[#表紙(表紙.jpg)] フォックスの死劇 霞 流一 目 次  第1章 映《うつ》し世《よ》  第2章 幻術士  第3章 赤い神  第4章 化かし   参考文献   霞流一・作品リスト [#改ページ]   祝「大アマゾンの半魚人」生誕50年   祝 キツネうどん生誕111年 [#改ページ]   第1章 映《うつ》し世《よ》      1  四階に着くまでに、エレベーターの中で、俺はキツネうどんをたいらげた。このエレベーターの速度はカタツムリ並みだ。だから、乗る時には退屈しのぎの対策を講じなければならない。それで、隣ビルの立ち食い蕎麦《そば》屋から丼《どんぶり》ごと持ち出して、エレベーター内で遅い昼飯を取ったというわけだ。もう四時近くだから早い夕飯というべきか。  汁をすすりきるのとほぼ同時に、四階に到着した。扉が長屋の雨戸のようにガタガタつっかえながら開く。  若い男がひとり立っていた。服装からするとデパートの配送係らしい。今日は十二月七日、世間はもう歳暮の季節だ。男はエレベーターの中の俺を見ると、目と口を丸くして、埴輪《はにわ》のような顔になった。そして、すり足で二歩ほど後ずさりする。  俺は空になった丼を男の方に突き出した。どうせ、地階に降りるなら、ついでに丼を蕎麦屋に返しておいてもらおうと思ったのだ。なんせ相手は配送のプロなんだから。  男は怯《おび》えた目をしてさらに後退する。「ヒッ!」と、小さく悲鳴をあげると、つむじ風のように踵《きびす》を返し、階段を駆《か》け降りて行ってしまった。  恐れるのも無理はない。なんせ、エレベーターの扉が開いたら、中に、うどんをすすっている奴がいたんだから。年末によくいるアブない輩《やから》の類《たぐい》と思われたらしい。  俺はやむなく丼をエレベーターの床の隅に置き、表に出た。帰りがけに蕎麦屋に返さなければならない。もしかして奇特な誰かが返しておいてくれるかもしれない。あるいは風流な誰かが一句よむかもしれない。 「丼が エレベーターガール 暮れ銀座」  銀座のビルとはいえ、寿命が先か震災が先かの古いビル。階段の手摺《てす》りは木製で、手垢《てあか》によってテカテカに磨きこまれている。壁や天井に稲妻の水墨画、これ単なるひび割れである。リノリウムの床はいたるところ凹凸があり、足の裏が刺激され健康によい。  四階を占拠しているオフィスはひとつ。目の前のドアの曇りガラスにその名が明朝体で記されている。「紅白《こうはく》探偵社」。なんべん見ても能天気な名前だ。  俺はドアを開けて、顔を覗《のぞ》かせる。  暖房がよく効いていた。  受付嬢の笹西加代子《ささにしかよこ》は相変わらず若いなりをしている。頭の左右から、リボンでくくった髪をたらし、白いレースのついた赤いブラウスというアルプスの少女ハイジのようなファッションだった。しかし、二の腕に見えるのは大きな種痘《しゆとう》の跡。三十過ぎであることを遠山桜のようにはっきりと告げていた。  加代子は広辞苑《こうじえん》ほどのデパートの包みを抱えていた。さっきの配達係が届けたものだろう。彼女はその包みをさまざまな角度から睨《にら》んでから、耳に押し当てると、神妙な表情を浮かべた。  と、突然……  PANG! 炸裂音《さくれつおん》!  キャッ! 包みは加代子の手を離れ、宙に舞う。  落下する包みを俺は右手を差し出して、ダイレクトキャッチ。重量感がある。中身はハムの詰め合せだろう。  炸裂音の正体はクラッカー。鳴らしたのはもちろん俺だ。驚いた加代子が包みを放り投げたのは見ものだった。  クラッカーの色とりどりの細い紙テープが酔っ払いの天女のように舞い降りてきて、加代子の頭にかぶさった。ナニやらメデタイ光景。そのままの姿で彼女はしばらく俺を睨み付ける。  俺はそろそろと手を伸ばし、紙テープを払ってやり、 「ギフトに爆弾なんて、芸能人にでもなった気分だろ」  加代子は歳暮の包みをひったくるようにして取り戻すと、 「一発屋って、駄洒落《だじやれ》でも言いたいの? 冗談きついわよぉ、紅門《くれないもん》さん」  アニメの小動物めいた幼い声で言った。とても三十過ぎの発声とは思えない。  その声が続ける。 「どうして、紅門さん、クラッカーなんて持ち歩いてんのよ?」 「昨晩、ご近所の忘年会があって、それでポケットに入れたまんまだった」 「気楽でいいわね。もう年忘れ」 「君は自分の歳、忘れてる」 「それは紅門さん、あなたの精神年齢」 「いつまでも少年の心を忘れない探偵なのさ」 「ギャラの代わりにお年玉もらいなさい」 「そいつはメデたい、と、ここらで」  俺は手土産の紙袋を渡す。  加代子は中身を確かめ、 「鯛焼《たいや》きね、確かにメデたい、アチッ」  目と口を線にしてニンマリ笑った。そしてすっかり機嫌を直し、茶を入れてくれた。  受付の後ろのフロアは、デスクが十ばかしと、OA機器にロッカー。ごくありふれたオフィスの風景があった。ただ、どんな天気でもブラインドを降ろしている。他人様《ひとさま》の秘密を扱う稼業だからだ。  ほとんどが出払っている時間帯。静かだった。デスクに残っているのは、男が二人ばかし。彼らは鯛焼きを高々と振り、俺に礼を言った。ブラインドの影が檻《おり》の模様を作り、彼らを囲っている。動物園で飼われている人間がエサを与えられた光景というとこか。  俺は、クッションの効かなくなったソファで茶をすすり、鯛焼きを齧《かじ》り、料理雑誌のページをめくる。レシピを二つほどインプットした。タコの唐揚げ丼と豚肉のビール鍋《なべ》。  鯛焼きが尻尾《しつぽ》だけになった頃、パンパンパンと、柏手《かしわで》を打つ音が聞こえた。俺は肩越しに振り返る。  斜め後ろの応接室のドアが半開きになっていて、白髪まじりの中年男がメタルフレームの眼鏡を冷たく光らせ、逆さ二等辺三角形の顔を覗かせていた。 〈紅白探偵社〉の社長、白亀金太郎《しろがめきんたろう》である。俺に向かって、また二度ほど柏手を打ってみせた。「お呼び」の合図らしい。  俺は割烹《かつぽう》の仲居ではないぞ。俺はこの探偵社の特殊部隊だぞ。それもたった一人の。  やけに陽気な雰囲気の依頼人だった。  目尻《めじり》も口元も花見どきの桜のようにすっかりほころんでいる。それが普段の顔らしい。  六十後半くらいの婆さんだった。いや、なんだか金持ちらしい優雅さを漂わせているので、丁寧語の接頭辞「オ」を添えてオババとでも呼んでやることにしよう。  たいてい、探偵事務所を訪れる時には、なるべく世間の目にふれたくないと思うものである。自然と服装も地味になる。背を丸め、顔もうつむける。目の前の依頼人に限って、その常識は当てはまらなかった。  オババは、赤みの強い鮮やかな紫のワンピースに身を包んでいた。白壁だけの殺風景な部屋では神々しいほどである。背筋もピンと伸びていて、顔も晴れ晴れとしている。探偵事務所ではなく、歌舞伎座あたりを訪れる風体だ。ソファでは、コートに化けた銀ギツネが横たわっていた。  俺に向かって、オババはまっすぐに微笑を投げかけてきた。笑い皺《じわ》がアコーディオンになって、陽気な音楽でも奏でそうだった。  俺は名刺を差し出して名乗りをあげる。 「姓は紅門、名は福助《ふくすけ》です」 「はー、ご立派な名前。水戸|光圀《みつくに》公みたいで。せっかくだから、紅門《こうもん》サマと呼ばせてもらおうかしら」  オババは俺の名刺に向かって、数回、頭を下げてみせた。まるで、副将軍殿の印籠《いんろう》を拝むかのように。  白亀は法廷弁護士のようなメリハリの利いた口調で言った。 「クモスケはうちと契約してるんです」クモスケとは、紅門福助の省略形。水戸様から一気にランクを下げやがった。「いまはフリーですが、もとはうちの社員です。浮気調査に代表されるような男女のドロドロに関わる仕事が嫌になったらしくて飛び出してしまったんですよ。他の社員の手前、こいつだけその手の仕事から外してやることは僕にもできませんからね。腕はいいんですよ。だから契約している。アフリカの呪術《じゆじゆつ》人形みたいな面妖《めんよう》な顔だけど」  呪術人形は余計だろうが。  俺は二度ばかし女と暮らし、二度とも結婚には至らなかった。そして、女房もどきは二人とも、他の男のもとへ去っていった。その手の調査が嫌にならないのがおかしい。 「大高真純《おおたかますみ》と申します」  オババが名乗った。後頭部のあたりから出てくる、かん高く、外れた声。テンポも平安貴族のようにスローだった。  力が抜ける。俺はソファに腰を落とした。  大高オババは俺に向けていた目を一瞬大きくした。すうっと笑顔を近付けてくると、 「あっ、クモスケ、いえ 紅門サマ、あんた、テレビに出てませんでした?」  下から覗き込むようにして、言った。  驚いた。初めて当てられた。 「どこで見ました?」  俺は逆にきいた。 「ニュース。事件の現場で記事を読んでませんでした?」 「正解。よく覚えてましたね。もう、何年も前になるのに。人に言われたのは初めてだ」  俺は三十までテレビ局の報道記者をしていた。  白亀も口を「ほお」と丸めて、 「大高さん、よく見てましたね。クモスケが勤めていたのは〈テレビ東都〉ですよ。最低の平均視聴率を誇る、あの」  確かに事実だが、なにも強調することはあるまい。  白亀とは、その頃からの付き合いである。知り合ったのは警視庁。白亀は捜査一課にいた。粘り腰の捜査で知られ、「亀は万年」と陰で恐れられていた。痩身《そうしん》で紳士的な物腰、精神科医のような雰囲気の白亀から、それを当てる人はないだろう。  俺は警視庁の記者クラブに詰めるのが日常だった。いわゆる夜討ち朝駆けで、白亀宅を訪れることも多かった。飯を食わしてもらったこともある。水をかけられたことも。  八年前、白亀は四十で刑事を辞め、探偵事務所を開設した。不惑の決意とでもいうのだろう。その時、片棒をかつがされたのが三十の俺だった。ちょうど、俺は報道番組で或《あ》るトラブルを起こし、左遷が決まりかけていたところだった。  今でこそ、この探偵事務所は大所帯に成長したが、創立当時は社長と社員の二人しかいなかった。事務所のネーミングを決めたのは社長の白亀である。二人の名前から一文字ずつ取って、「紅白探偵社」となった。めでたく事件を解決、というイメージで探偵稼業にふさわしい名だ、と白亀だけが自画自賛していた。  そんな安直なネーミングのところへ、深刻な悩みを抱えた人間が果たして来るのだろうかと俺は疑っていた。しかし、亀の甲より年の功なのか、白亀の楽観的展望の方が当たってしまった。  創業者が石橋氏なので〈ブリヂストン〉、同じく鳥井氏の名に商品名の〈赤玉〉つまり太陽〈サン〉を付けて〈サントリー〉、躍進する企業の名とはそういうものだ、と白亀は自慢たらたらと何度も解説したものだ。 「テレビの件を覚えていてくれたのも何かの縁だ。クモスケ、君の担当で決まりだ」  白亀は一方的に仕事の話をふってきた。 「どんな調査?」  俺はきいた。 「君が出動すべき特殊なケースだ」  勝手に決め付けてから、 「大高さん、二度手間ですいませんが、さきほど僕にしてくださった話を、クモスケに聞かせてくれます?」  二度、同じ話をさせるのは、白亀のいつものテクだった。依頼人の嘘を見抜くためである。  オババは相変わらず微笑を張り付けたまま大きくうなずいた。 「私の主人のことです。去年、逝ってしまってるんで、浮気調査ではありませんから、どうか、ご安心くださいね、紅門サマ」  回転の遅い蓄音機で童謡を聞かされているようだった。その調子でオババは本題に入った。 「実はですね、世のなか不思議なこともあるもので、私の主人のお墓が散歩したんです。それも、よりによって、他人様の家の屋根の上にまで」  聞き逃すところだった。俺は背筋を伸ばして、 「何です、それ? お墓が散歩したって? 屋根の上に? それって、つまり、墓石が本来あるべき場所を離れた?」 「ええ、正確に言うと墓石ではなく、木の柱みたいな角塔婆という仮のものです」 「角塔婆がどっかの屋根の上に移動した?」 「ええ、正確に言うと屋根というより屋上、建築中のカラオケボックスの屋上に立っていたんです」  頭の中でカラカラと風車が回っているような感覚だった。俺はようやく次の言葉を探り出した。 「で、大高さんのご主人は生前は何をしていた方で?」 「映画の監督です。大高|誠二《せいじ》、ご存じですか?」  名は聞いたことがある。作品は知らない。俺はどちらかというと洋画ファンなのだ。 「失礼ですが、どんな映画を?」 「怪談なんかを」  いかにもアヤしい展開になってきた。なるほど、特殊なケース、俺にうってつけの仕事らしい。      2  白亀が、映画雑誌の分厚い別冊をテーブルに広げてみせた。〈日本映画監督名鑑〉。  俺は、「大高誠二」の項にざっと目を通した。  オババがぽつぽつと説明を加える。  大高誠二。昭和八年、青森県に生まれる。  次男。実家は観光地で大きな旅館を営んでいた。その旅館もレジャー産業の躍進に伴い今では数棟のホテルに発展したらしい。  お育ちはかなりよろしいようだ。  昭和二十六年、地元の高校を卒業すると上京し、映画監督・牧枝志郎《まきえだしろう》に師事する。その関係で、助監督として、〈大光《だいこう》映画〉と契約した。  昭和三十五年、監督に昇進。二十七歳の若さである。才能があったらしい。デビュー作は『手鎖船幽霊』。以後、怪談映画を中心に数々の作品を手懸ける。  主な作品。『飛天さらし首』『鬼火|洞窟《どうくつ》』『夜叉《やしや》の早駕籠《はやかご》』『怪談・血槍滝《ちやりだき》』『どくろ女郎伝』『化け蜘蛛《ぐも》さかしま御殿』『怪談・血だまり沼』『赤髪鬼と闇|検校《けんぎよう》』『黄泉《よみ》の花むくろ』『鵺《ぬえ》と三日月』『血のり雨 たたり雪』『怪談・血泡池』『鬼門からくり井戸』『むせぶ狐火』『もののけ破戒僧』など。  この本では大高誠二はまだ生きていることになっていた。享年が記されていない。一年前、と未亡人が言っていたので、五十八歳という計算になる。早い死といえよう。膵臓癌《すいぞうがん》で数年にわたって入退院を繰り返していたらしい。  未亡人のオババはどう見ても六十代後半だから、十歳近くも姉さん女房だったようだ。  それにしても、大高誠二はまだ撮れたはずだ。確か、あの黒澤明は八十過ぎだと何かで読んだ記憶がある。  写真で見ても、大高誠二の容貌《ようぼう》はインパクトが強かった。煮染《にし》めたふうに濃い肌で、モノクロ写真では、唇の輪郭が溶けてしまっていた。眉毛《まゆげ》もさだかではない。目玉だけが浮き上がっていた。  そして、最大の特色は頭の毛をすっかり剃《そ》り上げて、丸坊主にしていること。  全体に肌の艶《つや》がよく、照明の具合で光沢さえ出ている。テレビン油で磨きこんだ砲弾を思わせた。 「弁慶か、平清盛か、ストロング金剛か」  俺が感想を呟《つぶや》くと、 「入道、って呼ばれてましたのよ」  オババが返した。 「入道、とはね……そいつはまたずいぶんと単刀直入なネーミング」 「本人が言い出しっぺですから、仕方ありません」  俺は写真を指差して、 「ずいぶんと色黒だったみたいですね。いかにも入道らしい絶倫の雰囲気を漂わせてる」 「それ、黒ではなくって、赤なんです。モノクロ写真だから解らないでしょうけど。主人は普段はまるで女の人のように色白なんですけど、撮影現場に入ると気分が高揚して、全身が真っ赤に染まるんですよ」 「茹《ゆ》でダコみたいなやっちゃ。じゃ、この写真は赤い時に撮ったんだ。それにしても凄《すご》い赤だったんでしょうね。唇なんか、ほら、消えてしまってる。で、ご主人が自ら入道を名乗ったのは何か理由が?」 「東北のお化け、なんです」  脈絡のつかぬことを言う婆さんだ。俺は眉を思いっきりひそめた。  オババは女子高生のように、もちろんセーラー服は着てほしくないが、ひとりクスクス笑いながら、 「主人は青森で育ちましたでしょ。小さい頃に、乳母のかたか、誰か周りの年寄りに、そこに伝わるお化けの話を聞かされたんだそうです」 「入道が出てくる? その昔話に?」 「ええ、『ミコシ入道』。見る、越える、と書いて、『見越し入道』。  夜中、坂道を登っていると、出てくるお化けだそうです。最初は小坊主のような姿で、行く手に立ちはだかるんです。おや、って思っているうちに、だんだん大きくなっていって、山くらいにもなる。それにつられてずっと見上げていくと、ついに見ている人は後ろへひっくり返ってしまうんです。  ただ、それだけの話なんですけど、子供の頃、夜の山道なんかを一人で歩いている時に思い出すとコワかったんでしょうね」 「その話がすこぶる気に入ってて、ご主人は入道のように頭を剃った?」 「というのは表向き。本当は頭がかなり薄くなってきてたんです。三十代の後半の頃でした。しかも、つむじを中心点として、二重丸の形で脱毛していったんですよ」 「まるでミステリーサークルだ」 「それは、イギリスの畑に起こる怪現象ですね。そう、まさにそんな形で禿《は》げてきちゃったから、みっともなくて、なら、いっそのこと丸めてしまえって。入道を名乗ったのは、そうした事情の照れ隠しということなんですよ。以来、主人はよく人をつかまえては、ペタンペタンと坊主頭を叩《たた》きながら、ミコシ入道の話をして、つるつる頭の表向きの由来について一席ぶってました。だから、他人様《ひとさま》からも入道って呼ばれるのは満更でもなかったんでしょう」  オババは肩を上げ下げして、フウ、と息をついた。長ゼリフで疲れたらしい。こんなところで倒れられたらかなわない。老人とは存在そのものがサスペンスである。  白亀は不安げな顔で腕組みをしていた。  俺は話を本筋に戻した。 「そのご主人のお墓がカラオケボックスの屋上に引っ越した」 「はい。その件でしたね」オババは他人事のように言った。「先月、十一月の十六日でした。調布の〈富蓮寺《ふれんじ》〉の住職さんが電話で事件を知らせてくれました。発見したのは朝の五時頃だそうです。前の晩は何も異状はなかったんだから、犯行は深夜から未明にかけてでしょう。もう少ししたら一周忌だというのに縁起でもない、と住職さんは随分と恐縮されてましたわ」 「一周忌の前、それで、墓石はまだ建てていなかったんですね?」 「ええ、仮のもの、角塔婆です」 「ご主人の墓とカラオケボックスはどれくらいの距離なんです?」 「そうですね、およそ五十メートルは離れていたと思います。二階建てのカラオケボックスで、〈富蓮寺〉の墓地に隣接して造られています」 「えっ、墓地の隣、ホトケもおちおち寝てられないよな。〈富蓮寺〉の住職はオカンムリでしょ」 「いえ、寺の土地ですから」 「ナニッ、曲目にお経でも入ってんのか」 「マイクとセットで木魚も」 「ほお」  年寄りにしては洒落《しやれ》が解るらしい。俺は話が脱線する前に、 「で、角塔婆は五十メートルもの距離を移動して、建築中のカラオケボックスの屋上に立っていたわけですね」 「屋上のコンクリートは敷かれたばかりで、まだ乾いてなかったんです。それで、角塔婆は突き刺さるようにして立ってました」 「その屋上はどれくらいの広さ?」 「だいたい二十メートル四方はありましたっけ。角塔婆が立っていたのは真ん中のあたりでした」 「生乾きの柔らかいコンクリートなら犯人の足跡が残ってたでしょ?」 「いいえ」  オババはきっぱりと否定した。  俺は身を乗り出し、眉をひそめ、 「そいつはおかしい。じゃ、どうやって、犯人は角塔婆を屋上に立てたんだ?」 「不思議ですね」 「角塔婆ってのはけっこう重いんだよな」 「ええ、家屋の柱くらいの太さはあって、二メートルほどの背丈です」 「そんなのを二十メートル四方もある屋上の真ん中に、どうやったら足跡もつけないで、おっ立てることができるんだ? それこそ、入道どのの幽霊が自ら角塔婆をかついでいったとか……、幽霊なら足がないもんな」 「不思議ですね。まだ、不思議があるんですけど、言っていいものですかね」  舞子はんのような口調で語り、首を横に傾ける。いまに語尾に「……どすえ」なぞと付けるかもしれない。  俺は苛立《いらだ》ちを抑え、 「いいから、とっとと言いなよ」 「ええ、不思議なことに、問題の角塔婆ですけど、てっぺんに鬘《かつら》が乗っていたんです。釘《くぎ》で留められて」 「…………本当に髪が生えていたんじゃないだけ安心したよ。で、どんな鬘?」 「女性用の長くて黒い髪、いわゆる」  ロングヘヤとオババは発音した。 「その鬘と角塔婆は?」 「処分されました。主人の墓にはちゃんと新しい角塔婆が立ってます」 「髪のはえてないやつ。入道と同じ」  オババは、天気の次に健康の話でもするようなのどかな口調で、 「それから、主人に関わることで奇妙な事件がもう一つ……」  俺はもう驚かない。黙って手のひらを向けて、「どうぞ」と勧める。  オババは丁重に会釈ひとつして、 「主人の作品の予告編フィルムが盗難にあったんです」 「それはご自宅で?」 「いえ、主人の仕事仲間の事務所でです。壇《だん》さんという方で、映画の製作プロダクションを経営してます。そこが盗難にあって、企画書や台本、ビデオなんかの類が持っていかれて、その中に、私の貸していたフィルムも混じっていたんです」 「業界関係者の犯行ですか?」 「それか、悪質な映画マニアの。賊はまだ捕まってません。よりによって、十二月一日で映画の日、壇さんは怒ってました」  映画料金半額デイである。 「どうして、映画の予告編フィルムを貸してたんです?」  俺は素朴な質問をした。  オババは目をつむった。頭の中で話を整理しているらしい。そのまま眠ったか、死んだのかと思われる頃、ようやく目を開け、しきりにまばたきをしながら、 「去年、主人は、息を引き取る間際に妙なことを口走ったんですよ。聞き取りにくかったんですけど、確か、『ハモノハラ』と言ってました。そういうふうに聞こえたんです。それが最期の言葉でした」 「ハモノハラ?」 「ええ、『ハモノハラ』です。どういう意味なのかは見当もつきません。この主人の遺した言葉に、壇さんはいたく興味を持ったみたいで、まあ、謎解きに取り組むようになったというわけなんです。  北宮《きたみや》さんや伊戸《いど》さん、やはり主人と親しくしてた仕事仲間ですけど、その人たちが壇さんの謎解きの相談相手です」 「まるで、映画『市民ケーン』みたいだな。あれは確か、新聞王・ケーンが死に際に遺した『バラのつぼみ』という言葉の謎を追うんだっけ」 「オーソン・ウェルズの監督・主演の名作ですわね。  で、こちらの『ハモノハラ』の謎解きですけど、その手掛かりが、十年くらい前に主人が監督した『鵺《ぬえ》と三日月』という映画の予告編フィルムだそうです。そうした経緯については、なんか、私は蚊帳《かや》の外なんですよ。詳しいことは確証をつかんだ段階で報告します、とか言って、壇さんたち皆さんは勿体《もつたい》ぶって教えてくれないんですからね」  不服そうに口を尖《とが》らせるが、微笑は健在だった。火葬場で骨になっても笑っているのだろう。  俺はきいた。 「予告編フィルムはご自宅に保存されてたんですか?」 「ええ、主人は気に入っている作品の予告編は保管しておく習慣でした。そのことを、さきほども話に出た北宮さんが思い出したんです。それで、壇さんと私とで物置部屋を探して、発見しました。  そのフィルムが、さきほど申しましたように、壇さんの会社で盗難にあったわけです。  なんだか不安なんです。もうすぐ一周忌なのに、主人に関わることで不気味な出来事が続けざまに起こるもんですから……。何かよからぬことが起こるんじゃないかと不安になって……それでここをお訪ねしたわけなんです」  春のうららの隅田川とでもたとえたくなるような、のほほんとした表情からは、不安の色はどこにも見あたらない。  社長の白亀が咳払《せきばら》いひとつ、満を持して口を挟みこむ。 「事情は解りました。それら奇妙な事件の調査、うちの特捜探偵、この紅門に当たらせます。お任せ下さい」  まるで自分の手柄のように言う。猛獣使いでも気取っているつもりか。  俺は、白亀を横目で睨《にら》みつつ、オババに向かって、 「ベストを尽くします。結果は、うちの社長であるこの白亀が全責任を負います。ご安心ください」 「紅門君は興味本位で生きてますから」 「白亀社長は見栄で生きてますから」  白亀は鼻を鳴らし、唇を歪《ゆが》めて苦笑した。  オババは、男二人の顔に視線を数往復させると、ヒャラヒャラヒャラと祭りの笛のような声音でしばらく笑い続けた。  ようやくそれが止むと、 「伊達《だて》や粋狂って言いますけど、まるで、あんたらのことですわね。伊達な社長さんと、粋狂な探偵さん。気に入りました。お二人の名の通り、紅白メデタク解決してもらいましょ!」  俺と白亀は横目で睨み合いながら、頷《うなず》き合った。 「出来ましたら、主人の一周忌の十二月二十六日までにお願いします」  オババはおちょぼ口でちゃっかりとタイムリミットを言い添えた。 「了解しました」  白亀は、俺の同意を待たずに素早く返答した。  俺はもう一度、横目で白亀を睨んでやったが、あっさり無視された。  十二月二十六日まであと十九日か。ま、どうにかなるだろう。いざとなれば、責任を取るのは社長の白亀なのだ。  俺はさっそく実務に移る。話の中に出てきた三人の男、壇、北宮、伊戸、それぞれのフルネームと連絡先を訊《たず》ねた。  オババは答えると、 「この三人には、私立探偵さんがいろいろ聞きに来るかもしれないからって、私の方から既に言ってありますので。どうぞ、遠慮なさらずに」  ふつうは、探偵に依頼したことなど世間には隠すものだ。  ふつうじゃない依頼人に別れを告げ、俺は席を立った。ふつうじゃない依頼人は膝《ひざ》につきそうなほど丁重に頭を下げて、 「うまく解決してくださったら、一生、恩にきます」 「一生って、あと何年?」  つい言ってしまう、俺の出来心。  しかし、オババは両手を前にたらしてみせ幽霊のポーズで返してきた。なかなか洒落の解る老人ではないか。  探偵社を去るべくドアを開け、半身を外に出したところで、  PANG! 炸裂音《さくれつおん》!  思わず背後を振り返った。  受付嬢の加代子が鯛焼《たいや》きの紙袋を膨らませて、叩《たた》き割ったのだ。 「おめでとう、仕事にありつけて」  おおきなお世話だ。ここは職安か。ドアを閉める。  エレベーターの中の丼《どんぶり》は哀れにも割れていた。せちがらい世の中だ、と社会のせいにする俺。  銀座は暮れかかっていた。空に代わって、店々の灯《あか》りが通りを照らしている。板場見習いの白い姿と、ウェイターの黒い姿が往来に目立つ。ネオンの連なりが街の輪郭を決めていた。  隣ビルの立ち食い蕎麦《そば》屋の親父に丼を返した。もちろん割れたやつではない。探偵社の階の給湯室でどこかのラーメン屋の丼を、運よく俺は見つけたのである。誰かが出前でとったのだろう。割れた丼よりいい品なので、蕎麦屋の親父は喜んでくれた。ああ、よいことをすると気持ちがいい。      3  さっそく翌日から、久々の仕事に取り掛かる。まずは、麻布十番の〈アオイスタジオ〉を訪れた。  重く厚い扉を押し開ける。防音扉らしい。薄暗闇の中に目を走らせた。正面のスクリーンでは数字の映像が、5、4、3とカウントダウンを告げている。それらの数字は右下が欠けていた。何か影が邪魔をしているのだ。 「馬鹿、どけ!」  後ろから罵声《ばせい》が聞こえた。  どうやら、馬鹿というのは俺らしい。それと、邪魔な影の正体も俺らしい。やむなく、その場で身をかがめた。そして、俺は片手を上に伸ばし、スクリーンにキツネの影絵を映しだす。キツネは頭を数回さげた。謝罪を告げたつもりだったのだが、やはり、 「馬鹿、ひっこめ!」  とまたもやヒンシュクを買ってしまった。どうも洒落《しやれ》の解る連中ではないらしい。  スクリーンでは映画らしきものが展開している。軽快な音楽に乗って、次々とカットが変わり、話の脈絡がまったくつかめない。テレビでよく見掛ける俳優たちが、時代設定は現代なのに、忍法のようなアクションを披露していた。わけが解らん。二分ほどで映像は消え、スクリーンは真っ白になった。  明かりが点《つ》いた。  十×五メートルくらいのスタジオだった。  後方の映写室の窓の下に、音響のオペレーション・システムが設置されている。男が二人がかりで何十ものレバーをいじっていた。  部屋の中央にソファがあり、三人の男が座っていた。彼らは一様に俺を睨んでいた。  俺は右手を元気よく挙げて、 「ヨッ!」  植木等ばりに元気よく挨拶《あいさつ》を投げかけた。  冷ややかな沈黙の後、ソファの一番手前の男がやおら立ち上がった。 「困りますよ。キツネの影絵なんか」 「すいません。犬ならどうです?」 「そういう問題じゃないでしょ」  やはり洒落が通じない奴だ。そして、俺を馬鹿と呼んだ声だった。その声が、 「ところで、あなたは?」 「馬鹿ではありません。探偵です」 「まさか……電話をくれた紅門さん?」 「まさか、です」  男は困惑した表情で俺をしげしげと見た。  彼が、助監督の北宮|兼彦《かねひこ》だった。ポケットのように少し膨らんで垂れた頬が特徴的で、少年の面影があった。きらきらした目の奥がどこまでも深く、澄み切った湖の恐さがあった。永遠の純真な映画少年、といったところか。それでも、オババの話によれば、四十くらいのはずだ。  今朝、北宮の自宅に電話を入れると、昼頃なら会えると言われた。指定された場所が〈アオイスタジオ〉。フィルムやビデオの編集作業をするところらしい。  この地下二階のBルームでは、映画の予告編のダビングが行なわれていた。編集したフィルムに音楽やセリフ、効果音を入れる工程である。北宮がそう説明してくれた。俺を警戒しているようで、ぎこちない口調だった。  音響の調整にしばらく時間がかかるらしくその間は北宮は手隙になるので、話をすることになった。なるほど、後方のサウンド・オペレーション・システムの席ではミキサー係が録音テープを切ったりつないだりしていた。  俺は、別にすすめられなかったが、ソファに腰掛けた。  北宮は心なしか座る位置をずらして隣の俺から離れると、煙草に火をつけた。  俺はその煙をくゆらす横顔に、 「初めて知りましたよ。予告編が助監督の仕事だとは」  ふられた話題が嬉《うれ》しかったのか、北宮は、硬い表情を少し緩め、ミッキーマウスのように頬に微笑をためた。 「昔はね、助監督は予告編で能力を試されたんですよ。それで監督になるチャンスをつかむこともありました。今はそんなことは夢のまた夢ですけどね。  最近は、予告編をつくる専門の業者がいるんですよ。ほとんどそっちでやってます」 「この作品は珍しい例?」 「専門の業者を頼むと演出料がかかるんですよ。今回は小作品で、宣伝予算も限られてるんでしょう。そこで僕の登場、というわけ」  北宮は「なっ」と、隣の若い男二人に声を投げた。宣伝マンらしき二人は揃《そろ》って故・林家三平ふうに頭をかいてみせた。 「これ、どういう映画なんです?」  俺はきいた。  北宮は、はにかむように鼻先で笑い、 「占い師が妖術《ようじゆつ》を競い、決闘する話で、題名は『占いの流れ星』。関わりたくなかった」  なるほど、忍法の謎が解けた。  俺は本題に入った。 「予告編フィルムが盗まれた、と大高さんに伺いました。そのフィルムというのは、大高誠二監督が最期に言い残した妙な言葉の謎を解くための手掛かりだとか」 「例の『ハモノハラ』の件ですね」 「ええ」 「手掛かりなのかどうか確証はありませんけどね。こういう事なんです。『ハモノハラ』の『ハモ』は魚のハモを指しているのでは、と仮定したことから出発した推理です」 「祇園《ぎおん》祭の時に食べるという、あのハモですね。豊かな魚って書く、あの鱧《はも》」 「そう。それで、謎解きの首謀者の壇さんが大高監督の馴染《なじ》みの小料理屋にきいてみました。監督がハモを食べて喜ぶなり怒るなりしたような、何か印象的なエピソードはなかったか、とね。すると、そこの女将《おかみ》が、大高監督が絹塚美雪《きぬづかみゆき》という若手女優を連れてきたことを思い出したんです。監督は特にハモが好物というわけでもなかったのに、その日、様々なハモ料理を食べていたので、女将は強く記憶に残ったんだそうです。監督よりも、むしろ絹塚美雪の方の好みだったのかもしれませんね。なんであれ、監督はえらく上機嫌でハモに舌鼓をうってたそうなんです。  もちろん、腹の部分の身も食べていたそうですが、でも、はたして『ハモノハラ』がそのことを指し示しているのか……。かりにそうだとしても、いったい何を意味するのかは相変わらず解りません。『ハモノハラ』にどんなメッセージがこめられているのか、まだ謎のまんまです」 「大高監督が若い女優さんを連れていた、それで、謎解きのプロセスを皆さんは大高夫人に詳しく話そうとしなかった?」 「……まあ、そういうことです」北宮は苦笑した。「でも、誤解ないように。監督は女優であれ、男優であれ、将来性ありと自分が見込んだ役者にご馳走《ちそう》するのが趣味だったに過ぎないんですから」  俺は絹塚美雪という名に記憶がなかった。洋画ファンなのだ。 「その女優さんは、今は?」 「いません。亡くなりました」北宮は目を逸らしてこたえた。「十二、三年になると思います」 「病気で?」 「事故でした。車を運転してて、崖《がけ》から落ちたんです」 「若くして亡くなったんですね」 「確か二十三でした。それで、遺作が大高監督の『鵺《ぬえ》と三日月』という作品。しかも途中で」 「撮影中に事故を?」 「撮影現場で、ではないんですけど。泊まりがけのロケ先での出来事でした」 「美雪さんは主役?」 「いえ。でも、三番手くらいでした」 「失礼ですが、北宮さんもロケに」 「いました。大高さんの助監をしてました」 「その作品の予告編が、このあいだ盗難にあったわけか」 「生きている絹塚美雪を撮った最後の映像、いわばラストカットを参考までに観たい、と壇さんが言い出したんです。  でも、そのラストカットは映画の中では使われませんでした。美雪が死んだことによって、映画の筋が所々つながらなくなってしまって、シナリオに変更を加えざるを得なくなったんです。その影響で、美雪のラストカットは外されることになったというわけです。  使われなかったカットで、しかも十年以上も前のフィルムですから、現像所にも社のプリントセンターにも残ってませんでした。ただ、予告編にはそのラストカットが使われていたんです」 「そんなことあるんですか。公開される映画の方には使われてないのに」 「よくあることです。決して珍しいことではありません。  それで、問題の予告編フィルムですが、これもまた残ってませんでした。昔の小作品、プログラムピクチュアなんで、いちいち、予告編フィルムは保存していないんだそうです。  あと、可能性があるとすれば、大高監督が個人的に集めていた予告編フィルム、ということに気付きました。監督は気に入った自作品の予告編を三十五ミリから十六ミリフィルムに落として、自宅に保存していたはずなんです。それで、僕は物置を探してみたらと提案しました」 「そしたら、的中したわけか。もしかして、その予告編は昔、北宮さんが作った?」  北宮は照れたらしく下唇を噛《か》んで、うなずいた。純情な奴だ。 「で、発掘されたフィルムから、『ハモノハラ』を解く手掛かりは見つかった?」 「いえ、今のとこ、特に何も」 「じゃあ、別の謎々。大高監督の角塔婆がカラオケボックスの屋上に立っていたという世にも不思議な物語、これについて何か気のついたことあります?」  首をひねりながら、 「ちょっと、不可解すぎて……」 「大高監督が誰かに恨まれていたようなことってありますかね?」  北宮は困惑の表情を浮かべ、鼻の奥で唸《うな》った。口を開けてから、言葉が出てくるまでちょっと間があった。 「映画監督というのは職業であると同時に地位なんですよ。人を押し退けて君臨しなければならない立場です。じゃないと、仕事としての機能も果たせない。  創造的、芸術的な能力はもちろん必要不可欠です。でも、アーティストであるだけじゃ駄目なんです」 「ほお、芸人であるだけじゃダメ」 「……芸人、まあ、そういう言い方も……。で、映画作りというのは、数十名ものスタッフや役者という、専門家たちの総合力によるものです。彼らの研《みが》かれた技の裏には確固たる哲学さえ存在します。そんな哲学者たちを動かし、束ね、かつ、生かしきる、カリスマ性を持たねばならないのが映画監督です」 「ふうん、宗教団体の教祖みたいだな」 「えっ……、まあ、そうとも……」  北宮は言いよどんでから、 「それと、映画では億単位の莫大《ばくだい》な金が動きます。そのため、様々な立場の関係者と称する輩《やから》たちが口を出してきます。監督が自分の作りたいように作るには、彼らを説得しなければなりません。時には、権謀術策を弄《ろう》すことも必要になってきます」 「ふうん、まるで政治家さんだね」 「……ええ、似てるといえば」 「芸人で教祖で政治家か、どう考えてもまともな商売じゃないな。親が泣くよ」  北宮は金魚のように口をパクパクさせ、 「……言ってしまえばそういうことで……ええっと、だから、映画監督は、本人の意識とは無関係に人から恨みを買ってしまうことがよくあるんです。大高監督にしても、知らず知らず、どこかで敵を作ってしまった可能性は充分に考えられるでしょう」 「入道って呼ばれてたそうですね。ミコシ入道が由来だって」 「ミコシ入道か。坊主頭を撫《な》でながら、『俺の才能を見上げているうちに、お前ら、後ろにひっくり返っちまうぞ』なんて、僕ら助監連中によく檄《げき》を飛ばしてましたっけ。  そんなふうに傲慢《ごうまん》な口を利いてたくせに、変なとこで愛敬《あいきよう》がありました」 「愛敬?」 「地震をひどく恐がったんですよ。地震が起こると一人じゃいられなくって、人けの多い方へ寄ってきて、そわそわと落ち着きをなくすわ、声は上擦るわ、あの魁偉《かいい》な容貌《ようぼう》で子供みたいに怯《おび》えるんです。おかしいでしょ」 「というよりキモチワルイ。北宮さんは、大高監督との仕事が多かったんでしょ?」 「助監になって、ずっとです」 「いわば、師弟関係。助監督になって何年くらい?」 「二十年近くになります」 「失礼ですが、それは、長いといったらいいのか、どうなの?」  気にしなくていい、と北宮は俺の肩を叩《たた》くふりをする。何度もこういう質問は受けているらしい、手慣れた反応だった。 「二十年は普通でしょう。三十年近くやっている人を何人か知ってます。昔はもっと早く監督に昇進してましたが、映画の本数が今と比べものにならないでしょう。きょうびは、毎年、ホンペンを一本撮れる監督は幸せといわなきゃなりません」 「ホンペン?」 「劇場用映画のことです。僕も、テレビだったら、演出を手懸けたものが数本あります。深夜枠の小作品ですが」  自負と自嘲《じちよう》の混じった、補欠合格者の笑みを浮かべた。 「北宮さんは会社専属の助監?」 「以前はそうでしたが、今は契約です。契約だと、〈大光映画〉ではない外部の仕事もできるんです。外の世界も泳いで、技術も人脈も幅を広げようと思いましてね」 「しかし、二十年以上もかけて、芸人で教祖で政治家なんてものになりたいんですか?」  北宮は頬のあたりを引きつらせながらも、努めて誇らしげに答える。 「監督は一度やったらやめられないって昔から言われてますからね」 「乞食もね」  つい言ってしまう、俺の出来心。  北宮はまなじりを吊《つ》り上げ、ムッとした表情を浮かべた。顔が赤黒く染まっている。やはり洒落《しやれ》の通じない相手のようだ。  折り好《よ》く、背後で、ダビング作業の再開を告げるミキサー係の声がした。  北宮は首をねじって、不自然なほど明るい声で了解を告げた。ミキサー係には少年のような快活な表情を見せていた。  俺の存在はもはや無視されていた。暗にもう帰れと告げられているらしい。俺は後学のためにダビング作業を見学することにした。  明かりが消され、スクリーンに映写され、音声がかぶる。二分ほどで終わる。明かりがつくと、北宮とミキサー係との間で、音声のタイミングや、強弱について意見が交わされる。それに基づいて準備が整えられる。また明かりが消える。  これが四十分ほどの間に六回繰り返され、ようやく、OKとなった。一同の顔に解放感が浮かぶ。  が、しかし、これに水をさす声がスタジオ内に響いた。 「おい、これのどこがOKなんだ」  いつ入ってきたのか、大柄な男が腕組みをしてドアにもたれかかっていた。  北宮が言った。 「壇さん……」      4 「待った」をかけた男はプロデューサーの壇|活樹《かつき》だった。映画『占いの流れ星』の製作を請け負っているそうだ。宣伝マンの一人が小声でそう教えてくれた。  壇は押しの利きそうな肉厚の体躯《たいく》をしていた。五十を過ぎたくらいだろう。オールバックの髪はやけに黒々としていた。傲岸《ごうがん》な面構え。きっと、面の皮が厚いと言われているに違いない。座った目をしていて、それが値踏みするように人を見る。熱帯魚のようにダークブルーに光るダブルのスーツを着こなしていた。大量にコロンを振りかけているらしくスタジオ内がすぐに中年臭くなった。  オババの話では、大高監督の最期の言葉「ハモノハラ」について、壇はいたく興味を抱いて、謎解きに取り組んでいるはずだった。なるほど、見るからに粘着質にからんできそうな雰囲気を漂わせている。  スタジオ内を沈黙させた壇が太いバリトンの声で、その静けさを破った。 「北宮君は将来、何になるつもりだっけ?」  予想外の問いに、北宮は一瞬口ごもり、 「そ、そりゃ、もちろん監督ですよ」  壇はわざとらしく驚いた表情を作る。かしげた首を右手で支え、相手をまじまじと見やりながら言った。 「ホォォ、そうだったのか。映画監督を目指してたのか。いやいや、失敬、てっきり、催眠術師になるんだと思った。だって、わずか一分半で観客を眠らせる予告編を作ってるから。つい、そう思ってしまったよ」 「ナ、ナニ……」  北宮は顔を赤黒く染め、まなじりと頬のあたりを細かく震わせた。憤りで言葉が続かないらしい。喋《しやべ》ろうとして何度か口を大きく開いては空気を噛《か》んでいた。  壇は攻撃の手を緩めない。シリアスな表情になって、 「この予告編じゃ、OK出せないよ。何だ、あのつなぎ? 売りどころのシーンが抜けてるじゃない。私が入れて欲しいって言った、あの納豆攻撃のくだりとか」 「納豆は無しですよ!」北宮がようやく声を取り戻した。血走った目をむき、顔を突き出すようにして、「あのシーンは本編で初めて見せるためにとっておくべきです」  壇と北宮は、映画のストーリーに触れて口論を繰り広げた。  聞いているうちに、問題となっているシーンの内容が何となく解ってきた。たぶん、こんなふうだろう。悪玉側に占い四天王というのがいて、その一人がカレー占いの使い手らしい。カレー占いとは要するにカレーを地面にぶちまけて、広がった模様を読む占いである。主人公は四天王と対決する。その際に、カレー占いを破る作戦としてルーの中に納豆を密《ひそ》かに入れたのだ。つまり悪玉占い師がカレーをぶちまけても、納豆の粘りでうまく模様が現われず、相が狂い、占うことが不可能になるわけであった。と、いうようなシーンを予告編に入れるか否かが争点となっているらしい。  壇は右手を突き出し、口を尖《とが》らせた北宮にストップをかける。そして、宣伝マン二人の方に目をやると、 「どう思う、宣伝部のかたたち。この予告編、面白い?」  急に矛先を向けられた二人は困惑した様子で、壇と北宮の顔を代わる代わる見て、曖昧《あいまい》に笑うだけだった。  壇はもう一押しする。 「どう? 映画、当たらなきゃ、宣伝部の責任重大ですよ。この予告編で、客が来ると自信持って言えます? なら、いいけど」  宣伝マンは揃って首を横に振った。顔を伏せ、決して北宮の方を見ようとしなかった。  北宮の顔は、予約したはずのホテルに自分の名が無い上に満室を告げられた海外旅行者の顔とよく似ていた。  駄目押しなのか、壇は俺にも意見を求めてきた。 「どなたか存じませんが、忌憚《きたん》ない感想を。この予告編、面白いと思います?」  俺が素直に首を横に振ると、壇は満足気に目を細めた。俺はさらに素直に、 「でも、この予告編がつまらないのは、むしろ、本編のせいのような気がするんだけど」  つい言ってしまう、俺の出来心。  壇は、眉《まゆ》をひそめ、目の奥を冷たく光らせた。尖った視線で俺を串刺《くしざ》しにしたまま、しばらく黙り込むと、突然、サンバの仮面のような大仰な笑みを刻む。シェークスピア役者ふうの太く響く声で、 「だからこそ、予告編で本編をカバーしなきゃならないんです!」  言い切ると、北宮の方を向き、ドアを指差した。 「さあ、早いとこ、手直しを頼むよ」  北宮は鬱屈《うつくつ》した表情で顎《あご》を沈めている。味方を求めるかのように、上目遣いに周囲を見渡すが、視線を返す者はいない。純な気質なぶん、悲哀感がよけい濃厚に漂っていた。息の塊を吐き捨て、 「わかったよ! 直しゃ、いいんだろ! 大プロデューサーどの!」  上擦った声をあげると、荒々しい足取りでドアの向こうに消えた。  壇は、手を左右に広げ、外人めいた困惑のポーズを作った。俺と目が合うと、 「ところで、どなたでしたっけ?」  俺は氏名、職業、用件を告げた。  壇は品定めするような視線を、俺の脳天から爪先まで数往復させた。オーディションの目なのかもしれない。クルッと回転して見せようか。ただ、水着審査は勘弁願いたい。  壇は鼻を鳴らしてから、人工的な笑みを顔に浮かべ、 「探偵さんか。ええ、大高夫人から電話がありました。今はご覧の通り、忙しいものでして、歩きながらというのも何でしょうから」 「それで結構です。歩きながら」  それでは日を改めて、と俺が返答するのを期待していたのか、壇は一瞬、戸惑った表情を見せた。仕方なさそうに頷《うなず》き、 「じゃ、これから編集室へ」  壇の後について俺は廊下に出た。エレベーターを待つあいだに、 「壇さんの会社は映画を製作するプロダクションですね?」  俺はきいた。 「映画製作にも幾つかのケースがあるんですよ。大手の映画会社やテレビ局から、予算を渡されて、発注された作品を請け負って製作する。これが最も多いパターンです。それから、うちで企画を立てて、大手に売り込んで製作費を出してもらうというケース。あとは企画もコストも製作も全てうちでまかなってしまう、というもの。これは稀《まれ》です」 「そういうプロダクションというのは幾つもあるんですか?」 「毎年、コンスタントに映画をやってるところは十ばかしです。うちなんか、かなり頑張っている方ですよ。私を入れて四人しかいない小さなプロダクションのわりには」  エレベーターが来たので、乗り込む。壇は五階のボタンを押した。他に誰も乗っていなかったので、俺は質問を続ける。 「十二月一日の未明、壇さんのオフィスが盗難にあいましたよね。犯人はどうやって侵入したんですか?」 「ドアの鍵《かぎ》が壊されていました。案外とヤワなんですよ。盗難事件の後は、ドアの錠を、もっと厳重な構造のものに取り換えました。合鍵を作ろうとしても製造元でしか出来ないようなね。これで二度と盗難はありますまい」 「あるとすれば内部の犯行」  壇は一瞬、眉を寄せて俺を睨《にら》むと、喉《のど》の奥で静かに笑った。  五階に到着し、ドアが開いた。〈紅白探偵社〉のエレベーターに比べれば、まるで高速だ。降りてすぐのところに下駄箱があり、スリッパに履き替えた。廊下の両側にガラス戸の部屋が幾つも並んでいた。編集室だ。  そのうちの一室の前で、壇は足を止めた。  四畳半ほどの室内で、男二人がフィルムをいじり、女一人がノートをつけていた。  壇はガラス戸を開け、声をかける。 「さっき、北宮が顔を出したろ」 「不動明王みたいな顔してたわよ」女がノートに目をやったまま答えた。「いま、下の編集室でつないでるみたいよ。フィルム、燃やさなきゃいいけど」 「巨匠は、まだ?」 「ん? ああ、監督ね。まだよ」 「じゃ、待つとするか」  廊下の長椅子に壇は腰を降ろした。  俺も座る。編集室の中がよく見えた。壁際に丸いフィルム缶が幾つも積み上げられていた。甘酢に似た現像液の匂いが漂っている。  壇の解説によると、ノートの女はスクリプター、記録係だった。どのフィルムにどのシーンが何秒映っているのかすべてを把握しているらしい。男二人は編集マンとその助手。カタカタと音をたてて、フィルムが機械で送られ、モニターに映像を映し出す。ミシンとテレビを組み合わせたようなこの装置はビュアという。編集マンは、ビュアを操作し、時折、止めて、フィルムに赤や白のマーカーで印を書き込む。ビュアを通過したフィルムは大きな布袋の中に落ちていく。編集助手はマーキングに従って、スプライザーという装置で、フィルムを切り、つないでいた。  一通り、好奇心を満足させると、俺は中断していた話を再開させた。 「ところで、盗難事件の件に戻りますが、盗まれた物の中に、大高夫人から借りた予告編フィルムがあったわけですね」 「困りましたよ。大高邸の物置部屋で埃《ほこり》をかぶっていたものとはいえ、借り物ですからね。奥さんは、別荘にもフィルムが幾つか保存されていたはずだから、そこにもう一本あるかも、とは言ってましたけど。期待はできないでしょうね」 「フィルムを見て、例の『ハモノハラ』を解く何か手掛かりになりました?」 「いえ、特には」 「絹塚美雪のラストカットが見たかった、と聞いてますけど。どうして?」 「いや、特に深い理由があったわけじゃないんです。当時の新聞や雑誌の記事を大高監督はスクラップブックにしていて、それを読んでいたらラストカットのことが出てくるんですよ。大高さんも、伊戸も、あと何人かが追悼手記の中で触れてました」 「伊戸というのは、監督の?」 「そうです。伊戸|光一《こういち》。大高夫人の話に出てきたでしょ」 「伊戸さんも『鵺《ぬえ》と三日月』のスタッフだった?」 「いえいえ、何かのロケハンへ行く途中に、ちょっと撮影現場に立ち寄って、見物しただけです。そしたら、ちょうど問題のラストカットの日だった、ということを手記に書いてました」 「壇さんは撮影には?」 「私も別の作品をやってました。聞いてると思いますが、私ももとは〈大光映画〉のプロデューサーです。大高監督より二年ほど後輩になるのかな。ちょっと失礼」  壇は立ち上がって、廊下の角の向こうに消えた。数分後、紙コップのコーヒーを片手に戻ってきた。わりかし気がきくじゃないか。  俺はおだての一言を投げてやる。 「よく、映画雑誌に評論などを書いてらっしゃるそうですね?」  壇は、照れた表情をしながらも、満更でもなさそうに口の端で笑った。そして、コーヒーをすする。おい、テメエのだったのか。旨そうに一息つきやがると、 「いや、評論などという大層なものではありません。雑文ですよ」 「例の『ハモノハラ』の謎解きも、どこかに書くつもりで?」 「内容しだいです。大高誠二という監督像を語るうえで一つの材料になれば、ですね」 「伊戸監督と、大高監督の仲は?」 「なんせ、監督同士ですからね。でも、特に仲が悪かったということはありませんよ」 「ライバルのような関係?」 「簡単に言うとね」鼻の奥で唸《うな》って、少しの間、考えると、「互いに力を認め合うことで、映画界での自分の位置を確認する、そんな微妙なバランス関係にあったと言えるでしょう。互いの認め方の表現はそれぞれ違いましたけど。大高さんの方は、年齢が上の分、余裕を見せたいという思惑もあったんでしょう、時々、伊戸の作品を褒《ほ》めるような発言をしてました。伊戸の方は、大高さんの作品については褒《ほ》めも、けなしもしない。撮影所の試写会でも伊戸はまったく反応を示さないんです。いいのか悪いのかノーコメント。大高監督はよく苦笑いしながら言ってましたよ、『一度でいいから伊戸君から拍手とお褒めの言葉を賜りたいなあ』なんてね」  ペタペタとスリッパの音がした。  振り向くと、若いくせに厚く髭《ひげ》におおわれた眼鏡の男がいた。七〇年代後半から八〇年代にかけてハリウッド映画の監督にこの手の顔が多かった。  壇が手をあげて、 「よっ、巨匠」  巨匠監督は一瞬、表情を歪《ゆが》めたが、すぐさま作り笑いを浮かべて、挨拶《あいさつ》を返した。『占いの流れ星』の監督のようだ。  壇は腕組みをして立ち上がる。 「『占いの流れ星』のランニングタイムは一時間四十分から四十五分、大丈夫ですね」  巨匠はか細い声で、 「……それだと、やっぱりキツいですよ。二時間というわけにはいきませんか?」 「いきません。そんなに長いと、劇場での客の回転が悪くなりますよ。それに……」 「それに?」  壇は、冷たい眼差《まなざ》しで、ひんやりと薄笑いをよぎらせると、 「この映画が不入りで、二本立てで上映されるケースも考えておかないと、ね。映画があんまり長くて効率悪いと、上映そのものを打ち切られ、別番組に変えられるぞ」  巨匠は青ざめた顔で口を半開きにした。  壇は言いたいことを言うと、さっさとその場を離れた。俺は跡を追う。廊下の角で振り返ると、巨匠は案山子《かかし》のように突っ立ったままだった。  壇はエレベーター前で俺に言った。 「じゃ、次の現場へ行くから。今日はこのへんで」 「北宮さんが直している予告編は見ないんですか?」 「ええ。どうせ、つまらんですよ」  そう言って、手で払うポーズをしながら、鼻で笑った。  俺も去るとしよう。北宮の八つ当たりの対象にされてはかなわない。      5  一階の食堂で遅い昼食を取ると、〈アオイスタジオ〉から退却した。やたら熱いモヤシソバを急いで食ったために、口の中を火傷《やけど》してしまった。  地下鉄から小田急線に乗り継いで、狛江《こまえ》で降りる。駅からバスで三つめの停留所。 〈大光映画撮影所〉を訪れた。  映画監督の伊戸光一に会うためである。  守衛所に軽く会釈して門を通り抜ける。堂々としていれば、とがめられることはない。  カマボコ型の色褪《いろあ》せた建物が並んでいた。枯れ木の下に犬が寝そべり、午後三時過ぎの淡い陽光をあびている。人通りは少ない。目の前を、山伏が自転車で通り過ぎて行った。どこかで時代劇の撮影をやっているらしい。  俺は掲示板の案内図で確かめ、第5スタジオに向かった。カマボコ型の建物の一つであった。何の意味だか知らないが、出入口の頭上に赤いランプが点灯していた。歓迎の合図かもしれない。小さな鉄扉を二つくぐり抜けて中に入った。  その途端、「カット!」と叫ぶ声がした。  目の前に、ベニヤ板の壁が立ちはだかるように続いていて、声はその向こう側から聞こえた。建築現場のような荒っぽいやり取りも聞こえてくる。釘《くぎ》を打つ音も始まる。  高い天井を見上げると、梁《はり》のような足場が縦横に巡らされている。タオルを頭に巻いた男が下界の俺を睨《にら》み付けていた。神の視点である。怒りの神らしい。嫌な予感がする。  俺はベニヤの壁に沿って進んだ。壁が途切れると、向こう側の世界へ回りこんだ。  忽然《こつぜん》と、牢屋《ろうや》が現われた。次元のひずみをくぐり抜けて、テレポーテーションしたような気分になる。灰色のコンクリートと黒い鉄格子で構成された冷たい空間。拘置所内のセットだった。目を凝らすと、コンクリートはベニヤであり、鉄格子はプラスティックだったが、フィルムに映すとまるで本物に見えるのだろう。  ざっと二十名ものスタッフがいた。ほとんどが男だった。そして、皆、仕事の手を止めて、俺のことを睨んでいる。嫌な予感とはこれだった。  カチンコを持った若い男が近寄ってきた。助監督らしい。苦々しい面持ちで、 「本番中に騒音を立てないで下さいよ。赤ランプが点《つ》いていたでしょ」  やはり歓迎のランプではなかったか。素直な俺は素直に謝り、素直に名と職と用を告げた。すると、助監督はカチンコで一人の男を指し示した。  監督の伊戸光一である。セットの隅で椅子にふんぞり返っていた。肘掛《ひじかけ》のついたディレクターチェアではなく、ごく普通のスチールの折畳み椅子だった。  資料によれば、伊戸は四十七歳。山口県出身。昭和四十二年、東大を卒業後、〈新陽《しんよう》映画〉に入社し、演出部に所属。二十八歳で監督に昇進していた。しかし、その翌年、ある残酷描写のシーンのカットを命じた会社側と対立、それを機に退社。そして〈大光映画〉と契約した。現在はフリーで活動している。  昨晩、俺が伊戸本人に電話を入れると、背中に鹿を描いた革ジャンパーが目印だと言われた。なるほど、背中に花札の模様がある。  俺が声をかけると、伊戸は面倒臭そうに顔を向けた。どんよりとした目つきだが、埋もれ火を思わせる、しぶとそうな光があった。脂の出た髪が固まって、肩にかかっている。  伊戸は紙コップのコーヒーをちびり舐《な》めて渋面を作ると、 「不味《まず》いコーヒーだぜ、うちの組のは」  いがらっぽい声で言った。息が焼酎《しようちゆう》臭い。二日酔いのようだ。  俺はジャケットのポケットからスキットルを取り出すと、琥珀色《こはくいろ》の中身を、紙コップにひと垂らし注いでやった。  伊戸はそのコーヒーをすすると、 「気が利くじゃねえか」  不精髭《ぶしようひげ》に囲われた唇をガムのように伸ばしてほくそ笑んだ。ちなみに琥珀色の液はコニャックであった。満足気に鼻息を出すと、 「本番の準備が整うまで、まだ時間がかかるから、話をするなら今のうちだぜ」  スタッフたちは作業を再開させていた。照明の配置を調整する。ライトにパラフィン紙を貼る。カメラの前で巻き尺を延ばす。セットの破損を直す。それぞれの持ち場で、専門家たちがその道一筋の仕事をしていた。  俺も仕事を始める。まず切り出した話は、午前中に北宮と壇から問題の予告編フィルムについて聞いたこと。  伊戸は鼻先で笑い、 「大高未亡人からは聞けない話だよな」 「女性がらみだから。絹塚美雪という女優でしたっけ」  伊戸は眉《まゆ》を寄せた。不審そうに顔を近付けてくる。髭を剃《そ》るのは一週間おきか。 「美雪じゃねえだろ。〈宇楽《うらく》〉の方だよ」 「ウラク?」 「小料理屋だよ。宇宙の宇に、楽しい、で、〈宇楽〉。大高監督と美雪がハモを食った店だ。その女将《おかみ》が宇楽|菊乃《きくの》。大高どのの愛人さ」  頭にしっかりメモした。 「北宮さんの口からは出なかったけど」 「あの野郎、カマトトぶりやがって。ついでに言やあ、大高どのと菊乃から出来たガキはいま役者やってるよ」  名前をきいた。 「張井頼武《はりいよりたけ》。知らねえだろ」  知らなかった。  伊戸は汗ばんだ首すじを長い爪で掻《か》きながらボヤいた。 「七光はしょせんヒカリモノ、腐りやすいってなもんだ。うちの娘も俺の利用法を考えてんのかいな。まだ小学生だけど」  娘が父親似ではありませぬように。 「絹塚美雪ですが、大高監督は高く評価してたみたいですね」 「美雪もヒカリモンだからな」 「父が監督?」 「いや、プロデューサー。〈大光映画〉の徳山《とくやま》プロデューサー、かなりの大物だよ。俺を〈大光映画〉に引っ張ったのも、大高監督のデビュー作をプロデュースしたのも徳山だ。しかし、その徳山と、美雪とは血がつながってない。母方の連れ子だからな。美雪の母親は徳山の愛人だわな。京都で撮影する時、〈大光映画〉が定宿にしてる旅館があって、そこで仲居をやってたのが美雪の母親、絹塚|美登枝《みとえ》だよ。スタッフのあいだでちょっとした人気モンだったって聞いたことがある」 「で、徳山プロデューサーと、絹塚美雪の母親は、いまは?」 「いない。死んじまった。しかし、当時は、あんなふうに親の光があったけど、大高監督は、確かに美雪を評価してたのかもしれないな。美雪のためのシナリオを書いたくらいだから」 「それは主演作品?」 「うん。配役表の筆頭に『絹塚美雪』ってちゃんと明記したシナリオが発見された。聞いたろ?」 「いえ」 「聞いてない? あ、そう」伊戸は陰険な笑みを浮かべた。「例の予告編フィルムが発見されたのと同じ頃に、やはり、同じ物置部屋で見つかったんだよ。それまで誰も、その存在すら知らないシナリオだった。二十冊ばかし印刷製本されてた。きっと、美雪が急逝したために、人に見せることもなくなったんだろ。そのまんま、長年のあいだ忘れっぱなしになってたんだ。いってみりゃ、幻のシナリオってわけだな」  そう言うと、何がおかしいのか頬骨のあたりを膨らませた。どこかの民謡らしき歌を口ずさむ。よく聞いてみると東京音頭だった。目は宙をさ迷っていた。  その視界を、俺の顔がさえぎる。 「大高監督の印象は? あだ名が入道とか」  東京音頭が止んだ。 「入道か。入道な……」  伊戸は下唇をむいた。鼻っ柱を縮める。皮肉めいた笑みをこぼしながら、 「何が入道だよ。クサいんだよな、あのキャラクター。わざとらしいだろ、頭を丸めて、入道だとよ。自意識過剰なんだよ。他人の目を気にするあまりの作り物のキャラクターだよ。傲慢《ごうまん》さと愛敬《あいきよう》の同居した鬼才の肖像だとよ。自己陶酔もいいとこ。クサいクサい、匂って匂って仕方ないよ、花のトイレにピコレットでも置きたくなる、ってか」 「北宮さんからは、憎めない男、なんて評価も聞いたけど。地震を恐がってたとか」  伊戸は歯痛時のような顔で、膝頭《ひざがしら》を叩く。 「なにが、地震が恐いだよ。大高のおっさんの演技だよ。一人でいる時に地震があっても平然としてたの、俺、何遍も見てるよ。北宮だって知ってるくせに。いつまでも師弟ゴッコやってんじゃないよ」  舌打ちを二つばかしすると、花の都の真ん中で、とまた唸《うな》り始めた。 「監督、あちらへ」  さきほどの助監督が呼びにきた。  伊戸監督はサーカスの熊のようにぎこちなく立ち上がった。俺と大して身長は変わらない。百七十五くらいか。伊戸は鼻を鳴らして悪戯気《いたずらげ》に笑うと、 「あの大根役者、ジョッキ六杯目だぜ」  小声で呟《つぶや》きながら、顎《あご》で指し示した。セットを挟んで向こう側に、クイズ番組でよく見かける中年男優がいた。台本を睨《にら》み、口を動かしている。クイズの答えを暗記するより難しい仕事なのだろう。  ちなみに台本の表紙に記されているタイトルは、『べらぼー・ヒルズ・コップ』。下町育ちの江戸っ子刑事が山の手の高級住宅街を舞台にベランメー口調で暴れ回るという内容らしい。  これから撮るシーンは、この男優|扮《ふん》するベランメー刑事が、牢の犯人の前で、生ビールを見せびらかしながら一気飲みするという設定らしい。ビール会社とのタイアップの都合上、どうしても必要なシーンだそうだ。東京の地ビールと銘打った新製品「ビア・ベラボー」のキャンペーンの一環。きわめて重要なシーンであった。しかも、映画のラストであり、また、このカットでクランクアップだという。しかし、なかなか伊戸監督のOKが出ず、今度で六回目のリテイク、撮り直しであった。つまり、この男優は六杯目のジョッキを一気飲みしなければならない。タイアップの必要上、本物のビールを使っていた。男優の青ざめた顔にメイク係がドーランを塗りたくっていた。 「それじゃ、いきましょう」  助監督の掛け声に、スタッフ一人一人の体が一斉に引き締まる。息さえ止めたかのように静寂が場を支配する。  伊戸監督が吠《ほ》えるように、 「ヨーイ、スタート!」  ベランメー刑事がなみなみとつがれた生ビールのジョッキに口をつけて傾ける。牢内の犯人が鉄格子を両手で握りしめ、羨《うらや》ましそうに見つめている。刑事の喉《のど》が鳴る。犯人が唾《つば》を飲み込む。刑事はついにジョッキを空にすると、プハーッと泡を飛ばして大見栄をきった。 「持ってけ、ドロボー! 飲んでけ、べらぼー!」  二秒ほどの沈黙の後、監督の声。 「カット!」  そして、すがるような皆の視線を一身に浴びながら、監督はゆっくりとまばたきを一つすると、叫んだ。 「OK!」  クランクアップ!  ギターの弦のようにピンと張り詰めていた空気がゆるむ。安堵《あんど》と解放と達成のどよめき。続いて拍手が重なり合った。  氷水を張ったポリバケツがセット中央に運ばれてきた。中には、タイアップで入手したと思われる缶ビールが大量に入っている。  それを見たベランメー刑事の男優は体をふらつかせて倒れ、マネージャーと付き人に抱えられてセットの裏側に消えた。  恒例の儀式なのだろう。出演女優が花束を監督に贈呈した。拍手が一段と高鳴る。  その時。 「覚悟しろい!」  一人の男が怒鳴りながら、どこからともなく走り出てきた。そして、伊戸監督に向かって拳銃《けんじゆう》の引き金をひいた。火薬の弾《はじ》ける音とともに、伊戸の抱えていた花束が色とりどりの花びらを宙に散らした。  これらは一瞬の出来事だった。誰もが唖然《あぜん》として声を出す間もなかった。  伊戸は花びらを頭や肩にはりつけて棒立ちになっている。  その姿を見て、問題の男は身をくの字に折って笑いながら、 「まだ生きてるって。お馴染《なじ》みの弾着に決まってるだろ」  どうやら、映画の銃撃シーンの特殊効果を使った悪戯だったらしい。発砲の音と同時に標的に仕込んだ火薬を破裂させる。ここでは花束の中に隠しておいて、ラジコンで作動させたようだ。  笑い続けている男は二十代後半くらいだろう。墨の飛沫《しぶき》のような眉《まゆ》、やや吊《つ》り気味の目に薄い唇、紙くらい切れそうな尖《とが》った顎、全体に鋭角的な顔立ちをしていた。スリムな体を革ジャンとジーンズに包んでいる。身長は伊戸よりわずかだけ高い。  微妙な身長差が解ったのは、伊戸が男に接近したからだ。憮然《ぶぜん》とした表情で、起き抜けのようにゆらゆらと歩み寄ると、いきなり、だらんと下げていた右手を振り上げて、男の尖った顎に拳《こぶし》を放った。  かすったような音。ジャストミートは避けられたらしい。男はのけぞり、身をよじりながら、床に腰をついた。赤くなった顎を撫《な》でながら、すぐさま上体を起こす。吊り気味の目をさらに吊り上げて、 「畜生! 勝手に俺の出演シーンをカットしやがって!」  そう叫ぶと、砲弾のように飛び出した。スタッフ数人が男につかみかかり、押さえる。  推理すると、男は俳優であり、何かの映画で伊戸監督に出演シーンをカットされて、それを恨んでいる、ということらしい。  俺はスキットルを取り出し、中身のコニャックを口に含んだ。ジッポーのライターを点火し、顔から三十センチ程の位置にかざす。  男が体をねじるようにして、スタッフの腕をふりほどき、拳をかかげ、伊戸に向かって突進した。  俺は、口の中のコニャックを霧状にして吹き出した。霧の矢はジッポーの火に触れた途端、炎の投網と化して宙に広がる。そして、それは走る男の前をさえぎった。  ヒャッと男は驚きの声をあげ、急ブレーキをかけた足を滑らせて、後ろにもんどりうった。その恰好《かつこう》のまま黙って、何度もまばたきをしていた。首をブルブルと振ってから、 「なんだ、サーカスの怪人か」 「それは二十面相。こっちは明智の方だ」  俺はきっぱりと答えてやった。  男はスタッフ数人に腕をつかまれ、後ろ向きに引きずられるようにしてスタジオの外へ連れ出された。  伊戸は頭の花びらを払い落としながら、 「とんだ特撮探偵だな」 「ガメラのプラズマ火球が好きだ。あの男は?」 「ああ、あれがさっき言った張井頼武だよ。大高入道が愛人の宇楽菊乃との間に作った息子さ。ドンパチやらかすかと思ったら、今日は十二月八日、開戦記念日じゃねえか」  伊戸は不精髭《ぶしようひげ》をこすりながら笑った。  俺は助監督に手渡された缶ビールのプルトップを引き開けると、 「真珠湾とかけて、酔っ払い三人ととく」 「そのココロは?」 「トラトラトラ」  そう言うと、俺は冷たいビールを呷《あお》る。火をふいた後は格別うまいのだ。      6  翌日、洋画ファンの俺は、日本映画について少し勉強することにした。そして、幸運にも、メモ帳をめくっていたら、映画会社に知人がいたことを思い出した。  さっそく、日比谷公園の近くにある〈光宝《こうほう》映画〉のビルを訪れた。エレべーターで八階へ上る。宣伝部のフロアを見渡した。午前十一時を回っていて、人の出入りが激しくなり始めていた。だから、オドオドしていなければ怪しまれることはない。プレス関係の人間が来ては、棚からチラシをさらっていく。  電話の音が鳴りっぱなしだった。椅子を寄せて二、三人で打ち合せをしている風景が群島のように点在していた。  俺は目当ての男を見つけた。かれこれ十年になるだろう。男の薄くなった頭がその歳月を物語っていた。頭髪を埋め合わせるかのように、口の周囲から顎《あご》にかけてを髭《ひげ》で覆っていた。まだ三十ちょっとのはずである。胸板が厚く、顔の艶《つや》のよい、祭りの似合いそうな男だった。人生は祭りだ! と言ったのはフェデリコ・フェリーニ。俺は洋画ファンなのだ。  男は新聞広告のゲラを睨《にら》んでいた。  悩むとまた頭が薄くなるぞ。俺は心の中で呟《つぶや》いてから、名前を呼んだ。  友沢勝宏《ともざわかつひろ》が振り向いた。大人になったキューピーといった顔。目をパチクリさせる。俺を思い出せないらしい。なんせ十年の歳月が経っているのだから当然である。 「紅門福助です。ずっと前に〈テレビ東都〉で取材にきた」  かつての勤務先の名を出した。  当時、俺は或《あ》る役者の麻薬事件を追っていた。かつてその役者と大喧嘩《おおげんか》した監督に、インタビューをしようと考えていた。ちょうど監督の新作が〈光宝映画〉の配給で公開を控えていた。その宣伝担当が友沢勝宏だった。  友沢の仲立ちで、監督のインタビューに成功した。見返りとして、俺は番組の中でその新作映画の題名を連呼し、宣伝に協力した。後できいたら、映画は大コケしたらしい。  友沢はようやく思い出したようだった。 「お久しぶりです。また、何か事件に関する取材ですか」  体育会系の溌剌《はつらつ》とした声は変わっていなかった。 「いや、事件というわけじゃない。ちょっと映画の専門筋の人に教えてもらいたいことがあるんだけど。時間ある?」  テレビ局を辞めたことは言わなかった。 「僕なんかは専門筋というほどじゃありませんよ。でも協力できることがあれば何でも。宣伝マンとして断れるわけないでしょ」  まだ俺のことをテレビ記者だと思ってくれているようだ。だから丁重な応対をしてくれる。俺は嘘はひとつもついていない。事実を省略しただけだ。  空いていた隣の椅子に座ると、用件を言った。日本の怪談映画について概略を講義して欲しい、と。  友沢は怪訝《けげん》な表情をしたが、すぐに「ヨッシャ!」と気合いを入れて席を立った。  数分後、紙コップのコーヒーを両手に、数冊の資料本を胸と肘《ひじ》に挟んで、戻ってきた。  自販機のコーヒーらしい。甘かった。  友沢は落語家ふうに「えー」と発すると、講義を始めた。 「怪談映画といえば、かつては、〈大映〉さんが得意としていました。一九五〇年代から六〇年代にかけてですね。怪談ナントカってタイトルが多かったはずです。ほら、たとえば」  資料本をめくる。 『怪談 鬼火の沼』『怪談 蚊喰鳥』『怪談 雪女郎』『怪談 夜泣き燈籠《どうろう》』『怪談 累《かさね》が淵《ふち》』等々。 「それとですね、ヒット作品として忘れちゃいけないのが、怪猫シリーズ、いわゆる化け猫モノですよ。入江たか子の当たり役です」  なるほど、『怪猫有馬御殿』『怪猫岡崎騒動』『怪猫呪いの壁』『怪猫夜泣き沼』『怪談佐賀屋敷』といった作品がヒットする良き時代が日本にはあったのだ。  友沢は授業を続ける。 「一九五〇年代の後半になってくると、〈新東宝〉も怪談に取り組むようになりました。代表格は、やはり、中川信夫監督でしょう。その作品は今でも高く評価されていますし、特に代表作の『東海道四谷怪談』はこのジャンルのベストに推す評論家も多いくらいですから」  中川信夫の主な作品は、『怪談累が淵』『亡霊怪猫屋敷』『地獄』『憲兵と幽霊』『女吸血鬼』など。また、他会社においても、『怪談・蛇女』『吸血蛾』『怪異談 生きてゐる小平次』といった作品を発表している。 「数々の名作、怪作を生んだ〈新東宝〉ですが、一九六一年に倒産してしまいました。怪談の老舗《しにせ》の一角が崩れたわけです。一方の老舗の〈大映〉も六〇年代の後半あたりから、怪談ものから手を引くようになります。子供むけの『妖怪《ようかい》百物語』とか『妖怪大戦争』を作って、『怪獣�ガメラ�』シリーズの併映にしていたのが最後の方でした。  考えてみれば、〈大映〉も一度、倒産しているんですよね。怪談を得意としていた二社が、そういう運命をたどるというのも何か因果な話ですね。  他の映画会社でも怪談ものがなかったわけではありません。〈松竹〉の『吸血鬼ゴケミドロ』、〈東宝〉ではキノコ人間が次々と人を襲う『マタンゴ』とか、和製ドラキュラものの『血を吸う薔薇《ばら》』『呪いの館・血を吸う眼』といったぐあいに。でも、単発的でヒット路線を確立するには至りませんでした。 〈大映〉と〈新東宝〉と入れ替わるようにして、六〇年代の末期から、怪談映画を製作するようになったのが〈大光映画〉です。しかも、幸運だったのは、一九七四年にアメリカの『エクソシスト』が大ヒットを記録したのをキッカケに、オカルト映画ブームが到来したことです」  俺は口を挟む。 「チェーンソー振り回して追いかけてくるやつがオモロかったな。『悪魔のいけにえ』だっけ」 「トビー・フーパーですね」 「あと、『ヘルハウス』『悪魔のはらわた』『デアボリカ』『悪魔の墓場』『魔鬼雨《まきう》』なんてのも確かあったよな。そんな中で、デ・パルマの『ファントム・オブ・パラダイス』だとか、メル・ブルックスの『ヤング・フランケンシュタイン』なんかが紛れ込んでたから油断できなかったよ」 「よく観てるじゃないですか」 「洋画は、な」 「まあ、そうした洋画がもたらしたオカルト全盛の時流にちょうどタイミングよく〈大光映画〉が乗ったというわけです。もちろん、大作ではなくって、低予算によるいわゆるプログラムピクチュアでしたけど。そして、オカルトというか、怪談というか、この路線を支えた二本柱が、大高誠二、伊戸光一の両監督だったというわけです」 「お二方の作風の違いは?」  友沢は広い額の上でバネのように皺《しわ》を寄せて、伸ばし、 「全部観ているわけじゃないけど、大高監督のは、かつてのドイツ表現主義的な手法を取り入れています。セットや道具などの美術にデフォルメを効かせて、まるで絵画のような凝った映像を造形することに腐心していたようです。グロテスクなシーンにしても、強引なほどに耽美的《たんびてき》な絵にして、より奇怪さを増長するという演出ですね。  一方、伊戸監督の作品は、スピードとエネルギッシュな感覚が売り物でした。もとはと言えばアクション映画から出発した人ですから、その資質がキレの良さやパワフルな作風を生むのは当然といえるのかもしれません。カットごとの絵よりも、展開や流れに力点を置いていて、時には手持ちカメラの乱れた映像をテンポよく連ねて、それがシーンに激しい息遣いを与えるほどでした」  俺は資料をめくった。  伊戸光一の主な作品。『天井を歩く人形』『幽女花街』『自動鬼』『夜泣き橋』『目つぶし魔鏡』『あやつり死人』『怪走ムカデ地蔵』『棺《ひつぎ》を抱いた首無し男』『腹切り童子』『あやつり狼人』『人喰い番頭』『棺の中で朝食を』『妖舞・百目芸者』『無人タクシー雨霊園』『棺がお前を呼んでいる』『出羽《でわ》深山ミイラ夢遊』『高層ろくろビル』『逢魔《おうま》が口寄せ』。  大井町《おおいまち》あたりの小さな劇場で一部|好事家《こうずか》を対象に上映されそうなタイトルだ。  俺はきいた。 「大高誠二と伊戸光一は、ここ数年の仕事ぶりはどうだったんだ?」 「ご存じの通り、どこも製作本数が減っていて、映画監督にとって受難の時代ですから。お二方にしても、ホンペンは、劇場用映画のことですが、年に一本撮れるかどうかというペースでしょう。しかも、上映館が一つか二つといったような規模の小さな作品の方が多かったんじゃないですかね」 「昨日、伊戸監督に会ったんだけど、映画の撮影やってたよ。珍しい時にお邪魔しちゃったってわけか」 「いや、それはホンペンじゃないはずです。たぶん、ビデオ用映画でしょう。劇場で上映するものでなく、当初からビデオでリリースするやつですよ。伊戸監督は、ビデオもテレビも精力的にこなしていますよ。アクションものの演出には定評がありますからね。そのジャンルの作品はテレビやビデオに多いんですよ。もっとも、伊戸監督の場合は経済的な理由かもしれませんがね。結構、金遣いが荒いことで有名ですから。  逆に、大高監督は経済的余裕なのか慎重なのか、ビデオ映画もテレビも数本しか撮ってません。  まあ、今じゃ、二人とも、一部で熱狂的なファンを持つ、いわゆるカルト作家ですよ」  俺は少し考え、 「しかし、カルトってのはやけにもったいぶった単語だな。食い物でいえば、要するに珍味、ハチノコとかフナズシの類《たぐい》にすぎないんだからな」 「ここ数年は、若い映画ジャーナリストがむやみに持ち上げるから、余計にカルト人気が高まる傾向がありました」 「カルト作家と称される連中はそこに安穏と胡坐《あぐら》をかいているのかもな。ホンペンが撮れない憂さばらしに」 「それは、ありますね。だから、口の悪い連中はよく言ってますよ」 「なんて?」 「井戸の中のカルト」      7  中央線の駅で下車し、枕倉《まくらくら》町の自宅へ戻る途中、近所のビデオ屋に寄った。大高と伊戸の両監督の作品を一本ずつ借りた。  四階建ての細いビルの二階に俺の部屋があった。電話帳では一応、探偵事務所ということにしてある。  まだ陽は高いのに、部屋にこもってビデオ鑑賞とは探偵稼業には似合わない。予定では〈富蓮寺《ふれんじ》〉を訪れて、カラオケボックスの屋上へ引っ越した角塔婆の謎に挑むつもりだった。が、事件発見者の住職から、急な法事で会う時間が取れなくなったと電話があったのだ。誰か知らぬが、死ぬ予定くらいきちんと立ててもらいたいものだ。  というわけで俺は畳に横たわり、怪談の二本立てを見る羽目になった。大高監督の『飛天さらし首』は、人間の首はもちろん、犬、牛、馬など様々な首が、風呂《ふろ》や箪笥《たんす》や火鉢から次々と出てきて恐がらせる趣向の作品だった。特にマグロの頭が天井板を突き破って出現するシーンは笑いすぎてのけぞってしまった。  伊戸監督の『棺の中で朝食を』は吸血鬼に恋をしてしまった美女の物語。愛するあまりまさに題名の通り、美女は吸血鬼に寄り添い棺の中で朝食をとるようになる。そして、みるみるうちにやつれていく。だが、ある朝、美女は滋養をつけようと、うっかり、ニンニクの入った料理を棺の中に持ち込む。驚いた吸血鬼が棺を飛び出し、窓を破って外に転がり、太陽光を浴びて死んでしまうのだった。あまりに悲しい結末に、俺はのたうち回って笑った。  突如、インスピレーションが閃《ひらめ》いて、俺は近所の魚屋へ走り、マグロのブツを買ってきた。怪談二本で笑っているうちに外はすっかり暮れていた。  キッチンに立ち、新作メニューに挑む。ブツを薄く切り落とし、ニンニクのみじん切りと焼肉のタレであえる。それを、丼《どんぶり》の酢飯にのせて、卵の黄身を落とし、浅葱《あさつき》をふる。後はかき回して、食うだけ。調理から満腹までわずか二十分の美味な夕食だった。  ここ二、三年、実験料理の成功率は八割を維持している。ひどい時代もあった。そもそも、女房もどき二人に逃げられたのは俺の実験料理にも原因があったようだ。  夜の十時、屋上へ上がった。すごく小さなペントハウスがあり、犬が一匹住んでいた。  このビルのオーナーが飼っている牡《おす》の秋田犬だ。名前は「ヘッセ」。どしゃぶりの雨の日、自転車の陰にうずくまるようにしていたのを、オーナーに拾われたのだ。「車輪の下」にいたのでヘッセということらしい。  ヘッセは以前に行方不明になったことがある。オーナーの依頼で、捜索に乗り出したのが俺だった。地域一帯を荒らしていた犬さらいの仕業だった。皮が狙いらしい。俺はヘッセを無事救出した。そして、犯人を警察に連行する前に、オーナーに突き出した。オーナーは犯人に正義の鉄拳《てつけん》を食らわせた後、ドッグフード五箱をむりやり食わせた。俺は大いに感謝された。  ちょうど、俺は新しいオフィス兼住居を探しているところだった。それを知ったオーナーが今の部屋を無料で提供してくれることになった。よほど俺は感謝されたらしい。悪いので半額だけ払っている。  俺はコンクリートに尻《しり》をつけた。冷え冷えした感覚が背筋を駆けあがる。夕飯で余ったマグロのブツを差し出してやった。ヘッセは舌でさらった。手のひらがくすぐったい。尻尾《しつぽ》がお代わりを告げていた。  あとはこれしかないんだよ。コーヒーカップを見せた。ヘッセは鼻を寄せ、すぐに、そっぽを向いた。銘酒「琵琶《びわ》の長寿」の味はまだ解らないらしい。  音をたてて風が俺をなぶった。ジャンパーの前をかきあわせる。カップの酒を呷《あお》る。ぬくもりが臍《へそ》の方へゆっくりと下りていった。  俺は夜空を見上げた。ヘッセも真似た。  軍艦のような黒い雲が走り、月を隠した。  夜中の十二時ちょっと前に電話が鳴った。  俺は起きていた。テレビで〈明日の朝刊〉を見てから寝るのが習慣だった。  依頼人の大高オババからだった。 「うちの別荘で、死体が発見されたそうなんですけど」  長唄《ながうた》のような典雅な口調と、内容がまったく合っていなかった。  俺は緊迫感のある声を心がけた。 「どなたか知り合いの方が亡くなられたというわけですか?」 「……そう、かもしれません」 「かもしれません?」 「はっきりとは解らないんだそうです。警察はそう言ってました。ただ、可能性が」 「どんな?」 「北宮さんの死体かもしれない、と」 「助監督の北宮兼彦ですね?」 「ええ」 「事故ですか、病死、それとも、殺人?」 「三番目のだそうです」  クイズをやっているのではないぞ。 「私、パトカーって嫌いなんです。お願いですから、紅門《こうもん》サマ、車で別荘へ連れていってもらえないでしょうか」  依頼された仕事に関わっているかもしれない。そうでなくても構わん。俺はOKした。やはり興味本位で生きているらしい。 「別荘の場所は?」 「奥多摩の方です」  警察がらみなので、白亀にも一報いれておいた方がいいだろう。そう考えていると、電話の向こうで、 「白亀さんにも連絡しました。あの人、もと警視庁でしょ。来てくれるそうです。向こうで落ち合おうって言ってましたよ」  段取りのよろしい依頼人だ。  家主から無料で借りている駐車場から、俺は車を出した。かなり昔の型のカローラである。色は黒。汚れが目立たない。  環八を通って、成城《せいじよう》へ走らせる。いかにも品のいい高級住宅街にオババの家はあった。  バスが楽々通れそうな門構えだった。大きな木戸の脇の通用口からオババがちょこちょこ出てきた。小柄な姿は、コートの銀ギツネに襲われているように見える。  その後ろから見送っている女がいた。三十過ぎくらいで主婦然としている。「お母さん気をつけて」と言っているので、娘だろう。たれ下がった目尻が母似だ。俺の方を見て、露骨に不審げな顔をしたまま、頭を下げた。俺は愛想たっぷりに返礼した。探偵はサービス業でもあるのだ。  オババを後ろに乗せて出発した。 「寝てていいですよ。近くになったら起こしますから」  俺は深夜タクシーのサービス精神を倣って言った。  オババは眠らなかった。ウォークマンを聞いていた。何を聞いているのだろう。気になったので尋ねた。般若心経《はんにやしんぎよう》のテープだった。 「私ももう半分はホトケですから」  不気味なことをオババは平然と言った。  拝島《はいじま》のあたりで検問にあった。護送中の強盗犯が逃亡したらしい。制服の警官に顔とトランクの中を覗《のぞ》かれた。追う者、逃げる者、師走《しわす》は文字通り走る季節のようだ。  目的地に近付くと、地図とオババの指示に従って運転した。  別荘が見えたのは、二時を回った時刻だった。木々の重なった影が、巨大な黒い屏風《びようぶ》のように背景に連なっている。別荘の明かりとパトカーの赤い警報灯が、闇の底にぽっかりと穴を空けていた。灯に誘われる虫のように俺は車を滑り込ませた。      8  別荘は鉤《かぎ》の形をした二階建てで、部屋数が多そうだった。クリームに近い茶褐色の落ち着いた壁。屋根には、たぶん飾りの、煙突が突き出ている。庭を囲う低いフェンスの向こうは樹林へと続いていた。  オババは名乗った。  ドアの前にいた警官が取り次いだ。私服の刑事が現われ、オババを家の中へ導いた。俺も後に従う。 「こちらは?」  刑事が俺を見て不審そうに言った。  オババはのほほんと、 「弁護士です」  ペリー・メイスン・シリーズをもっと熱心に読んでおくべきだった。  事件の現場は二階だった。  鉤形に曲がった廊下の突き当たりの部屋。その入り口の床には、まるで工事現場のように、細長いベニヤ板が敷いてあった。その上を通って出入りするようになっている。ベニヤ板に覆われていない床を見ると、何やらドス黒いコールタールのようなものが広がっている。照明が薄暗いので目を凝らす。どうやら、大量の血が固まりかけているらしい。  血の沼に足を踏み入れたくない。警察が架けてくれたベニヤの橋を素直に渡った。  壁も床も板張りの広々とした部屋だった。二十畳くらいは優にあるだろう。オババの説明によれば稽古場《けいこば》だそうだ。大高監督はよくクランクイン前にスタッフや役者とここで合宿し、演出プランを練りあげていたらしい。その際に使われていた、折畳み椅子、台箱、平均台、姿見、シーツや毛布などが夢の名残りのように雑然と散らばっていた。  足の裏に冷たい異物感を覚えた。何か、金具らしき物が引っ掛かったようだ。指でなぞってみると、?マークのような形状をしていて、小指くらいの大きさの物だった。ちょうど、床にA4サイズほどの縁無しの鏡があったので、足の裏を映してみた。正体はカーテンの留め金だった。そっと外す。周囲に目をやると、近くの窓にグレイのカーテンが引いてあって、端の留め金がひとつ無くなっていた。カーテンのその箇所だけが、だらしなくうなだれていた。  足の裏が冷たい。俺は、指で靴下をまさぐる。鉤裂きができていて、地肌に触れた。  警察の現場検証が行なわれていた。この稽古場で演じられた最もセンセーショナルな芝居かもしれない。フラッシュがたかれ、指紋採取の粉がまかれ、証拠品が収集される。そういえば映画の撮影現場にも似ていた。忙しく人がすれ違い、怒ったような声で持ち場の用語を投げ合う。それぞれの領域で専門家たちが技をふるう。違うのは、主演の人間が、生きているか、死んでいるかだ。  主演は舞台のほぼ中央で、毛布の下に横たわっていた。水色の毛布は所々に大きな赤黒い染みが浮かび上がっていた。周囲の床を、血だまりが厚く縁取っていた。わずかに床が傾斜しているのか、血の河が入り口まで続いている。  干しコンブのようにやたら長くて黒い顔をした中年の刑事が近付いてきて、オババに挨拶《あいさつ》をした。入谷《いりや》という名で、奥多摩署の警部だった。  その後ろから、白亀が現われ、俺にうなずいた。入谷警部とは顔見知りらしい。白亀はグレイのトレンチコートとソフト帽という、『カサブランカ』のハンフリー・ボガートのようないでたちをしている。  俺たちは主演の傍まで案内された。  入谷警部はあらかじめ死体の状態を説明した。そして上体を屈《かが》め、血に染まった毛布の端を握った。目が、よろしいですか、と問い掛けていた。俺とオババは黙って頷《うなず》いた。  入谷警部はゆっくりと毛布をはいだ。  現物を前にしながら、俺の目はなかなかそれを認めようとしなかった。  裸の死体には、首と両腕が無かった。  組み立ての途中で投げ出されたマネキンを思い起こした。あるいは、ギリシアあたりの遺跡《いせき》に胴と足だけの彫像があっただろうか。  それらの連想を打ち消すのは、かつて首と腕があった部位の切断面だった。小さな赤い花が密集し、咲いて、弾《はじ》けたように見える。当分の間、食べられない物が幾つも出てきそうだ。下にも毛布が敷かれていた。流出した血をとっぷり吸って、膨らんでいた。  入谷警部が再び毛布で死体を覆った。  額の生え際から汗がにじみ出てくるのを俺は感じた。  オババは胸の前で祈るように両手を組んだ恰好《かつこう》で、長く長く息を吐いた。虚《うつ》ろな表情をしている。 「大丈夫ですか?」  俺は心底から案じた。死体がもう一つ増えると面倒なのだ。  オババは顔をこちらに向けて、「へええ」と空気漏れのような返答をし、 「三回目です」 「何が、三回目です?」 「こういうのを見たことです」 「頭とか腕とかが無い死体をですか?」 「私、人が駅のホームから飛び降りるのを今までに二回見たことがあるんです。だから、こういうのは、これで三回目。バラバラになった形は少し違いますけど」  くじ運の強い女なのかもしれない。  会話を聞いていた入谷警部が困惑気味の顔で口を挟んだ。 「どなたの死体か解らないでしょうね?」  期待のこもらぬ問いに、やはり、期待に沿わない答えをオババは返した。裸の死体が語っているのは、男であることだけだった。  警部は溜息《ためいき》をつくと、話題を変えた。 「お気付きかと思いますが、実に妙ちくりんな殺人現場です。いったい、何なんでしょうか? 死体の周りをあれこれ飾って」  あれこれ飾るように床に置かれていたのは二つの品。  キツネの面。寺社の土産物屋あたりで売っていそうなもので、狂言などで見かける純和風のデザイン。鮮血を浴びて、白い顔が赤くなっている。死体の左肩の近くに置かれていた。  もう一つの品は、帽子掛け。木製の、輪投げ台に似たシンプルな形で、親指ほどのフックが四つ付いている。高さも一・五メートルくらいの小さなものだった。なぜか、血で真っ赤に染まったシーツがてっぺんに結わえ付けられている。倒れた状態で、死体の右足の傍に横たわっていた。  オババはキツネの面を指さして、 「あれは、確か、『むせぶ狐火』という映画の時に買ったものですよ。三年前になりますかね。ここでの稽古の際に使ったんです。小道具はたいてい、あそこの箱にしまっておきますから、この面もそうでしょう」  なるほど、部屋の隅に風呂桶《ふろおけ》ほどの白い木箱があった。歩み寄って、覗《のぞ》き込む。木刀や玩具の鉄砲、太鼓に笛など、雑多な品々が無秩序に詰め込まれたガラクタ箱であった。  オババが帽子掛けについて解説を始めた。 「あれは主人が使っていたものです」入り口の方に顔を向け、「普段はドアのすぐ脇に置いてありました。小さな帽子掛けですから、ドアが大きく開くと、すっかりその陰に隠れてしまうんです。だから、時々、主人は悪戯《いたずら》半分に、稽古場から帽子を持ってきてくれ、と不馴《ふな》れなスタッフを行かせたものでした。たいてい、見つけられずに困惑した顔で帰ってきましたわ。  あと、帽子掛けに結わえられているシーツもこの部屋にあった一枚のようですね。稽古の際、マントや頭巾《ずきん》の代わりに用いられてましたわ」  シーツは帽子掛けよりも丈があった。てっぺんの結び目の辺りだけ白く残し、まるでもともと赤かったかのように、すっかり血に染まっている。よく見ると、端の一部が擦り切れていて、小さな裂目があった。そこに、わずかだが木の屑《くず》がこびりついていた。何だろう。手掛かりになるかもしれないので、覚えておこう。  入谷警部は長い顔を撫《な》でながら、 「それにしても、どういう意味があるんでしょう? 腕と首のない死体、キツネの面、シーツをくくった帽子掛け、何かのまじないでしょうか? あるいは一種の見立て殺人なのか? 見立てならば、どんな俳句や手毬《てまり》歌をネタにしたものなのでしょうか?」  次々と疑問を連発し、すがるような目で、周囲の顔を見回すが、誰も答える者はなかった。警部は張っていた肩を落とすと、オババに言った。 「この別荘に関することで幾つかお訊《き》きしたいことがあるんですが」  オババは応じた。俺の方を向いて、大丈夫だから同席はしなくてもよい、と告げると、警部に伴われ、稽古場を出ていった。  白亀が皮肉めいた口調で俺に話しかける。 「副将軍の次は弁護士かい」 「依頼人が勝手に言っただけだ」 「僕より賢そうな設定が気にくわん」 「じゃ、カメさんは医者になったら?」 「大昔、そう思って勉強したことがある。どこで間違ったのか、刑事になっていた」 「どちらにしろ、死人とのお付き合い」 「医者と違って、刑事は死人を作らん」 「医者より善人、だから、もうからない」 「それで刑事を辞めた奴もいる」 「それは、カメさん、あんたのこと。で、もと刑事どの、そろそろ、ここで仕入れた情報をお聞かせ願いましょう」  白亀は口端を歪《ゆが》めて笑うと本題に入った。 「ガイ者には首を絞められた痕跡《こんせき》があるらしい」 「残された首の部分から発見された?」 「そう。で、絞殺の可能性が大だ。それと体の数ヵ所に打撲の跡がある。ステッキで殴られたらしい。ステッキはもとは玄関に置いてあったもので、この部屋で発見された」 「じゃあ、ステッキで殴られてから、絞め殺された」 「ああ。ステッキで襲いかかってくる犯人から、ガイ者は懸命に逃げ回っていたようだ。廊下の壁や、階段に架けられていた絵画の額に、振り回したステッキがぶち当たったと思われる傷が幾つか発見されている。一階から二階へ死の鬼ゴッコを繰り広げた末に、ガイ者はこの部屋に追い詰められて、殺されたという展開だ。大雑把だが、死亡推定時刻は、夜の九時から十一時の間くらい。ガイ者の身元は不明」 「北宮兼彦、の可能性がある、というのはどういうわけだい? 電話で警察がそう言っていた、って依頼人から聞いたけど」 「そうなんだ。それについては、後で話す。死体の発見者からも話を聞いて欲しいんだ」 「わかった」 「ちょっと見てくれ」  白亀は、折畳みテーブルに近寄った。証拠物品が並べられていた。名札を付けられ、ビニールに包まれている。  その中から、斧《おの》を指さした。留め金が無くて刃と柄がバラバラになっていた。刃渡りは二十センチほど。かなり古い物らしい。表面の銀に光沢がなく、ところどころ錆《さび》もかなり出ている。錆よりも鮮やかな赤茶は血のりの色だった。 「この斧で死体を切断したんだ」白亀が言った。「もともとから、刃と柄はバラバラだったそうだ。もちろん、犯人は刃を柄に差し込んでちゃんと斧の形に組み立てて使用した。  切断の方法を解説すると、まず、斧を死体の首、あるいは腕の付け根に当てる。それから毛布で死体を覆う。そして、金槌《かなづち》で毛布の上から斧を叩く。血が噴き出るが、毛布でカバーしているので、犯人にはかからない。何度か金槌を振り下ろせば切断完了、というわけだ」  問題の金槌もテーブルの上にあった。家庭で使われているごく普通のものだった。      9  白亀は「ついてこい」と言って、稽古場《けいこば》を出た。俺は跡を追う。階段を下り、一階の廊下を鉤形《かぎがた》に沿って抜けて、玄関に辿《たど》り着く。手前の小部屋に、白亀は顔を突っ込み、声をかけた。 「お待たせして、すいません」  出てきたのは、眉毛《まゆげ》の濃い、小柄な中年男だった。猫背の体型に、紫の蛍光色のダウンジャケットが可笑《おか》しいくらい似合わない。  白亀に紹介された。  男は死体の発見者だった。普段は近所で貸し自転車屋を経営しているらしい。  三人連れだって、家の外へ出た。  人だかりが門の代わりをしていた。冷たい夜気に、肩肘《かたひじ》を寄せ合い、固くひしめいている。息と体温で白くなった空気が湯煙のように立ちのぼっていた。  見物人の壁を、隅の方から、横歩きで割りながら突破した。坂道を上る。ゆるいカーブが、別荘の二階に接近している地点で立ち止まった。 「死体を発見したのはここらへんからでしたよね?」  白亀が中年男にきいた。  男は口の中でモゴモゴ言いながらうなずいた。  なるほど、死体のある稽古場の窓がほぼ同じ高さにあった。直線にして五メートルも離れてないだろう。グレイのカーテンの向こうで時折、鑑識のフラッシュが光った。 「発見したのは何時ごろでした?」  白亀が問う。  男は緊張しているらしく、幾度か言い掛けては止め、ようやく言葉にした。 「十一時半くらい。それより、ちょっと前だったと思う」 「家へ帰る途中だったんですね?」 「はい、友人の家で麻雀《マージヤン》やってて、その帰りでした。仲間と一緒に三人で歩いてて、ここを通り掛かったんです。そしたら、大高さんの別荘に明かりが点《つ》いてて、ちょうど、あの窓が目に入ったんです」  最も近い稽古場の窓を顎《あご》で示した。 「カーテンは開いていた?」 「はい、中は丸見えでした。そして、アレが見えた。私ら三人とも驚いて、何と言うか、ヒェーッてカンフーみたいな大声あげましたよ」 「思い出したくないでしょうけど、お願いします」  男は唾《つば》を飲み込むと、つっかえながら、 「最初は自分の目が信じられなかった。死体が転がっていること自体がとんでもないことなのに、ましてや、あんなひどいのってありますかね。なんせ、腕と首を切り落としてるんですからね。プラモデルの部品みたいに、バラバラに置かれてて、おぞましいったら、夢に出てきそうだ」 「ちょっと待って」俺は口を挟んだ。「バラバラに置かれてて、というのは?」 「はい、そうなんです。気味の悪いのはそのことなんです。首と腕のない死体のそばに、切断された首と腕が落ちていたんですよ」  俺は目で先を促した。  男は声を上擦らせながら続ける。 「ええ、そして、私どもは、大変だとばかりに、坂を駆け下りて、別荘のドアを叩《たた》いたんですけど、誰も出てきやしません。で、ここから一番近い、百メートルばかし先の公衆電話から警察に連絡しました。三人いっしょの行動です。あんな気持ち悪いもんを見たすぐ後ですからね、仕方ないっすよ。十分くらいして、警察が別荘の管理人を伴って到着したので、一緒にあの窓を見たら、いつのまにかカーテンがかかってて中は見えなくなってんですよ。それで、警察の人がドアの鍵《かぎ》を開け、気は進まなかったんだけど、一緒に中に入って、死体のある部屋の前まで行ったんです。  ところが、ドアは錠がかかっているらしくて、開かないんですよ。管理人の話によるとその錠は室内からしか操作できない、カンヌキ式の差し込み錠なんだそうです。そして、床を見ると、ドス黒い液体がドアの下から広がっているんです。照明が暗いので、ドス黒く見えたんですが、どうやら大量の血であることが解りました。非常事態であることを確信した警察官と管理人はキックを数回たたきこんで錠を破壊して、ドアを開けました。そして、あの凄惨《せいさん》な殺人現場を目にしたわけです」  俺は思わず口を挟む。 「中には死体以外に人の姿は無かった?」 「ええ、生き物の姿はまったく。それに、窓もロックがかかっているんです」 「犯人は異次元にでも消えちまったっていうのかい。これって、もしかして、いわゆる、密室殺人ってやつかいな?」  なんか推理小説の世界にでも放りこまれたようで気分がうきうきしてきた。俺もめでたく名探偵の仲間入りだぜ。  喜悦が顔に出たらしい。俺にウケていることを知った男は嬉《うれ》しそうに口舌をふるう。 「不可思議なのはそれだけではありません。部屋の中に、例の死体はあったんですけど、首と腕は消えて無くなってんですよね。おかしいでしょ。外から見た時は、首も腕も確かに床に転がっていたんです。三人とも見てるんですから、見間違いってことはないはずですよ。酒だって、麻雀やりながらだから、酔っ払うほどは飲んでませんでしたし」  男は自分の話に高揚したらしく、顔を上気させていた。  俺は訊いた。 「その落ちていた首の正面、つまり、顔は見えました?」 「はい、ちょうど、額の上の方がこちらを向いてましたから」 「どんな特徴の顔だったか思い出せます?」 「ええ、そりゃ、顔見知りですから」 「知り合いの顔?」 「ええ、あれは、北宮さんの顔でした」 「助監督の北宮兼彦?」 「そう、大高監督のお弟子さんの北宮さんに間違いありません」  男はきっぱりと言い切った。その証言を固めたいのか、 「近所の親睦《しんぼく》として、大高さんに、この別荘のパーティーに呼ばれたことが何度かあります。その時に、北宮さんと言葉を交わしてますから、見間違うことはないはずです。私だけではなく、一緒にいた二人にしても同様です。北宮さんの首だったと、はっきり言ってますよ」  俺と白亀は、二つ三つほど細かいことをきいてから、礼を言い、男を解放した。男は得意そうに鼻をふくらませ、人だかりの方へ凱旋《がいせん》した。  探偵ふたりは再び家の中へ入り、殺人現場である二階の稽古部屋に戻った。ドアに注目する。木目をそのまま生かしたドア。下の蝶番《ちようつがい》がもがれたように外れており、ネジ穴が見え、その周囲の木がえぐられていた。上の蝶番も外れかけていて、わずか、ネジ釘《くぎ》二本でドアをぶらさげている状態だった。警察官らが蹴破《けやぶ》った痕跡《こんせき》らしい。錠は、十センチほどの鉄のカンヌキを横に滑らせて、受け金に差し込む方式のものだった。その受け金が脇柱からすっかりもぎ取られ、カンヌキ棒にはまっていた。脇柱にはネジ釘の穴が四つあった。  オババは刑事から解放されていた。手持ち無沙汰《ぶさた》な様子で一階の廊下をうろついている。 「私のアリバイ成立しましたわ。近所の句会に出席しておいてよかったです」嬉しそうに語る。  訊きたいことがあった。 「あの死体を切断するのに使われた道具はこの別荘にあった物ですか?」  オババは、鼻でウンと肯定し、案内をはじめた。  玄関を上がったすぐ脇の物置部屋に連れてこられた。人がやっと擦れ違えるくらいの細長い造り。左右の壁に二段の棚がしつらえてある。スコップや竹箒《たけぼうき》、庭いじりの道具といった日用品が整然と収められていた。  正面の壁には、太い釘が打たれ、そこに、ナタが柄の穴を引っ掛けて吊《つる》されていた。手入れが行き届いているらしく、刃が光沢を放っていた。  オババは手前の棚の下から、ミカン箱ほどのアルミの箱を引きずり出した。片手で持てるように、上に把手《とつて》がついている。  オババは箱の留め金を外して、蓋《ふた》を開けた。白い麻の袋が出てきた。ずん胴型の単純な形の袋で、ショルダーバッグのように肩紐《かたひも》がついているが、それで口をしめるような作りにはなっていない。丈夫さだけが取り柄の袋のようだ。中には大工道具一式が収納されていた。 「警察の説明ですと、犯人は斧《おの》と金槌《かなづち》を用いたそうですね。私、それらを見せてもらいました。あの金槌は、この大工用具袋にあったものですわ」  オババの解説に、俺は黙ってうなずいた。  次に二階へ上がる。途中、階段の踊り場に西洋の甲冑《かつちゆう》が飾られていた。おかしなことに胴の部分がすっぽり抜けている。甲冑を支えている中の支柱が丸見えだった。  オババはそれを指差して、 「これも犯人が持ち去ったらしいんですよ。アルミ製のまったくの装飾品だから軽いんですよ。お腹と背の部分と二つに分解できますしね」 「体の部品ばかり集めやがって、この犯人はモツ焼き屋の家系かもしれん」  俺は甲冑の頭を叩《たた》く。確かに軽そうな音がした。  二階。死体のある稽古場のすぐ隣の部屋。そこは小さなアンティークショップのようだった。壺《つぼ》、柱時計、掛け軸、ガラス細工のミニチュア、仏像、安楽椅子、ランプ、和洋入り混じって様々な骨董品《こつとうひん》が雑然と押し込められている。無数の塵《ちり》が宙にきらめくのが見えた。 「映画の道具係の方から、いらなくなったのを譲ってもらっているうちに、こんなにたまっちゃって……。使いもしないのに……」  壊れたオルゴールのようにボヤくと、オババは、飾り棚の上を指差して、 「ほら、ここです。跡が残っているでしょ。犯人は、ここに置いてあった斧を使ったんですよ」  斧の形だけ残して、埃《ほこり》が積もっていた。  その隣には、一抱えほどの西洋の鐘が無造作に置かれていた。鐘を叩くためのハンマーもそばにある。どちらも、部分的に黒ずんでいるが、力強く銀を輝かせていた。その眩《まばゆ》い光を見ているうちに、俺は頭の中で何か引っ掛かるものを感じていた。  オババが大あくびをした。      10  車にオババを乗せて、別荘を出た。  空の彼方《かなた》が朱色に染まり始めている。それまで闇に塗り潰《つぶ》されていた山々の稜線《りようせん》がくっきりと浮かび上がっていた。  来る時と違う道を走ると、起伏の激しい箇所にぶつかり、やたらと車が揺れた。おかげで唇の裏を噛《か》んで、出血してしまった。鼻血よりはマシだろう。出血で最もカッコ悪いのはなんといっても鼻血だ。 「この先を左に折れると湖ですよ」  後部席のオババが言った。 「奥多摩湖ですね。別荘から、よく行くんですか?」 「先月の初め、行ったばかし」 「じゃ、別荘に遊びにきたわけか」 「そう、主人の一周忌に備えて、持って帰りたいものなんかもあったから」 「車で行ったんですか?」 「ええ。北宮さんの車で」  首の件が脳裏をよぎる。首の無い北宮が車を運転しているシーンを想像してしまった。前日、妙なビデオ二本を見たせいだろう。  オババは淡々と言葉をつなげる。 「北宮さんは、奥様の季穂《きほ》さんもいっしょでしたわ。それに、賑《にぎ》やかな方がいいって私が言ったら、北宮さんは、野杉《のすぎ》さんと加古川《かこがわ》さんにも声かけてくれて。結局、加古川さんしか来れなかったけど」 「野杉さん、加古川さん、というのは?」 「二人とも、壇さんの会社の方ですよ」 「プロデューサーの壇さんの会社、〈ジャン・カンパニー〉の社員ということ?」 「そうです。野杉さんは、主人や壇さんや北宮さんと同じ〈大光映画〉の出身で、昔からのお付き合いです。年齢の近い北宮さんとは親友の間柄といったところ。だから、来れなかったの残念がってましたわ。そうそう、北宮さんと季穂さんをくっつけて結婚させたのは野杉さんですよ」 「いい人だ」 「だから、いまだ独りもんよ」  なら、俺もいい人だ。 「加古川さんというのも、〈大光〉出身?」 「いえ、あの人はずっとフリーでやってこられた方ですよ。確か、自主映画の世界から出発したって聞いてます。雑誌をスポンサーに付けて、自主映画のコンテストを主催して、そこから出てきた監督に映画を撮らせるようなことをしてたんです。しかも、それらの作品をきちんと映画館で興行し、商売として成立させてました。そうした活動から、独立プロや若手監督たちとのつながりが出来て、小さな作品をプロデュースするようになったんです。低予算をやりくりして作り続けて、若い映画人の間では兄貴分的な存在でした」 「それで、壇さんに引っ張られた」 「そう。でも、本人は、いずれは自分の製作プロダクションを持つつもりなんでしょう。ちらっとそう言っていたの聞いたことあります。あと、最近は、北宮さんの監督作品をプロデュースするつもりだったみたい」 「北宮さんの映画監督デビュー作品?」 「ええ。テレビ番組や予告編とかで、北宮さんの才能を加古川さんはずいぶんと買ってたらしいですよ」 「しかし監督デビューならぬ棺桶《かんおけ》デビュー」  つい言ってしまう、俺の出来心。 「私のデビューの日も近い」オババはまったく動じない。「あ、そうそう、あの日は、野杉さんの代わりというのも変だけど、千佳子《ちかこ》さんも別荘に来てくれたんですよ。加古川さんが誘ったらしくて」 「千佳子さん?」 「伊戸監督の奥さんよ……別居中の」 「じゃ、伊戸監督には声をかけなかった?」 「そりゃそう。あの人は、かれこれ二年くらい別荘には来てないわね……。で、千佳子さんが来たぶん、うんと賑やかになりました。こないだは別荘にそれだけ人が集まったから、久しぶりに楽しかったですよ。湖へ行って、ボートに乗ったりなんかして。ロッジを湖の近くに持っているんですけど、加古川さんには、ガタのきてたテーブルや椅子の修理までしてもらって、本当に助かっちゃいました。主人が亡くなってから滅多に来ることもなくなりましたからね。今度は、〈海の荘〉にも行かなくっちゃ」 「海にも別荘を持ってるの?」 「そう、下田の方に」 「さっきの奥多摩の別荘は、〈山の荘〉?」 「ええ」  オババは答えると、子供がむずかるような口調で、 「あのあの、紅門《こうもん》サマ、私の方にも質問があるんですけど」 「どうぞ」  好きな体位は? とは来るまい。  オババは咳払《せきばら》い一つして、 「好きな体位は?」  なんてね、これは嘘。  オババは咳払い一つして、 「なんで、紅門サマはテレビ局の記者を辞めたんですか?」  俺は首を曲げて骨を鳴らすと、 「ある事件を報道した時に、俺ひとりの判断で、被害者の名前を仮名にしたんです。それも、Aさん、Bさんじゃ味気ないから、アトムさん、ウランさん、コバルト兄さんって呼んだんですよ」 「それ、テレビに流れたの?」 「いえ。運悪く、中継車が故障してた」 「なんで、紅門サマ、そんなことしたんですか?」 「事件に直接関係もない視聴者たちが被害者の名前まで知る必要はないでしょ」 「それで、あなたはクビ?」 「虚言症あつかいされてね」  フーン、と感心したような声を洩《も》らすとオババは言った。 「さしずめ私に仮名をつけるとすると何にしてくれます?」  俺は数秒だけ考えて、 「ゴーゴン」  返事がない。代わりに、ズーズーと音がする。寝息だった。フロントミラーの中で、オババは干し海老《えび》のように縮こまっていた。  成城の宅に着いたのは七時過ぎだった。  オババは世田谷通りに入ったあたりで目を覚ましていた。一時間の熟睡だったらしい。顔が晴れ晴れとしていた。  空も晴れていた。出勤に向かう大型車が家々から顔を出す。ご苦労さま。こちとら夜勤明けだ。頭の地肌が脂っぽくなっているのが解る。節々も強ばっていた。力ずくで開け続けていた目蓋《まぶた》はバカになり、中に針金が入っているようだった。 「コーヒーでも飲んでらしてください」  オババが言った。  ありがたい。俺は遠慮しなかった。  門の横のスペースに車を置いた。  オババに従い、通用口からお邪魔した。  シンメトリックなデザインの大きな二階建て家屋だった。敷石が玄関まで続いていて、多種の木々がアーチのように迫っていた。枝葉の隙間から広々とした芝生が見え隠れする。黄ばみがかっているのは冬の色だ。  玄関の前にひさしのような屋根が突き出ている。その近くに、ポツンと一本だけ、ヒイラギらしき樹が植わっていた。ノコギリに似た葉は艶《つや》やかな緑で、赤い実の鮮やかさを引き立てていた。  毛で覆われたスリッパをはいた俺は、応接間に通された。絨毯《じゆうたん》もスリッパと同様、ふんわりと柔らかな感触だった。クッションのきいたソファに腰を沈める。気をゆるめると眠ってしまいそうだった。  オババはエアコンを調節すると、 「ちょっと電話をかけてきます。主人の一周忌のことで、お寺の方へ打ち合せに伺うことになってたんですけど、疲れちゃって。お断りを入れとかなければ」  一時間の仮眠では、坊さんとの会話は辛かろう。  コーヒーが運ばれてきた。昨晩、会ったオババの娘らしき三十女だった。再び目礼を交わしあった。相変わらず不審げな目だった。俺も昨晩と同じ笑顔を作ったが、睡眠不足のため、ちょっと崩れていたかもしれない。女は急ぎ足で出ていった。  ブラックで飲む。明け方、デコボコ道で噛《か》んだ唇の裏にちょっと沁《し》みた。そんなことは気にならない。旨い。カフェインが腹の底に広がっていくのを心地よく感じ入っていた。  オババが戻ってきた。  俺はカップを持ち上げて、 「いただいています。運んできてくれたのは娘さんで?」 「ええ、長女の真由子《まゆこ》です。私は娘夫婦と住んでいるんです」 「娘さんのご主人も映画関係?」 「ええ、映倫に勤めてます。主人が生きてる頃は、残酷表現の解釈をめぐって、義理の親子でモメてましたっけ。……あの……」  オババは落ち着きがなかった。微笑みが引きつり、おののいた表情が下に見える。絡み合わせた指を絶え間なく動かしている。 「どうしたんですか?」  俺は柔らかな口調を心がけて、尋ねた。 「変なんです。不思議なんです」 「変、って、映倫が?」  オババは一瞬、目を曇らせて、 「いえ。……そうじゃなくって、お寺の方の話です」 「電話をかけた寺のことですね。何かあったんですか?」 「ええ。不思議なんです。住職さんが見たらしいんです……、北宮さんが歩いている姿を」 「北宮さんを? いつのことで?」 「未明の三時頃だそうです」  俺の中の眠気が散り散りになっていく。  北宮兼彦の生首が殺人現場で目撃されたのは昨晩の十一時半だ。それから数時間後に、北宮が歩いていたとは……?  オババは続けて言った。 「未明の三時頃、北宮さんは墓場を歩いていたそうです」      11  コーヒーを二杯お代わりをすると、すぐさま、調布の〈富蓮寺《ふれんじ》〉を訪れた。  門から全景が見渡せる。本堂の前には鳩の群れしかいなかった。昼前の陽射しが玉砂利の白さをひきたてるが、かえって寒々しい。  境内の裏に隣接するようにして、住職の宅があった。大きな瓦《かわら》屋根を乗せた二階建ての家屋。松や椎《しい》などの常緑樹が高々と取り囲んでいる。  作務衣《さむえ》を着た若い坊主が縁側のガラス戸を磨いていた。雑巾《ぞうきん》の代わりに、新聞紙を丸めて、バケツの水に浸したものを使っていた。  俺が近寄って挨拶《あいさつ》すると、若坊主は住職の居所を教えてくれた。  言われた通りに、家屋の横に回りこんでみる。異様な光景にぶつかった。  小さな庭があって、椎の木にぶらさげたサンドバッグに激しくパンチを打ち込んでいる坊主頭の男がいた。五十代だろうが、裸にむきだした上半身には筋肉が浮き出ている。汗で光ったピンク色の肌が上気し、白い煙をあげている。  俺が声をかけると、男は強いストレートをサンドバッグに決め、そのポーズのまま、「南無三」と呟《つぶや》いた。  この男が住職だった。中背で猪首《いくび》、鼻がひしゃげたように低い。坊さんよりも、ボクサーになりたかったらしい。相手をKOしてから、念仏を唱えてやる、仏心にあふれたボクサーになれただろう。  俺は、ついさっきオババから聞いた怪談めいた話を繰り返した。そして、より詳しく聞かせて欲しいと頼んだ。  住職はタオルで体をぬぐいながら、 「大高夫人からの頼みなら協力しなければなりませんね。それに、昨日は、探偵さんとの約束を反古《ほご》にしちゃったし」  例の急な法事のことを謝ってくれているのだ。さすが、仏の道に仕える者、人間が出来ている。安心した。てっきり、スパーリングの相手でもさせられるかと思っていた。  住職は作務衣をはおり、裸足を下駄に入れる。現場へ案内してくれるらしい。  俺は跡に従いながら、 「大高家とは親しいようですね」 「私が映画好きのためかもしれません。よくチケットをいただきます」 「一番、好きな映画は?」 「『エクソシスト』。ビデオも持ってます」  てっきり、『ロッキー』『レイジング・ブル』『チャンプ』『傷だらけの栄光』『ボクサー』のいずれかだろうと予想していたが、大きく外された。そうか、『エクソシスト』の主人公カラス神父はボクシングジムに通っていたのだ。  縁側の前を通ると、さきほどの若い坊主がガラス戸を磨きながら、 「住職、墓石を倒さないでくださいよ」  何やら物騒なことを言う。  当の住職は口元で謎のアルカイックスマイルを浮かべるだけだった。  板塀に沿って歩いた。途中、通用口が切られていて、扉を押して外へ出た。  墓地が現われた。およそ、五十メートル×三十メートルの広さはあるだろう。人の背丈ほどの椿が周りを囲んでいた。花の赤と白が墓場には冗談のようだ。  その椿の塀の向こう側に、大きな桜の樹があった。春にはピンクの花も加わるわけだ。ずいぶんと明るい墓場ではないか。住職の観光ガイドによれば、この桜は、昔々、弁慶が野宿した際に枕にしたと伝えられている岩のすぐそばに立っているので、弁慶桜と呼ばれている。  住職は振り向くと、宅の方を指した。 「あそこに窓が見えますね。下半分が曇りガラスのやつです。私が見たのはあの窓からです」  家の一階の横側。二本の松の間に、その窓は見えた。  住職は、林立する墓石に仕切られた細い道を進んだ。墓と墓の間は狭く、かなり人口密度の高い墓地のようだ。  立ち止まり、 「確か、ここらへんですよ。北宮さんが歩いていたのは」  椿の塀に近かった。  この位置から、住職の目撃地点の窓まで、およそ十メートル弱だった。外の道路には街灯がある。ある程度の光は届く。人間の顔は充分に確認できるはずだ。視力に問題がなければ。  こちらの思考を読んだのか、 「ちゃんと眼鏡をかけてましたから、見間違いではないと思います」  今はコンタクトをしているらしい。  住職は話を続ける。 「昨夜、というより、今日ですね、午前三時ごろです。雨戸のロックを掛け忘れていたので、風でカタカタ鳴ってうるさかったんですよ。それで目が覚めてしまって。起きて、ロックを掛けにいったら、外の方から、何か物を叩《たた》いているような音がするんですよ」 「どんな物を叩いている音でした? 金属的であるとか」 「いえ、金属じゃありません。そうですね、鞭《むち》を打つような、それか、キャッチボールをしているような、パンッパンッというような音でした。数秒後にはその音はやんだんですけど、気になってしまって、窓をいくつか覗《のぞ》いたんです。そして、あの窓から見たら、墓地のここらへんを北宮さんが歩いているじゃないですか」 「それは、確かに北宮さん?」  失敬を承知で念を押した。  住職はやはり人間が出来ている。つゆとも不快な表情を見せない。坊さんとポーカーをするべきではない。 「北宮さんに間違いありません。横顔でしたが、はっきりと確認しました。去年、大高さんが亡くなられた時、通夜、葬儀、初七日と北宮さんはまめに大高夫人のお手伝いをされて、私は何度も会って話してますから、顔はよく存じています」 「北宮さんは、ここらへんを歩いていて、それから?」 「まっすぐ歩いて、墓地の外へ出ていきました。そこから後は、窓からは見えない場所ですので」  住職が指し示す辺り、椿と椿の間をくぐり抜けて北宮は墓地から去ったらしい。およそ五メートルほど歩いているところを目撃されたことになる。 「北宮さんはどんな様子でした?」 「そうですね、私が見た位置からだと、墓石や卒塔婆《そとば》の陰で、肩から上しか見えなくって全身の様子は窺《うかが》えなかったんですが、青ざめて憔悴《しようすい》したような顔をしてましたっけ。目はうつろで、凍りついたみたいに表情が動かないんです。こんなとこで何ですが、死人を連想させられました」  そう言って、少し後悔がよぎったのか、住職は目をそらした。  風が走り抜けた。  俺はツイードのジャケットの前を掻《か》き合わせて、 「北宮さんは、大高さんの墓に来たんでしょうかね?」 「それは考えられるでしょう。北宮さんが歩いていた場所からして」  住職は細道を進んだ。  まっすぐ行ったところに、大高誠二の墓があった。赤い実を付けたヒイラギに似た枝が供えられていた。さきほど、大高邸の庭で見た樹と同じ種類のようだ。  オベリスクのような角塔婆は、まだ木の香りがする、眩《まぶ》しいくらいの白木だった。戒名の墨文字も漆のように黒々と光っている。 「立てかえたばかりの新品ですね」  俺が言うと、住職は眉《まゆ》をへの字にして、 「取り替えなくてもいいって、私は大高夫人に申したんですけどね。あと少ししたら正式な墓石を建てるんですから」  遠くでカラスが鳴いた。「可」。住職の合理主義に賛成しているらしい。  俺は、十一月十六日の怪談に話を移す。大高入道の角塔婆が散歩した件である。 「カラオケボックスはあれですね?」 「そうです。外装はもう完成してます」  椿塀の外の道路沿い。弁慶桜から十メートルほどの場所に、オレンジ色の真新しい二階建てが見える。カラオケボックスの名の通り、箱形のシンプルな形をしているらしい。  大高入道の墓の位置から、直線距離で確かに約五十メートルはあった。  俺はきいた。 「先月の十六日、明け方、角塔婆がカラオケボックスの屋上に立っていたんですよね。それを、住職が発見した経緯というのは?」 「明け方、事故があったんですよ。前の道路を七、八十メートルほど行った交差点で。酔っ払い運転の車が百キロ以上の猛スピードで暴走して、信号に突っ込んだんですよ。もちろん、ドライバーは即死です」 「で、住職は近所なので現場へ行ってみた」 「そうです。騒がしくていやでも目が覚めますよ」 「そして、事故現場で念仏を唱えた」  住職は照れたように頷《うなず》く。 「ま、一応。でも、後日、クリスチャンの家系だと解って」 「損しましたね」 「ええ。それで、事故現場からの帰りに、建築中のカラオケボックスを見上げると、あの異様な光景があったというわけです」 「なるほど。考えてみると、一歩間違えば、暴走車はカラオケボックスに突っ込んでいたかもしれませんね」 「もう一歩、間違えば、うちのこの墓地に突っ込んでたかもしれない」 「その場で、埋葬されたりして」 「いえ、クリスチャンでしたから」 「こだわりますね」 「なんせ、あの車は十字架を倒したというオチまでついてますから。近所に教会幼稚園がありましてね、その通園バスの停留所があの弁慶桜の下にあるんです。停留所の標識の先っぽが十字架の形。その標識を暴走車はへし折ってしまったんですよ。折れた標識はうちの椿塀に突っ込んでました」 「クリスチャンが酔っ払い運転で十字架を倒したわけか。それで、天国へまっしぐら。罪から罰まで数秒の展開。神様も判断が早いですね」  うちの家系は確か仏教徒。車を寺の山門などにぶつけぬよう注意しよう。  一通り、知りたい話は聞いたので、俺は住職に礼を言って、墓地の出口に向かった。  扉を閉めながら、振り返る。  シュッシュッと息を鳴らして、住職はシャドーボクシングをしながら、密集した墓と墓の隘路《あいろ》をジグザグに走り抜けていた。そのうちに、拳《こぶし》が当たってしまい、墓石が倒れるのを、確かに俺は見た。      12  俺は、墓場の幽霊事件の詳細をオババに電話で報告してから、渋谷へ車を飛ばした。  目的地は、壇活樹の経営する映画製作プロダクション〈ジャン・カンパニー〉。そこの社員である加古川|敏久《としひさ》に会うためだ。  オフィスは東横線と明治通りに面したマンションの七階にあった。それにしても、〈ジャン・カンパニー〉とはどういう意味だろうか。焼肉のタレではあるまい。  ブザーを鳴らし、インタフォンに来意を告げて、中に入る。  顎《あご》のしゃくれた、三十代半ばの女が応対に出てきた。やせ細った体を黒のセーターとパンツで包んでいる。茶に染めた頭髪のてっぺんが麦畑のように突っ立っていた。なんだかパンクにいかれた魔女を思わせる。  ソファに座ると、俺は言った。 「その頭なら、縁起のいい宴会芸ができる」 「どんな」 「茶柱」  ちょうど、三時のティータイムだったようで、パンク魔女は自分のカップにドリップしたコーヒーを注ぐ。そして、俺にはインスタントを入れてくれた。  3DKルームを改造したつくりのオフィスだった。六つあるデスクにはパンク魔女がいるだけだった。奥にもう一部屋、たぶん応接室だろう。壁にはパネル張りのポスターが数点、飾られている。この〈ジャン・カンパニー〉が製作した映画のようだ。  FAXがカタカタ鳴っていた。パンク魔女がのんびりとパソコンを叩《たた》く音。そんな静かな午後のひとときを破って、奥の応接室から女のヒステリックな声が聞こえてきた。 「それじゃ、壇プロデューサーにちゃんと伝えてください!」  荒々しくドアが開かれる。  二十代後半くらいの女が出てきた。鼻がちょっと上向きかげんな小作りの美人。まなじりを吊《つ》り上げて、下唇に歯を当てていた。厚めの茶封筒を胸にかき抱くようにしている。急ぎ足で俺の前を通り過ぎると、ドアにまっすぐ向かい、出ていった。  応接室から男が現われた。まいったな、という顔をしている。  その男が、加古川敏久だった。背丈は俺と同じくらい。年齢も三十代後半で俺に近い。眉毛《まゆげ》がブーメランの形にとがっているのが特徴的だった。目鼻立ちも輪郭線が太く、舞台映えしそうである。  パンク魔女が俺の名前と職業を報告した。  加古川は、右のブーメラン眉をあげて、 「霊園の勧誘じゃないんですか?」  二十分ほど前、その件で電話したのは俺だった。在不在を確かめるためだ。  俺は白目をむいて誤魔化し、 「取り込み中でした?」  話題をそらした。  加古川は苦笑いしながら、 「今、えらい剣幕で出ていった娘は駆出しのシナリオライターですよ。うちの壇と約束していたのにスッポかされた、って怒ってました。シナリオの直しをさんざん命じられて今日の午後が締切のはずだったらしい」 「大魔神の表情だった」 「まあ、概して、シナリオライターは女の方が気性が激しい。ホントです。それに彼女が憤慨するのも無理ない。これ」  そう言って、クリップで束ねたメモをパラパラとめくり、 「ほら、彼女がついこのあいだ提出したシナリオの原稿がもうカッターで半分に切られ、メモ用紙にされている。壇さんもちょっと酷だよ」  壇という男の本性を垣間《かいま》見たような気がした。 「ところで、探偵さんのご用は大高さんの別荘の事件ですね。警察も来ましたよ」  加古川は張りのある声で言った。啖呵《たんか》を切ると上手そうだった。  俺はうなずいて、 「北宮さんに関する話が聞きたくて」 「願わくば、アポ取って欲しかった。これでも結構スケジュールが詰まってるんですよ。もう出掛けなければならないし」  そう言って、加古川は素早く目薬をさし、リップクリームを塗った。瞳《ひとみ》と口元がキラキラと輝いている。 「じゃ、途中まで歩きながらでも」 「じゃ、下の駐車場まで、探偵さん」  俺は加古川と連れ立って外に出た。  時間を無駄にできない。俺はさっそく始める。 「北宮さんの才能を評価していたと聞きましたが」 「ええ、深夜枠のテレビドラマですとか、メイキングもの、いわゆる、映画作りのプロセスを追ったドキュメントですね、そういったものを北宮さんはこれまでに何本か手懸けていて、僕はセンスの良さを買ってました。カットのつなぎ方なんて大胆なくらいに省略して、それでいて筋の意味を損なうこと無く、むしろ、より効果的に伝えているんですから」  エレベーターに乗るかと思っていたら、加古川はその前を通り過ぎた。そして、鉄扉を開けると、階段を降り始めた。少し、時間を作ってくれたわけである。 「サービスです」  俺は素直に礼を言ってから、 「それで、ホンペン、いわゆる劇場用映画での、北宮さんの監督デビューを計画していたそうですね?」 「ええ、ホンペンでね」口端で一瞬笑って、「北宮さんが自ら脚本を書いてました。ところが、先月の初め頃に完成させることになっていたんですけど、突然、『駄目だ、当分できそうもない』なんて思い詰めたような顔で言い出して……。僕が何を言っても、ただ、『思っていたように上手くいかない』って繰り返すだけなんですよね。四十過ぎても映画青年の純情を持ち続けるような人だから、性格が生真面目なんでしょう、自分で自分を追い詰めてしまったんじゃないかな。そう思ったんで、北宮さんの気持ちが安定するまで、そっとしておくことにしましたよ」 「どんな脚本が上がる予定だったんです?」 「詳しいストーリーは教えてくれませんでした。自信があったのと、予備知識なしで僕に読ませて、驚かせたかったんでしょう。ジャンルで言うと、ホラー、怪談もの、怪奇幻想の映画だったようです」 「師匠ゆずり」 「そう、入道どのの系譜」 「オリジナル?」 「ええ。それが災いしたんだな。北宮さんが袋小路に入っちゃったのは……。原作ものの方を勧めてみるべきだったか……」  加古川は下唇を突き出した。  その横顔を俺は横目で見ながら、 「小説か何か、原作の映画化も考えていたんですか?」 「ええ。怪談ものではないんですが」  作者と題名を言った。聞いたことのあるものだった。  俺は問う。 「その原作、加古川さんが映画化権を?」 「いえ、持っているのは北宮さんです。あの原作は、他にも映画化したがっている監督がいますよ。結構、人気あるんですね。前も問い合わせてきたのがいましたっけ。北宮さんが初監督するという情報をどこからかつかんで、『あの原作を映画化するのか』と心配そうな残念そうな顔をして、僕のところへわざわざ聞きに来た監督がいましたよ」 「監督の名は?」  ちょうど地下駐車場に到着した。同時に、加古川のコートのポケットの中で携帯電話が鳴った。  失礼、と言って、加古川はちょっと離れると、数分間、通話していた。その間、意味ありげに幾度か俺の方を盗み見た。何か企《たくら》んでいるような目付きだった。  通話を終えた加古川に、俺は再度、さきほどの問いを投げかけた。 「監督の名は?」  加古川は目をそらして天井に向けた。口元の笑みがゆっくり顔全体に広がる。視線を俺に戻した。瞳と唇がきらめいている。耳たぶを引っ張りながら、 「探偵さん、映画に出演しません? 今、現場から電話があって、一人、穴が空いちゃったらしいんですよ」 「その交換条件として質問に答えてくれるというわけ?」 「ギャラだと思ってください」  何か企んでいるような目付きの意味はこれだった。  俺は少し考えてから、加古川の交換条件をのむことにした。映画プロデューサーというのは性格が悪くなる職業らしい。 「じゃ、撮影現場へ急行しますから、乗ってください」  俺は加古川のBMWの助手席に同乗させられた。  車が表に出たところで、俺は三回目の質問を繰り返した。 「例の原作のことを聞きに来た監督というのは誰です?」  加古川は目尻《めじり》に笑みを浮かべ、 「玉砂仁《たますなひとし》、という監督です。この人も〈大光映画〉の出身ですよ。大高監督より三、四年ほど下だっけ、ああ、確か、うちの壇と同期だったはずだ」 「やっぱり怪談路線の?」 「いや、どちらかというと、女性映画とか文芸ものを主に撮っていた人です。映画に登場させる着物だとか器も凝っていて、そんな芸術家肌の作風が受けて、何度か年間のベストテンにも名を連ねたことがありました。会社の命令で、怪談ものを数本撮っていた時期もありましたっけ。ここんところはホンペンはご無沙汰《ぶさた》みたいで、テレビの二時間枠しか撮ってないんじゃないかな。ツキにも見放されている感じだし」 「ツキ? さっきの原作の件?」 「まあ、それもその一つと言えばそうなんですけど。三年前に、数年ぶりにホンペンを撮れるチャンスが玉砂監督にまわってきたんですよ。『猿ぐつわの一族』という作品で全国公開のものでした。ただ、その企画が最終的にGOを得るためには、主役に或《あ》る売れっ子の若手俳優をキャスティングすることが条件だったんです。プロデューサーが俳優サイドに交渉して、かなりいい線までいってたんですけど、横槍《よこやり》が入ってしまって」 「その俳優が別の作品に出ることに?」 「ええ。時期的には後の作品なんですが、役柄が似ているんですよ。俳優にしても、所属事務所サイドにしても似たような役を続けてやるのは嫌がりますよ。それで、どちらかの作品を選ぶことになって……。結局、玉砂監督の作品はボツに」 「勝った方の監督は誰だったんです?」 「伊戸光一さん。会ったことあるでしょ。それにしても、玉砂監督は、とことんツキに見放されてますよ。つい、こないだも、テレビ局製作の映画がボツになったみたいだし」  そう言うと、加古川はマイルドセブンライトをくわえ、火をつける。ブルーの箱を差し出し、俺にもすすめた。  俺は右手で断り、 「野杉さんという方も、〈ジャン・カンパニー〉のプロデューサーですね」 「ええ、同僚です」 「北宮さんと親友だったと?」 「そう、〈大光映画〉時代の同期だったようだし」 「今日は、野杉さんは?」 「外出してます。ずっと出張で、帰ってきたのは今日の午後ですよ」  車は表参道を横切り、青山通りを走っていた。  俺は加古川のアリバイを訊《たず》ねた。  十二月九日の夜は、九時半頃から十一時まで、或る有名女優とそのマネージャーと、赤坂のホテルのバーラウンジで打ち合せをしていた、と加古川は答えた。女優と一緒にいたのに、そのことをごくあっさりとした口調で語るのが嫌味に感じられた。べつに俺はやっかんでいるわけではない。  そうこうしているうちに撮影現場に到着した。場所は神宮球場の近くにあるバッティングセンター脇の路上だった。スタッフ、キャスト合わせて二十名ほどで撮影が行なわれていた。小編成だからビデオ専用の映画かもしれない。出演者はこわもてのする男ばかりが揃っていた。台本の表紙を覗《のぞ》き込むと、タイトルは『任侠《にんきよう》の証明』とあった。  加古川は俺をスタッフに引き渡すと、さっさとBMWを駆って、現場を去って行った。次のスケジュールがあるらしい。有名女優と会う約束だろうか。べつに俺はやっかんでいるわけではない。  待ち時間があったので、近くの電話ボックスから、加古川に教えられた番号をプッシュした。有名女優の事務所。確かに、加古川は十二月九日の夜、九時半から十一時まで一緒だったとマネージャーが証言した。  奥多摩の〈山の荘〉の殺人事件は、九時から十一時の間だと推測されている。そうなると、赤坂のホテルにいた加古川には犯行は不可能だ。一応、アリバイ成立と判断していいだろう。  考えてみると、有名女優も加古川のアリバイの証人ということになる。べつに俺はやっかんでいるわけではない。  さて、その後の展開は実に悲惨だった。俺が演じさせられたのは、ヤクザさんにボコボコにされて半死半生の目にあった私立探偵という役どころであった。  袖《そで》の取れた、破れ目だらけのスーツに着替え、顔にはインクの血糊《ちのり》や泥を塗りたくられた。そして、口に猿ぐつわ、手足をロープで縛られ、簀巻《すまき》の状態でマグロのようにアスファルトに横たわった。そのままじっとしている。これが俺のすべき演技だった。  路上に寝っころがった途端、雨が降ってきやがった。夕方の四時過ぎで薄暗く、体中が冷え冷えとしてきた。しかし、非情にも、ライトがたかれ、撮影はそのまま六時近くまで続行されたのであった。  映画デビューは雨の味がする。      13  柴漬《しばづ》けとバターをあえただけのスパゲッティ。今宵も実験料理は無事、成功を収めた。一睡もしていないうえに、映画デビューまで果たしてしまった疲労の身にはこれくらいの夕食がちょうど良い。  ビール一本で目蓋《まぶた》が下がってきた。頭の中に暖かい霧がたちこめていた。意識が遠ざかっていく。実に心地よかった。この至福のひととき…………。  誰かが目覚ましを鳴らしやがった。  電話だと気付くまで少しかかった。  案の定、白亀からだった。 「寝てるかと思った」  なら、かけてくるな。そう思いながら、 「一日の反省をしてたところだ」 「何を悔いた?」 「何もない。完璧《かんぺき》だ」 「俺もだ。さっき起きたところだ」  道理で声に張りがあると思った。その声が言う。 「死体の身元が割れた。伊戸だ。映画監督の伊戸光一だよ。怪談映画では入道と双璧《そうへき》と言われた伊戸監督。クモスケ、君は、会ったと言ってたろ」  頭の中の霧が薄くなって、消えた。 「北宮兼彦じゃなかったんだね?」  俺は念を押した。 「ああ、北宮ではなくて、伊戸監督だったんだ。指紋も一致したらしい。伊戸の自宅から検出された指紋と同じものが、殺人現場のドアや例の帽子掛けに付いていたんだ」 「死因は?」 「絞殺と確定。殴って気を失わせてから絞めたという線だ。死亡推定時刻は、やはり昨晩の九時から十一時あたりだ。  それにしても、なんで首と両腕を切断したのか? それが問題になってくるぞ」 「なんで持ち去ったのか? も問題だ」 「それと北宮の生首。現場には、伊戸ではない、別の人間の血も微量だが見つかったそうだ」 「北宮の血?」 「そうらしい。生きている北宮が最後に確認されているのは昨日の昼すぎ。家を出る時、女房によってだ」 「まだ、首は発見されてない?」 「他の部分もな。思うんだが、首と一緒に持ち去られた腕二本、あれも、伊戸のではなくって、北宮の両腕だったかもしれないな」  白亀の推理趣味が始まった。一通り聞いてやらないと機嫌が悪い。俺は面白半分に合いの手を入れてやる。 「そりゃ、また、どうして?」 「腕には顔と同じく、個人を特定できる要素があるだろ」 「指紋」 「そう、指紋だ。犯人は、伊戸の死体から首と腕を切断して、代わりに、北宮の首と腕を置いておくつもりだったんじゃないかな。北宮の死体だと誤認させるためにな。勿論《もちろん》、検死すればバレてしまうことだけど、しばらくの時間稼ぎにはなるかもしれない」 「じゃあ、なんで、犯人は北宮の首と腕を持ち去ってしまったんだ?」 「たとえば、あまりにも切断面の太さが違いすぎて一目でバレてしまうとか」 「伊戸を切断する前に、二人の腕や首の太さを比べれば、解りそうなもんだけど」 「あるいは、ほら、坂道から窓をのぞいて、北宮の生首を発見したオッサンたちがいたろ。目撃者を得た、それで充分だ、と犯人は考えたんだよ。これで死体は北宮だと誤認させられるはずだ、と考えたんだ。さっき言ったように下手に首と腕を残せば、胴体と比べられてすぐにバレる可能性もあるしな。目撃者のオッサンたちが公衆電話をかけに行っている隙に、犯人は別荘を抜け出して逃亡したんだ」 「伊戸と北宮の首と両腕をぶらさげてか。首二つに腕四本。凄《すご》い光景だ」 「生ゴミの袋一つで納まる。あと、伊戸の衣服もそれに充分入る。別荘の一階の窓はロックが下りてない所が一ヵ所あった。庭と樹林の方を向いているやつだ。犯人はそこから逃げたんだろう」 「でも、カメさん、今の推理でおかしい点があるよ。だって、あの目撃者のオッサンたちは偶然通り掛かったんだろ。深夜、あんなところ人通りはほとんどないはずだよ。犯人は目撃者の存在を期待できないと思うけど」  んんんんー、白亀は唸《うな》り声のあと、 「そう、あれはラッキーだった。当初は、犯人は電話で誰かを呼び寄せて、目撃者を作る計画だったんだよ」 「夜中に、あんなところへかい。電話した相手が気を回して、警察を呼ぶ可能性が強いと思うけどな」 「……まあ、まだ一つの仮説だから。それに事件全体の謎を見なければならない。いいか、密室で、首と両腕を切断されて殺されていたうえに、ホトケとは別人の首が現われたり消えたり、おまけに、死体の周りにはキツネの面やら、血染めの赤いシーツを結わえた帽子掛けが飾られている。いったい、何なんだ、この奇っ怪な事件は。キツネにつままれたような気分というのはこういうことかな。君の健闘を期待してるよ。眠くなってきた。切るぞ」  白亀は喋《しやべ》るだけ喋ると一方的に切った。  確かに面倒な事件だ。探偵業と俳優業と、どちらがしんどいだろう。 [#改ページ]   第2章 幻術士      14  オババからの電話で目を覚ました。時計を見ると、午前十時を過ぎている。約十時間は眠ったことになる。そのため起き抜けにしては電話の応対が明るいことが、自分でも恥ずかしいくらいに解った。  オババの用件というのは、 「朝、郵便受けを見たら、真っ白な何も書いてない封筒が入っていて、中から妙な手紙が出てきたんです」  相変わらずのスローテンポで言うので、いったん通話を切り、その手紙をFAXで送信してもらった。  問題の文面は、B5用紙にワープロ文字で次の通り。   殺人現場は「しのだづま」。 [#地付き]新世紀FOXより    俺は再び、オババと電話をつなぎ、 「この手紙の差出し人は『新世紀FOX』なんてアメリカの映画会社みたいな名前を名乗っているけど、誰だか心当たりあります?」 「まったく」 「殺人犯人である可能性が高いよ」 「そう思ったので、もう警察には手紙を渡しました。ちゃんとコピーをとってます」 「適切な処置です。警察は何か言ってましたか?」 「いえ、まったく訳が解らないみたいで、首をかしげてました」 「殺人現場にキツネの面があった事といい、新世紀FOXなんて差出し人の名といい、この事件は何かキツネが関係してるのかいな。大高さんは、手紙の文面について何か思い当たることがあります?」 「はあ、『しのだづま』という言葉を何かで聞いたことがあるような気がします」 「思い出してもらえるかな?」 「はい、頑張ります」  オババはそのまま黙り込んでしまった。頑張っているらしい。俺は時計の秒針が一回りするのを見てから、 「あの、すいませんが、電話を切って頑張ってもらえます?」 「はい、頑張ります」  俺は受話器を置いた。オババはずっと電話の前で頑張っているのかもしれない。  コーヒーを二杯すすってから、本日の予定に着手する。まず、〈ジャン・カンパニー〉に電話をかけた。野杉|孝《たかし》に会うためである。  いなかった。  居所を尋ねると、〈大光撮影所〉で打ち合せをしているとパンク魔女の声が言った。渋谷の事務所に戻るのは夕刻の予定らしい。  待つことはない。十時間の睡眠で気力も体力も充実しているのだ。空も青いぞ。  俺は狛江の撮影所へ足を運んだ。  狭い廊下の両側にスタッフルームが鰻《うなぎ》の寝床のように並んでいる。各部屋のドアの上に作品名を記した表札が架かっている。  目的の部屋を見つけた。ドアの薄汚れた窓ガラスに顔を寄せて覗《のぞ》く。細長い机の上に、ダイヤル式の黒電話が二つ。壁にはスケジュール表とロケ予定地の写真、それと、出前のメニュー表が釘《くぎ》にぶら下がっていた。  若い男が一人いるだけだった。折畳み椅子にのけぞるような恰好《かつこう》で口をポカンと開け、居眠りをしていた。  俺はドアを開けた。作りがかなり古いので大きな音がした。  男は身震いして、背を伸ばすと、こちらに顔を向けた。目の下が腫《は》れぼったく、頬が四つあるように見えて、不気味だ。  俺は野杉孝の居所をきいた。サロンルームで俳優と会っているはずだ、と男は野良猫のように顔をこすりながら答えた。解った、寝てるところをすまなかった。おやすみ。十時間でも寝ておくれ。  サロンは食堂と喫茶店を兼ねていた。ちょうど、その俳優が表に出てくるところだった。六十過ぎのベテランの男優でいわゆる大物の部類に入るのだろう。虫の居所が悪いのか、表情が淀《よど》んでいる。すれ違う誰もが、かしこまって頭を下げていた。  大物俳優の両脇に四十代の男が二人ついていた。ネクタイとノーネクタイ。出入口の所で、ネクタイの男が前へ出ると、 「ハイヤーを呼んであります。まもなく到着しますので」  身をしゃちこばらせて、何度も最敬礼を連発した。  が、大物俳優はそれをまったく無視して、ライオンのように悠然と歩みを進めた。ノーネクタイの男、おそらくマネージャー、が後につき従う。  とり残されたネクタイの男は、慌てて追いかけ、横走りをしながら頭を下げて、 「ちょ、ちょっと待ってください。お願いします」  それでも、俳優は足を止めず、目もくれないどころか、そっぽを向く。  その顔が向いた先に、一台の白塗りの国産車が滑り込んできた。運転席の窓から、赤飯オニギリみたいな三角顔がのぞき、 「乗ってって下さい。お送りしますさかい」  関西なまりでそう言って、後部のドアを開けた。  大物俳優は、ごく簡単な礼を口にすると、車の中にさっさともぐりこんだ。マネージャーも助手席に座る。  運転席の赤飯オニギリ男は、笑顔で手を振り、 「じゃ、ノスギちゃん、ご苦労さま」  ネクタイの男に言うと、車を出発させた。  残されたノスギちゃんは深々と頭を下げて見送る。車が門を出て、見えなくなるまで、頭を下げていた。  俺は近寄って、話し掛けた。  やはりノスギちゃんは野杉孝だった。 「今日で四回目です、出演交渉。また断られた」  ラジオの天気予報のような抑揚のない口調で言った。力を落とした様子は感じられなかった。 「いまのはハイヤーじゃないでしょ?」  俺がきくと、野杉は棒読みするように、 「ええ。私と同業者です。〈ライムライト・ムービー〉という映画製作会社の松下《まつした》というプロデューサーですよ。彼も出演交渉にのぞんでいるみたいです。いわば、競争相手ですよ。それにしても、ハイヤー遅いな」  野杉は仏像のような顔をしていて、さきほどから表情の変化があまり見られない。オババに言わせると、いい人なので独身だそうだが、いい人かどうかは別にして、確かに独身の才能はありそうだった。たたずまいに何となく抹香臭い雰囲気がある。死人についての話が自然にできそうだった。さっそく持ちかける。 「ご存じでしょうが、監督の伊戸さんが殺されました。それと、まだ死体は発見されてませんが、北宮さんも」 「〈富蓮寺《ふれんじ》〉で北宮の幽霊が出たとか、大高夫人から聞きました。向こうで話しません? サロンだと、昼飯時で混んでますから」  カマボコ型をしたスタジオの前のベンチに腰を下ろした。尻《しり》がひんやりした。 「どうぞ」  野杉が差し出したのは、使い捨てカイロだった。 「ロケが始まると必携の品になります」  俺はありがたく頂戴《ちようだい》した。腰のあたりに入れておく。なるほど、いい人だ。  野杉は語った。 「北宮とはここの撮影所で同期でした。僕も最初は監督志望で、演出部に所属してたんです。北宮と違って、僕は向いてなかったみたいで……。かといって、今のプロデューサーという職業も向いているのかどうか疑問ですけど」 「昔、北宮夫妻の愛のキューピット役を演じたとか」  俺は、自分で言って、吹き出しそうになった。野杉の陰気な風体はどう見てもキューピットというよりは病みあがりのカラス天狗《てんぐ》である。  野杉の表情にかすかなほころびが見えた。照れて笑っているらしい。仏像が微笑むと地蔵の顔になる。 「季穂さん、北宮のカミさんもここで働いていました。製作宣伝の仕事をしてるんです」 「製作宣伝?」 「映画の撮影現場にマスコミを呼んで取材させる、今流に言うとパブリシストです」 「それで、野杉さんは、北宮さんと季穂さんの様子に気付いた」 「焦《じ》れったくなって、柄にもなく一肌ぬぎました」  本当に柄でもないぞ。  俺は話題を変えた。 「伊戸監督のことですが、仕事で組んだことは?」 「うちの壇と一緒に何度か」 「伊戸さんは敵を作るようなキャラクターでした?」  細い目を線にして黙り込んだ。考えているらしい。  腰のあたりがカイロでぬくもってきた。  野杉は得心がいったのか、一人で幾度も頷《うなず》いてから、 「伊戸監督は、わざとワルぶっているように見受けられました。あえて危険な方向へ走ってみて、崖《がけ》っぷちギリギリのところで踏み止まる、そんなタイプでした。だから、仕事でもよく人とぶつかってましたが、それが沸騰点には滅多に行きませんでした。峰打ち、寸止めのうまい人間なんでしょう。身のかわし方が巧みなんです」 「それは具体的には?」  少し間があった。  野杉は水滴のようにポツポツと語った。 「そう、例えば、役者と演技のことでぶつかると、現場で喧嘩《けんか》寸前までやりあって、周囲をひやひやさせておいてから、ある程度の線で歩み寄り、その場を収めるんです。でも、仕上げ作業の段階で、結局、そのシーンをカットしたりするんですよ。  問題なのは、その責任の所在が伊戸監督ではなく、別の人間へ行くことです。シーンをカットしたのは、配給会社の要求する上映時間に収まらないからだとか、もっともらしい理由をつけて。しかも、それが言い分として成立してるから、反論もしようがなくって、責任が結局、監督以外のところに行ってしまうんですよね。僕らプロデューサーはその最前線でした」 「役者と伊戸監督との板挟みというわけだ」 「まあ、それがプロデューサーという職業の宿命ですから」  達観したような顔で言った。 「最近、伊戸監督は、張井頼武という役者とその手のトラブルを起こしてましたね」  そう言って、俺は三日前の目撃談を披露した。張井が伊戸監督をオモチャの拳銃《けんじゆう》で襲撃した話だ。ただし、どこかの探偵が火を吹いたエピソードは省いた。  俺はさらに詳しい話を求めて、 「伊戸監督は、張井の出てるシーンを編集の段階で全部カットしたんですか?」 「端役ですから、もともと、そんな出番も多くなかったらしいんですがね。『アル中の死角』という幻想アクション映画でした。天候不順による撮影スケジュールの狂いで、ストーリーに変更を加えざるを得なくなって、その影響で張井のシーンをカットした、というのが伊戸監督の理屈だそうです」 「監督は張井の演技が気に食わなかった?」 「それと、態度かもしれません。撮影現場で張井も自分の演技プランを主張して、なかなか譲ろうとしなかったらしいですから」 「若いのに鼻っ柱が強い」 「映画界ではまだまだですが、小劇場演劇の世界では一応、スター格でしたからね。この件の前には、別の作品で、北宮とも」 「助監督の北宮さんとトラブルを?」 「詳しいことは聞いてませんが、結局、北宮の方が張井に謝ったみたいです。助監督という立場だから、伊戸さんみたいにはいかないんですよ」 「伊戸監督は、北宮さんの仇討《かたきう》ちを?」 「そういうタイプの人じゃないでしょ」 「しかし、妙な因縁ですね。張井は、入道、いえ、亡くなった大高監督の倅《せがれ》でしょ。小料理屋の女将《おかみ》との間にできた」 「よく知ってますね。そう、〈宇楽《うらく》〉の女将とのね」  俺はもう一つ知ってるゴシップをふる。 「伊戸監督は奥さんと別居中ですよね?」 「よく知ってますね。奥さんは自分で小さな芸能プロダクションを経営してますよ」 「どんな役者がいるんです?」 「張井頼武もその一人です」  夫婦の不和、仕事の不和、何やら複雑にいりくんだ公私混同のトラブルだ。 「で、伊戸監督の女性関係は?」  野杉は、少し喋《しやべ》り過ぎたかな、とでも思ったのか、しばらく口をすぼめてから、 「まあ、他の人間に訊《き》けばすぐ解ることですから言いますが……、伊戸さんが付き合ってたのは、織辺鈴代《おりべすずよ》という駆出しのシナリオライターですよ。うちの会社にも出入りしてるコです」  俺は、これまでの登場人物の連絡先を聞き出した。どうせ他の人間に訊けば解ることですからと、野杉は一通り教えてくれた。  その親切に便乗して、もう一つ。 「失礼ですが、一昨日の夜はどこに?」 「アリバイですか。刑事さんにも訊かれましたけど。出張で京都にいました。タイアップ先の人間を接待してたんです。東京に戻ってきたのは昨日の三時過ぎだったかな」  この陰気な男に接待されて、はたして楽しいだろうか。  アリバイの証人の名と連絡先をメモした。 「カイロ、ありがとう」  俺は礼を言って、別れを告げようとした。そこへ黒塗りの大きな国産車が滑り込んできた。  野杉が呟《つぶや》く。 「やっときた」  ハイヤーだった。 「もったいないですから、もしよろしかったら、探偵さん、使ってください」  ありがたい。つくづく、いい人だ。俺は、さっきの倍の丁重さで礼を言い、ハイヤーに乗り込んだ。そして、改めて別れを告げた。手もちゃんと振った。  門のところで、つい振り返った。車の姿が見えなくなるまで、野杉が見送っているような気がしたのだ。  立っているのは枯れ木だけだった。  駅の近くでいったん車を降り、公衆電話から、野杉のアリバイの証人と連絡を取った。野杉は確かに京都にいたことが確認された。俺はついでに、「接待は楽しかったか?」と問いかけると、その証人は感想を正直に言ってくれた。そう、やはり、「いい人」と「楽しい人」というのは別の意なのだ。      15  ハイヤーで文京区の千石《せんごく》まで行った。  途中、どうせ料金は〈ジャン・カンパニー〉持ちなので、銀座の〈紅白探偵社〉に寄り道し、白亀にハイヤーを見せびらかしてやった。  千石でハイヤーに長いお別れを告げたのはもちろんお仕事のため。シナリオライターの織辺鈴代に会うためである。二十分ほど前に公衆電話から、足の裏エステの勧誘を装って、在宅を確かめてある。彼女はマンションの六階に住んでいた。白山通りと不忍《しのばず》通りの交差点の近くで、外の廊下からは六義園《りくぎえん》が見下ろせる。木々の緑が日暮れ前の淡い陽光に包まれていた。  表札は織辺鈴代となっている。一人暮らしのようだ。部屋は学生時代に親に買い与えられたのかもしれない。駆出しのシナリオライターがさほど稼げるはずがない。きっと、ハイヤーにはまだ乗れまい。  私立探偵であること、伊戸の事件について調べていること、以上二点を俺はインタフォンに告げた。  織辺鈴代がドアを細めに開けた。 「本当に私立探偵?」 「足の裏エステの勧誘員ではない」  鈴代は小さく笑って、 「本物の探偵に会うのは初めて。何かの参考になりそうね。入って」 「参考資料としては特殊かもしれない。なんせ、ハイヤーで登場する私立探偵だから」  俺はドアを大きく開けようとした。  鈴代がノブを押さえて、 「体を横にして、素早くサッと入ってきて。狭くって悪いけど」  俺は、言われた通りに、わずかなドアの隙間を擦り抜けるようにして中に入った。腹を引っ込めずに済んだのが嬉《うれ》しかった。 「ドアを閉めて」  鈴代が言った。  俺は一瞬、戸惑った。こういう場合、ドアは開けておくものだぞ。  鈴代は悪戯気《いたずらげ》な笑みを口元に浮かべ、 「鍵《かぎ》は開けとくのよ」  俺はドアを閉めた。  鈴代の後方で、ワンワン、と甲高い鳴き声が聞こえた。俺は室内犬の姿を探したが見つからない。その代わり、バサラバサラと音をたてて何か黒いものが飛んできた。羽を不器用にばたつかせている。鈴代の頭の上に着地した。  九官鳥だった。  ドアを閉めた理由が解った。あやうく不埒《ふらち》な妄想を浮かべるところだった。  よく見ると、妙な九官鳥だった。黄色い嘴《くちばし》の先に黒い丸と、その左右に三本ずつ髭《ひげ》に似た線がある。両目の後方に、白色のたれた耳のような模様があり、首には赤い輪が一周している。元々あったものではない。ペイントしたものだ。  鈴代は頭の上の九官鳥を撫《な》でながら、 「探偵さんよ、初めて見るでしょ、ハチ公」 「キュウちゃんじゃなくって、ハチ公?」 「うん、犬を飼いたかったんだけど、マンションの規則で駄目なの」  九官鳥にペイントされた模様は、犬の鼻、耳、首輪のようだ。 「ワンワン ワンワン」  ハチ公がまた鳴いた。人に仕込まれた鳴き声だからリアリティに欠ける。続けて、 「ワンワン ハヤクニンゲンニナリタイ」  妖怪《ようかい》人間ベムに突如、変わった。  鈴代は眉《まゆ》を寄せて、困惑の笑みを浮かべ、 「私の口癖とか覚えちゃうのよ。執筆中に行き詰まって、つい叫んだりする言葉とかね」  早く人間になりたい! とは、あまり穏やかでない口癖だ。苦労が多そうだ。ハイヤーとは無縁だろう。  鈴代は小がらな体にセーターとジーパン、無造作にドテラをはおっている。ショートカットの髪。歳は二十代後半に見える。化粧はしていないが、あどけなさと艶《つや》っぽさを合わせ持ったなかなかの美人だった。上向きかげんの鼻が色っぽい。 「シナリオライターは人間じゃない?」 「そう思う時もある。私の場合、まだ、シナリオよりも、プロット書きの仕事の方が多いわ。それが企画としてGOが出て初めてシナリオを書かせてもらえるの。でも、気を付けないと、プロットだけ書かされて、いざシナリオという段階で、私より上のランクのライターへ依頼されるなんてことはよくあるケース。でも、それはまだマシよ。プロットを書かされても、企画が通らないと、ギャラが出ないなんてこともあるんだから。さんざん、直しをやらされた挙句に、ね」  俺は、鈴代をどこかで見た顔だと思っていたが、やっと思い出した。〈ジャン・カンパニー〉のオフィス。壇にアポをすっぽかされ、応接室から激怒して飛び出してきた女が鈴代だった。そう、シナリオ原稿をメモ用紙にされた女だ。 「〈ジャン・カンパニー〉でも仕事してるって聞いたけど、あそこのプロデューサー連中はどう? 壇さんとか?」  鈴代は、不味《まず》い粉薬を舐《な》めてしまったような顔で、舌を突き出すと、 「ねえ、なんで〈ジャン・カンパニー〉っていうか知ってる?」 「……社長の壇さんが競輪で会社資金を作ったから、とか」 「ん、ああ、打鐘《ジヤン》ね。それなら可愛いとこあるじゃない。ジャンはジャンでもゴダールの方。ジャン・リュック・ゴダールのファンなの、壇社長がね。それを社名にするなんて趣味悪いよ。ゴダールの『勝手にしやがれ』のラストでベルモントが言うセリフって知ってる?」 「最低だな」 「そう。それがさっきの質問の答え」 「壇さんについてどう思う、の?」 「そう。最低」 「料金が最低?」 「お金については、あそこはわりかしマトモな会社よ。そうじゃなくって、プロットであれ、シナリオであれ、壇の奴、打ち合せのたびに直しの指示が違うのよ。前に言ったことを平気で翻すんだから。出された指示に従って、私が原稿を直してくると、『やっぱし違うな、今度はこうやってみて』なんて、その場の思いつきを口にするんだから……。平気で人に実験やらせるのよ。駆出しのライターだと思って便利に使ってんのよ」  賛意を唱えるように、鈴代の頭の上でハチ公が鳴いた。 「ワンワン ワンワン」  その後、 「シナバモロトモ シナバモロトモ ワンワン」  鈴代は、上目遣いに白目をむいてから、声をひそめると、 「それにね、壇の奴、弱みにつけこんで、仕事を回す代わりに一晩の付き合いを要求することもあるのよ。私の知ってる駆出しの女性ライターや女優が言ってた」 「で、君はどうしたの?」  鈴代は俺を睨《にら》みつけると、 「私はそんなことする必要ないわよ」  いまいましげに口を歪《ゆが》めた。  俺は話題を変え、加古川についての感想を求めた。 「あの人が、あそこの三人のプロデューサーの中じゃ一番マトモなんじゃないかしら。若手の育成に熱心なのは、自主映画出身だからかな。でも、なんかマイナーな方向に行く傾向があるのよね。その結果、商売としても小さくなりがちだし」  言わせておけば、勝手なことを言い続ける女だ。もう一つ言わせてやれ。 「じゃ、第三のプロデューサー、野杉さんはどう?」  鈴代は小馬鹿にしたように口元で笑い、 「あの人、ムードが暗いのよね。打ち合せしても、盛り上がりに欠けるどころか、どんどんトーンダウンしてきちゃって、なんだか、葬式の献花でも選んでいるような気分になってくるのよ。仕事への意気ってもんが沈んじゃうわけ」  つまらなそうに溜息《ためいき》をついた。  俺は、鈴代の愛人の話題に移る。 「殺された伊戸監督の事件について、ききたいんだけど」 「そのつもりで来たんでしょ。警察にアリバイきかれたわ。一人で原稿書いてたって答えたけど」  鈴代はドテラの袖《そで》からセーラムライトを取り出し、スティック型のガスライターで火をつけた。神経質そうに続けて浅く吸う。 「伊戸監督と仕事をしたことは?」 「仕事の方の付き合いは結局なかったわ」 「私事の方の付き合いは?」 「三年前、私が通っていたシナリオ教室に、あいつが講師として来たの。それ以来よ。考えてみたら、ずっと講師みたいな男だったんだな」 「勉強になった、ということ?」 「そうじゃなくって、偉そうにしてるけど、口先だけ、ってこと。三年も付き合ってたのに、一度だって仕事まわしてくれたこと無かったんだから。付き合ってても、まったくメリットが無かったよ」  半分以上残った煙草を、飾り棚の灰皿に押しつけて消した。 「監督受難の時代なんだろ。伊戸監督も自分の仕事を取ってくることに汲々《きゆうきゆう》としてて、君の分まで余裕がなかったんだろ」 「そのくせ、私の前で、わざわざ、仕事を断る電話して見せるのよ。そして、後になってみると、その仕事を引き受けてんだから。『頭下げられて断れなくなった』なんて言ってたけど、頭下げたのは本当はどっちだったのかしら」  鼻先でクスクス笑った。二本めのセーラムライトを口にした。少しむせた。 「伊戸監督について、最近、何か変わったことに気付かなかった?」 「変わったこと、と言われても……」  鈴代は、黒目を天井に向けた。 「印象的な喜怒哀楽を思い出してみて」  俺は助言した。  鈴代は、せわしくまばたきすると、視線を俺に戻し、 「じゃ、まず、怒ってたこと。先月の下旬くらいかな、あいつのマンション行ったら、ちょうど電話してるところで、なんかすごい形相で怒鳴ってるの」 「何て?」 「私が来たのに気付いて途中から声を低めて話すから、最初の方しか聞こえなかったんだけど、確か、『予告編フィルムをわたせ』とか言ってた」 「何の予告編フィルムか言ってなかった?」 「聞こえなかった」 「そう……。喜怒哀楽、他に思い出したことは?」 「もう一つ、喜か楽か、笑ってたこと。これも先月の下旬ころだったな。あの人、何かのシナリオ読んで、異常にハイな状態になって笑ってたのよ、気持ち悪いったらありゃしない。私が尋ねると、あいつ、サッとそのシナリオを裏返しちゃったから、タイトルは見えなかった」 「外見はどんなシナリオ?」 「ずいぶんと古いものだったな。表紙が薄い黄色で、中の紙も古いもんだから黄ばんじゃって、黄色だらけって印象受けたの覚えてる。それと、その時、笑いながら、訳の解らない独り言を口走ってた」 「思い出せる?」 「大丈夫。こう言ってた、『こりゃ、とんでもないエルドラドだ』って」 「こりゃ、とんでもないエルドラドだ」  俺は繰り返した。何の答えも浮かんでこなかった。 「どういう意味か、心当たりある?」  俺はきいた。  鈴代は黙って首を横に振った。 「ワンワン シヌ シヌ ミズクレ シニミズ サムノムスコ」  またもハチ公が物騒な鳴き声をあげた。これは手掛かりにはなりそうもない。  鈴代は顔を歪めて大きく舌打ちをする。 「もう、あいつときたら、ハチ公にろくな言葉、教えないんだから」  すると、その背後の居間から、 「しょうがねえだろ。二日酔いの日は、苦痛の声をあげて水を求めるもんだ」  男の声がして、昔のギャング映画の悪役のように物影から照明の下に姿を現わした。  ほお、これが「あいつ」か。そういう関係だったのか。      16  蛍光灯に浮かび上がった男の顔。吊《つ》り上がった目、薄い唇、尖《とが》った顎《あご》。鋭角的な造りをしている。  その男は張井頼武であった。  先日、伊戸監督に銃撃ゴッコを仕掛けたあの男だ。また、大高入道と愛人の間に生まれた息子でもあり、また、伊戸監督の別居中の妻が経営する芸能プロダクションの俳優でもある。そして、ここでまた新たな顔。織辺鈴代のもう一人の恋人でもあるらしい。  張井は首を突き出し、俺を凝視する。いまいましげに片目をかたくつむり、鼻に皺《しわ》を寄せると、 「やっぱり、あん時のプラズマ火球の探偵かよ」  横を向いて、吐き捨てるようにヘンッと息を飛ばした。 「え、張井君が言ってた特撮探偵って、この人?」  鈴代は夜店でもひやかすような目を俺に向けて、 「ねえねえ、火を吐いてみせてよ」 「悪い、防火週間なんだ。それに」俺は舌なめずりをすると、「焼き鳥が食いたくなってきた」  うっとり九官鳥を見つめてやる。 「おいおい」  鈴代は言って、ハチ公を手でかばいながら半歩ほど後ずさった。 「ファイトー イッパーツ」  展開とは無意味な叫びはもちろんハチ公。  張井は耳たぶをつまみながらボヤいた。 「どうでもいいけど、俺は役者だってのに出くわすのは刑事とか探偵ばっかし。たまには『MORE』や『LEE』なんかに取材されてみたいよな」 「テレビは?」 「悪くないね」  俺が昔、テレビ局の記者だったことを教えてやると、張井は唇をブルンと鳴らし、 「フォローになってねえんだよ」  手にしていたグラスから透明の液体をすすった。日本酒の匂いがした。  俺は右手を拳銃の形にして、 「こないだは、そっちも飛び道具だったな。ダーティーハリーか?」 「俺の芸名はハリー・キャラハンの張井じゃねえよ」 「オーソン・ウェルズか」  張井の目が一瞬、丸くなり、吊り目でなくなる。正解らしい。  俺は解説を加えた。 「ハリイ・ライム。張井頼武を音読みするとそうなるな」  張井は、唇の片方を上げて静かに笑ってみせた。『第三の男』でオーソン・ウェルズ扮《ふん》するハリイ・ライムが暗闇から初めて登場する時の顔のつもりらしい。芝居が勝ちすぎてぎこちなかった。  俺はきいた。 「本名は?」  張井は舌打ちして、時間を稼ぐようにまたグラスを傾けると、 「宇楽円水《うらくえんすい》」 「茶人みたいだな」 「だから、芸名使ってんだ」  張井の顔は母親似なのだろう。頭髪は黒々と豊かで、まだ、大高入道の遺伝の兆候は現われていない。 「大高の名は使わないのか?」 「却ってみっともないだろ、売れない役者なんだから」  そっぽを向いて言い放ち、自嘲《じちよう》するように笑った。 「じゃ、ハリーの災難か」  つい言ってしまう、俺の出来心。ヒッチコックの『ハリーの災難』はハリーという死体を巡るコメディ・ミステリー。売れない役者なら、 「死体役専門か、俺は」  張井は冗談で怒ったリアクションをするが、笑顔は引きつっていた。  その後ろで、鈴代が忍び笑いする。張井が振り返って、目をさらに吊り上げた。  俺の突っ込みはなおも続く。 「伊戸監督が君のシーンをカットしたんだよな。端役だからって勝手に」  張井は顔の筋を針金のように歪《ゆが》めて、 「そういう奴だよ。現場では都合のいいこと言っといて、後で全部切っちまった」 「それ以前に、君は助監督の北宮さんともトラブルがあったとか?」 「よく知ってるな」口を尖《とが》らすと、「あれは向こうが謝って当然だったよ。雨上がりのロケ現場で、足のすべりやすい所くらい調べておくのが助監督の仕事だろ。俺が転倒しかけたの急な石段のとこだよ、危うく蒲田《かまた》行進曲のヤスになるとこだったよ。そりゃ、あの時は、俺もリハーサルとは違う演技をしたよ。けど、そのせいにしやがるなんて、北宮って男、融通がきかねえんだよな。しばらく、その場で言い争った末、結果、北宮の方が謝ったけど、後になってセコい手を打ってきた」 「北宮が伊戸監督に話をもちかけた?」 「そうに決まってる。俺と鈴代のことをチクって、伊戸に私怨《しえん》を持たせたんだよ」 「北宮が、君らのことを伊戸監督に告げ口した?」 「ああ、下北沢《しもきたざわ》でいい雰囲気のとこを北宮に見られちまった。半年くらい前だったかな」 「それで、伊戸監督は君のシーンをカットした、というんだな」 「そういう奴だよ。恨みを晴らす場は自分に有利な土俵。無頼を気取ってるくせに、必ず安全な逃げ道を用意してるんだな。そう、カミさんと別居してるくせに離婚に踏み切らないことなんか、金のためだよ」 「伊戸監督のカミさんというのは、君の所属プロダクションの女社長だろ。そんな儲《もう》かってんのか?」 「そうだ、って言いたいとこだが、んなわけないだろ。実家が、大きな呉服の会社やってんだ。だから、なにかと、俺ら所属タレントに着物を着せたがる。七五三じゃないっつうに」  張井はマールボロをくわえ、紙マッチをこすった。しけていたらしく火が点《つ》かない。三本まで試したが結果は同じ。  俺はジャケットのポケットからジッポーを取り出して、火を点《とも》す。張井が一瞬、怯《おび》えたように身を引く。まだ、特撮探偵の記憶が生々しいための条件反射らしい。  張井は恥ずかしげに肩をすくめ、マールボロに火を点け、小声で礼を言った。  禁煙家の俺は武器としてのジッポーをしまい、 「〈宇楽〉だっけ、君のお袋さんがやってる小料理屋には、北宮や伊戸監督は顔を出していた?」 「いや、二人とも、成城のご本妻様の方に何かと世話になってるだろうからね」 「そうだな、大高邸に今も出入りしてるくらいだからな」 「当然、俺はその逆。あちらのお屋敷にはとんと縁がない」  果物の種を吐き出すように、煙を吹くと、意気がった口調で、 「探偵さん、俺のアリバイきかないのか?」  きいた。アリバイはなかった。一昨日の夜はアパートの自室にいたらしい。 「動機充分、アリバイ不足」  張井はまた意気がるようにそう言って、オーソン・ウェルズらしき悪役笑いを浮かべてみせた。小劇場演劇のクセが抜けないのか、芝居が大仰すぎる。  俺は口元だけでかすかに笑ってみせ、 「張井の災難。仕事がないとアリバイも作れないよな。せめて、死体役でもあったらな」  鈴代が吹き出してしまい、すまなそうに顔を手でおおうが、なおも体を小刻みに震わせていた。  張井は、俺と鈴代をねめつけ、ハンッと声をたてて息を飛ばした。そして、自棄《やけ》気味に酒をあおる。 「ヨサク ヨサク ヘイヘイホー」  これはハチ公。  張井は振り向くと、鈴代の頭の上にグラスを差し出す。 「あっ、ダメよ、ダメ」  鈴代は慌てて、張井の伸ばした腕をつかんで下ろそうとする。 「ヨサク ヨサク ヘイヘイホー」  ハチ公は差し伸べられたグラスに嘴《くちばし》を入れて、数秒後、天井をあおいだ。これを何度か繰り返した。確かに飲んでいた。鳥が酒を飲んでいる。焼鳥屋の立場はどうなる。  ハチ公は羽を大きく広げ、体を上下に揺らしながら、まるで歌うように、 「ワンワン ハナセバワカル トリカブト ヨサク ヘイヘイホー アダモステー ワンワン アダムスキー……」  脈絡なく言葉を並べ続けた。どうやら浮かれているらしい。体の小さい分、酔いのまわりが早いのだ。 「……ハヤクニンゲンニナリタイ アミタイツ アミタイツ チクビ チクビ デカイチクビ ゴムゴムゴム……」  何やらアヤしげなことも口走る。  鈴代は頬のあたりを赤くし、顔を後ろにそむけた。  張井はさっきからずっと身をくねらせて笑い続けている。  ハチ公は羽を激しく振って、鈴代の頭から離れて、ほとんど落下するように床に着地した。かろうじてバランスを保つと、ヨタヨタと歩み始める。おっ、これは、世にも珍しい、九官鳥の千鳥足!  ハチ公は数歩すすんだところで、首をもたげ、 「ハリーノサイナン」  そう口走ると、コテンと床に身を横たえ、小さな寝息をたて始めた。まるで死体の役を演じるように。  張井の顔が引きつっていた。      17  七時半。夕飯前に、駅の公衆電話から留守録を聞くことにした。できる限り一時間おきにチェックするよう心掛けている。  依頼人のオババから入っていた。至急、電話をくれ、とのこと。  俺はリクエスト通りにした。  待機していたようにオババはすぐに出た。 「紅門《こうもん》サマ、また、一緒に来ていただきたい所があるんですが」  縁日にでも誘っているような呑気《のんき》な口調だった。 「また警察に呼ばれました?」 「いえ、警察を呼んだ方がいいかどうか、判断していただきたくって……。早まって、些細《ささい》なことを大げさにするの嫌ですから」 「何か不審なことでも?」 「主人の仕事場へ今日、行ってきたんですけど、窓が割れていて、それも、誰かが中に侵入するために割ったように、私には見えるもんですから」 「なるほど。いつ行きましょうか?」 「これからすぐ。ああ、お気遣いなく。私、夕飯はしっかり済ませましたから」  俺は済ませていない。  経堂駅で待ち合わせることになった。  大高監督の仕事場は、駅から続く商店街が途切れた先、赤堤通りを渡った住宅街にあった。町の名は宮坂となっている。二階建てのアパートと、庭のないこぢんまりとした一戸建て住宅が多い。その中でも比較的古い木造の二階建て家屋が目指す家だった。  道々、オババに聞いた話だと、今の成城の宅に移る前に住んでいた家らしい。そのまま手放さずに、大高監督が、シナリオを作るために作家と籠《こも》ったり、スタッフとミーティングするのに使っていたという。 「神楽坂《かぐらざか》や四谷に、映画人が仕事で籠るのに使う定宿があるんですよ。まあ、主人はそれらの旅館の代わりにここを使っていたというわけですわ」  結構なことで。俺は事務所も住居も兼用ってわけですわ。どうも虫の居所がよろしくない。飯を食いそびれたせいか。 「主人が亡くなったので、もう使いませんでしょう。だから、不動産屋にあずけて売りに出しているんです。でも、不景気でまだ買い手が見つかってませんわ」  当分、見つかるものか。やはり虫の居所がよろしくない。食い物の恨みは恐いのだ。  オババが格子の隙間から手を入れて、落とし金を外し、鉄の門扉を開いた。ブロック塀と家屋の間は、人がすれ違える程度の幅で、内周りがコンクリート、外周りのわずかな土の部分には、葉を落としたツツジが数本植わっていた。  家屋正面の左角の窓が割れていた。  一メートル四方ほどの、その窓ガラスは鉄の桟によって上下、四つに区切られている。その四つのうちで、割れていたのは一番上のガラスだった。そのすぐ上にはブリキのひさしが迫《せ》り出していた。  足元のコンクリートに、ガムテープの付いた掌《てのひら》くらいのガラス片が落ちていた。形からして間違いなく窓の破片だった。  俺は窓に顔を近付けて覗《のぞ》き込んだ。ロックは、窓のちょうど真ん中を横切る桟の端に付いていた。ロックは開いた状態だった。ハンカチを巻いた手で動かすと、窓は簡単に横滑りした。  誰かが窓を割って手を差し入れ、ロックを外し、中に侵入したようだ。窓を割る際には近所に聞きとがめられないよう、ガラスにガムテームを貼った。簡単な推理だ。  俺は家屋を一周し、戸締まりを点検した。割れた窓以外はどこも錠がかかっていた。ブロック塀の向こう、隣近所から楽しげな夕食の明かりとざわめきが漏れてきていた。空腹がうめいた。  不審な足跡も見当たらなかった。昨日、夕方から降り始めた雨が消してしまったのかもしれない。  俺は、オババから鍵《かぎ》を受け取ると、ドアを開けた。暗闇があるだけ。空気が埃《ほこり》っぽかった。オババの指示で、スイッチを探り、明かりを点した。  何の飾り気もない玄関だった。俺は靴を脱いで上がる。目に付いたスイッチを次々にいじって、明かりを増やしながら、廊下をそろそろ進んだ。  肩のあたりが重かった。振り返ると、オババが俺のコートの裾《すそ》を掴《つか》んでいた。  廊下に面した二つの和室を覗く。どちらも机と座布団があるだけの田舎旅館めいたシンプルな六畳間だった。突き当たりがダイニングキッチン。一瞥《いちべつ》する。ここも、椅子とテーブル、箪笥《たんす》、小さな冷蔵庫、必要最小限のものしか置いていなかった。立ち止まって耳を澄ます。家のどの方角にも人がいる気配は感じられなかった。寒々しさが足元から這《は》い昇ってきた。  廊下を数歩、後戻りする。和室の反対側。風呂場《ふろば》があった。板戸がぴっちり閉じられている。その前にしばらく立っていると、かすかな異臭が漂うのを感じた。  鈍く光る真鍮《しんちゆう》のノブを握り、押した。たわんでいたのか板戸は少し引っ掛かる。蝶番《ちようつがい》を軋《きし》ませて向こうに開いた。異臭が俄然《がぜん》、強くなる。俺は脱衣所に足を踏み入れ、壁のスイッチを押した。蛍光灯が瞬き、神経をイラつかせる。明かりが満ちた。そこには何もなかった。  風呂場に続く曇りガラスの戸。  俺は手をかけた。油の切れた車輪とレールが金属の擦れる音をたてて、戸は横に滑る。  途端に、腐臭の濃縮した固まりが襲い掛かってきた。俺は力いっぱい鼻と口から息を吐き出して、手でマスクをする。後ろでオババが涙目になって咳《せ》き込んでいた。  中の明かりを点ける必要はなかった。そんな気はまったく起こらなかった。脱衣所から射し込む明かりが淡いスポットライトの代わりだった。  それは、グリーンのタイルの上で、うずくまるようにしていた。深海にでもいそうな珍しい生き物にも見えた。理解するまで間があった。  人間の死体だった。  首がなかった。  そして、両足もなかった。 「こういうの見るの、これで四回め」  オババが律儀に報告した。  タイルの床に墨流し染めのような模様が描かれていた。血の跡だった。浴室の角に、赤黒く染まったバスタオル数枚が乱暴に丸められ、放り出されていた。  そして、死体の周囲には、またも、妙な装飾が施されている。  一つは、ミニチュアの赤い鳥居。割り箸《ばし》を組み合わせ、糸で縛って作られている。赤い彩色は血によるものだった。  もう一つは……油揚げ。約八センチ×十五センチほどのものが二枚。淡い照明の中で、黄金色に輝いていた。  その下に、B5サイズの紙が差し込まれている。ワープロ文字の文面は今朝と同じ。   殺人現場は「しのだづま」。 [#地付き]新世紀FOXより        18  六畳間で警察の取り調べを受けた。二時間近く、引き止められ、ようやく解放された。夜中の十一時半を回っている。  パトカーで家まで送るという警察の申し出を、オババは断った。  白亀が外で、門にもたれかかって待っていた。警察へ通報したのと同時に電話しておいたのだ。  白亀は、俺とオババに合流した。三人で、息の白い人だかりをかき分ける。そのギャラリーから見えなくなる所まで黙って足早に歩いた。 「今宵も弁護士か?」  白亀が歩調を緩めて、言った。 「いや、本業を言った」  俺が答えると、オババが割り込んで、 「ボディガードって名目でした」歯痛時の顔のようなウィンクをする。「ケビン・コスナーの映画、気に入ってるもんだから、つい、私、そう言っちゃいましたわ」  ケビン・コスナーにされて悪い気はしないが、問題は守るべき相手である。年寄りのどうせ短い命を、命がけで守るボディガードの心境や如何《いか》に。  灯の消えた焼き芋屋の車と擦れ違った。  夕飯を食いそびれたことを思い出したが、腹は減っていなかった。  オババは革の手提げ袋から四角い紙包みを取り出して、俺に差し出した。 「渡すタイミングが解らなくなっちゃいましたけど。お腹の足しにと思って、買っておいたんです」  オババも自分のペースで気を遣っているらしい。俺は一応、礼を言って、受け取った。手触りからすると握り飯か巻き寿司《ずし》のようだ。現場に踏み込む前に食わしてほしかった。  俺は、食うか、と包みを見せると、白亀は首を横に振り、 「夜の散歩でもしよう」  そう言って、歩きながら、死体の話を始めた。 「殺されてから四十時間から五十時間くらい経っているらしい。だから、一昨日の夜から次の日の朝にかけてということになる。伊戸監督が殺された時間と重なってるだろ」 「死体の主はやっぱり」 「うん、北宮兼彦だ。指紋が自宅のものと一致したらしい」  現場に残されていた衣類なども如実に北宮を示していたようだ。  あの家の鍵は全部で二本。オババが不動産屋に預けていたものと、北宮が持っていたもの。大高監督が生前、北宮に鍵を持たせたのであった。仕事の手伝いで頻繁にあの家へ出入りさせられていたからである。大高の死後も預かったままになっていた。その鍵は事件の現場に残されていた北宮の衣服から発見されている。  白亀は話を続ける。 「警察の見解では刺殺らしい。死体は切断の部所以外には大きな損傷は見当たらないから、おそらく首を刺されたのだろうと言ってた。切断には肉切り包丁と糸ノコギリが用いられている。どちらも家にあったものらしい。丸められたバスタオルが落ちてたろ、その下から切断の道具は見つかった。あのバスタオルはもちろん犯人が血をよけるためのものだ」 「それと風呂場の利点を活用して、水を流しながら切断作業を行なったんだろうな」 「そうらしい。おそらく、一昨日の夜、犯人は北宮を殺害し、その首と両足を切断して、持ち去った。次に奥多摩の別荘へ行くと、伊戸を殺し、今度は首と両腕を切断したんだ。そして、その現場には、北宮の首をいったん運び入れて、また持ち去っている。犯人は、北宮の首と両足、伊戸の首と両腕をコレクションしたことになる」 「犯人は屈折した黒《くろ》蜥蜴《とかげ》か」 「蜥蜴ではない、キツネだ」 「そう。そうなんだよ。キツネなんだよ。犯人は『新世紀FOX』なんて名乗ってる。ふざけやがって。それに、いったい、なんなんだ、『しのだづま』ってえのは?」  俺は声を荒らげて言った。  すると、 「それ、思い出しました」  答えたのはオババだった。囲炉裏端で日本昔話でも語るような口調で言った。 「今日の午後、私、思い出したんです、『しのだづま』とは何なのか」  思い出したなら、早く教えろよな、この耄碌《もうろく》ババアめ。その意志を、オブラート十枚ほどに包んだ丁寧な表現で、俺は口にした。  オババは何やら得意げに咳払《せきばら》いをして、 「頑張りました。今朝、頑張りますって言いましたでしょ」 「ええ、ええ、覚えてます。よく、頑張りましたね。だから、そろそろ、その頑張りの成果を聞かしてください」 「はい、じゃあ、頑張ります」 「ホントに頑張ってお願いしますよ」  投げ遣りと懇願の入り交じった口調で俺は頭を下げた。三べん下げた。  オババは目と口を線にして満面の笑みを浮かべて本題に入る。 「はい、『しのだづま』というのは、古浄瑠璃《こじようるり》の一つです。歌舞伎では、物語の前半部分を『葛《くず》の葉』という作品にして上演しております。そして、『しのだづま』はキツネを題材にした怪談なんです」  俺と白亀は思わず、 「出た出た」 「やっぱし」  などと口走る。  この反応が充分お気に召した様子で、オババはますます満悦の皺《しわ》を深くして続ける。 「そう、キツネの登場する一種の怪談バナシなんです。なお、ここで、正直に申し上げておきますが、私が『しのだづま』とは何か思い当たったのは、自分に浄瑠璃や歌舞伎といった伝統文化に関する教養があったからではありません。実は主人のおかげなんです」 「主人って、亡くなった大高監督?」  俺の合いの手に、オババは嬉《うれ》しそうにうなずく。 「ええ、大高です。主人は生前に幾多の映画の企画を持っていましたが、実は『しのだづま』もその一つでした。まだ、シナリオには仕立ててなくって、企画書の段階でしたが、それを持って色々な映画会社や製作プロダクションやテレビ局に映画化の話を持ちかけていました」 「結局、それは」 「ええ、映像化はされませんでした。理由は製作費の問題とそれに見合うヒットの可能性が見込めなかったからでしょう。別に珍しいことではなく、映画にならなかった企画というのは大半がこの理由によります。で、『しのだづま』も数多《あまた》ある幻の企画の一つとなったわけです」  オババは言葉を切ると、感慨深げに夜空を見上げる。上弦の月が笑う口のようだ。  俺は急《せ》かすように言った。 「それで、『しのだづま』とはどんな物語なんです?」  オババは口を月と同じ形にすると、 「主人の企画書は見つからなかったんですが……参考になればと思って……」  そう言いながら、革の手提げ袋から紙を数枚取り出して、俺と白亀に手渡した。A4の紙が二枚。浄瑠璃関係の書物からコピーしたものらしい。そこには、『しのだづま』のストーリーが記されていた。 「私がちんたら物語を話すよりはよろしいでしょうから」  その通り。この婆さん、わりとよく解ってるじゃないか。  俺も白亀も立ち止まり、街灯の下で資料に目を走らせた。物語の概要は次の通り。  平安期、村上帝の治世。摂津《せつつ》に安倍保明《あべのやすあき》、保名《やすな》という親子がいた。ある時、保名は信田《しのだ》明神へ参拝に出掛ける。  一方、河内《かわち》には石川悪右衛門という者がいて、その兄は都で権勢を誇る陰陽師《おんみようじ》・蘆屋道満《あしやどうまん》であった。悪右衛門は、妻が重病を患っているので、兄の道満に占ってもらった。それによると、「メギツネの生き肝」を飲ませよと出たので、悪右衛門は早速、信田の森へ出掛け、メギツネ狩りを始める。  その信田の森へ、たまたま来ていた安倍保名は、狩りで追い込まれたメギツネを助けてやった。そのため、保名と悪右衛門との間に争いが起こり、その結果、保名の父・保明が殺されてしまった。  数年後、保名は、川で溺《おぼ》れかかった女を助ける。そして、その女を嫁にし、男の子に恵まれる。この男の子は成長するにつれ、母親が異形のものに見えるらしく、騒ぎ立てるようになる。実は、この母親こそ、かつて保名が信田の森で助けたメギツネの化身であったのだ。男の子が七歳の時、母親は菊に見惚《みと》れて、うっかりキツネの姿になったところを目撃され、もはや、家にいられなくなる。そして、「恋しくば尋ね来て見よ和泉《いずみ》なる信太《しのだ》の森のうらみ葛の葉」の一首を残して、去っていった。夫婦親子の悲しい別れであった。  男の子は少年に成長し、ある晩、枕元に立った文殊|菩薩《ぼさつ》から神通力を授かる。その力によって、少年は、帝の病が蛙と蛇の祟《たた》りであることを烏から聞き出すと、父・保名とともに都に上り、このことを帝に進言した。おかげで治療法が解り、帝の病は平癒する。帝はたいそう喜び、少年に「晴明《せいめい》」という名を贈った。  こうした経緯を快く思わないのは、朝廷付きの陰陽師、あの芦屋道満である。道満と晴明は行力の術比べをすることになる。競技の方法は、箱の中身を占い当てるというもの。  道満はミカン十五個と占い、晴明はそうと知っていたが、これを行力で鼠十五匹に変えてしまう。さて、箱の蓋《ふた》を開けると、中から飛び出したのは鼠だったので、晴明の勝ちとなる。  術比べに敗れた道満は、弟の悪右衛門に命じ、一条橋に保名を誘い出し、斬殺《ざんさつ》させた。その死骸《しがい》はバラバラに切断され、断片の多くが鳥獣によって持ち去られてしまう。死体の残骸の散らばった一条橋を、晴明が通りかかった。そして、父・保名の無惨な姿を発見すると、悲しみをこらえ、壇を築き、死体|蘇生《そせい》の術に挑んだ。晴明はありとあらゆる神仏にひたすらに祈りを捧《ささ》げた。  すると、鳥や獣が死体の断片をくわえて戻ってきて、晴明のもとに集まり、やがて、保名はもとの姿へと戻り、蘇《よみがえ》った。これが一条戻り橋の由来という。  奇跡の再会を果たした父子は帝の許しをもらい、道満と決闘することになる。みごとに蘇生した保名を見て、道満は驚倒する。そして、晴明の手によって道満の首は落とされたのであった。  この人間とキツネから生を受けた超人・晴明こそ、後に四位の主計頭《かずえのかみ》、天文博士にまで出世をとげ、希代の陰陽師と伝説化された、かの安倍晴明であった。 「なるほど」 「そうか」  俺と白亀は、ほぼ同時に読み終えるとそれぞれ勝手な嘆声を発し、頷《うなず》き合った。どちらともなく、そぞろ歩き始める。  白亀は歯の間からススーッと息の音をたてると、 「なるほど、新世紀FOXさんはこのことを言ってたんだな。殺人現場のあの奇態な装飾は、『しのだづま』の見立てだったわけだ。死体の手やら足やらを切断したのは、物語の一場面を表現してるのさ」 「保名が一条橋で悪右衛門に斬殺されて、バラバラにされるくだりだな。死体の断片の幾つかは鳥や獣に持ち去られる」 「さっきの殺人現場に飾られていたのは油揚げと、割り箸《ばし》で作った鳥居。油揚げはキツネの好物とされているよな」  俺は飯を食ってないのを思い出しながら、 「ああ、キツネうどんの材料にされてるくらいだし」 「で、あのミニチュアの鳥居は血にまみれて赤くなっている点がミソだ。赤い鳥居というのは、おキツネ様を祀《まつ》った稲荷《いなり》神社の象徴だからな。犯人はわざと血を使って鳥居を赤くしたわけだ」 「なるほど、油揚げと赤い鳥居でキツネそのものを表わし、死体を切断し、その一部を持ち去ることで物語のシーンを表現しているわけか。じゃあ、こないだの、〈山の荘〉の殺人現場の場合はどうなるかというと」  白亀は手柄を奪うように口を出す。 「切断された死体はさっきのと同じく、一条橋の斬殺の場面だ。キツネの面はキツネ、まったくそのものだろ。そして、シーツを結わえた帽子掛けは、というと……」 「あのシーツも血で赤く染まっていたよな」 「赤」 「赤」  互いに「赤」と連呼するが、マッカーシズムではない。そこへ、紅一点のオババが割り込み、 「赤い幟《のぼり》じゃないですかね。ほら、稲荷神社には赤い鳥居とともに、赤い幟が付き物でしょ」  そう言って、首を横に傾けた。  白亀は手を打って、 「それだ! 帽子掛けに結わえたシーツ、あの形。そして、犯人はここでも血を使って、白いシーツを赤に染めたんだ。そう、あれは稲荷神社の赤い幟を表わしているんだ」  俺はオババを褒めるべく、 「亀の甲より年の功か」  つい言ってしまう、俺の出来心。白亀が気付き、横目を尖《とが》らせた。  オババが急に足を早め、 「ちょっと、こっちへ」  先頭に立って、どこかへ案内をしようとする。狭い路地に入り、角を二つばかし曲がると、木立に行き当たった。  そこは、小さな稲荷神社だった。  四、五メートルの参道と、庵《いおり》ほどの拝殿があるだけの簡素な造り。しかし、確かに、稲荷神社として赤に彩られている。幾本もの赤い幟が夜風になびき、赤い鳥居がその影を玉砂利の上に落としていた。参道の入り口を挟んで、二匹のキツネの石像が月明かりを浴びて輝いている。吊《つ》り上がった細い目が笑っている。むら雲がよぎり、月光が翳《かげ》った瞬間、毛筆に似たその大きな尾がゆらりと揺れたように見えた。  シャッターを下ろした商店街に入った時には、十二時を回っていた。擦れ違う人間たちは急ぎ足でうつむいている。  駅で白亀と別れた。俺はタクシーを拾い、オババを成城の宅まで送った。  オババと別れたところで、ようやく空腹を覚えてきた。さきほど貰《もら》った紙包みを開けてみる。  食欲が瞬時に失せた。  よりによって……稲荷寿司。      19  翌日の昼、残業疲れの身をひきずって、俺は日生劇場を訪れた。  劇場は日比谷の帝国ホテルの前にある。俺は大理石作りのホールを横切り、楽屋口のドアを開けた。階段を二階分上がった所に、守衛所を兼ねた受付があった。  伊戸千佳子を呼び出してもらった。  伊戸監督の別居中の妻、いや、現在は未亡人である。  廊下に呼び出しのアナウンスが響き渡る。色とりどりの暖簾《のれん》が各楽屋にかかっていた。膝《ひざ》近くまで下がった長い暖簾で、模様とともに役者名も染め抜かれていたので、誰の楽屋かすぐ解る。どこも、付き人や訪問客がせわしく出入りしている。白粉《おしろい》の甘い臭いや、卸したての衣装のハッカに似た臭いが空気に入り混じっていた。  伊戸千佳子は女にしては背が高かった。ハイヒールの分もあって、目の位置は俺と変わらない。三十代半ば。色白で、日本的な顔立ち。眉《まゆ》と肩の線で、髪を真っすぐに切り揃えている。成熟した博多人形を想像させた。  ややハスキーな声が言った。 「電話してきた探偵さんでしょ。ここじゃ落ち着かないから、客席の方へ行きましょう。うちの役者もそろそろ出番だし」  俺は、手土産の包みを千佳子に渡した。大いに感謝された。ちなみに品は稲荷寿司。昨日、オババから貰ったものだ。もったいないので有意義に使ったまでのこと。ただし、そのへんの経緯は千佳子には話さなかった。マナーというやつだ。  客席へ行くには、来た道を戻る必要はなかった。関係者のための通用口を二つ通り抜けると、ティーサロンのそばに出る。はるかに近道だった。それより近道を取りたければ舞台上に出ていくしかない。  ガランとした客席は明かりがついていた。  後ろの方の席に、俺と千佳子は並んで座った。 「忙しそうですね」  俺は話のキッカケを作った。  千佳子は眉を寄せて、俺を覗《のぞ》き込む。香水がわりと強い。嫌な匂いではなかった。 「それって皮肉? 別居中とはいえ、亭主が死んだのに、平気で仕事やっていることへの皮肉かしら」 「いや、そんなつもりはない。俺なんか、親父の葬式の翌日には、友人の結婚式の司会をやっていた」  千佳子は、含み笑いをしながら、 「喪服も着てないで不謹慎に見えるけど」  鮮やかなブルーのスーツと濃い紫色のブラウスを身につけていた。 「下着はちゃんと喪中よ。ほら」  そう言って千佳子は肩をめくってみせる。黒いブラの肩紐《かたひも》があった。 「下ももちろん喪服よ。公開はご勘弁」  あっけらかんと言い放った。  俺は、対抗上、裸の肩を出して、白いランニングシャツを見せる。続いてズボンのベルトに手をかける。  千佳子は、鼻に皺《しわ》を寄せて失笑し、 「公開はご勘弁」  手で払うポーズをすると、口早に話を続ける。 「劇場に来るんだから、喪中のかっこうなんか出来っこないでしょ。人の気分を沈ませたり、暗いムードを持ち込むわけにいかないのよ。明日はめでたい初日なんだし」  舞台|稽古《げいこ》の最終日だった。  舞台上では、演出家が役者を集めてダメを出しているところだった。時折、怒鳴り声を発している。千佳子の話によれば、怒りのボルテージが上がるとゴミ箱を役者の頭にかぶせ竹刀《しない》で叩《たた》くことで有名な鬼の演出家らしい。  作品は『マクベス』だった。それも、日本の任侠《にんきよう》の世界に置き換えるという、大胆なアレンジを試みたものだった。国の争いは組の争い、マクベスは国王ではなく組長という設定であった。マクベス夫人は姉御と呼ばれ、三人の魔女は賭博場《とばくじよう》で壺《つぼ》を振り、サイコロの目で予言する。クライマックスのバーナムの森が動く場面では、大勢の若い衆たちが背中の緋牡丹《ひぼたん》や桜吹雪の刺青《いれずみ》を露《あらわ》にして、客席の通路を走り回るというスペクタクルが演出されるらしい。 「おかかえの役者が出てるんですか?」 「うん、男二人。次の場で出てくるわ」 「死体役?」  つい言ってしまう、俺の出来心。  千佳子はためらいがちに、 「途中から」  要するに殺される役らしい。  名前をきいた。片方はよく知れた中堅俳優だった。もう一人は知らない。 「出演の依頼を受けた時に、バーターを要求するのよ。出演をOKするから、その代わりに、うちの役者をもう一人使って、とね」 「抱き合わせというやつだ」 「そうでもしなきゃ、無名の新人にはなかなか仕事のチャンスはまわってこないわ。うちは弱小プロダクションなんだし。なんせ、喪中の最中だというのに、社長がみずから舞台稽古の立ち会いに顔を出してんだから。そうだ、弱小プロダクションを助けると思って、協力してよ」  千佳子はショルダーバッグから何やら紙の束を取り出す。映画の前売券の綴《つづ》りだった。 「これで五十枚あるわ。預かってくれない? 買えと言ってるわけじゃないのよ。誤解しないで。預かってくれればいいの。それで人に勧めて、売ってくれればいいわけよ。後で、売れた分のお金と残った券を回収するから。簡単でしょ? うちの役者が出てるのよ」  有無を言わせぬ口調だった。後の展開をスムーズにするため、受諾する他なさそうだ。これもバーターだ。俺はOKした。 「名刺、ちょうだい。念の為、二枚。金券を預けるんだから」  俺は言われた通りにし、引き替えに、チケットの綴りを受け取った。作品はよりによって、『占いの流れ星』だった。  俺は千佳子の名刺を見て、言った。 「〈ひぐらしプロ〉、っていうんだ」 「意味、解る?」 「その日暮らし」 「はっきり言うわね。そう、それと蝉《せみ》のヒグラシ。セミ・プロ、ってこと。発足当時の意気込みを無くさないよう、自戒の意味よ」 「初心忘るべからず」 「そう、最初の頃はずいぶん仲間の世話になったわ。名は売れてるんだけどプロダクションに所属してない個人営業のベテランや中堅どこが、旗揚げしたばかしの私の事務所に入ってくれたのよ」 「仲間って俳優のこと?」 「うん、俳優仲間よ。私、もとは女優だったんだから」  千佳子は眉毛《まゆげ》を上下させた。整った顔立ちは充分説得力があった。 「伊戸監督との結婚で、女優を辞めた?」 「そう。やり手の気鋭監督に手をつけられ、女優の夢を断念」ほくそ笑んで、「本当は才能ないことに自分でも気付いてたの。辞めるいい口実になったわ」 「伊戸さんの映画に出たのがキッカケ?」 「心中したくなる相手が見つかった」 「え?」 「伊戸が私を口説いた時の文句」 「心中したの?」 「私、まだ足ついてるわよ。映画屋はセリフをでっちあげるのが商売。それに、たとえ、もし、伊戸は心中を約束しても、自分だけ未遂をはかって、おめおめと生き延びる男よ。だから、別居する展開になるのは当たり前。もっと早く気付くべきだった」  嗚呼《ああ》、と芝居がかって、天井を仰いだ。 「別居だけで、離婚には踏み切っていなかったんですね?」 「娘がまだ小学生だしね。それに、向こうがね、うん、と言いそうもないし」 「経済的な理由だっていう人も」 「ああ、うちの実家、呉服屋のこと。それはどうだかね……」おどけた自慢顔で顎《あご》をあげて、「財産じゃないわよ。私よ。私への未練よ。なんせ、私は女優だったんだから。そう思わない?」 「思える時に思うのが、人が幸せになるコツだそうです」 「じゃ、私は幸せ者。それにしても、あんた言いたいこと言ってるわね」  笑顔のまま、目を尖《とが》らせる。  俺は、張井頼武の名を出した。 「ええ、うちの事務所の所属よ」 「大高監督の息子だけど、頼まれたの?」 「うん、確かに入道どのに頼まれたんだけど、こっちも商売だから、簡単にホイホイと引き受けるわけにいかないでしょ。で、とりあえず、張井が出ている芝居を観にいったんだけど、予想に反してあの子いい資質持ってんのよね。それで、声をかけたら、『三日、待ってくれ』って言うの。で、三日後、劇団の主宰者を殴ってから、私のとこへ来たわ。張井も顔が腫《は》れていたけどね」 「こないだは、あんたの亭主、つまり亡くなった伊戸監督とも衝突してた」 「あれは頭きたわね。後で、出演シーンをカットするなんて、いかにも伊戸のやりそうな手口。私、何か仕返ししてやろうと思っていたのに、永遠に手の届かないところへ逃げちゃうんだから。これも、あの男らしいよ」 「張井君は北宮さんとも」 「苦労させてくれるわよ。でもね、あれはその場限りの衝突。後で北宮さんが女の件を伊戸の耳に入れた、なんてのは勘繰り過ぎよ。張井はまったく北宮さんのこと解ってないわね。北宮さんは真っすぐな人だったわ。こわいくらいの純情。永遠の映画少年ってとこかしらね」 「純情と単純の違いとは?」  つい言ってしまう、俺の出来心。 「死者を鞭《むち》打つもんじゃないわよ」  千佳子は眉をひそめながらも、口元で苦笑していた。 「別居してからも、伊戸さんと顔を合わすことは?」 「時々、仕事先でね。狭い世界なのよ」 「新しい男も仕事先で?」  横目で俺を睨《にら》みつけると、 「調べてみな、探偵でしょ。でも、狭い世界……って言われるのも何か癪《しやく》よね。そう、なんせ、私、もとは女優なんだから」  口を横いっぱいに広げて、笑った。どんなことでも受けとめてしまいそうな強い笑顔だった。 「あ、そろそろ始まるわよ、次の幕。静かにしてくれる」  天井の照明が絞られ、客席は暗がりに沈んだ。  俺は素早くアリバイを尋ねる。  千佳子は他人事《ひとごと》のように機械的に答えた。十二月九日の夜は、麹町《こうじまち》のテレビ局で九時半近くまで打ち合せ。その後、車を運転して、目黒の自宅に十時過ぎに帰宅。家では一人だったという。それらが事実ならば、千佳子は奥多摩の〈山の荘〉での殺人は不可能ということになる。テレビ局で打ち合せをしたディレクター二名とプロデューサー三名の連絡先を俺はメモに控えた。これだけ証人の名をあげつらっておいて、まさか、千佳子が嘘をついているとは思えないが、俺はどんな場合でも、念の為に裏を取ることを忘れない。探偵の哀しい習性というやつだ。  と、隣から耳障りな電子音が聞こえた。  千佳子が舌打ちをして、バッグから携帯電話を取り出し、呼び出し音をとめた。耳に当てたまま、立ち上がり、席を離れる影が見える。その影は客席後方へと足早に進み、扉の向こうへ消えた。  俺も席をたち、跡を追う。  舞台上では、ダンカンを暗殺して組長の座を手にしたマクベスが、宴の席で継承盃を呷《あお》ろうとするところだった。  千佳子は喫煙コーナーのソファで足を組んで、電話に向かって大きな声をあげていた。額に皺《しわ》が寄り、かまいたちでも起こしそうなきつい目付きをしている。 「……駄目! 馬鹿な真似すんじゃないわよ! いいわね! これからすぐにそっちに行くから!」  苛立《いらだ》たしげに、電話を切って、バッグに押し込んだ。顔をあげ、俺がいるのに気付く。俺を見たまま、二、三度まばたきする。何か判断を迷っている様子だ。決心がついたらしくソファから立ち上がると、 「探偵さん、これからちょっとつきあってくれない?」 「下の喪服も見せてくれるの?」  千佳子はひっぱたく真似をして、 「馬鹿言ってんじゃないわよ! 人助けに手を貸してくれって言ってんの! 北宮夫人の様子がおかしいのよ!」 「殺された北宮の?」 「そう、私と同じく出来たてホヤホヤの未亡人! 電話で自殺をほのめかしてんの! さっ、行くわよ!」  千佳子は有無を言わさず、俺の袖《そで》をつかんで走り出した。      20  千佳子は、制限速度と信号に挑戦し、ことごとく勝利しながら車を飛ばした。土曜の午後で道はさほど混んでいない。それが千佳子をよけいに奮い立たせたようだ。時折、「オリャッ」「アチョーッ」などと奇声を発しながら、ハンドルを大きく切る。  遠心力や慣性の法則であらゆる方向に振り回されるため、俺の肩や胸はシートベルトがきつく食い込んで痛い。ミミズ腫れになっているかもしれない。後部席に乗るべきだったと、助手席の俺は後悔した。  北宮兼彦の妻、季穂は、西早稲田《にしわせだ》に住んでいた。俺にとっては、千佳子に季穂と、未亡人のはしごだ。  路上駐車をして、千佳子と俺はダークブラウンの四階建てマンションに走り込み、三階まで駆け上がった。  千佳子はいつのまにかハイヒールを手に持っていた。空いているほうの手でドアのノブを回して引いた。錠はかかっていなかった。  ドアを開けて、千佳子が中に入り、俺も後に続く。 「季穂! 来たわよ! 私よ、千佳よ!」  何ら反応はなく、静まり返っている。  電灯のスイッチに触れようとした千佳子を止めて、俺は前に身を乗り出した。  ガス臭い。  俺は奥に進む。2DKの造りだ。ダイニングキッチンに踏み込むと、まっすぐにガス台に近寄る。コブラのようにシューと音をたてて、コンロは都市ガスを吐いていた。俺はレバーを「止」に回して、ベランダのガラス戸をいっぱいに開けた。そして、目についた窓を次々に開けてまわった。  外を見ると、すぐ前を、神田川が細々と流れている。その音は聞こえない。並走するようにして都電のレールが続いている。川もレールも冬の淡い陽光を冷たく反射し、親子連れの大蛇のようだった。  問題の未亡人・季穂は六畳間で炬燵《こたつ》にうつぶせていた。もう一人の未亡人・千佳子が、その肩に手をかけて、しきりに名を連呼している。が、季穂は顔を正方形のテーブルに押しつけたままだった。  俺はキッチンの流しから、三角コーナーの生ゴミを容器ごと手にとり、隣室の炬燵に歩み寄った。そして、季穂の伏せた顔のすぐ脇に生ゴミを置いてやった。  十数秒後。激しく咳《せ》き込みながら、季穂は上体をあげた。鼻と口を手でおおって、嘔吐《おうと》の時のように喉《のど》をきしらせて、首を左右に激しく振る。目を赤くしながら、 「何よ、これ! 信じられない」  生ゴミを手で押しやり、遠ざける。  千佳子は顔を覗《のぞ》き込んで、 「季穂、あんた、大丈夫なの!」  言いながら、生ゴミを俺の方に押しやる。  俺はそれを手に取り、キッチンに戻すと、言った。 「北宮夫人はなんともないよ。さっきのガスは漏れ始めてからまだ五分くらいしか経ってなかったんだから」 「あんた、もと東京ガス?」  千佳子が怪訝《けげん》な面持ちできいた。 「いや、テレビ局の記者」  それで俺はガス自殺の現場に踏み込んだことが三回ほどあった、と説明した。  千佳子は矢のような視線を季穂に向け、 「あんた、さっきのは狸寝入りね?」  季穂は顔をうつむける。色白の肌にふっくらした頬と大きな瞳《ひとみ》が魅力的だった。三十代前半だろう。黒いセーターと黒いロングスカート。下着も喪中だろうか? なりたての未亡人だけあって生気が薄い。水が足りずにうなだれた鉢植えを思わせた。  季穂は目を落としながら、かすれ声で、 「違うのよ。待ってたの、千佳さんが来るのを。せっかく来ても、私だけ先に死んでたら悪いと思って、到着時間を見計らって、それから逆算してガス栓を開けたのよ」  千佳子は腰に両手をやり、 「あんたね、私もまきぞえにするつもりだったの?」 「そんな……。ただ、私が倒れているのを見たら、千佳さんも自殺に付き合ってくれるかもしれないと思って」 「私が付き合うの確認してから、あんた死ぬつもりだったってわけ?」 「たぶん」 「たぶん、って……」千佳子は腹立たしげに溜息《ためいき》をつき、「あんたが途中で自殺をやめちゃって、私だけ死んだら、いったい、私は何なのよ!」 「千佳さん、そんな馬鹿じゃないでしょ」 「当たり前よ!」 「そうでしょ! きっと、千佳さんは、私の自殺を止めてくれるって、私、信じてたの」  季穂は顔をあげて、祈るように両手を握りあわせた。  千佳子は鼻筋を蛇腹にして顔を歪《ゆが》め、 「やめてよ、あんたのそのウルウルと潤んだ目付き、私、苦手なの」  手で払い除ける真似をした。 「ごめん……」  季穂は素直に謝り、その瞳をさらに潤ませる。  千佳子は掃除機のような音を立てて大きな溜息を吐く。 「要するに、あんた、構って欲しかったのよね」 「なんだか不安なの……」 「悲劇のヒロインを気取るんじゃないわよ。仕事を取るか、亭主と別れるか迷ってたくせに」 「もう迷うこと無くなっちゃった」  そう呟《つぶや》くと、季穂はまた顔をうつむけ、しおれてしまった。なんとも扱いにくい情緒不安定な女だ。  そう思ったらしく、千佳子は苛立《いらだ》たしそうに、大きく舌打ちをした。  俺がキッチンから口を出す。 「どうでもいいけど、今度、自殺する時はガスはやめてくれよな。死ぬ覚悟のテメエはかまわんだろうけど、他の人間が危ない目に遭う。うっかり、電気でもつけようもんなら引火して、丸焼きにされちまうぜ。こんなふうにな」  そう言って、俺は先程の生ゴミを料理網にのせると、コンロの火を全開にした。たちまち、あぶられた生ゴミはどんよりとした煙を立ち上らせ、そして、途方も無い悪臭を放ち始めた。  俺は三十秒ほど息をとめた後、火を消してベランダに飛び出した。それでも、臭いは追ってきて、少し咳き込んでしまった。  ベランダから、六畳間を覗く。炬燵で、二人の未亡人がハンカチで顔の下半分を覆い、眉《まゆ》を富士山の形になるくらいひそめていた。  季穂は俺を指差して、 「何なの、あの人?」 「あれは探偵よ」千佳子が顔をしかめて答える。「今回の事件を調べてるの」 「嘘。探偵がこんなこと」  俺はピエロのような唇をして、笑いかけ、 「事実は映画より奇なり、だよ。せっかく来たんだから、いくつか質問させてもらうよ。答えてくれないと」俺はキッチンの方を指差して、「また、料理を始めちゃうぞ」  季穂は怯《おび》えた目をして、何度も首を縦に振った。その横顔を見て、千佳子は安堵《あんど》の表情を浮かべる。  俺はベランダから畳にあがる。 「確か、フリーで映画の宣伝の仕事してんだよね?」  季穂はか細い声で、 「え、ええ、そうです」 「その手の仕事は時間が不規則なんだよな。そして、死んだ旦那《だんな》、北宮は助監督。これもまた時間が不規則だ。生活にすれ違いが多くなるな。旦那に、今の仕事を辞めろ、って言われたんだな」  季穂は顎《あご》を引き、すねた子供のような目をして、 「でも、私は辞めたくなかった……」  ポツリ呟いた。 「旦那は、〈ジャン・カンパニー〉の加古川と仕事を進めていたらしいね。映画監督デビュー作になるかもしれないと」  季穂はかすかに頷《うなず》いて、 「シナリオを書いてました」 「読んだ?」 「いえ、読もうと思っていたんだけど見つからないんです。ずいぶん探したのに」 「見つけたら、教えてくれる?」 「え、ええ、もう少し探してみるつもりだったから」 「旦那は『シナリオが上手くいかない』と加古川に漏らしていたとか」  季穂は少しの間、押し黙った。肩がかすかに上下する。 「主人は先月の下旬頃から妙に元気がありませんでした。つまんないくらい純な人だったから、悩みだすと重いんですよ。執筆している様子もないので、気になって、どうしたのか何となく聞いてみたんですが、あいまいに笑うだけで……。仕事のことをあんまり詮索《せんさく》すると、嫌がる人だったから、そのまま、そっとしておいたんです……」 「シナリオの内容については?」 「聞かされてません。ただ、ちょっと耳に入ってしまったことが……」 「それは?」 「……先月、伊戸さん、亡くなった監督の伊戸さんがうちに主人を訪ねてきた時、二人の会話の一部が聞こえて……。ビールを持って、主人の部屋に入った時なんです。主人は、シナリオの原稿の束を伊戸さんの手に渡しているところでした」 「作品の中身についての話をしていたわけだな?」 「ええ、ビールを置いてきただけですから、私が部屋にいたのはほんの短い間なので、一言二言しか耳にしてないんだけど……、主人は『ボートレースの映画だ』というようなことを伊戸さんに喋《しやべ》っていたんです」 「ボートレースの映画?」 「ええ……」 「確か、怪談ものを書いていると、旦那は加古川に告げていたそうなんだけど」 「さあ、私にはそのへんのことは……」  しなびていくようにうつむいた。  俺は気分転換をさせてやるために、簡単な話題を振る。疲れる女だ。 「旦那はシナリオを書くのにパソコンかワープロを使ってた?」 「いえ、鉛筆書きで」 「四百字詰めの原稿用紙に?」 「いえ、二百字詰め。映画業界はたいてい二百字詰めを使ってるみたいです。主人は原稿の束をいつも大きなクリップで綴《と》じていました。ドイツ製のブルーのクリップで、お気に入りだったようです」 「旦那について、最近、何か妙なことに気付かなかった?」  季穂のこめかみの辺りが震えた。何かあるのだろう。  俺は借金する時の懇願の口調で、 「言ってくれよ。頼むよ。旦那が殺された事件を解決したいだろ」 「言った方がいいわよ」  千佳子が口を添える。なぜか、一瞬、視線をキッチンに向けた。俺が再びガスコンロを使うことをおそれているらしい。  季穂の口がゆっくりと開いた。息がかすれた音をたてる。言った。 「主人のアルバムから写真が剥《は》がされているんです」 「いつ気付いた?」 「今日です。主人のことを考えながらアルバムをめくっていたら」 「無くなっていたのは全部の写真?」 「いえ、それが、ロケ先や撮影所といった仕事の現場の写真だけで、全部ではないんだけど、かなりの数が剥がされてました」 「剥がしたのは誰か、心当たりは?」  季穂は束の間ためらってから、 「主人ではないか、と……」 「旦那が、なんで?」 「なぜ剥がしたのか、その理由は解りませんが……。先月の末ごろだったと思います、私が留守の時、主人はベランダで何かを燃やしていたようなんです。並んだ植木鉢の間に灰が落ちていて、写真の燃え残りのような紙屑《かみくず》も混じっていました」  労働現場の写真を燃やすとは、北宮は仕事が嫌になっていたのだろうか。俺なんか生まれてこのかたずっと働くのが嫌で仕方ない。ただ、燃やす写真が無いだけだ。  ベランダの外から、都電のコトコト走る音が聞こえてきた。 「経堂にある大高監督の仕事専用の家だけど、あんたの旦那は鍵《かぎ》を持っていた。大高監督に信頼されていたんだね」 「ずいぶんと可愛がってもらって、主人もそれにこたえようと努めてました。スタッフの打ち合せがある時には、経堂の家へ先乗りして、準備を整えることを、主人は自分の役割にしていたくらいです」 「犬みたいに忠実なヤツだな。大高監督が死んでからも、いつも駅で待っていたとか」  つい言ってしまう、俺の出来心。  ちょうど外で、都電がプァーンと警笛を北風に響かせたため、季穂には聞こえなかったらしい。  ようやく生ゴミ焼きの悪臭が消えたように思える。陽が西に傾き始め、寒くなってきたのでガラス戸を閉めた。  俺はクシャミを二つ放つと、季穂に向かい説教口調で、 「特に冬場は困るんだよ。事後処理で窓を開けると寒いし。ガスのことだよ。だいたい、現代は都市ガスじゃ簡単に死ねないんだよ」 「はい、知ってます」 「あっそう。とにかく、二度とガスを使うんじゃないぞ」 「ガスなら美しく死ねるって聞いたことがあったから……」 「なら、凍死や服毒がある。今度、死ぬ時はそれにしな」  季穂は目に憤りの光をたたえ、頬のあたりに力をこめると、 「なによ! 死ね死ねって。あんたなんかに私の気持ちが解るわけないでしょ! 連れ合いを失ったことないくせに」 「失ったことはある。二回」  季穂は目を大きく見開き、口ごもって、 「二人も……、なんで?」  俺はニュースキャスターのように冷静に解説する。 「直接のキッカケは冷蔵庫だ」 「……冷蔵庫?」  季穂と千佳子がハモった。 「夏、暑かったので、俺はパンツとシャツを冷蔵庫で冷やしておいた。それを見た女は家を出て行き、二度と戻らなかった。言っておくが、シャツもパンツも買ったばかりの新品だった」 「連れ合いを失ったって……それ……」  季穂は目を点にしてひとりごちる。千佳子は口を開けたり閉じたりしているが、声を出さない。  俺は続ける。 「もう一人の女の場合はレンジ。冬、寒かったので、俺はシャツとパンツをレンジで暖めた。以下、同文」  しばし沈黙がたれこめた後、季穂が唇を震わせながら言った。 「レンジでパンツを?」 「そう、レンジでパンツを」  季穂は身を乗り出し、 「レンジでパンツをチン」  そう呟《つぶや》くと、途端に表情を崩して、けたたましく笑い始めた。一人だけ壊れたドアチャイムのように笑い続ける。  俺と千佳子は目を見合わせる。死んでくれた方がよかったかも、な。      21  日曜の朝だというのに、白亀の電話に起こされてしまった。世間並みに休みを取るつもりだったが、これが探偵稼業のやるせなさ。ただ、白亀に起こされるくらいなら、時計のアラームの方がまだ寝覚めがよい。 「池の散歩でもしないか」  受話器の向こうで、白亀が珍しいことを言った。  バスで石神井《しやくじい》公園に出掛けた。ここにも、紗幕《しやまく》のような冬枯れの色彩がかかっていた。夏のあいだ幾重にも塗り込まれた濃緑は、すっかりあせて、淡いセピアと化している。枝と葉を落とした木々の隙間を灰色の空が埋めていた。  三宝寺池の水面に顔を出す植物群は箒《ほうき》の先のようだった。その間を滑る水鳥も、こころなしか動きが鈍い。ほっこりと膨らませた羽毛の中で首を縮めていた。  人だかりを見つけた。制服の警官も多い。  木立を縫う散歩道の一部がロープで遮断されていた。その中、ベンチを中心に、警察関係者たちが検証を行なっている。木造のベンチの上には、人間の輪郭を描いて、白いテープが貼られていた。  日曜のためか、犬を連れた年配の男の姿が目立つ。普段と異なる空気を察して、犬の方が落ち着きを失っていた。いたる所で吠《ほ》える声がする。互いに連鎖反応を起こして止む気配がない。  白亀は近くのベンチで煙草をくゆらせていた。チェックのマフラーが洒落《しやれ》ていやがる。すぐ後方の事件現場とは無縁の、いかにもくつろいだ風情だった。  俺は隣に腰を下ろす。 「ベンチに死体?」 「もう、警察が運んで行った」 「誰だった?」 「一言じゃ言えない」 「普通じゃない?」 「一見、普通の死体だったんだ。トレーニングウェアの上下を着て、ベンチに腰掛けるような恰好《かつこう》で発見された。でも、普通じゃない」 「また、どこか切断されていたとか?」 「というより、逆。組み立てられていた」 「組み立てられた?」 「ああ、バラバラの首と腕と足を組み合わせて作った死体だった。それにトレーニングウェアを着せていたんだ」 「なに! バラバラの首、腕、足にトレーニングウェアを着せていた……って」  俺は思わず白亀の言葉を繰り返し、 「胴体の部分は?」 「甲冑《かつちゆう》の胴体部分が使われていた。ほら、大高監督の〈山の荘〉から持ち去られただろ。あれらしい」 「ああ、アルミ製の軽いやつだな」  白亀は片手で顎《あご》をつまみ、 「そして、首は北宮兼彦だった」 「……そう、やっと出てきた」 「これまでの流れから推測して、他の部分、足は北宮、腕は伊戸光一、と考えられるだろう。検視の結果待ちだが」 「なるほど、北宮の死体からは首と足、伊戸の死体からは首と腕が切断され、持ち去られていた。そうすると、まだ、伊戸の首だけ使われていないということになる」 「犯人がどこかで冷凍保存しているさ。今回の各部分もそうだったらしい。あと、手掛かりになるかどうか解らんが、北宮の頭の左側には瘤《こぶ》があったらしい」 「殴られたのか?」 「あるいはどこかにぶつけたか。鈍器、または、何か平らなものによる打撲で出来たらしいよ」 「この妙な死体が発見されたのは今朝?」 「六時頃。散歩中の老夫婦が見つけた。死体がベンチに置かれたのは深夜から未明にかけてだろう」 「発見した老夫婦は災難だな」 「下手に死体に触れなくってよかった。首やら腕やらがポロリともげるのを見たら、ショック死しかねない」 「日曜とはいえ、死体の大安売りはかなわないよ。それにしても犯人は何を考えているんだ。切断した首や手足を使って、死体を作り上げるなんて……。まるでプラモデルでも組み立てているみたいだ」  白亀は横目で俺を捕らえると、わざとらしく鼻先でせせら笑い、 「これも見立てだろ。『しのだづま』の」  ……しまった。一本とられた。俺は舌打ちをする。歯ぎしりを我慢して、 「なるほど、一条戻り橋の場面か」 「そう、悪右衛門に斬殺《ざんさつ》されてバラバラになっていた保名の死体が、安倍晴明の神通力でもとに戻り、蘇《よみがえ》る。そう、戻り橋の名のいわれになった場面。その見立てだよ」 「死体再生だった……。なるほど、二つの殺人事件の現場には切断死体を残して、『しのだづま』の斬殺場面の見立てを作った。だけど、そこで使った切断死体は警察の手に渡るから、犯人は死体再生の見立てには使いようがない。そこで、二つの死体から首、腕、足を持ち去っておいて、それらを組み合わせて、死体再生の見立てを作り上げたわけだ」 「そんな見立てにふさわしい場所かもしれないな、ここは」  白亀は欠伸《あくび》まじりに言った。何か思うところがあるような目をして、三宝寺池の方を眺めやっている。 「どういう意味?」  俺は先を促した。 「怪談がある」  白亀はいささか得意げな表情で語った。  一四七七年、石神井城主の豊島泰経《とよしまやすつね》は、江戸城を拠点とした新興勢力の太田道灌《おおたどうかん》と、武蔵の国の覇権をめぐって戦った。炎上する城を見て、敗戦を悟った豊島泰経は、家宝の黄金の鞍《くら》を乗せた愛馬にまたがり、そのまま三宝寺池に沈んだという。その娘、照姫も跡を追って入水した。  そうした伝説を背景にして、昔から、幽霊話が噂されている。深夜、照姫を祀《まつ》った姫塚のあたりから人影が現われてしずしずと歩き、三宝寺池の中に消えていく。それは照姫の亡霊といわれている。亡霊が現われる夜は池の方から、ドーン、と何やら怪音が鳴り響くらしい。  さらに、三宝寺池には、耳のはえた大ウナギのような化物や、頭が鳥居の形をした魚が棲《す》んでいるという怪談もある。  また、泰経とともに沈んだ黄金の鞍は池の底に眠ったままだと伝えられている。  これらの話を、白亀は、公園内の案内板と茶店の婆さんから仕入れてきたらしい。  俺は溜息《ためいき》ひとつ、 「なるほど、亡霊、怪物、黄金、これらに加えて、『しのだづま』の死体再生か。似合いといえば似合いだ」 「しかし、犯人がこの場所を選んだのはそのためじゃない」  白亀は池の向こう岸を指差して、 「ここ、石神井公園には、稲荷|諏訪《すわ》神社がある」  歌でも詠むように言った。  また、一本とられた。せっかくの休日なのだから手加減してほしいものだ。  俺はベンチから立ち上がって、指し示された方向を眺めやる。枯れた木立のあいだから赤い鳥居と赤い幟《のぼり》がのぞいていた。  公園内を散歩する犬という犬すべてが、俺にはキツネに見えてきた。      22  白亀の講釈からやっと逃れ、石神井公園を出たのは昼過ぎだった。憂さ晴らしに、名店を鼻にかけているラーメン屋でスープを半分以上も残してやった。実際、全部飲むほどの味ではなかった。休日気分を取り戻すためにぷらぷら散歩しながら帰る。  と、客が俺を待ち受けていた。どいつもこいつもよってたかって休日を粉砕するつもりらしい。  俺の住んでいるマンションの一階に、「思う壺《つぼ》」というふざけた名の小さな陶器屋がある。マンションのオーナーが道楽で経営している店だ。そこで、客は俺を待っていた。  オーナーは、帰ってきた俺を見つけると、 「さっきから客人がお待ちだよ。俺は出掛けるけど、店番かねて、ここ使ってもええぞ」  ドスのきいた声で言った。角刈り頭に、鋼鉄の彫刻のようなこわもてのする顔。どこかの親分さんには見えるが、陶器屋とは結びつかない。  時々、俺は依頼人との面会に、閑古鳥の鳴くこの店を使わせてもらっていた。まあ、依頼人も滅多に来ないが。交番ほどの店舗で陶器を並べた棚が三方の壁に設けられている。奥には三畳くらいの小上がりがあった。レジの丸椅子に秋田犬のヘッセが主人づらをして座っていた。人間様は皆、突っ立ったままだった。  俺に客人を引き合わせると、オーナーは肩を揺すぶりながら出ていった。  客人とは、映画監督の玉砂仁であった。 〈ジャン・カンパニー〉の加古川の話に出てきた男だ。雨ざらしの映画出演と引き替えに、俺はその話を聞き出したのだ。  玉砂はほどよく銀のまじった髪を整然と横分けしている。床屋が見たら、ロマンスグレイの見本写真にして店内に飾りたがるだろう。細面、伸びた背筋、腹は出ていない。エンジ色のアスコットタイをしていた。英国紳士を連想させて、ステッキが似合いそうである。ダメ押しにパイプをくわえていやがる。  いかにも、文芸ものと女性ものを得意としていた監督の風采《ふうさい》だった。本人もそれを意識しているように見える。作品リストにB級ホラーが混じっているのは似合わない。本人もそう思っているに違いない。嫌な奴だ。  玉砂は、陳列棚の壺を取り上げ、薄茶の地に散る赤い線模様を指でなぞりながら、 「いい緋襷《ひだすき》が出ています。焼く時に、藁《わら》のアルカリ分と土の鉄分とがうまいバランスで化合したんでしょう。なかなか、こうはいかない。だけど、この地の色具合が心なしか濃いですね。蒸し焼きするにはちょっと火が強すぎたんでしょう」  などと、自慢げに蘊蓄《うんちく》を幾つも垂れ流してから、ようやく用件に入った。  玉砂の用件とは、 「〈ジャン・カンパニー〉の加古川さんから、紅門さんという探偵が私と会いたがっていた、と聞いたものですから。例の殺人事件を調査しているとかで、何か私に協力できることがあるならばと思って来ました。あと、私の方にもメリットがあります。事件ものの映画を企画していたところで、私立探偵という職業について取材したかったので、ちょうどいい機会だったというわけです」  こっちから足を運ぶ労を省いてくれたわけだから、俺は一応、礼を言った。  すると、  WON! WON! WON!  ヘッセが玉砂に向かって吠《ほ》えたてた。親しみを込めたものではない。敵意に満ちた険悪な声であった。ヘッセはこの男がいけすかないらしい。犬は正直だ。  俺の場合、犬と人だったら、犬を信用している。今回も例外ではない。犬に嫌われる玉砂という男はろくな人間ではない、そう俺は科学的に判断した。  玉砂は、ヘッセから身を遠ざけながら、 「石神井公園で奇妙な死体が発見されたようですね。バラバラの首や手を組み合わせたとか。午前中、テレビのニュースで見ました。紅門さんは現場に行ってたんでしょ」  要するに、こちらの調査の進行を知りたいらしい。何か目的があって、事件についての情報を引き出そうとしているのだろう。そうは問屋がおろすものか。なんせ、こいつは犬に嫌われるようなロクデナシだ。それに、休日を破壊するトウヘンボクだ。こんな下衆《げす》野郎の思い通りにさせてたまるか。  玉砂の関心を無視して、俺は話のイニシアティブを握る。まずは、北宮兼彦が映画化権を持っていた小説のことに触れた。玉砂が映画化を切望していた、と〈ジャン・カンパニー〉の加古川から聞いた件である。  玉砂は、穏やかな表情を保ちつつ、尖《とが》った口調で言った。 「そう、北宮君は一刻も早く映画化すべきだった。旬のタイミングはとっくに逃してしまっている。映画化すべきものが、映画にならないのは大きな損失です。いいネタを前にして、握らずに腐らせてしまう寿司《すし》屋のようなもんでしょう。罪に等しいかもしれない。死者に対し冷たい言い方を許してもらうなら、監督にもなっていないのに映画化の権利を持つべきではなかった」 「それなのに、権利を獲得したのは、北宮さんの熱意とはいえない?」 「いえません。彼の熱意ではないのだから。そういう言い方に当てはめるのならば、熱意を持っていたのは、師匠の方」 「大高監督?」 「そう、入道どの。彼が映画化権を北宮君にプレゼントした。その原作の担当編集者と昔から懇意だったそうです」 「プレゼントは師弟の絆《きずな》か」 「どうだか。本当の意味でのプレゼントなのか。私を含めて他にも映画化したがっている監督が何人かいました。それらの人間に撮らせたくなかっただけなのかもしれない」 「特にあなたに?」  玉砂はちょっと間をおいて、俺の問いをかわすためか、話のアングルを変える。 「北宮君はともかくとして、入道が師弟の絆という意識を本当に持っていたのかどうかあやしいもんです」 「思い当たることがある?」 「四、五年前にね、テレビの深夜枠のドラマを北宮君が演出したんですよ。かなり出来がよくって評判になったんだけど、或《あ》るアメリカ映画と似てる点があって盗作が噂されたんですよ。もちろん、本人は偶然だと否定しましたがね」 「北宮さんはノイローゼみたいになっただろうな」 「ええ、純ですから。その挙句、撮影所にこもってハンガーストライキをして、潔白を訴えたんですよ。四日間、何も食わずにね。まあ、それで盗作騒ぎはとりあえずおさまったわけです」 「そん時、ミイラになってりゃ、今頃、バラバラ死体にならずにすんだのにな」  玉砂は声のトーンを落とし、 「盗作騒ぎの時、入道も北宮君を援護して、批評家と戦う姿勢を見せてました。でも、本当は、盗作を最初に指摘したのは」 「入道だった」 「そういう噂がありました。結局、藪《やぶ》の中でうやむやになってしまいましたけどね」  いったん言葉を切ってから、玉砂は俺に質問しようとした。イニシアティブを取るつもりらしい。が……  WON! WON!  ヘッセが阻んだ。  玉砂が一瞬たじろぎ、口をつぐむ。その隙に乗じて、俺はさっさと次の話題に移る。 「三年前に、あんたが監督するはずだった映画『猿ぐつわの一族』が流れましたよね。役者が出演を断ったために」  玉砂はいまいましげに溜息《ためいき》を吐き、 「伊戸監督の作品に出演が決まって、役者が続けて似たような役をやりたがらなかった。なるほど、私のツキの悪さの背景に、北宮と伊戸、つまり殺害された者たちがいた。それで、あなたは私に関心を持っている」 「だけど、北宮さんの件に関しては、実際は大高入道の動きだった」 「伊戸の件もそうだとしたら驚きます?」  俺は反射的に目を見開いた。 「入道がからんでいる?」  玉砂は作り笑いを浮かべてうなずいた。 「役者の事務所と伊戸監督との橋渡しをしたのが入道どのだった。その俳優事務所の代表に何か貸しがあったらしい」 「あなたに二つの不運をもたらしたのは大高監督。故意でしょうか?」 「故意だと思います。あの男の気性ときたら疳《かん》の虫の強い幼児のような残忍さがありましたから。我慢することを知らない。思い通りに動かなくなった玩具《おもちや》を壊すように、気に障る人間は容赦なくつぶす。そして、自分は表に出ない。あの男の中には、子供じみた残虐さと大人の狡知《こうち》が共存していました」 「入道は、玉砂さんの何が気に食わなかったんです?」 「私が主に文芸ものの小品を撮っていたことでしょう。興行としては奮いませんけど、批評家筋なんかには評判がよかった。怪奇映画とは逆の状態です」 「そんなことで?」 「それが大高入道です」  ヘッセがクシャミをした。  玉砂は、両手の親指と人差し指で四角形を作り、目の前にかざす。カメラのフレームのつもりなのだろう。それを横にパンしながら店内を覗《のぞ》いていた。何度か、ちらちらと俺を横目で捉えた。自分が映像作家であることをアピールしていやがる。家の表札にもわざわざ「監督」と入れてるかもしれない。  俺は意地の悪い質問をぶつける。 「テレビ局製作の映画もボツになったとか。とことんツイてませんね」  玉砂は手をおろす。引きつった笑みを浮かべ、しばらく沈黙した後、 「ああ、『バブルの悲劇』という映画です。あれはボツになったんじゃない。壇が横取りしたんだ」 「〈ジャン・カンパニー〉の壇社長?」 「そう。最初は〈ライムライト・ムービー〉というプロダクションが製作を請け負うはずだった。そこの代表の松下ってプロデューサーが私を監督として推してくれていた。そこに壇が割り込んできた。ちょうど、壇が進めていた別の映画が製作中止になった時で、組んでいた大きなタイアップが宙に浮いていたんです。かなり旨味のあるタイアップで、それを武器にして、壇は製作の請け負いを横取りしたというわけですよ。それで、松下君がはねのけられて、当然、私も」 「松下さんとは前から親しかった?」 「彼も〈大光映画〉出身ですよ。私より二つ下だっけな。おまけに、〈ジャン・カンパニー〉にも一時いた」 「独立したのは?」 「壇と合わなかったって聞いている。詳しいことは知らないけど。ん……」  話を切ると、玉砂は目を凝らして、 「あっ、それは……」  小上がりの飾り棚を指差した。ご丁寧にガラス戸がはまっていて、中に幾つかの桐箱《きりばこ》が並んでいる。 「藤原|雄《ゆう》の箱書きじゃないですか。備前焼の大家ですよ」  玉砂の声には知識を披露する喜びが込められていた。これをキッカケに、会話のイニシアティブを奪取するつもりかもしれない。  俺はガラス戸を滑らせて、桐箱の一つを手にすると、 「これは売り物じゃないんですよ。でも、見たいんだったら」 「是非」  俺は桐の蓋《ふた》を外し、中から一輪挿しの花瓶を取り出した。そして、玉砂の恐る恐る差し伸べた両手に、花瓶が触れた時、  WON! WON! WON!  ヘッセが激しく吠《ほ》えた。  俺は手を滑らせた。花瓶は玉砂の両手を擦り抜けて、床に落下し、カシャン! と小気味よい音をたてて、砕けた。  泥水がはねたように散った陶器片を、玉砂は飛び出しそうな目で呆然《ぼうぜん》と見ている。血の気の引いた白い顔を上げると、顎《あご》を震わせながら、 「わ、私のせいじゃない……」 「そうかな。ま、いいや。次のはちゃんと受け取ってくれよ」  そう言って、俺は別の桐箱から徳利を取り出し、アンダースローで玉砂に放り投げた。  WON! ヘッセが吠える。  カシャン! 玉砂が取り損ね、徳利は砕け散った。玉砂は海に放りこまれた池の鯉のように口をパクパクとさせるだけだった。 「しょうがねえな、じゃ、次、行くぞ」  俺は舌打ちをすると、桐箱を次々と開けて皿や壺《つぼ》や鉢を次々に投げ付けた。そのたびごとにヘッセが吠える。そして、ことごとく、玉砂はキャッチに失敗し、陶器は砕け、ただの土くれと化していく。……WON! カチャッ! WON! パリン! WON! ガシャリ!……  やがて、投げるものもなくなり、俺は両手を広げる。まるで震災の現場のように、陶器片が床を埋め尽くしていた。  それらをバリバリと踏みながら、玉砂はゆっくりと後ずさる。激しい運動で赤らんでいた顔が急速に青ざめて、ところどころ色が混じり紫に染まっていた。体中がわなわな震えている。そして、身を翻すと、足をもつれさせながら、転がるように店を出ていった。  俺は肩をすくめると、箒《ほうき》とチリトリを持ってきて、散乱した陶器片をかたづける。これらはオーナーが道楽でひねった作品だった。売り物なんかになる品ではない。桐の箱だけ名匠のものだった。気に入らない客が来た時のための、悪戯《いたずら》の趣向である。  やっと、休日を奪回できた。  WOWOWOWOOOOO……N!  ヘッセが勝利の遠吠えをあげた。      23 〈ジャン・カンパニー〉に電話した。壇はまだ出社していなかった。月曜の午前十一時過ぎ。普段は十時には顔を出している、とパンク魔女が言った。俺は、壇が立ち寄りそうなところを幾つか教えてもらった。今度、オフィスに行くときには、パンク魔女に鯛焼《たいや》きでも差し入れてやろう。  念のため、壇の自宅にも電話を入れた。いなかった。奥方の留守録の声だけだった。  立ち寄り先の候補地の中でも、テレビ局やオフィスビルでは探しようがない。もっとも小さな場所が、渋谷の〈ピエロ〉というバーだった。壇が経営している店だった。どうせ、バブル景気の遺産だろう。帳簿のチェックのために、寄ることがよくあるらしい。店名はゴダールの『気狂いピエロ』からだろう。「気狂い」までは店名にできない。不便な国である。電話を掛けてみるが誰も出なかった。どんな店か興味があった。  道玄坂を上って、ストリップ劇場の先、右に折れる路地をしばらく行くと、オレンジ色の五階建ての雑居ビルがある。人気のない階段を昇る。二階を四軒のバーが占めていた。コードの外れた電飾看板がそれぞれの店のドアの脇に押しやられている。フロア全体が薄暗い。朝の盛り場は実に静かなものだ。 〈ピエロ〉は黒いドアだった。金文字で店名が記されている。俺は把手《とつて》を押してみた。重さを感じさせながら、ドアは奥にゆっくりと開いた。  俺は、声をかけながら中に入った。暗い。入り口近くの壁をまさぐって、スイッチを探し当てた。照明が店内を浮かび上がらせた。黒大理石のカウンター、四人掛けのボックス席が二つ、絨毯《じゆうたん》はワインレッド。二つの酒棚の間に『気狂いピエロ』のポスターがかかっている。店名クイズ、当たり。  奥には大きなソファを向かい合わせた席があった。そこのテーブルが不自然な形で、奥の壁の方へ寄せられていた。向き合うソファの間がぽっかり空いていることになる。俺は近寄って、その空間を覗き込んだ。  赤黒く染まったテーブルクロスが床の上で山なりになっていた。絨毯には黒い染みが広がっている。  念のためハンカチを手に巻いて、テーブルクロスをめくった。  目が合った。  壇と目が合った。  ダルマさんが転んだ……、真っ先に俺の頭に浮かんだ言葉だった。  壇の死体には腕と足が無かった。  壇の裸体は血にまみれて赤かった。  ダルマさん、ダルマさん、睨《にら》めっこしましょ、笑うと負けよ、アップップ……、感覚が麻痺《まひ》したように、頭の中で勝手に歌っている。  笑ったわけではないが、俺の負けだ。睨めっこなんかしたくない。テーブルクロスを再びかぶせた。  よく見ると、その周囲にはまたも奇妙な飾り付けがされていた。一つは、キツネの毛と思われる襟巻。着色したようにわざとらしい色合だから、バーゲンなどで投げ売りされる安物だろう。  それと、一握りほどの米粒が置かれ、血にそまって赤くなっていた。  キツネの襟巻の下には例の手紙が差し込まれている。   殺人現場は「しのだづま」。 [#地付き]新世紀FOXより    店には俺と壇しかいない。貸し切りだ。自由に調べさせてもらおう。  ソファの上にアタッシェケースがあった。交通事故の現場から回収されたかのように、ひどく傷ついていた。表面の黒いレザーがジグザグ状にささくれて、剥《は》がれかけている。ステンレスのくすんだ銀がのぞいていた。部分的に強く打ちつけられてくぼんでいた。  開けてみる。隅に、壇の名をローマ字で記したテープが貼られている。中身はあまりない。書類が数枚。黄色い封筒は現像所から送られてきた物で、二ヵ所をホッチキスで留めたまま開封されていない。ハンカチを巻いた手で持ち上げ、透かして見た。十六ミリフィルムらしい。何が写っているフィルムなのか、黄色い封筒には記されていなかった。  足が何かを踏んだ。オスカー像のキイホルダーだった。嫌な趣味だ。鍵《かぎ》が四種類ぶら下がっている。順番に試してみると、三番目のがアタッシェケースのものだった。  ソファの隅には壇の衣類が積まれている。衣類と一緒にルイ・ヴィトンのセカンドバッグもあった。ファスナーを開けるが、これも中はほとんど入ってない。書類と壇の名刺くらいだった。  ふと、背後で何か動く気配がした。かすかに空気が揺れる。すぐ脇を影が滑るように射してくる。  俺は振り返ろうとした……が、その刹那《せつな》、後頭部のあたりに熱い衝撃を受けた。目の前がスパークしたように真っ白に眩《まぶ》しく光る。そのまま白い闇の底へ俺は身体も意識も吸い込まれ、どこまでも落ちていった……。  気を失っていたのはほんの五分ほどだったようだ。後頭部にそっと手を触れる。逆さの醤油《しようゆ》皿くらい、かすかに膨らんでいた。ヒリヒリするが出血していないので安心した。近くに、卵焼き用の四角いフライパンが落ちていた。どうやら、これで殴られたらしい。  ポケットを調べ、財布の無事を確かめた。  周囲に目をやる。気絶する前と状況は変わっていない。暴漢は何も奪わずに逃亡したようだ。  俺もこのまま、ずらかろうかと誘惑にかられた。警察へは匿名で電話通報することにして。だが、俺が壇を探していたことは〈ジャン・カンパニー〉に知られている。  俺は正直な一市民として警察に連絡した。白亀への電話も忘れなかった。  正直な一市民になったことを後悔した。匿名で逃げたとしても、いずれ警察の取り調べを受けることは避けられないだろうが、少し先送りされるだけでもありがたいと思った。  現場で一時間、署への同行を求められて二時間、じっくりと会話を交わした。後頭部のコブは大して同情を引かなかった。そんなものは、偽装しようと思えば、いくらでも出来る、と警察はまず疑ってかかるのだ。  ただ、依頼人の名を隠す必要がないのは助かった。ご本人の喧伝《けんでん》のおかげである。初めてオババに感謝した。  娑婆《しやば》に出られたのは三時過ぎだった。自然と警察署を離れるのが足早になる。一つ訊《き》くのを忘れてました、と熱心な刑事がコロンボのように追い掛けてこないとも限らない。  角を曲がって、署から見えなくなったところで速度を落とした。  後頭部を叩《たた》かれた。  俺は、痛みにうめき声をあげながら、振り返った。  白亀だった。 「痛いのか?」 「当たり前だ。コブだぞ」 「コブか。脳味噌《のうみそ》が急激に増えたのかと思った。コブとは、北宮の頭みたいだな。首を切断されないよう注意しろよ。それにしても、ずいぶんと警察署に長居してたな。待ちくたびれたぞ」 「カメさん、どこで待ってたんだ?」 「向かいの喫茶店。おかげでコーヒー腹だ」  俺は冷えた茶を一杯だけ二時間かけて飲んだんだぞ。  白亀はチェック柄のマフラーを肩の後ろに回して、 「今度は首だけはつながっていたから、死体の確認は楽だったようだ。殺されたのはもちろん、壇活樹、五十六歳。頭を殴打された後に首を絞められている。死んで十五時間から二十時間くらい経っているらしい。殺されたのは、昨日の夕刻から夜にかけてだな。だから、君を殴った暴漢が殺人犯ならば、何か不安になって現場に舞い戻って来たんだろう。消し忘れた指紋とか手掛かりを思い出したとか、よくあることだ」 「そこへ俺がたまたま出くわした」 「いま、宝くじ買うと当たるぞ」  俺は鼻先で笑って聞き流し、 「また、殺人現場には見立てがされていた。血に染まった赤い米粒が置かれてたけど、あれは赤飯を表わしているんだな」 「それが正解だろう。稲荷神社への供え物の代表格は油揚げと赤飯だ」 「見立ては、赤飯と襟巻でキツネそのものを指し示し、例によって、死体の切断で『しのだづま』の斬殺場面を表現している。今回、死体からは腕と足が切断されて、持ち去られていたよ」 「ああ、肉切り包丁と金槌《かなづち》がソファシートの下から出てきたらしいな」 「切断のパターンはこれで全て出たはずだ」  ん? と白亀が眉《まゆ》をひそめる。  俺は解説する。 「だって、北宮が首と足、伊戸が首と腕、そして、壇が腕と足。首、腕、足の組合せのパターンは全部で三種類だ。三つの死体で出尽くしたことになる」 「順列組合せか。首も腕も足も全て切断、というパターンも考えられるぜ」 「あるいは、首と左腕と右足とか」 「組合せ自由。まるでピザのトッピングだ」  白亀にジョークを先に言われた。俺は、アイスクリームのトッピングと言おうとしていたのだ。  年の暮れ、いい大人が路上で交わす会話ではない。  俺は軌道修正を心掛ける。 「殺されたんだから、壇は昨晩は家に帰ってないはずだ」 「奥様はお仲間と泊まり掛けでゴルフにお出掛けなされていた。ご子息どのお二方は独立なさっておられる。クモスケ、君はガイ者に会ったことあるよな」 「傲慢《ごうまん》な感じの男だったよ。押しも強そうだった。けっこう商売で強引なところがあったって、業界の人間は言ってる。いろいろと恨み買ってるみたいだ」 「なら、せっかくだから、殺すのは今日にすれば良かったのに」 「カメさん、なんで今日なんだ?」 「十二月十四日、討ち入り」  四十七人の容疑者では推理がつらい。      24  夕方の五時過ぎ、冬の陽はとっぷり暮れている。白亀との立ち話の後、俺は神楽坂に来ていた。〈ジャン・カンパニー〉のパンク魔女から、今度は、野杉の出先を聞き出したのだ。  なだらかな傾斜の段のついた石畳がある。烏賊《いか》釣り船のように薄闇に割烹《かつぽう》の灯が点々と続いている。その一軒の前で、野杉は黒いマフラーに首をうずめて、背を丸め、腕組みをしていた。寒風が疾駆し、薄い茶のコートがちぎれそうになびく。  割烹の白木の格子戸がおぼろに浮かび上がっている。店名を映し出す角灯の下に河豚提灯《ふぐちようちん》もぶらさがっていた。見るからに高級店の光を放っていた。  野杉は役者を待っていた。この前、撮影所で出演交渉をした例のベテランの大物俳優である。この割烹に来るという情報を得て、野杉はまた交渉に挑もうとしていた。いわば、張り込みである。  俺は声をかけた。 「こないだはカイロありがとう」  ジャケットから、近くの自販機で買った缶コーヒーを差し出した。ハイヤーの返礼はまた別の機会に。  野杉は仏像のような顔をかすかにゆるめ、 「すいませんね」  革手袋の手で缶コーヒーを受け取った。そのまま、コートのポケットにしまいこむ。 「早めに来るかもしれないんで、後でいただきます」  野杉は言って、ぴょこっと頭を下げた。  俺はプルトップを開けかけていた自分のコーヒーをポケットに戻した。 「来たところで、五度目の出演交渉?」 「六度目です。それに、店に入る前に引き止めるわけにはいきません。挨拶《あいさつ》だけです」 「で、それから?」 「店から出てくるのを、待ってます」 「待ってるって、ここ、店の前で?」 「ええ」 「こういう割烹で飯を食うと長いですよ」 「だから、待つんです。誠意を印象づけることが出来るじゃないですか」  野杉には、力みも勢い込んだ様子も見受けられなかった。縁側にでも座っているような枯れた表情をしていた。 「河豚の店か。中はいいな」  俺は心底から言った。鍋《なべ》、ポン酢ダレ、紅葉おろし、仕上げに雑炊。よけいに体が冷え冷えとしてきた。  野杉がボソボソと呟《つぶや》くように言う。 「河豚だから縁起がいいんじゃないか、と思って来たんですよ」  意味が解らない。  俺の疑問に、野杉は答える。 「テッサとか、テッチリとか、河豚は鉄砲って言われるでしょ」 「当たる、から?」 「そう、だから、狙いに命中させるのに縁起がいい、ということ」  俺は本題のキッカケを掴《つか》んだ。 「死人の話、するけど?」 「壇さんの件。さっき、警察の聴取を受けましたよ。今回はアリバイが薄かった」  野杉は、殺人のあった昨日の夕刻から夜にかけては、一人で銀座のデパートへ行き、その後、映画を観て帰ったということだった。 「壇さんとは〈大光映画〉からの長い付き合いですよね?」  野杉はいったん目を閉じて、うなずくと、 「押し出しの強いというんでしょうか、マンパワーのある男で、交渉ごとの達人でした。大胆な要求を持ちかける一方で、相手の望みや弱みなどを突いた具体的なカードを用意する、そんな計算高い交渉を得意としていました。僕のように拝み倒す交渉などは、決してしません」 「松下さんというプロデューサーも以前〈ジャン・カンパニー〉にいたとか?」 「ええ、独立して自分で製作プロダクションを経営してます」 「壇さんとソリが合わなかった?」 「まあ、二人とも自分の企画への執着心が強い男でしたから」 「企画が映画として実現されるかどうか、ということ?」 「どうしても、会社のイニシアティブを取っているのは社長の壇の方ですから、松下の企画は後回しにされてしまうんです」 「あなたのは?」  野杉は目をしょぼつかせて、 「僕は企画にはあまりタッチしてないんですよ。クリエイティブは不得手みたいで。なんせ監督の道を断念したくらいですから。こうして、役者の出演交渉とか、スタッフ編成、スポンサー探しなんか、どちらかというと、クリエイティブよりもコーディネイトの方を自分の仕事の領分だと考えてます」 「加古川さんは? あの人は新人の発掘に熱心だから、企画にもこだわりそうだ」 「そうですけど、彼は自分の位置をよく心得てます、プロデューサーとしては自分はまだ若手だと。だから、提案するのは低予算でこなせる企画ですよ。低予算ならリスクが小さいぶん実現しやすいんでね。実際、次々に映画を作ってますし」 「野杉さんや加古川さんみたいに、割り切れなかったのが松下さん。自分の企画をなかなか実現させてもらえないことに苛立《いらだ》ちを覚えて、とうとう辞めたというわけだ」 「そうですね」  言葉に歯切れがなかった。 「他に何か直接の原因が?」  野杉は顔面をすぼめるようにして、しばらく黙考してから、 「誰かに聞けばすぐ解ることですから話しますが……。『監獄に一番近い島』という映画を壇と松下は共同で準備していたんですが、途中で壇は別の作品に関わることを理由に抜けたんです。松下が一人でプロデュースすることになったんですが、現場がトラブル続きで結局、完成が遅れてしまいました。そのために、予定されていた完成披露試写会が飛んでしまったんです。当然、配給会社はおかんむりですよ。  そして、全て責任はプロデューサーの松下がかぶってしまいました。壇は早い時期から現場の不穏な空気を予想して、自分だけさっさと手を引いていたというわけですよ」 「それで、二人の溝は深くなり、松下は〈ジャン・カンパニー〉を辞めた。最近も、両者にトラブルがあったと聞いたけど。『バブルの悲劇』という映画の請け負い製作を、壇さんが松下さんのプロダクションから奪ったとか」 「こういうのは自由競争ですから。決して珍しいことじゃありません。しかし、松下にしてみれば、壇が横取りしたという考え方になるでしょう。まあ、〈ライムライト・ムービー〉という会社名が松下という男をよく表わしてますよ」 「ライムライト……、チャップリン?」 「良きにつけ、悪しきにつけ、松下|俊治郎《しゆんじろう》は人情肌の男です」  すると、背後から高らかな足音が近付いてきて、 「わてのことでっか?」  陽気な関西|訛《なま》りの声が寒風に逆らうように響いた。  振り返ると、小太りの中年男が晴れ晴れとした表情で笑いかけている。  野杉は肩を落として、溜息《ためいき》ひとつ、 「松下さん、やっぱり嗅《か》ぎ付けましたか」  今まさに話題になっていた〈ライムライト・ムービー〉の松下俊治郎だった。三角形の顔が血色よく、赤飯のオニギリを連想させる。どこかで見たことのある顔だと思ったら、先週、撮影所で、野杉の前から例の大物俳優を車で連れ去った男だった。どうやら、松下も情報を嗅ぎ付けて、ここで大物俳優を待ち受けるつもりらしい。 「ノスギちゃんも大変でんな。壇社長が殺されたばかりっちゅうに」 「請け負った製作だから中断できませんよ。仕方ないです。むしろ、こういう時こそ努力すれば、発注元に誠意が伝わる」 「そりゃ、ノスギちゃんらしい」  松下は胸をそらしてカラカラ笑うと、 「でも、そんな恰好《かつこう》で出演交渉するのは失礼とちゃいまっか。コートなんか着たまんまじゃ。僕なんか、ほら」  コートは既に手に持っていて、今度は背広を脱いでみせた。日暮れ時の寒気にさらした白いワイシャツ姿は、見ているだけで冷え冷えとしてくる。  野杉は慌てて、手袋、マフラー、コート、そして、背広を脱ぎさると、続けざまにクシャミを連発した。ワイシャツ姿の体をかき抱くようにして、身を縮めている。  それを見て、松下は胸をそらして笑い、 「ノスギちゃん、風邪ひかんようにね。カイロだけじゃ心細いやろ。今度からはちゃんと準備してこにゃあきまへんで。僕なんか、下に長袖のシャツ五枚も重ね着しておるもん。ま、こういう時は、僕のようなまん丸い体型は有利でんな」  ぬけぬけと言ってのけると、コートのポケットからサポーターを取り出した。ズボンの裾《すそ》をたくしあげ、ラクダの股引《ももひき》の上から膝《ひざ》にはめた。神経痛でも患っているのだろうか。  俺が好奇の目で見ていると、松下も同じ目で俺を見返してきた。  野杉が寒さに肩を細かく上下させながら、仲介の労を取り、俺のことを紹介した。  松下は好奇の目の色を濃くして、 「ほお、探偵さん。警察にいろいろ聞かれましたわ。アリバイっちゅうのも、なかなか難しいもんですな」  世間話のように嬉《うれ》しそうに語った。壇の殺された十二月十三日の夕刻から夜にかけて、松下は自宅で過ごしている。ゴルフやサッカーの中継をだらだら見ていたらしい。十二月九日の夜から翌朝、北宮と伊戸の事件の時間帯については、退社後、十時過ぎまで行きつけの店で飲んでから帰宅していた。その店の証人がグルでない限り、アリバイは半分だけ成立である。  俺は話を進める。 「もとは、〈ジャン・カンパニー〉にいましたね」 「もう聞いたんやろ、辞めた経緯なんかは」  松下は苦笑いしながら、横目で野杉をにらむ真似をする。だが、その目に恨みがましさは見当たらなかった。 「『監獄に一番近い島』の完成が遅れた責任を押しつけられたとか?」  松下は鼻を芋虫のように縮めて、 「壇の野郎、トラブルの匂いを嗅ぎ付けたら自分だけとっとと逃げくさりおって」 「最近も立腹することがあったとか。『バブルの悲劇』の請け負い製作を、壇さんの会社がさらっていったらしいですね」 「競争だから、仕方ないとしても」松下は鼻息を荒くして、「あの時、壇が持ってきたタイアップ・スポンサー、あれはもとはと言えば僕が〈ジャン・カンパニー〉にいた時に渡りをつけたスポンサーですよ。まあ、僕が退社した後は、社長の壇が自ら窓口になって付き合っていたんでしょう。それは企業論理からして当然です。付き合うな、とは言えません。しかし、僕が最初に接触したタイアップ・スポンサーを使って、僕を蹴落《けお》とすというのは……、なにやらむごい仕打ちと思いまへん?」 「刀|鍛冶《かじ》が自作の刀で切られるようなもの」 「そう、そんな感じ。飼い犬に手を噛《か》まれるような」  それは、ちょっと違うぞ。  松下も首を傾げてから、 「まあ、そんだけむごい手を使った分、せめて、監督は玉砂さんにするとか、それくらいの情のかけようがあったってええやないですか」 「玉砂監督も〈大光映画〉の出身」 「出身も出身、壇の同期ですわ。そのよしみだけでも、監督に起用しておかしくないはずや。それどころか、壇は映画雑誌で玉砂監督の作品をこきおろした批評を書いたこともあります。まったく、同期やのに」  松下は大きく息をついた。感情の昂《たか》ぶりで耳まで朱に染まり、赤飯オニギリのデッパリとなっている。  その声がしんみりとしたトーンに変わり、 「この世界、最後は人間ですわ。映画は大勢で船を漕《こ》いで長い長い航海するもんです。狭い中で鼻突き合わせて、それぞれの特技を出しあい、一つのものを作り上げる。こんな人間くさいクリエイティブはちょっと他にないんと違いますやろか。壇さんかて一緒に航海した仲やったのに……。そう、人間性の豊かな者でなきゃ、この世界は長くやっていけません。だから、あの男、壇は長くないと思うとりました」 「確かに。もう先はない」 「まあ、あんな終わり方は想像してもみませんでしたが……。しかし、ほんまにロクな晩年やなかったな。壇が欲出してやってたバーも赤字続きで経営難に陥ってたらしいやないですか。それで、壇のやつ、映画の仕事でも強引なやり方してきよったんやな。迷惑なやっちゃ」  そこで、松下は野杉の方を向いて、 「あんたとこの会社、これから、どうしますねん? まあ、前から、みんなの気持ちはバラバラのようやったけど。なあ、ノスギちゃん、会社たたんだら、うちに来まへんか?」  首のあたりに鳥肌を立てている野杉は足踏みをして暖を取ろうとしている。かじかんだ口をもどかしそうに動かして、 「そう言っていただけるとは光栄です。だけど、どういう意味ですか、うちの〈ジャン・カンパニー〉のみんながバラバラとは?」 「だって、そやろ。ノスギちゃん、君かて、任されていた企画をポシャらせて、壇との関係が悪化したって、確かな筋から聞いとるけど」 「……いや、そ、それは……」  野杉は寒さと狼狽《ろうばい》とで口籠《くちごも》る。  松下はそれに乗じてさらに熱っぽく口舌をふるう。 「詳しいことは知らんけど、ずいぶんとややこしい交渉ごとをやらされたとか。壇にプレッシャーかけられて、ノスギちゃん、あんた、その陰鬱《いんうつ》な顔をさらに陰鬱にしてて、『死相が出てる』なんて口の悪い連中は言っとったわ。あっ、御免な、陰鬱な顔っちゅうのも、僕じゃなくって、口の悪い連中の表現やから」  野杉は「いえ、気にしてませんから」などと陰鬱な顔で小さく呟《つぶや》いた。  松下は大きく頷《うなず》いてから、 「あと、加古川君は、先月、独立しようって動きがあったやろ。壇の方が手放したがらなくて、なんとか説得して引き止めたみたいだけど。まあ、加古川君が独立するのは時間の問題やと僕は思うとった。いつまでも、壇の下でいいように使われるのは、もう嫌気がさしてたはずや。自分の企画を自分の裁量でやってみたいんやろな。加古川君はそれが出来る男やから。なっ、ノスギちゃん」 「え、ええ」  声を震わせる野杉の唇は水泳後のように青紫色と化していた。  松下は布袋《ほてい》さまを思わせる満面の笑みを浮かべて、 「なっ、ノスギちゃん、うちに来いや。待っとるで!」  そう言って、野杉の地肌が透けてみえるワイシャツの肩を、パッチーン、と音高らかに平手で叩《たた》いた。赤い手形が残るはずだ。  野杉は呻《うめ》きながら肩をさする。  が、いきなり、野杉は竹のように背筋をぴんと伸ばした。両手を下にまっすぐ伸ばして腿《もも》の横に付ける。顎《あご》を引く。目がこころもち大きくなっている。全身の震えが止まっている。  俺は振り返った。  例の大物俳優が、付き人を二人ほど従え、悠然と石畳を下りてくるところだった。  松下は腰をかがめ、地べたに膝をつき、頭を下げ、土下座を始めた。そうか、膝のサポーターはこのためだったのだ。 [#改ページ]   第3章 赤い神      25  やはり男からのモーニングコールでは寝覚めが悪い。白亀の電話で起こされたのだが、今日は口に出してそう言ってやったら、 「僕だって男を起こすのは趣味じゃない」  と返された。もっともな反論だ。  九時半過ぎだった。俺にはアラームをかける習慣はない。体任せである。  俺は布団の上に胡坐《あぐら》をかき、毛布を体に巻き付けたまま、受話器に言う。 「なんぞ新しい情報でも入ったのか?」 「その前に、頼まれていた件、調べておいたぞ」  短いセリフの中で、勿体《もつたい》ぶり、かつ、恩着せがましく語る。白亀の性格が出ている。 「殺された日の壇の行動だが、解った範囲で言うとだな、朝の九時から昼頃まで〈大光映画〉の撮影所にいた。狛江《こまえ》にあるやつだな。近々、クランクインする映画の準備で、役者の衣装合わせに立ち会っていたらしい。その時にだな、壇はアタッシェケースを破損している」 「死体のそばにあったあのアタッシェケースか? 引っ掻《か》き傷だらけで、ところどころがボコボコにくぼんでいた、あれ?」 「そう。人にぶつかった際に、アタッシェケースが飛ばされて、そこにちょうど車がやって来て、さらに弾《はじ》き飛ばされたらしい。しかも、衣装合わせに来た役者の車だったから、壇は文句も言えなかった」 「壇のことだから、素早く計算したことだろうよ。自分がいかに寛容であるか、役者に見せておいて好印象を稼ごうって」 「回転の早い男らしいな。で、その後、衣装合わせの立ち会いを終えて、十二時過ぎに撮影所を出てからの足取りがつかめない。予定では、五時にシナリオライターの家に打ち合せに寄るはずだったんだが、結局、顔を見せることはなかった」 「空白の時間帯、十二時から五時の間に殺されたわけだ。アタッシェケースの中身については何か?」 「特にはない。君が気にかけていた現像所の黄色い袋の中身、十六ミリフィルムだが、来月公開する映画のテレビ用CFだったらしい。ルイ・ヴィトンのセカンドバッグの方もめぼしい発見はないようだ」 「キイホルダーは?」 「聞いといた。四本の鍵《かぎ》は、例のアタッシェケース、自宅、アスレチッククラブのロッカー、〈ジャン・カンパニー〉のオフィス、以上だ。こんなところだったよな、君が、確かめて欲しい、って言ってたのは」  礼を言って欲しいらしい。 「カメさん、ありがと」  同じ仕事に携わっているのだから、いちいち頭を下げる必要はないのだが。  ウム、と電話の向こうで白亀は偉そうに頷《うなず》き声を洩《も》らすと、 「変わった話を聞いたんだが」  いったん言葉を切った。こちらの反応を期待している。俺は催促のセリフを入れてやった。 「さきほど言いかけた新しい情報だな。カメさん、勿体ぶらず聞かせてくれよ」 「よし。薄気味悪い話なんだ。君んとこは、〈東報スポーツ〉とってるか?」  知ってるはずだが念を入れてるのだろう。 「いや。うちはスポーツ紙は何も」 「そうか」かすかな安堵《あんど》の響き。「〈東報スポーツ〉でもちょっと書いてあるんだけど、読んでないなら仕方ない。あのな、吉祥寺《きちじようじ》の井之頭《いのかしら》池と、西荻窪《にしおぎくぼ》の善福寺池のほとりで、マネキン人形がベンチに腰掛けていたんだそうだ」  返事の仕方を思いつかなかった。意味もなく、とりあえず唸《うな》った。  白亀は満足したのか、声のトーンを上げて続ける。 「でな、そのマネキンは上下のトレーニングウェアを着せられていたんだけど、首と腕と足しかなかったんだ。胴体の部分にはタオルと新聞紙が詰め込まれていたってわけさ。解るか、言ってること」  ああ、と俺は驚きと返答の入り混じった声をあげ、 「あれと似てる……、石神井公園の三宝寺池のベンチで見つかった死体再生の見立て」  北宮と伊戸から切断した首と手と足、アルミの甲冑《かつちゆう》の胴部分、それらを使って、まるでプラモデルのように組み立てられた死体。あれは、『しのだづま』の一条戻り橋の場面、死体再生の見立てであった。  白亀は沈黙を埋める。 「そう、まさに、あの死体再生のパロディ版だよ。そうだな、ちょうど、三宝寺池の死体が本物のラーメンとすれば、こんどの井之頭池と善福寺池のマネキンがウインドウ内の蝋《ろう》細工みたいなもんだよな」  わざわざ食い物に喩《たと》えなくてもよかろう。ライオンの剥製《はくせい》と、三越前の獅子像という表現もあるはずだ。  白亀がさらに下らないことを言い出す前に俺は質問で封じる。 「発見されたのはいつ?」 「昨日の早朝。善福寺池はゲートボールの団体、井之頭池では俳句会の連中が見つけた」 「マネキンでよかった。年寄りの集団にショック死されたら収拾がつかない」 「下らんことを言うな」  お互い様だ。  下らなくない質問を俺はする。 「で、やっぱり、善福寺公園と井之頭公園にも稲荷神社があるんだな?」 「いや、それが無いんだ」 「じゃ、なんで……」 「だけどな」白亀の声が低音になった。「君は、知ってるか?」 「何を?」 「あのな、三宝寺池、井之頭池、善福寺池、これら三つの池は地の底でつながっているという説があるんだ」      26  近くのコンビニでスポーツ紙を求め、さっき白亀から聞いた二つの池のマネキン事件を確認した。ついでにコーヒー豆を買って部屋に戻ると、電話の留守録のランプが点滅していた。  伊戸千佳子の声が吹き込まれていた。それも尋常ではない声。電話機から牙《きば》がはえて噛《か》み付いてきそうな、おそろしく激怒した声であった。 「あんたね、とんでもないことしてくれたわね! あたしに何の恨みがあんの! ちゃんと顔出して、謝んなさいよ! 逃げ隠れしたら承知しないよ! 首とかヘンなとこチョン切っちゃうからね! 覚えてらっしゃい!」  この後、放送禁止用語が三つ、四つ。  声のバックに、何か滝の落ちるような、ドーッドーッという正体不明の轟音《ごうおん》が聞こえていた。しかし、「チョン切っちゃう」とは、この女が一連の殺人の犯人なのだろうか。なら、事件は落着だ。  それにしても、どうして、こんな剣幕でののしられるのか、俺には皆目、見当がつかなかった。一体、俺が何をしたというんだ? 確かに俺はあれこれと出来心の多い男だが、千佳子から恨まれる覚えはない。何であれ、しばらく、この女に近付かないことが賢明なようだ。  コーヒーをすすりながら、怒られる理由を探っていると、電話が鳴った。留守録にセットしたまま放っておく。相手が伊戸千佳子ならば、当然、出るつもりはない。  声の主は、〈ジャン・カンパニー〉の加古川だった。  俺はホッとして、受話器を取り、応対に遅れたことを軽く詫《わ》びる。  加古川の用件は、 「映画のラッシュを見に行きませんか。『任侠《にんきよう》の証明』の。ほら、このあいだ、紅門さんが出演したシーンも入ってますから」  これまでに撮ったフィルムを大雑把に編集したものを試写にかけるらしい。時間は午後一時から、場所は浜町のスタジオ。たとえ、あんなみじめな役でも、自分のシーンはやはりいち早く観たかった。仕事の予定は立てていたのだが誘惑には抗しきれず、OKしてしまった。しかし、一応、迷う演技は忘れなかった。映画俳優として。  十二時半に、四谷の交差点で待ち合わせ、加古川のBMWの助手席に乗り込んだ。上智大の前では歳末助け合いの募金活動が行なわれていた。俺は、加古川を待っている間に、幾らか寄付した。気分が浮かれていたのかもしれない。  少しは仕事をしておこう。運転席の加古川に俺は質問を始める。 「〈ジャン・カンパニー〉はたたむことになるんですか?」 「いま仕掛かっている映画が二本ありますから、それのカタがついてから、考えてみようかと思ってます」  加古川はそう答えて、ゆっくりと笑みを刻む。歌舞伎のメイクのようにくっきりとした顔立ちなので、表情が芝居がかって見えた。目薬とリップクリームのせいだろう、瞳《ひとみ》と口元がキラキラときらめいている。  俺はストレートにきいた。 「以前、独立しようとしたでしょ?」  加古川はちらっと横目で見た。黙ったままステアリングを指先で叩《たた》くと、 「そうしようと腰を上げかけたことはありましたが、結局、独立は延ばしました。あの時は、気が急《せ》いてたんでしょう」 「自分の企画を思い通りに進めてみたかった?」 「そう。でも、そのために、もう少し場数を踏んで、自分の顔を広く売っておく方がトクだと判断したんです」 「やはり、これを機会に独立ということになる?」 「たぶん」  加古川はブーメランの形をした眉《まゆ》を上下させ、おどけた表情を浮かべた。  俺は続ける。 「野杉さんが、〈ジャン・カンパニー〉を引き継ぐということは?」  加古川はニヤニヤしながら首をひねり、 「それはないでしょうよ。そういうタイプの人じゃないですよ」 「野杉さんは、何か仕事のことで、壇さんにプレッシャーをかけられて、一時ずいぶんとやつれていた、と聞いたけど。死相が出てるって口の悪い連中にからかわれたとか。しかも、そこまで苦労したのに、その企画を失敗させてしまったんですね」 「ああ、あれは仕方ない。壇の作戦のもとに動いたんですが、野杉には向かない仕事でしたよ。タイアップを取るのに、競合する企業二社に内密に話をもちかけたんですよ。要するに天秤《てんびん》にかけたわけです。でも交渉を進めている途中で、そのことがバレてしまって、二つの会社に降りられてしまったんですよ。それでタイアップはパー、企画もポシャったというわけです。こういった交渉の時には、なるべく早い時期にどちらかの企業に決めないと。その見極めるタイミングが遅かった」 「野杉さんの地道さが裏目に出た?」 「そう、それは言えます。やはり、壇が表だって交渉に臨んだ方が実現性が高かったでしょう」 「壇さんは失敗した時のことを読んだんじゃないですか?」 「どうだか」  加古川はそらトボけた。  車は皇居の堀端に沿った坂を下りていた。  俺はアリバイを訊《たず》ねる。加古川は機嫌よく答えるが、壇の事件の時間帯は自宅に一人でいたということだった。いつも、有名女優がアリバイを証明してくれるわけではないらしい。  車は日比谷通りに入り、新橋方向に向かった。俺は、アレ? と思い、 「道はこっち? 場所は浜町でしょ?」 「ちょっと、寄りたいところがあって」  そう答えてから、加古川は口の中でコロンッと音をたてると、 「探偵さん、一つ調べた方がいいと思うことがあるんだけど」 「それは?」  加古川は意味ありげな笑みを口元に小さく浮かべる。 「伊戸千佳子のところに何か奇妙な手紙が郵送されてきたそうですよ」 「えっ、伊戸千佳子のとこ……内容は?」 「詳しいことは知りませんが、何かアルファベットが書いてあったとか。事件に関係あるかもしれませんよね。調べてみては?」  加古川は車を道端に寄せ、停めた。日生劇場の前だった。 「千佳子も不審がってましたよ。ほら」  そう言って、サイドウインドウを降ろし、外を手でさし示した。  伊戸千佳子の顔が覗《のぞ》いた。  どうやら謀られたらしい。二人はグルだったのだ。  千佳子は捕鯨用の銛《もり》でも飛ばしそうな目で俺を睨《にら》みつけた。BMWの前を横切り、こちら側のウインドウに顔を近付ける。スティーヴン・キングの『クージョ』は車中の人間が狂犬に襲われるホラーだが、その恐怖が実感として解るような気がした。千佳子はドアを開けると、襟首を掴《つか》んで俺を外に引きずり出した。狂犬ならばドアを開けられなかったのに……。俺はそのまま舗道まで補導され、駄洒落《だじやれ》を言ってる場合か、やっと襟首を離された。 「ちょっと、用があるのよ」  鞭《むち》をピンッと伸ばすような口調で千佳子が言った。  俺は腕時計を指で叩きながら、 「いや、時間がない。試写を見なければならないんだ」  すると、加古川が車の窓から首を伸ばして口をはさんだ。 「紅門さん、御免、忘れてた。紅門さんのシーンは編集でカットされてたんだ」  ……化かされた……。  千佳子は身をかがめ、 「サンキュ」  そう言って、加古川とキスを交わした。時は真っ昼間、場所は路上。こいつらは、そういう仲だったのだ。……おなじ穴のムジナめ……。  加古川は車を出し、日比谷通りを走り去っていった。  その姿が消えるまで見送ると、千佳子は、俺の袖《そで》を掴んで日生劇場の中に連行した。  ちょうど、マチネーの開場時間だった。入場口の辺りが人混みでごった返している。ロビーのソファに腰掛けると、千佳子は目も眉も吊《つ》りあげ、声をきしらせて言った。 「あんた、とんでもないことをしてくれたわね。謝んなさいよ」  前に会った時よりもメイクが濃い分、表情に迫真力がある。目の前の顔は確かに恐かったが、俺には本当に覚えがないのだ。 「何のこと?」  千佳子はこめかみを震わせて、歯の間から大きく息をすすると、 「稲荷|寿司《ずし》のことよ!」  鞭打つように口走った。  俺は反射的に飛び跳ね、尻《しり》半分くらい千佳子から遠ざかる。 「稲荷寿司って、俺の土産の?」 「そうよ、あれよ。三日前、あんたが差し入れした稲荷寿司。あれが当たったの! あれを食べた俳優たちがみんなお腹こわして、もう本番舞台は大変だったのよ!」 「当たった、とか、腹がピーヒャラ、鳴り物入りとか、芝居にとっては何やら縁起がいいかも」  つい言ってしまう、俺の出来心。  千佳子の顔中の筋肉や血管が膨れあがり、 「ちょっと、いい加減にしなさいよ!」  俺はシャツの喉元《のどもと》を締め上げられながら、 「す、す、すまん、すまん……」  ひたすら謝罪の一手である。息が苦しい。  ようやく千佳子が手を緩め、 「あの稲荷寿司、ちゃんと当日に買ったものなの? あの日は、季穂の狂言自殺なんかがあって忙しかったから、次の日、楽屋の連中に配ったのよ。まさか、一日くらいで腐るわけないでしょ」  その通りだ。あれは、千佳子にやる前日にオババから貰ったものだった。つまり、俺の手に入ってから、少なくとも二日経って、俳優たちの口に入ったわけだ。しかも、俺は冷蔵庫に入れるのを忘れていた。それに、もしかして、オババも俺にくれる当日に買ったのではないかもしれない。こういった経緯を正直に詳しく説明すると、罪が加算されそうなので、 「買ってきたのはうちの事務所の若い衆なもんで、俺は詳細を知らんのですが、何であれキツく叱っておきますので、どうか、ここはご勘弁を」  俺は、存在しない部下の不始末を詫《わ》び、深々と頭を下げた。  千佳子は怒りのボルテージが少し下がったようだが、まだ、腹立たしげな口振りで、 「よりによって、昨日と今日は御社日《オシヤビ》だったんだから」 「オシャビって?」 「演劇記者会の観覧日のことよ。昨日なんて最悪。あんな不様な舞台を見せることになっちゃって……。出演者は腹に地雷を抱えているもんだから、何とかして芝居を早く終わらせようとして、早口になるわ、セリフを互いにかぶせ合うわ、やたら走るわで、まるで三倍速で見ているビデオよ。ああ、あれじゃロクな劇評はでっこないわ」  千佳子は両手をあげ、長々と嘆息した。  なるほど、入場口近くに、記者会受付の札を立てたテーブルがあった。宣伝部らしき数名が、白髪まじりの男に丁重に幾度も頭を下げていた。重鎮の記者なのだろう。パンフレットを受け取ると、かすかにうなずいただけでテーブルの前を離れた。  千佳子はソファから立ち上がると、その記者にツツッと走り寄り、コートの袖をつかんだ。いつのまにか千佳子の顔は夜叉《やしや》から乙姫様へと早変わりしていた。濃いオレンジ色のワンピースが映えている。微笑とお辞儀をくす玉のように降らせながら、しきりにその老記者に話し掛ける。時折、相手の肩を軽く叩《たた》いて、しなだれかかるように体を近付けた。記者は、困惑の表情を浮かべつつも、口元をほころばせている。明らかに立ち話を楽しんでいた。  千佳子にしてみれば、自分が抱えている役者について劇評の中で一行でも触れてもらおうと懸命なのだろう。メイクが濃いのもそのためか。  千佳子はソファに戻ってくると、乙姫様の笑顔を一瞬にしてかき消した。しかし、ありがたいことに夜叉には戻らず、能面くらいの表情で、 「罰則代わりに、もう一束、チケットを預けるわよ」  ショルダーバッグから、『占いの流れ星』五十枚|綴《つづ》りを取り出した。  このあいだ預かった束はまだ一枚も売れていなかった。俺はきいた。 「映画の出来は期待できそう?」  千佳子は曖昧《あいまい》な笑みを浮かべながら、腕を組み、ぐっと顔を突き出した。 「あのね、世の中、いいものが売れるなら、営業という仕事は必要ないのよ」  二つの解釈ができた。  いいものを売るためには営業をしなくてはならない。逆に、悪いものでも営業しだいで売れる。  千佳子の目は後者を言っていた。  俺はチケットの束を渋々、受け取ると、 「変な手紙というのも見せてもらいたいな」 「ああ、あの手紙のこと。誰に聞いたの?」 「加古川さんから。さっき、車の中で」 「そう。昨日、電話で話したからね。あいつ気に留めておいてくれたんだ。嬉《うれ》しいねえ」  千佳子は微笑んだ。下のまぶたがバナナの形にふくらむ。バッグから問題の手紙を取り出し、俺に手渡した。  普通の白い封筒に、伊戸千佳子様、とだけ記されていた。筆跡を隠すために、定規を用いた字体。住所も切手もない。中を取り出すと、三枚の便箋《びんせん》だった。  一枚に一つずつアルファベットがボールペンで紙面いっぱいに描かれていた。  「I」  「K」  「U」 「これだけ? 手紙の中身は?」 「ええ、それだけよ。一昨日の夜、十時過ぎだっけな、家へ帰ったら、郵便受けに入ってたのよね。誰が入れたんだろ」  俺は三枚の便箋をトランプのように広げ、三つのアルファベットの順列組合せについて思考をめぐらせた。言葉に直して意味を成すものを探す。「IKU」で「行く」、「KUI」で「悔い」「杭」「食い」、「UKI」ならば「浮き」「雨期」といったところ。いずれにしても、それで行き止まりだった。何を指しているのか謎のままだ。 「どう思う?」  我ながら不毛な問いだった。 「解んないわよ。心当たりも何も」  やはり不毛な答えだった。  千佳子は一瞬ためらいを見せた後、 「それと、この手紙を受け取ってから、三、四回ほど無言電話が……」 「心当たりは?」 「ないわね」  またも、不毛な問答。お互いに肩をすくめた。 「手紙、借りてていいかな?」 「どうぞ。事件に関係あると面白いのにね」  千佳子は他人事《ひとごと》のように言うと、片方の眉《まゆ》を上下させた。  俺は手紙をジャケットの内ポケットにしまった。  だいぶ気が落ち着いた様子なので、壇の事件の話もする。  千佳子は筋の通った鼻をバネのように縮めたり伸ばしたりしながら、 「うちの若い子を出演させてって、何度も頼んでたのに、壇ときたら、いつも『今度な、今度な』でとうとう今度が無くなっちゃったじゃないの」 「他の役者とセットにするって手があったじゃない。抱き合わせ、という手が」 「そうすると、向こうは、恩に着せて、ギャラを値切ってくるのよね。それにね」周囲にチラチラと目をやると、声をひそめて、「別の意味の抱き合わせを言ってくるの、あのスケベったら」 「女優を抱かせろ、と?」 「私を」  俺が眉を上下させると、千佳子は顎をあげて、 「もと女優。もちろん、断ったわよ」 「そのこと、加古川さんは知ってる?」 「言うわけないでしょ。仕事先をスッタモンダさせても、うちにメリットはないわよ」  この世界を好きになれそうもない。出演シーンがカットされてよかった、と負け惜しみでなく言える。  アリバイを訊《たず》ねると、千佳子は一瞬ムッとしながらも答えた。  壇が殺された時間帯、千佳子は五反田のオフィスで伝票に目を通していたらしい。日曜なので一人だった。ウィークデイはそうしたデスクワークに割く時間がないのだろう。  もう一つ、気になっていたことを問う。 「あんた、怒りのメッセージを俺んちの電話の留守録に入れたよね。その怒鳴り声に混じって、ドドーッっていう滝みたいな音が聞こえてたけど、あれは何?」  千佳子のごく普通の表情がしだいに能面の冷たさを帯び、やがて夜叉へと変貌《へんぼう》しようとした。が、途中で止まり、頬の辺りがかすかに赤くなった。溜息《ためいき》の後、かすれ声で、 「そんなこと答えさせるもんじゃないわよ。もと女優なんだから……。あれはね、トイレの水を流した音なのよ……」  なるほど、厚めのメイクは、青白い顔色を隠すためだったのか。      27  成城の大高邸を訪れた時には、すっかり夕闇が降りていた。  応接室のソファに沈んでいると、食欲をかきたてるスパイシーな香りが漂ってきた。オババは、「夕食をご一緒に」と勧めてくれたが、丁重に断った。さっき、稲荷寿司の件を知ったせいか、オババから供される食い物にはいきおい慎重になってしまう。稲荷寿司の礼を言っておいてから、それとなく聞いてみると、 「味が沁《し》みてて美味《おい》しかったでしょ。前の日に買って一日おいたものですからね」  オババは誇らしげに説明した。くれた時に教えろよな。すると、日生劇場の役者たちは四日間おいた稲荷寿司を口にしたことになる。この真相は永遠に封印されるだろう。  ついでに、加古川と千佳子の関係を話題にすると、オババはさも意外そうに、 「あら、ご存じありませんでした?」  とっくに知っていたなら、とっとと教えろよな。  オババの娘、真由子が不機嫌な顔つきでコーヒーを運んできた。娘といっても、三十後半の主婦である。だから、チーババでいいだろう。チーババは叩きつけるようにして、カップをテーブルに置く。彼女は、俺が夕飯をたかりにきたのだと信じているらしい。  もちろん目的は夕飯ではない。  殺害された壇は、生前、一つの謎解きに取り組んでいた。一年前、入道こと大高監督が死ぬ寸前に洩《も》らした言葉、「ハモノハラ」。ミステリーでいうところのダイイングメッセージのようなものだ。壇は、映画『市民ケーン』よろしく、この「ハモノハラ」の意味を解き明かそうとしていた。  そして、壇の謎解きに協力していたのが、北宮兼彦と伊戸光一。「ハモノハラ」に挑んだ三人の男が殺されたわけである。この言葉には何か呪咀《じゆそ》がこめられているのだろうか。  俺は、この件に関わる情報を整理してみることにした。それが大高邸を訪れた目的だった。  オババに頼んで、大高が作ったスクラップブックを出してもらった。それに目を通しながら、オババに質問する。  壇の推理によれば、「ハモノハラ」のハモとは、魚のハモを指していた。胴の長い、見た目がグロテスクな魚だが、京都の祇園《ぎおん》祭の料理で有名なように、美味なことには定評がある。上品で淡泊な味わいは主に西日本の人間に好まれている。  十四、五年ほど前、大高は、愛人が経営する小料理屋〈宇楽〉で、ハモ尽くしの料理に舌鼓を打ち、すこぶる喜んだことがある。もちろん、ハモの腹の部分の料理も供されていた。  壇は様々な人間から取材したらしいが、大高とハモについての言及はこれだけしか得られなかった。しかし、もし、仮に「ハモノハラ」がこの件を指しているのだとしても、いったい、これが何を意味しているのかは謎のままである。いかなるメッセージがこめられているのか、なおも五里霧中の状態だった。  その〈宇楽〉で大高に相伴し、ハモ料理を満喫したのが、絹塚美雪という新進の女優だった。大高は、男であれ女であれ、才能ありと自分が認めた若手を連れて、馳走《ちそう》をふるまうのが好きだったらしい。  絹塚美雪の母、絹塚美登枝は、徳山|海児《かいじ》という〈大光映画〉の大物プロデューサーの愛人だった。美雪は美登枝の連れ子で、徳山とは血はつながっていない。美雪が芸能界入りした頃、既に母親も徳山も物故していた。そのため、七光はあるにはあったものの、美雪が女優の道を歩むのに、その入り口を照らしてやる程度のものだった。美雪は努力と才能に頼るしかなかった。  写真を見る。絹塚美雪は、整った美人というタイプではない。いかなる表情であれ、口だけ常に微笑んでいるような形をしているのが不思議な魅力だった。そこには愛敬《あいきよう》が小さな湧き水のようにこぼれていた。哀しげな表情を演じれば、よけいに哀しげに見えただろう。  大高監督は、女優・絹塚美雪を認めた。  実際、『鵺《ぬえ》と三日月』という作品で、三番手に抜擢《ばつてき》した。  そして、その撮影中、絹塚美雪は事故死する。  一九七九年七月、富山県K町で、大高監督による『鵺と三日月』のロケが進められていた。タイトルの示す通り、時代ものの怪談映画だった。鵺は死んだ人間の霊魂を呼び戻す妖怪《ようかい》である。鵺に憑《つ》かれた女が、黄泉《よみ》の世界から夫の霊を呼び戻し、許されない契りを続けて、鬼道に落ちていく姿を描いた作品だった。妻からその男を奪おうとし、亡霊の赤児までを宿してしまった愛人の役を、美雪が演じていた。  七月十四日、夜、美雪はひとりレンタカーを運転し、宿泊先の旅館を飛び出した。深夜のドライブだと言っていた。そして、翌日の未明、車ごと崖《がけ》から転落して死んでいるのを発見された。ウイスキーを飲んだうえでの酔っ払い運転だった。 「ロケには北宮さんも参加していたんですよね?」  俺はオババに言った。 「ええ、確か、チーフ助監督でした」 「当時、何か言ってました?」  雅楽のようなおっとりとした口調で、 「ずいぶんと自分を責めてました。見てて可哀相なくらい。あなたが責任感じることはない、って慰めたんですけど、あの人は思い詰めるタイプの人だから」  オババの、チントンシャンといった喋《しやべ》り方は深刻な内容の話にそぐわなかった。 「北宮さんが何か事故の原因でも?」 「いえいえ、直接は関係ないんですよ。レンタカーのキイを美雪さんに渡したのが北宮さんというだけで」 「それで悔やんでいた?」 「ええ、『渡すんじゃなかった』って。山ん中だから、撮影の時以外は娯楽がなくって、若い人たちは退屈していたらしいんです。それで、美雪さんもレンタカーを貸してくれるよう北宮さんに頼んだらしいんです」 「美雪さんがウイスキーを飲んでいたというのは?」 「もちろん、北宮さんが車のキイを渡した時には、まだ飲んでなかったそうです。それは他に何人も証言してます」 「確か、伊戸さんもロケに顔を出したって聞いたけど」 「伊戸さんは陣中見舞いというか、ただ遊びにきただけですよ。確か、金沢の方へシナハンに行く途中だったとか」 「シナハン?」 「シナリオ・ハンティングのこと。次の映画のシナリオのために取材旅行をしていたということですよ」  伊戸がロケの見学に来たのは七月十二日、美雪が死ぬ二日前であった。スクラップブックには、事故に関する記事が幾つか貼ってある。伊戸が映画雑誌に寄せた美雪への追悼文もあった。その切り抜きの一部に赤線が引いてあった。赤インクが褪《あ》せてほとんど茶色になっている。昔、大高が自分で引いたのだろう。次の部分である。 〈……乾ききった土の道をキャメラに向かって歩いてくる絹塚美雪は、陽炎《かげろう》に揺られ、まるで宙を浮いているようでした。ジャワジャワとかまびすしいまでの蝉しぐれは万雷の拍手に喩《たと》えたいと思います。親子地蔵のわきに桔梗《ききよう》が咲き、それは差し出される花束。夏という名の舞台で、灼熱《しやくねつ》の陽射しは確かに絹塚美雪のスポットライトでした……〉  伊戸が、自分の見た『鵺と三日月』の撮影風景のことを記した文章だった。 「どうして、大高監督はここに赤線を引いたんだろう?」 「…………」  そして、このシーンが結局、美雪にとってラストカットになってしまった。まだ、撮らなければならないシーンがあったが、美雪がいない以上、省くしかない。急遽《きゆうきよ》、シナリオに変更が加えられた。ストーリーのつながりの都合で、美雪のラストカットは不要のシーンとなった。  しかし、このカットは予告編では使用された。 「その予告編は、北宮さんが作ったんだってね?」 「ええ、本人もそう言ってました。ラストカットを使用したのは、美雪さんへの追悼の意でしょう。いかにも、北宮さんらしい」  その美雪のラストカットを、壇は見たがっていた。それは、スクラップブックの赤線の部分を読んで関心を持つようになったのだ、とも推測できる。  ラストカットが予告編に使われていることを壇に教えたのは、作った本人である北宮であった。しかし、現像所にも〈大光映画〉のプリントセンターにも残存していなかった。あと保存されているとすれば、大高監督自身のコレクションだった。気に入った作品の予告編を十六ミリフィルムにサイズを落として手元に置いておく習慣があったのだ。そのことを指摘したのも、北宮だった。そして、大高邸の物置から予告編フィルムは発見された。  壇はオババに頼んで、そのフィルムを借りていたが、オフィスに置いていたところ、泥棒に入られ、盗まれてしまった。もっとも、数ある盗品の中の一つなので、最初から賊がそのフィルムが狙いであったかどうかは不明だった。しかし、このフィルムに関わっていた人間が三人も殺されたことを考えると、何かあると考えざるをえない。 「あの予告編フィルムがもう一本、別荘にあるかもしれないとおっしゃってたそうですね」 「それも北宮さんの指摘でした。可能性が低かったんですが、盗まれたことで壇さんが変に負担を感じないように、いわば気休めのつもりで、私は言っただけなんです。やっぱり別荘にはありませんでした。こないだ、奥多摩の別荘へあなたの車で連れて行ってもらったでしょ。あの時、ついでなんで調べたんですが、フィルムは見つかりませんでした」  首と腕を切断された伊戸の死体が発見された時のことである。あの状況で、よく気が回ったというべきか、神経が図太いというべきか、大した肝っ玉バアさんだ。  問題の予告編フィルムとともに、シナリオが発見された。大高監督が書いた未発表の作品であった。主演として、絹塚美雪の名が明記されていた。最初から、美雪を当て込んで書かれたものである。どうやら、美雪の不慮の死によって、発表の機会を失い、そのまま物置に埋もれていたようだ。いわば幻のシナリオであった。印刷、製本された二十冊が発見されている。 「やはり、絹塚美雪を高く評価していたんだな。彼女のためにシナリオを書いたくらいだから」 「そう、美雪さんが亡くなった頃は、もうむっつりとふさぎこんじゃってました。口にするのはお酒とお茶漬けだけ。流動食じゃ、まるで病人」  オババは深々と溜息《ためいき》を洩《も》らした。  俺は、幻のシナリオを一冊借りた。  黄色い表紙に墨色でタイトルが記されている。 『おろろ骨色頭巾《ほねいろずきん》』。  ラブ・ロマンスではなさそうだ。 「中身は怪談?」 「ミュージカルだったら凄《すご》いでしょうね」 「壇さんたちは読んだ?」 「当然、あの三人にはお貸ししました」 「何か感想は?」 「珍しく、なぜか、伊戸さんが感心してました。珍しいというより、あの人が大高の作品を褒《ほ》めるの、初めて聞きましたよ。でも、大高が死んでからなんて、いかにも伊戸さんらしいですこと。主人に聞かせてやりたかったわ。主人はよく、『一度でいいから、伊戸君からお褒めの言葉と拍手を賜りたいものだ』なんて冗談ぽく言ってましたけど、案外、本気だったみたいですから」  オババは鼻と口を歪《ゆが》めてみせた。 「他の連中の感想は?」 「あとの二人からは聞いてませんが……。ただ、北宮さんが、このシナリオの存在を知った時、すごく興奮した様子でした。私と娘の真由子と壇さんの三人で発見した時、すぐに、私が電話で知らせたんです」 「北宮さんは驚いていた?」 「そうなんですが、いま思うと、なんだか驚き方がちょっと不思議で」 「どんなふうに?」 「未発表シナリオを発見したことを私が言うと、北宮さんは『へええ』と感心したような反応だったんですが、次に、タイトルを教えてあげたら、『ええっ』て、なんだか絶句しそうな驚き方だったんです。これ、変だなって思ったんですが、私の考えすぎですかね」 「いや、ちょっと引っ掛かる」 「でしょう」  オババは嬉《うれ》しそうに何度もうなずいた。  シナリオ『おろろ骨色頭巾』、とりあえず自宅で拝読させていただこう。  幾つか質疑応答を繰り返してから、俺は大高邸を辞した。もちろん夕食は断る。  最後まで疑っていたチーババは、玄関に降り立つ俺を見て、ようやく愛想笑いらしきものを浮かべた。      28  勤勉な探偵である俺は残業に突入する。  人形町の甘酒横丁から枝分かれした小さな路地の一画。小料理屋〈宇楽〉がひそやかに灯をともしていた。  厚めの紺の暖簾《のれん》がまっすぐにおりている。白いガラス戸を、磨きこまれた羽目板の壁がはさんでいた。直線の美しい外観。折り目正しい感じの、品のある店だった。充分、期待できそうである。  格子戸のすぐ脇に、人の背丈ほどのヒイラギに似た樹が鉢に植えられていた。夜の中、行灯《あんどん》型の看板の明かりが赤い実をほのかに浮かび上がらせている。  そういえば、大高邸の庭にも同じ樹があった。ならば、入道の墓前に供えられた枝はどちらの樹だろう。  俺はあらかじめ電話で閉店時間を聞いておいた。その四十分ほど前の時間を狙って訪れた。  白木のカウンター、テーブル席が二つ、奥の唐紙の向こうに座敷があるらしい。客の入りは四分の一ほど。階段脇に下駄箱がある。場合によっては二階も使えるのだろう。  板前と見習いが一人ずつ。  そして、女将《おかみ》。入道の愛人だった宇楽菊乃である。五十ちょっとだと聞いていたが、四十代にしか見えない。しぶいた水滴のような瞳《ひとみ》。彫りの深い造り。切れ味のある美人だった。全体的に鋭角的な顔立ちは、息子の張井頼武に似ている。藍色《あいいろ》の紬《つむぎ》を着て店内を動く姿は川魚のようにきびきびとしていた。  俺はカウンターに腰を据えた。  福島の酒「大七《だいしち》」をぬる燗《かん》でやる。腰のある味わいが体中をほぐしてくれる。肴《さかな》に、寒ブリの造りと白子蒸しをつっついた。ああ、残業はつらい、つらいなあ……。 「あがり、お持ちしましょうか」  菊乃が耳元で言った。低めだが、艶《つや》っぽい声だった。閉店が近いことを告げていた。  俺は相手にだけ聞こえる声で、 「入道の話が伺えれば」  菊乃はすっと笑顔を引っ込めた。 「あなた、うちの息子に火を吹いた探偵さん?」 「芸を一つ教えただけですよ。仕事が無いってボヤいていたから」 「なら、うちで魚を焼かせてみようかしら。口から吹いた火で」  行きかけた菊乃に、俺は人差し指を小さく立て、 「酒、いい?」  菊乃はまた笑顔を消す。肩をすくめて、板場に徳利の追加を告げた。そして、また笑顔をかぶる。引き出しのように愛想を出し入れできるらしい。客商売の技だ。  俺はオコゼの塩辛で杯をゆっくり重ねた。ああ、残業はつらい、つらいなあ……。  暖簾がしまわれ、客は俺だけになった。  菊乃は、「録画、録画」などとブツブツ呟《つぶや》いて、階段の上に消えた。二階にテレビとビデオデッキがあるのだろう。  板場では洗いが始まっている。  菊乃は二階から戻ると、俺の隣に腰を下ろした。笑顔は口元にわずかだけだった。これが自然体なのだろう。 「何を録画するんです?」 「イタリア語初級講座」 「海外旅行へ?」 「とんでもない。イタリア人の忘年会を引き受けちゃったのよ」 「ドイツ人の新年会がきたら、断った方がいい」 「え、どういう意味?」 「日独伊三国同盟、負け戦のパターン。ここをつぶしたくない。落ち着ける、いい店だから」 「あら、ご贔屓《ひいき》に」 「大高監督が羨《うらや》ましい」 「店のこと、私のこと?」  菊乃はのぞきこみながら、俺の杯に徳利を傾けた。  俺は一口すすってから、 「飲み屋は、人と酒と肴の三位一体、と誰かが言ってた」 「私も酒も同じ価値ってこと? ありがたいことですこと」 「酒は『大七』、美味《うま》い古酒だ」 「私って古酒……」  俺は素早く話題を変えて、 「大高監督もよく飲まれました?」 「お気にいりの仲間だけ傍らにおいて。そうでなきゃ一人で」 「一人というより二人。あんたがいる」 「そりゃ、いわずもがな」 「絹塚美雪という女優を連れてきたこともあるでしょ」 「二、三度くらい。若いのに事故で亡くなられた方でしょ。お気の毒に」  菊乃は視線をそらして答えた。一瞬、目の奥が冷たく光るのが見えた。 「大高監督は美雪を高く評価していた」 「そうですってね。ずいぶんと可愛がっている様子でした。まるで親子みたいに」 「あるいは恋人みたいに?」  菊乃は俺を見据えた。笑みを浮かべた。剃刀《かみそり》を連想させる笑みだった。 「探偵も映画屋も同じね。物事を面白い方へ持っていこうとする」 「探偵には大入りがない、これ、映画屋さんとの違い。考えてみれば、大高さんと美雪の間に何かあれば、あなたの店に連れてくるわけがない」 「そうかしら。大高の大胆なカムフラージュかもしれなくってよ。あるいは、大高は、美雪さんへの気持ちを否定したかった。大高はそれを自分自身に言い聞かせたかった。美雪さんを私の前へ連れてきたのは、自分への戒めのため。可能性はあるでしょ?」 「あなたこそ、面白い方向へ話を持っていこうとしている。でも、それくらい仲良く見えた?」 「そう、胸の奥がむずがゆくなるくらいに、ね」  言って、菊乃は笑みを深くした。空気が切れそうな笑みだった。  俺は手酌でやりながら、 「美雪と来た時、ハモをずいぶん食べたそうですね」 「ええ、大高があんなにハモを喜んで食べたのはあの時くらい。どちらかというと、ハモを食べたがっていたのは、美雪さんの方。お母さまが関西の方だそうで、『その血が流れているんだから、自分の舌にも合うはず』なんて美雪さんはしきりに言ってましたっけ。ハモをさかんに食べるのは東よりも西の人間でしょ。実際、ハモ尽くしにしてあげたら、喜んで全部ぺろりたいらげてました」 「ハラの部分も?」 「もちろん。ハモは体の約半分がハラなんだから。長い長いハラ、料理に使わざるをえないじゃないですか。あっ、なんか、『ハモノハラ』とかいう言葉を大高が臨終の際に口走ったっていうんでしょ。プロデューサーの壇さんから聞きました」  徳利が空になった。  菊乃の顔を盗み見る。酒はこれまでのようだ。おとなしく徳利を横にする。 「美雪が死んで、しばらくの間、大高監督はずいぶんと沈んでいたらしいね」  俺は、オババの存在を言葉の中に織り込んだ。 「奥様、そうおっしゃってました?」  菊乃は逃げずに受けとめた。 「ええ、むっつりと黙り込んで、口にするのは酒と茶漬けだけ。流動食だから、まるで病人みたいだったって」 「この店でもよく飲まれましたわ。むっつりとふさぎこむだけじゃなくって、ずいぶんとグチっぽくなってた」 「グチ? どんなグチ?」 「気が弱くなってたんでしょうね。美雪さんのことというよりも、それまでの人生で、自分が悔やんだことを一気に吐き出してるみたいでした。だから、話があっちこっちに飛んで…………、人に聞いてもらうというよりも、自分に向かって喋《しやべ》っている感じ、そう、過去の自分とののしりあっているような感じでした」 「その中でも、大高監督が強調していたことって何かありません?」 「さあ、何を言っているのか意味不明なことばかりでしたから……」 「意味が解らないにせよ、繰り返し言ってたとか、声を荒らげて言ったとか」  しばらく菊乃は顔を伏せた。  カウンターの木目はすべてを知っている。  菊乃は視線を俺に戻すと、 「ひどく顔を歪《ゆが》めて、絞るような声で口走ったのが、とても恐かったんで、覚えているんですが……、確か、『俺は俺を売って監督になった』と、そんなふうに言ってました」 「後で、本人に意味を聞かなかったんですか?」 「なんとなく恐くって……」  菊乃は目を細めた。額に手をやる。  板場の洗い水がやんだ。店内が静まりかえる。菊乃は声を低めて、 「それに、時々、泣いていました」 「泣いていた? 泣いた赤鬼か」  つい言ってしまう、俺の出来心。あの入道があの面構えで泣くとは、ちょっとした見モノだったろう。  菊乃は自分の世界に入り込んだのか、 「私の前では、泣くところを見せたんです、あの人」  遠くを眺めやるような表情で呟《つぶや》いた。  俺は意地の悪い意見を言ってやる。 「入道どのは奥さんの前では泣かなかった。でも、本当は泣いていて、奥さんがそれを言わなかっただけ、そうとも考えられない?」  菊乃は挑むように笑って、 「奥様は、あけっぴろげな性格が可愛い方。なんでも正直に話すタイプですよ」 「それでいて、いざとなるとトボける。知らないフリを決め込む。オープンな性格は見せ掛けだけかも。なかなか油断ならないよ、あのオババは」 「お陽さまみたいにずる賢い方」  菊乃は大きく溜息《ためいき》をついた。 「お陽さま?」 「お陽さまと北風の有名な話があるでしょ。旅人のコートをどちらが脱がせられるか、競い合う」 「お陽さまはずるい?」 「ニコニコ笑うだけで目的を達するなんて。きっと、最初から勝負が解ってたんでしょうね。一生懸命に努力したのは北風の方だったのに」 「北風も最初から勝負を知ってたのかもしれない。だから、悔いのないように努力した」 「でも、時を選べば、北風が勝った」 「いつ?」 「夜」  言って、菊乃は含み笑いをした。      29  モーニングコールは女性の声に限るとはいったが、相手によりけりである。  オババの声で起こされた。  寝覚めの善し悪しを白亀の場合と比べてみた。不毛な比較だった。おまけに、昨晩のつらい残業で疲れている。  しかし、俺は勤勉な探偵、言われた通り、オババの家へ車で訪れた。  昨日の今日であり、昨夜の今朝であり、娘のチーババはいい顔をしなかった。俺はお返しに、コーヒーを五杯お代わりしてやった。すると敵もさるもの、四杯目はぬるく、五杯目はインスタントだった。意地で飲み干す。  オババは封筒を俺に差し出した。郵送されてきたものだが、差出し人は記されていない。渋谷の消印だけでは大した手掛かりにはならないだろう。  中身を取り出す。三枚の便箋《びんせん》に、それぞれアルファベットが記されている。 「I」、「K」、「U」。  伊戸千佳子のもとに来たのと同じものだった。 「なんですかね、これ?」  オババは、幼稚園児のお遊戯のように、首を大きく横にかしげて言った。  俺はきいた。 「いつ、届いたんです?」 「きのう。昨晩、紅門《こうもん》サマがお帰りになった後、そういえば朝から郵便受けを覗《のぞ》いてなかったことを思い出して、見てみたら、これが入ってたんです」 「伊戸千佳子さんとこにも数日前に同じものが届いてます」 「ええ、知ってます。本人から電話で聞きました。それと、季穂さんとこにも」 「殺された北宮さんの奥さんの?」 「そう、季穂さんとこにも届いたそうです。昨晩、電話かかってきました。私のとこと同じく、昨日、届いたみたいですね。本当にこれ何なんでしょ? 不幸の手紙みたいなもんでしょうか。だったら、めんどくさいことになりますね」  めんどくさい、とは、不幸の手紙として他の人間へ送りつけるつもりなのだろうか。手伝わされるのは御免こうむる。 「車、持ってきたけど、行き先は?」 「またお願いしちゃってすいません。ちょっと、下田の方まで」  コーヒー腹が苦しい。  道々、オババから話をきいた。  目的地は下田にある大高家の別荘だった。  以前に行った奥多摩の別荘を〈山の荘〉というのに対して、こちらは〈海の荘〉にあたる。  昨日の早朝、伊豆の沖合で大きな地震が起こったことはニュースで報じられていた。オババの別荘も被害をこうむったらしい。その視察に向かっているわけだが、俺を同行させたのには別の目的があった。  一帯にある数軒の別荘を管理している人間からの電話で、オババは被害状況について報告を受けている。その中に、奇妙な話が混じっていたのだ。 「もしかして、今回の一連の事件に関係があるんじゃないかしら。何だか、キツネにつままれたような面妖《めんよう》な雰囲気の出来事だから」  オババは思い付きのように言う。 「どういう意味?」  問わずにいられない。  オババは嬉《うれ》しそうに答える。 「これまで出てきたものを思い起こしてみてくださいね。殺人現場にキツネにまつわる見立てがありましたよね、赤い鳥居や幟《のぼり》とか油揚げ。それと、『しのだづま』を表現した、首や手足のない死体が三種類。同様に、切った手足や首をつなげて、一条戻り橋の死体再生の見立て。それを真似したマネキン、さらには、死んだはずの人が墓地を散歩してたり、都内の三つの池が地下でつながってる話だとか、わけの解らないアルファベットの手紙だとか、本当にキツネに化かされているような奇っ怪な出来事ばっかしでしょ。ここで、また、身近で何か不思議なことがあれば、てっきりこの一連のシリーズだと思いたくなるじゃありませんか」 「で、いったい、何が起こったんです?」 「別荘の近くで、人が飛んでいたそうです」  俺は危うく車を路肩に乗り上げてしまうところだった。  曇っているせいで、伊豆の海は古いビニールシートを連想させた。  海へ下りる丘陵の中腹にオババの別荘はあった。土とアスファルトと冬枯れの草木で、周囲は脱色しかけた水彩画のようだった。別荘はずんぐりしたT字型の二階建てで、淡いブルーに彩られている。暖かな季節の晴れた日ならば、空と海のブルーをつなぐブリッジなのだろう。いまは妙に浮いた存在だった。  アスファルトの坂を外れ、土石の道に乗り入れて、別荘の前まで車を寄せる。門や塀は特にない。庭から丘陵、そして海へと地続きで、広々とした景観が望めるようになっている。  別荘を襲った地震の爪痕《つめあと》は、表から見えるところにも及んでいた。  観音開きのガレージの戸が開いていた。震動で、落とし金が外れたのだろう。中に納めてあった、トレイラーに乗ったモーターボートが四分の三ほど外に飛び出してきていた。寒い日に小屋からそろそろ身を乗り出した犬のようだった。  ガレージの隣は冷凍室。ここも戸が外側に開いてしまっている。中を覗いてみると、大きなバスタブほどもあるアルミの水槽が横倒しになっていた。魚や肉類を吊《つる》す鉄の鉤《かぎ》もバラバラと床に散らばっていた。 「ご主人は釣りが趣味だった?」  俺はきいた。 「嫌いではなかったと思います。でも、特別に好きというんじゃなくって、取り巻きの人たちと遊ぶのに何か趣向が欲しかったんでしょう。釣りが上手だったのは加古川さんでしたっけね。ここへ遊びに来た人たちのために、主人はいくつも釣り道具を揃えてました」  そう言って、オババは、庭に建てたプレハブの物置小屋に案内した。  戸を横に滑らせる。やはり地震の暴れた跡があった。十本以上の釣り竿《ざお》が倒れている。網、救命胴衣、折畳み椅子などのフィッシング・グッズが折り重なるようにして床を埋めている。丸い缶の蓋《ふた》が外れて白い粉がこぼれていた。その中に干涸《ひから》びたミミズのようなものが見え隠れしている。缶には「イソメの塩漬け」とサインペンで記されていた。釣り餌だった。  俺は戸を閉めた。  家の中も同様の状況だった。泥棒市場のように、あらゆるものが散乱している。足の踏み場を求めて、ケンケンパーを余儀なくされた。手のつけようがなかった。いずれにせよ整理するには改めて出直すしかない。オババにはそう進言した。今から手伝わされたら、たまったものではない。  玄関を出ると、庭に初老の男が突っ立っていた。別荘の管理人だと、オババに紹介された。気さくな感じの男だった。しきりに何か話し掛けてくるのだが、前歯が欠けていて、言葉が聞き取りにくい。四度、訊き返して、やっと解った。例の、人が飛んでいるのを見た、という目撃者に引き合わせてくれるらしい。  目撃者は、二十歳そこそこの娘だった。オババの別荘から坂道を五十メートルばかし上った所に家族と住んでいた。別荘ではなく、この土地の住人である。東京に下宿している女子大生だが、ちょうど冬休みで帰省していた。 「地震なんか来るんだったら、帰ってくるんじゃなかったわ」  など、誰にともなく文句をたれながら、我々の案内にたつ。目の輝きが強い、利発そうな娘だった。赤いジャンパーにジーパン姿で先頭を切り、歩幅をいっぱいに広げて歩く。  彼女が立ち止まったのは、アスファルトの坂道の途中だった。雑草と土の斜面の向こう側、二十メートルほど離れたところにオババの別荘が見えた。 「ここ」娘はこちらを振り返り、「地震が起きた途端、私、びっくりして外に飛び出してきちゃったんだ。で、ものの勢いってやつでここまで走ってきちゃったの」  言って、ぺろんと舌を出して見せた。 「ここから妙なもんを見たのか?」  俺は先を促した。 「うん。朝のまだ六時頃で、霧が出てた。でも、ちゃんとこの目で見たんだから」 「誰も眉《まゆ》に唾《つば》をつけてやしないって」 「当然でしょ。それで、うっすらとした霧の向こう、あそこらへんだったな」  別荘から海へと線を引くようにして、指差して、 「人が飛んでいたんだ」  風の走る音と、波が岩を噛《か》む音だけが聞こえていた。  彼女は、腕組みをし、挑戦的な顔で話を続ける。 「本当なんだから。でも、飛ぶったって、空高くビュンビュン飛んでたわけじゃないよ。飛ぶっていうより、あれは、浮遊してたって感じだったな。地面から、だいたい一メートル五十センチくらいね。それくらいの高さを男の人がスイスイって浮遊してた」 「立ったまま?」  俺はきいた。 「うつぶせで寝てるような恰好《かつこう》だった。でもスーパーマンみたいに両手を前に伸ばしているんじゃなくって、脇に下ろしてて、なんかサエないの。頭から海の方へ向かって、ススススーッとまっすぐ飛んでた。で、崖《がけ》の近くで、霧が濃くなってたから、見えなくなっちゃった。後で霧が晴れてから見にいったんだけど、崖にも、下の海にも何も残ってなかったよ」 「どんな男だった?」 「うつぶせだから顔はよく見えなかったよ。大人だけど、そんなに年寄りではなかったはず。上も下も青系統の服だったっけな。でも、ほんと薄気味悪かったなあ。何だったんだろう、あれ? とりあえず、幽霊ってことで自分のなかでは割り切ることにしたけど」 「幽霊なら割り切れる?」 「生きた人間が飛ぶよりは、ね」  なるほど。 「キツネに化かされたとか?」 「私、いぬ年。キツネの方が逃げるもの」  なるほど。 「ヨガの空中浮遊じゃないかしら?」  オババが口をはさんだ。  ヘッと女子大生は「?」マークを意味する息を洩《も》らした。  オババは、囲炉裏端で孫に昔話でも聞かせるような笑みを浮かべて、 「私ね、前に、何かのドキュメンタリー映画で、インド人の修行者が二メートルくらいの高さに浮遊しているのを観たことあるの」  女子大生は首を傾げ、冷ややかな目で、 「ドキュメントとはいえ、映画でしょ。『ヤコペッティの世界残酷物語』とか『食人族』とか『カランバ』とか、あんな胡散臭《うさんくさ》いものだってドキュメントと称しているのが映画なのよ」 「でも浮遊してたのはインド人よ」 「どこかの宗教団体の教祖みたいにトリック撮影したんじゃないの」 「でもインド人だったわよ」  オババはインド人に対して何か妙な敬意を持っているらしい。  女子大生は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せてうつむく。  管理人は関心がないらしい。さきほどからぼんやりと空に顔を向けている。立ったまま眠ってしまったかのように、半開きにした口からよだれが落ちかけていた。  俺はひとり丘陵の斜面を下った。崖の端で膝《ひざ》をつき、こわごわと下に目をやる。岩肌が急な角度で海に滑り込んでいる。  打ち寄せる波が、白い泡を吹いて踊っていた。      30  相変わらず止まっているのか動いているのか解らないエレベーターだった。四階に着くまでに、『スーダラ節』の二番の途中まで歌うことが出来た。乗るたびにスピードが落ちているのは確かなようだ。次に乗る時には、ジグソーパズルでも持ち込んだ方がいいかもしれない。  昨晩、白亀が電話をよこした。その時、俺は下田から帰ってきたばかりだった。頭が潮でごわごわして、早く一|風呂《ふろ》浴びたかった。白亀の用件は、「明日の昼、事務所に顔を出せ」ということだった。俺は別の用事を予定していたが、早く風呂に入りたかったので、OKの返事をした。白亀は満足気な頷《うなず》き声を残して電話を切った。何かとっておきの話があるらしい。自信に満ちた口振りだった。  昼飯時で、オフィスの中はがらんとしていた。電話番に若い男がひとり残り、つまらなそうにシャケ弁をつっついていた。白亀は奥の会議室で待っている、と教えてくれた。  俺は、来る途中、洋菓子屋でシューアイスを買っていた。バニラ、イチゴ、チョコ、小豆、抹茶の五種類を五個ずつ、計二十五個。みやげを持ってきた由をメモにして、受付嬢の笹西加代子のデスクに置いといた。  冷蔵庫の冷凍室を開ける。と、中には既にシューアイスが山積みされていた。満杯でそれ以上、入れる余地は無かった。  数秒間、俺は意味もなく白い冷気を見つめていた。  そして、冷凍室のシューアイス全てを、下の冷蔵室の方に移した。時間が経つと溶けてしまうが、知ったことではない。代わりに、俺の買ってきたシューアイスを空いた冷凍室に入れておいた。これでいいのだ。  俺は、受付嬢に宛てたメモを握り潰《つぶ》し、ゴミ箱に捨てた。  会議室に入る。  折畳みの長テーブルと椅子があるだけの殺風景な部屋。  白亀がスポーツ紙から顔をあげた。ヨッ、とスポーツドリンクのCMのような、珍しく快活な挨拶《あいさつ》を寄越した。目も口もほころんでいる。よっぽど機嫌がいいようだった。  俺は、下田までオババに同行した件を報告させられた。人が飛んでいた話をして、まだ絵解きのめどはついてないと告げると、白亀はどことなく嬉しそうだった。  俺の話が一通り済むと、白亀は背広を脱いだ。テーブルに肘《ひじ》をついて身を乗り出す。真打ち登場といった意識が見え見えだった。俺に喋《しやべ》らせたのは、明らかに前座の役を振るためだった。  白亀は咳払《せきばら》いひとつ、 「それでな、ちょいと聞いてもらいたい意見があるんだ」 「何だい?」  期待に応《こた》えて、合いの手を入れてやる。それから、身を乗り出してみせる。やれやれ。  白亀はもったいつけて幾度か頷くと、唇を湿らせて続ける。 「妙な手紙があったろ。伊戸千佳子とオババと北宮季穂が受け取ったやつだ。三つのアルファベットが記されているだけだったよな。『I』と『K』と『U』と。これの絵解きができたようなんだ」 「拝聴いたしやしょう」  俺は急《せ》かした。これは本心である。  白亀は気分よさそうに、解った解った、と手を前に出す。そして、弁護士のようなメリハリのついた口調で、 「問題のアルファベットは、三つの死体と関連づけて考えると、或《あ》る解釈が浮かび上がってくるんだ。北宮兼彦、伊戸光一、壇活樹の三人の死体は切断されて、『しのだづま』の見立てを成していた。ここで、それぞれの切断されていた状態をよく思い出してほしい。北宮は首と足を切断されていた。伊戸は首と手、そして、壇は両手両足を切断。これらの切断のパターンに何か意味があるんじゃないか、と僕は考え、そして、一つの仮説に思い当たった。それぞれの死体は切断されたことによって、『しのだづま』を表わすと同時に、切断された形が、記号の役割をしているのではないか。そして、その記号とはアルファベットではないだろうか」  白亀は立ち上がった。後ろにある白いボードに向かい、マジックペンを走らせた。  きっと、これをやりたかったのだ。そのために俺をわざわざ事務所に呼び付けたのだ。  ボードには、三つの切断された死体とおぼしき図が描かれていく。白亀はつっかかることなく筆を進めていた。ひとり密《ひそ》かにリハーサルを積んだに違いない。  白亀は、矢印とアルファベットを書き加えながら説明した。 「この図の通り、北宮の死体は『M』を表わしている。伊戸は『Y』、壇は『I』ということになる」  正直、俺は舌を巻いた。少々の強引さも感じられるが充分に仮説として成立している。  白亀は声のトーンを上げた。 「そして、例の奇妙な手紙に記されていた三つのアルファベット『I』『K』『U』と関連づけてみる。これら六つのアルファベットを組み合わせて並べ変えてみると、ある意味が浮かび上がってくるんだ」  俺は、手帳を取り出して、アルファベットを記し、順列組合せを試みた。 「あっ」  思わず声をあげた。 「解ったか」 「MIYUKI」 「そう、美雪だ。ロケ先で事故死した絹塚美雪のことだと思う。犯人は、復讐《ふくしゆう》なのか恩義のためなのか何らかの理由で、死体にMIYUKIの名前を織り込もうとした、と考えられる。どうも、絹塚美雪はこの一連の奇妙な事件に関わりが深いようだな」 「大高監督が遺した言葉『ハモノハラ』にも美雪が絡んでいたし」 「調べてみたんだ。奇妙な手紙を最初に受け取ったのは伊戸千佳子だったろ。で、彼女は今でこそ俳優事務所を経営しているけど、その前は本人が女優だったって言ってたよな。映画関係の資料を漁《あさ》って調べたんだけど、彼女は絹塚美雪と何度か共演してるんだ。もちろん、二人とも脇役だけど。年齢も同じくらいだし、何か関係があったかもしれない。友人だとかライバルだとか」  白亀は大きく息をついて、腰を下ろした。テーブルに肘をつき、手の甲に顎《あご》を乗せる。唇の端の会心の笑みを隠せない。  完全に俺はポイントを奪われていた。疑問点を口にするぐらいしか思いつかなかった。 「手紙を仕掛けたのは、やはり三人を殺した犯人と考えていいのか」 「それはどうだか。別々という考え方もできる。例えば、手紙を送った人間は、犯人へ警告しているのかもしれない」 「それは、例えば、伊戸千佳子への警告?」 「なにも、俺は、伊戸千佳子が一連の殺人犯人と決めてるわけじゃない。手紙を送った人間が、千佳子を犯人だと思い込んでいる、という可能性を考えただけだ」 「もしも、伊戸千佳子が殺人犯だとしたら、手紙のアルファベットの意味について気付くはずだ。ならば、他の人間に手紙のことは話すことはないはず。だって、ふつう、自分に不利な情報は洩《も》らさないだろ」  俺はかろうじて推理を返した。  白亀は悠然と静かに笑う。 「なるほど。まあ、昼飯でも食いながら、ゆっくり話すとしようぜ、奢《おご》るよ」  ポイントを稼いだ方が奢る、これが俺と白亀のゲームのルールだった。負けた側が奢るという一般的なパターンよりも、なんだか、より屈辱的な気分を味わうことが出来る。  俺はおとなしく勝者の後につき従った。  受付嬢の笹西加代子が昼休みから戻っていた。俺を見つけると、 「今日は差し入れ、無いの?」  言って、口を尖《とが》らせた。  俺は黙って、冷蔵庫を開ける。手で触れてみると、シューアイスが溶け始めていた。あとで、白亀に食わせてやってくれ。      31  幻のフィルムが見つかった。  例の絹塚美雪のラストカットが入っている『鵺《ぬえ》と三日月』の予告編フィルムである。  白亀の奢りでカツカレーとビールの昼食に付き合った後、俺は公衆電話から留守録を再生して、そのニュースを知った。  ニュースソースはオババだった。  俺は成城の大高邸へ急行する。  オババの話によると、発見場所は庭の中。昼の十一時頃、通用門のすぐ近くの植込を手入れしている時、手のひらサイズほどの黒いビニールの包みが落ちているのを見つけた。中には十六ミリフィルムが入っていた。リールの中央には『鵺と三日月』とタイトルが記されている。一目見て、大高監督のコレクションであり、壇の事務所から盗まれたものであることが解ったという。昨晩から今朝にかけて、誰かが外から邸内に放りこんだらしい。  俺は到着すると、さっそくオババに一階奥の映写室と称する部屋へ連れて行かれた。ビデオが普及する前は、ここで大高監督たちは参考試写を行なっていたらしい。グレイの絨毯《じゆうたん》の上に折畳み椅子を数個並べた、八畳ほどの簡素な部屋だった。壁にロール式のスクリーンが掛けられ、両隅にスピーカー、反対側にはワゴンに乗せた映写機があった。  映写機の横にはチーババが立っていた。  俺はぴょこっと頭を下げた。無視された。  オババは、チーババを指して、 「娘はこれでも保母の資格を持ってるんですよ」  何が言いたいんだ? 俺の疑問に気付いたのか、気付かないのか、オババは答えた。 「だから、十六ミリ用の映写機をいじれるんですよ。保母さんの教科の中に組み込まれてたんですって。じゃ、真由子、お願い」  チーババはしかめっ面のまま、いきなり明かりを消した。これだけ無愛想な保母では保育園は泣き声が絶えないだろう。  俺は手探りで椅子に腰掛けた。  カラカラと何やら懐かしい感じの音とともに、闇に光の線が走り、埃《ほこり》がきらめきながら舞う。小さなスクリーンがまぶしいくらい白く輝く。時々、フィルムの端のパーコレーションの影が見える。数字の5が映し出され、カウントダウンされていった。  予告編は六十秒ほどの短いものだった。本編が大作ではなく、プログラムピクチュアだからだろう。  俺は三度、繰り返して予告編を見せてもらった。チーババには丁重に頼んだ。  映し出される宣伝コピーには「オカルト」という表現が使われている。一九七九年の当時はまだ、「ホラー」よりも一般的だったのだ。妙に懐かしかった。そういえば、「決して一人では見ないでください」という『サスペリア』の名コピーもこの頃だったと記憶している。  スクリーンには、「妖《あや》めきの破劇」だとか「巡礼するエロス」など、よく解らない宣伝コピーが現われた。映画『鵺と三日月』は時代ものの怪談で、死霊になった男を巡る禁断の愛憎劇という内容だったはず。宣伝担当者は迷惑な文学肌だったようだ。ラストの決めの宣伝コピーだけは、いかにもオカルト映画らしい、流行《はや》りの『サスペリア』調だった。女の声で低く震わせながら語りかけてくる。「死ぬほど恋しい、死んでも愛しい」と。  映像だけはなかなか綺麗《きれい》だった。やはり、この作品でも、大高監督は絵画のようなカットを撮ることにこだわっていたらしい。障子の破れ目から窺《うかが》う下弦の月、ローソクの火越しに見る男女の抱擁、ローアングルで斜めに撮った長い長い廊下など、印象的な映像が幾つもあった。蚊帳《かや》にうっすらと映る亡霊や、誰もいない布団が風船のように膨らむシーンも、イマジネーションに満ちた絵になっていた。  そうしたカットに入り交じって、問題の絹塚美雪のラストカットは終盤の方にインサートされていた。わずか二、三秒の映像であった。  真夏の陽射しに焼かれ、美雪が乾いた道を歩いてくる。その行方を見守るようにして佇《たたず》む親子地蔵。陽炎《かげろう》が立ち、草木の緑が燃えるように揺れている。  これだけのシーンだが、幻想美あふれる映像だった。  スクラップブックにあった伊戸の書いた追悼文は、このシーンの撮影風景を描いたものだが、雰囲気をよく伝えていた。  十分ちょっとの映画鑑賞会は終了した。明かりが付くとともに、チーババはさっさと部屋を出て行った。閉まったドアに向かって、俺は大声で礼を投げた。 「いかがでした?」  オババが尋ねたので、 「予告編だと、傑作に見えるもんですね」  つい言ってしまう、俺の出来心。  オババは穏やかな表情のまま、少し間をおいて、 「それは言えるかもしれませんね」  あっさり言いながら、一枚の紙片を差し出した。 「よろしかったら、これも」  俺は、折り畳まれたそれを開く。目を通した。顔をあげる。 「どこで?」 「予告編といっしょにフィルムケースの中に入ってました」  オババはにっこりと首を傾けた。  早く出さんかい。  紙片は銀行が発行した振り込みの明細書だった。  今月の初め、伊戸から壇へ、かなりの額の金が振り込まれていた。      32  翌日の昼過ぎ、俺は勇を鼓して、恐怖の日生劇場を訪れた。あらかじめ電話をしたら、時間を指定され、ロビーで待つように言われた。俺は素直に従う。  楽屋入り口と書かれた鉄の扉が開いて、伊戸千佳子が姿を現わした。黒マントのようなコートをまとっていて、何だか、女吸血鬼を連想させた。  俺はレザー張りのソファから腰を上げる。先日の稲荷|寿司《ずし》の詫《わ》び代わりに持ってきた土産を恐る恐る差し出した。  千佳子も、その新聞紙の包みを恐る恐る受け取って、中身を覗《のぞ》く。 「へえ、焼き芋。まだ、熱い」 「これなら、今日、買ったと解るから」 「レンジでチンしたんじゃないでしょうね」 「それは、パンツ」  千佳子は鼻の奥で笑うと、 「外行こう。やっぱり、焼き芋は寒い中で食べなきゃ味が出ないわよ」  不思議な理屈をこねる。しかし、機嫌はよろしいようだ。それが何よりである。腹の方も焼き芋を平気で食べられるまでに回復したらしい。何よりである。  俺は風に逆らい、重いガラス戸を押す。表に出た。腹や胸に寒さが張りついてくる。体を包装するように、コートの前をかき合わせた。  通りを一つ越えて、日比谷公園に入った。昼休みが終わっている時間帯のためか、人はまばらだった。ベンチで昼寝をしてる名物的光景もなかった。この寒さではいたしかたない。寝てる人がいれば、それは永遠の眠りについた人かもしれない。  空席だらけの中で、もっとも噴水から離れているベンチに腰掛けた。尻《しり》に冷たさが張りつく。腹に力を入れて、十数秒たつと慣れてくる。  千佳子は平然としてベンチに座り、足を組んだ。確かに腹は全快しているらしい。何よりである。紙袋を俺の方に差し出してきた。暖かそうに周りの空気を白く踊らせている。  俺は焼き芋を一つ取ると、つい、冷えた首筋や腿《もも》にあてがう。皮ごとカブりつくと、歯の裏側に熱さが沁《し》みた。香ばしさと甘味が広がる。ほっくりとした実が湯気を吹き、黄金色に輝いていた。 「家じゃ作れない味の一つだ」 「芋は天ぷらくらいが限度よね」 「芋天は天つゆよりもソースの方が美味い」 「そう、試してみよっと。結構、私、信頼してんだ」 「え?」 「一般的に、やもめの料理人は、本当に美味いものを知っているってことよ。ホントよ」  言って、皮を剥《む》いた芋を、ダイナミックにかじった。  そして、千佳子は芝居の話を切り出した。もちろん、『マクベス』の任侠《にんきよう》版のことである。俺は一瞬ドキッとして、芋を喉《のど》に詰まらせ、むせかえった。が、千佳子はご機嫌の微笑をたたえて、 「客足が伸び始めたのよ。八割くらい客席が埋まるようになったわ。もう一息よ。劇評が出たせいかも」 「劇評?」 「出たわ。絶賛よ。『目を見張るようなスピーディーな展開がド迫力!』ですって。お腹が痛いのに耐えながら、三倍速で演じたのがよかったみたい」  それって、俺の稲荷寿司のおかげではないだろうか。 「みんな、頑張った甲斐《かい》があったわ。私のよく知ってる記者が書いた劇評よ」  よく知っている記者とは、招待日の時に、千佳子がしなだれかかるようにして愛想をサービスしていたベテラン記者のことかもしれない。 「劇評はおたくの役者には触れていた?」 「おかげさまで。『死に急ぐ者の苦悩がリアルに演じられている』ですって」  苦悩がリアルだったのは、稲荷寿司のせいではないか。  まあ、いいだろう。千佳子の機嫌がよろしいうちに、俺は本題に入らせてもらう。  昨日、『鵺《ぬえ》と三日月』の予告編を大高邸で見た経緯を話した。  千佳子は芋の皮を細かくちぎっては紙袋に入れていた。笑みが薄れていた。平然とした表情をしていたが、目元や口の端に硬さがあった。作った平然さだった。  俺は持ち札をストレートにさらすことにした。 「伊戸光一さんは、当時、映画雑誌に絹塚美雪への追悼文を寄せていました。大高監督のスクラップブックの中で、俺はその文章を読んだんだ。伊戸さんが、『鵺と三日月』のロケ現場に遊びに行った時、ちょうど絹塚美雪のラストカットとなった場面の撮影をやっていたこと、を書いた文章だった。昨日、予告編の中で、美雪のラストカットを観て、伊戸さんの文とすり合わせてみたけど、実に伊戸さんが生き生きと描写しているかがよく解ったよ。ただ、一点だけを除いて」  俺は、千佳子がかすかに肩を上げたのが解った。表情は変わらない。前を向いたまま、芋の皮を機械のようにちぎっている。  俺は一語一語はっきり言った。 「ラストカットでは桔梗《ききよう》の花はまだ咲いていなかった」  千佳子は手の動きを止めた。  俺は話を補足する。 「伊戸さんの文の中では、桔梗の花が咲いていた、って書いてあるんだな。ところが、予告編を見ると、親子地蔵の脇の桔梗はまだ緑色につぼんだまま。おかしいよね。咲いたのはそのラストカットを撮った日より後のはずだ。伊戸さんがシナリオ・ハンティングのために金沢の方へ出掛けて行ってしまった後だよ。桔梗が咲いているのは見てないはずなんだ、伊戸さんは」  俺はちょっと間を置いて、 「伊戸さんはひそかに戻ってきていたんだよね。絹塚美雪に会うために。ラストカットを撮影した場所で会っていたんだよ。その時には親子地蔵の脇の桔梗は咲いていた。それで後になって、伊戸さんは記憶を取り違えたんだろう。そして、その逢瀬《おうせ》の夜、美雪は事故死した。伊戸さんは絹塚美雪の死に何らかの関わりがあった。その十数年前の秘密を、最近になって、壇は発見した。予告編と伊戸の文章を比較したんだろう。壇は伊戸を脅迫した。決定的な証拠がなくっても、ジャーナリスティックな話題にはなるよ。伊戸の監督生命には相当なダメージを与えるはずだ。ましてや、壇には映画ライターとしての活動の場があるわけだし。  そう、例の予告編が収められたフィルムケースの中で見つけたよ、伊戸から壇に振り込まれた記録、銀行の明細書を。それに」  千佳子はこちらに顔を向けた。覚悟をした表情だった。  俺は言った。 「あなたから壇に振り込んだ、その記録のコピーも」  これはブラフだった。カマをかけてみたのだ。 「あなたも壇に脅迫された。まだ、伊戸さんと離婚していなかったあなたにとっても不利な状況だった。それに、あなたには小学生の娘さんがいますよね。父親の不名誉を世間に暴露されることによって、娘さんをつらい目に遭わせたくなかったんでしょう」  沈黙の橋が、俺と千佳子の間に架かっていた。  噴水の音が聞こえていた。  寒さを思い出した。  フウーッ、声を出して息を吐き、沈黙の橋を壊したのは千佳子の方だった。息を出し切ると肩を落とし、 「参ったわよね。早いとこ離婚しとくんだったわ。未亡人にもならずに済んだし」  そうボヤくと、千佳子はなげやりな笑いを浮かべた。斜に構えた目付きで俺を睨《にら》んで、 「言っとくけど、映画チケットの束くらいしかあげるものないわよ」 「脅迫してるわけじゃない」 「行儀いいわね」 「話だけ聞かせてもらえればいい」 「煙草ある?」 「火だけなら」 「プラズマ火球ね。遠慮しとく。顔を焼かれたらかなわないもの。もと女優なんだから」  火を吹く探偵の噂をどこかで耳にし、何やら曲解しているらしい。千佳子は眉《まゆ》をひそめた。ハンドバッグからライト系のメンソール煙草を取り出した。フィルターをちぎって、口にくわえた。細長いライターで火を点し、ムショ帰りの最初の一服のように、ゆっくりと吸い、目をつむって吐き出した。唇の端が心地よさそうに持ち上がった。深々ともう一服してから、 「昔話よね。私が女優だったなんて。美雪とは歳が同じくらいだったし、同じ映画にも共演したこともあって、お喋《しやべ》りをする仲だったし、意識もしてたな。ま、友人であり、ライバルでもある、なんて思ってたわ。向こうはどう思っていたのかは知らないけど。それにまだお互い端役に過ぎなかったし。  でも、後から考えると、美雪は才能あったってこと。第一、私の場合は女優業からリタイアして、このざまですからね。それに美雪は運もあった。大高監督が評価するようになったでしょ。運が才能についてきたのよね。そして、何といっても、美雪は野心が強かった。バイタリティっていうのか、チャンスを見つけるのに凄《すご》く貪欲《どんよく》だったな。監督やプロデューサーや脚本家、力のある人たちに積極的にアプローチして、好印象をもってもらおうって一生懸命だった。営業力に長《た》けてたのよね。  そうした状況の中で、美雪は伊戸と密かに付き合うようになったのよ。伊戸はあれでも〈大光映画〉の怪談路線を支えていた一角でしたからね。美雪にしても、最初は女優としてのランクアップのために付き合ってた。伊戸もそれを知ってて、割り切る男だった。大体、あの男は昔っから女関係はだらしなかったから、慣れたもんだったんでしょ」 「当時、あなたは?」 「いま、言おうと思ってたのよ、そうくると解ってたから。当時は、まだ、私は伊戸とは何でもなかったの。伊戸が私に手を出してくるのはその二年ほど後だったし、私の方も美雪ほどの営業力なかったから」 「いまは営業力に長けている」 「自分より他人を売る方が向いてるみたい、わたしゃ、山椒《さんしよう》太夫《だゆう》か。  まあ、とにかく、その当時は、私は伊戸との間には色っぽい話はなかったの。だから、私がそのことで美雪とややこしくなる展開はありえなかったってことよ。お解り。  話をもとに戻すわよ。で、美雪と伊戸は最初はゲームのように付き合ってたんだけど、そのうち、美雪が本気になっちゃったのよ。そうなると男の方は逆、伊戸にはわずらわしくなってきた。そして、例の『鵺と三日月』のロケ先で、密会した夜、伊戸は最終的な別れ話をした。それまでに幾度か二人の間で話はしてきたんでしょうけど。あの夜が別れの時となった。伊戸が去った後、美雪はすっかり傷心の状態だから、車の中にあったウイスキーをがぶ飲みしたんでしょう。それで運転して……、後は新聞なんかで知られてる通りよ」  千佳子は、灰の長くなった煙草をスタンドの灰皿に捨てた。新たに煙草を取り出し、こんどはフィルターをちぎらずにくわえた。吸い方も浅い。  俺はきいた。 「絹塚美雪と伊戸さんの恋物語を知ったのは伊戸さん本人から?」 「そう。本人の自己申告だから、勘繰ろうと思えば、美雪がウイスキーを飲んだのは、伊戸も一緒に飲んだから、というふうにも考えられるの。まあ、そうでなくても、伊戸が美雪の死に関わっていた、という経緯に変わりないけどね。  この話を聞いたの、先月よ。壇に脅迫されたのをきっかけにね。十年以上も前の亭主の色恋|沙汰《ざた》を聞かされて、あげくに金まで取られて、最低でしょ」  千佳子は、額と鼻に皺《しわ》を寄せ、T字型につないだ。  俺は同情の表意として、口端を歪《ゆが》めてみせてから、 「壇の脅迫行為は、加古川さんにも及んだ。そうですね」  千佳子はちょっと間をおいてから、ええ、と肯定した。  俺は続ける。 「〈ジャン・カンパニー〉から独立をしようとしていた加古川さんが、先月になって突然それを取り止めた。壇に釘《くぎ》をさされたんだと思う。あなたと加古川との関係から、壇は脅迫の刃先を加古川にも向けたということだよね」 「ええ。〈ジャン・カンパニー〉にとって、いま、加古川に辞められたら大きな戦力ダウンになるわけだから、壇としては手放したくなかったのよ」 「例の予告編フィルムが〈ジャン・カンパニー〉のオフィスから盗まれたというのは、壇の狂言だった。壇は、盗難に対する憤りを演じるために、ドアの錠を厳重なものに取り替えるなど、事件の被害者であることを強調していたっけな。実際は、予告編フィルムは金と引き換えに伊戸さんの手へ?」 「そうです。でも、加古川は言ってました。壇のことだから、フィルムをコピーしてまだ持っているかもしれないから、油断できないって」 「そして、伊戸さんの手にいったん渡ったフィルムが、何者かの手によって大高邸の庭に放りこまれた」 「私には心当たり無いわ」  千佳子は俺の目を見据えて言った。  俺は曖昧《あいまい》に頷《うなず》いておく。気が付くと、手の中の芋が冷めかかっていた。  千佳子は、紙袋から、さっき千切っていた芋の皮を取り出した。レンガ色のアスファルトに放り投げる。  風と波がいっぺんに襲ってきたように、けたたましく羽音を響かせて、たくさんの鳩が集まってきた。  千佳子の目と口が笑みで横に広がる。 「これくらい、観客が来てくれればいいんだけどな。あと、もう一息」  立ち直りの早い女だ。鳩を見たまま、俺に問う。 「そうそう、チケット売れてる?」  映画『占いの流れ星』のことだ。現状に変化なかった。ゼロのままである。理屈をこねてみる。 「売ろうとすると、どんな映画なのか、人に聞かれる。観てないから答えられない」  千佳子は意地悪げに口元の笑みを歪める。横目で俺を見て、 「あのね、よく、映画の宣伝マンがこう言うのよね。映画を観てしまったら宣伝なんかできないって」  千佳子は芋の皮をもう一握り放る。  鳩が爆竹のように騒ぎ立てた。  さっきから気になっていたことがある。  俺の目の端に、誰かの視線が引っ掛かるのだ。十メートルほど離れた木立の隙間からこちらをじっと見つめている人影があった。毛糸の黒い帽子にサングラスにマスクといういかにも怪しげな変装。確か、日生劇場の柱の陰でも見かけたような気がする。尾行しているつもりなのだろうが、素人の動きだった。  いきなり、俺が立ち上がり、早足でそちらの方へ向かうと、そいつは喧嘩《けんか》に負けた犬のように猛スピードで走り去っていった。      33  その夜、白亀と飲んだ。  外堀通りの一つ裏の通り、地下にもぐった小さなバー。十年来の行きつけの店だった。カウンターと、奥にコの字型のボックスがあるだけ。赤チョッキを着たクルミのような顔の主人と、アーモンドのような顔のその連れ合いという、初老の夫婦が二人だけでつつましく経営している。そのわりに、酒の種類の揃えがいい。  店の名が、〈フィンランディア〉。外の青い看板には、角を突き合わせた二匹のトナカイの白いシルエットが描かれている。それは、或《あ》るフィンランド産ウオッカのラベルと同じ絵だった。店の中では、しきりにウオッカ系の酒を勧められる。主人はウオッカを高く評価していた。長年のキャリアから辿《たど》り着いた考えがあるのだろう。だが、それを聞いてしまうのは何かもったいないような気がしていた。だから、いまだに聞いていない。  俺と白亀は、ポーランドの「ズブロッカ」を飲んでいた。唯一の趣味の一致点である。  初めて白亀と酒を飲んだのが、ここの店だった。十数年前。俺はまだテレビ局の記者をやっていて、白亀は刑事だった。  二人とも、或る事件を追っていた。密輸に絡む殺人事件だった。俺は独自の調査で、晴海埠頭《はるみふとう》の使われなくなった倉庫の一つに手掛かりを求めて侵入した。時を同じくして、白亀もそこに潜入した。俺を尾行していたのかと訊《たず》ねたが、白亀は強く否定していた。ちょっと強すぎる否定の仕方のように感じた。倉庫内をソロソロと調べる俺と白亀に、犯人がいきなり発砲してきた。俺たちは身を伏せながら、振り向きざまに、落ちていた煉瓦《れんが》を犯人に向かって投げ付けた。二つの煉瓦のうちの一つが犯人に命中した。犯人は鉄階段を見事なほど最後まで転げ落ち、頭を砕き、首の骨を折って死んだ。  犯人に命中した煉瓦が、俺が投げたものなのか、白亀が投げたものなのか、いまだに謎であった。どちらかが英雄であった。また、どちらかが、人を殺した経験者ということになる。そして、どちらかが、どちらかの命の恩人ということでもあった。俺が白亀の恩人なのか、白亀が俺の恩人なのか、いまだに不明なのだ。  その事件の夜、俺は白亀と酒を飲んだ。この〈フィンランディア〉で。表の看板に描かれた、角を突き合わす二匹のトナカイに何となく惹《ひ》かれて入った。主人の勧めで飲んだのがズブロッカ。以来、ここではズブロッカだった。  ズブロッカは、野牛の餌となるズブロフカという草を浸したウオッカであった。ボトルの中にもその草が一本入っている。冷凍庫でボトルに氷が付くくらい冷やしたやつを、主人がグラスにゆっくりと注ぐ。薄い黄緑色をした酒がとろりとろりと滴り落ちてゆく。ストレートでやるのがいい。口に含むと、冷たさとウオッカ本来の高アルコールの熱さが舌の上でコサックダンスを舞い、その刺激を楽しんでいるうちに、淡い甘味と爽快《そうかい》な草の香りがいっぱいに広がる。それらがいっしょくたになって、ゆっくりと腹に落ちてゆき、暖かさが体の隅々に打ち寄せる。さすが寒い国から来た酒だ。  俺はグラスを半分ほど空けたところで、幻の予告編と脅迫の件を報告した。そして、さらにもう一歩踏み込んだ話をした。 「大高監督のスクラップブックに貼ってあった伊戸の美雪への追悼文には、赤線を引いた箇所があった。さっきも言った、桔梗《ききよう》が咲いていた云々のあたりだよ。赤線のインクの古さから言って、大高監督が引いたものだと思う。何故、赤線を記したのか? それは、わざと読む者の目をその箇所に引き付けるためだよ。そして、予告編フィルムと追悼文の違い、つまり桔梗の件に気付かせようとしていたんじゃないだろうか」 「大高監督が、か」 「もちろん。伊戸が美雪の死に関わっていたことを、誰かに気付いてもらいたかった。そう期待して、大高監督は赤ペンを走らせたんじゃないかな」  白亀はしばらく黙って、口の中でズブロッカを転がしてから、 「なるほど。大高が死ぬ寸前に呟《つぶや》いた『ハモノハラ』という言葉にしても、絹塚美雪に関わっている。あれも、言葉の謎を追えば、自然に美雪の事に辿《たど》り着くようになっていた。そういうことなのか。誰かが、美雪について調べだすように、大高が仕掛けたことなんだな。なかなかのくわせもんじゃないか、自分で入道なんてふざけた名乗りをあげる男だけのことはある」 「この線で考えを推し進めていくと、シナリオのことも洗ってみたくなる」 「シナリオって?」 「大高入道の書いた幻のシナリオだよ。書いたまま発表してなかった。ほら、あの予告編フィルムと前後して発見されたやつ。『おろろ骨色頭巾《ほねいろずきん》』というタイトルの」  白亀は音高くグラスを置いた。 「そうか。あれも絹塚美雪に関わってる」 「うん、絹塚美雪を主演と仮定して書かれたものだから」 「調べる取っかかりは何かあるのか?」 「多少は。先月、伊戸が何か古い脚本を読んで、こう言ったそうなんだ。『これはとんでもないエルドラドだ』って」 「エルドラド? それに、古いシナリオというのが『おろろ骨色頭巾』なのか?」 「うん、表紙が黄色で、中も古くて黄ばんでいたらしい。伊戸の愛人の織辺鈴代から聞いたんだけど。その黄色だらけの外観といい、読んでいた時期といい、『おろろ骨色頭巾』と考えられる」 「それにしても、エルドラドというのは何なんだ? まさか、そのシナリオは西部劇じゃないよな」 「ああ、怪談だよ。カメさんが言ってるのはジョン・ウェインの映画のことだろ」 「いかにも。ハワード・ホークス監督の三部作、『リオ・ブラボー』『リオ・ロボ』『エル・ドラド』のことだ。でも、どれも怪談には縁ないよな。あと、エルドラドには黄金郷という意味もあったっけ」 「うん、でも、俺はそのシナリオを読んだけれど、物語の中ではそういったことに触れるネタは見当たらなかった。  このシナリオを、伊戸監督が随分と褒《ほ》めてたらしい。依頼人のオババから聞いたんだけど、伊戸が珍しく、というより初めて入道の作品を褒めていたらしいんだ。入道が死んでから褒めるなんて実に伊戸らしい、なんてオババは皮肉っぽくボヤいてたっけ」 「そう。他に何か手掛かりは?」 「これも依頼人から聞いたことだけど。シナリオが発見された時の、北宮の反応の仕方がちょっと引っ掛かる」 「どんなふうに?」 「北宮は、幻のシナリオが発見されたという事実よりも、その『おろろ骨色頭巾』というタイトルを聞いた時の方が、驚きの反応が大きかったらしい」 「北宮は、シナリオについて予《あらかじ》め何か知っていた?」 「かもしれない」  白亀はグラスを掲げると、目を細めて見つめながら、 「やはり、シナリオも、あの予告編みたいに何か仕掛けが隠されてるのかな」  俺は相づちをうつ。 「時限装置のように」 「入道が仕掛けた時限爆弾か。もうどこかでカウントダウンしてるかもしれないな」 「あるいは、もう爆発してるかも。何だか、この事件全体に、死んだ入道の思惑が隠されてるような気がしてきた」  俺は背中にゾワゾワとした不快感が百足《むかで》のように這《は》うのを感じた。  空になった皿に、カウンターの中の主人が黙ってミックスナッツを足してくれた。そのまま黙って、グラス磨きを続ける。店は静かだった。他に客はいなかった。音楽もない。  ズブロッカを四杯あおった頃には、酔い心地はかなり高まっていた。  白亀の口も油をさしたように滑りやすくなっていた。この男、酔うと饒舌《じようぜつ》になり、しかも、口調が乱れるどころかますます冴《さ》えてくる。ちなみに、昔、新橋|界隈《かいわい》では、やたらと店の人間に議論をふっかけて長居するので、「新橋亀」の異名で恐れられていた。  白亀はひとしきりの馬鹿っ話の後、また事件に話題を引き戻してきた。大事にとっておいたネタがあったらしい。親指と人差し指でピストルの形を作り、鼻の前にかざす。何か言いたい時のポーズだ。 「おい、知ってるか?」 「いや、知らん」  俺はぞんざいな返答をする。酔いが回ると面倒臭い話はつらいのだ。  ボルテージが上がりっぱなしの白亀はグラスを傾け一口やると、気合いのこもった口調で言った。 「まあ、いいから、聞けよ。きっと、ためになるから。一つの謎解きを聞かせよう。その謎とは、なぜ、キツネは赤い色と関係が深いのか? だ」  なるほど、この疑問は確かに俺もずっと気にかかっていた。稲荷神社には、赤い鳥居、赤い幟《のぼり》、赤飯の供え物が付き物である。そして、今回の連続殺人の現場にはそれらの見立てが施されていた。しかも、いずれも、赤の着色は死体から流れた血を用いるという陰惨な方法で。  俺が興味を覚えたのを、白亀は察すると、気分よさそうに蘊蓄《うんちく》を開陳する。 「こういう説があるんだ。いいか。まず、古来中国には陰陽五行思想というものがある。それによれば万物は木火土金水の五つの気からなるというんだ。その五気にはそれぞれを象徴する色が決まっていて、順に言うとだな、木が青、火が赤、土が黄、金が白、水が黒、となっている。  そして、ここで、キツネの話に触れるが、古来、キツネには三つの縁起のよいとされる徳性があるんだ。これも、また、中国で発生した考え方なんだけど、そのキツネの三徳というのは……」  一つ。前を小とし、後を大とす。  一つ。死すれば則ち丘に首す。  一つ。其《そ》の色は中和。  この三つを列挙すると、白亀は解説を加え始めた。 「キツネの姿形は、頭から尻尾《しつぽ》に向かってだんだんと膨らみを増すスタイルだ。つまり、『前を小とし、後を大とす』はこのことを指している。そして、中国では人生においても若年よりも晩年に向かって大成を遂げて幸福になることに高い価値を置いている。現在よりも未来の方が大切とする考え方なんだな」 「末広がりとか大器晩成とかと近い意味か。俺と似てる」 「似てない。で、次の『死すれば則ち丘に首す』なんだが、これは多分に迷信的なんだ。キツネは死ぬ時には故郷の丘に頭を向ける、と信じられていたらしい。理由はよく解らないんだが……。とにかく物事の元を忘れないことが大切とされているのさ」 「初心忘るべからず。俺もそうだ」 「違うと思う。それで、三つ目の徳、これが最も重要ポイントだ。いいか、キツネは全身が黄色い毛に包まれているな。その黄色というのが、さっき言った五気の中で『土』を象徴する色だ。五気は木火土金水の順だから、土はちょうど真ん中に位置している。『其の色は中和』というわけだ。そして、土気は大地を象徴するものであって、農耕にとっては五気の中でもっとも尊い存在なんだ。だからキツネというのは全身が黄色いゆえに、土徳の神として信仰の対象とされるようになったわけだ」 「俺も黄色人種だな」 「僕もだ。黙って聞け。いいか、五行思想には相生《そうしよう》の理《り》という一種の法則がある。それは木火土金水が順送りに次の気を生じてゆくということだ。つまり、木は火を生じ、火は土を生じ、最後の水は木を生じて元に戻るという仕組みさ。それぞれの関係には、例えば、木と木を擦り合わせると火が起こるから、とか、火によって灰が出来てやがて土になるからとか、因果の道理があるらしい。そして、結論を導くとだな、土気は火気によって生み出されるわけだから、土徳の神とされるキツネも火気によって生命をふきこまれるということになる」 「なるほど、その火気を象徴する色は赤」  俺は早口で言ってのける。  白亀は銃口のような横目で睨《にら》み、 「先回りするな。そう、火気の象徴は赤なんだ。故に、鳥居や幟や赤飯など、稲荷神社を彩る赤は、土徳のキツネの力を崇め、活性化させようとする顕れということなんだ。解ったか」  俺は本当に納得したので、素直に頷《うなず》いてから、 「カップ麺《めん》に『赤いきつね』ってあるけど、それも同じ理屈なのかな。ついでに、『緑のたぬき』の謂《いわ》れとは?」  つい言ってしまう、俺の出来心。  言うんじゃなかった。  白亀は赤くなった目を信号のように輝かせていた。赤信号だ。議論をふっかけ、からんでくる兆候である。さらに饒舌に拍車がかかりそうな気配がする。 「新橋亀」健在なり。      34  何故そっとしておいてくれないのだろう。  二日酔いだというのに、迷惑な電話で起こされてしまった。よりによって自殺狂の未亡人、北宮季穂からである。俺の方こそ死体と変わらない状態だった。綿を頬張ったように乾き切った口、頭にはビッグベンが鳴り、腹の中で溶岩がとぐろを巻いている。酔死体《すいしたい》という奴だ。  季穂は苦しげな声で自分の名前を告げてから、「死にたくなっちゃった……」と呟《つぶや》くと一方的に電話を切ってしまった。  何か言おうと思ったが、俺も死にたいくらい苦しかったので頭が回らなかった。こちらから電話をしてみるが、相手は出なかった。やむをえない、行くしかないだろう。しょせん狂言自殺だろうが、止めなければ狂言にはならない。  俺は朦朧《もうろう》としながらも、ぬるいシャワーをさっと浴び、身支度を整え、家を出る。真昼の太陽が黄色かった。自分で運転できる状態ではないので、タクシーを拾った。  後部シートから、ふと、俺のマンションを振り返ると、誰かがこちらを凝視していた。黒い毛糸の帽子、サングラス、マスク、先日の尾行者だ。しょせん素人、またの機会に相手になってやるとしよう。  開けたサイドウインドウから吹き込む風は冷たいが、心地よかった。  繁華街はどこもクリスマスを迎えるムードで華やいでいた。店という店からクリスマスソングが聞こえ、それらが鎖のように繋《つな》がり途切れることがない。看板の配色は、赤と白とグリーンと金の四色に占められている。ツリーの数は電話ボックスより多いかもしれない。郵便ポストよりは確実に多い。  ボーッとした頭の中で、俺はトナカイの橇《そり》に乗ったサンタになっていた。袋の中には事件がいっぱい。  サンタはクリスマスとは無縁の場所に到着した。  高田馬場の季穂の住むマンション。俺は部屋のドアのノブを引く。やはり、錠はかかっていなかった。森閑と静まり返っている。その陰気さが嫌だったので、「ジングルベル」を口ずさむ。それも英語で。  俺は嗅覚《きゆうかく》に神経を働かせながら、玄関を上がった。どうやらガスの匂いはないようだ。とはいえ、酔死体だから、自信がなかったので、電灯は点《つ》けずに部屋の奥へと進んだ。相変わらず「ジングルベル」を歌いながら。もちろん、英語で。  季穂は、この前の時と同じように、炬燵《こたつ》に突っ伏していた。そのテーブルの上には睡眠薬のビンが四本あった。  俺はキッチンに行き、流し場を覗《のぞ》くが、生ゴミは処分されていた。こんなことはこっちもお見通しだ。俺は炬燵の部屋に戻ると、ジャンパーのポケットから、新聞紙にくるんだ包みを取り出した。自宅から用意してきたものである。新聞紙を外して、中身を出すと、ジッポーの火でそれをあぶり始めた。独特の匂いの煙が勢いよく上がる。それはクサヤの干物だった。俺は香り高きそのクサヤを季穂の鼻先に近付けた。「ジングルベル」を歌いながら。もちろん、英語で。  わずか数秒で、季穂は元気のよい姿を見せてくれた。顔を上げ、咳《せ》き込みながらしきりに大きく息を吐き出す。身をよじらせて炬燵から足を抜き、四つんばいで部屋の角へと駆けていった。  俺はクサヤの火を消すと、 「ちょっと早いけど、サンタさんからの贈り物だ」  季穂は膝《ひざ》を抱えて、涙目で睨みながら、 「信じられない。よりによって私の大っ嫌いなクサヤなんて……。何よ、これ、死にそうな匂い」 「死にそうなら、本望だろ」 「美しく死にたいのよ!」 「それで、今回は睡眠薬か。まだ、そんなに呑《の》んでないみたいだな」  四本の薬ビンのうちで、一本だけ中身が五分の四ほどになっていた。  季穂は唇を尖《とが》らせて言った。 「探偵さんが来るのを待っててあげたんじゃない。一緒に死ねるように」  俺は炬燵の上に腰を降ろした。 「おいおい、俺が何で自殺すんだ?」 「奥さんもどきに二回も逃げられてるって前に言ったじゃない。レンジでパンツをチンのせいで」季穂は自分で言ってクスクスと笑ってから、「技あり二回で一本よ」 「未亡人と同等って理屈か。どうでもいいけどな、こんな睡眠薬じゃ、死ねないんだぞ」 「なんで?」  季穂は四本の薬ビンに目をやった。  俺は一語一語はっきりと、 「あのな、このあいだ来た時に、俺と伊戸千佳子で中身を変えておいたんだ。これらは全部、ビタミン剤なんだよ。君は自殺どころか、かなり元気になっている」  季穂は焼《や》き蛤《はまぐり》のように口を半開きにした。しだいに目を潤ませ、顔をうつむける。そして、肩を静かに震わせながら、 「千佳子さんも探偵さんも、そんなに私のこと心配してくれたのね……。皆さんに、ここまで好かれている私って……」  勝手に嬉《うれ》し泣きに浸っていた。つくづく幸せな女である。  幸せなうちに、せっかくなので俺は仕事をする。 「亡くなった旦那《だんな》が書いていたシナリオは見つかったかい? 映画監督デビュー作になるかもしれなかった例のシナリオ」 「いえ」  季穂は涙で濡《ぬ》れた顔をあげると、すまなそうに首を横に振る。 「前にいってたよね。監督の伊戸さんが来た時に、旦那がその自作のシナリオを見せていた、と。その時の状況を思い出してもらいたいんだけど……、例えば、表紙に書かれたタイトルの一部が目に入ったとか、そういうことってなかったかな?」  季穂は目を細め、しばらく宙の一点に向けた。困惑した表情を帯びてくる。んー、鼻の奥で声を震わせる。首を傾げた。 「すいません」 「気にしない、気にしない」 「印象に残っているのは、原稿を綴《と》じていた青のクリップぐらいで。これ、前に言いましたよね」 「ドイツ製で、旦那がいつも愛用していた」 「ええ」  俺はちょっと考えて、 「旦那が伊戸さんにシナリオの内容について話しているのが、聞こえたんだよね」 「ちょっと耳に入ってきただけですけど」 「たしか、『ボートレースの映画だ』みたいなことを旦那が言っていた」 「そうです」 「その発言に関して他に何か思い出せない? 旦那はどんな言い方をしていたのかな? 表現だよ。例えば、ボートレースをテーマにした映画、とか、ボートレースを背景にした映画だとか……」  季穂はちょっと口ごもってから、 「そういえば、妙な言い方でした。正確に言うとですね、確かこんなふう、『競艇映画じゃ』とかって」 「競艇映画じゃ?」 「ええ。思い出してみると、妙だなって感じたの覚えてます。言葉の終わりに『じゃ』なんて、年寄りの真似みたいなふざけた言い方だな、ってその時、思いました」 「ボートレースではなく競艇という言い方を旦那はしたんだね?」 「……ええ。すいません、なかなか思い出せなくって……」  季穂はすくんだように少し身を引いた。目には少し怯《おび》えた色があった。  外を都電が通る音が聞こえた。それが過ぎ去ってから、俺は言った。 「こんな話を聞いたことがあるかな?」 「え……」  季穂は怪訝《けげん》な表情をする。 「ちょっと聞いてほしい」俺には思いついたことがあった。「一つのお話、物語だよ。いいかい。  昔、備前《びぜん》の国、いまの岡山県、そこに与之介《よのすけ》と美濃という夫婦がいて、髪結い床を営んでいました……」  ……与之介は、遊びほうけてばかりのまさに髪結いの亭主。一方の美濃は、漆のような黒々とした髪が美しい、仕事熱心で誠実な女房であったが、もとはといえば、店の使用人で、与之介が手をつけた女。だから、他の使用人からやっかまれている辛い立場にあった。  そんな女房の苦労をよそに、与之介は遊びまわった挙句、外に女を作ってしまう。船宿の女中で、お蔦《つた》という、やはり黒髪が美しく、艶《つや》っぽくてちょっと気性の強い女。与之介の気持ちをしっかり絡めとってしまった。そして、妻の座を奪うために、与之介をそそのかす。美濃を呪い殺そうというのだ。骨抜きにされている与之介はお蔦に言われるままに、望玄坊《ぼうげんぼう》という法師に呪咀《じゆそ》を唱えさせた。  与之介の浮気や、髪結い床での苦労で、美濃は疲れに身をそがれ、やつれきっていた。美しい黒髪はみるみる色を失い、全て白髪と化してしまった。それを隠すためにいつも白い頭巾《ずきん》をかぶって生活するようになる。  そして、ついに苦悩の限界が訪れたのか、あるいは、呪咀のためなのか、美濃は滝壺《たきつぼ》の中へと身を投げてしまった。死体はあがってこなかった。  一年もたたぬうちに、お蔦はぬけぬけと髪結い床に住まい、与之介の女房として振る舞っていた。  使用人たちの間で、気味の悪い噂が広まり始めた。朝、起きてみると、髪がすっかりほどけていた、という者が何人も現われたのだ。夜中のうちに誰かが髪をいじったらしい。そして、それは、死んだはずの美濃が白頭巾の姿で枕元に座り、寝てる者の髪をほどくと、消えてしまうというのだ。目撃した者も多いらしい。  さすがに、薄気味悪くなった与之介とお蔦は、また望玄坊を呼び、お祓《はら》いをさせた。髪をほどく美濃の亡霊は現われなくなる。  だが、望玄坊は数日後、落雷に当たって死んだ。  お蔦が、鏡や水などに自分の顔を映すと、それが白頭巾の美濃だったという怪現象が頻繁に起こるようになる。恐怖のあまり、お蔦は神経を病み、床に臥《ふ》せってしまう。  使用人が三晩続けて死んだ。三人とも首をもの凄《すご》い力で絞められている。なぜか、死体の髪はみな白髪と化していた。そして、血のにじみ出た痣《あざ》のまわりに、長い黒髪が数本巻き付いていた。こんな化物屋敷にはいられないと、使用人たちは出ていった。髪結いの店は、とうとう与之介と病床のお蔦の二人きりになってしまった。  朝、庭の桜の樹にぶらさがって死んでいるお蔦を、与之介は発見する。長い長い綱のような髪の束が、お蔦の首を絞めあげ、桜の樹に吊《つる》している。その異様に長い黒髪は、お蔦自身の髪であった。  与之介は気付いた。使用人たちを殺したのも、この長い髪であった、と。夜中、病床のお蔦の髪が伸びて、大蛇のように屋敷内を這《は》い、使用人部屋に入りこみ、首を絞めると、また、縮んで戻ってくる。ろくろ首のような髪であった。そして、その黒髪はついにお蔦自身を殺したのだ。  見ると、お蔦を吊している長い髪の先端は桜の根元の土中に埋もれていた。与之介は手で土を掘る。憑《つ》かれたように、爪が割れ、指先が破けるのも構わず、掘り続けた。  土中から、現われたのは、美濃だった。滝壺に沈んだはずの美濃の死体が桜の下から現われたのだった。  そして、お蔦の髪と美濃の髪はつながっていた。互いに結び合わせたのではなく、同じ髪を二人の女の死体が共有している。長い長い黒髪の両端にそれぞれ美濃とお蔦の死体があるのだった。美濃の口元は微笑んでいた。まるで、大切な美しい黒髪をついに取り戻したことが嬉《うれ》しくてたまらぬように。  与之介は発狂し家に火を放った。炎はみるみるうちに彼らを飲み込んでいった…… 「……長い長い黒髪だけが、焼け跡に残っていたといいます。……いかがです、この物語に何か心当たりはないかな?」  季穂は遠くを見るような目をしていた。口に当てていた手をゆっくりと離し、 「それとまったく同じ話を主人から聞いたことがあります。あなたも、主人から?」  俺は「はあ、ちょっと」などと曖昧《あいまい》な返答で濁して、逆に問い返した。 「あんたの旦那はどこでその物語を仕入れたんだろうかな?」 「いえ、主人の創作です」季穂は少し口を尖《とが》らせる。「岡山県に伝わる髪の伸びる妖怪《ようかい》を題材にしてますが、あのストーリーは主人のまったくのオリジナルです。思いついてすぐに、まず、大高監督に聞かせたら、『監督になった時のために、このネタは大事に暖めておけ』などと言われたそうです」 「いつごろのこと?」  季穂は指を順に折り、 「八年前になると思います」  俺が季穂に語ったこの怪談話は、『おろろ骨色頭巾《ほねいろずきん》』の要約だった。大高入道が絹塚美雪を主役に想定して書いた例の幻のシナリオである。勘が働いた通りだった。入道の影がここでも妖《あや》しくマントを広げている。  備前では、妖怪ろくろ首を「おろろ首」と呼ぶ土地があったらしい。だから、髪の伸びる妖怪だと「おろろ髪」と表現される。『おろろ骨色頭巾』のシナリオを読んで得た知識である。  俺はそろそろ切り上げることにした。かすかなためらいを覚えつつ、最後にアリバイを尋ねてみる。  季穂は一瞬、怯《おび》えた表情を見せた。が、挑むような気丈な目付きをし、顎《あご》を引いて、答えた。十二月九日の夜から翌朝にかけての北宮と伊戸の事件、それと、十三日の夕刻から夜にかけての壇の事件、いずれの時間帯も家にいた、ということだった。  俺は参考までに、北宮が愛用していた青いクリップを一つ借りておいた。 「そういえば、亭主はミイラになりかけたことがあるんだってな」  季穂は数秒、キョトンとした顔をするが、 「ああ、盗作騒ぎの時、ハンガーストライキした件でしょ。そういうことする人なのよ。その前にも煙突に登ったことがあるし」 「煙突?」 「うん。以前に麻薬がらみで傷害罪を犯した役者がいたでしょ。ほら」季穂は某不良俳優の名をあげた。「そいつが〈大光映画〉の作品に出演するかもしれないって話があったのよ。それに対して、北宮は激怒して、反対運動を起こし、その挙句、撮影所の煙突に登って抗議したのよ。朝のサイレンとともに登って、日暮れ時までへばりついてたわ」 「で、勝ったの?」  季穂は小さくうなずき、 「結果的にはね。問題の作品自体が予算の都合で流れちゃったから」 「しかし、北宮さんらしい行動だな」 「映画は人に夢を与えるもの、だから、その夢を汚してはならない、という信念の人だった。呆《あき》れちゃうほどの暑苦しい信念よね」 「そのために、ミイラになったり、煙突に登ったり……。なんと言うのか、映画に関しては過激な純情をもつ男だったんだな。あんたも色々たいへんだったろ。ご苦労さま」  俺は季穂に大仰に頭を下げてみせた。  辞去する前に、不安があった。季穂がもう狂言自殺を企てないという保障はない。そのたびごとに呼び出されてはたまったものではない。  俺は季穂に歩み寄ると、 「こんどは煙突から飛び降りようなんて考えるなよ」  季穂は怒ったような表情をし、唇だけで笑いながら言った。 「解ってるわよ。それじゃ美しくないもの」  俺はいきなり季穂の頭に右腕を回し、押さえ込んで、ヘッドロックをかける。 「な、何すんのよ! 人、呼ぶわよ!」 「俺も、呼ばれた人だ」  俺は棚の上にあった油性マジックを手にする。手足をモンキーダンスのように振り回してじたばた暴れる季穂の顔に、俺はマジックペンを走らせる。  二分ほどでメイクが完成したので、ヘッドロックを解いてやった。  季穂は息せき切って、鏡台に駆け寄り、その顔を映した。その途端、声を裏返して、 「ひ、ひどい、何でこんなことすんのよ!」 「美しく死ねないようにだよ。自殺なんかしてみろ。その顔の写真を葬式の時に飾ってやるぞ」  俺は、そう言うと、ポケットから探偵必携の小型カメラを出し、 「ハイ、チーズ」  季穂の顔をフィルムにおさめた。  ドラえもんと化した顔を。      35  薬屋の店頭で二日酔い用の胃腸内服液を立ち飲みした後、午後三時になって本日最初の食事を取った。盛りそば一杯という情けないもの。それでも、ようやく人心地ついた気になった。少しずつ蘇生《そせい》しているのを感じる。これこそが二日酔いの醍醐味《だいごみ》だ。  浜松町の線路沿いの一区画。小さな工場が肩を寄せ合っていた。中心にスポーツ新聞社があって、インクの匂いが漂ってくる。どこの工場も錆《さ》びた色をさらしていた。風が通ると、至る所でパタパタと物がちぎれそうに、はためく音が聞こえてくる。冬の寂しさを盛り上げてくれた。  俺は番地を頼りに、〈成陽印刷〉を見つけた。似たような小さな工場が幾つもあり、ここもその一つだった。インクの匂いが新聞社からのものと溶け合っている。  俺は、ガラスのはまった戸を横に滑らせて中に入った。インクの匂いが強くなる。奥の方から、機械の唸《うな》る低い音が聞こえ、足の裏に振動が伝わるのを感じた。目の前では、アルバイトらしき若い男が二人、製本されたものを梱包《こんぽう》し、台車に積み上げていた。シナリオのようだった。タイトルには、温泉の名前とその下に「殺人事件」と記されている。テレビの火曜か土曜のサスペンスもののシナリオだろう。 「今晩から、撮影するんですよ」  後ろから声がした。  振り返ると、丸顔の五十過ぎくらいの男が立っていた。 「今晩から?」  俺は驚き半分で問い返す。 「そう、今晩から。早くシナリオを届けないとね。今ごろ、プロデューサーは現場のスタッフから背中に槍《やり》を突き付けられているような気分でしょうよ」  そう言って、男は、シュシュシュと空気漏れのような笑い声をたてた。  俺は自分の名と職を告げた。  男はこの小さな印刷会社の社長だった。  猫背ぎみの小柄な体躯《たいく》に紅茶色の作業服がダブついている。特徴的なのは髪で、インスタントラーメンのようにちぢれていた。 「応接室の方へどうぞ」  喋《しやべ》りのイントネーションが尻上《しりあ》がりになりがちだった。北の出身かと思い、工場のことを尋ねながら何気なく探りをいれると、四代の江戸っ子だと答えた。 「まっ、チャキチャキってやつですよ」  やはり、尻上がりのイントネーションだった。  応接室は事務室であり社長室でもあった。  田舎の駅の待合室ほどの小部屋。真ん中にデスクが三つ固まっている。くもりガラスの窓の前に、サイドテーブルと、スチールパイプに布を張った椅子が置かれている。俺はそこに腰を下ろした。  社長は、石油ストーブの上にかけてあったヤカンから、コーヒーカップに湯を注いだ。コーヒーの香りは全くしなかった。テーブルに置かれたカップの中身は薄茶色に濁っている。薬くさかった。 「薬ですよ」  社長は言った。  俺は返答を思いつかなかった。 「漢方薬です。葛根湯《かつこんとう》ですよ。風邪の初期に効きますよ」 「別に風邪はひいてませんが」 「いいんですよ。体にいいんですから」  社長は両手でカップを丸め込み、美味《うま》そうにすすった。  俺は一口ふくんでみる。甘味の少ないハッカ飴《あめ》を湯に溶かしたような味だった。薬としては美味い部類なのだろうが、薬は薬である。ふと奥の棚に目をやると、様々な漢方薬の箱やビンが並んでいた。  俺は早いとこ用件に入ることにした。さらに他の薬の実験台にされてはかなわない。 「このシナリオはこちらで印刷されたようなんですが、覚えておられます?」  俺は『おろろ骨色頭巾』の台本を差し出した。  社長は、裏表紙に記されている自社の名を確かめると、最初の方のページをめくった。立ち上がり、デスクからファイルノートを取り出すと、戻ってきた。しばらくノートを繰る。  指の動きを止め、 「ありました。昭和六十二年ですから……五年前ですね」 「その時のことを教えていただきたいんですが、印刷を発注したのは大高監督自身だったんでしょうか?」 「だと思います。ノートの記録によると、大高さんの名で発注されてます。住所は」  経堂の仕事場の住所だった。 「変だな、と思ったの覚えてます。ふつう、〈大光映画〉さんだと〈駒山印刷〉を使っているんです。だもんで、発注を受けたのは初めてなので、社長の私が挨拶《あいさつ》を兼ねて、原稿を受け取りに行ったんですよ。大高さんというのは頭がツルツルで赤い顔をした大柄な方でしたが」 「間違いありません。監督です」  入道は撮影現場にいる時と同様、何やら興奮していたようだ。白い顔が赤く染まっていたのだから。  町工場の社長は話を続ける。 「で、私、聞いたんです。〈駒山印刷〉を使わなくてもいいんですか、って。そしたら、『これは会社の企画ではなくって、自分でスポンサーを探して製作する個人的な企画だからいいんだ』と言ってました。だけど、個人的な企画にせよ、普段から付き合いのある〈駒山印刷〉に頼む方が気心が知れているぶん便利なはずですよ。何か、別の理由でもあるのかと、それで変だなと思ったんですよ」  社長はカップを傾けて、葛根湯の残りを飲み干した。俺のカップを覗《のぞ》くので、やむなく口をつける。ぬるくなった分、よけいに薬らしさが際立っていた。さっき飲んだ胃腸内服液と混ざって化学反応を起こさなければよいが。 「印刷の部数は?」  俺はきいた。  社長はノートに目をやり、 「二十部です」 「印刷に関して何か注文をつけられませんでした?」  社長はシナリオをめくったり、幾度か引っ繰り返すと、 「そうでした。確か、日付は入れなくてもいい、と言われました。だから、この台本、どこにも日付が入ってません」 「日付というのは?」 「製本された年月日を表紙などに普通は入れるんですよ。人によっては縁起をかついで、実際の日付よりも前後にずらして、わざわざ大安の日付を印刷させたりもします」 「大高監督は何か理由は言ってました?」 「いえ。特に私も聞きませんでしたし。なんせ新規のお客さんですから、こちらもむやみに詮索《せんさく》できませんよ」 「台本を届けたのも、さきほどの経堂の住所でした? 成城ではなく?」 「そうです。その際、社長の私もうちの運搬車に同乗しましたから間違いありません」 「大高監督の他に誰か出てきました?」 「いえ、どちらの時も、大高さんお一人でしたが」 「絹塚美雪という女優を知ってます?」  社長は梅干しを食ったように数秒のあいだ顔をすぼめて、 「いや、どこかで聞いたことあるけど、知らないですね」 「その台本に大高監督がペンで書いてます」  社長は人物表のページを開く。 「ありゃ、主演じゃないですか。でも、知らないな、絹塚美雪なんて」  社長はカップを手に立ち上がると、ヤカンの方に歩み寄る。目は漢方薬の棚に向けられていた。  そろそろ退散するとしよう。  問題は、絹塚美雪が死んだのが十三年前、『おろろ骨色頭巾《ほねいろずきん》』のシナリオが印刷されたのが五年前、そして、そのシナリオに主演として、死んだはずの美雪の名が記されていることである。  浜松町駅の近くで、〈光宝映画〉の友沢に電話した。 「こないだは、怪談映画の歴史についての講義をありがとう」 「いえいえ、お役に立てたなら、嬉《うれ》しいですよ。また、何かありましたら、いつでもどうぞ」  丁重に対応してくれる。友沢はまだ俺のことをテレビ局の記者だと思っている。俺は嘘をついているわけではない。説明を省略しているだけなのだ。 「いつでもどうぞ、と言ってくれた矢先なんだけど、今から、ちょっといい?」 「ええ。でも、注意してください。うち、風邪が流行《はや》ってますから」 「ご親切に」 「今度はどんな件です。資料を用意しときますけど」 「ありがとう。『エル・ドラド』という西部劇があるよね」 「ああ、ジョン・ウェイン主演、ハワード・ホークス監督、でしょ」 「そう。そのコンビのウエスタン三部作『リオ・ブラボー』『エル・ドラド』『リオ・ロボ』。その中の一本だ」 「またの名をリメイク三部作」 「えっ、リメイク?」 「そう、『エル・ドラド』も『リオ・ロボ』も、『リオ・ブラボー』の再映画化だとする論評がアメリカにはあるんです。つまり、あの三部作は同じ映画だ、とする。まあ、確かに見方によっては、ジョン・ウェインを中心にした個性的なガンマンたちのキャラクター配置や、彼らがチームプレイで悪玉を制裁するという大筋は似てるといえばいえます。特に、『リオ・ブラボー』でディーン・マーチンが演じた酔いどれ保安官と、『エル・ドラド』のロバート・ミッチャムなんかはそっくりなキャラクターでしょう。ここらへんのことは、『メイク・イット・アゲイン・サム』という本に詳しいですよ。リメイクされた映画についての研究書なんです。原書を持ってるんですが、自宅なんです。こんど」 「いや、英語は読めないんだ」俺は相手をさえぎった。「ありがとう。今の話で充分。いや、本当に参考になった。ありがとう」 「こちらには?」 「行かなくても済んだ」 「お役に立ったみたいで嬉しいです」  声が弾んでいた。  テレビ局の記者をとっくに辞めたことを当分、明かせそうもない。ちょっと良心らしきものが疼《うず》いた。だから言った。 「風邪が流行ってるなら、葛根湯を早めに飲んどくといい」  友沢は、また、丁重に礼を言った。  俺は受話器を戻す。『リオ・ブラボー』の主題歌「ライフルと愛馬」を口笛で奏でながら駅に向かった。  夕陽が赤いぜ。      36  夕刻になり、ようやく二日酔いが抜けてきて、憑物《つきもの》が落ちた気分になった。同時に、体中が干涸《ひから》びているように感じる。激しい喉《のど》の渇きを覚え、無性にビールが飲みたくてたまらない。いつもこの繰り返し。性懲《しようこ》りもない酒飲みの輪廻《りんね》である。  有楽町のガード下からマリオンへと抜ける道筋には、サラリーマンご用達の飲食店がひしめいていた。店先の路上にもテーブルや椅子がはみ出ているが、冬の間は、ビニールでテントのように囲われているので寒くない。早々と仕事を放棄してジョッキを傾けているネクタイ姿がちらほらと見受けられる。うらやましい。焼き鳥などの煙が至る所から立ち上り、周囲のネオンやビルの灯《あか》りを霞《かす》ませていた。  目指す店はこの区画の一軒。「でんでん公社」というふざけた名のおでん屋だった。  暮れ時の紺色の空を、横一文字に新幹線が切って走る。香ばしい煙ごしにそれを見送りながら、俺は店の中に入った。  時間が早いせいか客はまばらだった。奥に広い店内。長い長いカウンターと、四人掛けの小さなテーブル席が五つ。カツオとコブの出汁のいい匂いがただよっている。カウンターに沿って、オモチャの銭湯のように数々のおでんの具が汁のなかに浸り、柔らかな湯気をあげていた。とたんに空腹を覚え始めた。  白亀は、突き当たりの四畳半ほどの小上がりで胡坐《あぐら》をかいていた。ビール壜《びん》は空になりかけている。  俺は向かいに座ると、すぐさま、ビールを注文した。うんと冷えた奴を、とつい言い添えてしまう。店もそれに応《こた》えて、うんと冷えた奴を持ってきてくれるから嬉しい。  キンッと音がしそうな一杯を一息に呷《あお》る。吠《ほ》えるような快気の声をあげてしまう。歓喜のあまり、喉がハイテンポでタップダンスを踏んでいた。続けてもう一杯。砂漠から帰還したような気分だった。  ようやく人心地ついたところで、おでんを注文した。ハンペン、チクワブ、トウフ、コンニャク。体調がまだ完全ではないので、どうしても、腹にやさしいものばかりになってしまった。ふと、白亀の皿を見ると、まったく同じオーダーだった。やはり、この男も本日は重症だったらしい。  チクワブからつっつく。外側が溶けかかって煮汁によく馴染《なじ》んでいるのがたまらなく旨い。程よいコシの歯ざわりで、中まで出汁が染みていた。わずかに付けた芥子《からし》が余計に食欲をかきたて、コンニャク、ハンペンへと箸《はし》を進ませてくれた。  テーブルには、もう一人ぶんの割り箸とコップが用意されていた。また、白亀は企んでいるらしい。ここへ、わざわざ俺を呼びつけたのだから、何かショウを見せびらかしたいに違いない。  しばらく、俺は謎のゲスト席に目をやっていた。その視線は、白亀の期待通りだったらしく、嬉しそうに本題を話し始めた。 「誰が来るかはまもなく解る。その前に、知っておいた方がいい事がある」 「予習ってとこか」 「そう。一つの仮説だ」 「拝聴しよう」  いつもの段取りゼリフ。  白亀は、ビールを注ぐと、大きくコップを傾ける。泡の髭《ひげ》を踊らせたまま、 「一九七〇年代の前半に、〈大光映画〉で、人造人間を題材にした作品が製作された」 「人造人間っていうと、フランケンシュタインのようなもの?」 「そう考えていいだろう。シリーズ物として三作品が作られた」白亀は箸の袋に万年筆で綴《つづ》りながら、「『あやつり死人』、『あやつり狼夫』、『あやつり鬼族』だ。あやつり三部作とマニアの間で言われているらしい。当時、珍しいことに〈東宝映画〉で吸血鬼をネタにした怪奇映画が作られていた。田中文雄というドラキュラマニアのプロデューサーがいて、血を吸うシリーズと呼ばれる三部作『血を吸う薔薇《ばら》』、『幽霊屋敷の恐怖・血を吸う人形』、『呪いの館・血を吸う眼』を製作し、なかなか好評を博したんだ。それに刺激された〈大光映画〉が、ドラキュラに対抗するにはフランケンシュタインだと企画をぶちあげたのさ。怪奇映画の老舗《しにせ》として、負けじと製作したのが人造人間の三部作というわけだ」 「そのフランケン映画が今回の事件と何か関係が?」 「まあ、そう、セッカチになるな。もうちょっと蘊蓄《うんちく》を傾けさせろよ」  俺は、どうぞご勝手に、と手を向ける。  白亀は余裕の含み笑いを見せると、 「その『あやつり』三部作の中にはな、なんと、西行法師が重要な役で登場するんだぞ」  蘊蓄が突飛すぎた。「なんと」と勿体《もつたい》つけられても、「だぞ」と強調されても、驚きようがない。空白の数秒の後、俺は反応する。 「西行って、歴史上の実在の人物、あの歌人の西行法師のこと?」 「そう、平安時代の高僧の西行だ。映画は現代が舞台なんだが、西行は不老不死の極意を会得して、サンジェルマン伯爵みたいに何百年も生き続けているという設定なんだな」 「タイムスリップでも魔界転生でも理屈はどうでもいいけど、何で、人造人間の映画に西行法師なんだ?」 「そこがポイントだ」  白亀は一言ずつ区切るようにして言った。 「西行法師が人造人間を造っていたという記録がある。事実だ」  また数秒の空白の間。  俺は眉《まゆ》に唾《つば》を塗るジェスチャーをして、 「事実? その単語はどっちの文章にかかるの?」 「記録が残っていた、という方だ。実際に人造人間を造ったのかどうかは、これもんだ」  白亀も眉を指でなぞった。  問題の記録とは、『撰集抄《せんじゆうしよう》』巻五第十五にあり、「西行高野ノ奥ニ於テ人ヲ造ル事」と題されているらしい。  白亀が手帳から蘊蓄を垂れ流す。 「高野山の奥にいた西行が、話相手が欲しくなって人造人間を造ろうと考えた。鬼が死者の骨を集めて人間を造り出す秘術で、『反魂《はんごん》の術』というのがあったという……」  ……西行はその術のカラクリについて多少の心得があったので、実験を試みることにした。野ざらしにされている死体の骨を掻《か》き集め、鉱石の粉や薬草をそれらに塗る。藤の蔓《つる》と糸で骨をつなぎ、人の形に組み立てると、特殊な香を焚《た》き、呪文《じゆもん》を唱えた。  はたして、人造人間は出来上がったが、姿形だけで、色艶《いろつや》が悪く、声は吹き損ねた笛のようだったという。ずいぶんと気味の悪いものなので、西行は処分しようと考える。しかし、一応、人間なので殺すにはためらわれ、やむなく、山奥の人の来ないような所に追いやって捨ててしまった。  西行は、「反魂の術」に失敗した原因を調べるべく、秘術の大家たる伏見中納言|師仲卿《もろなかきよう》を訪ねた。師仲卿が打ち明けるには、これまでに幾人もの人造人間を作成することに成功してきたらしい。しかも、その中には既に出世を遂げて、大臣の位にまで就き、国政を動かしている者もいるというのだ。ただ、その者の名を明かした途端、その者も自分も溶けてしまうので秘密にしておかなければならない、と断った。  そして、師仲卿は、西行が術を試みた際の誤りを指摘してくれた…… 「……だが、西行にはもはや人造人間を造る気は失せていたのさ。たぶん、人が人を造るということが、自然の摂理に手を加えること、つまりは、神仏の領域に土足で踏み入る傲慢《ごうまん》な行為なのだと気付いたんだろう」 「あるいは、底知れぬ恐怖を感じたのかも。大臣にさえ人造人間がいる以上、世の中、誰が人造人間であってもおかしくない。例えば自分の親がそうである可能性。その場合、自分自身は人なのかって疑問……」 「解釈はいろいろと取れる。この議論はまた暇な時に続きをやるとして……。僕がこの話に絡めて何が言いたいか解るか?」  俺は黙って首を横に振る。  期待通りのリアクションだったらしい。白亀は、眼鏡ごと目を輝かせて、身を乗り出した。一語ずつ、はっきりと発音させながら言った。 「人造人間の映画三部作。それと、今回の事件、三つの池のほとりで死体再生の見立てやマネキンが発見されたこと。これらの状況は似てると思わないか?」  キン! 俺がコップを爪で弾いた音だ。 「なるほど、西行法師は野に散っている人骨を拾い集めて、人造人間を組み立てた。  今回の事件、三宝寺池のベンチに置かれていた死体再生の見立ては、北宮と伊戸のバラバラの首と腕と脚を組み合わせて造ってあった。うん、西行法師の人造人間の作り方に酷似してるよ。それと、井之頭池と善福寺池のマネキンは三宝寺池の見立てをパロディ化したものだから、それらも人造人間との類似性があるわけだ」 「そう。それに、映画が三部作であることに対応するかのように、三つの池が地下でつながっているという怪説」  白亀は、眉間《みけん》と口の両端を上げて、ジョーカーの笑みを浮かべた。それを仮面のように張りつけたまま話を続ける。 「こうした妙な符合に気付いて、僕はすぐさま調べてみたよ。『あやつり』シリーズに関わった人間について、ね。そうすると、予測していた通りの結果が出てきた」 「今回の事件に関わる人間の名が浮かび上がってきた、とか」 「そうなんだ。シリーズの第一作目、二作目の監督は伊戸光一。そして、全三作ともチーフ助監督は北宮兼彦だった」  俺はコンニャクを箸《はし》で切り割ると、 「二人とも死んでいる。それに、二人とも三宝寺池で見立ての部品にされている」 「人造人間の映画を作った男二人が、人造人間にされてしまったことになるのさ。で、こうなってくると、僕は次の展開に駒を先回りさせざるをえない。第三の男に目を向けることにしたんだ」 「それは、『あやつり』シリーズの第三作目の監督のこと?」 「当たり。僕はそいつを罠《わな》にかけて、ここへ呼び出すことにしたのさ」 「で、第三の男というのは?」  シャクだが、つい俺は首を前に伸ばした。 「うん、『あやつり鬼族』の監督とは…………」  白亀は顎《あご》を指二本ではさみ、目を細めて涼しげに微笑む。伊達《だて》男、ここに極まれり。かすかに首を左に傾け、 「そら、おでましだ」  白亀の横目をたどって、俺は約九十度振り返った。  漂う湯気の向こう側。入り口に細身の男が立っていた。照明の具合で半身がシルエットだった。  視線をまっすぐにこちらへ向けている。  映画監督の玉砂仁。  伊達男と気障《きざ》男との対決が始まるぞ。      37  奥の小上がりと指定されていたのだろう。玉砂はまっすぐ近付いてきた。紺地に淡いブラウンの格子縞のスーツ。トレードマークのつもりなのか、アスコットタイを覗《のぞ》かせている。今宵のはグラデーションのかかったブルー。自慢のロマンスグレイもバランスよく横分けされ、乱れがない。英国風にまとめた初老の紳士像を作り上げていた。それなのに、呼び出された先は、飲み屋街の一角の大衆的なおでん屋。このことに、明らかに玉砂は不服を覚えている様子で、顔を苛立《いらだ》たしげに引きつらせていた。  白亀は胡坐をかいたまま身分を明かすと、空いている座布団を勧めた。四角いテーブルで俺と白亀が向かい合い、その間に玉砂の指定席が用意されていた。  玉砂は俺の存在に気付くと、怯《おび》えた表情を見せた。陶器を片っ端から割った例の一件について、それが悪戯《いたずら》であったことを知らないでいるのだ。不安で仕方がなかろう。まだ当分の間、その状態のまんまにしてやれ。  玉砂は平静を取り繕いながら、 「あなたも絡んでいるんですか?」  外人タレントのように大仰に肩をすくめて虚勢を張ると、座布団に腰を降ろした。  俺はビールを追加した。  玉砂は気乗りしない態度で、おでんをオーダーする。そのくせ、卵、フクロ、イカ巻き、ツミレ、と比較的値段の高いものばかり並べやがった。  沈黙が続いた。  玉砂は落ち着き払った態度を強調しているが、明らかに装ったものだった。とりすました顔に、筋肉が時折、ぴくぴく盛り上がる。  三人とも幾度も代わる代わるコップを口に運んでいた。気まずい空気で、ビールもまずくなる。まるで通夜だ。  おりたのは玉砂だった。二対一では仕方ない。勝った方もさほど嬉《うれ》しくない。  玉砂はいまいましげに溜息《ためいき》を吐いて、 「私を呼び出して、どうしようというんです?」  研修中のニュースキャスターのように一語ずつ力んでいた。しどろもどろになるのが恐いのだろう。  白亀は丸めた両手の上に顎を乗せて、冷静な口調で喋《しやべ》る。 「匿名で電話して失礼しました。でも、無理矢理、あなたを呼び出したわけじゃないですよ。お誘いしただけですから。ただ、『三つの池はつながっている』と告げたら、あなたはこうしてやってきた。何故ですかね?」 「……私を試しているんですか?」 「僕が電話した時に、『おまえか?』とあなたは口走りましたよね。誰なんですか、『おまえ』というのは。ああいう電話がかかってくることを予測していたふうな印象を受けたんですが」 「これは脅迫ですか?」 「脅迫? 何か脅迫されるようなこと、身に覚えでもあるんですか?」  もと刑事だけに粘っこい。「亀は万年」健在なり。  玉砂の声はところどころ裏返って、 「私に何を喋らせようとしているんだ」 「僕からの電話、あれを犯人からのものだとあなたは勘違いした。そう、伊戸と北宮を殺した犯人からの電話だとあなたは思ったんじゃないですか?」 「ど、どこまで知ってるんだ……」 「人造人間の映画について」 「…………」  玉砂は口を開いて、言葉を出せず、空気を二度ほど噛《か》んだ。  白亀は顎を乗せていた手を外し、首を前に出して、 「井之頭池と善福寺池のベンチにマネキンを置いたのは、あなたですね、玉砂監督」  発音の練習のように、一言ずつはっきりと言った。  玉砂の視点が揺らいだ。肩がいかり、首が縮む。唇を震わせているが、喋ろうとはしなかった。  俺は白亀の掩護《えんご》射撃として、 「ワンワン! ワンワン!」  気が狂ったのではない。名犬ヘッセの真似である。陶器破壊の一件を玉砂に思い出させて、心理的な揺さぶりをかけたのだ。  作戦は功を奏し、玉砂はおののいた表情を見せる。  そこへ白亀がとどめの一撃。 「犯人への伝言だったんですね。あのマネキンによる再生死体のパロディは、殺害犯人へ宛てた密かなメッセージだった。そうでしょ、玉砂さん」  矢は的を射貫いたらしい。  玉砂はゆっくりと天井を仰ぎ、脱臼《だつきゆう》しそうなくらい大きく肩を落とした。 「まいったなあ」  落語のご隠居のような溜息声を洩《も》らした。実感がこもりすぎて、芝居がかって聞こえるくらいだった。同じトーンのまま、 「そこまで知ってたか……」  張り詰めていたものが玉砂の全身から抜けていく、そのシュルシュルシュルという空気漏れめいた音が聞こえてきそうだった。すっかり観念したのか、笑みさえ浮かべている。壊れた笑みだった。  残酷なくらい対照的に、白亀は涼しげな笑みをたたえている。さきほど俺に披露した推理を改めて語った。三つの池の畔の事件と三つの人造人間の映画の関連性、そして、第三の男として玉砂監督に着眼したこと。リハーサルを済ませただけあって立て板に水といった流麗な語り口、その水を時折|淀《よど》ませるのはビールのアルコール。  人差し指をスウッと目の間に立てて、 「そこから一つの仮説を立てることが出来たんです。まず、三宝寺池における死体再生の見立ては殺害犯人の仕業に違いないということです。三つの池のうちで最初のものだし、何と言っても本物の死体を部品にしているわけですから、そりゃ、殺害犯人が手を下したと見ていいんじゃないですか。それに、稲荷神社が存在した池は三宝寺池だけでした。  あの見立ては、『しのだづま』の死体再生を表現していると同時に、その裏に、『人造人間』の見立ても隠されていたのだと考えられます。表と裏の見立て、つまり、二重の見立てだった。  犯人はきっと『人造人間』映画にまつわることで何か怨恨《えんこん》があり、そのために、北宮と伊戸のバラバラ死体を使って、人造人間の見立てを作り上げたのだと思います。『しのだづま』はそれを隠すための方策。つまり、この見立ては犯人の恨みの声ともいえるでしょう。そして、この声に気付いた人間がいた」 「それが、私だと」  玉砂が口を挟んだ。 「そう。その通り。あなたは気付いたんだ。『人造人間』映画に関わることなのだ、と解釈した。あなたはあのシリーズの一本を監督した直接的な関係者だけに何か思い当たるものがあったんでしょう。それで、今回の殺人事件の全体像が知りたくなり、どこかの私立探偵を訪ねて探りを入れたけど、何も得ることはできなかった。マトモな探偵じゃなかったらしい」  白亀が皮肉めいた目を向けるので、俺はそれに応《こた》えて、 「ワンワン! ワンワン!」  いたってマトモであることを主張した。  白亀は無視して続ける。 「それで、玉砂さん、あなたは犯人に向けてメッセージを返した。井之頭池と善福寺池のベンチにマネキンで人造人間の見立てをこしらえてね。それがマスコミに報道されて、犯人に届く。そう、あの二件はあなたから犯人に宛てた返答だった、『おまえの気持ちは解った』『交渉に応じようじゃないか』といった意味のね。あるいは、『頼むから殺さないでくれ』と命|乞《ご》いも含まれていたのかも、どうです?」  白亀は口を固く結んで見せ、相手に喋るキッカケを与えた。  受けた玉砂は唇を歪《ゆが》めて、自嘲《じちよう》気味に笑うと、 「確かに、おっしゃる通り、マネキンを二つの池に仕掛けたのは私です。ただし」  一瞬、間をおいた。不服そうに表情を尖《とが》らせて、続ける。 「それは犯人に宛てた返答のメッセージですが、命乞いのつもりはありませんでした。むしろ、挑戦の意思表示です。『おまえの正体は解っている。だから話し合おう』という意味のね」  プライドの高い男だった。虚勢を張っているのは見え見えだが、それを突っついては血も涙もあるまい。  血も涙もある白亀は武士の情けで、 「なるほど。僕からの電話を、あなたは挑戦に応じてきた犯人からのものだと思ったわけだ。それで、僕の招待にこうして足を運んできてくれた。犯人と話し合うつもりで、ね」 「私はまんまと引っ掛かってしまったようですね。でも気が抜けてしまいましたよ。罠《わな》でよかったというべきか。こちらの方が危険は小さいから」  どこまでも虚勢を張り続ける男である。  白亀は言った。 「で、あなたが『犯人』だと目星をつけていた問題の人物というのは誰なんです?」  核心の問いだ。それと意識してか、玉砂はもったいをつける。ポケットからパイプを取り出し、ゆっくりと葉を詰めて、火を点《とも》す。紫煙が宙に溶ける、その行方を目でのんびりと追っていた。 「ワンワン! ワンワン!」  俺は急《せ》かしてやる。  玉砂は煙にむせると、かすれ声で語り始めた。 「二十年ほど前になりますか、その頃、〈大光映画〉では人造人間を題材にした『あやつり』シリーズの企画が進行していました。当時の日本映画界は斜陽とは言われながらも、今ほどは苦況ではなく、年間の興行成績にしても洋画を上回っていました。撮影所でも切れ目なく作品が作り続けられていて、今とは比べものにならないほどの賑《にぎ》わいがありましたよ。いろんな人間が出入りしてましてね、人のツテを頼りに、脚本とか企画をプロデューサーや監督のもとに持ち込んでくる連中がずいぶんといました。将来の映画人を夢見ていた若い奴らです。それでコネが出来て、助監督や製作進行係として雇われた奴もいました。大成して監督になったという例はまだ聞いてませんけどね。  そうした連中の中に、伊戸光一のとこへよく出入りしてた奴がいたんです。そいつは、伊戸が人造人間の脚本に取り組んでいるのを聞いて、アイデアを幾つか持ってきました。そのネタの一つが、西行法師に関する資料だったわけです」 「で、伊戸は脚本の中に西行の活躍するドラマを取り入れたんですね?」  もどかしそうに白亀が口を挟んだ。 「ええ、そして、そのことが後にトラブルとなりました。西行法師のアイデアを提供した問題の男の名前を、映画のスタッフ・タイトルの中に伊戸は入れなかったんです。そうした扱いに対し男は激怒して、伊戸のことを盗作者呼ばわりしたそうです。下手すると、マスコミの恰好《かつこう》の記事ネタになりかねません。基本的に伊戸の考え方としては、その男は脚本を書いたわけではなく、意見しただけなんだし、逆にこっちが只《ただ》で映画の勉強をさせてやったんだから、それで充分だ、というものでした。男が撮影所へ伊戸に談判に来るたびに、伊戸は逃げまどい、助監督の北宮に追い払う役を押しつけていたようです。でも、いつまでもそんなことを繰り返しているわけにはいきません、結局、騒ぎが大きくなるのを恐れたのと、わずらわしさから逃げるために金で解決することになったんです。企画に協力したことへの謝礼として、男にいくばくかの金が支払われました。もちろん、そんなスッタモンダがあって以来、問題の男は撮影所に姿を見せることはなくなりました」  昔話は終わったらしい。玉砂は改めてパイプを深々と味わう。  焦《じ》れを抑えていた白亀は、喉仏《のどぼとけ》を大きく上下させると、もっとも訊きたいことを訊いた。 「問題の男というのは誰だったんです?」  玉砂は煙の塊を吹き矢のように勢いよく天井に向けて吐くと、 「わかりません」  あっさり答えた。  あっけない答えに、テーブルの上を白亀の肘《ひじ》が滑り、体を前にのめらせた。  俺はコップに歯をぶつけた。  玉砂は居直ったように甲高い声で、 「ええ、申し訳ありませんが、本当にわかんないんです。当時、その男の顔は幾度か見たことはありますが、名前までは知りませんでした。ただ、伊戸のところへ出入りしている映画青年という程度の認識でした。さきほども言いましたように、当時はその手の連中が多くて珍しくもありませんでしたから。おまけに、もめるようになってから、伊戸はその状況をなるべく隠そうとしましたし、その話題に触れられることを極度に嫌がりましたから……。まあ、追い払う係を押しつけられた北宮君なんかは当然、名前を覚えていたでしょうけど」 「死人に口なしだ」白亀は表情を曇らせる。「で、北宮や伊戸を殺したのがその男だとあなたは推理したんだろうが、犯行の動機はどうなんですか? 二十年も前のトラブルの件で今になって犯人が二人を殺したのは何故なんですか? どういった推理なんです、玉砂さん」 「金です」  またあっさりと答える。  焦れったそうに白亀は下唇を突き出す。 「金とは?」 「今度はビデオです。二ヵ月前、例の『あやつり』三部作がビデオでリリースされたんです。それで、著作権関係の規約によれば、ビデオ化された場合、売り上げの*パーセントが原作者、脚本家、監督に支払われることになっているんです。これは大きいですよ。まあ、小説でいう印税みたいなもんでね」 「なるほど、問題の男はその金を要求してきた。二十年前に謝礼金をせしめたように。そういう推理ですね、玉砂さん」 「ええ。で、伊戸は犯人の要求を拒んだ。それを恨んで、犯人は伊戸と北宮を殺害した。既に二人を殺した犯人は危険な存在かもしれない。順番でいくと次は私が狙われるかもしれない……。というふうに私は考えたんです。それで、善福寺池と井之頭池のベンチに犯人への伝言を置いたというわけです」 「それで、僕からの呼び出しに応じてやってきたというわけだ」 「そういうこと」  言って、玉砂は深々とパイプを吸うが、火は消えていた。スースーと空気だけ通り抜ける音が虚しかった。  白亀は、背筋を伸ばして、姿勢を立て直すと、 「玉砂さん、それで、実際に問題の男が北宮さんや伊戸さんに接触してきた何か形跡はあったんですか」 「特にありません」  間をおかず答えた。  白亀は、またもや拍子抜けして、姿勢が崩れかかるのをこらえ、 「じゃ、あなたへ、その男から何か連絡らしきものがあったとか」 「あった、と思ったら、あなたでした」 「僕以外には?」 「何も」  玉砂は首を静かに横にふる。ほつれてきたロマンスグレイをソワソワといじりながら、 「どうやら、私の杞憂《きゆう》だったようですね。探偵さん、あなたとこうして話しているうちに頭の中が整理されたし、不安感が薄れてきましたよ。うん、なんだか今日はここに招かれて、結果よかったみたいですよ。ああ、なんだかすがすがしい。礼を言いますよ」  イタチの最後《さいご》っ屁《ぺ》かセミの小便かのように負け惜しみを無理やり言い放つと、玉砂は座布団から立ち上がった。 「お招きありがとう。ビールとおでん、珍しいものをごちそうさま」  白亀の手をとり、一方的に握手をした。  ステッキのような後ろ姿が急ぎ足で出口に向かおうとする。  俺はサヨナラの代わりに、吠《ほ》えてやった。 「ワンワン! ワンワン!」  その途端、玉砂は何かに躓《つまず》いて、たたらを踏んだ。前のめりに倒れかかるが、積み上げたビールケースを掴《つか》んで助かる。  しかし、その勢いで、自慢のロマンスグレイが跳ね上がり、頭からスッポリと抜け落ちてしまった。その鬘《かつら》は、おでん屋で見ると、巨大なシラタキを連想させた。 [#改ページ]   第4章 化かし      38  日曜日の朝を迎えたが、今日も休日になりそうもなかった。カーテンの隙間から表を見下ろすと、駐車場の車の陰にお客様がいらっしゃっていた。黒い毛糸帽、サングラス、マスク、例の素人の尾行者だった。アマチュアだけあって、マンションの一階出入口だけを見張っているらしく、この部屋の動きにはまったく気付いていなかった。  プロとしてちょっと尾行の稽古《けいこ》をつけてやるとしよう。俺はジャンパーをはおると、近所の散歩に出掛けた。日曜日なので、右手に子供、左手にコンビニの袋をぶらさげたお父さんたちの姿がずいぶんと目立つ。俺は商店のウインドウや車のバックミラーなどで後方をチェックしながらのんびりと足を運んだ。尾行者は気付かれているとは知らず、カルガモの子供のようにけなげに付いてきていた。  空は晴れているが陽光は薄く、日陰に入ると寒さが首筋や耳に沁《し》みた。  俺は人通りの少ない路地に踏み込み、急に足を早めた。角を曲がる。その角から二軒目に、日曜定休で閉まっている豆腐屋があり、俺は軒先の洗い場の蛇口をひねり、ホースを右手に構えた。  小走りで尾行者が角から姿を現わした。  発射! 俺はホースの先を指でつまんだ。弾《はじ》け出た奔流は氷の矢のように尾行者を直撃する。しぶきを散らして、標的は舞い踊りながら、アスファルトにのたうった。サングラスとマスクがずれ、毛糸帽が落ち、素顔が覗《のぞ》いた。  尾行者は、シナリオライターの織辺鈴代だった。酔いどれ九官鳥の飼い主である。今は自分の方こそ酔っ払いのように朝っぱらから路上に座り込んでいる。ただし、酒浸りならぬ水浸しの状態だ。コートもセーターもジーパンも水を吸って、鈴代の体にすがりつくように張りついている。  俺は蛇口を締めて、 「よっ、水もしたたるいい女」  鈴代は額に垂れた濡《ぬ》れ髪をかきあげると、べそをこらえた顔で怒鳴った。 「なによ! これが女性の扱い方!」 「あいにくと、女房もどきに二度、逃げられたような男だからね」 「あんたじゃ、逃げられて当然よ!」 「そう、女ってのは逃げる動物だ。こそこそと人の跡を追う動物じゃない」 「私は女じゃないってのね!」 「いかにも。そういうふうに扱ってやっただろ。どうでもいいけど、着替えなきゃ風邪引くぞ。さっ、うちに行こ」  俺は鈴代の薄いコートの袖《そで》を掴《つか》むと、引っ張り上げて立たせた。水滴がボタボタと路面を叩《たた》く。  鈴代は肘《ひじ》を回し、俺の手を振りほどくと、 「あんたのうちに行くですって?」 「あのな、さっきから言ってる通り、お前のことなんか女と思ってないの、俺は」  鈴代は唇を噛《か》んで、恨めしげな目で睨《にら》みつけるが、大きなクシャミ二つでその顔を崩して、情けない音をたてて鼻水をずりあげた。さすがに寒さには勝てないと観念すると、顎《あご》を震わせ、歯をガチガチ鳴らしながら、俺の跡をついてきた。  途中、俺はコンビニに寄り、女性用の下着を購入した。雑誌やら天然水やらと余計な物も買ってカムフラージュしたが、やはり、店員には不審に思われたようだ。その間、表で待っていた鈴代はとんださらし者だったらしい。大体、ずぶ濡れの女を連れた探偵は、平和な日曜日の風景の中であまりに異様だった。道行く人々は顔をしかめ、侮蔑《ぶべつ》の眼差しで大きく避けて通り、時には、指を差して驚嘆の声をあげる幼児の姿もあった。  部屋に到着すると、鈴代にシャワーを浴びさせた。その間に、俺は着替えを用意する。どれも不要になった古着であるが、ちゃんと洗濯は済ませてあるものだった。だが、レンジでチンするまでのサービスはしない。  鈴代は浴室から出ると、カーテンで仕切られた脱衣所で、俺の用意した毛布にくるまっていた。カーテンの隙間から覗かせた顔は血色が戻り、気の強そうな表情が蘇《よみがえ》っていた。きつめの口調で、 「ねえ、毛布のまま外に放り出すつもり。ホームレスだって何か着てるわよ」  俺は三メートルほど離れたダイニングの椅子に腰掛けていた。 「質問に答えてもらう。正しい答えだと景品が獲得できる」  鈴代は目を吊《つ》り上げ、鼻に皺《しわ》を寄せ、 「なによ! 景品って着替えの服のこと!」  脱衣所から飛び出そうとするが、毛布一枚きりであることを思い出したらしく、カーテンの隙間から引っ込む。  俺は声のボリュームをあげ、 「文句言える立場か。人を尾行しておいて。よし、まず、やさしい質問からだ。第一問、なんで、俺の跡をつけていたんだ?」  ちょっと間をおいて、鈴代はふてくされた顔で答える。 「そりゃ、取材のためよ。私立探偵の生態を調べさせてもらってたのよ」 「ふうん。じゃ、自宅まで取材できてよかったな。でも、それだけじゃないな。あと、捜査の進展具合も関心があったんだろ」  鈴代は居直るように、 「……そりゃ、そうよ。野次馬的興味が無かったと言えば嘘になるわ。それに、私はシナリオライターなんだから、人一倍に好奇心が強くなきゃいけないんだし……」  まあ、いいだろう。俺は、コンビニで買ったばかりの下着を放ってやった。鈴代は手を伸ばしてダイレクトキャッチ。俺も優しい男だ。  カーテンの向こう側、鈴代は毛布の中でモゾモゾとうごめき、全裸ではなくなったらしい。そして、俺のことを上目遣いに睨んでいた。恩知らずめが。  構わずに第二問。俺はアリバイを訊《たず》ねた。壇の死亡推定時刻、鈴代は自分の部屋にいたという。張井頼武と一緒だったようだ。  そんなとこだろう。景品は白地にエビス様の朗らかな笑顔がプリントされたTシャツ。近所の酒屋でもらった品だ。  鈴代はエビス様とはほど遠い仏頂面で景品を身にまとった。  はい、次の問題。 「思い出してもらいたいことがある。前に話してたよな。伊戸が黄色い表紙の古いシナリオを読んでいて、袋にしまう時にこう言ったんだろ、『こりゃ、とんでもないエルドラドだ』って」 「ああ、あの話ね。伊戸が青い鳥みたいな気持ち悪い笑い方をした時ね」 「青い鳥みたいな?」 「クックックックッ……って」 「あ、そう。その時に、伊戸は他に何か言ってなかったか? 君の記憶に引っ掛かっていること、何でもいい」  鈴代は目を振り子のように数回往復させてから、 「駄目よ。思い出そうとしても、あの笑い声が聞こえてくるだけ……、ホントに気持ち悪かったんだから、ああ、やだやだ……。生憎《あいにく》と、何も印象に残ってないわね」 「青い鳥が記憶をさらっちまったか」 「ええ、残ったのは……青いクリップくらいだっけ」  俺の頭の中を青い鳥がよぎった。すかさず記憶をたぐりよせる。……あった。 「青いクリップって……伊戸が持ってたのか?」 「うん、机の上の茶封筒の中から見えたよ。その茶封筒の上に、伊戸は笑いながら、例の黄色い台本を置いたの。バシッと叩きつけるようにね」 「その後、『とんでもないエルドラドだ』って言ったのか?」 「そうよ、バシッと台本を茶封筒の上に置いたそのタイミングで例のセリフって展開だったわね」 「その茶封筒に入っていた青いクリップは何か紙束を綴《と》じていたんだな?」 「そりゃ、クリップは綴じるためのもんよ。あれは原稿用紙の束。B5サイズだからペラだろうね、二百字詰めのことよ。あの厚さからして、そう、約二百二、三十枚ってとこ。ちょうど映画のシナリオの枚数よ」  鈴代は皮肉めいた笑みを浮かべた。原稿の枚数なんて当てて何になるの、と自分に向けた嘲笑《ちようしよう》のように見えた。  俺は、椅子を後ろに傾け、テーブルの上から紙包みを取り上げて、掌《てのひら》に中身をあけた。青いクリップ。 「君が見たのはこれ?」  近視らしい目を細めて、鈴代はカーテンの隙間から首を伸ばし、 「……だ、と思う」  しばらく目を凝らすと、二、三度うなずいて、 「うん、間違いない。大きいクリップだなって印象があったし、ほら、ツマミの部分が長いのが特徴的で、全体の形が飛んでる鳥に似ている、って思ったの覚えてるから」 「青い鳥か」 「ステンレスの? どうせ、私の青い鳥なんてこんなもんだわな、トホホホ……」 「ほい、青い鳥だ」  そう言って、俺は青いセーターを投げてやった。両袖が宙で広がり、本当に鳥のように飛んだ。  鈴代は、毛布の下で着ながら、このクリップが何か手掛かりなのか、と質問してきた。やはりシナリオライター、確かに好奇心は強いらしい。  せっかくの問いだが、俺は適当な答えで誤魔化しておいた。  この青いクリップは北宮季穂から借りたもの。亡き北宮兼彦の愛用品だった。  鈴代が突っ込んでこないうちに、俺はクイズを再開する。 「君は不幸の手紙を受け取らなかったか?」 「不幸の手紙?」 「うん、アルファベットの『I』『K』『U』の三文字が記されただけのものだけど」 「ああ、千佳子さん、伊戸の奥様の千佳子さんとこに来たっていう奇妙な手紙のことでしょ」 「そう。君がなんで知ってんだ?」 「〈ジャン・カンパニー〉の加古川さんに聞いたのよ」 「いつ?」 「シノプシスを届けた時だから、十二月十五日の午前十時頃ね。近所の喫茶店でモーニング・サービスおごってもらっちゃった。そういえば、壇と野杉からは一度もご馳走《ちそう》してもらったことないな」 「手紙のことは他の人からは聞いてない?」 「うん、その時、加古川さんに聞いたきり」 「で、君んとこには不幸の手紙は来た?」 「残念ながら、幸せの青い鳥と同様、私のとこには来てくれなかったわ」 「君は不幸にも見放されてんのか」  鈴代はガチョウのように唇を尖《とが》らせると、けだるい口調で、 「で、千佳子さん以外にも誰か不幸の手紙受け取った人いるの?」 「いるんだな、不幸せもんが。大高夫人と北宮季穂さん。どちらも未亡人だ」 「じゃ、不幸せもんとは限らないじゃない」  女でなきゃ、こういう発想は出てこない。  つい、返答につまったので、俺は靴下を投げる。コンビニでパンストを買おうか迷ったが、結局、断念したのだった。  鈴代は不服そうに、 「先に、ジーパン、投げろよな」 「幸せの青いズボンは後で」  俺は舌を出した。  鈴代は肩をすくめる。毛布の下から足先を出して、靴下をはめながら言った。 「それにしても、誰が千佳子さんちのポストに不幸の手紙を入れたんだろう」  俺は答えを知っている。      39  日曜の昼下がりというのに、白亀は〈紅白探偵社〉のオフィスにいた。他には誰も見当たらない。奥のデスクで一人、書類の山を積み上げ、しきりに電卓と格闘している。書類は請求書の束だった。  言い換えよう。白亀は日曜だからこそ出社している。ウィークデイに暇な時間を作るためだ。昔からそうだった。普段の日、みんなが仕事に忙殺されている真っ只中で、この男はひとりだけ、ソファで昼寝をしたり、ヘアヌード写真集を熟読したり、紙相撲に興じたりしてみせるのだった。人の神経を逆撫《さかな》でするのが楽しいらしい。イライラしている社員たちの反応を見るのが趣味なのだ。実に迷惑な社長である。わざわざそうした時間を作るために、日曜出勤して細かい仕事を片付けるのだった。  どうも、日曜日の使い道を誤っている人間が俺の周囲には多い。トリュフォーの遺作『日曜日が待遠しい!』のビデオでもクリスマスにプレゼントしてやろうか。いや、フランケンハイマーの『ブラック・サンデー』の方がふさわしいかもしれない。 「華麗に泳ぐ白鳥は、水面下では懸命に足を動かしているのだ」  白亀の開口一番がこれだった。自分の日曜出勤を喩《たと》えているつもりらしい。好きなことを言えるのは今のうちだ。本日の主役はあくまでも俺なのだから。  手土産の肉まんを二人とも半分ほど齧《かじ》ったところで、俺は一撃を見舞ってやった。 「不幸の手紙の差出し人は織辺鈴代だ」  白亀の喉仏《のどぼとけ》が大きく波打った。一瞬、白目がせり上がった。肉まんの固まりが詰まりかかったらしい。顎《あご》を引いて、 「なんで解ったんだ? 鈴代だと」  俺は、さっき鈴代とクイズごっこをしたことを話した。水鉄砲の件は省いて。 「うかつにも、鈴代はこういう言い方をしたんだ、『誰が千佳子さんちのポストに手紙を入れたんだろう?』とな。それじゃ、ちょいとおかしいんだよ。千佳子が手紙を受け取ったという情報を、鈴代は加古川から知らされている。〈ジャン・カンパニー〉の加古川からだ。十二月十五日の午前十時頃にな。それ以後、不幸の手紙について鈴代は誰からも情報を得ていない。俺も、同じ十二月十五日の昼頃、やはり、加古川と会って話した際に、千佳子が妙な手紙を受け取ったことを教えられた。加古川は、『手紙が郵送された』という言い方をしていた。あいつはそう思い込んでいたんだな、郵送だと」 「実際は?」 「封筒には切手も消印もない。誰かが直接、千佳子のポストに入れたんだ。そうなると、おかしいよ。郵送だと思い込んでいた加古川から情報を入手したはずなのに、鈴代は『誰が千佳子さんちのポストに入れたんだろう?』と発言している。つまり、郵送ではなかったことを知っていたんだ。不自然だよ。なぜ知ってたんだ。それは、あの手紙を仕掛けたのが、鈴代だったからさ」  白亀は、パチンと指を鳴らし、悔しそうに苦笑いを浮かべる。 「鈴代本人も認めたんだな」 「白状したよ」  景品のジーパンが効いたのだ。その件については白亀に報告しない。 「鈴代は白状したか。そうだろうな。君が日曜日にわざわざ僕を捕まえて自慢するくらいだからな」 「日曜の使い方についてあんたに言われたかないよ」 「なんだと。君は、黒澤明の『素晴らしき日曜日』でも観た方がいいな」 「あんたこそ、『シベールの日曜日』の真似事だけはしないように」 「僕にロリコンの趣味はないよ。君こそ、『日曜日は別れの時』みたいな関係を僕に求めるなよ」 「こっちのセリフだ」俺は身震いして、「ええっとな、鈴代に話を戻すぞ。千佳子と絹塚美雪の関係、二人がかつて同じ時期に女優の道を歩き始めたことや、脇役で共演したことなんかだ。それらについて、鈴代は愛人の伊戸光一から聞いたらしい」 「伊戸の身辺で、最近、絹塚美雪のことが話題になっていたからな」 「そして、あんたの仮説と同じ方向へと、鈴代もまた推理を進めたんだ。伊戸、北宮、壇の三人の死体はそれぞれアルファベットの『Y』『M』『I』を表わしているのだ、と」 「そして、それらは『MIYUKI』、絹塚美雪の名の一部である、と。つまり、殺害犯人は死体に『美雪』の名を織り込もうとしている、という推理だ。たいしたもんじゃないか、鈴代ってコは、若いのにそこまで洞察力がはたらくとは」  白亀は、間接的に自分の推理を自賛している。しかし、意地の悪い考え方をすれば、白亀の推理は、織辺鈴代という二十代の娘ッコなみのものともいえる。  が、俺はそうツッこむのは我慢して、解説を続ける。 「鈴代は、そうした推理から、千佳子が殺害犯人という可能性に思い当たった。千佳子と絹塚美雪がかつて女優仲間だったことに着眼したんだろうな。そして、鈴代は千佳子を試してみることにした」 「その意図の裏には、千佳子を窮地に追い詰めてやろうなんて気があったのかもな。鈴代にとって最も鬱陶《うつとう》しい存在、愛人だった伊戸の奥様なんだから」 「ああ、相手がどんな反応するか楽しみにしてたらしいよ、鈴代は」 「そこまで白状したか。腹くくって吐いたもんだな」 「ジーパンの効き目……」 「なんだって?」 「いや、こっちのこと……、ええっと、鈴代は、『I』『K』『U』と手紙に記して、千佳子の郵便受けに入れた。そして、時折、無言電話をかけて反応をうかがったらしい。しかし、どうやら手紙の意図は理解されなかったようだ。おまけに、千佳子は平気で手紙を他人に見せている」 「そうなると、千佳子と、『Y』『M』『I』の仮説とは無関係と判断していいだろう」 「鈴代の推理はお門違いだったわけだ」  俺が言ったのを、白亀はさえぎって、 「千佳子に関する推理はな。死体のアルファベットそのものについてはまた別の推理だ。可能性は充分にある」  こだわりに生きること、伊達《だて》男の性《さが》である。顎を引き、レールのようなまっすぐな視線を突き付けてくる。  ヨシヨシとなだめるように、俺は大きく頷《うなず》いてみせてから、話を次に進める。いろいろと気を遣うのだ。 「そう。千佳子に関する推理はお門違いだった。そこで鈴代は保身のために事後処理を講じる。自分の仕掛けた目論みがバレないように、千佳子以外の女たちにもあの手紙を送りつけたんだ。オババと北宮季穂へ、だ。そうすることで、千佳子を狙っていたことをボカしたのさ。あと、俺が千佳子と何度か接していたので、俺を尾行してみる気になったんだろう」 「ところがそれが逆に、飛んで火にいるナントカになってしまった」 「火というより水」 「水?」  白亀が怪訝《けげん》な顔をする。 「いや、こっちのこと」  俺は言葉を濁すと、次なる話題へ移る。 「もう一つ、静聴ねがいたい」  白亀は恨めし気な目を一瞬した。セブンスターをくわえて、ゆっくりとくゆらす。煙幕の向こうの声が、 「ネタ、ためたね」 「今の回文?」 「……惜しい、『た』が抜けてる、って、おい、いいから早く聞かせろ、タヌキ寝入りされたいか」  そのまま寝入ってしまわれてはかなわない。勤め人にとって日曜日の陽はまぶしすぎる。だから、一日中、寝てるやつが多い。  眠気覚ましの話題を提供してやろうじゃないか。 「伊戸光一が『こりゃ、とんでもないエルドラドだ』って言ったのは覚えてるよな」 「シナリオ読んでだろ。大高入道の幻のシナリオ、確か『おろろ骨色頭巾《ほねいろずきん》』だったな」 「そう。そして新たに注目したいこと。もう一冊の別のシナリオがその場に存在していたんだ。北宮が書いていた原稿だ」  青いクリップで綴《と》じた原稿について経緯を説明してやってから、 「伊戸はその原稿の入っている封筒に、『おろろ骨色頭巾』のシナリオを叩《たた》きつけて笑ったらしい。クックックッて薄気味悪い笑いだったって、鈴代はさんざんボヤいていたよ。そして、笑いながら伊戸は言ったんだ、『とんでもないエルドラド』ってセリフをな」 「じゃ、『エルドラド』のセリフは二つのシナリオに向けられていたということか」 「そうなんだ。で、『エルドラド』の意味なんだが、この場合、ジョン・ウェインの西部劇という線がもっとも妥当だと考えられる」 「ほらみろ、当たりだ。前に言ったろ」 「当たりと推理は違う」 「いいから、続けろ」 「ジョン・ウェインとハワード・ホークス監督の名コンビによるウエスタン三部作、『リオ・ブラボー』『リオ・ロボ』『エル・ドラド』なんだけど、この三作品、全てハナシは同じだと解釈する評論があるんだ。映画界ではけっこう有名らしい」 「つまり、後の二作品『リオ・ロボ』『エル・ドラド』は、『リオ・ブラボー』のリメイクってこと?」  俺は〈光宝映画〉宣伝部のニュースソースから入手した情報を聞かせた。  白亀は小指ほどの長い灰をはたき落とし、 「じゃ、伊戸が『エルドラド』って言った意味は、問題の二つの脚本が同じ内容だということか」 「ああ、入道の『おろろ骨色頭巾』と、北宮のシナリオとは同じ中身だってことだ」 「ちょっと待てよ」  白亀は眉間《みけん》の皺《しわ》をつまみ、餅《もち》のように延ばす。もげそうなくらい引っ張ってから指を離すと、 「北宮が書いていたシナリオっていうのは、〈ジャン・カンパニー〉の加古川のとこで映画化するつもりだったものだろ」 「そうだけど」 「あれ、内容は『おろろ骨色頭巾』とは似ても似つかないものじゃないのか。『おろろ』は怪談だぞ。だけど、北宮が書いていたシナリオは確かボートレースの映画だと言ってなかったか? ほら、北宮の女房から聞いたんだろう。原稿を伊戸に見せた時に、北宮は内容に触れて『ボートレースの映画だ』と言ってたらしいじゃないか」  その通り。北宮季穂が二人の会話を漏れ聞いた、その一節である。しかし、 「正確にはそういう表現じゃなかったんだ。季穂に確認したら、こういう言い方だったそうだ、『競艇映画じゃ』、って」 「競艇映画だ、とね」 「『だ』ではなくって、『じゃ』というのがミソなんだ。北宮はちょっとふざけた言い方をしたのさ。自分の書いた作品について語るのが気恥ずかしかったんだろう、その照れ隠しに冗談めいた喋《しやべ》り方をしたのさ。岡山県の方言を使って」 「うん、『ナントカじゃ』という言い方を確かに岡山県の人間はしているよ。だけど、なんで、この場合、北宮は岡山県なんだ。奴の出身地なのか?」 「いや、そうじゃない。思い出してもらいたいのは、『おろろ骨色頭巾』の舞台」 「あれは確か、備前の国、なるほど、今の岡山県だな……」 「北宮のシナリオも舞台はやはり岡山県だったはずなんだ。『おろろ骨色頭巾』と同じ内容なんだから」 「待てよ。『競艇』はどうなるんだ?」 「それも正確には違うんだ。季穂さんの耳にはそう聞こえたんだろうけど、本当は『きょうてい』ではなくって、『きょうてえ』だったんだよ」 「『い』と『え』の違い。『きょうてい』ではなく、『きょうてえ』だと?」 「ああ、『きょうてえ』は岡山弁で『恐い』という意味なんだよ。つまり、北宮は自分のシナリオを指して、『恐い映画だ』と言ったんだよ。岡山が舞台というのに引っ掛けて、照れ隠しに『きょうてえ映画じゃ』という喋り方をしたというわけだ。北宮の原稿はやはり怪談ものだよ」  白亀はフィルターだけになったセブンスターをいったん口にし、渋面を作って、すぐさま灰皿に投げやると、新たな一本に火を点《とも》した。長い長い一服の後、 「伊戸は『エルドラド』だと言って、二つのシナリオは内容が同じだと指摘した。つまり入道の『おろろ骨色頭巾』を北宮が盗作したということなんだな」 「そういうふうに伊戸は解釈した。だけど、実際は逆だったんじゃないかな」 「入道が盗作した? しかし、入道のシナリオの方が何年も前に完成してるぞ。北宮が執筆してたのはつい最近じゃないか」 「八年前に北宮は、映画の企画として考案したオリジナルの怪談バナシを妻の季穂に語って聞かせている。そして入道にも、な。入道は北宮に『監督になった時のために、このネタは大切に暖めておけ』とアドバイスしたらしい」 「その北宮の怪談と『おろろ骨色頭巾』がそっくりのストーリーだった。そして、北宮が語った怪談の方が先だったんだな。『おろろ骨色頭巾』のシナリオが書かれるよりも」 「そういうことだ。それを裏付けるようなエピソードがある。五年前、入道がシナリオを印刷製本に出した時のことなんだが、不自然な行動が目立つんだ。普段は、入道が使うのは〈駒山印刷〉という会社なんだけど、『おろろ骨色頭巾』の場合に限って〈成陽印刷〉に発注しているんだ。それも、自らが印刷屋に電話をして仕事を依頼している。そして、原稿を渡すのも、印刷されたシナリオの届け先も例の経堂の仕事場で、一人でいる時に自らが応対していたらしい」 「まるで他の人間に知られたくなかったみたいじゃないか」 「そうなんだ。そして、さらにおかしいのは時期のこと。〈成陽印刷〉の記録に明記されているんだが、『おろろ骨色頭巾』のシナリオが印刷製本されたのは昭和六十二年だ。それで、思い出してほしいのは、女優・絹塚美雪が事故死した時期だよ。あれは」  白亀は、苛立《いらだ》たしげに白髪まじりのもみあげを爪《つめ》でこすりながら、俺のトークを奪うようにして、 「あれは確か……昭和五十四年だ」 「そう、『おろろ骨色頭巾』のシナリオが製本されるおよそ八年前だ」 「なに……そりゃおかしい」  白亀はメンコのように手のひらをテーブルに叩きつけた。少し痛かったのか、もみほぐす。  俺も痛くない程度にひと叩きし、 「おかしいんだよ。シナリオの配役表のところに入道は手書きで絹塚美雪の名を記している。とっくに死んだ女優の名をね。しかも、シナリオの表紙には印刷された日付をいれていない。いれるな、と入道から指示された、そう印刷屋の主人は言ってる」 「入道はシナリオが作られた時期を曖昧《あいまい》にしたかったんだ」 「こうした一連の不審な行動は、入道が盗作を謀ったことを示している。北宮が語ったオリジナルの怪談バナシを、入道は無断でシナリオ化し、自分のものにしてしまったのさ」 「後に、北宮がいよいよシナリオとして書き下ろしても、先に書かれた入道のシナリオの存在が知られれば、逆に北宮の方が盗作したと世間に思われる」 「そう、未来に書かれるであろうシナリオを入道はあらかじめ盗作しておいた。そして、盗作の被害者と加害者の役を逆転させたんだよ」 「逆盗作か」  絞りだすように白亀は言い、歯と歯を擦り合わせた。  俺は解説を付け加える。 「ほら、どうりで北宮は『おろろ骨色頭巾』が発見された時にタイトルを聞いて驚いたわけだよ。自分が長年暖めていた怪談のネタが使われているんだものな、『妖怪《ようかい》おろろ髪』というネタが」 「どうやら、お前の読みが当たってたみたいだな。入道の仕掛けた時限爆弾。予告編フィルムとスクラップブックで、伊戸光一が絹塚美雪の死に関わっていることを告発した。それと同じように、入道は北宮にも罠《わな》を仕掛けたんだ」 「北宮を盗作者に仕立てた。そのからくりはシナリオだった」 「それもやはり、絹塚美雪の名でシナリオに注意が向けられるようにしてある。美雪を主演に想定した幻のシナリオという設定で」 「そして、絹塚美雪がクローズアップされるようになった引き金はあの言葉だ、入道が往生際に呟《つぶや》いた『ハモノハラ』」 「その謎を追わせること自体が入道の謀略だったというわけか。そこから既に罠は稼動してたんだ」  白亀は下唇に歯を立てると、栄養失調の仁王のような面持ちで、しばらく宙を睨《にら》んでいた。そして、うっすらと歯形をつけて口を開く。 「それにしても、伊戸と違って北宮には罪らしきものは見当たらない。盗作の汚名を着せられたまったくの被害者じゃないか。明らかに入道の犯意にさらされた犠牲者だよ。いったい入道はどうして?」 「純粋な悪意。それが動機かもしれない」  言って、俺は目を瞑《つぶ》る。真っ暗な影が立ちはだかっていた。見上げても見上げても、その影は伸び上がり、広がっていく。まるで、妖怪ミコシ入道のように。  やがて、すべてをおおう闇と化していた。闇の天には笑い声がとどろいている。それはまだ聞いたことのない大高入道の声だった。      40  銚子沖であがったアンコウの腹から、壇活樹の左手首が見つかった。ほとんど骨だけだったようだ。料理屋で吊《つる》し切りにした際に転がり出てきて、さばいていた当の板前も驚いて、危うく自分の手首を包丁で切りそうになったらしい。アンコウという魚はたいへんな悪食《あくじき》で、時には小さなカモメなんかを飲み込んでいることもある。しかし、人間の手首というのは聞いたことがない。板前も同じことを言ってたらしい。  壇だと判明したのは、薬指の骨に引っ掛かっていた指輪による。未亡人が確認した。十二月十四日に、俺が見付けた壇の死体は、両手両足が切断され、持ち去られていた。その一部である手首がおよそ一週間のあいだに、渋谷のバーから銚子沖のアンコウの腹へと旅をしたのだ。他の切断部分も似たようなコースを辿《たど》っているのだろうか。ならば、アンコウの腹の中はもう勘弁願いたい。せっかくのアンコウ鍋《なべ》の季節なのだ。毎年、どれだけ楽しみにしているか、死体は解っているのだろうか。解っているわけないよな。珍しく俺は真剣に怒っている。  この話を聞いたのは、依頼人のオババからであった。  月曜の朝、オババは庭の手入れに励んでいた。冬を越す木々に鋏《はさみ》を入れているのだ。空は紗幕《しやまく》をひいたような薄曇りで、低かった。霜の崩れた地面が足元にまとわりつく。深々と息を吸うと鼻の奥がツンと痛い。  オババは青いナイロン地のトレーニングウェアでしっかり体を包んでいた。随分とダブダブなので、しぼんだアドバルーンに顔が生えたような異様な姿だった。柄の長い植木鋏を器用にあやつっている。葉の落ちたカラタチから余分の枝を切って形を整えていた。  バチッ……カサッ。  枝が断たれ……土に落下する音。乾いた空気によく響いた。  俺は大高入道について語っていた。予告編フィルムによる伊戸への制裁、シナリオの逆盗作によって仕掛けた北宮への罠。亡夫の残酷な企みを聞かされるのはオババにとって辛いことだろう。話している俺もまた残酷であるが、入道ほどではないという妙な安心感があった。話さないことには調査は先に進まないのだ、という強気の自己弁護もあった。気持ちの鎧《よろい》である。  どんな鎧があるのか、オババの方は相変わらずおぼろ桜のようにホンワカとした表情をしている。  バチッ……カサッ。  黙々と鋏を動かしていた。かすかに笑みさえ浮かべている。  俺はきいた。 「なんででしょうか? なんで、大高監督はこんなことをしたんでしょうか?」  オババはカラタチのてっぺんに目を向けたまま、首をゆっくりと傾け、 「さあ、なんででしょう」  他人事《ひとごと》のように答えた。 「まったくの悪意としか思えませんよ」  挑発的に言い、オババの反応をうかがう。  バチッ……カサッ。  鋏さばきに乱れはない。枝振りが気に入ったのか頬をゆるめていた。  俺は一方的に話を続けた。 「そう、悪意としか思えない。それも墨のように真っ黒な純粋な悪意。  きっと、大高入道は病に冒されて以来、自分の死について考えを巡らせていたんでしょう。そして、自分の死を、一人の映像作家の死として捉えた時に、どうしても、周囲にいる他の映像作家たちとの位置関係を意識せずにはいられなくなった。おそらく自分の方が先に死ぬだろう。自分が世を去っても彼らは創作活動を続けている。その成果によっては自分の作家価値は変貌《へんぼう》し、下落する恐れさえもある。なのに、自分は骨と化して土の中に埋もれ、何も創造できないまま、うずくまっているしかない。入道は歯軋《はぎし》りするような思いを覚えたんでしょう。自分の死後にも、他の才能が活動を続けていることが我慢ならなかった。実に理不尽で独善的な考え方をする男だよな。  入道が意識していた他の才能というのが伊戸であり、北宮だった。彼らの才能を高く評価し、そして、恐れていたんだよ」  俺はいったん話を切った。  オババの横顔は小さく何度も頷《うなず》いていた。  宅の方から風に乗って甘い匂いが漂っていた。小豆の匂い。ぜんざいか汁粉でも作っているのだろう。俺の鼻は栗の香りを探していた。栗ぜんざいが食いたい。期待は空振りのようだった。  つかのまの静けさの中で雀の声がよく響いた。  俺は小豆の甘い香りをいっぱいに吸い込んでから、 「入道は自分の死後、伊戸や北宮が映画を作ることに嫉妬《しつと》と恐怖をいだいた。どうしようも出来ないジレンマの中で、入道は悶々《もんもん》と苦悩に身をよじっていた。そうした歪《ゆが》んだ憤りの底から沸き上がってきたのが、二人へ制裁をくわえるという非道な計略だった。実に身勝手で理不尽な企みだ。感情だけに突き動かされた幼児的な意志だよ。それでいて、巧妙な罠《わな》を仕掛けた処刑台のような計略。  ことに北宮への仕打ちは残虐すぎる。長い間、助監督として入道の作品をサポートし、あれだけ個人的にも仕えてきたのに……。入道の目は北宮の才能を見抜いていた。同時に恐れた。以前にも、北宮がテレビドラマを演出し、高く評価された時も、入道は盗作の噂を流したフシがある。そう、入道はずっと恐れていたのさ。師匠を凌駕《りようが》する弟子の幻影に怯《おび》えていたんだ。出藍《しゆつらん》の誉れを許すことができなかった。そして、制裁の罠を仕掛けたんだ、最も残酷な方法でね。北宮が大切に暖めていた企画をシナリオとして発表すれば、盗作問題が起こるような逆盗作の仕掛け。北宮にとっては二度目の盗作問題、ダメージは大きいはずだ。しかも、入道のシナリオから盗んだということで、師匠への背信という構図も浮かびあがる。道義を欠いた、唾棄《だき》すべき行為、そんなイメージがつきまとう。監督への道どころか、この世界で生きていくための信用さえも失いかねない。  残酷だよ。入道のやった事は、癇癪《かんしやく》を起こしてオモチャを破壊する子供と変わらないじゃないか。そんな幼稚な感情につき動かされながらも、狡知《こうち》をめぐらせて罠を仕掛ける。まるで、頭脳だけが肥大化した怪物の子供だよ」  オババは植木鋏を降ろすと、 「入道さんらしい行為ですね」  いつもののどかな口調で言ってのけた。  カラタチの木を離れ、数歩移動し、サザンカの前で立ち止まった。寒さに抗《あらが》うように、なんだか頑《かたく》なに咲いている白い花だった。  俺はオババの言葉を受けて、 「らしい行為は他にもありましたね。小説の映画化権を押さえて、他の監督に渡さなかった件とか。入道自身は映画化する気はまったく無かったのにね。それとか、俳優への出演交渉に横槍《よこやり》を入れて、別の映画に出演させてしまった話なんかも業界人から聞いている」 「ずっとお山の大将でいたかったんですよ、ヤンチャ坊主そのもののお人でしたから」 「ヤンチャで他人の人生を遊ばれちゃたまらないよ」  幼児のような気性と戦略家のような狡知、これらをスキンヘッドの真っ赤な巨体の中にくるみこんだ銀幕界の魔人、それが大高誠二監督、入道と呼ばれた男だった。  オババはサザンカの葉に鋏を入れながら、 「夢は一人だけ見るものと思ってたんでしょうね、あの人は。他人の夢は自分の夢を侵す存在、悪夢としか捉えていなかった。だからその悪夢を破壊してきたんです」 「獏《ばく》のような男。それも他人の夢を貪《むさぼ》り食う狂暴な獏、そんな男だった」 「ええ、そんな男だったんです。その通りなんです。よく知っております。紅門《こうもん》サマの推理は間違っておりません。聞かせていただいたお話どれも実にあの人らしい」  オババは顔をまっすぐ俺に向けて言った。すがすがしいくらいの曇りない表情だった。  俺は言葉を探した。  見つからなかった。探偵だからまた推理でも語るしかないだろう。 「ご主人が亡くなる間際に残した『ハモノハラ』という言葉、それが時限装置のスイッチだった。その言葉の謎を追えば、絹塚美雪にやがて行き当たり、罠が稼動を始める。しかし、それは絶対にそうなるとは限らないことだった。誰もダイイングメッセージに関心を寄せないかもしれないし、あるいは、まったく見当違いの方向へと謎解きを進めるかもしれない。必然ではなく蓋然《がいぜん》の仕掛けだった」 「運に託したんですね」 「すべてを自分が背負うには重すぎたんだよな。それで、ある線から向こうは運命の領域とした。罪の意識を減らすためにね。天に責任を押しつけたというわけだよ」 「運命のせいにしたかったんでしょう。そんな臆病《おくびよう》なところ、あの人らしいですわ」  牧歌的なポーカーフェイスとでもいうのだろうか、昔を懐かしんでいるような表情は崩れることがなかった。  なんだかウンザリしてきたので、俺は気分転換に話題を変える。 「まだ、『ハモノハラ』という言葉は謎のままだけど、何か新たに気が付いたことはありませんか? それに、なんで、絹塚美雪という女優がそのキイワードに使われたんでしょう、心当たりありません?」  ほとんど間を置かず、オババは首を横に振った。  申し訳ないというつもりらしい、 「あ、映画でもご覧になりません? チケットさしあげましょう」  まったく違う話を展開する。俺の返事を聞かず、植木鋏をサザンカの根元に置いて、玄関へ小走りに向かった。  女と老人は気紛れが許される。そして、女と老人は気紛れをよそおえる。 「指定席ですよ」  戻ってきたオババは一通の封筒をくれた。中には映画の完成披露試写会の招待状が入っていた。タイトルは『占いの流れ星』。隅には、ちゃんと指定席の番号が記されていた。 「これ、観たかったんだよなあ」  自虐的なセリフ。 「それは嬉《うれ》しいですわ。主人が可愛がっていたスタッフが参加しているんですけど、どうも私にはこういう映画は……。この試写状は壇さんが送ってくださったんです。もちろん亡くなる前でしょうけど」  そりゃそうだろう。速達郵便で消印の日付は十二月十三日、ということは、壇が殺されたその当日である。  封筒の裏面には壇活樹の名がペンで記されている。自筆らしい。オババがそう言った。名前の脇に、〈ジャン・カンパニー〉の住所と電話番号の入った社印スタンプが押されていた。強く押し過ぎたのか、スタンプの青インクが中の試写状にまで染みて、文字の一部が写っていた。  ……頭の中で鳴り響く鐘があった。その音色は繰り返され、あるリズムの形を作っていく。大いなる手掛かり……  ……音叉《おんさ》のように鐘はまた別の鐘を共鳴させた。これまで頭の隅に引っ掛かっていた小さな鈴のような音が鐘の響きへと変貌《へんぼう》し、一つの曲へと形作られてゆく。解決への前奏曲……  あの鐘を鳴らすのは俺、だ。 「先月の初め、奥多摩の〈山の荘〉へ行きましたよね。北宮夫妻と、加古川さんと千佳子さんらと一緒に」  オババは一瞬、鳩のようにキョトンとし、 「ええ、その話をしましたけど、よく覚えてましたね、やっぱり、探偵さんだ」 「どういたしまして。その時に湖畔のロッジへ行きましたよね」 「ええ、ええ。よく覚えてらっしゃること」 「探偵ですから。母の腹の中にいた時のことも覚えているくらいです。嘘です。  で、ロッジの椅子やテーブルの修理をさせたんですよね、加古川さんに。その時に使った大工道具を、〈山の荘〉に持ち帰って、物置にしまったのは誰なんですか?」 「おかしなこと聞くんですね。やっぱり、探偵さん。ええっと、質問の答えですけど、それは私ですわ。片付けくらいはやらないと、ね。ロッジで金槌《かなづち》や釘抜《くぎぬ》きを用具袋にしまって、北宮さんの車のトランクに積んだのも私だし、〈山の荘〉に着いて、その袋を物置まで運んで片付けたのも私ですよ。これで、よろしいかしら?」 「ええ、たいへん結構。確認するけど、ロッジへ持っていったのは、道具すべてが詰まった大工道具箱ではなく、その中の麻の用具袋の方だったんですね?」 「ええ、そうですけど。あの箱、大きいし、金属製で重いんです。麻袋の中の道具だけで充分に事は足りますし」  訊《き》きたいことは訊いた。次なる鐘の音を追うために、俺は話を切り上げ、オババにいとまを告げた。気紛れが許されるもう一つの人種がある。それは名探偵。  オババに呼び止められた。  残念だが、汁粉もぜんざいも遠慮しておこう。急いでいるのだ。栗ぜんざいなら迷ったところだが。  その件ではなかった。  オババが差し出しているのは、一本の小さな枝だった。玄関の近くにポツンと立っている樹を指して、 「西洋ヒイラギ、いわゆるホリーの樹。もうすぐクリスマスですから」  なるほど、のこぎりのような葉と赤い実、よくケーキに飾ってあるやつだ。そして、入道の墓前に供えられてあった枝も、〈宇楽〉の入り口脇の鉢植えも、同じくホリーの樹だった。  わざわざ切り落としてくれたものなので、やむなく受け取り、胸ポケットにさした。  オババは目を細めて微笑み、 「このホリーの樹は主人が植えたものなんです」 「入道が」 「ええ。映画の都、ハリウッドはホリー・ウッド、ホリーの樹が由来なんですよ」  潜り戸から表に出たところで、また呼び止められた。今度はチーババの方だった。箒《ほうき》を持っている。通りを掃いていたらしい。駅前の署名運動員のようにツツツーと寄ってくるなり、 「最近、母さん、なんか変なのよ」  前からだろう。そう返したいのを堪《こら》えて、黙って先を促した。 「こないだなんか、銭湯へ連れてけ、って」 「銭湯というのは共同浴場の?」 「そう、番台で料金払う、あの銭湯よ」 「行ったの?」 「しょうがないから付き合ったわよ」 「富士山見た?」 「ええ、見ましたとも。ちゃんとフルーツ牛乳も飲んだわよ」 「成城のこんな大邸宅の人間が行くと、なんか嫌味だよな」 「あんたに言われなくったって、そう思ったわよ」 「でも、なんで銭湯になんか行きたがったんだ」 「それが解らないから、変だって言ってんのよ。他にも、突然、八百屋へ買物に行ったりするんだから。ふだんは買物なんて全部、私まかせなのに。あと、それから、気味悪かったのは、上野動物園に出掛けたこと……」 「八百屋はともかくとして、動物園というのは……」  チーババはねじこむような目付きで、 「言っとくけど、老人ボケじゃないからね」  安直に考えていた答えを先回りされたうえに封じられた。 「ちょっと気にかけててよ。探偵でしょ。依頼主への誠意ってやつよ」 「ああ。今度は楢山《ならやま》に行かれちゃかなわないからね、ギャラもらう前に」  つい言ってしまう、俺の出来心。  チーババは箒の柄の先っぽをアスファルトに叩《たた》きつけた。コツーン、というその音が乾いた寒空に響きわたった。      41  成城の駅から、〈光宝映画〉の友沢に電話したが、不在だった。風邪で休んでいるらしい。きっと、俺の忠告を無視し、葛根湯《かつこんとう》を飲まなかったのだろう。  やむなく紹介者なしで、『占いの流れ星』の宣伝担当者と電話で話した。声からすると二十代後半か三十ちょっとの女性だった。きっと、ヒッチコック映画の女優のように、知的な感じの美人で、グレイ地に細いストライプの入ったタイトなスーツで体の線を品よくなぞっているのだろう。これ単に自分の好みである。 『占いの流れ星』の試写状を壇活樹にいつ頃わたしたのかを訊《たず》ねた。彼女の答えは、十二月十二日の土曜日に、〈光宝映画〉ビル一階の受付に預けたということだった。そこには随時、守衛係がいるので、いつ来ても受け取れるようになっていた。受付の記録によれば、壇は翌日の十三日の午後二時十分に試写状を取りにきていた。殺された当日である。収穫だ。念のため、その試写状の指定席番号を確認する。先程、オババから貰《もら》ったのと一致した。  俺は、わざわざ調べてくれた知的美人に丁重に礼を述べて、名残り惜しく電話を切った。人間の出来ている彼女は、『占いの流れ星』を観たいのなら、試写状を送りましょう、と言ってくれた。無下に断るわけにもいかないので、白亀の事務所を教えた。やれやれ。  一時を過ぎていたが、昼飯を後回しにしてもう一頑張り。次に、渋谷の〈ジャン・カンパニー〉に足を運んだ。  部屋の中にはダンボール箱が幾つも並んでいた。棚に空きが目立つ。壁も飾り物が姿を消していた。ところどころ額やポスターの跡がまぶしく残っている。物が減った分、全体に広々とした感じがしていた。  黒いジーパンに黒いセーターのパンク魔女が剣山のような髪を揺らしながら、荷造りにいそしんでいた。俺を認めると、 「運、よかったね。来週だったら、誰もいなかったよ」 「引っ越しか?」 「行き先無しの、ね。会社、消えるのよ」 「消える前に聞きたいことがある」 「私のアリバイかな」  こっちが尋ねる前に答えてくれた。壇が殺された時間帯には、パンク魔女は団体の中にいた。女性サッカーチームの試合の後、打ち上げの宴会に参加したというのだ。勇ましい証人が最低でも十名はいるはず。自慢できるアリバイだ。それにしても、このヘアスタイルでどうやってヘディングするのだろう。  俺は、オババから貰った試写状の封筒を取り出し、裏面を見せて、 「この〈ジャン・カンパニー〉のスタンプはここで使っているもの?」  近眼なのか、パンク魔女は眉《まゆ》を寄せ、目を細めて、封筒にかぶさった。数秒して、息継ぎのように顔をあげると、 「うん、このオフィスのだよ。毎日、使ってるやつだから間違いない。ほら、〈ジャン・カンパニー〉の『パ』の一部が欠けてるでしょ、これが目印」 「なるほど、欠けた社名。スタンプは暗示してたのか、会社の運命を。君はこれからどうすんの?」  パンク魔女はケロリとした顔で、 「大丈夫、この業界、どうにかなるものよ。慣れてるから平気、いままでも、私のいたプロダクション四軒つぶれてるもん」  魔女どころか、疫病神というやつだ。  刺すように冷え込む夜だった。人形町の小料理屋〈宇楽〉の暖簾《のれん》をくぐった。残業とはいえ、こういう場所では気持ちもついほころんでくる。人体で嘘つけないのは、舌と胃とアソコだろう。前者二つが俺の中で浮き足立っていた。  アンコウ鍋《なべ》を勧められたが辞退した。朝、手首の話を聞いたばかりである。  ホウボウの半身で一人分の小鍋に仕立ててもらった。酒は福井の「雲乃井《くものい》」を冷やで。線のしっかりした辛口が、淡泊な魚から甘味を引き出し、深い味わいにしてくれた。セレクトが上手《うま》くいくと気分いい。仕事を忘れてしまう。忘れるとこだった。忘れてはならない。  女将《おかみ》の宇楽菊乃の手があいたところを見計らって、声をかけた。今宵は濃紺の地に黒い格子模様をあしらった渋めの紬《つむぎ》。それが却《かえ》って、顔立ちを派手に見せ、若くしていた。  菊乃は隣に腰を降ろすと、皮肉めいた笑みを浮かべ、 「探偵しながら飲んで、美味《おい》しい?」  左の眉《まゆ》をつっと上げてみせた。 「大丈夫、二枚舌だからね。一枚は業務用、一枚は味覚用。美味いね、このホウボウ」 「あなた、ホウボウに似てるわよ、そんなふうに口数の多いとこ」 「なるほど、この魚、ボウボウって鳴くところから名前が来てるもんな。もう一つ、探偵と似てるとこあるよ」 「何だろ?」 「あっちこっち歩き回るところ。ホウボウは長い鰭《ひれ》を使って砂地や岩を歩き回る妙な習性があるらしい」 「どうでもいいことよく知ってるわね」 「どうでもいい知識が、どうにかしてくれることもある。今日は、アナゴについて新たな知識を得た。そのおかげで、どうにかなるかもしれない」 「アナゴって、天婦羅とかにして食べる、あのアナゴ?」 「ああ。ちょいと思い出してもらいたいんだけど、例の、昔、入道どのが絹塚美雪とここでハモ尽くしを味わった夜のことだ」  菊乃は笑顔は崩さなかったが、目の奥にかすかな曇りがさした。 「それで、聞きたいことは?」 「その時に、彼らはアナゴも食べなかったかな?」  しばらく間があり、 「ううん、あの時のことはよく覚えているけど、確か、アナゴは食べなかったと思う」 「そう、じゃあ、彼らの会話の中にアナゴが出てこなかった?」  今度は反応があった。額に皺《しわ》を作り、顔をしかめていた菊乃は、ポンと音をたてて蓮《はす》の花が咲くように、目と口を丸く開いた。 「ああ、ああ、言ってた、言ってましたわ。そう、確か、美雪さんが亡くなったお母さまの話をしていた時に」 「絹塚美雪の母親というのはもとは関西の人間だったよな。〈大光映画〉のスタッフが定宿にしている旅館に勤めていて、それを、大物プロデューサーに見初められて、東京に連れてこられたんだな」 「美雪さんはお母さまの連れ子でしたわね」 「その母親とアナゴの話はどう結びついてたんだ。なんか落語の三題|噺《ばなし》みたいだ」 「美雪さんは、お母さまから聞いたんですって。東京と大阪では、アナゴの割き方が違うということを」 「包丁の入れ方か」 「ええ。東京では背中から割くけど、大阪では逆に腹から割くんですよね」 「江戸は武士の町だから、腹を割くというのは切腹に通じるんで縁起悪い。だから、背中なんだ。大阪は商人の町だから、むしろ、腹を割って話しましょう、というわけだ」  菊乃は呆《あき》れたように息をつく。 「ホント、どうでもいい事をよく知っていること」 「絹塚美雪は『母親からそういうことを聞きましたわ』と思い出を話したわけだな」 「ええ。ですけど、それが何か?」 「東北地方では地域によって、アナゴのことをハモと呼ぶんだそうだ」  今日、有楽町のガード下で、遅めの昼飯に天丼《てんどん》をかきこんでいる時に、店主とアナゴ天丼を注文した客との会話から入手した知識である。普段なら、どうでもいい知識だ。 「入道どのは東北の出だった」 「アナゴをハモと言うこともあるのね。だけど、それが、どうしたというの?」  菊乃は怪訝《けげん》そうに首を伸ばしてくる。  俺は言った。 「こういう解釈が出来ると思うんだ。例の、『ハモノハラ』という言葉は『アナゴの腹』の意味にもとれる。つまり、『ハモノハラ』とは、絹塚美雪の語ったアナゴの話を指している可能性があるわけさ」 「美雪さんの話につながるわね」 「そう。もちろん、一つの解釈だがな。しかし、考えなければならないのは、『ハモノハラ』という言葉をダイイングメッセージに選んだ理由と意図だよ。それらはまだ謎のまんま、今後の課題だ」 「理由と意図ね……」  菊乃は呟《つぶや》くと、視線をぼやかせた。うつろな表情だった。突如、ハッと息を飲む。目の奥に凍るような光を宿した。唇が震える。眉をひそめ、かすかに、しかし、強く首を振ると、幻術から解かれたようにもとの表情に戻った。一瞬の展開であった。  菊乃は何か気付いてはならないことに気付いたようだった。それは、きいても答えないだろう。  俺は、今朝、オババと会った時の話を聞かせた。黒い罠《わな》を仕掛けていた入道、その影の肖像について。  俺には菊乃を挑発する狙いもあった。感情的になったあまり、何か手掛かりになることをこぼすかもしれないという虫のいい企みである。  菊乃は艶《つや》っぽい微笑みを面のように張りつけたままだった。そして、口を開いた時にこぼれてきた言葉は、入道ではなく、オババに触れたものだった。 「奥様の狙い、手に取るようによく解りますね。それに、探偵さんが雇われたわけも」 「雇われたわけ?」 「ええ。奥様は、大高という人間そのものの謎を解いてもらいたかったんですよ。あの男の清いとこも汚いとこも丸ごとすべての顔を見たかったんでしょう」 「それは?」 「自分自身のためです。あの男のすべてを知って、それでもなおもあの男を好いている自分を確かめたかったんですよ」 「女将さんはどうなんです?」  俺は単刀直入にきいた。  菊乃は片方のまぶたを幕のようにゆっくりと上げながら、くぐもった声で言った。 「あの女《ひと》は確かめずにいられませんでした。だけど、私は確かめるまでもありません」  どちらも確かに女だった。  俺はポケットからホリーの枝を出して、空いた徳利に挿した。そして、静かに最後の杯を呷《あお》った。うん、映画みたいなシーンだ。  後ろ手に戸を閉め、夜に足を踏み出した。火照《ほて》った頬に風が冷たく張りついてきて心地よい。  閉めた戸の曇りガラスから漏れる光が一人の男の顔を浮かび上がらせた。黒いコートは影に溶けていて、顔だけがあった。『第三の男』で、オーソン・ウェルズ演じるハリイ・ライムが登場するシーンのようだった。  本当に、張井頼武だった。  かといって、俺はジョゼフ・コットンの三文作家を演じる気はない。すれ違う肩と肩が並んだところで互いに足を止めた。 「〈宇楽〉に行くのか。たまには、母ちゃんのオッパイ吸ってみたくなるってか」 「酒は人肌ほどがいいっていうからな。相変わらず、へらず口の多い探偵さんだ」  言い返して、張井は切れ上がった横目を悪戯気《いたずらげ》に光らせた。  俺はちょっぴり改まった口調で、 「予告編フィルムを大高邸の庭に放りこんでくれたの君だろ。礼、言わしてもらうよ」 「礼ってえのは火か。それとも、水かな」 「ほお、鈴代の仕返しをする気か」 「酒でもかけてやろうか」 「人肌ほどで頼む」 「お袋に燗《かん》つけてもらうよ。あの予告編フィルム、鈴代が持ってたんだ。死んだ伊戸の部屋で見つけて、勝手に持ってきてしまったらしい。それを俺が取り上げた。どこかで誰かさんみたいに使い道を誤る前にな」 「人肌ほどの適切な処置だよ」 「鈴代って女、悪気なんかねえんだよ。悪気を気取ってるだけなんだ」 「悪気があれば、あんな下手くそな尾行はしない。それに、もっと売れっ子の台本屋になってるよ」 「そう言って慰めてやるか」  張井は眉を跳ね橋のように持ち上げると、唇の端を歪《ゆが》め、喉《のど》の奥で笑った。  ハリイ・ライムの笑いそのものだった。      42  銀座中央通りを見下ろすと、車が鎖のように連なっていた。トロトロとなかなか進まないのが、いかにも年の瀬という雰囲気を強調してくれる。  俺と白亀は、〈紅白探偵社〉の入っているビルの屋上にいた。この七階建てのてっぺんからだと、周囲のビルも同じくらいの高さなのでわりと眺望がのぞめる。  せっかく事件の絵解きを披露するのだから、高いところから世間を見下ろしながら気分よくやりたいと思うのは当然だろう。なんせ、前日は、丸一日、岩窟王《がんくつおう》かパピヨンのように自らを部屋に監禁し、菜種油を絞るがごとく脳を酷使して、謎解きに取り組んだのだ。馬鹿ほど高いところに登りたがる、とは誰にも言わせまい。  夕暮れの準備を始めた西陽が柔らかく射していた。その光を浴びて、遠くに見える有楽町マリオンが黄金色に輝いている。ひときわ高く空に突き出ている帝国ホテル新館の窓の群れは、オレンジがかった雲を鏡のように写しだしていた。  そうした眺望に比べ、ここは随分とひなびた屋上であった。錆《さ》びた金網に貯水タンク、それに、ベンチ代わりの古びた椅子が十ばかし散らばっている。この雑居ビルに入っている各オフィスで使わなくなった椅子を、捨てるのも勿体《もつたい》ないというか面倒なので、ここに持ちこんだだけなのだ。要するに粗大ゴミ。形も色もバラバラなボロボロの椅子が、風雨にさらされるままにもの悲しく放置されている。深夜、自殺した社員が座っていた、なんて「会社の怪談」ができそうだった。  俺は強度をよく確かめてから、肘掛《ひじかけ》椅子を選んで、座った。  白亀も負けじと、やはり肘掛の付いた、俺のより大きめの椅子に腰を落とした。中小企業の重役クラスが使っていそうなレザー張りのもの。皺《しわ》の寄ったレザーで所々はがれている。椅子自体もギギギーッとバネが耳障りな音をたてて、少し左に傾いで、ぐらついている。白亀は一瞬、不安気な表情を見せるが、俺と目が合うとすぐさま平然とした態度をつくろった。  とりあえずビールの栓を抜き、ラッパ飲みをする。やはり屋上で飲むと旨《うま》い。下界で忙しそうにひしめく群衆や車の渋滞を悠然と見下ろしながら飲むと旨いものだ。  ビールの銘柄はベルギー産のシメイ・トラピスト。ラベルには修道院で醸造されたと解説されているが、聖職者がアルコール類を作っているとはどんな修道院なのだろう。いろいろと想像してみたくもなるが、ここは堪え、思考力を目前の問題に向ける。  俺はビンを傾け、口の滑りをよくする。 「事件の流れを振り返ってみると、まるでキツネにつままれたような不可思議な現象が続発している。それら謎と謎との脈絡もまた謎になっていて、なかなか事件の輪郭も掴《つか》みにくいものにしている」  こう枕を振ってから、俺はおさらい代わりに、事件の奇現象を並べ立てた。 ●三つの殺人現場にキツネを表わす見立てが作られていた。伊戸の死体の傍には、キツネの面と、帽子掛けと血染めのシーツによる稲荷神社の幟《のぼり》。北宮の現場では、割り箸《ばし》と血で作った稲荷神社の鳥居と、油揚げ。壇の時には血まみれの米で赤飯を表わし、キツネの襟巻が置かれていた。 ●三人の死体が切断され、それらは『しのだづま』の斬殺《ざんさつ》場面の見立てを表現していた。しかも、伊戸は頭と腕、北宮は頭と足、壇は腕と足、というふうにそれぞれパターンを変えて切断されている。 ●切断された頭、腕、足を部品にして、『しのだづま』の死体再生の見立てが作られた。その、再生された死体は三宝寺池のベンチに置かれていた。 ●〈山の荘〉の現場は密室殺人の状況を呈していた。 ●その伊戸の殺人現場に、北宮の首が落ちているのが発見されたが、警察が踏み込んだ時には消えていた。 ●その数時間後、首を切断されて死んだはずの北宮が亡霊のように墓地を歩いているのを目撃されている。キツネが北宮に化けたのだろうか? なんてね。 ●下田にある大高家の別荘の近くで、空中を浮遊する人間が目撃された。 ●事件の発端は入道にある。「ハモノハラ」という死に際の言葉は罠であり、また、何かのメッセージが込められている。 ●入道の墓の角塔婆が五十メートル離れたカラオケボックスの屋上に移動していた。しかも、その屋上は二十メートル四方で、角塔婆が突っ立っていたのは中央の辺り、そしてセメントが乾いていなかったのに、角塔婆を運んだ足跡がまったく無かった。おまけに、なぜか角塔婆のてっぺんには鬘《かつら》が付けられていた。 ●他に、既に解答を得ていたが、善福寺池と井之頭池にマネキンの死体模型が置かれたこと、「I」「K」「U」とだけ記された不幸の手紙、など。 ●そして、「新世紀FOX」を名乗る犯人はいったい誰なのか? 「こんなふうに、まるで化かされたような不可解な謎が幾つも連なって、このキツネと映画にまつわる殺人事件は展開してるんだ」  俺が話し続けるのを、白亀はインディアンの挨拶《あいさつ》のように手で制して、 「いま、おまえが挙げた不可思議な謎の幾つかは俺なりに答えを出している。まず、切断された三人の死体がそれぞれ『M』『I』『Y』を表わしていて、それは犯人が絹塚美雪の名を織り込もうとしていること。まあ、理由はまだ今後の課題だがな」  白亀は一拍、間を置いて、 「それと、まだ君に聞かせていないことがある。事件全体の中でも大どころとも言えるトリックについて解答に到達することが出来たんだよ」  言って、椅子の肘掛をコンッと叩《たた》き、効果音を入れた。 「大どころのトリックというと?」  問いを投げ、俺も椅子の肘掛を叩いた。  白亀は自信に満ちた口調で答える。 「北宮の亡霊が墓地をさ迷っていたくだりだよ。あれは、もちろん、亡霊なんかではなかった。ましてや、キツネの仕業でもない。幽体ではなく肉体、北宮そのものだった。ただし、全身ではない。あの時の北宮は『首』だけだったんだな。腕も付いていたかもしれないが、それは伊戸の腕だ」 「ほお、死体再生を既にそこで行なっていたわけか。それを犯人が操っていた。人形|浄瑠璃《じようるり》みたいに。なるほど」 「おいこら、僕に言わせろ。そう、犯人は三宝寺池よりも前に、死体再生を墓場で行なっていた。北宮の首と伊戸の腕と、アルミの甲冑《かつちゆう》の胴部分で。そこでは北宮の足は用いなかったんだと思う。必要ないからな。犯人は、その再生死体を浄瑠璃みたいに動かしていたんだ。あの寺の坊さんの証言によれば、北宮の肩から下は墓の陰に隠れて見えなかった」 「うん、あの寺は、確かに墓石が密集してるんだよな。坊さんの住居からだと、墓が幾つも重なりあってて、人が歩いていても肩より下は死角になるんだ」 「だから、犯人はその状況を上手く利用したのさ。犯人は墓の陰に隠れて、再生死体を操作して、坊さんに見せたんだ。  そんなふうにして大胆なトリックを駆使した目的は、もちろん、北宮がその時間帯、深夜の三時頃にはまだ生きていた、と見せかけるためだ。北宮が殺されたのはそれ以降であると、な。実際の犯行時間よりも後であると誤認させて、犯人はアリバイを作ろうとしたわけだよ」  白亀はここでいったん息をつくと、絞り込んでいた筋肉を解いた。眉《まゆ》を下げ、頬をゆるめ、肩をおろすと、 「せっかくの大仕掛けのトリックだが、崩させてもらったよ。まあ、実は、この推理と同じ解答に辿《たど》り着いた刑事がいて、捜査陣もその線を追及し始めたというんだ。僕が現役のころから親しくしてた刑事だけあって、親しい分、考え方も似てしまうのかね。だけど、よく聞いてみたら、トリックを見破ったのは時間的にはどうやら僕の方が先らしい」  鼻の奥でくすくす笑い、誇らしげに顎《あご》を上げた。煙草をくわえるのを忘れない。得意のポーズだ。紫煙の向こうで笑顔が揺れている。  俺は腹のあたりにドーナッツの穴のような大きな空洞を感じていた。もっとも危惧《きぐ》していた展開を目のあたりにしたのだ。思わず紙屑《かみくず》のように顔をしかめて、あーあ、と酒をこぼした時よりも悲痛な声をあげてしまった。俺は大きな溜息《ためいき》とともに、 「——引っ掛かっちゃった。それこそ、犯人の狙いだったのに。北宮の亡霊について、そういうふうに推理されることこそ、な」  白亀は顎を引いた。目を細め、視線が急速に冷却される。 「何を根拠にそこまで誹謗《ひぼう》するんだ。ならば、どんなトリックで亡霊を幻出させたか、君は解っているんだろうな」  言い方は冷静だった。言い分は感情的だった。態度だけは乱すまいとする。伊達《だて》に生きる男の辛さかな。  俺も見習って、大人の男にふさわしい落ち着いた口調で、 「トリックは解っているつもりだ。だけど、それを納得してもらうために、まず、殺人事件の犯人を指摘することから始めたいんだ。もろもろの謎の絵解きはその後だ。そのやり方でいいかな」 「ほお、『新世紀FOX』の正体を明かすというんだな。よし、拝聴しようじゃないか」  白亀は挑戦的な笑みを浮かべた。無理に作っているので、口が裂けたような笑みになっていた。キツネの事件には似合いだ。  西陽が赤みを帯びてきていた。足元の影が長くなっている。  俺は始めた。 「じゃ、聞いてくれ。  まずは、最初に発見された伊戸の死体からだ。殺害現場は奥多摩の〈山の荘〉で、首と腕を切断されていた。ここで、手掛かりとして注目したいのは切断に使用された道具だ」 「斧《おの》と金槌《かなづち》だな」 「そう。斧は、殺人現場の隣の部屋に置かれていた物だ。映画で使われた小道具を収集したアンティーク屋みたいな部屋だったな。一方、金槌は一階の玄関脇の物置部屋にあった物。ふだんは大工用具箱に収納されていたらしい。ここで問題なのは、これら二つの道具をそれぞれ異なる部屋から持ってきた点だ。どちらの部屋へ先に行ったんだろう?  アンティーク部屋に先に行って、斧を入手したとすると、何故、その部屋から金槌も持って来なかったんだろう? 斧のすぐ近くに西洋式の大きな鐘があって、それを叩くためのハンマーもわきに置かれていたのにね。ハンマーは金槌と同じ形体なんだから、それで事足りるんだよ。鐘とセットになっていて、あれだけ目立つ物を見逃すはずはないんだ。わざわざ、一階に降りて、物置部屋へ金槌だけを取りに行く必要なんかなかったんだ。実に不自然だよ。  それじゃ、逆のパターンとして先に一階の物置部屋へ行ったのだとしよう。するとやはり同じような疑問が生じる。あの部屋の壁にはナタが架けてあった。入って真っ正面の壁、いやでも目に入る場所だ。ならば、犯人は金槌と一緒にそのナタも持って行くというのが自然の行動だよ。なのに、ナタは持って行かず、アンティーク室へ足を運び、斧を入手している」 「不自然だな。両方の部屋に行く必要はなかったのに。どう考えれば、自然な形に納まるんだ」 「こう仮定するんだ。斧か金槌か、どちらか片方は最初から犯人が持っていた、と。犯人が外から〈山の荘〉に持ち込んだ、と考えることだ。斧か金槌どちらかが犯行以前は〈山の荘〉の外にあったんだ。つまり、一時、外に持ち出されていたということだよ。それを犯人が携えて犯行現場に乗り込んできたってわけさ」  白亀は、見えない将棋盤を睨《にら》むように、 「逆に言えば、犯人はアンティーク室か物置部屋かどちらか一方にしか行かなかったということだな」 「そういうことだ。じゃ、二つのパターンを想定してみよう。  パターン1、既に金槌を持っていた犯人はアンティーク室だけに行き、斧を入手した。  パターン2、既に斧を持っていた犯人は物置部屋だけに行き、金槌を入手した。  あと、パターン3というのも想定できるんだけど、それは、金槌も斧も両方とも犯人が既に持っていたというケースだ。でもね、もし、それが偶然だとすると、二つともあらかじめ犯人の手に入ってしまったというのは揃いすぎていて現実的には考えにくい。また、逆に犯人の故意だとしたら、何故わざわざ異なる部屋から持ち出したのかという、さっきと同じ疑問にぶつかってしまうんだ。だからこのパターン3は除き、さきに挙げた1と2のパターンを検討材料とする。  ここで、ちょっと考えてもらいたい。もしも、犯人がパターン2のように物置部屋へ行ったのだとしたら、壁にかかっていたナタに気付くはずだよね」 「ああ、さっき言ってた通りだよ」 「思い出してほしいのは、実際に犯行に使ったアンティーク室の斧のこと。ずいぶんとオンボロな斧だった」 「かなり錆《さび》も付いていたし、なんていったって、刃と柄がバラバラだった。犯人は刃を柄に差し込んで、ちゃんと斧の形に組み立ててから、使用しなければならなかった」 「そうなんだよ。で、その斧と比べて、物置部屋の壁にかかっていたナタといえば、逆に手入れが行き届いていて、刃も光沢を放っているくらいだった。  ならば、パターン2のように、犯人が物置部屋に行ったのだとすると、そのナタを使おうとするんじゃないだろうか」 「なるほど、既に斧を調達しているけど、そのオンボロな斧よりも、手入れの行き届いているナタの方がいいに決まってる」 「しかし、犯人はナタを使わなかった。それは犯人は物置部屋に行かず、ナタを見る機会がなかったからだよ」  白亀は歯の間からスーと息を洩《も》らして、 「そうなると、犯人の行動はパターン2ではなく、パターン1の方ということか」 「ああ、既に金槌を持っている犯人はアンティーク室だけに行き、斧を入手した、ってわけさ。  つまり、外から持ち込まれたのは金槌の方ということになる。思い出してみると、確かに、金槌が最近、〈山の荘〉から外へ持ち出されたことがあったよ」 「なるほど、先月か。オババたちが訪れた時だな」 「そう、北宮夫妻、加古川、千佳子らと一緒に〈山の荘〉に来た時だよ。その際に、湖畔のロッジに出掛けて、壊れていた椅子とテーブルを修理している。もちろん、〈山の荘〉の物置部屋から持って来た大工用具を使って、だ。その中に問題の金槌もあったんだ」 「どういう経路で犯人の手にわたったんだ」 「それは偶然によるものだと考えられる。前もって計画的にあの金槌を入手して特別なメリットはないからね。たまたま手に入ったから犯行に使ったという程度だよ。それと、オババの証言がある。彼女は、ロッジで修理が済んだ後、金槌を含む道具を大工用具袋にしまって、車のトランクに積んだという。そして、〈山の荘〉に帰ってきて、その袋を物置部屋の道具箱に収めたのもオババだ。この証言を疑う理由はないと思う」 「その件で彼女が嘘をついてメリットとなることはないからな。それにアリバイが成立しているから犯人じゃないし。で、依然、問題なのはどのタイミングで金槌が偶然、犯人の手に入ったのか、だ」 「それは、もう答えが出てるじゃないか」 「なんだと」  白亀は亀のように首を突き出してきた。  俺は鶴のように首を伸ばして、 「ロッジでは、椅子やテーブルの修理の後、金槌は大工用具袋に収納されて車のトランクに積まれた。〈山の荘〉に戻ると、その袋は車から出されて物置部屋に収められた。こう見ると、ロッジと〈山の荘〉では、犯人が金槌を入手する状況は考えられない。ロッジでも〈山の荘〉でもないとすると、その中間の『車』による道中しかありえない。注目したいのが、金槌が収められていたあの大工用具袋。麻で出来た丈夫なものだが、口の部分は肩紐《かたひも》が付いているだけでピッチリと閉じるような造りにはなっていなかった」 「じゃあ、車が揺れて」 「そう、車の振動で袋の口から金槌が放り出されたというわけなんだ。袋の外に出て、トランクの隅にでも転がったんだろう。オババはそれに気付かず、袋を物置部屋にしまったというわけさ。確かに、あの辺りの道はデコボコが多いよ。俺も、〈山の荘〉から帰る途中に、車が揺れて唇の裏を切ったもんな」 「犯人は、後になって、車のトランク内に転がっていた金槌を入手したということか。ということは車の持ち主」 「うん。車の持ち主が殺人犯ということになる。あの車の持ち主は、北宮、そう、北宮が殺人犯ということになる」 「伊戸を殺害したのは北宮か……」  白亀は絞るような口調で呟《つぶや》くと、 「その北宮もまた切断死体にされている。加害者から被害者への早変わり、なんか、筋書きの読めない展開になってきたな。おい、当然、まだ続きがあるんだろ。とっとと聞かせろよ」  挑戦的な目付きがいつのまにか変わり、貪欲《どんよく》そうな眼光を放っていた。謎解きに飢えている目だ。  飢餓を救済すべく俺は話を進める。 「北宮の死体を発見したのは奇しくも俺だ。場所は、入道が生前、仕事場に使っていた経堂の一軒家の風呂場《ふろば》。首と両足が切断され、持ち去られていた。  手掛かりとして取り上げたいのは窓だ。犯人は窓ガラスを割り、そこから手を入れて、ロックを外し、家屋の中に潜入している。その際、隣家にガラスの割れる音が聞こえないようにガムテープを貼り付けているんだ」 「コソ泥がよく使う手口だな。窓ガラスにガムテープを貼り付け、その部分を叩《たた》き割る。そうすれば割れた際に派手な音はしないし、破片も下に落ちない」 「ここでの問題はだな、ガムテープを貼った位置なんだよ。侵入した窓は、桟で上下四つに区切られている。解りやすいように、それらの窓ガラスを上から㈰㈪㈫㈬と番号をふっておくことにしよう。ロックが付いている場所は、窓のちょうど真ん中を横切る桟の端っこだ。ならば、ロックを外すには、最も近い㈪あるいは㈫の窓ガラスを割るのが便利なはずなんだ。だけど、犯人が割ったのはロックから遠い一番上の㈰の窓ガラスだった」 「難儀なやつだな、犯人のくせして。なんで楽な道を避けて、茨《いばら》の道を進むんだ」 「天気のせいさ」 「カミュみたいなこと言うな。太陽がまぶしすぎたのか」 「逆だ。雨だよ。あの窓のすぐ上に、ひさしが出っ張って付いている。そのおかげで、窓の㈰のあたりは雨に濡《ぬ》れることはないんだ。だけど、それより下の方まではカバーしきれず、㈪㈫㈬の部分は雨にさらされてしまう。雨に濡れた窓ガラスだと犯人にとって困ることがある」 「ガムテープが貼りつけられない」 「そう。だから、犯人は雨にさらされていない㈰の窓ガラスを選んで、ガムテープを貼って、叩き割ったのさ。逆に言うと、犯人が侵入した時には既に雨は降っていたということになる」 「あの日、十二月十日か。昔の三億円事件と同じ日だ。テレビでまた、推理作家が何人か新説を発表し合ってたな」 「俺が映画デビューした日だ。冷え込んできた夕暮れ時、路上に転がって演技してたら、雨が降ってきやがったな」 「そうか、あの日は夕方になって雨が降ったんだっけな。それから犯人はあの家に侵入した」 「うん、その時間と、北宮の死んだ時間とを比べてみよう。北宮の死亡推定時刻は、十二月九日の深夜から翌朝にかけてだった。それから何時間か後、夕刻になって雨が降り始めている。すると、犯人が侵入した時刻には北宮は既に死んでいたことになるんだ」 「と、なると、窓から潜入したそいつは北宮を殺していない?」 「そういうこと。そいつがした事は、きっと死体の切断作業だけだろう」 「じゃあ、北宮を殺した犯人は別な奴なのか。ちょっと待てよ。あの家の鍵《かぎ》を持っていたのは北宮と、それに、事件とは関係ない近くの不動産屋だけ。窓ガラスが割られたということは、あの家、どの窓もドアも鍵がかかっていたということだろ。その中で既に北宮は死体になっていた。それって、いわゆる、密室殺人ってことになるんじゃないか。〈山の荘〉に続いてまたまた密室殺人か!」  白亀の眼光のワット数が増した。  俺はあっさりと、 「ならないね。なんで、わざわざややこしい方へと考える。切断以外には殺人であることの積極的な理由はないはず、ならば、密室で人が死んでいれば、それは自殺だと考えればいいんだよ」 「北宮は自殺……」 「他殺にしたければ、北宮を殺したのは北宮と言い換えるよ」  白亀は一瞬、ムッとした表情をよぎらせるが、好奇心の方がまさり、 「じゃあ、窓から侵入して、死体を切断したのは誰なんだ? もったいぶらず先に進んでもらおう」  そう言われるともったいぶりたくなる。俺はビンを傾け、修道院のビールをゆっくりと味わう。  白亀は大きく舌打ちをして毒づく。 「いい性格だな」  俺は唇の上の泡をぬぐってから、 「壇の死体を発見したのも俺だった。正直に警察に報告したら、そのせいで、しつこく取り調べられたよ。あんたが裏から手を回して早いとこ救出してくれると思ったのに」 「いい性格だろ」 「おかげで三時間も拘束されたよ」 「手も足も出ないってザマか」 「そいつは壇の死にザマだ。壇の死体は両手両足が切断されていた。場所は渋谷のバー〈ピエロ〉、壇がオーナーだ。  壇は事件当日、日比谷の〈光宝映画〉へ立ち寄って、映画の試写状を受け取っている。その時間は午後二時十分と受付の記録に残っている。そして、壇はその試写状を封筒に入れてオババに郵送した。封筒の裏には〈ジャン・カンパニー〉の社印スタンプが押されていたが、強く押しすぎたせいか、中身の試写状にもインクが染みていた。そのスタンプは〈ジャン・カンパニー〉のオフィスに置いてある物だ。すると、こう考えられる。壇は試写状を入手してから、オフィスにいったん寄って、スタンプを封筒に押した、と。あらかじめスタンプを押した封筒を使ったのではない。中身の試写状にまでスタンプが染みて写っていたんだから。明らかに、試写状を入手してからの行為だ。ちなみに、この日は日曜日でオフィスには誰もいなかった。  さて、その日の午前中、壇は撮影所にいたことが確認されている。そこでちょっとした災難に遭遇している」 「アタッシェケースのことか。うっかり落としたところを車に踏まれ、ズルズル引きずられたんだよな」 「引っ掻《か》き傷だらけのボコボコのアタッシェケースになっちまった。その見るも無惨なアタッシェケースが殺人現場に落ちていた。これっておかしいよね。だって、壇がアタッシェケースの災難を経験したのは午前中だ。それから、午後、〈光宝映画〉へ行って試写状を受け取り、その後、〈ジャン・カンパニー〉のオフィスに寄っているんだ。そう、傷だらけのアタッシェケースを持って、いったんオフィスに立ち寄っているんだよな。だったら、そんなボロボロのアタッシェケースはオフィスに置いておくのが自然というもんだ。オフィスにはもっとマシな鞄か袋くらいあるはずだ」  白亀は強く素早く頷《うなず》くと、 「そりゃそうだ。それに、確か、壇は夕方五時に脚本家の先生宅を訪ねる約束があった。人と会うのに、あのズタボロのアタッシェケースではあまりにみっともないし、第一、失礼だよ。壇が持って行くとは思えない」 「では、何故、殺人現場のバーに問題のアタッシェケースがあったのか? 壇がオフィスから持ってきたとは考えられないのだから、それは、当然、殺害犯人ということになる。では、何故、犯人は殺害現場へ持ってきたのか? あのアタッシェケース、鍵がかかるようになっている。その鍵は壇が身につけていたキイホルダーの中の一本だった。きっと、犯人はバーで壇を殺害した後、無人の〈ジャン・カンパニー〉のオフィスへ足を運び、アタッシェケースを手に入れたんだ。だけど、アタッシェケースには鍵がかかっていた。やむなく、アタッシェケースを携え、殺人現場へまい戻ると、死体からキイホルダーを抜き取り、鍵を開けたんだ。犯人はアタッシェケースの中に目的の物があるかどうか、早く確かめたかったんだろう。もし、目的の物が無かったら早く別のところを当たるつもりだったのさ。幸い、オフィスと殺害現場のバーはどちらも渋谷で近距離にあった」 「犯人は最初から、死体のキイホルダーを持ってオフィスへ行けば、往復しなくても済んだのにな」  俺は語調を強めて、 「そう、そのことなんだ、俺が言いたいことは。そこに決定的な手掛かりがある。壇のキイホルダーには四本の鍵が留められていて、その中にオフィスのもアタッシェケースのもあった。もしも、犯人がオフィスの鍵を所有していない人間だったら、迷わず、壇の死体からキイホルダーを持ち出してオフィスへ行っただろう。鍵が無ければまずオフィスに入れないからね。あの日は日曜日でオフィスは閉まっているんだし。だけど、犯人は壇のキイホルダーを持って行かなかった。なのに、犯人はちゃんとオフィスに入って、アタッシェケースをちゃんと持ち出している」 「ということは、犯人はオフィスの鍵を所有している人間」 「そうなるよね。該当するのは二人、加古川と野杉だ。他に女の事務員が一人いるが、彼女は、サッカーチームの宴会に参加していたという完璧《かんぺき》なアリバイがある。だから、除外される。それに、壇はオフィスの錠を変えたばかりで、製造元でしか合鍵を作れない厳重な錠にしてある」 「候補は加古川か野杉か、確率は二分の一」  そう言いながら、白亀はポケットの中に手を入れて、小銭をチャラチャラ鳴らした。  俺は指先で制して、 「コインを投げて決めないように」 「任せよう」 「引き受けた。手掛かりはアタッシェケースの中身だ。あの中に、十六ミリ映画の現像済みフィルムがあった。現像所の黄色い袋に入っていた。袋には内容についての記載はなくて、何が写っているフィルムなのか外からでは解らない。さて、今回の事件で十六ミリフィルムについてひどく神経質になっている連中がいた」 「例の予告編フィルムのことだな。絹塚美雪のラストカットが入っている『鵺《ぬえ》と三日月』の予告編。あれを材料に、壇は伊戸光一を脅迫した」 「それと女房の伊戸千佳子も。そして、千佳子を助けていたのが、愛人の加古川だ。千佳子と加古川は言ってたよ、『壇のことだから予告編フィルムを何本かコピーしているかもしれない』と。だから、千佳子と加古川は十六ミリフィルムに関して神経過敏になっていたはずだ。そんな人間が、壇のアタッシェケースの中に十六ミリフィルムの入った袋を発見すれば、何が写っているのか確かめずにはいられないはずなんだ。だけど、袋はホッチキスで封がされたままで、開けられた跡はどこにもない。つまり、アタッシェケースを開けた人間は十六ミリフィルムには関心がなかったということだ」 「加古川ではない。残る二分の一は」 「野杉しかいない。壇を殺害したのは野杉ということだ。きっと、野杉の探していたのはシナリオの原稿の方だったんだろう」 「シナリオって、北宮が書いていた原稿か。入道に逆盗作の仕掛けをくらったアレか」 「壇の手に渡っていたのを、野杉が殺害によって奪回した。野杉は北宮から犯行のバトンを引き継いだんだ」 「じゃあ、自殺した北宮の死体を切断したのは野杉だったのか」 「そう考えるのが筋道だな」  白亀は空になったビールのビンを指揮棒のように振りながら、 「伊戸を殺害したのは北宮だった。北宮は自殺して、その死体を野杉が切断。そして、野杉が壇を殺した。三つの事件の三つとも犯行の仕手が違う。これが、『新世紀FOX』の正体だったのか。なんて事件だ。いったいどんな構造になってんだ。それに、まだ不可思議な謎が幾つも残ってるぞ」 「じゃあ、これから、キツネの化けの皮をはいでみせようか」 「お楽しみはこれから、か」      43  赤いカマボコのように、夕陽は半分ほど没していた。  俺と白亀はそれぞれコートのポケットから修道院ビールを取り出した。その動作がほぼ同時だったので、西部劇の決闘のようであった。ビールは少し冷えが落ちていたが、それでも美味い。いかなる修道院なのか、また気になってきたが、意志の力で振り払い、 「殺す者と殺される者との関係を整理しておこう。この事件の発端はもちろん入道の仕掛けた罠《わな》にある。『ハモノハラ』からすべての運命が狂いだしたんだ」 「言ってみれば、闇の犯人は入道ということになるな」 「その罠の獲物は北宮と伊戸だった。映画『鵺と三日月』の予告編フィルムとスクラップブックは伊戸に仕掛けられ、そして、逆盗作のシナリオ『おろろ骨色頭巾《ほねいろずきん》』は北宮に照準が向けられていた。しかし、それらの罠がどういう結果を生むかは入道も予測しえなかったろう。こいつの小狡《こずる》いところだよ、運に責任を押しつけちまったんだ。そして、運命はよりによって最悪の方向へとねじ曲がっていったんだ。まさか、死体が三つも転がり出てくるとは当の入道どのも知らぬホトケがナントヤラってとこだろうな。墓を掘って本人に聞いてみたいよ」 「死んだフリでもして誤魔化すだろうよ」 「入道の罠はいびつな対立の人間関係を形づくっていった。伊戸は絹塚美雪の死の件で壇に脅迫され、金を絞りとられた。壇はバーの経営難で苦しんで金を必要としていたからな。そんなふうに、伊戸は一時は被害者でありながら、北宮に対しては加害者に転じた。入道の思惑通りに、北宮がシナリオを盗作したのだと伊戸は信じたのさ。そして伊戸は罠を動かす歯車と化した。だけど、それは破格の大きさと形状の歯車だったために、罠は計算の枠から外れ、そのからくりの機能は狂い始めたんだ。伊戸は、北宮を脅迫するなどという生易しいことではなく、盗作事件を公表して、北宮の映画監督への道を断ち、そのうえ、この世界から葬り去ろうとしたんだ」 「伊戸は過剰な正義に燃えたわけか。それほど、盗作のことに激怒していたとはな」 「それだけじゃないさ。伊戸もまた北宮の才能を認め、そして、恐れていたんだよ」  白亀は声を荒らげ、 「入道と同じじゃないか。まるで、入道の亡霊が憑《つ》いたみたいだ」 「ああ、怪談映画の両巨頭は利害と思いが一致したってわけだ。己れの作家価値を脅かす新たな才能に畏怖《いふ》と憎悪を抱き、そして、その才能の出現を阻もうとしたのさ。それと、結果として伊戸を陥れた例の予告編フィルムを作ったのも、その保管場所を示唆したのも北宮だから、伊戸には逆恨みに似た感情も加わっていたと思うな。おそらく、伊戸は北宮に盗作の罪を指摘して、映画界から抹殺するという処刑判決を告げたんだろう。そして、北宮が苦悩するのを楽しんだんだ。伊戸は、まさか、逆に自分の方が処刑されるとは思ってもみなかったろう。  北宮は反撃に出た。〈山の荘〉に例の予告編フィルムがもう一本あるかもしれない、という噂をオババを通して周囲へ流した。伊戸の動きを調べ、伊戸が〈山の荘〉へ出掛けるのを、北宮は尾《つ》けた。そして殺害したのさ。北宮は自殺を覚悟していたんだろう。  映画は人に夢を与えるもの、だから、夢を汚す存在は絶対に許せない。そんな信念を頑《かたく》なに抱き続けた男だった。それは自分自身も例外には出来なかった。理由はなんであれ人を殺した人間には、人に夢を与える資格はない。夢を紡ぐ映画の世界に生きることは許されない、そんな心臓をえぐられるような想いだったんだよ」 「自殺は、映画界に生きられなくなった絶望と、それに、人を殺《あや》めて映画界を汚した自分を罰するためだったんだな」 「なんせ、思い詰めたあまり、ミイラになりかけたり、煙突に登ったりするような男だ。映画に対する過激な純情、異常な純真」  白亀は嘆息をもらし、 「ああ、北宮はそういう男さ」 「おそらく、北宮は犯行を告白した手紙か録音テープを、親友の野杉に宛てたんだろう。その結果、野杉は犯行を引き継ぐことになってしまった。  一方、殺害された伊戸は、北宮の例のシナリオ原稿ないしはそのコピーを壇活樹にも渡していたんだ。北宮を陥れる陰謀に壇を加担させていたのかもしれない。あるいは、脅迫され要求されていた金の不足をそれで補ったかもしれん。師弟の盗作事件というネタをチラつかせて、映画ライターでもある壇の好奇心を刺激したんだろう。なんであれ、伊戸は壇の力を利用するつもりだったんだ。  秘密を握っている壇に、野杉は危険を感じていた。おそらく、同じオフィスだから、壇が問題のシナリオ原稿を持っていることに、野杉は気付いたんだよ。壇は、北宮の盗作について映画雑誌にでも書くつもりだったんだろうな。あるいは、また、それを材料に誰かを脅迫するか」 「なるほど、それを阻止するために、野杉は壇を殺害した。親友のために」 「その妻、北宮季穂のために」 「ん……、そうか、かつて、北宮と季穂の仲を取り持ったのは野杉だったな……なるほど、野杉はずっと季穂を想っていたのか」 「だから、人殺しまでしたんだよ。北宮の名誉を傷つけられて、最も被害を蒙《こうむ》るのは残された妻の季穂だからな。それに、壇という男のキャラクターからすると、あいつは季穂を脅迫して、金をとるか、あるいは、関係を求める可能性が考えられる。野杉はそうした危機を察して、殺害を決意したのだろう」 「陰気な野杉が、情緒不安定の季穂を守ろうとしたわけか」 「クラい騎士道物語だな。ま、以上、事件を構築した人間関係を整理すると、ざっとこんなもんだ。犯人が解り、動機の図式が解ったところで、それらの解答に対応させながら、一連の謎々を解いてみようか」 「化けの尾をつかめるかな?」  そう言って、白亀は挑むように微笑んだ。  俺は修道院の神通力を喉《のど》から胃に流し込むと、ビンを足元のコンクリートにそっと置いた。 「事件の底には、北宮の入道に対する復讐劇《ふくしゆうげき》が流れている」 「既に死んでいる入道へ?」 「そう、だから、虚しく苦おしい復讐劇なのさ。考えてみてくれよ、北宮の入道への憎悪を。ほら、北宮はアルバムの写真を燃やしていたと、季穂が言ってたじゃないか。それも映画の撮影現場の写真が多かったって。入道が写っているもの、入道の思い出にまつわるものを燃やしたんだよ。北宮は、長い年月、あれだけ師匠に尽くして、作品作りを陰で支えてきたというのに、その返礼に非情な裏切りを食らわされ、夢を断たれ、映画界から駆逐されようとしたんだ。激しい憎しみを抱かずにはいられないよ。殺しても飽き足らないとはこのことだ」 「北宮は永遠の映画少年のような純粋な男だったから、よけいにその憎悪は壮絶なんだろうな」 「しかし、その憎き入道は既に鬼籍に入っている。復讐を果たそうにも、手の届かないところにいる。北宮は憤怒のやり場を見失っていた。歯軋《はぎし》りどころか、歯茎まで食い破るような想い。怨念《おんねん》を激しくたぎらせて苦しんだんだ。苦悩の迷路をさまよううちに、北宮の頭の中で配線が乱れ、異常な回路を組みあげた。憎悪の出力は入道の亡霊に向かって配線された。復讐、その一点に限って北宮は狂気の領域に踏み込んでいたんだ。そして異形の復讐を執行することになった。その矛先が向けられたのは、時には、入道の墓」 「じゃあ、入道の墓の角塔婆がカラオケボックスの屋上に突き立てられた件も、北宮の仕業なのか?」 「ああ。正確に言えば、その延長線上の出来事なんだけどな」  白亀の上体がこちらに傾いた。 「しかし、どうやって? これも化かされたような謎の一つだったよな」 「この件は二段階に分かれているんだ。まず一段階として、北宮の異形の復讐があったと考えられる。それは入道の墓の破壊だ。それも、『見立て』を施して、恨みを具体的に表現したんだ。北宮は、入道の角塔婆を引っこ抜くと、ロープにくくり、墓地の外の弁慶桜に吊《つる》し上げたのさ。しかも、ロングヘアの鬘《かつら》を角塔婆の頭に釘《くぎ》で打ち付けて」 「それが何の見立て?」 「問題のシナリオ、『おろろ骨色頭巾』の見立てじゃないか。長い黒髪がお蔦《つた》の首を絞めて、桜の樹に吊すクライマックスシーン、あれだ」 「なるほど。『おろろ骨色頭巾』は、北宮の作品を入道が逆盗作したもの。その恨みを北宮は入道に訴えていたんだな」 「怨念の作品を見立てに使って、入道の墓を破壊したわけさ」 「復讐、その一点では北宮は狂っていた」  白亀は、さっきの俺の言葉を呪文《じゆもん》のように繰り返すと、 「しかし、現実には弁慶桜に角塔婆は吊り下がってなかったぞ。角塔婆があったのは、カラオケボックスの屋上だ。二十メートル四方の真ん中あたり、しかも、生乾きのセメントには足跡は存在しなかった」  言って、首をかしげてみせる。  俺は右手でVサインを作り、 「その通り、解っている。これからがいよいよ二段階めだ。 〈富蓮寺《ふれんじ》〉の住職の話によると、あの日の未明、墓地の近くの交差点で自動車事故があった。酔っ払いが百キロ以上のスピードで車を飛ばし、突っ込んだんだ。そして、その車は墓地の前を通った時に、標識を一つ壊していた。教会幼稚園の送迎バスの停留所の標識で、先が十字架の形をしている。それは弁慶桜の下にあった。  北宮は、入道の角塔婆を弁慶桜に吊す際、ロープの片側をその標識にくくりつけたのさ。しかし、酔っ払いの車が百キロのスピードで問題の標識をふっ飛ばしてしまった。その猛烈な勢いで、ロープにくくられ弁慶桜に吊されていた角塔婆も、巨人に背負い投げをくらったように、飛ばされてしまったのさ。時速百キロもの強烈な力。弁慶桜からカラオケボックスまでの距離はおよそ十メートル。カラオケボックスの屋上の端から中央までは約十メートル。角塔婆は空中をミサイルのように飛び、約二十メートルの地点で落下した。そこが、カラオケボックスの屋上の真ん中あたりだったわけだ。  途中で、標識もロープも角塔婆も互いにスッポ抜けて、バラバラになったんだろう。ちなみに、標識は墓地の椿塀に突っ込んでいたらしい。ロープは当日のうちにその気になって探せば見つかっただろうが、今からじゃ無理だ。ともあれ、以上が、入道の角塔婆が墓から五十メートルも移動してカラオケボックスの屋上に突っ立っていたという不可解な謎の種明かしだよ」 「そうか。いったん、角塔婆を弁慶桜に移せばカラオケボックスまでの距離は十メートルほどになるのか。車の暴走と、北宮の異形の復讐との二段構成とはな……」  白亀は無念そうに長々と嘆息した。  勢いづく俺はさらに続ける。 「北宮の異形の復讐だが、それが最も異形の展開を見せたのは伊戸殺害の後だ。奥多摩の〈山の荘〉で北宮は伊戸を殺し、その死体から首と腕とを切断した。なぜ切断したのか? 本当は、切断しないで死体を丸ごと全身、持ち去りたかった。しかし、それは出来なかった。何故なら、目的地へ運ぶ道中で警察の検問に引っ掛かる恐れがあったからだ」  白亀が顔を突き出し、 「その目的地というのは何処なんだ?」 「調布の富蓮寺だよ」  白亀は身を乗り出し、 「じゃあ、深夜、富蓮寺の墓地で目撃された北宮の亡霊というのは、生きている北宮その人だったのか」 「もちろん。亡霊だったなんて解決じゃ誰も納得しないだろ」  白亀は、南方の原住民の太鼓のように、肘掛《ひじかけ》を叩《たた》きながら興奮気味にまくしたてる。 「じゃあ、奥多摩の〈山の荘〉の伊戸殺害現場で、北宮の切断された首が落ちていたのはどういうことなんだ。ちゃんと、目撃者が三人もいるんだぞ。首を落とされた北宮が車を運転して、調布の富蓮寺まで行ったというのか。おい、クモスケ、君は自分で何を言ってるのか解ってるのか?」  白亀の太鼓の最後に、俺はビンを爪でチンッと弾《はじ》く。 「解ってるよ。その件については後でちゃんとオトシマエをつけるから。とりあえず説明を続けさせてくれ」 「よし。忘れるなよ」  白亀は人差し指を突き付けた。  俺はエディ・マーフィーのように指でOKマークを作ると、絵解きを再開する。 「あの夜、護送中の強盗犯が逃亡している。俺も〈山の荘〉へ向かう途中に検問に引っ掛かったよ。北宮はそれを恐れたんだ。車で死体を丸ごと運ぶとなると隠しようがない。検問ではトランクを開けさせられる可能性も高い。警察は強盗犯が隠れていないか調べているんだからね。だから、北宮はやむをえず伊戸の死体から首と腕だけを切断して、鞄《かばん》か袋か何かに隠し、普通の荷物に見せ掛けて、車に積んで運んだんだよ。それと、階段の踊り場にあったアルミの甲冑《かつちゆう》の胴部分も、な」 「調布の富蓮寺の墓地まで運んだわけか」 「富蓮寺に着くと、北宮は入道の墓の前に立った。そして、伊戸の切断した首と腕と、甲冑の胴を組み合わせ、その上から何か衣服を着せて固定し、死体の上半身を作り上げた。まるで死体を蘇生《そせい》させるかのように、な。実に恐ろしいくらい映画人らしい発想だよ、まさに特殊効果、SFXだ。  再生死体の正面は入道の墓に向けられた。首の主が伊戸だということを入道に解らせるためにだ。まあ、赤穂《あこう》浪士が吉良《きら》の首を浅野の墓前に供えるのに似てるな」 「いわゆる、『みしるし』というやつか。それから、どうした」 「それから、北宮は伊戸の再生死体を背後から抱きかかえ、その腕を一本ずつ両手に握ると、それらを楽器のように叩き合わせた。何度も何度も連続して。そう、伊戸の再生死体に拍手をさせたわけだよ」  白亀の目が寄り目になり、口がゆっくりと半開きになる。 「組み立てた死体の腕で拍手をしたっていうのか……おいおい、そりゃ、なんだ?」 「生前、入道はどんな作品を撮っても、伊戸が何も反応を示さないのを不満に思っていたらしくて、よく、『一度でいいから、伊戸君から拍手を賜りたいものだ』って皮肉まじりに言ってたそうだ。だから、北宮は、入道に聞かせてやったんだよ、伊戸の拍手をね。  伊戸は、『おろろ骨色頭巾《ほねいろずきん》』については称賛の発言をしていた。大高未亡人は、『初めて伊戸さんが主人を褒《ほ》めた。それも主人が死んだ後で』なんてボヤいていた。北宮は、その事実を入道の亡霊に伝えてやったんだよ。伊戸の切断した腕を使って、称賛の拍手を聞かせてやったんだよ。何故、そんなことをしたかと言えば、もちろん、『おろろ骨色頭巾』は入道が北宮から盗んだ作品だからだ。北宮はこんな思いを入道の墓にぶつけたんだろう、『初めて伊戸がお前の作品に拍手を送ったけど、あの作品は実際にはお前の力によるものじゃない。俺から盗んだ作品だ。折角、拍手されたのに残念だったな。この拍手はお前ではなく、実は俺に向けられているんだ』とな」 「北宮は制裁の拍手によって、入道に復讐《ふくしゆう》したというわけか。おっ、そういえば、寺の住職が耳にしたキャッチボールのような音、あれは拍手の音だったんだな」 「そういうこと。死人の拍手」 「墓の中の入道に拍手を聞かせるために、死体から腕を切断して持ってきたとはな……」 「ああ、狂気のSFXだ。異形の復讐は実に異形の展開を見せたのさ」 「復讐、この一点では北宮は狂っていた」 「言ったろ」 「言ったこと、忘れてないだろうな。北宮の生首のことだ」  白亀が突っ込んでくる。  そろそろボケている暇はないようだ。 「解ってるよ。じゃあ、話を〈山の荘〉に戻そう。殺害後、伊戸の死体を切断したわけだが、あまりに凄惨《せいさん》な作業だったため、そのショックで北宮はおそらく貧血を起こしたんだろう。そして、倒れ、床に側頭部を強打し、一時的に気を失ってしまったんだ。ほら、後に発見された北宮の死体の側頭部に瘤《こぶ》があったといってたじゃないか。何か、鈍器、あるいは、平らなものによる打撲で出来たらしいって」 「なるほど、そうか。君も瘤を作った甲斐《かい》があったな」 「大きなお世話だ。で、その際に、北宮は倒れる拍子に窓のカーテンを掴《つか》んだ。カーテンが開いた状態になり、外から部屋の内部が見えるようになってしまった。ほら、床にカーテンの留め金が落ちていたろ。俺の足の裏に引っ掛かったやつ。あれはきっと北宮が倒れる時に掴んだカーテンから弾け飛んだ留め金だよ」 「一時、北宮は伊戸の切断死体のそばで仲良く横になっていたのか」 「その光景を、外から三人の男が目撃したわけなんだけど、ひとつ、状況の悪戯《いたずら》ともいうべき錯覚が作用した」 「状況の悪戯?」 「そう。それは鏡なんだ。ほら、あの部屋にA4サイズほどの鏡が床に置いてあったろ。俺がカーテンの留め金を靴下に引っ掛けた時に、足の裏を映してみるのに使ったやつ。あの鏡には縁がなかった。そして、部屋は床も天井も壁も同じ色の板張りだった。だから、あの鏡を床に置いて、そこに壁や天井が映ると、縁のない鏡だから、鏡の存在は部屋の風景の中に溶けて見えなくなるんだよ。  そして、その鏡に偶然にも北宮の顔が映っていたんだ」 「じゃあ、外から目撃されたのは、倒れた北宮の顔が映った鏡だった」 「そうなんだ。ちょうど北宮の首から上の部分だけが鏡の中に納まっていた。さっきも言ったように鏡に縁がないから鏡の存在は見えない。そして、近くには実際に切断されている伊戸の死体が見える。鏡に映った顔を切断された首だと勘違いするはずだよ。目撃者の位置から見えたのは、伊戸の胴体と切断された腕、それに北宮の顔が映った鏡だったんだろう。伊戸の首や、倒れている北宮の実体は死角の位置にあって、見えなかったのさ。これが状況の悪戯ってやつだよ」 「やられたよ」白亀は舞台のカーテンコールよろしく大仰に頭を下げた。「気を失っていた北宮は、外の目撃者たちの騒ぎで目を覚ましたんだな。あの三人の目撃者はカンフーみたいなデカい悲鳴をあげたって言ってたもんな。おかげで、北宮にとってはアラーム代わりになったわけだ。そして、北宮は、伊戸の首と腕を引っ提げて調布の富蓮寺へと向かったわけか」  俺も芝居じみた返礼をしてから、 「整理できたかな。ついでに言うと、〈山の荘〉の現場に北宮の血痕《けつこん》もわずかに残っていたけど、あれは切断作業の際にうっかり切り傷でも作ったためだろう」  一瞬、強い風が駆け抜け、白亀の椅子がかすかに揺らぎ、軋《きし》んだ音を発した。  白亀は椅子の脚の辺りに目をやりながら、 「〈山の荘〉の事件には、さらに盛り沢山の謎があったよな」  俺は両腕を大きく広げて、体の凝りをほぐすと、 「時間を追って順番に片付けるとするか。  まず、〈山の荘〉内で、犯人とガイ者は死の鬼ごっこを繰り広げていた。北宮が玄関にあったステッキで殴りつけながら、伊戸を追っていた。伊戸は何度も打撲を受けつつ、必死に逃げまどい、とうとう例の稽古場《けいこば》へと追い詰められてしまった。かろうじて、自分だけ部屋にとびこみ、ドアを閉めて、錠をかけることができた。だけど、すぐにも北宮がドアを打ち破って入ってくるのは目に見えていた。錠はカンヌキ式のものだが、それほど頑丈な造りではない。伊戸はさんざん打撲を受けて、衰弱していたのだろう。自分はまもなく殺されることを察していた。北宮が部屋に入ってくる前に、何とか、犯人を示す手掛かりを残そうとした。時間は無かった。ドアが打たれ、蹴《け》られ、錠が弛《ゆる》み、いまにも北宮が入ってくる。筆記具も持ち合わせていなかったのだろう。痛手がひどく、気が遠くなり、頭も朦朧《もうろう》としてくる。伊戸は、とっさに、目の前にあった白いシーツを帽子掛けに結びつけたんだ。それを犯人を示す手掛かりとして残したんだよ」 「一種のダイイングメッセージか」 「まあな。よく少年探偵団もので悪人に捕らえられた小林少年がバッジを路上に落としたり、木の枝を折ったりして、手掛かりを残すだろ。それと似たようなもんだな」 「だけど、なんで、白いシーツを帽子掛けに結わえたものが、犯人の北宮を指し示すことになるんだ?」 「あのシーツは稽古の際に、マントや頭巾《ずきん》の代わりになったというじゃないか。それが帽子掛けに結わえてありゃ、頭巾を表わしているということになるんじゃないか。白い頭巾をな」 「白い頭巾か! 骨色の頭巾か!」  白亀が思わず腰を上げた。椅子がのけぞり倒れそうになる。  俺は手でなだめるポーズを作り、 「そう、『おろろ骨色頭巾』を指し示しているのさ。伊戸は、北宮を、『おろろ骨色頭巾』の盗作者と信じていた。そして、その盗作者こそ殺人犯だと告げたわけだよ。白いシーツと帽子掛けによってな」 「だけど、そのダイイングメッセージは、捜査陣には、見立ての一つと解釈されてしまったんだよな」 「その事についてはおいおい触れていく。時間経過に従って、先を進めさせてもらうよ。  ええっと、ついに、カンヌキ錠がメリメリとはがされて、ドアが開き、北宮が稽古場に入ってきた。そして、伊戸を捕らえると、首を絞めあげて、絶命させた。次に、毛布や斧《おの》など道具を揃えて、死体の切断に取り掛かった。その際に、伊戸の顔には面をかぶせたんだ。面なら何でもよかったのだが、たまたま部屋にあったのはキツネの面だった。さっきも言ったように、伊戸の顔を、いわゆる『みしるし』として、墓の中の入道にしっかり見せるために、血で汚したくなかったんだ。はっきりと伊戸の顔だと解るように、切断の際に血がかかるのを防ぐために面をかぶせたわけだよ」 「だから、あのキツネの面は血がかかっていたのか」 「そういうことだ。切断作業の後、一時だが北宮が気を失っていたのはさっき説明した通りだ。そして、窓の外の目撃者に気付いて、〈山の荘〉から脱出したという展開だ。北宮が、伊戸のダイイングメッセージに気付かなかったのは、突然の目撃者の登場によって慌てていて室内を点検する間もなく出ていったためか、あるいは、例の帽子掛けがドアの陰に隠れる位置にあったからだろう」 「ドアが開くとちょうど帽子掛けが隠れてしまう、ってオババが言ってたよな」  俺は柏手を一つ打って気合いを入れると、 「そう。その帽子掛けの位置こそ密室のポイントだったんだ。帽子掛けに結わえたシーツが床に垂れている。そのシーツの端を、ドアが床との間に挟み込んだんだ。北宮が稽古場を出ていく時にドアを閉めた際に、ね。そして、時間が経つにつれて、切断死体から流れてくる血がシーツに染み込んでいく。血を含んでシーツは膨張していったんだ。  昔、俺がバイトしていた本屋で雨漏りがあって、本がビショ濡《ぬ》れになってしまった。その時に、俺が何よりも驚いたのは、水を吸った本が膨張していて本棚から抜けなくなっちまったことだ。大の大人が二人がかりで引っ張っても歯がたたなかったよ。やむをえず、ペンチやらドライバーで掘り出すようにして取り出したけどボロボロになってしまったもんだ。  それと同じ現象が〈山の荘〉の稽古場で起こり、密室を形成したんだよ。ドアと床の間で、シーツが血を吸って膨張してしまったのさ。それでドアはがっちりと固定され、開かなくなってしまった」 「血が錠の役割を果たしていたわけか」 「ああ。で、そういう状況なので、事件の発見者たちと警官が〈山の荘〉に入ってきて、その稽古場のドアを開けようとしたが、開かなかった。しかし、彼らは内側から錠がかけられているのだと思っていた。床には血だまりが出来ていて、ドアの下からはみ出たシーツも血に染まり、見えなかったんだ」 「廊下の照明も薄暗いしな」 「彼らはやむなくドアを蹴り破って、稽古場の中に入った。室内のカンヌキ錠が壊れているのを見て、自分たちがドアをキックしたためだと思ったのも無理はないよな。本当は、それより以前、北宮が伊戸を追い詰めた時に破壊したことは、さっきも言った通りさ」 「覚えてるよ」 「そして、事件発見者らと警官がドアを蹴り破った際に、その勢いで、シーツと帽子掛けが弾き飛ばされ、死体のそばに転がり込んだんだ。血だまりに倒れたので、シーツ全体が一瞬にして赤く染まり、白い部分はほとんど無くなってしまった。ドアの陰で見えない束の間の出来事だったので、事件発見者たちは、最初から、死体のそばに転がっていたものだと思いこんだんだ」 「キツネの面も死体のそばに落ちていたんだから、それと同様だと判断するさ」  俺は大きく数回、頷《うなず》いた。声のトーンを少し落として、 「シーツの端には、擦り切れた跡と小さな裂け目があって、そこには木の屑《くず》が少しこびりついていた。それは、ドアが蹴り破られた時に、シーツがドアと床の間で激しくこすられた形跡だったんだ。この手掛かりによって、俺は密室の解明に到達したんだよ。そして、シーツと帽子掛けが最初はドアのそばにあったということが重要になってきた。見立て殺人の道具なら、初めから死体のそばに置かれたはず。そうでないのは、別の目的だったから。犯人の仕業でないなら、むしろ被害者。そう考えることで、ダイイングメッセージに辿《たど》り着いたというわけさ。以上、〈山の荘〉の事件についての報告はこんなところだ」 「了解」  白亀は将校のように敬礼のポーズをした。  俺も敬礼を返すと、 「では、リリーフ犯人、野杉に話を移すよ。さっきも言ったように、野杉は、先発犯人の北宮から、殺人を告白した手紙か録音テープを受け取っていたんだろう。それと、調べを受けた際に、警察からも殺人現場の情報を聞き出した。野杉は、北宮の犯行を隠蔽《いんぺい》するために、懸命に知恵を絞ったんだ。隠蔽といっても、犯行現場は既に警察の調べが入っているんだから、犯行現場で工作するわけにはいかない。何らかの遠隔操作で、警察の推理を間違った方向へと導く作戦が必要だった。  隠蔽しなければならない事は主に二つで、いずれも難題のために頭を悩ませただろう。一つはダイイングメッセージ。野杉は、帽子掛けにシーツを結わえたのが北宮ではないことを知っていた。そのことが北宮の手紙やテープの中ではまったく語られていなかったはずだから。それと、帽子掛けに伊戸の指紋が付着していたと警察は言っていた。だから、帽子掛けとシーツの件は、殺された伊戸の仕業であり、それがダイイングメッセージであることを、野杉は察知したんだ。そして、ダイイングメッセージと犯人の北宮を結びつけて推理し、『おろろ骨色頭巾《ほねいろずきん》』を表わしているという解答に辿り着いた。  野杉は考えた。帽子掛けとシーツがダイイングメッセージとして捜査陣に考察され、やがて、『おろろ骨色頭巾』と結び付けられては大変だ、と。『おろろ骨色頭巾』の件が捜査線上に浮かんでこないうちに、ダイイングメッセージを隠蔽しないといけない。ダイイングメッセージと気付かれてはならない。そのためには、帽子掛けとシーツがダイイングメッセージではなく、別の目的のものだと推理を誤導させる必要がある。このことが野杉の抱えた大きな難題だった。  もう一つ、隠蔽しなければならないことは北宮が死体を切断した異常な理由、つまり、狂気のSFXだ」 「なるほど。隠蔽すべきは、ダイイングメッセージと、切断の理由か。そんな難題に直面した野杉は、まるで詰め将棋に挑んでるみたいだな」 「カメさん、たまには上手《うま》いこと言うね。そう、盤面とも言うべき、殺人現場は不可解な状況を呈していた。切断死体、キツネの面、シーツを結わえた帽子掛けが存在した。これらの駒を利用して、何か見立てをでっちあげるというアイデアが、野杉の頭に閃《ひらめ》いたんだ。あの異様な殺人現場は見立てによるものだった、と捜査陣に誤解させようと企んだんだ。では、何の見立てにするのか、それが最大の難題となった」  白亀は腕組みをすると、鹿爪らしい顔をして、 「詰め将棋というより、これは落語の三題|噺《ばなし》だな。客席から三つのお題を貰《もら》って、落語家がすぐその場でそれらのお題を盛り込んだ噺を作って語るという離れ業だ。切断死体、キツネの面、シーツを結わえた帽子掛け、これが野杉の挑んだ三題噺だった」  俺はつい拍手をする。 「カメさん、珍しく冴《さ》えてる。それで、脳味噌《のうみそ》をさんざん絞った末に、野杉が出した答えというのが、『しのだづま』だった。よくぞ、思いついたもんだよ。人間、追い詰められると、とんでもない力を発揮するもんだな。やはり、キツネの面が直接のヒントになったんだろう。実に見事な作戦だよ。シーツが血で赤く染まっていたことを利用して、稲荷神社の赤い幟《のぼり》を表現したのだと思わせる。わざと最初から血に染めたんだぞ、と印象付けることで、『骨色頭巾』を連想させないようにするわけだ。これは重要ポイントだよ。ダイイングメッセージはキツネの赤のイメージによって隠蔽されることになるんだ。そして、切断死体を『しのだづま』の斬殺《ざんさつ》場面と解釈させることによって、北宮の真の異常な動機を隠蔽する。本当に感心しちゃうよ。  このキツネ作戦を実現すべく、野杉はさっそく、見立て殺人を告げるメッセージを大高オババのもとに宛てた」 「例の、『新世紀FOX』の手紙か。『殺人現場はしのだづま』だっけな。そうか、後から、見立て殺人だと思わせようとしたから、最初の殺人現場には、あの手紙が置かれていなかったんだな。第二、第三の現場には死体の近くにちゃんとあったのに、〈山の荘〉にだけ無かったのはそういうわけか」 「ご名答。野杉は〈山の荘〉の第一殺人現場には行けなかったわけだからな。それなのに捜査陣も俺らも、野杉のキツネ作戦にまんまとハマってしまったというわけさ」 「なんか、シャクにさわってきたな。絵解きを先に進めろよ」 「同感だ。では、始める。さっきも言った通り、野杉は、北宮から犯行を告白した手紙か録音テープを受け取っていたに違いない。北宮の自殺を知り、野杉はその現場である経堂の一軒家へ急行した。そこで、野杉は第二の見立て殺人を偽装したんだ。割り箸《ばし》で鳥居を作り、血で赤く染める。稲荷神社の赤い鳥居を表わしたんだ。これによって、〈山の荘〉の赤い幟の見立てがさらにもっともらしく見えてくるわけだ。油揚げも置いて、キツネを強調し、あと、『新世紀FOX』の例の犯行声明文も残す」 「なかなかの念の入れようだな」 「そりゃそうだろう。この第二の見立て殺人をきちんと成立させることで、第一の異様な殺人もやはり見立てであったと信じ込ませることが出来るんだから」 「実際、信じてしまった」  白亀は目を伏せて、額に手をやる。反省のポーズらしい。  俺は舌打ちひとつ。 「いちいち反省しないでくれよな、猿になっちまうぞ。ええっと、で、野杉は北宮の死体を切断し、『しのだづま』の斬殺場面の見立てをこしらえた。理由は三つある。  その一、〈山の荘〉の伊戸の死体だけ切断されていると不自然な印象をぬぐえない。何かワケありだと捜査陣の注意を引き付けてしまう恐れがある。  理由その二、切断によって、北宮は自殺ではなく殺されたのだと偽装できる。あくまでも被害者だと印象づけて、伊戸殺しの犯人であることを隠蔽する。  理由その三、これが最も重要だ。〈山の荘〉での伊戸殺しでは、首と両腕が切断され、そして、持ち去られていた。目的は既に話した通り、北宮が〈富蓮寺《ふれんじ》〉の墓場で狂気のSFXを演じるためだった。この真相を野杉は隠蔽するために、首と両腕が〈山の荘〉の殺人現場から持ち去られた別の目的を偽装しなければならなかった。そして、そのニセの目的も、また、『しのだづま』となった。バラバラ死体が再生される一条戻り橋の場面の見立てだよ」 「石神井公園の三宝寺池か。北宮の首と足、伊戸の腕、それと甲冑《かつちゆう》の胴部分で組み立てられた死体再生の見立てだよな」 「その見立てを作るために死体の一部を持ち去った、そう思わせるのが野杉の狙いだったのさ。だから、北宮の死体から切断すべき部分は必然的に決まっていた。いいか、既に伊戸の死体から腕と首を頂戴《ちようだい》していた。それらは経堂の自殺現場に置かれていたのだろう。そして、それらの首と腕を野杉は譲り受けるかたちとなった」 「すると、北宮の死体からは足をもらえば、死体再生の見立ては出来る」 「そう、その通りなんだけど、思い出してほしい。〈山の荘〉で、鏡の悪戯《いたずら》によって、北宮の生首が落ちていたのが目撃されていた。野杉は北宮からの手紙によって、鏡による目撃者の錯覚について知り得たんだろう。そして、この一件を、野杉は巧く利用することを考えたんだ。生首が落ちていたのが真実であるとしてしまえば、〈山の荘〉では既に北宮は死んでいたわけで、つまり犯人ではない、ということになる。そう思わせるためには、北宮の死体に首がついていてはいけないんだよ」 「それで、野杉は北宮の死体からは、両足だけではなく、首も切断したわけか」  そう言って、白亀は右手を首に当てると横に滑らせ、切断のジェスチャーをした。 「結局、死体再生の見立てには、伊戸の両腕と、北宮の首と両足が使われていた。で、この見立てなんだけど、実はもう一つ別の目的が隠されていた。トリックを仕掛けたと言い換えても構わんだろう」 「トリックを仕掛けた?」 「ああ。〈富蓮寺〉の墓地に北宮の亡霊が現われた、と一時騒いでいたよな。もう、さっき、その真相は解明したけど。この亡霊の件は野杉にとっては邪魔な出来事だった。なぜなら、〈山の荘〉で生首が転がっていたのだから北宮は既に殺されていた、と捜査陣に信じさせようとしているのに、その北宮が墓地を歩いていたんだから、な。亡霊が出現したニセのカラクリを、野杉はでっちあげなければならなかった。そこで、三宝寺池における死体再生の見立てが力を発揮するわけさ。あれによって、〈富蓮寺〉の墓地でも死体再生が行なわれた、と思わせることが出来たんだよ」  そこまで言って、俺は皮肉な笑みを浮かべる。かなり意地の悪い笑顔だったかもしれない。  白亀は自嘲《じちよう》の面持ちで目をしょぼつかせ、 「はいはい、さっき、僕が自慢げに披露した推理でございますね。住職が目撃したのは北宮の亡霊ではなく、切断された北宮の生首だった、という解釈」  それから、しばらく思想家のように神妙な顔をし、虚空《こくう》を見つめていた。舌打ち一つと苦みばしった笑みをたたえ、顎《あご》をさする。絵になる敗戦の将のスタイルで、 「そうなんだ。あの三宝寺池の一件から、だったよ。墓場でも、北宮の生首を付けて死体が組み立てられ、その死体人形を犯人が浄瑠璃《じようるり》のように操作していた、というトリックを思いついたのは。僕も友人の刑事も、野杉のトリックにはめられたということだ」 「住職が目撃したのは、北宮の亡霊でもなく、北宮の生首人形でもなく、生きている北宮だった。そういや、野杉は、富蓮寺の住職の証言も巧く利用したもんだな」 「ああ、『墓石がたくさん重なりあっているから、北宮の首から下は見えなかった』と言ってたことか」 「それとか、『目がうつろで、凍りついたような表情、まるで死人のようだった』という証言もだ。確かに、北宮は狂気のSFXの後だったんだから、そんな表情になってたろうよ。それにしても、そうした状況を逆利用した野杉の作戦は鮮やかというしかない。だいたい、死体再生の見立てを演じる場所の選び方からして戦略として優れている」 「石神井公園の三宝寺池に置いたことだろ。僕も今になってその理由が解ったよ。確かに戦略として優れている。一つはもちろん、稲荷諏訪神社があるからだろ。で、もう一つの理由は、三宝寺池に奇怪な伝説があるからだよな。入水した照姫の亡霊が現われるという怪談がね。その怪談が、富蓮寺の墓地の幽霊事件へと連想を喚起させる、いわば連想ゲームのヒントの効果を果たしていたとはな」  悔しげに言うと、敗戦の将はうつむいて含み笑いをした。  街並のかなたで、黄昏《たそがれ》が地上にうつぶせるようにして残り火を燃やしている。それが飛び火したかのように、ポツポツとビルのネオンが灯《とも》り始めていた。  俺は話を再開した。 「では、最後の事件に移るとしよう。野杉は壇を殺害し、見立てを作り上げた。この現場に飾ったのはキツネの襟巻。それと、米を血で赤く染めて赤飯を表現した。三つの見立て殺人の現場に、赤い幟、赤い鳥居、赤飯がそれぞれ置かれていた事になり、それらによって、『骨色頭巾《ほねいろずきん》』のダイイングメッセージは二重にも三重にも隠蔽《いんぺい》されてしまった」 「真相が、キツネの持つ赤いイメージの中に埋没されてしまったのか」 「前回と同様の理由で、野杉は壇の死体を切断して、『しのだづま』の見立てを描いた。その際に、切断すべき部分は必然的に両手と両足ということになった。何故なら、野杉の手元には伊戸の首が既にあったからだ。伊戸の首はまだ使われず、残っていた。切断した部分を持ち去るのは死体再生の見立てを作ることが目的、野杉は捜査陣にそう思わせていた。だから、もう一度、死体再生の見立てを作るために必要な部品はというと、既に首は間に合っているのだから、あとは両手と両足ということになる。かくして、野杉は壇の死体から手足を頂戴したわけだよ」 「そう、切断された部分から考えると、三宝寺池に続いて、もう一度、死体再生の見立てがあるはずだと僕も思っていたんだ。野杉は既にどこかに置いたんだろうかな。まだ、発見されてないが」 「いや、発見されている。ただ、異様な怪現象として目撃された。下田の〈海の荘〉だ」  白亀は顔をあげ、 「なに、もしかして、あの空中浮遊の男が……」 「その通り、空中浮遊の男がもう一つの死体再生だった。あれは、首が伊戸、腕と足が壇のものだ。野杉はそれらの部品で、〈海の荘〉の冷凍室の中に見立てを仕掛けたんだよ。胴の部分はおそらく布か何かで詰め物をしたのさ。入道に関わる事件だから、いずれ誰かが〈海の荘〉にも捜査にくるだろう、と予想していた。その発見される時まで、保存状態をよくしておくために冷凍室を利用することにした。水槽に水を張り、その中に再生死体を浮かべ凍らせて、氷詰めにしたんだよ」 「昔の花氷みたいな、屍《しかばね》 氷《ごおり》が出来上がるわけだな」 「風流な表現なさいますね。で、せっかく、氷詰めの死体再生の見立てが作られたんだけど、野杉の計算外のことが起こった。伊豆沖合で大きな地震が発生して、〈海の荘〉もその被害をこうむってしまった。その際に、水槽が横倒しになって、中から再生死体の詰まった大きな氷が飛び出したんだ。勢いあまって、その氷は扉を押し開いて外へ出ると、傾斜のついた庭をスルスルと滑り、丘陵地の坂を走り抜けて、やがて崖《がけ》からダイブし、海に突入した。折しも、その地域一帯には霧がうっすらとたちこめていて、坂を走る氷の輪郭はぼやかされていた。氷は霧の中で保護色のような状態になって見えなくなっていた。見えるのは氷の中の再生死体だけだったんだ。霧の中で、再生死体だけが浮かびあがっていた。だから、地上一メートル五十センチほどの宙を人間が浮遊しているように見えたんだよ」  白亀はナルホドと手のひらを拳《こぶし》で打つと、補足する。 「海に落ちてから漂流しているうちに氷は溶けて、再生死体はバラバラに分解されたんだな。その一部である腕が銚子のアンコウの腹の中に納まったというわけか」 「野杉は、切断した部品を残らず綺麗《きれい》に使い尽くしたんだな。廃物利用の見本だ」 「死体のリサイクルだ」  白亀は自分で言っておいて、おぞましくなったらしく、口をへの字に曲げた。  俺はビールを飲み干すと、 「ちなみに、伊戸と北宮の死亡時刻には、野杉は出張先の京都にいて、完全にアリバイが成立していた。だから、同一犯による三連続殺人を印象づければ、野杉は前二件についてアリバイがあるから、安全圏にいられる。そうした自分の隠《かく》れ蓑《みの》のためにも、『新世紀FOX』を名乗る犯人と、数々の『しのだづま』の見立てを、野杉はでっちあげたんだ」 「かえすがえすも、キツネに化かされた、とはまさにこの事件のことだな」  白亀は結論づけるように、大きく息をついた。  周囲はネオンの灯が増えていた。カラフルな光が、この殺風景な屋上にもこぼれてきて踊っている。  俺は背もたれに体をあずけると、 「これで予告通りに、キツネの化けの皮をはがしたけど、事件全体の中で、あと一つだけ謎を残しているよな」 「ハモノハラ、か」 「そう、『ハモノハラ』だ。この言葉には表と裏の二つの意味があると思うんだ。掛詞《かけことば》のような構造だよ。二つの意味を持たせたが為に、こんな妙な言葉になったんだろう。まず表の意味というのは、何度も言っているように、入道が絹塚美雪とハモ尽くしを味わった思い出だ。『特にハモの腹身《はらみ》が美味だった』くらいの意味だな。これは同時に、北宮と伊戸に仕掛けられた罠《わな》のスイッチであることは言うまでもない」 「何度も聞いたよ。で、もう一つの裏の意味というのは?」 「うん、東北の一部では、アナゴのことをハモと呼んでいる。入道の出身地はそれに当たるようだ。つまり、『ハモノハラ』とは『アナゴの腹』という意味でもある。ハモを食した時に、絹塚美雪は亡き母の思い出を入道に語っている。その思い出バナシの中にこんなエピソードがあった。『東京と違って大阪では、アナゴは腹から割くということを母から聞かされた』。入道はそのことを、『ハモノハラ』に裏の意味として込めたんだろう。さっきも言ったように掛詞だから妙な表現になってしまっているけど、『ハモノハラ』の裏の意味とは、絹塚美雪の母の思い出を指しているんだと思う」 「絹塚美雪の母のことを? 一体、何のために」 「入道の本心の吐露だろう。あるいは、懺悔《ざんげ》の言葉と言い換えてもいいかもしれない。美雪の母、絹塚美登枝はもとは関西で旅館の仲居をやっていた。そこは〈大光映画〉の定宿で、美登枝はスタッフたちの間で人気の的だった。どういう経緯か知らないが、美登枝は当時、助監督だった大高入道と恋仲になったのさ。ところが〈大光映画〉の大物プロデューサー、徳山が美登枝に目をつけ、愛人関係を求めた。そして、入道と美登枝が恋仲にあることを知ると二人を引き裂く行為に出た。入道に一つの交換条件を持ちかけたんだ。美登枝を手放すなら、その代償に、監督に昇進させてやろうとね。監督を目指す者なら気持ちを揺さぶられずにはおれない誘惑だ。入道は監督の地位に目が眩《くら》んだ。そして、絹塚美登枝を捨てたんだ。愛と引き替えに監督の椅子を手に入れたんだよ。まあ、以上の話は推測が多いけど、手掛かりは存在する」  白亀は目を細めて、 「入道が監督になったのは年齢的に早かったけど、そういう裏があったなら納得できる」 「入道の監督デビュー作品はやはり徳山のプロデュースだ。しかし、美登枝への想いはずっと入道の心から消えなかったんだろう。その娘、絹塚美雪が事故死した後、〈宇楽〉で入道はよく酔い潰《つぶ》れて泣きながら、こんなことを呟《つぶや》いていたらしい、『俺は、俺を売って監督になったんだ』とな」 「夢うつつの中で懺悔の言葉を吐露していたんだな」 「そして、娘の絹塚美雪を抜擢《ばつてき》して、皮肉にも彼女の遺作になった映画『鵺《ぬえ》と三日月』、ここにも絹塚美登枝への想いがしっかりと刻みこまれている。このタイトルの文字を並び変えてみろよ」  白亀は手帳を開くと、万年筆で「ヌエトミカヅキ」と記した。その字面に人差し指を走らせると、 「なるほど、『キヌヅカミトエ』になるじゃないか」 「『鵺と三日月』は『絹塚美登枝』のアナグラムだったってわけさ」 「入道がずっと想い続けていたのは絹塚美登枝だったのか」  俺は頷《うなず》いて、 「その想いを最期の言葉『ハモノハラ』の裏側に秘めておいたのさ。死期が刻々と迫り、入道は、黄泉《よみ》の国にいる美登枝のもとへ旅立とうとしていた。そのために、懺悔をしたのさ。そして変わらぬ想いを美登枝に告げたかったんだろう」  白亀は鼻をフンッと鳴らす。 「つくづく身勝手な男だ。それに、もし、この裏の意味を、オババや宇楽菊乃が知ることになれば、北宮や伊戸への罠《わな》と同じくらい、残酷な仕打ちとなるだろうよ」  先日、〈宇楽〉に寄った晩、菊乃は既に気付いたようだった。あの時の凍るような目は残酷な真実を知ってしまった目だった。  俺は声をかすかに荒らげて、 「いかにも入道らしいよ。もう俺は驚かないよ。死ぬまで幼児のように残忍だった男、それが大高入道だったんだ」 「同時に、死ぬまで狡猾《こうかつ》だった。そう、この事件全体を見渡すと、陰で糸を引いていた入道こそ本当のキツネだったんじゃないかな。それも狷介《けんかい》なる老ギツネ」 「入道の正体は、九尾のキツネだったってわけか。化け物め」  吐き捨てるように言った。もはや、言うことは何もない。あと、口から出せるとしたら、せいぜい火くらいだろう。  白亀が立ち上がると、椅子はゆっくりと倒れ、座と脚をつなぐパイプが外れて、空しく転がった。  夕暮れの色はもうどこにも残っていない。夜が幕を降ろしていた。遠方のネオンが震えているのは寒さのせいか。デパートの屋上では、イルミネーションに彩られたツリーが輝きを放っている。そういえば明日はクリスマスイブだったか。      44  帰りに近所の居酒屋〈うつつ〉に寄った。  ささやかに一人で祝杯をあげる。酒は島根の「流霞《りゆうか》」。冷やであおると、喉《のど》から腹に涼しさが滑り落ちて心地よい。やがて、じわじわと全身にぬくもりが満ちてきた。大きく息をつく。肩が下がり、頭が垂れ、体中から力が抜けていった。  ここの老主人は酒に関してはなかなかの博識である。だから、気になって仕方がなかった修道院のビールについての蘊蓄《うんちく》を披露してもらった。  なんでもベルギーでは酒といえばビールのことであって、醸造元だけでも五百以上もあり、まさにビール王国らしい。そして、そのビール作りの歴史は修道院の僧たちの手によって始まった。それらの総称をトラピスト・ビールといい、今でも幾つもの修道院が独自の銘柄を生産している。しかも、技術と品質のレベルがたいへん高く、世界中のビールの発展に影響を及ぼした。また、アルノルドゥスという修道僧にいたっては説教の際に、「神よ、もっとビールを」と唱えていたという伝説があり、そのため、ビールの守護聖として奉られているらしい。  考えてみれば、キリスト教には「パンと葡萄酒《ぶどうしゆ》」がつきものであり、もとより神聖な場にアルコールの存在が許容されていることになる。ベルギーの修道院の場合はその許容範囲を極端に拡大解釈したのだろう。そして、原料の問題なのか、葡萄酒作りよりもビール作りの方が風土に適しているため、こういう状況を生んだのだと推察される。ベルギーではイエス様の血は葡萄酒ではなくビールであられるのだ。それにしても、かの名探偵エルキュール・ポアロはベルギー人にもかかわらず、ビールは口にせず、ココアばかし飲んでいたが、何か深い理由があったのだろうか。また気になることが出てきてしまった。  老主人の語りを聞きながら、銚子を二本空けるとホロ酔いになってくる。アン肝を抵抗なく、美味に感じられたのが嬉《うれ》しかった。  帰宅して、気分よくうたた寝しているところを電話で起こされた。受話器を耳に当てるが、沈黙が続いていた。遠くから地鳴りのようなゴゴゴゴゴーという深く、くぐもった音がかすかに聞こえるだけだった。伊戸千佳子みたいにトイレで電話しているのだろうか。それとも、変態電話の荒い息遣いの音か。あるいは、変態さんがトイレから電話しているのだろうか。しかも、男狙いで。ならば、かなりの変態さんである。鳥肌が立ってきた。こういう場合は好奇心よりも恐怖心。受話器を耳から離しかけると、声が聞こえてきた。 「野杉です」  酔いが覚めた。変態さんではなく殺人犯人からの電話だった。今度は恐怖心よりも好奇心。野杉の仏像のような顔を思い浮かべながら、俺は応じる。 「どうされました? 出演交渉は上手くいきました?」 「もう、いいんです。私自身がクランクアップしましたから」  陰鬱《いんうつ》な声の後ろで、地鳴りのような音は続いていた。もちろん息遣いではない。だが、トイレの線は消えていない。  少しのあいだ、黙り込んでから、野杉は言った。 「すべて見抜いてしまったようですね、探偵さん」  俺が言葉を探しているうちに、野杉は続けて、 「夕方の六時頃、大高夫人にちょっと用があって電話したんです。そしたら、まもなく、おたくの所長さん、白亀さんが来訪すると聞きました。あなたではなく白亀さんが来る。事件が終わったことを私は知りました」 「そうでしたか。ちなみに、こんなふうな解答にしましたが、いかがなもんでしょう」  俺は事件の解決編をダイジェスト版で語って、野杉に確認してもらった。野杉は補足するように、 「あの日、出張先の京都から戻ってくると、ポストに切手の貼っていない封筒が入っていました。北宮のやつが来て、入れたんです。中身は手紙と録音テープ。自分の犯行を告白し、自殺の意志を伝える内容でした」 「入道への憎悪も語っていました?」 「ええ、夢の恨みを」 「狂暴な獏《ばく》か」  野杉はいつになく語気を強めて、 「人は夢の美しさしか語ろうとしません。だけど、一つの夢がかなえられた陰には他の幾つもの夢が消えています。夢は共食いをするもの。夢は他の夢の屍《しかばね》に咲く毒花です」 「そりゃそうだ。ならば、夢から覚めるのが恐いのなら、最初から夢なんざ見ないことだな」  互いに沈黙が続いた。右の耳には受話器から、例の地鳴りのような音が聞こえてくる。左耳には遠くで車が走る音と夜の静けさが忍び入ってくる。  先に口をきいたのは野杉だった。 「これから永遠に覚めない夢を見ます」  悟ったようなおだやかな口調だった。  俺は思わず声のトーンをあげ、 「おい、今どこにいるんだ?」 「言えません。今、ここは雪が降っていて、風に激しく巻かれています。私は目の前にある雪山に登るつもりです。きっと春まで見つからないでしょう、あるいはもっと先まで、あるいはずっと……」  地鳴りのような音の正体は吹雪だった。トイレの線は消える。  俺はきいた。 「カイロはちゃんと持っているか?」  かすかな笑みが漏れ聞こえてきた。 「いえ、生憎《あいにく》と」 「こないだのカイロのお返しがしたい。場所を教えてくれたら、これから届けてやるんだが……ハイヤーで、な」 「あの日、随分と乗り回したようですね。請求書を見て、ちょっと驚きました」 「その礼もしたいよ」 「どういたしまして。役者の気分を味わえました?」 「俺は実際に役者をやったことがあるんだ」 「でも、シーンがカットされたとか」  俺は鼻で笑い飛ばしてから、 「野杉さん、あんたの方は監督の気分を味わったんじゃないか?」 「えっ? そりゃ、私は、昔は監督を志望して演出部に身を置きましたが、途中で挫折《ざせつ》した人間です。それで、こうして、プロデューサーの端くれをやっておりましたけど……。  でも、監督気分を味わった、とはどういうことです?」 「今回、幻の企画『しのだづま』をプロデュース、そして、監督したじゃないか。犯罪というスクリーンで、ね」  しばらく沈黙が続いた。かすかに息遣いが聞こえてくる。咳払《せきばら》いの後、野杉は空元気の声で言った。 「製作、配給は『新世紀FOX』です」 「あ、そうそう、FOXで思い出した。晴れの日でも雨を降らせてしまうのが映画のマジック、なんてよく言われるけど、それって、まるで、キツネの嫁入りだよな」 「映画もキツネも人を化かすものですから」 「あんたは両方だった」 「キツネなら何にでも化けられますね。かつて挫折した監督にだって」 「ああ、まさしく、監督気分を満喫したんじゃないのか。死体を切断した時には声高らかに叫んだんだろう?」 「何て?」 「カット!」  つい言ってしまう、俺の出来心。  野杉が苦しそうに咳き込んでいた。返答に窮して、呼吸が乱れたのかもしれない。ようやく治まると、いがらっぽい声で、 「ここらで、この電話もカットといきましょう。では、映画のような夢を……。サヨナラ、サヨナラ、サヨナラ」  俺の芸風に合わせた、別れの挨拶《あいさつ》のつもりらしい。 「おい!」  俺は怒鳴った。「おい!」を連呼した。  しばらく吹雪の音だけが続いてから、野杉の声が戻ってきた。 「探偵さん、一つだけ忘れてました。いつぞやは、頭をフライパンで殴って、申しわけありませんでした」 「目の前で、星が舞っていたぞ」 「あ……ちょっと早いかもしれませんが……メリークリスマス! メリークリスマス!……ミスター・ローレンス!」  時計は〇時を二十分ほど回り、十二月二十四日になっていた。  電話の切れる音がした。吹雪はもう聞こえない。窓の外、都会の夜には雪の代わりに、町の灯が瞬いていた。……カット!      45  年の瀬、慌ただしい世間を尻目《しりめ》に俺はのんびりと過ごすことができた。年も相当押し詰まった頃、白亀は、それ相応の料金に多少の年末助け合い基金を加えたギャラを振り込んでくれた。餅《もち》が買える。年が越せる。飲み屋のツケはどれくらいだろう。  事件に関わった連中も、それぞれに一年を締め括《くく》っていた。『アメリカン・グラフィティ』方式で各人のその後を列挙してみよう。  日生劇場で上演されていた任侠《にんきよう》版『マクベス』は、ジャーナリズムの絶賛の声に煽《あお》られて、連日、満席の賑《にぎ》わいを呈していた。その勢いに乗り、演出家はシリーズ第二弾として任侠版『ハムレット』をぶちあげた。「生きるべきか、死ぬべきか」の場面は、賭博《とばく》場でサイコロを転がし「丁か、半か」と叫ばせるらしい。期待しよう。しかし、これらの盛況ぶりは、大きな声では言えないが、俺の稲荷寿司のおかげであることは否定できまい。  その『ハムレット』に張井頼武の出演が決まった。役の大きさは解らないが、伊戸千佳子の売り込みが功を奏したようだ。上演が始まったら陣中見舞いに行ってやるとしよう。もちろん、稲荷寿司を手土産にして。  シナリオライターの織辺鈴代は、来年からスタートするテレビ時代劇『大江戸Gメン』の第五話を、入院した或《あ》る作家のピンチヒッターとして書かせてもらったらしい。主人公の旗本が悪徳奉行を「尾行」するストーリーだと人伝てに聞いた。取材が役立つことを祈る。放映は二月の上旬である。  監督の玉砂仁と、〈ライムライト・ムービー〉のプロデューサー・松下俊治郎の名をテレビで見た。いかにも年末らしい二時間ものの能天気なトラベル・ミステリーで、タイトルは『OLトリオのグルメ推理行・伊香保温泉は殺意の湯煙、美人|女将《おかみ》が妖《あや》しく微笑む時、浴衣《ゆかた》に透ける白い肌は鮮血に染まる』。陶磁器の美学にこだわって、玉砂の演出はそれらを執拗《しつよう》なまでに映し出していたが、軽薄なドラマ展開とあまりにズレていて涙ぐましい努力に終わっていた。  自分のプロダクションを旗揚げした加古川は、〈ジャン・カンパニー〉が最後に準備していた映画『二代目はクトゥルーさん』を引き継いで完成させることになった。さっそくキャスティングが進められて、出演が決まった一人は、野杉と松下がずっと交渉を続けていた例の大物俳優であった。配給は〈光宝映画〉で、来年の夏全国公開される。宣伝担当は、俺が世話になった友沢であった。  ちなみに加古川の新しいプロダクションの名は〈ノーマン・メイツ〉。ヒッチコックの『サイコ』の主人公、ノーマン・ベイツから取っている。社名にしては大胆である。加古川という男、わりといい奴かもしれない。また、映画に出演してやるとしよう。  このように、夢追い人を自称する彼らはそれぞれの舞台で相も変わらず、夢に憑《つ》かれ、夢に化かされていた。  映画『占いの流れ星』は試写の反応があまりに不評のため、公開前から二本立てが決まってしまった。また、『べらぼー・ヒルズ・コップ』はスポンサーのビール会社からクレームが来て、ビデオリリースが危ぶまれている。劇中、ビールがちっとも美味そうに見えない、というのが理由らしい。  小料理屋〈宇楽〉の女将、菊乃から案内状が来た。酒の揃えを増やしたので御来店お待ちしております、とのこと。社交辞令でも嬉《うれ》しい。イタリア人の忘年会は無事に済んだ、と一筆、添えられていた。  未亡人の北宮季穂が自殺したという情報はいまだに聞こえてこなかった。ドラえもんメイクが効いたのだろうか。その顔を撮ったフィルムはもうない。大掃除のついでに処分したのだ。  野杉孝はいまだに発見されていない。雪山の中で覚めない夢を見続けているのだろうか。  事件の解決によって、真相という悪夢を見ることになってしまったのが依頼人のオババだった。  大高邸の庭にあったホリーの樹は根こそぎ取り除かれたらしい。  今宵、オババはいい初夢を見ることが出来るだろうか。彼女はそのための準備をしてきたのだ。縁起のいい夢が見れますようにと願いをこめ、記憶の底に三つのおめでたい風景をインプットしていた。銭湯、上野動物園、八百屋を訪れ、初夢の材料を自分の中に仕込んでいたのだ。それらの映像が夢の中で再生されるだろうか。  一富士、二|鷹《たか》、三ナスビ。  幸あらんことを。  余計なことだが、初夢の準備で純和風の素材を選んだのは正解であった。西洋占星術に従うならば、古来、最高の吉兆の夢とはウンコを食べる夢だそうだ。本当である。あまり想像をめぐらせないように。  あと三十分ほどで新たな年を迎える。  外を眺めると、気の早い連中が白い息をはずませ初詣に繰り出していた。  俺の部屋からではよほど耳をすませていないと除夜の鐘は聞こえない。その代わりに、屋上で犬のヘッセが鐘の音を捉え、そのたびごとに遠吠《とおぼ》えをあげてくれる。  俺は除夜の犬を聞きながら、湯立っている鍋《なべ》の中にソバを一|掴《つか》み投げ入れた。そして、油揚げを弱火でさっとあぶる。年越しはキツネそば。  束の間、外に静寂がたちこめる。遠くから除夜の鐘がかすかに聞こえてきた。それともあれはキツネの声。コーン、コーン、と夜を震わせる。年が明けようとしていた。 [#改ページ] 参考文献 ・『SFX映画の世界・完全版』(中子真治/講談社) ・『艶笑動物事典』(駒田信二/文藝春秋) ・『怪物の友』(荒俣宏/集英社) ・『歌舞伎‥歌舞伎の魅力大事典』(講談社) ・『狐』(吉野裕子/法政大学出版局) ・『きつねうどん口伝』(宇佐美辰一/筑摩書房) ・『狐狸学入門』(今泉忠明/講談社) ・『思考の紋章学』(澁澤龍彦/河出書房新社) ・『PIA・CINEMA CLUB』(ぴあ) ・『消失のシナリオ』(A・ライアンズ/早川書房) ・『人造記』(東郷隆/文藝春秋) ・『推理・SF映画史』(加納一郎/双葉社) ・『動物故事物語』(實吉達郎/河出書房新社) ・『内臓幻想』(友成純一/ペヨトル書房) ・『日本映画・テレビ監督全集』(キネマ旬報社) ・『日本映画発達史』(田中純一郎/中央公論社) ・『日本の恐怖映画ベスト10』(早川光/文春文庫「怖い話」に収録) ・『日本の不思議スポット99の謎』(山梨賢一/二見書房) ・『にっぽん妖怪の謎』(阿部正路/ベストセラーズ) ・『本朝幻想文学縁起』(荒俣宏/集英社) ・『妖怪画談』(水木しげる/岩波書店) 霞流一・作品リスト 1「おなじ墓のムジナ」(カドカワノベルズ/1994年) 2「フォックスの死劇」(角川書店/1995年)(角川文庫/2004年、本書) 3「ミステリークラブ」(カドカワ・エンタテインメント/1998年) 4「赤き死の炎馬」(ハルキ・ノベルス/1998年)(ハルキ文庫/1999年) 5「オクトパスキラー8号」(アスペクトノベルス/1998年) 6「屍島」(ハルキ文庫/1999年) 7「スティームタイガーの死走」(ケイブンシャノベルス/2001年)(角川文庫/2004年) 8「牙王城の殺劇」(富士見ミステリー文庫/2002年) 9「首断ち六地蔵」(カッパ・ノベルス/2002年) 10「デッド・ロブスター」(角川書店/2002年) 11「呪い亀」(原書房/2003年) 12「火の鶏」(ハルキ・ノベルス/2003年) 13「おさかな棺」(角川文庫/2003年) 14「ウサギの乱」(講談社ノベルス/2004年) 15「浪人街外伝」(監修・マキノノゾミ、競作・杉江松恋/宝島社文庫/2004年) 次作予定「羊の秘」(祥伝社ノン・ノベル) 本書は一九九五年十二月、小社より刊行された単行本を文庫化したものです。 角川文庫『フォックスの死劇』平成16年9月25日初版発行