[#表紙(表紙.jpg)] 伊藤たかみ 指輪をはめたい [#改ページ]   指輪をはめたい  ──今月中に、プロポーズするはずだったな。  そんなことを考えた途端、ひどい頭痛に見まわれた。頭の中心が、背骨とずれているように思える。少し、吐き気もする。蛍光灯の明かりが、目に痛かった。  自分の身に一体何が起きたのか。気がついたときには、この殺風景な部屋で寝かされていたのだ。目に付くものと言ったら、自分が寝ていたこげ茶色の診察台に、無愛想なスチール机と椅子、あとは薬品らしきものが並んだキャビネットぐらいだった。自分から好き好んでこんな場所にきたとは、到底、思えない。いくらかでも気休めになるものがあるとすれば、せいぜい、壁に貼られたポスターぐらいか。中学生ぐらいの女の子が、フィギュア用のレオタード姿でこちらを向き、微笑《ほほえ》んでいた。  しかし何だってこんなポスターが? ここは一体、どこなんだ?  それに、目の前のこの男は? 「どうですか? 自分の名前を言えますか?」  どこかのんきそうな彼が言った。医者にも見えるし、運動選手のようにも見えたが、僕の頭に包帯を巻いていることからして、医療関係者なのだろう。 「住所はどうです」  自分がどうして包帯を巻かれているのか、初めのうちはわからなかった。ここ数時間の記憶が、曖昧になっていたからだ。それでも、できる限り彼の質問に答えた。少なくとも彼は、悪人には見えなかったから。好意的にも見えなかったが、東京で、赤の他人にそれ以上望んだって、どうにもならない。  僕は、彼の質問に答えようと努力した。名前も住所も、日付も仕事も、ほとんどすべてのことを覚えていた。ただ、ここ数時間の記憶だけが、どうしても思い出せなくなっていたのだ。男は根気よく、今、僕が置かれている現状を説明してくれたが、いくら聞いても実感が湧かない。他人の見た夢の話を聞かされているような気分だった。  まず、どうして土曜日の昼下がりに、高田馬場でスケートなんぞしていたのか、その理由からして思い出せない。連れがいないことからすると、どうやら一人だったらしいが、生まれてこのかた、一人でスケートに行った経験など一度もなかった。  しかも僕は、今月末で三十歳になるそうだ。ポケットのサイフに入っていた、免許証でわかったらしい。それについては、すぐさま自分でも確認したので間違いないだろう。しかしなぜだか、三十歳という数字が、しっくりとこなかった。がっかりしたような怖いような、複雑な気持になる。  それより今月末で三十歳ということは、つまり、僕はそのときまでにプロポーズするつもりだった……のだろうか? 「大分、意識がはっきりしてきたみたいですね」 「意識はなんとか。ただ、記憶がまだ……僕はどうしてここで、スケートなんてしていたんでしょう」 「無理して、思い出さなくてもいいですよ。軽い脳震盪《のうしんとう》を起こしたんでしょう。それで、数時間だけ記憶が飛ぶことはよくありますから。ちょっとした、逆行性の健忘症ですね」  男は、やはりのんきそうに言った。スケートリンクだから、月に一度ぐらいの割合で、転んで頭を打つやつがいるのだろうか。逆行性の健忘症などという専門的な言葉が、すらすらと出てきたのはそのためか。  だが、彼はそれを、自分で経験したことはないはずだ。  記憶が抜けるということは、はたから見るよりずっと恐ろしい。酔って記憶をなくしたのとはわけが違う。酔っていたなら、していたこともたかが知れている。どうでもいい子とセックスをしたり、誰かを殴ったり、おかしな場所で寝ていたりと、その辺がせいぜいだ。けれどもこの数時間、僕は少なくとも酔ってはいなかった。はっきりした頭と身体で、何でもできたはずだ。それが、かえって怖い。  もっとも、ここはスケートリンクだ。麻薬や、国家機密の受け渡しの場所にするには寒過ぎる。しかも僕は、しがない編集プロダクションのいち編集者でしかない。仮に何かしていたとしても、やはりスケートぐらいのものか。  そこでまず、医務室らしきクリーム色をした壁を見ながら、ここ数日間にしたことを一つ一つ思い出そうとした。ゆっくりと、この消えてしまった数時間に追いつくつもりだった。壁を見つめたのがよかったか、それとも落ち着いてきたせいか、ここへくる前のことが次第に蘇ってくる。  そう。この日の昼前、僕は新宿にある某ジュエリーショップで0・3カラットの指輪を買った。リュックの中に仕舞ったはずだから、きっとまだリンク内のロッカーに入っているだろう。セオリー通り、給料の三カ月分で買った指輪だった。誰かにプロポーズするつもりだったのだ。  三十歳になるまでには結婚しようと前から決めていたのだから、驚くこともない。男では珍しいかもしれないが、それにはわけがあった。  僕は、学生時代から、絵美里という同い年の恋人と同棲していた。アルバイト先のレンタルビデオ店で知り合った子で、僕と同様、映画好きだった。恋愛映画の話をしているうち、いつのまにか自分たちが恋に落ちていたというわけだ。映画熱の冷めなかった彼女は、大学卒業後、小さな映画の配給会社に入った。まだ、B級ホラーものしか買いつけられないような会社だったが、それでも満足そうに毎日を送っていた。一方、映画は最後まで趣味であって欲しい僕は、わざとそれとは関係のない仕事を選び、結果的に中堅の編集プロダクションに入った。忙しかったが、生活にはそこそこ満足していた。  やがて二人は、自然な成り行きとして、三十歳になるまでに結婚しようと約束した。  だがそんな甘い生活も、二十七歳までだった。僕の二十八歳の誕生日前に、絵美里は家を出て行くと宣言したのだ。彼女の言い分だと、ずっと前から、子供過ぎる僕に愛想をつかしていたらしい。しかしこっちにしてみれば、あまりに唐突な宣言であって、ああそうですかと簡単に納得できるような話ではない。大体僕は、彼女の言うことを真に受けてはいなかった。  実は、こんな話が出てくる直前、二人の間に、説明のできない気まずい空気が流れていたので、一時の気の迷いだろうと考えていたからだった。  一緒に見ていた、憎たらしいTV番組のせいだ。  二人が見ていたのは、素人のカップルや夫婦が、芸能人の前で悩みを相談したり、のろけたりする番組だった。その日は新妻からの相談で、休日になっても夫が自分に構ってくれないという悩みだった。僕はその話を、携帯ゲーム機で遊びながら聞いていた。新しいゲームボーイが発売されたので、その性能を確かめ、記事にしなくてはならなかったのだ。いや、本当を言うと八〇パーセントぐらいは、好きでやっていた仕事だった。  ともかく、相談内容を聞いた限りだと、どうも妻の方が身勝手に思えた。そもそも夫によれば、昔は何度も提案をしたと言うのだから──新宿に行って遊ぶ? カラオケ行く? 一緒に車のパーツ見に行く? などと。  それに対して妻は、いつもこう答えていた──新宿なんて行きたくないし。カラオケ唄いたいのないし。車のパーツなんか興味ないし。  いつもこんな感じだったので、しまいに夫は誘うのをやめたらしい。そして僕も、彼がそうなってしまったのは当然だと思った。大体この妻は、子供の頃、学校で習わなかったのか。嫌だと文句がある人は、それ相応の提案をするのが社会のルールだ。反対するだけなら、誰でもできる。なのにこの妻は、自分から具体的に提案はしないし、予定も立てないし、ただ夫の提案をすべて却下するだけのひどい女なのだった。 「この女が悪い。だったら、自分で行きたい所決めろっての」  ゲームをやりながら、そう言った。新型ゲームボーイは、噂されていた以上に、いい性能だった。 「甘えてんだよな。男と付き合うの初めてだったんじゃないの? 白馬の王子じゃあるまいし」 「この人はそういうこと言ってんじゃないよ」  そのとき、ぽつんと絵美里が言った。 「夫の言う場所に行きたくないとかじゃなくてさ、どこに行ってもいいから、まず、自分と向き合ってって言ってるんだよ」 「恋愛至上主義? 幾つになってもセックスしようっていうのを言い換えると、そうなるんだよね。実際、そんな何年も経って……」 「ゲーム、ちょっとやめたら?」  そのとき初めて僕は、ゲーム機から顔を上げた。絵美里が、すでにこっちを向いていた。冷たい表情になっている。こっちまで、氷漬けにされてしまいそうだった。  そしてこの表情が出ると、いつもの口論が始まる。 「子供なんだよ」 「子供? 誰が?」 「この夫も、輝彦も子供なんだよ」 「子供過ぎるって、何? 具体的に、どのこと?」 「具体的にいちいち挙げられるような話じゃない。それにもしちゃんと言ったら、こっちの方が悪く見える。自分がすごく細かくて、どうでもいいようなことに、いちいち目くじら立ててる人間に思える」 「だったら、最初から言わなきゃいいのに」 「全部が全部、言葉で説明できるわけなんかないって、わかるでしょう? だからまず、向き合ってくれって言ってるの。でもそれができないっていうのは、子供だからだよ。女って言うか、人間が怖いから、ちゃんと向き合えない」 「何だよそれ」 「子供なんだ。今の時代の男だもん、去勢されて、いつまで経っても子供なんだよ。だから、人間を受け止めきれない」 「はあ?」  僕は言った。「それより、夕飯まだできないの?」 「……かわいそうな人」  それから一時間と少し、絵美里は料理をしながら、これまでの僕への不満を語り尽くした。いつものことだったので、僕はその一切を聞き流してやった。  夕飯はトンカツだった。  ところが絵美里は、千切りのキャベツを皿に盛り終えた途端、今度は自分の荷物をまとめ始めたのだった。しかし僕はそのときでさえも、これが本気だとは思い至らなかった。多少本気かなと思い始めたのは、彼女が家を出てから一週間後で、本気の本気だと知ったのは、さらに数週間が経って、彼女から電話がきたときだった。喜んだのも束の間、別れ話をされたのだった。  捨てられてしまった。唐突に、捨てられてしまった。ささやかな抵抗があったとするなら、ソファを置いていってくれと頼んだことぐらいか。身分不相応ながらどうしても欲しくて二人で買った、いわゆる一点豪華主義のソファを、(半ばあてつけのように)残してもらった。  この事件のあと、僕はアル中になろうと努力した。『リービング・ラスベガス』のニコラス・ケイジのようになってやろうと心に決めたのだが、思ったより身体がしんどくてやめた。元々、アルコールを底無しに飲めるタイプでもない。  仕方がないのでアル中になるのは諦め、絶対に三十歳までに結婚してやろうと胸に誓った。絵美里よりいい女の子を見つけて、結婚してやろうと。大の男が考えるにしては何だかさもしい気もするが、案外そんなものだ。大恋愛が終わったあと、速攻で結婚をする人間が多いのは、きっと僕のように、遠まわしの復讐をしているのだと思う。  とにかくだ。とにかく僕は、その決意の三十歳を数週間後に控えていた。だからこそ大枚をはたいて指輪も買った。残念ながら結婚まではこぎつけられなかったにせよ、プロポーズだけはしておきたい。そのぐらいなら、人生設計の誤差として許せる範疇《はんちゆう》のものだろう。  だが、ここにきて、新たな問題が起こってしまった。スケートで転び、この数時間の記憶が飛んでしまった。そして一緒に、|指輪をいったい誰にあげるつもりだったのか忘れてしまった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ようなのだ。信じられないが、事実だ。  しかもまずいことに、僕は密かに、三人の女の子と付き合っていた。そのことははっきりと覚えている。  皆、それぞれにいい子で、ずっと誰にプロポーズしようか決めかねていた。僕にはもったいないぐらい、かわいい子たち。どんな人間にも、やたらにもてる時期というのが人生に一度ぐらい訪れると言うが、僕の場合、今がそうなのかもしれない。 「もし具合が悪くなったら、すぐにでも病院に行って下さいね」  男はそう言うと、包帯がずれないよう僕の頭に白いネットをかぶせた。とても見栄えが悪かったので、リンクを出た途端に捨てた。  荻窪の自分の家に戻ると、部屋が綺麗だった。もっとも、誰かが片付けてくれたせいではなく、午前中に自分で掃除をしておいたのだ。一人暮らしの割に2DKと広いのは、絵美里が出ていったあとも、引っ越していないからだった。忙しかったせいなのか、未練があったからなのかは、自分でもよくわからない。  リビングに行って、ソファに座った。例のカラシ色をした一点豪華主義ソファである。唯一の欠点は、座っているとすぐに眠くなってしまうことぐらいだった。絵美里も僕も、一緒に暮らしていた間、何度ここで昼寝をしたか数え切れない。そして今となっては、ここで眠るとほぼ半分の確率で、絵美里の夢を見てしまう。  ただ今日は、うとうとしたくなかった。  そこでいつもより大きめの音量でテレビをつけた。しゃっきりしていないと、またしても記憶が零《こぼ》れ落ちるような気がする。かと言って、難しいことを考えるのは、文字通りの意味で、頭が痛い。だから、できるだけリラックスした状態でテレビを見ようと努力してみた。しかし、意識して物を考えないようにするのは、かえって難しかった。つい、考えが巡り出してしまう。なくなった数時間のこと、プロポーズ相手が誰だったかということについてだ。自分でも、どうやって一人に絞り込んだのか不思議でならない。  智恵か、めぐみか、和歌子。  それぞれに違う魅力がある女性たち。だからこそ、自分でもこの一年悩んできた。ということは逆に、プロポーズの決め手になったのは、ほんの小さなきっかけだったに違いない。そんなきっかけが、訪れたはずだった。  しかも自分の性格からして、相手に断られないだろうという計算もしたはずだ。言いわけに聞えるかもしれないが、僕はまだ絵美里の傷から完全に立ち直っていない。慎重になってしまうのは仕方がなかった。三十を前にして、そこまで純情に真っ直ぐ人間でもいられない。『華麗なるギャツビー』じゃないけれど、「僕だってもう三十だもの」なのだ。  なのに今、僕にはプロポーズ相手の見当もつかない。考えただけで長いため息が出た。ちなみにため息一つで、幸運も一つなくしてしまうと本で読んだことがある。  そういうわけで、さっきより少し不幸せになった僕は、携帯電話を取り出しアドレスを開いた。画面をスクロールさせて、彼女たちの名前を一つ一つ見てゆく。  智恵とめぐみ、それと和歌子……  あのスケート場の男によると、一度脳震盪などで失われてしまった記憶のかけらが、ある日突然、テレビドラマのように蘇るということは稀《まれ》なのだそうだ。その程度の記憶は消えてしまっても、先の人生に大きな影響を及ぼすことはないとも言う。欠けた部分に関しては推測で補って、ちゃんとやっていけるのだと。  ただし僕の場合は、プロポーズの相手だ。そうのんびりと構えていられない。ましてや、数週間後に誕生日を控えていればなおさらだった。何としても、三十までにプロポーズを済ませなければ復讐にならない。プロポーズのことを絵美里が知るはずもないのだけれど、少なくとも、僕の傷は癒されるはずだ。心の隅に残った女性不信も、払拭される予定だった。  だから僕は、携帯電話の画面に映った三人の名前を、何度も繰り返し眺めた。  住友智恵。潮崎めぐみ。鈴木和歌子……。  住友智恵。潮崎めぐみ。鈴木和歌子……。  三人の名前を、網膜にその文字が焼き付きそうなほどに眺めた。このうちの誰がプロポーズの相手だったか、記憶が呼び覚まされるのではないかと願って。  けれど、やはり思い出せなかった。三人の魅力は均衡して、正三角形を描いていた。かえって不自然なほど、それは絶妙なバランスを保っている。溶けやすい、雪の結晶を顕微鏡で覗いているようだった。  来週末までに会わねば。  直接会えば、欠けた記憶を補えるかもしれない。      *  次の週末まで、何度、事故で頭を打ったということについて話したことか。しばらくは包帯が目立っていたので、新しい人と会うたびに、半ば強制的に説明を求められた。こうまで大々的に包帯を巻いていれば無理もない。別に、腹も立たなかった。  腹が立ったのはむしろ、何も聞いてこない智恵のほうだ。彼女は僕の傷について、何一つ触れようとしなかった。もちろん智恵の性格からして、多くを期待するのは間違っているが、一言ぐらい何か言ってもいいじゃないかと思った。  住友智恵に出会ったのは、今から一年半ほど前のことだ。当時、僕はわが社の4局という部署にいた。主に家庭用TVゲームの攻略本を作るところで、ご想像通り、男所帯だ。机にへばりついている正規の編集者が八人に、マップ班(ゲームのマップだけを作成する専門の班)や、攻略班(主にバイトで構成される、ゲーム攻略を無理矢理やらされる班)、そこに出入りするライターたちも、すべてが男たちだった。デリカシーもセクハラも無縁な場所だった。昼も夜もなく、締めきりと妄想と冗談の世界で構成される、単純で美しい、狂った世界。そしてその世界は、僕にとってひどく快適だった。何せ当時は絵美里と別れたばかりで、女というものにすっかり辟易《へきえき》していたのだ。もちろん、その頃だってデートぐらいならしていたし、曖昧な関係のまま、付き合い始めた女性がいたのも確かだ。けれどもやはり僕は、女にウンザリしていた。ややこしさに、疲れていた。  前にも言った通り、別れの原因は、彼女いわく、「あなたがあまりに子供で身勝手だから」ということで、具体的に言えばつまり、僕が夜中までゲームをし過ぎるし、週末は一人で映画を観過ぎる、ということらしい。こんな状態なら、一人で暮らしているのと変わらないので、部屋を出ていくことに決めたのだと。僕は僕で、ゲームも映画も、できるなら絵美里と一緒に楽しみたいと思っていたのだから皮肉なものだ。何度か一緒に楽しもうとして、「そんなのつまらない」と言われたこともあったため、無理強いしないようにしていた。彼女の趣味じゃないだろうからと、遠慮して一人でやっていたわけだ。  だから僕にすれば、寝耳に水のような別れ話だった。絵美里が何を欲しがっているのかも、最後までよくわからなかった。  ともかくそんな事件のあとだったので、逆に4局は心地よかった。他の社員からは、�死の4局�だとか、�オタクの殿堂�だとか言われつつも、僕にとってそこは天国だった。よくベトナム戦争映画で、現実社会に対応できない戦場帰りのアメリカ兵が出てくるが、それと同じ感じだ。現実そのものや、現実の女性に適応できなかった僕には、軍隊ならぬ4局が自分の居場所だった。仕事は激務だったが、気楽だった。プライベートも捨てて、仕事に没頭していた。  だが、それがかえって災いしたらしい。ある日僕は社長に、会議室へくるように言われた。 「片山は最近、よく頑張ってるそうじゃないか。仕事、楽しいか」  社長は言った。胡散《うさん》臭いヒゲはあるものの、懐の深い、いい中年だった。 「楽しいですが」 「そうか。でもいい編集者になるには、いろんな世界を知っておいたほうがいいだろうな」 「はあ」 「お前、4局じゃ珍しく、見た感じもさっぱりしてる。外当たりもいい。だから、ここらで別の局に移って、仕事の幅を広げてみるか。もう少し派手な仕事がいいだろう」  社長と一緒にいたデスクの人たちも、ウンウン頷いていた。ちなみにデスクというのは、班長みたいなものだ。我が編集プロダクションは、9局まで部署があり、すべての局には班長ならぬデスクがいる。つまり社長以下、これら九人のデスクがウンウン頷くということは、会社命令に等しいということだった。  異動先は6局だった。主に女性向けの雑誌や、週刊情報誌を扱う部局だ。陣取っている場所がすぐ隣なので、部員たちがどんなふうだかはよくわかっている。TVドラマに出てくるような編集者たちの集まりだ。エロネタを言わず、徹夜をしても悪臭を発さず、おしゃれとグルメと旅行を好む、美しき編集者たちだった。言ってみれば、4局とはまったく対岸にある部署だった。  そして、この僕とトレードされたのが、智恵だった。住友智恵。僕より四つ歳下らしいことはあとで知ったのだが、当時はもっと下かと思っていた。彼女は6局から、男の巣窟である4局への異動だった。 (6局デスクに嫌われたかな)  最初のうち僕はそう思っていたが、実際は違ったようだ。6局に所属している女の子たちと一緒に昼飯を食べたとき、真相を聞いた。彼女は4局以外に使い道のないくらい、ゲームマニアだったのだ。  ぱっと見たところだと、街で普通にいるかわいい女の子のようだった。つんと尖った唇のせいで、いくらか気が強そうにも見える。茶髪でもなければ、パーマも当てていない黒髪は、ファッションに自信があるからこそ、あえてやっているのだと思っていた。だが実際は違っていた。ファッショナブルに見えるのは、女性誌に載っているモデルの洋服を丸ごとセットで買うからだし、黒髪なのは、染めるのが面倒なだけだった。尖った唇のせいでハイセンスに見えるのだ。  逆に言うとそれぐらい、智恵はゲームのことしか考えていなかった。フリークと呼ぶに値する超マニアだったらしい。だから正直な話、この智恵を最初は恨んだ。僕を4局から追い出した張本人である上に、僕よりずっとゲームフリークだというのだから。自分で言うのも何だが、こっちだって相当にフリークだ。ゲームが好きで好きでたまらなかった。小学生の終わりにファミコンが発売されて以来、二十年近くずっと中毒状態だった。  そんな自負があったせいか、やがて僕は、智恵と話がしたいと思うようになった。それも所詮、男の美学か? ライバルや宿敵だと認識すると、次第に嫌いだという感情が抜けていく。対抗しつつも、いつしか尊敬の念が芽生えて、愛に近い感情を感じるようになってしまうのだ。  機会は遠からず訪れた。異動からちょうど一月目のことだった。  僕たちは偶然、会社帰りに同じ道を歩いていた。それは仕事場から飯田橋駅までの近道で、ここを通るのはほとんど、うちの会社の社員ばかりだった。道幅は狭いしなぜか魚臭いのだが、駅までの距離を三分は短縮できる。遅刻しそうな朝だけでなく、仕事が終わってさっさと会社から離れたい人間には、もってこいの道だった。  声をかけずにはいられなかった。 「きみって、こないだ4局に移った住友さんだよね?」  僕は、フリークとしての彼女を値踏みしながら言った。「住友さんって、そこそこゲーム好きなんだって?」 「うん、まあ」 「でもやっぱり、4局は大変でしょ。女の子でゲーム好きって言うのと、4局でゲーム好きって言うのじゃ、程度が違い過ぎるから。4局は、正真正銘のフリークスしかいないもんね」 「だから4局、気に入ってるの」 「へえ、そう。そんなにゲーム好きなんだ」  僕は、彼女をひどく意識していた。「じゃあ今、個人的に何やってんの?」 「『鬼武者』をやってるよ。ちょっと易し過ぎるけど、『デビル・メイ・クライ』の兄弟みたいなもんだからさ。それからあとは……」  タイトルが駅へ向かうあいだ中、いつ果てるともなく続いた。説明しても仕方ないのでしないが、要するに厳しいソフトばかり。彼女は正真正銘のフリークだった。こっちは自信喪失で、意識が遠のいてしまいそうだった。  そのせいなのかどうなのか、僕は、飯田橋駅で立ちくらみを起こした。電車との隙間《すきま》がずいぶん開いているホームで、一瞬、そこに足を落としかけたのだ。  次の瞬間、彼女は僕をつかんでくれた。  気がつくと彼女に介抱されながら、ホームのベンチに座っていた。 「片山さん、仕事し過ぎだよ。いっつも会社にいるもん」  彼女はそう言うと、ホームの自販機で買った野菜ジュースをくれた。立ちくらみに効くとは思えなかったが、それでも何だか、野菜を飲ませようとしてくれたことが嬉しかった。そしてその夜、僕は三鷹にある彼女の部屋に行き、身体を重ねた──これが僕と智恵の始まりだった。  だがその一年半後、つまり、僕が三人のうち結婚相手が誰だったか思い出そうとしている今も、二人は当時とまったく同じことをやっている。  僕は飯田橋駅のホームで、智恵の新しいゲーム論に耳を傾けていた。 「……つーわけ。でも、何でもかんでもソフトを発売していたら、そのうち、アタリ・ショックが起きるよ。アタリ・ショックってわかるよね? ゲーム業界に長くいるんだから。プレステでも、いつかそうなるかも。アタリとは違うけど、ゆっくりとゲーム離れが始まってるんだよ」  ちなみにアタリというのは、任天堂のファミコン以前に発売されたアメリカのゲーム機だ。あらゆるソフトメーカーにソフトを作る権利を開放してしまったため、つまらないゲームソフトが増え、急激に人気がなくなり、生産中止になってしまった幻のゲーム機である。そこから、ソフトが乱造されて業界全体が縮んでしまうことを、この世界ではアタリ・ショックと呼ぶのだった。  そのとき智恵は、延々とこのアタリ・ショックについて話していたのだけれど、やがて、いつもとは違う僕に気がついたようだった。包帯だけではなく、言葉遣いも違っていたのだろう。 「テル(僕の名は輝彦なので、テルだった)どうしたの? なんか、いつもと違う」 「そうかな」  駅ビルのラムラには、中華料理店のテーブルが見える。老夫婦が、大根餅のようなものをビールと一緒に楽しんでいた。僕にとっては、理想の老後だった。あんなふうになるために働き、お金を貯め、未来を形作るレンガとして積み上げてきた。結婚も、その大切な一部なのだ。  そして、それを完璧に実現するのが絵美里への復讐になり、自分の傷の治療にもなる。笑いたければ笑え。 「金曜日なのに、何だか悲しそうじゃん。せっかく『ヴァルハラ2』のβ版、会社から持ち出してきたのに」  β版のソフトは、発売する製品とほとんど変わらないものだ。発売してから攻略本を出すのでは間に合わないので、攻略本を扱う会社では、主にβ版のソフトを使ってゲームを攻略し、評価する。一方、ゲームフリークにとってβ版のもっとも嬉しいのは、コピーガードがついていないところだ。多少の知識さえあれば、この段階だとコピーし放題なのだ。 「今夜中に、焼きつけちゃおうよ。私、明日の午後、会社に出ないといけないんだ。だから、そのときに返しとけばバレないでしょ。土曜だから、ほとんど人もいないし」 「そうだろうね」 「ちょっと、テル、変」  智恵は言う。「今週、忙しかった? 今夜、家にきたら? 朝までゲームやろ」 「うん」  僕はそう答えた。もしこれが彼女以外の女性だったら、無神経だなと思っただろう。相手の男がどれほど悩んでいても、ゲームをやればすべて解決できると思っているような女とは、金輪際、付き合う利点などないと思ったはずだ。少なくとも、結婚相手に向くとは思わない。  けれど僕は、そんな智恵が好きだった。彼女が言う通り、一緒にゲームをやっていればそれなりに楽しい世界で暮らしていけそうな気がする。厳しい現実の世界など、楽しい世界を支えるだけの悪夢だという、智恵と同じ思想に浸れそうだった。  やがて二人は、三鷹の彼女の家に着いた。駅から十五分近く歩くが、二人で住んでも十分な広さのワンルームだ。かつての恋人と選んだ部屋らしい。だが、うちの会社に移ってくるころ、男と別れてしまったそうだ。メールを盗み読まれ、家から追い出したのだ。  おかげで家の中は、完全に彼女の世界に統一されていた。まるで彼女の脳の中をのぞいてでもいるようだ。まさしくTVゲーマーの天国だった。玄関にあるゲタ箱の上にまで、ゲームコレクションがはみ出している。マニアの心境を理解するために、これを札束に置き換えて想像して欲しい。ゲタ箱の上に、束ねた万札が無造作に積み上げられているような状態を。玄関でさえそんなだから、家の中など、銀行の巨大金庫のように見える。 「今月を、グッド・オールド・ゲーム月間に決めたんだ」  家に帰る途中で買ったジュースやお菓子をテーブルの上に並べながら、彼女は言った。そこにもかなりのソフトが無造作に置かれていたので、予《あらかじ》め、場所を作らないといけなかった。 「そんで私、今月、雑誌でカプコン特集の記事やるから、『魔界村』と『ソンソン』やってんの」  ちなみに僕は、『魔界村』と『ソンソン』なら、中学生のときにゲーセンでクリアした。だが、一緒にクリアを競った連中は、十数年過ぎた今だと、ほとんどTVゲームとは関係のない仕事をしている。ゲームをやっているかどうかさえ疑わしい。  それが人生だ。誰だっていつかは、現実との折り合いをつけなくてはならない。 「なつかしいな」 「でしょう? 先やってていいよ。私、シャワー浴びてくるからね」  これまでの習慣通り、彼女は部屋に帰ると、真っ先にシャワーを浴びる。  その間、ゲームをすることもなく、買ってきたビールをぼんやり飲んだ。  智恵が出てきてから、僕もシャワーを浴びた。包帯はもう巻かなかった。セックスの下準備を、黙々と整えているような気がするが、これは仕方のないことだ。外で遊ぶ人たちと違い、家の中でTVゲームをする恋人たちの隣には、いつもベッドがある。そんな状態だから、セックスは不意に始まってしまう。そのときにしらけないように、先にシャワーを浴びておくのが得策なのだ。  二人してパジャマを着た。髪の毛も乾かした。  それから、彼女のマンスリー・テーマにしたがって、古いゲームをやった。一緒にプレイできるのがよかったので、『ソンソン』にした。 「わー、また処理落ち!」  ゲームの最中、彼女は嬉しそうに言った。  今から十数年前、ゲームセンターにあるビデオゲームを、家庭用ゲーム機で再現するのは、とても大変なことだった。ハードの限界があったのだ。そのため、突然キャラクターの動きが遅くなるような現象も起きてしまうのだが、マニアにはそんなことまで嬉しくてたまらない。 「ファミコン版は、やっぱ、処理落ちがミソだよね〜」 「そうだろうな」  パジャマのせいかシャワーのせいか、昼間より柔らかくなった彼女をうしろから抱きしめつつ、僕は言った。「ゲーム、ちょっとポーズしてよ」 「テル、どうしたの?」  智恵は言った。ゲームをやめる気配はなかった。そこで、いつもより力を入れて乳房を揉《も》んだ。小さく適度な固さで、プラムか何かを手に持っているようだった。だがその感触を得た途端、彼女は、僕の手の中から逃げ出していた。 「なんか変だよ。オッパイ痛かったし!」  モニターの青みがかった光を浴びながら、彼女は言った。「どうしたの」 「……智恵、あのさ。僕って、きみのこと好きだよな」 「何それ? 変な聞きかたして」 「きみは僕のことが好き?」 「なんか変。全然、テルらしくない」  さすがに僕の異変に気づいたのか、彼女は初代ファミコンの電源を切った。出力を2チャンネルに設定していたので、TV画面は砂嵐になってしまう。そこにぼんやりと、NHKの画像が映り込んで、揺れていた。乗っ取られた国営放送を観ているようだった。 「そういうこと、グダグダ聞かない人だったのに」 「ああ、そうだよな」 「そうだよ。だからテルが好きなんだよ、私。前の男は、そういうとこうるさかったもん。毎朝毎晩、聞いてくんの。『オレのこと好き? オレのこと、愛してる?』って、ゲームの最中でもさ。付き合ってんだから、そんなの聞かなくたって知ってんのに。毎日、聞かれたくないでしょ? テルならわかるでしょ?」 「ああ、わかるよ」  ゆっくり思い出してきた。そう、僕は彼女の、こういうところが好きなのだった。いちいち感情を言葉にしたがらないところが。ゲームのやり過ぎ、映画の観過ぎ、要するに一人遊びが過ぎると小言を言われ続けていた僕は、智恵といるとリラックスできた。絵美里に対する気持の反動で好きになったとしても、決して悪いことではないと思う──というよりもあらゆる人は、そうした反動、目に見えない振子にしがみついて生きている。 「そうだよな」 「そうだよ。テルの前カノだって、そういうのすごくうるさかったんじゃないの? だから、私でほっとしたんでしょ」 「そう、そう」 「最近何か、男でも女でも多過ぎんだよね、そういうの。外人じゃあるまいし、好きだの愛してるだの、いっつも言ってられないよ」  彼女はそう言うと、振り返って僕のペニスをパジャマの上からぐっと掴んだ。 「なのに、どうして今日はそんなこと聞くの? 何かあった?」 「別にないよ。たまたま聞いただけで」 「本当に」 「うん。早くしたかっただけかも」 「スケベ」  そして、いつものようなセックスが始まった。  智恵とするときは、TVがつけっ放しなので、いつもモニターの明かりで浮かび上がった彼女の身体を見ることになる。その明かりに照らし出されたものは、なぜかすべてが、数字に置き換えられているように見えた。食べかけのチーズや、セブン‐イレブンで買った唐揚げまで、デジタルになるのだ。もちろん智恵の小さな乳房も。そして僕は、そんな彼女のデジタルに吸いつく。何の匂いもしないし、何の感触もない。だから好きだった。  だがセックスのあと、隣で眠る智恵を抱きながら、やはり僕は考えずにはいられなかった。  智恵にプロポーズするつもりだったんだろうか。  じっくりと考えた。相手は、彼女だったのか……確かに二人で暮らすのは楽しいだろう。でも、彼女と結婚したかったのかどうかは疑問だ。死ぬまでこうやってTVゲームを続けるということも、どこか心もとない。どこにも行き着かない気がする。  延々と、長い夢を見るだけのような未来が怖かった。      *  翌日は土曜日だったが、攻略本の色校正が残っていたので、智恵は会社に行った。淡い色をした五月の土曜日に、彼女と一緒にいられないのは寂しかったけれど、僕は僕でやることがあったから、素直に別れた。  荻窪のマンションに戻りシャワーを浴びると、昨夜そのものが、排水溝に流れ落ちていった。それからコーヒーを飲んで、ぼんやりTVを眺めているうち、予定通り電話がかかってくる。今週、約束しておいたのだから当たり前だが。  電話の相手は潮崎めぐみだった。二人目の相手だ。 『おはよー、起きたー?』 「とっくに起きてたよ。もうコーヒーも飲んだ」 『私、今日は朝まで飲んでた。これから寝るとこ』 「へえ、そうなんだ。大丈夫?」 『ダイジョブ、ダイジョブ。夕方前には起きるからね。寝る前に約束、変更ないか聞こうと思って』 「変更ないよ」  僕は時計を見ながらそう言った。絵美里との習慣で、針は今でも五分前を差したままだった。 「四時に西武新宿の改札前だろ。ヒマだから、映画のチケットは先に買っとくよ。金券ショップで前売り買ったほうが安いから」 『ケチだねー』 「でも二人分だと、千円も差が出るんだぜ。せっかく都心に住んでんだから、そういうのは利用できるときにしないと損だよ。高い家賃分ぐらいはモト取らないと」 『私と結婚して一緒に住んじゃえば、そんなのすぐにモトなんて取れるのに』  彼女は、まだ酔っているのか、受話器にキスをしてから電話を切った。  夕方までゆっくり過ごした。切れていた玄関の電球を取り替えて、半年ぶりにベランダも掃除した。一週間分の買い物(ほとんどがビールとインスタント食品だ)をしてから、大事にしているマウンテンバイクも磨いた。リムの油を除去しているうちに時間になったので、急いで電車に乗り、新宿に出た。  金券ショップに行き、安い前売りチケットを二枚買う。  めぐみとデートのときは、映画を観ることが多い。しかもおかしなことに大抵は、二人とも観たい映画ではなかった。僕はハリウッドのアクション映画が好きだし、めぐみはラブロマンスがいいのだが、そんな互いの趣味に気を遣ってしまうので、結局二人とも、あまり観たくない映画に落ち着いてしまうのだ。それでも、慣性の法則みたいに何となく続いている。デートには、好きじゃない映画がセットになっていた。  ときには、どうしてこんな無益なことを繰り返しているんだろうと思うこともある。そもそも、初めて出かけたときに映画の話なんてしなければ、こうはならなかったのだろう。かと言ってめぐみとは、他の趣味だともっと合わない。TVゲームの話をして通じるようなタイプでもないし、音楽の趣味も違う。出会ったときからずっと、二人には共通項が何もなかった。 「テルくん、こっちこっち〜!」  西武新宿駅の改札で、彼女は人目もはばからないぐらいの大きな声で僕を呼んだ。その声は、マーガリンやマヨネーズを連想させる陽気な感じだった。めぐみの身体がそう思わせるのかもしれない──どちらかと言えば彼女は、ふっくらした女の子だ。二十四歳にもなれば、太る子はどうしたって太るのだろうが、彼女の場合は単純に食べる量とアルコールのせいだろう。しかも仕事は、某ハム会社の広報。冗談のように、彼女のすべてが、ひとつの連想の中に収まっていた。幸せだとか、母性だとか、太陽だとか、そういうものをシンプルに体現している。少しぐらい太り過ぎたとしても、彼女の場合は魅力でさえあった。 「チケット、もう買ってくれた?」 「買ったよ」  僕は、前から観ようと約束していた、アカデミー賞受賞の映画チケットを、彼女に見せた。 「四時半からだから、もうそろそろ並ばないとな。でも、めぐみはお腹減ってるだろ」 「私だって、いつもお腹減ってるわけじゃないよ〜」  彼女は笑う。笑うと、鼻と唇の間に愛らしいしわができる。しわさえも肉感的だった。中指で触れたくなる。 「……でも、やっぱ減ったかな。起きてからまだ何も食べてないし」 「コマ劇前の映画館だから、モスバーガーでも買って入ろうか」 「じゃあそうする。カッコ悪いから、テルくんも何か頼んでね」 「いいよ」  きっと映画が終わったあと飲むだろうから、本当はこんな時間に食べ物を摂りたくなかった。二十代も終わりに近づいてくると、胃袋は暴飲暴食にそうそう無頓着ではなくなってしまう。飲む前にはどうしても、軽い空腹が必要だった。けれどめぐみは、自分だけ注文だとか、お代わりだとか、大盛りという言葉に過剰反応してしまうので、付き合ってやるしかない。  モスでハンバーガーとポテトを買って、映画館に入った。アカデミー賞が決まったせいで、普段はめったに映画なんて観ないような、がさつな客もたくさんいる。彼らは、並んでいるときからもうハイテンションだった。  だがめぐみも、この日はテンションが高かった。いつもより笑いよくしゃべる。鼻と唇の間に、しわができる機会も多くなっていた。 「それでね、よく電話でお母さんが言うんだ。テルくんって、本当はどんな人なのって」 「どんな人って?」 「んー? だって、何年も付き合った子に、突然逃げられるわけじゃん。だから、どこか欠点があるんじゃないかって言うの」 「そんなことまで、親に話してるのか」 「おかしいかな。嫌なら、やめるけど」 「嫌ってほどでもないよ。おかしいってほどでもないし」 「はっきりしないなあ」  めぐみが、僕の肩をどんと叩く。わざと大きくよろめいて、壁にぶつかってみせた。そう言えば彼女と初めて個人的に会ったときも、こんなふうに、どんと叩かれたのを思い出した。居酒屋だった。ずいぶん酔っていた上に、あぐらを直そうとしていた瞬間だったから、僕は本当に座敷の上で、ごろんとひっくり返ってしまったのだ。  すぐに、大丈夫かとめぐみに覗き込まれた。僕の顔のすぐ上に、この愛らしいしわがあった。指で触れてみたくなった──結果的にそのせいで、付き合い始めたと言っていいだろう。あの日の夜、僕はそんな彼女のしわを、自分以外の人間に触らせたくないと思ってしまったのだ。  そもそも、めぐみとは、仕事の関係で知り合った。食玩《しよくがん》のムック本を作っていたときで(食玩というのは、簡単に言えば、お菓子だとかについてくるオマケのおもちゃのことだ。食品ふろく玩具のようなもので、コレクターも多い)、彼女の勤める会社に取材を申し込んでいた。  広報をやっていたのがめぐみだった。彼女はまだ転職して日が浅かったそうで、緊張した面持ちで先輩の社員のうしろにくっついてまわっていた。だが取材中、たまたまその先輩社員が少し席を外した。そのとき、僕が連れてきていた仲のいいライターが、「おたくのハムを食べて育ちました」なんて、お世辞になっているのかなっていないのか、よくわからないことを言い出した。ひと目見て気に入った彼女と、彼なりにフレンドリーな雰囲気を作ろうとしたのだろう。まるで見当違いな言葉のようでもあったけれど、めぐみが緊張をほぐしたのも確かだった。金曜日だったし、週末の開放感もあった。それで、今度三人でカラオケにでも、という流れになったわけだ。彼女もまんざらではなさそうで、僕たちは先輩社員が戻ってくる前に、さっさと電話番号を交換し合い、約束までとりつけた。  ところが約束した当日、ライターは原稿が詰まってこられなくなり、結局、僕とめぐみは二人だけのカラオケも味気ないので映画を観に行った。映画のあとは、彼女の家がある鷺宮《さぎのみや》へ。駅前の居酒屋でグズグズ飲んでいるうちに、僕たちはひどく酔い過ぎてしまった。  そのころ、めぐみは年下の男にふられたばかりだった。二人はたまたま、似た境遇で、その日はやはり金曜日で、彼女の部屋までは歩いて七分だった。条件がそろっていたのだ。要するに、居酒屋の座敷でふざけたことを言い笑いあい、つつき合って、気がつくと、彼女の部屋のベッドにいた。おかげで僕は(こんなことを言うとめぐみに殺されるので言えないけれど)、その肝心要になる最初のセックスを覚えていない。いや、できなかったのかもしれない。それぐらい酔っていた。めぐみは、その日のことを記憶しているだろうか? 僕たちは、救いようがないぐらいに、見えるものや聞えるもの、感じるものが違うので、覚えていることもずれてしまうのだ。  例えば今日観る映画も、きっとそうなるだろう。二人で同じものを観たはずなのに、覚えているストーリーはまったく違ってしまう。それでいて二人は、そこそこ楽しかったことだけを覚えているのだ。 「じゃあ、めぐみってどう思うの」  そろそろ、前の回の客が出てくる気配があった。だらんとしていた入場待ちの列が、突如引き締まる。席は余るだろうとわかっていても、皆、身体が反応していた。 「何年も同棲してた女の子に逃げられる男って、どう思う?」 「何でいまさらそんなこと聞くんでしょう」 「ちょっと、聞いてみたくなった」  そう言いつつ、僕は結構、まともな答えを待ち望んでいた。彼女と共有できるものは何もないけれど、だからこそ彼女を結婚相手に決めていた可能性もある。案外、共通の趣味や共通の話題が豊富なカップルが上手くいかなくなることもある。同じ趣味や、同じ話題を持って結婚する(あるいは同棲する)と、いつも一緒に何かをすることが前提の生活になるからだ。逆に言うと、別々に何かをすることが二人にとっては悪になる。罪になる。破滅の序章みたいになってしまう。  ところがいざ他人と暮らしてみると、別々に過ごす時間というものが、なかなか大切なのだ。 「何年も過ごして逃げられたりしたらさ、その男に、どこか悪いところがあるんじゃないかって思う? それとも、相手のせいだと思う?……そうじゃなかったら、二人がたまたま合わなかったとか」 「えー。そんなの考えたことないから、わかんないよ」  めぐみは、不安そうな顔で僕を見ていた。「テルくんってたまーに、難しいこと言うから怖いね」 「怖い?」 「怖い。何かさ、そっちはもう、正しい答えとか持ってるような気がするんだよね。なのに、どっちがいいかって聞いてくんの。それで、私も同じ答えだったらプラス1で、ダメだったらマイナス1。心の奥でそういうことしてるような気がするんだよね」 「僕は別に、答えが同じじゃなくたって、何とも思わないよ。今までそんなこと、言ったこともないだろ?」 「ないけど、何となくそう思うの」 「そっちこそ、ややこしいこと言うなあ」 「あ、やっと中に入れるね」  めぐみはそう言うと、話を打ち切った。上映を待っていた列が、場内に吸い込まれ始めたからだ。  そして僕はこういうとき、彼女のことを少し尊敬する。上手く説明できないのだけれど、さっきみたいな危険な会話を、さりげなくかわすその本能に対して。浮気をしただとか、相手に飽きただとか、そうしたストレートな事柄じゃない限り、深く話し合いなどしたくないのだろう。実際、それで二人は上手くいっている。僕が付き合っている三人の中で、唯一、まったく口論をしたことのない相手は、彼女だけだし。ときには物足りなさを感じることもあるが、結婚には必要な、条件のひとつではないかと思う。  映画と同じような話だ。観終わったあとにくるある種の物足りなさこそ、映画における最大の魅力なのだ。それを埋め合わせようと、また映画館へ足を運ぶ。生涯映画好きでいる者には、物足りない感じはつきものなのかもしれない。人間も、同じことで。  さて、その日の映画も、適度に物足りなかった。明日になればストーリーどころか、題名までちゃんと忘れられるだろう。同時に明日もまだ、映画好きでいられるだろう。そして僕たちもまた映画と同様、適度に物足りない関係のまま、居酒屋に向かった。めぐみの住んでいる鷺ノ宮駅前の居酒屋だった。めぐみは頻繁に通っているので、店の人に名前まで覚えられている。彼女にも、僕には見えない生活があるらしかった。  二人は夕食代わりに、しこたま飲んだ。酔うと、用心深いめぐみも、少しは深い話をしたがった。 「大体テルくんって、結婚願望とかあんの?」  めぐみは鳥の軟骨を噛み砕きながらそうたずねた。  答えはYES。結婚願望は大いにあった。けれどいつも実感がないね、などと曖昧に答えている。なぜそんなふうに答えるかと言えば、彼女には僕よりずっとストレートな結婚願望があったからだ。二十四歳という微妙な年齢が、関係しているのかもしれない。そんな彼女に対して僕まで願望をあらわにしたら、とても冷静ではいられないような気がする。  特に今は、誰にプロポーズしようと決意したのか、まったく覚えていないのだから、情緒に流されてはいけない。あの日僕は、冷たいスケートリンクの上で、クールに計算し、決意を新たにしたはずなのだ。 「ほんとは、テルくんって結婚したがってないような気がするんだよね。私の思い違いかもしれないけど」 「結婚願望は、普通の男並みだと思うけど」 「前に別れた子は、結婚願望、強かったよ」 「へえ。その子、しょっちゅう結婚の話とかしてた?」 「してたよー。結婚したらどこに住むとか、何年後に子供作るとか、親と同居するかどうかとかまで考えてた。二十歳そこそこでお金もなかったから、話ばっかだったけど」 「ずいぶん、詰めて考えてたんだな」 「そう。でも別れたんだよね。あいつ本当に働かないんだもん。私ばっかり働いてさ」  めぐみは、そこだけ少し真面目な顔になって言った。「私、どんだけカッコいい人でも、働かない男は嫌だ。夢がなくても、仕事はして欲しい」 「何だか、ストレートな欲求だなあ」 「だって、本当に嫌なんだもん」 「じゃあもし、僕が仕事を辞めるって言ったら?」 「えっ? 今の仕事嫌いなの? 編集の仕事、好きだって言ってたのに」 「だから、もしも、じゃん」  ブリカマをつつきながら言った。彼女にまた、本当は正解が決まっている質問をしてるじゃん、なんてつっこまれないかと思いつつ。 「もしものことなんて、考えたってしょうがないよ」  めぐみはそう答えた。「それで、ちょっと思い出したよ。さっき言った、働かない男のこと。そいつの口癖がね、もしも、だったの。バカ男だった〜。暇になったらすぐ、もしもって言うんだ。しかも、大体はどうでもいいような話ばっかり」 「例えばどんなのよ」 「例えばね、えーと、もしもお前が漬物だったらどうする? とか。福神漬とたくあんとキューちゃんの中だったら、どれがいい?……なんて、アホな質問するの」 「心理ゲームだったんだ」 「違うよ。だって、それだけなんだもん。私が『じゃあ、キューちゃん』って答えるでしょう? そしたら、『へー。オレだったら福神漬のほうがいいな』って言うんだよ。何でって聞いたら、そっちのほうが好きだからって。信じられないバカだった」 「うーん」 「仕事探してたときも、そんなこと空想してたな。もし仕事するとしたら、ミュージシャンとタレント、どっちがいいなんて。それでいて本当は、マジなんだ。心のどっかでマジなの。夢にだって賞味期限あんのに、忘れちゃうんだよ。だからいっつもそんなんだった。もしも、ばっか。もしも、もしも、もしも」  あーおかしい、本当におかしい。めぐみはそう言いながら、ジョッキのビールをぐいぐい飲んだ。サザエのつぼ焼きと焼き鳥を、もりもりと食べた。まるで、過去の思い出まで一緒に、飲み下しているように。  そのせいかどうかはともかく、夜中、彼女は腹を痛くして、アパートの部屋でのたうち回った。消化不良を起こしたらしい。めぐみはいつも、そうなのだ。いつも、ムリヤリ飲み込んで、消化不良を起こしてしまう。  彼女が眠ったまま涙を流していた原因だって、同じことだったはず。それは、例のバカ男の思い出のせいだ。夜中に名前を呼んでいたから、わかっている。彼女は、その男の思い出を無理矢理腹の中に詰め込んで、今でも消化しきれず、ときどき胸が痛むのだろう。  僕は、彼女のそういう部分を好きになったような気もする。      *  翌日の日曜日は、めぐみの部屋で昼ごろまでぼんやりして過ごした。彼女の手料理も食べ、もしかしたらこれが将来の新婚生活なのだろうかと想像しつつ、僕は決して今の状況を忘れることはなかった。なんとしても今週末までに、付き合いのある三人全員と、会わなければならない。のろのろやっていれば瞬く間に月末になって、三十歳の誕生日を迎えてしまう。  めぐみと別れるのは少し気が引けたのだけれど、どうしてもやっておかないといけない仕事があると嘘をついて、昼下がりに家に戻った。そこで、またシャワーを浴びる。身体が汚れていたからではなくて、めぐみの部屋のシャンプーが桃の匂いだったからだ。三十近い男の残り香が、ピーチでいいわけがない。  それに、甘い匂いを漂わせていたら、三人目の彼女にめぐみとのことを察知されるかもしれない。  僕がこれから会おうとしている鈴木和歌子は、三人の中でもっとも勘が鋭かった。第六感を働かすわけではなく、分析力を使うのだ。万が一にでも、僕の髪からピーチの香りが漂えば、間違いなく行動を怪しまれる。だから、マリンノートのシャンプーでまた昨日を洗い流した。  夕方近くに家を出て、吉祥寺へと向かう。最近、仕事が忙しくて運動不足だったし、荻窪からは二駅分なので、日曜午後の空気を吸いながら歩いて行ってもよかったけれど、やめた。どのみち和歌子と会えば、長い距離を歩かされる。  彼女はとにかく、歩く。いつも歩きながら何かを話し、決め、感じる。和歌子と付き合い始めてからは、ときどき歩くということについても考えるようになった──歩くという行為には、二つの意味がある。自分たちはまだ、どこにも行きついていないという意味が一つ。そしてもう一つは、それでも目的に向かって進んでいるという、気休めに似た意味だった。それは、和歌子の人生そのものに似ていた。いずれにせよ移動し続けなければならないという、その感じが。  僕が告白された日も、二人は井の頭公園を歩いていた。園内にある、カップルが別れるジンクスで有名な弁天堂(弁天様にやきもちを焼かれて、二人は破局するそうだ)の前を、一日に何度、通り過ぎたことか。十月か十一月の散歩日和だったが、さすがに歩き過ぎだった。  それぐらい何周も散歩したあとで、和歌子はようやく「私、平塚さんとはそろそろ限界かもしれない」と言ったのだった。  平塚さんというのは、僕がかつて所属していた大学のゼミの、一年先輩だった。和歌子がこのゼミに入ってきたのは、当時付き合っていた、その先輩のせいだという噂もある。少しでも一緒にいたかったから、興味のない限界効用だとか、供給曲線のシフトなんてことを勉強していたのだ。僕がこのゼミに入ったのもまた、平塚さんのせいだった。僕は成績が悪く、どこのゼミにも入ることができそうになかったのだけれど、ゼミの面接官の一人に、彼がいたのでそこに希望を出した。多少は、ゼミに入ることのできる確率も上がるだろうと思って。  その結果、和歌子も僕も、同じゼミ生になった。もっとも僕は、すぐさまゼミには顔を出さなくなってしまったが。理由は特にない。そのまま、大学を卒業してしまった。  再会したのは、絵美里と別れてしばらく経ったころだった。まったくの偶然から、吉祥寺のパルコブックセンターの中で会った。ゲーム好き作家の新刊本を買いに行ったのだが、そこで、彼女が見つけて声をかけてくれたのだ。  告白の日までは、たったひと月だけだった。そのひと月後に彼女は、沈んだ声で、平塚さんとはこれ以上やっていけないと言い、さらに公園を四周とちょっとで、彼との別れを決定していた。  五周目で、前触れもなく僕に告白した。OKしたのは、何周目だったか覚えていない。断るつもりはなかったが、ここまで歩いたのだから、いっそのこともうしばらく歩いてみたいような気になっていた。  それに彼女の歩く姿は、魅力的だった。ちょうど真冬の落ち葉が、風に吹かれ、あてもなく地面を流れていく姿に似ていた。その悲しい感じが、よかった。  だから一年半も経った今も、僕たちのデートは、歩くことを中心に構成されている。彼女は歩きたいし、僕も歩く彼女を見たいので、なおさらそうなる。  待ち合わせの吉祥寺駅を降りると、辺りはカップルだらけだった。夕食にはまだ早い時間で、どの恋人たちも外をふらふらと歩いていた。そんな中、構内の冷たい壁にもたれて僕を待っていた和歌子は、どこか寂しそうだった。いつもそうだ。落ちたイチョウの葉を連想させた。  さっそく散歩になる。二人で井の頭公園を歩きながら、夜に行くべき店をあれこれと考えた。もちろん、その間も和歌子は決して立ち止まろうとはしない。池を囲む柵にもたれて、ゆっくり考えようなんて言っても無駄だ。  僕は、隣を歩く和歌子を見た。 「胡弓の練習、どうだった?」  彼女は今年になって胡弓を習い始めていた。昨年は俳句を習っていたし、そのまた前の年は銀細工の教室に通っていた。何に感動したのだとか、何になろうとしているとか、そんなことは関係ない。彼女にとって習い事は、やはり散歩と同じだから。どこに行き着くのかはまだわからないけれど、どこかに向かっている最中ではある、ということが重要なのだ。 「まあまあかな。今週は仕事が忙しくて、あまり練習もできなかったし」 「そうか。でも、ゆっくりやればいいさ。和歌子はいつも、やり過ぎるところがあるから」 「そうね。だけどそうしないと、時間がすぐ過ぎちゃうでしょう。それに胡弓って、なかなかいいのよ。気持が落ち着いて」 「損保の会社って、そんなにストレスがたまる?」 「うん、まあね。でもそれって、どんな会社でも同じじゃない。ストレスがある分、やりがいもあるだろうし。片山くん(彼女はいつまで経っても、僕をそう呼ぶ)だって、同じでしょう? やりがいのある仕事のほうが、ストレスもたまらない?」 「まあ、そうだね」  と言いつつ、そうだろうかと思い直す。僕は果たして、仕事にやりがいなんて感じているのだろうかと。一生TVゲームをしたり、映画を観て過ごしたいとは思ったことがあるが、この仕事については深く考えたことがない。ただこれが、自分と現実の折り合いをつける方法なのだと思っているだけだった。会社に行くと智恵に会えるので、時には楽しいと感じることもあるが、仕事そのもののやりがいとは違う。  そもそも、皆の言うストレスとはどれぐらいのものなのだろう。  例えばストレスのことを言い出した和歌子は、最近、髪の毛が薄くなった。病的なほどではないが、ひっそりと薄くなっていた。一本一本が細くなっているようで、地肌もうっすら透けて見える。まるで髪の毛は、彼女のストレスに吸着し、外へ排出する器官のようだった。昔の人が、悪い血を吸い出すため、わざと人の身体にヒルをかませたという話があるが、彼女の髪の毛もまるでそのヒルのようだった。身体から毒を吸い上げ、それを抱いたまま抜け落ちてゆく生物。  そこで思う。結婚したら抜け毛は止まるかしら、と。このまま髪の毛が抜けていくとしても愛情が減るわけではないが、彼女の毒を僕が吸い出してやれるだろうかと、つい不安を覚えてしまう。 「どうかした?」 「うん? 何でもないよ」  薄くなった彼女の髪の毛を見ながら、そう言った。  結局夕飯は、食べ放題のしゃぶしゃぶになった。僕が何となく肉が食べたかったのと、彼女が脂っこいものが嫌だと言うので、間を取ったのだ。食べ放題に行くほど腹が減っていたわけではないけれど、そっちのほうが安い。  鍋の湯が沸くまでの間、和歌子は今週やったことについて、いろいろと話してくれた。もっとも、ほとんどが読んだ本や映画の話ばかりだ。仕事の話はあまりしない。そのくせ、僕の仕事の話はよく聞きたがった。話すことなど大してないのだけれど、ストレートに「仕事の話をもっとして」と言うので、せざるを得なかった。結婚したとき、彼女のこの癖が、僕にとって心地いいのか悪いのか、また不安になってしまう。 「……でも、そこまで入れ込める仕事があるなんて、幸せだと思うわ。片山くんはすぐ、所詮ゲームの仕事だなんて言うけど」 「そりゃあ、ゲームの仕事だって立派だよ。日本最大のエンターテイメント産業だもんな。ただ、僕が忙しいのは何も、その仕事に入れ込んでるせいじゃないんだ。それに今は、ゲームの仕事じゃない。編集って仕事そのものが忙し過ぎる。今週だけでも、会社の会議室で何日徹夜したことか」 「ほら、楽しそうじゃない」 「やってみりゃわかるけど、そういうんじゃないんだってば。ただ、こういう仕事なんだよ」 「普通、それを楽しいって言うんだと思う。どこかの新興宗教みたいじゃない? 外から見たら気持悪くても、やってる本人たちは、どこか幸せそうなんだもん」  反論しようかと思ったが、彼女がすぐ言葉を継ごうとしていたので黙った。代わりに、まだぬるい湯の中に肉を入れる。温度が低いせいか、肉の中にあった血が、ピンクの入道雲みたいに滲《にじ》んだ。 「話のついでに言うけどね、私そろそろ、今の仕事を辞めようかなって思ってるの」 「どうして」 「別に、理由はないけど、何となくしんどくなってきたから。他にもっと、しっくりくる仕事もあるんじゃないかなって思って」 「そっか。それなら応援するよ」 「片山くん、ぜんぜん反対しないのね」 「えっ?」  僕は一瞬、戸惑った。「もしかして、止めて欲しくて言った?」 「そうじゃないけど、すごくあっさり言うから驚いたの。私の仕事って、何だったんだろうなって思って」 「そんなつもりなかった」 「わかってる。こっちだって、厭味で言ったんじゃないし。ただ、純粋にそう思えたの」  実際、彼女は純粋に、そう思っただけらしい。それを知っていくらかほっとしたが、同時に、また少し荒れるぞとも思った。彼女は職場が変わるたびに、精神的に不安定になるのだ。にもかかわらず、どうしてたびたび職場を移るのかはわからない。その行為はまるで、穿《は》いた途端から身体にぴったりとくる、魔法のジーンズを探し求めて歩いているようだった。  身体に馴染んでくるのが待ちきれないのだ。  肉を食べ過ぎたせいで、いつしか僕のジーンズもきつくなっていた。だから彼女が、久我山にある自分の部屋まで、歩いて送ってくれないかと言ったときは、腹ごなしにそれもいいかと思えた。そのあと近くのコーヒーショップでコーヒーを飲み、タクシーで家に戻れば、日曜日も終わるころだろう。家に帰ってゆっくりと、週末に会った三人のことを考えてみよう。  三、四十分ほど歩いて、彼女の部屋に着いた。部屋は、小豆《あずき》色をした大きなマンションの十二階。適度に広く、快適だった。和歌子はついこの間まで、この部屋を購入しようかなどと言っていたが、最近はあまり口にしなくなった。  マンションの前に着くと、彼女は珍しく、部屋に寄っていかないかと言った。恋愛至上主義を唱える彼女は、自分たちの部屋でするセックスには慣れたくないらしく、そんなことを言うのは本当に珍しかった。だから、今日はどうかしたのと聞きたくなったけれど、誘われるままマンションに入った。あくまで今回のデートは、相手の自然な様子をさぐることにある。変化は変化で、そのまま観察しないといけない。相手のペースに身を任せてみることで、自分が誰に心地よさを感じていたか、ひいてはプロポーズしたくなっていたか、きっと思い出せるはずだった。  部屋に入ると、和歌子はすぐにビールを出してくれた。仕事の関係でたくさんもらったらしい銀河高原ビールだ。青いその瓶の色が、僕をノスタルジックな気分にした。どうしてだろうと考えて、気付いた。子供のころ、風邪になるたび胸に塗りたくられた、ヴィックス・ヴェポラップの瓶の色とそっくりなのだ。 「変な人。瓶を覗き込んだりして」  和歌子は言った。僕にはビールを出したくせに、自分はマンゴーのジュースを飲んでいる。 「そこから何が見える?」 「何だろ」  僕は瓶越しに部屋を眺めた。しばらくこなかった間に、雰囲気がまた変わっている。今は、アジア家具に埋もれていた。生まれたてのカブトムシみたいな、つやのある赤黒い色に部屋は占領されていた。  家具の間には、彼女の人生の跡がいくつも残されていた。かじりかけてすぐやめたオペラのCD。韓国語の教材。水彩画のセット。高価そうな運動器具があると思えば、その上には、ホームページ作成ソフトのマニュアルが載せられている。 「いろんなものが見えるね。ゴチャゴチャしてる」 「ごめんね。今日は片付ける時間がなかったから」  彼女は言った。「でも仕事が変わったら、少しは片付くと思うよ」 「今の仕事、そんなに忙しいの?」 「遅くまで拘束はされないけど、ノルマがあるから、土日なんてないのと一緒なの。土日が欲しかったら、その週の初めのうちに時間を稼いでおかないと駄目……でも、一つだけいいところがあるけど。忙し過ぎるから、いろんな言いわけができるところかな」 「言いわけって?」 「長い休みのときでも故郷に帰らないことだとか、三十近くになっても結婚をしないことだとか、そういうことの言いわけ」 「なるほど、そうか」 「毎日が、何となく流れてしまうことの言いわけにもなる」 「別に流れてないだろ。充実してそうだ」  僕が言うと、和歌子はううんと首を横に振っていた。僕に向かってというよりは、部屋に向かって。それで会話は途切れてしまった。散歩がなくなると、僕たちはすぐに話題を失ってしまう。冷蔵庫の音だけが、妙に大きく聞えた。家電のくせに、この部屋の静寂を振り払おうと、張り切っているようだった。  結局その夜は、遅くまで彼女の部屋にいることになった。これまた久しぶりに、彼女の部屋でセックスが始まったからだ。静けさに耐えきれなくて始まったにもかかわらず、セックスもまた静かだった。  行為のあと、僕はシャワーも浴びずに部屋を出て、深夜のタクシーを拾った。  そのときもまだ、指先には彼女の匂いが残っていた。釘のような鉄の匂いと、粘膜の匂いが一緒になっている。  不思議なものでそれは、セックスよりも確実に、僕を猥雑な気持にさせた。      *  月曜日のけだるい満員電車の中で週末を振り返っていた。忙しかった週末のことを。付き合いのある三人と会ったのだけれど、結局、皆がそれぞれ魅力的だということしかわからなかった。  だがあのスケートリンクで転ぶ前の僕は、確かにプロポーズ相手を決めていた。しっかりした理由もあったはずだ。それを考えると、惜しい気分になった。一時的な逆行性健忘症だろうが脳震盪だろうが、多少のことは我慢できるのだけれど、あのときの決意をなくしてしまったことは、やはり惜しかった。ただそれでも、電車は決まったスピードで働く人間を都心へと運んでゆく。僕も、あれこれ考え、何の解決もないままに飯田橋駅に吐き出され、人の波に乗って会社に着いていた。  僕の働いている部署は地下二階にあった。地下二階というと、暗くじめじめしたものを想像しがちだが、それほどでもない。明かり採り専用の中庭があるせいで、真冬にでもならない限りフロアは健康的で爽快だった。  ただし、いくらフロアが健康的でも、そこに数日もカンヅメになっていれば、話は別だ。その日の朝も、隣の4局では週末から作業を続けていた編集者と数人のライターが、並べた椅子の上に寝転がっていた。彼らにとってみれば、月曜日の日差しも明かり採りの窓も、自分の不健康さを白日の下にさらす、うざったい小道具でしかないのだろう。  見慣れた光景を横目にタイムカードを押すと、僕はカバンを置きトイレに向かった。  男子トイレでは、仲のいいライターが小の便器に向かって立っていた。前にも話したが、このライターは、食玩のムック本を作るため、一緒にハム会社へ取材に行った男だ。つまり、最初に潮崎めぐみを口説こうとしたライターである。渋沢純一と言って、同い歳のせいか、プライベートのこともいろいろ話す仲だった。大体は4局関係の仕事をしているが、最近は僕が6局の仕事を頼むこともある。 「渋沢、おっす」  僕は言う。だが、渋沢の反応は、妙に鈍かった。月曜のこんな朝から会社にいるライターは、ほぼ九九パーセント、週末からカンヅメにされており、当然ながら体力も限界にきている。だが渋沢のその鈍さは、体力の限界とは違っていた。  下品な話だけれど、便器に向かってオナニーをしているのだとわかった。珍しいことでもない。徹夜仕事をするのは当然、働き盛りのライターなのだから、二日三日も閉じ込められていればオナニーをしたくなっても仕方がないのだ。しかも男という奴は、疲れるとかえってしたくなる。どうして個室に入ってやらないのかは上手く説明できない。それでも確かに、徹夜が続くと小の便器に引っ掛けたくなるのは、経験からして事実なのだった。ストレスで、攻撃性が増すのだろうか。  僕は、いきかけている渋沢の横でトイレを済ませた。ジーンズのボタンを閉じようとしたときになって、彼も済んだのがわかった。 「おー。なんだー。テル」  渋沢は便器の上についているボタンを押し、自分の、固い精子を流した。うつろだった目に、人格が戻っていた。「今日は早いねー。朝から仕事あんの」 「たまたま、早く起きたから。のんびりしててもいいけど、朝っぱらから部屋にいても暇だし」 「贅沢なこと言ってンなあ。オレなんて金曜日からずっとカンヅメ」 「最悪だな」 「まーな。でも今日の午前中で終わるから、いいよ」 「そう。じゃあ、もしよかったら昼飯でも一緒に食う? 徹夜明け祝いだから、何でもおごってやるよ。おごるって言ったって、会社の金でだけど」 「昼からステーキ食っていいか? 神楽坂に、新しくステーキハウスできたの見たんだよ」 「へー、そう。まあ、そこでいいよ」 「やり」 「昼まで頑張れよな」  不精を通り越し、ロビンソン・クルーソーのようになった渋沢の髭を眺めながら、僕ははげました。  月曜日の会議は長く、一時間ほど続く。それぞれ受け持っている仕事の進行状況をデスクに報告し、次に今週の予定を報告、それから手の空きそうなライターたちをトレードしているうちに、すぐに十一時になってしまう。  付き合いのある会社に何件か電話を入れると、十二時になった。渋沢はすでに仕事を終え、応接用ブースの一角を占領し、うつらうつらとしていた。あまりにしんどそうなので本当は起こしたくなかったのだけれど、そこまで気を遣ってしまうと編集者の仕事はかえってやりづらくなる。わざとマイペースなキャラを自己演出していたほうが、いい面もあるのだ。それで僕は、心を鬼にして椅子の脚を蹴り、はっと目を覚ました渋沢にたたみかけるように、「メシ」と言った。寝ぼけまなこの渋沢は、子供みたいな口調で、「そうだ、ごはんだった」と答えた。  厚生年金病院前の、いつまでも車の流れが途切れない道路を渡り、神楽坂に入る。渋沢の行きたいと言っていた店に案内してもらうつもりだったが、なぜか、そのステーキハウスは見つからなかった。ぼんやりしていた彼もさすがに不安になってきたようで、頭をガリガリかきむしり始める。徹夜が続いたせいで、夢でも見てたんじゃないかと僕が言うと、絶対にそんなことないと反論した。 「だけど記憶なんて、案外曖昧なもんだよ」  スケートリンクでのことがあってから、僕は心からそう思っていた。  結局、ステーキハウスではなく、駅前の焼肉屋に入った。昼休みのあとで焼肉の臭いをさせながら会社に戻るのは気が引けたけれど、他に肉を食べる店が見当たらないのだから仕方がない。 「テル、週末何してた」  渋沢は、巨大なカルビをざっくり取り上げ、口に放り込む。ビールも飲みたいと言うから頼んだが、あまり飲まなかった。動物のように、肉と米をひたすら食らい続けていた。 「オレが監禁されて、クソゲーの攻略させられてる間に、お前、何してた」  のど元まで、記憶がなくなったことについて出かかった。なくした記憶のせいで、週末は三人の女の子と連続で会わなくてはいけなかったと。けれど、そんなことを唐突に言って信用される話でもないので、まず、記憶をなくしたということだけ省いて話した。 「女の子たちと遊んだって、一度に三人? それとも一日ずつ?」 「一日ずつ」 「何だよそれよ〜! やり過ぎだよ。贅沢だ、贅沢」 「でも冗談抜き、やりたかったからじゃないぞ。ちょっと確かめたかったから」 「何を」 「僕が、この三人の子とは、前から付き合ってるの知ってるだろ。三マタだって言われるかもしれないけど、こっちだってわざとこんなことやってるわけじゃない。何となく、こうなってたんだから」 「何となく三マタ? ええ話やなあ」 「どうとでも言えよ」と、僕。「それに、もうすぐそんな生活から足を洗うつもりなんだぞ。三十までには結婚しようかと思ってる。ま、あと二週間ぐらいしかないから、結婚までは無理だけどさ。でもちゃんと、プロポーズは済ませとく」 「なるほどなるほど。それで、名残惜しいから三人とセックスか」 「違う」 「何が違う?」 「そんなことで会ってたんじゃなくて、誰にプロポーズするつもりだったのか、思い出そうとしてたの」  渋沢の口も箸を持つ手も、一瞬止まった。僕の言っていることが、よく理解できなかったのだろう。 「テル、何か言葉がおかしいぜ。そうそうお前、スケート行って頭打ったって聞いたぞ。包帯巻いて会社きてたそうじゃん。それでちょっと、頭がバカになったか」 「……いや本当の話、そのせいなんだ」 「ええ?」 「みんなには言うなよ。どうしてそんなスケートリンクにいたのかも、よくわからないんだよ。数時間の記憶が飛んじゃって、もう戻ってこない」 「マジで? うへえ、怖っ」 「でも、それは大したことじゃない。酔いつぶれたときみたいなもんで、そんなに怖いもんでもない」  僕は一度、唇を舐《な》めた。肉の脂がくっついて、舌が上手く回らないような気がしたからだった。 「それより一緒に、プロポーズ相手まで忘れちゃったことのほうが問題なんだよ。多分、その数時間のうちに決めてたんだ。婚約指輪まで買ってたんだからな。でも、それを誰にはめてもらいたかったのかが思い出せない」 「そんなこと、あんだねえ」 「人ごとみたいに言って」 「だって人ごとだろ。大体テルはそんなふうに、三人とゴニャゴニャやってっから、バチが当たったんだ。そうだ、天罰だ」  渋沢はゲラゲラ笑うと、再び肉と米を口の中に放り込む。それをぐしゃぐしゃ噛み砕きながら、「ま、そう心配しなさんな」と言った。 「指輪のサイズでわかんだろ、そんなん」 「それが、三人とも同じなんだよ。だから三人に会って、自分が誰と結婚しようって決めたのか、ちゃんと確かめたかったわけ」 「で、結果は?」 「みんないい子だった。わかったのは、それだけ」 「一個くれよ」  突然言われ、何て失礼なと思った。しかしそれは僕の勘違いだった。渋沢が言ったのは、女の子のことではなくて、肉のことだった。あまり箸が進まずに、ただ焦げていく僕の分の牛肉を、網の上から救ってやりたかったのだろう。  そのあと渋沢は、プロポーズ相手を思い出すための様々な方法を、いくつか提案してくれた。例えばこんなものだ。もしも海の中で三人が溺れてたら、誰を助けたいか想像してみろ(僕は、一緒に海に飛び込んで四人で死ぬと答えた)。紙に書いた三人の名前を順番に眺めて、ペニスが反応する速度を調べろ(結婚相手とペニスは別だと答えた。渋沢も、確かに、とうなずいていた)──こうした方法を十種類も薦《すす》められたのだけれど、どれひとつ、正しい結果に導いてくれそうなものはなかった。 「いっそのこと、指輪をはめてみたら、何かピンとくるんじゃないの」 「そりゃそうだろうけど、違う相手だったらどうするよ。あ、やっぱきみじゃないから、指輪返してなんて言えないし」 「三つ買え、三つ」 「そんな金、どこにある。今年なんてボーナスもほとんど出なかったのに」  僕は言った。まったく、そうだった。不況である。これからは給料だって、毎月ちゃんと払われるかどうか怪しいぐらいなのだ。 「それに、指輪ぐらいじゃわからないと思うな」 「自業自得だ、せいぜい悩めよ。後になってみたら、今みたいなときが、一番いいんだろーから」  渋沢は、珍しく偉そうなことを言った。僕は、その言葉に反論できなかった。むしろ、その通りだと思ったからだ。  昼食を終え渋沢と別れた。見開きページの仕事を彼に頼もうかと考えていたのだけれど、疲れてゾンビみたいになっている人間に、今日言い出しても無駄だろうと思い、何も告げずに会社に戻った。  会社に着くと、ちょうど会議室から出てきた智恵に出くわした。さっきまで渋沢と、ペニスの反応速度についてなどと馬鹿なことを話していたせいか、一瞬、軽く反応してしまった。自分が情けなくなる。  一方、智恵はどこか沈んでいた。それほど表情が豊かな女の子ではないが、さすがに付き合っていれば、わずかな変化もわかるようになる。だから午後の仕事が始まると、社内LANで、智恵のパソコンにメッセージを送った。するとすぐ、今夜、少し話がしたいので時間空けておいてというメッセージが戻ってきた。書きかたが、いくらか高圧的だった。もともと智恵は、言葉でのコミュニケーションが得意ではない。意図して高飛車な態度に出ているのか、単純に言葉が足りないだけなのか、わからないときがある。おかげで僕はその日の午後、自分の三マタがばれたんじゃないかと、怯《おび》えながら仕事をする羽目になった。  仕事が少し延びたので、会社を出たのは八時ごろになった。智恵と合流して、飯田橋で食事。飯田橋だと、どうしても会社の連中に会いやすくなるが、腹が空いていたので、とにかく近場の店に入った。僕はまだ怯えていた。会社からの道すがらも、智恵はずっと、何かに怒っているようだったからだ。  けれど中ジョッキに一口、唇をつけたところで、完全な杞憂《きゆう》であったことを確信した。智恵が話し出したことは、僕のまずい恋愛問題ではなかったのだ……もっとも、話はかえってこじれてきたのかもしれないが、そのときはただ、ほっとしていた。 「あのね、今日、社長に呼ばれたんだよ。私たち」 「4局の子たち?」 「ううん、マップ班だけ」  前にも言ったが、智恵はゲームの攻略本を中心に作る部局にいる。その中でもさらにコアな連中が集まっているのが、マップ班だった。みんなゲーム好きで仕事も真面目だが、外づきあいの苦手な連中ばかりだ。けれど僕は、人にどう言われようがコツコツとマップを作成している、そんな彼らを羨望していた。完璧なオタクたちは、ひどく、絶対的に、幸せそうなのだった。 「社長が言ったんだから間違いないけど、マップ班、解散かもしれないって。マップはこれから、外注に出すんだって」 「えっ、そうなの?」  驚いてみせる。だが実を言うと、噂は前々からあった。なにせ、時代は変わってしまったのだ。TVゲームも進化した。かつてのTVゲームなら、町もダンジョンも画面はブロック単位で構成されていたので、方眼紙の上に地図を描き出すことができた。ひどく根気の要る作業だったけれど、できたのだ。かつてのゲーム攻略本にとっては、かなり重要な情報だった。だが今では、方眼紙の上に描き出せるようなマップなどない。ゲームがリアルになってゆくにつれ、地図もそう簡単には描けなくなってゆく。桝目《ますめ》ではなく、現実の地図を描かなくてはならなくなった。方眼紙ではなく、ゲーム画面をひとつひとつパソコンに取り込み、モニター上でつなげ、イラストレーターなどのソフトを使って地図を起こすという作業が主流になっていた。当然、絵のセンスも要る。どちらかと言えば、デザイナー的な仕事になってしまったのだ。  さらに悪いことには、攻略本そのものが、あまり売れなくなっていた。すぐにホームページ上で完全攻略されるので、本のデータなど無駄なのだ。 「でね、私たちそれぞれ、違う部署に移されるんだって。もしかすると、HP製作部に行かされるかもしんない」 「ああ、HP製作部か。でも、あそこならまだいいんじゃない? 会社のHP作成するんだから、智恵も得意だろ」 「テル知らないの? あそこ、もう十分人がいるじゃん。なのに人増やしてるのはね、今度から外注で注文取るようになるからだよ」 「注文?」 「外から注文を受けて、ホームページ作る仕事」 「まあ、注文されたもんだから、ゲームとは関係なくなるけど、でも……」 「違う違う! そうじゃなくて、営業に出されるの! 注文、取りに行かされるんだよー。外回りだよ」  智恵はとにかく、営業という言葉を恐れていた。そもそもゲーム部門である4局には、全体的にそういう人間が多い。社内でも、ほとんど口をききたがらないような連中ばかりなのだから、営業が務まらなくて当然だ。  こうしてしばらくの間、智恵は、いかに自分が営業に出たくないかをとうとうと語っていた。これほど饒舌《じようぜつ》な彼女は見たことがなかったから、恐らく、僕が思っている以上に外回りが嫌だったのだろう。よく動く唇をぼんやり見ていると、どうしてだか昔のシューティングゲームをやっているような、不思議な感覚に陥った。名作ゲーム『ゼビウス』で、すさまじく沢山の弾を撃ってくるボスキャラと戦っているような気持だった。  するとそのとき、智恵が突如思いついたような顔で、「結婚しかないかな」と言った。驚いて、ジョッキを取り落としそうになった。智恵は、頭で思っていることを的確に伝えるのが苦手で、ときどき、こういうことがある。思いついたことを筋道立てずに話すものだから、唐突な言葉に感じて、聞いているほうはひどく取り乱すのだ。いつもならそれも、彼女のかわいげのある癖ということで済んだだろう。だが今回は、場合が場合なだけに楽しんでいられない。 「何だよ。突然、結婚って」 「だって私、営業とかできないし、こんな不況じゃ転職もきっとできないよ。だから、結婚しかないかなって思って」 「誰と?」 「何よ、何でひどいこと言うの? テル以外に誰いんの」 「いや、冗談、冗談」  冗談ではなかった。まさか僕と結婚するって言ってるんじゃないよね、と思っていた。今月中にプロポーズしようと躍起になってるくせに、突然相手から言われると、まったく反対の行動を取ってしまう。不思議だったが、やはり怖気《おじけ》づくものなのだ。 「テル、真面目に考えてよ。あんた、結婚したいんでしょ? 前から三十歳になるまでには結婚したいって言ってたじゃない。でも、もうすぐだよ。間に合わないよ」 「まあ、そうだね」 「だから私、手伝ってあげることにした。結婚しよう。私のこと、嫌いじゃないでしょ」 「待った待った。突然過ぎる」  僕の額からは、変な汗が出ていた。いわゆる脂汗というやつだろう。粘り気があるような、不快な汗だ。 「結婚だぞ。もっと、ちゃんと考えろ」 「考えたから言ってんじゃん」 「今、考えただけのくせに」 「明日考えても、あさって考えても同じだよ。二十五にもなったら、考えかたなんて変わらないの。干支《えと》が二回りしたら、あとはどうにもなんないって。だから結婚しよう」  何が、どうにもならないんだ。 「落ち着けよ。とにかく智恵は、専業主婦になるって言ってるんだよな」 「そうだよ。ちゃんとやる。ごはんも三食作るし、洗濯と掃除もちゃんとやる。エッチも、テルの好きなやりかたでやっていい」 「好きなやりかたって、変な言いかたすんな。特殊な趣味あるみたいだろ」  僕は、ジョッキを置いて言った。「大体さ、うちの会社の給料で、奥さんまで養えると思う? そりゃ、僕のほうが会社には長くいるし、歳上だから、智恵より多少は多く給料もらってる。でもそんなの、微々たるもんだよ」 「だって、それでやってる人いるじゃん。田中くんとか、子供までいるっていうよ」 「そりゃ、そういう人もいるよ。でも、そうなると毎日、ちゃんと生活しないといけなくなるんだぜ。智恵みたいにゲームのコレクションなんかしてる場合じゃなくなる」 「いつかテルの給料上がんじゃん。社長に好かれてるから、そのうちデスクになるんでしょ。私だって、家でバイトするし。ソーホーとかいうやつ? 内職みたいなの……パソコンの打ち込みとか、校正の仕事とか、そういうのやる。ゲームは全部、そのお金で買うよ」 「大体、結婚資金もない」 「結婚式なんて、しなくていい。それよか、結婚記念でPC─FX買えればいいよ」 「だからそういうふうにさ、マニアックな昔のゲーム機をコレクションしたりする余裕は、なくなるんだって」  僕はいささかかっとなって言った。  結婚ということ──一緒に家庭を築き、一緒に人生を作り上げていく過程には、ロマンチックな事柄だけがあるわけではない。運命共同体になれば、今と似たような状況は、歳を追うごとに増えてゆくのだろう。  例えばこれが、もし病気の話だとしたらどうか。もしも僕が智恵と結婚し、彼女が病気になって、働けなくなったとする。するとその瞬間から、僕はあらゆるものを我慢しなくてはいけない。仕事が終わっても、アルバイトをする必要があるかもしれない。ゲームどころか、洋服も買えなくなるだろう。新しい携帯電話も、口臭予防のタブレットも我慢しなくてはならない。さらに看病なんてことになったら?  自分でも、そんなことに耐えられるかどうか怪しかった。智恵じゃ不満なのか、それとも僕のエゴなのか、よくはわからないのだが。 「智恵。結婚の話と、そっちの仕事の話は、別々に考えようよ」 「テル、なんか冷たいね」 「そう思うかもしれないけど、今度の話は大事なことだ」  僕は言った。「智恵が、営業そんなに苦手だっていうんだったら、まず、それを直す方法はないよね。でも同時に、僕の給料が近々、大幅アップするってこともない。生活スタイルも変えられそうにない」 「……自分で、新しい職場を見つけろって言いたいんだ」  悪く言えばそうだねと答えつつ、じゃあ、よく言えばなんなのかはわからなかった。  僕と智恵は気まずい状態のまま店を出た。帰りの電車の中では口もきかず、僕は半ば逃げるようにして荻窪駅に降りた。智恵は、三鷹なのでそのまま車内に残っていた。ドアの所で、智恵にさようならを言うと、彼女はちょっと不安そうな顔で僕に笑ってみせた。その笑顔がとても愛《いと》しかったので、場合によっては彼女と結婚して、しばらくの間、専業主婦になってもらうのもいいかなと思った。  もっともそんな甘い気持は、数分しかもたなかった。荻窪駅の改札口を出ると、驚いたことに、めぐみがいたからだ。気のせいかと思ったが、少しふっくらとしたその身体や、唇の上にできるかわいいしわからして、めぐみ以外の誰でもない。  ほんのさっきまで智恵と会っていたせいで、うしろめたい気分になる。いっそのこと、ここから逃げ出したい気持だったが、彼女はもう、その視界に僕を捕らえていた。大きな目で、改札口から出てきた僕を見ている。 「めぐみ」  駅構内にある、ステンレスの柱にもたれていためぐみに声をかけた。すると彼女は、頬を膨《ふく》らませる。1/3怒っていて、1/3呆れていて、残りの1/3はほっとしている顔だった。 「テルくんのバカ」 「な、何だよ突然」 「今日の昼、電話くれるって約束したくせに。お昼、水道橋で一緒にごはん食べる約束、忘れたの?」  水道橋と言えば、めぐみの勤める会社がある。うちの会社が飯田橋だから、たまに僕の仕事が暇な平日は、一駅分だけ電車に乗って、一緒にランチを取ることがあった。ただ僕は今週、そんな約束をした覚えがない。編集者という仕事柄、めったに約束を忘れたりはしないのだ。忘れそうな些細な約束でも、携帯にデータを入れておくので、当日の朝にはアラーム音と共に必ず思い出すことができる。  しかし、彼女は冗談を言っている様子ではなかった。 「ランチ、食べるって言ってたっけ?」 「ひどいよ〜、約束したじゃん。そんで今日、お昼に携帯、何度もかけたのにつながらないし。テルくんの会社、地下だから仕方ないけど、留守番サービスの伝言は聞かなかったの?」  本当かと思って、ジーンズのうしろのポケットから携帯電話を取り出した。バッテリーがゼロになっている。フラップを開いても、画面は完全に消えていた。 「あれ? バッテリーがなくなってる」 「もー、それでか。何かあったんじゃないかって、心配したじゃん。私にはわからないけど、何か怒ったりしてんのかなって思ったよ」  めぐみは、僕のシャツのそでをいじりながら言う。「日曜日も昼に帰っちゃうしさー。やっぱり、心配するでしょ」 「そっか」 「お気楽モンだね、テルくんは」  言われた通り、気楽そうに笑ってみせた。だが、僕の脳味噌はフル活動していた。  彼女が、ランチの約束を勘違いするはずはない。めぐみは、仕事のことは何も覚えていないくせに、プライベートのこととなると、あらゆることを覚えているのだ。何月何日に何という映画を観て、そのあとどこそこでどんな食事をしたと、そこまで完璧に覚えられる。けれど僕だって、約束をすっぽかしたりするはずがない。第一、今朝の時点では、携帯電話はまだバッテリーがなくなっていなかったはずだ(携帯のアラームで起きたのだから)。予定が入力されれば、朝のアラームと共に、画面には今日のメッセージが映るはずだった。  考えられる可能性はただ一つしかなかった。あの日、スケートリンクで転倒し頭を打ったときだ。その前の、数時間にした約束に違いない。どうしてその予定を携帯電話に打ち込んでいなかったのかはわからないが、もしかすると何らかの理由で手が離せなかったか、あるいは、絶対に忘れない自信でもあったのだろう。  そう考えると、ここに一つの推論がたてられる。  つまり僕は、めぐみにプロポーズするつもりだったらしい、ということだ。めぐみのことを考えて新宿で指輪を買い、なぜだかそのあと高田馬場のスケートリンクに行き、そこで彼女に電話をして、ランチの約束をした。そんな状態なら、携帯に予定を打ち込まなかった可能性もある。プロポーズの相手だったら、どんな約束だって忘れずにいられるだろう。やがて、その数時間の記憶を取りこぼしてしまうなど、予想できるはずもないのだから。 「どうかしたの、テルくん」 「いや、何でもないよ」  僕は間の抜けた発音で言った。本当に、彼女にプロポーズしようと思ったのか、まだピンとこなかったのだ。プロポーズしようとするのに、どうしてランチの約束だったのだろうか。  そんなことをグズグズ考えつつ、コンビニに寄った。夕飯は食べてきたし、どこかで飲みたい気分でもなかったので、めぐみに、珍しく僕のマンションに上がってもらうことにした。特に理由はないけれど、僕は、めったに人を家には入れない(鈴木和歌子もそうだが)。子供のころからそうだった。同棲生活は簡単に始められるくせに、われながら不思議だとは思う。  そのせいか、たまに家に呼ぶと、思いの他よろこぶ人もいる。めぐみもそんな一人だった。 「わー、久しぶりだー。テルくんの家は、相変わらず広いねー」 「いい加減、引っ越さないとな。使ってない部屋もあるし」  僕は、コンビニで買ったビールを、冷蔵庫にしまいながらそう言った。「でもつい引っ越しが面倒になってきちゃって」 「仕事、忙しそうだもんね」  めぐみは、カラシ色のソファに寝そべりながら言った。一点豪華主義のそのソファは、やはり人を横たわらせる魔力がある。 「でもやっぱり、もったいないよねー、こんな広い部屋に一人なんて」 「ああ。家賃だって、ばかになんないもんな」 「わ、た、し。こ、こ、こよう、か、なぁ」 「うん?」 「ここに、引っ越してこようかなって言った」  めぐみは、自分で言って恥ずかしいのか、ソファに寝そべったままで僕の顔を見ずに言った。はにかみ屋の子供が、何かをねだるときのように。 「だってさー。テルくん、忙しくてなかなか引っ越しできないんでしょ。家賃も高いんでしょ。だったら私が引っ越してきて、家賃、半分払うのもいいかなって思ったの」 「めぐみがここに?」 「嫌?」 「や、そんなことないよ。ちょっと驚いただけでさ」  僕はとっさに言いわけを考えていた。「でもめぐみの父さん、すごく厳しいんだろ? 学校の先生だったよな。同棲なんかしたら、ちょっと、まずいんじゃない」 「そりゃ、お父さんは厳しいよ。でも、私だってもう二十四歳だからね」 「もう二十四歳って、僕はどうなるよ。もうすぐ三十だぞ」 「男の二十四歳と、女の二十四歳は違うよ」  彼女は、がばと起き上がる。「それにテルくんいっつも夜遅いし、逆に私は朝早いし、かえって同棲しやすくない? 一緒にいたら息が詰まるとか、そういう問題、考えなくていいじゃん。同棲してたら、毎日、ちょっとでも会えるでしょう? いつもなかなか会えないから、調整できそう」 「うん。まあね」  僕は食事用のテーブルに着き、めぐみを眺めた。例の愛らしい、鼻と上唇の間にあるしわを眺めていた。とてもかわいい女の子だと思う。毎日、その唇の上にあるしわに触れられたら、かなり幸せな人生になりそうな気がした。  だが、何か引っかかっていた。もしもあの日、彼女にプロポーズしようとしていたのなら、一体何が背中を押してくれたのかがわからないのだ。結婚に踏み込むには、そんな、ほんのひと押しがあるはずじゃないか? 確かに唇の上のしわはかわいいのだけれど、それが結婚に踏みきるひと押しだったとも思えない。  しかも、なぜか突如、彼女がうっとうしくも感じた。本当に突然のことだった。街を歩いていて突然、普段は大好きなカレーの匂いに満腹感を覚えるようなことがあるが、そんな具合だった。  うっとうしい?  もしかして、僕がランチの約束をしていたのは、別れ話をするためだった可能性はないか? 「テルくん、ビールちょうだいよ。のど渇いちゃった」  めぐみは無邪気に言った。ほんの一瞬、うっとうしさを感じたくせに、次の瞬間には、彼女を愛しく思っている。僕の頭は、少し統一性に欠けているのかもしれない。自分が腹立たしかった。  そのせいか、僕はその夜、いつもより激しく彼女とセックスをした。自分が腹立たしく、彼女はうっとうしく、愛しい。自分でもよくわからない感情を、彼女に対してぶつけるより仕方がなかったのだ。 「野獣だ」  真っ暗にした部屋の中、裸のめぐみは言った。ベッドの上に立たせていた。彼女の湿った背中が壁紙に吸いつき、動くと、べたりと音がした。 「野獣」  座り込もうとするめぐみを、また立たせる。自分でも、それから何がしたいのかよくわからなくなってきた。殺人を犯す瞬間の人の気持が、わかるような気がする。身体の中に何かあるのだけれど、それが何なのか、言葉にならないのだ。 「もう、ダメだ!」  彼女はついに座り込んだ。ベッドの上に寝転がってしまう。  それから僕は、ゆっくりと彼女の中に入った。  結婚したら毎週やるのだろうか。こんなことを続けていくうちに、子供ができるのだろうか。  案外子供というのは、やり場のない暴力から生まれてくるものなのかなと、能天気なことを思った。      *  智恵のいる4局では、社員の異動の話でここのところ遅くまで会議が続いていたし、ライターの渋沢は、この間の仕事が終わってから、会社に顔を見せていなかった。そこで僕は、金曜日だというのに珍しく、まっすぐ家へ帰ることにした。部屋で一人、ゆっくり缶ビールでも飲もうと思ったのだ。  けれども実は、一人だと飲みづらい。アル中になりやすくなるので、家では一人で飲まないほうがいいと、母親が言っていたのを思い出してしまうからだ。  僕が小学校に上がる頃から、外で働くようになった母は、飲んで帰ってきては、そんな言いわけをしていた。子供だったので、彼女の言葉をそのまま信じた。家で酒を飲んでいるといつしかアルコール依存症になり、最後は自滅するのだと。  だが彼女は、どこまで本気で言っていたのか。  本当は、家に帰ってこない言いわけだったのだろうと思う。子供ながらに彼女は、夫、つまり僕の父親のことを生理的に避けているのだと、ぼんやり気づいていた。  そんな考えが決定的になったのは、ある事件がきっかけだった。  その日、小包が届いた。新潟から届いた、僕宛てのダンボール箱だった。開けると中には、柿が詰まっていた。その上に、�貴子様へ�という手紙が添えられていた。どうも、母を愛する男が送ったものらしい。  僕はぞっとした。母親に愛人がいたという事実よりも、自分の息子の名前を使ってまでも、何とか愛の言葉を交わそうとする、その行為に対してぞっとした。母親は、僕の名前を愛人に教えることすら厭《いと》わなかったのだ。瑞々《みずみず》しい柿が僕の目にはみすぼらしく映った。僕の価値は、ダンボールひと箱ぶんの、柿と同じになってしまった。  結局、このことは父親にも発覚することとなった。一週間近く、両親の口論が夜中まで続いた。  そして僕は、彼らの口論の合間を縫って、送られてきた柿を少しずつ冷凍庫に入れていった。凍らせては、窓から外に投げ捨てた。何のためそうしたのか、自分でもよく覚えていない。途中で母親に見つかり、押さえつけられてビンタをされたのは覚えているが、大して痛いとも思わなかった。第一、激情にまかせて腕を振り上げていることぐらい、子供の僕にもわかっていた。  僕の世界は変わった。どう変わったのかを説明するのは難しいのだけれど、たとえば、それまでちっとも面白いと思わなかった映画が、不思議と面白くなったりした。TVゲームも好きになった。僕は、昼間の夢を見るのが好きになったようだった。逆に、両親のことなどどうでもよくなった。中学に入る前、正式に離婚することになったが、何の感情も湧いてこなかった。僕は、凍らせた柿と同じようになっていた。  いや、氷河期と共に、氷の中に閉じ込められたマンモスのようになっていた。  僕が僕であるために、もう、ここから連れ出さないで。溶けてどろどろになってしまうから、このまま、ここにいさせて。  ──大学時代、僕が持っている秘密主義と、人嫌いの原因は、この母親にあると言われたことがある。心理学をちょっとかじった奴が、無神経に言ったのだ。片山はそうやって、母親に訴えてるんだ。自分はこんなに傷ついたんだってことを、母親とはまるで関係のない女全般に対してまでアピールしてるんだな、と。  それが事実かどうかはわからない。事実だからといって、僕がどう変わるわけでもない。そしてやはり、子供の頃に馴染んでしまった考えも、ちょっとやそっとでは身体から抜けないのだ。  それを、一人で飲むときには強く実感せずにはいられなかった。  僕は、情事の言いわけでしかなかった母の言葉に、この歳になっても呪縛《じゆばく》されている。だから未だに、心の中で言いわけを続けていた。飲みたくて飲んでいるんじゃないさ。どこで飲んだって、何かが崩れるときは崩れるさと、唱えながら飲む。悔しいことに、母親の言った嘘と自分の考えとが、いつからか一緒になっていたようだ。  そう言えば、この部屋で同棲していた絵美里にも同じような話がある。彼女の場合は匂いだった。  ある日、唐突に部屋を出ていった彼女は、クローゼットの中にマフラーを忘れていった。しばらくの間、マフラーは彼女の匂いを放っていた。どうにも寂しくなって、何度かそのマフラーに鼻をつけたものだった。マフラーで顔半分を巻いて、半日ぐらい過ごしたこともあった。  ところが絵美里と別れてから五カ月後、僕には新しい恋人ができた。大学の同級生だった和歌子だ。彼女が、初めて家に遊びにきたときのこと。しまい忘れていたマフラーを見つけられてしまった。  香水の匂いがするから、ちょっとまずいかなと思っているうち、和歌子はあっというまにマフラーに鼻をつけ、そのまま深呼吸をした。ひどく、回りくどい言いわけが必要になるだろうと、僕は瞬時に身構えていた。  けれども彼女が言ったのは、「これ、片山くんの匂いするね、やっぱり」というセリフだけだった。 「僕の匂い?」 「うん。片山くんの匂い。タクシーの匂いに似てるから、すぐわかるよ」  それを聞いて、愕然とした。結局のところ僕は、いつの頃からか、自分の匂いを嗅いでいたということになる。てっきり、出ていった絵美里の匂いだと疑いもせず吸い込んでいた。  ……繰り返しになるけれど、自分に近しかった人のコトは、いつしか自分のコトと区別がつかなくなるらしい。  多分それは今でも同じことで、僕を構成しているいくらかの部分は、智恵だったり、めぐみだったり、和歌子だったりしているのだと思う。運命共同体のように。  逆に考えてみると、金曜日の夜、お気に入りのソファに座ってビールを飲んでいるくせに何だか楽しめずにいるということは、僕の近しい誰かもまた、同じような気分でいるのかもしれなかった。  奇妙な考えかたかもしれないが。  ところが土曜日になって、この考えは、あながち間違っていなかったことが判明する。金曜日の夜、僕が幸福感を感じられずにいたとき、どうやら和歌子も気持が不安定だったようだ。  それを知ったのは、平塚さんと再会したときだった。  僕は週末、彼に電話で呼び出された。かつてのゼミの先輩であり、何より、昔の和歌子の恋人でもあった人だ。大学院に行ってしまってからは会う機会も減っていたのだけれど、急に電話をかけてきて、これから昼飯を一緒に食べようと誘ってきたのだ。もっとも、そういう唐突さは昔からなので、こっちも慣れていた。  土曜日の昼ごろ、僕は約束した高田馬場に行った。何もわざわざ大学のそばで会うこともないだろうが、どうしても大学時代に知り合った人とは、そこで会うのが癖になってしまう。ノスタルジイに浸りたいのか、それともあの頃の一体感を求めているのか、よくはわからない。  僕たちは高田馬場駅で再会し、そのまま、昔よく行った喫茶店へ向かった。天体観測が好きなマスターのいる店だった。珍しい天体現象が起きるときや、すい星の接近のたびに長く休みになる厄介な喫茶店だったけれど、長居ができて好きだったのだ。  店に着くと二人とも、昔と同じように、美味くもなく不味くもないチキンドリアを注文した。 「平塚さん、ずいぶん久しぶりですね。急に電話くれるから、びっくりしましたよ」  僕は言った。そこへもう、ランチセットのアイスコーヒーが届く。そう言えばここは、食後に持ってきて欲しいだとかいうような、細かい注文はできないのだった。宇宙の悠久さから比べれば、アイスコーヒーを出す順番など取るに足らないというのが、マスターの言い分だ。本当は、単に面倒だっただけだと思う。実際、客の入りが悪く、あまりに暇そうな日には、ちゃんと順序通り運ばれることもあったのだから。 「今、何やってるんですか? 院はもう出たんですよね」  僕はそう訊《き》きながら、しぶしぶ、食事前のアイスコーヒーをすすった。あと回しにして、氷で薄くなるよりはいい。 「そうだよ」  先輩が笑って答える。昔より、笑顔が様になってるのは、きっとどこかで働いている証拠だと思った。少し恰幅もよくなったから、もはや貧乏でもないらしい。 「今はね、池袋にある予備校で世界史の講師やってんだ。そんで今日たまたま休みだから、突然お前を呼び出したりしたんだけど、悪かったなあ。ほら、予備校だから、土日に休み取れるの珍しくてさ。迷惑かなと思ったんだけど、かけてみた」 「いいですよ別に。どうせ予定もなかったし」と、僕。「しかし、先輩が講師ですか」 「まあな。でもなかなか、いいぞ」  お金がいいのか、仕事がいいのかはよくわからないが、彼は確かに幸せそうだった。 「ところでな片山。呼び出しておいて何だけど、オレ今日はあんまり時間ないから、さっさと話しとく」 「身勝手なのも、あいかわらずですね」 「まあ、そう言うな。あのさ。ええと、お前、今、和歌子と付き合ってる?」 「えっ、どうしてです」 「いや、あんな。昨日の夜、別れて以来初めて、彼女から電話あってさ……なんつーか」 「なんつーか? 何か僕のこと言ってました?」 「いや、そのな。もしかしたら自分は、お前と結婚するかもしれないって、電話で言うんだよ。でも、何だか泣いてるみたいでさ。それでちょっと、変だなって思って」 「結婚!」  どうして今週は、こう、そろいもそろって結婚の話が出てくるのだろうか。僕がプロポーズのことを考えているから、何か変なエネルギーでも発しているのかもしれない。 「いえあの、結婚の話なんて、まだ出てないですけど。それに、その、付き合ってるってのも、ちょっと微妙なところで、今もいろいろありまして」 「なんだよ、微妙って」 「微妙は、微妙なんです」  と言いつつも、平塚さん相手に隠し通すこともできず、結局白状させられた。  僕の意見はどうあれ、今のところ誰に話しても、三マタをかけているということに変わりはない。僕だってもし、他人からそんな話を聞かされたら、三マタをかけるやつが悪いと考えるはずだ。  しかし事情を聞いた先輩は、「お前そりゃ、さっさと何とかしないと、いろいろまずいことになるよー」と言っただけだった。それ以上、特に意見はないらしい。昔なら、これで二日は説教されただろうに。やはり人は自分の人生が充実してくると、他人に意見をしたりしなくなるものなのか。 「お前今、オレが何も言ってこないんで、変だなって思ってるだろ」  先輩は見すかしたように笑う。「いや、な。まあ、この歳になるといろいろあるから、仕方ないわ。学生時代みたいに、そうそうすっぱり意見も言えなくなってくるしさ」 「はあ」 「ここだけの話、オレも不倫してるし」 「えー、そうなんですか。結婚したのって、去年でしたっけ」 「いや、おととし。もう忘れたか」  そう言えばそうだった。先輩は、和歌子と別れたあとにすぐ、別の人と結婚したのだった。当時、僕は仕事が忙しくて、どうしても結婚式に出席できなかったのだ。 「でも不倫なんて、そうなるときはなっちゃうもんだよ……あ、そうそう。写真見るか?」  別に興味はなかったけれど、見て欲しそうなエネルギーを発していたから、ええ、と答えた。すると彼は、すぐさま携帯電話を開いて、液晶画面を見せてくれた。携帯のカメラで撮ったものらしい。背景からして、そこはディズニーランドのようだった。  女の子は、線が細くてかわいい子だった。ドラマなどで、主役のことが好きなのに、結局は恋が実らないような、脇役タイプの顔だ。小鳥みたいな感じの子。ただ先輩の年齢からすると、相手がずいぶん若過ぎるように感じた。 「な、かわいいだろ。それ、元教え子だったんだ。今年から、大学生」 「えー、じゃあまだ二十歳そこそこじゃないですか」 「そう。誕生日がまだだから、十九歳。いいもんだよ。おかげで、嫁さんにも優しくできるようになったしさ。たった一人に、何でもかんでも求めるのって、やっぱり無理だったんだなってわかったよ」  平塚さんは、にっかと笑った。予備校講師の仕事がなかなかいいよ、と言っていたのはこのことだったのか。  僕が何も言えずにいると、彼は「ちょっとトイレに行ってくるから」と、携帯電話を残してそのまま席を立った。そのままにして行ったのは、他の写真も勝手に見ておけという意味だろうと思い、僕は他の写真も見た。写っているのは全部、不倫相手の女子大生ばかりだった。  これだけ浮気の証拠を残しておいて、よくもまあ不安じゃないなと感心する。僕など、万が一のことが怖いので、ここ二年ぐらい写真を撮った記憶がない。どこでどんなほころびが生じるか知れないから、極力、証拠を残さないように努力してきたのだった。だが先輩の携帯の中には、万が一ぐらいでは済まないような写真まで残っている。彼女と、ホテルで撮ったものもあった。いわゆる、とても個人的な写真。ひどく、性的な写真だ。  思わず、携帯の電源を切ってしまう。そのあと急いでもう一度電源を入れ、写真など何も見なかったふりをして、先輩を待った。  やがて彼もトイレから戻ってきた。 「平塚さん、ところで和歌子の話。続きは?」 「あ、そうそう和歌子な、和歌子。いやさ、彼女があんな電話、突然かけてくるからびっくりしたんだよ。しかもよりによって、最初電話を受けたのが、うちの奴でさ」 「家の電話にかけてきたんですか。先輩、結婚して引っ越したのに、よく新しい番号知ってましたね」 「引っ越したって言ったって、学生の頃住んでたアパートと、同じ町内だからなあ。電話番号だって変わってないんだよ。その頃のまま」 「ああ。ずっと携帯にかける癖がついてたから、気づかなかったです」 「ワカゾーは、これだから困るな」  テーブルの上の携帯を撫でながら、彼が言った。 「とにかくさ、和歌子が電話なんてかけてくるせいで、うちの奴に勘違いされちゃったんだよ。まったく、ついてないよな。元々、うちの嫁さんは疑り深いんだ。ヤキモチ焼きって言うのか。まあ、別のところでしてるから、事実と言えば事実だけど、和歌子じゃないし」 「まさかとは思いますけど、僕に何か手伝えって言うんじゃないでしょうね」 「バレたか。いやさ、今度お前、和歌子と一緒に遊びにきたらいいと思ってな、家に。もちろん、カップルらしくして」 「やっぱり、そんなことかあ」 「頼むよ、そのうち」 「そのうち、なら考えときます」 「ちぇっ。そういうときのお前は、まずこないもんな」  平塚さんは、それも仕方がないかという感じで笑っていた。 「でも片山、今みたいな和歌子は、まずいときじゃないのか。お前も付き合ってるなら知ってるんだろうけど、あいつ、精神状態がいつも安定してる子じゃないからさ。オレが付き合ってるときにもよくあったんだ。何度か病院で診てもらってたし……病名、なんて言ったかな」 「不安神経症です」 「あー、そんなのだ。実を言うとオレたち、それがもとで別れたようなものだったから。本当、あの頃は大変でね。会うたびに泣きつかれたり、朝から騒がれたり、そういうのが続くから。まあ、お前に言うこともないけど、ちょっと気をつけたほうがいいぞって思ってさ」 「彼女、会社をまた替わろうとしてるんです。それで、少し不安定なんですよ」 「そうかあ。じゃあ、お前が何かしてやるってわけにもいかんなあ」 「ええ」 「綺麗ごとも少しぐらい言いたいけど、当事者となると、簡単に片付けられないよなあ。その病気と付き合っていくとなると、なかなか根気が要るよ。それがなければあいつって、向上心もあるし、知的だし、すごくいい女なんだけどな」 「ええ、まあ」  僕はちょっとうんざりとしていた。先輩のせいではなくて、確かに彼の言う通りだったからだ。彼女の病気は、口で説明するのは簡単だし、小説や映画のヒロインだったら繊細なキャラクターとして、美しく描かれてさえいたかもしれない。けれども現実に仕事があって、毎日があって、自分にも一度きりの人生があるとすると、なかなか受け止めきれないものだった。理由もなく泣き騒がれたり、ちょっとコンビニに行っただけで走って追いかけてこられたりすると、こっちが先にぼろぼろになってしまうのだ。何か意見をしても、被害妄想的な反応をされることが多いので、ただ見守ってやるしかない。そのうちに、それまで貯まっていた�好きだ�という気持まで目減りしてしまう。  もう、気持などなくなっているのかもしれないのに、好きだったという記憶だけを頼りに付き合っている──惰性で支えられる愛情に、モノトーンな虚しさを感じてしまうのだった。  そんなことを考えたせいなのか、五月の週末だというのに、気持はすっかり沈んでしまった。別れ際に平塚さんから、「とにかくオレじゃ無理なんだから、和歌子の様子を注意して見てやんないと」などと言われもしたが、それさえ面倒になってきた。いつもならきっと、なぜ彼女が突然、結婚したいなんて言い出したのか確かめただろうに、すべて面倒になっていた。  忍び寄ってくるモノトーンの未来から逃れるように、学生時代を過ごした高田馬場を一人でうろつき始めた。何かに飢えていた、若い頃の気持を取り戻したかった。  久しぶりにゲームセンターに入り、対戦格闘のゲームなんぞやってみる。だが、いつのまにか操作は複雑になっていて、筐体《きようたい》のむこうにいた高校生に秒殺されてしまった。仕方なくゲームはやめにして、三本だての映画を夜中まで観てやろうかと思い立った。それで、学生時代に毎月通った、懐かしい名画座に行ってみると、いつのまにか休館になっていた。改装のためなのか、映画館自体がつぶれてしまったのかはよくわからない。隣にあった小さなラーメン屋まで、もうなくなっていた。  急に、確かめることのできる過去を、全部取り上げられたような気がした。この感じは、自分の母親が家を出て行ったときにも似ていたし、生まれて初めて家出をしたときとも似ていた。東京の大学に入学したため、神戸の実家を離れたときにも似ていた。戻る場所を失った感じだ。  何でもいいから過去が欲しくなった僕は、ついふらふらと、前に顔を出したスケートリンクに向かって、歩いていた。一度なくした分を、取り返したい思いだったのかもしれない。  ちなみにスケートリンクは、大学とは反対の方向にある。しかも、駅からかなり歩かないとならないので、学生時代もめったに利用したことがなかった。仮に恋人がすごくスケート好きだったとしても、他の遊び場とアクセスのいい、池袋のリンクを選んだだろう。  それでもこの日、スケートリンクまでの道のりを歩いていると、淡い懐かしさが感じられた。つい最近歩いたような、新鮮さの残る懐かしさだった。たとえ自分が覚えていないにせよ、実際にここを先々週に歩いたはずなのだから、当然と言えば当然なのだけれど。  そんなことをあれこれ思いながら歩いていたときだ。僕の前を歩いていた女性が、おかしなものを地面に落とした。それは、傘の取っ手の部分だった。よく晴れていたが、彼女はなぜだか大きな傘の、それも中棒の部分を持って歩いていたようだ。その傘の取っ手が、何の前触れもなく外れて地面に落ちたのだった。そこそこ、高級そうな傘だったにもかかわらず。  僕は、しゃがんでそれを拾った。ほんの数歩だけ駆け足をして、柄のない傘を気づかずに持って歩く、彼女の肩を叩いた。 「あのすいません」  僕は言った。ふり返った彼女は僕より少し若く、額の形がチャーミングだった。中途半端に開いた唇が、美しかった。  けれどそうした事柄は、この瞬間、最優先の興味ではなかった。 (あれ? この感じ)  彼女に声をかけてからのほんの数秒は、僕にとって初めてではないような気がした。たまにTVなんぞ見ているとき、まったく同じ十五秒のCMが続けて流れることがあるが、それとそっくりなのだ。 (デジャビュだ。このシーンは、一度見たぞ) 「はい?」 「……あ。あの、これ。落ちたみたいだけど。傘の取っ手かも」  彼女は自分の壊れた傘に気づくと、ひとしきり驚いたあとで、礼を言った。自分でもおかしいらしく、その間もずっと笑いをこらえて赤い顔になっていた。そんな彼女の顔もまた、見たことがあるような気がした。  何かがおかしい。  リンクで転び、抜け落ちてしまった数時間の記憶のせいかもしれない。脳が、抜けた記憶を何とか埋めようとして、それに似た記憶をサンプリングしているのかもしれない。コピー&ペーストして、記憶の応急処置をしようとしているのかもしれなかった。事実、人間の脳には、そういう足りないものを補う機能があるそうだ。あまりに意味のない音を長時間聴かされると、それが言葉に聞えてきたり、意味のない壁のシミが顔に見えたりするというのは、すべてこうした脳の機能のせいらしい。|何もないはずがない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と判断した途端、勝手に物語まで捏造《ねつぞう》してしまう。  しかしその日、僕の見たデジャビュは、これだけでは済まなかった。スケートリンクにたどり着くと、さっそく次のデジャビュに遭遇したのだ。  リンクの入り口に近づいたときのことだった。大きなガラスで隔てられた先には、涼しそうな氷の床が見えた。そこでは数組のカップルたちが外周を滑り、中央ではフィギュアの練習をしている人たちがスピンをしていた。がりがりと氷を削って急停止するのを見せつけるために、出っ歯の中年男がにやにや笑いながら、リンクを縦横無尽に走っている。わざわざホッケーシューズを持ってきたらしい。その姿がひどく無様で、そんなに滑りたければカナダに行けと、心の中で毒づいてみた。  そしてちょうど僕の目の前では、一人の女の子がリンクの端につかまっていた。どうして一人、そんな場所に立っているのか不思議に思ったその瞬間、また強いデジャビュを感じた。傘の取っ手の比ではなかった。絶対に自分が、かつてここで、ガラスに顔をくっつけ、彼女を見ていたのは間違いないと思った。 (彼女がもし、僕のことに気がついたとしたら)  僕は思った。 (彼女がもし無視しないで、僕のことを見てくれたら、単なるデジャビュじゃないはずだ)  あの日の記憶を呼び覚ましたい欲求に駆られ、僕はじっと彼女を見詰めてみた。  すると本当に彼女は、やがてこちらを向いた。ここまで完璧なデジャビュは見たことがなかった。その不思議さに、最初は逃げ出したくなった。けれど逃げ出したりしたら、そこにいる彼女に笑われそうな気がしたので、逆に僕は、スケートリンクに入ってみることを選んだのだった。  26・5の靴を借り、急いで中に入る。ロッカーにリュックを入れると、靴をはいてリンクに上がった。リンクの上は、冷蔵庫の中のような匂いがした。昔、絵美里と冷蔵庫の中に、頭を突っ込んでみたときのことを思い出す。金がなくてクーラーも買えずにいた頃にした、夏の日の悪ふざけだった。  デジャビュの彼女はリンクを降り、入り口と反対がわにあるベンチで休んでいた。さっき若い女の子と言ったが、ガラスを通さずに見るともっと若くて、僕の目には、中学生ぐらいに映った。まわりに保護者らしい人物も見えなければ、スケート教室に所属している風でもない。フリーで遊んでいるようなのだ。  そうならば、今にも声をかけたいところだが、最初の言葉を考えた途端、手詰まってしまった。平塚さんのように予備校講師でもやっていれば、何か上手い方法があったかもしれないが、僕は三十歳を目前に控えたごく普通の男だ。いくらリンクで一緒になったからと言って、中学生らしい女の子に突然声をかける術《すべ》なんて知らない。  大体、仮に声をかけられるとしても、そのあと何て言うのだ? 「きみを見て、デジャビュを感じたんですが、どうでしょう?」などと言って、相手にされるとは思えない。  わかってはいたが、あきらめてすぐにリンクを出るのも、挙動不審者のようだ。それに、せっかくのデジャビュを確かめるチャンスなのだから、僕はとりあえず一周滑ってみた。あの日以来、スケートを滑った記憶はほとんど消えていたので、今の自分には久しぶりに滑ったように感じられた。けれど身体で覚えたことは忘れないというのは本当で、重心の移動はスムーズだった。つい楽しくて、二周、三周と滑ってしまう。  例の彼女が、リンクの外からじっとこちらを見ていることに気づいたときには、当初の目的を忘れかけていたほどだった。どうもあれ以来、思考が散漫になっているような気がする。 「ねえ、あの……」  滑っている最中に声をかけられたので、ボリュームが、だんだん小さくなっていった。それでも、ずっと意識していた彼女から突然声をかけられたものだから、僕の身体は敏感に反応してしまったようだ。ふり返ったとき、思わず重心を崩してしまった。もっとも今回は、右側の手すりにつかまり、尻餅をついただけで済んだが。  その間に、声をかけた彼女が滑ってきた。南極ペンギンのようにリンクを滑走し、瞬く間に手を差し出した。僕のジーンズに、溶けた水が染み込む隙さえなかった。 「だいじょうぶ、だいじょうぶ」  かっこ悪さから、僕は言った。「ちょっと、転んだだけだから」 「でも、危なかったよ。もうちょっとで、頭打つとこだった」  頭と聞いて、僕は妙に素直になってしまい、小さな彼女の、その手を貸してもらった。  助けられたお礼というわけでもないが、何か温かいものでもどうかなと、思いきって訊いてみた。すると彼女は、ココアをおごってくれるかと言った。  もちろんと答えた。  二人して一度リンクを降りると、自動販売機のある休憩所まで、ブレードを立てて、よちよちと歩いていった。そこで、温かなココアを買う。僕はまだ身体が冷えてもいなかったのだけれど、一杯だけだとかえって彼女も気を遣うだろうと思い、自分の分まで買った。 「そっち、名前なんて言うの」  ココアを口にする前に、彼女は言った。名前でないと喋りづらいようだ。 「私はエミだけど、そっちは?」 「エミ?」  ただの偶然に過ぎないのに、かつての彼女・絵美里とよく似た名前だというだけで、何か関係があるのではないかと、つい疑ってしまった。もっとも、出ていかれてからは、ずっとそうなのだが。 「エミか」 「何? エミが何かあんの」 「いやあ、バカな話だよ。昔、付き合ってた人と似た名前だったから、ちょっと驚いただけさ」 「あっそ。でもエミなんて、どこにでもある名前でしょう。ただし私の名前は、漢字だと珍しいんだよ。笑うって漢字あるじゃん。あれ一文字でエミ」 「笑うでエミか。そりゃ珍しいね」  けれども当の本人は、めったに笑わないタイプらしかった。リンクに独りで立っているのを見つけたときから、一度も笑顔らしきものを見ていない。もっとも、思春期の女の子には、よくあることだ。笑い過ぎるか、笑わなさ過ぎるか、どちらかに属したくなる年頃なのだ。 「すぐに覚えられるし、いい名前だね」 「みんなそう言うけど、私にはどうでもいいよ。それより、そっちの名前は?」 「片山輝彦」 「じゃあ片山って人、ちょっと聞きたいんだけど、どうしてさっきからずっと私の顔、ジロジロ見てたの。リンクに入ってくる前から、ずっと見てたでしょう。私みたいなタイプ好きなわけ? それとも、若い子全部が好きなの」 「まさか! 僕はすごくノーマルなんだぜ、自分で言うのも何だけど」 「ノーマルだって。おかしい」 「どうして」 「だってその辺の男、女子高生買うじゃん。こないだなんか、中学生の男子《ヽヽ》にまで悪戯《いたずら》した校長いたでしょ。じゃあ、ノーマルって何? 同じ歳の人とエッチしてたらノーマル?」 「僕は、そういう子と寝たりしない」 「へえ」 「別に、偉いと思って言ってるんじゃないよ。それも結局、趣味の問題でさ。きみが話した中学の校長と、大差ない」  僕は言った。「とにかく、さっきからきみのことを見ていたのは、それなりに理由があったんだ」 「どうしてよ」  エミはブレードを擦《こす》り合わせて、スケート靴についたシャーベット状の氷を落としていた。黒いゴムの床に、汚れた氷のくずが積み上がる。 「どうして?」 「すごく説明しづらいし、説明しても信じてもらえないかもしれないけど、僕は一度、どこかできみのことを見たことがあるような気がしたんだよ。それで、驚いていたんだ……デジャビュって言うのかな。デジャビュってわかる?」 「わかるよ、それぐらい。でも、そんなことで私に声をかけようとしたの?」 「まあ、そうだね」 「変な人」  彼女は、そこでようやくのこと、わずかに心を開いたように見えた。その証拠に、義理のような、笑顔らしい表情だけは作ってくれたのだから。そんな思春期の頑なさも、かつてどこかで見かけたような気がして、微笑ましかった。 「……じゃあ片山さんは、私を前に見た気がするんだ」 「そう、デジャビュだ。それも、すごくはっきりしたやつだった」 「映画の『マトリックス』観た? デジャビュの話あったよね」 「ああ、それなら僕も観た。キアヌ・リーブスが、アパートにいた猫を見て、デジャビュに気づくシーンだろ」 「そうそう。でさあ、デジャビュが起きるときって、もう一つの世界から、誰かがやってきたときなんだよね。その調整がいるから、ほんのちょっとだけ現実の世界が巻き戻されちゃうんでしょう。まあ、あれって現実自体がバーチャル・リアリティだったけどさ」 「そうだった」  観ていない人のために一応話しておくと、あの映画では、自分たちが現実だと思っている世界は、実はすべてコンピュータで作られたニセモノの映像ということになっている。そして本当の自分たちは、生体電池だったか、とにかくひどい世界の電池代わりに使われている部品に過ぎないのだった。そんな人類が反乱を起こさないよう、政府(ロボットたちの政府)はバーチャル・リアリティという、いい夢を提供しているのだ。 「もしかしたら、誰かがこの世界にやってきたのかもね。片山さんを殺すために。私も、このリンクも、パソコン上のデータかもしれないよ。TVゲームと同じで」 「きみがデジタルのデータだったら、驚くだろうな。コピーして、家に持って帰るよ」 「そう」  彼女はどこか、遠くを見ているようだった。夢見がちな少女なのだろうか。 「じゃあ、私もう帰るね」 「え、帰るの?」 「うん。大人と話してたって、ぜんぜん面白くないしさ」  彼女はそう言うとすっくと立ち上がって、手すりも使わずリンクに飛び降りた。 「それに、脚が疲れちゃったし。私、脚が弱いんだ」 「ちょっと待って。もう少し話しない? 僕も、行くよ」 「片山さんって、さっきリンクに入ったばっかじゃん」 「スケートはもういい。身体が冷えてきたし」 「嘘ばっか」  エミは、呆れた顔で僕を一瞥《いちべつ》し、そのままリンクをあとにした。僕は僕で、一体どうしてそこまで彼女にこだわっているのか自分でもわからないまま、急いであとを追った。受付の人は、ついさっき入ってきたばかりの僕が、もう出ていくのを見てどう思っただろうか。どう見ても、未成年の女の子に泣きついているようにしか見えなかっただろう。大人の女性と恋のできない、悲しい男に見られたか。それとも、若過ぎる父親に見られただろうか(さすがにそれはないことを望む)。  リンクを出たエミは、振り返りもせずに、ずんずんと先を歩いて行った。どこのブランドなのか、色あせたジーンズのヒップには白い数字がペイントされている。ちょうど、エビスジーンズのようなペイントだったが、彼女のものはもっと大きく、腰の左から右へと虹のような形でもって、電話番号らしい数字が続いていた。  いざ駅に着いたものの、彼女は構内には入ろうとしなかった。そのままビッグボックスわきの坂道を上がり、早稲田大学の理工学部キャンパスがあるほうへと進んでゆく。あるいはもしかすると、戸山公園の辺りにでも住んでいるのだろうかと思ったが、彼女は理工学部わきの公園に着くと、足を止めた。  さっとうしろを振り返る。 「私についてきて、スケート代無駄にしたね」 「そうだよ。だから、それを取り返しにきた」 「自分で勝手にきたくせに」 「でも、一人でスケートやってるよりましだろ」  言うと、彼女もようやく笑ってくれた。  それから僕たちは、しけっぽいベンチに座った。  ジャングルジムのそばでは、子供たちが遊んでいる。野球をしている男の子たちもいた。こんな都会なのに、彼らは一体、どこからやってくるのだろうかと不思議に思う。もしかすると彼らこそ、バーチャル・リアリティなのだろうかと疑ってしまいそうだった。初夏の昼下がりを演出するためだけに作られた、子供#1〜#15というデジタル・データなのではないだろうかと。 「片山さん。おたく本気で私のこと覚えてるの? それとも、ナンパしようとしてんの」 「本当に、きみを見たような気がするんだよ。信じないかもしれないけどね、実を言うと僕は先々週、あのリンクでひどく転んだんだ。それで、転ぶ前の数時間の記憶だけが抜けちゃってさ。多分そのせいだと思うんだけど、デジャビュみたいなものが、やけに気になって」 「なるほど、病気なのか」 「病気というか、怪我だよな」 「どんな感じがするの? 記憶がなくなるのって」 「ほんの数時間だから、大したことはないよ。酔っ払ったときと似てる。ただ……」  僕は、こんな若い女の子に、プロポーズのことを教えていいのかどうか迷った。三人相手に悩んでいたなどと言ったら、失望するだろうし、軽蔑されるかもしれない。だから、悪い部分だけ省いて話すことにした。 「ただ、そのときに何か、すごく大事なことを考えていたような気がするんだよ。大事なことを決めたっていう記憶だけ残ってるんだ」 「そんなこと、あるんだ」 「ああ」と、僕。「それでさ、ちょっと教えてくれないかな。先々週の土曜日、きみはあそこにいた?」 「いちいち覚えてないよ。曜日なんて気にしてないもん、私」 「土曜で、学校休みだったのに?」 「学校行ってないから、関係ナッシング。TVも見ないし、新聞も読まない。曜日なんて、わかんない」 「そうかあ」  僕は言った。おかしなものだが、その声には、ひどく残念そうな響きが伴なっていたようだ。意識したわけではなく、本当にたまたまそうなったのだけれど、エミは敏感に感じ取ったようだった。土曜日の午後に、年の離れた女の子を追いまわしている僕のことを、いくらか不憫《ふびん》に思ったのかもしれない。彼女は、何かを言おうと努力し始めた。しかし適切な言葉が見出せなかったらしく、ベンチの上で自分の脚を抱え込んだ。  ちょうど、僕の手の隣に彼女の足が置かれた。サンダルをはいていたせいで、その足の小指辺りに、とても変わった形の縫い目が見えた。どうやら、かなりの大手術だったようだ。縫い跡が、足の小指と薬指の間をジグザグに貫いている。 「これ、すごいでしょう」  彼女は僕の興味を引こうとしてか、自分のギザギザした傷跡に沿って、指を這《は》わせた。 「私ね、生まれたとき、足の指が四本だったんだって。小指と薬指がくっついてたの。で、赤ちゃんのときに手術して、二つに分けたんだよ。その跡。カミナリが走ってるみたいじゃない? 小さい頃から、これが嫌いだったんだ。プールのときとか最悪。ジェイソンとか言われた。だから学校、行かなくなったしね。わざわざ、すっごい嫌な気持になるのわかってて、学校行くのバカみたいじゃん」 「うん」  僕はそう言いながら、ふと、絵美里のことを思い出していた。彼女の指は普通だったけれど、上あごの歯が一本多かった。過剰歯と言って、それほど珍しい症状ではない上に、外から見てもわからない。けれど絵美里はある日、それを抜いてしまった。これで左右対称になったよと嬉しそうな、半ば寂しそうな顔で、僕に事後報告したのだった。  今にして思うとその頃から、二人の関係は、どこかおかしくなっていったような気がする。僕たちの間から、大事な何かが抜け落ちたのだという、小さなサインだった。 「ただ、くっついていただけなのにね」  絵美里の記憶を振り払うように、僕は言った。 「そうだよ。そんなに珍しいことじゃないのにさ。とにかくそれ以来、集団は苦手。みんなと一緒に動くのは嫌。独りだから一日、時間が余ってんの。どの日に何してたかなんて覚えてられないわけ」 「仕方ないね。諦めるよ」 「ねえ。もしよかったら、もう少し私に話してみたら?」  彼女は、指の手術跡をジグザグになぞりながら言う。「先々週に考えていたことって、そんなに大事なこと?」  僕は自分らしくもなく、ほろりとしていた。軽い同情と興味でしかなかったとしても、今の僕には嬉しかった。  そこでついにリュックの中から、例の指輪を取り出したのだった。  僕は指輪をエミに触らせながら、自分が誰かにプロポーズをしようとしていたことや、数人と同時進行で付き合っていた話までした。彼女はほとんど聞き返すこともなく、僕の話を一度で理解してしまったようだ。智恵、めぐみ、和歌子──三人の女性たちの名前も、すぐに覚えてしまった。  僕でさえ、ときどき間違えそうになるのに。 「プロポーズの相手が誰だったか、思い出そうとしてたんだよ。でも、こんなの他人に聞いてわかるもんでもないしさ」 「そりゃそうだよ。大体、三人も一緒に付き合うからそんなことになるんじゃん」 「それは、反省してる」 「本当に誰だったか思い出せないの? 結婚しようかなって思ってる人なのに?」 「ああ」 「それじゃあさ、もしかして片山さん、三人とも、あんまり好きじゃなかったってことはないの」 「ええ?」 「大事な人だったら、頭打ったって、きっと忘れないはずじゃん。でも、忘れたってことは、あまり大事な人じゃなかったんじゃない?」 「でも、それだったら僕は、どうして指輪なんて買ってたんだろう」 「じゃあ、四番目の彼女ができていたとかさ。だって、私にもこの指輪、ぴったりだよ。私にプロポーズしようとしてたのかもしれないよ。あはは」  エミは左手の指に、指輪をはめた。0・3カラットのダイヤの指輪。ここ最近は、爪のないクローズド・セッティングが人気ですよなどと、女性店員に薦められるままに買ったものだ。男にとっては爪があるもないも、0・3カラットも10カラットも、どれでも同じなのだが(問題は、いくらするかということだけだ)。  まだ一度もはめられていないせいか、プラチナはソリッドな輝きを放っている。それでも彼女の指に温められると、いくらか柔らかい光に変化した。 「ごめん、傷ついた?」 「気にすることないって」  僕は言った。「それに、あながちまずい推理じゃないし」 「でも本当、どうして私にデジャビュなんて感じたんだろ? 何があったんだろうね。片山さん、『ラン・ローラ・ラン』は観た? ドイツの映画」 「何だか趣味が合うな。僕もそれ、観たよ」 「あれって、変わった映画だったよね。恋人が銀行強盗で、いきなり死ぬんだよね」 「でも恋人が死んだあと、ローラが叫ぶんだ」 「そう。そんで過去に戻るの。いろんな選択肢を選び直すんだよね、ゲームみたいに。何回やってもバッドエンディングになるんだけど、そのたび過去に戻るんだ」 「そう」 「片山さんも、もしかして、それかもよ?」 「えっ、何が?」  突然言われたので、少し戸惑う。「誰が?」 「だから、デジャビュ。その前の記憶は飛んじゃったんでしょ? それって何だか、ローラみたいじゃない。選択肢を間違えて、過去に戻されるローラみたい」  だったらどれほどよかっただろうかと、僕は思った。確かに現実にも、色々な場面でいくつもの選択肢があるが、大抵の場合は選んだことさえ気づかない。気づくのは、ことがすべて終わってからだ。あと戻りできなくなって初めて、自分の選んだ選択肢も見えてくる。  それでも僕は、エミにつられて、考えてしまった──先々週に僕は、誰かを選んだのだけれど、それはバッドエンディングだったので、選択し直しになったのだとすれば?  ため息が出た。もっと真面目なことに頭を使うべきだ。 「そんなSFみたいなこと、あったらいいね」 「ジンセイなんて、そんなもんだよ。SFみたい」 「ジンセイ、なんて難しいこと言うんだな」 「バカにしないで聞いてくれる? 例えば私が生まれつき、指がくっついていたのなんて、きっとほんの偶然でしょう。遺伝子レベルの話なんだもん。で、もし私がこの時代に生まれていなかったら? この国に生まれていなかったら?」 「きみの人生も、変わってたか」 「そう。たかが足の指ぐらいで、人生なんて変わるんだよ。そんなにもろいもん、夢と大差ないじゃん。SFだよ。全体がフィクション」 「うん、まあ、そうだな」 「だからもしローラみたいにやり直せるんだったら、そうじゃない選択肢も見てみたいな。指をそのままにしていた選択肢とかさ。そりゃ、そのときの私は赤ちゃんだったから、自分では決められないだろうけど、もしできるならね」 「そうしたら、自分が今よりよくなっていたって思うの?」 「わかんない。でも、今とは少しだけ違ってたはずだよ。もしかしたら学校に行ってたかもしんないし、スケートなんて滑ってなかったかもね。で、もしそうだったら、片山さんとこんな場所で会ってなかっただろうし」  そしてエミはいきなり立ち上がり、僕の額に指を当てた。その行為について、どんな意味があるのかわからなかった。巷《ちまた》で流行っているポーズなのか、彼女だけのものなのか、あるいは単なる気まぐれかはわからないのだけれど、とにかくエミは僕の額に指を当てたのだ。ちょうど、ピストルを撃つ真似でもするように。  僕は、そのせいで動けなくなってしまった。 「まあ、そんなことどうでもいいんだ。私、今の自分にそこそこ満足してるよ」 「ああ」 「でも、やり直せないとしたら、バッドエンディングになるのはやだな」 「な……」 「バイバイ。またどっかで会おうね」  そう言うと、彼女は僕をベンチに置き去りにした。うしろ姿は、決して人を寄せ付けない類のものだった。冷たい背中を見せたまま、彼女は戸山公園のほうへと小走りにかけていったのだった。  ジーンズのヒップにある、白いペイントが揺れていた。それさえ、デジャビュだった。  もう少し、話がしたい。もう少し、ここにいて欲しい。  僕はかつて、彼女をそんな気持で見送った気がしていた。      *  直送メールの音がした。相手が誰かは予測がつく。通常のメールではなく、値段の安い直送で送ってくるのは、例の三人しかいないのだから。  しかもそのとき僕は、三人のうちの一人と、一緒にいた。少し様子がおかしいという、鈴木和歌子と。 「携帯の音がした」  久我山のマンションの十二階で、和歌子はそう言った。昼に平塚さんから事情を聞いたばかりだったので、何となく気になって顔を見にきたのだ。エミの言うことじゃないけれど、バッドエンディングになってからでは遅いと思って。  そんな状況なので、このメールは、和歌子以外の子だ。多分、ゲームマニアの智恵だと思う。今夜、家に行く約束をしていたから、いつ頃着くかと、確認のメールだったのだろう。 「メールじゃない?」 「うん。でも、あとで見るからいいよ」 「あとで? 私には見せられない?」  彼女は、引きつった顔でそう言った。リビングに面した台所からは、何かを炒める音がしており、BGMとしては不釣合いだった。ここへきて初めてわかったのだが、いつのまにか長野から、彼女の母親が上京していたのだ。彼女が呼び寄せたのだろう。身体の(と言うか精神の)調子が悪くなると、彼女はすぐに母親を呼び寄せる。 「メールなんて、どうでもいいよ。それよりお母さんに言ってくれないかな。僕は今日、遅くまでいられないからってさ。もう少ししたら帰るんだよ? 夕飯作ってくれてるみたいだから、先に言っといてくれよ」 「夕飯はいいけど、メールきてるんでしょ。見たら?」  こういうときの和歌子には、理性的に話をしても通じない。酔っ払いの女と話をしているようなものだ。酔っ払いの男なら殴ればそれで済むけれど、女の場合はそういう訳にもいかない。つい、放ったらかしにして一人で帰ってしまいたくなる。もっとも、母親がきているときに邪険にもできないので、仕方なく携帯のメールを見た。  それは、やはり智恵からだった。さりげなく受信ボックスを空っぽにする。念のために送信ボックスも。 「見たよ。大したことじゃなかった」  ふーんと和歌子は言う。すさまじい疑いの眼をして。 「それより和歌子、どうしたんだよ。調子悪いって」 「あのね」  彼女はそれから、昔のトレンディードラマ調に言葉を続けた。自分のことを、第三者のような過去形で語り始める。病気の時に出る癖なのだけれど、それも僕をいらだたせた。けれど和歌子はおかまいなしに、延々と自分を語る。よくまあ、そんなに語ることがあるなと思った。 「そのとき、私、思った。これじゃいけないって思った。でも、どうにも、ならなかった。自分じゃどうしようもなくて、それで、悩んだ。私はあなたに、引け目を感じてた。それで……」  何が言いたいのかちっともわからない。この世界が本当にバーチャル・リアリティなのだったら、僕の耳の穴が、今すぐふさがってしまえばいいのに。そして、静かに美味い酒でも飲めれば言うことはない。  そのときふと、眼の前のテーブルに、ジャック・ダニエルの瓶が置いてあることに気がついた。ビール党ながらも、ジャック・ダニエルには、さすがによだれが出る。芳香なモルトが、今にも漂ってきそうだった。 「ジャック・ダニエルだね」  そのとき僕は、和歌子の言葉をさえぎるつもりはなく、ただ自分が思うままを口にしていた。 「真面目に話をする気がないの?」 「いや、そういうわけじゃないよ。ただここにジャック・ダニエルがあったんで、驚いた」 「片山くんが飲んでたやつじゃない。自分で買って、自分で飲んで、自分で置いていったんでしょう?」  和歌子は少し声を荒らげた。しかし、台所で水気の多そうな具を炒め始めた母親は、気づかなかったようだ。油に弾ける賑やかな音。イカの匂いがしてくる。きっと、献立は八宝菜だろうなと思った。 「片山くんはいっつもそうだね。本当に本当に、いっつもそう。自分のことばっかり考えていて、人のことすぐ忘れる。マイペース過ぎる!」 「ど、どうしたの」 「ウイスキーのことなんて、どうでもいいでしょう? 私、いろいろ困ってるのに」 「だから聞いてるよ」 「聞いてるだけ。聞いてるけど、どっかで、どうでもいいやって思ってる」 「無茶言うなよ。だったら、どうすればいいのさ」 「その言いかたが、マイペースなの。片山くんは、相手が私じゃなくたっていいのよね。他にいい子、いくらでもいるんでしょう? だったら、それでいいじゃない!」  和歌子が怒鳴ったせいで、僕の頭は完全に別の場所に行っていた。無論、こっちにも反論はある。彼女が言うマイペースとやらなんて、自分にかまってくれない人、というぐらいの意味でしかないくせに。そんなの、どっちがマイペースだ。  けれども、言い返さなかった。だんだん、本当にどうでもよくなってきたのだ。いっそのこと僕のマイペースが原因で別れるということになっても、いいような気がしていた。 「落ちついて」  とりあえず僕は言った。手には、テーブルの上にあったジャック・ダニエルの瓶が握られている。ガラスや、その上に貼られたラベル、こうしたものの手触りを感じることで、このひどい状況が夢ではないのだと、自分に言い聞かせていた。 「僕に何か不満があるなら、具体的に言ってくれないかな。もちろん、直せることと直せないことがあるけど、言ってくれ」 「そんなこと、言えって言われてすぐに思いつくもんじゃない。誰だってそうでしょう?」  そう言うと彼女は台所に行って、水割りの用意をしてきた。ウイスキーはもちろん、僕の手から取り返したジャック・ダニエルだった。今となっては、彼女のほうが必要としているようだ。  いつしか、母親の作る料理の音もやんでいる。すでにできあがって、僕たちが現れるのを待っているのかもしれない。それとも水割りの用意をしに行ったとき、和歌子が母親に、音がうるさいとでも言ったのだろうか。  和歌子は、何も喋らず、黙々と水割りを飲んでいた。  そして僕は、帰るタイミングを見計らっていた。もはや、関係を修復したいだとか、意見を汲み取りたいだとか、そんなことは思っていなかった。ただ、ここから脱出さえできればそれでいい。こんな女は、もううんざりだ。 「もう九時半か。結構、長居しちゃったかな」 「うん」 「そうだよな。じゃあ、そろそろ帰るよ」 「うん」  彼女は言う。まだ、何か言い足りなさそうだったが、できれば聞かずに外に出てしまいたかった。しかし彼女は、先に話を始めてしまう。 「片山くん。私、しばらく長野に帰るかもしれない」 「長野に? どうして」 「いろいろしんどいから」 「いろいろって、何さ」 「どうせ、聞きたくないでしょう」  彼女はそう言った。  過去のよく似た言い争いが思い出されてくる。二人がもっと仲のよかったとき、僕は一度、仕事のことで彼女に相談をしようとしたことがある。かなり、困っていたときのことだ。けれど彼女は、「まあいろいろあるけど、結局それって、本人じゃないとわかんないよね」と言い放っただけだった。  そして今の僕も、結局それって本人じゃないとわからないよねと、言ってやりたい衝動に駆られていた。 「言いたくないんだったら、無理に聞こうとは思わないよ。もう、帰るから」 「わかった。バイバイ」 「バイ」  彼女の母親に挨拶もせず、部屋を出た。  せいせいしていた。少なくとも、僕は彼女にプロポーズをしたかったわけじゃないことだけは、今夜、わかったような気がしたからだ。  ためらうことなく、携帯のメモリーから彼女のデータを消した。運命の赤い糸だとかロマンチストは言うけれど、そんな糸などこのご時世、3アクションで切れる。  (1)携帯のアドレスボタンを押す。  (2)消去を選んで、  (3)YESを選択。  それで終わりだった。ぷつん。  和歌子の部屋を出てからすぐ、僕はゲームマニアの智恵に電話を入れた。家のすぐそばに行ってからかけてもよかったのだけれど、早く彼女の声が聞きたかったからだ。いまさっき別れてきた和歌子のことが、頭の片隅にまだ残っていたせいだと思う。結婚相手を探しているのだから、三人のうち二人と別れなければならないのはわかっていたはずなのに、やはりあと味が悪い。それを洗い流したくて、悲しいかな智恵に頼ったわけだ。 「買い物あったら、言ってよ。コンビニに寄っていくから」  僕は聞いた。智恵とは、飯田橋の飲み屋で小さな口論をしたあとだったから、むこうでも気遣ってくれているのがわかった。それで、『だったら、これから私も行くよ』などと言ったのだろう。 「わざわざそんなことしなくていいから、待ってて。欲しいものだけ、言ってよ。すぐだから」 『じゃあね……』  彼女が言ったものは、当座の食料ばかりだった。スナック菓子やインスタント食品ばかり。それと、好物の苦いチョコレートも。まるでこれから数週間、二人きりで部屋にこもる用意を整えてでもいるようだった。  両腕にいっぱいの荷物を持って、彼女の部屋のチャイムを押す。彼女は、見かけだけ立派なアパートのドアを開けると、照れ臭そうに自分の髪の毛を触った。珍しく、「いらっしゃい」なんて、よそよそしい言葉を使う。だが厭味ではなくて、ケンカのあとの距離感を計りかねているだけらしかった。そんな彼女がかわいらしく思えて、この間のことを僕から謝った。それから、今日くるのが少し遅くなってしまったことも。それですぐ仲直りできた。  智恵は、ソファに僕を座らせると、ビールを渡した。僕が買ってきた食料品は、そのままソファの横に置かれた。彼女はそういうことを気にするタイプではないし、ナマ物は買っていないので、食べたいときに食べたいものを手にすればいいと思ったのだろう。 「ねえテル。私、今週から節約してんだよ。だから、ちょっと部屋が暗いでしょう」  僕の隣に座った彼女は、自分の部屋を見まわしてそう言った。確かに、いつもより薄暗い。 「ほらこの間、いろいろ話したでしょ。そんで私なりに考えてね、節約主婦の練習、始めたんだ」 「節約|主婦《ヽヽ》?」  僕は、�主婦�という言葉にアクセントをつけて聞いた。けれど彼女のほうは、むしろ�節約�のほうを強調して答えていた。 「そう、節約《ヽヽ》主婦。待機電力がもったいないから、家電のコンセント抜いてあるし。部屋の電球も、ワット数を小さいのにした。私、どうせ夜中じゅうテレビつけっ放しだから、そういうときは電気もつけないんだ……テルに言われて、いろいろ考えたんだよ。確かにもし自分が主婦になったら、そうそう贅沢できないなーって思ってさ、贅沢しない生活に慣れることにしたの。ゲームのコレクションも、少し控え目にするよ」 「へえ、そうか」  と、僕。言い争ったにもかかわらず、彼女がまだ、僕と結婚して主婦になろうとする野望を捨てていないことに、半ば呆れ、残りの半分で尊敬もしていた。ずうずうしく、たくましい。 「でもそんなのって、智恵らしくないじゃん」 「大丈夫だよ。昔のゲームやりつくせばいいし。家にあるゲームソフトだけで、千はいくんじゃない? それを全部、制覇するだけで死ぬまでかかるよ」 「死ぬまで、か」 「そんで今日はね、LSIゲームを集めてみた。好きなのやってね」  智恵は、目の前にあるテーブルの上を示した。どうりで今夜は、変わったゲーム機がごろごろと置いてあるわけだ。自分が子供の頃に楽しんだ、古いゲームばかりだった。  僕はその中から、『平安京エイリアン』を手に取った。  子供の頃からゲームは得意だったのだけれど、唯一、苦手だったゲームだ。きっと、当時のアクションゲームには珍しく、空白の時間があったせいだろう。迷路の中で穴を掘り、エイリアンが落ちるのをじっと待つ時間のせいだった。待つ間に、僕は(子供ながらに)恐ろしくなってしまうのだ。こんな不毛の戦いを、死ぬまで続けてどうなるんだ? この面をクリアしたとしても、次はもっと厳しい面になる。その次はもっと……。死ぬ以外にゴールのない戦いは、どことなく人生そのものに似ていた。  ところが、二十年ぶりぐらいにプレイしてみて、いくらか変わっていることに気がついた。もちろんこのゲームは二十年前とまったく変わっていないのだから、僕のほうが変わったのだ。プレイ中、何も感じなくなっている。無意味に穴を掘りまくり、理由もなくエイリアンを埋め、面をクリアしていくことができた。  死ぬ以外にゴールのない人生に、すっかり慣れてしまったのかもしれない。 「すげー上手いね〜。ぜんぜん死なないんだ」  薄暗くした部屋の中で、智恵は言った。彼女にしては珍しく、香水の匂いがする。 「ずいぶん、やり込んでたんじゃないの」 「昔は下手だったのにな。何だか、コツをつかんだみたいだ」 「どんな」 「未来と過去を切り捨てるといいみたいだよ。前の面は楽だったなって考えない。で、次の面はもっと厳しくなるとも考えない。今の面のことだけ考えればよかったんだ」 「えー、何それ。攻略になってないよ。哲学の話みたいじゃん」 「でも、事実だ」  そして僕は、永久にゲームが終わらないのではないかと思うぐらいの確実さで、延々とエイリアンを埋め続けた。エイリアン一匹は、まるで僕の一日のようだった。さっき死んだのも、今死んだのも、それから次に死ぬ奴も、みな同じ顔をしている。だからただ、何も考えずに埋め続けてゆくだけだった。  もっとも、こういうゲームのピンチは、ほんの些細なところからやってくる。ちょっとおかしな動きをしたせいで、連鎖的にピンチとなり、積み重なって死ぬ。その日、完璧だった僕がゲームオーバーになったのだって、ほんの少し右に動き過ぎたせいで、新しい穴を掘るタイミングを失ってしまったからだ。  同じようなことは、現実の世界でも起こり得るのだった。  それは、またしても結婚の話をしているときだった。あまりに智恵が急いでいるように思えたので、少し頭を冷やしてもらおうと考えた僕は、「前にも言った通り、とてもじゃないけれど、まだ、女の子を一人養うなんて無理だ、働いてもらわないとすぐに生活が破綻するよ」などと、ゆっくり説明して聞かせた。  しかし、僕はいつもより話し過ぎていたらしい。智恵はこっちの話を聞いているうちに、すっかりビールを飲み過ぎていた。  ちなみに彼女は、酒癖があまりよくない。次第に、どうでもいいようなことでからみ始め、退屈な人間になってしまうのだった。智恵と上手くやっていくコツは、沢山飲んでいるときには話しかけず、そっとしておくことだったのに。  だがもう遅い。話はもつれ、真夜中過ぎには口論に発展していた。しまいに智恵は、半分泣きそうな口調でもって、自分の言いたいことをまくしたてるようになった。  が、何を言っているのか意味がほとんど掴み取れない。 「大体、結婚論なんてどーでもいいじゃん。そんなの聞きたくないし」  智恵は興奮して、いつもの決まり文句を吐いた。むこうから振ってきた話題でさえも、いらいらしてくると、こうなってしまうのだ。  うんざりしてきた。ここからも逃げ出したくなってくる。 「そんなの考えたって意味ないし、ダサイし、それに……」 「ちょっとタイム。ビールもうないから、買ってきてもいい?」 「ええ、今から?……いいけど」  突然話の腰を折られた彼女は、ちょっと不満げだったが、承知した。  素早く部屋から出た。一時間か二時間、どこかで時間をつぶして帰れば、智恵の酔いも醒めていることだろう。三鷹の駅前に新しくできたマンガ喫茶にでも入って、ゲームでもやろうと思った。家から逃げるしかない、悲しい男のようだったが、あのまま本物のケンカになるよりはいい。酒癖の悪さはどうせ治らないし、明日になれば、覚えていないの一点張りでなかったことになってしまうだろう。ポイントは、上手くかわすに限る。僕まで怒ってしまうと本当に長引いてしまうのだ(何せこっちは、素面《しらふ》の状態で怒っているわけなのだから)。  そういうわけで、僕はぶらぶらと夜道を歩いた。けれど大またで歩いているうち、次第に智恵の部屋には帰りたくなくなってきた。これから何時間もマンガ喫茶でつぶすより、このまま家に帰ってしまったほうがいいんじゃないだろうかと思えてきた。何も、彼女の酔いが醒めるのを待ちながら、夜を過ごす必要などないのではないか、と。それに今夜は僕だって、少し飲みたいのだ。  智恵の部屋に戻るかやめるかを決めかねながら、いつしか三鷹ではなく吉祥寺のほうに向かって歩いていた。自分の家に向かいつつも、すぐにはタクシーに乗らず、ゆっくりと考えようと思って。歩くだけでは物足りなかったので、途中のコンビニに入り、ワンカップの日本酒まで買った。気持が昂揚してきて、酒を飲みたくなったのだ。ビールのほうがよかったのだけれど、外では寒過ぎる。  僕はワンカップを飲みつつ、結局、吉祥寺駅前のロータリーまで歩いてしまった。和歌子の散歩癖が移ってしまったみたいでおかしかった。  まだ酒が残っていたから、ロータリーに面したバス停のベンチに座る。ホームレスらしい男に何度かにらまれたのは、もしかすると彼の指定席だったのかもしれないが、構いはしなかった。  携帯が鳴る。智恵からだったが、出て彼女と喋るのが面倒になっていた。だから、「やっぱり今夜は帰るよ」とだけメールを送り、そのまま電源を切ってしまった。  ベンチの背に首をやり、空を見上げた。  バス停の屋根のせいで星が見えなかったが、首のうしろが気持よかった。頭を動かしたせいで、いい具合にアルコールが回った。プロポーズのことも忘れて、別れた絵美里のことばかりを思い出していた。よく一緒に酒を飲み、酔いを醒ますのにこうして、冷たいベンチに座ったな、と。  男は、昔の女のことをなかなか忘れられないという。女からしたり顔で言われたくはないものだけれど、正直、当たっているのかもしれない。ノスタルジイは甘いのだ。失ったものこそ、本当に甘い。絵美里のことだけでなく、あの日のスケートリンクの記憶さえも、失った今となっては甘い。  いきなり顔を覗きこまれたのは、そんなことを考えていたときだった。 「わっ!」  一瞬、襲われるのかと思った。僕は東京にきて十年近くのうちに何度か、人が襲われているところを見たことがある。それで当然、身体も早く反応するのだ。もっとも、素早く足払いだとかジャブが出るというのではなく、誰よりも早く驚くことができるという意味だが。 「ななな!」 「やっぱりそうだー! オドロキ」 「なんだ、まさか?」 「そのまさかのエミ。すごいね! 今日、二回も会っちゃった」  僕はがばりと起き上がった。確かにそれは、馬場のリンクで会ったばかりのエミだった。 「どうしてこんな場所にいるんだよ。高田馬場だろ、いたの」 「だって馬場の辺り、怖いんだもん。酔っ払い結構多くてさあ。私、新宿もあんま好きじゃないし。だから、こっちにきたの」 「何時だと思ってんだ」  僕は、腕時計の時刻を見た。もう夜中の二時過ぎだった。これが朝の五時だったりすれば、始発のことを考え、もう少しましな話もできただろう。大人として言うこともある。だが、夜の二時という中途半端な時刻のせいで、そうした気力もなかった。 「親、よく叱らないなあ。家、どこだよ。戸山公園のそばだったんじゃないの」 「あー、あそこ? あそこは先輩の家があったんだ。でも、カレシがきたから追い出されちゃった」 「うん?」 「私、学校行ってないでしょう。んで、家にもときどきしか帰ってないの。一月に、三回ぐらいしか帰らない。服とか取りに行くだけね。家は千葉なんだ」 「千葉か」 「そんでこっちにいる間は、知り合いの家に泊めてもらうか、マンガ喫茶とかに朝までいるの。外に遅くまでいると、ときどきやばいから」 「きみ、歳はいくつだっけ」 「十五」 「十五って、高校生だったかな」 「中三。私、四月生まれで誕生日早い」 「中三のくせに、まったく仕方ないなあ」  エミをからかってやろうと思って、わざと、必要以上に呆れてみせた。 「あんたに言われたくないよ。夜中にワンカップ一人で飲んでるくせに。虚《むな》しくないの?」 「確かに虚しいねえ。きみが僕の恋人になってくれたら、こんな気持、一発で吹っ飛ぶのにな」  意外にも、スケベオヤジのようなセリフが、口をついて出た。思ったより、酔っているらしい。  しかし、返ってきた彼女の言葉は、もっと意外だった。 「いいよ、じゃあ恋人になった」  すでに過去形だった。契約が成立したような言いかただ。 「で、これからどうする? あんたのカノジョは、退屈してんだけど」 「カノジョ?」 「だってそっちが言い出したんじゃん。カノジョなんだから、ちゃんと大事にしろよ。寒いよ。腹減ったよ。暇だよ」 「うるさいカノジョだな……よし、じゃあ何か食べに行くか?」 「それより私、疲れちゃった。シャワーとかも浴びたい」 「だったら、サウナでも行く? って言ったって、サウナなんてどこにあるのか知らないんだけどね」 「片山さん、こんなとこで酔っ払ってたんだから、家、近くにあるんじゃないの」 「二駅むこう。荻窪だよ」 「じゃあ、そこ行こう」 「無茶言うな。未成年を泊めたりしたら、会社、クビになる」 「そんなの大丈夫だって。朝までだからいいじゃん。大体ねえ、こんな時間に、こんなとこで酔っ払ってるってことは、真面目な会社の人じゃないでしょ? 見てたらわかるよ。援助交際しようとか言うんじゃないんだしさ。カノジョを守っただけじゃん、泊めてよ」  真面目な会社だと言ってやろうと思ったが、やめた。ふと、自分も経験した時代のことが脳裏をよぎったのだ。僕も十数年ほど前は、このエミみたいに、街をさまよっていた。どこにも居場所がなく、それでいて金がまるでなかった僕は、行く当てもなく朝まで街にいたものだった。誰かに泊めてもらえないかなと、悲しい確率に賭け、いつまでも街にいた。 「二駅ぶん、歩けるならおいで」 「なんだ、タクシー使わないのか」 「酔ってるから、歩いて醒ましたいんだ」 「荻窪で、泊めてくれるの」 「一晩だけだよ」  僕はついに、そう言ってしまった。  二駅分歩いて帰るには一時間ほどかかるのだけれど、エミは結局、荻窪にある僕のマンションまでついてきた。最初のうちは遠い、しんどいと文句を言っていたくせに、特に疲れた様子でもなかった。あらゆることに文句を垂れることと、身体が丈夫過ぎることは、十代の特権なのだろう。  部屋に入ったエミは、真っ直ぐ、一点豪華主義のソファに飛び込む。  彼女が長い手脚を伸ばすと、正当な持ち主である僕よりも、似合って見えた。正しいものが、正しい場所に収まっているようなのだ。ショートケーキの上のイチゴ、カレーライスのわきにあるラッキョウのように。  彼女のヒップの上にある、数字のペイントも、同じように正しかった。 「言っておくけど、家に泊まるつもりだったら、先にシャワーを浴びてくれよ」  あふーと、変な声を出した彼女に、僕は言った。 「なんで? ソファが汚れるから?」 「理由なんてないよ。それが家の決まりなんだ」 「わかりやした。じゃあ、眠いけど、身体を洗おうかね」  エミはふざけた口調でそう言うと立ち上がった。そのままシャワーに行こうとする彼女の背中に声をかけた。 「ねえ。そのジーンズだけど」 「なあに」 「変わってるね。ヒップのところに、数字が書いてある」 「お尻、見てたの?」彼女が笑う。「でも、かっこいいでしょう。それで買ったんだ。ちょっと高いんだよ、このブランド」 「電話番号みたいだな」 「その店の番号かも」 「まさか。そんなの、悪戯電話かけられて大変だろ」 「いい宣伝になるよ、かえって」  エミは、わざと腰を大きく振りながら、浴室へ行った。  彼女がシャワーを浴びている間、僕はTVを見ながらビールを飲んだ。気持がよかった。やはり、ベンチに腰掛けて飲むよりはいいものだ。ついつい、やり過ぎてしまう予感があった。この世の中、やり過ぎぐらい気持のいいものはない。  エミは、シャワーを浴びるとすぐ、部屋に一つしかないベッドで眠ってしまった。  僕は明け方まで一人で飲んだあと、隣の部屋で眠ることにした。布団を敷くのも面倒なので、うたた寝用のブランケットをかける。そのまま目を閉じると、壁越しにエミの気配を感じた。何の音もしないのだけれど、寝息をたてたり寝返りをしているのが、なぜだかわかる。  そう言えば絵美里と暮らしていた頃も、ケンカをすると、こうやって別々の部屋で眠ったものだ。朝まで、相手の部屋の音が気になり、眠りが浅くなったこともしばしばだった。  おかげで今夜は、甘い夢を見てしまうかもしれない。  そんな予感を抱きながら、僕も眠りに落ちていった。  翌日、僕はエミに叩き起こされた。部屋で電話がしつこく鳴っていたらしく、半ば怒ったような表情で、受話器を渡されたのだ。  電話の相手は、めぐみだった。今日、少し遊びたいと言う。僕は明け方に眠ったばかりだったから、夕方頃なら大丈夫だけれどと告げると、めぐみは不満そうながらも、じゃあ五時にでも待ち合わせようと答えた。機嫌が悪くなったわけではなかったので、ほっとする。昨日だけでも和歌子と智恵、二人と言い争いをしたので、これ以上はごめんだった。もっとも彼女たちは、口論さえコミュニケーションのひとつだと思っているかもしれない。ケンカになったとしても、とにかくいろんなことを喋り合うことが大切なのだと。が、僕は(あるいは男は)逆だ。ケンカをすればするほど、心の中のどこかが、ゆっくりゆっくりと壊れていく。ゆっくり壊れるから、疲労もたまる。男同士の、殴り合いのケンカみたいにはいかない。  疲れ果てていた僕は、受話器を置いたあとで、もうひと眠りしようと部屋に戻りかけた。だが、すかさずエミに引きとめられる。 「腹ペコだよ」  彼女は言った。それは本当に、腹の減った顔だった。  僕は台所中の食料を探してみたのだけれど、ろくなものがなかった。戸棚を開けたところで、小麦粉しかない。そこで二人して、近くのコンビニに出かけた。エミは、コンビニ弁当と一緒にカップのみそ汁を買う。僕は惣菜パンとコーヒーだ。  部屋に戻ってさっそく腹に収める。エミは弁当のあと、すぐにスナック菓子を食べ始めた。デザート代わりに、ポテトチップスを食べるらしい。 「なんだ。じゃあ、夕方からいないのか」  エミはスナックを頬張って言った。日曜午後のTVは退屈らしく、油のついていないほうの手で、ぽちぽちとチャンネルを変えている。僕としては『噂の!東京マガジン』を見たかったのだが、彼女が嫌がりそうな気がしたので黙っていた。 「まだ少し時間あるけど、きみはこれからどうする?」 「きみって呼ぶの変だよ。教科書に載ってる小説みたい」 「じゃあ何て呼ぶのさ」 「エミエミでもいいし、エミたんでもいいし。エミリーナでもいいよ」  どれも呼べそうなものではなかった。 「とにかく、僕と一緒に、夕方頃出る? もし、もう少し部屋にいるつもりだったら、それでもいいし。カギを新聞受けの中に入れといてくれれば」 「何だか私、ジャマみたいだね〜。デートだからだ。違う? さっきの電話、デートの誘いだったんでしょ」 「デートの約束だったのは、まあ、そうだけど。でも、それとこれとは別の話だよ。きみが未成年だから言ってるんだ。そもそも最初から、ひと晩だけの約束だったろ」 「彼女に見つかるのが怖いんじゃないの?」 「ほっとけ」 「ねえねえ、その人ってさ、少しふっくらした人?」 「どうしてそんなこと聞きたいんだよ」 「夢で見たから」  彼女は、油のついた指をティッシュで拭った。ソファで拭くなよと、強く念じていた効果があったらしい。 「片山さんのベッドで寝たからかな? 片山さんの彼女が浮気してる夢だった。ふっくらした人だったけど、気のせいかなあ」 「なるほど、夢ね。予知夢ってやつだね」  僕はそう言って、缶入りのコーヒーを飲み干した。確かにめぐみはふっくらとしているが、エミの適当な夢の話など、信用するはずがない。 「で、どうする? 一緒に出るか、あとで出るか」 「どっちもしないよ。私、もう少しこの部屋に泊まってくから」  そこで初めて彼女は、僕のことをすっと見据えた。痛みを覚えるほどに、真っ直ぐな視線だった。 「今夜は片山さん、落ち込んで部屋に帰ってくるはずだし。だから私がいたほうがいいでしょう。少しぐらいは慰めてあげられるかも」 「あのさ。泊まる場所がないんだったら……」 「そんな話じゃないって。本当に夢で見たんだよ。そんで私の夢って、けっこう当たるんだよ」 「へえ、そうか」  僕は、家出資金の足しにでもなればと、出しかけていた一万円札をサイフに戻してしまった。こんな相手には、下手に優しい顔は見せないほうがいい。約束の時間まで、まだ余裕がある。その間に説得すればいいのだ。  ところがだ。ところがエミは、そう簡単に引き下がる女の子ではなかった。説得するどころか、彼女の夢がどれほど当たるかということを、散々聞かされる羽目になった。気がつけば、別の方法でも試してみようよ、と相手のペースに乗せられている。どうせトランプ占いの類だろうと思っていたら、�夕占《ゆうけ》�をやろうと言い出したのだった。  そんな占いは聞いたことがないと、僕は言った。すると彼女は調子づいて、説明を始めた。昔の日本人は何か迷いごとがあると、夕暮れが迫る時刻に四ツ辻に行き、占いをしたらしい。それが、街角で見る占い師の起源にもなったそうだ。  彼女の話が本当かどうかはともかく、占う方法がまた変わっていた。夕方に四ツ辻──つまり交差点の角に立って、道行く人の言葉を盗み聞くのだ。なんでも交差点は、こちら側の世界とあちら側の世界をつないでいる境界線らしくて、そこで聞く言葉にも、特別な意味があるという。  まあ、ずいぶん行き当たりばったりな占いだと言えなくもないが、僕には、都合のいい占いだ。エミを家から連れ出す、格好の口実になる。  そこでエミの話を信じたふりをして、夕方になると一緒に出た。もともと彼女の持ち物はカバン一つだったので、なおさら好都合だった。  僕たちは夕方の四ツ辻に着いた。交差点の角にあった、座り心地のよさそうなガードレールに腰を下ろし、通り過ぎてゆく人の言葉に耳を傾けることにした。その角は交通事故が多いらしく、牛乳瓶にいけられた花が、初夏の日差しにぐったりとなっていた。  そんな花を見てエミは、「ほらね」などと言う。 「四ツ辻ってやっぱり、この世とあの世の境界線なんだよ。だから人がよく死んじゃう」  この世に自動車が発明されていなかったら、その説も信じるよと僕が言いかけたとき、学生風の男が一人、近くにやってきた。馬鹿馬鹿しいとはわかっていても、つい口をつぐみ、耳をそばだててしまう。だが、彼が一人だったせいなのか、僕たちが何か物欲しげな顔をしていたせいなのか、何一つ喋ることなく通り過ぎていった。彼だけではなく、そのあとも何人かが、無言のままで通り過ぎていった。  やがて、かなり期待できそうな男が近づいてくる。何せ彼は、携帯電話で誰かと話している最中だったのだ。おかしなもので、僕はいつしかこの下らないゲームに、夢中になっていた。エミもまた、気持をぴりりとさせているのがわかる。  角を通り過ぎていく途中、こんな言葉が聞えた。 「……だーかーらー。あいつが携帯の受信フォルダ、全部見ちゃったの。わかる? オレだって……」  彼は横断歩道を渡っていった。エミは、勝ち誇ったような顔をして、「やっぱりな」と言った。 「やっぱり、何か変だと思ったら、そうだよ」 「いまの何が変だ?」 「だから占いの結果。彼女の携帯をチェックしろってことじゃん。受信フォルダにあるメール、盗み見したらいいんだよ」 「強引な占いだなあ」 「何言ってんの。夕占ってのは、そういうもんだよ。自分で読み解かないといけないんだってば」 「読み解くって、そのままじゃないか」 「そのままでもなんでも、言われた通りにやれば、本当だってわかる」  エミがあまりに疑いを持っていないので、こちらもいくらか本気にしてしまったことは認めざるを得ない。それでも僕は、じゃあデートなので、さようならと言った。これ以上遊びに付き合うわけにもいかない。 「ちゃんと、帰れよ」 「あっ、だましたな!」 「だましたんじゃなくて、最初からそういう約束だろ。ちゃんと帰れよ」 「くっついてくぞ」 「タクシーで行くさ。じゃあね」 「待ってるよ私。片山さんがかわいそうだから」  帰るとも帰らないとも言わず、エミはそのまま、四ツ辻のガードレールに留まっていた。彼女こそかわいそうに思えたが、ちょっとでも優しいふりをすると、いつまで経っても部屋から出て行こうとしないだろう。時間があり過ぎるのだ。どんな屁理屈でも言い続けていられる余裕がある。  僕は振り返ることなく、タクシーに乗った。  いびつだった。  エミとやった�夕占�を信じていたわけではないが、今日のめぐみには、何かいつもと違うものを、会ってすぐに感じた。何せめぐみが自分から、「今日は映画じゃなく、別の場所に連れていって」と言い出したのだ。新宿の金券ショップで、いつものように、安い前売り券を買ったあとでのことだ。僕もその映画が観たくて観たくてたまらないというわけではなかったけれど、彼女が突然、予定を変更したがるようなことは初めてだったので、いくらか戸惑っていた。 「映画はまた今度観ようよ。いいでしょう? それより、別の場所に行きたい」 「いいけど、別の場所って?」  僕は、自分がいらついて見えないよう、注意しながら聞いた。「映画を観る以外のことがしたいって意味? どこか他に行きたい場所があるの?」 「特にないけど、映画じゃないほうがいい。そうだね、じゃあ、テルくんの行ってた大学を見たいな」 「今日、日曜日だよ。何かの試験会場にでもなってない限り、開いてないんじゃないかな」 「中は見れなくてもいいんだ。大学のそばを見て回りたい」 「大学の周りって言ったって、学生相手の店も普通、日曜日は閉まってるのに」 「見せたくないの? 自分の大学」 「いや、別に、そんなことは、ないけど」 「私ちょっと思ったんだ。テルくんってさ、あんま自分のこと話さなくない? よく喋るから話してるみたいなんだけど、あとになって考えると、何か違うの。上手く説明できないけどさ、わりと自分のこと話してないんだよ」 「そう?」 「そうだよ。好きなものとか、友達がこんなことしたとか、仕事の話だとかはするけど、いつもその中心にテルくんがいない感じがする。映画の話をしてるみたいなんだよ。誰がこうして、これがああなってとか言うけど、肝心のテルくんは何してたかわからないし……」 「急に、何だよ」 「男ってね、本当に好きな人には、自分の過去とか見せたがるらしいよ。大学だとか故郷だとかに連れて行きたがるんだって。テルくん、逆じゃない?」 「そんなの誰が言ってんだよ。大体そんなことしたって、きっとそっちは退屈だろうなって思ってさ。人のアルバムなんて、見せられたって面白くも何ともないだろ。それと一緒だよ」 「で・も・見・た・い・の。嫌なの?」  嫌なんて言ってないだろ。僕はそう言うと、映画の前売り券をサイフの中にしまい、そのまま歌舞伎町のほうへと歩いて行った。新宿から高田馬場に出るには、西武新宿線を使ったほうが早い。何より駅はすぐそばだった。  わずかな距離を歩く間に、僕はさまざまなことを推測していた。どうして今になって、めぐみは突然、こんなことを言い出したのか、彼女の心境の変化が気になったのだ。もちろん、これが今日じゃなければ、僕もこんなに敏感にはなっていないだろう。自分の通った大学ぐらい、いくらでも見せられる。あの占いが引っかかっているのだろうか。  それにめぐみの言うことは、まったく間違っているわけでもなかった。確かに僕は子供の頃から、秘密主義だと言われ続けてきた。子供の頃は弁当のおかずを見られるのがひどく嫌だったし、大人になると家のことを話すのが嫌になり、会社に入れば、大学のことを話すのが嫌になった。  そうやってどうにか、自分を保っているのかもしれない。他人というやつは、何でも詮索し過ぎるのだ。  しかし、男なら自分の過去を見せたがるという意見は、一体誰から吹き込まれたものなのだろう。深夜放送の、どうでもいいような番組かもしれないし、もしかしたら会社の同僚かもしれない──恋人未満の新しい男出現という可能性もある。結婚を考えている人がいるのだとめぐみが誘いを断っているのに、相手は「それって本当は、する気ないんじゃないの?」などと、そそのかしているのかも。  馬鹿げているけれど、やはり気になった。  不安な気持を悟られないよう、大学に向かうまで、いつもにもましてめぐみに話しかけた。とても気分がいいフリをした。ただ、脳の半分で別のことを考えているわけだから、話題はせいぜい、昨日見たTVの話程度にしかならない。しかしめぐみは、自分のことを話さないと不満を言った割にそんな話題のほうが楽しそうだった。少なくとも映画のあとで感想を話し合うときより、ずっと。  高田馬場の駅から大学に行くには、しばらく歩かないといけなかった。が、バスや電車でさっと移動しても面白くない。そこで、散歩がてら歩くことに決めた。それに在学中、大学にあまり顔を出さなかった僕のような学生にとっては、キャンパスよりも、むしろ途中にある街並みに馴染みがある。けれど、何の変哲もない学生街の風景を、赤の他人に、いかに楽しかったかと説明するのは難しい。そこを実際に何年も歩いた奴だけが楽しいのだろうから、僕は自分一人だけで景色を楽しむしかなかった。  さてどういうわけか、大学は開いていた。何かの試験会場になっていたのか、学校行事があるのかはわからないが、中に入って学校をひととおり案内することはできた。だからと言って、取りたてて見せたいものなど何もなかったが。僕の学生時代など所詮、映画とゲームと絵美里の三色だけで描かれた、薄っぺらな油絵のようだった。一方ここにあるものは、古い校舎と、新しい学生たち。初夏の抜ける空や、どこかで工事をする音。僕の学生生活を彩っていた色彩とは、無関係なものばかりだった。  それでも今日のめぐみは、僕の過去を共有したがっていた。 「テルくんも、ちょっと前までは大学生だったんだよね。Tシャツ着て、この辺りをぼやーっと歩いてたわけでしょ。そういうの、何だか信じられないね」 「本人でさえそうだよ。全部、気のせいだったみたいだな」  僕はそう言う間にも、何とか学生時代の、自分自身の話をしようと努力していた。だが同時に、これまでには感じたことがないほど、自分の過去が曖昧になっていることに気づいていた。あの日リンクで頭を打ったせいなのだろうか。なぜだか自分が、誰か別の人間になりすまして生きているような気さえする。  さらに、目の前にいるめぐみまでそうなのだ。たまたま昨日、残りの二人とケンカしたせいだとしても、今となってはめぐみと結婚するのが、一番しっくりくるはずだ。なのに、指輪を彼女にはめ、結婚して一緒に暮らしていくことを想像するとなると、いきなり現実味を失ってしまうのだった。卒業してしまった大学の、この風景に実感が持てないのと同じで、ピンとこない。何と言うのか、ほんの冗談でしかないような気がしてしまうのだ。さっきから、それを強く感じていた。  ふと思う。世界の男たちは、女に結婚しようと申し込むとき、どんな感情をもってするのだろう。情熱? 優しさ? 諦め? どんな気持になれば、簡単にそう言えるのだろうか。考えると、悲しくなってきた。子供だった頃は、結婚なんて大人になれば当然できると思っていたのに、自分がこんな大人になってしまうなんて。条件がいくら整っても、まだ決められないでいる大人に。  だがこれでは、いつまで経っても絵美里のことで、うじうじし続けるだけだ。このことから解放されるためには、復讐を成就させないとならなかった。  三十歳までには、絵美里より幸せにならないといけないのだ。 「もう、破れかぶれだ!」 「えっ? 何て言ったの?」  めぐみは慌てて僕のほうを見た。しかし、めぐみよりも驚いている僕がいた。彼女はずっと、正門前にきていたテレビカメラのほうに夢中になっていたようだ。もっとも、ここの学生だった人間にとってみれば、カメラが何台かやってくるのは珍しい光景でもない。僕が驚いたのは、カメラについてではなかった。自分の考えていたことを思わず口にしてしまったことに、びっくりしていた。寝言でもないのに。 「テルくん、今、何て言ったの」 「いや、何の取材だろうねって言ったんだよ」 「そう」  と、彼女。「芸能人くるのかな?」 「多分、違うよ。大体は、ニュース系だから。大学生にインタビューしにくるんだよ。政治のこととか、時事問題でね。バカな答えかたをしたほうが、テレビに出やすいよ」 「出たことある?」 「僕はないけど、友達がある」 「まーた友達の話だ。テルくんの話しないと」 「あのさ、めぐみ。話って言えば、ちょっと真面目な話。それこそ僕の話なんだけれど」 「何、話って」 「実は、けっ……」 「やっぱりちょいタンマ。真面目な話だったら、ちょっと用意してからにする。トイレどこ?」  めぐみはそう言うと、辺りを見まわし始めた。いささか出鼻をくじかれたが、すぐに気を取り直し、トイレの場所を教える。張っていた力が抜けたようで、僕はベンチに腰を下ろした。彼女は座らず、「少し待っててね」と言い残して、校舎に入っていった。いつものことだけれど、バッグは置いていく。ハンカチだとか化粧道具だとか要るだろうに、めぐみはトイレには持っていかないのだった。  彼女を待つ間、僕はプロポーズ用の指輪を、自分のリュックから取り出しておくことにした。もう、渡してしまおう。きっと彼女でいいのだ。世界に女性は彼女だけだと想像しよう。何も、人生最後の選択じゃあるまいし。死ぬ前に食べる料理を決めるよりは、ずっと簡単な選択のはずだろう。  そうだ。父親も母親も、プロポーズのとき「自分たちはどうかしていた」と言っていた。それは後悔しているということかと思っていたが、実は違う。何が起きているのかよくわからないまま進んでいくものだと、教えようとしていたのだ、きっと。そう思うことにしよう。  言い聞かせるようにしてリュックに手を入れたとき、めぐみのバッグの中で携帯が鳴った。僕を現実へと連れ戻すように、いつもとは違う音だった。その瞬間、先々週にひっくり返って作った頭の傷が、新鮮さを取り戻したように、またずきんと痛んだ。  音はすぐに鳴り止んだ。だが、頭の痛みだけは残っていた。いつのまにか僕は、指輪を取り出すために突っ込んだ手をリュックから出していた。そして、今度は彼女のバッグに手が伸びていた。失礼だし、卑怯だし、いけないことだと思いつつ、バッグの中の携帯に触れていた。こんなことは今まで、一度もやったことがない。なのにどうにもならず、彼女のメールを開いてしまった。あの、奇妙な占いのせいだ。占いの言葉に、自分のほうから従ってしまっている。  受信ボックスには、特別なフォルダがあった。各種メールを、目的別に振り分けるものだが、そのフォルダだけタイトルもついておらず、なぜかロックまでかかっている。  さっききたメールも、どうやらそのフォルダに入ったらしい。  ──あやしい。  そう思った次にはもう、ロックを解除していた。機械に弱いめぐみは、どうせロックNo.を登録し直していないはずだから、買ったままの状態である�1111�か�1234�でも押せばいいだろうと思いつきでボタンを押したら、的中してしまったわけだ。  何かに引き寄せられていくようで、怖い。なぜこんなに、ことがスムーズに進んでいくのか。一度、校舎のほうを窺って、彼女がまだトイレから出てこないことを確認する。化粧直しをしないぶん、普通の女の子より戻ってくるのが早いからだ。だが、まだその様子がないことを知ると、僕はついにそのフォルダ内にあるメールを読んだ。  メールはすべて、同じ相手からだった。全部で数十通あったので、最初から読むこともできず、相手がどんな人物かもわからなかった。ただ、少なくとも男であり、恐らくめぐみとは違う会社の人間らしい。  中に書いてあるのは、ほとんど僕に対する不満ばかりだった。何か不満があるたびこの相手にメールを送り、慰めてもらっていたようだ。一日に数度ぐらいのメールでしかないが、話題にされている本人にとっては、自分に対する不満を煮詰めて収めた箱のように思える。ひと塊になった不満だった。  自分勝手過ぎる。意見を変えない。忙し過ぎる。眠り過ぎる。浮気している形跡がある。ムカつく……そしてどのやりとりでも最後は、男の優しい言葉に、めぐみは助けられていた。 >サンキュー。もう少しがんばってみるよ。 >そうか。男の人って、そういうこともあるんだね。 >じゃ、今度その方法、試してみる。  だんだん、吐き気がしてきた。ひどく動悸がする。このままめぐみを置いて、どこかへ逃げ去りたいのだが、それもできない。最後のメールを読んで、完全にKOされていたのだ。 >私《ヽ》、|やっぱ××クンのとこに行こうかな《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》? |もう《ヽヽ》、|あいつ限界だし《ヽヽヽヽヽヽヽ》。  僕はそのメールを途中まで読んだあと、そろそろタイムアップだろうと思い、さりげなく携帯をバッグの中に戻した。それから真っ直ぐに座り、なんとか平静を保った。  やがてめぐみが戻ってくる。笑いかけているのだけれど、僕はもう、彼女の顔がだんだん見えなくなっていた。 「さて、テルくん。真面目な話って、なあに」 「あ、そうそう、そうそう。そうだったね」  僕は機械みたいになって、オートマティックに話題を考えようとしていた。 「実はね、僕はもうすぐ三十なんだ」 「知ってるよ。今月の終わりが誕生日だもん。それで?」  彼女はますます期待を込めて言った。鏡を見てきたのか、いくらか髪の毛も整っている。 「いや、それでね、そういう時期って大事だと思うんだよね」 「三十歳だから? まあ、そうだよね。もう、二十代じゃないもんね」 「そうそう」 「で、何?」 「だから真面目な話、もうそろそろちゃんと、将来のこと考えようと思うんだ」 「うん」 「いろんなことを考えたよ。三十歳のあと、これからのこととかさ」 「うん」 「で、結婚でもしようかなと一瞬考えてみたんだけど、やっぱりしないだろうなあって思ったんだ」 「え?」  僕はまた同じセリフを繰り返す。すると彼女は、「どうしてなの」と聞いた。 「どうしてしないことに?」 「特にしたい相手が、まだ見当たらなかったから」 「……へー、そうなんだ。三十歳までにはしたいって、いっつも、しつこく言ってたから、すると思ってたよ。私とかどうかはわかんないけど」  彼女はとても冷静な顔で言った。その表情も声も、ひどく冷たかった。鋭く深い怒りがあるようだ。かみそりの刃がゆらゆらと深海に落ちてゆく映像が、つい思い浮かんだ。 「つーか、言いたいことってそれ? そんな、どうでもいいようなこと?」 「めぐみにはどうでもいいかも知れないけど、僕には重要でね」 「そうなの、へえ」彼女は言う。「で、これからどうするの」 「僕たち?」 「今日! 今日は何するの!」 「もう帰ろうかと思うんだけど。ちょっとさ、吐きそうなんだ」 「テルくん、何言ってんの?」 「帰る」 「まじむかつく、こいつ! そうしたいんだったら、そうすれば」 「じゃあ、さよなら」 「わかった。私も帰るからね」  めぐみはそう言うと、すっとベンチを立って正門のほうへと歩いて行った。これが男女の駆け引きなら、僕は少しここで待ってみたり、彼女のあとを追いかけたりしただろう。けれど本当に吐き気がしていたので、トイレに入って水で顔を冷やした。  そのあと、めぐみとばったり出くわしたりしないように、校舎の奥にある、別の出口を使って外に出た。さっさと、正門とは反対のほうへ歩いて行った。早くここから離れてしまいたかった。自分が、怒っているのか悲しんでいるのか驚いているのか、よくはわからないまま歩いていた。  恐らく、全部、感じていたのだろう。  とにかく僕は、その三つの感情でふらふらになりながら、自宅マンションの前に戻った。すると、マンションのそばにある四ツ辻で、夕方に別れたときと同じ状態のまま、エミがガードレールに座っていた。ちゃんと家に帰れと言っておいたのに、ずっとこの辺をぶらぶらしていたようだ。もちろん彼女もこちらに気づいた。  一瞬、無視してマンションに入ろうと思ったが、それも大人気ない。それに今は、誰かに優しくしたかった。不思議なものだけれど、傷つくと自動的にそうなる。自分がして欲しいことを、自然と他人にしてしまうのだ。人を誉めるのが好きだという人こそ、実は、誰よりも他人から誉められたがっているのと同じことで。  こっちにこいと手を振る。するとエミは、さも待ちくたびれた顔で、ゆっくりと道路を渡ってきた。あまりに堂々と歩いているので、車道を走る車も停止し、彼女が渡り終えるのを見守っていた。街の女神のようだった。 「帰れって言ったのに」 「そりゃ言ったけど、だったら片山っち(いつのまにか、変な呼ばれかたになっていた)困るでしょう」 「何で困るのさ」 「占い、当たらなかった? 落ち込んでるでしょう、今」 「別に」 「ほらね。そういう言いかたしてるってことは、当たってるよ。落ち込んでるね」  彼女は言う。「じゃあ、こういうのどう? お金がないから、あんま、偉そうなこと言えないけどさー、これからTSUTAYAでビデオいっぱい借りんの。そんで、安い中古のゲームも買うんだ。二人で遊べるようなのね。そのあとマックとコンビニで食べるもの沢山買って、夜中まで遊ぼう」  どうして僕が……と言おうとしたのに、言えなかった。それどころか、本当につきあってくれるのかいと、聞き直したいぐらいの気分だった。僕は確かに彼女の言う通り、落ち込んでいた。あらゆる女性に疲れているような気がした。  だったら男友達とでも会えばよかったが、目の前にいるエミに救いを求めていた。 「どう?」 「……いいかもね」 「たださっきも言ったけど、私、お金ゼロだよ」 「いいよ、あるから。大したものは買えないけど」  僕は、サイフの中を確かめて金額を言った。彼女はそれをのぞき見て、笑った。 「十分じゃん。ビデオとゲームとマックだよ」 「十分か。そうだね。そうかも」 「そうだよ。それ以外に、今、欲しいものある?」 「ない。本当にそうだ」  そして僕は、彼女と並んでレンタルビデオ屋に向かった。      *  その日の夜、何件もの電話があった。まず携帯にかけてきたのがめぐみだった。留守電には、今日は途中で帰ってしまったから、もう少し話がしたいというメッセージが残されていた。家の電話には、智恵と和歌子から。どちらも用件は言わず、また電話しますとのことだった。  もちろん僕は、こんな状況をよく思っていたわけではない。口論をしたあとだったので、すぐに話をする気持になれなかったのは確かだけれど、それよりも彼女たちが、これから部屋にくると言い出さないかという不安のほうが強かった。何せ僕の部屋には今、エミがいるのだ。街で中学生と出会って、かくかくしかじかで、今は部屋にいるのだと言っても通用するはずがない。  それでも、もうしばらくエミに、このままいて欲しかった。  だから、電話に出るのをやめてしまった。外から覗かれるのも嫌で、カーテンまですべて閉めた。そのままずっと、エミと遊んでいた。ビデオで映画を観ては、あれこれ感想を言い合い、ゲームをして騒ぎ、少しビールを飲んで、またビデオを観た。途中で軽く食事をして、それからお喋り。完璧な現実逃避を続けていた。  長く話をしているうちに、エミは、それほど幼くないことがわかってきた。彼女の考えかたや会話は、実際の年齢よりずっとしっかりしていた。子供じみた正義も、諦めも匂わせない。それでいて、大人のけれんみもなかったので、彼女といることがだんだん楽しくなってきた。 「きみって誰かに似てるな」  何本か映画を観終わったあとで、ふと言った。すでに真夜中をだいぶ過ぎていたが、編集者の僕にとってみれば、すっかり身体に馴染んでしまった時間帯でしかない。 「ずっと思ってたんだけど、誰だろう」 「私、よく言われるよ。でも、みんな人が違うんだ」 「どういう意味?」 「誰かに似てるその相手が違うの。女優だったり、前の彼女だったり、昔の先生だったり。片山っちだと、誰って思った?」 「誰だろ」 「昔好きだった人とかは? 前にここで同棲してたんでしょう? 私、その人とちょっとは似てる?」 「似てなくもないかな」 「じゃあ片山っちは、その人に心残りがあるんだね。思い残しがあるんだよ」  彼女はそう言うと、何気なく、自分の脚をテーブルの上に乗せた。僕の癖とそっくりだった。親にいくら言われても直らないので困っていたのだが、エミも、まるで僕をコピーしたかのように、テーブルの上に脚を乗せたのだ。自分と近い心の形をしているのではないかと思え、さりげなく嬉しかった。  その日、僕はずいぶんビールを飲んだような気がする。隣にずっとエミがいたので、酔わずにしっかりしていようと思うあまり、なかなか酔えず、かえって大量にアルコールを摂取していたらしい。そろそろ眠ろうかと思ったときには、すでに身体がいうことをきかなくなっていた。  なんとかシャワーを浴びる。四十二度の湯の下で僕は、これで万が一にでも、エミと間違いを犯してしまうことはないだろうと思った。いつ頃からか、アルコールが入り過ぎたときに限り、不能な身体になってしまったのだ。三十を過ぎないうちからこうだと先が思いやられる。ただ、酔った上での間違いが少なくなるので、便利と言えば便利な症状でもあるのだった。  しかし翌朝の二日酔いは、やはりひどかった。  身体の中に残っているアルコールが、憎たらしい臭いを放っている。缶の底に残ってしまった、古いビールの臭いがした。時刻はすでに朝の九時で、十時までに会社に着くのは無理だと判断し、休むことにする。会社に誰かが出てくる十時頃になったら、電話を入れておこう。  ベッドから抜け出すと、すでにカーテンが開かれたリビングにはエミがいて、例のソファに座ってTVを見ていた。僕がすっかり駄目になっているせいか、それとも午前中の光にさらされているからか、彼女はずいぶんと透き通って見えた。起きたてで、コンタクトレンズを入れていなかったからかもしれない。編集の仕事にTVゲーム、映画と、日夜酷使された僕の目は、レンズがないと、いかにも頼りないものだった。 「おはよう」  僕は言った。「昨日、きみの布団とか用意しないで寝ちゃったな。大丈夫だった?」 「ダイジョーブ。適当に寝たからさ。片山っち、コーヒー?」 「いや、今朝は要らない。もっと胃に優しそうなのを飲みたいな。コーンポタージュみたいなの」 「部屋にある? 私も腹減ってんだ」 「どうだろ。台所でも冷蔵庫でも、勝手にあさってくれ。僕はちょっと、そんな元気もないし」  彼女と入れ替わるようにして、ソファに寝転がり、目の上で両腕を組んだ。太陽の光が強過ぎるが、カーテンを閉める気にもなれない。TVでやっている芸能ニュースと、エミが台所の棚をあっちこっち引っ掻《か》き回している音を聞くだけで、いっぱいいっぱいだった。 「それにしても昨夜、うるさかった」 「僕? イビキかいてたか」 「電話だよ。夜中じゅう、何度も鳴ってたもん」 「酔ってたから、電話の音なんて何も感じなかった」 「留守電、全部、女の声ばっか。悪いことしてんだね」  エミはそう言うと、リビングに戻ってきた。光に慣れてきた目で彼女を見ると、手ぶらでだらんと突っ立っている。やはりそう運良く、部屋にコーンポタージュなどなかったらしい。大体、インスタントのスープを買った記憶がないのだから当然と言えば当然だが、探せばあるような気がしてしまうのだ。輪ゴムだとか、歯ブラシみたいに、ひとつぐらいは部屋のどこかにあるような気がしてしまう。 「そんで片山っちさ。三人のうちの誰かと結婚する気になった? それとも私が言ってた通り、結局、三人とも大して好きじゃないってわかっただけ?」 「子供が、そんなおせっかい焼くな」 「子供じゃないよ」  光が陰った。エミが、ソファにのびている僕を覗き込んだせいだ。長い髪の毛が、今にも僕の鼻先に触れそうだった。 「子供じゃない」 「……わかったよ」  認めた。確かにもう子供じゃなかった。ほんの一瞬、どきりとしてしまったのだから。 「悪かった」 「OK、許す。じゃあ、お金ちょうだい」 「慰謝料として?」 「違う、買い物に行ってきてあげるって言ってんの。コーンポタージュとか飲みたいんでしょ。インスタントの買ってきてあげるよ。どうせしばらく、起き上がれそうにないもんね」 「サンキュー。じゃあ、そこの財布から一万円抜いて、買い物行ってきて。きみの好きなもの買ってきていいから。全部使ってもいいよ」 「この一万円持って、私がこのまま逃げちゃったらどうする?」 「逃げないだろ」 「どうしてわかんの」 「何となく、わかる」僕は言った。「あ、それとさ。コンビニに二日酔いの薬も売ってるだろうから、それも頼む。内服液な。栄養ドリンクのコーナーにあるから」  人使い荒いなあと文句を垂れながら、彼女は外に出ていった。最近調子の悪い、ドアのちょうつがいが、ギイと音をたてて閉じたのが聞えた。  しばし一人になった僕は、本当に今、エミが一万円を持ったまま姿を消したら、それなりに傷ついたりするんだろうかと考えた。あんな知り合ったばかりの小娘にでも、置いていかれると、捨てられたような気分になるのだろうか。絵美里にそうされたときのように……。だが考えは、そこで止まった。酔い明けで血糖値が下がっているらしく、頭が回らない。それと同じ理由から、また眠たくもなっていた。  再び目を閉じる。すぐに、不快な眠りの波にさらわれた。  次に目が覚めたのは、台所から、蒸気の音が聞えたからだった。誰かがやかんを火にかけているらしい。絵美里がそこにいるのだと思ってしまった。しかも今日は土曜日で大学の講義もなく、なかなか起き出さない僕を待てずに、彼女がカップラーメンを作ろうとでもしているのだろうと。わざと、湯を注いだタイミングを見計らって起き出し、せっかく昼は一緒に外食しようかと思ってたのに、などと、意地悪なことを言って笑おうかと考えていた。  けれども台所から漂ってきたのは、コーンポタージュの香りだったので、寝ぼけていたことに気がつく。いつのまにかエミが帰ってきていたらしい。 「片山っち、起きた? 遅くなってごめんね」 「いや、そうでもなかったよ」  と言いつつソファから起き上がると、やけに身体がすっきりとしている。何だか変だなと思い、ビデオデッキの時刻表示を見ると、十二時に近かった。いつのまにか三時間も経っていたのだ。もちろん会社のことを思い出して、急いでデスクに電話をかけようとしたのだが、こんな時間にかけたら寝坊したのがばればれになってしまう。今から出てこいと怒られそうな気がした。  それでも、かけるしかなかった。幸いなことに、局の皆は出払っていた。電話に出たのは他の局の子らしく、こんな時間に電話をかけてきて、今日は風邪で休むからと言う僕の白々しい嘘に、余計なつっこみはしなかった。ほっとする。それに、電話に智恵が出なかったことにも。何せマップ班は解散を控えて退屈だろうから、さすがの究極オタク連中でも、少しぐらいは電話に出ようという気持になっているかもしれない。退職や異動が決まると、本当にやることがなく時間を持て余すものなのだ。  僕は電話を切ると、カップをじっと見つめているエミに言った。 「三時間もどこに行ってた?」 「片山っち、私が帰ってこないかと思って、心配してたんだ?」 「いや、それが寝てたんだよ。時間を知って、焦った」 「なんだ、そっか」  彼女は、マグカップに入ったコーンポタージュを、ぐいと押しつけた。もう二日酔いは治っていたので、あまり飲みたくもなくなっていたけれど、仕方なく口をつける。 「ずいぶん時間かかったんだなあ。自分のごはん決めるのに、手間取ったのかな」 「違うよー。なんか変な人に声かけられてさ、尋問されてたんだよ」  彼女はそう言いながら、トンカツ弁当を電子レンジにセットした。 「長く話させられたから、お弁当、冷えちゃった」 「誰だい、それ」 「片山っちの、大学の時の同級生だって言ってたよ。なんかね、ドア開けたらマンションの廊下にいたんだよ、その人。で、私がエレベーターに乗ったら、一緒についてきたの。コンビニまで。コンビニ出たときに捕まって、そんで尋問された」 「僕の同級生が、この近所に住んでるはずないぞ。大丈夫か? 何か悪戯とかされたんじゃないか?」 「だって、女だよ」 「女って……」  嫌な予感がした。  相手の容姿を聞いてみたら、やはり鈴木和歌子のことだった。見た感じは普通の人なのに、喋ると何だか少し変だったよとエミが言ったことも、ますますそれらしい。不安神経症が悪化したときの彼女は、いくらか、そんなふうになるのだ。キョロキョロと落ち着きもなくなるし、あたりをはばからず泣き出すこともあった。 「その人と喋ったの?」 「だって仕方ないじゃん、話すまで解放してくれなさそうなんだもん。あれが、片山っちの彼女の一人なんでしょう? どの彼女か知らないけど、電話しても出てくれないから、きっと部屋に直接きちゃったんだよ。あんま信用されてないんだね。つーか、それで私が出てきたんだから、もっと焦っただろうけど。すごい真っ白な顔になってさ、『どういう関係なの? 何してるの? いつから住んでるの』って、聞いてくんだ」 「コ、コンビニの前で、そんなことしてたのかよ」  僕まで、顔が白くなっているようだ。「で、何て答えた」 「そりゃ、正直に答えたよ。最初に会ったのはスケート場で、そのあと吉祥寺で拾われて、ここにいるって。関係は居候。今のところ仕事は買い出し係だって」 「きみみたいな歳の子と僕とで、何があるってんだよな。実際何もないし、そんな質問するなんてナンセンスだよ、まったく。あいつ、どうかしてる」 「でも、そういうカップルだっているじゃん。普通だよ」 「常識の話だぜ、常識の。きみの歳は、僕の半分だ。そんなの、ありえるわけない」 「常識だって、おかしいの。大体ね、そういうふうに疑われるってことは、片山っちがその程度の男だって思われてたんだよ」 「あのな。彼女は今、ちょっとした病気なの。心の病なんだ。だから今は、いろんなことが正しく考えられないんだよ。わかった?」 「えー? そうかな。もう一人の人だって、同じような心配しかしてなかったけど」 「もう一人って?」 「もう一人の人」  何かの悪い冗談かと思ったが、そうではないらしい。淡々と話す彼女の口ぶりからして、間違いないだろう。 「なんかね、話が終わったあとで、そのちょっと変な彼女がどっかに電話してたの。で、彼女にも説明してやってって携帯渡された。また一から説明したんだよね。かったるかった」 「そ、その人の名前は?」 「片山っちと同じ会社の人で……あ、智恵って人だ」 「なんで、和歌子と智恵が知り合いなんだよ」 「そんなの知らないよ。ただ、智恵って人はすごく怒ってた。私のこと、会社で言いふらしてやるって言うんだよ、ヤなヤツ。どうぞ勝手にって言ってやった」 「どうぞ勝手にって、そんなことされたら、困るのこっちじゃないか」 「だって、私悪くないのに。ムカついたんだもん」  まずい。非常にまずいことになっていた。気を落ちつけようとコーンポタージュを飲んでみたが、味もよくわからなくなっている。舌が馬鹿になってしまったのかもしれない。 「ホント、ヤな子だった。あれも片山っちの彼女? あんな性格悪い子なんて、絶対やめなって。結婚なんかしたら、一生泣かされるよ」  エミは、はきはきと言った。いつのまにか、電子レンジで温めた弁当を取り出し、雫《しずく》が飛ばないよう、テーブルの上で丁寧にふたを開けている。ごはんやカツだけでなく、付け合わせのポテトサラダや漬物からも湯気が立っていた。 「あー、そんでさ。その智恵ってヤな子がね、もう一人の子には自分が会って話しとくからって言ってた。うん? どうしたの、真っ青になって」 「ま」 「マッシュポテト? ポテトサラダのこと? あー私、これが温まっても平気なんだ。大体、いっつもコンビニ弁当のときしか食べないからさ、私ずっとポテトサラダって、あったかい食べ物だと思ってたんだ。でも、あったかいの、いけるよ」 「待った、ちょっと待った」  別に、食べるのを待てと言っているわけじゃない。エミの説明をもう一度最初から、ちゃんと聞かないことには、わけがわからなくなってしまったからだ。できるならもう一度、酒を飲んでから聞きたい気分でさえあったが、そんなことをすると吐いてしまうだろう。素面でショックを受け止めるしかない。  もっとも、何度聞き直してみたところで、内容が変わるわけではなかった。  まとめればつまり、僕のやっていたことが三人に、完璧にばれてしまっているということだった。三人がそれぞれ、互いの電話番号を知っていたということは、きっとそうなのだ。  どうして三人が、互いの電話番号を知っていたのか、そしてこの状況をどう説明するべきか、一日中考えた。説明したところで、どうにかなるものでもないが、ベッドに入ってもずっと考え続けていたので、ろくに眠ることができず、次の日も会社を休むことになった。当然また、会社に電話を入れなくてはならない。さすがに後ろめたい気分になってずる休みの言いわけをエミに聞かれないよう、ヒソヒソと話す自分がいた。  どうせ会社を休んでしまったのだから、いっそのこと、今日をいい日にしようよと、彼女はやけに前向きな意見を僕に言った。だが、ネガティブな気分になっているときに、いくらポジティブなことをしても効果がないという説もある。確かに、落ち込んでいるときに元気のいい音楽を聴かされても、音符がすべて、耳元でぱらぱら落ちていくように感じるものだ。むしろそんなときは、暗く沈んだ曲のほうが心に染み渡り、気持を癒せる。  その説が正しいかどうかはともかく、少なくとも僕には当てはまっていたようだ。その日一日、エミにいろんな場所へ連れまわされたが、少しも元気にはならなかったのだから。いきなり三人を失ってしまったというギザギザした失望感と、ねっとりした疲れを、こねくり合わせているだけだった。もはや、彼女たちにプロポーズしたいのかも疑わしかったはずなのに、僕の心は沈んでいた。  そのせいだとは言わないが、次の日も会社を休む。  電話口でデスクが心配するセリフを述べつつも、心の奥では迷惑がっているのがわかった。恐らく僕の残してきた仕事を、デスクが引き受けてやってくれているのだろう。だが三日目にもなってくると、どうでもいい気分になっていた。電話を入れたとき、智恵が出てこなくて済んだというだけで、十分だった。人はこんな感じでずるずると会社を休み始め、金がなくなってきて、その金をいくらかでも取り戻そうとパチスロでもやり始めて、段々と駄目になっていくのだろうかなどと、やけにステロタイプな悪い想像もしてみた。当然、なおさら落ち込む。そしてなぜだか、僕が落ち込めば落ち込むほど、エミは嬉しそうなのだった。出会ったときは、まるで笑顔を見せなかったくせにだ。まさに、笑うと書いてエミと読む、その名前にふさわしい彼女なのだった。  だが、僕の落ち込みも数日目を迎えると、彼女もあからさまに喜ぶのをやめ、こんなことを言い出した。 「もう片山っちさ。そんなに落ち込んでるんだったら、彼女たちに電話、かけちゃえばいいじゃん。こっちから。いっそ、すっきりしない? このままゆっくり忘れるより、早く済むってば」 「……そうかな」 「そうだよ。いいってば、どうせもう駄目なんだから。ね? 早く決着つけて、遊びに行こうよ。電話、かけてみて。もしかしたらもしかして、許してくれる人がいるかもしれないし。あ、でも、許してくれるって言ったって、私のことを許してくれって意味じゃないよ。私がここにいるのは、別に悪いことじゃないんだからさ。そうじゃなくて、三マタのこと。三マタをもし誰か許してくれたら、もうその人と結婚しちゃえ。何が何でも」 「そりゃそうだけど、じゃあ、全部駄目だったらどうするよ」  われながら、エミを相手にそんな情けない話しぶりでいいのかとも思ったが、今はどうにもならなかった。美意識を保っていられる場合じゃない。もっとも美意識とは、自分が崩れそうなときにこそ必要とされるものだが。 「だって、このままじっとしてたら、どのみち全部駄目じゃん」  正しいからなのか、投げやりなのかよくわからないが、僕もいくらか彼女の言うことを認めた。そこでついに、恐る恐る電話をかけてみたのだ。三十歳まであとわずかというタイムリミットも、僕の背中を押してくれたのだった。  だが、結果は惨敗だった。  まず、智恵には着信拒否をされていた。  めぐみは出るだけ出てくれたが、ロリコンとののしって、一方的に電話を切った。  携帯のアドレスを消去していた和歌子には、わざわざ平塚先輩に彼女の番号を聞いてまで電話をかけたのに、結果は前の二人と大差なかった。もう母親と一緒に長野へ帰るつもりだから、二度と電話しないで欲しいと言われただけだった。  これ以上、なす術はないとわかった。すべてが終わった。それでもエミの言う通り、完敗するといくらか立ち直るから不思議なものだ。コンタクトレンズを排水溝の中に落としてしまったときに似た、諦めが芽生えてきたのだった。  いっそのことすべてをふっきろうと、今度は自分からエミをデートに誘って、外に出ることにした。まだ、落ち込んだ気持が、火種のようにくすぶっていたからだ。  吉祥寺に向かうと、かつてめぐみとそうしていたように、金券ショップで安い映画の前売りを買い、映画を観た。それから智恵とやっていたように、中古ゲームショップで、古いマニアックなソフトを漁《あさ》った。さらに和歌子とやっていたように、夜になるまで延々と散歩をして、夕飯を食べることにした。全員まとめて会っているような、どこか投げやりなデートだったが、エミは文句も言わず、楽しそうについてきてくれた。ときどき、僕の先を飛び跳ねるように歩くたび、ジーンズのヒップにある電話番号も一緒にはしゃいでいた。インディゴの青に浮かび上がるペイントは、気の早い初夏の入道雲を、そのまま印刷したように見えた。 「少しは、気分、よくなった?」  それは、エミが入りたいと言うので入った、串揚げ食べ放題の店だった。彼女はなぜか串揚げには手を出さず、二つ目のおにぎりを食べながら言った。僕は串揚げというより、ビールばかり飲んでいたので、自分の腹が空いているのかどうかよくわからなくなっていた。悲しいのか、楽しいのかも。 「うーん、そうだね。多少はよくなったかも」 「あー、よかった」 「きみ、よくおにぎりなんて食えるな。串揚げの店で」 「何で? これも食べ放題なんだよ」 「いや、そういう意味じゃなくて、胃袋おかしくならないかなと思って」  僕は揚げたてのエビをソースに浸すと、そこで手が止まった。「あー。そんなこと考えるなんて、僕もやっぱり歳なんだな」 「今週末に三十歳になるんだよね」 「そう、今週末」 「二十代は楽しかった? 参考のために聞いとくよ」 「バタバタしてて、自分でも何してたかよくわかんないや。ずいぶんいろんなことをやったような気がするし、何もしなかったような気もする」 「ややこしい言いかたしないでよ」 「でも本当にそうなんだ。一人暮らしを初めてしたし、女の子とも一緒に暮らした。大学を卒業して会社に入って、仕事も覚えた……」 「ふんふん、そんで」 「そして、もうすぐ二十代が終わるわけだろう? でも、そのとき隣にいるのはきみだけで、仕事は何日もサボってる。明日だって行けるかどうか自信がない。これじゃ本当に、二十代の思い出なんて、何も残らなくなるかもな。せいぜい、きみに会えたってぐらいしか残らないのかも」 「よかったのかな、悪かったのかな? 私のことじゃなくて、全部ひっくるめたら」 「プラマイ、ゼロ。何だか二十歳のときも、そんなこと思ったような気がするけどさ」  するとエミは、駄目だなあと笑いながら、もそっと、おにぎりを平らげてしまう。 「ところでね、片山っちはどうして、三十までに結婚しようかなんて思ったわけ? そうまでしてしたいの? 男でさ、珍しくない?」 「中学生がそんなこと聞いて面白いか」 「いいじゃん、中学生だって。それに私だって、中学生なりに頑張ってんだよ。学校に行っていないってだけで」 「そっか。じゃあ、しっかりやれ」  そこで僕は、エミの皿の上にあった、おにぎりに手を伸ばした。なぜだか一緒になって食べたかった。若さを確かめたかったのだろうか。 「ねえ、なんで三十までにって聞いたじゃん」 「うん、そう。どうしてかっていうと、それはつまり、復讐だな。絶対、幸せになってやるって思ってさ」 「あー、前の彼女に出ていかれたから? それで、そんな情けないこと考えるようになったの?」 「でも、みんなそんなもんだろ。芸能人で考えればわかるじゃないか。××××だとか×××だとか、本命と結婚できなくて、突然、違う人と結婚したろ。どっちの相手も変な人でさ、見るからにあれって復讐だよ」 「だからって何も、自分まですることないのに。そんなことして、嬉しい?」 「まあね」と、僕。「確かにそれがきっかけだったけど、本当言うと今は、少し違うかな。ハッパかけてたんだよ。そうしないと、いつまでも結婚しないような気がして」 「まさか、結婚するの、嫌いなの?」 「嫌いだった。二十歳そこそこのときは、やっぱりまだ遊んでいたかったし」 「他の女と遊びたいってことでしょ」 「はっきり言えば、そう。もっと理想に近くってさ、すごい子に会ったりするんじゃないかなーって、期待してたんだ。そうじゃなかったら、ホントこれって馬鹿げてるけど、突然何かいいことがあって、テレビにでも出るようになるんじゃないかなって考えたりもして」 「男って馬鹿なんだね」 「まったくね。で、二十代の真ん中は、会社に入ったり仕事覚えたりするので忙しくて、まだまだ結婚なんてできないような気がしてた。貯金するどころか、ろくに仕事もできなくてさ。こんなんで奥さんまでいたら、ちょっとまずいんじゃないかって思ったんだよね」 「相手だって働いてるのに?」 「ほら、むこうの両親に会ったりして、給料の額とか聞かれたりするの嫌だし。それにその頃って、全体的に、どんな大人に会うのも嫌なんだよ、怖いから」 「二十代の真ん中だって大人じゃん。もー、すごい大人だよ。オヤジ」 「じゃあ僕なんてどうなるんだよ」 「長老」 「死ね」  ふざけて言った。エミも楽しそうに笑っていた。 「まあとにかく、そんな感じだったんだ。で、そうするうちに、前の彼女に逃げられたってわけ。同棲してた彼女にね。きっと、とっくに愛想がつきてたんだろうな。僕といたって、いつまでも未来が見えてこないからさ。変なもんだね。それだって、たった二年くらい前の話なのに、今になったら彼女の気持もよくわかるんだから。でもやっぱり、突然出て行かれると落ち込むし、そのときは恨んでしまってさ。だからこっちこそ絶対、三十歳になるまでに、幸せになってやろうって思ったわけだよ。それからは、仕事もやりまくって金も貯めた。『華麗なるギャツビー』みたいだろ……って言ったって、わかんないか。とにかく、そうだったんだ」 「そうなのか。でも、なーんか悲しい話だね。そんなふうに、二十代が過ぎていくの」 「何も、みんながみんなそういう過ごし方をするわけじゃないだろ。それにこれでも、自分の人生には、まあまあ満足してるよ」 「本当に? 信じらんない。三十どころか、二十歳にもなりたくなくなったよ、聞いてて」 「この長老だって、きみぐらいのときはそうだったんだぜ。それだって多分、信じられないだろうけど」 「ホントかな」 「本当だよ」  僕はそこで、エミのように勢いよくおにぎりを頬張った。けれどやはり、飲み下す前に腹が一杯になっていた。 「ま、そのおかげで僕は彼女ナシで、虚しく三十歳だ。あはは」 「なんか、やっぱかわいそうになってきたよ。惨めっていうか」  エミはそう言った。「片山っち、前の彼女に会いたい? その、出て行った人」 「何で?」 「別に会わせてあげるとか、そんなことできっこないけどさー、ちょっと聞いてみたくて」 「なるほど、そうねえ。うーん、どうだろうな。両方ともフラットな気持でいられるんだったら、会ってみたいな」 「カッコつけて、バカだね〜」  僕も笑う。まったくその通りだと思ったからだ。それでもエミは、「さて、とにかく誕生日は週末でしょ。それじゃあ私、少なくともそのときまでは、一緒にいてあげるよ」と、店を出るときになって言ってくれた。 「一人で三十歳になるのもかわいそうだから、一緒に誕生パーティーでもしよう」  彼女に同情されるというのは、なおさら惨めかもしれない。が、突っぱねるとその小さな同情さえなくしてしまいそうだったので、僕は案外、本気で感謝していた。      *  誕生日を間近に控えた僕は、着々と誕生日パーティーの予定を立てていた。といってもその日一日、エミと何をするか決めていただけだったのだが。そんなときライターの渋沢純一から、珍しく自宅に電話がかかってきた。今夜、新宿で飲もうと言う。今週、まるで会社に行かなかったから、どうかしたのかと心配してくれたようだった。  二週間ほど前に、一体、誰と結婚しようかと相談したこともあったので、渋沢は、僕の長い休暇もそのことに関係があると予想したのかもしれない。もしそうなら、あながち間違ってはいない。が、恐らく渋沢の考えていることと、僕の今の心境には、かなりの開きがあるだろう。この十数日間で、僕も、僕を取り巻く環境も、すっかり変わってしまったのだから。人は小さなきっかけで、大きく変わってしまうものだ。十数日間といえば、十分過ぎる時間だった。  それでも、渋沢純一に会いに行くことにした。  明日は三十路《みそじ》前夜祭なので今夜は飲み過ぎないようにと、僕の小指に緑の糸が結ばれる。エミに言わせると、飲みながらときどき小指を見れば、約束を忘れなくなるとのことだった。しかも緑の色を見ながら飲むと、アルコールが舌に逆らうように感じるので(本当かどうかは知らないが)、なおさら飲み過ぎ防止になるらしい。  夕方過ぎの電車に乗った。帰途に就く人たちとは逆方向の電車だった。つい先週までは僕も毎日休むことなく、電車に乗って会社に行き、そして帰っていた。同じ電車に乗って、同じ景色を見ながら暮らしていた。けれど今、自分が変わってしまったせいなのか、電車から見える景色は少し違って見える。車窓から見えるビルは、いつもより高くて陰鬱に見えた。街を行く人々は歩くのが速過ぎ、看板に書かれた社名は、外国の文字のように見えた。景色そのものが、僕を拒絶しているようなのだ。  電車の吊り広告を見ても、そうだった。これまでなら編集者らしく、何か使えるネタはないものか、面白そうな雑誌はないものかと考えていたのだけれど、今はもう、何も感じない。ただ普通に、広告から記事を想像するだけだった。 �男三十代、結婚氷河期!�という見出しについて僕が思ったのも、明後日になって自分が、この見出しを憎たらしく思うか、それともどうでもよく思うだろうか、それぐらいのことだった。  ところがしばらくその広告を見ていると、別の感情が湧き上がった。またあの日のように、強いデジャビュを感じたのだった。前にも一度、同じような広告を見て、同じようなことを考えたことがある気がした。しかもこの時刻、この座席だった。おかしいなと思い、ゆっくりと車内を見まわす。すると、抱えた袋からピーナッツを取り出しては、ばりばりかじる老婆が目にとまった。みな気味悪がって、老婆を遠巻きにしているのだが、そのシーンまでも一度見たような気がした。  ──まさかな。  そう思い返した。きっとそれは、東京だとよくある風景の組み合わせなのだろうと言い聞かせる。それから、確かな足場を求めるような気持で、再び�男三十代、結婚氷河期!�という見出しに戻った。記事の内容でも推測して、下らないことを考えるのはやめよう。  氷河期について考える。必要以上にしつこく考える。  ──結婚氷河期。  就職氷河期という言葉から作ったのだろう。三十代男の結婚状況が厳しいという記事に違いない。男が余っているのだ。  けれど本当にそうなんだろうか。誰でもいいから結婚してくれと、言う必要がなくなっただけじゃないだろうか。コンビニとアダルトビデオを結婚相手に、独りでも生きていける時代になったというだけの話ではないか。  本当に氷河期なのは、男の現状ではなく、その心なのかもしれない。男たちの心は、凍ってしまったのだ。もうそこに、温《ぬく》もりなどないのだ……じゃあ、どうなったら男は、女と真面目に結婚がしたいと思う?  ただこれはこの数日のことだけど、一人になって何となくわかってきた。いまさら何を言うと叱られそうだけれど、本当に、価値観の問題なのだ。価値観さえ合えば、結婚したくなる。ただ、価値観という言葉の使いかたが、これまでは曖昧過ぎた。何を大事にするかという大きな意味じゃなく、きっと、どの時間を一番大切にしたいかという意味なのだ。プライベートな時間だとか、仕事の時間とか、そういう脈絡の中における価値ではなくて、過去、現在、未来のどれを大切にするかということだ。  例えば智恵の場合で考えてみる。彼女はひたすらゲームをコレクションするためだけに生きている。仕事も結婚も、そのためだけにある。過去も未来もなくて、今に生きていた。それが彼女の価値観だ。  めぐみはと言えば、過去だ。彼女は認めなかっただろうが、きっとそうだ。僕と同じく、過去の恋人を忘れきれずにいるからではない。彼女にとって一番大切なのは、思い出そのものだったからだ。二人でどこに行って、何をどれだけしたという記憶をどんどん貯蔵していた。過去こそ、彼女には大事なものだった。  そして和歌子は、未来に生きている。いつも、理想の自分になることばかりを考えていた。語学が得意で、スマートな服を着て、センスのいい音楽と映画を好んで、未来に備えていた。沢山の習い事をして、未来にばかり目を向けていた。  いい悪いの話ではなく、それが彼女たちの価値観なのだ。すべてのベースになっている。問題は、この僕が(あるいは結婚できない男たちが)、そのどれも大切にしていないということなのだった。過去でも現在でも未来でもなく、文字通り、止まった時間の中にいる。まさに氷河期の、分厚い氷に閉じ込められたマンモスのようなものだった。それが時代のせいなのか、社会のせいなのか、それとも女たちがそうさせてしまったのか、よくはわからない。  ともかく、これでは最初から結婚できるはずはない。互いにとって、互いが、一番大きなストレスになる。  ……ああ、またデジャビュだ。これも前に、考えていた気がする。 「やばいよ、それじゃ」  渋沢が言った。新宿駅南口の近くにある、小さなお好み焼き屋でのことだ。油の跳ねる音だけでなく、両隣のビルがゲームセンターだったりパチンコ屋だったりするので、騒々しい店だった。そのせいで誰にも注意を払われず、かえって心地いいのだけれど、話をするときはいくらか面倒だ。酔ってくれば、自然と大声で話せるのだが。 「そんなんで、会社休んでたらまずいって」 「わかってるんだけどね」  僕はお好み焼きを引っくり返そうとしつつ、まだ勇気がなく、じっと鉄板の上で焼いていた。それを見ていた渋沢まで、手持ち無沙汰になってしまったのか、理由もなくテーブルをおしぼりで拭いていた。 「じゃあ、こいよー。結婚問題なんかでいちいち仕事休んでたら、マズイだろ。クビになるぞ、まじで。こんなご時世だし」 「あのさ。そのことなんだけど、ちゃんと説明すると、結婚の話は関係ないんだ。いや、あるといえばあるけど、もっと正しく言えば、ない」 「何をわけのわかんないこと言ってんだ。マップ班も今月で解散だから、こないだお別れ会したんだけど、そのときに智恵ちゃんから聞いたぞ、オレ。お前、こなかったけど」  会社を休んでいたのだから当然、顔を出していない。それどころか、お別れ会のことも知らなかった。 「智恵ちゃん、ちょっと荒れてたぜ。テル、三マタばれたんだって?」 「らしい」 「で、謝ってないのか」 「電話が通じなかったんだよ」僕は言った。「でもいいんだ。今になって考えてみると、彼女とは、それほど結婚したいってわけじゃなかったみたいだし。気づくのが少し遅かったけれど、僕と彼女じゃ、向いてる方角が全然違うらしいよ」 「え、そうなん? 彼女、いいと思うけど駄目? じゃあ誰よ。残りの二人のどっちか?」 「いや、それも違う。三人とも違うかなって、思うようになった。だから、それはそれで、もういいんだよ。そんなことで会社を休んだりしてるんじゃない」 「じゃあ何よ」 「いろいろ。本当にいろいろ」 「なあ、テルさ。お前まさか、若〜い女のこと好きになったとかない?」  渋沢はお好み焼きを引っくり返す。お好み焼き奉行なので、まとめて僕の分も引っくり返してくれた。 「ちょっと聞いたけど」 「何だ、智恵、そんなことまで話したの?」  もっとも、今でも彼女は部屋にいるのだとは言えず、黙っていた。 「完全に誤解なんだけどなあ」 「そうか? 別にオレが意見しても仕方ないけどさ、もしかして、もしかするとテル、その子にいいように転がされたりしてない?」 「女の子に転がされたりするのも、悪い気持はしないだろうけどね」 「冗談抜きでだぞ。智恵ちゃんに聞いたとこだと、どうもその子、まずそうじゃん。お前の付き合ってた子たちに電話かけて、テルとは自分が付き合うことになったから、別れるようにって言ったんだろ。すげえ怖いな。あの智恵ちゃんでさえ、お前の部屋に乗り込まなかったっていうから、その子、相当なもんじゃないの」 「まさか。彼女はそういうタイプじゃないし、彼女がみんなに電話したのだって、例の三人の一人に強制されたからさ。前にも話したろ? 大学の同級生の、和歌子がそうしろって言ったんだ」 「おや、何だかまずいよ、それが。テルらしくない」 「何で」 「お前、普段もっとクールじゃん」 「今だってクールだ」 「どこが。会社出てこないで、そんな若いのに入れ込んで、肩まで持っちゃってさ。大体、電話の話だって、どうせその子の事後報告だろ。智恵ちゃんの言ってることとぜんぜん違うじゃん。オレは、智恵ちゃんのほうを信じるね。彼女こそ、そんな嘘を言うタイプじゃないだろ。正直過ぎて、いっつも問題起こしてるぐらいなんだから」  そうかな。僕は、曖昧な返事しかしなかった。これ以上、何を話しても無駄だと思ったからだ。渋沢もそれを察してか、もう、エミについての話はしなかった。  あとはいつも通り、会社の話題やゲームの話をして、そのまま別れた。いつもなら甘党の彼に付き合って、ドーナツ屋でコーヒーを飲むことが多いのだけれど、その夜は真っ直ぐ帰ったのだった。表面上はどうにか取り繕ったものの、やはりいくらかは、気まずい空気が残っていた。  彼が教えてくれた話が、静電気を帯びたコートの裏地みたいに、しつこくまとわりついた。エミが自分から、あの三人に電話を入れたという話だ。おかげで荻窪に戻る電車の中で一人になると、エミを疑ってみたりもした。だが、それが本当だったとして、何だというのだろう。今さら彼女たちに、すべてあの子にダマされていたんだよ、などと泣きつけるはずもない。大体、三マタをかけていたのは、間違いなく事実だ。  それに、だまされているのだって悪くはないと思い始める。なぜってエミは、少なくとも彼女たちとは違っていたから。僕と同じく、過去にも現在にも未来にも、どんな時制にも属せない人間のようだった。悲しいけれども、それが今の僕には心地いい。だから、もしだまされていたとしても、それは幸福と表裏一体になっているはずだった。  氷漬けになっていたマンモスが、現代に蘇ったとしても、きっと、そのマンモスは、幸せにはなれないだろう。  幸福は、冷たい氷の中にあったのだから。止まった時間の中にあったのだから。  こうしてついに土曜日となった。  誕生日は日曜なのだけど、はっきりとした誕生時刻までは知らないから、日付の変わる零時ということにしていた。だから、残された夜までの時間が、僕にとっての二十代だった。  前夜祭から楽しもうと、その日、二人は少し早い時間に起き出した。それから新宿に出てコーヒーを飲み、朝昼兼用の食事をした。  ウインドウ越しに歩いていく人たちを眺めるエミは、綺麗だった。過去も未来も持たず、ただそこに留まっている感じがよかった。ここに留まっているより方法のないような、その感じが。 「エミ」 「何?」 「これ、ちょっと見てみ」  僕はリュックの中に手を突っ込み、指輪の入っているケースを取り出した。黒いビロードのケースだ。不思議とビロードからは、家を出ていった母親の匂いがする。 「ほら、これ」 「前に見せてもらった指輪だ」 「そう。プロポーズしようとする前に買った指輪だよ。結局、誰に渡すのか、思い出せないままだったけどさ」 「もったいなかったよね」 「まあね。でもこれよかったら、エミにあげるよ。使ってもいいし、いつかどこかで金がなくなりそうなとき、売ってもいい。大した金にはならないだろうけど、役には立つんじゃないかな」  そう言って僕は、テーブルの所々濡れた場所を避けて、指輪を前に差し出した。ジープが水溜りを避けて走るみたいだ。エミは、不審げな顔で指輪を取り上げると、まったく感情など込めず、薬指にはめた。その平坦さが、また僕の目には好ましく映った。  前にも一度見たことがあるが、指輪は恐ろしいぐらいに、ぴったりだった。きつくもなく、ゆるくもない。まるで最初から、彼女のために選んだプレゼントのようだった。  エミはその指を、五月末の日差しに照らし、少しの間目を細めていた。彼女も指輪も共に頼りなげで、今にもからんと砕けてしまいそうに見えた。  それからしばらくの間、彼女が指輪に慣れるまでは、いろんな場面でコツコツいう音が聞えた。指輪が当たる音だ。コーヒーカップを握るときもそうだったし、駅で切符を買うときも、デパートのエレベーターでボタンを押すときもそうだった。爪の伸びた猫が、フローリングの上を歩いているような音。軽快な音だった。そして二人とも、このコツコツいう音でイメージしたのは、スケートリンクだった。ブレードが、固い氷に当たるその音だった。  そこで早速、滑りに行くことにする。どうせ時間はあったし、そもそも、こんな時間からパーティーなどやっていたら、夜には疲れて倒れてしまう。新宿から散歩がてら、バスレーンに沿って歩き、リンクに向かった。そうすればいつか高田馬場に着くだろうし、疲れたら、途中でバスに乗ればいいと思って。  こうして高田馬場に着いた頃は、腹の中の食物もこなれて、スケートをするのにふさわしい身体になっていた。 「ねえ、片山っち」  スケート靴を履き終えた彼女は、床に敷かれたゴムのシートの上に、ブレードのかかとを打ちつけながら言った。  何かをしながら話すという行為は、�これから言うことは、大して重要ではないのです�と表現しているようで、かえって気になる。車の助手席に座り、運転している人の話を聞くときにそっくりだった。 「あのさー。さっき指輪をくれるときにね、いつかどこかでお金に困ったときに、売ってもいいって言ったじゃん」 「ああ」 「それでちょっと思ったんだけど、片山っちもしかして、そろそろ部屋を出てって欲しいなあって考えてた?」 「あ、そういう意味で言ったんじゃないよ」  僕もまた、言いながらスケート靴のかかとを打ちつけた。そうしないと、かかとの部分にスペースが残って足首が不安定になるからだが、その行為にはやはり、�今から言うことはあまり重要ではないけれど、実は重要なのです�という意味を含ませたかったのだろう。 「そんなんじゃないよ。ただ、エミもそろそろ一度ぐらいは帰ったほうがいいと思っただけさ」 「私はもう少しいたいんだけど。片山っち、一人じゃ大変でしょう。結局、あの子たちにだって捨てられたんだしさー、家のこととか困るじゃん」 「一人で何とでもなるさ。前の同棲相手が出ていってから、ずっと一人でいるんだから」 「でも私なら、多少は役に立つよ。家賃、払えない代わりに、すごく働くし」 「嬉しいけど、そういう問題じゃないだろ」 「そうかなあ? 片山っちは、私のことが好きなんだと思ってたけどな」  彼女は、スケート靴をじっと見下ろしながらそう言った。僕は、それに答えることはしなかった。  確かに、彼女のことは好きだと思う。しかし即、恋愛感情に結びつくわけでもなかった。それに、これほど年齢が離れていては、ちっぽけな良心でさえ邪魔をする。だから何も言えずに黙っていたわけなのだけれど、エミはいつまでもその話に固執していた。リンクに出ても、なかなか滑ろうとはしない。ようやく進み出しても、思いは別の場所にあるようだった。 「ねえ片山っち。私、ホント言うとね、家なんてないんだ」  リンクの端をぐずぐず滑りながら、エミが言った。五月も終わりになり、室内リンクの氷も溶けかけている。ブレードは危険なほどよく滑った。それでも彼女は、滑り過ぎる感触を無視して、話を続けていた。 「だから、帰れって言われると、また街をブラブラしないといけなくなるんだよ」 「冗談言うな。それに何も、二度とくるなとか言ってるんじゃないんだし」 「本当だもん」  彼女は、ぐいと僕のTシャツを引っ張る。慣性の法則に従い、氷の上を滑っていた僕の服の裾も、びいんと伸びてしまった。  僕も音《ね》を上げ、リンクの端で一緒に立ち止まった。 「エミ。そういう気持はわかるんだけど、駄目だって」 「ホントだよ。私、帰る場所なんてないんだって。私、もともと家なんてないんだ」 「はい、そこまで」  少しうんざりしてくる。「せっかくきたんだから、もうよせって。それより、滑ろう」 「ねえ片山っち、ちょっと考えてみてよ。私とあなたってすごく趣味が合わない? ゲームして映画観て、よく似たものを食べて。聴く音楽だって似てる。何だか、合い過ぎじゃない?」 「だから何」 「だからさ、もっと私のこと考えてみて」  彼女が言う。「そんな人、現実にいるかな」 「変な言いかたするなよ」 「前に話したでしょ? 片山っち、私にデジャビュ感じたんだよね。それで一緒になって映画の話したじゃん。で、そのとき言ったこと覚えてる? もしかしたら全部、こんなの現実じゃないかもしれないって言ったでしょう? 私が言いたいのは、バーチャル・リアリティの話とかじゃないけど、現実だってそれぐらい頼りないんじゃないの。片山っちがグズグズ言ってるうちに、私は、いなくなっちゃうかもしれないよ。そんなにいつまでも、待ってあげられないんだもん」 「待つって、何だよ」  そんなふうに答えながら、心の半分で、別れた絵美里について考えていた。まるで彼女と口論しているような気持になってきたからだった。あまりに慣れっこになっていたので、当時はもう怒りもしなくなっていたが、いつもこういう会話が続いていた。男と女の問題なのか、それとも僕と絵美里についての話なのか、あごが外れそうになるくらい話し合った。結局、そうしたところで何の答えも出ないのだろうなと予感しながらも、しなくてはいけないことのように続けたものだ。 「待ってもらったって困る」 「ねー、いつまでそんなこと言うつもり? 男らしくないなあ」  エミは、不思議なことを口走った。自信に満ちた言いかただった。 「私、本当に行っちゃうよ。行っちゃったら、困るでしょう?」  言っていることとは反対に、彼女は突然、ぴたりと僕に抱きついてくる。さすがに驚いて身を引きかけたが、氷の上なので、互いのバランスを取っているだけで精一杯だった。 「ちょっと、よせ。人がいるだろ」 「私は、あなたにぴったり合うんだよ」 「エミ、どうしたんだよ。ちょっと変だぞ」 「大丈夫だよ。それとも、みんなの目が気になってる? 私を全部受けとめる自信がないの?」 「何言ってる」 「どうせ、みんな私たちのことなんて興味ないよ。だから、キスしよう」 「ちょ、待てったら、待てよ!」  僕は彼女をぐっと押さえつけ、どうにか落ちつかせようとした。一体、彼女の中で何があったのか、僕にはまったく掴めていなかった。 「待てってば」 「私のこと、好きだよね」 「子供には興味ないんだ。悪いね」  そう言いながらも、なぜか額に汗を掻いている。拭うと、ねっとりとしていた。  この感触もまたデジャビュだ。つい最近、味わった気がする。 「嘘だよ」 「嘘じゃない。今までだって、ちゃんと大人と付き合ってたってこと、きみも知ってるだろ」 「あれはだって、復讐《ヽヽ》相手を探していたからじゃないの。本当はまだ、結婚なんてしたくなかったのにねえ」 「わかったようなこと言うな」 「大体ね、どうして私が子供なのかわかる? どうしてかって言うと、それを片山っちが望んでるからなんだよ。片山っちがそもそも、まだ子供だから」 「エミ、待ってくれよ。どうしたんだ」 「身体は大人になっても、まだ心がついていかないんでしょ? 男として、ちょっと情けないけどさー、仕方ないよね。今時の人だもんね。去勢されてるんだよね」  はたと周りを見まわしてみる。するとスケートリンクの人々が、皆こっちを見ながら滑っているような気がした。なのに決して、僕たちにはぶつからないのだ。 「よーく見て思い出してよ。私、誰に似てる? あの日、出てった彼女にそっくりじゃない? そっくりでしょう?」  ふざけるなと怒鳴りかけた。  しかし口を開けた途端、本当に似ていると思った。前には感じなかったが、言われてみると、とても似ているような気がする。  一体、僕の目はどうなってしまったのだ? 「ま……」 「似てるはず。で、あの人が中学生ぐらいだったら、私みたいな感じだったんじゃない?」 「あっ」 「大体ねえ、彼女に出て行かれたのだって、それじゃん。あなたが子供だったからでしょう? 子供だったから、曖昧な約束しかできなかった。大人になれなかったんだよ。ピーターパンだとか、モラトリアムだとか、夢だとか、どんな言葉を使ってもいいけど結局、大人になれなかったんじゃないの。男はみんなそう。女と違って、大人になれない。それで、絵美里に出て行かれたんでしょう? 彼女は、待てなかったんだよね」 「………」 「愛想つかされたんだよ。で、傷ついたんだよね。母親に捨てられたときとそっくり! 子供なのに捨てられた。心理学者だったら、あなたのこと絶対にマザー・ファッカーって言うんじゃない? それで片山っちは、私みたいな子を欲しがり始めたんだろうな。相手も子供だったら、自分とだって上手くいくかもしれないって」 「………」 「だけどようやく、指輪を渡せたよ。片山っち、よかったよね。少しは大人になれた気がする?」 「何なんだ、一体」 「先にキスしよう。心配しなくていいからさ。その代わり、いろんなことから守ってよ」 「分かったぞ。僕は今、夢を見てるんだな」ますます汗が噴出してくる。「夢を見てるんだ」 「じゃあ、なおさらキスしようってば。夢なんだもん」  エミはそう言うと、顔をぐっと僕に寄せた。  だがそのとき、リンクにいたほとんど全員が、こっちを見つめているのに気づいた。僕が何度も大声を出していたから当然だ。しかもこんな場所で、べったりと身体を寄せ合っていれば、誰でも見る。それにしても、彼らの視線は露骨だった。皆、すっかり呆れたように、しかめ面で首を振っている。それは、僕を不安にさせた。道徳的な間違いを責めているのか、いつまでも大人にならない僕を責めているのか、よくわからないのだ。  まさか、エミにキスをしてやれないことに対して、そんな目を向けてくるのか。 「早くキス。お尻の数字を触ってもいいよ。片山っち、いっつもチラチラ見てたの、知ってるんだ」 「い、いい加減にしろ」  僕はついに我慢できなくなって、彼女を突き飛ばした。  不意のことだったせいで、彼女はそのままうしろに、引っくり返ってしまう。  ごつん、と強い音がした。頭を強打したのだ。リンクの客は、それでもじっと立ち止まったままだった。エミが倒れて頭を打ったことなど、気にも留めていなかった。  僕は慌てて彼女に駆けよろうとした。  だがその瞬間、今度は僕が、氷の上で重心を崩してしまった。額からまっすぐ氷へ落ちてゆく。かろうじて正面衝突は免れたものの、耳の上を氷で強打する音が、自分にも聞えた。この間打ったのと、まったく同じ場所をまた打つなんて、大したまぬけだなと思った。今度は縫う羽目になるか。  隣では、エミが白目をむいて倒れたままだったが、僕も気が遠くなっていく。そしてすぐに、目の前が真っ暗になった。気を失う寸前だ。眠りに落ちる瞬間と同じように、鼻の奥から、微《かす》かに塩素の臭いが漂ってくる。気が遠くなるときは、いつもそうなのだ。  ……誰かが呼んでいる。  おーい。  おーい、大丈夫かい、おーい。  おーい。  そんなこと言われても、知るか。    * * *  ゆっくりと目を開けると、いつか見た男の顔があった。どこかで会ったことのある男だ。そうだ、確か、前にリンクで頭を打ったときに僕を治療してくれた男だ。とすると、ここは治療室だろうか。しかしそこには、さらに二人の男がいた。服装からすると、どうやら救急隊員らしい。  このシーンは一度経験したことを繰り返しているだけのような気がする。 「おい、きみ。大丈夫か」  救急隊員の一人が言った。僕の目を、まるで暗闇を覗き込むような目で見ている。そんな彼の不安に反応するように、頭痛がした。やはり頭を打ったらしい。こめかみの辺りから出血しているのもわかった。どうやらそれで救急隊員は、僕の身体を不用意に動かそうとはしないようだ。脳震盪の恐れがあるのだろう。 「意識はある? 自分の名前、言えますか? 住所は? この指、何本に見えるかな?」  隊員に聞かれた僕は、自分の名前を言い、住所を言い、それから彼の指の数を言った。指を二本出すので、こちらに向かってピースをしているように見えるが、彼はいたって真剣そのものだった。 「見えるね。じゃあ今日の日付は? 曜日がわかる?」  僕は答えた。これも正しく答えたつもりだったが、今度は聞き返された。答えが間違っていたらしい。けれど、正しい答えが知りたいわけでもなかったので、そのままにしておいた。ひどい頭痛がして、それ以外のことに意識がいかない。  やがて僕は担架で運ばれ、救急車に乗せられる羽目になった。そこでもデジャビュを感じたが、そんなはずはない。前にここで転んだときは、リンクの治療室で手当てをしてもらっただけだった。担架に乗せられるのも初めての経験だ。それなのに、強烈な繰り返しを感じていた。  救急車は走り出した。さっき僕を介抱してくれた隊員の一人が、どこかに連絡を取っている。救急車の連絡を、携帯電話で取ることがあるとは知らなかった。 「お兄さん、話できるー?」  病院に連れて行かれるぐらい、ひどく頭を打ったんだろうか。同じ場所を二度も打ったせいで、ダメージがひどくなったのだろうか。 「お兄さん?」 「あい」  はいと言うつもりが、そんな発音になった。いつのまにか鼻血が、鼻の穴をふさいでいたせいだ。 「お兄さん、家族のかたいます? 連絡先、言えますか」 「家族はー、えーと、あれ?」 「免許証とか持ってる? 見ていいですか」 「そうだ。彼女がいたのに」 「彼女いたの? どこに?」 「隣にいたはずなのに」 「ちょっとゴメンナサイ」  僕の話を聞き終わる前に、隊員がまたどこかに電話をかけていた。搬送の途中でそんなことができるということは、どうやら僕は、それほど重症でもないらしい。自分でもそれはわかる。救急車の天井についている機械について、考えることだってできる。 「えーと、それじゃ歳はいくつだったっけ」 「十五歳。今年、十五です」  言ったそばから、それは彼女の年齢だったと気づいて恥ずかしくなった。酔っ払いは、ぜったい自分は酔っていないと言い張るが、意識が曖昧なときも、同じ気持になるらしい。 「じゃなくて、三十歳か。あの、明日が誕生日なんです。それで、誕生パーティーを……」 「免許証だと、誕生日は今月末になってるけど?」 「月末? 今日は何日でしたっけ」  隊員は日付を何気なく言った。が、それは数週間前の、初めてあそこで転んだ日のものだった──冗談かと思ったが、まさかこの男がふざけているはずがない。もちろん僕だって、ふざけてこんなことを言ってるわけじゃない。 「あ、でもあまり考えないほうがいいよ。頭打ったんで、少し混乱してるだけだから。そのうち、戻るからね」 「き、今日は本当にそんな日でしたっけ」 「大丈夫だから、心配しないで。そのうち普通に戻るから、そんなしかめ面で考え込まなくていいよ」  何かがおかしい。病人だと思って、適当なことを言っているような気がする。 「あの、もしも記憶が消えていたとしたら、もう戻ってこないんじゃないでしょうか」 「さあ、人それぞれだろうね」  隊員は、それでも嫌な顔一つせず答えてくれた。 「ところで、家族かどこか連絡できる先はないかな。ご両親でもいいし、兄弟でも友人でも。職場でも」  しかし、長い間かけていない実家の電話番号は、思い出せなくなっていた。もちろん、出ていった母親のところにかけても仕方がないし、番号だって元々知らない。会社も、渋沢の番号も、携帯を見ないとわからない。  ふと、例の三人のことを思い出すが、彼女たちにかけるわけにはいかない。かけても、着信拒否をされるか、ざまーみろと言われるだけだ。そもそも、肝心の電話番号がまったく思い出せなかった。家も携帯も、どちらも浮かばなかった。 「思いつきません」 「じゃあ、さっき言ってた彼女さんは? 電話番号わかる?」 「……わかりません」 「そうかあ」 「彼女の格好なら覚えてるんですけど。お尻に大きな白い数字が印刷された、変わったジーンズをはいていて。エビスジーンズわかります? ああいう、白いペンキで書かれてるんですよ。それで名前は、ええと」 「あ、無理しなくていいって。あとで思い出すだろうから」  だんだん、自分が不安になってきた。何だか、いろんなことを思い出せないのだ。さっきまで一緒にスケートを滑っていた、彼女の名前が思い出せなかった。これだけ悪いと、手術になるのだろうか。それとも、パニックを起こしているだけか。頭の痛みと吐き気のせいで、よく考えることもできなくなっていた。  いっそのこと、まるで思い出せないと、正直に言ってしまおうか。僕は、記憶喪失ですか? などと、泣きつこうか。いや、泣きつくなんてみっともない。大体、全部忘れているわけじゃない。それに、もしすべて忘れてしまったなんて言ったら、どこか違う場所に入れられてしまうかもしれない。  僕が、僕である証明は、電話番号にかかっていた。  番号を思い出せ。番号を思い出せ……。  そのとき僕の頭に、数字がぴんと浮かんだ。まるで、|初夏の青い空に浮かんだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|気の早い入道雲《ヽヽヽヽヽヽヽ》みたいに、それはくっきりとしていた。 「あっ、そうだ! ××××─××××でした。そこにかけてください」 「××××─××××ね。どなたかな?」 「思い出せないんですけど、ええと」  そのとき一瞬、救急車が停止する。信号機で停まるはずはないから、渋滞に巻き込まれたのだろう。あるいは、踏み切りにひっかかったのか。ともかく車は、僕の状態を気遣うように、ゆっくりと停まった。  なかなか上手い運転だなと思ったら、運転席にいた人が振り返る。どうやら隊員は三人いたようだ。見習いの隊員かしらと思って、ちらと見上げてみたら、車を運転していたのは女性だった。  と言うよりも、ほとんど中学生に見えるような、若い女の子だった。  僕は、この救急車を運転している隊員に、どこかで会っているような気がした。とても大事な人じゃないかと思った。さっきの番号でさえ、もしかすると彼女の電話番号ではないのかと不安になってくる。あるいは彼女の、ジーンズにペイントされていた番号だったとか。  が、そんなはずがない。馬鹿な話だ。運転している彼女に会ったのは初めてなのだから。転んで頭を打ち、記憶がかなり混乱しているようだ。 「お兄さん、あんまり頭動かさないでね」 「あ、あの」 「まあ、心配しないで。あとは、お医者さんが上手くやってくれるよ」  何となく不安を感じつつ、僕はそのままおとなしくすることにした。吐き気のせいで、これ以上質問する気分になれなかったのだ。  やがて救急車が再び走り出す。僕は相変わらず、さっき隊員に告げた番号について考えている。そのとき、救急車のタイヤが、ことんと音をたてた。何かの上を通過したらしい。踏み切りだとかそういうものらしかったが、寝ているので、よくわからなかった。ただ、その小さな衝撃で、小さな記憶もひとつ戻ってきた。あるいは、外れていた回線のソケットが、上手くはまったようだった。  さっきの番号は、別れた絵美里の携帯電話の番号だった!  我ながら、こんなとき一番に思い出すなど夢にも思わなかったが、きっとそうだ。どうしてこうもはっきりと、覚えていたのだろう。ともかく、そこにかけられるのは、まずいと思った。  が、すぐさまそれを、また隊員に説明するのも面倒に感じた。第一、どうせつながらないだろう。家を出ていったあとだって全然つながらなかったのだから。  でももし、つながったらどうする? こんな馬鹿な状況を、どう説明すればいい?  いや待て。僕は誰かにプロポーズしようとしていなかったか? それでどうして、彼女の電話番号なんか思い出したんだ?  どうして、こんなにはっきりと覚えてるんだ? 「あの、すいません」  頭痛をこらえながら、何とかそう言った。 「あの、さっきの番号ですけど、もしかしたら、知らない人かもしれません。そうじゃなくても、もう使っていない番号かもしれなくて、それに、それに……」 「そこまで心配しなくていいよ。つながるから、大丈夫。そしてきっと、知ってる人だよ」  しかし隊員は、すべてわかっているような顔でもって言った。 「心配しないで、もうすぐだから」  そして、いささか強過ぎる力で、僕をぐっと押さえつけた。  もはや何を話すのも面倒になり、目を閉じた。絵美里が電話を受けなければ、それで済むことだ。  問題は、彼女が病院にやってきてしまった場合のことだった。そして万が一にでも、再会してしまった場合、万が一にでも現実になるときのことを考えてみよう。どうせ他には、覚えている名前も何もない。だから絵美里がきてしまったとき、彼女に説明できる事柄を考えよう。話すべき挨拶についても。そのときにふさわしい表情のことも。  もうすぐ三十になるんだよとでも言って、自虐的に笑ってみようか。その顔が、いくらか大人っぽく映るといいのだけれど。  彼女もそのときだけは、少しだけ笑ってくれるといい。呆れて苦笑するだけでも、僕の頭痛は、治まることだろう。  ついでに、僕の頭にさっと息を吹きかけて欲しい。熱い吐息が必要だ。  過去にも現在にも、そして未来にも所属できずにいる男。マンモスのように氷漬けになった男を、その息で溶かし出してくれ。  単行本 二〇〇三年十月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十八年十一月十日刊