ZOO 乙一 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)それがママのいつもの台詞《せりふ》だった。 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)古い写真らしく色|褪《あ》せていた。 本文中の《》は〈〉で代用した。 -------------------------------------------------------  カザリとヨーコ [#改丁] [#ここから6字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  ママがわたしを殺すとしたらどのような方法で殺すだろうか。たとえばいつものようにかたいもので頭を殴るかもしれない。時々そうするように首をしめるかもしれない。それとも自殺にみせかけてマンションのベランダから落とすだろうか。  きっとそうだ。自殺にみせかけるのが一番うまいやりかたのように思う。クラスメイトや先生はわたしのことを聞かれた時こう答えるにちがいない。 「エンドウヨーコさんはいつもなにか思い悩んでいました。きっと悩みを苦に自殺したのでしょう」そしてわたしの自殺をだれも疑わないのだ。  最近のママのわたしに対する仕打ちは直接的で、肉体的な苦痛を伴うものが多くなってきた。子供のころはもっと間接的で遠回りな嫌がらせだったはずだ。妹のぶんのケーキはあるのにわたしのぶんはわざと買ってこなかったり、妹には服を買ってあげるのにわたしにはなにも買ってくれなかったり、精神面に響くことばかりママはやっていた。 「ヨーコ、あんたはお姉ちゃんでしょう、がまんしなさい」  それがママのいつもの台詞《せりふ》だった。  わたしとカザリは一卵性の双子だ。カザリは美しくて活発で笑う時にはぱっと花がさくように笑った。学校で彼女はクラスメイトや先生からとても愛されていた。時々わたしに食べ残したごはんをくれるのでわたしも彼女が好きだった。  ママは故意にわたしのぶんの食事を作らなかったのでわたしはたいていいつもおなかをすかせていた。かといって勝手に冷蔵庫を開けるとママが灰皿で殴りかかってくるので怖くてつまみ食いすることもできなかった。腹がへって死にそうだあとあえいでいるわたしに向かってカザリが食べ残しの載ったお皿を差し出すとき、正直、わたしの目には妹が天使に見える。食べかけのグラタンやらよりわけられたにんじんやらを皿に載せた白い羽根を持つ天使である。  わたしに食べ物を与えるカザリを見てもママは怒らなかった。そもそもママがカザリをしかりつけるといったことはなかった。ママはカザリをとても大事にしていたからだ。  礼を言いながら食べ残しを食べつつ、わたしは本当にこの大切な妹をまもるためなら人殺しだってするかもしれないわと思った。  我が家には父親というものがいなかった。気づいた時にはママとカザリとわたしの三人暮らしでわたしが中学二年生になった今でもそんな生活を続けている。  父親のいないことがわたしの人生にいったいどんな影響を与えたのかわからない。もし父親がいたらママはわたしの歯を折ったりタバコの火を押しつけたりしなかったかもしれないしそうでないかもしれない。わたしの性格はカザリのように明るくなっていた可能性もある。朝、ママが笑顔でトーストや目玉焼きの皿を運んでくるのを見る時そんなことを思う。それらの皿はカザリの前に置かれるわけでわたしの食べるぶんはいつもない。だからそんな光景は見ない方がいいと思うのだけれどわたしは台所で寝起きしているので見ないわけにはいかないのだ。  ママとカザリは自分の部屋を持っている。わたしにはないので自分の持ち物は掃除機なんかといっしょに物置へ押し込めている。幸いにもわたしには所有物がほとんどなかったので生きるのに大きなスペースはいらなかった。学校の教科書や制服の他にわたしはほとんどなにも持っていない。服はカザリのおさがりをほんの数着だけだ。たまに本や雑誌を読んでいるとママに取り上げられることがあった。わたしにあるのはひしゃげたぺちゃんこの座布団だけである。それを台所にあるゴミ箱の横に置きその上でわたしは勉強をしたり空想をしたり鼻歌を歌ったりする。注意しなければいけないのは、ママやカザリの方をじろじろ見てはいけないということだ。もしも目が合ったりしたらママが包丁を投げつけてくる。座布団はまたわたしの大事な布団でもあった。この上で体を猫のように丸めて眠ると、なんと体が痛くないのである。  毎日、朝食を食べずに家を出る。家にいると『なんでこんな子がうちにいるの?』という嫌そうな目でママがにらむので早く家を出るにかぎる。家を出るのが数秒でも遅れると痣《あざ》をつくる可能性がある。わたしがなにもしなくてもママはなにかとなんくせをつけてわたしを折檻《せっかん》したがるのだ。  登校中、歩いているわたしの横をカザリが通り過ぎるとき、わたしは彼女に見とれる。カザリはいつも髪をふわふわさせながら楽しそうに歩く。カザリとわたしはママのいる前ではほとんど会話をしない。だからといってママのいないところではなかの良い姉妹らしくしゃべるのかといったらそうでもない。学校でカザリは人気者でいつもたくさんの友達と楽しそうに話をしていた。わたしはそんなカザリがとてもうらやましかったのだけれどその輪の中に入れてもらう勇気はなかった。  わたしといったらテレビの連続ドラマや歌手のことなんてまったく知らないのだ。テレビを見ていたらママに怒られるので、テレビのある生活というのはわたしにとって未知のものだった。  だからみんなの話題についていける自信はなかった。結局わたしには友達なんてまったくいなかったし休み時間になると机につっぷして寝たふりをした。  カザリの存在はわたしにとって心の支えだった。カザリはみんなから愛されていてわたしはそんなカザリと血を分けた家族なんだという誇らしい気持ちがあった。  わたしの顔はカザリに似ていた。一卵性双生児でまったく同じ顔なのだから当然といえば当然なのだが、けれどわたしとカザリを見まちがう人間はいなかった。カザリははつらつとして明るかったけれどわたしは暗くじめじめしていた。制服にしてもわたしのは汚れてしみがついていたしなによりもまず臭うのだ。  ある日、学校へ行く途中、電信柱に迷い犬のチラシがはってあるのを見た。メスのテリアで名前はアソというらしい。かんたんなイラストの下に達筆な文字で『見掛けた方は次の連絡先までお願いします・スズキ』と書いてあった。  わたしはそれをちらりと眺めただけでその時は特に気にかけなかった。実際それどころではなく前日に青痣を作った腕が痛くてたまらなかった。学校でも授業を受けているあいだ中、痛くて集中できなかった。だから保健室へ行くことにした。保健室の女の先生はひどい痣のできたわたしの腕を見ておどろいた。 「まあ、いったいどうしたの?」 「階段でころびました」  しかしそれは嘘で本当は夜中おそく帰ってきたママがお風呂に入った時、浴槽の中で長い髪の毛を見つけて怒ってわたしをぶったというのが怪我の原因だった。わたしはぶたれた拍子に転んでテーブルの角で腕を打ちまったく自分はドジだなと自分を心の中で罵《ののし》った。 「ママはあんたの抜け落ちた髪の毛がお風呂で体にはりついて気持ち悪い思いをしたわ。あんたはママが嫌いなの? ママがこんなにつかれて帰ってきたというのにあんたはなぜこんな仕打ちをするの?」  以前にもこういうことがあったのでわたしは絶対ママより先にお風呂へ入らないよう気をつけていた。だからママの言った長い髪の毛というのはわたしのではなくカザリのものだった。しかしわたしの髪の毛はカザリと同じ長さだったしいらついて家へ戻ってきたママにはなにを言っても通じなかったのでだまっていた。 「骨は折れてないようだけど痛みがひかなかったら病院へ行った方がいいわね。でもエンドウさん、本当にあなた階段でころんだの? 以前にも同じように階段でころんでここへ来たことがあったでしょう?」  保健室の先生が包帯をまきながら質問した。わたしはなにも言わずに頭を下げると保健室を出た。そろそろ階段でころんだという理由で通すのは難しそうだと思った。  ママの折檻のことをわたしはひたすら隠しつづけてきた。秘密にするよう言われていたし、だれかに言った場合、まちがいなくわたしはママに殺されてしまうからだ。 「いいかい、ママがあんたをぶつのは、あんたがどうしようもなく悪い子だからよ。でも、このことはだれにもないしょだからね。わかった? わかったのなら、このミキサーのスイッチは押さないであげるわ」  当時、小学生だったわたしは涙をながしながらうなずいた。ママはスイッチから指を遠ざけて押さえつけていたわたしの腕をはなした。わたしはいそいでミキサーから手を引き抜いた。 「もうちょっとであんたの手がジュースになるところだったわね」  ママは口のはしに食べ掛けのチョコレートアイスをつけて吐き気のするくらい甘い息をわたしに吹きかけながら笑った。  ママは人づき合いの苦手な人だ。わたしには鬼のように振る舞うけど家の外では口数がずっと減った。二人の子供を養うために仕事をしているのだけれど自分の主張をなかなか他人に言えない。だからわたしとママは根本的には似ているのかもしれない。そして同じように二人とも活発で明るいカザリに強いあこがれを抱くのだと思う。ママは仕事場で人間関係がうまくいかない時いらいらしながら家へ帰ってくる。そしてわたしを見つけるとけったりぶったりする。 「あんたはわたしが産んだんだ、生かすも殺すもわたしの自由なんだ!」  わたしの子じゃない、と言われるよりきっとましだ。髪の毛をママにつかまれながらいつもそう思った。 [#ここから6字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  掃除の時間、クラスメイトに話しかけられた。クラスメイトと会話をするのは実に三日と六時間ぶりだった。ちなみに三日前にかわした会話は、「エンドウさん、消しゴムかして」「……あ、ごめん、持ってないの」「ちっ」というたったそれだけだった。しかし今日の会話はもっと長かった。 「エンドウヨーコさん、あなたって一組のエンドウカザリさんの偽者の方よね? どうしても姉妹には見えないわよ」  ほうきを持ったそのクラスメイトの女子はそう話しかけてきた。まわりにいた他の女の子が一斉に笑った。彼女の言ったことには自覚があったので不思議と怒りを感じなかったがまわりの子が笑ったことについては嫌な感じがした。 「だめよ、エンドウさんが傷つくじゃない」 「ごめんなさい悪気はないのよ」 「うん、わかってる……」  わたしはそう言ったがひさびさに声を出したため声が裏返ってしまった。ほうきで床を掃きながらはやくみんなどこかへ行ってくれないかなあと思っていた。みんな教室の掃除当番だったが掃除するのはいつもわたしだけだった。 「ねえエンドウさん、あなた今日、保健室へ行ったでしょう。またあざを作ったの? あなた体中あざだらけなんでしょう? 私、知っているのよ。体育の水泳で水着に着替える時に見たもの。でもみんな信じてくれないの。だからここで服ぬいで見せて」  わたしがだまって困っていると教室の扉が開いて担任の先生が入ってきた。わたしに話しかけていたクラスメイトはさっと散らばって掃除するふりをはじめた。助かったと思いわたしは安堵した。  学校の帰り道、公園のベンチに座ってクラスメイトたちの笑い声を思い出していた。人のことを勝手に傷つくだとか言うなっ、と後から考えるとなんとはなしにむかついた。わたしはみんなに馬鹿にされているんだとあらためて感じた。どうしたらカザリのようにみんなと話ができるのだろう。わたしもみんなと同じように掃除をさぼって丸めたプリントとほうきでアイスホッケーの真似事をしたかった。  気付くとそばに犬がいた。首輪がしてあったので、公園のどこかに飼い主がいてしっかり犬のことを見ているのだろうと最初のうちは思っていた。  さてはそうでないなと感じたのは五分ほどたってからだった。その犬がわたしのクツのにおいをくんくんかぎはじめたのでためしに一回背中をなでてみた。犬は怖がらず人になれているようだった。メスのテリアであることに気づき、ひょっとするとこの犬の名前はアソかもしれないと今朝のチラシを思い出した。  犬を抱いてチラシにあったスズキさんの住所へ行ってみるとそこは小さな一戸建てだった。七時をまわっていて外は夕焼けで赤かった。チャイムをならすと背の低い白髪のおばあちゃんが出てきた。 「まあ、アソちゃん! アソちゃんにまちがいないわ!」  おばあちゃんは目を開いて驚くとうれしそうに犬をだきしめた。このおばあちゃんがチラシを書いたスズキさんにまちがいないと思った。 「ありがとう、あなた。この子のこと心配していたの。ちょっとまあ、うちにあがってちょうだい」  はあ、とうなずいて家へ上がらせてもらった。実を言うと汚いことにわたしは見返りを期待していた。お金でもお菓子でもなんでもいい。いつもおなかをすかせていたのでくれるものならなんでも欲しかった。  居間に通されて座布団に座った。 「そう、あなたヨーコさんというのね。わたしはスズキよ。チラシをはってからたった一日でこの子に会えるなんて嘘みたいだわ」  スズキのおばあちゃんはアソにほおずりをしながら居間から出て行った。彼女は一人でこの家に暮らしているらしかった。  スズキさんはコーヒーとお茶菓子ののった盆をもって現れた。アソがその後ろからついてきた。盆をちゃぶ台においておばあちゃんは向かい合うように座った。彼女はわたしがどこでアソに出会ったかをくわしく知りたがった。とくにおもしろいドラマがあったわけでもないのにわたしが話している間中にこにこして彼女は聞いていた。  わたしはコーヒーにスティックの砂糖とカップのミルクをどばどば入れて一瞬で飲み干した。お茶菓子も二口で消滅した。どちらもうまかった。わたしの生活には甘い食べ物というのがほとんどなく時々中学校の給食で出るデザートくらいしかなかった。家ではカザリの食べ残し以外ほとんどなにも口に入らないので当然だった。はたして給食のない高校へ行くようになった時わたしは生きていけるのだろうかというせこい問題はつねにわたしの頭を支配していた。  スズキさんはやさしそうな顔でコーヒーのおかわりをついでくれた。今度はそれを味わってのんでいるとスズキさんが言った。 「本当は夕食も食べていってほしいのだけれど……」  それはなんとしてでも食べたいですなっ、と一瞬思った。しかし初対面の人にいくらなんでもあつかましいと理性が小さくつぶやいた。 「実をいうと今日はぜんぜん夕食の用意していなかったの。この子が心配で手につかなくて」  スズキさんがアソをだきしめた。アソは幸せものだなあと抱きしめられた小さなテリアをうらやましく思った。 「そうだわ、あなたになにかお礼を差し上げなくちゃいけないわね。なにがいいかしら、差し上げられるものをさがしてくるから、ちょっと待っててね」  スズキさんが立ち上がりアソを残して居間を出た。なにをくれるんだろうとわたしはめずらしくわくわくした。わたしがびくびくすることは数あれど、わくわくすることなんてめったにないことなのである。お菓子かなにかだったら食べながら帰ろう。持って帰ったらきっと取り上げられる。  アソがわたしのにおいをかいでいた。昨夜は結局お風呂に入っていないので臭かろう。わたしは部屋の中を見回した。テレビがあった。ビデオはない。おばあちゃんだからきっと使えないのだろう。ビデオは操作が難しいらしいと、風の噂に聞いていた。ちなみにわたしはテレビもビデオもあつかったことがない。  居間には大きな本棚があり壁のひとつの面はそれでふさがれていた。中にびっしりと並んでいる本の背表紙を眺めていると、困った顔をしたスズキさんが戻ってきた。 「ごめんなさい、わたしの一番大切な宝物をあげようと思ったのだけど、どこに置いたか忘れてしまったの。さがしておくから、またあした来ていただけないかしら。今度は食事を用意しておくわ」  また来ることを強く確信を持って約束してからその日は帰ることにした。外は真っ暗だった。スズキさんは玄関まで出てきてくれて、人に見送られるというのはこういうことかと新鮮だった。わたしは今まで一度として人に見送ってもらったことがなかったからだ。  次の日、学校の帰りにスズキさんの家へよってみた。チャイムをならす前からなにやらいいにおいがした。スズキさんはわたしが来たことを喜んでくれてわたしは来てよかったと思った。昨日のように居間に通されて同じ座布団に座った。アソもわたしを覚えていた。まるで昨日の続きのようだった。 「ヨーコさんごめんなさい。実はあげるつもりだったわたしの宝物がまだみつからないの。探したんだけどねえ、本当にどこへしまったのかしら。でも、よかったら食事だけでもいっしょにどう? あなたハンバーグ好き?」  いやもう半端じゃなく好きです。ハンバーグのためなら腎臓を一個売ってもいいくらいです。そう返事をすると彼女は優しげなしわを顔一面に作って笑った。  わたしは食事をしながらなぜハンバーグなのかを検証した。スズキさんはハンバーグが好きなのでしょうか、いや、きっとわたしを喜ばそうとハンバーグを作ったのでしょう。子供を喜ばせるためにハンバーグを作るという心理は理解できた。 「ヨーコさん、あなたのことを聞きたいわ」  食べながらスズキさんが言った。困った、わたしはいったいなにを言えばいいのだろう。 「たとえば、ヨーコさんの家族はどうなの?」 「母と双子の妹がいます」 「まあ、双子の?」  スズキさんは双子の妹について聞きたそうな顔をしたが真実はあまりに暗く陰惨で目も当てられないので嘘をついた。  父親はいないけど三人で楽しく暮らしているということ。母はとてもやさしくてわたしと妹の誕生日には同じ色の素敵な服を一着ずつ買ってくれて、その服は派手すぎないわりと地味めな大人っぽいものであるということ。休みの日に三人で動物園へ行き、ペンギンを間近で見たこと。わたしと妹はずっと相部屋だったからそろそろ一人部屋が欲しくてたまらないこと。子供の頃わたしと妹が怖いテレビを見て眠れなくなると母が手を握ってくれたこと。わたしはおよそありえないことばかり喋った。 「素敵なお母様ね……」  スズキさんは感動したようにつぶやいた。その言葉を聞きながら嘘が本当だったらいいのにと思った。  学校であった出来事をたずねられたので友達と海へ行ったと嘘をついた。にこにこ話を聞いてくれるスズキさんを見ていると、こりゃ絶対に本当のことを覚《さと》られたらいけないなと思った。しかし脳味噌の嘘を考える部分がつかれて悲鳴をあげはじめたのでわたしはなんとかして話題を変えなくてはいけなかった。 「ああー、そういえば本がたくさんありますねー」  わたしは咀嚼《そしゃく》したハンバーグを飲み込みながら壁の本棚を見た。スズキさんはうれしそうな顔をした。 「本が好きなの。ここに置いてあるのはほんの一部、まだ他の部屋に積んであるの。マンガも読むのよ、ヨーコさんはどんなマンガが好き?」 「実は、その……、よくわからないです……」 「あらそう」  スズキさんが残念そうな表情をしたのでなんとかしなければと思った。なぜだかこのおばあちゃんに嫌われたくなかった。 「その……、おもしろい本があったら教えてくださいますか」 「ええ、なんなら借りていってちょうだい。そうだわ、そうしましょう。また今度、返しにきていただければいいわ」  スズキさんはおもしろいと思われるたくさんの小説やマンガをわたしの前に積み上げた。わたしはその中からたった一冊だけマンガを選んでスズキ家を後にした。一冊だけしか選ばなかったのはすぐに読み終えたかったからだ。そうすればまた明日にでもスズキさんの家へ返却しにこられるだろう。そうすることで再び何かこうおいしいものとか食べられるかもしれないという意地汚い乙女の思惑もあったし、それにスズキさんとアソに会える。このおばあちゃんともっと話をしていたかった。スズキ家の座布団に座ってスズキさんやアソといっしょにいるとおしりに根が生えたように立ち上がるのが億劫《おっくう》になるのだ。  その後もいろいろなつらいことがあったけれどわたしはスズキ家にかよった。たいてい帰る時に本を借りたのでまたそれを戻しにこないといけなかった。それにいつまでたってもスズキさんはわたしにくれるという宝物をみつけることができなかった。  本を返しに行くというのはスズキ家にかよう口実だったけれどそういうものを作っておかないとわたしは赤の他人のスズキさんに会ってはいけないような気がした。スズキさんはわたしにとって生まれてはじめてのほっとできる人だった。なにも用がないのにそばへ行って嫌われたくなかった。  わたしが行くとスズキさんはいつも夕食を作って待っていた。わたしは毎日マンガや小説を読んで感想をスズキさんに話した。わたしとスズキさんとアソはどんどん仲良くなった。学校が早く終わった時アソの散歩をした。切れた電球を付け替えたりじゃがいもの皮むきをてつだったりもした。 「今度の休みの日いっしょに映画を見に行きましょうか」  スズキさんが提案した時わたしは飛び上がって喜んだ。 「でも、ヨーコさんのお母さんに悪いかしら。こんなにあなたをひとりじめしちゃって。そうそう、今度カザリちゃんもいっしょにつれておいで」  うん……。うなずいたけれどどうすればいいかわからなかった。スズキさんはわたしの嘘をまるっきり信じていた。  映画を見終わった後わたしとスズキさんは回転寿司に入った。わたしは遠慮したのだけれどスズキさんがどうしても行こうと言った。わたしはほとんど寿司なんて食べたことがなかったので魚の名前をまったく知らなかった。回転寿司のルールは一応知っていたし安いものを選ぼうと思っているのだけど、どの寿司が安いのかわからなかった。どんどん寿司が流れていく中でスズキさんが家族の話をした。 「わたしにはね、ちょうどヨーコさんくらいの孫がいるの」  スズキさんはさびしそうな顔をしていた。 「ヨーコさんの一つ下かしら。娘の子なの。わりと近くに住んでいるのにもう三年も会ってないわ」 「家族といっしょに住めないの?」  スズキさんは答えなかった。きっとなにか事情があるのだろうと思った。 「手紙を出したらどうかしら。『会ってごちそうしたい、何でも好きなものを食べていいわよ』って書けばきっと会いにきてくれるわよ」  それからわたしは真剣に、自分が『好きなものを食べていいわよ』などと言われたら何と答えるべきか考え込んだ。一生に一度あるかないかという質問なので今のうちから検討しておくべき問題だなと思った。わたしが考えている間も目の前を寿司が流れていった。 「あなたはやさしい子ね」呟《つぶや》くようにスズキさんが言った。「……実は言わなくちゃいけないことがあるの。アソを連れてきてくれたお礼としてあなたに差し上げることになっていた宝物のこと。本当はそんな宝物なんて最初からなかったの。嘘だったのよ。あなたにまた会いたくて口実を作っただけ。ごめんなさい。そのかわりこれを受け取って」  スズキさんはわたしにカギを握らせた。 「わたしの家のカギよ。もう口実なんていらないから、いつでもうちにおいで。わたしはあなたが大好きなんだから」  わたしは何回もうなずいた。とても素敵なアイデアに思えた。これまで生まれたことを後悔して何度か高いビルの屋上に上がって金網をよじ登り、吹きすさぶ風で鼻水を垂らしながら飛び降りるかどうか迷ったけれどこんな日がわたしにおとずれるなんてと思った。  以来つらいことがあったときスズキさんにもらったカギをにぎりしめてふんばった。まるでカギはアルカリの単三電池のようにわたしへエネルギーを供給し、わたしは「よしきたー!」という気持ちになった。カギはいつもしおりのかわりに本の間にはさんで隠していた。 [#ここから6字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  スズキさんからカギをもらって二週間後の金曜日、学校でのことだった。休み時間になるとカザリがわたしの教室にやってきた。数学の教科書を忘れてしまったので貸してほしいとカザリはたのんだ。 「おねがい、このお礼はきっとするから」  カザリと会話をするのはたいへんひさしぶりだったのでわたしはうれしかった。わたしのクラスでも午後から数学の授業があったのだがそれまでに返してくれるという約束で教科書を貸した。  しかし昼休みになってカザリのクラスへ行ってもカザリはいなくて、わたしは教科書のないまま数学の授業を受けることになった。  数学の先生はやさしそうな男の人だった。わたしはその先生とほとんど話をしたことがなかったけれど、時々廊下でカザリと親しそうに笑いながら会話しているところを見かけた。だから教科書がなくても理由を話せばきっとゆるしてくれると思った。 「どうして教科書を持ってこなかったんだね」  授業がはじまると先生はそう言ってわたしをその場に立たせた。 「その……、妹に貸しました……」 「まったく! そうやって人のせいにする。本当に信じられないな。きみは一組のカザリさんとは本当に双子なんだろうか。きみはね、もうちょっと身だしなみに気をつけたらどうなんだい?」  先生がそう言うと教室のあちこちからくすくすと笑い声があがった。顔が熱を持ちわたしは逃げ出したくなった。自分の髪がぼさぼさで服が汚れていることは知っていた。だけど台所で寝起きするわたしに改善する余裕はなかった。  放課後に教室を出たわたしをカザリが呼び止めた。 「教科書を返すのが遅れてごめんなさい、お姉ちゃん。わたし、おわびをしたいの。これから友達とマクドナルドへ行くんだけど、お姉ちゃんもいっしょに行こうよ。ハンバーガー、食べさせてあげる」  カザリは魅力的に笑った。そうやって誘われたのははじめてだったのでわたしはうれしくなってすぐにOKした。仲間に入れてもらえるなんてこれは夢じゃないかと思い右足で左足を踏むとしっかり痛みを感じた。  カザリと二人の友達そしてわたしの合計四人でマクドナルドへ行った。みんなのぶんをカザリがまとめて注文した。カザリの友達とは初対面でわたしとはほとんどしゃべらなかったけどカザリとはよく話をして笑っていた。 「ねえ本当にあなたはお金をもっていないのね。信じられないわ、どうしてカザリさんはおこづかいをもらっているのに、あなたはもらえないの?」  レジの前でカザリの友達のうち片方がわたしに質問した。わたしのかわりにカザリが答えた。 「ママがそういうしつけかたをしてきたの。お姉ちゃんにお金を持たせるとすぐにつかっちゃうんだって」  できあがったハンバーガーを受け取ると二階に移動してテーブルについた。ジュースもポテトもハンバーガーも三人分しかなかった。カザリたち三人は食事をはじめわたしはその様子をじっと見ていた。「わたしの分は?」と聞くことはためらわれた。自分からママやカザリに話しかけることはめっそうもないことだったのだ。 「はい、これもういらない」  カザリの友達の片方が食べかけのハンバーガーをわたしの前に差し出した。 「ねえヨーコさん、本当にあなた、人の食べ残しを食べるの?」  友達の疑問にカザリが楽しそうに答えた。 「本当よ。お姉ちゃん、いつもわたしの食べ残しをがつがつ食べるもの」そう言うとカザリはわたしに向き直った。「ね、いつも食べてるよね。この子たちわたしの言うことを信じないのよ。だから目の前で食べて見せた方が早いと思うの。お姉ちゃん、これも食べていいよ」  カザリが食べかけのハンバーガーをわたしの前に差し出した。カザリの友達が好奇心の入り交じった目でわたしを見つめた。わたしは豚のようにがつがつと差し出されたものを食べた。するとみんな一斉にわっと手を叩いた。  店を出てカザリたち三人はわたしに手を振ってバイバイと言いながら駅ビルの方へ消えていった。一人で残されてから猛烈にわたしは息苦しくなり「神様!」と心の中で呟いた。  スズキさんの家へたどり着いたときわたしの頭はパニックだった。どうしてカザリは友達をあつめてあんなことをしたのだろうと考えた。しかしカザリはいつもどおりのことをしただけなのだ。いつも家でやっていることをただ外で繰り返しただけなのだ。そう考えて納得しようとしたが呼吸困難は衰えをみせず、ちとがつがつ食べ過ぎたかなと思った。  スズキさんは咳《せき》をしながらコーヒーを入れてくれた。 「今日、風邪ぎみなの」彼女はそう言って咳を繰り返した。「あら、ヨーコさん、どうしたの? あなたもひどい顔色してるわね。何か嫌なことでもあったの?」 「いえ、ちょっと食べすぎで……」 「食べすぎ? 本当に?」  彼女はそう言うとわたしの目を覗き込んだ。老人の瞳はなぜこんなに澄んでいるのだろう、とわたしは不思議に思いながら心臓のあたりを手で押さえた。 「この辺りが、息苦しいんです……」  わたしはそう言ったきり言葉が継げなくなった。カザリやその友達のことが頭の中で蘇《よみがえ》っていた。スズキさんはだまってわたしの頭を撫でた。 「きっと何か嫌なことがあったのね」  彼女はそう言うとわたしを寝室に連れて行き、化粧台の前に座らせた。 「さあ、笑ってみせて。あなた本当はとっても美人なんだから」  彼女がわたしの頬《ほお》をつまみ左右に引っ張った。無理やり笑顔をつくろうとする手つきだった。 「ああ、やめてください。やめてください。鏡の中にピエロみたいなのが見えます。でも、少し息苦しいのは治りました。だから頬を引っ張るのはやめてください」 「治った? それなら良かったわ」  彼女はそう言うと咳をした。ごほんという咳ではなく、もっといやな感じのかすれる咳だったので、わたしは心配になった。 「大丈夫ですか?」 「大丈夫よ。そうだ、今度いっしょに旅行にでも行こうね。ヨーコさん、あなたは今やわたしの一番たいせつな家族なんだから」 「旅行に出たままもう戻ってこなくてもいい?」 「ええ、そのまま世界を旅しましょう。あなたをわたしの孫ということにして」  あなたはもしかしてわたしの都合のいい妄想かなにかですか、と思った。なぜならそれは素敵なアイデアだったからだ。スズキさんが本当にわたしのおばあちゃんだったらいいのになあとずっと思っていた。  スズキさんが人差し指をたてて鏡を指した。鏡を覗き込むと笑顔になったわたしの顔があった。わたしはカザリに似ていた。  スズキ家からの帰り道でわたしはカザリのように歩いてみた。顔をあげ幸福そうな顔をしてずんずん進んだ。するといつもわたしは背中を丸めて歩いていたのだと気づいた。  スズキさんの家であったことを思い出しながらわたしは台所のゴミ箱の横で勉強をしていた。ママがノートパソコンを持って帰ってきた。  ノートパソコンはママの仕事道具でいつも大切にしていた。以前、台所のテーブルに置かれていたそれをわたしが何かの拍子に触《さわ》ってしまったときがあった。 「汚い手で触るんじゃない」  ママはそう言ってわたしの頭をグラタン皿で殴った。ノートパソコンはわたしよりも地位が高いのだと学んだ。  帰ってきたママはつかれた顔をしていたがわたしを見て一瞬『いやなものを見た』という表情をした。しかしカザリが居間の方からママを呼ぶとママの顔はなごんだ。カザリはわたしよりも先に家へ帰っており居間でテレビを見ていたのだが、わたしは居間に入ることを禁じられていたので会話はしなかった。もしもママの許可なく居間でテレビを見たりしていたら裸で町を歩かされるはずだった。  ママが居間に入るとわたしは胸を撫で下ろして今日は痣をつくることなく一日を終えることができるのかなもしかして、と嬉しくなった。カザリとママの話し声が居間の方から聞こえてきたので、わたしは数学の問題を解きながらなんとなくそれに耳を傾けた。 「ねえママ、最近のお姉ちゃん、家へ帰ってくるのが遅いと思わない?」カザリの言葉が聞こえ、わたしは鉛筆を置いた。「友達ができたみたいね。お姉ちゃん物置の中にマンガや小説をたくさんかくしてるの。そういうものを買うお金、いったいどこにあるのかしら」  体温が冷えていくのを感じた。ママが居間から出てきてわたしの前を通り過ぎ台所の物置を荒々しくあけた。わたしなど存在しないというように振り返りもしなかった。物置に入っていたわたしの教科書なんかを取り出してぶちまけると母は奥の方からスズキさんに借りたままの三冊の小説を発見した。 「あんたこの本どうしたの?」  低い声でママが聞いた。わたしは怯《おび》えながらなんとか声を出した。質問に答えなければ無条件でぶたれる決まりだった。 「借りたの……」  ママは本を床にたたきつけた。 「あんたにそんな友達はいないでしょう? まったく呆れた子! 店から盗んできたのね! ママは毎日あんたのために働いているというのにいったいどうしてこんなに困らせるの!」  ママはわたしをいすに座らせ静かに言った。 「あんたは昔からそうだったわね。ママやカザリを困らせてばかりいて本当にろくでなしだったわ」  居間の入り口にカザリが立ってわたしを見ていた。彼女は憐憫《れんびん》の混じった顔でママに言った。 「ママ、お姉ちゃんを許してあげて。たぶん出来心だったのよ」 「カザリはやさしい子ね」ママはカザリを見て笑みを浮かべた後、わたしに向き直った。「それに比べてこの子といったら、本当に体の中は腐っているとしか思えないわね。カザリ、あっちへ行ってなさい」  カザリは口だけを動かしてわたしに「がんばってね」と言って親指をたてると部屋の奥へ引っ込み戸をしめた。居間の方からテレビの音が漏れてきた。  ママはわたしの後ろに立ち、椅子に腰掛けているわたしの肩に両手を置いた。動くとぶたれるからじっとしていた。 「ママがあんたを困らせたことが一度としてあったかしら? そりゃああんたをたたいたことくらいはあったけれどそれは全部あんたのためなのよ」  ママが後ろからわたしの首すじをさわりさわりとなでてからキュッと首をしめた。 「や……めて……!」  わたしはもがきながら呻《うめ》いた。 「あんたのそういう声を聞くとむしゃくしゃするの。あんたを今まで育ててきたのはママなんだからもっと尊敬したらどうなの」  ママが手に力をこめるのを感じた。わたしは声を出せなくなった。呼吸もできず、おねがいよママゆるしてなんでもするからと懇願することもできなかった。  一瞬だけ気絶したらしく、気づくとわたしは床に倒れていてよだれをたらしていた。仁王立ちのママが上から見下ろして言った。 「あんたはもう死んだほうがいいよ。近いうちにママが殺してやるから。本当にどうして双子の姉妹でこんなに差が出てしまったのかしら。あんたのしゃべりかたから歩き方まで全部鼻につくのよね」  三冊の小説を没収してママは自分の部屋に消えた。酸素の乗った血液を首から上へ送り込むため心臓がフル回転していた。わたしは床に倒れたままの格好でこの家を逃げ出そうと決心した。  このままこの家にいるのは危ない。ちょっとしたきっかけでママが破裂するように怒ったらわたしは確実に殺されるという確信があった。スズキさんに会いたい。スズキさんとアソとわたしの三人でどこか遠くに行こう。  床に倒れたままそう考えていると重要なことを思い出した。スズキさんにもらった大切な家のカギは、ママの持って行った本の中にはさんで隠していた。 [#ここから6字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  次の日は土曜日で学校は休みだった。ママは用事があり六時ごろまで帰らないと言って家を出た。カザリは友達と遊ぶために昼からいなくなった。わたしは家で一人になるのを見計らってママの部屋に入った。  ママの部屋に入るのはほとんどはじめてのことだった。普通だったら絶対に入らない。もしもわたしが部屋に入っているところをママに見られたらひどくぶたれることだろう。最悪の場合は死だ。しかし危ないことをしてでもスズキさんにもらった家のカギだけはなんとしても取り返したかった。カギはスズキさんとわたしの大切なつながりだ。本の方はなくなってもきっとスズキさんはゆるしてくれるだろう。でもカギはだめだ。なくしたらわたしがゆるさない。  ママの部屋は几帳面に整頓されてちり一つ落ちていなかった。机には花のささった花瓶があって横にノートパソコンが置いてあった。大きめのベッドがあり、そこでママが寝起きしているのかと思うと不思議な気持ちになった。ベッド脇にCDラジカセがあり、棚にCDケースが並んでいた。わたしには音楽を聴くという習慣がないけれどママとカザリはよくわたしの知らない音楽のことについて話をしていた。  部屋のすみにスズキさんの本が無造作に置かれていた。カギだけを抜き取り強く握り締めた。あとは一目散に部屋を出るだけだった。本はそのまま残していくことにした。本を持ち去ると部屋に入ったことがばれるかもしれないと思ったからだ。  ドアノブをにぎった時、玄関の開く音がした。わたしは動きを止めて音を立てないようにした。だれかが帰ってきたらしかった。部屋を出ると見つかってしまう。耳をすますと玄関をあけた人物がこちらに近づいてくる音が聞こえた。  まわりを見て隠れる場所を探した。ベッドが部屋の壁際にあり、ベッドと壁との間に人間一人が横たわって隠れられるほどの隙間があった。わたしは決心すると素早くそこに体をねじ込ませた。まるで寝相が悪くてベッドから落ちてしまったかのような格好だった。しかしわたしがはまり込むのを想定して配置されたかのように幅はぴったりだった。  ドアの開く音を聞きわたしは身を硬くした。心臓の音が激しくなっていっそのこと止まって静かになってくれと願った。ドアを開けた人物の足音が室内を移動した。ベッドにはさまって顔を伏せていると、ベッド下のすき間を通して部屋の反対側に置かれている姿見が見えた。その姿見にカザリの顔が映りこんだ。部屋に入ってきたのはカザリだったのだとわかった。わたしは姿見のカザリを見つめた。ママの部屋になんの用があるのかわからないが早く出て行ってくれないだろうかと思った。  カザリはまっすぐに棚の前へ移動して中に納まっているCDケースを眺め始めた。鼻歌を歌いながら彼女は棚からCD数枚を抜き取った。どうやらそれらを借りるために部屋へ来たらしいとわかった。彼女は抜き取ったCDケースをそばの机へ無造作に置き再び棚を眺めた。そしてまた数枚を抜き取って無造作に机へ置いた。  そのとき花瓶に当たってしまった彼女の手がベッド下から見える姿見に映りこんだ。わたしはその瞬間、「ああ!」と叫んだ。花瓶が倒れて中の水がママのノートパソコンにすべてぶちまけられてしまったからだ。しかしわたしの声に彼女が気づいた様子はなかった。なぜなら同じタイミングで彼女もまた「ああ!」と叫んでいたからだ。彼女はすぐに花瓶を元に戻したが遅かった。びしょぬれになったパソコンを見下ろして真っ青になった彼女を姿見の中に見た。  彼女は困ったように室内を見回していたがやがて笑みを浮かべた。彼女が移動して姿見に映らない場所へ引っ込んだ。しかしベッド下のすき間から彼女の靴下に覆《おお》われた足首が見えた。彼女の足は室内を移動して部屋の隅に行き置かれていた三冊の本の手前で止まった。スズキさんから借りて取りあげられたわたしの本だった。カザリの手がそれらをつかみあげた。  その後カザリは机に置いたCDを棚に戻した。借りていくことを諦めたようだった。そのかわりに彼女はスズキさんの本を持って部屋を出た。しばらく自室に行ったり居間を横切ったりする彼女の足音が聞こえていた。しかしやがて彼女は自室に落ち着いたらしく足音が聞こえなくなった。  カザリがなんのために本を持って行ったのかわたしはすぐに気づいた。ママが戻ってきて水浸しのパソコンを見たらいったいだれがやったのか疑問に思うだろう。カザリとわたし、どちらがやったのか……。しかしわたしから取り上げた本がなくなっていれば、わたしが本を取り返すために部屋へ入り花瓶を倒したのだとママは考えるはずだった。  ママは今までになく怒るだろうとわたしは想像した。こんなにひどい事件ははじめてだった。わたしは死をもってつぐなうことを要求されるに間違いなかった。わたしは昨日のママの顔を思い出した。仁王立ちでわたしを見下ろすゴムのマスクのような顔だ。  わたしは慎重にベッドと壁の隙間から出ると足音をたててカザリに気づかれないよう部屋を出た。玄関から外に出るとわたしはスズキさんの家に走った。わたしに唯一残された生きる方法はスズキさんにかくまってもらうことだけだった。しかしスズキ家のチャイムをならした時、中から出てきたのはうすく化粧をした女の子だった。  女の子はわたしを頭のてっぺんからつま先まで眺めて言った。 「あなただあれ?」  わたしはこの子がスズキさんの孫であることを直感的に覚った。 「そのう……、スズキさんは……?」 「わたしもスズキだけど? でもきっとあなたが言ってるのはおばあちゃんのことね? おばあちゃんなら死んだわよ。今日の朝、犬がうるさいからって近所の人がたずねてきたら、玄関で倒れて死んでたんだって。風邪をこじらせたそうよ。もう、せっかくの休みなのに朝から呼び出されてこまっちゃった」  昨日、スズキさんが風邪気味だと言っていたのを思い出した。玄関に立つ女の子の背後で数人の歩き回る気配があった。 「エリちゃん、どなただったのー?」  そう家の奥から女性の声が聞こえてきた。女の子が振り返って、「わかんなーい、知らない子ー」と返事をした。わたしに向き直るとため息をつきながら彼女は「勝手に死なれるのも困るのよ。かってた犬、どうすんだろう。保健所につれていくのかしら」と言った。わたしは咄嗟《とっさ》に「神様、今ここでこの子の首を絞めてもいいでしょうか」と思ったがうなだれてスズキさんの家を離れることしかできなかった。  わたしは公園のベンチに座った。かつてアソを発見したベンチだった。大勢の子供が公園で遊んでいた。滑り台を滑り、ブランコを揺らし、力いっぱいに笑っていた。わたしは体を丸めて目を覆った。スズキさんがもうこの世にいないというのが信じられなかった。「あんまりですよー」と思った。  公園の時計が六時をさした。そろそろママが帰ってくる時間だった。約三時間、わたしはベンチに腰掛けてじっとしていた計算になる。気づくと足元に水溜りができていた。わたしの流した涙が多すぎて水溜りになってしまったのだと一瞬思ったが、よく見ると近くの水のみ場から漏れ流れてきた水だった。  わたしは立ち上がった。地の果てまで逃げようと決心した。しかしそのとき視界の端にカザリの姿を見つけた。最初は見まちがいかと思ったけれどたしかにカザリが公園そばの道を歩いていた。彼女の手にはコンビニの袋がぶら下げられており部屋を出て外へ買い物に出ていたらしいとわかった。わたしはカザリを追いかけた。 「カザリ、待って!」  立ち止まり走ってきたわたしを見た彼女は目を丸くした。 「ねえ、カザリ、ママの部屋でやったこと、正直にママへ謝ってちょうだい!」 「そのことを知ってるの!?」 「そうよ、だからお願い、ママにあなたがやったって話して!」 「いやよ! わたしママに怒られたくないもの!」  カザリは頭を強く横に振った。 「お姉ちゃんがかわりに怒られてよ。怒られるの慣れてるでしょう? わたしは怒られるなんてみっともないこといやよ」  わたしはまた息苦しさを感じた。今ここにナイフがあったら自分の心臓を突いて風穴を開け楽になるのにと思った。 「……でも、花瓶はあなたが倒したんでしょう?」  懇願するように彼女へ訴えた。 「もう、頭の足りない人ね! お姉ちゃんがやったことにしてって言ってるでしょう! ママが帰ってきたら、ちゃんとあんたが謝るのよ、わかった!?」 「わたしは……」  ポケットに手をつっこんだ。 「なによっ」  彼女がなじるように言った。血が滲《にじ》むほど強く、ポケットの中でカギを握り締めた。 「わたしは……」  わたしは、彼女のことが心から好きだった。しかしそれは十秒前までのことだった。そう思うと胸につかえていた息苦しいものが溶けて流れて呼吸がらくになった。 「……いえ、いいの。なんでもない。カザリ、聞いてちょうだい……」わたしは決心していた。「残念だけどあなたがやったことをママはもう知っているのよ。これは本当なの。あなたは本を持ち出して、わたしのせいにしようとしたけどママには通じなかったのよ。あなたがコンビニへ買い物に出かけた後、ママが帰ってきたの。わたしは玄関に立って、部屋から聞こえてくるママの怒声を聞いたの。そして公園まで逃げてきたんだけど、ママはちゃんとあなたが花瓶をたおしたことに気づいていたみたいだった」  カザリは顔を真っ青にした。 「気づくはずないわ!」 「気づいたのよ。わたしは玄関からママの声を聞いたの。CDの並んでいる順番が違う、カザリがやったんだ、って。そうママは叫んでいたもの。それであなたが正直にあやまりにくるのを待っているのよ。お願いだから正直にあやまって」  カザリは困惑したようにわたしを見た。 「もう全部ばれてしまっているの?」  わたしは頷《うなず》いた。 「でもお姉ちゃんのように怒られてぶたれるなんて嫌よ!」  わたしは一緒に困惑するふりをして、それから話を持ちかけた。 「……じゃあこうしましょう。わたしがかわりにあやまってあげる」 「どうするの?」 「今日一晩だけ服をとりかえっこするのよ。わたしがカザリの服を着て、カザリがわたしの服を着るの。明日の朝までわたしはカザリのように振る舞って、そのかわりカザリはわたしのようにうつむいて歩くの」 「ばれない?」 「大丈夫、おんなじ顔なんだもん。ただ、カザリはわたしがいつもそうしているように陰気にしていればいいの。そうしていれば安全だから。怒鳴られるのも、ぶたれるのも、全部わたしがかわりにやってあげる。カザリは心配しなくていいよ」  公園のトイレでわたしたちは入れ替わった。カザリは身につけていたものを全部とって髪の毛をぼさぼさに手でかきまわした。わたしの汚れた服を着る時カザリは顔をしかめた。 「この服へんなにおいがするわ!」  カザリの服は綺麗でさらさらしていた。くつしたや腕時計まで全部身につけて手グシでなんとか髪を整えた。うまくいったかどうかわからないけど笑顔をつくってトイレの鏡を覗き込むとなんとかカザリに見えた。その笑顔を見たときスズキさんのことを思い出した。わたしは咄嗟に口元を手で押さえた。両目からなんか水みたいなものが出てきてつまりそれは涙とかそういうやつだったが一生懸命水で顔を洗ってカザリに隠した。 「なにやってんのよ」  わたしがいくら待っても出てこないのでカザリがトイレの入り口に立って憮然とした顔をして言った。  わたしたちは公園を出てマンションに向かった。夕焼けのためにマンションは赤く染まって高く聳《そび》え立っていた。その足元に立って部屋がある十階の窓を見た。さきほどカザリに、ママはすでに帰っていると嘘をついた。彼女にそのことを疑っている様子はなかった。  実際には確認していないがおそらくママはもう帰っているはずだった。六時に帰ると言って時間通りに帰ってこなかったためしが几帳面なママにはこれまでなかった。 「カザリ、あなたは家に帰ったらわたしがいつもしているように振る舞うのよ」  不服そうに彼女は鼻をならした。 「わかってるわよ。それで、どっちが先に帰るの? 一緒に帰るなんて小学二年生のとき以来やってないでしょう? 不自然よ」  わたしたちはじゃんけんをした。三十回連続であいこだった。双子だから出す順番が同じだったのかもしれない。三十一回目でわたしが勝ちわたしに扮装したカザリが先に帰ることとなった。  彼女がマンションの入り口に向かうのを見送った。わたしはマンションの前に生えている木の幹に背中をもたれさせて夕焼けに染まる町を眺めた。彼女がさきほど手に持っていたコンビニの袋はわたしの手に移動していた。膝にあたりコンビニのビニール袋がかさかさと鳴った。  自転車を漕ぐ少年がわたしの前を横切り長い影を引きながら遠ざかっていった。空にかかる雲はまるで内側から発光しているように赤かった。カザリちゃん、と呼ばれて振り返ると同じマンションに住むおばさんがわたしを見ていた。お勉強の調子はどう? がんばってる? おばさんはそう聞いた。ええ、まあまあです、とわたしは答えた。直後にどさりと上から何かが落ちてきておばさんはわっと驚いた。汚れた服を着たわたしと同じ顔が地面に倒れていた。 [#ここから6字下げ] 5 [#ここで字下げ終わり]  わたしは部屋に戻ると死んだカザリのために遺書を書いた。ママの言いつけだった。警察が来るまでの五分以内に書いてちょうだいとママは命令した。引き受けると、あなたはいい子ね、大好きよ、とママは言った。それはわたしがいつも夜中に見る夢の中で聞いていた言葉だった。  ヨーコが死ぬ前に書いた遺書ということになるので文面を考えるのは楽だった。わたしが死にたいと思ったことを書けばよかったのだ。  エンドウヨーコの自殺を疑うものはいなかった。夕日が落ちて薄暗くなり集まっていた野次馬たちが闇にまぎれて見えなくなる頃、わたしとママは部屋で警察に質問されてきとうなことを答えた。ママはわたしの正体に気づいていなかったが、気づいてショックを受けるのは遅くないはずだった。今晩中に荷物をまとめて家を出て遠い地に旅立とうとわたしは決心していた。  夜遅くまで警察の話は続きママとわたしは憔悴《しょうすい》した顔をした。わたしは本当に疲れていたがママのは演技だったらしく警察が帰ると肩をもみながらやれやれと言った。死んでもママに悲しまれないなんてわたしという人間はまったくなんてかわいそうな人だったんだろうと思った。そしてまた、もういないカザリに心の中で深く謝罪した。  ママが自室に入るとわたしはカザリの部屋に引っ込んだ。彼女の部屋は可愛らしいもので溢れていて落ち着かなかった。台所のゴミ箱の隣のほうがずっと落ち着くわねとわたしは感じた。ママが寝静まったのを確認してわたしはバッグに様々なものをつめた。いつも布団のかわりに使っていたぺちゃんこの座布団を詰め込もうとしたら入らなかった。しかたないのでカザリの服を外に出して座布団の入る空間を確保した。  部屋を出てスズキ家に走りアソを迎えに行った。おばあちゃんが死んで引き取りてのいなくなったアソは保健所に連れて行かれるという話をわたしは覚えていた。アソはまだあの家にいるのだろうかという心配はあった。しかし家に到着すると都合よくアソは玄関先に紐でつながれていた。家の中にはスズキさんの子供や孫たちが葬式を行なうために宿泊しているらしい気配があった。アソは追い出されたのだな、と思った。いいじゃん、わたしと同じじゃん、と思った。  アソはわたしを見ると尻尾を振り乱しその動きで竜巻が起こるのではないかというほどよく回転させていた。わたしは紐をはずしアソを誘拐した。  犬と一緒にひとまず駅のある方角へ向かった。スズキさんと、そしてエンドウヨーコさんの葬式に出られなくて申し訳ない気持ちだった。これからどうやって生きていくのか自分でもよくはわからなかった。お金はまったくなくてもしかすると餓死するかもしれなかった。しかしわたしは空腹に慣れていたし、飲食店の出す残飯とかにんじんの切れ端とかそういうものを食べても腹をくださない鉄の胃袋を持っていると自負していた。ポケットの中でカギをぎゅっとにぎりしめるとどうやってでも生きていけるという力がわき「おっしゃー!」と思った。 [#改丁]  血液を探せ! [#改丁] [#ここから6字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  目覚時計が鳴ってワシ(六四歳)は目が覚めた。やかましい時計を止めてその手で目をこすると朝の五時でベッドの真横に位置するカーテンのない窓から朝日が差し込んでいた。窓は立て付けが悪く鍵がかからない上に押しても引いても三センチほどしか開かないため部屋を出入りするには扉を抜けるしかなかった。  ワシは自分の手を見てぎょっとした。真っ赤だった。すでに乾燥した赤いものが皮膚にこびりついていた。血だった。さらによく見ると全身が血まみれであることに気付いた。ワシは恐ろしくなり悲鳴をあげた。以前から恐れていた事態がついに起こったと思った。 「何の悲鳴ですか父さん! 鍵を開けてください!」  扉が叩かれた。次男のツグヲ(二七歳)の声だった。鍵がかかっているため部屋に入れないらしかった。ワシはベッドから立ち上がり体のどの部位から血が出ているのかを確かめようとした。 「ど、ど、ど、どこだどこだ、どこから血が出ているのだ!」  動揺しているのが自分でもわかった。しかしどこを怪我しているのかまったくわからなかった。目に血が入ってしまったらしく周囲がかすんで見えた。血の出ている部位探しを諦めてなんとか扉まで歩き部屋の鍵を開けた。 「父さん!」  ツグヲが扉を開けて部屋に入ってきた。ワシの姿を見ると彼は「うわっ!」と叫んだ。 「どどど、どこから血が出ているのだ、調べろ、よく調べるのだツグヲよ!」  かねてよりこの次男坊のことを臆病なやつめと侮《あなど》っておったから、一瞬、逃げ出すかと思った。しかしツグヲは命令に従い「うあー!」とか「うえー!」とかもらしながらワシの背中を調べた。 「あ、ここです! 右の脇腹を怪我しているのですよ父さん!」  言われたところを手探りしてみると何か硬いものがワシの体から生えているのがわかった。  その時、遅まきながらワシの妻であるツマ子(二五歳)と長男のナガヲ(三四歳)が起きてきた。血が目に入ってよく見えないが何事かという表情で部屋をのぞいたようだった。 「どわ!」 「げ!」  という二人の悲鳴が聞こえてきた。 「ツグヲ、このワシの体に生えているものはいったい何なのだね!」  次男は「あー……」と頭の悪そうな声を出して言いにくそうに答えた。 「ぼくの見たところ……、そうですねぇ……、どうも父さんの脇腹から生えているのは、包丁のように見えますねぇ……」  気が遠くなりかけた。右の脇腹から止めどなく血が流れ絨毯《じゅうたん》における染みの面積を増やし続けていた。ワシは包丁が突き刺さったことにまったく気付かなかったのだ。 [#ここから6字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  十年前にワシは交通事故を起こした。当時、ワシの運転していた車には防弾加工が施されておりスプリンクラーまで搭載していた。金にものをいわせて作らせた戦車のような車だった。助手席には最初の妻が座っていた。  ひどい事故だった。自慢の車は奇怪な鉄の塊と化してこれでよく生き延びられたなと後で不思議に思ったほどだった。  病院のベッドの上でワシは目が覚めた。全身に包帯をまかれていたがどこも痛くなかった。同乗していた妻がどうなったかを知るため病院内を歩き回った。  ワシを見た看護婦は悲鳴をあげた。どうも体の勝手が違うなと思っておったら片足がワシの体重に負けて「の」の字を描いておった。ワシは全身を骨折しており絶対安静なのだと言われた。  ワシは納得できなかった。まったく痛くないのに安静もくそもあるかいな。  後日、医者から説明を受けた。事故の際に、ワシは頭を強く打ち付けていた。そのせいで脳に障害が起きてしまいちょっとした後遺症が残ってしまっていた。痛みを感じる機能がすっぽりと消えてしまっていたのだ。  以来、ワシは怪我におびえるようになった。  新聞なんぞを読んでいる時、なぜかマンガ『ほのぼの君』の四コマ目が真っ赤に塗りつぶされていた。だれかいなこんないたずらしたやつはオチがわからんじゃないかまあオチなんぞあるようなないようなっちゅうマンガやけどなと憤《いきどお》ると、それはワシの指先から流れる血の染みだったということがあった。ワシはペットに土佐犬を飼っているのだがそいつに朝食をやり忘れたためいつのまにかそいつがワシの手を餌がわりにモグモグしていたのが原因だった。  風呂に入るために脱衣場で肌着を脱ぐとなぜか赤い水玉模様ができていた。こんな趣味悪いもんだれが買ったんやと怒るとその水玉はワシの血が染みになったものだった。背中に二、三個、画鋲《がびょう》が刺さっていたのだ。どうやら昼寝していた時、寝相の悪いワシは画鋲の上を転がってしまったらしかった。  そんなふうにふと気付けばいつのまにか血が流れていた。皮膚が釘にひっかかってもワシは気付かなかった。箪笥《たんす》の角に足の小指を打ち付けて骨折したのに気付かないまま二日をすごしたこともあった。  身の危険を感じたワシは、毎日、寝る前に、どこか怪我をしていないか主治医のオモジ先生(九五歳)に診察してもらうようになった。  しかしワシは一抹の不安を完全に拭《ぬぐ》い去ることができないでいた。もしも明日の朝、目が覚めた時、全身が血まみれになっていたらどうしよう。いつもそう怯えながら眠りについた。  事故を起こしたその年、妻を失ってからというもの、ワシの人生は輝きを失った。できの悪い息子たちに囲まれて働き会社を大きくするだけの人生となった。  会社は成長を続けた。しかしろくな跡継ぎもおらずワシは引退できないでいた。笑うことも少なくなりワシは痛みのない世界で怪我に怯える日々を生きていた。 [#ここから6字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  窓から見える山の風景は早朝のすがすがしい空気に包まれていた。軽やかな鳥のさえずりが血まみれでテーブルについたワシの耳に忌々《いまいま》しく聞こえてきた。テーブルにはツグヲとツマ子がそろっていた。 「あなた、すごい出血だわ。噴水みたい」  ツマ子が口元を押さえて言った。そこへ電話を終えたナガヲが戻ってきた。 「親父、救急車を呼んだけどさ、麓《ふもと》からこの別荘まで早くても三十分かかるそうだぜ。どうする?」  三十分かと内心で呟きながらワシは脇腹の包丁を見た。たしかにさっくりと刺さっていた。太っているため少し体をねじらなければ見えなかった。 「父さん、ねじってはだめだよ。ぞうきんをしぼるみたいに血が出てしまうよ」 「おお、そうだそうだ」  ツグヲの忠告を聞いて体をねじるのをやめた。しかしこの出血では三十分もつまいと思った。ここは山奥の別荘で近くに病院はなかった。 「ツマ子……」ナガヲは年下の継母《ままはは》のことを名前でこう呼んだ。「口に手をあてているけど気分が悪いのか?」  ツマ子は首を横に振った。 「ちがうわよ。こうやって笑いを隠しているだけよ。もううれしくって。この人がようやく死ぬかと思うと」  実を言うとこの女は遺産が目当てでワシと結婚していた。 「なんてことを言うんだいツマ子、おれの親父が死ぬって時に!」ナガヲはワシの方を振り返りまるで保険のセールスマンのような笑顔を作った。ワシは常々この長男のことを『偽善者』と心の中で呼んでいた。「親父、この女に遺産を分け与えることはないよ。会社もおれにまかせていいから大往生してくれ」 「まあよく言うわ。ナガヲさんこそ、借金があるから早く遺産が欲しいくせに」 「うう、この二人の考えていることが怖いよ、父さん」  臆病なツグヲは、椅子をずらして二人から遠ざかった。 「おまえらな、ワシが死にそうな時になんっちゅうことを言うんだ」 「死にそうだからこんな話題してるんじゃないの」  しれっとツマ子がつぶやいた。  この女め、遺言から名前を削除しちゃろうか。 「父さん、怒ってはだめです。血圧が上がると出血が増えます」  ツグヲの声でワシは我にかえり、深呼吸して怒りを収めた。そしてある人物の顔を思い出した。 「そういえばオモジ医師の顔が見えないな」  ワシは旅行へ行く時も必ず彼を同行させた。今回も例外ではなかった。この山奥の別荘に来ている人間は全員でワシの家族と彼を合わせた五人だった。  オモジ医師は高齢のじいさんだった。どれほど高齢の人物かというと、彼を見たほとんどの人が「この先生、大丈夫かしら。他のお医者にかかった方がいいんじゃないかしら。こんな江戸時代から生きているようなじじいに私は命を預けていいのかしら」と心配してしまい別の病院に行ってしまうほどだった。そのため彼の経営する病院はいつもがらがらで、ワシが旅行に同行するよう依頼すると「行きますぞ、行きますぞ」と喜んで病院を放ったらかしてついてきた。 「先生はまだ部屋で眠っているようですね。今こそ出番なのに」とツグヲが言った。 「おれが起こしてこよう」  ナガヲが立ち上がった。オモジ医師の部屋は一階にありワシの部屋の隣だった。悲鳴を聞きつけて真っ先に起きてしかるべきだが、おそらく耳が遠くなって聞こえなかったかあるいはベッドの上で老衰で死んでいるかしているのだろう。部屋の扉はリビングの壁に並んでいるため、医師の部屋の扉を開けて呼んでいるナガヲの背中がよく見えた。  やがて医師が首の後ろを掻きながら部屋から出てくると、ワシや他の者のいるテーブルの元へナガヲと連れ立って歩いてきた。その間もワシの体からは血が流れ出て絨毯に染み込んでいた。 「オモジ先生、眠っていたところ申し訳ありません。ワシを見てください、このざまですよ」  ナガヲが首を横に振った。 「いや、親父、この先生、起きていたぜ」  オモジ医師は白衣のままトコトコとワシに近寄ってきた。彼は旅行へ行く時も常に白衣だった。 「いやー、すまんのう。あんたの悲鳴は聞こえておったのだが、私は毎朝五時十四分からの『ぶらり途中下車の旅』っちゅうテレビ番組をかかさず見ておってのう。どっちかっちゅうと、あんたのことよりその番組の方が大切じゃからなあ」 「この、ヤブ医者……」  ツマ子がぽつりともらした。 「いやまあそれはいいですからワシの体を見てくださいよ」  医師はさっそくワシの傷口を調べはじめた。 「ははあ、包丁が刺さっておるの。こりゃあ、ここでは何ともできん」 「まさか本物の検死を目の前で見るはめになるとは思いませんでした」  ナガヲが呟いた。何が検死じゃ、まだ死んどらんがな。心の中でそう呟きワシはオモジ医師に向き直った。 「先生、ワシはもう助からんのですか?」 「そうじゃの、このままでは『おはスタ』の時間までもつまい。残念なことじゃて」  ツマ子がテーブルの向かい側で目をうるませて頭をふった。 「なんてこと……。願ったりかなったりだわ……」  ワシは彼女を片手で指差しながらもう一方の手でオモジ医師の白衣の裾にしがみついた。 「ああ、この女が憎い。先生、なんとかワシが生き延びる方法はないのでしょうか」  医師は皺《しわ》だらけの顔に笑みを浮かべた。 「まあ慌てなさんな。こんなこともあろうかと、旅行へ行く時は、あんたのために輸血用の血液を持ち歩くことにしておるのだ」  彼の言葉を聞いてワシは膝を打った。時々、彼はワシの腕に注射針を刺して血液を採取していた。それがあまりに頻繁だったため、ひそかにワシの血液はどこかへ売られているんじゃないかと思ったほどだった。しかしあの採取された血は、このような場合のために保存されていたらしいとわかった。オモジ医師の背後に後光が差して見えた。 「救急車が到着するまでそれを輸血しておれば、なんとか生き延びられるじゃろうて。ところで、救急車はもう呼んだのかね?」  この別荘まで三十分かかることを説明した。 「ぎりぎりじゃのう。まあよい、部屋にあんたのための大量の血液があるからの、それを持ってきてやるわい」  オモジ医師はトコトコと自室へ下がった。 「生きる望みが出てきてよかったじゃないか親父」 「本当にそうね。これからもあなたが末永く長生きしてくれるのかと思うと私も嬉しいわ」  さもがっかりという感じでナガヲとツマ子が口にした。ちっ、という舌打ちも聞こえた。 「父さんが死んだら、ぼくはこの二人と暮らすことになるの? そんなの怖すぎるよ!」  ツグヲが今にも泣きそうな顔でワシの肩をゆさぶった。やめんかい血が出るだろうがっ、と次男を引き離したところでオモジ医師が戻ってきた。満面に笑みを浮かべていた。 「ああ、先生、早く血をください。なんとなくふらふらしてきました」 「うむ、それはできん」  なんだと! 「ごめん、血液を入れておいた鞄、どこかに忘れてきちゃった」  今年九五歳になる医者は、そういうと照れくさそうに頭をかいた。 [#ここから6字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  忘れただとう!? 「なぜかわからんが部屋にないんじゃよう」  ナガヲとツマ子が嬉しそうな顔をした。 「い、家を出発するときは鞄、持っていたじゃないか。いったいどこに忘れてきたというのだね」 「わからん」オモジ医師は首をひねった。「しかし、うーん、この別荘まで持ってきたかのう。途中で乗った列車にでも忘れてきたのかもしれんが。みんなの荷物にまぎれておらんかのう」  さっそく妻と息子たちに自分の荷物を調べるよう命じた。 「でも、もし兄さんやツマ子さんが血液の入った鞄を見つけても父さんに死んでほしいのだから逆に隠しちゃうんじゃないの?」  ツグヲが言った。彼の言うことはもっともだと思った。 「それならばこうしよう、ワシの血液を見つけたものには全財産をくれてやる。会社も土地も全部だ。金が欲しいならなんとしてでも血液を探してくるのだ!」  ナガヲとツマ子がはっとするようにワシの顔を見た。 「あなた、安心して、わたしがすぐに血液を探してくるから!」 「同じく!」  二人はそう言うと階段をかけ上がり二階の自室へ戻った。ツグヲもそれに倣《なら》った。オモジ医師まで白衣の袖をまくりやる気を出しはじめた。 「いや、先生、あんたが見つけても遺産はやらんぞ」 「そうだと思ったよ」 「なあ、この別荘にいるだれかから直接血液をもらうってのはできるのかい?」 「あんたはO型じゃろう? 他の人間は皆、A型、B型、AB型じゃから無理じゃよ」  二階で三人の荷物をひっくり返す音が聞こえた。その間もワシの体から血は流れ続けていた。 「ワシの傷口、止血くらいはできんのかね?」  彼は頷いた。 「愛用のメスは持ってきておるし、裁縫用の糸もあるから、この場で簡単な手術くらいはできるだろう。幸い、麻酔もいらんことだしな」 「頼む、ワシはもうしばらく、生きねばならんのだ。あんな三人に後のことをまかせられるか。長年かけて育てた会社、つぶさせてたまるかい」 「まだ死ねんかね。あんたも大変じゃのう」  医師はそう言うと白衣の懐からさび付いたメスを取り出した。 「ちょっと待てなんなんだそのメスは! 錆が浮いとるやん!」 「なんじゃそのくらい、生死がかかっとる時に!」  オモジ医師のメスを持つ手はプルプル震えていた。 「先生、前に手術をしたのは何年前なんですか!」 「あんたが生まれる前じゃわい」  ワシは怪我人らしくない素早い動作で医師の手からメスをたたき落とした。 「とにかく先生、あんたは血液の入った鞄をどこに忘れてきたのか早く思い出してくれ。あの血液がないとワシは助からん」  ワシは昨日、家を出発した時点から今まで起こった出来事を思い出そうとした。  昨日の朝十時、二台のタクシーを使ってワシらは家を出発した。車の免許を持っているのはワシだけだったが、ワシは十年前の事故以来、ハンドルを握ることはなかった。 「家を出発する時は、ちゃんと血液を持っていたんだな?」 「それはまちがいない。私の膝の上にあったからのう」  タクシーで駅に到着すると列車に乗り込んだ。揺れる列車の中で両手に駅弁を抱えたオモジ医師の姿をワシは覚えていた。 「列車の中で先生は両手に駅弁を持っておったな」 「ああ、そうじゃそうじゃ。よう覚えておるのう。あれはうまかった」 「……血液の入った鞄は?」 「ぐはあっ! しまった! 駅のホームに忘れてきちょる!」  このボケ老人! ワシが叫びそうになったとき、後ろから声がかかった。 「それは大丈夫です。先生の荷物はぼくたちが列車に運びこみましたから。血液の入っていた黒い鞄というのもその時はぼくが持っていました」  ツグヲだった。いつのまにか一階にもどってきていたようだ。 「ではツグヲよ、血液はおまえの部屋に運びこまれていたのか?」 「いいえ、ぼくの部屋にはありませんでした」  息子はかぶりをふった。ワシはがっくりと、自分の肩が下がるのを感じた。心なしか次第に体温が下がっているような気がして、手や足の先が冷たくなっているようだった。 「父さん、なんだか顔が真っ青ですよ」 「そりゃあ、これだけ血が出れば青くなるわい。ツグヲ、ワシは煙草が吸いたい。煙草をくれ」 「だめです。煙草なんて体に悪いですよ。長生きできなくなったらどうするんですか」 「……こういう状況でそれを言うか」  列車を降りるとまたタクシーに乗り込み四十分前後山道を移動してこの別荘までやってきた。いや、その前に駅周辺の繁華街でワシらは食料などの買い物をした。これは別荘へ来た時の恒例行事だった。大量の荷物を持ったままでは買い物しづらいのでツグヲとオモジ医師だけが皆の分の荷物を持って先に別荘へ向かったのだ。  身軽になったワシとナガヲ、そしてツマ子の三人が駅周辺の店先を眺め食料を選んだ。ナガヲが汗をかきながら善人面を崩さないで食料の入った袋を運んでいた。確かケーキ屋の前を通り掛かった時、ツマ子がケーキを買おうと言い出した。 「みんなでケーキを買いましょう。あ、それから包丁も買った方がいいかしら。たしかあの別荘、包丁が一本もなかったから」  その時の彼女の左手に黒い鞄がぶら下がっていたのを唐突に思い出した。その鞄こそオモジ医師の物だったような気がした。 「一つ聞くが、先に別荘へ到着した荷物の中に血液の入った黒い鞄はなかったのか?」 「たぶんなかったと思いますけど……」  ツグヲが自信なさげに答えた。 「ツグヲさんとオモジ先生がタクシーで行ってしまった後、道路上に黒い鞄がぽつんと残されていたの」ツマ子の声が背後から聞こえた。振り返ると二階から下りてきた彼女が椅子の後ろに立っていた。「その鞄、先生のものだと知っていましたから、買い物をする間、わたしが持ち運んでいたのよ」  ワシは医師をにらみ拳を振り上げた。 「どうしてあんたはそんな大切なもんを道路上に忘れるんだ!」 「ああ、その拳はなんじゃ、あんた、この無力な老人に暴力を振るうつもりか! この老い先短い老人に!」  ワシの方が先がないんじゃ! 「そうですよあなた。暴力はいけません。このじじいはもうすっかりボケていらっしゃるのだから奇妙な言動くらい許してあげなさい」  お前こそ血も涙もないんか! 「とにかく鞄はツマ子が持ち歩いていたのだな。お前の部屋に血液の入った鞄はあったのか?」  彼女は首を横に振った。 「この別荘に着いてからどこかに置いたのは確かなんですけど……」  やはり見つからなかったか。ワシの視界はよりぼやけはじめてなんとなく眠くなってきた。これはやばい兆候だと自覚できた。傷口からはまるで砂時計の砂のように血が流れ続けていた。ワシの残り時間が刻々と少なくなっているのが目に見えた。 「でも別荘に鞄があるということは確実ですよね」 「ツグヲくんの言う通りじゃ」 「しかしこの別荘のどこにあると言うんだね」  みんなが腕組みして黙り込んだとき、リビングの入り口の方から善人面のナガヲの声が聞こえた。 「昨日の夜、おれは例の鞄を見ましたよ」  その声にみんなが一斉に振り返った。 「何、本当か!」 「ええ、確かに見ました。このリビングの入り口近くに転がっていました」 「それではナガヲ、おまえは血液を見つけることができたのか?」 「いえ、見つかりません。でも、昨夜、おれが皆の前でカモノハシのモノマネをやった時は確かにそこへ転がっていたのです」  ナガヲの言葉を聞いて昨夜の食事のことを思い出した。ツマ子の作った食事を食べながら、妻と二人の息子たちにそれぞれ芸をやらせたのだった。ナガヲのカモノハシのモノマネは中でもとびきり最悪だった。 「そういえば兄さん、昨夜は父さんに酷《ひど》くばかにされたね」 「だいたいカモノハシという哺乳類だか鳥類だかわからないものを真似するというところが馬鹿なんだわ、血のつながらない息子ながらできの悪い人」  ツグヲとツマ子がそれぞれ口にした。 「うるさいうるさい、カモノハシは悪くない! 馬鹿にするな! カモノハシはオーストラリアに住む原始的な哺乳動物で、みじかい足にみずかきがあるんだぞ! ツマ子こそ今更『だんご3兄弟』の熱唱はないだろう。親父、あれで不機嫌になったんだぞ。あれさえなければ、おれの十八番《おはこ》がうけていたはずなのに。親父がダンゴを嫌いなの知らなかったのかよ」 「知らなかったわよ! 十年前、前の奥さんがダンゴを喉につまらせて死んだなんてこと想像もできなかったもの。交通事故で死んだものとばかり思い込んでいたんだから!」  ワシは口論を聞き流して目を閉じると昨夜のことを思い出そうとした。まるで走馬灯のように昨日のことが次々と瞼の裏側に映し出された。  昨夜、食事をしながら三人の芸を見ていた。順番は、ツマ子、ナガヲ、ツグヲの順だった。ナガヲの芸が終わった時点でワシの不機嫌は最高潮に達していたがツグヲのトランプマジックはなかなかだった。この臆病で何もできない次男坊は、何もできないくせに手品は上手だった。部屋の本棚にはミステリ小説などが多く並んでいた。  かつて彼が星を見ながらぼんやりしている場面に遭遇したことがある。 「ツグヲよ、何を考えているのだね」 「人を殺すトリックを考えているんです」  彼は目をきらきらさせながら言った。しかしワシは吹き出して笑った。 「臆病なお前がそんなもん考え付くかいな。そもそもトリックなんぞ考えてどうする? 小説にするのか? 人を殺すのか? 臆病なお前にはそのどちらもできまい。だから大学を優秀な成績で出ても犬の散歩で一日を潰《つぶ》すという生活しか送れんのだよ」  ツグヲは頭をかきながらにこにこと話を聞いていた。ワシが辛辣《しんらつ》なことを言っても彼はいつも笑うだけの情けない男だった。  昨晩、彼のトランプマジックが終わったときいつのまにか十時になっていた。オモジ医師が宇多田ヒカルの歌を熱唱したいと言い出してそれを止《や》めさせ、ワシは一足先に眠ることにした。ワシは旅行中でも、夜十時に就寝して朝五時に起床という規則正しい生活を送るよう心掛けていた。  寝る前に自分の部屋でオモジ医師の診察を受けて怪我していないことをチェックした。ワシはベッドで横になり窓の外を見ていた。部屋はほぼ正方形の小さなものでベッドは入り口と反対側の壁に設置されていた。ベッドの真横に窓がありそこから星の輝く空が見えていた。立て付けが悪く数センチしか開かないこの窓のおかげで換気は最悪だったが、誰に頼んでも部屋を替わってくれないため別荘に来るといつも同じ部屋を使うことになった。  部屋の扉は開け放たれておりリビングで歓談する妻と二人の息子の声がよく聞こえてきた。ケーキを食べるから運んできてくれというような会話がされていた。  皮膚の感覚がないため体を検査するオモジ医師の手つきはほとんどわからなかった。もしかして検査などせずに眠っているのではないかと心配になった。彼の貧乏ゆすりをするような音がベッドの下から聞こえたのでまさか眠っているということはないだろうと思ったが、振り返るとこのボケ老人はやはりベッド脇の椅子に腰掛けてうつらうつらとしていた。  開け放たれている扉からリビングのテーブルが見えた。丸いケーキを包丁で分けているツマ子の姿がワシの目に映った。 「医者のじいさん、みんながケーキを食べ始めているようだよ」  ワシがそう呟くとオモジ医師はおもむろに椅子から立ち上がり「上に載っているチョコレートの板はワシのもんじゃ!」と叫んで部屋から出て行った。  ワシはやれやれと思いながらベッドから立って入り口に近づきケーキを囲む四人を少し眺めた。ツマ子が包丁を使って器用にそれぞれの皿へ運んでいた。  扉を閉めて鍵を下ろすとワシは室内で一人になった。ワシは電気を消しあくびをひとつすると、ベッドで横になって眠ってしまった。 「たしか親父が部屋へ戻った後、おれたちはケーキを食べたんだよな。血液の入った鞄は、その時はもうリビングの入り口になかったような気がする」  ナガヲの声を聞き、ワシは目を開けて走馬灯のような昨日の思い出から現実の世界へと再び戻ってきた。目の前にはテーブルについた四人がおり、ワシの体からは相変わらず血液が流れ続けていた。体をねじって脇腹を見るとやはりまだ包丁が刺さったままだった。カモノハシの物真似に関する口論はいつのまにか終わっていたらしく、リビングは静かになっていた。 「ナガヲの言葉を信じるなら、ワシが部屋へ引っ込んだ十時までには鞄が消えたことになるんだな」 「その後、たしか十二時にはみんな自分の部屋へ戻ったわね。……あれ?」ツマ子が不思議そうな顔をした。「そういえばこの別荘には包丁が一本しかないんだったわよね……」  だからどうしたんだ? 彼女の言葉を理解できないでいると、ツグヲが「あ、そうか!」と叫んだ。 「ということは、父さんの脇腹に刺さっている包丁って……」 「うむ、これを見てみい。包丁の刃の根元部分に生クリームがついておる」  オモジ医師がテーブル上に血のついた包丁を取り出した。確かにケーキを切り分けた跡が包丁に見られた。 「って、待たんかい! この包丁、いつのまにワシの脇腹から抜いたんだ!」  脇腹を手で探るがいつの間にか包丁の感触はなかった。 「ふっふっふ、隙が多いんじゃよ。私がこっそり包丁を引き抜いても気付かんとはな」 「あんた本当に医者か!?」  ナガヲが腕組みをして善良な主婦をひっかけるセールスマンのような顔を困惑気味にした。 「ううむ、それにしてもケーキを切り分けたのは親父が部屋へ引き上げた後ですよね」  ワシは頷いた。部屋の扉を閉めるとき、切り分けたケーキを包丁で皿に盛るツマ子の姿を覚えていた。 「その後、すぐ鍵をかけたわけですよね。では、その包丁はどうやって生クリームをくっつけて部屋へ侵入したのだろう? あの世の親父も不思議に思っているだろうな……」と、ナガヲ。  ワシはまだ死んどらんがな……。  血が流れ出すぎたせいで頭がくらくらとしてきた。ワシはもう一度、妻と二人の息子に血液の入った鞄がどこかに落ちていないかを調べ上げるよう命じた。もはや舌がよく回らなくなってきたので彼らにかける言葉は思いのほかもつれた。  ナガヲ、ツグヲ、ツマ子が物をひっくり返して血液を探している中、ワシはなんと不愉快な格好で死んでゆくのだろうかと思い始めていた。どいつもこいつも馬鹿だらけだ。ワシの会社をつぶさないだけの度胸と頭の良さを持った後釜がいれば実に愉快に死ねるのだが……。  ワシはオモジ医師の手を借りてリビングの端にあるソファーへ寝かせてもらった。もはや一人で歩く力はなく足が小刻みに震えていた。 「ああ、そういえば!」キッチンで鞄を探していたツマ子が声をあげてソファーにいるワシに近寄ってきた。ナガヲとツグヲも声を聞いてリビングに集まった。「わたしがケーキを運んでいる時、リビングの入り口あたりで何かをふみつぶしたような気がするの。まさか、あれが血液の入った鞄だったのではないかしら……」 「なにぃ、それで、その後どうしたぁ……!」  全身に力が入らないためワシの叫び声はへなへなとしたものになった。 「むかついたからおもいっきり蹴っちゃった」 「ワシの血液がぁ〜……」 「でも、その鞄、今はどこにあるのでしょうか?」  ツグヲが首をかしげた。妻と二人の息子、そして医師の部屋にもないとしたらどこにあるのだろうか。  もうワシは死ぬのだなあと思った。そうなると憎たらしかった妻や息子さえも愛しく感じられた。最後にそれぞれの顔をよく見ておこうとワシは彼らを見つめた。  しかしそれを邪魔するかのように、耄碌《もうろく》しかけた医者が椅子を運んできてワシの目の前に座った。なおかつスポーツ新聞を広げて読み始めた。ワシの視界いっぱいに、昨日行なわれた大相撲の写真が大きく突き出された。死ぬ直前に力士のぶつかりあう写真だなんて、と思った。しかしワシはあることに気づいた。 「おや、オモジ先生、貧乏ゆすりなんてしないんだな」  新聞の下から覗き見える彼の足は落ち着いて床に接地していた。彼は、それがどうかしたかねという声で、「ここ最近、貧乏ゆすり機能をOFFに設定しておるんじゃ」と言いながら新聞を捲《めく》った。  ワシはある可能性を思いつき頭の中にある想像上の豆電球がぴかっと輝いた。 「ツグヲ、ワシの部屋を探してきなさい」  ワシの声は弱々しいものだった。オモジ医師を脇にどけてツグヲがワシの前に出てきた。 「ええ、いやですよ、そんな、怖い。だって血だらけなんだもん、あの部屋」 「ではナガヲ、ワシの部屋の、特にベッドの下を探してくるのだ」  長男は命令に従って部屋に入っていった。ソファーの上から開け放たれたワシの部屋の扉がよく見えた。ベッドの下を探る彼の背中も見えていた。やがて彼が「あった!」と声を出した。リビングに戻ってきた彼の手には、黒い鞄が抱えられていた。  間に合った……。ワシは胸をなでおろした。意識は半分、消えかけていたが、どうやら命をこの世につなぎとめておくことができそうだった。 「でも、どうしてそんなところに……?」  ツマ子が首を傾《かし》げた。 「お前が鞄を蹴ったとき、たぶんワシはベッドの上でオモジ医師に検査されていたんだよ。蹴られた鞄は開け放しておいた扉からワシの部屋へ飛び込んだのだ。ほら、入り口の反対側にベッドがあるだろう。偶然、ベッドの下へ潜《もぐ》り込んだというわけだ」  検査を受けながらワシはベッドの下の方から何か物音がするのを聞いた。それはオモジ医師の貧乏ゆすりだと思っていたが、おそらく鞄の滑り込んできた音だったのだろう。  ナガヲとツマ子は残念そうな顔で鞄を見つめた。ワシはざまあみろという思いでオモジ医師が腕に点滴の針を刺してくれるのを待った。 「オモジ先生、早くしてください。ワシはもう限界だぁ」 「それはできん」鞄の口を開けて中を覗き込んでいた医者はそう言うと残念そうな顔をした。「この鞄、中がからっぽじゃ」 [#ここから6字下げ] 5 [#ここで字下げ終わり] 「中身を入れ忘れたなこのボケじじぃぃぃ……」  半分あの世の淵に踏み込んでいたワシの意識が最後の叫びをあげさせた。しかしそれはまるでなよっとした女の子が眠たげに言ったような声だった。ワシは自分がもう死の入り口の直前まで来ていることを自覚してショックを受けた。すでにワシの生命は最終段階にさしかかっているらしかった。  全身がしびれるような脱力感に包まれた。もはやワシが生き残る方法はなさそうだった。ただ目を閉じて二度と浮かんでこられないほど深い眠りの海へ沈んでゆくだけだった。  かすみはじめる視界の中で、手を左右に振るオモジ医師の姿が見えた。目の前にいるはずの彼が、まるで遠いところにいるようにも見えた。 「ちがうちがう、ちゃんと入れたがな、いや、ほんとに。たぶん、だれかがあらかじめ中身を抜いてしまっていたんじゃよ。あんたに輸血させず確実に殺すためにな」 「本当に中身、入れておいたんだなぁ……」 「ほんとほんと、そこまでボケとらんがな。老人用の紙おむつははめとるけど、そこまでボケとらんがな。O型の血液とか、点滴のチューブとか、ちゃんと入れたがな」 「え、おむつしてるんですか?」とツグヲが驚いたように声をあげた。 「あ、冗談。冗談ですぞ」とオモジ医師はからからと笑った。  笑っとる場合か! ワシは一瞬かっとなったが、チューブという言葉を聞いて何かが心に引っかかった。白みがかった頭の中で、再び豆電球が明るく輝いた。  しかし信じられなかった。思い付いたことをぼんやり考えたが、まさかそのようなことはありえないと思った。  死を間近にしてワシの心はひとつの疑問で満たされていた。はたしてそれは本当に実行されたのだろうか? という疑問だった。 「親父に多額の保険をかけておいてよかったよ」  ナガヲがほっとしたように言った。愚痴を言い返す気力はすでに傷口から流れ出てしまっていた。声を出すのが億劫でたまらなかった。しかし目は開けており長男を睨《にら》みつけることはできた。 「あなた、ちゃんと遺言とか残しているのでしょうね」  ワシは残った力を込めてなんとかうなずいた。実を言うとすでに何年も前から弁護士に遺産の分配について頼んであった。遺産は妻と息子たちにほとんど同じ割合だけ分けられるはずだった。  強烈な睡魔にも似たゆるやかな死がワシの瞼を重くしはじめた。とうとうやってきたか、と思った。死の瞬間を察知したのか四人がソファーのまわりに集まってきてワシを見下ろしていた。ナガヲとツマ子は期待のこもった目をしていた。オモジ医師は複雑な表情だったが、ツグヲは一人だけ離れた場所からワシに向かってウインクした。彼は笑みを浮かべていた。それを見たとき、ワシの中にあった疑問は晴れた。  ツグヲがどのような考えで犯行に及んだのか正直わからなかった。あいつは子供の頃、ぎこちない手つきでワシにトランプの手品を見せてくれた。それに感動してワシがあいつを誉めるとこの上ないくらい嬉しそうな顔をした。これはその延長かもしれなかった。  少なくともワシはあいつに親を殺すほどの度胸があることを知って安心した。昔から弱虫で臆病なやつだと思っておったがこの調子なら会社もしばらくは安泰《あんたい》だろうと思った。  旅行へ行く前から計画していたのだろう。別荘へ来る途中、ツグヲは隙を見てオモジ医師の鞄の中身を抜き取ったのだ。おそらく列車に乗った時だろう。  次の日の早朝、ワシは朝の五時に目覚める。ワシの家族ならばだれでも知っていることだ。しかしその時間よりも以前にツグヲは殺人の準備を行なった。盗んだ血液と点滴のチューブを携《たずさ》え外へ出た。そしてワシの部屋の側へ行き窓を少しだけ開けると窓の隙間にチューブを差し込みO型の血液を眠っているワシの上に振りまいた。窓の鍵が壊れていることや数センチしか開かないことなどはワシが日ごろから愚痴っていたことだからだれもが知っていたことである。  その後ツグヲは空になった血液のパックとチューブを処理してリビングで目覚時計が鳴るのを待った。彼がなぜ生クリームのついた包丁を使ったのか、そしてツマ子がそれを買おうと言い出さなければどうするつもりだったのか、正確なところはわからない。ともかく五時になってワシは目覚めた。  窓から差し込む光で全身が血まみれであることにワシは気付いた。ツグヲはいち早く悲鳴を聞き付けたかのように振る舞い扉を叩いてワシに鍵を開けさせた。部屋に入ってきたツグヲはワシの体を調べるふりをして後ろから包丁を突き刺した。痛みを感じないワシは、あろうことかそれに気付かなかったのだ。  ソファーに横たわるワシを四人の人間が見下ろしていた。彼らの頭上にある蛍光灯がやけに明るく感じられた。ワシは口元に笑みを作り、みんなよりも一歩だけ離れた場所に立っているツグヲヘ「ワシは気づいたぞ」というサインを送った。 「まあ、この人、なんで笑っているのかしら?」  不思議そうなツマ子の声が聞こえてきた。ワシは安心に包まれながら瞼を下ろした。 [#改丁]  陽だまりの詩《シ》 [#改丁] [#ここから6字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  私は目を開けた。台の上に寝ていた。上半身を起こして辺りを見ると物の散らかった広い部屋だった。椅子に座った男がいた。彼は少し離れたところで考え事をするように黙りこんでいたが私を見ると笑みを浮かべた。 「おはよう……」  彼は椅子に座ったまま言った。上下ともに白色の服を身に着けていた。 「あなたはだれですか?」  私がたずねると彼は立ちあがり部屋の壁際にあるロッカーから服と靴を取り出した。 「きみを作った人間だ」  彼はそう言いながら近づいてきた。天井の白い照明が私と彼を照らした。彼の顔を間近で見た。色素の薄い肌だった。髪の毛は黒である。彼は私の膝の上に服を置いてそれを着るようにと言った。彼が着ているのと同じ白い上下だった。私は何も身に着けていなかった。 「誕生おめでとう」  彼は言った。部屋の中には工具や材料が散らかっていた。彼の足元に分厚い本が落ちている。私はそれを設計図だと認識した。  服を着て彼の後ろについて歩いた。扉やシャッターがいくつも並んだ長い廊下を抜けると上《のぼ》りの階段があった。そこを上がりきったところに扉があり彼が開けると強い光が視界を白くした。太陽の光だった。目覚めた部屋が地下にあったことを私は知った。太陽光線にはじめてさらされわずかに体表面の温度が上昇した。  扉を出ると辺りは草が一面に生えた丘だった。見晴らしがよくなだらかな緑色の斜面が広がっていた。地下へ下りる扉は丘の頂上あたりにあった。私の背丈ほどしかないコンクリート製の直方体に扉がついているだけの代物だった。上部に屋根らしいものはなくコンクリートの平らな面があるだけだったが、そこにも草が生い茂って鳥が巣を作っていた。私の見ている前で空から降りてきた小さな鳥が巣に着地した。  私は地形を把握しようと周囲に目を向けた。丘を囲むように山があった。丘はおそらく直径一キロメートルの球体の上部三分の一をカットしたものと同じ形状と大きさをしていた。山はいずれも樹木に覆われておりこの丘のように草原の広がっている所は他に見当たらなかった。周囲の地形との違和感からこの丘が人工物であることを推測した。 「あの森の中にあるのが家だ」  彼が丘の下のほうを指差して言った。その方向を見下ろすと緑色の丘を下りきったところから山の頂上に向かって唐突に木々が生い茂っていた。茂みの間から尖《とが》った屋根の先端が見えた。 「きみはあの家で僕の世話をすることになる」  私たちはその家へ向かった。  森に近い場所に十字に組まれた白い木の柱が立っていた。十字架と呼ばれるものだとすぐに判断した。丘の地面はほとんど凹凸がなかったがその辺りだけ盛り上がっていた。 「墓だ……」  彼は少しの間、白い十字架を見つめていたが、やがて私を促して再び歩き出した。  家は近くで見ると大きくて古かった。屋根や壁から植物が生えていた。緑色の小さな葉が煉瓦の表面を覆い半ば森と同化していた。家の正面は広い空間になっていた。畑や井戸があり錆びついたトラックが放置されていた。  扉は木製で白いペンキが剥《は》げかかっていた。彼の背中に続いて中に入った。歩くと床板が軋《きし》んだ。  家には一階と二階、そして屋根裏部屋があった。私は一階の台所の隣にある部屋を与えられた。ベッドと窓があるだけの狭い部屋だった。  彼が台所で手招きしていた。 「まずコーヒーを入れてもらいたいんだが……」 「コーヒーは知っていますが作り方がわかりません」 「そうだったね」  彼は棚からコーヒー豆を取り出した。湯を沸かして私の目の前で湯気のたつ二杯のコーヒーを作り上げた。そのうちの一つを私に差し出した。 「作り方は覚えました。次からは私が作ります」  私はそう言いながらカップの中の黒い液体を口に運んだ。唇がカップの縁に触れ高熱の液体が口の中に流れこんだ。 「……私はこの味がきらいです」  そう報告すると彼は頷いた。 「確かそういう設定だった。砂糖を入れるといい」  甘味を増やしたコーヒーを私は飲んだ。目覚めてはじめて体内に流しこむ栄養だった。私のお腹に組みこまれているものは正常に吸収を行なった。  彼はカップをテーブルに置き疲れたように椅子へ座った。台所の窓に金属製の飾りが下がっていた。長さの違う棒状の金属が風に揺れて互いにぶつかり様々な音を出した。音は規則的ではなかった。彼は目を閉じてその音に耳を傾けた。  壁に小さな鏡がかけられていた。私はその正面に立ち自分の顔を見た。私はあらかじめ人間がどのような姿をしているのかを知っていた。そのため鏡に映った自分の姿が人間の女性の顔を忠実に再現したものであることを認識できた。皮膚は白く裏側にある青色の細い血管を薄く透かしていた。しかしそれは皮膚の裏側にそう印刷されているだけである。肌の産毛も植毛されたもので皮膚の細かな凹凸や赤みの存在も装飾である。体温やその他のものをすべて人間に似せてあった。  食器棚の中に古い写真があるのを見つけた。この家を背景に二人の人物が写っている。彼と、白髪頭の男性である。彼を振りかえって、私は質問した。 「あなた以外の人たちはどこにいるのですか?」  彼は椅子に座っており背中しか見えなかった。彼は私を振りかえらずに答えた。 「どこにもいない」 「どこにもいないというのはどういう意味でしょうか?」  彼は、ほとんどの人間がすでに息絶えていることを話した。突然病原菌が空を覆いそれに感染した人間は例外なく二ヶ月で命を失ったという。彼は感染する前に伯父とこの別荘へ引っ越してきたそうだ。しかし伯父はすぐに死んで、それ以来、一人きりで生活していたという。彼の伯父という存在も病原菌で死に、死体は彼がさきほどの丘に埋めたそうだ。白い十字架の墓が伯父のものなのだろう。 「一昨日《おととい》、検査をしたら、僕も感染していることが判明した」 「あなたも死ぬのですね」  背中の上に見えていた彼の後頭部が上下した。 「でも僕は運がいいほうだ。何十年も病原菌とは無縁だった」  年をたずねると彼はもう五十歳に近いという。 「そうは見えません。私の知識に照らし合わせるとあなたは二十歳前後の年齢に見えます」 「そういう処理を施しているんだ」  人間は手術をすることで百二十年は生きられるそうだ。 「病原菌には勝てなかったがね」  台所に設置されている様々なものを確認する。冷蔵庫内には野菜や調味料、解凍すれば食べられる食品などが入っていた。電熱器の上には使ったまま洗っていないフライパンが載っていた。スイッチを入れると電熱器のコイルがゆっくりと熱を発し始めた。 「私に名前をつけてください」  彼に提案した。テーブルに肘をついて彼はしばらく窓の外を見つめていた。庭の地面を覆っている芝生の上を蝶が飛んでいた。 「必要ないだろう」  外の風が窓から入ってくる。下がっている金属製の飾りが揺れて高音を発する。 「僕が死んだら丘に埋葬してほしい。あの十字架の隣に穴を掘って僕に土をかぶせてほしい。きみを作ったのはそのためなんだ」  彼は私の顔を見つめた。 「わかりました。私が作られたのは、この家の家事をするためと、そしてあなたを埋葬するためですね」  彼は頷いた。 「それがきみの存在理由だ」  私はまず家の掃除からはじめた。箒《ほうき》で床を掃き窓を布で拭いた。彼はその間、窓辺の椅子に腰掛けて外を眺めていた。  私が家の中の埃《ほこり》を窓から追い出しているときのことだった。窓のすぐ下に鳥が横たわっているのを見つけた。物音に反応しなかったため死んでいるのだろうと推測した。家の外に出て私は片手で鳥の体をつかみ上げた。手のひらの感知した冷たさが推測の通り鳥が死んでいることを裏付けた。  いつの間にか窓辺に彼が立っていた。家の中から私の手にある鳥の屍骸《しがい》を見つめていた。 「どう処理する?」  彼が質問した。私は森の中に鳥の屍骸を投げた。私の筋肉は成人女性のものと変わらなかったが遠くまで飛ばすことができた。鳥の屍骸は木々の枝に引っかかり葉を散らせながら森の奥へ消えた。 「その意図は?」  彼は首を傾げた。 「分解して肥料になるからです」  私の答えを聞くと、一度、大きく彼は頷いた。 「僕を正しく埋葬するために、きみには『死』を学んでほしい」  彼の話では、私はうまく『死』を理解していないそうだ。私は困惑した。 [#ここから6字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  私と彼の生活がはじまった。  朝、私は目覚めると、台所にあった桶を持って井戸へ水を汲みに行った。食事や洗濯のための水はすべて井戸水だった。私と彼の住む家は地下に小型の発電設備があり電気だけが豊富にあった。しかし水をポンプで汲み上げるような設備はなかった。  井戸は庭の片隅にあり家の勝手口からそこまで石の敷き詰められた道があったがその道は曲がりくねっていた。私は毎朝、道を無視して井戸までの最短距離を真っ直ぐ進んだ。井戸の周囲には小さな草花が咲いていた。最短距離を歩くと咲いている花を踏むことになった。  井戸に備え付けられた縄つきの桶を投げ込むと深い底の方で着水する音がした。最初に水を汲み上げたとき、水とはこんなに重いものなのかと思った。  水を汲むついでにいつも私は歯磨きをした。目覚めた後の口の中は不快な粘膜に覆われていた。睡眠中、唾液の分泌量が抑えられるためだ。それを歯ブラシで解消した。  歯ブラシのような消耗品や食事の材料は地下の倉庫にあった。私が生まれたあの部屋の隣だった。廊下にあるシャッターを引き上げると巨大な空間があり何十年分という食料が積み上げられていた。水汲みを終えた後、そこから適当なものを運んできて庭でとれた野菜とともに電熱器とフライパンで調理をした。食事のとき必ずいつもコーヒーを入れた。私が料理をしている間に彼は二階の自室からおりてきてテーブルについた。 「昔の写真や記録映像などは残っていないのですか?」  二人で朝食を食べているとき私は尋ねた。食後、片づけが終わった私のところに彼が何枚かの写真を持ってきた。古い写真らしく色|褪《あ》せていた。大勢の人間が生活する町の光景が撮影されていた。高いビルの間を車や人々が行き交っていた。  ある写真の中に彼を見つけた。背後に何かの施設が写っていた。これはどこなのかと聞くと、前に働いていたところだと説明された。  また別の写真の中に女性の姿があった。私と同じ顔、髪型だった。 「きみはよく普及していたんだ」  彼は言った。  家は山と丘の境目あたりにあり、丘とは反対側の方向に山の麓へ延びる道があった。道にだれかの使っている気配はなく雑草が茂っていた。家の前までくると途切れるためこの家が行き止まりなのだとわかった。 「この道を麓へ下りて行くと何がありますか?」  ある日の朝食のとき彼に質問した。 「廃墟だ」  彼はカップを傾けながら返事をした。庭の木々の間から麓がよく見渡せた。彼の言う通り町だったものがあった。今はもうだれも住んでいないらしく壊れた建物とそれを覆う植物が見えた。  また別の朝食のとき、彼がサラダの野菜をフォークに突き刺して私に見せた。野菜の葉に何かがかじった小さな歯形がついていた。その野菜は庭の畑からとってきたものだった。 「兎《うさぎ》が出るんだ」  彼は言った。私と彼は衛生面を気にせず兎のかじった部分でも食べた。しかしできることなら兎の歯形がない葉のほうが良かった。  朝食がすむと私は考えながら家のまわりを歩いた。彼の生命活動が停止するさまを思い浮かべた。私もやがて同じように動きを止める。私のような存在には、活動時間があらかじめ設定されていた。動きを止めるのはまだ先のことではあった。しかし私は自分の活動できる残り時間を秒単位でカウントすることができた。私は手首を耳に当てた。小さなモーターの音を聞いた。これが止まるのだと思った。  丘にある地下へのドアを潜《くぐ》り倉庫の中にスコップがあることを確認していた。彼は丘に埋葬されることを望んでいる。私はスコップで穴を掘る練習をした。  あいかわらず死ぬということがどんなものなのかぴんとこなかった。だからだろうか。穴をいくつ掘っても、「だからなに?」という気がした。  家にある窓のそばにはひとつずつ椅子が置かれてあり、昼の間、彼はいつもそのうちのどれかに腰掛けていた。ほとんどは木製の一人がけの椅子だったが井戸が見える窓辺には長椅子が置かれていた。  何かしてほしいことはないかと私が近寄ると少し微笑《ほほえ》んで何もないと返事をした。ときどきコーヒーを入れて彼に持っていくとありがとうと礼を言われた。そしてまた窓の外に視線を向けて彼はまぶしそうな顔をした。  家の中を探してもどこにもいないときが何度かあった。彼の姿を求めて歩いていると丘に広がる緑色の草原の中に十字架の白と彼の着ている服の白が並んでいるのを見つけた。  私にも墓についての知識はあった。遺体の埋まっている場所である。しかし、彼がその場所へ執着する理由がわからなかった。おそらくすでに彼の伯父は地下で分解され周囲の草へ養分として取りこまれているはずだからだ。  庭の畑にある緑色の野菜は私が作られてこの家にくる前からすでにあった。彼が栽培していたのだろう。その管理は私に引き継がれた。  時折、兎が現れて野菜をかじった。森にある他の植物を食べればいいのになぜか庭の野菜ばかりを狙って歯形をつけた。  何もしなくていい時間、私は体を叢《くさむら》に潜《ひそ》めて見張った。白い小さな体が畑の野菜の間で見え隠れすると私は飛び出して捕まえようと追いかけた。しかし成人女性と同じだけの機能しか私には与えられておらず兎に追いつくのは無理だった。兎はまるで私をあざ笑うように畑の中を駆け抜けて森の茂みへ消えた。  私は兎を追いかける最中、たいてい、何かに躓《つまず》いて転んだ。窓の内側から忍び笑いをする声が聞こえて振りかえると彼が私を見て笑っていた。私は立ちあがり白い服についた泥を叩《はた》き落とした。 「生活しているうちに人間らしくなってきた」  家に戻っても彼はまだ笑っていた。私にはよくわからなかった。しかし笑われたことでむずむずした。胸の奥がかゆいと思った。体温が上昇してどう振る舞えばいいのかわからずひとまず頭を掻いた。なるほど、どうやらこれが「恥ずかしい」という感情なのだなと思った。「くすぐったい」に似ていた。そしていつまでも笑っている彼が少し憎らしかった。  昼食のとき彼がテーブルの表面を二回ほどノックして私の注意を引いた。スープを口に運んでいた私が視線を上げると彼がフォークでサラダの野菜を突き刺してぶら下げていた。兎の歯の跡がいろいろなところにある葉だった。 「僕のサラダやスープに入っている野菜は、全部、兎のかじった跡があるのに、きみの食べているものはなぜそうじゃないのだろう」 「偶然でしょう。これは確率の問題です」  私はそれだけ言って、兎の歯形がついていない自分のサラダを食べた。  二階には空き部屋があった。本棚や机、花瓶などのない殺風景な部屋だった。ただ一つだけ室内に存在するものといったら、床の中央にあるプラスチック製のおもちゃのブロックだった。子供が組み立てて遊ぶような小さなブロックだった。私は子供を実際に見たことはないが知識は持っていた。  はじめてこの部屋を入り口に立って眺めたとき窓から西日が差し込んでいた。そのため部屋中が赤色に染まっていたがそのブロックはもっと深い赤色をしていた。  ブロックは帆船の形に組みあがっていた。一抱えもある大きさだった。しかし船の先端が崩れて細かく分解して散らばっていた。 「僕が躓いて壊してしまったんだ」  私のすぐ後ろにいつのまにか彼が立っていた。私は許可をもらいブロックで遊んでいいことになった。帆船を一度、すべて分解してばらばらなブロックの山にした。それから私は何かを作ろうと思った。しかしできなかった。細かなブロックを手に持ったまま動けなくなった。頭の中が急に鈍くなった気がした。 「きみたちには、作るのは難しいかもしれない……」  彼によると、私は、設計図のあるものやあらかじめ手順の決まっているものしか作ることができないそうだ。例えば、音楽や絵などは生み出せないという。だからばらばらのブロックを前にして私は何もできなかった。  私がブロックで遊ぶのを諦めると彼がかわりにブロックの山の前へ座った。彼は次々とブロックを積み重ねていった。  陽が落ちた。辺りが暗くなると庭に設置された照明が自然に点灯した。白い照明が庭のそこかしこを照らし出すと窓の外からその明かりが部屋の中へ入ってきた。  私は部屋の電気をつけた。彼が作っていたのは帆船だった。再び完成した一抱えもある赤い船を彼は様々な角度から眺めていた。彼のように私もブロックで遊べたらいいのにと思った。  井戸の周囲を照らす照明のそばにいつも蛾が飛んでいた。私たちは夜の歯磨きを井戸のそばで立ったまま行なった。歯を磨いていると蛾の影がちらちらと地面を横切った。口をすすいだ水は排水溝へ吐き捨てた。排水溝は森の茂みの下を通って山の麓の川へつながっているそうだった。  その後それぞれが寝室へ引き上げるまでの時間、家のリビングにあるレコードで音楽を聴いた。お互いに眠るのは夜おそくなってからだった。静かな音楽の流れる中で私たちはチェスをした。勝敗はほとんど五分五分だった。私の頭には通常の人間と同じだけの機能しか与えられていないのだ。  虫が入ってくるので窓は網戸にしていた。夜の風が家に入ると台所の窓に下がっている金属製の飾りが揺れて音を鳴らした。澄んだ美しい音色だった。 「あの窓の飾りが出す音は、風の作り出した音楽なのですね。私は好きです、あの音」  彼が次の手を考えているとき私はそう口にした。彼は私の言葉を聞いて目を細めて頷いた。  はっとした。最初にこの家へきたとき、私はあの音を聞いて、規則性のないただの高い音だと思った。それがいつのまに、それだけではないのだということを知ったのだろう。この家で暮らし始めて、すでにひと月が経過していた。その間、気づかないうちに心の中が変化していた。  その夜、彼が寝室へ引き上げた後、私は一人で外を歩いた。白い照明が庭に点々とついていた。金属製の柱の上に丸い電灯が載っており、虫が光に近づこうとしてガラスの覆いにはね返されていた。夜の暗闇は濃かったが照明の足元に立つと白い光が私の上に降り注いだ。そこに立ったまま自分の変化について考えた。  いつのまにか私は井戸まで歩くとき最短距離を歩かなくなっていた。石の敷き詰められた曲がっている道を、ゆっくり時間をかけて歩き、生えている草花を踏まないよう心がけた。以前なら時間とエネルギーの無駄だと考えた。しかし今では周囲を眺めながら歩くということが楽しかった。  地下で目覚め、はじめて外へ出たとき、白くなった視界と体表面の温度でしか太陽を理解しなかった。しかし今の私が思う太陽はもっと深い意味を持ち、たぶん詩の世界でしか表現できない、心の内側と密接に結びついたものになっていた。  いろいろなことを愛しく思っていた。  壁から植物の生えた家や丘に広がる草原、そこにぽつんとある地下倉庫への扉と、その上の鳥の巣。高くつき抜けた青空や立ちあがる入道雲。苦いコーヒーはきらいだったが、砂糖を多めに入れたコーヒーは好きだった。それを冷まさずに熱いまま舌の上に広げると、甘い味で私は嬉しくなった。  食事を用意し、掃除をする。白い服を洗濯し、穴が開いていたら糸と針で繕《つくろ》う。窓から入りこんだ蝶がレコードの上に降り立ち、風の生み出す音を聞きながら目を閉じる。  私は夜空を見上げた。照明の向こう側に、月があった。風が木を揺らし葉がざわめく。彼を含め私は何もかも好きだった。  木々の間から見える町の廃墟を見た。明かりはひとつもなく、そこには暗闇しかなかった。 「あと一週間で僕は死ぬ」  次の日の朝、起きてきた彼はそう言った。正確な検査で死期がわかっているらしかったが、私はまだ『死』がどういうものかはっきりと理解しておらず、わかりました、とだけ返事をした。 [#ここから6字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  彼の体は弱り階段の上り下りに時間がかかるようになったので、一階の私の部屋のベッドを使うことになった。そのかわり私は夜になると二階の部屋で眠ることになった。  ベッドから立ちあがったり椅子のある窓辺まで歩いたりするのを手伝おうとしたが必要ないといって彼は私を遠ざけた。私は看病らしいことは何もしなかった。彼は痛みを訴えるわけでもなく熱を出すわけでもなかった。彼の説明によると例の病原菌はそういうものではなく苦痛を与えずに『死』を運んでくるのだという。  彼ができるだけ動かなくていいように彼のいる場所で食事をした。彼が長椅子に座っていれば食事の盆を持って私は隣に腰掛けた。彼が一人用の椅子に座っていればそばの床にあぐらを組んで彼の足元でパンを頬張った。  彼は伯父の話をした。伯父といっしょにトラックで廃墟の中を進んだことや、廃墟の町からまだ使えそうなものを運んできたときのことなどの話だった。庭に放置されているトラックは、もう燃料が手に入らず動かすことができないそうだ。 「……きみは人間になりたいと思ったことはあるかい」  話の途中でふいに彼は質問した。私は頷いて、ある、と答えた。 「窓の飾りが揺れる音を聞くと自分が人間だったらいいのにと思います」  風さえも飾りを揺らして音楽を作る。しかし私は何も生み出すことができないのだ。それが残念だった。会話の中で詩のような表現を使ったり嘘をついたりすることはできた。しかし私にできる創造はせいぜいそれだけだ。 「そうか……」  彼は頷いてまた伯父の話に戻った。伯父といっしょに何週間も廃墟の町を探索したときの思い出だった。  彼が深く伯父を愛しているのがわかった。だからその隣に埋葬されることを希望しているのだ。そのために私は作られた。人間の『死』を看取るために。  床にあぐらを組んで食事をしていた私のそばに食べかけのパンが落下して軽い音を立てた。彼が落としたものだった。  彼の右手が小刻みに痙攣《けいれん》していた。彼はそれを左手で止めようとしたが無駄だった。彼は冷静な目で震える自分の手を見つめながら私に聞いた。 「死について、わかったかい?」 「まだです。どんなものですか?」 「怖いものだよ」  私は落ちたパンを拾って盆に載せた。衛生面を考えて食べないことにした。死ぬということがまだよくわからなかった。私は自分もやがて死ぬことを知っている。しかし怖いとは思えなかった。停止することが怖いのだろうか。停止と恐怖との間に何かひとつ抜け落ちているものがあるように感じた。おそらくそれを学ばなければならないのだろう。  私は首を傾げて彼を見つめた。彼の手はまだ震えていたがもはや彼自身気にしていなかった。彼の目は窓の外に向けられていた。私も外を見た。  庭には光が溢れていた。私はまぶしくて目を細めた。家を囲んでいる森とその切れ目から麓の方へ延びている道がある。壊れかけの郵便ポストがあった。錆びたトラックが放置されその隣に野菜の畑がある。畑に並んでいる野菜の上を小さな蝶が舞っていた。  白い小さなものが緑色の葉の陰に見え隠れした。兎だった。私は立ちあがって窓から外に出た。行儀が悪いことは知っていたがもはやこの追いかけっこは兎の姿を見た瞬間、何よりも優先してはじまるようになっていた。  彼の死が五日後に迫ったその日、空は曇りだった。私は森の中を歩きながら山菜を採取していた。食料は倉庫に多く残っていたが栽培した野菜や自然にある植物などを料理したほうがいいと彼は主張していた。  彼の手足は時折、痙攣した。しばらくすると震えは止まるが何度も再発した。そのたびに彼は転んだりコーヒーをこぼして服を汚したりする。それでも冷静に彼は対処した。困惑はなく静かな目で言うことをきかない体を眺めていた。  森の中をしばらく歩くと崖があった。落ちると危ないので近寄らないようにと彼には言われていたが崖のそばには山菜が多く生えていた。それに崖から見える景色が好きだった。  少し離れたあたりから地面が急に消えて空になっている。私は片手に下げた籠へ採取した山菜を入れながら崖の向こう側にある山の連なりを見た。空を覆う雲に半ば山々はかすんで溶けている。ただ巨大な影が灰色の中にあるだけだった。  崖の先端に私は目を留めた。まるで誰かが踏み崩したように、少し崩れた個所があった。  首の上だけを突き出して崖下を覗いてみた。三十メートルほど下に横切っている細い線があり、それは崖下を流れる川だった。そのずっと手前の崖の上から二メートルほど下に岩壁の出っ張った個所があった。テーブルひとつ分ほどの広さを持ち草も生えていた。  そこに白いものがいた。兎だった。足場が崩れて崖から落ちたが途中で引っかかって助かったのだろう。上へ這い登れるような部分もなくどうやら岩棚から動けないらしい。  遠くの空から、富の重い音がした。腕に、一瞬、雨粒の感触がした。  山菜の入った籠を地面に置いた。崖の先端に両手をつき後ろ向きにゆっくりと崖を下りた。靴の裏側で岩壁の凹凸を探りつま先のひっかかる場所を探す。一歩ずつ下りて足先が岩棚の上に着く。  兎のいる場所に立った。冷たい風が吹き私の髪を揺らした。これまで兎には困らされたがその場から動けずにいるのを見ていると助けなければいけないという気がした。  私は兎に手をのばした。一度、身構えるようなしぐさをしたが白い毛皮の動物は静かに私に抱かれた。手の中に小さな温かさを感じた。まるで熱の塊みたいだと思った。  本格的に雨が降り出した。木々の葉がいっせいに、落下する雨滴に打たれて音を出した。次の瞬間、何かの崩れる音を聞いた。震動が私の体を襲った。今下りてきた岩壁が高速で上へせり上がり浮遊感を味わった。乗っている足場が落下していた。さきほどまで私のいた山菜入りの籠を置いた崖の上が一瞬で高く遠く小さくなった。私は兎を強く腕の中に抱きしめた。  着地の瞬間、強い衝撃が全身を貫いた。辺りを砂埃が舞った。しかし雨がすぐにそれを消した。崖下を流れていた川のそばに落下していた。  体の半分が破損していたが致命的な損害はなかった。片足がちぎれかけ腹部から胸にかけて大きな亀裂が入っていた。体内のものがあふれ出ていたがなんとか自力で家まで戻れそうだった。  腕の中に抱いていた兎を見た。白い毛皮に赤いものがついていた。血だとわかった。兎の体が冷たくなっていった。私の腕の間から体温が流れ落ちていくようだった。  家まで兎を両手に抱いたまま帰った。片足とびで歩いたあとには私の体から飛び出したものが点々と残った。強い雨が辺りをすき間なく埋めていた。  家に入り彼の姿を探した。私の滴《したた》らせる水滴が床に広がっていった。私の髪の毛は濡れて皮膚や皮膚のはがれた個所に張りついていた。彼は庭の見える窓辺のそばに腰掛けていた。私の姿を見ると驚いていた。 「直してください……」  私はこうなった理由を説明した。 「わかった、地下倉庫へ行こう」  両腕の中の兎を彼に差し出した。 「この子も治せますか……?」  彼は首を横にふった。その兎はもう死んでいる。そう言った。兎は落下の衝撃に耐えられなかった。私の腕の中で転落死したのだ。  私は野菜の間を元気に憎たらしく駆けまわっていた兎の姿を思い出した。そして目の前で白い毛皮を赤く染め目を糸のように細く閉じたまま動かない兎を見つめた。地下倉庫へ行って検査と手当てをしなければ、そう言う彼の声がやけに遠くから聞こえた。 「あ、……あ、……」  私は口を開けて何かを言おうとした。しかし言葉は出なかった。胸の奥からわけのわからない痛みを感じた。私は痛みとは無縁だがなぜかそれを痛みだと認識した。力が抜けていき私は膝をついた。 「私は……」  涙を流す機能も私にはついていた。 「……この子が、意外と好きだったんです」  彼は、痛ましいものを見る目で私を見ていた。 「それが死だ」  そう言うと、私の頭に手を載せた。私は知った。死とは、喪失感だったのだ。 [#ここから6字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  私と彼は地下倉庫まで歩いた。雨が強く視界はほとんどなかった。私は腕の中に兎を抱いたまま片足で進んだ。家を出るとき兎は残していきなさいと彼は言ったが放すことができなかった。結局、私が地下の作業台で応急処置を受けている間、兎はそばの机に寝かせていた。  作業台に寝ると天井の照明が正面にあった。この部屋でひと月と数週間前、私は同じ状態で横になっていたのだ。そして目を開けると彼がおはようと口にした。最初の記憶だった。  白い光の中で彼が私の体内を検査した。彼は時折、疲れたように椅子で休んだ。休憩をとらなければ立っていることもままならないのだろう。  私は寝かされたまま首を横に向け机の兎を見つめた。彼も近いうちあの兎のように動かなくなるのだ。いや、彼だけではない。鳥にも、私にも、やがて『死』は訪れる。これまでそのことは知識として頭の中にあった。しかし今のように恐怖をともなったことはない。  自分が死ぬときのことを考えた。それはただの停止ではなかった。この世界すべてとの別れであり私自身との別れでもあった。どんなに何かを好きになっても必ずそうなる。だから『死』は恐ろしくて悲しい。  愛すれば愛するほど死の意味は重くなり喪失感は深くなる。愛と死は別のものではなく同じものの表と裏だった。  体内から欠け落ちたものを彼が埋めこむ間、静かに私は泣いていた。やがて修理が半ばまで終わったとき彼は手をとめて椅子で休憩をとった。 「明日までには応急処置が終わる。完全に元通りになるには、さらに三日の作業が必要だ」  彼の体は限界に達していた。応急処置より後の作業は私が自分で行なわなければいけないという。私も自分自身の体内のことは一応、知っていた。経験はなかったが設計図を見ればおそらくその作業はできるだろう。 「わかりました……」  そして涙声で続けた。 「……私はあなたを恨《うら》みます」  なぜ作ったのですか。この世界に誕生して何かを好きになどならなければ、『死』による別れに怯えることもなかった。  嗚咽《おえつ》まじりの声になったが私は作業台に寝たまま言葉を口から押し出した。 「私は、あなたが好きです。それなのに、あなたの遺体を埋葬しなければならないのは、辛いです。こんなに胸が苦しくなるのなら、心なんて必要ないのに。私を作る段階で、心を組みこんだあなたを恨みます……」  彼は悲しそうな顔をした。  包帯を体中に巻きつけた私は冷たく固まった兎を抱いて地下倉庫から出た。外はもう雨がやみ丘一面に広がる草原に湿った空気が立ちこめていた。辺りは暗かったがじきに朝が訪れる時間だった。空を見ると雲が流れていた。私の後から彼が扉を出てきた。  応急処置を受けた私は普通に歩くことができるようになっていた。しかし完全な修復ではないため激しい動きは禁止された。自らの手による修復作業はしばらくの間、行なうつもりはなかった。私が地下で作業をしている間、彼に食事を作る者がいなくなるからだ。  私たちが休憩をはさみながら家まで歩いているとやがて東の空が明るくなってきた。彼が森に近いところにある十字架の前で立ち止まった。 「あと四日だ」  十字架を見つめて言った。  朝のうちに私は兎を埋葬した。青い芝生の覆う庭によく鳥の集まってくる一画があった。そこなら寂しくないだろうとスコップで穴を掘った。兎に土をかぶせる間、胸が押しつぶされるような気持ちだった。同じことを彼にもしなければならない。そう考えると私は耐えられる自信がなくなった。  その朝から数日間、彼は一階のベッドへ横になったまま起きなかった。寝たきりでベッドわきの窓から外を見つめるだけだった。私は食事を作って彼のもとまで運んだ。私はもう笑うことができなかった。彼のそばにいると辛かった。  なぜ彼がいつも窓から外を眺めているのか理解できた。彼もまた私と同じように世界が好きなのだろう。だから『死』によって別れが訪れるまでよく見て目に焼き付けておこうとしているのだろう。私はできるだけそんな彼のそばで時間を過ごした。一秒ごとに彼の『死』が近づいてくるのを感じた。家のどこにいてもその気配はあった。  雨の日以降、いつも空は曇っていた。風もなく台所の窓に下がっている飾りは沈黙していた。レコードを聴く気力もなく家の中は静かだった。私が歩くときの床がわずかに軋む音だけがあった。 「あそこの照明のランプが切れかかっているね……」  ある夜、横になったまま彼は窓の外を見て言った。庭を照らしている照明のひとつが弱々しく点滅していた。しばらくついていたかと思うとふいに震えて暗くなる。 「僕は明日の正午に死ぬだろう……」  切れかかっているランプを見ながら彼は口にした。  彼が眠りについて私は二階のブロックのある部屋で膝を抱えた。床の中央に赤いブロックで作った帆船がある。彼がかつて私の目の前で製作したものだ。それを眺めながら私は考えていた。  私は彼が好きだった。その一方でまだ心に引っかかりがあった。私をこの世界に創造したということへの恨みだった。心の中にできた黒い影のように、その感情はつきまとっていた。  感謝と恨みを同時に抱いたまま複雑な気持ちで彼に接していた。しかし私はそのような素振りを見せなかった。ベッドにいる彼へコーヒーを運び手が震えるようであれば口まで運んであげた。  私がまだ心にわだかまりを持っているなどということを彼が知る必要はない。明日の正午、私は彼に、作ってくれてありがとうと感謝の気持ちだけを言い表そう。それが彼にとってもっとも心残りのない『死』に違いない。  ブロックの赤い帆船を私は両手でもてあそんだ。恨んでいるなどという気持ちは胸の奥に隠していればいいことだ。しかし私はこのことについて考えるたびに、息苦しくなった。彼に嘘をついているようで、怖かった。  帆船の持っていた部分が唐突に外れた。床に落下して胴体部分のほとんどが音を立てて分解した。ばらばらになったブロックを集めながらどうしようかと思った。私のように人間でないものは絵を描いたり彫刻をしたり音楽を作ったりすることはできない。彼が死んだらこのブロックはずっと分解したままになってしまう。  そのときひとつだけ私でもブロックで作り出せるものがあることに気づいた。思い出しながら帆船を組み立てた。一度、彼が製作する様を見て記憶していた。ひとつずつ彼がかつて目の前で行なった手順を繰り返す。そうすることで私にも帆船を製作することはできた。  そうしながら私は涙を拭った。もしかしたら。もしかしたら。心の中で幾度もそう繰り返した。  次の日、朝から空は晴れ渡っていた。どこまでも続く青色の中には雲が見当たらなかった。彼が眠っている間、井戸のそばで私は歯磨きをし、口をすすいだ。井戸から水を汲み上げて桶に移しかえるときしぶきが飛んだ。井戸の近くに生えている草花がそれを受ける。花の先端に露をつけ重みで曲がった。見ていると露は落下し空中で朝日を反射して輝いた。  曇りの日が続いていたので洗濯物がたまっていた。二人が着た数日分の白い服を洗い庭先に干した。動くと体に巻いていた包帯がずれてくる。それを直しながら物干し竿に服をかけていった。  ちょうどその作業が終わったとき、彼が窓から眺めていることに気づいた。そこは彼の寝ている部屋の窓ではなく日当たりのいい廊下の窓だった。私は驚いて駆け寄った。 「起きて大丈夫ですか?」  彼は窓辺にある長椅子に腰掛けていた。 「この椅子の上で死のうと思う」  どうやら最後の力をふりしぼって歩いたらしい。  私は家に入り彼の隣に腰掛けた。正面の窓から庭を眺めることができた。たった今、干したばかりの洗濯物が白かった。風にゆらいでその向こう側にある井戸が見え隠れした。死とは無縁の気持ちのいい朝だった。 「残り何時間ですか?」  私は外に視線を向けたまま聞いた。彼はしばらく沈黙した。静かな時が過ぎた後、自分の命の残り時間を秒単位で答えた。 「病原菌による『死』は、そんなに律儀に時間を守るものなんですか?」 「……さあ、どうかな」  特に興味のなさそうな声で、彼は返事をした。私は緊張しながら、質問してみる。 「……あなたが私に名前をつけなかったのは、絵や音楽を作り出せないのと同様に、名前を生み出すことができなかったからですね?」  彼はようやく窓の外から目を離して私を見た。 「私も、自分の死ぬ時間を秒単位で把握しています。私のような存在には、あらかじめ生きていられる時間が設定してあるからです。そして、あなたも……」  本当は、病原菌になんか感染していない。彼はおそらく、以前に他の人間がブロックから帆船を作り出したところを見ていたのだろう。だから、帆船を組み立てることができた。人間がすべていなくなった世界を、彼だけが死なずに今まで生きてきたのだ。彼はしばらく私の顔を見つめてからうつむいた。白い顔に陰ができた。 「だましていて、すまない……」  私は彼に抱きつき胸に耳を当てた。彼の胸の中からモーターのかすかな音が聞こえた。 「なぜ人間のふりを?」  彼は落ちこんだ声で伯父にあこがれていた心の内側を説明した。伯父とは彼の製作者だった。自分が人間だったらいいのにと私は時々思った。彼もまた同じことを感じていたのだ。 「それに、きみが納得できないだろうと考えた」  自分と同じ存在に作られたというより、人間に作られたことにしたほうが、私の苦しみが少ないと考えたそうだ。 「あなたは愚かです」 「わかっている」  そう彼は言って、胸に耳をあてたままの私の頭に、そっと手を載せた。少なくとも私には彼が人間だろうとそうでなかろうと違いはなかった。私は彼の体を強く抱きしめた。残り時間が減っていく。 「僕は、伯父の隣に埋葬されたかった。自分の上に土をかぶせる存在が必要だったのだ。そのような身勝手のためにきみを作り出してしまった」 「何年間、あなたは一人きりでこの家にいたのですか?」 「伯父が死んで二百年が経つ」  彼が私を作った気持ちはわかった。死の訪れる瞬間、自分の手を握ってくれる人がいればどんなにいいだろうか。だから私は、彼の上に死が訪れるまで、抱きしめていようと思った。そうしていれば彼は、孤独ではないと知るだろう。  私も、自分が死ぬときに彼と同じことをする可能性があった。設計図や部品、工具などは地下倉庫にそろっているのだ。まだそのときになってみなければわからないが、孤独に耐えかねたとき、寄り添うための新たな命を私は生み出すかもしれない。だからこそ、私は彼を許すことができた。  私と彼は、長椅子の上で、静かな午前を過ごした。私はずっと、彼の胸に耳を当てていた。彼は何も話さず、窓の外で風に揺らめく洗濯物を見ていた。  私は応急処置を受けて以来、体中に包帯を巻いている。首に巻かれていた包帯のずれを、彼がそっと直した。窓から入る日差しが膝にあたっていた。暖かい、と思った。何もかも暖かい。やさしくて、やわらかい。そう感じたとき、私の胸につかえていたものが、次々と解き放たれていくような気分を味わった。 「……作ってくれたこと、感謝しています」  ごく自然に、思っていることが唇の間からこぼれた。 「でも、恨んでもいたのです……」  胸に耳を当てていると、彼の顔は見えなかった。それでも、彼が頷いたのはわかった。 「もしもあなたが埋葬のため、死を看取るため、私を作らなければ、私は死を恐れることも、だれかの死による喪失感に苛《さいな》まれることもなかったでしょう」  彼の弱々しい指が、私の髪の毛に触れた。 「何かを好きになればなるほど、それが失われたとき、私の心は悲鳴をあげる。この幾度も繰り返される苦しみに耐えて残り時間を生きていかなければならない。それはどんなに過酷なのだろう。それならいっそのこと、何も愛さない、心のない人形として私は作られたかった……」  鳥の鳴き声が、外から聞こえた。私は目を閉じて、青空を数羽の鳥が飛んでいる場面を想像した。瞼を閉じたとき、目の縁にたまっていた涙がこぼれた。 「でも、今、私は感謝しています。もしもこの世界に誕生していなければ、丘に広がる草原を見ることはなかった。心が組みこまれていなければ、鳥の巣を眺めて楽しむことも、コーヒーの苦さに顔をしかめることもなかった。そのひとつひとつの世界の輝きに触れることは、どんなに価値のあることでしょう。そう考えると、私は、胸の奥が悲しみで血を流すことさえ、生きているというかけがえのない証拠に思えるのです……」  感謝と恨みを同時に抱いているなんて、おかしいでしょうか。でも、私は思うのです。きっと、みんなそうなのだと。ずっと以前にいなくなった人間の子たちも、親には似たような矛盾を抱えて生きていたのではないでしょうか。愛と死を学びながら育ち、世界の陽だまりと暗い陰を行き来しながら生きていたのではないでしょうか。  そして子供たちは成長し、今度は自分が新たな命をこの世界に創造するという業を、背負っていたのではないでしょうか。  あの丘の、あなたの伯父が眠る隣に、私は穴を掘ります。そしてあなたを寝かせて、布団をかぶせるように土を載せようと思います。木で作った十字架を立てて、井戸のそばに咲いていた草花を植えようと思います。毎朝、あなたに挨拶をしに行くでしょう。そして夕方には、一日に何があったのかを報告しに行きます。  静かな時間が長椅子の上を通りすぎ、正午近い時刻になった。私の耳に聞こえていた彼の体内のモーター音が小さくなり、やがて聞こえなくなった。おやすみなさいと私は心の中でつぶやいた。 [#改丁]  SO-far そ・ふぁー [#改丁] [#ここから3字下げ] SO(significant other)  1〔社〕重要な他者(親、仲間など)  2〈米略式〉配偶者、恋人(略:SO) far  〈距離〉遠くへ[に]、(遠く)離れて [#ここで字下げ終わり] [#地付き]『プログレッシブ英和中辞典(第3版)』(小学館)より [#ここから6字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  今はぼくも少しだけ成長した。小学校に入学してもうすぐ中学生になる。だからあの当時の不思議な状況のことを昔とは違った目で見ることができる。何せあの頃のぼくといったら幼稚園に通っているほんの子供だった。何もかもが不安で心細かった。ぼく以外の人間はみんな大きくて話をするためには見上げないといけなかったし、大人が腰に手をあてて呆れた顔を向けると自分は何かまちがったことをしでかしたんじゃないかと心配になった。だから大人に説明しようとしてもうまいことできたためしはなかった。  昔、ベッド下の明かりが届かないところには何かが住んでいる気がした。立てた鉛筆に手を触れず「たおれろ」と念じれば本当に倒れると思った。そういったもののほとんどは結局のところありえなかったけど、まったく無いというわけじゃない。ぼくは科学が好きだけど、世の中にはそれで解明できない不思議なものはあるのだ。  幼稚園に通っていたころのことだ。すでに細かい記憶はぼんやりとしているけどあのことは後から何度も繰り返し思い出していたし人からたずねられることも多かった。だから案外よく覚えている。  ぼくには父と母がいて三人暮らしだった。住まいはアパートの二階だったと思う。小高い丘の上にあって町の光景が窓から見下ろせた。立ち並ぶマンションの間を縫うように電車が通り抜ける。そんな景色を眺めるのが好きだった。  居間とキッチンがあってその他の部屋が二つくらいあった。柱にはぼくの描いた父の絵が飾ってあり幼稚園の帽子や鞄がかけられていた。  両親のことが好きだった。ぼくはババ抜きしかできなかったけど三人でよくトランプをやったし家の中でかくれんぼもやった。キッチンのテーブルでごはんを食べた後は居間のソファーに腰掛けて話をした。  居間にあった灰色のソファーは、うちにあった家具の中でもっとも重要なものじゃないかと思う。これに座ってテレビを眺めたり本を読んだりうたたねをするわけだ。うちにあった団欒《だんらん》というものの正体は、この弾力を持ったやわらかいソファーだった。まずはソファーが最初にあり、次に低いテーブルやテレビがそろえられていたんだ。  いつもぼくが真ん中に座った。  母の席はぼくの左手側、台所に近い方だ。ぼくや父が飲み物を催促すると立ちあがってパタパタとスリッパを響かせすぐにジュースやビールを持ってくることができた。  父はぼくの右に座った。そこがテレビを見るために一番いい角度だった。それにクーラーの真下だったから暑がりの父はそこで涼しい思いをしていたのだ。  ぼくは足をぶらつかせながらソファーに座り幼稚園であったできごとを話した。ちょうど両側から笑顔の母と父の顔がぼくを見ているわけである。  それがいつのまに起こってしまったことなのか最初はわからなかった。気づくとそうなっていた。  ぼくと父が居間のソファーに座っていた時だ。父はどことなく暗い顔をしてテレビを見ていた。背中を丸めて組んだ手の上に顎《あご》を載せていた。  テレビでは怪奇現象に関する番組が流れていた。怖い番組なのは知っていたけどなぜかいつも見てしまった。その日の番組内容は交通事故に遭った人が死んでしまったことに気付かず幽霊になって家へ帰ってきてしまうというものだった。  母が扉を開けて居間に入ってきた。父と同じような浮かない顔だった。 「あら、一人でテレビを見ているの?」  ぼくに向かって母が言った。それが普通の調子だったので聞き逃すところだった。確かに「一人で」と母は言った。  ぼくは奇妙に思い隣に座る父を見た。自分が無視されたことを怒ってしまうんじゃないかと思った。けれど母が居間に入ってきたことにも気づいていない様子だった。 「やだあ、何もないところを見て、いったいどうしたっていうの?」  母が本当に不思議そうな顔をした。だからぼくは不安になった。  そのうち父は静かにソファーから立ち上がり居間を出た。ぼくや母の方を一度も振り返らなかった。ぼくは困惑した。何かが微妙におかしかったが、その原因がわからなかった。きっと泣きそうな顔をしていたのだと思う。母がトランプを取り出して「一緒にババ抜きしようね」と微笑んでくれた。ぼくは最初のうち落ち着かなかったけど母が笑ったのでああ大丈夫なんだなあと安心した。  しばらく母と遊んでいると父が居間に戻ってきた。 「なんだ一人でトランプなんかやって……」  そして父はぼくを手招きした。 「今日は外食にしような」  ソファーからおりて父のもとに駆け寄った。振り返ると母がカードの束を持ったまま「どこへ行くの?」といった顔でぼくを見ていた。  母もいっしょに外食するのだと思っていたけど違った。父はぼくが居間を出るなり電気を消してパタンと扉を閉めたのだ。まだ中に母がいるというのに。  父と二人でファミリーレストランにいる間、居間に残してきた母のことが気がかりだった。 「これから生活が大変になるな……」  父がそうつぶやいた。  次の日の夕ごはんも不思議だった。母は自分とぼくの分しかおかずを用意しなかった。お皿やお箸もキッチンのテーブルに二人分だけだった。  一方で父はまるで母の料理なんて最初から見えていないようにコンビニでお弁当を買って帰ってきた。袋に入ったそれらを居間にある低いテーブルの上に広げた。ぼくの分のお弁当もあった。  ぼくはキッチンで母に聞いてみた。 「どうしておとうさんの分はないの?」 「え?」  母は息を呑むようにしてぼくを見た。母があまりに唖然とするものだから、言ってはいけないことを口にしてしまったんじゃないかと思いぼくは怖くなった。それで繰り返して問い掛けるのをためらった。 「おーい、何やってるんだよ。おまえ、どっちの弁当がいい?」  居間の方から父の声が聞こえてきた。母に呼びかけるときと、ぼくに呼びかけるときとでは、微妙に声の高さが違うので、それがぼくへの質問であることがわかった。  キッチンを出て、居間に移動した。父はネクタイを外している途中だった。 「……どうしておかあさんの食べるお弁当がないの?」  そうたずねると父は手を止めてまじまじとぼくを見た。やっぱりこの質問はしてはいけないのだなあと思った。  ぼくは両方に気を利かせなくてはならないと感じてキッチンと居間を何度か往復した。母の料理を少し食べたら今度は居間に移り弁当を食べる。それを繰り返した。  両方とも半分ずつ残してしまったけど怒られはしなかった。ごはんの時間が済むといつもの通りぼくはソファーの真ん中に座った。左手に母が、右手に父が座った。二人は静かにテレビを見ていた。数日前に起こった列車事故のことが報道されていた。  これまでならお互いに楽しい話をしてぼくが笑い転げる時間だった。しかしその日、両側に座る二人はだまりこんでいた。何か恐ろしい事情があってぼくたち三人の間におかしなずれが生じていた。それが何なのかと考えていると母がぼくを振り返った。深刻な顔でしばらくぼくを見つめた。 「ねえ、お父さんが死んじゃってこれからは二人暮らしになるけどがんばろうね」  ぼくはその意味がよくわからなかった。ただ、あまりに母の声は真面目なものだったから本当に怖くなった。戸惑っていると母は「大丈夫だから」と微笑んで頭をなでてくれた。  今度は父がぼくを振り返った。母など存在していないように、ぼくの瞳だけをまっすぐに見た。 「母さんの分も強く生きような……」  見えていないのだ、とそのとき気づいた。父には母が見えていない。母には父が見えていない。ぼくを挟んだ向こう側にはだれもいないと、父と母の両方が思っているのだ。  二人の話から、父と母のどちらかが死んだのだとぼくは理解した。そして父は母が死んだと思いこみぼくと二人暮らしをしていると錯覚している。逆に母は父が死んだと信じている。  だからお互いが見えていないし話も聞こえない。それぞれに見えているのはぼくだけだった。 [#ここから6字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  そのころは言葉をあまり知らなかったから思ったことを明確に父母へ伝えることができていなかった。ぼくには二人の姿が見えるのだということを説明したけど最初のうちまともに取り合ってもらえなかった。 「ねえ、あっちのへやにおとうさんいるよ」  キッチンで皿洗いしている母のエプロンを引っ張ってぼくはそう主張してみた。居間のソファーで父は新聞を読んでいた。 「はいはい……」  母は最初のうち軽く頷いただけだった。ぼくが同じ言葉を繰り返すと母はしゃがんで目線をぼくと同じ高さに持ってきた。正面からまっすぐにぼくの目を見た。 「つらいのはわかるけど……」  真面目な声で母はぼくのことを心配した。そうなるとぼくはまるで自分の頭がおかしいような気がして、この問題に触れてはいけないのではないかと思った。  それでもぼくはこのおかしな状況について何度も説明を試みた。  ある夜、三人でソファーに座っていた。「三人で」というのはぼくから見た場合である。母と父はお互いに、ぼくと二人だけでソファーに座っているものだと考えているようだった。 「おかあさんは今、青いセーターを着ているよ」  右手にいる父へぼくはそう言ってみた。両側から二人がまじまじとぼくの顔を見た。 「なに、気味悪いこと言ってるんだよ……」  父が眉をひそめた。父にとっては母の姿など見えていないからわけがわからないといった顔をしていた。 「ええ、着てるわよ、それがどうかした?」  母もまた不思議そうな顔でぼくを見た。 「ぼくには二人とも見えるんだよ。おとうさんも、おかあさんも、みんなこの部屋にそろっているんだ」  そう言うと両側から困惑したような視線が向けられた。  何度かそういうことがあった。最初は取り合わなかった二人も、次第に、ぼくの言葉へ耳を貸すようになっていった。  お菓子の袋が開かないからと、母が鋏《はさみ》を探していたときのことだ。 「お父さん、鋏をどこに置いたのかしら。目立つところに出してから消えてくれればいいのに」  母がぶつぶつと文句を言いながら、鉛筆からガムテープまでひとまとめに放りこんでおく居間の戸棚を漁《あさ》っていた。父は居間のソファーで足を組んでいたのだけど同じ部屋にいても母の姿は見えていないようだった。そこでぼくは父に鋏をどこに置いたかをたずねた。 「……たしかキッチンにある戸棚の引き出しに入れたと思うよ」  父がそうぼくに言った。ぼくはその言葉を同じ室内にいる母へ伝えた。 「キッチンの戸棚の引き出しだって。そうおとうさんが言ってるよ」  確かに鋏はその場所にあった。そのようなことが頻発して、父と母はそれぞれぼくの話を信じるようになっていった。 「ぼくにはおとうさんが見えるんだ。声もきこえるんだよ」  戸惑いながら母はぼくの言葉に頷いてくれた。 「おかあさんはちゃんとここにいるよ。だから、ぼくとおとうさんは、二人だけじゃないんだよ。おかあさんに言いたいことがあったら、ぼくがかわりに言ってあげる」  父にぼくがそう言うと、父はうれしそうに頷いた。そうだね、本当にそのようだね、と言いながらぼくの頭をなでた。  ぼくが二人の会話を中継する日々がそうしてはじまった。それは案外、楽しいものだった。  三人でソファーに並び同じテレビ番組を見た。 「わたしは旅番組がいい」  母が言うとぼくはすかさず父にそれを伝えた。 「おかあさんはちがうのがいいって。旅のやつがいいって」 「刑事ドラマでがまんしろよって母さんに言って」  父が画面から目を離さずに言った。 「おとうさんはチャンネルをかえたくないんだって」  そう伝えると、あーあ、と言って母は立ちあがりキッチンに消えた。  ぼくはクスクスと笑った。ずっと以前は毎日がこんな調子だったからおかしかった。父母が話をするためには、ぼくが間に入らないといけないけど問題はなかった。ぼくたちは三人なんだなあということが改めてわかった。そんなとき部屋の中が温かくなって楽しい気分になった。  母と父、それぞれのいる世界のことを当時よく考えた。それぞれから聞いた話では、二人は列車事故に巻き込まれかけたそうだ。いや、これは少しややこしいけど、二人ともしっかり巻きこまれて死んでしまったのだとも言えるらしかった。  何かの用事で親戚の叔父さんへ屈けものをしなくちゃいけなかったそうだ。それである朝、二人はじゃんけんをした。負けた方が電車に乗って叔父さんの家に行ったそうだ。  二人の話では、じゃんけんをした後が食い違った。母のいた世界では父が負けて列車に乗ったそうだ。しかし父のいた世界では母が叔父さんの家に向かったそうだ。  電車は事故を起こした。それで母のいた世界では父が、父のいた世界では母が、死んでしまったらしい。それぞれの残された方はぼくと二人暮らしになったのだと思いこんだそうだ。  でも、生き残った父母のそれぞれの世界はまるで半透明の写真が重なったようにぼくを接点としてつながっていた。ぼくは二人の世界を両方とも同時に見ることができた。それが少し誇らしかった。父と母の連結役に抜擢《ばってき》されたようだった。  父が扉を開けて入ってきたとする。もしも父の姿だけが見えないのであれば母の目には扉がひとりでに開いたり閉じたりするように見えるはずだ。でも実際には、扉の動きなどには気づかなかった。ぼくが言ってあげることで、あ、そういえばいつのまにかこうなってるわね、と母は知ることができるのだ。  母がキッチンで洗い物をしている。それを見ても父の目にはだれかが洗い物をしているようには映っていない。自分のいる世界において説明のつかないことはちょっとのことでは気づかないようになっているらしい。  食事はあいかわらず二人とも別々だった。母は料理を作り、父はお弁当を買ってそれを食べた。 「おとうさん、このカレーライス見えないの?」  ぼくは母の作ったカレーの皿を父の前に差し出して言ってみた。しかし父には何も見えないらしくただ戸惑うようにぼくを見つめ返すだけだった。 「今日、会社で変な電話があってね……」  父が部屋の何もない場所に向かって母に話しかけることがあった。母は父のすぐ背中側に立っていたのだが、それが見えないためてきとうな方向に向かって話しかけるのが常だった。母には父の声が聞こえないのでぼくがその話を伝えた。おかしな具合だねとぼくは二人へ言った。  でもどちらかはすでに死んでいるんだということを考えると悲しい気持ちになった。父の生きている世界と母の生きている世界、それぞれがちょうど合わさったところでぼくは宙ぶらりんになっていた。  最初、二人がそれぞれ話をしなくなったときはどうなってしまったのかわからなくて不安だったが、今は大丈夫だった。ソファーの上で父と母にはさまれているとぼくはほっとして眠たくなった。  けれどこのままでいいはずがないことは幼心にわかっていた。そのうちぼくはどちらかの世界を選ばないといけないんじゃないか。そのことが心の隅にあった。 [#ここから6字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  最初がそうだったように、いつのまにそうなっていたのかわからない。あるとき気づいたら父と母が喧嘩になっていた。もちろんそれは幼稚園で時々見たようなつかみ合いの喧嘩じゃなかった。  夕ごはんを食べた後、三人でソファーに腰掛けていた。テレビを見ながらぼくは二人の話を半ば無意識に繰り返していた。しばらくそういう生活が続いていたからぼくは会話の中身を考えずオウムのように話を繰り返すことができるようになっていた。  テレビでぼくの好きなアニメをやっていたからすっかりそれに夢中だった。ソファーの上で腹ばいになり顎を両手で支えていた。行儀が悪いと母に怒られることがあったけどその格好が好きだった。  突然、父が新聞を叩きつけるようにテーブルへ置いた。二人の声が険悪な調子を帯びていた。それではじめていつのまにか父母の機嫌が悪くなっていることに気づいた。二人がお互いを傷つけるような話をしていたのに、ぼくはそんな内容に気づかないでいつものように伝言していたのだ。  母が立ちあがり寝室の方へ歩いて行った。 「おかあさん部屋にいっちゃったよ」 「放っておけ」  父は短くそう吐き捨てた。ぼくは不安になりアニメのことをすっかり忘れてしまった。仲直りしてほしかった。ソファーに座ってぼくの両側にいてくれないと本当には楽しくなかった。 「おい」しばらくして父がぼくを呼んだ。「おまえ、母さんに言ってこい」 「なんて言えばいいの?」 「お前が死んでくれていて、本当に良かった! って伝えてこい」  父は怖い顔をしていた。ぼくは嫌だったけど言ってこなければ叱られると思った。それで母のいる部屋に向かった。  母は寝室の布団に寝転がって何かを考えているようだった。ぼくが扉を開けると上半身を起こした。 「おかあさんが死んでいて良かった、だって……。そう、おかあさんに言ってこいって……」  ぼくは母にそう言いながら泣きたくなるのを我慢した。押し黙って母はすすり泣くように涙を拭った。大人が泣くのを見たことがなかったからぼくは怖くなった。立ちすくんでどうすればいいのかわからなかった。 「じゃあおとうさんにこう伝えて……」  今度は母が父あての悪口をぼくに託した。いくつかわからない言葉があってその場でぼくは練習させられた。ぼくは子供だったけどそれが酷い言葉だということは漠然とわかった。 「もういやだよ、やめようよ」  すがりついたけどだめだった。 「ちゃんと伝えてくるのよ! わかった!?」  ぼくはその後、郵便配達人のように母のいる寝室と父のいる居間を何度も往復した。嫌な言葉を繰り返し覚えさせられて口に出すことを強要された。  言葉を伝える度に父母はぼくをにらみつけた。まるでぼくの中に憎い相手がいるとでもいうような瞳だった。怒鳴り声はぼくへむけられてまるで自分が罵られているようにも思えた。  最初のうち悪口を運ぶたびに大きな塊を喉の奥から引き出さなくちゃいけない気がした。でもそれを繰り返していると頭の中がじんじんしてきて次第に何も感じなくなった。一切の声が聞こえなくなったような気がしていたけど郵便配達の役目は問題なく行なっていたようだから今となっては不思議である。  口は自動的に録音と再生を繰り返すテープレコーダーになっていたけど涙だけは出続けていた。父も母も好きだったから酷い言葉なんて言いたくなかった。  喧嘩は一時間くらいで終わった。  またみんなでいっしょに居間のソファーへ座ってほしかったけどそう提案することができないでびくびくしながらソファーで待った。父は興奮した顔を洗いに居間を出て洗面所へ向かった。もうそのころには心が落ち着いていたみたいで父はどこか放心したような様子だった。  その間に母が居間へきた。ぼくは二人の喧嘩がまたはじまったらどうしようと心配しながら顔を見つめていた。するとちょっと戸惑いながらぼくの隣に座った。ソファーが母の重みでへこみ、ぼくの体はそちらの方へかくんとゆれた。 「さっきはごめんなさい……」  母はそう言うと頭をなでてくれた。その後ぼくは父がくるはずの扉をずっと眺めていた。そうやって監視して父が部屋に入ってきたらすぐに母へ伝えようと思っていた。でもなかなかやってこなかった。  母が立ちあがりキッチンへ向かった。その背中を目で追いかけた瞬間、ぼくのすぐとなりで雑誌をめくる音がした。  いつのまにか右手に父がいた。扉をずっと監視していたはずなのに入ってきたのがわからなかった。父は煙草を吸っていた。ぼくは煙草の煙が苦手でそれを吸いこむとすぐにいやな気分になった。でも父がとなりにいたことを知る瞬間までぼくは煙の臭いにも気づかず普通に空気を吸っていた。  不思議な気持ちで顔を見ていると父が眉をひそめた。 「さっきはいくら呼んでもおれの方を見なかったくせに」  そう言うとさっきの母と同じようにぼくの頭をなでた。確かにその手は存在して温かかった。なぜぼくは父のいたことに気づいていなかったんだろうと不思議に思った。  考えながら母が戻ってくるのを待った。けれど母はなかなかキッチンから帰ってこなかった。部屋にはぼくと父だけがいてテレビでは歌の番組が流れていた。 「明日の予定を母さんにたずねてみてくれないか……?」  まだ喧嘩をした直後だったから父の言葉は様子をうかがうような感じだった。ぼくは立ちあがって母の消えたキッチンの方へ向かった。  扉を開けて母の姿を探した。しかし水道の蛇口から水滴が落ちているだけでそこには誰もいなかった。キッチンからどこかへ行くためには必ず居間を通らなくてはいけないはずだった。だからそこにいないのはおかしかった。  疑問に思いながら居間へ戻ると母がソファーに座っていた。どのようにすれ違ったのかわからなかった。しかしさきほどまで誰もいなかった場所でまるでずっと前からそうしていたかのように母はコーヒーカップを傾けていた。  そして父がさきほどまでいたはずの場所には誰もいなかった。灰皿も吸いかけの煙草も部屋に充満していた煙も消えていた。  ぼくは質問することも忘れて母の顔を見た。 「なに? どうかした?」  母が首を傾げてぼくに聞いた。母はどうやら、すでにキッチンから戻ってきていたらしい。  ぼくはそのときようやく理解した。さきほどからずっと母はそこに座っていたのだ。いや、母だけじゃない。ぼくの両側に二人ともいたのだ。そして、ぼくはその二人のうちどちらか一方しか見えていなかったのだ。  ぼくはいったん居間を出てもう一度、居間に入ってみた。母の座っていたところには誰もいなくなっていた。ソファーのへこみすらなかった。かわりに別の場所で父が出現していた。それでぼくはほとんど確信した。  ソファーに座りしばらく目を閉じてみた。右手にあった吸いかけの煙草が消えて左手にいままでなかったはずのコーヒーカップが出現した。  言葉も一度に二人の声は聞こえなくなっていた。父の世界と母の世界が離れ始めているということをぼくは知った。  どちらかといればもう片方の存在はまったく消えてしまうのだ。扉が動いたことも目の前を横切ったこともなかったことになってしまう。  ぼくはもうそれぞれの世界の重なった部分にいるわけではなくなっていた。ただ離れ始めた二つの世界を行ったり来たりしているに過ぎなかった。  悲しくなってその夜ほとんど二人と話をしなかった。もう三人が一度にソファーへ座っていられることはなくなったのだ。  ぼくはこのことをすぐには言えなかった。だまりこんだぼくを母が心配してなでてくれた。その間ぼくはやがてくる別れのためにどちらかを選ばなくてはならないと思っていた。 [#ここから6字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  次の日、ぼくの記憶では確か土曜日だったと思う。外を見ると曇り空で雨が降りそうな気配だった。  母はどこかへ出かけていて父だけがソファーで新聞を眺めていた。本当に母がいないのか確信をもてずに部屋中を探してみた。もしも父と同じ部屋にいるのなら二人を同時に見ることはできないわけで本当はそばにいるのかもしれないのだ。  しばらく他の部屋も探したけど母はどうやら本当にいないようだった。それで父の隣に腰掛けた。  しばらくどう切り出そうかと迷った。テレビでお気に入りの特撮ヒーローものの番組をやっていたけどそわそわしてそれどころじゃなかった。父は血管の浮き出た右手でジャリっと顎鬚《あごひげ》をこすると新聞をめくった。 「いっしょに見ることができなくなっちゃった……」  恐る恐るそう話し掛けてみた。父は首だけをぼくに向けて眉の間にしわを寄せた。 「なんだって?」 「おかあさんと、おとうさんが、いっしょにいるときは、どちらかしか見えないの……」  言葉を咀嚼するようにじっと動きを止めて父は新聞をテーブルに置いた。 「どういう意味だ?」  いけない子供を見るような目だったから怒られているような気がして逃げ出したくなった。胸の中がざわざわとしてやっぱりこのことは隠しておいたほうがよかったんじゃないかと後悔した。父はソファーに座っていてもぼくより高いところに目があった。だから父に厳しい目で見られたときぼくはいつも頭の上に両手を置いてしゃがんでしまいたくなるのだ。 「おとうさんがいるときはおかあさんが見えなくなったの」  何度か必死に言葉をつぎはぎしていると父もぼくの言いたいことがわかってきたようだった。急に顔を青ざめさせてぼくの肩をつかんだ。何かを問い掛けるように必死な目でぼくの顔を正面から見た。 「ほ、ほんとうだよ……」  怖くなってぼくは泣いた。父は本当に母のことが好きだったんだと感じた。二人の離れている世界をぼくがかろうじて繋《つな》ぎとめていたのだ。だから一度に二人を見られなくなったことがぼくの責任であるように思えて悲しかった。ぼくがもし本当にいい子だったらずっと三人で暮らせていたのだと思った。  父はきつい口調で質問を繰り返した。でもぼくは泣いてばかりで何も言えないでいたからついには怒り始めた。肩をゆさぶっていた手を振り上げた。ぼくは頬を叩かれて床に倒れた。ごめんなさいと何度もあやまった。自分はなんて駄目な子供なんだろうと思い消え入りたかった。本当に悪いのは全部ぼくであるような気がした。そして父はぼくのことが嫌いになったんだと思った。  ぼくは立ちあがり走って部屋を出た。父はぼくの名前を呼んだけど追ってはこなかった。靴をはかずに玄関を抜けた。アパートの階段を下りてアスファルトの道を公園の方にむかった。家にいたらいけないと思った。父のことやソファーのある居間が好きでたまらなかったけど頬の痛みがぼくはいらない子だということを教えてくれた。足の裏が痛かったけど我慢した。  公園には誰もいなかった。雨が降りそうだったからきっと他の子は遊びにきていなかったんじゃないかと思う。いつもなら笑い声がたくさんあったのに滑り台もブランコもその日はぼく一人のものだった。けれど遊ぶ気にはならず広い公園で一人でいることが寂しかった。  砂場に座り裸足《はだし》の足の上に砂で山を作った。父母のことばかり考えていた。きっと自分のような子供は好きじゃないんだと感じていた。昨晩の喧嘩もぼくのせいだと思っていた。もっといい子で服に料理をこぼさないで遊んだおもちゃをちゃんと片付けるような子だったら二人は喧嘩なんてしないと思っていた。  寒くて涙が出た。湿った黒い砂はぼくの手や足にはりついてざらざらした。そのとき後ろから名前を呼ばれた。母が驚いた顔でこちらを見ていた。腕に買い物袋を下げていた。 「お父さんと来たの?」  微笑んで公園内を見回した。ぼくは首を横に振った。母がすぐそばまで近づいてきてはっとしたように足を止めた。 「靴はどこに置いてあるの? それに、ねえ、頬が赤いわ……」  叩かれた頬を手で覆い隠した。父に怒られたことを知られたくなかった。母にも叱られるんじゃないかと思っていた。不安な様子が母にも伝わったらしかった。母は買い物袋を地面に置いてそっと腕を伸ばしぼくを抱きすくめた。 「どうしたの?」  やさしい声だった。母の匂いがして、心の底からほっとした。 「おとうさんに怒られた」  母はぼくに何をしたのかをたずねた。だまっているとやさしく頭をなでた。いつのまにかぼくは泣いていて嗚咽が止まらなかった。静かな公園で泣き虫のぼくをずっと母は慰《なぐさ》めてくれた。 「おかあさん、ずっと前に言ったこと、おぼえてる?」 「なあに?」 「これから二人暮らしになるけどがんばろうね、って言ったの」 「覚えてるわ」  母は戸惑いながら頷いた。いつのまにか霧のような雨が降り出しており髪の毛が湿り気を帯びていた。母がぼくの額にかかった前髪をかきあげた。 「ぼくはおかあさんの世界で生きることにする」  決心してそう口にした。母は不思議そうな顔でぼくを見た。背負われて家に戻る間すすり泣きが止まらなかった。  その日からぼくは父の姿を見ることができなくなった。  中学生になった今でも当時のことはよく覚えている。この不思議な体験についてはいろいろな人に話をした。あるいはなぜそうなったのかについてぼくの方から説明を求めることもあった。  父の消えた次の日のことを思い出す。その日はたしか雲のない青空だった。木の葉の一枚一枚が地面に影を作っていた。ぼくと母は手をつないで外へ出かけた。温かくて楽しい気分だった。空を見上げて目を閉じると陽光に透けてまぶたの裏側が赤かった。  絵本や遊び道具がたくさんあるところに連れていってもらった。他にもぼくと同じくらいの年の子がいてぬいぐるみを抱いたりブロックで家を作ったりしていた。しばらくおもちゃで遊んだ後ぼくは手をひかれて男の人のいる部屋に通され向かい合って椅子に座った。  男の人に、父のことを尋ねられた。そこで、列車の事故でもう死んだということを説明した。その人は困ったように腕組みした。そして少し笑いかけるようにして問いかけた。 「それじゃあね、ボク。きみの後ろにいる人はだれだい?」  振り返ってみたがだれもいなかった。隣に母が立っているだけだった。だれもいないとぼくは答えた。 「父親の姿が見えなくなったみたいなんです」母が泣き声で男の人に言った。「わたしの声は聞こえるのですが父親の声は聞こえないみたいで……。父親が手を握ったり頭をなでたりしてもまるで何も感じていないみたい。無理やり抱き上げたり腕を取って引っ張ったりすると途端に力が抜けて無表情の人形のようになってしまうの」 「わかりました」男の人はしばらく母と話しこんで頷いた。「つまりあなたたちは夫婦喧嘩をした後でお互いに相手が死んだことにして生活をしていた。子供にもそう言い聞かせてつき合わせていた。そのうちにこうなってしまったと……」  男は次に、ぼくの背後を見た。誰かと話をしているようにしきりと頷いていた。ぼくも後ろを振り返ってみたけどただ広い空間が広がっているだけだった。  成長した今ではその時の母や医者の言葉がはっきりと理解できる。なぜそうなったのかもわかっているつもりだ。ここにお父さんはいるのよと母に言われて手をのばしてみる。どこにいるのとぼくは聞き返す。なぜわからないのよ今あなたはお父さんの体をぺたぺた触っているじゃないの。そして戸惑ったように母は泣き出す。そのうちに母は宙に視線を向けて話をはじめる。  ぼくがこういう状態になってから両親は喧嘩をしなくなった。父の姿はあいかわらず見えなかったけれど母が泣いているときそれをなぐさめる父の様子だけは感じることができた。今はお互いを支え合うように一緒に暮らしている。みんなは両親の仕打ちが幼いぼくの心に傷をつけこうなってしまったのだと言う。しかしそれはぼくが得た自分なりの解答と少し違う。ぼくは望んでこうなったのかもしれないと最近そう思う。もちろん父と母を別れさせないためである。 [#改丁]  冷たい森の白い家 [#改丁] [#ここから6字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  馬小屋で暮らしていた。家はなかった。馬小屋には三頭の馬がいた。たえず糞《ふん》をまきちらしていた。  あんたがいなければもう一頭、小屋で馬を飼うことができるんだけどね。  いつもいまいましそうに伯母は言った。  馬小屋の壁は下半分が石の積み上げられた壁だった。上半分は木の板でできていた。壁の石は四角に切ってあるわけではなかった。丸いままの石が無造作に積み上げられてその間を漆喰《しっくい》で固められていた。いつもそれを眺めながら眠った。馬小屋の片隅に体を寄せていなければ馬に踏み潰された。目の前の壁にあるいくつもの石を数えた。石はそれぞれ違う形をしていてどれも人間の顔に見えた。あるいは腕や踵《かかと》に見えた。胸やうなじにも見えた。  馬糞の臭いがいつも鼻を襲った。しかし馬小屋の他に家はなかった。冬の夜は寒かった。藁《わら》を体にかぶせて眠った。それでも震えはとまらなかった。  馬小屋で馬糞の処理をした。いつもの仕事だった。小屋の裏側に大きな肥料の山があった。そこに馬糞を運んだ。両手にいっぱいの糞を抱えた。肥料を畑に運ぶ仕事もした。伯父の言うままに動いた。伯父は決して近寄らなかった。鼻をつまんで命令をした。  伯母の家には二人の男の子と、ひとりの女の子が住んでいた。兄弟はよく馬小屋へ遊びに来た。兄が棒で叩く。弟は笑いをこらえる。そのうちに血が出る。  一番、酷いときは、馬に縄でくくりつけられた。馬はあばれて、踏みつけた。顔がへこんだ。兄弟は慌てて逃げていった。後は知らないふりをした。  顔が少し、とれていた。その赤いのを拾い上げて、馬小屋を出た。伯母に助けをもとめるため、母屋へ行った。外は明るかった。馬糞の臭いが混じらない風が吹いていた。緑色の草が一面に生えていた。顔からしたたらせながら歩いた。  伯母の家には鶏や犬が飼われており庭にいた。母屋の戸を叩いた。声が出せなかった。顔からとれたものをしっかり握りしめていた。  戸を開けて伯母が出てきた。悲鳴をあげた。家にはあげてもらえなかった。  今、お客様が来ているんだから、馬小屋から出てこないで。あんたを見たら気分を悪くするでしょう。  馬小屋に追い返された。そのまま夜がふけた。馬の飲み水で傷を洗った。井戸の綺麗な水を使うことはゆるされていなかった。何度も気絶して眠った。  兄弟は馬小屋を恐れるように近づかなかった。飼い葉を噛んで飢えをしのいだ。残飯を持ってきた伯母が驚いた顔をした。  あんた、まだ生きてるのかい。丈夫な体してるねえ。  ひと月、どこにも顔をぶつけないように過ごした。痛みは半年、続いた。拾っていた顔のとれた部分は腐った。黒くなって臭くなった。ずっとそばに置いていた。馬小屋の壁は石でできていた。石は顔に見えた。石のひとつに、顔のとれたものをときどき貼り付けて想像を膨らませた。顔はへこんだまま固まった。汁も流れ出なくなった。  伯母の家に住む赤毛の女の子もときどき馬小屋にきた。馬小屋の中で話をした。伯母や兄弟のように叩いたりしなかった。赤毛の女の子は時々、本を持ってきた。馬小屋に置いていった。文字を赤毛の女の子から教わった。すぐに読めるようになった。  赤毛の女の子は言った。  嘘ばっかり、そんなに簡単に文字が読めるようになるはずがないわ!  嘘ではないことを証明するため本を朗読してみせた。赤毛の女の子は驚いた。  本を暗記した。夜の馬小屋に明かりはなかった。昼間、馬小屋の壁のすき間からもれる太陽のもとで隠れて読んだ。本を見つかってはいけないと赤毛の女の子に言われていた。たいていの本は、一度読めば覚えることができた。  赤毛の女の子は数字も教えてくれた。計算の方法を覚えた。数式の並ぶ本を読んだ。赤毛の女の子より高等な計算もできるようになった。  あなたは本当に頭がいいのね!  赤毛の女の子は言った。  馬小屋で本を読んでいると伯母が入ってきた。本を藁の中に隠すのが間に合わなかった。伯母は本を取り上げた。貴重な本なのだから触ってはいけないと説明し、棒で叩いた。なぜ本がここにあるのかと不思議がっていた。  お母さん、やめて!  赤毛の女の子が馬小屋に入ってきて叫んだ。  この子、頭がいいの。兄さんたちよりも頭がいいのよ!  伯母は信じなかった。赤毛の女の子は聖書の一節をそらんじるよう命令した。そのとおりにした。  だから何だっていうの!  伯母はそう言うと突き飛ばした。馬糞の中へ倒れた。  成長すると兄弟は馬小屋に近寄らなくなった。狩りをする馬が必要なときだけ小屋にきた。赤毛の女の子は遠くの寄宿舎学校へ入り、いなくなった。伯母も、やがて残飯を小屋まで運んでこなくなった。伯父は畑を他人に売り飛ばした。  馬小屋の隅に忘れ去られほとんど人に会わなくなった。藁の中で何年も隠れるように生きた。すでに馬小屋から逃げ出していなくなったものと考えられているらしかった。馬糞の処理は夜中に続けていた。だれかが馬小屋をたずねてきたときは隠れた。馬小屋の壁に並ぶ石は人の顔が連なっているように見えた。あいかわらず腕や踵にも見えた。それらを見つめて眠りについた。  夜中に這い出して残飯の捨てられた穴で食事をした。伯母に見つかった。  あんた、まだいたのかい。  少しのお金を地面に捨てた。それを拾って出て行くようにと命令された。  町へ行った。高い建物があった。人が多かった。目があうと人々は驚いた。顔がへこんでいるからだった。あからさまに見る人と、見ようとしない人がいた。  伯母のお金を盗まれた。夜、路地裏を歩いていると大人の男たちが数人、近づいてきた。ひどいことをされて、町には近づいてはいけないと思った。町から離れて道を歩いた。何年間も歩きつづけた。  やがて森に入って生活するようになった。人に見つからないよう生活していた。人に会うと、ひどいことになった。家を作らなくてはいけないと思った。馬小屋の、石の壁を思い出した。同じものを作ろうと考えた。顔や手足に似ている石を探した。森を徘徊《はいかい》した。町から充分に離れた森だった。石はめったに見つからなかった。森のどこまでも木々が並んでいた。地面は厚く木の葉がつもった腐葉土だった。  石を探している時、山道を歩く青年に出会った。人は恐ろしいので、殺してしまおうと思った。殺した。その青年の顔は何かに似ていた。馬小屋の壁にはまっていた石のひとつに似ていた。青年の死体を、森の奥へ運んだ。家の材料が見つかったと思った。 [#ここから6字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  死体をつかって家をたてる。死体を重ねて壁を作る。死体を集めるために森を出た。  道を女が歩いていた。胸に布の袋を抱える若い女だった。道の脇の叢に潜んでそれを見ていた。女が目の前を通りすぎた。叢から立ちあがり女の背後に歩み寄った。足音に気づいて女が振りかえった。悲鳴は大きかった。顔のへこみを見た者はたいてい怒り出すか悲鳴をあげるものだった。女の首に手をかけた。女は抱えていた布の袋を落とした。中に入っていたものが散らばった。入っていたのは野菜だった。転がった芋がつま先に当たった。  首の骨はかんたんに折れた。その瞬間に女の口から悲鳴は消えた。ただじっと目を開けて見ているだけだった。顔のへこみの奥を見据えようと目を開けているだけだった。女の体を叢の中に引きずった。散らばっていたものも拾い集めた。女の冷たい体は後に家の土台となった。冷たい森の腐葉土に横たえて、積み上げる死体の壁を支えることになった。  男が橋を渡っていた。帽子をかぶって、手押し車を引いていた。小さな木の橋だった。小川のほとりには雑草が生い茂っており、川面に木の橋が反射して映っていた。橋のたもとに隠れた。男の引く手押し車が通りすぎる瞬間、それに飛び乗った。音はたてなかった。男は最初のうち気づかなかった。しかし手押し車が重くなったために不思議がり後ろを見た。握っていた石で男の頭を割った。男は悲鳴も上げないまま息をしなくなった。  男の体を手押し車に載せた。男はどうやら果物を隣の町に運ぶ仕事をしていたようだった。手押し車の荷台には木箱が積まれていた。果物が入っていることを示す文字の焼印がおされていた。手押し車ごと森の奥に運んだ。他の無数の死体といっしょに積み上げて家の壁とした。男の体は家を作る材料となった。  家の材料はいろいろな場所から集めた。森から離れた町で材料を得るのがもっとも騒がれなかった。人間を殺して町のはずれで一箇所に重ねた。多く集まったら手押し車に載せて森に運んだ。荷台に折り重なった人間には藁をかぶせて隠した。夜に手押し車を押して森まで帰った。  待ちなさい。  夜中、家の材料を載せた手押し車を森に運んでいるとき、後ろから声をかけられた。男の声だった。咄嗟に、へこんだ顔を隠した。見られたらいやなことになると思った。  こんな夜中に出歩くもんじゃない。最近、このあたりにはひとさらいが出るという話だ。  男は電灯を持っていた。初老ほどの年齢だった。男は近寄ってきた。手押し車の荷台の縁に手を乗せた。荷台に積んでいる藁を見て、男は言った。  ひとさらいは隣の町にも、もっと遠くの町にも出るそうだ。さらわれた人は今ごろどうなっているんだろうな。孫が言うには、食べられているんじゃないかってさ。  男は、藁の間から突き出ている女の白い足首の上で視線を留めた。首をかしげてそれに手を伸ばした。本物の足である冷たさを感じ取り、男は驚いていた。首をしめた後、男を荷台に載せた。  森は静かだった。鉱物のように硬い木の幹が無限にどこまでも続くような森だった。冷たさのために葉はすべて色を失い、ほとんど落ちていた。落ち葉の上に人間を並べた。壁のできる場所に並べた。  単純な四角い箱のような家を作った。人間をすきまなく積み上げて壁にした。男も女もいた。旅人も村人もいた。森に運ぶと服を脱がせた。裸になったそれらは白かった。  寝た格好で壁に組み込むのもあれば、座った格好で壁になるものもいた。膝をかかえる状態のものもあれば、だれかの首に手をまわした状態で壁にはまるのもあった。壁は薄くはなかった。一層では強度が弱くなるので数人分の厚さで壁を作った。支えるために木をつかうこともあった。小屋は完成に向かった。材料がたりなくなれば探しにでかけた。壁の高さはましていった。材料は白かったので白い小屋になった。  冷たい日が続いた。できかけの壁に身をよせて眠った。人間の持つ荷物の中に食料が入っている場合があった。それを食べて飢えをしのいだ。人間の積み重なった壁が完成すると次は屋根だった。大きな木の枝を壁の上に何本も通して上に死体を寝かせた。それで雪は防げた。  家は完成した。静かな森の中に白い小屋ができた。死体の肌は冷たくておそろしく白かったので月光をあびると膜がかかったように輝いた。壁の下のほうの死体は重さに押しつぶされて腐葉土の中へめり込んでいた。  立って入れるほどの家だった。入り口があり壁と屋根があるだけの構造だった。それでも風を防ぐことができた。中に入って膝を抱えた。周囲を見ると顔が並んでいた。壁になった人間の体は、複雑に入り組み、積み重なっていた。どれも目を開けてこちらを見ていた。馬小屋の壁に似ていた。壁の女が長い髪の毛をたらしていた。下に折り重なっている他の者たちの顔を隠していた。  家の中で生活した。静かな生活だった。森には鳥さえいなかった。ただ白い家があるだけだった。顔はどれも目を開けて見ていた。  壁の人間は入り組んでいた。肘を曲げた男がおり、その真横の者は肘に合わせて体を捻《ね》じ曲げていた。地面から直立して上にのしかかる女や男を頭で支える少年もいた。人間の腕や足が入り組む様は、大量の蛇が一箇所に集められてのたうっているようだった。中で膝を抱えて眠った。冷たい夜が続いた。  伯母の家にいたときのことをよく思い出した。目を閉じるといつもあの馬小屋にいた。赤毛の女の子のことも思い出した。両親と住んでいた家のこともよく思い出した。裕福な家ではなかった。冬、父は冷たく凍った畑にくわをふるっていた。母は手を赤くしてそれを手伝った。両親が事故にあったのは雨の日だった。通りすがりの馬車が転倒し、両親を巻き添えにしたのだと伯母は説明した。  伯母の家に引き取られて、馬小屋を与えられた。決して母屋の中に入ってはいけなかった。馬小屋の中は馬糞のせいで臭かった。壁の下半分は丸い石が積み上げられて、人間の顔が並んでいるように見えた。  しばらく暮らしていると、少女が訪ねてきた。 [#ここから6字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  家の中で考え事をしていると落ち葉を踏みしめる音が聞こえた。だれかが森の奥深くにあるこの家を探し当てたのだとわかった。灰色の空に弱々しい太陽が輝き、小屋の入り口から中を照らしていた。やがて入り口に小さな影が覆いかぶさったので顔をあげてそちらを見た。少女が入り口の縁に片手をついて立っていた。  まだ小さな子供だった。恐々《こわごわ》とした表情をして黒色に近い青色の服を着ていた。肌は不健康に白く唇も青ざめていた。それは寒さや飢えのためではなく不安のためであるように見えた。  あなたが住んでいるの?  少女は震える声で聞いた。両手を胸の前で組んで、首をすくめていた。  ……人間で家ができているわ。  積み上げられた白い人間たちを見上げながら小屋の周囲を歩いた。その後ろをついて歩いた。少女は振り返ると、驚いたように言った。  よく見るとあなた……、顔に穴が開いているのね……。  少女は心配そうな顔を近づけてきた。  そのうち鳥が巣をつくりそうな大きな穴が顔に開いているのね……。奥が暗くてよく見えないわ。  少女は顔のへこみが気になるようだった。  あなたがみんなを連れ去っていってたの?  少女は今にも気絶しそうなほど緊張していた。  弟を連れ去った人は森の奥にいるって思っていたの。ねえ、弟を返して。私は弟を探しにここまできたの。  少女は泣きそうな顔をすると、人間の積み上げられた壁を見た。白い色の死体が積み重なっていた。冷たい森、太陽の薄明かりの中、壁は燐光《りんこう》を放つように見えた。  きっとこの中に弟はいると思うの。弟は、利発そうな顔をしたかわいい男の子よ。  利発そうな顔の子供は小屋の内側奥の壁にはめ込まれていた。地面に直立して上にのしかかる死体を頭で支えていた。少女を小屋の中に案内すると、直立する少年の顔を見て、弟の名前を呼んだ。静かな森に声は響いた。少女が弟の死体の肩をつかんで引き抜こうとしたのでそれをやめさせた。その子供が抜けると、死体の家は崩れ落ちるにちがいなかった。  でも、私はどうしても弟を家に戻したいの。  少女は泣き出した。  お父さんは私よりも弟が好きなの。だっていつも恐ろしい顔をして私をぶつわ。だから、お父さんは弟がいなくなってからとても悲しんでいるの。お父さんは、お母さんや弟といっしょにごはんを食べるのが楽しみだったのよ。お母さんは今、お仕事で外国に行っているけど、帰ってくるまでに弟をおうちに連れ帰ってあげたいの。ねえ、おねがいだから弟を返して。  少女は枯れ葉の上に膝をついて懇願した。男の子を取り外すと小屋がつぶれるので少女の願いを断った。少女は泣きはらした目で言った。  私が弟のかわりになるわ。  男の子を壁の中から取り出すとき支えなければならなかった。その間に男の子の埋まっていた場所へすばやく少女が入り込んだ。壁の材料になっていた男の子は直立したままの格好で小屋の中に転がった。少女は弟の入っていた場所にぴたりと同じ格好をして収まった。服を着たままだったので白い死体の中でただひとつの色だった。  お願い弟を家まで連れて行ってあげて……。  少女は苦しげに言いながら、家までの道順を説明した。すぐに覚えることができた。  覚えるのが早いのね……。  死体の壁に埋まったまま少女は驚いた顔をした。男の子の死体を小屋の外に運び出し、家に返しにいくふりをして小屋を出た。男の子の死体は小屋から少し離れた場所に放置した。その脇に座り、膝を抱えて小屋の入り口を監視した。男の子を家へ返しにいく気はなかった。小屋を留守にしている間、少女は壁の中から抜け出して逃げるつもりだろうと考えていた。  しばらく待ったが、少女は出てこなかった。一日が過ぎた。それだけの時間があれば、少女の家に行き、戻ってくることが可能だった。男の子を連れて行ったふりをして小屋に戻った。少女は壁に埋まったまま動いていなかった。  ああ、弟を返してくれてありがとう。お父さんはきっと喜ぶわ。外国から帰ってきたお母さんも悲しまないですむわね。  少女は嬉しそうに言うと涙をこぼした。白い死体の積み重なった壁に組み込まれた少女は、直立した格好をしたまま上に積み重なる死体を頭で支えていた。  少女との生活が始まった。少女はおしゃべりだった。小屋の中は少女の声で満ちた。壁に並ぶ死体の顔はあいかわらず目を開けていた。壁の下に敷かれた死体は日を追うごとに形がつぶれていった。  最初のうち少女は恐々と話をしていたがやがて笑うようになった。静かな森の、冷たく白い小屋の中で、少女の笑顔は光を放つように思えた。  ねえ、顔の穴はなぜできたの?  少女が問い掛けたので、伯母の家のことを話した。  かわいそうに……。  少女は同情しながら泣いた。少女もよく父親にたたかれて、そのときは馬小屋の中に逃げ込んだと語った。馬小屋の馬糞が臭いを発していたと、少女は顔をしかめて思い出していた。  この家の臭いもすごいけど、馬小屋もすごいのよね。  少女に物語を聞かせてすごした。伯母の家で読んだ本を忘れることはなかった。  不思議な日々だった。それまでは小屋の中でひとり、目を開けて並んでいる顔の中心で膝を抱えるだけだった。そのときに感じた恐怖が今は薄らいでいた。音もなく静かに心が満ちていった。 [#ここから6字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  少女は直立した状態で眠った。少女はしばらくすると口数が少なくなった。顔が白くなっていき、周りの死体と同じ色になっていった。寒さと飢えのために死ぬのだと思った。  何かお話を聞かせてちょうだい。  少女がそう言ったので記憶していた本を暗唱した。  やがて目を開けた状態で少女は瞬《まばた》きするのをやめた。やさしげな笑みをうかべていた。  少女は縦に縮んでいた。頭にかかる死体の重さに、少しずつ潰されていたのだと知った。弟の背丈よりもわずかに大きかったためだった。少女の顔色が冷たい白色になると小屋の中の色は少女の服の濃い青色だけになった。小屋の中で膝を抱えてじっとした。話し相手がいなくなったので、声は必要なくなった。人間の積み重なった家はまたもとのとおり静かになった。残念な気持ちになった。  立ち上がると少女の家に行くことを決心した。まだ少女との約束を果たしていなかった。少女の弟を家まで運ばなくてはならなかった。  男の子は小屋のそばに寝かせたままだった。外の陽の当たる場所だったため腐っていた。抱えようとすると柔らかく崩れた。少女も家に戻してあげたかった。少女が両親のことを深く愛していたからだった。  少女を壁から抜き取ることをためらわなかった。少女の小さな肩をつかみ、引き抜くと、家がかしいだ。少女の死体を抱えて入り口を出た瞬間、死体を積み重ねて作った白い家は崩れた。壁になっていた人間も屋根になっていた人間も一斉に山になった。その衝撃で人間の体でなくなりすべてただひとつの巨大な塊になった。  木の幹が無限に続く柱のような凍える冷たい森の中で静かに肉の山があった。家の材料にした旅人の持ち物で、両手に抱えるほどの大きさの木箱があった。果物が詰めてあったものだった。木箱の蓋には、果物が入っていることを示す文字の焼印がおされていた。それを探し出して少女の死体を中に入れた。腐った少年の体を少女といっしょに箱に詰めた。体を折り曲げた少女と箱のすき間に弟の体は流れて入り込んだ。蓋をして箱を抱えると家へ向かった。  少女の家には、半日ほど歩けばついた。小さな村を通り抜けた先にある、丘の上の家だった。扉を叩いたがだれもいなかった。姉弟をつめた箱を玄関先に置いて立ち去ることにした。  家を離れようとしているとき道の向こうから歩いてくる女に気づいた。女は大きな鞄を抱えていて、少女の家に向かって近づいてきた。外国に行っていた少女の母親が戻ってきたのだと気づいた。  家の前に立ったまま女がくるのを待った。やがて女は家の前で立ち止まり、顔いっぱいの笑顔を浮かべた。  ああ、神様。ありがとう。  女は肩に手をまわした。  生きてたのね。その顔、馬で蹴られたときのままだわ。うちからいなくなったと聞いて、心配していたのよ。  女の髪の毛は赤毛だった。そうだわ。うちでまた働くといい。私、ひさしぶりに戻ってきたのよ。子供たちに会えるのが楽しみでならないの。女は扉の前の木箱を見下ろした。蓋を開けようとして、動きを止めた。  臭うわね。このフルーツ、中身が腐ってるみたいだから肥料の山の中に捨てておいてくれない?  女は箱を指差して言うと家に入った。箱を抱えて馬小屋の裏にある肥料の山へ向かった。子供のときに見たまま肥料の山はあった。少女と少年を馬糞の中に埋めた。馬小屋に入った。昔のままだった。壁に体を寄せて眠りについた。 [#改丁]  Closet [#改丁] [#ここから6字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり] 「ねえさん、やっと到着したんだね。電話した件のことを二人だけで話したいからおれの部屋へ来なよ」  リュウジが自室の扉を開けて声をかけた。リュウジの部屋は離れにあり扉を開けるとそこは庭だった。夜の冷たい空気が部屋に流れ込んで室温を少し下げた。  ミキがその扉から入ってきた。薄手のコートを羽織《はお》っており、十一月の冷たい空気の中を駅からこの家まで歩いてきたばかりのようだった。右手に持っていた旅行用の大きな赤いトランクを床に置いた。 「……まだこの家の母屋にも足を踏み入れていないのよ。休みたいわ。この家、丘の頂上に建っているんだもの。坂道を上るのに疲れて足がもう動かないくらいよ」 「大きなトランクだね。この古い家に引っ越しでもするつもりかい? かまわないよ、かあさんやとうさんも喜ぶさ。それとも夫の両親と住むのはいやかい?」  ミキは床に置いた大きな荷物をつま先で軽く蹴った。 「イチロウさんの部屋に置いてからあなたの部屋を訪ねようと思っていたのよ」  汚い動物を見るような目で彼女はリュウジを睨んだ。しかし左手は胸の前で握り締められていた。不安で心細くなった時の彼女の癖だった。リュウジは微笑んでミキをソファーに座らせた。 「話はすぐにすむよ。もう夜の九時だしね」リュウジがそう言ったとき時計の音が九回、鳴った。「おれはこの後、友人に会わないといけないんだ。ねえさんがこの家に来るのは二回目だっけ?」 「結婚式のときも入れたら三回目」 「にいさんは苦労かけてない?」  リュウジは扉に近づいた。彼の体は小さいため歩幅が極端に小さかった。 「なぜ鍵をかけるの?」 「いつもの癖さ。この部屋とそっちの物置には大事な物が多いからね、いつも扉には鍵をかけるんだ」 「それにしても汚い部屋ね。台風が通過した後みたい」  ミキは部屋を見回した。広い部屋だったが散らかっていた。床は板張りで衣類や雑誌の類いが散乱していた。錆の浮いたパイプベッドが隅にあり木製の机と椅子が置かれていた。机の上には古いタイプライターが載っており、その周囲にうずたかく本が積み上げられていた。 「ここで作品を作っているの?」 「まあ、そうだね」  中央に革張りのソファーセットがあった。ソファーの背もたれにも脱ぎ散らかした衣類が引っかかっていた。ソファーではさむように低いテーブルがあり飲みかけのまま放置されたコーヒーカップが二つ載っていた。湯気は立っておらず冷めていた。 「あの扉が物置?」  ミキはベッド脇の壁にある扉を指差した。 「そうだよ。使わないものを置いておくんだ。おれの本とか、にいさんの描いた絵とかも、全部そこさ。見てみるかい? 人が住めるくらい広い物置なんだぜ」  ミキは首を振り遠慮するわと答えた。  窓はひとつだけあるが閉まっていた。カーテンは開け放たれており夜の窓ガラスは大きな鏡となってミキの姿を反射していた。 「この木製のクローゼット、イチロウさんの部屋にあるものと同じもの? 両開きの扉に植物の彫刻、母屋にあるあの人の部屋で見た気がするけど」 「ひいばあちゃんがおれとにいさんにそろいのやつを買ってくれたんだ。このクローゼットにも鍵がかかるんだぜ。時々調子が悪くなるんだけどね」 「……でも、なんだか怖いわね。まるで巨大な黒色の箱みたいよ。フユミさんの部屋にもあるの?」 「いや。ひいばあちゃんはフユミが生まれたときにはもう死んでたから」  この家には二人の息子と一人の娘がいた。そのうち次男のリュウジだけがこの家で両親とともに暮らしていた。彼は小説家だった。 「イチロウさんは今どこにいるの? 一日早くこの家に来たはずだけど」 「散歩に行くって言っていたよ。惜しいな、つい一時間前までこの部屋にいたんだけど、ねえさんと入れ違いになったね。おれが物置で本を読んでいる間にいなくなってたんだ。物置のほうがこの部屋よりも片付いてるもんだからさ、そっちで腰掛けて読書したほうが集中できるんだよな。いつにいさんがいなくなったかわからないもんだから、さっきまで部屋の鍵を閉め忘れてたんだ」  リュウジは神経質そうに爪を噛みながら扉の錠が今は下りているのを確認した。ステレオの電源を入れて音楽をかけると彼はミキと向かい合わせに座った。木目調のスピーカーから音楽が流れはじめた。少しうるさいほどの音量だがリュウジは気にしなかった。部屋は離れにあるため音を出しすぎてもうるさがる人間はいなかった。ミキは躊躇するように空中へ視線をふらつかせてから口を開いた。 「それでリュウジさん、電話で話したことは本当なの? 栞《しおり》さんに会ったという話……」 「一ヶ月前、ある出版社からの仕事でインタビューを受けたんだ。そのときおれに取材をしたライターというのが彼女だった。その時はまだねえさんの昔の友達だなんて知らなかったけど。知り合って一週間くらいしてね、彼女がねえさんの大学時代の同級生だってわかった。親友だったんだって? でもそれがわかったときの彼女は、顔を青ざめさせていたよ」  リュウジは顔色を探るようにミキの顔を眺めた。ミキは黙り込んだままだった。 「理由を聞こうとしたが彼女はしゃべらなかった。でもある日、知ったんだ。店で酒を飲んだときのことだった」 「酔っ払って何か言ってた?」 「店のテーブルに突っ伏してね、うなされるように交通事故の話をはじめたんだ」  ミキは溜め息をついて立ち上がった。 「二人で車に乗っていたとき、中学生の乗っていた自転車を引っ掛けて転ばせたんだって? 安心しなよ、だれにも喋らないさ。その後で逃げただなんて」 「……その子が死んだなんて、そのときは思ってもいなかったのよ。軽い怪我だろうって思ってた」 「翌日の新聞でそのことを知ったとき、どう思ったんだい? 罪悪感が心をよぎった? それとも恐怖? 悔恨? それから今まで、警察に怯《おび》えながらねえさんはいったいどんな人生を送ってきたんだい?」  リュウジはソファーから立ち上がりミキを見た。まるで宝を見つけた子供のような瞳をしていた。 「さあ、おれに教えてくれないか」 「イチロウさんに言うつもり?」 「馬鹿だな! わかってない! おれは作家なんだぜ!? これまでねえさんの抱えていた秘密と苦悩を、芸術に仕立て上げるのさ!」  リュウジは手を鷲爪《わしづめ》のような形にして力を振り絞るように叫んだ。肩で息をした後、疲れたようにソファーへ座りなおした。 「……もちろん、返事はまたそのうちでいいさ」  ミキはステレオのアンプに近寄るとボリュームをいじった。スピーカーから流れる音楽がさらに音量を増した。 「まだだれにも言ってないのでしょうね」 「本当はしゃべりたくてうずうずするよ」 「だれにも話してほしくないわね」  ミキは棚に飾られていた石の灰皿を手にとった。ちょうど小説家を殴り殺すのに最適のサイズだった。リュウジはソファーに深く腰掛けたままミキに背中を向けていた。 「イチロウさんはこのことをまだ知らないのよね……」 「さあね。まあ、ああいう人だから、知ったとしても離婚はしないだろうけど。……そもそもにいさんのどこに惚れたんだい? ちょっと、頭がいかれてるぜ」  ミキは灰皿をもとの場所へもどした。 「どういうところがいかれてるっていうの?」 「変質的なところさ。だからにいさんの描く絵は売れるんだろうがね。おれはにいさんの描いた絵が怖いんだ……。そっちの物置にある絵を見てみろよ……」  ミキは物置へ続く扉の方向へ足先を向けた。そのときリュウジが笑った。 「人殺しと変質者の夫婦か……。傑作だね……」 「……その通りね」  三分後。  ミキの手から滑り落ちた灰皿が床に衝突し重い音をたてた。灰皿には血がついていた。ソファーに座ったまま背後から頭を殴打されたリュウジは重力に負け上半身を力なく前の方へ傾けていた。恐る恐る背後から肩をつかんで引くと彼はソファーの背に体重を預ける形でのけ反《ぞ》り喉仏をあらわにした。リュウジが事切れているのを確認すると荒くなった呼吸を落ち着けるようにミキは一度深く息を吸った。両てのひらを顔の前に広げ十本の指がふるえている様を不思議そうに見つめた。  不意に扉がノックされた。殻を割るために卵をうちつけたような小さな響きだった。ミキは動きを止めて扉を見つめた。 「リュウジ、いないの? いるのでしょう? 音楽が部屋の外まで聞こえるわ。ねえ、編集部の方からお電話よ」  この家の母の声だった。ミキは返事をせずスピーカーを振り返った。音楽は大きめの音で流れ続けていた。 「ねえ、開けるわよ」  取っ手を回して扉を開けようとする気配があった。しかし今はもう死んだ部屋の主が錠を下ろしたままだったので開かなかった。母があきらめて帰るとミキは溜め息をついた。しかし表情は硬かった。ステレオの電源を切り両手を額にあてて首をふった。 「どうしてこんな……」  死体を見る。 「こんなことって……!」  大きな声を出すわけにはいかないためささやくようなかすれた声だった。 「とにかくここから運びださなくては……」  しかしこの死体をどこに持って行けばいいのだろう。 「……いったんどこかへ隠そう」  乱雑に物が置かれた部屋の中を見回した。脱ぎ散らかされた服が部屋中に落ちており足の踏み場を確保するため部屋の片隅へ寄せ集められていた。  クローゼットの上でミキは視線を留めた。 「黒い木製のクローゼット……、小説家の死体を入れておくのにちょうどいい大きさね……」  近寄り開けて中を見ようとした。しかし開かなかった。リュウジはクローゼットにも鍵をかけると言っていた。クローゼットの取っ手の下には金色の鍵穴があった。  死体を探るとポケットにいくつかの鍵が入っていた。その中に金色で無骨な形をした古風な雰囲気のものがあった。 「きっとこれがクローゼットの鍵ね」  彼女は鍵を鍵穴に差し込んで回した。  十分後。  ミキはリュウジの死体を隠し終えた。彼は小柄だったため、作業は容易だった。しかし隠し場所の中には衣類がぎっしりつめこまれていた。リュウジを中に隠すためにはその分のスペースを作らなければいけなかった。中に入っていた物を取り出し部屋の隅においやる作業が必要だった。  部屋を出る際にミキは部屋の隅に積み上げられた衣類の山を振り返った。不安げに下唇を噛んで左手を胸の前で握り締めた。  扉を閉めた。鍵をかける音が辺りに響いた。ミキはリュウジのポケットに入っていた鍵をすべて持ち去り、その中には部屋の鍵も入っていた。部屋には人間の入ったクローゼットだけが残された。 [#ここから6字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  翌朝の食卓。  ミキはテーブルについていた。窓から見える空は厚い雲に覆われ薄暗かった。そのせいでまだ夜明け前のようにも感じられた。照明をつけても部屋のすみずみまで充分に光はとどかずどんなに追い払ってもまとわりつく羽虫のように暗闇が立ちこめていた。  昨日よりいっそう気温は低かった。ミキは肩を縮めて震わせた。屋敷が古いせいかどこかに風が忍び込む隙間ができているようだった。まわりを人が歩くたびに床板同士が歯ぎしりする耳障りな音をたてた。 「あ、おかあさん、私も手伝いましょうか」 「いいのよ、ミキさんは座ってなさい」  ミキは言われたとおり椅子に腰掛けて運ばれてくる総菜を眺めた。 「ねえさん」  呼ばれてミキは振り返った。声をかけたのは隣に座るフユミだった。 「ねえさん、きのう、なんじごろについたの? 全然、気づきませんでしたよ。ねえ、この家までの道、暗くて迷わなかった? 森が広がっているでしょう。外灯もろくにないし。まるで赤頭巾ちゃんになったような気分しなかった?」  フユミはそう言うと唇の端をまげて笑みを浮かべた。彼女は不健康な青白い肌をしていたが唇だけは真っ赤だった。 「そうね、いつ狼が襲ってくるかと怖かったわよ」 「あら、ねえさん、童話で狼が襲い掛かってきた場所は、赤頭巾ちゃんの辿りついたおばあちゃんの家だったのよ。だから怖いのは森の中ではなくて、家の中よ」 「……そうね」  フユミは運ばれてきた皿を細い指先でつついた。血がかよっているとはとても思えない病的な白さの指だった。 「ねえさん、カーディガンかなにか、持ってきましょうか。さきほどから見ていると寒そうな感じがするもの」  ミキは薄手の服を着ているだけだった。 「でも悪いわよ。着替えがないというわけじゃないの、ただ油断していただけ」 「一晩でこんなに冷え込むとは思いませんでしたからね」  フユミは年代物のストーブに目を向けた。一人では運べない巨大なもので鉄錆が浮いていた。表面にいくつかへこみの見られるやかんが載せられゆっくりと白い蒸気を出していた。窓には大量の水滴がついていた。フユミは溜め息をついた。 「……リュウジにいさん遅いですねえ。もうみんな集まっているというのに。私、起こしてきます」  立ち上がろうとするフユミをミキは引き止めた。 「ここへ来る時に部屋をノックしたけど鍵をかけてまだ眠っているようだったからそっとしておいた方がいいのではないかしら。きっと昨晩、遅かったのよ」  嘘を並べた。 「そういえば夜に友達に会うと言っていましたねえ。だから寝坊か。いえ、それともまだ帰っていないだけなのかしら。リュウジにいさんは部屋に鍵をかけてしまうから、いるのかいないのかいつもわからないのよね」  次男不在のまま朝食は進められた。リュウジ以外は皆そろっていた。静かな食卓に居間の方から電話の鳴る音が聞こえてきた。母が立ち上がり食卓を立ったが数分で戻ってきた。 「かあさん、だれからだったの?」  フユミが聞いた。 「リュウジのお友達からだったわ。どうして昨日の夜、来なかったのかって心配してた。まだリュウジは寝てるみたいって説明したら、また掛け直すって」 「結局、リュウジにいさん、遊びには行かなかったのね。事故にでもあったのかしら」フユミは興味がなさそうに食事を続けながらしゃべった。「今ごろ、死んでいたりしてねえ。交通事故かなんかで」 「そんな……」  ミキは箸を止めた。フユミは首を傾げて彼女を見つめた。 「どうかした?」 「いえ……」 「ちょっと、あいつの部屋を覗いてくる」 「とうさん、いちいちそんなことする必要ないわよ」  フユミはそう言ってこの家の父を引きとめようとしたが食卓の席はまた一人分空いた。 「覗いてくるって、おとうさん部屋の鍵はどうするのかしら?」  ミキのつぶやきにフユミが答えた。 「とうさんはスペアキーを持っているはずよ。この家のすべての鍵のスペアはとうさんがまとめて保管しているから」 「そう……」 「あ、とうさんが戻ってきた。ねえ、リュウジにいさんはどうだった? いたの?」 「いなかったよ。物置まで見たが空っぽだった。それにあいかわらず散らかっていた。服が部屋の隅に積み上げられていたんだ。せっかくクローゼットがあるのだから片付ければいいのに」  二時間後。  ミキはリュウジの部屋へ入り扉に鍵をかけた。内側からなら鍵を使わなくとも錠を下ろすことができた。辺りを見回した。昨夜、部屋を出た時と変化はなかった。あいかわらず部屋は散らかっていた。  死体の座っていたソファーに近付いた。額に指をあててこれは悪夢なのだと自分に言い聞かせるように目を閉じた。深く呼吸して目を開けるとソファーのまわりを子細に調べた。  テーブルの上に血が点々とついていた。父は部屋に入ったときこれに気づかなかったらしかった。他に血の跡はなかった。リュウジの流血は意外に少なかった。爪でこすると乾いた血の点のひとつが取れた。続けてほかの血の跡もこすりとろうとしたとき、扉がノックされた。 「ねえさん、ここにいるの? 部屋に入るところ見ましたよ。私も中に入れてほしいの」  フユミの声だった。ミキは逡巡《しゅんじゅん》した後、近くに落ちていたリュウジのシャツを拾うとテーブルの赤い斑点にかぶせた。これでひとまず覆い隠すことができた。扉の鍵を開けるとフユミが入ってきた。彼女は室内を見回した。 「一人なのね。リュウジにいさんがもうもどっているのかと思った。ねえさん、この部屋に何か用事?」 「……イチロウさんがリュウジさんの本を読みたいと言っていたから借りようと思って」 「ふうん。イチロウにいさんは?」 「散歩だそうよ。お昼にはもどると言っていたけど」  ミキはリュウジの本が置いてある物置への扉に向かった。フユミに嘘を怪しむ様子はなかった。 「イチロウにいさん、あなたのことをよく話して聞かせてくれます。あまり詳しく聞かされたから、結婚前にはじめてねえさんの顔を見た時、初対面とは思えませんでした」 「なんだか恥ずかしいわ」 「実家が大変なお金持ちだそうですね。お父様が医者だなんてうらやましい」 「そんなでもないのよ。普通の町医者よ。家も普通」 「イチロウにいさんは綺麗好きだから、家の掃除なんかが大変でしょう。対照的にリュウジにいさんの方は部屋がこれなの。だから結婚できないんだわ。せっかくだから片付けてあげよう」  フユミは部屋の隅に積み上げられた大量の衣類を可能なかぎり多く腕にだきかかえクローゼットの前に運んだ。 「待って、フユミさん!」  ミキが物置を出てきて声をかけた。フユミに追いつくと彼女のかかえていた衣類を取り上げた。 「ねえさん、どうしたの。クローゼットに押し込んでおけば、ずいぶん見栄えがすると思うんだけど……」 「でも、それ、開かないの。クローゼットの鍵、壊れているのよ。いえ、鍵がかかっていて開かないのね、きっと」  声が上ずった。フユミがわずかに眉をひそめ、クローゼットの取っ手に生白い指をかけた。 「本当だ、ねえさんの言うとおり開かない。きっと鍵はリュウジにいさんが持ったまま出かけてしまっているのねえ。せっかく片付けてあげようと思ったのに」  そう言うとフユミは、テーブルに置いていたリュウジのシャツをつまみあげ部屋の隅に放りなげた。 「こんなところにまで脱ぎ散らかしているんだから、まったく」  テーブル上の赤い斑点が露《あらわ》になった。 「ねえさん、どうしたの。気分が悪そう」  フユミは血の跡に気付いていなかった。彼女から取りあげた衣類をミキは再び部屋の隅へ運んだ。 「なんでもないわよ、さあ、部屋を出ましょう」  そう言ってフユミが血の斑点に気づかないうちに二人で部屋を出た。十分後に戻ってきて血の跡などの処理をした。ついでに物置に入り、本を一冊、持ち出した。  時計が正午の鐘を鳴らすと同時に食卓の席へミキが現れた。彼女とリュウジ以外の人間はすでに食卓に集まっていた。  ミキは食卓で顔を寄せ合い話し合っている母とフユミを見て立ち止まった。 「どうかしたんですか?」 「ねえさん、これを見て。おかしな手紙が郵便受けに入っていたの」  ミキはテーブルに近づき、フユミの差し出す白い紙を受け取った。紙を読んだミキは顔を青ざめさせた。 「白い紙に文字がタイプされているの。『オギシマリュウジ ハ コロサレタ ジブン ノ ヘヤ デ ナグラレタ』って」  フユミは腕組みをして立ち上がった。 「一体だれが書いたのかしら。ねえかあさん、リュウジにいさんのいないことを家族以外のだれかに話した? この手紙を郵便受けに入れた人間は、この家を見張っているのかしら。それにしても『コロサレタ』だなんて物騒ね」  ミキは気持ち悪そうに紙をテーブルへ置いた。 「……気味が悪いわね」  ミキの肩にフユミが死人のような白い手を載せた。その瞬間、ミキは氷を首筋へ当てられたように肩を震わせた。 「この手紙、切手がはってないの。だれかが直接郵便受けへ入れたみたいね。にいさんが部屋で殺された……、まあリュウジにいさんの部屋は一階の離れにあったから、私たち家族に覚《さと》られず犯人は部屋に入ることは可能だったでしょうねえ。ところでねえさん、後で話をしましょう。二人だけで。場所はどこでもいいけど、そう、ねえさんの部屋にしましょう。つまりイチロウにいさんの部屋のことですけど。一時間後に、いいですか」 [#ここから6字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  一時間後。  フユミは部屋に入ってくると部屋を見回した。 「イチロウにいさんの部屋、久し振りに入りました。ここにもリュウジにいさんの部屋にあるのと同じ、大きな黒い木製のクローゼットがあるんですね。子供のころ、なんで私にはないのかってずっとうらやましかったんですよ」 「散らかっていてごめんなさい」  衣類や旅行用のトランクなどが部屋の隅に集められていた。 「リュウジにいさんの部屋に比べたらここは綺麗なもんよ。気にしないで」  フユミは部屋に飾られている絵をしばらく眺めていたが、やがて机の椅子をひいて腰掛けた。ポケットからさきほど食卓で見せた白い紙を取り出した。 「この手紙を書いた人、本気なんでしょうかねえ。リュウジにいさんが殺されただなんて……」 「……その手紙、本当に郵便受けにあったの?」 「……私が書いたとでも?」 「いえ、そうじゃないけど……」 「本当に郵便受けに入れられていたの。私が見つけたのよ。それよりもおもしろい話があるんです。昨晩、編集部からリュウジにいさんあてに電話があって、かあさんが昨日の夜九時すぎにあの部屋をノックしたらしいの。鍵がかかっていてだれも出てくる気配はなかった。でも、音楽が部屋の中で流れていたんだそうよ。どう思う?」 「どう思うって、何が……?」 「手紙には『自分の部屋で殴られた』って書いてありますよね。私はこう思うの。かあさんが部屋を訪ねたとき、部屋の中にリュウジにいさんはいたんじゃないかって。別に確信なんてないわ。でも、外出するときに音楽をつけっぱなしにするかしら?」  フユミは椅子から立ち上がり室内を歩き回った。 「もしもあの手紙が本当だとするなら、犯人はリュウジにいさんを殺した後、その死体をかついで音楽を止めずに部屋を出て行ったのかしら。イチロウにいさんは昨日の夜八時までリュウジにいさんの部屋にいたんですって。少し話をして部屋を出たそうです。私の調べた限りではリュウジにいさんの顔を見たのは、イチロウにいさんが最後のようです」 「あの人が犯人だと言いたいの?」 「いいえ。ただ、リュウジにいさんはいつも扉の鍵を閉めていたことが気になったんです。突然やって来て部屋へ押し入り殺すことは容易ではないでしょう。まず最初に部屋へ入るため扉の鍵を壊すか打ち破るかしないといけない。でもイチロウにいさんの話では、黙って出てきたから、自分が追出した後、リュウジにいさんが扉に鍵をかけたかどうかわからないんですって。イチロウにいさんがあの部屋を出てきた夜八時から、かあさんが部屋を訪ねた夜九時すぎまでのしばらくの間、あの部屋には鍵がかかってなかったかもしれないんです。これならかんたんに人が出入りできるでしょう。そういえばねえさん、午前中にリュウジにいさんの部屋にいましたよね。たしかイチロウにいさんが小説を読みたがっていたとかで本を探しに来ていました。私といっしょにそのときは出てきてしまって、十分後くらいに本のことを思い出してまた部屋に戻りましたよね」  ミキは頷いた。そのときにテーブルの血の跡などの処理をした。 「物置から持ってきた本、今どこにあるの。ねえさんが何を選んだのか気になります。リュウジにいさんの本、おもしろいのとつまらないのとがあるから」 「あの本は、ええと、一体どこに置いただろう……」 「どうしたの? ないの?」 「いえ、本当に持ってきたのよ。そう、たしかクローゼットの中に入れたんだわ……」  クローゼットに近付きポケットを探った。リュウジの部屋のものと同じ古い家具にはやはり鍵がかかるようになっていた。金色の古風な鍵を取り出すと鍵穴に差し込み回した。 「どうしました?」  いつまでもクローゼットの扉を開けないのでフユミが尋ねた。 「いいえ、ちょっと、このクローゼットの鍵、壊れているみたいなの。鍵が開いたはずなのに扉が動かないの」  取っ手に指をかけ引っ張って見せたが開かなかった。 「もしかして……」  フユミは言いかけて口を閉ざした。目を見開いてまるで忌《い》まわしい殺人の光景を目の当たりにしたような顔をした。 「どうかしたの?」 「別に……」  フユミは立ち上がるとミキを避けるように部屋を出て行った。その夜もミキにリュウジの死体を処理する余裕はなかった。  リュウジが死んで二日後の朝、朝食の席には家にいるほとんどの者が集まっていた。ミキはその席で二通目の手紙が郵便受けで発見されたという話をフユミの口から聞いた。差出人の名前はなく昨日の手紙と同様に直接郵便受けに入れられたものだった。 『リュウジ ハ ハイザラ デ コロサレタ』  手紙にはタイプライターでそう印字されていた。  食事を終えたミキは自室へもどるために夫婦で並んで廊下を歩いていた。途中でフユミが双眼鏡を持って二階の廊下に立っているのを見つけた。彼女は窓から何かを観察しているようだった。 「なにを見ているの」  ミキは興味を示して近付いた。フユミは唇に人差し指をあて静かにするようにと伝えた。 「今、あの手紙の送り主を探しています。きっとこの家をどこか近くから見張っているはずです」  彼女は真面目な顔をして、双眼鏡から目を離さずに答えた。  窓の外には、今にも雨が降り出しそうな雲と、くすんだ色の森の木々が広がっていた。肌に刺さる冷たい風がミキの長い髪を揺らした。寒さで赤くなった鼻の下をこすり泣き出しそうな目をした。 「フユミさんはあの手紙を本気にしているのね」 「完全に信じているわけではありませんけどね。円グラフに示した場合、一二〇度くらいは」 「でも、あの手紙を書いた人は、なぜ部屋でリュウジさんが殺されただなんてことを知っているのかしら。凶器に灰皿が使われていたってことまで……」 「リュウジにいさんの部屋に窓があるでしょう。きっとそこから中が見えていたんです。手紙の送り主が暗い森を歩いていると、明るい窓が見えた。そこは丘の上に建つ古い屋敷の離れの窓だった。ぼんやりそこを見ていると灰皿で殴り殺される男が見えた……。私にはそういった一連の光景が目に見えるの。ところでねえさん、時々、嫌な視線を感じたりすることはありませんか? 何か、見張られているような……」 「視線?」  ミキは首を横に振った。 「そう……。じゃあ、きっと気のせいなのでしょうね」 「……フユミさん、私、こう思うの。あの手紙を書いた人物は、この家にいるだれかなのじゃないかって……」 「この家にいるだれか……」 「そう。そして手紙の送り主こそリュウジさんを殺したのではないかと思うの。もちろんリュウジさんが殺されていると仮定しての話だけど」  フユミは笑った。 「ねえさんとはうまくやっていけそうな気がする。でも真犯人がどうして自分の罪を暴くような手紙を送り付けたりするの。それにねえさんの考えではこの家の中にリュウジにいさんを殺した人物がいるということよ」  ミキは困り果てたように黙った。どうやって説明しようか、迷っているようにも見えた。置かれている状況は、とても現実的ではなかった。白い額に汗が一粒にじみ出た。 「ねえさん、私は手紙の送り主がだれだかわかりませんが、リュウジにいさんを殺した犯人には心当たりがあるのよ」フユミはミキに顔を近付けてほほ笑んだ。「わかるでしょう?」  昼食。  食卓に皆が集まったところで手紙の話題が出た。 「気味が悪いから警察を呼ぼうと思うの」 「警察なんて大袈裟《おおげさ》よかあさん。まだ死体が出たわけじゃないってのに」 「でもリュウジが殺されたなんて……。明日の朝、また手紙が屈いたら警察を呼びましょう」 「そういえばとうさん、この家の全部のスペアキーを保管しているのはとうさんでしたよねえ。リュウジにいさんの部屋のクローゼットのスペアキーも持っているの?」  フユミはそう質問すると、横目でミキをちらりと見て唇の端をあげた。 「いや、クローゼットのスペアキーは存在しないよ。そうだ、ついでだから言っておこう。フユミは一人暮らしをはじめたから知らないだろうが、他の部屋のスペアキーも半年前に全部なくしてしまったんだ」  ミキはひそかに驚いた顔をして横から質問した。 「じゃあリュウジさんの部屋の鍵もですか?」 「ああ。スペアキーはない。不注意で紛失してしまった」 「昨日の朝、スペアキーもないのにどうやってリュウジさんが部屋の中にいないことを知ったんですか?」 「あの朝、リュウジの部屋に鍵はかかっていなかったんだよ。だから中に入って確認することができたんだ」  しばらくの間、ミキはだまって食事を続けた。食事を終えた後でフユミに言った。 「フユミさん、後で話があるの。二時にリュウジさんの部屋で、二人きりで。いいかしら」  フユミが挑むようにうなずいた。 「私もねえさんに重要な話があるからちょうどいいわよ」 [#ここから6字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  一時五十八分。  約束の時間の二分前にミキは離れにあるリュウジの部屋へ入ってきた。部屋で殺人のあった夜と同じようにソファーへ腰掛けた。クローゼットの方に時折、視線を送った。十一月の気温は低く暖房をつけないでいるため呼吸するたびに息が白くなった。  二時にフユミが現れた。後ろに緑色の制服を着た男が二人つきそっていた。彼等を見てミキはたじろいだ。 「そちらの方々はどなたですか」 「この二人は私の後輩です。引っ越し屋さんでバイトをしているの。今日、大型のゴミを運びだしたいと説明したら駆け付けてくれたんです」 「大型ゴミ?」  フユミがうなずくと男のうちの一人が、クローゼットに近付いてきた。腕を広げて幅を測り始めた。もう一人の男がクローゼットを指差してフユミに何か聞いた。 「ええ、そう、これのことよ。これを荷台まで運んでちょうだい」 「何をするの?」  フユミは青白い顔に不敵な微笑を浮かべた。 「家の前に借りてきた軽トラックが止めてあります。そこへ積んでくれるよう頼んだの」  二人の男が両脇から持ち上げた。男の一人がフユミに何かを言った。 「え? このクローゼット、やけに重いですって? まるで人でも入っているように重い? ええ、そうね。そうでしょうね。大事に扱ってくださいよ。乱暴にしないこと。横に倒したり、さかさまにしてはいけないのよ」  クローゼットが運ばれる。二人の女はその後をついて来た。 「ようするに私はこう言いたいの。ねえさん、あなたがつまり犯人ね。私が何のことを言っているのかわかるでしょう」 「誤解よ!」 「いいえ、全部正直に話して」  リュウジの部屋は離れにあったのでクローゼットが扉を抜けるとそこはもう庭だった。離れの前にある空間に軽トラックが駐車されていた。 「車に積んだ後、これをどこに持っていくの?」 「警察署の前で放置する、というのはどう?」  クローゼットが一度、大きくゆれた。 「気をつけて運んでください!」  ミキは咄嗟《とっさ》に大きな声を出した。 「ねえさん、昨日、イチロウにいさんの部屋で話をした時のことを覚えていますか。ねえさんがクローゼットを開けようとしたとき、扉が開きませんでしたね。なぜだかわかりますか」 「あなたはなぜだと思っているの」 「ねえさんはあの時、鍵が壊れていて開かないと言いましたよね」 「今朝、調べてみた時、鍵は壊れていたわ。留め金のネジごと外れていたもの」  ミキは弁解するように言ったが、フユミは鼻で笑い飛ばした。 「でも、きっとあの時は壊れていませんでした。今朝、鍵が壊れていたというのは、自分の間違いに気づいたねえさんが、言ったことを本当の出来事にするため実際に壊したのよ」 「自分の間違いですって?」 「自分で気付いていないわけはないでしょう。あの時、ねえさんが鍵穴に差したのは、イチロウにいさんの部屋にあるクローゼットの鍵ではなかったのよ。リュウジにいさんの部屋のものだったのでしょう? それぞれの部屋にあるクローゼットはまったく同じもので、鍵も同じ古風な金色のものだった。私は子供の頃、それぞれのにいさんに見せてもらったから知っているんです。でも、外見が似通ってはいても実際には鍵の形が一致する錠前以外は開けることができないの」  問題になっている年代物の家具は二人の男によって軽トラックの上に載せられようとしていた。ミキとフユミは持ち上げられたクローゼットの前で向かい合っていた。 「あの時ねえさんは二つの鍵を取り違えているのに気付かないまま、リュウジにいさんのクローゼットの鍵で、イチロウにいさんの部屋のクローゼットを開けようとしたのね。あのとき、クローゼットが開かないのを見て、私はぼんやりとそんな考えを抱いたの。きっと読んだ手紙の内容がそんな連想をさせたのね。私はその後、どうしてねえさんが、リュウジにいさんの部屋にあるクローゼットの鍵を持っていたのか、という疑問を抱いたの。その結果、恐ろしい想像をしたのよ」  男二人がロープでクローゼットをトラックに固定した。 「……ねえさんはリュウジにいさんの部屋にあったこの家具の中にあるものを隠した。そしてだれにも発見されないように鍵を閉め、リュウジにいさんの部屋の鍵とクローゼットの鍵を持ち出して自分のポケットに入れていたの」  フユミは二人の男を振り返った。 「ありがとう、助かりました。後は私がやりますから」  フユミが礼を言うと男二人は頭を下げて無言で立ち去った。クローゼットの前にいるのはフユミとミキだけになった。 「これで、私とねえさん、二人だけになりましたね」  フユミは腕組みをして言った。ミキは首を横に振った。 「……いいえ、三人よ」  フユミは虚を突かれたように一瞬ひるんだがすぐに不敵な笑みを浮かべた。 「やっぱりあなたはリュウジにいさんを殺したのね。そして死体をこの中に隠した。処理をする時間ができるまで死体はあの部屋に残すことにしたのね」 「違う! 誤解よ! 一昨日の夜、私がリュウジさんの部屋へ行ったのは認める。でもあの人を殺してはいないの」 「信じられないわよ」 「ああもう! 本当にどうしてこんなことになったのかしら! 犯人はあの夜、見つからずに逃げおおせたの! そして私が一番、疑われやすい立場にたたされていたの! だから、リュウジさんの死体を私は隠すしかなかったのよ!」  ミキはそう叫んだ。 「私はあの夜、過去のことでリュウジさんに呼び出されていたの。少し大きめの音楽がかかっていて、私は三分間ほど物置に入っていたの。物置にイチロウさんの絵が置いてあるって聞いたから。その後、物置から出てきてソファーやクローゼットのある部屋へもどってきたらリュウジさんが頭を殴られて死んでいたの」 「……手紙の通り灰皿で?」 「そうよ。血のついた灰皿がテーブルの上に置かれていたの。私はついそれを手にとって、指紋をつけてしまった。手から滑った灰皿が床に落ちて大きな音をたてたわ……」 「物置へ行っている間に殺されたって言うの?」 「音楽がいろいろな音を消してしまっていたの。だから私は気づかなかった。私が死体を前にどうしようか迷っているとおかあさんが部屋をノックして扉を開けようとしたの。でも扉には鍵がかかっていて開かなかった」 「部屋の出入りはできなかったの? もしねえさんの話を信じるなら……まだ全然私には信じられないけれど……それでもねえさんの話が本当だったとしたら、犯人はリュウジにいさんの部屋の鍵を持っている人物になりますよね……。ねえさんが物置に行っている間、こっそり鍵を開けて部屋に入る。にいさんを灰皿で殴り部屋を出る。そして、また外から鍵をかける。それのできる人物が犯人だから」 「でも部屋の鍵はリュウジさんのポケットの中にあった。つまり、犯人はスペアキーを持っている人だと、最初、私は考えたの。部屋の中で死体といっしょに取り残されて私は犯人を恨んだわよ。でも警察には行きたくなかった……」  ミキは口をつぐんだ。フユミは首を傾げた。 「それはなぜ? ねえさんの話が本当なら、正直に警察へ言えばよかったのに」  ミキは顔を手で覆った。 「罰なのよ。いまさら警察になんて言えないわ。そして私は苦しむしかないの……。これはきっと神様が私に与えた罰なんだ。神様がリュウジさんを殺して、そして私を苦しめるためにあんな手紙を……」 「ねえさん? 大丈夫?」 「……ごめんなさい、なんでもないの……。いつか、きっと理由を話すから……」  嗚咽まじりにミキは言った。彼女の目は赤くなっていた。それでも気丈にフユミを見た。 「……話を戻しましょう。スペアキーを持っていると聞いて、私は最初におとうさんを疑ったの」 「とうさんを? ……確かにそうね。私がねえさんに、とうさんがスペアキーを持っているって言ったんだものね。でも、とうさんは半年前にスペアキーをなくしていた。犯人として疑われないようにそういう嘘をついている可能性もあるのかな? でも、とにかく犯人はなんとかしてスペアキーを入手していたのね」 「でも、そう考えると、腑に落ちない部分が出てくる。昨日の朝、いつまでもリュウジさんが現れないので、おとうさんは部屋へ呼びに行ったわよね。私はその前夜、部屋を出た後にリュウジさんのポケットにあった鍵を使って扉の錠をおろしていた。だからおとうさんはスペアキーを持っていなければ扉を開けて中の様子を知ることができないはずなの。当然、今朝まではそうしていたんだと思っていたわ。でも、おとうさんはスペアキーをなくしていた……。昨日の朝、リュウジさんの部屋に鍵はかかっていなかったって答えたの。私は確かに鍵をかけたはずなのに、翌朝になると鍵はかかっていなかった……」 「とうさんが実はスペアキーを持っていたとして……、いえ、とうさんでなくても、どうして夜中のうちに鍵を開けておく必要があったの? 夜中にリュウジにいさんの部屋へ入り殺人を行なった証拠でも湮滅《いんめつ》していたのでしょうか? そして鍵をかけ忘れて帰った……」 「もっと簡単な解答がある。つまりスペアキーは最初からなかった。おとうさんがなくしたまま、今もどこか誰も知らない場所にあるの。犯人はスペアキーなんて持っていなかったんだわ」 「え?」 「私がリュウジさんに呼ばれた時、犯人はその場にいたの。同じ部屋にね。そして私が物置へ行ったのを見計らいリュウジさんを殺害。部屋を出ることなくまた同じ部屋の中で息を潜め隠れた。ただそれだけのことだったのよ」 「犯人はそのまま部屋に残ってねえさんが出て行くのを待っていたって言うの……?」 「そうよ。私が部屋を出る時、リュウジさんの持っていた鍵で扉の鍵を閉めた。でも犯人には部屋を出た後で鍵を閉める方法はない。だから扉の鍵は開いたままになっていたわけ」 「で、でも……、犯人はリュウジにいさんの部屋のどこに隠れていたの?」  ミキは無言で視線をクローゼットに向けた。フユミは最初、訳がわからないといった顔をしていたが、やがて気づいたように声をだした。 「え、そんな!」 「あの部屋に人が隠れられそうな場所はあれだけだった。あの中に隠れていて、私が物置に入ったと同時に中から出てくる。棚の灰皿をつかみリュウジさんに殴りかかる。その後でまたあの中に戻る。それが行なわれたのよ」 「……あの中にリュウジにいさんの死体を隠したのかと思っていました」 「最初そうしようかと思った。でも、どうしても扉が開かなかったの。鍵を差して回しても、なにかが引っ掛かっているように開かないの。最初は鍵が壊れているのかと思った。リュウジさんも、時々、鍵の調子が悪くなると言っていたから。つまり、鍵をひねっても解錠されないという意味で調子が悪いのだと思い違いをしたの。でもきっと、鍵をひねっても施錠されないという意味で調子が悪かったのだわ。恐らくあの夜、何者かが扉が開かれないようにクローゼットの中から固定していたのよ。私は鍵が開かないからその中に死体を隠すのをあきらめたの。そこで辺りを見回すと私の持ってきた旅行用のトランクが目に入った。リュウジさんは小柄だったから、その中に隠せそうだって咄嗟に思いついたの」 「凶器もいっしょにトランクの中に?」 「私の指紋が付いていたからね。でも、旅行用のトランクには衣類がつまっていて死体を入れるスペースはなかった。だからトランクの中に入っていた服を死体と引き換えにあの部屋へ残していくことにしたの」 「その服は、ねえさんの服ですよね。女物の」 「そう、だから見つかるといけなかった。不審に思われてしまうでしょう。辺りを見回すと部屋の隅に衣類の積み上げられた山ができていたの。ちょうどいいと思って私はその中に、自分の服を押し込んで隠したの。皆が眠ってから取りに行くつもりだった。でもその夜のうちにそうすることができなかったわけ」 「だから次の日の朝、寒いのに薄手の服を着ていたのね。着替えがなかったんだ。そしてその後リュウジにいさんの部屋にいたのは本を取りに行ったのではなく服を回収するためだった。私が散らかっている服をクローゼットに入れようとしたとき、ねえさんはあわてて私の持っていた服を取り上げたわよね。私はその時、ねえさんの挙動が少し引っ掛かったの。ねえさんがあわてたのは、私の持っていた服が女物の、つまりねえさんの服だったからね?」 「あなたのかかえていた服の中から私のブラジャーが垂れ下がって揺れていたのよ」 「犯人はいったいだれなの?」 「わからない。あの日、イチロウさんが部屋を出た後に私が訪ねていくまで、部屋の鍵はしばらくの間、開いた状態だったみたいだから、その間にだれでもこの中にひそむことができたかもしれない」 「待って。ねえ、ちょっと待って。私とねえさんがイチロウにいさんの部屋で話をした時、ねえさんは二つのクローゼットの鍵を取り違えなかったの?」  ミキはうなずいた。 「だから鍵が壊れていると思ったの。でも実際は壊れていなかった。そのときもその人物は、内側に隠れて扉を固定していたのね。私は鍵を間違えず鍵穴に差し込んで捻《ひね》った。もちろん開けようとしてそうしたんだけど、実際にはそれで鍵が閉まっていたんだと思うの。入っていた人間は閉じ込められて、鍵を壊して出るしかなかった。いつのまにかイチロウさんのクローゼットの鍵が壊れていたのはきっとそういうわけだったのよ。犯人はいつもクローゼットに隠れて私とあなたの会話を聞いていたの……。ほら、クローゼットの両開きの扉の間に細くすき間があるでしょう? そこに片目を押し当てて、ずっとその人物は見ていたのよ」  フユミは何かに気づいたような顔をした。 「そう、そういうことなのね。その人物はねえさんがそのことに気付いていると知らないはず。だから今日、ねえさんは皆の前で私に話があると持ち掛けた。時間と場所を指定して」 「そうすればきっとその人物がクローゼットの中にひそむと考えたから」  ミキは家具をてのひらでたたいた。 「今、この中に入っているのは死体ではなくその人物なの。私とフユミさんの話を盗み聞きしようとしたその人物が入っているはずよ」  コツン、とフユミがクローゼットをたたいた。 「本当に中にいるの? いるのなら返事をしなさい。内側からノックを返すのでもいいわ」  フユミとミキが腕組みをして、軽トラックの荷台に固定されたクローゼットを見上げた。数秒間、辺りは静まり返った。  コツン、とクローゼットから出た音が響いた。二人は顔を見合わせた。 「今のはクローゼットの中から聞こえてきたわよね。だれか中に入っていて内側から叩いた音だった」  フユミが驚いたように言った。 「あなたがリュウジさんを殺したの? 肯定なら二回、否定なら一回、クローゼットの扉をたたいて」とミキが問いかけた。  ノックの返事が二回。肯定の意味。 「あなたが手紙の送り主?」とフユミ。  肯定。 「あの手紙を書いて死体があることを発見させ私を犯人にしたてあげようとしたの?」とミキ。  否定。 「殺人は計画的な犯行だったの?」とフユミ。  否定。 「……私の過去のことが原因?」つらそうにミキが言った。  肯定。 「リュウジさんがしゃべっていたの?」ミキ。  肯定。 「私の秘密を知ったリュウジさんを殺して、そしてさらに私へ罰を与えたの?」さらにミキが問いかけた。  肯定。 「開けて中を確認しましょう」  フユミがそう言ってそろそろと扉を開けると、汗だくになりながらクローゼットの隙間から目を凝らしていたぼくと目があった。妹と妻の顔は血の気が失せて死んだ人間のような顔色になった。 [#改丁]  神の言葉 [#改丁] [#ここから6字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  僕の母は頭のいい人である。少女時代から難解な本を読んで育ち後に有名大学へ入学した。人間性も良く積極的にボランティアへ参加して地域の住人にも慕われている。背筋をすっと伸ばしたそのたたずまいはまるで冬の湖に鶴がそっと立っているようである。ほこりのついていない透明な眼鏡の奥から知性のこもった瞳でものを見る。  ただ一つ欠点があるとすれば母にはペットの猫とサボテンの区別がつかないことである。そのせいでしばらく前、彼女は我が家で飼っていた猫を両手でわしづかみにして植木鉢に押し込み上から土をかぶせて水をふりかけてしまった。そしてサボテンを猫であると思い込み顔をすりよせるため頬は傷だらけになり血がにじんでしまった。  父と弟は、母の奇妙な行動に顔をしかめてその理由を彼女に尋ねた。しかし聡明な母は身動きしないサボテンの前に猫用の缶詰を空けて家族の言うことに耳をかさないのである。  それはすべて僕のせいであり悪いことをしてしまったと後悔している。  小さなころから「おまえの声は本当に美しい」と言われて育った。お盆や正月に母の実家へ行くと普段はめったに会わない親戚たちが僕を取り囲む。人付き合いの上手《うま》い方ではなかったが酒を飲んだ叔父等の話に笑って相槌《あいづち》を打ち、よく聞き取れない訛《なま》りもすんなり理解したように見せかける。 「おまえは本当に愛想のいい子じゃね」  伯母にそう言われると僕はしおらしく微笑んでみせる。しかし実際はそのようなものではなく心の中は常に無愛想で乾いていた。ただ見せかけていただけなのだ。親戚たちの話に心を動かされたことはなく一時も楽しい気分になったことはない。それどころか退屈で常に逃げ出したい気分であった。しかしそうすることで起こる「僕」という株の暴落を恐れて取り囲む親戚たちから逃げるのが怖かった。心ではそう思っていなくとも話を聞いているふりをして愛想のあるような言葉を延々と返しつづけなくてはいけなかった。  そのような時、心の中を自分自身に対する嫌悪感が支配した。ただ良く見られたいというだけで空虚な笑みを浮かべる自分を浅ましいと感じた。 「あなたの声、透き通っていて、まるで音楽のようだわ」  そう親戚の姉さんにも言われた。しかし僕の耳に聞こえる自分自身の声は醜くゆがみ人間のふりをした動物が声真似をしているような響きであった。  自覚した上ではじめて声の力を使ったのは小学一年生の時である。当時、授業でアサガオを育てており、校舎脇のコンクリートにみんなの植木鉢が並んでいた。僕のアサガオは大きく育ち緑色の蔓《つる》はしっかりと添え木に巻き付いて空を目指していた。広い葉は産毛に朝露をつけて日光を受けとめ薄くやわらかい花びらは半透明の赤紫色に染まっていた。  しかし自分の育てたアサガオはクラスでもっとも良いものではなくさらに大きく美しいアサガオが他にあった。  僕の三つ前の席に足の速い男の子が座っていて名前をユウイチといった。彼は活発ではきはきと喋り会話をするとき目まぐるしく変わる表情が特徴的であった。しばしば彼と話をしたが話の内容よりもむしろその表情の変化が僕の興味をかきたてた。彼はクラスで人気のある子供であったがその秘密は表情にあると思われた。彼と対峙した時、僕はいつも観察するような目でその顔を眺めた。もちろん自分も彼のように弾けて回転するような表情の変化を体得したいと思ったからである。  しかし彼は僕のように可愛い子供に見られたいという気持ちから意図的にそのような表情をしているのではないようであった。そのことが僕には、自分自身の暗さと人間の小ささを証明されたようで悔しかった。当時、自分では気づいていなかったが劣等感を人知れずユウイチに対して抱いていた。  僕は親しく話しかけてくるユウイチにおどけた答えを返していつもクラスの笑いを誘っていた。彼はそれを気に入りことあるごとに「なあ、なあ」と話しかけてくるようになった。しかし僕は彼のことを友人だと感じたことはなく、ただ作った笑みを浮かべかけられた言葉に意表をついた返事をしているだけなのだ。  そんなユウイチのアサガオがクラスでもっとも大きく美しいものであった。何かあると先生は彼の花を誉めそんな時に僕は例の浅ましい気持ちになった。体の中に住んでいる薄汚い動物が皮膚を突き破って叫びだしそうな気分になるのである。その動物とはつまりまぎれもなく自分の本性なのだ。  ある朝、僕はいつもより早く登校した。他にだれもいない教室は静かで、普段、僕の顔を覆っている見せかけの仮面を脱ぎ捨てるのは容易であった。  ユウイチの植木鉢はすぐにわかった。他のアサガオより頭ひとつ背が高かったからだ。彼の植木鉢を前にしてかがみ僕は開きかけたつぼみを凝視した。腹の中のどす黒い部分に力をこめて念じた。 「枯れろオオ……、腐ってしまえエエ……」  両手を握り締めて全身の筋肉をひきしぼるように声を出した。鼻の奥に妙な違和感を感じて気づくと鼻血が溢れていた。コンクリートにそれが落ちると絵の具を散らしたような赤い斑点を作った。  ぽとり、と、まるで首が落ちるように茎が折れつぼみが転がった。数時間後、ユウイチのアサガオはしおれて腐り薄汚い茶色に染まりはじめた。それでも捨てずに放っておくと悪臭を出して悪い虫を呼び寄せ植木鉢の土に大量の蛆虫《うじむし》がわいた。それで先生がアサガオを捨てることにしてユウイチは泣きだした。つまり僕のアサガオがクラスでもっとも良いものになったのだ。  僕のいい気分は数十分続いた。しかしその後、アサガオの方を見ることができなくなった。たとえ花を誉められても耳を覆いたくなるような気持ちになった。  ユウイチの植木鉢に囁いた瞬間から僕のアサガオは自分の中に潜んでいる見るも恐ろしい動物を映す鏡になったのである。  僕が声にした通りユウイチの花が突然しおれた理由を上手く説明することはできなかった。当時、僕は小学一年生であったが自分の声に宿る魔力めいた力を漠然と感じていた。ひどく腹を立てている子も僕が必死で説得すればなぜか心を落ち着かせた。不服なことがあってもその相手にあやまるよう訴えるとたとえ大人であろうが子供の僕に対して頭を下げた。  半ば叢《くさむら》に埋もれたガードレールの上にトンボが止まっていたとする。普通なら捕まえようと手を伸ばしてもトンボはすばやく半透明の羽を動かして逃げ出してしまう。しかし「動くな」という命令を言葉に乗せてぶつけてやるとトンボは気絶したようになりたとえ羽や足をむしっても絶対に動かなかった。  意識して『言葉』を使ったのはアサガオを腐らせたのがはじめてのことであった。以来、僕はしばしば他人に対して声の力を行使した。  小学校高学年の時、家の近所によく吠える犬が飼われていた。巨大な体を門の内側に忍ばせて人が家の前を通ると爆竹を鳴らしたように吠えていた。重い鎖の許すかぎり獲物の方へ突進して鎖のつながった首輪が深く食い込んでさえなお通りがかりの者に牙をつきたてようとした。皮膚が病気なのか泥で汚れた毛はところどころ抜け落ち瞳は闘争心のため燃えているようにも見えた。近所の子供たちの間でその犬は有名で、どれだけ近寄ることができるか勇気の度合いが測られた。  ある日、僕は門の外に立って犬を眺めた。犬は僕に気づくと地響きのような唸《うな》り声で威嚇《いかく》をはじめた。僕は力のある声を出した。 「僕にむかって吠えるなア……」  犬ははっとしたように耳を動かすと目ヤニのついた目を開いて黙った。 「服従ウウウ……、僕に服従しろオオ……。服従だアアアア……」  頭の中で火花が散るような瞬きを感じてアスファルトには鼻から流れ落ちる赤い液体が染みを作った。僕の中にある虚栄心がそうさせた。ただ友人の前でその巨大で恐ろしい犬を手玉にとってみせ少しばかり尊敬を集めたかっただけだった。  その馬鹿げた計画はまったく簡単に実現して犬は僕のなすがままお手でもお回りでも何でもやるようになった。結果として僕はクラスの中で一目置かれる存在となった。  最初のうちはおもしろい気分でいることができた。しかしそのうちに少しずつ罪悪感に蝕《むしば》まれはじめた。本当は動物を手なずけるような勇気などないくせに英雄にでもなったかのように振る舞っている自分がいた。その他人をだましているという罪の意識が襲い掛かった。  何より犬の目が恐ろしかった。犬は『言葉』を行使する以前の煮えたぎるような瞳ではなくおびえた目で僕を見るようになった。その犬が持っていた闘争心という美しい牙を僕は剥奪してしまったのだ。かつて猛々《たけだけ》しかった犬の小動物のような瞳を見ると僕はまるで責められているような気分になった。  声の力はほとんど万能であったがいくつかのルールは存在するようだった。例えば『言葉』を行使する対象は生物でなければならなかった。植物や昆虫は大丈夫だが石やプラスチックに力をこめて呟いてみても思い通りにすることはできなかった。  また、一度『言葉』を行使したら、もう二度と元にはもどらなかった。僕はある日、母親との些細《ささい》な摩擦の末にこう囁いた。 「おまえはアア、猫とサボテンの違いがわからなくなるウウウ……」  感情的になり、その瞬間、自分が何をしてしまったのか理解してはいなかった。ただ、母親が勝手に僕の部屋へ入り込み掃除をして僕が気に入っていたサボテンの植木鉢を落として壊したことに腹が立っていたのである。僕はその鉢がいかに大切なものであったかを説明し、母の中に存在する物の重要度において彼女の大切にしていたペットの猫と同じ位置にサボテンを持ってきたかったのだ。  母がサボテンと間違えて猫を植木鉢に埋めてしまった時、後悔の念にさいなまれた。僕は我慢するべきだったのだ。たとえ意にそわないことが起こっても、声の力を使用して他人の頭の中をいじるのは罪深い行為である。いつも後悔するが遅かった。  母が再び猫とサボテンの見分けがつくようになるよう『言葉』を囁いてみた。しかし猫とサボテンの間にある距離を彼女が感じ取ることは二度となかった。 [#ここから6字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  声の力は頭の中に働きかけるだけでなく肉体的な変化すらもたらすことができた。アサガオの花を枯らすことが可能であるように動物の体を思い通りにできた。  僕は高校生になってもあいかわらず大人たちにこびへつらいなさけない生き方を続けていた。そのような自分自身の悪い特性を回避できないのはひとえに自分の小心さゆえのことだった。自分は他人との関わり合いから生じる波紋に恐れを抱いており細心の注意をはらってでも自分の株を落とすまいとするのである。だれかと話をするということはそのだれかは自分を見て観察しているということであり、おそらく僕の見ていない場所でこっそり第三者にその評価を話して笑っているのである。それがたまらなく恐ろしかった。ゆえに僕は作り笑顔をするのだがその本心を隠す行為こそ情けないと自分では感じていた。  父は大学の講師をしておりその精神は厳格で冷たく植物の生えない岩の山を思わせた。常に高みから二人の息子を見下ろして物を言い、僕は天上の存在へそうするように父を見上げた。彼は一切の物事に厳しく自分の気に入らないものは即座に切り捨てた。一度、父の理想から外れてしまったものは、その後、視界に入っても羽虫かなにかが通り過ぎたくらいにしか取り合ってくれなかった。  僕はその父に隠れて携帯ゲーム機を買った。小学生でも持っているような安物で手のひらに収まるくらい小さなものだった。父はコンピューターゲームというものに日ごろから悪印象を持っており、もしも見つけてしまえば自分の息子のうち大きな方までもついに自分を裏切ったかと失望してしまうはずだった。それは僕にとって想像するだけで恐ろしいことである。  弟は自由にやりたいことをやり、ゲームをしたければゲームセンターに行き、勉強をしたくなければ鉛筆を折るような人間だった。それは親の失望に耐えることの代償であるが、もともと弟のカズヤは失望などというものとは無縁の生き方をしているようだった。しかし僕は違っている。父から気に入られたいばかりに勉強をして身だしなみも質素で健全に整えているのだ。その姿はある人に言わせればさわやかで明るい好青年だという。しかしそれは単なる上っ面であり金色をした毛皮の中身はどろりとした赤黒い塊なのである。  ある日、自室で隠れてゲームをやっていると、突然、父親が扉を開けた。ノックをすることもなくまるで犯罪現場に踏み込む警官のようであった。彼は僕の手からゲームを取り上げ、冷ややかな目で僕を見下ろした。 「おまえがこんなものをやっているなんて!」  父ははき捨てるように言った。  カズヤがゲームをしていても彼は不必要な置物程度にしか見なかった。すでに次男に対しては自分の理想とする健全な子供に育て上げることを諦めているのだ。だからこそ兄である僕にかけていた期待は大きく、予想以上に怒りを喚起させたらしかった。  いつもの僕ならば泣いて許しを請うていたかもしれない。しかしその瞬間、父の反感をかってしまったという衝撃もあるにはあったが、弟は自由であるのに自分だけは禁止されているという理不尽な気持ちの方が勝っていた。ただゲームをやっているだけで人格を否定されることに憤りを感じた。  気づくと父の左手をつかみその中にある携帯ゲーム機を必死で取り返そうとしていた。常に従順な仮面をはずさなかった僕が父に反抗するのは生まれてはじめてのことであった。父は左手をしっかり握り締めゲーム機を渡さなかった。僕は力をこめて言った。 「この指よオオオ、外れエエろオオオ……!」  僕と父の間のわずかな空間が声のために震えた。鼻の奥の血管が弾けるのがわかった。携帯ゲーム機が床におちて硬質の音を立てた。そしてぽろぽろと父の左手から指が外れ僕の足元に転がった。五本とも根元から綺麗に外れていた。血が噴出してあたりが赤色に染まった。僕の鼻からも血があふれていた。  父が悲鳴をあげた。僕がいいと言うまで口を塞いでいるよう命令してすみやかに黙らせた。しかし声が出ないというだけで痛みや恐怖を感じるらしく目を大きく開いて指の消えた左手を凝視した。  僕は吐き気を感じながら鼻から出る血を大量に飲み込んだ。気絶しそうな頭でどうするべきかを考えた。もう父の指はもとに戻らないはずだった。『言葉』によって変化したものはもう二度ともとの状態にはもどらないのだ。  しかたなく、「僕が合図するまで気を失うこと」を命じて父から意識を取り除いた。眠っている人間に対しても声の力が有効であることはそれまでの経験から知っていた。見られていると力をこめて念じることに気後れを感じるので気絶させておいた方が楽だった。 「左手の傷口が完治すること」と「目がさめると僕の部屋で起きた一部始終を忘れていること」を床に倒れている父の耳へ囁いた。ほどなくして彼の左手のかつて指のあった部分に薄い皮膚ができて止血が行なわれた。  父自身に、左手に指がないことが自然であると信じ込ませなくてはいけなかった。また、父の左手を見た者が、不自然であることを感じてはならなかった。  はたしてそれをどうすればいいのだろうかと僕は考えた。声をかけた相手に変化が出るのは確認済みであったが、僕の声を実際に聞いていない者にも同じように指のない手を自然だと思わせることができるものだろうか。  僕は決断して、次のような内容の『言葉』を行使することにした。 「次に目が覚めたとき、おまえは指のない自分の左手を見て、これこそ自然な状態だと思い込む。さらにおまえの左手は、見た者に対してそれが当たり前の状態であると感じさせるようになる」  声をかけていない相手に変化を求めるのではなく、あくまでも父の手に対して「自然な印象を与えるようになる」という命令を出すのだ。  僕は血だらけの部屋を掃除すると、落ちていた指をティッシュでくるみ机の引き出しに入れた。父の服にも血がついていたが「服の血には気づかない」という『言葉』を家族へかけることにした。  父を支えて部屋から出した。その時、弟のカズヤとすれ違った。彼は一瞬、驚いたような顔をした。僕が父を支えている場面は珍しいことであった。開いていた扉から彼が僕の部屋をのぞいた。床に携帯ゲーム機が転がっていた。弟はフンと鼻を鳴らして笑うように僕を見たような気がした。  夕食の席で父が食べにくそうに食事をしていた。指のない左手で茶碗を持つことができないでいた。しかしその姿は非常に自然であり僕はふとするとどのような経緯で指がなくなったのかを忘れそうになった。指が消えた父のつるりとした丸い左手はまるで子供のころから見慣れたもののように、僕の目にも、おそらく家族全員の目にも、当然のことのように映った。  弟のカズヤがひそかに僕を軽蔑していることには気づいていた。彼はこの世界がある程度、個人のわがままを笑って許容できるのだということを知っている人間だった。一学年違うクラスではあったが僕らは同じ高校に通っていた。僕は彼のように生きることができなかった。  学校で弟が友達と小突きあいながら楽しげに廊下を歩いていた。それがまことに親友同士の付き合いのような振る舞いで僕はただ一人取り残されたようなさびしさを感じた。僕は持ち前の醜い計算高さでクラスの笑い声を誘い明るい雰囲気を作ると先生たちに評判であったが、その反面、親友と呼べる人間ができたためしはなかった。親しげに話し掛けてくる知り合いは大勢おり相手はもしかすると僕のことを親友と思ってくれているかもしれないが、僕の意識の中で本当に心の許せる者はおらずついそういった知人の顔でさえめずらしいものを観察するような目で見てしまった。  弟はそれをしないよくできた人間だった。僕のように心の中にひそんでいる「良く見せたがり」の動物を必死の作り笑いで覆い隠すこともなく、すらすらと本心を親友に語ることができるのだろう。その点僕のような者よりずっと健全だった。  しかし不思議なことに世間一般の認識では弟より僕のほうが良くできた子であると思われているらしかった。それもやはり僕の顔にはりついている従順というくだらない仮面のせいであり、その結果弟が僕に対して劣等意識をもっているのだとしたら、僕はひどい仕打ちを彼に対して行なったということである。カズヤにそのことを謝りたかった。しかし僕と彼の関係はそのような何でも話し合えるというようなものではなく、ふと学校で目を合わせても見なかったことにして視線をそらすような悲しいものだった。  その原因は僕にある。というのも内心で彼は僕の中にある醜い心根に気づいているのだ。親の言うことをきき先生の言うとおりに動き点数かせぎを行なってまわりの信頼を得ている僕の浅ましさに彼は気づいているのである。そのため話すのも汚らわしく思い薄汚いものを見るような目つきをして無言で僕を責めたてるのだ。  だれかの機嫌をとって安心できる場所を確保したと思った瞬間、通りがかった彼の、見下した目に出会う。僕の滑稽な姿を笑っているのである。世界にひびが入ったように思われてふと一切の音に膜がかかったようになる。  学校の自販機の前で数人の生徒が談笑している。飲み物を買うそぶりはなくただ語らっているだけである。僕は自販機で買い物をしたかったが人を押しのける気持ちがわかず彼らがどこかへ行ってしまうのをただ近くに立って待っていた。話し掛けてその場所を少し移動してもらうよう頼めばすむものの断られて嫌な目つきをされたらどうしようという意識が働く。まったく他人には近寄れないのである。それで自販機から少し離れて興味のないポスターを眺めていた。  そこへカズヤが現れる。彼はなんの躊躇もなく自販機の前にいた数名をかきわけコインを投入するのである。飲み物の缶を握り締めふと僕がいたことに気づく。彼は僕がなぜポスターを見ているのかそのすべてを見通したように含み笑いをして去っていくのである。  やはりカズヤは気づいているのである。そこそこまわりから人気もあり人当たりもよく真面目だと思われている自分の兄がその実すべて作られた虚像であるということを。だれかに気に入られたいというその一点のために作り笑いをしている浅ましい心と自販機の前にいる数名に話し掛けることさえできない病的な小心さを彼は知っているのである。  いつからか、家でも、学校でも、弟とすれちがうたびに汗がにじみ出るようになっていた。自分の正体を知っているカズヤが怖かった。彼の瞳にはおそらく兄という僕の姿ではなく軽蔑してつばを吐きかけたくなるようなただの醜い泥人形が映っているにちがいなかった。  カズヤと話をする機会はほとんどないが、朝の食卓で同じテーブルにつくと途端に胃のあたりが苦しくなるのである。じっと侮蔑のまなざしで焼かれているような気持ちで手に汗がにじみ箸もまともに持つことができなくなる。それでも一切は喜劇のように僕は笑顔で親にあいさつしておいしそうな顔をしてごはんを食するのである。長いことそのような調子の生活が続き今ではかならずといっていいほど食べたものを吐くようになった。  眠れずに身悶えする夜が続いた。安堵の夢を見ることはなく閉じたまぶたの裏側に何人もの顔が浮かんだ。みんなが一様に弟と同じような軽蔑のまなざしで僕を見下ろし僕は泣きながら念仏を唱えるように謝罪しているのである。目覚めてぼんやり考え事をしている時でさえたまに目だけが部屋中にびっしりと浮き出て僕をいっせいに非難する。そんな時、死にたいと感じる。  いっそのこと世界に自分しか存在しなければこのような苦しみは生まれなかっただろう。他人という存在が僕は恐ろしかった。人にこびへつらっている自分の汚い行動も起源はそこにあると思われた。嫌われるのも見下されるのも軽蔑されるのも耐えがたい苦痛であり、それらから逃げ出すために僕は醜い動物を心に飼っているのだ。他人というものが世界におらず、自分ひとりなら、どんなに気が楽になるだろう。  いや、自分の姿が他人の目に映ってしまうのがいけないのだ。だれかが僕を見て苦笑しあるいは失望するのがいけないのだ。それならば世界中のすべての人間から自分の姿を消すにはどうしたらよいのかを考える。  こうしたらどうだろう。 「一分後、おまえの瞳に、僕が映らなくなる」という力ある『言葉』をだれでもいいからだれかに聞かせるのだ。そしてさらに次のような『言葉』を続けて行使する。 「僕が見えなくなったおまえの瞳は、視線を交わしたすべての人間に対して、おまえに与えられていた『言葉』をそっくり感染させる」  つまり声の力で僕の姿を永遠に見失った一番目の人物が、だれかと目を合わせると、その二番目の人物も同じように視界から僕という存在を消し去るのだ。またその二番目の人物が他のだれかと目をあわせれば、三人目の網膜も僕の像を結ぶことができなくなる。その繰り返しが起こり、視覚に変化の起きた人物がだれかと視線を重ねるたびに僕の透明度が上がってゆくのである。もしも世界中の人間が僕を見失えば完璧な透明人間となり永遠の安らぎを手に入れることができるだろう。  しかしその前にそれら「僕が映らなくなる」という鎖から自分自身を除外しておくような『言葉』が必要である。でないと鏡を見ても自分で自分の姿が見えないという事態に陥るだろう。  僕はふと自分が愉快な気持ちでそのようなおぞましいことを考えているのに気づいてぞっとした。 [#ここから6字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  ある夜、犬が死んだ。小学校の時、僕のくだらない見栄のために『言葉』を行使してしまった犬である。僕を見る時だけ恐れるような目つきをするその犬のことを僕はずっと気に掛けていた。  犬が死んだという報告を親から聞いて飼われていた家へ向かった。飼い主は僕のことを知っており、なきがらを見せてくれた。大きく獰猛《どうもう》であった犬は、コンクリートに横たわったまま動かなかった。それに抱きついて僕は泣いた。わけのわからない悲しみに襲われた。飼い主が気を利かせて犬と僕だけにしてくれた。  全身の力をこめて腹の奥底から震える声を出し犬に命令した。生き返って動いてくれ。しかし犬が再び生命を取り戻すことはなくただ所々抜けかけた毛を夜気にさらしているだけだった。自分の醜い顕示欲を満足させるため『言葉』の力を行使することができても、犬を生き返らせることすらできなかった。  それだけではない。今、こうして犬を生き返らせようとしたのも本心から犬のことを悲しんでそうしたのではなく、自らの罪を少しでも軽いものにしようという意識が働いたためであるように自分では思えた。  あらためて犬の顔を見るとまるですべての重荷をようやく肩から下ろしたようなやすらかな表情で目を閉じていた。死んで解放されたその様子に僕は羨望を覚えた。  …………。  ある夜ふと気づくと僕は片手に彫刻刀を握り締め自室の真ん中で泣きながら立っていた。全身をおかしな汗で濡らしごめんなさいごめんなさいと僕は繰り返しつぶやいていた。おそらく彫刻刀で手首を切るつもりであったのだろうが、寸前でぼんやりと我に返ったようだった。木製の勉強机を見ると、一本、彫刻刀で削った傷があり、丸く反った削りかすが足元に落ちている。涙をたらした跡のような水溜りも点々とあった。机を観察するように顔を近づけると酷い腐臭がした。何か肉の腐ったような臭いだった。  机の引き出しを開けると丸めたティッシュの中に腐りかけただれかの指が五本入っていた。いずれも黒ずんでおり長いこと机の中に放置されていたことがわかった。指にうっすら残っている産毛を見つけたときそれが父親のものであることを思い出した。部屋に散らばった指の処置に困り引き出しに押し込んでいたことを忘れていた。父の左手に指がないことなど宇宙のできた当初から決定していたあたりまえのことのように思われて転がった指のことなどすぐに記憶から消えてしまっていた。  僕は腐りかけの指を庭の土に深く埋めた。しかしその後も机から湧き出る腐臭は消えず日を追うごとに臭いの強さを増していくようであった。まるで引き出しの奥がどこか別世界につながってしまいその暗闇の奥から腐臭がとめどなく漂ってくるようだった。  それにふと気づくといつのまにか机の傷が増えていた。最初のうち一本きりであったものが数日後には二本になり、数週間後には十本近くの傷が机の上にできていた。しかし僕には彫刻刀で彫った記憶などまったく残っていなかった。  ……朝、目が覚めて、いつもの苦痛がはじまる。  家族やサボテンに朝食を用意してくれる人も新聞が風でめくれないよう指のない左手で押さえている人もみんな人間とは思えず動いている人形であるように思える。通学途中、電車に乗る時、僕の定期券をチェックする人も、隣の席に座った人も、学校の廊下ですれ違う人も、みんな生き物ではないように見える。思考というものを持たずビリヤードのボールがクッションに当たって転がるようにただ仕組まれた反応を続けているのではないかという気がしてくる。皮膚だけが精巧に作られたもので中身が実は人工的な部品の寄り集まりなのではないかと感じる。  それでも僕はそれらに笑顔で接しどうにか自分が見捨てられないように振る舞うのである。朝食を用意してくれる人には自分はいつもあなたの苦労をわかっているのだという誠意を見せるために食事を残さず食べおいしかったと満足そうに声をかける。電車に乗る時はキセル乗車していないことを宣言しいかにも模範的な利用客であるように定期券をよく見えるよう駅員に掲げるのである。また学校の教室でも自分はこのクラスに必要なのでのけ者にしないでくださいおねがいですからという気持ちから花瓶の花をそっと取り替えたりするのである。それも自分の性格から自然にそのような行為を行なっているという計算を感じさせない手つきで花を飾るのである。  顔に明るい笑顔を貼り付けるほどに心は荒涼となっていく。そして弟のことがますます怖くなってくるのだ。世界中の人間があの小さな頭蓋骨の中で多様な思考を行ない生活しているのだというイメージができなくなっても、しかしカズヤだけはなぜかずっと怖かった。他の人間たちの呼吸音が聞こえなくなるとともに、かえって彼の影は濃度を増すのである。  カズヤははっきりと口にするわけではないが、時折、口元に浮かべる冷笑は、滑稽な僕の人格に対して向けられたものに違いなかった。それは世界中でもっとも僕が恐れているものである。いつもそれが亡霊のように付きまとい僕を責めさいなむのである。そんな時に学校の階段を上っている途中でもまわりにだれもいなければ心を落ち着けるため頭をかきむしって壁を何度もけりつけた。弟が憎くてたまらない、というよりは、自分自身が許せないという気持ちの方が強い。  それでもここまで自分が苦しんでいる元凶はカズヤの存在であると感じる。彼を殺したいと思うのは、つまりそういう理由からだった。  僕はカセットデッキの停止ボタンを押すとテープを最初まで巻き戻した。さきほど聞いた話の内容を反芻《はんすう》して体の震えが止まらなかった。涙であやうくなる視界の中で彫刻刀に力をこめて机の上に傷を彫った。またこれで一本、傷がふえた。  汗が流れ悪臭に顔をしかめた。僕は想像する。窓の外にはてしなく広がる無音の世界。吹きすさぶ風に運ばれる腐臭。細菌が肉を腐らせ、悪臭を放ち、蝕んでいく。  心の中にある感情が湧き起こるのを止められず僕はベッドのふちに腰をおろすと彫刻刀を握り締めたまま両腕に顔をうずめて泣いた。  …………。  ふと気づくと僕は彫刻刀を握ったままベッドに腰をおろしていた。まるで毛虫を振り落とすように彫刻刀を離すと床に転がった。机の上を見るとまた気づかないうちに傷が増殖してすでにその数は二十を超えていた。  自分で彫っているのだろうかと思ったが、しかしそのような記憶はなかった。  何か恐ろしく重要なことを忘れている気がして不快な気持ちになった。自分の記憶にだれかの手が加えられているようにも思えた。不安な気持ちに襲われながら転がっている彫刻刀を見ると、その尖った先から禍々《まがまが》しい人を狂わす妖気めいたものを感じた。 [#ここから6字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  それは夕食後のことだった。居間の絨毯《じゅうたん》に寝転がりカズヤがテレビで野球中継を眺めていた。片手で頭を支えもう片方の手で菓子をつかんでいた。足は投げ出され数分おきに曲げたりのばしたりを繰り返し呼吸の度に胸のあたりが動いていた。  彼を殺そう。ぼんやりとそう思った。僕は自室に閉じこもり椅子に座って夜がふけるのを待った。あいかわらず机から悪臭が漂いペットの死体を引き出しの奥深くにしまいこんでいるようでもあった。組んだ両手が小刻みに震えそれを押しとどめようとするのだがうまくいかなかった。  弟を殺すことにためらいを感じてはいけないと自分に言い聞かせた。そうしなければ自分はもうだめなのだ。彼の見透かした視線は僕の肉を貫き、口元に見せる嘲笑が一時も鼓膜から離れない。目をかたく閉じ浮身の力で耳をふさいでもカズヤが指さして僕の醜い心の内を暴き立てる。  平穏を手に入れるためには僕がだれもいない世界へ行くか、僕の世界から彼を排除するかの二択しかないのだ。  数時間が経過して時計の針が深い夜の懐へ潜り込む。自室を出ると廊下のきしみにおびえながら弟の部屋へ向かった。扉の前に立つと廊下の明かりのせいで僕の影が眼前に現れた。それがまだ人型をしていることに複雑な思いがした。  扉に耳を当て彼が寝静まっていることを確認すると冷たいドアノブに手をかけて細く隙間をあけた。呼吸をひそめて部屋に体を滑り込ませ扉は閉めずに放っておいた。中は暗かったが電気はつけず廊下の明かりで視界を保った。  ベッドの上に弟の寝ている布団のふくらみを確認した。そっと近寄り彼が目を閉じて寝入っているのを上から見下ろす。入り口からの明かりが僕の体で遮断されカズヤの顔に影が落ちた。彼の耳元に口を近づけ「死」に関する『言葉』を囁こうとした。  その瞬間、彼が身じろぎしてベッドがきしんだ。一度、眠りの奥から引き戻される小さなうめきをあげ彼のまぶたが細く開けられた。  開かれた扉とそこから差し込む明かりに目をやり、それからようやくかたわらに立った僕の存在に気づいた。 「兄さん、どうしたの?」  彼は小首をかしげて微笑むと優しげにそう言った。僕がカズヤの首に両手をかけると女の子のような細い肩が驚きで跳ね上がった。渾身の力を込めて声を出した。 「お前はアアア、死ぬんだアアアア!」  彼の繊細な指が助けを求めるように虚空《こくう》をつかみ恐怖した瞳が見開かれた。しかしある違和感に気づいた。いつも『言葉』を行使する時、鼻腔の奥で感じていた小爆発がなぜかやってこなかった。鼻から赤いどろりとした液体も落ちなかった。  僕は弟の首から手を離した。不思議なことに彼は咳《せ》き込むわけでもなく、とがめるわけでもなく、まるで一切は夢であったかのように何事もなくまぶたを閉じた。そのいつもと変わらない様子に異様なものを感じた。弟の部屋を出る時、振り返ると、すでに彼はやすらかな寝息に包まれていた。  パチン、と頭蓋の中が爆《は》ぜたような気がして僕はスイッチが入ったように自室へ戻った。机の上を見るとたった今まで気づかなかったがカセットデッキが載っていた。それは小さな安物でそばに予備のものらしい大量の乾電池が積まれていた。どうやらプラグではなく乾電池で動くらしかった。これまでそれらが見えなかったはずはなく、その存在に気づかなかったのは異常なことだった。  カセットデッキの中にテープが挿入されていた。僕はわけもわからずそのテープの中身を再生しなくてはいけないような気がした。それはどうやら頭の奥に植え付けられた命令のようで指が勝手に再生ボタンにかかるのを止めることができなかった。  透明なプラスチックの小窓から回り始めたテープが見えた。スピーカーから聞こえてきたのは緊張をはらんだ自分の震える声だった。 [#ここから6字下げ] *   *   * [#ここで字下げ終わり]  ややこしいことになりました。  もう、このテープは何度目の再生になるのでしょう。今、これを録音している僕には、到底、想像することはできません。  これを聞いているあなたは、今から何日後の、あるいは何年後の僕なのでしょう。  ともかくテープを再生したばかりのあなたは何がどうなっているのか、すっかり忘れているのでしょうね。僕はこのテープに必要な『言葉』を録音したら何もかもを忘れていろいろなことに気づかない生活をはじめようと思っていますから。  僕がこのテープを用意した理由は他でもありません。何もかもを忘れて日常生活を送っている未来の自分にかつて自分が何をしてしまったのかを聞いてほしいからです。  あなたが急にこのテープを再生しなくてはいけないと感じたのも無理はありません。このテープの最後の方に次のような意味の『言葉』を吹き込んでおきましたから。 「だれかを殺そうとしたり、自殺しようとした場合、机の上にそれまで気づかなかったカセットデッキを見つけて、中に入っているテープを再生したくなる」  このテープを聞いているあなたが、だれを殺そうとしたのか、あるいはどのような方法で自分を殺そうとしたのかはわかりません。  でも、このテープを聞いているということは、そのうちいずれかの条件に符合したのでしょう。そう考えるとテープの再生が意味することは自分が安らかな生活を送れなかった証明なのですから残念な気持ちになります。  でも僕はあなたに伝えておかなくてはいけません。あなたがだれかを殺したくなったり、自殺したくなる必要はまったくないのです。その理由は非常に簡単で、なぜならとうの昔にほぼ全員、動かなくなったからです。父も、母も、弟も、クラスメイトや先生、今まで会ったことのない人々もみんなすでに生きていないのです。おそらく世界で生き残っているのは、あなたと、ほんの一握りの人間だけでしょう。  いつだったか、世界中の人間の瞳に、自分が映らなくなるにはどうしたらいいのかという問題を考えました。覚えているでしょうか。  あの犬が死んだ次の日の朝、僕はあいかわらず醜い作り笑顔でテーブルにつき朝食を食べていました。カズヤが目をこすりながら起きてきて母が彼の前に目玉焼きの載った皿を運びました。父が眉をひそめながら新聞を読んでいたのですが、一枚、ページをめくった拍子に、端の部分が、となりに座っていた僕の腕をなでました。電源の入ったテレビで清潔感の漂う洗剤のコマーシャルが流れていました。僕は急に耐えられなくなりみんなを殺すことにしました。  つまり次のような『言葉』を行使したのです。 「一時間後、おまえらの首から上が落ちる」  そこへさらに次の命令を下しました。 「地面に転がったおまえらの首は、それを目にしたすべての人間に対して、おまえらに与えられていた『言葉』をそっくり感染させる」  もちろん僕だけはそれらの効力から除外されるという『言葉』も付け加えてさらに記憶にも手を加えました。つまり、僕の声を聞いたことも忘れて彼らは家を後にしたのです。  家族に『言葉』を与えて一時間後、僕は高校にいました。その時カズヤのいる教室の方がにわかに騒がしくなったのです。行ってみると弟の頭が床に転がっており赤い池を囲んで生徒や先生たちが顔を青ざめさせていました。  見た者を一時間後、死に至らしめる魔の首です。僕は叫び声をあげる者や野次馬根性を露にする者たちをかきわけてそっとその場を離れました。ちょうどその時、父や母のまわりでも同じことが起こったにちがいありません。  さらに一時間後のことです。学校に集まっていたパトカーや近所に住む人間たちの前で、カズヤの転がった頭を視界に捉えた数十人の首が、一斉にぽろぽろと落ちたのです。悲鳴もなくただ唐突に一抱えもある重い物が地面に落下しました。その光景を、転げた頭の、百倍もの人間が、新たに目撃したのです。  多くの人間が恐怖と混乱のため乱暴になっている中、やがてテレビカメラがやってきて一時間後に命の終わりを告げる頭たちを中継しました。その瞬間、僕の『言葉』は電波によって感染し人類の首を狩り取ったのです。  その日の夕方にはすっかり町は静かになりしんとした空気の中で傾いた太陽が長い影をもたらしました。赤色の生臭くなった町を歩きおびただしく横たわる静かな人々を見ました。おかしなことに動物や昆虫にも効果があったらしく首のない猫や犬や蟷螂《かまきり》や蠅《はえ》が地面に落ちていました。  いろいろな場所で事故が発生したらしく黒い煙が点々と見えました。ほとんどのテレビは何も映していませんでしたが、たまに首のないニュースキャスターがただ机に突っ伏している映像を見かけました。  やがて、町の電気がいっせいに消えました。制御するべき人間を失った発電所が重大な負荷を受けて電力をまともに供給できない状態になったのでしょう。おそらく世界中で同じことが起こったはずです。  もう自分以外の生物は生きていないのだと確信して暗くなった町を歩きました。人間が倒れていない場所は見当たらずどこまで歩いてもアスファルトは汚れていました。  衝突し煙をあげている車の運転席に首のつながった動かない人を見ました。おそらくだれかの生首を見る前に事故で亡くなったのでしょう。  静寂の夜空に星が浮かび僕は歩道橋の上に座ってそれを眺めました。不思議なことに津波のような良心の呵責《かしゃく》は彼女がやってくるまで感じませんでした。  星を眺めていると小さな足音とともに人を求める声がどこからか聞こえました。歩道橋から見下ろすと事故のせいでまだ燃えている車の炎に照らされ危なげに歩く若い女性が見えました。信じられない思いで僕は彼女に声をかけました。  彼女はひさびさに聞く命ある声に安堵の表情を浮かべ僕の方に顔を向けました。  その瞬間なぜ彼女の首がつながったままなのか理解しました。彼女の目は見えなかったのです。  彼女はなんて運の悪い人なのだろう。僕はおののき、そして逃げ出しました。心を覆い尽くす絶対的な罪悪感が生まれました。しかしもう世界はもとにもどらないのです。  長い間、僕は苦しみました。世界を埋め尽くす動かない人々が腐っていくのを見ながらもう自分がこの世界にも耐えられないのだということを感じました。  そこで僕は一切のことを忘れることにしました。今の状況に気づかず大地が死に包まれる前の正常な世界に生きているのだという錯覚を見ることにしたのです。このテープの最後に次のような内容の『言葉』を録音しておくつもりです。 「おまえは彫刻刀で机に傷を彫るたびに今まで過ごしてきた日常の世界で生きているつもりになる。実際は何かを食べ睡眠し健康を維持して生命活動を続けているのだが、それと意識の中身は無縁であり、おまえはただひたすらこれまでと同じ日々を続けているのだと思い込むのだ」  ついでに、自分の部屋にある机だけはその条件から外そうと考えています。「おまえの五感は自分の机をだますことができない」と。つまり普段どおりの日々を送っていても机だけは現実とつながっているのです。  あなたはこのテープを聞いて後悔しているでしょうか。また全部を忘れてまたテープを聞く前の自分に戻りたいと思っているかもしれませんね。もしそう思うのなら、もう一度、机に傷を彫るといいでしょう。  机はあなたの幻覚ではありません。ですからあなたがこのテープを聞いて記憶を消した回数がそのまま傷として残るはずです。今、机の傷は何本になりましたか。 [#ここから6字下げ] *   *   * [#ここで字下げ終わり]  その後も独白は続いていた。どうやら過去の僕は、テープを通じて自身に『言葉』を行使し記憶の操作を行なったようである。机に顔を近づけ臭いをかいだ。彫刻刀でつけられた傷の一本一本から、もしくは引き出しの奥、光が届かない洞穴の向こうから、異様な湿った腐臭がした。向こう側にある現実の世界から、今、僕の見ている世界へ、机の引き出しを通じて臭いだけが流入しているのだ。  ベッドの端に腰掛けて想像した。表面を腐った肉が覆う世界で僕はただ一人学生服を着て学校に通っている。だれもいない改札口にむかってキセル乗車でないことを宣言するように定期券を掲げる。電車に揺られていると思い込んだまま線路を歩いて学校へ向かっているのだろうか。地面に転がったさまざまなやわらかいものを踏み歩き僕はひっそりとした校門を抜ける。みんなに嫌われないように作り笑いを浮かべて掃除されていない教室に入る。教室の中をクラスメイトたちがひしめきあい先生が静かにするよう怒鳴っているという夢を見る。しかし本当は静寂な教室の机に僕は座りつづけているのだ。髪は伸び目はうつろでそれでも必死の笑顔を作り自分の姿は人間というより動物のようだろう。  部屋の扉がノックされた。返事をするとサボテンを抱えた母が扉を開けた。 「まだ起きていたの。早くお眠りなさい」  母は無表情な顔で言った。この人も生きているようでいて実際はどこかで死んでいるのだろう。  この世界に僕は一人きりである。そう考えるとやはりある気持ちが湧き起こるのを止められなかった。 「手を震わせて泣いているけれどどうかしたの? どこか体の調子がおかしいの?」  僕は首を横に振り、心の中でごめんなさいと呟いた。僕が泣いているのは体の調子がおかしいからじゃないよ。安堵しているからなんだ。かつて望んだ一人きりの世界にこられて、ほっと気持ちが安らいだせいなんだよ。 [#改丁]  ZOO [#改丁] [#ここから6字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり]  写真と映画の違いは、俳句と小説の関係に似ている。  俳句ではなくても、短歌でも、詩でもいい。それらは普通、小説よりもはるかに文字数が少ない。それが特徴だ。その短い文字の連なりの中に、ある一瞬の心の動きを切り取って封じこめる。作者は世界を見聞きして、心に感じた感動を短い文字の中に描写する。  小説の場合、それが連なる。心の描写が連続し、しかも行数を追うごとにその形は変化する。小説内で起こる様々な出来事により、登場人物たちの心は常に同じということはない。短い文章のみを抽出《ちゅうしゅつ》すれば、それは描写だ。しかしそれを連続させることで、『変化』を描くのだ。登場人物たちの心は、最初のページと最後のページとでは違う形に変化している。その変化の過程が波線として成立したもの、それが物語の正体である。これは数学なのだ。小説を微分すると、俳句や詩になる。物語を微分すると、描写になる。  写真は描写である。一瞬の風景を枠の中に切り取る。子どもの泣いている顔を描写する。これは俳句や詩に近い。文字と絵という違いはあるが、どちらも、ある重要な一瞬を抽出し、永遠にとどめようとする試みだ。  では、写真が何十枚、何百枚と連なったとする。連続するのは、同じ写真ではない。かといってまったく違う被写体でもない。前にある写真よりも、一瞬だけ後に撮影したものを、次にくるよう並べる。それを高速で次々に切りかえると、残像現象から、そこに時間が生まれる。たとえば、最初は泣いていた子どもが、最後には笑った顔になっている。一枚の写真と違ってそれらは別々のものではなく連続している。泣き顔から笑顔に変わるまでの途中経過が存在する。つまり、心の変化を見ることができるのだ。『一瞬』をいくつも連ねれば『時間』が生まれるのは当たり前で、そうなってようやく、『変化』を描き出すことができる。すなわちそれは、物語を紡ぐことができるということだ。それが映画なのだ。俺はそう思う。  今朝もまた、写真が郵便受けに入っていた。これで何度目だろう。もう百日以上、同じことが続いている。それでも慣れて気にしなくなるということはない。早朝の凍えるような寒さの中でアパートの錆びた郵便受けに写真が入っているのを見つけるたび、眩暈《めまい》と立ちくらみと憎悪と絶望が同時に襲いかかってくる。俺は写真を握り締めたまま、立ち尽くすしかない。毎朝、そうだった。  写真は封筒などに入れられて郵送されたものではない。そのまま郵便受けに入っている。写真には人間の死体が写っていた。かつて俺の恋人だった女だ。どこかの地面に掘られた穴へ寝かされている。死体の彼女の胸から上を撮影している。しかしもう元の姿ではない。腐った彼女の顔に、生前の面影はない。  昨日の朝に郵便受けで発見した写真よりも、また少し、腐敗が進行しているらしい。しかし変化はわずかで、はっきりとはわからない。一目で確認できるのは、彼女の上を這っている虫の位置が昨日の写真とは異なっているということだけだ。  俺は写真を持って自分の部屋に戻り、スキャナーでパソコンに取りこんだ。これまで投函されていた彼女の写真は、すべてパソコン内に保存している。順番に番号をふって、いまや大量の画像データとして彼女は存在する。  最初に発見した写真の彼女は、まだ人間の姿をしていた。その次の日に見つけた二枚目も、顔が薄く黒みを帯びた以外に目立った変化はなかった。しかし日を追うごとに、郵便受けへ入れられている写真の彼女は、人間の形から遠ざかっていった。  写真のことはだれにも言っていない。彼女が殺されていることを知っているのは俺だけだ。世間では、行方不明として処理されている。  俺は彼女のことを愛していた。『ZOO』という映画をいっしょに見たことを思い出す。よくわからない話の映画だったが、彼女は隣の席で真剣になってスクリーンを見つめていた。  スクリーンには、野菜や動物の腐っていく映像が早回しで映し出されていた。林檎《りんご》や海老《えび》が黒ずんでいき、形を崩す。細菌に覆われて、臭いを放つ。マイケル・ナイマンの軽快な音楽に乗って、動物の屍骸たちが、あっという間に原形をなくしていく。その変化は極めて動的である。巨大な波が打ち寄せて去っていくように、腐敗が巻き起こる。様々な物の腐敗していく様を、主人公がフィルムに撮影していくという、そういう映画なのだ。  映画館を出た後、俺と彼女は動物園に立ち寄った。俺が車を運転していると、助手席にいた彼女が、道路の先にある看板を見つけて言ったのだ。  あれを見て。これはなにかの偶然よ。 『200メートル先を左折・動物園』  看板にはそう書かれていた。日本語の下に英語でも案内が書かれており、連なっているアルファベット中の、『ZOO』という文字だけがやけにはっきりと頭にこびりついた。  俺はハンドルを切って左折し、動物園の駐車場に乗り入れた。動物園内にほとんど人はいなかった。真冬の、もっとも寒い時期だったからだろうか。雪こそ降ってはいなかったが、空には厚い雲がかかり、薄暗かった。藁臭い動物の臭いが充満する中を、俺と彼女は並んで歩いた。彼女はコートを着ており、始終、寒さのせいで細い肩を震わせていた。  全然、人がいないわね。噂で聞いたことあるわ。こういうところに人がこなくなって、全国的に次々と動物園や遊園地がつぶれているんですって。彼女の声は白くなって空中に溶けて消える。鉄格子のような檻《おり》の前を、俺たちは次々と通りすぎる。寒さのせいか動物たちには元気がなく、目も虚ろだった。その中で、醜い猿だけがなぜか活動的に檻の中を歩き回っていた。俺と彼女はその前で立ち止まり、しばらくの間、眺めた。毛がところどころ抜け落ちた、薄汚い雰囲気の猿だった。檻の中にいるのは一匹だけで、コンクリートの狭い空間を、いつまでもぐるぐる歩き回っていた。  ヘトヘトの人生を歩んでいた俺に、はじめて優しくしてくれた女だった。一緒に動物園へ行ったあの日のことが、遠い昔のように思える。彼女が姿を消したのは、秋の深まった季節のことだ。  俺は、彼女が何かの事件に巻きこまれたんじゃないかということをみんなに訴えかけた。しかし警察は本腰を入れて捜索をしてくれなかった。事件に巻き込まれたなどと考えてはくれず、家出をしたものとして処理をした。家族もそれで納得していた。彼女は周囲にそう思わせるようなふらりといなくなる気配を持っていたのだ。  画像データとしてパソコン内に取りこんだ後、郵便受けで見つけた彼女の死体の写真を、俺は引き出しの中にしまいこんだ。引き出しは、すでに百枚以上の彼女の写真で溢れかえっている。  ディスプレイ中に表示されているカーソルを動かし、有名なムービー再生ソフトを立ち上げる。映像の編集もそれでできる。『イメージシーケンスを開く』という機能を選び、最初に投函された彼女の画像を選ぶ。『イメージシーケンスの設定』で、『毎秒12フレーム』を選択。  すると、パソコン内に保存された彼女の静止画像が、番号の順番に繋ぎ合わせられた動画となる。一秒に十二枚、彼女の静止画像が次々と切り替わる。本来はアニメーションを制作するための機能である。  再生すると、彼女の腐敗していく過程がわかる。虫たちが一斉に彼女を覆い尽くし、やがて食い荒らして去っていくという、波のような動きが見られる。  朝がきて、郵便受けに投函されている写真を発見するたびに、十二分の一秒、その動画は長さを増す。俺はそれを見ながらつぶやく。 「犯人を探し出す……」  死体の写真を撮影している人間が、彼女を殺したのだ。そんなことはわかりきっている。 「罪を償《つぐな》わせる……」  警察が彼女の捜索を打ち切ったとき、俺は、そのことを誓った。  ただひとつ、問題がある。その問題は決定的で、かつ俺という人格そのものを破壊しかねない。したがって俺はその問題点を見ないようにしている。 「くそっ、犯人はどこにいるんだ!」  俺の言葉はすべて台詞だ。演技なのだ。心では全然、別のことを思っている。ただ、そうやって演技し続けていなければ、あまりの現実のつらさに俺は潰れてしまう。  つまり俺は自分で自分のことを知らないふりをしているだけなのだ。そうして、彼女を殺した犯人をつかまえると意気込んでいる。決して、俺にはつかまえることなどできないだろう。なぜなら俺が殺したのだから。 [#ここから6字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり]  彼女を失って、ほとんど何も口にしない生活が続いた。鏡に映る自分の顔は、頬が削げ落ち、目が落ち窪んでいる。  俺は、自分が彼女を殺したことを知っている。そのくせ犯人を見つけようと意気込んでいるのは、矛盾した行動のように思える。だが、二重人格というわけではないのだ。  俺は彼女を心から愛していた。自分がこの手で彼女を殺害したなどとは考えたくない。だから、俺はその現実から逃避することにした。  どこかに俺ではない殺人犯が存在し、そいつが彼女を殺したことにしてしまえば、俺は気が楽になる。自分が彼女を殺したのだという自責の念から解放されるのだ。 「写真を郵便受けに入れているのはだれだ!?」 「なんのため、俺に写真を見せる!?」 「いったい、だれが彼女を殺害した!?」  すべて俺の一人芝居なのだ。わからないふりをして、犯人に本心から憤り、殺意を抱くという自分を演じる。  そもそも、写真を警察に見せないことが自分の保身を示している。俺はそのことを、自分一人だけの力で犯人を探し出してみせる、という考え方に変換し、写真を隠しておく理由にしてみた。結果として警察は彼女のことをいまだに行方不明だと思いこんでいる。俺も、警察の力を借りずに恋人の仇《かたき》を討とうとする自分に酔うことができる。  そのような演技を続けているうち、本当は彼女を殺害してはいないんじゃないかと思うことがある。殺したのはだれか他人なんじゃないか。俺は無実なんじゃないか。  しかし残念ながら毎朝届く郵便受けの写真が、そういった妄想の世界へ完全に逃げ切ることを妨げる。確かに俺が殺したのだと、写真が俺を告発する。  彼女の捜索を警察が打ち切ったのは、彼女がいなくなって一ヶ月後の、十一月に入ってすぐのことだった。それから俺は、自力で犯人を捜査するために会社をやめた。もちろんそれは、犯人に殺された彼女の恋人という役を演じているにすぎない。犯人に憤り、仇を討つために立ちあがった悲劇の主人公という役柄だ。  まずはじめに、彼女の知人を訪ねて質問することからはじまった。彼女の勤めていた会社の同僚、家族、よく行くコンビニエンスストアの店員など、俺は彼女と関わりのあった人物すべてに会った。「ええ、彼女はまだ見つかっていません。警察は家出だと言っていますが、俺は信じていませんよ、馬鹿馬鹿しい、あいつが家出なんて……。だからこうして、彼女と親しかった人に質問してまわっているんです。協力していただけますか。ありがとう。彼女と最後に会ったのはいつごろですか。何かおかしな様子とかありませんでしたか。たとえば、だれかに恨みを買ったとか、家のまわりに不審な人間が歩いているとか、そういう話を彼女はしていませんでしたか。……俺にはそういうことを一度も話しませんでした。……彼女がいつもしていたあの指輪ですか。そうです、俺の贈った婚約指輪ですよ。……おい、そんな目で見ないでくれ。憐れみはたくさんだ……」  だれも、俺が殺害したなどとは気付いていなかった。奴らにとって俺は、恋人が突然にいなくなって戸惑っている憐れな男として映っているようだった。俺の演技は迫真だったらしい。彼女のためではなく、俺のために涙を流す奴までいる始末だ。世の中は狂っているんじゃないかと思う。彼女を殺したのは俺だと、なぜだれも指摘しないのだ。俺が自分でそれを認めることはできないのだから、周囲の人間がそれをしてくれるべきだ。  いつも心の奥底ではそれを求めている。だれかが俺を指差して、おまえが犯人だと言ってくれるのを待っている。それを仕事としているはずの警察ですらまっとうに俺の罪を暴いてくれない。  ……俺は思っている。早く楽になりたい。すべてを洗いざらい話して、罪を認めたい。でないと、俺はいつまでも演技し続けないといけないじゃないか。しかし、自首をする、という一線を踏み越えられずにいる。恐ろしくなって、問題から目を逸《そ》らし、偽ることを選ぶ。  自分で捜査をする、という演技をはじめてから一週間ほどで聞きこみをする相手もいなくなった。それからの俺は袋小路に入った鼠のようだった。 「犯人を知る手がかりがない! 何か情報はないのか!」  一人きりの部屋で俺はつぶやきながらパソコンを扱う。彼女の腐っていく動画を再生し、それを見つめる。再生し終えて、腐り終えた後の彼女は、細菌の餌食《えじき》となって、人間というよりもそれ以外の何か別の見たこともない形容もできない何かになっていた。  正直言って、気持ち悪かった。人間の腐っていく様など、見たくはなかった。それが愛した人間ならなおさらだ。しかし俺は見なければならない。それを見ることで、俺は、自分が殺したのだということを自分に言い聞かせる。早く自首して告白しろと暗示をかける。しかし、その暗示はいつも失敗する。 「じっとしていてはいけない! 何か情報をつかむんだ! 捜査は足だ!」  俺は彼女の腐敗する動画から目を逸らし、立ちあがる。彼女の写真を持って外へ出ると、犯人を探すふりをしながら町を徘徊する。  持っていくのは、腐敗した彼女の写真ではない。生前の、美しい姿のものだ。彼女の背後にはシマウマの檻が見える。場所は、あの動物園だった。あの日、彼女が思い立って唐突に使い切りカメラを購入したのだ。俺たちは虚ろな目をした臭い動物ばかり撮影して歩いた。最後の何枚かのみ、彼女に向けてシャッターを切った。シマウマの前に立つ彼女は、少し睨みつけるような顔を永久にフィルムへ切り取られた。  その写真を道行く人々へ見せ、情報を求めながら歩いた。歩道を歩いていると、唐突に写真を見せられるのだから、相手にとってみれば迷惑だろう。それはわかっている。しかし、俺はそうしなければ気がすまない。周囲から見れば、ほとんど浮浪者のようだっただろう。しかしかまっていられなかった。  もはや仕事も生きがいもなくし、貯めていた金も底をつきかけている。そのうちにアパートも追い出されるだろう。大丈夫、車の中で眠ればいい。食うものがなくなれば、だれかから金を奪えばいい。犯罪に手を染めてもいいのだ。ただ、彼女を殺害した人間を見つけることができればそれでいい、といった人間を演じきれればそれでいい。  昼間のうちずっと町中で聞きこみをする。 「この写真の人を知りませんか。どこかで見かけませんでしたか。お願いします。お願いします……」  以前、何時間も同じところでそうしていると、近くの店の人間が交番に通報したことがあった。その経験を踏まえ、しばらくの間さまよった後、車で移動して別の町に出かけて同じことをする。  何度か若い男たちにからまれたことがあった。リンチを受けたことも一度だけあった。それは路地裏でのことだった。抵抗すると、相手はナイフを持ち出してきた。俺は刺してくれることを望んだ。心臓をひと突き。そうすれば終わる。すべて終わる。俺が彼女を殺したなどと、自分で認めないまま死ぬことができる。殺人者ではなく被害者として人生を終えるのだ。それは俺にとってプライドを保つ行為だった。自分の罪から完全に逃亡できる唯一の逃走経路なのだ。もう彼女の写真を持って、いもしない犯人を求めることも、あるわけのない情報を求めて町をさまようことも、しなくてよくなる。  しかしその若者は、俺を刺してはくれなかった。ナイフを持っている手をつかみあげ、俺は無理やり、自分の胸に押し当てさせた。後はそいつが力をこめて刃をねじ込むだけですむはずだった。しかしそいつはがたがた震え出してあやまりはじめた。まわりにいるやつらも顔を青ざめさせていた。そのうちに警察がきて、みんなは俺を置いて逃げ出した。待ってくれよ、俺も連れていってくれ、と叫びたかった。  警察を呼んだのは薄汚れた老婆だった。偶然に俺が路地に連れこまれるのを見ていたらしい。その婆さんはひどく小さな体をしていて、おどおどした様子で警官の後ろに立っていた。みすぼらしい格好で、着るものも、履いているものも、現代の日本人とは思えなかった。おそらく金のない、貧乏な生活をしているのだろう。小便臭いトンネルの中などで眠っているのだろう。婆さんの顔に刻まれた皺には垢《あか》がたまっている。髪の毛も不潔そうだった。そして木の板らしきものが首から下がっている。最初、パチンコ屋かなにかの宣伝をして食いつないでいるのかと思ったが、違った。  ゴミ捨て場から拾ってきたような薄汚い板には、直筆の汚い文字で『人をさがしています』と書かれていた。文字の下に写真も貼ってあった。若い男の写真で、俺の持っている彼女の写真とは比較にならないほど古かった。その婆さんに話を聞いてみると、一人息子が行方不明で、もう二十年、町角に立って探しているという。そして皺だらけの手を、そっと首から下げた板の上に置いた。古くぼろぼろになった写真を撫でながら婆さんは俺の聞きなれない方言まじりの言葉で、この写真は外に立っているうちにぼろぼろになったが息子を写したものはもう他にないからどうしたらいいかなあという意味のことを困ったようにつぶやいた。  俺はその婆さんの足元にひざまずいた。突っ伏して、額を地面に擦《こす》りつけた。嗚咽と涙が止まらなかった。婆さんも、そばにいた警官も、俺を慰めようとしてくれた。しかし俺は首を横に振ることしかできなかった。 [#ここから6字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり]  持ち主のいないような山小屋で、俺と彼女は喧嘩をした。たとえば『ZOO』という看板を見つけて咄嗟に動物園へ向かうことを決めたように、彼女の行動には発作的なものがあった。そのときも、ドライブ中に何年も車が通っていないようなわき道を発見して、そこを曲がってみて、という唐突な提案を彼女がしたのだ。その道の先に何があるのか、急に確認したくなったのだろう。彼女のそういうところが好きだった。  道の先には、山小屋があった。小屋というより、古い板切れの集まりといった感じの外見だった。俺と彼女は車を停めて中に入った。  かび臭かった。彼女は今にも落ちてきそうな天井を見上げながら、顔を輝かせていた。俺はその様をポラロイドカメラで写真に撮った。動物園で使い切りのカメラを使って以来、俺はカメラに凝り始めていた。  彼女はフラッシュに顔を歪めた。まぶしいわね。強い口調でそう言うと、ポラロイドカメラから出てきた写真を俺の手から取り上げて握りつぶした。こういうのは嫌いだわ。それから彼女は、私のことは忘れてちょうだい、と言った。どういう意味かと尋ねると、俺に対して今は愛情など抱いていないのだという意味の話をしはじめた。  世間において彼女が行方不明になったのはその日からだった。俺とドライブをした前日までは会社に出ていたのに、その日より後、彼女はだれの前にも現れていない。それは当然のことである。彼女はずっとその山小屋から出ていないのだから。  その日に俺と会うことなど、彼女は親しい人間にも告げていなかったらしい。もしだれかにそう話していれば、俺は警察に事情聴取されただろうし、罪を告白していただろう。しかし実際は、彼女の母親から電話がきて、娘を知らないかという質問を受けただけだった。愛情の薄い母親であるため、さほど彼女の失踪に関して気にしていない様子だった。  布団をかぶって震えていた俺は、彼女が失踪したという話を電話で聞き、自分が殺したことを正直に話そうと思った。 「なんですって、彼女がいなくなった……? 警察にはもう連絡したんですか? 待っていてください、今からそちらに向かいます!」  思っていたこととは違う言葉しか出てこなかった。長く意味のない演技のはじまりだった。  俺は彼女の家まで出向き、母親と話をして、警察に捜索願を出した。俺は本心から彼女の行方を知りたがっているように見せかけた。死に物狂いで彼女の行方を追い求める俺、という嘘の自分を作り上げた。 [#ここから6字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり]  それは、彼女の写真を持って町を徘徊した後のことだった。一日が終わりかけ、太陽が傾きはじめていた。俺は駐車場に置いていた車の元へ戻り、周囲に立ち並ぶビルの群れを見上げた。夕日を背負う格好で、巨大な柱たちが黒い影となって覆い被《かぶ》さってくるようだった。 「今日も収穫はなしか……」  俺はつぶやいてみた。冬の冷気が吐き出す息を白くする。くたびれてぼろぼろになったコートの中から彼女の写真を取り出して見つめる。切り傷ができて固くなった指の皮膚で、写真の彼女の顔をそっと撫でる。  駐車場に停めている車は、俺の一台きりだった。通行人も見当たらない。コンクリートの地面に、俺の影が長く伸びていた。 「明日こそは犯人を……」  歩き回って全身が疲労していた。気を抜くと倒れそうなほどだった。俺は車の扉を開けて運転席に乗り込んだ。そのとき、助手席の下に落ちているものが目に入る。 「なんだこれは……?」  丸められた紙くずのようだった。拾い上げてみる。写真だった。広げて、何が写っているのかを確認する。 「これはいったい……」  彼女が写っている。上向き気味の格好で、不意を突かれて撮影されたようなかわいらしい表情をしていた。背景は木の板が組み合わさっている壁だった。日付が右下の隅に入っている。 「どういうことだ!? この日付は、彼女の消えた日じゃないか!」  当惑する、という演技をする。その写真はあの日、彼女が怒って握りつぶしたものだった。 「一体何故、こんな写真が俺の車の中にあるのだろう……。不思議だ。理解ができない。この写真の彼女、死んではいないぞ……。そうだ、犯人がこの車に写真を投げこんだのだ。そうとしか考えられない……」  俺はダッシュボードを開けて、その中に写真をしまおうとする。ダッシュボードの中に、一枚の紙切れが入っているのを見つける。 「これはなんだ?」  ガソリンスタンドの領収書だった。 「……この領収書の日付は、彼女の消えた日じゃないか! 領収書に、ガソリンスタンドの住所が書いてあるぞ! そんな馬鹿な、俺はこの日、こんなところに行っていない。ずっと家にいたはずだ……。もしかすると……」  俺は推理して、ある重大な結論を導き出した、というふりをする。 「……犯人はこの車を使って彼女を誘拐したんじゃないか? そうだ、だから彼女はあっさり犯人につかまったのだ。彼女はこの車を見て、俺だと勘違いし、警戒を解いたのだ!」  俺はエンジンをかけると、車を発進させた。行き先はわかっている。領収書に書かれてある住所だ。 「ガソリンスタンドの人なら、あの日、この車を運転していた人物を見ていたかもしれない! はたして覚えているだろうか。それが疑問だ」  俺はつぶやきながら運転をする。ハンドルを切り、ビルの並んでいる通りを抜け、郊外へ向かう。次第に建物が少なくなり、道路脇に並ぶ民家と民家の間に荒地が挟まれる。沈みかける太陽が赤く、フロントガラス越しに俺を照らす。後ろへ過ぎ去る風景の中、夕日は動かずにじっと追いかけてくる。  ガソリンスタンドに到着したころ、辺りは暗かった。ライトを点灯させた車を乗り入れると、スタンドの主人らしい中年の男が近づいてきた。作業服を着て、油で汚れた手をタオルで拭いている。俺は窓ガラスを下ろし、彼女の写真を見せながら質問を投げかける。 「なあ、あんた、この写真の……」  俺が言いかけると、彼は忌々《いまいま》しそうな顔をしながら答える。 「ああこの子ね。ずっと前に来たよ。西へ向かうと言っていたな」 「西へ? なあ、どんな車に乗っていたんだ?」 「もちろん乗っていたのはあんたが運転しているその車さ」 「やっぱり!」 「運転していたのもあんただよ。さあ、これでいいのかい。台詞は完璧かい。あんたも毎日、大変だな。同じことばっかりしていて、飽きないかい。あんたのこの遊びにつきあいはじめて、今日で何ヶ月目だろうね。もっとも、お得意様だから逆らえないけどね」 「意味不明のことを言わないでくれ。それよりも、運転していたのは俺だって? そんな馬鹿な……」  俺は、ショックを受けた、という演技をする。 「その日、彼女を乗せた車を、俺が運転していただと……?」  スタンドの主人が俺を追い払うような仕草をした。アクセルを踏んで、車を西へ向かわせる。 「くそっ! いったい、何がなんだかわからなくなってきやがった!」  俺はハンドルを手で叩いた。 「あのガソリンスタンドの主人は、車を運転していたのが俺だという……。俺はその日、一日中、家の中にいたはずじゃないのか……!? いったい、何が起こっている!? 何が現実で、何が幻想なんだ!?」  自分自身に疑いを持つ瞬間。自分についての確信がゆらぐ瞬間。ガソリンスタンドで交わした会話は、俺に真実を告げる。俺は心を引きしめた。これから起こることに対して、心の用意をする。  いつのまにか周囲は雑木林である。絡み合う木の枝が道の両端を埋めている。車のライトが、一本のわき道を照らし出した。道は黒々とした絡み合う木々の中に延びている。俺は急ブレーキをかけた。 「……見たことあるぞ、この景色。そんな馬鹿な、俺はこんなところ、来たことがないはずなのに」  ハンドルを切って、わき道へ進入する。車が一台、ようやく通り抜けられるほどの幅である。やがて広い場所に出た。ライトが正面の暗闇を照らし出す。白い光の中に浮かび上がったのは、古い木の小屋だった。 「俺はこの小屋を知っている……。俺は……」  運転席を出て、辺りを見まわす。だれもいない。冷たい空気が、静かな森の中に充満している。俺は車のトランクから懐中電灯を取り出し、小屋に近づいた。入り口を開け、中に入る。  かび臭い。呼吸するたびに嫌なものが肺の中へ入ってくる気がする。懐中電灯の光の輪が、小屋の内部を照らし出した。広くはない。まず最初に、暗闇の中で静かに立っている三脚とカメラが目に入った。ポラロイドのカメラだ。  小屋の地面は土が剥《む》き出しだった。そこに穴が掘られている。カメラのレンズは穴へと向けられていた。俺はそこに近寄り、暗闇が水のように溜まっている穴の奥へ懐中電灯を向けた。  俺は、それを見た。そして崩れ落ちるように膝をつく。 「たった今、思い出した……。なんてことだ……」  俺は演技を続ける。これは一人芝居なのだ。演じるのは俺。観客も俺……。 「俺が彼女を殺したんだ……」  俺はその場で泣いた。涙が頬を伝い、乾燥した地面に落ちて染みこんだ。傍らの穴の中には、彼女がいた。腐敗しきって、もはや乾燥し、虫さえもよりつかなくなった彼女だ。縮んで小さくなっている。 「俺が……。俺が彼女を……。そして記憶を封印していたんだ……」  すべて俺の考えた台詞である。実際は忘れていなかった。すべて覚えている。しかし、そういうストーリーの芝居なのだ。 「これまで俺は彼女を殺害した犯人を追いかけていた……。しかし、俺こそがその犯人だったのだ……。彼女に酷いことを言われ、その憎しみのために俺は、発作的に……」  嗚咽混じりに、俺はつぶやく。声は、自分以外にだれもいない小屋の中に響く。地面に転がった懐中電灯の明かりだけが周囲を照らしている。  冷たい地面に手をつき、立ちあがった。全身が疲労で軋むようだった。穴の縁に近づき、上から彼女を見下ろす。穴の奥の、もはや人間の姿をしていない彼女は、砂埃に覆われ、半ば地中に埋もれている。 「……このことを警察に話さなければ。……俺は、自首しなければならない」  決心して俺はつぶやく。それは台詞に違いなかったが、本心でもあった。心から俺はそうすることを望んでいた。 「……俺にその勇気はあるのか?」  拳が震える。俺は自問自答する。 「……俺にその覚悟はできるか?」  だが、やらなければいけない。俺は、人を殺したという罪から逃げてはいけないのだ。愛する人間をこの手で殺してしまったという事実を、俺は受け入れなければならない。 「それは困難だ……。それを認めることは、難しい……」  首を横に振り、俺は心細くなって涙を流す。いったい、どうすれば俺は自首できるのだろうか。罪を告白できるのだろうか。 「明日になれば、俺は今の気持ちを失い、この事実を忘れてしまいそうだ……。再び記憶を封印し、実際はいもしない犯人を探しはじめるかもしれない……。俺は……狂っている……」  手で顔を覆い、肩を震わせる。そして、あることを思いつく、という演技をする。 「そうだ……。自分を告発するための仕掛けをしておけばいい! 写真だ! 彼女の写真を撮影しておけば、俺はこの自分の罪を忘れないだろう!」  ポラロイドカメラに近づき、シャッターを押した。穴の奥の腐敗した彼女が、一瞬、閃光に照らされて暗闇の中に浮かび上がる。音を立ててカメラが写真を吐き出した。 「この写真を見ることで、俺は自分の罪を思い出す。現実から目を背けようとしても、否応なく、自分の行ないを見せつけられる……。俺は、償いから逃げ出さない……」  声を震わせて決心する。写真を持って、俺は小屋から離れた。 「警察へ向かおう……。そしてこの写真を見せて、俺が彼女を殺したと話そう……」  懐中電灯をトランクに戻し、車に乗りこむ。ようやく画の浮かび始めた写真を、助手席に乗せる。俺は車を発進させた。  暗闇の中を走る。踏みこんだアクセルの下から、エンジンの振動が伝わってくる。雑木林を抜けて、辺りは寂しい荒地だけの土地となる。ライトの中に、道路の白線だけが浮かび上がる。黒いアスファルトの周りは、さらに黒色の闇だった。  助手席に乗せた写真は、今や彼女の腐敗した姿を浮かび上がらせている。室内灯を点《つ》けていないのではっきりとは見えないが、車のメーター類の発する明かりのため、ぼんやりとそれがわかる。 「俺は告白する。警察へ向かう。自分の罪を認める。俺は逃げない。逃げてはいけない。彼女は俺が殺した。……それはあってはいけないことだ。だが、あったんだ。それは事実としてあったんだ。……認めたくない。俺はそんなことをしない。なぜなら愛していたのだから。だけど、俺は殺してしまったんだ……」  自分へ言い聞かせるように、俺はそう繰り返す。  だが、俺は知っている。この先の展開を知っている。そのような台詞を言いながら、俺は、自分が警察になど行かないことを知っている。いや、行かないのではない。行けないのだ。本当はすべて認めて楽になりたい。だが、そうなるための決心が挫《くじ》けることを、俺は知っている。  これは、毎日、毎晩、繰り返していることなのだ。今日だけではない。いつも一日の終わりに繰り返し上演している芝居なのだ。日が傾き始めたころ、俺は車の中で、握りつぶされた彼女の写真を拾う。自分に疑問を持つという芝居のスタートだ。ガソリンスタンドへ行き、芝居を手伝ってくれているスタンドの主人と話をする。毎日、ほぼ同じ時間に現れて、同じ台詞を繰り返す。俺は小屋を見つけ、彼女の死体を見て、自分の行なったことを思い出す、という演技をする。  そして、警察へ向かう決心を固める。……この部分は、演技には違いないが、俺の望みでもあった。  しかし、そうはならない。俺の決意が挫けなければ、今ごろとっくに囚人となって安らかな生活を送っているだろう……。  来る途中に立ち寄ったガソリンスタンドの前を通りすぎる。すでに閉めており、スタンドは暗い。もうじき走ったところに、ある看板がある。俺の決意はそれを見た瞬間、崩壊する。わかっている。毎日、毎晩、繰り返されていることなのだ。 『200メートル先を左折・動物園』  ライトに照らされる看板にはそう書いてあるはずだ。その下に記されている三文字の英語が、運転をする俺の目に焼き付くはずだ。 『ZOO』  それを見た瞬間、俺の脳裏に彼女のことが思い浮かぶ。一緒に映画を見たこと。動物園に行ったこと。写真を撮ったこと。はじめて会ったときのこと。俺が孤児院で育ったという過去を打ち明けたときのこと。あまり笑わない彼女が、はじめて笑顔を見せたときのこと。それらが一度に俺の頭の表層へ浮上する。看板が暗闇の中から現れ、その横を通りすぎる瞬間、横の助手席に彼女が座る。現実に座るわけじゃない。しかし、死体の写真が彼女の姿となり、俺の方を振りかえり、そっと手を伸ばして髪を触る。そうなることは決まっている。  俺は挫けるだろう。だめだ、自分が彼女を殺したなんてありえない……。そう考えるだろう。少し行った道の真ん中に車を停めて、子どものように泣き出す。アパートへ帰りつき、助手席に置いていた写真を郵便受けに入れる。せめて明日の俺がそれを見て決心してくれるように祈る。あるいは十二分の一秒長くした映像が、俺に覚悟をもたらしてくれるよう願う。彼女が死の直前に丸めた写真と、ガソリンスタンドの領収書とを、車内の所定の位置に置き、明日の夕方の用意をする。繰り返し行なわれる芝居の、それが結末だ。  そうなのだ。結局、何もかわらない。一日を終えても、俺は彼女の殺害を自分で認めないのだ。変化しない。あの動物園で、檻の中をぐるぐる歩き回っていた醜い猿と同じだ。いつまでも同じ一日を繰り返す。朝になれば、郵便受けから写真を発見し、立ちすくむ。そうなることは、残念だけど決まっている。  車が闇の中を進む。毎晩、通る道だ。もう何ヶ月、ここを走っているだろう。あと何ヶ月、俺はここを通るのだろう。もうすぐ看板が見えてくる。彼女との思い出を俺につきつけるあの看板だ。俺はハンドルを握り締め、次第に近づいてくる瞬間を待つ。 「俺は……。彼女を殺した……。俺が……。彼女を……」  口につぶやいて、決心を固めてはいる。しかし心の中に、どうせ無駄だという気持ちがある。それでも突破できることをどこかで祈り続ける。まるで神を信じるように、覚悟したまま『ZOO』の文字の前を通りすぎることができるよう祈る。  ライトの中に白線がどこまでも続いている。枯れた草が高速で道の両端を後方へと流れ、過ぎ去っていく。もうすぐだ。看板が現れる。いつもの、覚悟が挫ける場所だ。  俺は呼吸を止めた。車が、その地点を通り抜ける。まるで時間が止まったかのような瞬間が訪れる。暗闇の中、車が空中を浮かんでいるような、宇宙で停止しているような、そんな瞬間だった。  俺はしばらく惰性《だせい》で車を走らせ、道の真ん中で停止させる。鍵をつけたまま、ハンドブレーキを引くことさえ忘れて、俺は車内から出た。全身に浮かんだ汗を、冷たい風が冷やす。俺は背後の、圧倒的な暗闇を振り返る。  俺は、さきほどフロントガラス越しに見たものを思い出していた。いや、見たというのは間違いだ。俺は、それを見なかった。  噂で聞いたことあるわ。こういうところに人がこなくなって、全国的に次々と動物園や遊園地がつぶれているんですって。  彼女は確か、動物園でそう言っていた……。確かに、動物園がつぶれるという噂はあった。  昨晩まであったはずの『ZOO』の看板が、消えていた。かわりに虚空が広がっていた。俺は、何も見ることなくその地点を通りすぎていた。過去の、彼女の幻影は現れなかった。助手席に彼女が座ることなく、俺はその道を通りすぎた。思い出さなかったことについて、彼女への罪悪感がある。しかし、姿を見せないという方法で、彼女が俺を無言で告発してくれた気もする。  運転席に戻り、俺は静かに祈りを捧げた。それが、神様へ向けたものなのか、それとも俺が殺してしまった彼女へ向けたものなのか、わからない。ただ、もう演技をする必要がないことは知っていた。俺はこれから警察へ向かえるだろう。罪を告白するだろう。心の中に安らぎだけが満ちていた。 [#改丁]  SEVEN ROOMS [#改丁] ●一日目・土曜日  その部屋で目が覚めたとき、自分がどこにいるのかわからなくて怖かった。最初に見えたのはほのかに点《とも》った電球で、黄色く、弱々しい明かりで暗闇を照らしていた。まわりはコンクリートでできた灰色の壁だった。窓もない小さな四角形の部屋に、ぼくは横たえられ、気絶していたらしい。  手で体を支えて上半身を起こすと、地面につけた手のひらにコンクリートの無慈悲な硬さを感じた。まわりを見渡していると、頭が割れるように痛む。  突然、ぼくの背後でうめき声が上がる。姉がそばに倒れており、ぼくと同じように頭を押さえている。 「姉ちゃん、大丈夫?」  体をゆすると、姉は倒れたまま目を開けてぼくを見た。起きあがり、ぼくと同じような格好でまわりを見る。 「ここはどこ?」  わからない。ぼくは首を横に振った。  裸の電球が下がっているだけで他には何もない、薄暗い部屋だった。ぼくたちは、どうやってこの部屋に入ったのか覚えていない。  覚えているのは、郊外にあるデパートの近くの並木道を、姉といっしょに歩いていたということだけだった。母の買い物がすむまで、姉がぼくの世話をすることになったのだ。それはぼくたち二人にとって不愉快なことだった。ぼくはもう十歳になるのだし、世話がなくても一人でちゃんとできる。姉も、ぼくを放っておいて遊んでいたいようだった。でも、母はぼくたちが別々に行動することをゆるさなかった。  ぼくと姉は険悪な雰囲気のまま話をせずに遊歩道を歩いていた。道には四角い煉瓦が模様を描くように敷き詰められ、両側に並んでいる木々は枝を広げて天井を作っていた。 「あんたなんか留守番していればよかったのよ」 「なんだよケチ」  ぼくと姉はときどき、相手を罵《ののし》る言葉をぶつけあった。姉はもうすぐ高校生だというのに、ぼくと同じレベルで口喧嘩をする。そもそもそこが変だ。  歩いていると、急に、後ろの茂みが音をたてた。振り返って確かめる時間もなかった。頭にひどい痛みが走り、いつのまにかぼくたちは部屋にいた。 「だれかに後ろから殴られたんだ。そして気絶している間にここへ……」  姉が立ちあがりながら腕時計を見た。 「もう土曜日になってる……。今、たぶん夜の三時だわ」  腕時計はアナログ式で、ぼくには触らせてくれないほど姉のお気に入りのものだった。銀色の文字盤に小さな窓があり、そこに今日の曜日が表示される。  部屋は縦横高さが三メートル程度あり、ちょうど立方体の形をしていた。飾りのない灰色の硬い表面が、電球の明かりでゆるやかに陰影をつけられている。  鉄製の扉がひとつだけあったが、取っ手も何もない。ただの重い鉄の板が、コンクリートの壁に埋めこまれているだけに見える。  扉の下に、五センチほどの隙間がある。そこから、扉の向こう側にあるらしい明かりが床に反射している。  床に膝をつき、隙間から何か見えないかと確かめる。 「何か見えた?」  期待するような顔でたずねる姉へ、ぼくは首を横に振る。  周囲の壁や床は、あまり汚れていない。つい最近、だれかが掃除をしたように、埃さえつもっていない。灰色の冷たい箱へ閉じ込められたように思えてくる。  ただひとつの明かりとなる電球は天井の中央に下がっているため、ぼくと姉が部屋の中を歩き回ると、二つの影が四方の壁を行ったり来たりする。電球は弱々しく、部屋の隅には暗闇が拭《ぬぐ》えずに吹きだまっていた。  ひとつだけ、この四角い部屋に特徴があった。  床に幅五十センチほどの溝がある。扉のある面を正面だとすると、ちょうど左手の壁の下から、右手の壁の下まで、床の中央部分をまっすぐ貫いて通っている。溝には白く濁った水が左から右へ流れている。異様な臭いを発し、水に触れているコンクリート部分は変色しておぞましい色になっている。  姉は扉を叩いて大声を出した。 「だれか!」  返事はない。扉は分厚くて、叩いても、びくともしない。重い鉄の塊を叩いたときに出る、人間の力では壊れないという絶対的に無情な音が、部屋の中に反響するだけだった。ぼくは悲しくなって立ちすくむ。いつになったらここから出られるのだろう。姉の持っていたバッグはなくなっていた。姉は携帯電話を持っていたが、そのバッグの中に入れていたため、母に連絡することもできない。  姉は床に頬をついて、扉の下の隙間に向かって叫んだ。全身を震わせ、汗まみれになって体の奥から助けを呼ぶ。  今度は、どこか遠くから声らしいものが聞こえた。ぼくと姉は顔を見合わせた。  自分たち以外に、近くにだれかがいる。しかし、その声は判然とせず、内容までは聞き取れなかった。それでも、ぼくはほっとした。  しばらく、扉を叩いたり、蹴ったりしていたが、無駄だった。やがてつかれて、ぼくと姉は寄り添って眠った。  朝の八時ごろ、目が覚めた。  眠っている間に、扉の下の隙間に食パンが一枚と、綺麗な水の入った皿が差し込まれていた。姉はパンを二つに裂くと、半分をぼくにくれた。  姉は、パンをさしこんでくれた人物のことを気にしていた。もちろん、その人物が、自分たちをここに閉じ込めたにちがいない。  部屋の中央を貫いている溝は、ぼくたちが眠っている間も絶え間なくゆっくりと水が流れている。常にそこからは物の腐ったような臭いが漂い、ぼくは気持ち悪くなった。虫の屍骸や残飯が浮いて、部屋を横切っていく。  ぼくはトイレに行きたくなった。そう姉に告げると、扉を一度見て、首を横に振った。 「部屋から出してもらえそうにないから、その溝にしなさい」  ぼくと姉は、部屋から出られるのを待った。しかし、いつまでたっても、扉が開くことはなかった。 「だれが、どういう目的で私たちをこの部屋に閉じ込めているのだろう」  姉は部屋の隅に座ってつぶやいた。溝を挟んで、ぼくも同じように腰を落ちつける。灰色のコンクリートの壁に、電球のつくる明かりと影。姉の疲れた顔を見て悲しくなった。早くこの部屋から出ていきたかった。  姉は扉の下の隙間に叫んだ。どこからか人の返事が聞こえる。 「やっぱり、だれかいる」  しかし、反響して何と言っているのかわからない。  食事はどうやら朝だけらしく、その日、もう運ばれてくることはなかった。空腹を姉に訴えると、それくらいがまんしなさい、と怒られた。  窓がないのでよくわからなかったが、時計を見ると夕方の六時ごろだった。扉の向こう側から、こちらに近付いてくる足音が聞こえた。  部屋の隅に座っていた姉が、ぱっと顔を上げる。ぼくは扉から距離をとった。  足音が近づいてくる。ついにぼくたちの閉じ込められているこの部屋に、だれかがやって来るのだと思った。そしてその人物は、なぜぼくたちにこんなことをするのか説明してくれるに違いない。ぼくと姉は、息を呑んで扉が開かれるのを待った。  しかし、予想に反して足音は部屋の前を通りすぎた。拍子抜けした顔で姉が扉に近づき、下の隙間に向かって声を出す。 「待って!」  足音の人物は、姉を無視して行ってしまった。 「……ぼくたちをここから出す気なんて、ないんじゃない?」  ぼくは怖くなって言った。 「そんなはずないわ……」  姉はそう言ったが、それが口だけだということは、顔でわかった。  部屋の中で目がさめて、丸一日がたった。  その間、隙間の向こうから、重い扉の開閉する音や、機械の音、人の声らしい音、靴音などが聞こえた。でも、それらはすべて壁に反響してはっきりとせず、どれも巨大な動物の唸り声のように空気を震わせているだけに聞こえた。  ぼくと姉のいる部屋は、一度も開けられることはなく、ぼくたちはまた寄り添って眠りについた。 ●二日目・日曜日  目が覚めると、扉の下の隙間に食パンがあった。水の入った皿はない。昨日、差し込まれた皿は、部屋に置いたままだった。それを隙間から出しておかなかったから水がもらえなかったのではないかと姉は推測していた。 「忌々しい!」  姉は悔しそうに言うと、皿を振り上げた。床に叩きつけようとして、とどまる。壊すと、もう二度と水をくれなくなるかもしれない。そう考えたのだろう。 「なんとかしてここから出なくちゃいけない」 「でも、どうやって……?」  弱々しくたずねるぼくに、姉が視線を注ぐ。次に、部屋の床を貫いている溝を見た。 「この溝は、きっと私たちのトイレのかわりなんだ……」  溝の幅は五十センチ、深さは三十センチくらいだ。片方の壁の下から出て、もう片方の壁の下に吸いこまれている。 「私が通るには小さすぎる」  でも、ぼくなら通り抜けられるにちがいない。そう姉は言った。  姉のはめていた腕時計で、お昼ごろだというのがわかった。  ぼくは姉の言う通り、溝の中をくぐって部屋の外へ行くことになった。そうやってこの建物の外に出ることができれば、だれかに助けを求めることができるはずだ。もし外へ出ることができなくても、とにかく周囲のことをなんでもいいから知りたい。そう姉は考えていた。  でも、ぼくは乗り気じゃなかった。  溝の中に入ろうと、ぼくはパンツだけになる。そこで、やっぱりひるんだ。溝を流れている濁った水にもぐらなければいけないというのが、つらかった。姉も、ぼくの気持ちがわかったらしい。 「おねがい、がまんして!」  躊躇《ためら》いながら、溝の中に足を入れた。浅い。足の裏側は、すぐに底へついた。ぬるぬるして、すべりやすい。深さは膝の下くらいしかない。  壁の中に吸い込まれる溝の口は、横に細長い四角形で、暗い穴になっている。小さかったが、ぼくなら通れるはずだった。ぼくはクラスの中で、一番、体が小さい。  溝が壁の中で四角いトンネルのように続いている。水面に顔を近づけて、先がどうなっているのか見ようとした。そうした拍子に、ぷんと悪臭が鼻をつく。溝のトンネルがその先どうなっているのかは、よくわからなかった。実際にもぐってみるしかない。  壁の中に続くトンネルの中で体が引っかかったら、戻ることができなくて危ないかもしれない。そう考えて、姉はぼくの服の上下と二人分のベルトを繋いでロープを作っていた。それを靴紐でぼくの片足に結びつけ、危なそうだったら引っ張ってぼくを助けるという計画だった。 「どっちに行けばいいの?」  ぼくは、左右の壁を見て姉に尋ねた。溝を流れる水流の上流側と下流側、二つの穴が左右の壁の中央下部にあいている。 「好きな方を選びなさい。でも、どこまでもトンネルが続いてそうだったら、すぐに戻ってくるのよ」  ぼくはまず上流の方を選んだ。つまり、扉のある壁を正面としたとき、左手の方にある四角い穴だ。壁の近くまで行って、溝の水流に体を沈める。汚れた水が足の方から徐々に体を覆っていく。まるで細かい虫が全身を這い進み、蝕んでいくような気持ちだった。  息をとめ、しっかり目を閉じ、水の流れ出てくる壁の四角い穴に頭から飛び込んだ。狭く、天井は低い。腹ばいになったぼくの後頭部をトンネルの天井が打つ。  コンクリートの四角いトンネルを、ぼくの体がぎりぎりで通りぬける。針の穴に糸を通すようなものだった。水の流れはそれほど速くないので、逆行することはかんたんだった。  幸い、二メートルほど水の流れるトンネルを腹ばいに進んだところで、それまでぼくの頭や背中にあたっていた天井の感触が消えた。溝がどこか広い空間に出たのだと思い、ぼくは水から顔をあげて立ちあがった。  悲鳴が聞こえた。  汚れた水が目の中に入るのがいやだったけど、ぼくは目を開けた。一瞬、もといた部屋に戻ってきたのかと思った。先ほどとまったく同じ、そこは周囲を灰色のコンクリートに囲まれた小さな部屋だった。それに、溝はさらにまっすぐ床の中央を貫いて続いている。ぼくは溝の上流のトンネルに飛びこみ、下流のトンネルから出てきてしまったのだと思った。  しかし違った。姉のかわりに、別の人間がいた。姉よりも少し年上くらいに見える若い女の人で、見たことのない顔だ。 「あなたはだれ!?」  彼女はそう叫び、怖がるようにぼくから遠ざかる。  ぼくと姉のいた部屋から上流の方向へ溝の中を進むと、そこもまた同じつくりの部屋で、人が閉じ込められていた。何から何まで同じで、溝もさらに先へ続いていた。しかも、そのひと部屋だけではなかったのだ。  ぼくは、戸惑っている女の人に、清の下流側の部屋に姉と閉じ込められていることを説明した。それからさらに、足に結んでいたロープを外して上流の方へ向かうことにした。その結果、さらに二つのまったく同じコンクリート製の部屋があった。  つまり、ぼくと姉のいた部屋から溝を遡《さかのぼ》ると、三つの部屋があったわけである。  どの部屋も、一人ずつ人間が入れられていた。  最初の部屋には若い女の人。  その次の部屋には髪の長い女の人。  一番、上流にある部屋には、髪を赤く染めた女の人。  みんな、わけもわからず閉じ込められていた。大人ばかりで、子供なのはぼくと姉だけだった。姉はともかく、ぼくはまだ体も小さいので、姉弟でセットにされて部屋に入れられたのだろう。ぼくは一人分として数えられなかったのだ。  赤く髪を染めた女の人がいた部屋から先には、溝に鉄柵がしてあって進めなくなっていた。ぼくはもとの部屋に戻ると、全部、姉に説明した。  ぼくの体は、乾いても臭いがとれなかった。体を洗う水もない。そのため、部屋はより臭くなったが、姉は不満を言わなかった。 「私たちがいるのは、上流側から数えて四つ目の部屋ということね?」  つぶやきながら、何か考えていた。  部屋はたくさん連なっていたのだ。そしてそれぞれ人が閉じ込められている。それがぼくには驚きだった。心強い気もした。同じ状況の人が大勢いるというのは、慰められているようだった。  それに、みんなぼくを見て、最初は戸惑っていたが、やがて顔を輝かせた。これまで何日も閉じ込められていて、みんな、他人というのを見ていなかったらしい。扉を開けられることもなく、自分が今、どんな状況なのか、壁の向こう側がどうなっているのかも知らなかったのだ。だれも、溝をくぐれるような小さな体を持っておらず、どうすることもできなかった。  ぼくが溝にもぐって部屋を立ち去ろうとすると、またここに戻ってきて何を見たのか説明するようにとみんな懇願した。  だれが自分たちを閉じ込めているのか、みんな知らないのだ。だから、自分はどんな場所に閉じ込められているのか、自分はいつ外に出られるのかということを知りたがっていた。  姉に上流の様子を報告した後、今度は溝の中を下流の方向へ向かった。そこもまた、上流側がそうだったように、コンクリートの薄暗い部屋が連なっていた。  下流へ向かって最初の一部屋目は、他の部屋と同じ状況だった。  姉と同じくらいの年齢に見える女の人が閉じ込められていた。ぼくを見ると驚き、説明を聞くとやがて顔を輝かせた。やはり、みんなと同じように部屋へつれてこられ、わけもわからず閉じ込められているそうだった。  さらにその部屋から下流へ向かった。  また四角い部屋に出た。しかし、今度は様子が違っていた。つくりは他の部屋とまったく同じだったが、人がいなかった。空っぽの空間に、電球の明かりだけが弱々しく灰色の箱の中を照らしている。これまでに見た部屋にはかならず人がいたため、部屋にだれもいないというのが不思議な感じだった。  溝はまだ先へ続いている。  空っぽの部屋から、もうひとつ先へ進む。足のロープを持ってくれる人はいなかったけど、気にしなかった。どうせまた下流にも小部屋が並んでいるのだろうと思い、ロープは姉の部屋に置いてきていた。  ぼくと姉のいた部屋から下流へ三つ目の部屋に、母と同じくらいの年齢に見える女性がいた。  溝から立ちあがるぼくを見ても、彼女はさほど驚かなかった。彼女の様子がおかしいことはすぐにわかった。  やつれて、部屋の隅にうずくまり、震えている。母と同じくらいの年齢に見えたのは間違いで、本当はもっと若いのかもしれない。  ぼくは溝の先を見た。壁の下の四角い穴に鉄柵があり、そこから先には行けないようになっている。どうやら下流の終着点らしい。 「あの、大丈夫ですか……?」  ぼくは気になって、女の人に声をかけた。彼女は肩を震わせた。恐怖の眼差しで、水の滴っているぼくを見つめる。 「……だれ?」  魂のほとんど抜けきった力のないかすれた声だった。  他の部屋にいた人の様子と、あきらかに違う。髪はぼさぼさになり、抜け落ちた毛がコンクリートの床に散らばっていた。顔や手が汗で汚れている。目や頬が落ち窪み、骸骨のように見える。  ぼくは彼女に、自分が何者で、何をしているのかを説明した。彼女の暗かった瞳の中に、光が点ったように感じた。 「じゃあ、この溝の上流に、まだ生きた人間がいるのね!?」  生きた人間? ぼくは彼女の話がうまく理解できなかった。 「あなただって見たでしょう? 見なかったはずがないわ! 毎日、午後六時になると、この溝を死体が流れていくのを……!」  ぼくは姉のもとに戻って、まずは溝の先がどうなっていたのかを説明した。 「全部で部屋は七つ連なっていたのね……」  姉はそう言うと、ぼくがいろいろなことを説明しやすいように、それぞれの部屋に番号を割り振った。上流の方から順番に番号をつけると、ぼくと姉のいる部屋は四番目、そしてあの最後の部屋にいた女の人は七番目の部屋にいたことになる。  それからぼくは、七番目の部屋の女性が言ったことを姉に説明するべきかどうか迷った。まに受けて話をすると、ばかげていると思われるかもしれない。そうしているうちに、何かを躊躇っていることが姉に気づかれたらしい。 「まだ何かあるの?」  ぼくはおそるおそる、七番目の部屋の女性が言ったことを姉に話した。  あのやつれきった女性が言うには、毎晩、決まった時刻になると、溝を死体が流れていくそうだ。上流から下流へ、水に乗ってゆっくりと漂って部屋を通り過ぎるという。  なぜ、それらの死体が、溝の狭いトンネルをくぐれるのか、ぼくは話を聞いていて不思議に思った。そもそも七番目の部屋を通る溝の下流側には鉄柵がはまっていて、先に行けないようになっているのだ。死体が流れてくれば、引っかかるはずである。  しかし、やつれた女性は言った。  流れてくる死体はどれも、鉄柵の隙間を通り抜けられるほどに細かく切り刻まれているのだそうだ。だから、たまに柵へひっかかる程度で、ほとんどは部屋を通り過ぎて、流れ去ってしまうという。彼女は部屋に閉じ込められた日から毎晩、死体の破片が水に浮いて横切っていくのを見るのだそうだ。  姉は話を聞いている間、目を大きく広げてぼくを見ていた。 「昨夜も見たって?」 「うん……」  ぼくたちは昨日、死体が溝を流れるのに気づかなかった。いや、気づかないなんてことがあるだろうか。夕方六時には、たしかまだぼくたちは起きていた。溝は部屋のどの位置にいても目につく。何かおかしなものが浮いていれば、不思議に思わないはずがない。 「上流にいた三つの部屋の人も、そんなことを言ってた?」  ぼくは首を横に振った。死体の話なんてしたのは、七番目の部屋にいた、やつれた女性だけだ。彼女だけが、幻覚でも見ていたのだろうか。  しかしぼくには、彼女の顔が忘れられなかった。頬がこけて、目の下にくまを作り、すでに死んでしまった人のように目が暗かった。心底、何かにおびえている人の表情だったのだ。他の部屋に閉じ込められている人とあのやつれた女性とでは、どこかがあきらかに違っていた。彼女は何か特別な悪い体験をしているに違いないと思った。 「その話、本当だと思う?」  姉に尋ねると、わからない、というふうに首を振った。ぼくは不安でしかたなかった。 「……時間がくれば、きっとわかるわよ」  ぼくと姉は部屋の壁に体を預けて座りこみ、姉の腕に巻かれている時計で午後六時になるのを待った。  やがて、腕時計の長針と短針が一直線に並び、『12』と『6』を結ぶ。銀色の針は部屋の電球の光を反射して、時間がきたことを告げた。ぼくと姉は、息をつめて溝を見つめた。  扉の向こう側に、だれかの行き来する気配がある。ぼくと姉はその気配にそわそわさせられた。聞こえる足音と、この時刻であることとの間に、何か関係があるのだろうか。しかし、声をかけても無駄だと思ったのか、姉は扉の下の隙間から歩いている人物に呼びかけたりはしなかった。  どこか遠くで機械の唸る音が聞こえる。でも死体なんて流れてこなかった。ただ、濁った水に無数の死んだ羽虫が浮いているだけだった。 ●三日目・月曜日  目が覚めると朝の七時だった。扉の下の隙間に、食事の食パンが差し込まれている。一日目の食事以来、部屋に置いたままになっていた水の入っていた皿は、昨日、隙間から外に出しておいた。それがよかったのか、今日は水がもらえた。おそらくぼくたちをここに閉じ込めている人物は、朝食のパンをみんなに配る際、水の入ったヤカンをいっしょに持ち歩いているのだろう。一枚ずつ食パンを隙間へ差し込むたび、扉の下から出された皿の中へ水を入れていく。顔も知らないその人物がそうして七つの扉の前を歩いている場面を、ぼくは想像した。  姉が食パンを二つに裂き、大きな方をぼくにくれた。 「お願いがあるわ」  姉は、またぼくに溝の中を移動してみんなに話を聞いてきてほしいと言った。ぼくは二度と溝にもぐるのはいやだったが、そうしないならその食パンを返せと姉が言うので、従うことにした。 「みんなに聞くことは二つあるわ。何日前に閉じ込められたのかということと、溝の中を死体が流れるのを見たかどうか。以上のことをたずねてきてちょうだい」  ぼくはそうした。  まずは上流の三つの部屋へ向かう。  ぼくの顔を見ると、みんな、ほっとした表情になった。姉に頼まれた質問をみんなにした。  窓も何もない空間なので、自分がどれくらいの間ここにいるのかを知ることは難しそうに思えた。しかし、それぞれ何日間ここに閉じ込められているのかを把握していた。時計をもっていない人もいたが、食事が一日に一回、運ばれてくるため、その回数を数えていればいいのだ。  次に下流へ向かう。そこでおかしなことになっていた。  五番目の部屋は昨日通り、若い女の人がいた。  しかし、昨日、空っぽだった六番目の部屋には、はじめて見る女の人が入っていた。彼女は、溝の中から現れたぼくを見ると悲鳴をあげ、泣き叫んだ。ぼくを怪物のように思ったらしく、説明するのに手間取った。ぼくもここに閉じ込められていて、体が小さいために溝の中を移動できるのだということを説明すると、理解してもらえた。  彼女は昨日、気づくとこの部屋の中にいたらしい。土手をジョギングしていたのだが、道に駐車している白いワゴン車の脇を通りすぎた瞬間、頭を何かで殴られて、気を失ったのだそうだ。まだ殴られたところが痛むのか、彼女は頭を押さえていた。  ぼくは七番目の部屋へ向かった。そこでもまた、考えていなかったことが起きた。  昨日はやつれた女性がその部屋にいて、溝を死体が流れていくと話していた。しかし、その女性がどこにもいない。部屋の中から消えて、ただコンクリートの無表情な冷たい空間があるだけだった。電球が空っぽを照らしていた。  不思議なことに、昨日、ここへきたときよりも部屋の中が綺麗な気がした。人間が閉じ込められていたという気配があまりない。壁や床には少しも汚れた様子がなく、平らな灰色の表面にただ電球の作る明るい部分と暗い部分があるだけだった。  昨日、ぼくがここで見た女性は錯覚だったのだろうか。それとも、部屋を間違えているのだろうか。  四番目の部屋に戻り、見聞きしたことをすべて姉に説明した。  姉がぼくの口を使って言わせた一つ目の質問には、みんなそれぞればらばらな答えが返ってきた。  一番目の部屋にいた髪を染めた女の人は、閉じ込められた状態で今日、六日目を迎えたそうだ。六回、食事を与えられたので間違いないという。  二番目の部屋にいた女の人は五日目、三番目の部屋の女性は四日目、そして四番目の部屋にいるぼくと姉は、部屋で目覚めて三日目だ。  さらに下流にある五番目の部屋の女性は二日目。そして昨夜、部屋の中で目覚めたという女の人は、今朝の食事がはじめてだったので、一日目だ。  七番目の部屋にいた人は、何日間、閉じ込められたのだろう。尋ねる前に消えてしまった。 「……外へ出られたのかな?」  姉に尋ねると、わからない、という答えが返ってきた。  二つ目の『死体が流れていくのを見たことがあるか』という質問に対しては、だれもが首を横に振った。溝を流れる死体なんて見た人間は、だれもいなかったのだ。それどころか、ぼくの質問を聞いた瞬間、不安そうな顔をした。 「なんでそんな質問をするの?」  どの部屋の女の人も、そう問い返した。ぼくが何か特別な情報を持っていてそんな質問をしているのだと思ったようだった。それは実際にその通りなのだ。みんなはぼくのように他の部屋の情報を知ることができない。だから、いろいろなことを想像するしかない。ただ閉じられた空間の中で、壁の向こう側はTV局や遊園地なのかもしれないと思い巡らして時間をつぶすしかないのだ。 「後で説明します……」  ぼくは、早くみんなに質問してまわりたくて、そう短く切り上げた。 「だめ、ここは通さないから。それともあなた、ここにわたしを閉じ込めている人の仲間なの? 他にも部屋があって人が閉じ込められているって話、嘘なのね?」  一番目の部屋から立ち去ろうとしたとき、その部屋にいた人だけはそう言って溝の中に入ると、下流側の壁を背にして直立した。ちょうど溝のトンネルを足で塞《ふさ》いだ格好になる。そうされるとぼくは帰れなかった。  しかたなく、昨日、七番目の部屋で聞いたことと、姉の命令でみんなに質問してまわっていることなどを話した。彼女は顔を蒼白にしながら、馬鹿ね、そんなはずないじゃない、と言ってぼくに道をあけてくれた。  結局、だれも死体が流れるところを見たことがないということは、やっぱり七番目の部屋にいた人は夢でも見ていたのだろうか。そうだといい。ぼくはそう思った。  そもそも、七番目の部屋にいたやつれた女性は、毎日、決まった時刻に死体が流れていったと言う。でも、これまで何日も閉じ込められていた上流にいた人たちは、死体なんて見ていないそうだ。わけがわからない。  ぼくはため息をつき、溝の中に入って汚れた体を、以前に作ったロープで拭いた。ぼくの上着やズボンはすべてロープにしてしまい、そのままだったから、これまでずっとパンツだけで過ごしていた。それでも部屋は生暖かいので、風邪をひくことはなかった。ロープはとくに使い道もないまま、部屋の片隅に放置して時々ぼくの体を拭くタオルのかわりになっていた。  膝を抱えた状態で寝転がる。剥き出しのコンクリートの床は、肋骨が硬い床の表面に当たって寝転がるには痛かった。でもしかたない。  それから、こんな不確かなわけのわからない情報も、他の部屋にいるみんなに伝えてまわるべきだと思った。みんな、自分に見える範囲のことしか知り得なくて、怖がっている。  でも、話を聞いてさらにわけがわからなくなるかもしれないと考えると、話していいのかどうか迷う。  部屋の隅に座っている姉が、壁と床の境目あたりを凝視していた。ふと、手で何かをつかむ。 「髪の毛が落ちてたわ」  姉が、長い髪の毛を指先につまんで垂らしながら意外そうに言った。なぜ、あらためてそんなことを言うのか、ぼくにはわからなかった。 「これを見て、この長さ!」  姉は立ちあがり、拾った髪の毛の長さを確かめるように、端と端をつまんで掲げた。五十センチはあった。  ようやく、ぼくは姉の言いたいことがわかった。ぼくと姉の髪の毛は、そんなに長くないのだ。ということは、床に落ちていたのは、ぼくたち以外のだれかの毛髪だということだ。 「この部屋、私たちがくる前にだれかがつかっていたんじゃないかしら?」  姉は顔を青くして、うめくように言葉を吐き出す。 「きっと……、いえ、たぶん……。馬鹿げた推測かもしれないけど……。あなたも気づいたでしょう? 上流にある部屋の人のほうが、閉じ込められている期間が長いのよ。それも、ひとつ部屋がずれると、一日、多く閉じ込められている。つまりね、端にある部屋から順番に人が入れられていったということなの」  姉はあらためて、それぞれの部屋にいる人の、閉じ込められた期間の違いに注目していた。 「それじゃあ、それ以前はどうだったのかしら?」 「人が入る前? 空っぽだったんじゃない?」 「そう。空っぽだったのよ。それじゃあ、その前は?」 「空っぽの前は、やっぱり空っぽだったんだよ」  姉は首を横に振りながら、部屋の中を歩き回った。 「昨日を思い出して。昨日の段階で、私たちはこの部屋で目覚めて二日目だった。ひとつ下流にある五番目の部屋の人は一日目だった。六番目の部屋は、ゼロ日目と考えて、空っぽだった。でも、七番目の部屋の人は? その並び順で考えれば、マイナス一日目の人が入れられているはずでしょう? あなた、マイナスって数字は小学校でならった?」 「それくらい知ってるさ」  しかし、話がややこしくてわからなかった。 「いい? 連れてこられてマイナス一日目の人なんていないのよ。その人は、わたしの勝手な推測だけど、昨日の段階で連れてこられて六日目の人だったのよ。一番目の部屋にいた人が閉じ込められる前日に、その人は連れてこられていたの」 「それで、今どこにいるの?」  姉は歩き回るのをやめて口籠《くちご》もり、ぼくを見た。一瞬、躊躇ってから、おそらくもうこの世にいないのだということをぼくに説明した。  昨日はいた人が消え、空っぽの部屋に人が入る。ぼくは、溝の中を移動して見てきた部屋ごとの違いを、姉の言ったことに照らしあわせて考えた。 「一日たつと、人のいない部屋が下流の方向へひとつずれる。それが下流まで行ってしまったら、また上流の部屋からやり直し。七つの部屋は、一週間を表しているんだわ……」  一日に一人ずつ、部屋の中で殺されて、溝に流される。その隣の空っぽだった部屋には、人が入れられる。  順番に殺されて、また人は補充される。  昨日、六番目の部屋に人はいなかった。今日はいた。人がさらわれてきて、補充された。  昨日、七番目の部屋に人はいた。今日はいなかった。消されて、溝に流された。  右手の親指の爪を噛みながら、姉は忌まわしい呪文のようにつぶやいていた。目の焦点はあっていなかった。 「だから、七番目の部屋の人は、溝に死体が流れて過ぎるのを見ることができた。だって、この順番で部屋に人が入れられるのであれば、死体が溝に流されても、その部屋より上流の方にいては見ることはできない。こう考えれば、七番目の部屋にいた女の人の話が、夢や幻覚じゃなかったと考えることができるわ。つまり彼女が見たのは、以前に他の部屋へ入れられていた人の死体だったんだと思う」  昨日の段階で、死体が流れるのを見ていたのは、七番目の部屋にいた女性だけだったのだ。そう姉は説明してくれた。ぼくはややこしくてよくわからなかったけど、姉の言っていることは正しいように思えた。 「私たちが連れてこられたのが金曜日、その日に五番目の部屋にいた人が殺されて流された。一晩あけて土曜日、六番目の部屋の人が殺されて、五番目の部屋に人が入れられた。あなたが見た空っぽの部屋は、中にいた人が殺された後だったんだ。そして日曜日、七番目の部屋の人が殺された。ここで溝を監視していても、当然、死体は見えなかったはずだわ。上流には流れてこないのだから。そして今日、月曜日……」  一番目の部屋の人が殺される。  ぼくは急いで一番目の部屋へ行った。  髪を染めた女の人に、姉の考えたことを説明した。しかし、彼女は信じなかった。顔を引きつらせながら、そんなことあるはずないでしょう、と言った。 「でも、一応ってこともあるから、なんとかして逃げださないと……」  しかしどうやって逃げればいいのか、だれにもわかっていなかった。 「私は信じないわ!」彼女は怒ったようにぼくへ叫んだ。「一体なんなのよこの部屋は!」  ぼくは溝の中を、姉のもとまで戻った。途中、ふたつの部屋を通り抜けないといけない。そのとき、それぞれの部屋にいた人に声をかけられ、何があったのかとたずねられた。しかし、話をしていいのかどうかわからなかった。結局、何も伝えないまま、すぐにまた戻るからと言って姉のもとへ向かった。  姉は部屋の隅で膝を抱えていた。ぼくが溝からあがると、手招きした。溝の水で体中が汚れているのにも構わず、姉はぼくを抱きすくめた。  姉の腕時計で午後六時。  溝を流れる水に、赤みが差した。ぼくと姉が話もせず見つめていると、溝の上流側の四角い口から、白いつるりとした小さなものが漂ってきた。最初は何かわからなかったが、それが水面で半回転したとき、並んでいる歯が見えて、下顎の一部だとわかった。それが浮いたり沈んだりしながら部屋の中を通りすぎ、下流側の穴へ吸いこまれていく。やがて耳や指、小さくなった筋肉や骨が次々と流れてきた。切断された指に、金色の輪がはまっている。  染めた髪の毛の塊が流れていく。よく見るとそれらは、ただ髪の毛がからまっているわけではなく、髪の生えた頭皮ごと流れているのだと気づく。  一番目の部屋の人だ、とぼくは思った。濁った水に乗って流れていく無数の体の切れ端は、とても人間だったものとは思えず、ぼくはただ不思議な気持ちにさせられた。  姉は口元を押さえてうめいた。部屋の隅に吐いたが、ほとんど胃液だけだった。話しかけたけど答えてくれず、姉は放心したように黙りこんでいた。  薄暗くて陰鬱《いんうつ》なこの四角い部屋は、ぼくたちをそれぞれ一人ずつにわけ隔てる。充分に孤独を味わわせた後に、命を摘み取っていく。 「一体なんなのよこの部屋は!」  そう一番目の部屋の人は叫んでいた。震えるようなその叫び声が頭にこびりついて離れない。そしてこの固く閉ざされた部屋は、ただぼくたちを閉じ込めているという以上の意味を持っているように感じられてくる。もっと重大な、人生とか魂といったものさえ閉じ込め、孤立させて、光を剥ぎ取っていくように思えた。まるで魂の牢獄だ。これまで見たことも体験したこともない本当の寂しさや、もう自分たちには未来などないのだという生きることの無意味さをこの部屋は教えてくれる。  姉が膝を抱えて体を丸め、むせび泣いていた。ぼくたちの生まれるずっと昔、歴史のはじまる以前から、人間の本当の姿はこうだったのかもしれないと思った。暗く湿った箱の中で泣いているような、今の姉のようだったのかもしれない。  ぼくは指を折って数えた。ぼくと姉が殺されるのは、閉じ込められて六日目の、木曜の午後六時のはずだった。 ●四日目・火曜日  何時間もかけて、溝の水から赤い色が消えた。その直前、石鹸でたてられたような泡が水面に浮かんで流れていったので、もしかするとだれかが上流の部屋を掃除しているのかもしれないと思った。人を殺せばきっと血が出る。それを洗い流しているのだ。  姉の腕時計の針が深夜十二時を過ぎ、ぼくたちがここへ連れてこられて四日目、火曜日が訪れる。  ぼくは溝に潜り、上流にある一番目の部屋に向かった。  途中の部屋にいる二人は、溝を流れすぎたものの説明をするようぼくに迫った。ぼくは、後で、と言ってまずは一番目の部屋に急ぐ。  やはり、昨日までいたはずの女の人が消えていた。部屋の中は洗い流されたように綺麗だったため、予想した通りだれかが掃除したのだろうと思った。それがだれなのかはわからない。でも、きっとぼくたちをここに閉じ込めている人なのだろうと思う。  姉が部屋の中で見つけた長い髪の毛は、やはりぼくたちが連れてこられる前に、あの部屋にいて殺された女性のものだったのだ。そして掃除が行なわれた際、偶然、部屋の隅に落ちていた一本だけが石鹸水に流されず残っていた。  ぼくたちを連れてきて殺しているのは、どんな人なのだろう。だれも顔を見たことはなかった。時折、扉の向こう側を歩く靴音は、きっとその人のものにちがいない。  その人は、一日に一人ずつ、部屋の中で人を殺す。六日間だけ閉じこめた後、ばらばらにするのがお気に入りなのだ。  まだ、姿を見たこともない。声さえ聞いたことがない。しかし、確実にその人物はいて、扉の向こう側を歩いている。毎日、パンと水と死を運んでくる。その人が七つの部屋を設計して、順番に殺していくという法則を考え出したのだろうか。  実際にその人物の姿を見たことがないせいか、とらえどころのない気持ち悪さを感じる。やがてぼくと姉もその人に殺されるのだろう。その直前にしか、はっきりと姿を見る方法はないように思う。  それではまるで、死神そのものだ。ぼくや姉、他の人たちは、その人物のつくった絶対的なルールの中に閉じ込められていて、死刑が確定してしまっている。  ぼくは二番目の部屋に移動し、その部屋で六日目を過ごしている髪の長い女の人に、昨日、姉が考えたことを伝えた。彼女は、それが馬鹿げた推測だとは言わなかった。溝の上流から流れてきた一番目の部屋にいた女性の死体を見てしまっていたからだ。そして、薄々、自分が閉じ込められたままもう外に出ることはできないのだということを感じ取っていたらしい。彼女は、話を聞いた後、姉と同じように黙りこんだ。 「……後で、またきます」  そう言ってぼくは三番目の部屋に向かい、そこでも同じ説明をした。  三番目の部屋にいた女性は、明日のうちに殺される予定である。これまではいつまで部屋に閉じ込められていなければならないのか、いったい自分はどうなってしまうのか、まったく判然としなかった。それが今では、明確な予定としてつきつけられる。  三番目の部屋にいた女の人は、口元を押さえ、ぽろぽろと涙をこぼした。  自分の殺される時間を知る方がいいのか、知らない方がいいのか、ぼくにはよくわからない。もしかしたら、何も知らされないまま、目の前を通り過ぎる死体を見つめて不安に日々を過ごし、ある日突然に扉が開いてまだ見たこともない人間に殺されるほうがいいのかもしれない。  目の前で泣いている女の人を見ながら、七番目の部屋にいたやつれた女性のことを思い出した。みんな、彼女と同じ表情になる。  絶望。もう、何日も四角いコンクリートの部屋に閉じ込められていて、これがただのだれかの遊びだったとは考えられない。自分には本当に死が訪れるのだということを、嫌でも気づかされる。  七番目の部屋にいた女性は、毎日、溝を流れる見知らぬ人間の体の破片を見つめながら、今度は自分かもしれないと考えていたのだろう。彼女には、自分がいつ殺されるのかすら知る方法はなかった。ぼくは彼女の怯えた表情を思い出し、胸が苦しくなった。  二番目の部屋、三番目の部屋、それぞれの場所で同じ説明を繰り返し、さらに五番目の部屋と六番目の部屋でも同じことをした。  そして七番目の部屋には、新しい住人が入れられており、溝から上がったぼくをみると悲鳴を上げた。  四番目の部屋にいる姉のもとへ帰る。  姉の様子が心配だった。部屋の隅に座ったまま動かない。近づいて腕時計を見る。  朝の六時だ。  そのとき、扉の向こう側で靴音が響いた。扉の下の隙間に食パンが一枚差し込まれ、出していた皿に水の注がれる音がする。  扉の下の隙間からはつねに向こう側の明かりが漏れていて、その周辺だけは灰色のコンクリートの床がぼんやりと白い。そこに今、影ができて、動いている。だれかが扉の前に立っているのだ。  扉を隔てた向こう側に、これまで多くの人間を殺して、今もぼくたちを閉じ込めている人物がいる。そう考えると、その人物が纏《まと》っている黒く禍々しい圧力が扉をつき抜けてほとんど息苦しいくらいぼくの胸を押さえつける。  姉が弾かれたように立ちあがった。 「待って!」  扉の下の隙間に体ごと飛びかかるようにして、唇をつけて叫んだ。必死で隙間に手をねじこむ。しかし入るのは手首までで、腕の途中でつかえてしまう。 「お願い、話を聞いて! あなたはだれなの!?」  懸命に姉は叫ぶが、扉の向こう側にいた人は、まるで姉などいないように無視して行ってしまった。靴音が遠ざかっていく。 「ちくしょう……、ちくしょう……」  姉はつぶやきながら、扉の横の壁に背中をあずけた。  鉄の扉には取っ手がなく、蝶番《ちょうつがい》の場所から考えると、部屋の内側に開くようできている。それが次に開くのは、部屋の中にいるぼくたちが殺されるときなのだろう。  自分は死ぬのだ、ということを考えた。ここに閉じ込められて、家に戻れないのが怖くて泣いたことは何度もあったけど、殺されるということで涙を流したことはまだなかった。  殺されるってなんだろう。実感があまりない。  ぼくはだれに殺されるのだろう。  きっと、痛いにちがいない。そして死んだら、どうなってしまうんだろう。怖かった。でも、今一番、恐ろしかったのは、姉がぼくよりも取り乱していることだった。不安そうに四角い部屋の四隅に視線を投げかけて体を縮めている姉を見ると、どうしていいのかわからなくなり、ぼくは動揺する。 「姉ちゃん……」  ぼくは心細くなり、立ったまま声をかけた。姉は膝を抱えた状態で、虚ろな目をぼくに向けた。 「みんなに七つの部屋の法則について話したの?」  ぼくは戸惑いながらうなずく。 「あなた、残酷なことをしたわね……」  いけないことだなんて知らなかったから……、そう説明したけど、姉は聞いていないようだった。  ぼくは二番目の部屋へ向かった。  二番目の部屋にいる女の人は、ぼくを見ると、安堵するように顔をほころばせた。 「もう、戻ってこなかったらどうしようかと思っていたのよ……」  弱々しい笑みだったが、ぼくは心の中が温かくなるのを感じた。コンクリートの何もない空間でだれかが笑っている顔なんてしばらく見ていなかったから、彼女のやさしい表情が光とぬくもりをともなって見えた。  でも、自分が今日中に死ぬことを知っていて、なぜそんな顔ができるのだろうかと不思議に思った。 「さっき、なにかを叫んでたのはあなたのお姉さん?」 「うん、そう。聞こえたの?」 「なんて言ったかまではわからなかったけど、たぶんそうじゃないかと思った」  それから彼女は、ぼくに故郷の話をした。ぼくの顔が、甥《おい》に似ていると言った。ここへ閉じ込められる前、事務の仕事をしていたことや、休日によく映画を見に行ったことなどを話した。 「あなたが外に出たとき、これを私の家族に渡してほしいの」  彼女は自分の首にかけていたネックレスをはずすと、ぼくの首にかけた。銀色の鎖で、小さな十字架がついていた。それは彼女にとってのお守りで、ここに閉じ込められてからは毎日、十字架を握り締めて祈っていたそうだ。  その日、一日かけて、ぼくとその女の人は仲良くなった。ぼくと彼女は部屋の隅に並んで腰掛け、壁に背中をあずけて足をだらしなく伸ばしていた。ときどき立ちあがって身振りをしながら話をすると、天井から下がっている電球が壁に巨大な影を映した。  音は部屋の中を流れる水の音だけだった。溝を見ながらふと、自分は汚れた水の中をいつも移動しているから、顔をしかめるほど臭いに違いないと思った。それで、少し彼女から体を離して座りなおした。 「なんで遠ざかるの。私だってもう何日もお風呂に入ってないのよ。鼻なんて麻痺《まひ》してるわ。……もしも外に出ることができていたら、真っ先にお風呂へ入って身を清めたかった」  口元に笑みを浮かべて彼女は言った。  話をしていても、時々、微笑むことがあった。それがぼくには不思議に思えた。 「……なんで、殺されることがわかっているのに、泣き喚《わめ》いたりしないの?」  ぼくは困惑した顔をしていたにちがいない。彼女は少し考えて、受け入れたからよ、と答えた。まるで教会にある彫刻の女神みたいに、彼女の顔は寂しげでやさしかった。  別れ際、彼女はぼくの手をしばらく握り締めていた。 「あったかいのね」  そう言った。  六時になる前、ぼくは四番目の部屋に戻った。  自分の首に下がっているネックレスのことを説明すると、姉はぼくを強く抱きしめた。  やがて溝が赤くなって、先ほどまでぼくの目の前にあった目や髪の毛が溝を流れて部屋を横切っていった。  ぼくは溝に近寄り、汚れた水に浮いて流されていく彼女の指を、そっと両手ですくいあげた。最後にぼくの手を握り締めていた指だった。ぬくもりをなくして、小さな破片になっていた。  胸の中に痛みが走った。頭の中が、溝の水と同様に赤く染まっていく。世界のすべてが真っ赤になり、熱くなり、ほとんど何も考えていられなくなる。  ふと気づくとぼくは姉の腕の中で泣いていた。姉はぼくの額にはりついて乾いている髪の毛を触っていた。汚い水で濡れた髪の毛は、乾燥するとぱりぱりになった。 「うちに帰りたいね」  とてもやさしく、灰色のコンクリートに囲まれた部屋には不釣り合いな声で、姉がつぶやいた。  ぼくはうなずきを返した。 ●五日目・水曜日  殺す人がいて、殺される人がいる。この七つの部屋のルールは絶対だった。本来なら、そのルールは、殺す側の人だけが知っていることで、殺される側のぼくたちは知り得ないことだった。  でも、例外が起きた。  ここへみんなを連れてきて閉じ込めている人物は、まだ体の小さなぼくを姉と同じ部屋に入れたのだ。子供だから、一人として数えなかったのだろう。あるいは、姉もまた成人していないので、姉弟でひとつのセットとして考えたのかもしれない。  ぼくは体が小さかったため、溝の中を移動し、自分たちのいる部屋以外にも他の部屋があることを把握した。そして殺す側の人が定めたルールを推測したのだ。ぼくたちが殺す側のスケジュールを知っていることを、殺す側の人は知らない。  殺す人と、殺される人、その逆転は絶対に起こったりしない。それはこの七つの部屋では神が定めた法則のように絶対的だった。  しかし、ぼくと姉は生き残る方法について考え始めた。  四日目が終わり、五日目の水曜日がやってくる。二番目の部屋から人が消え、一番目の部屋に新しい人が連れてこられる。  この七つの部屋の法則はその繰り返しだった。もうどれくらい前からそれがおこなわれているのかわからない。溝の中を何人もの死体が通りすぎていったのだろう。  ぼくは溝のトンネルを行き来して、みんなと話をしてまわる。当然、みんなは元気のない表情をしていた。それでもぼくが部屋を立ち去ろうとすると、また部屋を訪問してほしい素振りを見せた。だれもが部屋にひとりで取り残され、強引に孤独をつきつけられる。それがきっと耐えられないのだ。 「あなただけなら、そうやって部屋を移動し続けていれば、犯人に殺されずにすむわ……」  ぼくが溝のトンネルに飛びこもうとしているとき、姉が言った。 「私たちを閉じ込めたやつは、あなたがそうやって部屋を移動できるなんて知らないはずだからね。明日、この部屋にいる私が殺されても、あなたは別の部屋に逃げることができる。そうやっていつも逃げていれば、殺されずにすむわ」 「……でも、そのうちに成長して体が大きくなると、溝のトンネルを通れなくなるよ。それに、犯人だって、この部屋に二人を閉じ込めたことくらい覚えてるにちがいないよ。ぼくがいなかったら、きっと探すはずだよ」 「でも、少しの間なら生き延びられるでしょう」  姉は切羽詰まったように、明日ぼくがそうするようすすめた。しかし、それは時間稼ぎにしか思えなかった。それでも姉は、その間に逃げ出す機会が訪れるかもしれないと考えているらしかった。  そんな機会などないのだ。ぼくにはそう思えた。ここから逃げる方法など、どこにも見当たらなかった。  三番目の部屋にいた若い女の人は、死ぬ直前までぼくと話をしていた。彼女は少し変わった名前をしていて、聞いただけではどう書くのかわからなかった。そこで彼女はポケットから手帳を取り出して、弱々しい電球の下で書いて見せた。小さな鉛筆のついた手帳だった。ここへみんなを閉じ込めた人物は、どうやら手帳を取り上げなかったらしく、ポケットの中に入ったままだったそうだ。  鉛筆の先には無数の歯形があり、芯は不器用に飛び出していた。丸くなった芯を出すため、噛んで木の部分を落としたらしい。 「わたしの両親はね、都会で一人暮らししているわたしにいつも食べ物を送ってくれるの。わたしは一人娘だから、心配なのね。ジャガイモやキュウリの入った段ボール箱、宅配便屋さんが持ってきてくれるんだけど、わたしはいつも会社にいて、受け取れないの」  彼女は今も自分のアパートの前で、両親の送った荷物を抱え玄関に宅配便屋さんが立っているのではないかと心配していた。話をする彼女の目は、蛆の塊が浮いている溝の濁った水に向けられていた。 「子供のころ、家のそばにあった小川でよく遊んだわ」  その川は、底の小石まではっきりと見える澄んだ水だったそうだ。ぼくは話を聞いていて、まるで夢の世界のようにその川を想像した。太陽の光が川面に反射し、ゆらいでぽろぽろと崩れて輝くような、明るい世界。頭上高くまで青空が広がっている。重力に反して自分の体がどこまでも上へ上へ落ちていってしまうような、そんな果てしない空だ。  陰鬱なコンクリートの狭い部屋に閉じ込められ、溝から漂う腐臭と、電球が逆に浮き彫りにする暗闇とに、ぼくはなれはじめていたらしい。ここへくる以前にあったごく普通の世界のことを忘れかけていた。風の吹く外の世界を思い出し、悲しくなった。  空が見たい。これまでこんなに強く思ったことはなかった。ぼくは閉じ込められる前、どうしてもっとよく雲を眺めておかなかったのだろう。  昨日、二番目の部屋にいた人とそうしたように、ぼくと彼女は並んで座って話をした。  彼女もまた、泣き喚いて理不尽さに怒ったりしなかった。ごく普通に、昼下がりの公園のベンチで会話をするように話をした。それは、ここが周囲を灰色の硬い壁に囲まれた部屋だということを少しの間だけ忘れさせてくれた。  二人で歌をうたいながら、なぜ目の前にいるこの人は殺されるのだろう、とふと疑問に思った。そして、自分も同じように殺されるのだということを思い出した。  殺される理由を考えてみたが、それは結局、ここに連れてきた人が殺したかったからという、ただそれだけの結論にいつも落ちついた。  彼女はさきほどの手帳を取り出して、ぼくの手に握らせた。 「あなたがここを出ることができたら、この手帳を両親に渡してほしいの。お願い」 「でも……」  ぼくが外に出られることなんて、はたしてあるのだろうか? 昨日、二番目の部屋にいた人も、同じようにぼくが外に出ることを期待して十字架のついたネックレスをぼくの首にかけた。しかし、ぼくが外に出られる保証なんてどこにもなかった。  そう言おうとしたとき、扉の前にだれかの立つ気配がした。 「いけない!」  彼女は顔を強張らせた。  ぼくたちは、時間がいつのまにか差し迫っていたことを知った。午後六時がおとずれたのだ。そうなる前にこの部屋から立ち去るはずだったのに、時間の経過を忘れていた。彼女は腕時計を持っていなかったし、いっしょにいる楽しさがぼくを迂闊《うかつ》にした。 「早く逃げて!」  立ちあがり、ぼくは咄嗟に溝の中に入った。上流の方向へ続く四角いトンネルに飛びこむ。下流の方へ行けば、姉がいる隣の部屋へ行けたはずだったが、上流への穴の方が近くにあったのだ。  ぼくが穴へ飛び込むと同時に、背後で鉄の重い扉の開く音がした。頭の中が、一瞬、熱くなる。  ここにみんなを閉じこめた人物が現れたのだ。ぼくはすでにその人物に対して、死ぬ直前にしか姿を見ることがゆるされないような、禁忌の幻想を抱いていた。およそ接近しただけでも指の先から崩れ落ちてしまうような、そんな絶対的な死の象徴として畏怖《いふ》していた。  胸の動悸が速くなる。  トンネルを抜け、二番目のだれもいない部屋で立ちあがる。溝の中に立ったまま、深く呼吸した。渡された手帳を、床の上に置く。  今から三番目の部屋で、ぼくたちを閉じ込めた人物が、彼女を殺すのだ。そう考えて、ぼくはある考えに取りつかれていた。体中が恐怖で震える。それは危険な行為だった。しかし、ぼくはそれを実行しなければならない。  ぼくと姉は、ここから逃げるのだ。そのための方法を考えているけれど、まだ思い浮かばない。どんな手がかりでもいい、もっと姉は情報を欲しがっていた。ここから這い出て、また空を見るための取っ掛かりを探していた。  そのためには、これまでそうしたように、まだ謎のまま黒く塗りつぶされている部分をぼくが見て、姉に伝えるしかないのだ。  謎の部分。それは、ここにぼくたちを閉じ込めた人物の姿、そしてどのように人間を殺しているのかという殺害の手順だった。  ぼくはもう一度、引き返して、三番目の部屋を覗こうと考えていた。もちろん、あの狭い部屋の中に出てしまっては、たちまち見つかって自分も殺されてしまう。注意深く、溝の中から様子をうかがうだけである。それでも、ぼくは緊張で眩暈がしそうになる。覗いていることがばれたら、明日を待たずに殺されるのだろう。  溝の下流側、二番目の部屋と三番目の部屋を隔てる壁に、四角い横長の穴がある。たった今、出てきたばかりのそこを前にして膝をついた。水の流れが太ももの裏側に当たり、目の前にある四角い穴へ吸いこまれていく。  深く呼吸して、音をたてないよう中に入った。水の流れはゆるやかだ。注意していれば、流されることはない。手足をつっぱれば後ろ向きにでも水に逆らって進むことができる。それはこれまでの経験で知っていた。しかしコンクリートの壁は、穢《けが》れた水のせいか、ぬるぬるした膜に覆われて滑りやすくなっている。気をつけなくてはいけない。  四角いトンネルの中で、水面と天井の間にはほとんど隙間がない。三番目の部屋で何が行なわれているのか見るためには、トンネルの中に潜み、水中で目を開けているしかなかった。  汚れた水の中でそうすることは気がひけたが、ぼくは目を開けた。  手足をつっぱって、体をトンネルの中に保ち、三番目の部屋へ出る直前にとどまる。全身の皮膚の表面へ水が絡みつくようにぶつかり、前方へと消えていく。濁った水越しに、ほのかな四角い形の明かりが見える。三番目の部屋にある電球のものだった。  水流の音に混じり、機械の音がする。  水の濁りのせいでよく見えないが、黒い人影が動いている。  ぼくの頬のそばを、何か腐ったものにしがみついた蛆虫の塊が流れて過ぎ去った。  もっとよく見ようと、ぼくはさらにトンネルの出口付近に近づこうとした。  手足が滑った。すぐに指先へ力をこめてふんばる。壁に付着していた滑りやすい膜が指をついた部分だけずるずると剥離し、壁に線状の模様ができた。思いのほか水に流されたすえに、体がようやく止まる。頭が、トンネルから出てしまった。  ぼくは見た。  さっきまで話をしていた女の人が、血と肉の山になっていた。  これまで閉まっていたところしか見たことのなかった鉄の扉が開いていた。内側は平らなのに、外側には閂《かんぬき》が見える。みんなを部屋に閉じ込め、死ぬ瞬間まで一人にしておくための門だ。  男が、いた。人間の死体とも言えないような赤い塊の前に立って、ぼくの方には背中を向けていた。もしも正面を向いていれば、すぐに気づかれていただろう。  顔を見ることはできなかったが、手に、激しく音を出している電動のこぎりを持っていた。時々、扉の向こう側から聞こえていた機械の音はこれだったのだと気づく。男は棒立ちになったまま無感動に、それを幾度も目の前に突き刺して細かくしている。その瞬間ごとに、ぱっと、赤いものが飛び散る。  部屋中が、赤い。  不意に、電動のこぎりの音が部屋の中から消えた。ただ溝を流れる水の音だけが、ぼくと男の間にあった。  男が、振り返ろうとした。  ぼくは滑るトンネルの壁に爪をたて、あわてて後退する。男に気づかれてはいないと思う。しかし、一瞬でも遅れていたら目があっていただろう。  二番目のだれもいない部屋に戻った。しかし、そこも安全とは言えなかった。新しく人が入れられるため、いつ扉が開けられるかわからない。置いていた手帳を拾い、一番目の部屋に向かった。三番目の部屋を通り抜けて姉のいる部屋に行くことは不可能だったからだ。  一番目の部屋に閉じ込められている女の人のそばに並んで座った。 「何を見たの?」  ぼくがあまりにもひどい顔をしていたのだろう。彼女は尋ねた。昨晩のうちに連れてこられていた、一番、新しい住人だ。すでにこの七つの部屋の法則は説明していたが、たった今、見たことを説明することができなかった。  三番目の部屋の女性に渡された手帳を開き、中を読む。水の中をくぐったのでページ同士がぬれてくっつき、めくるのに苦労した。紙はしわくちゃになっていたが、文字は判読できた。  両親に向けて長い文章が書かれていた。「ごめんなさい」という言葉が繰り返しあった。 ●六日目・木曜日  あの男に会ってしまうのが恐ろしくて、四番目の部屋に戻ることができなかった。一晩、一番目の部屋で過ごした。その部屋にいた女の人はぼくがいることを心から歓迎し、朝食の食パンを多くくれた。それを食べながら、姉が心配しているにちがいないと思っていた。  ようやく姉のいる部屋に戻る決心がついて、溝のトンネルをくぐると、二番目の部屋に新しく人が入れられていた。最初にぼくを見た人が例外なくそうであるように、その女の人も驚いていた。  三番目の部屋は空っぽで、血も掃除されていた。ぼくは、昨日いっしょに話をした人の存在を少しでも匂わせるものを探したが、何も見つからない、空虚なコンクリートの部屋だった。  四番目の部屋に戻ると、姉がぼくに抱きついた。 「見つかって殺されたのだと思ってた!」  それでも姉は、食パンを食べずにぼくを待っていてくれた。  今日、六日目の木曜日、ぼくと姉が殺される番のはずだった。  ぼくは、今まで一番目の部屋にいたことや、食事をわけてもらったことなどを説明した。姉に申し訳なくて、食パンをぜんぶ食べてもいいよぼくはもう食べたから、と言うと、姉は目を赤くして、馬鹿ね、と言った。  それから、三番目の部屋の人が殺されるとき、溝の中に隠れて犯人の顔を見ようとがんばったことを説明した。 「なんて危ないことするの!」  姉は怒った。しかし、話が扉のことになると、だまって真剣に聞いた。  姉は立ちあがり、部屋の壁にはまっている鉄の扉を手で触った。強く、一度だけ拳で叩く。部屋に、重い金属の塊とやわらかい皮膚のぶつかる音が響いた。  取っ手も何もない扉は、ほとんど壁と同じだった。 「……本当に扉の向こう側は門だったの?」  ぼくはうなずいた。扉は部屋の内側から見て、右側に蝶番がはまっている。部屋の内側に開き、溝に潜んでいたぼくからはしっかりと扉の表側が見えた。横へスライドするタイプの頑丈そうな門が、確かにあった。  ぼくはあらためて扉を眺める。壁の中央ではなく、左手よりに扉が取りつけられている。  姉は怖い顔で扉を睨みつけていた。  姉の腕時計を見ると、もう昼の十二時だった。夕方、犯人がぼくと姉を殺しにくるまで、あと六時間しかない。  ぼくは部屋の片隅に座って、渡された手帳を眺めていた。両親のことが書かれていたので、ぼくも親に会いたくなった。みんな、心配しているはずだった。家で夜、眠れないとき、母がよくミルクをレンジで温めてくれたことを思い出す。昨日、汚い水の中で目をあけたためか、涙が流れると痛んだ。 「このままじゃすまさない……、このままじゃ……」  姉は静かに、憎しみのこもった声を扉に向かってつぶやき続けていた。手が震えていた。振り返ってぼくを見たときの姉の顔は、壮絶で、目の白い部分が獰猛に光っているように見えた。  昨日までの力がこもっていない瞳ではなかった。まるで何かを決心したような表情だった。  姉は再度、犯人の体格や持っていた電動のこぎりについてぼくに問いただした。犯人が襲いかかってきたとき戦うつもりなのだ、とぼくは思った。  男が使っていた電動のこぎりは、ぼくの背丈の半分ほどもあった。地響きのような音をたて、刃の部分が高速で回転する。姉は、そんなものを持った男と、どうやって戦うのだろう? でも、そうしなければぼくたちは死ぬのだ。  姉は腕時計を見る。  じきに、あいつがやってきて、ぼくたちを殺す。それが今いるこの世界でのルールなのだ。必ず訪れる、絶対の死。  姉は、溝をくぐってみんなと話をしてくるようぼくに言いつけた。  時間はすぐに過ぎ去る。  溝の中を、これまでどれくらいの人の体が漂って流れたのだろう。ぼくはその穢れた水の中にもぐり、四角いコンクリートの穴を通り抜け、部屋を移動した。  ぼくと姉のほかに、あの男に閉じ込められているのは五人だった。その中で、溝の水が赤く濁り、かつて人間だったいろいろな破片が流れていくのを見た者は、ぼくたちの部屋より下流にいる三人だ。  部屋を訪ね、挨拶をする。みんな、今日がぼくと姉の番であることを知っている。口元を押さえて悲しんでくれる。あるいはやがて自分もそうなるのだと絶望した顔をする。ぼくだけでも別の部屋に移動して逃げていればいいとすすめる人もいた。 「これを持って行って」  五番目の部屋にいた若い女の人は、白いセーターを、パンツだけのぼくに手渡した。 「ここ、曖かいからセーターは必要ないの……」  そしてぼくを強く抱きしめた。 「幸運が、あなたとお姉さんに訪れますように……」  そう言うと彼女は喉を震わせた。  やがて、六時が訪れようとしていた。  ぼくと姉は、部屋の角に座っていた。扉のあるほうとは反対側の壁と、五番目の部屋を隔てている下流側の壁との、ちょうど角になった部分だ。そこが扉から一番、遠い場所だった。  ぼくが角に座り、姉はそんなぼくを壁とはさみこむように座っている。ぼくたちは足を投げ出していた。姉の腕がぼくの腕に当たり、体温が伝わってくる。 「外に出たら、まず何をしたい?」  姉が尋ねた。外に出たら……、そのことはこれまであまりにも考えすぎて、答えがありすぎた。 「わからない」  でも、両親に会いたい。深呼吸をしたい。チョコレートを食べたい。したいことは無数にあった。たぶん、それが叶《かな》ったら、ぼくは泣き出すと思う。そう姉に伝えると、やっぱり、という表情をした。  ぼくは腕時計をちらりと確認した。それから、姉が部屋の電球を見ていたので、ぼくもそれを見た。  この部屋に閉じ込められるまで、ぼくと姉は喧嘩ばかりしていた。どうしてぼくには姉なんて生き物が存在するのだろうかと考えたこともある。毎日、罵り合って、お菓子が一人分だけあれば奪い合った。  それなのに今こうしていると、ただそこにいるというだけで、力強くなってくる。腕を伝わってくる熱い体温が、この世界にいるのはぼく一人じゃないんだと宣言してくれる。  姉はあきらかに、他の部屋にいた人たちと違っていた。今まで考えたこともなかったが、ぼくがまだ赤ちゃんのころから姉はぼくのことを知っていたのだ。それは特別なことのように思う。 「ぼくが生まれてきたとき、どう思った?」  そう質問すると、姉は、急に何を言い出すのだろう、という顔でぼくを見た。 「何これ、って思ったわ。最初に見たとき、あんたはベッドの上にいたのよ。とても小さくて泣いていたの。正直、私に何か関係あるものだとは思えなかったわね」  それからまた、しばらく沈黙する。会話がないのではなかった。電球が淡く浮かび上がらせるコンクリートの箱の中、水の音だけが静かに流れて、とても深い部分でぼくと姉は言葉を交わしていた気がした。死ぬ、ということが隣り合わせに迫っている中で、心の中が冷静に、まるでゆらぎもしない静かな水面のようになっていく。  腕時計を見る。 「用意はいい?」  姉が深呼吸して、聞いた。ぼくはうなずき、神経を張り詰める。もうすぐだった。  溝の中をただ水が流れている。その音のほかに何かが聞こえないか、ぼくは耳をすませた。  その状態で数分が過ぎたとき、遠くから、いつも聞こえていた靴の音がぼくの鼓膜を小さく震わせた。姉の腕を触り顎をひいてもう時間なのだということを伝えた。ぼくが立ちあがると、姉も腰をあげる。  靴音がこの部屋に近づいてくる。  姉の手がやさしくぼくの頭に載せられ、親指がそっと額に触れた。  静かな、それは別れの合図だった。  姉の下した結論。それは、電動のこぎりを持った男と戦っても、所詮《しょせん》は勝ち目がないということだった。ぼくたちは子供で、相手は大人だったのだ。それは悲しいことだけど、事実だった。  扉の下の隙間に影が落ちる。  ぼくの心臓は破裂しそうだった。喉の奥から体内にあるすべてのものが逆流するように思えた。心の中が、悲しみと恐怖でいっぱいになる。ここに閉じ込められてからの日々が頭の中に蘇り、死んでいった人たちの顔や声が反響する。  扉の向こう側で、閂の抜かれる音。  姉は、扉から一番離れた部屋の角を背にして、片膝をついて待ち構えている。ちらりと、ぼくのほうを見た。これから死が訪れる。  鉄の扉が重く軋み、開かれると、男が立っている。部屋に入ってきた。  しかしぼくには、顔がよく見えない。ぼんやりと、その男は影のようにぼくの目には映った。死を司《つかさど》り、運んでくるただの黒い人影である。  電動のこぎりが始動する音。部屋中が激しく震動するような騒々しさに包まれる。  姉は部屋の角で両腕を広げ、背後を決して見せまいとする。 「弟には指一本、触らせない!」  姉が叫ぶ。でも、ほとんどその声はのこぎりの音でかき消された。  ぼくは恐ろしくて、叫び出したかった。そして、殺される瞬間の痛みを想像した。激しく回転する刃に削られるとき、何を考えさせられるのだろう。  男は、姉の体の陰から見え隠れしているぼくの服を見た。のこぎりを構えて、一歩、姉に近づく。 「こないで!」  姉は両腕を突き出し、背中をかばって叫んだ。あいかわらず声はかき消されたが、そう叫んだはずだった。なぜなら事前に、そう言うことを決めておいたからだ。  男がさらに姉へ近づき、回転するのこぎりの刃を姉の突き出した手にぶつけた。  一瞬、血のしぶきが空気に撒《ま》き散らされる。  もちろん、すべてはっきりと見えたわけではなかった。男の姿も、姉の手が破裂する瞬間も、ぼくにはぼんやりとしか見えなかった。なぜなら濁った水越しにしか、部屋の中の様子を見ることができなかったからだ。  ぼくは隠れていた溝のトンネルから這い出し、犯人が開け放していた扉から出た。扉を閉めて、閂をかける。  部屋の中にあった電動のこぎりの音が、扉にはさまれて小さくなる。部屋の中には、姉と、犯人の男だけが残った。  姉がぼくの頭に手を載せ、親指でそっと額に触ったときが、ぼくたちの、別れの合図だった。ぼくは次の瞬間、急いで溝の上流側のトンネルに足から体を潜ませていた。上流側に隠れたのは、下流側よりも扉に近かったからだ。  姉の考えた賭けだった。  姉は部屋の角で、ぼくの服だけを背中にかばうようにして犯人をひきつける。その間にぼくは、扉から出る。ただそれだけだ。  ぼくの服は、本当に中身があるようにみせかけなければいけなかった。そのため、みんなからそれぞれ服をわけてもらい、中につめた。本当に小手先の騙しで、通じるのかどうか不安だったけど、数秒間ならきっと大丈夫だと姉は勇気づけた。ぼくをかばうように演技しながら、姉はその服のかたまりをかばっていたのだ。  姉は、扉から一番、遠い位置で構え、犯人をおびき寄せる。溝のトンネルから這い出すぼくの方を犯人が見ないように注意もひきつけておく。  犯人が姉にのこぎりの刃を当てようと充分に近づいた瞬間、ぼくは溝から出て、立ちあがり、扉から出る……。  閂をかけた瞬間、全身が震えた。殺されようとする姉を残して、ぼくは一人だけ、外に出たのだ。姉はぼくを逃がすために、あの電動のこぎりから逃げ惑うことなく、部屋の角で演技し続けたのだ。  閉ざした扉の向こう側で、電動のこぎりの音がやんだ。  だれかが内側から扉を叩く。姉の手は切られたから、きっと、犯人の男だろうと思った。  もちろん、扉は開かない。  中から、姉の笑い声が聞こえた。高く、劈《つんざ》くような声だった。いっしょに閉じ込められて戸惑っている犯人へ向けた、勝利を示す笑い声だった。  それでも姉は、おそらくこの後で男に殺されるのだろう。二人だけで部屋に閉じ込められたのだから、これまでにない残忍なやりかたで、殺されるにちがいない。それでも姉は、ぼくを外に逃がすことで、犯人を出し抜いたのだ。  ぼくは両側を見た。おそらくここは地下なのだろう。窓のない廊下が続いている。一定の距離をおいて、暗闇を照らす電灯と、閂のかけられた扉が並んでいる。扉は全部で七つあった。  四番目以外の扉の閂を外して開けていった。三番目の部屋にはだれもいないはずだったが、同じように開けた。その部屋でも多くの人が殺されたのだから、そうしなければいけない気がした。  中にいた人々は、それぞれぼくの顔を見て、静かにうなずいていた。だれひとり、素直に喜ぶ人はいなかった。この計画のことは、みんなに話している。ぼくが外に出ることができたということは、今、この瞬間に姉が殺されかけているということだ。それを、みんなは知っている。  五番目の部屋から出た女の人は、ぼくを抱きすくめて泣いた。それからみんなで、ただひとつ閉ざされたままの扉の前に集まった。  中から、まだ姉の笑う声が聞こえてきた。  電動のこぎりの音が再開する。男は、鉄の扉をのこぎりで切ろうとしているのか、金属の削れる音が響く。しかし、扉が切断される様子はない。  扉を開けて姉を助けようと言うものはだれもいなかった。事前に、姉がぼくの口を使ってみんなに説明していた。きっと犯人から返り討ちされるだけだろうから、部屋から出られたらすぐに逃げなさい、と。  ぼくたちは、姉と殺人鬼の閉じ込められた部屋を残して立ち去ることにした。  地下の廊下を抜けると、上りの階段が見えてくる。それを上がったところは太陽の輝く外の世界のはずだ。薄暗く、憂鬱《ゆううつ》で、寂しさの支配する部屋からぼくたちは脱出するのだ。  ぼくは涙がとまらなかった。首から十字架のついたネックレスを下げ、片手に両親への謝罪が書かれた手帳を持っている。そして手首には、姉の形見である腕時計をはめていた。防水加工されていない腕時計で、水の中に隠れたとき、壊れてしまったのだろう。針はちょうど午後の六時を指したまま動くのをやめていた。 [#改丁]  落ちる飛行機の中で [#改丁] [#ここから6字下げ] 1 [#ここで字下げ終わり] 「ちょっとおたずねしますが、あなたはノストラダムスの予言を信じていましたか?」  そう話しかけられたので、私は窓の外に浮かんでいる雲から目を離した。話しかけてきたのは右隣の座席に腰掛けていた男だった。灰色の地味な背広を着ており町を歩けば五分で五人はすれ違うようなタイプの人だった。年齢は三十歳ほどで私と同年代だろうと思った。 「予言って、あれですか、一九九九年に世界が滅ぶというやつ」  聞き返すと男は頷いた。 「知っていますよ。子供のころはやりました。でも……、失礼ですが……」  私は座席の間から通路の先を見た。 「こんなときに話をするなんて不謹慎ではありませんか」 「こんなときだから話をするのですよ」  座席は一人掛けのものが三つ横に並んでくっついたような形だった。私は窓際に、男は真ん中に腰掛けており、通路に面した椅子は空のままだった。 「もしかしてナンパですか」 「違いますよ。私は結婚しているんですから。……妻とは離れて暮らしていますけれど」  男は軽く肩をすくめた。 「ところでノストラダムスの予言です。私ね、信じていたんですよ。一九九九年に絶対、人類は滅ぶ。自分は死ぬんだって」 「同じです。その予言のことを知ったのは小学生のときだったんですけど、怖くて眠れませんでしたね。本当に真剣に自分や両親が死ぬことを考えさせられましたもの。それまでは、死ぬことなんて他人事《ひとごと》でした。私、一九九九年に二十一歳になる計算だったんですけど……」  男は眉を上げて小さく驚いた。クイズ番組の司会者のような仕草をする男だった。 「じゃあ私と同い年だ。同学年ですね」 「そうなんですか。私、二十一歳までの人生設計しか描けなかったですね」 「結局、滅びなかったですね、世界。オーバーかもしれませんが、あれ以降、余生という感じがしますよ」  男はため息を吐《つ》くような感慨深い声で言った。私たちは飛行機の最後尾に位置する座席にこしかけていた。私の左側にある四角い窓から青空が見えた。眼下に平たい雲が一面に敷き詰められて大陸の上に羊の群れが押し寄せているようだった。まるで天国のように平和な景色だった。 「この体勢もちょっと疲れてきましたね」  男は苦笑しながら言った。私たちは腰を折り曲げて前かがみになり座席の陰に隠れるような格好をとっていた。その状態でお互いの肩を寄せ合い声を潜めて会話をしていた。常に背中を曲げた格好のため背骨が軋むようだった。 「思い切り背伸びしたいですが、まあ、仕方ないですよ」  私の言葉に彼も同意した。彼は座席の隙間に顔をつけた。座席の隙間からは角度的にちょうど通路の先が見えるようになっていた。彼はその状態を保ったまま言った。 「私はね、この飛行機に乗る前からずっと考え続けていたんです。ノストラダムスの予言が外れた一九九九年以降に生まれてきた子供たちは、死ぬということをどう受け止めるのだろうって。絶対に私たちとは死生観に違いがあるはずですよ。一九九九年より前に物心のついた私らは、子供のころ、どんなに楽しく過ごしていてもまるで呪いのようにあの予言が付きまとってすっと影が差し込んできていたんです。滅ぶわけがないと思っていた子だって、もしかしたら、という気持ちがどこかにあったはずです。でも予言の外れた後に物心ついた子供たちは違うでしょうね。世界が滅んだり、自分が死んだり、といったことを考える機会なんてないんじゃないかって」 「あら、それはどうかしら。交通事故も多いし、環境問題も深刻化してるし、ノストラダムスの予言で死ぬことを無理やり考えさせられなくても、大人へ成長する過程でいつか自然にそういうことって考えるんじゃないかしら。そうであってほしいです」  男は私を一瞬だけ見た。 「なるほどね。あなたの言うとおりかもしれない」  彼はそう言うと再び座席の隙間から前方を窺《うかが》い口元に自嘲気味の笑みを浮かべた。わずかに飛行機が傾いて、同時に空き缶の転がる音が聞こえてきた。さきほどから傾くたびに、空き缶が通路を行ったりきたりしていた。 「しかし、まさか自分が飛行機の墜落で死ぬことになるとは予想もしなかったですよ。あなた、想像しましたか。これから一時間後に、これ、どこかへ落ちるそうですよ」 「困ります。私にはやろうと思っていたことがあるんですから。墜落で死ぬなんて……、ねえ……、気が進みませんよ……」  私は肩をすくめるとこころもち頭を上げて前の座席の背もたれ越しに前方を確認した。今が正月やお盆だったら機内は満員だったかもしれないが、座席は半分ほどが埋まっている程度だった。座席に挟まれた通路にあいかわらず犯人は拳銃を手にして立っていた。  飛行機がハイジャックされたのは、三十分前の離陸直後だった。前の方の席に腰掛けていた大学生風の男の子が立ち上がり荷物の棚から何かを取り出したのがはじまりだった。それを見咎めたスチュワーデスが近寄って危ないですからお座りくださいと言ったところ、男の子は棚のバッグから拳銃らしきものを取り出してスチュワーデスにつきつけた。 「ほっといてください。ほっといてください。僕のことなんか僕のことなんか」  男の子はそんなわけのわからない言葉を発した。毛玉や糸くずのついた古いセーターの上に染みのある白色のコートを着ていた。髪の毛は天然パーマでくるくる巻いており寝癖が一本だけアンテナのように立っていた。拳銃を持つ彼の手は小刻みに震えて、どうしても拳銃が本物ではなく水鉄砲かなにかに見えた。 「ほっとけません。仕事ですから!」  スチュワーデスにも拳銃が玩具に見えたらしく彼女は銃口を気にせず強い口調で言った。男の子は少したじろいで座りそうになった。そこにスチュワーデスは勝ち誇った表情で追い討ちをかけた。 「だいたいなんなんですかあなたは、ベルトのサインが消えていないのに立ち上がるなんてどうかしてますよ。それになんですかその服。もうちょっとファッション雑誌とか見て勉強したらどうですか。あなたってダサすぎます!」  そのとき彼らは飛行機内にいる乗客全員の視線を浴びていた。乗客たちはスチュワーデスに叱られる彼を振り返ってにやにやと馬鹿にするような表情をしていた。男の子は恥ずかしそうに顔を伏せて自分の服を見た。その後、あらためてスチュワーデスに銃口を向けなおして拳銃の引き金を引いた。乾いた音が一発だけ機内に響いてスチュワーデスは通路に倒れた。乗客全員の表情が一転して蒼白になった。全員が動けずに見守る中、大学生風の男の子は操縦室の方へ通路を歩いた。 「みんな、動かないでくださいよ。動いたら撃ちますからね。今から機長と話をしてきますからね。本当にご迷惑かけますね」  彼は歩きながら言った。頭を何度も下げておろおろとしたみっともない歩き方だった。そのとき前の方の席に座っていた男が立ち上がった。スーツを着こなした格好いい男性だった。 「待ちたまえきみ!」  彼の声は男の子の声よりも凛々《りり》しくてよく通った。男の子は驚いて困惑したように立ちすくんだ。 「な、なんですか?」 「なんですかじゃないよきみ。花火でスチュワーデスさんを驚かせておいて謝りもせずに!」 「そ、そんなこと言われても……」  男の子はそう言いながら凛々しいその男性を眺めた。 「良いスーツですねえ……。さぞかしいい大学を出ていい会社に入社できたのでしょうねえ……」  男の子がうらやましそうに言うと、凛々しい男性は鼻をならしてスーツの襟をただした。 「ふん、まあね。私はT大卒業だよきみ。T大というのはつまり東京大学のことなんだがね」  男の子はいきなり彼にむけて発砲した。そして機内を振り返って他にT大卒業者がいないかを聞いたがだれも手をあげなかった。男の子が操縦室に立ち去ると機内はどよめきはじめた。しばらくして男の子が戻ってくると再び静かになった。 「みなさん、静かに聴いてください。里帰りする人や行楽地に行く人やらでこの飛行機も半分ほど座席が埋まっています。でも、ご迷惑だとは存じ上げますが、この飛行機は目的地を羽田空港からT大の校舎へと変更させていただきました」  言葉が全員に染み渡るのを待つように男の子は少し間を空けて続けた。 「今から約一時間半後にT大校舎へぶつけます。みなさん、どうか僕と一緒に死んでください。お願いします。五度目の入学試験に失敗してT大に入れなかった僕はもう死ぬしかないんです……」  大学生風の男の子は、実は大学生ではなかった。無職の男の子だった。飛行機に乗っていた私たち乗客は、そうして彼の自殺へ付き合わされるはめになった。  ふたたび銃声が聞こえ私と隣の座席に腰掛けた地味なスーツの男は同時に通路の前方を見た。男の子は困惑したように死体を見つめていた。 「ああ、もう、動かないでくださいって頼んだのに、なんで動くんですか……」  そう言って彼は銃声に耳を塞いだ周囲の客に対してすまなそうに謝った。男の子の隙をついて拳銃を奪おうとする乗客は次々と現れた。彼らは座席から立ち上がると男の子に背後から飛び掛かろうとした。男の子は落ち着かない様子で常に通路を徘徊し、その仕草や表情はいじめてくださいと言わんばかりの頼りなさだった。そのため簡単にやっつけられると乗客のだれもが思っているようだった。腕に筋肉のない私でもそう思えるくらいなので男の子のいじめられっ子的素質は相当なものだった。全身に纏っている「いじめてオーラ」が嗜虐《しぎゃく》心をくすぐるのだ。  しかし彼に飛び掛かる乗客は、なぜかどこからか転がってくる空き缶で足を滑らせて転んだ。そして男の子に撃たれて動かなくなるのだった。  空き缶は飛行機が傾くたびに通路を転がって移動した。人を転ばせた後、また転がってどこか座席の間へ入り込んだ。 「あの子は運に守られてますね……」  隣の男が前の座席の背もたれに隠れて言った。流れ弾に当たらないよう乗客のほとんどが頭を低くしていた。 「みんな、なんで空き缶を踏んじゃうのかしら。きっと、必死だから足元がおろそかになってるのね……」  隠れて会話していることを犯人の男の子に見咎められたら何を言われるかわからなかった。しかし頭を低くして座席の陰に隠れているかぎり見つかる様子はなかった。 「空き缶で転ばないのは、幽霊のような足のない存在だけですよ。それにしてもまさか他人の自殺につきあわされるなんてね」 「本当にこの飛行機、落ちるのかしら」 「もしもこれが小説だったとしたら、最後に主人公がなんらかのアクションを起こしてあの子をやっつけるのでしょうけれどね」 「私たち助かるの?」 「さあてね。例えば短編集の最後に収録されるような書き下ろし作品だったらそんなまっとうな結末ではないかもしれませんよ。きっと私は落ちると思うな。私ら乗客は全員、落下と、迫ってくるT大校舎とで、狂うような恐怖を味わうのです」  男は自分の額を人差し指で押さえ嘆くように首を横へ振った。芝居がかった仕草だった。私はため息をついた。ある目的のためにこの飛行機へ乗ったものの、まさかハイジャックされるとは思わなかった。  乗った飛行機が落ちて死ぬ、という死に方は嫌いだった。子供の頃から私は安楽死に憧れていた。流れ星を見たら『私が死ぬときは眠るようにお願いします、結婚なんていいですから』とお願いしていたほどだった。 「墜落死は気が乗らないです。どうしましょう」 「ええ、そうですとも。おそらく墜落の瞬間、耐え難い苦痛が襲ってきますよ。骨は折れるし、内臓は飛び出すし、炎に焼かれるし、きっと散々な気持ちでしょうね」 「せめてすぐに死んで楽になりたい……」 「甘いなあ!」  男は勢い込んで言った。それでも男の子に声が聞こえないよう囁き声ではあった。 「すぐに死ぬなんて甘いですよあなた。何があるかわかりません。中途半端に大丈夫で、支柱がお腹に突き刺さったまま数時間も放置されるかもしれませんよ」  私は痛みで悶える自分を想像した。腋の下に汗が滲みほとんど吐き気がこみ上げてきそうだった。 「私、できることなら安楽死したいです」  私の困り果てた呟きを聞くと、彼は男の子に聞こえないよう小さく指を鳴らして笑顔になった。 「その言葉を待っていましたよ」  私は彼から少し身を離して聞いた。 「あなた、いったい何なんですか。こんなときに指パッチンなんて、非常識にも程《ほど》があります」 「失礼。まだ言ってませんでしたね。私、セールスマンなんです」  男は背広の内ポケットから何かを取り出すと私に顔を近づけた。 「これを見てください」  男の差し出した手には小さな注射器が握られていた。中には澄んだ透明な液体が入っていた。 「この薬を注射すれば痛みもなくすうっと死ねますよ。在庫はこれ一本きりです。どうです。買いませんか」  まただれかが立ち上がり男の子の拳銃を奪おうとしたらしく、空き缶の転がる音と銃声が機内に響いた。 [#ここから6字下げ] 2 [#ここで字下げ終わり] 「つまりこの注射、安楽死の薬なんですか?」 「その通りです。飛行機が落ちる前にこれを注射して自殺すれば恐怖も何も感じずに死ねるのです。この状況に最適の商品でしょう。買うなら早くしないといけませんよ」 「なぜです?」 「注射して薬の効果が表れるまでに三十分ほどかかるんです。今から一時間後に墜落するのだとしたら、これから三十分以内に買うかどうかを決めて注射しないと、効果が出てあの世へ行く前にT大を訪問することになるんです。だから早くお決めなさい」 「あなたは死神か何かですか?」 「一介のセールスマンですよ。そんな私がなぜ安楽死の薬を持っているのか不思議そうな顔をしていますね。いいでしょう。話してあげましょう。私ね、これを使って自殺しようと思っていたのです」  彼は注射器を背広の内ポケットに戻すと遠くを見るような目で話をはじめた。 「私は子供のころからセールスマンになるのが夢だったのです。変わっているでしょう。先生にも言われました。どこが魅力かって、人と話をして商品を売りつけるというちょっと駆け引きじみたところですよ」 「夢がかなってセールスマンになられたのですね」  男は頷いたが表情は明るくなかった。 「しかし私には才能がなかった。これまで十年近くセールスしてきましたがさっぱり成績が伸びないんです。後輩にも追い越されて会社での私の立場といったら新入社員よりも下なんです。妻は私に愛想を尽かして家を出て行きました。彼女は今、東京の実家にいるはずなんです」 「人生に絶望して死ぬ決意を?」  彼は頷いた。 「知り合いに話のわかる医者がいて、大金を払って安楽死の薬を入手したんです」 「ひどいお医者さまです」 「高齢でちょっとボケ気味の医者なんですけどね。ともかく安楽死の薬を手に入れた私は、死に場所へ向かうためにこの飛行機へ飛び乗ったんです」 「じゃあ、飛行機を降りたらどこかで注射するつもりだったんですね?」 「あてつけに妻の実家の玄関先で死のうと思ってたんです。妻が外に出ようとしたら私の死体があるわけですから、きっと驚きますよ。困りますよ。きっと近所から白い目で見られるにちがいないですよ」 「なんて迷惑な!」 「ほっといてください。でもその計画も今となってはぽしゃってしまいました。ハイジャックのおかげでね。残ったのは背広に入れておいた注射器だけです。どうですか、買いませんか。こうなったら私の最後の願いは、セールスマンとして人に何かを売りつけることなんです。どうかこの注射器を購入して、私の人生の最後を満足感で満たしていただけませんか」  雨で濡れそぼった犬のように哀れっぽい目をして彼は言った。私は少し考えた。悪い話ではないように思えた。 「でも、その注射、高いんでしょう? おいくらですか?」 「財布にどれくらい入ってます?」  私は座席から頭を出さないよう注意しながらハンドバッグから財布を取り出した。広げて彼に中身を見せた。 「一万円札が三枚と、あとは小銭ですか。おや、銀行のキャッシュカードがありますね。口座にはいくら入ってますか?」 「三百万円ほど」 「では、全部をもらうとしたら三百三万円ですか」 「高すぎます。私の全財産ですよ」 「死んだらお金なんてもっていてもしかたないじゃないですか。どうです、私にキャッシュカードをいただけませんか? もちろん暗証番号も教えてください」 「……そうか、わかった。あなたとあの犯人はコンビを組んでいるのね。飛行機内でハイジャックを起こして安楽死の薬を高値で売りつけるという魂胆なのね」  セールスマンは吹き出した。 「そんな詐欺のために人を殺しますかって」  彼は通路に倒れたままだれも片付けないスチュワーデスを顎で指し示した。 「……わかりました、あなたの言うことを信じましょう。でも注射器一本と私の全財産とでは釣り合いませんよ。一万円なら買ってあげます。それでも高いくらいですけど」  本当はすぐにでも手に入れたかった。どうせ死ぬのだからお金など紙くずのようなものだった。彼に銀行のカードを渡したところで、実際にお金を引き出す機会もなく彼は死ぬのだ。彼もまた墜落する飛行機から逃げ出すことなどできないのだから。しかし私にも意地があった。 「三百三万円なんて、とんでもないです。高すぎます」 「あなたはこんな状況で値切るつもりですか! 一万円なんて値段で買われては私の魂は浮かばれません!」 「あなたの魂なんて知りませんよ。私の生きがいは、商品を値切ることだったんですから。毎日毎日、八百屋や魚屋で値切って値切って値切りまくるのが唯一の楽しみだったんです。キャベツに虫食いの穴があるからとか、魚が痩せているとか、そういう難癖をつけて安くすることだけが、一日のうちで他人というものとまともに言葉を交わす唯一の時間だったんです」 「なんだか暗い生活ですね。仕事場で人と話なんてしなかったんですか?」 「しませんね。漫画喫茶でバイトしてましたけど、話しかけられても無視してます。そもそも他人が怖いと思う性質なんです。だからこの年まで結婚もせず一人暮らししてるんですけれど」 「もったいない、こういってはなんですが、あなた、整った顔立ちをしてらっしゃいます」 「そんなこと知ってます」 「……言うんじゃなかった」 「でもトラウマがあって他人が徹底的に怖いんです。特に男性。昔、ある男の人からひどい目にあわされて……」 「ひどい目……?」 「そうです。文章に書いて出版することすら躊躇《ためら》うようなひどい扱いを受けたのです」  彼が聞きたそうな素振りを見せたので、私は小さな声で高校生のころに受けた仕打ちを話した。私の心と体に傷跡をつけた男の名前や顔ははっきりとまだ覚えていた。  私の話を聞いたセールスマンは額に汗を滲ませて吐き気をこらえるように口元へ手をあてた。目を赤くして泣きそうな顔をした。 「あなた、それはひどい……。たとえて言うなら、本格推理小説の犯人が若い女性で、その犯行の動機が過去に受けたレイプ事件だったというのと同じくらい暗澹《あんたん》とした気持ちになりました」 「でしょう? 実は先日、私にひどいことをしたその男の住所がわかったんです。ひそかに探偵に調べさせていました。彼は東京に住んでいるそうなんです」 「なんのために住所なんか……」 「決まってるでしょう。復讐ですよ。探偵の話によると、彼は今、奥さんと子供がいるらしいんです。幸福な家庭を作ってるのを黙って見ていられますか。そう思ってこの飛行機に飛び乗ったんです。羽田空港に到着したら、彼の家に行って、彼の目の前で子供を傷つけてやるつもりだったんです」 「あんたこそはた迷惑じゃないですか!」 「ほっといてください。私のことなんかほっといてください」  再び空き缶の転がる音と銃声が機内に響いた。いちいち座席の陰から頭を出して確認はしなかったが、まただれかが立ち上がって犯人の男の子に飛び掛かろうとして、転がっている空き缶で足を滑らせ返り討ちにあったようだった。 「まあそれはともかく、一万円は安すぎます。値切ることだけが楽しみだったというあなたには申し訳ないですが」 「人生の最後なんですから、そんな足元を見られたような買い物なんてできません。そもそも、お医者さんからいくらで購入したんですか?」 「たった一本の注射を手に入れるために私は医者へ三百万円を払いましたよ。あのボケ医者に。なにせ一般人が使うには違法なものですからね。高くつきました。でも、ちょうどあなたの口座に入っている金額と同じですね。取引としてつりあってるじゃないですか」 「どこまで信じられるものかしら。本当は三百円で買っていたとしても、三百万円だったって言い張ることは可能です」  セールスマンが嘘をついているかどうか確かめようとして私は彼の目を見た。彼はすぐに目をそらした。まるで母親の財布から小銭を盗んだ子供のようなよそよそしさだった。 「だって元値を高く言ったほうがいいじゃないかよ……」  目をそらしたまま悔しそうに彼は小さく呟いた。  今、彼の持つ安楽死の薬にどれくらいの価値があるものだろうかと考えた。おそらく、飛行機で墜落死するのが怖いという人間ほど高い値をつけるにちがいなかった。しかし薬の価値を左右するのはそれだけだろうか。 「だいたい、なぜあなたはその薬を自分のために使おうとしないのですか?」 「それはあなた、人生の最後に物を売って充実感を得たいからですよ」  私は考えながら座席から頭を上げ拳銃を持っている男の子を見た。男の子は通路の真ん中に立って不器用な手つきで拳銃に弾を込めていた。その隙をついて正義感に溢れる男性が二人ほど立ち上がり彼に飛び掛かろうとした。しかしやはり空き缶につまずいて転んだり、転ぶ人につかまれ道連れにされて転んだりしていた。銃声が二発鳴って静かになった。 「そうよ、この商談は取引というよりも、一種の賭けなんだ」  私は気づいてセールスマンを振り返った。彼はぎくりとした表情をした。 「あなたはこう言ったの。『注射して死ぬまで三十分かかります。早く決めて注射しないと飛行機が落ちてしまいます』って。墜落の恐怖から逃れるためには、飛行機が落ち始めるよりも早くに注射する必要があるんです。ここがミソなんだ。もしも、注射した後にあの男の子が取り押さえられて飛行機は無事に羽田空港に着いたとしたら……」  私は隣の座席で頭を低くしているセールスマンを睨んだ。彼は気まずそうに咳払いした。 「……そうなった場合、注射した私は飛行機が墜落しなかっただなんて知りもせずすやすや死んでいく。本来なら必要なかった商品をつかまされたことさえ気づかない。そしてあなたはハイジャックされた飛行機から生還してその足で銀行に向かい私の口座から有り金を持ち去る。あなたは丸儲けね。医者に払った注射の元値が百円だとしたら、二百九十九万九千九百円の儲けになるのよ」 「……まあそれはひとつの可能性でしょう。私も、ええ、たった今、あなたに教えられてはじめて気づきましたけれど」 「嘘おっしゃい」 「いいですか、あなたが言ったように、確かに飛行機が落ちないって可能性もある。あの男の子を見てください。今にも自分の足を撃ち抜きそうな拙《つたな》い拳銃の扱い方。でも彼には幸運がついているらしくいまだに取り押さえられずハイジャックし続けている。このままあと数十分もすれば飛行機は間違いなくT大の校舎へ墜落するでしょう」 「口からでまかせよ。あなたは薬を買わせようとしてそう言ってるだけ。本心ではあの子がだれかに取り押さえられることに賭けているのよ」 「まあ、そりゃあねえ」  彼は口元に笑みを浮かべた。まるで狐のように狡猾そうな表情だった。 「その方が私の得になるんなら、それに賭けますけどねえ。ともかくこれではっきりとしましたね、薬を買うかどうかの決め手になる要因が。つまり、あの男の子が立ちはだかる障害にも負けず意志を貫いて自殺を決行すると思うのならあなたは注射を買う。どうせ死ぬんなら墜落死よりも安楽死の方がいいですからなあ。しかしあの子が途中で志半ばにして挫折すると思うのならあなたは薬を買わない。飛行機が墜落しないのに安楽死するなんて馬鹿ですからねえ」 「あなたって意地悪ね。本当に悪趣味な取引よ」  私は窓の外を見た。あいかわらず外は青と白の二色しか見えなかった。 「でもおもしろいと思う。買うかどうかは、もうしばらく男の子を観察してがんばり具合を見てから決めることにします。時間がもったいないからそれまでに金額を決めましょう」 「ふむ……。まあ、値切るとか値切らないとか言い合いをしましたけれど、実はそんなこと問題ではないようですね。あなたがキャッシュカードの暗証番号を教えるかどうかです」  言われて私は気づいた。私が注射で死んだ後、彼はいくらでも財布を探ることができるのだ。財布にある三万円は確実に抜かれるはずだった。後は暗証番号を教えるか否かで彼の受け取る金額が変わる。つまり彼の報酬は三万円か三百三万円かのどちらかなのだ。 「まさか暗証番号、あなたの誕生日ではないですよね」 「その通りですよ悪いですか?」  彼は両眉を上げて驚いた顔をした。 「そんなこと言っていいんですか? さっき財布に免許証が入ってましたね。私はあなたの誕生日がわかる。つまりあなた、注射の値段を三百三万円にしたんですよ」 「いいですとも。人生の最後ですから」  私が笑みを浮かべてそう言うと、彼もまた笑みを見せた。 「あの……、あなたたち、何でそんなに余裕があるんですか……?」  肩を寄せ合って会話していた私とセールスマンに頭上から声がかけられた。 「ああ、ちょっと待っててくださいね。大切な商談をまとめているところなんですから」  セールスマンが顔を上げて言った。声の主を見ると首をしめられたアヒルのような声を出した。 「おや、失礼……」 「いえ、こちらこそ話しかけてすみません。どうぞ商談を続けてください」  声の主は通路に立っていた。彼の手には拳銃が握り締められており私は目をそれから離すことができなかった。私たちに声をかけたのは犯人の男の子だった。  近くの座席についていた体の大きないかにも柔道部でしたという男性が立ち上がって男の子に襲い掛かろうとした。私とセールスマンは体を硬くして身構えた。これから目の前で元柔道部員とひ弱な男の子の戦闘が展開されることを想像した。しかし元柔道部員はどこからか転がってきた空き缶で足を滑らせ転倒し頭を座席の角で打ちつけて動かなくなった。男の子は彼の首筋に手をあてて死んでいることを確かめた。 [#ここから6字下げ] 3 [#ここで字下げ終わり] 「さっきからあなたたちのことが気になっていたんです」  セールスマンの右隣に空いていた座席に腰掛け男の子は言った。三つ並んだ椅子は窓のある左から順番に、私、セールスマン、男の子、という並びで埋まった。私は腕時計を確認した。ハイジャックが起きて約四十五分が経過していた。 「隠れて何か話をしているなあ、というのが見えていたんです。もしかしたら、僕に飛びついて拳銃を奪う計画でも練っているんじゃないか、それとも僕の寝癖や服装のことや学校でつけられたあだ名のことを二人で笑っているんじゃないか、最初はそう思っていたんです。でも、よく見るとあなたたち二人の顔は、うまく言えませんが……、他の乗客と違うんです……」 「そうですか? どんなところが?」  私は少し前傾姿勢になってセールスマン越しに彼を見て質問した。セールスマンは少し体を引いて私の視線の通りをよくしてくれた。男の子は恥ずかしそうに銃を持っていないほうの手で髪の毛を撫で付けたが、手が過ぎると同時にやはり寝癖はアンテナのように立った。 「他の乗客はみんな、恐怖に怯えているんです……。助かろうとして僕に飛び掛かってくる人だって顔を引きつらせている。すすり泣いている人も、蒼白な顔をしている人も多い。それなのにあなたたち二人だけが、まるで自分の家のリビングで会話をしているような表情をしているんです。あなたたちは僕と拳銃が怖くないんですか? やっぱりこんな僕程度の人間がハイジャックだなんて滑稽すぎて恐怖なんか感じないというんですか? T大に入れなかった人がハイジャックしたらいけないとでも言うんですか?」 「そんなことないです。充分、怖いですよ。例えばその……」  セールスマンはそう口ごもりながら男の子の寝癖を見つめていた。 「……何かいろいろとコンプレックスを抱いているような言動が、病的で少し怖いかなとか思ったりして」 「コンプレックスだなんて、僕のはそんなたいそうなものじゃないです。ただ、いつも人に笑われているような気がするだけなんです。道ですれ違う犬とか、テレビに映っている女子高生とか、みんな、僕が入学試験に落ちたことを心の中で笑っているんじゃないかって気がするだけなんです」 「ははあ……」セールスマンはそう言うと私の方を見てこの子はなるほど危ないと目で訴えかけながら「あなたは繊細すぎるんですな」と作ったようなやさしい声を出した。  私は周囲に視線を向けた。機内にいるすべての人間は男の子の言うとおりひどい顔色をしていた。露骨に振り返って見る人間はあまりいないが、全員が私たちの座る最後尾の座席を気にしており、周囲に座っている人々は特に私たちの会話へ耳を傾けているようだった。私は再び男の子へ視線を向けて言った。 「あのう、私とこの人が他の乗客のようにおろおろしてないのは、もしかしたら、失うものがあまりないからなのかもしれません」  男の子は首を傾げて先を聞きたそうな顔をした。 「確かに墜落死は怖いんですけど……。他の乗客たちに比べて、私とこの人のほうが死ぬことを簡単に受け入れやすいんじゃないかしら」  私はセールスマンを指差し、彼が自殺するつもりだったことを説明した。私も、高校時代にある男から受けた仕打ちと、その男へ復讐しにいくところだったことを話した。私の体験を聞いた男の子は、さきほどのセールスマンと同様に口元を押さえた。 「以来、男性不信なんです……」  男の子は少し目を赤くして私の顔を見つめた。言うのをためらうような素振りを何度か見せた後、彼は口を開いた。 「自分にひどいことをしたその男、殺したいですか?」 「ええ、まあ、そうですね。悶え死んでくれたらと思います。でなければ、ほら、私の気持ちが治まらないでしょう。そんな風に、私やこのセールスマンはちょっと幸福から遠い場所にいたんです。だから墜落死という不幸がつきつけられても、心のどこかで、まあ人生こんなもんかもねという気持ちがあるんじゃないかしら」 「だから平気そうに話をしてたんですね……」  男の子は納得したように頷いた。しばらく無言で何か考えた後、うなだれて口を開いた。 「あなたは強いです。ひどいことをされたのに、死のうなんて考えず、復讐を考えて今まで生きのびてきたんですから」 「まあ、これから死ぬみたいですけどね」  私がそう言うと、隣でセールスマンが「ハハハ、うまいね」と言った。  私は身を乗り出して、うなだれている男の子の顔を下から覗き込んだ。彼は驚いて身を少し引いた。 「ねえ、ハイジャックに対するあなたの意気込みを聞かせてくれる?」  私がそう聞くと、男の子も、セールスマンも、周囲で耳をそばだてていた人々も、訳がわからないという顔をした。 「あなた、何を言い出すんですか」  セールスマンに肩を押されて私は再び座席に座らされた。 「ねえ、待って。重要なことなの。彼がどれだけの意志でこのことに臨んでいるのかってことは、私が薬を買うか買わないかの判断材料になるの」 「ああ、なるほど。確かに」  セールスマンは頷いた。 「薬? 何のことですか?」  男の子が不思議そうに聞いた。私とセールスマンは一瞬だけ目を見合わせて、安楽死のことを話していいものかどうか迷った。しかし結局、注射のことも、それを私が購入してハイジャックが失敗したときにセールスマンが受け取る報酬のことも、すべて話した。 「つまり、あなたはこのセールスマンの持つ注射を買うかどうか悩んでいるんですね?」  男の子の言葉に私は頷いた。セールスマンが何度か咳払いをした後、男の子に聞いた。 「それで、どうなんでしょう。あなたはどれほどの気持ちで拳銃を撃ってるんですかね。そもそも、自殺するのにどうして私らみんなを道連れにしたがっているんですか?」  男の子は意外と力強い表情でセールスマンの目を見た。目の圧力から押されるようにセールスマンが少し身を引いた。 「ただもう、憎かったんです」  男の子はそう口を開いた。 「子供のころからT大に入ることを母から義務付けられて育ったんです。それ以外の人生なんて考えられませんでした。T大に入れなかったら人間じゃないって母は僕に教育を施したんです。そのうち僕自身、T大に入ることが生きる目的になりました」 「卒業後のことは?」とセールスマン。 「何を言ってるんですか、そんなの余生ですよ。ええ、入学できればいいんです。その後のことなんかどうでも。ともかく、そのために僕は勉強をしました。みんながゲームで遊んでいるときも、女の子と遊んでいるときも、ただひたすら勉強だけをしたんです」 「勉強をしてるとき以外は何をしてたの?」と私。 「漬物《つけもの》をつけてました」  予想しなかった回答に私とセールスマンは顔を見合わせた。 「漬物を漬けるのが趣味だったんです。勉強机の下にいつも置いてました。あれは奥が深いんですよ」  男の子はそう言うと、野菜の切り方で歯ざわりや漬けあがる時間がかわってくることや、漬物を漬ける際の塩の濃度について語った。そのときの彼の顔は明るかった。 「暗い家の中で一人、黙々と漬物をつけていると、心が落ち着いたんです。小学生のころからずっと……」 「小学生のころからこの子は危なかったらしいねどうも」  セールスマンが私に小声で囁いた。 「学校ではみんな僕のことを笑っていたみたいです。僕の服装がださいって。怖くて服屋に入れなかったんです。僕なんかが服屋に入ったら店員に笑われるんじゃないかって。僕がおしゃれなんて滑稽でしょう? 母の買って来た服をただ着ていただけでした。自分で買ったものといったらノートや筆記用具だけです。みんながお金を集めてCDとか買っているときに、僕はお小遣いをためて万年筆を買っていたんです。勉強ばかりしていたから学校ではだれからも相手にされませんでした。会話をしても、クラスメイトたちと接点なんてありませんでしたね。みんな陰で僕のことを『臭い』って言ってたんですよ。ちゃんと毎日お風呂に入っていたのに……」 「オリジナリティのない陰口ね」と私は言いながらきっと彼は漬物臭かったのだろうと少し思った。 「母も、親戚も、僕は間違いなくT大にいけると思っていました。でも、だめだったんです」 「なぜ?」とセールスマン。 「入れてくれませんでした」 「だからどうして? 毎年の入試の日に風邪でもひいてたんですか?」 「いいえ」 「迷子の子供を助けていて入試に遅れたとか。溺れている子供を助けてたとか。脳腫瘍で死に掛けている子供の手を握ってやっていたとか」とセールスマンは彼が入試に失敗したあらゆる可能性を口にした。しかし男の子は悲しげに首を横へ振るだけだった。 「僕にも理由はわかりません。納得できなくて先生になぜ自分が落とされるのか尋ねてみました。そしたら……、おまえはT大に入れるレベルじゃない、一生無理だ、諦めろって言われたんです」  ただ学力が足りなかっただけかよ。だれも口にはしなかったが機内にはそのような空気が満ちた。しかし本人は「そんなのしどい[#「しどい」に傍点]です」と言いながらさめざめと泣きはじめた。 「親も、親戚も、みんな見下げるように僕を見るんです。その気持ちわかりますか。どういったら伝わりますか。T大は無理だと言われても最初は信じられませんでした。でも今年、五回目の受験に失敗して、ようやく僕には無理だと受け入れることができました。そんな僕はこれからどうしたら良いのですか。これまでの二十三年間はどうなってしまうんですか。母は僕にT大へ入るという生き方しか教えてくれなかったんです。もう、自分が情けなくって。情けなくって。恥ずかしいんです。どこにいても笑われているような気がするんです」  男の子はうなだれて座席の上で前傾姿勢になり、拳銃を持っていない左手で顔を覆った。  ああ、憎い……。  彼は呻くように言葉を吐いた。その声は低く地面を掻き毟《むし》るような響きだった。顔に当てられた手のため表情は見えずただ彼の呟きだけが聞こえてきた。  哄笑《こうしょう》が聞こえる……、クラスメイトたちの笑い声が……。みんなが僕を笑う……。僕の寝癖を……、女の子の手を握ったこともないということを……、みんな心の中で笑っているんだ……。ああ……、もう……、ほっといてください……ほっといてください……。ああ、もう……。世界中にいるすべての人間を殺してまわりたい……。もうだめなんです……。だれか、助けてください……。憎くて憎くてしかたないんです……。  男の子が顔を覆っている今、飛び掛かって拳銃を奪うチャンスだった。しかしだれもそうはしなかった。その場にいただれもが彼の異様さに動けなかった。彼の心の中にある暗闇が声に乗って肌を突き抜けてきた。  憎しみ……、憎しみ……、僕がみんなに対している感情の、それが名前です……、みんなが、憎いです……。殺したいです……。絶望を味わわせたい……。世界中のすべての人に……。  男の子は顔に当てていた手を外した。泣いた後のように赤い目で私を見つめた。彼は無表情だったが、私には一瞬、白目の赤みがまるで炎の赤色のように見えた。 「でも、世界中の人間を殺すなんてできない。だからひとまずこの飛行機を乗っ取ったんです。これなら個人レベルでできるでしょう? 乗客も、墜落場所であるT大校舎にいる人も、理不尽に死ぬ。そしてこのいたたまれないニュースが世界中に報道される。それが僕の望みなんです。ところで僕は少し前からインターネットで漬物の通信販売をしてたんですけど、これが飛ぶように売れまして。年間に三百万円ほどの利益を生んだんです」 「私の収入よりも多いんですけど……」  セールスマンが呟いた。 「でも、僕の人生の目的はT大だったんです。お金の問題じゃない。ともかくその稼いだお金で拳銃を購入しました」 「だれから?」 「とある路地裏に住んでいた売人です。片言の日本語を話してました。たぶん、中国かどこかの人でしょう。語尾に『〜アル』ってついてましたから」  そんな中国人って本当にいるのか? と少しだけ私は思ったがだまっていた。 「僕はその男から拳銃と弾丸を購入して飛行機に乗り込んだんです」 「どうやって機内に銃を持ち込めたの? 警備員がいたはずでしょう?」 「札束で頬をぶったら恍惚《こうこつ》とした顔をして通してくれました」 「あ、そう……」  お金の力って恐ろしい。 「そういうわけで今に至ります」  男の子は腕時計を確認した。 「ああ、もうこんな時間だ。T大の校舎まであと三十五分ほどです」  彼は私の目を見た。 「ねえ、僕はこのまま飛行機を落としますよ。でなければ、僕の気がおさまらないんです。みんなに不幸を……、絶対的で圧倒的で理不尽に満ちた死を世界中の人間に知らしめたいんですよ」  通路を歩いているときに見られたおどおどとした様子は微塵《みじん》もなかった。彼の瞳には必ずこの飛行機を落としてみせるという確信があった。私は決心するとセールスマンに言った。 「注射を買います。この飛行機、墜落するという方に賭けて私は一足早く安楽死します」 [#ここから6字下げ] 4 [#ここで字下げ終わり] 「本当にいいんですか?」  セールスマンが確認するように聞いた。 「かまいません」  私は機内を見回した。通路に人が何人も倒れていた。 「私はたった今、この子の目を見て感銘を受けました。そして心から確信したんです。きっとこの飛行機は落ちて機内にいるみんなは地獄にいるような恐怖を味わうだろうって」 「この女、なんちゅうことを」  セールスマンは呆れたように言った。 「だから私は『安楽死』を買います。決心は変わりません」  ハンドバッグに入っていた財布をセールスマンに渡した。現金やキャッシュカードに未練はなかった。  セールスマンが背広の内ポケットから注射器を取り出した。小さな細長いガラス製の注射器に透明な液体が入っており、私や男の子、さらに通路を挟んだ座席に腰掛けている乗客たちの目が一斉にそれへ注目した。 「その小さな注射器の中に入っている澄んだ水に、一人の人間の人生を終わらせる『死』が溶けているんですね?」  男の子が聞いた。 「苦痛のない、甘い『死』だよ」  セールスマンはそう言うと私に注射器を差し出した。私は落とさないよう慎重に両手で受け取った。注射器が手のひらに載ってもほとんど重みは感じられなかった。目の高さに持ってきて私は液体を覗いた。透明な液体越しに向こう側の景色が見えた。注射器のガラスのためそれは水飴が伸びたように湾曲していた。周囲から視線が注がれていた。座席から腰を上げて私を振り返っている者もいた。 「……そんなに見られていたら死ににくいんですけど」  私が言うと機内にいる生きた乗客たちは咳払いをしながら視線をそらしてくれた。 「急がないといけないですよね。薬が効くまで三十分という話だから」  私は左の袖を捲《まく》り上げた。長袖だったので肘のあたりまでしか露出できなかった。 「私、注射なんてしたことないんですけど、どうすればいいのかしら?」 「適当でいいんですよ。医者の話だと、どこに注射しても死ねるそうですから」  セールスマンの言葉に自信をつけて、注射器の針に被せられていたカバーを指で外した。細長い銀色の針が空気に触れた。私は少しの間その先端を眺めてから男の子を振り返った。 「私はあなたがこのまま飛行機を落とす方に賭けたわけですからね。がんばってみんなを恐怖のどん底に突き落としてくださいね」  男の子は元気に頷いた。 「ええ、あなたの安楽死を無駄にはしません」 「さっきからまったく本当にひどい会話だな……」  セールスマンの呟きを私は無視した。針の先から少し液体を出して中に入り込んでいた空気を抜いた。左腕の肘の内側に針を当てて押し込むと、先端が皮膚を突き破りかすかな痛みが走った。ピストンを押し込んで液体を流し込むと、腕の内側に広がる冷たいものを感じた。  注射を終えると針を抜いた。空になった注射器をセールスマンが受け取った。私は捲り上げていた袖を下ろして、「では」と言い残し目を閉じた。深い暗闇が眼前に広がった。 「あれ、もうぴくりとも動かなくなりましたね……」 「効くまでに三十分かかるというのは嘘なんです。本当は即効性だったんですよ。そう医者から説明されていました」 「なぜそんな嘘を?」 「ある程度、早い段階で薬の購入を決めてもらわないといけませんでしたからね。だって、あなたが取り押さえられてからでは取引が成り立たないでしょう」 「よく考えればそうですね、なるほど。ということは、あなたは、僕が取り押さえられることを望んでいるわけですね?」 「その方が私の得ではありますね。そうなれば私は彼女の貯金を手に入れることができる。あの薬、じつは医者からただ同然でもらったものなんです。だから丸儲けだ。そのお金で私は新しい人生をはじめるか、それとも少し遊んでからまた自殺を考えるかしたいと思います。……ああ……、新しい人生か……。あなたは生まれ変わった気持ちになって人生をやり直そうとは思わなかったんですか?」 「前向きなことをするには、憎しみが強すぎました。死んだ気持ちになって新しい人生をはじめるだなんて……、僕にはむずかしすぎます……。ところでお願いがあるんです。あなただけじゃなく、この声を聞いているみんなに。立ち上がって飛行機の前の方に座席を移ってほしいんです。最初からいなかったり、途中からいなくなったりで、座席が半分ほど空いているでしょう。みんなに固まって座っていてもらったほうが、僕にとっては見張りやすいんです」 「いいですとも。座席を移動しましょう。でも、前半分に乗客が集まったら、飛行機が傾いて落ちませんかね?」 「どうせ落ちるんですから、問題ないでしょう」 「ですよね。あ、彼女はどうしますか?」 「……ここに置いていきます。通路に倒れている人々もそうです。生きている人間はみんな、前に移って下さい。さあ、これは命令ですよ。それともT大に入れなかった僕なんかの命令は聞けませんか?」  私はどうやら死んだらしいと判断して目を開けると背伸びをした。首を動かしてマッサージしていると、左手にある窓に気づいた。自分は死ぬ前と同じ状態で座席に腰掛けていた。幽霊になった状態でまだ飛行機内にいつづけているらしかった。  隣を見たがセールスマンの姿も男の子の姿もなかった。私は死ぬ直前の暗闇で聞いた二人の会話を思い出した。男の子が監視を楽にするため乗客たちを前に集めるという話だった。  幽霊になった私は立ち上がり前の座席越しに前方を見た。飛行機の前半分に乗客たちの後頭部が密集していた。真ん中ほどから私のいる最後尾の座席まではがらんとして涼しげだった。  乗客たちのいない後ろ半分には動かない人々が倒れていた。まるで先頭から真ん中までは生きている者の世界、真ん中から後方は死んでいる者の世界という風に区切られているようだった。  寝癖のある後頭部を見つけた。男の子は乗客たちを見張るため後方の空いている座席の中に腰を下ろしていた。死んでいる者の世界に一人だけで座っている様は寂しそうだった。  だれも喋らず飛行機のエンジン音だけが聞こえていた。私は通路を静かに歩き男の子の座席に近づいた。通路に倒れている人々を避けて移動し、途中で足元に転がってきた空き缶も、転ばないように注意深く踏み越えた。  私は男の子の座席の斜め後ろに立って背もたれに手を置いた。寝癖のある頭を真上から見下ろす格好だった。彼は何も見逃すまいとして前方を注視していた。彼の気迫は空気を伝わって私にも届いた。  私は指先でアンテナのような寝癖をつついた。なるほど幽霊というものはだれにも気づかれず好きな角度から好きなものを触れるものらしいとわかった。同じように好き放題はげ親父の頭をぱしぱし叩けることを考えて、私は、幽霊っていいじゃんと思った。私は獲物を探す鷲のような気持ちで機内を見渡し、密集する後頭部たちの中にひとつだけ肌色をして光を眩しく反射しているハゲあがった後頭部を発見した。さっそくあれを触りに行こうと思った。  私はその方向に歩きかけた。そのとき、男の子が背伸びをして、持っていた拳銃を隣の席に置いた。私は拳銃が珍しくてなんとなく手にとってみた。ずしりとして重かった。つつくと爪にひびが入りそうなほど硬くて、本当に金属でできているんだなと思った。それにしても幽霊というのは質量のあるものでも持ち上げることができるのかと感心した。拳銃をかまえて格好つけてみたりした。 「あれ? なんで?」  背伸びを終えた男の子が、背後で婦人警官ごっこをしていた私を振り返って不思議そうな声をあげた。彼の目はしっかりと私にむけられていたので驚いた。 「あなた、私が見えるの? 霊感まであるのね?」  前に密集して座っていた後頭部たちが振り返った。中の一人が立ち上がった。セールスマンだった。彼は口を大きく開けて「なぜ生きてるんですか!」と叫んだ。私は婦人警官ごっこをやめて、「はあ……、死んだつもりですけど……」と答えた。 「いいえ、死んでません! よく自分の体を見てください! 足だってあるでしょう!」  私は自分の両足を見下ろして、セールスマンの言うとおりであることを確認した。私はまだ死んでいない、そのことを理解した。注射をしたはずなのに、私は死ねなかった。私は拳銃をセールスマンに向けた。 「騙したわね! 安楽死なんてしてないじゃないの! あなたは私に嘘の薬を売りつけたんだ!」  セールスマンは銃口から逃れるように座席へ伏せた。頭だけ出して私の方を見た。彼の周囲に座っていた人々は悲鳴をあげて彼から遠ざかろうとした。おかげで機内は混乱した。 「待ってください! 私だって何が起こったんだか……」  彼は困惑してそう呟いた後、何かに気づいた様子で息を呑み込んだ。 「……あの医者のジジィ、まさか、わざと無害な薬を」  私は銃口を彼に向けたまま引き金に人差し指を当てた。 「それよりどうしてくれるの!? 安楽死できなかったら、私も墜落死しなくちゃいけないじゃない!」  セールスマンは背もたれを盾がわりにしながら顔を激しく横に振った。 「待って、待ってください。冷静になって。あなた、手に持っているのが何なのかわかって言ってるんですか?」 「馬鹿にしないで!」 「わかってるんなら、なんで私に向けているんですか!? 向ける相手が違うでしょう!」セールスマンが、私の隣に立っている男の子を指差した。「彼に銃口を突きつけて、降伏を勧告しなさい!」  私は男の子を振り返った。彼は座席から腰を浮かせて真剣な眼差しで私を見返した。 「私がどうして彼に降伏を呼びかけるのよ! 彼が飛行機を落とす方に私は賭けているのよ!?」 「あんたはバカですか!」  セールスマンの叫びとともに他の乗客も私に向けてブーイングをした。私は少し冷静に考えて彼らの言い分を理解した。私が男の子の拳銃を取り上げたということは、つまり、もう飛行機が落ちなくて済むということだった。  私は銃口をセールスマンから男の子へと向けなおした。セールスマンはほっとしたような顔をした。 「ごめんなさいね、さっきはあなたを応援したのに」  私は男の子に謝った。彼は向けられている銃口を気にする様子もなく静かに首を横に振った。 「別にいいんです」彼は肩をすくめると、上着の内側に右手を入れた。「拳銃ならもう一丁、持ってますから」  機内に緊張が張り詰めた。乗客たちの表情が強張り、声を出すものも、身動きするものもいなかった。男の子の表情だけ妙に余裕があった。彼は上着とセーターの間に右手を差し込んだ状態で、私の目を見つめていた。 「コートの内ポケットに拳銃を差しているんです。今から右手でそれを取り出してあなたを撃ちます」  上着の陰になって彼の右手は見えなかった。 「動かないで。右手はそのままにしているのよ」 「撃たれたくなかったら、先に撃つことです……」  彼はそう言うと口元に笑みを浮かべた。安らいだ静かな表情だった。 「冬の夜、僕が勉強をしていると、いつのまにか窓の外が明るくなっていました。窓を開けると、きんと冷えた空気が息で濁った室内に入ってきて僕の息は白く染まるんです。いつのまにか訪れていた朝の景色は霜できらきらと輝いていました。勉強をがんばったなあという気持ちで幸福になりました。僕はその朝が好きでした。人を大勢殺した僕には、もう見ることが許されない美しい光景ですけれど……」  彼はそう言うと右手を上着の内側から出して私に向けた。私は咄嗟に引き金を引いた。手のひらに重い塊をぶつけられたような衝撃を受けた。空気の爆発したような風が頬にあたった。機内にいた人間はみんな伏せた。男の子は通路に倒れ、彼の右手には万年筆が握られていた。 [#ここから6字下げ] 5 [#ここで字下げ終わり]  空が夕焼けにそまるころ、私は彼の子供を膝にのせて彼の部屋でテレビを見ていた。彼の子供は女の子でまだ幼稚園に通っていた。彼女は一人で家にいた。彼女は人見知りせず私になついた。私の膝の上に座ってテレビのニュースをしばらく眺めていたが、少し前から彼女は眠っていた。  部屋の隅に置かれたテレビのブラウン管には、今日の昼ごろに起きたハイジャック事件に関するニュースが流されていた。飛行機の着陸直後の映像や乗客が飛行機を降りて運ばれていく映像、警察の人間が機内に入る映像などが次々と切り替わった。飛行機から出て保護される乗客たちの中に、一瞬、あのセールスマンや私の顔が見えた。 「最悪のフライトだったね」飛行機を降りた直後にセールスマンの言った言葉を思い出した。彼は両足で揺らぎのない確かな地面を確認していた。「もうしばらくは死ぬことなんて考えたくないな」  私は救急車に乗せられて病院に運ばれた。わけのわからない液体を腕に注射したため、一応、検査する必要があった。私のほかにも失神していた乗客たちが救急車で病院に運ばれた。  夢でも見ているのか、私の膝の上で眠っている彼の子供が身動きした。寝顔を私の胸に押し付けて彼女は幸福そうな表情をしていた。彼の部屋はマンションの三階にあった。南側の窓から日差しが入り室内は明るかった。窓際に花の鉢が置かれ、それを眺めていると玄関扉の開かれる音が聞こえてきた。 「ただいま」  高校時代に聞いて、今もまだ私の記憶にある男の声だった。廊下を踏む足の音が聞こえ、居間の扉が開かれた。彼は部屋の入り口で足を止め、娘を膝に乗せて床に座っている私を見つけた。私たちの視線があった。彼の顔は記憶の中のものとさほど変わっていなかった。彼が昔、私にどのようなひどいことをしたのか詳細は省くものの、その傷跡はまだ私の心にも、体にも、しっかりと残っていた。 「おかえりなさい」  私はそう言った。彼は一瞬、訝《いぶか》るように私を見たが、私がだれなのかをすぐに覚ったらしく後ずさりをした。 「なんでお前がここに……」 「調べてもらったの」  私は答えながら、傍らに置いていた包丁をつかんだ。 「それよりも、ここへ来るまでが大変だったのよ。ハイジャックされたり、拳銃を撃ったり……」 「妻はどこだ……」  彼は立ちすくみ私の持つ包丁を見下ろしたまま聞いた。 「買い物みたいよ。お子さんを部屋に残して」  膝の上で眠っている彼の娘の首筋に私は包丁の刃を当てた。そのときテレビのスピーカーから私の名前が読み上げられた。画面を振り返ると、私の顔写真が大きく映し出されていた。救出された乗客の一人である私が病院を抜け出して行方不明であるとテレビは語った。警察が私から話を聞くために病室の外にいたことを思い出した。私はトイレへ行くと言い残してそのまま病院を抜け出した。彼はテレビ画面に映っている私の写真と、包丁を持っている私とを見比べていた。 「いったい俺の身に何が起こっているんだ?」 「唐突な展開、そして理不尽な不幸よ。ねえ、自分の身にそういうことが起こるって、あなたは考えたことがある?」 「お願いだ、娘を離してくれ」  彼は床に膝をついて、高校時代に仲間たちと行なった私へのひどいことを泣いて謝った。部屋の中には彼のすすり泣く声だけが響いた。やがて玄関の扉が開いて彼の奥さんが買い物から戻ってきた。彼女は買い物袋をさげて廊下を歩いてきたが居間の入り口で立ち止まった。膝をついている彼と包丁を持っている私を見て何が起こっているのかわからないという顔をしていた。女の子はあいかわらず私の胸に寝顔を押し付けていた。長い時間、だれも喋らず身動きもしなかった。私は女の子の首に包丁をあてたままニュースを眺めていた。  やがてテレビ画面にあの男の子の顔が映し出された。ハイジャックをしてスチュワーデスや乗客を殺害した犯人として彼のことは説明されていた。彼が私に撃たれて死ぬ前に話したことを思い出した。霜に覆われた綺麗な朝の話だった。私は女の子の首筋から包丁を離して立ち上がった。 「一日のうちに二人も殺せないわ……」  私は女の子を膝から下ろして玄関に向かった。居間の入り口で彼やその奥さんとすれ違った。彼は振り返らなかったが、彼の奥さんは困惑した瞳で私を見ていた。  私は彼の部屋を後にしてマンションを出た。太陽が沈みかけて空は赤色だった。道行く人にぶつかりながら私は走った。どこに向かって走っているのか自分でもわからなかったがとにかく走った。 [#改ページ] 初出 カザリとヨーコ   「小説すばる」一九九八年一二月号 血液を探せ!    「小説すばる」一九九九年一二月号 陽だまりの詩《シ》    「小説すばる」二〇〇二年六月号 SO-far そ・ふぁー 「小説すばる」二〇〇一年七月号 冷たい森の白い家  「小説すばる」二〇〇二年二月号 Closet       「青春と読書」二〇〇一年一月号〜三月号 神の言葉      「小説すばる」二〇〇一年二月号 ZOO         異形コレクション『キネマ・キネマ』井上雅彦監修(光文社文庫) SEVEN ROOMS     『ミステリ・アンソロジー㈼ 殺人鬼の放課後』(角川スニーカー文庫) 落ちる飛行機の中で 書き下ろし [#改ページ] 底本 単行本 集英社刊 二〇〇三年六月三〇日 第一刷