さみしさの周波数 乙一 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)困難な冒険《ぼうけん》をしたわけでもない。 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)先日|越《こ》してきたばかりの男子の家に -------------------------------------------------------  未来予報 あした、晴れればいい。 [#改ページ] [#ここから7字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  その十年間は僕の人生にとって非常に重要な時期だった。といっても、僕は難しい事件を解決したわけでも、困難な冒険《ぼうけん》をしたわけでもない。ただ、だらだらと何もない日々をすごしていただけなのだ。だから、きっとこの十年間の僕の人生を聞き終えた人の多くは、くだらない話だった、聞いて損した、と思うだろう。  今は、すべてが終って思い出話として人に聞かせることができるけど、当時だったらだれにもこんな話はできなかった。十年前の僕は、まるで恐《こわ》いものなしという勢いで何も考えずに遊んでいたし、数年前の僕は、激しく自分の生き方について後悔《こうかい》していた。  でも、かわらずにいつも考えつづけたことがひとつだけある。それは、彼女のことに他《ほか》ならない。  小学生のとき、家のある位置というのは、ひどく重要なものだった。例えば、学校で行事があるときなどは地区ごとにグループ分けされたし、登校や下校する際の通学路が同じなので、家が近所の生徒とは道すがらどうしても顔を合わせることになる。  はっきり言えば、僕と清水《しみず》は家が近いというだけで何の接点もなかった。僕にしろ、彼女にしろ、教室で目立つような生徒ではなかったし、通常時はほとんど話をしなかった。  小さなころから清水のことは知っていた。本が好きらしく、たいていいつも図書館の本を持ち運ぶための袋《ふくろ》を左手に提《さ》げていた。しかし、仲が良かったわけではないのだ。彼女は体が弱くて、ときどき、学校を休んだ。そんなとき、僕は下校の途中《とちゅう》、給食に出た清水の分のパンを彼女の家に持って行かなくてはならなかった。  僕の通っていた小学校の給食は、給食センターに注文して配達してもらっていた。一日おきに、ごはんとパンが入れ替《か》わり出る。パンのときは、たいてい食パンかコッペパン、たまにぶどうパンやクロワッサンが出されるのだが、かならず一個ずつビニールに包装されている。  欠席者がいると、その分が余る。そのパンは、欠席者の家までだれかが届けなくてはならない。そのだれかというのは、たいていの場合、欠席者と家が近いクラスメイトである。つまり、清水が学校を休んだ場合、僕が配達の係に任命されるわけだ。  十年前のその日、朝から雨が降り続き、僕は傘《かさ》をさして帰途《きと》についていた。空から落ちてくる水滴《すいてき》の群れは住宅地の隅々《すみずみ》まで洗い流し、アスファルトのへこみには水溜《みずたま》りができていた。僕の靴《くつ》は歩いているうちにすっかり濡《ぬ》れており、傘なんてものは到底《とうてい》、足元さえカバーできないのさと考えていた。傘というやつが嫌《きら》いだった。これを支えておくのに手をひとつ以上、使わなくてはならない。しかも風が吹《ふ》くと飛ばされそうになる。これなら濡れて帰った方がましだとすら思うことがあった。僕がいかに傘を憎《にく》み、この世から抹殺《まっさつ》したいと感じているか、到底、他人にはわかるまい。そんなことを考えながら僕は歩いていた。  あと五分も歩けば自分の家にたどり着くというとき、とある家の前に、黄色い傘をさした子が立っていて、背中に赤いランドセルを背負っていた。清水だった。彼女は不安そうにその家を見上げていた。  その家は普通《ふつう》の一軒家《いっけんや》で、スタンプを捺《お》したように周辺には同じような建物が並んでいた。そこが、今度、うちのクラスに転校してきた男の子の家だということは、母に聞かされて知っていた。  古寺《ふるでら》直樹《なおき》。それがそいつの名前である。しかし、まだ実際に会ったことはなく、どんな顔なのかも知らなかった。なぜなら、その日から学校にくるはずだった彼は、欠席して顔を見せなかったからだ。  そのことを考えて、なぜ清水が彼の家の前にいるのかがわかった。彼女は、先日|越《こ》してきたばかりの男子の家にパンを持っていくよう、先生に言い渡《わた》されていたのだろう。でも、僕はわからないふりをして声をかけた。 「何しとる?」  彼女は振《ふ》り返って僕を見ると、ほっとしたような顔をした。 「パンを持ってきたの」  どうやら彼女は、一人でチャイムを鳴らして家を訪ねるのが恐く、門の前で心を落ち着けていたらしい。そう彼女が説明したわけではないが、そう理解した。 「うりゃ」  僕はそう言いながら勝手にチャイムのボタンを押した。あ、と清水が小さく口にした。  門の前にいながら、家の中で電子音が鳴り響《ひび》くのを聞いた。やがて玄関《げんかん》を開けたのは、僕と同じくらいの年代の子供だった。彼が古寺直樹本人であることは、すぐにわかった。僕の後ろで、清水が微妙《びみょう》に緊張《きんちょう》するのを感じ取った。 「だれ?」  彼は首をかしげ、門を挟《はさ》んで向かい合っている僕と清水に声をかけた。僕は背が高い方だったが、同い年で古寺ほど大きな子を見たことがなかった。そのくせ、肩幅《かたはば》はほそく、まるで木の棒である。眼鏡《めがね》をして、顎《あご》が尖《とが》っていた。学校を休んでいるので病気なのだろうと思っていたが、顔色はよさそうに見える。 「パンを持ってきた。給食にパンの出る日、欠席した人の家にパンを持っていく決まりなんだ」  本当は、パンを持ってきたのは僕ではなくて清水なのだが、面倒《めんどう》なのでそう説明した。すると、彼は僕が何者かを理解したらしい。苦笑《くしょう》するような声を出した。 「小学校に頭のおかしいルールがあるのは、どの地方に行っても同じなんだな」  彼の父親は各地を転々と移る職業についている。そう母と父の世間話で聞いていた。そのために引越しを繰《く》り返し、今もまた一時的に僕と同じ小学校に所属しているだけなのだ。  古寺は手招きして玄関へ入るようにという仕草をした。僕は門を抜《ぬ》けてステップを上がり、忌々《いまいま》しい傘をたたんだ。後ろを見ると、清水が門の前で立ちすくんだままだった。 「来なよ、パンを渡すんだろ」  僕が促《うなが》すと、彼女は頷《うなず》きながらあわてて玄関にいる僕のそばへきた。黄色い傘をたたみ、ガチャガチャとせわしなく水滴のついたランドセルからパンを取り出そうとする。それを古寺が止めた。 「まあ、家に上がってけ」 「あ、でも、用事はすぐに済むし」  僕はそう言った。そもそも自分には関係のない用事なのだし。 「おもしろいものを見せてやるからさ」  古寺は妙に機嫌《きげん》が良《い》い声で僕と清水の手を引っ張った。  靴を脱《ぬ》ぐとき、清水はさすがに躊躇《ためら》った。 「や、やっぱり帰る……」  しかし、古寺はまるで昔からの友人のように強引な態度で階段を上らせたのだ。  古寺の部屋は殺風景で、ほとんど家具らしいものはなかった。ベッドと机、テレビがあるだけだ。古寺はどこかから座布団《ざぶとん》を三枚、用意して、フローリングの床《ゆか》に並べた。僕と清水はそこに座らされた。隣《となり》にいる清水の微妙な緊張が、空気を伝わり、雨で冷えた僕の腕《うで》に届いた。 「おまえ、名前は? クラスが一緒《いっしょ》なんだろ?」  古寺が僕にたずねる。そこで僕は、自分と清水の二人分、名前を紹介《しょうかい》し、家が近所であることを説明した。 「今日から学校にくるって聞いてたけど、なんでこんかった? 病気?」 「別に。面倒くさかったから、行かなかった」  すぐに転校することがわかっている彼にとって、学校はその程度のものだったのだろう。でも、僕は普通の子供だったので、面倒という理由で学校へ行かない彼がひどく不良じみて格好よく思えた。  それにしても、彼は何の魂胆《こんたん》があって僕たちを部屋に上げたのだろう。初対面なのに。困惑《こんわく》していると、彼は楽しそうに一冊のノートを取り出した。 「おまえを部屋に上げたのは他でもない。これを見せるためだ。いいか、驚《おどろ》けよ」  乱雑に扱《あつか》われているようで、それは汚《きたな》らしかった。古寺はその真ん中あたりのページを開けた。鉛筆《えんぴつ》でたった三行だけが贅沢《ぜいたく》にページの中ほどへ記されている。  一行目に、ほぼ一年前の日付。二行目には、今日の日付。三行目には、ある有名人の名前が書かれている。その名前には見覚えがあった。最近まで人気番組の司会をしていたが、癌《がん》であることがわかり、ふた月ほど前から治療《ちりょう》のために入院している人だった。その人の番組は、現在、別の司会者で放送されている。  だからどうした。意味がわからない。古寺を見ると、彼はテレビのリモコンを握《にぎ》り締《し》め、にやり、と笑った。 「おまえら、学校に行ってたから知らんだろ」  そう言って、テレビの電源を入れた。ニュースをやっていて、リポーターが何か深刻な表情でしゃべっている。やがてそれが、とある有名人の死を告げる報道だということに気づく。  亡《な》くなった有名人とは、古寺のノートに書かれている有名人と同一人物である。 「今日の昼にな、死んだらしい。な、おもしろいだろ」  他人の死をおもしろがるなんて、不|謹慎《きんしん》なやつめと思った。 「……この日付はなに?」  それまで黙《だま》りこんでノートを見ていた清水が、はじめて声を出した。ノートに書かれた三行のうち、一行目を指差していた。  いいことに気づいたな。古寺はそう言いたそうな顔をした。 「一行目の日付は、そのページの文書を書いた日だ」 「え? それじゃあ、一年前にこれを書いていたの……?」  古寺は頷いた。  一瞬《いっしゅん》、僕たちは黙りこんだ。それでも僕には、何のことか意味がわからなかったのだ。しかし清水は目を丸くしてノートと古寺、それとテレビを見比べていた。 「どうかしたの?」  僕がたずねると、清水は座布団から立ち上がりそうな勢いで僕を振《ふ》り返った。 「一年前は、まだ癌だってこともわかってなかったのに!」  古寺は、あらかじめ今日のニュースを知っていて、一年前にこのノートを書いた。つまり未来に起こることを知っていたのだ。そう、彼女は説明した。 「信じないなら別にいいぜ」  古寺は言った。  一年前にノートを書いたように見せかけて、おそらく、今日、ニュースを見てから書いたのだろう。ただのインチキだ。僕がそう考えていたのを読み取ったようだ。 「数年前から、未来が時々、見えるようになったんだ。それで、ノートに記録していたわけ」  清水が古寺のノートをめくっていた。それを横からのぞく。どのページにも三行から五行程度しか書かれていない。  一行目はどれも日付である。そのページを書いた日を表しているのだと、古寺が説明した。問題は二行目以降で、書かれていることも様々だった。人名や地名など、ほとんどは単語だけが並んでいる。二行目に日付が書かれていたのは、今日あった有名人の死のみであるらしい。 「これに書かれてあるもの、全部、当たっているの?」  古寺は頭を掻《か》いた。 「全部、じゃないな。半分くらい。……いや、もっと少ないかも。中には、当たっていても、それを確認《かくにん》できてないものもあるかもしれない」  どのページに書かれていることが、いつ、どのような現実になるのかわからないらしい。なにせ、単語しか記されていないのだ。今日のものにしろ、「有名人が死ぬ」と書かれていたわけではなく、ただ名前だけがぽんと記されているのみである。  ノストラダムスの予言書。あれを思い出した。あれもほら、インチキだったじゃないか。曖昧《あいまい》な単語を並べて詩を作っておき、何か事件が起こると、似たような意味の詩を指して未来が予言されていたと騒《さわ》がれていた。 「未来を見たと言っても、完璧《かんぺき》じゃないんだ。必ず当たるというわけでもない」  古寺はそう前置きして、自分の力のことを『未来予報』と呼んだ。天気予報のように、絶対確実ではないから、そうなのだそうだ。  それからも何度か、学校の帰りに清水と二人で古寺の家を訪ねた。彼女は一人で古寺の家のチャイムを鳴らすことができないようだった。本当にそうなのかとたずねれば否定しただろうけど、そうじゃないかと思う。 「帰りに古寺くんのところに行く?」  学校が終わると、清水がおずおずと僕へ話しかけてくる。 「うん、ひまだし」 「私も行っていい?」  彼の家の前で待ち合わせをした。そこまでの道のりを二人で歩くという考えは当然、起こらなかった。 「未来が見えるときって、暗い夜道にふと通りすぎる道路|脇《わき》の看板みたいなものなんだ」  古寺は言った。未来が見えるとき、どんな感じなのか、という問いの答えだった。 「それが見えた瞬間《しゅんかん》、とても不確かで、見間違《みまちが》いかもしれないと思う。でも、それがまた暗闇《くらやみ》の中に消えた後、あれはやっぱり未来に起こることなんだって、そう感じるんだ」  写真を見たように鮮明《せんめい》な映像が見えることもあれば、直感的にただの数字の羅列《られつ》が闇から浮《う》かび上がることもあるそうだ。  ノートのとあるページに、数字とアルファベットの混じった文字の羅列がある。十|桁《けた》ほどの長さだ。 「これは何を意味しているんだ? これを書いたとき、どんな未来を見た?」  しかし、古寺は肩《かた》をすくめただけである。 「どんな意味なのかは知らない。ただ、その文字の羅列だけが頭に浮かんだんだ。もしかすると、偽札《にせさつ》の番号かもしれないし、一億円の当たる宝くじの番号かもしれない」  彼に言わせれば、その文字列の未来予報は、あまりできがよくないらしい。もっと調子のいいときは、まるでビデオ撮影《さつえい》した映像を見るときのようにはっきり未来が見えるのだそうだ。ただし、それさえも不確定な未来なのだと、彼は付け加えた。実に曖昧で、役に立たない能力なのだなと僕は内心で思った。  古寺の予報能力が本物なのかどうか、僕には判定できなかった。本物かもしれないし、ただの偶然《ぐうぜん》かもしれない。  しかし、清水は信じているようだった。 「もしかして血液型|占《うらな》いとか信じるほうだろ」  彼女にたずねてみた。 「え、信じてるけど……」  当たり前のことを、なんであらためて聞くの? 彼女はそう言いたげだった。  しかし残念ながら、ある日、古寺の力がただのペテンであることを僕は知った。 「小泉《こいずみ》、おまえんち、白い犬を飼うことになるよ。おまえが白い子犬を抱《だ》いている映像が、このまえ、眠《ねむ》る前に見えたんだ」  でも、実際は白い犬ではなかった。古寺にそう言われた三日後、父が黒色の子犬をもらってきたのだ。  確かに、犬を飼いはじめたことを言い当てたには違いない。しかし、これには裏があった。  母がこう言った。 「古寺さんとこの奥さんに、何日か前、子犬を飼うって話をしたの。できれば白い犬がいいんだけどって……」  しかし、父に犬をくれた会社の同僚《どうりょう》の家には、白い子犬はいなかった。黒色のものしかいなかった。それで、黒色の子犬を飼うことになったわけだ。  おそらく古寺は、母親からその話を聞いたのだろう。それを利用し、予報したということにして犬の話をしたわけである。  でも、僕はそのことを暴露《ばくろ》して真実を追及《ついきゅう》することができなかった。真剣《しんけん》に古寺の話を聞いている清水を見ていると、このことを言い出してはいけない気がしたのだ。  そして、その日はきた。空は僕好みの曇《くも》りで暑くも寒くもなかった。少し風が強く、天気予報では数日後に嵐《あらし》がくるという話だった。古寺の部屋にある窓から、家の横に立っている木が見えていた。それが風のためにしなって音を出す。枝についている葉がばたばたと震《ふる》えていた。  古寺の家は、いつ行っても親がいなかった。そのために僕と清水は気がねなく足を運ぶことができた。  それに、いつも未来予報の話をしていたわけじゃない。清水は基本的にそこへ興味があったらしいけど、僕たちは無駄《むだ》な話をたくさんした。古寺がこれまでに移り住んだ土地や、出会った人々、おかしな話。  古寺が寄せ書きを見せてくれた。以前にいた学校のクラスメイトたちからもらったものだそうだ。ただし、古寺は登校|拒否《きょひ》をし続けて、それを書いたクラスメイトとは、一度も顔を合わせなかったらしい。僕はそれを見ながら、ふと清水に質問した。 「そう言えば去年の文集、なんて書いた?」  年度末にクラスで文集を作り、そこに将来の夢を書かなくてはならなかった。 「私は、絵本作家になりたいって書いた」  彼女は恥《は》ずかしそうに答えた。 「小泉くんは?」 「……それは、教えられないな」  清水は、「ずるい」と口をとがらせた。本当は思い出せなかっただけだった。それが悩《なや》みなのだ。将来の夢を聞かれて、かなりどうしようもなくてきとうなことを書いた気がするのだ。文集なんてくだらないと思って即座《そくざ》に捨ててしまい、自分が何と書いたのか確認《かくにん》できない。  帰り際《ぎわ》、僕と清水が靴《くつ》を履《は》いて玄関《げんかん》を出たところへ、古寺が見送りに出た。彼は空の一点を見上げていた。いよいよ風が強くなり、清水は暴れる髪《かみ》の毛を押さえていた。  じゃあ、またな。僕がそう言いかけたとき、古寺の様子がおかしいことに気づいた。流れの速い空の雲を見ていた彼の眼《め》は、いつのまにか僕と清水に向けられていた。なおかつはるか遠くにある木星あたりを見つめるような遠い視線だった。 「また未来が見えた……」  彼はやがてまばたきすると、視線をはっきりと僕に向けて言った。本当におもしろいことがあったというような笑顔《えがお》だった。  僕は古寺のことをただのうそつきかもしれないと考えていたので、話半分に頷いた。 「聞きたいだろ?」と、古寺。 「別に」と、僕。  清水が僕の袖《そで》をひっぱった。彼女の顔を見ると、実に聞きたそうな顔だった。 「あのさ」彼は言った。「おまえたち二人、どちらかが死ななければ、いつか結婚《けっこん》するぜ」 [#ここから7字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  僕たちの家はすぐ近くにあり、二階の窓から外を眺《なが》めればお互《たが》いの家の屋根が確認できた。家が近所ということもあり、清水とは昔からよく出来を比べられた。 「算数のテスト、加奈《かな》ちゃんはクラスで一番だったそうじゃないの」  母は近所に住む息子《むすこ》の同級生について、うらやましそうに語り、僕の答案を見てため息をついた。  一緒《いっしょ》に遊んだ記憶《きおく》も、何か同じ話題で盛り上がったという記憶もない。お互いのことについて考えることなど、これまでになかったはずである。それなのに、古寺が余計なことを言うので、気まずくなった。  古寺が問題の台詞《せりふ》をはいた直後のことをよく覚えている。彼が言うだけ言って玄関に入ってしまうと、あとは言葉もなく立ち尽《つ》くし、強風になぶられている僕たちが残されたのだ。 「あのな、あいつの予報、でたらめだからさ……」  言いつくろうように僕は言った。なんとなく、清水が泣き出すんじゃないかと思っていた。けれど彼女はきっと僕の話を聞いてはいなかった。あの表情を思い出すにつれそう思える。清水といったら、感電した猫《ねこ》のような顔で僕を見たまま、その他、一切の反応を示さなかったのだ。 「帰ろう」  そのまま立っていてもしょうがないと思い、そう言って僕はパチンと彼女の鼻先で手を叩《たた》いた。わっ、と転びそうなほど驚《おどろ》いて、清水の静止していた時間が動き出した。  少し歩いたところで、僕の家に向かう道と、彼女の家に向かう道とがわかれる。古寺の家からその場所まで、お互いに話をしなかった。でも、わかれるときまで無言というのは寂《さび》しい。 「またな」と、声をかけた。  清水は僕を見ると小さく頷《うなず》いた。それからランドセルをガチャガチャ鳴らして走り去った。  それまでもよく話をするというわけではなかったのだ。しかし、古寺の予報を聞いて以来、僕と清水は学校でお互いをどこか避《さ》けるようになった。きっと、気恥ずかしさというのがあったのだ。  彼女がいるところには近寄りがたくなった。廊下《ろうか》でそれまではごく普通《ふつう》にすれ違っていたくせに、それができなくなっていた。目をどこにやればいいのかわからないのだ。  あいかわらず古寺は学校にこなかった。僕は彼への届け物をやめてしまったが、清水は律儀《りちぎ》に運んでいるようだった。  いつか、古寺の家の前で、彼女がいるのを見た。届け物をしているのだということはすぐにわかった。しかし、以前のように二人で家を訪ねることができなかった。彼女に見つからないよう遠回りして帰った。  梅雨《つゆ》が過ぎて夏が訪《おとず》れる。  僕と古寺は、よく自転車を乗りまわして遊んだ。学校には行かないくせに、彼には友達が多かった。それも、うちのクラスの子たちだけではない。違う学年だったり、他《ほか》の小学校の生徒だったりした。中学生や高校生の友達もいて、そういった年上の人たちは僕にとってほとんど恐怖《きょうふ》だったのに、彼は親しげにコカ・コーラのペットボトルを回し飲みするのだ。  古寺は、僕と清水が話をしなくなったことについて、特に何も感じていないようだった。まるでそれが自分のせいではないと言わんばかりの、どうどうとした態度なのだ。僕の前で彼女の話をしたことはほとんどなかったし、未来を予報したことさえ忘れてしまったようだった。  自分勝手なやつだと思ったが、彼をせめたりはしなかった。清水と話をしなくなったのはたしかに彼のせいだが、それは僕にとって重大な事件ではなかったからだ。もともと親しい友達というわけでもなかったのだ。それまで以上に話をしなくなったということで、なにか生活が変化するというわけではない。  夏休みに入ろうというときでも、清水と話をしなかった。先生は時々、住んでいる地区ごとに生徒をグループ分けする。そんなときに少しだけ言葉を交《か》わした程度である。そのとき清水も、特に何事もないように振舞《ふるま》っていた。  夏休みのある日、冷房《れいぼう》をがんがんにきかせた古寺の部屋を僕は訪ねた。あまりにも冷えすぎていたので、彼は凍《こご》えて毛布をかぶっていた。冷房を弱めるのは、負けた感じがするので嫌《いや》なのだそうだ。 「小泉、ほら、これ見ろ。また当たったぜ」  彼は予報を書いたノートを広げていた。そのページを見ると、三行だけ、彼の文字が記されている。  一番上には、ほぼ一年前の日付。それを書いた日を示すものだろう。二行目と三行目には、たんなる三|桁《けた》の数字が書かれているだけだ。二行目に「305」、三行目に「128」。意味がわからない。 「おまえ、ニュースを見てないのかよ。昨日、飛行機事故が起きただろう? 305便のジャンボジェットが着陸に失敗したんだよ。それで、死傷者が128人。どうだ、当たってるだろ?」 「でもさ、事故の起きた昨日の日付が書いてない」 「日付まではわかんなかったんだ」 「飛行機だってこともノートには説明してないじゃないか。こんなの、てきとうに数字を書いていれば、何かのニュースがそのうち当たるってば」 「おまえな、この桁の数字を二つ的中させるのが天文学的な確率だってことを知らないだろ」  毛布を握《にぎ》り締《し》めて抗議《こうぎ》する古寺に、ああわかったからと僕は頷いておいた。  夏休みが終わり、二学期が始まったころから、古寺は急に学校へ来はじめた。 「親父《おやじ》、この町に永住するってさ」  古寺は当初、半年ほどで引越《ひっこ》しする予定だった。しかし、突然《とつぜん》、ここに住みつくことになったらしい。 「まあ、ひまだし、学校をのぞきにきた」  出席日数はおそろしく少なかったし、学校に来てもかならず授業に出るというわけではなかった。それでも古寺は、小学校を卒業することができた。もちろん僕も、そして清水も、卒業アルバムに写真が載《の》った。  僕たち三人は同じ中学校へ通った。  あいかわらず、僕と清水はどこか調子が変だった。古寺が僕たちにあの頭のおかしな予報をしてみせてから、すでに数年が経過していた。それでもそれはほとんど呪《のろ》いのようにとりついていた。  同じように清水も僕を気にしているのかというと、それはよくわからなかった。クラスが違《ちが》えばほとんど顔も見ないし、話もしない。たまに中学校内で見かけても、どこか近寄るのに抵抗《ていこう》を感じて、表情などはわからない。しかし、おそらく彼女は、古寺の言ったことなどすでに気にしてはいないだろう。当時は古寺の言うことをすべて信じていたとしても、今はもう、それがペテンだったと気づいただろう。  実を言うと、自分が古寺の予報をここまで長く引きずるとは思っていなかった。心の中で笑い飛ばしたはずなのに、ときどきふとした瞬間《しゅんかん》に、それを思い出す。  考えない、ということは難しい作業なのだ。清水の姿を見かけても、特になにも気にしていない、考えていない、というふりを装《よそお》った。いつまでも気にしているなどということがばれてはいけないのだ。  それはいつも成功していた。僕と清水はまわりから見ればまったくの他人だったし、実際、家が近いというだけで他に繋《つな》がりなどなかった。  清水はクラスで特別に目立つタイプではなかったが、整った顔をしていたから、中学を卒業するあたりから男子の口に名前がのぼるようになった。  僕が自分の人生についてはじめて考えたのは中学三年生のときだった。進路希望の調査書に、行きたい高校の名前を書かされた。そこではじめて、自分の将来というものについて向き合わなくてはならなかった。 「あんたはいったい、何の仕事をするんだろうね」  母や祖母がよくそう口にしていた。僕はそれらのひとつひとつの言葉がわずらわしくて、なぜか無性《むしょう》に腹が立った。そして、自分の存在理由とはいったいなんだろう、というような難しいことを考えてみたりした。周囲から見ればそれは滑稽《こっけい》だったかもしれないが、自分には切実だったし、そういったものを考える年齢だった。  自分はサラリーマンになるのだろうか。スーツを着て、毎朝、会社へ行くのだろうか。満員の通勤電車に乗るのだろうか。  ある夜、ベッドの上に寝転《ねころ》がり、天井《てんじょう》を見つめながらぼんやり考えた。雨の降る夜だった。雨粒《あまつぶ》がひさしを打つ音だけが僕の耳に届いていた。  自分には将来の夢というものがなかった。サッカー選手になろうとか、小説家になろうとか、考えたこともなかった。それでも、ただ漠然《ばくぜん》と、一介《いっかい》の会社員になりたくないという気がした。つまらない。そう感じてしまった。  小学校のときの友人に、野球選手を夢見ていたやつがいた。そいつは今も野球選手を目指してがんばっているのだろうか。それともあきらめたのだろうか。今はもう交流がないので、どうなったのかわからない。  将来、自分は何になるのだろう。特に目的もないまま、僕は無難なレベルの高校へ入学を希望した。  僕と古寺、そして清水は別々の高校へ進んだ。それでも古寺とだけはなぜか縁《えん》が切れず、休日になるとよく一緒に遊んだ。彼は学校が嫌《きら》いなくせになぜか頭だけは良かった。時々、こういうやつがいるのだ。勉強をろくにしないくせ、テストだけはいい点数をとる。今に見ていろ、そのうち苦しくなって地獄《じごく》を見るから。そう期待して古寺が学歴社会のせちがらさに喘《あえ》ぐのを固く信じていたが、なぜかそうはならなかった。高校の試験期間中にも彼は遊んでいたのに、なぜか試験の結果は上位に食い込んでいるようだった。  おもしろくない。神様は不公平だ。僕は高校に入るとすっかり勉強するのが嫌《いや》になっていた。そのため成績は下がりっぱなしで、古寺が電話で僕を呼んで遊びに連れ出そうとするたびにどうしてこのような差が生まれるのかについて考えさせられた。 「いいんだ、勉強だけが人生じゃない!」  ゲームセンターで僕は古寺に言った。当時はやっていた格闘《かくとう》ゲームをやっている最中《さなか》、突然に僕の中で憤《いきどお》りに近いものが膨《ふく》れ上がった。何に対して怒《おこ》っているのか、自分でもよくわからなかった。切実に人生の意味について考え、その結果、そういう解答に達したものだとそのときは信じていた。  それを聞いていた古寺が、店内に響《ひび》き渡《わた》るほどの声で大|爆笑《ばくしょう》した。彼には、僕がただ勉強が嫌で、そこから逃《に》げる自分を正当化しただけなのだということがわかっていたのだ。  清水とは、家の近所ですれ違っても、町中で見かけても、彼女だということに気づかないふりをした。清水も僕には話しかけなかった。中学二年くらいになると急に僕は成長したから、彼女のほうは、本当に僕だということがわからなかったのかもしれない。 「加奈ちゃん、駅前のコンビニでバイトをはじめたんだって」  母がそんな話をしていた。家が近所だということは、そういう些細《ささい》なことまで伝わってくるということだ。  もう、駅前のコンビニへは行くまい。そう考えた。しかし、電車に乗るため駅へ向かう途中《とちゅう》の道にその店がある。前を通るたびにどことなく足早になり、姿を見られないようにしようと意識してしまった。  なぜか僕は逃げていた。それがどういった心理状態からくる行動なのか、冷静に分析《ぶんせき》しようとは思わなかった。  ある冬の日の早朝。  街灯が白い明かりで道を照らしていた。冬の太陽は出るのが遅《おそ》く、外は暗闇《くらやみ》だった。どうせ太陽がのぼったとしても、空には黒い煙《けむり》のような雲が隙間《すきま》なく覆《おお》っていたから、それほど明るくはならなかっただろう。  学校へ行くために外へ出ると、衝撃《しょうげき》のような寒さに襲《おそ》われた。僕はいつもこういうときは耳が痛くなる。外気に冷却《れいきゃく》されて耳の縁《ふち》が冷たくなり、激痛というほどではない地味な痛みを感じる。耳当てというのを買ってつければいいに違いない。しかしあれはどうも男らしくない気がして好かんのだ。だって耳を覆う部分がふわふわしているのだ。あれは女子供がつけるものであり、男子高校生がつけるものではない。  バス停に到着《とうちゃく》して、冷たくなった耳を手で温めながらバスがくるのを待っていた。耳を押さえていたせいで、だれかが同じようにバス停のそばに近寄ってバスの来る時刻を確認《かくにん》していることに気づかなかった。  ふと横を見ると、制服の上に分厚い灰色のコートを着た清水がいた。彼女も、隣《となり》にいたのが僕だということに気づいていなかったらしい。視線が合うと、二、三度、まばたきして少し驚《おどろ》いた顔をしていた。それで、彼女が僕の顔を忘れていないということを知った。  冬で、そしてバス停の発する明かりに照らされていたからかもしれないが、彼女の肌《はだ》は雪でできているように白く、その下にある青白い血管が透《す》き通って見えそうだった。彼女の吐《は》き出した息が白い靄《もや》となり、冬の闇の中へ消えていく。  バスが来るまで五分の間があった。それは沈黙《ちんもく》の長さだった。朝早かったためか、道路にはほとんど車が通っていなかった。冬の日の朝は静寂《せいじゃく》が支配している。物音は一切なく、少しでも身じろぎしてしまうとその音さえ清水に伝わってしまうほどだった。だから僕は動けなかった。  僕は、そしておそらく清水も、困っていた。何年も前に行なった子供の会話を気にするなんて馬鹿《ばか》でしかない。それでも、話をしない期間が長すぎて、いまさら言葉を交《か》わせなかった。それは気まずい時間となっていた。  その日の早朝、天気予報でどのようなことが言われていたのかわからない。もしもテレビで予報を見ていても、きっとあてにならないと思って気にはしていなかっただろう。  バス停で二人、たたずんでいると、突然、目の前の道路に小石のようなものが落ちた。まるで空中から出現したように、それはあまりに唐突《とうとつ》だった。よく見るとそれは白い粒《つぶ》である。僕と清水はほとんど同時に、目の前の道に転がったそれを見つめた。なんだこれは。たぶん、僕たちは同じようにそんな疑問を抱《かか》えた。一瞬《いっしゅん》の後、おそらく二人とも、それが氷の粒である可能性に思い至った。  ぶちまけたように、大量の氷の粒が上空からいっせいに落ちてきたのは、そのときだった。  降り出した雹《ひょう》は町一面に降り注ぎ、立っていた僕たちの頭や手を打った。微小《びしょう》な粒とはいっても、痛いものは痛い。  そのバス停には屋根などなく、隠《かく》れるところといったら、バス停のそばにある店の日よけしかなかった。僕がそこに避難《ひなん》すると、清水もあわてて入ってきた。  ばらばらとアスファルトに氷の粒が跳《は》ねる。それは奇妙《きみょう》な光景だった。際限なく空から氷の粒が生み出され、道路に落ちて音を出すのである。僕と清水は魂《たましい》を抜《ぬ》かれたように見入っていた。神の不思議な手品を眺《なが》めている気分だった。 「すげー」  僕がそうもらすと、隣で彼女が同意をしめすように小さな顔を頷《うなず》かせていた。 [#ここから7字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  高校を卒業した僕はアルバイトをして日々を過ごしていた。大学へ行くような頭を持っていなかったし、僕を入社させてくれるほど懐《ふところ》の深い会社も見つからなかった。  両親にとって僕は汚点《おてん》だったに違いない。親戚《しんせき》の間で、自分たちの息子《むすこ》だけが進学も就職もしていなかったのだ。  従兄《いとこ》は有名な大学へ入ったし、従姉《いとこ》は銀行員になった。それにひきかえ僕は、時給千円にも満たないバイトをやりながら、いまだに親から小遣《こづか》いをもらっているのだ。  高校を卒業して二年目の一月、成人式が行なわれた。僕は古寺の運転する車に乗って、成人式会場である町のホールへ向かった。車といっても、彼のものではない。親のを借りたのだそうだ。古寺は地元にある理数系の大学に通っていた。ハンドルを操作する古寺に、僕はたずねた。 「大学を卒業したら、どこへ就職する?」  彼は首を横に振《ふ》った。 「就職しない。院へ進む。研究したいことがあるんだ」  研究したいこととは何かをたずねてみたが、難しい内容だったためすぐに忘れてしまった。しかし、目的を持って人生を過ごしている古寺は充実《じゅうじつ》しているように見えた。  僕は助手席に座ったまま、体が重くなった気がした。息苦しいのはスーツやネクタイのせいだけではないと思う。古寺に対して、将来の目的もなくアルバイトをしているだけの自分がみじめな存在に思えてきたからだ。  ホールの駐車場《ちゅうしゃじょう》に車をとめて外へ出ると、細かい雪が舞《ま》っていた。入り口周辺には人だかりができており、スーツや着物に身を包んだ同い年の人が大勢、集まっていた。中学校時代に見たことのある顔に出会った。話をしたこともないのに、よく廊下《ろうか》ですれ違《ちが》ったやつ。直接に面識はないが、友人の、そのまた友人という、親しくしていいのかどうか実に微妙《びみょう》な位置にいたやつ。そういった人々の顔も、驚くほど記憶《きおく》していた。  ほとんどの知り合いとは連絡《れんらく》を断《た》っていた。会って遊んだり話をしたりするのは、今ではもう古寺だけになっていた。だから、久々に見るみんなの顔がなつかしかった。 「おい、あいつならいないぜ」  混雑を避《さ》けながら歩いていると、古寺が僕を引きとめて言った。 「え、なに?」  わけがわからずに聞き返す。 「おまえ、探しているんだろう、清水のこと」  彼はごく自然な顔でそう言った。冷やかすわけでもなく、それ以外の可能性など見当たらないというような率直さ。すとん、と包丁でキュウリを切るように言ったのだ。  違う……。そう答えようとして、声が出なくなった。  古寺の言葉を否定することができなかった。はっきりとそうしているつもりはなかったのだが、言われてみると無意識のうちに彼女を探していたような気もするのだ。  それを古寺に見透《みす》かされたことも意外だった。彼が清水の話題を僕にするのは、本当にひさしぶりだったからだ。 「あいつ、ここ三日間、風邪《かぜ》をひいてるんだってさ。うちの親がそんな情報を仕入れてた。だから、今日は欠席するんだと」 「あ、そう」  別に。だからなに。それくらいのそっけない返事をした。内心の動揺《どうよう》を隠《かく》せたかどうかはわからない。  清水は女子大に通っていた。電車で一時間近くかかるものの、大学までは家から通っているようだった。  僕と古寺、そして清水が、まだ近所に住んでいるということが不思議でたまらない。ほとんど道端《みちばた》で顔を合わせることもなくなっていた。生活のサイクルが違うのだろう。 「オレ、結婚《けっこん》したんだ」  五年ぶりに会った橋田《はしだ》という元クラスメイトがそんなことを言った。彼とはそれほど親しかったわけではないが、同じバスケ部で、しかも同じように幽霊《ゆうれい》部員だった。だからどことなく「オレたち同類」という共通のダメ意識があり、記憶に残っていた奴だ。 「今、カミさんのおなかに子供がいるんだ」  彼の家はたしか建築業を営んでいた。それを引き継《つ》いで、今はちゃんとした家庭を持っている。 「よかったな、おまえすげーよ」  僕は心から彼に言った。そして、「カミさん」という言葉がこの地上に存在するのだということをあらためて気付かされた。 「それで、おまえは今、何してんの?」  彼が首をかしげて僕に問いかけた。それは少し、僕を悲しくさせる質問だった。 「そういえば小泉、おまえの家、清水の家の近所だったよな」  彼女の名前が突然《とつぜん》に出てきて、僕は身構えた。 「あいつ、どうしてるの? 今だから言えるけど、実は清水のことが好きだったんだよ。でも、どうせオレなんて眼中になかったんだろうな。あいつ、綺麗《きれい》だったし。そのわりには、高校に行っても浮《う》いた話ひとつなかったな」  そういえば橋田は、清水と同じ高校へ通っていた。僕は、高校のときの彼女のことをほとんど何も知らない。  会場へ入ってください、もうすぐ成人式をはじめます。そういったアナウンスがあり、僕たちは話をやめて椅子《いす》の並んだホール内へ入った。  成人式から半年が過ぎた。  僕はとある高級ホテルでウェイターのアルバイトをしていた。宴会場《えんかいじょう》はホテルの三八階にあり、そこではほとんど毎日、結婚式の披露宴《ひろうえん》や会社のパーティなどが行なわれる。僕はそのために料理を運んだり、皿の片付けをしたり、机を並べたりするのだ。  幸福そうな顔の新郎《しんろう》と新婦が広間の視線を一身に受けとめて輝《かがや》く。一度、自分よりも年下の新郎の披露宴にも立ち会った。年下の同性が家庭を持ち、社会での居場所を作る。  披露宴が行なわれている最中、僕はお客に飲み物を運んだり、注文を聞いたりすることで動き回らなくてはならない。それでも手の空いたとき、新郎と新婦をふと目にすると、幸福な力を目《ま》の当たりに感じる。  いつのまにか古寺の言った予報のことを改めて考えさせられる。僕と清水に言った、たちの悪いジョークのことだ。  古寺は中学以降、あまり未来予報の話を僕にしなくなった。あえて僕のほうからもたずねなかった。おそらくその遊びに飽《あ》きたのだろう。僕たちにはもっと熱中するようなことがあったのだ。例えば、気に入った音楽のバンドを追いかけたり、夜中に車で海岸沿いを走ったりといったことだ。ノストラダムスの予言書と同じで、一定の年齢《ねんれい》を超《こ》えると、途端《とたん》につまらなくなる。未来予報というのはその程度のことだった。  くたくたに疲《つか》れてバイトから家に戻《もど》ると、母の作った冷めた夕食をレンジで温める。たいてい、戻るころにはみんな眠《ねむ》っている。小学生のときに飼いはじめた犬も態度がそっけない。もともとその犬は、僕を家族の一員として認めていないふしがある。  しかし、その日はたまたま母が起きていてテレビを見ていた。  母は世間のことに敏感《びんかん》である。だから、ときには意外な情報をもたらしてくる。  僕の母と清水の母はよく一緒に話をする。例えばスーパーで偶然《ぐうぜん》に顔を合わせたときなど、何十分も話しこむことがあるそうだ。 「あんたの日ごろの行動とか、生活の一部始終は、全部、加奈ちゃんとこに筒抜《つつぬ》けだからね」  僕の生活態度が悪いと冗談《じょうだん》混じりに母は脅迫《きょうはく》する。たいてい笑って答えるが、内心、戸惑《とまど》って居住まいを正してしまう。  その日、帰ってきた僕を見ると、この話はもう聞いたかしらという口調で母は言った。 「今日のお昼ね、加奈ちゃんが急に体を悪くして病院に入院したそうなの」  清水は昔から体が弱かった。小学生のとき、よく学校を休んだ彼女の家にパンを運ばされた。しかし、入院するほどひどいとは思わなかった。成長するうちに、体は丈夫《じょうぶ》になるものだと思っていた。彼女の状態は、僕が想像していたものよりもはるかに深刻だったらしい。  小学校時代、時間内に給食を食べきれなかった子は、全部食べ終えるまでお昼休みを与《あた》えられなかった。みんなが運動場へ遊びに行き、しんと静かになった教室でそういう子たちは給食と向かい合わされていた。  清水もそういう子だった。胃が小さくて給食を食べきれないのか、それとも苦手な料理が多かったのか、理由はわからない。でも、たいていいつも給食の時間内に食べ終えることができなくて教室にひとりで残されていた。  いつだったか、そういう状況《じょうきょう》の彼女がいる教室へ入っていったことがある。そのときはまだお互《たが》いに気まずいこともなく、普通《ふつう》にふるまえた。  清水は机に頬杖《ほおづえ》をついて、おもしろくなさそうにスプーンで皿をつついていた。食器はどれも金属製だったので、カチカチと音がしていた。教室内の机は後ろに下げられていた。お昼休みが終わったら掃除《そうじ》が行なわれるため、給食の直後、机を下げる決まりになっていた。後ろに寄せられた机の中で、彼女は給食と座っていた。 「まだ食べてるのかよ」 「……だって、チーズ嫌《きら》い」  その日、彼女が食べられずに苦しんでいたのは、チーズササミという僕の大好物だった。自分の大好物を嫌いだと言うなんてこいつはどうかしていると思った。  外は晴天で明るかったから、そのため対照的に教室は薄暗《うすぐら》くて、寂《さび》しく思えた。  入院したという話を聞いたとき、教室に残されて給食を食べさせられている清水を思い出した。  彼女の入院する病院は、僕がバイト先へ行く途中《とちゅう》の道にあった。とにかく大きな病院である。敷地《しきち》の横を通りすぎるとき、いつも病棟《びょうとう》の方が気になって、つい視線を向けてしまった。気になる、ということが、すでに十年近く続いている。  しかし、彼女のことは、思い出さないようにしなくてはならない。そうしなければ、とても正常な人生を送ることはできないように思う。  ホテルの宴会場では、二種類の人種が働いている。僕のようなアルバイト。そしてホテルと正式に契約《けいやく》している正社員だ。その二つの間には明確な区別がある。もちろんただのバイトより正社員の方が偉《えら》いのだ。年下の正社員に、こいつ使えないやつだな、というあからさまな目を向けられる。  フリーターというのは、とにかく社会の下の方に位置しているのだと考えさせられる。収入が不安定という、ただ一言では言い尽《つ》くせない決定的なものがある。つまり、偉くないのだ。だれもが眉《まゆ》をしかめて、鼻をつまむ。以前、とある酔《よ》った親戚《しんせき》の伯父《おじ》に自分がフリーターであることを説明したとき、彼は「だらしないぞ」と僕に説教をはじめた。「今はどん底にいるかもしれんけど……」となぐさめられたこともある。  バイト先で、正社員の舌打ちを聞くたびに、自分がくずになった気がした。  僕は人生の底辺にいた。大学でもない。就職でもない。かといって、将来、やりたいことがあるわけでもない。ただアルバイトをやって生きているだけなのだ。  例えば古寺などは順調に学歴を重ねている。成人式で会った橋田は、すでに女の子を授《さず》かって家庭を築いている。  僕といったら、先はまったくの暗闇《くらやみ》である。あまりに情けないので、両親から小遣《こづか》いをもらうのだけはやめた。  アルバイトをして、ただうちに帰る。その繰《く》り返しで無為《むい》に日々が過ぎる。一日のうちにしゃべる言葉といえば、家族への一通りの挨拶《あいさつ》、バイト先での謝罪、その程度である。何も言葉を発さない日さえある。  自分は何のために生きているのかわからない。もしも明日、突然《とつぜん》に自分が消えてしまっても、だれも気づかないかもしれない。  そう考えると、いつも悲しくなる。この世界で僕はまったくのひとりきりなのだ、ということを改めて認識《にんしき》させられる。人通りの多い道を歩いているとき、楽しそうに笑いあいながら歩いている人たちや、子供連れの家族を目にする。僕はほとんど呼吸ができなくなる。そのまま胸をわしづかみにしてしゃがみこんでしまいそうになる。  自分の部屋にいるとき、息苦しさに頭を抱《かか》えこむことがある。四方の壁《かべ》、天井《てんじょう》、その閉じられた空間が、脅迫的《きょうはくてき》なまでに僕の精神をぶちのめす。時計の秒針が時を刻む音、それだけが耳に聞こえる。  中学三年生だったとき、自分の将来について考えたことを思い出す。  たしか僕は、普通のサラリーマンになるなんてつまらないと感じていた。自分はなんと愚《おろ》かだったのだろう。満員電車で消費する人生を想像して嫌気《いやけ》のさしていた自分が、いったいなんの努力をしたというのだろうか。そんなつまらない将来は嫌だと思ったくせに、実は目の前の勉強から逃《に》げること以外に何もしてはいなかったのだ。  時間よ戻って欲しい。ずっと昔に戻って、もう一度、人生をやり直せるとしたら、もっと僕はちゃんと生きようと思う。どういう生き方をすればいいのかよくわからない。でも、今よりはきっとましだと思うのだ。  未来には不安が待ち構えている。過去には後悔《こうかい》がたたずんでいる。人生を送るというのは、どんなに難しいことなのだろう。  喧嘩《けんか》をした日、僕は自暴自棄《じぼうじき》になっていたのだと思う。  披露宴《ひろうえん》でたちの悪い酔っ払《ぱら》いというのは珍《めずら》しい。普通《ふつう》、めでたい場所だからそういう人は現れないものだ。でも、その酔っ払いは、披露宴にくる前になにか悪いことがあったのかもしれない。  ホテルの大広間、僕が銀色の盆《ぼん》に氷水を載《の》せて運んでいると、目の前で酔っ払いの男が若い女の子にしつこくつきまとっていた。女の子が迷惑《めいわく》そうにしていたので、なんとなく、持っていた氷水を酔っ払いにかけて退治してしまった。  式の行なわれている大広間から裏手の方へ連れていかれ、僕は正社員にしかられた。 「おまえさ、ヒーローにでもなったつもりかよ」 「……いえ、そういうわけじゃないんです」 「バーカ、ああいうのは、てきとうに落ちつかせて、椅子《いす》に座らせておくだけでいいんだよ」  その一歳年下の正社員はねめつけるようにしながら、「低能」という単語を巧《たく》みにおりまぜて説教をした。  気づくと僕はそいつの頬を殴《なぐ》っていた。殴り合いの喧嘩は、まわりの人の制止ですぐに終わった。先にやりはじめたのは僕だったから、責任をとってバイトはやめた。  喧嘩の際、どこかの角にぶつけた左手の中指が、その夜、ひどく痛んだ。きっと折れている。病院へ行かなくてはならない。  布団《ふとん》の中で、僕は明日からの計画について考えていた。また、就職情報誌を買ってバイトを探さなくてはいけない。自分はこれから、どうやって生きていけばいいのだろう。一生、フリーターをやっていくのだろうか。  自分は今にも沈《しず》んでしまう筏《いかだ》の上にいる気がする。どこを見ても大陸は見えない。ただ心細く、不安だった。  あまりの息苦しさに布団から出て、電気をつけずに窓を開ける。深夜なのでどの家も暗く沈んでいる。静かな住宅地の上に、星の見えない暗い空が広がっている。  いつのまにか僕は清水の家を見ていた。彼女は病院にいてその家にはいないというのに、ほとんど何かへすがりつくようにして見ていたのだ。  そのとき、自分が重症《じゅうしょう》であることに気づいた。  否定したかったけど、僕はいつも彼女のことを考えていたのだ。すでに彼女は人生の一部になっていた。今、どこか違《ちが》う場所で自分と同じようにテレビを見ているかもしれないとか、傘《かさ》を忘れて雨の中、歩いているかもしれないとか、そういうことを想像する。それが古寺の未来予報に端《たん》を発する精神の変化であることはわかっている。  孤独《こどく》を感じて前後不覚になるようなおそろしい「ひとりっきり」を知るたび、まるで自分にはそれだけしか残されていない唯一《ゆいいつ》の支えのように清水のことを考えた。古寺の予報が実現するとか、しないとかではない。ただ、彼女がこの世界のどこか、同じ空の下に存在して、同じ時間を生きているのだということを考える。  彼女に対してあるのは恋心《こいごころ》ではないと思う。もしそういう感情であれば、悩《なや》んだあげくにきっと告白していた。清水の存在がいつのまにか自分の中で重要になっていたのは、もっと切実で緊密《きんみつ》で単純な何かがあったからだ。何かというのをうまく説明はできないが、例えば傷ついてつかれきった魂《たましい》がそっと寄りかかるような存在のことに違いない。  しかし、だからといっていつまでもそうしていてはいけない。そのような実体のないものからは、いつか自立しなくてはいけない。そして、そのいつかというのを先延ばしにしてはいけないのだ。  病院へ行くついでに、入院している清水を訪ねるということを考えたのは、そのときだった。僕は彼女に会い、僕たちは無関係だということをはっきりさせなくてはいけない。そうすることが、唯一、思いつく治療《ちりょう》法だった。 [#ここから7字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  目覚めると、左手の中指は赤くはれていた。動かそうとするとひどく痛むし、そもそも恐《こわ》くて力が入れられない。  カーテンを開けて外を眺《なが》めると、薄《うす》い雲が空を覆《おお》っていた。分厚く光を閉ざすというような雲ではない。光を透過《とうか》するほどの薄くて巨大《きょだい》なベールが世界を覆ったような、やさしい雲だった。  一階に下りると、母がいた。 「今日はバイトないの?」  洗い終えたばかりで小さく丸まった洗濯物《せんたくもの》を、洗濯機の中から取り出しながら言った。 「バイト、やめたんだ」  母は手をとめた。 「あんた、就職活動したらどうなの。このさいどんなところでもいいから、就職しちゃいなさい」  軽く聞き流しながら、僕は居間で朝食を食べた。冷蔵庫の中に、冷えた昨日の夕食の残りがあった。見てもいないテレビの中で天気予報が流れていた。梅雨《つゆ》が明けて、これから暑くなる。そういったことを予報では言っていた。  病院へ出かける。清水が入院している総合病院だ。そこまでバスと徒歩で行くことにする。  総合病院は白かった。病棟《びょうとう》がいくつも立ち並び、敷地《しきち》の中には植木の並ぶ公園のような庭がある。自然の好きな人間が設計した病院なのだと思う。  診察の結果、骨が折れていることがわかった。医者は僕の中指をつかんで言った。 「折れた骨がゆがんだままくっつきかけていますので、形を直します」  あ、ちょっと待ってください。泣きそうな声でそう抗議《こうぎ》しようとした瞬間《しゅんかん》、医者は力任せに指の骨をずらした。金具で指を固定させられて、湿布《しっぷ》と包帯を巻かれると、診察は終わった。  受付けで料金を払《はら》った後、病院内を歩き回った。清水がどこに入院しているのかわからなかった。彼女は呼吸器系の器官を患《わずら》っていたが、どの病棟にそういった患者《かんじゃ》がいるのかも知らなかった。  しばらくして病棟の外に出ると、敷地内を歩いてみた。芝生《しばふ》の生えた丸みのある丘《おか》があり、その間を小道がゆるやかに曲がって延びている。杖《つえ》をついてゆっくりと歩く寝巻《ねま》きの老人や、子供連れの親子がいた。ほとんどは病院の患者なのだろう。  薄い雲を一枚|挟《はさ》んだやわらかい太陽が辺りに降り注いでいた。それは幸福な絵のように思えた。  清水に会うという気力がしだいに萎《な》えていくのを感じた。病院へくるまでは会うつもりだったのに、いざここへきてみると、そんな自分の行動が現実|離《ばな》れしているように思えてきた。  きっと、いきなり僕が病室に現れたら、彼女は首をかしげるだろう。そして、十年前の子供の戯言《たわごと》でここにきたことを知ったらおかしくてふき出すに違いない。  だから、会わないまま帰った方がいいのだろうと思えてきた。そのうちに時間が僕の頭を治療してくれるに違いない。  ベンチに腰掛《こしか》け、ここ数日のうちに起きたことや考えたことを思い出す。  まったく自分はみじめでどうしようもない人間であるという妄想《もうそう》は消えなかった。二十歳《はたち》にもなって、将来の展望も見えない。この先の人生にある暗鬱《あんうつ》とした未来に、不安で体が緊張《きんちょう》した。  いつか古寺が言っていたことを思い出す。 「未来が見えるとき、まるで暗闇《くらやみ》の中にふっと現れるような感じなんだ……」  それは手品師の前口上みたいなものだったのだろう。しかし、妙《みょう》にその説明は理解できた。未来はいつも不確かで、きっと暗闇の道だという彼の言葉は正解なのだろう。  僕という人間は、目の前に広がっている暖かい光景とはまったくかけ離れた存在だった。頭を抱《かか》えこんでしまいたい衝動《しょうどう》にかられる。何もかもを遮断《しゃだん》し、自分ひとりの暗闇の中へ逃《に》げこみたくなる。  自分の未来には何も待ちうけてはいないのだ。そう感じた。目の前で結婚式《けっこんしき》をあげた新郎《しんろう》と新婦、子供が生まれて家庭を築いている橋田、彼らの上に、今日の太陽のような暖かい光が降るといい。これは心から思うのだ。たとえ自分にそんな未来がこなくても、ひがみなどはない。羨望《せんぼう》を感じることはあるが、不思議と彼らに祈《いの》りを捧《ささ》げずにはいられない。  ふと、ベンチへ腰掛けている僕の横に、だれか人のいる気配を感じた。顔を上げて確認《かくにん》すると、車椅子《くるまいす》に乗った若い女性がいた。白い寝巻きを着ていることから、一目で入院患者であることがわかった。 「梅雨が明けたそうですね」  彼女は空を見上げて言ってから、ゆっくりとやさしい微笑《ほほえ》みを広げた。次に視線を僕の左手に向ける。 「その手を診察しにここへ?」 「……骨折してました」 「何をしたんですか?」 「バイト先で喧嘩《けんか》をしてしまって……」  彼女は車椅子の肘掛《ひじかけ》に肘をつき、顎《あご》を手で支えて、にやり、と笑った。 「喧嘩で骨折か……」  いったい何がおもしろかったのかわからないが、それがひどく彼女を愉快《ゆかい》な気持ちにさせたようだった。 「本当は、ついでに友達のお見舞《みま》いをするはずだったんですけど。病室に足を運ぶ勇気が消えてしまって」  彼女は静かに僕の目を見据《みす》えた。 「きっとその友達は喜ぶと思う」  それから僕たちは話すこともなく、静かに風景を眺《なが》めていた。  突然《とつぜん》に風景が輝《かがや》き出した。それまで空にあった薄い雲に切れ目が入り、太陽の光が隙間《すきま》から地上に差していた。目の前に広がっている芝生《しばふ》や植木がいっせいに世界を祝福するため立ち上がったように見えた。 「いい天気ですね。もうすぐ夏ですよ」  目を細めてまぶしそうに彼女は言った。僕は頷《うなず》く。 「……仕事がなくなって人生のどん底に落ちた日の翌日とは思えないくらい心地いい天気」 「どん底?」  僕は、なんと自分の人生には何もないのだろう、というような意味の話をした。彼女は一言も聞きもらすまいと一生|懸命《けんめい》な表情で聞いていた。はたから見ると、僕たちはどう見えたのだろう。ベンチに座る左手に包帯を巻いた男と車椅子の女が、首をつき合わせてうららかな昼下がりに人生について語っているのである。  彼女は僕を勇気付けるような話をして、大丈夫《だいじょうぶ》、問題ないという笑《え》みを見せた。そして車椅子を一生懸命、動かしながら、病棟の方角へ向き直る。まだ車椅子の生活になれていないのだということがその仕草からわかった。細い腕《うで》でタイヤを回すのは大変そうだったため、手伝おうとすると、「大丈夫、つきそいの看護婦がいるから」と彼女は言った。  彼女の向かう先に目をやると、看護婦がこちらを見ている。どうやら僕と話をしている間、待たせていたらしい。 「それじゃあ……」  彼女が手を振《ふ》った。  その会話が、僕と彼女の交《か》わした最後の会話になった。それから二週間後、彼女は死んだ。  葬式《そうしき》の日、雨が降っていた。僕と古寺は黒い傘《かさ》を彼女の家の玄関《げんかん》前でたたみ、傘立てに押しこもうとした。しかし一杯《いっぱい》で入らなかったので、下駄箱《げたばこ》の横に立てかけた。傘をさしていても肩《かた》は雨で濡《ぬ》れていた。だから傘は嫌《きら》いなんだとあらためて思う。  棺《ひつぎ》のある座敷《ざしき》には黒と白の幕が張ってあり、空気中に線香《せんこう》の匂《にお》いが混じっていた。家全体が雨音と線香の煙《けむり》に包まれているのを感じ、胸が苦しくなる。喪服《もふく》を着た親類の方や彼女の友人が大勢、遺影《いえい》の前で泣いていた。その中にいる人々の中で、だれも僕や古寺のことを知っている人間はいないだろう。僕たちは彼女の短い人生の中でもさらにほんの数瞬《すうしゅん》の間だけ、言葉を交わした程度の関係でしかないのだから。  焼香をしながら、心の中で清水にわかれを告げる。わかれと言っても、もとから関係などはなかったので、それはおかしな表現なのかもしれない。  そうなのだ。僕と彼女を示すもっともふさわしい言葉は、「無関係」なのだ。ただ近所に住んでいるからというだけで葬式に出席しているものの、僕たちにそれ以上の何かは存在しなかった。  それでも僕は……。もしもだれかに心を読まれたなら、そのだれかは不審《ふしん》な顔をして首をかしげることだろう。僕は、恐《おそ》ろしい喪失感《そうしつかん》に耐《た》えていた。 「大丈夫か?」  古寺が僕の肩をゆさぶった。どうやらひどい顔色をしていたらしい。 「……早く帰ろう」  そう言って立ちあがった。そのとき、聞き覚えのある声に引きとめられた。振りかえると、清水の母親だった。 「少しお話をしたいのだけど……」  ハンカチを握《にぎ》り締《し》め、目を赤くはらしていた。  僕たちは座敷に正座して向かい合った。周囲にいた人々はそれまで僕と古寺には無関心だったが、おばさんがそれまで以上に神妙《しんみょう》な顔をして対時《たいじ》しているため、横目で僕たちを気にしはじめた。 「少し前に、あの子のいる病院をたずねてきてくれてありがとう」  そう言うと、ほとんど泣き出しそうな顔のまま、畳《たたみ》に手をついて深く頭を下げた。その仕草は、一生の恩人に向けるのと同じものだった。僕はあまりのことに驚《おどろ》き、戸惑《とまど》った。 「そんな……、感謝されるようなことは何も……」 「本当にうれしがっていたわ」  おばさんは娘《むすめ》の遺影に目を向けた。  やさしげに微笑《ほほえ》んでいる清水の顔がある。成長してからまともに彼女の顔を見たことはなかったが、なぜかだれの顔よりもよく知っている気がする。 「……たぶん、ひさびさに会ったから」  病院で偶然《ぐうぜん》に顔を合わせた。ただそれだけのできごとだったのだ。  彼女の母親は、違う、そうじゃない、と言いたげに首を振った。 「あの子は、はっきりとは言わなかったけどね、あなたのことばかり考えていたのよ」  周囲はそれまでも静かだったが、話し声や雨音などの雑音が少しはあった。しかしその瞬間、一切の音はどこかへ吸いこまれて消えた。僕の耳には、娘を失った母親の静かな告白だけが聞こえていた。 「あの子、体が弱くて、小さいころから家にいることが多かったでしょう。だから、よく話をしたの……」  学校を欠席し家の中から出られない彼女に、おばさんはよくテレビドラマの話をしたり、たあいのない冗談《じょうだん》を言ったりして心を和《なご》ませていた。  特に、近所の子供が今度はどんないたずらをしたのかという世間話は、退屈《たいくつ》している娘へ聞かせるのにちょうど良かった。例えば、僕と古寺が家出を決行して公園にテントを張ったこと。こっそり他人の家の猫《ねこ》を餌付《えづ》けして将来的に自分を飼い主だと思わせようという計画とその失敗談。  あるときおばさんは気づいた。いつからか娘が、僕の話を聞いたときにだけそっとやさしい顔になるのだということを。  彼女はそのとき、はっきり何か特別なことを言うわけではなかった。 「でも、ちょっとしたしぐさとか表情から、それがわかったわ。あの子はたしかにあなたの話を聞きたがっていたの」  中学に上がり、高校、大学と進学しても、清水が家にいるとき、世間話のひとつとしておばさんは僕の話を聞かせていた。  僕の母親からおばさんへ、僕の生活は筒抜《つつぬ》けだった。成績が悪くて学校から家に電話がかかってきたこと、あるいはアルバイトを一日でやめてしまったこと、全部、親の口を伝わって彼女の耳に入っていた。  僕の話を聞いたとき、彼女はそっと窓に視線を向けたそうだ。  ハンカチを握《にぎ》り締《し》めているおばさんから目を離《はな》し、僕は窓の方を見た。一階にある座敷《ざしき》の窓には縦長の大きなガラスがはまっている。外には木の茂《しげ》みがあり、それを越《こ》えたところには、どこにでもある建売の家が見える。僕の家だった。  入院して、ほとんど起き上がれないくらい弱っているときも、彼女は弱々しげな微笑を浮《う》かべて僕の話を聞いていた。何も起こらない、ただアルバイトをしながらみんなに白い目で見られているだけの僕の日常を聞いて、まるで病の苦しみなど存在しないというように安らかな眼《め》をした。  清水はずっと、古寺の言ったことを信じていたのだろうか。学校や道ですれ違《ちが》うときも、僕と同じように、彼女も平静でいられなかったのだろうか。別々の道を歩みながら、新しい友人や知人が増えていく中で、僕のことを忘れずにいたのだろうか。 「僕が病院にきたことを、おばさんに話したんですか……」 「あの子が自分からあなたのことを話題に出したのは、ほとんどはじめてのことだった」  清水は母親にこう言ったらしい。 『今日、珍《めずら》しい人が来たわ』  幸福な世界の住人のように笑顔《えがお》を浮かべて。 『それで、天気の話をしたよ』  家を出るとき、彼女の母親は幾度《いくど》も頭を下げて僕に感謝をしていた。  雨は小降りになっていたが、それでも傘《かさ》をささないというのは無謀《むぼう》だった。  僕はささなかった。 「風邪《かぜ》ひくぜ」  古寺が傘の下からそう忠告した。 「それで死んでもかまわない」  僕は答えた。前髪《まえがみ》が雨のために額へ張りついた。 「おまえは死なないよ。死ぬのはもっと先だ。子供のころ、見えたんだ」 「清水が死ぬ場面は見えたのか?」  古寺が未来予報についての話をするのはひさしぶりだった。 「彼女が若いうちに死ぬ光景を、漠然《ばくぜん》とだけど、見た。……でも、それと同時に、おまえと家庭を築いて二人の子供に囲まれている場面も見えた。二つの未来は隣《とな》り合わせで、不確定だったんだ」  どちらかが死ななければ、おまえたちは結婚《けっこん》する……。  十年前に古寺の言った言葉を思い出す。それがたんなる出まかせなのか、それとも古寺自身は本気でそう信じているのかわからない。  僕たちは歩き出した。もうここまで濡《ぬ》れてしまったら意味ないだろうにと思うのだが、彼はしきりに傘をすすめてきた。もちろんそれを断り、空から落ちてくる無数の水滴《すいてき》に打たれながら僕は歩いた。 [#ここから7字下げ] 5 [#ここで字下げ終わり]  現在、僕は新しいバイト先で働いている。そして、駅前にある予備校へ今年の春から通い始めていた。あらためて勉強しなおして、大学を目指してみようと思っていた。  突然《とつぜん》、そういう気持ちになったのは、清水のことを人づてに聞いたからだ。  彼女は生前、絵と物語についての勉強をしていたという。将来、絵本作家になりたいと考えていたそうだ。僕が目的もなく生きていた間にも、彼女は夢のために努力していた。そのことを考えると、平静ではいられなくなる。  予備校で勉強し、バイトでくたくたになる。それはハードな生活だったが、充実《じゅうじつ》をもたらした。ひとまず立ち止まっている時期は過ぎた。まるで長い長い雨季が過ぎ去ったようである。  古寺は順調に研究をしているし、そのうち海外へ留学することも検討中だという。家で飼っていた黒い毛の犬は子供を産みおとし、家の中は急に騒《さわ》がしくなった。僕はあまり犬になつかれる方ではなかったが、やっぱり子犬はかわいいのである。元気のない僕を勇気付けた功労者は子犬たちだった。  ある晴れた日曜日、僕と古寺は駅前で合流してぶらぶらしていた。真夏の攻撃《こうげき》的な太陽が路地のレンガを熱し、並んでいる店の壁《かべ》は白く輝《かがや》いていた。 「葬式《そうしき》の後で言ったこと、覚えているか?  おまえさ、僕と清水が家庭を築いた未来を見たって言っただろ?」  歩きながら古寺にたずねると、彼は頷《うなず》いた。 「どうしてそんなことを聞く?」 「そのとき、二人の子供がいたって言わなかった?」 「いたぜ。俺が見た未来はな、ちょうどおまえたちがファミレスから出てくるシーンだった」 「男の子だった? 女の子?」  僕が立ち止まると、古寺も歩くのをやめた。 「大きな方は男、下の子は清水に抱《だ》っこされていたからよくわからないけど、たぶん女だった」  あいつは幸せそうだったのだろうか。そのことをたずねようとして、途中《とちゅう》でやめた。  雲のないつき抜《ぬ》けた青空を見上げて、生まれていたかもしれない二人の子のことを考えた。その日の空はどこまでも大きく、はてがなかった。 「昨日の天気予報では曇《くも》るって話だったんだがな」  古寺はガードレールに体を預けてそうぼやいた。  彼の予報によると、彼女が死ななければ僕らは結婚していたそうだ。かつてはそのことをただのホラ話として受け取った。  しかし、ここで一つ、清水がいなくなった後で興味深い事実が発覚した。  最近、生まれた子犬の毛は白色だったのだ。  いつか古寺は未来を予報した。僕は白い犬を飼うだろう、と。ひどく時間が経過して、的中したことになる。  それは、古寺が散々に言い張っている未来を見通すという力が本当のことなのかもしれないと僕に思わせる。そして、僕と清水にあったかもしれない未来について考えさせられるのだ。  僕と同じように、清水も別の場所で僕のことを考えていた。いつも存在を気にして暮らしていた。世界中でたったひとりでも、自分のことを考えてくれている人がいたのだ。結局、彼女がいなくなるまで僕はそのことに気づかなかったけど、それはどんなに幸福なことだったのだろう。  僕はもっと早くに清水に声をかけるべきだった。結婚などということはしなくても、ただの友達として、僕らは良い関係になっていたかもしれない。彼女の短い人生の中で、せめてそうなれていたら良かった。  僕の中にそれは後悔《こうかい》として残った。そのために心臓が破裂《はれつ》しそうなときもたまにある。  でも、僕は思う。時間がたつにつれて、その不幸な側面までもが愛《いと》しく思えるようになるといい。そして、そうなると信じている。以前、僕には未来にも過去にも苦しいものしかないと思っていた。しかし、それはきっと違う。  あの病院で、清水加奈は言ったのだ。別れ際《ぎわ》、天気の話をしたあとで。  病院の庭。僕はベンチに座り、左手に包帯を巻いていた。清水は車椅子《くるまいす》に腰掛《こしか》け、僕のそばにいた。やわらかい日差しの中、草木の匂《にお》いが辺りに満ちていた。  僕の人生には、きっと何もないのだ。そのことを彼女に言うと、彼女は居住まいを正し、真摯《しんし》な表情で言ってのけた。 「意味のない人生はない。私はそう思うの」  今思えば、短い人生しか与《あた》えられなかった彼女にとって、その言葉のどれほど重かったことだろう。 「でも、他《ほか》のみんなに比べて、僕はあまりにもみじめな気がする……。みんなは就職したり、やりたいことを見つけてがんばったりしているのに、僕は何もしていない。僕がここで生きている必要ってあるのだろうか」  清水は目を閉じて首を横に振《ふ》った。 「私も、体の具合が悪くなって家で寝《ね》ていなくちゃいけないとき、よくそう感じた。どんどん、みんなが行ってしまって、自分だけ取り残される。でも、悲しまなくていい。最近はそう思える。だってこういう風にしか生きられないんだもの。だから、焦《あせ》らないで。自分の人生を、他のみんなと比べる必要はないよ」  僕は、静かに彼女の言葉を聞いていた。彼女は息を吐《は》き出すように言った。 「あなたがいてよかった。だから、泣かないで生きていて。まだこれから陽《ひ》のあたる人生をあなたは歩むのだから」  彼女のことを思い出すとき、いつも空を見あげた。晴れて太陽のまぶしい日もあれば、雨の降り続く暗い空もあった。  でも、僕にはいつも見えた。あの病院の庭で彼女と話をしたときの、空に絹がかかったような空を。それはまるで、白く輝く羽毛《うもう》が空に敷《し》き詰《つ》められたように、世界をやわらかく包み込んでいた。  僕たちの間には言葉で表現できる「関係」は存在しなかった。ただ透明《とうめい》な川が二人の間を隔《へだ》てて流れているように、あるような、ないような距離《きょり》を保っていた。  しかし、僕は清水のことを考えるとき、まるで何十年も連れ添《そ》った後、寿命《じゅみょう》で眠《ねむ》るように死んでしまった妻へ思いを馳《は》せるような、懐《なつ》かしい気持ちになるのだ。 [#改丁]  手を握る泥棒の物語 [#改ページ] [#ここから7字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  古い温泉宿の、伯母《おば》とその娘《むすめ》が宿泊《しゅくはく》している部屋でのことだった。何も、見たくてそれを見てしまったのではない。伯母は席をたって手洗いに行くし、それまで一度も会ったことはない伯母の娘というのも外出していた。部屋に一人で残されていた俺があぐらを組んでぼんやりしていると、触《さわ》りもしないのに目の前で、テーブルの上から伯母のバッグが落下したのである。  畳《たたみ》に落ちたバッグの中から、宝石のついたネックレスと分厚い封筒《ふうとう》が転がり出た。伯母の旦那《だんな》はとある会社の社長で、財産を相当にためこんでいるという。伯母は安物のアクセサリーを身につけないのだと、俺は親から聞いて知っていた。だからそのネックレスの値段も大方、想像がついた。それに封筒の方は、ちょうど口のあたりが俺の方を向いて落ちたからわかったが、今回の旅行資金である一万円札の束が入っているらしかった。  俺はふらふらと、宝を吐《は》き出して畳に転がっているバッグへ近づいた。両手にネックレスと封筒をつかみ、ポケットに入れてそのまま帰ってしまおうかと考えた。  そこでわれに返る。伯母はやがて手洗いから戻《もど》ってくるだろう。そしてバッグの中身がなくなっていることに気づいたら、部屋で一人残っていた俺が犯人だとすぐにばれる。  宝を中に戻してバッグをテーブル上のもとあった場所へ置いた。まさにそうしている瞬間《しゅんかん》に部屋の扉《とびら》が開いて、伯母が戻ってきた。俺は中腰《ちゅうごし》の状態でバッグから手を離《はな》した直後だったため慌《あわ》てた。ごまかすために立ち上がり、なかなかこの部屋はいい眺《なが》めですねえ、とか言いながら窓に近寄った。  伯母に会うのは五年ぶりだった。日本の、ここからもっと離れた場所にある豪邸《ごうてい》に彼女は住んでいる。その伯母が突然《とつぜん》、娘を連れて俺の住むこの町に旅行へ来るという。数日前にそのような連絡《れんらく》を受け、俺は今日、こうやって旅館を訪ねて会いにきているというわけだった。俺の両親は一年前に死んでしまった。だから、もっとも近い血縁《けつえん》は伯母なのだ。近くにきているのに、会わないわけにはいかない。  この部屋の外に面した壁《かべ》は、畳から四十センチほどの高さに出窓があった。黒ずんで木目もわからない古びた木の窓枠《まどわく》に障子がはまっており、その外側にガラス製の窓がついていた。窓の下は壁が手前に出っ張って花瓶《かびん》などが置けるようになっていた。その出っ張っている部分は中が小さな押し入れになっているらしく、引き違いの戸がついていた。 「いい眺め? あんた、本当にそう思うの?」  伯母はテーブルのそばに正座しながら、眉《まゆ》をひそめて言った。あらためてよく窓の外を見ると、それほどいい眺めではないことに気づく。  この辺りには温泉宿がひしめいており、窓から五メートルほど離れたところに、また別の建物が壁のように立ちはだかっている。ちなみに俺と伯母のいるこの部屋は一階で、正面にある壁のような建物は三階建ての大きさである。見晴らしはすこぶる悪い。それにくわえて、窓のすぐそばに巨大《きょだい》な石がある。これが広大な和風庭園にでも置かれているのならずいぶん様になるに違いない。しかしこのように窓のすぐそばに置かれては邪魔《じゃま》なだけである。  それだけじゃない。少し身を乗り出して外を見ると、建物と建物の隙間《すきま》にワゴン車が停《と》めてあるのが見える。宿泊客を興ざめさせるためわざとそこに停めているとしか考えられない。  窓の近くに立ってみて、あらためて壁が薄《うす》いことを知る。これでは、わずかな地震《じしん》でどこよりも早く崩《くず》れ去ることが可能だろう。いや、地震などなくても自然に瓦礫《がれき》となるかもしれない。 「うちのアパートよりは、いい眺めに違いないですよ。ところで、どうして突然、旅行を思い立ったんですか?」 「映画の撮影《さつえい》を見に来たの」 「撮影?」  伯母は楽しそうにうなずく。どうやらこの温泉町で、ある有名な監督《かんとく》の映画の撮影が行なわれるらしい。どんな人が出るんですか、と聞いてみると、伯母はその映画に出演する俳優の名前をずらずらと並べ始めた。俺は芸能人には詳《くわ》しくなかったが、どこかで聞いたことのある名前ばかりだった。ヒロイン役として、若手のアイドル俳優が出演するのも話題だという。その名前を聞いてみるが、伯母はなぜか苗字《みょうじ》を言わずに名前しか説明しなかった。苗字を教えてくださいよと頼《たの》んだが、苗字のない二文字の漢字からなる名だけの芸名だと説明される。なおかつ、そのくだらないアイドルの名前を知らなかったことについて伯母は鼻で笑った。 「あんた、この名前も知らないようじゃだめだわよ」 「だめですか」 「そうよ。そんなだから女の子にももてないし、仕事も失敗するし、服装もださいのよ」  伯母は、窓際《まどぎわ》に立ったままの俺の足元を見た。その視線を追うと、俺の靴下《くつした》の先に辿《たど》り着く。靴下に穴が開いており、俺は落ちこんだ。だめ人間の証明というものがその靴下の穴に集約されたように思う。 「いつまであんな仕事をしているの。お友達とはじめたデザイン会社、うまくいってないんでしょう? あなたのデザインした腕時計《うでどけい》も、在庫があまっているって話を聞いたわ」  会社は非常に順調だと、俺は伯母にささやかな嘘《うそ》をついて意地をはった。それから、左腕を伯母の目の前に差し出して見せる。 「これを見てください」  何よ、という顔つきで伯母は俺の腕を見た。俺は腕時計を手首に巻いていた。俺がデザインしたもので、数ヶ月後には大量に生産されて市場に出回る予定だと説明する。 「これは試作品で、今のところ世界にひとつしかありません」  言葉では言い表せない画期的なデザインの腕時計である。 「また在庫の山ができるだけよ」  伯母はそう言うと、テーブルに置いていたバッグを持って立ち上がる。窓のそばに膝《ひざ》をつき、押し入れの引き戸を開けた。  膝の高さまでしかないそなえつけの押し入れは、ちょうど窓とおなじだけの横幅《よこはば》である。引き戸が開けられると、奥行きが三十センチほどしかない空間であることがわかった。伯母はその空間の、右下の隅《すみ》にバッグを置くと、また戸をしめた。  俺はそれを見ながら、不思議な感じがした。この旅館の壁は相当に薄い。窓下にあるそなえつけの押し入れは、少し手前に出っ張って中の空間を確保しているとはいえ、奥の壁はやはり薄いに違いない。もしも地震などで穴が開いてしまえば、バッグは外から取り放題ではないか。  伯母はテーブルに戻ってお茶をすすった。そういえば俺にお茶は出されていないが、気にしないことにする。 「今晩、娘と映画の撮影を見に行こうと思うの」 「俺が車で撮影場所まで運びましょうか?」 「いらないわ。シートが汚《きたな》そうだもの」  ため息をつきながら、彼女の娘に同情した。このような母親を持つと苦労しそうである。伯母の娘ということは、つまり俺の従妹《いとこ》にあたるわけだ。しかしまだその人物を見たことがなかった。話によるとどうも従妹は十八歳らしいので、俺とは五歳も違《ちが》うことになる。  一年前に死んだ母から、従妹についてよく噂《うわさ》を聞いていた。従妹はどうやら、母親の言うことをよく聞く子供なのだそうだ。 「娘を無理やり引っ張ってわざわざこんなところまで来たんですか」 「失敬ね。あの子だって喜んでいるわよ」 「ちょうど今、進路のことで大変でしょう。大学に行くんですか?」  伯母は自慢《じまん》げな顔をした。 「私の望んだ通りの学校へ進ませるつもりなの。もうすぐ帰ってくるはずよ、あの子に会っていきなさい」 「いいです。もう俺は帰ります」  左腕に巻いた腕時計を見て時間を確認《かくにん》し、立ち上がった。伯母は引きとめず、あら残念ね、と特に残念な様子でもなく明るく言った。  扉《とびら》を開けて廊下《ろうか》に出る。古い旅館には似合わず、重々しい鍵《かぎ》がついていた。これなら泥棒《どろぼう》に入られることはないという安心の重量感がその鍵にはあった。  伯母に軽く頭を下げて別れた。廊下を歩き出すと、床板《ゆかいた》がきしんでみしみしと音を出す。照明が弱く、薄暗い。その中に部屋の戸がつらなっている。  人影《ひとかげ》が目の前にあった。照明の暗さで最初のうち顔はわからなかったが、輪郭《りんかく》で若い女の子だと判別できた。俺が部屋から出てきたところを、見られていたらしい。  すれ違う瞬間《しゅんかん》、彼女の顔が照明の明かりの中でふっと浮《う》かび上がる。彼女は俺の顔をまじまじと見た。その不自然に注がれる視線から、彼女こそはじめて目にする従妹なのだということがわかった。飾《かざ》りけのない服装で、清潔な印象を受けた。しかし俺は知らないふりをして旅館から出た。  夏が過ぎていくらかすずしくなった風が、温泉町の道を通りすぎる。立ち並んでいる旅館や土産物屋《みやげものや》のかわら屋根を、飛ばされた枯《か》れ葉が越《こ》えて遠く夕焼けの空に消えた。  土産物の饅頭《まんじゅう》を売る店から、独特の匂《にお》いが漂《ただよ》ってくる。子供のころ、学校へ行く途中《とちゅう》、饅頭屋の裏手をよく通った。換気扇《かんきせん》から出てくる匂いが好きになれなかった。鰻頭を作っている途中の匂いというやつは、饅頭とは別の、息のつまりそうな温かいこもった匂いだった。そのことを漠然《ばくぜん》と思い出す。  車を停《と》めた駐車場《ちゅうしゃじょう》へ歩いている途中、大きな荷物を抱《かか》えた人々の一群に出会った。十人ほどで、服装や性別もばらばらだった。 「どうもすいませんね、町を騒《さわ》がせちゃって」  中の一人が土産物屋のおばあさんにそう声をかけていた。直感的に映画の撮影隊の人間だと気づいた。  出さなければならない手紙が上着のポケットに入っていた。ぐうぜんにポストがあったので手紙をその中に入れようとした。ひと昔前の古い形をしたポストだった。しかし手紙を入れようとして、口の穴がひらいていないことに気付いた。 「それ、本物じゃないですよ」  撮影隊の一人がそう言いながら近付いてくると、目の前で軽々とポストを抱え上げ、立ち去っていった。映画のセットの一部だったらしい。  本物のポストを探しながら周囲を見ると、カメラを持っている観光客が多いことに気付く。伯母《おば》と同様に、芸能人が目当てなのだろう。もちろん俺には何も関係がなかった。  生まれてはじめて腕時計を巻いたのは、五歳の誕生日だった。当時、まだ生きていた俺の親父《おやじ》が、俺にくれたのだ。息子《むすこ》の誕生日のことをすっかり忘れて酒を飲んで遅《おそ》く帰ってきた親父は、誕生ケーキを半分残した元気のない俺に対して申し訳ないと思ったのだろう。それまで肌身《はだみ》離さず身につけていた腕時計を、俺の腕に巻いてくれたのだ。  親父は普段《ふだん》、俺に何かを買ってくれるというようなことはなかった。子供に厳しかったというよりは、金がもったいないという程度のことだったのだろう。俺が母に携帯《けいたい》用ゲーム機を買ってもらって喜んでいると、うれしがっている俺の顔が気に入らなかったのか、親父は怒《おこ》り出してゲーム機を風呂《ふろ》に投げこんだ。  そんな親父が、ほとんど唯一《ゆいいつ》くれたのがその腕時計だった。金色で、ずっしり重かった。ベルトは金属製で、普段は触《さわ》ると冷たいのだが、そのときは親父の体温がまだ残っていて温かかった。まだ小さかった俺にとってその腕時計は、手首にするにはあまりにも大きくて重かった。それでもその腕時計が気に入って、いつもはめていた。  それ以来、小遣《こづか》いは腕時計集めに注《つ》ぎこまれ、俺の頭の中はいつもそのことでいっぱいだった。どれくらいいっぱいだったかというと、気を緩《ゆる》めると、耳や鼻の穴から腕時計のベルトが飛び出してしまいそうなほどだった。  規則的に時間を刻むという、世界の法則を内側に宿した機械。俺はいつからか、理想の腕時計のデザインをノートにためていった。  旅館のある温泉町から三十分ほど車を運転して、友人である内山《うちやま》君の家へ向かった。高校を卒業したとき、大学へ行けという親父の反対を押しきって、俺はデザインを学ぶための専門学校へ入学した。内山君は専門学校時代の友人で、卒業と同時に二人でデザイン会社をはじめた仲である。ポスターや雑誌の表紙を制作する仕事を続け、なんとかまだ社会の中で生き残っている。  半年ほど前、俺たちの会社は腕時計を発売した。デザインを俺が担当し、基盤《きばん》はメーカーから購入《こうにゅう》して制作したものだった。今度、その第二弾を生産し、発売する予定である。  内山君の家でもあり会社の住所でもある二階建てのみすぼらしい建物の駐車場に車を停め、入り口を開ける。  社長である内山君は背が低く、鼠《ねずみ》に似ている。俺が出社してきたのを見ると、彼はコーヒーを用意しながら視線をそむけた。そのタイミングが絶妙《ぜつみょう》だったため、不審《ふしん》なものを感じた。 「伯母さんはどうだったんだい?」  内山君はコーヒーの入ったカップを俺の机に置いた。 「元気だったよ」  そう答えて、しばらく俺たちは、それぞれ無言で机のまわりを片付けていた。やがて片付けるものもなくなると、彼は口を開いた。 「ところで……。今度発売を予定していたきみのデザインした腕時計《うでどけい》、作らないことにした」  ほう。俺はうなずいて、一瞬《いっしゅん》だけ納得《なっとく》しかけた。それから、彼が何かおかしなことを言ったように思えて、聞き返す。 「え、……よく聞こえなかった」  彼は懇切丁寧《こんせつていねい》に、俺のデザインした最初の腕時計の売れ行きがあまりに不調で、その第二|弾《だん》を生産して売り出す余裕《よゆう》はもうないのだということを説明した。第二弾の腕時計というのはつまり、現在、俺が左腕にはめている試作品のことである。 「僕もなんとかお金を集めようとしたんだよ。でも無理だ。そもそも売れない時計なんか作る方がどうかしてる」  内山君は、俺のデザインに理解を示すただ一人の友人だった。しかしその才能を腕時計へ費《つい》やすことには懐疑《かいぎ》的なのである。  腕時計の生産ラインを確保するためには、それ相応のまとまった金が必要だ。時計メーカーから中身を買わなくてはならないし、生産するための工場も使わせてもらわないといけない。俺が作ろうとしているのは、百円ショップで売られているような安い腕時計ではないのだ。思想に貫《つらぬ》かれた作品である。生産するにも値がはって、それはひとつの賭《か》けになる。賭け事には資金が必要なのだが、俺たちの会社にはそれがないという。銀行への借金がまだ残っている状態なのだ。  ため息をつきながら、俺は言った。 「……いいよ、会社の存続自体が危ないんだろ。俺の腕時計くらいなんでもないさ」  正直なことを言うと、かなりこたえた。これから売り出すつもりだった腕時計は、試作品をすでに多くの知人たちに見せて自慢していたし、時計を生産する工場の人とも何度か打ち合わせをしていた。これで俺は社会に認められて、デザイン会社など成功するはずもないと決め付けてあざ笑っていた親父《おやじ》の墓にざまみろと言いに行くつもりだったのだ。 「いいって。わかってるよ。残念だけど、しかたない。だから内山君、そんなに気にする必要はないよ」 「気にしてないって」 「わかってる、社長であるおまえの手腕《しゅわん》がたりなくて経営が危なくなったのがすべての原因だけど、しょうがないことさ。だから気にするな」  彼は呆《あき》れた顔をした。 「……でも、なんとかなんないかな。少量でもいいんだけど、どれくらいのお金があれば生産できるんだ?」 「あと二百万あればなんとか」 「そうか……」  実を言うと、そんな金はどこにもない。俺は中小|企業《きぎょう》の難しさを考えながら、机に肘《ひじ》をつく。頭が重かった。このままでは俺のデザインした腕時計どころか、この事務所さえ危ういらしい。いや、そもそもこんな事務所なんてどうでもいいから自分のデザインした腕時計を生産したい。最初に売り出したやつも悪いものではなかったのだ。少し運が悪かっただけである。俺は今度の腕時計に賭けていた。実際、試作品を見た者はすべてデザインを誉《ほ》めてくれる。もちろん、それらがすべてお世辞だった可能性はある。しかし、正式な評価は市場に出回って腕に巻いてくれた人々から聞きたい。俺はそのための完成品が欲しい。せめて少量の数を作れる金さえあれば、少しは世間に流通させることができただろう。  ぼんやりといろいろなことを考えているうちに、いつのまにか俺の頭の中で、内山君の言った二百万という金額が別の形に変化していた。別の形というのを具体的に説明するならば、つまり伯母《おば》のバッグに入っていたネックレスと封筒《ふうとう》のことである。  俺は、腕組みして、考えたことを検討しはじめた。 [#ここから7字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  空にかかった雲が月を朧《おぼろ》にかすませている。温泉町の真ん中を突き抜ける道には、一定の距離《きょり》を置いて街灯が並んでいた。ひしめいている旅館や土産物屋《みやげものや》の看板は電灯で照らされ、少し見上げた空中で道の遠くまで連なっているように見えた。  夜のまだ早い時間であるためか、道には人通りがあった。いつもなら古びて老人の臭《にお》いしかしないようなこの温泉町に、意外と若い人も混じって歩いている。映画俳優を見るために出向いてきたのだろう。  伯母とその娘《むすめ》が宿泊《しゅくはく》している旅館は、宿の立ち並ぶ通りの、もっとも建物が密集した場所にあった。どれほどの昔から建っているのか、まわりが背の高いコンクリートの建物に建てかえられているというのに、その旅館だけこぢんまりと古ぼけたまま生き残っている。  周囲に視線をやり、だれも俺に注意を向けていないのを確認《かくにん》し、旅館の壁《かべ》に沿って道からはずれた。伯母たちが部屋をとった旅館と、その隣《となり》の旅館との間のスペースに、あいかわらずワゴン車が停《と》まっている。建物同士の隙間《すきま》にちょうど収まって駐車《ちゅうしゃ》しているので、壁と車との間は狭《せま》い。俺は体を横にして通り抜けた。片手にさげていた工具箱も、ぎりぎりで隙間を通る。工具箱は、内山君の家で借りたものだった。  昼間に伯母の部屋の窓から見たあの巨大《きょだい》な石が、暗闇《くらやみ》の中でさらに黒い影《かげ》となって見えた。そのおかげで、石のそばにある窓が、伯母とその娘が宿泊している部屋のものだとわかった。  部屋の電気は消えていた。伯母とその娘は部屋にいないのだろう。夜は二人で映画の撮影《さつえい》を見学しにいくのだと、昼間、俺に話していた。  俺は目的の窓の前に立ち、持っていた工具箱を地面に置いた。  昼間のことを思い出す。伯母のいた部屋には、窓の下にそなえつけの小さな押し入れがあった。その中に伯母は、ネックレスや金の入った封筒がつまっているバッグを置いているはずだ。もしもそれらを手に入れることができれば、俺は、自分のデザインした腕時計を工場で生産することができる。  しかし、部屋の扉《とびら》には鍵《かぎ》がかかっていて、鍵開けの能力などまるでない俺には入ることができない。だが、この薄《うす》い壁に穴を開け、その向こう側にある宝を片手でそっとつかむことならできそうだった。  俺は膝《ひざ》をついて工具箱を開けた。ドライバーのセットやペンチをどけて、電動式のドリルに手を伸《の》ばす。ドリルは拳銃《けんじゅう》のような形をしており、引きがねにあたる部分に、刃《は》を回転させるスイッチがついている。  右手でドリルを構え、壁越《かべご》しに、押し入れのある位置を探した。  昼間に見た部屋の光景を頭に描《えが》く。押し入れは窓の下に設置してあった。横幅《よこはば》は窓と同じくらいで、高さは畳《たたみ》から四十センチくらいだったろう。その中の、右下の隅《すみ》に伯母はバッグを置いた。ということは、外側から見ると、窓枠《まどわく》の左下の角から、下の方へ四十センチほどのところにバッグがあるはずだ。そこに穴を開ければ良い。  窓を見上げ、開くかどうか確かめた。伯母はしっかりと戸締《とじま》りをして出ていったらしい。窓には鍵がかかっており、その向こう側の障子も閉められている。窓は外から見ると、建物の土台の高さがあるぶん、高い位置にある。窓下がちょうど、胸の辺りにあった。そこから四十センチほど下を確認する。地面に膝をついた状態でちょうど鼻先にくる部分が目的の位置だった。  刃の先端《せんたん》を壁に押し当て、人差し指でスイッチを入れた。充電《じゅうでん》したバッテリーでモーターが回転する。フル回転させれば短時間で作業を済ませることが可能だが、そうすると音がうるさい。だからドリルの回転速度を押さえて作業しなければいけない。  壁はよほど寿命《じゅみょう》なのか、やすやすと刃先のスクリューがもぐりこんだ。豆腐《とうふ》にネジを突《つ》き刺《さ》しているような手応《てごた》えだった。  一個穴を開けると、そのすぐ隣にまた同じように開ける。その作業を十分ほど繰《く》り返しているうちに、やがて小さな穴が円形に並んだ。一個の穴を開けるのに、一分もかからなかった。  最後に、ドリルで開けた穴同士の隙間を、ポケットに携帯《けいたい》していたナイフで拡《ひろ》げた。最初の予想では、ナイフで少しずつ削《けず》っていかなければならないはずだった。しかし刃は、ざくざくと突き刺さる。  やがてその作業も終わると、壁には直径十五センチほどの丸い切りこみができた。暗かったが、手探《てさぐ》りでそれがわかる。少し押すと、丸く切り取られた壁が、奥へずれるのがわかった。こんなにかんたんに穴が開いていいものだろうか。俺は、老朽化《ろうきゅうか》した旅館の壁に感謝した。  丸い切りこみの中心を人差し指で押す。ずるずると五センチほど奥へずれると、指の先に感じていた壁の感触《かんしょく》がふいになくなり、小さな固い塊《かたまり》の落ちる音が壁の向こう側から聞こえる。  窓枠の左下角から四十センチ下がったところに、穴が開いた。俺はその瞬間《しゅんかん》を奇妙《きみょう》な気持ちで迎《むか》えた。壁に開いている暗い穴の向こう側に、おそらく伯母とその娘が鍵をしめて出ていったであろう密室があるのだ。これまでわけ隔《へだ》てられていた空間が、穴のためにつながり、空気の移動ができるようになった。つまり壁の向こう側は、もう部屋の「中」とは言えず、「外」の一部になってしまったのである。  周囲を見る。道に並んでいる街灯や看板の明かりがぼんやりと空を明るくしていた。しかしワゴン車がうまいこと壁になって道の方から俺の姿は見えない。だれかに見られる心配はなさそうだった。  俺は半袖《はんそで》の服を着ていたので、腕を穴の中に突っ込む際、袖をまくる必要はなかった。左手を、壁の穴に入れる。穴はちょうど、中にある宝をつかんだ拳《こぶし》が出入りできるほどの大きさにしてあった。左手が丸い穴の縁《ふち》にあたりながら、通り抜けた。手だけが、部屋の中の小さな押し入れに裏側から入りこんだ形となる。  目算で距離を測って穴を開けたためか、ずれがあったらしく、バッグはすぐそばになかった。左手を壁の向こう側で動かす。体のバランスを崩《くず》さないよう、両膝《りょうひざ》を地面につき、右手のひらを壁につけて支えた。ずれはあるだろうが、バッグは近くにあるはずだった。  押し入れの中には、ひやりとした空気がたちこめている。俺には窺《うかが》い知れない壁の向こう側で、左手の指先に何かが当たった。その感触から、目的のバッグらしいとわかる。中を確かめて、ネックレスと金の入った封筒だけを取り出さなければならない。穴を通り抜けるには、バッグは大きすぎるからだ。  そのとき、俺の左手首が、何かに引っかかった。かるい圧力がかかり、手首に何かがぶら下がったように感じる。  あの試作品の腕時計《うでどけい》を巻いたままだということを思い出した。時計のベルトに、バッグの金具か何かが引っかかったのだろう。俺はそれをはずそうと、左手を壁《かべ》の向こう側でふってみた。  手首にかかっていた引っかかりが消える。俺は一瞬《いっしゅん》だけ安堵したが、すぐにそれが間違《まちが》いであることに気づいた。  外れたのは、俺の手首に巻かれていた腕時計の方だった。壁の向こう側から、小さな固い音が聞こえた。俺の腕時計が落下し、押し入れ内に張られた板と衝突《しょうとつ》して転がる音だった。  叫《さけ》びそうになるのを思いとどまり、深呼吸する。大丈夫《だいじょうぶ》、焦《あせ》ることはない。腕時計を手探りで探し出し、落ちついて回収すればいいのである。  俺は左手をほとんど肩《かた》まで穴の中に差しこんだ。目を閉じて集中し、腕時計を探す。肩まで入れると、壁に片方の頬《ほお》を押しつける格好となった。古い壁土の匂《にお》いが肺に吸いこまれる。  左手を壁の向こう側で動かし、下側に張られている板の表面を左手でなぞっていく。ざらざらした木の感触が、指の腹や手のひらに残る。やがて俺の左手は、何か不思議なものに触《ふ》れた。  最初はそれが何かわからなかった。ただ、やわらかくて、温かかった。次の瞬間、壁の向こう側で、いるはずのないだれかの息を飲む気配がした。  俺は咄嗟《とっさ》にそれをつかんだまま、穴から左手を抜いた。  月にかかっていた雲が一瞬だけ晴れて、建物同士の隙間《すきま》をぼんやりと白く月光で照らし出した。壁の穴から、俺の手につかまれて引きずり出された、女のものとしか思えない白く細い腕《うで》が垂れ下がっていた。 「わっ! なに? なんなの?」  女の悲鳴じみた声が壁の向こうから聞こえてくる。混乱しているのは、俺も同じだった。  俺は女の手首をつかんだままだった。穴から出てきた手が、空中で暴れ出す。俺はほとんど無意識に、手首をつかんでいる手に力をこめてそれを制止させた。女の腕は、それでももがいて暴れる。 「う、動くな……!」  壁の向こう側に声をかける。不思議とそうすることで、水が地面に染みこむように、ある解釈《かいしゃく》が頭の中に行き渡《わた》った。これは、不測の事態である。  伯母《おば》と従妹《いとこ》は映画の撮影《さつえい》を見学するために部屋を出たと思っていた。しかし、実際は違っていたのではないか。きっと、伯母か娘《むすめ》のどちらかが部屋の中に残っていたのだ。そして俺は愚《おろ》かにも、その人物の手首をつかんでしまったのだ。 「だれ!?」  壁の向こう側で、恐怖《きょうふ》するような女の声。さきほど月光で一瞬照らされた白い女の手を思い出す。若い人間の肌《はだ》だったように感じた。今、俺は左手でその手首を握《にぎ》り締《し》めているが、たぶん伯母の手ではないだろう。聞こえてくる女の声も、伯母のものではない。  昼間に廊下《ろうか》ですれ違った従妹の顔を思い出した。 「静かにしろ! でないと……」  でないと、どうするつもりなのだろう俺は……。途方《とほう》にくれる。壁から突き出てもがいていた腕が静かになる。俺の言葉を待っている間、辺りは無音になった。二人してぴたりと動くのをやめて、俺が何か言うのを待っていた。この俺自身もだ。 「……でないと、おまえの指を切り落とすからな!」 「本当に?」 「本当だ」  女の腕が慌《あわ》てたように部屋へ引き戻《もど》されようとする。俺は両手でそれに対抗《たいこう》した。力の差で、壁の穴に女の手が消えるのを防ぐことができた。俺が手首をつかんでいるかぎり、彼女は壁から腕を出したまま動けないわけである。 「痛いわ、手を放《はな》して!」 「だめだ、我慢《がまん》しろ」  そこまで言って、部屋には従妹の他《ほか》に、伯母もいる可能性だってあるのだと思い至った。 「……そこに、おまえ以外の人間はいるのか?」 「いるわ。大勢いる」 「じゃあ、なぜおまえの声で起きてこない?」  彼女が口籠《くちごも》る。それで、彼女の言葉が嘘《うそ》で、伯母はいないのだということが推測できた。おそらく伯母は、一人で外出したのだろう。  俺は、予想外の展開に動揺《どうよう》していた。このまま走って逃《に》げ出したくなった。しかし、すぐにそうするわけにはいかないのだ。俺にはしなくてはならないことがあった。 「あなたはだれ?」  壁の向こうから、震《ふる》える声が聞こえた。 「とにかく大きな声を出すな!」 「今のは大きな声じゃなかった……」  彼女の弱々しい抗議《こうぎ》を黙殺《もくさつ》した。あらためて、壁の穴から出ている腕を見る。暗くてよくわからないが、肩の近くまで外へ露出《ろしゅつ》している。どうやら彼女の右腕だった。俺は、中で従妹がどのような格好なのかを想像してみた。おそらく押し入れの奥の壁に上半身を押し付け、さきほどまで俺がそうしていたように、顔の片側を壁にくっつけているのだろう。彼女に対して申し訳ないことを現在進行形で行なっているなと思う。しかし俺は無慈悲《むじひ》な泥棒《どろぼう》として接しなければいけない。厳しい態度を保っていないと、助けを呼ばれてしまう。 「いいか、大きな声を出したら、おまえの指を切るからな!」  俺は手の生えている壁に向かって言った。すると、壁が「……わかった」と返事をする。手首を握り締めて話をしているのに、相手の顔は見えない。俺の目の前には古い壁があるだけだ。 「……でも、本当にわけがわからないの。あなたはだれ?」 「俺は泥棒だ」 「嘘よ……。自分のことを泥棒だって宣言する間抜《まぬ》けな人はいないわ……」  それは俺へのあてつけか。 「目的はなんなの……?」 「金だ。そのへんにある金目のものをよこせ」 「金目のもの?」 「そうだ……」  そこまで言ったとき、どうやって伯母のバッグのことを説明しようかと困った。まさか、バッグの中にあるネックレスや金の入った封筒《ふうとう》を渡せとそのものずばり説明するわけにもいかない。そうしてしまえば、後日、なぜあの泥棒はバッグの中身を知っていたのかという話になる。俺が中身を知ったのは偶然《ぐうぜん》で、そのことは伯母も気づいていないはずだ。しかし、身内の人間であると疑われる危険はあった。 「ええと、つまりその、とにかく荷物の中に入っているものを……」 「荷物? 私の荷物には、歯ブラシと着替《きが》えくらいしか入ってないわ……」 「いや、おまえのじゃなくて……」  そう言いかけて、呼吸が止まるほどの事実にようやく俺は思い至った。  外出する伯母が、バッグを部屋に残して行くだろうか。いや、高い確率で、持って出かけるだろう。部屋に残して外出はしない。つまり俺はそのような簡単なことにも気づかず、何もない部屋の壁に穴を開けていたわけである。その結果、俺が今、何をつかんでいるのかというと、女の手首なのだ。  沈黙《ちんもく》した俺の隙《すき》をついて、彼女は腕を部屋に引き入れようとした。俺は力をこめてそれを止める。 「とにかくもうなんでもいい、おまえの財布を渡せ!」  泣きそうな気持ちになった。計画の失敗は明らかだった。 「財布? 財布は……、布団の脇《わき》に置いてあるの。このままじゃ取れないわ。手を放してくれないと」  彼女の言葉が真実なのかどうか、俺に判断することはできなかった。彼女の手を押さえつけたまま首をのばして窓を覗《のぞ》くことは困難だった。部屋の電気は消えたままで、障子が閉まっており、窓の鍵《かぎ》もかかっている。それに、本当は財布などどうでも良かった。 「ねえ、たとえ財布があったとして、どうやってあなたに渡したらいいの? あなたはこうやって壁に穴を開けたらしいけど、その穴は私の腕で塞《ふさ》がっているじゃない」 「片方の手で、窓を開けることはできないのか? 窓|越《ご》しに財布を投げてくれればいい」 「だめよ、鍵まで指が届かないわ。だから、あきらめて私の手を放して。何もしないで帰って」 「だめだ、何も取らないで帰れるかよ」  そう言いながら、俺は悩《なや》んでいた。  今、壁の向こうに俺の腕時計《うでどけい》が落ちているはずである。彼女は電気をつけていないため、まだそのことには気づいていないが、おそらく彼女の鼻先に転がっているはずだ。俺はそれを回収しなくてはならない。  なぜなら、昼間のうち、伯母にその腕時計を見せていたからだ。世界にひとつしかない試作品だということも話してしまった。  このままそれを残して逃げ帰ったとする。すると明日の朝、黒っぽい制服を着た警官が、アパートの俺の部屋を訪ねてくるだろう。警官はビニールに入った証拠品《しょうこひん》である腕時計を俺に見せて、これはあなたのですね、と恐《おそ》ろしい顔をする。しらをきることなどできない。  しかし彼女の言うことも正しい。今、穴は腕によって塞がっている。このままでは腕時計を探すこともできない。かといって手を離《はな》してしまえば、彼女は自由になり、助けを求めに部屋を出ていくだろう。だれかが来る前に腕時計を回収する時間はあるだろうか。  しかし、もしかしたら手が解放された瞬間《しゅんかん》、彼女は電気をつけ、窓を開けて俺の顔を確認《かくにん》するかもしれない。そうしたらもう、逃げ切れるチャンスはない。昼間に廊下ですれ違《ちが》った母親の知り合いだ、と彼女は警察に言うだろう。  彼女の手を離さないよう強く握ったまま、事態は膠着《こうちゃく》した。 [#ここから7字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  周囲を見まわして、まだしばらくはだれも来る気配がないことを確認する。月はまた流れる雲の中に隠《かく》れた。俺のいる建物と建物の間は、夜の闇《やみ》が濃《こ》い。右手側の道に面した方向はワゴン車が壁《かべ》となり、左手側には都合良く巨大《きょだい》な石がある。  昼間、部屋の中から窓の外を眺《なが》めたとき、この石は邪魔《じゃま》なだけに思えた。しかし今こうしてみると、伯母のいた部屋の窓を外側から特定する目印にもなったし、壁によりそっている自分の姿を左手側から覆《おお》い隠す障害物として働いてくれる。俺はこの巨大な石にだきついて感謝したかったが、触《さわ》っても冷たいだけだろうし、残念ながら壁から突《つ》き出た手首を握《にぎ》り締《し》めているので忙《いそが》しく、それはできない。  それにしてもこの不可解な状況《じょうきょう》が、そもそもなぜ起こってしまったのかがわからない。もちろん、壁に穴を開けた俺に原因が多くある。しかし彼女も彼女だ。俺はてっきり母親と映画の撮影《さつえい》に出かけたものだと思っていたのに、なぜ居残っている。そしてなぜ泥棒に手首をつかまれるのだ。 「おまえが悪いんだぞ。おまえが部屋にいたからこうなったんだ」  壁の向こう側にいる彼女へ言った。 「本当は出かけなくちゃいけなかったの。そうしていればこんなことにはならなかった。ついてない……」  彼女が壁の向こう側でため息をつく。肺から息を吐《は》き出す音が、かすかに聞こえた。出かけるというのはつまり、伯母《おば》との撮影見学のことだろう。彼女の話し振《ぶ》りから、半ばそれが義務だったとでも言うように聞こえた。 「なんで部屋の電気もつけずに押し入れの中へ手を入れていたんだよ」 「眠《ねむ》ってたの。でも、押し入れの中で物音がしたから、目が覚めた……」  もはや観念したように、壁から突き出した手を動かさず彼女は説明をした。彼女が言うには、押し入れに置いているバッグの中で、携帯《けいたい》電話が鳴ったのだと勘《かん》違いしたらしい。そこで、半ば眠った状態のまま、電気もつけずに押し入れを開けて携帯電話を探そうとしていたそうである。  俺はそのバッグが、伯母のものであると思いこんでいた。そして運悪く、俺と彼女の手が暗闇《くらやみ》の中で衝突《しょうとつ》したのだろう。 「ん?」  俺と彼女は、壁をはさんで同時に声を出した。俺に話をするまで、彼女は自分で気づかなかったらしい。  壁の向こう側、しかもおそらくは彼女が自由に動かせる左手の届く範囲《はんい》に、バッグがある。その中には携帯電話があるのだ。彼女はそれをつかって助けを呼ぶことができる。声を出さなくても、今の時代、片手でメールすることさえ可能なのだ。 「お、おい、電話はするなよ」  俺は焦《あせ》って声をかけた。壁の向こう側から返事はない。かわりに、片手でバッグをひっくり返し、中身を外に出すような騒々《そうぞう》しい音が聞こえてくる。 「おまえ、電話を探しているだろう!」 「わたし、そんなことしていません!」  彼女は堂々と嘘《うそ》をつく。 「電話は、こっちによこせ!」 「ふーん、どうやってですか?」  彼女は勝ち誇《ほこ》ったような声になった。穴は、彼女の片腕《かたうで》が通り抜《ぬ》けているだけでいっぱいである。他《ほか》に何かが行き来できるような隙間《すきま》はない。窓も無理だと彼女は言う。 「い、いいか、それ以上、電話を探す気配がしたら、壁《かべ》のこっち側でおまえの右手の指を切り落とすからな」  俺は再度、指を切り落とす宣言をした。こうやって脅迫《きょうはく》するたび、自分にはとてもそんなひどいことはできそうもないと思えてくる。自分が他人の指を切り落とす様を想像すると、血の気がひいていく。俺はホラー映画というものをほとんど憎悪《ぞうお》しているのだ。  彼女はしばらく沈黙《ちんもく》した。手首をつかんだ手に、汗《あせ》がにじむ。それが、俺の手のひらから出た汗なのか、彼女の手首から出た汗なのかわからない。俺たちは黙《だま》りこみ、お互《たが》いの呼吸する音が壁越《かべご》しに伝わっているだけである。  やがて、彼女は口を開いた。 「……あなたにそんなことができるはずないわ」 「なぜそうだとわかる?」 「いい人そうだもの」  俺は左手で手首を放さないまま、工具箱の中からニッパーを右手だけで取り出す。その刃先《はさき》を、つかんで引っ張っている彼女の手の指に押し付けた。鋭《するど》く冷たい刃《は》の感触《かんしょく》を受けて、彼女は戸惑《とまど》ったように言った。 「わ、わかった。電話なんかしない」  実は俺自身も、はたしてこんなことしていいのだろうか、と戸惑っていた。 「携帯電話を部屋の隅《すみ》に投げろ」  衣擦《きぬず》れの音がする。そして何かが遠くの畳《たたみ》に落下する音。 「投げたわ」 「投げたのはヘアスプレーか何かかもしれない」 「わたしにそんな小細工をする勇気があると思う?」  そのとき、壁のすぐ向こう側で電子音が鳴った。ほとんど間違《まちが》いなく携帯電話の着信音だと思えた。俺の予想した通り、さきほど彼女が投げたのは携帯電話ではなかったようだ。 「電話には出るな!」  辺りに電子音が響《ひび》き続ける。鳴っている電話を前にどうするか、彼女は迷っている。握り締めている手首から、そのことが伝わってきた。 「……わかった」  しょげた声で彼女は言った。直後に、鳴り響いている電子音が壁の向こう側のずっと奥へ遠ざかった。部屋の隅で電話はしばらく鳴り続いた。俺たちは息を飲んで沈黙したまま、その昔を聞きつづけた。やがて電話の相手があきらめたのか、ぷっつりと静寂《せいじゃく》に戻《もど》る。 「……ねえ、なぜあなたは、私の手を放《はな》して逃《に》げないの? もう、泥棒《どろぼう》することが失敗しているのはあきらかでしょう?」  彼女は痛いところをつく。 「……手を放した瞬間に、おまえはわめいて助けを呼ぶだろう? こうやって指を人質《ひとじち》にとっているあいだは、きっとそれができないはずだ」 「でも、とっとと逃げたほうがあなたにとっていいに決まってるじゃない」  腕時計を落としていなければおそらく俺はそうしていただろう。彼女の自由を奪《うば》った状態で、壁の向こう側に落とした腕時計を回収する方法はないだろうか。俺はそのことを考えた。  泥棒などするべきではなかった。金を盗《ぬす》もうなどと、愚《おろ》かなことだったのかもしれない。もしも逃げ切れたら、素直に内山君の言うことを聞いて真面目《まじめ》に仕事をしよう。  反省した俺は声を出せないまま、ただ彼女の手首を握《にぎ》り締《し》めた。彼女の手首の血管が脈打っている。それが皮膚《ひふ》を伝わって感じられた。  俺はうなだれたまま無意識に、地面に放り出していた電動式のドリルを右手で触《さわ》っていた。それを拾い上げ、顔を上げる。  彼女に覚《さと》られないまま腕時計を回収する単純な方法を思いついた。  すでに開いている穴から四十センチほど右側の壁にドリルの先端《せんたん》を押し当て、モーターを回転させた。古い土壁にやすやすと刃がもぐりこみ、小さな穴が開いていく。  あまりにもばかばかしい。もうひとつ穴を開けてしまえば済むことだったのだ。左手は彼女の右手を握り締めてずっと固定しておく。俺は、右手だけで穴を開ける。腕をさしこみ、落ちている時計を回収し、後は逃げるだけだ。  何か作業し始めた俺を、彼女は不審《ふしん》に思ったらしい。壁越しにたずねる。 「この音はなに?」 「騒《さわ》ぐんじゃないぞ」  まずひとつ、小さな穴が開いた。いくつもそれをつなげて、大きな穴にしなければならない。 「機械で穴を開けようとしてるの?」 「貫通《かんつう》したドリルの刃には触るなよ、怪我《けが》をするから」 「やっぱりあなたは悪い人じゃなさそう」  向こう側で彼女は、少し微笑《ほほえ》んだように感じた。  二つ目の穴が開く。ドリルの位置をずらし、三つ目の穴を開けはじめる。  俺は、話をさせることで彼女の意識をこの作業からそらせようと思った。 「……なんでおまえは、行かなかったんだ?」 「え?」 「さっき、言っただろう。おまえ、本当は出かけるはずだったって」  彼女は本来なら、母親に引っ張られて映画の撮影《さつえい》を見学しに行くはずだったのだ。伯母《おば》からそう聞いている。 「あなたには関係ないでしょう」 「あるね。おまえがいなければ金が手に入った」  しばらくの間、暗闇《くらやみ》の中でドリルの音だけが辺りに聞こえる。温泉町には似つかわしくないモーター音が、建物と建物の間にできたせまい空間に響いた。ドリルを支えている右手は振動《しんどう》で震《ふる》えた。またひとつ穴を開け終えて、ドリルの位置をずらし、新たな穴開けに取りかかる。 「……あなたのご両親は健在?」 「一年前に死んだよ」 「そう……。わたしの親は、わたしに、いろいろなことを要求するの。それにつかれてしまって……」 「自分の都合で振《ふ》りまわすのか?」  昼間に見た伯母を思い出す。伯母は自分の娘《むすめ》の進学先について、「私の望んだ通りの学校へ進ませるつもりなの」と言っていた。伯母は娘の人生をコントロールしているのだろうか。 「だから今日、ちょっと反抗《はんこう》してみたのよ。本当は行くことになってたの」 「映画の撮影に?」 「そう……、なんでわかったの?」  それから彼女は、俺が彼女の行動を事前に調べ上げ、部屋に狙《ねら》いをすませて壁《かべ》に穴を開けたのかと訝《いぶか》しがった。 「撮影を見学しにきている観光客が多いじゃないか。だからあてずっぽうに言っただけさ。俺はおまえのことも、なにも知らない」  俺は嘘《うそ》をついた。そうよね、と彼女は一応、納得《なっとく》してくれた。  結局、彼女は母親の強引な誘《さそ》いに抗《あらが》って部屋にいることを選んだというわけなのだろう。 「私はお母さんが好きだから、いつも期待に沿いたいと思っていたの。そうして喜んでくれるのが嬉《うれ》しかったから。でも最近は、うまくいえないけど、そうじゃないというか……」  その声は弱々しく、小さな子供のようだった。そのためか、彼女の真面目な生き方を思わないわけにはいかなかった。母親への思いやりと反抗心の狭間《はざま》に彼女は立っている。親への反抗とは、彼女にとってどんなに重要な事件だったのだろう。  俺は十五個目の穴を開けながら、自分が彼女くらいの年齢《ねんれい》だったときのことを思い出した。  大学へ進むことを強要する親父《おやじ》と、デザインの勉強をするために専門学校へ行きたがった俺は、ほとんどの時間をにらみ合って過ごした。結局、俺は親父の意見を無視して、現在、友人とデザイン会社をやっているわけである。  両親は一年前にそろって二人とも死んでしまった。乗っていた車が信号無視のトラックと衝突《しょうとつ》し、即死《そくし》だった。  当時は家族三人で暮らしており、食事もいっしょにしていた。死ぬ前日まで親父は、ことあるごとに大学へ行かなかった俺の人生について小言を並べていた。俺が腕時計のデザインについて話をすると、ばかばかしそうに笑っていた。俺はそれでかっとなって言った。 「おまえがそんなに偉《えら》そうなことを言えるのかよ」  親父は、小さな工場で働いている、普通《ふつう》の人間だった。高い学歴を持っているわけでもなく、職場での地位もそれほどいいわけではない。はたから見ると、みすぼらしい人生だった。そんなおまえが俺に何か言えるのか。そう言ったとき、親父は黙りこんで、肩《かた》を落としていた。俺は悲しい気分のまま家を出ると、コンビニへ行った。  子供のころ、親父と喧嘩《けんか》をすることはあったが、溝《みぞ》はいつも知らないうちに修復されていた。おれが子供でばかだったのか、喧嘩したこともすぐに忘れて、いつのまにかまた話ができていた。それなのに、いつごろから俺は親父とまともに会話できなくなっていたのだろう。  両親の保険金で、俺と内山君はデザイン会社を作った。親父のことを思い出すと、今でも息苦しくなる。それが怒《いか》りなのか、それとも悲しみなのか、ときどきわからない。  気づかないうちに、俺は、穴を開ける手を止めていた。少し、考え事をしすぎたらしい。これまでにドリルで開けた小さな穴は、半円状につながっている。あと十個も穴を並べると、円形にそれらはつながって片手が入る程度の穴が開くだろう。 「俺は、親に反対されても従わなかった」  彼女に声をかける。 「それで、人生はうまくいってる?」 「うまくいっていれば、今ごろおまえの手を握《にぎ》っていない」  なるほど、と彼女は納得したようだった。 「後悔《こうかい》していないの?」  自分の選んだことだから間違《まちが》いはなかった、そう言えるほど強くなれたらいいと思う。しかし、親父の言う通りの生き方を選んでいても、心残りはできていたに違いない。  俺はそのことを彼女に説明した。俺自身を特定するような部分は話さなかった。壁の向こう側で、静かに彼女が耳を傾《かたむ》けているのがわかった。  やがて俺は、穴を開け終えて、ドリルを地面に置いた。  作業がすべて終わると、完全に円形の切りこみができた。丸く切り取られた壁を押すと奥へずれていき、向こう側に落下した。手の入る程度の、二つ目の穴のできた瞬間《しゅんかん》だった。  そのときには、彼女にもう話すことはなくなっていた。お互《たが》いに黙りこんで、奇妙《きみょう》な沈黙《ちんもく》の中で、壁から突《つ》き出している彼女の手首を握り締《し》めているだけだった。月に雲のかかった暗い夜の、とくに闇《やみ》の吹《ふ》きだまっているような建物同士の間で、俺は静かな気持ちになっていく。少し離《はな》れた道に温泉町の土産物屋《みやげものや》が並んでいたり、通行人がいたりすることなど、想像できなかった。周囲の闇にすべて溶《と》けてしまい、ただ握り締めた手だけが世界に存在しているように思えた。 「……もうひとつの穴が開いたというわけね?」  壁から出ている彼女の右手が動いた。手首をつかんでいる俺の左手の腕を、今度は逆に、そっと握り返した。ずっと外に出ているせいか、彼女の手は冷たかった。 「いろいろ悪かったな」  俺はそう言うと、できたばかりの穴に右手を入れた。押し入れの中を探《さぐ》ると、様々なものが散らばっていることに気づく。さきほど彼女は、携帯《けいたい》電話を探すためにバッグの中身を取り出した。それが散乱しているのだろう。俺はその中から、腕時計《うでどけい》を探した。押し入れの中に張ってある板の上を手探りする。散乱しているものをつかんで、触《さわ》った感じを確かめては、それが自分の腕時計かどうかを考える。  やがて俺の右手は、自分の腕時計らしい重さと感触《かんしょく》のものを探し当てた。もしも両手が自由だったなら、胸をなでおろしていただろう。  そのときだった。腕時計をつかんだ俺の右手首が、壁の向こう側で強く握り締められる。おそらく彼女が自由な左手を使ってそうしたのだろう。  一方、俺の左手にも異変が起きた。さきほどそっと握り返された彼女の冷たい手に、突然《とつぜん》、力がこめられる。それまで俺につかまれるままだったのが、今度は逆に強く握り締めている。  両腕を強くつかまれた俺は、右腕を壁の穴に深く差し込んだまま動けなくなった。それは、壁を挟《はさ》んで彼女とそっくり同じ格好だった。 「ほうら、これでおあいこだわ。こっちの手をつかんでしまえば、私の右手の指を切ることもできないでしょう?」  彼女が壁の向こう側で意地悪に微笑《ほほえ》む。実際は見えるはずもないが、目に浮《う》かぶようだった。  壁の向こう側で彼女に右手を固定されていると、指を切り落とすためのニッパーを拾い上げることもできない。人質《ひとじち》を脅迫《きょうはく》するためのナイフが奪《うば》われたようなものだった。 「これは……、まいった」  俺は身動きできないまま思わずつぶやいた。 「残念でした」  彼女はそう言うと、いきなり大声を出した。 「だれか来て! 泥棒《どろぼう》よ!」  その声はおそらく、周囲五十メートルに聞こえただろう。静かな夜の空、古びた旅館の壁は、彼女の劈《つんざ》くような声でびりびりと震《ふる》えた。  俺は焦《あせ》って周囲を見た。背後にある建物の窓に、電気がついた。その明かりで俺のいた場所が薄《うす》く照らされる。今にも窓を開けてだれかが顔を出すかもしれない。 「手を放せ!」  俺は壁の向こう側に向かって叫《さけ》んだ。しかしあいかわらず左手で彼女の右手首をつかんだままだったので、それは我ながら不公平な言葉だと思っていた。 「放さない」  彼女は言った。俺はそれでも、右腕を力任せに引きぬく。それをつかんでいた彼女の左腕までも、穴を通り抜《ぬ》けて外に出てきた。それでもあいかわらず彼女が俺の手首を放す気配はない。  壁から二本の白い腕が突き出ている。俺はそれらにつかまれたままである。彼女はそのうちに力|尽《つ》きるだろう。しかしその前に、だれかが来て俺がつかまりそうだった。  壁の向こう側から、廊下《ろうか》をだれかが走ってくる騒《さわ》がしい音。扉《とびら》がどんどんと叩《たた》かれる。彼女は扉の鍵《かぎ》を閉めていたらしい。それが俺には幸運だった。  俺は、大きく口を開けて、右腕をつかんでいる彼女の腕に噛《か》み付いた。 「痛い!」  血こそ出なかったものの、おそらく跡が残ってしまったにちがいない。  彼女が叫んだのと同時に、俺の腕をつかんでいた力が緩む。彼女のひるんだ一瞬《いっしゅん》を、俺は逃《のが》さなかった。  思いきり両手を引くと、彼女の手が離れ、勢い余って後ろに転んだ。お互いの手の解放だった。  俺の手が離れると、壁《かべ》から出ていた二本の腕がすぐさま中へ消える。穴の中へ吸いこまれていく白い腕を、背後の窓からもれる薄明《うすあ》かりの中で見た。あとはただ二つの黒い穴が壁に残っただけだった。  俺の右手には、しっかりと腕時計が握《にぎ》り締められている。実際に見て確かめている時間はないが、その感触《かんしょく》があった。工具箱に放りこむと、地面に落ちていた工具をその上に重ねて入れる。  駐車《ちゅうしゃ》していた自分の車まで、裏路地を走った。幸いにも、だれも追ってくる様子はない。車に乗りこんでエンジンをかけ、しばらく進む。国道に出て、コンビニの駐車場に入ったとき、ようやく警戒《けいかい》を解いた。  コンビニの店内の明かりが、フロントガラスを通り抜けて運転席の俺を照らしていた。俺は逃《に》げ切れた安堵《あんど》感で、胸をなでおろす。助手席に置いた工具箱を開け、何もあの場所に残していないことを確かめようとした。  工具箱に入れるとき、腕時計をよく見なかった。だから、穴の奥で探し当てた腕時計が、市販《しはん》されている普通の腕時計だったことにそれまで気づかなかった。確かに触《さわ》った感じや重さは似ていた。しかしあきらかに俺のものではない。  ということはつまり、彼女の腕時計を俺は持ってきてしまったということで、俺の腕時計はそれと入れ替《か》わりにあそこへ置いたままだということだ。 [#ここから7字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  一年が過ぎた。 「きみのデザインした腕時計、なぜ売上が伸《の》びているのかわかったよ」  内山君はそう言いながら、俺の机にコーヒーの入ったカップを置いた。  事務所で俺は、壁に飾《かざ》られているカレンダーを見て、あの夜から一年も時間が流れた不思議さについて考えていたところだった。旅館の壁に穴を開けた夜のことを、今でも悪夢のように思い出す。しかし幸いにも、まだ俺は警察につかまっていなかった。  あの夜から一週間ほど、俺は静かに人の目を忍《しの》んで生活していた。その様子を見た内山君の目には、腕時計の生産が中止になって俺が落ちこんでいるものと映ったらしい。  半年ほどたって経営がわずかに回復すると、少量ながら俺のデザインした腕時計を発売する余裕《よゆう》ができた。あの夜につかまらなくて本当に良かったと思う。もしも逮捕《たいほ》されていれば、腕時計の計画が半年|遅《おく》れで復活することもなかっただろう。  かくして俺の腕時計は売り出された。最初、以前に売り出したものと同様に売れ行きは芳《かんば》しくなかったが、数ヶ月した今、急激に販売数《はんばいすう》が伸びている。 「おい、聞いているのか」  内山君が立ちはだかってカレンダーを遮《さえぎ》った。 「売れ行きが上がっているのは、ようやく俺の才能が認められたからなのだよ内山君」  俺がそう言うと、彼は呆《あき》れていた。 「……ところできみ、あの映画を見たかい?」 「映画?」  俺が聞き返すと、彼はうなずいて説明する。彼が言ったのは、最近、世間でヒットしている映画のことだった。それはまぎれもなく、あの温泉地で撮影《さつえい》が行なわれていた映画だった。 「あれだろ、ヒロイン役に、漢字二文字だけの変な芸名の女優が出ているやつだろ」  伯母《おば》に聞いて知った知識を、俺は得意げに披露《ひろう》した。 「変な芸名って言うな」  憤慨《ふんがい》するように言って、内山君はその女優の出演するテレビドラマはかかさずに見ていることを白状した。俺はあまりテレビを見るほうではないので、どのような番組に出演しているのかさえ知らない。 「今度、彼女の握手会《あくしゅかい》があるから連れていってやるよ」 「別にいいよ。ばかばかしい」 「きみ、どうかしてるよ、彼女を知らないなんて。よしわかった、彼女の歌のCDがあるから、それを聞きたまえ」  引きとめるまもなく、彼はそう言うなり自分の机の引出しからCDを取り出した。例のアイドル女優は歌まで出しているのかと驚《おどろ》く。そして、そのCDを購入《こうにゅう》して会社に置いている内山君にも驚博《きょうがく》した。ところで彼はなぜあの映画の話などはじめたのだろう。もともと腕時計《うでどけい》の売上のことについて会話していたのではなかったのか。  CDをセットしたラジカセから、清々《すがすが》しい歌声が流れてくる。そこで俺は、思考を無理やりに停止させられた。 「どうだい?」  内山君は満面の笑《え》みを浮かべて俺を見た。そして、顔を曇《くも》らせる。なぜなら、俺が椅子《いす》を倒《たお》して立ちあがり、その状態で身動きするのをやめたからだ。  俺はその歌声を聞きながら、一年前の夜を思い出していた……。  あの夜……。  俺はなんとか事故を起こさずに自分の部屋があるアパートまで運転して戻《もど》った。肝心《かんじん》の腕時計は穴の奥へ残したままだった。  身辺を片付け、テレビやビデオの電源を抜《ぬ》き、冷蔵庫に入れていた腐《くさ》りそうなものを食べた。逮捕されてしばらく戻ってこれなくてもいいようにという準備だった。  一睡《いっすい》もせずに警察が来るのを待っていたが、そのうちに朝が訪《おとず》れた。十時ごろ突然《とつぜん》に電話が鳴り出したので、受話器をとった。伯母の声が聞こえた。 「ちょっと、旅館の方まで来なさい」  ついに呼び出しがあったと思った。  昨日の夜を過ごした旅館へ車を走らせた。部屋に入ると、伯母がテーブルについてすでに待ち構えていた。俺は従妹《いとこ》の姿を探したが、どこにもいない。昨日は悪いことをしてしまった。顔も見たくないのだろう。そう思いながら伯母の正面に正座する。 「よくきたわわ」彼女はそう言った。「もうすぐ娘《むすめ》も戻ってくるわ。ちょっと待ってなさい」 「……用件はわかっています」 「あら、本当に?」 「俺はもう、抗《あらが》う気はないです。観念しました。だから、すっぱりと俺を罵《ののし》ってください」 「罵る……? 変な子だわ。観光をしたいから車を出して欲しいだけなのに、観念しているだなんてオーバーね。なんだか、ものすごく悪いことを注文しているみたいじゃない」  観光? 俺は拍子《ひょうし》抜けする。相当、間抜けな顔をしたらしく、伯母が眉《まゆ》をひそめた。 「昨夜、撮影を見学しにいっても、たいしておもしろくなかったの。だから今日は、観光するつもり」  背後で扉《とびら》が開き、従妹が部屋に入ってきた。昨日、廊下《ろうか》ですれ違《ちが》った顔である。彼女は、俺が座っていることに気づくと、頭を下げた。 「こんにちは」  その声に、違和感《いわかん》を持った。  彼女はそのまま俺の前を通りすぎ、窓の下にある押し入れの前に膝《ひざ》をつく。彼女が引き戸を開けた。  俺は思わず叫《さけ》びそうになる。押し入れの奥の壁《かべ》には、当然、穴があると思っていた。昨夜、俺は確かに穴を開けたからだ。しかし、その穴は今、どこにもない。俺は立ち上がった。 「どうしたんですか?」  従妹が不思議そうに俺を見る。さきほど感じた違和感の正体がわかる。従妹の声は、昨夜に聞いた声とは別のものだった。彼女は半袖《はんそで》の黄色いTシャツを着ていて、左腕が袖《そで》から出ている。従妹の腕は、綺麗《きれい》なものである。俺の歯型など、どこにもついていない。  よろめくような足取りで俺は窓に近寄る。外を見ると、記憶《きおく》にある風景とどこかが違う。昨日はたしかにあった大きな石が、今はなかった。 「ここに、石がありませんでしたか?」 「石? ああ、あの作り物の……?」 「作り物?」  伯母は、この旅館に映画の撮影隊が多く宿泊《しゅくはく》していることを教えてくれた。映画のセットの一部を、裏庭に置かせてもらっているらしい。巨大《きょだい》な石のはりぼても確かに窓のそばにあったという。しかし、子供が中に入って遊ぶので、今朝、撮影隊の車に運びこんで立ち去ったらしい。  俺はそこでようやく気づいた。外へ駆《か》け出し、旅館の壁を外から確認《かくにん》する。昨日の場所には、やはり穴が開いていた。二つの穴だ。ただし、伯母《おば》たちの宿泊している部屋の壁ではなかった。その隣《となり》の部屋の壁である。  あの巨大な石は作り物だった。軽くて、子供の力でも動かせるようなはりぼてだったのだ。俺はそれを、本物の石だと思いこんでいた。それを目印にして、外から伯母の部屋の窓を特定したつもりだった。  しかし、俺が昨日の昼に伯母を訪ねた後、いつのまにかそのはりぼては動いていたのだろう。俺はそれに気づかず、隣の部屋を伯母たちのいる部屋だと思いこんで、壁に穴を開けてしまった。昨日の白い腕は、隣の部屋に宿泊していた女のものだったのだ。  よく見ると、ワゴン車も消えていた。あれはもしかすると、撮影隊の車だったのだろうか。映画スタッフの人間が、車の中に巨大な石のセットを運びこむ、そのような場面は容易に想像できた。 「そういえば昨日、この旅館に泥棒《どろぼう》が来たんだって」  部屋に戻ると、従妹が伯母に話をしている。伯母はそれが初耳だったらしく、驚いていた。 「……今日は、車は出せません」  そう言うと、俺は旅館から離《はな》れた。まだ昨夜の女が滞在《たいざい》しているかもしれない。声を聞かれて、俺が昨夜の泥棒であることを覚《さと》られるかもしれない。  黙《だま》って迅速《じんそく》に旅館から逃《に》げ出した。ちなみに後日、また伯母から電話があり、「娘が私の言う通りの大学へ行ってくれないの」と困惑《こんわく》したように相談をもちかけられた。しかしそれは、俺とは何の関係もないことだった。  握手会《あくしゅかい》の会場は、駅から五分ほど歩いた場所にある巨大なレコードショップの一階だった。普段《ふだん》は並んでいる商品の棚《たな》が片付けられ、広々とした会場の中に、ステージが組まれていた。 「人が、多いな……」  俺のつぶやきに、内山君は嬉《うれ》しそうにうなずいた。 「彼女の人気がすごい証拠《しょうこ》だよ」  まだ本人は登場していなかったが、握手会のはじまる三十分も前から会場は混雑していた。取材のためのテレビカメラが、会場内に密集した人々の頭を撮《と》っている。  彼女はあいかわらず変な芸名で、名前を示す二つの漢字がいたるところに見られた。どこを見ても彼女の出したCDのポスターが貼《は》られており、こういう場所に来たことのない俺は、なるほど人気のある芸能人はこのようにして歓迎《かんげい》されるのかと感心した。  俺は、道を歩くとき人の少ない場所を選ぶようにしている。それなのに周囲は例の女優のファンで埋《う》め尽《つ》くされており、逃げることもできない。どの方向を見ても人間の頭だけが見える。  何か真剣《しんけん》な顔で話をしている一群がそばにいたので、耳をすます。彼女の出演していたテレビドラマの最終回についてどう思うか、という議論がされていた。俺は場違《ばちが》いなところに来ている気がして、内山君に聞いた。 「外で煙草《たばこ》を吸ってきてもいいかな」  すると、周囲にいた人たちから同時に視線を向けられる。いずれも俺を非難するような眼差《まなざ》しだった。 「おまえ、煙草を吸った手で握手するつもりか」  内山君は怒《おこ》ったように言った。彼女が煙草|嫌《ぎら》いだという情報はあらかじめ予備知識として知らされていたが、周囲の反応を見ると、予想以上に嫌いらしい。おそらく煙《けむり》を吸ったら彼女は死ぬのだと思った。  そのとき、ステージの近くにいた人々が歓声《かんせい》をあげた。それまで眉をつりあげていた内山君が、一転してきらきらした表情でステージを振《ふ》りかえる。  歓声と拍手《はくしゅ》が耳を劈《つんざ》く中、ステージ上に、二十歳《はたち》ほどの若い女が登場した。ポスターやCDのジャケットに写っているのと同じ美しい顔だった。マイクを持った司会者と並んで立っている。  背丈《せたけ》は俺より少し低い程度だろうか。ほとんど轟音《ごうおん》にも似た騒々《そうぞう》しさの中で、臆《おく》することもなく立っている。まっすぐな、姿勢の良いたたずまいが印象に残った。会場の中にあるすべての視線が彼女にそそがれているというのに、静かな微笑《ほほえ》みを浮《う》かべている。彼女の堂々とした姿に、目が吸い寄せられる。人気のある理由がわかった気がした。  彼女の声がマイクを通し、スピーカーから拡大される。すると、それまであった騒々しさがやみ、彼女の声を聞こうとみんなは耳をすませた。会場の中にあったあらゆる意識の中心に、彼女がいる。話の内容は、集まっている人間に対する挨拶《あいさつ》だった。その声が、俺にとって聞き覚えのあるものだと気づいたのは、事務所で内山君に彼女の歌を聞かされたときだった。  CDラジカセから流れた声が、以前に聞いたある声に似ている気がした。しかし人気のある芸能人だから、声に聞き覚えがあるのは考えてみれば当然のことである。いくらテレビをあまり見ないからといって、どこかで聞いた可能性があるだろう。最初はそう思い、気のせいだということにした。  そうでないことは、ラジカセの電源を切った後の内山君の話でわかった。 「きみがデザインした腕時計《うでどけい》がなぜ最近、急に売上を伸ばしているかというとだね、例の映画のラストシーンで、そっくりの腕時計を彼女がはめているからなんだ」  そのために、映画を見た女の子たちが真似《まね》をして買っていってくれるのだという。デザインがいいと言って、買ってくれた人は満足してくれる。しかし購入《こうにゅう》する動機は、あきらかに映画がきっかけであるらしい。 「僕はもう映画を見てきたけど、本当にそっくりの腕時計なんだ。でも、同じはずがないだろ。撮影《さつえい》が行なわれたのは、きみがみんなに試作品を見せびらかしていたころだよね」  その女優のファンである内山君は、彼女の様々な情報を当然のごとく話した。例えば、彼女は母親の言いなりで芸能界入りしたこと。芸名や仕事の選択《せんたく》、イメージ作りにまで母親が関与《かんよ》していたこと。  一年前の映画の撮影で逃げ出し、映画関係者に迷惑《めいわく》をかけたという噂……。 「もちろん噂だよ。でも、彼女のイメージが少し路線|変更《へんこう》したのはそれからだったな。それ以降は、なんだか表情が明るくなったように思うんだ」  彼は彼女のことを嬉しそうに話した。 「何やってるんだよ、並ぼうぜ」  内山君が俺の肩《かた》を叩《たた》いて言った。いつのまにか周囲を見ると、ステージでの挨拶が終わり、彼女と握手をするために大勢の人間が並び始めている。店の制服を着た人が声をはりあげて人々を列に誘導《ゆうどう》していた。  列の前方は、ステージへの短い階段に続いている。ステージ上で彼女と握手をすると、前を通りすぎて、もうひとつの階段からステージを下りるようだ。そのまま店の外へ出される仕組みになっている。  俺は内山君に引っ張られて、列に並ばされた。抵抗《ていこう》はしなかった。記念に有名人と握手しておくのもいいだろうという気分になっていた。  人ごみの頭|越《ご》しに、ステージ上に立つ彼女が見える。彼女の前を、人が一人ずつ通りすぎていく。みんな、しっかりと握手をして、感動した顔で会場から立ち去っていく。  遠くから彼女の顔を見つめた。やわらかいまなざしをしている。左手首に巻かれたものが目に入り、俺の中から周囲の混雑やざわめきが消え去った。  あれから一年が経過した。それでも彼女は、捨てずに俺の腕時計をはめている。警察に渡《わた》すわけでもなく、手首に巻いて映画にまで出演してくれた。俺のつくったものを、気に入ってくれたのだろうか。もしそうだとしたら、自分でも不覚になるほどどうしようもなくなる。感謝しようにも、俺が彼女に対してどのような形でありがとうと伝えればいいのだろうか。  列が進み、俺と内山君の並んでいる場所がステージに近くなる。俺は、落ちつかなくなってきた。  なぜかわからないが、唐突《とうとつ》に親父《おやじ》のことを考えた。おそらく、彼女と会話をしたあの夜に、親父のことを思い出したのが原因だろう。  俺は以前、自分のデザインした時計が認められたら、そのことを墓に眠《ねむ》る親父に報告して俺が正しかったのだと言うつもりだった。そうしないと、俺の進路にいつまでも反対し、家族の恥《はじ》であるように言い続けた親父への怒《いか》りがおさまらなかった。  今、俺はわずかながら仕事を人に認められている。両親に仕事の成果を話して聞かせても、恥ではなくなったのだ。しかし、なぜか今は、見返してやるといった気持ちにはならない。  俺の前に並んでいた内山君が、ステージへの階段を上がった。俺もそれに続くと、もう目の前に彼女がいた。  子供のころ親父からもらった金色の腕時計は、今でも事務所の机の中にある。調べてみるとそれも安物だったが、子供だった俺には本物の金であるように思えたし、重くて、格好良かった。  最近、事務所でひとりでいるときに、もう動かなくなったその腕時計をはめてみた。いったいいつのまにそうなったのか、腕時計は大きくもなければ、重くもない。  親父の墓に対して、単純な気持ちでざまみろと言うことができない。俺はそのことに気づかされた。なぜ腕時計が好きなのかと聞かれると、親父がくれたからだと、そう返事をしなくてはいけないからだ。  いつのまにか俺の目の前で、内山君が彼女と握手をしていた。ほとんど見ていられないほど彼は緊張《きんちょう》している。  近づいて見る彼女は、特に美しかった。人間というよりも、映画やテレビを通してでないと存在しない想像上の生物であるように思える。彼女のそばだけ空間が違《ちが》っていた。  内山くんが名残惜《なごりお》しそうに手を放して、彼女の前を通りすぎた。彼が去るのに歩調をあわせて、俺は一歩進む。俺の背後にまだ続いている行列も、一歩前進した。  彼女と正面に向き合い、右手で握手をした。  あの夜、壁《かべ》をはさんでまったく見えなかった顔が、すぐ目の前にある。両手に包めそうな小さな顔の中で、美しい形の目が細められている。  ファンであることを示す言葉をかけなければ不自然だろうかと思った。だれもがそのような言葉を口にしているようだったからだ。  そのとき、微笑《ほほえ》みを浮《う》かべていた彼女の表情が、突然《とつぜん》、変わった。  笑《え》みを消し、まるで眠っていた猫《ねこ》が起き出したように、目を大きく開ける。俺の手をじっと見下ろして、右手で握手したまま彼女は、左手を俺の右手首にまわした。  ぎゅっと、彼女の手が強く締《し》まる。  俺は息を飲んだ。  その状態で二十秒間、何かを考えこむように彼女は沈黙《ちんもく》した。テンポ良く進んでいた行列をストップさせておくには長すぎる時間だった。周囲の人々が、何が起きたのかとざわめき出す。行列に並んでいる人々や店の人、ステージ上の司会者が、彼女のおかしな様子に戸惑《とまど》っていた。  やがて彼女は俺の手を放した。止まっていた列が、また動き出す。  手を解放されて、ステージを下りる階段へ向かう。背後を振《ふ》りかえると、彼女は俺を見て、なぜか得意げな表情でふふんと笑みを浮かべていた。  周囲の人間も、先にステージを下りて待っていた内山君も、呆気《あっけ》に取られた顔をして彼女と俺を交互《こうご》に見た。  俺はあわててその場を立ち去った。なぜなら彼女の笑みは、芸能人が俺のような赤の他人に向ける顔にしては、あまりにも特別なものだったからだ。 [#改丁]  フィルムの中の少女 [#改ページ] [#ここから7字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  ……あ、すみません。知り合いにあなたが似ていたものだから、つい見つめてしまいました。はじめまして。待ち合わせ場所にこの喫茶店《きっさてん》を指定したのは私の方なのに、遅《おく》れてしまって本当に申し訳ありませんでした。  いえ、かまいません、今日はひまでしたから。大学も休みでしたし。ええ、大学生なんです。現在は学部の二年生で、Kさんとは一年生のときに同じ講義を受けていてお友達になりました。私の名前は……、もう彼女から聞いておられますか。  彼女の父親の友人に小説家がいるという話は以前から聞いていました。それが、あなたのことだったのですね。先生の著作を読みながら考えていたのですが、先生のお名前は本名なのですか? 筆名……ですか。いえ、気になったものですから。  Kさんですか? ええ、元気ですよ。今日はたぶん、釣《つ》りに出かけているのではないでしょうか。はい、彼女の趣味《しゅみ》なのです。ルアーフィッシング同好会というのに所属していて、私も誘《さそ》われたのですが、断ってしまいました。でも、活動的で素敵《すてき》ですよね、彼女……。横で見ていて、いつもそう思います。私なんて、何をするにも怖気《おじけ》づいてばかりで……。  Kさんから、お話は伺《うかが》っています。小説の題材のために、恐《こわ》い話を探していらっしゃるそうですね。それで、彼女が私のことを思い出して、あなたへお電話を差し上げた……。私、彼女に少しだけあの話をしたから……。  それでこうして、先生と喫茶店で向かい合っているのだから、めぐり合わせというのは不思議なものですね。本当に……、まるでだれかの意思に引かれているような気がします。あ、お店の人がこちらを見ていますね。先生のそれは、紅茶ですか? 私は何を飲もうかしら。  ……先生って呼ばれるのに抵抗《ていこう》があるのですか? でも、他《ほか》にどうお呼びしたらいいのでしょう。先生と、呼ばせてください。それでは私も紅茶をいただきます。  ……はい、この店には、よく来ます。この薄暗《うすぐら》さと、この木のテーブルが、好きなんです。……そうですね、少し冷房《れいぼう》が効きすぎかもしれない……。時々、こうなんです。特にこの奥まった席は、ちょうど真上から風がくるから……。場所を移動しましょうか。私は上着を着ているからいいけど、先生は半袖《はんそで》で、寒そうです……。この席でかまわないですか。  ……Kさんから、簡単なお話は聞いていらっしゃるのでしょうか。そうですか……。実は、彼女にはあたりさわりのない部分しか話していないのです。今日、先生とお会いするべきかどうか迷っていました……。あまり軽々しく、人に話していいことではないから……。ひと月ほど、このことをどうするべきかずっと迷っていて……。でも、決心したのです。だれかに話そうって。  はじまりは、映画研究会の部室でした。先生、映画はよくご覧になられますか。私は好きで、よく映画館に通います。ほとんど唯一《ゆいいつ》の趣味なのです。……さきほど、Kさんの話題のとき、私は何をするにも怖気づくと言いましたよね。でも、大学に入学したとき、一大決心をして、サークル活動をしてみようと思ったのです。……映画研究会、と貼《は》り紙のされた扉《とびら》をノックして、入部したいことを告げるだけなのに、本当に恐かった……。  扉を隔《へだ》てた部室の中から、賑《にぎ》やかに人の話す声が聞こえていました。私、苦手なんです、そういったところに入っていくのが……。何度も扉の前を行ったり来たりして、だれかが通りかかると走って逃《に》げ出しました。でも、決めていたのです。この大学に入ったら、それまでの自分を変えて、新しいことをはじめようって……。  高校で私は、本当に何もしていませんでした。学校で勉強して、帰るだけ。親しい人もいなかったから、どこかへ遊びに行くわけでもなくて、帰宅する途中《とちゅう》にビデオショップへ立ち寄るだけでした。何のために自分は生きているのだろう、死ぬまでの長い時間をどうやって過ごせばいいのだろう、そう思っていました。生きていても自分は価値のあることなんて何もできないだろうから、死んだほうがいい……。人間関係とか、クラスでの自分の位置とか、受験とか、そういったものが一挙に押し寄せて、軽いノイローゼだったのだと思います……。  不思議ですよね、そんな自分が、サークル活動をしようと思い立つなんて……。普通《ふつう》の人にとってはなんでもないことかもしれませんが、そういった決心をするのは、私にとってとても難しいことで……。前向きの、大きな変化だったのです……。  ……一週間ほど部室の前で足踏《あしぶ》みした後、私は扉を叩《たた》きました。そして今、無事に映画研究会へ所属しているというわけです。主な活動は、自主製作の映画を作ることです。完成したものを、毎年、学園祭で上映します。え……、いいえ、私は監督《かんとく》ではありません。と、とんでもありませんよ、そんな、私が監督なんて……。私は雑用で、衣装《いしょう》や小道具をそろえる役目なんです。私はただ、映画の好きな人たちが集まっている横にいて、みんなを眺《なが》めているだけでいい……。映画製作の末端《まったん》に、そっと関われているだけでうれしいんです……。  大学の構内に、共用|棟《とう》と呼ばれる建物があります。そこに、いろいろなクラブの部室が一挙に集められているのです。そうですか、先生の通っていらした大学も似たようなものでしたか。映画研究会の部室は、そんな共用棟の、埃《ほこり》の積もった片隅《かたすみ》にありました。中は狭《せま》くて、様々なものが散らかっていました。テレビやビデオデッキがまずあって、その両側に高くビデオテープが積まれているのです。カバーの破れかけたソファーが片隅にあって、そこにたいていいつも、部員のだれかが寝転《ねころ》がっていました。時々、タバコの灰が落ちているから、うっかり座れません。そこを拠点《きょてん》として、映画を作るのです。  映画製作についてお話ししますが、普通の商業映画は、フィルムを使って撮影《さつえい》しますよね。自主映画も少し前まではそうでしたが、最近はデジタルビデオカメラでの撮影が多くなりました。うちの映画研究会も、そちらを使用しています。でも、以前はやはり8ミリのフィルムを使っていたようです。その名残《なごり》なのか、部室の棚《たな》の奥にスクリーンと映写機が置かれていました。  ……私があの包みを見つけたのは、偶然《ぐうぜん》でした。その日は雨で、部室の窓から灰色の風景が見えていました。  部屋には私一人しかおらず、ソファーに腰掛《こしか》けて、雨音を聞きながら映画雑誌を読んでいたのです。紅茶を飲もうかと立ち上がったとき、雑誌がソファーの後ろに落ちてしまいました。  ソファーの後ろは壁《かべ》になっていて、ちょうどその隙間《すきま》に入り込んだのです。私は雑誌を拾うためにソファーを引っ張って動かしました。私はひ弱だから、なんとか手が入るぶんだけソファーを動かすのにも苦労しました。広がった壁との隙間を覗《のぞ》くと、埃の中に雑誌が落ちていました。そして、そのそばに、小さな包みがあったのです……。  不審《ふしん》に思いながら包みを拾い上げると、茶封筒《ちゃぶうとう》がガムテープで厳重に巻かれてあるものだと気づきました。だれかがソファーの後ろに落としたまま忘れたのか、隠《かく》していたのか、わかりませんでした。名前も記されておらず、中に入っているものが何なのかもわかりません。  勝手に開けるのもどうかと思ったので、私はしばらく、それをテーブルの上に置いていました。その状態でふたたび映画雑誌を読んでいたのですが……。なぜか、その包みのことばかり気になって雑誌の内容が頭に入ってきませんでした……。  まるで、名前を呼ばれている気がしました。静かな、聞こえないくらいの声で……。だから、私はつい、ガムテープを剥《は》がして、中を確認《かくにん》してしまったのです……。  雨音だけが室内に満ちていました。窓の外は薄暗く、蛍光灯《けいこうとう》をつけた部室の方が明るかったのをよく覚えています。  包みの中身は、現像済みの8ミリフィルムが入った、直径十五センチほどの銀色の円盤《えんばん》型をした缶《かん》でした。それを目にしたとき、なぜか私は……。いえ……、うまく言葉にできません。寒気がしたといえばいいのか、背中に風を感じたと説明すればいいのか……。なんだか、人が通りすぎたような気がしたのです……。  ……いつのまにか注文していた紅茶がきていましたね。話をすることに夢中で、気づきませんでした。……話の腰を折ってすみません。ええ、それから私がそのフィルムをどうしたか、そこが重要ですね。はたして、私はどうすればよかったのでしょう。またソファーの下に戻《もど》せばよかったのでしょうか。  フィルムの入った缶を持つ私の手が、汗《あせ》ばむのを感じました。それなのに指先まで、凍《こお》りついたように冷たかった……。  私は迷いました。何が撮影されているのか、気になったのです。いえ……、あれは好奇心《こうきしん》だったのでしょうか。まるで、だれかが私の手足を動かしているような……いえ、なんでもありません。  私は、スクリーンと映写機を持ち出して、向かい合うような位置に置きました。機械の操作は、以前に先輩《せんぱい》から教わって知っていました。あとは映写機にフィルムをかけて、部屋を暗くするだけです。カーテンを閉めると、雨音は小さくなりました。映写機のランプをつけてから電気を消し、フィルムを回しました。  暗い部屋の空中を、明かりの白い線がのびて、埃を浮《う》き上がらせました。かたかたかた……。モーターが動いてフィルムの巻きとられる音がしました。やがて暗かったスクリーンが、ぱっと白くなって、フィルムに撮影されていたものが、はじまりました。音を同時に録音できるようにはなっていないフィルムだったため、映像だけがスクリーンに映し出されました。  結論から言うと、それは自主製作の映画を撮影したフィルムでした。まず最初に、大学生らしい男性がベンチに腰掛けて演技をしていました。全体にぼやけており、画面中央だけ明るく、四隅《よすみ》は薄暗《うすぐら》い。時折、フィルムの傷がスクリーンに現れては、次の瞬間《しゅんかん》に消えました。  フィルムは未編集でした。様々なシーンを続けて撮影していたので、頻繁《ひんぱん》に場面が切り替《か》わりました。街を歩いている人々が画面|一杯《いっぱい》に現れ、数秒間そのままだったかと思うと、公園の鳩《はと》が大映しになりました。男性と女性の見つめ合ったシーンがありました。恋人《こいびと》同士という役だったのでしょう。でも、緊張《きんちょう》が持続しなかったのか、最後に二人は吹《ふ》き出して、また撮《と》り直しをしていました。  私はソファーに座って眺めていました。見覚えのある大学の校舎が映ったことから、かつての先輩が撮影したものだろうと私は考えました。かたかたと、フィルムの巻き取られる音が五分ほど続いた後でした……。  枯《か》れ木の続く道から画面が切り替わり、トンネルの入り口を正面から撮影した映像が映し出されました。車の通らない道で、両端《りょうはし》に草が生《お》い茂《しげ》り、半円形の暗闇《くらやみ》が中央にありました。トンネルの奥は、黒々としていました。そこへ、手前から現れた男性の役者が、歩いて入っていきました。  次の瞬間、場面が切り替わり、役者の背中が大きく映し出されました。レンズと役者の背中がほとんど接した状態からはじまり、役者が歩いて遠ざかるというシーンでした。  トンネルの暗闇の中でも役者の背中がわかったのは、照明を焚《た》いて照らしていたからでしょう。遠くに、トンネルの出口が小さく白い半円状の点になって見えました。役者はそこへ向かって小さく歩き去っていきました。でも、そのシーンには、おかしな部分があったのです……。  役者が出口に向かって歩くにつれて、画面に大きく映っていた背中が小さくなります。すると、画面の端が見えるようになる。そこはトンネルの闇で一面に黒色なのですが、その中に、少女が立っていたのです……。  画面の右端、ぎりぎりに立って、カメラにはほとんど背中を向けていました。少し斜《なな》めを向いているだけで、ほとんど後頭部しか見えませんでした。髪《かみ》の毛は肩《かた》ほどまであり、制服を着ていました。いいえ、それほど大きくは映っていませんでした。全身像が画面に収まって、それでも上下に隙間《すきま》があるくらいです。靴《くつ》を履《は》いていませんでした。……ええ、白い踵《かかと》しか見えませんでしたが、確かに裸足《はだし》のまま、彼女は立っていました。  なんだか、ぼうっとしたような後ろ姿で……。どこかの病院の入院|患者《かんじゃ》が布団を抜《ぬ》け出てきたような、心もとない感じでした。その状態で身動きすることなく、ただじっと、背中を見せているだけで……。  奇妙《きみょう》でした。それまでの映像に、そのような少女が映し出されることはありませんでしたから。あきらかに登場人物の一人ではないし、そこに立っている理由も見当たらない……。まるで、間違《まちが》って撮影されたように思えました。それなのに役者の男性は彼女に気づかない様子で彼女の横を通りすぎ、トンネルの出口へ向かって歩き去りました。そこでフィルムは終わりでした。  私は奇妙な思いにかられて、見返してみることにしました。上映を止め、少しだけフィルムを巻き戻してから、また映写をはじめました。男性がトンネルに入るシーンからでした。  そのとき、だれかが扉《とびら》を開けて部室に入ってきました。先輩でした。部屋を暗くし、映写機を持ち出している私を見て、先輩は驚《おどろ》いていました。映画研究会の主と呼ばれている方です。彼はスクリーンに目をやると、首を傾《かし》げました。役者がトンネル内に消えたところでした。  おい、このフィルム……。先輩がそう言ったとき、画面が切り替わってトンネル内のシーンになりました。  先輩が、咄嗟《とっさ》に動きました。テーブル上に置いていた映写機に向かって、手を伸《の》ばしました。  トンネル内……画面に大きく映し出された役者の背中……それが少しずつ遠ざかって画面の端が見えるようになる……。私はソファーに座ったまま、先輩の体の脇《わき》から、スクリーンを見ていました。  画面の端に立っている少女の背中……。それが、やはり見えました……。  突然《とつぜん》、部屋が暗くなりました。先輩が映写機を止めたのです。彼は蛍光灯《けいこうとう》をつけて、すぐに部屋を明るくしてくれました。でも、それまでの短い暗闇の中で、私は、たった今、見たものがなんだったのかと考えました。  立ち上がれませんでした。全身に汗《あせ》をかいているのに、ひどく寒かったのを覚えています……。  先生……。決して、笑わないでくださいね……。どうか、私の見たものを、信じていただきたいのです……。先輩が映写機を止める直前、スクリーン上に映った少女の背中……、それが一回目よりわずかに、左側へ傾《かたむ》いていました……。  ええ、わかっています、そんなこと、あるはずがありません……。でも、私はたしかに見たのです……。信じてください……。一回目には見えなかったはずの、制服の袖《そで》に刺繍《ししゅう》された校章が、二回目では見えたのです……。  ええ、そうです……彼女は、スクリーンを見つめている私の方に振《ふ》り向こうとしていたのです……。 [#ここから7字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  ……先生の生まれはこの辺りですか? 突然、おかしなことをお聞きしてすみません。でも、少しだけかかわってくる問題なのです。  いえ、私は違います。大学に入るため、この辺りに引っ越《こ》してきたのです。生まれは、もっと北の方でした。実家までは、新幹線で二時間ほどかかります。ええ、引っ越しは、わくわくするような、悲しかったような、そんな思い出があります。自分が、お母さんやお父さんと離《はな》れて一人暮しをはじめるなんて、考えもしませんでした……。  引っ越しには別れがつきものですよね……。先生も、そういった経験がおありですか? なるほど、小学生のとき近所に住んでいたお友達が、引っ越していったのですか。その子とは、仲がよかったのですか。自転車で二人乗りをして、街中にある古い映画館まで通ったのですか……。ああ、あの映画館……、去年、取り壊《こわ》されてしまいましたね。でも、自転車で二人乗りというのが、なんだかいいですね。素敵《すてき》だわ。その子が遠くへお引っ越しするとき、寂《さび》しかったでしょうね。え、二人乗りして転んで、お友達が複雑骨折を……? 手術をされて、プレートを埋《う》めたのですか……。それでは、いい思い出なのか、悪い思い出なのか、わかりませんね……。  私が先生の生まれを気にしたのは、トンネルの説明をする必要があるかどうか、わからなかったからです。でも、この辺りのご出身なら、話は早いですね。フィルムに映っていたトンネルは、県境にあるものでした。国道を東に向かって進んだところにある……。  ええ、そうです。あそこのトンネルです。まわりに民家も何もなくて、枯《か》れた草に覆《おお》われた山があるだけの、寂しいところです。夜になると明かりがなくて、真っ暗になります。ご存じでしょうか……。そのトンネルで七年前の八月に死体が発見されたのを……。  損傷が激しくて、身元はわからなかったそうです。ただ、未成年の女の子だったらしいということが判明したそうです。死体は、歯をすべて抜《ぬ》き取られて、焼かれていたそうです。歯を抜いたのは、歯型から身元が割れるのを防いだのでしょうか。焼かれて炭化した死体は、さらにばらばらに切断されて、トンネル内の側溝《そっこう》に詰《つ》められていました。そしてその上に、重い石をいくつも載《の》せられていたのです……。なんて、むごいのでしょう……。体の一部などは、とうとう見つからなかったそうです……。  死体を発見した方は、お酒に酔《よ》っていらっしゃったそうです。トンネル内を歩いていて、側溝に詰められた重い石の間から焼け残った髪の毛が出ているのを見た……。不審《ふしん》に思って、石を取り除いてみると……。  …………。いえ……。その……、私、こういう話、だめなのです……。いたたまれなくて……。ひどい……。そうですか、新聞でその事件のことはご存じでしたか。ええ、当時は、テレビなどでも騒《さわ》がれたそうですね。  私は、あのフィルムを見るまで、そのことを知りませんでした。あの日、フィルムを見た直後、明るくなった部室で、私は先輩《せんぱい》にたずねました。このフィルムはいったい何なのかと……。私の声は、自分でもわかるほど震《ふる》えていました……。実際に見たことはなかったそうですが、先輩はフィルムのことを知っておられました。  そのフィルムは、封印《ふういん》されたまま紛失《ふんしつ》していたものだそうです。先輩のさらに先輩が撮影《さつえい》し、そのことに関する詳細《しょうさい》なメモが残されていました。  少し、待ってください。そのメモを、ここに持ってきています。鞄《かばん》の中に……。これです、このノート。古くて、表紙に皺《しわ》が寄っていますが、中は読めると思います。これは当時の撮影日誌だそうです。先輩から、借りてきました。はい、どうぞ持っていってください。いつか返していただけるのなら、かまいません。フィルムや、撮影されたときの状況《じょうきょう》について、ノートを読めばだいたいわかると思います。  でも、かんたんに説明しますね。フィルムは、五年前に撮影されたもののようです。当時、製作していた自主映画の撮影場所として、あの県境のトンネルを使うといいのではないかとだれかが提案したそうです。いわくつきの場所で撮影すればおもしろいのでは……、そう遊び半分だったとメモには残っています。しかし、現像したフィルムには、少女が映っていた……。  少女がいったい何者なのか、だれにもわからなかったそうなのです。撮影しているとき、だれかが同じトンネル内にいたら、気づくはずですよね。でも、少女にはだれも気づかなかった……。  不審に思った先輩たちは、フィルムを何度か見返したそうです。でも……。  最初少女は完全に後ろを向いていたそうです。それが、二回目には、わずかに傾いていた。三回目に見たとき、さらに傾いていた……。  恐《おそ》ろしくなった当時の映画研究会の部員は、ついにそのフィルムをガムテープで巻いてどこかへ隠《かく》したそうです。そのまま繰り返し見ていたら、いつか少女は正面を向いてしまう……。そうなる前に、だれも見ないようにしてしまうのが一番だと先輩たちは考えたようです。  それを私が発見して、映写機にかけてしまった……。  フィルムを見た私が、それからの一週間をどのように過ごしたのか説明したいと思います。  私は、本当に恐《こわ》かった……。フィルムを見た直後、しばらくの間、膝《ひざ》が震えていました。先輩が私を気にしながら8ミリフィルムを元通り缶《かん》に入れて、棚《たな》の奥の方へ置くのを見ていました。フィルムを扱《あつか》う先輩の手は、まるで病原|菌《きん》におかされるのにおびえているようでした……。  忘れたほうがいいよ……。先輩は言いました。彼は、映写機のスイッチを止めるのに必死で、スクリーンを見ていなかったようです。でも、私が何を見てしまったのかわかっている様子でした。私は黙って頷《うなず》きました。けれどその日以来、彼女の背中が、瞼《まぶた》の裏側に焼き付いて離《はな》れませんでした。  あの、どこか呆然《ぼうぜん》としたような後ろ姿……。どんな表情をしているのかはわかりません……。でも、背中から、彼女の発した疑問符《ぎもんふ》が私には見えたような気がしました。ええ、彼女はトンネルの奥を見つめて、きっと考え続けているのです。なぜ自分は死んだのだろう……。自分はいったい、なぜここにいるのだろう……。まるでそうやって首を傾《かし》げているように、私には見えたのです……。  ……部屋に一人でいるとき、夜になっても電気を消せなくなりました。いつも背後にだれかのいる気配を感じて、頻繁《ひんぱん》に振りかえりました。もちろん、だれもいませんでしたが……。顔を洗うときも、鏡の中にあの少女が映りこんでいるような気がして……。びくびくとして、はたから見れば自分は小動物のようだったと思います。  でも、その一方で私は、なぜか彼女のことが気になってしかたなかったのです。彼女の背中を思い出すと、胸を軽く押されたときの圧迫《あっぱく》感にも似た、悲しい気持ちになりました。空が晴れていても、まるで雨が降っているような気分でした……。  アパートの部屋にいるときも、大学で講義を受けているときも、頭に思い浮《う》かぶのは少女の背中のことでした。恐くて逃《に》げ出したいのに、まるで私はとりつかれたように、彼女のことばかりを……。  …………。あ、すみません。ぼうっとしてしまいました。他人が目の前にいても、あの背中のことを考えると、こうなってしまうのです。ごめんなさい……。ああ、どうしよう。お店の人がこちらを見ています……。周囲の人が見たら、先生が私を泣かせているように見えるのかもしれませんね……。すみません。今でも時々……、つらくて……、でも気になって……。だから私は、恐いのをがまんして、彼女のことを調べようとしたのです……。  フィルムに映っていた少女が、身元不明のまま処理された死体の少女だということを、私は疑っていませんでした。私は事件の資料を集めました。でも、ほとんど何もわかりませんでした。資料といっても、当時の新聞を探し出してコピーをするしかありませんでした。事件のことを調べていると、先輩が奇異《きい》なものを見るように私を見ました。私があの少女のことに関わろうとするのが、不思議だったようです。  私は先輩にフィルムを撮影した方々の連絡《れんらく》先を尋《たず》ねました。最初、先輩はしぶっていましたが、やがて、どうなっても知らないという意味のことをつぶやきながら教えてくださいました。  あのフィルムの撮影をしたとき、現場にいたのは四人だけだったそうです。監督《かんとく》、カメラマン、照明係、そして役者が一人……。みんな男性の方でした。私は彼らの家へ電話をかけました。いえ、みなさん現在、映画と無縁《むえん》の普通《ふつう》の会社勤めのようです。  電話で私は、大学の映画研究会に所属している人間だと説明すると、みなさん、一様に緊張《きんちょう》しました。電話|越《ご》しに、それがわかったのです。息を吸い込んで、受話器を握《にぎ》り締《し》める音まで聞こえそうでした。みなさん、いつか私のような人間が現れて連絡してくるのを、薄々《うすうす》予感していたのかもしれません……。  私がフィルムの話をすると、撮影のときに照明を受け持っていた方と、役者の方は、話すのを拒否《きょひ》して電話を切ってしまわれました。その方々は結婚《けっこん》して普通の家庭を築いていました。苗字《みょうじ》が変わって、最初に電話を受けたのが奥さんだったり、背後からお子さんの笑い声が聞こえたりしました。きっと、映ってしまった少女のことを忘れたかったのだと思います……。  でも、当時、監督だった方は、慎重《しんちょう》に私の問いかけへ答えてくださいました。さきほどお渡《わた》ししたノートにメモを残していた方です。問いかけといっても、私は何をお聞きすればいいのかわかりませんでした。ただ、撮影したときの状況を質問して、撮影日誌に書いてあることの裏付けをとっただけでした。  監督だったそのOBの方は、申し訳なさそうに、まるで罪深いことをしてしまった責任が自分にあるような声で、そこに少女などいなかったと言いました……。  カメラマンの方も、お話を聞かせてくださいました。といっても、ほとんどは監督の方に聞いた話と同じでした。でも、あのシーンを撮影しているまさにその瞬間《しゅんかん》、その方はカメラのファィンダー越しに、世界を見ていたわけです。はたして、そのとき、彼の目に少女は映っていたのでしょうか。私はそのことが気になって質問しました。  でも、彼は何も見ていなかったのです。普通に撮影をして、フィルムを現像に出した。一週間が経過し、現像されて戻《もど》ってきたフィルムを確認《かくにん》すると、映っていた……。そう、おっしゃいました。  私にはよくわからなかったのですが、少女の背中に当たっている照明の具合は、妙《みょう》なのだそうです。撮影《さつえい》現場で用意していた照明は、役者をしていらした男性の背中を照らすのに精一杯《せいいっぱい》だったそうです。それなのに、少し離《はな》れた場所に立っている少女の背中は、暗闇《くらやみ》の中で、やけに白く浮かび上がっている……。  そういえば、電話を切る間際《まぎわ》に、彼は暴走族のことをおっしゃっていました。そのことについての古い新聞の切り抜《ぬ》きが、さきほどお渡ししたノートにも貼《は》りつけてありました。少女の死体が発見された七年前、トンネルの付近で頻繁に暴走族が現れていたそうなのです。……ええ。だとしたら、本当に、いたたまれません……。  電話で話を聞かせてくださったお二人は、フィルムを見て以来、事件の資料を集めていたそうです。少女が少しずつ振《ふ》りかえろうとするのを見て、恐怖《きょうふ》からフィルムを封印《ふういん》してもなお、それを焼却《しょうきゃく》して処分することはできなかった……。私はその理由を質問したのですが、お二人とも悲痛な声で答えてくださいました。亡くなった少女がフィルムに入りこんで、まるで何かを訴《うった》えているような気がして、捨てられなかったと……。  お二人は目を閉じると、無言でじっと立っている少女の背中や後頭部が今でも思い出せるそうです。まるで泣いているような、そんな背中を……。少女のことで何かわかったらまた連絡して欲しいと、電話を切る間際にお二人は言いました。  きっとあの方々は、五年前にあのフィルムを撮影しなければ、別の人生を歩んでいたのかもしれません。私は、そう感じました。どんなに楽しい場所にいても、ふと悲しい気持ちになるようなことってありませんか……。きっとあの方々は、これまでそういった気持ちとともに暮らしてきたのでしょうね……。  電話を終えてしまうと、私は途方《とほう》にくれました。OBの方々も、死体の新聞記事も、重要なことは何も私に教えてくれない……。少女のことについてそれ以上、どうやって調べたらいいのかわかりませんでした。でも、諦《あきら》めといっしょに、もう関わらなくていいんだ、という安堵《あんど》も感じていたように思います。  ……いえ、話はこれで終わりではありません。そんなとき、ふと思い出したことがあったのです。たしか、二度目にフィルムを見たとき、制服の袖《そで》の部分に、校章のようなマークが見えました。ええ、そうです。少女が振り向こうとしたおかげで、それが見えるようになったのです。そこから学校名が特定できるかもしれないと考えました。  でも、校章の特徴《とくちょう》を覚えるほど、注意深く見てはいませんでした……。制服を確認するためには、三回目の上映を行なって、あらためてはっきりと観察する必要がありました……。  迷いました。それ以上、関わるのは恐《こわ》かった……。あの少女に、暗い世界へ手を引っ張られてさまよいこんでしまうような気がして……。  何よりも、少女が振りかえってくるというのが恐ろしかった……。上映するたびに、見えていた後頭部がゆっくりと右側へ回転し、彼女の左耳、左の頬《ほお》が現れ、やがて完全にこちらを振りかえる……。そのとき、彼女ははたしてどんな表情をしているのでしょうか……。大きく見開いた目と、半開きの口をした、呆然《ぼうぜん》とした顔でしょうか……。それとも、苦痛に歪《ゆが》められた顔でしょうか……。私は、彼女の顔を見たくありませんでした……。  でも、私の心の中に、逃げ出してはいけないと訴える部分がありました……。本当にかすかな声でしたけど……。それに、あともう一回か二回くらいの上映なら、完全にこちらへ振りかえってしまうことはないだろうと思ったのです……。だから、おそるおそる私は、もう一度フィルムを見る気になったのです。  ええ……。私は合計、今までに三回、例のフィルムを見ています。最初にフィルムを見た十日後、今からひと月ほど前のことです。スクリーンと映写機を設置して、だれも入ってこないように部室の扉《とびら》に鍵《かぎ》をかけました。そして棚《たな》の奥から、先輩《せんぱい》のしまいこんだフィルムの缶《かん》を取り出したのです。  フィルムを映写機にセットするとき、鳥肌《とりはだ》がたって、皮膚《ひふ》の産毛《うぶげ》がいっせいに立ちあがっていました。部屋を暗くして、フィルムを最初から回し始めました。かたかたとフィルムの巻き取られる音を聞きながら、スクリーンに映った楽しげな役者の表情を見ていました。  私は最初、ソファーに座っていました。でも、あのトンネルのシーンが近づいてくるにつれて、吸い寄せられるように立ち上がりました。少しずつスクリーンの方へ近づき、映写機からの光を遮《さえぎ》らないよう端《はし》に立ちました。やがて半円形のトンネル入り口が映し出されたとき、スクリーンの間近にいた私は、まるで役者の方に続いてトンネルの中へ入っていくような感覚を味わいました。  ……先生。  私……、この先のことを、どうお話ししたらいいのかわかりません。この不思議な現象を、どう説明したらいいのでしょうか……。私は、あの三回目の上映以来、何もかもわからなくなったのです……。  私が今の大学に入学することを選んだのは、二年前でした。当時は、実家の近所にある高校に通っていました。ある夕方に、私は一人で教室の窓から外を眺《なが》めていました。校舎の三階からは、下の方を歩いている数人の女子生徒が、小さく粒《つぶ》のように見えました。  彼女たちの笑い声が聞こえてきて……。そのとき私は、個人的に悩《なや》んでいることがあって……、飛び降りて死んだら楽になるだろうなと考えたのです……。  片足を窓枠《まどわく》にかけようとしました……。  でも、しばらく迷った後、結局、私は窓から離れました。そして机の上に置いていた進路希望の調査書の空欄《くうらん》に、今の大学名をふと書いてみたのです。前向きに変わっていこう……、そう決心した瞬間《しゅんかん》でした……。すみません、こんな話をしてしまって……。フィルムの話に戻りますね……。  シーンが切り替《か》わって、男性の背中が大きく映し出されました……。背中が遠ざかり、小さくなっていくと、画面端の暗闇《くらやみ》の中に、やはり彼女は裸足《はだし》で立っていました。だらりと下げた手は、力なく指を開き気味にさせていました。黒々とした髪《かみ》の毛の後頭部は、半ば闇に溶《と》け込んでいて、制服の白さだけが浮《う》かんでいました。ほっそりとした背中で、力の抜けたように肩《かた》を落としていました。もう長いことそこに一人きりで取り残されている……。そんな印象でした……。  二度目に見たときよりも、やはり少し左側に傾《かたむ》いていました。彼女の横顔が、見える直前でした……。白い頬《ほお》が、肩まである髪の毛と左耳の陰《かげ》から覗《のぞ》いていたのです。以前に見たときには、見えなかったものでした。  そして、制服の袖についていた校章……。彼女の姿は大きく映し出されていたわけではありません。でも、スクリーンに近づいていた私は、その校章の形と色を、ぼんやりとですが確認《かくにん》できました。それに、彼女が傾いたおかげで、それまで肩の陰にあった胸のスカーフも、少しだけ見えたのです……。  先生……、私は、見たものが信じられませんでした。そして意味を疑いました。あるいは、三度目の上映などせずに、少女のことを忘れていれば、私は幸福だったのかもしれません。  私はなぜ、今、ここにいるのでしょう……。先生はなぜ、今、ここにいらっしゃるのですか……?  もしも、私たちには見えない意思の力が存在するとしたら……。彼女が……、死んだ後も消すことのできない強い未練の引力で私を呼び寄せたのだとしたら……。  ……フィルムの中で彼女の着ていた制服は、二年前にあの校舎の窓辺に立っていた私が着ていたものと、同じものだったのです。……似ている制服なんてどこにでもあります。でも、私は直感しました。……ええ、そうです。彼女は、私と同じ高校に通っていたのです。 [#ここから7字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  ……先生、大丈夫《だいじょうぶ》ですか? なんだか、さきほどからお顔の色がすぐれないようですが……。手が震《ふる》えているじゃないですか……。そんなに汗《あせ》をかいて……。冷房《れいぼう》が効きすぎているとさっきはおっしゃっていたのに……。  ……はい、わかりました、先を続けます。  私は大学を休んで実家へ帰りました。少女の身元がわかるかもしれない。そう考えると、静かに講義を聞いていることはできませんでした。あれは、ひと月前のことです。あの里帰り……、まるで遠い昔のことのように思えます……。  新幹線に乗って、私の故郷である北の地が近づくにつれ、不安になっていきました。私は恐《こわ》かった……。本当は、何もかも忘れてしまいたかった……。だって、こんなに実家から離《はな》れた場所で、こんな偶然《ぐうぜん》……。  私は、今の大学を選んで実家を出てきたのも、あのフィルムのあった映画研究会に入ったのも、自分の意思だと思っていました。でも、そうじゃないかもしれない……。私は二年も前から、彼女に呼び寄せられていたんじゃないか……。  そんなの、あんまりです……。私の決断と言えるものは、どこにあったのでしょうか……。自分という存在が消えていきそうで、恐かった……。  故郷の駅に到着《とうちゃく》すると、バッグを片手に改札を出ました。空は曇《くも》っていて、初夏だというのに肌寒《はだざむ》い気がしました。連絡《れんらく》をせずに実家へ帰ったものだから、母親は私を見てひどく驚《おどろ》いていました。それでも嬉《うれ》しそうに笑って歓迎《かんげい》してくれて……。  でも、そのうちに私の様子がおかしいのを感じたらしく、大学で何かあったのかと質問されました。親に心配をかけてはいけませんよね。私は笑ってなんでもないことを説明すると、高校へ行きました。学校は、家から歩いてすぐのところにあるのです。  あの少女がかつて通っていたかもしれない高校……。二年ぶりに校門を抜《ぬ》けながら、私は、フィルムの少女もかつて同じようにこの道を歩いていたのだろうかと思いました。時刻は夕方で、家路につく生徒たちとすれ違《ちが》いました。女子生徒たちの制服は、かつて私の着ていたものであり、フィルムに映っていた少女が身につけていたものでもありました。  二年前、もしかすると私は、学校ですでに彼女にとりつかれていたのかもしれない……。自殺するのをやめて、生き方を決めたのは、自分の意思ではなかったのかもしれない……。歩きながら考えていました。  自分自身に対して不安になりながら、それでもなぜ少女のことを知ろうとしていたのか、不思議に思われますか……?  私……、あのフィルムを見て以来、よく同じ夢を見ます。自分が殺されて側溝《そっこう》に詰《つ》められ、その上に重い石をいくつも載《の》せられるという夢です。彼女の受けた仕打ちと同じ体験です。ひどい……、あんまりですよ、どうして……。まるで彼女が人間でないように扱《あつか》われて……。新聞記事の中の彼女が、不思議と、自分のことのように感じられました……。  彼女は、見つけて欲しがっている……。そう私は思いました。暴走族に殺害された身元不明の死体としてではなく、ひとりの、かつて生きていた人間として悼《いた》まれたがっている……。私は彼女の身元を確かにして、人間にしてあげたかった……。  校舎に入り、職員室へ向かいながら、事前に電話をしておけばよかったと私は思いました。突然《とつぜん》に訪ねても追い返されるのではないかと心配しました。そのとき、目の前を見知った先生が通りすぎたのです。H先生という、年配の男の先生でした。私のことを覚えてくださっていたらしく、呼びかけると、驚きながら私の名前を呼んでくださいました。  私は基本的に、先生となかなかうまく話のできない人間でした。クラスメイトが親しげに声をかけているときも、離れた場所から眺《なが》めているような……。でも、これまでの人生で一人だけ、仲の良くなった先生がいました。それがH先生です。口数が少なくて目立たないけれど、やさしそうに微笑《ほほえ》む方でした。その高校に、もう三十五年も勤続していらっしゃる歴史の先生で、おじいちゃん、と陰《かげ》でよくからかわれていました。でも、私はその先生が好きで、よく面倒《めんどう》を見ていただいていたのです。  授業が終わったところだったらしく、H先生は、私の話につきあってくださいました。廊下《ろうか》の隅《すみ》で向かい合ったまま、手短な近況《きんきょう》報告をしました。それから私は、七年ほど前にこの学校の女子生徒で行方《ゆくえ》不明になった子はいませんかと聞きました。  私の質問に先生は少し面食らっておられましたが、答えてくださいました。ここ十年ほどの間に、ふらりと家からいなくなった生徒が、男女合わせて五人いたそうです。ほとんどは、日ごろの生活態度に問題のあった子でした。  でも、中に一人だけ、真面目《まじめ》な女子生徒がいたそうです。H先生は彼女のことを、少しだけ覚えておられました。ほとんどだれも先生の話を聞いていない授業中、一人だけ熱心にノートをとっている子だったそうです。  その子が姿を消したのは、七年前の七月七日、学校が夏休みに入る一週間前のことだったそうです。……ちょうど、少女の死体がトンネルで発見された年でした。  私は勢い込んで彼女のことを質問しました。名前は……どこに住んでいたのか……。  先生はそんな私を訝《いぶか》っておられました。普通《ふつう》、そういった情報を軽々しく外部の人間に教えてはいけないですよね。でも、私が何か重要なことをしていることを、無言のうちに感じてくださったのかもしれません。H先生は私に、その子の名前と住所を教えてくださいました。  フィルムに映っていた少女の身元が、そのとき、わかったのです……。  少女の住んでいた家は、私の家に近い駅から、電車で二十分ほど離れた場所にありました。小さな洋風の一軒家《いっけんや》でした。家を知った後で、どうすればいいのかを考えていませんでした。家族にお会いするのは不安でした。正直なことを言うと、まさかすぐに少女の身元がわかるとは思っていませんでした。だから、戸惑《とまど》っていたのです……。  でも、どうしてもその家を訪ねなければならない気がしました……。心の深いところで、まるでそれが私の使命であるような感じがして……。だから、H先生と別れた後、すぐに家へ行くことにしました。  訪問させていただく前に、私はあらかじめ、H先生に教えていただいた電話番号へ連絡しておきました。少女の母親らしい人物が、電話に出てくださいました。緊張《きんちょう》しながら、電話|越《ご》しにお話をしました。  これからうかがって、行方不明になった娘《むすめ》さんのことでお話を聞かせてもらえませんか……。私は訪問の理由を隠《かく》さずに伝えておきました。断られるかもしれないと思っていたのですが、少女の母親は少し沈黙《ちんもく》したあとで、いらしてください、と丁寧《ていねい》に返事をしてくださいました。  門の横にあったチャイムを鳴らして、扉《とびら》が開かれるまでの間、私は二階のベランダを見上げていました。今にも雨が降りそうな灰色の雲の下、二階の窓には、カーテンが閉ざされていました。女の子の部屋であることを示すように、カーテンは桜色の縞模様《しまもよう》でした。そこが少女の寝起《ねお》きしていた部屋だと、私は感じました。  玄関《げんかん》の扉が開いて現れたのは、綺麗《きれい》な女性でした。その人が少女の母親でした。化粧《けしょう》をして、スマートな服装に身を包み、一流の会社で働いている女性という印象がありました。  実際、そうだったのです。ご主人と別れて、現在はお友達の小さな会社を手伝いながら、息子《むすこ》さんと二人きりで暮らしているそうでした。息子さんというのは、少女の弟にあたる方です。私は家の中に通されて、お茶をいただきながらお話をさせていただきました。  変ですよね。私のような他人が突然に押しかけたのに断りもせずに家の中へ上げてくださるなんて……。不思議に思って、なぜ面識のない私に話を聞かせてくれるのかと質問しました。  少女の母親は、私が電話をかけた日の朝、娘の夢を見たのだそうです……。夢の中で電話が鳴って、受話器をとると、その向こうから、七年前にいなくなった娘の声で、今から帰るね、と……。  でも、現実の世界で実際に現れたのは、娘ではなく、会ったこともない私だったわけです。だから、少女の母親はいろいろなことを私に聞きたそうでした。私がだれなのか、どこに住んでいて、なぜ娘のことに興味があるのか……。私は、自分に関することはできるだけ答えました。しかし、どのようにして私が少女のことを知りえて、そして調べているのかという理由を、詳《くわ》しく説明できませんでした……。  フィルムのことも、身元不明の死体のことも、黙《だま》っていました。8ミリフィルムは、大学の部室に置いてきていたのです。もしもその場にあれば、撮影《さつえい》されてしまった後ろ姿を見ていただいて、確認《かくにん》してもらうこともできたかもしれませんが……。  とにかく私は、少女の母親に対して、口籠《くちご》もってばかりいたのです……。困ってしまって……。そんな私を見て、少女の母親は気がかりそうな顔をしながら、あの子の居場所について何かわかったら教えてねと言いました……。  不公平だったと思います……。私は何も答えないのに、相手に答えさせてばかりで……。  少女が行方不明になった七年前の七夕の日、何か彼女におかしな気配がなかったのか、私は質問しました。少女の母親はテーブルの上に置いた自分の手を見つめながら、答えてくださいました。  七年前の当時、少女の両親の間で離婚《りこん》に関する話し合いが行なわれていたそうです。少女の両親は高校生のころに出会って恋愛《れんあい》をし、しばらくすると子どもができたのをきっかけに結婚《けっこん》したそうです。でも、様々な問題が浮上《ふじょう》したらしく……。そこで、離婚した後に母親と父親のどちらについていくのかという問題で少女は悩《なや》んでいたそうです……。  父親についていくとしたら、父親の実家へ引《ひ》っ越《こ》ししなければならなくなり、転校することになります。でも、それでは娘に負荷がかかるからと、母親は、自分が引き取ると主張していました。  少女の父親は、真面目《まじめ》で厳しい人だったそうです。自分に対しても厳しくて、抑制《よくせい》がきいていて、家の中で口喧嘩《くちげんか》がおこるようなことはなかったそうです。特に子供たちの前では、影響《えいきょう》を気にして仲のいいふりをしたそうです。  でも、少女はきっと、いろいろ感じ取ったのでしょう。そして、考えた……。多感な、ときですから……。不安定な気持ちでいたとしても、おかしくありません……。  七年前の七月七日は、日曜日でした。少女は正午近くまで友人と遊んでいたそうです。デパートに行って、植物園に行って、そして駅前にくると、私は用事があるから、と言って別れた……。それが彼女の、最後に目撃《もくげき》された姿だったそうです。  その夜、母親は一人、家で少女の帰りを待っていたそうです。少女の父親は数日前から実家に行っていて、月曜まで戻《もど》ってこない予定でした。彼はひどく心配していて、月曜の朝に車で家へ帰ってきたとき、まず最初に、娘は見つかったか、と声をかけたそうです……。  当時、小学生だった弟は、友達の家へ泊《とま》りがけで遊びに行っていました。七月七日、七夕でしたから、友達の家で笹《ささ》に短冊を飾《かざ》って、花火をしていたそうです。彼は一週間、姉がいなくなったことについて、よくわけがわかっていなかったそうです……。  ほぼひと月後、八月の中旬《ちゅうじゅん》に、トンネルで身元不明の死体が発見されました。でも、死体の身元はわからず、だれも少女の行方不明とは結び付けられなかった……。そういった事件があったことすら、彼女の母親は知らないようでした。  ひと月の時間経過がありますけど、どこかに監禁《かんきん》されていたわけではないでしょうね。トンネルに死体が置かれて、ずっと発見されなかったのでしょう。だから、少女が友達と別れた直後に、殺されて遺棄《いき》された可能性もあります。  ……私、あまりこういうことを考えたくないのです。死体とか、遺棄とか……。少女が、人格のない、ただの記号として扱《あつか》われているような気がして……。つらくなります……。  二階にある少女の使っていた部屋へも入らせていただきました……。どうしても少女の部屋が見たくなって、母親にお願いしました……。  先生……、もしかしたら、私がありもしないことを言っているのだと思われるかもしれませんが……。私……、その家に入ってから、ずっと二階の部屋に行きたくてしかたなかったのです……。なぜなのか、私にもわかりませんでした……。  見えないだれかが、私の手首をつかんで、ぐっとそちらの方向へ引っ張っているような……。いえ、もちろんはっきりとそう感じたわけではなく……。すみません、忘れてください……。  彼女の部屋は、普通の、女の子の部屋でした。窓際《まどぎわ》に置かれた小さな犬の置物、本棚《ほんだな》に並んでいる小説、CD……。七年前からそのまま残されていたようです。  胸が痛みました。彼女は、最初から死んでいて、フィルムに映っていたわけではないのです……。かつて、生きていた……。そんな当然のことを、改めてその部屋を見て感じました。  高校の制服を着た彼女の写真がありました。ええ、そうです。私はそのとき、はじめて少女の顔を正面から見ました。母親の面影《おもかげ》のある、美しい子でした……。他《ほか》にもいろいろな写真が飾ってありましたよ。あまり注意深くは見ていませんが、家族みんなで写っていたものも……。子どものころを写した写真もありました。仲の良かった子だったのでしょう、お友達と肩《かた》を組んで、彼女は写真の中で笑っていました……。え、ああ、はい……。父親といっしょに写っているものも中にはありました。……でも、小さくて顔はあまりわかりませんでした……。  少女の母親は、娘の部屋にあるものをひとつずつ大事そうに手で触《さわ》りながら、七日の夜のことを話してくださいました。いつまでも帰ってこない娘を心配して、彼女の友達の家へ電話をかけたそうです。ずっと以前に一度だけ、少女が女友達の家に外泊《がいはく》したとき、母親に連絡《れんらく》をし忘れていたことがあったそうです。おかげで少女は、帰ってから父親に叱《しか》られたそうです。でも、その夜、少女は友達の家にもいなかった……。  次第に嫌《いや》な予感のしてきた母親は、次に、もしかしたら父親の実家へ向かったのかもしれないと考えたそうです。娘はもしかすると、自分ではなく父親について行くつもりなのではないか、そしてそのことを自分に言えないでいたのではないか……。  それで、電話をかけてみて確認したそうです。当時、父親の実家には少女の祖父母が暮らしていました。電話には祖母が出たそうなのですが、うちには来ていない、と返事があったそうです……。  私はその話を聞きながら、本棚を眺《なが》めていました。最初は何気なく……、でも、私はそれを見つけて……。映画のパンフレットでした……。少女の母親に断って、本棚から抜《ぬ》き出してみると、それは私の好きなフランス映画のパンフレットでした……。  わけもなく涙《なみだ》がこみ上げてきて、泣いてしまいました……。私も同じものを家に持っていて、同じように本棚に立てていて……。彼女もこの映画が好きだったのかなって考えた瞬間《しゅんかん》、友情を感じてしまって……。彼女の母親が困惑《こんわく》している横で、しばらく私は、彼女の死を心から悲しみました……。  洗面所を借りて顔を洗わせていただきました。そしておうちを出ることにしたとき、唐突《とうとつ》に、声をかけられました。姉ちゃん……。そう玄関の方から、男性の声がしました。振《ふ》りかえると、私よりもいくつか年下らしい男の人が立っていました。すぐに、少女の弟だと理解しました。背の高い人で、今は大学に通っているそうです。  彼は、人違《ひとちが》いだとわかると、照れくさそうに頭を掻《か》きました。玄関《げんかん》にある靴《くつ》が姉の履《は》いていたものに似ていたから、そう彼は言いました。  玄関先で頭を下げて、私は家を出ました。少女の暮らしていた場所から遠ざかりながら、これからあの二人が幸せに暮らしていけたらいいと思いました……。  私はそれからすぐに新幹線へ乗りこんで、夜には自分の部屋のあるアパートへ到着《とうちゃく》していました。行くときと同じで、頭の中ではずっと少女のことばかり考えていました。それがひと月前の里帰りでした。  ええ……、今、私がお話しできることは、これでもうほとんど終わりです……。先生、長々とお話ししてすみません。喫茶店《きっさてん》の外、もう暗くなっていますね……。  …………。  8ミリフィルムはその後、どうなったのか、ですか? そのうちに、私、警察へ持っていこうと思っています。……先生、何をそんなに焦《あせ》っていらっしゃるのですか?……そうですよね、そのような職業をなさっているからには、平静な気持ちではいられませんよね。ええ、お気持ちはわかります。  …………。  それは、かまわないと思います。ええ、今から大学の部室に行けば見られるはずです……。そうですね、先生がそうおっしゃるのであれば……。  それに本当は、私もそうお誘《さそ》いするつもりだったのです。だって、まだ話は最後まで終わっていませんから。  ……はい、ほとんど話し終えましたが、まだ少しだけ話していないことがあります。私、アパートに帰って、変なことに気づいたのです。ええ、そのことについては部室で話をしましょう……。私がまだ話していないことというのは、つまり、少女がだれに殺されたのかということなのです……。 [#ここから7字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  どうぞ、入ってください。ここが映画研究会の部室です。散らかっていてすみません。今、片づけます。困りました……、あらかじめ掃除《そうじ》しておけばよかったのですが……。他《ほか》の部員は、今日はいないみたいですね。好都合だと思います。現在の部員の中で、フィルムのことを知っているのは私と先輩《せんぱい》だけなのです。あまり大勢に話して、騒《さわ》がれたくありません。  先生、そのソファーに座っていらしてください。タバコの灰にお気をつけて。ええ、そうです。その下にフィルムがありました。  ……先生、どうされたのですか。やっぱり、さきほどからお顔の色がすぐれませんね。  不|機嫌《きげん》になっているだけ……ですか……。私がすぐに話をしないものだから、気分を悪くされたのですね。やっぱり……。喫茶店からこの部屋までの道を歩きながら話せばよかったのですよね。でも、私はどうしても、先生に実物のフィルムを見せながらお話ししたかったのです。少し趣味《しゅみ》が、悪いですよね。すみませんでした……。  これが映写機です。これを、この位置に置いて……。少し、前をすみません。どうも……。  ここまでの道すがら、私にあわせて歩いてくださって申し訳ありません。自転車で先に大学まで向かって下さってもよろしかったのに。押して歩くのは大変だったでしょう。  フィルムはこの棚《たな》の奥に……あった……これです……ええ……この円盤《えんばん》みたいな缶《かん》の中に……少女の映ったフィルムが入っています。今でも手に持つと……、なんだか缶が冷たくて、まるで氷を持っているようです……。では、開けますよ。  ……これが、フィルムです。意外と細いですよね。映写機に、セットします。  …………。  先生、やはりお顔の色が……。額に汗《あせ》もかいていらっしゃいます……。どうされたのですか……?  ……私も、顔色が悪いですか。ええ、そうですね、少し息苦しいです……。このフィルムを上映するとき、いつもこうなのです。いたたまれない。そういった気持ちに、なるのです。  先生、今日はありがとうございます。ここまでつきあってくださって、紅茶の代金も支払《しはら》っていただいて……。今日ほど運命について考えさせられたことはありません。少し、くどいですか。そうですね。今日、私がこのことを言うのは何度目になるのでしょう。  ……きっと、フィルムに写った少女の意思はこれだったのだと、私は喫茶店に入ったとき知りました。ええ、殺された彼女が残した未練とは、これしかないはずです……。あら、先生、どうされたのですか。そんなお顔をして……。  そうですね、さっきから私、意味のわからないことばかり言っていますね。ちょうどフィルムもセットし終えたことですし、お話をしましょう。その前に、部屋を暗くしないと……。外はもう暗いので、蛍光灯《けいこうとう》を消すだけでいいですね。  ……少女が映っているのは最後のほうですが、せっかくなので、フィルムの最初から上映しましょう。トンネルのシーンまで、五分ほど時間があります。それまでに、私が少女の家から帰った後、アパートの自分の部屋で考えたことをお話ししますね。  といっても、別段、特別なことではないのです。先生をじらせるようなことをしてしまいましたが、きっと、聞いたら呆《あき》れてしまうと思いますよ……。え、違いますよ。これまでお話しした情報から犯人が特定できるなんて、そんなこと無理です……。  さあ、スクリーンを見ていてください。ほら、はじまりました。今、話している二人組は、五年前に映画研究会の部員だった方々です。8ミリの映像って、雰囲気《ふんいき》がありますよね……。ビデオの映像は現実をそのまま映し出しますが、フィルムの映像は、どこかぼやけていて幻想《げんそう》的です……。  少女のお話ですが、私、母親の話を反芻《はんすう》していて、妙《みょう》にひっかかりを覚えたことがあったのです。  少女が失踪《しっそう》したのは日曜で、午前中には友人と遊びまわっていた……。  先生、不思議に思いませんか。……わかりませんか。きっと私だったら、そんなとき、私服で遊ぶと思うのです。高校の制服を、わざわざ着ないと思います。でも、フィルムに写っていた少女は、制服姿だった……。  考えすぎかもしれないとは思いました。フィルムの中で少女が制服を着ていたからといって、死んだときにも着ていたとはかぎらないですよね。もしかしたら、何の関係もないかもしれない。でも、彼女はフィルムの中で裸足《はだし》でした……。彼女が裸《はだか》ではなく、制服姿で写っていたのは、何か意味があるように思えるのです……。  そのことに気づかなかったら、私はその夜、少女の家に電話をかけなかったでしょう。私はどうしても、少女の死後、部屋に制服があったのかどうか、知りたかったのです。  受話器をとったのは、少女の弟でした。彼は七年前に小学生でしたが、姉が行方《ゆくえ》不明になる直前の夜を覚えていました。自室で彼女はそわそわした様子で、学校へ持っていく鞄《かばん》に何か詰《つ》めこんでいたそうです。制服は、なくなっていたそうです。  私はそれを聞くまで、少女は駅前で友達と別れた後、その周辺でだれかに拉致《らち》されたのだと思っていました。もしかしたら複数の、恐《おそ》ろしい人たちに……。そして、生きたままなのか、殺された後だったのかはわかりませんが、新幹線で約二時間ほど離《はな》れたあのトンネルまで、彼女は移動させられた……。車の荷台に積めこまれていたのか、それとも、縄《なわ》で動けなくして後部座席に寝《ね》かされていたのか……。  でも、弟の話を聞いて、考えを改めました。彼女はおそらく、自分の意思で家を離れて新幹線に乗ったのです。彼女は、日曜日に出かけて、月曜には再び帰り、学校へ向かうつもりだったのではないでしょうか……。だから制服を持ってきていた……。鞄に詰めていたのは、学校の用意と、制服だったのではないでしょうか……。  先生、先生、大丈夫《だいじょうぶ》ですか。気分が悪そうに見えます……。でも、スクリーンをよくご覧になっていてください……。先生、あなたは彼女の姿を見なければいけません……。もうすぐトンネルのシーンですよ……。ああ、なぜ、こんな気持ちになるのでしょう……。悲しい……。この場面が切り替《か》わって……トンネルを正面から映した場面に……これが……そうです……半円のこの暗い闇《やみ》が……トンネルです……。今、役者の男の方が、入っていきます……。闇の中へ彼の背中が完全に消えると……。  少女の母親と話をしたとき、私は大切なことばかり聞き逃《のが》していました。違和《いわ》感に、気づくべきでした……。少女の母親はこう言いました。旦那《だんな》は真面目で、厳しい人だったと……。それなら、父親は月曜に帰ってきたときになぜ、娘《むすめ》は見つかったかと心配そうに言ったのでしょう。最初に聞いたときは、それほど娘のことを心配していたのだなと思いました。でも、普通《ふつう》、そうなのでしょうか。娘が一晩、無断で外泊《がいはく》しただけなのですよ。実際、かつて少女が連絡《れんらく》せずに外泊した次の日、彼はひどく少女を叱《しか》ったのです。連絡がつかなくなって、まだ一日も経過していないのに、娘は戻《もど》ってきたか、と怒《おこ》るのではなく、見つかったか、と心配していた……。  母親や弟は、七年が経過した今もまだ、少女がどこかで生きていることを信じているのに、父親のその言葉が、今の私には、もう死体は発見されたか、という意味に聞こえるのです……。ええ、私は、彼女の父親を疑っています……。  先生……この直後です……背中が大きく映し出されて……トンネルの出口へ……小さく……ほら……そこに……。  先生? 彼女が、見えますよね。前回より少しだけ振《ふ》り返って、白い横顔が見えています……。彼女の部屋にあった写真と同じ顔です……。伏目《ふしめ》の、なんて悲しげな顔をしているのでしょう……。  先生、どうしました? なぜ、そんなに青い顔をしているのですか? もしかしたら、先生……。あなたが……。  フィルムが、もうすぐ終わります。役者の方が出口へ消えて……。終わりました……。先生、先生。……もう一度、見ましょうか。巻き戻しますよ。そうすると、もう少しだけ少女が振り返っているはずです……。きっと先生の方を見ているはずですよ……。  ああ、やっぱり。今の先生の表情を見て、私は間違《まちが》っていなかったのだと思いました。私、半分は思い違いかもしれないと考えていたのです……。喫茶店《きっさてん》に入って、最初に先生のお顔を見て、もしかしたらと思ったのです……。だって、彼女のおうちにあった写真の中に、先生とよく似た顔をお見かけしましたから……。先生、あなたは少女の……。  さあ、巻き戻りました。もう一度、トンネル正面のシーンから……。  先生……、先生のご本名、やっぱりお尋《たず》ねしてよろしいでしょうか。  先生、私は電話で、弟から聞きました。父親の実家は、新幹線で二時間離れた場所にあるところだと……。トンネルのあるこの辺りに、父親の生家はあったのです……。そのことを聞いたとき、少女がだれに殺されたのか、ほとんど明確になりましたよ……。少女は月曜日に学校へ行く支度《したく》をして、新幹線に乗って父親の実家へ行ったのです。友達と遊んでいるときは、ロッカーなどに荷物を置いていたのでしょう。そして月曜日には、父親の車に乗って帰るはずだった。  母親への連絡は、父親にまかせたのかもしれません。母親に後ろめたかったのでしょうね。両親の離婚《りこん》後に、自分が父親へついていきたいということを言い出せなかった。そのため、半ば秘密で抜《ぬ》け出したのではないでしょうか……。  …………。  ああ……。彼女が……トンネル内の暗闇《くらやみ》に立って……先生……見えますよね……画面の端《はし》……彼女が振りかえってこちらを見ています……。  先生、私は電話で聞きました。彼女たちの一家は、ずっと以前、父親の実家で暮らしていたそうなのです……。父親の実家はこの辺り……。そして先生のお家も……。  先生、やっぱりあなたは、少女の……。  …………。  …………。  …………。  そうです……、今、先生がおっしゃった名前……。それが彼女の名前です。落ちついて……ください。かわいそうに……先生……。先生が彼女の死を知らなかったのは、不思議ではありません。まだ、私と先生以外に、だれも知らないのですから……。彼女の死体からは、歯が抜かれていました。身元をわからなくするためです。そして死体の一部は発見されませんでした。おそらく、犯人が持ち去ったからです。これも、おそらく身元をわからなくするためです。骨折をしてプレートの埋《う》めこまれている個所が目立つと考えたのでしょう……。  彼女が七年前、母親ではなく、父親へついていこうとした理由がわかりますか。きっと、また父親の実家で暮らせると思ったからです。彼女の部屋には、小さなころの少女の写真がありました。日焼けをした男の子と、肩《かた》を組んでピースをしていました……。先生に、とてもよく似た男の子でした……。少女の母親にその子のことを尋ねると、引っ越《こ》す前の、父親の実家の近所に住んでいた子だと説明されました。  きっと彼女は、先生に会いたかったのだと思います……。いっしょに遊んだ思い出が忘れられなくて……。さあ、先生、振り向いた彼女の顔をよく目に焼きつけてあげてください……。もうすぐ、フィルムが終わってしまいます……。先生……。 [#ここから7字下げ] 5 [#ここで字下げ終わり]  ……あ。  どうも、こんにちは。いつからそこにいらしてたのですか? バス停の時刻表ばかり見ていて気づきませんでした。いえ、そんなには待っていません。ついさきほど、バスで到着《とうちゃく》したところです。  先生、ここまで自転車で来たのですか。大変だったのではありませんか。長い上り坂があったでしょう。先生もバスでくるのだと思って、次のバスの時間を確認《かくにん》していたところでした。  では、向かいましょうか。トンネルは、ここから歩いてすぐそこですよね。……ええ、そうです。この花は、途中《とちゅう》で買いました。私には、これくらいのことしかできません。晴れて良かったですね。ずっと、曇《くも》りの日が続いていましたから。  ……先生、あの8ミリフィルムはどうされましたか。そうですか、家で保管を……。ええ、いいと思います。先生がずっと持っていてください。警察へ差し出しても、彼女の家族へ渡《わた》しても、意味がありませんから。  ……彼女の姿がフィルムから消えたのは、先生に会えたからだと思います。彼女はきっと、自分の意思で消えたのでしょう……。でもせめて、あのフィルムは先生に持っていて欲しいと、私は思うのです。  ……見えてきました。フィルムとまったく同じ光景ですね。時間がとまっているみたいに、七年前と変わらない……。さあ、入りましょう。  昼間でも、やっぱりトンネルの中は暗いですね。それに、寒い……夏なのに……。靴音《くつおと》が、反響《はんきょう》してますね……。  先生、彼女が昔、暮らしていたという父親の実家は、今、どうなっているのですか。……そうですか、五年前に取り壊《こわ》されて別の方の家に……。七年前、父親が離婚して帰ってくる前は、彼女の祖父母が二人で住んでいらしたのですよね。  …………。  ……見えました。フィルムの中では、ちょうどあの辺りに彼女は立っていましたね……。そして、彼女の死体が見つかったのも、あの辺りの溝《みぞ》だそうです……。  ……重い石を載《の》せられていたのですよね。そのことを考えると、つらくなります。憎《にく》しみを、感じるのです。  ……彼女の両親が離婚する原因になったのは、母親の方の浮気《うわき》だったそうです。彼女の父親は自制心の強い人だった。だから、怒っていても声を荒《あら》げなかった。そのかわり、裏切られたという気持ちが、娘へ向かったのでしょうか。  お二人が知り合ったのは、高校生のころだったそうです。そして娘《むすめ》は、成長するにつれて、若かったころの妻に似てきた。私は彼女の写真に、強く母親の面影《おもかげ》を見ました。彼女が殺された理由の正確なところはわかりません。でも、私はそういったことが原因になったと想像しています……。  七年前の七月七日、夕方ごろ、少女は父親の実家へ行きました……。そのとき、彼女はまだ私服だったでしょう……。到着した彼女は、父と祖父母に囲まれて歓待《かんたい》を受けたのではないでしょうか……。夕食は、和気藹々《わきあいあい》としたものでした……。実家の居間に炬燵《こたつ》があって、夏でしたが、炬燵|布団《ぶとん》だけとりはらって台にしているのです……。その上に食事の皿が並んで……。やがてどのようないきさつからか、彼女は制服を着た。きっと、制服姿を祖父母に見せることになったのです。そのとき父親は居間におらず、彼女は制服姿で祖父母の前に立ちました。くるくる回って見せた後、祖父母の前から退場し、彼女は、自分のために割り当てられた部屋へと帰りました。その部屋は一階で、縁側《えんがわ》のある部屋でした。そこから外を見ると、父親が一人、庭の暗闇《くらやみ》に立っていました。後ろ姿しか見えませんでしたが、父親は腕組《うでぐみ》をして、熱心に何かを考えこんでいるようでした。少女は縁側に出ました。裸足《はだし》だったので、板がひやりとしました。庭にいる父親へ声をかけると、少女の方を振りかえりました……。そのときの……、そのときの父親の顔……。  父親は、制服姿の娘と、若いころの母親とを、重ね合わせてしまったのでしょう……。そして発作的に……。  …………。  ……すべて想像です。でも、先生、私……。なんだか、とてもはっきりとその光景が思い浮《う》かぶのです……。彼女が制服姿を祖父母に見せているところも、首をしめられるところも、一連の場面が、まるで自分の体験したことのように……。  計画的な犯行ではなかったでしょう……。少女の死体を前にして、父親は途方《とほう》にくれた……。でも、娘はどうやらみんなに行き先を言っていないらしい……。そうです、父親はそのことをあらかじめ知っていたのです。娘が母親に後ろめたい気持ちを抱《いだ》いていて、この旅行についてだれにも言い出せなかったことを、父親は聞いて知っていた……。だから、娘の死体を隠《かく》して、知らないふりをすることにした……。  先生、ご存じですか……。犯罪心理学上、犯人が自分の家族を殺してしまうことがあっても、その死体を損壊《そんかい》することは非常に稀《まれ》なことなのだそうです……。私、本を読んで少しだけ勉強したんです……。ええ、稀なこと、なのだそうです……。  …………。  先生、お気持ちはわかります。私も、同じ気分です。ええ……。なんて、愚《おろ》かなのだろう。その程度のことで彼女は、なぜ殺されなければならなかったのだろう……。あんまりです。ああ、こんな狭《せま》い溝の中に彼女は……。  七年前の八月のことでしたね……彼女がここで発見されたのは……。そして、彼女の父親が亡くなったのも、八月の暑い日だったと聞きました。彼女の死体が発見された四年後だったそうですね。先生も、もう調査をされて知りましたか。それとも自殺だったのでしょうか。海岸に打ち上げられた彼の死体は、ひどいものだったそうです……。  彼女の祖父母は、孫娘《まごむすめ》が行方《ゆくえ》不明であることを、近所の方におっしゃっていなかったのですか? 先生のお住まいのそばに、家はあったのでしょう? 先生は彼女の行方不明のこと、耳にはさんでいらっしゃらなかったのですよね。祖母という方は、電話で母親に、少女のことを黙っていましたし……。  もしそうなら……。いえ……やめましょう……考えたくない……恐《おそ》ろしいことですから……。先生、やめてください、その先は言わないでください……。お願いです……。彼女がかわいそうです……。みんなから……、みんなからいじめられているようで……。  先生、私たちはこれから、どうしたらいいのでしょうか。彼女のことを、母親や弟に知らせたほうがいいのでしょうか。それとも、秘密にしていたほうが幸福なのでしょうか。私には、わかりません。まるで、暗闇の中へ閉じ込められたような気がします。  彼女の死の秘密へ近づいたはずなのに、光が照らされることなく、逆に闇《やみ》が濃《こ》くなっていくようです。暗いトンネルへ置き去りにされたような気持ちになります……。  先生……どうしてこんなに……ここは暗いのでしょうか……。私は……もう何も……。  …………。  ……ええ。それだけは、言えます。彼女が最後にあのフィルムで見せた表情……。先生の方を向いて、口もとにやさしく、彼女は笑《え》みを浮かべていました……。その瞬間《しゅんかん》を、私も見ましたよ……。  寂《さび》しげだったけれど、恨《うら》みつらみに囚《とら》われた顔ではありません……、静かに人を許した表情でした……。この暗いトンネルの中で、彼女は、人を恨むことよりも愛することを選んだのですね……。  先生……。  はい、これを……。先生の手で、この花を彼女に捧《ささ》げてください。そしていっしょに手を合わせて祈《いの》りましょう。  ……彼女は、自分の死に関する真実をだれかに知らせたかったわけじゃなかったのですね。父親のことを訴《うった》えるために、私を彼女の家まで誘《さそ》ったのでもない。きっと、彼女の部屋にある、先生と写った写真を私に見せたくて、私を引っ張っていったのだと思います……。そうして私に、先生と自分とを引きあわさせた……。  …………。  そうだったのですか……。だからあのとき、喫茶店《きっさてん》で、先生は顔を青ざめさせていらしたのですか……。ええ、きっと、そのときに先生が感じられただれかの視線というのは、彼女のものだったに違いありません……。彼女はきっと、私のそばにいたのだと思います……。  私があの大学を選んだのも、8ミリフィルムを見つけたのも、Kさんが先生に私の話をしたのも、すべては彼女の思いがどこかに介在《かいざい》した結果なのですね……。  自分の決断だと思っていたものは、実は自分のものではなかった……。最初にそう気づいたとき残念な気持ちになりました。自分は、校舎から飛び降りようかと考えていたときのまま、何かが変わったわけじゃなかったのかなって……。でも、違《ちが》うんです。確かに彼女の意思が私を動かしていたかもしれません。  だけど、彼女を助けたかったという気持ちは、私の意思でもありました。はっきりとそれだけは、わかるんです……。  きっと彼女は、私を生かし、導くことで、教えたかったんだわ……。がんばって、あなたはまだ生きているでしょう、なんでもやれるでしょうって……。だって、振《ふ》りかえって笑みを浮かべた彼女を見たとき、私は、とても大きなことをやりとげたって気持ちになったのですもの。本当にはじめて、自分を誇《ほこ》らしく思えました……。  私、彼女のことをしっかり覚えていようと思います。これから何があろうと……、世界が真っ暗に思えるようなつらいことがあっても……、私は、彼女の綺麗《きれい》な微笑《ほほえ》みを思い出して、生きていきたい……。  先生……。笑わないで聞いてもらえますか。お願いがあるのです。私を自転車の後ろに乗せて、二人乗りさせていただけませんか。下り坂を滑《すべ》って、少女だった彼女が感じた風を、私も知りたいのです……。トンネルの中は暗いけれど、外はきっと、晴れ渡《わた》る空が続いていることでしょう。外に出た途端《とたん》、視界が真っ白になって、私たちは自分が生きていることを知るでしょう。夏の日差しが木の葉に降りそそぎ、きっと道にまだらの影《かげ》を落としています。その中を……。  もう少しここで彼女のことを思い出したら……。 [#改丁]  失はれた物語 [#改ページ] [#ここから7字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  妻は結婚《けっこん》するまで音楽の教師をしていた。彼女は美しく、生徒からの人気も高かった。結婚後も、以前に教えていた女子生徒から年賀状が届いたり、男子生徒からラブレターが送られてきたりしていた。彼女はそれを大事そうに寝室《しんしつ》の棚《たな》へしまい、部屋の片づけをする度《たび》に眺《なが》めて顔をにやにやさせていた。  彼女は子供のころからピアノを習い続けていた。音大を卒業し、彼女の演奏はプロのものと変わらないように聞こえた。なぜピアニストにならなかったのか不思議だった。しかし、耳の肥えた人間が聞けば、彼女の演奏にもどこか疵《きず》があるらしかった。結婚後も彼女は時折、家で演奏した。  自分には音楽の素養がなく、音楽家の名前を三人も挙げられないほどだった。よく彼女は僕の前でピアノを演奏してくれたが、正直なことを言うとクラシック音楽のどこが良いのかわからなかった。歌詞のついていない音だけのものを、どのように聴《き》いて楽しめばいいのか難しかった。  知り合って三年後に彼女へ指輪を贈《おく》った。結婚して自分は彼女の両親の家でいっしょに住むことになった。自分の肉親はすでに亡《な》くなっており家族と呼べるのはしばらくいなかったが、結婚と同時に三人も増えることとなった。それから一年が経過すると家族はさらにもう一人追加された。  娘《むすめ》が生まれてしばらくしたころ、自分と妻との間で諍《いさか》いが多くなってきた。自分たちはお互《たが》いに口が達者なほうだった。それが悪い方に影響《えいきょう》したのか、双方《そうほう》が主張しあい、夜中まで些細《ささい》なことで議論した。  最初のうちはそれが楽しくもあった。相手の意見を聞き、自分の意見を言い、考えを受け入れたり否定したりするうちにお互いの心の形が見えてきて接近している気がした。しかしやがてそう言った議論の最後を、相手より優位に立って終わらなければ気がすまなくなった。  義理の母が泣いている孫をあやしている横で、自分と妻は言い合いをした。つきあっているうちは相手のいいところを見ることが多く、疵が見えてもそれを愛することができた。しかし結婚していつも接近した状態でいると、その疵がいつも目の前にあり、お互いに嫌気《いやけ》がさすらしかった。  相手を負かすために傷つけるようなことも言った。本心ではない言葉が、相手より優位に立ちたいがためについ口から出てしまうことさえあった。  だからといって彼女のことが嫌《きら》いになったわけではなかった。それはどうやら妻も同じらしいと、彼女の左手の薬指にはまっている指輪を見て感じた。だからよりいっそう、なぜ一歩ずつ歩み寄れないのか不思議だった。  彼女はピアノを演奏するときだけ、気が散るからと指輪を外して傍《かたわ》らに置いた。以前はそれを見ても何も感じなかったが、諍いをするようになってから後は、結婚せずにピアノの教師を続けていればよかったという彼女の無言の主張であるように感じる瞬間《しゅんかん》があった。  自分が交通事故に遭《あ》ったのは彼女と喧嘩《けんか》をした翌日のことだった。会社へ行くために車庫から車を出したとき、自分の目は、青く茂《しげ》らせた木々の若葉を見た。五月の晴れた朝に葉は朝露《あさつゆ》の水滴《すいてき》をつけて輝《かがや》いていた。運転席に乗り込むとエンジンをかけてアクセルを踏《ふ》んだ。会社までは車で二十分ほどだった。途中《とちゅう》、交差点の赤信号で停車した。青になるのを待っていると運転席の窓が不意に暗くなった。振《ふ》り返るとトラックの正面が陽光を遮《さえぎ》って目の前にあった。  自分がいつから目覚めていたのかわからなかった。あるいはまだ眠《ねむ》っている状態にいるのではないかと思った。周囲は暗闇《くらやみ》で光は一切なく、どのような音も聞こえてこなかった。自分はどこにいるのだろうかと考えた。体を動かそうとしたが、首をめぐらせることさえできなかった。全身に力が入らず、皮膚《ひふ》の有無さえわからなかった。  唯一《ゆいいつ》、右腕《みぎうで》の肘《ひじ》から先にだけ痺《しび》れる感触《かんしょく》があった。腕や手首、指先などの皮膚が、静電気で覆《おお》われているように感じられた。腕の側面にシーツの感触らしきものが当たっていた。暗闇の中でそれだけが外界からの刺激《しげき》だった。その感触により、自分はシーツの上へ寝《ね》かされているらしいとわかった。  自分の置かれている状況《じょうきょう》がわからず、混乱と恐怖《きょうふ》に襲《おそ》われた。しかし、悲鳴をあげることも、走って逃《に》げ出すこともできなかった。目の前にあるのは、無限の距離《きょり》を持つそれまでに見たこともない完全な暗闇だった。その暗闇が晴れて光が差すのを待ったが、一向にその時間は訪《おとず》れなかった。  静寂《せいじゃく》の中には時計の秒針が動く音さえなかった。そのため時間経過は定かでなかったが、やがて右腕の皮膚が暖かみを感じはじめた。陽光を肌《はだ》の上に受けたときいつも感じる温《ぬく》もりだった。しかし、それならなぜ自分には太陽に照らされた世界が見えないのかわからなかった。  自分はどこかへ閉じ込められているのではないかと思い、体を動かしてその場所から逃げようと思った。しかし体は動かず、右腕以外の箇所《かしょ》は闇の中へ溶《と》けてしまっているように感じられた。  右腕ならば動くかもしれないと思い、そこに力を込めた。他《ほか》の部位を動かそうとしたときには感じられない手応《てごた》えがあった。筋肉がかすかに伸縮《しんしゅく》し、人差し指のみ動く感触がした。濃《こ》い暗闇の中で本当にそうなったのかを確認《かくにん》する手立てはなかった。しかし、人差し指の腹とシーツの擦《す》れあう感じから、指がかすかに上下していることを覚《さと》った。  音のない暗闇で人差し指を動かし続けた。自分にできることはそれしかなかった。どれだけの時間そうしていたのかわからず、何日も同じ動作を繰《く》り返していた気がした。  不意に人差し指をだれかが触《さわ》った。皿洗いを終えたばかりのような冷たい手の感触だった。それが手だとわかったのは、細い指が絡《から》みつくような感触を人差し指の周辺に感じたからだった。その人物の歩く足音さえ聞こえず、暗闇の中から手の感触だけが唐突《とうとつ》に出現したようだった。驚《おどろ》いたが、自分以外の存在があるということに喜びを感じた。  その人物はまるで慌《あわ》てるような手つきで人差し指を握《にぎ》り締《し》めた。同時に腕の上へ手のひらの感触も受けた。指に触《ふ》れてくれた人物がもう一方の手を置いたのだろうと思った。右腕の表面が感じる圧迫《あっぱく》の中に、金属のものらしい硬《かた》く冷たい感触を見つけた。  腕に手を置いた人物の指に指輪がはまっており、それが皮膚の表面に当たっているのではないかと推測した。左手に指輪をはめている人物が一人、すぐに思い浮《う》かんだ。腕に触れているのはどうやら妻だと理解した。彼女の声や足音、衣擦《きぬず》れする音さえなかった。暗闇のせいで彼女の顔もわからなかった。ただ右腕の皮膚の表面に彼女の手が触れたり離《はな》れたりするのを感じるだけだった。  彼女の手の感触が消え、自分は再び暗闇へ取り残された。二度と彼女が戻《もど》ってこないのではないかと想像し、必死に人差し指を上下させた。自分はなぜか視界を失っているが、彼女にはどうやら周囲が見え、歩き回れるらしかった。おそらく自分の動かす人差し指も見えるだろうと考えた。  やがて再び右腕にだれかの触れる感触があった。それが妻の手でないことはすぐにわかった。固い皺《しわ》のある年老いた手だった。それがまるで調査するように指や右手のひらへ触れた。その手は人差し指をマッサージするように動かした。自分は必死に指へ力を込めた。その年老いた手は、まるでこちらの力を測るように指を握り締めた。そうされると年老いた手に張り合うこともできず指は動かせなくなった。指を動かせるといっても一センチほどを根元からかろうじて上下させられるだけで、少しでも固定されたらだめになるらしいと自ら覚った。  やがて針のような尖《とが》ったものを人差し指の腹に当てられた。痛みで自然に指が動いた。その直後に針の感触は消えたが、すぐ次に手のひらを刺《さ》された。暗闇で音もなく急に痛みが発生すると、不意打ちを食らったように驚いた。半ば抗議《こうぎ》の意味も含《ふく》んで指を上下させると針は取り払《はら》われた。どうやら人差し指を動かすと針が抜《ぬ》かれるという法則があるらしかった。  針は右手のいたるところに刺された。親指や中指、手の甲《こう》や手首にも痛みが走り、その度《たび》に指を動かさなければならなかった。針の刺される位置は、手首から上の方へ、腕《うで》を少しずつ移動した。そのうち顔を刺されることになるのではないかと危惧《きぐ》したとき、肘の辺りで急に痛みを感じなくなった。ついに針で刺すことを止《や》めたのだろうと最初は思った。しかし自分は、右腕の肘から先以外の場所に皮膚があるという気がしなかった。肩や左腕、首や足などに針を刺されていたとしても自分には気づかないはずだった。  自分に痛みが感じられるのは、どうやら右腕の肘から先だけらしいと自覚した。静電気のような痺れが右腕を覆《おお》い、ただその感触《かんしょく》のみが、音も光もない暗闇の中で明確な形をとっていた。  やがて何者かが右手を握り締めた。年老いた皮膚《ひふ》ではなく、若々しい肌だった。細い指の感触から、妻の手だとすぐにわかった。  彼女は右腕を撫《な》で続けた。手の感触がこちらにはわかっているのだと示すため、必死に人差し指を動かした。彼女の瞳《ひとみ》にその動きがどう映るのか想像できなかった。もしかするとただの痙攣《けいれん》として見えるのではないだろうかという危惧もあった。声が出せるのならすぐにそうしていた。しかし、そもそも自分の力で呼吸しているという気がしなかった。  しばらくすると、右腕の持ち上げられる感触があった。腕に当たっていたシーツの感触が消え、直後に、手のひらへ柔《やわ》らかなものが触れた。彼女の頬《ほお》の感触だとすぐにわかった。濡《ぬ》れる感触を指に受けた。彼女の頬は濡れていた。  彼女の手に腕を支えられたまま、腕の内側の皮膚に尖った感触を受けた。どうやら彼女の爪《つめ》が当てられているらしいとわかった。  彼女の爪は絵を描《えが》くように皮膚の上を滑《すべ》った。最初は彼女が何をやろうとしているのかわからなかった。何度も同じことばかり彼女は繰り返し、やがて爪は文字を書いているらしいと自分にもわかった。腕の皮膚に意識を集中し、彼女の爪がどのように動くのかを知ろうとした。 「ゆび YES=1 NO=2」  ただそれだけの単純な文字を彼女の爪は書いていた。意味するところを理解し、人差し指を一回だけ上下させた。それまで同じ文字ばかり書いていた爪の感触が消えた。わずかな時間を空けた後、躊躇《ためら》うような速度で妻は再び腕をなぞった。 「YES?」  一回、指を上下させた。妻と拙《つたな》い意思のやり取りをする生活がそうしてはじまった。 [#ここから7字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  自分にあるのは一面が黒色に塗《ぬ》りつぶされた完全な暗闇の世界だった。そこは静寂《せいじゃく》でわずかな物音さえ聞こえず、心はどこまでも寂《さび》しくなった。たとえだれかがそばにいたとしても皮膚に触れてもらっていなければいないも同然だった。そのような状態の自分に妻は毎日つきあってくれた。  彼女は多くの文字を右腕の内側に書き、暗闇の中にいる自分へ情報をもたらしてくれた。最初の慣れないうちは皮膚上の感触に集中しても文字を判別するのが難しかった。書かれた文字がわからなかったときは人差し指を二回、上下させて否定の意味を表した。すると彼女は再び最初から腕の内側に文字を書いてくれた。その作業を行っているうちに文字の判別が上手《うま》くなった。彼女が指先で皮膚上をなぞるのと同じ速度で、彼女の綴《つづ》る文章が頭に入ってきた。  腕に書かれた言葉を信じるなら自分は病室にいるそうだった。四方を白い壁《かべ》に囲まれてベッドの右手側に窓がひとつだけあるのだと彼女は右腕に書いた。彼女はベッドと窓のある壁との間に椅子《いす》を持ち込んで腰《こし》かけているそうだ。  自分は交差点で信号待ちをしているとき、居眠《いねむ》り運転をしていたトラックに衝突《しょうとつ》され大怪我《おおけが》をしていた。体中の骨を折り、内臓もやられていた。脳に障害が起こり、視覚、聴覚《ちょうかく》、嗅覚《きゅうかく》、味覚を失っていた。右腕以外の触覚《しょっかく》も同じだった。骨は治ってもそれらの感覚はもう取り戻《もど》せないらしかった。  それを知った自分は、人差し指を動かした。心中でどれほど深く絶望してもすでに泣くことすらできなくなっていた。悲鳴を彼女へ伝える方法は指を動かすことしか残されていなかった。しかし彼女には能面のように無表情で横たわる自分がただ指をかすかに動かしているとしか見えないに違《ちが》いなかった。  自分には朝が訪《おとず》れたことを目で見ることができなかった。右腕が日差しの温かみを感じ温《ぬく》もりが皮膚上を覆うことで夜明けを知った。暗闇の中で目覚めた当初にあった痺《しび》れはいつのまにか消え、少なくとも皮膚の感覚だけは以前と変わらなくなった。  朝になりしばらくすると不意に妻の手が腕に触《ふ》れるのを感じた。彼女が今日もまた病室に来てくれたことがそれでわかった。最初に彼女は「おはよう」と右腕に書いた。返事をするように自分は人差し指を動かした。  夜となり彼女が家へ帰るときは「おやすみ」と書いた。そして彼女の手の感触は闇の中へ消えた。その度《たび》にもう自分は見捨てられ、妻は二度と来てくれないのではないかと思った。眠《ねむ》っているのか起きているのか判然としない夜が終わり、日差しの温かみの中で再び彼女の手を右腕《みぎうで》で感じると、自分は深く安堵《あんど》した。  一日中、彼女は皮膚に文字を書き、天気のことや娘《むすめ》のことなどを教えてくれた。保険金や運送会社からもらえる賠償金《ばいしょうきん》があり、当分は暮らしていけるらしいとわかった。  様々な情報は彼女に教えられるのを待つ以外になかった。時間を知りたいとこちらが思っても、その要望を彼女へ伝える方法はなかった。しかし今日が何月の何日であるのかは、朝に彼女が病室へ来た際、必ず右腕に書いてくれた。 「今日は8月4日です」  ある朝、彼女が指先でそのように書き、事故から三ヶ月が経過したのを知った。その日は昼ごろに病室へ来客があった。  妻の手が不意に右腕を離《はな》れ、自分は暗闇と無音の世界に取り残された。しばらくして小さな温もりが右腕に当てられた。それは汗《あせ》ばむように湿《しめ》っており、熱の塊《かたまり》であるように感じられた。それが娘の手であることをすぐに覚《さと》った。妻が右腕の上を爪《つめ》でなぞり、彼女の両親が娘を連れて見舞《みま》いに来てくれたことを教えてくれた。一歳になる娘の手を、彼女は右腕に押し付けてくれたらしかった。  人差し指を上下させて義父母と娘に挨拶《あいさつ》した。彼らは何度目かの訪問だった。妻のものとは異なる手の感触《かんしょく》が右腕に次々と触れた。どうやら彼女の両親が挨拶のかわりに触れてくれたらしかった。皮膚《ひふ》上を撫《な》でる彼らの感触にはそれぞれ特徴《とくちょう》があった。皮膚が固かったり、ざらついていたりという触感の違いがまずあった。皮膚へ触れる面積や速さから相手の中にある恐《おそ》れが見えることもあった。  娘の触れる手つきには恐れがなかった。まるで目の前にある物体がいったい何なのかわからないといった触れ方だった。自分の肉体は彼女の前では人間としてではなく、ただの横たわる塊《かたまり》として映っているのだろうと考えた。そのことは自分を打ちのめした。  義父母に連れられて娘は帰って行った。しかし自分は彼女の手つきを思い出し胸が痛くなった。自分の知っている彼女はまだ喋《しゃべ》ることができていなかった。事故に遭《あ》う前、自分を見て「おとうさん」と声に出したことさえなかった。それなのに自分は、彼女がどのような声で話すのかを知るよりも前に聞く力を失ってしまった。彼女が立ち上がって歩きはじめる様も見ることができず、頭に鼻を押し付けたときに嗅《か》いだ匂《にお》いも永遠に失われた。  知覚できるのは右腕の表面のみだった。自分は右腕だけの存在になってしまったのだろうと考えた。自分はおそらく、事故で右腕が切断されたのだ。体と右腕が切り離され、どのような理由からか、自分という考える存在は切断された右腕の方に宿ってしまったのだ。自分は病院のベッドで横たわっているらしいが、右腕だけがそっとベッドに寝《ね》かされているのと変わらなかった。そのような状態の自分を見て、娘がそれを父親だと認識《にんしき》できるはずがなかった。  妻の爪《つめ》が右腕の上を滑《すべ》り、娘の成長を見ることができずに悲しいかどうかを質問してきた。人差し指を一回だけ動かして肯定《こうてい》の意思を伝えた。 「苦しい?」  妻が腕に書いた。肯定の返事をした。 「死にたい?」  迷わずに肯定を選んだ。彼女の情報によると自分は人工呼吸器と点滴《てんてき》によって生かされているらしかった。彼女が少し手を伸《の》ばして人工呼吸器のスイッチを消すだけで苦しみから解放されるはずだった。  妻の手の感触が腕から離れ、自分は暗闇《くらやみ》へ置き去りにされた。自分には知ることなどできないが、今、彼女は椅子から立ち上がったのだろうと推測した。そしてベッドの周囲を回り、人工呼吸器の前へ移動しているのだろう。  しかしそれが間違っていたことを、不意に腕へ触れた妻の手の感触により知らされた。彼女は椅子から立ち上がらず、そばにずっと座っていたらしかった。  腕の上に触れているのは、接触面《せっしょくめん》の形からどうやら左手のひらであるらしいとわかった。しかしその感触はどこかいつもと異なっていた。左手のひらが腕を撫でる際、いつも皮膚上に感じていた指輪の冷たさがないのだと気づいた。どうやら彼女は指輪を外したらしかった。それがなぜなのかと考える前に、皮膚を叩《たた》かれる感触があった。  叩いたのはどうやら指らしかった。叩くといっても平手打ちのような強い力ではなく、一本だけたてた指をそっと皮膚の上に振《ふ》り下ろすという感じだった。まるで躊躇《ためら》うように、何度か同じ場所を彼女の指は叩いた。何かをはじめる前の準備運動のようでもあった。  最初は妻が何かの合図を送っているのかと思ったが、連続的に叩かれる指の感触には、こちらの返事を待っている様子が見受けられなかった。  皮膚を叩いていた指は最初のうち一本だけだったが、やがてその数が二本に増えた。どうやら人差し指と中指で交互《こうご》に皮膚を叩いているようだった。受ける感触が次第に強くなり、彼女が指に力を載《の》せて弾《ひ》きはじめたのを感じた。  指の数は増えていき、ひとつひとつの弾かれる感触がいくつも連なっていった。最終的に十本の指が腕の皮膚上を一斉《いっせい》に弾いた。小さな爆発《ばくはつ》が連続的に皮膚の上で起こっているように感じられた。彼女の力が弱められると、今度は雨粒《あまつぶ》が腕の上をぽろぽろと転がるようだった。彼女は腕をピアノの鍵盤《けんばん》に見立てて演奏しているのだとわかった。  肘《ひじ》に近い部分が低い音の鍵盤、手首に近い方の皮膚が高い音の鍵盤、そう考えて刺激《しげき》を感じると確かに彼女の弾く感触は音楽として連なっているように感じた。一本の指が皮膚を弾いたときの刺激は単なるひとつの点だった。しかしそれが連続して連なると刺激は腕の上で波の形を描《えが》いた。  腕《うで》の上が広いスケートのリンクへ変化したようだった。妻の指で弾かれる感触が肘の辺りから手首まで一直線に滑ったかと思うと、まるで階段を小刻みな歩き方で下りてくるように手首から肘へと戻《もど》ってきた。地響《じひび》きを起こすように多くの指が皮膚へ打ち付けられることもあった。カーテンが揺《ゆ》れるようなやさしさで十本の指先が腕の上を通り過ぎることもあった。  その日以来、妻はいつも病室に来ると右腕の上で演奏をするようになった。これまで文字を書いていた時間が音楽の授業へと変わった。演奏の前と後、彼女は曲名と作曲者を腕に書いてくれた。自分はすぐにそれらを記憶《きおく》し、気に入った曲のときは人差し指を動かした。自分では拍手《はくしゅ》のつもりだったが、その動きを彼女にどう受け取られたのか定かではなかった。  自分にあるのは光の差さない深海よりも深い闇と、耳鳴りすら存在しない絶対の静寂《せいじゃく》だった。その世界で彼女が腕の上に広げていく刺激のリズムは、独房《どくぼう》に唯一《ゆいいっ》ある窓のようなものだった。  事故から一年半が経過し、冬が訪《おとず》れた。  病室の窓を妻が開けたのか、右腕に外からの冷たい空気が触《ふ》れるのを感じて驚《おどろ》いた。無音の暗闇ではだれかが窓に近寄る様も開ける様子もわからないため、腕に触れる冷気を事前に予測することができなかった。妻が病室内の空気を入れ替《か》えているのだろうと考えた。室内の温度が下がっていくのを右腕の皮膚《ひふ》が感じていた。  やがて右腕に氷のような冷たいものを当てられた。どうやらそれは妻の指らしかった。直後にその指が腕の上に文字を書いた。 「おどろいた?」  人差し指を一回だけ動かして肯定の意思を伝えた。その返答を見て彼女がどのような表情を浮《う》かべたのか自分には確認する術《すべ》がなかった。  再び指が文字を書き、これから演奏をはじめると告げた。しかしその前に少しだけ指を温めさせてくれと彼女は続けて書いた。  温かく湿《しめ》った風を腕の皮膚に感じた。彼女は吐《は》く息で指を温めており、その吐息《といき》が腕の表面にまで届いているのだろうと推測した。温かい風が消えると、演奏がはじまった。  自分は彼女の指が弾く順番やその位置、タイミングなどをすっかり覚えてしまっていた。曲名を教えられずに演奏がはじまってもすぐにそれが何の曲かわかった。彼女の指の動きを皮膚で感じていると、いつもその向こう側に何かが見える気がした。それは漠然《ばくぜん》とした色の塊《かたまり》であったり、かつて体験した幸福な時間のイメージであったりした。  同じ演奏を聴《き》いても飽《あ》きることはなかった。それは日によって彼女の弾き方に微妙《びみょう》な差異が表れるからだった。曲を完全に覚え込んでしまうと、腕の皮膚に感じるわずかなタイミングのずれなどがわかるようになった。そこから発生するイメージの違《ちが》いが、前日に聴いたものとは異なる景色を暗闇《くらやみ》の向こう側に生んだ。  その微妙な差異こそが妻の内面の表れなのだと、いつからか自分は思うようになった。彼女の心が安らかなとき、皮膚上には、寝息《ねいき》に似た柔《やわ》らかい指の動きを感じた。彼女の心に戸惑《とまど》いがあるらしいとき、まるで階段を途中《とちゅう》で転んで引っかかってしまうような瞬間《しゅんかん》があった。彼女は演奏に対して嘘《うそ》をつくことができず、腕へ感じる刺激の向こう側に彼女のあるがままの本質が潜《ひそ》んでいるのだと思えた。  不意に妻の演奏が中断され、再び温かい吐息が腕の表面を撫でた。寒さで赤くなっている彼女の細長い指が、暗闇の向こう側に透《す》けて見える気がした。腕に当たる吐息が止《や》み、演奏が再開された。  弾かれる指の刺激が肘から手首までゆらめくように移動した。自分は海辺に寝《ね》かせられ、海から打ち寄せる波がやさしく腕にかかっているような気がした。  事故に遭《あ》う前、彼女と多くの言葉で傷つけあったことを思い出した。後悔《こうかい》のために胸を焼かれ、彼女に謝りたかった。しかしその気持ちを表現する手段はもう自分にはなかった。 [#ここから7字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  なぜ自分を死なせてくれなかったのかと、幾度《いくど》も神様を呪《のろ》った。このまま老人となり老衰《ろうすい》で死ぬまで自分は数十年という時間を暗闇と無音の中で過ごさなければならないのだ。そう考えるといっそのこと狂《くる》った方がましだった。狂い、時間の感覚も、自分が自分であることもわからなくなれば、どれほど安らかな気持ちになるだろう。  しかし自分は、動くことも言葉を発することもできない状態で、考えるということだけを許されてしまった。いくら頭の中で思想をめぐらしても、見聞きすることや気持ちを表現することはできず、ただ光と音に恋焦《こいこ》がれるしかなかった。  自分の考えることを暗闇の向こう側で歩き回っているはずの妻たちに伝える方法がなかった。腕に書いてくれる質問へ人差し指で肯定《こうてい》か否定かを表すことはできたが、しかしそれだけでは足りなかった。外側から自分を見たとき、おそらくはベッドで横たわる無表情な人形として目に映るはずだった。しかし実はこの頭の中で常に様々なことを自分は考えているのだ。  それなのに考えていることを吐き出すには人差し指の上げ下げなどあまりにもはけ口として小さすぎた。心の中に様々な感情が膨《ふく》れ上がっても自分にはもう笑うことも泣くこともできなかった。胸は常に限界まで水の溜《た》まったダムと同じで、肋骨《あばらぼね》が内側から爆発《ばくはつ》しないのが不思議なほどだった。  自分ははたして生きていると言えるのだろうか。これではただの考える肉塊《にっかい》でしかなかった。生きている人間と肉塊との境界はどこにあるのだろうか。そして自分はそのどちら側に位置しているのだろうか。  自分はこれまで何のために生きてきたというのだろうか。このように肉塊となるため母から生まれ、学校で勉強をし、就職して仕事をしていたというのだろうか。人は何を目的にこの世へ生を受け、地上を這《は》いずり回り、死んでいくのだろうか。  生まれてこなければよかったと考えた。いまや自殺することさえ自分一人ではできなくなっていた。もしも自分の血管に毒を流し込むスイッチが人差し指の下にあれば迷わずに押していた。しかしそのような機械を用意してくれるやさしい人間はどこにもおらず、それを指示する方法も自分にはなかった。  考えるということを止めたかったが、無音の暗闇で自分の脳味噌《のうみそ》だけは生きていた。  いつのまにか事故から三年が過ぎていた。妻は毎日、病室を訪《おとず》れて自分につきあってくれていた。腕の皮膚に文字を書き、今日の日付や家であった出来事、世界のニュースなど、外界の情報を教えてくれた。彼女は一度も弱音を腕に書かず、今後もずっとそばにいるという姿勢を言葉の中に交えて勇気付けてくれた。  彼女からもたらされる情報によると、娘《むすめ》は四歳になり飛び跳《は》ねることや言葉を話すことができるようになったらしかった。しかし、はたしてそれが本当のことなのかどうか自分には確かめる術《すべ》がなかった。娘が風邪《かぜ》をこじらせて死んでしまっていたとしても、自分にはそれを知ることなどできなかった。日付を間違って教えられていても、家が火事で燃えてしまっていても、自分は妻の書くことを真実として受け止めるしかできなかった。  それでもある日、自分は妻の嘘に気づくことができた。それは彼女が右腕《みぎうで》の上で演奏をしてくれているときだった。  彼女の指によって弾《はじ》かれる刺激《しげき》の連なりが様々なイメージを自分に見せてくれた。それはそのまま、彼女の頭の中に浮《う》かぶイメージと言っても良いはずだった。そこからうかがい知ることのできる彼女の姿は、腕に書かれる文字の内容よりもはるかに実体をともなって感じられた。  あるとき、いつものように自分は、彼女の指によって奏《かな》でられる音のない音楽に心の耳を傾《かたむ》けていた。それまでに繰《く》り返し、何百回と聴いた曲を彼女の指は弾《ひ》いていた。はじめて聞いたときは小刻みに動く指先の感触《かんしょく》から、まるで子馬が駆《か》け回っているような曲だと思った。しかしその日の彼女が弾いた曲からは、子馬の駆け回っている様子は想像されなかった。微妙《びみょう》な乱れがそうさせるのか、彼女の指から与《あた》えられるイメージには、疲《つか》れた馬が首を重たげに下げて歩いている様しか見えなかった。  何か妻に嫌《いや》なことがあったのだろうかと思った。しかし彼女が腕へ書く文字には暗い心を示す言葉など微塵《みじん》もなく、いつものように明るく自分を勇気付けるような話しかしてくれなかった。自分は彼女に調子を尋《たず》ねることもできず、顔の表情を見ることもできず、ただ演奏と言葉の間にある矛盾《むじゅん》した印象だけが心に残った。  しかし彼女の演奏に疲弊《ひへい》したイメージが混じったのはそのときだけではなかった。以来、彼女がどのような曲を弾いても、皮膚《ひふ》上に織り成す曲の中に明るさは見えず、そのかわり窒息《ちっそく》と先の見えない絶望というイメージが入り込んだ。それは普通《ふつう》ならば気づかないほどの微妙な差異だった。おそらく彼女自身、いつもと同じように弾いているつもりだろうと考えた。  彼女は疲れているのだと覚《さと》った。  原因は明らかに自分だった。自分が鎖《くさり》となり彼女を縛《しば》り付けているのがいけなかった。彼女はまだ若く、いくらでも人生をやり直す時間があるはずだった。しかし、自分が中途半端《ちゅうとはんぱ》に生きているせいで、彼女にはそれができないに違《ちが》いなかった。  彼女がだれかと再婚《さいこん》したら周囲は非難するだろうか。それとも仕方のないことだと考えるだろうか。ともかく彼女は肉塊となった夫を見捨てることができなかった。毎日、病室に足を運び、右腕をピアノの鍵盤《けんばん》に見立てて演奏の真似事《まねごと》をしてくれた。  しかし内心では彼女も苦しんでいるに違いなかった。どのような明るい言葉で偽《いつわ》ろうと、彼女の指先は心の中にあるものを表現してしまっていた。演奏の中に垣間《かいま》見た疲れた馬とは、おそらく彼女自身の姿だった。  彼女のまだ可能性に満ちているはずの残りの人生が、この肉塊につきあって日々を過ごしていくうちに消えていこうとしていた。自分は事故のために人生を失ったが、その看病のために病室へ通わなければならない彼女もまた同じだったのだ。  彼女の中にあるやさしさが、この肉塊を見捨てていくことはできないと考えさせているに違いなかった。  自分はどうすればいいのかわからなかった。彼女を自由にさせなければならなかった。しかし彼女がいなくなるということは、自分が暗闇《くらやみ》と無音の世界に一人で取り残されることを意味していた。また、何かを思いついたところで自分にはその考えを彼女に伝える方法がなかった。自分はただ彼女の決心に身を委《ゆだ》ねることしかできなかった。  時間だけが過ぎ、事故から四年が経過した。時を重ねるごとに彼女の演奏は重苦しさを増していった。それはおそらく常人には感じられない程度の微妙な感覚だった。しかし自分にとって彼女の演奏は世界のすべてに等しく、そのために強く彼女の苦しみを感じとった。  二月のある日のことだった。  彼女が明るい曲を腕の上で弾いてくれた。皮膚の表面を指が小刻みに叩《たた》く感触は、蝶《ちょう》がそよ風に乗りながらうろつき飛んでいる様を想像させた。一見するとそれは穏《おだ》やかなイメージだった。しかしその蝶をよく見ると羽根が血で濡《ぬ》れているように感じられてきた。どこかに降り立って休むことができず、苦しくても永遠に羽根を動かし続けなくてはならない運命を背負わされた蝶だった。  演奏をしばらく続けた後、中断して休憩《きゅうけい》をとりながら彼女は腕に文字を書いた。演奏とは裏腹の明るい世間話だった。 「爪《つめ》が伸《の》びているからそろそろまた切らないといけないわね」  彼女はそう書いた後、爪を調べるために人差し指を触《さわ》った。自分は必死に指を動かし、触《ふ》れている彼女の指に爪をたてようとした。皮膚を突《つ》き破り、血を出させ、殺してくれという心情を伝えたかった。  この情けない肉の塊《かたまり》を殺してほしかった。生を終わらせ、安らかにさせてくれることを祈《いの》った。しかし爪をたてるにはあまりにも人差し指の力は弱すぎた。彼女の指を押し返すことさえできず、呪《のろ》いに満ちた気持ちをぶつけることはできなかった。  それでも指の皮膚を通じてこちらの気持ちがわずかにでも伝わったらしかった。演奏が再開したときにそのことを知った。  腕の上に降り立った彼女の指先は、まるで胸を掻《か》き毟《むし》るように皮膚を弾《はじ》いていった。彼女が腕の鍵盤で奏ではじめたのはさきほどの明るい曲ではなく、どこまでも暗い穴へ落ち続けていくような曲だった。  奏《かな》でるという表現では生易しい弾き方だった。彼女の心の奥にあるものをそのまま指に載《の》せてぶつけられている気がした。皮膚が彼女の爪で引っ掻かれるような痛みさえあった。その痛みは、自分の人生と、肉塊となった夫に対する愛情とを秤《はかり》にかけなければならなくなった懊悩《おうのう》そのままだった。指先が皮膚に当たるたび、何も聞こえなくなったはずの自分の耳は、彼女の悲鳴を聞いた気がした。腕の表面で生まれた彼女の演奏は、それまで自分が触れたどのようなものよりも狂《くる》おしい美を備えていた。  やがて弦《げん》が耐《た》え切れず弾《はじ》け飛んでしまったように演奏は中断された。皮膚の上に十個の鋭《するど》い痛みが並んでいた。どうやら妻の指先にある十本の爪が腕《うで》に突き立てられているらしかった。数|滴《てき》の冷たい液体が落下した。彼女の涙《なみだ》の雫《しずく》だとわかった。  やがて指の載っている重みはなくなり、彼女は暗闇の向こう側に消えた。病室を立ち去ってどこかへ行ってしまったのか、しばらくの間、皮膚《ひふ》の表面に戻《もど》ってはこなかった。指が離《はな》れても爪の痛みだけは残っていた。一人で無音の暗闇に取り残されていた時間、自分は、ついに自殺する方法を思いついた。 [#ここから7字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  不意に右腕の表面へ何かが触れた。皮膚への接地面積からすぐにそれが手だとわかった。その手には皺《しわ》があり、表面は固く、腕を触る手つきには妻のものらしい愛情は感じなかった。その手が医者のものであることにはすぐ気づいた。四年前に暗闇の中で目覚めて以来、何度も感じた手だった。  彼女が医者を呼びに行くことは想像がついていた。おそらく彼女は今、同じ病室内にいて、医者の下す診断《しんだん》を緊張《きんちょう》しながら待っているのだろうと想像した。  医者の手によって右腕は持ち上げられ、腕の側面からシーツの感触《かんしょく》が消えた。医者の手の皮膚が人差し指を包み込むように握《にぎ》り締《し》めるのがわかった。そのまま医者はマッサージをするように間接を折り曲げた。人差し指の骨に異常がないかどうかを確かめているような手つきだった。  やがて右腕は再びシーツの上に置かれ、医者の触れる感覚は暗闇の奥へ消えた。少しの間をおいて、人差し指の先に針の刺《さ》される鋭い痛みを感じた。しかしそれがくることはあらかじめ予測していた。自分は痛みに耐え、決して人差し指を動かさなかった。  決心は昨晩のうちに終えていた。夜が終わり、窓から差し込んでいるらしい朝日の温《ぬく》もりを皮膚が感じはじめるころ、すでに自分の自殺ははじまっていた。妻がいつものように病室を訪《おとず》れ、指先で皮膚の表面に「おはよう」と書いた。しかし自分は人差し指を動かさなかった。  妻は最初、眠《ねむ》っているのだと考えたらしかった。彼女の手の感触は右腕の表面から離れ暗闇の奥に消えた。窓を開けたらしく、外の空気が腕に触れた。外は冷え込みが厳しいらしく、皮膚の感じる空気は痺《しび》れを起こすほど冷たかった。毎日、日付を教えられていたので、今が二月であることは知っていた。窓の外を見ながら白い息を吐《は》き出す彼女の姿を自分は想像した。  腕に触れられていないかぎり、目も耳も失われている自分には、だれかが病室内にいようとそれを知ることはできなかった。しかしその朝、窓を開けた彼女がベッド脇《わき》に腰掛《こしか》け、自分の眠りが覚めるのを待っているらしいことを直感していた。人差し指に、彼女から注がれる視線の圧力があった。自分は決して人差し指を動かさず、ひたすらに沈黙《ちんもく》し続けた。  やがて妻は、指が動かないことを異変ととらえたようだった。右腕を軽く叩《たた》き、腕に文字を書いた。 「ねえ、起きて。もう昼が近いわよ」  この四年間で彼女の書く文字は話し言葉と同じ複雑さと速さを得ていた。自分はその言葉を、耳で聞くのと同じように皮膚上で理解することができた。  無視して返事をしないでいると、再び彼女は自分が起きるのを待ちはじめた。しばらく時間を置き、腕を叩いて呼びかけた。それを何度か繰《く》り返して昼ごろになったとき、彼女はついに医者を呼んだ。  医者は人差し指だけではなく、右手のひらや小指の関節、手首など、あらゆるところを針で刺した。しかし自分はそれに耐えなければならなかった。ここで痛みに負け、あるいは驚《おどろ》き、人差し指を動かしてしまってはいけなかった。医者や妻に対して、自分はもはや指を動かすことや皮膚の刺激《しげき》を感じることができなくなったと思わせねばならなかった。そうして自分は、もはや外界と完全に意思の疎通《そつう》ができない肉の塊《かたまり》なのだと判断してもらわねばならなかった。  やがて医者の刺す針の痛みが消えた。自分は一度も人差し指を動かさず、石のように沈黙し続けることができた。  しばらくの間、右腕にだれも触《ふ》れなかった。医者が妻に話を聞かせているのだろうと思った。やがて長い時間を経た後、やさしい手の感触が右腕に載《の》せられた。指輪の冷たさを見つけるまでもなくそれが妻の手であることを覚《さと》った。  彼女は右腕を仰向《あおむ》けの状態に置き直し、皮膚の表面に指を二本、触れさせた。位置や感触からそれが人差し指と中指であることが自分にはわかり、二本の指だけが闇《やみ》の奥から白々と浮《う》かび上がったように思われた。指先の触れる二つの点は弱々しい感触でしかなく、朧《おぼろ》な存在として感じられた。それが腕の表面を肘《ひじ》から手首の方に向かってそっと滑《すべ》った。  髪《かみ》の毛らしい細かな感触が腕に落ち頼《たよ》りなげに崩《くず》れた。濡《ぬ》れた柔《やわ》らかい圧迫《あっぱく》を手のひらが受け、彼女の頬《ほお》が当てられているのだとすぐにわかった。ベッドの横に膝《ひざ》をつき、右手のひらに横顔を載《の》せる彼女の姿が暗闇の中で見えた。  彼女の口から吐き出されたらしい熱い息が手首の表面に軽く衝突《しょうとつ》し、まるで腕を駆《か》け上がってくるように皮膚上を撫《な》でた。しかし息の気配は肘を通過したところで暗闇の中に掻《か》き消えた。 「あなた、指を動かして」  手の上から頬の感触が消え、腕に指先で文字がなぞられた。 「先生の言うとおり、本当に指を動かせなくなってしまったの?」  彼女は問いかけるようにそう書くと、反応を待つように時間をおいた。指を沈黙させていると、彼女は次々と腕に言葉を刻み込んだ。彼女が書いたのは、医者から聞いた診断の報告だった。  人差し指による返答がされなくなったことについて医者は考えあぐねているらしかった。ついに全身|麻痺《まひ》の状態になってしまったのか、それとも指を動かせなくなっただけで皮膚感覚はまだあるのか、判断がつきかねた。あるいは心が暗闇にやられてしまい、もはや外界からの刺激に対して何も感じなくなってしまったのかもしれないと、医者は彼女に言っていた。 「あなた、本当は感じているのよね。そして指を動かすことができるのよね」  妻の指先が震《ふる》えながら腕の表面にゆっくりと書いた。暗闇と無音の世界で自分はその言葉を見つめていた。 「あなたは嘘《うそ》をついているんだわ」  涙《なみだ》の雫《しずく》らしいものが腕の表面に落下して何度も弾《はじ》けた。軒《のき》先から降る雨だれを思い出させた。 「あなたは死んだふりをしているだけなのよね。ねえ、そのまま無視を続けるのなら、私はもうここに来てあげないわよ」  返答を待つように彼女の指は腕《うで》から離《はな》れた。人差し指が彼女から注がれる視線を感じていた。指を動かさないでいると、彼女はまた腕に書きはじめた。指先の動きは次第に速く、忙《いそが》しくなっていった。一心不乱に神へ跪《ひざまず》き希《こいねが》うような真剣《しんけん》さがそこから感じられた。 「お願いですから、返事をしてください。でなければ、私はもうあなたの妻であることをやめます」  彼女の指先はそのように書いた。暗闇の向こう側に見えるはずのない泣いている彼女の姿を見た。自分は人差し指を動かさなかった。無音の中でさえはっきりと感じられるほどの沈黙が自分と妻の間に流れた。やがて彼女の指が力なく腕の表面に当てられた。 「ごめんなさい。ありがとう」  彼女の指先はゆっくりと皮膚《ひふ》上で動いた。そして腕《うで》の表面から離れ、暗闇に溶《と》けて消えた。  その後も妻は病室を訪れて腕に演奏してくれた。しかし毎日ではなくなり、二日に一回の割合となった。その数もやがて三日に一回となり、最終的に妻の来訪は一週間に一度となった。  腕の表面で聞く彼女の演奏から重苦しさが消えた。連続的に弾《はじ》かれる指の感触《かんしょく》は、腕の上で小さな子犬が踊《おど》っているようだった。  彼女の演奏に、時折、罪悪感めいたものを見ることがあった。自分に対しての負い目だとすぐに気づいた。彼女がそれを感じるのは望むことではなかった。しかし、不思議とその感情が演奏を深くさせた。腕の表面に広がる無音の音楽の中に、許してくださいと運命に乞《こ》う彼女の美しい姿を垣間《かいま》見た。  演奏の前後、彼女は腕に文字を書いて話しかけてきたが、自分は決して返事をしなかった。彼女はそれでもかまわないらしく、物言わぬ肉の塊にひたすら指先で近況《きんきょう》報告を書いた。  ある日、右腕の皮膚に恐々《こわごわ》とした様子で触れる何者かが現れた。自分は暗闇の中で意識を集中し、それがだれなのかを知ろうとした。妻のものよりも、はるかにその手は小さく、柔らかかった。その隣《となり》にいつもの妻の手が置かれたのを感じ、小さな手は娘《むすめ》のものだと覚《さと》った。  自分の記憶《きおく》にある娘の姿は、まだ妻の胸に抱《だ》きかかえられていなければならない小さな子供だった。しかし腕に載《の》せられた彼女の手の感触は、赤ん坊《ぼう》のような意思を伴《ともな》わない触れ方ではなかった。物言わぬまま横たわる肉体に対して恐《おそ》れを抱いていながら、それでも好奇心《こうきしん》を感じさせる触れ方だった。 「最近、この子にピアノを教えているの」  妻が腕にそう書いた。皮膚の表面から彼女の存在が離れ、自分に触れているのは娘だけとなった。  娘の指は大人のものにくらべて細く先が尖《とが》っているらしかった。皮膚の上に感じるその感触は、まるで子猫《こねこ》が爪先《つまさき》立ちをして腕に載っているようだった。  不器用にその指は演奏をはじめた。爪先立ちをした子猫が腕の上で飛び跳《は》ねたり、転んだりしているようだった。妻の弾く曲とは比較《ひかく》にならないほど簡単なものだったが、一生|懸命《けんめい》に弾いている娘の姿が思い浮《う》かんだ。  娘は妻と共にその後もよく病室を訪《おとず》れ、腕の上に演奏をしてくれた。時が経《た》つにつれてその演奏は上達し、腕の表面で躍《おど》る指先の感触から、彼女の明るい性格に触《ふ》れることができた。たまにお転婆《てんば》で飽《あ》きっぽい性格が演奏の中に混じっていた。娘が腕の上に織り成していく世界から、目で見るよりも深く彼女の成長に接することができた。  やがて娘が小学生にあがるころのことだった。彼女の尖った指先が腕の表面に載せられ、ゆっくりと慎重《しんちょう》に文字をなぞった。 「おとうさん」  子供特有のわずかに歪《ゆが》んだ文字だったが、はっきりと娘はそう書いていた。  やがて長い時間が過ぎた。どれほどの年月が過ぎたのかを自分に教えてくれる人間はいなくなり、正確な日付を知ることはできなくなっていた。いつからか妻は自分のもとを訪れなくなっていた。それと同時に娘が来ることもなくなった。  妻の身に何かが起こったのか、それともただ忘れられてしまっただけなのか、定かではなかった。彼女の状況《じょうきょう》を自分に教えてくれる人間はおらず、ただ想像するしかなかった。生きるのに忙しく肉塊《にっかい》となった夫のことを思い出す暇《いとま》さえないというのであれば自分は嬉《うれ》しかった。彼女は物言わぬ塊《かたまり》に関わっていてはいけなかった。忘れてしまっているということがもっとも望ましいことだった。  最後に娘の演奏を腕の皮膚上で聞いたとき、彼女は妻と同じ程度に上達していた。病室にこなくなって久しいが、すでに娘は成人しているはずだった。あるいは結婚《けっこん》し、孫を産んでいるのかもしれなかった。時間の経過は判然とせず、娘が現在、何歳なのかを知ることはできなかった。  そもそも、自分がどれほど老いているのかさえわからなかった。妻はもしかすると老衰《ろうすい》で死んでしまったのかもしれないとさえ考えた。  自分は暗闇《くらやみ》と無音の世界にいた。シーツの上に載せられた腕《うで》へ日差しが当たることもなくなっていた。どうやらベッドを移動させられ、窓のない部屋に移らされたのだろうと考えた。それでも世界が滅《ほろ》びていないらしいとわかるのは、自分がまだ人工呼吸器と点滴《てんてき》によって生かされているからだった。  自分は使わない物を置いておくように病院の片隅《かたすみ》へ寝《ね》かされているのだろうと想像した。そこはおそらく物置のような部屋で、自分の周囲には埃《ほこり》を被《かぶ》った様々なものがあるのだろうと思った。  腕にだれかが触れることはもうなくなっていた。医者や看護婦にも存在は忘れ去られ、また、自分はそれでも良いと思っていた。時折、力を込めてみると、まだ人差し指は上下に動いた。  腕の上に妻や娘の生み出した演奏の感触《かんしょく》が残っていた。それを暗闇の中で思い出しながら、今も外界で起こっているはずの様々なことを想像した。人は今日も歌っているだろうか。音楽を聴《き》いているだろうか。自分が物言わぬ塊として物置に置かれているときも時間は流れ過ぎているのだ。自分は無音の暗闇にいるがその間にも世界は音と光に満ちているのだろう。大勢の人間が地上に生き、生活し、笑ったり泣いたりを繰《く》り返しているに違《ちが》いなかった。永遠に失われた光景を夢見ながら自分は静かに暗闇へ身を委《ゆだ》ねた。 [#改ページ]  あとがき  この短編集は、角川書店より出版した小生の初単行本『|GOTH《ゴス》』の巻末に広告されていた「未来予報」を改題したものである。収録されている四本の小説のうち、三本は雑誌「The Sneaker」に掲載《けいさい》されたものである。 「未来予報」を書いたのは二〇〇一年の初夏だった。『GOTH』の第一話を書く少し前で、大学を卒業して数ヵ月が経過していた。知り合いたちは就職したり大学院に進んだりと忙《いそが》しそうだった。そのような中で小生だけが何もせずぶらぶらとしていた。当時、小生には危機意識があった。就職もせず小説だけで食べていけるものか、という危機意識だった。しかし就職していればやがてノイローゼになり首を吊《つ》る縄《なわ》を探すことになるだろうとも思っていた。だから普通《ふつう》の人が送るような人生はもともと断念していた。  そのような折に編集者から「雑誌でせつない話の特集をするから書いてくれ」とお誘《さそ》いがきた。小生は生活のために引き受けた。悪夢のはじまりだった。  小説のアイデアが何も浮《う》かばなかった。「せつない」というしばりがきつかった。  そもそもなぜ「せつない話特集」で声をかけられたかというと、その少し前に発表した短編小説が「せつない」と言われたからだった。しかしその話は大学時代に考えさせられたことを創作の原動力としていた。そこを卒業した自分はもはや悩《なや》むこともなくなり、脳味噌《のうみそ》は皺《しわ》を消してつるつるになり、つるつるの小生はどうやって小説を書いていたのか忘れてしまっていた。どうやって登場人物を作っていたのかも、どうやって話を展開させていたのかも、どうやってキーボードを打っていたのかも、どうやってデータを保存していたのかも、どうやってパソコンを起動させていたのかも、どうやってパンツを穿《は》き替《か》えていたのかも、小生はすべて忘れていた。それでも締《し》め切りは近づいてきていた。小生は仕事を引き受けなければ良かったと後悔《こうかい》した。もう死んでお詫《わ》びするしかないと思った。缶《かん》切りで開けた缶詰《かんづめ》がそばにあったら、蓋《ふた》のぎざぎざの切り口で手首を切っていた。しかし残念ながら缶詰はなく小生は生き延びた。小生、危なかった。  ともかくそんな状態で「未来予報」を書いた。もう「なんとか特集」の時は金に目がくらんで仕事を引き受けたりしないぞ、と小生は固く脳味噌に誓《ちか》った。しかしその誓いは小生のつるつるの脳味噌の上を滑《すべ》って耳からいつのまにか落ちていた。数ヵ月後のことだった。 「こわい話特集に何か書いてください」 「わかりました」  小生は引き受けたものの、やはりしばりには弱かった。何も思い浮かばず小生は夜中に缶詰を探した。しかし当時の主食は菓子《かし》パンだったので缶詰はどこにもなかった。話はずれるが小生の体の三分の一は菓子パンでできていた。菓子パンに関するニュースメールを取り寄せ葉子パン業界の最前線にまさしく立っていた。実話だがパソコンの壁紙《かべがみ》に菓子パンの写真を貼《は》っていた。それを目にした知人は真っ青な顔をして「狂《くる》っている……」と呟《つぶや》いた。以来、知人がうちに来るときは事前にパソコンの壁紙を「穏便《おんびん》」なものに取り替えることを忘れない。  ともかくそのような状態で「フィルムの中の少女」を書き上げた。この二つの仕事を経て小生は理解した。  小生は自分から書きたいと思うまで小説を書き始めてはいけなかった。テーマを決められると途端《とたん》にわけがわからなくなって缶詰を探し出すらしかった。だからもう金のため簡単に仕事を引き受けないようにしたいと思った。  その意味で小生は「手を握る泥棒の物語」が気に入っていた。書きたいと思ったから書いたという、単純な理由がそこにあった。つるつるの脳味噌のいい面が出ている気がした。  書き下ろしの作品はつい最近、書いた。2002年11月のことだった。小生は唐突《とうとつ》にクラシックの音楽を聴《き》くようになった。そして「あ、なるほど」と思って書いた。いつもこのようにアイデアが浮かべば苦労しないのに、つるつるではその回数も少ない。ちなみに、小生の新作はこれを最後に当分、発表されない予定である。そのうち小生の死亡説が流れることを請《う》け合っても良い。初単行本の『GOTH』を出したばかりなのにである。この勢いに乗ってさらにメジャーへ、というつもりもあまりなく、今は『GOTH』の印税を食いつぶしながら半ば趣味《しゅみ》のような小説(某社《ぼうしゃ》のノベライズ)をゆっくり書いている。締め切りを完璧《かんぺき》に無視した仕事ぶりに周囲から呆《あき》れられているはずである。しかし今は幸せである。  このあとがきを最後まで読んでくださってありがとうございました。   2002年11月24日 [#地から2字上げ]乙 一 [#改ページ] 初出 未来予報〜明日、晴れればいい。  ザ・スニーカー[#地付き]2001年10月号掲載 手を握る泥棒のはなし(改題)   ザ・スニーカー[#地付き]2002年4月号掲載 フィルムの中の少女        ザ・スニーカー[#地付き]2002年8月号掲載 失はれた物語[#地付き]書き下ろし [#改ページ] 底本 角川スニーカー文庫 二〇〇三年一月一日 第一刷