失踪HOLIDAY 乙一 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)孤独《こどく》に死ぬことを切望した。 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)家主|面《づら》してくつろいでいた。 -------------------------------------------------------  しあわせは子猫のかたち 〜HAPPINESS IS A WARM KITTY〜 [#改ページ] [#ここから7字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  家を出て、一人暮らしをしたいと思ったのは、ただ一人きりになりたかったからだ。自分を知る者のだれもいない見知らぬ土地へ行き、孤独《こどく》に死ぬことを切望した。大学をわざわざ実家から遠い場所に決めたのは、そういう理由からだ。生まれ故郷を捨てるような形になり、親には申し訳ない。でも、兄弟《きょうだい》がたくさんいるので、できのよくない息子《むすこ》が一人くらいいなくなったところで、心を痛めたりはしないだろう。  一人暮らしをはじめるにあたり、住居を決定しなくてはいけなかった。伯父《おじ》の所有する古い家があったので、そこを借りることにした。三月の最後の週、下見のために、その家へ伯父と二人で出かけた。  それまで伯父とは一度も話をしたことがなかった。彼の運転する車の助手席に座《すわ》り、目的の住所へ向かうが、話は弾《はず》まない。共通の話題がないという、かんたんな理由だけではない。自分には会話の才能が欠如《けつじょ》しており、だれとでもかんたんに打ち解け合うという人間ではなかった。 「そこの池で、一ヶ月くらい前、大学生が溺《おぼ》れて死んだそうだよ。酔《よ》って、落ちたらしい」  伯父はそう言うと、運転しながら窓の外を顎《あご》で示した。  木々が後方へ飛ぶように過ぎ去り、鬱蒼《うっそう》と茂《しげ》る葉の間に巨大《きょだい》な水溜《みずた》まりが見えた。池の水面は曇《くも》り空を映して灰色に染まり、人気《ひとけ》はなく寂《さび》しげな印象を受ける。辺りは緑地公園になっていた。 「そうなんですか」  言ってから、もっと大袈裟《おおげさ》に驚《おどろ》くべきだったと後悔《こうかい》する。伯父はおそらく、ぼくが驚くのを期待していたのだ。 「きみは、あんまり、人が死んだというようなことではびっくりしないの?」 「ええ、まあ……」  ありふれた他人の死に関してそれほど心が動かない。  伯父は、ほっとしたような顔をしたが、その時はまだ、その表情の意味には気付かなかった。  その後も、まるで事務処理のようなぼくの答え方のおかげで、伯父との会話は長く続かなかった。退屈《たいくつ》なやつだと思われたのだろう、伯父がつまらなそうに黙《だま》ると、車内に気まずい沈黙《ちんもく》が立ち込める。何度、経験しても慣れることができない状況《じょうきょう》だが、悪気はなかった。ただ、昔から不器用なぼくは、相手とうまく調子をあわせることができないたちなのだ。  しかしすでに、人との接し方で悩《なや》むことにもつかれていた。もういい、たくさんだ。これからはできるだけ他人との付き合いは控《ひか》えよう。家からもあまり出ないようにして、ひっそりと暮らしていこう。道もできるだけ、真ん中を歩くようなことは避《さ》けたい。人込みを離《はな》れて、一人でいることの安心さといったらない。これからの一人暮らし、毎日カーテンを閉めて生活しよう。  伯父《おじ》の所有する家は、何の変哲《へんてつ》もない普通《ふつう》の住宅街にある木造二階建てだった。まわりに並んだ民家に比べ、色あせた写真のように古く、押《お》せば向こう側へ傾《かたむ》くかもしれない。家のまわりを一周してみるとあっというまにスタート地点へ戻《もど》り、これなら遭難《そうなん》する心配もない。こぢんまりとした庭があり、だれかがつい最近まで家庭菜園を行っていた跡《あと》がある。家の脇《わき》に水道の蛇口《じゃぐち》があり、緑色のホースがのびてとぐろをまいていた。  家の中を見ると、家具や生活に用いるほとんどすべてのものがそろっていて驚《おどろ》いた。空き家のようなものを想像していたが、他人の家へ足を踏《ふ》み入れたような気分になる。 「最近まで、だれかがここに住んでいたのですか?」 「友人の知り合いに貸していたんだ。その人、もう死んでしまったんだけど、身よりのない人だったから、家具を引き取る人がいなくてね……」  伯父は、前の住人についてはあまり語りたくなさそうだった。  さっきまでここで普通の生活が行われており、人間だけが突然《とつぜん》すっと消えてしまったような印象だった。古い映画のカレンダー、ピンで壁《かべ》に貼《は》ったポストカード。棚《たな》の中の食器、本、カセットテープ、猫《ねこ》の置物。前の住人の持ち物が、そのままにされている。 「残っている家具、自由に使っていいよ。持ち主はもう、いないんだから」と、伯父。  前の住人が寝室《しんしつ》として使っていたと思われる部屋《へや》が二階にあった。南向きの明るい部屋で、開かれたカーテンから暖かい日光が入っていた。家具や置物の類《たぐ》いを一目見て、前の住人が女性だったことがわかった。しかも若い。  窓際《まどぎわ》に植木鉢《うえきばち》。枯《か》れておらず、ほこりも積もっていない。だれかが毎日、掃除《そうじ》をしているかのような清潔《せいけつ》さに、妙《みょう》な違和感《いわかん》を感じる。  陽の光は嫌《きら》いなので、カーテンを閉めて部屋を出た。  二階の一室が暗室になっており、現像液や定着液が置かれていた。入り口には黒く分厚い幕が垂らされ、光の入る隙間《すきま》を閉《と》ざす。酢酸《さくさん》の臭《にお》いが鼻の奥《おく》を刺激《しげき》し、くしゃみが出そうになる。机の上に、ずっしりとした大きなカメラがあった。前の住人は写真が好きだったのだろうか。自分で現像をするとは、力が入っている。辺りを探すと、写真が大量に出てきた。風景の写真もあれば、記念写真のようなものもある。写っている人物もさまざまで、老人から子供までいた。後で眺《なが》めようと思い、手持ちのバッグに入れた。  棚に、現像されたフィルムが整理されている。ネガはそれぞれ紙のケースにまとめられ、マジックで日付が書かれていた。作業机の引き出しを開けようかと思ったが、やめておいた。取っ手の上に小さな文字で『印画紙』と書かれていたからだ。もしも光に当たった場合、感光して使えなくなる。  暗室を出たぼくは、さきほど入った南向きの部屋が明るいことに気付いた。閉めたはずのカーテンが、なぜか今は開いている。伯父《おじ》がやったのだろうか。しかし彼はずっと一階にいた。きっと、カーテンレールが傾《かたむ》いていたのだと、その時は結論づけた。  入学式の数日前、その家へ移り住んだ。荷物は鞄《かばん》ひとつだけ。家具は前の住人の物を使わせてもらう。  最初に子猫《こねこ》の鳴き声を聞いたのは、引っ越《こ》した当日、居間でくつろいでいた時のことだった。声は庭のどこかから聞こえてきた。気のせいだと思い、放《ほう》っておくと、いつのまにかそいつは家へ上がり込んでいて、人間のぼくよりも家主|面《づら》してくつろいでいた。両手のひらに収まるような、白い子猫だった。下見の時は、どこかに隠《かく》れていたらしい。前の住人が飼っていたペットのようで、飼い主のいなくなった後も、そのまま家に住み着いているのだろう。当然のように家へ上がり込み、歩きまわった。首に鈴《すず》がつけられ、澄《す》んだ音を響《ひび》かせた。  ぼくは最初のうち、そいつの扱《あつか》いに戸惑《とまど》った。家にこんなおまけがあるとは、伯父から聞いていない。一人きりになりたかったのに、子猫と暮らさなければいけないなんて反則だ。どこかへ捨ててこようかとも思ったが、そのままそっとしておくことにした。居間に座《すわ》っていて、子猫がトコトコ目の前を通ると、つい正座してしまった。  その日は隣《となり》に住んでいる木野《きの》という奥《おく》さんが挨拶《あいさつ》にやってきて、どっとつかれた。彼女は玄関先《げんかんさき》に立ち、品定めするような目でぼくを見ながら世間話をした。できるだけこのような近所との付き合いは排除《はいじょ》したかった。  彼女は、音のすごい自転車に乗っていた。金属をこするようなブレーキの音が、何十メートル離《はな》れていても聞こえてくる。最初は不愉快《ふゆかい》だったが、そのうち、あれは斬新《ざんしん》な楽器なんだと思うことにした。 「私の自転車、ブレーキが壊《こわ》れかけているのかしら?」と、彼女。 「たぶん、もうすでに壊れているんだと思いますよ」とは言えなかった。  だが、前にこの家で生活していた住人のことに話題が移ると、身を乗り出して聞いた。以前、この家に住んでいたのは、雪村《ゆきむら》サキという若い女性だった。よく、カメラを持ってこのあたりを散歩し、町の住民を撮影《さつえい》していたという。町の人からは、ずいぶん慕《した》われていたようだ。しかし三週間前の三月十五日、玄関先で何者かに刃物《はもの》で刺《さ》され、命をなくした。犯人は見つかっていない。  ぼくの隣人《りんじん》は玄関の床板《ゆかいた》をじっと見つめた。自分の立っているところが犯行の現場であることに気付き、ぼくはあわてて一歩、後退した。詐欺《さぎ》だ。伯父からはそんな話、一度も聞いていない。事件のあった当時、といってもつい最近のことだが、多くの警察がこの家に来て、たいへんな騒《さわ》ぎだったらしい。 「彼女の子猫、突然《とつぜん》、雪村さんがいなくなって、きっと困っているでしょうねえ。餌《えさ》をあげる人もいなくて。いやだわ、ゴミをあさりはじめたらどうしましょう」  彼女は帰り際《ぎわ》、そう言った。  ぼくには子猫《こねこ》が困っているようには見えなかった。毎日だれかが餌《えさ》をあげているかのように健康そうだった。家のごみ箱に、中身の無いキャットフードの缶《かん》が捨てられていた。つい最近だれかが開けたらしい。知らない間にだれかが家へ上がり込んで、餌をあげたのだろうか。  子猫はまるで、雪村が死んでしまっていなくなったことに気付いていないようだった。白く短い毛をなめ、縁側《えんがわ》に寝《ね》そべり、ずっと以前からそうしていたであろう平和そうな日常を続けていた。それは、子猫が鈍感《どんかん》であるのとは、少し違《ちが》うように思えた。  眺《なが》めていると、しばしば子猫は、そばにだれか親しい人がいるかのように振《ふ》る舞《ま》った。最初のうち、気のせいかと思っていたが、それにしては不自然な行動が多かった。  何もない空中に向かってあどけない顔をあげ、耳をそばだてる。見えない何かからなでられているように、目を細めて気持ち良さそうな声を出す。  よく猫は、立っている人間の足に体をこすりつけるが、その子猫は何もない空間に体を押《お》しつけようとして、空振《からぶ》りして「あれ?」といった感じで転びそうになっていた。そして、何か見えないものを追いかけるように、小さな鈴《すず》を鳴らして家中を歩き回った。まるで、歩く飼い主を追いかけているようだった。子猫は、今でも雪村が家にいることを信じて疑《うたが》っていないようだった。むしろ、新しく入居したぼくの方を不思議そうに見た。  最初、子猫はぼくの出す餌を食べなかったが、じきに、食《しょく》するようになった。そこに至ってようやく、ぼくは家に住む許可を子猫からもらった気がした。  ある日、学校から家へ戻《もど》ると、子猫が居間で寝そべっていた。子猫は元飼い主の古着がお気に入りで、いつもそれをベッドにして眠《ねむ》っていた。そのぼろぼろになった服を手に取ろうとすると、くわえて逃《に》げ出すくらい大事なものらしかった。  居間には、雪村サキが残していった小さな木のテーブルや、テレビがあった。彼女は小物を集めるのが趣味《しゅみ》だったらしく、ぼくがこの家に来た時には様々な形の猫の人形がテレビの上や棚《たな》に並んでいた。しかし、それらはすべて片付けた。  朝、テレビを消し忘れていたらしい。だれもいない部屋《へや》の中に時代劇が流れていた。しかも『大岡越前《おおおかえちぜん》』の再放送である。テレビの電源を消して、いったん二階の自室へ向かった。  雪村が寝室《しんしつ》としていた部屋はそのままにして、ぼくは別の部屋を自室としていた。殺された人の部屋というのは、使うことをためらわれるものがあった。玄関《げんかん》を通る度《たび》に、その場で死んだ雪村のことを考えた。彼女が刺《さ》された時、目撃者《もくげきしゃ》はいなかったが、言い争いをする彼女の声を、近所の人は聞いたという。事件が起こって以来、近所を警察が見回りするようになったそうだ。  暗室にあった大量の写真を眺めていると、憂鬱《ゆううつ》な気持ちになった。雪村は町の人間を撮影《さつえい》しながら、歩きまわっていたらしい。彼女の写真には、町の人の笑顔《えがお》や、喜びの一瞬《いっしゅん》が切り取られていた。人々の幸福感があふれてくるような写真だった。そういったものを撮《と》ることができたのは、彼女の感覚がその方向に向けられていたからに違《ちが》いない。光を正視することのできる人だったのだろう。ぼくとは、大違いだ。  食事にしようと思った。一階へ下りて、台所でごはんをよそっている時、ようやく気付く。居間の方から、消したはずのテレビの音が聞こえてくる。いつのまにか電源が入っていた。不思議だった。テレビが壊《こわ》れているのだろうか。子猫《こねこ》が寝《ね》そべっているだけの居間に、『大岡越前』が流れていた。  その現象は、その日だけにとどまらなかった。次の日も、その次の日も、『大岡越前』の時間になると、ぼくのいないうちに、いつのまにかテレビの電源が入っていた。チャンネルを変えていても、目を離《はな》したすきに、置いていたリモコンの位置がかわり、時代劇へ戻《もど》っている。テレビの故障かと思った。しかし、まるでだれかが家の中に潜《ひそ》んでいて、ぼくがいないのを見計らってはテレビをつけているような不自然さがあった。時間になると、常に子猫が居間で寝ていた。まるで母親にくっついた子供のような顔で寝転んでいた。毎日『大岡越前』をかかさずに見ている、子猫に慕《した》われた何者かの存在を感じた。  以来、本を読んだり、食事をしている時、だれかに見られているような気がした。しかし後ろを振《ふ》り返っても、子猫がうたたねをしているだけだった。  いつもカーテンや窓は閉めているよう心掛《こころが》けていた。開け放した窓から、軽《かろ》やかな小鳥のさえずりが間違《まちが》って聞こえたりすると、耳をふさぎたくなる。ぼくに心の平穏《へいおん》を与《あた》えてくれるのは、薄暗闇《うすくらやみ》の無関心さと、細菌《さいきん》の生きることを許容する湿《しめ》った空気だけだ。しかしふと気付くと、いつのまにかカーテンや窓が開けられている。まるでだれかが、「窓を開けて風通しをよくしないと不健康!」と注意しているようだった。不健康な部屋《へや》の中に、殺菌《さっきん》作用のある温かい太陽の光と、からからに乾《かわ》いた新品のタオルのような風が入る。家中を見てまわったが、自分以外には、だれもいなかった。  ある時、ぼくはツメキリを探していた。家のどこかにあるはずだと思い、自分では購入《こうにゅう》していなかったのだ。雪村だって、爪《つめ》を切らなかったわけではあるまい。 「ツメキリ、ツメキリ……」  声を出しながら探していて、ふと気がつくと、テーブル上にいつのまにか、ツメキリが置かれていた。さきほど見た時は、存在しなかったものだ。いつまでたっても探し出すことができないでいた新入り大学生を見かねて、ツメキリの場所を知っていた何者かが取り出して置いてくれたようだった。そんな物の場所を知っている人物など、ぼくにはただ一人しか思い浮《う》かばなかった。  まさか、そんな馬鹿《ばか》な、と思いつつ、何時間も考え込んだ。そして、殺されたはずの人間が、実体の無い何かとしてこの世にとどまり続けることを考えた。また、その意志をくみ取り、前の住人の立ち退《の》き拒否《きょひ》を黙認《もくにん》することにした。 [#ここから7字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  大学の食堂、みんなから離《はな》れたところで一人、食事をしていた。いっしょに食事をするようなわずらわしい友人を作るつもりは、最初のうち、なかった。  そんな時、不意にぼくの前の席へ、男が座《すわ》った。知らない顔だった。 「きみ、あの殺人のあった家に引っ越《こ》した人だよね?」  それが村井《むらい》だった。ぼくよりも一年上の先輩《せんぱい》にあたる。最初のうち、彼の質問に適当な返事をしていたが、悪い人間には見えなかった。人懐《ひとなつ》っこい性格で、交遊関係も広く、だれとでもすぐに打ち解ける人間のようだった。  その日から、ぼくらの付き合いがはじまった。といっても、友人というほどのものではない。ただ買い物へ行ったり、所用で駅の方へ行く時など、彼の愛車であるミニクーパーに乗せてもらうだけだった。水色の可愛《かわい》らしい形をした車体は、道に停《と》めていると人目を惹《ひ》いた。  村井は人望もあり、みんなに慕《した》われていた。ぼくがお酒を飲まなくても、強要することもなかった。彼はよく、多くの人に囲まれて談笑をはじめた。そんな時、ぼくはそっと席を外した。気付く人はいない。みんなの会話に加わるような気分はわかなかった。少し離れたところから会話を聞いているよりは、ただ一人で大学構内のベンチに座り、植木の根元を眺《なが》めている方が落ち着いた。だれかと大勢でいる時よりも、一人でいる時のほうが安らかになれる。  村井の友人たちはエネルギーにあふれていて、よく笑っていた。お金を持っていて、行動力があり、活動的だった。彼らはまるで、ぼくとは違《ちが》う世界の住人のようだった。  自分は彼らに比べ、もっと下のレベルの生き物であるように感じていた。実際、アイロンがけされていないみすぼらしい服装と、すぐに言葉がつっかえる癖《くせ》は彼らの笑いの対象となっていた。その上、ぼくは必要な時にしか発言しなかったから、無口で無感動な人間だと思われているようだった。  ある時、彼らは、ちょっとした実験を行った。それは大学構内にあるA棟《とう》ロビーでのことだった。 「すぐにもどってくるから、きみはここで待っていてよ」  村井を含《ふく》めた彼らは、そう言うとどこかへ去って行った。ぼくはロビーに据《す》え付けられたベンチに座り、本を読みながら彼らが戻《もど》ってくるのを待った。まわりを学生たちが騒々《そうぞう》しく歩きまわっていた。一時間待ったが、だれも帰ってこなかった。不安になったが、さらにもう一時間、読書を続けた。  そこに村井だけが戻ってきた。複雑そうな顔でぼくを見て言った。 「きみは、みんなにからかわれていたんだよ。いくら待っても、だれも戻ってこない。遠くからきみを観察するのにあきて、みんな、もうずっと前に車で行ってしまったよ」  ぼくは、ああそうですか、とだけ答え、本を閉じると帰るために立ち上がった。 「悔《くや》しくないの? みんな、きみが不安そうにしているのを、楽しんで観察していたんだよ」と、村井。  しばしばあることなので、半ばどうでもよく感じていた。 「こういうことには、もう慣れましたよ」  彼を残して、ぼくは足早にその場から立ち去った。背中に村井の視線を感じた。  彼らのそばに自分がいてはいけないような気は、最初からしていた。みんな、ぼくがどんなに手を伸《の》ばしても得られないさまざまなものを持っていた。そのため、彼らと言葉を交《か》わした後、ひそかに絶望感を味わったし、憎悪《ぞうお》に近い感情を抱《いだ》いた。  いや、彼らに対してだけではない。何もかもを憎《にく》み、呪《のろ》った。特に、太陽とか、青空とか、花とか、歌とか、そういったものへ重点的に呪詛《じゅそ》をつぶやいた。明るい顔をして歩くすべての人間は、すごく頭の悪い馬鹿《ばか》な奴《やつ》なのだと思いたかった。そうやって全世界を否定し、遠ざけておくことで、唯一《ゆいいつ》、安らかになれた。  だからぼくは、雪村の撮影《さつえい》した写真を驚異《きょうい》に思う。彼女の撮《と》った写真にはすべてを肯定《こうてい》して受け入れるような深さがあった。ぼくの通う大学や家を写した写真からも、池や緑地公園の写真からも、光があふれてきそうな力を感じた。子猫《こねこ》の写真や、子供たちがピースした写真から、彼女のやさしさが伝わってきた。雪村の顔をぼくは知らない。しかし、彼女がカメラを構えると、それを発見した子供たちが自分を撮ってと殺到する。そんな光景が想像できるようだった。  もしもぼくが、彼女と並んで同じ景色《けしき》を見ても、瞳《ひとみ》の捉《とら》えるものはまったく別のものだろう。雪村の健全な魂《たましい》は世界の明るい部分を選択《せんたく》し、綿菓子《わたがし》のように白くてやわらかい幸福なフィルターで視界を包み込んでしまう。ぼくの心では、そうはいかない。光に弾《はじ》き出された影《かげ》の方ばかり見えてくる。世界が冷たく、グロテスクなものに感じられる。世の中、うまくいかない。ぼくのような奴ではなく、彼女のような人が死ぬ。  大学で味わったひどい気分も、家へもどり、寝《ね》ている子猫を裏返したりして遊んでいるうちに消えた。やがて、村井のことを考え出した。ぼくを放置して、村井の友人たちはどこかへ行ってしまった。しかし、彼は戻ってきたじゃないか。  そのことがあってからも、なんとなく村井とは縁《えん》を切らないでおいた。以前と変わらず、いっしょに食堂で食事し、彼の車で出かけた。ただひとつ、変わったことがある。それは、彼がみんなに囲まれて談笑しはじめ、ぼくがそっとその場を離《はな》れた時のことだ。彼も静かにみんなから離れ、人込みから遠ざかるぼくを追いかけてくるようになった。 「今度、きみの家へ遊びに行ってもいいかい?」  村井のその提案を、ぼくは断った。あまり人を家へあげたくなかった。しばしば発生する不思議な現象を見られて、彼が驚《おどろ》いてぼくを避《さ》けるのではないかという不安もあった。  朝になるとかならず、カーテンが開いている。前の住人の仕業《しわざ》だった。  部屋《へや》に日光が入らないように、北向きの部屋を選んで使っていた。それでも、ぼくを外界から守る布切れが開かれてしまえば、部屋はだいぶ明るくなる。残念ながら、カーテンを閉め、薄暗《うすぐら》い家の中で生活する計画を放棄《ほうき》しなくてはいけないようだった。いくら部屋から光を追い出しても、しばらくすると、いつのまにかカーテンと窓は開けられている。何度も同じことが繰《く》り返され、ぼくはあきらめた。どうやら前の住人は、部屋に光を入れて空気を入れ替《か》えることに関して、ぼくとは相容《あいい》れないこだわりを持っているようだ。  夜、布団《ふとん》に入って目を閉じていると、廊下《ろうか》をだれかが歩く気配がした。しんとした暗闇《くらやみ》の中、床板《ゆかいた》のきしむ音が近付く。向かいの部屋で扉《とびら》の開く音がすると、気配はその中に消える。以前、雪村サキが寝室《しんしつ》としていた部屋だった。  不思議と、それらの現象を恐《おそ》れたりはしなかった。  雪村の姿《すがた》は見えなかったが、自分の知らない間に食器が洗われていたり、本のしおりが進んでいたりする。長い間、掃除《そうじ》をしていないはずだったがちりひとつ見当たらないのに気付く。きっと、ぼくの見ていない間に、彼女が箒《ほうき》で掃《は》いて掃除をしているのだろう。はじめは気配を感じる度《たび》に戸惑《とまど》っていたのも、やがてなれると、当たり前になった。  乾燥《かんそう》した畳《たたみ》に子猫《こねこ》が寝転《ねころ》び、目を細くする。お気に入りの古着に顔をうずめ、眠《ねむ》りこける。子猫はしばしば、見えない何かに向かってじゃれついていたが、きっと遊び相手は雪村にちがいなかった。子猫が見上げている方向を注意深く見たが、ぼくには何も見えなかった。  好みに関するちょっとした対立はしばしば起きた。引っ越《こ》しをした当初、テレビの上には雪村の飾《かざ》っていた小さな猫の置物があった。テレビの上に物を飾る行為《こうい》は、ぼくにとって断固として拒否《きょひ》したいことだった。よって、置物は片付けた。しかしそれも、いつのまにかテレビの上に舞《ま》い戻《もど》っている。何度、片付けても、次の日にはテレビの上にあった。 「テレビの上に物を置くと、振動《しんどう》で落ちたりするし、見ていて気が散るじゃないか!」  言っても無駄《むだ》だった。  好きな音楽CDをかけていたところ、彼女はその曲が気に入らなかったらしい。ぼくがトイレへ行っていたすきに、彼女がコレクションしていた落語のCDに入れ替《か》わっていた。渋《しぶ》い趣味《しゅみ》だ。  そのうち、朝、包丁《ほうちょう》の音で目が覚め、台所へ行くと朝食ができあがっているようになった。学校から帰宅し、二階の自室へ鞄《かばん》を置いた後、居間でくつろごうとすると、湯気のたつコーヒーが用意されている。少しずつ、雪村の気配は色彩を増していった。  しかし、ぼくの感じ取れる雪村の存在は、いつも結果のみだった。目の前でコーヒーが用意されることはなく、目を離《はな》したすきに変化は起きていた。台所の棚《たな》から居間のテーブルへ、どのようにマグカップが運ばれてきたのか疑問に思う。空中をただよってきたのか、転がってきたのかはわからない。重要なことは、ぼくのためにコーヒーをいれてくれるという意志だ。  また、彼女の動ける範囲《はんい》は、どうやら家と庭だけらしい。ゴミの日になると、ビニールにまとめられた生ゴミの袋《ふくろ》が玄関《げんかん》に出ていた。外にあるゴミ捨て場まで出て行くことができないようだ。  ある日、空っぽになったコーヒーのビンがテーブルに出ていた。「あ、買っておけってことか」と思い、ぼくはごく当たり前に彼女の意志をくみ取り、買い物をした。  雪村は幽霊《ゆうれい》なのだろうか。それにしては、それらしいことなど一度もない。だれかを怖《こわ》がらせるわけでもなく、殺された恨《うら》みをつぶやくわけでもない。半透明《はんとうめい》の姿を見せるわけでもなく、ただ淡々《たんたん》と、以前からそうしていたであろう生活をひっそりと続けているようだ。幽霊というよりも、たんに成仏《じょうぶつ》していないだけ、と言った方が正しいかもしれない。  見えないけど確かにそばにいる雪村の存在は、暖かく、心にそっと触《ふ》れるものがあった。しかし、彼女や子猫の存在は、だれにも言わずにいた。  ある時、村井の車で買い物へでかけた。水色の丸い車体は快調に走り、やがていつか伯父《おじ》と見た池が窓の外に広がっていた。ぼくはよく、その池のほとりを歩いた。それは散歩のためではなく、たんに大学と家をつなぐ通路だったせいだ。自分の爪先《つまさき》以外のものを見て歩くことはめったにないので、それまで、注意深く池を眺《なが》めたことはなかった。 「この池で大学生が溺《おぼ》れたという話を聞きました」  ぼくのつぶやいた言葉に、村井ははっとしたように身をこわ張らせた。 「それ、おれの友達だよ」彼はハンドルを握《にぎ》り、前方に目を向けたまま、死んだ友人のことを話しだした。「そいつとは、小学生時代からの親友だった……」  車の速度が次第《しだい》に落ちて、やがて道の脇《わき》に停車《ていしゃ》する。彼の意識ははるか遠く、生きていた頃《ころ》の友人を見ているようだった。 「彼と過ごした最後の日、ぼくらは喧嘩《けんか》してしまったんだ。ちょっとした、酒を飲んだ時のいざこざだった。その夜、知り合いたちと盛り上がって、油断して飲みすぎたんだ。酔《よ》った勢いで、おれはあいつにひどいことを言って傷つけてしまった。次の日の昼、池に浮いているあいつが発見された。警察の話では、早朝に、酔って池に転落したそうだ。溺死《できし》だった。謝《あやま》りたくても、彼はもういない。本当に、もし、できることなら、もう一度会って話をしたい……」  村井の目は赤くなっていた。 「大丈夫《だいじょうぶ》ですか?」  彼は目を閉じ、両手でそっと顔を覆《おお》った。 「ちょっと、コンタクトがずれただけさ……」嘘《うそ》をついて、彼は言葉を続ける。「死んだおれの友達、きみに似ていたよ。外見はまったく違《ちが》うんだけど……。あいつも、人間関係でひどい目にあった時、『こんなことには慣れている』と、あきらめたような顔をして言ったんだ。このひどい世の中がこれ以上よくはならないと言いたげだった……」  彼がお酒を他人に強要しないのも、そのせいだろうか。雪村が捨てずにとっておいた古新聞、たしか家に残されていた。事故があった次の日の新聞を探してみようかと思った。何か載《の》っているかもしれない。  後日、池のほとりを歩く時、注意深く彼の亡《な》くなった友人を探した。雪村のように、今でもいたりして、と思っていた。  ある時、学校からもどると、洗濯物《せんたくもの》が干してあった。ぼく自身には、洗濯をした記憶《きおく》がない。雪村が洗濯をして、庭の物干し台に干してくれたのだ。ぼくは縁側《えんがわ》に腰《こし》を下ろし、風にゆれる洗濯物をながめた。明るい日差しの中、白いシャツが光っていた。  庭に作られた小さな畑にいつのまにか芽が出ていて、大きく生長していた。雪村が人知れず家庭菜園を続けていたことに、長い間、ぼくは気付かなかった。庭の草木など、たった今はじめて見たような気がした。  よく観察すると、庭の植物は水滴《すいてき》を滴《したた》らせ、地面にできた水溜《みずた》まりは青空を映していた。雪村がホースをつかって水をやったのだろう。ぼくは知らなかったが、それまでも頻繁《ひんぱん》に、そうしていたにちがいない。  彼女は植物がすきだった。庭から摘《つ》んできた草花が、しばしば花瓶《かびん》にいけられていた。気付くと、ぼくの部屋《へや》の机にも、名前のわからない花が飾《かざ》られている。以前なら、よけいなことを、と思ったかもしれない。花など、ぼくには憎《にく》しみの対象でしかなかった。しかし不思議と、雪村が花瓶に飾るのを想像し、それを許容することができた。  すでに死んでいるというのに、いったい、何やってんだか。彼女はずいぶんと暇《ひま》らしく、時々トラップを仕掛《しか》けてぼくをおちょくった。いつのまにか靴《くつ》の紐《ひも》を固結びにして困らせたり、まだ六月が終わっていないのにカレンダーを七月にしていたり、学校へ持っていく鞄《かばん》にそっとテレビのリモコンを入れたりした。意味不明だ。  家でカップラーメンを作ったところ、家中の箸《はし》およびフォークを彼女に隠《かく》されたことがある。三分たって箸がないことに気付き、ぼくはあせって家中を探した。「はやく箸を見つけないと、麺《めん》が伸《の》びてしまう!」というせこい窮地《きゅうち》に立たされた。結局、ラーメンは二本のボールペンを箸がわりにして食べた。  そんな時、子猫《こねこ》がそばに座《すわ》って、濁《にご》りのない瞳《ひとみ》でぼくを見ていた。途端《とたん》に、自分はいったい何をやっているのだろう、という気持ちになり、人間として落ち込んだ。そしてまた、きっとすぐ近くに雪村がいて、今、おかしくて笑っているにちがいないという確信を抱《いだ》いた。子猫と彼女はほとんどいつもセットのようだった。彼女の姿は見えないので、よくはわからなかったが、子猫はできるだけ飼い主の後を追いかけているようだ。だから、見えない雪村の位置は、子猫が知らせてくれた。雪村における子猫の存在は、猫の首についた鈴《すず》と同じようなものだった。 「きみのやることは、幽霊《ゆうれい》らしくない。たまには、おどろおどろしいことでも、やったらどう?」  子猫のいるあたりを向いて、幾分《いくぶん》、意地悪く言った。  次の日、テーブルの上に、彼女のものらしい恐怖《きょうふ》の書き置きがあった。紙に、『痛いよう、苦しいよう、さみしいよう……』という小さな文字をびっしり書こうとして、飽《あ》きて途中《とちゅう》でやめたようだ。紙面が半分も埋《う》まっていない上に、最後の言葉が『わたしもラーメン食べたかったよう』だった。ともあれ、それは、彼女がぼくにあてたはじめての手紙で、捨てずに残しておこうと思った。  その後も、見えない雪村に対して何か話しかけるわけではないのだが、不思議と通じ合ってしまった感があった。  毎週、月曜日の深夜になると、ぼくの知らない間に台所の電気がついて、ラジオの電源が入っていた。どうやらこの家では、台所がもっとも電波が入りやすいようだった。毎週その時間は、雪村の好きなラジオ番組をやっていた。  それはなかなか寝付《ねつ》けない夜のことだった。外は風があるらしく、耳をすますと木の枝のさわぐ音が聞こえる。夜の空気に、どこからか人の声。ラジオの音だと気付き、起き上がって階段を下りる。白い蛍光灯《けいこうとう》の明かりが目に入り、テーブル上に置かれた小さな携帯《けいたい》ラジオを見つけると、ぼくはわけのわからない安心感に包まれた。  雪村がラジオを聴いていた。子猫《こねこ》はいない。お気に入りの古着をベッドにして夢を見ているのだろう。しかし、子猫がいなくても、彼女が確かに、そこでラジオを聴いていることがわかった。スイッチが入っていることを示すラジオの赤いランプ。軽く引かれた椅子《いす》。  実際に、姿が見えたわけではない。しかし、椅子に腰掛《こしか》けて頬杖《ほおづえ》をつき、足をぶらぶらさせながらお気に入りのラジオ番組に耳をかたむける彼女が、一瞬《いっしゅん》、見えたような気がした。  ぼくは隣《となり》に腰掛けた。しばらく目を閉じて、スピーカーから流れる音に聴き入る。外の風はいよいよ強くなり、まるで雪山に閉じ込められたかのような、しんとした気持ちになる。彼女がいるあたりにそっと手を伸《の》ばしてみた。何もないただの空間。だが、温かい何かを感じた。雪村の体温かもしれない、と思った。 [#ここから7字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  六月の最後の週のことだった。その日、午前中はよく晴れており、太陽を遮《さえぎ》るようなものはなかった。雨が降り出したのは夕方のことで、ぼくはずぶ濡《ぬ》れになりながら大学から帰ることになった。当然、傘《かさ》を持って家を出ていなかったが、途中で買うまでもないと思っていた。濡れて困るものなど、持っていなかった。  いつも通る池のほとりにはだれもいない。歩道の脇《わき》に、一定の間隔《かんかく》をあけて木のベンチが、寂《さび》しそうに池の方に向けて設置されている。雨にけぶる池の向こう岸はかすみ、水面《みなも》と森との境に靄《もや》がかかっていた。生物の気配はなく、ただひそやかに雨音だけが池と森を支配していた。どこか現実を超《こ》えたその光景に目を奪《うば》われ、ぼくは雨の中、しばらくじっと水面を眺《なが》めていた。初夏だというのが嘘《うそ》のように寒かった。  目の前に広がる静かな池が、村井の友人を連れ去った。灰色の空を映した大量の水。いつのまにか吸い込まれるように、ぼくは池に向かって歩いていた。低い柵《さく》に遮《さえぎ》られるまで、そのことに気付かなかった。  村井の友人が今でもこの池のそばにいるんじゃないかという思いが、消えずに残っていた。遺体《いたい》は回収されたという。でも、雪村のような存在になって、まだこの池で浮《う》いたり沈《しず》んだりを繰り返しているのではないか。もっとよくこの辺りを探してみる価値があると考えていた。人間の目には見えなくても、ひょっとすると子猫《こねこ》なら探し出すことができるかもしれない。村井は、死んでしまった友人と話をする必要がある。ぼくはそう思った。いつか、ぼくらは子猫をつれて、ここへ来なくてはならない。  池を離《はな》れ、家へ向かって歩き始める。おそらく家へもどると、玄関《げんかん》にバスタオルが用意されているだろう。彼女は、ぼくが濡《ぬ》れて帰ってくることを予想し、乾《かわ》いた服を出して待っているかもしれない。体が暖まるような熱いコーヒーをいれるかもしれない。  わけのわからない切なさに襲《おそ》われる。この生活がいつまで続くのかという問題を考える。いつか終わりがやってくる。彼女はそのうち、行ってしまうのだろう。やがてだれもが帰っていく場所へ。では、どうして今すぐにそうしないのか。絶命した瞬間《しゅんかん》にそうしなかったのか。後に残される子猫が心配だったのだろうか。  警察の話では、雪村を刺《さ》したのは強盗《ごうとう》だということだ。犯人はまだ見つかっていない。時々、警察の人間が家へやって来て、話をして帰っていく。彼女は明るくだれにでも好かれていた反面、同世代の親しい人間はこの地方にはいなかったそうだ。知り合いの犯行というわけでもなく、ただ不幸にも、通り魔《ま》的に、家へやってきた強盗に襲われてしまったらしい。それは、雷《かみなり》の直撃《ちょくげき》を受けて死んだり、飛行機事故で死んだりするのと同じ、やるせない偶然《ぐうぜん》だったのだろう。  世の中には、絶望したくなるようなことがたくさんある。ぼくも、村井も、それに対抗《たいこう》する力はなく、ただはいつくばって神様に祈《いの》ることしかできない。目を閉じて耳をふさぎ、体を丸めて悲しいことが自分の上を通り過ぎるのを待たなくてはいけない。  ぼくは雪村のために何かできるだろうか。  考え事をしながら家へたどり着き、玄関に置かれていたバスタオルを受け取る。乾いた服に着替《きが》え、湯気の立つコーヒーを口に含《ふく》んだ時、はじめて頭痛がすることに気付いた。ぼくはすっかり風邪《かぜ》をひいていた。  二日間、布団《ふとん》の中ですごすはめになった。意識が朦朧《もうろう》とし、頭の中に鉄球が入っているような重い痛みに苦しんだ。体中の筋肉が水を吸った綿のようになり、その二日間、ぼくは世界で最も鈍重《どんじゅう》な生物と化した。  しばしば、子猫《こねこ》が寝込《ねこ》んでいるぼくの上に飛び乗った。布団の上から子猫の小さな四本足を感じ、鳴き声を聞くと、かすかすになりかけていた心がそっとやわらいだ。子猫はもう、最初に会った時と比べて、子猫とは呼べないくらい大きく成長していた。  雪村が看病してくれた。眠《ねむ》りから覚めると、額には濡《ぬ》れたタオルが載《の》っていた。枕《まくら》のそばに水の入った洗面器があり、水差しとバファリンが置かれていた。  立ち上がる気力が出ず、ただ瞼《まぶた》を下げて眠りに落ちるしかない。まどろんでいると、雪村の歩く気配を感じた。階下でおかゆをつくる彼女、階段をあがってくるかすかな音。それについてまわる鈴《すず》の音《ね》。子猫の首についているやつだ。彼女がぼくのすぐそばに腰《こし》をおろし、じっとぼくの寝顔《ねがお》を見ていることもわかった。やさしげな視線を感じた。  三十九度の高熱の中で、夢を見た。  雪村と子猫とぼく、二人と一|匹《ぴき》で池のほとりを歩いている。空は高く深い青色で、森の木々が背の低いぼくらを圧倒《あっとう》するように立っていた。二人と一匹は太陽の光を全身で受け止め、レンガの道にくっきりと三つの濃《こ》い影《かげ》ができた。池は鏡のように澄《す》み渡《わた》り、水面《みなも》の裏側《うらがわ》にもうひとつ、精密に複製された世界が見えた。一歩あるくごとに、空を飛べるんじゃないかと思えるほど、軽い体を感じた。  雪村は体に似合わない大きなカメラを首からぶらさげて、いろんなものを撮《と》っていた。ぼくは彼女の顔も、身長も知らなかった。しかし夢の中の彼女は、以前からずっと知っていたような顔で、ぼくはそれが雪村に間違《まちが》いないことを悟《さと》っていた。彼女は早足で歩き、ぼくをせかす。もっといろんな物が見たい、写真に収めたい、とでも言うような、純粋《じゅんすい》な好奇心《こうきしん》と幼い冒険心《ぼうけんしん》。  人間たちから少し遅《おく》れて、子猫が小さな歩幅《ほはば》で一生|懸命《けんめい》追いつこうとする。風が心地好《ここちよ》く、ピンとした子猫のヒゲがゆれる。  太陽が池の水面に反射し、宝石をばらまいたように輝《かがや》く。  目が覚めるとそこは真っ暗な自分の部屋《へや》で、車が排気《はいき》ガスを吐《は》きだす音が外から聞こえてきた。時計《とけい》を見ると夜中、額《ひたい》を冷やしていたタオルがかたわらに落ちていた。  たった今、見た夢の、あまりの幸福さに、ぼくは泣き出してしまった。雪村が生きていたらいいのに、という意味で悲しいのではない。  絶対に見てはいけない夢だった。どんなに手をのばして望んでも、指先には触《ふ》れることのできない世界。そこは光にあふれているが、残念ながらぼくはそこに受け入れられない。布団《ふとん》に上半身を起こし、頭を抱《かか》え、何度も嗚咽《おえつ》をもらした。涙《なみだ》がぽろぽろ落ちて、布団に吸い込まれた。雪村や子猫と暮らすうちに、いつのまにか変化してしまっていたらしい。普通《ふつう》の人と同様に、幸福な世界で生きていけるんじゃないかと、勘違《かんちが》いしていたようだ。だから幸福な夢を見てしまう。目が覚めて現実に気付かされ、耐《た》えきれず胸をかきむしる。そうならないために、そんな世界を敵視し、憎《にく》み、自分を保っていたというのに。  いつのまにか部屋の扉《とびら》が開いており、子猫がかたわらでぼくを見上げていた。おそらく雪村もそばにいて、弱気な病気の大学生を興味深げに眺《なが》めている。なぜそんなにへこんでいるの? 彼女が首をかしげているような気がした。 「だめなんだ。生きられない。がんばってみたんだけど、どうにもうまくいかなかったんだ……」  雪村が心配そうな顔をして、そばに座《すわ》った。見えないが、そう感じた。 「子供のころ……、今でもほとんど変わらないけど、ぼくは人見知りの激しい子だった。親戚《しんせき》たちが集まるような時でも、ぼくはだれともしゃべらなかった。話すのが、そのころから下手《へた》だったんだよ。弟がいるんだけど、彼はそんなことなくて、親戚とも楽しくしゃべっていた。彼はみんなから好かれていて、可愛《かわい》がられていた。うらやましかった。自分もそうなりたかったよ……」  でも、だめだった。無理だったのだ。どんなにがんばってみたところで、弟のようには振《ふ》る舞《ま》えなかった。みんなに好かれたいと願うには、あまりにも不器用すぎた。 「綺麗《きれい》な叔母《おば》さんがいて、それは父の妹だったんだけど、ぼくはその人のことがすきだった。叔母は弟がお気に入りで、よくいっしょに遊んだり、笑いながら話をしていた。ぼくも交ぜてもらいたかったけど、できなかった。いや、一度、二人の会話に加わったことがある。胸がどきどきした。叔母がぼくに話しかけてくれたけど、大人《おとな》が望むような子供らしい無邪気《むじゃき》な答えは、何もできなかった。そして彼女は、失望したような顔をしたんだ」  胸の奥《おく》に重い苦しみが宿《やど》り、息がつまりそうになる。雪村がじっとぼくの顔を見つめている。 「自分では、一生|懸命《けんめい》やったつもりなんだ。でも、だめなんだよ。受け入れられない。この世界は、ぼくのような、器用になんでもできない人間が生きていくにはつらすぎるよ。それなら、何も見えない方がましだ。明るい世界を見せられると、逆に、あまりに薄暗《うすぐら》い自分の姿を浮《う》き彫《ぼ》りにされたようで、胸がつぶれそうになるんだ。そんな時、いっそのこと、目をえぐりだしたくなる」  頬《ほお》にぬくもりを感じた。すぐそばにいる人の、手のひらの温かさだということはわかっていた。でも、ぼくはそれを忘れようと努力した。  ある日、子猫《こねこ》がいなくなった。夕食の時間になっても姿が見えず、子猫がいつもベッドとして愛用していた雪村の古着だけが、ぽつんと放《ほう》り出されていた。ぼくはそれを折り畳《たた》み、部屋《へや》の隅《すみ》に片付けた。散歩に出かけたにしては、あまりにも帰るのが遅《おそ》すぎる。雪村は家と庭から出られないため、外へ探しに出かけることができない。いろいろなものを散らかして、子猫のいなくなったことに対する不安と困惑《こんわく》を表現していた。  迷子になったのだろうか。ただそれだけなら、どんなにいいだろう。ぼくは心配でたまらず、近所を探して歩くことにした。頭の中では最悪の結末を想像し、つい地面に横たわる冷たくなった子猫を探してしまった。猫や犬といった動物は、しばしば自動車によって平たい形状にされるものなのだ。  恐怖《きょうふ》が胸にこみあげてくる。ぼくの心の中で、思いのほか大きな部分を子猫が占《し》めていたことに改めて気付かされる。角を曲がる度《たび》、綺麗な地面を見て、ほっと胸をなでおろす。何度かそうしていると、後ろで車のクラクションが鳴った。振《ふ》り返ると、村井の乗ったミニクーパーがあった。運転席に駆《か》け寄る。 「前の住人の残していった猫、ぼくが引き継《つ》いで飼っているのですが、いつまでも帰ってこなくて、心配で探しているんですよ。白い色のやつなんですけど、村井さん、どこかで見かけませんでしたか?」 「きみがペットを飼っているなんて初耳だ。野良《のら》猫ならさっき見たけど茶色だった。白い色の子猫はまだ見てないよ」と村井。  ぼくが落胆《らくたん》したのを見かねたのだろう、彼も子猫の捜索《そうさく》を手伝《てつだ》うことになった。ひとまずミニクーパーをぼくの家に置き、歩いて近所を探しまわることにする。幸い、車を停《と》めるスペースはあった。ぼくらは懐中電灯《かいちゅうでんとう》を使って、夜まで子猫を求めて歩いた。  しかし見つからない。しかたなく、ぼくらは家に戻《もど》った。家の中は散らかっていた。雪村も心配していたに違《ちが》いない、つけたテレビを消さなかったり、出したものを放《ほう》り出してそのままにしていた。片付けられないでそのままにされた跡《あと》を見ると、何も手につかないといった感じだった。  村井を、家にあげるのははじめてだった。彼はときどき、ぼくの家に来たがったが、いろいろな理由をつけて断っていた。  二人で家にもどり、汗《あせ》にまみれた顔を洗っていると、お茶が二人分、居間のテーブルに用意されていた。村井はそれを不思議がった。 「さっき見た時は、このお茶、なかったよね? きみはおれといっしょに洗面所にいた。だれがお茶を用意したの?」彼は首をひねった。「とにかく、今日はつかれた。ビールでも飲みたいな。景気づけにさ。きっと見つかるよ」  お酒の類《たぐ》いは置いていなかったので、歩いて八分の酒屋までぼくが買いに行くことになった。村井はつかれて一歩も動けないようだった。店で、買い慣れないお酒を選んでいる間、家で待っている彼のことを考えていた。雪村から不可解な現象を見せられ、悪いいたずらをされていなければいいが、と心配した。その夜は、ビールを飲んで解散した。 「子猫、見つかったら、いつか触《さわ》らせてね」  村井は帰り際《ぎわ》にそう言った。彼が帰ると、ちらかり放題になっている家の後片付けをした。  子猫がいなくなると、雪村がどこにいるのかわからない。鈴《すず》の音《ね》が聞こえないのはさびしかった。家の中のどこかに隠《かく》れているんじゃないかと、彼女は考えたのだろう。テレビや棚《たな》の位置が動いていたのは、おそらく裏側を探したためだ。  二階に上がると、暗室の黒い幕が半開きのままになっていた。雪村はまだ、時折この暗室を使って何かをしているようだった。暗室の中まで子猫《こねこ》を探したらしい。いろいろな物の位置が動いていた。引き出しが開き、印画紙が光に当たって、使えなくなっていた。それは、幸福な夢を見てしまい、だめになってしまった大学生のことを連想させた。  子猫が帰ってきたのは次の日のことだった。  ぼくは、雪村の散らかした古新聞を片付けていた。彼女が捨てずにためていた新聞で、黄色く変色しかけていた。なぜ古新聞なんか、と思った。その時、庭のどこかから、子猫の鳴き声が聞こえたような気がした。  半ばあきらめかけていたので、たった今、聞こえた声が信じられなかった。もう一度、庭の方から確かに子猫の声。かすかに鈴《すず》の音《ね》。間違《まちが》いないという確信を得るとともに、呼吸ができないほどの嬉《うれ》しさを感じた。泣きたくなるくらい安堵《あんど》した。  サンダルをはくのも面倒《めんどう》で、縁側《えんがわ》から直接、はだしで庭へ下りる。見回したが、背の高い雑草と、家庭菜園の熟しかけているトマト以外は何もない。その時、塀《へい》の向こう側をまだ探していないことに気付いた。庭は塀に遮《さえぎ》られ、その向こうには木野という一家が住んでいた。うるさい自転車に乗る、あの木野さんだ。塀のどこかに穴があって、そこから向こうへ行ったきり、もどってこられなくなったのかもしれない。  隣《となり》の木野家を訪ねるまでもなく、直後に奥《おく》さんの方からうちへやって来た。彼女は腕《うで》に、子猫を抱《だ》いていた。  ぼくはその日の午後いっぱい、子猫のことや、雪村のこと、村井のことを考えた。子猫の鳴き声をかたわらで聞きながら、決心を固めた。 『謝《あやま》りたくても、彼はもういない』  死んだ友人のことを思いながら、そう言った村井のことを思い出していた。  ぼくらは、あの池へ行かなければならない。そう強く感じていた。 [#ここから7字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  次の日。大学の終わる夕方、陽《ひ》は傾《かたむ》き空に赤みがさす。人通りが少なくなり、池のまわりにはぼく以外、だれもいなくなる。静かだった。風もなく、揺《ゆ》らぎもしない目の前の水面《みなも》が、一切《いっさい》の物音を吸い込んでいるように思えた。まるで一枚の巨大《きょだい》な鏡が広がっているように、池は沈黙《ちんもく》していた。  池の縁《ふち》に一定の間隔《かんかく》で立っている街灯《がいとう》が、明かりをつける。池へ飛び込もうとするような勢いで、枝葉をつけた森の木々。並んでいるベンチのひとつに座《すわ》っていると、ようやく村井が現れた。 「こんなところへ呼び出して、どうしたんだい?」  彼は車を緑地公園の駐車場《ちゅうしゃじょう》へ停《と》め、歩いてここへ来ていた。体をずらしてスペースを空けると、彼もベンチに腰掛《こしか》けた。その時、ぼくの持ってきていた鞄《かばん》の中から、子猫《こねこ》の鳴き声が聞こえた。 「子猫、見つかったみたいだね」と彼。  うなずいて、鞄を膝《ひざ》の上に載《の》せた。その鞄は、猫を入れるのに十分な大きさを持っていた。かすかに鈴《すず》の音がして、動物が鞄の内側をひっかくような、カリカリという音がする。 「今日、村井さんを呼び出したのは、話をしたかったからなんです。ひょっとすると、信じてもらえないかもしれない。でも、この池で親友を亡《な》くしたあなたに、どうしても話しておきたいと思いました」  そしてぼくは、雪村や子猫の話をはじめた。大学へ入学し、伯父《おじ》の家に住みはじめたこと。殺されたはずの先住者が、まだ立ち退《の》いていなかったこと。昼間、ぼくがカーテンを閉めても、彼女がそれを許さなかったこと。子猫が、見えない彼女を追いかけ、彼女の古着を愛したこと。  辺りが暗さを増し、ぼくらは街灯の明かりの中、ほとんど身動きしなかった。村井は口を挟《はさ》まず、ただぼくの声を聞いているだけだった。 「そんなことがあったのか……」話し終えると、彼は長い息を吐《は》いた。「それで、ただそれを報告するためだけにおれを呼び出したのか?」  村井が不機嫌《ふきげん》そうな声を出す。話を信じていないことは明らかだった。  ぼくは彼の目を見るように努力した。本当は目をそらし、今の話は冗談《じょうだん》だったと言いたかった。でも、何もかもを丸くおさめるということはできない。この間題を避《さ》けてはいけないと感じていた。 「お隣《となり》の木野さんが、子猫を抱《だ》いてうちに連れてきてくれた後、急に、いろいろなことがひっかかって思えてきたのです。例えば、なぜ、雪村さんは、印画紙を感光させて、だめにしたのでしょうか」 「雪村って、きみの話に出てきた、死んだはずの人間だね」 「一昨日《おととい》、子猫のいなくなった日、家の中を雪村さんが散らかしていた。知らないうちに、いろいろな家具が動くってこと、よくあることでした。だから、すぐには気付かなかった。暗室のものを動かしたのは、いつも通り、彼女の仕業《しわざ》だと思っていました。でも、彼女がわざわざ印画紙をだめにするような不手際《ふてぎわ》をおかすでしょうか。印画紙の引き出しを開けたまま、暗室の幕を閉めていなかったのですよ。こうは考えられないでしょうか。暗室の中で、勝手のわからないだれかが何か探し物をしているうちに、光に当ててはいけない印画紙を出してしまった。そのだれかは、写真の知識もなく、印画紙のことなどわからない。見た目は普通《ふつう》の、白い紙ですからね。そんな時、突然《とつぜん》、家の住人が帰ってきて、ろくに片付けないまま、暗室を後にした。つまり、暗室のものを動かしたのは、雪村さんではなかったのではないか、そう思えてきたのです」 「待ってくれよ。さっきから、雪村がどうとか言っているけど、幽霊《ゆうれい》なんて、きみの作り話なんだろう?」  彼は、その場の真剣《しんけん》な雰囲気《ふんいき》をなんとか崩《くず》そうと、笑いながら言った。しかし、池や森の静謐《せいひつ》な空気が、それを許さなかった。 「村井さん、なぜ一昨日《おととい》の夜、ビールを飲もうと提案したのですか。それは、ぼくにお酒を買いに行かせて、家で一人になりたかったからではないですか。ぼくがお酒を飲まないということ、知っていましたよね。うちにアルコール類を置いていないこと、あなたは知っていた。ぼくにお酒を買いに行かせて、家の中を探す時間が欲《ほ》しかったのではないですか?」 「なぜおれが、そんなことを?」 「あなたにとって何か気になるものが、あの家の中にあったのでしょう。村井さんがあの夜、暗室で見つけ、持ち出したもの、それは、写真のフィルムですね。ぼくを外に出し、あなたは家の中で、探し物をしながら歩いていた。すると二階の一画に暗室がある。うまい具合に、日付を書かれて整理されたフィルムが、そこに保管されていた。あなたは目的の日のフィルムをすぐに見つけることができた」 「見ていた人でもいるのかい?」 「いたのですよ。ぼくがいない間、暗室で村井さんが目的のものを見つけた時、あなたの後ろには雪村さんが立っていたのです。あなたはその時、家の中に一人きりだと思っていたのでしょうが、本当はもう一人いたわけです。きっと彼女も、あなたの目的を測りかねたでしょう。でも、あなたが探したフィルムの日付を見て、彼女はぴんときた。そして、その写真を撮《と》った翌日の新聞を探した。昨日、彼女が片付けず、引っ張りだしたままにしていた新聞が、これです」  ぼくは古い新聞を取り出した。目の前に広がる大きな池で、前日の昼ごろ、池に浮かんでいる大学生が発見されたという記事。村井の友人の死亡記事だ。 「酔《よ》っ払《ぱら》って、池に落ちたということで、この事件は収まりました。でも、本当は、村井さんがお酒を飲ませて、この人を池に突《つ》き落としたのですね。事件の前夜、あなたは彼と喧嘩《けんか》をした。そのいざこざが動機だったのではないですか」  彼の視線に、胸がつまるような息苦しさを感じる。唯一《ゆいいつ》の友人でもある彼に、こんな話をしなければいけない運命を呪《のろ》った。心を保護する粘膜《ねんまく》がやぶけ、血が滲《にじ》み出す。 「証拠《しょうこ》はあるのかい」  ぼくは写真を取り出した。雪村の撮影《さつえい》したものだ。暗室に残されていたフィルムと、家の下見の時に手に入れていた写真を突き合わせた。その結果、なくなったフィルムに写っていた写真を推測して持ってきていた。  それは池を撮影した写真で、朝の光があまりに美しく、胸を焦《こ》がすような気持ちにさせられた。池のほとりに、可愛《かわい》らしい形をした車が駐車《ちゅうしゃ》され、それを主人公に見立てて雪村がシャッターを切ったのは明らかだった。 「あなたが暗室から持ち出したフィルム、彼女はすでに現像して、焼いていました。しっかりと、村井さんの車が写っていましたよ。ナンバーまで読める。太陽の方角から、時間は早朝であることがわかる。酔った大学生が池に落ちた推定時刻の前後、そばに駐車していた車を、偶然《ぐうぜん》、撮影してしまったのですね。あなたは、写真に撮られたことを知った。そして、彼女が写真の意味に気付いて公表するのを恐《おそ》れた。友人との喧嘩は知り合いに見られていたし、友人がおぼれているのを助けもせずにそばで見ていたのかと聞かれると答えを返せない。なんとかして、車の写っているフィルムをうばいたい」  彼は何も言わず、ぼくを見ていた。 「ここから先は、ぼくの思い過ごしかもしれませんが、聞いてください。村井さん、あなたはその日の朝、写真を撮《と》った彼女の後をつけた。住所を知り、数日後、機を見て家をおとずれる。玄関先《げんかんさき》で、刃物《はもの》を見せておどした。フィルムをうばうだけのつもりだったが、暴《あば》れて言うことを聞かなかったので、刺《さ》してしまった。サングラスかなにか、かけていたかもしれない。だから彼女は、あなたが暗室で不審《ふしん》な行動をとるまで、自分を殺した犯人の顔に気付かなかった」  ひどい気分だった。いつのまにか大量の汗《あせ》をかいていた。 「彼女を刺した後、あなたは逃《に》げた。目撃者《もくげきしゃ》はおらず、つかまることはなかった。あの家に残された問題のフィルムが気掛《きが》かりだったかもしれません。でも、警察がフィルムに気付かないまま、彼女の死を強盗《ごうとう》の犯行であると断定した時、あなたはほっとした。もう、親友の死と自分をつなぐ写真について、気付く者は存在しないはずだった。無理をしてフィルムを手に入れる必要はなくなった。家のまわりは、警察が時折見回りをしていたので、勝手に中へ入って取ってくるような目立つ行動もできなかった。そんな時、あの家にぼくが引っ越《こ》した。最初は、たんなる興味からぼくに近付いたのかもしれない。しかし、もしもぼくの家に入り込むことができて、中を自由に探しまわることができたら、その時はフィルムを探し出そう。そう考えていたのではないですか。フィルムの意味に気付かれる可能性は低いかもしれないが、やはりあなたは、自分の犯行の跡《あと》を完全に消すという誘惑《ゆうわく》を拒否《きょひ》できなかった」  口がからからに渇《かわ》いていた。 「村井さんが、亡《な》くなったお友達について、本当はどんな感情を持っていたのか、ぼくはわかりません。少なくとも、車の中であなたに話を聞いた時、本当に悲しんでいるように見えました。もし、あなたが後悔《こうかい》しているのであれば、ぼくは自首をすすめようと思い、今日こんな話をしたのです」 「やめてくれ。とにかく、きみは考えすぎだよ……」  彼はそう言うと立ち上がりかけた。  膝《ひざ》の上に載《の》せた鞄《かばん》の中から、子猫《こねこ》の鳴き声が聞こえる。 「村井さん、いっしょに猫を探して歩いてくれた夜のこと、おぼえていますか。ぼくはあなたに、こう伝えましたね。『前の住人の残していった猫、白い色のやつなんですけど、どこかで見かけませんでしたか?』と。するとあなたは、こう答えた。『野良《のら》猫ならさっき見たけど茶色だった。白い色の子猫はまだ見てないよ』」 「それがどうかしたの?」 「ぼくも、すぐには気付きませんでした。飼っている猫、ずいぶん成長したのに、まだ心の中では『子猫』と呼んでいたものですから。でも、その時はたんに、うちの『猫』と言いました。だれも『子猫』だなんて言ってない。それなのにあなたは、いなくなった猫のことを、『子猫』と表現した。これはなぜでしょう。もしも最近、実際にどこかでうちの猫を見たのであれば、『子猫』とは言えないはずです。でも、あなたは『子猫』と言った。なぜなら、あなたはまだ猫が小さな時、一度、見ていたからです。それは三月十五日のこと。あなたが雪村さんを刺《さ》した時、あの猫は彼女のそばにいたからです。あなたはその時の小さな子猫が目に焼き付いていたため、つい『子猫』と表現してしまった」  村井は、悲しそうな目でぼくを見た。まるで何かを嫌《いや》がるように、首を横に振《ふ》った。 「写真の車がおれの車だとしても、それを写したのが友人の死んだ日だという証拠《しょうこ》はない。その写真には、日付がない。フィルムの方に日付が書かれていたからといって、それが実際、その日に撮影《さつえい》されたものだとは限らない。記入された日付は嘘《うそ》かもしれない。それともきみは、本当に幽霊《ゆうれい》とか魂《たましい》といったものを信じているのか?」  鞄《かばん》から、再度、猫の鳴き声が聞こえてきた。小さな鈴《すず》の音《ね》。 「よかったじゃないか、猫、見つかって」  ぼくは鞄を開けて、中がよく見えるように彼へ差し出した。鞄は空っぽで、一見、何も入っていないように見える。鞄に手を入れると、手のひらに、何か小さな熱の塊《かたまり》を感じる。  感触《かんしょく》があるわけではない。ただひたすらに、生きているという小さな暖かい気配。  鞄の中の、何もない空間から、子猫の鳴き声と澄《す》んだ鈴の音が聞こえてきた。音源になるものなど、何もないのに。 「さあ、出ておいで」  そう言うと、空気でできた見えない子猫は、鈴を鳴らして鞄を出る。ベンチの脇《わき》に下り立つと、動けなかった欲求を晴らすように歩きまわった。それが見えたわけではない。鳴き声と鈴の音が、見えない子猫の位置をぼくたちに伝えていた。  足下を子猫の鳴き声だけ[#「だけ」に傍点]が駆けまわると、村井はベンチに座《すわ》り直した。頭《こうべ》を深く垂れ、両手で顔を覆《おお》う。  昨日、隣《となり》の家の奥《おく》さんは、死んでしまった子猫を胸に抱《だ》いてうちへきた。ブレーキの壊《こわ》れた自転車に乗っていて、急に飛び出してきた猫を、よけきれなかったのだ。  ぼくと雪村は悲しんだ。不思議なことが起きたのはその時だった。子猫が愛用していた雪村の古着は、折り畳《たた》んで部屋《へや》の隅《すみ》に片付けていたはずだった。しかし、知らないうちに、子猫がくわえて遊んだ後のように、元気に広がっていた。すぐそばに、鳴き声と鈴の見えない音源が存在することに、ぼくは気付いた。子猫は家へ帰ってきていたのだ。雪村のように、姿《すがた》は見えなくなっていたが……。 [#ここから7字下げ] 5 [#ここで字下げ終わり]  村井が大学にこなくなって一週間。  朝、なかなか目が覚めないと思ったら、カーテンが開いていなかった。それに気付いた時、悲しい予感がした。  布団《ふとん》を出て、家の中を見て歩く。素足《すあし》に板の間《ま》が冷たい。しんと静まり返った家の中、冷蔵庫の低い振動音《しんどうおん》だけが聞こえる。  ふと、子猫の鳴き声がした。まるで親を見失った子供のように、戸惑《とまど》いと不安の入り交じった声を出しながら、家の中を歩きまわっているようだった。悲しい子猫の声を聞きながら、ぼくは、彼女がもうここにはいないということを知った。  子猫は雪村を見つけることができず、探し求めているのだろう。子猫にとって、今日、本当の意味ではじめて飼い主と引き離《はな》されたのだ。  椅子《いす》に座《すわ》る。雪村が夜中、ラジオを聴いていたテーブルだった。そこで長い間、彼女のことを静かに考え続けた。  いつかこういう日がくることは知っていた。そしてまた、そのとき激しい喪失感《そうしつかん》に襲《おそ》われることも予想していた。  ぼくはわかっていた。ただ、最初に戻《もど》っただけなのだ。これで当初の予定通り、窓を閉めきって箱のような部屋に閉じこもることができる。  そうすればもう、このような悲しいことにならない。  何かと関《かか》わるからつらいのだ。だれにも会わなければ、うらやむことも、ねたむことも、憤《いきどお》ることもない。最初からだれとも親しくならなければ、別れの苦しみを味わうこともない。  彼女は殺された。その後で、はたして何を考えながら暮らしていたのだろう。自分の受けた仕打ちに絶望して、泣くことはあっただろうか。そのことを考えると、胸がつぶれそうになる。  いつも思っていた。自分の残り寿命を、彼女に分け与えることができればいいのに。それで彼女が生き返るのであれば、ぼくは死んでしまってもかまわない。彼女と子猫がしあわせにしているのを見られたら、他に何も願うことはない。  そもそも、ぼくが生きていることにどのような価値があるというのだろう。なぜぼくではなく、彼女が死ななくてはならなかったのだ。  テーブル上の見知らぬ封筒《ふうとう》に気付くまで、かなり長い時間を要した。ぼくは弾《はじ》かれるようにそれをつかんだ。シンプルな柄《がら》の、緑色の封筒だった。あて先には彼女の字で、ぼくの名前が書いてある。差出人は、雪村サキ。  震《ふる》える指先で封筒を開けた。中には、一枚の写真と、便箋《びんせん》が入っていた。  写真には、ぼくと子猫が写っている。ぼくは子猫といっしょに寝転《ねころ》がり、とても幸福そうな顔で眠《ねむ》っている。その顔は、およそぼくがこれまで生きてきた中で見た、どんな自分の顔よりも安らかな顔をしていた。鏡の中にもいない、これは彼女の瞳《ひとみ》に入った特別なフィルターを通したものだった。  便箋を読む。 『勝手に寝顔《ねがお》を写真に撮《と》って、ごめん。きみがあんまりかわいい顔で眠っているものだから、つい撮ってしまったよ。  こんなふうに、きちんとした手紙を書くのは、はじめてだね。ちょっと不思議な気がするよ。わたしたちの間には、知らないうちにコミュニケーションが成り立っていた気がしていたから、手紙なんて必要ないと思っていた。ふと気付くと、二人と一|匹《ぴき》で寄り添《そ》うように暮らしていたもの。  でも、わたしはそろそろ行かなくてはいけない。ずっと、きみとか、子猫のそばにいたいけど、それはできないんだ。ごめん。  わたしが、どれだけきみに感謝しているか、気付いてないだろ。わたしはすでに死んでいたけど、すごく楽しい毎日だった。きみに会えて、本当に艮かった。神様は粋《いき》だね、こんな素敵《すてき》なプレゼントをしてくれた。ありがとう。わたしたちはお互《たが》いに、何かを与《あた》えあったり、分けあったりしたわけではない。ただ、そっとそばにいただけ。それでじゅうぶんだった。身寄りがなく、しかも死人のわたしにとっては幸福だったんだ。それにきみは、勝手にわたしの部屋《へや》をのぞいたり、部屋を散らかしたりもしなかったし。  子猫、死んでしまったね。本当に残念。もしかすると、自分が死んでしまったということに、今は気付いていないかもしれない。わたしも最初のうち、自分が殺されたことに気付かず、普通《ふつう》に生活を続けているつもりだったから。  でも、子猫もやがて、自分が死んだことに気付くにちがいない。そしてきみのもとを去ると思う。でも、その時が来てもあまり悲しまないでほしい。  わたしも、子猫も、自分が不幸だとは思っていない。確かに、世の中、絶望したくなるようなことはたくさんある。自分に目や耳がくっついていなければ、どんなにいいだろうと思ったこともある。  でも、泣きたくなるくらい綺麗《きれい》なものだって、たくさん、この世にはあった。胸がしめつけられるくらい素晴《すば》らしいものを、わたしは見てきた。この世界が存在し、少しでもかかわりあいになれたことを感謝した。カメラを構え、シャッターを切る時、いつもそう感じていた。わたしは殺されたけど、この世界が好きだよ。どうしようもないくらい、愛している。だからきみに、この世界を嫌《きら》いになってほしくない。  今ここで、きみに言いたい。同封《どうふう》した写真を見て。きみはいい顔している。際限なく広がるこの美しい世界の、きみだってその一部なんだ。わたしが心から好きになったものの一つじゃないか。 [#地付き]雪村サキ』  家中を歩きまわっていた子猫が、ついに彼女を見つけられず、ぼくの足にまとわりついていた。ぼくはしばらくの間、子猫が喜びそうなことをして、元気の出るような声をかけた。  夏休みに入っていたので、学校へ行く必要はなかった。今日は掃除《そうじ》をし、洗濯《せんたく》をしよう。その前にカーテンを開き、窓をあけて風を入れよう。  縁側《えんがわ》に立ち、庭を見ると、夏の陽光に草木は輝《かがや》いている。はるかに高い空、雲が立ち上がり太陽に頭をかすめている。家庭菜園のトマトは赤く、水滴《すいてき》をつけてきらきらと光っていた。  半年前、この世界に彼女は生きていた。  大きなカメラを首からさげて、途方《とほう》もなく長い小道を彼女が歩く。両側には草原が広がり、一面が緑色。風は温かく、運ばれる匂《にお》いに心が浮《う》き立つ。歩みはまるで空気のように軽く、口もとは自然にほころぶ。瞳《ひとみ》に少年の無邪気《むじゃき》さを宿《やど》し、高く顔をあげてこれから起こる冒険《ぼうけん》を待ち受ける。道ははるか遠く、青い空と緑の大地が接するところまで続いている。  ぼくは深く、心の底から彼女に感謝した。  短い間だったけど、ぼくのそばにいてくれてありがとう。 [#改丁]  失踪HOLIDAY しっそう×ホリデイ [#改ページ] [#ここから7字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  六歳になるまで母と二人、普通《ふつう》のボロアパートで暮らしていた。ボロアパートというのはつまり、隣《となり》で飼っている赤ん坊《ぼう》の声が薄《うす》っぺらい壁《かべ》を通してうるさかったり、部屋《へや》の中で食事をしていて「何か臭《くさ》いな、目や頭が痛いな」と思っていたら、廊下《ろうか》のつきあたりにある共同トイレから刺激的《しげきてき》な消毒液の臭《にお》いがあふれていたりする、そんなところのことだ。  穴があいたまま放置された障子のことをおぼえている。今では信じられないことだが、そのころは障子紙を張りかえるお金すらなかったらしい。わたしがはしゃぎすぎて障子に穴をあけたとき、母が困った顔をしていた。もしも今ここにタイムマシンがあれば、昔にもどって、金箔《きんぱく》をはったものだろうが、ラッセンに頼《たの》んで絵を描《か》かせた特別注文のものだろうが、どんな障子紙でも与《あた》えることができる。しかし残念ながらまだタイムマシンは開発されておらず、机の引き出しを開けても未来の青い猫型《ねこがた》ロボットはいないのである。  暮らしが少しだけ裕福《ゆうふく》になったのは、母が再婚《さいこん》したからだ。当時、宛名《あてな》書きの内職で生計をたてていた母と、そこそこ大きな会社を経営している今のパパが、いったいどこで知り合ったのか定かではない。まるで、わたしと母は、救助された難破船の乗員みたいだったと思う。わたしは、少々貧しい生活を抜《ぬ》け出て、少しばかり羽振《はぶ》りのいい家の子になったのだ。苗字《みょうじ》もその時、「菅原《すがわら》」に変わった。つまり「菅原ナオ」の誕生である。  さて、菅原家は少しばかりお金をもっている。その裕福さの度合いを説明するのは難しい。わたしはそういうことにあまり興味がないためわからないが、どうやら代々続く名家であるらしい。この家にきたのはまだ小学校へ入学する前だったので、あまり気づかなかったのだが、そういえば家は一等地に建っているし、広大な日本庭園には鯉《こい》の泳ぐ池がある。屋敷《やしき》の裏庭は一面に真っ白い砂利《じゃり》が敷《し》かれ、ところどころ植え込みと石があり、子供の目にはまるで、地球ではない他《ほか》の星へやってきたように思えた。  パパはお歳暮《せいぼ》なんかをたくさんもらっていた。しかも、一つ一つが高価なものだった。いかにも値が張りそうな壺《つぼ》が、桐《きり》の箱に入ってポンと送られてきていた。何かの行事には、いろいろな人が挨拶《あいさつ》しにきた。どこかで見たような顔のおじさんが家にきていたから、「あれはだれなの?」とエリおばさんにたずねた。彼女はパパの妹にあたる人で、わたしにいろいろ吹《ふ》き込んでくれた。 「ナオちゃん、よく覚えておきなさい、あのハゲはこの国の総理大臣という人なんだよ。他の奴《やつ》らはどうでもいいから、あのハゲにはよーくなついておきなさい」  彼女はそう言った。母とわたしが菅原家にくるまで、大きな屋敷で暮らしていた人間は、使用人を数えなければパパとおばさんだけだった。彼らの親、つまりわたしとは血のつながらない祖母と祖父は、すでに亡《な》くなっていた。  広い家だったので、よくかくれんぼをして遊んだ。使用人がたくさんいたので、無理やり遊びにつきあわせた。女王様のように振《ふ》る舞《ま》っても、彼らはまったく無抵抗《むていこう》なのである。しかし、小さな子が隠《かく》れるには、あまりに家の方が広すぎた。  あるとき、いくら待っても見つけてもらえず、「まったくあいつらときたら」という気持ちでオニ役の使用人を探した。しかし、自分が現在、家のどのへんにいるのかがわからなくなっていた。どこまで歩いても同じような廊下《ろうか》と壁《かべ》が続き、階段をのぼった記憶《きおく》もないのに窓の外を見るといつのまにか二階にいたりする。わたしはあやうく家の中で遭難《そうなん》しかけ、「もはやこれまでかっ!」と六歳の頭脳で考えたとき、胸にさげたおもちゃのペンダントから電子音が聞こえたのだ。パパからもらったペンダントである。それは非常に趣味《しゅみ》の悪いものだったが、中央にはまっている赤い宝石を模《も》したプラスチックが点滅《てんめつ》していた。やがて、パパと母、数人の使用人がわたしを探し出した。  そのペンダント、実は発信機になっており、みんなはそれの発する信号をたよりにわたしを見つけたというわけである。 「こんなこともあろうかと、ナオに発信機を取り付けていて、本当によかった。これで迷子になったときも安心だし、誘拐《ゆうかい》されたときもすぐに位置がわかるね」  パパはそう言うと、わたしの頭をなでた。彼は会社の高い地位にいるようにはとうてい思えないひょうきんなヒゲの持ち主で、やせており、猫背《ねこぜ》だった。エリおばさんの話によると、会社ではそれなりに虚勢《きょせい》をはって威厳《いげん》を保っているそうだが、わたしの目にうつるパパは気弱などこにでもいるおじさんだった。今でも、娘《むすめ》との会話のため、若い子に人気のあるミュージシャンや俳優《はいゆう》の名前をメモにとり、無理をして頭に詰《つ》め込んでいる。それでいて、V6を指差して「おっ、スマップだね」とか言ってしまうのでちょっとばかり情けないのだ。  かくれんぼから救出されたわたしは、ペンダントをはずすと、 「娘に変なモノ取り付けるんじゃないっ!」 と叫《さけ》び、ばしばしペンダントのひもでパパをたたいたのである。  菅原家にきた当時のことを振《ふ》り返ってみる。それまでちょっとばかり低かった生活レベルが、突然《とつぜん》、飛躍的《ひやくてき》に上昇《じょうしょう》したわけだが、不思議と戸惑《とまど》ったという記憶がわたしにはない。エリおばさんが言うには、この家にきた当初からすでにわたしは偉《えら》そうに振る舞い、およそ恐縮《きょうしゅく》するということを知らず自由気ままにやっていたらしい。子供は順応するのが早いのであり、決して、わたしが図太い神経を持っているわけではない。いや、もう、これは断じてそういうわけではないのである。  しかしわたしの母はそうではなかった。使用人に何かさせるのは悪いと思い、いつも自分で雑用をこなしていたらしい。母が菅原家の裕福《ゆうふく》な生活に戸惑っている場面がいくつか記憶に残っている。人にかしずかれるということを知らない人だったのだ。使用人や運転手へ律儀《りちぎ》に頭を下げ、広い家の中でいつも所在なげだった。  あるとき、母が一人で縁側《えんがわ》に座《すわ》っていた。小さかったわたしがそこを通りかかると、手招きしたので、隣《となり》に腰掛《こしか》けた。そこからは屋敷《やしき》の広い裏庭が一望できて、見渡《みわた》すかぎりひろがった青空の向こうに点のような飛行機が飛んでいた。母はわたしの首にそっと腕《うで》をまわすと、存在を確かめるように抱《だ》き寄せた。唯一《ゆいいつ》心安らげる場所がわたしの中にでもあるように、ほっとした表情をしていた。わたしは母の孤独《こどく》を知った。苗字《みょうじ》が変わっても、心の中まで変えることはできず、大きな屋敷の腹に呑《の》み込まれた一|匹《ぴき》の川魚のようだった。  この裕福《ゆうふく》な家にきて二年後、母は病気で死んだ。わたしが小学二年生、八歳のときだった。冷たくなった母の前で、ひどく恐《おそ》ろしかったことをおぼえている。まだ小さかったし、この広い家の中、ただ一人取り残されることが不安だった。母が寝《ね》かされていた部屋《へや》は二十|畳《じょう》もあり、その中央にぽつんと布団《ふとん》がしかれていた。わたしが母の顔をずっと眺《なが》めていると、やがて夕日が障子《しょうじ》を赤くした。電気をつけないでいたから、広い部屋の隅《すみ》の方は暗くなった。障子には、いつも真新しい紙が張《は》られていた。穴があいても、いつのまにかだれかがすぐに取り替《か》えてくれる。パパやエリおばさん、使用人たちは、気を利《き》かせてくれたのか、わたしをそっとしてくれていた。  わたしは菅原家を追い出されるにちがいないと思った。家のだれとも血がつながっておらず、母とパパが夫婦だったのはたったの二年間なのだ。そのうち、一晩で身支度《みじたく》を調《ととの》えさせられ、どこかの施設《しせつ》に入れられるにちがいない。  そこでわたしは、追い出されるまでの短い時間、贅沢《ぜいたく》のかぎりをつくしてやれと考えた。  食事で出される料理は、自分の嗜好《しこう》に関係なく、高価なものから順番に胃袋《いぶくろ》へ詰《つ》め込んだ。さほどおいしいと思わない食材でも、まずは値段を聞く。家を追い出されたらもう二度とめぐり合えないと感じたとき、「もっと食っとけ! 墓の下に入っても味が思い出せるくらいみっちり腹に入れておけ!」と自分をはげまし口に入れた。パパのお金でいろいろなものが買えたから、当時、好きだったお菓子《かし》を箱で買い込んだ。押《お》し入れの中は、有名なデザイナーに注文して作らせた高級な子供服と、買い込んだお菓子の箱でいっぱいになった。家を追い出されたら、それで食いつなごうと思っていた。贅沢、と言っても食べ物のことばかりなのだが、これはわたしの食い意地がはっているというわけではない。いや、もう、これは断じてそういうわけではないのである。  死刑《しけい》の判決を待つ気持ちで、いつになったら追い出されるのだろうかと心配しながら毎日を送った。しかし一週間たっても、一月たっても、厳格な裁判官がわたしに死刑の日程を告げることはなかった。だが、心から安心できたことなど、一度もなかった。わたしはこの家にいていいのだろうか。出て行けといわれないのは、ただみんなが世間体《せけんてい》のために哀《あわ》れんでいるという顔を装《よそお》っているだけで、本心は疎《うと》ましく思っているのではないだろうか。常に不安がつきまとった。  パパたちと食卓《しょくたく》についているときや、居間でくつろいでいるとき、どこかしら心の中に小さなしこりがあった。靴《くつ》の中に入った小石のような、かすかな居心地《いごこち》の悪さを感じた。それは、自分だけはこの家の人間ではないのだという意識から発生したものである。この広い家の中、わたしはたまたまさまよいこんでしまった羽虫のようなものだと感じ、それは考えまいとしてもなかなか頭から離《はな》れない。使用人に何か言えば、あいかわらず言うことを聞くし、運転手に行き先を告げても、何事もなく目的地へ運ぶ。母が死ぬ前と後では、何も変わった様子はない。  いつ、追い出されるのかと思いながら、すでにもう六年が経過した。わたしは中学二年生になった。パパがキョウコと再婚《さいこん》したのは、今年四月、今から半年ほど前のことだった。  キョウコはつまり、血のつながらないわたしの母親だ。わたしは彼女のことを快《こころよ》く思わなかったし、彼女もまたわたしに同じような敵愾心《てきがいしん》を持っているようだった。パパは数年前からとあるセミナーへ顔を出すようになったのだが、彼女とはその小さな教室で知り合ったらしい。  母が死んだ直後、パパは元気をなくし、何も手につかないという状態だった。おなかが痛いという理由で出社することを拒否《きょひ》し、家の中で体育|座《ずわ》りをしてテレビを眺《なが》めるばかりだった。会社の経営がほんの少しばかり荒《あ》れた。おかげで何人かの社員が解雇《かいこ》され、その家族が路頭に迷った。事態を重く見たパパの秘書が、会社の重役たちに頼《たの》まれてなんとかなだめすかそうとしたのだが、うまくいかない。  そんなとき、エリおばさんが、「何かのセミナーに行かせて徐々《じょじょ》に社会復帰させてみたら?」と言った。そこでわたしは、てきとうな資料から、市内で行われているセミナーに関する記事を切りぬいた。カメラについて学ぶ教室や、ヘリの操縦など、いろいろなものがあった。手芸教室やお料理教室などもみつけたが、そこはかとなく女々《めめ》しい感じがして、資料から切りぬかないでいた。  壁《かべ》にさまざまな教室の切りぬきを貼《は》り付けて、五歩離れたところからダーツを放った。矢が命中した切りぬきのセミナーへパパを行かせようと思っていた。しかし、わたしにはダーツの才能がないらしく、矢は壁に命中する前、その辺に飾《かざ》られていた数千万円の置物にぶつかり、跳《は》ね返った。偶然《ぐうぜん》、床《ゆか》に広げていた資料に突《つ》き刺《さ》さった。そのページに掲載《けいさい》され、矢のとがった先が貫《つらぬ》いていたのは、なんというか、まあ、手芸教室だったのだ。  パパは手芸教室に通いだした。最初は心配だったが、すっかり手芸にはまってくれて、出社拒否もしなくなった。路頭に迷っていた社員を、もう一度、雇《やと》いなおすことができた。  わたしは、適切なアドバイスをしてくれたエリおばさんに感謝した。彼女はそのころ五回目の結婚《けっこん》に失敗し、菅原家にもどって煎餅《せんべい》をかじりながらくだをまいていたのである。彼女はいつもねむたげにまぶたを半分閉じていたから、長いまつげばかりが印象に残った。エリおばさんは非常にもてる顔立ちをしていたが、口から出るのは元夫の悪口ばかりだった。しかし、離婚《りこん》したおかげで彼女はこの家にきていたわけで、パパが復帰できたのも全部、その元夫とやらがだらしなかったおかげである。  パパはそれ以来、ずっと手芸を続けていた。できあがった作品を応接間に飾《かざ》った。それらは、決して上手《じょうず》とは言えなかった。背広を着た会社の人たちが応接間に通され、それらの作品がパパの手によるものだと説明されると、「ははぁ」「これはすごい」と眼鏡《めがね》の位置を直しながら、まじめな口調《くちょう》で驚《おどろ》いて見せるのである。パパもそれなりに満足そうな表情をする。わたしは廊下《ろうか》を通りすがりにそういう場面を見て、マジでこの人たちが社会を動かしているのだろうか、と疑問に感じていた。  手芸教室に好きな人がいて、結婚《けっこん》するつもりであることを聞かされるまで、パパが手芸教室へ通うのはいいことだと思っていた。エリおばさんよりも先に、その話を打ち明けられた。 「ん。そうなんだ……、勝手にするといいよ」  そう答えると、どことなくパパはほっとしたような、それでもどこかわたしの投げやりな態度に釈然《しゃくぜん》としない表情をしていた。わたしはできるだけ平静を装《よそお》って、まるで興味がないという様子でいたかった。  でも、心の中はそれほど穏《おだ》やかだったわけではない。内心、どのような言葉を発したかったのかすら、定《さだ》かではない。しかし、それがいかなる意味の言葉であっても、わたしにそれを言う権利はなく、口出ししてはいけないような気がした。なぜなら、わたしたちはお互《たが》いに血がつながっておらず、つまり他人とも言える間柄《あいだがら》なのだ。  キョウコは若かった。パパの二人目の奥《おく》さんというより、わたしの姉といった年齢《ねんれい》である。とある高級レストランではじめて彼女を紹介《しょうかい》されたとき、うかつにも、目の前に並んだ料理と同じくらい魅力的《みりょくてき》に見えた。美しい、というよりも、かわいらしい、といった顔立ちだった。彼女の父親は大病院の院長をしており、わたしとちがって本物のお嬢さまなのである。学歴もあり、茶道《さどう》や華道《かどう》にも通じ、馬までやるそうだ。馬といっても、もちろん、競馬のことではないのである。 「あなたがナオさんね、お話はうかがっているわ」  彼女はわたしを見てやわらかく微笑《ほほえ》んだ。生《お》い立ちや、血のつながりがないことなど、全部お見通しなのよ覚悟《かくご》しなさい、と宣言されたような気がした。  結婚式は身内だけで行われた。わたしの母とパパが結婚したときと、同じ式場だった。  ある昼下がり、裏庭の見渡《みわた》せる窓辺のソファーで、わたしとキョウコは低いテーブルをはさんで向かい合ったことがある。わたしたちは、紅茶の入った陶器《とうき》のカップを口に運んでいた。いったいどういう経緯《けいい》をたどってそうなったのかわからない。とにかくそのとき、キョウコが、手芸教室でのパパとのなれ初《そ》めを話しだしたのだ。  市民センターの二階、手芸教室の行われる部屋《へや》で、彼女は赤い糸を使って刺繍《ししゅう》していた。白い生地に、花の模様を作製している最中だった。しばらく無心に作業を行っていると、刺繍糸をだれかが反対側から引っ張っている。ふと見ると、自分の使っていた刺繍糸、針に通した方とは逆の端《はし》が、知らない男性の針穴に通されている。その男こそ、パパだったらしい。ようするに、二人はそれぞれ、糸の反対側が相手の針穴につながっているとも知らず、一本の刺繍糸を使っていたのだそうだ。おまえら、それ絶対に作り話だろう、とわたしは思う。そんなこと、あるはずがない。  キョウコはまるで夢でも見ているように、その話を語った。 「あれは素敵《すてき》な出会いだったわ、そう、あの刺繍糸は本物の赤い糸だったのよ」 「……素敵なお話ですね。でも、できることなら寝言《ねごと》は布団《ふとん》の中でお願いします」 「まあ、ナオさんったら」彼女はにこやかに、まるでぱっと春の花が咲《さ》いたように笑う。ただし、かすかに口の端《はし》がひきつっていた。「この家の子でもないくせに、何をおっしゃるの」 「あら、キョウコお母様こそ、結局は遺産《いさん》がお目当てなんじゃないかしら、フフフ」 「まあ本当に冗談《じょうだん》がお上手《じょうず》なんだからこの子は。うちの実家は、お金にはゆとりがありますのよ遺産なんてまったくわたし考えたこともありませんわオホホホ」彼女は上品に、口に手をあてて笑う。「もう、本当にこの子ったら。でも安心して、わたしは怒《おこ》ってないから。あなたに素敵な里親を見つけてさしあげるわ」 「何言うのお母様、おもしろいことばかり言うのね。コメディアンにでもなったらいかが? もし、今ここに警察でも発見できない未知の毒薬があったら、お母様の紅茶のカップに入れているところよ」  わたしたちはお互《たが》いに余裕《よゆう》のあるそぶりを崩《くず》さず、いっしょに微笑《ほほえ》んだ。  広大な裏庭を、熟練の腕《うで》を持つ庭師が横切り様《ざま》、わたしたちに頭をさげた。はたから見ると、楽しげなお茶の席に思えたかもしれない。もしもその庭師が、菅原家の家族構成を何も知らなければ、仲の良い姉妹に見えたかもしれない。  最初にそれが起こったのは一ヶ月前、修学旅行から帰ってきたときのことだ。家の匂《にお》いを嗅《か》ぐのは五日ぶりのことだった。旅行先であるオーストラリアのおみやげと称《しょう》して、家から五分の距離《きょり》にあるコンビニエンスストアで購入《こうにゅう》した「コアラのマーチ」というお菓子《かし》を家族に配った。その後、荷物を置くために二階の自分の部屋《へや》へ向かう。旅行バッグの中には、オーストラリア先住民族の作った女心をくすぐる不気味な置物や、そのうち何かを狩《か》るときに使おうと思って買ったブーメランなど、自分用のおみやげが詰《つ》まって重かった。  自分の部屋に入ったとき、違和感《いわかん》があった。どこがおかしい、と一言で表すことはできない。最初は気のせいだと思った。部屋の掃除《そうじ》は自分で行っており、使用人が勝手に入ることはありえない。そうしないように言ってある。絶対に入るな、もし入ったら使用人の仕事クビにしてやるんだから、もしそうなったらごはんを食べることもできず毎日を段ボールの家で過ごしコンビニであまりものの弁当をもらう生活を送ることになるんだから、ときつく念を押《お》していた。  しかし、旅行へ行く前に部屋《へや》を出たときと、帰ってきたときとでは、どこか印象が違《ちが》っていた。それは言葉にあらわすほどでもない、些細《ささい》なことで、忘れようと思えば一瞬《いっしゅん》のうちに記憶《きおく》から消すことができた。実際、そのときはあまり気に留めず、わたしは買ってきた木製のブーメランを飾《かざ》るのに忙《いそが》しかった。  わたしの中にある狩猟《しゅりょう》民族|魂《だましい》を刺激《しげき》したそのおみやげは、本棚《ほんだな》の上へ飾ることにした。模様がよく見えるように、立てて置いた。本棚をゆらすとすぐに倒《たお》れるのだが、幸いにもその中には教科書や参考書の類《たぐ》いしか入っていなかった。触《さわ》りもしない棚だったので、ブーメランが倒れてしまうことはまずなかった。  自分の部屋への違和感《いわかん》は、しばらくの間すっかり忘れていた。二度目に同じ印象を受けたとき、ああ、前にもこんなことがあったような、という気持ちになってようやく思い出したのだ。  二度目は、友人の家の家族旅行についていった後だった。旅行から帰ってきたわたしは、おみやげのTシャツを家族に配った。胸にでかでかと奈良の大仏が描かれた悪趣味《あくしゅみ》なもので、これならもらってもあまりうれしくないだろうと思い、わざわざ買ってきたのである。  階段を駆《か》け上がり、自室の扉《とびら》を開けたとき、それを感じた。わたしは荷物を床《ゆか》に置き、静かに歩いて、家具の位置を確かめた。テレビ、パソコン、テーブル、目覚まし時計、ひとつずつ場所を確認《かくにん》するが、旅行へ行く前と比べて、移動しているわけではない。また、正確な場所を記録《きろく》していたわけでもなく、少しずれていたとしても知りようがない。それぞれの家具の位置を調べるが、何らおかしな部分など見当たらない。細部を見ると、違和感はないのだ。しかし、何もかもから気をそらして部屋全体を見渡《みわた》したとき、捕《と》らえどころのない、まるで気体のような他人|臭《くさ》さがある。  しかし、わたしはその正体をつかむことができず、結局、今回も気のせいだということにした。それに、自分用のおみやげとして買ってきた鹿《しか》のぬいぐるみを、どこに飾ろうかと迷っていた。結局、今回もまた本棚に飾ることにした。そのとき、ようやく気付いた。たしか旅行前、模様が見えるように立てかけていたはずのブーメランが、今は倒れている。  だれも触《さわ》らなければ、ブーメランが倒れるはずない。ということは、部屋に入った何者かが、つい本棚をゆらしてしまい、その結果ブーメランが倒れたのではないかとわたしは推測した。部屋に、侵入者《しんにゅうしゃ》がいる。そうひらめいた。犯人ははたしてだれなのか、それはわかりきったことである。  わたしはキョウコが犯人であることを確信していた。彼女とはことあるごとに衝突《しょうとつ》しており、ひどく恨《うら》みをかっているのは間違《まちが》いない。  彼女はパパの妻だが、わたしの母親役をやろうとはしなかった。まるで、自分よりも少しばかり先にこの家へ住み着いていた居候《いそうろう》程度にしかわたしのことを見ないのだ。わたしの方でも、彼女の娘役《むすめやく》などごめんだと思っている。  なぜ、こんなにキョウコと打ち解けあえないのか、よくわからない。ただ、彼女の出現で、ひどく自分が不安定になっていることは感じる。母が死んだ後もかろうじて菅原家とつながっていた脆弱《ぜいじゃく》な糸が、彼女によって断ち切られそうな不安を感じる。  悔《くや》しいのでわたしは、パパの目の前で、本当の母の形見であるボロボロになったハンカチをなでてみせたりする。それはもともと真っ白なシルクのハンカチだったが、今では黄色く変色してしまっている。本当は捨ててしまっても全然かまわないのだが、なにしろ死んだ母の愛用品である。これをなでながらため息なんかついてみせると、パパはキョウコのことなんかすっかり忘れて「ああ、ナオ……そんなにも母親のことを想《おも》い続けているのかい」という反応を見せるのである。そんなときのキョウコの表情はおもしろく、ハンカチは彼女への武器として抜群《ばつぐん》の破壊力《はかいりょく》を持っていた。  考えてみれば菅原家の中で、わたしとキョウコの二人だけ「菅原」という姓《せい》の血が流れていないのだ。これは、どちらがこの家に残ることができるのかという生存競争であるように思えたし、あるいは権力|闘争《とうそう》のようにも感じた。  ずっと胸のうちに隠《かく》れていた、本当はこの家の者ではないのだという血の隔《へだ》たりについて、最近、よく考える。自分は部外者であるという焦燥《しょうそう》にかられる。家を、追い出されたくない。いつのまにか現在の生活に対する執着《しゅうちゃく》が生まれてしまっているのだろうか。いや、そうではない。わたしは、菅原家を追い出され、すがる者のだれもいない世界にただ一人だけ放《ほう》り出されるのが怖《こわ》いのではないだろうか。  だから、キョウコに敵愾心《てきがいしん》を感じる。わたしが家にいない間、部屋《へや》に忍《しの》び込んでいる彼女に怒《いか》りを感じる。しかし、彼女を犯人とする証拠《しょうこ》が何もない。  なんとかして、キョウコがわたしの部屋へ入っていることを証明しなくてはいけないと思った。  わたしが家出をしたのは、十二月二十日のことだった。  原因は、キョウコとの不和にあった。ほんのしがない理由から生じたいがみ合いだったのだろう、どのような筋道をたどって家を飛び出したのか、よく覚えていない。ただ、あまりにもむごたらしい罵倒《ばとう》の数々を交《か》わしたことはおぼえている。 「キョウコのバカ! もし今ここに金属バットがあったら、あなたの弁慶《べんけい》の泣き所はただではすんでないからね!」 「何よ! もし今、わたしの手に拳銃《けんじゅう》が握《にぎ》られていたら、あなたの胸と背中がトンネル開通していたところよ!」 「もし今、ここに、目にしみる消臭《しょうしゅう》スプレーがあったら、キョウコの顔にふりかけてたわ!」 「ここにあるコーヒーが冷めてなければ、あなたにかけて熱がらせたところなのに!」 「もう! 切れ味の鋭《するど》い爪《つめ》きりで、無理やり、深爪《ふかづめ》させてやりたいわ!」 「ビデオテープの角のところで、ぽかすか頭をたたいてやりたい!」  しばらくそんな聞くに堪《た》えない口喧嘩《くちげんか》をしていると、パパが止めに入ったのだ。それから喧嘩の理由を聞き、パパは彼女の肩《かた》を持った。わたしはいたたまれず、家を出てきてしまった。携帯《けいたい》電話も家に置いてきた。帰ってきなさいという電話がひんぱんにかかってくることを予想し、いちいちそれに応《こた》えるのも面倒《めんどう》だったのだ。  友人の家に二|泊《はく》三日ほど、潜《ひそ》んでいた。その間、彼女についてまわり、いろいろな場所へ行った。  家出をして二日後の、十二月二十二日。わたしと友人は、鷹師《たかし》駅で電車を降り、その界隈《かいわい》をぶらついた。駅のまわりはちょっとした繁華街《はんかがい》になっており、休日は人通りが激しかった。駅からしばらく南へ歩くと、大通りに出る。三日後にクリスマスを控《ひか》えたその日、通りには赤鼻のトナカイの歌が流れていた。立ち並ぶ店のガラスには、ソリに乗ったサンタの絵が白いスプレーで描《えが》かれている。歩く人々にはどことなく高揚《こうよう》した気分があった。寒さに肩をすくめ、身を小さくしていても、どこか期待感めいた楽しい雰囲気《ふんいき》があった。  厚く着こんだコートの肩を、行き交《か》う人々とこすらせながら、わたしと友人は通りを歩いた。鷹師駅から十五分ほど大通りを歩いたところで、友人が建物のひとつを指差した。両側には隙間《すきま》のないほど狭《せま》い間隔《かんかく》で建物が並んでいたのだが、ひとつだけ、店舗《てんぽ》の入っていないさびれたビルがあった。まわりはクリスマスの飾《かざ》りつけがされ、華《はな》やいだ雰囲気であるのに対して、そこだけ薄暗《うすぐら》く、寂《さび》しい雰囲気だった。  わたしたちはその建物に侵入《しんにゅう》してみた。彼女はいろいろな場所に忍《しの》び込むことが好きな人だ。彼女といっしょに歩いていると、まったく気まぐれに知らない道へ入っていったり、「あのビルの屋上へ行ってみようか」と突然《とつぜん》言いだしたりする。わたしは彼女の猫的《ねこてき》な気まぐれさに付き合い、無計画にそのビルへ入っていったのだ。  大通りに面した正面入り口には鍵《かぎ》がかかっておらず、すんなりと入ることができた。中は廃墟《はいきょ》のようで、取り壊《こわ》しをするお金がもったいないためにそのままかろうじて残されているといった印象だった。裏口があり、そこの鍵をはずしてビルを突《つ》き抜《ぬ》ける。建物の裏へ出ると、目の前には公園が広がる。公園と、立ち並ぶビルとの間には、大通りに並行して細い道が続いていた。こちらには人気《ひとけ》がなく、静かだった。並んだビルが、壁《かべ》のようにつらなり、人の流れをせき止めている。 「知ってる? この辺り、案外、治安が悪いんだってよ」と、友人が言った。「引ったくりが多いんだって」  クリスマスの音楽が遠くから、寂しい裏通りにこだましていた。クリスマスセールのチラシが風に舞《ま》い、商品を入れていた段ボール箱の残骸《ざんがい》が店の裏側に積み上げられていた。  表の雰囲気《ふんいき》に比べて、あまりにも裏側は寂《さび》しい。友人の言葉が、心の中に重く沈《しず》み込む。  わたしは不意に、そろそろ家へもどってみようかという気になった。その場で友人と別れ、菅原家へ戻《もど》ることにする。  いかめしい面構えの正門を潜《くぐ》り抜《ぬ》け、菅原家の敷地内《しきちない》に入る。わたしの背丈《せたけ》の二倍はありそうな高い塀《へい》が家のまわりをぐるりと囲んでいる。中へ入るためには正門か裏門の、どちらかを抜けるしかない。正門は二台の車が並んで通ることができるほど広く、来訪者の顔を中から確認《かくにん》できるようにカメラが設置してある。  門のそばには、数台の車をいれておく車庫がある。その脇《わき》を通りすぎ、両側を植木に挟《はさ》まれた石畳《いしだたみ》の道をしばらく行くと、ようやく母屋《おもや》の玄関《げんかん》へたどりつく。扉《とびら》を開けようとして、錠《じょう》がかかっていることに気がついた。みんな出かけているのだろうかと思いながら、ポケットから鍵を取り出す。  予想通り、家の中は無人だった。わたしはだれにも遭遇《そうぐう》しないまま、自分の部屋《へや》へ向かった。この家にきた当時、広すぎると思った屋敷内《やしきない》も、今ではすっかり地図が頭に入っている。自分の部屋までの最短|距離《きょり》のルートを通り、母屋の中にいくつかある階段のひとつを上がる。並んでいる扉のうち、ほとんどの部屋は空き部屋だった。  わたしは、自分の部屋の扉を開けた。以前、修学旅行や友人の家族との旅行から帰ってきたとき、感じたような違和感《いわかん》はない。どうやらキョウコが部屋へ侵入《しんにゅう》する前だとわかり、ほっとした。部屋に入られるたび、悔《くや》しい思いをする。残念ながらわたしの部屋の扉に、鍵はついていないのだ。  家中を見てまわり、家族を探したが、やはりだれもいない。一旦《いったん》、母屋を出て、離《はな》れへ向かうことにする。  菅原家には、『母屋』と『離れ』、人の居住する建物が二つあった。母屋では、菅原の姓《せい》を持つ者が暮らしている。また、離れでは、住み込みで働く使用人や運転手の家族が生活していた。どちらも外見は日本家屋だが、母屋の方が圧倒的《あっとうてき》に大きく、離れはつけたしのように見えた。二つは並んで建っており、母屋の玄関を出て右手に沿って歩くと、離れの入り口に到着《とうちゃく》する。  それらの建て物の隙間《すきま》は十メートルほどの砂利道《じゃりみち》になっており、案外、人通りが激しい。家の玄関側と裏庭を行き来する際、その道を通るとたいへん都合《つごう》がよいのだ。二つの木造建築にはさまれた砂利道に立つと、軽く両側から圧迫感《あっぱくかん》を受ける。  二つの建物はどちらも二階建てで、お互《たが》いに向き合う面に窓のある部屋は見晴らしが悪い。わたしの部屋は母屋の二階、角に位置している。いくつかある窓のうち、ひとつを離れと向き合う面に持っていた。しかし、風通しをよくするために開けていることはあっても、その窓から景色《けしき》を眺《なが》めることはなかった。  離れの玄関を開け、中へ入る。いつもなら、狭《せま》い土間《どま》に、履《は》きふるした使用人たちの靴《くつ》が並んでいる。しかし、今はほとんどない。みんな、どこかへ行ってしまっているのだろうか。その場に立ったまま、奥《おく》の方を見るが、外の明るさに慣れた目では薄暗《うすぐら》くてよく見えない。下駄箱《げたばこ》の上に花瓶《かびん》が置かれており、枯《か》れた花に小さな蜘蛛《くも》が乗っていた。  離《はな》れでは四人の人間が生活していた。大塚《おおつか》夫妻、栗林《くりばやし》、楠木《くすのき》。いずれも住み込みで働いている使用人や運転手である。それぞれに部屋《へや》があてがわれており、ちゃんとした暮らしができるようになっている。  人のいるような気配はなかったが、声を出してみる。 「だれか、いませんかー!」  一瞬《いっしゅん》の後、二階の方から、使用人のだれかが返事する声。  入り口で靴《くつ》を脱《ぬ》ぎ、階段をのぼって二階へ上がる。離れは母屋《おもや》に比べて古く、廊下《ろうか》が狭《せま》い。階段に足をかけ体重をかけるたびに、木がきしむ音をたてる。天井《てんじょう》も低く、蛍光灯《けいこうとう》もどこか薄暗かった。  声の主が、部屋のひとつから顔を覗《のぞ》かせていた。楠木クニコという使用人だった。彼女は離れの中で、一番せまく、みすぼらしい部屋に住まわされていた。わたしはこれまで、ほとんど彼女と話をしたことがなかった。  クニコは一年前から菅原家で住み込みの使用人として働いている。彼女はどうやら、親戚《しんせき》のコネでこの家の仕事にありついたらしい。彼女の親戚が、昔、父の会社で働いていたらしく、そのつてで雇《やと》われたわけだ。使用人としては、もっとも新しく入ってきた人間である。  いつだったか、使用人の中でもっとも古株《ふるかぶ》である大塚の奥《おく》さんが、クニコのことで文句を言っていた。どうやら彼女はあまり気が回る方ではないらしく、いちいち仕事を指示しなくては動かない人間であるらしい。ようするに、あまり仕事ができないのだろう。  扉《とびら》から顔を出し、突然《とつぜん》の来訪者であるわたしの姿を認め、楠木クニコはあっけにとられた顔をした。少し間を置いた後、「あ、どうも」と頭を下げた。彼女は驚《おどろ》くほど背の高い人だった。ときどき、家で見かける彼女の動きは鈍《にぶ》く、まるで、背の高い植物がゆらゆらゆれながら歩いているようだった。  彼女は二十代半ばで、この寒い中、毎日同じ、毛糸で編まれた灰色のセーターと、古いジーンズを着用して仕事していた。セーターはよれよれで袖《そで》が伸《の》び、時間が経過するとずり落ちて、袖が彼女の手を覆《おお》ってしまう。縦に細長い彼女は、腕《うで》もやはり長く、それを覆い尽《つ》くすほど袖が伸びているということは、おそらくダンプカーかインド象に両袖を引っ張らせたにちがいない。とにかく、そのセーターを着こんだクニコは野暮《やぼ》ったく見え、少々知能指数が低く見えた。また、人付き合いもよい方ではなく、だれか他の使用人たちといっしょになって笑って話をしている様《さま》を、わたしは見たことがない。  わたしは彼女の部屋《へや》に入った。狭《せま》い部屋だった。日当たりが悪く、空気がよどんでいるような気がした。何かにおいがあるわけではないのだが、なんとなく体に悪いような気がした。  壁《かべ》にはセンスの悪い花柄《はながら》の壁紙がはってある。しかし彼女がそれを選んだわけではないだろう。もう何十年も前にはられたような古いもので、黄色く変色し、はがれかけてぼろぼろだった。なぜ家にだれもいないのか尋《たず》ねた。彼女はのろくさい、眠気《ねむけ》をさそうような声で答えた。どうやらわたしの家族は、家出した娘《むすめ》のことなど忘れて、楽しくクリスマスのショッピングへ出かけたらしい。しかも、たった数人の人間を移動させるためだけに、シャンデリアつきで、ゆったりワインの飲めるソファーがついたリムジンに乗って行ってしまったらしい。使用人である大塚のおじさんは、菅原家の運転手でもあり、彼がリムジンを運転しているのだろう。その妻である大塚のおばさんと栗林は、荷物運びとしてついていったようだ。楠木クニコだけ、留守番《るすばん》を命じられたようである。  わたしは悔《くや》しかった。家出して音沙汰《おとさた》のない娘を、心配してくれないのかあいつらは。家をあけていれば、部屋にキョウコが侵入《しんにゅう》しているし。みんなわたしのことを気にもかけず、楽しいことをやっているのだ。  クニコの話では、もうあと数時間すればみんな帰ってくるらしい。  わたしはふと、その部屋の窓から、外を見た。そこは離《はな》れの中でも、母屋《おもや》に面した側《がわ》にあった。砂利道《じゃりみち》を挟《はさ》んでちょうどわたしの部屋が正面に見える。クニコの部屋も二階、わたしの部屋も二階、まったく目と鼻の先で窓が向かい合っていることに、今まで気づかなかった。  名案が浮《う》かんだ。 「クニコさん、お願いがあるの。しばらく、この部屋にいさせてくれないかしら」  家に戻《もど》ってきたことは、まだクニコしか知らないのだ。  これまで、長い間わたしが家にいないと、必ずといっていいほど、部屋にキョウコの入った形跡《けいせき》があった。しかし、さきほど部屋に行ったときは、まだその気配はなかった。つまり、これから侵入する確率は高い。  わたしの考えたこととは、クニコの部屋で張り込みを行い、犯人を現行犯で捕《つか》まえてやる、というものだった。 「はぁ……」クニコはわたしの申し出を聞いて、しばらくぼんやりした後、あらためて驚《おどろ》いた顔をした。「え、この部屋に、ですか?」 「もちろん、いさせてくれますよね。まさか、このわたしの頼《たの》みを断ろうなんて、ゾウリムシの繊毛《せんもう》ほども思ってないですよねっ」  強く断定|口調《くちょう》で頼み込んだわたしに、クニコは萎縮《いしゅく》した。 「は、はい。その通りです。どうもすみません」  クニコは生真面目《きまじめ》に深く頭をさげた。なぜ彼女があやまるのかは不明だった。  わたしはクニコの部屋に住み着くことになった。彼女に決定権はなかった。わたしがそうしたいと言ったら、彼女にそれを覆《くつがえ》すことはできないのである。 [#ここから7字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  クニコの部屋《へや》に居座《いすわ》ることを決め、すぐにわたしはその準備を行った。母屋《おもや》の自室へ戻《もど》り、自分の生活に最低限必要なものを持ってきた。クニコの部屋は狭《せま》く、かろうじて押《お》し入れがひとつだけあるものの、余計なものを置いておく充分《じゅうぶん》なスペースはない。  三|畳《じょう》の和室である。そのほとんどの面積を、唯一《ゆいいつ》の家具といっていいコタツが占《し》めている。それは小さなサイズのものだったが、クニコはコタツ布団《ぶとん》を寝具《しんぐ》としても利用していた。他《ほか》には何もない。インターネットやケーブルテレビ、DVDプレイヤーもない。窓から見える向かい側の母屋を見ると、わたしの部屋の窓が開いていた。どうやら閉め忘れたまま家出していたらしい。  窓を閉めに自分の部屋へ行き、ついでにいくつかの本を鞄《かばん》に詰《つ》める。一応、母の形見のハンカチももっていこう。クニコの部屋から監視《かんし》がしやすいように、カーテンは開け放しておく。靴《くつ》も、離《はな》れの出入り口に脱《ぬ》ぎ捨てておくわけにはいかないので、クニコの部屋へ運んだ。  いきなり現れて居座りはじめたわたしを、クニコは部屋の隅《すみ》に立ったまま、呆気《あっけ》にとられた顔で見ていた。 「布団を敷《し》く場所はないみたいだから、わたしもコタツで眠《ねむ》ることにしますね」  わたしがそう言うと、ワンテンポ遅《おく》れて彼女はすまなそうにうなずいた。何も悪いことをしていないのに、なぜか彼女の動作には、「実に申し訳ない」という印象があった。人に話しかけられた時点ですでに、目や眉毛《まゆげ》、色素の薄《うす》い唇《くちびる》が「ごめんなさい」という形を作るのだ。  わたしが生活に必要なものを狭苦しい住みかに移動し終え、コタツで一息ついても、彼女は隅の方で観葉植物のように立っていた。手招きして座るようにうながすと、緊張《きんちょう》したように正座した。「足を崩《くず》しなさい」と言ってみた。彼女はそのようにした。まるでロボットのようである。 「わたしはあなたより偉《えら》い」と、ためしに言ってみた。彼女は何も不思議がる様子を見せないで、こっくりとうなずいた。  クニコの部屋は小さな直方体である。入り口の引き戸は南側にあり、たてつけが悪く、常《つね》に途中《とちゅう》でひっかかる。性格の悪い入り口である。東側には小さな物置があり、西側はただの壁《かべ》だった。入り口と反対の北側に、窓がある。三畳の部屋にぎりぎり入っているコタツの一辺に陣取《じんど》り、西側の壁に背中をくっつけたまま、窓から外を眺《なが》める。窓下の高さは、ちょうどコタツに腰《こし》を下ろしたとき、わたしの首のあたりになる。ちょっと首を左にひねるだけで、足を赤外線で暖めるのと、母屋を観察することを、同時にできるわけである。  窓はすりガラスのため、閉《し》め切っていると外が見えない。そこで窓を少し開けておく。十二月の冷たい風が隙間《すきま》から飛び込んでくる。しかし問題はない。なぜなら、この部屋《へや》の窓はたてつけが悪く、窓を閉め切っていてさえ、なおもどこかに存在する隙間から寒さが忍《しの》び込んでくるのである。窓を開けていようが閉めていようが、同じことなのだ。そう、クニコに説明した。 「わたしは母屋《おもや》の観察のために窓を開けているけど、もちろん、迷惑《めいわく》だとは思っていませんよね」  部屋の主人はめっそうもないという感じで、当然のごとく寒さを受け入れていた。なんてやさしい人なのだろう。もしやこの人は馬鹿《ばか》なのではないだろうか。そう思った。  わたしは服を厚く着込み、コタツの縁《ふち》と壁《かべ》の間にピッタリはさまれて、家の者たちが帰ってくるのを待った。  わたしとクニコの間に会話はなく、ただ風で窓枠《まどわく》が鳴り、コタツの温度調節機能が働く。赤外線が強くなるブーンという音だけが狭《せま》い部屋にある。太陽がまともにあたらない方角に窓があるためか、部屋の中は湿《しめ》っぽく、古い蛍光灯《けいこうとう》の明かりは黄色がかって弱々しい。  壁に体重を預けると、「ピシッ」というあやしい音が発生する。おお、と驚《おどろ》いて、あわてて座《すわ》りなおす。壁が抜《ぬ》けるかと、一瞬《いっしゅん》、怖《こわ》かった。コタツで正座したまま微動《びどう》だにしなかったクニコが、かすかに首を縦にふって目配せした。「大丈夫《だいじょうぶ》、よくあることですよ」、彼女の瞳《ひとみ》は確かにそう語っていた。わたしもうなずいて、「そうなのか、よくあることなのか、たいへんだなおまえも」という合図を送ってみたが、彼女に伝わったかどうかは不明だった。  窓の外から、かすかに人の声が聞こえた。わたしはクニコへ、静かにしているよう合図を出し、窓へ慎重《しんちょう》に顔を近付けた。  バッグからコンパクトを取り出し、窓の隙間《すきま》から外に出す。友人のお姉さんがわたしにくれたものだが、やった、今、はじめて有効利用している。コンパクトの鏡部分に、菅原家の門から、屋敷《やしき》へと通じる道が映る。残念ながら母屋の玄関《げんかん》は見えないが、これで充分だった。門のそばにある車庫の電動シャッターがしまりかけている。石畳《いしだたみ》の道を屋敷の方へ、数人の人間が歩いてくる。ひさびさに見るパパたちだった。寒そうに肩《かた》をすくませながら、それでもみんな楽しそうな顔をしていたので、こんちきしょうという気持ちになる。  その後ろから、荷物を持った使用人の栗林が続く。彼は体が大きな中年の男で、以前は電気屋を営んでいたそうだ。菅原家にある電気機器のほとんどは彼がメンテナンスをしてくれる。  キョウコがいた。毛皮のコートに身を包んで歩いている。コンパクトを支えた指が、外気のために冷たくなる。わたしは鏡での観察をやめ、寒さで赤くなった指を唇《くちびる》にあててあっためた。 「あのう、わたし、みなさんをお迎《むか》えにあがらないといけないのですが……」  クニコが立ちあがりながら、すまなそうに言った。 「うん、わかった。でも、わたしのことは内緒《ないしょ》にね」  うなずいて、彼女は出ていった。コタツの上に置かれたコンパクトを眺《なが》めながら、そういえばこの部屋《へや》には鏡すらないことに気づいた。化粧《けしょう》をした彼女をこれまでに見たことがない。ひどいときには髪《かみ》の毛に寝癖《ねぐせ》のついたまま仕事をしており、その眠《ねむ》そうな表情を見ていると、親戚《しんせき》のコネがなければ使用人としてすら働かせてもらえなかったんじゃないかと思えるのだ。  窓の隙間から、十メートル先にあるわたしの部屋の窓を見つめる。すでにみんな屋敷内《やしきない》に入り、外の寒さから逃《のが》れてほっとしている時間のはずだ。しかしキョウコはなかなか現れない。母屋内部の様子を知りたいが、この部屋にいたのでは、中の様子はほとんどわからない。ときどき、母屋の窓を人が通りすぎる。そのたびにはっとして注視する。見つからないように頭を低くする。不思議な体験だった。こちらは相手のことがわかるのに、相手は、わたしの存在にも気付いてないのだ。覗《のぞ》き見は、楽しい。  不意に、だれかが離《はな》れの階段を上ってくる音。ミシリ、ミシリ、と板を踏《ふ》んで二階に近付いてくる気配が、天井《てんじょう》や壁《かべ》全体を伝わってくる。わたしは窓から顔を離し、息をひそめた。この部屋の扉《とびら》に鍵《かぎ》はない。階段を上ってくる者がクニコなら良いが、もしもそれ以外の人物で、突然《とつぜん》、部屋の扉を開けられたら、わたしのいることがばれてしまう。  コタツの中に隠《かく》れよう。わたしはそう思い、体をよじらせて中に入りこもうとするが、コタツの縁《ふち》と壁の間にはさまり、間抜《まぬ》けな格好《かっこう》のまま身動きできなくなる。コタツの赤いランプの光がわたしの顔を照らす。  階段を上がりきった足音は、クニコの部屋の前を通りすぎる。緊張《きんちょう》で体がこわばった。その姿勢のまま、息するのをやめる。足音は、ひとつ隣《となり》の部屋に入った。それは、わたしの背中の壁を一枚はさんだ部屋だった。 「どっこらしょい」という男の声が、壁を通してわずかに聞こえた。使用人の栗林だ。背中の向こうは、彼の部屋だったらしい。  この部屋の扉が開けられなくてほっとするとともに、彼に覚《さと》られないよう音をたててはいけないという気持ちになる。静かにもがいて、コタツと壁にはさまれていた体を自由にした。もちろん、これは厚着をしていたからそうなったわけで、わたしが太っているというわけではない。いや、もう、これは断じてそういうわけではないのである。  結局その日、夜|遅《おそ》くまで待ってもキョウコがわたしの部屋へ入った様子はなかった。  夕食の時間になってもクニコは戻《もど》ってこず、わたしは彼女の三畳間《さんじょうま》から出ることもできないので、何もおなかに入れることができなかった。あんちきしょう、夕食くらい運んでこんかい、と心の中で彼女を呪《のろ》った。  結局、あんちきしょうが部屋に戻ってきたのは深夜一時だった。髪をぼさぼさにさせてすっかりくたびれた表情をしていた。扉《とびら》を開けた彼女は、コタツに座《すわ》っているわたしを見て、一瞬《いっしゅん》、沈黙《ちんもく》した後、「わあ、そうだった」とのんびり驚《おどろ》いた。 「毎日、こんな時間まで働いているの?」  そう尋《たず》ねると、クニコはうなずいた。部屋のあかりは当然|点《つ》けられないまま、ずっと外を眺《なが》めていたのでわかったのだが、この時間まで起きているのは、どうやら菅原家の中ではわたしとクニコだけのようだ。 「すみません、いますぐ、食事を用意してきます」  クニコはわたしにそう言うと、部屋《へや》を出て行こうとした。わたしはそれを引きとめた。 「半日、座り続けていただけのわたしに、カロリーを摂取《せっしゅ》しろって言うの? 本当に気が利《き》かない人ね、わたしはダイエット中なの」  もうお風呂《ふろ》に入ったのかどうか尋ねた。彼女はまだ入浴していなかった。離《はな》れにもお風呂があり、住人が交代で入っている。夜中、みんなが寝静《ねしず》まった時間を見計らい、わたしも入ろうと思っていた。 「先に入ってきなさいよ。わたしは、もう少し念のため時間を置いて、完全にみんなが眠《ねむ》っているときに行くよ」  クニコはすまなそうにうなずいて出て行った。  わたしはその後、彼女が部屋へもどってくる前に眠ってしまった。目覚めると、コタツの掛《か》け布団《ぶとん》をヨダレで汚《よご》して、すでにお昼だったのだ。しまった、お風呂に入り損《そこ》ねた、と悔《くや》しい思いをした。  次の日、二十三日も、クニコの部屋に居座《いすわ》り、自分の部屋の窓を見張る。  電気ゴタツの中に、ほとんど一日中、入っていた。当然、部屋にいる理由を、クニコにも話している。おそらくあきれたのだろう、何か言いたそうにした彼女を、わたしは無視した。  クニコの部屋から見ることのできるあらゆる場所を、双眼鏡で観察する。離れにいることを発見されてはいけないため、窓から身を乗り出すことはできなかった。双眼鏡はクニコに買ってくるよう言いつけたものだ。おっかいに行くクニコへ、クレジットカードを手渡《てわた》し、買い物をさせた。彼女はクレジットカードを持っておらず、実際に触《さわ》ったのははじめてだったらしい。 「え、テレホンカードで買い物できるんですか?」 と、彼女は言ったが、おそらくギャグだったのに違《ちが》いない。  また、わたしたちの好みはまるでちがうらしく、おやつを買ってこさせるときなどは、いちいち商品名を説明しなくてはいけなかった。でなければ、 「なんでふ菓子《がし》なんて買ってくるんだよぉ!」 と叫《さけ》んで、いかにもちょっとばかり年のいった人の好む、つまり年寄りくさいお菓子の袋《ふくろ》をばしばし投げつけることになるのだった。  クニコに二つの携帯《けいたい》電話を契約させてきた。お金はわたしの口座からの引き落としにしたかったのだが、契約には預金通帳とハンコが必要であるらしい。そこで、彼女の通帳とハンコで契約させ、わたしのクレジットカードで引き落としたお金を彼女の通帳へ振《ふ》り込むという、少々ややこしい形になった。  彼女に電話の一つを持たせ、もう一つをわたしが持つ。その二つを使って、家の中の会話をこっそり盗聴《とうちょう》した。電源を入れっぱなしにして、電話をポケットにいれた彼女が、それとなく会話がおこなわれている人の輪へ近寄る。盗聴器をセットすることも考えたが、大掛《おおが》かりなことをするつもりはなかった。携帯電話で、ある程度会話の端々《はしばし》は聞こえたし、始終つなげっぱなしの電話料金など、たいした額ではなかった。  クニコに持たせた携帯電話からの情報や、彼女自身から聞かされた話によると、家中の人間はまだわたしが家出したままどこかをうろついていると思っているようだった。  わたしは彼女の部屋《へや》で座《すわ》ったままコタツに足をつっこみ、クニコに買ってこさせた液晶《えきしょう》ディスプレイつきの携帯DVDプレイヤーで映画を楽しんだ。電話で連絡《れんらく》して、クニコを手先のように操《あやつ》った。だれだれにそれとなく近づけ、とか、冷蔵庫からデザートを盗《ぬす》んで来い、とか指示を出した。  とろくさい彼女は、「そんなこと、わたしにはムリですよぅ」と弱音をはいた。彼女のすまなさそうな表情が見えるような気がした。 「ほほぅ、ムリですか。残念だわ、わたし、クニコさんといっしょにこの家で年を越したかったわ。でもそれはどうやらムリな話みたいね。でもだいじょうぶよ、新しい働き場所はわたしがなんとかしてあげるっ!」 「え、そ、それはちょっと……」 「この家をクビになったら、どこへ行きたい? ロシアっ? ネパールっ?」  そうやって、彼女は戸惑《とまど》いながら、しぶしぶわたしの言う通りに動いた。  夜、クニコが帰ってくると、二人でせまくるしいコタツに入り、向かい合って座った。  お風呂《ふろ》やトイレへ行くときは、見つからないよう注意する。どちらも離《はな》れの中に設置されている。夜中、人気《ひとけ》がなくなってから、母屋にあるものとは比較《ひかく》にならないほど小さなお風呂に入って汗《あせ》を流す。眠《ねむ》るとき、お互《たが》いの足に注意しながらコタツの中で眠った。  二十四日のお昼、窓の隙間《すきま》から監視《かんし》を続け、同時に、コタツへ突《つ》っ伏《ぷ》してうとうとしていた。風はなく、静かな空気の中、外では羽毛《うもう》のような雪がゆっくりと空から降りていた。監視のため、窓を閉めることはできなかったが、ありったけの服でだるま状態になり、コタツのがんばりで体はあたたかかった。唯一《ゆいいつ》、冷たい空気に露出《ろしゅつ》している顔が冷えた。しかしその温度差はまるで、暖房のきいた部屋でアイスクリームを食べるような不思議な快適さでもあった。隣《となり》の部屋に栗林はいなかったので、音を小さめにしてラジオを聴いていた。クリスマスソング特集が静かに部屋《へや》の中に充満《じゅうまん》し、冷気の白い手がわたしの頬《ほお》をそっとさわる。  三畳《さんじょう》部屋の中にはロープがはられ、洗濯《せんたく》された衣類が干されていた。共同で使用する洗濯機が離《はな》れにあり、わたしの分もクニコが洗っていた。洗濯物を干す場所は離れの裏側にあるのだが、家出しているはずのわたしの服が、そこに並んで干されているのは不自然である。そこで、わたしの服だけは部屋にロープをはって乾《かわ》かすことにした。下着類など目立たないものは、クニコの洗濯物に混ぜていっしょに外で乾かすことにする。  キョウコの犯行を記録《きろく》するために、コンパクトカメラを買ってこさせていたが、まだ使う機会はまったくなかった。片方の耳に、携帯《けいたい》電話からのばしたイヤホンを差し込んでいた。これで、わざわざ電話を手で支えなくても、寝転《ねころ》がったまま母屋《おもや》の様子に聞き耳をたてることができるわけだ。  今、クニコとの連絡《れんらく》は途切《とぎ》れ、母屋内の状況《じょうきょう》はわからなかった。ときどき、このように電話は切れてしまうが、しばらく待っていると、「すみません、切れていることに気付きませんでした」というすまなそうなクニコの声とともに復帰する。  十センチほど開けておいた窓から、下へスライドしていく雪の結晶《けっしょう》に混じって、人の会話が聞こえてきた。眠気《ねむけ》が消え、惜《お》しい気持ちでコタツのぬくもりから体をひきはがすと、外から見つからないよう慎重《しんちょう》に窓から下を覗《のぞ》く。雪は積もっておらず、残念に思った。  母屋と離れにはさまれた砂利道《じゃりみち》で、エリおばさんとパパが立ち話をしていた。ちょうど、クニコの部屋の真下で、二人の頭の頂点が見下ろせた。距離《きょり》が近いため、会話の内容がわたしの耳にも入ってくる。 「もう四日目だ」  パパがおろおろと直径一メートルの円を描《えが》くように歩き、両の拳《こぶし》を握《にぎ》りしめて言った。部下の前では偉《えら》そうに座《すわ》って、「ふむ……」とか言いながら余裕《よゆう》の態度でひょうきんな口ひげをなでるくせに、家族しかいないと途端《とたん》に威厳《いげん》が消え去るのである。 「何が四日目なの?」  エリおばさんが腕組《うでぐ》みしてタバコの煙《けむり》を吐《は》き出した。 「ナオが家を出たまま、もう四日も帰ってこないんだ! きっと、何かあったに違《ちが》いない! 事故か……、もしくは、そう、きっと誘拐《ゆうかい》されたんだ!」 「誘拐? まっさかあ」 「まさかではないよキミ! ああもう、そうなんだやっぱり誘拐なんだ、ボクにはわかっているんだよ、そのうち脅迫状《きょうはくじょう》が届《とど》くんだ、そうに違いないよ」 「指を切られたナオの写真とか送られてきたりして?」  エリおばさんが苦笑するように言うと、パパは彼女に詰《つ》め寄った。 「なんてことを言うんだねヒドイじゃないかヒドイじゃないか! やっぱり、ナオに内緒《ないしょ》で発信機をつけておくべきだった!」  ギクリとした。かつて、パパからもらったおもちゃのペンダントが、発信機になっていたことを思い出した。もしも、気付かないうちに発信機が取り付けられていたら、クニコの部屋《へや》にいることがすぐにばれていたところだ。しかし、今のパパの口ぶりから察すると、知らない間にあやしげな機械が取り付けられていることはなさそうだ。 「兄さん、誘拐《ゆうかい》なんて、考えすぎよ。お友達の家にいるんじゃないかしら?」 「あの子の友達の家にはもう電話して、いないことを確認《かくにん》しているのだよ。ナオは、友達の家に二|泊《はく》ほど滞在《たいざい》した後、どこかへ消えてしまったらしいんだ。これまでの家出では、あの子に覚《さと》られないようこっそり電話をかけまくって、無事にいることを確かめていたけど、今回は違《ちが》うんだ。どこに電話しても、さっぱり消息がつかめない」  これまで、行き先を告げずに家を出たとき、わたしの知らない裏側でそのようなことが行われていたことに気付かなかった。家出先の方も、電話があったことなど教えてくれなかったし、つまりパパの共犯だったのだ。それだけじゃない。わたしが行ってない家にも電話をかけて、「ウチのナオ、知りませんか?」などと尋《たず》ねたのだろう。恥《は》ずかしくて身悶《みもだ》えしたくなる。きっと、そんな電話を受けた友人の母親は、「あらあら、またナオちゃんたら家出したのかしら、こまったものだわね、フフ」なんて夕食の笑い話にしていたはずなのだ。  わたしはいずれ、携帯《けいたい》電話で友人と長話しようと思っていた。しかし、パパの話を聞いて、その気持ちが消えてしまった。友人がパパにちくらないという保証はない。  パパがぐるぐると同じ箇所《かしょ》を歩き続けるものだから、砂利道《じゃりみち》に綺麗《きれい》な円形の足跡《あしあと》が出来上がっていた。エリおばさんはタバコの吸殻《すいがら》をピンと指先ではじき飛ばし、だるそうな表情をした。  突然《とつぜん》、パパは立ち止まり、決心したように拳《こぶし》をかためた。 「よし、警察に電話しよう」 「警察?」エリおばさんが問い返した。「警察は待って。あの子、もうしばらくしたらひょっこり帰ってくるかもしれないじゃない」  わたしは上の方から、心の中でおばさんを応援《おうえん》した。警察まで出動させて、離《はな》れに隠《かく》れていることがばれたら、それはもう大きな人生の汚点《おてん》となるであろう。思い出すたびに、恥ずかしくて奇声《きせい》を発するようになるかもしれない。そうなるとつまり、困るのである。  そのときはエリおばさんの説得により、パパは警察に連絡《れんらく》するのを取りやめた。  次の日、クリスマス、わたしはクニコに便箋《びんせん》と封筒《ふうとう》を買ってこさせ、家族あてに手紙を書いた。 『みなさん、お元気ですか? わたしは元気にやっています。家を飛び出して、もう長いこと連絡していませんでしたね。わたしは今、友達の家にいます。最近、町の本屋さんで知り合った女の人なんですが、なかなか気が合って、楽しくくらしています。彼女の部屋は狭《せま》くて、古いのですが、なんだかけっこう落ち着くのです……』  手紙をクニコへ渡《わた》し、その日のうちに近くの郵便ポストへ投函《とうかん》させる。自分が無事だということを説明しておけば、パパも警察に連絡しないだろう。それに、知り合ったばかりの友達という設定にしておけば、パパが電話番号を知らされていないことにも納得《なっとく》するだろう。  家族へのウソ手紙をしたためるクリスマスの過ごし方について、わたしはその夜、味気ない気持ちで考えた。母屋《おもや》の方では、クリスマスケーキなどという贅沢品《ぜいたくひん》をキョウコが作っているらしい。夕方、部屋《へや》に戻《もど》ってきたクニコは、そう報告すると、またどこかへ行ってしまった。その夜も彼女は深夜|遅《おそ》くまで仕事をしてきたらしく、夜中に帰ってきた。半円|状《じょう》のケーキが載った大きな皿を、おみやげに持ちかえってきていた。 「あのぅ、これ、みなさんの食べ残しなんですけど、余っていたもので……」 「でかした」  余り物といっても、特大のものである。わたしはまるで、高い飛び込み台からジャンプして水面へ飛び込むように、それをすごい早さで消化しはじめた。もしそこに人類学の学者でもいたら、現代の女子中学生が、突然《とつぜん》、類人猿《るいじんえん》のごとき攻撃的《こうげきてき》な食欲を発揮したことに目を丸くしただろう。しかしクニコは、そんなわたしを見て、目を細くし微笑《ほほえ》んでいたのである。  夜が明けて、昼過ぎ。手紙はこの町の消印を押《お》され、早速、配達されてきた。それを受け取ったパパは、ひどく安堵《あんど》していたとクニコから報告があった。  最初のうち、長くクニコの部屋にいすわるつもりはなかった。しかしいつまでたっても、向かいに見えるわたしの部屋へ、キョウコが入ってくる様子はない。コタツの中でぼんやり寝転《ねころ》がる一日が、さらに何回か過ぎ去る。  決定的な犯行の瞬間《しゅんかん》はすぐにおとずれるであろうと楽観視していたわたしは、なかばムキになって、三|畳《じょう》の狭《せま》い部屋で待ちつづけた。もっとも意外だったのは、それが案外、苦ではなかったことである。  毎日、わたしの食事はクニコに用意させていた。夜中のうちに近くのコンビニまで買い出しに行かせて、保存のきく食料を買ってこさせる。もしもそれらを、わたしが消化しつくしてしまっていた場合、携帯《けいたい》電話で彼女に、「腹がすいた」というSOSの信号を送る。クニコは炊事場《すいじば》の仕事をするついでに、他《ほか》の使用人が見ていないのを確認《かくにん》して、食料を調達するのだ。  動作の遅い彼女にそのような仕事をさせることは大いに不安だったのだが、なんとかこれまでは見つからずにやってのけていた。それに、もしも見咎《みとが》められた場合、「わたしの夜食なんです」と答えるよう命令しておいた。それでみんなにおかしな顔をされても、大丈夫《だいじょうぶ》。わたしが恥《はじ》をかくわけではないので、気にしない。  しかし、いつも部屋《へや》の中で座《すわ》りっぱなしというのは太りそうだった。わたしは隣《となり》の部屋に栗林がいないことを確かめ、三畳の部屋で、できるかぎり運動をした。コタツの上でストレッチを行い、固まった筋肉を解きほぐした。音楽をかけてエアロビクスをやったこともあった。「あのう、やめてくださいよぉ、下の階にすんでいる大塚さんに怒《おこ》られたんですよぅ。わたしが上の階で飛び跳《は》ねていると思われているんですからぁ」とクニコがもっさりした口調《くちょう》で抗議《こうぎ》するので、やめることにした。  夜中、人気《ひとけ》がないときに部屋を出て、ジョギングすることにした。暗くて恐《こわ》かったから、いやがるクニコを無理やり誘《さそ》った。その際、正門を通って外には出ず、裏門を使用する。正門には、来訪者の顔を確認するカメラがついていたからだ。それはビデオ録画《ろくが》されておらず、夜中にカメラを確認する人間がいるとは思えないのだが、なんとなく気持ち的に避《さ》けたかった。そこで、カメラのない裏側の門を通過する。そちらは裏庭をまっすぐ突《つ》っ切った先にあり、塀《へい》のそばの植え込みへひっそり隠《かく》れるようにあった。一見して、木製の通用口のようである。  彼女と二人、裏門を抜《ぬ》けて屋敷《やしき》を飛び出す。外に出ると、解放感があった。変装のために、野球の帽子《ぼうし》をかぶり、長い髪をその中に入れてかくす。大丈夫だとは思うが、知人に会わないともかぎらない。  帽子は、クニコに買ってこさせたものである。巨人軍《きょじんぐん》の黒いやつで、しかも小学生用である。そんなものをかぶっているときに知人と出会ってしまったら、これはもう、そうとうに恥《は》ずかしいわけである。弁解の余地なく、走って逃《に》げるしかない。その意味でもわたしは、見つからないよう慎重《しんちょう》にジョギングした。  クニコの足は遅《おそ》かった。歩いているのとかわらないスピードだった。  つながったままの携帯電話をクニコに持たせて、一日中、耳を傾《かたむ》けていると、彼女の失敗する様《さま》ばかりが聞こえてくる。彼女は物覚えが悪く、一度聞いただけでは頭に会話の内容を書き込むことができないようだ。そのため、何か仕事を頼《たの》まれても、ぶつぶつと反芻《はんすう》しなくては記憶《きおく》できないらしい。そのつぶやきが電話を通して、わたしの耳にも聞こえてくる。  彼女は不思議な人だった。あまり話をするほうではなく、わたしが声をかけないかぎりほとんどだまっていた。でも、決して気詰《きづ》まりだったというわけではない。最初のうち、わたしは戸惑《とまど》ったが、彼女としばらくいっしょにいると、沈黙《ちんもく》の温かみに気付かされた。彼女にとって静かにしていることは、ごく自然な状態であり、声を発しないでいるときこそ、本当にリラックスした状態なのだ。彼女の静けさは、有名なクラシック音楽よりもはるかに落ち着いた旋律《せんりつ》だった。  夜、三|畳《じょう》の部屋《へや》、彼女と二人コタツで向かい合っていて、たとえそこに音楽も騒々《そうぞう》しい会話もなかったとする。それでもその静かな空間はなぜか親密な空気に包まれていた。  彼女は非常に動作が遅《おそ》く、また体型が縦に細長いので、まるで貧相《ひんそう》な細い木のようだった。のろくさい、というのは、それはそれでよかった。小間使いのような仕事には不適かもしれないし、しばしばあからさまに笑いの対象となっていたが、いつのまにかそのテンポをわたしは愛していた。また、その独特な時間の流れゆえか、彼女は辛抱強《しんぼうづよ》かった。  退屈《たいくつ》でつまらない雑用を仲間の使用人に押《お》し付けられ、夜、わたしの目の前で仕事をしていたことがある。それは手間と時間のかかる仕事だった。 「あいかわらずしょうがないんだから」  と、わたしはその仕事を手伝ったが、わずか十分で退屈になり、音《ね》をあげて爆睡《ばくすい》した。朝、目が覚めると、彼女は仕事をすっかり終わらせて、とくに威張《いば》るふうでもなく、まるでそれが当たり前であるかのように平然としていた。思うに、彼女は仕事の困難さから生じるあきらめというものに関して、人一倍、鈍感《どんかん》なのだ。  部屋の物置には、飲み水などを確保しておくポリタンクや、当面の食料などが保存されていた。クニコの持ち物はほとんどなく、地味な衣類が少しあるだけだった。最初にあったいくつかの荷物は、わたしの住むスペースをつくるためどこかへ運び出していた。処分したのだろうかと思ったが、「知り合いの家に移動させただけです」と彼女は言った。  しかし結局、部屋の中はカードで買ってこさせたわたしのものであふれていた。  彼女は、お金や物に対して、執着《しゅうちゃく》がないのだろうかと思い、そう尋《たず》ねてみた。 「はぁ……、ええと、お金があると、……人並みにうれしいですねぇ」  と、クニコは答えた。  大晦日《おおみそか》、辺りが暗くなり、もうそろそろ年越《としこ》しそばの時間だね、と胸を躍《おど》らせながら物置をあけて、お湯をいれるだけでできるカップのそばを探していた。この日のため、クニコに買ってこさせていたのだ。そのとき、物置の床板《ゆかいた》が一部分、外れることに気付いた。人工的にそうなるよう仕組んだわけではなく、ただ板の長さが足りないで外れてしまうという印象だった。  床板をずらし、中を見る。クニコのものらしい、安っぽい大学ノートが隠《かく》されていた。いや、隠されていたというより、ただそこを収納場所として利用していただけであるように思えた。縁《ふち》が黄色く、ページがばらけそうになっていたのでガムテープで補強《ほきょう》してある。わたしは彼女よりえらかったので、当然、躊躇《ちゅうちょ》なく中を見た。ボールペンで絵が描《か》かれていた。  スケッチが趣味《しゅみ》なのだろうか。鳥や海、花の絵。風景や建物の絵。最初のページに描かれているものは、はっきりいって下手《へた》くそだった。わたしの方がよっぽどうまいと思った。しかし、ページをめくるうちに、だんだん上達していく。ノートの半分をすぎたあたりでは、まるで白黒の写真を見ているようなレベルになっている。彼女はつかんだのだ。絵のコツを。  ノートの後半に、菅原家や、そこで働く人物などが描かれていた。どこかで拾ったような汚《きたな》い大学ノートと、どこにでもありふれたボールペンのインキで描かれた絵なのに、わたしはたいへん価値のあるものを手にしている気分にさせられた。  人の顔が描かれている。見知った顔もあれば、知らない顔もある。ゴミの回収を行っている車と、その傍《かたわら》で働いている男が描かれている。制服を着用し、彼はにこやかに微笑《ほほえ》んでいる。この家のゴミ捨ては、全部、彼女にまかされていた。ほとんど毎日、たまった生ゴミや雑誌をゴミ捨て場へ運んでいる。その絵は彼女の日常的な光景なのだろう。この地区で定められている透明《とうめい》なゴミ袋《ぶくろ》を抱《かか》え、砂利道《じゃりみち》を歩く彼女を、ときどき窓の隙間《すきま》から目撃《もくげき》した。  最後のページに、わたしの絵があった。  遠くから除夜《じょや》の鐘《かね》が聞こえはじめるころ、クニコが労働から帰ってきた。おせち料理の準備などで、どうやら忙《いそが》しかったようだ。すでに年は明けており、わたしはたった一人、三畳部屋の中で年の変わる瞬間《しゅんかん》を味わったわけである。  大学ノートを勝手に見たと白状した。彼女は怒《おこ》ったりせず、ただ恥《は》ずかしそうにしていた。大学ノートを取り出し、わたしに見せ、いくつか説明してくれた。 「これ、わたしの故郷なんです」  彼女は、海の絵を指差して言った。まだ上達する前の、子供の落書きのような絵。特徴的《とくちょうてき》な形の岩と、鳥居《とりい》がある。どこかの観光名所のようだ。いったい、彼女はどんな子供だったのだろうと思った。そして、見渡《みわた》すかぎり果てのない海を前に、一人すわって、大学ノートの上でボールペンを躍《おど》らせている彼女を想像する。  彼女に、家族のことをたずねた。兄弟《きょうだい》が大勢いるらしく、決して裕福《ゆうふく》とはいえないが、かといって貧しいわけでもないらしい。みんなクニコのように動きが遅いのかとたずねると、彼女はしばらく考え込んだ後、首を横にふった。  わたしは、学校での出来事などを話した。キョウコを攻撃《こうげき》するための、血のつながった母が残したハンカチのことも話した。ハンカチは三畳の部屋に持ってきていたから、実物を彼女に見せたりもした。友人のことも彼女に話した。わたしは、ふと、この部屋に住み着く直前まで友人といっしょにいたことを思い出した。 「クニコさんの友達は、どんな人なの?」  わたしは尋《たず》ねてみた。  彼女にもそこそこ親しい友達がいるらしく、ときどきその人に呼ばれて家をあけた。そういうとき、さすがに彼女の携帯《けいたい》電話を盗《ぬす》み聞きすることはしなかった。  その友達のことを、彼女はおおまかに説明してくれた。雑用を押《お》し付けられて近所を歩き回っているうちに、自然と顔なじみになった友人らしい。おそらく、近所の主婦なのだろう。三|畳《じょう》の部屋《へや》に帰ってくるとき、彼女はお土産《みやげ》らしい手作りのパイを持っていた。わたしはそのパイがいつも楽しみで、クニコの友達=おいしいパイ、という図式がいつのまにかできていた。おそらく、わたしの住むスペースを作るために運び出したいくつかの荷物は、その人が預かってくれているのだろう。  そういったことを話していると、体重をあずけている壁《かべ》の向こうから、栗林の鼻歌が聞こえてきた。栗林は温和な性格のおじさんだったが、残念ながら音痴《おんち》だった。彼の鼻歌が壁を通り越《こ》して聞こえてくるとき、わたしもそれに調子をあわせていい気分になったりしてみる。しかし、サビの重要な部分でおかしな音程になったりする。もしくは、途中《とちゅう》からまったく別の曲に変化したりする。男はつらいよのテーマ曲が、途中から水戸黄門《みとこうもん》の歌になっているのだ。そのたびに壁をたたいて、いいかげんにせいやおっさん、と声をかけたくなるが、そこはぐっと拳《こぶし》を固めてこらえるのである。  母屋《おもや》の電気は全部消えていた。わたしとクニコはしんとした部屋の中、隣の部屋から聞こえてくる鼻歌に耳を傾《かたむ》ける。その調子がはずれるたび、目をあわせて笑いをこらえる。  遠くから鐘《かね》の音《ね》を聞き、まだ重要なことを言ってないことに気付く。 「あけましておめでとう」  今、神社の方は、初詣《はつもうで》にきた人間でにぎわっているのだろうか。着物を着た女の人たちがたくさんいるのだろうか。きっとすごい喧騒《けんそう》にちがいない。  いつのまにか隣の栗林も眠ってしまったようで、わたしたちのいる三畳間には、ただ遠くの鐘だけが聞こえてくる。  わたしはいつのまにか、クニコとの生活になれていた。三畳のせまい部屋、部屋の面積に対して大きすぎるコタツ。彼女と向かい合って、静かに送る日々。そのままコタツで丸くなり、熟睡《じゅくすい》してしまう夜。まるで川に流されて丸みをおびた石のように、クニコの部屋での暮らしは安定していた。  クニコの部屋に居座《いすわ》りつづけて、十日以上経過した。中学校はその間、冬休みだった。わたしの部屋に侵入《しんにゅう》するキョウコを捕《つか》まえることは、切実な問題だった。しかし、いつもなら三日間以上わたしが家をあけていると、犯人は必ず部屋へ侵入するはずなのだが、なかなか今回はそうならない。そのため、わたしはそろそろ、キョウコを現行犯で捕まえることをあきらめかけていた。どうでもよくなったわけではないが、いつまでたっても彼女がわたしの部屋《へや》に入ろうとしないので、このまま今回は犯行を犯《おか》さないのではないかという気がした。もしそうなら、離《はな》れを出て、家へもどるべきだと感じる。先日のパパとエリおばさんの会話を思い出す。パパの心配する様《さま》は、わたしにそれなりの勝利感めいたものを与《あた》えてくれていた。  家に帰ろう。クニコの部屋で暮らし始めて十三日目、一月三日の夜八時、わたしは離れを出た。クニコはまだ帰ってきておらず、また、離れの中にも人はいなかったので、だれかに見られることはなかった。  離れと母屋《おもや》にはさまれた砂利道《じゃりみち》を、裏手の方向へ向かう。つまり、母屋の玄関《げんかん》とは反対側である。そこにリビングルームがあり、今の時間帯では、家族のみんなはその部屋に集まっていることが多い。裏庭を一望できるよう、壁《かべ》の一面はガラス窓で構成されており、そこに突然《とつぜん》、わたしが現れたらきっとみんな驚《おどろ》くに違《ちが》いない。  冷え冷えとした夜の空気に、わたしは体を震《ふる》わせた。上を見ると、母屋と離れに挟《はさ》まれた夜空に、星が穴をあけている。遠くのどこかで犬のほえる声を聞きながら、わたしは靴《くつ》の裏に砂利の踏《ふ》みしめる感触《かんしょく》を確かめる。  母屋の裏側は大きな庭になっており、昼間のうちは池と、計算高い配置の緑が見える。しかし夜になると、投げ込んだ小石が音もなく虚空《こくう》へ消え去るような、深い闇《やみ》に満たされる。わたしは母屋の壁にそって静かに歩く。壁の一画から明かりがもれ、地面の暗闇を四角く切り取っている。リビングの明かりだった。  そこへ出て行くことで、パパたちの浮《う》かべる表情を想像し、愉快《ゆかい》な気持ちになる。深呼吸した。吐《は》き出した息が白くなる。体は寒さで限界になり、一刻もはやく家の中へ入りたくなった。しかし、駆《か》け出したくなる気持ちを抑《おさ》え、ぎりぎりまで見つからないよう、壁に背中をくっつけたまま明かりへ忍《しの》び寄る。  家の中から、パパやキョウコ、エリおばさんの談笑する声が聞こえてきた。それはいかにも暖房《だんぼう》のきいた部屋の中、ひとつのテーブルを囲んで発せられるような、暖かい笑い声だった。食事の後なのだろうか。テレビを眺《なが》めているのかもしれない。混じり合うそれぞれ幸福そうな声の中に、結束力のようなものを感じた。  わたしは陰《かげ》に身を潜《ひそ》ませたまま立ちすくんだ。壁を一枚だけはさんだ向こう側で、自分のいないまま何の違和感《いわかん》もなく機能している家族の姿を突《つ》きつけられた。  それまであった「帰ろう」という意志が急速に萎《な》えてしぼんだ。いつのまにか、リビングの明かりから遠ざかるため後ずさりしていることに気付いたが、足を止めることはできなかった。  走って離れへ戻《もど》った。だれにも見つからないことを祈《いの》った。  わたしは忘れかけていた。母屋の陰で聞いた声たちと、わたしの間には、本来、何のつながりもないのである。そのことが残念で打ちひしがれるとともに、怒《いか》りも感じる。先日、クニコの部屋から見下ろした、わたしを心配して円を描《えが》き歩くパパの姿が、今では裏切りのように思えてしかたがないのである。そう考えると腹立たしく、クニコの部屋でコタツに飛び込み暖を取りながら、その平たい上面をバンバン手のひらで叩《たた》きたくなる。赤外線のランプを覆《おお》う、でっぱった網《あみ》を、足でガタガタ言わせたくなる。  目の前に、先日、使ったのとは別の真新しい便箋《びんせん》が置かれているのに気付く。家族への手紙のため、何種類かクニコに買ってこさせていたのだ。  便箋をつかみ、意地悪な気持ちで手紙の下書きをはじめた。脳みそに、先日、パパの吐《は》いていた台詞《せりふ》が思い出されていた。 「娘《むすめ》は誘拐《ゆうかい》した、返して欲《ほ》しかったら言う通りにしろ……」  そんな文面の手紙だった。  パパたちを困らせて、さきほどわたしに聞かせた家族の談笑する様《さま》を破壊《はかい》しつくしてやりたいという思いは強かったのだ。  夜中になりクニコが帰ってくるころ、わたしを誘拐した犯人からの手紙は、ほぼ下書きが完成していた。  一日中、菅原家に奉仕《ほうし》してきた三畳部屋《さんじょうべや》の主《あるじ》は、古い引き戸を開けたまま、長い時間動きを止めていた。その後、散乱している雑誌や小説の切りくずを指差して、「いったい、何があったんですか?」といつもの間抜《まぬ》けな声で尋《たず》ねた。 「たいへんよ、菅原家のお嬢様《じょうさま》が誘拐されたらしいの」 「だれに、ですか?」  にやりと笑って、「わたしに」と答えてみた。  彼女は困った顔をして、真意をはかりかねているようだった。 「ナオお嬢様、なぜ手袋《てぶくろ》なんてしてるんですか?」 「これはね、手紙に指紋《しもん》をつけないため。作業がやりにくくて、嫌《いや》になるわ」  狭《せま》い、それでいてなかなか居心地《いごこち》のいいわたしたちのねぐらは、切りぬいた紙くずでいっぱいになっていた。筆跡《ひっせき》をわからなくするため、犯人の手紙を活字で清書していたのだ。ワープロ、もしくはパソコンやプリンターを買ってこさせようかとも考えたが、そのような家電製品を置いておく充分《じゅうぶん》なスペースは存在しなかった。 「しばらくの間、わたしは誘拐されたことにするから。ちょっと家の中が騒《さわ》がしくなるかもしれないけど」  クニコは呆気《あっけ》にとられたような表情をした。 「つまり、狂言《きょうげん》誘拐……というやつなんでしょうか?」 「あ、そうそう、それよ。よくそんな気の利《き》いた言葉を知ってますね。クニコのくせに」 「でも……、つまりその……」  あう、あう、と彼女は続く言葉を見つけられない。 「大丈夫《だいじょうぶ》。しばらくの間、パパたちを心配させることができたら、あれは冗談《じょうだん》だったっていう手紙を出すからさ。何も、本当に身代金《みのしろきん》を要求するわけじゃないの」 「そのう……、ただのいたずらなんですね……?」  まあ、そういうことだ。わたしはうなずいた。 「でも、クニコさんに仕事を頼《たの》むわ。今、菅原ナオを誘拐《ゆうかい》したっていう犯人の手紙を書いているんだけど、これ、明日の朝、家の郵便受けに入れてきてくれない?」 「いやですよ、そんなこと!」  彼女は珍《めずら》しく素早《すばや》い反応を見せた。  以前、家族へ出した手紙は、菅原家から一番近いこの町の郵便ポストへ入れるよう、クニコへ頼んでいた。それには、この町の郵便局の消印がしっかりつけられているはずなのだが、犯罪がらみの手紙ではないということで、あまり気に留めなかった。しかし、これから出そうとする犯人からの連絡《れんらく》は、郵便局を介《かい》すると、消印から居場所を特定されるような気がして嫌《いや》だ。ただのいたずらなので気にする必要はないとも思うが、一応、直接、家に届《とど》けさせたい。 「クニコさんが嫌だって言っても、わたしがそうしたいって言ったらそうなるんですっ」 「うう、確かにその通りですけど……」  クニコは肩《かた》を落とし、うなだれた。そのまま元気をなくした様子で、彼女は着替《きが》えとタオルをもって離《はな》れの一階にあるお風呂《ふろ》へ向かった。  活字を切りぬく際、カッターナイフでコタツの上面に傷をつけてしまった。そのころにはもう、コタツに愛着がわき、触《さわ》り心地《ごこち》や温度調節機能の作動するタイミングまで、すっかり知りぬいていた。よって、傷跡《きずあと》をつけてしまったときは悲しく、何度も指先でこすったが、それが消えることはなかった。  クニコがふたたび戻《もど》ってくる間に、わたしは活字の切りぬきで文面を埋《う》め尽《つ》くし終えていた。目的の文字を印刷物の中から探すという作業はなかなか根気の必要なことだった。それは大海の中から金魚を探すようなもので、飽《あ》きっぽいわたしは文面を短くしてその労力を最小限にする方法を選んだ。そのおかげか、案外、短時間で手紙を作成し終えることができた。 [#ここから3字下げ] おたくの娘 すがわらなお を ゆうかい した 金を はらえば すぐに もどす ケイサツには しらせるな もしも しらせたら ただでは すまない [#ここで字下げ終わり]  菅原家にはお金がたくさんあったから、営利目的で誘拐《ゆうかい》されるというのは、信憑性《しんぴょうせい》があるかもしれない。  汗《あせ》を流してきたクニコに、手紙の入った封筒《ふうとう》を渡《わた》す。 「指紋《しもん》をつけないように注意して」  彼女は長袖《ながそで》をぐっと引き伸《の》ばし、服の布越《ぬのご》しに封筒をつまんだ。心配そうな顔をしていた。 「本当にこの手紙を出すんですか?」  わたしはうなずいた。封筒はすでに封がしてある。 「あのう、差出人の名前が書いてありませんよぅ」 「当たり前だっ」  わたしは手近にあった紙くずを丸めて投げつけた。  夜中の三時、クニコは封筒を郵便受けへいれるために部屋《へや》を出た。朝だと人に見つかるかもしれないので、夜中のうちにそうしたいという彼女の希望だった。数分で戻《もど》ってくるだろうと思っていたが、もちまえの足の遅《おそ》さでずいぶん長くかかり、そのうちわたしは疲《つか》れて眠《ねむ》ってしまった。  低いうなりのような振動音《しんどうおん》で目が覚めた。コタツの硬い表面の上で、わたしの携帯《けいたい》電話が震《ふる》えていた。クニコからの電話だった。音が出るとお隣《となり》の栗林に感づかれる心配があるので、いつもバイブレーションモードにしている。窓の外はすでに明るい。腕時計《うでどけい》を見ると、八時だった。  一月四日の朝である。  振動を止め、電話からのびるイヤホンを耳に押《お》し込んだ。クニコの持っている携帯電話のマイクが、屋敷内《やしきない》の音を拾っている。クニコは、電話を持っていることがばれないように、いつも服の中に隠《かく》している。また、音の発信源との距離《きょり》の関係で、人の声などは切れ切れになり、くぐもって聞こえることもあった。それでも不思議と、室内の空気、人々が楽しい雰囲気《ふんいき》なのか、盛り上がっているかどうかなどは感じ取れた。  今、電話の向こうは、ひどく緊張《きんちょう》した雰囲気である。 「……の封筒《ふうとう》、……だれが見つけたのかね?」  パパだった。つばのない乾《かわ》いた舌で発したような声である。  数分前にだれかの手によって封筒が発見され、パパにそれが渡《わた》されたのだ。それでたった今、犯人の手紙を読み終えたところなのだろう。わたしの眠っている間に母屋《おもや》へ出勤していたクニコが、状況《じょうきょう》報告のために電話をしてきたらしい。 「わた……が、さきほど郵便受けに入れられているのを見つけました」  やや年老いた感じの声。運転手をしている大塚のおじさんだ。彼が封筒を発見した経緯《けいい》について話している。電波の状態が思わしくないようで、ときどき、音が聞こえなくなる。今、パパたちのいる場所は、幅《はば》の広い廊下《ろうか》の、それも玄関《げんかん》に近い場所ではないかと想像した。これまで毎日、電話|越《ご》しに屋敷《やしき》の中を探《さぐ》っていたおかげで、電波の入り具合や音の反射、漠然《ばくぜん》とした空気感でクニコのいる位置がおおまかに推測できた。このまま鍛《きた》えれば、盗聴《とうちょう》のプロになれるかもしれないが、あまり人に自慢《じまん》できない特技だと思う。  電話の向こうにいるのは、パパと大塚さん、そして、動く盗聴マイクになったクニコだけらしい。男二人の緊迫《きんぱく》したやりとりを耳にはめたイヤホンで聞きながら、わたしはコタツの上で右手を握《にぎ》ったり開いたりした。手は汗《あせ》ばんでいた。 「ね……、どう……たの?」  不意に、女の声が聞こえてくる。キョウコだ。クニコのマイクが音を拾える範囲《はんい》に、彼女が近付いてきたようだ。となりの建物で発生している音に、注意深く聴覚《ちょうかく》を傾《かたむ》ける。キョウコの足音や、衣擦《きぬず》れする音まで聞こえたような気がした。今しがた起きたばかりの、眠《ねむ》たげな声は、彼女が目をこすりながらネグリジェ姿で歩いてくる場面を想像させた。パパと大塚さんは、近寄ってくる彼女を振《ふ》り返る。 「……でもないよ、後で話す」  パパがそう言って、とっさに手紙を隠《かく》したようだ。 「…………」  キョウコがいぶかしげに何か言葉を発したが、うまく聞き取れなかった。しかし、彼女が去っていったらしいことはわかった。 「ほら、アンタもあっちへ行きなさい。ここで聞いたことは、まだみんなに言うんじゃないよ」  これまでよりクリアに、大塚さんの声が聞こえてきた。クニコに向けられたものだった。彼女は大塚さんに追い払《はら》われようとしている。手紙の効果をわたしに伝えるため、ニュースレポーターのように、会話する男二人へ近寄っていたのだ。彼女にしては積極的で、大健闘《だいけんとう》だ。帰ってきたら褒美《ほうび》をつかわそう、と思った。 「……にしても、……の手紙、本当に……で……?」大塚さんの声。 「ああ……、……を……」  封筒《ふうとう》をさぐる音と、パパの声。  しかし、不意に電話が途絶《とだ》え、最後まで話を聞くことはできなかった。アンテナの限界か、もしくはクニコの限界だろう。  わたしは肺にたまっていた息を吐《は》き出し、肩《かた》の力を抜《ぬ》いた。電話をコタツの上に置く。それを握《にぎ》っていた左の手のひらに、汗が浮《う》かんでいた。コタツの掛《か》け布団《ぶとん》になすりつける。  三畳部屋の押《お》し入れを開け、中型のポリタンクから洗面器に水を出す。それで顔を洗い、汚《よご》れた水はもうひとつのポリタンクへ入れる。缶《かん》ジュースを開けた。あまり水分をとってはいけない。トイレはクニコの部屋《へや》を出て、五メートル廊下《ろうか》を進んだところにあったが、昼間のうちに行くのはできるだけ避《さ》けていた。もちろん、これまでそういった冒険《ぼうけん》は何度もやった。それは昼間、使用人のほとんどは母屋《おもや》で仕事をしていたからできることだったが、あまり生きた心地《ここち》はしないのだ。  朝食のジュースを飲みながら、この三畳部屋に水道の設備が整っていたら、もっと有効に押し入れを活用できるのだが、と考えていた。小さな押し入れはポリタンクと食料でほぼいっぱいだった。  しばらくして、また電話が振動《しんどう》しはじめた。受信して、イヤホンを耳にはめる。 「……れを持っていてくれないか」栗林の声と、何かが、ガチャガチャという物音。「このまえのように、落として壊《こわ》さないように気をつけなさい」 「は、はい!」  クニコが緊張《きんちょう》した声でこたえる。どうやら、栗林の作業を手伝《てつだ》っているらしい。  彼女が、何かを手渡《てわた》される気配が、衣擦《きぬず》れの音として聞こえる。わたしはそこでピンときた。栗林は、蛍光灯《けいこうとう》を取り替《か》えているのだ。彼が脚立《きゃたつ》に乗って、天井《てんじょう》の古くなった蛍光灯を取り外し、下にいるクニコへ手渡す。そんな場面に、以前、遭遇《そうぐう》した記憶《きおく》がある。  たしかそのとき、クニコは手をすべらせて、蛍光灯を落として割ってしまったのだ。それも、古くなっていたものと、新しく用意していたもの、両方を。  今回は失敗するなよと、携帯電話越しに念を送る。きっとクニコは、古くなって黄味がかった蛍光灯を、ふらふらとした危なげな手つきで持っているにちがいない。 「ところで、楠木さん。しばらく前から、旦那様《だんなさま》の様子がおかしいと思わないかい?」 「え……、そうですか?」 「そうだよ。大塚の旦那も、いっしょになって青い顔しているし。さっき、オレ、旦那様が電話しているのを、聞いちまったんだ」 「電話、ですか?」 「どこに電話してたと思う?」  少しの間、沈黙《ちんもく》。 「警察に電話してたんだよ」 「はぁ……。ええ!?」  蛍光灯を落として、割れる音が聞こえる、と思ったが、何も悪いことは起きなかった。 「……今回は、割らなかったね」  栗林がほっとしたように言った。  警察の人間が数名、菅原家の門をくぐったのは午後一時ごろのことだった。 「さきほど、五人の方がいらっしゃいました……」  まわりに人気《ひとけ》のないことを確認《かくにん》して、クニコが携帯《けいたい》電話に向けてそう言った。「ナオお嬢様《じょうさま》、聞いてらっしゃいますか?」 「聞いてる。気をつけて。絶対に見られないように」  わたしは缶《かん》ジュースで唇《くちびる》を湿《しめ》らせた。炭酸飲料は口の中でジュッと泡《あわ》だった。  手紙の発見から、警察がくるまで、やけに時間がかかったと思う。その間、家族や使用人について、情報を集めていたのだろう。それぞれの背後《はいご》関係を調べ上げ、その中に犯人のいる可能性を検討したのかもしれない。 「警察の方は、みんな変装してらっしゃいました。奥様《おくさま》のご家族だと偽《いつわ》った方が三名、使用人の扮装《ふんそう》をした方が二名、時間を少しずらして屋敷《やしき》に入ってきました」 「今、その人たちは何をやってるの?」 「一人は、お屋敷の電話に何か機械を取り付けています。きっとあれが有名な、逆探知するあれなんですよねぇ。わたし、はじめて見ました」 「で、他の人は?」 「警察の方が三人、それと旦那様が、一階にある十二|畳《じょう》の和室に入っていきました。お話をしているようです。あ、さっき、その部屋に、キョウコ奥様とエリおばさまも呼ばれました」 「じゃあ、きっとキョウコたちは、今ごろ、誘拐《ゆうかい》についての説明を受けているでしょうね。警察たちは、使用人にまだ正体を明かしていないの?」 「はい」  一階の十二畳和室に、家族三人と、警察三人か。わたしは中腰《ちゅうごし》になり、窓を少し開けた。冷えた空気が、よどんでいた三畳の部屋にゆっくりにじんでくる。だれかに覚《さと》られないよう、注意して外を眺《なが》める。  その和室の窓は、母屋《おもや》の一階、離《はな》れの側《がわ》にあった。ここから斜《なな》め左下の方向に見える。普段《ふだん》はだれも使っていない部屋だ。離れの建物に邪魔《じゃま》され、窓から見える景色《けしき》はいいものではない。しかし、それゆえに警察がその部屋に集まっているのではないかと推測する。犯人がどこかから屋敷を監視《かんし》しているかもしれないと考慮《こうりょ》したのだろう。警察が動き回っていることを感づかれてはいけないと思い、できるだけまわりから目立たない場所に集まっているのだ。  和室の窓に視線をむけていると、黒い上着を着たごく普通《ふつう》の若い男が窓辺に立った。髪《かみ》の毛が茶色で、知らない顔だ。街中を歩いているときにすれ違《ちが》う、ただの大学生のように見えるが、しかし警察の一人なのだ。彼は窓を開け、息を吐《つ》いた。それが白くなる。空は曇《くも》り空で、二つの建物にはさまれた空間はうすぐらい。彼は注意深く視線をまわりに走らせ始める。まず左右を見まわし、ふと視線を上げる。わたしは急いで身を隠《かく》した。大丈夫《だいじょうぶ》、おそらく見つかっていない。心臓が早くなっている。  一分ほど待って、もう一度、母屋の和室の窓を見る。さきほどの男はもういない。今、あの窓の向こうで六人の人間が顔を突《つ》き合わせ、昨夜わたしの書いた手紙を読んでいるのだろう。パパがわたしの写真を彼らに見せ、年齢《ねんれい》や、家出したときの格好《かっこう》などを説明しているかもしれない。警察は、わたしの性格や、家族と交《か》わしていた会話の内容についても質問をするのだろうか。もしそうなら、ちっ、日ごろから言動に気をつけていればよかったと後悔《こうかい》する。  再び携帯《けいたい》電話の向こうに注意を傾《かたむ》ける。  廊下《ろうか》の床板《ゆかいた》を、だれかが踏《ふ》む音。クニコのものではない。もっと体重のある人間がスリッパを履《は》かずに、足の踵《かかと》で、ドッ、ドッ、と音を出している。 「広いお屋敷《やしき》で……歩き回っ……把握《はあく》できま……。地図とかあったらいいのですが……」  聞き覚えのない男の声だった。五人の警察が屋敷に入ったそうだから、そのうちの一人だろう。彼はどうやら、クニコに話しかけているらしい。彼女はやはり、「はぁ……」と間抜《まぬ》けな声で返事する。二人並んで歩いているようだ。やり取りされる会話の端々《はしばし》から、この男が道に迷っていたらしいことがわかる。どうやら、家の間取りを大まかに調査していて、菅原家の屋敷の広さを甘《あま》く見てしまったらしい。各部屋をチェックしているうちに自分がどのあたりにいるのかわからなくなり、みんなが集まっている例の和室までクニコに案内してもらっているのだ。 「この廊下は、なんだか見覚えがあります。ええ、ここまでで大丈夫です。どうもありがとう」 「……あの、質問してもよろしいでしょうか」クニコは申し訳なさげな声で、おずおずと申し出た。「そのぅ、警察の方、ですよね? お嬢様《じょうさま》が誘拐《ゆうかい》された、というのは本当なのでしょうか?」  男が身構えるのを感じた。 「そういったことはまだ伏《ふ》せてあるはずなんですがね。なぜ、そのことをご存知なんです?」 「あ、ええと、旦那様と大塚さんがお話しているのを、横で偶然《ぐうぜん》、聞いてしまったんです」 「そういえば、手紙を読んでいるときに、女性の使用人がそばで見ていたという報告でした。あなたのことだったのですか」  納得《なっとく》したように、男の声は和《やわ》らいだ。 「あのぅ、それで、屋敷《やしき》にいらっしゃった方々、みんな、警察の人なのですよねぇ」 「その通りです」 「いらっしゃった五人だけで、お嬢様《じょうさま》を探し出すのでしょうか……?」  雑音混じりで、たまに聞き取りにくい部分もあったが、おおまかな部分はわかった。  いいえ。こういった誘拐《ゆうかい》事件の場合、家にくる人数は必要最小限になるのです。あまり多くの人間が出入りをすると、警察に通報していることが犯人に判《わか》ってしまうからね。でも、安心してください。うちの警察署に特別|捜査《そうさ》本部を設置しております。それにね、刑事《けいじ》課だけでなく、各課からも手伝《てつだ》ってもらってますし、近くの署に応援《おうえん》を要請《ようせい》してます。何十人もの人間が、菅原ナオさんを救出するために動くわけです。だからね、絶対に見つけてさしあげますからね。ほら、そんなに心配そうな顔をしないで……。  男が説明し終えたとき、二人は和室の前に到着《とうちゃく》したようだ。  その後しばらくの間、クニコは普通《ふつう》に使用人の仕事をこなしていた。携帯《けいたい》電話を通じて感じ取れるかぎり、他の者もいつもと同じサイクルで動いているようだった。  廊下《ろうか》にモップをかけているクニコが、人目のないすきを狙《ねら》って、ひっそりと携帯電話に耳打ちしてきた。 「旦那様《だんなさま》が秘書の方に、会社には当分の間、出ることができないと連絡《れんらく》をしていました。でも、お嬢様《じょうさま》が誘拐されたことは一言もおっしゃられていないようです。新年早々|風邪《かぜ》をひいた、とだけ伝えたようです」  どうやら、菅原家の人間以外には、だれにも事件のことをしゃべらないつもりらしい。  電話の向こうで、クニコがだれかに呼び止められる。どうやら、また警察の者のようだった。  わたしはみかんの皮をむいている最中だったが、その手を止めて警官の言葉に注意を傾《かたむ》ける。彼の声は遠く、聞きづらい。しかし、どうやら警官たちは、使用人を一人ずつ和室に呼び込んで、かんたんに話を聞いているらしい。今度はクニコの番なのだ。  彼女は警官に連れられて和室へ向かった。襖《ふすま》のすべりは極上《ごくじょう》らしく、開いたり閉じたりという音は電話を通じて聞こえなかった。床《ゆか》を踏《ふ》むかすかな音の差が、廊下の板の上から、和室の畳《たたみ》の上へクニコが移動したらしいことを告げた。廊下では物音にわずかな反響音《はんきょうおん》がついてまわる。広い和室の中ではそれがない。  男の高い声が、クニコを座《すわ》らせた。警察の一人だろう。少し地方のなまりがあり、ときどき、シーシーと歯の隙間《すきま》から息を吸うような音を出す。どうやら、彼が質問を担当《たんとう》する人間であるらしい。声にも年輪というものがあるのか、もうじき定年になるくらいの年齢《ねんれい》ではないかと、その声から推測できた。 「あなたが楠木クニコさんですね?」 「はい、そうです、すみません。ごめんなさい」 「あなたは、この家の主人が手紙を読むところに、偶然《ぐうぜん》、居合わせていた。それでは、おおまかなことは知っていますね?」  彼はそう前置きして、わたしが何者かに誘拐《ゆうかい》されたことなどをかんたんに説明した。手紙の内容などには触《ふ》れなかった。おそらくこんな調子で、使用人たちにも説明したのだろう。 「生年月日と出身地を、確認《かくにん》のために言っていただけますか?」 「はい、ええと……」  クニコはいつものおどおどとした答えを返す。  たあいもないやりとりの後で、質問を担当している警官は歯の隙間から息を吸い、最後の質問をした。 「最後にもうひとつだけ」 「はい」 「あなたから見て、誘拐された菅原ナオさんは、どんな子でしたか?」 「ドラえもんのジャイアンみたいな……」ハッ、としてクニコは言葉を止め、あわてて言いなおす。「あのぅ、ええと、……かわいらしくて、なんというか、頭のいい子です」  電話でわたしが盗聴《とうちょう》しているのを忘れていたらしい。あわてて取り繕《つくろ》うような声の調子だった。  他の使用人はすでに和室へ呼ばれた後のようだ。大塚夫妻や栗林は、わたしの印象についてどういった答えを返したのだろう。  クニコは、普段《ふだん》通りに使用人の仕事をするよう言い付けられて、和室から解放された。人目のないところに移動して、わたしにむかって話しかけてくる。 「あのぅ……、たった今、和室に呼ばれて質問されました」 「うん」 「ひょっとして、ずっと聞いていました?」 「だれがジャイアンですって?」 「……ええと、つまりその、ジャイアンみたいにパワフルだと言いたかったわけで……」  ダメじゃん! わたしはひそかにツッコミを入れた。  窓の隙間から外を見た。向かい側の母屋《おもや》、わたしの部屋に警察の人間が入っている。見られてまずいものは置いてないはずだが、やはり気になる。窓から身を乗り出して双眼鏡でじっくり確認したくなる。しかし、見つかってはいけない。少しむかついたが、まあ、そんなものだろうなと思って納得《なっとく》することにした。それからありがたいことに、警察はいちいち使用人の部屋の中まで調べにこないらしい。ほっとした。クニコの部屋には隠《かく》れるところなんてないのだ。  使用人の格好《かっこう》をして、警察が歩いている。それとなく家のまわりを歩き、辺りを監視《かんし》しているのだろうか。  菅原家の屋敷《やしき》は広い。よって、だれもいない空間も大きく、だれの視線にもさらされていない場所というものができる。クニコはそういった隙《すき》を見つけては、仕入れた情報をことあるごとに伝えてくれた。電話は毎回クリアというわけではなく、完璧《かんぺき》に母屋内《おもやない》の情報をつかむことはできない。実際、警察の人間の顔が、それぞれどんな顔であるのかもはっきりとわかってはいないのだ。わたしは三畳部屋《さんじょうべや》でクニコの話を聞きながら、まるで虫食いの穴を埋《う》めるように、隣《となり》の建物の様子を頭の中で補完《ほかん》していく。  警察が手紙のことについて話しているのを、クニコはちらりと耳にしたらしい。  犯行を知らせる手紙には消印がないため、直接、犯人の手によって家へ運ばれてきたのだろう。つまり、犯人はこの近くに潜《ひそ》んでいる可能性が高く、どこかから屋敷を監視しているかもしれない。警察はそう口にしていたそうだ。 「昼食のとき、旦那様《だんなさま》が突然《とつぜん》、立ちあがると、テーブルの上に載《の》っていたお皿を壁《かべ》に投げたんです」  クニコは人目を気にしながらそう報告した。パパがいらだっている。 「良かったですね」  彼女が言った。 「え、何が?」 「だってぇ、こうなることが目的だったのでしょう?」 「うん……」 「あ、人の足音がします。連絡《れんらく》、終わります」  報告を打ちきり、彼女は使用人としての機能も有する盗聴《とうちょう》マイクになった。近づいてくる人影《ひとかげ》にあせりながら、あわててポケットに電話をしまいこんでいるのだろう。  そのとき、聞き覚えのある女の声がイヤホンから聞こえてくる。 「あら、楠木さん……、こんなところにいらしたの?」キョウコの声だった。わたしは軽く驚《おどろ》いた。彼女の声に沈《しず》んだ様子があったからだ。「ちょうどよかった、後で、わたしの部屋にお茶を持ってきて」  クニコはお茶の用意をし、キョウコの部屋へ向かう。お茶というのは紅茶のことだろう。盆《ぼん》に載《の》ったティーポットとカップの触《ふ》れ合う音が、電話を通じて聞こえる。  わたしは三畳部屋のコタツに座《すわ》って目を閉じ、キョウコの部屋の扉《とびら》がノックされる音に耳を傾《かたむ》ける。はい、という力のないキョウコの声。クニコの入室。彼女がテーブルの上に、お茶のセットを置く音。会話はない。  しかし、わたしは電話|越《ご》しに、確かに見たのだ。キョウコは椅子《いす》に座《すわ》っていた。飾《かざ》り気のないシンプルな服装でテーブルにひじをつき、思いきり前傾《ぜんけい》姿勢で力なくうなだれていた。その格好《かっこう》は丸くなりすぎた猫背《ねこぜ》のようでもあり、溶《と》けかけたチーズのようでもあり、とにかく心配になるほど勢いのある脱力《だつりょく》姿勢だった。  キョウコの部屋を出て、クニコはわたしに話しかけた。 「大丈夫《だいじょうぶ》でしょうか。キョウコ奥様《おくさま》、首をうなだれていましたけど……」  複稚な気持ちになった。キョウコがわたしの部屋に入っているという疑惑《ぎわく》を持ったから、今、こうして三畳部屋にいるのだ。よく喧嘩《けんか》をしたし、嫌《きら》われていると思っていた。わたしは彼女にとって、前妻の遺《のこ》した子供であり、しかも夫と血のつながっていない子供なのだ。それなのに、わたしが誘拐《ゆうかい》されたと知らされて、急に元気をなくすなんて、反則である。のんきに散歩していたら、背中から空手チョップをくらったというくらい、凶悪《きょうあく》な不意打ちだ。  わたしはずっと、キョウコのことを嫌《きら》いだと思っていた。しかし、いったいどのへんを嫌っていたのかわからなくなるじゃないか。  わたしはコタツから這《は》い出た。心持ち頭を低くして移動し、押し入れの中から「カントリーマアム」というお菓子《かし》の袋《ふくろ》を取り出した。わたしの大好物である。  すりガラスに自分の影《かげ》がうつらないよう注意して、もとの場所へもどる。カントリーマアムのやわらかい食感と甘《あま》さに感動しながら、携帯《けいたい》電話の音声に注意を傾ける。  数人の声が、まず聞こえてくる。背景《はいけい》に、食器同士を打ち付け合うような硬質《こうしつ》の音と、水の流れる音。だれかがあたりをせわしげに動き回る、スリッパの音。おそらく炊事場《すいじば》だろうと見当をつける。昼食の後片付けをしているのだろうか。献立《こんだて》はなんだったのだろう。雑煮《ぞうに》だろうか、などとぼんやり考える。今年はまだ、餅《もち》も食べていないし、年賀状《ねんがじょう》も読んでいない。 「……こんなときに仕事なんてできるもんですか!」  大塚の奥《おく》さんの声だった。スリッパの音が止《や》んで、電話の向こうは水が流れるだけの、妙《みょう》な沈黙《ちんもく》が降りた。電波の伝わりは、案外よかった。  携帯電話のすぐそばで、コト、コト、という何か物を並べる音がする。おそらくクニコがひとつずつ遅《おそ》い動作で食器を並べているのだろう。電話は彼女の服のポケットに入っており、そのすぐそばで物音がするほど、大きく、はっきりと伝わってくる。 「クニコさん、警察に説明されるより前から、お嬢様《じょうさま》のこと、知っていたの?」 「はぁ……、あのぅ、朝に廊下《ろうか》を通りがかったとき、旦那様《だんなさま》たちが話をするのを聞いたもので……」 「もう、どうしてすぐに知らせてくれないの。このグズ」 「すみません……」  クニコはきっと、いつもの困った顔をしている。 「本当に、どうしてアンタみたいなのがいるんだろうね。アンタの叔父《おじ》さんがこの家の先代に取り入ってなけりゃ、アンタみたいなグズはすぐに仕事をクビになっているところだよ」  掃除《そうじ》をさせれば物を壊《こわ》す。お客の応対もろくにできず、お茶を出すときの礼儀《れいぎ》もなっていない。ほら、その辛気臭《しんきくさ》い顔をどうにかしなさい。彼女は食器を洗いながら、小言を並べていた。  そう言われるのは慣れているのか、さほど動じた様子もなく、ただクニコはさきほどと同じ台詞《せりふ》を繰《く》り返した。 「すみません……」  夜になり、クニコが部屋へ戻《もど》ってきた。彼女の話では、警察やパパたちはじっと犯人からの連絡《れんらく》を待っているそうだ。次の連絡が、また手紙なのか、それとも今度は電話なのかもわからず、みんな気を揉《も》んでいるらしい。  わたしは迷っていた。警察がおおがかりに動いていて、少し怖《こわ》くなったし、罪悪感もあった。そのことをクニコに話すと、彼女もどうすればいいかわからないという表情をした。大丈夫《だいじょうぶ》、きみに意見を期待しているわけではないよ。そう言ってみると、彼女は子供のように口をとがらせて、「それはすみませんでした」と頬《ほお》をふくらませた。 「でも、今、出て行ってあれはうそだったと告白するのも怖いですね。もう少し、様子を見ていれば、自然に警察の方々も帰っていくんじゃないかしら」  クニコはそうも言った。彼女は、今、わたしが出て行くことを避《さ》けたがっているような気がした。彼女は長い間わたしをかくまっていたのだ。それがばれると、みんなから罵声《ばせい》の集中|砲火《ほうか》をあびるはずだ。それを怖がっているのだろう。わたしも、のこのこ出て行って、ひどく怒《おこ》られるのは嫌《いや》だった。  そこで、あるアイデアを思いついた。今朝《けさ》、菅原家に届《とど》いた誘拐《ゆうかい》の手紙は、だれかまったく見知らぬ人の冗談《じょうだん》だったということにするのだ。  わたしは誘拐のことなど何も知らず、先日、パパを安心させるために書いたのと、同じような手紙を出す。もしそんな手紙が届いたら、誘拐に関する手紙は、わたしの友人かだれかのいたずらだったということに落ち着くかもしれない。何せ、筆跡鑑定《ひっせきかんてい》をすれば、間違《まちが》いなくわたし自身のものなのだから。  わたしは、昨晩とは別の便箋《びんせん》にその手紙を書いた。誘拐したという犯行を知らせた手紙とは まったくかけ離《はな》れてないといけない。同じ便箋をつかってはいけないのだ。 『こんにちは。ナオですよー。わたしはあいかわらず、本屋で知り合ったお姉さんに養ってもらっています。いっしょにコタツの中で、年明けを迎《むか》えてしまいました。そろそろ帰ろうかと思うのですが、なかなかこの家にも愛着がわいてきて、離《はな》れがたくなってしまいました。今、わたしが暮らしている部屋《へや》は、お母さんと住んでいたボロアパートにどこか似ています。懐《なつ》かしいです。わたしはずっとコタツに入って、お菓子《かし》ばかり食べ、怠惰《たいだ》に生活しています。パパの方は、どうですか。何か、変わったことありましたか?』  書き終えると、クニコに渡《わた》した。郵便ポストに入れてくれば、次の日には菅原家へ届《とど》くだろう。狂言誘拐《きょうげんゆうかい》の一日目はそうやって終わった。  二日目の一月五日。  朝の三時、わたしがこっそり息をひそめて素早《すばや》く入浴しているうちに、クニコは封筒《ふうとう》を投函《とうかん》するため外へ出た。離《はな》れの風呂場《ふろば》は一階の、母屋側《おもやがわ》にある。もしも電気をつければ、相当、目立つ。この時間に、母屋から離れを監視《かんし》している人間が、いないともかぎらない。真夜中に入浴している人間がいることを、不審《ふしん》に思われてはいけない。  暗闇《くらやみ》の中で、湯船につかった。湯はすでにぬるくなっていた。離《はな》れの風呂場《ふろば》は、クニコの部屋《へや》と同程度の広さだった。電気をつけないでいると、窓の外の方がわずかに明るい。母屋にある和室の電気がついているようだ。  湯船の水面がゆらめいて、窓から入ってくるぼんやりとした明かりを反射した。  ポストへ向かったクニコのことを考える。  もしかすると警察は、以前にわたしが書いた、パパを安心させるための手紙にも注目しているかもしれない。いや、間違《まちが》いなく、調査しているだろう。あの手紙には、この町の消印が押《お》されている。そのことについて、どう考えているのだろう。  手紙に書いた「新しい友人」の家が、この町のどこかにあるのではないかと推測するだろうか。もしかすると、彼女と知り合ったという架空《かくう》の本屋にも目をつけているかもしれない。わたしは想像した。警察が町中の本屋を一軒《いっけん》ずつ訪ね歩き、レジの人間にわたしの写真を見せるのだ。 「この女の子を見なかったかね? もしかすると、もう一人、女性といっしょだったかもしれないが……」  もちろん、店貞は首を横に振《ふ》る。警察は無駄足《むだあし》を繰《く》り返し、やがてこの町の本屋を調べ尽《つ》くす。すると今度は、別の町の本屋を調べ始める。わたしは手紙だけで、この国の税金を無駄遣《むだづか》いさせてしまった。  もしかすると警察は、この町の郵便ポスト全部を監視《かんし》しているかもしれないと気づく。いや、しかし、二十四時間、すべてのポストに、はり込みをさせているとは思えない。その仕事に、それほど多くの人員を割《さ》いている余裕《よゆう》があるだろうか。投函《とうかん》しにきた人間、一人一人を疑うわけにもいかないだろう。それとも、警察の捜査《そうさ》というものは、それくらい徹底《てってい》されているのだろうか。  ぬるくなった湯のために、体が冷える。湯船から立ちあがり、シャワーを使うことにした。  部屋にもどってきたクニコは、お菓子《かし》やジュース、弁当なんかの入ったビニール袋《ぶくろ》を両手に提《さ》げていた。ついでにコンビニへ立ち寄らせて、何食分かの食料を買いこませたのだ。いったいどこまで買いに行ったのか、けっこう時間がかかったような気がした。  彼女がもどってくるまで、部屋はオレンジ色の豆電球しかつけていなかった。だれもいないはずの部屋から、明かりがもれていたらおかしいのである。  部屋の電気をつけたクニコは、寒さのため、頬《ほお》や鼻の頭が赤くなっていた。三|畳《じょう》の部屋にコタツ以外の暖房《だんぼう》器具はないが、外よりははるかに暖かいらしい。彼女は急いでコタツに足を入れ、猫背《ねこぜ》スタイルをとった。赤外線のあたたかさに、ほっとしたような顔をした。 「どうやら、夜中まで屋敷《やしき》のまわりを監視《かんし》しているわけではないみたいです。裏門を使えば、自由に屋敷を出入りできました。でも、正門の方は、カメラを使って夜中も監視されているそうです」  正門に設置されていた来訪者用のカメラを利用して、警察は夜通し監視を行っているそうだ。カメラの映像を映し出すディスプレイは、もともと、家政室の壁《かべ》に設置してあった。それにケーブルをつなぎ、和室まで引っ張って、ビデオに録画できるよう改造したらしい。  一通目の手紙と同じく、犯人が再び正門|脇《わき》の郵便受けに手紙を入れに来たら捕《つか》まえてやろうというのである。少し前までわたしが行っていた計画と、変わるところはない。  部屋《へや》のどこか見えない隙間《すきま》から、体温を奪《うば》う冷気が忍《しの》び込んでくる。窓ガラスの外が明るくなり始める。その表面は、わたしたちの呼吸のなかに潜《ひそ》んでいた湿気《しっけ》が冷やされ、水滴《すいてき》となったものに覆《おお》われている。 「わたしたちはきっと、このコタツがなければ凍死《とうし》していたであろう」  風呂上《ふろあ》がりにドライヤーも使えず、なかなか乾《かわ》かないしっとりした髪《かみ》の毛のまま、そう言ってみた。ドライヤーは離《はな》れの脱衣所《だついじょ》にあるのだが、音がうるさいので使用するのをひかえている。クニコもまったく異議のない様子でうなずいた。 「屋敷を出て行くとき、警察に呼び止められたりしなかった?」 「母屋《おもや》のそばを通るとき、声をかけられました。寝《ね》ないでお仕事していらっしゃる警察の方がいて、見つかってしまったんです。でも、以前からわたしが、よく夜中に買い出しへ行っていたことをだれかに聞いていたみたいで、あまり不審《ふしん》に思われませんでした」  外出を許可しておきながら、まさか、こっそり彼女を後ろから追跡《ついせき》したのではないだろうか。いや、警察は、以前からの習慣を続けさせなくてはいけないと考えたのかもしれない。それまで行われていた住人の行動が、突然《とつぜん》、変化したら、どこかで監視しているかもしれない犯人に、警察へ連絡《れんらく》したことを悟《さと》られるかもしれない。そうなることを彼らは、避《さ》けなくてはいけなかったのだ。  わたしは、コタツの縁《ふち》と壁《かべ》の間で体をずらし、頭をコタツの中に入れた。せまい隙間《すきま》での行動が、ずいぶんうまくなった。もしかすると、半径二百キロメートルの中で、わたしが一番、素早《すばや》くコタツにもぐりこむことができるかもしれない。  コタツの中は、ランプのために、赤い光で包まれていた。この赤い光こそ、赤外線であると思っていた時期がある。しかし、それはまちがいで、赤外線は可視光線ではないのだから、目に見えるはずはないのだ。赤い視界の中で、クニコの足だけが突《つ》き出ていた。 「……お嬢様《じょうさま》、コタツの中で何やってるんですか?」 「いや、ちょっと……。コタツで、頭、乾かそうと思ってさ……」  昼になっても、あまり暖かくはならなかった。三|畳《じょう》の部屋《へや》は離《はな》れの北側にあり、暖かさをもたらす太陽とは良好な交友関係を結べていないのである。  わたしが誘拐《ゆうかい》されたという情報は、まだ一般《いっぱん》に公開されておらず、新聞を読んでもわたしのことは掲載《けいさい》されていないのであるが、もしも写真が載《の》せてもらえるのなら、できるだけ右斜《みぎなな》め二十度くらいの角度で、少し微笑《ほほえ》んだ顔のやつがいいなあと思っていた。一番|綺麗《きれい》に写っているやつが本棚《ほんだな》のアルバムにあるので、それを使うよう匿名《とくめい》で新聞社に連絡《れんらく》することも考える。  携帯《けいたい》電話の向こうから、警察官同士のやり取りがかすかに聞こえる。会話している警官の一人は、わたしと同じくらいの年齢《ねんれい》の娘《むすめ》を持っているらしい。しかし、その関係は良いとは言いがたく、いつも見下した態度で自分を見ることに耐《た》えられないと、彼は同僚《どうりょう》にぼやいていた。 「眠《ねむ》りから覚めると、どこかすぐそば……耳元でナオお嬢様の声が聞こえたんだ!」  栗林がそう訴《うった》えていたそうだ。どうやら、夜中に枕元《まくらもと》で、わたしの声を聞いたような気がしたらしい。  わたしとクニコは、携帯《けいたい》電話を通じて、ひそかに笑《え》みを交《か》わした。彼が聞いたのは、おそらく本物のわたしの声にちがいない。壁《かべ》はうすい。どうやら隣《となり》の部屋に声がもれてしまったようだ。もっと、注意して話をしなくてはいけない。  やがて栗林の聞いた声は、わたしの幽霊《ゆうれい》だったのではないかと、だれかが言い出した。  つまり、わたしは犯人によってすでに殺されているというのである。ますますおかしくなって笑い出したくなるが、パパや警官は冗談《じょうだん》じゃないと本気になって怒《おこ》った。  屋敷《やしき》の中が緊張《きんちょう》していることは、電話|越《ご》しにも生々《なまなま》しく感じられた。たとえクニコに聞かされなくても、窓の隙間《すきま》から慎重《しんちょう》にコンパクトを差し出し、辺りをうかがってみるとすぐにわかる。ちらりと見える人物の表情はいずれも険しく、憂鬱《ゆううつ》そうである。もしくは、つとめて沈痛《ちんつう》な面持《おもも》ちをしているのかもしれない。笑っていては、きっと怒《おこ》られるのだ。菅原家はまるで、ぎりぎりに引き絞《しぼ》られた弓のようであり、ふと気を抜《ぬ》くとはじけ飛びそうな印象だった。  そんな中で、使用人は日ごろ行っている仕事を、通常通りやらねばならなかった。  菅原家のゴミは、クニコが一手に引き受けている。毎日、大量のゴミが透明《とうめい》ゴミ袋《ぶくろ》いっぱいに出ていた。警察の分の食事も作っているため、ゴミの量が増えているのだろう。地区で定められたゴミ置き場と屋敷の間を二往復しなくてはいけなかった。 「使用人の、楠木さん……でしたね? お仕事、ご苦労様です」  ゴミを捨てに行こうとしたクニコは、裏門のあたりで男の声に呼び止められた。かすれ気味で、ひびわれた楽器のような声だと思った。しかし不思議とそこが魅力的《みりょくてき》で、一度、耳にすると、しばらく鼓膜《こまく》の中に残響音《ざんきょうおん》を残していく、特徴的《とくちょう》な声だ。年齢《ねんれい》はそれほど高くないように思えた。 「あ、はい、どうもすみません。そちらこそ裏庭の見回り、ご苦労様です」  かすれ気味の声の主は警察の一人だったらしい。彼はクニコとかんたんな挨拶《あいさつ》を交《か》わす。その様子を、わたしは携帯電話で聞いていた。彼女の台詞《せりふ》から、そこが裏庭のどこかであると推測した。 「ゴミ袋《ぶくろ》、ひとつ持ちましょうか? いちおう、こうしてわたしも使用人の格好《かっこう》を真似《まね》ていますし、ゴミ置き場まで運ぶのを手伝《てつだ》ってさしあげましょう」 「いえ、いいんです、ありがとうございます」  恐縮《きょうしゅく》したようなクニコの声。彼女が両手に巨大《きょだい》なゴミ袋を抱《かか》えて、かすれ声の警官に深く頭を下げている場面を想像した。 「あのぅ、そのかわりといっては何ですが……少し、事件のことでうかがってもよろしいでしょうか?」  クニコが切り出した。警察の人間と話す機会があったら、捜査《そうさ》のことを質問するように命令しておいたのだ。彼女は忠実にわたしの言うことを守っている。 「わたしで答えられるものなら、いいですよ」 「ええと、この屋敷《やしき》の近所の方に、聞き込みのようなことをされたのですか?」 「いえ、周辺地域に聞き込みはしておりません。理由は、犯人がその中にいる可能性があるからです」 「ああ、なるほど、そうですよね……」  うなずきながら、クニコは警官から遠ざかり、おそらく裏門の方へ歩いているようだった。 「車に気をつけて」  少々遠くからさきほどのかすれ声が、イヤホンを通じて聞こえてきた。  パパの心配はピークに達していた。その夜、クニコが部屋《へや》に戻《もど》ってきてから聞いた話だが、パパとキョウコがわたしのことで喧嘩《けんか》していたらしい。詳《くわ》しいことはわからないが、部屋の中で二人の言い争う声がしたそうだ。  その後、クニコが部屋の掃除《そうじ》をまかされた。彼女が掃除をまかされることはあまりない。しょっちゅう花瓶《かびん》を落としたり、高価な置時計を破壊《はかい》したり、ビデオに水をこぼしたりするものだから、使用人という仕事をしていながら、床《ゆか》のモップがけ以外の掃除を禁止されていたのだ。しかし、今回はちがっていた。 「なぜなら、わたしが部屋に入ったとき、すでにありとあらゆるものが壊《こわ》れていて、もう壊すものなんてなかったからです」クニコはそう言うと、すまなさそうに続けた。「あんなに安心して掃除できたのははじめてでした」  おそらく、派手《はで》な喧嘩が部屋の中で行われたか、猪《いのしし》の大群がそこを通過したかのどちらかだろう。おそらく、後者ではないと思う。  事件とは無関係に知人の家で暮らすわたしからの手紙は、明日、届《とど》くはずである。切に、誘拐《ゆうかい》はたんなるいたずらであるとみんなが信じ込めばいいと思っていた。  次の日、一月六日。  わたしが誘拐されていないことを示す手紙が配達されてきたのは、昼の一時ごろだった。 「ついさきほど、封筒《ふうとう》が正門の郵便受けに入れられているのを、たまたま外に出ていた旦那様《だんなさま》が発見しました。今、警察の方たちと旦那様が、手紙のことで和室に集まって話し合いをしているようです」  報告を聞きながら、ちらりと窓の隙間《すきま》から外を眺《なが》める。ぴりぴりとした緊張感《きんちょうかん》が空気に含《ふく》まれており、まるで静電気が発生したかのように、うなじのあたりがざわざわとする。胸の奥《おく》を通る太い血管が、だれかに踏《ふ》みつけられているような重苦しさを感じる。  手紙が家に届いてから二時間が経過する。しかし警察が帰る気配はない。クニコの携帯《けいたい》電話はいつにもまして途切《とぎ》れがちで、まるで屋敷内《やしきない》の異常な空気が電波の伝わりを妨《さまた》げているのではないかという錯覚《さっかく》を覚える。誘拐事件|捜査《そうさ》本部、というものがどこかの警察署で設置され、多くの人間がそこでわたしの行方《ゆくえ》について捜査《そうさ》しているそうだ。そこでも昼夜を徹《てっ》してわたしのために働いている人間がいるのだろうか。今も、忙《いそが》しげにスーツを着た警官が歩き回り、書類の束《たば》を撒《ま》き散らしているのだろうか。そんなことを考えていた。  三畳《さんじょう》部屋のコタツの上に置いている携帯電話に、連絡《れんらく》が入る。クニコからの連絡である。人目をはばかる小声で、彼女は屋敷内の状況《じょうきょう》を説明する。 「警察の方々は、どうなされたんでしょうね。今日の手紙のこと、まだ旦那様以外の人間には発表されていません。手紙が届くと同時に、和室にこもりっきりなんです。さきほど、数人の警察の方が部屋から出ていらっしゃいましたが、険しい表情のままでした」  彼女の話では、届いた手紙を読んだ後も、パパや警察の人間が事態を楽観視したようには見えなかったという。 「ナオお嬢様《じょうさま》、あまり窓のそばに近寄らないよう、気をつけてくださいね」 「わかってる」  わたしはコタツに深くもぐりこみ、ため息をついた。熱いココアが欲《ほ》しい。しかし、三畳の部屋に湯を沸かす器具はない。ときどきクニコが部屋へもどってきて、離《はな》れの一階にある共同の炊事場《すいじば》でお湯をわかし、小さなポットに入れてきてくれる。大切にお湯を使わなくてはいけないのに、今は切らしていた。温かい飲み物はおあずけだ。  テーブルなど、硬《かた》いものの上で携帯《けいたい》電話が振動《しんどう》するときの音が苦手《にがて》だ。歯医者で治療《ちりょう》を受ける際のドリル音を思い出してしまい、早く止めなくてはとあせる。  携帯電話が振動する、あの嫌《いや》な音で、夢から覚めた。いつのまにかわたしは眠《ねむ》っていたらしい。見ていた夢がちょうどいいところだったので、ちぇっ、と思った。おそろしく知能指数の低い夢だった。逃《に》げる苺《いちご》のショートケーキを、「待ってー!」と言いながら追いかけるという夢だ。 「もう! せっかく捕《つか》まえて、これから食べるってところなのに!」  わたしは電話を受け、一番にそう言った。相手はもちろん、クニコだった。 「す、すみません! ……何の話ですか?」 「こっちの話。で、どうなった?」 「はい、あのぅ、また電話が切れていることに気づかなかったので、つなぎなおしました。ひょっとして、眠っていらっしゃいました?」  わたしは、イエスと答えた。 「……ええと、わたしはこれからゴミを捨てに行きますね。それでは」  わたしは目をこすりながら、携帯電話に耳をすませた。クニコがゴミ袋《ぶくろ》を扱《あつか》う、ゴソゴソとした音を聞く。砂利道《じゃりみち》を踏《ふ》みしめる音、彼女はいつも通り裏庭を横切り、菅原家の裏手の門からゴミを捨てに行く。  昨日、耳にしたかすれ声の警官らしき男に、今日も呼び止められた。ご苦労様です、という挨拶《あいさつ》を交《か》わして、クニコは通りすぎようとする。しかしふと思い立ったように、彼女は男へ尋《たず》ねた。 「あのぅ、今日、手紙が届《とど》きましたよね」  何か音がしたわけではないのだが、男が緊張《きんちょう》したような気がした。 「届きましたよ。それが何か?」 「いえ、なんでもありません。ただ、旦那様《だんなさま》が手紙をふところに隠《かく》すようにして、警察の方々と和室へ入るのを、偶然《ぐうぜん》、見てしまったものですから。あの、つまり、なんというか、犯人の方から新しい連絡《れんらく》が届いたんじゃないかと、使用人のみなさんが噂《うわさ》しあっているんです……」  男は少し緊張を解いて、ふっと笑ったような気がした。 「そうですか、そんな噂が……。安心してください、犯人からの連絡ではありませんよ。もうしばらくすればみなさんに公表するはずですが、先にお教えしましょう。今日、届いた手紙は、菅原ナオさんからの手紙でした。文句のない彼女の筆跡《ひっせき》で書かれた手紙で、それによると彼女は現在、知り合いの家で世話になっているそうです」 「まあ!」少々わざとらしく驚《おどろ》いてみせたクニコの声。演技指導が必要だと思った。「それじゃあ、お嬢様はご無事なのでしょうか……?」 「いえ、そうとばかりも……。まだ予断を許しません。あの手紙は、ナオさんが犯人に脅《おど》されて、無理やり書かされたものかもしれません」  脅されて手紙を書かされた? 警察が深く考えすぎて、事態がいっこうに丸くおさまらないことに、わたしは落胆《らくたん》する。 「ナオさん本人が無事に現れないかぎり、我々はその線を捨てることができないのです。いいですか、ナオさんが家出したのは、十二月二十日。それから二日間、以前からのご友人の家にお世話になっています。これは、確認済《かくにんず》みです。しかし、二十二日、町中で友人と別れた後の消息がまったくわからないのです。そして、クリスマスの日、はじめて手紙が届《とど》きます。これには、新しく知り合いになった友人の家でお世話になっていると書かれてありました。しかし、この新しい知り合いという人物について、ご家族の方も、我々も、まったく何もわかっていないのです。もし、その人物が存在するとしたら、手紙の消印はこの町のものでしたから、町内のどこかにいるのではないかと思われます。もしかすると、この女性こそ真犯人なのかもしれません。また、犯人が捜査を混乱させるために作らせた架空《かくう》の人物であるとも考えられます」  一月四日、わたしを誘拐《ゆうかい》したという手紙が、郵便受けから発見される。  一月六日、つまり今日の午後一時ごろ、今度は一転して事件のことなど微塵《みじん》も感じさせない手紙が届く。 「今日、届いた手紙にも、最初の手紙に登場した女性に関する記述がありました。この人物のもとで、実際に不自由なくナオさんが暮らしているのであれば、何も問題はありません。しかし、この二通の手紙が、犯人に脅されて無理やり書かされたものである場合、お嬢さんは誘拐されて、すでに一週間以上が経過しているはずです」  一通目の手紙を書いた後で誘拐され、二通目だけ犯人に無理やり書かされた、というようには考えられないようだ。二つの手紙は、内容が一致《いっち》している。二通目だけ犯人に脅されて書いたのであれば、最初の手紙と同じ内容にする必要はない。犯人は最初の手紙について、内容までは知らないはずだからだ。むしろ、異常事態を知らせるため、極端《きょくたん》に異なる内容にするかもしれない。そのような理由から、警官たちは、二通の手紙がそれぞれ別々の形で書かれたものではなく、手紙の通りにどこか安全な場所で書かれたか、もしくは両方とも犯人によって書かされたかのどちらかであると判断したようだ。  かすれ声の説明では、後者であると考えた場合、クリスマス以前に誘拐が行われたことになるそうだ。 「ナオさんを誘拐した後、犯人が一度、家族を安心させるような手紙を書かせたのはなぜでしょうか。すぐにこの家へ、犯行を示した連絡《れんらく》をいれても良かったはずです。これは、犯人が準備を行う期間だったと、我々は考えています。犯行を知らせる直前までこのような手紙で家族を安心させておき、警察への連絡を避《さ》けさせるわけです」  しかし、新しい知人の家にいるという二通の手紙が、家族を安心させておくために書かせたものだとするなら、矛盾《むじゅん》が起こる。犯行を知らせた二日も後に、なぜ、時間|稼《かせ》ぎの意味で書かれた手紙が届《とど》いたのだ。 「今日、届いた手紙には、五日の消印が押《お》されていました。つまり、手紙が投函《とうかん》されたのは、犯行をこの家に知らせた次の日ということです。これは、活字を切りぬいて製作された犯行を告げる手紙とは、確かに意図が矛盾しています。まるで、まったくちがう人間の思惑《おもわく》が働いたようにも見えます」 「はぁ……、あのぅ、ひょっとして、誘拐《ゆうかい》した、というお手紙はだれかのいたずらだったのではないでしょうか?」  クニコがおずおずと口にした。 「確かに、その通りですね。手紙の通りに、お嬢《じょう》さんはこの町のどこかで、新しいご友人と暮らしているのかもしれません。しかし、この町内のどこかで、お嬢さんは犯人によってそれらの手紙を書かされたのかもしれません」 「……では、なぜ矛盾するような手紙を犯人は送ってきたのですか?」 「犯人たちは意思の疎通《そつう》がうまくいっていないというのが、我々の見解です」  犯人「たち」? わたしは首をかしげ、かすれ声の警官の話をもっとよく聞くため、イヤホンの上から耳を手で覆《おお》う。 「つまりですね、菅原ナオさんに『わたしは元気だ、今、知り合いの家にいる』という手紙を書かせた人物と、屋敷《やしき》の郵便受けに犯行を示した手紙を入れた人物は、別人だったのです。そいつらは、この家の持つ莫大《ばくだい》な資産という同じ目的のために動いているのですが、うまくお互《たが》いの情報をやり取りできていない。よって、今回のような矛盾が生じたわけです。今日、届いた手紙の投函は、連絡《れんらく》の行き違《ちが》いだったのですよ」 「はあ……、す、すごいですねぇ、それは……」  クニコの脳みそでは、どのような反応を示せばよいのかわからないようだった。 「この菅原という家は、尋常《じんじょう》でない財産をお持ちだ。犯人グループがお嬢様を狙《ねら》ったというのもわかります。しかし、心配しないでください。どうやら犯人たちは素人《しろうと》の集団らしい。意思の疎通もうまくいっていない、封筒《ふうとう》の消印のことも考えに入れていない。まるで子供の犯行だ。お嬢さんは無事にもどってきますよ」  深夜二時。  クニコの部屋《へや》の窓を、頭が通るぶんだけ開けて、外を眺《なが》める。冷たい空気に、顔の毛穴がひきしまるような気がした。ほとんどの母屋《おもや》の窓は電気が消えて、暗闇《くらやみ》の中で静まり返っていた。ただ一つ、警官のいる一階の和室だけが明るく、母屋と離《はな》れの間を通る砂利道《じゃりみち》へ、白い光を投げている。どうやらコンビニと警察は二十四時間いつでも稼動中《かどうちゅう》らしい。 「今、裏門に、監視《かんし》はあると思う?」  わたしは窓をしめた。 「それらしい人影《ひとかげ》は見たことありませんねえ……。このまえ、夜中に外へ出たときは、母屋で仕事をしていた警察の方に見つかりましたけど。裏の方は監視の対象外だと思います」  それを聞いたわたしは、ひさびさに外へ出てみたくなった。コンビニで、何か素敵《すてき》な食べ物を買って、口にガシガシ詰《つ》め込みたかった。 「わたしは、外へ行く!」  握《にぎ》りこぶしをつくって、宣言した。 「えー! それは、だめですよぉ……」  クニコは反対したが、所詮《しょせん》、彼女にわたしを止めることはできないのである。 「行くったら行くの! 一刻も早く、ミルキーとかチェルシーを食べなくては、わたしは死んでしまうの!」 「それじゃあ、わたしもついて行きます」  クニコは、ところどころ繕《つくろ》いのある半纏《はんてん》を取って立ちあがった。  わたしも、彼女の所有していた半纏を羽織《はお》る。防寒具としては、家出したときに着ていたコートや、クニコの部屋《へや》へ住みつきはじめたとき自室から運んできたダウンジャケットなどもあったのだが、それらは着ないことにする。わたしが家出したときの服装を、警察は知っているのだ。だから、わたしといっしょに、着ていたコートまで捜索の対象になっているかもしれない。ダウンジャケットなどは、よくわたしが着用していたものなので、知り合いに見かけられたときに声をかけられるかもしれない。  変装のために、巨人軍《きょじんぐん》の帽子《ぼうし》をかぶる。わたしは、両手に片足ずつ、靴《くつ》を持って部屋を出る。床《ゆか》のわずかなきしみを気にしながら、離《はな》れの玄関《げんかん》を抜《ぬ》けた。だれにも見つかってはいけない。  正門はカメラで監視されている。当然、裏門を通らなくてはいけない。そのために砂利道《じゃりみち》を通るとなると、警察が待機している和室の窓を横切らなくてはいけない。夜だから、中からは反射して見えないかもしれないが、前回、クニコは発見されている。少々、遠回りになるが、いまだに明かりのついている和室の前を避《さ》けて、離れの外周を回ることにした。 「もしも、あいつらが見張っていたら、クニコさんが上手《うま》くおとりになるのよ! その間に、わたしは容赦《ようしゃ》なく走って逃《に》げるからね!」  彼女は緊張《きんちょう》したようにうなずいた。  離れの右手に沿って、小走りに駆けぬける。まるで脱走兵《だっそうへい》のように頭を低くする。幸い、クニコが尊い犠牲《ぎせい》になることなく、わたしたちは裏庭へ出た。何も明かりを持っていなかったが、空の星が闇《やみ》をうすくしてくれる。キンと冷えた夜の空気の中、広大な裏庭には、わたしの背丈《せたけ》ほどもある石や、ねじれた形の松の木が、影《かげ》になって静かに立っている。  動く人影は見当たらない。裏庭の真ん中を横切るのは目立つ。見晴らしがいいのである。よって、木々の植えられている端《はし》の方を通る。裏門は星明かりの影になっており、暗闇《くらやみ》に沈《しず》んで見えなかった。クニコに誘導《ゆうどう》されて、その小さな出口を抜ける。  菅原家の敷地《しきち》を出てからもしばらくの間、いそぎ足で歩く。もう見つからないだろう、という場所へきて、ようやく立ち止まった。わたしたちは、軽い緊張感のあとにやってくる愉快《ゆかい》さのおかげで、楽しい気分になった。肺がうれしそうに、純度の高い夜の空気をいっぱいに吸い込む。冷たい空気が体に入ると、寿命《じゅみょう》が二ヶ月ほど延びたような気がした。  歩きながら、最寄《もより》のコンビニエンスストアへ向かった。道の両端に並んでいる民家は、いずれも眠《ねむ》りに入っている。  途中《とちゅう》、この地域で定められているゴミ置き場の脇《わき》を通りすぎた。中身の詰《つ》まった半透明《はんとうめい》のゴミ袋《ぶくろ》が、一個、放置されている。 「あー、今日は可燃ゴミの日じゃないのにー! 回収する人が、困るじゃないですかぁ……!」  クニコはいかにもゴミ捨てのプロらしく、ルール違反《いはん》を断じて許さないらしい。頬《ほお》を膨《ふく》らませ、回収する人間の苦悩《くのう》についてめずらしく熱い口調《くちょう》で語った。  しばらくわたしたちは、寒いということを話題にして歩いた。 「……結局、誘拐《ゆうかい》は嘘《うそ》だったってことにはできませんでしたね」  クニコがぽつりとつぶやいた。  彼女の報告では、屋敷内《やしきない》は依然《いぜん》として緊張したまま、まるで菅原家を覆《おお》う空気の層全体が外側から圧力を受けているようだという。どこへ行ってもその圧迫《あっぱく》を感じるようで、呼吸するのも苦しく、うまく酸素が取り込めないのだという。わたしも三|畳《じょう》の部屋《へや》にいながら、似たような重苦しさを感じていた。  コンビニエンスストアの店内は明るく、白い光に満ちていた。  店内のカメラを気にしながら、棚《たな》を眺《なが》めて歩く。げっ、世間の情報から遠ざかっているうちに、ポッキーの種類が増えている! カゴの中に、「キットカット」や「白い風船」、「パイの実」、「たけのこの里」、「たべっこどうぶつ」等を次々と放《ほう》り込む。「カントリーマアム」や「エリーゼ」も忘れてはいけない。  山積みになったお菓子《かし》のバーコードを、女性の店員がひとつずつ読み取る。この人は、この先にある大きな屋敷で、間抜《まぬ》けな誘拐事件が発生していることを知らないのだなあとぼんやり考えた。  いつもは、こんなにたくさんのお菓子を、一度に買ったりしない。もし、いつもそうしていたら、たとえ帽子《ぼうし》をかぶって変装していても、お菓子の山を見られた時点でわたしであることがばれていたにちがいない。  店を出て、お菓子のつまった袋《ふくろ》をクニコに持たせる。わたしは当たりくじつきの棒アイスをなめながら、屋敷へ向かって歩いた。 「このまま、屋敷には戻《もど》らず、本当に誘拐されるまで旅をするというのはどうかね」  五メートルほど遅《おく》れてついてくるクニコの方を体全体で振《ふ》り返り、そう言ってみた。そのまま、後ろ歩きを続けることにした。 「冗談《じょうだん》はよしてくださいよぉ……」  重い荷物を両手に提《さ》げて、彼女は心底、困ったような声を出した。 「買ったもの、大事に運んでね。そのクッキーやジュースは、クニコさんよりも大事なものなんですからねー」 「ナオお嬢様《じょうさま》こそ、前を向いて歩いてくださいよ。危ないですよ」  聞いていないふりをしながら、後ろ歩きのままアイスをなめる。たとえ冬の寒いときでも、わたしはアイスクリームを食べる人間である。 「あ、当たりだ」  アイスの棒に、『もう一本』の文字。それをかかげて、クニコに見せる。  彼女は目を大きく開いて、わたしの右斜《みぎなな》め後方を見ていた。何か叫《さけ》び声をあげようとする瞬間《しゅんかん》の、大きく開いた口。ビニールが手から離《はな》れる。さきほど、バーコードを読み取ったばかりの商品が、アスファルトに散らばる。  わたしは後ろ歩きのまま、いつのまにか十字路の真ん中に飛び出していたらしい。  強烈《きょうれつ》なライトが一瞬《いっしゅん》だけ、右手の背後《はいご》から全身を照らす。視界にあるものが、その瞬間だけ、白くなる。すぐそばで、重くて硬《かた》いものがぶつかる、大きな音。熱の衝撃波《しょうげきは》が伝わる。  わたしは突《つ》っ立ったまま、アイスの棒を高くかかげ、最初から最後まで動かなかった。奇跡的《きせきてき》に、怪我《けが》はなかった。その代わり、車の方がわたしをよけていた。十字路を構成する壁《かべ》の一画に激突《げきとつ》し、大破していた。前の部分が紙を丸めたようにつぶれ、煙《けむり》を吐《は》き出している。  クニコが走って近寄ってきた。なにをやるのかと思ったら、上げたままになっていたわたしの右手をつかんで、下におろした。  まわりの民家が、さきほどの轟音《ごうおん》に目覚めだした。暗かった窓に、明かりがともる。時間差で一個ずつ、電気のついた窓が増えていく。じきに人がやってくるだろう。わたしは、ついに見つかることを覚悟《かくご》した。  しかし、クニコが、わたしの両肩《りょうかた》をつかんで叫んだ。 「部屋《へや》に戻ってください、早く! 車、わたしを避《よ》けて壁にぶつかったことにしますから!」  わたしから変装用にかぶっていた黒い野球帽《やきゅうぼう》を取り上げると、自分の頭に載《の》せた。彼女には小さすぎるらしく、入らない。落としてちらばっていたお菓子《かし》を手際良《てぎわよ》くかき集め、袋《ふくろ》に入れると、それをわたしに持たせた。 「このお菓子も、持って帰っていてください。わたしがこんなに大量のお菓子を持っていたら、怪《あや》しまれます……!」  はじめて見る彼女の気迫《きはく》に驚《おどろ》きながら、正常な判断の不可能な状態で、わたしはいつのまにか走っていた。両手にコンビニの袋を持って、なかば無意識のうちに、出てきたときと同じルートを通る。ふと気づいたときには、クニコの三畳部屋《さんじょうべや》へ戻《もど》り、わたしはコタツに足をつっこんでいたのである。  アイスの棒は、事故現場に残してきてしまったらしい。コタツの上に、買いこんだお菓子がどっさり載っていたが、食べたいという気持ちは起きない。  時計《とけい》を見ると、深夜の三時だった。 [#ここから7字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  結局、クニコが帰ってきたとき、窓の外はぼんやりと明るくなっていた。彼女はあの後、車を運転していた人物が救急車に運ばれていくのを見送り、警察の事情|聴取《ちょうしゅ》を受けていたそうだ。警察の方は菅原家で誘拐《ゆうかい》事件が発生していることや、彼女が渦中《かちゅう》の家の使用人であることを知っていた。よって、なぜこんな夜中に出歩いているのかという追及が待っていたそうである。自分の食料の買い出しであると告げ、事故の原因などについて、独特のゆっくりとしたいらいらする声で説明した後、彼女は運転手の運ばれた病院へパトカーで連れていってもらったそうである。 「安心してください、大きな怪我《けが》はなかったようです。ただの脳震盪《のうしんとう》で、運転手はすでに気絶から覚めていました」  クニコはわたしの向かい側に座《すわ》り、コタツにひじをついて説明した。  運転していたのは、近所に住んでいる中年の男性だったらしい。事故の原因は、わたしが後ろ歩きで突然《とつぜん》、十字路の真ん中に飛び出したことにある。もしかすると、そのせいでその男が死んでいたかもしれないと考える。冷気の忍《しの》び寄る三畳部屋の隙間《すきま》に関係なく、背筋が寒くなる。 「運転していたその人、病院のベッドに寝《ね》かされたまま、かんかんに怒《おこ》ってました。もうー、わたしがお嬢様《じょうさま》の代わりに怒られてきたんですよー! 本当に、怖《こわ》かったんですからね! だって、顔を真《ま》っ赤《か》にして怒鳴《どな》るんですもの。病院中に大声が響《ひび》いて、看護婦が、静かにしてくださいって言い出したんです」  彼女が病室で頭を下げ、わたしの代わりに怒られて、すべての罪を引き受けている場面を想像した。  どうやら運転手は、事故の原因がクニコであると信じたようだ。 「クニコさんは背が高いし、わたしの背は低い。身長差がかなりあるけど、よく、運転手は、この入れ替《か》わりに気づかなかったね」 「それはですね、きっと、ナオお嬢様が片手を高く上げていたからですよ。それで身長が高く見えたんです。これはもう間違《まちが》いありません」  彼女は大真面目《おおまじめ》な顔をした。なわけあるかい。  運転手がわたしと彼女を見誤ったのは、どちらも半纏《はんてん》を羽織《はお》っていたからだろう。服装がよく似ていたのだ。 「運転手の方が、もしも巨人《きょじん》ファンでなかったら、きっとお説教はもっと長引いてましたよ!」  帽子を巨人軍のにしておいたのが、幸いだったらしい。 「まあ、きみがわたしの身代わり人形になるのは当然のことだがね」  わたしがそう言うと、彼女は頬《ほお》を膨《ふく》らませた。 「本当にもう!」  心の中では、すまねえ、とつぶやいていた。  一月七日の午前中、菅原家の母屋《おもや》では、事故の責任について話し合いが行われた。どうやら運転手の怒《いか》りは相当なものらしく、裁判になるのだろうかとわたしは心配した。クニコに渡《わた》した携帯《けいたい》電話は不通で、じかに聞くことはできなかったが、後でその様子を彼女の口から聞かされた。  クニコを中心に座《すわ》らせて、この誘拐騒動《ゆうかいそうどう》の最中に増やしてくれた頭痛の種について、雇《やと》い主であるパパや警察官たちの意見の交換《こうかん》が行われたそうである。誘拐犯人を刺激《しげき》したかもしれない、とか、いやそれはないだろう考え過ぎだ、というような話が交《か》わされたらしい。結局、彼女はすぐさま休暇《きゅうか》をとって、菅原家がいいと言うまで実家で休んでいるように言い渡された。 「それって、つまり追い出されるということなの?」  昼食時、クニコからそのことを聞かされた。彼女は、わたしが食べるカップラーメンのために、離《はな》れの給湯室から三畳部屋《さんじょうべや》へお湯を運んできてくれていた。 「追い出されるだなんて、そんな……。ただ、すぐに荷物を片付けて、明日の夕方までにこの家を出発し、実家で骨休みしなさいと言われただけですよ」  わたしは、血の気が引くような思いだった。 「ばかね、それがつまり追い出されるってことなのよ」 「えー、ちがいますよー」  娘《むすめ》が誘拐されているこの重要な時期、単なる使用人の不注意が原因で起こったつまらない交通事故のせいで、人にさわがれるのはまずい。そうパパは判断したのかもしれない。犯人を刺激《しげき》して、娘の命に関《かか》わるかもしれない。できるだけ波風を立てず、丸く収めるために、原因をつくった使用人に責任を取らせて遠ざけておくのが一番だ。  それに、クニコはこの家の中で、もっとも価値のない人間であり、いてもいなくても変わりないと信じられていたのだ。彼女はまわりのそのような視線について何も言わないが、この処置には、仕事をろくにできないくせにコネで働かせてもらっている彼女への使用人たちの反感が、少なからず影響《えいきょう》しているような気がした。 「明日、この三畳部屋を引き払《はら》うの?」  クニコは困ったような顔をして、うなずいた。わたしはどこへ行けばいいのだろう?  カップラーメンにお湯を注いで、だまって考え込む。十秒ほど思案した結果、わたしは解決策を打ち出した。 「身代金《みのしろきん》を要求しよう」  用事が済み、母屋《おもや》での仕事へ戻《もど》ろうとしていたクニコは、一切《いっさい》の動きを停止《ていし》した後、首をかしげた。 「……え? なんです?」 「身代金を要求するの。架空《かくう》の犯人に誘拐されている菅原ナオの身代金を、菅原家に要求するの。そして、あなたがお金の入った鞄《かばん》を持って、犯人との受け渡《わた》しを行う」 「はぁ……。あれ? わたしが、受け渡しするんですか?」 「しかも、すごく上手《うま》くやってのけるの。それで、あなたは英雄《えいゆう》になるのよ。そうすれば、あなたはだれにも文句を言われない。この家を出て行かなくてもよくなるよ」  わたしは、彼女がクビにされるのをだまって見ていられなかった。彼女がいなくなってしまうと、三畳の部屋にいられなくなるという単純な理由ではない。いや、見方によればさらにシンプルで、複雑なものではないのかもしれない。ただわたしの胸の中には、クニコにずっといてほしいという強い気持ちがあったのだ。 「そのぅ……、つまり、わたしを現金の受け渡しで活躍《かつやく》させて、ここを出て行かなくてもいいことにするわけですね?」 「珍《めずら》しく、理解が早いじゃないか」  彼女は心持ち顎《あご》を上げて、何もない斜《なな》め上二十センチメートルのあたりに焦点《しょうてん》を合わせる。がらにもなく、何事か考えはじめたようだ。間抜《まぬ》けに口を開けたまま、それはまるで餌《えさ》が投げ込まれるのを待っている鯉《こい》のようだった。おそらく、迷っているのだろう。 「……あのう、わかりました。やりましょう」  クニコはそう言うと、一時間後に戻ってくることを告げて部屋を出た。それまでに、わたしは手紙を作成することにした。  身代金《みのしろきん》を用意させることと、受け渡《わた》しには使用人の楠木クニコを使うこと、そして、金と娘《むすめ》の交換《こうかん》を明日行うことなどを記す。その手紙を今日中に屋敷《やしき》へ提出するつもりだった。そして、今夜中に用意を調え、明日の午後、受け渡しの決行である。急ぎすぎだろうか、とも思う。しかし、明日にはクニコが追い出されるし、わたしは早急にこのくだらない騒動《そうどう》に決着をつけたかった。 [#ここから3字下げ] あしたの 午後 むすめを かえす 金と こうかんだ 使い古しの 札で 200万 よういしろ 金は 鞄に入れて くすのきくにこ に もたせろ その女が うけわたしを おこなう あした 時間が きたら 電話をかける 家のなかで たいきしておけ [#ここで字下げ終わり]  手紙に指紋《しもん》をつけないよう、注意して封筒《ふうとう》に入れる。これをクニコが、さりげなく正門の郵便受けへいれてくるのだ。  いや、正門はいけない。常時、ビデオ撮影《さつえい》されている。では、クニコが手紙を発見したことにして、直接、パパに手渡《てわた》すというのはどうだろう。しかし、彼女を受取人に指名した手紙が、本人の手で運ばれてくることに、警察は不審《ふしん》なものを感じないだろうか。 「すがわら さま」という文字を雑誌の中から探し出し、切りぬいた。できるだけ犯罪などとは無縁《むえん》の印象を受けるように、それぞれの文字の大きさを整えて、丁寧《ていねい》に封筒の表へ貼《は》る。  次にクニコが部屋《へや》へもどってきたとき、封筒を差し出した。 「これを、隣《となり》の家の扉《とびら》にでもはさんできて」  彼女は指紋をつけないよう注意して受け取る。 「隣の家に……ですか?」 「別に、隣でなくてもいいけど。直接、菅原家の郵便受けに入れるのはまずいでしょ。だから、これをまず、他人の家に放《ほう》り込むの。たまたまこれを受け取った人は、封筒の文字を見て、きっとこの家へ運んでくるにちがいないわ」 「で、でも、本当にうまくいくでしょうか……」 「あなたが、留守中《るすちゅう》の家を選ばなければ、きっと大丈夫《だいじょうぶ》よ。そうね、人の好《い》い方《かた》が住んでるおうちでないといけないね。これがうまくいくかどうかは、クニコさんにかかってるわ。郵便受けに入れると、封筒があるってことに、長い間、気づかないかもしれない。だから、よく目のつくところに置いてくるのよ」  クニコは封筒を持って、部屋を出ていった。昼間だから、屋敷《やしき》の出入りをするのに、さほど問題はないだろう。  その後、わたしはコタツと壁《かべ》の小さな隙間《すきま》に体をねじ込ませ、いつもの就寝《しゅうしん》ポーズをとりながら、現金受け渡《わた》しに関する計画を考え始めた。携帯《けいたい》電話のイヤホンに耳をすませてみた。クニコがいつものようにゴミを捨てに行こうとしているところだった。電話は不意に途切《とぎ》れた。電話で屋敷内《やしきない》の状況《じょうきょう》を聞くのはめんどうだったので、後でクニコから報告を聞くことにする。  わたしは、いろいろあって疲《つか》れていた。考えてみれば、ほとんど眠《ねむ》っていなかったのだ。  目を閉じると、昨夜に見た、前のつぶれた車体が思い出された。  菅原家から三|軒《けん》ほど離《はな》れた家の奥《おく》さんが、問題の封筒《ふうとう》を運んできたのは夕方の四時ごろだったそうだ。彼女が買い物に行こうとすると、扉《とびら》にはさまっていたそれに気づいた。切手が貼《は》られていないのをおかしいと思いながらも、「すがわら さま」という切りぬきの文字を見て、うちまで持ってきてくれたのである。  彼女は、その状況などについて警察から細かく尋《たず》ねられていたそうだ。これで、近所の人に、この事件のことが広まってしまうかもしれない。このことはだれにも言わないようにと警察が注意していたそうだが、無駄《むだ》のような気がする。  ついに犯人から、身代金《みのしろきん》に関する連絡《れんらく》があり、家の人間はみんな無口になったという。それでいて、だれかが何か言うのを待っているようでもあり、同時に、だれかが言葉を発するとそれをただちに止めるというような、おかしな雰囲気《ふんいき》だったそうだ。一月の空気には、先ごろ過ぎた正月の雰囲気など微塵《みじん》もなく、菅原家にいる人それぞれの、よそよそしい無言の目配せや苛立《いらだ》ちがあった。  要求された身代金を用意するため、エリおばさんが警察とともに銀行へ向かったと聞いた。二百万円程度なら、銀行へ行かずとも、母屋《おもや》を掃除《そうじ》すればかんたんに集まると思っていたのだが、違《ちが》ったらしい。この金額を要求され、「犯人は子供なのではないだろうか」と警察が見くびっていればいいのにと思っていた。  要求された身代金は、午後七時には用意されていた。鞄《かばん》に入れられ、警官の寝泊《ねとま》りしている一階の十二畳和室に、受け渡しの時間まで保管されることになった。  家の者や、警官たちは、犯人がクニコを指名した理由について考えていた。結局のところ犯人は、昨夜の事故|騒《さわ》ぎを聞きつけ、その原因を作ったクニコの性格に目をつけたのだろうと結論づけられていた。クニコの能力がいくつか人より劣《おと》っていることを、犯人は敏感《びんかん》に感じとったのであろう。そういった機転のきかない人間に受け渡しをさせれば、危険が少ないはずだ。  警官たちは、クニコに変装させた婦人警官に受け渡しをさせることも考えたそうだが、結局、言う通りにした方がいいという結論に達していた。わたしはほっとした。そうでないと、計画の意味がないのである。  わたしは数時間の仮眠《かみん》をとり、深夜の十二時に、現金の受け渡《わた》しに関する小道具などを製作しはじめた。小道具といっても、活字を切りぬいたただの手紙が、二通だけである。雑誌や小説から文字を探し、切りぬいて貼りつけるという作業に、わたしはずいぶん慣れてしまっていた。半径三十キロ以内にいる人間のうちで、もしやわたしが一番うまくこういったスタイルの脅迫状《きょうはくじょう》を作成できるのではないかと思ったが、これはもうまったく自慢《じまん》にならないどころか、孫にも秘密にしておきたいことである。  手紙を作成しながら、明日、正午から行われる現金の受け渡しについて、クニコと打ち合わせをした。彼女はいつも通り、ぶつぶつつぶやきながら、時間をかけて頭のメモ帳に記録していった。  クニコは夜中に、何度か母屋《おもや》へ行かなくてはならなかった。大塚の奥《おく》さんといっしょに、警官たちの夜食を作らなくてはならないらしい。窓から確認《かくにん》すると、警官たちの本部となっている和室の電気がついていた。彼らは身代金《みのしろきん》の入った鞄《かばん》と同じ部屋《へや》で、これまでになく緊張《きんちょう》した気持ちで仕事を行っているのだろう。  いや、菅原家にきている警官たちだけではない。おそらく、警察本部では、数十人という警官がこのふざけた事件についてまじめに捜査《そうさ》をおこなっていたのだ。そこへ、明日、身代金の受け渡しが行われるという連絡《れんらく》が入ったわけだ。これまで、失踪《しっそう》した後のわたしの足取りや、菅原家に恨《うら》みを持つ人間、その資産を狙《ねら》うだけの理由を持つ人物を調査していた人々が存在するはずだ。彼らもまた、複雑な気持ちでこの夜を過ごしているにちがいない。  早朝、まだ暗いうちに、わたしは家を出た。まわりに警官などがいないことを慎重《しんちょう》に確かめ、張り詰《つ》めた寒さの夜を走りぬける。まるで背中からだれかに追い立てられるような不安があり、今にも発見され、捕《つか》まえられてしまうのではないかという恐《おそ》ろしさがあった。裏門を出て、息があがるまで走り続け、暗闇《くらやみ》のアスファルトにわたし一人の靴音《くつおと》を響《ひび》かせる。やがて立ち止まり、ひざに手を当てて、激しく呼吸しながら後ろを振《ふ》り返ると、菅原家の敷地《しきち》を囲む高い塀《へい》は遠く見えなくなっている。  長い間、隠《かく》れていた、失踪先の三畳部屋を後にしたときのことが思い出される。 「じゃあ、もう行くから」  わたしはクニコへそう言うと、まるでちょっと散歩へ行くかのように、出て行こうとした。彼女は座《すわ》った状態で、コタツの上に突《つ》っ伏《ぷ》していたから、眠《ねむ》っているものだと思っていた。 「またのご滞在《たいざい》をお待ちしてます……」  彼女が顔をふせたまま、そう言った。クニコのコメントにしては、なかなかだな、と思った。 [#ここから7字下げ] 5 [#ここで字下げ終わり]  一月八日。  朝の六時、わたしは家から一時間ほど歩いた先にある十代橋駅前のコンビニエンスストアで、朝食にパンを買った。まだ空は暗く、街灯もついていたが、電車を利用する人間がまばらに駅構内を歩いていた。気温もあがっておらず、彼らは寒さからのがれるように肩《かた》をすぼませて通りすぎる。  ベンチに座《すわ》り、パンの袋《ふくろ》を開けた。人の視線が気になった。この早い時間にそうなる可能性は低いが、知り合いが偶然《ぐうぜん》、通りかかるかもしれない。わたしは人気《ひとけ》のない場所へ移動した。一応、変装用の帽子《ぼうし》を持ってきていたが、巨人《きょじん》の帽子は逆に目立つような気がするので、かぶらない。  クニコとの打ち合わせでは、六時間後の正午に身代金《みのしろきん》受け渡《わた》しを開始する手はずだった。そのことを考えると食欲が失《う》せてしまいそうになり、この食欲|不振《ふしん》をきっかけにダイエットが成功すればいいとぼんやり考えていると、なぜかいつのまにかパンを三つも平らげていた。  厚いコートの袖口《そでぐち》や襟元《えりもと》から冷気が忍《しの》び込み、体を冷やす。体を丸めて体表面を小さくし、熱が奪《うば》われていくのを防ごうとした。  ポケットの携帯《けいたい》電話からイヤホンを伸《の》ばし、聴覚《ちょうかく》は常《つね》に、そこから送られてくる音へ傾《かたむ》けていた。クニコの持っている電話が、時々、途切《とぎ》れがちになりながらも、菅原家の緊迫《きんぱく》した空気を伝えてくる。すでに屋敷内《やしきない》の人間は活動をはじめているらしく、無言で廊下《ろうか》を歩き回る音が、さきほどからしきりに聞こえてくる。いつもなら大塚の奥《おく》さんにののしられながら、クニコは家事をしている時間だ。しかし今日は仕事を免除《めんじょ》されているらしい。  まだ受け渡しをはじめる時間まで間《ま》があるものの、そのことを警察は知らない。今すぐにでも犯人から連絡《れんらく》が入るかもしれないと、すでにこの時間からクニコは、警察の集まっている十二|畳《じょう》の和室で待機させられていた。ときどき、まわりの人間に声をかけられている。そのたびに彼女の答える覇気《はき》のない声が聞こえた。わたしは想像した。広い和室の中、身代金の入った鞄と、そのつけたしのように座《すわ》らされたクニコ。まわりを、いかめしい面構《つらがま》えの刑事《けいじ》たちが歩き回ったりしており、彼女は血の気のうせた顔で所在なげにしているだろう。使用人の仕事をせずにただ座っていることについて、申し訳ないという表情をしているかもしれない。  彼女の着る上着に、ひそかに盗聴《とうちょう》のマイクが取り付けられたようだ。マイクと、それを動かす小型のバッテリーが服の裏側に縫《ぬ》い付けられたらしい。警察の一人がクニコへ説明する。 「昨日、届《とど》けられていた手紙によると、今日の午後、身代金の受け渡しが行われます。まだ詳細《しょうさい》はわかっていませんが、犯人は何らかの方法であなたに連絡を送り、指示を与《あた》えるでしょう。我々はあなたを遠くからひそかに監視《かんし》することしかできません。もし、犯人から連絡があった場合、このマイクに聞こえるよう、さりげなく指示を声に出して内容を我々に伝えてください。そうすれば、あなたを見失うことも少なくなり、先回りすることもできる」  説明している声は真剣味《しんけんみ》をおびており、彼の額に浮《う》かんでいる汗《あせ》の伝う音がイヤホンから聞こえるような気がした。若い声だった。もしかすると、いつだったか和室の窓から外を見まわしていた警官ではないだろうかと思った。 「あのぅ……、お金の入ったバッグに、発信機のようなものは取り付けられているのでしょうか?」  おずおずとクニコが質問した。 「はい、小型のものが縫《ぬ》い付けられています」 「ひょっとして、鞄《かばん》を開けると、色のついた液体がバッと犯人に降りかかるような仕掛《しか》けも……?」  若い警官は少し笑った。クニコののんびりした場違《ばちが》いな声が、空気を緩和《かんわ》させたような気がする。 「さすがに、そんなことはやっていませんよ。犯人を怒《おこ》らせることになる。そうなると、ナオさんの命に危険が迫《せま》る。もっとも大事なのは、犯人を捕《つか》まえることではなく、ナオさんを無事に救出することなのです。鞄に入っているお札も本物ですし、指示通り、使い古しのものです。実は、鞄に発信機を取り付けるかどうか、あなたにマイクを取り付けるかどうか、ずいぶん意見がわかれたんですよ」  九時になった。  わたしは、駅構内の片隅《かたすみ》にある自動|販売機《はんばいき》へ向かった。そこはあまり人のこない場所で、おそらくさっぱり繁盛《はんじょう》していない自販機である。その裏側へ、封筒《ふうとう》を差し込んだ。昨夜のうちに作成した手紙が、その中に入っている。風で飛んでしまったりしないよう、自販機裏の壁《かべ》にガムテープで固定する。テープはコンビニで購入《こうにゅう》した。  急いで作業し終わり、まわりを見る。だれにも見られていなかったはずである。数歩だけ下がり、封筒を隠《かく》したあたりを眺《なが》めた。関係のない人間に持って行かれてはいけない。しかし大丈夫《だいじょうぶ》、これならあまり目立たない。そこに封筒があるということを知って、わざわざ自販機の裏を探さなければ見つからないだろう。  だれかがこないうちに、わたしはその場を離《はな》れた。  打ち合わせでは、今日の正午、わたしは菅原家へ電話を入れることになっている。身代金《みのしろきん》の受け渡《わた》しを開始する連絡である。わたしは誘拐犯人に脅《おど》されて、言われた通りのことをしゃべっているように見せなくてはいけない。  十代橋駅へ向かえ。車を使ってもかまわない。そして、十代橋駅構内にあるコカ・コーラの自販機裏を探すこと。駅の構内から先は、クニコだけが来ること。犯人は遠くから監視している。もしも約束を破り、他《ほか》の人間が現れたら、わたしの命はない……。  わたしはそれだけを伝えて、すぐに電話を切る。電話は、公衆電話を用いる。  自販機裏に隠した手紙には、次のようなことが書かれている。 [#ここから3字下げ] 電車に のって たかし駅へ 行け えきまえの ゆうびんポストの うらがわをさがせ [#ここで字下げ終わり]  鷹師駅は、十代橋駅から電車で三十分ほどの位置にある。これからその駅前の郵便ポスト裏へ、二通目の手紙を隠しに行かなくてはいけない。  しばらく携帯《けいたい》電話に耳を傾《かたむ》けていた。時計を見ると、いつのまにか十時になっていた。十代橋駅周辺には、いくつかのデパートが並んでいる。そのうちのひとつがシャッターを開け、営業を開始した。そこに入り、男物のありふれたコート、つばの広い帽子《ぼうし》を手早く購入《こうにゅう》する。また、引越《ひっこし》の際に箱へまきつけるようなビニール紐《ひも》と、それを切るための鋏《はさみ》を買った。わたしは大きめの紙袋《かみぶくろ》を提《さ》げて、電車に乗り込んだ。  電車内に客はほとんどおらず、広々とした座席のひとつに腰掛《こしか》ける。電車は身震《みぶる》いするような振動《しんどう》の後、ゆっくりとすべるように動き出した。窓の外の風景が、次第《しだい》に速さを増してくる。暖房《だんぼう》がきいていたが、幸福な気分には遠かった。  携帯電話から聞こえる菅原家の情報に耳を傾ける。使用人や、パパ、エリおばさんがクニコへ声をかけていた。 「ナオを、お願いする」  パパの声は震えており、その憔悴《しょうすい》した顔が想像できた。胸が痛む。どうしてこんな状況《じょうきょう》になってしまったのか、考え込んでしまう。 「ナオお嬢様《じょうさま》のことが、心配でたまらないのですね」  クニコが、パパにたずねた。 「当たり前じゃないか」 「はぁ……。血が、つながっていらっしゃらないのに、ですか?」  パパが一瞬《いっしゅん》、沈黙《ちんもく》する。その姿は見えないが、ひるんだのではないかと感じた。彼女は、わたしに聞かせるためにそのような質問をしたのではないかと思う。なんてことをしてくれるんだ、と動揺《どうよう》し、耳にはめたイヤホンに指をかける。取り外すつもりだったが、わたしの耳はパパの返答を聞きたかったらしく、イヤホンが外されることはなかった。 「血は、関係ないんだ……」パパが力なく声を出した。まるで心細げな少年を思わせる響《ひび》きで、すすり泣くような弱さを感じた。「あの子の母親をわたしは愛したけれど、それすら、もはやあまり関係はない。わたしはあの子の、父親でありたいだけなんだ。授業参観のとき、わたしは親としてナオを見に行った。わたしが落ち込んでいると、あの子はわたしの背中に蹴《け》りを入れてくれた。この先、あの子の卒業式に顔を出したり、受験の合格をいっしょに喜ぶことができたら、どんなにいいだろう。やがて成人式が訪《おとず》れ、あの子は大人《おとな》になる。綺麗《きれい》な服を着て、化粧《けしょう》をし、かしこまったあの子と並んで、成人式の写真を撮《と》れたらいい。ナオは、どこかの会社へ就職するかもしれない。スーツ姿で初出勤するのだろうか。いつかいい相手を見つけて、嫁《とつ》いでいくのだろうか。きっとそのころには、わたしはもう髪《かみ》に白いものが多くなっているのだろう。貧相《ひんそう》な老人になっているかもしれない。あの子は赤ん坊《ぼう》を抱《だ》いて、時にはこの家へ顔を出してくれるだろうか。わたしは孫の顔を見ると、うれしさでポックリ逝《い》ってしまうかもしれない。わたしがあの子を育てているのは、義務などではないんだよ。ただの、どこにでもありふれた、一般的《いっぱんてき》な想《おも》いからなんだ」  言い終えるとパパは席を外した。  窓の外を見ると、電車は鷹師駅の手前まできていた。  天気はいい、よく晴れている。  改札を出た。駅はわりと小さいが、その周辺にはファーストフードの店が並んでいる。美しく設計された円形の花壇《かだん》の周りに、散歩を楽しんでいる親子連れの姿が見られる。駅前の目立つところに時計の塔《とう》があり、ちょうど十一時の鐘《かね》を鳴らした。楽しげなメロディが流れる。時計の仕掛《しか》けが動き始め、文字盤《もじばん》の一部が開くと、中からピエロの人形が現れて回転をはじめる。数人の子供がそれをうれしそうに見て、親の手を握《にぎ》りしめている。気温は高くなかったが、日差しは強く、わたしはその光景をまぶしく感じた。  駅前のポスト裏に二通目の手紙を貼《は》りつけた。 [#ここから3字下げ] たかしりょくち公園の ベンチ へ いけ [#ここで字下げ終わり]  活字の切りぬきで、手紙にはそれだけが記されている。  クニコはこれを読み、駅から十五分ほど歩いた場所にある鷹師緑地公園を目指すのである。もちろん、読むまでもなく、彼女とは行き先の打ち合わせはすませてある。しかし、警察がどこかから監視《かんし》している可能性を考慮《こうりょ》し、手紙を探し出して読むふりをしなくてはいけないのだ。それに、彼女は盗聴器《とうちょうき》にむかって、手紙を読み上げるように指示を受けていた。  公園が、身代金《みのしろきん》受け渡《わた》しの主な舞台《ぶたい》となる。つまり、屋敷《やしき》を出て十代橋駅へ向かったクニコは、そこから電車に乗り、鷹師駅へ向かうよう手紙で指示される。その後、駅前のポスト裏にある手紙で公園へ向かわされ、そこで受け渡しが行われる。これが警察側から見た、全体的なストーリーである。屋敷を出発し、最終地点である公園まで、一時間もかからないだろう。もっとクニコへの指示を多くして、警察を引きずりまわした方がいいのだろうか。しかし、その用意をする余裕《よゆう》は、時間的にも、精神的にも、なかったのだ。  時計から流れていたメロディが止まり、子供を楽しませていたピエロが文字盤《もじばん》の奥《おく》へ隠《かく》れる。  デパートの紙袋《かみぶくろ》をぶら下げて、わたしは駅前の通りを歩き、公園の方角へ向かった。携帯《けいたい》電話の向こうでは、クニコが警察の人からさまざまな指示を受けていた。いや、指示というよりは、注意なのかもしれない。とにかく、失敗はゆるされないということや、犯人を刺激《しげき》してはいけないことなどが繰《く》り返されていた。 「いいですか、この鞄《かばん》にはお金が入っています。重要なお金です。絶対に、離《はな》さないようにしてください」 「あのぅ、もう鞄を持っていてもいいですか……? なんだか、突然《とつぜん》、犯人の方から電話が来ると、鞄を忘れて飛び出してしまいそうな気がして……」  警察の人間が、苦笑するような声をもらす。 「いいですよ。鞄《かばん》を持って、この部屋《へや》でしばらく待っていてください。勝手に、いなくならないようお願いしますよ」  身代金《みのしろきん》のつまった鞄を抱《かか》えて一階の和室に待機していることが、電話|越《ご》しに聞こえる会話の端々《はしばし》から想像できる。その部屋には他《ほか》に、本部と無線で連絡《れんらく》している警察官しかいないようである。他の者は、居間の方へ移動しているのだろう。犯人からの連絡は居間の電話にかかってくるのだ。  駅から公園の入り口まで、きっかり十五分かかった。  公園の敷地《しきち》は広く、一周するのに一時間近くかかるかもしれない。夜中にも野球ができる照明つきのグラウンド、芝生《しばふ》の生えた丘《おか》、どこかの芸術家が設計した噴水《ふんすい》や彫刻《ちょうこく》、子供たちが鼻水をたらして喜ぶような遊具がある。  それに、無数のベンチ。  わたしは日向《ひなた》ぼっこもかねて、ぶらついた。ずっと三畳部屋《さんじょうべや》にいて、太陽の下をどうどうと歩き回るのはひさびさだったのだ。池に石を投げ込んでみたり、地面に群れている鳩《はと》へ「わー!」と突進《とっしん》してはばたかせてみたりした。犬を散歩させている少年を眺《なが》めたり、子供を呼ぶ母親の声を聞いたりしていた。  イヤホンから、不意にキョウコの声が聞こえてくる。わたしは立ち止まり、そばにあるブランコに腰《こし》をおろした。自分の全体量がスライドする浮遊感《ふゆうかん》、何年ぶりだろう。 「あら? 他の方はいらっしゃらないの?」  キョウコの足音が近づいてくるのを聞き取る。  無線で本部と連絡していた人間も、いつのまにか部屋を出て、和室はクニコ一人になっていたようだ。その広い部屋の中、彼女は緊張《きんちょう》した面持《おもも》ちでいたのにちがいない。 「もう、お金の入った鞄を抱《だ》きしめて、歩く練習をしているの?」 「あ、いえ、すみません、違《ちが》うんです。なんだか、動いていないと不安で……」  おかしな組み合わせだなと思う。二人並んで立っているのだろうか。人より背の高い地味な服装の使用人と、あまり背は高くないが着ている服の値段は高い菅原家の奥《おく》さん。奇妙《きみょう》な光景だ。 「じきにはじまりますね……」キョウコの緊張《きんちょう》した声。「……お願い、失敗しないようにね」 「奥様も、ナオお嬢様《じょうさま》のことが心配なのですね?」 「……ええ、まあ」 「お二人は、あまり仲が良くないものだと思っていました。だって、そのぅ、よく喧嘩《けんか》してらっしゃいましたし……」 「そうね……」少々ためらいがちに、キョウコは続けた。それは不安げで、子供のような声だった。「たぶん、わたしはあの子に嫌《きら》われているのよ……。それは、間違《まちが》いない。これまでわたしは、そんなあの子に対抗《たいこう》するように、負けたくないという気持ちで嫌い返してきた。でも、きっとそれは正しくなかったと思う」  わたしは、あの子のことを一度でも考えたことがあっただろうか。キョウコはそう言った。わたしはあの子のように、母親を亡《な》くしたことはない。いつも人生には両親がいた。学校でひどいことを言われたり、社会で無視されたりしても、わたしには帰る家があった。あの子が誘拐《ゆうかい》されたと知って、そのことを考えてみたのよ。  人は、つまり、見返りを要求するじゃない。何かしてもらいたかったら、そのかわり、何かしろ、という感じで。その指輪がほしいから、このネックレスと交換《こうかん》。命を救ってやるから、極秘《ごくひ》情報と交換。娘《むすめ》を返してほしかったら、三千万円と交換。恋愛《れんあい》でもそうかもしれないわ。すべてのサービスには、見返りが要求される。  でも、この世界でたったひとつだけ、見返りを要求しない人々がいると思うの。彼らは、ときどき、自分を犠牲《ぎせい》にしさえする。わたしがアメリカに留学しているとき、ちょっとした事故に遭《あ》った。それを聞きつけた両親は、すべての予定を投げ出して、ろくに用意もしないまま日本から駆《か》けつけてきた。つまり、そういうこと。世界中の人間がわたしを嫌いになっても、おそらくその関係にある人々だけは、無償《むしょう》でわたしのことを好きでいてくれるだろう。もちろん、全部がそういった幸福なパターンではないかもしれないけど、少なくともわたし自身が同じ立場になったときも、やっぱり同じ行動をとるのだと思う。  でも、あの子には、そのだれにでも用意されているべき当然のものが、八歳のときに消えてしまった。幸い、家を追い出されなかったけど、もしかすると、血のつながらない父親の愛情を、借り物のように感じていたかもしれない。そして、横から突然《とつぜん》に現れたわたしは、あの子から一切《いっさい》をうばい去る敵として見えたにちがいない。あの子が誘拐されて、そう考えた。すると、自分がどうすればいいのかわからなくなるの。  キョウコの話を、クニコは静かに聞いていた。 「ごめんなさい、おかしな話をしてしまったわね……」 「あ、いえ、どうもすみません。……本当に、失礼しました」  クニコはこれまでになく恐縮《きょうしゅく》した声を出した。きっと、何度も頭をさげているのにちがいない。 「……がんばってね」  クニコはやや緊張《きんちょう》気味に、「はい……」と答え、何か言いたそうに口籠《くちご》もった。その様子を不審《ふしん》に感じたのか、キョウコが話を促《うなが》す。 「そのぅ……、今のうちにトイレへ行ってきたいです……」  キョウコが苦笑し、早く行ってきなさい、と言った。クニコがトイレへ向かう足音。 「あ、クニコさん……」  背後から声をかけられたような気がしたが、無視してクニコは和室を出たようだ。彼女は携帯《けいたい》電話の存在を忘れていなかったらしく、直後に不通となった。そのことが示すことはつまり、わたしの存在を頭にいれたまま、キョウコからさきほどのような話を聞き出したということである。  ベンチに腰掛《こしか》けたまま、ぼんやりキョウコの話を思い返す。その内容よりもむしろ、彼女自身のことが頭に浮《う》かぶ。これまでわたしは、彼女が何か考え、心にさまざまなものを感じて生きているのだということを意識していただろうか。わたしが心の中に作った身勝手な檻《おり》の中へ彼女を閉じ込め、動物園の生き物のようにしか見ていなかったのではないだろうか。キョウコと、まともに話をしたことがない。家へ帰ったら、わたしは彼女に謝《あやま》ってしまうかもしれないと思った。  わたしは公園の風景を眺《なが》めながら、頻繁《ひんぱん》に腕時計《うでどけい》へ視線をやっていた。携帯電話がポケットの中で振動《しんどう》する。クニコがまわりのすきをみて、電話をつないだようだ。しかし、わたしは菅原家内の物音には耳をかたむけず、葉の散っている木々の間を歩いた。落ち葉の踏《ふ》みしめられる音に、聞き流される雑音混じりの音声が重なる。  やがて、時計の長い針と短い針が、「12」の文字上で重なった。  公衆電話のボックスに入り、携帯電話のイヤホンを一旦《いったん》、耳からはずして、家の電話番号を押《お》した。 [#ここから7字下げ] 6 [#ここで字下げ終わり]  呼び出し音が鳴《な》る。わたしは目を閉じてイメージした。  自分は今、窓のない部屋《へや》に閉じ込められている。扉《とびら》がひとつだけあるが、鍵《かぎ》がかかっている。真ん中に古い机と椅子《いす》があり、わたしはそこに座《すわ》らされている。机の上に電話機がある。わたしのかたわらには、男が立っている。コートを着た男。わたしを誘拐《ゆうかい》した犯人だ。彼はわたしに受話器を持たせて、家に電話するよう強要した。彼がわたしの前に、何か文章の書かれた紙を広げる。乱暴に書かれた文字。わたしは電話で、その文章を読み上げなくてはならないのだ。呼び出し音が続く。もし、犯人からの電話があった場合、きっとパパが電話を受けるのだろう。おそらく屋敷《やしき》の居間、逆探知の機械が取り付けられた電話の前で、パパが警察から何事か注意を受けているに違《ちが》いない。逆探知を成功させるために、話を引き延《の》ばすよう言われているのだ。  呼び出し音が途切《とぎ》れ、受話器のあげられる音。 「……もしもし」  緊張《きんちょう》したパパの声。かすかに震《ふる》えている。  その声が鼓膜《こまく》を通じて、全身に染《し》み渡《わた》るのを感じる。 「……パパ」  一秒ほど間を置いて、声を出した。 「ナオ!」激しい感情のこもった声。受話器から、割れて聞こえた。「大丈夫《だいじょうぶ》か!? 今、どこにいる? 何もされていないかい?」 「うん」平気だと言いかけて、声を押《お》しとどめる。時間を引き延ばしてはいけない。警察がこちらの所在を突《つ》き止めてしまう。「……パパ、ごめんなさい。何も言ってはいけないことになっているの。そう、命令されているの……」  演技などしなくても、冷静ではいられない。 「命令? だれに命令されているのだい!? そこに、だれかいるのかい!?」  目を閉じると、わたしのイメージした犯人が、パパの質問に答えるなという強い意思表示をした。無視して目の前の文章を読み上げろ、と彼は言っている。彼はわたしの生殺与奪《せいさつよだつ》の権限を持っており、絶対なのである。 「……使用人の楠木クニコを、十代橋駅に行かせろ」まるで文章を棒読みするように、感情のこもらない調子で言葉を並べた。受話器の向こうでパパが息を呑《の》む。「駅構内にあるコカ・コーラの自動|販売機《はんばいき》を探せ。その裏側の壁《かべ》に、手紙をはってある。それを読め。駅までは、車をつかってもかまわない。ただし、構内には楠木だけが入る。もし、他《ほか》の人間が後をついてきたり、警察らしい人影《ひとかげ》が見えたら、……娘《むすめ》の命はない」  言い終えると、わたしはすぐに受話器を置いた。  はずしていた携帯《けいたい》電話のイヤホンを耳にはめる。一気にあわただしい雰囲気《ふんいき》である。クニコが呼ばれる声。 「楠木さん、十代橋駅だそうです!」  警察の者らしい男の声。 「え……、あ、はい。今すぐ、行きます」 「駅までは、車で送っていただいていいそうです。楠木さん、免許は持ってらっしゃらないですよね? 大塚さんに送っていただきます。警察の者に運転をさせたいところですが、犯人が監視《かんし》しているおそれがあります」  身代金《みのしろきん》入りの鞄《かばん》を胸に抱《だ》いたクニコが、背中をおされるように玄関《げんかん》から外へ出る。足早に正門近くの車庫へ向かっているようだ。おそらく、みんなの視線は、クニコに集中している。  菅原家で運転手をしている大塚の旦那《だんな》さんが、車の用意はすでにできていることを告げる声。クニコが乗りこむ。娘《むすめ》を頼《たの》みます、失敗しないで、というパパやエリおばさんの声をかすかに携帯電話が拾い、車が発進する。  時計を見ると、十二時五分。  わたしは辺りを見まわした。公園から駅の方角に目をやる。  公園の敷地《しきち》に沿って、植木の並んだ歩道と、車がかろうじて並んで二台通れる程度の道がある。そのさらに外側には、低いビルが立ち並んでいた。それらは少しの隙間《すきま》もなく、まるで一枚の巨大《きょだい》な壁《かべ》を作るように建っている。クリスマスの直前、友人といっしょにここへ来た。あれはクニコの部屋《へや》に住み着いた日のことだ。  目標のビルを見つけた。三階建ての、古いビルである。友人と忍《しの》び込んだ建物だ。裏側は公園の方に面しており、勝手口らしき小さな木の扉《とびら》が見える。正面は駅から続く大通りに面していたはずだ。通りには、食べ物の店や、CDを売っている店が並んでおり、昼間のうちは人間が多い。  その、中身の入っていない、取り壊《こわ》し寸前の建物は、わたしの計画で、もっとも重要な場所である。なぜなら、菅原ナオはそのビルの中で発見される予定だからだ。  公園を後にして、目標のビルへ急ぐ。デパートで購入《こうにゅう》したコート等の入った紙袋《かみぶくろ》が、重く感じられる。早足でまっすぐ歩道を横切る。並んでいるビルのそばにくると、太陽の明かりがさえぎられて薄暗《うすぐら》く、一段と寒い。真昼でも、この季節の太陽は角度が浅いのだ。近くに食べ物屋が並んでいるのだろう、換気扇《かんきせん》から出されたいくつもの匂《にお》いが混じり合い、異様な臭気《しゅうき》と化している。  ビルの裏口は、汚《きたな》く、古い。手垢《てあか》と錆《さび》に覆《おお》われ、雨の染《し》みで、もともと何色だったのかわからなくなっている。かつて、正面から入り、この裏口から公園側へ抜《ぬ》けた。人のいない裏通りに、クリスマスソングが寒々しく聞こえていたのを思い出す。  わたしは取っ手に手をかけ、裏口を開けようとした。予想に反して、動かない。こんなビルでも、実は持ち主がいるのだろう。この二週間余りのうちに、開けた錠《じょう》は管理人が閉めたらしい。  わたしは迷った。ビルの正面に回り、表の入り口から入ろうか。そちらの方は、錠がおりていないかも。しかし、そうではないかも。  辺りを見まわす。裏口の左上、ちょうど見上げたととろに、窓がある。すりガラスに入ったひびを、ガムテープで補強《ほきょう》してある。小さな窓だったが、なんとかわたしなら潜《くぐ》りぬけられそうだった。しかし、背伸《せの》びをして、ようやく指先が窓下に届《とど》くという高さである。  隣《となり》の建物の裏に、ビール瓶《びん》のケースが積まれていた。わたしはそれをひきずってきて、足場にしようと考えた。  不意に、通りを数人の男の子が通る。おそらく高校生だろう。派手《はで》な服装をしていた。わたしは動きをとめ、何気ない様《さま》を装《よそお》って彼らが通りすぎるのを待つ。わたしはあきらかに不審《ふしん》な行動をしており、だれかに見咎《みとが》められてはならない。  男子高校生たちは、通りすぎる瞬間《しゅんかん》、じろじろと品定めするようにわたしを眺《なが》めた。わたしは緊張《きんちょう》し、息を殺した。この周辺は、案外、治安が悪いと友人が言っていた。ひったくりが多いそうだ。ただ通りすぎただけなのに、彼らを見て、ついそのことを思い出してしまった。  彼らが遠く離《はな》れ、見えなくなったのを確認《かくにん》し、ケースを運んだ。一個では、高さが足りない。背が低いことを呪《のろ》いながら、もう一つ重ねる。  携帯《けいたい》電話からは、クニコと大塚さんの会話が聞こえる。大塚さんは、しきりにクニコへ話しかけ、緊張をほぐそうとつとめている。クニコが、身代金《みのしろきん》の入った鞄《かばん》を抱《だ》きしめたまま首をすくめるように座席へつき、うなずきを返している光景が目に浮《う》かんだ。どうやら、もうじき十代橋駅に到着《とうちゃく》するらしい。腕時計《うでどけい》を見る。十二時十七分。あと、五十分程度で、彼女はここにやってくる。  動作の邪魔《じゃま》になるので、耳にはめていたイヤホンをはずしてポケットにしまう。ビール瓶《びん》のケースで作った足場に、片足を載《の》せてみる。ぐらついて倒《たお》れたりはしないようだ。大丈夫《だいじょうぶ》そうであることを確かめ、その上に立ってみた。  ぐんと見晴らしがよくなる。ビルの窓が一気に近くなった。窓のサッシに指をかける。窓枠《まどわく》には油汚《あぶらよご》れのような黒いものが付着しており、そこにほこりや泥《どろ》がこびりついていた。力をこめて開けようとするが、鍵《かぎ》がかかっていて開かない。  首をめぐらし、だれにも見られていないことを確認する。わたしは足場から降りて、ケースからビール瓶を一本、つかんだ。もう一度、足場に乗って、窓ガラスにそれを叩《たた》きつける。瞬間、ほこりが舞《ま》う。割れる音は、案外、小さかった。ひびをふさいでいたガムテープにくっついて、大きな破片はだらりとビル内にたれさがっているようだ。持っていたビール瓶で、サッシにくっついていた残りの破片を綺麗《きれい》に落とす。  先に、窓の中へ紙袋《かみぶくろ》などの荷物を投げ込む。その後で窓枠に腕《うで》を引っ掛《か》け、わたしは不安定な足場の上でジャンプした。まず上半身が窓を潜《くぐ》りぬける。窓枠にかかる全体重をおなかでささえながら、足をばたつかせる。上着が汚れるのも無視する。  腰《こし》のあたりが窓を通りぬけるとき、わたしの体重のために、何かが壊《こわ》れる音がした。壁枠《かべわく》にひびが入ったのだろうかと一瞬、考えた。まさか、運動不足のせいでそんなに太ってしまったのだろうか。いや、そんなはずない。もう、これは断じてそういうわけではないのである。  足が窓を抜《ぬ》け、わたしは頭から突《つ》っ込むようにビルの内側へ入り込んだ。空気は長いこと淀《よど》んでいたらしく、湿《しめ》っていた。明かりもほとんど入らず、さきほどの窓が唯一《ゆいいつ》の光源である。ビルの中は、外の空気よりもさらに冷えており、急激に体が冷却《れいきゃく》されてくるのを感じる。その部屋《へや》は、四方が五メートルほどの四角い部屋だった。家具は何もなく、かびの生えた材木が片隅《かたすみ》に打ち捨てられていた。壁には、ポスターの貼《は》ってあった跡《あと》や、落書きなどが残っていた。  さきほどくぐった窓から、公園を眺《なが》める。葉のついていない木の枝のすきまから、ベンチが見える。身代金《みのしろきん》を持って、クニコはそこへくるはずである。  公園は広い。鷹師駅前のポストにはりつけた二通目の手紙には、ただ公園のベンチへ行けと書いただけで、どのベンチとは指定しなかった。クニコへ取り付けた盗聴器《とうちょうき》によって、手紙の内容を知り、警官が先回りしているとしても、彼らはどのベンチを監視《かんし》していればいいのかわからないだろう。しかし、クニコは偶然《ぐうぜん》を装《よそお》って、このビルにもっとも近いベンチへ直行する。そうすることは、図で説明を繰《く》り返しながら、あらかじめ話し合っていた。彼女は何度もつぶやいて、頭に叩《たた》き込んでいた。  ビル内を歩く。裏口の扉《とびら》を調べると、錠《じょう》は内側から解くことができた。扉は多少きしんだが、開閉するのに支障はなかった。次にわたしは、正面入り口へ行ってみた。こちらも錠がおりていた。以前、友人とこのビルに入ることができたのは、たまたま正面入り口の錠が開いていたおかげである。そこの鍵《かぎ》も、内側から開けることができた。汚《よご》れてはいたが、裏側にあった扉と比較《ひかく》すれば、はるかに大きく、立派なドアだった。そこを抜《ぬ》けて、一度、正面の通りへ出てみる。ビルの中の薄暗《うすぐら》い静寂《せいじゃく》さが夢だったのかと思わせるほど、外は明るい。人の流れも多いが、菅原ナオが犯人によって連れこまれている薄汚れたビルには、みんな無関心である。  ビル内に戻《もど》り、階段で二階へのぼってみる。おおまかな間取りを把握《はあく》する。  二階、ビルの正面側にある部屋の窓から、大通りを見下ろす。今からしばらくした後、クニコがここを通りすぎるはずである。駅前から公園へ行く通り道なのだ。彼女はこの周辺にきたことがなかったので、打ち合わせの際、わたしは地図を描《か》いて道を説明してやらねはならなかった。  同じ階にある、通りとは反対側の部屋へ移動した。そこの窓からは公園が見える。一番、近いベンチの位置を、もう一度、確認《かくにん》する。  一階に下りて、デパートで購入《こうにゅう》した男物のコートを羽織《はお》った。帽子《ぼうし》はまだ、かぶらずにその辺へ置く。デパートの紙袋《かみぶくろ》やレシートなどを、近くのファーストフード店のゴミ箱へ放《ほう》り込んでくる。  裏口と、正面入り口は、一本の廊下《ろうか》でつながっている。正面入り口にもっとも近い部屋を、菅原ナオの救出される舞台《ぶたい》として選んだ。  作戦はつまり、こうである。  身代金の入った鞄《かばん》を胸に抱《だ》き、クニコが公園のベンチへやってくる。わたしはそれをこのビルの中から監視する。その際、警察はクニコの後についてきて、公園のどこかから見ているかもしれない。そうであることを考慮《こうりょ》して、態勢のあまり整わないうちに素早《すばや》く行動を起こす。  わたしは男物のコートと帽子《ぼうし》を身に着け、クニコのもとへ近づく。つまり、犯人に変装して、身代金の入った鞄を奪《うば》うのだ。そして、一目散にこのビルの中へ駆《か》け込む。  クニコもまた、鞄を奪った犯人を逃《のが》してなるものかという演技をして、わたしの後を追いかける。わたしといっしょに、二人でビルへ入る。  その様子を警察が見ていたなら、同時に後を追ってくるだろう。わたしとクニコは、彼らに追いつかれてはならない。  ビルの中で、わたしは正面入り口にもっとも近い部屋《へや》へ向かう。クニコも、わたしに続いて入る。わたしはコートと帽子を脱《ぬ》ぎ捨て、変装を解いた後、その場に倒《たお》れ込む。公園でクニコからうばった鞄も、その辺に転がす。わたしの手足を、急いでクニコがしばる。わたしの口にガムテープもはる。脱ぎ捨てたコート等も、彼女が処分する。  後は、追いついてきた警察に発見されるのを待つだけだ。しばられて転がされているわたしと、クニコだけがそこにいる。それを発見した警察の人間に、わたしはこう証言するのだ。 「犯人は身代金《みのしろきん》の入った鞄を放《ほう》り出して、そこの窓から大通りへ逃《に》げていきました! 楠木さんが、犯人と乱闘《らんとう》をして、追い払《はら》ったんです!」  うまくいけば、クニコはわたしと身代金、両方を犯人から奪い返した者として、一目《いちもく》置かれる存在となる……。  わたしが拘束《こうそく》されているようにみせかけるため、ビニール紐《ひも》やガムテープを、あらかじめ切って用意しておかなくてはならない。  乱闘が行われたように、辺りの物を壊《こわ》しておく必要もある。犯人が逃げたように見せかけるため、正面側の窓を開けておかなくてはいけない。  大通りを歩いていた人間に、窓からはだれも出てこなかった、と証言させてはいけない。しかし、幸い、選んだ部屋の窓は、隣《となり》の店の看板《かんばん》で大通りからは見えにくい。証言をぼやけさせることができる。  残る問題は、コートと帽子をどのようにして処分するかである。この点を考慮《こうりょ》せずに計画を立てていた。  部屋は建物の隅にあった。犯人がつかって逃げ出したことにする窓と、もう一つ、建物側面の窓があった。ただし、そちらは隣のビルとのわずかな隙間《すきま》しかないため、ほとんど窓としての意味がない。しかし、コートと帽子はそこへ投げ捨てると都合《つごう》がよさそうだった。わたしが救出された後、警察はそこも調べるだろうか。捨ててあるコートを見つけ、犯人の着ていたものに似ている、とだれかが言い出さないか、不安だ。  時計を確認《かくにん》する。十二時四十分。あと三十分もたたないうちに、クニコがやってくるはずだ。今ごろは一通目の手紙を読んで、電車内だろう。  ふと、自分のおろかさに気づく。携帯《けいたい》電話に耳を傾《かたむ》けて、彼女の様子を確認していなかった。ズボンのポケットへ入れていた電話のイヤホンを取り出し、耳にはめる。  おかしい。何も聞こえない。どうやら、クニコとの通話は切れてしまっているようだ。こんなときに! 舌打ちしながら電話を取り出してみると、そうではないことがわかった。  小さな液晶《えきしょう》画面には、何も表示されていなかったのだ。ひびが入り、プラスチックの外郭《がいかく》も割れていた。どのボタンを押《お》しても、機械は反応しなかった。  さきほど、窓を通りぬけるときに聞いた何かの壊《こわ》れる音、これだったのか、と腑《ふ》に落ちた。  クニコの現在の状況《じょうきょう》がまったくわからない。そのことでたちこめる不安感は計り知れないものだった。突然《とつぜん》、自分の感覚機能の一部が消滅《しょうめつ》してしまったかのようだ。  しかし、おおまかなスケジュールはわかっている。たぶん、大丈夫《だいじょうぶ》だ。わたしはそう自分をはげます。じきに電車が鷹師駅に到着《とうちゃく》し、クニコが二通目の手紙を手に入れる。後は公園へやってくるだけ。ただ、彼女がベンチに到着したのを見逃《みのが》さなければいいだけなのだ。  それまでの間に、できるだけ支度《したく》を調えておかないといけない。  乱闘《らんとう》があったように見せかけるため、部屋《へや》の中を散らかそう。まわりを見まわし、それが困難であることに気づく。家具などは一切《いっさい》なく、わずかな材木が隅《すみ》の方に集められているだけである。これだけの材料をつかって、ここで派手《はで》な立ちまわりがあったことを演出しなくてはいけない。わたしは、床《ゆか》にたまっていた土を引っ掻《か》き回し、隅にあった材木を、乱雑《らんざつ》に部屋中へ置いた。  だめだ。乱闘があったようには見えない。食器|棚《だな》なんかがあれば、こなごなにぶち壊していたのに。せめて、自分が床に転がされていたように見せるため、床の土を体中へ付着させることにする。乾燥《かんそう》して白くなった土を一握《ひとにぎ》りつかみあげると、腕《うで》や胸、足になすりつけた。乾燥した細かい土で、指先が冷たくなる。これで少しは、乱暴な扱《あつか》いをうけたように見えるだろうか。  建物の外では着飾《きかざ》った人たちが楽しそうに歩いているというのに、人気《ひとけ》のない建物の中でひとり全身を汚《よご》すというのは、自己|嫌悪《けんお》に陥《おちい》る作業だった。やっているうち、嫌《いや》になってくる。それでも、やらなければいけない。即席《そくせき》で作ったこの計画のほころびを、地道《じみち》に一箇所ずつ、縫《ぬ》っていかなくてはいけないのだ。  もっと時間がほしかった。余裕《よゆう》があれば、いろいろ用意ができたはずだ。本当ならこのビルへも、事前に下見をしにこなくてはいけなかった。以前、友人ときたときに見た、うろ覚えの記憶《きおく》だけで計画を立ててはいけなかった。髪《かみ》の毛を土で汚しながら、計画への不安が膨《ふく》れ上がってくる。  ビニール紐《ひも》を、いくつか適当な長さに切る。残った紐の束《たば》と鋏《はさみ》は、その辺りに捨てた。口にはるためのガムテープも同じようにする。しかし、接着面にほこりがくっついてしまいそうだ。直前に切ることにした方がいいだろうか。当初は、こんなことで悩《なや》むとは考えていなかった。軽いいらつきを感じる。  そういえば、建物に入るとき、割った窓ガラスはどうなるのだろう。あのまま、片づけなくても大丈夫だろうか? 警察は、あの窓に注目するだろうか。犯人が合い鍵《かぎ》をつかわずに、このビルへ侵入《しんにゅう》するとなると、小さな窓を使ったと考えるのだろうか。もしそうなら、犯人はあの窓を通ることができるくらい小柄《こがら》な子供だと推測できてしまうのではないだろうか。  もう遅《おそ》い。そんなことを考えている余裕《よゆう》はない。  用意したビニール紐《ひも》を見ながら、また見落としに気づいた。手足をしばられていたのなら、その跡《あと》がわたしについていなくてはいけないはずだ。なんとか犯人から逃《に》げようともがいているはずでありもし跡がついていなければ、逃げる気がなかったと思われてしまう。  そのことに思い当たり、一瞬《いっしゅん》、動きが止まる。しかし迷っているひまはない。手首だけでも、跡をつけよう。  両手に紐を巻きつける。一人でも、なんとかできた。捕《とら》えられたわたしは、必死に紐を解《と》こうとするはずだ。思いっきり力をこめて、手首をひねったり、もがいたりしてみる。ビニールの紐は引っ張られて、細くなるが、決して切れない。手首にその圧力がかかるようにする。何度かやっていると、白い皮膚《ひふ》に、赤味が入る。痛いのを我慢《がまん》する。  時計を見ると、十二時五十分になっていた。手首に紐を巻いたまま二階へ行き、正面の大通りを見下ろすことのできる部屋《へや》で待機した。明るい日差しのもと行き交《か》う人々を、窓から眺《なが》める。携帯《けいたい》電話が役に立たなくなった今、クニコが現在、どのような状況《じょうきょう》にあるのかを知ることはできない。しかし、じきに彼女はここを通るはずである。わたしは一人一人、つぶさに顔を観察する。鞄《かばん》を抱《だ》いて、不安げに歩いてくる背の高い女を探す。  手首に薄《うす》く赤い線がついたものの、これでもがいた跡に見えるかどうか不安になる。もっと力をこめるべきだ。皮膚《ひふ》が裂《さ》けて、血の滲《にじ》み出すほどの勢いで、紐を手首にこすりつける。やけどするような摩擦《まさつ》の痛みに耐《た》える。わたしはいっそ泣きたかった。もっと、いろいろ考えておくべきだった。  大人だったら、立派な計画をたてて、事前にリハーサルしていた。いや、そもそも、こんなことにはならなかった。手首に、充分《じゅうぶん》な跡ができたのを確認《かくにん》し、紐を解く。わたしは、なんて未熟なのだろう。  腕時計《うでどけい》を見る。十三時になった。わたしの心臓が早くなる。ちょうど一時間前に菅原家へ電話し、パパと短い言葉を交《か》わした。たしかその後、クニコが屋敷《やしき》を出発したのは十二時五分|頃《ごろ》だった。頭の中にあるおおまかなスケジュールでは、そろそろクニコは、駅前から公園へ向かって、わたしの見下ろしている通りを歩いてくるはずだった。  彼女は今、どうしているだろう。鞄《かばん》を落としていないだろうか。交通事故にあっていないだろうか。電車が、何かのトラブルで遅《おく》れていないだろうか。いや、それとも、わたしが見落としただけで、すでに彼女は通りを抜《ぬ》け、公園に到着《とうちゃく》しているのではないだろうか。  一度、裏手に位置する部屋《へや》へ行き、窓から公園を見る。やはりクニコは来ておらず、すぐに正面の方にある部屋へ戻《もど》った。  心配だった。クニコの様子を知りたかった。彼女は人通りの多い所が苦手《にがて》だ。こういった場所へくるのは嫌《いや》だろう。彼女は始終、おどおどしていたし、悪意のある人間が見たら、格好《かっこう》のカモとして映るかもしれない。ここへ来る途中《とちゅう》、だまされて鞄《かばん》を巻き上げられていないだろうか。  十三時十分を過ぎた。クニコはまだこない。  焦燥《しょうそう》に駆《か》られ、胸が苦しくなる。何か見落としはないだろうかと考えるが、何も頭に浮《う》かばない。ふとすると、クニコがベンチへやってきた後、自分のとらなければならない行動まで忘れそうになる。  自分以外にだれもいないビルは静寂《せいじゃく》に包まれ、眼下を歩く人々の賑《にぎ》やかな声が遠く聞こえる。外は生活感のある現実の世界であるのに対して、何もないビルの中は空虚《くうきょ》な暗い洞穴《ほらあな》である。  クニコが現れるのを待ちながら、いろいろなことを後悔《こうかい》していた。なぜ、自分がこんなことをしているのかわからない。軽い気持ちでついた嘘《うそ》から、家族をだまし、大勢の人を混乱させてしまった。寒さに身を縮ませながらも楽しげな笑顔《えがお》で歩いている人々が、ひどくうらやましかった。わたしはいつだってその中に混じって歩くことができたはずなのに、救いがたい愚《おろ》かさが積み重なった末、人前に出ることができなくなってしまった。  いつのまにか、時計を確認《かくにん》するのも忘れ、人込みに見入っていた。土がついて白くなった手で、手首の赤い線をさする。普段《ふだん》、思うことはないのに、自分の手首の細さに気づかされる。わたしは子供だ。そのことを、まるで今はじめて知ったように思う。  実際の身長と、心の視界の広さは比例するのだろうか。まだ背の低いわたしには、まわりの人の気遣《きづか》いも、自分の限界も、見えていなかった。そのくせ、自分の中にある世界がすべてだと勘違《かんちが》いしていた。穴だらけの計画を大真面目《おおまじめ》にたてて、何の障害もなく、それが成功すると信じていた。大勢の警官を相手に、渡《わた》り合えると思っていた。わたしは、いきがっていたんだ。  キョウコへも、悪いことをした。明確な理由もなしに、彼女が部屋に入り込んでいると決め付けた。きっと、それはわたしの妄想《もうそう》なんだ。実際はだれも侵入《しんにゅう》していないのに違《ちが》いない。旅行から帰ってきたときに感じた違和感《いわかん》は、子供っぽい怒《いか》りの生んだ錯覚《さっかく》だったのだろう。自分が自分で嫌《いや》になる。  不意に、三畳間《さんじょうま》のことを思い出した。コタツに入り、わたしは腹をすかせている。クニコが一階の炊事場《すいじば》で沸かしたお湯を持って、部屋に現れる。ふたを開けたカップラーメンを差し出すと、彼女はいつもの困ったような顔で、それでもどことなく楽しげにお湯を入れてくれた。懐《なつ》かしかった。あの部屋は日当たりが悪く、このビルと同じくらい、古かったし、寒かったはずだ。しかし思い出せるのは、コタツのぬくもりと、わたしを両手で包み込むような心地《ここち》よい部屋の狭《せま》さだ。  駅の方角に視線を転じたとき、鞄《かばん》を胸に抱《だ》きしめて歩いてくる見知った背の高い女の姿を確認した。心臓がはね、血液が高速で体中を走り始めた。  クニコがビルの前を通りすぎるまで、まだ二十メートルほどあった。彼女はいつもの野暮《やぼ》ったいセーターの上に、盗聴器のしかけられた地味な上着を着ていた。まるでちょっとゴミを出すために家を出てきたような感じだった。緊張《きんちょう》のためか、顔を青ざめさせていることさえわかる。まわりの雑踏《ざっとう》に比べて、彼女の歩みは予想以上に遅《おそ》い。人とぶつかりそうになるたび、驚《おどろ》いたように歩みを止める。人込みを歩きなれない人間の持つ危なっかしさがそこにある。  彼女とすれ違《ちが》う人間には、無意識のうちにそれがわかるのだろう。鞄を抱いた女が視界に入る距離《きょり》になると、ぶつからないように、あらかじめ余裕《よゆう》をもって彼女を避《よ》ける。上から見ていると、その様《さま》がよくわかった。  ビルの前を通りすぎ、この先にある十字路の角を右へ曲がると、すぐに公園である。誘拐《ゆうかい》犯人の出番は近い。何度も計画を頭の中で反芻《はんすう》する。手のひらを、開いたり、閉じたりする。汗《あせ》をかいていた。彼女から鞄を奪《うば》うとき、手がすべってはいけない。コートの裾《すそ》で手の汗をぬぐう。そういえば、誘拐を通知する手紙を送りつけたときも、おなじように手の汗をコタツ布団《ぶとん》でぬぐった。変なことを思い出す。  警察は犯人の忠告に従わず、こっそりクニコの後ろをついてきているのだろうか。そうでなければ、話にならない。わたしの計画は、ある程度、警察が見ているということを前提に立てている。  さきほどまで考えていたいろいろな不安を振《ふ》り払《はら》う。いくら後悔《こうかい》しても、もう取り返しのつかないところまできている。全力でやらなくてはいけない。心の中で、何かがはじける。もし、警察につかまってしかられるのだとしても、ここで逃《に》げるわけにはいかない。すべて、わたしが巻き起こしたことだ。何らかの形で決着をつけなくては、鞄を運んできてくれたクニコにも、捜査《そうさ》してくれた警察にも失礼だ。  ビルの一階へ降りておこうと思った。ベンチの見える公園側の部屋《へや》で、飛び出す準備をしておかなくてはならない。緊張のため、耳のあたりの血管が熱く脈打ちはじめる。クニコから目を離《はな》し、下へ行こうとした。  そのとき、彼女の後ろに、おかしな人影《ひとかげ》を見つけた。その男は紫色《むらさきいろ》の帽子《ぼうし》をかぶり、サングラスをかけ、クニコの後ろ姿を見つめているような気がした。警官の一人だろうかと最初は考えた。しかし、わたしは彼に不穏《ふおん》なものを感じた。窓から離れるのを忘れ、そいつを目で追う。  男は徐々《じょじょ》に歩みを速め、クニコへ近づいてくる。ジャンパーのポケットに両手を突《つ》っ込み、やや前傾《ぜんけい》姿勢で足早に歩く。それは寒さのためというよりは、人間の視線から少しでも隠《かく》れたいという感情の表れに見えた。  クニコは、男に気づいていない。二人の距離が短くなるにつれ、わたしの鼓動《こどう》がトクトクと早くなる。  男がクニコの横に並んだ。そのまま通りすぎてくれ。胸の中で飛び跳《は》ねているものが、最高潮に達する。  男はポケットから手を出し、クニコの抱《だ》いていた鞄《かばん》をつかんだ。  通りのざわめきが一瞬《いっしゅん》、耳から消えさったような気がした。  クニコはとっさに反応し、鞄を渡《わた》すまいとする。しかし無駄《むだ》だった。男は鞄を奪《うば》うと、そのまま向きを変えずに走り出した。クニコは呆然《ぼうぜん》とした表情をする。  ひったくりだ。無意識のうちに、わたしは窓から離《はな》れ、階段を駆《か》け降りていた。このままでは計画が破綻《はたん》してしまう。といって、男を捕《つか》まえたところでどうすればいいのかわからない。軌道《きどう》修正の方法もわからない。しかしわたしは、なんとか男を捕まえて、鞄を取り返さなくてはいけないという考えにとらわれていた。  一階におり、裏口から外へ出る。  男があのままの向きで走るとすれば、このビルの前を通りすぎ、その先にある十字路へ向かうはずだ。その十字路までは、脇《わき》にそれる道はない。わたしは裏口の方からそこへ先回りし、男の前に立ちはだかることにした。今、正面から外へ出ると、クニコの後を追いかけてきた警官に見つかる可能性がある。  裏口を抜《ぬ》け、薄暗《うすぐら》いアスファルトの道を左手に走り出す。五十メートルほど先に、T字に分かれた道がある。そこをさらに左へ曲がり、建物ひとつ分、走ったところが十字路である。  わたしの靴音《くつおと》が、並んだビルの壁《かべ》に反響《はんきょう》する。頭は混乱し、ただ自分の不運を呪《のろ》っていた。曲がり角までやけに長く感じる。コートがまとわりつくので、走りながら脱《ぬ》ぐ。準備運動もせずに全力|疾走《しっそう》するものだから、すぐに息があがる。しかし立ち止まるわけにもいかず、男よりも先に十字路へたどり着かねばならない。走らなくてはならない距離《きょり》はわたしの方が長く、不利に思える。しかし、向こうは人をかきわけて進まなくてはならないはずだ。一方、こちら裏通りは人気《ひとけ》がなく、障害物などなにもない。  わたしは速度をゆるめないまま、全速力で裏通りの角を曲がった。  その瞬間《しゅんかん》、激《はげ》しく何かにぶつかり、はね返されて道路に転がった。ひどい衝撃《しょうげき》に、肺の中の空気が、残らず押《お》し出された。あお向けに倒《たお》れたせいで、わたしの視界いっぱいに、ビルにはさまれた青い空が映った。アスファルト表面の小さな凹凸《おうとつ》を手のひらに感じた。  男のうめき声が、そばで聞こえた。わたしは倒れたまま、首をめぐらす。視界のはしに、さきほどクニコから鞄をうばった男が転んでいた。案外、彼の足は速かったらしい。わたしは曲がり角で、彼に衝突《しょうとつ》してしまったのだと、かろうじて理解する。  男が立ちあがり、わたしの方を見た。衝突の際に落としたのだろう、地面に転がっていた鞄をつかみあげる。  わたしは動けなかった。待って! と言おうとしたのだが、舌が思うように動かず、だらしない寝《ね》ぼけた声になる。視界が徐々《じょじょ》に暗くなり、意識はそこで途切《とぎ》れた。 [#ここから7字下げ] 7 [#ここで字下げ終わり]  家にはそれぞれ独特の匂《にお》いがある。しかし自分の家のものだけは、どうもうまく識別できないような気がする。長い間、生活しているうちに、自分の家の匂いにだけ嘆覚《きゅうかく》が鈍化《どんか》してしまうからではないだろうか。  はじめて菅原家にきたとき、まだ小さかったわたしは、母親に手をひかれて屋敷《やしき》に入った。幅《はば》の広い廊下《ろうか》にびっくりし、つるつるの床板《ゆかいた》で滑《すべ》りそうになる。知らない場所だったから不安で、母の手を強く握《にぎ》りしめると、母も同じ気持ちだったらしく、わたし以上の力で握り返した。屋敷中から、ほのかに木の匂いがした。それを長いこと忘れていた。  暗闇《くらやみ》の中、ひさびさに感じる懐《なつ》かしい匂いがやさしく手招きして、もう目覚める時間であることをわたしに告げた。やわらかい布団《ふとん》の中で、ぼんやりと視界がもどる。自分の部屋《へや》の、ベッドの上だった。いつのまにかわたしは帰宅していた。  軽い混乱に襲《おそ》われた。上半身を起こそうとすると、体のあちこちに痛みが押《お》し寄せる。とくに背中が痛み、「こんちくしょう」とうめき声をあげた。しかしそのおかげで、誘拐《ゆうかい》に関するさまざまなことが夢ではなかったことを知る。路面に倒《たお》され、ひどく背中を打った。そのまま気を失っていたらしい。  扉《とびら》が開き、エリおばさんが入ってきた。わたしが目覚めているのに気づくと、彼女は一瞬《いっしゅん》、驚《おどろ》いた表情をした。目は赤かったが、口をほころばせ、「おかえり」と言った。 「……おはよう、の間違《まちが》いでは?」  わたしはそう返した。  二十四時間ほど気絶していたらしい。おばさんが説明した。つまり、身代金《みのしろきん》受け渡《わた》しの、次の日になっていたのだ。  痛みが押し寄せないように、そっとベッドの上へ腰掛《こしか》ける。いつのまにかパジャマを着ていた。 「わたしは……」  いったい、どうなってしまったのだろう?  だれに着替《きが》えさせられたのだろう。身代金の入った鞄《かばん》はどうなったのだろう。ひったくりの男は、捕まったのだろうか。クニコは今、どこにいるのだろう。疑問がありすぎて、どれから手をつけていいのかわからない。わたしは、数学の教科書を渡《わた》された原始人のように、途方《とほう》にくれた。  その様子が頼《たよ》りなげに見えたらしい。エリおばさんが気遣《きづか》わしげに言った。 「……ナオ、あなたは誘拐《ゆうかい》されていたのよ。泥《どろ》だらけで道に倒れていたのを、保護されたの」  そんなことは、わかっているのだ。しかし、わたしはとっさに嘘《うそ》をついた。 「……覚えて、ない」  十分後、部屋《へや》に呼び出された医者は、心配そうに見守るパパやおばさんの前で、わたしが精神的ショックによる健忘であると診断した。もう、まったく何も覚えていないのであり、犯人の顔も、どんなところに閉じ込められていたのかも、どうして路上に倒《たお》れた状態で発見されたのかも、警察に証言できないわけである。それは非常に残念なことであるが、記憶《きおく》にないものだからしょうがないのだ。 「ひどいことは、忘れたほうがいいよ」  パパがわたしの額に手をあてた。そのぬくもりを感じながら、わたしは家に帰ってきたのだということを実感した。  ふと、パパの後ろにキョウコが立っているのを見つける。 「ああ、そうそう、キョウコ、ごめんよ!」  そう言うと、彼女は気味悪そうにわたしを見た。  医者のかんたんな診断がすむと、パパたちを追い出して、部屋にエリおばさんと二人だけにしてもらった。とにかく、説明してもらいたかった。  足を組んで椅子《いす》に座《すわ》り、おばさんは丁寧《ていねい》に最初から話してくれた。嘘の誘拐《ゆうかい》の後は、嘘の記憶|喪失《そうしつ》というわけだ。誘拐事件のあらましを聞いて、いちいち驚《おどろ》いてみせる。  話が身代金《みのしろきん》の受け渡《わた》しに関するところまでくると、わたしは身を乗り出して聞き逃《のが》すまいとした。 「……公園へ向かっていた楠木は、途中《とちゅう》で、犯人に鞄を取られたの」 「犯人に?」  彼女はうなずいた。 「人込みにまぎれて、犯人は鞄を奪《うば》い、逃《に》げたらしいのよ。後ろの方から楠木を監視《かんし》していた警察官が、何人も確認《かくにん》しているわ」  予想通り警察は、クニコを遠巻きにしていたらしい。 「駅で楠木が手紙を読み上げ、それを盗聴器《とうちょうき》で警察は聞いていた。だから、動かせる人間の多くを先に公園へ向かわせていたらしいの。犯人に見つかってはいけないから、あまり大げさに行動できなかったはずだけど、かなり多くの警官が公園にいたはずよ。でも、通りで楠木の後についていた人間はごく少数だった。だから、通りで鞄をうばい逃げ出した犯人を捕《つか》まえることができなかった。犯人はまだ見つかってないわ」  どうやら警察は、あのひったくりを犯人だと思い込んだらしい。ペテンがばれたわけではないと知り、わたしは安堵《あんど》のため息をついた。 「犯人を追いかけている途中で、あなたを見つけたの……。道端《みちばた》で気絶していたナオを保護して、一旦《いったん》は病院へ運んだのよ。気絶しているうちにいろいろ検査して。着替《きが》えさせたりしたの。本当は入院するはずだったけど、お兄さんが家に連れ帰ってきた。ひとまずそれで一件落着というわけね。お金を持って犯人は逃《に》げたけど、そんなことはどうでもいいことなのよ。鞄《かばん》には、発信機がつけてあった。でも、お金の抜《ぬ》き取られた空っぽの鞄が、近くで見つかっただけ。犯人のかぶっていた帽子《ぼうし》なんかといっしょにゴミ箱から発見されたの」  警察は、わたしが保護された直後、例のひったくりと似たような格好《かっこう》をした人物を、その周辺で数人ほど見つけたらしい。彼らを取り調べたが、いずれも大金など隠《かく》し持っておらず、解放するしかなかったそうだ。  このままひったくりが見つからなければ、真実は闇《やみ》の中だ。クニコから鞄をうばった男に逃げ足の神様が微笑《ほほえ》んでくれるよう、ひそかに祈《いの》りをささげた。 「ところで、使用人の……楠木さんは?」  まだ、クニコの顔を見ていない。 「ああ、あの子なら、出ていったわよ」ごくかんたんに彼女は言い放った。「ええと、直接あなたには関係ないから、言い忘れてたけど、あの子、ちょっとした事故を起こしてたの」  うなずく。その原因を作ったのはわたしなのだから、当然、知っている。 「それで、責任をとらされてクビになったわけ」 「でも、身代金《みのしろきん》の受け渡《わた》しなんて大仕事をやったんだから、免除《めんじょ》してくれてもいいんじゃない……?」  クニコの肩《かた》を持つわたしを、おばさんは不思議そうに見た。ただの目立たない使用人に対して、普段《ふだん》のわたしならとくに関心は持たないはずだった。しかし、言わないわけにはいかなかったのだ。 「事故で怪我《けが》をした人が、それでは気がすまないらしいのよ。それに一応、あなたが無事に発見された後、お兄さんが楠木を引きとめたわ。とても感謝していたから。でも、彼女は自分から出ていったの」 「自分から?」 「そう。今朝《けさ》、荷物をまとめて出ていった。その直前まで仕事をしていたみたい。朝食のしたくをして、黒いゴミ袋《ぶくろ》を捨てに行くのを見かけた。わたしと兄さんはそれを呼び止めて、ここを出て行きたくないなら、いてもいい、そう言ったの。でも、彼女は首を横にふったわ」  わたしは裏切られた気分で立ちあがった。「いてー」と悲鳴を何度もあげた。引きとめるエリおばさんを無視して離《はな》れへ向かった。  離れの二階、クニコのいた三畳間《さんじょうま》は空っぽだった。部屋いっぱいにひろがっていたコタツが消え、押《お》し入れの中にあったはずの、水が入っていたポリタンクすらない。狭《せま》い部屋が、やけに広く感じられてしまう。  ふと気づくと、押し入れの床板《ゆかいた》の一部がはずれかけていた。クニコがノートを隠《かく》していた場所だ。いかにもわざとらしくずれているのを見て、もしやと思い、中を確認《かくにん》する。絵が描《か》かれている例の古いノートが、持っていかれずに残っていた。手にとり、ぱらぱらとめくる。彼女の故郷。海。ゴミ収集車。菅原家の面々。わたし。最後のページに、彼女の文字があった。 『ナオお嬢様《じょうさま》、すみません。留守中《るすちゅう》、お嬢様の部屋《へや》に入ったのはわたしです。だって、わたしの部屋から、お嬢様の部屋の窓が丸見えだったものですから……。いつも、窓を開けっぱなしにして出かけてしまうこと、自分で気づいていらっしゃいますか? いつも、そうなんです。それが、短い間の留守なら問題はないのですが、修学旅行などで長期間、部屋にいないときなどは、雨が降り出してしまう日もあるわけで……。つまり、そうなんです。晴れた日なら、向かいにある開け放した窓も安心して見ていられるのですが、雨が降り出すともうたまらない気特ちになってしまったのです。悪いとは思いつつ、きっとだれにもしゃべらなければ気づかれないだろうと思い、部屋に入りこんで窓を閉めてしまったのです。そのことを、ちゃんと報告しておけばよかったのですが、実はわたし、お嬢様はもっと怖《こわ》い人だと思っていたので、つい言えなかったんです。すみませんでした。そして、ありがとうございます。[#地付き]楠木』  読み終えた瞬間《しゅんかん》、手から力が抜《ぬ》け、ノートが畳《たたみ》の上に落ちた。くだらなすぎ。  三畳部屋《さんじょうべや》の窓を大きく開け放つ。これまでのように、隙間《すきま》からのぞき見るような真似《まね》はしなくてもよい。向かいにあるわたしの部屋で、まだエリおばさんが椅子《いす》に座《すわ》っており、目があってしまった。 「そんなところで、何やってるの?」  彼女はわたしの部屋の窓から、呆《あき》れたように言った。声は、十メートルある建物同士の隙間《すきま》を飛び越《こ》えた。 「……いや、なんとなく」  長い答えが見つからず、口龍《くちご》もる。  あらためて室内を見まわすと、ここですごした短い時間を思い出す。はがれかけた壁紙《かべがみ》、古い蛍光灯《けいこうとう》、すべてがやさしげにわたしを受け入れる。コタツは消えてしまったが、匂《にお》いはそのまま残っており、まるで懐《なつ》かしい友達のようにわたしの嗅覚《きゅうかく》と挨拶《あいさつ》を交《か》わした。 「ナオ」エリおばさんが向かいの窓から呼びかける。「警察の方だよ」彼女の背後《はいご》に、数人の男たちが立っていた。  母屋《おもや》へ戻《もど》る。わたしの部屋に大勢が集まるのは嫌《いや》だったので、客間で待っていてもらう。わたしは服を着替《きが》え、警察の人間に会った。彼らは五人いた。話を聞いてみると、屋敷《やしき》へ変装して入り込んでいた面々だった。確かに、彼らの声にはどこか聞き覚えがあった。クニコへ持たせた携帯《けいたい》電話越しに、鼓膜《こまく》がしっかり記憶《きおく》していた。わたしはこれでも、物覚えはいい方だ。たまに、特徴的《とくちょうてき》な声に出会うことが人生にはあるもので、その人のことをはっきり覚えていたりする。  警察の方は、わたしの元気そうな顔を見て、喜んでいた。仕事の苦労が報《むく》われたという様子だった。ただ、記憶喪失《きおくそうしつ》であることを聞いて、残念そうな顔を隠《かく》せなかった。犯人を見つける手がかりが一気に少なくなってしまったのだ。  彼らとはごくかんたんな会話しか交《か》わさず、十分ほどで帰っていった。その間中、わたしは心の中で激しく動揺《どうよう》し、うろたえていた。彼らが帰るとき、思いきってたずねてみたのだ。 「すみません、この屋敷《やしき》に潜入《せんにゅう》したのは、もしかして六人だったのではありませんか?」  不思議そうな顔をして、彼らの一人が首を横にふった。 「いいえ、我々、五人だけですよ」 [#ここから7字下げ] 8 [#ここで字下げ終わり]  誘拐《ゆうかい》のことはあまり騒《さわ》がれなかった。パパが情報の公開に口をはさんだのだろう。身内など、ごく一部の人間だけ、わたしがさらわれたことを知っている。  失踪《しっそう》していたのは、ちょうど冬休みの間だったため、中学の同級生でさえ、わたしがいなかったことに気づいていなかった。ただ、休み明けの三学期、冬休みに何をして遊んでいたのかという話題に加わることができないだけだった。  そうこうするうち、十ヶ月が経過した。わたしは中学三年生になり、じきに訪《おとず》れる受験のため、勉強をしていた。寒さが増してくると、去年のことをぼんやり思い出す。三畳部屋《さんじょうべや》のコタツにもぐりこみ、外で冷たい風が吹《ふ》くのを聞きながら、まどろんでいた日々を懐《なつ》かしく感じる。  クニコから、ごくかんたんなハガキが送られてきたのは、そんなときである。結婚《けっこん》しました、という意味の文章が簡潔に述べてあり、住所が添《そ》えてあった。実家の住所ではなく、はじめて聞く地名だった。実を言うと、わたしは誘拐|騒動《そうどう》の後、一度もクニコに会っていなかった。顔を見たかった。そして、いろいろなことを話したかった。彼女のハガキを読み、わたしは旅の支度《したく》をはじめた。  十一月の、ある土曜日。  わたしは電車を下り、改札を出た。菅原家から飛行機と電車を使わなくてはならない、遠く離《はな》れた駅だった。クニコへ、事前に連絡《れんらく》をいれることができなかった。住所は記されていたが、電話番号は見当たらなかった。  駅のまわりは商店街だった。大きな建物は見当たらず、スーツを着た人間はひとりもいない。すでに陽《ひ》は傾《かたむ》きかけ、黄色い帽子《ぼうし》をかぶった小学生が集団で下校していた。駅の脇《わき》に葉を落とした木があり、放置されたように錆《さび》の浮《う》いた自転車がたてかけられていた。腰《こし》を直角に曲げたおばあさんが、目の前をゆっくり通りすぎていく。  パパに連絡《れんらく》をいれ、クニコの家にしばらく滞在《たいざい》するかもしれないと告げる。ゆっくりしてきなさい、という返事をもらった。  わたしは駅前のバス停《てい》で、バスがくるのを待った。薬局の広告が印刷されたプラスチックのベンチがあり、汚《よご》れないかどうか気をつけながら腰掛《こしか》けた。足元に枯《か》れ葉が散っており、風が吹《ふ》くと地面を転がった。  クニコのノートを持ってきていたので、それを眺《なが》めて時間をつぶす。太陽が徐々《じょじょ》に赤味をおび、しだいに寒さがましてくる。  突然《とつぜん》、ひざに広げていたノートに、影《かげ》が落ちた。見上げると、正面に背の高い女が立っていた。 「まあ……」  彼女は右手に買い物|袋《ぶくろ》を提げて、あのなつかしいのんびりさで驚《おどろ》いた。 「ひさしぶり」  わたしは驚きを隠《かく》して、クニコに右手を上げた。  バスへ乗り込み、最後部の座席に並んで腰掛けた。彼女は旦那《だんな》を残して駅前に買い物へきていたらしい。帰りのバスで、偶然《ぐうぜん》、わたしといっしょになったというわけだ。  ほんの少しバスが走ると、風景に建物の数が少なくなる。山のふもとの方に家があるらしく、やがて町を見下ろせる高い道になる。バスの車内にはわたしたちだけだった。  十ヶ月前の思い出話や、最近までどうしていたかなどを話した。言葉を交《か》わしているうちに、彼女のゆるやかな、決して急がない言葉のつむぎかたを思い出した。会っていない時間など存在せず、まるで三畳間《さんじょうま》から出なかったように、いつのまにかわたしと彼女の主従関係はよみがえっていた。わたしが、「クニコのくせにえらそうだぞぅ」と言うと、「ああ、ごめんなさい、ごめんなさい」と彼女は困った顔をするのだ。  十分ほどで、バスを降りた。その頃《ころ》にはもう辺りは暗く、バスはヘッドライトをつけ、荒々《あらあら》しく排気《はいき》ガスを出しながら走り去った。バス停のまわりには、自動|販売機《はんばいき》が一台、明るい光を出していた。わたしはクニコのかわりに、重い買い物袋を持って歩き出す。熟《う》れすぎて落ちた柿《かき》の、腐《くさ》った甘《あま》い匂《にお》いが路面に染《し》みついていた。  彼女の家は、ごく普通《ふつう》の民家だったが、なかなか過ごしやすそうなたたずまいだった。旦那《だんな》の実家なのだとクニコは説明した。  クニコが「ただいま」と言って中に入る。わたしは何も言わないで、その後に続いた。 「おかえり」と、男の声が奥《おく》から聞こえてくる。声のした方へ向かう。  居間には、低いテーブルと、それをはさむようにソファーがある。古い型のテレビがあった。今は電源が切れている。ソファーに、新聞を読んでいる男が座《すわ》っていた。クニコの旦那であろう。彼はテレビ欄《らん》に目を落としたままだったから、客の存在に気づいていなかった。  わたしは居間の入り口に立ったまま、だまって彼を見ていた。クニコがわたしの横を通りすぎる。持ってあげていた買い物|袋《ぶくろ》を、彼女へ戻《もど》した。  そこでようやく、旦那が顔をあげる。目が合った。 「やあ、どうも」  それだけ言うと、目をそらしてさきほどの状態にもどる。  わたしは向かいに座り、くつろいだ。 「うん、ここをわたしの別荘《べっそう》にしてあげよう」  と、旦那に言ってみた。 「部屋《へや》なら、ひとつ余ってますよ」彼は新聞に目を向けたままだった。「でも、三・五|畳《じょう》だから、あなたには広すぎるかも」  わたしは腹をすかせており、その旨《むね》をお嬢様《じょうさま》らしくやや遠まわしに伝えてみる。 「おなかがすいたので、何か、食べるものがほしい」  旦那は新聞をたたみ、微笑《びしょう》を浮《う》かべて立ちあがった。 「たしか冷蔵庫に、ぼくの作ったパイがあったはずだ」 「素敵《すてき》です。わたし、あなたの作ったパイをクニコさんが持ちかえるの、いつも楽しみにしてたんですよ」 「それはどうも、ありがとう」  彼は、一度聞いたら容易に忘れることのできない、例のかすれた声で言うと部屋を出ていった。居間で一人になり、クニコのノートを鞄《かばん》から出した。ゴミの収集人の絵を見る。旦那とうりふたつだった。そしてまた、その絵に帽子《ぽうし》とサングラスを頭の中で描き足してみる。すると、あの身代金《みのしろきん》受け渡《わた》しの日、クニコから鞄をうばったひったくりにそっくりなのである。  十ヶ月前の、身代金受け渡しの次の日。屋敷《やしき》の玄関先《げんかんさき》で、五人の警官が帰るのを見送っていた。 「ナオ」  振《ふ》り返ると、パパがわたしの背後《はいご》に立っており、大事そうに何かを持っていた。それは、白い布切れに見えた。 「これを犯人に取り上げられて、つらかっただろう。残念ながら、犯人の指紋《しもん》は出なかったそうだよ。これ、昨日、警察から取り返したんだ。大切なものだから、返してくれと言ってね」  パパが、それをわたしの手に握《にぎ》らせる。母の、形見のハンカチだった。クニコの三畳間へ持ち込んでいたものだったが、いつのまにか存在を忘れていた。なくなっていたことすら、そのときまで気づいていなかった。  なぜ形見のハンカチを持っているのか、説明を求める。 「犯人から送られてきた手紙に、同封《どうふう》されていたのだよ……」  パパの言葉が、すぐには理解できなかった。  手紙の、本当の差出人はわたしのはずだが、そんなものを同封《どうふう》した記憶《きおく》はない。ちょっと待って、と口を挟《はさ》みそうになるが、その気持ちを押《お》しとどめる。  娘《むすめ》の所持品であるハンカチが、犯人から送られてきた最初の手紙といっしょに、封筒《ふうとう》へ入れられていた。そこでパパは、手紙の内容が真実であり、わたしが本当にさらわれてしまったのだと確信したそうだ。  送られてきたという手紙を見せてもらう。本物はビニールに入れられて警察が保管しているそうだが、手紙のコピーがあった。あきらかに、わたしが活字を切りぬいて作成したものではなかった。見覚えのない文面である。しかも、子供の冗談《じょうだん》ではすまされない、切実な言葉で作られた文章である。  わたしの思い描《えが》いていた物語と、いくつかの点に違《ちが》いがあることを確信したのは、そのときだった。  あの三畳部屋《さんじょうべや》において、得る情報のほとんどはクニコを中継《ちゅうけい》したものだった。窓の隙間《すきま》から屋敷《やしき》を眺《なが》めることもできたが、発見されることを恐《おそ》れて積極的に覗《のぞ》き見ができなかった。そこから得られる情報といえば、遠く離《はな》れたところを緊張《きんちょう》した顔の人間が歩いているといった程度のことだった。屋敷内で何が行われているのかを知ることは無理だったのだ。ただ、わたしはひしひしとした緊迫感《きんぱくかん》だけを窓の隙間から感じ取っていた。たまに砂利道《じゃりみち》で交《か》わされる会話も聞こえたが、かろうじて耳に届《とど》くその内容から真実をつかみとることはできなかった。自分の置かれている正しい状況《じょうきょう》について、知ることはなかったのである。  屋敷内のことは、クニコから話を聞かされていた。彼女が仕事からもどり、三畳間へ帰ってくると、コタツをはさんで座《すわ》った。みかんなどを食べながら、興味深く、その日に屋敷内で起こった出来事を聞いていた。それ以外の情報となると、彼女に持たせた携帯《けいたい》電話が、雑音混じりに拾う物音だけだった。  したがってわたしは、自分の意志で誘拐《ゆうかい》されたという手紙を出し、狂言《きょうげん》誘拐の泥沼《どろぬま》にすっかり足をとられたものと思っていた。自ら三畳部屋に隠《かく》れたまま、最後に路上で救出されるまで、わたしは被害者《ひがいしゃ》というより、むしろ計画を企《くわだ》てた張本人であるように感じていた。しかし実際はそうでなかった。わたしはいつのまにか、クニコに誘拐され、あの狭《せま》く愛着を持った部屋に監禁《かんきん》されていたのである。 「……本当に、お嬢様《じょうさま》には、なんて謝《あやま》ればいいのかわかりません。ナオお嬢様から狂言誘拐に関する話をはじめて聞いたあの夜、紙くずの散らかる三畳部屋で、わたしはおおまかな計画をたてました」  クニコは旦那《だんな》の隣《となり》に腰掛《こしか》け、すまなそうな顔で頭を下げた。わたしたちはテーブルをはさんで、ソファーに腰掛けていた。コーヒーの入った三つのカップが用意され、わたしの前にだけパイの載《の》った皿があった。  音楽も、テレビの音もない。わたしは軽い緊張を感じながら、彼女の言葉を聞いていた。 「完成した手紙を郵便受けに入れてくるようナオお嬢様に言われたあの日、わたしはすぐにはそうしませんでした。封筒《ふうとう》を持って、当時からつきあっていたこの人のところへ行きました」  隣に座《すわ》っている旦那に視線を送る。彼はわたしにうなずいてみせた。さほど緊張しているようには見えず、このような夜が訪《おとず》れることを以前から待ち望んでいた様子すらうかがえた。  クニコはワープロが打てなかった。そこで彼に、もう一枚、本物の犯人がしたためるような凶悪《きょうあく》な手紙を作成してもらった。そういえば、手紙を郵便受けへ入れてくるだけなのに、なぜかなかなか彼女がもどってこなかったのを覚えている。彼の家へ向かったため、遅《おそ》くなったのだ。当時、彼の住んでいたアパートは、菅原家から歩いて十分の場所だったそうだ。  封筒には、当時の旦那が作成しなおした手紙と、母が残した形見のハンカチを同封した。それを郵便受けに入れる。わたしはそのハンカチがなくなっていたことに、気づかなかった。彼女はそれが母の形見であり、パパもそのことを知っているのだということをわたしから聞かされていた。それで、利用できると思ったのだ。手紙を投函《とうかん》するために部屋を出る直前、こっそり衣類の中から盗《ぬす》んでいたのだろう。洗濯《せんたく》はすべてまかせており、彼女がわたしの衣類をあつかっていても、不審《ふしん》に感じなかった。  大塚さんが封筒を発見し、パパに知らせたあたりのことを携帯《けいたい》電話|越《ご》しに聞いた。あのとき、パパが手にしていたのはわたしの作った手紙ではなかったわけである。  クニコはそのとき、わたしに聞かせたくない情報が流れようとすると、即座《そくざ》にその場を離《はな》れたり、電源を切ったりして、真実を覚《さと》られないようにしていたそうだ。犯行声明の手紙をパパが読んだときのこと、急に電波の状態が悪化し、不通になったのを覚えている。おそらく、パパがハンカチに関することを大塚さんに説明しようとしたのだろう。それで彼女は、即座に電話を切ったのだ。 「そういえばクニコさんは、誘拐《ゆうかい》したことを知らせる最初の手紙を出して以降、わたしが見つかるのを避《さ》けたがっている様子だった。外へ出て行くときも、いっしょについてきたわ」 「はい、あのぅ、事件の最中にナオお嬢様が発見されるのは不都合《ふつごう》でしたから……。お嬢様が窓から外を見たり、大きな声で笑ったり、くしゃみしたり、トイレへ行くために部屋を出たりするときは、心配で死にそうでした」  しかし、彼女の部屋にわたしがいることを、結局だれにも悟られることはなかった。その危《あや》うい綱渡《つなわた》りが成功したのは、他《ほか》でもない、誘拐されている当のわたしが必死でかくれる努力をしていたためである。 「ほっとしました。お嬢様、真相を知って、怒《おこ》ってらっしゃるかと思っていました」  わたしは答えを返さずに、出されたコーヒーへ口をつける。  怒っていなかったといえば、嘘《うそ》になる。でも、それは事件の真相に気づいた十ヶ月前、一瞬《いっしゅん》だけ感じたことであり、そのすぐ後には裏切られたという怒《いか》りなど跡形《あとかた》もなく消え去ったのだ。  パパからハンカチを渡《わた》され、犯行を知らせる見覚えのない手紙のコピーを見た後、まだわたしは気絶したまま夢を見ているのではないかと思った。しかし、ひったくりとぶつかり、撥《は》ね飛ばされたときにつけた腕《うで》の青痣《あおあざ》は、まぎれもなく痛かったのである。  わたしは、家出をした後に菅原家へ送られてきたすべての郵便物を確認《かくにん》した。友人からわたしにあてた年賀状《ねんがじょう》がたくさんあった。しかし、それらを脇《わき》に振《ふ》り分けながら、郵便物の山から目的の手紙を探す。  誘拐のことなど計画していなかったとき、パパを安心させるために送った手紙も警察が保管していた。警察は当然、わたしが家出をした後の足取りを捜査《そうさ》するため、その手紙についても調べ上げていた。  家出をしたわたしは、鷹師駅の辺りで友人と別れた直後、何者かにさらわれたものであると判断されていた。足取りがつかめなくなって約二週間後、犯行を知らせる手紙が郵便受けに入れられる。それまで家族を安心させる目くらましとして、その手紙は、犯人がわたしに書かせたものであると結論づけていた。  わたしは事件後、記憶《きおく》を消していたため、そのことに関してコメントはできなかった。  しかし、わたしが郵便物の中から探していた目的の手紙は、それではなかった。  かつて三畳間《さんじょうま》で、警察の大掛《おおが》かりな捜査《そうさ》や、心配するパパたちの様子を見て、わたしは狂言《きょうげん》誘拐を取り消そうと思った。そこで、切りぬきの手紙がだれかのいたずらであることを示そうとして、再度、元気にしているという手紙を書いた。しかし、警察の持っている証拠品《しょうこひん》の中にも、パパの記憶にも、その存在がなかったのである。大塚さんに、配達されていた手紙はこれだけかと尋《たず》ねたが、他《ほか》にはないと彼女は答えた。 「あの手紙は、ええ、ポストへ投函《とうかん》しませんでした……」  クニコの話を聞きながら、わたしはなつかしい味のパイにフォークを刺《さ》した。彼女の旦那《だんな》が作ったそれは、あいかわらずうまかった。 「誘拐《ゆうかい》したことを知らせた最初の手紙が、だれかのいたずらだと思わせる必要はなかった。むしろ、避《さ》けなくてはならないことだった」  ソファーにゆったりと腰掛《こしか》け、旦那は足を組んで天井《てんじょう》を見上げる。その目はまるで、十ヶ月前の光景を思い出しているようだった。 「クニコさんがゴミを出そうとしていたとき、声をかけてきた警官があなただったんですね」  彼は頭をかいた。そして、あのとき携帯《けいたい》電話|越《ご》しに聞いた独特のかすれ声で肯定《こうてい》した。 「ぼくは、裏口のあたりをひそかに監視《かんし》する警官のふりをした。でも、実際はあの家の門の外で、あらかじめ作っておいた台詞《せりふ》を読んでいただけだった。しかも、ゴミを収集するときの作業服を着てね。家の中にいる警察の人間が、事件に対してどのような判断を下しているのか、携帯電話越しに聞いているきみへ植えつけなくてはいけなかった」  クニコはゴミを捨てるために裏口へ向かう途中《とちゅう》、警官と話をしたと思っていた。しかし実際は、裏門から出た敷地《しきち》の外で、一芝居《ひとしばい》うっていたわけだ。敷地の外なら、警官の目も届《とど》かなかったわけだ。わたしは二人の会話を携帯《けいたい》電話で盗聴《とうちょう》していた。わたしの知らされていた情報のいくつかは、二人のでっちあげた脚本だったのだ。 「そういえば、その直前、あなたから電話がかかってきたわ。わたしは眠《ねむ》っていて、それで起こされた」 「はい、お嬢様《じょうさま》には、ぜひ聞いていてほしかったものですから。事前に電話をかけてみたのです」  彼女と話をしていた男の声は、しっかりわたしの耳に残っていた。しかし、事件の後、屋敷内《やしきない》に泊《と》まりこみで働いていた五人の警官に、その声の人物はいなかったのである。それで、屋敷にいた警官は、六人だったのではないかと思った。しかしそうではない。  もう一人の人物の存在を漠然《ばくぜん》と感じ始めたのは、そのときだった。  郵便物を前にして、事件の真相がぼんやりと見えてきたころ、身代金《みのしろきん》を要求する犯人からの手紙を読んだ。それも本物は警察が保管しており、わたしが読んだものはコピーだった。犯行を示す最初の手紙同様、わたしの目に見覚えはなく、切りぬきで作成されたものではなかった。ワープロで打たれたものであり、いくらか書きなおされていた。文章を通して、容赦《ようしゃ》のない犯人の精神が見えてくるようだった。  ただし、身代金の受け渡《わた》しに関する時間や、使用人のクニコを使うことなどは変えられていなかった。内容について異なる部分があるとすれば、要求した身代金の額だけだった。わたしの計画で、要求した額は二百万円だったが、実際に送られてきていた手紙は、身代金三千万円を要求していた。  ふと、受け渡しのさいにキョウコの言った例え話を思い出す。サービスとその見返りについての話で、彼女は、「娘《むすめ》を返して欲しかったら、三千万円と交換」という言葉を使った。あのとき、彼女の頭の中には、この手紙のことがあったにちがいない。 「お嬢様が本当に現金を要求する心理になるとは、思っていませんでした。誘拐《ゆうかい》の手紙は他人のいたずらだとみんなに思わせ、騒動《そうどう》を収拾させたがっていましたから。身代金要求の手紙も、そのうちわたしたちが書かなくてはいけなくなるだろうと思っていたのです。お嬢様に隠《かく》して、この人と二人で身代金の取引を行う手はずでした」 「でも、ある夜、事故が起きた。わたしが後ろ歩きをしていて、それを避《よ》けた車が壁《かべ》に衝突《しょうとつ》した。あれは不測の事態だったのね」  彼女が代わりに罪をかぶってわたしを逃《に》がしたのは、誘拐されているはずの人間がそこにいてはいけなかったためだろう。しかし、その事故が原因で、わたしは身代金を要求し、その上、クニコを代理人に指名することを思いついた。  彼女は、わたしの計画を利用した。臨機応変に、わたしが作った計画を実行するように見せかけ、それと同時に本物の身代金受け渡《わた》しを行うことにしたのだ。 「もし事故がなくて、わたしが身代金を要求していなかったら、どうしていたの?」  夫婦はお互《たが》いに顔を見合わせ、わたしに向き直ると、二人同時に肩《かた》をすくめた。 「さあ、わからない。でも、事故の後、クニコが追い出されるまでの間に、やっぱり身代金を要求していたと思う。つまり、きみに黙《だま》ったまま、身代金の受け渡しをしていただろう。まあ、どうにかなっていたさ」旦那《だんな》の方が答えた。  手紙に書かれていた三千万円という額を最初に読んだとき、わたしは当惑《とうわく》した。結局、そのお金はどこへ消えてしまったのだろう。パパたちは、確かに三千万円の現金を用意したとわたしに説明した。  結局、ひったくりがクニコから鞄《かばん》を奪《うば》い、中に入っているお金だけ抜《ぬ》き取って、発信機のついていた鞄は公園のそばに捨てていたのだ。  わたしは考えながら家の中を歩き回っていた。まだ背中の痛みは完全に消えていなかったが、じっとしていられなかった。  ふと見ると、大塚さんの奥さんがゴミ捨てをしていた。それまではクニコがその仕事の担当《たんとう》だったが、彼女はもういない。  わたしは、ゴミ袋《ぶくろ》を持った彼女を呼び止め、一階のトイレへ連れていった。かつて警官たちの寝床《ねどこ》でもあった十二|畳《じょう》和室から、一番、近いところにあるトイレだ。 「わたしが救出された日、このあたりで何か見なかった?」  そう尋《たず》ねたが、彼女は首をかしげて、覚えていないと言った。しかしわたしは、トイレの脇《わき》に作られた物置を見て、ますますある確信を深めた。そこは掃除《そうじ》用具などを入れておくスペースだったが、三千万円を隠《かく》す余裕《よゆう》は充分《じゅうぶん》にあった。 「あなたは、身代金《みのしろきん》の受け渡《わた》しに出発する前、すでに鞄から現金を抜き取っていたんだわ」わたしがそう追及しても、クニコは否定しなかった。「身代金の入った鞄を抱《だ》いたまま、あなたは和室で待機していた。鞄を抱いていていいかと、あなたは警察の人間にたずねて、すでに準備していたんだ。そして、人目がなくなるのを待った。キョウコと二人で話をした直後、あなたは鞄を持ったままトイレへ行った。キョウコは、あなたが鞄を持ったままなのを指摘《してき》しようとしたが、聞こえないふりをした。そして、トイレに入ると、三千万円をどこか人目のつかないところに隠した」  もしも屋敷内《やしきない》でお金を隠《かく》すチャンスが訪《おとず》れなければ、受け渡《わた》し場所へ行く途中《とちゅう》のどこかですませたはずだ。  あの日、クニコは空っぽの鞄を胸に抱いて、公園へ向かった。  鷹師駅の大通りで、旦那は彼女の鞄をひったくり、逃《に》げる。途中《とちゅう》、わたしにぶつかるというハプニングがあった。しかし、予定通り計画を遂行《すいこう》する。鞄を途中であっさり投げ捨て、帽子《ぼうし》とサングラスというかんたんな変装を解く。後は通行人に混じるだけである。服装が似ているという理由で、たとえ警察に話を聞かれても、問題のお金は持っていない。あっさり容疑ははれるはずである。犯人は鞄の中身を抜《ぬ》き取り、逃走《とうそう》していると考えられていたからだ。 「ひったくりに変装したあなたを追いかけて、わたしはビルを出た……」クニコの旦那に向かって話しかけた。「最後に、あなたとぶつかって気絶してしまったわけだけど、あのことは予測していなかったはずだわ。クニコさんが鞄をうばわれるところを目撃《もくげき》したのは、ほとんど偶然《ぐうぜん》なのだから。もし、あそこで追いかけていなかったら、いったいわたしはどうなってたの? あのまま、公園のベンチをずっと見張っていたわけ?」 「あのぅ……、そのときは機会を見つけて、わたしがお嬢様《じょうさま》に携帯《けいたい》電話でかんたんなあらましを伝えようと思っていました。いえ、この本当の計画のことではなく、ひったくりに鞄をうばわれたことだけ説明するのです。それで、いっそのことひったくりに罪を全部なすりつけてみましょう、と促《うなが》す手はずでした……」  わたしに怒《おこ》られると思ったのか、クニコは所在なさげに手を動かしていた。 「冗談《じょうだん》じゃないよ。あのとき、携帯電話は壊《こわ》れていたんだよ!」 「え、そうだったんですか……?」 「そうだよ、ビルに入るとき、わたしの重みで壊れていたの。今まで知らなかったの?」  彼女はすまなそうにうなずいた。 「でも、携帯電話って、案外、丈夫《じょうぶ》そうなんですけど。ナオお嬢様の重みって……」 「……カントリーマアムが悪いの」  もしもビルの二階からクニコを見つけられず、追いかけていなかったら、状況《じょうきょう》もわからないで大変なことになっていたかもしれない。 「結局、わたしは路上で気絶していたところを救出され、クニコさんは英雄《えいゆう》になるわけでもなく、屋敷《やしき》を追い出されたわけだ……。ところで、大塚さんがゴミ捨てしているのを見て、わたしはエリおばさんの言葉を思い出したの。あなたが菅原家を出ていった日、黒いゴミ袋《ぶくろ》を捨てに行くのを見たとおばさんは言った。彼女は気づいていなかったけど、わたしは納得《なっとく》がいかない。透明《とうめい》なゴミ袋ではなく、黒いゴミ袋を使用するのは違反《いはん》だわ。菅原家のある地区では、ゴミ袋には透明なものを用いると定められているから。でも、その理由はかんたん。中に現金を入れて隠《かく》しておくのに、中の見える袋を使うわけにはいかなかった。ゴミ袋に入れた現金は、きっとトイレの物置に隠《かく》していたんだ。たまたま物置を開けた人がその袋を見ても、中に大金が入っているとは想像しない」  クニコはうなずいた。  真相に気づいたわたしは、痛む背中をさすりながら、クニコの実家へ電話をかけてみた。指が震《ふる》えて、番号を間違《まちが》えそうになった。  頭の中に、彼女の歩く姿が思い浮《うか》んで離《はな》れなかった。  気絶しているわたしが路上で発見され、事件が収束したように見えた次の日の朝。わたしは自室のベッドで眠《ねむ》り続けていた。警察は、和室に設置していた無線機や、電話に取り付けていた逆探知機を片付けていた。正門を監視《かんし》するためにつないでいたケーブルや、映像を記録していたビデオデッキも取り外す。まだ、警察は屋敷内《やしきない》を歩き回っていたのである。  その中を彼女は、身代金《みのしろきん》三千万円の詰《つ》まった黒いゴミ袋を抱《かか》えて、悠々《ゆうゆう》と歩いて出て行ったのだ。途中《とちゅう》、パパとエリおばさんに呼び止められる。出て行きたくないなら、ここにいてもいいと、パパたちは彼女に言ったそうである。そのときクニコの持っていたゴミ袋の中に、まさか身代金が入っていたとは思わない。彼女は動じることもなく、ごく普通《ふつう》の様子で首を横にふる……。  電話には、彼女の弟が出た。しかし、姉は戻《もど》ってきていないという。それだけでなく、菅原家から休暇《きゅうか》を言い渡《わた》されたことも連絡《れんらく》されていなかった。最初から実家へもどるつもりなどなかったのではないかと感じた。  わたしは、彼女の犯罪に気づいてしまう立場にいたわけで、警察に通報するかもしれないと考えたのだろうか。それとも、警察が真相に気づき、追ってくることを恐《おそ》れたのだろうか。  クニコがどこへ消えてしまったのか、手がかりはなく、連絡をとる方法が見当たらなかった。彼女は失踪《しっそう》したのである。 「ナオお嬢様《じょうさま》が真相を告白するかどうか、わかりませんでした。……たぶん、しないだろうと思っていました。それを口にすることは、同時に、ご自分の狂言誘拐《きょうげんゆうかい》についても話すわけですし……」クニコは自信なさげにつぶやいた。「この十ヶ月間、だれにも行き先を告げないまま、遠くから捜査《そうさ》の動向を窺《うかが》っていました。しかし、真相が知れ渡《わた》ることはなかった。だれにも話をしないという意志が、お嬢様にあることを覚《さと》りました。そこで、今になってこの家の住所をハガキに記し、菅原家へ送ってみたのです」 「わたしが無傷で戻ってきたわけだから、身代金がなくなったこと以外はすべて幸運な結果に終わっているのよ。だからきっと、それほど熱心に捜査《そうさ》は行われていないんだわ。他《ほか》に重要な事件は毎日、起こっているのだから、ほとんど解決した被害者《ひがいしゃ》のいない事件に、いつまでも警察は関《かか》わっていられないんだ」 「それに、三千万円なんて、あの家にとってはたいした額ではなかった」  旦那《だんな》がそう付け足す。  わたしはうなずき、背伸《せの》びをする。ソファーの背に思いきり反《そ》り返った。十ヶ月の間ずっと頭にあった考えを、ようやく追い払《はら》うことができたわけで、ひどく気分がよかった。だれかに話したり、質問することはできず、一人で考え続けていたのである。わたしの狭苦《せまくる》しい頭蓋骨《ずがいこつ》の中、クニコの犯罪に関することは、あまりにも空間|占有率《せんゆうりつ》が高すぎた。 「なんだか、今日はいい感じで眠《ねむ》れそう」  本心からそう思った。二人が企《くわだ》て、実行した計画が、愉快《ゆかい》だった。  すでに窓の外は暗く、わたしはもちろんこの家に泊《と》めてもらうつもりだった。余っているという、三・五|畳《じょう》の部屋《へや》を使うことにした。  その部屋へ案内するため、クニコが立ちあがろうとする。 「いいから、きみは座《すわ》ってなよ」旦那《だんな》が彼女を押《お》しとどめ、わたしに向き直る。「ぼくが案内する」  わたしは彼について歩き、階段をのぼった。その部屋は二階にあり、なぜかわたしは懐《なつ》かしさに襲《おそ》われた。この家の狭《せま》さ、古さ、蛍光灯《けいこうとう》の暗さが、どこか離《はな》れの中を思い出させた。  クニコの旦那は突《つ》き当たりにある木の扉《とびら》を開け、わたしを招き寄せた。 「この部屋だよ……、少々、いろんなものが置かれているけど、だめかい?」  電気をつけると、狭い部屋のほとんどがコタツによって占《し》められているのがわかった。近づいてよく見なくても、それがクニコの部屋にあったものだとわかる。彼女の部屋にいた約半月の間、わたしの体の一部だった、クニコが去ると同時に消えてしまったコタツだ。当時、カードで買い物して、そのままクニコが持っていってしまった携帯《けいたい》DVDプレイヤーや、ラジオなどもあった。  コタツの前に座り、足をいれてみる。他《ほか》の電化製品には見られない、布で被覆《ひふく》された独特のコード。すでにプラグはコンセントへ差し込まれ、スイッチが「入」に切り替《か》わるのを待っている。  切りぬきの手紙を作るとき、カッターで傷つけた跡《あと》がある。それを指でなぞりながら、その部屋がきちんと掃除《そうじ》され、ほこりがひとつも落ちていないことに気づく。  クニコは、わたしがこの家にくることを知っていたのだ。そして、事前にコタツを出して、掃除までしてくれていたのだ。きっと、最初からこの部屋でわたしを休ませるつもりだったのに違《ちが》いない。 「まったく、もっと広くていい部屋はなかったの? これじゃあ、監禁《かんきん》されているのも同じだわっ!」  そう不満を述べてみるが、内心のおもしろさが顔をにやけさせていたらしい。クニコの旦那は苦笑して部屋《へや》を出ていった。なんて子供っぽい、いいやつらなんだろう。  コタツの電源を入れる。掛《か》け布団《ぶとん》をめくって、あの赤い光を確認《かくにん》する。でもまだ、あったまるには時間が必要だ。  部屋の電気を消し、懐《なつ》かしい感触《かんしょく》に頬《ほお》を埋《うず》める。心地《ここち》よい暗さと静けさの中、まるで部屋全体が宇宙空間に浮《う》かんでいるような気がしてくる。いつも同じようなことを、クニコの部屋で感じていた。そっと包み込まれるような親密さに、いつのまにかわたしは、菅原家から遠く離《はな》れた地にいるのだということを忘れる。いったい、今がいつなのかも判断できなくなる。  わたしの意識は時間をさかのぼり、十ヶ月前のあの部屋に戻《もど》っていた。冷たい風が離れの窓をゆらす音、温かいコタツ布団にくるまって目を閉じていた当時のことがよみがえる。  ラジオのクリスマスソング特集を聴きながら、窓の隙間《すきま》から外を覗《のぞ》いているわたしがいた。音もなく、ゆっくりおりる雪を、長い間、眺《なが》めていた。コタツと壁《かべ》にはさまれて寝転《ねころ》がり、天井《てんじょう》のあまりの低さに驚《おどろ》いている自分がいた。  キョウコに対して愚《おろ》かな敵意を抱《いだ》いたわたしもいた。娘《むすめ》不在のまま笑い声をあげていたパパへ、自分勝手な逆恨《さかうら》みを押《お》し付けた。誘拐《ゆうかい》の手紙を送り、パパが心配しているのを見なくては、安心できない小さな自分がいた。  ささやかな四角い空間で、クニコと静かに夜を送った。だれかに知られないよう、まるで内緒話《ないしょばなし》のような生活だった。懐かしさに胸が熱くなり、泣きたくなるような衝動《しょうどう》が突《つ》き上げる。  隙間《すきま》から冷気が忍《しの》び込んでいたはずなのに、なぜかやさしい温かさに満ちていた。彼女の部屋は小さくて、きゅうくつで、きっと母のおなかの中は、あんな感じだったはず。  赤外線のランプが、ブーンとはりきりだす。コタツ型のタイムマシンが、だんだんあったまってきた。  眠《ねむ》りに入る寸前、クニコへ祈《いの》りをささげる。大きなおなかを大切に。あなたの子供が、わたしのような親不孝に育たなければいいけど。 [#改ページ]  あとがき  あとがきを書こうと思った。これは重要なことである。しかも今、ぼくははりきっている。ある人が、「あなたの本、あとがきがおもしろい」と言ってくれたからだ。これは、本編よりもあとがきのほうがおもしろい、という意味にもとれる。しかしまあ、これまでに三回しかあとがきを書いたことがないくせにここまで期待されては、これはもう男としておもしろいものを書かなくてはいけないと思う。あとがきの存在は大きい。店頭であとがきだけを立ち読みし、ああおもしろかったと棚《たな》に戻《もど》す人間をぼくは知っている。というか、それはぼくなのだけど。  とにかく、あとがきだけを読んで買うかどうかを決める人は、意外と多いのだ。そのため、不用意なことは書けない。たとえばここで近況《きんきょう》報告などを正直にやったとしよう。するととんでもないことになる。ぼくが募金《ぼきん》をしたことや、川で溺《おぼ》れている子供を助けたこと、車にひかれそうになった子犬を命がけで守ったことなどを書かなくてはならない。そうなるとぼくのイメージが崩《くず》れてしまい、実に困ったことになる。  デビュー前、ともかくあとがきを書いてみたい時期があった。いろんな人の本を読んで、自分だったらこんなあとがきにするのに、と想像をめぐらした。「あとがきが苦手だ」ということをあとがきに書く作家さんがいるけど、何を悩《なや》むことがあるのだろうと不思議に思った。そのころ、あとがきというのは自分の好きにやれる唯一《ゆいいつ》の解放区のように思えていたからだ。  でも今なら、妙《みょう》にその気持ちが理解できる。いざ書こうとすると、毎回、悩むのだこれが。たった数ページのくせして、実に憎《にく》らしいでしょ。  そのようなわけで、何を書こうか迷った末に、ぼくはインターネットを使って問題を解決することにした。あとがきのいろいろを調査すれば、何かわかるかもしれないと思ったからだ。 「あとがきでストーリーの補完をしている本は最低」  という意見をネット上で見つけた。同感である。以前、「この短編は雑誌|掲載《けいさい》時、枚数制限により一部のストーリーを削《けず》った」などという、言い訳がましいあとがきを読んだ。まったくあきれたものである。どんな神経をしているのかと疑ってしまう。その本の作者はだれだったかなあと思い出してみると、残念なことにぼくなのである。どうもすみません。 「登場人物があとがきで座談会というのもダメ」  この意見を読んで、ぼくはショックだった。こういった種類のあとがきが、けっこう好きだったのだ。とくに、座談会というのがいいじゃないか。さまざまな雑誌で、「なんとかかんとか覆面《ふくめん》座談会」なんて特集があると、むさぼるように読んでしまう。これはぼくだけだろうか。もしもぼく一人だけだったら、さみしいので、座談会のことは忘れる。 「あとがきではしゃいでいる作家は、性格が暗いのでは?」  その真偽《しんぎ》についてはわからないけど、ぼくは性格が暗い。 「あとがきで、遅《おそ》くなってすみません、と言っている人はダメ。修羅場《しゅらば》の自慢《じまん》してるだけ」  まったくその通りである。ぼくはこのあとがきを大学の研究室で書いているのだが、卒業論文の締《し》め切りまで一週間をきっている。論文も書いてないのに、この本の仕上げをやっていた。もしかすると卒業できないかもしれないが、そんなことを述べると修羅場自慢になるので、あとがきには書かないよう気をつけたい。 「作品内容に触《ふ》れているあとがきはダメだと思います。あったらその場でその本を捨てる」  これはぼくにも経験がある。読書の楽しみが半減してしまうので、やめなくてはならない。というわけで、このあとがきでは、作品内容についてではなく、題名に関する思い出を語ってみようと思う。 「しあわせは子猫のかたち」、この題名はたしか、漫画《まんが》「ピーナッツ」(スヌーピーの出てくるあれ)のとある回の題名、「しあわせは一匹のあったかい子犬」が原型としてあったと思う。それにしてもちょっと長い題名かもしれない。何度か口にしていると、舌を噛《か》んでしまうかもしれないので、あまり口にしないほうがいいと思う。実際、ぼくは舌を噛んでしまうのを恐《おそ》れて、この話を会話に出すとき、「子猫のあれ」と言うようにしている。だから、正式|名称《めいしょう》は「子猫のあれ」なのかもしれないが、それではかっこよくないので、「しあわせは子猫のかたち」なのだ。うん、こっちのほうが、やっぱりいいと思う。 「失踪HOLIDAY」、この話が作られたのは、本当に些細《ささい》なことがきっかけだった。あるとき担当編集者の青山さんが、「昔、わたしが携《たずさ》わった小説で、『疾走HOLIDAY』というのがあるのです。この題名わたしが考えました」と言ったことに端《たん》を発する。ぼくはてっきり、『疾走HOLIDAY』ではなく、『失踪HOLIDAY』であると勘違《かんちが》いした。  耳で聞いただけではそう勘違いしても仕方がないと思う。これは、ぼくが昔、漢字の小テストが苦手だったこととはまったく関係がない。いやもう断じてそういうわけではないのである。後日、青山さんの言った題名が、『疾走HOLIDAY』と書くことを知らされた。それならばぼくが『失踪HOLIDAY』という題名を使っても怒《おこ》られないなと思った。実を言うと、『失踪HOLIDAY』っていいタイトルだと思っていた。話の内容とか、キャラクターなんかは、すべてその後で考えた。結局、これまで発表した中で、最長のものになった。やればできる。  さて、そろそろページ数もなくなってきました。年賀状のあまりでもなんでもいいので、感想のお手紙をくださるとありがたいです。手紙のあてさきはこちらです。 [#ここから5字下げ] 〒102−8078  角川書店「ザ・スニーカー」編集部 乙一先生へ [#ここで字下げ終わり]  またこんなことを書くと、まわりの人から、自分の名前に「先生」とかつけやがって、と言われるはずだけど、別にこの「先生」という部分は書いても書かなくてもいいです。「先生」などと呼ばれるとかなり偉《えら》そうなので、恥《は》ずかしいかもしれない。かといって、「乙一」だけだったら、これはこれで名前のようには見えず、たんなる糸クズであるように思われそうだ。だから、「乙一(糸クズではありません)」という注意書きが必要かもしれない。ウソである。  また、羽住都先生へお手紙を送るときは、「乙一」の部分を、「羽住都」と置きかえるだけでいいはずだ。はっきりいって、この本をだれかが買ってくれるとしたら、羽住先生のイラストのおかげだと思う。でも、ぼくが羽住先生の「羽住」って苗字《みょうじ》を、最初、「はじゅう」と読んでしまったことは知られてはいけない。もし知られたら、今度から絵を描いてくれなくなるかもしれない。それは実に困る。路頭に迷う。とにかく、ありがとうございます羽住先生。  さて、次にスニーカー文庫からぼくの本が出版されるとしたら、「ザ・スニーカー」に掲載された「calling you」とか、「傷 kiz/kids」という題名の短編が収録されるような気がします。どちらもタイトルに英文がまじっており、「縦書きにしたとき、かっこわるくなる!」と青山さんがぼやくかもしれません。  では、次作でまた会いましょう。  ………………………………。 「最後に、『また次作でお会いしましょう』と書いてあるあとがきは、作者がそれっきり見かけなくなったときに痛いのでダメ」という意見もネットにあったな、そういえば……。 [#地から2字上げ]乙 一 [#改ページ] 底本 角川スニーカー文庫 二〇〇一年一月一日 第一刷