TITLE : 法  廷 弁護士たちの孤独な闘い 〈底 本〉文春文庫 平成五年四月十日刊 (C) Chihiro Isa 2000  〈お断り〉 本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。 また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉 本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。 目  次 山本老・雪冤に賭けた五十五年 殺人犯にされた一六五七日 ある少年の罪と罰 千葉・市原市奇々怪々の殺人事件 あ と が き 章名をクリックするとその文章が表示されます。 法  廷 弁護士たちの孤独な闘い 山本老・雪冤《せつえん》に賭けた五十五年 1  一九八四年(昭和五十九年)九月下旬、残暑がまだ厳しい真昼日の広島駅頭の雑踏の中に、一人の小柄な老人が降り立った。プラットホームを歩く足取りは年の割りにはしっかりしていたが、その両脚は異様ともいえるほど弓なりに曲がって、歩行はやはり不自由そうであった。老人は痩せて小柄に見えたが、脚が曲がっていなかった若い頃はむしろ長身のうちに数えられただろう。  老人はこの日、広島市から北に約百キロ、島根県との県境に近い山村、比婆《ひば》郡高野町《たかのちよう》大字奥門田《おくもんでん》から朝早く二時間もバスに揺られ、芸備線の三次《みよし》駅で更に鈍行列車に乗り継いで、老いの身もいとわず遠路を出向いてきてくれたのである。  老人の名前は山本久雄という。明治三十二年四月生まれだから、もう八十五歳の高齢になる。  駅頭には、広島テレビ局の上重五郎《うえしげごろう》記者が出迎えていた。老人は丁寧に頭を下げ、礼を言った。出迎えに対する礼ではあったが、彼は深くこの青年に感謝していた。上重が作ったテレビのドキュメンタリー番組「雪冤《せつえん》」によって、「山本老事件」は広く世に知られ、過去五十五年間にわたる無実の主張と、弛《たゆ》まざる熱意に、再審を開始すべしとの世論も漸く高まりを見せてきたからである。  現に僕自身もその番組を見て、改めて事件を見直し、弁護団の真摯《しんし》な取り組み方に心を惹かれた。その感動がなければ、多忙な佐藤博史弁護士と語らって、二人はこの日広島を訪れることにはならなかっただろう。  機中、僕たちは、日弁連人権擁護委員会、山本事件委員会委員長の真部勉弁護士から手渡された判決書の写しと、古い新聞のコピーを読み返してきた。訴訟記録がすべて原爆で焼失してしまっているので、残念ながら資料は非常に乏しい。  事件が起きたのは、今からもう五十五年も昔の昭和三年十一月二十四日、広島県比婆郡下高野山村(現高野町)大字奥門田一〇四八番地の山本家でのことである。  今も一年の三分の一は雪に閉ざされる寂しい山村だが、事件当日は、別に雪模様でもなく雪も積もっていないのどかな一日だったという。  その日の午後四時ころ、農作業から帰った久雄の妻ヨシ子(仮名)は、養母フサノ(五十六歳)が炊事場の飯びつに頭を突っ込んで死んでいるのを発見した。  ヨシ子の知らせで、家から歩いて十五、六分離れた茅野で茅《かや》を刈っていた久雄は急いで家に帰り、フサノを抱き起こし、近所の者と一緒に介抱したが、フサノは既にこと切れていた。  フサノの死体を診断した近くの芳野秀造医師は、 「脳充血で頭に血が上り苦しいので水槽の側に行き、杓で頭に水をかけようとしていた時、前へ倒れて死亡したのだろう」  と、説明した。  しかし、フサノの死因に警察は疑問を持った。  事件から三日たった十一月二十七日付け中国新聞(夕刊)は、次のように報じた。 《原因怪しい 老婆の死 三次検事局から 浜口検事出張》 二十四日午後三時三十分ごろ比婆郡下高野山村字奥門田山本フサノ(五六)は自宅の炊事場でなんらの外傷もないのに死亡していたのをほど経って養子の久雄夫婦が発見ただちに庄原著へ届け出たので同署長、香川医師、三次検事局から浜口検事出張、死体を解剖に付したが死因はまだ不明である。(庄原発)  事件を報じる第一報で多少記述に不正確な点もあるが、以後事件は次第に養母殺しの様相を呈していく。 十一月二十八日、芸備日日新聞(朝刊)の見出し。 《下高野山の老婆怪死は 絞殺された事判明 犯人容疑者は養子夫婦二人 前日喧《けん》かした形跡》 十一月二十九日、中国新聞(朝刊) 《高野山の養母殺し 原因は金? 慾? 養子久雄は否認するが 妻女は一部自白》 十二月二日、朝日新聞(朝刊) 《養子が扼殺《やくさつ》 二十九日に自白 下高野山村の養母殺し》 二十四日午後三時ごろ比婆郡下高野山村字奥門田山本フサノ(五六)が家人不在中、同家台所で死亡していた事件は他殺と決定し所轄庄原署で同家の養子山本久雄(三〇)を容疑者として引続き取調中のところ、二十九日夜に至り久雄が貸金貸借上のことが因で口論をなし扼殺したことを自白したので浜口検事は一応の取調べを行った上直ちに起訴した。  フサノの死体解剖の結果、死因は扼殺とされ、久雄は逮捕、尊属殺人罪で起訴されたのである。  公判廷で久雄は犯行を強く否認したが、広島地方裁判所はほとんど反証を許さず、昭和五年一月二十四日、有罪を認定して無期懲役を言い渡し、広島控訴院も原判決を支持して控訴を棄却した。  控訴審判決が認定した久雄の「犯行」は次の通りである。 「被告人山本久雄は、飯島赫《かく》三郎の三男で、十六歳で山本喜久太郎の養子嘉多太郎、その妻フサノのさらに養子となり、以来同居していたものである。  その後、養父嘉多太郎が先ず死亡し、ついで事件の年の六月養祖父喜久太郎が死亡した。その結果、久雄が家督相続して戸主になった。  しかし、金銭の出納は主としてフサノが司《つかさど》り、久雄の所有となった約四十通の借用証書も自分で保管して容易に渡してくれる様子もなかった。  その折柄、たまたま久雄は、十一月二十三日舛原《ますはら》雅量から貸し金の元利返済をうけたが、フサノ不在のため借用証書を返すことができなかった。  そこで、翌二十四日正午ごろ、久雄は昼食の際、フサノに事情を話して今後外出する時は自分に証書を預けておいてほしい、また貸し金整理の必要があるので証書類を引き渡してくれないかと要求した。しかし、フサノは承諾しなかったため、久雄は不愉快に思った。  食後、久雄は茅刈りにいったん自宅を出たが、フサノから柿の木に梯子《はしご》を掛けておいてもらいたいと頼まれていたことに気付いて自宅に引き返した。  そこでまたフサノと証書の保管のことで口論となり、久雄は憤りのあまり台所のいろりの傍らで手でフサノの頸部を突いた。するとフサノが仰向けに倒れたので、久雄は後難を恐れ、むしろフサノを殺した方がよいと考えて右手の親指とその他の指で頸部をしめて窒息死させた」  久雄はこの控訴審判決に対し、上告したが、昭和六年四月八日、大審院はこれを棄却、控訴院判決が確定した。  岡山刑務所にて受刑、昭和二十年十一月仮出獄を許された。  受刑中から、本人は無実を訴え、再審への執念を持ち続けたが、再審の要件である新証拠を得られぬまま、また原爆による記録の焼失、頼みとする弁護人の死亡などにより、再審請求を果たすことができなかった。  昭和五十五年、山本老人は漸く判決書の謄本を入手、五十八年には有罪認定の最も有力な証拠となった香川鑑定書が発見され、再審請求が具体化した。  昭和五十八年九月九日、山本老人は五十五年にわたる悲願であった再審請求を広島高等裁判所に申し立てた。  八十五歳という高齢を考えれば、恐らくは老人にとって最初にして最後の再審請求になるであろう。 2  飛行場から直行した僕たち二人は、いつもそこで弁護団会議が開かれるという市内中区上幟《かみのぼり》町にある藤堂弁護士の事務所の一室で、先程からじっと山本老人の訴えに耳を傾けていた。  同席したのは、藤堂真二《とうどうしんじ》、原田香留夫《はらだかるお》、胡田《えびすだ》敢、笹木《ささき》和義ら弁護団の錚々《そうそう》たるメンバーで、高橋文恵弁護士にも声をかけたが、都合で出られないとのことであった。  事件の取材をしたいと電話したのはつい二日ほど前のことなのに、原田弁護士と上重記者はちゃんと事件当事者である山本老人に連絡をとり、広島まで出向いてくるよう手配してくれていた。滞在時日が限られている僕たちへの配慮であろうが、老人の年齢と遠路を思うとき、やはり心苦しさを感じた。  弁護団は、僕たちにメモ類を含め事件の記録をすべて見せてくれ、山本老人にいかなる類の質問をすることも許してくれた。それに何より、こうした事件に巻き込まれてしまった人にありがちな、押し付けがましいところが山本老人にはまるでなく、かえって彼の方こそ僕たちが東京から広島へ取材に出掛けてきたことに感謝している風だったのである。  老人が「事件」について語らなければ、彼はどこから見てもごく平凡な、好々爺にすぎなかった。 「それはもう、人間に対する扱いではありませんでした。犬畜生にだって、あのようにひどい仕打ちはできません」  その時の警察の拷問がもとで曲がってしまったという両脚に目をやり、老人は悔しそうに唇をかんだ。語り口は静かではあったが、患っている顔面神経痛のせいばかりでなく、顔を何度も小刻みに痙攣《けいれん》させた。  老人は時折、不自由そうに左眼を細めた。左眼は眼底出血を起こし、ほとんど視力が失われているという。その上、右顔面は筋痙攣があり、そのため左眼がひきつったように小さく見える。  甲種合格になるほど健康であったまだ二十九歳の山本青年が、養母殺しの容疑で逮捕状もなくいきなり警察へ引っ張られたのは、昭和三年十一月二十六日の午後、養母の葬式の最中のことであった。  先に取り調べを受けていた妻ヨシ子が最初の証言を変えたことが、直接嫌疑をかけられる原因となった。 「新市《しんいち》で一晩泊められ、翌日庄原警察署の留置場へぶち込まれました。母殺しを白状せいと責められて、やってはおりませんと申しますと、それこそ踏んだり、蹴ったりのひどい取り調べが始まりました。裏の道場の床に蕎麦《そば》の実を撒き、これには刺《とげ》がありますので、その上に正座させられると大変痛いのです。後ろ手に竹刀《しない》を二本挟んで縛られ、両膝の間にも二本の竹刀を入れられ、苦しさに何度も悲鳴をあげました。しかし、そのうちに気が遠くなりますと、水をぶっかけられては、また拷問が繰り返されるのです」  十一月二十九日、田原弘義刑事が日暮れてから、留置場へやってきた。中は真っ暗で、この日久雄は身体に水をぶっかけられて、寒さにぶるぶる震えていた。 「天皇陛下が御位につかれ、同時に法律も改正になり、罪なき者でも書類で処罰できることになった」  田原は言いつつ、一冊の本を暗闇の中で見せ、また一綴りの書類をかざした。 「今晩、三次より検事さまがこられるが、この書類をこのまま出せば、尊属殺人でお前たちは夫婦共に死刑に処せられてしまう。田舎の者が法律が改正になっているのを知らず、そのまま処刑になってはいかにもかわいそうである」  田原はそう言って、久雄を説いた。 「警察官は人民保護のためにある。決してお前をだますのではない。自分が教えてやるように言えば、死刑も免れ、家へ帰ることもできる。近頃、自動車の運転手が人を轢《ひ》き殺す意思なく過失で殺してしまうことがあるが、あれと同じように、山本も母を殺す意思はなく、過失致死ということに自分がしてやる」  一日も早く家へ帰りたい一心と、死刑の恐ろしさに、久雄は田原の言葉に従った。  この辺りの話は恐らく過去、何度も記憶をたどり、繰り返してきたものであろう。自身で記した再審請求申立書の文面とほとんど変わらない。  以下、その文面に従う。 「(田原刑事が)何か母と争いを生じたことにして、過失して殺したようにせねばならんが、母が貸付書類をお前が出してくれと言うたら、母が出さんと言われて争いとなり田舎ではイロリには火カキとか火バシがあると言うことだが、あるかと言われますのでありますと言いましたら、成るべく大きいものがよいから、母が火カキの方がよかろう、母が火カキを持ってお前を叩《たた》こうとされたから、お前様が左の手で受けて右手でおしたら、半死されたので、やむを得ず首をしめて殺して水《ママ》事場へ抱いて行き、置いて茅刈りに行ったことにすれば、母を殺す意志《ママ》はない、と法律上はなる、そこで自動車の運転手が人を過失して殺したと同じことになるので、と言われますから……」 「仮釈放になったのは、終戦直後のことでしたね?」  話題を変えて、僕が質問した。 「左様でございます。昭和二十年十一月十二日でありました」  無期懲役の判決を下された山本青年が、逮捕されてからほぼ十六、七年、判決確定から十四年と六カ月服役しただけで、仮出獄できたのは、彼の服役態度が模範的なものだったからに違いない。  刑法では、無期懲役の刑を受けた場合、十年の服役をすれば仮出獄できることになっているが(刑法二八条)、実際には二十年近く服役した後でないと、なかなか仮出獄は許されない。そのことは、狭山事件の石川一雄さん、丸生事件の李得賢さんの例からも明らかだ。石川さんは、逮捕以来二十年以上獄中にあるのに、今なお仮出獄を許されず、李さんは、逮捕から実に二十二年も経って漸く仮出獄を果たしている。 「原爆にやられた、焼け野原の広島をごらんになって、どんな感慨を持たれましたか?」 「戦争は恐ろしいと思いました。暴力もいけないと感じました」 「焦土の中に立たれて、すぐ再審請求にかかられたわけですね?」 「いえ、そのことは、服役中も脳裏を去りませんでした。上告が棄却されてすぐ、弁護士の森保《もりやす》裕昌先生が面会にきてくださり、近い将来にきっと再審の機会があるから、と諭《さと》してくださいました」  山本青年が配属されたのは、初犯の囚人が行く軍手織りの工場であった。だが、彼は無実の罪で刑務所に入れられたと思うと残念でならず、他囚と一緒に作業する気にもなれぬまま、人の五分の一程度の仕事しかできなかった。そのため、部長や看守から度々責められた。  三年ほどして、永山刑務所長から呼び出された。 「なぜ、仕事をしないのか?」 「私は、なんの罪も犯してはおらんのです」  久雄は事件の経過を泣き泣き二時間もかかって話し、無実であることを訴えたところ、所長も共に泣いたという。 「裁判官は神や仏ではない。間違う事もある」彼は諭した。「もし、お前が本当に無実であるなら、必ず光明がさす日がやってくる。そのことを信じて、真面目に働きなさい」  以来、山本青年は熱心に仕事をするようになり、模範囚になった。  獄中にあっても、久雄が再審をあきらめていなかった証左に、久雄の兄広美が検察官にあてた次のような上申書が残されている。  度々、下門田駐在所ヨリ請求ニ相成リマシタル山本久雄ノ事件ノ費用、今尚支払ハズ居リマスガ、実ハ本人久雄ヨリ通知ガ有リマシタガ是非共再審裁判ヲ仰ギタキ旨ガ有リマスカラ、再審ノ確定判決ガ有ル迄、是非御待チ被《クダ》下《サル》様御願申上マス 昭和九年六月二十八日 比婆郡下高野山村奥門田    山本広美  控訴院検事局御中  当時の山本家の資産から言えば、訴訟費用を負担することに問題はなかったが、久雄は兄に再審によって自分の無実が明らかになるまでその支払いを拒むよう頼み、拒むことによって自己の無実の証しとしたのだ。  昭和二十年、敗戦焦土の中へ出所した久雄は、直ちに行動を開始した。広島市に出て旧弁護人らを訪ねたが、最も熱心に弁護にあたってくれた森保弁護士は爆死しており、裁判記録もすべて原爆によって焼失してしまっていた。  事件は旧刑事訴訟法の時代のことだから、山本老事件には旧刑訴が適用されるが、再審に関する規定は現在とほぼ同じで、再審が認められるためには、新規で明白な証拠が必要とされる。請求書に原判決の謄本、証拠書類、証拠物を添えて再審を申し立てねばならないのも同じであった。  だが、刑事記録が皆無ときては、手のつけようがなく、久雄はまたしても途方にくれた。 「高橋文恵先生にお会いになられたのは、いつ頃だったのですか?」  佐藤弁護士が、山本老人に尋ねた。 「はい、昭和五十八年六月の初めでありました。加藤新一さんの冤罪事件に対し、再審開始を決定なされた裁判長さまが弁護士さんになられていると聞いて、安佐区安古市《やすふるいち》のお宅をお訪ねしたわけです」 「そして、高橋先生が山本さんを原田先生に紹介なされたのですね?」 「はい、ご親切な紹介状を書いていただいて、わざわざバスの停留所まで見送ってくださいました」 「その時には、判決をもう手に入れていたのですね?」佐藤弁護士が尋ねた。「山本さんが裁判所へ行かれて探したのですか?」 「いや、まず岡山の刑務所へ行ったのです」原田弁護士が引き取って答えた。「そちらで一旦は断られるのですが、特別に判決書の番号と年月日を教えてもらったのです。彼の日記にその辺りは詳しく書いてあります」 「判決が手に入り、さて次は問題の鑑定書ですが」僕が原田弁護士に質問した。「これはどのようにして、入手されたのですか?」 「岡山大学やあちこちに手は回してありました。だが、発見はふとした偶然からです。広島高裁の保存資料の中に、古色蒼然とした香川卓二鑑定書集というのがあったのを思い出しましてね、それを丹念に当たってみたのです。なかなか見つかりませんでしたが、とうとうフサノの遺体解剖鑑定書を発見したのです。絶望的と思われていただけに、嬉しかったですね」  これはまだ、五十八年七月のことである。原田弁護士は直ちにこの鑑定書を二人の法医学者に検討を依頼した。 (1)東京慈恵会医科大学法医学教室 医学博士      内藤道興 鑑定依頼 昭和五十八年七月八日 鑑定終了 同年八月二十九日 (2)広島大学医学部名誉教授 医学博士      小林宏志 鑑定依頼 昭和五十八年八月四日 鑑定終了   同年十月二十四日  フサノの死因を他殺とする証拠は、香川鑑定しか存在せず、物証はなかった。久雄本人の自白はあっても、香川鑑定の内容に疑問が生ずれば、直ちにそれは確定判決に対する疑義となる。 3  翌朝、朝食もそこそこに、佐藤弁護士と僕は広島駅へ車を飛ばした。  二人とも目が赤い。昨夜は原田先生といっしょに夕食を済ませたあと、早々とホテルヘ引き揚げるつもりでいたところ、上重記者の梯子《はしご》酒に付き合わされてしまった。しかし、事件について、いろいろ参考になる話を聞かせてもらったから、有意義な夜更かしではあった。 「お年寄りに遠路をご足労いただいて、気の毒だったなあ」  朝早く広島を立たれるという山本老人を思い出して、僕が言うと、 「じゃあ、見送ってあげたらいかがですか?」  上重記者が勧めた。  佐藤君も賛成するので、新しい提案を出した。 「よし、そうしよう。ついでに、高野町の家まで見送ることにしないか。もともと僕たちが足を運ぶべきだったんだ。そうしておかないと、気が済まないよ。車中で、もう少し山本さんの話を聞いておきたいし、事件の起きた高野町ってどんなところか、一度は見ておくべきだものね」  佐藤君がちらりと僕の顔を見たが、ともかくも僕たちの高野町行きはそれで決定してしまったのである。  芸備線のプラットホームヘ駆け込むと、三次行きの列車はすでに入っていた。  佐藤君が山本老人を探しに行ったが、五分もしないうちに戻ってきた。 「すぐ、わかりましたよ。『司法の犯罪』を読んでいるご老人なんて、あまり見掛けませんからね」  僕が書いたその本は、昨日差し上げたものだった。  山本老人は、三次行きの鈍行に乗っておられたので、ちょうどホームの反対側に入ってきた急行に移っていただく。  乗り込むとき、バッグを手にした数名のゴルファーたちの後ろになった。 「今日は日曜日だったんだなあ」  佐藤君が羨ましそうにぼやいた。彼はゴルフを始めたばかりで、毎朝練習に出掛けるくらい熱心だ。  売店で酒とつまみを買って席へ戻ると、佐藤君がシャツの袖を引っ張り、網棚の上のゴルフ・バッグのひとつを顎《あご》で指した。名札がちらりと見えた。 「あの名前、見覚えありませんか?」 「さあ、まさか、プロじゃないだろう?」  冗談を言いつつ、よく見ると、〈干場義秋〉とある。 「どこかで見掛けた名前だなあ、誰だっけ?」首を傾《かし》げながら、思わず僕が声をあげてしまった。「あ、裁判長だ! 広島高裁の、山本事件の審理を担当してる……」 「いいな、ゴルフができて」快晴の空を車窓から見上げて、佐藤君がぼやいた。「僕は出張しても、日当ももらえず、飛行機賃だって自弁かも知れないんだからな」 「そんな次元の低いことを言うなよ」そっぼを向いて、僕が呟《つぶや》いた。「年末に税金でとられるより、ずっとこちらの方が有意義じゃないか」 「山本老事件のような難問をかかえていても」佐藤君が自分を慰めるように言った。「裁判官も日曜日にはゴルフを楽しむぐらいの余裕があってもいいな」  酒好きの佐藤弁護士が山本老人にしきりに酒を勧めるのを見やりつつ、僕は不思議な感慨にとらわれていた。  この事件の取材にかかる前から、これは〈第二の加藤老事件〉だという感じがしていた。  戦前の事件で、戦後再審開始が認められ、冤罪が明らかになった例は、これまでに吉田石松さん、金森健士さん、加藤新一さんの三つのケースしかない。  吉田老事件とは、大正二年八月に名古屋で発生した強盗殺人事件で、吉田さんほか二名が起訴され、二名の〈共犯者〉の自白により、吉田さんが主犯とされて、大正三年十一月大審院で上告が棄却され、無期懲役が確定、戦前に二度、戦後五度の再審請求ののち、昭和三十八年二月、事件から五十年後に無罪判決が言い渡された事件である。彼は〈昭和の岩窟王〉と呼ばれた。  金森老事件は、昭和十六年朝鮮の釜山で発生した工場放火事件で、隣接工場の職工監督だった金森さんが起訴された。昭和十七年、京城高等法院で上告が棄却され、懲役十五年の刑が確定、事件から二十八年後に再審請求が認められ、昭和四十五年一月、二十九年ぶりに無罪が言い渡された。  最後の加藤老事件だが、これは大正四年七月山口県で発生した炭焼き人夫殺人事件で、加藤さんほか一名が起訴され、やはりこれも共犯者の自白により、加藤さんが主犯とされ、大正五年十一月、大審院で上告が棄却され、無期懲役が確定、戦後六度の再審請求ののち、昭和五十二年七月、事件から実に六十二年経って無罪が言い渡された事件である。  この加藤老事件に、山本老事件はなぜか似通った部分が多い。  加藤老事件でも資料は非常に乏しく、再審開始を決定した高橋文恵裁判長は、 「新聞が大いに役立った」  と述べておられるが、この山本老事件も訴訟記録が欠如しているため、当時の新聞記事が参考になる。  加藤老人が戦後初めて自己の無実を訴えて再審請求(第一次)をしたのは、昭和三十八年十一月、事件から数えてほぼ半世紀、四十八年後のことだったのもそうであるし、加藤老人の再審開始が認められたのが、八十五歳のときだったというのも、山本老事件について再審開始が六十年に認められれば、全く同じということになる。それが一九八五年と重なるのも奇《く》しき偶然だ。  そればかりか、山本老事件の弁護団には、加藤老事件の弁護人だった藤堂真二、原田香留夫の両弁護士がいて、しかも加藤老事件で裁判長として再審開始決定を下《くだ》したのち、退官して弁護士となった高橋文恵氏が弁護団に加わっている。  そして、現在、山本老事件の審理を担当している広島高等裁判所の裁判官が、加藤老事件で「再審無罪」の判決を下した干場義秋裁判官、陪席が横川武男裁判官とあっては、誰しも加藤老事件との不思議な縁を感じないわけにはいかない。 「判決では、お母さんと借用証書のことで言い争いがあったことになっていますが」佐藤君が山本老人に質問した。「それは、本当のことですか?」 「いいえ、そげなことは、ありませんでした」老人が強く否定した。「お母さんは字をよう読まれんかったんで、証書のことは全部私《わし》が任されとったんですから」  二人の話を聞きながら、僕は思った。  これは判決も認定しているのだが、養父嘉多太郎がまず死に、事件の年の六月、養祖父喜久太郎が死亡し、その家督は久雄が相続したのだから、戦後の相続とは異なり、山本家の財産は全て久雄のものとなっている。フサノにはなんらの権利もなかったわけだ。  問題の借用証書についても同様で、仮にフサノが保管していたのだとしても、法律的には久雄の貸し金だったことになる。  現に事件の前日、借金の返済にきた舛原雅量という人から金を受けとったのは、久雄自身であった。  また、判決は、久雄が梯子を忘れたことを思い出して家へ帰ったところ、借用証書のことでフサノと再び口論となり、久雄が憤怒のあまりフサノの頸部を手で突き、フサノが仰向けに倒れたので、 「後難《コウナン》ヲ恐レ寧《ムシ》ロ之《コレ》ヲ殺害スルニ如《シ》カズト為《ナ》シ」  フサノを殺した方がよいと考え、扼殺したと認定している。  しかし、口論のあげく、突き倒したフサノを見て慌てて助け起こしたが、フサノに詰《なじ》られカッとしてのどをしめたというのなら分からないでもないが、倒れたフサノを見て殺してしまう方がよいと思ったというのは、人間の行動としてどう考えても不可解だ。  勿論、犯罪の動機というものは、後から見ればどうにも馬鹿馬鹿しく、ごく普通の判断力さえあればそこまでする必要はなかったということが多いのだろうが、それにしてもこの場合はなにか作り事めいて、非常に不自然に感じられる。  昨日の話では、事件の動機は田原刑事の作り話だということだった。それならば、納得できる。 4  広島から三次までかなりの距離だが、事件が起きた下高野山村(現高野町)は三次から更にタクシーで一時間以上もかかる。  町を出ると人家はすぐ疎《まば》らになり、やがて人里らしいものは全く視界から消え、行けども行けども重畳《ちようじよう》たる山並ばかりが続く。道は文字通り羊腸、車の幅より狭いのではないかと思えるほど細い。  途中、一台の車とも行き交わず、人ひとり、犬一匹にも出会わなかった。  高野町はそうした静かな山の中に今も昔もひっそりとたたずみ、山本家はそのはずれにあり、周囲には数戸の農家があるだけだ。  山本久雄の実父は、その奥門田で獣医師をしていた飯島赫三郎で、久雄は第五子、三男である。  当時、山本家は七十五頭もの牛を飼育し、その一部は他へ預けて飼育したりしており、獣医だった赫三郎は山本家と親しくしていた関係から、養子縁組の話が出た。  久雄は尋常小学校六年を修了後、山本嘉多太郎と妻フサノの養子として山本家に入り、高等科を卒業したのち入籍した。  養父母ともに文盲、無筆であったため、久雄は山本家へ養子になると間もなく会計その他一切の文書を扱うようになった。  二十歳のとき勧められて結婚、二十一歳、甲種合格、松江六十三連隊に入隊、妻スギヨは妊娠しており、生まれたのが島根県に嫁している内尾ハルエである。  軍隊では成績よく、伍長勤務上等兵となり、二十三歳のとき除隊した。  帰郷して間もなく、スギヨは妊娠するが、悪阻《つわり》のため実家へ帰っている間に、養祖父が久雄に無断で離縁してしまった。  スギヨは当時山村には珍しい高等女学校出で、頭はよかったが百姓仕事ができないため、養祖父に嫌われた。  久雄はやむなくスギヨと子供を連れて、当時上等兵以上で除隊になったものは無試験で台湾の巡査になれたので、こっそり台湾へ行こうと準備していたところ、露見してしまう。実家の両親に呼び出されて説教され、諦めて離縁に同意する。  この時、養祖父は千円を銀行に預けて久雄の長女ハルエのために残している。無理に母親から引き離したことを気に病んだものであろう。  山本家は資産家で預金もかなりあり、事件当時、千円ほどの貸し金があった。  大正十五年、久雄は宇土原ヨシ子と再婚した。ヨシ子は翌年シズエを生んだが、その後は育児が主で農業は専《もつぱ》ら久雄の仕事となった。久雄の農作業は忙しく、昼の疲れで夜も早く寝ることが多かった。  久雄が二十九歳のとき、予備兵として福山の連隊に行っている間、ヨシ子は近所の亀山信之と関係ができた。その年の六月、養祖父が死亡したが、病床にあるときも介抱を十分せず、その上浮気して昼間は居眠りが多く、仕事をしないので、養母は嫌った。こんな嫁は離婚してくれと久雄に言い、嫁姑の間は悪かった。この件については、内尾ハルエも同様に述べている。  ハルエはヨシ子に実の子と差別され、弁当のご飯が腐って食べられず、学校の帰りに川へ捨てたこともあり、腹のすいた思いをさせられたという。  事件当時の家族構成は、義母フサノ(五十六)、久雄(二十九)、ヨシ子(二十四)、ハルエ(八)、シズエ(一歳九カ月)、ヨシ子は二番目の子供忠正を妊娠中であった。 (以上、久雄の履歴は、医師久保摂二作成の〈再審事件本人山本久雄精神鑑定書〉に依る)  フサノの死体が発見された昭和三年当時の建物は、昭和五十四年五月の失火で全焼し、現存しない。しかし、僕たちが訪ねたとき、事件現場の屋敷跡の地面には白色ビニールの紐が張られ、当時の建物の構造が復元されていた。  現場に立った山本老人は、現在居宅に改造してある焼け残った土蔵の外壁に立て掛けられていた竹の束の中から何本かを選んで、地面に突き刺しはじめた。竹はほぼニメートルに切り揃えられていて、先が割られ紙が差し込んであり、紙の一枚一枚に「死亡場所(飯びつのあった所)」「イロリ」などと書かれている。  老人は、重要と思われる場所を選び出し、その場所に立てているのだ。  これらは、昭和五十八年八月に弁護団が現場検証を行った際、老人自身が用意したもので、その結果は、藤堂弁護士によって、「検証調書」として裁判所に提出されているが、図らずも、僕たちは、その検証の結果を自身の目で確かめようとしているわけだ。  山本老人は、説明をはじめた。 5 「お母さんのフサノさんを発見された場所は、どこでしたか?」  いきなり、僕が尋ねた。  山本老人は、図(1)に見るような、飯櫃《めしびつ》のあった位置を指差した。   図(1)    飯櫃は三升炊きといわれる大きなもので、乾燥を防ぐために水が張ってあったという。 「その中に頭を突っ込んで、足を上にして死んでおられたのですね」 「はい、その通りです」老人が答えた。「腰より下は、着物がまくれておりました」  図(2)は、その時の状態を、山本老自身が描いたものである。   図(2)     佐藤弁護士が頻りに気にしていたのは、フサノの「死亡場所」が、果たして家の前を通る県道から見えるかどうかであった。  上告審判決に引かれた森保《もりやす》弁護人の上告趣意には、次のような行《くだり》がある。 「事件当日、建物の入口の戸が開いたままであったことには争いがなく、証拠上も明瞭である。この入口は普通の建物の入口よりも広く、かつ県道から数間《けん》しか離れていないばかりか、フサノの死亡場所たる炊事場は入口からまっすぐ奥に入った突き当たりにあった。  だから、入口の戸が開いていれば、フサノが倒れていた場所は、県道から正視できるはずで、しかもこの県道は村人の往来が頻繁である。  白昼、表の戸を開放して、かかる大罪が行われるはずがない」  更に、森保弁護人は、 「『場所的に犯行不能』の抗弁がなされ、この点に関する立証の申し立てがあった場合には、必ずこれを採用して犯罪が行われ得るような状況なのか否かを検証せずにおくことは許されない」  と論じて、弁護人からなされた現場検証の請求を控訴審が却下したのは不当だと主張していた。  山本家の入口が開いていたのかどうかについて、証拠は残っていない。事件当日は十一月下旬という秋も終わりの時期だったから、戸が開け放しになっていたということに疑問がないではないが、事件当時の写真からも、雪はまだ降っていなかったことははっきりしている。  森保弁護人が、この点は検察官も争っておらず証拠上も明瞭、と論じているから、入口の戸は開いていたものと考えてよかろう。恐らくは、第一発見者のヨシ子の供述も、この点については一貫していたに違いない。  しかし、この森保弁護人の上告趣意に対する大審院の答えは、例によって、 「論旨ハ原審ノ職権ニ属スル証拠調ノ限度ノ裁量ヲ批難スルニ帰シ其ノ理由ナシ」  という紋切り型の簡単なものであった。  この点を佐藤弁護士と僕は、自分たちの目で確かめたかったのだ。  建物があった場所は、県道から見ると一メートルほど高い位置にあるが、県道と山本家の入口を結ぶ小道があった場所に立つと、フサノの「死亡場所」は正《まさ》しく正面に見えた。  しかも、道路の反対側にはよその家があり、山本家の入口の真向かいには広いガラス窓さえある。 「事件当時も、あの家はありました」山本老人が説明した。「窓が今とは違って障子張りになっておりましたが」  当時の建物が焼失している現在、フサノの死亡場所が確実に県道からまる見えであったと断定はできない。しかし、弁護人が裁判所に現場検証を請求し、「場所的に犯行不能」とまで論じているのだから、裁判所が弁護人の請求を容れて現場検証したところ、その場の状況が弁護人の指摘とは全く違っていたなどということは、まずありえないだろう。  だとすれば、久雄が囲炉裏《いろり》端でフサノを殺害した後、フサノが炊事場で転倒して死亡したように見せ掛けるため、死体を炊事場へ運び、フサノの頭を飯櫃に突っ込んでおいたという確定判決が引用する久雄の自白には、やはり疑問が生じる。  図(2)に見るように、そもそもフサノが発見された時の状況は、事故死を装ったにしてはあまりに不自然で、それだけでも久雄の自白には疑問が持たれる。  そのうえ、死体をわざわざ向かいの家の窓からよく見通せて県道からもまる見えの場所に運び、入口を開けたまま久雄が家を出たというのは、どう考えてもおかしい。 「お母さんが大変だ、とヨシ子さんが知らせにきたのは、山本さんが茅《かや》を刈っている時でしたね」佐藤君が質問をはじめた。「午後何時頃だったか、覚えていらっしゃいますか?」 「はい、三時半から四時頃だろうと思います。シズエを背負うて、久雄さん、久雄さん、お母さんが炊事場に突っ込んでおられるけえ、早《はよ》う戻りんさい、言《ゆ》うてきました」 「シズエさんは、確かおばあちゃんと家におったんですね」 「はい」 「家へ飛ぶようにして帰り、お母さんはどういう格好をしておられたんですか?」 「飯櫃の中にはまり込んで、足がはたかって、広がっておったんです。お母さん、お母さん言うて引き起こし、近所の人の助けをかりて上の部屋へ寝かせたんです。どこか温もりがありゃあせんか言われて、私が右手をお母さんの脇の下に入れました。少し温もりがあったですよ。灸《きゆう》をすえたら生き戻る言われて、私はお母さんを抱えて、鼻の下に灸をすえてもらいました。でも、効き目がなかったです」 「つかぬことをうかがいますが、お母さんはその時、下《しも》の方を濡らしておられませんでしたか?」 「いいえ、全然濡れておりませんでした」 「脱糞はしていなかった?」 「わざわざ調べやしませんが、ちょっとこのぐらいの糞だと思うのですが、出かかっておったんです」 「血は?」 「はい、しばらくしよったら、口が開きました。それから黒い血が鼻からも口からも出おりました。近所の十七里さんが被っておった手ぬぐいで拭いてくれましたが、足らんので、私が鉢巻きしとったそれでもってまた拭いて、そしたら今度は顎《あご》が落ちてしもうたのです。その時に私は断腸の思いがしました。私がおったら、死にはしなかった、と思いましたよ」 「ヨシ子さんは、フサノさんが飯櫃の中に頭を突っ込んで、足を真上にした格好になっているのを見ながら、助け起こそうともしないで、そのまま遠く離れた茅刈り場にいる山本さんのところへ知らせにきたわけですか?」 「そうですよ。それで私も後で、なぜ呼びにくる前に、お前が助けんかったんか言うて叱ったんです」 「ハルエさんは当時、小学校の三年生、まだ学校から帰っていなかったんだけれど、シズエさんはおばあちゃんとずっと一緒だったわけでしょう? フサノさんが子守りしていたんだから……」 「どうしとったんでしょうかのう。私を呼びにきた時、ヨシ子はシズエを背負うておりました」 「そりゃ大変ですね。茅野までかなりの距離があるし、奥さんは確か妊娠八カ月でしたよね」  二人の話を聴きながら、僕は判決についての疑問を一層深めていかざるを得なかった。シズエの名が出てきたから、思い出したのだが、判決の事実認定が正しいとすれば、久雄はすでに物心のつきはじめたわが子シズエの目の前で惨劇を演じたことになる。いかに逆上したとしても、わが子の顔を見れば、平静をとり戻すのが普通の親である。まして、その眼前でおばあちゃんを殺し、よちよち歩きのかわいいわが子を死体と一緒にその場に残し、なに食わぬ顔で仕事に戻れるものだろうか?  すでにふれたように、実はヨシ子自身がフサノ殺害の嫌疑で、当初身柄を拘束された。  その時、ヨシ子は初め、 「夫久雄は私が止めようとしたのに、火箸を振るって私の腕を殴り、ついに母フサノを扼殺《やくさつ》した」  として、彼女の目の前で久雄がフサノを殺害したように供述したことが当時の新聞報道から明らかだが、その後、ヨシ子は供述を変え、 「夫久雄と一緒に家を出、母フサノの死は自分が不在の間の出来事だ」  とした。  このヨシ子の供述によって、嫌疑が久雄にかかったのであるが、久雄の「自白」に先行したヨシ子の供述に、不自然な変遷があることは動かし得ない重要な事実だろう。  かつて加藤老事件の再審開始決定の裁判長で、いま山本老事件の弁護団の一員である高橋文恵弁護士は、当初共犯の嫌疑を受けていたヨシ子が、「犯行現場」に居合わせていたと供述しながら、その後自分が全く知らない間に事件が起きたと述べるようになったことの不自然さを指摘し、ヨシ子の供述には信用性がないと論じている。  事件当日の久雄とヨシ子の行動について、僕たちはなおも質問を続けた。 「午前中は、二人とも畑へ出ていたのですね。お昼を食べに夫婦揃って帰ったのですか?」 「いいえ、別々に帰り、ヨシ子の方が三十分か一時間ほど遅かったと思います」 「昼食は、山本さんはフサノさんと一緒にとられたのですか?」 「いいえ、私が先に食べました」 「お母さんとその時、どんな話をしたのですか?」 「三次《みよし》で奥歯を四本も抜かれた話です。帰りの道で気分が悪うなられて、三次の尾関の北に薬《くすり》風呂があります。そこへ行って、二晩泊られ、それから帰りかけて、途中まためまい《ヽヽヽ》がして、宮田という親類の家に一晩泊めてもらわれたそうです。二里半ほど離れておりますが、バスではそう遠いところではありません」 「家へ帰りたかったはずなのに、よほど気分が悪く、我慢できなかったというわけですね。では、その話のほかに、借用証書のことや、金を返済にきた舛原《ますはら》という人のことなどは話しませんでしたか?」 「いいえ、話したことはありません」 「まあ、その話をしたにせよ、しないにせよ、フサノさんとその件で揉めたことはなかったですか?」 「そのようなことは全然、ありません」 「ヨシ子さんが遅れて帰り、シズエさんは寝ていたのですか?」 「お母さんに食事をさせてもらっておりました」 「昼食を終えて、山本さんはどうなさったのですか?」 「ヨシ子に飯がすんだら、牛を牧場へ連れて行って放しておけと言うて、家を出ました」 「一人で出たんですか?」 「はい、一人で出ました」 「ヨシ子さんは残り、何をしてたんですか?」 「子供に乳を飲ませ、お母さんと食事をして、その後片付けをして、牛を牧場へ放して、それから……」 「フサノさんは何をしておられたんですか?」 「子守りをしたり、座敷を掃《は》いたり、でも私が出た留守ですから、よくはわかりません」  次に、僕たちは、山本老人に判決に出てくる柿の木のあった場所まで案内してもらうことにした。  判決によれば、昼食後、茅を刈るために一旦家を出たが、フサノから柿の木に梯子《はしご》を掛けておくように言われていたのを思い出し、自宅に引き返したところ、フサノと借用証書のことで再び口論となり、犯行に及んだというあの柿の木だ。  老人は、屋敷跡から県道へ出て五十メートルも進まないうちに、 「ここでお母さんから、柿の木に梯子を掛けておくよう言われたことを思い出し、家へ引き返したのであります」  と説明した。  ちょうど栗本さんという家の横の小屋前である。控訴審判決にも、「栗本浅蔵方木小屋ノ所ニ来リシ際母ヨリ柿ノ木ニ梯子ヲ掛ケテ呉レト言ハレシ事ヲ思出シ」という久雄の公判廷供述が信用し得るものとして引用されている。自宅を出、僅かばかり歩いたところで忘れ物に気付いた、といった感じの場所である。 「梯子が置いてあった場所は、母屋の裏側の水車小屋のあったところです」  老人から、既に説明を受けていたので、屋敷跡へ引き返すことはしなかったが、ちょっと戻りさえすれば、梯子を取ってくることに何の苦もないだろうと思われた。  そして、老人が言うように、梯子を持ち出すためにわざわざ家の中に入る必要など全くなく、むしろ入口を迂回して建物の裏側に回るしかないことがよく分かる。  梯子を取りに一度家に戻ったことは、久雄自身の認めるところで、判決もその通り事実を認定しているのだが、それでは何故梯子を取りに帰った久雄がわざわざ家の中に入り、しかも囲炉裏端で——ということは、久雄は履いていた草鞋《わらじ》を脱いだことを意味する——フサノと口論することになったのか、まるで理解できない。  もし梯子を忘れたことに気付いた場所が家からかなり離れたところで、家にもう一度戻るのも苦労で、帰る途中フサノとのやりとりを思い出す時間的余裕があったというのならともかく、家を出たとたんに忘れ物に気付き、気付くのが早くてよかったと誰しも思うような距離なのだ。 「梯子を取りに戻りましたが、私は家の中に入ってはおりません」  と言う山本老人の説明の方がはるかに自然でよく分かる。  自白は、ここでも不自然なのである。  柿の木があった場所にも、老人に案内してもらった。家から県道を南に約二百五十メートル進み、脇道を右に二十メートルほど入った山裾の斜面に老人は立った。  柿の木は今はもうなくなっていて、辺りは草に覆われているだけだが、弁護団の現場検証の際、老人が写真撮影のために立てた竹の棒が残っていた。 「ここに梯子を立て掛けて、それから茅を刈りに行ったのです」  そもそもフサノが久雄に柿の木に梯子を掛けておくよう頼んだのは、孫のハルエが学校から帰ったらシズエも連れて三人で柿の実を取りに行くつもりだったからだ。  そこには平和な農家の様子が窺《うかが》われて、親を殺すなどという憎悪や確執があったようには到底思えない。久雄がフサノを殺した後、そのフサノに言われたようにわざわざ梯子を担いで柿の木に立て掛けておいたというのも納得できない。  死んだフサノが孫と柿の実を取りに行くことなどあり得ない。久雄がフサノを計画的に殺害し、終始冷静だったというのならともかく、あくまで偶発的事件というのが判決の認定である。  思わず養母を殺してしまった後、家へ戻ってきたのは養母から頼まれた梯子を持ち出すためだったことを思い出し、わざわざ家の裏に回って梯子を取り出し、軽いものではなかったろうその梯子を担いで二百五十メートルも離れた場所まで運んでおいた、などということが一体あるのだろうか?  老人に一つ聞きにくいことを尋ねた。 「事件後四年して、奥さんのヨシ子さんを離縁されていますね。原因は不貞行為ということですが、いつ頃からそんなことがあったのですか?」 「私か福山の連隊へ入隊しとったのは昭和三年の春ですが、その留守中、農作業の手伝いに雇った近所の亀山という男と出来とるという噂があり、除隊してきた私にお母さんが注意してくれました」 「山本さんが帰ってきても、二人の関係は続いていたわけ——勿論フサノさんの死亡前の話ですが」 「はい、あれが夜は遊んで、昼は仕事もしないで居眠りばかりしとるもんで、お母さんに嫌われたんです。お祖父《じい》さんの看病もろくにせんで……」 「現場を押さえたことがあったのですか?」 「ありました。一度はのう、私は昼間の畑仕事が激しいもんで、夜は疲れてすぐに休みました。ある夜、隣を見るとヨシ子がおらんもんで、外へ出て捜しますと、裏の土蔵の蔭で男と二人で一緒におりますんじゃ。とっつかまえて、ぶん殴ってやりましたがの。もう、せん言うて約束しますので、その時は許したんです。しかし、それからも男に会うのを止めんかったんです」 「また、現場を押さえたんですか?」 「はい、昼、畑仕事を別々にしとったら、あれの姿が見えません。付近を捜して、小屋で二人して会うとるのを捕まえました」 「なぜ、その時、離婚を考えなかったのですか?」 「考えはしましたがの、シズエがおりますし、妊娠もしとったことじゃけん、我慢したんですわ」  以上の事情を確かめて、初めて僕は納得がいった。この事実を考えることなしに、ヨシ子の不可解な行動と、夫を罪に陥れた供述の意味を分析することはできないのである。 6  山本老事件の刑事記録は原爆で全て焼失してしまっていることはすでに触れた。だから記録によってその捜査過程を辿《たど》ることは現在では不可能だが、しかし当時の新聞記事によって、捜査がどのような手順で進展して行ったのか読み取ることができる。そして、事件が典型的な見込み捜査から端を発していることに気付く。  では、裁判の過程はどうだったのだろう。これまた新聞記事に頼るしかないが、無味乾燥な訴訟記録よりも、法廷内の描写が生き生きとしていて、興味をそそられる部分が多い。再審請求の重要な証拠となっている報道記事でもある。  事件が起こった年の昭和三年十月一日、わが国初の陪審法が施行され、久雄の「自白」が報じられた同じ日の新聞には、別の二件の陪審裁判の記事があり、その内の一つに久雄の弁護に当たった森保弁護人の名が見える。 「なぜ、陪審を辞退されたのですか?」  僕が最も興味をもった質問に、山本老人はいともあっさり答えた。 「森保先生が水田先生といろいろ相談され、やはり今までどおり、裁判官による裁判の方がよかろうということになったのです」  弁護士たちは初め、刑事弁護人として公判廷に臨むに当たり、請求陪審を希望することが裁判官に不信を表明することになりはしないか懸念を持ったのだろうか。当時はまだまだ官尊民卑の風潮が強く、専門の裁判官の判断を重んじる傾向が弁護士たちの考えの中にもあったことは否めない。  僕は自身の陪審員体験と重ね合わせて記事を読み進んでいった。  以下、中国新聞および芸備日日新聞の関連記事を要約する。  昭和四年十月四日  久雄は、広島地方裁判所三次支部で予審終結、公判に付される。  十一月二十日 《陪審公判開廷》  午前十一時から、公判準備が広島地方裁判所小玉裁判長係り、樫田検事立ち会いのもとに開廷された。  久雄は殺意ならびに事実をあくまで否定したので、陪審公判に付されることになった。  十二月三日  小玉裁判長、樫田検事ら実地検証。浜口検事、渡辺判事、同伴。    昭和五年一月十二日 《陪審辞退》  久雄が陪審を辞退したので、普通公判となる。  昭和五年一月十四日 《養母殺し事件 意外に展開 犯罪事実を一切否認 巡査の教唆と申し立て》  午前十一時から、第一回公判が開かれる。  審理に際し、久雄は被疑事実をほとんど否認し、特に殺害の事実はもちろん、その直前における口論も否定した。 「警察官ならびに検事、予審判事に供述した事実は、庄原署の田原巡査の教唆にのせられて全く虚妄のことを述べたのであって、フサノは自分の外出中病気のため頓死《とんし》したものである」  と、興奮しきった口調で主張した。  午後零時三十五分、休憩に入り、引き続き証人二十一名の取り調べが二日間にわたって行われることになった。 「事件は有罪か無罪かの大問題に化し、十五日は問題の田原巡査も出廷するが広島地裁稀有《けう》のものとして注目されるに至った」  午後二時から、ヨシ子ほか十一名の証人尋問がはじまる。午後八時頃、閉廷。  一月十五日 《証言は多く不利 夜に入って一《ひと》先ず閉廷》  午前九時半から、第二回公判が開廷。  被告人の実姉下岡カツコは、平素真面目な被告が親殺しなど大それた所為をなすはずがない、と興奮し、言葉も乱れがちに主張した。  ヨシ子は、すこぶる冷淡な態度をもって、被告に不利な事実を述べた。  正午、休憩。  いよいよ、被告が警察から早く帰してもらいたいばかりに虚偽の自白を教唆されたという、問題の庄原署高等係り田原巡査が出廷する。 「被告は三日目にいたり、発心悔悟して、信仰する金比羅さんに祈りつつ、自発的にすべてを自白したのであって、私は尋問に際して虚言を弄《ろう》したり殊更《ことさら》な誘導尋問をした覚えは絶対にない」  と、述べるや被告は顔面を真っ赤にして立ち上がり、 「嘘です、嘘です、裁判長殿、私はこの田原という男の口車に乗せられて、一年二カ月というものをこのように無実の罪の嫌疑をうけているのです」  と、喚《わめ》けば、傍聴席からも被告の肉親らしいものが、これに和する有様に、裁判長は法廷整理のために休憩を宣した。  午後四時、再開。  平瀬司法主任は徹頭徹尾、 「覚えぬ、忘れた」  で、押し通す。  ついで、橘高《きつたか》正広庄原署長が被告の検挙当時からの模様を詳細に述べて、殺害直前の状態について、被告に不利な証言をする。  その他、奥門田《おくもんでん》駐在の羽田巡査ら数名の証言があり、午後六時、証人調べを打ち切る。  一月十六日 《高野山養母殺し被告に 無期懲役の求刑 証人に関する痛い弁論》  第三回公判、午後一時半から、続行。 「久雄は頑強に犯行事実を否認するも、事件当時の検挙、捜査の関係者たる橘高庄原署長をはじめ、二十一名の多くを証人として取り調べ、しかし各証人の証言はまちまちで、一致せず、事件は無罪か極刑かの両極端になった」  森保弁護人から「被告人のたっての希望であるから」として死体の再鑑定の申請と庄原署留置中同房だった者の証人申請がなされたが、裁判長は合議の結果いずれも却下。  直ちに樫田検事の論告に入った。 「被告は被告外出中の頓死だろうと極力主張するが、他殺と認むべき根拠がある。  すなわち、事件は山本家一個の家庭内で起こされた事件であり、フサノの怪死は昼食後一時間以内に起こったものである。  二十人に余る証人の証言はことごとく被告に不利である。  田原巡査の教唆に乗せられたというが、被告はかねて巡査を志望したほど教育も常識も備えているし、村でも旦那筋として思想も相当かたまっていたものだから、田原巡査の見えすいた詐術に乗せられるはずがない。  被告の性格から言っても、被告は平素粗暴性に富み、かつて姦通被疑事件で妻ヨシ子を殴打した事実もある。  計画的な殺意はなかったとはいえ、被告の激発的な感情から遂に母フサノを殺すという大罪を犯したものである。  故に尊属殺として死刑に処すべきであるが、フサノの被告に対する態度は必ずしも善とはいえず被告に同情すべき点があり、無期懲役を至当とする」  これに対し、森保、木島、水田弁護人は大意次のように弁論した。 「フサノの死は他殺と認められる点はあるが、被告が殺害したものかどうかは疑わしい。  妻ヨシ子の証言を重んずるのは誤りであって、ヨシ子には昭和三年秋ごろ離縁すると広言していた事実があり、かつその証言はすこぶる曖昧であった。  また夫久雄がこのような境遇にあるのに前夜から宮島に行っている事実があり、その素行上とかくの風評がある。  その相手が誰であるかここでは明言しないが、当方は確固たる事実を握っている。  本件は重大な疑獄事件といってよい。  要するに他殺は認めるが、被告に殺害の証拠を認めることは難しく、かえって妻ヨシ子の身辺にこそその疑いをかけられるべきものであろう。  よって、被告に対し、証拠不十分をもって無罪とすべきである」  弁護人の弁論が終わり、午後七時半閉廷。 一月二十四日 《比婆《ひば》の養母殺しに 無期の判決 無実の罪を確信する被告は 直ちに控訴の手続き》  胸の鼓動を高鳴らせて運命いかんと気遣《きづか》っていた久雄は裁判長の口から、 「被告を無期懲役に処す」  との判決を聞くと、瞬間サッと顔色を変え、 「裁判長様どうもいろいろ御厄介かけまして有難うございました。しかし無実の罪ですから直ぐに控訴をいたします」  といとも慇懃《いんぎん》に礼を述べ、とぼとぼと退廷した。  裁判官は、裁判長小玉平八郎、西巻良一、高林茂男の三名である。  山本老事件の一つの特徴は、森保弁護人も指摘したように、「動機なき殺人」ということである。  そして、この動機に関連して、僕は新聞記事から重要な事実を発見した。  判決の認定する動機と、公訴事実に記《しる》された動機とが食い違っているのである。  昭和五年一月十五日の芸備日日の夕刊は、予審終結決定による公訴事実を次のように報じている。 「……一旦自宅に引返したところフサノは久雄を台所の囲炉裏の傍に呼びよせて久雄がフサノを欺いて借用証書を取上げるものの如き口吻を漏らしたので互いに口論となり其際フサノは囲炉裏内の火掻《ひかき》を取上げて久雄に打ち掛ったので久雄は憤《いきどお》りのあまり右手にてこれを受け止めて左手にてフサノの頸部を突いたところ同人が仰向けに倒れたので後難《こうなん》を恐れ……」  つまり公訴事実は久雄から手を出したのではなく、まずフサノが久雄に火掻で殴りかかったというのだ。  検察官が論告で、フサノの久雄に対する態度は必ずしも善とはいえないと論じていたのも、これを前提としたものだったのである。  そして、それは恐らく久雄の「自白」の内容でもあったろう。自分からフサノに手を出したのではなく、フサノの方から先に殴りかかったというのは、警察に事件を殺人ではなく過失致死だったと述べれば、すぐにでも帰宅が許されると諭《さと》されて「自白」した、という久雄が語る取り調べ状況ともよく符合する。  しかし、判決はフサノがまず久雄に殴りかかったという部分を削り落して、事実認定を行った。  確定判決に、久雄が法廷で、 「フサノは内気な、温和な人であった」  と述べたことが信用できる供述として引用してある理由が分からなかったのだが、その謎が今解けた。  恐らく久雄は法廷で自分の「自白」が荒唐無稽の、警察官のでたらめな想像の所産であることの理由の一つとして、フサノはおとなしい人で、自分に口論をしかけたりする人ではなく、いわんや火掻で殴りかかってくるような人ではない、と訴えたのであろう。  判決は、この久雄の供述は、他の証人も語ったであろう生前のフサノの性格からみて、信用できるものと考えた。  しかし、それ故久雄の「自白」は信用できないとしたのではなく、久雄の「自白」からその部分を削って事実を認定するという道を選んだ。  判決が久雄の自白内容を引用するに当たって、フサノが先ず殴りかかったことを引用せず、かえってフサノが内気な温和な人だった旨の久雄の公判廷供述を引用したのは、公訴事実に記された犯行動機の一部を採用しなかったことの言外の表明だったのである。  果たして、これは、正しい事実認定の方法だろうか?  久雄の自白の一部に、それも犯行の動機に関する重要な事実に、信用できないと感じたのであれば、「自白」全体に疑問を持つべきであって、その部分だけをカットして、久雄の方からフサノに手を出したなどという、「自白」にも出ていない、ある意味では全く新しい事実を導いてくるというのは、一体どういうことなのか?  この裁判で気付くことは、非常にスピーディな集中審理であることだ。証人尋問も相当な数を精力的にこなしている。陪審裁判を予定していたためだろうか。歯医者の治療のようにスローな、現在の裁判所のやり方とは比べものにならない。  だが、なぜか、裁判所は久雄が求めたフサノの死体の再鑑定を却下した。  久雄が既に埋葬も終わっていた養母の死体を再鑑定してくれと頼んでいるのに、裁判所は耳を藉《か》そうとはしなかった。  さらに理解し難いのは、弁護人が、フサノの死を「他殺」と認めている点である。その前提に立って久雄を弁護したのでは、素人目にも随分と視点のずれた弁護というしかないではないか。最終的責任は勿論裁判所にあるのだが、弁護人はなぜもっと依頼人である久雄の言い分に耳を傾け、フサノの死因に疑問を持たなかったのだろうか?  もし死体の再鑑定が別の法医学者によって行われていれば、裁判はもっと違った局面を迎えていたかも知れない。  被告のたっての希望であるからと言って、弁護人はなるほど再鑑定の申請はした。しかし、同じ日のその後の弁論で、「他殺は認める」と論じるその姿勢からは、何の熱意も伝わって来ない。  裁判所もおそらくそのように感じ取り、フサノの死因に疑問を抱かなかったのだ。  フサノの死因は病死の要素を伴う事故死だったかも知れない、という配慮を欠いた裁判であったことが、このことからも看取できる。  控訴審でのことだが、重要な証人が現れた。フサノが死亡したのは昼食直後の正午頃とされているが、同じ日の午後二時過ぎ、山本家を訪れてフサノと牛の売買の話をしたという藤丸、宮野、荒木、中島ら四人である。  その時間には久雄が茅刈りをしていたことについては争いがないから、この証言は実に重要だった。  しかし、広島控訴院は、この証人申請も却下した。  昭和五年十二月十九日、控訴審は第六回公判をもって結審。  直ちに論告求刑、弁論が行われ、その一週間後の二十六日、再び久雄に無期懲役の判決が下された。(裁判長和田一次、福田豊市、松南健彦)  昭和六年四月八日、大審院によって上告審判決が下された。(裁判長中西用徳、中尾芳助、草野豹一郎、高瀬幸七郎、岸達也)  きわめて安易かつ迅速に下された判決であった。  これで、山本久雄の刑は確定した。  昭和五十九年十二月二日、山本老事件の再審請求弁護人である原田、真部両弁護士と共に、内藤道興博士にお会いした。佐藤君も勿論一緒だ。折りから新聞は元警視庁警部沢地某による連続強盗殺人事件を大々的に報じていたが、博士はその被害者二人の死体解剖を終えられたばかりであった。  僕は以前から博士の名を存じあげていた。沖縄のある傷害致死事件で、危うく有罪になりかかった被告人が、博士の鑑定で事故死であったことが証明され、無罪になった話に非常な感銘を覚えていたからである。  博士はこの山本老事件でも、香川鑑定による扼殺認定は極めて危険で、病死または事故死の可能性が大きく、「香川鑑定人は法医病理学的所見判定能力に乏しく、随所に検査の欠落、誤認があり、死因を扼殺とすべき合理的説明がない。死体の所見、死体発見時の状況、特にその姿勢などから扼殺はほとんど否定的」と判断された。  扼殺が認定されるには、先ず扼痕《やくこん》(頸部を扼圧《やくあつ》する際指によって頸部に生じる損傷の痕跡)の存在が証明されなければならない。  そして、扼殺も窒息死の一場合であるから、窒息死の三大特徴(血液の暗赤色流動性、内臓諸臓器の鬱血《うつけつ》、粘膜・漿膜下の溢血点)が現れる。しかし、フサノには、扼痕と認められる頸部損傷はなく、顔面、頭部に当然現れるはずの顕著な鬱血も認められなかった。  尿の失禁については、すでに山本老人に確かめてみた。しかも香川医師がフサノの死体を解剖したとき、膀胱内に三〇〇ccもの尿があったというのは、失禁がなかったことを意味する。博士は、「扼殺の場合必ずといってよく大量の失禁が伴うものです」と説明された。  そのほかにも博士はいろいろ香川鑑定の初歩的ミス、基本的欠陥について解説されたが、専門家でない僕に要領よく説明する力はない。要するに、「なんらかの病的素因の存在によって、失神転倒し、飯櫃に逆さにはまり込み、死亡するにいたったと見ることができ、その方がより自然である」との見解なのである。  おもしろい本を読んだ。『法医百話』香川卓二著(令文社)で、古畑種基、樫田忠美らの序文があるが、樫田は山本老事件の立会検事だ。  中に「剖見医と治療医の対立」という話があり、山本老事件のことが書かれているのだが、フサノの発見状況をはじめ事実に反する記述が多い。実際の解剖所見では扼殺となし得ないことを自認したものか、全体的に改竄《かいざん》されている。  吉野という名で出てくる芳野医師はフサノをよく知っており、疾病《しつぺい》による急性死を信じていた彼は扼殺の結論に承服せず、捜査員が泊っていた新市《しんいち》の旅館に香川を訪ねた。橘高署長が浜口検事を呼び、「捜査を妨害するな」と大喝して退去させた話がとくとくとして語られている。検事はその後、芳野医師を医師法違反に問い、重罪犯の捜査を妨げたとして、その主張を抑圧した。  香川鑑定は捜査官に癒着、迎合している致命的欠陥があり、卑屈なまでに隷従し、法医学者として一片の良心も、矜持《きようじ》も認められない、と言う弁護団の非難にも頷《うなず》けるのである。  しかし、この香川鑑定の結論は正当で、再審請求に理由はない、とする検察側の嘱託鑑定書と意見書を作成したのが、三上芳雄岡山大学名誉教授である。  昭和五十九年七月と十月に出廷し、香川鑑定支持の証言をしているが、僕たちがこの三上証言について内藤博士に尋ねると、博士は学者らしい静かな風貌の中にも一瞬怒気を見せ、激しく非難された。  次は、博士の第二補充意見書の結びである。  ——過去において香川鑑定人のみならず、法医学の基礎教育を受けずに慣習的に司法解剖を実施している一部地域の事件に問題を生じ、再鑑定の依頼を受けた事実もある。しかし大学卒業後直ちに法医学教室に入り、専門家の道を長年歩まれ、定年間近の昭和四十年代において指導的立場にあるべき大学教授が、(略)現在功成り名遂げた名誉教授として検察一辺倒の迎合鑑定人たり続けて恥とせぬところを目《ま》の当たりにして、誤判・冤罪の招来する原因において、法医学鑑定に責任の一半はあることを認めざるを得ない。私が(三上鑑定人を)化石的であると酷評したことが一層明確化ならしめられたことを深く悲しむものである。  先に記した確定判決が、山本久雄を有罪とした証拠はみな、供述証拠であり、物的証拠はひとつとしてない。客観的証拠らしいものは香川鑑定書だけである。  ヨシ子の供述には信用がおけず、本人の自白は拷問、詐術によって採取された疑いが強く、任意のものとは到底思えない。残るはただひとつ香川鑑定だが、フサノの死を他殺とする証拠としては全く認め難い。  再審が開始さるべき最も重要、かつ根本的理由は、香川鑑定の非信用性にある。  山本老は今、奥さんの富枝さんと二人だけで静かな生活を送っている。再審請求に反対しないことを条件に、数年前に結婚したという。 「二十二歳も若い奥さんなんて、羨ましいですね」  と言ったら、老人は初めて顔をほころばせた。  幸福そうな老人の生活を見て、僕の胸の痛みはいくらか和らいだが、二人の真の幸せは再審が開始されない限り、やってこないだろう。そして、老人は再審無罪の日を見るまでは、死んでも死にきれないという。  山本老事件は決して難しい事件ではないと思う。単なる「病死の要素を伴う事故死」が犯罪とされただけで、久雄はそのことを最初から訴え続けてきた。  しかし当時の弁護人を含め、「法曹専門家」たちは久雄のこの訴えに耳を藉そうとはしなかった。五十五年を経た現在、あまりにも遅すぎはしたが、その過ちを正すことに躊躇《ちゆうちよ》してはならない。老人の八十五歳という高齢を考えれば、再審を決定すべき機会は今回をおいてまたとない。      *   *   *  山本老事件のその後  昭和六十一年六月五日、山本さんの再審請求の事実調べは、五月二十三、四両日の小片《おがた》重男名誉教授(京都府立医科大・法医学)の証人尋問で大方終わったむね、原田香留夫弁護士が知らせてきた。  山本老が起こした再審請求はこれで二年三カ月にわたる事実調べを終え、広島高裁は弁護、検察側双方に最終意見書を七月二十一日までに求め、再審を開始すべきか否かの決定はようやく今秋にも出る見通しとなった。  同封されていた次の広島集会(昭和五十九年六月二十二日)の報告は、本文より時期は少々遡《さかのぼ》るが、事件の審理の経過を知るのに役立とうかと思う。  昭和五十九年四月二十五、二十六両日、広島高裁刑事一部(干場《ほしば》義秋裁判長)の、弁護側証人内藤道興・当時慈恵会医大助教授=現藤田学園保健衛生大学教授=に対する出張尋問が東京高裁で行われた。  内藤氏は、原爆での焼失を免れていて昨年夏に発見された確定判決の唯一の証拠である故香川卓二医師の解剖鑑定書の誤りを再鑑定しており、「法医病理学的素養に問題がある香川鑑定による扼殺認定は極めて危険。病死又は事故死の可能性が大きい」と証言した。同氏が五十六年——半世紀以上——前の警察法医の欠陥を諄々と説いたことには重みがあった。自らの戦後一貫して東大講師・警視庁嘱託医・法務綜合研究所講師等として、殺人など変死の現場に行って死体観察したことが約千二百回あり、警察大学校でも十五年にわたって教え、とくに変死体の現場鑑識をする全国の刑事調査官には制度発足当初から指導にあたっているとの、現場法医学の分野での第一人者としての立場と、鑑識の歴史を体現してのものであったからである。  七月三、四両日、これに対し検察側が申請した三上芳雄岡山大学名誉教授の、高裁岡山支部での出張尋問が行われた。加藤老、徳島両事件で、いずれも学問的信頼性を否定された同氏が、再び検察官支持の結論を先に決めて適当に書いたに過ぎない再鑑定書の内容をくり返した。とくに見逃せないのは、同氏は、かつて加藤老再審の証言で、この事件に無関係の香川医師などのことを「法医学をやる以上は専門を学ばにゃいかんと、学会にも出てきてもらわにゃいかんと言うんですけれども学会にも顔を出さない、ただ地方の警察と一緒に解剖をしているという態度なもんですから、ひとつもそのテクニックも向上しません」と指摘しておきながら、今回は全面的に昭和三年の瑕疵《かし》だらけの香川鑑定を支持するという無節操な御都合主義ぶりである。事実、大正九年に法医学の講座もない私立熊本医専を卒えた香川氏は、広島逓信病院の勤務医の傍ら警察嘱託医として、素養もないまま昭和三年当時まで約五十件の解剖を手がけ、自から「或るときは検事の署名捺印せる被疑者の氏名のない逮捕状を預かって出かけたこともあった」とか「何時とはなしに覚えて検察事務官の様になった」などと臆面もなく述懐しているのである(法務省刑事局昭和二十九年刊、検察資料「法医学夜話」)。同氏は、のちの八海事件第一次差戻し控訴審で、被害者の死亡時刻を、弁護人から「食後二時間で胃を去るという文献を使いながら、食後三〜四時間と鑑定したのはオカしいではないですか」と問われると、「それは文献で、三時間や四時間、五時間にしようが、こっちの自由です、鑑定人の勝手です」(第六一回公判調書のまま)と答えたり、最高裁判決が指摘した現場灰の上の明瞭な足紋を、真犯人吉岡と、久永被告とのどちらかわからぬとの検察迎合鑑定を出して、弁護人から吉岡の足紋と完全に一致するうえ久永のとは全部ちがっている写真を示して訂正をせまられても断乎として自説を固執した、「不思議な鑑定人」として正木ひろし氏によって紹介されている(「世界」昭和三十四年三月号「八海事件の七不思議」)。  七月二十四、二十六両日、さらに九月十三日と、山本さんの本人尋問を終えた。山本家の資産状況等と養母殺害の動機がなく、死因は他殺でないこと。急死時刻のアリバイ。取調べでの拷問と詐術。公判、受刑。出所後の再審を願った一貫した行動等々が、裁判長に向って泣きながら訴えられた。  十月十六日、三上氏に対する反対尋問の続行予定。  弁護側、検察側双方とも、第二、第三の鑑定をも用意している。帰趨《きすう》は、客観的に、加藤老事件の場合と全く同一であるといえる。  弁護団には、広島弁護士会から多数参加し、加藤老事件元主任弁護人藤堂真二氏や、とくに同事件の再審開始を決定した元広島高裁裁判長の高橋文恵氏が、先頭に立たれて、山本さんの質問も両氏で大部分を担当されるという熱意を示している。山本さんが十数年間受刑した岡山弁護士会からも十数名参加し、なお請求当初から、大阪弁護士会からは庄原市出身の児玉憲夫氏と、八海事件の源流を探りたいとの佐々木静子氏らが参加している。戦前の冤罪が現代に生きて告発されている山本事件が、ひろい共感を呼び、請求人の生あるうちに無罪の判決を得させるために、法曹の良心が験《た》めされている。  六月二十二日、広島市で、日弁連と中国弁連、広島弁護士会共催で、再審と代用監獄の廃止を考える集いが開かれた。  免田栄さんはじめ、故加藤老の長女キクエさん、徳島ラジオ商殺し事件の故冨士茂子さんの継承請求人の須木久江さんと渡辺さんなど、再審関係者が集まり、街頭での宣伝、前夜の懇談から参加し、盛会の集いでは山本さんと共にそれぞれ訴えた。寺田熊雄参議院議員はじめ、中国地方各県弁護士会の拘禁二法対策委員など会員や、幅広い市民の参加のなかで、岡秀明日弁連副会長があいさつで山本さんを激励し、さながら山本さん支援の集会ともなった。  日弁連の山本老事件委員会からは、真部委員長が再審法の改正を訴えた。 (原田香留夫記)      *   *   *  日弁連「再審通信」45号(昭和六十一年三月二十五日)  山本久雄さんを有罪とする証拠は、拷問と詐術によって作られた同人の自白調書と、被害者フサノの死因を扼殺であるとする香川鑑定書だけである。記録が一切存在しないこの事件で、香川鑑定書の占めるウエイトは大きい。広島高裁で行われている再審請求事件では、専ら香川鑑定書の信用性をめぐって証拠調べが行われてきた。  香川鑑定書は信用できないとする弁護側申請の東京慈恵会医科大学内藤道興助教授(当時)と、それを信用できるとする検察側申請の岡山大学三上芳雄名誉教授および請求人を尋問したあと、再審通信39号で報告したように、裁判所は最終意見書の提出期限を昭和五十九年十一月二十六日と指定した。しかし、その後、高裁資料室にある香川鑑定書集の附図から、被害者フサノの遺体写真に該当すると思われる写真六枚が発見された。そして、右の期日は取消された。  弁護側は、この写真によって内藤証言等(鑑定を含む。以下同じ)に影響はないとして同年十二月四日、最終意見書を提出した。  その後の経過は次のとおりである。  (1) 昭和六十年三月十九日、請求人尋問。    右の写真がフサノのものであるかどうかに限ってのもの。同人は「どちらとも言えない」と述べた。  (2) 同年六月二十七日と同年七月二日、弁護側申請の広島大学小林宏志名誉教授尋問。    同氏は既に提出していた鑑定書をもとに、本屍体には扼痕と評価すべき頸部損傷を認め難く、かつ顔面うっ血や失禁等の面からみても扼殺とは考えにくく、相対的には溺死の可能性が強く、その他ショック死等急死の可能性も否定出来ないと述べ、内藤証言等に加えて請求人の主張を裏づけた。  (3) 同年九月、裁判長が定年により退官。  (4) 同年十二月十八、十九日、検察側申請の大阪大学松倉豊治名誉教授の尋問。    一般論として、扼殺の特徴である頸部の表皮剥脱がなくても扼殺はあり、むしろ教科書で示しているような扼痕がある例は少ないと述べ本屍体には扼痕と評価すべき頸部損傷がみられないとする弁護側の証人に反論した。ついで本件について、本屍体の扼痕は左右の両手で加えた為に生じたものであるとして、傷跡と左右の指を対応させて説明した。    後者は、請求人の供述調書に「——(被害者が)西ノ方ヲ頭ニシ左ヲ上ニ為シテ倒レ居リシヲフサノノ後方ヨリ自分ハ右手親指ト其他ノ指トヲ以テフサノノ頸部ヲ力一杯五分間位押シ付ケ……」とあるのを根拠としているが、この表現から両手を使用したとの解釈は出てこない。後述する検察側の東京大学石山夫教授も、その鑑定書で「少なくとも頸部への扼圧作用には両手を使った根拠はなく右手で生じたものと……」と批判しているのである。    検察側の意を酌もうとする余りの「行き過ぎ」の感はいなめない。  (5) 昭和六十一年二月、検察側から前出の石山夫鑑定書提出。  かくて、山本事件はますます鑑定合戦の色彩を濃くしてきた。そして、今後の予定としては、次のように決まっている。  (6) 昭和六十一年四月十一、十二日、前記石山夫教授の尋問。  (7) 同年五月二十三、二十四日、弁護側申請の京都府立医科大学小片重男名誉教授の尋問。  そのあと最終意見書の提出があり、本年中に決定が出されるものと予想される。 (真部勉記)  藤堂先生から手紙をいただいた。次のような文面である。  謹啓  御無沙汰しておりますが、御元気の御様子にて何よりです。  山本老再審事件では特に御支援頂き厚く御礼申し上げます。  その後の資料の一部として意見書等をお届けします。  検察側最後の鑑定証人石山夫東大教授を四月十一、十二日、弁護側最終鑑定証人小片重男博士を五月二十三、二十四日、取調べ、事実調べはこれで終り、あとは双方補足的証拠があれば、六月三十日までに、双方の最終意見書を七月二十一日までに提出するということで、本件再審の審理は終りました。  検察官は山本フサノの写真を数枚提出し、石山鑑定人に写真に基く鑑定書を依頼して提出しております。その写真と石山鑑定書を得て検察官はもう勝ったという気になっているようです。  松倉鑑定といい、石山鑑定といい、二日間の庄原警察署での拷問留置のあいだに予審判事がわざわざ出向して作った山本老の予審(当時の旧刑事訴訟法の制度)での自白調書にある、「後方より右手で抑圧した」との供述を既定の事実としているのです。しかも、松倉氏は左右両手で抑えたと言い、石山氏は右手で抑えたが、抑えた手がねじれて爪跡が複雑になっていると言うのであって、一致しておりません。  本件のような鑑定というものは、被告人が犯行を認めているかどうか、また認めている犯行の方法はどうかということは、被告人の供述を除外して、解剖所見の死体の痕跡により自殺か他殺か、他殺とすればその方法はどうであったかを判断すべきものであり、これは法医学の基本的常識的原則だと思います。石山鑑定は、争われている本人の自白をもとに鑑定している点で学問的に無価値であり、問をもって問に答えたものと考えております。  詳しくは小生、及び各弁護人がその後に提出している意見書を御覧下さい。新しく本件について本を刊行される由ですが、御努力に心から敬意を表します。 敬具  昭和六十一年六月三日 藤堂真二    殺人犯にされた一六五七日 弁護依頼  小堀啓介は、知人を通じて弁護を依頼してきた宇良真栄《うらしんえい》の話に、先程から頷《うなず》き首を傾《かし》げた。  依頼人は最初、傷害で逮捕されたが、被害者がその後死亡したことから傷害致死に容疑を切り換えられ、勾留中の身である。 「事情を話せば、直ぐに釈放してもらえるものだと思っていたのですが」  宇良が力なげに呟《つぶや》いた。 「いくら説明しても、駄目なのです」 「新聞には、あなたが喧嘩の相手を『午前三時ごろ、自宅三階で突き飛ばして、意識不明の重体に陥らせた』とありましたが……」  小堀は警察の発表を一方的に報道する新聞記事をそのまま信じているわけではないが、先ずその点を質《ただ》してみた。 「いいえ違います」  宇良は即座に否定した。 「午前三時には、私はとっくに寝ております。相手を突き飛ばしたり、意識不明に陥らせたなど、全くデタラメです」 「その男が暴れた、というのは、何時頃だったのですか?」 「午後十一時頃、あるいは少し前だったかも知れません」 「相手はかなり酒を飲んでいたのですね?」 「はい、だいぶ酔っている様子でした」 「パトカーに引き渡した時、血など流れてはいなかった——警察官が被害者を職務質問した際、洋服に血が付いていたという状況もなかったのですね?」 「はい、本人は泊港停泊中の漁船の船員だとちゃんと名乗って立ち去ったのを、家族のものも聞いています」  小堀はまた首を傾げた。  酒を飲んでいる時、額や頭にちょっとした傷を創っても、しらふの時よりずっと出血が多いことは、酒場などで喧嘩を見て知っている。彼自身、飲み屋で転んで頭に擦り傷をこしらえ、大した傷でもないのに意外に多く血が吹き出てきたのに驚いた経験がある。そんな時、血止めと消毒に泡盛を吹きかけたものだった。  それに喧嘩といっても、文字通り口喧嘩で、相手が理不尽に殴りかかってきたので癪《しやく》にさわり、二度ばかり殴り返しただけだと、本人も言っている。その程度の軽い傷で、相手が死んでしまうなどということは、常識的には考えられない。致命傷となるような重傷に、パトロール・カーの警察官たちも気付かないほど出血がなかったというのも、どうも腑に落ちない。 「先生、パトカーを呼んだのは、私なんですよ」  依頼人が降って湧いた災難を呪うように言った。 「その私が、どうして殺人犯にならなければいけないんですか?」  事件は昭和五十年十一月十二日の夜、沖縄県那覇市、泊港に近い宇良ビルで起こった。  宇良はいつものように午後八時頃店を閉め、道路脇の階段を上って二階の家族部屋へ行った。  雑貸店を経営している兄は出張で留守中だが、二階には母と妹二人、兄嫁と甥、姪たちが住んでいる。真栄ひとりだけ、ビルの最上階、五階の小部屋に寝泊りしている。ビルといっても、建坪二十五坪のさして大きなものではない。  ささやかな夕餉《ゆうげ》をみんなと一緒に済ませると、宇良は続き部屋になっている応接間のテレビのスイッチをひねって、ソファーに腰をおろした。  一日の仕事を終えると、晩酌をやらない彼の楽しみといえば、あとはテレビぐらいのものである。年はもう三十八になるが、外国航路の船に乗っていたりした関係から、いまもって独身だ。  最初に『夜明けの刑事』を見て、その後『ニュースセンター九時』にチャンネルを切り換えたのだが、朝の早い彼はもうその頃から、うつらうつら居眠りを始めていた。  どのくらいの時間、そうしていたのだろうか。突然、誰かが三階の大蔵《おおくら》魚類の事務所のドアをたたく激しい物音に、宇良は心地よいまどろみを破られた。 「誰だろう、今頃?」  音はなかなか鳴りやまず、板戸だったら壊れてしまいそうな荒っぽいたたき方に、宇良は様子を見に玄関の外へ出た。  三階の踊り場まで、幅一メートルほどのコンクリートの外階段を上って行くと、見知らぬ男が一人、営業部のアルミドアをがんがんたたいているところだった。この辺りでは、どんな急用だろうと、こんなドアのたたき方をする人はいない。 「どうしたんですか?」  声を掛けると、男は振り返り、 「大蔵はいないのか、大蔵を出せ!」  咬み付かんばかりの見幕で、怒鳴った。  顔を見ると、年の頃は三十前後、中肉中背で、酔っている様子だった。言葉遣いと服装から、本土の船乗りだと直ぐに分かった。  宇良はドアのノブをまわしてみたが、鍵がかかっていて、誰も中にいる気配はない。大蔵魚類には、四階も貸しているので、そちらも一応チェックしてみた。便所の電灯がついているほか、そこも真っ暗で、誰もいなかった。  男は後をついてきて、なおもドアをたたこうとした。 「止《や》めてください、もう誰もいませんよ。さあ、帰ってください」 「なに、大蔵はいないだと! なぜ、いないんだ!」  男は大声をあげて宇良にからみ、殴りかかろうとした。  これは手に負えないと思い、一一〇番に電話しようと階段を駆け下りると、妹の律子に三階の踊り場で出会った。 「どうしたの?」 「酔っぱらいさ」 「ほっときなさいよ、真ちゃん」 「ウリガー、ウリティクーンシガ(この人、下りてこないよ)」  宇良が方言で言った。 「パトカー、ユベー(パトカー呼んで)」  律子は急いで二階へ電話をかけに行った。  その間、男が三階へ下りて来たので、宇艮は再び男に早く帰るように言った。 「なにを、きさま!」  男がいきなり、殴り掛かってきた。 「なんでお前はすぐ手を出すのか!」  宇良は頭を殴られてカッとなり、身構えつつ、怒鳴り返した。  二人の罵声に律子が驚いて、階段を駆け上がり、宇良の手を引っ張った。 「よしなさい。相手は酔っているんだから」  妹の言葉に宇良が階段を二、三歩下りかけると、後ろから男がまた肩のあたりを殴った。 「ヤーヤ、シーティンスルバーイ(お前、どうしてもやるというのか)」  宇良も我慢がなりかねて、殴り返した。男は突き飛ばされて、踊り場にしゃがみ込んだが、立ち上がって向かってきた。  宇良は今度は先手をとり、男の右腕と肩を手繰《たぐ》るようにして、その場にねじ伏せた。 「出て行け」  男はそこで初めて怯《ひる》み、抵抗を止めて立ち上がった。見ると、顔から血が少し流れている。宇良はポケットからハンカチをとり出して拭いてやった。  その時、パトカーのサイレンが聞こえてきた。階段を下りて道路脇に立ち、合図しようとすると、車は外人墓地の方へ走り去った。妹と一緒にすぐ泊北岸の通りまで歩いて行き、間もなくパトカーが戻ってきたので、家へ案内した。  男の姿はどこにも見当たらなかった。 「いくつくらいの男ですか?」  警官の問いに、律子が答えた。 「二十八くらいです」  間もなく、付近のバー通りの方から、さっきの男が現れた。 「あの男です」  宇良が警官たちに告げた。  家へ戻ると、母が心配そうに待っていた。 「あの男がまたくるとうるさいから、玄関の鍵をかけて寝なさいよ」  宇良はそう言って、五階の自分の部屋へ上って行き、すぐ床に就いた。  翌朝、午前五時半、まだ暗いうちに宇良は仕入れのために起床して、母を呼びに二階の玄関へ下りて行くと、直ぐそばに昨夜の男が仰向けになって寝ていた。鼾《いびき》をかいていたので、まだ酔っぱらっているのかと思った。 (お巡りさんに連れて行かれたはずだが、なんでまたここへ戻ってきたのかな?)  そう思い、玄関のブザーを鳴らして母に出掛ける合図をし、一階へ下りて行った。  間もなく、母も下りてきて、 「あの男が玄関の前へ寝ているね」  と気味わるそうに話した。  市場で食料や果物を仕入れて帰宅したのは午前七時頃だった。  二階へ行くと、男はまだ先程と同じ格好をして寝ていた。しかし、夜も明けて明るくなっており、よく見ると、男の頭の下の土間に血がいっぱい付いていた。  怪我をしているのだと初めて気付き、宇良は律子を呼んで、急いで一一〇番に電話させた。  最初はパトカーが、続いて救急車がきて、男を運んで行った。  その日の午後、宇良は突然逮捕され、翌十四日の夜、男の死を知らされた。 「あなたが殴った傷がもとで」と、取調官が言った。 「被害者は、『硬膜下出血』で死にました。従って、あなたが『犯人』です」 起 訴  那覇地方検察庁は昭和五十年十二月五日、宇良真栄を起訴した。  起訴状は、次のようなものである。     公訴事実  被告人は、昭和五〇年一一月一二日午後九時四〇分ころ、那覇市泊三丁目一一番地宇良ビル三階大蔵魚類株式会社事務所を訪れた溝淵美那夫(当三〇年)が同事務所入口ドアを激しく叩いたので、職員は不在であるから立ち去るよう注意したところ、同人から後頭部を手で突かれたことに立腹し、同事務所入口前において、同人に対し、その顔面、頭部を両手拳で数回殴打したうえ、首筋及び右手首をつかんで強く引き頭部をコンクリート壁の角に激突させるなどの暴行を加え、よって同人に頭部挫裂創、頭蓋骨骨折等の傷害を負わせ、同月一四日午後五時五〇分ころ、同県具志川市字宮里一九二番地沖縄県立中部病院において、同人をして右傷害に基づく脳硬膜下出血による脳圧迫により死亡するに至らしめたものである。     罪名及び罰条  傷害致死 刑法二〇五条第一項  翌昭和五十一年二月二日、第一回公判が那覇地方裁判所刑事第二部、宮城安理裁判長係りで開かれた。  小堀弁護人は、この被告事件に対し、  (1)被害者の顔面、頭部を手拳で殴打したのは「二回」だけである。  (2)首筋及び右手首をつかんで強く引くとか、頭部をコンクリート壁の角に激突させるとかいう行為をした事実はない。  (3)「頭部挫裂創、頭蓋骨骨折などの傷害を負わせた」ことを争う。  以上の三点を述べ、暴行の事実だけは認めたが、被害者の死亡との因果関係を否定して、無罪を主張した。  公判は続いて証人尋問に入ったが、パトロール・カーの警察官は被害者溝淵が黙秘して姓名を告げず、額に擦り傷が認められたが、血が滲《にじ》む程度だったと証言した。  中部病院の天願勇医師の証言では、病院に運び込まれた十一月十三日午前八時五十五分、溝淵の意識はすでになく、直接的原因になったと思われる左右側頭部および前額部に鈍的外傷(鋭い刃物以外の物による)の跡があり、全身——特に腹部、両膝、大腿部——にかけて擦過傷が認められた。  動脈造影の結果、右側頭部に脳硬膜下出血が認められ、血腫除去のため応急手術を脳外科専門の友寄医師と二人で行った。手術後は頭蓋骨を切り取り、脳の上に人工硬膜を置いてメラトン管を通すなど、いろいろ手を尽くしてみたが効なく、患者は翌十四日午後五時五十分死亡した。  第三回公判廷における熊本大学医学部助教授、高浜桂一博士の証言は検察官の主張を裏付けるもので、重要な意味を持つ。証人の専攻は法医学で、那覇警察署から溝淵の死因、創傷の部位・程度、凶器の種類・用法などについて鑑定の嘱託を受け、死体を司法解剖し、鑑定書を作成した。  証言の一部を記す。 検察官  ——被害者にはいろいろの傷害があったようですが、死因に直接結び付くのはどれですか? 「左側頭部の挫裂創ならびにその周囲の表皮剥脱を伴う打撃だと思います」  ——その表皮剥脱とか出血の原因を、怪我の状態から推定できますか? 「原因は分かりませんが、打撃でも、殴られても、蹴られても、また転倒などしても生じる可能性はあります」  ——各部位の怪我は同時の怪我か否かの点についてはどうですか? 「時間差があれば、組織の変化で分かりますが、二四時間内の怪我ですと、普通その鑑別はできません」  ——同じ時期にできた怪我の可能性がありますか? 「はい」  ——本件のような傷を受けて二、三時間も人間は歩き回れるものですか? 「本件の死因は脳硬膜下出血による脳圧迫です。硬膜下の静脈が破れて血腫を作り、それが一定量以上になると脳圧迫という症状が生ずるのです。その結果、生命の維持にもっとも必要な脳の中枢が冒され、生命が危険にさらされます。脳圧迫をするためには、ある程度血液が頭蓋骨内に溜ることが必要です。それは破裂した血管の大小その他の条件によって違います。特に硬膜下出血の場合は、統計的には死亡するまでの時間は六時間ないし二四時間の場合が最も多いようです」  ——本件の怪我の場合、受傷後二、三時間歩き回れる可能性がありますか? 「私の経験では、本件の場合、凝血がある程度固まっていたので、かなりの時間をかけて出血したのではないかと思います」  ——人が歩いていて、コンクリートの壁の角にぶつかった場合、本件のような頭蓋骨骨折を生じますか? 「生じないとは言えませんが、頻度の問題だと思います」  ——検察官は、被告人が亡くなった溝淵さんをコンクリートの壁に激突させたと考えていますが、本件被害者の受傷状況と検察官の主張は矛盾しますか? 「しません」 弁護人  ——一番多く出血したであろう傷はどれですか? 「左側頭部の挫裂創です。外見上すぐ分からず、解剖して初めて分かりました」  ——治療に四八時間かかっていますが、大体どのくらいで意識はなくなっていますか? 「どの段階で意識障害が生じたかは言えません」  ——本件が起因された(被害者が受傷した)段階で意識があったでしょうか? 「受傷した時点では、ある程度意識は正常であったと考えてよいでしょう。その後、血腫が十分大きくなってから、意識がなくなったと考えるのが相当です」  ——前額正中部の線状皮創は大きな傷害ではありませんね。下半身の打撲傷は? 「共に小さく、死因に関係ありません。下半身の傷は被害者が転んでもできる可能性があります」  第十二回公判にかかる頃、事件発生から早くも二年の歳月が流れていた。外国のように集中審理をしない日本の裁判は、気が遠くなるほど長くかかる。ある外国人の弁護士が言った。 「証人は一、二カ月も前のことを、よく憶えていますね?」  この間、宮城裁判長が転出して屋宜正一裁判長に代わり、手続きの更新があった。法廷は現場コンクリートの壁から被害者の血痕および毛髪を採取した警察官や、被告人の妹律子、その他の証人尋問を続けていたが、高浜鑑定に信を置く法廷の空気は、必ずしも被告人にとって有利とは言えなかった。  長い勾留生活に身も心も疲れ果てた宇良は、自分が犯人だと言うのならそれも仕方ないと諦めかけ、遺族にたいする補償の問題なども考え始めていた。  だが、小堀弁護人は諦めなかった。高浜鑑定がなんとしても納得できず、疑問は依然氷解していないままであった。  彼は上京して、東京大学医学部に籍をおく著名な内藤道興博士の門をたたいた。  博士の専門は法医学だが、特に司法解剖の実際と、現場に実際赴いての法医学上の問題解決の研究——現場法医学——に力を入れていた。  この事件よりずっと後年になるが、誤った鑑定のため養母殺しの罪名を着せられ、無期懲役の刑に服し、「清い身体になって死にたい」と願う八十六歳の山本久雄老の再審請求の糸口を開いたのも、内藤博士の鑑定結果である。有罪判決の基となった香川鑑定の誤りを、博士は明快に指摘した。現在、広島高等裁判所において審理中だが、開始決定になれば無罪判決は間違いなく、山本老の悲願が叶えられるのも間近いことだろう。  その内藤博士を口説き落とし、裁判所を通じて鑑定資料を送り、再鑑定を依頼することができたのは、小堀弁護士のお手柄であった。  博士は鑑定資料に注意深く目を通し、中でも重要な解剖の鑑定と現場の状況とを対比しつつ、更には被告人の供述などを併せて総合的検討を加えた上、結論を導き出した。  鑑定事項は、死因、凶器の種類・使用方法、受傷時における脳震盪《のうしんとう》の有無、頭部出血の有無、その量、行動力の有無および苦痛の訴えなど多岐、詳細にわたり、長文のものである。  随所に高浜鑑定の不備が指摘され、法医解剖における創傷に関しての検査所見の記載が十分でなく、特に成傷器、受傷機転の解剖にきわめて重要となる所見の多くが脱落しているのは遺憾だと述べられている。  検察官の主張は、三階踊り場から四階へ上がろうとする中間のコンクリート壁に血痕と毛髪が付着しているのが発見されたことと、被告人の被害者に対する加害状況に基づくものと見られる。血痕・毛髪の付着部が、その壁の二階へ降りる階段の壁面との角の部分であるところから、被告人が被害者の首筋及び右手首をつかんで強く引いた際に、このコンクリート壁の角に激突せしめたことによって、左側頭部の挫裂創・頭蓋骨骨折などの傷害を負わせたものと解している。  内藤博士はそこで、傷の成因について詳細な考案を加えているが、要するに、硬固な鈍体の打撲による挫創であることは疑いないにしても、その特徴からは、検察官の主張するコンクリート壁の角——有稜の鈍体——に衝突することによっては、先ず起こり得ないという見解なのである。 「よし、このコンクリート壁に衝突することによったとしても、その角の部分ではなく、平坦な部分に頭部を強打せしめねばならぬもので、阿津地勲(検察官)作成の実況検分調書による如き被告人の加害状況、すなわち被害者の首筋及び右手首をつかんで強く引いた如き作用では、かくの如き重篤な損傷を与えることは先ず不可能」としている。 「出血が相当量に及ぶことは明らかであり、被害者が立位であれば、創《きず》からの出血は低位に流れ落ちて着衣は勿論、床面にも付着、汚染するはずであり、疼痛も甚だしく、被害者自らの手が本能的に受傷部に達することもあろうから、加害者とされている被告人もこれに当然気付くものと考えられる」  小堀弁護士が抱いた最初の疑問にも、博士はこのように明快に答えている。  更には、創傷についてその受傷状況(自他為・災害・過失等の別)を解明するには、 「被害者の創傷の観察——解剖も含め——のみでは不十分なことが多いもので、現場の観察、証拠資料の採取・保全等の立証が綿密になされることによって、初めてその真相を明確になし得る場合が少なからず存在することを知らねばならない」  と戒めた。  では、この致命傷はどのようにして生じたものであろうか?  第十三回公判廷へ、内藤鑑定人は証人として出廷した。 「簡単に言いますと」博士が答えた、「被害者は、階段から落下、墜落あるいは転倒して固いコンクリート床面に左後頭部を打ちつけたものであろうと判断しました」  その際、第三者による外力の関与は恐らくなく、自己過失によって墜落した公算の方が大であると述べ、頭に打撲傷を受けた際に脳震盪を起こしたことはほとんど疑いないものと証言した。 「そのまま意識喪失に移行継続した公算が大きいのです」  被告人が宇良ビル三階踊り場で被害者に加えたと述べる傷害は「比較的軽微」、かつ被害者の死因との間には「因果関係はない」との結論であった。  高浜証言は完膚なきまでに否定され、検察側の主張は悉《ことごと》く破綻をきたしたのである。  鑑定に要した日数は、昭和五十二年四月十四日より同年八月三十一日までの百四十日間であった。  第十四回公判で、検察側は再び鑑定申立書を提出し、これに対し、弁護人は必要事項はすでに内藤鑑定人の証言でそれぞれ明らかにされているので、再度鑑定の必要はないと述べた。  昭和五十四年九月十一日、那覇地方裁判所は九州大学教授牧角三郎作成の鑑定書を受理。  検察官の期待に反し、鑑定結果は、 「被害者の左側頭中央部の創傷は比較的平坦な鈍体の粗面に転倒もしくは転落した際に生じた『挫創』とみるのが妥当である。鈍体の稜角部分との衝突によって生じたものではあり得ない」  ここでも、高浜鑑定は否定され、検察側は苦境に立たされた。 訴因変更  昭和五十四年十一月五日、いよいよ結審の日である。その当日、土壇場になって、那覇地方検察庁検察官浅野義正は、公訴事実のうちから傷害致死を取り下げ、単なる傷害の結果だけに、いわゆる訴因変更を行った。  訴因というのは、公訴事実を構成要件にあてはめて法律的に構成したもの——平たく言えば、検察官の主張である。それをめぐって当事者は攻撃、防御を展開し、いわば公判における審判の主題をなすものだ。  その訴因の立証に失敗し、もはや傷害致死では有罪判決を望めないから、敗北的に訴因変更を余儀なくされたものの、捜査のミスを認めまいとする検察官の悪あがき、メンツへの拘泥と見てよい。事件を立てた以上、形だけでも有罪判決を取ろうとする検察官の偏狭と執念を感じる。 「溝淵の額の傷は床面ではなく、壁の角に打ちつけてできたものと考えられること(内藤道興作成の鑑定書による)等の事実により明白である」  論告は苦しげに述べる。 「そして溝淵の前額部に生じた右傷害は牧角三郎作成の鑑定書により、全治約二週間を要する挫創と認めるのが最も妥当であると考える」  求刑は「よって相当法条を適用のうえ、被告人を罰金三万円に処するのを相当と思料する」  公訴権の濫用としか、小堀弁護士の目には映らなかった。もともと、この事件は検察官のミスで提起され、訴追裁量を誤ったものではないか? 罰金を支払わねばならないのは、むしろ検察官の方ではないのか? 公訴は棄却されて当然なのだ。  英米とは異なり、確かにわが国では公訴の提起は検察官の専権に属し、裁量に委《ゆだ》ねられてはいる。しかし、その権限の行使には自ずと一定の制約があるのは当然のことだ。それをこの事件のように、一敗地にまみれた検察官が、訴因罰条を変更してなおも被告人への攻撃を続けようとするのは、検察官コンプレックスというだけでは理解に苦しむ。  もともと、いかなる場合に訴因の変更が必要かについては、事実の主要部分に変化があるときとする事実記載説と、犯罪事実の法律的構成に変化があるときに限るとする法律構成説とがあるが、百歩譲ってこの公訴提起が適法だとしても、被告人の行為は被害者の理不尽な暴力から触発されており、反撃は自己を防衛するための行為であり、刑法第三六条にいう正当防衛に該当する。  被告人が殴りかかった相手を殴り返したその程度の行為は、一般常識でも許容の範囲内にあり、非難さるべきは寧《むし》ろ被害者の行為ではないか?  被害者はパトロール・カーの警察官に質問された際、被告人に殴られたことは一切触れていない。その事実は被害者自身、殴り返されたのは仕方ないと考えていたからだろう。  不起訴処分にしてもよいこのような軽微な事件について、検察官がなおも訴追を続けることは不公平、かつ被告人の権利を著しく侵害し、法的正義に反するものだ。  ——だが、なんと屋宜裁判長は昭和五十五年一月十四日、有罪判決を下したのである。    主文  被告人を罰金三万円に処する。  右罰金を完納することができないときは、金三、〇〇〇円を一日に換算した期間被告人を労役場に留置する。  この裁判の確定した日から一年間右刑の執行を猶予する。  公訴権濫用については、弁護人の主張を退け、不起訴処分相当事案には当たらないとした。また、被告人の行為と被害者の死との間に因果関係がないことは、公判廷において被害者の死因についての鑑定などの証拠調べを重ね、当初検察官の請求によって取り調べた証拠の証明力を減殺《げんさい》した結果明らかになったものだから、検察官が公訴権を濫用し恣意《しい》的に傷害致死の訴因により公訴を提起した事実はないとの判断を示した。  仮に検察官に捜査不十分ないしは証拠資料の評価の誤りなどの過失があり、傷害致死の訴因については嫌疑不十分の起訴であるとしても、嫌疑の有無は公判廷での実体審理の過程で明らかにされるべきものであり、本件公訴の提起自体の適法性に影響を及ぼすものではないとした。  正当防衛の主張についても、喧嘩の原因は酒に酔った被害者が被告人にからんだり、殴りかかったことにあるとしても、これに対し積極的な攻撃に出て闘争に発展、被害者を引き倒した際に傷害を負わせた一連の行為は、法秩序全体の見地からすると、攻撃の意思からしたもので防衛の意思ではなく、防衛行為とは言えないと判示した。  小堀弁護人等の主張は、いずれも裁判所の採用するところとはならなかった。  僅《わず》か三万円の罰金ではあるが、小堀は直ちに控訴の手続きをとった。  昭和五十五年五月二十六日、福岡高等裁判所那覇支部、藤原康志裁判長は、検察官大浜和男出席のうえ審理し、判決を下した。    主文  原判決を破棄する。  被告人は無罪。  公訴権濫用に関する事実誤認、法令の解釈適用の誤りについては、原判決に所論のような誤りがあるとは考えられない、論旨は理由がないと退けられたものの、正当防衛に関する控訴趣意を認めた。  検察側はさすがにそれ以上争おうとはせず、上告を断念した。  事件発生以来、実に五年目の夏を迎えようとしていた。  小堀はその夜、祝杯を挙げた。勝利の美酒にしてはほろ苦かったが、酒呑みの経験則が役立ったことを思い、苦笑した。 「やはり裁判は常識だな」  彼は呟《つぶや》いた。 「その意味では、復帰前の陪審制がなくなってしまったのは残念な気がする」  無罪判決は勝ち得たものの、果たしてそれまでの宇良の苦痛が和らげられたであろうか?      *   *   *  無味乾燥な訴訟記録を読み終えた筆者の感想を記しておこう。  検察官はなぜ、内藤鑑定が出た段階で、少なくとも被告人の身柄拘束を解こうとしなかったのだろうか? 立証に破綻が生じたのはある程度見えていたはずだし、徒《いたずら》に再鑑定を求める間、被告人を苦しめ続けたのは酷であった。  起訴は本来、検察官が裁判所に対して有罪判決を求める行為だが、刑事訴訟法第二五七条によれば、公訴の取り消しができることになっている。自己の主張にミスがあったのだから、土壇場になって訴因など変更して姑息《こそく》な手段を弄《ろう》することなく、潔《いさぎよ》く無罪の論告でもしていれば、公益の代表者として検察官のあるべき姿を強く国民に印象づけていたであろう。  その例が過去になかったわけではなく、アメリカなどでは、公訴の維持が難しくなった場合、検察官が裁判所に対して公訴の取り消しを求めるケースがよくある。起訴を取り消して、裁判を終わらせる手続きである。  松尾浩也教授によれば、 「検察官は、論告の際、被告人に有利な事情も当然考慮に入れなければならない。したがって、刑の執行猶予相当と述べる場合もあるし、また、証拠調べの結果次第では、無罪や免訴・公訴棄却の裁判を求めることがあっても不思議ではない。検察官としては、もっぱら『法の正当な適用』という観点から意見陳述を行うのが、その職責をつくすゆえんである」(刑事訴訟法 上 二五四頁)  屋宜裁判官が有罪判決を出したのも、また遺憾であった。裁判所としては、訴因変更を認めず、検察官の論告も許さないという毅然とした態度をとるべきであった。  そうしてこそ、裁判所は国民の信を繋《つな》ぐことができるのだと思う。 ある少年の罪と罰 発 端  新城《あらき》安哲と名乗る見知らぬ青年が電話をかけてきたのは、昭和五十四年も暮れのことではなかったかと思う。突然の電話ではあったが、青年の言葉遣いは礼儀正しく、はきはきしていた。  二、三日後、几帳面な文字で書かれた手紙と共に、次のような新聞の切り抜きが送られてきた。 【沖縄】県下の小中学校が一斉に夏休みに入った二十一日、沖縄市内で中学三年生が無免許でオートバイを運転一人が死亡、後部座席に乗っていた同級生が重傷を負うという事故が発生、夏休みの初日から悲しいスタートとなった。  二十一日午前七時ごろ、沖縄市胡屋《ごや》九五二ノ一、比嘉設計事務所前市道174号で、同市胡屋九〇六、コザ中学三年、比嘉《ひが》健二君(一四)の運転する80ccのオートバイが、ハンドル操作をあやまり、歩道に乗り上げたあと比嘉設計事務所のブロック塀に激突した。この事故で運転していた健二君は、頭部を強く打って即死、同乗していた同市仲宗根、コザ中学三年、門田浩君(一五)が、右肩骨折で全治一カ月の重傷を負った。  コザ署の調べによると、健二君は沖縄こどもの国から島袋方面に向け、時速40〜50キロでオートバイを運転、比嘉設計事務所前のゆるやかなカーブを曲がり切れず、歩道に乗り上げ十三メートル近く滑走して後部座席に乗っていた門田君と折り重なるようにブロック塀に激突した。  重傷を負った門田君は、この朝、沖縄こどもの国前ではじまった朝のラジオ体操を終えたあと、健二君のオートバイに同乗この事故にあった。  夏休み初日の中学生による死亡事故とあってコザ中学では、学校側、父母とも大きなショックをうけている。校長、教頭が出張中のため、生徒指導教諭を中心に緊急職員会議を開き、対策を話し合っている。 〔沖縄タイムス夕刊〕昭53・7・21   琉球新報の記事もほぼ内容は同じだったが、この方には「中学生らが乗っていたオートバイは、コザ署に盗難被害届が出されていた」とあった。  三番目の次の記事は、事故から一年四カ月後のものである。 【沖縄】バイク事故で死亡した少年が警察の調査ミスで四十一日間も加害者にされ、その汚名にいまでも苦しんでいる遺族がおり、大きな問題になっている。その家族は昨年七月、沖縄こどもの国近くで発生した二人乗りバイク事故で死んだ少年の母親、沖縄市胡屋九〇六、比嘉千恵子さん(四二)一家。比嘉さんは社会の風評に耐えられず、二十九日午後、沖縄署に又吉康栄署長、山城長府次長を訪れ「警察は息子を犯人だと決めつけ、公表した。しかも私が真犯人を自首させるまで警察は非協力的だった。死んだ息子の名誉をどうしてくれる」と抗議した。これに対し又吉署長は「警察が一時的にせよ犯人扱いしたことは申し訳ない」とわびた。(中略)  当初沖縄署の調べでは死亡した比嘉さんの二男の健二君がバイクを盗み出し、運転していたということになっていた。  しかし、犯人扱いにされた母親が不審に思い、バイクに乗っていたもう一人の少年を粘り強く問いつめたところ「自分が運転した」と自供したため、沖縄署に自首させたという。  母親の執念で真犯人をつきとめ、自首させた比嘉さんはそれまで「バイク操作を全く知らない息子が盗みをするはずがない」と一人でコツコツと調べ上げ、ついに事故発生から四十一日ぶりに新事実を見つけ出し、コザ中学校の職員らといっしょになって真犯人の少年を説得し続けた。  比嘉さんは健二君が犯人扱いされた時、沖縄署に再調査を依頼したが、断られたという。またこの事故を目撃した同じ中学校の生徒三人が沖縄署に事故の真相を話しにいったところ、警察官に「あの事故はもう終わった」とつっぱねられたという。比嘉さんは「相乗りしていたもう一人の少年の家族とこの事故を調べた警察官とは親しい仲であり、意識的に相手の少年が有利になるような調査書を作成したのではないか。そういう感じがしてならない」と又吉署長に疑問を投げていた。  比嘉さんの激怒に又吉署長は「事故発生直後、警察が比嘉君を疑ったのは全く申し訳ない。自分が赴任する前のことなのでよくわからないが調査というのはいろんな過程を経て真犯人を割り出すものだ。調査の段階で落ち度はなかったと思う。しかし当時の調査状況について調べてみる。今後はそういったことがないよう署員を引き締めて行きたい」とわびていた。  同署の山城次長は「比嘉君が犯人の疑いをかけられたのは当時相乗りしていたもう一人の少年の自供によるものだ。少年の自供で真相がはっきりした」と当時の調査について説明していた。  民生委員などで地域活動を行っている比嘉さんとしては息子のドロボー呼ばわりにいまでも肩身の狭い思いをしており、毎日が重苦しい生活を強いられているという。 〔琉球新報朝刊〕昭和54・11・30  (筆者注・以上の記事はいずれも実名報道だが、門田のみ仮名を使った)  新城青年の手紙は、次のような箇条書きになっていた。  1 事故処理の担当は、沖縄署交通課の知花《ちばな》やすひろ巡査。知花巡査は比嘉君を運転者と即断、門田少年を単なる同乗者として実況検分調書に報告した。事実は全く反対であることは、他の中学生たちも目撃していることだから、話を聞きさえすればすぐに分かることであった。  2 知花巡査はハンドルの指紋採取をしていない。目撃者の証言も収集せず、基本捜査を怠っている。門田少年にウソをつかれた結果だと言うが、果たしてそうか?  3 比嘉君はバイクの運転もできないし、泥棒するような不良少年ではなく、学校でも評判の模範生徒だった。  4 門田少年が盗んだバイクを乗り回していた事実は知られていた。非行少年でもある。成績のよい比嘉君をバイクに乗せて威してやろうと言いふらしていた。  5 知花巡査と門田少年の父親(レストラン経営、沖縄市ではかなり名を知られ、署長、署員との付き合いもある)は知人関係にある。  6 門田の妻が経営するバーには、よく署員がくるという話である。  7 門田少年の話では、知花巡査が門田の家を訪問したことがある。知花巡査は門田氏を知らないと言っているが、門田少年は知花を知っているという。  8 比嘉君は県立中部病院の救急診療所へ運ばれ、医師の手当てをうけた。不思議なことに、カルテには担当医師以外の者の筆跡で、「運転していたのは比嘉(本人)である」と書き加えられた跡があるが、これは直接医療に関わる事柄ではない。  9 中部病院には、門田氏の従兄弟が外科に勤めている。このカルテについて看護婦に説明を求めても、誰も答えてくれない。  10 知花巡査は事実を知りながら、虚偽の報告書を作成、上里交通課長もこれを黙認していた疑いがある。  数日後、新城青年から電話があった。 「バイクがぶつかった木が事故の四、五日後、なぜか切りとられてしまっているんです。調べてみると、沖縄市役所の都市計画課の小浜という人が夜間、付近の住民に気が付かれないようそっとこの作業を終えています。沖縄警察署の依頼だったと説明していますが、この木には血痕とバイクのペンキがくっついていたんだそうです。切り株は今でも残っています」 「誤った警察の発表に、誰が運転していたか知っていた中学生三人が驚いて、警察へ真相を話しにいったところ、意外にも彼らは玄関先で追っぱらわれているのですね」 「比嘉君のおかあさんが、それで、警察へ再調査を願いに行ったところ、これまた誰もとりあってくれないどころか、上里課長にどなりつけられたと言います。それでも中には親切な巡査がいて、この事故はもう決着が付けられていて、どうにもならないよと、そっと教えてくれたそうです。内部では、箝口令《かんこうれい》が敷かれていたようです」  新城青年の話しぶりは熱心で、真剣な様子もよくわかったが、残念ながら、僕は部外者でもあり、事実を確かめる術《すべ》がない。自分の出る幕ではないと考えた。「弁護士に相談するのが一番じゃないですか」僕が言った。「彼等だったら、警察の非違も追及できるし、事実をチェックする方法もあるでしょう。その判断にも一応の信頼がおけますから」  新城青年は電話口でしばらく黙っていたが、 「実は、比嘉さんはもうとっくに弁護士さんのところへは相談に行っているのです。しかし、彼女は警察官だけではなく、弁護士にも不信の念を抱いてしまっています。勿論、全部が全部そういう人ばかりではないのでしょうが、少なくとも比嘉さんが依頼した弁護士には、私が話を聞いただけでもかなり不可解な点が感じられます」 「どういった不可解な点があったのですか?」  それまで、自分に関係ない事柄には鼻を突っ込むまいと思っていた僕も、つい新城青年の話にひき入れられてしまった。 ウリミバエ  それから、一カ月ほどして、新城青年が沖縄市郊外高原にある僕の家へやってきた。比嘉さんに会うのに少々時日を要し、事実の確認に時間が掛かりました、と彼はすまなさそうな顔をした。  初めて会う新城君は、沖縄の人にしては色白の、クリーンな感じの好青年である。渡された名刺には、沖縄県公害衛生研究所とあり、聞けば琉球大学でウリミバエの研究で有名な伊藤賀昭教授(現名古屋大学)から、昆虫生態学の講義を受けたという。 「あなたがなぜ、比嘉さんの問題にこうも熱心なのか、やっとわかりましたよ」笑いながら、僕が言った。「社会に巣食うウリミバエにも、あなたは我慢がならないというわけなのですね」  ウリミバエというのは、沖縄の苦瓜《にがうり》などにつく害虫である。  比嘉夫妻が、門田夫妻を相手に損害賠償調停と自賠責保険金請求事務の代行を委任したのは、沖縄市ではかなり名の通った、市の顧問弁護士も勤める石田盛二(仮名)であった。  比嘉夫妻が和解による調停を望んだのは勿論、事故を起こした少年の親権者たる門田夫妻に責任を感じてほしかったからである。  門田少年は十五歳の未成年で運転免許も持たず、オートバイを盗みだして家の付近を乗り回していたのだから、親が知らないわけはなく、黙認していたのは親権者として監督義務の違背になるのは当然であろう。  まして、いやがる比嘉少年をむりやりにオートバイの後ろに乗せてスピードを出し、怖がるのを見ておもしろがり、後ろを何度も振り返ったために起こった事故であってみれば、その暴走族的運転行為は両親の不断の監督によって、未然に防ぎ得ていたはずだと考えられる。  十四歳の少年の就労可能年数を四十九年とみて、逸失利益、慰謝料その他の損害額合計金、四千六百五十七万七千百十五円が請求された。  これに対し、門田夫妻の代理人は、両親は子供にオートバイなど絶対運転してはならないと常に注意を与えていたことであるから、申立人の主張する過失はないと突っぱね、過失はむしろ比嘉少年にもあったと逆襲して、僅か三百万円の弁償で石田弁護士との間に合意をとりつけた。  合意といっても、比嘉夫妻は全く相談を受けていなかった。石田弁護士は、弁護士として当然の義務を怠り、調停の経過を全然依頼人に知らせず、比嘉夫妻の承諾なしに勝手に示談を成立させてしまったのである。  ちゃっかり弁護士報酬の方は三十万円天引きして、残り二百七十万円を夫妻に渡した。「こどもの国の動物園の猿が手に怪我しても、百五十万円の補償があったというのに」比嘉千恵子が嘆いた。「うちの子供の命はそんなに安かったのだろうか?」  新城青年がどうしても不可解だと言ったのは、自賠責の保険金についてである。請求事務は石田弁護士がやったわけだが、いったいいくらの金が下りて、弁護士の手数料がいくらなのか、さっぱり分からないと言うのだ。  事故が起きた年の昭和五十三年の暮れ——十二月二十九日午後六時半頃、 「年の暮れだから、金が要るだろう」  そう言って、石田弁護士が現金で百万円を比嘉に手渡したという。 「保険金の方は、どうなっていますか?」  比嘉が尋ねると、翌三十日、沖縄銀行コザ支店で普通預金となった七百万円をもらい、三回にわたって計千三百万円を受領した。  一方、石田弁護士はすでに保険会社から、千七百四十一万千八百円を受け取っており、その小切手に裏書きした覚えは比嘉夫妻にはないという。  結局、四百四十一万千八百円の行方が不明なのであった。  この件について、比嘉夫妻はもう一人の照屋弁護士に昭和五十五年一月頃相談を持ちかけている。 「あの人だったら、いいのじゃないですか」僕が言った。「石田とは全然評判の違う弁護士ですから」 「その照屋弁護士も、何度か石田弁護士に働きかけたらしいんですが、言を左右されて、結局埒《らち》があかないらしいんです」 「照屋さんも忙しいんでしょう。ここまで待ったのだから、もう暫く待ってみるより仕方がありませんね」  弱り果てたという顔をしている新城青年に向かって、僕はそう言うしかなかった。  二、三日後、新城青年からまた新聞が送られてきた。今度はタイムスや新報のような大きな新聞ではなく、中部新聞と呼ばれる沖縄市の瓦版であった。 「裏情報通」と町田前沖縄市長が保証するだけあって、なかなか面白い記事もあった。「死人に口なく嘘八百を供述」と大きな見出しがあり、十一段にわたって比嘉さんの事件が詳細に報じられていた。  新城青年から聞いた話と思い合わせると、なるほどと頷ける箇所も多く、大いに興味をひかれた。 「書いたら、訴えるぞ!」  弁護士はそう言って、記者を脅迫したという。  記事のあらましは、次のようなものだ。  千恵子さんは先ず真犯人を探し出し、死んだわが子の汚名を晴らしてやるのが親の務めだと思った。その日から慣れない聞き込みがはじまった。  先ず目撃者探しであった。同級生三人がすぐ見つかり、健二君のヌレギヌ晴らしに協力を申し出た。  やはりオートバイを盗み、運転していたのはKであり、学校でも無免許の暴走族として有名、前日の終了式で明日健二をオートバイに乗せて脅かしてやろうと自慢げに言っていたのを、大勢の男女同級生が聞いていた。  翌朝、Kは早朝マラソンの健二君を待ち伏せて、むりやりにオートバイの後ろに乗せてすっ飛ばした。健二君は怖いから、早くおろしてくれと大声でわめき、足を地面にひきずった。健二君がわめけばわめくほどKはスピードを上げた。  怖がる健二君の顔をのぞくため、後ろを振り向く。前方不注意で街路樹に衝突、気がついた時には健二君は地面に叩きつけられ即死状態。  Kは取調官に最初からウソの供述、Kの親は警察の発表通りだで押し通せ、と教唆する天晴な家庭教育、だからチョットやソットでは認めるはずがない。  事故の翌朝、新聞配達のY少年がKに新聞を渡しながら、「おまえ健二が盗んだとウソついたな」と言うと、Kは「ご免よ、ウソついて」と謝ったという。  八月十五日頃、千恵子さんの電話に応対したのが上里交通課長、「調査では健二が運転していたことになっている。アンタは何を証拠に再調査しろと言うのか。Kだという証拠でもあるのか」と怒鳴り付けられたという。  五十三年九月一日午前九時半頃、安里校長からKが待っているから至急来てほしいとの電話、十時頃行くと校長室にはKだけがいた。  千恵子さんの涙ながらの説得に、Kはいままでの頑強な態度を変え、「スミマセンでした」と大粒の涙を流し、「ご免なさい、私がやりました」と素直に謝った。  事故の顛末《てんまつ》を話しおえると、Kはほっとした表情で千恵子さんに「健二に線香をあげたい」と言い、担任教諭と共に比嘉さん宅を訪れた。  千恵子さんは一足先に帰宅してわが子の霊前にKが本当のことを言ってくれたと報告、そしてKの気が変わらないうちにと思って、I弁護士に「Kが自供した、仏壇に線香をあげにくるので立ち会ってほしい」と電話した。  I弁護士がKに「なぜいままで隠したか」と聞くと、Kは「両親から絶対に本当のことは言うなと言われていたので……これから警察に自首しに行く」「それなら両親と相談しないで警察へ行ったら、叱られるんじゃないか。家へ帰って何日でもいいから、両親とよく相談して、それから警察で言いなさい」と不可解な助言をしたという。  Kは「家へかえったら、両親は本当のことはいわせてくれないから、今すぐ警察に行きたい」と自ら玄関に出たので、弁護士がコザ署までKを同伴した。  翌二日、午前十時前、上里課長がほか二名と比嘉さん宅を訪れた。この時、「アンタの子供は死んで二度と帰らないし、生きている子の将来を考えて、示談でどうですか」と言ったという。  上里警部の話。「奥さんの話とは全然違う。比嘉さん宅を訪ねたのは、捜査官として犯人のウソが見ぬけなかったことは落ち度だったと詫びに行っただけのこと。示談話……そんなことを警官がやったら大変だヨ、よく調べたら、すぐ分かります」  I弁護士の話。「K少年がモシ千恵子や担任らの強要による自白だったなどと言い出されては、弁護士として困る。人権問題だと考えたので、両親に相談した方がよいのではないか、と助言したら、Kは『自分がやったことだから、すぐ警察に連れて行ってくれ』と言ったので、私が警察へ連れて行った。  私が相手方に与《くみ》していた……と疑問視するのは、全くの誤解である。いかなる事実、証拠をもってそのように言うのか。  自賠責保険金、千七百四十一万千八百円のうち、比嘉氏に千三百万円渡した……というのは、金額が違う。千四百万円キチンと渡してある。  私の手数料は規定に従い、比嘉氏と相談し納得の上受領した。手数料の中には、追って提起する訴訟の印紙代、送達料に調査費用、手数料の着手金の一部も含まれていた。  これも説明し、納得してもらったつもりだが、それを水増しみたいに言われたら、大変に迷惑な話だ。  三百万円にしてもだ……相手側弁護士は健二にも過失ありと……主張して、六十九万円しか払えない……と言うのを、私は法廷で否定しながら粘って、やっと三百万円にしてもらった……という私の努力を知ってのことなのか!」 〔中部新聞〕昭和55・3・1  害虫駆除  その後、暫く、僕はこの事件のことを忘れていた。仕事が忙しくなって横浜の家へ行っていることの方が多く、新城青年は何度も留守中に電話をくれたらしいのだが、話す機会がなかった。  久しぶりに沖縄へ戻ったのは、ハーリー(爬竜船競走)の鐘が鳴り響く梅雨明けの頃だった。沖縄の梅雨明けは東京よりも一カ月早いが、その後夏が一挙にやってくる。  僕の帰りを待ちかまえていたように、新城青年が高原の僕の家へ姿をあらわしたのは、初夏とはいいながら真夏のように暑い日の午後であった。 「あの少年が死んで、もうまる二年になります」  リビング・ルームに請《しよう》じ入れて、まだソファーに腰もおろさないうちに、彼が口を開いた。 「子供を失って悲しみに打ちひしがれている比嘉さんに、世間の人は余りにも不親切で、冷たすぎます。特に警察のとった態度はけしからんです。あの弁護士もインチキ、とうとう大金を横領したまま、知らぬ顔の半兵衛を決め込んでいます。比嘉さんはもう半ばあきらめているようですが、世の中ってそれでよいものなんでしょうか?」  新城青年がただ愚痴をこぼしにきたのではないことは僕にもよく分かっていたが、と言って照屋弁護士さえ手を焼いた相手に対して僕に何ができようはずもない。 「いったい、なぜ新城さんはこの事件を僕のところなどへ持ち込んできたのですか?」話を転じるように、また好奇心も手伝って僕が質問した。「僕は弁護士でもないし、なんの力もない。一介の三文作家ですよ」 「ですから、お願いしたいことがあるのです」問いには答えず、居ずまいを正すようにして彼が言った。「私はこの事件について、もっと沖縄の人に事実を知ってもらいたいのです。地元の沖縄タイムスか琉球新報、あるいは雑誌に書いていただけませんでしょうか? どこかに、同じような問題で苦しんでおられる人がいると思うのです」 「新城さん、それは無理です」僕が答えた。 「あなたが一生懸命に調べられたのは分かりますが、それだけでは書くわけにはいきません。もっと別の知恵を働かさなければ、駄目です」 「やはり書いてはいただけませんか」がっかりした表情で、新城青年が言った。 「でも、別な知恵って、どんなことですか?」  比嘉少年の三周忌がすんで間もない八月の上旬、僕は友人の新里恵二弁護士の事務所で、新城青年と比嘉夫妻の三人と落ちあった。 「比嘉さんが、もう弁護士のところへ行くのは嫌だと言って、なかなか首を縦に振ってくれないので、苦労しましたよ」  新城が僕にそっと耳打ちした。  無理もないと僕は思った。頼みとする石田弁護士にはひどい仕打ちをうけ、始末をつけてくれるはずの照屋弁護士もあてにならず、未だに埓があかないとなれば、金ばかりとる弁護士に不信の念をもたれても、仕方ない。  だが、これから僕の考えを実行に移すには、どうしても新里弁護士の力が必要であったし、それには先ず、夫妻から正式に委任状をもらっておかなければ、こちらとしては何の動きもとることができない。  こんな場合、中学の一年先輩という気やすさもあって、新里にはなんでも気軽に相談できた。彼と僕とは共通項が多い。中学も旧制高校も大学も出ておらず、多少世にすねた点はあっても、けっこう楽しく人生を送っている。  違うところは、彼が非常に勤勉な点である。歴史学者として世に知られながら、安い原稿料にたまりかねて中途で軌道修正、優雅な弁護士にヘンシンした。  司法研修所に通い始めた頃、奥さんが言った言葉がおもしろい。 「あなた、この学校だけは、途中で止めないでね!」  さて、新里は夫妻の話を根気強く聴いて、照屋弁護士とも連絡の上、改めて事件の依頼を本人たちから受けた。  僕はこれまで待っても結論をつけることができないまま、事件を放置した形になっている照屋弁護士は解任した方がよいと思ったが、新里が、 「それは、ちょっとまずいよ」  と言うので、弁護士間の仁義もあるのだろうと考え、彼の言をいれた。  僕が先ず、新里に最初頼んだことは、石田弁護士に適正な報酬の額を決めさせること、残りの金を速やかに持ち主たる比嘉夫妻に返却させること、つまり、金銭関係の清算であった。  新里は直ちに、大意次のような通知書を石田へ書き送った。  通知人(比嘉夫妻)は門田に対する損害賠償請求事件を被通知人(石田)に依頼した。右事件は、昭和五十四年九月十二日に調停が成立しているが、その結果は通知人の意に反するもので、そのような調停成立について同意を与えたことはない。  被通知人は、前記調停事件について三十万円、自賠責保険金請求について四百四十一万千八百円の各成功報酬を受領しているが、後者については、通知人の同意がない。  本件につき、貴職との間で然るべく話し合いをしたいので、本状到着後三日以内に当職事務所まで、電話連絡の上、日時を定めて御来駕ありたし。  その節には、貴職よりの釈明等も充分お伺いの上、案件の処理について、熟議いたしたい。  夏休みのある日、新里や僕の飲み友達の本永寛昭弁護士に誘われて、首里のさる料亭で開かれた夕食会へ出掛けた。ゲストは東京から来島した二十人ほどの女性弁護士ばかり、さすがに、パーティは華やいで、酒もかなりまわった。  その日、戦跡巡りをしてきたらしい彼女たちの話題は、しばらく沖縄戦のことに集中した。 「伊佐さんのお父さんも軍医にとられ、戦死されたんですよ」  新里が説明すると、向かいの席にいた若い女性が、僕に同情的な目を向けて質問した。 「それで、お医者さんにはなられなかったのですか?」  どうも僕はこういう話が苦手である。人に質問されるのも好まない。返事の代わりにアメリカの小話を勝手に作り替えた。  医者と弁護士が、同級会で話をしていた。 「オレの言うことを聞いていれば、オマエも今頃いい医者になっていただろうにな」 「弁護士では、いけないのかね?」 「弁護士がみなインチキだとは言わないけど」医者が言った。「しかし、みんなが天使というわけでもないだろう?」 「そりゃそうさ」弁護士が答えた。「そういう連中はみな医者になってるものな」  聞き手がみな弁護士だけに、この話は喝采をうけた。  少し喜ばせすぎたので、もう一つジョークを話す。  強盗のワイフが証人席にいて、検察官が反対尋問をしていた。 「この男の奥さんですね?」 「はい」 「結婚した時、泥棒だと知っていましたか?」 「はい」 「どうしてそんな男と結婚する気になったのですか?」 「私もそう若くありませんでしたし」証人が答えた。「残りの人生の伴侶を法律家か、泥棒のどちらかに決めなければならなかったのです」  この話も爆笑をかったが、思いなしか先程にくらべて、声が低かった。  それまでは、ニヤニヤしながら話を聞いていた本永弁護士が、急に真面目な顔になって立ち上がった。 「いや、お恥ずかしい話ですが、わが沖縄にも泥棒みたいな弁護士がいて、いろいろな問題を起こしています。そこでひとつお尋ねしたいのですが、自賠責保険金の請求事務など、東京のみなさんは一体いくらぐらい報酬を請求していますか?」 「金額はどれくらいのですか?」 「千七百万としましょう」 「せいぜい三十万まででしょうね」年配の女性弁護士が答えた。「物価の高い東京においてもですよ」 「僕だったら、一パーセントの十七万円、雑費を加えても二十万というところだな」  本永が僕を振り返って、呟いた。  九月の末になっても、沖縄では溽暑《じよくしよ》が去らない。那覇で用事を終えての帰り、エア・コンのよくきいた新里法律事務所へぶらりと立ち寄ってみた。時間が早いので、ビールなどはまだ飲ませてもらえない。 「ああ、ちょうどよかった」新里が奥の応接室から、顔をのぞかせて言った。「いま石田弁護士の代理人がきているので、一緒に話を聞いてください」  紹介されたのは、豊平というまだ若い弁護士であった。石田とは、琉球大学の同窓らしい。 「あの頃は……ちょうど年末でして……」  くどくどした彼の話の内容は、要するに石田が比嘉夫妻から受け取った金額は三百四十一万円で、差額の百万円はすでに比嘉夫妻に返却済みだと思う、といういい加減なごまかしであった。 「あんたも子供の使いじゃないんだろう?」うんざりして、僕が声を荒げた。「そんな無責任な話が、ここで通るとでも思っているのかね? 弁護士だったら、金銭の授受には領収書を受けとり、発行することぐらい常識じゃないか。会計記帳をそれとも、故意にやらなかったと言うんだったら、話はわかるよ」  豊平弁護士は、僕の言葉遣いの荒さに驚いたようすだった。構わず、僕は続けた。 「いいかね、帰ってよく石田に言っておくんだな。初めから、嘘を通してくるつもりなら、こちらは話し合いに応じない。事実を男らしく認めて、穏便に事を運んでくれと言うのなら、乗ってもよい。それから、もう一つ、自分自身で出向いてこいって、石田に言っておくことだな。自分で惹き起こした不始末じゃないか。往生際がわるすぎるぜ!」  豊平弁護士とそれ以上話す必要はなく、彼はほうほうの体で新里法律事務所を去った。  それからまた一カ月、漸く石田弁護士と比嘉夫妻との間に和解が成立した。契約書の日付けは、昭和五十五年十月二十五日となっているが、取り決めはそれ以前に行われた。  内容は必ずしも僕の気に染むものではなかったが、比嘉夫妻が諒とするのであれば、僕としては言うことはない。  次のような内容である。  甲(石田)は、乙(比嘉)より受任した保険金請求事務の代行報酬として昭和五十三年十二月三十日受領した四百四十一万千八百円のうち、三百三十一万千八百円を乙に返戻する。 (昭和五十五年十月末日までに百万円を、昭和五十五年十一月から五十七年九月まで毎月末までに各十万円宛、昭和五十七年十月は十一万千八百円を支払う)  乙は、前記事務の代行報酬として、甲が百万円の報酬を受領するにつき同意する。  送られてきた和解契約書のコピーを読み、横浜の家から新里事務所へ電話した。 「百万の報酬とは、高すぎますね。せめて五十万ぐらいに押さえられなかったんですか?」 「もっと粘ればよかったんだが、比嘉さんもいいと言うし、早期解決が目的でしたからね。金銭よりも、名誉回復の方が大切だったということでしょう」 「それにしても、石田という男、みっともないと思わないのかな。横領した金を使い込み、十万ずつの返済なんて恥ずかしい話ですよ。子供を亡くして悲しんでいる比嘉さんに、せめて一円でも多く金を渡してあげたいと思うのが人情でしょうにね」  新城青年が早速、五段抜きでこの和解を報じた十月九日付けの沖縄タイムスの切り抜きを送ってきた。 《ゴッソリ四百万円 死んだ息子の自賠責手数料 べらぼう弁護士》  と、大きな見出しがついていた。  石田はその後間もなく、沖縄市の顧問弁護士の契約を破棄されるが、自業自得というべきだろう。 糾 弾  さて、猫ばば弁護士のインチキは暴露され、新城青年の希望通りの新聞報道も掲載されたが、僕自身の満  足《サテイスフアクシヨン》はまだ得られていなかった。  そもそも、この事件が紛糾した原因は、事故の真相隠蔽《いんぺい》と警察官の過失にある。  警察の発表が、真実に反するものであり、むしろ真実から目を背けようとした節さえ窺われる。事故を担当したコザ署交通課の知花やすひろ巡査は、真相を誤認したのは、門田少年の真実を偽る申告を覆す証拠を発見することができなかったからだと弁明するが、それならば何故オートバイのハンドルから指紋の採取を行わなかったのか説明を欠く。  上里課長にしても同様な過失がある。  コザ中学の生徒三人がわざわざ警察署まで足を運び、「運転していたのは、門田だった」と証言しに行っているのに、なぜ事情聴取を拒否したのか? 目撃者の証言を集めるのは、捜査の常道として当たり前のことではないか。  まして最愛の息子を亡くし、悲しみの極にある母親がもう一度調べ直してほしいと懇願しているのに、上里課長が「あの事故の調査は終わった」と怒鳴り散らしたというにいたっては、市民の側からも許せない行為である。  上里は二重のミステークを犯した。軽率な発表により、誤った新聞報道の原因をつくった。そのため、比嘉夫妻は亡くなった愛児をオートバイの窃盗犯人にされ、無免許で運転をした非行少年、同級生に重傷を与えた加害者であるかのような印象を世間にふりまかれてしまった。  夫妻はこの新聞報道以来、外出が嫌になり、対人恐怖症に陥った。世間の目があまりに冷たく、いくら「息子は被害者だ」と説明しても、信じてもらえなかったからだ。警察発表と新聞報道とは、そうした強い力を持つものなのだ。  この精神的打撃が、愛児を失った夫妻の悲苦を倍加させたのみならず、窃盗犯、非行少年の両親としての自身の名誉、信用を著しく害されたことも、看過されてはならない。  コザ警察署の杜撰《ずさん》な捜査と、軽率な新聞発表、および再調査申し入れの拒絶は、公権力の行使にあたる公務員が職務を行うプロセスにおいて、当然払うべき注意を怠り、義務を遂行しなかったために生じた結果と言ってよい。  以上、僕の求めるサティスファクションとは、警察が違法に比嘉夫妻に精神的苦痛と損害を与えたのだから、その責任追及と、償いを自分の目で見ることであった。  すでに、新里弁護士の手を通じ、訴状の提出を終えていた。沖縄県を被告とし、その代表者たる西銘順治知事を相手どった国家賠償請求である。  昭和五十八年三月三日、那覇地方裁判所民事第一部の比嘉正幸裁判長は、原告の主張をほぼ全面的に認め、県に対し、百二十万円を支払うよう言い渡した。  比嘉裁判長は、上里課長の「指紋採取が不可能だった」との証言にふれ、「警察官は捜査を専門的に遂行しているのであるから、指紋の採取が不可能であれば、これを積極的に立証すべきであった」とたしなめ、また運転者を比嘉少年と即断したのは妥当を欠き、「刑事事件において、当事者が二人で、一方が死亡している場合に、生存者は罪を死亡者に転嫁しようとすることがあるのは、捜査の専門家として当然に予知すべきことである」と厳しく判示した。  更に、被告の責任について、「上里課長の過失による本件事故についての誤った発表によって原告らが被った損害については、被告は国家賠償法一条に基づきこれを賠償すべき義務を負う」と判決した。  これに対し、県警察本部の梅沢五郎警務部長は「当時発表した事実は真実だと認められていた。適法な取材提供だったと信じている。控訴については十分検討してから決めたい」と、この期《ご》に及んでも潔くない発言をした。警察官や検察官には、どうしてこうも往生際のわるい《プーア・ルーザー》のが多いのか?  控訴するのか、しないのか、県の態度は煮えきらなかった。業を煮やした新里は、知事の机や椅子、本棚などを差し押さえてやろうと真剣に考えていた。判決に仮執行宣言が付いているから、可能なわけである。控訴するなら、してみよという牽制のデモンストレーションでもある。  明日はいよいよ実行にかかろうと思いつつ、新里は近くの散髪屋へ昼休みの時間に立ち寄った。新聞も写真をとりにくるだろうから、むさい頭では格好がわるい。  すると、ばったり、そこで散髪中の西銘知事に顔を合わせてしまった。彼は中学の先輩でもあるし、なんとなくこんな場合にはバツがわるい。 「なんだ、あの事件は君がやっていたのか」知事が言った。「今朝の会議で、あれは控訴しないことに決めてあるよ」  愉快そうにその話を僕にしながら、それでもちょっぴり、知事のあの立派なテーブルを差し押さえる恐らくは唯一の機会を逸してしまったことに、新里は残念そうな顔をしてみせた。 千葉・市原市奇々怪々の殺人事件  昭和六十一年二月二十日、矢沢証言にマスコミが狂奔し、ロス疑惑の異常な熱気が立ち込める東京日比谷の裁判所ビル——三浦裁判が開かれていた同じ建物の八階——東京高等裁判所八〇三号法廷に、ひとりの若い男が手錠をかけられ、腰紐を打たれて、看守に両腕を引き立てられるようにして入廷した。  満員の三浦事件の傍聴席とは対照的に、こちらはひっそりとして人影もまばら、発生当時あれほど世を騒がせた事件でありながら、今はマスコミの関心も薄い。区切られた報道席もガラ空きで、記者の姿はただ一人しか見当たらなかった。  男はかなりの大柄で、三十を二つ三つ超えている年頃だろうか、若いのに頭の頂はすでに毛髪が薄い。黒いセーターにズボン、サンダルをつっかけ、肩を落として俯《うつむ》きかげんだが、悪びれた様子はない。顔は青白く、虚《うつ》ろな目つきをしている。  着席する際、後ろを振り向いて大塚喜一主任弁護人に黙礼し、すぐ隣の四宮啓弁護人にもそっと視線を走らせた。 「史上稀に見る残忍な凶悪犯人」佐々木哲也を僕が目《ま》の当たりにしたのは、この時が最初である。すでに千葉地方裁判所(刑事二部・太田浩裁判長)の原審で、両親殺害、死体遺棄の罪をもって、死刑を言い渡されている被告控訴事件である。  その控訴審も終わりに近く、この日の被告人質問を最後に、結審の運びだという。 「一審と同じく、死刑判決にならないか心配です」大塚弁護人は、暗い面持ちで語った。「二審の裁判官の心証も、最初からクロなんです」  事件は十二年前、昭和四十九年に遡《さかのぼ》る。  秋も深まった十一月二日の昼過ぎ、千葉県市原署に一人の青年が現れ、両親の行方不明を届け出た。 「家に何度電話しても出て来ないんです。訪ねて行っても留守で、鍵が締まっています」  署員は一通り事情を聞き、「家出人」として受理したが、青年は再びその日の夕方顔を出し、当直員に妙なことを呟《つぶや》いた。 「自分の車のトランクに、血の付いたタオルが入っているんです」  その夜遅く、東京の出張先から帰って報告を聞いた刑事係の幹部は、血相を変えた。  一日おいた四日の新聞は、事件を次のように報じた。 《夫婦がナゾの失踪 部屋に多量の血こん》 【市原】千葉県市原市八幡北二の七の六、自動車タイヤ販売業、佐々木守さん(六一)と妻あき子さん(四九)が、十月三十日深夜から行方不明になり、さらに守さんの車もなくなっていると二日夕、守さんの長男の千葉市殿台八〇の一、レストラン経営、哲也さん(二二)が市原署に届け出た。同署で調べたところ佐々木さん宅の座敷、居間から多量の血こんや血に染まった座ぶとんなど見つかったため、同署では殺人事件の疑いが濃いとみて、三日朝から県警捜査一課の応援を求め本格的な捜査を始めた。  哲也さんからの届け出によると、数日前から両親宅へ電話をかけたが連絡がとれず、訪ねたところ戸締まりがしてあり、留守なので、三十一日朝から心当たりを捜したが行方がつかめないので届け出たという。  同署の調べでは、守さん夫妻には長男で独身の哲也さんの他に、嫁いだ長女がいるだけで近所付き合いも少なく、数年前から同所で自動車タイヤ販売修理業をしていた。同業者も近くにいないので仕事は繁盛し、「きょうは一日で十万円の商いがあった」と近所の人にもらしていたこともあったという。  二人暮らしのため、夕食は隣の食堂から白飯だけを買うことが多く、三十日午後七時半ごろ、あき子さんが白飯を買いにきたが、近くの人が夫妻を見たのはこれが最後。翌三十一日朝になって哲也さんが同食堂を訪れ、「電話をかけても出てこない」と行方を聞いたので、初めて夫婦が行方不明になったことがわかったという。 〔毎日新聞〕49・11・4   事件を「殺し」と断定した市原署は、直ちに特別捜査本部を設置、六十人の捜査員を動員して、佐々木さんの自宅の現場再検証、付近の聞き込み捜査を行った。  佐々木さん宅は市原署からさして遠くない距離にあり、京葉工業地帯の中心部とはいっても、国道から東に五十メートルほど入った八幡北町のあたりは当時、小さな工場や住宅が点在する新開地で、人通りも少なく、さみしい場所だ。  捜査の結果、まず隣家の市原自動車板金工業社長、安井俊往さん(三〇)と従業員三、四名が三十日午後五時過ぎ、佐々木さんの家で異様な悲鳴を聞いていることがわかった。悲鳴は男、女ともつかず、一度だけだったという。  安井さんは昼間、佐々木さんが働いていたのを目にしており、隣で食堂を営む元良潔さん(四九)もこの日の午後五時頃、佐々木さん夫婦が店先で仕事をしているのを見掛け、「忙しいね」と声を掛けている。  夫婦を見掛けたのはそれが最後で、翌朝は雨戸が閉められたまま、不審に思っていた矢先だったという。  長男が両親の行方を尋ねてまわったのはこの朝(三十一日)九時頃のことだが、捜査本部は前日、哲也が実家に出入りしていたとの聞き込みを得ていた。さらには三十日夜から翌朝にかけて、哲也が女友達や友人とあちこち飲み歩き、女には高価なネックレスを贈った事実も浮かんできた。  十一月六日の新聞は、捜査本部がついに哲也を緊急逮捕に踏み切ったことを報じた。 《やはり長男だった 死体はどこに? 哲也を追及》  捜査本部が哲也を殺人容疑で逮捕した理由は、哲也の自家用乗用車のトランクの中から血こんの付着したタオルが発見されたことのほか、守さん宅の居間にある金庫から現金三十万円が盗まれたが、金庫に哲也の指紋が相当検出されたことをあげている。また哲也は両親の行方不明となった三十日夜実家へ帰っていないといっていたが、その後の調べや聞き込みで、同夜哲也が守さんと会って口論していた事実を突きとめた。五日夜現在、哲也は金庫から現金を持ち出した点は認めたものの、殺人関係についてはいっさい否認しているが、捜査本部は、守さん宅の部屋内で検出された血こんの中の足跡も哲也のものと判断しており、全面自供は時間の問題と見ている。  殺害の動機については哲也が否認しているため確証はつかめないが、守さんが出資して造った哲也経営のレストランが赤字続きでその原因として、女性を含めた不良グループが出入りしていると、守さんが哲也を意見したのをうらみ殺害を計画したと推定している。  殺害現場と見られる守さん宅の居間には二種類の血こん(夫妻のもの)が発見されたが、かなりの人数の足跡があるため、この殺人事件には哲也のほか数人のグループが介在した疑いが強く、捜査当局はこの点の追及を続けている。現在の捜査結果ではこのグループは哲也の経営するレストランに出入りする不良グループとの見方が強く、今後わかり次第共犯関係者の逮捕にも踏み切る方針。  殺害はだれが直接手を下《くだ》したか、死体をなんで運んだか、殺害の凶器はどこにあるか、死体はどこに捨てたかなどのナゾの解明も時間の問題となってきている。 《「何かの間違いだ」 警察に詰めよる級友も》  残忍な殺人、死体遺棄事件の起こった市原市では、連日このうわさで持ちきり。現場近くの工場で働く従業員は、昼休みどきに連れだって事件のあった佐々木さんの自宅近くまで出掛け、遠巻きにしてのぞき込む姿が見られ、市民の関心はこの事件に集中している。(中略)しかし、一方では「逮捕された哲也は気が小さく、殺人などのできる人間ではない」という声もあり、五日午前、市原署を訪れた哲也の高校時代の同級生、千葉市緑町二の一四の三、家事手伝い、古宮一郎さん(二二)、同町一の一九の四、大学生、菅原雅人さん(二一)らは、口々に「親思いで人のいい哲也が、親殺しの犯人だとは考えられない。なにかの間違いではないか」と、逮捕の知らせが信じられないといったようす。近く弁護士と相談、哲也の潔白を訴えたいと話していた。 〔千葉日報〕49・11・6   市原署捜査本部は六日夕、両親殺害、死体遺棄容疑で、長男哲也を犯行否認のまま千葉地検に身柄送検した。  しかし、依然として解明されていない部分は多く、とくに犯行時間を「十月三十日午後五時半頃」としたことで、その二時間後に「あき子さんがご飯を買いにきた」という隣の食堂経営者の有力な証言を黙殺することになったとして、読売新聞は大きな疑問を掲げている。 《あの悲鳴——二時間のミステリー 食堂に来た母親 捜査本部に“生存説”も》  謎の二時間を、もう一度再現してみる。  道路の四つ角に立つ佐々木さん宅をはさむようにして、南隣に市原自動車板金工業会社、東隣に食堂「ふるさと」がある。  最初に重要な証言をするのは、安井さん。「三十日午後五時二十分ごろだった。佐々木さんの家のほうで、ギャーという異様な叫び声を聞いた。わたしだけでなく、そばにいた従業員三人も聞いている。従業員は十数人作業していたが、佐々木さんの家に近い方にいた者が、わたしと一緒に聞いた。時間の問題は、ふつう五時に作業を終わるのだが、恒例でいつも三十分残業しているので、その中間過ぎだから間違いない。もっとも、その時は、変だなと思いながらあまり気にかけずにいた。三日になって警察の人が来て、その時のことを聞かれ、なにかあったのかとゾッとした」  捜査本部では、この証言から、犯行は悲鳴の十分ぐらいあとの五時三十分ごろと推定した。  次の証言は、元良さんの妻(四五)と従業員の甲地正志さん(三六)。午後七時半ごろ、あき子さんがどんぶり一つを持って裏口からご飯を買いに来たというのである。  元良さんの妻は「夫が午後六時に従業員二人を車で辰巳台団地(市原市)まで送り、その後理容店で散髪して帰ってくるちょっと前のことなので、はっきりと七時三十分ごろと憶えているし、従業員の給料日の前日のことなので三十日に間違いはない」という。  この証言については、元良さんが三十日に行ったという同市大厩《おおまや》一七九〇、理容店「ふるやま」に、三日午後九時ごろ、捜査員二人が元良さんを伴って確認に来ている。  同店の店員で元良さんの頭を整えた鶴岡久男さん(二五)は「三十日午後六時四十分ごろに元良さんが来て、七時二十分ごろ帰った」と語っており、さらに「その日雨が降っていたことと、隔週ごと必ず水曜日にやってくる常連が来ていたことから、三十日に間違いない。それに元良さんは初めての客で仕事着姿だったのではっきり覚えている」と証言する。 「ふるさと」従業員甲地さんの証言に戻る。 「裏口をたたく音がするので出てみると、あき子さんが立っていて、『二人前ください』とどんぶりを差し出した。このどんぶりをカウンターのところにいたおかみさんに渡し、ご飯を入れてもらってわたしがあき子さんに手渡した。その時百円でいいというのに三百円よこしたので、押し問答のすえ、百円だけ受け取った。あき子さんはふだんと同じかっぽう着姿で、様子もいつもと同じだった。それからすぐ、頭をきれいにしただんなが帰ってきたので、時間は七時半に間違いない。三日になって、捜査員と弘子さん(仮名・哲也の姉)がその時のどんぶりを持ってきて『これに間違いないか』と聞かれたので、そうだと答えた。どんぶりには、半分だけご飯が残っていた」  甲地さんは、その前、午後五時四十五分ごろにも、あき子さんの姿を見ている。 「家の前で片付けものをしている様子だった。わたしは午後六時からの勤務で、いつも、その十五分前に店にくる。その時見たのだから、時間は確かだ」 《有力証言を“黙殺”》  これだけ確実な証言があるのに、捜査本部が「三十日午後五時半ごろ両親を殺害したとして、哲也を送検したことには、かなりの無理がある。送検の時の公式発表で、同本部は「七時半にあき子さんがご飯を買いに来たというのは元良さんの記憶違い」と強引にいってのけたが、さすがに押し通せず、本部内にも疑問がふくらんでいる。  出山進捜査本部長(市原署長)は「捜査の結果、哲也の犯行と断定できる資料が整い、また、哲也自身の供述に矛盾があることから逮捕したので、捜査全体の流れからみれば三十日午後七時半にあき子さんが現れた問題は小さい。元良さんの証言を無視するわけではないが、今後、多方面の捜査で事件が解決に近づけば必ず説明のつく問題だ」という。  二時間のナゾは、依然として消えない。 〔読売新聞〕49・11・7   十一月七日午後、哲也の身柄は送検に伴い、千葉地検に移され、検事の取り調べの後、地裁で勾留質問を受けた。  この時も、出山本部長は読売の記者から質問され、奇妙な答えをしている。 「“七時半あき子さん生存”の件を無視し、決め手もないまま、送検したこと自体おかしいのではないか?」 「まさか、幽霊《ヽヽ》でもないだろう。警察の立場からいえば、二人とも生きていればいいと思うが、一緒にいなくなっており、血が残っていれば、二人死亡説をとるのは当然のことだ」  哲也は送検後も殺人を否認、しかも十日間の勾留が決定、再び市原署に戻される。  それまでも、留置場で出される食事には三分の一ほどしか手をつけなかったが、この日から、ハンストに入った。 「絶対にやっていない。勾留は不当だ」接見にきた田中一誠弁護士に、哲也は口惜しげに語った。「今、自分にできることは、抗議のハンスト以外にない。(死体を)どこに埋めたかと連日責められるが、わからないものはわからない。朦朧《もうろう》として、言われるままに喋《しやべ》ってしまいそうになる」  哲也の姉の依頼で弁護を引き受けた千葉綜合法律事務所では、八日午後五時前、千葉地裁に勾留取り消しを求めて、準抗告の申し立てをした。勾留状に記載される「哲也がなんらかの凶器で両親を殺害し、いずれかに運び捨てた」という犯罪事実には証拠がなく、推測の域を出でず、見込み捜査であると難じ、勾留の目的は自白採取にあるとした。  だが、翌日、一大ニュースが飛び込む。  捜査本部が自宅周辺の捜索、山狩りなどを行って躍起となって捜し求めていた遺体の一つが、市原市五井海岸沖合一キロの海上で漂流中、砂利運搬船によって発見されたのである。  哲也逮捕から四日後の十一月九日午後一時五十分頃のことで、変わり果てた父親の遺体であった。普段着のまま、左足首に麻縄が結びつけられ、胸の中央部、みぞおち、腹、左頭部など五カ所をめった刺しにされており、心臓に達する深い傷が致命傷とみられた。  続いて、翌十日朝、丸善石油千葉工場の岸壁沖合で、母親の遺体も発見された。両足を黒っぽい紐で巻かれ、自動車のホイール(直径四十六センチ、重さ二十一・五キロ)が重石としてくくりつけられていた。  解剖の結果、胸や腹の刺し傷による出血多量が死因とわかった。 「ひどいやつだ。親を殺して重石をつけ、暗い汚れた海へ投げ込むなんて」出山捜査本部長がはき捨てるように言った。「哲也もこれでもう、観念しなければ、駄目だ。でも、あいつはしぶといから、これから作戦を立てないことには」  佐々木哲也は、父佐々木守、母あき子の間に生まれ、子供の頃から近所でも「秀才」としで知られた。父は五井でほそぼそとタイヤ修理業をしていたが、哲也はよく家業を手伝い、「孝行息子」との評判だった。市原市の八幡中学からは毎年二人ほどしか合格しない県下の名門県立千葉高校へ入学する頃まで、彼の生活は順調だったといえよう。  早稲田大学文学部を志望したが、「大学紛争が盛んな学校へ入って何になる。家業を手伝え」と反対する父に、入学願書を破り捨てられてから、ぐれ出し、卒業後一時は予備校に通ったこともあるが、学生運動に参加したり、家出をしたり、結局大学を一度も受験することなく、進学をあきらめた。そして、父親が新たに開店したドライブ・イン「華紋」の経営にも当たるようになったのである。  以下、原判決に認定される「犯行に至る経緯」「罪となるべき事実」について記す。  被告人は同店に寝泊りして仕事を手伝うようになったが、同店の従業員の影響もあり誘われて遊ぶうち、昭和四十九年五月ごろ、千葉市栄町のトルコ風呂「天城」へ遊びに行った際、いわゆるトルコ嬢三矢英子(仮名・当時二十歳)と知り合い、以後同女と親密な間柄となって、同年八月ころからは毎日のように会い、その都度同女に現金一万円を渡し、同女に内縁の夫がいることを知りつつ同女との結婚まで考えるようになって、同年十月十五日ころには両親等には内緒で、千葉市稲毛東にアパートの一室を借り受け、同女と一緒に、冷蔵庫等の家具を選んで同所に備え付けたりして同女との交際を続けていた。  一方、両親は、同年十月ころには被告人の女性関係に感づき、被告人に対し何度も三矢英子との交際をやめるように注意していた。そんな同年十月二十九日夜、両親が市原市でのタイヤ修理業の仕事を終えて、いつものように「華紋」の売上金を収めに来ていた際、同店に三矢英子から被告人宛の電話がかかってきたのであるが、母親が電話口に出て「どこの方ですか。私と会ってほしい」むね告げて応対し、被告人に取りつがないまま電話を切ってしまったので、それと察した被告人は母親に対し「今のは俺の電話か」と糺《ただ》したが、母親は「違う」と嘘をついた。被告人はこの母親の嘘に対して憤懣遣方《やるかた》無く、「華紋」内の寝室で両親に「俺にかかってきた電話をなぜ取りつがなかった。親にそんなことができるのか」等と怒鳴り、これに対して父親も「お前は騙《だま》されている。そんな水商売の女とつきあえばどんなことになるかわからないからつきあうな」等と言い返して、互いに強く言い合ううち、被告人が父親の胸を強く突いたので父親は仰向けにベッドの上に倒れてしまい、近くにいた母親や姉婿が被告人を押さえてその場をおさめたが、父親は「お前のような者は子ではない。親子の縁を切るから出て行け。何もやらないから自動車のキーも出せ」等と言って、被告人から愛用の自動車のキーを両親二人がかりで取り上げたため、被告人は車から三矢英子の靴等が在中しているナップザックを取り出して「華紋」を立ち去った。それから、被告人は三矢英子を呼び出して落ち合い、翌十月三十日午前四時ころまで同女と過ごしたが、その間、同女から父親に手を出したことで両親に謝まるように勧められたし、被告人も車を返して貰いたく思ったので、謝罪がてら市原の両親宅に一人で赴いた。  被告人は、十月三十日午前六時ころ両親宅に着き、父親に戸を開けてもらって家の中に入った。その後被告人は台所で両親に前夜の行為を詫び、今後のことなどについて話し合った(もっとも、タイヤ修理の客が来るので断続してである)が、その間父親は「とにかく外に出て働いてこい。金儲けはしなくてもよいからこつこつやれ。あとは店を持たせてやるから」という趣旨のことを述べて意見したのに対し、被告人は「商売というものはこつこつやるものではなく、詐欺とすれすれのことをやるのではないか」等と言い返し、そのため父親が「それならお前そのようにやれ。あとの責任はとらないぞ」等とやり返すといった状態であり、母親は母親で、父親も老齢であるから被告人に店をやらせた方がよい、被告人を家から出すことは反対であるとの考えを持っていたので、結局、話が纏《まと》まらないまま、被告人はその場の雰囲気に嫌気がさして、午後四時三十分ころ家を出たが、暫《しばら》くして前記ナップザックを両親宅に置き忘れてきたことに気づき、また、前夜取り上げられた車のこともあって再び両親宅に戻った。  そして、被告人は、台所で父親に対し取り上げられた車を二、三日貸してくれないかと申し出たところ、父親も母親も車は処分してしまったのでない旨答え、母親は父親に促されて片付けのため二階に上がって行った。その後で、被告人が車のことで父親に文句を言いはじめたが、父親はそれには答えないで、被告人の外での行状を知悉《ちしつ》しているむねを述べはじめ、知人に依頼してトルコ風呂「天城」の店の内容や三矢英子のことを調べてもらったこと、被告人が交際している三矢英子という女がいかなる職業の女であり、客に対してどういうことをする女であるかを具体的に卑猥な言葉で述べ続けるに及んで、被告人は、意表を衝かれて驚き、三矢英子の職業が父親に知られてしまったからにはもうどうしようもないと思うとともに、被告人にとって最も大切なものが壊されるような思いを抱き、こんなことを言い続ける者は父親だろうが何だろうが殺してやろうと咄嗟《とつさ》に決意した。  かくして、被告人は、  (1) 昭和四十九年十月三十日午後五時二十分ころ、千葉県市原市八幡北町二丁目七番六号の両親宅台所において、坐っていた実父佐々木守(当時五十九歳)の背後から殺意をもって、刃渡り十三・七センチメートルの登山ナイフ(昭和五十年押第一〇〇号の六)で、同人の右肩付近を二回突き刺し、次いで同人を仰向けにしたりして、同人の胸部、頭部、上腹部等を約九回突き刺した後、同人の下腹付近に腰を降していたが、まもなく、二階から降りて来た実母あき子(当時四十八歳)がその現場を見ていたく驚き、被告人に恐怖を感じて、夫守の傍《そば》に落ちていた右登山ナイフを取り上げその場から逃れようとしたのを見て、同女から右登山ナイフを掴《つか》みとり、殺意をもって、同女を仰向けに押し倒したりして、右登山ナイフで同女の胸部、頭部、背部等を二十数回突き刺し、よって、即時、同所で、実父守を胸骨部、上腹部刺創による心臓損傷により、また実母あき子を胸骨部刺創による失血(心臓損傷)によりそれぞれ殺害し、  (2) 前記両親を殺害後、その死体の処置に窮した結果、同年十一月一日午前五時三十分ころ、両親の死体を毛布で包んで普通貨物自動車の荷台に積み、前記両親宅から市原市五井南海岸一番の二養老川河口公共物揚場第三号岸壁まで運んだうえ、同所で両親の死体をシートで包み、各死体に錘《おもり》として自動車用ホイール一個ずつを取り付けて、両死体を同所から海に投棄し、もって両親の死体を遺棄したものである。  この日、第七回公判における佐々木被告人に対する質問、供述の一部を抜粋する。 新矢裁判官  ——(十月三十日)お父さんと最後に言い争って、君は家を出たと言ってますね、一旦。 「はい」  ——もう一度確認するけど、これは何時ころですか? 「記憶にはっきり残っている時間は、六時半に三矢さんに電話したことと、千葉の丸千洋服店で七時二十分か四十分のころ時計を見ているんです。それ以外の記憶というのはないんですね」  ——それから、帰ってきた時にはもうお父さん、倒れてたと。こういうふうに述べてるね? 「はい、そうなんです」  ——で、君の供述だと、まだお父さんの息はあったということかな? 「私が父を台所の中央へ運んだ時、そして父を横たえた時、父の右手が握り拳を握るような形になったんです。そして父の肺が上に持ち上がるような感じで、息を吐いた時、何かブスブス音がしたんです」  ——ということは、呼吸をお父さん、したということ? 「何か胸が上になって、変な音がしたんですね。ブスブスとか、そういう音を最後に聞きました」  ——単刀直入に聞くけど、お母さんがお父さんを刺したということを、お母さんが言ったの? 「こんなものがあるからとか、ナイフなんかおまえが持ってるからとか、そういうふうに。やっちゃったとかそういうふうには言わないんです」  ——そういう状態を見ると、君は当然、誰がこういうことを、結果を起こしたかということは聞くと思いますね、普通。 「聞いたんですが、論理的な話は言わなくて、こうなったのもおまえのためだとか、ナイフがあったからとか、私だって体がおかしくなるまで店のことを考えているのに退《の》け者にしたとか、ばかにしたとか、そういう言葉しかなくて、その時はそれを聞いてるしか方法がなかったんです」  ——そうすると、お母さんが刺したという直接の言葉は言わなかった。お母さんの自身の口からは、私がやったという言葉は聞いていないということですか? 「そうです」  ——(ナイフがなければ、あんな事件にはならなかったという供述に対し)ナイフがあった、なしに関わらず、そういう原因というものがどうも理解できないんですよ、君の言うことではね。君の方で心の中で言い述べてないところがあるんじゃないか、もしあるならばこの機会に是非聞きたいと思って敢《あ》えて質問するわけなんです。 石丸裁判長  ——この事件はお父さんもお母さんも亡くなっている。そして少なくともお父さんが亡くなる直前に接したのは君だけだ。お姉さんも会っていない。しかもその君が言うようにお母さんがお父さんを殺したと仮定するならば、その直後のお母さんに会ったのも君だけだ。その後お母さんが死ぬまでこれまた誰にも会っていない。ということは、お父さんがどう喋《しやべ》りお母さんがどう喋ったかということは要するに君から聞く以外に手はないんです。しかも、お父さんにしろお母さんにしろ何十個所という本当に無残な刃物傷で亡くなっておられる。お二人とも死体が海に投げ込まれて、それがまた浮かび上がって、君は多分見てないだろうけどこの世のものとも思えないような、いわゆる海に沈んだ人の顔というのは普通の顔と違いますから……。 「見ましたから……」  ——見たら、それ、印象に残っているだろう。 「はい」  ——そういう形で大変むごたらしい形で二人とも亡くなっている。その一番ぎりぎりの線まで接していたのは君なんですよ。君がここで述べたことが真実なら、それで結構だ。しかし、君の十何年にわたる裁判で述べてきたことについてはその時のやりとりの言葉がじわじわ変わっているんですよ。一つの筋が通っていないからおかしいんじゃないかなという疑問を持たざるを得ない。それは君が弁解なさるのは一向構わない。それが真実なら我々もそのように判断いたしますけれど、ただやっぱり合理的でない点があなた自身も自分が喋っていて分かるでしょう。その合理的でないところを我々に合理的であるように説明してほしい。言ってないところがあるとすればそれをちゃんと全部喋って我々に聞かせてくれませんか? 「………」  ——君の現在の記憶どおり聞きたいわけですよ。途中でどういうプロセスがあったということは、我々だって調書は全部読んでますよ。そういうことより、君がここでこの間からもう何回も聞いているけれども、君の弁解は一貫してあの時の調書ではこのように言われたんでこう喋ったとか、ああ喋ったとか、調書にこう書いてあるからこうだとか、どうでもいいんだ、そういうことは。君自身の記憶を言ってください。 「調書じゃなくて、僕が言いたいのは、警察で父を殺したのは僕じゃない、刃物を振るったのは母だということを僕は最初言っているんです。僕は僕なりに説明したんです。父の事件のことを。しかし、警察は僕を信じてくれなかった。僕は裁判になって母がどうだ、こうだと言ったんじゃなくて、一番最初父の死体が見つかった時、父に対して刃物を振るったのは僕じゃないんだということを警察で言ってるわけです。それは調書にも一部残ってますしね。ですから、決して裁判になって母に責任をなすりつけているんじゃなくて、僕は取り調べの時そう言ってるわけですからね」  ——私の言ったことを取り違えたようだ。私が言いたのは、殺してないならそれで結構です。ただお父さんとお母さんのギリギリまでいたのはあんただけだ。我々が知りたいのはその時の遣り取りの言葉の中身。お母さんなりお父さんが亡くなる直前にあんたその日、朝の五時から行ってずうっと一緒にいるんだもの。その直後にお父さん亡くなっているんですよ。だとするならば、その時に交わした言葉が真実ならばこれだけの大事件が起こった後でしょう? それがグルグル、グルグル変わるはずがないから言ってるんですよ。殺してないとか殺しているとか言っているんではなくて、お父さんお母さんの遣り取りした中身だ。それを聞いているんです。あんたに聞く以外ないもの、それは。お二人とも亡くなっているから。一審とこことはもう違ってますよ。だから、真実ここで本当にありのまま述べてほしいわけだ。 「遣り取りというのは、僕が出て行ったのは四時半から五時の間だと思うんですけど、その辺の遣り取りは今まで話してきたことなんですがね。ですから、一審も全部同じなんですね。ただその表現がうまくできているかできていないかの違いであってですね、これは。何も急に言い出したことじゃないんです。ただ、その表現が全部語れてない部分とか、あるいは僕が隠してた部分とかありますけど、全部一審からずうっとそういうことがあったんですね、言ってることは。話自体は。ですから、それが違っているって、どの部分をおっしゃられるのか分からないんですけど、そういうふうに話があったとか、ないということに関しては大筋で話しているんですよね」 新矢裁判官  ——そうすると、結論的にはお父さんは今言ったように私の子供ではないという趣旨のことは言ってないんでしょう? 「はっきりとは言ってません」  ——最初は、しかし、自分の子供でないような趣旨のことを述べていたでしょう。 「ですからね、僕にすれば父が言ってその時だけだったらそうは思わないんですが、次に母からこの人はおまえの父親じゃないんだから私の方を大切にしてくれという言葉を言われたから、それが重複して結局そうなって、そして今度は血液の方が違うと警察で言われてやっぱりそうかと思ったわけですよ。そのうち裁判やっているうちに姉の血液を確かめてもらったことによって母の血液型が違うんじゃないかというような話になってくると、僕もその時言った母の言葉とか父の言葉が一体どういう意味で言ったのかというような考え方を持ってきて、最初はその警察の血液なんかのことを検察官が違うみたいだと言いましたから、だからその言葉が正しいと言うなら父や母が言った言葉をそういうふうに理解していたんです。姉までも違うとなってきたら姉は父と母の子だと思っていたから、そうすると母の血液型を鑑定した人が間違えたんじゃないかという考え方になっていったんです。ですから、そこら辺は違うかもしれませんけど」  ——もし、それを前提とした場合に、その他のお父さんとお母さんの関係で言うと突然その時お母さんがそういう行動に出るということは普通のことじゃ理解できないんですよね、お父さんをそれだけで殺害するということは。これは君自身そう思わない? 「長年のことが積み重なったんだと思います。僕のこととか、あるいは病院から退院してきて、脊椎カリエスですがね、体が自由にならない。普通には働けるんだけど、ただ体だけは丈夫だということを取り柄にしてた人ですから」  ——しかし、犯行後給料を支払うことまでちゃんと君の方は話されるくらい冷静になっているんですからね。どうしてそこでそういうふうに激昂しなきゃいけないか、ということが理解できないでしょう? 「給料の話は僕の方から持ち出したことですよ。冷静なんかじゃないんです。ですから、論理的な話なんかしません。母がその日僕に言ったのはどこにも行かないでくれとか、おまえだけだとかっていうことを言ったんです。で、父の体を僕が台所の真ん中に引っ張ってきて寝かせて父を見ていた時、母は僕に死んじゃったかいという言葉を言ったんですよ。僕がその時言ったのはもう済んだことだからとか、もう終わったことだからというその場しのぎの言葉しか言えなかったところ、母はまた感情が昂ぶってきて私が悪かったとか、こうなったのもおまえのためだとか、こんなものがあったからとかってそのナイフのことを言ったりして、その人はおまえの父親じゃないんだから私の方を大切にしてくれとかっていう言葉を言われて、僕はそれが嫌になっちゃって、そういう言葉を聞くこと自体が何か非常に嫌な気持ちになって、それに対して僕が言ったのは死体なんて車に積んでいって車ごと海へ捨てちゃえば分からない、後は僕と母が父はいなくなったと言えばいいじゃないかということをその場のことで言ったら、母は最初そんなことをしたって始まらないと言ってたんですけど、少しするともしこんなことが分かったらどうしよう、どうしようとかっていうふうな感じで僕の方に助けを求めるような目つきで、その時僕はもう終わったことだから気にしちゃだめだよとかそういうその場しのぎの言葉しか言えなかったんです。母が言ってる言葉が時々興奮してたもので僕が少し横になったらいいよ、少し落ち着くからというようなことを言ったんです。そしたら母は、こんな時に寝られるわけけないよと言って、頭を抱えるようにしたんですけど、その時も僕が言えたのはしっかりしなよとかそういう言葉しか言えなくて、そして僕が最初、店に行くけど一緒に行くかい? というふうに言ったんですけど、母を連れて行ったら三矢さんに会えなくなると思ったもんで今日は行かない方がいいよ、というような言葉で濁しちゃったら、母はその時、おまえは私を捨てちゃうんじゃないかとか、おまえは私を独りにしちゃうんじゃないかとかって、そういう非常に、母からすれば頼ってくるのは当たり前なんでしょうけど、そういう時非常に僕はその母の言葉、その母の気持ちを受け止められなくて、ただ聞き流す程度にうんうんとか、もう済んだことだからいいじゃないかという言葉しか言えなかったんです」  第八回公判は三月二十日開かれ、新矢裁判官はそれまでにも何度か言及した被告人と鎌田(仮名)という男の金銭関係について質した。佐々木は鎌田と一緒にルーレット賭博の店を短期間ではあったが千葉市内に開いていたことがあり、一日十五、六万円の収入があった。しかし、用心棒代とかショバ代とかに月々、五十万ほど暴力団へ支払わせられた。それ以外にもいろいろ請求されたことがあり、鎌田が「表向きの責任者」であった。  佐々木は死体となった父親と、「独りにしないでくれ」と言う母親を残して家を出たが、この時二階の金庫から持ち出した五十五万円のうち二十万を母親へ渡し、別に二十万を翌朝七時に鎌田へ支払っている。 「ルーレットの儲けを余分に取っていたので、その分を返した」  というのだが、請求もされないのに、なぜ朝早くそうしなければならなかったのか、この点は弁護団にとっても不可解であった。  ——お父さんの死体、それからお母さんがいなくなったのを確認したり、知ったのはいつ頃ですか? 「十一月一日の四時半頃行った時、いませんでした。その時は僕はまだ母に新たな異変とか、そういうことが起こったというふうには考えていなかったんです」  ——三十一日には、どうですか? 「考えていません」  ——風呂場も見なかったんですか、三十一日は? 「三十一日の午前中と三十一日の夕方に行きましたが、入りませんでした」  ——だから、内部の事情は分からないということですか? 「はい」  ——で、一日に初めて入って知ったということですか? 「そうです」  ——お父さんの死体が上がったのが九日、それからお母さんが十日に上がりましたのですね。 「そのように聞かされました」  ——今考えて、この間、お父さんはともかくとして、お母さんの足取りをあなたは現在どう考えておるんですか? 「現在は二つ考えられて、僕が家を出て来てしまってから、十月三十日の七時以後から姉が次の日に入った午前中の間か、あるいは……警察がですね、検証があったその十一月何日でしたか、警察に問題になるまでの間ですね、そのどっちかの間にああいう形になったというふうに」  ——忽然《こつぜん》と消えたということでは、ちょっと理解できない点もあるんですが、何か思い当たるふしはないですか? 「原因は、父の死体の処理方法をめぐってとか、そういうことを考えております」  ——前回、毛布を示しましたね? 「はい」  ——これは証拠によると、海から引き揚げられた時、お母さんの体に巻き付けられていたものですが、これは千葉の第二回公判で証拠に出し、その時の弁解では、この毛布と、それからロープがありましたね。これは八幡の両親の家にあったものと思うというふうにあなたは述べていますね。 「タオルケットじゃないですか?」  ——タオルケットもそうですが。 「タオルケットの記憶はあるんですがね。父は十月三十日、タオルケットを巻き付けていましたから、記憶にあるんですけど」 (原審記録全二十二冊中第一分冊の八十一丁以下を示す)  ——まず八十一丁によると、麻紐を示されて見覚えがあるかと聞かれたのに対して、分からないという答えです。タオルケットは警察で見せてもらいましたと、で、警察で見せてもらう前、どこにあったかという問いに対して、どこにあったか分からないと、次にマニラ・ロープに見覚えがあるかという問いに対して、家にあったものだと思いますと、それからナイロン・ロープ一本についても、家にあったロープだと思うと、そして原審の二二二号の毛布に見覚えがあるかという質問には、家にあったものだと思うと肯定しています。 「ちょっと記憶にないんですけど」  ——しかし原審で嘘を言ったということはないんでしょう、法廷では? 「その時の記憶で喋っているとは思うんですけど」  ——それじゃ肯定しているように書いてあるということは、その通りですね? 今読んだ通り。もし、そうだとすると、その毛布とか、それからお母さんの体についていたものが両親の実家である八幡の家から持ち出されたことになりますね? 「そうですね」  ——お父さんの死体に巻き付けられているのはもう死体になっているから、それを巻き付けて運び出すということは考えられますけれども、お母さんの方に巻き付けられた毛布やロープが八幡の両親の家から出たということになると、これはそこから巻き付けられた可能性が非常に強いということが考えられますね? 「はい」  ——その点について、心当たりはないですか、あなたの方で? 「姉が十一月一日に入った時、母のサンダルが台所の勝手場の入口にあったと、それが警察の検証で立ち会った時、なかったと言っていましたから、母が一度それを履いて外へ出たというか、履いたんじゃないかって、考えているんです」  ——お母さんがそのサンダルを使った可能性があると、その後もお母さんが生存していた可能性があるということを言いたいわけですか? 「そういう考え方を一方で僕は持っているんです」  ——それ以上に今私の聞いたお母さんがどういう形でああいうふうな死体で海の中から発見されたかについては、特別に何か被告人の方で言うべきことはないですか、あるいは思い当たると思うところは? 「ですから、父の死体処理をめぐって、トラブルになったんだと考えていますが」 石丸裁判長  ——そのトラブルというのは、誰との間のトラブルですか、お母さん一人でトラブルは起こらないわね? 「はい」  ——だから、死体の処理をめぐってのトラブルというのは、相手は誰なんですか、心当たりはないんですか? 「この前お話ししましたが」  ——今もう一回言ってください。真犯人の人という意味ですか? 「母に対してですね、母に対しての真犯人ということです」  ——死体処理をめぐってのトラブルが出るようなあんたの言う真犯人というのは、どこにその当時いたんですか? 「………」  ——それも言えませんか? 「私が推測する真犯人について、その名前を言うべきかどうかということは、今まで何百回となく考え続けてきたことであり、僕の良心に照らして考え続けてきたことですが、それが私の推測でしかないうちは、どうしても戸惑いの気持ちがあるところであり、現在私にとって絶望とは、未来に立ちはだかるかもしれない死刑台に脅え、再度実社会に戻りえぬことを嘆くことではなく、私にとって絶望とは再度実社会に戻れた場合においても消えぬ絶望、それが私にとっての本当の絶望なのであり、そのことをなかなか人は理解してくれていないようですが、私は母に対しての真犯人についてはっきり断定できるわけではなく、推測しているということであり、それが私の知っている人であるがゆえに姉の心を再度乱すことになり、それが私にとってもう一つ絶望が増えることになりますので、その点についての答弁は避けたいと考えております」  ——あなたがお父さんが亡くなってお母さんと一緒に死体を片付けた頃までは聞いたね。そのあなた自身に頼めば一番簡単な死体処理をあなた以上に、あなたを退けてでもお母さんが頼みにする人がいたわけですか? 死体の処理について、トラブルという以上は、その人に協力を求めて死体処理の仕方にトラブルがあるとあなたは推測しているわけでしょう? 「はい」  ——そうすると、あなた以上に死体処理を頼むに適した人が、その当時いたというわけですか? 「適しているかどうかということではなく……」  ——だって、あなたに頼めば一番簡単じゃないですか、あなたは死体を見ているんだもの。 「十一月の一日に隣のふるさと食堂の人が夜九時頃電気がついたとか、そういうことを言っていますから、私はその時市原の家に行っておりませんから、ですからその頃に」  ——あなたが出た後に、もう一人あなたが真犯人と推測する人が行ったということになる推測ですか、その時間に? 「そうです。あるいは食事を買ったり茶碗がどうだこうだということがありますから、私はその日母が食事を自分で食べるために買ったというふうには考えていませんから」  ——誰かに食べさせるために買いに行ったと思っているわけですね? 「はい」  ——で、その人との死体処理をめぐるということになったら、お母さんがその人に死体を見せて自分が殺したと告げたことを前提に、あなたはものを言っているわけね、推測だろうけど。死体処理についてトラブルがあったであろうから、お母さんの方もその人の手によって死んだというふうにあなたは推測しているわけでしょう、見たわけではないね? 「私は現場におりません」 新矢裁判官  ——その疑いを抱いていることを明らかにすると、お姉さんが一番傷つくと、こういうふうに今述べましたね? 「はい」  ——しかし、それは事実を明らかにした方がすべてのためにいいんじゃないでしょうか。もし、そうだとしたら、心の中の疑いが残っているのなら。 「今まで、そのことについては何百回となく考えてきましたので、どうしてもやはり戸惑いの気持ちがありますから。申し訳ございませんが」 石丸裁判長  ——あなたにとっては、その人の名前も言わない、と同時に、証拠不十分であなたも無罪になれば一番いいわけだよね。一言で言うと、そういうことだな? 「………」  ——しかし、その人が真犯人とあなたが指名する以上は、まあ推測という言葉を使うけれども、君でないということになるんなら、その人がやったと、どっちかということになりますね。それ以外の第三者はあなたも推測していないでしょう。その人以外の人によるお母さん、お父さんの死ということはあなたも推測しておりませんね? 「私が十一年間考え続けた一つの結論として今現在……」  ——私の問いに直接答えなさいよ。三人目の人のことを考えているかどうかなんです。 「………」  ——その点には答えませんか? あなたはこの人が真犯人だと、しかし姉さんが傷つくから、その人のことについては何百回考えても更に自分の絶望を増やすことになるから言えないと、今ここで言いましたね? (頷く)  ——だから、その人というのは、あなたの頭の中ではイメージとして特定できているわけだ。 「推測しているということです」  ——ということは、それ以外の人については推測はしていないということになりますが、そうですか? 「いろいろ考えてきたんです」  ——姉さんが一番傷つく人と言ったら、我々はあなたが口で言わなくてもすぐ分かるんですよ、本当は。我々も口にしませんけどね。 「………」  ——あなたが口で言わんでも、姉さんが一番傷つく人と君がそこで具体的に言っちゃったから、これで特定できるんです。 「………」  ——その点について、調べてもらいたいですか? 「………」  ——この事件で、あなたが真犯人と思っている人について、真犯人かどうかを? 「……姉のことを考えますから、結構です」  四宮弁護士から、頼んでおいた控訴趣意書三冊、検察官の答弁書、答弁書に対する反論書、甲地正志の尋問調書のコピーが送られてきた。  手紙が入っていた。次のような文面である。  ——それにしても疑問の多い事件です。分からないことばかり、問題は裁判所が「わからないこと」を「わからないこと」として見てくれないことです。  これまでお話し申し上げてなかったかもしれませんが、彼は私の高校の同期生なのです。クラスが同じになったことはありませんでしたが、何度か彼の下宿に遊びに行ったこともありました。当時の印象は、非常に優しいところをもった、むしろ気が弱いくらいの大男(彼は高校時代から上背がありました)といったものです。  ですから、事件の報道があった時はみな驚き、当時大学生でしたが、何かできることはないかと夜遅くまで集まったものでした。ただ、彼の最も親しかった友人にも面会の際、多くを語ろうとしなかったということです。そのことを聞いて私は、それほど親しくもない私が面会に行くことは彼の為にならないだろうし、彼も好まないだろうと思い、公判の傍聴だけすることにしました。それは当時いろいろ相談にのってくれた大塚弁護士の言葉も影響しています。私たちは裁判の進行等、当初から弁護人であった大塚弁護士によく話を聞きに行っていました。その際、知人が傍聴席にいるだけで被告人は勇気づけられるものだという趣旨のことを聞いたことがあります。彼とある程度距離のあった私にとって最もふさわしい「支援」の方法ではないかと思ったわけです。一審の公判はこうして殆ど傍聴しました。公判が終わる度に彼は傍聴席を振り返り、軽い会釈をするのです。朝日ジャーナルの記事の中に「傍聴席の早大生」とあるのは私のことです。  年が経つにつれ、仲間は就職し、結婚し、傍聴する友人も私とあと一人になってしまいました。私は大学を卒業してから受験勉強をしておりましたので、自由な時間は多くありました。幾度となく面会に行くべきかどうかを考えましたが、止めました。彼は私が法学部に在籍して司法試験を目指していることをどういうわけか知っていましたので(大塚弁護士たちに『よろしく』などと言っていたようです)、勉強のために傍聴、面会していると思われたくなかったのです。  そのうち昭和五十三年に私がどうにか試験に合格し、修習で配属された事務所が大塚弁護士の事務所——つまり今私がいるこの事務所だったのです。不思議なものです。  修習中も私は傍聴席に居つづけました。そして弁護士登録をして「就職」したのが現在の事務所です。昭和五十六年のことでした。第一審の裁判はつづいていましたが、私は弁護人にならず、相変わらず「傍聴人」でありつづけました。面会もしませんでした。この頃には、このことがいいことなのかどうか、少しずつ迷いが出てきていたように思います。そして、死刑判決を傍聴席で聴いたのです。  私が弁護人となり、面会に行ったのは死刑判決の後でした。最初の面会の時は随分悩みましたが、思い切って会い、弁護人になることの同意を求めたのです。彼は、弁護人になると今までと立場が違ってしまうのでは……というようなことを言っていましたが、最終的には署名してくれたのです。  つまらないことをいろいろと書きました。先生が電話で、「私がこの事件に関わるようになった経緯」を尋ねられたので、あまり話していないことだったのですが、先生にはお話し申し上げたい気持ちになりました。とても自然にそういう気持ちになりました。  個人的なことばかり書き連ねました。お赦しください。趣意書は分担して書きましたが、私の担当は第一編第一章から四章までです。御批判いただければ幸いです。草々 四宮 啓   検察側の最終弁論 「弁護人は、被告人に対する殺人、死体遺棄の各犯行を全面的に否定し、原判決に事実の誤認があると主張する。しかしながら、原審で取り調べられた証拠に加え、当審における事実調べの結果、これらの主張はすべて覆され、被告人が父母を殺害した上、両死体を海中に投棄したものであることは、一層、明白になったと言わなければならない。被告人は父親を殺したのは母親であり、自分はその直後を目撃したに過ぎないと言うが、何の根拠ももたない虚構の主張であることは明白である」  東京高等検察庁・須田滋郎検事の最終弁論が廷内に響いた。声こそ低いが、その舌鋒は鋭く、厳しい。  以下、その主張の要点を記す。 父親守の殺害について  被告人は、両親の家を出て、再び戻ってきた時間について、自分が父親守を殺害したのでないとするため、当審においても、 「自分が両親方に戻ったら、台所に母が登山ナイフを持って立っており、その足元に父が倒れていた」  と繰り返すのであるが、その戻ってきた時間については、当審では、 「(家を出たのは)十月三十日午後五時前だったと思います」 「(そして菅谷酒店付近まで)ブラブラと雨の中を歩きました。時間は、一時間は歩いていなかったと思いますけど、十分とかそこらでもないです……」  と供述するのである。  しかし、被告人の当審供述によれば、両親方から菅谷酒店まで五百メートルはないといい、しかも、高校時代、電車通学で歩き慣れた道なのだから、その概略の所要時間が述べられない筈はない。しかるに、このようなぼかした言い方をするのは、いうまでもなく、両親方台所から異常な悲鳴と物音が聞こえた午後五時二十分以降に両親方に戻ったことにするために外ならないのである。  そこで、被告人が両親方を出た時刻と、戻ってきた時刻について検討する。  被告人は、原審第九回公判では、 「(家を出たのは)午後四時半頃じゃあないですか、……暗くもなかったし、歩いたのはせいぜい四十分くらい」  と供述しながら、  第三十九回公判になると、家を出た時刻については明確に供述せず、 「都北運輸の車が来て母親が父親を呼び、父親が出て行ったあと母親が入って来たので、母親に父親の告げ口をして家を出た」むね供述し、そして、 「(外にいた)時間はわからない。二十分のような気もするし、四十分というような気もするし、五十分のような気もするし、やっぱり三十分から四十分というのが妥当かも知れないけど、それ以上かも知れないし、それ以下かも知れないし、分からない」  と言って逃げるのである。  しかし、都北運輸の石毛俊雄は、員面調書において、 「八幡タイヤに行った時刻は三時半頃で、修理は母親のあと父親が代って、全部で一時間位かかり、同店を出たのは四時二十分頃である」  むね供述しており、父親の仕事が終わったのは午後四時二十分頃である。すると、被告人が家を出た時には、父親はまだ台所に戻ってきていないのであるから、被告人が家を出たのは少なくとも午後四時二十分頃と考えられる。かりに被告人に有利に幅を持たせても、被告人との話が途中であるのに、父親が十分も台所に戻らないことはないから、せいぜい午後四時三十分頃までには出たと考えるのが相当である。  そして、外を歩いていた時間は、被告人の供述によっても、前記のとおり、両親方から菅谷酒店までは五百メートルはないというのであるから、かりに五百メートルとしても、通常人がごく普通に歩く速度は、時速四キロメートル(秒速約一・一メートル)である、とされているので、一分間約六十六メートルで五百メートルは約七分三十秒である。殊更にゆっくり歩くことは意外と難しいものであるが、ゆっくり歩いたとして、五百メートルはせいぜい十分から十二〜三分というところであろう。従って五百メートルの往復時間は遅くても約二十分から二十五〜六分ということになる。  被告人が両親方を出た時刻は、最大限午後四時三十分頃で、戻って来た時刻は、最大限被告人に有利に計算しても午後四時五十分から同五十五分頃と推定される。よって、被告人の捜査段階における午後四時三十分頃出て午後五時頃戻って来たむねの供述は、客観的な距離及び時間関係に、略《ほぼ》合致しており、真実を述べているものというべきである。おそらく姉弘子が給料の件で両親に電話している頃には帰宅したものとみられる。被告人が午後五時二十分以降に戻ったとするのは、時間的に言っても絶対にあり得ないことである。  してみると、午後五時二十分頃、台所で異常な長い悲鳴と物音がした頃には、被告人は、既に、その二十分以上も前から両親方に居たのであり、 「戻ったら母が父を殺害していた」  などという供述は、到底、信用出来ない所以《ゆえん》である。  本件被害当時における被害者夫婦の仲について、姉弘子は、検面調書において、 「両親は、午後五時に電話した時も夫婦で出て給料は明日持って行くと言っていた」  と供述し、当審においても、 「両親は死ぬまで仲は良かった」  と証言しており、また、ふるさと食堂の元良潔も、原審において、 「午後五時頃、奥さんが水槽の前を掃除していたのを見た」  と証言しているのであって、被告人が出た後も、夫婦喧嘩などした様子は全く認められないのである。  ましてや、父親守が、 「お前は伯父に似ていると言った」  という程度のことで、これまで営々として力を合わせて働いてきた夫婦が突如喧嘩をし、脊椎カリエスでコルセットをはめている病身の妻が、体の大きい夫を登山ナイフで刺し殺すなどできる筈もないのである。被告人の窮余の作り話であることはみえすいている。  よって、日頃から反発心を抱いていた父親から、特殊浴場の従業婦であった自分の愛人の最も痛いところを罵倒され、自分自身が侮辱された思いに駆られて激昂し、登山ナイフを手にとり、こんな家庭など破壊しても構わないと決意し、夢中で刺し殺したという被告人の捜査段階における自白こそ真実を述べているものと言わなければならない。  その父を殺害するに至った動機も、それなりに十分了解できるものであり、また、現場及びその遺留品や被告人の着衣に付着している血痕も父親と同じ血液型であり、加えて死体に残された創傷、打撲も、すべて自白に添っているのである。殊に父親の胸部の創傷についても、木村教授は、当審において、 「防衛創がないからそれが第一撃と思うだけで推測に過ぎない」  むねを述べるに至り、確たる意見でないことも明らかとなり、結局、被告人の自白は全て証明されるに至った。  被告人の申述書に加え、いわゆる三枚の「メモ」も、断片的だが、実によく書いており、両親を殺害したものでなければ到底書けない内容で、被告人の自白が信用しうる所以である。 母親あき子の殺害について  所論は、被告人が、三十日午後七時頃、両親方を出た時には母親は生きていたから、被告人が殺害したものではない証拠として、  (1) 母親の胃内に食後二〜三時間経過したニラ、卵黄、飯米が残っていたこと、  (2) ふるさと食堂の店員甲地正志が、  「三十日午後八時前ころ、奥さんが、どんぶりで二人前の御飯を買って帰った」   むね、三十一日の夕方、被告人に話していること、  (3) 風呂場前廊下に、女性足跡のルミノール反応があったこと、  (4) 母親の血液型がMN型又はN型の公算が大であるのに、現場、遺留品、被告人の着衣等からMN型又はN型の血液が検出されていないこと、  などを挙げるのであるが、いずれも一方的な主張でその裏付けもないばかりか、当審の事実調べの結果によって、ことごとく覆されたというべきである。 胃内の残滓について  木村教授は当審において、その量は、 「茶碗に半分ぐらいの量である」  むね証言している。  すると、母親が、わざわざ、食堂から二人前の御飯を買ってきて食事の支度をし、夕食をとったものとは到底言えない。  やはり、検察官が答弁書で述べたように、午後二時から三時ころにかけて、小腹が空いたので、仕事の合間にニラ卵炒めの手料理を作って中間食をとったとみるのが自然である。 ふるさと食堂甲地店員の発言  甲地店員が三十一日夕方、被告人に対して、 「お袋さんが昨夜《ゆうべ》八時前ころ御飯を買いにきた」  むねを話したというのは事実であるが、その買いに来た日時については、同人に記憶違いがあったことは歴然としている。  同人は、原審において、 「右は記憶違いであった」  むねをはっきり証言しているのであり、同人が原審で、元良さんが床屋に行ったとか、給料日の前日であるとか、雨が降っていたとか、テレビが欽ちゃんの番組をやっていたとか、色々述べているのは、弁護人の巧妙な質問によって、「三十日の単なる出来事」を思いつくまま羅列しているに過ぎないのである。  母親は、周囲の者の供述や現場検証調書添付の家中の写真などからみても、非常にしっかりした人で、きちんとした性格を持ち、倹約者でもあることが窺われる。そして、三十日早朝、息子の被告人が突然帰って来たので、いそいそと朝・昼・晩三人分の御飯を電気釜で炊いているのであるが、実はその御飯が事件後もまだ、どんぶり二杯分残っているのである。そうすると、夫を殺害した妻が、更に、二人前の御飯を隣の食堂へわざわざ買いに行くであろうか。常識からいっても到底あり得ないことである。  それに、同女は、当日午後四時頃には、南側玄関口の鉄扉の前でネギの皮をむいていた(小川安二員面調書)のであるから、同女がその日、夕食の支度をするなら、当然、そのネギを使用する筈であるのに、実際には、そのネギは事件後も使用されないままバケツに入れられて、風呂場の前廊下に置いてあるのである。このことからも、同女が夕食の支度をした事実は認められず、したがって、隣の食堂へ御飯を買いに行ったということもあり得ないのである。  所論は、それならば、母親が前日の二十九日午後八時前に御飯を買いに行ったのでは、午後八時頃、母親が華紋において、三矢からかかってきた電話に出ていることと時間的に矛盾するのではないかというのである。  しかし、母親が、隣へ御飯を買いに行ったのが二十九日であったとしても、その時間が午後八時頃であるという証拠はないのである。むしろ、被告人の姉弘子の当審供述によれば、 「両親は夕方暗くなれば店を閉め、母はそれから夕食の支度をして、食事をとってから華紋へやって来ていた」 「店を閉めるのは、五時か六時頃だった」  ということであるから、母親が、夕食の支度に取りかかるのは、五時半頃から六時半頃にかけた頃とみるのがごく自然である。八時前や七時半頃に夕食の支度を始めるというのは、如何にも遅きに過ぎ不自然である。(日没は午後四時四十五分——東京天文台回答)  してみると、母親がふるさと食堂へ御飯を買いに行ったのは、紛れもなく、二十九日の午後五時半から六時半頃までの間であるといわなければならない。  よって、甲地店員の発言が記憶違いであったことは明白であり、これ以上多言を要しない。 風呂場前廊下の足跡  所論は、風呂場前廊下に女性の足跡があったから、母親は生きていて着替えをしたのであるというのであるが、先に答弁書で述べたとおり、本件現場には、足跡は一種類しかなく、しかも、女性の足跡があったなどという証拠は何処にもないのである。そして、その一種類の足跡は、いうまでもなく被告人の足跡である。したがって、母親が風呂場前で着替えをしたなどということは、被告人が、一人そのように供述しているだけのことで、何の根拠もないのである。  却《かえ》って、母親は、殺害された三十日の日は、小川安二の員面調書によれば「午後四時頃、白っぽいものを着ていた」、松藤久義の当審証言(員面調書記載のとおりとするもの)によれば「午後二時頃、柄模様のエプロンを着ていた」ということであり、それは、母親の死体がまとっていた細かい花柄模様の白っぼい本件領置のエプロンと符号し、母親が当日昼から本件領置にかかるエプロンを着ていたことは、ほぼ間違いのないところである。夫を殺害した妻が、悠々着替えをするなど出来る筈はないのであって、被告人の供述は信用出来ない。 創傷の部位程度及び犯行の態様について  木村教授は、原審及び当審において、父親の創傷の部位程度と母親の創傷の部位程度は非常に類似しており、刺した力も同程度で、かつ、凶器もほぼ同じものと認められるというのである。してみると、本件現場やその遺留品に加えて、被告人の着衣からも男性女性の血液(しかもRH式、ダフィ式によって血液型が父・母のそれと同じである)が検出されていることは、被告人が、本件現場で、相前後して父親と母親とを順次殺害した何よりの証左であるといわなければならない。  被告人は、捜査官に対し、 「母親の首を締めようとしたが、暴れて締められなかった」 「母親は激しく暴れて抵抗した」  むねを自供しているが、木村教授の鑑定及び当審証言によれば、母親の左首筋に指で圧迫した皮下出血がみられ、又、全身に二十四個所の創傷があり、その内かなりの傷が防衛創であることが認められ、自供がそのまま裏付けられているのである。  おそらく、弁護人は、 「階段の前や横等の廊下から大量の血液反応が出ているが、被告人の自供調書には、そのような場所で母親を殺害したとは言っていないから右自供は信用性がない」  と言うであろう。しかし、被告人は、自白したと言っても、すべてを克明に供述しているのではないのである。おそらく、残虐な殺害手段を詳しく述べることをためらったと推測するに難くない。何となれば、被告人の三枚の「メモ」に、 「私は殺人犯です、それも残酷な殺し方でした」  と書いてあるように、母親には全身二十四個所もの刺創があり、しかもその半数以上は背部・後頭部に集中しており、しかも、木村教授の証言によれば、 「母親の頭頂部、後頭部、でん部の皮下出血は、父親のものと異なり、転倒したり、ぶつかったり、殴られたりして生じたものであり、後頭部、背部、首筋の創傷はうつぶせになって刺された傷である」  というのであるから、たとえ病気の母親でも、一個所で黙って刺されていたことは考えられないので、登山ナイフで突きかかり、切りつけてきた被告人を避けるため、階段の前や横等その周囲の廊下を転びつ、まろびつ逃げ惑い、最後にうつぶせに倒れたところを、被告人が背後からのしかかって後頭部、首筋、背部等を滅多突きしたものと推認されるのである。被告人は当審において、 「右廊下の血は母親のものと思う」  と供述したが、 「その血を拭いたか」  の質問には、しばし答えに詰まり直接の回答を避けて迂遠な供述を繰り返した。その供述態度からいっても、被告人が廊下にまで出て母親を刺し、あとでその血を拭いたものであることを推認するにやぶさかでない。  よって母親に対する被告人の犯行は、極めて明白であるばかりか、その残虐さには戦慄を覚えるものがある。  被告人は、母親殺害の動機について、捜査官に対し、 「父親を殺害した直後を母親に目撃された上に、その母親が自己に迎合したり、逃げようとしたりしたので嫌悪と怒りが昂じ、この際父の道づれに母も殺害してしまおうと決意して本件犯行に及んだ」  と自白しているところであるが、もとより十分に了解し得るものであり、大罪を犯して進退極まった被告人の心中がよく看取されるのである。  かくて、被告人が、父親に続いて母親をも、その場で無残に殺害したものであることは、以上縷々《るる》述べたとおり、極めて明白であるといわなければならない。 死体遺棄について  所論は、被告人が十一月一日午前四時半頃、両親方に行ったところ、台所のドアが開いていたので、初めて中に入ったところ、父の死体はなく、母もいなくなっていた。そこで母は、自分が三十日、家を出る時、母に、 「父の死体は海に運んで行って捨てれば分からない」と言ったので、父の死体を海に運んで捨てたに違いないと思って、食器戸棚の引出しからグロリアのキーと台所出入口の鍵とを出し、グロリアで五井海岸へ出掛けて行ったものであるというのであるが、これは全くの作り話といわなければならない。 台所出入口の鍵について  被告人は、十一月一日午前四時三十分頃行ったとき、初めて、台所出入口の鍵を入手したというのであるが、実は、どうしてもこう言わなければならないのである。それはそうしないと、三十一日正午頃と午後六時頃の二回、八幡の両親方へ様子を見に出掛けているので、その時点で鍵を持っていたとなると、家の中に入った事実を言わなければならず、それを言えば、三十一日夜、風呂場から両親の血のついた前記着衣やナイフを持ち出して捨てたことも言わなければならず、これを言えば、凶器に続いて両死体も運び出して捨てたことも告白しなければならないからである。  しかし、父親の死体が風呂場にあることを知っているものが、(父親を殺した)母親もいなくなっているということを姉や義兄から聞いて知りながら、窓枠を外してでも中に入って様子を見ないということは、余りにも不自然で、到底、信ずることは出来ない。  ましてや、被告人といえども、母親の胃の内容物や現場、特に階段周囲の廊下に残された大量の血が母親のものであると認めざるを得ない以上、母親が十一月一日には、既に殺害されているという事実は否定出来ないのであるから、被告人が犯人でなければ、別の犯人がこの家に入って両死体を運び出したということになるが、鍵がなくて被告人ですらも入ることが出来なかったという家に、一体、誰が、どうして入ることが出来るであろうか。  隣家の安井俊往は、員面調書において、 「三十一日午後七時頃、哲也は、何か連絡があるといけないから今夜はここに泊って久し振りに家の風呂にでも入るかな、と言っていた」  むね、姉弘子及び義兄も、検面調書において、 「哲也は、三十一日午後十一時頃、家を近所の人に任せておけないから、今晩、八幡の家に泊るから、と言って出掛けて行った」  と各供述しており、一体、鍵がなくて入れないという者が、どうしてたやすくこんなことが言えるであろうか。これは鍵を持っている者の発言としか言いようがない。被告人は、一日午前十一時頃、義兄及び安井と三人で入るとき、台所の鍵を持っていて、それで開けているのであるが、これはもう、三十日に家を出る時から持っていて、三十一日も、一日の未明もその鍵で中に入ったという自白こそ、真実を述べたものといわなければならない。 一日の朝五井海岸へ行った事実について  これは紛れもなく、当日未明、被告人が海中に投げ捨てた両親の死体が浮上していないかどうかを確認に行ったものと認めるのが相当である。  被告人は、しきりと、 「母が父の死体を捨てに行ったと思い、母を探しに行った」  と主張するのであるが、その時点では母親は既に殺害されているのであり、従って死体を捨てに行ったのはその犯人であり、しかも両死体を捨てに行ったのである。  すなわち、この問題で注目すべきことは、 (ア)被告人がそのように見に行ったその海岸から、父母の両死体が上がったこと (イ)母の死体は両親方にあった軍隊毛布で包まれ、その足にはホイールが取付けられていたこと (ウ)前記松藤の検面調書によれば、三十一日午後コンプレッサーに被せてあったシートが、十一月二日見た時にはなくなっていたこと、従って両親の死体が運び出されて捨てられたのは、三十一日夕刻から翌一日未明までの間ということになること (エ)この間、被告人は、前記のとおり   「八幡の家に行って、一晩泊って見張りをする」    と言って出掛けており、かつ、一日午前四時三十分という特異な時刻にサニーライトバンで八幡に行き、両親方に入っていること (オ)そのサニーライトバンの後部荷台には、大量の血液反応が出ていること (カ)被告人は、一日午前七時以降はそのライトバンには乗らず、グロリアで海岸を見てから華紋へ帰ったこと (キ)その日の午前十時頃、被告人の両手を洗ってやった曾根幸子が、   「哲也さんの右手の内側に、新しいミミズ腫れの傷があり、三本の条痕になっていた」    と証言していること  の諸点であり、これを総合すれば、母親を殺害した犯人が両死体を運び出して五井海岸へ捨てた日、被告人も姉夫婦や安井らに告げた上で両親方に出入りし、五井海岸へ行ったりしているのであり、しかも、右手内側に新しいミミズ腫れの条痕があったとなれば、結局、両死体を捨てたという犯人と被告人とは、完全に重なり、同一人であるとしか言いようがないことになる。  被告人の犯行であることは明々白々である。 被告人がいうところの真犯人なる者について  被告人は、 「母を殺害した上、父母の両死体を捨てた真犯人は別におり、その者は自分の非常に身近な者で、その者の名を言えば姉の心を乱すことになるから、推測の段階では言えない」  というのである。  しかし、被告人が言わんとしている人が誰であるかは、名前を出さなくても容易に察しがつくところである。  その人は、三十日も午後五時五十分頃から同日午後十一時頃まで、妻である被告人の姉と二人で、両親の安否を気遣い、交互に両親方に電話し、その夜は遅くもあり、また、おそらく車のバッテリーが上がっているためもあったのであろう、両親方に出掛けられず、翌三十一日の朝を待って午前十時過ぎに、夫婦で両親方にタクシーで急行し、台所の窓の桟を外して室内に入り両親を探しているのである。  本件は、かりに所論主張に依っても、母親は三十日夜十一時までに殺害されているのであるから、その人が母親を殺害する機会など全くないのである。  そして、三十一日夜に至っては、妻弘子やその人に対する検面調書で明らかなとおり、その人も、被告人から、 「家を近所の人に任せておけないので、今晩、八幡の家に泊る」  と言われているのである。してみると、被告人が見張りをしているという家に、死体処理のためなどに入って行ける筈はないのである。それに、店に一台しかない車のライトバンは、皮肉にも、この夜、被告人が一人で乗り回しているのであって、かりに、その人が死体処理に使おうとしても使えないのである。(そして、被告人が乗り回していたそのライトバンの後部荷台から、大量のルミノール反応が現れていることは、既に述べているとおりである)  妻の両親が経営するレストランに、妻と一緒に通い、妻と一緒に働き、妻と一日中行動を共にしている人が、妻の目を盗んで遠く市原まで出掛けて行って母親を殺害したり、二つの死体を捨てに行ったりすることが出来ようか。第一、その人が妻の母親を殺害したり、両親の死体を捨てたりしなければならない理由は何も見当たらないのである。  結局、被告人が、その人を真犯人と推測するというのも、自分の犯した両親殺害の大罪を免れんがための窮余の虚構に過ぎないことは明々白々である。右の次第で、この問題については、多くを論ずる要はないと思料するのであるが、被告人が右のように供述する以上は、検察官としても一言触れておくものである。  以上詳論したとおり、原審で取調べられた証拠に加え、当審の事実調べの結果に徴すれば、被告人が、両親を殺害した上、その両死体を海中に投げ捨てたものであることは、一層、明らかになったと言わなければならない。  よって、原判決の事実認定は正当であり、いささかの誤りも認められない。 量刑不当の主張について  所論は要するに、死刑は残虐な刑で憲法に違反する上に、被告人は、犯時若年で、本件犯行も偶発的であり、犯情酌むべきものがあるから、死刑に処した原判決の量刑は、重きに過ぎて不当であるというにある。  しかしながら、検察官が先に答弁書でるる述べたとおり、死刑制度が合憲であることは、つとに最高裁判所の確定した判例となっており、多言を要しないところである。  そこで、ここでは主として当審における事実調べの結果を踏まえて本件の犯情を検討することとするが、本件は次に述べるように犯情極めて悪質で同情すべき点はなく、極刑に処した原判決の量刑は至当といわなければならない。  すなわち、  本件は、何等落度のない両親を、二人とも相次いで殺害したものである。  殺害された両親は、戦後の貧しい時代を夫婦で力を併せ、種々の職業につきながら、各地を歩いて一生懸命働き、その間病気とも闘いながら被告人と姉弘子を育て、ついに市原市八幡においてタイヤ修理業を成功させ、財を築き、千葉市殿台にもレストラン「華紋」を開店し、行く末は姉夫婦の補佐のもとに、一人息子の被告人に同店を任せて平和な余生を送るのを夢みていたと思料されるのであるが、被告人は、こうした両親の期待を裏切り、好ましからざる者達と交遊関係を持ち、夜遊びに耽《ふけ》るなどして家業に身を入れず、遂に昭和四十九年五月頃からは、内縁の夫を持つ特殊浴場従業婦の三矢英子に傾倒し、毎日一万円ずつの小遣いを渡すなどして遊興に耽り、金遣いも荒くなって行ったため、被告人の将来を案じ、何とか自覚更生させようとして、説得する両親の声に耳をかさず、却ってこうした両親の態度に反発し、こんな家庭は破壊しても構わないと、憎しみをもって登山ナイフで無抵抗の両親を滅多突きして殺害したもので、子を思う親の心を察するとき、両親には何等の落度はなく、哀れというほかはない。  両親殺害の動機に、何等酌むべきものはない。殊に、母親殺害に至っては、いわば哀願しているともいうべき母を殺害したものである。  被告人が、父親を殺害したのは、三矢との交際を叱責され、愛車を取り上げられた上、同女の職業を非難罵倒され、こんな家庭など破壊してしまえと激昂し、ナイフを掴んで飛びかかって行き殺害したものであるが、母親に対しては、その犯行の直後を同女に目撃され、同女が自分に迎合する態度をとったことに怒りと嫌悪を感じ、更に自分の殺気を読み取ってその場から逃げようとしたので、この上は父の道連れに殺してしまおうと決意し、刃《やいば》を振るって殺害したものである。  これは、警察や姉らに通報されれば三矢との関係も終焉《しゆうえん》するところから親の束縛を離れて三矢の許に走ろうとし、父の道連れに殺害したものと認められ、いずれも自己中心的な勝手極まる動機であり、酌むべき事情は何等認められない。  殊に、母親の殺害に至っては、同女が、被告人の犯行を目のあたりにして顔面蒼白となり、被告人に、 「私も解放される」 「二人で一緒に暮らそう」  などと言って被告人に迎合するような態度をとったのは、いわば、被告人を静めてその殺意から逃れようとしているものであり、これはいわば助命を乞うているものと認められるのに、こうしたか弱い母親にまで敢えて道連れの刃を振るったことは冷酷非道という外なく、許し難い凶行である。  それに、被告人は、両親を殺害したばかりでなく、殺害するや、母親の首から金庫の鍵を外し取って大金を持ち出し、一緒にルーレット賭博場を経営していたという鎌田に借金を返し、三矢には高価なネックレスを買い与え、小遣い銭を渡し、東京にまで出掛けて行って遊興に耽っているのであるが、被告人の前記三枚のメモに「強盗殺人」などと多数書き連ねてあることからみても、金を奪って逃げようという意図があったのではないかという疑いを払拭《ふつしよく》し得ないものがあるのである。しかし、いずれにしても、被告人が両親を殺害したばかりでなく、金まで持ち出して借金の整理や三矢との遊興に費消するなど、その非道な行動には驚きを覚えるものである。  両親に対する殺害の方法も、極めて残忍である。  父親に対しては、無防備の背後からいきなりナイフで突き刺し、うめいて倒れるところを仰向けにして馬乗りとなり、頭部、胸部等全身十一個所を滅多突きして殺害しているものであり、又、母親に対しては、同女が顔面蒼白となり、いわば助命を乞うているというべきものであるのに襲いかかり、全身二十四個所を突き刺して殺害しているのである。  木村教授の鑑定、及び証言によれば、母親の創傷は父親のそれと異なり、防衛創が多く、かつ、頭部、でん部、手足の打撲傷・皮下出血は、転倒したり、ぶつかったり、殴られたりして生じたもので、頭部、背部、首筋に集中している多数の創傷は、母親がうつぶせになっているところを上から刺したものと認められるのであって、これを要するに、被告人は、逃げ惑う母親を追って全身二十四個所を滅多突きにして殺害したものというべく、その場面は、被告人も、両親も、床も廊下も血にまみれ、凄惨なものであったことを想像するに難くない。  殺害した両親の死体に錘《おもり》をつけ、無残にも海中に投げ捨てたものである。  被告人は、凶器のナイフや血に染まった着衣を捨てたあと、頃合いを見計って両親の死体を五井海岸に運び出し、それぞれの両足に車のホイールを縛りつけて錘とし、そのまま岸壁から転がして海中に落とし投棄したものである。およそ、人の子のなすべき行為とは思えない。  両親は、その後海中を漂い、九日目、十日目に腐乱死体となって発見されたのであるが、その変わり果てた無残な姿は、この世のものとは思えない程であり、両親の無念さは察するに余りあるものがある。  被告人は、この間、両親の安否を気遣う姉夫婦や世間を欺き、平然、三矢らと遊興に耽っていたものである。  被告人は、金庫から大金を持ち出すや、両親の安否を気遣って両親方を見に行ったり、隣り近所や親戚、病院にまで電話して探しまくっている姉夫婦や隣家の人達に、自己の犯行をひた隠し、恰《あたか》も両親が雲隠れしたかのように欺いていたばかりか、その間、三矢らと遊興に耽り、あるいは両再度三矢を伴って東京まで遊びに行き、トラベルロッジに宿泊して情交を結ぶなどしていたもので、人間性に欠けた非情な行動というべきである。  しかも、公判に臨むや、言を左右にして不可解な弁解に終始し、反省悔悟の情が全く認められない。  これまでるる述べたとおり、本件が被告人の犯行であることは、誰の目からみても極めて明白であるのに、公判に臨むや、何とも理解し難い弁解を重ね、迂遠な言い廻しで責任を回避しているもので、反省悔悟の情など微塵も認められない。  あまつさえ、その刑責を、事もあろうに自己が殺害した母親や被告人のいうところの姉にとって大切な人に転嫁し、自らはその罪を免れようとしているもので、一片の同情の余地もない。  本件は、両親の親族、縁者や社会に与えた衝撃と悲しみは、極めて大なるものがある。  殺された両親は、被告人だけのものではないのである。両親には被告人の姉である娘がおり、その夫がおり、そしてその間には今、孫も生まれているのであり、東京や田舎には兄弟姉妹もおれば、甥も姪もいるのである。  これらの親族や親類縁者の人達は、悲しみと怒りと苦痛をもって本件を受け止め、又、これからを処して行こうとしているのである。  そして、本件は、当時、マスコミにも大きく報道され社会に与えた衝撃も大であり、その影響は測り知れないものがあるといわなければならない。  以上検討すれば、被告人のこれら全行動は、どうみても、到底、血の通った人間の行動とは思えない冷酷非道のものであり、その犯情は極めて悪質である。従って被告人に対しては極刑以外に選択すべき刑はないものであり、原判決がこれら犯情を慎重に考慮した上、死刑に処したことは至当というべく、いささかの誤りも認められない。  以上の次第であるから、本件控訴申立は、いずれの観点からするも、理由がなく、棄却されるべきものと思料する。  須田検事の弁論は要するに、被告人の公判廷における供述は自分の犯した両親殺害の大罪を免れんための窮余の虚構に過ぎず、その刑責を姉にとって最も大切な人に転嫁しようとするに至っては、被告人のために酌むべき一掬《いつきく》の情状もないというものだ。  これに対し、大塚主任弁護人を始め、四宮、山下、松本、滝沢、藤井の各弁護人が次々に立ち、弁論を展開した。  弁護側の最終弁論 母あき子の殺害について 胃の内容物について  母あき子と父守の、解剖結果による胃の内容物の違い——従って死亡推定時刻の違いは、血痕鑑定とならんで、被告人が母あき子殺害の訴因に関して無罪であることの法医学上の明白な客観的証拠である。  ところが、原判決はこの重要な証拠につき何等の判断も示さなかったのである。否むしろ判断を示せなかったという方が正確であろう。この点につき検察官は、異時昼食説もしくは中間食説を主張する。しかしながら、当審においてもその立証はなされていない。いずれも証拠のない単なる希望的推測にすぎないことは明らかである。  加えて、重要なことは、当審における証拠調べによって、検察官の主張した異時昼食説が法医学上成立しえないことが明らかとなったことである。 (1) 異時昼食説の破綻  検察官は、 「父だけが十月三十日の午後十二時ころ昼食をとり、母は同日午後二時以降におそい昼食をとった」  とする。  当審における木村教授の証言は、 「実は胃の中に入っているニラというのは非常に消化が悪くて、これは大腸のほうまでずっと残っています。従って、この胃の中に入っているニラが、もし食べてそれが十二指腸を通って小腸のほうまでずっと行ってるとすれば、十二指腸や小腸のほうにもこのニラがあるはずなんですね。ですから十二指腸や小腸のほうに入っている内容とはまた別に、わずかですけれども、ニラと卵を食べてるということになりますね」  というのである。  この「十二指腸や小腸のほうに入っている内容」というのは、母あき子が父守とともに十月三十日午後十二時頃とった昼食に他ならない。つまり母あき子は、十月三十日午後十二時頃父守とともに昼食をとり(この点については被告人の供述は一貫している)、更に別に、ニラ(十月三十日午後二時頃に高橋恭次から購入した)と卵と米飯とを食べていることを、胃の内容物が物語っているのである。従って検察官の主張する異時昼食説は成り立たないことが明らかである。 (2) 中間食説  検察官の残る説である中間食説を裏付ける証拠はない。  (1) この考えは、整合性、合理性を欠いているものである。すなわち、「病躯の女性」たる母親が、昼食後わずか二時間足らずの間に、米飯、卵、ニラという食事をとるというのは著しく常識に反することである。   また、当日の来客情況に関する証拠によれば、母あき子は午後二時までは稼働しておらず、逆に午後二時以降は稼働し続けていること、従って午後二時までは小腹が空くほど稼働してもいなければ、午後二時以降中間食をつくって食べるなどの時間的余裕はなかったとの不整合性が明らかとされているのである。  (2) 注意しなければならないことは、「母親あき子が中間食をとらなかったとは言えない」式の論理である。これは、「中間食をとった」ということと同一ではないことである。検察官はこの主張事実を立証する義務があるのである。   そうでなければ、これは、検察官の「希望」「願望」にすぎないことになってしまう。  父守と母あき子の胃の内容物の違いが客観的に存在する以上、検察官はこれを明らかにすべきである。 足跡について  本件犯行現場とされる両親宅の浴室前廊下に母の素足の足跡が存在したことは、父守死亡後の母あき子の生存の証拠として極めて重大であることは、既に控訴趣意書、答弁書に対する反論書において詳述したところである。原判決はこの「足跡」の点についても何等認定していない。  ところで、当審における証拠調べによって、右足跡が母あき子のものであることが、より明らかとなってきた。 一、姉弘子の証言  ——じゃそれから、その前日の十月三十一日の午前中に御主人と八幡の実家に行っておられますね。    「はい」  ——そのとき台所に入りましたか。    「はい」  ——そこの台所の電気はつけましたか。    「よく覚えていません」  ——雨戸はどのようになっておりましたか。    「それもよく覚えていません」  ——台所や廊下等を歩きましたか。    「台所を通って二階に行きました」  ——そのとき床について、ぬれていたとか、べとついていたとか、異常を感じましたか。    「いいえ」  ——あなたが、この日八幡の家に行ったときには素足でしたか。    「何か履いていたと思います」  ——靴下ですか。    「はい」  ——これはふろ場の前の廊下付近を写した写真です。写真の上部に、廊下とふろ場を分けるガラス戸が写っておりますね。    「はい」  ——このガラス戸前付近を十月三十一日に歩きましたか。    「……よくわからないんですけど、二階に行ってここは開けなかったんですよね、ふろ場は」  ——ふろ場のガラス戸は開けなかった?    「はい」 二、これによると、  (1) 姉弘子は、昭和四十九年十月三十一日午前中、八幡の実家に行った時、床が濡れていたとか、べとついていた等の何等の異常も感じていない。  (2) 弘子は靴下を履いており素足ではなかった。  (3) 弘子は浴室前の廊下部分を歩いていない。  ということが言える。  ところで、本件足跡は、  (1) 女の、しかも素足の足跡であった。  (2) 浴室前廊下にあった。  ものである。(昭和四十九年十一月四日付検証調書、同年十一月四日付「市原市における商店主夫婦殺人死体遺棄被疑事件現場検証実施結果について」と題する書面、原審における野村七三の証言)  とすれば、本件現場に入ったとされる女性は、姉弘子と母あき子のみであるから、右足跡は母のものといわざるをえない。 三、そして、当審における一杉潤の証言によれば、  ——例えば、血痕が足についてよそに歩いて行った場合に、その跡が残るとなると、やはり、血液が相当まだやわらかい時期、乾燥していない時期ということが言えるわけですか。    「そうですね」  というのである。  本件浴室前廊下に存在した足跡は、父守死亡後に母あき子が歩いたことによって付着したとしか考えられないことが、当審の審理によって明らかになったのである。 甲地証言の信用性……萩本欽一のテレビ番組  甲地証言は、母あき子の来訪が昭和四十九年十月三十日の午後七時すぎであるむねのものであり、かつその信用性が極めて高いことは控訴趣意書、答弁書に対する反論書において詳述したところである。  ところで、当審におけるテレビ放映台本の証拠調べによって、より一層甲地証言の信用性が裏付けられたところである。  母親あき子が、ふるさと食堂へ米飯を買いに来たとき、甲地証人が見ていた萩本欽一のテレビ番組について、甲地証人は、「欽ちゃんの司会で何かやっているときに」と証言している。  この番組について、原判決は(そして検察官は)、二十九日午後七時三十分から午後八時までの間に放映された「五五号決定版!『病院でこんなになっちゃった』」という番組であるとする。  しかしながら、当審で証拠調べがなされた右番組の台本、282「決定稿」と題する書面によれば、  出演者は、萩本欽一、坂上二郎、安西マリア(ゲスト)、阿部昇二、車だん吉、岩がん太、Lちゃん(秋葉光子)、松原秀の八名である。  番組の内容は、コント十六分間、唄二分三十秒、子供TELコーナー七分間となっている。 (イ)コントは、病院を舞台にして出演者が医者、看護婦、患者などに扮し、短いコントが連続して行くものである。    そのうち、萩本欽一は医師役であり、同人が出ないコントも多い。 (ロ)唄はゲストの安西マリアの唄であり、萩本欽一は登場しない。 (ハ)子供TELコーナー「五五号欠点版」は、萩本欽一と坂上二郎が客席から二名の子供を舞台に呼び上げ、安西マリアを加えて五人で話をする。その後子供の家へ電話するというものである。  以上要するに二十九日放映「五五号決定版」においては、萩本欽一が一人で登場する場面はなく、まして、「司会」をする場面は皆無である。  これに対し、三十日放映の「日本一のおかあさん」という番組は、午後七時から七時三十分までの間に放映され、萩本欽一が司会をつとめる番組である。(大越幸男作成の昭和五十年十二月二十二日付「十二月十九日付の照会事項について報告します」と題する書面)  右のとおり、二十九日と三十日の各放映番組の内容を比較対照するとき、甲地証人が「欽ちゃんが司会をしている番組を見ていた」ということが、いずれの番組を指し、かつ記憶していたかは自ずから明らかであろう。  なお、萩本欽一のテレビ番組については、右の「番組内容」の検討に加えて、「放映時間」による検討も必要である。  甲地証人は、「いつも夜は午後六時から午後七時半頃までの間に客が来るが、当日は客が来るのが早かったので、早めに仕事が終わって、坐ってテレビを見ていた。その時に母親が来た」むねの証言をしている。  つまり、母親のあき子が来た当日は、甲地証人が客に料理を出し終わって着席したのはおそくとも午後七時半よりは前ということになる。  とすると、これが二十九日だとすると、欽ちゃんの出るテレビは未だ始まってはいなかったことになるのである。  更に、二十九日とすると、欽ちゃんの番組は午後七時三十分から始まるから、母親がご飯を買いに来たのはそれより後と言わざるを得なくなる。  とすると、このご飯を食べてから、車で三十分かかる『華紋』に行き、八時頃にかかってきた三矢英子の電話に出ることは、時間的に不可能になってしまう。  しかし、これまでの証拠調べの結果では、母親は二十九日の午後八時頃に、『華紋』で三矢英子と電話で話をしているのである。  以上、番組の内容、放映時間のいずれの面からも、甲地証人が見ていたテレビ番組は十月三十日放映の「日本一のおかあさん」以外には考えられないのである。  結局、二十九日米飯購入説(原判決と検察官の主張)の時間的な矛盾は、無理矢理に、本件現場とされる八幡の家と華紋の店の距離を短くし、せっかく購入した米飯を食べないで駆けつけたことにし、テレビの放映内容をこじつけても、解決できる問題ではないのである。 血痕鑑定  当審における証拠調べの中心は血痕鑑定をめぐるものであった。そして、同証拠調べの結果、血痕鑑定をめぐる数多くの合理的疑問が一層鮮明になったものである。 (1) 血液型の疑問  父親守、母親あき子、被告人そして被告人の姉弘子の血液型は、一覧表のとおりとされる。このうち、被告人と姉弘子については各人から新鮮な血液を採取して鑑定したものであるが、父母については長期間海中を漂流した後、胸腔内の血溶液をガーゼに採取して鑑定したものである。  ところがこの結果によると、MN式において、姉と被告人は父親守と母親あき子の子ではない。Rh式において、姉は父親守と母親あき子の子ではない。ダフィ式において、被告人は父親守と母親あき子の子ではない、ということになってしまう。  しかしながらこの四人の親子について、その親子関係を疑わせるような証拠はこれまでひとつとして存在しない。本人たちはもとより、親戚、知人も皆真実の親子と考えてきたのである。  従って、父母に関する血液型鑑定が誤った可能性が極めて高くなる。  MN式について言えば、二人の子どもがMN型である以上、遺伝法則上、父母のいずれかにN因子が存在しなければならない。つまり父母のいずれかはMN型かN型でなければおかしいのである。 (2) ガーゼ片鑑定の信用性の失墜……母の血液型立証の不存在  父母の血痕ガーゼを鑑定した木村康教授の当審における証言は、右ガーゼ片鑑定の信用性を自ら否定する重大なものである。 一、血痕ガーゼ片の状態 本件ガーゼ片の状態について木村教授は次のように証言する。    「それにこんどは海水がまじっているわけですね。そういう状態で胸腔内に血溶液、普通の血液だけじゃなくて薄まっているものですね。これが入っていましたので普通のABO方式だけでしたら他の臓器だけでできるんですが」  ——そうしますと、ガーゼ片に採取された血溶液ですが、これは血液成分と体液以外に海水等もまじり合ったものでしょうか。    「と思いますね」  ——腐敗は、相当、胸腔内は進行してたんでしょうか。    「はい。中も腐敗ですね。血液全部、これは溶解してます」  以上のとおり、本件血痕ガーゼ片は、血球成分以外のいわば不純物が多く混在したうえ、血球はすべて溶解し、かつ腐敗していたのである。 二、血痕ガーゼ片の血液型鑑定の信用性  このような状態にあった血痕ガーゼ片について木村教授は、昭和五十二年二月十五日付鑑定書において種々の型別決定をしておられるのであり、その結果は血液型一覧表のうち、「父親守」「母親あき子」の欄記載のとおりである。  ところが、当審において同教授は、右血痕ガーゼ片の鑑定結果、とくに母親あき子のそれについて、自ら重大な疑問を発表されたのである。  すなわち、  (1) MN式について  ——先程の先生のお話、理論をふまえまして、この当時、先生がおやりになった鑑定についてなんですが、特に佐々木あき子さんの血液型についてなんですが、この鑑定では、MN型はMと判定されておりますが、MNを誤って鑑定する可能性はなかったろうか、その点についてはいかがでしょうか。    「この当時は考えていなかったんですがね、ところが最近はあるんですけれども、わずか一ケ月しかたたない血球でMNの血痕ガーゼで、一ケ月前はMNとはっきり出たものが、一ケ月たったらNが消えちゃったという、過去に三回ほどあります。そういうことが。(中略)全部じゃないんですけれども、そのうちの確か三枚か四枚だったと思いますけれども、明らかにMN型だったものが、その時点ではM型しか反応してこないと、そういうものが出てきたんです。したがって、あるいはそういうこともこの場合に起こり得たんではなかろうかという、そういう考え方を今は持っています」  ——特に本件の場合は、腐敗が著しく溶血が激しかったと思われるので、なおその危険性は高かったといっていいんでしょうか。    「と思いますね」  (2) Rh式について  ——仮にこの被告とそれから被告の姉とこの両親とがすべて親子関係にあるということになった場合に、そうするとこの両親のRhに関する検査が間違っていると、こういうことが言えるわけでございますか。    「言えますね」  ——仮にもしそうだとすると、どこが原因になるんですか。あるいは間違ってないといわれれば、また別でございますし。    「いや、これは間違いではなかったという断言はできません」  ——そうするとその原因は、考えられることは、どういうことでございましょうか。    「まあ新しい血液でないということと、それから検査方法がですね、これは非常に複雑なんです。で、通常のABO式なんかの吸収試験と違いますので、あるいはその間でそういう間違った結果があるいは出たのかもしれないと、それは言えますね」  (3) ダフィ式について  ——このダフィについても、検査の誤りの可能性はあり得るんですか。    「ええ、これも検査方法としては酵素処理血球を使っていますので、普通の検査方法と違いますので」  ——酵素というのは。    「蛋白分解酵素で処理した血球を使うということと、もう一つは抗グロブリン試験というのを使います。その血球の表面に抗体が吸着していますよということを、もう一回試験をして検査をするんです。ですから二重の複雑な検査方法になりますから、その点で誤りが起こらないということには限りませんね」  かように、父母の血痕ガーゼに関するABO式以外の血液鑑定はすべて誤っている可能性が高いことを、木村教授自身認めておられるのである。最後に木村教授の次の証言が、本件血痕ガーゼの血液鑑定に関する信用性をよく物語っているであろう。  ——守・あき子さんの使用した血液の状態は、あれで結構だったんですか。    「いや、血痕ガーゼのほうからいきますと、やはりまあ、そういう変な結果が出る可能性はありますね」  ——新鮮でないと。    「はい」  結局、父母とくに母については、ABO式以外の血液型の証明はないことに帰する。 (3) 着衣付着血痕の鑑定の信用性  では被告人の着衣に付着した血痕の鑑定の信用性はどうだろうか。  木村教授による着衣付着血痕の鑑定では、被告人の着衣に前記一覧表による父母の血液型と同種の血痕の付着があったとされていた。しかしながら、当審において、その信用性が低いことが明らかとなった。 一、着衣血痕の陳旧度 (ア)同鑑定は、昭和五十一年二月十七日に下命があったものであり、昭和五十二年二月十五日付でなされている。すなわち、事件後下命まで約一年四ケ月、鑑定書作成まで二年四ケ月が経過している。 (イ)右着衣の、木村教授による鑑定下命がなされるまでの保管状態は判然とせず、勿論ホルマリン処理など腐敗防止措置は何らとられていない。 (ウ)従って着衣付着血痕の陳旧度は、木村教授によれば次のとおりである。   ——そうすると本件事件から見るとその血液の陳旧度というのは相当進んでいたということでございますか。   「ええ、それはそうですね」 二、着衣血痕の型別決定の信用性  右のような陳旧度の着衣付着血痕について行われた木村教授による型別決定の信用性について、木村教授は当審において次のように証言している。 「一つ一つの血液型について言えばMについてはさっきの話の通りですから、これは変化をしてもいいと、それからRh、それからダフィについては、検査方法が複雑であるからこれは誤りを冒す危険性はあると、絶対なかったということは、これは断言できません」  後に述べるように、着衣付着血痕について、木村教授は、血液が古くなったことを理由に、その性別決定の信用性についても自ら否定しておられる。  このことと右の木村証言を併せ考えるならば、着衣付着血痕についても陳旧度は相当進んでいたものであり、その陳旧血痕からの型別決定の信用性は低いものであることは明らかであり、このことは木村教授自身が認めておられるところである。 三、以上を要するに、着衣付着血痕についての鑑定は、血痕の陳旧化により、信用性は低いものであることが明らかである。そのことは、最も早期(それでも一年四ケ月〜二年四ケ月を経過)に鑑定した木村教授自身が当審公判廷において認めておられるところである。  とすると、本件着衣についての血痕鑑定について、辛うじて信用できるのはABO式だけということになり、結局、着衣には父守の血液だけがついていたと考えても本件証拠上何ら矛盾はないことになるのである。 (4) 現場血痕等の鑑定の信用性 一、本件については以上の血痕のほかに、事件後間もない時期に採取・鑑定された血痕がある。 久保田晶己他一名作成にかかる昭和四十九年十一月二十七日付「鑑定結果について」と題する書面による、現場から採取された二十二個所の血痕(以下「現場血痕」という)と、一杉潤作成の昭和四十九年十二月四日付鑑定書による、ビニール製ゴザ外七点合計六十四個所の血痕(以下「ゴザ等血痕」という)である。  右両鑑定の信用性の高さについては既に「控訴趣意書」および「答弁書に対する反論書」において論じたところであるが、当審における証拠調べによってより一層その信用性が裏付けられた。 二、現場血痕の採取時期  現場血痕の採取年月日は、証人一杉潤の当審における証言によれば次のとおりである。  ——どういう形で初めてこの事件に関与なさったんでしょうか。    「最初は確か現場のほうに行って、血液の採取をしたと思います」  ——その血液の採取からお尋ね致しますが、現場に赴かれて採取なさった年月日は、今御記憶でしょうか。    「いえ、記憶しておりません」  原審記録第十一冊三四六六丁の「検証調書」を示す。  ——これは、警察の方が昭和四十九年十一月三日と四日に行った検証の調書ですがこの三四九一丁の裏、ここに立ち会った人の名前がありまして、終わりから二行目にルミノール検査という欄に久保田晶己外三名とありますが、この中に証人が含まれているというふうに考えてよろしいんでしょうか。    「はい」  ——そうすると、現場に赴かれたのは、この検証調書記載の検証が実施された昭和四十九年の十一月三日と四日というふうに伺ってよろしいんでしょうか。    「はい」  すなわち、事件からわずか四日〜五日後に血痕が採取されている。また採取者は一杉証人自身である。  ——血液そのものを採取なさった方は、どなたですか。    「私自身が採取しました」 三、ゴザ等血痕の入手時期  一杉証人によればゴザ等はあとから検査室の方に回ってきたという。  ——実際に血液のついたタオル等を現場から持ち帰ったということはありませんか。    「これは後から検査室の方に回ってきたように思います」  その時期は、「鑑定書」によれば、昭和四十九年十一月六日に鑑定に着手したとあるから、遅くとも十一月六日、すなわち事件後七日目にはゴザ等は一杉証人の許に届いていたことになる。 四、血痕の状態 (1) 現場血痕の状態  ——ついている血そのものの状態ですけれども、これは乾燥しておったかどうかという点は、いかがでしょうか。    「これは、表面は当然乾燥していました。中は採取するときの経験からいきますと、時間的にそう何日もたっていないということぐらいしか言えません、中のほうはかなり新しいものであるということです」  ——それは、どういうことで分かるんでしょうか。    「実際に血液というのは、飛沫しまして何日かたちますと表面から乾いてきます。表面から乾いてきたものが当然水分を含んでいるものですから、日にち経過とともにその水分がなくなっていきます。ですから時間経過がたてばたつほど中のほうもかなり乾燥状態が激しいわけですからぼろぼろになってしまうということです。ガーゼのほうに移行させる場合に、中のほうが乾いていなければそれだけ移行し易いということです」  ——本件の血液は、移行し易い形であったということですか。    「はい、かなりその状態で簡単に移行できましたので、新しいものというふうに判断しました」  ——腐敗などということも考えられないというふうに聞いてよろしいですか。    「はい」  (2) ゴザ等血痕の状態  ——それから、今、後で回ってきたというふうにお話になったタオル等血液の染まったものですが、こういったものについて、血痕の状態というのは、どういうものだったか御記憶ありますか。    「タオル自身には余り記憶がないんですが、タオルは確か二枚ぐらいだったような気がします。で、記憶しているのはゴザというのが、ナイロン製か何かのゴザだったと思うんですが、それに付着している血液が、表面がナイロンですので非常に簡単に移行できたような気がします。採取し易かったということです」  ——それはまた、新しいというふうに考えてもよろしいでしょうか。    「はい」  すなわち、現場血痕もゴザ等血痕も、事件後時間的経過が少なく、かなり新しいものであったというのである。 五、血痕の量 では、採取された血痕の量はどうだろうか。  ——現場で採取された血痕の数でございますが、これは他の事件等と比較して、数の多い少ないはどうでしょうか。    「検査資料を見ていただいても分かるように、かなり量が多かったと思います」  ——鑑定に必要な血痕の量の問題ですが、これは検査に十分な量はあったんでしょうか。    「はい、十分な量でございました」 六、鑑定着手までの時間  一杉証人らは血痕採取後直ちに検査に着手している。  ——それでは、鑑定そのものについて伺いますが、採取なさってから鑑定に着手なさるまでの時間というのは、どのぐらいあるものなんでしょうか。    「普通の検査の場合には、大体一週間以内にやってしまいますが、この場合には量が多かったということで、早め早めにやっていったような気がします。採取した次の日にはもう結果をどんどん出していったような記憶があります」 七、検査体制  鑑定は一杉証人と上司の久保田晶己が同じ検体についてそれぞれ鑑定をなし、一致した結論だけを記載している。  ——そうすると、ここに記載されている検体については、それぞれ二人が別々の鑑定をなさっているということでしょうか。    「いえ、違います。同時進行をしているということです、同じものを二人でやっているということです」  ——同じ検体について、二人で同時進行されているということですか。    「そうです」  ——そうすると、その結論はどのようになっておるんでしょうか。    「ですから、この場合の血液型に対して、私の出した血液型の結果と久保田さんの出した血液型の結果というのは、同じだということです」  ——一致した結論をこの報告書には記載しているということですか。    「はい、そういうことです」 八、鑑定結果 (1) 以上のとおりの、極めて「好条件」といってよい状況下で行われた鑑定の結果は、次のとおりである。 (ア)現場血痕 二十一箇所 すべてM型 一箇所(事務所内机上)判定困難 (イ)ゴザ等血痕 ビニール製ゴザ 十四箇所 すべてM型 座布団 十九箇所 すべてM型 タオル(三本) 合計二十四箇所 すべてM型 タオル 五箇所 すべてM型 ボディーカバー 一箇所 M型 ポリバケツ 一箇所 M型  すなわち、八十六個所の血痕のうち、実に八十五個所がすべてM型というのである。MN型もしくはN型は一個所もない。 (5) 母あき子のN因子 一、母あき子はN因子をもっていた  母親あき子の子である被告人、及び姉弘子の血液型が、MN式においてMN型である以上、母であるあき子はMN型もしくはN型であったことになる。もちろん可能性としては父守がN因子をもっていた可能性もあるが、本件現場に父守の血液が流れたことは被告人も認め、おそらく事実であろうと認められる以上、父守はMN式においてM型といわざるをえない(前記現場血痕等の鑑定結果)。従って、被告人及び姉のN因子は、母あき子から継受したものと考えられる。  すなわち、母親あき子はMN式においてMN型かN型のどちらかであり、いずれにしろN因子を保有していたものである。 二、本件現場血液等にN因子は存在しない  ところが本件現場には母あき子が保有していたはずのN因子が存在していないのである。  母あき子は絞殺されたのではない。原判決によればナイフでメッタ突きにされて刺殺されたのである。多量の出血があったことは想像に難くないし、現に死因は「失血死」である(木村康昭和五十一年十一月九日付鑑定書)。  しかしながら、現場等血痕が実に八十六個所から採取されたにも拘わらず、N因子は全く存在しなかった。このことは、母あき子の血液が現場に存在したことの証明がないことになる(否、逆に存在しなかったことの証明があるのである)。 (6) 活性低下論について  そこで、原判決のとった論理のひとつが活性低下論であった。つまり、MN式血液型においては、血液が陳旧・腐敗化するのに伴い、N抗原の活性が低下し、MN型は古くなるとN抗原が消失してM抗原だけが残り、そのためM型血液のように判定される場合があり、従って本件でもM型と判定された血液の中にMN型のものがあったかもしれない、というのである。ところが、原判決も認めているように、そもそも活性の低下ということは陳旧腐敗化した血痕についてのみ考えうるにすぎない。  ところが、本件現場で採取された血痕等は、事件後一週間以内に採取された極めて新しい血痕であること前述のとおりである。活性低下論が妥当する余地は全くないものである。  加えて、一杉証人によれば、ゴザ等血痕については血液が付着した繊維をそのまま検体とするのである。  そしてこの場合には中のほうにまだ変化していない血液があり、正しい判定ができる。この点、木村教授は次のように証言する。 「血液がゴザに付着したとすれば、ゴザの表面をはさみで切りまして、そのまま検査に使ったとするならば、中のほうでまだ変化をしていない血液があるんですから、それは正しい判定ができるでしょうね」 (7) 亜型論について 一、原判決はさらに、母親の血痕が証明されないことを回避する根拠の一つとして、MN型の亜型論をとっている。  すなわち、稀ではあるが、MN型の中には、亜型が存在し、この亜型の場合にはNが非常に弱く、新鮮な血液で検査してもM型と判定を誤ることもある、というのである。  しかしながら、母親あき子がMN型の亜型であったという証拠は何一つないばかりでなく、仮に原判決の亜型論が正しいとしても、それは抽象的可能性にすぎず、母親の血痕が現場に存在したこと《ヽヽヽヽヽヽ》の「証拠」になるものではない。  加えて、当審における証拠調べによって、何よりも、原判決の「亜型論」が本件について意味をもたない机上の空論であることが判然としたのである。 二、木村教授の証言 当審における木村教授の証言によれば、  ——新鮮血が多量に採れる子供のほうからM、若《も》しくはNの亜型が出なかった場合は、逆に推定はどうなんでしょうか。    「それは無しということですね。亜型は無しということです」  というのである。  すなわち、生存している子供二人がN因子をもち、しかも亜型のN因子が出ないならば、遺伝の法則により、その亜型でないN因子は親にも存在したものなのである。従って父がM型とするならば、被告人と姉の亜型でないN因子は母親がもっていたことになるのである。  原判決の亜型論の誤りは明らかである。 (8) 性別決定の信用性 一、木村教授の前記鑑定書中の血痕の性別決定(男性血痕か女性血痕か)の信用性の低さについては、同教授自身、原審においても供述しておられたところであるが、当審における尋問により、更にその信用性のないことを教授自身が認めておられる。  ——それから、性別決定のことでお聞きしたいんですが、男女の性別決定については、先生も原審で自信がないとおっしゃって、無理にやっていただいた経過もあるんですが、その後の学問の進歩といいますか、性別決定についての研究は進んでおるんでしょうか。    「そうですね。余り進んではおりませんけれども、陳旧な血痕では無理であろうというのは、やはり当初と同じく現在でもそういう考え方が通説ですね」  ——本件の場合でも、ドラムスティックの検出が非常に少ないんですが、この程度では、本来は判定困難といっていいんでしょうか。    「そうですね、非常に数が少ないですからね」  ——それから、蛍光小体についても出現率が少ないように思うんですが。    「これは、時間を経過しますと、古くなりますと、まあ、どんどん少なくなっていくわけですから、ただ男性の場合に出てくる蛍光小体が、とにかくこの部分とこの部分には出てますよという、そういうあれですね。ですから、それで性別を判断しろと言われたときに、まあ、数の問題があります。パーセンテージがありますね。ですから、それからいきますと、自信がございませんというのは、これは前回と同じです」  ——それをもって血痕の性別が確定したということは困難だというふうにお聞きしてよろしいですか。    「はい。性別については困難であると」  というのであって、性別決定についても木村鑑定の信用性のないことは、教授自身が認めるところである。 結  論  以上詳細にのべてきたとおり、当審による証拠調べによって一層判明したことは、母あき子の血液型・血痕についての証明がなされていない、ということである。すなわち、  (1) 現場血痕及びゴザ等血痕については、逆に母あき子の血痕が存在しなかったという証拠があること  (2) 被告人の着衣については、父守の血痕だけが付着していると考えても矛盾がないこと    が明らかとなったのである。 母殺害の動機  母殺害の動機については、当審の証拠調べによって、原審の認定した動機、即ち「道連れ」論が客観的証拠と矛盾することが、なお一層明らかになったばかりでなく、当審におけるこの結果と原審における動機についての認定の結果とを併せ考慮すると、結局母殺害に至る動機はなかったことが、明らかになったと言わざるを得ない。  原審判決は、原審の検察官の主張する動機、即ち、母あき子が「私もこれでこの人から解放される。哲也はこの人の子ではないのかも知れない。これからは二人きりで暮らそう」等と述べたことから、被告人はこのようなことを言う母親の身勝手な態度は許せない、いっそ殺害してしまおうと決意したという、このいわば、「身勝手な態度否定」論の動機を、不自然、不合理として否定したが、これは正当な認定であった。  しかし、原審判決は、これに代わる動機として、「父親を殺害した現場に母親が来合わせたため、被告人は進退これきわまり、その窮地を切り抜けるために母親を父親の道連れとして殺害した」とのいわゆる「道連れ」論をとり、当審における検察官の答弁書もこの「道連れ」論をとっていたのである。  弁護人は、この「道連れ」という消極的な動機と母親の身体に残る二十五個所もの創傷という執拗な攻撃とは矛盾するものであることを主張してきた。  当審における証人木村康教授の証言は、弁護人の主張を裏付けるものであった。  その証言をみることとする。  ——後頭部の傷の数が相当多いんですが、通常こういった攻撃が加えられた場合、証人の御経験ではどういうケースが多いのでしょうか。    「普通は憎しみですね」  ——憎しみ、恨みですか。    「怨恨とかそういうことですね」  ——逃走を防止するとか目撃者を殺害するとかいう場合、こういった無数の傷が生ずることはあるんでしょうか。    「いや、あまりないですね」 「道連れ」論の動機とされるものと、執拗な攻撃という被害者の身体に遺された客観的証拠との矛盾は、経験則でも明らかと考えられるが、これを法医学の専門家が裏付けたということは重要である。  さらに、証人木村教授は、裁判官の「逆上するとか、そういう状態の場合でも起こり得るんですか」との質問に対して、やや回りくどい説明になっているが、逆上の場合には、創傷の部位がいろんな場所に生ずるとして、逆上を否定している。  ここで注意すべきは、被告人の自白に現れている二つの動機は、いずれも否定されたということである。  すなわち、いわゆる「身勝手な態度否定」論は、原審判決によって不自然、不合理と明確に否定され、もう一つの「道連れ」論も経験則及び当審の証拠調べによって否定されたのである。  このことは、自白の否定、自白の信用性の否定を意味する。  殺害というまでの行為があるには、精神異常者でないかぎり十分な動機があるものであり、殺害を認定するには合理的な動機の認定が必要である。  自白の中から、便宜的に一方をとって他方を否定する、あるいは他方をとって一方を否定するという安易な認定態度が許されるものではない。取捨選択の合理的根拠が明らかとされなければならない。  また、当審の検察官が主張する、被告人の三矢英子への執心と母への嫌悪が動機でないことは、検察官の答弁書にたいする反論書で触れたとおりである。即ち、当時の被告人の心理状態が、干渉しすぎる母から遠ざかりたい、その束縛から逃れたい、そしてその反面として好意を待つ女性=三矢英子に近付きたい、というものであったことは確かであろうが、被告人の心理状態はそれだけのものにしか過ぎず、それ以上に母を破壊してしまうまでのものではない。右心理状態と執拗な攻撃とは、まったく矛盾するものである。 母の創傷状況と自白との矛盾 一、弁護人は、これまでも、解剖結果によって明らかとなった母あき子の創傷の状況と殺害態様についての被告人の自白とが矛盾すること、従って自白に信用性の認められないことを主張してきたが、当審における証拠調べによっても、なお一層右の理が明らかとなった。 二、母あき子には、二十五個所もの多数の創傷が存するが、そのうちの十一個所が後頭部に、そして三個所が頂部にあるという際立った特徴を示している。  ところが、被告人の自白には、この後頭部、頂部への攻撃について全く供述がないのである。  この客観的に明らかな事実について、「何等ふれるところがない」、「説明がない」ということは、被告人の自白に信用性がないことの表徴である。この点について、渡部保夫判事は、「自白の信用性の判断基準と注意則について」の中で、「詳細な内容の自白であっても、犯人であれば容易に説明することができ又は言及するのが当然と思われるような、当該事件の特異な出来事や犯跡についてなんらの説明をしていない自白(上すべりの掘り下げの浅い自白)も、やはり信用性が低い」と述べている。  次に、母への第一撃が、胸部の二つの創傷であったことは、何人も否定しえない事実である。従って、前述の後頭部、頂部の創傷は、その後に生じたものである。  そこで、攻撃位置、被告人と母との位置関係についての、被告人の自白を見るに、「馬乗り」(十一月十二日付、同十六日付、同十八日付各員面調書)、あるいは「下腹付近に乗りかかり」(十一月二十二日付検面調書)と一貫しており、その他の位置関係、攻撃位置についての自白は全くない。況《いわん》や、母親をうつぶせにして刺したとの自白など一遍もないのである。  この点について、当審における証人木村康教授は、次のように証言する。  ——胸部が攻撃されて床に倒れた状態で、更にまた上半身を起こす程度の余力は被害者に残っておったと考えられるんでしょうか。    「はい。完全に立ち上がることは不可能だと思うんですがね。上半身を半ば起こす程度の動作というのは行い得ると思いますね」  ——半ば起こす。    「はい」  ——これもまた被害者の身体の上に馬乗りになっていた場合、その背中の部分、身体の後半身部分に攻撃することは可能なんでしょうか。    「それは馬乗りになっていて、で、胸部を刺しますね。それから左上腕というふうに傷があるわけですね。で、更に今度は頭の後ろにたくさんあるわけです。で、これは守さんのほうと違っていて頭にある傷というのは頭の後面ですね。後ろのほうにたくさんあり、しかも首筋から背中の真ん中の、上のほうにつながってできているわけですね。で、これはどうしてもうつぶせにしないとできない傷ですね。ですから馬乗りになったままの状態では不可能な傷です」  ——後頭部との傷の関連からも、一たんひっくりかえすといいますか、うつぶせにしないとできない傷ですか。    「はい」  この攻撃位置の点でも、真犯人であったら、当然説明があるべき「うつぶせにしての攻撃」について、被告人の自白がなんらふれていないということは、信用性がないことの大きな表徴である。 三、胸部の二つの創傷を検討するに、 一つは、左乳部にあり、上創角が角で下創角が鋭 一つは、胸骨部にあり、上創角が鋭で下創角が角  であって、明らかに刃部の向きは上下を異にしていることが指摘できる。  当審における証人木村康は、父守の胸部の傷に関してではあるが、刃物をもちかえたと理解するほかないと、証言している。これと、全く同じことが、母親の傷についても当てはまる。  ところが、被告人の自白には、刃物をもちかえたとの供述は全くないのである。  ここでも、自白と客観的証拠との矛盾が指摘できるのである。 四、被告人の自白と客観的な証拠との矛盾は、被告人が母親の首をしめたとの自白をしている点でも現れている。  まず、被告人の自白を見よう。  十一月十二日付員面調書では、 「……私は母の上に馬乗りになり上から両手で母の首をしめました。母は私に   ごめん、ごめん   許して私が悪かった  と言いましたが……」とあり、  十一月十六日付員面調書では、 「……馬乗りになり首を上から締めると母は   ごめん、ごめん私が悪かった許して  とか言ってあばれました。母の抵抗が激しかったのです。  母の首をしめて殺そうと思ったのですが、抵抗があり首をしめて殺すことがむずかしかったので……」  という、供述になっている。  右自白が真実であるならば、被告人は「両手」で、首をしめたが、抵抗があったため、扼殺を断念したこととなる。  しかるに、母親の身体には首をしめた痕跡がない。  この点について、当審の検察官は答弁書の中で、被告人の供述は「締めつけた」との供述ではないこと、手をかけたが母の抵抗が激しく締められなかったとの供述であるから、扼痕が生じないことはあり得ると主張し、あるいは又、当審における証人木村康教授に対する尋問の中で、母あき子の頭部の皮下出血が扼痕ではないかという趣旨の質問をしている。  被告人の供述は、確かに「締めつけた」とはなっていないが、これは単に表現の問題に過ぎない。表現の点で言うならば、「締めようとした」ではなく、「しめました」との、強い供述になっているものもあるのである。供述の要旨は、扼殺を決意し、抵抗のため殺害するまでには至らなかったが、ともかく首をしめたというにある。これほどの行為をなしていれば、痕跡が当然残っている筈である。  前述の木村証人によると、もみあいによっても皮下出血が生ずるという証言もあり、これほどの首をしめる行為と抵抗とがあれば、扼痕が当然残った筈である。  母の頸部に残った皮下出血が、扼痕ではないかとの検察官の疑問は、結局木村証人によって否定されている。  すなわち、木村証人は、検察官の、 「指とか手でも出来るということで、圧迫をした跡ではないか」との質問に対し、 「はい」と答えてはいるが、  他方では、 「これは、指でそこの所を、指というわけではありませんけれども、なんかそんな大きくないものがそこに作用したというふうに、打撲でもいいですね」とも証言しており、打撲の可能性も認めている。  更には、弁護人の、 「佐々木あき子の関係ですが、両手で首を締めた場合、皮下出血はどういう形で残るんでしょうか」  との質問に対し、  同証人は、 「そうしますと、ちょうど耳たぶの下のあごの角張ったところがありますね。これを下顎角といいますが、この下顎角の後ろの部分あたりの左右の両方に、まず皮下出血ができますね。それから、その下の部分に指の間隔をおいてやはり同じように皮下出血ができます。それで前頸部には親指が合わさりますから、そうすると幅の広い皮下出血ができてきます」  と証言しているのである。  それが扼痕であるならば、頸部の広い範囲にわたって皮下出血が生じているであろう。  従って、それは扼痕ではない。  この点でも、自白の信用性が否定されるのである。 五、母あき子の身体には、全身にわたって十五個所にも及ぶ皮下出血が残っているが、この鈍体によって形成された皮下出血について、被告人の自白には首肯できる供述がない。  なるほど、当審における証人木村康教授の証言によれば、臀部、腰部と右腕の皮下出血は転倒によって生じるものということであり、被告人の自白にも、母を突き飛ばしたむねの供述がある。しかし、その他の九個所の皮下出血については、その発生を認めるに足る供述がない。  そして、当審における検察官の主張である、家具にぶつけたことによって生じた傷であるとの点については、右の木村証人が、これらの皮下出血は表皮剥奪をともなっておらず、従って表面の堅い家具(テレビ、茶ダンス、机等)とぶつかって生じた可能性は薄いと、これを否定している。  検察官はまた、母が抵抗したことにより被告人ともみあって生じたものとも主張する。  しかし、その前提事実である「抵抗」そのものが、取調官の誘導の産物なのである。  すなわち、被告人は十一月九日、十一月十二日と母殺害を自白しながら、その供述には母の「抵抗」については、片言隻語も触れていない。  ところが、十一月十日に母の死体が発見され、同日死体検案と死体の実況検分、そして解剖がなされて、多数の皮下出血の存在が判明し、捜査機関は十一月十五日付の解剖立会結果の報告書によってこれを知るのである。  これに応じて、被告人の供述には、その翌日である十一月十六日の調書から、初めてしかも突如「抵抗」が出現するのである。  攻撃者にとって、相手方の「抵抗」の有無は非常に印象的な事実であり、取調べ側も、被害者の動きについては当然追及するはずである。被疑者が、事件に関与し、真実を述べているならば、重要な事実についての供述には一貫したものがなければならない。  ところが、右に述べたように、十一月十五日を境にして、母の「抵抗」についての供述が、かくも鮮やかに異なるのは、捜査機関側の資料入手による誘導の産物と解するほかない。  従って、母親の「抵抗」により被告人ともみあった際、皮下出血が生じたとの検察官の主張も、理由がない。 六、そもそも、自白どおり、被告人は台所で母親ともみあい、そして殺害したのかという点は、答弁書に対する反論書で詳述したように、台所にはもみあいをするほどの空間がなく、これを否定せざるを得ない。  家具、父の死体、ストーブ等で形成される空間は七十五センチメートルないし八十五センチメートルほどの幅しかないことが明らかとなる。自白どおりとすれば、この僅か、七十五センチメートルないし八十五センチメートルの幅の空間で、被告人は母親を突き飛ばし、もみ合い、さらに殺害したということになる。  七十五センチメートルという空間は、静かに身を横たえるには十分な空間ではあるが、その場合でも両側にかろうじて十二・五センチメートルの余地ができるだけである。この極めて狭い空間で、身長百七十センチメートルを優に超える被告人とおなじく身長百六十五センチメートルの母とが、突き飛ばし、首をしめ、それに抵抗してもみ合い、そして、殺害に至るまでの格闘はなし得ない。  もし、それがあったとするならば、被告人と母親とは、身体の各所を、テレビやストーブ、その他の家具にぶつけること必至であり、そうであれば、母親の身体には、木村証人の証言にあるように表皮剥奪を伴う皮下出血が認められる筈であり、テレビ、ストーブ等の家具にも破損が発見されなければならない。そして、何よりも被告人の自白に、父の死体やテレビ、ストーブ等の家具にぶつかったむねの体験供述が、いきいきと具体性、現実親近性をもって語られていなければおかしい。  しかるに、母親の身体には表皮剥奪を伴う皮下出血は発見されず、家具等にも破損がない。そして、被告人の自白はと見れば、自分の行為については、「おおいかぶさり」、「押し倒しその上に乗りかかりました」、「下腹付近に乗りかかり」と述べているだけで、一方母親の動きについては、単に「暴れた」と述べているだけで抽象的供述に終始し、狭い空間で格闘した体験者の供述の持つ迫真性、具体性が全くないのである。  この点でも、被告人の自白に信用性のないことが明らかとなり、被告人の母親殺害の事実が否定されるのである。 登山ナイフ  本件凶器とされる登山ナイフは、真に「凶器であることの証明」がなされたといえるであろうか。私達は証拠にもとづいてその証明がなされていないことを主張してきたが、当審における証拠調べによって、よりその主張が裏付けられたと言える。  山本茂の鑑定書によってナイフに人血の付着がないことは明らかであったが、原判決は木村教授の、「ノートを見たら柄のところの金具を外したところのさびのところから陽性部分が出ており、O型、M型という成績が出た」むねの証言を、そのまま採用し、本件犯行に供された凶器と認定してしまった。  しかしながら同教授は、当審において次のように証言した。  ——それからナイフに人血が付いておったかどうか、それからその血液型がどういう型であったかどうかについて、千葉での証言は必ずしも明確ではなくて、先生のノートに記載があるというお話しだったんですが、現時点ではそのノートはお分かりでしょうか。 「引越ししたものですから、あることはあるんですがね、まだ見つけていませんけれども、しかし記憶はあります」  ——どういうご記憶でしょうか。 「記憶というのはとにかく付いてないという記憶ですね。確か付いてなくて柄を壊して、柄と刀身とを接続している部分の所で、リューコマラカイトグリーン反応がぽつんと陽性になったという記憶があります。ですからこれは必ずしも血液とは限りませんけれども血液らしい反応がぽつんとあったと、それだけです。勿論人血の反応はこれは行い得ません」  ナイフに人血証明があったとするのは前述の通り、原審における木村証言のみであった。そして、同供述については、私達が再三に亙って鑑定書の提出を求めたにも拘わらず、ついに現在まで提出されていないものである。従って、この検査がどのような経過でなされたのか、肉眼的検査、予備試験、本試験がいかなる方式でなされたのか全く不明のままだったのである。いわば、何ら科学的根拠も示されないまま、原判決は認定してしまったのである。  ところが、同教授は当審において、「人血は付いていない」という記憶があるむねの証言をしたのである。これは、原審での同教授の右供述に重大な疑問が存することを同教授自身認めたことを意味する。  同教授の当審における右供述と、山本茂鑑定書を考え併せるならば、本件ナイフに人血証明がなされていないことは疑う余地もないといわなければならない。  加えて、原審認定によれば、本件ナイフは父母の双方をメッタ突きにしたナイフである。しかるに、ナイフには何等の破損、刃こぼれも存在しないのである。この点につき、当審において木村教授は次のように証言する。  ——それから両死体の創傷の数とか骨に達している傷等を考えますと、本件の登山ナイフを先生見ておられますがね、本件の登山ナイフに刃こぼれ等が生ずる可能性はないんでしょうか。 「まあ普通ですとありますね。ということはまず両方とも胸骨を刺しております。胸骨を刺して、で、最終的には椎骨ですね、椎骨を損傷しているわけです。で、まあ、実際あの登山ナイフは肉厚で堅いナイフですから曲がる可能性というのはあまりないんですね、曲がる可能性はないんですが、ちょっとねじれたりなんかしますとすぐ刃こぼれがします。ですから胸骨を刺した時、或いは肋骨も切っていますが椎骨を損傷した時というのは特に先端付近の刃というのは刃こぼれを生ずる可能性は十分にありますね」  ——本件の場合、頭のほうも刺していますね。 「ええ、頭のほうをたくさん刺していますので、頭は三角形になっているような骨折を伴う傷がたくさんできていますね。従って、この場合はナイフの刃の先ですね、先端部分が、ちょっと丸くなる。鈍的になるという可能性はありますね」  ——原審では刃こぼれをしない可能性もあるというご証言があるんですが、この可能性の濃淡についてですが、これはどういうように理解したらいいですか。 「これは、どういう時に刃こぼれを生じないかといいますと、まっすぐに刺した時ですね、今さっきちょっとお話ししたようにねじれが加わると刃こぼれがする。刃が折れてしまうんですね、という可能性が非常に大きいものですから、それがないということは傷そのものが、まっすぐに通って入ると。ですからその傷の方向で刺してる時に、或いは抜く前の状態で身体がねじれればその場で抜く時に、これは少し折れてしまいますね。それから頭にしてみても頭の傷をまっすぐにナイフを突き出した時ならば刃こぼれはしません。ところが斜めに刺したような場合ですと刃こぼれがする可能性がありますね」  ——と、本件の場合は、どっちかというと斜めに刺したと思われるものが多いように思いますが、創傷の関係からどうでしょうか。 「方向からいきますと斜めというのはかなりありますね。まっすぐというのはむしろ少ないぐらいで特に堅い所にぶつかっている時に、やや斜めの方向に刺さっている。しかも骨折があって骨折片が少し骨が剥離しているんですね。そういう場合は刃こぼれが起こるほうが普通ですね」  ——凶器を見ますと、先生も鑑定で御覧になっておるんですが、凶器と思われる本件の登山ナイフ、かなり分厚い材質になっておるんですが、この本件の登山ナイフで刺した場合刃こぼれがするかどうかはいかがでしょうか。 「非常に肉厚のナイフで頑丈ですね。頑丈なんですが、非常に刃の部分は先鋭ですね。先鋭ですし、先端はとがっています。で、まず骨をたくさん傷つけていますので、先端が全然丸みも何もないというのは、ちょっと普通考えにくいことですね、この点は。で骨に当たってなければ、全然当たってなければ、肉だけの場合でしたら別に矛盾も何もしないんですが、たくさんの頭の骨をとにかく刺してること、それから胸骨を刺して、更に背骨に突き当たっているということから考えると、少なくとも刃こぼれはともかくとして、先端部分がとがってる所がもうすこし丸みを帯びたり、あるいはちょっとまくれてというようなことがあってもいいんじゃないかと。普通ならばそうですね」  右の木村証言の中で、特に注目すべきは、ナイフの先端部分が丸みを帯びていないということに、法医学者として疑問を呈していることである。  同証人は、両親の創傷は骨にまで生じていることから、凶器に使用されたナイフは先端が丸みを帯びるのが普通である、と言うのである。  問題とされる本件ナイフが、父親について七個所、母親について十五個所もの骨の損傷を生じさせているとすれば、木村証人が疑問を投げ掛けているように、先端が丸みを帯びるのが自然である。  右疑問は、なんら解消されていない。  そしてまた、被告人の述べるとおり、本件ナイフが母親による父親殺害のみに使用され、七個所の骨の損傷でとどまり、母親殺害に本件ナイフが使用されていなければ、即ち十五個所もの骨の損傷、特に頭蓋の損傷に使用されていなければ、先端が丸みを帯びていないことも、一応うなずけるところでもあると思料するのである。  以上の通り、本件の各死体の損傷の部位、角度、深度、骨部の損傷、数等から考えて、何等の損傷、刃こぼれ、丸み、曲折、などの全くない本件押収にかかる登山ナイフが、本件犯行に供された凶器であるということは出来ないところである。 金庫の鍵と金銭  金庫の鍵と金庫を開けるまでの経緯について、被告人の自白と公判廷の供述とで違いがあるので、この点と、そしてあわせて金銭の使途について検討する。  金庫を開けるまでの経緯についての、被告人の公判廷での供述は、母親から金庫の鍵を受け取り、その鍵で金庫を開け、約七十五万円あった金のうちから、「華紋」従業員の給料支払いの分として金五十五万円を被告人がうけとり、二十万円は母親に渡したというものである。  母親が、父守を殺害したのちに、従業員の給料のことを思慮するというのは、殺害という異常事態の後に冷静な判断と行為をするということを意味し、それだけをとらえれば納得できない面もある。  しかし、被告人の公判供述は、母親の方から従業員の給料のことを持ち出したのではなく、「一緒に暮らそう」等と言ってまとわりつく母親がうとましくなって、被告人から、母親から離れる口実として「華紋」の従業員の給料のことを持ち出したというものである。決して、母親が、冷静な判断のもとに、主体的にあるいは積極的に給料の件を言い出したというものではない。  いかなる事態からかは、最早解明不能であるが、ともかく、母親が父守を殺害して、母親は落ち着いていられない、明確な思慮ができない状態であったであろう。そういう状態のときに、人は、第三者の言葉を十分理解できないままに、操《あやつ》り人形のように、その言葉に従って行動してしまうことも十分にあり得ることである。  そしてまた、この異常事態の発覚を防ぐために、期日に給料の支払いだけはしておいた方がよいとの、その範囲での判断が、母親に出来たとしても不思議ではない。  また、被告人が、父の死体を風呂場に運び、台所などの拭き掃除をして、同所を立ち去るまでには、三十分に近い時間があったのであるから、母親と被告人の間に、それ相応の会話がかわされたことも当然である。いかに、興奮していたとしても、全く判断が出来なかったということもないであろう。  母親は、事件のショックによる興奮はあっても、被告人の言葉に合わせて、金庫の鍵を渡し、鍵のかけ場所を言ったものであろう。  従って、被告人の公判供述に不自然性はないところである。  金庫の鍵は、事件後二個発見されている。一個は黒色グロリアの中から、もう一個は金庫のある夫婦の寝室押入の桟に釘を打って鍵掛けとしてあった個所からである。  まず、押入の桟の釘であるが、これが従前から金庫の鍵の隠し場所であったことについて、姉弘子は知らなかった(同人の当審における証言)ような証言をしているが、これは記憶違いかと思われる。  事件後、従業員の解雇、それまでの債務の整理、「華紋」の処分などのため、金庫内にあった金銭、預貯金などの一切の処分を弁護人と共に行動したので、当時の記憶が混在しているものとも思われるのである。  被告人が、事件直後の混乱期に、わざわざ右のような鍵の隠し場所をつくる必要性も理由もない。その時間も考えられない。その鍵には、血痕と被告人の指紋が付着したことを、被告人は当時から知ってもいる(昭和四十九年十一月二十四日付員面調書)。被告人が本件犯行をなしたとして、台所等の血痕等を拭く行為をしながら、血痕、指紋の付着した鍵を、釘まで打って残すということは、極めて不自然なことである。  従って、被告人の公判供述のとおり、母親から鍵をうけとって、金庫を開き、紐は何気無くペンチで切り、母親から聞いた隠し場所に鍵をかけたものである。  鍵はもう一個、父親の車である黒色のグロリアの中から発見されている。一個は母親が、もう一個は父親が持っていたのであろう。そして、このグロリアは、被告人もその後運転しており、この鍵の存在を知っていた。かりに、被告人が後で、金庫から預金証書等をとるために、押入の桟に釘を打ち、鍵を隠したものであれば、グロリアの中の鍵の存在を知ったら、血痕、指紋の付着した方の鍵は処分したであろう。被告人には、十一月一日、二日と、そうする十分な余裕、時間があったのであるから。  十月三十日、被告人が母親を残して八幡の家を出た時、所持していた金銭は、給料分として金庫から持ってきた五十五万円と本人の所持金約十二万円との合計約六十七万円であった。  そして、その後常陽銀行の姉弘子名義の預金通帳から十一月一日二十万円、同二日三十万円を下ろしているので、所持金の合計は百十七万円位であった。  一方、被告人は逮捕された時四万円所持していたほか、車の中に四十五万円を置いてあった。すなわち、合計四十九万円である。  給料分として持っていった金は、女子従業員の給料として十五万円ないし二十万円を支払ったが、男子従業員についてはその中からは支払っていない。男子従業員については、「両親がいなければ、給料は後でもよい」という従業員の言葉に甘えてしまったという。  その他、被告人は鎌田に二十万円を支払っている。被告人と鎌田とがルーレットの店をやっているときの儲けを貰いすぎていた分であるという。特に請求があった訳でもないのに、この時点で従業員の給料の支払いを遅らしていながら、鎌田に支払ったということは、弁護人にも理解できないところではあり、疑問を前から抱いているところではある。  その他、被告人の昭和四十九年十一月二十日付員面調書に基づき、金銭の使途を追ってみる。  十月三十日 八幡から千葉までのタクシー 千円 小指の治療 五百円 丸千洋服店 一万八千円 靴 三千円 小指の治療 四百円 栄町から三矢の家までのタクシー 三百円 鈴木料理店までのタクシー 三百円 鈴木料理店での飲食代 九千円 喫茶店 四百円 栄町までのタクシー 三百円 バー槙 八千三百円 バーマキシムまでのタクシー 千円 バーマキシム 五万三千円  十月三十一日 稲毛までのタクシー 六百円 鎌田の家までのタクシー 五百円 鎌田への利息 一万円 預金 千円 華紋までのタクシー 三百円 八幡までのタクシー 千円 華紋までのタクシー 千円 家賃 三万五百円 鎌田との食事 二千円 喫茶店 二百円 汐見丘病院 三千円 三矢との成川での食事 五千円 トラベルロッジ 六千円  十一月一日 幸町団地での買い物 五百円 プラチナネックレス 十七万円 六本木の飲食代 四千円 有料道路料金 九百円 トラベルロッジ 六千円 ガソリン代 四千円 時計バンド 三千円  十一月二日 喫茶店 二千円 三矢に 五万円 新宿キャバレー 一万円 有料道路料金 九百円  以上を合計すると四十万八千百円位が費消されたことになる。  これによると、収入と支出の計算上の差額が金十万円前後合わないことになるが、これは被告人の記憶違いもあるであろうから、おおむね真実に合致しているといえよう。  ここで気付くことは、三矢への使用はやや多額ではあるが、それを除けば、決して被告人が言うように、「おかしな使いかたではない」ことである。  金銭に困窮して、父親と紛争を生じたとか、金銭上のトラブルと言った性質のものでないことは明らかである。いわんや、金銭強取の目的など全くないものである。事件後の費出にしても、逮捕を覚悟しての豪遊には遠いものがある。人生最後の遊びと、被告人が考えたならば、四十九万円もの金を残すのは、理解できないことになる。十一月三日にも豪遊する時間があったのである。 「母親あき子の殺害」総括  さて、これまで詳細に検討してきたとおり、私たちが控訴趣意書及び答弁書に対する反論書において主張した原判決の疑問点は、当審における証拠調べによっていずれも一層看過できないものになっていった。  そこで、これまでの証拠にもとづいて、母親あき子の殺害を認定するにあたり、肯定的な証拠と否定的な証拠とを明らかにしてみると、要するに、積極的証拠としては被告人の自白があるだけであり、これに対し、否定的証拠は数多く存するのである。  原判決と検察官は、母あき子の殺害を認定する方向での証拠が存在しないため、その認定の論理は、 「……でなかったかもしれない」 「……の可能性もある」  という域に留まらざるを得なくなっている。  しかしこれは極めて危険な論理である。検察官は「被告人は十月三十日午後五時二十分に母あき子を自宅で殺害した」と主張する以上、否定的証拠、合理的疑問のそれぞれについて、たとえば、 「母あき子は午後二時すぎに中間食をとった」 「浴室前廊下の足跡は被告人のものである」 「母は二十九日にふるさと食堂へ米飯を買いに行った」 「現場にはN抗原が存在した」 「ナイフに人血が証明されしかも母の血液型の血液が付着している」 「ナイフに刃こぼれが生じなかった理由」  などを、証拠にもとづいて立証しなければならない義務がある。けだし、これらは検察官が立証責任を負う命題だからである。  また裁判所が、母の殺害を認定する以上、同様に右の諸点について、証拠によって積極的に認定できるのでなければならない。  ところが、原判決や検察官の論理は、前述したとおり、 「……でなかったかもしれない」 「……の可能性もある」  というに留まるものである。これは単なる推測と可能性にすぎず、「証拠による立証」などといえるものではない。  加えて留意すべきは、かりに一歩譲って、 「……でなかったかもしれない」 「……の可能性もある」  という推測・可能性論が成り立ちうるとしても、その「推測」や「可能性」が、「証拠」になるわけではない、ということである。胃の内容物に関していえば、「母は中間食をとったかもしれない」という推測が成り立ちうるとしても(勿論その証拠はないのだが、一歩ゆずって)、その「推測」そのものが、「母が中間食をとった」という事実の証拠になるわけではない、ということである。この点は注意を要する。「推測」の成り立ちうることが、あたかも当該事実の認定証拠を発見したような錯覚に陥ることがあるからである。過去の誤判例の多くはこの落し穴に陥っているのである。  この点、わかり易い例としてN抗原の問題を挙げよう。  原判決は、現場及び着衣からM型血痕しか発見されていない点について、 「Mと判定されたもののなかにはMNがあったかもしれない《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」  として、N因子を保有していた母の現場での殺害を認定した。  しかし、前述のとおり、この推測、可能性がかりに成り立ちうるとしても(但し、現場血痕、ゴザ等血痕についてはその可能性すらないことは前述のとおりである)そのことが、 「現場、着衣にMN型血痕が存在した《ヽヽヽヽ》」  ということの「証拠」になるわけではないのである。「可能性」でいけば、 「Mと判定されたものの中にはNもあったかもしれない」のである。ある現場にM型血液だけが存在した場合、可能性の論理でいけば、M型、N型、MN型の三つの型の血痕がやはりそこに「あったかもしれない」ということになるのである。はたして、その現場には、M型、N型、MN型の三つの型の血痕が存在したことになるのだろうか。  この論理が誤りであること、経験則、論理則に照らし到底そのようには言えないことは、多言を要しないであろう。  もし、右論理が正しいとするならば、M型血痕しか存在しない現場であっても、M型、N型、MN型の三人の人間を殺害したことの認定すら可能になってしまう。血痕鑑定がこれでは無意味になってしまう。  原判決の、「Mと判定されたものの中にはMNもあったかもしれない」という論理のみで、直ちに「MNの存在証明があった」とする原判決の論理を正しいとするならば、右の三人殺害の認定も肯定しなければならなくなる。  それが最早、「証拠による事実認定」などというには程遠い「暴論」であることは説明を要しないであろう。 父守の殺害について 動機原因 一、私達は控訴趣意書において、自白調書の動機原因が、「健全な法理念に反するものであり、常識的には理解しがたいものを多く含んでいる」と述べた。  自白調書についての検討は、既に控訴趣意書に詳述するところであり、その評価も変更の要はないと思料するが、ここでは当控訴審における被告人質問において出された事実のうち、被告人による父守殺害の動機たり得る事実があるか否かを検討する。 二、原審判決における、父殺害動機とされた三矢英子との交際の他、父の兄との関係及び被告人の金銭問題が挙げられよう。  前記のとおり、原審も父殺害の動機として認定した事実であり、その反論も既に出つくしている。  被告人は三矢英子に内縁の夫があり、加えて病気の父親があることは知って交際しているものである。それゆえか、何が何でも結婚を考えていたというものではない。  父殺害の当日、父守から三矢英子の職業を指摘されて激怒することはあっても、殺害に結び付くとするには飛躍がありすぎよう。同人の問題では、前日十月二十九日に「華紋」での親子喧嘩があり、翌三十日は早朝より、夕方まで市原市五井の両親方で謝罪と、今後の被告人の方向について話し合っているのである。そのなかで三矢英子に対する表現の言葉の行き違い程度で殺意にまで達する感情の高まりが起こるとするなら、前日からほぼ二十時間以上の興奮状態の持続が前提とされなければならない。しかし、三十日の被告人が、五井の両親宅で、そのような興奮状態にあったとする証拠は全くない。  逆に、前述のとおり謝罪しているのである。  更に、控訴審第七回で被告人は、 「三矢さんのおかれてしまった不幸のほうばかりを当時の私は見てて、三矢さんからものを頼まれたり求められたりすると、いやだということがなかなか言えず、当時の私の全生活を犠牲にして、その三矢さんに応えてあげることが三矢さんにたいしてできる唯一の愛情表現ではないかと考えて……」  と供述するとおり、そこには激情的な恋愛感情とは異質の献身的な愛情とも言うべきものを見出すのである。  被告人は、 「十月三十日夕方、父が三矢さんのことについてひどいことを言ったとき、父は私に対してほかに、お前はあいつに似ている。お前は、兄にそっくりだという言葉を言ったのです」と述べる。  右の「そっくりだ」ということが、どのような意味を有するか、必ずしも明らかではないが、被告人が父の兄の子であるという趣旨であったとしても、その言葉を聞いて、被告人としてはむしろ驚き、たじろぐはずであり、直ちに殺意につながることは想像しえないことである。  被告人は、控訴審で明らかにしたとおり鎌田とのルーレット賭博に六十万円を出資しており、直接的ではないが、暴力団から金をせびられていた事実がある。加えて、三矢英子との交際で、かなり高額の金を渡しており、父親殺害後に自宅金庫から五十五万円位の金員を持ち出していたことが疑われる。  しかし、ルーレット賭博は予測どおり高額の収入にはならなかったものの、毎日十五、六万円程度の収入があるとされ、暴力団に月額五十万円程度の用心棒代を支払ったとしても、相当の利益は出る状態であったと言えよう。  その他被告人は、「華紋」と五井のタイヤ修理等の手伝いで十万円弱の定収はあり、食用油やウイスキーを東京の問屋でツケで仕入れ、千葉のバーの経営者等に売る商売をしている。  昭和四十九年という年を考えれば容易に理解できるが、いわゆる第一次オイルショック前後のことであり、極端な品不足から物品価額が高騰したことは十年余を経た現在でもあざやかに思い出せる事態である。  相当程度の収入源であったことは容易に首肯できるところである。  確かに父守が殺害された時点で、被告人は自宅の金庫から金を出しているが、この点被告人は、 「十月三十日私は母に、姉に電話すると言いながら事務所の電話から三矢さんに電話をしてしまい、そのことによって私の気持ちは急激に三矢さんに会いたいという気持ちがわき上がってきてそれを抑えるとかすることができず、母には姉に電話をしたとうそを言い、そして姉が、給料が明日だからお金を持って来てくれと言っているとそこでもうそをつき、家を出るための口実にそのことをしてしまい、三矢さんに会いに行くためには母をその場に置いて行こうとその場で決めてしまい、そのとき大変な事件が起こっていたのですが私は自分勝手に考えてしまい、母に対して最小限の思いやりとしてそばに一緒にいてあげることさえせずその場から立ち去るということをしてしまい、気の重たくなることに対しては逃げ出したいという気持ちを抱いてしまい、母を置き去りにしてしまい……」  と述べるとおり、その場から逃避目的のため給料を払うことの口実を利用したにすぎない。  その後の費消状況も、被告人が切羽詰まり、どうしても多額の金員が必要であったことを推測させるものは存しないのである。  その他、数回の給料の前借りの事実、あるいは車の代金の支払いをしていない事実等はあるが、それは親子間の甘えであり、重大犯罪に結びつく経済的困窮と断ずる様なものとは明らかに異なるのである。  以上のとおり当審で取調べた証拠から、被告人の父守殺害を肯定するに足りる事実は結局のところ見出せなかったものである。 三、被告人は母あき子による父守殺害を主張する。  母あき子が殺害行為をなしたとする立証義務は弁護人にはない。  そして動機についても確たる指摘をする気持ちはない。  しかしながら、被告人が家を一旦出て戻るまでの間に、どのような事情、事実があったのか、現時点では何人もこれを説明しえないのである。  かりに被告人と母親との対比で被告人の犯行動機が可能性としてより高いと考えられたとしても、それだけで被告人の犯行と断定しえないことは刑事訴訟法上、自明のことである。 第一撃について 一、原審判決は、父守の殺害態様について、 「背後から登山ナイフで同人の右肩付近を二回突刺し、次いで同人を仰むけにしたりして、同人の胸部、上腹部等を約九回突刺した」  とのみ認定している。  これについては、控訴趣意書により、自白と、態様が大綱においても一致しているとは言い難いこと、ことに生体反応である打撲痕の存在が全く捨象されていること、創傷の形成状況が自白と異なること、攻撃順序が自白と解剖結果で一致しないこと等をそれぞれ指摘した。  ここでは、当審における証人木村康の証言が触れた範囲において前記の問題点を論ずる。 二、父守への凶器による攻撃の第一撃について、木村証人は、右肩の創傷と胸部の創傷の形成順序について次のとおり証言する。 「右肩の傷が最初に出来たとするならば、当然逃げるか、あるいは凶器を取ろうとしてもみ合いになる、そうすると腕ですね、そういう所にいわゆる防衛創というものが普通なら出来るわけですね。で、本件の場合には、上肢には傷がないんですね、したがって、そういう状態で刃物を持ってる人と、そこでもみ合うような形でということは、その傷の出来方からいうと考えにくいということでございますね」  これまでの証人の経験から胸部の傷が先に形成されたと考えることを述べている。  右肩の傷が先に形成された場合と、胸部の傷が先に形成された場合を比較するなら、致命傷であり、心臓に達している胸部の傷が形成されれば、被害者の反抗力は急激に低下するはずである。  一方右肩の傷も重篤な損傷ではあるが、直ちに死亡に至る様な創傷ではなく、被害者が仮に倒れたとしても相当程度の抵抗があり、防衛創が形成されて然るべきである。  右の観点から、父守に対する第一撃は胸部の傷である、とする木村証言は、被告人の自白の信用性に疑問を投げかける重大な証拠である。 着衣の血痕  被告人の着衣とされるものの血痕付着が、男性血痕、女性血痕に分かれ、異常な付着状況となっていることは、反論書において述べた通りである。血痕鑑定をめぐっては、前述のとおりである。  ここでは、当審の木村証言に表れたセーター及びハイネックシャツの血痕付着について論ずる。 一、当審での木村証人の証言中、次の応答がある。  ——じや、原審で言う十センチ、若しくは十五センチぐらい離れて登山ナイフを抜いたと、その場合、被害者が倒れておって、馬乗りになっておって抜いたとした場合は、セーターの袖口のどういう位置に付くというふうに理解していいんでしょうか。    「その場合は、むしろ後ろのほうですね。袖口の後ろのほうに付く可能性がつよいですね」  右の証言は一般的な場合、即ち下腹部付近に馬乗りになり、逆手にナイフを握って胸部に突き立て、創洞の方向が、後下方に向かう場合であれば納得出来よう。  しかし、本件の場合被害者守の創傷は、創洞が、いずれも後上方に向かっている(木村康鑑定 昭和五十一年三月二十七日)ことからすると、下から突き上げる形になるはずであり、この場合、袖口後面へ血液の飛沫が付着することは、右証言に反し極めて低い可能性しかないものと考えられる。  更にセーターの袖口後面の血液付着状況を見ると、左右の袖共、血痕は「厚く付着している」(昭和五十二年二月十五日付木村康鑑定書)とされ、ベットリと付着した血痕である。  従って仮に馬乗りでナイフを抜いた場合に、セーターの袖口後面に血液が付着するとしても、飛沫状の付着でなければならないはずである。セーター袖口に付着したこのべっとりした血痕は、被告人が認めている通り、風呂場へ父の死体を運んだ時に付着したと解するのが経験則に合致するものである。被告人の本件犯行には結び付かないものである。 二、被告人のセーター左胸部付近に噴霧状の血痕付着が認められる。(昭和五十二年二月十五日付木村康鑑定書)  この血痕について木村証人は、予備試験までで本試験を実施していないことを肯定し、更に弁護人の質問に次のとおり答えている。 ——それから、その噴霧状の微細血痕の付きかたなんですが、ナイフを刺して抜いたときに付くという証言もございましたが、それ以外に、噴霧状に付く可能性はないんでしょうか。 「多量に血液が付いていて、まだ乾燥していない状態のときに、その血液をなんらかの機会に物が当たったような場合ね、直接付着した場合に、二次的に擦過状の斑痕として表れてきますけれども、そうじゃなくて、例えば血溜りがあって、そこを足でもって踏んだとすると、そこから飛沫に飛びますね、そういうような形でもって噴霧状に付くことはあるということです」 ——あるいは、手に付いた血を水で洗ってぱっと振ったとか、あるいはタオルを振り回したとかそういったことによってはどうでしょうか。 「もちろんそういう場合でもありますね」 ——それから、ほかの衣類に付いていた血痕が乾燥して粉末状のものがセーターの前面に塗抹されたという可能性はどうでしょうか。 「あります」 ——それもございますか。 「ええ。一つ一つをこう丁寧にしまってあったとしても、血痕の付着している所に紙をはさみまして、その血痕が付着してない所とは接触しないようにするというんであれば別ですけど、セーターのような、けばだっていますからね、表面が。で、例えばこのセーター前面の大きな血痕ですけれども、この血痕が、もしこれを上下に二つ折りにして畳んだとしますね、そうしますと、ここは暗赤色の乾燥した血液がたくさん付いているんですから、そういう粉末状になったものが飛び散るというか、その毛糸の表面に、繊維の表面に入り込んでしまうということはあります」  このように噴霧状の血痕の付着の原因についても、多数の可能性があり、被告人に不利益な方向でのみの解釈は許されない。 三、被告人の着衣とされるシャツの襟首の血痕は、通常折り返されて内側となる部分に付着している。  この点、木村証人は次のとおり証言する。 「ハイネックシャツのセーターというのは、襟を二つ折りにして着ますね、ですからこれは伸ばした状態で調べたところですけれども、ここに付いているならば、これを二つ折りにした場合には、今ここで言う裏面ということになりますね。  で、試薬散布では反応が表れますけれども、現実に肉眼的には余り明瞭に付いているということは識別出来なかっただろうと思いますね、この表現からいきますと。したがって、普通の着てる状態では、これは表から付くわけですから、それでは付かないということになりますね。伸ばした状態、襟を全部上まで上げた状態で付いてるということですね」 「そういう二次汚染ということも考えられるかというんであれば、それは考えられますということです」  シャツを見れば明らかな通り、首の部分は二つ折りにして使用されるのが一般的であるタートルネックである。従って木村証言は二次汚染とも考えられると述べ、一次汚染との可能性の程度については明らかにしてはいないが、常識的には二次汚染の可能性が、極めて高いと言うべきである。  右シャツについては、前記セーターの内側に着用していたとすると、血痕付着状況が一致せず、かつ内側に着用していたはずのシャツの血痕が付着面積においても明らかに広いことなど、ズボンとブリーフの血痕付着状況同様に、説明しきれない疑問の残されることも、ここに付記したい。 右腕の条痕  検察官は、逮捕当時被告人の右腕にあった条痕について、これを犯行時、被害者との攻撃防御の際に生じたのではないかとの疑いを主張する。  原審証人曾根幸子によると、十一月一日、被告人から頼まれて、手を洗ってあげた際、右腕内側に「みみずばれとでもいうんでしょうか、条痕というんですか、かき傷、その条痕がいくつあったかはわからないんですが、かき傷のような状態」があったことを証言している。  この点、被告人は公判廷では、記憶のはっきりしないむねを述べている。従って、その存否自体疑問はあるが、かりに存在したとしても、以下のとおり犯行との関連性は見出せないものである。  まず、当日の被告人の着衣とされるものは、長袖のトックリシャツを着たうえにバルキーセーターを着用していたとされる。とすると、右腕のその部位にかき傷は出来にくい状態であると言える。  事件当日は、十月三十日で肌寒い日であったので、袖捲《まく》りという気温の状況にはなかったものである。  また、捜査段階の被告人の自白供述とされるものには、そのような、腕まくりをしていたというような状況にあったむねの供述は一切なく父や母の攻撃で腕に受傷したむねの供述もしていない。  被告人の供述する、三矢英子との性行為際の受傷の可能性も否定できないし、他にいくつかの原因も想定できるのである。  この右腕の条痕は、傷自体どの場面で形成されたか全く特定しえないものである。  加えて、前記証人曾根は、弁護人との間で次のとおり応答している。 ——手を洗ったときのことですが、これは別に隠れてこそこそやったわけじゃないですね。 「はい。そうです」 ——あなたに傷を見せないようにしながらということもないですね。 「ございません」  被告人は全く隠すそぶりはなかったもので、仮に被告人が父守を殺害したとしてその際の負傷であれば、店員に手を洗ってもらうなどという不用意な行動をするはずがないと考えるのが常識的であろう。  死体遺棄について  原判決は、死体遺棄については、極めて簡単に判示するに留まり、死体の隠匿場所、搬出経路、方法等については、何等判示していない。  しかし、原判決認定のように、被告人が死体遺棄を行ったことを裏付ける証拠資料は、被告人の自白を除いては、皆無に近い。  したがって、原判決認定事実は、ここでも、被告人の自白の信用性が崩れれば、その根拠を欠くものとなり、空虚なものとなるのである。ところで、私達は、死体遺棄についての、被告人の自白には、客観的事実、人間心理及び一般常識等からあまりにもかけはなれた部分が多く、到底被告人を有罪と断定するに足りるものではないと考えてきた。  特に、本件の死体遺棄は、異時、異場所において、複数の人間による犯行を疑ってきたところである。これらの疑問は控訴審である当審の審理にもかかわらず、ついに明らかとはされなかったものである。  以下問題点のみを指摘する。 死体の隠匿と搬出 一、被告人の自白によれば、両死体は、殺害後、三十六時間もの間、犯行現場とされる佐々木宅風呂場の風呂桶内に置かれていたとされている。  なぜ、三十六時間もの間、犯行現場に留めておいたのであろうか。  この理由につき、自白では、「最初、せめて二〜三日でも発覚を引き延ばすため」という。しかし、発覚を免れるために、何故に最も発見され易い犯行現場に死体を置いたままにする必要があったのであろうか。通常の犯罪者心理からはほど遠いものと言わざるを得ない。  もし、自白のとおり発覚を免れるためであれば、犯行直後の深夜等に、死体を一刻も早く外部に搬出するのが常識である。真犯人であれば、少しでも遠くへ運び出すことを考えるのが筋である。  しかも、犯行後の被告人の行動とされるものは、多彩で、広範囲に、特異な行動があったことが指摘されている。  これらの、一連の行動には、原判決の言う「殺人後の死体の処理に窮した」状態とはとても考えられないのである。  死体隠匿をめぐる被告人の自白の信用性の判断基準は、「一般人の行動の通常の過程」に、その基礎を置くべきである。 二、死体の隠匿の場所が、風呂場の風呂桶の中であるとする被告人の自白にも、客観的事実に合致しない、幾つかの問題点があり、これも未だ解明されていない。  まず、風呂桶内部からは、血液反応が見られていないことである。この点は、昭和四十九年十一月四日付の検証調書でも明らかである。  被告人は、当審第六回公判において、「警察で、父を風呂の浴槽の中に入れたという供述が作られた」と供述し、自白採取の作為性を明らかにしている。  この反証はない。  昭和四十九年十月三十一日午前中に、姉夫婦が被害者宅へ行き、家の中を見回した際、臭気を全く感じてもおらず、両親の死体を発見していないという単純な事実も、被告人の自白の信用性を減殺せしめるものである。  なんと言っても、姉夫婦は、両親が行方不明となり、その所在を探すべく、不安も抱きつつ、両親の家の中を探したのであるから、不審の点があれば、当然に気づくのが常識である。敏感に感じるのが当然である。  なんの関係もない第三者が、現場付近を通り過ぎて行ったという性質のものではないのである。  客観的に死体がすでに同所には存在していなかったが故に、姉夫婦には臭気や、異常が感じられなかったのである。  この点についての、当審の姉弘子の証言でもこれを肯定したといえる。同人らは、台所、二階等全く変わった点を感じなかったと証言している。死臭、血臭はもとより、異変はなにも感じられなかったと言う。 三、被告人の自白によれば、死体は、風呂場で、毛布などに包んで、窓から焚場《たきば》に吊り降ろし、裏木戸を通ってライトバンに積載されたとされる。  しかし、この点も客観的事実に照らし、明らかな矛盾点が多数散見される。  まず、被告人は狭い風呂場で、本当に自白どおりの方法で、死体の梱包処理を行ったのであろうか。  これを裏付ける証拠は、自白を除外すると、風呂場内のルミノール反応しか存在していない。  ところで、被告人自身、父親の死体を風呂場まで運んだことは法廷でも認めているのであるから、風呂場に血液反応が見られるのは、むしろ当然であり、これをもって自白にかかる被告人の死体処理行為までも立証し、或いは補強証拠とすることは出来ない。  また、果たして、身長百七十一・五センチメートル及び百六十五センチメートルの父母のそれぞれの死体を、浴槽を含めても、わずか百六十五センチメートル四方の狭い浴室内部で、自白のように約四メートル四方ものシートを広げ(どのように広げたのか自白はないが)て、その上から死体を毛布で包み、麻縄やマニラロープで何重にも縛るという行為が実際に可能なのであろうか。そもそも、死体をどのように横たえるのかについてさえ、本件自白とされるものには、具体的な供述は為されていないのである。  さらに、この疑問は、両死体が、当然、死後硬直に入っていたことに照らせば、その困難性は倍加する。  また、自白によれば、二つの死体を風呂場の窓から、小さな焚場(幅、長さ、それぞれ、わずか百二十センチメートル、二百七十センチメートル)に吊り降ろし、狭い裏木戸から搬出したという。  弁護人の素朴な疑問は、何故、このような、ことさら狭く、困難な経路をたどる必要があったのか、という点に尽きる。  自白には、その理由が具体的に何等説明されていない。  死体の搬出に限らず、本件被告人の自白には、一般経験則に照らして、特異な行動をとっているとされているのに、当然あってしかるべき、その具体的な理由、当該行為に至った理由の供述が脱落するか、極めて貧弱な記載にとどまっている部分が、あまりにも多すぎるのである。  わざわざ風呂場の窓から吊り降ろすという通常では考えられない方法と、無駄な労力をかけなくとも、風呂場の脱衣所から廊下、台所、又は事務所などを通って、タイヤの作業所の中で、悠々と死体の処理をした方が、はるかに楽で、安全で、確実で、早く出来るのである。我々が気づくまでもなく、被告人はその家で育っているのである。家の中のことは、十分に知悉しているのである。  また、何故、広い通りに面した道路に、わざわざ死体を出して、ライトバンに積載する必要があったのであろうか。仕事場で、シャッターを降ろして、他人の目につかず、死体の処理をなし、そこから車に積載できたのである。  これら、一連の自白にかかる死体搬出経路は、要するに風呂場の窓枠にあったごくわずかの血液反応と、かすかなすり傷の存在を、無理に自白の中に取り入れたかった捜査官の図式にあてはめたものにすぎない。弁護人には、特に死体処理から搬出に至る自白には被告人の声より、捜査官の声の方がはるかに大きく聞こえるのである。まさに、捜査官のための自白の図式がここでも著しいと言わざるを得ない。  ルミノール反応は、必ずしも対象が人血であることまで証明するものでなく、窓枠の傷も、死体を吊り下げたロープによって出来たとするためには、何故に窓の外側にしか傷がないのかを説明できなければならない。 四、さらに、最も重要なことは、死体処理に関する被告人の自白には、通常真実な自白に必然的に伴う、いわゆる「極めて印象的事象」が完全に脱落していることである。  被告人にとっては、当然、初めての死体処理の体験であった筈であり、死体の情況については、その処理、搬出の経路においていずれも鮮明な印象として残っていなければならない。  ここにも、死後硬直という重要な事象を見落とした捜査官の図式が、そのまま被告人の自白に投影したといえる。この事象に思い至らなかった捜査官側の事情が奇しくも、顕在した結果となっている。  当時、両死体は当然のことながら、かなりの死後硬直の状態にあった筈であり、後に緩解《かんかい》が始まっていたとしても、少なくとも身体の半分以上は硬直が残っていたと考えられる。  もし、自白が真実を述べているのならば、死体の梱包等にあたって、具体的に死体がどのような状態において為されたのかという記述が、当然に存在しなければおかしいことである。 五、また、注目すべきことは、死体を裏木戸から歩道上に出し、ホイール等と共に積んだとされる路上のライトバンや被告人の姿を、全く奇妙なことに、だれ一人として見た者がいないという事実である。  当時、いかに早朝とはいえ、街角を行く人間が一人も居なかったとは通常考えられない。しかも、これ程の重大事件の捜査にもかかわらず被告人の自白を裏付ける目撃者がただの一人も現れなかったというのは、何としても不可解としか言いようがない。 六、死体を運んだとされるライトバンも、当時、しばしば故障気味であったことに照らせば、死体運搬という重要な行為にわざわざ使用したというのも、いかにも不自然である。  これも、捜査官が、たまたまライトバンの荷台にあったルミノール反応に符合せしめるべく作為的に為された自白である疑いが消えないのである。  なぜなら、右のライトバン内のルミノール検出血液が、人血か、犬の血か、なんら特定されていないからである。当時負傷した犬を乗せたとされるライトバン内のルミノール結果のみをもって、それが人血であるとするのは早計というべきである。  のみならず、自白によれば殺害後三十六時間後に、死体は風呂場内で毛布やタオルケット数枚で、頭までぐるぐる巻きにされてライトバンに積載されたというのであるから、ライトバン内には、血液は付着しないのが、むしろ自然である。  以上述べた疑問点、問題点は、控訴審の審理でも、未だ解明されなかったのである。 五井海岸 一、被告人の自白は午後五時三十分頃、五井海岸の岸壁に死体を、シートで包んで、海へ投棄したという。  まず最も大きな、かつ、素朴な疑問は、何故に、広い視野に囲まれた地点を、わざわざ選んで死体梱包作業を行ったのかという点である。  しかも、そこには、当時揚土の水溜まりがかなりの量に達し、流水の筋まで形成していたという地点である。自白通りとすれば、被告人は、自ら求めて危険かつ困難な方法を選択したことになる。  控訴審である当審においても、ついにその疑問は解明されなかった。以下、問題点を述べたい。 二、被告人の自白によれば、五井海岸の岸壁で、「シートで二つの死体を一つに包んだ」上で、「長いロープで頭の方から巻き、足の方でロープの両端に一つずつホイールをつけ」、「父母をロープでつなぎ離れないようにして」というように、両死体を一つにしてシートに包み離れないように、しっかりと何重にもロープで巻いた上で、海に投棄したことになる。  ここにいくつかの疑問が生じて来る。 (1)まず、本件では、未だに右のシートが発見されていないという点である。  被告人の昭和四十九年十一月二十三日付検面調書によれば、「シートを取って……地面に広げ」、「二つの死体を一つにシートで包み」、「長いロープで頭の方から巻き足の方でロープの両端を縛り」、その上で、「ロープの両端に一つずつホイールをつけました」と供述している。  右供述どおりであるとすれば、ホイールを縛った紐とホイールは母親の死体に付着していたのであるから、当然、シートも、一緒に死体に縛りつけられていなければならない。  ところが、発見された母親の死体には毛布が巻きつけられ、その上を直接紐で縛られ、ホイールがその先端に結びつけられているのである。そして、その縛り方は、同報告書によれば、「強く下腹部に食い込む」程強く緊縛されていたとされている。  そうすると、シートは、そもそも初めから全く死体には巻き付けられていなかった疑いが、かなりの客観性を持って明らかとなってくる。  やはり、ここでも、コンプレッサー覆い用のシートが、捜査当時たまたま佐々木宅から紛失したという事情が、捜査官の念頭に強く置かれた結果、不自然な自白を作り上げたという疑いを持たざるを得ないのである。  この点について、当審第六回公判において被告人は、シートの紛失についての検察官の質問に答えて、「シート(の紛失)については、警察で指摘されてから(初めて)気づいた」と供述し、シートの紛失の件が、捜査官側から出たことを強く示唆している。当審における松藤久義の供述調書の証拠調べの結果もこの推定を裏付けるものにすぎない。 (2)次に、母の死体については、「死体を毛布で包み太いロープでまいてしばり」、「腹付近を二まわりくらい巻いて……」(いずれも昭和四十九年十一月二十三日付検面調書)とされているが、この点については、母親の死体発見報告書は「腰腹部に毛布が巻かれ二種類のロープをもって腰腹部から足にかけて緊縛されている」と記載されており、全く奇しくも一致している。  ところで、母親の死体が発見されたのは、十一月十日であり、それ以前については、母親の死体の縛り方についての供述は一切なされていない。母親の死体を縛った部位と、縛りかたについては、捜査が進むに従い、次第に具体化され、最終的に昭和四十九年十一月二十三日付検面調書において、あたかも発見死体の状況に合わせるかのように自白が為されている。  すなわち、死体発見報告書には、母親の死体の腰部を結んだロープにホイールが結びつけられているとされているところから、自白もそのように符合せしめる必要があったのではなかろうか。自白では両死体をシートで一つに包んだ上、縛ったロープの両端にホイールを結びつけたとした上、さらに「まだ母親の腹付近には、風呂場の窓からずり降ろす時にしばったロープがついたままになっていたので、そのロープをもホイールの穴に通してしばりました」とされ、死体のホイールの付着状況にはともかく一致している。  しかし、一連の自白にはいくつかの疑問点も浮かび上がってくる。  まず、シートは約四メートル四方もの大きさがあり、これで両死体を包めば、すっぽりと体全体を覆うことになる。  自白では、その上をロープで縛った上、ホイールをつけたとされている。  そうすると、母親の腹部を縛ったロープが(シートから)出ていたので、それにホイールを結んだとする自白は、いかにも不自然で母親の死体状況に無理に合わせて作出された可能性が払拭し切れないのである。  また、同じように、父親の浮上死体にも、紐が幾重にも付着していたのに、その紐には、ホイールを具体的にどのように、結びつけたのか、それとも結びつけなかったのか、どうなのか、不明である。  この点は、たまたま父親の死体にはホイールがついていなかったので、あえて、ホイールについての詳細な自白をとらなかったのではないだろうかとの、疑問が残るのである。 三、当審において、検察官は、第六回公判の被告人質問で、被告人が昭和四十九年十一月一日の朝、両親宅に入り、父の死体がなくなっていたことに気付いた後、五井海岸へ行ったことに関して、「あなたが見に行った海から両親の死体があがったんですね」という質問をし、被告人の当時の行動と死体遺棄を結びつけようとしている。  これについては、被告人も右検察官の質問に答えているように、 (1)市原市の地理条件についての被告人の当時の知識からすると、死体の捜索について、真っ先に思い浮かぶのは、現場から一番近い「海」ということになるのは、全く常識的なことであった。 (2)近くの海岸以外の捜索場所は、あまりに漠然とし過ぎ、特定しようがなかった。 (3)十一月九日、父の死体が海から見付かったむね、捜査官から聞かされ、その追及に屈した結果、以前自分が探しに行った場所を逆に犯行現場として、あてはめる自白をしてしまったものである。  以上の事情に鑑《かんが》みれば、かりに、被告人が事実、五井海岸へ父の捜索のため赴いたとしても、これをもって、被告人がそこで死体遺棄の行為を為したということはできない。むしろ、被告人が同所に行ったが故に、死体遺棄の場所を同所にする旨の自白供述をさせられてしまったと解するのが自然である。  また、同じく当審第六回公判において、検察官は、被告人に対し、「死体を運んだという真犯人は、鍵を持っていないのに一体どうやって入ったんですかね」という質問をしている。  この質問は、要するに、被告人も鍵が無くて入れなかったのだから、被告人以外の真犯人とされるものが入れる筈がないという論理である。  しかし、被告人が一貫して法廷で供述しているのは、被告人が佐々木宅を事件直後に出た時には、母親はまだ生きていたとするものである。その後、問題の鍵は母親が所持していたのであるから、母親または母親の接触した人物が使用し、鍵をかけて外出したと考えられ、なんの不自然性もないのである。被告人はそれ故に家屋内に入れなかったものである。むしろ、これこそ、被告人の法廷供述の信用性を示すものである。  ——以上が、検察・弁護双方の主張の集成である。  最後に、傍聴者の一人として感想を述べておきたい。  この事件には捜査段階の被告人の自白供述以外、被告人と罪体を結びつける証拠は何もない。「自白」の真実性の検討がきわめて重要な部分を占めるのに、原判決は被告人の言い分を正しいものと仮定して推理することを怠っている。数々の矛盾に対する弁解として、甲地証人の記憶喚起が曖昧、不確かであることを論証しようとして、司法警察員や検察官に対する被告人や諸証人の供述調書を引用し、強引な論法で結びつけ、証言の内容がいい加減なものと断定している。むりやりに事件現場とされる八幡の家と「華紋」間の距離を短縮、母親は買ったばかりの温かいご飯を放置して店へ駆けつけたことにし、各証人の時間の記憶には相当な誤差があると断じてその検討を没却している。  原判決は更に、被告人が自身の行動について、事実に反する確信をもっているのは異常なことであり、現実を否認して自己の精神的破綻を防衛せんがために、「離人感」を持つに至った結果だとする福島精神鑑定を援用して、被告人の公判廷供述の信憑性を否認する。確かに、被告人が茫然自失の母を残して女性の元へ走るなど、その供述には理解しがたいものがあるが、 「その不自然、不可解な否認の供述も、この点から了解するのが相当」  とする安易な判示は首肯できない。供述内容のすべてが不自然なのか、あるいは否認するが故に不自然、不可解なのか曖昧なのである。 「かかる鑑定は」新潟大学・沢登佳人教授はコメントする。「有罪推定の裁判官にとっては有罪の証拠となりうるけれども、無罪推定の陪審員にとっては、被告人の無罪供述に対する信頼感を喪失させる証拠とはなりえず、単に『そういうこともあるのかな?』という程度にしか受けとられないだろう。公平な裁判官ならば、かような被告人有罪を前提とする鑑定意見の提出は認めるはずはない」  この事件の提訴以来、既に十二年の歳月が流れている。検察官は控訴審の再度の審理をもって、被告人の犯行であることはいっそう明らかになったと言うが、残念ながら、事実関係について確実なことは何も分からず、真相はいまだ不明のままである。謎の部分があまりにも多く、解明されていない。被告人のいう「疑惑の人物」について、裁判長は「調べてほしいか」と尋ねたが、証拠の散逸や証人の記憶の喪失、また被告人の記憶も薄れつつあることを考えれば、もはや真相の解明は不可能に近いというべきだろう。 「公訴事実の証明の存否に争点をしぼり、あえて他の犯人について仮説の提言をしなかったのもそのためです」  大塚弁護人はそう語ったが、真犯人を発見できなければ、やはり被告人の犯行ではないか、という結論になりかねない恐れは、裁判長の質問からも窺えるのである。  刑事裁判は、言うまでもなく、検察官の主張が合理的疑いのないまで完全に立証されたか否かにあり、立証義務は検察官にある。そして、その罪責の度合いと証明が、法律の専門家たちだけでなく、法律を知らない傍聴席にある我々一般市民——市井の凡人たち——にも、理解できる程度に明らかにされるべきものだと思う。国家が被告人を死刑に処しようとしているのだから、これはむしろ当然のことであり、それゆえに「疑わしきは被告人の利益に」の鉄則は儼乎《げんこ》として守らなければならない。  この事件のように、犯罪が残虐であればあるほど、誰しも犯人に対して強い憎しみを抱く。だが、時として、その憎しみが当然のことのように、無実であるかも知れない被告人に向けられ、罪から逃れさせまいとする思いを裁判官に抱かせ、被告人に不利な事実を認定する誘惑になりがちなものであるという。  ——有罪・無罪の決定を、裁判官たちだけに委ねておくのは、あまりにも国民にとって「危険」なのではなかろうか? 〈了〉 あ と が き  山中湖畔マウント富士ホテルで、「陪審裁判を考える会」第四回夏期合宿研究会を終えたのが八月二十七日だった。北海道から渡部保夫教授(北大)が出席してくださり、沖縄からは本永寛昭弁護士が駆けつけた。 「四国から出てきたので、少し威張ろうかと思っていたけど、大きな顔はできないな」  庭山英雄教授(専修大)が苦笑して、頭を掻いた。  会長役を引き受けてくださっている利谷信義教授(東大)も避暑先の信州の山を下りてこられ、沢登佳人教授(新潟大)ら学者、裁判官、弁護士の先生方の出席多数、それに比して一般市民の参会が少なかったが、来年からは呼び掛けをきちんとしよう。  この朝、ちょうど梅田事件の再審無罪の判決があった。請求審で一審を支持し、開始を決定したのが当時の札幌高裁・渡部裁判長であった。拷問を平気で行った捜査当局へ批判が高まり、それを容認してきた裁判所、自白と誤判の関係について、論議が繰り返された。 ——現在ノ官僚的裁判ハ果タシテ民衆ノ信頼ヲ有スルヤ、又之ヲ適正ナル裁判ヲ期待シ得ベキ理想的制度ト為スヲ得ルヤ。国民的裁判ナル陪審制度ノ採用ハ果タシテ能ク民衆ノ信頼ヲ贏《カ》チ得ルヤ又之ヲ適正ナル裁判ヲ期待シ得ベキ理想的制度ト為スヲ得ルヤ。  スピーチの下手な僕は、大正三年の大場茂馬博士の言葉をかりて挨拶に代えたが、講義は熱をおび、論議も活発、まずは盛会裡に楽しい集まりだったことを事務局の四宮弁護士とともに喜んだ。散会後も居残る人が多く、刑事裁判に三十年も携わった渡部先生、『裁かれる裁判所』、『最高裁の逆流』などの訳書のある古賀正義弁護士を囲んで、遅くまで酒を酌み交わした。  山中から帰って、翌八月二十九日、東京高裁で「佐々木哲也事件」に対する判決公判があった。 「本件控訴を棄却する」  主文を言い渡した後、石丸裁判長は二時間十分にわたって判決理由を読み上げたが、その間、須田検事は何度も大きく頷いてみせ、佐々木被告人は終始うつ向きかげんだったが、時折顔を上げては裁判長の顔にじっと見入っていた。 「反省の言葉ひとつない」と裁判長は難じ、最後に、 「君の口から、(謝罪を)聞きたかった」と被告人を見据えた。  佐々木被告人は面をあげ、 「理解されなくて、残念です」  とだけ述べ、看守に腰縄を引かれ、静かに退廷して行った。  その夜遅く、四宮弁護士が電話してきた。控訴棄却がよほどこたえたものか、少し酒に酔って、今にも泣き出さんばかりの声だった。  翌々日、大塚弁護士から手紙がきた。 「この程度の証拠で、有罪を認定し、人を死刑にできるとは、恐ろしいことです。日本の司法の壁は厚く、自分の無力を嘆くばかりです。彼を死刑台に消さないために、上告はもちろんのこと、今後ますます努力を続けます。最近の再審無罪など、名誉と栄光に包まれる弁護士と、事件が冤罪のままに確定していった敗北と挫折の弁護士と……過去の歴史に思いをめぐらしています」  山中の会議を終え、すぐ呉へ帰られた原田弁護士から、電話をいただいた。 「山本老事件の決定は、裁判長の退官前、九月半ばにおりるかも知れません」  この本が出るのは十月の予定だから、それまでには、再審開始の帰趨がはっきりしていることになる。開始決定を待ちわび、信じつつも、一抹の不安がよぎる。  余命いくばくもない老の最後の願いを、なんとしても叶えてあげたいものと祈念するのだが、たとえ無罪を勝ち得ても、失われた青春は戻らず、梅田事件の竹上英夫弁護士のように、勝利の喜びのさ中にありながら、 「無罪になることはなったが、梅さんの人生って何だったんだろうか?」  と考え込んでしまう人もいる。 「せめては清い身体で死にたい」  山本老の切なる、ぎりぎりの願いを、裁判官たちはどう受け止めているのだろうか?  再審請求のため、初めて高橋文恵先生を訪ねた話は直接老から聞いて、本文の中にも書いた。加藤老事件の再審開始を決定した裁判官が高橋先生であると聞き、その門をたたいたのだが、呼び掛けに先ず原田弁護士、藤堂弁護士が応じた。 「加藤老とともに、再審無罪を勝ち得たときのあの感激を再び——」  自身も裁判官生活の長かった、古武士の風格をもつ藤堂先生は、そう言って協力を約されたという。  山中で原田先生からお聞きしたのだが、高橋先生は苦学力行の士だ。小学校高等科を卒業後、大阪へ出て木村教諦先生の事務所に入り、夜間商業を経て関西大学専門部へ、卒業後は図書館などで独学、昭和十年に高等文官試験司法科に合格。  戦時中は台北地方法院判官として現地に赴任され、終戦時は高雄地方法院にいらした。在勤中、台湾の独立を企てた台湾グループを被告人とする裁判に関与し、戦後、事件に関わった裁判官、検察官、警察官ら数十名が逮捕、勾留のうえ取り調べを受けた。高橋先生のみ、官舎に住みながら、地元民にかばわれ、逮捕・勾留を免れた。  山本老をバス停留所まで送って行った親切もそうだが、このエピソードも先生のお人柄を偲ばせる。  人の話ばかりされる原田先生も、苦労されたらしい。朝鮮戦争が勃発したころ、批判のビラを撒いて、占領政策違反の罪(政令三二五号)に問われた。懲役十か月、執行猶予はついていたが、しばらく臭い飯を食わされた。剥奪された弁護士資格を講和条約締結の恩赦で取り戻し、権力ヘの孤独な闘いが始まった。常に弱者の味方であり、人権を守るための熱情がエネルギーだった。  反骨の精神は、八海事件の弁護活動に顕著だ。松川、徳島、仁保——挙げればきりがないほど、多くの冤罪事件に関わっておられる。  筆を措《お》こうとしていた今また、広島から通知があった。裁判長退官前の決定はむりで、後任に引き継ぐことになり、公判記録を検討する期間を考えれば、年内に出る可能性はないだろうとのこと。 ——官僚的裁判ト国民的裁判トノ間ニ優劣ノ差ナシト謂《い》フ能《あた》ハズ。孰《いず》レヲ基本トシテ之カ改善ヲ試ム可キヤハ刻下ノ重大問題ナリ。  再び大場博士の『陪審制度論』を思い出した。  由来刑事裁判制度ノ如何ハ国運ノ消長、民衆ノ休戚ニ関スルコト極メテ大ナリ……。  余ハ楚人ノ顰《ひそみ》ニ倣ツテ矛ト盾トヲツクモノニ非ズ。唯裁判制度ノ改善ノ為メ聊《いささ》カ材料ヲ提供スルノミ。 単行本 昭和六十一年十月文藝春秋刊 文春ウェブ文庫版 法  廷 弁護士たちの孤独な闘い 二〇〇〇年七月二十日 第一版 二〇〇一年七月二十日 第三版 著 者 伊佐千尋 発行人 堀江礼一 発行所 株式会社文藝春秋 東京都千代田区紀尾井町三─二三 郵便番号 一〇二─八〇〇八 電話 03─3265─1211 http://www.bunshunplaza.com (C) Chihiro Isa 2000 bb000707