない女に見える時に限っている。  明石の上が上京して間もなく源氏が大堰《おおい》の邸に訪ねて来た帰り際、姫君にまつわられ、帰りかねて「母君は何故《なぜ》出て来て別れを惜しまぬのか」というと、侍女は明石の上はあまり思いみだれていて、身を動かすことも出来ないのだと答える。源氏はその態度にちょっとうんざりして、余り貴族ぶりがすぎると心の中に評するのだが、この明石の上を訪ねる件でも、明石の上が他の愛人達のように風雨の烈しさにおびえた様子がなく常の通り端然としているのを見て、興ざめる思いがする。六条の御息所と共通する男に頼りきらない女の独立性……底にある逞《たくま》しさが源氏の反撥をそそるのである。  そこへ行くともう一人の御息所に似た女性、即《すなわ》ち御息所と前《さき》の東宮の間の皇女である秋好《あきこのむ》中宮は御息所の逞しい主我性を伝えずに高雅な情趣の面を発展させた典型である。  源氏は御息所との約束を守って、この皇女を自分の愛姫にはしなかったけれども、冷泉院帝(源氏と藤壺の密通の子)の后に献じ中宮になった後も、後見して一種のプラトニックラブを完成させた。紫の上の死後、この中宮と逢っている時、「何もかも味気なく思える世の中にもまだ心の中を語るに足る相手としてこの宮がおいでになった」と源氏に述懐させているのは、秋好中宮の雅やかな情趣が晩年の源氏にも尽きせずなつかしいものに思われる為《ため》に外ならない。秋好中宮はつまり御息所の性格から、憑霊的な烈しさをぬきとった情緒的な貴族女性であるし、明石の上は身分の低いことに自我を抑制して、常識の世界に生きた現実的な女性である。しかし、その二人ともが御息所の一面の性格を伝えていながら、源氏と深い交渉を持ち、生涯飽きられることなくて終る運命が描かれているだけでも、源氏は御息所を原型とする矜持高い女性に充分憧憬する素質を持っていることが知られている。  紫式部の家集に「後妻にとりつく先妻の死霊を修法の力で祈り伏せる絵をみて詠んだ」と詞書きのついているこんな歌がある。   亡き人に喞言《かごと》をかけて煩ふも      己が心の鬼にやはあらぬ  これをみると憑霊が信じられていた時代にも拘らず、霊媒的なものを信ぜず物の怪を、当事者自身の良心の反射作用であると見ている式部のリアリズムの面があらわされている。すると「源氏」の作者は、自分の信憑《しんぴよう》しがたいものを物語の上にどうしてああも生々しく力強く表現したのであろうか。恐らくは女性の抑制された自我の極限を伝統的な巫女的能力に統一して、男性に対峙《たいじ》させたものと思われるのである。…中略…  男が永遠に愛しつづける女性の原型があるように、永遠に怖《おそ》れる女性もある筈である。それは、男性の悪の影法師かも知れない。六条の御息所はそういう女性のシンボルである。 [#地付き](以上野々宮記)   この考えは今も変っていない。唯六条の御息所についての私の傾倒はその後いよいよ深くなって、あの長篇を支えている重要な柱として、藤壺の宮と充分拮抗する重さを持っていることが、今度の口語訳を通して「源氏物語」とつき合っている間にも、ひしひしと感じられた。  前述の点と「女面」の中の文章を除いたほかで、今度新たに気のついたことと言えば、御息所と源氏との関係には、恋愛感情や知的な交流のほかに、もう一つ物質的な執着もからんでいるように思われるのである。  当時の貴婦人は封建時代と違って、自分名義の財産の所有者であり得た。光源氏の遺産処分においても(「竹河」)、玉鬘《たまかずら》がその養女の資格で、なにがしかの配分に与《あずか》ったことが記されているし、明石の上の仮住居する大堰《おおい》の邸の敷地も、その母が、祖父の中務《なかつかさ》の宮の旧領を所有してい、地権を持っていることが書かれている。  しかし、実際には当時の貴族女性は自分が財産を管理するようには育てられていなかったので、しっかりした後見人がなければ、土地なども不在地主として、自然にその権利は他へ移って行った。末摘花がひどい困窮におち行くのも、恐らくそういう管理能力が皆無だったために所領からの収入などあり得なかったためであろう。  貴族の姫君や未亡人に対して所謂御後見《いわゆるおんうしろみ》の必要がここに生じるわけであるが、六条の御息所に限ってはそういう後見役は全く存在しない。彼女の父が大臣であったことは本文に語られているが、兄弟や親族については何一つ言及されていないに拘らず、元皇太子であった夫の死後も、彼女は六条の屋形の女主人として、優雅なサロンの雰囲気を造り出すだけの才能と富とを維持していた。  彼女の六条の住居がいかに優雅に整えられていたか、侍女や女童《めのわらわ》の末々に至るまで、隙のない才気や教養が衣裳《いしよう》の好みや立居振舞にまで及んでいたことは、「夕顔」の巻のはじめに光源氏が朝帰りの渡殿《わたどの》で侍女の中将に戯れる件などにも、よく現われている。  貴人公子たちは、御息所の司宰するこの上なく優雅な贅沢《ぜいたく》な雰囲気に心ひかれて、六条通いすることが多かった。これは野の宮に移った後にも同じであったというが、こうした風流な趣味生活に男たちを魅惑するには、精神的な教養だけではなく、豊かな財力を使いこなす能力が、欠くことの出来ない要素であることも争えない事実である。  御息所は雅やかに見える表面の底にいくつもの能力を隠していて、その能力の一つは、廃太子の遺産を空《むな》しく他に横領などさせず、整然と管理して行く稀《まれ》な力量であったに違いない。光源氏に対しても、恐らく御息所は、他の愛人たちの及びもつかない心憎い贈物の数々をしたであろうし、彼が六条の屋形にいる間中、どこの女のもとにいる時とも違うデリケートな美の雰囲気に心身をひたしているように仕向けたに違いない。逆に言えば、その極端に技巧的な美的調和が、源氏を息苦しくしたことでもある。  しかし、その諧調《かいちよう》ある美の造形は正しく御息所の教養と能力がつくり出したものであってみれば、御息所の執着の強さにあぐねて、彼女から遠ざかって行く時でも、遠ざかれば遠ざかるほどその完成された美的雰囲気は、彼の心に離れにくくまつわっていたであろう。  野の宮の御うつろひの程にも、をかしう今めきたること多くしなして、「殿上人どもの好ましきなどは、朝夕の露分け歩くをその頃の役になむする」など、聞き給ひても、大将の君(源氏)は、「ことわりぞかし、ゆゑは飽くまでつき給へるものを……」(「葵」)  と述懐しているし、須磨|隠棲《いんせい》時代にも伊勢の御息所からの思いのこもった長い文に充分心を慰められている。  御息所は死の前に源氏に逢って、娘の身の上を託して死んで行く。その時にもはっきり娘を愛人の一人にしてくれるなと、遺言して、源氏を興ざめさせる。しかし彼は結局この巫女的能力ある母親の遺託を守って、御息所の息女を自分の実子である冷泉帝の女御に献じ、中宮に冊立《さくりつ》する。御息所と自分との間の不如意であった恋を、同じように年のちがう息子と娘の時代に見事に遂げさせたとも言えようか。  源氏自身も述懐しているように、御息所の源氏に対する愛執も、この計らいによって一応消え去るものと読者は思うのであるが、実際には彼女の霊は死後も妄執《もうしゆう》を捨てないで、紫の上、女三の宮と六条の院の正夫人(紫の上は正妻ではないが、明石の女御の義母として、準正妻の待遇を得ている)に次々に祟《たた》り、最後に女童《めのわらわ》に憑った死霊は源氏に対して、中宮(娘)の後見をしてくれてありがたいとは思うが、「生《しよう》を異にすると親子の愛情は薄れるものと見える」と言い放たせている。  六条の御息所と六条の院ということについて、私はあまり深く考えたことがなかったが、今度口語訳をしている間に、どうしてこのつながりにもっと早く気づかなかったかと思った。  源氏が旧邸の二条の院を捨てて、新しく理想の邸宅を造営しようとする時、その敷地としてまず予定したのは六条の御息所の旧邸地であり、ここに自分の養女分の秋好中宮のための里邸を建て、その周囲の地所をもわがものにして春夏秋冬の四季に趣きを分けた壮麗で優雅な邸宅を完成する。  勿論《もちろん》その中心は光源氏であるが、表面中宮の里邸であることが、まず六条の院にどっしりした重味を加えていることは確かである。言いかえれば、六条の院の実際の女主人は紫の上であっても、形式の上では秋好中宮が、その上位に存在する仕組みになっている。  そして、冷泉院の帝位にある間、この、重味のバランスは充分保たれていたし、源氏が中宮を政治的に利用した点でも完璧《かんぺき》であったと云えよう。  冷泉院の退位と共にこのバランスは自然に崩れる。中宮は上皇の御殿に同居するようになり、里邸の必要は殆どなくなるし、その頃には、新帝の中宮として源氏の実の娘明石姫が冊立され、源氏自身も、上皇に準じる位を得て、名実共に申し分のない六条の院になりすましているからである。  勿論源氏の秋好中宮に対する感情も態度も、以前より疎遠なものになっているわけではない。彼は終世共にこの中宮にも深い思いを注いでいる。  にも拘らず、「若菜」の巻以後においては明らかに秋好中宮は六条の院の女王ではなくなっているし、子のない中宮の死後は恐らく源氏の子孫によって、六条の御息所の旧邸は所有されることになるであろう(これは本文には記されていない未来記であるが)。  六条の御息所の死霊が、紫の上や女三の宮に祟るのは、秋好中宮が六条の院から離れて行った後なのである。  御息所の妄執の中には愛欲ばかりでなく、所有欲もあったと見るのは誤りであろうか。曽《かつ》て自分が主宰者であった六条の旧邸が、愛人光源氏の手で華麗なものに造り換えられ、その女王の座にわが娘の中宮が坐っている間、御息所の霊は安らいでいたが、中宮が去り、他の女君が源氏の正妻として六条の院を主宰することに堪えがたい怒りを感じたのではないか。いや、私の「女面」の中に述べた見解から言えば、鎮魂されたかに見えた御息所の霊が突然むっくり甦《よみがえ》って来て、執念深く復讐《ふくしゆう》をつづけるのは、御息所自身ではなくて、光源氏のうちに潜んでいる許されない罪へのおびえの声であるかも知れない。  そう解釈した方が、「源氏」の作者の作意らしく私には思われるが、それは兎も角として、もう数十年の間読みつづけて来た「源氏物語」でありながら、現在の年になって読み直すうちに、又こういう発見をさせてくれるというのは、仮令《たとえ》それが私だけのひとり合点であるにしても、「源氏物語」とは何という底の知れない深さと魅力を持つ作品であろう。ポンペイの廃墟《はいきよ》ではないが、「源氏物語」からは今後もいくらでも新たな発掘が出来るに違いない。  それでこそ、千年近い年月の風雪に耐えて来た古典と言えようし、それを生き耐えさせて来た日本人自身にも、私は誇りと、幸福を自然に感じるのである。   三人の女主人公—匂宮《におうみや》・紅梅《こうばい》・竹河《たけかわ》 「源氏物語」の正篇と所謂宇治十|帖《じよう》とをつなぐ、「匂宮」「紅梅」「竹河」の三帖については、古来多くの異説があり、作者に関しても、同一人ではあるまいとする説も見られるようである。  私は、いつも言う通り、「源氏物語」を愛読者の立場で見て来たので、作者については余り拘泥《こだわ》りたくない気持であった。実を言えば、この稀有《けう》の傑《すぐ》れた物語の作者が、複数であっても単数であっても、私には大して問題ではないので、仮に紫式部という名前が集合名詞であっても、「源氏物語」を評価する上に何の変りはないと思っている。唯私が読んでいるうちに自得した勘に従えば、この作者は女性であろう、ということだけは言える。それは光源氏という男性像を造形した根底に、ジェンダーとしての女を感じるからである。  しかし、口語訳の仕事にかかって六年の歳月を「源氏」と共に暮らして来た後の今となっては、正篇、つまり、光源氏を主人公とした物語は、確かに、同一の作者の作品であるが、その続篇とも言うべき、「匂宮」「紅梅」「竹河」の三帖、また由来正篇を凌駕《りようが》するほどの傑作として愛読されている宇治十帖にしても、果して正篇と同一人の作家の手になったものであろうか。私には疑問を挿《さしはさ》みたい点が多いのである。前にも述べた通り、私は「源氏」の口語訳はしたものの、国語学や国文学の立場からは全くの素人で、茲《ここ》に書くことも、この訳業を続けているうちに自然に私のうちに湧《わ》き出て来た疑問や、それに対する答えであって、或いはこれらのことについては、専門の研究者の間では、既に多くの問題が提起されているのかも知れない。それとすれば私の書くことは、白昼戸を閉めて暗闇を喞《かこ》っているような愚かさであろうが、「思《おぼ》しきこと云はぬは腹ふくるる業」とか兼好法師の口真似をして勝手|気儘《きまま》に書きつづけて見よう。  宇治については別に項を設けるとして、まず、「匂宮」「紅梅」「竹河」について言うと、私は世人がけなすほどこの三帖が嫌いではない。  ここでは光源氏の死後のその一族及び近縁の生活の模様が、一応納得の行くように説明されている。まず、「匂宮」では、源氏の嫡男、嫡女である、夕霧の右大臣、明石中宮及び、源氏の次男(実は柏木権大納言と女三の宮の密通の子)である薫《かおる》を中心に、一門の繁栄の有様が描かれている。薫は宇治十帖の主人公であり、副主人公の匂の宮は源氏の孫で、明石中宮|腹《ばら》の第三皇子である。この若い二人の貴公子が光源氏の子孫という特別の背光を背負って宮廷サロンの人気の中心になっているが、作者は、  とりどりに、清らなる御名とり給ひて、げに、いと、なべてならぬ御有様どもなれど、いとまばゆき際《きは》には、おはせざるべし。  と評して、二人が光源氏を凌駕する美貌才能の持主でないことを予告している。 「匂宮」の巻では、薫が光源氏の次男というところから、冷泉院《れいぜいいん》(源氏と藤壺の宮の子)から格別に寵愛《ちようあい》され、院内に部屋を設けたりして兄弟の意《こころ》のつもりで後見されていることが語られる。  冷泉院には、弘徽殿《こきでん》の女御腹の内親王が一人あって、美しく成長しているので、薫は、この姫宮ならばとひそかに思いをかけているが、冷泉院はこの皇女に対してだけは厳しい関を設けて、薫を許そうとしない。匂の宮も好色な心から冷泉院の皇女をと、ひそかに懸想しているが、勿論言いよる術《すべ》もない。 「匂宮」の巻を読むとこの冷泉院の皇女が、男たちの心をかきたてる女主人公になりそうであるが、実際にはこの後には何の話も続いて来ない。  又、次の「紅梅」の巻では、光源氏のライバルであった頭の中将(致仕《ちじ》の太政大臣)の子孫について物語られる。  太政大臣の嫡男の柏木は夭折《ようせつ》して次男が跡を取り、大納言から右大臣まで昇進してゆく。  この家の後妻が、髭黒大将《ひげくろだいしよう》の息女、真木柱《まきばしら》の姫君で、はじめ蛍兵部卿《ほたるひようぶきよう》の宮の北の方となったが、宮の没後、紅梅大納言と結婚した。二人の娘のほかに蛍との間の姫君を連れ子にして来ている。その宮の君と呼ばれる姫に匂の宮が思いをよせ、薫もまたその人柄をなつかしく思う。ここにも、二人の男のいどみあうのに恰好な優雅な美人が登場して来ているが、これもこの巻ばかりで、後はいっこう姿を見せないままに終っている。一体に「紅梅」の巻は私のような素人がよんでいても、文章、語脈など乱れていて、落ちつき悪い感じがする。  さて次に「竹河」であるが、これは「紫のゆかりにも似ざめれど」と最初にことわっているように、玉鬘の嫁いだ髭黒大将(太政大臣)の子孫の物語である。  玉鬘は髭黒との間に男の子のほか女子二人を儲《もう》けたが、それが二人とも揃《そろ》って美人、殊に長女は貴公子たちの間で憧憬の的になっている。しかし、長女は母玉鬘の配慮で、冷泉院の後宮に宮仕えすることになり、その皇子を生む。冷泉院は、若い御息所《みやすどころ》を熱愛するが、それだけに他の妃たちの嫉妬《しつと》を買い、実家に宿下りし勝ちになる。昔から御息所に狂おしいまで恋していた夕霧の息子の蔵人《くろうど》の少将は忘れ得ぬ思いを再燃するし、薫自身も、この御息所には仄《ほの》かな恋心を動かしている。  この御息所は夕顔の孫、玉鬘の娘で冷泉院の若い妃という、いかにも物語の女主人公の条件を具えている。冷泉院がわが心一つに弟と思って愛している薫と、御息所との間に恋愛関係が生じたのでも知れれば、それは冷泉院のドラマであり、薫にとっても別のドラマが生れる筈である。  この関係も、勿論「竹河」の巻でそのままになってしまい、若く美しい院の御息所は、宇治に入ってからは全く姿を見せない。  光源氏、頭の中将に亜《つ》ぐ正篇での重要な人物、髭黒大臣の家系を辿《たど》るというだけなら、一応「竹河」はこれで意を尽しているかも知れないが、人間関係から見ると、「匂宮」はまだよいとして、「紅梅」も「竹河」も、折角織りかけた錦をほんの少しで織りやめてしまったような憾《うら》みが読者の側には残る。  これを正篇の愛読者で、何とかその後を書きついでみようと試みた別々の作者があったと仮定し、三人三様の女主人公を考えてはみたものの、発展させ得ないで単なる家系図に終ったとみると、描かれなかった冷泉院の皇女、蛍兵部卿の宮の息女、玉鬘の長女で冷泉院の御息所と、三人三様の美人画をみるようで、異種の興味がある。  私はこれらの三帖を不出来な巻だとか、正篇と宇治の間に挿まるのが無駄だとかいう風には思わないで、唯この、時代的にもかなり矛盾のある(「竹河」は時代とすると「椎本《しいがもと》」あたりまで進んでいる)三帖が、正篇とも宇治とも違う、三枚つづきの美人画のように挿まっているのを面白いと思ってよんでいる。   宇治十帖についての私疑 「源氏物語」を最初に通読した後で、正篇より宇治十帖が優れているという読者は意外に多い。  それらの読者の説は、大体、宇治の方が正篇よりも簡潔で、物語の構成も巧みであるし、近代的だというのである。  大君《おおいぎみ》と薫とのプラトニックな恋愛関係を、アンドレ・ジッドの「狭き門」に譬《たと》えたりする向きもあるが、私はそういう類似から、古典の価値を測ろうとも思わない。  唯、そういう読後感の生れるのも自然だと思われるのは、正篇の捕えどころのない大きさと深さに少々あぐね気味の読者が、宇治に来ると手頃の中篇小説にめぐり会ったという解放感を抱くためかも知れない。物語の筋に起伏が多く、正篇の悠揚迫らない自然の山河のような捕えどころなさに較べて、宇治の方は手入れの行き届いた庭園に対するような感じを与えるのであろう。  しかし、一見、整然としているように見え、ドラマチックな構成を思わせるが、ほんとうに宇治十帖は正篇に較べて整理され、圧縮された人間のドラマであろうか。私は以前からこのことについて疑問をもっていたが、今度口語訳を通していっそう否定的な気持を持つようになって行った。  宇治の物語の興味は、まず、宇治川を背景とした山ぶところの山荘に八の宮と呼ばれる半俗半僧の失意の貴族一家を登場させたところにはじまる。  続篇《ぞくへん》の主人公である薫は表面光源氏の次男であるが、自らの出生に暗い影のあることを漠然と感じとっていて(この薫の自覚にもかなり無理がある)、幼いときから、仏教に薫染《くんせん》しようとしている。そのために八の宮の俗聖《ぞくひじり》めいた生活に心ひかれて山荘を訪問するようになり、そこで、はしなくも二人の美しい姉妹の姫が琵琶と琴を玩《もてあそ》んでいるのを垣間《かいま》見る。  薫は八の宮との宗教を中にした師弟じみた交際の間に、二人の姫たちに恋愛感情を覚え、八の宮もその誠実さを信じて姫たちの将来を托《たく》した形で死んで行く。一方匂の宮も薫から宇治の姫君たちの話をきき、懸想する。  薫は姉の大君を妻に得ようとするが、大君は、独身を守り通す決意をかえず、妹を自分の代りにとすすめる。薫は大君が自分に許さないのは妹の身のおさまりを案じてのことと解して、匂の宮に仲立ちして中の君を逢わせてしまうが、そのために大君の悲嘆と失望は深まり、ついに病死してしまう。姉を失って後薫の想いは妹の中の君に移って行くが、中の君はすでにその時匂の宮の準北の方として二条の院に迎えられている。  薫と中の君と匂の宮の間には少しずつの|ずれ《ヽヽ》がありながら、微妙な感情が動きつづけている。  中の君は薫のために、異腹の妹で東国育ちの浮舟《うきふね》を世話するが、その浮舟にも匂の宮が通うようになり、浮舟は二人の貴公子の間に身一つを置きかねて、宇治川へ身を投げようと家をさまよい出る。  しかし、偶然、そのあたりに宿をとっていた横川《よかわ》の聖の一行によって救われ、魂のぬけ殻のような身を聖の母や妹尼の住む小野の山荘にかくまわれて月日を過すうち、昔の記憶を取戻す。薫が一年後に彼女の生きている消息を知った時には既に尼になっていて、その弟に文を持たせてやっても返事もせず逢いもせず帰してしまう。「夢浮橋《ゆめのうきはし》」の巻は、この、  わが御心の、思ひ寄らぬ隈《くま》なく、おとし置き給へりしならひにとぞ。  という含みの深い文章で霧の中に呑みこまれて行くように終っている。  この終り方は正篇の「幻」の巻の終りが、  親王《みこ》達・大臣の御引出物、しなじなの禄どもなど、二《に》なうおぼし設けてとぞ。  で、元旦にあたっていよいよ出家の意志を定着させた光源氏の粛然とした容儀をはっきり写し出している文章とは全く趣を異にしている。  宇治は、文章にも正篇と異《ちが》うところがあるのを専門家はよく指摘されるが、私はその点ではあまり細かいことはわからないし気にもならない。  唯事柄としては、火事が二度(八の宮邸、三条の宮—薫邸—の焼失)語られているし、浮舟が兎も角入水の決意をして家出するのも、正篇の女君たちには見られないアクチイブな行動だと言える。ここの入水の前に浮舟の侍女の右近が、仲間の侍従に、東国で自分の姉が二人の男を同時に通わせていたために一人が相手を殺したという話をするところがあるが、殺人事件の話の生々しさも、「今昔」などに通う野生の匂いがして、明らかに正篇とは違う。  しかし、そういうことよりも、私が宇治について、一種の不信感を持ち、これは正篇と同一の作者の筆でないのではあるまいかと疑うまでになったのは、物語の基本的な部分において、つまり、人間及びその関係の設定に著しく正篇と異るものを感じたためである。  宇治について書くことは、逆に言えば正篇の人間像について物語ることになる。  私は六年間「源氏物語」の口語訳にかかり切った後でも、猶、「源氏物語」が何を語っているのか、その主題について問われれば、首を傾けずにはいられない。本居宣長の「もののあはれ」の説もそのままに呑みこむ気にはならないし、その他の諸説も、主題として絞って考えると、あの物語の大きさ、深さを蔽うには足りないという気がする。人生を一口に言い尽す言葉のないように、茫洋として、極まるところのないのがこの物語の特徴とも言えるであろうか。  しかし、強いて言えば私には、光源氏という人間像の創造が魅力の中心に思われる。人によると、「源氏物語」は女の描写に優れていて、主人公の源氏は、曖昧に霞《かす》んでいるともいうが、私の意見は反対である。  由来、光源氏のモデルとしては、源高明や藤原|伊周《これちか》、道長、或いは「伊勢物語」によって伝説化された在原業平など、多くの人物が挙げられているが、それらは単なる素材であって、光源氏は飽くまで作者の創作した王朝貴族の理想像であることに間違いはない。  肯定的な人物というものは、物語の主人公としては成功しにくいものである。多くは干菓子のように、美しいばかりで一向うま味のない造りものになってしまう。そうでなければ、理想像に近い人物は受け身の描き方をされた場合に成功し易い。例えばドストエフスキイの「カラマゾフの兄弟」にしても、現存の作品では本当の主人公である筈のアリョーシャは受け身の立場にあって、ドミトリーや、イワン、否スメルジャコフでさえも、けっこうシテ役として、充分に演技することで小説は発展して行くし、それによってアリョーシャの純粋な性格が逆に浮上って来る陰画の効果をあげている。  しかし、光源氏の場合は全く違っていて、一見作者はこの自らの生み出した輝ける主人公にベタ惚《ぼ》れしているように見え、彼の美貌や才能を讃嘆《さんたん》することに筆を惜しまない点、正に、世界の文学にも類い尠《すく》ないのではないかと思われる。ところがそれならば、甘い愛情に満ちているかにさえ見える作者は、一面には冷酷無惨に自分の愛する主人公を苛《いじ》めつけ苦しめることを厭《いと》わない。  例を挙げれば、まず、源氏の出生に母系の貴種でないことを据え、次いでその性格として「帚木《ははきぎ》」の巻の最初に、  うちつけのすきずきしさなどは、好ましからぬ御本性にて、稀には、あながちに引きたがへ、心づくしなる事を、御心に思《おぼ》しとどむる癖なん、あやにくにて、さるまじき御振舞も、うちまじりける。  と述べているように、無理な恋路を娯《たの》しむという、危険な性癖を与えている。  その定義の通り、彼の永遠の恋人は父帝の愛妃藤壺の宮であって、ついに密通の結果、一子を挙げその皇子は表面彼の弟として、帝位を践《ふ》むに至る。光源氏の後半生の栄華は、実はこの不倫にして純粋な恋の実を結んだ結果なのであった。又彼の十七歳の夏の最初の恋の冒険の相手は、若い姫君ではなくて伊予の介《すけ》の妻|空蝉《うつせみ》であった。つまり、人妻を対象とした許されぬ恋であり、「若紫」の巻で少女の紫の上を、自分の邸に奪って来るところの強引さには、掠奪《りやくだつ》結婚の野性も含まれている。  政治的に見ても、源氏は最初から弘徽殿の大后、右大臣という強大な政敵を抱えてい、父帝の死後、それに反抗したために、官位を剥奪《はくだつ》されて須磨へ退居しなければならなくなる。須磨での流謫《るたく》の日々の後に海辺を吹きあらす暴風、雨、高潮、雷などに悩まされ、ついには家を焼かれて生命の危険にまで襲われる。私は今度この件《くだり》を訳しながら、作者が主人公を苛めつけている凄《すさま》じさを、前に読んでいた時よりずっと強く意識した。作品の表面では、竜神が源氏の美貌に執心して連れ去ろうとするように書いてあるが、私はこの件に、作者が、源氏をうちのめし、懲らすことによって、一種の贖罪《しよくざい》、あるいはプロガトラオを描き出しているのだと思う。  しかも、作者の源氏への挑戦はまだこれで終ってはいない。帝の実父として、上皇に準じる位を与えられて栄華を極める源氏の晩年には、正妻女三の宮を若い柏木大納言によって奪われ、その隠し子を、わが次男として育てるという、苦い盃《さかずき》を呑み干さねばならないのである。多くの女の愛を得、その愛を見事に保ち得た一代の驕児《きようじ》の誇りもここでは微塵《みじん》に砕かれて、みじめなコキューの実体は、高貴な衣冠の下に底黒く沈んでいる。この苦渋を悉《つぶ》さに味わい、堪えた後、更に愛妻紫の上の死を経て彼はようやく出家への道へ歩み出すようである。  光源氏の生涯はいかに輝かしい栄光に包まれていたようでも、彼をめぐる多くの美姫《びき》が或いは死に、或いは色あせて老いて行ったように、終局するところは、取得もない愚夫愚婦の生活と何の違いもない漠々とした霧に包まれたものであった。  人の生涯は動きまわる影にすぎぬ。あわれな役者だ、ほんの自分の出場のときだけ、舞台の上で、みえを切ったり、喚《わめ》いたり、そしてとどのつまりは消えてなくなる。(福田恆存訳)  これは「マクベス」の中のセリフであるが、光源氏の生涯にもこの言葉を思わせる寂寥《せきりよう》と混沌《こんとん》がある。  源氏の中の女君たち、藤壺、六条の御息所、空蝉、夕顔、紫の上、末摘花、花散里、明石、玉鬘、女三の宮、女二の宮、雲居《くもい》の雁《かり》などの多くが、一つ一つ種類の違う花々のような色と香を持って私たちに眺められるのは、つまりは光源氏という光源から放射する光によって輝いているので、中心は光源氏自身にあることは疑いもない事実である。  正篇「源氏物語」は、外面は、殺人や、自殺や、天災などを一切取除いた、優雅な衣装でなよやかに蔽われているが、その内面には中国の古典、例えば「史記」の冷厳な史観などから学びとった逞《たくま》しい骨格が巧みに隠されている、と私は思う。  宇治にこの骨格がない。  薫という主人公が、父母の不倫の翳《かげ》を負うた恰好な主人公として設定されていながら、性格が不鮮明で納得の行かない点が多い。陰鬱で、若くして仏心を抱いているとうたっているが、一向に悟りを深めるでもなく、大君の死後彼女への愛を断ちかねながらも、女二の宮と結婚し、中の君に愛を求めつづけるし、浮舟の失踪《しつそう》後の傷心の間にも、正妻の姉に当る女一の宮を垣間見て心を寄せたりする。  優柔不断な性格なら、それでいいのであるが、薫の場合には、作者は彼を結構|一廉《ひとかど》の人物らしく扱っている。正篇の光源氏には作者の眼に遠近法の狂いがあるように思われる箇所は殆どない。何処《どこ》から見ても、見事な人物でありながら、手に負えぬ欠点も持ち合わせている矛盾した人間像を確かに描き上げている。これだけの厚みのある主人公を創造し得た同じ作者が、続篇に来て、こんな魅力のない男性を果して主人公として描いたであろうかという疑問が私の内に芽生えている。薫に較べれば、匂の宮の方が、あの時代の貴族にあり勝ちな浮気で、熱し易くさめ易いタイプを、リアルに写していると思われる。雪の中を宇治まで逢いにゆき、浮舟を舟に乗せて、向い岸まで渡すところの描写など、篇中屈指の濃艶な場面であるが、浮舟の失踪後の傷心状態には正篇の夕顔死後の源氏の哀傷が投影している。  浮舟が匂の宮の情熱的な求愛に靡《なび》いて行く過程は無理なく描かれているし、入水を決意しながら、何かに魅入られたように茫然としているあたりが、宇治の巻の内の圧巻とも言えるであろう。  蘇生《そせい》後の浮舟が、出家を決意するのはいいとして、ここに登場する横川の聖は道徳堅固な尊い験者として扱われているのに、薫から浮舟との関係を聞くと、還俗《げんぞく》をうながすような手紙を浮舟に送ったりする。世にはこの聖のモデルに恵心僧都(源信)を当てる人もあるが、とんでもない話だと思う。当時の貴族社会を背景にして自分を評価づける政治的な僧侶《そうりよ》階級があったことは確かであるが、この聖の場合には、初めに浮舟の死を救うところと後の宮廷出入の世間智の僧侶との間に開きがありすぎるように思われる。この僧都ばかりでなく、宇治の巻になると、副人物が、単なる狂言廻しに使われている場合が多い。  明石中宮にしても、正篇ではあれほど高貴に「塵《ちり》も据えぬ」ように大切に扱われているが、宇治になると、唯の子煩悩な母親で妙に所帯じみた感じがする。何かの筋を動かす必要に応じて、登場したり、退場したりするだけである。  浮舟に言いよる中将にしても、この人物と主人公の薫との間に官位や出生を別にすれば男としてどれだけの差違があるのかと思われるし、最後に近く、薫が傷心の模様を間接に伝える紀伊《き》の守《かみ》も、浮舟の一周忌に薫が宇治へ行った折のことを、浮舟のいる草庵《そうあん》の尼たちに話すために登場するだけで、後も先もなく消えてしまう。  こういうと細かいアラ拾いばかりしているように見えるかも知れないが、私の言いたいのは、正篇にはこういう見えすいた狂言まわしだけの役は殆ど見当らず、端役《はやく》と思われる人物にも結構|冴《さ》えた鋭い眼が配られているからである。  小さい意味で作られた筋はたしかに宇治の方に多く、巧みでもあるように見えるが、正篇の一見鈍いまでに大様で、動いているかどうか分らない底にあらゆる動的な力を籠《こ》めている大河のような深さ、美しさには及ぶべくもない。  宇治には正篇にない人物像は殆どなく、それを弱い線で縮小している趣きがある。  薫と大君の恋愛なども、より高きものに達するための精神的な結合ではなくて、男にも女にも勇気がないための不幸な結果と私には思われる。大君の原型は、極言すれば、末摘花や女二の宮に見られる王族の女性の頑《かたく》ななまでの保守的な矜持……というよりも余儀ない矜持を、そういう形で維持するより外に生きる道のない女たちの系譜に入れられぬでもない。そのストイシズムは、宗教的な崇高美にまで高められていない、と私は思う。  大君の死には、彼女の白い花を見事に開かせ得なかった薫の鈍さと咲き切らぬままに萎《しぼ》んで行ってしまう花のわびしさがある。正篇の夕顔、藤壺、紫の上の死のどれをとっても、趣きは違っても豊かに潤った悲しみが感じられるのに、大君の場合には、乾いたわびしさが残る。それは光源氏が女君たちに与えるものと薫のそれとの違いでもあるが、大君の死が宇治の巻の根幹をなすものであるだけに、このもの足りなさもいっそう深いと言わなければならない。  以上私は宇治の部分について、思いつくままに勝手に放言した。宇治を愛す多くの人々からは顰蹙《ひんしゆく》を買うかも知れない。  しかし、これはどこまでも正篇が、格段に傑れた、完成を示しているという前提から出発した指摘であって、正篇を切りはなして考えれば、やはり宇治十帖は、王朝文学中篇の白眉《はくび》と言わなければなるまい。唯、主客を顛倒《てんとう》して、宇治は正篇に優《まさ》る秀作だという説は、肯定出来ない。どこまでも正篇あっての宇治、光源氏の物語の続篇としての宇治であることを、読者は忘れて貰いたくないのである。   仮名文の文体など 「はじめにことばあり」とヨハネ伝はいう。言葉はロゴスであり、神の心でもあるというところは日本の言魂《ことだま》の思想とも似ているようである。いや、ユダヤや日本に限らず、古代人が託宣という形で神と言葉を結びつけたように、人間は行為と言葉の交流によって、その歴史をつくり出して来たことに間違いはない。  言葉が肉声のほかに文字という形式を見つけ出したときから、肉体を離れて生きながらえる新たな歴史がはじまる。言葉はそこで、度々、行為を裏切り、又行為の底の秘密をあばきながら生きつづける。多くの古典や文書は、血なまぐさい人間の生死を無視して生きつづけた。  私は今、「源氏物語」を現代語に移しながら、千年の隔りの向うの世界で、書かれた物語の中の男や女に、自分は自分なりに近より、語りかけられたり、彼らの心のうちに蔵《しま》われていたままの思いに勝手に触れたりしていると思っている。  しかし、ある文学作品を訳すということは、自分が自分の中の言葉で、読者に直《じか》に語りかける創作の仕事とは明らかに違っている。  それならば、学問としての仕事かと問われれば、躊躇《ちゆうちよ》なく私の場合は、否と答えなければならない。私は今度「源氏」の口語訳をはじめるについて、はじめて、私の可能な範囲で正確な知識を「源氏」について得ようと努力したが、それ以前の私は、「源氏」を愛読して来たことでは誰にも負けないつもりだけれども、それは、飽くまでディレッタントとしての読み方であって、現代文にしてみようなどという下心のあるものではなかった。  そうして又、現在、正篇の三度目の直しを終ってみて、あらためて思うことは、これは、誰のものでもなく(言い換えれば誰の責任でもない)、私自身の|読んだ《ヽヽヽ》「源氏物語」なのだということに帰着するのである。源氏を愛読した私がどんな風に読んだかを、現代の言葉で語ってみたいと意図したのがこの訳だと言えそうに思う。随分勝手なわがままなやり方だけれども、私は、何度となく読んでいる間も、いつもそんな風にしていたし、それで面白くもあったのだった。  今度訳しているときに、参考に色々な学者の講義や注釈を見たが、明治大正期の五十嵐力博士や吉沢義則博士の注解に存外砕けた言葉がつかってあって味わいがあったし、折口信夫博士の「玉鬘《たまかずら》」から「藤裏葉《ふじのうらば》」に及ぶ講義のノートや座談会の記事も、独特の見解があって有益であった。  兎も角、語釈や鑑賞の場合には、どなたも、こういう説もあり、又ああいう説もあると述べられるのであるが、通した訳文の場合には、これもよし、あれもよしではすまされないので、いくつかに解釈のわかれる場合にはどの一つかが選まれなければならないことになる。谷崎潤一郎、与謝野晶子、窪田空穂という方々の訳を見ても当然そうなっているし、わかりにくいところは避《よ》けて通っているところもある。  もっとも原文に当ってみても、ほんとうの意味を知りわけるのには、作者を巫女《みこ》の口寄せででも呼び出さねばなるまいと思われる文章もあるし、古今の傑作だからといって、一から十まで誤りなく書かれているというわけでもない。  一二の例をひいても、作中で可成り重い役割をつとめる明石の君の年齢が、「若紫」の巻と「明石」の巻とでは矛盾するのや、藤壺中宮に近仕する王命婦《おおみようぶ》が中宮と共に出家した筈なのにその死後に「御匣殿《みくしげどの》に部屋を賜つて」宮中にいるようなのは、おかしい。  そのほか、こんな例は物語の筋の上にもいくつかあるけれども、作品の大きく強い魅力が読者を圧倒してしまう場合には、そうした小さい欠点は問題でなくなってしまい、かえって読者の側で辻褄《つじつま》を合わせる工夫をしてくれたりする結果になるのも面白い。  それにつけても、文章の味わいを生かすということは、文体が変った場合には至難な業《わざ》だということをほとほと感じている。結局あの綿々とつながって、切れず果てしないような中に、フォルテもピアノも序破急も含まれている王朝仮名文の圭角《けいかく》をあらわさない美しさは、当時の名筆の草仮名の書と同じことで、到底現代に移し植えることの出来るものではない。いや、現代でなくても、あの女文《おんなぶみ》の文体が終って、戦記文学に移ったときから日本人の文章には漢字と仮名の精巧な組み合せが生れ育って行って、それが、内容は変りながらも現代までつづいて来ている。 「賢木《さかき》」の巻で出家前の中宮がわが子に逢う件《くだり》、  宮(東宮)はいみじう美しうおとなび給ひて「珍しう嬉し」と思してむつれ聞え給ふを、「かなし」と見奉り給ふにも、思し立つ筋はいとかたけれど、内裏わたりを見給ふにつけても……  を「平家物語」の先帝御入水の一段の、  主上今年八歳に成せ御座《おはしま》す。御身の程より遥《はる》かにねびさせ給て、御形|厳《いつく》しう、傍《あたり》も照輝《てりかがや》くばかりなり。…中略…二位殿|軈《やが》て抱きまゐらせて、波の底にも都の侍《さふら》ふぞと慰め参らせて千尋の底に沈み給ふ、悲き哉《かな》無常の春の風、忽《たちまち》に華の御姿を散し、痛《いたまし》き哉分断の荒き波、玉体を沈め奉る。  と較べると、読むだけで二つの文章の持つ特徴の違いがはっきり見わけられるであろう。  ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたる例《ためし》なし。…中略…不知《しらず》、生れ死ぬる人、何方《いづかた》より来たりて、何方へか去る。また不知、仮の宿り、誰《た》が為《ため》にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。  つれづれなるままに日暮らし硯《すずり》にむかひて、心にうつりゆくよしなし事を、そこはかとなく書きつくれば、あやしうこそものぐるほしけれ。  周知のように初めのは鴨長明の「方丈記」、次のは兼好法師の「徒然草」の、各々その最初の有名な文章である。  いずれも、戦記ものなどと違う、和文の正統派(?)の名文であるが、この二つを、例えば「源氏物語」のうちの最も、人口に膾炙《かいしや》されている「須磨」の一件《ひとくだり》、  須磨にはいとど心づくしの秋風に、海はすこしとほけれど、行平の中納言の、「関吹き越ゆる」と言ひけむ浦波、夜々は、げに、いと近う聞えて、またなく、あはれなるものは、かかる所の秋なりけり。…中略…枕をそばだてて四方の嵐を聞き給ふに、波、ただここもとに立ちくる心地して、涙おつともおぼえぬに、枕うくばかりになりにけり。  と較べてみると、長明や兼好からは、一癖も二癖もある人生観を語り出そうとしている個の意識が、滑らかな文章の行間に勁《つよ》く秘められていて、その鋭利な刃先や、弦《つる》のような張りが読者につたわって来るのであるが、「源氏」の場合には、須磨に流謫の生活を送る貴公子の悲哀は、半ば、心づくしの秋風に吹き立てられ、行平の歌の抒情に誘いこまれて、さまよいながら、どこへ行きつくともないたよりなさにうねりくねって「枕うくばかりになりにけり」に落ちつくのである。ここまで来る紆余《うよ》曲折は、仮名文特有のものかも知れないが、その内容の豊かさと複雑さを、霧霞《きりかす》むような文体の中にひそめているのは、私の乏しい読書の経験では「枕草子」にも「和泉式部日記」にも「蜻蛉《かげろう》日記」にも、「栄華物語」には猶更《なおさら》、見えないように思われる。  兼好は「徒然草」の中に、「いひつづくれば、みな源氏物語・枕草子などにことふりにたれど」と書いて、四季の移り変りや年中行事などについての記事に自釈を加えているが、それはほんの上べのことで、芯《しん》にはこの中世のしたたかな隠者文学者は、源氏物語的な文体を決して踏襲しては居ない。  谷崎潤一郎はその「文章読本」の中で日本文学の文章を、源氏物語的と、非源氏的との二つに分類している。今資料が手許《てもと》にないのでそれがどれとどれであったかをはっきり示すことは出来ないが、たしか明治以後は尾崎紅葉の作品を源氏派に組み入れ、谷崎自身をも、その流れに沿ったものと自認していたと覚えている。  志賀直哉、芥川龍之介などはアンチ源氏の文章の代表とされていたと思う。  ところで室町時代の謡曲や江戸時代の浄瑠璃《じようるり》などには、存外、源氏物語的な、紆余曲折の多い、まだろこしいような、じれったいような、それでいて、そういう風に語られなければどうしても納得の行かないようなものが多く含まれているのではないだろうか。  謡曲の文章は綴《つづ》れの錦などと言われて、漢詩も和歌も、源氏の本文なども、|ごった《ヽヽヽ》にとり入れられて、謡いものとして集成されているわけであるが、「道成寺」のはじめの道行や、「熊野《ゆや》」の花見に行くあたりの叙景と抒情《じよじよう》の混りあった理屈で片のつかない表現などには源氏的なものが生きているように思うし、その流れを汲《く》んだ浄瑠璃の道行の文句、例えば「鑓《やり》の権三重帷子《ごんざかさねかたびら》」の、  我とそもじは七つと五つ 十二違の月更けて姉とも言はば岩枕《いはまくら》 交す枕が思はくも 影恥かしや 野辺の草 そなたは人の女郎花《をみなへし》 おれが口から女房とは 身のはぢ楓《かへで》いたづらに 染めぬうき名の村萩の 乱れ なくこそあはれなれ。…中略…若い殿御を我故に くづほれ姿|二腰《ふたこし》のその一腰は道芝の 露の 値と消果てて 一本|薄《すすき》刈残す 腰の廻《まはり》は秋の暮  のような、縷々《るる》としてつづき切れることのないままに哀艶な情緒を湛《たた》えてゆく近松の文章には、その発想に「源氏」をふまえていると言われる西鶴の「好色一代男」が、実際には全く別の艶物語であるのと対照的に、「源氏物語」を時代の流れの中で自然に溶解し、独自のものに織りなした印象が否めないのである。   口語訳の言葉あれこれ  宇治十|帖《じよう》の「手習《てならい》」の巻に「くそ」という言葉が出て来る。これは宇治で再生した浮舟が隠れ住む小野の山里の庵《いおり》で、主人の尼君が曽《かつ》ては侍女であったらしい他の尼達に話しかける時、「皆さん」ぐらいの意味で使っているのだという。「源氏物語」にこの言葉の出て来るのはこの部分だけであるが、他の部分で主人が家臣級の者に使う「そこ」「真人《もうと》」などの呼び名に較べると、稍叮寧《ややていねい》な呼びかけなのだそうである。因《ちなみ》にこの当時の「糞《くそ》」は「まり」であって、尿《いばり》も糞《まり》も、「源氏」の中には、私の記憶違いでなければ、言葉として使われていなかったと思う。  ところで、この「皆さん」の「くそ」は、現在私たちが原文で読んだ場合に違和感を持たないかというと、それは嘘になる。もう何百年も、「くそ」という言葉が排泄物《はいせつぶつ》の露骨の表現と密着して私たちの中に固定していてみると、「くそ」が「源氏物語」の中では「君たち」ぐらいの意味であると思ってみても、既成概念を取り去ることはなかなか難かしいことである。  こういう風に、全く言葉の音も意味も違ってしまったと思うもののある反面、殆ど音も意味も変らないままに、千年近い時代を生きつづけて来ている言葉もある。「はかなし」「淋し」「嬉し」「悲し」などの類いは、語尾の変化だけで殆ど現代語にも通じるのであるが、「をかし」となると、現在の滑稽な、或いは奇妙なという意味とは違って、「美しい」「趣きのある」という讃美《さんび》の意味に使われる。  口語訳している時に一番困ったのは、現在の時点で一つの言葉が妙な曲《くせ》をつけて使われている場合であった。一例をいうと、「凄《すご》し」という言葉がある。これは「悲し」「うれし」などと同じように、それほど時代の風化によって意味の狂って来ていない言葉なので、恐らく、谷崎潤一郎が「源氏物語」を訳した頃には、「凄し」の扱いにそれほどの苦労はなかったろうと思うし、私自身にしても、数年前であったら、存外「凄し」を「凄い」と訳して平気でいられたに違いない。  ところがここ数年来、恐らく、若者たちの間で使いはじめられて、流行語になって行ったいくつかの言葉の中に、「スゴイ」、「スゴオク奇麗」、「モノスゴク面白い」などという新用語がある。  これはたしかに、古来の「凄く」「物凄く」などの気味悪いという感じを、可成り敏感に捕えて、肯定面の誇張に利用しているので、なかなか頭のいい使い方だと思う。現に、「源氏」の中にも、「凄く」という言葉をそういう意味に使っている箇所もいくつかある。例えば、「若菜下」の巻の、  吹きたてたる笛の音も、ほかにて聞く調べには変はりて身にしみ、琴にうち合はせたる拍子も、鼓を離れてととのへとりたる方、おどろおどろしからぬも、なまめかしく|凄く面白く《ヽヽヽヽヽ》、所がらはまして聞えけり。  の「凄く」は、後世の「ぞくぞくするくらい面白い」などと似た表現であろう。  しかし、現在、この「スゴク」「スゴオク」「スゴイ」などの言葉が日本中にばら撒《ま》かれている中に、自分も巻きこまれて、いつの間にか「スゴク面白いのよ」などと言っているようになると、「源氏物語」の訳文の中には、どうも素直に「凄い」という言葉が使いにくくなって来るのである。同じ言葉が同じ意味で、長い歴史の間を生きつづけていながら、一時的な流行に押されて、この時点では訳語に生かしきれないというのも、面白いと言えば面白い一つの現象かも知れない。  これも口語訳しながら気づいたことであるが、古い言葉のうちにも完全に死語になっているものと、生きてはいるが、死に瀕《ひん》しているもの、生きつづけてはいるが、時代の塵を冠って濁されているものと、さまざまに類別が出来る。死語は別としても、自分の趣味も手伝って何とかして生き続けさせたい言葉と、その言葉自身が世ずれて、鈍くなっているのとある。 「心憎し」という言葉など、よく「奥ゆかしい」という風に訳されるが、「心憎し」の中には、奥ゆかしいというのとは少し違う「鋭く、敏《さと》い」感じが籠《こも》っている。又、奥ゆかしいという言葉自身も余り使い古されているうちに、何となく習俗化されて、本来の「測り知れない奥深さ」の捕えきれぬもどかしさの意味は失われている。それでも感じが崩れ果てていないので、私は今度の訳にもこの言葉をかなり使った。  俗語を使えば、生き生きすると思う表現が随分あったが、地の文には私は自分の文章にも特殊の場合のほかは俗語は余り使いたくない方なので、今度の場合には殊に避けることを主とした。唯、「いとしらしい」「情けらしい」「|あた《ヽヽ》憎らしい」というような、江戸時代の言葉めいたものがいくつか交っているのは、私の趣味であって、何度か考え直してみたが、結局改めることが出来なかった。 「|あた《ヽヽ》憎らしい」などはまさに俗語である。「乙女」の巻の夕霧と雲居の雁の少年少女の恋が仲を堰《せ》かれる件《くだり》で、乙女の姫が掛物に顔を引き入れながら、まんざら色恋の道を知らぬ様子でないのが「憎き」と本文にはある。この「憎き」が唯の憎いでないことは確かであるが、「つら憎い」でもなし、勿論《もちろん》「あわれ」でもない。どう訳していいか考えていても、結論は出ないのであった。 「あた憎らしい」「あた可愛らしい」などは浄瑠璃の女言葉などによく使われる表現で、俗語に違いないが、いかにも色めいて来た頃の小娘の使う言葉の感じがあって、それが私の内には生きていたので使ってみたかった。言わば私の中の「田舎源氏」の女たちが、脇から口を出して書かせたというところかも知れない。  訳文の言葉についてはまだ色々書きたいことが残っているが、一応これでこの私見を終ることにする。 [#改ページ]  源氏物語紀行   住吉|詣《もう》で  お正月ごろになると、ここ一二年必ず「源氏物語」について何か書くようにという注文が来る。考えて見れば、「源氏」の口語訳を始めてからもう五年目になるので、他所《よそ》から見たら、何か随想めいたこともあろうと思われるのも無理ではないが、当人にすると「源氏」のことと題を出されると、何やら源氏屋という店でも出しているようで、鼻白むことが多い。 「源氏物語」を訳しているなどといっても、元来、私は無学で、専門的なことは何にも解りはしない。好きなので何十遍も繰返し読んでいるうちに、自然、勘《ヽ》のようなものは出来たかも知れないけれど、これは私自身の|読み《ヽヽ》で、今度訳すについて、改めて|読み直《ヽヽヽ》して見て、やっぱり当っているなと思う節もあり、見当外れもあった。骨董屋《こつとうや》の店員は、小さい時から大切な品物を持運びするだけで、年期が入ると自然眼が利くようになるものだというが、私の「源氏」もそれに似た読みつき方で、好きがものを言っているだけのことである。  もう古い話になるが、正宗白鳥先生が「アーサー・ウェーレイの英訳で読んだ方が源氏は面白い」と書かれたあとで、私は先生に敢然といったものだった。「でも先生、やっぱり本文がいいんです」。すると先生は真面目にうなずいて「そりゃそうに極ってる」と言われた。極く当り前のことであるが、正宗先生は考えてみると、原典と訳文ということについて、広義の意味で示唆に富んだ言葉を残されたと今になっていっそう深くそのことを思う。 「源氏」の本文が一字一句動かせないほど好きでたまらないのに……それだけに日本人の外面の生活が全く変化してしまっている現代の社会で、その変化した文化の中へ、変化した言葉で「源氏物語」を投込まなければいられない口訳者の気持には、愛情とばかり一口に言い切れない強いコミュニケーションへの欲望がこもっている。その場合には明らかに現代的なデフォルメを伴うのが当然であるが、数十年前に外国人のアーサー・ウェーレイが既に適度な省略を用いて、「源氏」をヨーロッパ人のために英訳しているのにも、同じ意欲が籠《こ》められていたものであろう。  固い話はこのくらいにして、先日、大阪の住吉神社に参詣《さんけい》したことを書こうと思う。なぜ住吉へ行ったかと言うと、「源氏物語」の中に二度、住吉詣でが描かれていて、どちらも、願ほどきの御礼参りで華やかな行事として扱われているからである。住吉神社は海を守る神であると同時に、農耕の神でもあり、後には和歌の神とも呼ばれている。 「源氏」に記されている部分では、海を守る神として、あの海岸一円の信仰の対象になっている。光源氏の側室となって、その娘を生む明石の君も、父の入道は前《さき》の播磨《はりま》の守《かみ》であるが、住吉の神を深く信仰して幸運を祈りつづけ、ついに光源氏に娘を妻《めあわ》せることが出来た。当時、落魄《らくはく》していた源氏が再び宮廷で栄光の座に返り咲いたとき、明石に残して来た女君は、女子を安産した。これが後に入内《じゆだい》して中宮になる姫である。  源氏は須磨で失意の日を送っている間に、凄《すさま》じい雷雨や高潮に遭って、生命も危いほどの思いをするが、その時にも、「住吉の神、近き境を鎮め守り給ふ、まことに|後垂れ給ふ《ヽヽヽヽヽ》神ならば助け給へ」と幣帛《へいはく》を捧《ささ》げて祈っている。  楽屋|噺《ばなし》になるが、ここを私は口語訳しているとき、この「後垂《あとた》れ給ふ」をどう訳していいか、ほとほと困ってしまったことを覚えている。いずれは仏教の本地垂迹説《ほんちすいじやくせつ》から来ている言葉だと思うが、そこまでの説明は出来ないし、どう始末したものか考えあぐねた挙句、「効験《こうげん》あらたかにましますならば」と、その意《こころ》を汲《く》むに留《とど》めた。  兎も角この大危難を免れて源氏は明石に移り、次の年都へ帰るし、一方明石の入道は、娘の生れる前に見た夢を頼んで住吉の神に願をかけ、毎年娘を神社まで参詣させていた末に、帝の皇子である光源氏と結ばれ子まで儲《もう》けることになるわけである。 「澪標《みおつくし》」の巻では、宮廷に復活して内大臣となった源氏が御礼参りに行粧《ぎようそう》華やかに住吉神社に参詣するのと、明石の女君が年々の御祈りに舟で住吉詣でに来るのとが偶然同じ日に行きあって、女は渚《なぎさ》まで満ち溢《あふ》れる厳《いか》めしい恋人の行列を舟のうちから見て、わざと別の日に参詣することにする。この間にも二人の間に歌だけはとり交わされるけれども、美々しい男の参詣の行列と、つつましげな女の船旅とを住吉詣でを中にして照応した余韻のあるすれ違いである。  二度目の光源氏の住吉参詣は「若菜」の下巻の初めの方にある。源氏は既に四十を越え准太上天皇の位を得、明石の姫君は、帝の女御となってその所出の第一皇子が東宮に立った。その栄華は絶頂に達したと見える時に、源氏は女御と紫の上、それに実母の明石の君、その母などを引きつれて、もう一度、住吉へ詣でる。  それには、その前段に女御の祖父に当る明石の入道が山奥に隠棲《いんせい》するに当って、自分が娘や孫の姫のために、どんなに大がかりな捧げものをお礼として必要とするような大願を、住吉の神に立てていたかを遺言として知らせて行ったためもあったのである。  この住吉行きは当然のこととして、前の時よりも一層大がかりな宮廷人総出という厳めしいものであった。  楽人などもその道のすぐれた人を選り揃《そろ》え、楽や舞の面白さは、神を慰めるばかりでなく、人もまた興じて一夜一夜遊び明かしたと見えている。 「若菜」の巻には、この住吉詣での華麗さのあとにもう一つ、六条の院で女君たちが集って合奏する女楽《おんながく》の屋内のはなやかな場面がある。そうして、そのあとには、紫の上の重病、女三の宮と柏木《かしわぎ》の密通、薫《かおる》の誕生と主人公の光源氏をおびやかす陰鬱な翳《かげ》りが次々と深まって行く。  住吉詣でを二度も作中に取入れているところから、藤原道長が住吉へ参詣している記録でもあるかと私は思ってみたが、見落しかも知れないが、それらしい事実は探し出せなかった。  十五六のときに、私は一度住吉へ行ったことがある。その記憶には、大きな灯籠《とうろう》があって「これが高灯籠です」と教えられたことしか残っていない。それで暮の一日、新幹線を大阪で降りて堺に近いその神社まで行ってみた。   住吉と遊女  住吉大社は大阪市の東寄りを南北に走る上町台地の南の端に当って、昔は海をすぐ近くに見る白砂青松の地に建っていたのであろう。  私が若い時、ほんとうに見たのかどうかさえ半ば朧《おぼ》ろになっている高灯籠は、記憶の中では、海辺の小高いところに、石垣のような上に大きく立っていた。いかにも、昔は夜の海を漕《こ》ぎわたる漁船などが、「ああ、あれが住吉さんの高灯籠か」と灯台代りにもし、海上からの神信心にも伏拝んだことであろう。そんな漁夫たちの素朴な姿までふっと瞼《まぶた》に浮んで来るのである。  しかし実際には現在、住吉神社の位置は変っていないが、干拓が行われて町がひろがったので、七キロ以上も海とは離れた場所になってしまった。高灯籠もたしかにあって、戦後まで台石は残っていたそうであるが、恐らく町づくりの変動の中に呑みこまれていってしまったらしく、今は跡形もない。  私の訪ねた日は、冬|涸《が》れの寒々した午後であった。昔に比べれば、狭くなっているのかも知れないが、大阪の雑踏した町を縫って、一の鳥居を潜ると、二の鳥居との間の池に大きい太鼓橋がかかっていて、あたり一面ひろびろとまことに閑静な境内である。  太鼓橋と私などは我殺《がさつ》に言い習っているが、本来は反《そ》り橋というのだそうな。ここの反り橋は、可成り大きいものだが、丸みも誇張され過ぎていず、造りも華奢《きやしや》でいかにも源氏絵巻にふさわしい。  面白いのは、この神社にはお宮が四つあって、その一つ一つの神が格式に違いのないことであるらしい。それで思い出したのは、幼い頃よく祖母が口三味線で、たしか雛鶴三番叟《ひなづるさんばそう》か何かをくちずさんでいるのを、私も片言に覚えて「……名も住吉の|ちしゃ《ヽヽヽ》のお前の苗代水に……」と歌っていたものだが、あの|ちしゃ《ヽヽヽ》は、「四社」のことであったかと、その祖母の年にそろそろ手の届く今、住吉大社へ来てはじめてのみこむことが出来た。  お社の周囲には、松は思いのほか少なかった。鳩がたくさんいて、豆をやると集って来て、手や肩にとまっている。都会の鳩にしてはまことに大様な大宮人の気分のある鳩であった。  帰りに社務所に寄って、宮司の高松忠清氏からお聞きした話にも、住吉の神事には、踏歌や白馬《あおうま》など「源氏物語」の中に宮廷の行事として引用されているものが残っている。踏歌などは昔のものとは大分違っているらしいが、そういう節会《せちえ》の名が残っているだけでも珍しいことと言わなければならない。  住吉の田植祭や夏の大祭、秋の宝の市などには、大阪のそれぞれ花柳界の人達が、田植女《たうえめ》や市女などに仮装して、祭を賑《にぎ》わす慣例になっているという。  これにも伝説があって、神功《じんぐう》皇后が三韓征伐のあと長門の国の女たちを召し連れてこの辺りの田植女とした。ところが、農耕の終ったあとは用がないので、彼女たちは乳守《ちもり》の遊女になった。そこで遊女と住吉の田植えとの関係が生じたというのである。乳守が後に遊女の集っている里であったことは事実であるが、神功皇后の時代までさかのぼるのはどういうものか。  私はそれよりも、「源氏物語」の住吉詣での件に、やっぱり遊女がちらりと顔を出しているのをこんな縁起譚《えんぎたん》を聞きながら、面白いと思った。  一体「源氏」の中には、あれほどたくさん女は登場して来るけれども、遊女はほとんど姿を見せていない。その癖あのころの貴族が遊女を宴席に侍《はべ》らせるようなことが全くなかったかというと、決してそうではなく、紫式部の仕えた御堂関白道長も美貌の遊女が気に入っていたこともあるというし、少し時代は下るが、大江匡房《おおえのまさふさ》の「遊女記」には、江口、神崎、蟹島など淀川に沿うた船泊に多くの遊女がいて、船を川に浮べて遊客をもてなす川遊びの風情が面白く描かれている。  ところが、あの長い「源氏物語」の中で、私が今気づいている範囲では、遊女という言葉のほんのちらりとのぞくのは、この「澪標」の巻にただ一カ所だけである。  そしてそれが、ちょうど住吉詣での折明石の君が近くに来ていると知りながら、逢うことも出来ず、美々しい行列の主人公でありながら、うしろ髪をひかれる思いで光源氏が都へ帰って行くときなのである。本文をくだいて書くと、  帰京の帰り道には、行きとは違って、好きなように見たいところも見歩き、思うままに遊び散らしていられるように見えるけれども、源氏の君の心には、逢えないままに別れたあのひとのことがつきせず心にかかっている。あちこちで遊女たちも集って来て、可成り位の高い公卿《くぎよう》でも若くて色好みな人たちは、みなただではすまされない様子である。しかし、源氏自身は、おもしろおかしい戯《たわむ》れごとにしても、しんみり語り合うにしても、色恋は相手の人柄によるものだろう、仮初《かりそめ》の旅のすさびにしても、浮薄な気合いの女には心はひかれる機縁《きつかけ》もないものだのにと、色めかしく嬌態《しな》をつくって馴れよってくる遊女たちには、一向心が動かないのであった。  という風になっている。  プレイボーイの面も十二分に持っているからこそ光源氏は魅力のあるヒーローなのだが、彼の色好みは、選り好みが強くて、その点、女であればだれでもというわけには行かないひと癖あるところに面白みも悲劇も隠されている。この件《くだり》などもその一例であろう。  折角参詣した序《ついで》にと、古くから伝わっている八乙女《やおとめ》の神楽舞も見せて頂いた。住吉の神楽には「神降《かみおろし》」「倭舞《やまとまい》」「熊野舞」「白拍子」などあって、私の見たのは「倭舞」と「熊野舞」であった。美しいお神子さんが左右に三人ずつ別れて立ち並び、笛にあわせて舞う。宮廷の舞楽などよりも、ずっと近代的に風化されているが、すがすがしく、典雅な神楽で、まことに快かった。  それにしても神を慰める遊びである「源氏物語」の住吉詣で神楽の神事が、だんだん人と人との間の遊びに変って行き、夜一夜神事と宴遊が入り交って行われるのは、やっぱり後世の祭というものの性格を自然に象徴していて面白いと思う。   嵯峨あたり 「源氏物語」の中には京都の郊外として、嵯峨を舞台にしている場面が多い。  まず、はじめの方では、六条の御息所《みやすどころ》の女《むすめ》の斎宮《さいぐう》(伊勢神宮の斎王)が伊勢に下る前、しばらく住んでいる嵯峨の野の宮へ、京を去るのも間近くなった秋の夕ぐれに源氏が訪ねて行き、例の葵《あおい》の上《うえ》にまつわる生霊事件以来、仲の絶えてしまった御息所と一年あまりの後に逢って、一夜しみじみと別れを惜しむ件がある。  この前後は、「源氏」全篇《ぜんぺん》を通じても情景兼ね具えた名文で、愛情も尊敬も、嫌悪も、恐怖も、底の底まで味わい尽した男女の間に猶《なお》切れがたく残る余情と哀愁をさりげなく描いているのが、そのまま素晴らしい散文詩であるとも言えよう。その背景が、秋草の花のすがれかけた中に、虫の声の絶えない嵯峨野であり、清浄なるべき神域、野の宮であるところに、一層ユニークな恋愛の極致が見られるのである。  二度目に嵯峨の大堰《おおい》川のあたりが文章にあらわれて来るのは、光源氏の政治的復活後で、明石の君をその娘と共に都へ呼びのぼせようとするが、なかなかそれに応じなかったのに、やっと思い立って、嵯峨の大堰近い邸へ、上京して来る「松風」の巻においてである。  明石の入道が、娘母子の上京になぜ嵯峨を選んだかというと、一つには、その時まで明石に育って都を知らない娘が、源氏に招かれて、指定された京のはなやかな御殿に突然住んでみても、他の妻妾《さいしよう》やその周囲のものから、蔑《さげす》まれるような田舎びたこともあるかもしれない。そこは、受領階級からの出世を、この娘の一身に賭《か》けて来た父親だけに、大堰の近くに母方の祖父の土地、邸が相続権の証書など残っているままにあるのに眼をつけて、その管理人を呼んでかけ合うことになる。この管理人と入道との談判がなかなか面白い。  入道が、「費用はいくらでもこちらで一切まかなうから、旧邸をちゃんと修理して住めるようにしてくれ」というのに対して、はじめは管理人は「最近源氏の内大臣がこの近くに阿弥陀堂《あみだどう》を建立なさるので、大勢の人々が動きまわっています。静かにお住みになる場所としては向かないでしょう」と婉曲《えんきよく》に断わる。ところが、その当の光源氏が近くに御堂を建てるというのも入道にとっては、勿怪《もつけ》の幸い……いや、むしろ、大堰の邸に娘を移そうとする下心の第一だったかも知れないのである。そこで早速、こちらも源氏の名を持出して「実はその大臣の御縁もあって、この普請もするのだから、急いでくれ」というと、相手は借地権を主張して「昔の持主の縁者からここを耕してもいいという許可を得て、それだけの小作料は納めて、作物などつくっている」といって、田地などまでこの際取上げられては困ると文句をつける。入道は、大様に出て、「領地内で田畑をつくることなどは一向さしつかえない。土地の権利書はこちらにあるが、そんなことよりも早く家を修理してくれるように」と何かにつけて、光源氏の風を吹かすので、管理人も面倒で、金品をたくさん受取って、修理に従事することになったというのである。  これにつづく明石の君母子の上京、源氏との対面、姫君を紫の上の方へ引取る前後の明石の嘆きなど、「松風」から「薄雲」のはじめにかけて、この大堰の川づらの邸は、松風の響きに吹通う女主人の妙《たえ》な琴の爪音《つまおと》と俟《ま》って、まことに優雅な源氏的な世界を醸《かも》し出すのであるが、前述の一段には、そうした物の値段を知らない人たちとは全く違う、たくましい庶民が顔をのぞかせて、世捨人と大俗人の奇妙に混淆《こんこう》した明石の入道という不思議な人物とがはっきり対《むか》いあっている。この管理人を、作者は「鬚《ひげ》勝ちにつなし憎き顔を、鼻などうち赤めつつ、はちぶき(口をとがらせて)」いう、と形容しているが、この「今昔物語」の世界から飛出して来たような男は、実際そこらにごろごろしていたのであろうし、こういう借地人によって、後見人のない不在地主の地権などは、いつの間にか他人の財産になり変って行ったものであろう。  光源氏が嵯峨に建てた阿弥陀堂は「大覚寺の南に当りて」とはっきり位置を明示してあるところから、清涼寺(釈迦堂《しやかどう》)が古くからそのモデルに推されているようである。  清涼寺は、源|融《とおる》の別荘だった棲霞観(後に棲霞寺)と、一条天皇の時に東大寺の僧|※[#「大/周」]然《ちようねん》が宋から栴檀《せんだん》釈迦如来像を持帰り、ここに祭ったのが、後に一つ名で呼ばれるようになったのである。  融は、嵯峨天皇の第十二皇子で、源姓をたまわって臣下になったが、左大臣まで昇進し、七十四歳で没するまで貞観時代の典雅、風流の代表的な大貴族であった。嵯峨の棲霞観もその贅沢《ぜいたく》な生活ぶりの一端を示すもので、折々そこに遊んで音楽や詩文の会を催したりしたらしいが、晩年は阿弥陀三尊を造像しようとし、本尊だけをつくり、あとはその子が脇侍の観音、勢至の二|菩薩《ぼさつ》をつくったという。伝説には、この本尊の顔が光源氏に似ているといわれている。  私は二度、この仏を拝む機会に恵まれたが、平安朝中期以後の宇治平等院や、大原の三千院の本尊と大体面立ちは似通ったところのある美しい仏である。中年に入った光源氏のモデルといわれても不思議ではない威厳とやさしさとを具えている。  光源氏は、「源氏物語」の中にその最晩年と死を描かれてないことで有名であるが、彼の最後の隠棲の地が嵯峨であったことは、続篇の宇治十|帖《じよう》の中に語られている。 「源氏物語」のこの設定は、無理ではないので、嵯峨天皇は、嵯峨に領地を多く持たれ、退位後は嵯峨に隠居された。その跡が大覚寺である。従って嵯峨天皇の皇子である嵯峨源氏の融などが、棲霞観のような別荘を嵯峨に持ったのも当然であるし、他にもこの例は多いに違いない。間もなく皇族源氏は、藤原氏の政治力に見事に打倒されて、骨ぬきになってしまうのであるが、その藤原氏の政権の最盛期といえる御堂関白道長の時代に、「源氏物語」が書かれ、嵯峨が自然の背景に効果的に使われているのは、興味の深いことだと思う。   光源氏のモデル  清涼寺が源融の別荘のあとで、「源氏物語」の中の嵯峨の御堂の場所に当てられているというばかりでなく、融自身も光源氏のモデルの一部になっているという説は前からあるようである。  源氏のモデルについては、歴史上の幾人もの人物が数えられているが、たしかに、寛平時代の皇族源氏の第一人者であり、一代の風流大臣でもあった源融が、「源氏物語」を書くとき、作者の心に泛《うか》んで来なかったとはいえない。しかし、光源氏の華やかな生活を描写する作者の筆には、融ごのみの世を驚かせるようなところはない。例えば、融が河原院の庭に陸奥《みちのく》の塩釜《しおがま》の景色をつくらせて、浪花《なにわ》から塩を運ばせたというような人目を見はらせたことは、光源氏にとってはむしろ野暮な成金趣味として爪弾きされそうである。これはあながちに融個人の問題ではなくて、同じ平安朝でも百年以上の時の隔たりが貴族の趣味|嗜好《しこう》を左右しているかも知れないが、作者自身の理想像も融ごのみの派手派手しい光源氏をきらっていたことは確かである。 「源氏物語」は時代、風俗などを|当時の《ヽヽヽ》現代に拠《よ》らず、さかのぼって醍醐《だいご》、朱雀《すざく》、村上の時代にとっていると言われている。一条天皇の時代には大極殿は使われなかったのに、「源氏物語」の中にはあるし、その他儀式や慣例などにも、そういうことは多いらしい。故事の考証にやかましい昔の公家伝統の研究書には、そういうことが、一々書きつらねてあるらしいが、それにも辻褄《つじつま》の合うことばかりはないようである。  光源氏のモデルに擬せられるのは、実際には融よりも源高明、藤原|伊周《これちか》、藤原道長、それに文学化された典型としての「伊勢物語」の在原業平などであろう。  高明は、醍醐帝の第四皇子で左大臣まで栄進したが、藤原氏の政権獲得の犠牲になって筑紫に左遷された。後、帰京を許されて、「西宮記」などを書いているが、政治的には復活していない。  高明の失脚のことは、「源氏物語」より一時代前に書かれた「蜻蛉《かげろう》日記」の中に見えているし、貴族社会一般に大きい動揺とかなりな同情を駆り立てた大事件であったらしいから、少し後の時代の「源氏」の作者の耳にも入っていなかったとはいえまい。  またその次の藤原伊周となると、前の高明とは少々事情は違うが、「源氏」の作者とは同時代人で、完全に道長と政敵の位置に立ち、その政争に脆《もろ》くも敗れて、筑紫へ流された若い美貌の貴公子である。「枕草子」にも伊周はよく姿を見せるが、「栄華物語」の彼の逮捕される時の形容には「光源氏もかくやと見奉る」とその美しさを描写している。  伊周の失脚には、直接女のことがからまっていた。同族藤原為光の娘の一人に伊周が通っていたが、同じ女《ひと》に花山院が通っていられると思い違えて、伊周は嫉妬《しつと》し、弟の隆家に相談して院の微行《しのび》の途中、矢を射ておどした。もちろんおどしのつもりだったが、その矢が院の袖を縫ったので事が明るみに出て、道長にうまく機会をつかませてしまったのである。この一年の間、道長の政治力に圧されて、苛々《いらいら》し、われから深みに落ちこんで行く伊周の気位の高いばかりで隠忍を知らない驕児《きようじ》の心を、「源氏」の作者は、自分の庇護《ひご》者がなくなり、敵対勢力だけが横行している逆境に立った光源氏に当てはめていたかも知れない。彼は最も怖《おそ》れねばならないはずの弘徽殿《こきでん》の大后《おおきさき》を尻目にかけて、一つの屋根の下で、その妹の朧月夜《おぼろづきよ》の尚侍《ないしのかみ》と毎夜のように忍びあい、ついに見あらわされることになる。子供が火をこわがりながら、いっそう火の傍《そば》へよって行く心理であろうか。もっともこの件《くだり》には、もう一つ、「伊勢物語」の中の男が帝に宮仕えする女と忍びあって、ついに芥川まで運び出すあたりも正《まさ》しく取入れられている。  最後に問題になるのは、御堂関白道長である。彼は、紫式部の才学の並々でないことを聞き知って、彼女を後宮にある娘の侍女に加えようとしたものであろう。その時、既に「源氏物語」がどこまで書き進められていたものか知る由もないが、少なくとも、中宮御産の後の祝宴の時に、当時の一流の教養人である大納言|公任《きんとう》が「若紫や候」と式部のいるあたりに問いかけ、「光源氏に似た人もいられないのに、まして紫の上がどうしていられるものかと思った」と日記は記している。また一条天皇も「源氏物語」を読まれて「この作者は日本紀をよく読んでいる」といわれるとも書いているところを見ると、そのころ「源氏物語」が既に宮廷で読まれていたことは確かである。道長がその後、式部の局《つぼね》に通って来た時逢わずに返したことが日記に見え、和歌の贈答もある。この辺りの記事から、後世の紫式部貞女説が生れるのであるが、道徳律の尺度の違っている後の封建時代から見て、紫式部が道長を避け通したことにしているのはいい気なものだと思う。栄華を極める中年期の光源氏に、道長の影の漾泳《ようえい》しているのは争えないように思われる。  しかし、色々な憶測はしてみるものの、光源氏のモデルなどというものがそのままで実在するはずはないのである。歴史上の人物や物語の中の人々が作者のうちに一度吸い込まれた後、異様に旋回し、攪拌《かくはん》され、加熱されて、一種の窯変《ようへん》を起して完成されたものが、純粋な文学作品である。  そういう意味から言えば、いろいろな歴史上の人物の事跡になぞらえて、これこそ光源氏のモデルであるなどと云い立てるほどばからしいことはない。  しかし、そんなことはいうものの、物語の中の光源氏が、いつか実在の人物と交りあったり、源融の棲霞観が「嵯峨の御堂」とすれば、明石の君の「大堰の川づらの邸」はあの近くであらねばならぬなどと自然に考えの行ってしまうところに、中世の能の前ジテと後ジテの関係のように、現在型と過去型が綾《あや》をなして交錯する芸術の世界の虚々実々の巧みが、私たちを否応なしに吸いよせるのだとも言える。   作者の声  凝るという言葉がある。何事にも一つものに深く執着して、その極限までつきつめねば気のすまないのを言うのであろう。着物でも、食物でも、男女の仲でも、道楽という言葉には何となく、暢《の》びやかな雰囲気《ふんいき》があるが、凝るとなると、容易に真似も出来ないかわりに、一種言いようのないいやらしさもつきまとう感じがする。  私は道楽をするほど、大様な気分も持っていないし、凝ることなどにはなおさら縁がない。凡《およ》そ貧乏性だと、自分で味気ながってこれまでの生涯を過して来たが、凝るという気質については、「源氏物語」の中で、主人公の光源氏の口を仮《か》りて、何度も趣味嗜好が性格を偏《かた》よらせないように戒めている。前に源融の件《くだり》にも書いたけれども、これは一面では中期平安朝貴族の中庸円満のうちに美や徳を見出《みいだ》そうとした習性の現われでもあろうし、また作者自身のうちにあった調和への希求であったかも知れない。  光源氏のライバル役にまわって、いつも損な籤《くじ》を引くワキ役の頭《とう》の中将《ちゆうじよう》(当時は内大臣)が娘を教訓する時に、源氏の子女教育の要諦《ようてい》を次のように説明している。  太政大臣(光源氏)が将来后にと念願して大切にしていられる姫君に常に教えていられるのは、すべてのことに理解を行きわたらせた上で、才走って見えるような風には、すまい。さりとて、何につけてもたどたどしくおぼつかないということがあってはならないというので、万事ゆったりしたうちに秩序を保つことを第一にしていられるのだ。それはそうに違いないが、人は心々《こころごころ》、する事にしても、自分でこの方と思って動く方向はあるものだから、成長されれば、自然にそれ自身の性格が現れて来るだろう。この姫君が大きくなられて、宮仕えに出られる時の様子こそ今からたのしみだ。  終の部分は、頭の中将の源氏の女子教育に対する批判で、彼自身の圭角《けいかく》のある性格を同時に語っている面白い言葉である。  言い換えれば、同じ最高貴族のうちでも、頭の中将の方は、出世欲も権力意識も強く(もちろん物語の調和を破るほど強くはない)現実的であり、粗野であると言えるし、光源氏の方は、そうした現実のいやらしさや強引さを全く感じさせない優雅な諧調《かいちよう》によって、人々の心を惹《ひ》きつけ、現実的な頭の中将をどうしても勝たせないようにしてしまう。  女は一つのことに執し、一つのことにばかり優れてはいけない、全部として調和のとれているのが理想の女性なのだという風に源氏は他の個所でもいっている。 「源氏物語」の作者自身も果してそう思っていたものであろうか。  彼女が上東門院に仕えるようになったのは、恐らくその一つのことに秀でていたのが原因ではなかったか。いかに、才女の輩出した王朝最盛期といっても、紫式部のように漢籍や仏典を読みこなし、それを読むだけでなく深く理解していた女性は、数えるほどであったろうと思う。今度、「源氏物語」を口語訳するについて、私はその陰にかくされている教養の予想していたよりも遥《はる》かに底深いのにあらためて驚かされもし、恐ろしくも思った。 「漢字の本などをお読みになるから、奥さまはお仕合わせになれないのよ」と侍女に陰口を言われたことが「紫式部日記」には書かれているが、そうしたことが、宮中に入ったとき「一という字を知らない顔をしていた」とか「上東門院に白氏文集を教えるにも他人の見ぬ時を選んだ」とか書きつづらせる結果になったのであろう。  当時、膨大な知識を女の心身に貯えているのは、たしかに幸いとは言えないことに違いなかった。  女はただ素直で、なだらかに、男に逆らわず、すべてに中庸の美と徳を保っているのがよいと思ったのは、恐らく作者自身の重い荷を背負った心の呻《うめ》きであったかも知れない。 「源氏物語」の中でも作者はそういう中庸の美の代表者として、紫の上という女性を描き出している。ある時代、「源氏物語」は「紫の物語」とも言われたほどで、紫の上はその誕生が描かれていないだけで、少女期から死に至るまで、「源氏物語」正篇の全部に光源氏から最も愛され、尊敬される女性として描かれている。  紫の上の美しさをほめたたえる言葉は、恐らく光源氏への賛仰と同じぐらいに数多く繰り返され、いつも他のそれぞれの特徴のある女君の誰よりも美しく魅力的であると書かれている。  彼女は唯、美貌であるだけでなく、賢く、情が深く、心がよく行届いて、裁縫や染色の技術まで見事にやってのける申し分のない主婦である。少々|嫉妬《しつと》深いのが欠点であるが、そのことが光源氏のような色好みの男にとっては、別の魅力にもなり変って行く。つまり、すべてにおいて、中庸を得た瑾《きず》のない珠のような女が紫の上なのであろうが、それなら、紫の上が「源氏物語」の女主人公の座にあるかという問には私は否と答えたい。それは彼女が終始中庸の徳を心身から離さないように描かれているためで、光源氏が育て上げた完全な女として並べるには申し分ないが、ドラマの主人公にはなり得ないのである。  その点、女の生き方に中庸の徳を教えながら、作者は皮肉にも、藤壺の中宮や六条の御息所のようなこの上なく高貴で優雅なるべき女性の心に、無惨な傷を与えることによって、ゆるやかな静かな時の流れを基調とするこの長篇に、鋭い痛みや生々しい恐怖をきざみこんだ。  それは決して、通人の凝った趣味でも、貴族の大様な道楽気でもない。嘘も隠れもない物語の作者の正真の声なのである。 [#改ページ]  源氏物語の魅力   源氏物語は女の文学か 「源氏物語の魅力」と題して、お話いたします。 「源氏」の口語訳に取組んで以来、かれこれ五年にもなろうとしておりますが、申すまでもなく、私は専門の源氏学者ではございません。知識というほどの知識はなく、小さいときからただ好きで読んできたというだけの、単なる愛読者でした。そんな私のうちに、いつからか、一度は「源氏物語」を訳してみたい、という意欲が潜むようになり、折よく新潮社のほうからもお話があって具体化したようなわけです。  それまでは好きにまかせて、数にすればずいぶん読んでいたのですが、本格的に勉強する気持になったのは、今度の口語訳を思いたってからでした。今日の読者に「源氏」のおもしろさをわかっていただくことを第一の目標として訳す以上は、やはりまず「源氏」の言葉を正確に知りたいと思ったのが始まりでした。  それにしても私の勉強は、専門の学者が専門的に研究されるのとはもちろん違っておりまして、専門家の業績に助けられながら、わからないなりにわからしていただいた、という程度のことに過ぎません。  長い間自分勝手に読みかえして自然とわかっていたようなことが、そのまま当っていることもありましたし、また、やっぱり勘違いであったと思うようなところもございました。あるいは、専門家はこう言われているけれども、自分としてはどうしてもこう読みたい、こういうふうに訳したい、自分の読みで押し通してしまいたい、と思う個所なども少なからずあって、良かれ悪しかれ、そういうものの総合された訳が、私の「源氏物語」になるだろうと思っております。  ふり返ってみますと、小説を書き始めてもう三十年以上にもなる私の作家生活のうち、この数年間というものは、長い小説など一|篇《ぺん》も書けませんでした。精力のほとんど八九分どおりは、「源氏」訳のなかに投げ込まれていたからです。が、私には、それが少しも嫌ではなかったのです。  ずいぶん骨も折れました。自分自身の思想や情感を自分の言葉で書いていく、そういう創作の苦労とは大分違う苦労がございました。辞書を引いたり、研究書を調べたり、といった仕事は、慣れないせいか大変目が疲れます。網膜|剥離《はくり》を患って、半年ぐらい全く仕事のできなかった時期もございました。  それが果して「源氏」のせいだったのか私の体質だったのかはわかりませんが、ともかく目を痛めたり、身体を悪くしたりしながら、それでも私は「源氏」に帰っていく。手術の後も、あとずさりする気持など少しも起ってはきませんでした。それも、引き受けてしまった仕事だからいまさらやめられない、などというのではなく、何よりも「源氏物語」が、私を引張って歩かせたのだと、今になってみるとそう思えます。  とにかくこれをしなければいられない気持と、今までおぼろげにわかっていたものが、調べているうちに一層はっきり確められることの楽しさだけがございました。わかってくるに従って、表現の美しさや、内容の深さなどから、作品そのものの大きさが改めて感じられ、いっそう強く「源氏物語」が私を捉えるようになっていたのだと思うのです。 「源氏」のなかに「近まさりがする」という言葉がございます。遠くから見ていいと思っていたものが、近くへ寄って見れば見るほどよくなる、いよいよ美しく、いよいよ見事に見えて、ますます魅《ひ》きつけられていく、という現象です。  この魅きつけられるということが、今日では「魅力」という言葉で表現されるのだろうと思いますが、その「源氏」の魅力を読みとって、何らかの形で、あるいは言葉で、たくさんの方に読んでいただきたい、自分を現代から古典にかけ渡す橋にしたい、そういう気持があったればこそ、最後までやり遂げる情熱が持てたのだと思うのです。  私も、曲りなりにも小説家ですから、小説を書きたい、そんなに若い年ではないのだから、自分なりの、もっとまとまった作品を残しておきたい、という焦りも起ってこないではありませんでした。しかしそのたびごとに、押し殺し押し殺しして取り組んだこの仕事が、少しも私を辛くさせなかったということ、それは今考えても大変ありがたいことでした。  だいたい魅力という言葉は、おそらく明治以後、英語のチャーム(charm)などから訳されて使い慣らされたもので、古い日本の書物にはあまり出てこない言葉です。もしあるとすれば、仏教的な、何か魔性のもののなかに秘められた力をさしていうのでしょう。悪魔の力が加わらなければ芸術はできない、というジッドの言葉を引くまでもなく、そういう魅力といいますか魔力といいますか、人間を引きずっていく強い力を「源氏物語」は持っていたのです。かれこれ千年になろうかというほど昔に書かれた作品でありながら、日本の代表的な古典として現代にまで読み継がれてきた歴史の奥底には、ほかならぬこの断ち切りがたい魅力が潜んでいたのです。 「源氏」が書かれて以来次から次へと書き写され、焼け、失われ、ともかく今日見るような形となって伝わってくるまでには、「源氏」が好きで好きでたまらない何人もの人たちがいた。その人たちの努力は言うまでもないことですが、その人たちを引き込んでしまう力が、逆に「源氏」自身を支えてきたともいえましょう。  その「源氏」を生んだ作者については、紫式部説の他にも異説は二三あるようですが、やはり私は、一条天皇の中宮、上東門院|彰子《しようし》の女房であった紫式部の作品であるという、ごく一般的な推定を信じております。  式部には「源氏」の他に日記と家集が残されておりますが、その「紫式部日記」のなかに、一条天皇の第一皇子御誕生のあとの宴のことが記されておりまして、そこには、大納言であった藤原公任がたわむれて、若紫や候——若紫はどこにいられるかと捜された、そこで、光源氏のような方がいられないのに、まして紫の上のような方がどこにいられましょうか、と思ったとあります。また一条天皇が「源氏物語」を読まれて、この人は「日本書紀」をよく読んでいる、と感心されたという記事も見えています。  このあたりの記述から推して、おそらく「源氏」の作者は紫式部であろうといわれているのですが、生年とか没年とかについては、今のところわかっておりません。  ただ、たとえば、中宮彰子の女房であると同時に家庭教師のような役割もいくらか受け持ち、「白氏文集」などを教えるようなこともあった、というようなことは断片的に知られております。非常に高い教養を身につけた女性でしたから、特に選ばれて中宮の女房になったわけです。  しかし彼女を登用したのは、実際には彰子自身ではなく、彰子の父の御堂関白、平安中期の最も強い権力者だった藤原道長でした。  その道長が、紫式部に「源氏物語」を書かせたというのですが、一説には道長が加筆したのだ、ともいわれております。ある写本の終りに、これは老|比丘《びく》が加筆したもの、という旨の記載があり、その老比丘というのが、実は道長のことだというのです。また中世の隠者が書いたのではないかというような説もございます。  これはまた聞きですけれども、折口信夫博士などは、「若菜」以後の巻々は、男でなければ書けないようなものだ、と言われたそうです。  元服以来、ずっと恋の勝利者であった光源氏が、正妻である内親王女三の宮を、若い柏木衛門督《かしわぎえもんのかみ》に奪われる。つまり密通される。そうして生れた子供を、結局は自分の子供として育てなければならない破目になる。コキューのような役割を背負い込まされるところで、源氏の愛と憎しみは一段と強くなり、それまでの源氏よりも、人間としての|くま《ヽヽ》がずっときつく描かれなければならない部分になってくるわけです。「源氏」のうちでは最も重い、暗いドラマです。  その重い、暗いドラマを、折口博士は「男の筆でなければ書けない」といわれたというのですが、しかし、私にはそうは思えません。  生没をはじめとして、わからないところはたくさんあるのですが、紫式部という一人の才女を想定し、さらに彼女をめぐる周囲の人間模様を思い合せてみますと、こういう大きな深い作品が、あの四百年続いた王朝時代の最盛期、道長の栄華時代に、「女性」の手で書かれたということは少しも不思議ではない気がするのです。  日本の文章の歴史の上から考えてみますと、「源氏物語」のような、仮名でものを書くことは、もうその百年ぐらい前から始まっておりました。紀貫之の「土佐日記」はその一つの例ですが、これは、「をとこもすなる日記といふものを、をんなもしてみむとて、するなり」と書き起されています。男も書く日記というものを女もしてみようと思って……と、貫之は女になったつもりで、仮名を使い、当時の話し言葉を使って書く旨を初めにことわり、任がとけて土佐から都に帰る途中のことを記したのです。実際は貫之自身が書いているのですから、時折不用意に男の顔がのぞいたりするおもしろい日記なのですが、公的な素養としては漢詩漢文が主流であった時代に、歌の徳を讃《たた》えて「古今集」を撰し、名実ともに和歌《やまとうた》の代表者であった貫之が、散文の分野でも、女文に託して仮名文の系統に先鞭《せんべん》をつけたということは、実に画期的な出来事でした。「源氏」が執筆されるほぼ七十年前のことです。  それと相前後して「竹取物語」とか「宇津保物語」とかの説話的な物語が次々と生れ、あるいはまた「伊勢物語」のように、歌を主にして散文を混えた物語群が、やはり女文といわれる仮名文で書かれます。  公文書はすべて漢文で書かれなければならず、男にとっての本来の学問は、全部漢文であったあの時代に、女文字とか女業とかいわれながら、仮名文がだんだん普及していきました。それにつれて、日記とか随筆とか物語とかもそれぞれに進展を見せ、「蜻蛉《かげろう》日記」のような作品も生れれば、「栄華物語」のような歴史物語も生れました。「宇津保」とか「竹取」とか「蜻蛉」とか、将来「源氏物語」になるべき小さい山がたくさん生れ、その上に「源氏」が現われてきたわけです。  式部の家は、もとをただせば藤原氏のかなりいい家柄であったのですが、次第に正系から離れていき、もう祖父の代ぐらいからは学者の家として知られていたようです。式部の父為時の頃には、詩人であり学者であり、同時に国守でもある、という程度の家でした。  そのため、式部の家には非常にたくさんの本がありました。あの時分に広く読まれたのは、文学的なものでは白楽天の詩、それからやはり「史記」が多くの読者をもっておりましたが、式部も「日記」のなかに、父から「史記」を教わる兄の傍で、聞いている自分が兄よりずっと早く覚えてしまった、それで父の為時が、「この子が男だったらさぞよかったろうに」と嘆いたという、幼い頃の思い出を書き残しています。「源氏」に手を染めた頃までには、おそらく完全に「史記」を読破していたものと考えられます。  当時、女の身で漢籍を読むということは稀《まれ》なことで、周囲からもあまり喜ばれなかったようですから、彼女自身もそれは隠していたといっております。しかし、この「史記」を読んだということは、司馬遷《しばせん》の非情な、冷徹な歴史観を、聡明で理知的な式部の心に深く沈潜させたにちがいありません。  最近テレビで、吉川幸次郎博士が「史記」に「源氏」をかけてお話になっているのを、大変おもしろく聞いたのですが、「史記」の世界観、歴史観を、「源氏」と対比して考える例は昔からあるそうです。しかし私の場合は、けっして「史記」の列伝の分けかたと「源氏」の巻々の分けかたがよく似ている、というようなことではなく、たとえば「源氏物語」のあの雅《みやび》やかな世界の底に、紛れもなく非情な畏怖《いふ》すべきものがたたえられている、というような意味において、「史記」の影響があるのではないかとこの頃考え始めているのです。それに加えて、短い結婚の後、夫にも先立たれ、道長に請われて中宮彰子の後宮に仕えるようになった式部の経歴が、おそらく、「源氏物語」をより魅力的なものにもし、深くも大きくもしたと思われます。  一般に平安時代というと、非常に美しい世界がまず目に浮ぶようですが、それは全く「源氏物語」のイメージが先行してしまう、つまり芸術が現実に勝っている状態で私たちの想像力が働くだけのことで、実際はもっと荒くれた、それこそ行き倒れや疫病や火事などで、かなり陰鬱な世界であったに違いないと思うのです。「大鏡」や「今昔物語」を開いてみれば、そういう現実は容易に納得されるでしょう。  式部は、もちろん最高貴族の姫君だったわけではありません。父親といっしょに若狭《わかさ》の国までも行っていますし、京都にいても、そうそう車に乗ってばかりもいられなかったでしょうから、行き倒れにもしばしば出会ったでしょう。おそらく貧民が病人を捨てるというような、悲惨な情景も見たであろうと思います。  火事も始終ありました。庶民の家ばかりか宮殿が焼ける。内裏など何回焼けているか知れないほどで、おしまいには貴族の邸宅がいわゆる里内裏となって、天皇や皇后のお住まいとなるような有様でした。  無論盗賊の類もあとをたたず、式部の日記にも、大《おお》晦日《みそか》の晩、中宮の御殿に盗賊がはいり、女房を裸にしていってしまった、などという記事が出ております。一番警備の行き届いているはずの中宮の奥殿にまで賊がはいってくる。それを式部がそう不思議そうにも書いていないところを見ると、盗賊は相当横行していたと思われます。もちろん人を殺していくことだってあったでしょう。 「源氏物語」はそういう時代に書き継がれたものでありながら、世情の悲惨さには全くふれず、美的な調和を中心としてきわめて雅やかな世界を創り上げたわけです。  ところが彼女の創った世界には、この世の地獄絵、極限状態というような荒々しい光景は描かれていないにもかかわらず、人間のあらゆるものが秘められている。ひとつひとつ押し広げていけば、現代にまで敷衍《ふえん》できるような要素をたくさん含んでいる。  このあたりを追々に考えていきたいと思いますが、起伏に富んだ大きな物語であるという魅力の核としては、やはり中心に光源氏を置いたことがあげられましょう。 「源氏」の女君たちは、皆たいへん魅力に富んでいるといわれます。それはそうに違いないのですけれども、中心にあの光源氏がいなかったならば、大日如来を欠いた曼陀羅《まんだら》のような、実に味気ないものになったことでしょう。曼陀羅というのは、大日如来をまん中に置いて、まわりにいくつかの小仏を配した仏画ですが、中心の大日如来がなくなったのでは、有難味も魅力も半減してしまいます。  すぐれた源氏訳を世に送られた谷崎潤一郎先生は、晩年、アメリカのヒベットさんとの対談で、自分は光源氏が嫌いだ、とおっしゃっておりましたが、光源氏が嫌いで「源氏物語」を訳し通されるというのは、ずいぶん辛いことであったろうと思われます。  およそ近代以前の物語の主人公は皆が皆英雄で、作者はいつも扇をあげて讃美《さんび》するというのがきまったパターンなのですが、それにしても、光源氏に対する式部の惚《ほ》れこみようは、ひとかたではありません。大げさにいえば、一ページごとにほめあげるというほど源氏を絶讃しているのです。あそこまで惚れこむことは、やはり女でなければ出来ないのではないかという感じがします。女の作者が理想の男をこしらえたときに、はじめてああいう惚れ方ができるのではないかと思えますし、谷崎先生が光源氏は嫌だと思われるのも、結局そこではないかと思うのです。  しかし式部は、源氏を大そう甘やかしてはいますが、たたくところでは容赦なくたたいています。源氏の人間像については後で詳しくお話するつもりでいますから、ここではこれ以上申し上げませんが、女を愛する理想の男を生んで、それをただ甘やかすのではなく、同時に厳しく見つめている。そのことによっても、情緒に溢《あふ》れた作品が美しいだけでうまみのない干菓子のようなものにならずに救われているように思えるのです。  たとえば「源氏」を踏まえたといわれている西鶴の「好色一代男」と読み比べてみますと、光源氏には「一代男」に描かれた世之介の、女から女へ渡り歩くいわゆるドンファンの性格とは違うものが感じられます。そういう意味でも「源氏」は男の作品ではなくて、女の作品であるといえるかもしれません。  しかし、これまでお話いたしましたことは、すべて、単に女性の手になった、というだけの意味でございまして、「源氏物語」が「女の文学」であるということではありません。一面ではたしかに、女の願望、女の情感、女の理想で貫かれてはおりますけれども、全体として見れば、男と女という性をはるかに超越した人間そのものが描かれていると思います。女の作品であるからここはこうだと単純に割りきれるようなものではけっしてございません。  平安朝の文学は女性の手になったものが多いことから、手弱女振《たおやめぶり》というようなことがいわれますが、こと「源氏物語」に関しては、必ずしも手弱女振の文学ではないと私は思うのです。ヒューメンな、人間というものの土台に立った文学であって、単に「女」に寄せつけて考えなければならない文学だとは思わないのです。女の|手になった《ヽヽヽヽヽ》文学であることは承認していいのですけれども、作品の手応えとしては、立派に「人間」を描いた劇である、というふうに考えております。   源氏物語を書かせたもの 「源氏物語」は、十世紀から十一世紀の初めにかけて書かれた小説としては世界でも珍しい作品だといわれていますが、そういう稀有《けう》な名作の生れる土壌、名作が芽を吹き、育ち、花開く、その土壌というものは、やはりあの王朝という時代に求めなければならないようです。  桓武《かんむ》天皇の京都への遷都以来、武家の時代に移るまでの約四百年がいわゆる平安時代ですが、「源氏」の書かれた一条天皇の御代というのは、中期のやや後半に当ります。政治的には、道長に象徴される藤原氏の栄華が頂点に達した時代です。  他氏を排斥し駆逐して、自分たちだけが実権を握るようになり、遂には摂政関白の位について天下に号令した、しかも限られた少数の家だけが中枢となり、血族でありながら、皇室を挟んで醜い争いをつづけていた、というのが藤原氏の歴史なのですが、それらの争いにあたっては、政権掌握のために自家の娘を天皇に献じるという手段を用いました。これはほかの国の歴史にも、また日本の歴史にも他の時代にはあまり例が見えません。  日本の律令制は、当時の先進国唐にならって制定されたものですが、皇室についていえば、天子にはたくさんの妃があるのが普通とされていました。そしてそれにも皇后、中宮、女御《にようご》、更衣《こうい》といった階級があり、たとえば、親王や大臣といった家柄の娘が後宮に上がるときには、女御という位を受ける。その女御たちの産んだ皇子のうちの一人が皇太子に立ち、また次の天皇になる、という具合で、その皇太子に立つ皇子、次の天皇になる皇子の祖父とか伯父とかという、非常に近い縁戚《えんせき》関係者だけが真の権力者になれたわけです。  そうなりますと、政権を握るためにはどうしても自分の娘を後宮に上げなければならない。しかもその娘は、当然いいかげんな育てかたをしたのでは勤まりません。  そこに女子教育というものが生れてきます。おそらく日本の歴史上、父親が娘の教育にあれほど打ち込んだ時代は、平安朝をおいてほかにないのではないかと思います。  廟堂《びようどう》で政治をとっている大臣とか納言とかというような、相当な階級の一流政治家たちが、乳母とか母親とかにまかせておかないで、自ら音楽を教えたり文字を教えたりしたわけです。  その教育がどんなものであったか、最もはっきりと教えてくれるのは「枕草子」です。そこには、一条天皇が中宮|定子《ていし》のところへ見えたときに交された昔語りとして書かれているのですが、村上天皇の時代に宣耀殿《せんようでん》の女御という人がいた。これは左大臣になった藤原|師尹《もろただ》という人の娘、芳子《ほうし》のことだと思われます。当時は、目は細くて少し下がりかげん、色は抜けるように白く、非常に豊かな髪の毛の持主、ということが美人の条件だったというのですが、この芳子という人は、家のなかにはいってしまっても、長い見事な髪がまだ縁側の外まで残っていたといわれます。  その芳子を育てるにあたって師尹は、まず手蹟《て》が上手になるように習字を一所懸命になさい。それから琴《きん》の琴、中国から渡ってきた一番古い形の琴《こと》を見事にお弾きになるように。第三には、「古今集」の和歌二十巻を、全部|暗誦《あんしよう》して忘れることのないように心がけておいでなさい。この三つを教えたというのです。  あるとき村上天皇がそのことを聞かれ、宣耀殿の女御がほんとうに「古今集」二十巻を覚えているかどうか試そうとなさった。上の句を言って下を答えさせるという形で臨まれたのですが、女御は次から次へ、すらすらと答えられる。それでも歌の数は非常に多いので、とうとう二日がかりになった。その間兄弟たちは、もしこの試問に落第したならば女御の価値が落ちると気が気でなく、お祈りまでして見守った。しかし、結局女御は二十巻の「古今集」を全部|暗《そら》んじていて、いよいよ帝を驚かせ、その寵愛《ちようあい》を深くした、ということです。 「源氏物語」にも、光源氏が、まだ幼い紫の上を引きとってきて育て上げる経緯が描かれておりますが、その教育に当るのは、やはり源氏自身です。文字のお手本を与えるのも、琴を教えるのも、そのほかすべてのことを、源氏が手ずから教えていく。一流の教養人である源氏が自らの教養のすべてを惜しみなく教示することで、紫の上もまたすばらしい貴婦人になっていきます。  源氏の場合は、自分の妻となるべき紫の上を教育するのですが、現実の貴族家庭においては、親や兄弟が、精魂傾けて後宮に上げる娘の教育にあたったわけです。その教育法にもおそらくは家々の風があって、教育法がそのまま家の紋章となるような、そういう女性を育て上げることが、家にとっての誇りでもあり、また必要でもあったのだろうと思われます。  これはごく一部の最高貴族の間の例ですけれども、しかしそういった傾向は、狭い文化圏のことですから、貴族全体の間に波及していたと考えていいでしょう。女の子がなんにも知らないでいい、家のなかで家事にだけ従っていればいい、ただ娘であり、妻であり、母であればいい、というような封建時代の家婦的な女性をつくるのではなく、それとは別の女性をつくり上げることで、宮廷を中心とした権力者の威光は、貴族社会全体に拡がっていきました。  それと並行して、中国を模倣した漢詩ばかりでなく、日本人の感情をそのままに表わした和歌が、「万葉集」から「古今集」へと移り、やわらかい、圭角《かど》のない仮名文字の雰囲気《ふんいき》が、「古今集」の歌のなかにもとり入れられるような変化が生れてきます。おそらく女同士の文のやりとりや、恋の歌の贈答などから仮名は使われ始めたのでしょう。  文学史的には「土佐日記」から始まって、「蜻蛉」、「落窪《おちくぼ》」、「宇津保」……と流れだした和文の脈は、「源氏」の生れる直前に清少納言の「枕草子」を得、自らの内面を吐露する表現のスタイルが、摂関時代の愛憎のからみ合う世界を通って、宮廷を中心とする貴族社会のなかに確実に形成されていきました。  そこに描かれたものには、やはり男と女の愛の葛藤が色濃くにじみ出ていますが、当時の恋愛は、スタンダール的に言えば趣味恋愛とでもいえる様相を呈しています。男が女に言い寄るところから始まって、それが成就するに至るまでの経路には、常に趣味的なものが先行していました。  たとえば文ひとつ送るにしても、季節を考え、料紙を選び、どういうふうに書いて、どういう枝に付けてやるか、大変心を砕いています。言葉の言いまわしとか、歌の詠みかたとか、すべてそういうことのひとつひとつが送る人の人柄を偲《しの》ばせ、お互いを知り合い、愛し合う前提になっていく、というような具合です。  紫式部が宮廷へはいったのは、おそらく三十歳前後であろうと推定されていますが、その頃の宮廷、または貴族社会には、そういう趣味的な雰囲気が十分に醸成されていたと考えられます。  ヨーロッパの小説は大体近代に発達したもので、「源氏物語」の書かれた時代には、シンフォニーのような作品は少なく、どちらかといえばソロの作品が多いと思うのです。ところが「源氏」の場合には立派にシンフォニーをなしている。短篇の集積であるとか、その他いろいろな言いかたがされますけれども、私の目には、ひとつのキーの音があって、しかもいくつかの楽章に分れている一大シンフォニーとして映るのです。  こういう大きなシンフォニーを形成するに至る過程には、それをつくり出すだけの土壌がなければなりません。そしてその土壌は、今申しました一種のフェミニズムで彩られていたわけです。尤《もつと》も今日いわれるような意味のフェミニズムではなくて、男の側でつくりだした擬フェミニズムとでもいうようなものではないかと思いますが、王朝の貴族は一応女性に財産権も認めていますし、恋愛の場合でも女のほうから言い寄るというようなことはなく、必ず男のほうから言い寄る。  恋愛においては割に西欧的な女性先行のシステムが出来上っており、しかも文学の面では仮名文学が相当熟するところまできていた、ということを、まず念頭においておかねばなりません。  さて紫式部の仕えた上東門院、一条天皇の中宮であった彰子という人は、藤原道長の長女で、栄華の象徴のような人でした。この人を宮廷に送り込むことが、道長の出世コースの第一ステップであったわけです。  彰子が十二歳のとき、道長は、まだ兄の娘定子が中宮であったにもかかわらず、定子の家が没落していった隙に乗じて、彰子を女御として入れます。そして間もなく中宮に就け、定子には新しく皇后という地位を与えた。つまり二人の后が並び立つという異例の措置を講じて自分の娘を後宮第一の女性に仕立て上げたわけです。  同時に道長は、彰子のまわりに多くの侍女を置きました。その一人として後宮にはいったのが紫式部です。「栄華物語」を書いた赤染衛門も、道長の妻|倫子《りんし》の侍女であったといいますし、また和泉式部も侍女に近い位置にいたといいますから、道長の周囲には才女がたくさんいたようです。  それより前、定子の中宮時代に、道長は中宮|大輔《たいふ》の任にありました。中宮大輔というのは中宮の事務長官のようなものですから、中宮の御殿へいったり、世話をしたりする機会も多い。すると定子のそばに、清少納言のような侍女がいて才気|煥発《かんぱつ》の応対をし、公卿《くぎよう》たちを驚かせたり喜ばせたりしていた。そのために定子の御殿は活気にあふれ、清新な感じで満たされていた。それを目のあたりにしていた道長は、定子のサロンに惹《ひ》きつけられていた若い天皇の心中もおそらく知っていたでしょうし、あれほどの政治家ですから、娘を後宮に入れる以上は、定子のサロンを凌《しの》ぐサロンを作らなければならない、当人にもそれ相当の教養をつけなければならないしいろいろな点で何かと補わなければならない、という考えを、早くからもっていたのではないでしょうか。  式部は、ちょうどその頃、夫藤原|宣孝《のぶたか》に先立たれて寡婦になっていたときですし、「源氏物語」も、かなり書き進めていたと思われます。漢籍や仏典などにも通じている上に物語なども書いている珍しい才能に恵まれた女性であってみれば、選まれて彰子のそばにつくようになったというのも、ある意味では当然な成りゆきかも知れません。  彰子という人も賢い人で、式部の影響を相当強く受けていたと思われます。定子が早く亡くなったために、彰子は一条天皇の第一皇子敦康親王を自分の手許《てもと》に預かって育てます。一条天皇が亡くなられる少し前、どうしても皇太子を立てなければならなくなったとき、彰子は、自分の子供ではないけれども、第一皇子なのだから敦康親王を立てるのが筋だという旨を、しきりと父道長に進言しています。いつまで生き永らえるともわからない道長にしてみれば、彰子の生んだ第二皇子をどうしても立てたい。結局は道長の思いどおり事は運ぶのですが、父親に対してもきっぱりと道理を説くあたり、ただのお姫様ではなかったようです。  理義を見きわめる秀れた資質は元々あったものでしょうけれども、同時に、紫式部など深い広い知識をもった侍女たちの教えたり話したりしたことが、彰子の心に相当強く根を張っていたのではあるまいかと私は考えるのです。  そういう世界を背景として「源氏」は書き継がれることになった。式部が宮廷を目のあたりにする機会に恵まれたことは、「源氏」を書く上でたいへん幸せなめぐり合せだったと思われます。それまでの彼女は、単にすぐれた頭をもった国守階級の娘であり、長じては国守階級の人の妻となり寡婦となった、というだけの、専《もつぱ》ら家に籠《こも》っていることの多い平凡な女の一人に過ぎなかったのですから。  紫式部と和泉式部は、性格的にはかなり違いますけれども、この二人のように宮仕えをした人と、その経験のない「蜻蛉日記」の作者とを比べてみますと、そこにはやはり大きな相違が見られます。「蜻蛉日記」の作者の場合には、外の生活をほとんど知りません。初めから道長の父親兼家の第二夫人となり、一子道綱を生んで、一応生活の苦労はないままに、夫を自分一人のものにすることができないというだけが不満の一生を送った。そういう女性の書いたものですから、「蜻蛉日記」は非常に欲求不満の多い作品なのですが、式部の場合には、そういう不満などはわずかに日記のほうに現われているだけで、物語には全然出ていない。きれいにふっ切れてしまって、全く別の世界をつくりだしています。  あの時分の貴族の女性の生活は、後宮に上がるというのでもなければ、一般的にいって非常に遮蔽《しやへい》的なものでした。式部の日記にも、自分がちょっと漢文の本を読んだりすると、奥さまはあんなふうだから運が悪いのよ、漢文の本なんて、昔はお経さえも女の読むものじゃないっていったじゃありませんか、というような悪口を侍女たちに言われるから、思い切って読むこともできない、などと書かれているほど、自分のもっているものをひた隠しに隠しておかねばならない社会でした。そこから解き放たれる意味でも、「源氏」に打ち込める宮廷は貴重な場所であったといえます。式部は、「源氏物語」を書くためには非常によい境遇に置かれたと思うのです。 「よい境遇」をもう少し押し広げて考えれば、平安時代はかなり鷹揚《おうよう》な時代であった、とも言わなければならないでしょう。死刑というものがなかったことも、そのひとつの理由かも知れません。仏教の影響の強い時代ですから、報いというようなことを恐れた結果か、精々流刑、徒刑ぐらいにとどまっていて、絞刑なども、律令には入っていないのが一応の例になっているようです。そういう、激しいことのない世界であってみれば、ある意味での自由はかなり保証されていたと考えられます。 「源氏」を姦淫の書であるとして指弾した後世のことを思い合せますと、式部にあれだけ自由な筆で書かせ、それをまた喜んで読んでいられた時代は、文学にとって大変いい時代であったといえます。  さらに教養というものが、書き手のみならず読み手の側にもまんべんなく行きわたっていたということも、「よい境遇」のひとつに数えてよいでしょう。「源氏」を読んでいると、いまさらのように漢籍とか仏教関係の書とか、私どもにはよくわからない知識がたくさん溶かしこまれていることに驚かされます。それらは無論氷山の一角で、式部は、実際にはもっとたくさんのことを知っていたと思われます。「史記」もまたそのひとつですが、「源氏」の読者というのはほとんどきまっていて、その人々の間では、「源氏」に書かれていることは全部のみ込めた、そういう人たちだけが読んだ、というようなことではなかったかと思います。  先だって北山茂夫さんの「藤原道長」(岩波新書)を読みましたら、道長という人は、さほどに偉大な為政者ではない。権力をふるい、ぜいたくな生活をし、いろいろなことはあったけれども、政治的にさしたる業績をあげているわけではない。しかし、紫式部に「源氏物語」を書かせた、書かれるような時代を作ったことが、長い目で見れば一番の業績かもしれない、という意味のことをおっしゃっていました。私もそれに同感で、道長はほかによくないことが多々あったにしても、「源氏物語」という大作を、彼の侍女のうちから書かせたことひとつで、日本の文化に大きな貢献をしたといえるのではないかと考えるのでございます。   光源氏と女性群像  これは後でお話する作品の構造論ともかかわることなのですが、「源氏物語」の作者は、初めに仏教でいう曼陀羅を念頭に置いたのではないかと私は考えております。  生れからいっても、容貌、才能の面からいっても、あらゆる点で傑出した光源氏を中心に置き、そのまわりに、源氏に愛される女、源氏とかかわりのある女人たちを描いていくことで、そこに一幅の曼陀羅図が構成される、というのが作者の初めの意図ではなかったかと思うのです。  けれども、実際には「藤裏葉《ふじのうらば》」までで、光源氏の生涯の約三分の二が終ったあたりで、その曼陀羅図は一応完成されたように見えます。そしてそこから先、源氏の晩年に属する「若菜」以後は、作者自らその曼陀羅を切り破って、曼陀羅には描かれなかった地獄相のようなものが、現われてきています。  従って初めの曼陀羅的な構成意図は、結局果されなかったと思っていいのですけれども、少なくとも初めには、そういう意図が用意されたと考えて差支えないでしょう。  その背景としては、平安朝時代の、ことに貴族階級に普遍化されていた一夫多妻という婚姻制度が思い合されます。妻を一人と決めないで持つことや、妻の家に夫が通っていく招婿婚《しようせいこん》が、ごく普通の習慣として行われた時代でした。妻を自分の家へ迎え入れるなどということは、掠奪《りやくだつ》結婚の名残りのように感じられた時代だったのです。  そういう世界にあって、女は自分の財産というようなものを、ある意味では保障されておりました。この点、後の封建時代とは幾分違います。しかしそれも、確かな後見人がいなければ、ただ持っているというだけで実際には他人のものになってしまう、管理人自身が横取りしてしまう、というようなきわめて弱い立場にありましたし、結婚にしても、強力な親を持った娘の場合は、たとえそれが第一の妻でなくても、しきたりどおり婚礼の儀式もし、終生妻の扱いを受けることができたのですが、そうでない場合は、男の方が飽きてくると次第に足はとだえがちになり、そのまま仲が絶えてしまう、というようなことが非常に多かった。これは「蜻蛉日記」で、右大将道綱の母がしきりと嘆いているばかりでなく、紫式部自身も、そういう結婚形態から起ってくる不如意な事例を、周囲にたくさん見ていたと思われます。男に頼って生きていくよりほかどんな生き方もできない女の無力さ、にもかかわらず女にとって男の愛は少しも頼りにならない。そこで、頼りになる男というものが女の最高の理想となっていったと考えられます。  光源氏の魅力のひとつは、一度愛した女はいつまでも捨てずに、女の方でついてくる以上は一生面倒を見てやる、そのやさしさでしょう。性的な魅力があるとか、性的な関係が続いていくということではなくても、精神的肉体的ななにかに惹かれ、いわゆるもののあわれを感じて契った女のことは、なかなか忘れ去ることができない。そしていつまでも彼女たちの世話をしてやる。晩年には六条の院という広大な邸宅を造営しますが、かつて仮初《かりそめ》の情をかけた女たちで、いまは尼になっているとか、よるべがないままに生活に窮しているとかいう女たちをそこに集めて、一人一人に部屋を当てがい、ともかく生活ができるようにしてやる。そこには男と女が肉体で結ばれたところに生じる性愛以上の繋《つなが》りがあり、それが性的な交渉の絶えてしまったあとにも、情緒として、またもっと深いものとしてたゆたいながら残っていく……。  なにしろ源氏は、一人の女性と懇ろになっているときでも、他に魅力ある女性が現われればお構いなく新しい女性のほうへ気がいってしまう、いわゆるプレイボーイですから、その陰で捨てておかれる女は少なくない。ところが源氏の方は、捨てた女がいつかほかの男に心を移しても、後を追いかけることはしないし、すでに身が定まっている女であったならば、無理に自分の手許へ引き戻したりもしない。それが源氏の特性といえばいえます。  こういう男性像は、古今を通じての理想というよりも、やはりあの時代の理想であったというべきかも知れません。時代特有の悲哀に満ちた女の現実が厳として存在する以上、期待しうる最小限の理想を夢みるためには、男は実直な、当時の言葉でいえば実直人《まめびと》であってはならなかったわけです。いろいろな女に心を移し、恋愛遍歴を重ねていく、そういう色好みな男でなければ、女の理想を追求してみたところで、意味をなさないことになりましょう。  男というものの見かた考え方は、時代によって違っています。たとえば「平家物語」に描かれた時代、つまり武士の時代になってきますと、男の闘争性が露骨になってくる。そこでは男らしく行動するということ、男性的なものを表へ出すということが、男であることのきわめて有力な証拠になってくる。そういう日本の男の生き方は、現代ではいくらか変ってきているとはいうものの、戦前までは脈々として続いてきました。  そのせいでしょうか、日本の男の女を扱うその扱いかたは、よくいえばシャイ、恥ずかしがりやであって、女の機嫌をとったり、女を喜ばせたりするような芸当は大変下手なのが通性だと思うのです。  ヨーロッパの映画や小説に出てくる男を思い合せてみるとよくわかります。わけてもフランスの男性は、女性に向かって、歯の浮くようなお世辞を平気でいう。女の方にも、そういうお世辞をいってもらいたい気持が内にある。言ってはもらいたいのだけれども、言う以上はうまく言ってもらわなければ気持がわるい。下手に言われたのでは、いっそ言ってもらわないほうがいい。女に嫌がられる男になるか、好かれる男になるか、極端にいえばすべてお世辞のテクニックにかかっているわけです。  その点王朝の男、ことに光源氏に代表される「源氏物語」の男性は、比較的フランスの男に近く、悪くいえば女をだます、よく言えば喜ばせるテクニックを十分に心得ている男なのです。ですから、源氏はそれほど思っていない女と差し向かいになって恋を語るような場合でも、原文に「いずこよりとり出で給ふにかあらん」と書かれているとおり、ほんとうにどこから取り出してくるのかと思うようなうまい言葉を用いて、女の心をやわらかくときほぐしてしまいます。  すると、長い間うっちゃっておかれて、自分のことなどもう考えていて下さらないのではないかと思っている女でも、やはり源氏の君は……と安心する。  その顕著な一例として「蓬生《よもぎう》」の末摘花《すえつむはな》を見てみましょう。鼻の赤い有名な醜女《しこめ》で、心もまことに野暮な女性です。源氏が須磨明石へ流されている間も、言い寄る男は一人もいないし、もともとその筋に心をやる人ではない。伯母が彼女を侍女のようにして九州へ連れていこうとしますが、やはり自分は親が住んでいた家にいつまでも住みたいといって、「蓬生」という巻の名のとおり、それこそ草や枯木に埋もれた葎《むぐら》の宿で、ようやくのこと暮している。  そのうち源氏は京へ返り咲き、栄華の階《きざはし》を昇りはじめますが、もう末摘花のことは忘れている。一二年たって、あるとき花散里《はなちるさと》を訪ねようとした道すがら、藤の花が柳の枝にかかって咲きこぼれている大変荒れた屋敷が目にとまった。何となく見憶《みおぼ》えがあるので供の者をききにやると、それが末摘花の住んでいる常陸《ひたち》の宮。ああ、あの人はどうしていたのだろう、自分は忘れていたけれども、今もまだここに住んでいるのか、それともどこかへ移ってしまったかと、例の惟光《これみつ》にきかせてみると、やはり昔と同じように住んでいるという。家も庭も荒れ果て、朽ちるばかりになっているその中に、数人の年老いた侍女と一緒に住んでいるという。それを聞いた源氏は、庭の蓬の露を踏み分けて会いにいきます。  そこで末摘花に対して源氏は、こういうのです。 「あなたは私のことなど忘れてしまっているように何にも尋ねて下さらない。いつかは思い出して、尋ねて下さるだろうと待っていたのですけれども、いつまでたっても尋ねて下さらないので、根負けがしてこちらから訪ねて参りました」  私など、今読んでも、よくもまあこんなことがいえると思うほどです。  しかし、これは大変うまい言いかたでして、末摘花はもう馬鹿堅いばかりの女ですから、あるいはそれをまともに受けたかもしれません。たしかに源氏の方も、この言葉に七分通りのうそがあったとしても、三分は本心が混っていたと思われます。その後格別の寵愛はしませんが、住いも調えてやるし、暮しも一生見てやるという程度に、末摘花との交情を続けていきます。  これは極端な一例ですが、ほかの女に対したときでも、源氏は必ずそういう言い方をします。時宜を弁《わきま》えた、人の心を捉《とら》える実にうまい語りかけをします。女心をぴたっと捉える伎倆《ぎりよう》に長《た》けているという点でも、源氏には女に愛される資格が十分あったといえましょう。 「源氏物語」は、なにしろ長い作品ですから、全部で四百何十人とかの人物が登場するそうです。そのうち源氏に愛された女は、ちょっとした関係の者だけをあげても十指に余るのですが、大別してみますと、三通りぐらいの型に分けられるのではないかと思います。  ひとつは愛し愛されながら妻として添いとげた理想的な女性。その第一が紫の上だと思います。美貌の持主で才能があり、家事もよくできるし、万事にたどたどしいところなど少しもなく、それでいて相当にやきもちも焼く。晩年、源氏が女三の宮を正妻として迎えなければならないという事態が起ったときなど、相談をもちかけると、嫉妬《しつと》の感情も抑えて、ともかく迎え入れることに同意してくれます。忍耐力も奥床しさも兼ね備えた女性です。まだ幼なかった頃に、源氏が、ほとんど掠奪結婚のような形で連れてきて育て上げたわけですが、妻の典型とみていい女性です。 「帚木《ははきぎ》」の巻の有名な雨夜の品定めで、世間公けの政治もなるほどむずかしいが、しかし政治は大勢の人が相補いながら行うものであるからまだなんとかやっていける。しかし、小さい家のなかで、あらゆることを一人で片づけていくのは大変なことで、それを受けもつ女あるじとして完全な女はなかなか得がたいものだ、と女通の馬の頭がため息をつくところがございます。そういう意味では、紫の上はほとんど完璧《かんぺき》な妻のタイプだといえます。  それに次いで、紫の上には及ばないまでも、紫の上と同じようにすぐれた女性だと源氏が許していたのは、第二夫人の明石の御方——。生れは受領階級ですから、紫の上よりも身分はずっと低い。それをいつも卑下しているのですが、気位は非常に高く、その気位の高さをおししずめて、最後まで勤めを果していく人です。  それからもう一人、これは私も好きな女性ですが、花散里という人がおります。たとえば「蜻蛉日記」の作者などは、自我というものを初めて文章に書き表わした女性だといわれているほど我の強い人ですが、「源氏」に登場する女のなかでも、花散里はおよそ自我というものを持ち合せない。分というものをよく知っていて、源氏に愛されるのはふさわしくないとまで思っている。大臣の娘ですから決して低い身分ではないのですけれども、器量はたいしてよくない。特に魅力があるというでもない。そういう自分をよく心得ている人です。  おそらく源氏には話しているだけで心の静まる人ではなかったかと思います。源氏はそういうところを愛したのでしょうが、素直に従ってくるので、捨てるどころか、明石同様第二夫人の待遇を与えて晩年を迎えます。  しかしそういう女性だけが源氏の相手であったわけではなく、初めから、いってみれば永遠の恋人のような女性もいました。藤壺《ふじつぼ》の宮がそれです。源氏よりも五つ年上で、幼いときに死別した母親にそっくりだといわれたのが恋の初めになり、ひそかに実を結ぶまでになるのですけれども、この人は先帝の内親王で、後に帝の女御になり中宮にまで立つほどの最高貴族です。年も上ですから、源氏にすればいつも見上げていなければならない。自分の思うようには決してならない。それだけになおさら慕わしくてたまらぬ。子どもが母親を慕うような気持と、男女の恋愛感情とがよれもつれているような愛情、というのが源氏の藤壺に対する気持であろうと思います。  藤壺より身分は下がるかもしれませんが、やはりそれと似たような上位の人で、源氏にとって一番気のおける恋人が六条の御息所《みやすどころ》でした。  この人もまた年は源氏よりも七つ上、前太子の未亡人で、普通にいけば東宮妃になり、中宮にまでなったかもしれない最高貴族です。しかも才色兼備で、後見人がいなくても、自分の屋敷はちゃんと取り仕切り、雅《みやび》やかな方面の趣味とか教養とかにおいても、十分なものをもっている。手蹟《て》も見事で、その点では群を抜いている人だったようです。源氏はそういうところに想い込み、藤壺で満たされない気持を御息所に向けていきます。御息所の方は、年も違うことだし、何よりもはしたないから、と最初は逃げていたのですが、源氏の熱心な口説きに負けて結局恋仲になってしまう。ところがそうなってしまうと、年上であることは当然としても、御息所の、いろいろな点で賢く、また細かく行き届く心配りなどが、逆に若い源氏にとっては気重に感じられるようになってくる。二人の間になんとなくすっきりしないものが表面化し、わだかまりを中にしたまま中途半端な関係をつづけているうち、正妻の葵《あおい》の上《うえ》が妊娠します。  その妊娠中に葵祭があってあの有名な車争いが起ります。御息所のほうの車が、葵の上のほうの車に狼藉《ろうぜき》を働かれ、そのために御息所は非常な恥を受けるという事件です。そのときの怨みが生霊《いきりよう》となって、葵の上のところへ通っていく。とりついて、呪《のろ》って、とうとう産後に葵の上は死んでしまいます。  源氏は、御息所が葵の上を呪い殺したということまで知っているのですが、それならそれで全く寄りつかなくなるかというと、それがそうではない。一年ぐらいたって御息所のほうでは、葵の上亡き後も源氏は自分を正妻にする気はないらしい、ほとんど仲も絶えてしまっているし、と娘が伊勢の斎宮《さいぐう》に立つ折柄、一緒に伊勢へ下ることにします。このまま行かれてしまっては名残り惜しくてならない。いよいよ出発という日の数日前の秋の夕方、源氏は少しばかりの供を従え、斎宮母子の籠っている野の宮へ御息所を訪ねて行きます。そこで一夜の別れを惜しんで帰ってくるのですけれども、ここは「源氏物語」の中でも、有数のすぐれた文章で、辛く悲しい恋のきわみを味わい尽した男女の別れが、嵯峨《さが》の秋の夜を背景にしみじみと描かれております。  それほどまでに御息所を思っている源氏の気持は、その後の須磨明石|流謫《るたく》中に、明石の君を知る場面からも十分に察せられます。明石の君が初めて源氏に声を聞かせるところで、その気高くて恥ずかし気な気配が、伊勢の御息所によく似ている、とあるのです。伊勢の御息所とはいうまでもなく伊勢に下った六条の御息所のことですが、おおいやだ、あんな女に似ているのではとてもたまらない、とあとずさりするどころではなく、逆に進んでいって、とうとうその晩明石と結ばれてしまいます。第二夫人として明石に愛情を傾けていくその後のことは前にもお話したとおりです。  御息所の死後、源氏は遺児の前《さき》の斎宮を養女にし、実の子である冷泉院《れいぜいいん》の中宮にする。その前の斎宮にもやはり恋慕の情を訴える。そういうふうに御息所と源氏の間には、断ち切り難いものが最後までつづいていきます。この関係も、やはり藤壺と同じように、源氏にすれば見上げる関係であるといえるでしょう。  それからもう一人は、朝顔の斎院——。源氏とはいとこぐらいになるのでしょうか、桃園式部卿の宮という人の姫君で、一時賀茂の斎院になる人ですが、藤壺も六条の御息所も亡くなったあと、この朝顔の斎院に、狂気のように心を向ける時代があります。紫の上が大変嫉妬し、もしや朝顔の斎院を正妻として迎えるのではないかと、真剣に思い悩むほどです。しかし結局は珍しく肉体関係が全然ないまま、いわば友達のような関係で終ります。  戦前「源氏」を読んだときには、どうして朝顔をここへ出してきて、こんなふうに扱うのか、実に不思議でした。特に魅力のあるような人にも書いてありませんし、源氏と深い関係があるというわけでもない。ただときどきの手紙をやりとりするだけの人で、年もおそらく源氏と同じか、ちょっと上ぐらいではないかと思える程度の人を、と訝《いぶか》しく思っていたのですけれども、この頃改めて読んでみますと、藤壺がいなくなり、六条の御息所がいなくなったいま、源氏にしてみれば見上げる立場の恋人が一人もなくなっている。すると、わずかに残っているのは、この朝顔だけではないか。それが無意識のうちに源氏を朝顔のほうへ惹きつけていく、という結果になっているのだと思えてきました。朝顔への思慕が断ち切られるのは、夢に出てきた亡き藤壺に叱るようなことをいわれたことからで、それからは源氏の朝顔に対する気持も下火になっていきます。  三番目は本当の恋人、恋愛の相手としておもしろく、なまめかしく、また相当の事件も起した女性です。  一番若い頃の相手としては夕顔が思い出されます。この夕顔には、どうしてこんなにと思えるほど夢中になるのです。一夜逢って別れてくると、次の晩逢いに行くまでの昼間が耐えられない。結局は、青春の情熱を燃やし尽し、初めて某《なにがし》の院に源氏と遠出した晩、物《もの》の怪《け》に襲われはかなく消えていってしまうのですが、そのあとしばらくは源氏も病床に臥《ふ》せってしまうというくらい執着する女性です。  夕顔自身は生娘ではない、もう世の中を知っている、ということは、男を知っている女だと源氏は言っています。気持も身体も非常にやわらかく、男になびくようなふうであるけれども、しかしその歌などを見てみますと、男をあやなすようなところもないではない。私には、近世の遊女に見られるなまめかしさがあるように思われます。  しかし夕顔以上に絢爛《けんらん》でなまめかしく、そしてまたそれが源氏失脚の原因にもなるという、すばらしい場面をいくつも繰り展げているのは、俗に朧月夜《おぼろづきよ》といわれている尚侍《ないしのかみ》でしょう。これは源氏の敵対勢力である右大臣の六番目の姫君です。上の姉が弘徽殿《こきでん》の大后《おおきさき》、その息子が朱雀院《すざくいん》で、源氏の兄にあたります。その朱雀院に差上げるべく予定されていながら、まだ入内《じゆだい》はしていなかった時代のある日、観桜の宴が催され、源氏はその席で非常に美しい舞姿を見せる。その夜、少し酔った源氏が弘徽殿のあたりを歩いていくと、細殿《ほそどの》を「朧月夜に似るものぞなき」と、口ずさみながらくる女があります。それが朧月夜でした。  当時の高貴な女性はにじり歩きしていたとか、立って歩くことはなかったとかいうようなことがものの本には出ておりますけれども、そういうのも程度問題で、朗詠を口ずさみながら細殿を歩いてくる朧月夜などは、さながら現代の女性のようで、非常に奔放な感じがいたします。清少納言が書きそうな女のイメージです。  それをやにわに源氏が抱きすくめ、細殿の細い座敷へ抱き入れた。女はびっくりし、ここには人がいる、といおうとしたが、私は源氏だから呼んでも誰も来はしないといわれ、声を立てるのをやめた。その場で情交が成立します。  それからしばらくして、右大臣家のほうでも、朧月夜が源氏と唯ならぬ関係になったらしいとわかったため源氏を婿に取ろうとするのですが、もともと右大臣家と仲がよくない源氏は気が進まず、縁組をしようとはしません。結局右大臣家では朧月夜を朱雀院の女御として上げることは諦《あきら》め、尚侍という公けの職名のついた、実際には帝の後宮に侍する愛妾《あいしよう》として差上げることにします。  しかし、尚侍と源氏とはお互いに好き合っているものですから、尚侍が帝のところへ上がってからも、侍女を中にして始終逢いびきする。そのしのび逢いを、帝のほうでも薄々知ってはいられた。知ってはいられたけれども、大変通人でもある帝は、二人の間は前々からあったことだし似合いの仲でもあるので、と黙認していられた。  そうこうするうち、弘徽殿の大后とか、右大臣とかが権勢を振うようになり、源氏方の政治的情勢は次第に悪化していきます。それでも源氏は、朧月夜のところへしきりと逢いにいく。  ところが、ある雷のひどくなった晩、朧月夜の閨《ねや》に忍び込みはしたものの、人が外を行き交ったりなどするためにそこから出られなくなってしまった。閨に寝たまま一緒に几帳《きちよう》の陰にはいり込んでいるうち朝になり、雷がひどかったけれども、どうもしませんでしたか、というようなことをいいながら右大臣がはいってきた。娘のほうは具合が悪いものですから、頬を赤らめたまま顔を出します。瘧病《わらわやみ》、いまでいうマラリアのような病気で熱を出していた朧月夜は、それが治ったばかりということもあって、右大臣は、なんだか顔が赤いけれども熱があるのではと、心配顔にそばへ寄ってみた。すると、娘の着物と一緒に男帯がずるずると出てくる。ぎょっとしてよく見ると、そこには反古《ほご》がいっぱい散らかっている。いよいよびっくりして取り上げてみれば、それは紛れもない光源氏の手蹟《て》であった、という運びです。  右大臣は反古を携えて弘徽殿の大后のところへ行きます。大后のほうでは、唯でさえ憎く思っている源氏が、自分のすぐそばでそういうけしからぬ行為をしていることがわかったものですから、憎しみはいよいよ募り、遂にこれが、源氏失脚のきっかけとなります。  雷が鳴る閨に源氏と朧月夜がいる。夜が明けてきて人が来る、右大臣もはいってくる。朧月夜が赤味のさした顔を出す。十二|単《ひとえ》の被衣《かずき》と一緒に男帯がたぐり出されてくる。そこには書き散らされた反古がある、というふうに展開するこの件《くだり》は、露骨なことは何ひとつ書かれていないのですけれども、非常に色めかしくなまめかしい文章で、「源氏」のうちでも、宇治十|帖《じよう》の浮舟と匂の宮が船に乗って川を渡る場面と並ぶ、最も艶《つや》っぽい場面ではないかと思っております。  この朧月夜の件を読みましたのは、日本が第二次大戦に敗けた昭和二十年の冬でございました。ものはみんな空襲で焼いてしまい、なんにもありません。で、軽井沢へひっ込むのに本を少し持って行きたいと思い、知人から「湖月抄」の端本をもらっていきました。身のまわりにあるものといえば、「源氏」の端本だけで、かまどの火をたいたり、ご飯をこしらえたりしながら、日がな一日「源氏」を読んでおりました。一番ひもじい寒い時期ではありましたが、何かおいしいごちそうを食べてでもいるように、朧月夜の件とか、宇治川の場面とかの官能的な美しさが、しみじみと私の内に残っていったのを覚えております。そしてこれは、やはり私のなかにあるふるさとだ、どうしても帰って行かなければならないところだという感じを、強く持たされたのでした。  お話を元に戻します。今までに挙げた女性たちは皆源氏の恋人でしたが、最後に、源氏にとってどうしても愛せなかった女性についても考えてみようと思います。  その第一は正妻の葵の上。源氏が十二のとき、正式に帝から許されて結婚した人です。葵の上がいよいよ病気で死ぬという頃には少しばかり歩み寄りも見せてはおりますけれども、源氏より四つ年上で気位も高く、源氏をそれほど大事には思っていない。源氏のほうもこのお姫さまを大切にする気はない。ということで、一生背きあって過した女性でした。  それから、昔の本には「悪后《あくきさき》」などという名前で紹介された弘徽殿の女御がいます。この人はいわば敵役《かたきやく》のように使われておりまして、源氏の母桐壺の更衣をいじめることから始まり、いつも源氏の敵方にまわる人なのですが、公平に見ればかなりしっかりした意志の強い人だと思えます。  ここでおもしろいことには、源氏の側から見て愛せない、もののあわれを知らぬともいえそうなこの二人の女性には、悪意をもって書かれているかいないかは別として、申し合せたように歌がないのです。女には、たいてい源氏との間に歌の贈答があるのですが、葵の上などは結婚して亡くなるまでの間にかなりの年数があるにもかかわらず、歌を取り交すことは一度もない。弘徽殿の女御もまた、どこにも歌は見当りません。  こう見て参りますと、少くとも源氏を愛し源氏に愛されたそれら女性たちが、果して幸福になれたかどうか、ということが、作者のまず描こうとした曼陀羅図《まんだらず》のもくろみではなかったでしょうか。しかしそれらは必ずしも成功したとはいえない運びになったので、「若菜」の巻以後に移っていったのではないか、そんなことを私は考えるのです。   源氏物語の構造  古典の場合でも、近代文学の場合でも、傑作といわれている短篇《たんぺん》は、一般に構成が非常にはっきりしておりまして、起承転結のうまくいっているものが比較的多いと思うのですが、長篇の場合には、建築的な構成の妙が、そのまま作品の魅力になっているというわけでもないように思われます。それよりも作者の個性とか、人生に対する眼とかが、文字や言葉を通して訴えかけてくるその力、説得力とでもいえるものが、やはり魅力の源泉であるようです。訴えかけてくるものがきわめて強いというだけで、構造自体はさまざまな形をとっていても、結局において傑作であることにほとんど異議をさしはさむ余地はないとさえいえるように思えます。構成の破綻《はたん》がそのまま作品のマイナスにつながるということは、稀《まれ》といっていいのではないでしょうか。  たとえばドストエフスキイの「カラマゾフの兄弟」は、現在完成している部分だけでも相当な長篇でございます。私はこの作品を十九世紀文学の最高峰のひとつだと思ってきましたが、最近読み返してみて、これこそ近代人の聖書の読みかたが、最も正確に表現された文学であると改めて感じました。これからも何度でも読んでみたい作品のひとつなのですが、それならば「カラマゾフの兄弟」が完結した作品であるか、構造の上で完成しているかといえば決して完結した作品ではありません。  ご承知のように、作者はアリョーシャという、宗教心の篤《あつ》い、正義感の強い見事な青年を主人公にしているわけですが、しかし今日残されている限りにおいて「カラマゾフ」のシテ方をつとめているのは父親のフョードル・カラマゾフであり、それに長兄のドミトリーや次男のイワン、私生児のスメルジャコフというような、アリョーシャをとりまく人物たちがからんで、父親殺しという極限状態が描かれているわけです。それにゾシマ長老や、コーリャを中心とした少年群が登場し、それぞれアリョーシャに影響を与えます。影響を与えられるのがアリョーシャなのでして、常にアリョーシャは受け身の立場にあり、シテ方の役割はみんなほかの人がつとめている。  ドストエフスキイのノートなどから推して、おそらく彼には「偉大なる罪人の生涯」というタイトルの下に、三部作か四部作かの相当長い小説を書くもくろみがあり、その第一部が「カラマゾフの兄弟」であったろうといわれておりますが、先へいってからアリョーシャが名実ともに主人公となり、革命人として変貌をとげるという結末の一巻が構想されていたことがたしかにうかがわれます。しかしそれなら、現在私たちの前にある「カラマゾフの兄弟」が、未完成の作品かというと、決してそうではなく、あれだけで十分文学として最高の輝きをもっている。その他にも、建築的見地からはバランスを失したような要素は少なからず宿していますが、あの状態で、「カラマゾフの兄弟」はすでに完成しているといって何の差支えもないでしょう。 「源氏物語」の場合にも、建築的に見てバランスがとれ、完成した形につくられ、しかもそれがおしまいまでうまくいっているとは、私には思えないのです。  一方では、「源氏」は短篇の集積である、連作形式で書き継がれたもので、最初から長篇としてもくろまれた作品ではない、というような見解もあるようですが、しかし、やはり「源氏」には一本の太い流れがあり、その流れに沿って物語は進められている。それでいて作者の筆は、紆余《うよ》曲折を繰り返しながらさまざまな動きを見せています。その構造も、平安朝の寝殿造りのように、左右の対《たい》の屋《や》があり、中門があり、というような、一定のシンメトリカルな図式を見せているものではない。もっと自然な風景を頭に描いておいていいような造りではないかと思うのです。  昔の人は何事も何かになぞらえてみなければ、なんとなく安心できないようなところがあったのではないでしょうか。「源氏」という作品がそれほど大きく、また深いものをもっていたためだと思うのですが、たとえば「源氏物語」は、天台六十巻の経文の心をうつしてつくられたものであるとか、紫式部は観音|菩薩《ぼさつ》の化身であって、化身であったからこそ、ああいう人間ではつくれないようなすばらしい物語がつくり出せたのであるとか、また反対に、式部は人間の心の底までえぐり出すような物語を書いたために、地獄に落ちて苦しんでいるとかというような伝説まで現われてきました。  しかしこれは、非常に多くの人に読まれ、愛され、そして生き耐えてきた物語が、宿命的に具えている副次的な性質だと思えばいいので、こういうことは日本に限らず、たとえば中国にも、「水滸伝《すいこでん》」の作者は「水滸伝」を書いた罰で唖《おし》になったという伝説があるそうです。物語を書いた、書かれた物語が人に影響を与えた、ということが、反動として罪の深さというような感覚を呼び起し、後代にまで伝えられていく、というのが大きな作品の特徴でもあるように思われます。  構造論からは、少し脇道へそれてしまいましたが、要するに「源氏」の構成とか構造とかを、あまりきびしく縛って考えることはないと思うのです。源氏を中心とした曼陀羅図を考えてみるくらいのことで十分なのです。しかしその曼陀羅図も、最初の構想どおり、最後までうまくいっているわけではありません。  六条の院が出来上り、娘の姫君も入内して東宮の妃となり、養女の玉鬘《たまかずら》も人妻となる。息子の夕霧は太政大臣の娘と長い恋仲がかなって結婚、まず一族が繁栄のうちにひとかたついた「藤裏葉」で、この曼陀羅図は幸福な完成を見るはずだったのです。ところが実際には、そうはいかなくなってきた。書き始めたときの作者は、源氏に幸福な晩年を送らせることで終りを告げようと思っていたかもしれません。しかし、少なくとも、藤壺との密通によって密《ひそ》かな子どもが生れ、その子が次の天皇になる、というところまで書き進めてきた作者には、暗い秘密が源氏の心に影を射したままその栄華を終らせることは、もう出来なくなっていたのだと思います。  そこで、正篇の第二部にあたる「若菜」以下には、いままで全然出てこなかった、源氏の兄朱雀院の皇女である女三の宮が登場し、源氏はこの人を正夫人として迎えることになる。その女三の宮が、源氏の従兄子《いとこご》にあたる柏木《かしわぎ》と、かつて源氏が藤壺と通じたような密通事件を起し、のちに宇治十帖の主人公となる薫《かおる》を生む。これが、源氏の心に初めて重い手傷を与えます。  あらゆる女に愛されることで自負を傷つけられることなく生きてきた一世の驕児《きようじ》が、自分には及びもつかないと思っていた青年、さほどすばらしいとも思っていなかった柏木に、これもまるで幼児のようにあどけない自分の正妻を奪われてしまうという、非常に恥ずかしいコキューの立場に立たされる。この事件はなんとしても隠しおおせなければ、雪《そそ》ぎようのない恥になる。源氏以上に、内親王である女三の宮の恥になる。そういう破目に追い込まれて初めて源氏は、自分が昔藤壺と通じ、冷泉院を産ませたあのとき、父帝はやはりそのことを知っていながら黙っていたのではないだろうか、その報いが、いま自分にかかってきたのではあるまいか、と考える。  この件《くだり》の柏木に対する源氏の憎しみは非常に人間的なもので、それまではあくまでも美しく尊いものにされていた源氏が、ここでごく普通の人間に引きおろされています。その人間的なもののなかからある調和を見出《みいだ》すところに、晩年の源氏の深さが現われてくるといえましょう。  この部分は私の一番好きなところなのですが、作品構造の点からいうと、初めにもくろまれた曼陀羅図は、この事件をもって無残に切り破られ、全くべつの構想が第二部を生んでいきます。女三の宮には裏切られ、愛妻の紫の上にも先立たれて、憂き世のはかなさをしみじみ味わいながらなかなか現世から出離出来なかった源氏が、遂に一人で出家していく、というところで正篇は終るわけです。  この切り替えが意識的になされたものかどうかにはいくらかの疑問も残りますが、ともかく「若菜」の巻は上下二巻になっており、これだけで全体の十分の一ぐらいあるでしょうか、それほどの紙数を費すことによって、構造の面からはたしかにバランスを破っています。  しかし、能などでも破の魅力ということを申します。調和を保っている美しさのなかにも調和を破る破というものがあるわけで、「源氏物語」もまた、破の魅力によって単調に流れることから救われている、と私は思うのです。  ですから、いたずらに起承転結をつけるとか、バランスをとるとかいうことが、作品の魅力を生むための必要条件ではけっしてないのであって、バランスを失しているようなところが、逆に文学的な魅力になっている、というようなこともいえるのではないでしょうか。  作品全体の構造についてはこれくらいでおき、十世紀から十一世紀にかけて書かれたものでは非常に珍しいと思われる構成として、あの長い小説のなかに、物語のジャンルを超えたエッセイ的な文章が、少しも角々しくなく、自然に流れ込むように入ってきている文章上の特性を見てみたいと思います。  これは、主人公がインテリゲンチャとして扱われていなければ、おそらくできないことだったでしょう。近代小説の場合には、ドストエフスキイにしても、トーマス・マンにしても、いくらでもできたことなのですが、十一世紀頃の物語としては、けっして容易なことではなかったと思うのです。おそらくそういうエッセイ的な文章、つまり物語論であるとか教育論であるとかいうようなものが、物語のなかに包括されている作品は、我が国の他の物語にも、ヨーロッパのものにも、まずあの世紀のものではほとんどないのではないかと思います。その点でも「源氏物語」は非常に珍しい作品なのです。  なかでも有名なのは「帚木」の巻の「雨夜の品定め」といわれている女性論です。源氏の宮中の宿直所《とのいどころ》へ、親友の頭の中将が遊びにき、そこに馬《うま》の頭《かみ》とか式部丞《しきぶのじよう》とかいう、女のことには相当明るい通人がお相手にきて、女の品定めをする、外は折からのさみだれに煙っている、という段です。「品定め」という言葉はいまだに生きている言葉だと思いますが、ここでは、上《かみ》の品《しな》、中《なか》の品、下《しも》の品、つまり一番上の階級の女、中ほどの女、身分の低い女、というふうに、必ずしも人柄についてではなく、半分は身分について女を三段階に分けます。上の階級であっても、それだけの値打ちのない女もいる反面、精神の働きを一番自由に見せる女は、中ぐらいの階級にいる、というような含みで、女性批評の一般論を馬の頭がし、それから自分の経験談を述べていく。  そのうちのひとつは「指食いの女」といわれる女の話で、裁縫や染物も上手ですし、よく気もつき、家内のことは何でも出来る。家妻としては申し分のない女なのですけれども、ただ非常に嫉妬深い。男が少しでも浮気をすると、たいへんやきもちをやく。男は何人か通う女のうちで、この女こそ自分の正妻にと思っていたのですが、やきもちのあまりのひどさに、ある日、自分にはとても通い切れないからと、別れ話をもち出してみた。これでこりるだろうと思ったところが、女のほうではあっさりと、それなら別れましょう、という。大げんかになって出ていこうとしたら、自分の指を食い切った。これではいよいよ一緒にいられない、と言い残して馬の頭は逃げて帰ったのです。しかし、しばらくして、臨時の祭の調楽の夜、通って行く先もないままに、その女のうちへいってみると、いつ馬の頭が来てもいいように、着物がちゃんと暖めてあった。ただ女は親のうちへ行った後で留守だったのですが、そういう心のあたたかさを持った女だった。しかしそんなことですれ違っているうちに、とうとう病気で死んでしまった。これが指食いの女の話です。  それから、「木枯しの女」が引合いに出されます。歌も詠み琴も上手という才女で、二人の男をあやなしている。その二人の男が、偶然同じ日に御所から退出し、一緒に女の所へ行くようになったために、ばれてしまったという浮気な女です。  もうひとつは学者の娘で、学問がよくでき、その女を師としていろいろなことを習ったけれども、いかにも堅苦しく、情緒に欠けていた。あるとき訪ねていったところ、いま風邪をひいて熱を出し、大蒜《にんにく》を飲んで寝ているから、そばへ寄らないで下さいという。当時の恋愛は、前にも申しましたとおり趣味恋愛ですから、大蒜を飲んだなどとは、男に対してけっしていうべきでなく、女の風上にもおけない振舞いなのです。それでげっそりして帰ってきてしまった。それを聞いた源氏や頭の中将が、そんな女がいるものか、それじゃまるで鬼みたいじゃないかと笑ったほどの女です。  それらを承けて、頭の中将が、たいへんものはかなかった女の話をします。囲っていた女が、本妻のほうからやかましいことをいってきたため、自分に隠したまま、女の子が一人あったにもかかわらず姿を消してしまった。あんな女こそものはかない女のためしであろう、としみじみ語ります。  これが実は夕顔であったと読者は後になって知るのですが、そういうのちの伏線になるような話も交えながら、抽象論から具象論に至るまで、女性論が一応尽される。  さて、その長雨も明けたある夜、源氏は物忌みで、中川にある紀伊《き》の守《かみ》の家へ行くことにします。その家で、中《なか》の品《しな》に相当する伊予の介《すけ》の後妻|空蝉《うつせみ》という女が、継子の紀伊の守の家に来ていることを知り、好き心を動かして空蝉の閨に忍んでいく、というふうに、エッセイ的な部分から本来の物語に流れ込んでいくわけです。  それまでの源氏は、もう少し階級の高い女としか関係を持たなかったし、知りもしなかった。それが雨夜の品定めののちに、中の品の人妻を知るようになる。そして、中の品の、つまり中流階級、受領階級の人妻で、趣がありながら、一本筋を通し、ちょっと言い寄れば誰でもなびいてくるような源氏に対してさえ、ひとたびは余儀なく許しはしたものの、あとはどうしても許さない、許さないけれども愛情はいつまでも忘れずにいる、というような、特異な恋愛感情を持つ女を発見することになるのです。  空蝉のみならず新しい女の発見の場に見せる作者の手際は、無理のない流れといい、場面設定の妙といい、それに伴う情感の豊かさ、イメージの鮮かさ、どれをとっても心憎いばかりで、もし構成の確かさをいうなら、注意深い読者は、まずこの手際に目を瞠《みは》るでしょう。朧月夜との出会いは先にご紹介しましたが、北山の庵で幼い紫の上が、まだ生えそろわない髪を扇のように切りそろえた姿で、雀の子が逃げたといって泣きながらかけてくるのを垣間《かいま》見る、あの有名な描写なども、初めて紫の上の登場する場面として実に鮮かです。  しかしそれでいて、重要な人物である藤壺とか六条の御息所とかいう最高の身分の婦人に関しては、最初に会ったときの情景は全然描かれていない。ここにも、何か逆説的な配慮があるように思われます。  エッセイ的な文章のひとつとして、いまは女性論の周辺を見てみましたが、他にも音楽論、教育論などが随所にはさみこまれ、それぞれ本来の物語とかかわりながら独得の骨格を形づくっています。そのうち、最も興味深い問題を提起し、よく引かれもするのが「蛍《ほたる》」の巻の物語論です。  六条の院が完成し、夕顔の遺児の玉鬘をそこに養女として迎え入れる。玉鬘は大そう美しく、多くの男が求婚してくる。源氏自身も夕顔の面影に誘われて、忍びがたくなるままに口説くようなこともある不思議な関係なのですが、さみだれ時のやはり暑苦しい頃、六条の院の女たちの間に、物語を読むことがはやります。あちこちから借りてきては、写したり、読みあったりしている。  玉鬘の部屋へ源氏がいってみると、やはり彼女も一所懸命に写していた。そこで源氏はからかい半分に、よくもまあ女というものは、こんな暑苦しい、うっとうしい季節に、髪の顔にかかるのもかまわず、写しものなどできるものだ、しかも物語などというものは人をだまそうとして書いているものなのに、わざわざだまされるために写すのか、という意味のことをいいます。それに答えて玉鬘は、「うそが書いてあるかどうか、うそを知っているようなお方だからおわかりになるのでしょうけれど、私たちには、物語に書いてあることはみんな本当のことに思えますわ」という。源氏はまた冗談のように、「そうだそうだ、まったくそのとおり、あなたのおっしゃるとおり、物語のなかにこそ本当のことが書いてあって、古事記とか日本書紀とかいうような記録をとどめたものには、かえって本当のことは書いてないのかもしれないね」というのですけれども、そのあとで、ちょっと調子を変えて、こういうことも話すのです。 「いったいに物語というものは、誰それの身の上ときめて、ありのままを語ることこそないけれども、よいこともわるいことも、この世に生きていく人のありさまで、見ても見飽きず、聞いても聞き放しにしてしまえない事実を、またそのなかで後世にまで言い伝えたいと思うことがらを、心ひとつには秘めかねて書き残しておいたのが始まりでしょう」  これは、実に鋭く、文学というもの、言葉というものの本質をついていると私は思います。 「作中の人物をよくいうためには、よいことばかり選び出して書き、また読むものの気を引くためにはわるいところでも、ありそうもないほど書き集めて書くものですが、どちらにしてもみな、この世にないことではないのです」ともいい、「外国の作者は、書きかたもつくりかたも違っています。同じわが国のことであっても、昔のはまた今のと違うこともあろうし、書きかたに浅さ深さの差はありましょうが、物語がまるでうそだ、つくりものだと言い切るのも、真実とは違うことです」と、そういうふうにも言って、「仏のまことに尊いおぼしめしでお説きになった御法《みのり》にも、方便ということがあって、初心のものには矛盾しているような疑いや迷いがおこるに違いない。悟りを得ていないものは、経文のうちにあちこち矛盾しているところがあるように思い、方便を使ったものに対して疑いを持つであろうけれども、しかしせんじ詰めてみれば、菩提《ぼだい》と煩悩のへだたりということを説いているという点では、ひとつむねに行き着くものなのです。物語のなかで、いいこと、わるいことを、まことらしくないほど誇張して、大げさに書き変えながら世の中の真実を語っているのも、やっぱり仏教の方便と同じ意味だろうと思います」——真実というものは、誇張の衣を着て表現されるということがある、が、芯《しん》のところは、仏陀が仏教の真理を伝えるために、いろいろな方便によってわかりやすく説明しているのと同じことだ、と解してよいでしょう。真実を芯にして文学というものがありうるのだ、大げさなことを書くとか、つくりもののうそを書くとかが文学の本意ではなく、真実をどういう形で他人に伝えるか、というところに作者の苦心があるのだと、作者は源氏の後ろではっきり語っているわけです。 「源氏物語」をここまで書きぬいてきた時分には、紫式部にも源氏にこういうことを言わせる相当確かな自信があったと思われます。無論これも主人公が、十分な知識を持った一流の教養人光源氏であったからこそ、つけ焼き刃的な感じがしないで受け取れるのですが。  正篇は、それらエッセイ的文章を巧みにとり入れながら、源氏の出家直前まで進んで一応幕を閉じます。  続篇は源氏の死後数年たった後の、その一族の生活から始まり、いわゆる宇治十帖に続いていきます、宇治の八の宮という、置き忘れられたように半俗半僧の生活をしている源氏の兄弟にあたる親王と、その八の宮が育てた大君《おおいぎみ》、中の君の二人の姫などが新しい登場人物です。薫が八の宮を慕って仏法の話を聞きにいくところから始まって、その二人の姫に会い、愛情を持つようになる。ことに大君は八の宮の信仰心を受けついだ女性で、薫の愛を、精神的には受け入れながら、身体ではどうしても結びつかず、妹の中の君に譲ろうとします。しかしその願いも、中の君を源氏の孫の匂の宮に横取りされてしまうことで、結局果せず、そのまま死んでいってしまいます。大君に対する哀惜が、薫をいつまでもさまよわせ、ついには、二人の姫君の異腹の姉妹である浮舟に移っていく。  その浮舟もまた匂の宮に愛されるようになり、二人の男の間に身を置きかねて、宇治川に身投げしようとする。がそれも横川《よかわ》の僧都《そうず》に救われて果せず、髪を半分おろしたような、半ば尼になったような生活に入ります。それを知った薫が使いをやっても、浮舟はもはや返事もよこさないという、巻名「夢浮橋《ゆめのうきはし》」そのままに、終ったような終らないような、いかにも日本文学的な終りかたで幕を閉じるわけです。  宇治十帖は、たいへんよくできた中篇小説で、構成としては正篇よりもまとまっているだろうと思います。前半はやや退屈な感じも否めませんが、浮舟が登場してからは、自殺寸前までいくような、かなりさし迫った状況さえ生れてきますから、少なくとも女性読者には、正篇と違った魅力が感じられて、おもしろいと思うのです。  しかし、あくまでも正篇あっての宇治十帖であって、人によっては、少なからず宇治十帖のほうがすぐれているという見かたもあるようですが、こんど読み返してみて、やはりそうはいえないと思いました。たしかに宇治十帖は、これだけを独立させても、王朝女流文学中の傑作ですけれども、しかし正篇がなかったならば、宇治十帖の光彩というものは、極端に薄れるでしょう。逆に正篇は、後に宇治十帖がないまま終っていたとしても、あの光彩は少しも失せないであろうと思われます。それだけの重さ、長篇としての深さを具えているからです。   源氏物語を生き継がせたもの  川端康成さんの「哀愁」という終戦直後に書かれた文章が、私は大好きなのです。そこには自分は戦争後の日本に生き残ったということ、これからは過去に滅びたものの美しさを描いていくということが書かれています。そのなかに「源氏物語」について次のようなことが語られています。  川端さんが戦時中、鎌倉から東京へ通う電車のなかで、「源氏物語」を、「湖月抄」の木版本で読んでいられた。昔の本ですので、大きな文字で刷ってある。当時の灯の暗い電車のなかでは読みいいものだから、ふつうの活字本でなしに、木版本で読んでいられたわけです。そして「源氏」のおもしろさを改めて感じられた。川端さんの言葉では、「源氏物語」をはじめとして、あわれを描いた日本の文学は、政治抗争や戦争など、現実の時代のさまざまな社会状況に滅ぼされたようにみえながら、実際には、源氏(源氏平氏のほうの源氏です)を滅ぼし、平家を滅ぼして生き残ってきた……。  亡くなられた当座、川端さんは「枕草子」のほうが好きで、「源氏物語」はそれほど好きではなかったであろうというようなこともいわれましたが、私は、「哀愁」に書かれたような読みかたをしていられた点から、やはり「源氏」にはかなりの愛着を持っていられたはずだと思います。晩年にも「源氏物語」の現代語訳を仕事のひとつに考えていられたほどでしたが、訳し通す根気はついにおありにならなかったらしく、結局一巻も残さずにお亡くなりになりました。  数年前川端さんがハワイの大学でされた講義の題目は、「源氏物語について」でした。私はその講義を直接聴いてはいないのですが、懇意な女性ジャーナリストが聞いてきて話してくれたところによりますと、そのとき川端さんは、言葉について非常に鋭敏な講義をされたそうです。口語訳のついた「源氏物語」をテキストに持ってこられて、その訳文と原文とを対比しながら話をされる。たとえば「桐壺」の巻の「いづれの御時にか……」という書き出しが、そのテキストでは「どの時代であったろうか」と訳してある。その「ど」という音がいけない、「ど」という音で始まっている訳はいい訳ではない、そう話されたそうです。  ジャーナリストはこれを非常におもしろがって話してくれたのですが、私も大変興味深いことだと思いました。日本語には、往々にして濁音が美しいひびきを与えない場合があるのです。濁音がかえって言葉を美しくするときもあるのですが、醜くすることもあります。それを川端さんは感じ取っておられたのでしょう。  言葉の音に対して非常に敏感な文章家であった川端さんの訳が、たとえひとつの巻でもいい、残っていたならば、今後の私どもの、また私などよりずっと後の人の「源氏」に関しての仕事に、大変役立ったのではないかと思われ、残念でなりません。もし川端さんの訳があれば、それもやはり「源氏」を生き継がせていくもののひとつに、数えられたに違いないのです。  平安朝の時代には、漢文や漢詩が男の人の本当の学問、表の学問になっていたことは周知のとおりですが、一方、勅撰和歌集というような、天皇の命によって編纂《へんさん》される和歌集があったくらいですから、和歌の地位はきわめて高かったと考えられます。  しかし和歌に比べますと、物語は、ほんの手すさび、女子供が読んで弄《もてあそ》ぶものという観念が強く、和歌のほうが主であって、物語はもう少し下がったもの、と思われるような傾向がありました。中国でも小説——日本でいえば物語は、士大夫の書くものではない、狂言綺言(物語)は士大夫のするものではないとされていました。そしてやはり詩が高い地位を与えられていたようです。詩によって自分の志を述べることもできれば、ときに抵抗の姿勢をも十分打ち出せる。それによって政治的な迫害を受けるようなことをもしてのけるというほど気概のあるものだったのです。和歌には、そういう政治的な抵抗といったものは全然感じられませんが、詩と同様、宮廷文学としてやはり一流のものでした。しかし、物語はもっと私的なもので、北《きた》の方《かた》や女房、姫君などの女たちが、部屋で慰みに読むものである、という考え方が、ずっと後まで残っていたようです。  しかし、「源氏物語」の作者自身が自分の物語を卑下していたとは思われません。式部には非常に強い自信があったと思うのです。同時にまた、物語が当時の社会機構のなかで和歌よりも低く評価されている、ということも十分に知っていたようです。  和歌は「源氏物語」にも、作中人物の作品としてたくさん折込まれております。なかにはかなりいいものがございまして、私の好きな歌も少なくありません。ですから「源氏」の歌をつまらないという意見には、私は反発したくなるのですが、たしかに残念ながら、全部が全部秀歌とはいえません。作者自ら申しわけのような言葉を書き添えているほど並ひととおりの歌が多いのも事実です。  源氏となにがしかの女房が応答した歌とか、貴族たちがとり交した贈答歌のあとには、こういう身分の高い教養のある人たちなのだから、もっと上手な歌が詠めそうなものだけれども、なかなかそうはいかないものらしいとか、あるいは悲しみの情が非常に強まっているときなので、秀歌が出ないのも無理はないとかいうような、批評めかした作者の言いわけが、いくつとなく見られるのです。  そのことを、私は大変不思議に思って長年見ておりましたが、この頃になって考えてみますと、物語を読む貴族たちは、作中の和歌を基準に物語の位置づけをしていたのではないかと思い当りました。そのために、それぞれの和歌について、作者自身はどの程度に評価しているか、作者が標準としているところはどういうところであるかを、いちいちいっておかなければならない自尊心と自嘲《じちよう》とが同時に働き、その結果ああいう註釈《ちゆうしやく》を施したのだろうと思うのです。自分の歌の申しわけをしている作者は、ほかの王朝の物語作者にはあまりなく、やはりあれは、紫式部の特性であったと考えられます。  歌を第一位として扱ってきた伝統はなかなかくずれませんでしたが、それでも貴族の間で「源氏物語」は非常に愛読されました。「源氏物語」が、即《すなわ》ち紫式部が、生きていたということでしょうか。紫式部の没年ははっきりしないのですが、亡くなってからまだそんなに隔っていない時代に、もう「源氏」の写本と称するものが百何十種かあったという記録が残されています。  この記録もどこまで信用していいかわかりませんが、話半分とみても、四百字詰原稿用紙にして三千枚にもなろうという大部の物語を、あの時代に手ずから書き写した人が百人近くもいたということは、「源氏」が、当時の中流階級以上の人々に如何《いか》に愛読されたかを教えてくれます。その人たちが、「源氏」を読みたい、ほかの人にも読ませたいというどんなに切な愛情をもって写したかも想像に難くありません。  今日名前の知られている「源氏物語」の一番古い愛読者は、「源氏」よりも数十年あとで書かれた「更級日記」の作者、菅原|孝標《たかすえ》の女《むすめ》です。紫式部の遠縁にあたる人ですが、その日記のなかに、少女の頃、「源氏」を読みたいと思って非常にあこがれた、本文を全部|揃《そろ》えて読んだときには、「后の位も何かせん」と思うほどうれしくてたまらなかった、と書いております。  孝標の女の少女時代といえば、式部が「源氏」を書いた時期の十年ほど後と推定されるのですが、その時代に、もう常陸《ひたち》の国(今の茨城県)の次官をしていた菅原孝標の家に「源氏」の話が伝わっていて、「更級日記」の作者も乳母や母から噂《うわさ》を聞いていたのでしょう。後年京に上ったときには、伯母の家で「源氏」の写本をもらうことができた、というほどですから、おそらく宮廷を中心としてでしょうけれども、貴族階級、それも地方の受領階級にまで「源氏物語」は広がっていたと見なければなりません。  このような愛読者が物語を写していったのは、もちろん和歌がすぐれていたからではなくて、やはり光源氏を中心とした「源氏物語」がすぐれていたからです。物語のおもしろさが、ただ読むだけでは飽き足りず、一字一字写していくという作業をさせ、それが次々と後の時代に残っていくことになりました。  もちろん紫式部自身の筆になる「源氏物語」はいまは影もとどめておりません。また王朝時代の名筆、藤原行成が写したという説もあるのですが、行成筆の「源氏」というものも、いまは残っておりません。現在残っている最古の写本は、鎌倉時代初期の藤原定家によるものです。  当時の歌道の重鎮であった藤原俊成、定家親子は、揃って「源氏」に傾倒しました。まず俊成が「源氏」の歌を非常に高く評価し、さらに、物語としても「源氏」は大変立派なものであり、ことに「花宴《はなのえん》」などは、見事だ、と評したあとで、「源氏みざる歌よみは遺恨のことなり」とまでいっています。  当時、藤原俊成といえば、斯道《しどう》の権威者だったわけですから、この言葉は「源氏」に対する高い評価の有力な証しとなるでしょう。そして、その息子であり、すぐれた歌人として後継者でもあった定家が、こんどはただ推賞するだけでなく、自ら写しました。  定家はその著「明月記」のなかで、次のようなことをいっております。 「源氏物語は狂言綺言といえども、高才のつくるところにして、これを仰げばいよいよ高く、これを磨けばいよいよかたし」 「源氏」は一見つくりものであるけれども、しかし非常にすぐれた才能から生れたフィクションであって、これを仰げばいよいよ高く、磨けば磨くほど硬い、それこそ鉱石のように硬いものを持っている、そういうすぐれた芸術品であるというのです。  それほど定家は、「源氏」に絶讃《ぜつさん》の言葉を浴びせているのですが、なおかつ歌人であった定家には、歌の教科書として「源氏」を読まなければならない、物語として評価するよりも、歌のほうで評価しなければならない、というようなジレンマも感じられます。  鎌倉時代以後には、「無名草子」とか「源氏人々の心くらべ」あるいは「紫明抄」とか「河海抄」、またずっと下っては一条兼良の「花鳥余情」など、「源氏」の鑑賞や批評の書が相次いで著わされますが、いずれにせよ、まず和歌が仲立ちとなって「源氏」は広がっていきました。  長い間埋れていて、最近ようやく活字でも読めるようになった「とはずがたり」は、「源氏」が中世の最高貴族の生活にまで影響を及ぼしていたことを物語ってくれます。これはちょうど元寇《げんこう》の時分、後深草、亀山天皇の時代で、北条氏の中期以後に当る頃の物語です。後深草天皇がすでに上皇になっておられ、その上皇の寵《ちよう》を得た二条という女が後宮にいました。のちには尼になるのですけれども、その二条が自分の身の上話を残しておいた。それが「とはずがたり」です。  そこに描かれた後宮は、男女関係もかなり乱れ、もう王朝の亜流にすぎません。たとえば「源氏」の書かれた時代に浮かれ女《め》などというあだ名をとった和泉式部と、「とはずがたり」の二条とを比べてみますと、激しい恋愛関係などの点では和泉も二条も違いはないのですが、しかし文学の上では、和泉のほうは非常に格調の高い歌を詠んでいますし、「和泉式部日記」にも濁ったものがなく、きわめて清冽《せいれつ》な調べです。それはやはり、後宮それ自体、また宮廷それ自体に、源流の澄んだものがあったからだと思うのです。  それが鎌倉時代になりますと政権は武家に移り、宮廷はまだそれほど貧しくはないけれども、すべてがもう惰性で動いていくようになり、することなすことすべてが「源氏」の時代の模倣である、というような時代になってしまっていたのです。  たとえば「若菜下」の巻に、源氏が正妻の女三の宮と紫の上、それに明石の女御という自分の娘とその母親の明石の君の四人に、琴と琵琶をひかせて合奏させ、息子の夕霧に拍子をとらせて、女楽《おんながく》の催しをするところがあります。例の女三の宮と柏木の恋物語の前になる場面なのですが、「とはずがたり」では後深草院がそれをそっくりまね、自分の後宮の女房たちを集めてやらせたりします。  あるいは後深草院と亀山上皇が、大堰《おおい》川で舟遊びをする。ほんとうは仲がよくない二人なのに仲のよいように振舞う、というようなところも、うわべは光源氏と朱雀院の関係を物語からとって現実化したのではないかと感じられます。 「とはずがたり」から百五十年位のちには応仁の乱という大変な騒動があり、京都はほとんど焼野原となった。おそらくは古くからあった「源氏」の写本も、ずいぶん失われたでしょう。そんな状況下においても、三条西実隆、一条兼良等一級の知識人が現われて「源氏」を伝えることに情熱を燃やしました。  しかし兼良の「花鳥余情」は、「源氏」を素材として諸々の有職故実や、物語と歴史との関係といった事柄を調べ上げることが主目的になっています。そういう作業が当時の公卿たち知識人の喜びでもあったからでしょう。  その一方で室町期には、僧侶《そうりよ》とか、連歌師とか、貴族以外の知識人の間にも「源氏」を愛する人たちがふえてきました。その顕著な例はやはり能でしょう。能のなかには、俗に「源氏もの」と呼ばれる「源氏」に材を取った曲目がずいぶんあります。六条の御息所が生霊となって葵の上にとりつくあの「葵」の巻から脚色した「葵の上」はよく知られていますが、「野宮《ののみや》」とか「夕顔」とかによって、初めて「源氏」の演劇化が行われました。  しかし「源氏」が、名実ともに日本人の心に根を下ろしたのは、庶民が庶民固有の文化をもつようになった徳川時代でした。徳川時代にはいって初めて、「源氏」が生活のなかで消化され、さらには別のものとなって吐き出される、というような扱われ方をするようになります。貴族の間から出た「源氏」が、だんだんと庶民、文学とか芝居とかを愛する徳川時代の町人たちに理解されるようになっていくうちに、自然に変った形をとるようになってきているのもおもしろいことだと思います。  近松門左衛門は、元禄時代のすばらしい戯曲家ですが、あの近松の浄瑠璃《じようるり》には、「源氏物語」の文章の流れが、かなりはいり込んでいると、私は思っております。  一般に、近松には謡曲の文章がずいぶんはいっているといわれます。謡曲は綴れの錦といわれるほど、ありとあらゆる古典や歌謡の章句を組み込んだ文章ですが、近松は、またそれを取り込んで、浄瑠璃特有の文章をつくり上げたわけです。  しかし、あの、すらすらすらすらと達意に流れていく、流れてとどまらないようでいてしかも形をなしていく近松の文章は、より、「源氏」の文章に近いと私には思えるのです。  一方、ドンファンといいましょうか、一生女と縁の切れない男、いろいろな女と関係していく男の可能性を描こうとした点において「源氏」にヒントを得たと思われる西鶴の「好色一代男」は、「源氏」の元禄版であるかというと、やはり全然違ったものだといわなければなりません。  西鶴は俳諧《はいかい》から出た人でして、短い文章のなかにたくさんのものを盛り込む寸の詰った文章を書きます。「源氏」よりもむしろ「枕草子」に似た文章です。創作態度にしても、人生を突き放して描く。突き放して冷たく見る眼を初めからつくってしまっています。近松が、恋する男女の間に深くはいり込んで、一緒に悩んだり、苦しんだり、喜んだりしているのとは違い、西鶴は、自分は別のところにいて、人間とはこういうものだ、と、木偶《でく》か石ころのように見て書いている、というような印象を受けます。世之介という男が大勢の女、若い女から年を取った女まで、また素人から玄人まで、いろいろの女を相手にし、遂には女護ヶ島へ押し渡るのだと、船に乗って出かけていく結末まで、世の中をそういうものとして突き放し、からかっているような感じがします。「源氏」の作者の人間の扱いかた、男女の関係の扱いかたと、西鶴の「一代男」におけるそれとは、全然違うと思うのです。  西鶴以後では、学問の分野で本居宣長の学説が出てきます。「源氏」は歌の手本として、あるいは礼節や宮廷の儀式を知る手段として必要なのだと、かなり牽強《けんきよう》付会なこともいわれていたところへ、宣長は、「もののあはれ」を基調においた全く新しい読みを提示しました。藤壺と源氏の倫理性、つまり父親の后と通じて子供ができるというようなことについても、それによって藤壺が悪い女であるとか、源氏が悪い男であるとかきめつけるのは正しくない。藤壺は「もののあはれ」を知っている人、情というものを非常によく知っている人で、そのことにおいて藤壺はよき人であるという定義を与えたのです。源氏もまた、色情においていろいろな動きがあったにしても、だから源氏が悪い人だということにはならない。「もののあはれ」を知っているということが人間の本質であって、そのことが全部を覆っているのだ、という論を展開したのです。  今日となってみれば、「もののあはれ」だけで「源氏」を説く気持にはなれませんが、朱子学をほとんど国教とまでしていた時流に抗して、漢心《からごころ》を排し、ひたすらいにしえの心、大和心についてものをいう宣長の立場からすれば、「もののあはれ」の論はきわめて自然のことだったでしょうし、また非常な発見でもあったろうと思います。  文化文政時代、江戸時代の夕映えのような時代になってまいりますと、江戸の戯作者柳亭種彦が、「源氏物語」のアダプテーション、つまり「源氏」を根とした改作書「偐紫《にせむらさき》田舎《いなか》源氏《げんじ》」をつくります。テーマはほとんど似たようなものを扱いながら、当時の一般人に読みやすい形に引き直した作品です。これがその頃の子女、ことに女たちにずいぶん喜ばれました。草双紙という美しい絵のついた本で、何年にもわたって出た合本《がつぽん》ものでした。  ここでは、時代を足利時代にとり、足利光氏というのが光源氏に相当する主人公になっています。源氏をめぐる女性たちも全部名前が変ってお家騒動までからみ、光氏は芝居の立役のようなたいへんいい役になっている。 「源氏物語」はいつになっても芸術作品、純文学なのですが、「田舎源氏」の場合は、どこからいっても通俗読物です。しかし、その通俗であるということが、ある程度文字が読め、きれいな錦絵(浮世絵)をよろこぶ都会の子女に、たやすく受入れられる要因ともなったわけです。したがって「田舎源氏」は、遠い昔に書かれた「源氏物語」が、いくつかの変化を経て、このような草紙になったのだということを庶民に知らせ、知識人とはまた違った角度から「源氏」を伝える役目を果したと思うのです。  私がごく小さい時分に祖母から初めて聞かされたのも、この「田舎源氏」でございました。「源氏物語」そのものを知ったのは、それより後のことでした。ただ「田舎源氏」を教えてくれたとき祖母は、「田舎源氏」の元は「源氏物語」といって、紫式部という人が昔々に書いたのだ、とも話してくれました。  その後も多くの研究書や訳書が出ていますが、私が見るところでは、長い歴史を通して「源氏物語」を捧《ささ》げもってきたのは、何よりも日本の第一級の知識人でした。室町時代、「孟津抄《もうしんしよう》」という秀れた「源氏」の註釈書を残した九条|稙通《たねみち》に次のような逸話があります。  ある日、連歌師の里村|紹巴《じようは》が稙通を訪ねて、「この頃何をお読みになりますか」と聞いたら稙通は「源氏だ」と答えた。「珍らしい歌書はなんですか」と聞いたら「源氏だ」と答えた。「閑居をお慰めになるのはなんですか」と聞いたらやはり「源氏だ」と答えた。  この逸話によって代表されているように、「源氏」は、いつの時代においても、選ばれた非常にいい環境に置かれてきました。日本の歴史は波乱興亡をきわめて、いろいろと数奇な運命をたどってきたのですが、「源氏物語」は環境に恵まれて生きぬいてきたと思うのです。もちろん、これほど大きな作品ですから、反発される面も他に例を見ないほど強かったことは言うまでもありません。  たとえば、鎌倉期には、もう、紫式部はあんな作品を書いた罪で地獄に落ちたという伝説も生れていますし、徳川時代には、「源氏」は姦淫の書である、不倫なことを書いた書である、ときめつけて弾劾する人たちも大勢いたといわれます。わけても朱子学系の漢学者などにはそういう人達が多かったようです。  陽明学者の熊沢蕃山《くまざわばんざん》は、おそらくやはり「源氏」が大好きだったうちの一人だろうと思うのですが、「源氏」をそういう弾劾から救うために、この作品は姦淫の書だといわれているけれども、実際は礼儀とか風俗とか、いろいろなことを教えてくれる有益な書なのだ、「源氏」はそういうふうに読むべきものだ、という意味のことをいっています。それほどまでに、苦しい註釈をつけなければならない境遇に置かれた不幸な一面もあったのです。  近くは昭和十年代、日本全体が軍国主義に鎖《とざ》ざれたあの過酷な時代に、谷崎潤一郎先生の現代語訳が世に出ましたが、警保局の検閲から藤壺と源氏の恋愛の部分を一切削除しなければ出版を許さないといってきた。版元のほうでも困ってしまい、結局藤壺と源氏の件《くだり》は全部割愛して出版に踏みきった。それが第一次の「谷崎潤一郎訳源氏物語」でした。ですから、物語の根になるところが失われてしまった、いわば片輪の「源氏物語」だったのですが、そうでもしなければ救われない時代だったのです。  戦争中にはそのほかにも、現在の坂東三津五郎、当時|簑助《みのすけ》が、「源氏」をお芝居にしようとしたら、上演許可にならなかったり、島津久基博士の主宰で大学の夏期講座に「源氏」をとりあげようとしたところ、やはり軍方面の圧力で断念せざるをえなくなり、博士が大変憤慨されたというようなこともございました。  しかし戦後、その反動のように「源氏」は復活しました。谷崎先生の訳も、第二次には藤壺の件が全部はいった完全なものとなって出されました。 「源氏物語」は、そういう、悲喜|交々《こもごも》の運命をくぐりぬけて生きつづけてきたものなのです。それはやはり日本人の国民性というのでしょうか、「源氏」のなかにどうしても捨てきれないもの、捨てきれないというより、とりこにされてしまうとどうしても逃げ出せないような何かがあるからだと思うのです。  種彦以後、「源氏」の名は、日本人の生活のなかに急速に広がり、浸透していきました。吉原の遊女の名前を俗に源氏名というのも、夕顔とか、若紫とか「源氏」からとってつけたからですし、香には源氏香があり、ほかにも源氏という名前のついた言葉はたくさんあります。本文を読むのは、やはり限られた一部の人々だったとしても、日本人の生活のなかに、「源氏」は忘れられないでずっと残ってきたのです。  そしてイギリスのアーサー・ウェーレイが「源氏」を英訳で紹介して以来、フランスでもドイツでも「源氏」の翻訳が出版され、今日では幸運に世界に広がっています。 「源氏」を生き耐えさせたもののなかには、以上のような様々な要素が混っていると思われます。   源氏物語は何故訳されるか  今日と違って文語が文字通り文章語であった時代には、おそらく「源氏物語」の口語訳などほとんど必要なかったと思われます。註釈とか批評とか鑑賞とかの類は踵《きびす》を接して著わされましたが、口語訳といえるほどのものはまず残されておりません。  評論的なもので最も早いのは藤原|伊行《これゆき》の「源氏釈」で、藤原時代も終りに近い院政時代、「源氏」が書かれてからそんなに長い時間が経過していない頃のものです。  その後には「河海抄」とか、一条兼良の「花鳥余情」が続き、それから「源氏」を理解するための書物という意味で「紫明抄」、「源氏」について論義を戦わした「弘安源氏論義」という書物などもございます。  徳川時代には北村季吟の「湖月抄」が有名です。この書名は、紫式部が石山寺から琵琶湖《びわこ》に映る十五夜の月を見、そして「須磨」の巻の想を得たという俗説に由来しています。「源氏」の本文に註釈を加えたもので、明治年間までかなりオーソドックスに使われてきました。  そして、本居宣長の「源氏物語|玉《たま》の小櫛《おぐし》」「紫文要領」の登場を見ることになりますが、この頃までは、口語訳などほとんど無用の時代であったといって差支えないように思われます。  ところが、明治二十年、三十年代になって、話し言葉をそのまま文章に写すべきであるという主張が、文学者の間にも、学者や教育者の間にも考えられるようになった、いわゆる言文一致の運動以後、口語訳が問題となってきました。  言文一致の運動が広がるにつれて、国語教科書の文章表現も、いつか「……である」「……しなければならない」というように置き換えられていき、子供の作文などにも実際に応用されるようになりました。が、それでも、私たちが小学校に通っている時分には、音楽の時間に習う歌は、全部文語でできた歌でした。話し言葉の歌でなければ歌わない、歌えない、という今の子供たちに比べると、たいへんな違いだったわけです。  だいたい「源氏物語」は、主語と述語がはっきりしないということが、読みにくい一番の根本なのです。主語が省いてある、述語がはっきりしていないということで、誰が何をいっているのかなかなかわからない。源氏がいっているのかと思うと、それがいつの間にか相手の女性に変っている、というような具合で、微妙な文章のあやを注意深く読みわけなければとても区別できません。英語などでは非常にはっきりしている主語が、日本語ではいったいにはっきりしない、というのが語学的な常識ですが、王朝の言葉はとくにはっきりしない。「源氏」を読み始めてはみたものの、結局あぐねてしまういわゆる「須磨返り」は、たいていここに起因していると思うのです。  そのほかにももちろん意味のわかりにくい言葉や、風俗、習慣の違いなどが障害になることはありますが、そういう類は少し気をつけて読みさえすれば、徐々にわかってくる。なかなかなじめないというのは、何よりも主語述語のはっきりしないという点にあるのではないかと思います。そのために「源氏」は、昔でも、一般の人にはなかなか読みづらいものであったでしょうけれども、文語が使えなくなってきた現代では、いよいよ離れていってしまいました。  しかし近代になってからも、「源氏」を愛する人、研究する人が絶えたわけではなく、何とか自分たちの時代へ近寄せたい、引き寄せたいという気持が、各分野で相当強くあったことはいまさら申すまでもありません。学問的な領域では、多くの国文学者が語釈とか註釈とかを通して、何とか引き寄せようと努力もされましたし、いろいろな研鑽《けんさん》も積んでこられました。  文学者の側にも、自分が原文で読んで愛している「源氏」を、自分の血を通し、自分の言葉で現代に伝えたい、という非常に強い願いと情熱がございました。その結果として現われたのが、与謝野晶子夫人の「源氏」訳であり、窪田空穂氏や谷崎潤一郎先生の訳であったわけです。  与謝野さんも、幼いときから「源氏物語」を愛読して育った方で、晩年には、文化学院で「源氏」の講義を続けていられたほどですから、おそらく与謝野さんにとって「源氏」は、けっして他人のものではなく、確実に自分のものになっていたろうと思います。  永年にわたって愛読している間にすっかりなじみになってしまい、「源氏」を自分の友だちかなにかのように思っていらっしゃる。ですから、実に気やすい気持で、さっさと訳していられて、誤りもあれば思い切った変え方もしていられる訳なのですが、それでも全体としてつかみ込んでいればいいという自信に満ちた訳になっております。  一方谷崎先生の場合には、これは日本の古典である、動かすことのできないすぐれた古典である、という考えをしっかり頭に置いて、片言隻語といえどもくずさない態度で訳していらっしゃいます。非常に行儀正しい訳し方ではありますけれども、血のつながりのようなものは与謝野さんのほうが深くて、大きく離れたり乱暴であったりしながら、「源氏」のなかへはより深くはいり込んでいるのではないか、と私には感じられます。  ともあれ原文に忠実な訳を心懸けられた谷崎先生の御苦心は、文体にまで気を配られたことからも十分うかがわれます。戦争中に刊行された第一次の訳では、いわゆる「である調」の文章を用いていられましたが、戦後の新訳では、女房言葉を生かして、「……でございます」という、侍女がお姫さまかなにかに話をする体裁の表現に変えられました。これだけでも、同じ口語訳といってもかなり違った雰囲気《ふんいき》が生れます。  その「である調」の谷崎源氏を読んだときには、私は秘《ひそ》かに、「ございます調」のほうがいいのではないかという思いがしたのですが、その「ございます調」の新訳を読んでみますと、必ずしもそれで「源氏」の感じがつかめているというわけでもないことがわかりました。 「源氏物語」は、すぐれた書にみる仮名や草書のように、圭角《かど》が少しもない流麗な文章ですが、力のはいるべきところは十分にはいっている。細くやわらかくていながら、強いところは十分に強いという文章で、しかもどこまでも続いていって切れないのが特徴です。そういう文体を現代の日本語に移しとろうとすると、谷崎先生ほどの文章家であっても、なかなかうまくはいかないものだったようです。  それはけっして谷崎先生が悪いのではなく、現代の日本語が、もう平安時代の言葉とは全く違ったものになってきているからです。  あの時代には、まず仮名文と漢文とが、はっきり分かれていました。が、その後、日本人の生活自体が非常に荒っぽくなり、文学の領域でも、戦記文学とか、隠者文学とか、あるいはまた徳川時代の町人文学とか様々なジャンルの作品が現われて、その結果、現在私たちが使っている日本語が形成されました。本来の和語に、漢語、さらに外国語までまぶし込まれて、もうどうにもならないほど混り合っています。  しかも現代人は、何よりも簡潔でひきしまった文体を喜ぶようになっている。その文体に慣れた私たちが、「源氏」をまねて表だけなぞってみても、今日の書家には、とうてい王朝の名筆の美しさがあらわせないと同じように、文体の美しさもなかなかあらわせないものだ、ということを今回自ら訳を試みて、改めて感じたのです。  私は病気になったりしたときなど、少しよくなってきますと、好きな本を枕許《まくらもと》に置いて、快いとき気持の赴くままにそれらをひっくり返して読みます。するとなんとなく心が落ちついて、いつのまにかまた寝入ることができるのです。そういう書物が私にはいくつかあるのですが、「源氏物語」はそのうちでも随一の書なのです。  今度の訳に際して、私なりに一応の勉強はいたしましたが、専門家の学説は学説として拝聴しながら、専ら自分の筆の赴くままに訳し通しました。筆の赴くままに夢中で加筆した部分もございます。そういう点では、我ながらかなり乱暴な訳だと思うのですけれども、人を愛すにも、いろいろな愛し方がありまして、そっと床の間に飾って大事にするような愛し方もあれば、掠奪《りやくだつ》結婚に及ぶような愛し方もございます。私のはその掠奪結婚に及ぶほうの愛し方ですが、ともあれ日本でこれほどの作品はまずないと思われる傑作に、力の限りを尽してぶつかってみました。千年前の言葉を、現代の私たちの言葉に引き直してみたときに、果してどういう言葉になったかというところを、お読みいただければと考えております。 この作品は昭和四十九年二月新潮社より刊行され、昭和六十年一月新潮文庫版が刊行された。