TITLE : 検  屍 M・モンローのヘア 〈底 本〉文春文庫 昭和六十年九月二十五日刊 (C) Chihiro Isa 2000  〈お断り〉 本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。 また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉 本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。 目  次 MOON' SHINER 密造人 SCOTTSBORO BOYS 強姦少年 STARTLING FACTS M・モンローのヘア DEATH CERTIFICATE 死体検案書 あ と が き 章名をクリックするとその文章が表示されます。 検 屍  M・モンローのヘア MOON' SHINER 密 造 人  八島太郎出版記念パーティは、なかなかの盛会であった。昨年(一九七九)一一月下旬、ロスアンゼルス市内Oホテルのバンクィット・ルームに五〇〇人あまりの日系人がつめかけ、『あたらしい太陽』『水平線はまねく』『からすたろう』などの日本語版復刊を祝った。  カクテル・アワーが終わり、ディナー・テーブルに着くと、隣りあわせになったのが、トーマス・野口氏であった。交換した名刺の肩書きには、CHIEF MEDICAL EXAMINER・CORONER とあった。  この人の名を僕は以前に日本の雑誌や、ノーマン・メイラーの小説で読んだことがある。マリリン・モンロー、シャロン・テートなど美人女優の司法解剖を執刀したことでも有名だが、それより僕の興味をひいたのは、ロバート・ケネディ上院議員が暗殺されたときの“コロナーズ・インクェスト”(検視法廷で行なわれる死因調査)である。警察の捜査結果や、目撃者の証言とは異なる検視官所見を彼は堂々と発表している。  ダラスにおけるジョン・ケネディ大統領の検視には数々の疑惑が残されているが、その轍《てつ》を踏むまいとして、上院議員《セネター》が昏睡状態におちいってから死にいたるまでの二五時間、さらにはそれに続く検視までの沈着な判断と指揮、間然するところのない解剖 《オートプシー・》調書《プロトコル》のすばやい公表によって、ドクター・野口は一躍すぐれた法医学者としてその名を全米に知られた。 「検視官《コロナー》の地位って、アメリカでは随分高いんですよ」司会者の渡辺さんが教えてくれた、「警視総監と同格ぐらい。——」  ロスアンゼルス・カウンティ(郡)は全米でも最大の行政機構を持ち、その警察署長といえば、警視総監ぐらいの重みがある。検視官もそれに匹敵する地位と権限を持つ。そういう要職についたのは、日本人では野口氏がはじめてなのだそうだ。  野口氏をアメリカ生まれの二世、と僕も勘ちがいしていたうちの一人だが、彼は二五歳のときインターンとして渡米してそのまま市民権を得た一世である。 「三世、四世が成長して社会人となっている現在、二世という言葉はもう聞かれなくなりました。みなひっくるめて、“ニッケイ”というのですよ」  野口氏が笑いながら説明してくれた。  野口氏と知りあいになれて、僕はよかったと思った。法医学者・法律家としての彼から、後日おもしろい話が聞けそうだったからである。  さて、僕の渡米は二一年ぶりになる。随分ながらく御無沙汰していたものだが、僕の住んでいる沖縄がかつてアメリカみたいなものだったから、格段珍しいとも思わなかったのだろう。  最初の渡米は、一九五八年。  横浜市の代表として姉妹市サンディエゴを訪れ、そのあと国務省の招きをうけ、アメリカの主要都市をいくつかまわった。ワシントンのプレス・クラブでは、“中共問題”が討議されコメントを執拗に求められるまま、 「アメリカの中国承認は、好むと好まざるにかかわらず、時日の問題ではないのか」  と、答えて物議をかもしたことがある。当時はまだ、進歩的だといわれる記者連の頭も固く、反中国的雰囲気が濃厚であった。  翌朝、同行した神奈川新聞の川崎万博氏(現横浜市教育委員長)といっしょに国防総省《ペンタゴン》へ呼ばれ、情報将校らしい一中佐から、ほとんど午前中いっぱいを“尋問”された。 「あなたの父親はコミュニストだとの報  告《インフオアメーシヨン》が当オフィスに入っているが、その実名をあかしてほしい。なお、あなた自身は共産主義活動に関係ないのか」  といったようなものである。  先方はどうやら、僕の実父が八島太郎だと知らず、別人だと思っているらしかった。また、沖縄で戦死した養父伊佐善雄と混同しているふしも質問のあいだに窺えた。  個人的事情をいちいち説明するのも面倒くさく、答えてくれねば困るという先方の言い分も癪《しやく》にさわった。 「父の政治思想がなんであったのか、僕は知らない。なんであっても、僕に関係はない。あなたのオフィスが収集したという情報についても、僕が責任を負わねばならぬ謂《いわ》れはなく、そのためにこうして貴重な時間を浪費するのは迷惑だ」  しかし、これではホテル代まで支払ってアメリカを見物させてくれている招待主の“手代”に対して、あまりにそっけなく、木で鼻をくくったような返事だ。ことのついでに、しらばくれることにした。 「父が死んでから、もうながいことになる。生前、父がなにか、わるい事でも……?」  この答えに中佐殿はやっと安心したらしく、 「お父さんが故人だとは知りませんでした。どうも失礼——」  と何度も謝り、はじめて明るい顔をした。そして僕ひとりにばかり質問したのは具合がわるいと思ったのか、川崎さんにも不用意な質問を発した。 「あなたは共産主義のプリンシプルを支持なさいますか、なさいませんか?」  今までのやりとりをうんざりして聞いていた川崎さんはそれには答えず、逆に問い返した。 「私たちはあなたの国に招待されてやってきたものです。お国では、ゲストをいちいちこんな所に呼んで思想調査をするのが慣例ですか?」 “尋問”はそれでチョンとなった。  ランチには少し早い時間であったが、中佐に請《しよう》じ入れられたレストランで、僕はわざと一番高いワインを注文し、川崎さんと口直しの乾盃をした記憶がある。  この第一回の渡米中、川崎さんは僕にアメリカの父にぜひ会うようにと、最初から終わりまで勧めどおしであった。僕にその気がないとみるや、せめてこちらに来ていることだけでも知らせるべきだといわれた。  そのどちらも、僕はしなかった。  なぜ、そうしなかったか、明確な記憶がない。戦後、急に名乗り出た父に対して、写真以外顔をみたこともないのだから実父という実感に乏しいのは致し方なく、今さら“対面”というのもてれくさかった。  自分の父は、沖縄で戦死してしまったのだという心情には変わりなく、その間になにものをも介在させたくなかった。医者らしい、もの静かな義父のイメージが強く心の中に焼きついていたからだともいえる。  当時、僕は忙しかった。横浜に本社をおき、沖縄に小さな会社を設けてその経営に追われ、まだ幼かった四人の弟妹たちをいかに育てあげるかで、頭の中がいっぱいであった。彼らが学校を卒業し、社会人となるまで、僕に息つく暇はなかった。沖縄で別れた父との黙契がそれであり、その約束を果たすために、“もう一人の父”八島太郎に会っている心の余裕はなかった。  僕が実の父、八島太郎の存在を朧気《おぼろげ》ながら知りはじめたのは一九四三年、一三歳の頃である。  中学へ入学するとすぐ、僕は陸軍幼年学校へ受験させられた。させられた——というのは、祖父の意思によるものである。僕自身は軍人になりたいと思っていたわけではないが、陸幼の制服がカッコよかったことと、一高(東大教養学部の前身)よりも難関とされた入試にチャレンジしてみたい少年らしい気負いがあった。  合格発表は三月一〇日の陸軍記念日にあった。沖縄からは四、五年に一人しか通らないというその朗報を一番よろこんでいたのは、祖父と、学校長であったように記憶している。父は複雑な面持ちであり、母はなにか思いつめた表情であった。  合格発表があった二、三日後、那覇憲兵隊司令部から、こんどは私服ではなく、軍服の憲兵が長いサーベルをぶらさげて二人、再度の家庭調査にやってきた。そとで遊んでいた僕は奇異に思った。僕の身許調べだったら、合格通知が出される前にすんでいたはずだった。  憲兵は奥座敷で父と母と交互に話を続け、暗くなっても帰って行かなかった。時折、電燈もつけないその部屋で声が高くなり、母のうわずった声が尋常ではなかった。 「治安警察法第八条」 「プロレタリヤ美術家同盟」 「東京拘置所」  など、わけのわからぬ言葉が耳にはいってきた。しかし、それらが僕の陸幼行きとなんの関係があるのか、知るよしもなかった。  そして、その翌々日、合格通知があっさり取り消されたことを僕は知らされたのである。そのことについて、屈辱感のようなものは覚えたが、さしたる失望感はなく、むしろ、  ——軍人にならなくてもよい。  そんな安堵《あんど》の気持ちの方が先立ったように思う。その日は終日、ぼんやりと窓から空を眺めて過ごした。  ——父は、僕のほんとうの父ではないのかもしれない。  漠然とした、そんな思いを懐いたのはその時が最初である。だが、複雑そうなその事情について深く考えることはせず、そうすることは面倒くさかった。母に尋ねてみようとも思ったが、尋ねてはいけないことのような気がし、必要があれば話してくれるだろうと考えた。  父がほんとうの父でない——そう聞かされても、僕に心の動揺はなかったと思う。そのことによって自分の生活に変化は起こり得なかったし、自分が自分である限り、どちらでも構わないと思った。多くはものをいわないが、父は十分自分を愛してくれたし、健康な少年の心にそんなややこしい問題が入り込む余地はなかった。  一九四四年、中学三年に進む頃、米軍の沖縄上陸がささやかれはじめた。マリアナ諸島を屠《ほふ》った敵がサイパン島にも上陸、熾烈《しれつ》な攻撃を繰り返していたある日、父は動員先から僕を呼んで、母と幼い弟妹を守って母の郷里甲府へ疎開することを命じた。多くの医者が沖縄を逃げ出してゆく中で、父ひとりは踏みとどまる決心だったのである。あとで受け取った手紙を読むと、すでにこの時、戦死の覚悟を決めていたことがわかる。だが、そんな気振りは少しも見せず、 「すぐ後から行く」  と、短く言っただけである。  那覇港に見送りにきてくれた父との慌しい別れが、最後となってしまった。  父の戦死を知ったのは、戦後しばらく経ってからのことである。  一昨年、異母弟にあたる岩松マコが映画監督の篠田正浩さんに伴われ、わざわざ沖縄に僕を訪ねてきた。その時、アメリカの父が脳溢血で倒れたことを知った。二度目に東京で会ったときも、マコは僕の渡米を促し、是非とも、 「生きているうちに、会ってくれ」  と、珍しく彼にしては神妙な物言いをした。  パーティが始まる三時間ほど前、ホテルの一室で僕ははじめて実の父に会った。  しきりに涙を流す父の顔をみつめながら、画家である父の心は僕などよりずっと純なのだと思った。そして、車椅子に身をゆだね、不自由そうではあったが、元気な、血色のよい父の顔に僕はほっとした安堵を覚えていた。  来賓祝辞が終わると、祝賀会は『あたらしい太陽』をマコが演出、自演した舞台劇に移っていった。  真珠湾攻撃の翌々年、太平洋戦争のさなかニューヨークで出版された父のこの作品は、キャプションがついた自伝的画集である。NBCでは、一時間にわたって劇化され、東京の留置場のもようがなまなましく放送された。 「日米戦争を真に理解せんとするならば本書を読め」 「力強い白と黒の絵は、ヴァン・ゴッホの強烈で個性的な描写を思い起こさせる。物語を読むにつれて、組織を壊滅させようとする、集団的に強制された軍国主義に対して、まっこうから立ち向かう作者に感銘をうけた」  など、無数の書評が寄せられた。  父がなぜ日本を去らねばならなかったか、その間の事情について僕は知らない。戦後、アメリカ留学を勧めてきた父に対し、 「なぜ戦前のその運動を日本へ帰って続け、敗戦国日本の再建に努力しないのか?」  と、疑問を書き送ったことがある。 「君たちの時代と、僕たちの時代とでは比較にならないのだ」  返信にはただそれだけが述べられ、その問題について触れられていなかった。 「息子が自分を“転向者”と呼ぶことは耐えがたかった」  後年、袖井林二郎氏(法政大学教授)が父について記事を書くためにインタビューを求めたとき、そう語ったそうだが、袖井氏は次のように書いている。 「転向とは国家権力の圧力によって主義を捨てることである。八島太郎は青春を賭けたプロレタリア芸術運動を捨てたのではない。運動自体が弾圧で砕け散ってしまったのだ」  父との対面を果たしてから、僕もそう感じた。父は主義の人ではなく、もっと自由人だったのではなかろうか。ただ、画をかきたかったのだ。その邪魔をする人間と国家権力に怒りを覚え、反抗しただけのことだと思う。それが彼を“運動家”に仕立てあげ、“思想犯”の烙印《らくいん》を押される結果に導いたのである。  人のよさそうな父の横顔を眺めながら、僕は思った。僕が好まないのと同じく、父もまた“反戦画家”などと呼ばれるのをきらっていたのではないかと。  反戦画家は戦争が終われば、祖国へ帰ってその運動のファロー・スルーに努力したはずである。  マコの演出は、僕が生まれる以前から父を苦しめ続けてきた特高警察と、悲惨な拷問がくりひろげられた東京拘置所が舞台となっていた。  戦前の日本の警察の取り調べがいかに苛酷なものであったか、『冤罪《えんざい》の恐怖』(青地晨著・社会思想社)など無数の本が語るところである。  ある朝、土足のまま踏み込んだ刑事たちに枕を蹴とばされ、寝込みを襲われたいまわしい経験を母が語ってくれたことがある。理由も告げず、逮捕令状もなしにである。思想犯をしょっ引くのに、当時、令状などは必要なかった。  戦争中の言論弾圧事件として知られる、特高警察や思想検事がデッチあげた「横浜事件」に連座した青地晨氏の場合、逮捕された本人自身がなぜつかまったのか、横浜事件なるものがなぜ起こったのか、わからなかったといわれる。  逮捕された一日目、柔道場へ引き出され、柔道五段かの警官にさんざん投げとばされたうえ、もう一人のT警部補に樫の六尺棒が折れるほどなぐられた。倒れて動けなくなった氏の顔をその特高主任は足でふみにじり、「おまえはシャバでは地位があるかもしれぬが、ここでは虫けら同様と承知しておけ」とののしった、「おまえは非国民だ。天皇陛下に楯《たて》をつく不忠不義の男だ。おまえのような男は殺しても飽きたらぬ。殺してやる。殺してもよいとの許可がおりている」  それが事件をフレーム・アップ(でっちあげ)するための自白強要の第一歩であった。  父も青地氏と同じく、逮捕されて警察署に入るやいなや、野球バットでいきなりなぐり倒され、失神した。はてしない拘留が始まり、言語に絶する拷問が続く。 「日本を逃げ出さねば、殺されると思った」  父の述懐は現実に起こり得ることであった。 「彼が日本を脱出したときは、特高がとうとう取り逃がしたと口惜しがっていましたよ」  神戸にいた父の友人、中沢啓作氏はそう回顧する。  このような逮捕、訊問が戦前においても違法であったことはいうまでもない。 「日本臣民ハ法律ニ依ルニ非スシテ逮捕監禁審問処罰ヲ受クルコトナシ」  大日本帝国憲法第二三条には、そううたってあったはずだ。  だが警察は、治安維持法のほか行政検束という違法な手段まで用いた。行政執行法一条の規定によれば、警察は泥酔者、瘋癲《ふうてん》者、自殺を企つる者、その他救護を要すると認むる者に対し、必要なる検束——つまり、警察へ連行して留置することができた。ただし、これらの条件に当てはまる者をである。そしてその検束には「翌日ノ日没後ニ至ルコトヲ得ス」という但し書がついていた。  にもかかわらず、警察はこの法律の規定を無視し、悪用した。逮捕するのに理由がなくても、思想犯の容疑者など、ひっくくりたい者を勝手に留置し、取り調べた。前記検束期間も翌日の日没までが規定であるのに、長いものでは六カ月、あるいは一年間にも及んだという。  一日しか許されない検束を継続させるため、最初は身柄を翌日他の警察署へ移すなどの方法がとられていたようだが、のち放免と称していったん留置場から出し、書類の手続きを新しくしてまた留置場にぶち込むという方法になった。ついにはこれも面倒くさくなり、手続きが簡略化され、放免ともいわず、また留置場から出場させることもなく、そのまま書類だけを新しく作成するという方法に変わった。  この行政検束に名をかりる違法捜査が、官憲が望むような事件のデッチあげの場を与え、自白を得るのに必要な期間の監禁を許し、拷問につながっていったのは、国民にとって恐るべき事態であった。  裁判まで生きながらえることができず、不幸にして果てた人も数多い。虚偽の自白を強要する警察の水責め、逆さ吊り、えび責めなどの凄惨《せいさん》な拷問にたえきれず、横浜事件の被疑者たちは三人が獄中で死亡、五人が出獄後に死んでいる。  殺された——といった方が正確であろう。  小林多喜二の死も拷問によるものであったことは、あまりにも有名だ。屍体には、言語に絶するその痕跡が歴然とし、大腿部《だいたいぶ》に焼け火箸を突き剌された話など、聞くだに慄然とする。父は岡本唐貴氏を誘って小林家へおもむき、通夜の席で千田是也氏に促され、泣く泣く多喜二の死顔をスケッチしたのだそうだ。 「あの時代は、ひどかったね」  マコの舞台に、当時を思い出したのか、父が目を閉じたまま言った。 「今の世の中は、僕たちが生きていた時代とは比較にならないほど、平和だし、民主化されている。あのような恐ろしい警察が姿を消しただけでもほっとする。君たちはよい時代に生まれあわせたね」  戦後、手紙に書いてきたことと同じことを、父はしんみりといった。  その言葉をききながら、僕は半分はうなずき、半分は首をかしげていた。  はたして、そうだろうか? “恐ろしい警察”は姿を消しただろうか?  日本は真に民主化されただろうか?  戦後、日本は民主国家に生まれ変わった。司法の改革はまず司法の民主化にありと、新憲法は公務員による拷問を絶対に禁じ、戦前には認められていなかった黙秘権を規定した。三八条一項、  ——何人も、自己に不利益な供述を強要されない。  がそれであり、同二項、三項は、  ——強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。  ——何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。  と、自白の証拠能力および証明力を制限し、証拠が本人の自白しかない場合には、これまた有罪とすることができないと規定している。  しかしながら、被疑者・被告人の基本的人権の保障がこのように明確に成文化されているにもかかわらず、その適用を否定した判例が多いのはなぜであろうか。  ——黙秘権告知の手続きを怠ったとしても憲法三七条一項、同三八条一項に反しない。  ——勾留手続きに違法があっても公訴提起は無効にならない。  帝銀事件を例にとれば、別件逮捕が違法ではないと判決をくだし、しかも三九日間、連続約五〇回にわたる苛酷な取り調べが、  ——直ちに不利益な供述を強要したことにはならない。  さきに記した憲法の規定に反しないというのである。  別件逮捕が合法的であるとした判決は、これが最初である。本件について逮捕するだけの証拠がないから、とりあえず別件で逮捕、身柄を拘束しておき、インコミュニカードー(外界から遮断し、家族や友人との面会も許さない)の状態に被疑者をおく。弁護人との接見交通を妨害し、孤立無援にして恐怖心をつのらせる。あるいは時には甘言でつり、わるいようにはしないからなどと虚偽の自白に署名させ、取調官が望むところの証拠をつくり出す。別件逮捕の目的はそこにある。戦前の行政検束の便宜性を忘れかねた、戦後の後遺症的便法が別件逮捕であり、旧刑訴時代の脱法的捜査方法と軌を一にする卑劣な手段だ。しかも裁判所は、身柄拘束の違法性と自白の任意性を区別して、逮捕・勾留が違法というだけで、自白に任意性がないとは言えないと判示している。  このような違法な手段によって得られた自白の許容性が否定されることなく、有罪の決め手となって罷《まか》り通るから冤罪事件が絶えないのである。裁判所が違法収集証拠の許容性を認めてしまうから、捜査官憲が手段を選ばず、憲法の規定を無視して、被疑者の人権を侵害してもなんとも思わず、ひたすら自白を得ることにのみ熱中するのではないか。戦前のようなひどい拷問は行なわれないにしても、手を変え品を変え新手の、あるいは古いままの肉体的・心理的強制が行なわれているのは明らかである。自白は依然として“証拠の女王”であり、それさえあれば有罪に持ち込めるという不思議な日本の“裁判事情”が、捜査官憲をしてはやらしめる。違法に収集されたものであっても、証拠物体自体の性質や形状に変異を来すものではないから、その価値が変わるわけではなく、収集手続きにおける瑕疵《かし》の有無とは関係なく証拠物の証拠能力は認められるべきであるとする判例がさらに拍車をかけている。  青地氏を苦しめたT警部補や、父をバットでなぐり倒した警官たちは死んでからすでに久しい。しかし、彼らは今の世にもまだいるのである。  財田川、免田、松山事件など、無数の冤罪事件がなによりもその事実をもの語っている。  渡米したついでに、僕は妻に少しアメリカを案内しておきたいと思った。香港や台湾は一緒に何度も旅行しているが、“失業者”となった貧苦をひしひしと感じる昨今、彼女をどこにも連れていっていないし、その面でのサービスを怠っている。  ロスアンゼルスのダウン・タウンで、アラバマ州ハンツビル市までの切符を買ったとき、"Have a good time in Alabama!"  航空会社の美人クラークが笑いながら言ったものだ。「よい旅行を——」という挨拶だが、どうしてそんな片田舎に、物好きな——といった揶揄《やゆ》の響きがある。日本人の観光客や一般旅行者があまり立ち寄らぬ辺鄙《へんぴ》な地らしい。とすれば、こちらの望むところ、アメリカ人の本当の姿や生活は、ロスのような都会には反映されていない。  一一月下旬のある朝、僕たちはLA空港を飛び立った。  お世話になったロスのみなさんには申し訳ないが、飛行機が離陸し、ロスの町をあとにしたとき、僕たち二人はほっとしていた。町の汚さもさることながら、一流といわれるOホテル周辺など、目つきのわるい無頼の徒や、一カ月も風呂に入っていないようなうす汚いのがうろうろしていて、日中でも安心して歩けない治安のわるさに閉口していたからである。そんな連中が部屋の中まで押し入り、ホテルでの強盗の被害が続出していた。ホテルの従業員が手引きをする例もあると、ある旅行社のパンフレットは注意を促している。妻がみせてくれた邦字新聞には、次のような記事が載っていた。 ——市内一流ホテルで日本人の婦人客が自分の部屋を捜していると、メイドらしき女性が二人手伝ってくれ、鍵でドアまで開けてくれた。この一見メイド風の女たちが変身したのは、ドアが閉って中から錠がおりたときだった。浴室に客を叩き込み、現金を強奪したのはいうまでもない。  この記事が、さらに僕の注意をひいたのは次のような指摘である。 ——現金の盗難は、連日のように起こっている。最近これら常習犯の手口が大胆になってきているのも事実のようだ。原因は、警察が犯人を逮捕しても、被害者が証人に立てないので保釈金を積むだけで悠々と出てくる。もちろん裁判では“無罪”だ。  この新聞の論調では、犯人を有罪にもってゆけないのは、訴訟手続きの“構造的な欠陥”だと非難しているわけだが、それは少々皮相的な見方だと思う。アメリカにおいては、逮捕の意味も異なり、起訴前に保釈を認めるリーガル・システムは日本のそれよりはるかに勝れている。 ——大金を持ち歩く日本人旅行者が狙われるのは当然だし、不注意というものだが、盗られた人は犯罪を助長し、後進にまで迷惑をかけたのだから、一律に五〇〇ドルぐらいの罰金を徴集してその金をプール、対策費にあてたらよい。  そのような社説だったが、それも無茶というものだろう。強盗にあい、それだけでも災難なのに、罰金までとられては“泣きっ面に蜂”だ。  さいわい僕たち夫婦は大金も持たず、泥棒にもあわなかったが、ロスの町の印象がよかったとは言い難い。町そのものよりも、そこで出会った日本人になんとも奇妙な人種が多いのである。  一世は年老いても、純真だ。日本でよい思いをしてきた二世たちは、アメリカでは威張ることもできず、ドル安のせいか妙に元気がない。  三世・四世はアメリカ人になりきって、ごく自然に生活の中に溶け込んでいる。  この人たちとはちがって、同じ日本人ながら違和感をおぼえるのが“一流”商社マンらしい気取った背広姿、日本の三流大学にも入れない“遊学”の徒、ホテルやレストランで傍若無人に大声をあげるジーパン・カップルズなどである。  彼らが“リジェクツ”と呼ばれるのもむべなるかなである。rejects は“拒絶されたもの、不合格品”という意味だが、日本で拒絶され、アメリカでも不合格品、ということになろうか。一流商社マンをリジェクツと同等視するアメリカ人の目もおもしろい。  こうした日本人に比して、地元のアメリカ人はなんと親切で、生活がつましく、豊かなことか。  ロスで開業するミシュードという若いハーバード出の弁護士を紹介されたが、多忙な時間をさいて何度も僕に会ってくれ、素人の発する質問に根気よく、丁寧に答えてくれた。「ローリー」という有名なレストランで一緒に食事したが、日本では一万円はゆうにとる最上等なプライム・リブが二、六〇〇円、厳選されたハウス・ワインが一本三、〇〇〇円もしないのは羨《うらや》ましいかぎりであった。飛行場にミシュードがわざわざ見送りにきてくれたのには感激した。「ローリー」に僕はパイプを忘れていたのだが、ホテルから十数分もかかる所だし、あきらめていた。ミシュードはそれをとどけてくれ、僕に二冊の本を贈ってくれた。  一つは『刑事関係憲法基本判例集』  他は、『ギデオンのトランペット』という小説であった。「ギデオン事件」を素材にした裁判ものにちがいない。  ロス郊外の散文的な町並はしばらく続いていたが、機は間もなく山岳地帯の上空にさしかかった。けし粒のような人家が疎《まば》らに散在し、山にはだんだん緑がみられなくなった。  三十分もたった頃だろうか、窓側の席から飽きもせずに外の景色を眺めていた妻が袖を引っ張るので窓外に目をやる。はじめての渡米ではないので、さして目をみはるような光景にはぶつからないのだが、これはまた、なんと荒涼とした、殺伐たる地表の眺めであろうか。行けども行けども山また山、そして見渡すかぎりはるか地平の果てまで赤ちゃけた砂の荒野が連なっている。樹木一本、人家一軒もみえない。砂漠に生物はいるはずだが、生きとし生けるものがすべて死に絶えてしまったような静寂が、機上にいてさえ伝わってくる無気味さである。  ——「死の谷」もこんな所だったのかしら?  感にたえたように、妻がつぶやいた。  ジョエル・マクリー、ヴァジニヤ・メイヨ共演の西部劇往年の名作だが、インディアンの伝説に、人が近付けば生きては出られないというその谷も、あるいはこんな所が舞台だったのかもしれない。みれば眼下に、一条の河らしい太い線が砂漠を横切っていた。  平原をゆったりと流れるそれではなく、深く地に刻み込まれ、両岸が絶壁のようにそそり立つ峻竦《しゆんしよう》な、底を流れる水がまったく目にはいらない不思議な河であった。あとで聞いたのだが、深さが六〇〇フィートもあるクレバスなのだそうだ。  氷河のようにすべてが動きをとめ、むっつりした不機嫌な自然の姿がそこにはあった。美しい自然を破壊し、神を怖れぬ人間《じんかん》を怒っているような、厳しい表情を読みとったのは、僕の思い過ごしであったろうか。  ふと、目をあげると、平原のかなたに小さな龍巻きのような砂塵が地をはい、吹き荒れるのがみえた。機上からその激しさは知るべくもなかったが、僕はようやくこの死の静寂の世界に、生物ではないにせよ、なにか動くものをみつけ、ほっとしたような気持ちになっていた。  午後三時、ハンツビル着。  ロスを八時にたち、時差は二時間だから、五時間近くの飛行だったわけである。  飛行場には、ボーデン夫妻が出迎えてくれていた。市内のどこかのホテルに旅装をとこうとする僕たちに、夫妻はそうさせてくれなかった。  主人のホリスは一四年前——一九六五年、サイゴンの市内で知り合って以来の友人である。ヴェトナム戦で活躍したグリーン・ベレー部隊の陸軍大佐であった彼は今では退役し、夫人のエロイーズは新聞社に勤めるもの静かな、知的な婦人である。マジソン・カウンティの閑静な住宅地に八〇坪はある大きな家を買い、二人だけで住んでいた。  ロスアンゼルスで面会を予定していたドクター・野口が急用で東京へ飛んでしまい、帰ってくるまでの一〇日間を僕たちはメキシコやユカタンでマヤ・アステカの遺蹟を見物して過ごすつもりでいた。だが、シーズンとあって今年の一月末までは飛行機もホテルもいっぱいだと知り、がっかりした。そして困ったあげくのアラバマ行である。  そんな僕たちのために夫妻はわざわざ休暇をとり、南部各州の案内役をかって出てくれた。  リブ・セラーという古い南部の雰囲気が残る風格あるレストランで、すばらしく味のよいワインとディナーの接待をうけ、伝統的なサウザーン・ホスピタリティーに僕も妻もしごく満悦であった。  その夜は遅くまで昔話に花を咲かせ、はじめてアメリカへ来たという実感を味わった。妻のよろこぶ顔をみて、僕はアラバマへきてよかったと思った。  翌朝、近くのレストランでブランチをとったが、うまそうなキャット・フィッシュのフライにワインを注文すると、ウェイトレスが奇妙な顔をする。 「このカウンティ(郡)は、ドライなんだよ」  ホリスが注意した。  昨夜ご馳走になったリブ・セラーはすぐ近くなのにと首を傾《かし》げると、あそこは隣りのカウンティに属し、ウェットなのだそうだ。アラバマ州六四郡のうち、半分はウェット——酒類の販売、あるいはレストランにおける提供を許し、他はドライ——認めていないという。  帰途、ホリスは郡境にあるリカー・ストアに案内してくれた。原っぱの中にぽつんと建てられた殺風景な店だが、隣接するカウンティはドライなので、けっこう多くの顧客があちこちからやってくる。郡境を一歩越えれば、そこでは酒類は一切、ビールすらも買えない。ここで買っていったものを車の中や、自宅で飲むのはかまわないのだそうだ。僕はスコッチとワインを数本求めた。値段は日本のようにバカ高くなく、良心的だ。 「それでも、“ブーツレガー”がはびこるんだ」  ブーツレガー(bootlegger)もラムラナー(rumrunner)も酒の密輸を意味する古い言葉だ。ブーツをひきずるようにして、あたりを憚《はばか》りつつ闇を働くから、その名が生まれたのだろうか。密造酒の闇、それも陸上の商売のみに限るのだが、これに対し、イギリスあたりから昔、ラムなどを密輸していた海上のスマグラーたちをラムラナーと呼んだらしい。そういえば、「ラムの大通り」というリノ・ヴァンチュラ、ブリジッド・バルドー共演のおもしろい映画があった。  日本で闇屋が活躍したのは、終戦後数年だったが、ここアラバマではブーツレガーやラムラナーたちが現在も健在だと聞き、びっくりした。カウンティによって条令がちがえば、彼らがアクティブになる必要性も出てくるわけだ。 「ムーンシャインはお隣のテネシーじゃあ、まだ盛んなんだ」  ホリスが説明した。 「でも、リカー・ストアで買った方が安あがりじゃないのかな」 「ムーンシャインは二〇〇年前からのアメリカの伝統なのさ。誰かが造り続けなければ、造り方も忘れられてしまう。“郷土芸術”は保存されねば……」  闇屋という言葉が味もそっけもないのに、酒の密造者のことをムーンシャイナーとはなんと風流な。月の光をあびてせっせと稼ぐからその名が生まれたのだろう。 「だから、テネシーはムーンシャイン・カントリーと呼ばれる。チャタヌーガなんか、特にそれで有名だよ」 「チャタヌーガ?」  その地名を、僕は以前、どこかで聞いた覚えがある。沖縄の方言で「チャサヌーガ」といえば、「それはいくらの物か」という意味だが、いくらムーンシャインが盛んだからといっても、まさか沖縄の方言までがこんな遠くに輸入されてくるわけはない。どこでこのインディアンのような地名を聞いたものか、僕はしきりに思い出そうとしていた。 「フランキー・レインの歌じゃない?」妻もいっしょに考えてくれていた、「いつか彼が沖縄へきたことがあるでしょう。あのとき、クラブで歌ったのが確か、『チャタヌーガ・チューチュートゥレーン』よ」  フランキー・レインがテレビの人気番組「ローハイド」を歌って有名なのは知っているが、僕が知っているのはそれだけで、チャタヌーガなんとかという曲など記憶にはない。歌謡曲ぎらいの僕がそのような曲名を覚えているわけはないし、その地名はもっと別のところ、別の関連で記憶に残っているにちがいない。  人名などを思い出そうとするとき、“アソシエーション”という方法がある。なにかと関連させて考えてゆくと、ふとその名が口をついて出てくることがある。  ムーンシャインというおもしろい言葉が、しばらくして僕にその地名との関連を思い出させた。 「なんだ、『マクナブ事件』のあったところじゃないか!」  僕はおどろいた。あの有名な殺人事件の起きた場所が、はからずも訪ねてきた友人の住むハンツビルから、さして遠い距離ではないアラバマ・テネシーの州境近くにあったとは——。 「一〇〇マイルちょっとですから、今日の午後にでもいらっしゃりたければ、夕方までには帰ってこられますよ」  マクナブ事件について、ボーデン夫妻はなにも知らなかったが、夫人が親切にそう言ってくれた。 「ムーンシャイン・カントリーヘのドライブもわるくないよ。テネシーの流れや谷が壮大な眺めだし、チャタヌーガのルックアウト・マウンテンからは周囲の州が一眸《いちぼう》のうちにおさめられる。天下の絶景だよ」  ホリスも乗り気だった。  ブランチのあと、これからの日程を立てたいと思っていた僕たちにとって、これは願ってもないスタートであった。この事件発生の地が近くにあると知っていたら、わざわざその目的をもってハンツビルを訪ねていたかもしれないほどだ。古い事件ではあるが僕は今も興味を抱いているし、アメリカ最高裁まで争われ、マクナブ・ルールとして歴史的な意義を持つ名判決が強く記憶に残っていた。  十数分ののち、僕たち四人は、冬枯れの雑木林と果てしなく続く綿畑を突っ切って、一路州境に向かって車を走らせていた。  さみしい、暗い冬の野の景色を、摘み残された綿の白さがひきたて、その上をいつの間にか降り出した粉雪の乱舞が奇妙に明るいものにしていた。  マクナブ事件は、今から三九年の昔にさかのぼる。  一九四〇年七月三一日水曜日の午後、チャタヌーガ酒税事務所に一片の情報が舞い込んだ。マクナブ一家《フアミリー》のメンバー数名がその夜、密造酒の売却を計画しているというのである。  マクナブ一家は、テネシー山岳地帯に住む一族で、チャタヌーガから約一二マイルほど離れたさみしい場所に“マクナブ・セトルメント”として知られる村落をつくり、そこに定住していた。  密造酒の闇取り引きの現場で、ムーンシャイナーたちを逮捕せんものと、計画がねられた。  夜になってから、四人の密輸入監視係り酒税官は政府に働く密告者《インフオーマー》たちに伴われ、マクナブ村落に車を走らせた。そしてマクナブ一家との取り引きの約束《ランデブー》の場所に近づいたとき、酒税官たちだけが車をおりた。一方、密告者たちはそのまま進み、マクナブ一家の五人の若者たちに会った。このうち三人——双子の兄弟フリーマンとレイモンド、その従兄弟ベンジャミン——がこの事件の当事者である。エミュールとバーニーの二人だけは免訴になった。  一緒になったこの二組のグループは、酒が隠してあるマクナブ一家の墓地近くまで車を進めた。ウィスキーがいれてあるカンを車積みの最中、一人の密告者が隠れていた酒税官たちにかねてしめし合わせていた通り、電燈でシグナルを送った。  酒税官たちは走って現場にやってきた。一人が大声でさけんだ。 「おまえたち、観念しろ、連邦酒税官だ!」  マクナブ一家の若者たちは一目散に逃げ散った。  酒税官たちはマクナブ・ボーイたちを追跡せず、そこでかたっぱしからウィスキーをカンからこぼしはじめた。そのとき、彼らは墓地の方角から、物音を聞き、しばらくすると、大きな石が足もとにころがってきた。リーパーという名の酒税官が墓地の中に走っていった。彼はフラッシュライトで周囲を見まわしたが、なにも発見できなかった。ウィスキーのカンがそこに二つばかりあるのに気付き、彼はそれを空にしようとした。  しばらくして、ほかの酒税官たちは一発の銃声を聞いた。墓地の中に走って行くと、そこにリーパーが倒れていたのである。致命傷を負っていた。数分後——ちょうど一〇時頃、加害者が誰であったか同僚に告げることなく、リーパーは息をひきとった。  第二弾が、闇の中からとんできた。もう一人の酒税官がそれに当たり、軽傷を負った。  直ちに墓地内を捜索したが、無益に終わり、手がかりはついになにも掴むことができないまま、彼らは現場を去った。  約三、四時間後——木曜日午前一時から二時の間——連邦保安官たちはフリーマン、レイモンド、エミュールの家にそれぞれ赴き、その場で三人を逮捕した。  フリーマンとレイモンドは二五歳であった。二人ともそれまでをずっとマクナブ村落内に過ごし、いずれも小学校四年までの教育しかうけていない。村落から二一マイル離れたジャスパーの町より遠くに出たこともない。  エミュールは二二歳であった。彼もまた、それまでの生活をマクナブ村落外に出てしたことがない。そして小学校は二年でやめてしまっている。  逮捕にひきつづき、フリーマン、レイモンド、エミュールの三人は直ちにチャタヌーガにある連邦保安局に連行された。予備審問(後述)のため、勾留裁判官のところへは引致されていない。留置場にぶち込まれたままであった。その部屋には床以外、坐るところも寝る場所もなかった。彼らはそこに、約一四時間——木曜日早暁三時から午後五時まで——身柄を拘束されていた。  食物は、サンドイッチを与えられた。しかし面会にきた近親や友人に会うことは許されなかった。  三人に弁護士はついていなかった。その選任を求めたか、あるいはその権利について告知が行なわれたか否かについて、証拠は残っていない。  バーニー・マクナブは、木曜日の朝早く地元の警察に逮捕されている。連邦保安局に身柄を移されたのは午前九時か一〇時頃であった。  彼は二八歳だが、他のマクナブ青年たちと同じく、村落の外に出て生活したことがない。ジャスパー以遠に出かけたこともない。小学校は三年まで。  バーニーだけは連邦保安局で別室に入れられ、短い時間取り調べをうけた。すぐ殺人現場へ連れて行かれ、再び局にもどり、約一時間ほど尋問された。その後ようやく、三ブロック離れたところにある郡 《カウンテイ》の留置場に身柄を移された。  この間、捜査の指揮はケンタッキー州ロイスビル酒税取締本部から派遣された地方監督官H・B・テーラーによってとられた。  彼はマクナブ供述の許容性が論議されたときの、政府(検察)側からの主な証人である。  木躍日の早朝チャタヌーガに到着したテーラーは、逮捕されたマクナブ青年たちの尋問にかかるまえ、その日一日を事件の調査に費やした。  フリーマン、レイモンド、エミュールは木曜日午後五時頃いったん郡の留置場へ入れられたが、またその夜、連邦保安局の方に連れもどされた。  テーラーによれば、三人に対する彼の尋問は午後九時に始まった。パークという警官は、尋問開始は午後六時だったと、異なる証言をしている。  尋問は六人の取調官の立ち会いのもとになされたが、主としてテーラーが行なった。この間、マクナブたちの近親、友人または弁護士がそばにいたことはない。  テーラーは三人を尋問するまえ、ひとりひとりに、 「自分たちが取調官であること、なにを取り調べているのかを伝え、彼らが供述したくなければしなくてもよいこと、暴力を怖れる必要のないこと、どの供述も自分に対して(不利益に)使われるかもしれないこと、そしてどの尋問に対しても答えたくなければ、答える必要がないこと——以上を告知した」  と、述べた。  三人は別々に、あるいは一緒に取り調べをうけた。いろいろな時刻に、ときには三〇分、一時間、また二時間ぐらい続くこともあった。テーラーの証言では、この日の尋問は翌朝午前一時まで続き、それから被疑者はカウンティ・ジェイル(郡留置場)に連れもどされた。他の警官たちは、尋問はその夜のうち午後一〇時に終わったともいい、一一時だったという証言もある。尋問が三時間以内であったとする取調官は一人もいない。  金曜日の朝、尋問再開。たぶん九時から一〇時の間であったろう。 「被疑者たちは、留置場から数回にわたって連れてこられた。何回であったか覚えていない。一人ずつ尋問し、終わると送りかえした。それぞれが供述した事実が一致するよう、各供述を連繋《れんけい》させた。そしてその後、二人一緒に尋問した。一度は五人全員を一緒にし、みんなの供述が一致するようにしたことがあったと思う。  私が事実を知ったとき、被告人(被疑者)たちにそのことを告げた。私は彼らを、嘘つき野郎め、などとののしったことはないが、嘘をついている、と言ったことはある。  二日間にわたる取り調べ中、私が自分の手でどんなモーションをしたか、いちいち述べることは不可能だろう。私は誰も脅迫したことはない。  取調官たちは、被告人に対して偏見を抱いていたものはいない。またひどい仕打ちをしたこともない。私たちはただ、誰がわれわれの同僚を殺したのか、それを知ろうとしていただけだ」  この日の尋問のもようをテーラーが法廷で証言したものだが、他の取調官は尋問開始の時刻について、 「九時過ぎだった」 「一〇時から一一時の間だった」  と、証言が撞着《どうちやく》し、テーラー自身は、 「マクナブたちが連れてこられたのは、金曜日の朝、九時か九時半だった」  と、述べている。  この事件の訴願者の三人目であるベンジャミン・マクナブは、酒税事務所に自ら進んで出頭した。金曜日の午前八時か九時頃であった。  ベンジャミンは二〇歳になり、逮捕歴はない。マクナブ村落にずっと生活し、小学校四年までしか学校に行かなかったというのも、他の青年たちと同様である。  彼は取調官に、警察が彼をさがしているという話を聞いたが、事件には全く無関係だ、と述べた。  取調官はベンジャミンに数分の間着衣をぬがせた。その理由を彼は次のように証言した。 「彼らはオレをみたがった。それでオレはすっかりおびえちまったんだ」  次は、テーラーの証言。 「森の中を走ってゆくとき、ベンジャミンが怪我を負ったとか、流れ弾に当たったとか聞かされていた。それが本当かどうかわれわれは知らなかった。体を調べればわかると思い、彼に着衣をとるよう頼んだ」  ベンジャミンは合衆国コミッショナー、または勾留裁判官のもとへ引致されなかった。その代わり、取調官たちが約五、六時間にわたって尋問した。  そしてついに、午後になってほかの被疑者たちがベンジャミンが二発とも射ったのだと訴えているとの供述を突きつけられたとき、ベンジャミンがいった。 「あいつらがそんなことを言ってオレに罪をきせるんだったら、オレも全部本当のことをいおう。鉛筆と紙をとって、書いたって構わないよ」  彼はそれから、最初の弾は彼が発砲したと白状し、第二弾は自分ではないと否認した。 「被疑者たちの話のくいちがい《デイスクレパンシーズ》を正したいものと、われわれは気を遣った」  その目的のため、被疑者たちはまた留置場から連邦保安局の建物に連行されてきた。金曜日の夜、九時から一〇時の間である。尋問が重ねられた。被疑者たちを個々にわけることもあり、一緒にすることもあった。  テーラーは次のように証言している。 「二日目の夜(金曜)、われわれはフリーマン・マクナブを約三時間半ほど尋問した。何時頃であったかは記憶しないが、なにも引き出すことができないほど、彼の口が固かったのを特によく覚えている。まえに嘘をいったと認めてはまた、同じことを再び繰り返した。  真実のある部分については、自分も知っているし、そのことを彼に認めさせるのに苦労した。そしてついに、それまでの話よりずっとよく有形的事実や状況に適合するストーリーを彼の口から語らせ、真実だと認めさせた。満足すべき供述をうるのに三時間半もかかったわけだが、捜査を開始したときよりもそれでずっと真実に近づいたものと信じている」  被疑者たちの取り調べは、土曜日午前二時頃まで続けられた。ようやくのこと、取調官たちは、 「供述間のくいちがい《デイスクレパンシーズ》を全部、正すことができた」  のである。  ベンジャミンは、彼が最初の弾しか射たなかったとの供述を最後まで変えなかった。  フリーマンとレイモンドは、その発砲のとき居合わせたことを認めたものの、二人がベンジャミンに打てとせきたてたのだという非難に対しては、否認した。  バーニーとエミュールは、自己を罪におとしいれる自白をついにしなかったわけである。  五人のマクナブ青年たちは、第二級殺人罪をもってテネシー州東地区地方裁判所に起訴された。  バーニーとエミュールの二人が免訴になったのは先述したが、フリーマン、レイモンド、ベンジャミンの三人は有罪となり、それぞれ四五年の懲役刑を宣告される。  同じく控訴審においても、第六巡回控訴院は一審判決を確認した。  アラバマ・ジョージアの州境を越え、一〇分も行かないうちに今度は、ジョージア・テネシーの境界にかかる。 “ザ・グレート・ステート テネシーへ ようこそ”  大きな看板が愛想よくわれわれを迎え、いよいよムーンシャイン・カントリーに入る。ハンツビルから約二時間、一〇五マイルの道程である。  チャタヌーガはもう目前だが、町の入り口にあるロック・シティのルックアウト・マウンテンに登ることにする。急坂をしばらく行くと、やがて視界がひらけ、山頂に達する。  車外へ出ると、雪はすでにやんでいたが、風が肌をさすように冷たい。オーバーの襟を立てて、思わず身震いする。寒いわけだ、氷点下四度。体を絶えず動かしていないと、凍えてしまいそうだ。沖縄では、冷えるといっても摂氏一〇度以下にさがることは少ない。  見晴らし台からの眺めは、その寒さも忘れてしまうほど、すばらしいものであった。絶景とはまさにこのことだろう。ホリスがいった通り、北から南へ七州——テネシー、ケンタッキー、ヴァジニア、ノース・カロライナ、サウス・カロライナ、ジョージア、アラバマ——が、一眸のうちにおさめられ、壮大なパノラマがひろがっていた。  ケンタッキーの重畳する山脈《やまなみ》、続くカロライナ両州のはてしない野山、大海の背のように波うつジョージアとアラバマの丘陵——それらは、いずれも息をのむように美しい画であった。  雪空でさえなければ、もっと遠くまで、はっきり展望できたはずだが、それでも妻は望遠鏡に指先が凍りつくまで、飽かずにコインを入れ続けていた。眼下は、ルックアウト・マウンテンの名の通り、目もくらむような断崖絶壁。  帰りに立ち寄ったスーベニア・ショップで僕は思わず吹き出してしまった。みやげ品までウィスキーの蒸留装置を模した大小さまざまな“ムーンシャイン”が店内狭しとばかりいっぱい並んでいたからである。  チャタヌーガは思ったより、大きな町であった。僕たちは、ダウン・タウンには立ち寄らず、すぐジャスパーに向かって出発した。ホリスは、僕の興味がマクナブ・セトルメントにしかないことを知っていた。山の中にあったという一家のその群落は、四〇年後の現在、はたして残っているかどうか疑問だが、ともかく跡だけでも見ておきたかった。チャタヌーガから一二マイルの距離にあり、その東さらに二一マイル行ったところがジャスパーだ。五人のマクナブ青年たちは、事件当時まで、この二つの町より外に出たことがない。  町はずれのガソリン・スタンドで給油中、支配人らしい中年の男に、 「マクナブ・セトルメントはどこですか?」  と聞いてみたが、 「知らない」  と答えた。 「マクナブ事件を覚えていますか?」  の問いにも、彼は黙って首を横にふるばかり、四〇年前の事件を記憶している人は少ないのだろう。  町を出ると、道幅がぐっと狭くなり、まもなく“テネシー・ヴァーリー”にさしかかる。この大河の流域には、その標識のある谷間が随所にあり、壮大な自然美を展開する。左手にのしかかるような大山が巍々《ぎぎ》として迫り、右手にはテネシー河が滾々《こんこん》と流れて行く。  人家はあまり見かけず、道路わきに雑貨屋らしい小さな店が二、三軒、ところどころにかたまっているだけだ。村落のようなものは見あたらない。  なるほど、ここは酒の密造には格好の地理的条件を備えていると思った。人里はなれた山中だが、このビジネスの第一条件たる水の供給にはこと欠かないし、大がかりな蒸留装置をセットしても人目にはふれにくい。テネシーがムーンシャイン・カントリーといわれるのも偶然ではなさそうだ。  道は河沿いにゆるやかなカーブを画いて平坦にのび、河と別れて彎曲《わんきよく》しつつ、また河に合して、勾配も緩急定まらない。  道が山あいに入り込んだところで、ホリスが今きた道を引き返そうと提案した。チャタヌーガからもう一八マイルもきてしまっている。一二マイルの地点にもどって、付近を尋ねてみるより仕方ない。  しばらく行って道端の雑貨屋で車をとめ、そこの主人にきいてみる。 「このあたりに、マクナブ・セトルメントというのがありますか?」 「セトルメントか何かは知んねえけれど、この先はみな“マクナブ・カントリー”だよ」  主人が前方にみえる二、三軒の家を指していった。 「あの家もマクナブ姓、その隣も、向かいの家もみなマクナブだ。あそこへ行ってきいてみな」  主人の言葉に南部訛《なまり》があってもおかしくはないが、今まで聞いたことのない奇妙なアクセントがあった。車を進め、教えられた家の一軒のドアをたたいた。店ではなく、普通の民家だ。かなり古く、いたんでいる。中から大きな犬を連れて、中年のふとった女が出てきた。少々気味の悪い感じの人である。  僕は、事件に関係した五人のマクナブ青年の名をあげて、その人たちがどこに住んでいるかを尋ねた。 「男たちのことは知らないけど、その妹だったら知ってるよ」  女がもの憂げに答えて、教えてくれたのは、それからまた二〇〇メートルほど離れた山の中腹にぽつんと建てられた木造の家であった。マクナブ兄弟には妹がひとりいて、サクストンという人に嫁いでいるとのこと。  その家のドアをたたいたとき、僕はいささか緊張していた。来意を告げると、サクストン氏は僕をきさくにリビング・ルームに請じ入れながら、 「ワイフに聞いてみましょう。彼女が話したがるか、どうか……」  マクナブ事件の話は、一家にとってずっとタブーであるらしい。案の定、奥の部屋から顔をのぞかせたサクストン夫人は険しい表情をしていた。  年はもう六〇に近いのではなかろうか、髪は白く、肩ががっちりした、体格のよい人である。 「そのことについて、話したくありません。なぜそんな古いことを知りたがるのですか? なにをあなたは書こうというのですか?」  とがめるように彼女はそういって、サクストン氏が執り成すようになにかいいかけると、再び、 "I don't wanna talk about it"  を繰り返し、キチンの方へ消え去った。  サクストン氏は気の毒そうに僕の方をみやり、 「フリーマンとレイモンドの双子兄弟は死にました。ベンジャミンはテネシー河の向こう側に住んでいます。ええ、元気ですとも」  そういいながら、声をおとして耳うちした。 「もう一人の兄弟がすぐそばに住んでいます。ほら、あそこに白い家がみえるでしょう。彼に会えば、なにか話してくれるかもしれません。ガラージに車がみえないから、今は留守だと思いますが、しばらくして訪ねてみたら……」  親切なサクストン氏は、寒いのに外へ出てわざわざその家を指さしてくれた。彼はこのとき、ブラザーといっただけで、エミュールともバーニーともいわなかった。  僕はサクストン氏に礼をいい、少し待ってからその家のドアをノックしてみた。答えはなく、やはり誰もいない様子であった。  テネシーの山の中は森閑として物音ひとつ聞こえない。その家の写真をとっておこうと思いカメラを向けたのだが、ふかぶかと閉じられたカーテンの内側から誰かが窺っていて、こちらに銃口を擬しているような妄想に僕は少々びくついていた。  それから三〇分ほど、待ってみた。だが誰も帰ってこなかった。マクナブ事件のリティガンツ(訴訟当事者)の一人に面会できるよいチャンスだったのだが、ボーデン夫妻をいつまでも待たせるわけにもいかず、僕はついに断念せざるを得なかった。  あとで聞いたところでは、それはエミュールの家らしかった。バーニーのことを知る人はいなかった。結局、五人のマクナブ青年のうち、生きているのはベンジャミンとエミュールの二人だけらしい。  マクナブ・ファミリーの墓地は、事件が起きた現場だが、これもついにわからずじまいであった。  だが、ホリスと一緒に山道を登り、かなり奥へ入ったところにそれらしい跡は発見した。山の中であるにもかかわらず、その一郭だけは周囲の道が舗装され、付近が石で囲まれた形跡があった。あるいはホリスがいうように、一家は事件のあと、墓地を他の場所へ移したのかもしれなかった。フリーマン、レイモンドも、今はそこに静かに眠っているのにちがいない。  事件が五人のマクナブ青年の運命を大きく変えただろうことは容易に想像できる。エミュールは六一、ベンジャミンは五九歳になっているはずである。どのような生涯を送ってきたのだろうか。 「話したくない」  といった妹のかたくなな表情がそれを暗示していたように思える。  五人の仲も、以前のようにはうまくいかなかっただろう。取調官の術策にのって、三人は互いに罪をなすりつけたり、非難しあったりしている。  ともあれ、チャタヌーガの町の人々は、もう事件のことはすっかり忘れ去ってしまっているようだ。地元の“マクナブ・カントリー”の住人ですら、時の推移が記憶をずっと遠いところへおしやってしまったようにみえる。  石の道は一面の枯葉でおおわれ、見上げる雑木の梢《こずえ》が冬空に針のように細く、美しかった。  その下を、テネシー河が満々と水をたたえ、静かに、そして無表情に流れていた。  帰路、僕たちはジャスパーに立ち寄った。マクナブ青年たちが時折、遊びに出てきたというその町は、意外なほど小さく、中央のホールを中心に十数軒の店が軒を並べるだけであった。人通りもほとんどなく、全体にうらぶれた感じで、角のドラグ・ストアが一番明るかったが、古い煉瓦《れんが》造りのその建物も数十年前のものらしい。町の様相は、おそらく、マクナブ青年たちが遊びにきた頃と少しも変わっていないように思われた。  遅いブランチだったから、みなランチをとらず、ルックアウト・マウンテンに登ったり、ムーンシャイン国を歩きまわったりしたので、すっかり空腹になってきた。  ジャスパーからさして遠くないところにスコッツボロという町があり、そこで早目の夕食をとることに衆議一決。 「それで、その三人のムーンシャイナーズ——フリーマン、レイモンドの双子兄弟、それから従兄弟のベンジャミン——は、どうなったのかね? ちゃんと四五年の刑期を勤めあげたんだろうね」  エロイーズに運転をかわってもらったホリスが、バックシートの方をふり向いて、マクナブ事件の話の続きを請求した。  概要だけはさきほど話しておいたのだが、地方裁判所が三人に有罪判決を宣告、控訴院もこの原判決を支持したことをいったとき、ホリスが一言、 「それはよかった」  と、コメントしたことを思い出した。  取り調べの経過を詳しく説明したつもりだが、彼はその点についても特に興味を示さなかった。 「バーニーとエミュールの二人が釈放になったというのはおかしいね」  ホリスは僕の返事を待たず、自分の考えの方をさきにいった。 「どうして?」  僕は聞き手にまわった。 「どう見たって、この事件は最初から五人が一緒になってやったクルー・アクション——共同の意思に基づき、同じ目的のために以心伝心ひき起こした犯行——としか、思えないね。うち二人だけが自供しなかったのは、彼らの方が取調官よりスマートだったからさ。黙秘権というやつを行使したわけだ。誰だって自分の方から『はい、鉄砲を射ちました。酒税官を殺したのは私です』なんて白状するバカがいるものかね。警察の方がもう少ししっかりしていれば、必ずドロをはかせているよ。自供がとれなかったのは、警察の方の負けさ」 「だったら、それはそれで、仕方ないと思うな」  バーニー、エミュールの二人に怪しい点がないわけではないが、自供がとれなかった以上、やむを得ないと僕は思った。 「捜査が科学的でなく、訴追の準備がしっかりしていなかったから——つまり、政府の立証方法に不備があったから、二人は免訴になったのだろうし、それは当事者主義の立場からも、フェアな決定だといいたいね。しかし実際には、これはそれ以前の問題で、被疑者が逮捕されて勾留裁判官のもとへ引致されたとき、つまり予備審問の段階で当然釈放されて然るべきだったんだよ」 「バカをいっては困るよ」ホリスが真顔で反論した、「われわれの住む社会に犯罪はつきものだ。国は国民に対してできるだけ犯罪の発生を少なくし、治安維持の責任を負うから、犯人は是非ともさがし出して罰を科さなければならない。捜査は時を移さず、迅速に行なうのが肝要だ。犯人は無数の被疑者の中から発見し、証拠は山のようなジャンクの中から選び出さねばならないから、少々の人権無視もやむを得ない。何もやっていない人が疑われたとしたらそれは気の毒だが、疑われるようなことをやっていた一半の責任もあるだろうし、社会全体の治安という観点からは我慢すべき問題だ。もともと、捜査とか取り調べというものは流動的な性質を持ち、法という厳格な固形物になじみにくいものだと思うんだ。被疑者・被告人の人権を守るという要請も大切だが、刑事司法の分野においては社会の安全を計るという意味から、真実発見のさらに重大な要請がある。真実主義か、デュー・プロセス(適正手続き)かの理念的選択だけで刑事手続き上のいろいろな問題が解決されようとは思えないね」 「それは非常に危険な考え方だね」こんどは僕が真顔になって反駁《はんばく》した、「捜査官たちが刑事訴訟法の第一義としている“事案の真相を明らかにし”——つまり真実主義を信奉するのは当然だとしても、捜査手続きには絶対にデュー・プロセス(適正手続き)の要請が伴うことを忘れてもらっては困るね。被疑者の人権を守らないところに、真実の発見はあり得ず、むしろ誤って真実から遠ざかり、無辜《むこ》を罰するという恐ろしい結果を生むことになる。戦後、日本の刑事裁判は英米法の当事者構造に変わり、弾劾化されたといわれるけれど、それ以前——つまり捜査の構造においてこそ弾劾化され、捜査官たちの頭がデュー・プロセスの洗脳をうけなければならないんだ」  僕の声の調子があまりに熱を帯びてきたので、ホリスたちはあっけにとられて沈黙した。 「この改革は将来、いや現在いますぐでなければ遅すぎる」僕はかまわず続けた、「つまり捜査手続きにも当事者主義がとり入れられ、逮捕する側——警察も、逮捕される人——被疑者も対等なグラウンドに立ち、平等な武装を必要とする。ただでさえ、強大な国家権力を背にした警察は有利に過ぎるんだ。一方、このマクナブ青年たちのように教育程度も低い、ムーンシャインしか知らない山男たちを逮捕・隔離しておいてドロをはかせてみてもそんな証拠に任意性がないのは当然、信用性を求める方が無理だと思う。どんな色のドロが出てくるかわかりはしないよ。そんなやり方は卑怯だし、プロのボクサーが素人をリングの上にひっぱり出し、パンチをくわせるようなものだ。捜査の段階においても、当事者同士がたがいに攻撃・防禦《ぼうぎよ》をつくす——そのプロセスにおいて、真実が発見され、被疑者の人権も守られるんではないのかな」  ヴェトナム行きの兵隊たちの特訓将校だったホリスは、何度も軍事法廷の裁判官を勤めた経験を持つ。僕のこの説に、彼は容易にはうなずかなかった。捜査が糾問的方法によるのはやむを得ず、訴追の準備が当事者構造などをとらず、一方的に行なわれるのは当然だというのである。 「よくそれで裁判官が勤まったね」少々ひどい物言いだとは思ったが、僕は続けた、「だから、"An army is a nation within a nation"——軍隊は国家の中の国家——といわれるんだ。司令官——裁判官——検察官——捜査官、が縦の線でつながっている復帰前の沖縄もこれと同じ構造だった。本来は、三角形の両点を当事者がしめ、その頂点に立つのが裁判官で、対立する両者の仲介者でなければならない。捜査・起訴・裁判が国家優位の一方的ペースで進められては、被疑者・被告人はたまったものではない」  ホリスと僕の意見のくい違いは、なかなか交叉する接点を見出せなかった。 「おかしいわね」今までずっと黙っていたエロイーズが笑いながら口を開いた。「お二人の論 争《アーギユメント》を聴いていると、どちらがアメリカ人なのかわからなくなるわ。デュー・プロセスはもともとイギリスのマグナ・カルタ——いかなる自由人も、国の法律によらなければ逮捕、監禁されず、人権侵害をうけない——という文言に出発しているのでしょ。それがアメリカに渡り、連邦憲法のフィフスとフォーティンス・アメンドゥメント(修正五条・一四条)となったものだと教わったわ。つまりアメリカの法律なのに、アメリカ人であるホリスが反対し、日本人の伊佐さんがそれを支持するのはどういうことなのでしょう?」 「アメリカではデュー・プロセスが滲透《しんとう》しすぎて、スウィング・バック——ちょうどブランコがあとへ戻るように、後退しつつある、といわれています。でも、日本ではまだまだそこまで行っていないのです。マクナブ事件の頃——一九三〇年代——が現在の日本の刑事司法の姿ではないかと思います。五〇年もアメリカに遅れているのです。アメリカを羨しく思うから、そんなふうに聞こえるのでしょう」  僕が答えると、ホリスが引き継いだ。 「加えてオレは頭の固い、軍隊しか知らない、生粋の南部男さ」 「初めてみなさんの意見が一致しましたね」  みんなが笑い終わるのを待ち、エロイーズが僕に質問した。 「“プリリミナリー・イグザミネーション”(予備審問)というのは、どんな手続きで、どのようにして被疑者の人権を守るのですか?」  ひとりの男がある日、突然逮捕されたとする。逮捕にはもちろん、相当な理由とその必要がなければならない。理由とは、「罪を犯したことを疑うに足りる理由」であり、必要とは、裁判出頭を確実ならしめるため、また被疑者自身が証拠そのものなのだから、証拠方法の保全にある。  このことは、逆にいえば被疑者に逃亡、証拠湮滅《いんめつ》の恐れがなければ、長時間の勾留は必要ないことになる。また、ある場合には、事実の最も皮相的な外観からしても、男が容疑を受けている犯罪に有罪ではあり得ないことが歴然としているケースも考えられるだろう。  男が一刻も早く釈放されるのは、公明正大以外のなにものでもない。そのために、被逮捕者が逮捕のあと、速やかに、勾留裁判官と接触する機会を持つのは、当然の権利と考えられている。  勾留裁判官は治安判事、マジストレートと呼ばれ、第三者的《インパーシヤル》な立場にある者でなければならない。マジストレートの任務は、警察官が提出する証拠が真実であるか、被疑者の嫌疑の有無を調べることにあるわけである。すなわち、証拠が不十分であれば、男は直ちに身柄の拘束をとかれ、一件はその場で、その時をもって、終了する。  証拠が十分で、嫌疑が濃厚な場合はどうだろう。保釈金によって出頭が確保できれば、被疑者の保釈請求を許可するのも、マジストレートの仕事である。  この審問の目的はさらに、被疑者に対する秘密な取り調べを避け、人権保護を意図しており、一種の“安全弁”の役をも果たし、不当な勾留を防ぐ。  英米法にある予備審問の制度について、以上のようにエロイーズに説明すると、 「アメリカにそのように優れた制度があるとは知りませんでした。日本のものは、もっと進んだシステムなのでしょうね」  と、尋ねられた。  残念なことに、わが国の司法官にはこのように厚く被疑者の人権を保護しようとする考えも、意図もない。勾留質問が同じファンクションを受けもつといわれるが、勾留請求の前に被疑者が警察官と検察官双方に拘束される時間が七二時間の長さであること、勾留係り裁判官には起訴前保釈の権限がない点など、プリリミナリー・イグザミネーションの意図するところの原則とは大いに異なる。 「人権感覚のちがいですね」  僕はそう答えざるを得なかった。  逮捕は国の訴追の準備だが、その第一ステップで、国すなわち警察官、そして被疑者の双方が相対し、さきにいった裁判官が三角形の頂点——両者の中間——にあって、当事者構造を形成するのもまことにフェアな感じがする。  またここでスクリーンしておけば、警察官の違法活動を防ぎ、根拠薄弱な訴追を排除し、無実の者が訴追の苦しみにさらされることも防げる。長年月にわたる裁判によって被告人がうけるだろう精神的、肉体的苦痛、また税金のムダ使いの事前のチェックにもなるだろう。  このようなふるい分けを日本の検察審査会は審議することができず、不当な起訴を事前にチェックする制度を持たないのは困ったことだ。検察官だけにこのスクリーニングを任せることに僕は反対だ。刑事手続きの全体からみても、大いに問題だという主張があるくらいである。 「では、このプリリミナリー・イグザミネーションヘの出頭は、被疑者を逮捕した警官に、“不必要に遅滞することなく”マジストレートのもとに引致を義務づけているわけですね?」  エロイーズが確かめるように聞いた。 「そうです、連邦の法律では、被疑者の自白についての取り調べ時間を“六時間を限度として”認めているだけです。公判において、自白の任意性が争われた場合——たとえばこのマクナブ事件のように——、その自白が被疑者の逮捕後六時間以内になされたものであるならば、裁判官がその任意性を認めたときは、それについての最終的な判断は陪審にゆだねることができるのだそうです。ただし、これは現在の法律で、このマクナブ・ケースがそのもととなっています」 「——ということは、自白を得るために時間がかかり、そのために出頭が遅れることなど許されないということかね?」  しばらく黙っていたホリスが再び口をとがらせた。 「その通り」得たりとばかり、大きな声で僕が答えた、「逮捕は予備審問出頭のため、裁判官への引致をさす、とさえいわれている。逮捕が、日本のように、自白追及の手段とされてはならないし、不当な逮捕によって得られた証拠は絶対排除されねばならない。出頭までに証拠は揃えておかねばならないから、逮捕後に自白をとって、それを証拠として頼りにすることができないことになる」 「すると、この事件において問題となったのは、自白の任意性と、予備審問出頭の遅延の二点かね?」 「自白の任意性よりも取得の方法だね。そして速やかに引致を行なわなかった場合の自白を許容すべきか否かが論点になったわけだ」  ここで再び、逮捕後、マクナブ青年たちがどのように取り調べられたかをホリスに説明した。 「まず二人は真夜中に自宅で逮捕されている。法が命じるところのマジストレートのもとへの引致は行なわれず、ベッドもない留置場へぶち込まれ、そのまま一四時間も放置されている。その後、二日間にわたって断続的にではあるが、大勢の取調官たちによって無制限な尋問をうけた。この間、全くのインコミュニカードーの状態におかれ、友人・家族との面会も許されず、弁護士と接見する機会も与えられていない」 「それはわかった。それで最高裁はどういう見解をとったのかね?」  ホリスがもう我慢できぬといわんばかりに先を急がせた。 「そのような状態で得られた自白は証拠として許容できないとし、そのような証拠に基づく有罪判決を破棄したわけだ。逮捕された被疑者を遅滞なく予備審問へ引致しなかった場合の自白は無効——こうしてマクナブ・ルールというのが生まれたのだ」 「四五年の刑から、一転して無罪か……」  ホリスはまだ納得できかねるといった表情であった。  この判決は一九四〇年代にあって画期的な意義を持っていた。四五年の刑から逆転して無罪。世間が驚いたのも無理はなかった。この判決の意味するところは、真実の発見と矛盾してでも貫かれる人権の尊重、デュー・プロセスの精神である。黙秘権はそれを警察が認めてしまうと真実発見が困難になる。だがそうであっても人権の尊重のためには、デュー・プロセスは守らねばならない。  以来アメリカにおいては数々の自白事件が破棄されている。日本では、憲法に違反した苛酷な取り調べ——例えば帝銀事件のような——が行なわれても、任意性の欠如を理由に違法収集証拠が排除される例はきわめて稀である。手続き違反そのものを根拠とする自白の排斥を今までの裁判官は考えていない。それどころか、証拠の押収手続きに違法があるとして、直ちにその証拠能力を否定するのは、事実の真相究明に資するゆえんではない——などともっともらしい理由をくっつけ、一、二審の開明的な判決をくつがえした最高裁の判例さえある。真実発見のためなら、捜査の行き過ぎも構わないといった、適正手続きを無視する態度がそこには窺える。  マクナブ判決はこの後、一九五七年のマ口リイ判決に引き継がれ、ミランダ法則《ルール》を結晶させるに至るのである。  アメリカ連邦最高裁判所が、テネシー州の刑事司法手続きに介入して、原判決を破棄したことは、憲法に保障された被疑者・被告人の基本的な自由を守らんがためである、自白の任意性、信用性を論じはしたが、それ以前の問題としてもっぱら手続き違反そのものを根拠に、違法収集証拠は排斥するとの強い態度を示したことは、排除規則について何も知らない僕にとってもわかりやすく、清新なものに映った。  裁判所の尊厳とは、そのようにして守られるべきものであろう。 SCOOTTSBORO BOYS 強 姦 少 年  スコッツボロはアラバマ州の北西、ジャクソン郡《カウンテイ》 の中心都邑《とゆう》で、付近をテネシー河が流れる。一九六〇年代の人口が六、四〇〇とあるが、現在も大して変わっていないようだ。  州の中心バーミングハム市から北に七四マイル離れ、南部鉄道とUSハイウェイが交叉している。古くから綿の織物工業と材木取り引きの中心地だったが、町を一瞥《いちべつ》した限りでは現在、大した活気もみられない。アメリカ南部の典型的な田舎町という感じである。  行き交う人々もみな、農民らしい顔つき、身づくろいで、淳朴《じゆんぼく》そうな一面、あたりかまわず声高に話しあう様子には、どこの田舎の人にもみられる頑迷な気質が窺える。  ジャスパーでは、さすがに食いしん坊の僕も食べる気がしなかったが、ホリス・ボーデンが案内してくれたここスコッツボロのレストランは田舎町にしては意外に小奇麗で、腰をおろしたとたんに猛烈な空腹をおぼえた。  ロスアンゼルスのローリーで食べたロースト・ビーフは最高の味だったが、あれに劣らぬ大きさで、うまそうなのがここでは八ドルもしない。  それに決めようと思って、メニューをぱたんと閉じると、隣に坐っていた妻が黙って、僕のおなかを突っついた。  日本を出てくる前、ひと月ほど毎朝、拾ってきた小犬のタンクローと一緒にジョギングを怠らず、昼はメトリカル(減量食品)だけで我慢し、苦心してようやく二キロ余り体重を減らしたのだが、アメリカヘきてまだ二週間もたたないうち、あの涙ぐましい努力は水泡に帰し、たちまち元の木阿弥《もくあみ》——僕の意志の軟弱さも情けないが、もとはといえば、こちらの食べ物があまりにも多くの種類に富み、美味、かつ値段が手ごろ《リーズナブル》に過ぎるのがいけないのだ。 「この店のスペシャリティーは、なに?」  そばに立っているかわいらしいウェイトレスに聞いてみた。 「キャット・フィッシュよ。満足していただけること、保証しますわ」  ナマズだったら今朝食べたばかりだが、きれいな女の子にほほ笑まれると、どうも僕は弱く、いやとはいえない。妻は許可のしるしにうなずいてみせた。  仕方なくそれに決めると、ボーデン夫妻も妻もみな同じものを注文した。キャット・フィッシュは古い南部の典型的な料理のひとつで、南部人だったら毎日食卓にのっても文句はいわないのだそうだ。  テネシーの川ナマズは、結構いける味だった。サウザーン・フライ・チキンもその名のように南部料理のひとつだが、同じようにディープ・フライにして、塩とレモンだけで食べるさっぱりしたものだ。うれしいことに、僕とタンクローの好きなハッシュ・ポピーがどっさりバスケットに入って付き物になっている。玉蜀黍《コーン》の粉をまるめて小さなフライにしたものだが、どういうわけか小犬が好むのでその名が出た。  そのハッシュ・ポピーを口の中へほうり込みながら、沖縄へおいてきたタンクローはどうしているかなと考えていると、 「今日は、よく裁判に関係がある場所に立ち寄るねえ」ふと思い出したように、ホリスが呟いた、「僕が子供の頃起こったケースだから忘れかけていたけれど、ここは有名な『スコッツボロ事件』のあったところだね」 「今、私もそれをいおうとしていたのよ」エロイーズも口を揃えた、「きっと伊佐さんが興味を持たれる事件じゃないかしら?」 「ほう、どんな事件ですか?」  興味があるような、ないような顔をして僕がきいた。 「強姦事件だよ」エロイーズに代わって、ホリスが答えた、「九人の黒人ティーンエイジャーたちによる……」  ハッシュ・ポピーをまたひとつ、僕は口の中に入れた。 「レイプ・ケースだったら、世界中どこにでもあるよ」 「いや、それがちがうんだな。単純な強姦だったら、あちこちにころがっているだろうけど、この事件は複雑怪奇ですらある。むしろ、ここディープ・サウス、スコッツボロだからこそ、起こったともいえるんだ。黒人問題をかかえた南部という土地柄が、もともとは単純なハプニングを複雑にしてしまったんだ!」  ホリスのいうことの意味が、僕にはわかりかねた。話をもっとくわしく聞きたかった。 「それで被害者は?」 「二人の白人女性」 「どういうふうにして事件が起こったのかな?」 「彼らは一緒に、チャタヌーガから同じ列車に乗り合わせていたらしい」 「チャタヌーガ・チューチュー・トゥレーン?」  冗談をいいかけて、僕はホリスの真顔に思わず口をつぐんだ。 「そうだ、彼らはそのチャタヌーガ・チューチュー・トゥレーンに只乗りしていたんだ。そしてアラバマ州によって、“レールロード”される……」  鉄 道《レールロード》に乗っていて、レールロードされるとは、どういうことだろう?  エロイーズが説明してくれた。 「邪魔者を手早く始末するために、いつわりの理由で拘禁する、あるいは、不当な裁判により、ぬれぎぬを着せる」——そんな意味らしい。 「黒人が白人女性を犯したということで」ホリスが続けた、「アラバマ中が、いや南部全体が沸き立つんだ。彼らはこのスコッツボロでも、行くさきざきで、何度もリンチをうけそうになる。南部社会の大問題に発展するのだが、ついには政治問題化し、知事、判事、検事、保安官たちが自分たちの選挙のために利用さえするようになる。地図の片隅にしかないこの小さな田舎町は、こうして一躍、世の脚光をあびることになり、九人の黒人少年たちは、“スコッツボロ・ボーイズ”と呼ばれて有名になるんだ」  ホリスの口調はだんだん熱を帯びてきた。  ハッシュ・ポピーを口ヘ投げ込むのをやめて、僕はホリスの話に聴き入った。  短い冬の日はとっぷり暮れて、窓の外はもう真っ暗——その寒空を、外燈に照らし出されてまた粉雪が舞いはじめていた。  チャタヌーガヘ向かう車の中では、僕がマクナブ・ケースについて話したが、ハンツビルヘの帰途、こんどは僕がボーデン夫妻から、スコッツボロ事件について聴く番であった。  ホリスの話は、今からちょうど五〇年前、一九二〇年代の終わりにさかのぼる。  一九二九年(昭和四)、ニューヨーク株式の大暴落に端を発したグレート・ディプレッションは、暗雲のようにアメリカ全土を覆い、やがて人は未曾有《みぞう》の大不況の波に見舞われる。  一九三〇年代にはいると、事態はますます深刻化するばかりであった。巷《ちまた》には失業者が溢れ、浮浪者がその日の食を求めて右往左往した。 「子供心にもおぼえているよ」ホリスがいった、「世の中がひどい不景気だということをね。僕自身、ブレッド・ラインに並んだ記憶がある。ひときれのパンをもらうために、何時間も長い列に並んでじっと立っているんだ」  ブレッド・ラインは、政府が貧困者に施す、いわば日本のお救い小屋みたいなものだったらしい。救世軍のスープ・ラインというのもあったようだ。 「いやな時代だったよ。いやな光景ばかりが目に入った。たとえばね、黒人が列に並ぼうとする。近付きもしないうちに、相手が老人であろうと、子供であろうと構わない、半殺しの目にあわしてしまうんだ。政府が配給するパンやスープは、ニガーたちのためのものでなく、全部自分たち、白人のものだというのだね。僕は子供でよくわからなかったけれど、なにか割り切れない気持ちだった。僕も南部人だから、黒人が好きではないが、彼らを、かわいそうに思ったのは事実だよ」  ホリスが生まれた家はアラバマ州南部の中農クラスといったところらしいが、それでも子供の頃こんな経験までさせられている。  ホリスより少し年上の従兄弟にデイブという少年がいた。家は雑貨屋だが、かなり大きな店だった。デイブはよく店番をさせられたが、三日の間にたった一缶のペンキ、それも三五セントの売り上げしかなかったことを今でもおぼえているという。  このように、白人社会を襲った大恐慌の波が、最も悲惨なかたちで南部の黒人たちの貧しい生活に大打撃を与えたであろうことは、容易に想像がつく。  町に浮浪者があふれる一方、同じルンペンだが、“ホボ”と呼ばれる一群があった。彼らは町から町へ、村から村へ、あてどもなくその日その日の賃仕事を求めて流れ歩く、いわば渡り労務者のようなものであった。  駅に間近い空き地や橋の下など、たき火を囲んだり、ごろ寝をしたりして彼らが一夜をあかすたまり場を“ホボ・ジャングル”といった。  パン一ローフ、鰯《いわし》の缶詰めが一個五セントの時代だが、ホボたちにそんな金はない。ジャングルになにか少しずつ持ち寄っては、みんなで煮炊きして食べ、辛うじて飢えをしのいだ。  見知らぬ家の戸をたたき、一食を得るためにどんな仕事でもよいからと頼んでも、なかなか仕事にはありつけなかった。黒人の場合、そんなラックに恵まれることは稀で、叩き出されたり、追い払われるのが落ちであった。  折角仕事をみつけ、一生懸命やっても、金を支払ってくれない悪い雇い主もいた。そんなことを計画的にやってホボたちを食いものにする口入れ屋もいた。  ホリスが語り出したスコッツボロ事件は、このような時代を背景にして起こり、事件にかかわりあった黒人少年たちはみな、このホボ・ジャングルを渡り歩く、あわれな家なし子たちであった。  クレアレンス・ノリスが、チャタヌーガからメンフィス行きの汽車に飛び乗ったのは、彼が一八歳の春、一九三一年三月二五日のことであった。  暦のうえでこそ春だが、テネシーからジョージア、アラバマ、そしてまたテネシーに戻るこの南部鉄道が走る原野には、春のけはいはみえず、この少年の運命を暗示しているように灰色の雲が低く、垂れ籠めていた。  汽車といっても、客車がついているわけではなく、貨物列車のことである。ゴンドラと呼ばれる無蓋車が何輛も連結され、線路の枕木や角岩《チヤート》などが載せられていた。ホボたちはもちろん、無賃乗車だ。  貨物車とはいえ、只乗りが違法行為なのは知っていたが、五セントのパンが買えない連中に切符を求める金のあるわけはない。それに留置場はどこも満員で、鉄道保安官たちもホボたちのやっていることをさして気にとめている様子ではなく、よほど運でも悪くなければまず掴まる心配はなかった。たまに意地のわるい機関士がいて、黒のホボを追い払おうとするぐらいのものであった。  汽車が進むにつれ、飛び乗ってくるホボの数が増えてきた。白もいれば、黒もいた。  チャタヌーガを出てのち、しばらく経ってからのことである。突然、白が黒にむかって砂利《チヤート》を投げつけてきた。 「きさまらニガーたち、みなおりろ! さっさと消えてしまえ!」  自分たちも只乗りのくせに、黒を追い出して列車を専有しようというのだ。  黒たちも負けてはいなかった。第一、飛びおりろといわれても、原野のただ中、どうすることもできない。  こうして、ホボたちの白と黒にわかれてのけんかが貨物列車の上で始まった。石の投げあいが、やがて血みどろの戦いにエスカレートしていった。  結局、力において勝る黒が白を制した。さんざんにやっつけられた白人たちは列車から飛びおりて逃げた。おりたがらぬ奴はほうり出された。このとき、白人のひとりだけが残されている。列車のスピードが早くなり、突き落としては危険だと判断したのだろう。  列車はそれから水の補給のため時折、停車した。だから、列車がアラバマのペイント・ロックという小さな駅にとまったときも、クレアレンス・ノリスは別段、注意をはらっていなかった。  だが彼がふと顔をあげたとき、目に入ったもの——それは、線路の上に陣どった群衆《モブ》であった。手に手に棍棒《こんぼう》やピストル、ライフル、ショットガンを構え、殺人に必要な凶器はなんでも持っていた。  群衆は列車をとりまき、黒人たちを下車させた。その中に、先刻列車からほうり出された白人たちの顔がまじっていた。黒人たちは乱暴に押されたり、突きとばされたりして、建物の前にみな一列に並ばされた。完全に白人たちに包囲され、そして彼らは口々に叫んだ。 「こいつら黒のいやな野郎ども《サナバビツチ》をさっさとハングしちゃおうぜ! ニガーを吊るロープはどこなんだ!」  警官か、あるいは消防士、兵隊、いずれともわからなかったが群衆の中に制服を着た男が二人いた。おかげで、黒人たちはリンチを免れ、危く命だけは助かった。  彼ら二人は白人たちにむかって誰がけんかに加わっていたのか尋ねた。白人たちはそこに並んでいた黒人全部がそうだと答えた。  こうして九人の黒人少年たちは次々に手錠をかけられ、さらにロープで繋《つな》がれ、バスに押し込められて、一番近くに留置場があるスコッツボロに連行されたのである。  クレアレンスはこのとき初めて、他の八人の“スコッツボロ少年”と顔を合わせた。それまでは全然未知の間柄であった。  この中には、さきほどの列車の上でのファイトに全然加わっていない少年たちも入っていた。  その夜、少年たちは死ぬほどの恐ろしさに震えていた。なにが彼らの身の上に起こったのか、起こりつつあるのか、起ころうとするのか、皆目わからなかった。  夜遅くなってから、また白人たちの群衆——もう暴徒といった方がよいかもしれない——が押し寄せてきて、少年たちの身柄を要求した。すぐリンチにかけようとしているのは明らかであった。留置場内部の廊下にまで押し込み、必死にとめようとする保安官たちと、あわや射ち合いが始まろうとする一幕もあった。激昂《げつこう》した暴徒を鎮圧するのに、大勢の州兵が派遣され、夜通し警戒しなければならなかった。少年たちが一睡もしなかったのはいうまでもない。  翌朝、黒人少年たちは留置場から引き出され、一列に並ばされた。その前に、二人の白人女性が保安官《シエリフ》に連れられて姿を現わした。 「プライスさん、こいつらニガーのうち、誰があなたをやったんですか?」  閲兵のように保安官と一緒に列をくだりながら、彼女は指さした。 「これ、これ、そしてあいつも……」  六人になったとき、彼女の指はとまった。ノリス少年もこの中に入っていた。  もう一人のルビイ・ベイツにも同じ質問が投げかけられた。しかし彼女は固い表情のまま、口を開かなかった。 「こいつら六人がプライスさんをやったんだとすれば……」州兵の一人が呟いた、「残りの三人がベイツさんをやった——というのは理屈にあうな」  ——強姦。  初めて知る逮捕容疑、いや罪名であった。  愕然《がくぜん》とした少年たちは、口々に叫んで抗弁した。 「嘘だ、そんなこと嘘だ!」 「オレたちゃ、そんなことしてやしない!」  いくら声をからしても無駄だった。  プライスという女の証言に、 「嘘をいっている」  と“口を滑らした”クレアレンスはこのとき、州兵に銃剣でなぐられ、右手に骨まで達する深い傷を負わされてしまった。白人女性に対して、嘘つき呼ばわりは「無礼」だというのであった。  留置場に再びぶち込まれたクレアレンスの手は血だらけで、激しく痛んだが、彼の心配はそれどころではなかった。なにもしていないのに、こんなことで殺されてしまうのか、その無念さと、恐ろしさだけが、彼の頭の中に渦巻いていた。 「彼らは、死んだも同然だったのさ」ホリスが溜め息まじりにいった、「白人女性が、黒人に強姦された、と訴え出ればね」 「しかし彼らはやっていないんだろう? やったという証拠でもあったのかね? それで裁判はどうなった? まさか死刑の判決では……?」  矢継ぎ早に僕が質問した。 「それ以外に、なにがあるというんだい」ホリスの返事はなげやりであった。 「少年たちが実際に、強姦を犯していようがいなかろうが、そんなことはもう問題にならない。南部人は、白人の女を黒人が犯した、あるいはその白い肌に黒人が指一本でもふれた、と想像するだけで、もう我慢ができないんだ!」  次の朝、食後のコーヒーもまだすませぬうち、ホリス・ボーデンはハンツビル市内の本屋という本屋に電話をかけはじめた。彼が以前、読んだことのあるクレアレンス・ノリスの自叙伝 "THE LAST OF THE SCOTTSBORO BOYS" があるかどうかを聞くためである。昨夜の彼の話も、この本を読んだ記憶に因っているのだが、数多いスコッツボロ関係の本の中で、この自叙伝が一番おもしろく、真実を伝えているように思う、とホリスはいった。  僕を失望させたことに、『最後のスコッツボロ少年』はハンツビル市内、どこの書店にもみつけることができなかった。  がっかりした僕をみて、エロイーズが今度は遠くバーミングハム市の本屋にもあちこち電話してくれていた。 「無駄だろうな」  ホリスがそういった言葉の意味を、僕は漠然と理解しはじめた。さきほど自分で電話した本屋の主人の返事に、その間の微妙な事情が窺えたのである。 「売り切れ」とは言わなかった。「その本は、うちでは取り扱いを“やめました”」  黒人が州裁判の違法に言及した自叙伝を店頭に置いておくことがこの街にとっても店にとっても“好ましくない”という感触であった。  僕はどうしてもその本を読みたかった。興味のうえでそうしたい気持ちもあったが、それより強い欲求は古い事件ながら、やはり真実を知りたかったからである。できれば自分で翻訳し、日本でも出版してほしいと思った。 「アラバマ中、どこの本屋をさがしてもみつからないかもしれない」  ホリスが独り言を呟くと、エロイーズはニューヨークの出版元を調べ、電話をかけて必ず本をとりよせてくれると約束した。  午後、ボーデン夫妻は僕たちをハンツビル市内の市営図書館へ連れていってくれた。新しい、立派な建物だが、蔵書の数は意外に少なく、ここにもクレアレンス・ノリスの本はおいてなかった。  一九三〇年代に書かれた『スコッツボロ事件と共産主義者たち』という古びた本が一冊だけあり、しばらく目を通してみたが、僕の興味をひく本ではなかった。  黒人のショッピング・エリア、住宅地域を通り抜けて、アラバマ州立A&M大学の図書館に向かう。  黒人ばかりの珍しい大学で、そこを尋ねれば、“その種”の本は発見できるだろうとアドヴァイズされたのである。AアンドMとは変わった校名だが、Agricultural and Mechanical college の略であった。  なるほど、キャンパスで行き交う学生は男女とも黒人ばかりでいささか不思議に思っていると、東洋人らしい男の黄色い顔がひとつ見えた。なつかしいような気持ちで、通りすがりにちょっと会釈したのだが、学生は知らぬふりをして通り過ぎた。  この大学には、まる二日も通った。ライブラリアンが親切に手伝ってくれたが、僕がさがし求める『最後のスコッツボロ少年』はついに見出せなかった。しかし、関係文献は多少ながらおいてあり、その中には裁判記録も含まれ、全くの徒労に終わったというわけではない。  帰るとき、ライブラリアンが、 「この本も参考になるかもしれません」  と言って、紙片に本の名と著者名を記してくれた。 "Scottsboro: A Tragedy of the American South" by: Dan T. Carter Published in 1971 and republished in 1978  ハンツビルは、バーミングハム、モンゴメリーに次ぐアラバマ州北部に位置する三番目の都会だ。一九六〇年の初めには、七二、〇〇〇だった人口も著しい増加をみせ、現在は倍以上になっているはずだと、ホリスがいった。  人口増加と共に市域も大きく広がり、古い昔からのハンツビルはしだいに忘れ去られ、新しい市に生まれ変わっている。ヴェトナム戦争中にはフル回転だったレッドストーン造兵廠《ぞうへいしよう》と、宇宙ロケットセンターの存在が大きくそれには寄与している。  市の主要産業——紡績綿糸、皮製品、電気器具、金属製品、農業器具、機械類など、その比重の変遷にも時代の波が押し寄せている。  市を訪れる観光客は、まず第一にロケット・センターのアミューズメント公園や、博物館を見学するらしいが、科学に弱い僕の興味はむしろ、ハンツビルのオールド・タウンをぶらぶら歩きすることにあった。古い南部《オールド・サウス》のおもかげが少しでも残っていれば、その方をさきに見ておきたかった。  A&M大学からの帰途、ホリスが案内してくれたオールド・タウンの一郭は、その目的にぴったりする閑静な高台にあった。彼の説明では、アラバマ州に市制を議会が認可したのはハンツビルが最初で、一八一一年の昔——従って、州で最も古い市なのだそうだ。  一八二〇年から南北戦争まで、市は南部における紡績工業の中心地として繁栄したが、戦禍はハンツビルを潰滅的状態にまで打ちのめし、復興は遅々として進まなかった。  一八八〇年代になり、ようやく北部の実業家が綿工業に投資をはじめ、その後の立ち直りをみせたのだという。  高い樹木に囲まれた昔ながらの古い建物はちょうど映画などに出てくるのとそっくりで、ひっそりとしたたたずまいの中にあった。落葉した木々の枝を通してさし込む冬の陽は弱く、その日は雪こそ降らなかったが凍てつくように寒く、零下五度と冷え込みが厳しかった。  家へ帰ると、ボーデン家のファミリー・ローヤー、スミス弁護士から、大きな封書がとどけられていた。先日ホリスが頼んでおいたスコッツボロ事件の裁判記録のダイジェストであった。  アラバマへきた当初、妻はニューオリンズをみたいと言っていた。そこからユカタン半島のメリダに飛び、コルテスの足跡でもたどってテノチテトランの昔を偲《しの》びつつ、メキシコを見物してロスアンゼルスに戻るプランである。予期していたように、ここからもメキシコ行きの飛行機は冬中みな満席、妻には気の毒だったが断念せざるを得なかった。僕はアトランタからロンドンに飛び、サセックス大学にいる娘の顔をみてきたかったのだが、九月に留学したばかりだし、日本の大学とはちがって勉強が大変だと手紙にあったのを思い出し、これまたあきらめざるを得なかった。  数日後、僕たちはフロリダ州ジャクソンビルを目指してハンツビルを出発した。そこにエロイーズの姉がいるので久しぶりに訪ね、あとは気の向くままあちこちドライブしようというのんきな、しかし二、〇〇〇キロにおよぶ長旅である。往路、アトランタに立ち寄り、メイコンを経てジョージア州を縦走するのだが、帰路はアラバマ州南部に入り、北上しつつモンゴメリー、バーミングハム、ディケーターの三市を通過するようホリスに頼んだ。  通ってみるだけではたいして意味もないが、スコッツボロ事件の被告人たちはこの三市にある刑務所の門を何度となくくぐり、それぞれ悲惨な出来事に遭遇している。モンゴメリーのキルビー監獄には当時、死刑囚が多数収容されており、アラバマ州はその中で無数の無辜の黒人を殺戮《さつりく》している。ディケーターはスコッツボロのあと、裁判のやり直しがあったところで、いわばこれらスコッツボロ事件ゆかりの地を僕は一度見ておきたかったのである。  車がハイウェイに出るとすぐ、ホリスはアンテナを伸ばし、ダッシュボードの下に取り付けたCB(シティズンズ・バンド)と呼ぶ無線装置のスウィッチを入れた。一定範囲内の周波がこれでキャッチでき、対向車の運転手たちと対話がかわせる仕組みになっている。目的はもちろん、パトロール・カーやスピード・トラップの位置を知ることにある。ガソリン節約がさけばれて、経済速度の五五マイルPHが最高速度と決められて以来、取り締まりが厳しいのだそうだ。ハイウェイは日本のように金はとらぬし、広々としてコンディションも比較にならぬほど良好だから、ドライバーたちはつい制限を越えて走ってしまう。 「ドンキーが、おれのお尻の後方一〇マイルの地点に待っているよ」  早くも警告第一声が入ってきた。同じ穴のむじなたちは、こうして互いに助けあうものらしい。 「サンキュー」  誰ともわからぬ声だけの相手に礼をいいながら、ホリスは僕に右手を見ているように促した。  しばらく行くと、なるほど小高い丘の木の蔭にパトカーが走行車の動静を窺っていた。ホリスはこのとき制限スピードに落としているから、掴まる懸念は全くない。CBのやりとりはパトカーの無線装置にも入っているはずだから、警官もさぞ癪にさわるだろうが、こちらも自衛上、やむを得ない。  おもしろいと思ったのは、CB愛好者たちの間に交わされる独特の隠語である。ドンキーはロバだが、警官またはパトカーを意味する。バッファロー(野牛)が男性ドライバーなら、女性ドライバーをビーバー(海狸)と呼ぶ。  ハイウェイを行くビーバーたちは、常にバッファローたちの関心の的だ。CBを通じてバッファローはビーバーに話しかける。ビーバーたちも気軽に返事する。 「インターチェンジのところ、角のレストランでランチはいかが?」 「いいわよ。あんたの車は何型、何色? 私の名はバーバラよ」  デイトの約束がたちまち成立したり、ときにはウィークエンド・ラブに発展することもあるとか。  CBにはそんな使い道、余得もあるし、つまらぬラジオ番組や歌など聴いているより、屈託ない彼らの話に耳を傾けている方がよほどおもしろいとホリスはいう。  ハンツビルを出てどれくらいの距離を走っただろうか。今までにないほど広い河幅のテネシーを横切る。そこがボートレースで有名なガナースビルの町であった。  ガナースビルからまた暫く南下、アトランタまで四時間の道程と聞いたが、ちょうどその半分を行った頃、ガデセンの町へ入った。 「君の頭の中になにがあるのか、知っているよ」熱いコーヒーをペーパーカップにつぎながら、ホリスがいった、「僕と同じことを考えているんだろう?」 「お見透しだね。この町の監獄はどこにあるのだろう?」  九人の黒人少年が、ペイント・ロック駅に待ち構えた白人モブに無理やりに下車させられ、スコッツボロに連行されたのは、一九三一年三月二五日のことであった。そのときも危くリンチに遭うところであったが、スコッツボロの悪夢のような一夜はまさに無法の町の観があった。保安官が知事に州兵派遣を要請し、治安が回復されていなければ、少年たちは間違いもなく、ロープに吊られていただろう。  翌二六日、二人の白人淫売婦《プロスチチユート》——ホリスはそういった——が強姦の被害を訴え出るにおよんで、スコッツボロの町全体が再び激昂の坩堝《るつぼ》と化した。  もはや多数の州兵の力をもってしても、暴徒を押え切れぬとみた保安官の措置は賢明だった。黒人少年たちの身柄はその日のうちに移され、その行く先がここガデセンの監獄だったのである。勾留は裁判の開始まで続けられた。  裁判は四月六日、スコッツボロで開かれた。これは審理陪審だが、それ以前、黒人を一人もまじえぬ大陪審が起訴を決定していた。  被告人たちには、一人の弁護士がついていた。チャタヌーガの黒人牧師グループから成る宗派間牧師同盟が五〇ドルを出して少年たちのために雇ってくれたのである。だが、この弁護士は裁判官と同じく偏見、予断の持ち主で、少年たちの無罪を信じていなかった。もっとも、無罪を大きな声で主張しようものなら、弁護人まで群衆は石でたたき殺しかねない凄まじい空気であったから、臆病なこの男はいつも酒くさい息をし、法廷の中にいても被告人たちと同じくらい、怯えていた。 「スコッツボロ・ボーイズは全員、法廷に歩き入る前から、有罪だったのさ」  ホリスの慨嘆は誇張ばかりではなかった。  二人の白人女性は、聖書に誓って次のように証言した。  ——ネグロは一二人いました。白人たちを追っ払うと、彼らはゴンドラにいたルビイと私に襲いかかりました。確か、二人がピストルを持ち、何人かはナイフを手にしていました。衣類をはぎとられ、貨車に積まれた角岩《チヤート》の上に投げとばされました。ナイフでおどされ、私(ヴィクトリア・プライス)はこのとき、ピストルで頭をなぐられました。一人のネグロは絶えず私の首にナイフを突きつけて跪《ひざまず》き、もう一人——あるいは二人——が足を押えていました。六人のネグロが順番に私を強姦し、行為中でない者はまわりに坐っていたり、立っていたりしました。  裁判は三日で終わった。  四月九日、アルフレッド・ハウキンズ判事は一人を除いて被告人全員に死刑の宣告をいい渡す。処 刑 日《イレクトロキユーシヨン》は三カ月後の七月一〇日と決定された。  除外された被告人は、一三歳のロイ・ライトである。あまりに子供っぽい顔をしていたからだろうか。検察官はロイにだけは死刑を求めず、無期懲役を求刑した。  しかし陪審は二つに割れた。彼も死刑にすべしとの意見が強く、結局、陪審員の不答申による、陪審員の公訴は無効となった。ロイ少年だけはこの後も再び裁判にかけられることはなく、バーミングハムのジェファソン刑務所に服役することになる。  一三歳の少年だったら、もう一人ユージン・ウィリアムスがいるのだが、この方はなぜか死刑の宣告をうけている。  このときのスコッツボロ少年たちの年齢を一瞥すると、一九歳が二人、一八歳三人、一五と一四歳が一人ずつ、一三歳がさきの二人となっている。  アトランタに近づくと、ホリスがきいた。 「ジョージアでは、どこを最初に見たいと思う?」 「私が一番見たいのは、タラの農 園《プランテーシヨン》」妻が笑いながら答えた。「主人は、スカーレット・オハラ」 「『風と共に去りぬ』の影響が日本でも大分強いとみえるね。よおし、いい所がある。あそこへ行けば、プランテーションもあれば、スカーレット・オハラもいる」  ホリスが僕たちを案内したところは有名な、ストーン・マウンテン・パークというリゾート・センターであった。ゴルフ・コースをはじめとし、ピクニック、キャンピング、フィッシング、ボーティング——ありとあらゆる娯楽設備が揃っている。  その名の通り、中央にある石の山は、秀吉がみたらさぞ肝をつぶしたであろう途轍《とてつ》もなく巨大なものであった。もちろん樹木は一本もなく、全山主として花崗岩《かこうがん》からなるこの山は、およそ地殻の持つあらゆる成分を含み、地球生成の早期に大量の熱と圧力によって生まれたものだという。地質学者はその期間を一億年と推定し、さらに一億年の自然の浸食作用を経て現在のような形になったという。  それからまた、何万年、何十万年の年月がたったのだろう。考古学者は、八千年前に初めて人類がこの山を訪れた証拠を発見している。インディアンたちは、病気平癒や戦勝を祈る“パウワウ”の儀式を数多くここで開いた。そして最初の白人、スペインのパルドー船長がこの地に足跡を印したのは、一五六七年と記録に残されている。  スカイ・リフトで頂上に登る。海抜一六八三フィートの高さだが、ここから俯瞰《ふかん》する四囲の眺めはすばらしい。いくつの州が見えるかとホリスが数えはじめたが、風があまりにも強く、冷たいので、僕は早々に退散した。  帰りのスカイ・リフトの中でホリスにきく。 「タラはどこなんだい?」 「うん、次に案内するのだけれど、それよりさきに君をスカーレット・オハラにあわせてあげよう。ほら、あれだ!」  そういってホリスが指さしたのは、眼下にひろがる湖の上を行く白い遊覧船——その名もスカーレット・オハラ号であった。 『風と共に去りぬ』がアメリカ人の間にも、南北戦争以前の農 園 生 活《プランテーシヨン・ライフ》について、強い興味を植えつけただろうことは想像に難くない。小説に出てくるタラはもちろん仮名だが、一八六一年から六五年にわたり南部を蹂躙《じゆうりん》した戦争の惨禍がこの時代のおもかげを地球の表面から消し去ってしまったことは残念だ。ジョージアにくれば、“オールド・サウス”が少しは見られるだろうと思っていた僕たちの期待は裏切られた。  アンテ・ベラムと呼ばれる農園の複合体《コンプレツクス》がこの広い公園の中に移されたのは、“古き良き時代”を保存しようとする人々の配慮によるものである。かなり広く、大きなものだが、ここを一巡すれば、一八三〇年から六〇年の頃の南部の裕 福 な《ウエル・トウ・ドウ》家族がどのような生活を営んでいたか、垣間みることができる。そこに働く女性たちの服装も昔のまま、ペティコートで大きくふくらませ、床につくように長いスカートが印象的であった。  一八二五年には、南部コットンのイギリスやフランスへの輸出高が、合衆国全体の他の輸出品目合計を上まわった。まさに「コットンはキング」であり、すぐ金になる収穫物であったことから、「白い黄金」とも呼ばれた。  このことは、農園主《プランター》たちの開拓欲に拍車をかけ、無数の人手を必要とさせた。  綿の収穫には、一八〇日が必要である。コーンはもっと短い期間に取り入れねばならない。そのほか、農園はすべて自給自足であったから、奴隷たちは一年中、休む暇もなかった。  プランテーションには大小さまざまの規模があった。このアンテ・ベラムは中位のサイズなのだそうだ。それでも中央にあるマノア・ハウスは領主の館と呼ばれるにふさわしく、豪壮で、贅沢な作りであった。マスター・ベッドルームに子供たちの寝室、男たち《ジエントルメンズ》だけの談話室《パーラー》、しゅうとめの部屋はどんなに悪いのかと思えば、最上級に近い上室だ。そのほか応接室、サマー・ダイニング・ルームなど部屋数は多い。ジョージアの南西、ディケイから移築されたもので、一八四〇年代の原型を可能な限り忠実に保っている。  監 督《オーバシーア》の家は数段小さな構えになる。ジョージアの北西、キングストンから移されたもので、現代の中級サラリーマンの家、といった感じである。  これらはいずれもプランテーション・ライフ華やかなりし頃の優雅な生活を髣髴《ほうふつ》とさせ、みているだけでも楽しかったが、やはり僕の興味の中心はこうした裕福な人々の生活には薄く、酷使されていた黒人奴隷たちがどんな家に住み、どんな生活をしていたか、その点にあった。  このコンプレックスには、原型そのままのスレーブ・キャビンがあった。アトランタに近いコビントンから移築されたものだが、“クォーターズ”と呼ばれる奴隷の住む地域には、このようなキャビンが数多く並んでいたのであろう。内部は一見広く見えるが、十数人の家族が起居したことを思えば、かなり窮屈な生活だったにちがいない。家具といえるものは自分で作り、監督の家からの払い下げなどもまじる。子供たちは屋根裏でわらの布団にくるまって寝た。食糧の配給は家族単位にその人数によって行なわれ、キャビンの中のいろりのような炉辺で料理された。食事はマノア・ハウスの主もその家族も、みな黒人奴隷と同じものであったと説明書にはあるが俄《にわか》には信じ難い。ある農園主は奴隷の子供たちにも白人子弟の行くプランテーション・スクールに通学することを許したというが、そのような農園主がいたとしても一〇〇人に一人ぐらいのものであったろう。  ジョージアは、一八六〇年までには数多くの解放奴隷のホームであった——という記述も、はたしてどの程度まで信じてよいものか。  このアンテ・ベラムに足を踏み入れた人々は、あたかも一四〇年の昔——一八四〇年代のジョージアに自分がおかれているような不思議な錯覚にとらわれる。  オールド・サウスさながらのマノア・ハウス、オーバシアーズ・ハウス、奴隷小屋などが目のあたりにある。  そこに今見えないものは、ただ人々——館のあるじ、監督、その家族、召使いたち、そして館の後方、地平線のかなたまで果てしなく続いていただろう綿畠と、日夜苦しい労働を強いられていた奴隷たちの姿だけである。  クレアレンス・ノリスも一九一二年、ジョージアで生まれた。父はハーフ・インディアンの小作人で、かつては奴隷であった。解放されたといっても、奴隷は奴隷に変わりなかった。こちらの農園からあちらの農園へと、流れ者のような生活が続いた。六歳のときから畠に出され学校は週のうち二日ぐらい、それも二年までしか進んでいない。  クレアレンス自身も後年、刑務所で指を一本なくすのだが、父も同じ指を失っていた。ある朝、起床が遅かったというだけの理由で、マスターが斧《おの》でぶち切った。  父にはハッツィーという妹がいた。ある日、畠で仕事をしていると、白人監督が彼女にとびかかった。ハッツィーは器量よしだった。彼女は抵抗し、マスターの家へ逃げ込もうとしたのだが、それより早く監督に鍬《くわ》で頭を真っ二つに打ち割られていた。もちろん、即死である。白人が黒人を殺しても罪にはならなかった。  少年時代に楽しいことがなかったわけではない。父に連れられて兎《うさぎ》、アライグマ、鳥などハンティングに行ったこと、母と一緒にキャット・フィッシュやうなぎなど魚釣りをした思い出など、みななつかしい。  だが、それもほんの短い間でしかなかった。一五歳のとき、父は死に、間もなく彼は家を出て働くようになる。  ストーン・マウンテンで時間を多く費やしすぎたため、アトランタの町をゆっくり見物する時間がなくなってしまった。クリスマス・ツリーの色とりどりの電燈がきらびやかに点滅し、買物客が雑踏する夕闇せまるアトランタの目抜き通りを通り抜け、やがて僕たちはフロリダに向かう高速道路にのった。  翌日は一日中、車の中で過ごした。一路、南下するばかりだが、途中、オキフェノキー沼沢公園に立ち寄った。セノール人と鰐《わに》の“震える大地”とパンフレットにはあるが、確かに公園全体が沼の上に浮いているような感じであった。路上をかわいい鹿が跳び交うのでおりてみようかと思ったが、鰐も挨拶にくると聞き、やめにした。ステファン・フォスター記念館も一巡する。生前、彼が蒐集《しゆうしゆう》したものか、何百という鈴が珍しかった。  アラバマもそうだったが、ジョージアの印象はなぜか物悲しい。この州の土のすべてに黒人奴隷の悲しみが染み付いているような気がしてならない。  スワニー河をくだるとき、“いずこに行くとも、世は悲し”のフォスターの歌を妻がしきりに口ずさんでいた。  その夜は、エロイーズの姉夫婦、ケンドール夫妻の招待をうけ、フロリダ海浜のすばらしいゴルフ・リンクスの一九ホールで夕食を御馳走になった。クラブ・ハウスは日本のそれのようにごてごてしていず、しかも落ちついて気品がある。食べ物の質もサービスの仕方もこれまた、日本の一流ホテルの支配人とやらにみせてやりたいくらいだ。  食後のブランデーを楽しみながら、ケンドール氏から地元ジャクソンビルに起こったおもしろい事件の話をきいた。彼は弁護士である。  フロリダ州ジャクソンビルには、古くから次のような浮浪者取締条例があった。 「乞食、放浪者または物乞いをして歩き回る自堕落な者、ばくち打ち、いんちき手品、違法なゲームや競技を用いる者と知れわたっている者、のんだくれと知れわたっている者、夜出歩く者、泥棒、こそ泥、すり、盗品の売買をする者、みだらな、わいせつな、好色な者、賭場の保有者と知れわたっている者、ののしる者、けんか口論する者と知れわたっている者、合法的な目的なくして、さすらい、徘徊する者、常に徒食している者、治安を紊乱《びんらん》する者、合法的な仕事につかないで、しょっちゅう売春宿、賭場《とば》、アルコール飲料を提供する場所へ出入りして時間を費やすのを常としている者、働くことができるのに妻や未成年者の収入によって暮らすのを常としている者は、浮浪者とみなし、九〇日以下の拘禁刑もしくは五〇〇ドル以下の罰金刑に処しまたはこれを併科する」  こんな古くさい条例が現在まで生きていたとは驚いた話だが、 「おい、おい、うかうかしているとわれわれもこの条例にひっかけられるかもしれないぞ」  と、ホリスが冗談をいったほどである。  ともかく、八名の被告人が一〇年ほど前、この条例違反でひっくくられ、起訴された。併合事件である。  うち四人の被告人は、何回か泥棒に入られたことのある中古自動車売り場のすぐそばに夜間停車したところを逮捕され、自動車により窃盗の目的でうろついていたということで起訴された。  一人は、職捜しに車を貸してくれる友人を待って、クリーニング屋へ入ったり、町角を行ったり来たりしているところを逮捕され、放浪者ということになった。  一人は、女友達の家に車できたところを逮捕され、泥棒と知れわたっている者として起訴。  一人は、未明に猛スピードの車で帰宅したところを逮捕され、同じく泥棒と知れわたっている者として起訴された。  最後の被告人は、ホテルから出てきたところを警察からポケットを触られてこれに抵抗し、街頭を不法に徘徊《はいかい》し、治安紊乱の行為をしたとして起訴された。  被告人たちは、フロリダ州の裁判所で一、二審とも有罪とされ、上告受理申し立ても棄却されたので、連邦最高裁判所へ上告受理の申し立てをした。  最高裁は原判決を破棄、全員一致の法廷意見は要旨、次のようなものであった。  一 ジャクソンビルの条例は、古く一四世紀のイギリス法に由来し、浮浪者を定義するについて、古めかしい言語を用いている。それらのイギリス法は、もともと労働力の安定確保を目的として、労働者がよりよい条件を求めて居住地から移動することなどを禁じたものだが、のち貧民法の刑事面という性格を持つにいたった。それらの法律を制定させた社会情勢は変わってしまったのに、古めかしい分類は残っている。  二 本条例は、あいまいさの故に無効である。一つには、通常の知識を有する者に、これからしようとする行為が法律で禁止されていることの公正な告知をしていないという意味においてであり、一つには、恣意《しい》的で、でたらめな逮捕と有罪判決を助長するからである。  三 また、本条例は、現代の規準からいくと普通は罪とならない行為を犯罪としている。それらの行為は、歴史的に人生の楽しみの一部とされてきたものであり、憲法や人権宣言に掲げられていないけれども、人々に独立感、自信、創造感を与えてきたものである。本条例のこの側面は、かつて当裁判所が、立法者において、すべて考えうる犯罪者を捕まえるに十分な網をはり、裁判所に対して誰が正当に拘禁でき誰が自由にされるべきかを委ねることができるとすれば、それは確かに危険なことであると判示したことを想起させる。デュー・プロセスの趣旨は、この浮浪者取締条例にも適用があるのである。  四 修正四条と一四条は、「相当な理由」があるときのみ、逮捕を許している。将来の犯罪性が一般に浮浪者取締法の存在を正当化する理由とされており、フロリダ州も、浮浪者取締法は放浪を思いとどまらせて、犯罪を防止するために必要な規則であるとしている。しかし、警察に対するすべての「疑わしい」者を逮捕せよとの立法者の指示は、憲法の検閲を通過することはできない。また、放浪したり無為徒食の生活を送る者は未来の犯罪者になるという想定は、法の支配にとってあまりにも不確かなものである。浮浪者取締法は、警察にとって有用なものであろう。しかし、法の支配は、法の適用における平等と正義を含んでいる。ジャクソンビル型の浮浪者取締法は、正義のはかりが一方に片よりすぎていて、公平な法の執行が不可能なことを教えている。  五 本条例は、憲法の規準に合致させることができず、明白に憲法に違反する。  刑罰法規は明確でなければならない。警察の恣意的な逮捕を戒め、適正手統きの滲透を説いたこの判決を日本の戦前に行なわれた行政検束、および戦後の別件逮捕、たとえば東十条事件ではバーにツケが残っていたのを無銭飲食にして詐欺罪にひっかけた例などと思い合わせて、さすがにアメリカの最高裁だと感心した。  せっかくのフロリダまで遠路をやってきたというのに、ジャクソンビルに一泊しただけで僕たちは翌日、はやばやと帰路につかねばならなかった。 「浮浪者取締条例はもう有名無実だから、あわてて帰らなくても良いのよ」  エロイーズの姉さんにそんな冗談をいわれたりしたが、ロスアンゼルスから電話がかかってきて、僕の予定に変更が生じたものである。最初はひとりだけ先にロスに戻り、妻とボーデン夫妻にはゆっくりフロリダ旅行を楽しんできてもらおうと思ったのだが、ホリスが首を横に振った。ここからハンツビルまで一日ではかなりの強行軍になるが、こなして行けない行程ではない。 「朝の飛行機に間に合わせればよいのだから、夜中に着いたって構わないじゃないか」彼がいってくれるので、ランチをとるのもそこそこに、ジャクソンビルに別れを告げた。  フロリダからジョージアを真っ直ぐに縦断し、チャタヌーガへ抜けるインターステーツ・ハイウェイ75というのがある。ボーデン夫妻が交替でハンドルを握り、制限スピードをずっと超えてぶっ飛ばしてくれた。もちろん、CBのお世話になり、パトカーの動きを探知しつつ——。  ティフトンをよぎり、しばらく行ったところでハイウェイを左折する。田舎道へ入っても、アメリカの道路はニートで、すばらしい。プレインという小さな町でガスを補給。 「カーター大統領の出身地だよ」  ホリスにいわれて給油所の看板を見上げると、“ジミー・カーター給油所”とある。 “ジミーズ・コーヒーショップ”に、“カーター土産品店”——町中がジミー・カーター一色だ。  土産品店に入ってみる。ピーナッツとジミーの名をつけたジャンクばかりで、手にとってみたいような代物は一つもない。壁にこの店の女主人らしい人とカーター夫人が一緒にとった大きな写真が誇らしげに飾られていた。その隣のポスターがおもしろい。カウボーイハットのジミーが背広姿のテディーに向かって、 "I'll whip your ass!"  面と向かってケネディ議員に、カーター大統領が実際にいったと伝えられるこの言葉の意味は、選拳にのこのこ出てきたら、「コテンパンに負かしてやる!」 「南部の田舎男の意地もあるんだな」ホリスが解説した、「イギリス系の名門ケネディ家の御曹子《プリンス》に対して」  エロイーズがピーナッツ入りの砂糖菓子を買っていると、ホリスがぶつぶつ独り言をつぶやいた。 「この店のものはなんでも、外の店より五〇セントは高い。カーターへの献金かな。もっともアメリカへ輸入されるスコッチには、ケネディ家の“関税”がついているから、それに比べればかわいいものだ」  カーター家の近くで車をスローダウンさせると、大道にまで出て警戒にあたっていたオマワリがこわい顔をしてこちらを睨んだ。 「カーターは、日本ではどう思われている?」ホリスがぶっきらぼうに訊いた。 「さあ、知らないな。大平総理がアメリカ人にどう思われているか、というのと同じじゃないかな。その程度の関心しかない」 「エドワード・ケネディは?」 「二人の兄貴ほど魅力のある人間ではないね」 「大統領選挙には、カーターに勝つと思うかね?」 「僕が思うことに、あまり意味も価値もないよ」 「でも、どちらが勝つと思う?」 「カーターかな」 「どうして?」 「チャパクイディック事件で、ケネディはミソをつけたよ。あの一事をもってしても、彼は人間失格だ」 「でも、あのすぐあと、一九七〇年の上院議員選挙で、彼は大勝利を博しているよ」 「アメリカ人は忘れっぽいのか、寛大なのか……」 「あるいは、スチューピッド?」 「それは僕がいった言葉じゃないよ。でも、もしケネディを民主党が次期大統領候補に選んでしまうんだったら、そうもいいたくなるだろうね」 「では、カーター対レーガンで大統領選挙が行なわれたら?」 「どちらが勝っても感心しないね。しいて言えば、カーターに勝たせたい気がするよ。レーガン・スマイルがどうも僕は好きじゃない」  プレインの町は瞬く間に通過した。  ピーナッツ畠は見当たらず、その代わり縦横整然と植えられたピコン林が行けども行けども果てしなく続いていた。  単調な外の眺めに、僕はいつしか眠ってしまった。運転しているホリスにはわるいと思いつつ、だがキャデラックのシートの心地よさと、ここ数日来の疲れには克《か》てなかった。  目がさめたとき、車は闇の中を走っていた。もうアラバマ州へ入ったのだろうか。 「じき、モンゴメリーの町がみえるよ」  ホリスがうしろをふり向いて教えてくれた。  死刑の宣告をうけたスコッツボロ・ボーイズが、モンゴメリー市郊外のキルビー監獄へ押送されたのは一九三一年四月下旬のことであった。無期懲役となったまだ幼顔が消えないロイ・ライト少年ひとりを残して、八人の死刑囚は四台の護送車に二人ずつ手錠で繋がれて分乗、前後厳重な警戒のもとにいよいよデス・ハウス送りとなったわけである。久しぶりに仰ぐうららかな春の日ざしが、少年たちに自分たちを待ち構えている暗い運命と死の恐怖をしばし忘れさせ、自由の身となった錯覚を起こさせた。  キルビー監獄は野のただ中、外界から遮断され、ひとつだけぽつんと建てられていた。高く、厚い、灰色の壁の中、鉄格子をいくつかくぐると、二階建てのビルにぶつかる。そこが処刑場と、死刑囚を入れておくデス・ハウスであった。一階の廊下の左右にそれぞれ八つずつ、計一六の独房があった。独房とはいっても各室に二、三人が押し込まれていて、この死の家はフル・ハウスの観を呈していた。みな黒人ばかりであった。  少年たちは恐る恐る廊下の端にある緑色のドアをみた。そのすぐ裏側に電気椅子がおかれているのだ。そこに坐らされた人の声はもちろん、息づかいまでが聞こえる近さにある。中はみえなくても、その状態は手にとるようにわかるのである。  死刑執行日が近づくと、死刑囚の耳や感覚は異常なほど敏感になる。毎日、毎時が死の恐怖との戦いであり、そのことをいくら考えまいとしても不可能であった。ついに発狂して自殺してしまった囚人もいた。  六月二二日、上級審へ控訴のため、七月一〇日と決められた死刑執行の日どりが延期され、一先《ひとま》ずほっとする。  スコッツボロ・ボーイズが初めて電気死刑室に送られる人をみたのは、奇しくもこの日——自分たちがその椅子に坐らされようとしていた——七月一〇日のことであった。  ウィル・ストークスはバーミングハムの出身で、一人の白人を殺害した容疑によるものであった。彼が呼び出されたのは、すでに真夜中に近かった。彼はあちこちの房をめぐり、みんなと握手をかわし、好運を祈った。そしてグリーン・ドアの向こうに姿を消し、再び現われることがなかった。 「なにか言い残すことはないか?」  典獄はいつも死刑執行の直前に聞いた。 「あんたは無実の者を殺そうとしているんだよ」  多くの者がそう答えた。  ウィル・ストークスはなにもいわなかった。電流が二回流され、それですべてが終わったのである。  一三歳から一九歳にしかならぬ少年たちをその場においたとは信じられないほど残酷な話である。少年たちは死の恐怖に以前にも増してうち震え、それから数日間は寝ることも食べることもできなかった。そしてそれは、彼らのこの地獄の苦しみの始まりでしかなかった。それ以後も、次から次へと無数の死刑囚がグリーン・ドアの向こうに消えるのを見、聴かねばならなかった。  スコッツボロ少年たちの暗い前途に、かすかながら一条の光明がさすのは、翌一九三二年、暮れ近くになってからのことであった。  一一月七日、アメリカ合衆国連邦最高裁判所が、アラバマ州の刑事司法に介入した。スコッツボロ事件にニュー・トライアル——新しい審理を命じたのである。被告人たちは正当な弁護《カウンセル》を受けることなく、このことは合衆国憲法修正一四条に違反し、同条に保障された被告人の人 権《シビル・ライツ》を侵害するという理由であった。  年明けて、一九三三年。  三月二七日、ハンツビルにほど近いディケーターにおいて、裁判が始まる。巡回裁判判事ジェームス・ホートンのもと、最初の被告人席に立たされたのは、ヘイウッド・パタースンである。  裁判記録を読むかぎりは、僕にはこの裁判官が被告人に対して一番公正で、予断・偏見を持たなかったように思われる。一つだけ気に入らないのは、スコッツボロの大陪審が黒人を除外して起訴を決定したのは違憲だとして、弁護人が公訴棄却を申し立てたとき、これをいとも簡単に却 下《オーバールール》している点だ。  ともあれ、裁判は被告人にとって有利に進むかにみえた。ヴィクトリア・プライスとルビイ・ベイツの証言の信用性《クレデイビリテイ》について、数々の宣誓陳述書が提出され、証言もなされた。過去および現在のかんばしからぬ素行にふれ、誓って彼女らはプロスチチュートだといった。  事件の二日前——三月二三日の夜、チャタヌーガのホボ・ジャングルで、二人はジャック・ティラー、レスター・カーターという二人の白人とそれぞれ、「一緒に」性交を行なっている。ヴィクトリアはこのとき、一八歳。ベイツは一七になったばかりの若さだ。  貨車の上でナイフで脅され、ピストルで頭をなぐられたというが、そのいずれをも被告人たちが所持していた証拠はない。凶器も発見されていない。ヴィクトリアの頭に、ピストルでなぐられた傷あとも、出血も認められなかった。  二人の女性の身体検査は「強姦されたあと」一時間から一時間三〇分の間にドクター・ブリッジス、ドクター・リンチの二人の医者によってなされている。  まず、精神状態に異状はなかった。普通、そのような被害のあとにはノーマルな人は昂奮していたり、神経質、あるいはヒステリカルになっているものである。  二医師は丹念に、彼女らの体を調べたが、擦り傷、青あざのようなものも発見できなかった。ゴンドラの角岩《チヤート》の上にほうり投げられ、押し倒されたりすれば、なにかその種の傷あとぐらいはつきそうなものである。  次に、検鏡とヘッドライトを使い、棒先に綿をまいて腟内に挿入した。子宮口までさぐり、綿に付着した物質をマイクロスコープで検査するのだが、二女性の膣内に精子は発見できた。しかしすでに自動力を失っており、ということは精子が死んでいる、つまり古いということを意味し、二三日夜、チャタヌーガのホボ・ジャングルでの性交となら合致する。  ヴィクトリア・プライスが証言するように、六人の健康な少年によって続けざまに四五分間も強姦されたのだとすれば、相当量の精液、および生きている精子が膣内になければならない。  彼女は、性交が繰り返されるごとに、局部がますます濡れていった、とも証言している。  二人の医師は、彼女の局部のまわりに精液の付着がないかを調べた。彼女はパンティーをはいたまま強姦されたというのだが、ブリッジス医師は、彼女の膣から出血を認めず、パンティーが引き裂かれていた、あるいは血や精液がその上に付いていた、とは証言していない。腿の内側に、乾いた泥や埃と一緒になったしみのようなスポットを発見しただけである。陰毛の中に、少量ながら精液のような物質の付着があったが、これも乾いていて、古いものである。  一方、黒人たちの方は逮捕直後、ズボンや衣類を検査されているが、精液はおろか、濡れたり、しめったりしたそれらしい痕跡《こんせき》を見たという証言は全くない。  四月七日、ルビイ・ベイツが証人席について語り出したとき、陪審員たちは耳を疑った。 「ヴィクトリア・プライスも私も、黒人たちに強姦された事実など、全くありません」  さきのスコッツボロ法廷における彼女の証言を全面的に撤回し、ヴィクトリアにそそのかされた非を認めたのである。  検察官トーマス・ナイトは激怒し、買収されているにちがいないベイツの証言に耳をかさぬよう、陪審席に向かって大声をはりあげた。  さすがにこのときの陪審評議はもめたらしい。二四時間近くもかかっている。評議が長びくのは被告人にとって悪い徴候ではない。だが、談笑しながら法廷へ戻った陪審員たちは、いとも簡単に有罪と死刑を答申し、ホートン判事は死刑の日を六月一六日と決定した。  ルビイ・ベイツが、最後の証人として席につき、それより僅か二日後、四月九日のことであった。  ホートン判事が苦悩したであろうことは、無味乾燥な訴訟記録の上にも行間を読めばよくあらわれている。  アメリカの陪審制度は州によって異なるが、アラバマのように審理陪審が被告人の有罪、無罪を決めるだけでなく、量刑作業も含めて、陪審の役割りとする州と、量刑を定めるのは裁判官に任せ、有罪・無罪の答申だけを陪審に決定させる州とがある。陪審の活動範囲が広く、裁判官の権限が制限されているのである。  六月二二日、ホートン判事はついにパタースン裁判のやり直しを命じた。これは非常にといってよいほど、異例のことである。前述の証拠の数々から、有罪判決がひき出されようとは到底、許容しがたかったのであろう。  英米の陪審制度のもとでは、陪審の答申は絶対的拘束力を持っているといってよい。日本の戦前の陪審法には、裁判官は理由を示さずいつでも陪審審理をやり直させることができる国家優位の規定があったが、アメリカでは陪審の事実認定が著しく不合理な場合にしか、陪審審理のやり直しは許されていない。  ホートン判事のこの判断は、大きな波紋を投じた。ナイト検事は、アラバマ州は直ちに新しい審理——三度目の——にとりかかるであろうと言明した。  パタースンに続き、チャーリー・ウィームスやクレアレンス・ノリスが被告人席に着くはずであったが、ホートン判事は、「地元民の激情が静まるまで」、裁判を延期することに決定した。  ホートン判事の正しい、勇気あるこれら一連の措置は、残念なことに、アラバマ州民に理解もされなければ、支持もうけなかった。  次の選挙の結果がそれを証明する。彼は判事の職を失い、公的生活から姿を消すのである。代わってナイト検事が人気の的となり、法務長官から州副知事の地位を獲得した。  一二月二日、ノリス被告人の裁判が始まった。パタースンの三度目の審理はホートン判事の特別声明文の効果もなく、「有罪、電気椅子による死刑」がすでに宣告ずみであった。“スピーディー”キャラハンと呼ばれるその裁判官は、ノリス被告人をもスピーディーに処理し、陪審員に対して彼の心証を明らかにした。有罪答申を望んでいることを隠さなかったのである。証人尋問の際には、ナイト検察官を全面的に支持し、弁護人側の異議をことごとく却下した。  一二月六日、陪審はクレアレンス・ノリスの有罪を答申した。死刑執行を一九三四年二月二日と宣告したが、上告により、執行だけは中止される。  一九三五年。  四月一日、合衆国連邦最高裁判所は、ノリス、パタースン両被告人に対する有罪判決を破棄した。大陪審、小陪審ともに黒人を除外して前者は起訴、後者は有罪を決定しているのが理由である。  一一月一三日、特別大陪審がスコッツボロにおいて招集された。南部諸州が合衆国に再統合されて以来、はじめて一人の黒人がアラバマ州の陪審席に姿を現わしたのである。連邦最高裁の決定にアラバマ州といえども従わざるを得なかった。  しかし、結局、答申は前回と同じで、九人のスコッツボロ・ボーイズに対する起訴が再度決定されただけであった。アラバマ州の陪審法では、全員一致をみずとも、三分の二以上の賛成表示があれば、答申は有効なのであった。  一九三六年。  一月二三日、パタースンが、懲役七五年に減刑される。  一月二四日、パタースンの控訴により、他の被告人たちの裁判は延期される。護送途中にオズィー・パウエルとブラロック保安官との間にトラブルがあり、オズィーは頭を射ち抜かれるが奇蹟的に回復する。だが、廃人同様となる。  一九三七年。  アラバマ州最高裁判所は、パタースン判決を維持した。  七月一五日、ノリスに有罪、死刑の判決。  七月二三日、アンディー・ライトに九九年の刑。  七月二四日、ウィームスは七五年の刑をうける。パウエルに対する強姦罪は公訴棄却、改めて保安官襲撃の罪により、二〇年の刑を宣告される。  ロイ・ライト、ユージン・ウィリアムスら残りの被告人に対する告訴はすべて取り下げられる。  一〇月二六日、合衆国最高裁はパタースン、ノリス両事件の再審請求を却下。  一九三八年。  六月一六日、アラバマ最高裁はクレアレンス・ノリスの死刑判決を維持、八月一九日に死刑を執行すべきことを命令する。  七月五日、グレイヴス知事、ノリスの死刑を無期懲役刑に減じる。  一九七六年。  八月五日、アラバマ州法務長官、ノリスの無罪を表明。  一〇月二五日、ウォーレス知事、ノリスに特赦を認め、無条件に釈放する。  事件以来、実に四五年後、しかもノリスに三度も死刑判決を与えた同じ証拠を調べ、再審理した結果である。  時刻はもう夜半を過ぎていた。行き交う車も少なく、車は暗い闇の中を一路北をさしてひた走りに走り続けた。ヘッドライトの光に照らされて、“テネシー・ヴァーリー”の大きなサインが浮きあがった。この谷を越えれば、ディケーター、ハンツビルまで残すところ、さしたる距離ではない。  テネシー・ヴァーリーは今でこそ高速道路が通り、数分で通過できるが、この路がなかった昔、スコッツボロ少年たちはどのようにして、どのような思いを懐いて谷越えをしたのであろうか。  死刑が宣告されると、彼らはすぐデス・ハウスのあるキルビー監獄へ送られた。新しい裁判が始まると、その間はディケーターやバーミングハム、その他の刑務所へ戻された。何度この路を往復したのかわからない。  オズィーが頭を射ち抜かれたのも、ディケーターからバーミングハムへの帰りであった。 「スコッツボロ・ボーイズの末路は、みな悲惨だね」  エロイーズと運転を交替し、眠っていると思ったホリスが話しかけてきた。  いわれてみれば、その通りだ。パタースンは後年、保釈中にデトロイトで殺人を犯したという。このときは疑いもなく有罪だったが、その後間もなく肺癌《はいがん》で死亡した。  ロイ・ライトは無期懲役だったが、六年間バーミングハムのジェファソン刑務所で服役し、一九三七年釈放された。その後結婚し、妻を嫉妬の激情から刺し殺し、彼もすぐ自殺している。  兄のアンディー・ライトは一三歳の少女を強姦した容疑でまたしても裁判にかけられるが、ようやく無罪になった。 「ノリス自身にしても、人に誇れるような生活をしていないんだな」ホリスが呟いた、「彼も相当ワルなんじゃないのかな?」 「だからといって、それを彼のせいにしてしまっては酷だね」  彼らのために、僕は弁護せざるを得なかった。年端もいかない少年時代から、地獄のようなキルビーやディケーター監獄などにぶち込まれていれば、ワルになってしまっても一概には責められない。 「アラバマ州に責任はないのかな?」 「大あり、だね」ホリスが素直に認めた。 「連邦最高裁は二度にわたって、州の刑事司法に介入しているね。一度はニュー・トライアルを命じ、次には州の有罪判決を破棄している。ともに憲法違反の指摘だ。にもかかわらず、その度毎に、イレクトロキューションの宣告をもって答えているのも、ひどい話だ。正当な弁護活動《カウンセル》も許さず、黒人の陪審員を除外するというのも、アメリカ人らしくない。フェアの精神に反するよ」 「みんなスコッツボロ・ボーイズが無実なのは知っていたんだ」ホリスは少々苦しそうに答えた、「だが、一人の白人淫売婦のインチキ証言の方が、九人の黒人の命より大切だったということさ。彼女の名誉はアラバマの面目にかけて、守られねばならなかった。アラバマにおけるニガーの扱いに、最高裁といえども余計なお節介、口出しはするな、という州民感情がそこには流れているんだ」  結局、この事件の実体は、最初ホリスがいったようにホボたちが白人と黒人に分かれて起こした単純なファイトでしかない。けんかに負けた白人たちが、腹癒《はらい》せに、黒人たちを落とし入れようと仕組んだ卑劣な芝居である。  ヴィクトリアとルビイの二女性はそれに利用され、強姦という虚偽の事実をもっともらしく言い立てただけの話だ。そのため、ヴィクトリアの方は、ペイント・ロックの駅で貨車から飛びおりる際、足を踏みはずしてそのままずっと気絶したふりを続けていた。彼女はスコッツボロの留置場でルビイに口裏を合わせてくれと何度も懇願した。でないと、ビッグ・トラブルになると、おどしもしている。ルビイは不承不承それに従った。  この証言に検察官が激怒したことは先に述べたが、証言に対する検察側の異議を裁判官がことごとく認めているのは、この裁判の性質を物語っている。陪審説示にもそれが現われている。つまり、裁判官が異議を認めた部分の証言は証拠とならず、したがって一旦それらの事柄が頭の中へ入ってしまってもすべて念頭から除去して証言を吟味せよ、と陪審員に念押しまでしている。  ヴィクトリアが、なぜそのような虚偽の証言をするのか詰問されたときの返事もひどいものだ。 "I don't give a damn what happens to the niggers."  黒人たちになにが起ころうと、そんなこと知っちゃあいない——というのである。  人の運命はあるとき、なに気ない行動によって大きく狂わせられてしまうことがある。自分の過失、または軽率な判断がその結果を招くのであればあきらめもつくが、そうでない場合——たとえばこの不幸な黒人たちのように、外的な条件に自分が全く無関係のまま、巻き込まれていってしまう悲劇も、この世の中にはまま起こることを、僕はこのスコッツボロ事件にみたように思う。 STARTLING FACTS M・モンローのヘア  トーマス・野口博士ほど忙しい人はロスアンゼルス市にはいないだろう、と渡辺正清さんはいう。  アポイントメントをとるのに、何週間もまえから申し込んでおかねばならず、ようやく面会できてもせいぜい五分か、一〇分——それもオフィシャル・ビジネスに限られる。  勤務時間外に、私用で人と会うこともほとんどないらしい。八島太郎出版記念パーティに博士が出席したのは稀なケースで、そういう席には顔を出さない人なのだそうだ。 「例のマリリン・モンロー事件以来、博士はすっかりジャーナリスト嫌いになってしまいましてね」渡辺さんが念を押すようにいった、「ノーマン・メイラーみたいに、他殺だという断定のもとに根掘り、葉掘り聞き質《ただ》されるのも困るけど、マリリンのほんとうのヘアの色がどうだったかなど、日本の週刊誌の記者の通俗な質問を博士は最も嫌うんですよ」 「ご心配なく——」僕も苦笑して答えた、「あの事件にはあまり興味ないし、そのことを聞くにしても、別の尋ね方をしますよ」  週末に東京から帰ったばかりだという多忙な野口博士に、渡辺さんを通じて僕がようやく面会できたのは、一九七九年一二月中旬の月曜日の午後、ロスアンゼルス市ミッション通りにあるカウンティ検視局においてであった。  その日、ランチを共にしながら、僕はあらかじめ渡辺さんから、野口博士のバックグラウンドを聞いておいた。  野口恒富《つねとみ》青年がはじめてアメリカの土を踏んだのは二七年前、一九五二年(昭和二七)六月二四日のことであった。まだ二五歳の若いインターンで、カリフォルニア州オレンジ郡立病院に就職がすでにきまっていた。 「野口博士が常の人と異なっているという意味でならば、確かに異常といっていいでしょう」渡辺さんはいう、「異常ながんばり屋で、異常な勉強家、そして異常なほど現実の把握力と将来への洞察力を持っています。まだ英語もよく話せない若い医学生が着のみ着のままで渡米してきて、四〇歳の若さでロスアンゼルス・カウンティ検視局長の地位にまで昇るには、異常な努力がなければできるものではありません」  その職につき、地位を維持するには、彼一流の努力の積み重ねがあった。  一九四七年(昭和二二)、野口青年が日本医科大学へ入学した頃、日本は敗戦の疲弊からまだ回復していなかった。戦時中の空襲の戦禍に国民は徹底的に打ちのめされ、精神的にも物理的にも深い痛手から立ちあがることができず、貧困と飢餓にあえいでいた時代である。  東京の焼け野原に立ちつくして、野口青年は自分の生きてゆく道を考えた。敗戦の失意の中から抜け出すべく、一大決心をする。入学第一日目から友人の誰ともつきあわず、ひたすら勉強だけの生活を自分に強い、初志を貫徹することを。学ばば、まさに群を超ゆべし。  それまでは好きでしようがなかった酒と煙草をぴったりやめた。人とつきあったり、酒を飲みに出掛けたりするのは、時間と金の浪費と考えたわけだ。  朝は六時に起床して、勉強。大学の講義を休んだことは一日もない。昼食は抜き。どうせ食べるものもないが、食べれば眠くなるからだ。  夜は停電になることが多く、そんな時はいつも外へ出て、街灯の下で本を読んだ。寒い夜、マントに身を包んで電柱によりかかって勉強する野口青年は、巡邏《じゆんら》のおまわりさんとも顔なじみになり、その頃は尊かったアメ玉などをもらい、激励された思い出もある。電力事情がよくなり、幸い下宿の近くに東大図書館があったので、そこで一〇時まで勉強。就寝はいつも一〇時一五分ときめていた。  父親は横須賀で耳鼻咽喉科を開業していた。週末にはそこへ帰り、近くのアメリカ海軍病院へ通った。医学書を書き写し、メディカル・タームを片っぱしから覚えた。軍医たちとも親しくなり、進んだアメリカ医学に心を惹《ひ》かれていったのはこの頃である。  医大病理教室へ入ってから、法医学という新しい分野に目を向けはじめた。法律も勉強しなければならぬと思い、中央大学第二法学部に通う。  やがて医大を卒業し、東大病院でのインターンをすませると、野口青年の心は遠くアメリカへ飛んだ。全米の著名な大学病院、医学研究所、郡立病院に自分を受けいれてほしい条件を書き並べた就職依頼の手紙を一千通も出したというから、これまた野口一流のアプローチだ。こうして彼は自分の望む条件に最も適したオレンジ・カウンティ・ホスピタルを選んだというわけだった。  渡米第一日、この日から野口青年は恒富という名がアメリカ人には発音しにくいといわれ、トーマスとアメリカ名に変える。そして三〇歳まであと五年しかないことを思い、その間の生活信条のようなものを決める。十有五にして学に志したからには、遅くも三〇にして世に立たねばならない。医大入学のときの決心が、ファースト・ステップなら、これはそのセカンド・ステップということになる。  ——日本語を絶対に使わないこと。  ——日本からの友人を絶対につくらないこと。  ——思いきり働いて、白人なみになること。  ここロスアンゼルスには現在、日本人留学生が数多い。なにを勉強しにきたのかわからない連中もみかけるが、大部分がまじめに勉強している様子だ。このまじめ型学生の中に、野口博士の影響でもあるまいが、日本人とは一切つきあわないで勉学一途、というパターンがみられる。  ——日本語を使わなければ、それだけ英語がおぼえられる。  ——交際を避ければ、それだけ時間と金が節約になる。  そこまでして勉強しなければならない心理が、凡人、かつ怠け者の僕などには到底理解し得ないところであるが、野口青年はともかくもそれをやってのけるのである。  オレンジ郡立病院での最初のアサインメントは産婦人科であった。八月には麻酔科に移り、新しい経験をつむ。 「特別に勉強ができる学生ではなかったです、と野口さん自身もいうように、彼はいわゆる秀才型の人ではないんですね」渡辺さんがいった、「だが、非常な努力家で、刻苦勉励の人ですよ」  病理学の分野ではとくに腕をあげ、ドクター・野口の実力は一九六一年、ロスアンゼルス・カウンティ検視局に聞こえ、招聘《しようへい》をうけることになる。いよいよメディカル・イグザミナーとしての生活がはじまるのだが、その間、マリリン・モンローやロバート・ケネディの解剖を執刀したことで一躍、日本のマス・コミュニケーション界にも広くその名を知られるようになった。  六七年一二月、チーフ・メディカル・イグザミナーの退職に伴い、野口博士が局長のポジションを継ぐ。まだ四〇歳の若さだったが、実力ナンバー・ワンの彼に対して表だって文句をいうものは現われなかった。それに、郡のボード・オブ・スーパーヴァイザーズ(ロス市をはじめ郡内の重要公職につく者の任命・罷免権を持ち、その監督をつかさどる参事会)が全米からの応募者に対して行なった難しい試験を堂々二番で突破しての就任であった。一番のドクター・ブラウンは年俸や勤務時間のことで折り合いがつかず、三番のドクター・スミスはあまりにも二番にひき離された成績であった。ほかによい候補者——白人の——もみつからないまま、ともかく最初は六カ月間の“局長代行”のルーティーンを踏ませてみよう、というような参事会の空気であったらしい。  この年、二月に刊行された刑事司法に関する米大統領諮問委員会報告書に「自由世界における犯罪の挑戦」がある。警察と一般市民との間の関係改善が大きな問題とされ、「少数民族から警察官を任用し、彼らを第一線に立て、また公平に昇進させること」が優先的にとられるべき方針だと打ち出されていた。このリポートも野口博士に幸いした。  だが、それはあくまで表面上の建て前でしかなかった。大都市ロスアンゼルスを擁するカウンティ検視局長の要職に“黄色い顔”をした“ニッケイ”が就いたことに、やがて白人社会の不満がくすぶり出し、爆発する。  野口博士の前途は一見洋々とみえながら、さまざまな困難、陥穽《かんせい》が待ちうけていた。  アラバマは寒かったけれど、ロスアンゼルスは師走にはいっても夏のように暑く感じられる日があった。  約束の刻限ぴったりに、僕は冷房がよくきいた検視局長室に案内された。かなり広い部屋で、星条旗と大統領の写真を背にした大きなデスクを前に、野口博士は背筋をまっすぐのばして坐り、訪問者を待ちうけていた。写真にみるように、博士は端正な顔だちで、背広の着こなしもなかなか瀟洒《しようしや》である。  話しぶりは、早口の東京弁になれた僕の耳にはいささかスローな感じがした。日本語もながらく話さないと、熟語などは忘れてしまうものらしい。適当な語を選ぶのに慎重で、時間がかかり、英語の方がさきに浮かんでくるらしかった。 「法医学って、応用医学の一分科なんです。医学を基礎として、法律的に重要な事実関係の研究・解釈・鑑定をする学問——変死体などの死因、死亡時刻の推定や、身元・親子関係の鑑別、精神鑑定なども含まれます。こんな例をとれば、わかりよいでしょう」  博士はそういって、古い中国——宋の時代の話を持ってきた。  法廷で二匹の豚を焼いた。一匹は生きたまま、他は殺しておいてから。  あとで、豚の口の中をそれぞれ調べさせた。生きたまま焼かれた豚の口の中には煤《すす》がたまっていたが、死んでから焼かれた方の口中にはなにもなかった。 「この簡単な原理が、現代の法医学にも使われるんです」博士が続けた、「たとえば、焼死体の鑑別などに——」  火事場に焼死体が発見される。逃げおくれて焼け死んだものか、他殺体を証拠湮滅《いんめつ》のため、あるいは過失死とみせかけるためのものか、いろいろ疑問が起きる場合もあるだろう。だが、死体は事実を雄弁に語ってくれる。解剖して、口中、気管、肺臓などに煤がたまっていれば、生きていて呼吸をしていた証拠——つまり、焼死体だということになる。反対に、煤がたまっていなければ、これには間違いもなく犯罪の臭いがする。死んでから、あるいは殺されてから、焼かれたという千年前の発見の原理が生きてくるわけだ。もちろん現代では血液を科学的に調べて両者を正確に区別する方法も用いられるが、法医学は犯罪の闡明《せんめい》に応用されて、殺人に対する死因、犯行の時刻などを扱う犯罪医学、あるいは裁判医学ともいうべき重要な科学に発達した。  大分むかしの映画だが、「椿三十郎」の最後の決闘場面で、仲代達矢が三船敏郎にやられるシーンがある。水道管から水が噴出するように、血液がものすごい勢いで切り口からふき出すのをみて、肝をつぶしたことがある。あれは作り事ではなく、刀や庖丁《ほうちよう》で人体に切りつければ、傷の大小にもよるが、被害者の血管から血しぶきが飛散するのは事実なのだそうだ。  加害者の衣類に、その飛沫《ひまつ》が付着する可能性は大である。だから、殺人事件の場合、容疑者のそのときの着衣に血痕がついているかいないかを調べるのは当然だし、それが被害者の血液型と一致するかどうか、血痕検査は法医学のなかでも最も重要な鑑定になるという。 「ところで、アメリカのテレビ番組『クインシー』をみたことがありますか?」博士はとうとつに話題を転じていった、「あのドラマをみればおわかりでしょうが、私たちが働くオーガニゼーション——これが検視局と訳されているのは正確ではありません」  局の呼称には、LAPD(ロスアンゼルス市警察)の一下部組織であるかのような響きがあって困る、と博士は口をとがらせる。  検視官は、コロナー、もしくはチーフ・メディカル・イグザミナーと呼ばれる。多数の法医学者たちに補佐され、さらに一七〇人もの部下がいるし、市警の下にあるどころか、これを監督し、独自の警察権を持っているのだ。八二の都市をふくむ人口七〇〇万の地域、またLAPDのほかに四〇ほどのポリース・エージェンシー(警察機関)をうけもつ総合独立官庁とあれば、カウンティも郡とせず、地区と訳した方が世帯の大きさをうかがわせる。そしてロスアンゼルス郡が全米でも最大の行政機構を持っていることは先に述べた通りである。  そのコロナーの地位が、警察署長と同格、あるいはそれ以上に高いことも、すでに渡辺さんから聞かされていたが、博士はそんなことを印象づけようとして言っているのではない。アメリカの検視機関は、要するに、日本の監察医務院とも異なり、警察庁に従属しているのではなく、警察官と一緒に仕事することはあっても、独自の、独立した捜査権限を行使することができる点を博士は強く指摘しているのだ。 「日本の警視庁を例にとれば、庁内に検視官室というのがあるでしょう?」  博士は僕の返事を待たずに説明を急いだ。  検視官室の長には警視がなり、その任務はいわゆる変死体を検視して、死体に犯罪性があるかどうかを見きわめることになる。変死体を調べて、他殺の疑いがあれば、死因の解明は専門の法医学者の判断に委ねることになり、解剖結果を待つ。 「このあたりも、アメリカと日本の警察がちがうところです」博士がいう、「変死体や他殺体に手を触れることを許されるのは、最初は検視官だけなのですよ」  法医学者が死体を解剖して死因を明らかにするのは、その主たる任務だが、犯罪捜査にまで直接たずさわることなど、まずないといってよいのが日本の現状だ。  アメリカの検視官は「クインシー」のように、死因解明と犯罪捜査の両方に関係し、しかも警察の捜査に追随することなく、独立した立場でインヴェスティゲーション(捜査)を行う。博士は再び、この点を強調した。ついでだが、「クインシー」に出てくる東洋人の監察医はかつての野口博士がモデルらしい。  博士はさらに、現代のアメリカ刑事司法の中で法医学がいかに大きな部分を占めるか、その裏付けのない立証方法がいかにもろく、裁判の段階で崩れ去ってしまうかを、熱っぽく語った。 「私が日本にいる時、松山事件の再審開始の決定がありました。もっとも、これは地裁の段階で、検察側が例によりすぐ抗告するとは思いますが……」  渡米以来、日本の新聞を全然読んでいない僕はその決定について何も知らなかったが、博士は裁判の経過そのものにもかなり興味を持っている口ぶりであった。  ホテルに帰ってから、いそぎ『再審』という本の資料の部を繰り、事件の概要を知ったのだが、次のようなものである。  一九五五年(昭和三〇)一〇月一八日午前三時頃、宮城県志田郡松山町新田の日雇業小原忠兵衛宅から出火があった。午前四時すぎ鎮火したが、小原宅は全焼、焼け跡から夫婦と子供二人の焼死体が発見された。四人の焼死体の頭部にはいずれも割創があったことから、捜査本部は殺人・放火事件として捜査を開始した。しかし本部は犯人を検挙できぬまま、解散。  事件発生後四五日を経過して一二月二日、斉藤幸夫(当時二四歳)が東京で傷害容疑で逮捕された。別件逮捕である。  捜査当局は、傷害について取り調べをほとんど行なわず、もっぱら放火・殺人事件について追及し、たくみな強制・誘導・謀略的取り調べにより、斉藤はついに虚偽の自白に追い込まれた。その後、否認、また自白と供述を変えはしたが、一二月二〇日以降は一貫して犯行を否認してきた。  斉藤は強盗殺人および放火罪で起訴され、一九五七年一〇月、仙台地裁から死刑の判決をうけた。以後の経過は次の通り。  五九年 仙台高裁で控訴棄却  六〇年 最高裁で上告棄却  六一年 第一次再審請求  六四年 右再審請求棄却  六六年 仙台高裁で即時抗告棄却  六九年 最高裁で特別抗告棄却  六九年 第二次再審請求  七一年 右再審請求棄却  七三年 仙台高裁で右棄却決定取り消し、仙台地裁へ差し戻す旨の決定。  この事件で、斉藤と犯行を結びつける物的証拠は、斉藤宅から押収された掛け布団の襟カバーに八十数群の血痕が付着しており、その血液型が被害者らのそれと一致する、ということだけである。  だが、公判には提出されなかった家宅捜索押収報告書に添付されていた襟カバーの写真をみると、血痕らしいものは一点だけしか認められない。法廷に提出された襟カバーには多数の血痕が付着しており、東北大学法医学教室三木助教授の鑑定書がついている。  弁護団はこの矛盾をついた。  警察・検察側に対し、右写真のネガの提出を求めたところ、紛失を理由に提出を拒否してきた。  弁護団は千葉大写真工学科石原講師に、八十数群の血痕がついている襟カバーを撮影して、血痕が一カ所しか写らないということがありうるか否かの鑑定を依頼した。  そのようなことは起こり得ない、との結論を得た。  以上の点から、弁護団が、問題の襟カバーの血痕は捜査当局によって偽造されたのではないか、との強い疑いを持ったのは当然である。また常識的にも、犯人が事件発生から五〇日以上も、血痕の付着した襟カバーを放置していたことは考えられない。  一九七〇年一一月、弁護団の強い要求と仙台地裁の勧告によって検察官が提出した未提出記録中に、当時宮城県警鑑識課法医主任であった平静夫氏がこの掛布団につき血痕付着の有無を鑑定した書類が存在した。  平鑑定書は「掛布団裏面にはベンチジン、ルミノール反応とも陰性」との結論であるが、弁護人に対しては「裏面と記載してあるが襟カバーを除外するという意味ではない。襟カバーも含めくわしく観察したが、血痕様の汚斑《おはん》はきわめて少なく、県警では鑑定できないので東北大学法医学教室へ持っていってもらった」と述べていた。  しかるに平氏は、証人としての仙台地裁での証言では、「裏面しか検査しなかった。襟カバーはよく見なかった」と述べて弁護人への返事をくつがえした。しかし、襟カバーの汚斑は一〇点以下であり、のちに三木鑑定で八十数群の血痕が付着していたとされたことを聞き、「夢にも思わなかった」と証言している。  このように、唯一の物証とされてきた襟カバーに対する疑惑が強まり、捜査官の証拠偽造が浮き彫りにされたわけである。 「この事件など、他に再審請求をされている事件と同じく、再審になればまず無罪判決になるだろうことは間違いないそうですね。だが、どうして日本では、再審への道がこうも長く、その壁が厚いのでしょう?」  博士はそういって嘆じたが、僕も全く同感であった。  二人はしばらく、白鳥決定以来、いくらか前向きの姿勢をみせはじめた再審問題について語った。  たとえば、この松山事件にかかる最初の再審請求を棄却したとき、 「再審裁判所は再審を開始するかどうか決定するに当って心証形成をやり直すものではなく、有罪判決の心証を受け継ぎ、新たな証拠によってその心証をくつがえすことができるかどうか判断するのであるから、本件犯行の動機、犯行現場までの経過、犯行直前直後の行動、帰途などについてその自白の中に表われた事実それ自体が通常の経験則にてらして不自然であるかどうか判断することは確定判決の心証形成そのものに立ち入ることになるのであって、再審裁判所の権能の外にあるというより外はない」  というのが決定理由であり、裁判所は従来の厚い殻の中にこもったままの立場を固執した。  しかし、国民の人権意識がたかまるにつれ、日本の裁判所も確定判決の有罪心証を引き継ぎ、そのうえで新しい証拠の新規性と明白性を評価するといった厳しい態度を改めざるを得ず、疑わしきは確定判決の利益にではなく、被告人の利益に解されるべきだとする白鳥決定を博士と僕は歓迎した。  検視官として野口博士が関係したアメリカの事件について、なにかおもしろい話を聞かせてもらえるかと僕は期待していたのだが、博士の話はそれからもなかなか日本の法医鑑定から離れず、こんどは弘前、財田川の二事件をあげて、証拠としての血液型の価値判断にまで話が進んだ。  マリリン・モンローやロバート・ケネディの話はいつ聞かせてもらえるやら見当もつかず、約束の時間はとうに過ぎてしまったので僕は内心やきもきしていた。  もっとも、マリリンの話を聞くといっても、僕が彼女の死について知るところは無にひとしい。ノーマン・メイラーの『マリリン・モンロー その神話と真実』を読んだ記憶はあるが、ほとんどなにもおぼえていない。彼女がケネディ大統領の愛人で、その事実が明るみに出るのを恐れた秘密警察が自殺のようにみせかけて、彼女を消してしまったというセンセーショナルなニュースもどこまで信じてよいかわからない。  実は今日の午後、この事務所に向かう途中、マリリンの死が自殺か、他殺かについて、週刊誌的な知識でもよいから仕入れておこうと思い、渡辺さんが貸してくれた二、三の雑誌に目を通してきた。その中にこんなのがあった。マリリンの局部から男性の陰毛が発見されたが、死体検案書にはその事実が記載されておらず、その男性が誰であったか追及されず、そのまま不問に付されてしまったというのである。  野口博士はマリリンの死の真相を知っているのであろうか?  過去、恐らくは何百回となく尋ねられたであろうこの質問を、今さら僕がしてみたところで、たとえ博士が真実を知っていたにせよ、答えてはくれないだろうと僕は思った。  秘書がまた、何度目かのインターフォーンをならした。誰か面会者が待っているらしい。博士は短い指示を秘書に与え、委細かまわず一冊の古びた雑誌を抽斗《ひきだし》からとり出すと、ページを繰って僕にさし出した。 「このアーティクル、読んだことがありますか? 血液型によって殺人事件が“解決”された一例です」  雑誌は「キング」、昭和二七年の一〇月号だから、かなり古いものである。  精鋭捜査陣の語る極め手の鍵。 犯罪は逃がれる余地があるか?  と題する座談会で、出席者は当時は東京医科歯科大学教授であった古畑種基博士、作家の江戸川乱歩氏、警視庁刑事部鑑識課岩田係長ほか二名の警官たちである。 「最近やられた鑑定の中でおもしろいものがありませんか。あの東北の事件なんかどうですか」  と江戸川氏に聞かれ、古畑博士は次のように答えている。  ——あれね。東北の人口六万ぐらいのある都市で、美貌のある大学教授夫人が殺された事件があった。折あしく御主人は出張中で不在であった。夜一一時頃、母と二人で寝ていたところを鋭利な刃物で頸部を切られた。 「もう死ぬ」という悲鳴に驚いて眼をさましたお母さんの傍らには、血に染まった奥さんが倒れていた。蚊帳ごしにみると、シャツをきた若い男が逃れて行く後姿がみられた。届け出によって出張した係官がいろいろ調べたが、なにもとられていないので物盗りではない。また、その夫人は、人に殺されるような欠点のある方ではないことも明らかになった。家の庭石に点々として血痕がついていた。血を伝っていくと、路上の諸所に血痕があり、ある竹垣の笹の葉にも血痕様のものがついていたが、その後ろにある家に容疑者が母と妹と三人で住んでいた。この人は犯罪研究家であると共に多少変態性のところがあって、結婚したばかりの友人のところに夜おそく出かけて、のぞき込んだり、急に友人の頸をしめてみたり、また歩行には少しも音をたてぬような特有の歩き方を研究したりしていた。警察ではひそかに、犯人の探索にあせっていた。たまたまこの容疑者が血のついたズックの白靴を友人の宅にあずけてあったことから足がつき、家宅捜索をしたところ、点々と飛沫状の血痕のついてるシャツが発見された。  血液型を調べると、靴の血も、シャツの血も路上の血痕も人血でかつB型であった。被害者の血液型もB型であった。ところが容疑者は自分の血がついたのであると弁解するので、その男の血液型をしらべるとB型であった。それから被害者の血と容疑者の血と問題のシャツの血痕との異同をなんとかしてきめたいというので、MN式、Q式、E式で血液型を調べていったところ、被害者と問題のシャツの血液型はBMQE型で完全に一致し、容疑者の血でないことが明らかになった。  しかしこの血液型がどのくらいの割り合いで一般の人のなかに数えられるかというと、一・五パーセントである。従ってこの市に、被害者以外にも同型の血液所有者がいるので、このシャツの血が、被害者の返り血を浴びたものとする確率をある数学者に計算してもらった。その結果によると、その確かさは〇・九八六という数字が出たので、シャツの血は被害者のものであると鑑定した。ところが、弁護人がその血液型の頻度が一・五パーセントであるとすると、この市の人口六万人のなかに、九〇〇人同型の人がいることになる。だのに、シャツの血が被害者のものである、ということは承服できない、という異議を申し立てた結果、証拠不十分で、裁判所では無罪の判決をくだした。  検察庁その他で、これを不当として控訴したため改めて裁判が開かれた。そこで私も鑑定証人として質問をうけた。私は、被害者以外にも同型の人は多数ある。しかし、問題のシャツの血痕は、動脈から飛散した血しぶきの痕と考えられるので、動脈を傷つけられている人からでないとつく筈はない。この殺人事件のあった頃、BMQE型の人で、しかも動脈を切られている人が被害者以外にもあり、その血がこのシャツにつく可能性が認められるとすれば、初めて、このシャツについている血が被害者の血でないか、どうかを判定する必要が起こるのである。かかる人が存在しない限り、このシャツの血と同型の人が何十万おろうとも問題とする必要はないであろう、と考えますと説明した。  その時、確率が〇・九八六であるという意味を説明せよということであったので、私はここに一〇〇人の陪審員があるとする。いま陪審員長が、みなのものにこの血は被害者の血がついたものと考えますかと質問したときに、九八人の人は手をあげ、一人が半分だけ手をあげ、一人だけ手をあげなかったという成績である。これをなんと解釈するかは裁判長殿の自由意志である、とお答えしたのであった。  その結果、裁判長は前審を破棄して無罪をとり消し、あらためて一五年の懲役刑を言い渡したのです。 「これは弘前事件の話ですね。ちょうど僕が沖縄から日本へ逃げ帰った年——一九四九年(昭和二四)の夏に起こった殺人事件なので、よくおぼえています。それに、これと全く同じ話を『法医学の話』という本でも読みました」  そういいながら、僕はつい去年読んだばかりの「冤罪」という岩波新書も同時に思い出していた。その中にこの公判のもようが詳細に書かれている。著者の後藤昌次郎氏の冤罪論にはすっかり共鳴し、僕の陪審制度復活論とともに著者の意見の受け売りをしばしば、書評やエッセイなどに書かせていただいているくらいだ。 「私が日本にいた頃、まだ法医学の研究は進んでいませんでした」待ち構えていたように野口博士が言葉を継いだ、「法律的解釈をせず、ただ人殺しかどうだったかのカンによる捜査だけ。法医鑑定は捜査当局の都合のよいように利用されていただけです」 「そういえば、日本で法医学というものの重大性が認識されてくるのは、下山事件における死後轢断《れきだん》か否かの論争以来ですね」 「そうです。そしてこの弘前事件の公判では、法医学上の鑑定結果が証拠として採用されるかどうかで、各方面から注目されていたテスト・ケースだったのです」 「被害者は、弘前大学教授夫人、まだ若い、美人だったそうですね」 「警察の実況見分調書によると、夫人の着衣はさして乱れていず、浴衣の下にはネルの胴巻をしめ、パンティーだけだったんですね。パンティーを剥ぎとり、陰部を検するに、精液付着の点なく、性交——つまり暴行のあとはなかった」  法医学者というものは、人がドキリとするようなことを平気でいう。他殺体はもはや一個の物体で、犯罪捜査の材料としてしか扱われない。 「もの盗りではなし、情欲、怨恨《えんこん》関係でもない——となると、変態性欲者の犯行だ、ということになったわけですね」 「犯行現場から容疑者の家まで、血のあとがずっと続いていて、そのあとを警察犬にも足あとや血の臭いをかがせてたどらせていますね。そして、その容疑者に変態性があるという風評があった……?」 「被疑者の那須隆という人が変態性欲者とみられたのは、その人にとっては勿論、警察にとっても不幸だったといえますね。しかし若い夫婦のところへ好んで出入りする、あるいは向かい横町の娘に片思いしているなどという噂は、まあ二六歳の青年にしてみれば、そう珍しい例でもありませんね。“犯罪研究家”といったって、この人はもともと警察官志望で、募集を待っていたんだそうです。それで警察の捜査にも進んで協力し、それがかえって怪しまれる結果になっている。要するに、古畑博士がいわれるように、警察は犯人検挙をあせっていた。那須をひっくくるネタはないかとさぐるうち、例の白いズック靴を発見し、家宅捜索のとき、“飛沫状に血痕がついている”海軍シャツも押収する。この二つのアイテムに被害者の血が付着しているか否かの証明がこの公判の鍵となったのですね」 「検察側は、松木という医師の鑑定を採用して、靴についている血痕は犯行時、噴出した血液が付着したもので血液型はB型と思われる、と主張したのですね。しかし靴の血と被害者の血液型Bとが一致した、というのはデッチあげなのでしょう?」  この疑問につき、『冤罪』には、大要、次のように書かれている。  警察が白ズック靴を領置したのは八月二二日である。  青森医専教授引田一雄は、八月二四日弘前市警察署長から嘱託され、九月一日付けで鑑定書を提出している。それによれば、右足紐に付着している小指類大の暗褐色の斑痕の一部その他斑痕と思われる箇所に、ベンチジン反応試験、ルミノール反応試験を実施したが、すべて陰性であった。血痕の証明なし。  白ズック靴は、間もなく、引田教授の手許から引き上げられて、国警本部科学捜査研究所法医学課技官北豊・平嶋侃一の両名に鑑定が依嘱された。鑑定書は九月一二日付けで提出されている。これによると、ルミノール反応試験では、靴の紐の通る金属環の部分だけが一様に中等度の螢光を発したので、この部分の靴紐を切り取り、食塩水の浸出液を作ってベンチジン反応試験を行なうと弱陽性であったが、ヘミン結晶ヘモクロモーゲン結晶法は陰性であった。この検査にあたって、紐や金属環の部分に限らず、念のため靴全体について検査した結果も陰性であった。血痕は証明し得ず、という結論である。  ところが、不思議なことに、その後、弘前市公安委員でもあった医師松木明と弘前市警鑑識係間山重雄の一〇月一九日付け共同鑑定書にいたって、白ズック靴に、人血にしてB型、の反応が認められたというのである。  もう一つ、一、二審で問題にされながら検事がついに提出せず、再審段階にいたって初めて提出された同じ松木医師の一〇月四日付け鑑定書がある。  冒頭に、弘前市警からの鑑定嘱託の日付けが「昭和二十四年八月二十日」とあり、鑑定は八月二〇日と一〇月四日の二回となっている。 (イ) 靴紐についている斑痕は血液であり人血である。 (ロ) 靴(両)底右靴の上にある斑痕はいずれも血液である。 備考 血液型は試料不足のため検出不確実であった。  以上がその鑑定結果である。  靴が領置されたのが八月二二日なのだから、それ以前の八月二〇日に鑑定したということはあり得ない。  また、八月二〇日や一〇月四日に「血液型は試料不足のため検出不確実」だったものが、どうして一〇月一九日付けの松木・間山鑑定では可能になり、B型の反応が認められるという結果がひき出せたのだろうか。 「この松木という医者の鑑定もおかしいけれど、法廷における証言も前後撞着、奇っ怪ですよ。この人は、認定前の一、二審では白ズックとシャツの斑痕の正当性を堂々証言しながら、再審請求の段階になると、さっと豹変《ひようへん》しちゃうんです」  去年、日本弁護士連合会が僕に贈ってくれた『再審』という本に、次のような記載があるのを思い出し、僕がいった。腹を立てながら、その部分を読んだ記憶がある。  ——同人は、「法医の研究室にはいたけれど、斑痕からの血液型鑑定はそれまで一度も行なったことがないこと。Q式血液型の鑑定をしているが、この型式のものについては、生の血液についても行なったことがないこと。本件の鑑定も鑑定の必要性を判断するために急いで試みたものであって、鑑定書の原文も自分では書いたことがなく、警察の鑑識課の職員が鑑定書の体裁を整えたものを持参し、内部資料として保存するのでということであったので捺印《なついん》だけしたものである」  などの無責任きわまる証言をしている。 「いや、無責任だったのは、前の一、二審法廷における検察・警察に踊らされた証言ですね」僕が訂正した、「これは良心的な告白だったともいえます。——もっとも、真犯人が別にいるとわかってからの証言ですから、逃げ口上ともとれますが……」  結局、白ズック靴に血痕の証明はなかった。最初の引田鑑定が正しかったのである。次の北・平嶋鑑定も同様結果であった。 「逮捕のキメテとなったのが、その靴だったのでしょう。鑑定結果がシロと出たのに、検事はどうして被疑者を釈放しなかったのですか?」  野口博士の疑問は当然である。  アメリカ法のもとでは、国——つまり訴追側が合理的な疑いを超えて被告人の罪責を立証しなければならない。公訴は国の刑罰請求を証拠によって確認する手続きだから、検察官は証拠を集めて、確保しておかねばならない。  この鑑定結果が出た九月一二日は、那須の勾留満期の日にあたっている。逮捕以来、すでに二二日もたっている。勾留はマクシマムの二〇日間に延長されているのだが、那須は当初から無罪を主張し、自白をしていない。ただでさえ、日本の起訴前勾留期間は長すぎるのだし、それだけの時日と金をかけても検事は那須を起訴するに足る証拠を手にすることができなかったのだから、いさぎよくあきらめて捜査をやり直すべきだった。 「国が訴追の準備を一方的に、当事者構造をとらずに行なえるところに、大きな問題がありますね」僕は英米の予備審問の制度をうらやましく思いながら言った、「わが国にこの制度があれば、被疑者の身柄を長期間拘束することなく、まず第一に犯罪の相当な嫌疑——つまり、罪を犯したことを疑うに足る相当理由が勾留裁判官によって審査されることになります。さらに、捜査を続けてもよいかどうかの判断は、第三者である勾留裁判官にやってもらった方が国民としては安心です。この判断が捜査官憲に委ねられているのは、当事者主義の立場からもフェアではないし、危険をはらみます」  証拠収集に躍起となり、是が非でも起訴にもっていこうとする検察官は、被疑者那須の人権を侵害し、憲法に違反してまで勾留を延長し、こんどは弘前大学丸井清泰学長に那須の精神鑑定を依頼した。  身柄を拘束されるということがいかに苦痛であるかはいうまでもない。那須はこうしてさらに一カ月間も勾留され、丸井博士から精神鑑定をうける羽目になるのだが、それに要した時間がただの一五分だというから驚く。もっとも、検事と警察官はこの間、手を変え品を変え、那須を犯行自供に追い込もうとしたにちがいない。  丸井博士の鑑定は、那須を最初から変態性欲者、また真犯人と決めてかかる偏見と、予断に満ちたものであった。 「心理学的にみて、事件の真犯人であるとの確信に到達するに至った」  というのだから、わずか一五分の面接で、学者たるものがそんな“占い師”みたいなことをいってよいものだろうか。  この稿を書いているとき、たまたま中学の一年先輩にあたる仲宗根玄吉さんと一緒に飲む機会があった。大分市で開業している著名な精神科医で、刑法学者でもある博士の意見を問うと、 「ひと月、短くても二週間は入院してもらい、毎日診察してみないと、そんなややこしい精神分析はできないね。まして自白事件でもなし、本人が否認しているのに真犯人と断定するのは鑑定人の領分を超え、学者の風上にもおけないね」  と、あきれていた。  あきれるのは丸井鑑定だけでなく、ただそれだけの証拠を得るため、一五分の面接をさせるのに那須を脱法的に一カ月も留置した検察官の人権感覚である。近代国家は暴力を独占することになってはいるが、権力の行使がこのように杜撰《ずさん》になされては、国民はたまったものではない。国にまた、反省の色がみえないのも嘆かわしい限りだ。  さて、有罪認定を決定的にしたのは、那須宅から押収された海軍シャツに、被害者の血液と認められるBMQE型の血液が付いていたとする古畑鑑定と証言であった。「キング」と「法医学の話」の中で博士が得々として語っているように、被害者と問題のシャツから検出された血液型は、九八・六パーセントの確率において同一人のものであるという強調であった。  引田教授はさきの白ズックと共にこのシャツの斑痕鑑定を最初に依頼されている。なぜこれらが理由を告げられることもなく教授のもとから引きあげられたか、その穿鑿《せんさく》はおくとしても、このとき「帯灰暗色」あるいは「褐色」の斑痕がのち、松木・間山鑑定から古畑鑑定にうつる頃からは「赤褐色」に変わっているのはなぜだろうか。  引田教授は当時、弘前医大の法医学教室の教官で、戦前は北大の法医の助教授もされた経験豊かな人だという。「血痕の経時的変化」という研究論文もあり、その方面の専門家である。この事件では、死体の検視など捜査の当初から関与し、鑑定なども自身で行ない、古畑博士のように助手まかせの鑑定をする人ではない。  その引田証人は、海軍シャツの斑痕は「帯灰暗色」であったと明言し、単なるシミと考えると述べている。「灰色がかったあせたような黒ずんだ色」の汚点が二、三点あったのは認めたが、それは犯行現場付近の路上から採取した血痕とは著しく異なるもので、血痕であったとしてもずっと古いものとしか思えない、と証言している。  二、三点しかなかった汚点箇所がその後一一にも増え、しかも色調までが赤みがかり、新しくなったということは、引田教授の手もとにシャツがあったときと大きく状況が異なり、何者かがシャツの持ち主を罪におとしいれようとして作為を加えた、としか解釈のしようがない。  つまり、松山事件における重要証拠、例の掛布団の襟カバーに多数付着していた血痕と同じく、その血液型が被害者のものと一致するという証拠偽造を、捜査官がこの海軍シャツにも行なったのではないかという疑問が投げかけられたわけである。 「記録を精査し、当審の事実調べの結果に際しても、かかる事実を認むべき証拠は毫末《ごうまつ》もない」  二審裁判官は、こう述べて弁護人の主張を排斥した。  その後、ながい年月が流れた。そしてこの事件の時効が成立してから、真犯人滝谷福松が名乗り出たことは、世間が知るとおりである。  一九七一年(昭和四六)七月、那須は宮城刑務所で服役し、出所してから、真犯人の存在を理由に仙台高等裁判所に再審請求を行なった。  一九七四年一二月、同裁判所はこれを棄却。死後一六日間も被害者の血液を保存することは不可能であり、したがって作出はあり得ないという古畑教授の証言を採用し、シャツを押収したのち、血痕を付着させたという事実は証拠上認められないという決定理由である。  一九七六年七月、右棄却決定に対する請求人の異議申し立てに基づき、仙台高等裁判所第二刑事部は右決定を取り消し、再審開始を認めた。ようやく、“開かずの門”が開いた。  一九七七年(昭和五二)二月、那須請求人に対し、無罪判決がおりた。  検事が上告を断念したことから、判決は確定。  白ズック靴で那須が警察に逮捕されてから、実に二八年の月日がたっている。無実をかちとるまで、なんと長い苦難の道程であったことか。  ——捜査当局に対しては莫大な費用と労力の提供を余儀なくさせた。しかして公判廷においては多数の証人を取り調べるほか、鑑定、検証など公判回数二五、六回、検証二、三回、記録八冊におよぶ極めて繁雑なる審理を余儀なくせしめながら、なお且つ犯行を否認して裁判所、検察庁を愚弄《ぐろう》するやの態度を堅持している。されば法の権威は厳として存在しているものであることを国民に向かって宣言する必要に迫られているのである。  以上によって本件は起訴状記載の罪状および併合罪の規定を適用し、被告人を殺人罪の極刑に処するのが至当と思料する。  一審の検事の論告の末尾である。  那須が死刑にならなかったのが、せめてもの幸いであった。彼が死んでしまっていたら、無罪は永遠に立証されることはなかったろう。  過去にそのような不運な人がいなかったとは言い切れない。肩をいからしたこの検事の論告を読むとき、国民は現代の刑事司法のあり方について、自分自身の問題として考えねばならない時がきていることを悟るべきだ。  国家の法の支配とは何かを、真剣に考えねばならない。  野口博士とはもう一つ、財田川事件について語りあった。博士が学生の頃法医学に興味を持ちはじめ、日本を去る少し前に起こった事件だけに、さきの弘前事件とともに記憶に残っているのであろう。  事件の概要だけを記しておこう。  すでに故人となられた古畑種基博士の死屍に鞭《むち》うつようなことを言いたくはないが、当時、法医学界の泰斗、とくに血液鑑定の最高権威として、博士の名はあまりにも有名であった。そして結論が異なる二つの鑑定が出たとき——たとえば、弘前事件の海軍シャツ、あるいはこの財田川事件の国防色ズボンなどの場合のように、権威主義に弱い裁判官が鑑定人の権威に判断を誤り、採用すべきを採用せず、依拠を誤って有罪判決をくだしてしまう例が少なくない。  弘前事件の法廷で、検察官は最も信頼すべき引田教授の鑑定能力を攻撃した。 「同人の証言よりは法医学の世界的権威者である古畑教授の意見の方が高く評価できるし、証拠としてはこちらを採用すべきである」  もっともこれは、鑑定人の権威に目がくらんだのではなく、自分たちに都合よい鑑定結果を引田教授が出してくれないので、都合よい方を選んで——あるいは作らせて言ったほめ言葉にすぎない。  船会社の顧問弁護士をしている友人から聞いた笑い話がある。  海洋博のとき、二人の大学の先生が船で本土へ帰った。一人は東大の助教授、もう一人は鹿児島大学の教授。一等船室にはAとBがあるが、先生方は二人とも二等の切符しか持っていず、一等船室に招待されたのだという。そこで、どちらの先生をクラスが一段上のAに入れたらよいものか思いあまって、 「どちらの先生の方が偉いのでしょう?」  という珍問を電話で問いあわせてきたのだという。  権威主義が日本のすみずみにまで浸透しているとはいっても、これくらいの話は笑ってすませるが、さきほどの検事は引田教授の鑑定人としての学問的業績すら否定するような尋問の仕方をしたというから、腹が立つ。 「法医鑑定は、専門家の仕事なんですよね——高度の知識、経験、技術を要求する……」野口博士が説明した、「だから自分にその知識のない裁判官はいろいろな鑑定を専門家に依頼するわけですが、その採用の仕方には大いに疑問があります。より高い権威、社会的地位を持つ鑑定人の方に判断が傾くのはある程度まではやむを得ないでしょうが……」 「でも、捜査官憲がもし、犯人を仕立てあげるために、科学的論拠として鑑定を利用するとしたら……」バカ検事を思い出して僕がいった。「その行為は、犯罪性をおびることになりませんか?」 「もちろんです。古畑鑑定のおかげで、無辜《むこ》が助けられた例も多いでしょうが、近頃、古畑鑑定が決め手となって有罪が確定した事件がいくつか問題になってきましたね。最も権威ある科学的論拠だとされた古畑鑑定の信用性が薄らいだのは、実は、それが助手にまかせて作成した鑑定書であったり、当時の法医学の水準からみても、内容的に貧弱、かつ誤ったものであったことなどが明るみに出てきたものですね」 「財田川事件も、そのうちの一つに数えられます。でも、これは、鑑定の質、採用の誤りというよりも、捜査の不正、それを容認した裁判官の方に、問題がある事件じゃないですか?」 「日本は民主化されたといっても、憲法、刑事訴訟法に従わない——つまりデュー・プロセスの要請を無視する検事、警察官がまだまだいるらしいのは困ったことですね」 「そのような捜査の不正を裁判官が容認しなければ、そして違法収集証拠を強い態度で排斥すれば、捜査の方法も自然と変わらざるを得ず、冤罪事件も少しずつあとを絶ってゆくでしょうにね」  一九五〇年(昭和二五)二月二八日、午前二時頃、香川県三豊郡財田村で、ひとり暮らしの老人、香川重雄(敬称略、六三歳)が何者かによって殺害された。いわゆる財田川事件である。寝込みを襲われたのか、鋭利な刃物で三十数カ所も全身に刺切傷を負い、あたり一面を血の海と化して、こと切れていた。  公訴事実によれば、被告人谷口繁義(当時一九歳)は、金銭に窮し、一九五〇年二月二八日午前二時すぎ頃、香川県財田村の香川重雄方において、同人を殺害して金品を奪おうと決意し、就寝中の同人の頭、腰、顔を、所携の刺身包丁で多数回切りつけ、突き刺しなどし、同人着用の胴巻から現金一三〇、〇〇〇円ぐらいを強奪したのち、心臓部を突き刺して、同人を殺害した、というものである。  強盗殺人罪で起訴された谷口は、公判廷において、捜査段階の自白は、警察官などの拷問による虚偽のものであるとして、これを翻し、終始一貫して否認を続けてきた。 「足はロープで縛られ、両手に手錠を入れて長時間正座させられた。拷問はなぐる、ける、などという生やさしいものではない。失神したことも何回あったか数えきれない」  谷口は相当長期間、苛酷な拷問に堪えていたが、ついに堪えきれず、追及されるままに自白した。  こうして得られた自白と、古畑鑑定が決め手となって、一九五二年二月二〇日、高松地方裁判所丸亀支部は公訴事実のすべてを認め、谷口被告人に死刑を言い渡した。  高松高裁、最高裁に対する控訴、上告いずれも棄却、一審判決はそのまま維持され、かくて谷口の死刑は一九五七年一月二二日、確定したのである。  確定判決の事実認定は、松山事件の襟カバー、弘前事件の海軍シャツと同じく、犯行時に谷口が着用していたとされるカーキ色のズボンに付着していた血痕鑑定が決め手となっている。被害者と同じO型であったというものだ。結論が異なる鑑定結果が、二つ出て、裁判官はこの事件においてもまた、古畑鑑定を採用している。  再審請求を担当した、もと高松地裁丸亀支部長判事・矢野伊吉著『財田川暗黒裁判』には、右事実認定に関する数多くの疑惑がくわしく書かれているが、ここでは「再審」資料の部に記載されている疑点と合わせて摘記する。  (1) 事件発見の翌日、三月一日早朝から行なわれた三豊地区署の現場検証調書によれば、犯人のものと推測される五箇の、いずれも血液付着の靴の足跡が遺留されていた。犯人の靴には多量の血痕がついていたであろうし、この足跡と符合さえすれば、それこそ逃れえぬ証拠となる。  ところが、犯行現場は血の海と化し、血のりの中に残されていた犯人の足跡血痕が、谷口が事件現場でその夜はいていたとされる靴と一致せず、その靴は証拠としても提出されず、闇に葬られ、その所在もわからない。  この最も重要な物的証拠である谷口の靴が、押収されていながら証拠として提出されていないのはなぜか。  検事は、原形をとどめないまで変形していて、現場に残されていた血痕足跡との対照が不可能なので、証拠として提出しなかったと述べている。  谷口は、「私が犯行当時はいていた靴は、黒の短靴でありまして、これはその後一カ月程はいておりました」と供述しているから、“原形をとどめぬほどに変形していた”というのはおかしい。検事が証拠としなかった理由は別にあるはずだ。  この靴について、岡山大学遠藤中節教授に対して、「血痕付着の有無、人血か否か、人血とすればその血液型を鑑定するよう」依頼がなされた。 「左足の靴の各部には大小不同、不整形の斑《まだら》が若干あり……陰性で人血ではなく、血液であるか否さえも怪しい」 「右足の靴にも多少汗斑があるが、ルミノール発光反応は陰性で血液に由来するものではない」  以上が、鑑定結果である。  要するに、証拠として押収した靴に、血痕付着の証明がなかったのだ。それが証拠として提出されなかった真の理由であり、忽然と姿を消した疑惑にも連繋する。  (2) 谷口が犯行現場で着用していたとされる上衣には、全く血痕が付着しておらず、ズボンには、血液検査を行なうにも困難な微量の血痕しか付いていない。  谷口はこのズボン(証二〇号)を自分のものでないと否認し、検事は谷口がそれを認めたように供述書には記載した。  血痕の付着について、遠藤中節鑑定人は、「右足下半のほぼ中央、及び後面下端に人血痕あるも微量で、血液型を判定するに充分ではないので、判定しなかった」  と述べている。  もう一人の鑑定人古畑種基作成の鑑定書には、 「血痕の付着量は極めて微量であるため、充分な検査をすることができなかったが、血液型はO型と判定せられる」  となっている。  検事が主張するように、谷口が犯行時このズボンをはいていたとするならば、犯行や現場のもようから相当量の血液が付いていたはずだ。  現場は「血の海」であった。谷口は供述書の中で被害者の腹の上にまたがり、止めを刺したことになっているのだから、当然ズボンには多量の血液が付着していなければならない。  このズボンに、血液型の検出もできないほどの微量の血痕しか認められなかったというのは、なんとしてもおかしい。遠藤鑑定人は、血液型の判定は不能としたが、古畑鑑定人の方は、判定をするには充分の量ではないとしながらも、血液型はO型と判定せられる、としている。  一方では血液型検出不能としているものを、こちらは判定できたというのはいかにも不思議だが、百歩ゆずってその鑑定結果を信用するにしても、日本人の血液型のうちO型が三〇パーセントを占めるという分布率を考えれば、その確率はさらに下まわることになる。  ほかに疑点がないのならともかく、自白自体が違法収集証拠の疑いも濃厚、任意性も信用性もうすいのだから、右の鑑定結果を過大評価して、それだけで強盗殺人有罪の認定をしてしまうのは、法律に素人の僕が考えても軽率にすぎる。  これが陪審による裁判であったなら、そのような認定は出てこないと思う。陪審員たちは自分たちの頭が裁判官のそれのように優秀だとは思っていないし、合理的にものを考える力において劣ることも知っている。それゆえに、事実を決定してゆく際に慎重になる。常識を持つ陪審員の何人かは必ず反対し、有罪答申が導き出される可能性は少ない。陪審が事実認定の誤りを防止する機能を有しているからだ。  (3) このズボンは、弟のものとすりかえられた疑いが濃厚である。 「証二〇号国防色ズボンは、弟の孝がはいていたもので、自分がはいていたものではない」  と、谷口は第一回公判以来、繰り返し主張している。 「そのズボンは、孝がはいていたものを、自宅にやってきた警察官がぬがして持ち帰った」  谷口の父菊太郎も、母ユカも同じことを証言している。  これに対して検事は、なんの反論もせず、反証も提出せず、裁判官もまたなんの取り調べもしていない。矢野伊吉弁護士は、 「もし本人および両親の証言が、偽証であるという疑いを持つなら、ぬがした警察官を指名させ、その警官を証人として喚問すれば、ことの黒白はすぐ決着がつくはずである」  と書いている。  人ひとりの命にかかわる問題、また証拠なのだ。それくらいの証人尋問をなぜ回避するのだろう。  この証拠品が、谷口のものでないことが明らかになっては、谷口の無罪が成立してしまうから、検察官がダンマリ戦術をとったのだとしか思えない。  (4) 被害者が殺害された当時、身にまとっていたという胴巻(この中の財布から現金を奪ったことになっている)に、全く人血が付着していない。心臓部を突き刺され、全身血まみれになっていたにもかかわらず。  (5) 谷口の自供では、奪った現金のうち百円札八〇枚(八、〇〇〇円)を自動車で押送される途中、車外に捨てたことになっている。両手錠をはめられたうえ、数名の警官に取り囲まれて、座席の中央に坐らされていたのでは、とうていそんな芸当はできない。札が拾得されたことの裏付けもない。  (6) 谷口の自白、悔悟を主な内容とする手記の筆跡は、谷口本人のものでなく、捜査官によって偽造された疑いが濃厚である。  (7) 兇器とされている刺身包丁についての自白は、すべて虚偽であり、財田川にすてたことになっているが発見されていない。流れも緩やか、また浅いことから流失の恐れは少ない。  (8) 犯行現場に遺留されていたリュックサック、バンド、マフラーなどは、谷口のものではないのに、遺留者の追及が行なわれていない。  以上、疑点は多々あるが、くわしくは『再審』および『財田川暗黒裁判』を参照されたい。  死刑の執行は、法務大臣の命令による。大臣の多くはなかなか判を押したがらないらしいが、そうでない人もいる。誤判の恐れを思うとき、誰しも躊躇《ちゆうちよ》するのは当然だが、前記の命令は、判決の日から六カ月以内にこれをしなければならないと、刑事訴訟法には定められている。  ただし、上訴権回復、もしくは再審の請求、非常上告または恩赦の出願もしくは申し出がなされ、その手続きが終了するまでの期間、および共同被告人であった者に対する判決が確定するまでの期間は、これをその期間に算入しない。  一九五七年(昭和三二)三月三〇日、谷口は原々審丸亀支部に対し再審請求を行なった。  再審の請求は、左の場合において、有罪の言い渡しをした確定判決に対して、その言い渡しを受けた者の利益のために、これをすることができる。  (1) 原判決の証拠となった証拠書類または証拠物が確定判決により偽造または変造であったことが証明されたとき。  (2) 原判決の証拠となった証言、鑑定、通訳または翻訳が確定判決により虚偽であったことが証明されたとき。  請求の趣旨は、右の刑訴法四三五条(一号・二号)の再審事由をいうもので、理由として、ズボン、足跡、八、〇〇〇円を捨てたことなどについての疑点をあげた。  翌一九五八年三月二〇日、主張自体、右再審事由にあたらないとして、請求は棄却された。  この頃、法務省は谷口を死刑に処すべく、執行の準備をはじめていた。刑事局は、高松高検に対して、捜査記録の送付を要請。死刑執行のまえには必ず、公判記録だけではなく捜査記録を調査するのがしきたりだが、ここに重大事件が発生していた。  送付を求められた事件発生報告、捜査状況報告、参考人供述調書、証拠物押収捜索領置関係書類、鑑識鑑定関係書類、身柄拘束関係書類、実況見分・検証書類などの捜査記録が、丸亀支部から“忽然と姿を消してしまっていた”のである。  この重要書類の紛失事件は、谷口を闇から闇に葬り去るための、事件を担当した中村検事の“意識的な破棄、湮滅によるものであることを想定させる”と『財田川暗黒裁判』はくわしくその顛末《てんまつ》を伝えている。  一九六七年(昭和四二)三月、高松地裁丸亀支部にひとりの老判事が赴任した。矢野伊吉裁判官であった。それから二年余を経た一九六九年七月、矢野判事は初めて谷口の二度目の再審請求のことを知らされ、裁判長として事件を担当することになる。谷口の第二次再審請求は、一九六三年に提出されていたのだが、なぜかそのまま放任されていた。  事件の原記録をとりよせて読み進むうち、判事はさまざまな不審箇所や不合理を発見する。谷口が、逮捕されたあと自供するまでの四カ月もの間、別件逮捕による不法長期拘禁を繰り返され、人気ない管轄外の派出所で拷問をうけ、虚偽の自白をさせられたものにちがいない確信を得るにいたる。確定判決の事実認定についての数多い疑点は、すでに述べたとおりである。 「どうすればよいのか」  判事はその処理について悩み、次のような一大決心をする。  ——ついに私は定年まで勤務する希望を捨てた。この事件の再審を開始することだけを決定し、その上で退官することにしたのである。私は谷口を裁くことをやめ、谷口を弁護する側に回ることを決意したのだ。  私はこの事件を処理した後で退官することを言明し、その日取りも発表した。そして事件の審査に専念し、再審開始の決定のための草案を作成していた。退官予定日の半月前、「決定書」をタイプ印刷に回した時、どうしたことか、二人の陪席裁判官はこの決定に異議を唱え、決定は流産してしまったのである。  丸亀支部は、三人の裁判官の合議によって運営される「合議支部」であるため、私はそれまで充分合議し、決定の草案についても、二人の判事とともによく検討する機会を作り、それまでは合議通り異議なく、円満に成立する筈のものだった。それが突然の異議である。私は彼らの真意を解しかねたが、もはや時間はない。やむなく延期を決定し、私はそのまま予定通り退官する破目に陥ったのである。職を賭したつもりであったのだが、それが何ら実を結ばないうちに、退官せざるを得なくなった無念さは、いまなお心の底でうずいている。  退職後もなお私は、三〇余年暮した裁判所の公正を望んだ。裁判官の良心を信じていた。だがしかし、後任裁判長は、再審請求の棄却を決定し、自らその是非曲直を判定すべき役割りを放棄してしまい、検事の走狗《そうく》になり果てたのである。これによって、警察官、検事、裁判官、法務省の関係者たちは、己れの権力をそのままにする地位を護り得たのだ。それは、谷口一人を犠牲にすることによってである。  一九七二年(昭和四七)九月、矢野判事が退官したあと、高松地裁丸亀支部は、谷口請求人の再審請求に対して棄却の決定をくだした。 「……当裁判所は、三年余を費やし、できるだけ広く事実の取り調べを実施し、推理、洞察に最善の努力を傾倒したつもりではあるが、捜査官の証言も全面的には信用できず、二〇年以上も経過した今日においては、既に珠玉の証拠も失われ、死亡者もあり、生存者といえども記憶はうすらぎ、事実の再現は甚だ困難にして、むなしく歴史を探求するに似た無力感から、財田川よ、心あれば真実を教えて欲しいと頼みたいような衝動をさえ覚えるのである」  この“迷文”は当時、裁判官の真実追究への切々たる真情を吐露したものとして、人々の心をうった、となにかの本に書かれてあったが、恐らく心をうたれたのは女学生ぐらいのものではなかったか。  なるほど裁判官にしては珍しく“文学的“な表現を用い、女学生には好まれようが、僕にいわせれば、なんと女々しい、甘ったれた文章かと思う。 「再審を開始すべき事由の存在は遂に認められず」というのは、常套句《じようとうく》にしても、自ら開始決定の勇気を持たず「今後上級審において、更に審査される機会があれば、批判的解明を願いたく思料している次第」というにいたっては、もはや責任の回避といわれても仕方ない。  谷口は、右の決定に対して抗告。  原審高松高裁は、再審事由につき、確定判決に代る事実証明なしとして、これを棄却。  一九七六年(昭和五一)一〇月、最高裁は請求人の原決定に対する特別抗告に対し、原決定および原々決定を取り消し、 「本件有罪判決の証拠としては、第四回検面調書に録取されている申立人の捜査段階における自白と証拠物として国防色ズボン(証二〇号)の存在が重い比重を占めている。そして申立人の手記五通は、右の自白の任意性、信用性を担保する意味合いをもつものである。ところが、右自白の内容には数々の疑点があることは、さきに指摘したとおりである。ことに当裁判所が指摘したように、犯行現場に残された血痕足跡が自白の内容と合致しないこと、その他の前記指摘の疑点を合わせ考えるときは、被害者の血液型と同じ血液型の血痕の付着した右国防色ズボン(証二〇号)を重視するとしても、確定判決が挙示する証拠だけでは申立人を強盗殺人罪の犯人と断定することは早計に失するといわざるを得ないのである」  と、判示して、ようやく本件を高松地裁に差し戻したのである。  一九七九年(昭和五四)六月七日午前一〇時、高松地裁は谷口繁義もと被告人の差し戻し再審請求に対し、ついに再審開始の決定をくだした。  獄中から無罪を訴え続けている死刑囚は現在、八人いるが、再審が開始された例は一件もなく、帝銀事件の平沢元被告人も去年、老齢を理由に再審請求を断念してしまった。 「開かずの門」といわれた再審への道が初めて死刑囚に開かれかけ、公判が進められれば、無罪判決は間違いないと予測されることから、この決定は重大な意義を持っていた。  だが、この期におよんでも検察側はあきらめなかった。即時抗告に踏み切ったのである。再審開始は宙に浮き、上級審の結果を待たねばならないことになった。そこには、ひとたび起訴した以上、文字通り是が非でも有罪にせずにはおかない検察官の強い執念が窺える。  逮捕当時、一九歳であった谷口少年は、この裁判にかかわりあったまま、やがて五〇歳を迎えようとしている。その長い年月を獄中に呻吟し、死刑確定後は毎日、死の恐怖にさいなまれつつ、看守に引きずられるようにして処刑台に向かった、数多くの死刑囚を見送らねばならなかった。現在、死刑執行の停止が命令されてはいるものの、彼は明日をも知れぬ身を大阪拘置所の一隅につながれたままである。  そして三〇余年にわたる判事の仕事をなげうち、裁く側から裁かれる側に立ち、野《や》にくだって谷口の弁護にあたることを決心した矢野伊吉弁護士は、不幸にして先年、脳卒中に倒れ、半身不随の身を病床に横たえておられる。  無辜救済こそ再審の基本理念であるならば、そして真実の拠《よ》りどころが裁判所であるとの国民の信をつなぎとめておきたく思うなら、裁判所は国民の人権をこそ国家の権威の上におき、一日も早く財田川事件の再審を開始すべきである。  長い裁判の話が終わる頃、野口博士と僕は、インタヴューの場を検視事務所のある司 法《ホール・オブ・》 館《ジヤステイス》から、ハリウッドのスター連がいくとかいう市内のフランス料理店に移していた。約束の三〇分の面会時間を延ばしてもらい、退庁時を過ぎて、博士は快く再延長に同意してくれたのである。  わけのわからないオードブルを注文すると、なんのことはない烏賊《いか》のてんぷらと、あさりのむき身のようなものが出てきた。ワインはリーベフローミルチのブルー・ナムが博士の気に入ったらしく、 「私が学生の頃、日本人はカストリ焼酎しか飲んでいませんでしたがね」  といって、うまそうに飲んだ。  間もなく、仕事を終えてジョインした渡辺さんも一緒に、またたく間に三本が空になった。僕は肉料理だったので、あまり東京ではみかけないサンテミリオンのシャトゥー・グラン—ボネ六八年ものを楽しみつつ、この方はひとりで二本もあけた。“高級”レストランだときいていたのに、ワインの値段は東京のようにバカ高くなく、そばでつべこべ注釈を加えるソムリエもいないので気持ちよい。 「珍しいですね、野口さんが外で酒を飲まれるのは」  渡辺さんが博士に問いかけると、 「うれしいんですよ、今晩は。日本の人はどちらかというと、警察が実体的真実主義に支配され、人を得て証を得る式の糾問的捜査を当たり前だと思っている人が多いんですが、当事者構造に徹しなければならない刑事司法のあり方を、今日の質問者はよく理解しているので、話がすごく合うんです」  博士にそういわれて、つい僕もうれしくなりかけたが、博士は次に、日本の記者たちに面会を求められると、いまだにマリリン・モンローの話しかせず、 「彼女のはだかはきれいでしたか?」 「上下ヘアの色がマッチして、ほんとうのブロンドだったのですか?」  など、くだらぬ質問ばかりするので困るのです、と眉をひそめた。  そのことは、渡辺さんからすでに注意をうけて知っていたが、ワインがはいって御機嫌になっているのに、いつまでも固い話はいけない。そろそろ話題を転じようかと思っていた矢先、いささか出鼻をくじかれた感じであった。 「でも、先生が直接、マリリン・モンローの屍体解剖は執刀されたのでしょう?」  この人が、“世紀の美女”マリリンの裸身をこの世で最後にみた人である以上、やはりそこから話を進めるのが順序であろうと判断した。 「そうです。あの頃私はまだ、ひらの監 《メデイカル》察 医《・イグザミナー》でしたが、チーフ(検視官)から、『君、やってくれないか』といわれ、事件の担当官に任命されました。ちょうど、日曜日の朝でした」  淡々とした口調で、博士は語り出した。  その、一九六二年(昭和三七)八月五日の早朝、野口博士は、検視官からの電話で、たたき起こされた。  ——マリリン・モンローが、変死体となって自室で発見された。  大事件である。彼女が有名な女優であることは知っていたが、それがこれほど世間を騒がすホット・ニュースになろうとは夢にも思わず、またこの事件によって彼自身の名が世に知られることになろうとも、考えていなかった。  すぐ現場にとんだ、と週刊誌のいくつかは書いているが、博士はこの日、真っ直ぐ司法館に向かっている。自殺か、他殺か、事故死かの判断は解剖の結果を待たねばならず、このときはまだ、死体が発見された状況に不自然な点がリポートされてはいたものの、くわしいことは判明していなかった。  その日、カリフォルニアの空はすみずみまで青く晴れわたり、明るい太陽がまぶしく、また暑くなりそうな一日であった。ひんやりとする司法館の中に入ると、一階、奥の方に廊下が続き、左手のかなり広い一室が解剖室になっている。  マリリンの遺体は、青い毛布で無造作に覆われ、ストレッチャーで運ばれてきた。二人のヘルパーが遺体をステンレスの解剖台へ移した。着衣があればここで脱がせるのだが、ヘルパーたちはこの作業をきらう。屍体が黒人であれば、手もつけたがらない者、白人の女だけを好む者、いろいろな好みというか、癖があった。この日、解剖されるのがマリリン・モンローと知って、ヘルパーたちは無言のまま、異常に緊張した面持ちで、全裸のマリリンを見守っていた。解剖台の上端から、あの美しいブロンドの髪がこぼれ、彼女がまだ生きているかのように揺れていた。  博士は、二人の法医学者によって、アシストされていた。ほかに記録係と、立会人がいる。彼らもまた、息をとめるようにして、ライトに照らし出されて白く光るマリリンの四肢から目を離さなかった。 「普通の解剖とは、ちがいましてね」  博士の言葉に、僕はふとわれに返った。 「われわれは、すぐ執刀しないのです」博士が続けた、「時間をかけ、全身をくまなく、頭のてっぺんから腋の下、足の先まで、丹念に調べるのです」  自殺の手段として、もっとも多いのは服毒死——なかでも睡眠薬を多量に飲んで死ぬのが一番多いのだが、それが自分の意思による覚悟の行為なのか、過失によるものか、あるいは他から強制され、無理やりにのまされたのではないかなど、いろいろな場合を想定しなければならない。  注射をうたれて、意識を失い、睡眠薬を飲まされていることもあるだろう。だから、その跡がないか、からだのあらゆる部分に、毛ほどの疵《きず》の看過もゆるされない。 「マリリンの体のどの部分にも、そのような痕跡——注射のあととか、無理やりに薬を飲まされたのだとすれば、抵抗、強制などのあと——は、全く認められませんでした」  博士は、そう断言した。  法医解剖のとき、もうひとつ、欠かせない検査がある。毛髪検査である。犯罪捜査上、現場における血痕、精液、毛髪などの検査が重要であるのと同様、検視においても、毛髪や精液の検査は入念に行なわれる。自殺・他殺の判断の材料にもなるし、他殺であった場合には、犯人検挙に大きな役割りを果たすことがあるのだ。  そういえば、僕の横浜の家がある三ツ沢公園のトイレで、中学生の女の子が乱暴されて殺された不幸な事件があった。検視のとき、被害者の体に犯人のものとおぼしい陰毛がみつかり、それがもとで、シラを切っていた犯人も自供した、という話を聞いた。大久保清が処刑されたのは先年だが、その彼も逮捕された当初、同じくシラを切っていた。 「証拠がない」  と、高をくくっていたのだろう。  群馬県警では、大久保が犯行に使った例のマツダ・クーペを徹底的に調べた。車内をそれこそ塵ひとつ見のがさぬ綿密さでチェックしたところ、なんと二〇余人もの頭髪や陰毛が発見された。  この人毛を、家出人捜索が出されている若い女性たちの毛髪と照合していった。あとで犠牲者として判明した人たちの家の内部を調べさせてもらい、衣類や家具などに付着していた頭髪、体毛、陰毛などを採取し、これらをさきのクーペから発見された人毛といちいち照合していったというから、警察の仕事も大変だ。大久保清を全面的自供に追い込んだのは、ほかならぬ彼自身の車の中に残された人毛が証拠となったものであることを、僕は以前、なにかの本で読んだ記憶がある。  日進月歩の法医学は、毛髪の検査法をも科学的に進歩させ、今では血液型まで、毛や爪、歯などから割り出すことが可能なのだ。  毛というものは、人間のからだ中、ほとんどどこにでも生えている。そしてそれを、どこにでも落としてゆくものだ。さきほどのクーペの例では、被害者の毛からアシがついたわけだが、逆に、犯罪者が現場に毛を残してゆく率はたいへんに高く、その毛の特徴から、迷宮入りになりかけた事件が解決されることもある。  人間の毛を調べて、どの部分の毛であるかは簡単にわかる。しかし誰の毛か識別せよとなると、これはたいへんに困難な作業だ。だが、外国人の場合、色の相違をみたり、断面、皮質、髄質、構造の相違から、個人識別も不可能ではないという。 「ところで、先生」さりげなく、僕が聞いた、「マリリンのからだのどこかに、ある男性の陰毛が残されていた——という話を読んだのですが、これは事実ですか?」  法医解剖の場合、毛髪や精液の検査が入念に行なわれることは、先に述べた。残された男性の陰毛から、相手が誰であるか、性交時の状態まで、あわせて推理が可能になる。  マリリンは当時、ジョン・ケネディと弟のロバート・ケネディの二人とも愛人関係をささやかれ、またほかにも男関係はいろいろあったようだ。ケネディ兄弟との愛人関係といっても、これはジョンの方が上院議員時代から相当はでに遊んだらしく、また彼がスウィンガーであったことから、単なる性関係があったというだけのことかもしれない。 「検査は、しました」  博士が無表情に答えた。  人毛が、マリリンのからだのどこかに付着していないかよく調べ、その後で、彼女の陰毛に櫛《くし》も入れてみた。櫛目にかかる人毛があれば、彼女のものか、別人のものか検査をしなければならない。男女の陰毛を比較してみると、毛幹の幅では大差がないが、髄質の幅を計ってみると、女子陰毛の方が男子陰毛より幅が大きく、毛髄のもようは渦状の著しいものが多く、皮質部と髄質との境界が、男子ほど不整ではないことが、研究によって報告されている。  だが、マリリンのからだに、他人の人毛は発見できなかった。 「このことは、はっきり記録にも残してあります」  博士は、少し怒ったような口調でいった。  マリリンが、「変な姿勢で、斜めにベッドに横たわっていた」のを、最初に発見したと証言するのは、マレー夫人である。  午前三時、マリリンの部屋をノックしたが、返事がない。ドアもロックされているので庭へ出て、そこから寝室をカーテンごしに覗き込んだ。  なぜ、窓ガラスを割ってでもすぐ部屋に飛び込まなかったのか、疑問だが、あるいはすでに死亡してしまっているのに気が付かなかったのかもしれない。  夫人の電話により、グリーンソン博士が急いでやってきた。この証言も警察の報告と異なる。前日、マリリンの睡眠薬の処方をホースイクロラールからペントバルビタールに代えたエンゲルバーグ博士が、暖炉の火かき棒を使って、窓から入ったとなっており、いずれが正しいのかわからない。  ともかく、マリリンはそうして、一糸まとわぬ全裸のまま、床に崩れおちるような恰好で発見された——手には受話器が握られたまま。 「私のネグリジェは、シャネル・ナンバー5よ」  彼女がゴシップ記者たちに語ったというその話は有名だが、実際には就寝時、必ずブラジャーだけはつけていた。ブレストの形がくずれないよう、人一倍気を配っていたという。  死亡時、それを身につけていず、全裸であったのは、その夜愛人とベッドを共にしていたという説の根拠になっている。 「腹区部を解剖し、膣《ちつ》を切開した限りでは、精液の残留が認められず、マリリンが死亡する前に性交があったという証拠はみられませんでした。さきの毛髪・精液検査の結果もそれを示し、とくに私が一男性の陰毛を彼女の体に発見しながら、それを隠したというにいたっては、言い掛かりもはなはだしく、事実に反します」  博士は天井をみつめながらそう話し、まだ怒っている口調であった。  性交が行なわれたか否かは、検視の重要なチェックポイントで、毛髪検査についで精液検査が丹念になされるとは聞いていたが、膣まで切開して調べるとは知らなかった。  この一連の奇妙な作業については、僕自身にも若い頃、ある強姦・殺人事件に関連して異常な体験があり、古い昔のことながら、そのときの捜査や“検視”のもようを、まだ昨日のことのようになまなましく思い浮かべることができる。  一九四八年(昭和二三)、米陸軍琉球総司令部《リユーキユーズ・コマンド》・第五一五犯罪調査部(CID)に働いていたときのことだから、僕はまだ一八歳の少年だ。  終戦の翌年、父の安否を確かめに引揚船に乗って沖縄へ帰り、進学のためすぐ東京へ引き返すつもりであったが、日本兵の捕虜か、本土に籍があるものでなければ、米軍がなんとしても渡航を許可してくれなかった。新聞もラジオも、読む本も書く紙も、なにもかもがないないづくしの沖縄で、大袈裟にいえば、空しく過ぎ去ってゆく青春に悶々《もんもん》の日々を送っていた頃のことである。  ある日、僕は、エージェント・マルティネスと一緒に、本島北部の伊江島に起きた殺人事件の捜査を、CIDチーフのカニンハム少佐から命じられた。  CIDに働く日本人は僕ひとりきりで、主な仕事は翻訳なのだが、刑事のように被疑者の供述調書をとる仕事をさせられたり、法廷通訳として裁判にひっぱり出されることもあれば、第一線の捜査の方へ送り出されることもあった。机にすわってタイプをたたいているより、変化のある仕事の方がおもしろい。マルティネスは腕ききの刑事だし、気のおけないよい男だったので、僕は久し振りに与えられた遠出の仕事を楽しいものに考えていた。  北部への道は遠かった。現在のように整備されたハイウェイではない。曲がりくねった、凸凹の悪路を土埃をあげてジープに揺られること五時間余り、ようやく国頭《くにがみ》郡本部《もとぶ》までたどり着いたとき、マルティネスの表現によれば、 「おしりの骨が全部、なくなってしまった」  そういう彼も僕も、顔から眉、睫毛《まつげ》まで真っ白に砂埃をかぶり、二人とも白髪のじいさんにそっくりだと笑いあった。  ジープをそこで捨て、艀《はしけ》をやとって乗り換える。目指す伊江島は、本部半島からさらに西北へ一一キロ、チョコレート・キャンデーの「キス」のような形をして波間にぽっかり浮かぶ小島がそれだ。  伊江島を、土地の人は「イー島」と呼ぶ。朝鮮や中国の古い文献に「泳島」、「移山」あるいは「椅山」などと記されているから、大昔からそう呼びならわされてきたのだろう。  地元の人には「イージマハンドーグヮー」の情話で、アメリカ人には有名な従軍記者アーニー・パイルが戦死した島として知られている。  島の中央に、伊江タッチュー(城山)がそびえている。といっても、海抜一七二メートルの高さでしかないから、海岸線への傾斜は全体的にゆるやかで、平坦地が多い。東西八・四キロ、南北三・六キロ、ちょうどピーナツのような形をしている。  一見平和そのもののような島に僕たちが降り立ったとき、長い夏の日はようやく暮れかかり、大きな太陽が東支那海の水平線上に沈もうとしていた。  当時、もちろん旅館などはない。僕たちは、島に駐屯している米軍の部隊へいって、キャンプの中に泊めてもらうことにした。もっとも、そこが目的地でもあった。犯人がアメリカ兵であるとすれば、まちがいもなく彼、あるいは彼らは、このキャンプ内のどこかにいるはずだ。  被害者は、まだうら若い女性とのことであった。キャンプから、約二キロほど離れた甘藷《いも》畑の中で、女の死体は発見された。現場には抵抗のあとがみられ、明らかに暴行をうけていた。着衣は破れ、下ばきは剥《は》ぎとられ、半裸の状態であった。  現場近くを「二人の“大男”がキャンプの方向へ走り去るのを見た」という目撃者がいた。  マルティネスは仕事熱心な男であった。あの悪路を長時間運転してきた疲れもみせず、土埃にまみれた顔も洗わないまま当直将校にかけあい、キャンプにいる兵隊全員を直ちに宿舎の前に並ばせてくれといった。 「初動捜査が大切だからな」うんざりしていた僕をふり返って彼がいった、「時日がたてばたつほど、それだけ捜査は困難になる。暗くならないうちに、身体検査だけでもやっておこう」  夕闇迫るキャンプの中、はたはたと風に鳴る幕舎の前に整列させられた大勢の兵隊たちをみて、僕は瞬間、度胆を抜かれた。みな黒人なのである。黒人部隊なるものがあるとは聞いていたが、目のあたりにするのは初めてであった。 「服装に乱れがないか、挙動におかしいところがないか、顔や手足に傷がないか、よく注意して一人一人チェックしていってくれ」  マルティネスのあとについて、僕はいわれた通り各人の点検を行ない、兵隊たちが並ぶ長い列を閲兵でもするようにゆっくりくだっていった。  あまり気持ちよい作業とはいえなかった。彼らも僕たちも無言であり、みんな怒ったような顔をして僕たち二人を睨《にら》みつけた。歓迎されないことは知っていても、こうあからさまに敵意をみせつけられると、小心者の僕などはびくついて、今夜キャンプ内に泊まるのは大丈夫だろうかなど、早くも心配しはじめていた。  兵隊たちはみな、ファティグと呼ばれる作業衣をきていた。濃いグリーン色だし、彼らの肌は黒いので、たそがれの中、歯だけが奇妙に白く浮きあがってみえた。  もうひとつ気付いたことだが、黒人たちの手の甲は他の部分と同じく、黒い。ところがそれを裏返すと、掌だけはこれまた薄暮の中に妙に白くみえるのだ。 (バカなことに感心していないで、さっさと仕事しろ!)  自身にそういいきかせて、ふと目の前の兵隊に両の手をさし出させたときであった。片一方の掌と指のつけ根の部分にかすかながら黒ずんだ汚れが目についた。 (なんの汚れだろう?)  指先でさわってみると、乾いてはいるが、ちょっとべたつく感じがした。 “閲兵”はもう最後の列、あと数人を残すところにさしかかっていた。さきにチェックアップを終えていたマルティネスが僕の方を向いていった。 「今日は、もうこれまで。明日また、やらねばならぬ仕事がたくさんある!」  翌朝、部隊のジープをかりて、僕たちは島を一巡した。  伊江タッチューにのぼり、そこから望む村のたたずまいはのんびりとして、海の色がたとえようもなく美しかった。  だが、よく眸をこらせば、島民の生活は本島以上に悲惨で、貧しいのがよくわかった。戦争の痛ましい傷あとはあちこちにみられ、山麓の大きな土壕は今も口を開けたまま、断末魔の苦しみをさらし、役場の跡に残る崩れかかった壁には、無数の砲弾が打ち込まれていた。付近に散在する小さな壕は、行くところもない島民が砲火をあびて集団死していった場所だという。  行き交う島民の顔には生色なく、なにを尋ねてもまともな返事がかえってこなかった。ことに、戦争のことになると口をつぐみ、話したがらなかった。みな悲惨な死をとげた肉親への思いにつながり、心の痛みを新たにさせられたくなかったのであろう。  伊江島島民は不運であった。米軍が上陸してきたとき、敵三〇、〇〇〇に対し、守る日本軍はわずか一、六〇〇。その玉砕の道連れとなったのは、五、〇〇〇の島民のうち一、七〇〇もいる。  生き残ったものは米軍の捕虜となったわけだが、連行されていったところが、なんとあの赤松大尉が率いる“虐殺の島”、渡嘉敷島であった。すでに住民三二五人は大尉の命により集団自決を遂げており、手榴弾不発などによる生き残り三三〇人が右往左往していた。日本軍に助けを求めたのだが、赤松大尉は壕の入り口に立ちふさがり、 「軍の壕に入るな、すぐに立ち去れ」  と、冷たく命じた。  食もなく、多くは傷ついたこれらの人々を米軍が助けようとしたのは事実である。非戦闘員にかぎらず、渡嘉敷島西山陣地にこもる日本軍にも無益な抵抗をやめさせようとして、米軍は“投降勧告班”を幾組も送っている。米軍の方が、日本軍よりも親切であった。  この役目に使役されたのが、伊江島から送られてきた捕虜たちだったのである。足が強い、若い男女が多く選ばれ、彼らはそれぞれに降伏勧告書を携えて、“死のミッション”に飛び散っていった。  最初は米軍に、そして次には自国の日本軍に捕虜として捕えられてしまうあわれな伊江島住民は、「売国奴」とののしられつつ、スコップで穴を掘らされ、後ろ手に縛られて、あるいは生きたまま、あるいは斬首の刑に処せられて、穴の中へ蹴込まれたという。みな赤松の命令によるものであり、恥多くも生きながらえた彼は後年、渡嘉敷島民に集団自殺を命じたおぼえはないと否定しながらも、この「伊江島村民虐殺」だけは認めている。  こうして生き残った伊江島住民が、ようやく米軍から許可を得て、帰島することができたのは、戦争が終わって二年後、一九四七年(昭和二二)になってからのことであった。  それから僅か一年余を経て、この恐ろしい殺人事件が起こったのである。  島民の多くは、牡蠣《かき》のように口をつぐんで語らなかったが、彼らが帰島以来、こんどのような強姦・殺人事件に遭遇するのは最初ではないふしを、僕は村人の様子から感じとった。  マルティネスにそのことを話すと、 「メイビイ」短く、彼がいった、「だが、古い事件はもう調べようがない。この事件から最初に片付けることだ」  当時、僕が住んでいた普天間——現宜野湾市——の周辺には、米軍基地や部隊が多かったせいか、頻々として強姦事件が起こっていた。  事件として、CIDに持ち込まれるのはごく一部で、それも多くは迷宮入りになった。地元の民警察署には米軍人・軍属に対して捜査権が与えられていなかったし、もともと琉球警察の仕事は、軍港に陸揚げされ、各地の倉庫へ運搬されてゆく米軍物資の監視が主なものであった。  つい、一カ月ほど前には、二〇歳にもならない若い沖縄女性が仕事からの帰り道、墓地にひきずり込まれ、二七名のフィリピン兵に次々に輪姦された。この場合、捜査が容易だったのは、被害者が“生きていたこと”、“届け出たこと”、そして加害者が白人のアメリカ兵ではなく、フィリピン兵であったことなどだ。  村落の若い女たちが、“神隠し”にあうという話もよく聞いた。畑に出て仕事をしていると、突然姿を消してしまったり、そのまま家へ帰ってこないのである。“神さま”が若い女ばかり好むというのもおかしいが、どうやら“神さま”は米兵たちで、目的を達したあと、証拠湮滅を計って女を殺《ばら》してしまうらしかった。部隊内に死体を埋めてしまえば、民の警察には調べようもなく、手が出せなかった。  こんどの伊江島事件のように、死体となって発見されているケースもいくつかあった。だが、家人が、強姦のすえ惨殺されている死体を、世間には知られないように秘密裏に埋葬してしまうのである。どうせ警察に届け出ても、埒《らち》が明かないし、それよりも静かに葬ってやろうという親心から、泣き寝入りしてしまうものと考えられた。 「それで、死体の発見者は、確かに二人の黒人兵が甘藷畑から逃げていくのを見たというんだね」  マルティネスが念を押して僕にきいた。 「うん」 「それにしても遅いなあ」彼はまた腕時計に目をやりながら呟いた、「あのヤブ医者め、なにをぐずぐずしているんだろう。本部の署長は、朝一番に送るといっていたのに……」  医者が僕たちの目の前に姿を現したのは、午後の陽射しも大分おとろえ、木麻黄《もくまおう》の蔭が長く地面に尾をひく頃であった。  検視の医者というには、あまりにみすぼらしく、言葉付きからしても、正規の学業を終えた医者とは思えなかった。衛生兵あがりの医介補だったかもしれない。  待ちくたびれて不機嫌なマルティネスに、彼はくどくどと遅参の理由を並べたてた。通訳するのもめんどうくさく、僕がひとことだけ弁解してやると、 「ネバー・マインド」マルティネスがいった、「さあ、さっさと仕事を片付けてしまおうぜ」  だが、僕たちが被害者の家へ案内されたとき、仕事は簡単には片付かないことをさとらねばならなかった。  死体は、すでに、 「埋葬ずみ」  と、告げられたのである。 「ジーゼス・クライスト!」マルティネスがまた怒ったように舌打ちした、「俺はこの人たちを一生理解できないね。なぜ、死体をそのままにしておいてくれなかったんだろう?死体をみなければ、他殺かどうか断定できないじゃないか。強姦されてるかどうかもわからないし……」 「どうしたら、いいんだい、僕たちは?」 「できることは、一つしかないさ。墓をあばいて、死体を取り出す——それ以外に、なにかよい方法でもあるというのかね?」  墓をあばくと聞き、僕の背筋に冷たい戦慄が走った。  沖縄を訪れたことのある人は、山裾《やますそ》や丘陵など、島内いたるところに散在する亀甲墓や破風墓、あるいは崖の中腹をくり抜いた壁龕《かべがめ》や墓の素朴な美しさに心をひかれたと思う。  洗骨習俗が沖縄の独特な墓制の要因をなしているのだが、たとえば亀甲墓など、女性の下腹部のなだらかな線と丸みをそのままに象《かたど》り、人は死ねば再びもとの生まれたところへ戻ってゆくという帰元思想に由来している。「死んでからはどうでもいいけれど」マルティネスが冗談をいった。「俺は生きているうちに何度もソコに入ってみたいね」  沖縄の墓の構造は、わが国上古の横穴式古墓と同じだが、中国南部の墓の外観は沖縄のものにそっくりだというから、そちらからの影響もあったのだろう。  マルティネスはアメリカや日本本土のような縦穴式の墓が念頭にあるから、埋葬されてしまったと聞き、死体を墓から掘り出すのに大変な骨折りだと思ったらしい。  墓へ向かう途中、僕も考えてみた。  なぜ、死体をはやばやと墓の中へ入れてしまったのだろう? さきの普天間のような例も考えられるが、どうもそればかりではなさそうだ。 「メインランド・ジャパンには、変死体を絶対たたみの上にはあげず、土間にしか置かない地方があったけれど、同じような家族の心理かな?」  仙台CIDにいたことのあるマルティネスがそんな質問をした。そういえば、信州南部に今もその習慣は残っている。 「ちがうよ」僕が答えた、「オキナワンの情はもっと厚いよ。簡単な理由だと思う。つまり、死体置き場がなかったというだけのことじゃないのかな?」  当時の住宅事情はひどい。終戦時の人口は僕たちのような引揚者を加えて二倍にもふくれあがり、戦火ですべてを失なった沖縄に対して、米軍は無為無策であった。わずかに焼け残った家や掘っ建て小屋に何家族も雑居し、畜舎の上下にも必ず人が住んでいた。 「それにね、沖縄では死人を葬った翌朝、いったん閉じた墓を開けて、もう一度愛する肉親の顔をみ、名残りをいつまでも惜しむ習慣がつい、二、三〇年前まではあったそうだよ」 “ナーチャーミ(翌朝見)”という言葉は現在でも使われている。翌朝《ナーチヤ》、もう一度墓参りをする意で、実際にその習慣もある。だが、本来はマルティネスに説明したような習俗ではなかったろうか。  葬儀をすませた少女の遺体を、翌朝再び墓を開け、いつまでも抱きしめて泣いていたという母親の話が残っている。  また、ある地方では、未婚の若い男女が死んだ場合、月明りに同年輩の若者たちが墓を開け、夜通し歌をうたって送別したという伝承もある。 「ナーチャーミの昔の風俗が、ときとして、この島には現在も生きているのかもしれないね」  縦穴式の埋葬では無理だが、横穴で内部が室《むろ》のようになっている沖縄の墓では、さほど難しいことではない。  伊是名《いぜな》、伊平屋《いへや》など、万葉よみのこの付近の島々の名を思いながら、僕はふとそんなふうにも考えてみた。  墓は、小高い丘の中腹をくりぬき、前面に石を積みコンクリートで固めただけの質素なものであった。貧しいこの島に、本島にみるような亀甲や破風型の大きな墓は見当たらなかった。少しでも大きめな墓を作ると、役人が村人に命じて、叩きこわさせたという話も伝わっている。  案内してくれた家人を送り返すのに、僕とマルティネスは、ひと苦労しなければならなかった。彼らは決して、これから僕らがかかろうとする作業を楽しみはしないし、その場にいてほしくなかった。  墓に手をかけたとき、さすがに僕の手はふるえた。しっくいで縁を固め、密閉されていたが、これは釘とハンマーで容易に除去できた。  入り口は人ひとりがかがんで通れるくらいの大きさである。マルティネスと二人で蓋《ふた》のような重いその石を取り去ると、ぽっかりと真っ黒な口が開いた。暗い闇の中からひんやりとした空気が流れ出て、異様な臭いが鼻をついた。 「入 ろ う《レツツ・ゲツト・イン》」  マルティネスが先に、続いて僕が入った。ヤブ先生は外で知らん顔をし、マルティネスからせしめたラッキー・ストライクをうまそうに吸っていた。  中は思ったより広い。正面に石か瀬戸物でできたような座棺がおいてある。暗くてよくわからないし、さわってみるのも少々気味わるい。その左手に厨子龕《ずしがめ》らしいもの、そして数個の骨瓶《ほねがめ》が並んでいた。座棺の中で白骨化した遺体は酒で洗骨され、それから龕か瓶の中に収められる。フラッシュ・ライトで照らしてみると、みな年月日が記入されており、乾隆《けんりゆう》康煕《こうき》などの年号が入っていた。昔の沖縄は中国の年号を使っていたとは聞いていたが、少々奇異な感じがした。  被害者の新しい遺体はその前に安置されていた。棺がなかったのであろう、細長い、ジュラルミンのアメリカの飛行機の燃料補助タンクが代用してあった。  マルティネスが闇の中で、息をのむようにして呟いた。 「外に出 そ う《レツツ・ゲツト・イト・アウト》」  それから先、僕はなにをしたのかよくおぼえていない。あとはヤブ先生の仕事だったし、ジュラルミンのタンクを開けたとき、中を見るのが恐ろしかった。そっぽを向いたまま、ヤブ先生が死体を調べつつ、口述するのを僕はうわの空で筆記していた。どのくらいの時間がたったのであろうか。短いようでもあり、長いようにも感じられた。  突然、ポキポキ、と妙な音がし、思わず目を向けると、ヤブ先生が死体の下半身をおさえ、両足を開くのに苦労していた。二本の足がタンクの縁から外側へ突き出ていた。 「オイ」ぶっきらぼうに彼はそういって、僕に一本のスプーンを手渡した、「これを使え!」 「なにをするんですか?」 「きまってるじゃないか。それで精液を採取するんだ」 「えっ?」  スプーンを手にしたまま、僕はまだヤブ先生に命じられたことの意味を計りかねていた。 「もっとよいアイデアがある」  マルティネスが、そばで呟いた。そして医者の黒い往診鞄から脱脂綿をとり出し、付近から拾ってきた木の小枝の先に小さな玉のようにして巻きつけた。即製綿棒である。  僕はまだ、彼がなにをしようとしているのか、わからなかった。やがて、開かれた二本の足の間にかがみ込み、マルティネスがその棒先を膣内深く挿入しはじめたとき、僕は激しい嘔吐《おうと》を催し、その場にいたたまれなくなり、走り去らねばならなかった。  キャンプの中、僕たちがあてがわれた宿舎は、野戦用の幕舎である。内部は比較的ゆったりとし、ベッドが両サイドに二つ、まん中にテーブルと椅子がおいてあった。急造のイントロゲーション・ルーム(訊問室)というわけである。発電機が低いうなりを立て、テント中央からぶらさがった裸電球がぼんやりと周囲を照らしていた。 「ビーツ ザ シェッ アウト オブ ミー!」  さきほどから頭をかかえ込んでいたマルティネスが突然、大きな声をあげた。「さっぱりわからない」という意味のスラングだが、彼は将校にしては少々、言葉づかいがわるい。  テーブルの上には、容疑者リストが載っていた。昼のうち、部隊長と話して平生素行のわるい兵隊や、怪しい行動のあったものの名前をリスト・アップしておいたのである。  幕舎へ帰り、メスホールへ行って夕食をすませると、マルティネスはそのリストをもとに、兵隊たちをひとりひとり部屋に呼びつけて訊問し、犯人の割り出しにかかっていた。  僕は“検視”から帰っても、気分がわるくて夕食どころではなかった。シャワーをあびて、あの気持ちわるい墓の臭いを髪一本にも残さないよう、赤い消毒石鹸《せつけん》でごしごし洗った。訊問には通訳の必要がなかったから加わらず、ベッドに腰かけて、兵隊たちの挙動をそれとなく観察していただけである。 「この事件も迷宮入りかな?」  マルティネスが、力ない声を出した。 「弱音をはくなよ。怪しい奴はそれで全部かい?」 「ああ、全員だ。どいつもこいつもクロたちはみな同じ顔してやがる。誰が怪しいのか、さっぱりわからん。怪しいっていえば、みんな怪しいし、怪しくないっていえば、みんな怪しくない」 「ボブ、君は疲れているんだよ。もう寝たらどうだい。また明日一緒に考えよう」  ボブはロバートの略称だが、それがマルティネスのファースト・ネームになっている。  そういってベッドに横になりながら、僕は思うともなく死体が発見された現場付近のシーンを思い浮かべてみた。  あたりは、一面の甘藷畑。——  すると、昨日チェックアップしたひとりの黒人兵の手の汚れが突然、目の前に浮かび、甘藷畑と重なりあった。  そうだ! あの汚れは、いもの葛《かずら》か葉っぱの汁が手についたものだ!  あのときは、なんの汚れだろうと訝《いぶか》りつつも、そのまま看過してしまった。いま偶然に思い出したのだが、あの白い汁は一たん手につくと、一、二度手を洗ったぐらいではなかなか落ちない。  勢いよくベッドから起きあがると、まだテーブルの前に頭をかかえているマルティネスにいった。 「ヘイ! あの兵隊を呼ぼう! やつの名前は確か、ホースリーとかいった」  呼び入れられたルー・ホースリー一等兵が、犯行を自供するまでにものの一〇分とかからなかった。共犯者の名前を白状したのはもちろんである。直ちに二人の身柄を拘束し、当直将校を呼んで監視させることにした。  翌朝、目をさましたとき、マルティネスが眠そうな目をこすりながら、聞いたものである。 「ヘイ! チヒロ。一晩中、俺は考え続けてたんだ。どうして、やつがホシだとわかったんだい?」  僕は思わずニヤリとした。  戦争中、中学に入った僕たちは、毎日のように軍部に動員されていた。満足に勉強したのは一年生のときだけ、あとは那覇や嘉手納の飛行場へひっぱられたり、港での陸揚げ作業、砲台作りなど、労働者のような仕事ばかりさせられた。  ある日、僕は炊事当番で、みそ汁の中身がなにもないので甘藷の葉っぱをとりにやらされた。葉を摘みとり、茎をきざむと、白い液汁が出る。そいつが手につくと、石鹸でちょっと洗ったぐらいでは落ちず、いつまでも汚れとなってとれずに苦労した思い出がある。  マルティネスには、そんな話はせず、 「白人より、日本人の方が“スマーター”だといっただろう」真顔の彼をそういってからかい、僕は笑って答えた。 「地方的知識《ローカル・ノーリツジ》っていうやつさ」  マリリン・モンローが、不慮の死をとげてから、もう一八年もの年月が流れる。一九六二年(昭和三七)、夏に起こった事件である。  以来、ミステリアスなその死について、数々の疑問が新聞・雑誌の紙上を賑わせてきた。二年に一度ほどの割り合いで、他殺説が蒸し返され、その都度、いろいろな人が野口博士に面会を求めてやってくるのだそうだ。  博士は最初、僕もその一人だと思ったらしい。マリリンの死が、自殺か、他殺、または事故死——さまざまな、推  測《スペキユレーシヨン》がとびかう中で、なんとか死因を解明し、一躍ジャーナリストとして名をあげてやろうという功名型、あるいは『マリリン・モンロー その神話と真実』を書いたノーマン・メイラーのように、最初は金もうけ——つまりは分のよい仕事だから、調べはじめたという人もある。  だが、マリリンの死は永遠に謎に包まれたまま、今となっては真実を解き明かす術《すべ》はない。財田川事件の再審請求を棄却した判事ではないが、 「捜査官の証言も全面的には信用できず、一八年も経過した今日においては、すでに珠玉の証拠も失われ、死亡者もあり、生存者といえども記憶はうすらぎ」  事実の再現は甚だ困難である。まして、メイラーがいうように、 「他殺の動機はあったが、証拠はない」  というのであれば、そのような説に耳を傾けるのも意味なく感じられる。  博士の話は続く。 「記者諸君は、つまらぬことばかり書きたがるので困ります。私は猟奇的な質問には一切答えないことにしています。彼女の体がすばらしかったかどうかなど、そんな俗っぽい質問には、科学者としても、また故人の名誉のためにも、答えられるものではありません」  博士は少々、その点にこだわっている様子であった。彼がいいもしないことを作り話にして、雑誌に載せられたことを今もって怒っている。 「人間の死を大きく分類すると、まず自然死、それから事故死、自殺、他殺、と四つの場合が考えられます。私はマリリンの死がそのうちのどれに該当するか、死因とその時の状態をまじめに、細部にわたって調べたつもりです。そして、その結果はまちがいもなく、睡眠薬のオーバードーズ(過量服用)であったといえます。日本にもあるでしょう?」 「なにがですか?」 「ペントバルビタールという薬です」 「さあ……?」  僕の睡眠薬は、ベッドに入って本を二、三行読むことだ。そんな薬の名は、聞いたこともない。 「量としては、四〇から五〇錠を飲んでいます。それと同時に、クロロハイドレッド——これも日本にあるはずです、ホースイクロラールというんですね、大変に強い睡眠薬です——これもあわせて多量に飲んでいるんですね。五錠や一〇錠じゃあありません」 「なぜ、そんなものを、そんなに沢山飲んだんでしょう? 飲まねばならないなにかの理由が、あったのでしょうか? それとも……」僕が博士に質問した、「誰かに飲まされた、というようなことはなかったのですか?」  マリリンは、薬を飲むのが下手であったという。一錠の錠剤を飲むのに、いちいちグラス一杯のシャンペンとともに飲みくださねばならなかった。だとすれば、相当量のシャンペンが必要だったはずだが、そのような瓶の影は彼女の部屋に発見されなかった。  あるいは注射でもうたれて、口に薬をおし込まれた可能性は?  彼女は不眠症で十数年来、四、五錠の睡眠薬を飲まねば眠れなかった。それを飲んで眠りかかったところへ“犯人”が侵入してきた。朦朧《もうろう》としたマリリンに侵入者が睡眠薬をどんどん飲ませた。犯人は目的を達し、証拠を室内に残さないよう始末して、逃走した? 「この可能性と、推理はいかがなものですか?」 「可能性はないとはいえませんね」博士が答えた、「だが、恐らくは週刊誌にあった話でしょうが、それらしい、破綻《はたん》の多いストーリーの組み立てですね」  ロバート・スラツァーも、野口博士のマリリン・モンロー検視結果に疑問点を投げかけた一人である。最もおかしな点は、死体検案書にマリリンの体に注射のあとがあったかどうかについてなにもふれられていない、としている。 「毛ほどの疵もみのがさないよう、解剖の前に彼女のからだはくまなく、丹念に調べました」  博士はすでに僕に向かってそう述べている。注射のあとはおろか、それらしい強制の痕跡は全く認められなかったというのだ。  博士が僕にみせてくれた死亡診断書《デス・サテイフイケート》(死体検案書)には、外部所見が次のように述べられている。 氏名 マリリン・モンロー 本名 ノーマ・ジーン・モーテニソン 年齢 三六歳(一九二六年生まれ) 身長 五・五フィート(一六八センチ) 体重 一一七ポンド(五三キロ) 白人女性、髪の毛、ブロンドだが、漂白してある。 顔面、首、胸部、上腕部、右脇腹に青いアザ、また腕の後部などに押すと消える程度のうすいアザあり。 顔色と胸は鉛色で、左側ヒップと背中の左側下半身に僅かな内出血が認められる。 胸部にさしたる損傷なし。 両眼の充血いちじるし。 腹部、右上のところに、七・五センチの外科手術のあとあり。 恥骨の上、陰毛の上端にそって一二・五センチの外科手術のあとあり。 陰毛の分布は女性特有のパターン。その他、鼻、耳、顔面などの外傷なし。  死体検案書は、七三二ページにおよぶ厖大《ぼうだい》なものである。死因はペントバルビタール及びホースイクロラールの「オーバードーズ」と明記し、解剖した内臓のひとつひとつに詳細な所見、毒物検査の結果が書き添えられている。英語ではあるし、かりに日本語で書かれていたにせよ、素人の僕などが読んで理解できる代物ではない。  自殺か他殺かについても断定を避け、デス・サティフィケートの第一ページに、「プロパブル・スウィサイド」——自殺と推定——とだけ短く記入されていたのが、印象に残った。 「マリリンの死は、絶対に自殺ではない。彼女には、自殺するような理由がない」  そう主張するのは、マリリンのかつての夫、アーサー・ミラーをはじめとし、彼女をよく知る人たちである。事故死ではあるかもしれないとし、まちがって決められた量をオーバーして飲み、それを忘れてまた飲んだ。彼女はそういう女だったという。  だが、ペントバルビタールだけで、四、五〇錠も飲んでいる。いくらのんきな女でも、そんな過ちをおかすだろうか? 「彼女は過去、三度も自殺をはかっていますよ」  野口博士はその事実の報告をうけている。これも先程の話とは矛盾するし、説明がつかない。  さきのロバート・スラツァーはマリリンとの結婚を経験し、アーサー・ミラーと同じく彼女に最も近い一人だが、マリリンの二番目の夫、ジョー・ディマジョーも、自殺を信ぜず、他殺の疑いを抱いている。マリリンに最も近かったこの三人が図らずも同意見であるという事実は一考に値する。  ディマジョーは費用はいくらかかってもよいからと、腕ききの私立探偵をやとい、死因を確かめようとした。  マリリンの部屋にサイドテーブルがあり、鍵がこわされていた。そしてその抽出しの中にあった“ある男性”からの手紙が消えていた。差し出し人の名前——ロバート・ケネディだといわれている——を確かに知っている家政婦マレー夫人は、マリリンの死体の第一発見者ではあるし、死ぬ直前、彼女が電話で話していた相手が、司法長官ロバート・ケネディであることも知っている。その他多くの事実を語ってくれるであろうこのマレー夫人を、ディマジョーはまず探し出そうとしたのだ。  野口博士の解剖が終わって四日目に、なぜかマレー夫人はヨーロッパへ飛び、そこで姿を消してしまっていた。ディマジョーの努力にもかかわらず、マレー夫人の行方は杳《よう》として知れなかった。  このほか、死亡してから発見されるまで三時間しか経過していないにしては、死後硬直が進みすぎていたとか、睡眠薬中毒で死亡した人間の消化器官内から屈折結晶体がみつからないことはまず考えられないのに、野口博士がこの事実にふれていないのは奇妙だとか、診断書に関する疑問が数多く週刊誌などに書かれている。  ノーマン・メイラーもこのことについて疑いを持ち、博士に質したが、納得のいく説明は得られなかった、とある。  正しい説明が、今、博士の口から僕になされても、専門家でない僕には、理解することができないであろう。 「検視をすませ、死体発見の現場の状態をみれば、ある程度までわかる場合もあるのですが、この場合、自殺か他殺かどうしても決めかねたのです」  そういう博士に、僕は少々突っ込んできいてみた。 「では、その“プロバブル・スウィサイド”のプロバビリティーを百分率でいっていただけますか?」 「そうですね」博士はちょっと考えてから、答えた、「八〇パーセントまでは自殺と考えてよいでしょう。残る二〇パーセントが他殺の疑いです」  事故死を、博士はそのパーセンテージの中に入れなかった。 「自殺ときめるためには」博士は続けた、「マリリンのその当時の精神状態、なにを考え、なにを悩んでいたか、彼女の意思がどうあったのか、よく調べねばなりません」  博士は多数の心理学者、精神病学者、社会事業家を起用して、四〇人以上からなる調査班を組んだ。マリリンの身辺をさぐり、彼女を子供のときから知っている人々をことごとくインタヴューした。 「その結果、彼女の“ライフ・スタイル”というものが浮かびあがりました。彼女は生まれおちたときから、非常にさみしい星の下で生きてきたのです。ロスアンゼルスへきたのは、九歳のとき、孤児院へ入れられたのです。一六歳のとき、早くも結婚しますが、間もなく離婚。職についていなかった彼女は、五〇ドルのために全裸となります。例のヌード・カレンダーです」  この頃の彼女の生活には、不明部分が多い。つい数週間前のある週刊誌が、マリリンが若い頃ブルー・フィルムに出演し、その写真を入手したとかで特集をやっていたが、ともかく、そのような曖昧《あいまい》な生活がしばらく続いたらしい。  やがて彼女はチャンスをつかむ。モデルの道から、映画に出ることになり、最初は七五ドルの週給だったが、一、五〇〇ドルと飛びあがり、一躍ハリウッドのスターダムにのしあがる。マリリン・モンローの名は世界中に知れわたった。 「確かに彼女は有名になりました。しかし、その生活が彼女を幸福にしていたかどうかはわかりません。きらびやかなハリウッドの中にあって、彼女は孤独であったようです。ハリウッドに失望し、ハリウッドによって作られた“セックス・シンボル”の名を非常にきらっていました。そればかりを売り物にされることに抵抗をおぼえ、まじめな映画に出演し、まじめな女優としての道を歩きたいと念じていたのです。性的魅力ではなしに、演技力で自分をみてほしかったのです。だが、ハリウッドはそんな彼女をせせら笑い、相手にはしてくれませんでした。必然的に、そうした情緒不安定な生活が彼女を精神的に、また経済的に行き詰まらせていったようです。スターの日常は必要以上に金がかかり、はたで思うほど、恵まれた生活ではないようです」 「そういえば、彼女が死んだとき、無一文——貯えが一セントもなかったそうですね。なににそんなに金を使ったのでしょう?」 「一例をあげれば、彼女の商標であるあの金髪です。あのブロンドを保つために、彼女は一週間に一度は美容院へ通わねばなりませんでした。料金は二五ドルなのに、当時の金でいつも一回四〇〇ドルのチップをはずんでいたといいます」 「すると、彼女は髪をそめていたわけですか?」 「ええ、彼女はもともとブルーネット(黒みがかった茶色)ですから……」 「野口さんは、よくご存じなわけですね」  僕がさも感心したようにいうと、 「あなたはずるい人ですね。とうとう、私にこんなことまでしゃべらせてしまって……」  いつも謹厳な顔をして話す博士が、苦笑しながら、その“事実”を認めた。 “東部の兄弟”とマリリンの関係について、多くの週刊誌が伝えるところは、ほぼ真実に近いようだ。 「ケネディ大統領にマリリンを近づけたのは、ピーター・ローフォードだったのですね?」  それとなく僕が水を向けると、 「そうです。ハリウッド関係とは非常に密着していたローフォードがその役目をうけもちました。兄のジョンだけでなく、弟のロバートともかなり親しい関係にあったようです」 「やはりそうなんですか。兄弟の両方とも関係があったというわけですか」  マリリンがロバート・ケネディの愛人でもあったというのは通説だが、どちらかというと、兄のジョンの方により強く惹かれていたらしい。  博士が続ける。 「実は、私のオフィスはこれらの事情をみな把握しておりました。というのは、電話でのやりとりは内容こそわかりませんが、市外通話なのでみなコンピューターに記載されるのです。どこの誰それと、いつ話したかは、調べればすぐわかります」  マリリンの死体が発見されたとき、彼女は受話器を強く握っており、作為でなければ、誰かと通話中に意識不明におちいったことが考えられる。また彼女は最後の夜、ホワイト・ハウスと長いこと電話していたことも報じられている。そしてFBI(米連邦捜査局)が翌日、サンタ・モニカの電話局へいって、前夜マリリンがかけた市外通話のリストを全部持ち去ったという。  どうも僕は、この“という話”が苦手だ。重要なポイントなのだから、事実を確認できないまでも、その努力がなされなければ意味が薄らぐ。  野口博士は、マリリンがケネディ大統領の手の者によって消されたのだとする、例のノーマン・メイラーの暴露記事を、 「おもしろい小説ですね」と誉め、 「あれだけのお膳立てが揃っているのですから、出版社が着眼するのは当然ですし、作家がストーリーの種、いやメシの種にしない手はないですよ」  といった。 “という話”はまだある。  FBIとCIAの秘密機関は、ケネディ兄弟が組織、およびそれらを動かす人々の強大にすぎる権力を弱めよう、あるいは縮小しようと画策したことに対し、たえず反撃の機会を狙い、ケネディ・ファミリーの弱みを握っておくことに腐心していた、という仮説である。  そのほか、マリリンは兄に殺《や》られたのではなく、弟ロバートの方にやられた“という話”、さらには共産主義者たちが二人の関係を利用した“という話”もあるが、今さらこれを繰り返しても意味がなく、博士は「荒唐無稽《こうとうむけい》」だと、歯牙にもかけない様子であった。  マリリンの死を、自殺とみるか他殺とみるか、野口博士は、 「それは“サトゥル・ディファレンス”(微妙なちがい)で、専門家でない一般の人には非常にわかりにくい問題です」  と結んだ。  しかしながら、マリリン・モンローの死が一八年後の現在もなお、謎に包まれ、幾多の疑惑を残していることは事実である。冷たい彼女の墓石はいま訪《おとな》う人も少なく、静かに、われわれに何事かを語りかけるようですらある。 ——その全裸の死体に、二つの黒い影がさしていた。巨大なアメリカを動かす力を持った“東部の兄弟”の影が。  週刊誌の見出しに書かれた文句だが、そこに妙な真実味を感じたのは僕だけだろうか。  自殺として処理された一女優の死が、やがてダラス、ロスアンゼルスと続いて起こるケネディ兄弟の暗殺事件を思うとき、全く無関係だとはいい切れない気もする。  日本も例外ではないが、政治家が関係し、あるいは背後に蠢動《しゆんどう》する事件に、すっきりと解明されたためしはない。解決は表面だけ、肝腎のところはぼかされたり、すりかえられて、世人の目を欺く。 死体検案書 DEATH CERTIFICATE  一九六八年(昭和四三)六月五日、もしニューヨーク州上院議員、ロバート・ケネディがロスアンゼルスを訪れていなかったら、トーマス・野口博士は今日、ロスアンゼルス・カウンティの検  視《チーフ・メデイカル・》  官《イグザミナー》の地位にとどまっていなかったかもしれない。  博士が四〇歳の若さで、チーフに昇格したのはそれより六カ月前、前年の一二月のことであった。  この要職に彼を任命したのは、郡のボード・オブ・スーパーヴァイザーズ(参事会)だが、形式的なしきたりとして、六カ月の心得期間がついていた。大過なく過ごせば、その後は正式のチーフとなるシステムについても、すでに述べた通りである。  ケネディ上院議員がロスアンゼルスを訪れたとき、新しい検視官のトライアル・ピリオドは二週間たらずで満期になろうとしていた。しかし、博士は彼を任命した参事会《ボード》が正当な理由もなく、彼を解職しようとしていた動きにまったく気付いていなかった。  LAPDをはじめとする各警察の署長たちが医師会と合流して何やら画策し、ボードに圧力をかけているとかいう話はそれとなく耳に入ってきたが、公職にある者の監督を司るスーパーヴァイザーたちがそのような理不尽な挙に出るはずはないと、博士は単純に信じ込んでいただけのことである。それよりも、野口博士の頭は仕事のことでいっぱいであった。ことに、ケネディ議員がロスアンゼルス入りして以来、また頭痛の種が増えたのである。 「それ以前から、法医学者たちと相談し、これは大変いやな想定ですが、もし、不慮の事態——兄のケネディ大統領に起こったような——が、弟の上院議員の身の上にも発生したとしたら、われわれ関係者はいかに行動すべきかを、予め考えておく必要がありました」  今までは、時に軽口もとび出す話し方であったが、当時を思い出してか、博士は厳粛な口調にもどっていた。  会合の席上、野口博士を中心とする法医学者たちが話しあい、確認した事項は次のようなものである。  ダラスにおけるケネディ大統領暗殺事件のときの混乱に鑑《かんが》みて、検視責任者は一人に決め、管轄の問題をはっきりさせる。 「いや、それは、すでにカリフォルニア州法で決まっていたことです。このカウンティだけで、ロスアンゼルス市警をはじめとし、四〇ものポリース・エージェンシーがあることは先程も申しあげました。それらの責任者がひとりびとり勝手なことをいい出し、ダラスにおける例のごとく、ワシントンの高官たちが権力を嵩《かさ》に介入してきたら、混乱を招くのは必至です。それよりも私が恐れたことは、誰が検視の結果に責任を持つかです。私の手を離れた検視に、私は責任を負えません。にもかかわらず、このカウンティ内で起こる犯罪の検視に関しては、私が責任者です。ケネディ大統領暗殺のときのようないい加減な検視解剖をして、あのように曖昧な発表をすれば、世間が納得しないのは当然です。また逆な言い方をすれば、解剖を行なった医師やFBI、シークレット・サービス(秘密警察——大統領の身辺護衛官)にしても、彼らが後日受けたような重い責任追及もされずにすんだでしょう」  博士の口調は、にわかに熱をおびてきた。 「リメンバー・ダラス——われわれの仲間では、それが口癖、いや合言葉のようになっていました。誰しも、自分の住む州の法律が蹂躙《じゆうりん》されるのをみて、屈辱をおぼえないものはいないでしょう」  米軍政下の沖縄にながらく住んでいた僕には、博士のいうことの意味がよくわかるような気がした。検視の管轄権は、被害者——あるいはその身辺——が、誰であろうと侵されてはならない。法を守ることによってのみ、責任が果たされ、公正な結果が導き出される。 「ダラス官憲がなめた屈辱を、私たちはここロスアンゼルスでなめさせられたくありませんでした。ダラスの検視官《コロナー》は、テキサス州法に基づいて、検視が検視事務所があるバークランド病院内で行なわれることを主張したまでです。そして大統領の遺体が検視をすまさずに、ワシントンへ運び去られることを拒否しただけです」 「でも、相手が一国の大統領であれば……」今まで黙って聴いていた渡辺さんが首をかしげながら、呟いた、「ダラス官憲、あるいは検視官といえども、やむを得ないのじゃあないですか? 国の前に、州の権限は小さすぎます」 「いや、ちがうと思います」僕が野口博士にかわって意見を述べた、「州の刑事司法に国——つまり連邦最高裁が介入できるのは、合衆国憲法第五、第一四修正条項などに違反する疑いがあるときだけでしょう。大統領の遺体といえども、一個の他殺体には変わりありません。検視はテキサス州法に基づいてその地で絶対行なわれるべき性質のものです。この法律が守られていたら、少なくとも検視に関するいろいろな疑問、論争は後日、最小限にとどめられていたのではないでしょうか?」 「その通りです」博士があとをひきとった。 「検視は医者であれば誰でもやってよいというものではありません。完全な医学的《メデイカル》、法律的《リーガル》捜    査《インヴエステイゲーシヨン》というものは、解剖だけじゃあない。現場の捜査、目撃者とのインタヴューなども含めて総括的にやってゆかねば、あとで大騒ぎのもとを作るようなものです」  渡辺さんが黙ってうなずいた。 「それから、ダラスの例ではライフル銃、ロスアンゼルスではピストルが凶器となっていますが、その凶器に関するいろいろな実験もやってみなければ、どのくらいの近さ——つまり距離、それからどのような角度から発射されたものか、専門家でない人たちにはわかりにくいでしょう」  検視は、第一に、法律が定める管轄内で行なわれることが、非常に肝要なのだと博士は繰り返し強調した。  第二に、資格のある法医学者によって、検視が徹底して行なわれなければ、その罪科の決定は意味をなさず、捜査を正しい軌道線からはずして、国民の疑惑の的となりかねない。 「ダラスの大統領暗殺事件はそのよい例です。直接の管轄内であるダラスで検視が行なわれず、発見された証拠を全然無視して、わざわざワシントンDC——ベセスダという海軍大学医学校ですが——そこへ遺体を運び込み、専門家でない医師たちに検視解剖をさせてしまったことがなによりも大きなミステークです。その結果について——」  博士はここで、大きく息を吸った。 「FBIと、公式発表との間に大きな食い違いを見せる原因となり、この世紀の一大犯罪の背後にうごめく黒い陰謀を隠蔽するための偽証だ、という疑惑をばらまいてしまったのです」  ケネディ大統領の暗殺事件は、オズワルドの単独犯行と結論した「ウォーレン報告」により、一応の解決をみたことになっている。  アール・ウォーレン連邦最高裁判所長官を委員長に、ジェラルド・フォード下院議員やアレン・ダレスCIA長官ら著名人七名のメンバーから成る調査委員会は一九六三年(昭和三八)一一月、ジョンソン大統領命令で設置された。  委員会は主としてFBIが収集した厖大な証拠と証人の供述を検討、独自に喚問した五五二名の証言を聴き、右の結論に達した。  すなわち、オズワルドは実際には無実であったが、その口を永久に封じ、共犯者あるいは事件背後の黒幕によって射殺されたのだという疑惑を否定し、内外、左右いずこにも、いかなる陰謀も存在しなかったと断定した。  このウォーレン報告は、「誰が大統領殺害の真犯人か」の内外からの問いに対する政府の公式発表とみなされ、「ニューヨーク・タイムズ」をはじめとする各新聞からも“偉大な歴史的重要性をもつ貴重なドキュメント”として称讃された。  余談になるが、ウォーレン最高裁長官は、アイゼンハウアー大統領によって任命された裁判官である。アイゼンハウアーは彼を任命したことについて、「かつて自分が犯した最大の誤りであった」と語ったのに対し、ジョンソン大統領は、彼を称讃し「これまでの最高裁長官のうちで、もっとも偉大な長官である」と語った話がある。その評価の相違はともかく、ミランダ判決をはじめとし、被疑者の人権を重んじるいくたの名判決を書いているこの法律家に対する国民の信頼は厚い。だが、ウォーレン報告が、ケネディ大統領暗殺事件について、国民一般の納得をはたして得ていたかどうかとなると、問題は別である。  まず、事件直後のギャラップ世論調査の結果をみてみよう。 陰謀共犯説     五二パーセント オズワルド単独犯説 二九パーセント わからない     一九パーセント  という数字が出ているが、報告はその後も単独犯説を肯定する層のパーセンテージを少しも増やしていない。  それどころか、報告の支持率は、年を追うに従って低下し、今では「中間報告にすぎない」と軽く扱われ、「オズワルドに対する起訴状にも等しい」と強く反論するものも出てきた。  オズワルドが死んだのち、当然ながら弁解も反論もできない欠席裁判に、彼にとって有利な証拠は採用されず、証人も喚問されないのでは、公正な結論が出るわけはないというものだ。わかりきっていることを断言するのに、うんざりするほどのページが割かれているとの批判もある。  当初は報告をほめていた「ニューヨーク・タイムズ」すら後になって、 「暗殺の真相を徹底的に再調査、検討するために、新たな調査委員会の設置」  の必要を提唱しているくらいだ。  政府は、うち続く内憂外患——各地に頻発する黒人暴動や旗色わるいヴェトナム戦の危機打開と収拾策に追われ、過去すでに“解決済み”の問題にまで立ち入ってゆく余裕をもっていなかったのである。  この間、アメリカ国民の間では、ウォーレン報告に挑戦するかのように、複数共犯説を主張する多数の著書が刊行され、大きな人気を博した。 『急ぎすぎた審判』    マーク・レーン 『審問——ウォーレン委員会と真相の設定』    エドワード・エプスティン 『ジャック・ルビー公判』    ジョン・カプラン ジョン・ウォルツ  これらはその一部にすぎないが、いずれも事件をよく分析的に研究し、ウォーレン委員会が採用しなかった——あるいは無視した多数の証拠をあげて反論している。 「オズワルドは真犯人ではなく、デッチあげられた“替え玉”で、ジャック・ルビーによって口封じのために消され、暗殺者は少なくとも二人か、それ以上」  というのが、圧倒的に多い主張である。  ライフルを発射した地点についても、テキサス学校図書倉庫ビルの六階後方からとするウォーレン報告に対し、ビル前方の草むらの小山、あるいはその双方から挟撃したのだと推理する。発射弾数はウォーレン報告によれば三発、反対論者は四発とするのが多く、それ以上少なくとも五発という主張もある。 『急ぎすぎた審判』の著者マーク・レーンは、ダラス市エルム通りを大統領の一行が進行していた折、前方の芝生の上に暗殺者がひそんでいた、との立証を試みている。  事件の当日早く、堤の斜面の上に、ガン・ケースらしいものを持った男をみかけた婦人。射撃があった瞬間、芝生に鋭い光をみた鉄道塔の男。木立の上にたちのぼる一すじの煙を目にしたと証言する陸橋の人。シークレット・サービスに証明書をみせながら、身元確認ができなかった男がいたという保安官など、多くの証拠を集め、その主張を補強する。  オズワルドには共犯者、またはもう一人の暗殺者がいたのだという疑惑を解消するためには、彼一人の単独犯行を証拠づけようとするだけでは足りない。陰謀共犯説に固執する側を利するかもしれない証人の言にも耳を傾け、総合的な証拠調べをウォーレン委員会はやっておくべきであった。レーンの本の題名のように「急ぎすぎた審判」だといわれるのも、「死んだオズワルドに罪を着せるための委員会」などと陰口をたたかれたのも、そのせいかもしれない。  確かに、すでに使用済みの薬莢《やつきよう》三個が、オズワルドの働いていたテキサス学校図書倉庫の六階、東南の窓に近い床の上から発見されている。照準望遠鏡つきカルカノ・ライフル銃もそこにあった。  FBIはその薬莢と、バークランド病院の担架の上から出てきた完全な弾丸一個、さらに大統領の乗用車の中で収集された二個の弾丸の破片を調べて、オズワルドのライフルから発射されたことを確認した。  ウォーレン委員会は、この三発の射撃のうち、一弾はそれ、一弾は大統領の頭に致命傷を負わせ、残る一弾が大統領ののどを貫き、コナリー知事にも七カ所の傷を負わせたものと認定した。  単独犯行としたのは、この“一発説”に依拠している。  この点に関し、「ザプルーダー・フィルム」の持つ証拠価値はたかい。  ダラスのドレス製造業者エイブラハム・ザプルーダーは、事件当日、芝生の堤の上から八ミリのズームカメラを使って、大統領一行がさしかかる前後をうつしている。そのとき目撃したことを、次のように証言した。 「自動車がほとんど一列になってやってきた時、私はそこに立っていました。そして望遠レンズで撮影中でした。ズーム・レンズです。その車がいよいよそこに達した時、私は第一発の銃声をききました。そして大統領がかがみ込んで、左の胸の辺を押えるような恰好で彼の身体を手でつかんでいるのを見ました。  いいかえると、彼は車の後部席に坐って手を振っていましたが、その銃声の後で、すぐそのような恰好になったのです。大統領はジャクリーヌ夫人の側にもたれかかったのです。その瞬間、私は彼がやられたのかなと思いました。彼がそのようなふざけたまねをしようとは信じません。しかし私は心を落ち着かせる余裕のないうちに、第二発の銃声を聞いたのでした。  それから私は、彼の頭がパクリと開いて、血や脳ミソなど、すべてのものが飛び出すのを見ました。それで私は、『奴らは彼を殺したぞ! 奴らは彼を殺したぞ!』と大声で叫びはじめました。私はギャングが彼に襲いかかったのだと直感しました。そして私は彼の車が前方の陸橋の下にはいるまで、まだ映画を撮影しつづけていました。どうやって撮影したか、全く覚えていません。私はとてもあわてていたのです……」  このフィルムを分析すると、大統領の頭のうしろを撃った弾丸と、頭蓋骨を粉砕した弾丸との間の時間をかなり正確にカメラ・スピードから計測できるという。  リチャード・ウェイレンは、「サタディ・イーブニング・ポスト」誌に、その分析結果、生じた疑問を、次のように書いている。 ——オズワルドのライフル銃をテストすると、専門の狙撃兵でも、二・三秒以下で二度つづけて撃つことはできず、またこの二・三秒は貧弱な照準望遠鏡で動く目標を狙うのに十分な時間ではないことが明らかとなった。  オズワルドが六秒以内に三回の射撃を行なったとすれば、彼は信じられないほどの幸運に恵まれていたわけである。しかし、こうした射撃は、練習を全然もしくはほとんどしていない普通の射手にとっては、まず不可能に近い。オズワルドが優秀な狙撃兵であったという“報告”は、納得のいくものではない。  ザプルーダー・フィルムを繰り返し検討すると、ケネディ大統領は、二二五齣《こま》で最初の傷に反応動作を示すのがわかる。しかしフィルムの極めて重要な点は、コナリー知事が自分の傷に示す反応動作である。彼は第二弾で撃たれたと主張する。ところが、大統領が第一弾で、知事が第二弾で撃たれたとすると、オズワルドに果たしてこの二つの射撃を行なう時間があったかどうかである。  以上の点をはっきりさせるため、ウェイレンはフィルムの齣数をくわしく調べ、大統領は明らかに二一〇齣から二二五齣目の間に撃たれたと推理している。  暗殺者が二回目の射撃を行なうのに、二・三秒すなわち四二齣が必要だとすれば、知事は二五二齣目までは撃たれるはずはありえない。ところが知事は、二三四齣目(大統領より少なくとも九齣と〇・五秒遅れて)で、第二弾に撃たれたと、あくまで主張を変えないのである。 「ライフルの弾丸は音より速いから、自分が第一弾の音をきいた以上、第一弾で撃たれたとはとても信じられない」  と彼は証言した。さらに、 「その射撃音をきいてから、自分に何か感じる前に、右を向き、それから左に向きかけるだけの時間があった」  との証言も、セダンの中で隣にすわっていた彼の妻が確証している。  ウェイレンの推論は、他の疑問点についても詳細にわたっているが、僕の興味をさらに強くひいたのは、次の記述である。  ——発表された大統領の検視、彼の受けた傷の数と箇所とは、必ずしも、完全に納得のいくものではない。  一発説は、医学専門家の証言によれば、妥当性を欠いていることになる。彼らは知事の手首と腿《もも》とに、その弾丸から出たと考えられるよりも多い細片を発見した。ところが、極めて重要なこの弾丸——委員会証拠物件三九九——は、ほとんど完全で破損を受けず、それでいながら、肉を破り、肋骨を砕き、二つの身体を抜ける途中、手首を打ち砕いたと主張されているのである。ヒュームズ検視医長でさえ、知事の腿から出た金属の細片のX線報告を検討して、「これらの細片がこの弾丸のどこから出たのか、思いつかない」と語っている。  大統領ののどの傷口についても、検視報告の結論は、野口博士の指摘のように、はなはだ曖昧というほかはない。背部から入った弾丸は、大統領の頸をつき抜け、のどぼとけの下から、すなわち気管切開の箇所から出た、とある。 「首筋に命中した弾丸の出口」という判断をウォーレン報告が採用しているのに対し、「弾丸の入り口」だとする意見は圧倒的に多い。  ——ベセスダ海軍病院で、「遺体から離れず、遺体の中にあるという弾丸を受けとるよう」指示されていたFBI捜査官二人、ジェイムス・シバートとフランシス・オニールは、遺体のおおいが取り去られると、「すでに気管切開が行なわれていた」ことを認めた。  右のウェイレンの記述が事実ならば、これは重大な意味を持つ。  ダラスのバークランド病院第一手術室で息をひきとったケネディ大統領の遺体が、検視官アール・ローズの必死の抵抗にも拘わらず、力ずくで大統領機に運び入れられたのは、なぜだろうか?  ——ジャクリーヌ・ケネディは、夫の遺体を残してダラスを離れるつもりはなかった。またジョンソンも、彼女と一緒でなければワシントンに帰ろうとはしなかった。そこで、数時間の苦しみを未亡人に与えまいと、大統領特別補佐官とシークレット・サービスは、バークランド病院のダラス官憲から遺体を引きとった。  ウェイレンは、ただそのように淡々と記しているだけだが、はたしてそうであったろうか。  ジャクリーヌ・ケネディのわがままのため、あるいは悲しみにうちひしがれた彼女への同情心だけが、法を力で破ってまで、脱出行を大統領側近たちに余儀なくさせたのだろうか。  この点についてのくわしい考察を加えた本を、僕はまだ読んでいない。  ウィリアム・マンチェスターの『ある大統領の死』から、その間の事情を皮相的にうかがい知るだけである。  ウィリアム・マンチェスターの『ある大統領の死』は、ウォーレン報告に真っ向から対立する多くの著書の中で、委員会のリポートを支持して書かれた書の一つに数えられている。 『暗殺者の肖像』などもそうだが、これは著者のジェラルド・フォード——当時、共和党下院議員——が、ウォーレン委員会のメンバーであったことを思えば、当然だといえる。  マンチェスターは一九二二年、米国マサチューセッツ州に生まれた。同地の大学を卒業後、ミズリー大学で文学修士の学位を得ている。著作には、四冊の小説のほか、『ロックフェラー家の肖像』、『ある大統領の肖像』などのノンフィクションがある。このケネディ大統領の小伝がジャクリーヌ夫人の記憶に残っていて、事件後、マンチェスターはロバート・ケネディとジャクリーヌ夫人の二人からわざわざ指名で、“商業主義を排し、後世に残すべき権威あるケネディ大統領の伝記”を執筆するよう依頼されたとある。そのため、著者は依頼主から一切の金銭的報酬をうけず、逆にこの本の印税をケネディ図書館に寄付することになっていたという。  そのようにして書かれながら、この書はなぜか出版直前、ケネディ家から公開を拒否され、裁判沙汰にまでなったいきさつを持つ。  以上を念頭に、野口博士の勧める『ある大統領の死』を通読してみると、博士がいま猶《なお》、憤然として語る“リメンバー・ダラス”の背景がうかがえて、興味ぶかい。ダラス検視官の怒りは、実は野口博士のものでもあったのだ。大統領の遺体が力ずくで病院から運び去られるところ、マンチェスターの書きぶりには、うなずけない観察もあり、少々余談にわたるが、関係部分の要約と、抜萃《ばつすい》を左に試みた。  一九六三年の秋、テキサス州の民主党は、深刻な派閥争いによって分裂していた。ジョン・コナリー州知事と、ラルフ・ヤーボロ上院議員の対立が深まり、もともとテキサスは抗争を好む土地柄であり、州内各郡 《カウンテイ》はそれぞれ独立国の様相を呈し、各カウンティ内部でも派閥争いに明け暮れていた。  ケネディ大統領は、コナリーとヤーボロの確執が保守主義と自由主義をめぐり、以前から続いてきたものであることは知っていたが、そうした内紛はリンドン・ジョンソン副大統領が解決すべき問題だと考えていた。  一九六〇年のロスアンゼルス党大会で、ジョンソンとケネディは大統領候補の指名を争ったことがある。州代表団が結束してテキサス出身のジョンソンを推したのに対し、ヤーボロだけはケネディを支持した。このため、彼は異端者として迫害され、州代表の資格を失う。ジョンソン派がこの大会において、 「ケネディは病気をわずらっているから、第一期の大統領任期を終えるまで、“寿命”がもたないだろう」  という奇怪なうわさを流したことも、ケネディはまだ忘れていなかった。いずれにせよ、そんなわけのわからぬ土地へ足を踏み入れることに、若い大統領の気が進まなかったのは無理ない話であった。こんどのテキサス旅行が、いくらか彼の気を引き立たせてくれているのは、海外旅行から帰って間もないジャクリーヌ夫人が同行を欲していることだったかもしれない。 「リンドンと一緒の旅行でもいいのかね?」  そう尋ねたのに対し、ジャクリーヌは赤い表紙の小さなノートを開いて、一一月二一日、二二日、二三日のところへ「テキサス」と書き込んだ。  大統領は、妻がテキサスヘの旅を楽しんでくれるよう願いつつ、彼女ができるだけ美しくみえてほしいと考えた。結婚以来、そんな質問は一度もしたことがなかったのに、ダラスではなにを着るつもりかを尋ね、そして、「昼食会では、金持ちの共和党員の夫人たちが顔を並べることになる。ミンクのコートを着て、ダイヤのブレースレットを光らせてやってくるだろう」と、彼はいった、「できるだけ質素にするといい。あのテキサス女たちに、ほんとうの趣味のよさをみせてやるんだね」  ジョンソン副大統領にとっても、この旅行は最初、格別楽しいものになりそうには見えなかった。コナリーはかつての彼の行政補佐官であったが、今は知事として独立して一派を擁し、ジョンソンを完全に信頼しているというわけではなかった。むしろ彼らにとって、ジョンソンは、誰に忠誠を誓っているのかわからない存在であった。  ジョンソンは鬱々《うつうつ》として楽しまなかった。中央にあっても、権威は得られず、政治的に無力な状態であった。新聞記者たちは、ファースト・ファミリーの行動については騒いでも、副大統領一家のことになると、全くといっていいほど関心を払わなかった。ジョンソン夫人は、あの有名な大統領専用機である“エア・フォース・ワン”——空軍第一号機の内部をみたこともなかった。ジョンソンが、飛行機を使用したいと思う場合、あらかじめ大統領空軍補佐官のマクヒュー准将に申請しておかなければならず、時には断られる屈辱にも堪えていた。さらにジョンソンを悩ませていたのは、次の秋に迫る次期大統領選挙で、副大統領候補からはずされるという、根拠はないが、絶えまないうわさであった。  コナリーは、州の最高行政長官として、大統領訪問受け入れのすべての取り仕切りにあたることになっていた。訪問について打ち合わせのため東海岸へ出発する前、彼はダラスで市の財界、マスコミの有力者と会合した際、みんなの前でわびてみせた。 「自分の手は、縛られているのだ《マイ・ハンズ・アー・タイドウ》」と、釈明し、「まさか、元首に対してくるなとはいえないだろう」ともいった。  コナリーは、自分は絶対にケネディのメッセンジャーボーイにはならないといいたかったのだろうが、この機会をとらえて、ヤーボロの足をさらい、テキサスの自由主義派をたたいておきたいのが本心であった。ヤーボロの落選をなによりも願い、大統領のテキサス訪問を政治的に最大限に利用する手立てを考えていた。  コナリーは、ワシントンに着くとテキサス州選出の議員たちと会談した。ヤーボロをその席に招いていなかった。コナリーはテキサスにおけるケネディの力について話し、ケネディの力は、「黒人と貧しい民主党員」の間にあるだけだといい出した。民主党中央部は、今度の旅行によって、テキサス州で選挙資金を集めたいと期待しているが、 「ケネディを支持している者は、金のない連中だ。実業家たちはケネディの選挙に献金などしない」といった。  ヤーボロは、そんなコナリーを軽蔑《けいべつ》していた。今や知事は貧困者の敵となり、金持ちたちの利益代表——そういってわるければ、熱心な協力者になりさがっていた。貧しい少年が立身出世をした後、かつて自分が属していた階級を軽蔑するという物語の主人公が、コナリーであった。ジョンソンがあるとき、内輪の席で話したことだが、コナリーは三〇〇ドルのスーツに身を包み、注文で仕立てた靴をはくだけでなく、そういう同じような身なりをした人々の間にいなければくつろげないのだといった。  ヤーボロは、テキサス州における貧困階級について調べを進めるうちに、州民に貧困をもたらした責任をとるべき者の敵となっている自分をむしろ誇りに思っていた。  民主党全国委員会のスケルトン代表(テキサス)は、このところ悪い予感に悩まされつづけていた。大統領の訪問が迫ってくるにしたがい、ダラスの雰囲気が挑発的な言葉や記事によって爆発点に達しようとしており、心底から不安になっていた。  一一月四日、彼はロバート・ケネディに手紙を書いている。 「率直にいって、私は大統領が日程からダラスをはずした方がよいと考えます」  もちろん、大統領が暗殺されるような大きな危険があるとは考えていなかったが、かつて一〇月二四日の国連記念日にアドレー・スチーブンソン(米国国連代表)がうけたような暴行が起こり得ることは十分に考えられた。  スチーブンソンは、ダラスにおける憎悪が深いのに驚き、大統領がダラスに行くべきか否か真剣に考えさせられる、ともいっていた。  ウィリアム・フルブライト上院議員は、大統領にはっきり警告した。  彼はテキサスの隣州から選出された自由主義派の指導的立場にある議員だが、ダラスの政治的暴力の歴史から、この都市に対して強い不信感をいだいていた。ケネディがコナリーと最後の打ち合わせを行なう前日の一〇月三日に、フルブライトは大統領にダラスを避けるよう説得を試みた。 「ダラスは、非常に危険です」彼は嘆願するように言った、「絶対に行ってはなりません」  ダラス市内にも、警鐘は打ち鳴らされていた。市の二つの新聞は、市民に自制を呼びかける論説を掲げ、警察署長も、 「いかなる不審な行動も取り締まる」  と、告示し、指揮下の警官を一人のこらず動員していた。  テキサス州は、アメリカ国内で最も殺人事件数の多い土地である。そして、そのテキサスの中でも最大の事件数をかかえているのが、“ビッグD”——ダラスであった。  ダラスだけでも毎月、全英国より多い殺人事件が発生していた。しかもそれらの七二パーセント、つまり四件のうち三件の殺人が銃器によるものであった。にもかかわらず、ビッグDでは、無登録で銃器を所有することが許されていた。西部劇に現われる男たちのように荒々しく、進歩もみられず、抗争を好む土地柄、人柄がそこには窺える。  一九六三年一一月二二日——ケネディ大統領が暗殺されたその日までに、この年、ダラスではすでに一一〇件もの殺人が行なわれていた。  この朝、ダラスの街頭で、五〇〇〇枚のビラが通行人へ配られた。ビラの上部に、大統領の写真が二枚並んで印刷され、一つは正面の顔写真、もう一つは横顔であった。  これは、重要犯人の公開捜査に使われる手配ポスターによく似ていた。見出しに、「指名手配・反逆罪犯人」と書かれ、下を読むと、「犯人は、米合衆国に対する反逆活動のかどによって手配されている」とあった。  一国の元首に対して、いたずらにしては度が過ぎるというものだ。このビラは後になって、事件の解明にあたり、誇大な重要性が与えられることになるが、ビラの印刷者と暗殺犯人の間には、何のつながりもなかったとマンチェスターは書いている。  このように気狂いじみた言動は、冷静であるべき学校当局にも滲透していた。  W・E・グレナー中学校は、生徒に、大統領のパレードを見たいものは、両親がそろって学校まで迎えにこないかぎり許可しない、と発表していた。この学校のある二〇代の若い女教師が教室でいった。 「あなたがたが誰一人としてパレードを見に行くことは許しません。たとえ家族全員が迎えにきても、ムダ足ですよ」美しい教師は微笑して続けた、「もし、私がケネディに会ったら、彼の顔の真ん中に唾《つば》を吐いてやるわ!」  大統領の側近たちが、こうしたダラスの情勢をくわしく分析、把握していたとは思えない。ダラスを直接には知らない側近たちは、フルブライト、スチーブンソン、スケルトンらの警告にもかかわらず、せいぜい一、二の不快な出来事にはぶつかるかもしれない、としか考えていなかった。  大統領の護衛をするシークレット・サービスも、ダラスにおける三つの会場候補地はいずれも安全であると判断していた。  ケネディ自身は、アメリカで、米国大統領が行けない都市などあってたまるかと考えていた。  それよりも、彼は行かねばならなかった。テキサスまで出掛けて、州内のつまらぬ内紛——党内分裂を調 整《パツチアツプ》する必要に迫られていた。翌年の大統領選挙までに、コナリーとヤーボロの対立をやめさせておかなければ、州の票の行方が案じられたのである。  そのため、ジョンソン、コナリー、ヤーボロと並んで州内をめぐり、四人が一体であるとの印象を一般市民に与えておく必要があった。  政治家にとって、群衆にみられることは、有力な後援者を得るのと同じように大切なのだと、ケネディはジャクリーヌに説明した。 「みられなければいけないのだ」彼はいった、「群衆のただ中を、ゆっくり進むのだ」  そのため、大統領専用車にプラスチック・カバーを取り付けることが提案されたとき、彼は言下に、「ノー」と断っている。  それでも、ジャクリーヌが、何時間もかかってセットしたヘア・スタイルが風にあたってめちゃめちゃになってしまうのを心配していたことを思い出し、 「雨でも降れば、別だが……」  と、付け足した。  大統領一行が、アンドリュース空軍基地を出発した日も、テキサス訪問の二日目、フォートウォースでの朝も、小雨が降りしきっていた。  フォートウォースから、次の訪問地ダラスまでは、目睫《もくしよう》の間《かん》の飛行距離である。オドネル特別補佐官は、すでに護衛官を二人先発させ、“SS100X”——大統領専用車の暗号名——にプラスチック・カバーを準備させていた。その日のダラスの天候は、気象台が「小雨」と「晴」の両方を予報し、ダラス・ニューズには「雨」と報じられていたように、朝のうちから小雨だったのである。  だが、ケネディとジャクリーヌが、空軍第一号機からダラスのラブフィールド空港に降り立ったとき、皮肉にも雨はすっかりあがって、晴れ間が顔をのぞかせていた。  その運命の日、ケネディは、エア・フォース・ワンの機中でもずっと不機嫌であった。わざわざ出掛けてきたというのに、テキサス訪問第一日は、分裂した民主党の収拾策とはならず、新聞の報道も気に入らなかった。  コナリーの意地悪い企みを察したヤーボロが、人気のないジョンソン副大統領の車に同乗することを拒み、あからさまに知事の悪口までたたいてしまったことが、保守派と自由主義派の反目として、全国的に書きたてられていた。  テキサスの地方紙は、当然ながらもっと派手な扱いをし、「ダラス・ニューズ」紙など、  ——政治的対立の嵐に見舞われたケネディ訪問。  ——ヤーボロ、LBJ(ジョンソン)を撥ねつける。  ——大統領訪問によって、州民主党の分裂深まる。  一面に大きな見出しを付け、いつものようなケネディ非難の記事がデカデカと載せられていた。  ——ケネディ氏、ようこそダラスヘ。  黒枠で囲んだ皮肉な広告は、“アメリカ真実糾明委員会”がスポンサーとなり、その団体は、極右団体として知られるジョン・バーチ協会と、有名なテキサスの石油大富豪の息子ネルソン・ブンカー・ハントのダラスにおける共同組織であった。  サンアントニオでは、全市をあげての熱狂的な歓迎陣であったが、ダラスにおいて大統領を迎える市民の数は少なく、沿道に並ぶ人影も点々としてさみしかった。この町の人たちが、ケネディに対して好感をいだいていないのは明らかであったし、その理由の一つは、黒人の権利に対する彼の強い主張のせいであった。  沿道を離れた遠いところから、一人の小さな黒人少年が、「JFKフーレー!」と書いたプラカードを勇敢に振っているのがみえた。大統領に同行していたテキサス選出の自由主義派の下院議員ヘンリー・ゴンザレスは、手を振りはじめた人々が突然、手を引っ込めてから、神経質そうに周囲を見まわすのに気がついた。  ラブフィールド空港から、市内各所に厳重な警備体制がとられていたというのに、この日、テキサス学校図書倉庫の六階にこもっていたオズワルドを、警備陣が見逃してしまったのは、どういうわけなのだろう?  市民の中に、目撃者はかなりいた。アーノルド・ローランドという青年は、射撃位置についていたオズワルドの姿をはっきり見た一人だ。だが彼は、オズワルドが大統領を守るため配置についていた護衛官だとまちがえた。  ハワード・ブレナンは、四〇ヤードほど下の方から、ひきつったオズワルドの顔をはっきり見た。だが彼も、どうしてこの若い男が凍りついたように立っているのか、不思議に思っただけである。  一般市民がこれだけ気付いているのに、警備にあたった警官が、誰一人として周囲の建物の窓を見まわさなかったというのは、不可解である。  ジム・ホスティは、要注意人物としてマークしていたオズワルド担当のFBIである。彼は沿道に立ってケネディが通るのをみてから、グリル・アラモにランチをとるために入った。もう仕事は済んだ、と思ったのである。  ヒューストン通りと、エルム通りの交差点を通過するときに、ソレルス護衛官は演説会場になっているトレード・マートへ無線であと五分で着くと連絡した。ローソン護衛官は行く手の陸橋の上に目を走らせた。上には、鉄道工夫が数人立っていた。これは警備規定に違反している。ローソンは、陸橋の上に黄色い雨合羽をきた警官が一人いたので、手を大きく振って、工夫たちをどけるように合図した。しかし、警官には合図がわからなかった。  エイブラハム・ザプルーダーは、八ミリカメラを構えて、近づいてくる大統領専用車を撮影していた。  専用車はそのとき、大きな街路樹のわきを通っていた。ケネディの姿は、木の蔭に入って、オズワルドがビルの六階の窓からのぞいている銃口から隠れていた。  車は、一一・二マイルの時速で進んでいた。街路樹を過ぎた。ザプルーダーは、カメラを右へまわしつつ、自分がハイウェーの標示板の裏側を写しているのに気づいた。一瞬、車全体が標示板に隠れてしまった。しかし、このとき、車はもはや六階の端の窓から隠されていなかった。  見物している市民の一人、チャールス・ブレンドの五歳になる男の子が遠慮がちに手をあげた。大統領は、少年に暖かく微笑した。そして、手を振ろうとした。このとき、鋭い、空気を震わすような音が起こった。大統領は、前へ倒れ、首をおさえた。  バークランド病院へ担ぎ込まれたケネディが、もし合衆国大統領でなかったら、彼を診《み》た医者はその場でDOA——到着時す《デツド・オン》でに死亡《・アライバル》——を宣告していたことだろう。呼吸は認められず、瞳孔は見開かれ、脳髄はとび出していた。破壊された頭蓋骨後部は、酸鼻をきわめていた。エルム通りでこの傷からはじまった出血は、SS100Xの中を血の海とし、病院の急患入り口から廊下を通って続き、まだ止まらなかった。もはや手を施す術はなかったが、ケネディの強靭《きようじん》な心臓は、それからも必死に生きんとするもののように、しばらくは打ち続けるのである。  だが、やがて、その鼓動も静止した。  ダラスにあって、ケネディ大統領の急死は間もなく、市民の知るところとなった。  オクラホマ市のある医者は、外来患者へにっこり笑っていった。 「いいぞ。ジャッキーも一緒にやってしまえ!」  アマリリョ市では、二、三〇人の高校生が歓喜して、口々に叫びながら学校を飛び出してきた。 「ヘイ、すごいぞ。JFKがバラされたぞ!」  ダラス市郊外の小学校で、教師が大統領が自分たちの市で暗殺されたと告げると、小学校四年生のクラス全員がいっせいに拍手した。  オドネル補佐官は、同じ病院内へ逃げ込んでいたジョンソンに、ケネディの死を正式に伝えた。ここで、ジョンソンによれば、オドネルは二回にわたって、空軍第一号機に搭乗するよう勧めたという。そして、ジョンソンの回想によれば、彼はケネディ夫人と、ケネディ大統領の遺体が到着するまで空港で待つという条件つきで、これを承諾したのであった。  しかし、オドネルは、あとでこの主張を、 「絶対に、全く議論の余地なく誤っている」といっている。彼によれば、ジョンソンはまず、陰謀がある可能性をあげた。「私は彼がそこをできるだけ早く脱出することに賛成した」と、オドネルは説明している。 「ジョンソン大統領と私の間では、空軍第一号機については、全く話さなかった。彼が一号機に乗ろうとしているのを知ったら、空軍第二号機《エア・フオース・トウ》(副大統領機)に乗ってもらうようにいったろう」  看護婦詰所では、マクヒュー准将が飛行機の手配に忙しかった。彼はケネディ夫人と、大統領の遺体を寸時も早く飛行機に乗せることしか考えていなかった。  ジョンソンは、あわてふためき病院を脱出した。空港につくと、ごく自然に、空軍第一号機の人となった。そしてまだしばらくは離陸しないことを全員に伝えた。ジャクリーヌが、棺とともに到着するまで、ずっと待つというのである。  ジョンソンは、時間を無駄にしなかった。三人の議員に対して、自分の新しい地位——大統領——の就任式をいかに行なうべきかを質問した。意見は聞いたが、しかし彼の気持ちは決まっていた。  大統領私室内のジャクリーヌ夫人のベッドの上に腰をおろし、彼はロバート・ケネディ司法長官にも電話している。はじめに悔みを述べ、二、三言で切り上げて、すぐ用件にはいった。 「ここにいる多くの者が、すぐ就任式を行なった方がよいと考えている。君になにか、異論があるかね?」  ロバートは、驚いた。まだ兄の狙撃事件を知ってから、いくらも時間がたっていない。ジョンソンがなぜ、それほど就任式を急ぐのか理解できなかった。それで彼は反対はしなかったが、何もいわなかった。  ジョンソンはそれからもあちこちに電話している。 「たった今、司法長官と話したが、彼は私がここ(機上)で就任式をするようにいってきた」  その頃、バークランド病院では、二番目の大きな混乱が生じつつあった。  ケネディの遺体を納めた重さ八〇〇ポンドもある長い棺は、遺体運搬車に乗せられ、ようやく出発の準備ができていた。  アール・ローズ博士は、ダラス郡検視官として、病院の中に事務所を持っていた。彼は内科医だが、ダラス郡の任命官吏で、医学と法律の二つの分野に足をかけていた。  彼にとって、今バークランド病院内で起こっていることは、全く許しがたかった。ダラスで一人の男が殺された。それなのに、よそ者が公然とテキサスの法律を蹂躙して、死体を運び去ろうとしているのだ。 「君、考えてもみたまえ。遺体は合衆国大統領のものだ。われわれはワシントンへ運ぶのだ」  ケレマンが意識してわざとゆっくりしゃべった。 「いや、そうはいきません」ローズがいった、「殺人があった以上、解剖しなければならないのですから」 「遺体は、大統領のだ。彼はわれわれと一緒に帰る」 「死体は残していきなさい」 「君、僕の名はロイ・ケレマンだ。いいかね、僕はシークレット・サービスのホワイト・ハウス詰め護衛官隊の特別部員だ。われわれはケネディ大統領と一緒に首都へ帰る」 「君たちはどこへも死体は持って行けない。それがここの法律だ。われわれは法を執行する」  何度かそんな遣《や》り取《と》りを繰り返し、ケレマンがいった。 「しばらく、法律のその規定とやらを君は忘れることができるはずだよ」  しかし、ローズは頑として、頭を横に振るだけであった。 「ケネディ夫人は、遺体が移されないかぎりここにとどまるといっています。それでは、あまりにかわいそうじゃないですか」  大統領侍医のバークレー博士が、再考を促した。しかし、彼女の行動については、ローズに関心がなかった。彼女は行きたい所へ行けばよい。いたい所にいればよい。 「これから法的手続きをとらねばなりません。証明書が登録されなければ、いかなる死体も州の外へは出せんのです。私にできるのは、テキサス州の治安判事に死体を引き渡すこと、その場合、彼が検視官になります。さもなければ、この場で検視を行なうかです」 「アメリカ合衆国大統領なんだぞ!」  バークレーがまた叫んだ。 「そんなことは関係ない、“証拠品《エビデンス》”を勝手に動かすことはできないのだ!」  それからも、ケネディ家の年来の友人ディブ・パワーズやマクヒュー准将が、ローズの説得にかかり、「この場合を例外にしてくれ」と何度も頼んだ。 「死体を動かすことに関しては、州法があるのです。あなた方、ワシントンからきた人が、勝手に法律を作ること、変えることはできません」  ローズの返事は、変わらなかった。  マクヒューは、ダラス市長のアール・キャベルに訴えた。だが彼も、調停する権限はないという。結局、セロン・ワード治安判事の到着を待つことになり、その間、ローズを取り巻いていた騒動は、一段と緊迫の度を加えていった。  ローズが地方検事のヘンリー・ウェイドに事情を訴えると、検事は彼に、一歩譲ってシークレット・サービスにすべてを任せるよう勧めた。ローズはこのとき、逃げ道を与えられたにもかかわらず、それを喜ばず、また逃げたいとも思わなかった。  大統領側近は、激昂していた。ワード判事がやってきても、治安判事の肩書きを軽く見て、 「君、いや、判事殿。あなた方の法律の中で、何か例外を認められるような規定はないのかね?」  というような高圧的な物言いをした。 「残念ですが」ワードが気の毒そうに答えた、「あなた方がどなたかは知っています。しかし、この場合、この問題についてヘルプすることはできません」  ワードが話している間に、ケレマンは、遺体運搬車が姿を現わし、押されてくるのを見た。ジャクリーヌ・ケネディが運搬車のすぐあとに立って、棺の上に軽く手をそえ、寄り添うように歩いていた。彼女のまわりは、ヒル護衛官、マクヒュー准将、ダガー警部が囲んでいた。オドネル、オブライエンの両大統領補佐官、大統領付き首席武官クリフトン少将、ゴンザレス下院議員、バーガー護衛官らが、運搬車の両脇を固めていた。そして、その前方、棺の通り道になる大きな扉の前に、ローズ検視官が立ちはだかっていた。ついに、きたるべき瞬間がきたのだ。 「何人も通さないぞ」ローズが叫んだ、「殺人には、解剖が必要だ! これがわれわれの法律だ!」  ワード判事は、一部始終を見ていたが、後にこの対決は数秒のうちに終わったと語っている。幅広い扉の前で、汗にぬれた男たちの押し合いがはじまったのだが、四〇対一では勝敗は最初から決まっていた。  バークレー博士とマクヒュー准将がこのとき、待つように叫んだ。二人は、治安判事が検視官に対して指揮権を持っていることを思い出し、そのことをオドネルに話した。  ワード判事は、何もすることができない、と答えた。治安判事は、殺人が行なわれた疑いがあれば、解剖を命じるのが義務であるというのだ。判事は、解剖が三時間以上はかからないだろうと推定した。オドネルは再び、ケネディ大統領のために例外を認めてくれと頼んだ。 「私から見れば、他の殺人事件と変わりありません」  大統領側近たちには、判事が全く冷ややかな調子でいったように思えた。オドネルは、ついに怒りを爆発させて、ののしった。 「おれたちは、ここから出て行くぞ。やつらの法律なんか、くそくらえだ。もう、三時間はおろか、三分だって待ってやるものか!」  オドネルの言葉をかりれば、ここから、 「すべては、力ずくの問題となった」  のである。  ローズは、屈辱の涙をのみ、その場に立ちつくした。  一行が病院脱出に成功したとき、看護婦が追いかけて行き、一枚の紙を手渡した。なにも書かれていない空白《ブランク》の死亡証明書であり、クラーク外科医の署名が記入済みであった。  クラークは、騒ぎが起こったときから、バークランド病院関係者のなかでただ一人、大統領側近の側に立ち、ローズ検視官と激しい言葉の遣り取りをかわしてきた男である。  こうして、大統領の遺体はようやく、空軍第一号機に運び込まれたものの、機はすぐには離陸せず、また別の悶着《もんちやく》が起こるのである。  ジャクリーヌは、もはやファースト・レディではなく、エア・フォース・ワンの命令者が“新しい大統領”ジョンソンであることを思い知る。そして、ジョンソンは、自分の新しい地位を飾る儀式を一刻も早く取り行なうべく、判事が到着するのを機内でいつまでも待つ気でいた。  一人の大統領を乗せてダラスに着いたエア・フォース・ワンは、かくて二人の大統領を乗せてワシントンへ帰るのである。 「政治家の暗殺事件に、ミステリーは付き物ですね」  野口博士の長い話を聞き終えて、僕が嘆声まじりにいった。  ダラスの風土が、そのようなものであるとは知らなかったが、ローズ検視官の怒りは、あたかも自分自身に起こったことのように十分に理解できた。すでに迷宮入りしてしまったケネディ大統領暗殺事件の真相が解明されない最大の理由を、一般の人は多く知らない。みな正規の検視解剖を経なかったことに端を発しているのだ。それが単なるジャクリーヌ夫人のわがままであったのか、第三者の計画によるものであったのか、今となっては知る術もない。 「でも、弟、ロバート・ケネディ上院議員の暗殺事件の捜査には、そのような暗い翳《かげ》はなかったのでしょう?」  兄、ジョン・ケネディの死から四年半後、一九六八年(昭和四三)六月、ロスアンゼルスに起こったこの第二の(マリリンの死を考えれば、“第三の”というべきかもしれない)不幸な事件について、僕は博士に質問した。 「あの夜、私が電話をうけたのは、一二時をちょっと過ぎた頃でした」質問には答えず、博士が語り出した。「電話は、私の補佐官からでした。『大変だ、すぐテレビをみてくれ』というのです。私は大急ぎで、テレビのスイッチをオンにし、かじりつきました」  ケネディ議員の狙撃事件は、その直後からテレビで報道されていた。だが、市内アンバサダー・ホテルで発生したという以外、詳細はなにもわからない。 (案じていたことが、現実のものとなってしまったのか……)  暗澹《あんたん》たる思いで、博士はテレビを見守った。 「やがて、一時間ほどの間に、凶器はピストルで、頭を射たれた、ということが判明しました」  議員《セネター》の負った傷が浅からんことを祈っていた博士は、  ——万事、休す。  と思わず、息をのんだ。法医学者として、ピストルの弾丸が至近距離から頭の中に入ったと聞けば、だいたい傷の程度は想像できる。最悪の状態が考えられるのだ。 「午前三時頃だったと思います。私は二人の法医学者に電話しました。二人とも非常に有能な人たちです。私は決心していました。万が一、私が恐れていた事態——ケネディ議員が病院で死ぬようなことがあったら、検視解剖はその有能な法医学者たちのアシスタンスのもとに、私が責任者として、執刀する」  博士は顔をあげ、僕の方をみて、続けた。 「非常にやりにくいことですが、検視をする立場にある者が、人が死ぬ以前にその準備をする——そして、これは誤解を招きやすいことです。ですから、秘密電話といったら、変に聞こえるでしょうが、すべて、ことは秘密裏に運びました」  野口博士は、もちろんこの間、ケネディ議員が手術をうけていたロスアンゼルス郊外にあるグッドサマリタン・ホスピタルから、議員の容態について毎時、電話による報告をうけていた。  ケネディ議員は六月五日、午前零時一五分に射たれている。直ちに病院へ担ぎ込まれた。  手術は、脳の切開。執刀が開始されたのは午後二時四五分。約三時間にわたる大手術で、議員の右後頭部にくい込んでいた銃弾の破片は大部分が剔出され、脳内出血も制止された。  だが、兄ジョン・ケネディの後頭部の傷ほどひどくはなかったが、弟ロバート・ケネディの負傷も致命的で、彼が生きる望みはなく、人工呼吸やいろいろな医療補助が試みられてはいたものの、かすかな呼吸と脈搏《みやくはく》だけが辛うじて保たれていたにすぎない。つまり、ケネディ議員の死は、時間の問題であり、電話連絡を通じて、野口博士はそのもようを知っていたのである。 「朝早く、ワシントンDCの方とも電話で相談いたしました。あそこには、アメリカの連邦軍需省にAFIP(総合病理研究所)というのがあり、連邦政府の法医関係の仕事をしています。そこの所長に、ケネディ上院議員の検視が必要となった場合、私の方——つまりロスアンゼルス・カウンティ検視事務所——の責任において行なうむね、話しておきました。同時に、AFIPからは三人の法医学者たちが派遣され、連邦政府と上院を代表して、私が指揮する検視に立ち会うことになりました。そのことに私が同意した条件は、事件発生以前から私たちが申し合わせておいたように、私一人が責任者として、指揮をとることです、そして、解剖が管轄内であるグッドサマリタン・ホスピタルで行なわれる限り、異存はないといっておきました」  ダラスにおける法の無視を、相手が誰であろうと許すまいことを、博士は心のうちに固く誓っていた。そのような法の無視は、博士を検視官《コロナー》の要職に任命したカリフォルニア州民に対する侮辱でもある。つまり法を守ることは、ロスアンゼルス・カウンティに対する検視官の責任であり、義務なのである。 「当事者主義の立場からも、それは絶対必要ですね」僕も一言いわせてもらった、「容疑者が逮捕され、被告人として法廷に立つ彼らにも、当然、自分が問われている罪が何であるのか、防禦の便宜は確保されねばならず、公正な死体検案書の内容を知る権利がありますから」  当たり前のことだが、死亡診断書に書かれている死因と、被告人が負わせたとする傷の間に因果関係が立証されなければ、被告人を有罪とすることはできない。  不備な検視調査や、いいかげんな法医鑑定をもとに裁判が行なわれれば、冤罪を作り出す結果ともなりかねないのだ。このことは、非常に重大で、いくら強調しても、し過ぎることはない。警察とは分離した、独立した機関に、検視や法医鑑定は任されなければならない。 「ケネディ議員の容態に、急変があったのは、死の二時間前でした」野口博士はさすがに時間を正確に記憶していた、「脳波が完全に停止してしまったのです。そうなっては、もう死が訪れたにひとしいのですが、セネター(上院議員)はなおもしばらく生き続けたのです。被弾後、二五時間二九分して、ついに心臓の動きも止まりました」  六月六日、午前一時四四分、ロバート・ケネディは、グッドサマリタン・ホスピタルにおいて手術後、意識を回復することなく、ついに息をひきとったのである。  野口博士は、ほとんど一睡もしていなかった。それまでの準備も周到をきわめたが、それからの博士の迅速な措置、手際よさは、彼の名を高からしめた称讃のひとつに数えられている。 「死亡時刻の二時間ほど前に、かねての打ち合わせ通り、連邦政府と上院を代表する法医学者団をロスアンゼルスに急行させるよう、AFIPに電話してありました」  ケネディ議員の死が、もはや避けられない事実となって目前に横たわっていた以上、ことは急を要し、徒《いたずら》に時を移すことは許されなかった。 「AFIP派遣学者団のメンバーは」博士が説明した、「みな私の学友——陸軍総合病院研究所の弾丸損傷学課長フィンク陸軍大佐、同じく司法医学課長ストール海軍軍医中佐、そして脳病理課長アール博士ら三人です」  これら三人の専門家がいなければ、ケネディ議員の検視解剖ができなかったというわけではない。博士はすでに、自分の部下の中から、エイブラハム・ルー博士と、ジョン・ハロウェイ博士を検視補佐官として選んでいた。二人はそれぞれ、脳病理、法病理学の優秀な専門家である。 「AFIPから、三人の部外者をわざわざロスアンゼルスに送ってもらったのは、あくまで立会人としてです。後日、起こるかもしれない問題のために、私のオフィスのスタッフだけでなく、外部の専門家にも、公式に検視の場に立ち会ってもらっておいた方が無難だと判断したからです」  野口博士は、ケネディ議員の死の直後、妻エセル夫人をはじめ、ケネディ・ファミリーの人たち、および後援者《サポーター》の代表数人と検視事務所の中で会っている。 「セネターの長男——まだかわいらしい少年でした——が、私のそばに坐りました」面会のもようを博士が話した、「席に着くやいなや、みな口々に、なぜそのような。“残酷”な解剖をするのかと、私を詰《なじ》るのです。ロバートは、もう生き返らない。彼のからだを切り刻んで、いったい何のためになるというのだ。事件現場では、犯行の目撃者も大勢いることだし、もういいではないか。検視調査など不必要だし、遺体と共にすぐニューヨークに帰りたい——そういうのです」 「ケネディ・ファミリーが、そういったのですか?」 「いや、夫人と子供さんは黙っていました。サポーターの連中が、叫んだのです」  野口博士の立場は、ダラスにおけるローズ検視官のそれに似ていた。異なる点は、エセル夫人が静かであったこと、権力を嵩にかけた大統領側近たちがいなかったことだろう。ラッキーであったともいえるが、そのような事態に立ちいたらぬよう、博士の遠慮も働いた。  博士は、根気よく、検 視 解 剖《メデイカル・イグザミネーシヨン》の重要性と法的意義、検視官の責任を説いて聞かせた。  ケネディ議員の場合、射たれてから二五時間あまりも生き続け、その間、脳の切開手術を受けていれば、いろいろな合併症が内発していた可能性が強い。死因は弾傷によるものでなく、治療後の合併症からだと後日、いい出されるかもしれない。あらゆる設問に、科学的な論拠をもって、客観的に答えられるよう、間然するところのない死体検案書を書きあげておく必要がある。 「脳に受けた弾傷との関連性《リレイシヨン》、死因との因果《コーザル・》関係《コネクシヨン》が、法廷で争われることになるかもしれません」博士が続けた、「ピストルによる損傷とは、直接関係がないようにみえても、解剖して、いろいろな臓器まで検査しておかないと、それらの疑問に答えられないことになります。それでは検視官の職務は果たせませんし、第一、被害者の家族であるみなさんに申し訳ない結果になってしまいます」  検視官の仕事の内容が、よりよく理解されているアメリカでも、肉親が解剖に付されるとなると、人々はとたんに無理解な態度を示すようになるという。その心理はわからないわけではない。  だが、殺人は重罪である。国は犯人を検挙し、刑罰を与えねば、社会の安寧が保たれない。そして、死体は証拠なのだから、捜査および訴追のために保全されねばならず、その過程に齟齬《そご》は一切許されない。 「要するに、検視官の仕事というものは」博士がいった、「“クオーリティ・コントロール”なのです」  この考え方は、一番理解しやすいように思われる。  国——訴追側、国民——被告人側の両者の中間にあって、そのどちらにも偏せず、双方にフェアなように、証拠の“質の管理”をつかさどるというものだ。  法医学者や鑑定人が、捜査官憲の“証拠収集係り”になりさがったり、迎合しては、公正な裁判は望めず、冤罪はあとを絶たない。  野口博士が、ダラスの例を引き合いに出すと、さすがに声高であったサポーターたちも沈黙した。そして、今度は、 「だったら、一刻も早く解剖をすませてほしい」  と要求した。  ケネディ家に限らず、この願いは、どの被害者の家族においても同じであるという。  博士は再び、ワシントンヘ電話した。フィンク大佐一行をのせたジェット機はすでに首都を出発していたが、彼らの到着をもうこれ以上待つわけにはいかなかった。  ワシントンとの時差は、五時間半、夜が明ける以前に、解剖を終えていなければならない。セネターの遺体は、その日のうちにニューヨークに送られることになっていた。  野口博士を長とする法病理学者の一行は、大勢のスタッフを引き連れて、グッドサマリタン・ホスピタルに乗り込んだ。  博士は、グッドサマリタンの病理学者の立ち会いも許可した。他のスタッフはそれぞれにアサインメントを持ち、博士の指揮を仰いだ。検視はすでに始まっていたことになる。遺体が中央に置かれ、解剖がスタートする前に、ケネディ議員の病歴、レントゲン写真などその他の資料がチェックされた。室内に出入りする人の名と時間はみな記録され、体内から剔出される弾丸やその破片を待ち構える証拠収集係りが、目を皿のように緊張していた。  博士は、四年半前のベセルダ海軍病院でのケネディ大統領の検視のもようを思い出していた。あの時、FBI捜査官二人は、大統領の体内にあるとされた弾丸を証拠として受けとるべく、遺体を離れぬよう指示されていたのだが、検視が開始され、遺体のおおいが取り去られたとき、すでに気管切開が行なわれていたため、弾丸を発見することができなかった。  またX線写真では、からだのどこにも弾丸は入っていないし、その出口も認められないため、医師たちはみな狼狽《ろうばい》したのである。 「あのときの検視写真は、一部現像され、残りは現像されぬまま、シークレット・サービスに手渡された——というのもおかしいけれど、FBIによれば、後日それらがケネディ法務長官の文書命令で没収された——というにいたっては、なお一層不可解ですね」  僕がふと、思い出したように疑問を投げかけると、博士はすぐ話をケネディ議員の方に戻した。 「ですから、私は三人のフォートグラファーとX線スペシャリストに命じて、ケネディ議員の全身および損傷部の普通写真と、X線写真を、それこそ何百枚もとらせたのです。あとで、フィルムが入っていなかっただの、現像に失敗しただの、いわせないためにね」  午前三時に解剖が始められた。ワシントンからの法医学者一行が到着したのは、それからしばらく解剖が進んでからのことであったが、博士は、検視の重要なパートである脳の解剖を後まわしにしてあったので、別に問題はなかった。胸腹部の臓器の検査、Xレイ、赤外線写真などにも、けっこう時間が費やされた。  さて、頭部の解剖だが、全体で六時間三〇分という長時間の検視のうち、およそ二時間がこの部分に使われている。 「一弾は、脳の後頭部へ右耳の後ろ下から入り、これが致命的なダメジを与えていました。どのような角度で射たれているのか、またその際どんな反 応《リアクシヨン》を起こしたかは、頭を開いてみれば、すぐわかります」  ここで、博士は重大な証言をした。 「入射口のまわりに付いているガンパウダーの状態からして、ピストルはケネディ議員の後頭部から五〇センチ前後、いや以内の距離から発砲されていると断言してよいでしょう」  これは、事件の目撃者の証言とは食い違っていることを、博士は十分承知している。それでも僕は聞いてみた。 「セネターが射たれたアンバサダー・ホテルの現場には、百人もの人がいて、サーハンがピストルを構え、ケネディ議員を狙って射ち、倒れるのを目撃していますね。このとき、サーハンは五〇センチ以内などという距離には接近していませんし、証言では、五、六メートルとか聞きましたが……?」 「私は、目撃者のいうことを信用しません」博士が声を少し大きくしていった。「目撃者の証言とはあてにならないものだ、ということを最初から念頭において、私たちは法医解剖をはじめるのです」  事件が起きたとき、いろいろな人が、いろいろなことを証言する。それらの言葉に、博士はほとんど耳をかさないのだそうだ。 「この二〇年間、法医学をやっているうちに、目撃者というのは全くあてにならないという感をますます深くしました。一番正しい証言をし、事実を教えてくれるのは、ほかならぬ解剖をされている死体自身だということを学びました」  ケネディ議員は、このほか二発の弾丸をうけている。右脇下から入り、右前肩の方へ抜ける傷が一つ。もう一つは、右背裏から右後肩の方へ抜けている。倒れる寸前に、撃たれたものだろうと推定される。  このような状況から、サーハンがケネディ議員を殺した犯人に間違いないと、人々は思っていた。  事件当夜、サーハンの逮捕と共にピストルもLAPD(ロスアンゼルス警察)に保管された。三日後、LAPDのウォルファー取調官は、ケネディ議員の首から剔出された弾丸をテストした結果、サーハンのピストルから発射されたものであると断定した。  ボストン「リアル・ペーパー」はこれに対し、次のように反論、疑問を投げかけている。  ——ところが、さらにそれから三日後の六月一一日、ウォルファーは、今度はサーハンのと同種のピストルで同じテストを行なっている。法廷には、検察側申請証拠《プロシキユーシヨン・イグジビツ》五五号として、「サーハンのピストルでテストした弾丸」の入っている封筒が提出された。  そのとき、誰一人としてこの封筒の中身を確かめようとしなかった。なぜなら、封筒には、はっきりと「六月一一日にテストしたピストルより発射した弾丸」と書いてあったからである。つまりテストに使ったピストルはサーハンのではなかった。  証拠《イグジビツ》五五号の「食い違い」を指摘したのは、カリフォルニア州法廷で三五年間、銃の鑑定を手がけてきたウィリアム・ハーパーであった。彼は事件発生から二年後、宣誓つきの報告書を提出している。  ハーパーはこのほか、さらに重大な証言を行なっている。ケネディ議員暗殺の際、もう一人の犠牲者がいた。彼の鑑定によると、この犠牲者の死体から剔出された弾丸は、ケネディのものとは、同一のものではない。 「これらは、同一の銃から発射されたものとは、認めがたい」  彼はそう書いている。  ところが、ロスアンゼルス検察局は、なぜかこのハーパーの異議申し立てを却下している。 「この記事には、今、先生がおっしゃったサーハンがケネディを射った際の両者の間の距離についても“食い違い”が生じている、と指摘していますね」  僕が再び水を向けると、 「距離について、私が五〇センチ以内と断定したことに間違いはありません」博士は一語一語ゆっくりといった、「ケネディ議員の頭の模型も作ってみたのです。そして、いろいろな距離から後頭部の同じ被弾箇所をめがけて発射実験し、ガンパウダーがスプレッドする状態をいちいち示して、私の主張に誤りがないことを実証いたしました」  一九六九年(昭和四四)三月四日——ケネディ上院議員暗殺事件があった一〇カ月後、木曜日の午後二時五四分、口スアンゼルス・カウンティ検視官トーマス・野口博士は突如として、休職を命じられた。ボード・オブ・スーパーヴァイザーズからの通達書にはその理由は明らかにされず、期間は不定、無給とあり、行  政  長  官《チーフ・アドミニストラテイブ・オフイサー》による調査続行中との但し書きが付いていた。  博士はすぐ、ひと月ほど前にあったロスアンゼルス・テレビ局からの電話を思い出した。行政長官近辺の情報に耳聡《みみさと》い顔見知りの記者が、 「野口さんが辞職するという噂があるんですが、ほんとうでしょうか? されるとすれば、いつ頃になりますか?」 「寝耳に水だよ、そんな話」博士はとぼけていった。「辞職なんて考えたこともない。一体全体だれがそんなつまらぬ噂を言いふらしてるんだい?」  博士はそう聞き返しながら、ホリンジャー郡行政長官の狡猾《こうかつ》な顔を思い浮かべていた。彼を取り巻く側近たちの間で、“野口追い落とし劇”が過去にも何度か演じられてきたことを先刻承知だったからである。その動きはとうに彼の耳に入っていたものの、最初は信じられず、あとからは高をくくっていた。自分の行動に疚《やま》しいところはないし、検視官として責任を果たせなかったミスも怠 慢《ネグリジエンス》も思いあたらなかった。  思いあたる節《ふし》があるとすれば、日頃彼の厳正な検視の仕方に“協調”を求めるLAPDをはじめとし、郡内の各警察や大学病院、医師会などとの対立が最近、とくに目立ってきたことくらいである。 「グーク(日本人・朝鮮人に対する蔑称《べつしよう》)は頭が固く、とかく仕事がしにくいよ」  そううそぶく警察に対し、 「君たちの下請け証拠収集係りじゃないよ」  とはっきり言い切る博士の妥協を許さぬ厳しい態度に、まず捜査官憲が怒り出した。  医師たちとの反目も同様、医療過誤などの場合、損害賠償の責任は当然医師側がとるべきだとし、検視の結果にいささかの手心、発見事実の歪曲《わいきよく》を許さない“融通のきかなさ”に音をあげ、妙な組み合わせだが、警察と医師会が連合して搦《から》め手から博士の個人攻撃を仕掛けてきたものだ。  二週間後の三月一八日、こんどは正式の解職通知が野口博士の事務所にとどけられた。  ホリンジャー行政長官から、「野口検視官に関する調査および解職勧告の報告書」が三月一四日付けで参事会へ送達され、ボードはこれを検討し、即日、博士を解任することに踏みきったのである。  理由は三九の多項目からなり、一読するだけでもとるに足らぬ些細《ささい》な事柄がとりあげられ、具体的事例に欠けていた。たとえば、博士が首席補佐官ともう一人の医官の面前で叫んだという、 "Why the hell can't you make up your mind?"(どうして君は決心できないんだい?) "Why in the hell are you late?"(どうして遅刻したんだい?)  などの言葉遣いが問題になっている。ホリンジャーに博士はなにかのことで腹を立てたのだろう、これは面前ではないが、長官を、“ガッデン、サナバビッチ”と罵ったことも、理由の一つに挙げられていた。  英語には、不 敬 語《ブロフエイン・ワーズ》が数多い。使うべきでないといえば、その通りだが、アメリカ人のいるところ、どこへ行っても耳にする日常語だ。さきの "the hell" にしても、「一体全体」というぐらいの強意に使われ、それがいちいちクビの理由になるというのであれば、首はいくつあっても足りはしない。  ともかくも、野口博士はそれらの理由で、精神異常者ということになり、行政能力、部下統率力に欠け、カウンティ検視事務所の威信を著しく傷つけたものとして、コロナーの職を解かれてしまったのである。  一九六九年五月一二日、野口検視官解職の当否を決定する公聴会が開かれた。  初日の冒 頭 陳 述《オープニング・ステートメント》で、アイザック弁護人は、解職理由は事実に反し、歪曲されたもので、参事会側の“スモーク・スクリーン(煙幕)”にすぎないとし、ホリンジャー長官と参事たちの非をならした。解職理由は別にあるのではないかと、正面から戦端を開いた。  博士が平《ひら》のイグザミナーからチーフに昇格した頃、首席補佐官の椅子はあいていて、チャプマン博士が代行であった。だが彼は代行どころか、普通のイグザミナーとしても失格で、その上強度のアル中——机の抽斗にはいつもウィスキーの壜《びん》が隠されていた。遅刻は毎度のこと、出勤も常ならず、怠惰な彼が代行の地位にとどまれたのも前コロナーのお情けで、いわば引き継ぎ人事であった。  新検視官はチャプマンに情けをかけなかった。首席補佐官は検視官の右腕ともなるべき職責の重いポジションで、懈怠《けたい》は許されない。野口博士はたるんでいた他の医官たちにも次々にハッパをかけ、部下全員のシェープ・アップを計った。  それまでは許されていなかったテレビ・カメラの検 視《コロナーズ》 《・》法 廷《インクエスト》への持ち込みができるように計らったのも博士である。法廷内で録音が許されていない日本の現状を思えば、これは画期的な出来事であった。博士はさらに、検察側にしか許されていなかった一方的な証人尋問を被告人側にも平等に許し、当事者主義をインクェストにも盛り込んで、検視事務所外部の改革にも意欲を燃やした。  博士が日米合同法医学会シンポジウムに出席のため、日本への渡航準備を急いでいたある日、チャプマンが突然辞表を提出した。検視官の留守は首席補佐官があずかり、二人が同時に検視事務所を不在にすることを許されない。それを知ってのチャプマンのいやがらせ、あるいは一旦は辞表を出したんだぞ、という示威にすぎなかった。  野口博士は平然と辞表を受理し、シンポジウムには欠席の電報を秘書にうたせ、チャプマンにいつ事務所を去ってもよいと伝えた。  チャプマンは意外な事の成り行きに茫然とした。辞表が受理されるとは予期せず、撤回を慫慂《しようよう》されるものと情勢を読んでいたのである。  彼の退職後、マクロイ行政事務官が首席補佐官の地位を狙いはじめた。しかし野口博士は彼の法医としての能力も人物も買わず、マクロイは後日そのことを根に持ち、野口追い落とし劇の舞台に踊らされるようになる。  一方、行政長官や参事たちは、公聴会の開廷を要求して戦闘を挑んできた野口博士の意外な行動におどろいていた。ジャップが白人に楯《たて》を突くなどとは前代未聞だったのである。  ホリンジャーの誤算はまず、野口博士をナミのニッケイと思い込んでいたところにある。この点、ホリンジャーだけでなく一般アメリカ人の日本人に対する認識は驚くほど浅い。最近でこそ『ジャパン・アズ・ナンバーワン』などの出版物が出て日本人研究熱が盛んなようだが、日本語をきちんと読み書きできるアメリカ人の数がいかに少ないかを考えれば、どの程度の熱であるのか、またごく限られた人々における現象であるかがよくわかる。  ともあれ、ハワイやロスあたりで、押えつけてちょっと威《おど》せばすぐ黙り、さらに痛めつければ降参して決して反抗などしないドーサイル(おとなしい、教えやすい)なニッケイたち——その哲学が明治以来、アメリカに住みついてきた日本人移民の生活の知恵となっていたし、そうした一、二世たちを基準にした浅薄な日本人観の上にホリンジャー陣営の戦法は成り立っていたのである。  だが、野口博士ばかりは勝手がちがった。適当な候補者がさがせないまま、最初は仕方なく博士を検視官に昇格させたものの、いずれは白人の適任者に更迭させる予定であった。ところがその実行寸前に予期せぬケネディ議員暗殺事件が起こり、一躍全米にその名を知られるようになった野口検視官を簡単にはクビに出来なくなり、解任のタイミングを失った。  ホリンジャー長官は待たねばならなかった。その間にも「野口を検視官の地位からおろせ」という突き上げは激しくなり、長官はついに博士に辞職を迫った。検視事務所内外、LAPDをはじめとする各警察署、大学病院、医師会などからの博士個人に対する不満が爆発点に達したというのである。 「自分からはやめない」博士は言った、「だが、クビにするつもりだったら、やったらよい」  ホリンジャーは圧 力《プレツシユア》がきかないとみるや、次は懐柔策に切り換えた。検視官と同年俸でランチョ・ロス・アミゴス病院の病理学部長の職はどうかと下手に出てみた。その二週間前には、「野口は精神異常で、麻薬を常習している」と表立って非難の矢を向けたことなど全く忘れた口振りであった。  この“親切な”提案をも蹴られたホリンジャーは「あらゆるチャンスは君に与えたよ」といって、ついに野口解任へと踏み切ったのである。解任には理由が必要である。そこでまた三転して、「野口は精神異常だ」の煙   幕《スモーク・スクリーン》が必要になったというわけである。  ホリンジャー一派は、野口博士が公聴会を開いて反撃してこようなどとは予期していなかったし、なぜ権威あるカウンティをバックにしながら、一野口のために敗訴の憂き目に遭わなければならなかったか、よく理解していなかった。白人がグークに負けるなんて、この社会では起こり得ない、許し難い出来事であった。  野口博士に勝利をもたらした大きな力は二つある。  一つは、平生はあまり市や郡に文句をいわないおとなしいニッケイ社会がこぞって野口博士をバックアップし、強力な掩護《えんご》射撃をカウンティ側に仕掛けたことである。  もう一つは、野口博士が有能、かつ正義感の持ち主であるよき弁護人に恵まれたことだろう。アイザック弁護人はホリンジャー側が反撃を予期せず、防禦が杜撰《ずさん》であった虚を突き、煙幕を吹き飛ばして、そこに残された醜状をくまなくさらけ出してみせた。  警察の不正捜査。  医師会、大学病院の腐敗。  ——かくて、六週間にわたって連日開かれた史上最長期の公聴会は幕を閉じ、野口博士は検視官に復職した。 「結局、私はいつまで経っても日本人なのですね」博士が述懐した、「長いことアメリカに住みついても、アメリカ人にはなりきれないのです」  野口博士との最後の話題は、インタヴューの最初に尋ねたいわゆるミランダ原則《ルール》がアメリカの警察ではきちんと守られているか、そのルールに違背して得られた違法収集証拠の証拠能力が法廷でどのように評価されているか、の二点にもどっていった。  というのは、東京を出てくる前、東京大学の松尾浩也先生から、ウォーレン長官の引退後、バーガー・コートになって以来、アメリカ連邦最高裁の判例はミランダ判決の線から後  退《スウイング・バツク》していることを、あらかじめ念頭に入れておくよう注意をうけていたのである。 「カリフォルニアに関する限り、ミランダ警 告《ウオーニング》は警察内部に滲透、定着しているといえますね」博士が説明した、「ルールに反して、いくら苦心して自白を手に入れても、法廷が証拠として許 容《アドミツド》してくれませんから、結局骨折り損になってしまうのです」  博士はいくつかの判例を僕に手渡しながら、続けた、「たとえば、他州ではミランダ法則に違反して得られた自白が弾劾目的に使えるかどうか問題になりましたが、加州最高裁は、ミランダ法則違反の自白は弾劾証拠として使用することはできないと判示しています」 「弾劾証拠というのは、なんですか?」 「刑事訴訟では、原則的に検察官が挙 証 責任《バーデン・オブ・プルーフ》を負うでしょう。ですから、検察官のために提出される証拠が通常、本証であり、被告人のために出される証拠が反証ということになります。しかし、たとえば、アリバイのように、反証として証明される間接事実は反対間接事実といいますが、被告人が挙証責任を負う場合、そのために提出される証拠は、反証ではなく本証ですが、結局は犯罪事実の証明を否定するためのものですから、広義には反証に含まれるわけです」  博士の説明は少々、僕にとって難解であったが、じっと耳を傾けた。 「供述証拠、非供述証拠、また本証、反証などについても、それらが犯罪事実の存否の証明に向けられるとき、実質的 証 明《サブスタンシヤル・エビデンス》と呼ばれます。これに対し、この実質的証拠の信憑性の強弱に影響を及ぼす補助事実を証明する証拠を補助証拠といい、二つに分けられます。証拠の証明力を弱くするのが、弾劾証拠。証明力を強めるのが、増強証拠です」  この弾劾証拠として、ミランダ法則に違反して得られた自白が使用できるか、できないかが、バーガー・コートになってから、新しく持ち出されてきた問題である。黙秘権および弁護権の告知をしないでした尋問に基づく自白は有罪の証拠とすることはできないとしても、その自白を他の目的に使用することの当否には触れていないというものだ。  野口博士は、加州最高裁のさきの弾劾証拠としての使用禁止の判例を誇らしげに語った。  さて、「文明の最低基準の要請」という指導理念のもとに、身柄を拘禁されている被疑者の尋問にあたって、取調官が守るべき連邦憲法上のルールを示し、被疑者の防禦権をいかにして保障するか、まず黙秘権の侵害を事前に防止するための法原則を“スペル・アウト”したのが、当時のウォーレン最高裁長官である。判示は日本の裁判官が書くそれのように難解ではなく、文字通り一字一字噛んで含める《スペル・アウト》ような、易しい文体であった。  まずミランダ対アリゾナ事件の概要を記そう。  アーネスト・ミランダが自宅において逮捕、フィニクス警察署に拘禁されたのは、一九六三年(昭和三八)三月一三日のことであった。誘拐および強姦の嫌疑によるものである。  彼はまず、署内で首実検にさらされ、被害を訴えていた本人によって犯人と認められた。すぐに第 二 尋 問 室《イントロゲーシヨン・ルーム2》に連れてゆかれ、二人の警察官から取り調べをうけた。警官たちはこのとき、取り調べ開始に際して、ミランダが弁護人選任権の告知をうけなかったことを、認めている。  警官たちは二時間後、被疑事実についてミランダが署名した自白調書を手にして尋問室から出てきた。調書のトップにはタイプされた一節《パラグラフ》があり、自白は任意によるものであること、いかなる脅迫も免責の約束もなかったこと、自身の不利益に使用されることを知悉《ちしつ》したうえ、法律上の自己の権利を十分に承知してなされたむね記載されていた。  陪審を前にした公判廷では、弁護人の異議申し立てがあり、この自白調書の証拠能力が問題になった。しかし原裁判所は、自白を許容し、その証明力の判断を陪審に委ねた。  ミランダは、誘拐および強姦の双方に有罪とされ、それぞれの公訴事実《カウント》に二〇年から三〇年の懲役刑の宣告をうけた。  上告審においても、アリゾナ州最高裁は原判決を維持し、ミランダの自白を得る手続きにおいて、警官たちがミランダに対し憲法上保障されている人権侵害がなかったものと判断した。弁護人の選任をミランダ自身、特に求めはしなかったと強く主張した。  連邦最高裁は、一九六四年のエスコビード判決により、被疑者の実質的弁護権を保障したが、その解釈をめぐって判例に異議が唱えられていた。学説上も論争をよび、捜査実務にも困惑を与えていたことから、拘禁者の尋問に対する黙秘権の適用の問題を解明し、法の執行官と裁判所に明確な指針を与える必要ありと判断し、本件のサーシオレイライ(事件移送命令)を発した。  有罪判決を逆転させた本件判決はウォーレン首席裁判官の筆になり、判示は長文にわたるが、一部を記す。 「われわれは、個人が国に拘禁され、もしくはその他の方法で自由を奪われ、尋問を受ける場合は、黙秘権は危殆《きたい》に瀕《ひん》しているものと考える。そこで、黙秘権を保障するために、手続き上の諸担保が考案されるべきであるが、黙秘権を告知し、その行使が明確に保障されるような他の十分に効果的な手段が採用されない以上、以下の措置が必要である。すなわち、それは尋問の前に、黙秘権のあること、その供述は自己に不利益に用いられる可能性があること、弁護人の尋問立ち会い権があること、そして希望するならば、尋問開始にさきだって国選弁護人が選任されうること、以上を告知されなければならない。これらの諸権利を行使する機会は、尋問の全過程を通じて保障される。叙上の告知が与えられ、またはそのような機会が保障された後には、その権利を熟知して放棄し、尋問に応じて供述することを妨げない。しかし、かかる告知と放棄とが訴追側によって立証されない限り、尋問によって得られた証拠は、被告人にとって不利益に使用することはできない」  黙秘権の告知が必要なのは当然だが、尋問室という密室にただ一人坐らされ、複数の取調官と相対するときの精神的圧力を解消させるため、本件判決は、被拘禁者の尋問に際して警察官が守るべきルールについて、こまごまとその心得を説いている。 「もし取り調べのいずれかの段階で、被疑者が供述する前に、なんらかの方法で、弁護人と相談したいと申し出をしたときは、警察官は尋問を行なってはならない。同様に、被疑者に弁護人のいない場合で、なんらかの方法で尋問をうけたくないという意思を示したときも、警察官は彼を尋問することはできない」  ここでわが国の手続きと大きく異なるのは、弁護人請求権が資力のないものにも認められている点である。被疑者が貧困で弁護士を依頼する資力がなくても、公費で弁護人が指定され、被疑者の防禦を援助するシステムは羨しい限りである。そのことも含めて、告知はなされなければならない。  警察官に逮捕、尋問され、「弁護士を呼んでほしい」と何度頼んでも、「生意気いうな、キサマに弁護士費用なんか払えるものか!」と一喝され、全然とりあってくれない日本の警察とは雲泥の差がある。  日本の法律だとて、弁護人依頼権を認めていないわけではない。請求しても妨害されたり、聞き入れてもらえなかったり、被疑者がインコミュニカードウ、つまり外部との連絡を遮断された状態におかれて一番弁護士と相談したいと思うときに、国選弁護人の請求権がないだけの話である。起訴後にのみ、それを認めている日本の法は、被逮捕者の権利保障を実質的なものとしていない。  ミランダ判決では、黙秘権の存在と意義を知っているだけでは、被疑者はまだ尋問の強制的圧力に屈服せざるを得ないので、黙秘権の完全な保障のためには、弁護人の立ち会い権が欠くことのできない権利として必要とされ、黙秘権のための弁護人の必要性は、尋問前の接見交通権ばかりではなく、尋問中の立ち会い権をも含んでいる、としている。しかも被疑者は、弁護人の立ち会いの要求がなされなかったからといってこれを放棄したとはみなされず、明示の意思表示をもって放棄しない限り、有効な放棄とはいい得ないという。  叡知《えいち》と英断の名判決と称讃されたこのミランダ判決にも反対論がなかったわけではない。まず最高裁内部の四人の裁判官が反対意見を唱えた。クラーク判事は、尋問状況の総 体《トータリテイ》から判断すべしとする任意性原則の立場から、ハーラン判事は、黙秘権保障条項を根拠とするのではなく、デュー・プロセスの規制条項によるべきであるとする立場をとった。また、スチュアート、ホワイト両判事は、ハーラン判事も加えて、捜査手続き過程の被疑者に黙秘権が保障されるとする考え方は、判例上、少数派で、犯罪摘発のためには、尋問の必要性と正当性とは当然肯認されなければならないとする立場で、それぞれ反対意見を述べたことが最高裁判例集に記載されている。 「自白採取について、警察内部ではきびしすぎる制限だという声が高かったのは事実です」野口博士がコメントした、「ヴェトナム戦中、アメリカの社会における犯罪の激増がその非難を助長したのです。デュー・プロセスも大切だが、犯罪人の検挙・処罰を厳にしなければ社会秩序の維持ができなくなる。ミランダ法則は、被疑者の人権を保障するものにちがいないが、捜査方法の大きな妨げとなり、犯罪人を野放しにするようなものだ、というものです」 「その非難に対しては」僕が口を挟んだ、「それは社会秩序に違反する者から社会を守るためには、警察官は超法律的であるべきであるというに等しいという反論があります」  松尾教授は、国家機関である捜査機関が違法行為をやって、その結果を裁判所が受けとるということは、司法の廉潔性にも反すると指摘しているが、青木英五郎氏もレオナード・レヴィの次の言葉を引用して、デュー・プロセスの優位を説く。 「有罪を得るための手段として法律を使用し、それによって個人の権利を侵害することは、結局において法律と裁判所の機能を腐敗させることになり、警察官を残酷にさせ、違法な捜査方法を助長し、刑法を専制政治の道具と化せしめる」  ミランダ判決をどう評価するかの違いは、デュー・プロセスと実体的真実主義のいずれを優位におくかという価値観から分かれていくようである。  アメリカと異なり、単一の裁判制度、精密な検察制度、すぐれた警察制度を持つ日本では、実体的真実主義か、適正手続きかという理念的選択によってのみ刑事手続き上の総ての問題を解決しようとするのは安易にすぎるという批判がある。  ミランダ法則によって被疑者に与えられる権利は、憲法によって保障された権利そのものではなく、黙秘権の保護を確実にするために設けられた予防準則にすぎず、ミランダ法則は憲法原則としては二流の地位にとどまるという冷ややかな見解もある。  ところでわが国の刑事訴訟法には次のような規定がある。 「検察官、検察事務官又は司法警察職員は、犯罪の捜査をするについて必要があるときは、被疑者の出頭を求め、これを取り調べることができる。但し、被疑者は、逮捕又は勾留されている場合を除いては、出頭を拒み、又は出頭後、何時でも退去することができる」(一九八条一項)  この規定の解釈をめぐり、取り調べ拒否特権(取り調べ受忍義務の否定)の肯定について、学説すら帰趨《きすう》がまだ定かではないという。  青木氏は、『日本の刑事裁判』の中で次のように書かれている。  ——この規定からわかるように、逮捕または勾留された被疑者は、取り調べのために検察官・警察官の前に連れてこられることを拒否することもできなければ、また連れてこられてから中途で出てゆくこともできない。つまりは取り調べに応じる義務を負わされているのである。憲法が「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」といっても、自己に不利益な取り調べを受ける義務を負わされているのであるから、これほど矛盾した話はないであろう。もっとも、「前項の取り調べに際しては、被疑者に対し、あらかじめ、自己の意思に反して供述をする必要がない旨を告げなければならない」(一九八条二項)と規定されていて、黙秘権の告知はされるが、実際の取り調べでは、被疑者が黙秘権を行使したからといって、それで取り調べを打ち切るわけではない。やはり被疑者は、留置場から手錠をはめられて出頭することを拒むことも、出頭して退去することもできない。被疑者は、取調官と向かい合って、いくら聞かれても黙りつづける「権利」がある、ということである。それも逮捕されてから二三日間、たとえどんなに脅迫されても、どなられても、泣き落しにかけられても、黙りつづけるという権利である。要するに、ほんとうに黙秘権を行使できるかどうかは、被疑者の精神力と体力のいかんにかかっているということを、憲法が「保障」してくれているのである。つまり、この憲法の規定は、効力を発揮しないように完全に骨抜きにされてしまっているのである。この規定が骨抜きにされたことが、その帰結として、虚偽の自白による冤罪をつくりだすことは、当然といえるであろう。戦後の裁判においても、冤罪が跡を絶たない最大の原因は、そのためである。  アメリカの連邦の法律では、被疑者の自白について取り調べ時間を六時間以内と限定し、州の場合でも警察の留置時間を一般的に二四時間としていることはすでに述べた。そのように短い尋問であっても、被疑者の人権をいかにして実質的に保障するか、ウォーレン・コートは心を砕いた。日本の場合と比較すれば、あまりにもその人権感覚のちがいがかけ離れている。  裁判所は、国民にとって、正義と公正を守る金字塔でなければならない。違法な捜査活動に裁判所が与《くみ》するような、あるいは違法活動から利益を得るようなことが今後も起こるようであれば、国民の信頼を繋ぎとめておくことは困難になるだろう。  おわりに野口博士がもらした感慨が印象的であった。 「私は日本人であり、アメリカ人になりきれないと言った言葉には矛盾するようですが」博士ははっきりと言った、「私がもし、刑事裁判の被告人席に立たされたとした場合、自分の母国ではあるけれど日本では裁判をうけたくありません。有色人種に対する偏見が色濃く残っているアメリカではあっても、私はやはりここで裁判をうけた方が安全に思われます」 〈了〉 あ と が き  この本に収められた雑文は、雑誌「潮」の一九八〇年(三、五、七、八、十月号)に連載されたものです。  最初は、アメリカ旅行の印象を漠然と書き綴り、一、二回の紀行文にして終わるつもりでしたが、たまたまマクナブ事件の発生地チャタヌーガやスコッツボロ事件のスコッツボロに立ち寄ったりしたことから脇道へそれ、日米両国がかかえる刑事司法の問題点についての奇妙なエッセイみたいなものになってしまいました。  著名な検視官、トーマス・野口博士に会ったのも、アメリカにおける司法解剖に関するおもしろい話を聴かせてほしい期待をもっていたからですが、これまた日本の法医鑑定や裁判などに話をとばせ、読者を失望させたかもしれません。 「検屍」という題名から、もっとそのものずばりの内容を期待された方々にも申し訳なく思います。文字どおり変死者の屍体を検査するのが検屍ですが、戦後は検死、検視などと書くようです。アメリカにおける司法解剖には、メディカル・イグザミネーションのほか多分にリーガル・インヴェスティゲーションまでが検視官の仕事に含まれます。犯罪事実の有無の取り調べが加わり、総括的な検視となるわけです。それで本文の方は検視という文字を使い、題名だけ編集部の求めにより、検屍としました。  むろん、僕は法律にも門外漢です。聞きかじりなど書くべきではなかったのですが、沖縄が日本へ復帰する数年前、一度、それも僅か十一日間だけ、陪審員なるものを経験しました。それまでは裁判というものに全く関心をもたなかったのですが、いつの間にか刑事司法一般に興味をいだくようになりました。  ウィグモアは証拠法の大家ですが、陪審制度の大きなメリットの一つに、「司法制度に対する一般の人々の関心を高めるという、いわば国民に対する教育的な機能」を挙げています。それにタッチする人間が多ければ多いほど、司法に対する国民の関心が高まると述べ、そのことが「非常に重大」だというのです。  法務省の亀山継夫氏は、現行刑事訴訟法には改正すべき点が多々あると認めながらも、刑事訴訟に直接関係する法曹三者や学者の間で価値観が対立している状況下では、改正に手をつけたくてもできないと嘆じています。改正に関心をよせ、適切な判断を形成しうるほど刑事訴訟は国民に身近なものとはなっていないのです。迂遠《うえん》な話にはなるが、日本にも陪審を復活させ(昭和十八年停止)、多くの人に刑事訴訟を体験してもらうことが、立法のエネルギーを醸成し、刑事訴訟法の進歩発展を期する最も近道ではないか——と説かれています。  諸手《もろて》をあげてこの説には賛成しますが、陪審制度の導入も刑訴法の改正も、もっと急を要する問題ではないかと考えます。  僕の雑文が一冊の本になると聞いたとき、聞きかじりであるだけに少々困りました。でも、門前の小僧のあげる習わぬ経が少しでも、読者の司法意識にふれることができたとすれば、小僧はいくら謗《そし》りをうけても意に介せず、むしろ喜びに思うでしょう。 伊佐千尋  〈参考資料〉 『日本の刑事裁判』青木英五郎著(岩波新書) 『刑事訴訟法の基礎知識』松尾浩也・田宮裕共著(有斐閣) 『刑事訴訟法(上)』松尾浩也著(弘文堂) 『再審』日本弁護士連合会編(日本評論社) 『冤罪』後藤昌次郎著(岩波新書) 『財田川暗黒裁判』矢野伊吉著(立風書房) 『法医学の話』古畑種基著(岩波新書) 『刑事訴訟法(法律学全集)』平野竜一著(有斐閣) 『現代警察12』昭52・6(啓正社) 「週刊ポスト」昭48・4・6 「キング」昭27・10 「ろす・あんじぇるす風土記」渡辺正清著 「ジュリスト別冊」五一号、五九号「ジュリスト」五五一号、六〇〇号(有斐閣) 「時」昭44・2(トーマス・野口)、昭43・11(中野五郎) 「外国の新聞と雑誌」昭43・3 「中央公論」昭50・3 「週刊文春」昭49・9・2 「週刊小説」昭48・5・4 「週刊大衆」昭48・6・21〜8・9 「週刊新潮」昭42・1・28〜3・25 "THE LAST OF THE SCOTTSBORO BOYS" CLARENCE NORRIS and SYBIL D. WASHINGTON (G.P. PUTNAM'S SONS) AMERICAN LAW  Benjamin Kaplan (VINTAGE) SATURDAY EVENING POST Jan.14,1967 CRIMINAL LAW AND ITS PROCESSES Monrad G.Paulsen Sanford H.Kadish (LITTLE, BROWN & CO.) SUPREME COURT REPORTS (U.S. AIR FORCE) 単行本 昭和五十六年一月潮出版社刊 文春ウェブ文庫版 検  屍 M・モンローのヘア 二〇〇〇年十二月二十日 第一版 二〇〇一年七月二十日 第三版 著 者 伊佐千尋 発行人 堀江礼一 発行所 株式会社文藝春秋 東京都千代田区紀尾井町三─二三 郵便番号 一〇二─八〇〇八 電話 03─3265─1211 http://www.bunshunplaza.com (C) Chihiro Isa 2000 bb001202