天帝妖狐 乙一 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)きっと咳《せ》きこんでしまうのだろうな、 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)今井は男女|見境《みさかい》なく ------------------------------------------------------- A MASKED BALL ア マスクド ボール   ——及びトイレのタバコさんの出現と消失—— [#改丁] [#ここから5字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  はじめてタバコを吸ったのは六年前。小学五年生の時だった。  夜おそく塾から帰ってみれば両親は外出中だったし、テーブルの上には父親のセーラム・ライトがあったのだ。前々から吸ってみたかったとか、どんな味がするのだろうかとか、興味があったわけではない。ただ、さしあたって他にやることがなかったので、タバコに火をつけてみた。  きっと咳《せ》きこんでしまうのだろうな、と思っていた。しかし意外なことにぼくの体は抵抗なく煙を受け入れてしまった。特に感動というのはなかった。ただ、ああなるほどね、と感じただけだった。  その夜はタバコの吸《す》い殻《がら》を空缶《あきかん》に入れ、マンガを読んで寝た。部屋に残った煙を追い出すために、窓は開けておいた。  昔から塾にかよったり、習字やそろばんを習ったりしていた。しかし、高校まで続いたのはタバコだけだった。  もちろん、ぼくのような一般高校生が教室でタバコなど吸っては校則違反である。よって普段はトイレの個室で吸うことにしていた。そのトイレの個室こそ、はじまりの場所だった。  そもそも高校に入学してはじめてやったことというのが、よりよい、より安全な喫煙室さがしだったのだ。できるだけ人のこないトイレで、ゆっくり吸いたい。  結果、ベストだと思った喫煙室は剣道場の裏側にある男子トイレだった。そこは学校の敷地のすみに位置していた。人もあまり通らない。剣道部以外にも、野球部、ラグビー部の部室だって近くにあったが、トイレに出入りする人間を見たことはない。  運動部のために設《もう》けられたトイレだったが、最近できた第二体育館のトイレのほうがグラウンドに近いので、ほとんどの運動部員はそちらのほうを利用している。  使う人間が少ないからなのか、トイレの中は小綺麗《こぎれい》だった。個室は一個だけだったが、壁のタイルが白い光沢《こうたく》を放っていた。そしてまだその時は、個室の壁に落書きはひとつもなかった。それは学校のトイレにしてみればめずらしいことである。中学校のトイレは落書きだらけだった。  数日間、そこの個室でタバコを吸ってみた。うん、これはなかなかいい具合だ、ということで、ぼくの巣はこのトイレに決定した。  やがて二年生になって、その秋。懇意《こんい》にしていた例のトイレである出来事が起こった。 [#ここから2字下げ]  ラクガキスルベカラズ [#ここで字下げ終わり]  という落書きが個室の壁のタイルにされていたのだ。タイルはてのひらくらいの大きさで、それにぴったりその文章がおさまっていた。まるで、年賀状のようだった。  内容も変だと思った。落書きをするな、という主張をしているくせに、それ自身が落書きなのだ。  その日の前日に行なわれた全校集会で校舎の落書きが問題になっていたから、それでこのような落書きを思いついたのだろう。  テストが近かったので一方の手に英単語のメモ、もう一方にタバコを持ってそんなことを考えた。  次の日の朝、今度は別の人間がタイルに落書きをしていた。ラクガキスルベカラズという落書きのとなりにサインペンで書かれていた。 [#ここから2字下げ]  だれのらくがきなのか知らないけど、らくがきしてるのは自分のほうじゃないか。 [#地から10字上げ]K.E. [#ここで字下げ終わり]  ぼくが考えたことと同じだ。K.E.という奴《やつ》はぼくの考えを落書きで代弁している。K.E.というのは彼のペンネームらしい。  それまで、そのトイレをいつも使っているのは自分だけだと考えていた。いつ行っても人気《ひとけ》はなく、自分以外の人間が出入りしているとは思えなかったのだ。しかし、どうやら他にも利用者はいたらしい。入学して以来、トイレではじめて人間の気配を感じた。  ところが、同じ日の夕方にもう一度トイレに入ってみると、さらに二つの落書きが増えていた。 [#ここから2字下げ]  くだらないけれどこういう落書きオレは好きだ。とくに全文カタカナだというのがいい。 [#地から10字上げ]2C茶髪 [#ここで字下げ終わり] [#ここから2字下げ]  もうこれ以上学校の建物に落書きするのはやめたほうがいいと思います。 [#地から10字上げ]V3 [#ここで字下げ終わり]  それぞれ壁にペンで書かれていた。2C茶髪とV3、変な名前だ。白い小綺麗なトイレの壁に、四つの落書きは目立っていた。白い壁のタイルに黒い文字だ。  ぼくは、数学の問題集とタバコを手にやってきたのだが、偶然にもポケットにはサインペンが入っていた。  だから、冗談のつもりで、 [#ここから2字下げ]  あんたたちはいったい何者なんだ。 [#地から10字上げ]G.U. [#ここで字下げ終わり]  と書いてみた。G.U.というのはぼくのイニシャルだ。こういうのはきらいじゃない。  翌朝、缶コーヒーとタバコを持ってトイレに入ってみると、ラクガキスルベカラズという落書きが消されていた。かわりに新しい落書きが生まれていた。 [#ここから2字下げ]  ボクハ ナニモノデモナイ  ダレデモアリ ダレデモナク  ドコニデモイル [#ここで字下げ終わり]  ぼくの書いた落書きへの答えのようだ。  また、2C茶髪やK.E.の落書きも新しくなっていた。 [#ここから2字下げ]  だれか知らないにんげんのらくがきに、こうやってらくがきで答えるというのもなんなのだが、何者かなんてどうでもいい。 [#地から10字上げ]2C茶髪 [#ここで字下げ終わり] [#ここから2字下げ] 『ボクハ ナニモノデモナイ』だって?  うちの学校のせいとにそんなこというやつがいるなんて思わなかった。会えてコウエイっス。 [#地から10字上げ]K.E. [#ここで字下げ終わり]  2C茶髪の落書きはぼくに対しての、K.E.の落書きはナニモノデモナイに対してのメッセージだ。  そういうふうにして、ぼくと、カタカナのアイツと、K.E.と2C茶髪とV3がそろった。五人だ。  タイルに書いたペンの落書きはトイレットペーパーで簡単に落とすことができた。よって、古い落書きを消して、新しい落書きを書きこむことができた。  以来、一日や半日の間で落書きは新しいものに入れかわり、ぼくはトイレでタバコを吸っている時間にたいくつしなくなった。  少なくとも自分以外に四人の人間がこのトイレに出入りしていることがわかったが、ぼくは一度も彼ららしき人物とはちあわせしたことはなかった。 [#ここから2字下げ]  テストがかえってきた。また一段とバカになりました。 [#地から10字上げ]2C茶髪 [#ここで字下げ終わり] [#ここから2字下げ]  次回もバカにみがきをかけろ。 [#地から10字上げ]G.U. [#ここで字下げ終わり]  彼らの落書きはたいていぐちや近況報告や学校のうわさだったが、それでも愉快だった。顔も本名もお互い知らないくせに意見だけは言いあえる、という状況がおもしろかった。本名を出さなくていいから、何でも書ける。 [#ここから2字下げ]  数学、前川の問題はいんしつすぎる。 [#地から10字上げ]G.U. [#ここで字下げ終わり]  前川、というのは数学の先生だ。ぼくのクラスは彼の受け持ちだ。真面目《まじめ》な若い先生だが、髪がぼさぼさで生徒の人気は薄い。 [#ここから2字下げ]  真田《さなだ》先生が後藤先生にモーションをかけたらしい。そういえば、真田先生は赤い新車に乗ってた。左ハンドルの車だったな。 [#地から10字上げ]K.E. [#ここで字下げ終わり] [#ここから2字下げ]  あの女ったらしめ。 [#地から10字上げ]2C茶髪 [#ここで字下げ終わり]  しだいにトイレの壁は五人の伝言板と化していった。 [#ここから2字下げ]  コンビニで2年D組の宮下を見た。やっぱりウワサどおりイイ。ジュースを買ってたぜ。 [#地から10字上げ]2C茶髪 [#ここで字下げ終わり] [#ここから2字下げ]  ジュースといえば、教室から自動はんばいきまで遠すぎる。ひとつのクラスに一個ずつあればいいのに! [#地から10字上げ]K.E. [#ここで字下げ終わり] [#ここから2字下げ]  そうなると空缶が増えます。今もだれかが空缶を捨てているのです。 [#地から10字上げ]V3 [#ここで字下げ終わり]  例のナニモノデモナイが発言する回数は極端に少なかった。 [#ここから2字下げ]  V3クン キミハ イイコトヲ イウネ [#ここで字下げ終わり]  そのくせ、カタカナの文体は圧倒的に存在感があった。細く小さなカクカクとした文字は異様な雰囲気を持っていた。  そして二月の末。三年生が卒業する二週間前の月曜日。 [#ここから2字下げ]  コノガッコウニハ アキカンガ オオスギル [#ここで字下げ終わり]  というメッセージが残されていた。  変な奴だ、と、そう思った。  この学校には空缶が多すぎる?  変な奴だ。 [#改ページ] [#ここから5字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  次の日。  う・え・む・ら〜! と言いながら、友人の東《ひがし》がぼくの机に近づいてきた。  昼休みの終わる直前、教室の中でのことだった。 「おい、上村! 上村!」  東は手足をばたばたさせて騒いでいた。  無視して次の授業の準備をはじめると、彼はぼくの頭をつかんで上下に揺さぶった。 「聞け、数学の教科書を出している場合じゃないぞ、たいへんだ、学校の自動販売機が壊れちまった!」  東は拳《こぶし》を震わせてさもくやしそうな顔をした。 「かわりに水でも飲め。自動販売機が壊れたくらいで騒ぐんじゃないよ」 「だって、金を入れたあとで壊れていることに気づいたんだよ。自動販売機を壊した奴を恨《うら》むよ」  心にひっかかった。 「壊した? 故障じゃないのか? 本当にだれかが壊したのか?」  ひょっとしたらぼくの声はうわずっていたのかもしれない。東はばたりと騒ぐのをやめて、不思議そうな顔でぼくを見た。 「そうらしいよ、自然に壊れたものじゃなかったみたい。電源のケーブルがすっぱり切られていたんだって、今井さんが言ってたよ」  今井というのは、うちのクラスで学級委員をつとめる活発な女子である。中学が同じだったこともあり、彼女とはよく話をした。 [#ここから2字下げ]  コノガッコウニハ アキカンガ オオスギル [#ここで字下げ終わり]  アイツの落書きが頭に蘇《よみがえ》った。頭の中でも、カタカナだった。  どうしたんだ上村? と東が言った。 「いや、何でもない」  ぼくは立ち上がって今井の机にむかった。  どうしたんだよ、という東の声が背中から聞こえた。  今井は自分の机の上にすわっていた。学級委員のくせに、行儀が悪いと思う。彼女はひざの上に雑誌をひろげて、周辺の女子生徒たちと談笑している。星占いの雑誌だ。 「今井さん、缶ジュースは買えた?」  ぼくは声をかけた。 「上村、ちょっと話を聞いてよ。百十円も損しちゃったよ」  と彼女は言った。今井は男女|見境《みさかい》なくよくしゃべる。彼女に友人は多かった。 「さっき昌子《しょうこ》といっしょにジュースを買いに行ったのよ。けれど自動販売機が壊れててジュースが出ないじゃないの。入れたお金はどうしてくれるのよ。壊れてるんなら貼《は》り紙くらいしておきなさいよ。あー、すげーむかつくー」  一応、ぼくはうなずいておいた。本当は、たった百十円くらいで、と思ったけど。 「それで、自然に壊れた感じじゃなかったの?」 「そう! だれかが電源のケーブルをスパッと切ってたのよ! だれかが切ったんじゃなければ、学校にあるやつが全部いっせいにそうなるわけないじゃない!」  ぼくは耳を疑った。 「三台ともやられてたわけ?」  この学校には、三台の自販機がある。 「そう。犯人見つけたらただじゃおかないって。しばいて埋めるわ!」  いつのまにか後ろに東が立っていた。 「百十円のせいで埋められる犯人っていうのはかわいそうだな。ところで、昌子ちゃんも怒ってたのかな? 怒ってない? そうっスよね、今井さんみたく怒るようなすさんだ心は持ってないよね、昌子ちゃんはね」 「うっるさいわねー」  バン! と大きな音がした。先生が教卓に本のたばを置いた音だった。 「授業をはじめます」  数学の前川だった。  前川の授業はたいくつなことで有名だった。淡々と数式を黒板に書き、ぼさぼさ頭で行ったり来たりする。彼の授業は本当にただそれだけだった。冗談のひとつも言わないで、事務処理のように授業をすすめる。彼はそういう機械のような人だった。彼は二年D組の担任でもあった。ぼくはA組だ。  前川の授業が終わって、ぼくはもう少し今井に話を聞こうとした。しかし、すでに今井は教室にいなかった。  しかたがないので、例のトイレへむかった。  例のトイレは学校のすみにあるから、校舎を出て歩かなければならない。  二月の終わりで、まだ寒かった。  両側に木の並んだ道を抜け、運動部の部室が並んでいる場所を通り、トイレへ飛びこんだ。  だれもいない。ぼくはトイレの個室にカギをかけた。 [#ここから2字下げ]  また、コンビニで宮下を見かけた。もうすぐ三月だ。冬はきらいだ。寒いから。 [#地から10字上げ]2C茶髪 [#ここで字下げ終わり]  宮下というのは、おそらく宮下昌子のことだろう。今井の友人で、顔立ちの整った人だ。東ははじめて彼女を見た時、手足をじたばたさせて、天使だ! と騒いでいた。 [#ここから2字下げ]  カタカナで落書きをするキミへ  きのう、『アキカンガ オオスギル』って書いてたけど、この学校に入ってきて、落ちている空缶なんて見たことがないけど? [#地から10字上げ]K.E. [#ここで字下げ終わり]  二つのメッセージは、事件のことを知らないうちに書いたものだろう。おそらく、二人は朝のはやいうちにここへやってきたのだ。事件のことを知っていれば、そのことを話題にするのではないだろうか。 [#ここから2字下げ]  本日、学校中の自動販売機が何者かの手によって使用不能にされました。自動販売機は学校の施設の一部です。壊すことはいけません。ひょっとして、と思います。犯人は、昨日《きのう》、落書きに、『アキカンガ オオスギル』と書いたあなたではないのですか? もしそうなら自首してください。 [#地から10字上げ]V3 [#ここで字下げ終わり]  必死な文章だ。彼はもともと字が上手《じょうず》で漢字を多く使う。そして彼も、ぼくと同じことを考えている。自動販売機を壊した犯人は、アイツなのではないか? アイツ……、カタカナのアイツだ。  アイツのコメントはなかった。昨日の、アイツの落書きがそのまま変わらず残っていた。  ぼくは昨日の自分の落書きを消した。ポケットからペンを取り出して、書いた。 [#ここから2字下げ]  だいたいV3と同じきもち。でも、すっごいことやるな、という感じもする。 [#地から10字上げ]G.U. [#ここで字下げ終わり]  壁のタイルが冷たくて指が震えた。  いきなり、だれかがトイレに入ってくる気配がした。そのだれかはぼくの入っている個室に近づいてきて、扉を開けようとした。  しかし、扉にはカギをかけておいたので開かない。  扉を一枚はさんで、そのだれかが息を飲む音が聞こえた。  ぼくは個室の中からトントンと扉を叩《たた》いた。  入っていますよ、という、ぼくにできる精いっぱいの意思表示だった。  心臓《しんぞう》の鼓動がはやくなった。あんたがだれなのか知らないが、はやく帰ってくれ、という思いがしていた。  そのだれかは、あわてて立ち去っていった。  今のはカタカナのアイツか? それともV3か? K.E.? 2C茶髪? まったく関係ない人? ぼくは疲れた。  トイレの個室はせまい。そして寒い。  ポケットからタバコとライターを取り出して、床に灰を落としながらタバコを吸った。  トイレを出ると走った。だれかに見られたくなかった。とくに、落書きを残していくアイツらには顔を覚えられたくなかった。  校舎に入り、教室に向かっていると、途中で後藤に会った。彼女は若い国語教師である。先生のことを「後藤先生」ではなく「後藤」と呼びすてにしている自分はどうかと思うが、とにかく彼女は階段の前でかがんでいた。ゴミを拾っているようだ。  彼女は落ちているタバコの吸い殻をつまんでいた。  ぼくが見ていることに気づくと、彼女はほほ笑んで吸い殻をポケットに入れた。  後藤が綺麗好きだという話は本当だったのか。そう思いながら彼女の脇《わき》を抜けて階段を上がろうとすると、後ろから声をかけられた。 「キミ、制服からタバコのにおいがする」  振り返ると、まゆをつり上げて後藤がぼくを睨《にら》んでいた。 「この制服、友人のなんですよ。東って奴の制服なんです。困った奴ですよね」  そう言い残してぼくは逃げた。心の中で東に何度もあやまった。  やがて一日の授業が終了。  学校を出る前にもう一度例のトイレへ寄ってみようと考えた。途中、また運動部の部室が並んだ道を通る。普通なら部活のはじまる時間だ。しかし三学期も終わりに近く、すでにほとんどの部活は活動休止状態に入っている。三年生も部活の世界にはもういない。もうすぐ卒業だ。  今が夏なら、金属バットやらサッカーボールやら、かけ声やら好タイムやらが、ちらほら現れる時間だった。  落ちている空缶は見当たらない。清掃業者が片づけているのかもしれない。  個室の扉は開いていた。だれもいない。中に入ると予想どおり、落書きが新しいものに書きかえられていた。 [#ここから2字下げ]  学校のはんばい機がつかえなくなったら、わざわざ外でジュースを買ってこないといけない。近くないぞ。水を飲めということかな? [#地から10字上げ]K.E. [#ここで字下げ終わり] [#ここから2字下げ]  G.U.と同じく、すごい、と思った。 [#地から10字上げ]2C茶髪 [#ここで字下げ終わり]  そして、アイツも新しい落蕃きを残していた。ぞくり、とした。 [#ここから2字下げ]  カンリョウ  ジドウハンバイキガ ツカエナクナルノハ トウゼンノコトデス  アキカンガ ヘルコト  ボクハ ダレヨリモ ツヨク ネガウ [#ここで字下げ終わり]  完了?  ぼくも新しい落書きをトイレの壁に書いた。 [#ここから2字下げ]  あんた、おかしいよ。おかしい、っていうのは、おもしろい、っていう意味ではないよ。 [#地から10字上げ]G.U. [#ここで字下げ終わり]  そしてトイレを出た。  家へ帰るため、自転車に乗って校門へむかう途中、赤い外車とすれちがった。真田という先生の車だった。  彼の車は駐車場まですすみ、二台分のスペースを使って停車した。二台分のスペースだ。  彼の話題がトイレの落書きにあったのを思い出して、気分が悪くなった。  だから、校門を出てタバコに火をつけようとした。が、それはできなかった。  ライターがなかった。どこかで落としてしまったらしい。気に入っていたライターだったから、少しショックだった。どこででも手に入るというものではなく、ゲームセンターにあるUFOキャッチャーの賞品だったのだ。ふたを開け、スイッチを押しても炎の出ない、ターボライターというやつだ。スイッチを押すとライターの一部分が高温になる。高温になった箇所《かしょ》が目立たないから、知らないでヘタなところを触《さわ》ると火傷《やけど》してしまう。かつて東が火傷をして、指先に小さな水膨《みずぶく》れを作っていた。  タバコも一本しか残っていなかった。今日はいつもより多く吸ってしまったらしい。  しかたなく、かわりに微分方程式を思い浮かべて心を落ち着けた。自転車をこぎながら、数式を頭の中に描く。パタン、パタンとおりたたむようにそれを解く。そのうちに頭から雑念が消えて、自分が機械になったように静かな気持ちになるのだ。  途中、コンビニエンスストアにたちよった。タバコとライターを買うためだ。  店に入り商品を眺めながら歩いていると、宮下昌子がいた。落書きにも名前が出ていた例の宮下だ。顔くらいは知っているが、彼女と話したことはない。彼女は、ぼくのことを知らないはずだ。  聞くところによると、性格は実におとなしいらしい。  あの人はピアノだよ、と東が言っていた。  ピアノ? 何だよそれ?  ほら、ピアノを習っているような印象の、家柄《いえがら》のよさそうな娘さんのことさ。白いカーテン。一輪の花。白血病。そんなイメージ。声を聞いたことがあるけど、静かで穏《おだ》やかな声だったなあ。いいなあ、うっとりだなあ。  ぼくは、女みたいな東の長髪と顔を思い出しながら、買い物をするピアノに注目していた。文房具の並んだ棚の前に、彼女はいた。ぼくに気づいていない。厚いコートを着込んでいる。肌は白く、その下にある血管が透き通って見えそうだった。  彼女は棚に並んでいる商品を手でつかむと、それをおもむろにポケットへ入れた。早業《はやわざ》だった。  もう一度同じものをポケットに入れた。消しゴムである。その次は赤のボールペン。商品を掃除機のように吸い取っていった。  結局、彼女はパンをひとつだけ買って店を出た。  なんて奴だ。理屈ぬきで感動した。  店の前で宮下に声をかけてみた。 「ほどほどにしときなよ。クセになったらたいへんだ」  すると彼女はびっくりした顔でぼくを見た。 「あなた、だれ?」  小さな声だった。くちびるが震えている。 「お願い、だれにも言わないで」  泣きそうな顔をしていた。予想外だった。あんまりとうとつだったので、気のきいた言葉が出なかった。ええと……、とつぶやきながら彼女に近づいてしまった。その瞬間、彼女に顔を殴《なぐ》られた。グーだった。 「ちかよるんじゃないわよスケベ! 殴るわよ!」  すでに殴っているくせに彼女はそう叫んだ。そして、ピアノであり白いカーテンであり一輪の花であり白血病でもある宮下昌子は、タッタッタッと走って逃げた。  彼女が遠く見えなくなるまでぼくは動けなかった。それからコンビニエンスストアへ戻り、顔に貼るための湿布薬《しっぷやく》を買った。 [#改ページ] [#ここから5字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  朝。目覚めは最悪だった。親も、目覚まし時計も、だれもぼくの爆睡《ばくすい》を止めるものはいなかったのだ。台所には一言《ひとこと》、 [#ここから2字下げ]  会社に行くから [#ここで字下げ終わり]  と母の書き置きがあった。その味気ない文字の連なりは、トイレの落書きを思い出させた。  学校へ急いでも、最初の授業に間に合う時間ではなかった。だから、ゆっくり自転車をこいだ。少し遅れて学校へ行くのは気持ちよい。校門に近づいてもだれもいない。のどかだ。早朝のとがった冷気もない。ただ、まるみをおびたうららかな陽《ひ》が照っているだけだ。  ぼくはまず例のトイレへむかった。  いくつかのメッセージが新しくなっていた。 [#ここから2字下げ]  カンリョウってなんだ。きもち悪いっスよ。 [#地から10字上げ]K.E. [#ここで字下げ終わり]  K.E.の落書きは、カタカナのアイツへのコメントだ。 [#ここから2字下げ]  カンリョウ? まるで仕事人みたいだ。先生たちはいじょうじたいでたいへんなのに。どうでもいいけど、真田の車がめざわりだ。きちんと駐車しろー! [#地から10字上げ]2C茶髪 [#ここで字下げ終わり]  2C茶髪はあまりアイツに動じていない。  そして、アイツの落書き。 [#ここから2字下げ]  キノウココデ ボクハ ライターヲ ヒロッタ [#ここで字下げ終わり]  ぼくも落書きを残した。 [#ここから2字下げ]  それはオレのライター。拾ってくれてありがとう。大切につかえ。放火にはつかうなよ。 [#地から10字上げ]G.U. [#ここで字下げ終わり]  トイレを出て、ぼくは教室へむかった。時計を見ると、ちょうど一限目が終わるころだ。  途中、剣道場の前で北沢《きたざわ》に出くわした。彼とは中学が同じで、塾も同じだった。髪形も背丈《せたけ》も、おまけに成績まで似ていたが、よく話をする関係というわけではなかったし、クラスも別だった。 「よう」  と北沢は言った。彼は剣道部員だ。その関係で剣道場に用があったのだろう。  ぼくと北沢は並んで歩いた。会話はなかった。軍隊の行進を思い出した。  やがて、教室の前で彼は言った。 「おまえ、顔にあざができているぞ。ケンカでもしたのか?」 「少しね。相手はゴリラみたいな奴だったよ」  あざとは、もちろん宮下に殴られた跡《あと》だ。ゴリラ。東にもそう説明しようと思った。 「ところで上村、おまえ下痢《げり》なのか?」 「なんで?」 「よく剣道場の前を通るじゃないか。裏のトイレに行ってるんじゃないのか?」 「ああ、最近、ひどい腹痛でさ。だれか他にも通る人いる?」  彼は腕時計を見た。 「あ、すまん、授業がはじまる。そういえば、あのトイレ……」  彼は去り際《ぎわ》に言った。 「……いろいろ出入りしてるよ。使われてないみたいで、けっこう利用者はいるみたい」  昼休み。  ぼくは東といっしょに売店で焼きそばパンと銀チョコとサンドイッチとカレーパンを買った。ジュースも売店で売られていた。自動販売機がつかえないからといって、ジュースが飲めないわけではない。ただ、売店で売られているジュースの半分以上が紙パック入りだから、空缶の量は目に見えて減っただろう。  教室へむかう途中の廊下で、今度は今井と遭遇《そうぐう》した。彼女のとなりにはあの宮下がいた。  緊張した。朝から悪いことが続く。彼女もぼくのことを覚えていたらしく、よく見ないとわからない程度だが、頬《ほお》の筋肉をこわばらせていた。 「買い出し? 毎日、んなパンばかり食っていると、栄養がかたよるよ」  と今井が言った。宮下は、やはりかしこまっていた。おとなしい。学校と外ではちがう人間になるらしい。 「ボク、焼きそばパンマン!」  東が焼きそばパンの入った袋をブンブン振って叫んだ。おとなしくしていれば、彼はいい男なのだ。長髪で、女のような顔立ちである。遠くから見れば女に見えないこともない。 「宮下さん、焼きそば好き? 好きなら、ボクの焼きそばパンの焼きそばのところだけ分けてあげましょう」 「今日は結構です」  宮下はぼくをうかがいながら、東の言葉を断《ことわ》った。丁寧《ていねい》な物腰だ。よくできた人間に見える。詐欺《さぎ》だ。世界も終わりだ、と思う。 「どうしたのよ上村。顔にあざができてるよ」  今井だった。ぼくが答えを迷っていると、東が口をはさんだ。 「上村は昨日、だれかとケンカしたらしいよ。相手はゴリラみたいな奴だったんだって」 「へえ、ゴリラに殴られたんですか」  宮下は感心したようにぼくを見た。目が笑っていない。ぼくは答えた。 「そう、凶暴なゴリラだったんだ」  彼女は一言、 「災難でしたね」  と言った。泥沼だ。  放課後。  剣道場を大きく迂回《うかい》するルートを通って例のトイレへむかった。細い道だった。両側には植木が並んでいて、大半の葉は枯れ落ちていた。丹念に落ち葉を掃除した跡があった。  トイレに入る前からタバコに火をつけた。 [#ここから2字下げ]  やっぱり気味が悪い。なんども書くけど、自動はんばいきをためらいなくこわすなんて、ふつうじゃないっスよ! [#地から10字上げ]K.E. [#ここで字下げ終わり]  今回もアイツへのコメントだ。 [#ここから2字下げ]  いがいと気になっているね、K.E.クン。おれなんか、彼のそこがイイと思うのだよ。 [#地から10字上げ]2C茶髪 [#ここで字下げ終わり]  2C茶髪は落ち着いて書いている。しかし名前は変だし、落書きの内容も変だ。字は下手《へた》で漢字が少ない。そして、調べてみたが、二年C組に茶色の髪の生徒はいないのだ。 [#ここから2字下げ]  G.U.君はここで煙草《たばこ》を吸っているのですか? 煙草は健康に悪いです。肺癌《はいがん》になる前に止《や》めてください。お願いです。校則では、喫煙の発覚した生徒は無期停学ですよ。 [#地から10字上げ]V3 [#ここで字下げ終わり]  彼は、今朝のぼくの落書きを読んだのだろう。ぼくにあてたメッセージだ。ライターなど落とすんじゃなかった。床によくタバコの灰を散らかしていたから、後ろめたい。  V3はいつも丁寧だ。彼の正体は生徒会長に立候補するような立派な人物にちがいない。  そういえば今までも、V3は真面目に落書きへ接していた。しかし、彼には考えすぎるところがある。彼の人生相談のような落書きは、強く記憶に残っている。例えば、 [#ここから2字下げ]  僕は昔、仮面ライダーに憧《あこが》れていました。特に三人目が好きでした。三人目の名前は仮面ライダーV3。僕のペンネームの由来です。  僕は勉強が得意です。でも、勉強しかできません。本当の僕は全然駄目な人間です。 [#地から10字上げ]V3 [#ここで字下げ終わり] [#ここから2字下げ]  僕は結局、何もできない人間に育ってしまいました。無個性で、いったい何のために生きているのかわかりません。でも、ここで落書きを読んだりしている時は楽しいです。今まで誰《だれ》にも言えなかった事を、なぜか素直に壁へ書き付けることができるのです。  このトイレの個室の中では、自分が自分でいられます。いろんな社会の圧力から解放される場所なのです。僕は、ここでは一括《ひとくく》りにされない、みんなとは別の形なのです。  でも外では、何者でもない人間です。 [#地から10字上げ]V3 [#ここで字下げ終わり]  など、ほんの一例にすぎない。V3の悩みは何日にもわたる大作だった。彼が悩みのすべてを書き記していたなら、きっと、トイレの壁だけでは足りなかっただろう。  彼の悩みが壁に記されていた日、ぼくとK.E.と2C茶髪は、『考えるなー』という一言を彼へ残した。そういう小難《こむずか》しいことを考える高校生が実在するとは思いもしなかった。『楽しく遊べー』とも書いた。この年齢で人生を考える奴は、賢《かしこ》くない。  ぼくはタバコを便器に落とした。ジュッといって火は消えた。V3のことを思い出している場合ではなかった。  アイツの落書きが新しいものに書きかえられていたのだ。 [#ここから2字下げ]  サナダセンセイノ アカイクルマハ コウツウノ ジャマデス  ボクガ ハイジョ シマス  ガッコウニ チッジョ ヲ  ソレガボクノ ユルガヌ オモイ [#ここで字下げ終わり]  ぼくも落書きを残して、そこから立ち去った。 [#ここから2字下げ]  かってにしなさい。 [#地から10字上げ]G.U. [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] [#ここから5字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  次の日。例年の平均気温を下回る寒い朝だった。  白い息をハーハー吐きながら自転車に乗って登校してきた時、真田の赤い外車が目に入った。また白線を無視して大胆に駐車している。ワイルドだ。  残念だが、まだ、排除とやらはされていない。  先生の車、狙《ねら》われていますよ、と真田に忠告したほうがよいだろうか。そんなことを思いながらぼくは教室にむかった。忠告しても本気にはしてくれないだろう。根拠が落書きでは笑われるだけだし、ヘタをするとぼくが自動販売機壊しの犯人だと思われかねない。それに、基本的に真田は嫌《いや》な先生だった。  途中、宮下が、ぼくの知らない女子生徒と歩いていた。  寒そうにして、転ばないように足下《あしもと》を見ながら、ペンギンのように歩いている。  通りがけにあいさつをしてみた。 「おはようございます」  彼女の友人は、だれ? 昌子の知り合い? と宮下に聞いた。  ううん、だれかしら、全然知らない人。ちょっと、先に行ってて。  宮下は友人と別れて、一人でぼくに近づいてきた。彼女の友人は角を曲がっていってしまった。 「ちょっとお」  ケンカを売るような口調だった。 「あなたねえ、馴々《なれなれ》しく声をかけないでくれる? わたし、学校では物静かで病弱なお嬢様で通ってるんだからね、まったく、あなたがうちの学校の生徒だとは思わなかった! 今度またわたしに声かけたら、もうひとつあざ作ってやるから!」  宮下は中指を立てて遠ざかっていった。  なあ、東、今日もえらいことが起きるかもしれないんだよ。  一限目の授業がはじまる前、教室で東に言ってみた。東は長い髪をいじくって、枝毛を見つけては悲しんでいた。 「えらいこと?」 「真田先生の車が故障するかもしれないんだよ。赤い外車、おまえも知っているだろう? あれのケーブルか何かが、また、切断されるかもしれない」 「ケーブルか何かって、自動販売機の時みたいに?」 「ひょっとしたらタイヤに釘《くぎ》でも刺されるかもしれない。とにかく、そういう悪質な悪戯《いたずら》が近々起きるらしい」  東は不思議そうに首をかしげてぼくを見た。 「うわさだよ、うわさ。そんな話を人づてに聞いてね」  ぼくは授業の用意をはじめた。  それから間《ま》を置かずに先生が教室へ現れた。  三十分後、授業中だというのに廊下を歩く北沢の姿を見た。  一限目が終わると、東が手をばたばたさせてぼくに言った。 「なあ、さっきの話、真田に言わなくていいのか?」 「何て言えばいいんだ。だいたい、おれはもうこのことに関わりたくないんだよ」 「なんだ、人づてに聞いたうわさじゃなかったのか? まるで関係者みたいな口振りじゃないか上村クン」  それから東は教室を出ようとした。うわさを広めるつもりだな、とわかった。 「いいか、おれの名前は出すなよ」  東と入れちがいに今井が教室に入ってきた。 「上村、昌子からあなたのこと聞いたわよ!」  彼女はぼくの席にちかよってきて、机をバンと叩いた。怒っている。  宮下、何かよからぬことを口にしたな、と思った。 「上村、あなた一昨日《おととい》の下校時に宮下と偶然会ったらしいじゃないの」  一昨日というと、コンビニエンスストアの前で殴られた日だ。まだ顔にはあざが残っている。  ああ、会ったよ、偶然、本当に偶然だよ、とぼくは答えた。 「その時、タバコをくわえながら車を運転していたそうじゃない!」  でたらめだ。言うほうも言うほうだが、信じるほうも信じるほうだ。 「車っていうのは自転車のことであって。それにタバコなんて、ぼくが吸うわけないだろ」  今井は鼻を動かした。 「うそ、あなたの学生服、タバコくさいわ」  学生服の近くで親父《おやじ》が吸うんだ。そう言おうとした時、東が戻ってきた。彼はあわてていた。たいへんだ、と奇声に近い声をあげて、ぼくの席に走り寄ってきた。 「すでに遅かった!」  東の声が発端となり、教室がざわめき出した。いつのまにか学校全体がざわざわしている。自分の席にいながら、それがわかった。廊下を走るやつや、教室外からのどよめきが急に増えたのだ。廊下の連中は、外にむかっているようだった。 「真田の外車がボコボコにされた! たぶん金属バットか何かで、ガラスも全部割られて、ボディの流線形も跡形《あとかた》なし! 上村、あれはタイヤに釘を刺すレベルの悪戯じゃないぞ!」  東はぼくの襟首《えりくび》をつかんで揺さぶった。 「みんな、それを見に行ってるの?」  廊下を見て、今井がつぶやいた。 「わたしも行くわ」  彼女も教室を出た。 「上村、おまえすごいよ、予測してたんだろう? おまえは情報の最先端にいる男だよ」  東はぼくに顔を近づけた。 「まさか上村、おまえがやったのか?」 「やってない」  学校中が揺れていた。大勢の生徒が真田の車を見物しに行ったようだ。 「これは歴史に残る事件だ。上村は生《なま》であの車を見てないから、たいして感動してないんだろうけど、本当にひどいやられようだったんだぞ。落書きもきっちり……」 「落書き? されてたのか?」 「それも前後左右、すごい内容の落書きだった。とても不良が書いたようには見えない文章だったな。まあ、車を破壊した犯人は結局、真田のことがきらいな三年生の不良たちなんだろうけどさ。いわゆる、卒業記念ってやつ、卒業する前に先生を殴っておこう、っていうのと同じだろ? でも不良ならもっと不良らしい落書きってあるじゃないか。今回のはそうじゃなかった」 「カタカナか?」  東は、げ、と言った。 「図星。ボコボコの車体に、小さな文字でみっしりと落書きがされてた。『コウツウキソク』とか『イハン』とか『ショリ』とか『アカルイ ミライ』とか、そういう文字が並んでいた。遠目に見るとお経かなんかみたいだったよ」  これはいよいよ、と思った。アイツの仕業《しわざ》か……。  今井が青ざめた顔で戻ってきた。 「やじ馬が大勢いて、遠目にしか見ることができなかったわ。でもあれは、普通じゃないわよ。特に落書き。何が書いてあるのかわからなかったけど、寒気《さむけ》がした」  今井と東は顔を見合わせた。 「あれはたしかに気味が悪いね。カタカナだったんだけど、それがよけい怖《こわ》い。書いた人間が何を考えているのか、全然わかんないんだよ。卒業まぢかだからって、不良たちもよくやるよ」 「もう近くで見ることはできないかな?」  ぼくは聞いた。 「だめじゃないかな? 先生たちが必死に騒ぎをおさめていたし、おばさんが散らばったガラスの破片を掃除してたしね」  ぼくは、ほうきを持ってガラスの破片を片づける掃除のおばさんを思い浮かべた。うちの学校では、生徒は掃除をしない。専門の清掃業者の人にまかせている。ぼくもその人たちを見かけたことがある。 「たいへんね、真田先生も、掃除する人も」  今井が言った。  全部、アイツのせいだ。  昼休み。雲行きがあやしい。  本当は落書きを読みに例のトイレへ行きたかったのたが、もう少し学校中が落ち着いてから行くことにした。トイレで例の奴らとはちあわせしたくなかった。落書きする人間同士で正体をさぐり合うようなことはしない。そういう気遣《きづか》いをお互いにしていたから今まで落書きは続いてきたのだ。  トイレへ行くかわりに、北沢と話をした。 「なあ、北沢、おまえ一限目の授業をさぼって出歩いていただろう、だれかが車を壊すところ見なかったのか?」  一限目の間に真田の車はやられた。 「車、すごい壊され方していたな。あの時は、さぼっていたわけじゃないよ。授業がなかったんだ。先生も全然来ないし、みんなやりたいほうだいでさ。あとから聞いた話だと、先生が遅刻したんだってさ」 「先生が遅刻か、夜更《よふ》かしでもしたのかな。いったいだれなんだ、その先生は」 「前川だよ、数学の」  ぼくは前川の機械的でおもしろ味のない授業を思い出した。  放課後、ぼくは例のトイレへむかった。 [#ここから2字下げ]  ひどい、今回のはやりすぎだ! やりかたがぜったい間違っている! ぼくは悲しいぞ! [#地から10字上げ]K.E. [#ここで字下げ終わり] [#ここから2字下げ]  びっくりした。ほんきなんだもんな。カタカナのオマエ、ストレスがたまっているんじゃないのか? べんきょうはほどほどでいいんだよ、ダブらないくらいに。 [#地から10字上げ]2C茶髪 [#ここで字下げ終わり] [#ここから2字下げ]  ひょっとしてアナタは、真田先生が自動車を二つ分のスペースに駐車させていたという理由で破壊活動を行なったのですか? 常軌《じょうき》を逸脱した行為です。僕は昨日《きのう》、心配で、真田先生が帰るまで自動車を見張っていたのですが、アナタは現れませんでしたね。どこかから僕をうかがっていたのですか? [#地から10字上げ]V3 [#ここで字下げ終わり]  みんなそれなりにショックだったらしい。  それにしてもV3。真田の車をずっと見張っていたのか。やるじゃないか。  しかし、アイツの落書きも新しいものになっていた。ぼくの予想を裏切る内容だった。 [#ここから2字下げ]  カンリョウ  ソシテ アラタナツミ ノ ハッカク [#ここで字下げ終わり]  つづきがあった。 [#ここから2字下げ]  ボクハ 2ネンDグミ ミヤシタショウコクン ヲ ガッコウカラ ハイジョ スル  ミヤシタショウコクン ハ ガッコウデノ キツエン ソシテ スイガラノ ホウチノ ツミ [#ここで字下げ終わり]  おそらく、三人はこの文章をまだ読んでいない。もし彼らがこれを読んだあとに落書きしたのなら、真田の車の話などしているはずはない。そんな話題どころではないのだ。  ぼくは、アイツの落書きをほとんど消して、『カンリョウ』のただ一言《ひとこと》だけを残した。宮下は一応、物静かで病弱という人で通っているから、喫煙したなどと書かれては困るだろう。  ぼくも落書きして個室を出た。 [#ここから2字下げ]  最近、不運が続く。 [#地から10字上げ]G.U. [#ここで字下げ終わり]  学校を出ようと思った。  校門のあたりで職員用の駐車場を振り返った。赤い外車の姿はない。ただ、青いビニールシートがかぶせられた車の残骸《ざんがい》らしきものがあるだけだ。だが、シートの上からでも、車体の歪みがわかった。  学校を出て、コンビニエンスストアへむかった。宮下が万引きをしていた店だ。彼女がそこにいるという確証はなかったが、彼女が他にどこへ出没するのかを知らなかった。  彼女は、いた。会えたのはほとんど偶然だった。  カセットテープを握って、今にもポケットへ入れそうな気配だった。ぼくは背後からちかよってそれを取り上げた。 「あなたが買ってくれるっていうの?」  彼女は、なによう、というふうに片まゆをつり上げてぼくを見た。  ぼくはカセットテープをレジへ持っていって金を払った。宮下の手をひっぱって店を出て、話がある、と言った。 「なによ、変なヤツ!」 「同感。きみは狙われてるよ、変質者に」  少し歩くと川がある。彼女はそこへ、買ったばかりで封も切っていないカセットテープを大きく振りかぶり投げ入れた。 「もったいない。百二十分のテープだったのに。ひょっとして、ボールペンとか消しゴムもこの川に?」 「投げ入れたわ」  水面にできた波紋はゆるゆると消えた。 「あー、すっきりした」  スカッ、とした表情だった。 「新品を捨ててると、いつかバチが当たるよ」 「ヘンゼルとグレーテルはパンをちぎって捨てたけれど、それで助かったじゃないの」  ぼくはタバコに火をつけた。 「肺ガンで死ぬわよ」 「きみも吸ってるんじゃなかったのか?」  なぜそのことを知っているの、という顔をして彼女はぼくを見た。 「今日、学校で隠れて吸った。はじめてだったの。でも、よくそんなの吸えるわね、あなた」 「はじめて? 今みたいに、吸《す》い殻《がら》はその辺に捨てたのか?」  宮下は、 「……んん、まあ」  と答えた。  それを偶然アイツに目撃されたのか。  運の悪い奴だ、と思った。本当に。 [#改ページ] [#ここから5字下げ] 5 [#ここで字下げ終わり]  金曜日。朝。  ぼくが鞄《かばん》をぶら提げて教室に入ると、 「おす……」  という覇気《はき》のない声がかけられた。今井だった。今井はひどく顔を青ざめさせて椅子《いす》にすわっていた。東はまだ来ていなかった。 「どうした、顔色が悪いね」 「気分が悪いのよ。上村、今朝、昌子に会った?」 「いいや、今朝は会ってない」  昨日は、狙われているから注意しろよ、と何度も忠告して別れた。しかし彼女は真面目に聞いているふうには見えなかった。 「彼女がどうかしたのか?」  急に悪い予感がした。まさかもう、アイツに何かされたのだろうか。 「彼女は……、ショックを受けてたわ。ほら、昌子はおとなしくて感受性の強い子じゃないの。だからああいう落書きになれていないのよ」 「落書き? どこに?」 「二階の女子トイレよ、すぐそこの。壁に大きな文字で書かれていたの。すごい大きな字だったわ」 「ひょっとしてカタカナで?」  今井はうなずいた。 「よくわかったわね。『2ネン Dグミ ミヤシタショウコヘ コンニチハ ズジョウ ニ チュウイ』って」 「こんにちは、頭上に注意?」 「ええ、抑揚《よくよう》のない文字だった。ただまっすぐな棒を組み合わせてカタカナを作りました、って感じの文字。寒気がしたわ。もー、すっごい嫌な気分」  間違いなくアイツだと思った。  こんにちは? 頭上に注意? これはいったいどういう意味なのだろう。たしかに気分が悪くなる。 「それで、宮下はどう?」 「落ちこんでたわ。顔、青くしてふらふら教室へ入ってった」 「今日は帰らせたほうがいいんじゃないか?」  このまま学校にいたら危ない。彼女はアイツに狙われている。何をされるかわからない。そうだ、わからない。アイツは宮下をどうするつもりなのだろう。 「帰ったほうがいいって私も言ったのよ。でも昌子、勉強が遅れるから帰らないって」 「そういう問題じゃないだろう。それで、落書きはどうなったの? まだそのまま?」 「今、掃除のおばさんが消してるわ」  東が教室に入ってきた。 「おい、今そこで聞いたんだけど、昌子ちゃんの落書きって何のことだよ」  この話はすでに学校中へ広まっているのだろうか。急に宮下の顔を思い出した。よくわからない性格ではあるが、かわいそうに思えた。  K.E.、2C茶髪、V3はこの話をどう受け止めるだろうか。アイツの仕業だと気づくだろうか。しかし、ぼくは昨日、アイツのメッセージの犯行予告らしき部分を消してしまったのだ。だからアイツの仕業だと気づかないかもしれない。  今井は東に落書きのことを話した。すると彼は、 「おれ、ちょっと見てくる」  と言って教室を出ようとした。 「バカ、落書きは女子トイレなのよ!」 「昌子ちゃんの様子を見てくるんだよ」  ぼくも東につづいて教室を出た。女子トイレに侵入してまで落書きとは普通じゃない。  廊下の窓から宮下の教室をうかがってみた。二年D組だ。  宮下は自分の席で小さくなっていた。色の失せた顔で、何か深く考え事でもしているようだった。ぼくと東が見ていることに気づくと彼女はハッとした。表情を和《やわ》らげて、椅子から立ち上がり、ぼくらに近づこうとしたところで先生が教室に入ってきた。担任の前川だった。  ぼくと東は窓からはなれた。ちっくしょー、と東が言った。  午前中の授業が終わると、例のトイレへ向かった。  この時間になると学校中がうわつく。昼食の時間だからだ。食事を買い出しに行く人がいれば、弁当を広げる人もいる。  しかし、北沢のいる二年F組のクラスだけはちがった。  中をのぞいてみると、大々的な掃除が行なわれていた。机が後ろに下げられて、生徒が床を掃《は》いたり拭《ふ》いたりしている。生徒が掃除をしなくていいこの学校では、ほとんど見かけない光景だ。  北沢がいた。数人の生徒に混じってぞうきんで床を拭いている。彼に声をかけてみた。 「何やってるんだよ」 「掃除だよ」  立ち上がり、彼はぼくの方へちかよってきた。ぞうきんを持っている北沢の手は赤くなっていた。真冬なのだ。水は冷たい。 「もう昼休みだろう?」 「掃除しろって言われたんだよ、先生に、授業が終わる間際《まぎわ》。教室が汚いんだってさ。ぞうきんがけなんて何年ぶりだろうな」 「先生に言われたからやってるわけか、みんなで」  クラスのほとんど全員が掃除をしている。 「そうだよ、でもまあ、べつにどうでもいいよ、どうだってね。おれ掃除好きだし、後藤先生の命令だし」  あの綺麗好きの後藤の命令だったのか。 「上村、今朝のこと聞いたか?」 「女子トイレの落書きのこと?」  北沢はうなずいた。 「あれのせいで、また緊急職員会議が開かれたらしいぜ。昨日、真田先生の車のことで開かれたばかりなんだけどな。二日続けてっていうのは異例だな。やっぱり今朝のアレは、宮下に恨みを持つ女がやったのかな、場所が女子トイレだから、女がやったのにはちがいないんだろうな」  後藤が教室へやってきた。彼女は、ぼくと立ち話をしている北沢に目をむけていた。 「じゃあ、またな……」  北沢がそう言って掃除に戻ろうとした瞬間、ハッとして彼の動きが止まった。  軽蔑したような目でぼくを見た。 「おまえの学生服、タバコのにおいがするぜ」 「ああ、そうだろうな」  北沢は教室の掃除をする大勢の輪の中に入っていった。北沢に言われたことを、以前、後藤にも言われたことがある。彼女はまだぼくの顔をおぼえているだろうか。  足早にそこをはなれて例のトイレへむかった。 [#ここから2字下げ]  タニンノ メッセージヲ ケス コトハ ルールイハンダ  ミヤシタショウコクン ニ チカイジンブツ ガ ケシタ ト オモワレル [#ここで字下げ終わり]  個室に入って最初に見えた文章がそれだった。気分悪い。  メッセージを消したのは宮下昌子に近い人物と思われる、とアイツは書いている。どうやらその人物がぼくだとは、まだ、気づいていないようだ。 [#ここから2字下げ]  カタカナの彼へ 『メッセージが勝手に消された』とあなたは書いていますが、消された落書きはいったいどのような内容だったのですか? 今残されているあなたのメッセージからは内容がつかめません。  そして、あなたの落書きに宮下昌子さんの名前が出ていますね。今朝の宮下さんへの落書きはあなたが書いたのですか? [#地から10字上げ]V3 [#ここで字下げ終わり]  アイツが宮下昌子を狙っていることに、V3は気づきはじめている。  一方、K.E.と2C茶髪に気づいた様子はない。というより、二人は、アイツが落書きを書きなおす前にここへやってきたのかもしれない。 [#ここから2字下げ]  あしたは土曜だ。学校が休みだ。うれしいな。さいきん学校がぶっそうだから、だれかのおかげで。もうすぐ学校もおわりだというのに。星占いでも、悪い相が出てたしな。 [#地から10字上げ]K.E. [#ここで字下げ終わり] [#ここから2字下げ]  さむい。ここはさむい。ついでにサイフの中もさむい。こんなさむい思いまでして、ここに落書きをしにくることはないんだけどな。やっぱオレはバカなのかな。 [#地から10字上げ]2C茶髪 [#ここで字下げ終わり]  ぼくはどうするか迷った。アイツの落書きをもう一度消そうか。いや、消す必要はない。 [#ここから2字下げ]  他人の落書きをかってに消すなんてひどいやつがいるんだな。  昨日、なにを書き残していたのかオレはぜんぜん知るよしもないが、キミの怒《いか》るきもちはわかるよ、カタカナくん。 [#地から10字上げ]G.U. [#ここで字下げ終わり]  そう書き残してぼくはトイレを出た。  放課後。  家へ帰るか、それとも宮下を探そうか、迷いながら外を歩いていると、遠くに見知った二人の人間が並んで立ち話していることに気づいた。どういう組みあわせなのか、それは東と宮下だった。  宮下は寒そうに肩を丸めていた。校舎の影になって、そこには陽があたらないのだ。  今日、ぼくは一度も彼女と言葉をかわしていなかった。だから彼女が今どういう心境なのかわからない。まだ落書きのショックが残っているだろうか。いや、そもそも彼女はショックを受けたのだろうか。昨日、繰り返し忠告したにもかかわらず、気にした様子がまったく見られなかったのだ。しかしそれは昨日の段階。今はどうだろう。  ぼくは二人に近づいた。東は、邪魔するなよ、という顔をして宮下にぼくを紹介した。 「コイツがさっき話題にしていた上村クン。このまえ廊下でボクといっしょにいたろう? ボクと同じく今井さんの友達ね」  宮下は、こんにちは、と頭を下げた。 「今朝はたいへんだったね」 「もうだいじょうぶよ」 「これからも、気をつけてね。これからも」  ぼくがそう言うと、彼女は顔を引きつらせた。 「おい上村、これからも気をつけろ、ってどういう意味だよ。また悪戯があるみたいな言い方じゃないか。そういえば真田の車の噂も」  東がそこまで言った時、突然、すぐそばで何かが爆発するような音。宮下の一歩となりの地面に、いつのまにか机が出現していた。それが上から落ちてきてアスファルトにたたきつけられたのだということに気づくまでしばらく時間がかかった。  ぼくたちは驚きのあまり、とっさに声が出せなかった。机が落下した時の轟音《ごうおん》が校舎の壁に反響して、消えてもまだ、動けずにいた。  最初に悲鳴をあげたのは、ぼくたちから少しはなれた場所を歩いていた女子生徒だった。  上を見上げると、校舎の三階の窓がひとつだけ開いていた。三年生の教室だ。  立ちすくむ宮下と東をおいて、ぼくは校舎の中へ走った。  三階の廊下に人影はなかった。  机が落とされたらしい教室にも人影はなく、ただ窓がひとつ開いているだけだった。  他の教室も見て回った。それぞれの教室に生徒が数人いた。みんな窓の方に集まっていた。何事があったのかと下を見ている。  どれが、アイツなのかわからない。  アイツが机を落としたにちがいないのに。  ぼくは二階の男子トイレも見たが、だれもいなかった。ひょっとしたら女子トイレの中にアイツがひそんでいるかもしれないが、そこまで調べるのは気がひけた。アイツが女でないかぎり、中に隠れているとは思えなかった。  下へ戻ると、東と宮下はすでに立ち去っていた。かわりに野次馬《やじうま》がたくさん集まっていた。  ぼくは例のトイレへむかった。  歩きながら、ぼくは急に腹が立ってきた。  宮下のすぐそばに机が落ちてきたのだ。一歩まちがえば宮下は死んでいたかもしれない。事故ではない。アイツが狙ってやったにちがいない。ぼくはそう確信していた。  頭上に注意? ふざけろ。  アイツは普通の神経ではない。悪戯の域《いき》を超《こ》えている。まるで宮下が、自動販売機や車と同じような扱いだ。しかも動機と思える部分がすごい。最初は空缶。次に駐車のマナーの悪さ。そしてタバコの投げ捨てだ。それだけの理由で机を落とすアイツの神経が怖い。しかも宮下の場合は特に運が悪い。たった一回の投げ捨てを見られただけなのだ。ぼくだったら机どころではない。ぼくは例のトイレに、たくさんのタバコの灰を散らかしてしまっている。宮下の百万倍は狙われていいはずなのだ。あのやろう、とぼくは思った。これでは狩りだ。狙われるままで、こちらは何もできない。第一、アイツの顔も、名前も知らないのだ。何もできない。  いや、本当にそうだろうか? 本当に何もできないのか? ぼくは少し考えてみた。  しかし一方で、関わるな、という思いもあった。宮下とも話をするな。自分もアイツに狙われてしまうぞ。それはぼくの賢い部分から出たものだった。その賢い部分の言うことは、校舎の三階へとっさに走った自分の行動とまったく矛盾《むじゅん》している。  トイレに入り、だれもいないことを確認すると個室の扉を開けた。  アイツへのささやかな抵抗を思いついていた。  アイツに狙われてもかまわない。ここまで関わってしまったのだから、宮下を助けなくてはいけない。ぼくは世間話をするようにメッセージを書いた。 [#ここから2字下げ]  今朝の落書きの話題だけど、宮下昌子というやつは男子生徒に人気があるみたいだな。友人がいうには、彼女は天体観測愛好会に所属しているらしい。今日の夜、学校で活動をするらしい。午後9時ごろ、校舎入り口に集合するみたいだ。宮下昌子も来るのかな。 [#地から10字上げ]G.U. [#ここで字下げ終わり]  すべてがでたらめだった。少しわざとらしく聞こえやしないだろうか。いや、日時と場所をはっきりさせる必要がある。しょうがない。  アイツがぼくのメッセージを読んでくれることを祈って、ぼくはタバコに火をつけた。たいして吸いたいとは思っていなかったが、習慣で火をつけていた。  その時、トイレに人の入ってくる気配がした。ぼくはあわててタバコを洋式便器に投げ捨てた。個室のカギをかけ忘れていることに気づいた、が、遅かった。  個室の扉が開けられた。扉を開けたのは数学の前川だった。こういうふうに喫煙がばれた生徒を何人もぼくは見てきた。 「タバコかね?」  前川は授業をする時と変わらない口調だった。まるで電卓のようだ、と思った。 「いいえ。大です」  ぼくはそう言って、さりげなく水を流した。タバコは洋式便器に吸いこまれて消えた。 「煙が見えたぞ」 「息ですよ。寒いですから」  問題はにおいだ。  前川は鼻をひくつかせた。 「くさいですよ。大ですから」  ぼくは緊張して身構《みがま》えていた。しかし彼は何も言わなかった。  彼の鼻の穴から、静かに、透明な液体が流れてきた。液体はすぐにくちびるへ達した。彼はぼくから目をはなさずに、まばたきすらせずに、ハンカチで鼻水を拭《ぬぐ》った。 「行ってよい」  前川は風邪気味で鼻が詰まっていたらしい。  出ていこうとしたぼくは、前川の後ろに掃除のおばさんが立っていることに気づいた。白髪の老婆だ。顔はしわだらけで、何を考えているのかわからない。黒いゴムの長グツに、青いビニールの手袋をしていた。  よりによって一部始終をこのばあさんに見られていた。気まずくて早足で立ち去った。  学校の帰り道。コンビニエンスストアへ寄ってみると、宮下が中にいた。雑誌のコーナーでバイクの本を立ち読みしていた。  彼女に声をかけた。 「待ってるんじゃないかと思ってた。東は?」  宮下はぼくを見るといきなり睨《にら》んだ。 「学校で別れたわ。送ろうか、って言われたけど断った。それよりあなた、どこに行ってたのよ! あの机は何なの!?」 「昨日、さんざん忠告したじゃないか」 「わたしが狙われてるってこと? 本当にだれかから命を狙われてるって言うの? バカげてる!」 「今日のようなことがあってもそう思う?」  彼女は静かになった。そして低い声で言った。 「犯人はだれなのよ。知ってるんでしょう?」 「知らない。本当に知らない。でも、今夜わかるかもしれない」 「どういうこと?」 「いいんだ。きみには関係ない。きみは一歩も家から出なければいいんだ。いいか、出るなよ。部屋でテレビでも見てろよ」  彼女はムッとした顔をした。 「外に出るなって命令されても困る!」  ぼくはひとまず、店中に聞こえる大きな声で、出るなよ! と叫んでみた。店員がびっくりしていた。宮下もびっくりして、泣きそうな顔になった。 「あの家、居づらいのよね……。ここもね……」  店員や他の客に見られながら、ぼくらは店を出て、そこで別れた。  ぼくは家へ帰り、東の家へ電話をかけた。 [#改ページ] [#ここから5字下げ] 6 [#ここで字下げ終わり]  午後八時三十分。あたりは暗かった。  月は見えない。星もなかった。雲だ。天体観測のできる夜ではないが、関係はない。ただ、ひたすら寒かった。  学校の校門から少しはなれた暗闇《くらやみ》に身をひそめていた。街灯や民家の光があたらない、建物の隙間《すきま》にできる闇だ。そこから学校の方向をうかがっていた。校舎も静かに闇の中へ沈んでいる。  学校の前にバスがとまった。電話で注文したとおりの服装で東が現れた。  街灯の作る光の円の中へ進み出て、東を呼んだ。 「上村あ、そんなところに隠れていたのか。おまえのイタ電だったらどうしようかと思ってたぜ。ところで、本当なのか?」  東は女物の服を厚く着こみ、マフラーとコートという姿でぼくに聞いた。 「本当に、宮下を狙っている人間をつかまえることができるのか?」  ぼくはうなずいて星の見えない夜空を見上げた。 「アイツがバカなら、罠《わな》にひっかかってくれるかもしれない」  雪がふってきそうだ。鼻と耳が寒さで痛い。 「罠?」 「宮下の偽物《にせもの》を用意して、アイツに襲わせる。そこをつかまえるんだ。単純な話だろ?」  東は自分の服装を見た。彼は、遠目に見れば女に見える。いや、女物の服を着た今、近くで見てさえ女に見えないこともない。 「おれが昌子ちゃんの偽物? 大役だな。化粧もしてくるべきだった」 「その服は?」 「姉《ねえ》さんのものだよ」  ぼくと東は校門を抜けた。仮の天体観測愛好会は校舎入り口で待ち合わせをすることになっている。約束の時刻の九時まで、あと三十分だった。  ついに雪がふってきた。学校の敷地内にある街灯が、宙を漂う小さな雪を照らす。  アイツって? 東がぼくに質問した。アイツってだれだよ、上村。おまえさっき言っただろ、アイツって。  まだわからない。でも、今日はやっぱり現れないかもしれないな、雪がふってきたし。くわしいことはあとで話すよ。  東は校舎の入り口あたりをうろつくことになった。ぼくは物陰にひそみ、アイツらしい人間が東に近づいた瞬間に飛び出すしくみだった。  体が震えた。ぼくの隠れた校舎の陰は特に寒く思えた。東も寒そうにぽつんと立っていた。彼の近くには明かりがあるから、遠くからでも見えるはずだ。  三十分後。  人影が校門を抜けてきた。ぼくと東はすぐそれに気づいて緊張した。だれだ。こんな時間に、こんなところを通る人間はそういないはずだ。  人影はすべるようにメインストリートを進み、東の立っているところへ近づいてくる。静かだった。心の中がしんとなる静けさだ。  すいませーん、と人影が声をあげた。聞いたことのある声だった。あのー、すいませーん、そこのひとー。人影は東に声をかけている。宮下昌子だった。ぼくは飛び出した。 「なんでこんな場所に……!」  宮下は、ああ、と言った。 「上村くん。そっちは東くん……ですか?」  女物の服を着こんだ東を見て、彼女は目を丸くした。 「いや、これにはわけがあるんだよ。趣味じゃないんだ、趣味じゃ」  東はぶんぶん手を振って否定した。 「なんでこんなところに東くんがいるんですか?」 「話はあとだ。東はさっきのようにしてて」  時刻は来ている。ぼくは宮下の腕をひっぱって校舎の陰へ戻った。東はこちらを気にしながら宮下の偽物を続ける。 「家を出るなって言っただろう、なんで学校なんかに来たんだよ」 「急に手えひっぱらないでよね。それに、何つんつんしてんのよバカ。だいたいわたしは、電話でここに呼び出されてきたのよ」 「電話?」  暗闇で、彼女の顔は見えない。 「うん。学校に来い、来ないと秘密をばらすぞ、って内容だったの」 「どんな声だった?」 「わからない。男だったのか、女だったのか、それすらもわからなかった。子供のようにも聞こえたし、大人のようにも聞こえた。故意に声を変えてたのかな。でも、あの電話、てっきりあなただと思ったわ」 「え?」 「あなた以外にだれがいるっていうのよ。万引きのこととか、タバコのこととか。ひょっとして、今日のあの机もあなたの仕業?」 「ちがうよ、誤解だ。アイツは、きみがタバコを投げ捨てるところを目撃してるんだ。秘密っていうのは、万引きのことではなくて、タバコのことだよ」 「おんなじよ、どっちだって。万引きでもタバコでも、ばらされてしまえば同じ。それより、目撃したアイツって、いったいだれなのよ。わたしはね、その電話を受けたあと、あなたの家へ電話したのよ。番号しらべるのに苦労したわよ吾郎《ごろう》くん。あなた、吾郎っていう名前なのね。うちの吾郎は学校へ天体観測に行ってます、今夜は友人の家にとまるかもしれません、って言われた」  母だ。ぼくのうそをまるごと信じている。 「天体観測? 空を見れば星なんて出てないのがわかるのに。それで本当は何なわけ? 本当に天体を観測してるの? 女装すればオリオンが綺麗に見えるんだ?」 「つかまえるんだよ、犯人を、これからきみの偽物をおとりにして」  宮下は声をなくした。暗くて、表情がわからない。おそらくあきれ返っているのだろう、と思っていたら、なるほど、と彼女はつぶやいた。感心して、理解を示しているようだ。 「だから家を出るなって言ったんだ。偽物で犯人を釣ろうって時に本物が現れたらだめだろう。きみは今すぐ帰れ。ここは、きみにとって一番危ない場所なんだよ」  ぼくはタバコを取り出して火をつけた。ライターの火で彼女の顔が見えた。雪の粒が頭にのっていた。 「イヤよ。わたしも犯人の顔を見たい」 「危ないんだよ」 「あなたこそ、武器持ってるの? 犯人は武器くらい用意してるわよ、きっと。わたしも含めて、二人で犯人に飛びかかったほうが有利よ」 「しかしね」 「わたしはだいじょうぶ。危なくなったら死んだふりとか気絶したふりとかやるから」  宮下はぼくからタバコをうばった。タバコの残りもライターも出しなさい、と言ってぼくからそれらもうばった。箱にはあと五本入っていた。 「全部没収。結局のところ、わたしはこれがきらいみたい。オヤジも吸ってるし」  その時、後ろから懐中電灯で照らされた。突然だった。振り返ると数学の前川が立っていた。いつもは表情を変えない彼だが、この時、前川は驚いた顔をした。  宮下はタバコやライターをあわてて隠した。ぼくが火をつけたタバコは、消す暇もなかった。 「宮下くん、こんなところにいたのか」  前川が言った。 「こんなところで何をしているんだ、もう九時だぞ。ついさっききみのお母さんと電話で話をした。心配されていた」  うそです、と宮下は言った。断定的だった。うそです。心配しているはずがありません。  ぼくと宮下は街灯の照らす明るい場所へ歩いた。  前川は懐中電灯をぼくらに向けるのをやめた。 「きみは?」  前川はぼくを見てそうたずねた。 「天体観測愛好会の者です。ここで友人を待っているんですよ」  東がぼくらの方に気づいてちかよってきた。 「彼も友人です、変な格好ですけど」  東は、ほほ笑んでお辞儀をした。 「すまないが、少し宮下くんと二人で話をしたい。彼女の家庭のことだ」  前川がそう言った。ぼくは少し考えたが、先生といっしょならアイツも狙わないだろうと思って、言うことにしたがった。 「わかりました。ぼくと彼はあっちへ行きます」 「天体観測はここでやるのかね?」 「いいえ、校舎の屋上でやろうと思ってます」  アドリブだった。雪はやんでいた。前川は、星など見えてないことに気づいているのだろうか。 「屋上はカギがかかっている。宿直室へ行って、カギを借りてきなさい。今日の宿直は後藤先生のはずだ」  宮下は、前川から見えないように後ろで手を組んでいた。手にはタバコが隠されているはずだ。  ぼくと東は宿直室へ向かった。校舎の入り口にはカギがかかっていたから、ぼくらは裏口へまわった。裏口は遠く、けっこう歩かなければいけない。歩きながら東に天体観測の話をして、おれに話を合わせろよ、と念を押した。  裏口にはカギがかかっていない。扉を開けて校舎に入る。中は静かだった。外とちがって風がない。空気さえ動きを止めている。スイッチをさがして、裏口の蛍光灯をつけた。 「おれ、トイレに行ってくるから。上村は後藤先生にカギ借りてこいよ」  まちがえて女子トイレに入るなよ、と言ってぼくひとり宿直室へ向かった。  宿直室にはだれもいなかった。綺麗好きの女の先生は、どこかへ行ってしまったらしい。ただ、部屋が暖かいのが気になった。暖房だ。ついさっきまで人のいた気配だ。  ぼくは屋上のカギを無断で拝借した。それから東と合流して、裏口から外に出る。宮下と前川のいた場所へ戻ったが、そこにはだれもいなかった。見回しても人影はない。明かりの下に、二、三滴、新しい、赤い血が点々と落ちていた。 「この血は何だ!?」  東が叫んだ。  自分の目が信じられなかった。血だ。血がこの場所で流れた。だれの血だ? 二人は? 「おい、二人は無事なのか? 答えろよ!」  東は叫んだ。 「わからない。信じられない。とにかく二人をさがそう。東はあたりをさがしていてくれ。おれは念のため……救急車を呼んでくる」  救急車……、と東はつぶやいた。 「上村、警察も呼べ」  そう言って、東は二人をさがしに駆け出していった。ぼくは電話をするために校舎へ向かった。一番近い公衆電話は校舎に入ってすぐのところにある。ぼくは校舎の入り口を抜けて電気をつけた。蛍光灯の守備範囲は入り口周辺だけだ。廊下のほうは闇。  公衆電話の受話器を持ち上げた時、おや、と思った。自分は校舎の入り口を抜けた。しかしさきほど宿直室へ向かう時、入り口はカギがかかっていたのではなかったか? わからない。わからないことばかりだ。受話器は音を出していない。十円玉かテレカを入れないとだめだ。いや、救急車や警察を呼ぶ時はそんなものなどいらない。受話器が震えている。いや、震えているのは、受話器を持つぼくの手だ。  ぼくの目が、視界の端《はし》、暗闘に満ちた場所で光る何かをとらえた。赤い点だ。ぼくは受話器を捨てた。しん、として寒い。あまりの静けさで、耳の奥から聞こえないはずの低音が聞こえてきた。  光る赤い点は、タバコの火だった。床に転がった、火のついたタバコ。宮下だ、と思った。宮下がぼくからうばったタバコだ。  蛍光灯をつけず、暗闇の中をタバコの方へちかよってみた。すると、少しはなれた場所にもうひとつ赤いタバコの火が見えた。はっきりとした、赤い点だ。赤い点はさらに続いている。  パン屑《くず》だ、と思った。ヘンゼルとグレーテルだ。タバコの火をたどった先に宮下がいる。ぼくは確信した。宮下はおそらく気絶したふりでもして、こっそりとタバコに火をつけて捨てていたのだ。だれかに、自分の行き先を知らせるために。ぼくは暗闇の中、タバコの火をたどった。  二本目、三本目。さらに続く。四本目は階段にのっていた。ぼくは階段を上がった。  階段を上《のぼ》りながら考えた。あの血は宮下のものだったのだろうか。前川もアイツにやられたのだろうか。すべて、アイツの仕業なのだろうか。  暗闇の中だから慎重に踏み出して階段を上る。コンクリート製の手摺《てすり》は氷のように冷たかった。夜の学校にぼくの足音だけが響く。世界中にはぼく以外の生物なんていないと思えた。  アイツは、宮下と前川をどこへ運んだのだろうか。宮下が肩に担《かつ》がれて運ばれる場面を想像した。宮下は気絶したふりをして、タバコに火をつけていく。ポツン、ポツンとタバコを下に落としている。  アイツは、それに気づかなかったのだろうか? 万引き常習犯の手際《てぎわ》がよかったのだろうか。タバコのにおいに、気づかなかったのか?  五本目のタバコの光は、二階の廊下の先に落ちていた。ぼくが火をつけたものも合わせると全部で六本だったから、残りは一本。  最後の一本は、二階の女子トイレの前に落ちていた。宮下への落書きが書かれていたトイレだ。ぼくは落ちていたタバコを拾った。汚いからくわえるのはやめた。  暗闇の中、電気のスイッチをさがした。ぼくの呼吸音だけが聞こえた。スイッチはなかなか見つからない。あせる。  ようやくスイッチをさがしあてて電気をつけた。一本だけの蛍光灯が女子トイレを照らし出した。弱々しい、消えそうな青白い明かりだった。不規則に、ついたり消えたりを繰り返す。風を受けるろうそくの炎のようだ。影が震えているように見えた。しかし、女子トイレに人の影はなかった。奥にある窓が、暗闇を映している。  女子トイレに個室は五つ並んでいた。一番奥と、奥から二番目の個室が閉まっている。  直感的に、だれかがその中にいる、と思った。間違いない。アイツか、それとも宮下、前川か……。ぼくはゆっくりと進み、一番奥の個室をおそるおそるノックした。 「だれか、いますか……」  返事はない。だれかのひそんでいる気配もない。ドアノブに手をかけてみた。カギはかかっていない。ゆっくり、開けてみた。突然、個室の中から人が倒れこんできた。  それを受け止めた拍子に、さきほどトイレ前でひろった六本目のタバコが、指の間からすべり落ちる。倒れてきたのは宮下だった。気絶している。ぼくはその肩をゆさぶってみた。  うう……。彼女は眉間にしわをよせ、細く目を開けた。片手を後頭部にあてて、ぼくの顔を見る。 「だいじょうぶか宮下、頭を殴られたのか?」 「上村……?」  彼女が自分の足で立てるようになったところで、ぼくは奥から二番目の個室に注意した。アイツが中にいると思った。  その個室を勢いよく開けた。  個室の中では、宿直のはずの後藤が気絶していた。額から血の流れた跡がある。殴られたらしい。宮下が小さな悲鳴をあげた。 「う、う、うえむら、後藤先生だ。たいへんだ、手当てしないと」 「前川はどこだ? きみといっしょじゃなかったのか?」  わからない。そう言って宮下は水道のところへ行き、近くに落ちていたビニールの手袋に水を入れた。掃除のおばさんが使っていた青いビニールの手袋だ。 「何をするつもりだ?」 「これで後藤先生の額を冷やしてあげるの」  宮下は、冷たい水の入った手袋を、後藤の赤くはれた額に押し当てた。 「本当にだれも見てないのか?」 「わからない、突然あたまを殴られて、よく覚えてない。硬い物で殴られたの」 「犯人の顔は?」 「見てない。わからない。気づいたら、上村が肩をゆさぶってた」  気づいたら? 「じゃあ、あのタバコは?」  宮下は不思議そうな顔でぼくを見た。タバコ? 何それ? そう言いたそうだった。それでは話がちがう。ここまでぼくを導いてきた六本のタバコはだれが……。  短い悲鳴をあげて、後藤が目を覚ました。冷たい、と彼女は叫んでいた。宮下の持っていた水入りのビニールの手袋には、小さな穴が開いていたらしい。少しずつ水が漏《も》れていたのだ。宮下が声をあげた。 「先生!」  しばらく後藤のパニックが続いた。あたりを見回して、ぬれた服を見て、女子トイレにいるぼくを見て泣きはじめた。個室の中で宮下が彼女をだきしめて落ち着かせた。  後藤の額には血の跡がある。宮下には……血の流れた跡はない。それでは、校舎の入り口に落ちていた血はだれのものだ? 宮下が血を流していないとすれば、残りは前川か、アイツ……。  宮下がなだめすかして後藤を落ち着かせた。すると後藤は、腰につけていたカギがない、と言って騒ぎはじめた。彼女の言葉の端々《はしばし》をつなぐと、見回りをしていてだれかにやられた、ということらしい。突然のことだったので犯人の顔は見ておらず、腰につけていた見回り用のカギもいつのまにかなくなっていたようだ。  彼女はしゃくりあげはじめた。宮下は彼女に体を寄せて、さんざんだわもう、とつぶやいた。  タバコは? と、もう一度たずねた。あれはだれが置いたんだ? 宮下じゃないのか? それとも後藤先生が? 「うえむら、さっきからなに言ってるのよ。タバコって何のこと? わたしがここで投げ捨てたやつのこと?」  宮下は床を見た。床には、タバコが落ちていた。さきほどまで女子トイレ前で光っていた六本目のものだ。まだ火がついている。 「ここで? きみがタバコを吸ったっていう場所はここなのか?」 「ここで吸って、気に入らなかったから、その辺に置いてあったバケツに捨てたのよ」  おかしい。それなら、アイツはどこからそれを目撃したのだろう。女子トイレの落書きにしても……。 「その時、近くにだれかいなかったか?」 「わからない。気づかなかった。でも、それ以来タバコに火をつけたことは一度もない」  一度も?  信じられなかった。宮下が置いたのでないとすると、あのタバコは全然別の意味を持ってしまう。アイツだ。アイツが置いたのだ。それしか考えられない。  すべてが、ぼくの中でつながった。アイツの目的。罠。罪。タバコ。ライター。そしてアイツの正体さえも、たった今、気づいた。 「二人とも、今すぐここから逃げたほうがいい」 「もちろんよ」 「罠だったんだ。アイツをつかまえるために罠をしかけたはずのおれが、逆にアイツの罠にひっかかってしまったんだ。今夜狙われたのはきみじゃない宮下。狙われたのはおれだ」  宮下と後藤は個室の中で動くのをやめ、ぼくを不思議そうに見た。 「つかまえられるのは、おれのほうなんだ」 [#ここから太字]  ソノとおりだよ [#ここで太字終わり]  女子トイレの入り口から聞こえた。その瞬間、空間は凍った。重く冷たい冷気が、白いもやになって足下をはい漂う感覚だ。背筋《せすじ》を伝う汗さえ、途中で凍りつきそうだ。  ゆっくりと、ぼくは振り返った。女子トイレの入り口に、だれかが立っていた。剣道の防具を着て、木刀を携《たずさ》えた人間が。アイツだ。アイツが今、目の前にいる。剣道の面をかぶっていて、素顔は見えない。暗闇が形を持った。人間の影が自然の法則を無視して立ち上がっている。ぼくの魂《たましい》はそういう印象を受けた。 [#ここから太字]  アいたかったよ G.U.クン [#ここで太字終わり]  抑揚《よくよう》のない声だった。均質な、まるで電子音だ。  一本だけの蛍光灯が青白い明滅を繰り返し、アイツの姿が点滅の中でぼくの網膜に焼きついた。寒い。影がゆらゆらと震える。  宮下が、だれなの? とぼくに聞いた。 「アイツだよ……」  口が自由に動かない。空気が、粘性《ねんせい》を帯《お》びている。 「おれをさがしていたんだ……、な?」  アイツは、ゆっくりうなずいた。 「なんでうえむらが狙われてるの?」 「タバコ。灰を、おれが散らかしたから……。きみの何倍もの量だよ、宮下」 [#ここから太字]  ボクはライターをひろった G.U.クン アレはキミのモノだったのだネ [#ここで太字終わり]  アイツが言った。肌があわだった。面の奥から声が聞こえてくる。不気味だった。 「おれだ……、G.U.だ。よくわかったな、今夜きみを呼び出そうとしたこと」 [#ここから太字]  ワカッタ G.U.クン キミがミヤシタクンをかばおうとしているコトはスグワカッタ ダカラ キミをギャクにヨビダシテ……  アいたかったよ G.U.クン どんなヒトかとオモっていたよ [#ここで太字終わり]  アイツは木刀を構《かま》えた。空気が膨《ふく》らんだ気がした。アイツのすがたは、そこだけぽっかり空間が切り取られたように黒い。その部分だけちがう軸上に存在しているようだ。 「……おれを殺したいのか? アンタ、やっぱりどこかおかしいよ」  宮下がぼくに、逃げて、と言った。どこへ?  アイツが木刀を振り下ろした、ぼくにむかって。アイツの面の奥は暗くてわからない。ぼくはとっさに頭をかばった。腕に激痛が走った。頭の中の意識が赤い色にそまった。  アイツは笑っているようには見えなかった。面の奥でも、やっぱり無表情のままのような気がした。のっぺらぼうだ。顔がない。ナニモノデモナイ。  アイツがさらにあびせた木刀が、頭部の側面に当たった。耳が削《けず》れたかと思った。奥歯も、折れたかもしれない。  ぼくはトイレの床に倒れこんだ。 「やめなさいよ!」  宮下が叫んだ。彼女はぼくのそばにいつのまにか立っていた。危ない、とぼくは思った。木刀の命中する範囲だ。注意してやろうと思ったが、声が出なかった。くちびるを開けると、どばどばと血が床に落ちた。コロン、と歯が転がり落ちた。意識が朦朧《もうろう》としてきた。ここの蛍光灯のように、頭の中が明滅している。  光ったり、暗くなったりが繰り返される中で、アイツが木刀を振りかぶった。ひどくゆっくりした動作だった。いや、ゆっくりに見えるのは、ぼくの意識が悲鳴をあげている証拠だ。  アイツは宮下の方をむいた。宮下を、切り捨てるつもりだ。  とぎれそうな意識の中、床に落ちているタバコが目に映った。まだ、火がついている。自分でもなぜそうしたのかわからないが、ぼくはそれを拾って立ち上がった。ふらついた。しかし、世界がゆっくり動いているようにも思えた。ぼくはタバコを、アイツの面の中に押しこんだ。人生最後の仕事をやりとげた気分だったが、きっと、一瞬のことだったのだろう。そしてまた、ぼくはアイツの足下に倒れた。  アイツは、たぶんびっくりしていた。悲鳴はあげただろうか。ぼくにはそれすらもうわからない。  見上げると、アイツは振りかぶっていた木刀をぼくにむけていた。宮下に、ではない。なぜかひどく安堵《あんど》した。やっぱり基本的にバカなんだよおれは、という安らかな気分だった。  宮下が何事か叫んだ。次の瞬間、アイツはだれかに、面の上から殴られた。殴られて、女子トイレの奥まで吹っ飛んだ。  だれがやったんだ? 女子トイレの入り口に立っていたのは、前川だった。前川が殴ったのだ。彼には鼻血を出した跡がある。前川の後ろに、東が立っていた。助かった、と思った。  しだいに、蛍光灯の明滅がおだやかになっていく。光と闇がゆるやかに入れかわる。いや、ぼくの意識が異常で、時間がかぎりなく静止した状態に近くなったのかもしれない。  トイレの奥で、アイツが起き上がろうとするのが見えた。殴られたからか、面がとれている。老婆の顔だ。白髪で、しわだらけの顔だ。アイツ。  光の明滅が、遅くなる。  ゆっくりと立ち上がり、彼女はぼくを見て、ククク、やっと笑った。  彼女は、窓を突き破り、闇に溶けるように、消えた。  粉雪が落ちるくらいの速度で、明滅が閉じていく。意識は白くなった。 [#改ページ] [#ここから5字下げ] 7 [#ここで字下げ終わり]  気づけば保健室だった。ベッドの上だ。腕に包帯がまかれている。  外はまだ暗い。時計は、まだ十一時。なんだ、まだそんな時間か、と思った。  そばの椅子に前川がすわっていた。  彼は、アイツを殴った拳《こぶし》を見ている。拳を開いたり閉じたり、何かに深く感動した目をしていた。涙さえ流しそうな表情だ。  ひょっとして、と思った。  彼はぼくに気づくと、驚いた顔をした。  先生は、ひょっとして……。ぼくがそう声を出して身を起こそうとすると激痛が走った。  ふたたびぼくは気絶した。重傷だ。  心の中で、電卓と呼んですまなかった、という思いがあふれていた。  目が覚めて時計を見ると、三十分後だった。今度はかたわらにだれもいない。保健室にひとりだった。さきほどより体が落ち着いていた。だいぶ楽だった。重傷というのは考えすぎだった。腕も折れていないようだ。幸運だ。しかし奥歯がひとつなくなっている。口の中にひどい違和感がある。  どこか遠くから歌声が聞こえてきた。次第に大きくなる。  保健室の扉が開いた。歌っていたのは宮下昌子だった。 「やあ、生きてたね」 「自分では死んだかと思ったよ、三途《さんず》の川を見た」 「対岸にだれかいた?」 「藤子《ふじこ》・F・不二雄《ふじお》先生が手をふってた。今年の大長編ドラえもんもよろしくってさ」 「それはまた、すごい人に会ったね」  彼女はそう言って椅子にすわり、 「ところで、わたしの両親が離婚したわ」  と言ってがっくり肩を落とした。とうとつな内容だ。いや、そうでもないかもしれない。前川が彼女に話そうとしていたのはこのことだったのだろう。  関係ないよ、とぼくは彼女に言った。もう、あんまり関係ないって。すぐ三月になるし。  赤い目をして宮下はためいきをついた。 「さんざんな目にあったわ。アイツは窓から逃げてったけど、いくら外をさがしても、だれもいないのよ。二階から飛び下りたのに」 「ああ、すごいおばあさんだね、パワフルだ」  宮下はガタンと椅子から立ち上がった。 「おばあさん? 何のこと?」 「アイツの顔はしわだらけだったじゃないか」 「顔なんて見えなかったでしょう? 剣道の面は落ちてたけど、アイツは殴られてすぐに窓を突き破って逃げたのよ。顔なんて見る暇なかったわよ。みんなそう。だれもアイツの素顔を見てないのよ」  見えたんだ。ぼくには。 「だれだったっていうのよ?」 「アイツは、おれのライターをトイレで拾ったんだ。それは特殊なライターでね、知らないでつかうと、指先に小さな火傷《やけど》をする危険があるんだ」 「火傷? あ、ああ、それじゃあ!」 「そうだよ、ビニールの手袋。きみが後藤先生のために水を入れた手袋。あれに小さな穴が開いてただろ? あれはライターの熱で開いた穴だとおれは思う」 「ビニールの、青い手袋……掃除する人たちがつかう?」  東が保健室に入ってきた。まだ女の姿だ。 「うわあ、災難だったよなあ上村! 校舎の外で血を出して倒れている前川を見つけた時、おれ、もうだめだと思ってたんだよ。宮下さん、よかったな、本当によかったな!」  東は女の姿で、宮下と激しく握手をした。  彼は外で前川を見つけたあと、ひとつだけ明かりのついている二階の女子トイレを不審に思ったらしい。ぼくは、彼に助けられた。 「後藤は?」 「彼女は前川といっしょに校長のところだ。おまえの腕の包帯も後藤先生がまいた。そういや、校長があわてて駆けつけてきたんだぜ、おまえの眠ってる間に。その間ずっと、おれは外をうろついてたんだけど、だれもいなかったんだよ。アイツ、どこへ消えたんだろうな」  窓の外はまだ暗い。  雪がまた、ちらついていた。 [#改ページ] [#ここから5字下げ] 8 [#ここで字下げ終わり]  土曜と日曜は休みだったので、ぼくはゆっくり体を休めることができた。病院へ精密検査を受けに行ったり、校長から頭を下げられたり、どうかこのことは秘密にしておいてください、と頼まれたりした。  犯人は掃除のおばさんだ、とぼくが言ったら、だれもが驚いていた。  ところが、以来、例の老婆を見た人間はいなかった。彼女は消えたのだ。清掃業者の名簿にも彼女らしき人物は載《の》っていなかった。そもそも、アイツの名前をおぼえている人間もいなかった。それまではなんらかの固有名詞で呼んでいたはずだが、だれ一人としてその名を思い出せる人間はいなかったのだ。  彼女は、消えたまま現れない。  そして三年生の卒業式が行なわれた。  宮下がおもしろいことを話してくれた。 「昨日《きのう》、わたしが道を歩いていたらね、二人組の男子生徒が目の前に現れたのよ。その二人組は卒業式を終えたばかりっていう感じの服装だった。それで、その人たちがわたしに聞くのよ。最近、変わったことはなかったか? って、でもわたしは、いいえ、平穏ですよ、って答えた」  あいつら三年生だったのか、と思った。あいつらめ、いつのまに顔を合わせたんだ? 「どういう奴らだった? 茶髪?」 「ううん、二人とも普通の人。わたしが、平穏ですよ、って答えたら、二人とも顔を見合わせて笑っていたの。それから、じゃ、とお互いに言って、別々の方向へ去っていったの。なぜかしら」  さあね、家が別々の方向にあったんじゃないの? と言っておいた。  学校は汚くなった。掃除する人がいないからだろうか。平和な証拠だ。  例のトイレへ行ってみた。最近、ほとんど行ってない。タバコにしても、以前ほど吸いたいとは思わなくなった。  トイレには、やはりだれもいなかった。そして、やはり汚くなっていた。変なにおいがする。個室も同じだ。汚い。  壁には、K.E.と2C茶髪の落書きが残っていた。二人のものだけだ。 [#ここから2字下げ]  ぼくは卒業するぞお。 [#地から10字上げ]K.E. [#ここで字下げ終わり] [#ここから2字下げ]  同じく。それから、2年のときにオレの髪をむりやり黒くそめたオヤジ、ゆるせーん! [#地から10字上げ]2C茶髪 [#ここで字下げ終わり]  油性だった。最後の最後で、彼らは油性のマジックで落書きしやがった。これは、簡単には消せない。卒業記念だ。  ぼくも落書きに加わった。もちろんあの最初の日と同じように、偶然、ポケットに油性のマジックが入っていたからだ。  落書きの内容は事件のこと。かつて、この場所で奇妙なメッセージのやりとりが行なわれたこと。自動販売機のこと。車のこと。名前はふせて、彼女のこと。そして老婆のこと。  個室の壁はぼくの落書きで埋まった。膨大《ぼうだい》な量になってしまった。みっしりと、個室の壁が黒くそまるほどだ。油性だから、長く学校に残るかもしれない。できるだけ多くの生徒に読んでもらいたい。そう思った。  でも次の日には消されていた。すべての落書きが消されていた。油性のマジックのやつも、すべて。異常な執念を感じ取れるくらい、トイレはピカピカになっていた。夜中のうちに、ゴシゴシ、ゴシゴシ、だれかが壁を拭《ふ》いたのだ。トイレも、学校も、あらゆるものが一晩にして綺麗になっていた。  そして一言《ひとこと》だけぽつんと、個室の壁に落書きが残されていた。 [#ここから2字下げ]  ラクガキヲ シテハ イケマセン [#ここで字下げ終わり]  ぼくはひさびさに、タバコに火をつけた。 [#改丁] 天帝妖狐 [#改丁] [#ここから5字下げ] 一 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 夜木《やぎ》 [#ここで字下げ終わり]  鈴木《すずき》杏子《きょうこ》様、あなたがこの手紙を読んでいるころには、もう私たちの別れも済んでいることでしょう。このような形であわただしくあなたと離れるのを残念に思います。できることなら直接に自分の口から、逃げるようにあなたのもとを去らねばならないわけを説明したかったのですが、手紙にて失礼することをお許しください。  何か危険が迫っているために時間的な余裕がなく、このような方法を選んだわけではありません。確かに、私は二人もの人間に対して、人間の所業とも思えぬ行為を働きました。その結果、今や追われる身となっていることでしょう。しかし、捕まってしまうという恐怖から、足早に立ち去ろうというわけではないのです。すべては、私の臆病《おくびょう》な心が、一時《いっとき》でも長い時間、あなたの前に姿を現していたくはないという気にさせるのです。文章ならば、私の歪《ゆが》んだ醜い外見を悟《さと》られることはないでしょう。  もしかするとあなたなら、今の私の姿を目にしても悲鳴を上げず、顔をしかめないのではないかという幻想を抱くこともありました。実際、あなたと話をする度に、自ら背負い込んだ運命を打ち明けようとしたこともあるのです。しかし、機会と呼ばれるものの、なんとじっとしていないことか。少年時代の忌《い》まわしい出来事を話そうとすると、毎回、何かに首をしめられるが如《ごと》く喉《のど》のあたりで言葉はつかえ、煩悶《はんもん》しているうちにそれは逃げて行くのでありました。  それを今ならば、幾分、穏《おだ》やかな気持ちで話せるように思えます。あれほど私の身を焼き焦《こ》がしていた憎しみも、悲しみも、恐怖も、すべては箱の中に閉じ込められたが如く静まり返り、あなたにすべてお話しすることを許してくれるでしょう。  すべての呪《のろ》わしいことのはじまりは、私の少年時代に遡《さかのぼ》ることとなります。  私の家は、冬になると視界が一面、白くなる北の方にありました。雪が何日も降り続くと大人の腰まで横もるような、小さな山間《やまあい》の、凍《い》てついた畑しかない村でした。兄弟はおらず、家族は私と両親、祖父や祖母の五人だけでした。そのころの友人には、七人や八人も兄弟のいる者がおりましたが、私はそういう、賑《にぎ》やかそうな家を羨《うらや》ましく思っておりました。  あれは十一歳の時でした。他のものに比べると体が弱く、病気がちだった私は、学校を休んで寝かされておりました。実際はたいしたことはなかったのでしょうが、私は一人息子ということで、普通の子供より過保護に育てられていたのだと思います。そのため、ほんの少し咳《せ》き込んだり、体に傷を負ったりするだけで、母や祖母は血相を変えて私を心配するのです。人数の少ない寒村でありましたから、家族の過保護ぶりは村の皆に知れ渡っており、近所の者から少々不愉快な形で笑われることがありました。そのような時、自分の体が丈夫であったらどんなにいいだろうかと願わずにはいられませんでした。  風邪《かぜ》で寝込んでいた私は、布団《ふとん》の中で暇をもてあましておりました。ストーブにかけられた薬缶《やかん》がシュンシュンと湯気を吐いておりました。目を閉じていると、屋根から落ちる雪の音が聞こえました。  もしもその時、何か私の心を楽しませるような一人遊びさえあったら、今のこのようなことにはならなかったのではないか。その問いかけは私を苛《さいな》み、当時のことを思い出すたび、消えてしまった晴れやかな人生を惜しむのです。  狐狗狸《こっくり》さん。退屈な時間の流れに飽きていた私は、耳に残っていたその言葉を、ふと、蘇《よみがえ》らせてしまいました。それは、当時の友人たちが、こぞって熱中していた遊びでありました。白い紙の上に五十音のひらがなを並べ、十円玉を滑らせて文字を作るという、あの得体の知れない遊びです。  友人たちがそれに心を奪われているのを知ってはいましたが、私は興味がないふりをして関わることはありませんでした。しかし、忌々《いまいま》しい退屈という魔法は、その遊びを一度ためしてみるのも悪くないという気にさせたのです。  友人たちが教室でそうしていたように、私は見よう見真似で白い紙の上へ五十音のひらがなと、「はい」、「いいえ」という文字を書きました。鳥居を模した簡単な絵も描きました。そこに十円玉を置いて出発点とし、数人の人差し指で押さえつけるというわけです。何か小学生の頭では理解し得ない不思議な存在が十円玉を動かし、人差し指を置いている者たちの意思に関係なく、紙上の文字を選んでいく。そういう噂《うわさ》でありました。  教室で友人たちは、この遊びをしている最中、勝手に動き出す十円玉に興奮しておりました。しかし、私はこの遊びに懐疑的で、おそらく十円玉を動かしている力とは、何かの霊などではなく、載《の》せられた指の力が不均衡になったことによるものであろうと考えておりました。  その日、風邪で学校を休んだ私には、一緒に狐狗狸さんを行なう人間がおりませんでした。このような遊びごとに大人を付き合わせることにためらいを感じ、家族にも声をかけたくありませんでした。  そこで私は、自分一人だけで遊ぶことにしました。ひらがなを羅列した紙を畳の上へ広げ、十円玉を置きます。私は正座し、人差し指を銅貨の上へ載せました。  教室で遊んでいた者たちは、そこでさらに呪文《じゅもん》めいたものを口にしていたようでしたが、私はその内容をはっきりと覚えておりませんでした。そのため、しばらく黙り込んでしまいました。十円玉は鳥居の絵の上、つまり出発点に置かれたままでありました。  その状態で身じろぎもせずにじっとしている様は、想像すると滑稽《こっけい》に思えるかもしれません。実際、準備をしている段階では、苦笑混じりに自らの子供っぽさに呆《あき》れていたものです。  しかし、十円玉を指で押さえつけた状態でいるうち、なぜか息苦しく、自分の呼吸が意思とは無関係に早まっていくのを感じました。遠くの方で聞こえていた、母の歩く音や、祖父が襖《ふすま》を開ける音など、一切が聞こえなくなり、そこは無音の空間へと変質したのです。緊張し、脈拍が速くなるのを感じました。十円玉から人差し指を離そうとしましたが、なぜか吸いついたように離れませんでした。肌はいつのまにか汗ばみ、じっとりと鼻の頭に雫《しずく》ができていたように思います。視界が急に狭《せば》まったようになり、硬貨に目を向けたまま身動きができませんでした。部屋の中には、窓から充分な明かりが入っていたはずでした。しかし、なぜか自分のまわりは暗闇《くらやみ》であるように思えました。ただ見えるのは、文字の並んだ紙と十円玉、そしてそれを押さえる自分の指だけでありました。  まさか、本当に何か理解を超えた存在がそばにいるのだろうか。教室で、友人たちの押さえつけていた十円玉も、その存在が誘導していたのだろうか。そう思った瞬間、正座している私の背後に、何者かが、とっ、と立ったような気がしました。しかし、私は首をめぐらしてそれを確認することをしなかったのです。体が動かなかったのか、それとも振り返って確認することが怖《こわ》かったのか、それはわかりません。やっとの思いで声を出すことだけが、その時にできた精一杯のことでした。 「だれかいるの……」  その瞬間、部屋の中にあった不思議な息苦しさは霧散《むさん》し、金縛りにあったが如き筋肉の硬直は解かれました。部屋の明るさも戻り、かたわらのストーブで薬缶の湯気を吐く音が復活しました。十円玉の上から、指を離します。さきほどまで吸いつくように動かなかった指が、今度は何事もなく自由になりました。  突然、部屋の襖が開かれ、祖母が顔を出しました。外にいたらしく、鼻と頬《ほお》を赤くしておりました。私に、体の調子を尋ねると、すぐに立ち去っていきました。  また一人で部屋に残され、私はたった今の不思議な緊張感について考えをめぐらしました。今のはいったい何だったのだろうか。狐狗狸さんを行なうことによりもたらされた、一種の催眠状態なのだろうか。  おそらくはそうなのだ。儀式めいた手順を踏むことにより、そういった錯覚へ陥《おちい》るのに違いない。私はそう解釈し、心を落ち着けました。  玄関の方から、母の私を呼ぶ声がしました。その時はすでに夕方で、どうやら学校帰りの友人が、明日の連絡を伝えるためにうちへ寄ったのだろうと推測しました。  立ち上がり、玄関へ向かおうとした時でした。たった今まで人差し指を置いていた十円玉が、出発点となる鳥居の絵の上に見当たりませんでした。指先から腕や背中にかけて、何か細かい虫の這《は》うが如きざわざわとしたものを感じました。そして、狐狗狸さんの最中、自分が口にした問いかけを思い出しました。  だれかいるの……。  いつ、そうなっていたのかはわかりません。十円玉は、私の気づかないうちに、鳥居の上から、「はい」という文字の上に移動していたのであります。 [#ここから3字下げ] 杏子 [#ここで字下げ終わり]  杏子が夜木と出会ったのは、学校から帰宅する途中のことで、何ら特別な状況にあったわけではなかった。暑くも寒くもない、その日は曇り空であった。町には工場が多くあり、煙突から白い煙がなびいていた。  自分が友人たちの誘いを断《ことわ》って一人で帰るようになったのはいつからだろうか。歩きながら、そのことを考えていた。授業が終わり、教室にいた者たちが帰り支度を行ないはじめた時、おさげをした友人の一人が杏子に声をかけてきたのだ。 「皆でお店に行って、ところてんを食べようかと思うんだけど」  自分を誘ってくれる友人に感謝した。しかし、一緒に店へは行かなかった。  友人との遊びを断るようにしたのは、何かやむにやまれぬ事情があったわけではない。祖母や兄と三人暮らしをしており、早くに家へ帰って家事の手伝いをしなくてはという気持ちもあるにはあった。しかしそれが誘いを断らせたのではない。  最近、人と話をしていると、たまに窮地へ立たされたような気持ちになるのだ。友人との会話に、時折、かすかな違和を感じる。  例えば、とある教師の風貌《ふうぼう》や、癖に関する笑い話に、賛同して一緒に楽しめない。その場にいないだれかの失敗について、歩調を合わせて嘲《あざけ》ることができない。そのような会話になった時、固いものを飲み込まされるような居心地《いごこち》の悪さを感じた。その場から逃げ出したくなるのだ。しだいに口数が減り、杏子はいつからか他人の話を聞いているだけの存在になった。  それでも、前から親交のあった友人が、いっしょに皆で帰らないかと自分を誘ってくれるのである。実を言うとその友人とも、気のせいか、話があわなくなってきている。会話の最中、ふとした瞬間に距離を感じる。  もしかすると、自分に声をかけてきたのは、たんなる建前《たてまえ》だったのかもしれないと思う時がある。それは、皆を誘うのだから、杏子にも声をかけなくてはならないということだったのではないか。でなければ、自分のように、さほど話の好きでない、つまらない人間を誘うはずがない。自分は、なぜそんなことで笑うのかと理解できない話に対して、皆が笑っているからという理由で、いっしょに微笑《ほほえ》んでうなずいていることしかできないのである。  誘いを断ると、一人だけ律儀《りちぎ》に学校の規則を守っているように、他人の目には映るようである。学校の先生たちは、生徒が帰宅途中、制服姿で店に入るのを好んでいない。杏子は日ごろから、そういった規則を守る性質であった。そのため、友人に言われたことがある。 「あなたは、真面目《まじめ》ぶっているみたい」  それは、友人が鞄《かばん》の中に、首飾りを隠し持っているのを見た時のことである。学校の規則は、生徒がアクセサリーを身につけることも禁止していた。 「街の方にある飲み屋さんで働かせてもらっているの。そこの店員になると、みんなこれをつけさせられるの」  店名を尋ねると、何度か看板を見たことのある店であった。店内で洋楽が流れる、落ち着いた雰囲気の店らしい。 「でも、働くのは学校の規則で禁止されているでしょう」  驚いて尋ねると、友人は店に年齢を偽っていることがわかった。  友人は杏子のことを、アクセサリーを一つも持たないことで学校の規律を守り、良い生徒であるところを先生に見せるだけの偽善者であるように感じたようであった。実際はそうでなく、ただそういったものに興味を持っていないだけなのだと弁解したかった。  しかし、そうすることのできないまま、時間は過ぎていった。  家へ向かって歩いていると、やがて川辺の道になる。川の側面は石積みになっており、密集した家の間をさらさらと流れている。道に桜が並んでおり、風に吹かれて花弁を散らしている。川面《かわも》に浮かぶ薄い花びらが、流れに乗って杏子を追い越していく。  棒を持った少年たちが道の端から川を見下ろしている。川面の石にタニシが卵を産み付けている。その桃色の塊《かたまり》を棒で潰《つぶ》して遊んでいるらしい。  遠くに見える巨大な工場の煙突から、幾本もの白い煙が見える。夕日のためにそれは半ば影になっている。川辺に並ぶ桜と、その向こうにそびえる工場の姿は、いつも不思議な組み合わせであると感じる。  それは、自分の家まであと少しというところだった。自分より少し前を男が歩いているのに気づく。後ろ姿しか見えないが、全身に黒い服をまとい、まるで戦場をかいくぐってきたかの如き汚れた風貌であった。家の石垣に片手をつき、ひと足踏み出す度、苦しそうに呼吸しているのがわかる。  杏子はその男を、最初のうち、避けようとした。男の後ろ姿には、近寄ってはならない不思議な禍々《まがまが》しさがあった。どこがそうなのかをはっきりと言い表すことはできないが、伸びきった髪の毛や、泥のついた服の袖《そで》、男の全身から漂う雰囲気に、拭《ぬぐ》いきれない穢《けが》れを感じたのである。  男の歩みは遅く、杏子はその横を追い越そうとした。その時、男が、力尽きたように倒れて地面にうずくまった。だれかが通りかかる瞬間を見計らっての行動には思えなかった。切実に、たった今、体を支えていた精神の糸が切れてしまったという感じであった。  男は地面に突っ伏し、顔を覆《おお》い隠したまま、肩で息をしている。腰までありそうな長い髪の毛が地面に広がっている。苦しそうな様子であった。杏子は対処に困った。声をかけ、介抱しなければいけないと思った。  さきほど男から感じた異様な気配を思い出す。自分の足元にうずくまる男を見下ろし、関わってはいけないという気持ちになる。浮浪者だろうか。それとも、事故に遭遇《そうぐう》して、病院を探しているのだろうか。しかし、長い道のりを歩き通して力尽きたようにも思えた。  急に、杏子は、その男へ嫌悪に近い感情を持っている自分に気づく。そしてそれを恥じた。男の素性も知らず、ただ感じられる印象だけで、いつのまにか顔を歪めさえしていた。目の前で人間が倒れたというのに、素通りして見ないふりをしようとしたのである。自分がそれほど冷たい人間であったことに対して失望した。 「だ、大丈夫ですか……」  杏子は声をかけた。  男はびくりと肩を震わせる。たった今、だれかがそばにいることを知ったという様子であった。しかし、顔をあげることはせず、いっそう、深く額《ひたい》を地面に近づける。何かから隠れるような姿勢に見えた。 「……行ってください」  男の声は意外と若く、後ろ姿から感じたような禍々しい雰囲気からは遠かった。ただ、何かを恐れ、回避するような、おびえた様子をはらんでいた。そのために杏子は、胃がきゅっとしめつけられるような感じがした。 「大丈夫のようには見えません。すぐそこに私の家があるので、そこで休んでください。それとも、お医者さまをお呼びしましょうか」 「放っておいてください」 「だめ、顔をあげて」  杏子は男の肩に手を載せようとして、一瞬ためらった。さきほど、男に対して嫌悪している自分を戒《いまし》めたものの、その肩へ触れることを魂《たましい》の深い部分が拒否しようとしている。たとえ服の上からでも、やめろと言う。しかし、その根源的な精神の警告をねじ伏せ、そっと男に触れた。  男は顔をあげた。二つの目が大きく開かれ、杏子の顔を見た。たんなる驚きの顔ではないように思えた。恐怖や畏怖《いふ》、悲しみのため一気に泣き出してしまいそうな表情であった。  まだ若いように見えた。二十歳くらいだろうか。しかし、はっきりと判別できない。男の顔は、目の下から顎《あご》にかけて、幾重にも巻かれた包帯で隠されていた。この人は大怪我《おおけが》をしているのだ、と思った。  杏子は男を家で休ませることにした。男は憔悴《しょうすい》し、そのまま道に倒れこんで死んでしまいそうな気配だったからである。男は何も言わず、うなずいて杏子の言うことにしたがった。  家は男の倒れていたところからさほど離れていなかった。かろうじて男は立ちあがり、さきほどと同様に危なげな足取りで杏子の家へ向かった。肩を貸そうかと申し出たが、何かを恐れるように男は断った。 「それよりも、お願いですから、私の顔を見ないでください」  男はうつむき、懇願するように言った。その声は震え、泣いているようにも聞こえた。その声に何ら危険なものは存在せず、ただか弱い動物を思わせるだけであった。そう感じていると、まるで男は、存分にいじめられ、傷ついた子供であるように思えてきた。  家の前まで来た時、男が中に入るのを躊躇《ちゅうちょ》して一戸建ての二階を見上げた。古い木造で、少し広めの、どこにでもある普通の家である。何も奇異に思うところはないはずだが、玄関を潜《くぐ》るのに決心を必要としている気配があった。  家の前に大量の植木鉢が並んでいる。祖母が趣味で育てている。杏子は玄関を開けようとして、錠がかかっていることに気づいた。祖母は出かけているらしい。錆《さ》びた郵便受けの中から、鍵《かぎ》を取り出す。もとは赤かった郵便受けだが、錆びて今では茶色の金属塊である。  家の持ち主である祖母は、二階の部屋を人に間貸《まが》ししてお金をとっていた。現在は田中《たなか》という親子に貸している。男を休ませるくらいの部屋は他にも余っていた。  男を玄関に通し、奥の部屋に案内する。廊下の床板は磨かれ、水にぬれているように光を反射する。廊下を磨くのが最近の杏子の楽しみであったのだ。  一階の西側にある部屋に通され、男はどうすればよいのかわからぬという風に立ちすくんだ。  杏子は木製の窓枠をがたがた揺らして窓をあける。こうしないと途中で引っかかって動かなくなる。家の脇《わき》を流れる川が目に入る。湿ったその臭《にお》いが部屋に入ってくる。暇さえあれば常に掃除をしているため、畳は清潔で汚れていないはずだ。  家に人はいなかった。兄の俊一《しゅんいち》、そして二階に部屋を借りている田中|正美《まさみ》という女性は仕事でいない。祖母と、正美の息子である博《ひろし》がいるはずだったが、その二人も外に出かけているらしい。夕飯の材料でも買いに行ったのだろう。  杏子は湯のみにお茶を注《つ》ぎ、男へ持っていく。襖を開けると、男がびくりと身構《みがま》えるのがわかった。恐れるように杏子を見る。どことなく、人間にたたかれた犬のことを杏子は連想した。他人のちょっとした挙動におびえて暮らす、悲しい習性である。 「お体の具合はいかがですか」 「歩きつかれただけです……」  男はそう言うと顔を伏せ、目をそらす。  その時ようやく気づいたが、男は顔の下半分だけでなく、両手、両足、至るところ包帯で覆われている。服装は上下とも長袖の黒い服であるが、その裾《すそ》から包帯が覗《のぞ》いていた。  理由を聞きたかったが、そういったことを問うことは失礼にあたるかもしれないと思い、できなかった。杏子は湯のみの載った盆を置く。 「お名前は……」  杏子は尋ねた。  男は少し逡巡《しゅんじゅん》した後、小さな声で答えた。 「……夜木です」  しばらくの間、夜木を一人、部屋に休ませる。布団は余っていたので、それを貸した。杏子がてきぱきと布団の用意をしていると、夜木が窓のそばに座って外を眺めていた。  軒先に、少し前から雀《すずめ》の巣ができており、雛《ひな》がうるさく餌《えさ》をせがんでいる。親鳥が子供のために餌を運んでくる様を、これまでに何度か杏子は見ていた。夜木もそれを眺めているのだろうか。  この男はいったい何者だろうかと思う。一切、整えていない長い髪の毛、何年間も着ているような黒い服。体中を覆い隠す包帯。鞄も何も持っていない。特に、顔の包帯が怪しい。鼻から顎《あご》にかけて、顔を隠したがっているかのような巻きようである。  しかし、外見の異様さに劣らず、男の影は暗く、肌寒い。夕方、赤味の差してきた外の明かりが、窓から斜めに入ってくる。夜木の黒い影は、ぽっかりと空間に底の無い空洞を作ったように見える。その穴から何か得体のしれない恐ろしいものが出てくるような気がし、悪寒《おかん》に襲われる。 「すみません、臭《くさ》いでしょう」  唐突に夜木が振り返った。杏子はわけがわからず、首をかしげる。 「もう何日もお風呂《ふろ》に入っていないから、私の体は臭いはずです」  夜木は困ったような声を出す。恥ずかしそうに、頭をかいた。  その様子がどことなく、子供っぽく見え、杏子は少し気持ちが和《やわ》らいだ。 「気になさらないで」  この人はきっと、悪い人ではない。そう思う。 「これから夕御飯を作りますね」 「私は必要ありません」  夜木は首を横にふった。 「でも、おなかがすいているでしょう」 「私の場合、食べなくとも平気なのです」 「私の場合って……」  夜木は口籠《くちごも》った。  夕飯を作り、夜木の部屋へ持っていった。彼は自分一人で食事することを希望した。口は包帯で覆われているため、食べるためにはそれを解《と》かなくてはならない。夜木はその下にある素顔を見られるのが嫌《いや》だったのだろう。  ひょっとしたらあの男は犯罪者で、指名手配されているのかもしれない。そのために顔を隠しているのだろうか。杏子はそうも考えてみた。それともやはり、大怪我をしているのだろうか。それならば医者を呼ぶべきである。 「本当にお医者様は必要ないのですか」  食後にもう一度、尋ねてみる。 「大丈夫。もうすぐしたら、出て行きます。ご迷惑になりますから」 「どこへ行くのですか」  夜木は黙り込んだ。  結局のところ、この男には行くあてがないようである。そう察すると、夜木のことが不憫《ふびん》に思えてきた。部屋の片隅で所在無さげにしているのを見ていると、このまま放り出すことにためらいを感じる。さきほどの歩き方を思い出すと、すぐに力尽きて死んでしまうような気がする。顔の半分は包帯に覆われて表情を確認できないが、両目からははっきりと憔悴の色を感じ取ることができる。今、無理をさせてはいけないと思う。  その一方で、意味もなく不安がつのってくる。この男にもうこれ以上、近づくのはいけないという気持ちである。杏子はその不安を押さえつけた。 「しばらく、このうちに泊まっていかれるといいでしょう」  夜木は最初、断っていたが、それでも説得すると、五日間だけ滞在することになった。 [#ここから3字下げ] 夜木 [#ここで字下げ終わり]  はたしてどのような力が十円玉を動かしたのでありましょう。畳が傾いていたのでしょうか。それとも家そのものが水平に建っていなかったのでありましょうか。しかし、いずれの考えもことごとく否定され、最後に残ったのは、見えない者が私の問いかけに返事をしたという、御伽噺《おとぎばなし》のような可能性でありました。  そのようなことがあってたまるものだろうか。そう懐疑的に思っても、やはり胸の一片では、完璧《かんぺき》に否定してしまうことができていなかったように思います。もしもそこで狐狗狸さんのことなど忘れてしまい、それまでのようにあれはたんなる遊戯であると考えていれば、私のその後も違ったことになっていたでしょう。  しかし、私は少年でありました。十円玉に指を載せた時の異様な緊張感と硬貨の不思議な移動現象について、考えまいとすればするほど、いつのまにか意識はそのことに向けられているのでした。学校で算数をしながら、あるいは田んぼのあぜ道を歩きながら、ふと気づくと狐狗狸さんのことばかり思っておりました。  怖いもの見たさ、というものだったのでしょうか。最初に狐狗狸さんを行なってから、何日か経過した時のことでした。私はかすかな不安と期待を持って、二度目の狐狗狸さんをはじめてしまったのです。  五十音のひらがなと、「はい」、「いいえ」が並んだ紙の上へ、前と同じように十円玉を置きました。人差し指を硬貨に載せますと、あの時に感じたのと同様の、すさまじい圧迫感が部屋に充満しました。それまであった音という音がどこかへ吸いこまれて行き、ただ無音の極致へと部屋が転じるのでした。  体が動かなくなりますと、すぐそばに何かのいる気配を感じましたが、振り返ることもできませんでした。ただその気配は遠くなったり近くなったりを繰り返し、時には私の首筋にふっと息を吹きかけたように思います。  十円玉へ載せていた人差し指に、ほんの少し、力をこめてみました。自分では真下へ押さえたつもりでした。しかし硬貨は、まるで氷の上をすべるように右や左へ移動を開始するのです。 「……だれかいるのですか」  私がそう質問しますと、硬貨は移動の速度を徐々に遅くしていって、一所《ひとところ》で静止いたしました。そこには、「はい」という文字が書かれておりました。  やっぱり、何かいるんだな。もはや私の全感覚は常識を無視して、その存在を認めたがっていたのでしょう。 「あなたは、だれ」  十円玉は、逡巡するそぶりを見せながらも、一個ずつ、文字を選んでいきました。最初は「さ」。次に「な」。最後に「え」。そして動きを止めます。 「早苗《さなえ》」、私はそのように漢字をあてはめました。女なのだろうか。「あなたの名前は、早苗というの」 「はい」。早苗が十円玉を見えない手で動かし、その文字のところへ移動させました。  その時の心情を、どう書き表しましょうか。畏怖、驚愕《きょうがく》、恐れ、そのすべてが同時に押し寄せ、指先から背筋にかけて貫いていったように思いました。恐らくあれが、感動というものだったのでありましょう。  それからというもの、私は狐狗狸さんを通じて、しばしば早苗と会話を楽しむようになりました。 「早苗さん、明日は晴れるだろうか」  無音の世界で、きっとそばにいるであろう早苗に問いかけるのです。彼女は十円玉を動かして、一個ずつ文字を選んでいきました。 「はれます」ちょっと間を置いて、言葉を続けました。「あめになつてあしたのかけつこがなくなればいいとおもつているのね」  早苗の言った通り、次の日の天気は晴れでした。彼女のそういった予言はことごとく当たりました。恐らく、少しばかり未来を先読みする力があったのでしょう。と言っても、私の質問することといったら、明日の天気や、風の向き、温度といったものがほとんどでありました。彼女の予言が当たるのを確認する度に、私は驚き、愉快な気持ちになりました。 「早苗さんの天気予報は、今日も当たっていたよ」 「あらそう」  早苗はうれしそうにそう答えました。十円玉が文字を選んでいるだけなのですが、私には、彼女がうれしそうであることが漠然とわかったのです。それだけではありません。早苗の感じたかすかな戸惑いも、ちょっとした興奮も、すべて伝わってくるように思えたのです。 「ひょっとして木島《きじま》先生はぼくのことが嫌いなんだろうか」 「あなたがしゆくだいをしなかつたからですよ」 「だからって、ぶつことないのに」 「ほんとうにしようがないひとねあなたつて」  学校で友人たちの行なっていた狐狗狸さんに、自分もまぜてもらったことがありました。しかし、一人、家の中で行なっている時のような、不思議な感覚はありませんでした。早苗もこなければ、十円玉が不思議な意図を持って紙の上を滑り出すこともありません。それでも皆は充分に楽しいらしく、それが私に失望をもたらしました。まるで、たんなる子供の遊びに思えてしまったのです。 「あなたはあしたけがをするわ」  早苗は十円玉でそのような文章を組み立てました。 「本当に」 「はい」  次の日に学校で、廊下を走っていた者に衝突し、私は膝《ひざ》を怪我しました。 「早苗さんの言った通り、怪我したよ」 「でしよう」  彼女の予言の、なんと絶対的なことか。早苗の言うことを聞いていれば、もう怪我をすることもないように思えました。それに、本当に馬鹿《ばか》げたことですが、早苗の言うとおりにやれば、世界中のすべてを操《あやつ》ることができるように思えました。  その時すでに、私の心は早苗の言葉に埋め尽くされていたように思えます。勉強に関する疑問を尋ね、家族への愚痴《ぐち》をこぼし、姿のない友人にすっかり私は頼りきっていたのです。  彼女と会話をする時は、部屋にはだれも入らないよう注意しました。私以外の人間がそばにいると、十円玉は動かなくなり、早苗は沈黙してしまうのです。そうなると、ひどく残念な気持ちになりました。  はたして、信じていただけますでしょうか。その当時、私の一番の友達が、十円玉で物語る不思議な存在だったことを。今、思い返してみれば、何と恐ろしいことをしていたのでありましょう。得体の知れない存在にすっかり心を許していたのですから。実際、友人のだれにも言わないような打ち明け話まで、早苗に対して口を開いていたのです。  いったい、どうやって私が知り得たでしょう。早苗の言葉や、感じられたと思いこんだ感情まで、そのすべてが偽りであったことを。彼女の、何と狡猾《こうかつ》なことか。会話をすることで、私の胸の扉を探り、鍵穴を調べ、最後にはついに鍵を開いて中へ入りこんでしまったのですから。 「あしたひろきくんがしぬわよ」  早苗はある日、言いました。  私には当時、弘樹《ひろき》という友人がいました。 「弘樹くんが死ぬ」 「はい」  困惑しました。その予言を聞いても、何か現実ではない、本の暗誦《あんしょう》を聞いているような感覚がありました。早苗の天気予報が必ず当たっていることはよく知っておりましたが、それと友人の死は別物のように思われました。  次の日、学校で弘樹と遊びました。彼は元気に走り回っており、きっと早苗は間違っていたのだなと思いました。しかし、彼は学校の帰りに、凍てついた川へ転落し、凍《こご》えて、溺《おぼ》れて、死んでしまったのです。  そのことを早苗に言いました。 「早苗さんの言う通りになった」 「あらそうしんだのねしにしにしんだしんだ……」  彼女は「死んだ」を何度も繰り返しました。そのころから、急に、早苗の様子がおかしくなった気がします。はっきりとは言えませんが、調子がはずれたような口調になったり、十円玉が、狂ったような速さで移動したり、意味をなさない文字の羅列を選んだりするのです。抵抗はできませんでした。そのような時、まるで力の強い何者かに手をつかまれたが如く、右肩から先は十円玉に引っ張られてしまうのです。 「弘樹くんを救うことはできなかったの」 「かわにちかづかないようにしていればよかつたのよ」  今から思えば、私の心は、なんと浅ましかったことでしょう。あなたは軽蔑《けいべつ》するでしょうか。私は醜いことに、友人を失ったという悲しみよりも、自分には早苗がついているという安堵《あんど》の方が勝《まさ》っていたのです。それまで自分は、勇敢で、情にあふれる、よくできた人間であると思い込んでいたようです。死の淵《ふち》に立たされても、それを受け止め、乗り越えるだけの力が備わっているものだと信じておりました。  しかし、実際の私という人間の、何と小さかったことか。自分は、死をおそれました。その上、早苗の予言を利用して、神の定められた運命を回避しようとさえ考えてしまったのですから。  死は、だれの上にも必ずいつかは訪れる。その絶対的な、逃れられない筋書きへの怯《おび》えは、私を狂った方向へと背中を押してゆきました。  ひとつの質問をするのに、どれほどの時間、思い悩み、沈黙していたことでしょうか。葛藤《かっとう》の末に、震える唇の間から、私は言葉を吐きました。 「……ぼくは、いつごろ死ぬの」  十円玉の迷いない滑りは、すっかり世界を見通し、予言が絶対であることを感じさせました。 「あとよねんであんたしぬわくるしんでしぬわ」  頭が熱を持ったようになりました。あと四年。それは私の予想していた寿命よりはるかに短く、受け入れがたいものでした。 「助かるには、どうすればいい」  すがりつくように、早苗へ問いかけました。十円玉は、狂ったとも思える早さで紙の上を滑りました。 「おしえなあい」  焼け付くような焦燥《しょうそう》に身をよじりました。それまで早苗が、教えてくれなかったことなどありはしませんでした。 「お願いします、教えてください」  請《こ》うように助かる方法を尋ねました。 「なんでもするのかしら」  頷《うなず》きました。 「ではわたしのこどもになりなさい」彼女は少し間を置いて、さらに続けました。「そうすればえいえんのいのちをあたえましよう」  私は何と恐ろしいことをしてしまったのでありましょう。永遠の命を望むことの真の恐怖を知らず、早苗の正体について考えをめぐらすこともせず、私はただ死への恐怖にかられて、その要求を飲みました。 「いつたなこどもになるといつたな」  十円玉が喜びいさむかの如く文字を選びました。私は、人差し指の下に敷かれた薄い金属板から、底知れない冷たさのようなものを感じました。しかし頭の中では、川に落ち、苦しみと絶望の末に冷たくなった友人の姿が何度も繰り返し過《よぎ》っておりました。友人の顔は、やがて私自身の顔となり、いよいよ胸の中は四年後にひかえた自分の死に様に対して荒れ狂うのでありました。 「なる。なる。あなたのこどもになるためには、どうしたらいい」  私は勢い込んで尋ねました。 「からだをわたしなさいにんげんのからだにんげんのからだだかわりにもつとがんじようなからだをあげましようそうすればおまえはとしもとらずえいえんにいきることができよう」  私は泣いていたと思います。嗚咽《おえつ》しながら、懇顔するように頷きました。  昼間だというのに、部屋は暗く、静寂に包まれておりました。早苗と対話している時いつも感じていた、現実とは切り離された異質な空間となっておりました。そのような時、実際には見えませんが、同じ部屋の中に何かもっと別の存在が立っているようにも思えておりました。それはまだ幼い子供のような小さな体で、正座している私の背後にそっと立っているようでもありました。また、部屋の大きさを無視して、虚無の空間にはてしなく広がる巨大な存在のようでもありました。それがきっと、早苗だったのでありましょう。  彼女が、そっと、嗚咽で震えている私の肩へ、手を置いたように思いました。その瞬間、薄暗く感じていた部屋の中に明るさが戻り、外を吹きすさぶ冷たい風の音が蘇りました。当初、それは闇の中から生還したような心地よさを伴いました。まるで、死の恐怖から救われたような気がしたのです。ある意味では間違いではなかったのですが、死から逃れるため、私はさらに残酷な道を選んでしまったのだということにまだその時は気づいておりませんでした。  それ以来、狐狗狸さんで早苗を呼んでも、彼女が現れることは決してありませんでした。彼女にしてみれば、呼びかけに答える義務などなかったのでしょう。その時すでに、私との契約は済んでしまっていたのですから。 [#改ページ] [#ここから5字下げ] 二 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 杏子 [#ここで字下げ終わり]  杏子の家ではそれまで、二つの家庭が共同生活を行なっていた。家の持ち主である祖母と二人の孫。そして、二階に部屋を借りて住んでいる田中正美とその息子である。二つの家庭の間に、ほとんど境目《さかいめ》はなかったと杏子は思っている。食事や買い物は一緒に行なっていた。正美のことを、杏子は姉の如く慕っており、相手も自分のことを妹のように思ってくれているようだった。洗濯も一緒に行ない、仕事から帰ってきた正美の肩を杏子が揉《も》むこともあった。  食事を作る人間も様々であった。大抵は祖母か杏子が作っていたが、正美が用意することもあったし、兄の俊一が作ることもあった。  夜木を家で休ませた当初、祖母や兄、二階に住む正美はそれなりの不安を持っているようだった。素性のわからぬ人間が家の中にいるのたから当然かもしれない。杏子は申し訳なく思った。しかし、何も問題なく日はすぎた。最初に会った時は死人のようであった夜木の顔も、半分は包帯で隠されてわかりにくいが、次の日にはだいぶ良い感じになった。  夜木は、ほとんどの時間、部屋にこもったきりで、自ら外に出ようとすることは稀《まれ》であった。また、進んでだれとも打ち解けようとはしなかった。それは、他人を嫌い、顔を合わせたくないという思いからそうしているのではないように思えた。逆に、人と接したいと思っても、それがかなわないというような、悲しい様子で部屋にいた。  この怪しげな風貌《ふうぼう》をした男について、皆はそれぞれ思い思いの意見を持っていたようである。しかし、道で倒れた人間を気遣《きづか》うことは良い行ないであるというのは、皆の一致したところであった。  半ば行き倒れであった夜木のことを、兄の俊一や田中正美に説明した時、俊一は腕組みして、いい顔をしなかった。しばらく歩いたところにある水菓子の店で働いており、そこから帰ってきたところであった。 「犬猫じゃないんだぜ。本当にそいつは大丈夫なのかい」 「全身に包帯を巻いている人よ、そんな人が危険かしら」 「医者は呼んだのか」  夜木は医者を断《ことわ》ったと、兄に伝えた。すると、ますます訝《いぶか》っていたが、結局は杏子の言う通り、しばらくの間、家で休ませることになった。 「でも、身元は不明なんでしょう、心配だわ」  田中正美が言った。彼女の夫は数年前から行方不明であり、母子二人で杏子の家に住んでいた。化粧をしない、質素な人である。家計を支えるために繊維工場の方へ昼間のうち働きに出ている。そこから帰ってきて、家に残していた息子の博を抱き上げていた。 「博に害を与えないかしら」  杏子は答えられなかった。夜木と話をした感じでは、人を傷つけるような人間とは思えなかった。しかし、だからといって大丈夫だと断定できない。 「まあ、いいじゃないか」  祖母が横から口を挟《はさ》み、正美を安心させた。善意に同意してくれたのは、祖母だけであった。  杏子は家事を祖母と分担しており、皆の信頼がもともとあったので、夜木が無下《むげ》に追い出されることはなかった。お客様という形で家に置いた。  彼の包帯姿が屋敷内を歩くようになると、それを見た者は皆、一様に眉《まゆ》をひそめた。 「本当に大丈夫なのかい、あの夜木って男は」  兄は、まるで殺人者でも見たような表情で杏子に耳打ちした。  しかし、夜木の異様な部分は、顔や手足に巻いている包帯と、その影から発散される妙な雰囲気だけである。心の悪くない人間であることが、少し話をするとわかるのだった。  ある時のこと、祖母と夜木が会話しているのを立ち聞きした。祖母は、夜木の生まれた場所などを聞いていたが、彼は口籠るばかりである。祖母が二十年前にあった事件の思い出話をすると、夜木もまるで見てきたようにその光景を語った。しかし彼の外見は、二十歳以上にはとても見えなかったのだ。  祖母に夜木の印象を尋ねてみる。 「何かこの世の悪いことが形を持ったようだね」と祖母は言った。そして、次のようにも付け加えた。「でも実際に話をしてみると普通なんだね」  しかし、普通と呼ぶには、あまりにも行動が妙である。 「包帯を取りかえるの、手伝いましょうか」  杏子が尋ねると、夜木は断った。やはりその下を見られたくないのだろう。その断る時の表情は、こちらをおせっかいな奴だと非難するような厳しい顔ではなかった。心から感謝しているといった目なのだ。それがなぜか、悲しい気持ちにさせた。  杏子のまわりにいる人間は、どこにでもあるような小さな親切心を、さも当然のことという顔で受ける人間ばかりだった。しかし、夜木はそれの逆である。こちらが当たり前だと思ってかけた言葉に、ひとつひとつためらいを感じているようであった。自分にはその権利がないと思っている様子さえある。これまで、人から親切にされるということを知らずに生きてきたのだろうか。そこから窺《うかが》い知れるのは、慎《つつ》ましいことで幸福を感じるようになってしまった、不幸な人生の一端であった。  ある夕方、杏子が学校から戻った時、田中正美の息子、博が夜木の部屋へ入るのを見た。博はまだ五歳になったばかりの小さな子供である。正美が繊維工場の方へ働きに出ている間、祖母が昼間のうち遊びの相手をしている。博のことを、杏子は、まるで年の離れた弟のように感じていた。  夜木の部屋の襖を開けようとして、中にいる二人の声が聞こえてくる。博がものめずらしそうに夜木へ質問をあびせかけているようである。なんで包帯を巻いているのか、なんでこの家にいるのか。それらの質問に、夜木は答えを返している。しかし博の前には取りとめもなく疑問があふれているようで、とどまることを知らない。  そっと襖を開けると、博にまじまじと見つめられて困っている夜木が部屋の中にいた。杏子のほうを見ると、ようやく助けがきたという表情をした。 「こら、博君、質問ばかりして困らせるのはやめなさい」と言おうとして、やめた。 「遊んでもらえて良かったわね」  博にそう声をかけると、彼の質問攻めに拍車がかかった。子供になつかれて戸惑っている夜木が微笑《ほほえ》ましかった。もうしばらくこの状態にさせておこうと思えたのだ。部屋に二人を残して立ち去ると、杏子は不思議に思った。博は夜木に対して、何も敵意や嫌悪といったものを持ってはいないようであった。自分が感じたように、夜木の持つ禍々《まがまが》しい雰囲気は感じなかったのだろうか。  後で博にそのことを聞いてみた。子供の言葉は抽象的で理解するのに時間がかかったが、たしかに夜木のおかしな雰囲気はわかったようである。 「お墓みたいな人だね」と、博は言った。それから、「犬みたいな臭いがするよ」とも言った。 「あら、そんなはずはないわよ。だって、ちゃんとお風呂に入っていらっしゃるもの」  杏子がそう言っても、博は笑顔で首を横に振るのだ。  夜木を家に置き始めて、四日目の夕方のことである。  学校の帰宅途中、川のほとりで夜木を見かけた。家々の間を縫う小川が、やがて郊外の広い川へ流れ込む。土手から見下ろすと、背丈ほどもある葦《あし》が眼下に広がっている。川の向こう岸に工場があり、並んでいる煙突からゆっくりと煙が出ている。空の雲と煙がつながっているように思える。風の具合によっては、工場の煙が町を覆った。また、工場で出た砂のような細かい粉塵《ふんじん》が風に乗り、洗濯物を汚すこともあった。  夜木はただ突っ立って向こう岸を眺めているだけのようであった。杏子が声をかけると、一瞬、身構えるような仕草をした。しかし、声の主《ぬし》を確認して、警戒を解いた。この男はいったいどのような生きかたをしていたのだろうかと思う。人に呼びとめられる度、びくりと肩を動かす悲しいところで生きていたのだろうか。  葦の方から虫の声が立ち込めてくる。向こう岸の工場で低い金属の音が鳴り、赤くなりはじめた大気を断続的に震わせる。 「包帯を買ってきました」  杏子は、持っていた包みを見せた。店に寄るのは規律違反であるが、生真面目にしたがっていたわけではなかった。 「お金を持っていません」 「気にしないで」  当初の予定では、明日、夜木は家を出て行くはずだった。しかし、好きなだけ家にいてはどうかと話をもちかけた。兄はいい顔をしないかもしれないが、祖母は夜木に悪い感情を持っていないようだ。承諾してくれるかもしれない。 「しかし、家賃が払えません」  杏子は頷いた。無料で住まわせるわけにはいかなかった。家は、そう裕福ではない。自分も、友人のように働こうかと思ったことがある。  夜木に、酒場で働く友人のことを話した。その店は街の中心にあるということや、店の名前、店員の服装などについても話をした。 「夜木さんも、そこで働いてみてはどうでしょう」 「接客業はちょっと……」  夜木の包帯姿を改めて眺めてみた。 「働けるところを探しましょう」  杏子は、兄の友人に、秋山《あきやま》という金持ちの息子がいることを説明した。その男の家はいくつか工場を持っており、頬めば夜木の働き口くらい面倒を見てもらえるはずだ。  夜木は戸惑っていた。うれしいという反面、このような申し出を受けていいのだろうかと迷っているように見えた。 「皆、夜木さんにもっといてほしいと思っていますから。このまま家を出ても、どこにも行くあてがないのでしょう」  彼はさびしそうに頷いた。黒く、何年も気にとめなかったような長い髪の毛が風にゆれた。その拍子《ひょうし》に、彼の細い肩が杏子の目についた。それは、夜木の持つ異様な影には似つかわしくない、少年のままの肩であった。  夜木が申し出を受け入れると、杏子は自分でも知らず、ほっとした。かすかに、別れがたい気持ちがあった。彼と交わす言葉には、友人たちとの間に感じるような距離がなかった。だれも見下ろさず、すべての存在に愛《いとお》しさを感じているようにも窺える。あるいは、難病のために死を宣告された者のように、日々を価値あるものとして受けとめているようにも見える。その仕草には、どこか悲しみのようなものがこもっており、深刻な気持ちにさせる。  話をしながら家へ帰った。夜木は自らのことを話したがらなかったので、杏子ばかり口を開いた。仲の悪かった両親のことや、母の死に立ち会った時のことを話した。暗い話題ばかりだった。 「もっと明るい話の方がいいかしら」  杏子は気になって尋ねた。 「いえ、もっと暗い話を……」  夜木がそう言うので、子供の頃《ころ》の苛《いじ》められた思い出を安心して語った。なぜか彼には、そういった不幸話の方が似合った。  数日前にはじめて夜木と会った道を通る。子供のころの恐ろしい体験談を聞かせている最中であった。泣いている杏子を、父親が夜の雑木林へ置き去りにした話である。  野良犬が目の前にいた。茶色の短い毛をした雄犬《おすいぬ》である。日ごろから杏子がなでている犬である。  近寄って首の下を掻《か》こうとすると、今日は様子が違った。いつもなら目を細めて幸福そうにするはずが、警戒したようにこちらを見ている。正確には、夜木を睨《にら》んでいる。重心を低くして、唸《うな》りはじめる。  どうしたのかと思い、さらに一歩、近寄ってみる。犬はこらえきれずに身を翻《ひるがえ》すと、逃げてしまった。その瞬間の犬は、強大な獣に追われる恐怖の様相を見せていた。 「いつもはおとなしい犬なのに」  杏子は呆気《あっけ》にとられたようにつぶやき、夜木を見た。息を飲み込んだ。  もういなくなった犬の方に顔を向けたまま、暗い目をしていた。その理由を尋ねることはできなかった。夜木のその部分は、一切、触れることを拒む、抉《えぐ》れた傷口のように思えた。 [#ここから3字下げ] 夜木 [#ここで字下げ終わり]  早苗が私の問いかけに答えなくなってしばらくの間、不安な気持ちで日々を送りました。しかしながら人間の心は不可解なもので、最初のうちいなくなってしまった見えない友人のことばかり考えていたのも、やがてあれは夢だったのではないかと考えるようになりました。  体の異変に気づいたのは、ちょうどそのような時期、小学校で狐のお面を作っている最中でした。ノミで木を彫り、少しずつ、狐の顔に似せていくのです。友人の多くは般若《はんにゃ》の面を彫っておりましたが、私はなぜか狐の面にひかれておりました。それは、友人たちの話していた、「狐憑《きつねつ》き」のことが脳裏にあったためでしょう。  そのころ、他の町の小学生が狐狗狸《こっくり》さんを行なっている時、狐に憑かれてしまい、急に踊り出して止まらなくなったとか、わけのわからない言葉をしゃべるようになったとか、そういう恐ろしい話がささやかれていたのです。そのため、狐に憑かれるのを恐れて、狐狗狸さんをするものは次第に減りました。はたして狐というものが何をさしているのか当時の私にはわかりませんでしたが、何か理解できない不安を感じておりました。  金槌《かなづち》でノミの柄《え》を叩《たた》いている時でした。同じ作業を繰り返し行なう際の、独特の退屈さから、私は不注意になっておりました。ノミの刃が向かう方向をよく見ていなかったのです。その結果、左手の人差し指の先が、削《けず》り取られてしまいました。  ぱっとあたりに赤いものが飛び、狐の顔が浮かびかけた木の塊《かたまり》にもそれが点々と散りました。まわりにいたものが騒ぎ、すぐに先生がかけつけてきました。私は気が動転しておりました。ただ、不思議なことに、最初は激しく痛んでいた怪我《けが》の個所《かしょ》が、次第に煙でかすむかの如く痛みがひいていくのです。それは、何か心理的な興奮が痛みを感じさせなくさせた、というのとは違うように思えました。まるで、最初からその部分は外れるようになっており、こうなったのはむしろ自然の体に近づいたのだという感覚でありました。  私は、血だらけになったノミの刃先に、外れた爪《つめ》が付着しているのを見つけました。恐ろしくもありましたが、私は保健室へ連れていかれる直前、その爪をつまんでポケットへ忍ばせました。  保健室の先生が消毒をしてくれましたが、病院へ行った方がいいと言われ、すぐに医者のもとへ連れていかれました。そのころには、なぜか痛みだけでなく、出血まで治まっていました。血というものは、こんなにすぐ止まるものだろうかと私は不思議に思いました。しかし、おそらく自分の怪我は想像していたよりたいしたことがなかったのだろうと結論付け、のんきに胸をなでおろしていたのです。  医者はひとしきり私の傷口を見て、傷がもうふさがりかけているのを確認しました。その時に見た医者の表情を、私は今でも忘れておりません。何かこれまでに見たこともない傷口を見せられた、といった表情でした。  化膿《かのう》を防ぐため、注射を打つことになりました。しかし、医者が私の肌に注射針を刺す度、不思議と失敗するのです。針が、なぜか途中で折れてしまいました。私は他の子供と同様に、注射されることが好きではありませんでした。目を閉じて我慢しておりましたが、そんな私に医者は、力を抜いてもらわないと、と怒ったように繰り返しました。  学校を早退し、家へ戻ると、母が心配そうな顔で私を迎えました。先生の方から、先に連絡が行っていたのでしょう。包帯の巻かれた左手の指を見せて、安心させるためにおどけてみせました。大丈夫、たいしたことはなかったから、と。実際、痛みのほとんどなくなった指に、危惧《きぐ》などしておりませんでした。  自室へもどると、ポケットに忍ばせていた自分の爪を眺めました。妙なことですが、こういったものを簡単にごみとして捨ててしまうのは気が引けました。それで、ちり紙に包んで、ビー玉などをためておいた缶の中へ入れておきました。  その夜のことです。私は、包帯が窮屈で眠りから覚めました。また、怪我をした部分が妙にむず痒《がゆ》くもありました。まるで、抜け落ちた乳歯の後から永久歯が生えてくる時のような歯茎《はぐき》のもどかしさ、そう表現すればわかっていただけますでしょうか。体の内部に押さえつけられていたものが、止め金が外され、ようやく背伸びしはじめる時の疼《うず》きのようでありました。  私は、自分の体に起きている異様な感覚に驚き、不吉なものを捉《とら》えました。包帯の中が、熱を帯びたようになりました。傷日を見えない何者かの手でつかまれて、体の内側にあったものが、ずるずると引き出されているようでした。  恐る恐る、包帯を外しました。包帯の厚さがなくなると同時に、嫌な気配とでも言うべきものが心中にあふれてきました。昼間、医者の巻いた包帯をすべて外してしまうと、中から現れたのは、生え変わった私の爪でした。といっても、新たな爪は以前のものと同じではありませんでした。人間のものであるならば、体内の血色を薄く通して桃色に見えるはずです。しかし、新たな爪は、黒いようでもあり、銀色のようでもあり、生物の体というよりは、金属のようでした。それも、工場の脇に捨てられているような、錆《さび》の浮いた金属片です。  形状も異様でした。以前のように丸みをおびたものではなく、最初から何かを切り裂くためだけに伸びたような形でありました。何かを傷つけ、壊し、殺すための形でありました。  恐ろしくなり、日をそらしました。吐き気をこらえました。  早苗の言っていた言葉を思い田しました。私の体をもらうかわりに、新たな体をあげよう。彼女はそう言いました。嫌な予感がして、ビー玉の缶に隠していたちり紙を広げました。私は、確かにそこへ自分の爪を入れたはずでした。しかし、それらしきものは何も見当たりませんでした。  悲鳴をあげました。早苗の意図を知りました。彼女は、私の体から外れたものを、見えない手で持ち去ったのです。そのかわり、欠損した部分を補うように、新たな体を私に与えたのです。  父親が私の部屋の襖を開けました。どうしたのかと尋ねました。  変質してしまった左手の指先を隠して、必死で平静を装いました。  だれにも見せることができませんでした。家族や友人の目から、指先を覆い隠して生活しました。医者に診察してもらうこともできず、病院へ連れて行かれることをかたくなに拒みました。私が死に物狂いで反発しますと、家族や先生も私の行動を疑問視するようになりました。時間が経過し、包帯の取れる時期になっても、私は決してそれを外すことはしなかったのです。  だれかに爪を見られ、奇異に思われるのを恐れました。私は次第に人から離れ、目立たないよう行動する癖がつきました。いつも何かを恐れ、そのために笑うことも少なくなりました。  先生や父が、私の爪を見て、 「これはなんだ、理由を説明しなさい」  と怒っている様を想像し、恐れました。今では、そのようなことにはならないと理解できますが、当時、子供だった私は、きっと叱《しか》られるに違いないと確信していたのです。  包帯の理由を聞かれても、答えることはできず、なぜちょっとした怪我にもおびえるのかと笑われても、理由を説明することはできませんでした。私は、できるだけ激しい運動などからは遠ざかり、怪我をする可能性を少なくしました。それでも時々は、転んだり、尖《とが》ったものでひっかいたりして、傷を負いました。その部分は、爪が生え変わった時と同じように、すぐに痛みが消えました。そして内部から浮上してくるかの如く、表面が錆の浮いた金属のようなものに覆われるのです。  その部分は頑強で、傷を負うことも、裂けて血が出ることもありませんでした。触《さわ》ってみると固く、そのくせしっかり熱さや冷たさなどを感じることができるのです。鉛筆の先で一定の圧力をかけてやると、ある程度の痛みまでは感じるのですが、それをすぎると麻痺《まひ》したようになり、本当にただの金属が皮膚にはりついているようになるのでした。  傷を負い、私の体に人間でない部分が増えてくると、いちいちその部分に包帯を巻いて覆い隠しました。見られることを恐れ、その様は他人の目に、病的な態度として映ったことでしょう。外を歩く時も、だれかと対峙《たいじ》する時も、気にするのはいつも包帯のことでありました。包帯がずれていやしないか、話している最中に、ゆるんで外れやしないか。そのことばかりが頭にあり、はたして真剣にだれかと話のできたことがあったでしょうか。  肋骨《ろっこつ》を骨折したこともありました。神社の境内へ続く石段を踏み外し、転倒した時のことです。その瞬間は呼吸できず、痛みで気絶しそうになりました。石段の角で胸を激しく打ちつけ、直感的に肋骨が折れてしまったことを感じました。  まわりに人はおりませんでした。石段に腰掛け、気を落ち着けていると、やはり痛みの感覚にはもやがかかったようになり、楽になっていくのです。  気が狂うような思いでした。私の内部で破壊と再生が行なわれたのです。折れた肋骨を見えない早苗の手が持ち去り、そのかわり、体内にあるもう一つの得体の知れない体がずるりと引き出されてしまったのです。  服の裾《すそ》から、新しい肋骨のあたりを確認しました。外側、皮膚のあたりは以前のままのようでした。しかし、その内側が変化していることはすぐにわかりました。  石段で打った肋骨は、形状が歪み、角張っており、そのため皮膚が引っ張られたよぅになっておりました。確かに、それは人間の肋骨とは違う、別の生き物の肋骨に見えました。  思えば、早苗と契約を交わしてからというもの、病気をしたこともありません。重い怪我を負ったとしても、すぐに別の体へ入れ替わり、再生されてしまうのでしょう。それが私に安心をもたらすかというと、実際は逆でした。私は、ほんの少し引っかき傷を作っただけでも、また少し人間の体が失われてしまったという気になりました。泣き出して、わめき、自分の行く末に恐怖しました。そのような私が、たとえ包帯で体を覆い、皆から白い目で見られてさえも、四年間、普通の人間であるかのように学校へ通ったのは奇跡であると思います。  一切の喜びは消え去っておりました。また、私はいつのまにか、瘴気《しょうき》とも呼ぶべき異様な気配を出しておりました。それは爪や肋骨など、変化して表に現れた部分から出ているようでした。私の体内のどこかに眠っている、これから表に出ようとしている生物の体が禍々しい気配を備えているのでしょう。  多くの敏感な者は、私の体から一枚、表面を剥がすと、その裏側に別の生物がいることを感じとってしまうようでした。そのため、私の姿をみとめただけで眉をひそめ、嫌悪するのです。そのような鋭い人は、なぜ私に対してそのような感情を持つのかよく考えることもなく、ただ無意識的に避けるようになりました。  私はだれにも話しかけられることなく、ただひっそりとした闇の中に身を隠すことが多くなりました。それは孤独を伴いました。しかしそうしていると、姿を見られて恐怖されたり、嫌悪から拒否されたりするよりは、まだ自分は人間の範疇《はんちゅう》にいるのだという気でいられたのです。  私が早苗と契約を結んで四年が経《た》ったころ、家出する決意をしました。このまま包帯で体中を隠し、他人の前で服を脱がないでいることは不可能に思えました。もはや友人や先生、家族さえも、私の精神に疑いを抱いておりました。ある日を境に私が肌を見せなくなっていることについて、何度となく理由を尋ねられましたが、私はただお願いだからと泣きそうな顔でそのことを聞かないように懇願するしかなかったのです。  ある夜、鞄《かばん》に服を詰め込み、台所に置いてあった母の巾着《きんちゃく》から財布を持ち出しました。お金を盗むことの罪悪感はありました。しかし、私をこの世に産み落とし、これまで愛情をささげてくれた両親に別れも言わず、突然、消え去ることの罪の方がはるかに私を責め苛《さいな》みました。  あるいは、正直に家族へ告白すればよかったのではないかとも思います。しかし、それは今だから考えられることなのです。当時は、告白により両親から拒絶されるのではないかという恐怖が勝《まさ》っておりました。もしそうなるのであれば、いっそ何も言わず、だまって消え去ろう。そう考えておりました。  夜、空には雲がなく、月がかかっておりました。視界を星が埋め尽くす晩は、日中に比べて空が大きく見えるような気がしました。数日間、降り続いた雪が地上一面を覆っておりました。ひとまず列車に乗り込もうと思い、私は駅へ向かいました。幾重にも着こんだ服の上から、あるいは手袋の目の隙間から、冷気が体温を掠《かす》めていきました。夜道を歩きながら、私は早苗のことを考えておりました。  彼女は何者であったのでしょうか。本来その年、早苗の予言では、私が死ぬことになっていました。もしも早苗に会っていなければ、それは現実のものとなっていたかもしれません。それとも、私を恐怖させて契約させるための嘘《うそ》だったのでしょうか。今となっては確かめるすべもありません。  ただ、その時の私は、こう考えていたのです。  私は今夜、死んだのだ。  その諦《あきら》めこそが、私を保っていられる最後の救いだったのです。  体内にある禍々しいものの気配は、日に日に大きくなっていくようでした。それは、私自身にも、通りすがりに出会った人にさえも、感じとられるほどでした。この異様な感じは、黒い、濁り水に似たものでした。あなたもこの不快な印象を、私の内に見出《みいだ》したことでしょう。まるで私の皮膚に触れた空気が、穢《けが》れ、淀《よど》み、濁ってしまうように思ったことでしょう。  ここに、早苗の正体に関する手がかりがあるように思うのです。彼女は私に言いました。  私の子になりなさい、そうすれば永遠の命を与えよう、と。  早苗の子が、神を冒涜《ぼうとく》するが如き穢れを纏《まと》う化け物ならば、彼女自身は、人知も及ばぬ巨大な暗闇の主《あるじ》なのでしょう。私は命が助かりたいために、関わり合いになってはならない存在と契約を結んでしまったのです。  当初、私の心は早苗への呪いで焼き尽くされておりました。しかしその日になるとすでに、ただ自らの愚かさを絶望するばかりとなっておりました。すべては私の至らない精神が引き起こしたのです。友人の死を聞き、自らの死を恐れ、神の作り出した自然の流れに逆らおうとしたことに原因があるのです。  朝、まだ太陽の出ないうちから、駅で列車を待ちました。私の他に人はおらず、電灯の弱々しい明かりが一つ、構内を照らしておりました。  列車に乗り込み、あてもなくさ迷い、いつしか二十年が経過しました。実際には私の年齢は三十を超えているはずですが、体の成長は二十歳を境に止まっておりました。その間、闇の中に潜《ひそ》み、山に入り、森に隠れて過ごしました。人のざわめきが恋しくなり、街の中、建物と建物の間が作る影に身を潜めていたこともありました。  一度として心の安らいだ時間はありませんでした。幾度となく自殺することを考えました。しかし、たとえ首を吊《つ》ろうが、海へ身投げしようが、自分は死なないであろうという確信がありました。  あれは、山の中へ深く入った時のことでした。私は、もうどうにでもなれといった気持ちで、食料も持たずに山中を歩きました。感じていた空腹は、いよいよ死ねると思った時、急に消え去りました。寒さも、ついに凍死すると思った瞬間、感覚が閉ざされたのです。死にたいとあがいても、私はもうあの世へ行くことすら許されないと知りました。  足を踏み外し、崖《がけ》を落下しました。顎や肩など、数カ所を骨折しました。その部分も早苗が持ち去り、今では醜い化け物の体へ入れ替わりました。私が顔の下半分を包帯で覆い隠していたのは、その時の怪我が原因でした。生え変わった私の歯を見て、正常でいられる生物はいないでしょう。狼《おおかみ》などの生き物であれば、神に与えられた生命の美しさとでも言うべき輝きがその顎に宿っているはずです。しかし、私の顎はもはやそういったものからはかけ離れ、神さえ目をそむけるであろう歪《いびつ》な形状をしているのです。それは、肉を食いちぎるといった用途では余るほどで、錆の浮いた鉄のような色をしているのです。  私は、自殺を試みることは無駄だとして、無限に流れる時間をただ過ごしました。孤独というものがどのようなものか、私は知ることになりました。道を歩いても、森に入っても、私に声をかけるものはおらず、鳥や動物さえも逃げていく。心の中では常に、楽しかった子供のころの記憶が蘇り、私に悲鳴をあげさせる。胸を掻きむしり、頭をかかえ、あるいは夜空を見上げ、自らの愚かさが招いた寂《さび》しい運命に苦しみました。  家族のことを思わなかった日はありません。家を出て十年ほど経過した時、私は一度、故郷へ戻ったことがありました。髪の毛は伸び放題になり、体中を包帯で覆い、いまさら自分が息子であるとは言い出せませんが、私は一目《ひとめ》、母に会いたかったのです。  しかし、家はなくなっておりました。通った小学校や駅はそのままあったのですが、住んでいた家だけが消え去っていたのです。近所の者に聞いてみることもできましたが、私はしませんでした。ただもう、何もかもが吹っ切れたように私はその場を立ち去りました。突然に消えた我が子を、母や父はどう思っただろう。そこからの年月をどのような思いで過ごしただろう。私が孤独の持つ毒に冒《おか》されていた時も、遠い地で両親は私の心配をしてくれていただろうか。  家はない。引越しなのか、燃え尽きたのか、それは問題ではありませんでした。ただもう、私に帰る家はないのだということを、自らはっきりと確認しました。家を出た時、もともとあった私という者は死んだのだ。涙を流しながら、何度も自分に言い聞かせねばなりませんでした。  私は死ぬことのない体で歩き続けました。だれにも見られたくないという思いから人間のいないところを進みました。せめて社会に寄り添いたいと街の影に潜むこともありました。しかし、普通に歩いている者を見るのは、苦痛でもありました。通行人がだれか親しいものと笑い合っている様が、私にはうらやましく、悲しい気持ちにさせました。  包帯が使い物にならなくなれば、布切れで顔を覆い、垢《あか》を落としたければ清らかな川に入りました。ごみをあさって衣服を手に入れ、捨てられていた本から知識を得ました。  空腹を感じることはあっても餓死することはなく、獣に襲われて死ぬということもありえません。ただ無為に、永遠に等しい時間、私は人間とも獣とも判別できない体で暮らしていたのです。  杏子様、あなたに出会ったのは、たまたま私が街中に出て、この先、永遠に拭《ぬぐ》われることのないただ一人の悲しみにつぶされかけていた時でした。  死なぬとはいえ、休みなく歩いていれば、疲労は体にまとわりつくのです。何カ月も歩きつづけ、頭の中ではもはや何も考えていませんでした。長い間、とりとめもないことを考えつづけ、ついには思索の材料さえ尽きていたようにも思います。  なぜかはわかりませんが、一時《いっとき》も同じ場所にはいられぬという強迫観念に近いものがありました。ただ足を踏み出し続け、訳のわからぬ状態で歩き続け、やがて私は蓄積された疲れのため、不意に倒れてしまったのです。  その時、偶然にもあなたが傍《そば》におりました。私の肩へ、あなたが手を置いた時の驚きには、忘れ難いものがありました。長い時間をただ一人でさまよい歩いていた私にとって、他者に触れられるということは諦めきっていたことでありました。生を享《う》けて、手のぬくもりといったものを本心から感じたことが、それまでにあったでしょうか。ただ気が動転し、恐怖とも喜びともつかぬ気持ちのまま、あなたの家での生活がはじまりました。  そこで出会ったのは、私がその昔に捨て、自分にはもう与えられないものだと割り切った、ただ当たり前の生活でした。だれかと対話し、あいさつを交わす。そのような場面を、物音さえも吸いこむ深い森の奥で、何度、夢に見たことでしょう。畳があり、屋根があり、窓がある。その、少しでも快適に日々を送ろうとする人間性の存在に気づき、私はあやうく人外の世界へ踏み入りかけていたことに気づかされました。  あなたの家で出会った人々、そのすべてに私は感謝してやみません。そこで過ごした短い日々の、ひとつひとつのできごとが、なんとたやすく涙の堰《せき》を壊してしまうことでしょう。  しかし、私が杏子様の家に居座《いすわ》り続けてはいけないという予感はありました。私の体を欲しがっているこの世のものではない存在は、次第に呪わしい影を濃くしてゆくのです。この穢れは死と絶望を運び、私に近づく者を不幸にしてゆくでしょう。  私が使わせてもらっていた部屋の軒先に、雀《すずめ》の巣があったことをご存知でしょうか。私が部屋に通された当初、親鳥が子供のために餌《えさ》を運んでおりました。しかし、私の気配に気づいた親鳥は、ひもじさのために泣き喚《わめ》く子供を置いて逃げてしまい、そのまま戻らなくなりました。それだけではありません。雛《ひな》のうち三羽は、まだ飛ぶこともできないというのに私から逃げようとして巣を這《は》い出てしまい、ぽろぽろと落下して息絶えました。私から逃げることも、餌を食べることもできなかった残りの雛は、気づくと餓死しておりました。  その時ほど、私の暗闇に閉ざされた運命を呪わしく思ったことはありません。  ここにいてはいけない。そのような思いはありながらも、日々の幸福さのために、私は自分でも知らないうちに甘い考えを抱くようになっていたのでしょう。このまま、人並みに生きていけるのではないか。だれかそばに、苦しみを理解してくれるものがいさえすれば。  行く当てがないのならうちに住んでしまえばどうか。あなたの申し出を受けたのは、そのような心理からでした。あなたがお兄様に頼み込み、そのお友達に工場の仕事を工面してもらうよう口添えしてもらったこと、どんなに感謝しても足りません。  しかし、結局は残念な結果となりましたね。私を罵倒《ばとう》する数々の言葉と、憎しみの声は、あなたの耳にも届いたことでしょう。  ほんの数日前、突然に私が姿をくらましたことは、どのように伝わったのでしょうか。昨夜、秋山邸で起きた事件は、どのように処理されたのでしょうか。 [#改ページ] [#ここから5字下げ] 三 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 杏子 [#ここで字下げ終わり]  兄の俊一と秋山、そして井上の三人は、かつて中学校の同級生だった。友達づきあいは今でもつづき、たまに杏子の家へ来て、兄の部屋で何時間も話を楽しんでいることがあった。  秋山は町でも有名な資産家の息子である。井上は彼の、一番の親友であった。二人はいつも一緒に行働し、いわば主人と取り巻きとしてまわりに知られていた。細身で身なりの良い秋山と、がっしりとした体で背の高い井上、その二人の並んで歩く様はしばしば街で見かけられた。  彼らには悪い噂があった。秋山はおもしろいことの好きな男らしく、何か暇つぶしになるものはないかと、にやけた笑いを浮かべて街中を物色するのである。日が暮れて家に戻る労働者を、後ろから襲ったという詰も聞いた。物乞《ものご》いに金を見せ、川に飛び込ませたという話もある。  秋山の悪口を囁《ささや》いたヤクザが以前いたと言う。その男は町から追い出されて今はいないらしい。秋山の父親はヤクザにも顔が利《き》くという話であった。  夜木が杏子の家に居ついて、一週間が経過した時のこと。兄が、秋山と井上を家に連れてきた。彼らは俊一の部屋で何事か話をしていた。  お茶を出しに行ったおり、杏子は耳をすませてみた。話題は、二週間後に控えている祭りの計画であった。毎年、神社から駅まで通りを出店が埋める。親子連れが楽しげに眺めて歩く。俊一は、勤めている水菓子屋の主人に頼まれて、祭りには必ず店を出しているのだ。秋山は顔がよく利いたので、彼に頼んでおけば、良い場所に店を出してもらえるというわけである。  部屋の真ん中に向き合って三人が座っていた。秋山が小綺麗な格好をしてあぐらをかいていた。  井上は赤いシャツを着た肌の浅黒い男である。体が大きく、その首から銀色に光る十字架の首飾りが下がっていた。それは、杏子の友人が持っていたのと同じ物であった。同じ酒場で働いているのだろうか、と考えた。 「杏子ちゃんもここに座って話を聞いてかないか。もう、つまらない祭りの計画は終わりにして、外国へ行った時の話をきみの兄貴にしてやろうと思うんだ」  秋山が声をかけた。用事がありますからとそれを断《ことわ》った。皆で輪になって話をするというのがどうも苦手である。その上、もしも退屈な様子を見せてしまい、秋山の機嫌を損ねたらどうしようという思いがあった。  しばらくの間、部屋から男たちの笑い声が聞こえていた。杏子は博の姿が見えないのに気づき、家の中を探した。彼は夜木の部屋にいた。  自分が学校へ行っている間、彼らは家の中でずいぶん親しくなっていた。さほど会話のはずんでいるようには見えなかったが、お互い、気心が知れたように、ゆっくりとくつろいでいた。 「博くんをつれて外へ散歩に出たらどうですか」  夜木に言ってみた。どことなく所帯じみた台詞《せりふ》であったと思う。彼は窓辺に座ったまま、肩をすくめた。 「変質者と間違えられます」  確かに、と杏子は納得した。 「お兄さんの友達がきていらっしゃるのですか」 「秋山、という名前の、この辺りでは知らない人はいない方よ」  自分もその部屋に落ち着く。博へ御伽噺を聞かせ、にらめっこの相手になってやった。夜木はずっと外を眺めていたが、時折、杏子と博を見ていた。窓から入る昼の光が畳を暖めていた。居心地が良い。  夜木へ話し掛けてみても、あまり楽しい会話へ発展はしなかった。冗談などの気の利いたことができない性質らしく、朴訥《ぼくとつ》な話し方だった。それでも杏子は不思議と息苦しさを感じず、秋山たちの会話に交じるよりは心が安らいだ。  部屋の襖が開いて、兄が顔をのぞかせた。どうやら家中の部屋を回って杏子を探したらしい。俊一は少し肩《まゆ》をひそめた。杏子と博が夜木の部屋にいたことを、快く思っていないようである。 「酒を買ってきてくれないか」  俊一が数枚の紙幣を差し出す。杏子はそれを受け取った。 「このお金はどこから」 「秋山のさ」  夜木に、博の面倒を見るよう頼んで、部屋を出た。俊一が、秋山たちのいるところへ戻ろうとしている。それを呼び止めた。 「夜木さんの働き場所を探してくれるように、お願い」  俊一はうなずいた。数日前から、兄にその話を持ちかけていた。  酒屋まではちょっとしかかからない。渡されたお金で買い物をし、秋山のいる部屋に酒を持っていく。ちょうど、夜木の話をしている最中だった。 「この男がおかしなやつでね……」  俊一が夜木のことを、おもしろそうに語っていた。包帯で顔などを隠し、滅多に外へも出歩かず、詳しい素性も説明しない。そのような内容の話を、冗談を交えて語っている。 「なるほど、それはおもしろいな」秋山が興味を持ったように身を乗り出した。「この家にいるのかい」  杏子は買ってきた酒を置くと、部屋をすぐに出た。なぜか不安な気持ちになった。夜木の部屋に行くと、あいかわらず黒ずくめの男と、五歳の少年がくつろいでいる。子供に話を聞かせてやっていたようだ。 「おかえりなさい」  夜木がそう口にした。そのせいで話が中断し、博が頬《ほお》を膨《ふく》らませる。 「はやく。つづき。熊のおはなし」  そうせかした。何のことかと杏子は首をひねる。 「さっきまで、山奥で熊に出会った話をしていたのです」  夜木が説明した。おそらく、法螺話《ほらばなし》なのだろう。  杏子は落ち着かない気持ちで博の隣に座った。いつ、秋山が襖を開けて入ってくるかと気が気ではなかった。もしもそうなったところで、何か悪いわけではないのだと思う。しかし、秋山たちが見世物小屋へ入るような気持ちでこの部屋へ乗り込んでくることが怖かった。  これまで夜木の見せた仕草から、他人の視線を恐れる、ほとんど病的な何かを感じていた。部屋に不躾《ぶしつけ》な乱入者が現れることで、彼を不愉快な気持ちにさせたくなかった。  秋山たちがこないことを半ば祈るようにして、夜木の話を聞いていた。  やがて襖が突然、開いた。兄が顔を出して、「皆が帰るそうだ」と言った。次に夜木へ顔を向けた。「工場で働けるようにしてもらった。明後日からだそうだ。いいか、給料をもらうようになったら、ちゃんと家賃を払うんだぞ」命令するように俊一は言った。  工場は杏子の家から歩いて数十分のところにあった。広い敷地の周囲に錆びた鉄条網が張られ、毎朝、くたびれた作業着の労働者が大勢、中へ歩いていく。掘削機《くっさくき》の先端に取り付ける金属製の部品を製造しているそうだ。鉄を鋳造《ちゅうぞう》するため、夜木は鉄鉱石を運ばされるのだという。その工場では粉塵《ふんじん》が大量に発生するため、労働者はすぐに肺を壊すという噂があった。杏子はその点を心配した。 「死にはしませんよ」  彼はそう言って杏子を安心させた。不安そうな様子ではあったが、それは体の心配をしているのではないようであった。  夜木は家にいる間、あいかわらず自室にこもることが多かった。食事も、杏子が何も言わなければとろうとはしない。部屋まで食事の載った盆を運んでやらなければいけない。夜木は、食事は必要ないといつも言う。杏子が「食べないと、この家から追い出しますからね」と怒ってみせると、ようやく口をつける。そんなに自分の作った料理はまずいのかと考え込む。  はじめて工場へ働きに出る朝、空《から》になった朝食の器を、夜木が台所まで持ってきた。目を見ると、初出勤のため臆病《おくびょう》になっているように見えた。彼は自室で、前日に俊一からもらっていた作業着に着替えていた。やはり包帯を外していない。 「顔の包帯は、煙や埃《ほこり》を吸い込まないためのものだ、って言うといいわ。それとも、火傷《やけど》を隠すため、と言ったほうがいいかもしれない」  杏子がそう提案してみると、夜木は頷いた。  皆を見送ってから学校へ行く。その後、授業中もなかなか勉強に身が入らなかった。工場で働く夜木のことを心配していた。  ちゃんと働けているだろうか。夜木には特殊な気配がある。その影を見ると、心が不安でざわめきだし、見るものを怖がらせる。疑いを抱かせないうちから人を嫌悪させる。  なぜ、そのような雰囲気を持っているのかわからない。しかし、そのせいで何もしないうちから人に嫌われることは多かっただろう。それを心配に思う。工場における人間関係が円滑であればいいのだが。  杏子は、皆が夜木に対して抱いているそれぞれの感情を思い返した。  田中正美は、息子の面倒をよく見てくれるということで、案外、夜木に感謝していた。祖母も、話してみるといい人間であると言った。兄は、あまりいいように思っていないようだ。工場の人間はどうだろうか。  夜、工場から帰ってきた夜木を見て、杏子はようやく安心した。普通の人間なら疲れた顔で戻ってくるところであろうが、彼の目はまるで嬉《うれ》しがる子供のようであったからだ。これから充分にやっていけそうな調子である、そう夜木は言った。  夜木が働きへ出るようになると、昼間のうちは、また以前のように家は祖母と博だけになる。博は毎日、退屈しているようであった。  一週間が過ぎた。朝、夜木と兄、田中正美を送り出し、学校へ行く。帰ると祖母の手伝いをしながら、皆が帰ってくるのを待つ。そのような生活を杏子は送っていた。  口数は多くなかったが、夜木は工場でのことを杏子に語ってくれた。彼は労働を楽しんでいるようであった。いかにも嬉しそうに語るものだから、工場という場所が楽しそうに思えたほどである。彼の同僚に目の悪い男がおり、彼の手伝いをしているという。夜木が社会に触れ、家でその話をしてくれることが、杏子には幸福に思えた。  それは土曜日のことであった。学校は半日で授業を終える。昼に家へ戻ってみると、博が退屈そうにしていた。祖母は洗濯仕事をしており、かまってもらえないようである。  まだ夜木は工場からもどっていない。工場は土曜日でも一日中、働かされる。 「お姉ちゃんといっしょに、お散歩へ行こうか」  博に提案してみた。ついでに工場の方へ行って、夜木がうまくやっているかどうか様子を見てこようと思った。  気候は温暖であったが、空気にかすかな粉塵が混じっていた。ほとんどわからない程度であるが、窓ガラスを指でなぞると、跡《あと》ができた。太陽は大気中の砂埃《すなぼこり》にあたり、輪郭を消して黄色の柔らかい光となっていた。  家の密集した地域を抜け、郊外に流れる川を渡ったところに工場がある。道中、博は疲れたと言って動かなくなった。杏子はそれを背負って歩いた。  砂利道であった。片側は雑木林で、反対側は見晴らしのいい田んぼである。その向こうに工場の煙突が見え、先の方から煙が出ていた。目指している工場ではない。その地域には、他にも多くの工場が密集していた。  粉塵でかすんでいる遠くに桜が一本だけ立っている。その根元に地蔵があった。側を男が歩いている。目を凝《こ》らしてみると、夜木であった。まだ工場の終わる時間ではない。  片手をあげ、声をかける。表情の見えるところまで近寄ると、暗い目をしているのがわかる。急に不安がこみ上げてくる。様子がおかしかった。ふらふらとしていて、足下《あしもと》がおぼつかないようである。工場で何かあった、と杏子は気づいた。 「今日は、帰りが早いですね」 「ちょっと悪いことがあって……」  夜木は無表情に言った。目は、一切の感情を麻痺《まひ》させたような、動物の目である。杏子は悲しくなった。そういう目をしてほしくなかった。すぐにでも理由を問いただしたかったが、夜木の言う悪いことを説明させることが残酷に思えて、できなかった。  背中の博は眠っていた。散歩の途中、工場へ寄ってみるつもりだったことを告げた。並んで帰る間、言葉はなかった。  神社の境内を横切り、近道をする。この地方では名の通った神社である。境内の空気は涼やかで、粉塵もあまりないように思う。周りを囲む鬱蒼《うっそう》とした木々が、静かに不浄《ふじょう》の空気から守っているのかもしれない。見上げると、伸ばした枝が屋根となり、空を覆っている。本殿や社務所の脇を抜け、石灯籠《いしどうろう》の並んでいるところを通る。  火曜日から祭りが始まることを思い出す。出店が並び、大勢、人が神社へ参拝にくる。それを夜木に話す。  境内の入り口、鳥居のところで夜木が立ち止まった。目に鮮やかな朱色の鳥居である。 「神の存在を信じていますか」  夜木の目は怒りとも悲しみともつかぬ複雑な色になった。 「わかりません」杏子は首をかしげた。「でも……、ああ、そうだ、おかしなことを思い出した」 「どのような」 「子供のころ、自分で勝手に神様を作って、祈りました」  まだ両親がいたころ、父母と兄、四人で暮らしていた時のことである。  両親は頻繁に喧嘩《けんか》をして、杏子はそれがひどく怖かった。そのような時、家にいるのが嫌で、小学生になったばかりの俊一と外へ出た。しかし、兄はいつも、一人でどこかへ行ってしまう。兄には友人がおり、彼らと遊びに出かけているのだ。そこには妹の存在は邪魔であり、杏子はついて行くことを禁じられていた。  仕方なく一人でいなくてはならなかった。外にいても、両親の罵声《ばせい》が家の中から聞こえてきた。遠出をすることもできず、家のそばでしゃがんでいた。ただ寂《さび》しさだけが胸の内に広がり、目の前を手をつないだ親子が通るたびに羨《うらや》ましく思った。  そのような時、神様へ祈った。近くに神社や地蔵もあったが、それらとは別に、自分で神様を作った。姿や形も想像せず、名前も神体となるものも考えなかった。その意味では作ったとは言い難く、祈りはどこへ向かったのかわからない。  日の暮れてゆく中、家の側にしゃがみ、ただ手を合わせて祈った。両親が仲良くなり、兄と自分にやさしくなるように。本当にそうなったら、どんなにいいだろうかと空想した。楽しい想像をしている間は、喧嘩の声も聞こえなくなり、空腹も寂しさも消えた。 「そのうちに両親は離婚しました。兄と一緒に母に引き取られて、今の家に移り住んだの」  夜木は何も言わずにただ話を聞いていた。  自ら作った神様は、いつも近くにいた気がする。人と感覚がずれたのも、そのせいではないかと思えてしまう。杏子は普通に生活しているつもりでも、皆にはきちんとしすぎているように思えるらしい。 「何かに毒づいている人を見ると、なぜかたまらない気持ちになるの。だれかがだれかを恨んでいたり、ねたんでいたりすると、息苦しくなってしまう」  両親の不和が原因だろう、と自分で思う。  夜木は難しそうな顔をして黙り込んだ。それから、杏子の背中に負われたままだった博を、かわりに背負った。  その日の昼、工場で、夜木は秋山に暴力を振るっていた。その話を聞かされたのは、家へ戻ってからだった。本人からではなく、俊一の口から聞いた。  俊一は、工場の人間から直接、夜木が秋山にしたことを聞いたそうだ。  なぜ、秋山が工場にいたのか、どのような経緯で夜木が彼を襲ったのか、状況を完全に把握している者はいなかった。  昼間、井上を引き連れて秋山は工場へやってきた。それは珍しいことではあるが、父親の経営する工場である。ありえないことではない。彼らの姿は、多くの目に触れていた。  秋山の悲鳴があがったのは、それから少したった頃であったと言う。いそいで何人かが駆けつけてみると、溶けた鉄の入った溶鉱炉へ、半ば落とされそうになっている秋山の姿があった。夜木が、彼を突き落とそうとしていたのである。  制止の声をかけると、我に返ったような顔で、夜木は秋山を解放した。かたわらには、秋山の友人である井上が倒れてうめき声をあげていたそうである。 「なんてことをしてくれたんだ」  俊一は両手で夜木の衣服をつかんで叫んだ。怒りで顔を青ざめさせていた。秋山の怒りを買うのは好ましいことではなかった。彼を怒らせて、得をした者はいないのだ。  兄はもともと、夜木のことを良くは思っていなかった。その感情が噴出し、夜木を責め立てた。つかんでいた服を離すと、汚いものを触《さわ》ったという様子で手を払った。 「お前を紹介したおれに迷惑がかかった」  兄は丁場へ謝りに行くそうである。  夜木は何かを言いたそうに口を開きかけたが、言葉は出なかった。視線を落とし、悲しげな顔をした。 「余計な荷物がなくて良かったな」兄が夜木に向かって言った。「次の居場所を探す時、身軽でいいだろう」 「きっと何か理由があったのよ」  兄はちらりと杏子の方を見たが、無視した。夜木は何も弁解しなかった。それがいっそう、辛《つら》かった。  次の日の日曜日、工場は休みである。夜木は部屋にこもり、出てこなかった。杏子はその部屋を訪ねた。 「工場で、何があったのですか」質問したが、夜木は何も言わなかった。ただじっと考え事をしているだけである。「兄さんの話は本当なのですか」  違うと言ってほしい。心の中でそう祈った。工場での暴力が何かの間違いであることを望んだ。しかし夜木は、窓の外から視線を外して杏子の方を見ると、そっけなく頷いた。  襖が開いた。博が部屋の前に立ち、夜木と遊びたそうにしていた。 「博くん、今は……」  夜木がそんな気持ちではないだろうと思い、かわりに返事をしようとしかけた。  博の後ろから腕が伸びた。正美だった。あわてた様子で息子を抱きかかえると、部屋の中にいる夜木に向かって言った。 「もう息子には近づかないで」  批難するような目をしていた。息子を抱えたまま階段を上がり、二階の自室へ彼女は向かった。その間、博は、わけがわからないといった表情で母の顔を見ていた。  杏子は心臓をつかまれたような苦しさを覚えた。夜木は、まわりの敵意に満ちた視線をただ受け止めるばかりである。彼は言った。 「大丈夫……、そのうちにこうなることは最初からわかっていたのですから」  まるで、傷ついたのが夜木本人ではなく、杏子であると言いたげであった。自分が泣きそうな顔をしていたことに、その時まで気づかなかった。  奇跡的に、夜木は工場の仕事を外されなかった。また月曜日には出社してほしいと日曜の昼に電報があった。夜木はその知らせを眺め、戸惑っていた。 「なぜ、私は工場をやめさせられなかったのでしょうか……」  夜木は月曜の朝、工場へ行った。 「元気を出して。明日からのお祭り、一緒に行きましょう」  杏子は見送る時、そう言って励ました。祭りは火曜日から三日間、行なわれる。  顔の半分が包帯に隠されていたので、よくわからなかったが、夜木は少し微笑《ほほえ》んだようである。目が幾分、細められたことからわかった。しかし、その夜、いくら待っても彼は戻ってこなかった。  同じ工場で働く近所の者に尋ねると、夕方まで働いて、すでに帰っているはずだという。夜木は工場で有名になっていたので、それは間違いないようである。  心配になり、探しに行った方がいいのではないかと兄に言った。 「放っておけ」俊一はそう吐き捨てるように言うと、「もうあきらめろ」と付け足した。 [#ここから3字下げ] 夜木 [#ここで字下げ終わり]  私の働いた工場では、主に金属関係の製品を作っているようでした。話を聞くと、本社は別にあり、そこは点在する工場の一つだったようです。朝には作業服を着た人々が周辺から歩いて集まりました。日に二度、一定の時刻になると、荷台いっぱいに鉄鉱石を積んだトラックが工場に到着しました。  仕事といっても、私がやったのは専門の知識など必要ない、簡単な雑事ばかりでした。工場内に水をまき、ブラシで掃除をすることもあれば、大きな袋に入った黒い石を運んだこともありました。  工場内で鋳造した鉄の成分を調べるため、その塊《かたまり》を切断するのですが、その際に用いる機械を分解して隅々まで洗ったこともありました。その機械は、薄い円盤状の砥石《といし》を回転させ、それを縦に金属塊に押し付けて削《けず》るように切断するのです。切断された金属の粉と作業に用いる切削油《せっさくゆ》で、機械には黒いどろどろしたものがこびり付いていました。洗うと水は黒く濁り、表面は油で虹色《にじいろ》になりました。切削油の温かい臭気で、呼吸することが容易ではありませんでした。  工場での仕事は、最初のうち、楽しいものでありました。大勢の中の一員として労働することは、自分の体が名前のない一個の歯車となるような心地でした。その感覚は、まるで自分が消えてしまったようなもので、普通の者なら回避したい感情なのかもしれませんが、私はそれに安らぎを感じておりました。ただ、多数の中に埋没《まいぼつ》して消えてしまうこと、それが良いのです。  また、労働者の間にある連帯感も私には嬉しい感覚でした。当初、私の包帯を見て、工場で同僚となったものたちは戸惑っておりました。包帯の理由を、「火傷を隠すため」と説明しましたが、体内に潜む早苗の子供の気配を感じたのでしょう。彼らはあの慣れることのできない、化け物を見るような表情をしておりました。  しかし、同じ職場で一緒に作業着を汚しているうち、「よく働いたな」と微笑みかけてくれるようになったのです。その一瞬、救いを見たように思いました。これまで社会から逃げつづけ、とてもその中で暮らすことはできないと絶望していた私に、そのどこにでもあるような仲間意識は福音《ふくいん》でありました。  このまま、杏子様の家に住み、平日は工場で汗を流す。休日には博君の相手をする。だれもが送るようなそういった何でもない生活を、自分も得ることができるかもしれない。私は泣きたくなりました。時間よ、これ以上、早く進まないで欲しい。胸のうちで私は叫びました。  その声もたんなる無駄な響きとなることは、自分でも気づいておりました。  工場で働くようになって一週間経った時でした。ついこの前の、土曜日のことでしたね。  午前中、私は小型の溶鉱炉の側で荷物を運んでおりました。工場は薄暗く、天井は高く、広い空間に私の作業する音が反響しておりました。砂塵《さじん》が地面を覆い、隅の方には鉄板の切れ端などが錆びておりました。溶鉱炉と言っても、そう大きなものではなく、直径は私が両手を広げたより小さかったでしょう。  私は一人、二階で作業をしていました。そこから、下にある溶鉱炉の中を覗くことができました。赤く熱せられた液体がありました。簡単な手すりがあるだけでした。皆、そばへ近寄る時は緊張して注意をしているため、これまでに事故が起きたことはないと聞いていました。  溶鉱炉の中は、想像を絶するような世界であり、覗くと地獄の一端を見てしまったが如き衝撃を受けました。熱で溶けた金属が赤々と内部から発光している様は、じっと見ていると、恐ろしいようでもあり、美しいようでもありました。その高温は一切の生命を拒絶し、いっそ中に飛び込んでしまえば、私も死ねるのではないかと思いました。  実際、溶鉱炉に入って命を絶つことは考えましたが、もしもそれで生き延びた場合、完璧《かんぺき》に獣となった自分の姿を想像すると、むやみに実行することはできませんでした。私は、脳という魂《たましい》の座までも早苗に渡してはならないように思っていたのです。  無言で作業を進めていると、後ろから声をかけられました。振りかえると、二人の男が立っていました。 「あんたが夜木かい」  私は頷きました。声を発した者は、身なりもよく、工場には似つかわしくない格好でした。二人は顔を見合わせました。名前を尋ねると、彼は秋山と名乗りました。私は、実際に顔を見るのははじめてでしたが、彼のおかげで働かせてもらっているのは承知しておりました。それで、働き場所を都合してくれた礼を言い、頭をさげました。  もう一人は秋山と対照的に背が高く、力の強そうな男でした。薄く笑みを浮かべたまま、彼は井上と名乗りました。 「その包帯、絶対にとらないそうだね。それは何故《なぜ》だい」  秋山は言いました。私は口籠りました。 「なあ、その理由を聞かせておくれよ。僕にだけでも、その下を見せてくれたっていいじゃないか。すごい火傷なのかい。それとも、人に見せられないほどの醜男《ぶおとこ》なのかい。どれ、見せたまえ」  私が拒否すると、とたんに彼は不愉快な顔になりました。  その後もしばらくの間、秋山は私に、包帯の下を見せるよう頼みましたが、その度に断りました。いえ、彼にしてみれば、頼みこんでいたわけではないのでしょう。おそらくあれは、命令のつもりで発言していたのです。彼の人生において、命令を拒否されることなどかつてなかったのではありませんか。私が拒むほどに、彼の顔は険悪になっていきました。  いつのまにか私の傍《そば》に、井上が立っていました。秋山は、私の態度に怒りを表しておりました。当初は笑みにも似たやわらかい物腰だったものが、侮辱《ぶじょく》されたといった表情をしておりました。 「僕はきみのためにこんな働き場所を与えてやったんだぞ。少しは感謝してもいいだろう。それなのに、こんな仕打ちを受けるとは思ってもみなかった」  井上が私の腕をつかみ、ねじりあげました。私は恐ろしくなりました。これまで、死ぬことを切望し、生の終わる瞬間に対する恐怖さえ麻痺していたはずでした。しかし、これ以上に怪我《けが》をして、人間の体が早苗にとられてしまうことを思うと平静ではいられませんでした。  秋山たちが何をしたいのかはすぐに理解できました。私を動けないようにして、包帯の下を見てやろうというのです。その結果に起こる、混乱と迫害を思い、そのことが私を焦《あせ》らせました。自分には訪れないと思っていた平穏な日々がつかめかけた時に、化け物の牙《きば》を見られて孤独の世界へ戻ることになるのは絶望でありました。  押さえつけられている私の顔に、秋山が手を伸ばしました。私は抵抗しました。彼らは笑っておりました。私が死に物狂いで抵抗することに、喜びを感じているようでした。  その瞬間、濁った水に似た、狂おしい感情が体内にあふれました。おそらくあれは、怒りの塊とでも言うべきものでしょう。  何がどうなったのか、その瞬間をはっきりとは覚えていません。私を押さえつけていた猫背の男が、熱せられた手すりにさわり、一瞬、すきを見せたのです。気づくと私は、井上から逃れ、蹴《け》りつけていたのです。  かつて、崖《がけ》から落ちた際に、足の筋肉組織の一部は人間の物ではない、得体の知れない獣のものに入れ替わっておりました。その新しい筋肉組織が歓喜しているようにも思えました。  井上は体の大きな男ですが、私はそれほど体格の良い方ではありません。少し考えてみると、私が蹴飛ばした程度で彼がひるむようには思えません。しかし井上は体を折り曲げて苦しそうに倒れこみました。私は自分の内側に、ありあまって行き場のない力の存在を感じました。  苦悶《くもん》する井上を見て、秋山は唖然《あぜん》とした顔でした。私は彼の首を鷲掴《わしづか》みにして、溶鉱炉の上にぶら下げました。手を離すだけで、彼は煮えたぎる鉄の中へ落ちる格好でありました。なぜそのようなことをしてしまったのかわかりません。私は今、この手紙を記しながら、激しい後悔に胸を焼かれる気持ちです。ただその瞬間は、泣き叫ぶ秋山の悲鳴が愉快でたまりませんでした。体中から喜びに近いものが湧《わ》き上がり、それが力となって腕一本で秋山の体を吊《つ》るしていたのです。その力は異常でした。いえ、力だけではありません。真に異常で、嫌悪すべきは、私の精神であったのです。  秋山は顔を真っ赤にして、私に許しを請《こ》いました。  その時、工場の同僚が駆けつけました。私は不意に、自分の行なっている恐ろしい行動を悟りました。秋山を安全な場所に下ろすと、彼も、その取り巻きも、いったい自分らの身に何が起こったのかわからないという顔をしておりました。ただ私を、恐怖のまなざしで見ていました。  私は工場でもっとも偉い工場長という方の部屋へ連れて行かれました。工場内は薄暗く、金属音と鉄錆《てつさび》の充満したところでしたが、その部屋には絨毯《じゅうたん》がしかれ、光沢のある木の机と肘掛《ひじかけ》の椅子《いす》がありました。空気もどこか温かみがあり、工場内で唯一の人間的な空間であるように思いました。工場長の趣味でしょうか。壁にお面が並んでおりました。鬼や猫のお面の中に、細長い目つきをした狐のお面がありました。  工場長はすでに老人という年齢に見えましたが、堂々とした佇《たたず》まいで私を見据え、私がいけないことをしたということを、説明しました。声は震えており、内心の怒りが言葉以上に聞こえてきました。私を軽蔑する、冷ややかな目をしていました。  その帰りに、博君を背負ったあなたに会いました。私の表情は、きっと恐ろしいものだったでしょうね。ずっと、秋山を吊るした時のことを考えていたのですよ。  恐ろしいことに、あの瞬間、自分は狂喜していたように思います。秋山が溶鉱炉の中に落下し、骨まで溶けてしまう様を想像し、笑みを浮かべていたようにも思います。あの時、秋山の悲鳴がやわらかい調べのように私の耳に聞こえていました。ちょっとした弾《はず》みさえあれば、炉の中へ落として地獄の様を鑑賞していたかもしれません。  私はいったい、どうなってしまったのでしょうか。自分に問いかけ続けました。  博君のお母さんが、もう子供に近づかないようにと私に言いましたね。普通に生きられるかもしれないという私の望みが閉ざされ、永遠に続く暗闇に突き落とされました。そしてまた一方では、それでいいという気持ちもあったのです。  私は人間ではなかった。秋山をいたぶって楽しんでいた時、力に酔いしれ、自分をまるで悪人を倒す英雄のように感じていたのかもしれません。あるいは、ただ楽しんでいただけかもしれません。そのような私が、子供に近づいてはいけないのです。  もう、工場へ行ってはいけないという気持ちはありました。もう、こなくていいとも言われたのです。  しかし、一夜あけてみれば、また月曜日から来てくれということでした。  もう、普通の暮らしは無理なのだという諦めもありましたが、実際は心のどこかで、希望を信じていたのでしょう。あれは祭りの前日、つい一昨日《おととい》のことでしたね。私は工場へ向かいました。その日の朝が、あなたの顔を見た最後の朝となりました。  月曜日、工場へ行くと、皆は私を避けるようになっておりました。あるいは敵意や嫌悪を剥き出しにしていました。私とすれ違う時、舌打ちをする者もおりました。偶然に視線が交われば、「おれの方を見るんじゃない」と注意されることもありました。  私はただ黙って、だれとも目を合わせないようにして労働をしました。その、何と惨《みじ》めだったことでしょう。無数の痛いほどの視線が私の体を貫き、歩いている途中でも、うずくまってしまいたい気分でありました。  労働の時間が終わり、家へもどろうとした時のことです。街の方のネオンが明るく、工場の煙により、桃色のもやがかかったように見えました。次の日に迫る祭りの用意も、あらかた終わっているようでした。  それは、片方の足下に葦の広がる、川辺の道での出来事でした。  前方の暗闇がほのかに薄れ、後ろからランプをつけた車が近づいていることを知りました。次第にエンジン音が大きくなり、私は道の端によりました。車は私の横を通りすぎるはずでした。  しかし、すぐ背後で、回転するタイヤが小石を弾き飛ばす音を聞きました。振り返ろうとした瞬間、体が重い衝撃を受けました。車の白いランプが視界を包み、すべてはその閃光《せんこう》のように、一瞬のできごとでありました。  地面に倒れた私の視界に、前面部のひしゃげた自動車が止まりました。扉が開き、二人の男が出てきました。秋山と井上でした。  その後のことは、詳しく書き記すことをしないほうがいいでしょう。ただ彼らは、私を私刑にしたのです。いえ、あれは処刑だったのでありましょう。憎しみに秋山の目は赤くなっておりました。しかし、今から思い返せば、だれも彼らを責めることはできないのではありませんか。この暴力に原因があるとするなら、私自身にもその一端がないとは言い切れません。工場で自制心を失い、恥ずべき暴走を起こして彼を恐怖させたのは、他ならぬ自分なのですから。  私は車にはねられた時点で、体中の骨が押しつぶされ、身動きできない状態でありました。どろどろに血液が流れていたのを思い出します。今思えば、その流血のおかげで、秋山たちは私の素顔をよく見ていなかったのでしょう。結局のところ、私の包帯は解かれていなかったのですから。  諍《いさか》いを起こしてもなお月曜日に工場へ呼ばれた理由が、その時に至ってようやくわかりました。彼らは狙っていたのです。自分らに恥をかかせた、包帯を巻いた男に復讐《ふくしゅう》する機会を。  殴られ、蹴られたすえに、つばをはきかけられました。痛みはすぐに消え去りました。しかし、秋山があの高価そうな靴で、私の首に飛び乗った時でした。首のあたりの骨が妙な音をたて、意識は暗闇に包まれたのであります。  地獄とはどのようなところでしょうか。溶鉱炉の中のように、赤く溶けた金属が煮えたぎっている世界でしょうか。私は暗闇の中で、ちろちろと燃えるろうそくの如き炎をじっと眺めていたような気がします。私は虚空《こくう》に浮かんでいるようでもあり、虚空そのものが私のようでもありました。今では、あのかすかに燃えていた炎こそ地獄の一端であり、ちょっとした裂け目から私の意識の中へ流れ込んでいたものだったのではないかと思います。  私は目覚めました。しばらくの間、自分がどこにいるのかもわかりませんでした。全身を覆う圧迫感から、自分が土の中に埋められていることを知りました。また、どれほどの時間が経過したのかも、その時の私にはわかりませんでした。今、これを書いている時間から計算すると、どうやら丸一日、土の中に埋められていたようです。  私は呼吸というものをしていませんでした。あるいは、呼吸など必要ない体になってしまったのかもしれません。私は、喉《のど》の奥まで入り込んだ土を飲み込みながら、立ち上がりました。地面深くに埋められていたようでしたが、そうすることにさほど力を必要としませんでした。  辺りは川原で、胸のあたりまで葦が生えておりました。彼らは死体を山奥へと運ぶ手間を嫌がったのでしょうか。いえ、一面に広がる葦の中に人が入ってくるとは思えず、そこに埋めておけば、死体の見つかることはほとんどないと考えたのでしょう。それに、たとえ動かない私が見つかっても、秋山には逃げきる自信があったのでしょう。  全身を奇妙な違和感が支配しておりました。服は破け、包帯も外れかけていました。身に付けているもののことごとくが、大量の血液を吸って、黒くなっておりました。  おかしなことですが、夜だというのにまわりが鮮明に見えました。耳をすますと、虫の声を数えることもできました。まるで体内に閉じ込められていた神経線維が、皮膚の外まで成長し、手を伸ばして辺り一帯を覆ってしまったかのようでした。  私は、自らの体を眺めました。触り、忌まわしい怪物となっている個所を探りました。その時の絶望を表現する能力が、私にはありません。ただ、月を映す川面に絶叫するしかありませんでした。その瞬間、気が違っていたかもしれません。  頭骨《とうこつ》が歪んでいるようでした。頭と首の付け根がおかしく、普通に直立するということができませんでした。まるで、犬のような四足の動物が無理やり立ち上がったが如く、頭が前へ突き出てしまうのです。  忌まわしい新たな肉体は、錆の浮かぶできそこないの鉄屑のようでした。神がこの世に存在することを認めず、本来ならあってはならないはずの肉体です。この世界に、私の新しい体のような、本当に嫌悪すべき、あるいは真実の意味で歪んだ形状がどれほどあるでしょう。  私の体は、人間と怪物を継《つ》ぎ接《は》ぎしたように見えました。白い肌の部分もあれば、地図上の大陸の如く人間でない部分がありました。その忌まわしい個所を、同じく怪物のものとなった手で鷲掴《わしづか》みし、強く引っ張りました。怪我をして、入れ替わってしまった怪物の体の部分は、傷をつけることが不可能でした。継目《つぎめ》である人間の筋肉のあたりから、ぶちりと引きちぎられました。私は恐怖から、体中にある化け物となった部分を次々と引きちぎり、投げ捨てました。形の変わってしまった腕の骨をもぎ取り、指を取り外し、腐臭の如き嫌悪感を撒《ま》き散らす早苗の子供を追い出そうとしました。  しかし、そうやって自らの肉片を引きちぎっても、次から次に化け物の体は再生されていくのです。人間の部分だった個所もいっしょに削《そ》がれ、次第に化け物の部分が広がっておりました。  空を見上げ、吠《ほ》えました。車で轢《ひ》き、殴りつけ、私を殺した秋山たちの顔を思い出しました。憎しみに慟哭《どうこく》し、口が裂けるまで絶望の鳴き声をあげたのです。あれは、確かに、動物の鳴き声でありました。秋山は金属の棒で私の頭を殴りました。その際、脳が半壊したに違いありません。憎しみが、秋山の死に顔を求めました。血液が、溶鉱炉で溶けた鉄に入れ替わったようでした。炎に身を焼かれ、切ないほどに、秋山の心臓を欲しました。  その時でした。私の耳に、確かに聞こえてきたのです。早苗の笑い声が。今となっては幻聴であったような気がします。私は、早苗の声など知らないはずなのですから。しかし、おかしなことに、その瞬間、憎しみにとらわれた私は、なぜかそれが早苗の声であることを確信し、その上、それが異常なことではないように思えていたのです。  私は秋山のもとへ向かうことを決心しました。しかし、彼の家を知らず、あなたの家へ戻ることもできず、だれかに尋ねることもできませんでした。  その時、自分を処刑したうちの一人、井上のことを思い出しました。彼は、工場でも、私を処刑した時も、首に銀色の首飾りをしていました。光を反射する、銀色の十字架です。  少し前に、杏子様がおっしゃっていましたね。あなたの友人が働いているという酒場は、店員は皆、銀の十字架の首飾りをしていると。  その店の名前も、だいたいの位置も、私はあなたから聞いた通りのことを覚えていました。私はその夜、まずはその店へ行き、井上を捕まえることにしたのです。 [#改ページ] [#ここから5字下げ] 四 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ] 夜木 [#ここで字下げ終わり]  私を殺した男たちへ呪詛《じゅそ》の言葉を吐き捨てていても、胸の内にあった羞恥心《しゅうちしん》は、身を覆い隠す衣服を欲しておりました。半分以上も変わってしまった自らの肉体が、他の者の目には怪物として映るのだということをしっかり認識していたわけです。それは、かろうじて残っていた人間の部分の現れであったのでしょう。  街へ向かう前に、まずは工場へ行きました。いつも働いていた労働の場所に、衣服のかわりとなり得る、半ば打ち捨てられていた大きな黒い布切れがあったのを思い出したのです。  夜だというのに街の方が賑やかでした。今考えると、どうやら三日間つづく祭りの、初日の夜でありました。人のいない道を選び、足音を感じれば身を隠しました。聴覚は鋭さを増しており、足音を遠くから聞き分けることができました。  前方と後方から人が歩いてきましたので、私はとっさに家の屋根に立ちました。無意識のうちにそのようなことができました。屋根は背丈《せたけ》の三倍はありましたのに、なぜか私は、階段をあがるが如く、一瞬のうちに瓦《かわら》を踏みしめていたのです。私の体は、どうなってしまったのでしょうか。遠く離れた家の屋根へも、まるで小さな裂け目を踏み越えるが如く移動することができました。  体中が破壊の本能に疼き、人の血をすすりたがっていることを感じました。次々と溢《あふ》れ出す力に、私は天上の月まで飛び上がり、星のひとつをつかむことさえできそうでありました。  夜の工場には人間がおらず、広大な敷地は静けさの中に沈んでおりました。  目的の布切れを見つけ、外套《がいとう》のように体へ巻きました。鏡がありましたので、自らの顔を確認しますと、そこにはおよそ想像もつかない半獣の顔がありました。自分の顔が崩れ去る悪夢を、ご覧になったことはありますでしょうか。普通は目が覚めて、布団《ふとん》の中で気だるい体を伸ばし、それが単なる夢であったことに安堵《あんど》の息を吐《つ》くことでしょう。しかし私の悪夢は終わるということを知らず、歪んで人間の形をなさなくなった顔は真実としてありつづけるのです。工場内にこだました恐怖の絶叫を聞きつけて、人間のこなかったことは幸運でありました。  鏡を粉にした後、神さえも目を覆うであろう自らの顔を隠すため、工場長の部屋に飾ってあった狐のお面を盗みました。他にも種類はありましたが、その顔を選択しました。そこに、少年時代、木を彫って狐の面を作っていた時の記憶がありましたのは、不思議なことではありません。  お面は木製で、目のところに穴があいておりました。狐の顔は白塗りで、目のあたりが赤で縁取《ふちど》りされておりました。私の目は暗闇でもよく見えましたので、人に悟られないよう部屋の電気は消しておりました。お面の表面に塗られた漆《うるし》の光沢が、窓から忍び込む月の明かりを反射しておりました。紐《ひも》で頭にくくりつけると、私は、人間でも、早苗が地上に使わした怪物でもない、一個の名もない存在になったような気がいたしました。狐の面で顔を隠し、黒い布切れで体を隠し、私はその夜、いったい何者になってしまったのでしょうか。  私は工場を出ました。深夜と呼ぶにはまだ浅く、街には大勢の人間が集まって賑やかな様子を見せておりました。通りには出店が並び、楽しげな顔をした子供が母親の手を引いているという場面を見ました。中には、猫や犬のお面をつけた子供たちや、七福神《しちふくじん》に変装をした芸人たちの姿もありました。  レンガで造られた高い建物の屋上から、騒がしい人波をうかがいました。青色や桃色のネオン文字がその屋上には掲げられており、時には明滅しながら狐の面を照らしておりました。あなたにかつて教えられた酒場、「ロザリオ」はすぐに見つかりました。正面に見えた建物の一階がそれでした。  人のいない通りを選んで地面に飛び降り、人に見られるのもかまわず店を目指しました。すれ違った者は、最初の一瞬だけ目をむきましたが、すぐに芸人かなにかだと思ったのか、悲鳴をあげるといったことはしませんでした。  洒落《しゃれ》た扉を押して店に入りますと、外国語の歌声が聞こえてきました。カウンターがあり、その向こうの棚には洋酒の瓶が並んでおりました。店員の首に、例の銀色の十字架が下がっているのを確認しました。客たちが私の方を振り返って驚いておりました。  引きとめる人間の声を無視して、店内の奥へ進むと、知った顔がありました。店員の制服を着た井上でした。  ほんの三十秒間もなかったでしょう。悲鳴とガラスの割れる音を残し、私は、恐怖に顔をゆがめたその男の首をつかんで夜の闇に消えました。  暗がりの中で秋山邸の場所を聞き出しました。私の正体が、彼らに殺されて埋められた、夜木という者であることを教えると、顔面を蒼白《そうはく》にしてすぐに口を開きました。  私は、処刑される時の、秋山の浮かべていた笑みを思い出し、憎しみで身を焼かれる思いでした。いっそこの男も殺してしまおうかと思いましたが、この憎しみのすべてを秋山に叩きつけた方が喜びの大きいことを感じていました。そのため、結局は井上の命を奪うような真似はしませんでした。  しかし、現在、この手紙を書いている最中、私は自分自身への嫌悪で吐きそうになるのです。詳細までは書き記しませんが、私を狂わせていた復讐心《ふくしゅうしん》と、力への驕《おご》りは、なんと残酷なことを彼に対して行なってしまったのでしょうか。私は井上の体に多くの傷を負わせてしまいました。その間、私は歓喜し、まるで子供のように歌を歌っていたのです。その時のことを思い出すと、自ら命を絶つことのできないことが悔《くや》しくさえあるのです。  気絶した彼の体を放置した後、私は教えられた秋山の家を目指しました。  家は街の中心から離れたところにありました。上流の人間が住む豪奢《ごうしゃ》な建物が並んでおりました。すでにそのころは夜も深く、外を歩く人間はおりませんでした。街の祭りも一日目の夜が終わり静かになっておりましたが、もしも賑わっていても閑静なその辺りまでは太鼓は聞こえなかったことでありましょう。  秋山邸は確かにありました。広い庭と屋敷とを内側に抱いて、塀が敷地のまわりを囲んでおりました。それを越え、庭を横切りました。屋敷の明かりは消え、人の声も聞こえず、家の者は寝静まっておりました。家族構成も、家の間取りも、何もわからなかった私は、目的の人間がどこで眠っているのかを知りませんでした。そのため、屋敷に踏み込んで、ひとつずつ部屋を覗かなくてはなりませんでした。  襖を開けようとするたびに、月明かりが私の姿を障子に縁取《ふちど》っておりました。たいていはだれもいない部屋でしたが、布団がしかれている部屋もありました。眠りこんでいる顔を確認しましたが、私の知らない顔でした。  あれは、秋山の弟だったのでしょうか、一度、小さな少年が眠る部屋の障子を開けてしまいました。彼は敏感にも私の気配を察して、目をこすりながら起きました。私はお面の前で人差し指を伸ばし、静かにするように言いました。彼は月明かりの下でもその様が見えたらしく、まるで夢の続きでも見ているかの如き表情で頷きました。私が襖を閉めても、少年が叫び声をあげることはありませんでした。  目指す人間の部屋は、屋敷の裏手側にありました。布団の中に、あの工場で見た顔を見つけました。喜びに体が震えだし、なぜか口の中に涎《よだれ》があふれました。顎の骨は歪んでおり、歯の形状もおかしかったため、しっかりと口を閉じることができません。そのために涎は唇の隙間からあふれ、狐の面の裏側を伝い、たらたらと畳の上に落下しました。  障子を開けて中に入ってきた私に気づかず、秋山は口を半開きにして夢の世界におりました。彼の枕《まくら》もとに正座し、しばらくの間、ただその寝顔を見つめておりました。不思議な心地でありました。これから首をしめようか、それとも眼球を刳《く》り貫《ぬ》こうか、私の頭はあらゆる方法を考えておりました。それにも気づかず、目の前の男は幸福そうに寝息をたてているのです。滑稽《こっけい》でありました。愚かでありました。  私はやがて、小さく開かれていた秋山の口に手を伸ばしました。のぞいていた白い前歯を、歪んでしまった人差し指と中指でちょんとつまみました。それを力任せに抜くのは、何の造作もないことでありました。  彼は眠りから覚めました。痛みのために目をむき、布団の上でのたうちまわりました。呼吸するのも困難なようで、悲鳴などはありませんでした。  永遠の牢獄《ろうごく》が存在するのならば、そこへ自ら入りましょう。私は、痛みのために悶々とする秋山を眺めて、笑っておりました。  彼はかたわらに私が座っていることを悟ると、布団の上で転がることをやめました。かといって、立ち上がって逃げ出すこともできないようで、私の方をむいたまま尻《しり》を畳にこすって部屋の隅へ逃げました。  彼の恐怖は綿菓子の如く甘美でありました。もっと無様に逃げろ、そして情けない悲鳴をあげて私を喜ばせろ。その時、心の中で叫び、楽しんでおりました。  二本の指でもてあそんでいた彼の前歯を投げ捨て、立ち上がって彼をつかみ上げました。 「おまえは私を殺した。覚えているだろうか」  狐の面を彼の頬に押し付けて声を出しました。秋山は怯え、問い掛ける視線で私を見ました。 「あんなに素顔を見たがっていたでしょう。たった今、見せてさしあげましょうか」  そう言うと、どうやら私が何者であるのかを悟ったようでした。悲鳴は耳に心地よく、胸の陰に潜んでいた獣を喜ばすばかりでした。  逃げようともがいたので、彼の顎をつかみ、強制的に私の方を向かせました。  固まった土の塊を握りつぶしたことはおありでしょうか。ちょっと触ってみると石のようですが、少し力をこめてやると、ぱん、と弾けるように粉々となるのです。  彼の顎が砕ける様は、そのようでありました。秋山は、蛙《かえる》がつぶれる際の鳴き声に似た声を発しました。  私は満足しました。そして、骨を握りつぶすという手応《てごた》えのおもしろさに取りつかれました。秋山の右手をつかみ、人差し指をよく観察しました。細く、やわらかい指の腹、丸みをおびた爪。それらを軽く圧迫すると、中に通った骨の固い感触がありました。徐々に圧力を増していくと、ある時点で骨は、ぱん、と爆《は》ぜました。  次に、中指と薬指を、ぎゅっ、と握り締めました。骨が砕ける感触がしましたので確かめてみると、私の手の中には、一本の赤くやわらかい肉の塊が残っていました。かつて二本だった指が、両側から押しつぶされ、一本にまとまっていたのです。  指の骨からひとつずつ、順番に、彼が痛みを存分に味わうようゆっくりと握りつぶしていきました。  彼は死に物狂いで手足を動かしましたが、許しませんでした。涙と涎の顔で懇願する様ほど愉快なものはないように思えました。  人のかけつけてくる音がしましたので、彼の首をつかんで外へ出ると、屋根にあがりました。秋山邸の屋根は広く、瓦を彼の血液が濁流となって伝う様を想像しました。  秋山は半ば意識を失いかけておりましたので、そのたびに笑い声で、がんばれ、痛みに負けるな、と呼びかけました。  やがて、潰す指がなくなり、手足も肩も壊し終えますと、私は腹を割《さ》こうと思いました。許しを請うことに疲れ果て、虚《うつ》ろな目をした秋山を瓦の上に横たえますと、服を裂き、腹を出しました。月に白々と浮かび上がる秋山の腹の、何と平らだったことか。その内側に詰まっている内臓の瑞々《みずみず》しさを想像し、私の心は歓喜していたように思えます。  指の先、私の尖った爪で切り裂くつもりでした。まだ少年だったころ、狐の面を彫っていた際に、ノミで削ってしまった指先でした。その先端を、少し彼の皮膚に突き刺しました。白い腹の上に赤い雫《しずく》が膨《ふく》らむと、線となって伝い落ちました。後は、包丁で魚の腹を割くように、引くだけでいいのです。  その時、秋山が小さな声でうめきました。 「神様……」  私は、不思議な心持ちで、その言葉を聞いておりました。まるで一千年の遠くから呼びかけられたように、それは小さな響きでありました。彼の顎は壊れておりましたが、なぜかはっきりと、その言葉だけは聞き取ることができました。  秋山という人間が発する言葉として、なんと意外で不自然な単語でしょうか。私は彼のことについて多くは知りません。しかし、私に見せた酷薄な笑みと、彼を怒らせたことを知った時の、あなたのお兄さんの狼狽《ろうばい》ぶりから、大方の人間像を作っていました。それは、神様にすがるような人間ではありませんでした。  腹を割くのを忘れて、ぐったりとなった彼を見据えました。歯が抜け砕けた顎の憐《あわ》れな口は、赤に染まり、血の泡が端から垂れておりました。  それまで熱せられたようになっていた体が、急速に冷えていくのを感じました。いったい、何がそうさせたのかわかりません。ほんの一握りだけ残っていた、私の人間の部分でしょうか。あるいは、神が私に与えた、ただ一度の救いであるのかもしれません。心の中のどこかが、秋山のうめきを聞き流して、神を罵るようにと叫びました。しかし、私には不思議な戸惑いがありました。  いったい、神という存在はどういうものなのでしょう。自分は死んだ者として家を出ることにした少年時代の昔から、幾度そのことを考えたことでしょう。気まぐれや暇つぶしのように私を怪物へ仕立てた存在がいるのなら、反対に神聖な光を纏《まと》う存在もどこかにいなくてはなりません。しかし、どのように長い間その存在を求めてすがりつこうとしても、私にはその光の一片さえ感じられることはありませんでした。  その存在の名前を秋山の口がつぶやいた。私は頬を叩かれたようでした。彼もまた、神にすがりついたのです。心の中で、何が起こったというのでしょうか。与えられる苦痛に朦朧《もうろう》としながら、私を殺して埋めたことを悔いていたというのでしょうか。それは、同じように神が必要だった小さな頃のあなたと、同じだったのでしょうか。怒鳴り合う両親の声を聞きながら家のそばでじっとしていたあなたと、憎しみのため簡単に人を殺そうとした秋山、なぜその二人が同じようにその言葉を知っているのでしょう。  力に支配され、穢れた動物となり果てていた私は、辺りを見回しました。高い夜空にかかった月が、はるか遠く見渡すかぎり続く屋根を、冷たい光で照らしておりました。その時の心細さといったら、はじめて世界に放り出されたようでした。夜気の冷たさが私の肌に染み込みました。音といえば、悲鳴を聞きつけた者の騒いでいる声が、屋敷の下からかすかに聞こえるだけでした。  私を突き動かしていた怒りが、いつのまにか消えておりました。いえ、しばらく前から、それはなくなっていたのでありましょう。憎しみが私を突き動かしているとばかり思い込んでいたのですが、それは違っていたのです。  秋山の骨を一個ずつ端のほうから破壊していた時、私の中に、憎しみがあったでしょうか。そこに存在したのは、ただの狂った喜びであったでしょう。人間を、まるで玩具《おもちゃ》を弄《もてあそ》んでいるかの如く、遊びで傷つけていたのです。それがはたして復讐でしょうか。その時、気づきました。私が行なっていたのは、復讐という人間の行為ではありませんでした。獣が、人体の壊れる様を楽しんでいただけなのです。  世界が崩れるようでした。奈落《ならく》へ落ちつづける自分の姿が見えました。いつのまに私は、怒りや憎しみといった人間らしい感情を忘れ、ただ傷つけることに喜びを感じる獣となりはてたのでしょうか。神よ。その言葉だけが胸の内で繰り返されました。自分の中に眠っていた破壊の衝動の、何と罪深いことか。天上の月を仰ぎ、許しを請い、そして、問いかけねばなりませんでした。私は、どちらなのですか。人間でしょうか。それとも、別の生き物なのでしょうか。  私は、まだ息のある秋山を抱えて屋根を降りました。幾人かが集まっており、私を見た者は驚きの顔をしていました。秋山を地面に寝かせると、私はそこを去りました。  気づくと、工場の暗がりの中で私は佇んでおりました。指先には秋山の血が付着しており、彼の骨が破壊される感触を生々《なまなま》しく記憶しておりました。工場内の静けさが私にはありがたく、錆の浮いた金属管に背中をもたせて長時間じっとしておりました。頭に浮かぶのは、秋山が苦痛にうめく様と、それを眺めて笑っている私の姿ばかりでありました。その、自分の内側にありました人外の心とも言うべき残酷さの、何とおぞましいことでしょう。それは、早苗が私の頭に産み付けたものだったのでしょうか。それとも、最初から私の中にあったものでしょうか。  工場長の部屋に入り、白紙の束と鉛筆を手に入れました。せめてあなたには、この呪わしい体のことを説明せねばならない。そして懺悔《ざんげ》せねばならない。そのような思いから、私は自分のことを書きはじめました。このように、人に打ち明ける日がくるなどと、はたして想像できたでしょうか。  文字を書くという習慣すら忘れかけており、書き始めの際、筆を持つ手の何と危なげだったことか。最初の一行を書くだけに、どれだけの躊躇《ためらい》があったことか。しかし、ほんの数行だけ心の内側を文章にすると、後は坂を転がるが如く思いは文字となりました。工場に人のくる時間が訪れますと、場所を移動して文章を書きました。太陽が空を一巡《ひとめぐ》りするうちに、私は少年のころの記憶を呼び覚まし、放浪の孤独を思い出し、暴力の罪を悔いておりました。 [#ここから3字下げ] 杏子 [#ここで字下げ終わり]  月曜の夜に夜木が消えて、二晩が過ぎた。木曜、祭りの最終日である。杏子は夜木のことを思いながら、ただじっと家の中で帰りを待っていた。  祭りの喧騒がわずかに聞こえてくる。出店の並んでいる通りから分け入ったところに家はあった。太鼓や笛の音が空から遠く聞こえてくる。家には杏子が一人だった。他の者は皆、通りに出て、芸人が舞うのを眺めているのだろう。  杏子は不吉な思いでいた。嫌な噂が聞こえてくるのだ。  一昨日《おととい》の深夜、家で眠っていた秋山が襲われたという。かろうじて命は無事であったが、傷は深く、いまだに昏睡《こんすい》したまま現実の世界へ戻ってはきていないそうである。犯人を見た者の証言によると、その容貌は仮面に隠されていたが、およそ人間とは思われぬ異様な瘴気《しょうき》を放ち、背丈ほどもある塀を軽々と飛び越えて闇に消えたという。  それだけではない。酒場で働いている杏子の友人と、昨日、祭りの中で出会った。彼女は綿菓子を片手に持ちながら、ある事件のことを話した。  火曜日の夜、働いている店に、狐の面をかぶった人間が現れたという。同僚の一人がその怪人物に連れ去られて消えたそうである。そして今朝、その同僚は橋の下で気を失っているところを発見されたという。その時の姿は目を覆いたくなるほどで、爪という爪は剥がされ、頭髪は無理やり引き抜かれていたという。体中を細い線状の傷が這っており、釘のような尖ったもので傷つけられ、いたぶられたように見えたそうだ。その男は目を覚ましたそうだが、言葉を満足に発することができないそうだ。 「その人、なぜそんなことになったのかしら」  杏子が疑問を口にする。友人も首をひねった。 「わからないわ。でも、その同僚、あの秋山と親しかったから、その関係じゃないかって警察が話をしていたわ。根に持っている人の犯行なんじゃないかって」  聞き覚えのある名前が出てきて、驚く。兄が彼らと親しいことを、友人は知らないはずであった。 「杏子も知っているかな、秋山と井上の二人組み。その井上って人が、被害者なの。秋山とやった酷《ひど》いことを自慢げに話すような、いやな奴だったわ。でも、こうなるとちょっとかわいそうな気がするの」  祭りの喧騒の中で、まわりの音が消えるような気がした。胸がざわめきだし、わけのわからない不安に襲われる。世の中には物騒なことが多いと、割り切ることができなかった。ただ単純に、襲われた顔見知りの不幸を悲しみ、犯人を残虐な行為にかりたてた人間感情の暗黒に恐れを抱くことができなかった。なぜかはわからないが、突然に姿を消した夜木のことが思い出された。  ふと、家の扉を叩く音。  杏子は考えごとを中断し、はあい、と言って玄関へ向かった。勝手口までくると、玄関の向こう側に立つ黒い人影を、擦《す》りガラスを透《す》かして見ることができた。扉を引いて顔を確認する。そこには狐の面があった。体に黒い布を纏う者が立っていた。  一瞬、瞠目《どうもく》した。現実の世界に穴が開き、そこへ落ちてしまったかのようであった。狐は外の明るさを背にして、玄関口をふさいでいる。背後の通りを、着飾った幾人かの女性たちが、笑い声をあげて通りすぎた。  その人物が夜木であることにはすぐ気づいた。狐の面の後方、伸び放題になっている髪の毛に見覚えがある。その上、隠そうとしても漂ってくる、あの心の奥深い暗闇に訴えかける気配。それも、以前とは比べものにならない、眩暈《めまい》がするような禍々しい力となっていた。 「……こちらに、鈴木杏子さんという方はご在宅でしょうか」  無表情な声音《こわね》で言った。以前と同じ声ではなかった。ひび割れ、金属管を空気が震わせるような響きであった。 「杏子は私です」  答えながら、気づく。彼が、まるで自分とは初対面であるかの如く接しようとしている。なぜそうしなくてはならないのか、わからない。しかし、何か夜木の身にひどいことが起こり、その結果、正面きった物言いを躊躇《ためら》わせているのだろうと杏子は考える。狐の面や黒い布で仮装しているのも、おそらく他人として対話したいからであろう。 「夜木という男から、『これを渡してきてほしい』と頼まれました……」  彼は懐《ふところ》から、紙の束を取り出した。藁半紙《わらばんし》に、細かい鉛筆の文字が並んでいる。杏子はそれを受け取った。手紙だろうか。それにしては大量の文字である。  紙の表面に、血のこびり付いたような跡がある。彼の手に巻かれていた包帯が、血液で黒ずんでいることに気づいた。ほとんど気絶しそうなほど、杏子は混乱した。だれの血だろうか。彼の身に、何が起こったというのだろう。問いただしたかったが、とっさには声が出なかった。  少しの間、狐は黙って杏子の顔を見つめていた。かと思うと、身を翻《ひるがえ》して立ち去ろうとした。それをあわてて引きとめる。 「せっかくお届け物をしていただいたのですから、家にあがって、話をしていきませんか」  一瞬、逡巡するようなそぶりを見せたが、狐は頷いた。  最初に会った時と同じ、奥の部屋へ通した。夜木がしばらく過ごしていた部屋である。  向かい合って正座をした。そうして見ると、どことなくその体は歪んでいるように見えた。まるで猫のように、背中が曲がっている。首の付け根が丸く反《そ》っている。なぜそうなってしまっているのか、杏子はわからない。  小さな部屋の中に、静かな時間が流れている。耳に感じる音といえば、風に乗って偶然に届いた祭りの音だけである。しかしそれも、別世界の出来事に思える。窓から見える外の明るさが、部屋の中を薄暗く感じさせる。 「夜木さんは、お元気でしょうか……」杏子もまた、目の前の男が知らない人間であるように振舞おうとした。「少し前からいなくなってしまって、ずっと心配しているの」 「彼のことは、気にしないほうがいい」  無表情な声音である。 「この紙束は、夜木さんの書かれたものなのでしょう。どこであの方と知り合ったのですか」 「ずっと前から知り合いでした」彼は答え、しばらく間を置いて続けた。「秋山、という方をご存知でしょうか」  彼は、秋山が先日の夜、何者かに襲われたことを説明した。それから、事件がどのように処理されたのか、秋山は命を取りとめたのかを聞きたがった。  兄から聞いたわずかな知識しかなかったが、杏子は知っていることをすべて説明した。昨日、友人から聞いた話も交えた。そして、彼らを傷つけたのは目の前の人物であることを確信した。 「なぜ、秋山さんを襲ったのですか」  狐は否定することもせず、無言で座っていた。部屋の空気が緊張をはらんでいた。  狐の面は、目に二つの穴が開《あ》いている。狐の細い目にまぎれて、少し見ただけではわからない。その穴の奥に、見知った夜木の、寂《さび》しそうな目を感じる。  その時に理解した。彼は、他人を傷つけたことに苦しんでいる。後悔し、苦悩している。狐の面で顔を隠しても、声が変わってしまっていても、心の中で子供のように泣いているのがわかる。暗闇に取り残され、ただ一人さまよっている姿が見える。  杏子は悲しみを覚えた。胸が締め付けられる。それでも口から出るのは、他人行儀な言葉である。 「そういえば、夜木さんとは、一緒にお祭りへ行く約束をしていたの」  なぜ他人の振りをしなくてはならないのだろう。一緒に泣いてあげることができたらどんなにかいいだろう。感情を隠し、知らない者として話をすることは、何と悲しいことだろう。  纏っている黒い布を揺らしながら、狐は立ちあがった。 「もう、行かないと」  去ってしまえば、もう二度と会うことはないだろうと思う。それが辛くないように、すでに他人として振舞っているのだろうか。 「お祭りをやっている通りまで、見送らせてください」  杏子が言うと、狐は頷いた。玄関で草履《ぞうり》を引っ掛け、通りを並んで歩く。  風が工場の煙を運んでくる。遠くがかすんで見える。建物の間を縫う小川に沿って、ぽつんぽつんと桜がある。祭りから帰ってくる人だろうか。手に水あめや綿菓子を持った子供や、赤い髪飾りをした着物の女性とすれ違う。皆、狐の面をかぶった男を興味深そうに見る。ある者はやはり嫌悪感を露《あら》わにしていた。  大通りに近づくと、賑やかな気配が漂ってくる。川のせせらぎに、子供たちの笑い声が混じってくる。出店で作られているお菓子の匂《にお》いがはっきりしてくる。その甘い匂いを憎く感じたことが、これまでにあっただろうか。別れが近づいていることを教えてくれる。  隣を歩いている狐の面に、杏子は尋ねてみた。 「私は夜木さんに、はたしていいことをしたのかしら」  彼は首をかしげた。  世間話でもするように、感情のこもらない言い方で杏子は語る。 「働き場所を見つけて。そこへ行くのを見送って。その結果、あの人は皆に嫌われて、ついには消えてしまった。悪いことばかり。私が何もせず、そっとしておけば、きっとあの人は無事でいたのに。どうしてこうなってしまったのでしょうか。まったく、自分というものが嫌になりました。きっと夜木さん、私を恨んでいる」  泣けないのがつらかった。胸の内に渦巻く泣き声が聞こえたら、目の前の人物は耳をふさぐに違いない。 「いいことをしたに決まっています」彼は口を開いた。「夜木は、直接あなたに言うことはできませんが、もしも会うことがあったなら、次のように言うでしょう。『あなたに与えてもらった生活の、何と輝かしかったことか!』と」  杏子が立ち止まると、彼も進むのをやめた。 「では、私は夜木さんに会った時、こう尋ねるでしょう。『本当に? でも、私は何もできなかったじゃない!」と……」  狐は首を横に振った。 「夜木は答えるに違いない。『あなたは教えてくれたじゃないか、私が人間であることを! そして、私の声に耳を傾けてくれた! 並んで歩いてくれた! 一切の生物が近寄りもしないこの私を、気にしてくれていた! 私のために泣いてくれた! あなたのように、他人のために泣ける者がどれだけいるだろうか!』。きっと、彼はそう言う……」  杏子は泣くのをこらえた。 「『ありがとう。……夜木さん、あなたのことを忘れない』」  出店の並んでいる、賑やかな通りに出た。角で立ち止まり、しばらく人の流れを眺める。神社の方角へ向かう者もあれば、その反対方向へ向かう者もいる。皆、一様に楽しげな顔をしていた。  桜の花弁とも、紙ふぶきとも判別できない華やかなものが空中を漂っている。先の方から、笛や太鼓を鳴らして踊っている一群が近づいてくる。  狐は一度、振り返って、歩き出す。行き交う人々の流れを横切ろうとする。黒い布に身を包んだ背中が、近づいてきた笛や太鼓の一群に消える。それの通り過ぎた後には、もう狐の姿は無い。夢の如き光景であった。 [#ここから3字下げ] 夜木 [#ここで字下げ終わり]  思いのほか、長い手紙になりました。もうしばらく書いたら、終わりにして、あなたのもとへさようならを言いに行きましょう。  今、ここまで書いた時に頭を支配しておりますのは、これからどのようにして生きるべきかという問題でありました。私の今の姿では、人のそばで暮らすことなど無理でありましょう。私の中に住まう穢れた動物の気配は、人を混乱させ、心の暗闇から負の感情を引き出すでしょう。  本来なら死んでしまい、朽ち果てて塵《ちり》となることが最良の解決でありましょうが、早苗の子供は崩れ去るということを知りません。私は歪んだ体を持ったまま、この先、永遠の時間を生きるのでありましょうか。それは幾度となく、自分に問いかけた問題でありました。そして、その度に、自分の歩まねばならない暗黒の未来に、絶望の嗚咽をもらしておりました。人間のいない山の奥で、あるいは森の暗闇で、私は孤独と知り合いにならねばいけません。動物たちは本能から私を避けるでしょう。やがて太陽のめぐるうちに、人そのものが地上から消えるかもしれません。それでも私は一人、生きなくてはならないのでしょうか。孤独も、絶望も、すでに味わい尽くしたと思っておりましたが、決して耐性ができるということはなく、私の精神を蝕《むしば》んでおりました。  胸中は地獄のようでありました。しかし、このような、一見すると完璧《かんぺき》な暗闇に思えるところにも、神は希望を隠しておいででした。私のような、この世にあってはならない存在に対しても、ほんの小さな救いを用意しておられたのです。底のない虚無の暗闇をどこまでも落ちていく間、私がその光にかろうじて触れることができましたのは、奇跡のようでありました。神の慈愛の、何と温かいことか。  それは、私が獣となり、秋山の体を傷つけていたあの瞬間でありました。暴力に恍惚《こうこつ》とする狂った獣の心は、いったい、どのような力によって動きを止めたのでありましょう。その胸に去来し、秋山の命と、私の精神を救った神聖な力の正体は何でありましょう。  あの瞬間、私の胸にあふれてきたのは、少年のころの思い出でありました。雪が地面を覆う、白い大地の何と美しかったことでしょう。祖母の作った大根の、何とおいしかったことでしょう。友人とフナを釣った小川は、今でもありますでしょうか。両親に手を引かれて行った写真屋は、まだ開いているでしょうか。  いいえ、故郷のことばかりではありません。杏子様や、おばあさん、博君と過ごした短い日々の、何と安らかだったことでしょう。あなたが仲睦まじい姉弟の如く博君へ御伽噺を語っている場面こそ、獣となっていた私な人間へと立ち返らせてくれたのです。  気の狂うほどの長い時間、私は放浪してまいりました。この先も、永遠に、孤独とともに過ごさねばならないと思っておりました。  しかし、あなたが私にかけてくれた言葉のひとつひとつ、その中に暗闇を照らすかすかな光が見えることに、あなたは気づいておいででしょうか。あなたが私にかけてくれた、とりたてて何でもない普通の言葉たちが、どんなにか私の心に温かみをもたらしたことか。  一生懸命、私を人間として扱ってくださったあなたのことを思い出す度、私は、自分が人間であることを忘れることはないでしょう。途方もない永遠の暗闇さえも、あなたの記憶が一点の光となり、私を迷いから救い出すに違いない。  私は今、真摯《しんし》な気持ちでこの文章を書いています。  杏子様、道に倒れこんだ私へ一片の慈悲を与えていただいたことに、深く感謝いたします。親身になって、私の居《い》る場所を作ろうとした気持ちに、祈りを捧《ささ》げずにはいられません。  私は永遠の命を願い、家族を悲しませ、人を傷つけた愚かな子供でありました。  この先、途方もない時間、私は罪を悔い、耐え切れずに夜空を仰ぎ見ることでしょう。しかしそのような時、あなたのやさしさが救ってくれるに違いない。悲しき獣の孤独を、癒《いや》してくれるに違いない。  もしも私が人間であったなら、ずっとあなたのそばにいたかった。さようなら、ありがとう、私に触れてくれた人。 [#改ページ] 単行本 一九九八年四月 集英社刊 底本 集英社文庫 二〇〇一年七月二五日 第一刷