郷 静子 れくいえむ  眼を開くと、闇はいっそう深かった。私が目覚めるときはいつも夜だ、と節子は思った。湿気を含んだ冷ややかな空気が、頬や手足の皮膚に触れる。眼で見る世界が消えてしまうと、代りに皮膚が目覚めるのであろうか。右手をのばして、そこに濡れた土肌を探り当てると、指先にもまた小さな眼がついていて、壁を支える柱や梁の一本一本が、はっきりと見えるのだった。壁は冷たくて、意外にもろい。爪を立てて掻《か》いていくと、限りもなく崩れていく感じであった。  しかし、この壕舎を掘るときは、父も兄も大げさに疲れた、疲れたといったのだ。  防空壕の中には何を入れるの。お布団と非常食糧と救急箱。俺の汽車ポッポを忘れるなよ。こわれないように、一番奥に、昔おじいちゃんが使っていた皮のトランクに入れてな。ばか、防空壕は家族みんなが身体だけ入ればいいんだ。  キャラメルの空箱を墨汁で黒くぬり、糸でつなげて、白いクレパスで、べんけいごう、一ねん一くみ、大いずみはじめと苦心して書いた兄に、ついさっきも、節子は逢った。肇は赤い頬をふくらませ、口をとがらせてクレパスを握っている一年坊主なのに、節子はすきようもなく乱れた髪に虱《しらみ》をたからせて、身動きも出来ずに横たわっている現在の姿だった。こどもの兄の無関心なよそよそしさに、夢の中で、絶句して涙を流した。  節子、水、くれ。笑った歯の白さと、首にまいたタオルの白さが、闇に鮮やかに浮かぶ。壕の穴から掘り出した土は庭土の上に平均に盛られた。野菜畠になるはずであった。この辺は関東大震災のあとで埋立てた土地だからねえ。ろくな南瓜《カボチヤ》もならないかもしれないよ。台所の窓から、姉さまかぶりの母の声がする。スコップや鍬《くわ》やバケツや板切れや金槌や釘箱などが狭い庭に勝手な方向にころがっていた。縁側に腰をおろして地下足袋を脱いだ肇の足は、恥かしい程白く、そのくせ指の甲には長い毛が生えていた。おにいちゃんの足、へんな足。指はちゃんと五本ある筈だぞ。だって毛がはえているんだもの。人間にはどこにも産毛《うぶげ》ってものがあるんだ。これが! すごい産毛!  さつまいもの湯気の中で、笑いあった。あたたかい晩秋の日曜日。あのとき、本当に防空壕に身をひそめる時があろうなどとは、思いもしなかったのである。  眼も鼻も口も熱い。吐く息も燃えるようだ。また熱が高くなってきたのだろうか。息苦しさはじっと動かずにいれば耐えられない程ではなかった。しかし、渇きの方はとても我慢できないと思われた。節子は、水を飲むためにはどれほどの苦痛を忍ぶ必要があるかを思った。水筒はかなりまえから空《から》になっている。節子はすでに何度も渇きのために目覚めていた。しかし水を飲むために費《ついや》さねばならない労苦を思って、そのたびに渇きの方を忍んだのだ。壕舎の出入口から台所跡の水道までは、ほんの二、三米の距離しかない。だが、半地下の壕舎から地上に出るまでには急な階段を五段昇らねばならなかった。俯伏せになればまた激しい咳がおそうだろう。事実、喀血とそれにつづくはげしい咳で呼吸困難に陥り、節子はすでに何度も意識を失っていたのである。  指をしゃぶろう。幼い子どものするように。多分、少しは口のなかにうるおうものがある筈だ。どの指をしゃぶろう。小指が一番甘いかもしれないが、可哀そうな気もする。そうだ。人さし指にしよう。人さし指はおかあさん指、と子どもの頃に教えられたではないか。  おかあさん。  指を口に、眼を閉じた節子の頬に、かげのようなほほえみが浮かぶ。親子四人身体だけ入ればよいと父のいった壕の中に、母はひそかに小さな風呂敷包みをしまいこんでいた。りんどうの花の色に似た濃い紫地にえんじと白の小さな井桁のとんだ銘仙の反物、一匹。いつ、どんな風にしてそれを手に入れたのか、節子は知らない。節ちゃんにいいものみせてあげよう。母の秘密めかした笑いに誘われて、節子もあたりを何となくはばかるような気持になった。これはね。一匹あるのよ。二反分。節ちゃんが女学校を卒業するとき、ちょうどいいでしょ。モンペと上着と、羽織ができるの。でも、もしかしたら、肇のお嫁さんとおそろいの着物をつくれるようになるかもしれないわね。女学生は新しい制服をつくることができず、モンペと長袖の上衣なら何を着てもよいことになっていたが、まだ毎日の生活は戦前の習慣に近いものがのこっている頃であった。女学生の娘は何年か後には卒業し、専門学校に通っている息子は卒業したら結婚するであろうと、母親は考えていた。  その反物は、母が死んだとき、母を焼く燃料に変った。  ほほえみは頬に刻みこまれたまま、涙がその上を落ちた。そして、涙が消えないうちに、新しいほほえみが重なる。おかあさん、節子ももうすぐ行きますよ。おとうさんもおにいちゃんも、そこにいっしょにいるのでしょう。私たちの家。そこでみんなそろうのですね。むかしのように。  口に入れた指先には壁の泥がついていて舌を刺激した。それは快いものではなかったが、舌に力を入れて異物を唇の外に吐き出すうちに、舌のつけ根のあたりから思いがけなく多量の唾液がひろがっていた。右手は、先ほど壁を探って汚れていたのだ。そのことに気付いたが、節子はやはり右手の人さし指を舐《な》めるのをやめなかった。左手は舐めるわけにはいかなかった。左手がしっかりと持っている小型のノートを、たとえ一瞬でも、節子は手放したくなかったのである。節子は自分が間もなく死ぬであろうことを知っていた。そのとき、節子はそのノートを胸に抱きしめて死にたかった。死はいつやってくるのか、その時を知ることはできない。だから節子は、片時もそのノートを手放したくなかったのである。あたりが暗いのは確かなことであったが、本当は明るかったにしろ、私にはくらやみと同じなのではないだろうか、と節子は疑っていた。節子の視力がすでに失われていたとしても、少しも不思議ではないのだ。八月の末のある日、あの夕方、美しい夕焼空の下で、水道の流れる水に熱い頬を打たせて心ゆくまで水を飲み、水筒に水を満し、ほとんど這うようにして壕舎のしめったかびくさい夜具の上に身体を横たえて以来、いったいどの位の時が過ぎたのか、節子はまるでわからなかった。いく度か目覚め、渇いた咽喉をうるおし、水筒はいつか空っぽに乾いてしまっていたが、あの夕焼けの明るさ以来、光を見ることはなかったのだ。私が目覚めるときはいつも夜だ、と節子は思っているのだったが、本当は私の目はもう見えないのだと考えるべきなのかもしれないのだった。  しかし、真暗闇に身動きもせず、じっと横たわっている身にとって、眼が見えるということにどんな意味があるだろう。節子はしずかに眼を閉じてみる。そうすると現実にはすでに見ることのできないはずの映像が、そこに実在するのだった。それが花ならば甘い香りを放ち、手をさしのべるまでもなく、つややかなつめたい花びらの感触までたちまちよみがえった。それが人ならば、節子の十六年の生涯のすべての時間をとおしてのその人間の姿を、瞬時に再現してしまう。機関車にとりつかれた肇のキャラメルのべんけいごう以来、ブリキを使ってラッカー仕上げをした精巧なジーゼル車に至るまで、それらが全部つながって、長い長い貨車のように、果しない線路の上を、ゴトゴトと通り過ぎて行くのであった。その機関車の長い列を見送る肇は、黒い学生服の肩から胸に寄せ書きの日章旗を十文字にかけていた。そしてその肇が、次の瞬間、列車のデッキに半身を乗り出して手を振りながら、ずんずんと遠ざかって行くのであった。少し照れくさそうに、真白な歯で笑いながら。節子は、その前夜、おそくなってから虫歯が痛むといって母に今治水《こんじすい》をつけてもらっている兄を見ていた。大きな身体の兄が幼い子どものように大きな口を開けて、小柄な母の前にぺたんと坐りこみ、そこじゃないってば、もっと奥だよォ、とくぐもり声でいっているのを見て、おかしさがこみ上げてきて困ったのである。余り笑い過ぎて涙があふれ、その涙がいつか悲しみの涙と変ったのであった。あの時、肇の虫歯はもう痛むことはなかったのだろうか。節子は肇の出征のときを思い出すたびに、真白な歯をみせて笑っていても、きっと虫歯は痛みつづけていたのにちがいないと思うのだった。  今度、表記の場所に移りました。元気でやっています。そちらもお元気で。  肇から前後三度だけ来た移転通知のような葉書を、家族めいめいが一枚ずつ持っていた。肇は出征の時も内心の決意のようなものは何一つ洩らさずにあっさりと出て行き、出征してからの便りにも、心の内を語る言葉はまるでなかった。母は葉書の四分の一にみたない几帳面な四角い文字の列をみて、溜息をついていったのだった。もったいないねえ。こんなに余して。  大泉、お前はいいよ。自分のやりたいようにやれるもんな。  お前だって、別に、誰に気兼ねしてるってわけでもないだろう。  俺はお前みたいに単純じゃないさ。俺の兄貴たちはどっちも極端だからな。ああいう先輩をみてると、全く去就に迷うぜ。  お前が迷ってるとは思えないがね。  顔で笑って、心で泣いてだ。子どもの時は迷わず幼年学校に行くつもりでいたんだ。上の兄貴が刑務所に入ってから、近所のガキ大将にスパイの弟とかいって、大分やられたからね。それが口惜しくて今にみてろ、陸軍大将になってやる、というようなもんだった。ところが下の兄貴が突然軍人になるっていい出した。家中みんな下の兄貴はピアニスト志望だとばかり思いこんでいたのにどうしても軍人になるってきかないんだ。軍人になるっていったって実際問題として、上の兄貴のことがあるから、陸士だって海兵だって入れるわけはないんだ。結局中学も中退で、海軍飛行予科練習生というのになって、一人前に飛べるようになるかならないうちにもう戦死さ。おい大泉、お前聞いてるのか。  ああ、聞いているよ。  支那事変のはじめの頃、渡洋爆撃で沸き立っていた頃の話だ。上の兄貴の事件では町内の鼻つまみでろくに挨拶もしてもらえなかったのが、今度は名誉の戦死者の遺家族の家だからね。俺は中学に入ったばかりで、本当のことは何もわからなかったんだが、実に厭な感じがした。そのうち下の兄貴の遺書が届いた。遺書っていうのも変だが、手書きの楽譜で、ショパンのポロネーズと、シューマンの子供の情景の中の一部分だった。おふくろが泣きながら弾いているのを聞いていて、俺は思ったんだ。下の兄貴は上の兄貴をかばって飛行兵になったんだな、戦死っていったって自殺みたいなものだったんだなってね。ポロネーズは上の兄貴の好きな曲で、下の兄貴はしょっちゅう上の兄貴のために弾いてやっていた。シューマンは昔、おふくろがよく弾いていて、子供達が何となくぞろぞろピアノ室に集って聞いていたものだった。その時以来、俺は自分の道を見失ったのさ。  しかし、今度志願しようって言い出したのは、お前の方だぜ。  うん。しかし、そのことと俺が迷ってるってこととは矛盾しないよ。  矛盾してるよ。  迷ってるっていうより、決心がつかないんだ。  同じことじゃないか。  決心がつかないから、お前を誘ったんだ。テコを応用すれば力がなくても物は動く。  俺はテコか。  まあな。  訓練の警戒警報が出ていて、電灯には黒い被《おお》いがかけてあった。こたつはおとうさんのために作ったんだからね。念を押して、母は隣組の常会に出かけていった。まだこたつの欲しいような気候ではなかったが、母は寒がりの父が残業を了えて帰ってきたとき、留守にしているのが気がかりなのであった。そして、その父はまだ戻らない。節子は、こたつに足の先だけ入れてうたたねをしていた。肇と肇の親友の湧井修三が、反対側に寝そべって話していた。節子は目が覚めても、眠ったふりをつづけた。六歳年上の兄は、今では、節子にとって異人種のようなへだたりがあった。兄たちが何を、どのように考えているのか、仲間に入って知ることは不可能だった。好奇心に光る眼をまぶたの下でくるくるさせて、節子は小さな寝息をたてつづけた。  上の兄貴が非国民ということになって、それに刺激されて陸士に行こうと考えたのは、下の兄貴の自殺行為と同じじゃないかと思い始めたら、もう駄目なんだ。陸士、陸士ってさわいでいたのが、いつの間にか理専に変っちゃったんで、家じゃまたびっくり仰天さ。もっとも、最後に残ったいたずら息子が跡とりになりそうな具合になって、おやじもおふくろも喜んだことは喜んだんだ。下の兄貴みたいに、死ぬためにだけ軍人になるのはいやだった。なんて、本当の理由は何も知らなかったから。  それが本当なら、お前、志願するのは止めた方がいいんじゃないのか。俺たち理工科の学生には、まだ徴兵猶予の恩典もあることだし、ちゃんと学校を出て、将来は、おやじさんの会社を継ぐことにだって、それなりに意義があるんじゃないのか。  将来ね。そんなもの、あるのかな。  どうしてそんなこというんだ。  いくら形は名誉の戦死だって、自殺するみたいに死ぬためにだけ、軍人になるのはいやだったから、俺は陸士をあきらめたんだ。しかし、最近、考え方が変ってきた。  どんなふうに。  大泉。お前、ガダルカナルの転進というのは、どういうことだか、考えてみたか。アッツ島の玉砕というのは、どういうことだか、考えてみたか。  …………。  俺の考えでは、要するに日本軍が敗けているということなんだな。とすれば、死ぬのなら早い方がいいんじゃないか。否応なしに死ぬのなら、お国のためだと思って死ねた方がトクなんじゃないか、と考え始めたんだ。  お前、何がいいたいんだ。  俺、この夏、上の兄貴に逢ってきたんだ。上の兄貴とは年も離れているし、頭の出来も大分違うんで、今まで話をしたことなんかなかったんだけど、何だか、一度どうしても逢って話を聞きたいと思い出したら、我慢ができなくなってね。  病気だそうだけど、どんななんだい。  まあ、なおるってわけにはいかないだろうな。あと、何年位生きのびるか、ってことだろう。  たしか、転向して、保釈になったんだったね。  転向っていったって、いろいろあるんだよ。兄貴のは、形の上だけなんだ。今度逢って、いろいろ話してわかったんだけど考え方を改めたことなんて、一度もないっていうんだ。刑務所で喀血して、これで転向しても戦争に協力しないで済むと思ったから、転向したに過ぎないんだって。兄貴たちの仲間で転向したやつは、ほとんど兵隊になって外地に連れて行かれたらしいよ。  兄さんは、今でも、戦争に協力しないっていってるのか。  今でも、なんてもんじゃないよ。俺の考えていたとおりになっていく。俺は絶対に死なない。日本中が戦場になっても、最後まで逃げて生き延びてやるんだって。凄まじい執念さ。  日本中が戦場になるっていうのか。  それも、もう一、二年のうちだろうって。今までに取ったところを今度は一つ一つ取り返されて、ぼかぼか空襲されて、片端からみんな死ぬって。  それで、どうせ死ぬなら志願して、敵と闘って死のうというわけか。  そうだ。兄貴は今、群馬県の赤城山麓の寺に暮しているんだが、墓石や位牌を見ていて、つくづく思ったんだ。日支事変の初めの頃に戦死した兵隊の墓は、おそろしく豪勢なんだぜ。見上げるような大きな石に、陸軍一等兵誰それの墓なんてでっかい字が刻んである。位牌だって金ぴかぴかだ。それがだんだん貧弱になってきて、今じゃ珍しくも何ともないし、卒塔婆一枚でおしまいだ。同じように国を護って戦死したって、こうもちがうんだからね。せっかく戦死したって、神さまにして祭ってくれる銃後の国民がいなくちゃつまらんじゃないか。  ばか、いいかげんにしろよ。  怒ったのか。  あたりまえだ。ぶんなぐってやりたいよ。  節子は驚いて眼をあけた。まさかとは思ったが、半ば本気で心配になった。そっと伸び上ってのぞくと、肇は笑いながらげんこつで友達のおでこをこづいていた。首をすくめながら、湧井修三も顔だけは笑っていた。笑いながら彼の眼が赤くうるんでいたのを見るためには、部屋の中は余りにも暗すぎたのである。  大泉、ところでお前はどうなんだ。  俺は征《ゆ》くぞ。たしかに、俺は単純な男だからな。国のため、天皇陛下のおんために、身命をなげうってたたかいます、だ。  お前はいいよ。うらやましいよ。  俺は単純な男だと自分自身を決めた肇だったが、虫歯の痛みをかくして白い歯をみせて笑いつづけていたにちがいないと、節子はずっと思いつづけていた。  肇のよこした三枚の葉書のうち、一枚は父が上衣のポケットにいつもしまいこんで持ち歩いていたのだが、横浜の大空襲の朝以来、父とともに行方不明になった。多分、父と共に焼夷弾の炎の中で灰になったのであろう。母が持っていた一枚は、母の棺の中に納めた。節子の分の一枚は、今も左手のノートの間にはさんであるはずであった。宛名は、はじめの二枚は、大泉豊様、御一同様と書かれてきたのに、最後の一枚は、思いがけなく節子宛になっていた。 [#ここから3字下げ] 節子|様《ヽ》(ありがたく思へ) どうやら出番になつたらしいので、あとのことはよろしく頼みます。おまへは少し生意気だが、その分だけしつかりしてるから、俺は安心してる。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]敬具   これでも遺書といえるだろうか。もう少し何とか、他に書きようがなかったものか。節子がこの葉書を手にしたとき、父も母も、すでに此の世を去っていた。新聞は特攻隊の出撃を連日のように伝えていたから、兄がどのようなときにこの葉書を書いたのか、容易に想像することができた。だからこそ、読み返すたびに、はじめて読んだときの恨めしい思いが、そのまま胸にこたえるのであった。節子はノートの間からとり落さないように注意深くはさんであった葉書を出した。葉書は、肇からのものの外にもう一枚あった。肇の葉書はしわくちゃでざらざらしていたが、もう一枚はややざらざらが少なく、ぴんとしていた。兄の文面と同様に、節子はその葉書の文章も、いや、丁寧な毛筆がきの一点一画も、眼の前に再現できた。湧井修三の長兄捷一が転向して刑務所を出た後、ひっそりと療養生活を送っていた山寺の住職からの葉書であった。 [#ここから3字下げ] 前略 激烈なる日々、貴女様には御壮健にて御奮闘のことと存じあげます。 さて、湧井捷一殿、去る七月十六日、午前四時十六分、永眠致されました。臨終の折、貴女様よりお預かり致せし品、必ず丹羽教授にお届けすると、申し遺されました故、納棺の際帳面二冊、枕の下に納め、荼毘に付しました。この旨、つつしんでお報せ申し上げます。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]合掌   不意に節子の頬を、熱い涙がほとばしる。いきどおりの涙であった。湧井捷一のいきどおりを、今は、節子もわかると思った。彼のいうとおり、戦争は終ってしまった。  誰もが死を覚悟し、国のため、天皇のために死ぬことに意義を見出していたときに、湧井捷一だけはそういう死を否定していたのだ。戦争は必ず終ります。その時まで生命を大事に辛抱して待つのです。もうだめだと思った時、その彼の胸を去来したであろう無念の深さが、節子を圧しつぶす。湧井捷一が死んだとき、まだ戦争は続いていた。しかし、今は、戦争は終ってしまった。節子の中で、やみがいっそう深くひろがっていく。戦争が終るなんてことがあるのでしょうか。そりゃありますよ。人間が始めたことですからね。正義を貫くことができなくても? 誰のための正義か、ということですね。それに、戦争が終ったあとでも人間は生きていかなければならないのですからね。節子の知っている人々の中で湧井捷一は、戦争が終ったあとのことを考えているほとんど唯一人の人間であった。  節子はしばらくの間、胸の上にのせた二枚の葉書を右手の指でじっとおさえていた。肇は友人の長兄にあたる湧井捷一に、生前一度も逢ったことがなかった。いつかのこたつに寝ころんでの湧井修三との会話の中で捷一のことにふれても、肇自身が捷一のことをどんなふうに思っていたのかは、ついに聞くことはできなかった。節子は湧井捷一に唯一度だけ逢ったその印象のはげしさを、誰にも告げようのなかったそのはげしさを、胸につらく堪えていた。二枚の葉書はいつもぴったりと重なりあっていて、しかもなお、おたがいに知らぬ顔をしているのかもしれなかった。  葉書をノートに戻してから、節子は改めてノートを胸にのせた。灰色のノート。 [#ここから3字下げ]  節子さん  いいノートがみつかりました。パパの書斎から、ママが探し出してきてくれたのです。  表紙の色に御注目ください。灰色なのですよ。灰色のノート。ダニエルとジヤツク。ね、素敵でしよ。ママもそのことはちやんと承知で、とても意味あり気な眼で、私をみました。なつちん、今度の日曜日、一日中おさんどんをしてくれるでせうね。私もママの娘ですから家事は大嫌ひですが、日曜日には文句をいはずに働くことにします。  節子さんたちが学校からゐなくなつてから、学校はますますつまらなくなりました。校庭はもう隅から隅までほじくり返されて畠になり、縄とびをする場所もありません。勿論、掘り返したのは私たちです。先生がスコツプをもつて登校しなさいとおつしやいました。ママはばかばかしいと怒りました。節子さんは、なおみがスコツプなど持つていくはずがないと、お思ひになるでせうね。ところが最近、私は心境の変化で、とても真面目にやつてゐるのです。いふまでもなく、模範生の節子さんの影響です。私がスコツプをかついでいつて、一番驚いたのは、ママではなくて先生方だつたかもしれません。  私、本当は後悔してゐるのです。節子さんとお逢ひする日を、どうして隔週日曜日に、なんてきめてしまつたのでせう。今までは、毎日学校でお逢ひして、その上日曜日にも遊びに行つたりしてゐたのに、日曜日ごとにお逢ひすることにするわといつたら、ママが、節子さんにご迷惑ですよ、といひました。どうでせう、ひとのことだと思つて。ママがご迷惑なんて言葉を知つてゐたなんて、信じられないくらゐですわ。  でも、節子さんにご迷惑といふことはよくわかります。何しろ、節子さんは工場で働いてゐるのですものね。休日は、ゆつくりお休みになる必要があります。だから黙つて我慢してゐるのです。なんて、こんなにぐづぐづいつたら黙つて我慢してることにはならないわ。  学校には、もう二年生と一年生しか残つてゐません。その二年生も、もうすぐ学校からゐなくなつてしまふのです。そのうちには、私たち一年生も、どこかの工場に動員されることになるのでせう。みんな、ばらばらですね。節子さんが動員されて、工場で働くやうになつたとき、ママは、ああもつたいないといひました。節子さんのやうに優秀な人をベルトコンベアの番人にすることはないのに、といふのです。ところが、そのうちなおみも働きにいくことになるといふ話をしたら、仕事をさせる人がお気の毒といひました。ママにいはせると、なおみに働かせる位なら、猫に仕事をさせる方が気が利いてる、のださうです。何といふ侮辱でせう。そんな娘に育てあげたのは誰の責任だと思つてゐるのかしら。  でも節子さんとお友達になつてから、私はとても変つたと思ひます。誰彼かまはずにけんくわなどしません。むしろ、誰彼かまはず、ニコニコしてる位です。相変らず私のことをみるのも汚《けが》らはしいみたいな眼でみる人もゐますけれど、私はもう怒りません。私がけんくわをすると、節子さんがきつと悲しむと思つて、我慢して、それからできるだけ大いそぎで、忘れてしまひます。  なおみが秋山さんとけんくわをして怪我をさせてしまつたときのこと、秋山さんのお家まで一緒に行つて謝つてくださつたこと、あのときのことは、今でもしよつちゆう思ひ出してゐます。秋山さんのお母さまは、最後まで許すとはいつてくださらなかつたけど、できるだけのことは誠意をもつてしたのだから、もうくよくよするのはよしませうつて、節子さんにいはれて、許すつていはれたよりも嬉しかつたの。ほんたうに節子さんの週番のときにけんくわしてよかつた、とつくづく思ひます。パパのことをスパイだなんていつて憎らしい秋山さんだけど、そのことでけんくわをして、節子さんとお友達になれたのですもの、今では秋山さんにお礼をいひたいくらゐです。  私は節子さんのやうになりたいのです。きちんとしてゐて控へ目で、それでゐていふべきことは校長先生の前でも秋山さんのお母さまの前でも真直ぐ前を見て、ちやんといへるのですもの。私をかばつてくださつたから、お世辞をいつてゐるわけぢやありません。私はすぐかつとなつて手が出てしまふのですが、もう女学生ですものね。恥かしいことですわ。よくいへませんけれど、節子さんは静かな勇気をもつていらつしやるのです。  さつきからママがもう寝なさいとうるさくいひます。ママは明日の朝、私を起すときのことを考へて、できるだけ手数を省かうと思つてゐるのです。ママのこんたんくらゐすぐわかりますけれど、遅刻するのは、きちんとしてゐるといふこととはまるで矛盾しますものね。節子さんなら夜どんなに遅くまで起きてゐても朝はちやんと目が覚めるのでせうけど、私の目はとてもさういふわけにはいきませんから、もう眠ることにします。  おやすみなさい。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]丹羽なおみ  [#ここから3字下げ]  節子さん。  今日は七月四日です。七月四日は、アメリカの独立祭です。独立祭といふのは独立戦争に勝つてアメリカがイギリスの支配から脱した日を記念したお祭りです。以上はママから教へてもらひました。ママたちは戦争前はアメリカ人のお友達が多勢ゐて、独立祭にはお客さまにお招ばれしたのですつて。ママは今でもあの人達とはお友達だといひます。私のうちでは、パパもママも変にがんこなところがあるのです。パパは思想とかいふもののために警察に連れて行かれて、もう四年間も家へ帰つてきません。ママは、パパは自己主義者で愛情がないといつて怒ります。思想とかいふものを変へれば、パパはすぐにも帰つてこられるはずなのですつて。そして、ママやなおみを本当に愛してゐたら、さうしたからつて、それは少しも恥かしいことではないはずなのですつて。  私にはよくわかりませんけれど、自己主義といふことにかけてはママだつて相当なものだと思ひます。戦争をしてゐる相手の敵国人を、お友達だなんていつてゐるのですもの。私は、うちのパパやママが、他の人達とあまりにも違ひすぎてゐるといふことをよく知つてゐます。せめて私だけでも、節子さんのやうに、まじめに日本人らしい考へ方で暮さなければ、と思つてゐます。  でも私は節子さんと同じ日本人同士でよかつたとつくづく思ひます。国と国との仲良しなんて、ちつともあてにならないのですつて。今、日本とドイツは同盟国ですけれど、第一次世界大戦のときには、日本はイギリスと同盟を結んでドイツと戦つたのだと、ママから教はりました。もし、私たちが外国人同士だつたら、国の都合でいつ突然敵にならなければならなくなるか、わからないのですものね。そんなこと、とても考へられませんわ。「チボー家の人々」の最後の方に、第一次世界大戦が始つた時のことが出てきますが、スイスで一緒に暮してゐたいろいろな国の青年たちが、戦争をするためにそれぞれの国へ帰つてしまふのです。昨日の友は明日の敵になるわけです。ジヤツクはそのことで絶望してしまふのです。  最初におことはりしておきますけれど、「チボー家の人々」は最後の方は本になつてゐません。出版してはいけないことになつたのですつて。うちには、フランス語の本があるので、ママが翻訳してノートにとりました。私は、そのママのノートを読んだのです。本当のことをいふと、ママの翻訳は相当ひどいのよ。フランス語の本の方の五頁分が、ママのノートでは一頁位ですんぢやつてるのですから。ろくに辞書もひかないし。でも話のすぢはわかります。本になつてゐる方だつて、何行も脱けてゐて、わかりにくい所がたくさんありますわ。だいたい、ママは怠けものなのです。フランス語だつてパパにお尻を叩かれて、アテネフランセに何年も通つて、やつとどうにか本が読めるやうになつたんださうですから、あまり欲ばつても無理なのです。「チボー家の人々」もはじめパパが丸善からとりよせて、ママによめよめとすすめたのですつて。でも、すぐ翻訳の本が出たからなかなか読まなかつたらしいのね。  そのうちにパパが警察に連れて行かれちやふし、本も途中で出版禁止になつてしまふし、それで急に真面目に読みはじめたつてわけなの。だから怠けもののママがどうにか最後までノートをとつたのも、パパをなつかしく思つてのことだと、私は察してゐるのです。そのノートは、ママのお宝です。パパが帰つてきたら、ほめて貰ふつもりなのでせう。  でも節子さんには是非読んでほしいの。  私は、ママと二人つきりで暮してきて、他の人達ととても違つた考へ方になつてゐるやうです。そのことが、此の頃よく、わかつてきました。私は、節子さんのやうにならなければいけないのだと思つてゐます。  パパからはもうしばらくお手紙がきません。時々、我慢できない程逢ひたくなることがあります。でも、今の日本には、父親と遠く離れて暮してゐる子ども達がどんなに多勢ゐるかといふことを考へると、そんなぜいたくはいへないと思ふのです。遠い南方で戦争をしてゐるお父さんたちの子どもは、どんなに逢ひたくたつて、逢へる望みはないのですものね。  節子さんのお兄さま、お元気でいらつしやいますか。パパの生徒だつた人たちもみんな戦争に行つたのですつて。そしてもう、何人も戦死なさつた方がいらつしやるさうです。たまにママのところに葉書がくることがあります。出征のご挨拶や戦死のお知らせばかりで、無事に帰つてきましたなんておたよりはありません。日本の兵隊さんは出征するばかりで帰つてくる人なんてゐないのかしら。  ごめんなさい。私、変なことを書いてしまひましたわ。ママが変なことをいふものだから、私まで考へ方がばかげてきてしまひました。気をつけます。ではまた。節子さんにお逢ひできる日も、もうすぐですね。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]丹羽なおみ  [#ここから3字下げ]  節子さん  いよいよ明日ですのね! お逢ひできるのは。  なおみは今夜は眠れさうもありませんわ。学期末の定期試験がもうすぐですけれど、勉強らしい勉強はしてないのですから、らくなものです。みんな、試験のことより、夏休みのことを心配してゐます。今年は、夏休みはどうなるのかしら、といふわけです。そしたら今日になつて、修身の先生が宣戦の御詔勅を毛筆で書くのを宿題にするとおつしやつたので、宿題があるといふことは、夏休みもあるといふことになるわね、といふ結論に達しました。それはいいのですけれど、あの長い御勅語を、筆で書くのかと思つたら気が遠くなりさうなかんじです。消しゴムで消すことはできないし、間違つたのを出したら、どんなお叱りがあるかわかりません。こんな非常時に、こんなことで生徒を苦しめて、どんなトクがあるのかしら。なんて、心の中でぶつぶついつてゐる自分を省みて、ああ、なおみはどうしたつてママの娘なんだなつて、思つてしまひました。節子さんだつたら一字の乱れもなく、最後まで丁寧にお書きになるのでせうね。暗誦なら、私だつて全部出来るのだけど。女学校の入学試験に出るかもしれないつていはれたから。結局、試験では出なかつたけど。  夏休みになつたつて、節子さんと遊べるわけぢやないし、海にも山にもプールにも行けないのだから、どうつてことはないのです。ただ、毎日学校に行つて、秋山さんや先生達と顔を合はせなくてすむだけでも、私には有りがたいのです。毎月八日の大詔奉戴日には、作文を書くのですけれど、私はその時間が一番嫌ひです。兵隊さんへの慰問文にしても、勤労奉仕のことにしても、私の頭にはいつもパパのことがひつかかつてゐて、何をかいても本当のことを書いてゐるのではないといふ気がします。お読みになる先生だつて、さう思つてお読みになるのだらうと思ひます。パパはパパ、私は私、といつもさう考へるやうにしてはゐるのですけれど。正直なところ、その私自身が、なかなか節子さんのやうな立派な軍国少女にはなれないのですから、困つてしまひます。  勉強もしないし、夏休みもないし、そんな生活なんて、学生生活とはいへないのではないかしら。もし、これからもずつと今みたいに勉強しないでゐても、来年になつたら節子さんは四年生になり、さ来年の春には卒業といふことになるのでせう。何も勉強しなくても女学校卒業です。そんなことはとてもをかしい。みんな休学にするべきです。私たちは、今、女学生ぢやありません。私はお百姓見習ひで、節子さんは女工さん見習ひです。そのことをもつと徹底的に、私たちはわかる必要があると思ひます。勉強することよりも、非常時の日本は今、生産することを必要としてゐるのです。私はもつと、真剣に働くことだけに徹底するべきだと思ひます。  するべき、するべきつて、今日のなおみは本当にをかしい。自分でもよくわかつてゐるのです。節子さんの知つていらつしやるなおみは、もつと別のなおみでせう。私はもうママと二人だけの毎日は我慢できないわ。ママは気違ひです。怒つてばかりゐて。何でもないことにいんねんをつけるの。そして、涙をぼろぼろこぼして、人を殺せばパパのところへ行けるかしら、なんていふのです。今すぐパパが帰つてこなければ、ママはきつと気が狂つてしまふわ。でも節子さん。なおみはまだ十四歳です。たうていママのお守りはできません。ママは甘つたれで我儘で、母親らしさなんてまるでないのです。私は本気でママを憎むときがあります。今のやうな非常時に、ママみたいな人がゐていいものでせうか。ママをみてると、私はきつと節子さんのことを想ふの。あといく日たてば節子さんにお逢ひできる、そのことだけをたよりに毎日を過してゐるのです。そして、あしたはその日です。  この夜が明けて、朝日がさしてきたら、私はきつとけだもののやうな叫び声をあげることでせう。 [#ここで字下げ終わり]       七月○日 [#地付き]丹羽なおみ    いつかまた節子は眠った。濃縮された思い出がわずかの時間に津波のようにつぎつぎと弱った肉体を襲うので節子はすぐに疲れるのだった。しかもその眠りの世界にさえ、彼らはすぐに這入りこむ。思い出がやや秩序だった行進をするのにくらべて、夢はまったく勝手なやり方で節子の中を走り抜ける。  しろい皮膚をさっと鮮血が走る。なおみに打たれて倒れた秋山義子の手がガラス戸を破ったのだ。血はどんどん流れ、みるみる足元をひたす。出血は手ではなく頸部だ。抱きかかえている節子は、腕の中の人間の余りの重さに自分も倒れてしまう。大泉さん、逃げなければいけない。日本のまわりはアメリカの軍艦に囲まれている。ききとれぬほどのしわがれ声が節子に告げる。節子の抱いていたのは秋山義子ではなくて沢辺惇だ。大泉さん、戦争はもう終りだ。いのちを大事に。沢辺さん、死なないで。節子は沢辺惇の血をふき出している傷口を両手で被って泣き声をあげる。重なった指の間からどくどくと血があふれる。被っているのは節子自身の口だ。こみあげる血は、節子の胸から逆流してほとばしったものだ。  こみあげる激しい咳に、節子は目覚めた。習慣的に横向きになった唇からごぼごぼと血を吐き出す。血が頬をひたし、耳をひたし、髪に浸みこんでいくのを、息苦しさに気の遠くなっていく中で節子は感じる。次の咳の発作が節子の意識をよびもどす。いく度かそういうことのくりかえしの後に、次第に喀血はおさまっていくのだった。そして現実の血の匂いが、夢の中の血の匂いに無造作に重なる。夢は現実の中から必要なものだけを勝手につまみあげ、ゆがんだ輪につなげてしまう。夢の中から不意に目覚めたので、現実のくら闇の時間まで、節子は夢を確かなままに持ちこんでいた。  節子が、自分は病気ではないかと思いはじめてから、それほど長い歳月が過ぎたわけではなかった。この冬にひいた風邪が永びいて、咳だけがいつまでも残った。五月のはじめの健康診断で肺の異常を発見されて、医師から学校へ戻り、養護学校へ通うようにすすめられたのを、節子は断った。どんなに微力であっても戦列をはなれたくないという節子に、受持ちの教師も医師も強いて学校へ戻るようにとはいわなかった。死が頭の上から雨のように降りそそぐ時代であった。力の限り、最後まで戦うことを要求されている時代であった。すでに、四月にはなおみ母娘が死んでいた。五月には父が、六月には母が、そして追いかけるように、肇の最後の葉書が届いた。七月には湧井捷一の訃が報らされ、八月には沢辺惇が死んだ。焼跡の防空壕に、孤独な夜々を過す節子は、病気を無視して、死にむかっての歩みを進めてきたことを心からよろこんだ。  八月十五日以後、節子は死の近づきようの遅いのにじれていた。ずかずかと死の中に踏みこんで行きたかった。しかし衰弱はしていても、若い肉体に死はきわめてゆるい足どりでしか近づこうとはしなかったのである。最後に死ぬ役目をひき当ててしまった節子は、必然的に多くの親しい人々の死に接しなければならなかったが、にぎりしめた掌からするりと生命が脱け落ちるような形で死に接したのは沢辺惇の場合だけである。焼夷弾で焼け死んだなおみ母娘の死は、死後一週間を経てようやく知ることができた。父は正確にいえば行方不明であったし、母は配給ものをとりに行く途中での機銃掃射で即死したので、節子が工場から戻ったときは、すでに冷たい屍《しかばね》であった。特攻隊を志願した兄や、湧井捷一の死は、節子には心も届かぬ遠さであった。沢辺惇ひとりだけが、節子の腕の中で、意識の消える瞬間まで節子に語りかけながら死んだのである。  大泉さん、戦争はもう終りだ。いのちを大事にしなければ。今までせっかく生きのびてきたのだから。あなたは病気なのだし、戦争はもう敗けたのだから、九十九里の沖にはアメリカの連合艦隊がもう何日も前から来ている。今、そこで降伏の交渉が進められている。ぼくの父は外務省の役人だから、この話はまちがいはない。あなたがこれ以上生命がけで真空管を何箇つくろうと、それは全く無意味なことだ。  夢の中で節子は沢辺惇にとりすがって泣いたが、実際にはほとんど泣かなかった。彼はずいぶん多くのことを語ったようだったが、爆弾の一片がその頸動脈を截《き》ってから沈黙するまで、おそらく一分に満たない時間でしかなかったであろう。沢辺惇は幼時に病んだ小児麻痺のために右足が不自由だった。工場が空襲されるたびに、二人はいつも最後にのこされて、うろうろと空いている防空壕を探さなければならなかった。はじめの頃は、節子が沢辺惇をかばうような立場だったが、後には不自由な足をひきずりながら、沢辺惇が節子を抱きかかえるようにして逃げるようになっていた。節子はひどい息切れのために、十米とは走れなかったのである。爆弾が落下したとき、節子はとっさに眼の前の無蓋の壕につき落されていた。土砂がなだれのように激しく防空頭巾に被われた節子の頭や肩を打った。その直後に沢辺惇の身体がくずれ落ちてきたのだった。真綿の厚い防空頭巾がなかったら、彼の首は断頭台の囚人のそれのように、地上にころがったことだろう。節子は沢辺惇の身体の重さに、重なるようにして倒れながらも、掌でその首筋の傷を被った。ききとりにくい最後の言葉に懸命に耳をすましながら、指の間からほとばしりあふれる、あたたかい、赤いものをじっとみていた。たとえどのような時代であろうと、病気になったら病気をなおすことが第一だ、と彼はそれまでにもくり返し、節子の無茶な生き方を批難した。そのようなとき、節子はよわよわしい微笑をみせるだけだったが、沢辺惇ががっくりとその頭を垂れてしまったときも、節子の口元には、かげのような或る表情がうかんだだけであった。彼の死は節子にとって別れを意味しなかった。間もなく、節子自身も同じ道を辿るのである。彼はただ、少し先に行って、その角をまがったところで待っているというだけのことなのであった。  このときになっても、たとえ息の絶えぎわに沢辺惇が語った言葉にどれほどの真実がこめられていようとも、節子には、日本が降伏するであろう、などということは考えることはできなかった。日本が勝っていないということは、事実としてわかっていた。しかし、敗れるということと、降伏するということは節子の中では同じではなかった。力尽きて敗れても、降伏することはない。最後の一人まで戦って死ぬのである。アッツ、サイパン、沖縄と、玉砕の報道に接するたびに、より一層の決意をもって本土決戦を誓ったのは、そういうことのためなのではなかったか。節子はそのように教えられ、そのように信じ、そのように生きてきた。いざ、本土決戦を前にして降伏するなどという恥かしいことを、どうしてできるだろう。口を少し開いたまま息絶えた沢辺惇の顔は、意外なほど幼くみえた。すでにもの言わぬ唇に指をふれてしずかに閉じながら、わずかに節子は涙を落した。  空襲警報が解除になると、節子はチリ紙の代りに使っている新聞紙のきれはしを敷いてその上に沢辺惇の頭を置き、戦災者に特配になった人絹《じんけん》の白い手拭いでその顔を被い、ひとりのろのろと職場に戻った。洗面所で血に汚れた手を洗い、水を少しのんだ。三班の沢辺さんが戦死されました。眼を伏せたまま、しずかな乾いた声で節子が告げたとき、ようやく機械が動き始めた工場に、空虚なものがひろがった。モーターのうなりだけがその空間を正確に横切り、一瞬静止した、人間の手の間を、ベルトコンベアがゆっくり無表情に廻っていく。どこで。いつ。少し前に。門を出て、最初の屋根のない防空壕の中です。人々は駆け出していき、節子は、自分の作業台の前に坐った。真空管のフィラメントの熔接が節子の仕事だったが、手にした細いピンセットの先が、今日はきわだって尖ってみえた。たとえようもない恐しい疲労感が、節子の全身にのしかかっていた。節子を押し倒した沢辺惇の身体の重さが、そのまま両肩にのこっていた。節子は作業台に両ひじをつき、両掌で額を支え眼を閉じた。眼の中を、いく筋もの光芒がはげしく交錯したが、そのめくるめくものが消えたとき、節子は自分の指に、洗っても消えない血の匂いを嗅いだ。指の間をほとばしった沢辺惇の血のいろを思い出す。節子は力のかぎり、傷口を押えたのだったが、彼のいのちは無情に節子の指の間をあふれ出ていってしまったのだ。血の匂いの漂うくらがりの中で、節子は今になって降伏するなどということのないように祈った。  再び人々が職場に戻ってきたとき、節子は平静な表情で作業を続けていた。大泉さん、あなたよく平気でいられてね! 秋山信子は眼を真赤に泣きはらしていた。沢辺さんは、あなたには特別によくしてくださったじゃないの。節子はものうそうに瞳をあげて秋山信子をみつめ、その後の人垣をみつめ、ゆっくりと視線をもとに戻した。そしていった。戦争ですもの。戦争してるってことは、こういうことなんだわ。最後は、ひとりごとのような呟きになった。節子の乾いた瞳の奥にある悲しみは、誰にも告げようがなかった。間もなく、確実に、自分も死ぬのだ、という思いだけが、わずかに節子を支えていた。その支えにすべてを賭けて、節子の頬にはうすいかげのような微笑がうかぶのである。あなたがそんなことをいうとは思わなかったわ。そういういい方は、非国民のいうことよ。秋山信子は力をこめて節子をにらんだ。八月十三日。二日後に終戦の詔勅の出ることを節子は知らなかった。  あなたなんか鳩野高女の恥よ。非国民の子が同級生だなんて、スパイで警察につかまってる人の子どもといっしょに勉強してますなんて、恥かしくてお父様にいえないわ。秋山義子のかん高い声が、廊下の曲り角のむこうからひびいた。パパにはパパの考えがあるのよ。自分の考えを守るということは、とても大切なことなのですって。なおみの細いがよく透る声が負けずにいい返す。今みたいな非常時にそんな個人主義は非国民なのよ。そんなこというんならあなたも警察につれて行かれればいいんだわ。何か聞きとれぬ短い言葉のやりとりがあって、なおみがいきなり秋山義子の頬を打った。週番で各教室の整理整頓をみまわって歩いていた節子たちが、急迫した事態を察して走って廊下を曲ったとき、ちょうど、なおみが秋山義子を打ち、打たれたはずみで秋山義子が倒れ、壁に並んでいる書庫のガラス戸に手をつっこんだところであった。ガラスが激しく砕けたわりには傷は軽く、手の甲に切り傷が少しついただけだったが、いくすじか血がにじみ出たので、居合わせた生徒たちは忽ち顔色が変った。ガラスの破片の始末を一同に頼み、節子は秋山義子を抱きかかえるようにして医務室へ連れて行った。血止めと消毒をし、マーキロを塗りていねいに繃帯をまき、養護教員は、更に三角巾でその手を肩から吊った。その丁重さには、傷にふさわしい手当よりも、秋山義子への特別な配慮が感じられた。怪我がひどくなくてよかったわね。と節子はいったのだったが、本心からの言葉であると同時に、やはり丹羽なおみへの配慮が言わせた言葉でもあった。  秋山信子、義子姉妹の父親は陸軍少将であった。仏教系の私立女学校である鳩野高女には、軍人の子女は少なかった。今は南方で戦っているということであるが、去年の紀元節には式に出席して、校長訓話に先立って軍服姿で挨拶をしていた。教師も生徒たちも秋山姉妹には特別な態度で接していたのである。一方、なおみもまた、特殊な立場にいた。渋谷に住んでいるなおみは、近くの都立女学校の入試にパスしていながら入学を許可されなかったのである。いうまでもなく、思想犯で下獄している父親が問題になったのであった。鳩野高女の校長は宗教家でもあり、なおみの母方の祖父と交友関係があったので、特殊な事情は承知の上で、なおみの補欠入学を許可した。職員の中には反対の意見のものもいたのだったが、反面、僧籍に在る教師も多く、過半数が校長を支持したので、なおみはあやうく入学できたのであった。しかし、そのようにして入学した女学校がなおみにとって楽しい場である筈がなかった。やせた肩をそびやかし、なおみは勇ましく、ひとりぼっちの学校生活に耐えていた。鳩野高等女学校は五年制の普通女学校であったが、中学、高等学校学年短縮要綱の決定に基づき、平常の五年生は前年の秋に繰上げ卒業し、四年生はすでに工場に勤労動員され、三年生の節子たちが今は最上級生であった。その節子たちもあとひと月余り、五月末には隣接の川崎市の工場へ学徒動員されることになっていた。秋山姉妹の姉の信子と同級だったので、なおみのことは早くから聞き知ってはいたが、なおみの父親のことで一緒になって眉をひそめるというような気持にはなれなかった。入学以来、折にふれて教えられてきた仏教的なものの考え方が、信仰といえるようなものではなかったにしろ、節子の中に育まれていたからである。どのような罪人でも仏に救いをもとめて来れば、救済するのがみ仏の慈悲というものであろうと節子は思った。まして校長先生がすべて了承した上で入学を認めたのであれば、生徒がとやかくいうことはないのだと思ったのである。  それにもまして、間もなく去っていく学校にいやな思い出を残したくはないという気持が強かった。幸い怪我は軽かったのだ。本当によかった、と節子は思った。しかし、蒼白な頬に涙を流してあやまるなおみを無視して、姉の信子の迎えを受けて秋山義子が帰ったあと、節子が一度教室に戻って、週番日誌に異常なしと記入して職員室に持って行くと、思いがけない出来ごとがそこにあった。数人の教師にとり囲まれて、なおみのかたい表情がじっと床の一点をみつめていた。教師たちもなおみも黙りこくっていた。人々に背を向けて日直の沖村は部厚い英語の本を開いていたが、節子のさし出した週番日誌に目をやると、異常なし、か。半白の髪をかきあげながら、口元を少し皮肉めかしてゆがめた。節子が一年に入学したときは英語の教師だったが、今は国語を担当していた。授業中に教科書をはなれて、ブロンテ三姉妹の話などをし、職員室では今は敵国語として拒否されている英文書によみふけったりするところがあった。君は知っているんだね。意識的にひくくいって、瞳だけでなおみの方をみた。はい。異常なしではすまないかもしれないよ。その時養護教員と教頭と担任に連れられて、なおみが校長室に呼ばれて行った。君には何かいいたいことがあるようだね。はい。今になって何かいうのはおかしいと思います。校長先生がよいとお考えになって入学をお許しになったのですから、もし何かいう生徒がいたら、最初からそういうことをいってはいけないという風に、先生方もおっしゃった方がよかったと思います。大泉節子は口数が少なく、勤勉で几帳面でしかもおだやかな性格を持ち、教師の立場からいえば申し分のない模範的な生徒だった。言葉づかいはおだやかだが、これは明らかに教師への批判である。沖村は、改めて眼を開く感じで節子をみつめた。それからペン皿の上から大きな印鑑をとり上げ、丁寧に朱肉をつけ、力をこめて閲覧者のらんにそれを押した。  停学というような表立ったことではなかったが、なおみは数日間、学校を休むようにいわれ、事件の目撃者ということでその時の週番たちも校長室によばれて事情をきかれた。他の生徒たちが事実に関したことだけをのべたのに対して、節子はなおみのおかれた立場について、日直の教師にいったのと同じことを、校長や教頭の前でもはっきりといった。そして、そのことが教師たちを一様に驚かせた。更に節子は自発的になおみの家を訪ね、なおみを伴って秋山家に謝罪にいった。秋山夫人は姉娘の信子をとおして節子とは旧知の間柄だったが、最後まで表情を和《やわ》らげることはなかった。それは単に愛娘に怪我をさせられたなおみへの憎しみというようなものだけではなくて、明らかになおみの父親への憎悪が加わったものであった。節子にはそのことの理不尽さがわかるのだったが、なおみは二重に傷つかなければならなかった。秋山家を辞したあとで、節子は頭をあげて、晴れやかな顔になってなおみにいった。できるだけのことはしたのだから、これ以上くよくよするのはよしましょう。 [#ここから3字下げ]  なおみさん  灰色のノート、ありがたうございました。あなたのお書きになつたところを、何度も繰り返して読みました。あなたは文章がお上手ですね。自由にのびのびと書いていらつしやいます。たくさん、御本を読んでいらつしやるから、と思ひますが、それだけでなく、いろいろなことを自由に考へることがお出来になるからだと思ひます。私は駄目なのです。学校でも作文が一番苦手でした。  この前の日曜日、あなたが持つてきてくださつた御本はみな机の上に積んであります。「あしながをぢさん」「ばらは生きてる」「君達はどう生きるか」そして「チボー家の人々」。私は今まで小説を読むことが余りなかつたので、本当は少し困つてゐるのです。私にはあなたのお友達になる資格がないのではないかと思つたりします。でもあなたのお話を聞いてゐるのは、とても楽しいのです。できるだけ一所懸命、御本も読むようにしますから、それで許してくださいね。  何しろ、朝早く工場へゆき、夜帰つてくると警報で電気がつかないでせう。電気のつく晩は学校の勉強を少しづつでも続けていかうと思ふのです。あなたは勉強しない学生は学生ではないと書かれましたが、私はさういふふうには考へません。動員されて工場で働いてゐても、私は学生なのだから、少しづつでも勉強しようと考へてゐます。数学と物象と国語と歴史を、せめて三十分づつでも自習するやうにしてゐます。兄が受験勉強に使つた参考書がありますので、それでやつてゐます。警報で中止しなければならないときは、残念な気がしますが、でも、一所懸命にやつてゐます。長期戦に勝ち抜くためには、学生はやはりきちんと勉強しておかなければならないと思ひます。  今朝は早く起きて、南瓜の交配をしました。防空壕の屋根に南瓜を這はせたら、もう七つも実がついてゐます。南瓜の黄色い花は非常に美しいと思ひました。交配のあとの花びらを集めてコツプの水に浮かべて机の上に置きました。もうぐつたりとして、黄色い色は美しいままでも、枯れてしまつたのです。此の前の日曜日にはなおみさんがノートを持つて来てくださつて、此の次の日曜日には私がノートを持つておうかがひするのでした。このノート、今日書かなければ何も書けずに二週間過ぎてしまつて、なおみさんに叱られるところですね。  はじめはただ夢中で、熔接機を踏んでゐるだけでしたが、この頃やつと工場の生活に慣れてきました。一箇の真空管を作るのも、信じられないくらゐ沢山の工程があつて、私のしてゐる事は、きはめて小さな一部分なのです。でも、その一部分がなければ、一箇の真空管も出来ないのですから、おろそかにはできません。国と国民の関係と同じだと思ひます。大東亜共栄圏の理想のもとの聖戦に、私も一人の国民として参加してゐるのだといふ思ひが、ひしひしと感じられます。最初、事務室勤務を命じられたのですが、どうしても現場で作業をしたかつたので変へていただきました。そして、それが本当によかつたと思つてゐます。事務室勤務は人数も少ないし、仕事も現場のやうに作業台の前で一日中坐りつづけるといふやうなものとは違ひますので、何となく楽しさうに見えるのでせうか。現場の人の中には事務室勤務の人を羨ましがる人もゐますが、私は、さういふ人は自分の任務についての自覚が足らないのだと思ひます。  この前、お逢ひして感じたこと。あなたはとても変つてしまひました。学校でおとなしくしてゐるといふことが、私にもわかるやうな気がします。本当なら偉くなつたとほめてあげなければならないのでせうね。でも、余り無理をして、自分を変へないでください。少なくとも私の前では、自由にものごとを考へ、何でもおしやべりをしてくれる元気のいいなおみさんでゐてください。私となおみさんとは、育つた環境も、現在の生活も、ものの考へ方もみんなちがひますが、それでも私たちは仲良しのお友達になれると思ふのです。いつか、二人の考へ方が同じになるとしても、それまでの自然な気持の成長を大切にしたいと思ひます。 「チボー家の人々」、やつと「美しき季節」を読み終りました。この巻は本当に脱行が多いですね。もつとも全部書かれてあつたとしても、私には半分も理解できないかもしれません。「灰色のノート」や「少年園」も、私にとつてはむづかしかつたのですから。あなたが小学生の時に、これをお読みになつたといふことが、信じられない位です。フランス人と日本人とはものの考へ方や、肉親の愛情や友情などでも、随分ちがふのですね。私の父は徴用工で日本飛行機に勤めてゐますが、以前はタクシーの運転手をしてゐました。田舎の小学校を出たきりで、いろいろ苦労をしたといふことですが、兄が中学生になつてからは親子で言ひ争つたりしたことは一度もありません。わづかのお酒に顔を赤くしては、田舎の小学校でずつと級長を通したこと、高等科に行けるものと思つてゐたのが結局は駄目で奉公に出されたこと、どうしても勉強したい気持を押へることが出来ずに、都会へ出れば働きながら夜学へ通へるかもしれないと考へて奉公先をとび出したこと、などをくり返し話しては、学校だけは出なければいけない、といふのでした。兄が理専に入つたのを一番喜んだのは父でした。でも、兄が、せつかく入つた理専をやめて海軍に志願するといつた時も、反対はしませんでした。ただ、それから後は、お酒をのんでも学校だけは行かなければいけないといふやうなことは、二度といはなくなりましたけれど。  チボー氏とジヤツクの間の激しい愛情や憎しみなどは私には想像することもできません。そのことは、「宗教」についても同じことがいへると思ひます。同じキリスト教なのに、カトリツクとプロテスタントがどうしてそんなに反目しあふのかわかりません。アントワーヌとラシエルのことも全然わかりません。ごめんなさいね、なおみさん。私がどんなに恥かしさを忍んでこれを書いてゐるか、といふことがわかつて頂けたらと思ひます。何度も同じ言ひ訳をするやうですが、私は小説といふものをこれまでほとんど読んだことがありませんでした。ただこれだけは言へるのです。少しこはいやうな気もしますが、段々本を読むことの楽しさがわかりかけてきたのではないかと思ひます。  私の知つてゐる宗教といへば、仏教しかありません。が、一年生のとき講義を受けた「修証義」は、今でもよく憶へてゐます。「徳あるは讃《ほ》むべし、徳なきは憐れむべし、怨敵《おんてき》を降伏し、君子を和睦ならしむること愛語を根本とするなり、面《むか》ひて愛語を聞くは面を喜ばしめ、心を楽しくす。面はずして愛語を聞くは肝に銘じ魂に銘ず。愛語能く廻天の力あることを学すべきなり」私の好きな一節です。  では、お逢ひする日を楽しみに。 [#ここで字下げ終わり]       七月○○日 [#地付き]大泉節子   節子の渇きは、もうどんなにしても忍べないまでになった。節子は渇きのために死ぬのなら、水を求めて死ぬ方がまだましなのではないかと思った。眼を見開いても闇の他は何も見えなかったが、空気は夜であった。涼しい秋の気配があった。頭上で虫の声が聞こえた。大地までが、もろく赤く焼け焦げたときに、虫たちは何処にひそんで耐えたのであろうか。八月十六日、学徒隊が解散になるとそのまま起き上れなくなってしまった節子は、夜毎のかすかな、ほそぼそとした虫の声に、奇跡をみるような驚きに浸った。焼跡の赤茶けたぼろぼろの土の上の、わずかな草むらに、虫たちが生きている。虫たちは生きている! 虫たちは生きているのだ!  節子のくらやみの中に、幾条かの光のような緑の線がうかぶ。絹糸のように細い、しかしあざやかな、つややかな緑の生命。  節ちゃん、明日から焼跡の整理をするから、朝、出かける前に少し手つだってね。  母がそういったのは六月の半ば過ぎになってからであった。五月二十九日の空襲で家を失った後、節子たちは、横浜駅の引込線に入っていて半ば焼けた京浜急行の電車の焼残った車輛に、近所の数家族と共に寝起きしていた。母が持ち出したわずかの衣料と、食糧、床下に埋めておいた非常食品、更に戦災者特配などでしのげるだけしのいだ十数日間、節子は平静に工場通いをし、母は行方不明になった父を探すといって、終日出かけていた。空襲の日、父は風邪気味でふだんよりかなり遅く出勤した。警戒警報が既に出ていて、今日は休んだらどうかと、口先まで出かけていた言葉を、ついのみこんで言わなかったのだと、母は悲しみともいきどおりともつかぬ調子で繰り返し節子に訴えた。帰ってくるのではないかという願いが、二日、三日と過ぎてゆくうちに絶望にかわり、早朝から日暮れまで、せめて遺骸だけでもと、母は尋ね歩いたのであった。方々で屍体が仮埋葬されてからも、なお母は毎日出かけていた。疲れ果ててものもいわず、ゴツゴツした戦災者特配の土色の毛布を頭から被って、電車の座席の隅にうずくまる母を、節子はいく夜も黙って見守っていた。そして、自分も又疲れやすくなっている体調に気づいてはいたが、焼け残ったコンロに燃え残った木材の切れ端を燃やし、雑炊やすいとんを作って、母に食べるようにすすめた。日曜日の朝。早朝に起きて、一週間着通した汗だらけの肌着を水洗いだけして干しながら、今日は、私もお母さんと一緒に行くわ、と節子はいった。どの辺まで探してみたの。母は淋しい顔で首を振った。硝子の割れた電車の窓からぼんやり外を見ながら、その視線は捉えがたかった。人手や物資の都合のつく家では焼跡を片付けてバラック作りが始り、今まで頑張ってみたが、遂に見切りをつけて地方へ疎開する家族もあり、最初は奇妙なにぎわいさえあった電車の中も、今では節子たち母娘だけになっていた。  節ちゃん。ほんとはね。余り探していないのよ。はじめは京浜急行に沿って、ずっと父さんの会社まで、杉田の日本飛行機まで、ずっと探しつづけるつもりだったの。でも、一人一人、身体を起して、見憶えのあるものはないかと、黒焦げの死体の山を見てまわっているうちに、とてもそんなこと、出来なくなってね。何か、こう胸が苦しくなって、目がくらくらして。多勢焼け死んだところでは、男だか女だか、まるっきり区別もつかないのよ。この人たち、みんなそれぞれ家族をもって、この日まで何とか暮してきたのにと思ったら、もう、とても一人一人ひっくりかえして、口の中まであけたりして、お父さんだけを探そうなんて、思えなくなっちゃったの。お母さんはだめね。他の人は、みんな一所懸命探してるのに、あきらめたりはしないのに。黄金町の駅から、関東学院の方へいく坂道があるでしょ。あそこまではどうにか行ったの。でも、そこで動けなくなってしまって、そのままじっとしてたのよ。焼け死んだ人たちの間にじっと坐って眼をつむっていると、自分も一緒に死んだみたいになってね。そばで死んでいるのは、ほんとうはお父さんかもしれないと思ったり。死体が片付けられたあとでも、毎日、そこに行って坐っていただけなの。同じことだったのよ。お父さんだって、お父さんじゃなくったって、同じことだったのよ。  しかし、節子は、その日しぶる母を引っぱって母が歩いたという焼跡を自分でも歩いてみた。母の見た屍体の山はすでになく、見渡す限りの瓦礫《がれき》の原も、すでに目新しいものではなかった。節子自身もこの瓦礫の中に生きているのだ。太陽を被って昼を夜に変えたあの日の凄まじい黒煙もすでに消えて、みの虫が枯葉を身にまとって生きるように、焼け残った柱や土台石やトタン板をつなぎ合わせて、わずかに身を寄せ合う場所を作り上げた家族さえあった。節子は、母がいく日も坐りつづけたという坂道に、長い時間|佇《た》っていた。眼を閉じると、遠い日の父がさまざまの姿でその不透明な空間を横切るのだ。ささやかな庭の小さな池にあふれるばかり金魚を飼った父、夏祭りの子供みこしに、そろいの浴衣の裾をからげ、豆しぼりの鉢巻姿で終日ついて歩いた父、夏毎に鉢仕立ての朝顔を育て、その大輪の花々を愛した父。父の姿は不思議と夏の風景の中にあった。お父さんは寒がりだったから、きっと冬は炬燵にもぐってばかりいたのだわ、と節子は思った。節子の胸に、再び母の言葉がよみがえる。同じことだったのよ。お父さんだって、お父さんじゃなくったって、同じことだったのよ。母の見た焼屍体の山の、その、一人一人がそれぞれの暮しを持っていたのだ。父の思い出に重なって、その家族だけが知っている死んでいった一人一人の思い出の重さを、節子ははっきりと感じていた。そして、涙にくもる瞳をしっかりと据えて、荒漠と広がる黒焦げの町々を全身に受けとめながら、いつもと同じつぶやきを、心の深いところでくりかえしていた。これが戦争なのだわ。母は、その翌日も翌々日も出かけたようだった。しかし、やがて出かけることをやめて、焼跡の整理をするといい出した。母の中で父の死が定着するまで、半月余りの時間が必要だったわけだが、その時間は長かったとも、また意外に短かったとも節子には思えた。  その朝、梅雨のはじめの煙るような空の下で、節子は母と力を併せて、一枚の焼トタンを起した。トタンの下には思いがけない黒々とした土があった。そして土台石の際に、絹糸を切って並べたようなあざやかな黄緑のいろが、いくすじか立っていたのだ。それは太陽の光を知らない如何にも弱々しい草の芽だったが、まごうかたなく草の芽であった。母と娘は一様にひざまずいて、その緑に指を触れた。やがて母はそのままの姿勢で、両手で顔を被った。しずかな嗚咽《おえつ》がしばらくその指の間を洩れた。決してよみがえることのない父の生命を思いながら、節子は泣いている母をみていた。  くらやみの中で節子は虫の声を聞き、その虫を棲まわせている雑草のつよさを思った。草も虫も戦争には関わりないのだ。だからこそ、生きて、よみがえることを、神から許されているのであろう。だが人間はちがう。戦争をした人間が、よみがえることはないのだ。戦争を拒否したなおみの父や湧井捷一さえ死んだのではなかったか。節子は自らの死の足音を聞くために耳を澄ました。そして、ふたたび虫の声の中に絹糸のようなみどりの草の芽を見た。  大泉さん、お入りにならない。青空に飛ぶボールは雲と同じ白さである。お昼休み、男子学生も女子学生も一緒になってバレーボールの円陣パスに興じる。節子は笑っているだけだ。ふだんは黒かそれに近い上着を着なければならないことに決っていたが、作業中や休憩時間は白い半袖になってもよいのだった。もう夏が近く、京浜地区は見渡す限りの焼野ガ原となり、空襲も以前程度々はなかった。その代り夜毎のように地方都市が業火の中に潰《つい》えていた。節子は建物の壁によりかかって、級友たちの元気のいい動きを眺めている。夏が来ても節子には着替える夏服がない。母が床下に埋めたり、防空壕にしまったりしておいた衣類はほとんど外出着ばかりであった。二度と買えないかもしれないからといって、自分の若かったころの着物を丹念に始末しておいてくれたのだったが、今の節子は白い半袖の木綿のブラウスがほしかった。もっとも、それを着てバレーボールをすることはもう出来なかった。セルのモンペと上着は着ているだけで汗がにじみ出てくる。節子は級友たちの動きを追いながら、ただ見ているだけの自分を、しかしそれほど淋しくは思わなかった。やや離れた青桐の木蔭に、沢辺惇がやはりバレーボールを見ているからだ。沢辺惇には誰も声をかけない。彼の足の不自由なことは誰もが知っている。しかし、たまに転がってくるボールを拾って投げかえすときの動作が、彼がたしかな運動神経の持主であることを語っていた。節子は今、息切れや咳込みを恐れてバレーボールをしないでいるが、ほんの数カ月前まではみんなの中にいたのである。そして、その時も沢辺惇はただ黙って、それを見ていたのだ。  節子の目は白いボールを追い、みんなの笑うときは共に笑顔になるのだったが、節子は知っていた。私がここにこうしているのは、バレーボールを見るためではない。そして、そのことを思うと、恥かしさと後めたさで身体中がふるえてくるような感じになるのであった。しかし、節子は内心の動揺に耐えて、じっと佇ちつづける。バレーボールの円陣のくずれそうでくずれない、不規則な動きを見つめつづける。やや斜め向いに、じっと動かない黒い学生服の人かげを、いつも視界の一隅に捉えながら。 [#ここから3字下げ]  節子さん  新聞をごらんになりましたか。  パリ、陥落す。  私は今とても複雑な気持でゐます。友邦ドイツが敗けてゐるといふことは、本当は悲しく口惜《くや》しいことでなければなりません。でも、今、私はさういふ気持ではありません。パリの人たちが喜んでゐるのがわかるのです。ジヤツクやジエニーは小説の中の人物にすぎないのですけれど、私にとつてはただの小説の中の人物ではないのです。私がどんなに一所懸命になつて「チボー家の人々」を読んだか、節子さんにだつておわかりにならないと思ひます。あの人たちは、ひとりぼつちだつたなおみの、大切なお友達なのです。だからあの人達の愛したパリは、私にとつても大切な場所なのです。  新聞には、パリ、陥落す、と書いてありますけれど、本当は陥落といふのとはちがふのではないかしら。だつて、この前のとき、この前ドイツが攻めたときに、パリは陥落したのですもの。あのとき、パリはとてもあつさり陥落しちやつたのでした。学校で、先生やみんながドイツは強い、フランスは駄目だといつてゐるのを聞いてきて、うちで話したら、ママはいかにもパリらしいつていつたのです。パリは百年戦争の昔からもう何度も攻撃されて陥落した歴史があるのですつて。でも、どんな戦争だつて必ず終る時がきて、パリは平和がくると不死鳥のやうによみがへるのですつて。戦争で駄目になつたりはしないのですつて。なおみはまだ小さかつたのでママの話はよくわからなかつたのですけれど、話してくれたことはよく憶えてゐました。そして、ずつと考へてきて、今ではよくわかつてきたと思ふのです。  節子さんとお友達になつてから、私は日本人らしい暮し方、日本人らしい考へ方をすることができるやうになりたいと思つて、ずつと努力してきました。今ではママとはまるで違ふのだと考へてゐたのですが、今日、新聞を読んでママが、いやな時代もそろそろ終りね、と喜んでゐるのをみながら、なおみは本当はどうなの、と自分に聞いてみたのです。節子さんなら考へるまでもなくつらい気持でこの報道をお聞きになつたのにきまつてゐます。でも、はじめに書いたやうに、私はちがふのです。そのことで、今日はずつと暗い気持でした。なおみはまだまだ駄目なのだと思ひました。そして、どんなに努力しても結局は節子さんのやうに、日本人らしい生き方のできる立派な軍国少女にはなれないのではないかと思つたのです。  節子さん、フランス人の戦争と日本人の戦争はちがふのでせうか。サイパン島には婦人や子供も多勢ゐたさうですが、全員玉砕しました。でも、パリの人たちは玉砕はしません。はじめにパリを攻めて陥落させたドイツ人は、今度玉砕したのでせうか。それとも、大和魂の日本人だけが玉砕するのでせうか。ママが新聞の社説といふところを読んでゐて、本気でこんなことを考へてるのなら、みんな気違ひだ、とぷんぷん怒りました。サイパンが玉砕してアメリカが占領してそこに飛行場ができれば、日本はどんどん空襲されるやうになる。日本の本土が戦場になる。それでも本土決戦まで、あくまで戦ひ抜くのだ、と書いてあるさうです。そしてママは、日本人全員が玉砕するまで戦争しつづけるなんてことを、本当に信じてる人間がゐるなら、その人は気違ひだ、といふのです。  私にはわかりません。気違ひは、本当はママの方なのかもしれませんわ。  私は、ひどく絶望的な気持でゐます。ジヤツクがメネストレルの飛行機でビラをまかうと思つて、失敗したときと同じ気持かもしれません。私は、節子さんのやうに立派な日本の少女になりたいのに、たうていなれさうもないといふことがわかつたのですもの。同盟国のドイツが敗けさうになつて、連合軍がどんどん優勢になつてきてゐるのに、その方がよかつたなんて思つてゐる自分がとても許せないのです。でも、どうしても、パリがパリの人たちのところに戻つたことを、悲しむ気持にはなれないのです。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]なおみ  [#ここから3字下げ]  節子さん  今夜はとても暑いのです。暑くてくしやくしやして、その上ママが猛烈にごきげんが悪かつたので、私は泣きたくなつて家出でもしたいくらゐです。ジヤツクとダニエルが家出して、マルセーユの町をうろついてゐたときのことを思ひ出しました。そして、今はどこにもパンを売つてゐるお店なんかないし、米穀通帳がなければ外食券だつて貰へないのだから、うつかり家出もできやしないと思つたら、悲しいやうなをかしいやうな、変な気持になりました。  今日の昼間、大森のおばあさまが久しぶりに家へみえました。大森のおばあさまはママのお母さんです。ママは末つ子でしかもたつた一人の女の子供なので、凄く可愛がられて育つたのに、パパの事件以来、大森のおぢいさまと絶交してゐるのです。おばあさまもおぢいさまに叱られるのでお手紙もめつたにくださらないくらゐです。それが今日は、今度長野県の諏訪市に疎開することになつたので、ママにも一緒にくるやうにとすすめにきたのでした。一緒にといつても、同じ家に住むのぢやなくて、おぢいさまに内緒で近くに別の家を借りてあげるといふことなのでした。おぢいさまは昔から機械の部品を作る工場をやつてゐて、おぢいさまの発明した特別な部品を今は陸軍に納めてゐるのです。だから、陸軍の偉い軍人さんとも多勢おつきあひがあつて、ママは自分の生れた家にもいかれないわけなのです。今度も陸軍の命令で、工場ごとそつくり疎開することになつたのださうです。ママが断つたので、結局おばあさまはお別れを言ひに来たことになつてしまひました。おばあさまは、お帰りになるときに、ママがわがままだからなおみも苦労するね、といつて涙をこぼしました。私はとても皮肉な気持でそれを聞きました。ママがわがままだから苦労するのは本当だけど、それはおばあさまのおつしやるのとは意味がちがふのですもの。ママはパパが好きなのです。そしてなおみもパパが好きなのです。(だつて、パパは本当に素敵なの。節子さんにご紹介できないのがすごく残念!)悪いけど、おぢいさまなんかとは較べものにならないわ。だから離婚もしないし、パパと暮したこの家を離れるのもいやなのです。それに、パパとのことを別にすれば、おぢいさまはとてもよい方なの。私たちが本当に困つてゐるとき、助けてくださつたのはいつもおぢいさまでした。私が女学校に入れなかつたとき、鳩野へ入れるやうにしてくださつたのもおぢいさまだし、パパがいなくなつてからずつと、ママのところへ小切手を送つてくださつてゐるのです。今度の疎開も、おぢいさまには内緒といふのは、多分表向きだけなのだと思ひます。なおみの苦労はそんなことぢやありません。  おばあさまがお帰りになつてから、ママはお酒を飲みはじめました。お酒はせうちうといふのです。ママは闇屋さんと仲良しで、うちには焼酎だつて食べ物だつて物々交換のできるものなら何だつてあるのです。一人娘のママがお嫁に来るとき、おばあさまはばかみたいに沢山の着物をつくつて持たせたのですつて。ところがママは結婚してからは洋服ばかりで、一度も着たことのない着物が納戸いつぱいあるのです。今頃になつて着物を食べようとは思はなかつた、つてママは笑ひますけども。はじめはおとなしく、すみれの花咲く頃、なんて歌ひながらのんでゐたのに、段々酔つぱらつてきて、どうしてパパみたいな人好きになつちやつたのかしら、とか、パパなんか死んぢまへばいい、とか、しまひには、ああ戦争はいやだ、なんて大声でわめいたりしました。そして食べたものをみんな吐いて、真青な顔で、涙でくしやくしやになつて、なつちん、ごめんね、なんてぶつぶついひながら、眠つてしまつたのです。  節子さん。なおみを助けてください。もう、とても、我慢できないわ。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]なおみ  [#ここから3字下げ]  節子さん  今朝、私が起きたらママが珍しくエプロンをかけてお掃除をしてゐました。ゆふべ散らかしたままだつた食堂もきちんと片付いてゐて、食卓の上に幕の内弁当みたいなのができてゐました。ママは三時半に眼が覚めて、それからずつと働いてゐたのださうです。ふつかよひで頭がぢんぢんするの、といつて、青い顔をして淋しさうに笑ひながら、なつちん、ごめんなさいね。ママが悪いつてことはよくわかつてるのよ。なんていはれると、私はなんて返事をしていいのか、本当に困つてしまひます。  それから二人で朝ごはんをいただいたのですけれど、ママがなおみだけはおばあさまと一緒に、諏訪へ行つてはどうかといふのです。ママはこの家を離れるつもりはないけど、なおみはまだ小さいし、なおみなりの人生があるのだから、パパやママとつきあふことはないといふのです。  私は、そのときは、少し考へさせて、といつてその話はやめてしまひましたが、その後ずつと考へてゐるうちに、私の考へ方が結局は、とても個人主義的だといふことに気がつきました。  ママと二人だけの気が狂ひさうな毎日のことを考へるとおばあさまやおぢいさまと一緒のしづかな暮しがとてもすばらしいものに思へてくるし、節子さんとお別れしなければならないことを考へると、とんでもないと思ふのです。それにもしパパが帰つて来たときに、ママだけが先にパパに逢ふのなんてずるいと思つたり。  でも、さういふ考へ方が個人主義的な考へ方だといふことに気がついてから、私の決心はきまりました。なおみは諏訪へは行きません。理由は簡単です。私たちはもうすぐ蒲田の製薬工場に勤労動員で行くことになつてゐるのです。こんな私だつて、やつとお国のために役立つ時が来たのです。節子さんだつたら、決して疎開なんてしないだらうと思つたらすぐに決心がつきました。  でもね、節子さん。私はその時つくづく運命といふことを考へたのです。私がもう一年遅く生れてきたら、今は国民学校六年生で考へるまでもなく疎開しなければならなかつたのですもの。たつた一年間のちがひで、もつといへばたつた一日、一時間のちがひで運命が変るといふことだつて考へられますわ。それにしても、私に働くことなんてできるのかしら。それが一番心配です。ママは私が働くなんてことをはじめから信用しないけど、無理もないと思ひます。働くつてどんなことかしら。  ずつと前に節子さんにお聞きしたとき、節子さんがなんておつしやつたか、憶えていらつしやいますか。大変といへば大変だし、簡単といへば簡単なの。簡単だから大変だといふふうにだつて言へるかもしれないわね、ですつて。私、節子さんからこんなあいまいな言葉を聞いたのははじめてです。それだけでも働くといふことが想像を絶する(私、今、「南極探検物語」といふ本を読んでゐるのです。白瀬中尉もアムンゼンもスコツトも、みんな想像を絶する苦労をしたのです)といふことが想像できます。  とにかく決心がついて、今はとてもすつきりした気持です。ママのことは許してあげてください。ママはかはいさうな人なのです。その代り、ママの分までなおみがお国のために働きます。本職の女工さんにだつて負けないわ。野沢富美子の「煉瓦女工」をもう一度読んでみるつもりです。  節子さん。  でも、本当は節子さんだけが頼りなのです。どうぞ、なおみをよろしくお願ひします。       九月○日 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]丹羽なおみ   節子の耳もとを数匹の蚊がうるさくとび始めてもうかなりの時が過ぎた。頬に止まる。頬を動かす。蚊は頬を離れる。しかし決してとび去りはしない。耳にとまったり、首すじに止まったりする。節子は、蚊に血を吸われることを今でもなお、本能的に嫌ってしまう自分にむしろ驚くのだ。血にまみれ、泥にまみれ、汗にまみれ、胸をつく悪臭の塊となってただ横たわっているにすぎないいまの節子に、蚊を嫌う理由があろうか。節子はノートを持っていない方の手を虚空にのばして指だけをわずかに振りながら、蚊を追っている自分の姿を、闇の中に見たと思った。視界はまったくないのだったが、皮膚が視力を持ち始めたかのようであった。蚊は空間を飛び、時に節子の皮膚に触れるが、わずかの身動きにも気弱くとび立つ。それに較べて、虱はひどく図々しかった。節子のやつれ果てた肉体に巣喰っているにしては、虱たちは理不尽に肥えているように節子は思う。もう何日も着たきりの肌着の縫い目に、びっしりと並んでいるであろう白い卵の列を節子は闇の中に見つめる。信じられない位の大きさに太りかえった虱の卵がゆらゆらと動き始める。卵が孵《かえ》って虱になるのだ。その虱が卵を産み、その卵がまた虱に孵る。忽ち節子の全身を虱が被うのを節子は感じる。私が死んだら、虱はどんなに困ることかと節子は思う。胸に手をさし入れ、ぬるぬるした皮膚の上にそっと指をすべらせていくと、平べったい小さな丸みが感じられ、次の瞬間にそれは指の腹をすり抜けてしまう。細い短い幾本もの足を、もがくように動かして逃げてゆく小さな白い影が、節子には見えるのだった。  吉田さんと仲良くしない方がいいことよ。と秋山信子がささやいた。まるい大きな瞳が秘密めいて輝く。吉田さんには虱がいるのよ。だから仲良くするとうつるわよ。節子は驚いて秋山信子をみ、それから何となく仲間外れの感じのする吉田朝子をみた。吉田朝子は極端に無口な少女だった。級で唯一人の農家の娘である。すでに戦争は始っていたが、日常の生活にこと欠くという程ではなかった。むろん娘を女学校に通わせることの出来る自作農のくらしで、虱のわくような不潔な生活をしているはずはないのだったが、都会風の少女達の集りの中では、彼女の田舎っぽさは妙に目立った。  少女達は表面では同じように友だちづきあいをしながら、やはり巧みに吉田朝子をさけていた。三年前の春。少女たちは新まいの女学生で、自分自身を何か特別な存在にしてみたかったのかもしれなかった。  あれから三年。節子は見た。朝礼で節子の前に並んでいる秋山信子のおさげ髪の毛の間を、虱が出たり入ったりしていたのを。硝子が割れる程の満員電車で身動きもならず工場へ通う少女達の頭から頭へ、虱は容易に動きまわることが出来た。職業軍人の父を持つ秋山信子が、衣料や石鹸にそれほど不自由しているはずはなかったが、それでも一度とりついた虱を退治することはきわめて困難なことであった。吉田朝子は、毎日、白米の弁当を持ってくる。教師や職場の係長に生卵を贈ったりする。絹セルのモンペの上下を何着も持っていて、アイロンのきいたきちんとしたものをいつも身につけている。そして冬には、厚いみごとな外套を着てきたりする。しかし、節子は見た。その吉田朝子さえ風にゆれるおくれ毛に、虱の卵をびっしりと並ばせているのを。  節子も家が焼けて以来、忽ち髪ばかりか身体の虱にもとりつかれた。髪の虱は黒く、身体の虱は白い。母は必死になって洗面器で衣類を煮沸したが、風呂にも入れず、ろくに着替えもないくらしでは、退治するより殖える方が早かったのである。  私が死んだら、虱たちはどうするのだろう。  節子は、暗闇に、もぞもぞと虱が列をつくって、節子の死骸から離れていくのをみた。虱たちはまっしろに、つややかに、まるまるとふくらんでゆき、限りもなく大きくなっていく。虱に見捨てられた節子は、みるみる白骨と化し、音もなく崩れ、ただの灰となって底なし沼に沈むように、くらい大地に消え果ててしまうのだった。 [#ここから3字下げ]  なおみさん  今日は、珍しいものを沢山持つてきてくださつて、ありがたうございました。お砂糖を使つた本物のおはぎの味など、すつかり忘れてしまつてゐました。お海苔だのたたみいわしだの、父の大好物ばかり、ちやうど工場でお酒の特配があつたとかで、今夜の父は満足さうです。  でもなおみさん。こんなに沢山の物を持ち歩いて、もしみつかつたら大変なことになります。どうぞもう、そんな危いことはしないでください。どんなに頂いても、お返しするやうなものは私の方には何もありませんし、それにとても言ひ難《にく》いことですが、どうしても気持が落着かないのです。自分がしてはならないことをしてゐるといふ気持を忘れることが出来ません。勿論、配給だけでは、父も私もお国のために働きつづけるには不足ですから、休日に買ひ出しに行くことはあります。でも、やむを得ないものの他は、さういふことはしたくないのです。わかつてください。せつかくの御親切を、お断りするのは本当に心苦しいのですが、あなたにはわかつていただけると思つてをります。お母さまには、なおみさんからよろしくおつしやつていただきたいのです。  工場には鳩野高女だけでなく、東京や川崎の女学校の生徒たちも来てゐます。私達の課で一緒に働いてゐる里見高女の人達は、今でも以前と同じ純毛の制服を着て、形のよい紺サージのズボンをはいてゐます。黒い靴下をはき、牛皮の靴をはいてゐます。作業をする時は、花模様の純綿の縁飾りのついた前掛をつけます。作業が終るとよい匂ひのする石鹸で手を洗ひます。特配の雑炊は少年工にあげてしまひます。  どうしてそのやうな物を手に入れることができるのか、私は不思議でなりません。そのやうなものは絶対配給になるはずはないのですから、買溜めをしてゐたか、闇買ひをしたかのどちらかなのに、少しも恥かしく思つたりはしないのです。そして、さういふ物を持たない、つぎの当つた人絹の服を着て、ボロ靴をはいてゐる他の人達は、その人達を軽蔑するどころか羨ましがつてゐるのです。里見高女の人と仲良くしてゐる友達の話ですが、お誕生日のお祝いに招かれて、お赤飯や洋菓子のご馳走になつたさうです。あなたの家だけでなく、今のやうな時代でも、物に不自由をしない人達もゐるのだといふことは事実なのです。  でも、私はさういふことを自分もしたいとは思ひません。戦場の兵隊さん方のことを考へたら、そんなことは絶対にできません。私は、今のやうな非常時に、日本国民の一人として恥かしくない生き方をしたいのです。  私があなたの御親切をお断りする理由の中には、日頃から感じてゐるさういふ気持のあることをわかつてください。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]大泉節子  [#ここから3字下げ]  なおみさん  この前、あなたは兄のことを聞きたいといつてゐましたね。私は話が下手で、お逢ひするとあなたのお話をお聞きするばかりなので、今日は兄のことを少し書いてみます。  大泉 肇 二十二歳  東京理専に行つてゐましたが去年の十二月、海軍予備学生を志願して出征し、今、北浦航空隊にゐます。  兄は本当は汽車が好きで、汽車で戦へるのでしたら、飛行機に乗らうなどとは考へなかつたと思ひます。でも線路の上でしか動けない汽車は戦争の役には立ちません。  私の家には兄の作つた模型機関車が沢山あります。兄は機関車だけでなく貨車も作つて、それには色々な荷物が積みこまれてゐて、長く連結出来るやうになつてゐます。をかしいのは、機関車も貨車も本物そつくりなのに、兄の描いた牛は、角がなければ馬だか豚だか犬だかさつぱりわからない位、下手なことです。  兄の夢は、大人になつて自分で働いて月給を貰ふやうになつたら、本物そつくりに石炭を焚《た》いて、本物そつくりに煙を吐いて走る、それもできるだけ大きい模型を作ることでした。原つぱに線路を敷いて、自分は機関車に乗りこみ、後には子供たちを乗せた貨車をつなげて、勢ひよく走ることでした。子どもみたいで、あなたのお父さまのやうに、お世辞にも素敵だなどとは言へませんが、私は兄が好きです。  もう一つ、兄は口笛を吹くのが上手です。好きな曲は、「故郷の空」でした。耳を澄ますと今でも「夕空晴れて秋風吹き 月かげ落ちて鈴虫啼く」といふあの曲が聞こえてきますし、眼を閉ぢるとその曲を吹きながら背を丸めて模型づくりをしてゐた兄の姿が見えてきます。  兄の嫌ひなことは文章を書くことです。私も作文が一番苦手ですから、私の家の血統なのかもしれません。兄が出征してからもう十ケ月近くになりますが、たつた一度だけ、北浦へ移つたとき葉書が来ただけなのです。いくら嫌ひでも余りひどいと思ひ、第一母がかはいさうですからそのやうに手紙に書いたのですが、それでも書いてくれないので、今ではあきらめてしまつてゐます。兄は無愛想で、とくに内づらが悪いのだと思ひます。  兄の親友に湧井修三さんといふ方がいらつしやいます。その方は兄の中学時代からのおつきあひで、一緒に理専に行き、去年一緒に志願して、班は違ひますが、今も一緒に北浦にゐるのです。この春、母と面会に行つたときに、ちやうどあなたの事件があつたばかりでしたので、兄たちに話しましたら、意外なことに湧井さんはあなたのお父さまのことを御存じでした。といつても直接知つていらつしやるのではなくて、湧井さんの一番上のお兄さまが、大学であなたのお父さまの講義をお受けになつて、ゼミナールのときに、お宅に伺つたこともあるのださうです。湧井さんのお兄さまは、思想問題でもう随分前に検挙されて、今は御病気ださうですが、あなたのお父さまがその時警察に行つたりして大変骨を折つてくださつたのだといふ話を、ずつと後になつてお兄さまから聞いたことがあるといふのです。人間のつながりといふのは、本当に思ひがけないものですね。おろそかにはできないと、つくづく思ひました。  はじめに兄の夢のことを書きましたが、兄の夢が実現する日が来るだらうかと考へると泣きたいやうな気持になります。「チボー家の人々」のアントワーヌは、医者としての限りない夢の実現のために、あんなにも努力してゐたのに結局は戦争のためにみんな駄目になつてしまつたのでしたね。それにくらべれば子ども達を乗せて原つぱを汽車で走りたいなどといふ夢が実現しなくても、それは仕方がないことなのですね。でも私の中の兄は、戦闘機に乗つて空中戦をしてゐるよりも、原つぱで子供を乗せた汽車を走らせてゐる方がずつとふさわしいのです。こんなことは今まで誰にも言つたことはありませんし、これからも言はないと思ひます。あなたにだけ書くのです。  なおみさん  ひとにはそれぞれにふさはしい生き方といふものがあるのではないでせうか。ジヤツクの最後のところを読んでゐて私は涙が止りませんでした。みんなと反対のことをたつたひとりでするといふのは、本当に勇気のいることだと思ひます。あなたのお父さまのことは私にはわかりません。でも、あなたが、お父さまやお母さまのことを無理に悪い人だと思つたりする必要はないと思ひます。何故ならあなたは、お父さまやお母さまが好きなのですもの。そして、それでいいのだと思ひます。       九月○○日 [#地付き]大泉節子   不意に節子の意識は、はっきりと現実のものとなった。生理的要求は、かなり前からあったのだ。それを我慢に我慢を重ねてきたのだった。渇きと排泄と、二つの要求を満すために、節子は、どんなにそれが苦痛を伴う作業であったとしても、壕の外へ出なければならなかった。節子は肩にかけたままの雑嚢《ざつのう》に手探りで灰色のノートをしまった。水筒は雑嚢と交差する形でもう片方の肩にかけたままである。そして、用心深く身体を横向きにし、咳きこみそうになるのをじっとこらえて、呼吸を整えた。これ以上ない注意深さで身体をうつ伏せにしたのだったが、それでも節子はしばらくは激しい咳と息苦しさに耐えなければならなかった。それから両腕を突張って、ようやく半身を起し、出口に向ってのろのろと這い出した。もともと立って歩ける程の高さはなかったのだが、地上に出てもおそらくは立って歩くだけの体力は残ってはいないであろうと節子は思った。五段の階段を、二度休んで昇る。最後の階段を昇り切るとき、余りの身体の重さに、果して本当に自分の体重なのかと後をふり返った程であった。息切れで耳がひきつるように痛み、ずるずると今にも壕舎の床にすべり落ちてゆくかと思われたが、それでもどうにか地上に這い上ると、そのまま長いこと動けなかった。夜風が涼しく熱い頬を吹き過ぎ、やがて息苦しさも、耳の痛みも嘘のようにうすれていった。節子はわずかに頭を起して眼を開いた。深々と遠い果てに、星が輝いていた。美しい光であった。一瞬、幻影ではないかという疑いが節子の脳裏を駆けぬけたが、見つめても見つめても星は美しく輝き続けていた。  不意に節子の視界の中で星が揺れはじめた。輝きが濡れてひろがり、流れてゆく。涙がまぶたを越えて頬にあふれた。星空の中から、兄の声が聞こえたのだ。まだかよ。早くしろよ。不機嫌な声であった。そのことを思い出し、同時にくっくっと、節子は笑い声を立てた。思い出の不意討ちが、節子に涙と笑いをよびさました。まだ幼かった日、せがんで連れて行って貰った縁日の夜店を見ての帰り、節子は小用をしたくなって兄に言った。家まではまだ遠く、当惑している兄を、出ちゃう、出ちゃうといって責めたのである。草むらに節子をしゃがませて、肇は道端に立って、いらいらと足踏みをした。まだかよ。早くしろよ。あの夜も、美しい星空であった。  誰も見ている者はいない。おそらく誰も起きているものはいないであろう深夜である。厠《かわや》は水道よりも更に五、六米は離れている。節子はモンペの紐を解くと、そのまま壕舎のかげの草むらに身を沈めた。  よく、本を読んでいますね。通り過ぎると思っていた足が、節子の作業台の脇で立ち止った。本がお好きなのですね。豚皮だがまだ真新しい黒い短靴の上のゲートルは、見事なほどきちんと黒い学生服の膝下まで巻き上げられている。節子は、恥かしさのためにみるみる頬から耳まで、充血するのを感じた。男子学生と親しくしている女学生が、他にもいないことはなかった。しかし、節子はおよそそういうこととは無縁だったのである。何を読んでいるのですか。学生は原田潔といった。学生たちはみな、胸に住所、氏名、在籍学校名、年齢から血液型まで記入した白い布を縫いつけることを義務づけられていた。背が高く、映画「海軍」で主役を演じた俳優に顔だちが似ているというので、女学生の間ではひそかな人気があった。「嵐が丘」ですか。本を手にとって見たのではなかった。聞かれた頁のヒスクリフという名を目に止めただけで、原田潔はそういった。節子は困惑した。人気のある男子学生に突然話しかけられた上に、とんでもない誤解をされてしまったのだ。狼狽が節子を一層緊張させた。あの、私、本が好きじゃないのです。節子は言いかけて語尾を濁した。それも本当ではない。今の節子は本が好きになっていた。なおみの運んでくる本を、半ば仕方なく読み始めて半年が過ぎていた。いえ、あの、本は好きになったのですけど、たくさん読んではいないのです。まだ十五冊くらいです。それはかなり正確な言い方だったが、原田潔は快活な笑い声をたてた。あなたは面白い方ですね。お前は変な奴だな。原田潔の言葉に、肇の言葉が重なる。節子は情けなかった。本当のことなのに、何故笑うのだろうか。始業のベルが鳴って、昼休みは終った。原田潔は、じゃ、といって階段を駆け上っていった。ねえ、原田さんと何を話してたの。横山厚子は、映画や歌謡曲にくわしく、原田潔が似ているといわれている俳優のブロマイドを、定期入れの見開きの内側に入れていた。節子は隣席の横山厚子を余り好かない。流れ作業の箱が二つも三つも作業台の上に溜っているのに、離れた席の友達と長いこと話していたりするからだ。別に、何でもないわ。かくすところをみるとあやしいわね。横山厚子のそういうところが特に節子は嫌いだった。何か得体の知れない汚いものが、首筋に飛んできたような感じで、節子は下あごを肩にこすりつけた。聞き憶えのある足音が階段を昇っていく。初めの一歩が強くガタンと鳴る。手すりがギイと小さな音をたてる。次の一歩が重くひきずる感じで、第一歩目に並ぶ。左足が次の段にかかる。手すりがギイと鳴る。右足が持ち上げられて二段目に並ぶ。沢辺惇という学生は、右足が不自由だということがなければ、誰の目にもそれと意識されることはないだろうと思われる程、目立たない学生だった。節子が沢辺惇の足音にそれ程意識的になったのは、はじめは節子の作業台が階段のすぐ際にあったからに過ぎない。階段の上り下りに多少時間が余けいかかるということ以外に、彼は仕事の上で他の学生に劣ることは何もなかった。むしろ検査課では彼の仕事の抜群の正確さは誰の眼にも明らかな位であった。彼の足の不自由なことを、自分の負い目として否応なしにかみしめるのは仕事とは関わりない場にあった。毎月八日の大詔奉戴日に、本館前の広場で学生達の分列行進が行われる時、彼は容赦なく列の外へはじき出されるのであった。そのような時、彼は目立たない一隅にあって、直立不動の姿勢を、行進が行われている間中決して崩すことはなかった。それは沢辺惇にとっては心身ともにかなり辛いことのはずであった。たとえばその時間、見学をする代りに彼が職場にあって作業を続けていたとしても人々は何もいわなかったであろうし、むしろ歓迎されたかもしれなかった。何よりも彼自身が、自分の負い目を肩代りする理由を得て、つらい思いをせずに済んだはずであった。しかし沢辺惇はあえて、それをしなかったのである。節子は、もし自分が彼と同じ立場にいたら、彼と同じように行動するであろうと思った。そのことで、節子はひそかに沢辺惇を尊敬していた。その時節子はまだ、沢辺惇とは挨拶をすることさえなかったのだが。  午後三時、拡声器から歌謡曲が流れ出す。出せ一億の底力 さくら咲く国 日の本の 無敵の軍の 前進に 歩調 あわせよ 一億 いざともに 御稜威《みいつ》の下 まっしぐら 臣道 ひとすじに 行こうぞ さあ これからだ。入口の戸があいて係長が木箱をどさりとおろす。おい、冷凍みかんの特配だぞ。工員達がいっせいに入口に走り寄る。学生たちには特配はない。失礼しちゃうわ。私たちだって立派な産業戦士なのに。横山厚子たちはかげでぶつぶついう。たいていの場合、節子は黙って無関心に振るまっていたが、一度だけ、神風と書かれた日の丸鉢巻が工員にだけ支給されて学徒には渡されなかった時に、事務室の係長のところへ行って、自分たちもそれが欲しいのだといった。事務室中の、教師や事務員達の目が注がれる中で、節子は、はっきりとくりかえした。私たちにも、神風の鉢巻をください。学徒の分はないよ。どうしてですか。どうしてって、君。係長は節子の視線を受けとめかねて顔をそむけ、そんな怖い顔をすると嫁さんに貰い手がなくなるよ。と白けた笑い声になった。ましろき富士のけだかさを、こころのつよい楯として、御国につくす女等は かがやく御代の山ざくら 地に咲き匂ふ国の花。職場に女子が多いせいか、いつも最後には「愛国の花」がかけられるのだった。  夕暮れ、疲れで作業場全体にものうい沈黙がひろがり始めた頃、再び拡声器が鳴った。勇壮な軍艦マーチである。大本営発表、我が艦隊は。節子は他の少女達と同じように姿勢を正して報道に聞き入りながら、胸のしめつけられていくのを感じる。戦果が多ければ多いほど、我が方の損害も多いのだ。肇が出征するまでは、それは節子にとって讃《たた》うべき名誉であったが、今はひそかないたみとなっていた。敵機動部隊並に輸送船団に対し海陸呼応し之を猛攻中にて、現在までに判明せる戦果次の如し。撃沈、航空母艦四隻、巡洋艦二隻、駆逐艦一隻、輸送船四隻以上、撃破、航空母艦。節子は眼を閉じる。これだけの大戦果をあげたとすれば、その代償にどれほどの我が方の損害があることか。我方の損害、巡洋艦二隻、駆逐艦一隻、沈没。未帰還機。肇は、何時、その未帰還機の中に加わるのか。数えられるのは船や飛行機だが、節子のいたみは沈んだ船や還らぬ飛行機に乗っていたはずの人々の生命を思ってのものである。節子は自分の知らなかったことの重さに圧しひしがれそうになる。戦争をするということはこのようなことだったのか。支那事変が始ったのは節子が小学校二年の夏であった。横浜駅の裏手、帷子川《かたびらがわ》と東海道線と省線の線路にはさまれた三角形の空地は、節子たちの遊び場だったが、埋立地のじめじめした一隅は小さな沼になっていて、その片側に笹が生い茂っていた。中でも一番背の高い「見事な奴」を肇がとってきて、七夕祭をした。昭和十二年七月七日。その時以来、戦争は節子にとって身近なものとなった。小学校低学年から、今までどの位多くの慰問文を書き続けたことだろう。名も知らぬ兵士たちに向って、お国のために一所懸命戦ってください、と平然と書き続けてきたのであった。兵士達ははなやかな日の丸の小旗の行列に送られて勇ましく出征し、皇軍は常に勝ち続けていた。そして、軍楽隊の奏《かな》でる葬送行進曲と共に帰還する英霊の葬列さえ荘厳で美しかった。戦争は節子の前であくまでも美しい装いをこらしていた。今、節子は、兄への手紙に身体に気をつけてくださいとは書いても、お国のために一所懸命戦ってくださいとは書かない。いささかのいたみもなしに、そのように書きつづけた自分の幼い心の冷酷さを節子は思い知るのだ。  部屋に入って来たとき、石塚博士の顔にはただならぬ気配があった。博士を出迎えにゆき、お茶の仕度をして戻ってきたなおみも、出て行ったときとは別人のようにひどく緊張した表情をしていた。節子は風邪をひいて、十日近くも工場を休んでいた。明日から出勤することを考えれば、今日の休日も、充分休養しなければならないはずであった。しかし、なおみの家を訪ねるのも久しぶりなのであった。なおみの母の病気以来、なおみの方から節子を訪ねることは稀《まれ》だったので、節子は自分の行動を後めたく思いながら、ようやくなおみを訪ねたのである。しかし、このまま辞した方がよいのではないか、と節子は思った。なおみさん、お客様のようだから、私はこれで失礼するわ。いいの。節子さんも一緒にここで、先生のお話を聞いてちょうだい。なおみは甲斐甲斐しく茶をすすめ、博士には灰皿を出し、一人前の主婦のように振るまった。先生。この方が前からお話ししていた大泉節子さん。こちらはパパの古いお友達でママの主治医の石塚先生。なおみにとってはどちらもとても大切な方だから、何でも話してくださっていいの。なおみの真剣な言葉には何か必死なものが感じられた。やむなく節子は椅子に坐り直した。先生。パパのこと、わかったのね。ああ。石塚博士は眼鏡の奥の眼をテーブルの一隅に注いだままうなずいた。なおみの父の丹羽夙夫教授は、東京拘置所の中にいることだけはわかっていたが、前年の夏以来ぷっつりと音信を断ってしまっていた。手紙も書かず、丹羽透子夫人の面会さえ、逢いたくないというまったく信じ難い理由で拒絶していた。なおみくんはいくつになったの。博士の表情には深い苦悩のかげがあった。お正月が来たから十五歳よ。それがどうかして。十五歳はまだ子供だろうか。それとももう大人だろうか。むずかしいことをお聞きになるのね。なおみは溜息をついて苦笑した。大人みたいな時もあるし、子供みたいな時もあると思うわ。それじゃ今日は大人になって、私の話を聞きなさい。丹羽は……パパは、と石塚博士の言葉を鋭くさえぎってなおみがいった。パパは亡くなったのね。いや、まだ死んではいない。死んではいないって、じゃあ。なおみは不意に立ち上り、又、椅子に腰を落した。重いご病気なのね。身体中ががたがたで、こわれちまわないのが不思議な位だが、病気といっていいかどうか。石塚博士の口調は、いよいよ重く、とぎれ勝ちになった。先生、はっきりいってください。なおみは今日はママの代理だから、大人らしくちゃんとします。なおみは隣の椅子の節子をちらとみて、片手をのばして節子の手を探った。節子の手がなおみの手をしっかりと握りしめると、どうぞ、本当のことを話してください。とくり返していった。  丹羽は眼が見えない。見えなくなり出したのは去年の六月頃だそうだ。当然、手紙は書けなくなった。その頃から歯が抜け始めて、今では全部、一本残さず抜け落ちてしまったという。髪の毛も半ば抜け、残りも老人のような白髪に変ったそうだ。彼は贅沢な男だから、刑務所の食事をほとんど受けつけなかった。透子さんは毎日のように差入れに行っていたらしいが、たいして彼の口には入らなかったらしい。その上持ち前の傲慢《ごうまん》さが看守達の反感も買っていたという。丹羽は自分のそのようなみじめな姿を、透子さんやなおみくんに知らせたくないと思ったようだ。病院に入ってからもつまらぬことから担当医とやり合って、医者が貴様のような奴にこんな薬を使うのはもったいないといったとかで、それ以来、一切の治療を拒否しているという。  握りしめていたなおみの手が不意に激しく震え出したので節子は驚いた。なおみさん。どうしたの。わからないわ。急に身体がふるえてきて、いくら我慢しようと思っても止らないの。ものを言う度にかちかちと歯が鳴り、言葉も聞きとりがたいのである。なおみの顔は血の気を失い、紙のように白くかさかさした色に変っていた。石塚博士は近くにあった膝かけでなおみをくるみ、ちょっと抱いていてください、と節子の腕になおみを托し、手早く鎮静剤を打った。節子は、自分の胸の中で白く乾いた唇をきつく結び、眉間に深くしわをよせてじっと耐えているなおみを見ながら、石塚博士の話がなおみに与えた衝撃の激しさを思った。やがてふるえが納まり、頬にわずかに血の色がよみがえった頃、なおみは深い眠りに落ちていった。なおみをベッドに寝かせた後、石塚博士はいとおしそうにしばらくの間、その髪を撫でていたが、かわいそうに、と、ききとれぬ程の声でいった。それからベッドの裾に腰を下し、がっくりと肩を落した。かわいそうに、こんなに小さいのに、ひどい苦労をするものです。しかし此の子の母親は、或る意味では此の子以上に子供なのです。とても聞かせられた話ではありません。父親といい母親といい、そろいもそろって大馬鹿ものです。節子はいうべき言葉がなかった。石塚博士の話は節子にも深い衝撃を与えていた。それが何故なのかその時節子にはわからなかったが、絶望的ないたみが節子の心を貫いていた。そのいたみは、その時まで節子の心には無縁のものであり、その時以来、節子の心を去ることはなかった。実は私は今日、眼の離せない患者がいるのです。もう、病院へ戻らなければなりません。できるだけ急いで、看護婦をよこしますが、それまでここにいてもらえないでしょうか。という博士の希望を、節子は拒《こば》むことはできなかった。短い冬の日は、すでに暮れかけており、父や母の心配そうな顔が思い出されたが、仕方がないことであった。広い邸内はしんかんとして一層さむざむとしてきた。節子は丹羽夫人の夕食の粥を炊かなければならないことに気付いた。窓にカーテンをひき、電灯の被いを下して部屋を暗くし、足音を忍ばせるようにして台所に立った。かつて多勢の学生達が集って食事を共にしたという広い食堂とそれに続く台所は、今では廃墟のようであった。今日の昼食の用意をするときなおみを手伝ったので、様子がわからないということはなかった。小さな土鍋に一握りの米をとぎ、七輪におこした炭火にかけて、節子は毎日この空虚さの吹き抜ける広い台所でたった一人で立ち働くなおみの淋しさを思った。父親といい母親といい、そろいもそろって大馬鹿者だと石塚博士は怒ったのだったが、なおみを今の淋しさに追いこむ前に、他に何か方法はなかったものかと節子は思う。しかし、同時に、食堂の椅子に腰を下し、足元の七輪の上で粥のことことと煮える音をききながら、本当にすべてがなおみの両親だけの責任なのであろうかと思うのだった。 [#ここから3字下げ]  節子さん  此の前お逢ひしたとき、私がどんなに張切つてゐたか、おぼえていらつしやいますか。一人前に、日本人の一人としてお国のために働くことができるのだと思つて、非国民のパパやママの分まで、三人前も一所懸命やらうと思つて、勤労動員される日を、私ほど待ちこがれてゐたものはゐないと思ひます。それがどうでせう。この一週間、私たちが工場でいつたい何をしたと思ひますか。  一日目は工場見学、二日目は身体検査、それから後は草取りです。それも一日に一時間位やるだけで、後は隙間から光と風が吹きこむオンボロの今はもう使つてゐない工場の中で、半日位、歌をうたつたり本を読んだり。ばかばかしくて、怒る気にもなりません。草取りなんて真面目にやる人はゐませんけれど、いくら怠けながらでも六十人もの女学生がとるのですもの。とる草がなくなつてしまつたら何をするのかしら。第一冬になつて草が枯れてしまつたらどうするのでせう。  ママは学校なんてやめてしまつたらどうかといひます。よその草取りする位なら、うちでおさんどんをしてちやうだいといふのです。私を女中代りにして、自分は朝から晩まで焼酎を飲んでゐるつもりなのでせう。今までだつて隣組のいろいろなお当番は、たいがい私が出てゐたのです。防空演習だつて、配給ものとりだつて。だから学校を休むのはしよつちゆうでした。今までは私も、学校へは余り行きたくなかつたので、その点ではママと意見が一致してゐたのです。でも工場へ行くことに決つたとき、これからはもうお休みはしないことを宣言して、ママも仕方なしに納得したのでした。それなのに、何といふことでせう。私が真面目に日本人らしくならうと努力してゐるのに、わざとみたいに意地悪をするのですわ。それとも真面目な日本人といふのは、それがどんなにばかばかしいことでも、与へられた仕事を言はれたとほりにする(つまり私の場合は何もしないでゐる)といふことなのでせうか。  とに角、私は毎日が面白くありません。ママのいふとほり、仮病《けびよう》の診断書でも出して、休学しちやはうかと、本気で考へたりします。節子さんだつたらどうなさるかしら。是非おうかがひしたいと思ひます。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]丹羽なおみ  [#ここから3字下げ]  節子さん  今日、お菓子の配給がありました。十五歳未満は子どもで、つまり、私はまだ子どもなんだといふことを再認識致しました。落花生、一袋、二十銭也。私は、これから配給ものでとつておけるものは、全部とつておくことに決めました。何故かおわかりになりますか。節子さんにさし上げるためです。ヤミの品物は一切受けとつてくださらないから、私はママとヤミ物資を食べて(だつて私たちはどうせ非国民なのですもの)、ヤミぢやないものはみんな節子さんにさし上げようと思ひます。配給物の状態は、今だつて決して充分ぢやありませんけど、これからはもつともつとひどくなるだらうと、ママがいひました。節子さんのやうに|バカ《ヽヽ》真面目な人(ママがさういつたの)は、助かる生命も助からなくなるといふのです。冗談ぢやありませんわ。節子さんが配給ものだけをバカ真面目に食べてゐて、それで死んでしまふなんてこと、私はたうてい我慢できません。  だからこの次お逢ひしたとき、落花生のおみやげだけは確実にあるわけです。ヤミぢやありませんから、節子さんも受けとつてくださるだらうと思つて、嬉しくて仕方がありません。 [#ここで字下げ終わり] [#ここから3字下げ]  節子さん  今日は、秋晴れで、本当にさはやかな一日でした。私たちが草とりをしてゐたとき、思ひがけなく校長先生がいらつしやいました。「一年生がどんな仕事ぶりをしてゐるか心配だから見に来ました。仕事のより好みなどしないで一所懸命やつてゐるのを見て、安心しました」とおつしやいましたが、あれは皮肉だつたのかしら。そして、私たちと一緒に草とりをされ、その時私に、「おぢいさまはお元気ですか」とお聞きになりました。私は困つて(だつてよくわからないのですもの)だまつてゐました。それから赤く色の変つた草を抜きながら、「かういふのを草紅葉といふのですよ」と教へてくださいました。  たつたそれだけのことなのに、今夜、私はいつものいらいらした心が何となく和やかな感じになつてゐます。ちよつとしたやさしい言葉。それがどんなに大切なことなのか、今日はよくわかりました。それに、あと三日で節子さんにお逢ひできるのですもの。久しぶりに静かな気持で眠れさうです。おやすみなさい。 [#ここで字下げ終わり]     十月○○日 [#地付き]丹羽なおみ   東部軍管区情報はくりかえし、横浜市の空襲を伝えていた。今日の空襲はいつもとちがう。重く張りつめた空気が職場に充満していた。工員も学徒も、京浜地区に住むものがほとんどだ。前年の晩秋から始った空襲は、東京をほとんど焼きつくしたのに、横浜市は今日までたいした被害もなかったのである。横浜はアメリカにとってもゆかりの深い土地だから空襲はしないのだというまことしやかな噂さえささやかれていた。しばらく席を離れていた横山厚子があわただしく駆けこんでくると、いきなり小さな紙片を節子に見せた。焼けこげた葉書の一片である。焼け残った部分もこげ茶色に変色していたが、かろうじて読みとったのは、横浜市神奈川区上反町、という文字であった。横浜の方の空がまっくらよ。紙の燃えかすがいっぱい飛んでくるの。横山厚子の緊張でこわばった頬がぴりぴりとふるえる。彼女にはもう作業を続ける意志はまったくないようであった。私の家は南区蒔田町なの。神奈川区と南区じゃ大分離れてるけど、大丈夫かしら。節子は黙っていた。自分の仕事を片付けてから、横山厚子の仕事をやってしまわなければならないと思った。大泉さんの家は、横浜駅のそばでしょ。横浜駅はまっさきにねらわれるのじゃない。一瞬、節子の内部を悲鳴が駆けぬけた。おかあさん! 節子は胸の内側の深みにむかって絶叫する。  空襲が本格化してきたときから、節子たち一家は、横浜駅のすぐそばという地理的条件から、そのことを覚悟していた。強制疎開をわずか数軒のところで免れたことが幸いかどうかわからなかった。うちには年寄りも手のかかる子供もいないのだから、あくまで横浜で頑張り抜こう、と父がいい、母も節子もきっぱりとうなずいた。みんなが都会から逃げ出してしまったら工場はどうなるだろう。生産する人間がいなくなってしまっては、戦争は遂行できないではないか。一度空襲されてしまえば、二度と空襲されることはない。という父の言葉を節子はもっともだと思った。ただ、父も自分もいない昼間、このような異常な激しさで、それが母だけをおそうとは想像もしなかったのである。  横浜の空襲の被害が壊滅的なものであることが判明した正午前、横浜方面の学徒には急遽帰宅命令が出された。慌しく弁当をすませ、身仕度をしている節子の耳に、階段を下る沢辺惇の足音が聞こえた。彼は周囲をはばかることなく真直ぐに節子のそばに進んできて、ひたと節子を見ていった。大泉さん。電車が不通で横浜まで歩いて帰るそうです。あなたはここ数日、身体の具合がよくないようにぼくは思います。今日も熱があるのではないですか。ぼくにあなたを送ることができればいいのですが。気をしっかり持って、絶対に列から離れてはいけませんよ。八幡橋まで帰る友人がいますから、あなたのことはよく頼んでおきました。岡本という男です。ぼくは仕事がせかれているので、もう行かなければならない。いいですね。岡本はいいやつだから、遠慮しないで、苦しかったら苦しいと、すぐにいうのですよ。ありがとうございます。沢辺惇が背を向けてから、節子はようやく顔をあげた。これまでに原田潔をはさんで間接的な接触がいく度か彼との間にあったのだったが、今日、彼は彼の意志で節子のために行為したのだ。このようなときに! と、節子は、そういう沢辺惇へもろく傾斜していく自身の心にうろたえて、彼が節子をみつめている間、ついに顔を起し得なかったのである。階段の途中で沢辺惇は立ち止り、身をよじって節子の方を見た。節子も再び顔を伏せることはしなかった。出入口の戸があき、大泉さん、早く。三課が一番遅れてるらしいわ。横山厚子が呼ぶ。鳩野高女、三班、本館前広場へ出発。一礼して出て行く節子を、沢辺惇は手すりに体重をからみつかせるようにして、半ば逆さまに身体を折りながら見送った。  京浜国道が通れませんから、かなり迂回していくことになりそうです。しかし、夕方までには帰れるはずですから、近くの人同士援け合って、元気に頑張っていきましょう。途中で家族に出逢ったり、家が近くなって列から離れるときには必ず責任者に断ってください。明日は無理な人は出勤しなくてもよろしいですが、疎開するとか、住所に変動のあった場合は、必ずそれぞれの学校まで連絡をとってください。  学徒隊の隊長ははりのある太い声で、全員の士気を鼓舞するようにしっかりした口調で告げた。学徒隊のほとんどが川崎以南横浜寄りの地区から通っている少女たちだった。数人の教師とわずかの男子学生がその少女たちを引率して行くのである。横浜駅より更に先まで、一番遠くまで帰る一隊が先頭になり、横浜駅までの一隊、子安方面、鶴見方面の隊とつづき、一同は出発した。少女達はほとんどおしゃべりもせず、ひたすら歩くばかりだ。彼女らの帰り着く場が、どのような修羅場であろうとも、とにかく帰らなければならなかった。被害が大きいということだけは判っていたが、具体的には何一つ知らされてはいないのだ。それぞれの胸をせめぎあげる不安に、一様に表情を失った顔をじっと前を行く級友の背に向けたまま、ただ歩くのである。市街地を通り抜けると、初夏のおだやかな田園が何事もなく展《ひろ》がっている。行く手にははるかに鉛色の空が待ちうけ、その空の下の地獄図を想像することは容易だったが、誰もそれを口にしなかった。鳩野高女の大泉節子さん。どこにいますか。列の先頭の方から大声で呼びながら一人の学生が小走りに近づいてくる。節子ははっとして手を上げた。沢辺惇のいっていた学生であろう。ぼく、昭和大の岡本です。身体の具合がわるいそうですね。いいえ、大丈夫です。ありがとうございます。そうですか。ぼくは前の方にいますから、何かあったら呼んでください。岡本は、学生帽のあごひもを、きっちりとはめた角ばった顔を緊張させたまま口早やにいって、又前の方へ駆け戻った。節子の横を歩いている林正子はおとなしい少女だった。節子は厳密にいえば横浜駅より先まで行く組に入るはずのところを、横山厚子と同行することを恐れて、横浜駅までの組に入ったのだったが、そのことをひそかに喜んだ。もし、隣にいるのが横山厚子だったら、岡本という学生について、納得ゆくまで根掘り葉掘り問い質《ただ》し、容赦しなかったことであろう。岡本には大丈夫だといったのだが、節子は、自分が誰にも告げずにひとりで耐えている肉体的苦痛を、沢辺惇が敏感に知っていてくれたことで深く慰められていた。たしかにここ数日、節子は気分がすぐれなかった。発熱のためであることは明らかだった。日帰りで群馬県まで、湧井捷一を訪ねたことが病気の身体にこたえたのである。しかし、思い切って行ってよかった、と節子は思う。なおみのかたみの灰色のノートは、いつも雑嚢に入れて持ち歩き、身辺から手放すことはなかったが、丹羽夫人の翻訳した「チボー家の人々」の最後の部分のノートは、本と共に机の上に置いてあったのだ。もし、あの時湧井捷一に逢って托さなければ今日の空襲で無残に灰と化してしまったにちがいなかった。なおみさん。これでいいのね。私にはお預かりしている資格はないけど、湧井さんならあなたのお父さまともお親しいし、あのノートを持つのに一番ふさわしい方ですものね。声には出さずに節子は呟く。なおみとその母とが焼死してから、二カ月近くが過ぎていた。「チボー家の人々」の作者がジャック・チボーに托した人間への愛を正しく受けとめる資格のあるのは、あの二冊のノートにこめられたもろもろの人間の希求を正しくひき継ぐことのできるのは、湧井捷一をおいて他にはないと節子は思った。発熱を押して一日も休まず、節子は工場に通っていたが、自分の体調のよくないことが、そのまま湧井捷一の病状への心配となっていた。夕暮れ近い寺の門まで、杖にすがるようにして送ってきた湧井捷一の額には脂汗が浮き、たえまなくこみあげる乾いた咳に肩で息をしながら、彼はほとんど自嘲するようにいったのだった。こういうことはぼくの信条に背《そむ》くことなんだ。生命を縮めてまであなたを見送りにくるなんてことは。  道は長かった。どこを歩いているのか節子にはまったくわからなかった。ただ道の両側につづく緑が唯一の救いなのであった。緑は時には小さな林であり、田植を待つばかりの苗代であり、やや黄色みを帯びた麦畠であった。点在する家々にはむろん異常はなく、空襲は横浜の市街地に集中的に行われたことがわかった。最初に鶴見方面の一団が別れて行った。お互いにわずかに片手をあげるのみで声もかけず、少女たちは別れて行った。このまま二度と逢えなくなる友もいるにちがいなかった。節子は今まで特に気にもとめなかった級友たちの一人一人がみななつかしく、明日はこの中の何人が工場へ来るであろうか、と思うのだった。横浜線の菊名駅を過ぎる頃、最初の罹災者らしい家族に出逢った。国防服の老人がリヤカーをひき、赤ん坊を背負った女が後から押していた。リヤカーにはこぼれ落ちんばかりにさまざまの物が積みこまれ、布団と布団の間に押しこまれるようにして眠っている小さな女の子の真赤な顔が特に人目をひいた。顔中に汗がふき出し、髪の毛がべっとりと頭の地肌にへばりついていたが、その子はぐっすり眠りこんでいて身動きもしなかった。鼻緒の切れた小さな下駄がリヤカーの囲いに結びつけてあることからも、この子がかなり長い道のりを歩き続け、今は暑さもわからぬ程に疲れ果てていることが、誰の眼にもすぐにわかった。突然、ううっといううめき声をもらして、林正子が両手で顔を被った。どうしたの、林さん。驚いて尋ねる節子に、林正子ははげしくかぶりを振り、手の甲で乱暴に眼のあたりをこすった。そして涙で汚れた顔をわずかに節子に向けて、母と妹たちのことが。と語尾が涙声になるのをこらえるように絶句した。罹災者の家族は、少女達の不安を一挙に現実のものとした。誰もが自分の肉親を、その人々の上に重ねていた。市街地に近づくにつれて、避難してくる罹災者の様子は惨澹たる様相を示し始めた。家財道具を運ぶ人々は次第に少なくなり、手まわりのものだけを雑嚢につめこんで、かろうじて逃げてきたという様子が一目でわかった。両眼から頭部にかけて、すっぽりと如何にも素人っぽいぎごちない巻き方の三角巾で被われた幼児がぐったりとなって抱きかかえられて通り過ぎたあと、林正子は再び嗚咽した。妹さんはおいくつ。五つと二つ。弟達は学童疎開で栃木にいるの。父は出張で海南島に行っていて留守なんです。母は心臓が弱くて、下の妹が生れた後、ずっと寝たり起きたりだったの。林正子はもはや泣き声を恥じる余裕を失っていた。大泉さん。大丈夫かしら。きっと、大丈夫ね。私が帰るまで頑張っていてくれたら。私が帰るまで、と林正子はいうのであった。彼女の家族が無事に逃げおおせたとして、病弱の母親と二人の幼い妹達を彼女一人でこの後、どのようにして守るつもりなのであろうか。学校の成績も良いとはいえず、小柄でただおとなしいだけにしか見えなかった林正子の内部に燃える、はげしい肉親への愛情に、節子は眼がくらむ思いがする。  大口に近づいた時、学徒隊の隊長は一同を空地に集めて、十五分間の休憩をとった。いつのまにか異臭と灰色の空気が周囲に迫っていた。罹災地はもうすぐそこであった。草に腰をおろした節子は、悪寒《おかん》が背筋を這い上ってくるのを知った。閉じた眼の内側で、草の緑が青い炎のようにゆらいでいた。気をしっかりと持って、絶対に列から離れてはいけませんよ。耳もとに沢辺惇の声がよみがえる。大丈夫です。ありがとう。その声に胸の内で答えながら、節子は沢辺惇によってしっかりと支えられている自身を感じるのだ。もうすぐ罹災地に入ります。隊長が立ち上って一同に告げた。多分そこからはずっと焼跡を通ってゆくことになると思います。足元に充分気をつけて、隣の人と手をつないで、前の人とはぐれないように。列を離れるときは必ず近くの人に断ってからゆくこと。いいですね。さあ、元気を出して、出発。握り合った林正子の手の冷たさから、節子は熱がかなり高くなっていることを知った。  大口の近くで子安方面の少女達を見送り、やがて節子たちは市街地へ入った。さまざまなものの焼けこげる異様な匂いが、巨大な煙の層をなして節子たちを待ち受けていた。昼でもなく夜でもなく、混濁した異質の時間帯がそこにあった。焼け崩れた家々のところどころで、時折起る風が赤い炎を捲きあげていた。○○はいませんか。○町の○○はどこですか。大声で呼びながら通りすぎる男は、家族を案じてその勤め先から、今戻ってきたところであろうか。突然、先頭の少女が悲鳴をあげ、列が乱れた。人が死んでる。髪が白いわ。おばあさんよ。後に続く少女達はその老婆の屍体を道幅いっぱいに半円を描いてよけて通った。あるいは顔をそむけ、あるいはこわごわとのぞきこみながら。しかし、それから十五分後、少女達のうちの一人として屍体に悲鳴をあげたり、顔をそむけて歩いたりするものはいなかった。焼けこげたただの棒切れのように、屍体がころがっている路上を、せめて踏みつけないように充分注意して歩かなければならなかったからである。少女達の行く手には、今朝までの街はすでになかった。そこに在るのは、薄明りの漂う鉛色の、荒漠たる空間のみであった。大泉さん、私、ここで。林正子がつないでいた手をぎゅっと力をこめて握りしめてから、御辞儀をして列を離れた。しっかり頑張りましょうね。いいながら節子はその言葉のむなしさを思った。彼女の家が焼けたことはもはや疑いもなく、屈強な男たちさえ焼けこげて路上にころがったほどの業火《ごうか》の中を、その母と妹たちがどうして逃げのびることができようか。林正子は、何のために頑張ればよいのであろう。手をつなぐ相手を失って、節子の疲労は一度に身体中からふき出した。膝の力が脱けて、小石につまずいただけでもろく転んだ。いつの間にか後部へ廻っていた岡本が走り寄り、節子を助け起した。さっき東神奈川を過ぎましたからね。もうすぐですよ。はい。大丈夫です。一人で歩けます。節子の隣に眼鏡をかけた見知らぬ女学生が並んだ。気がついて振り返ると、節子の後には四、五人の女学生としんがりを行く岡本の姿だけしかなかった。おかあさん! 不意に節子の前の少女が列の外へ飛び出して行った。道端に立ってしきりと列の方を見ていた人影の一人に、身体中でぶつかって行き、おかあさん、おかあさん、おかあさん、と呼びつづけた。人影はしっかりと少女を抱きしめて、ただ頷くばかりだったが、やがて通り過ぎる行列の後姿へ向って深々と頭を下げた。前方の数人の少女たちが連れ立って列をはなれた後、節子を追い越して後の少女達がその隙間を埋めた。節子はついに最後尾になり、岡本が並びざまがっしりした腕をのべて、節子を支えたとき、すでにそれを辞退する力はなかった。頑張ってください。横浜駅はもうすぐですよ。もうすぐ、何が待っているのか。必死の思いで長時間ひたすら歩き続けた節子を、そこに待つものは何なのか。果して母は、無事に逃げのびることが出来たのだろうか。列の先頭から、驚きとも嘆きともつかぬおうっというような声が流れた。青木橋を渡り始めた一同の足は、しばらくはそこに釘づけになった。青木橋は東神奈川と横浜の中間にあり、横浜駅を通る多くの列車や電車の線路を跨《また》いで架けられた高い陸橋である。眼下に見渡すそこが、あの横浜の街なのであろうか! 思いがけない近さに小高い丘があった。高島町も平沼町も戸部町も一とびに、御所山から野毛山に続く丘陵がすぐそこに連なって見えたのである。その間の平地にあったおびただしい家々、おびただしい人々の生命、わずか半日で失われたそれぞれの暮しを思い、節子は絶句した。岡本の腕にすがって橋の上に立ちつくす節子の頬を、やがて滂沱《ぼうだ》として涙があふれ落ちた。  二人の寝そべっている土手には今年も若草が萌《も》えていた。頭上の線路を、省線の桜木町行きが通り過ぎてしまうと、少しの間しんかんとした明るい春の真昼がかえって来た。横浜駅の列車ホームで拡声器が何かを言っている。声はかなり大きく聞こえるのに、言葉はまったくわからなかった。東横線の高架線の上を電車が通過すると、架橋の下の沼地にさざ波が起り、橋桁の影がぎざぎざにのびたり縮んだりした。  私が小さかった頃、となおみがいった。うちには学生さんがしょっちゅう来て、パパの書斎でむずかしいお話をしたの。私は、そのむずかしいお話を聞いているのが好きで、大いそぎでパパの机の下にもぐりこんでじっとしていたの。後で、デノミネーションがねえ、なんて聞きかじったことをパパにいうと、パパはびっくりして、又、もぐりこんでいたなっていって、私をつかまえて息が出来ないくらいギュウッと抱いたりしたわ。私の死んだおばあさんは、と節子がいった。とても働きものだったのよ。そこの空地にどこかの工場が石炭殻を捨てに来るでしょ。そうするとそれを待っていて、コークスを掘り出すの。おばあさんの掘り出したコークスを小さなバケツに拾い集めて家に運ぶのが私の役目だった。灰で汚れるからって、手拭いをかぶって、かっぽう着を着て軍手をはめて、そう、私の着るものもちゃんと揃えてあったわ。パパとママは、となおみがいった。しょっちゅう口喧嘩をするの。レコードを聞いていて、パパがヴァイオリンはやっぱりクライスラーが一番いいというと、ママは、とんでもない、絶対フーベルマンだといって、さんざん言い合った後で、急に、パパとママはこれから仲直りをするのだから、なおみは自分の部屋へ行きなさいといって、私を部屋の外へ追い出すの。きっと、二人だけのすてきな秘密の仲直りの仕方があったのね。私が小学校へ上る少し前の頃、と節子がいった。兄とそこの溝で目高とりをしたの。そのとき兄が白《しら》す干しは目高の干したのだっていって、私は白す干しが好きだったので食べたいといったの。そうしたら兄がその辺の平らな石の上に目高を並べて日に乾かして、出来たから食べてごらん、って。うちへ帰って母に話したら母はひどく驚いて、私は毒消しを飲まされて無理に寝かされてしまうし、兄はさんざん叱られて晩御飯を食べさせて貰えなかったわ。  数え年十七歳と十五歳の二人の少女は、未来を喪《うしな》い、まだ本当の人生が始まりもしないうちに、老人のように過去の追憶にふけるばかりだ。いや、死期が近く、しかもそのことを熟知しているということに於いて、彼女たちはまさしく老境にいたというべきかもしれなかった。  このまま、夜明けまで、ここにいようと節子は思った。狭い庭なのだが、壕舎の混濁した世界の狭さとは較ぶべくもない。庭土は掘り起されてとにかく畠の体裁を保っている。布団の上に寝るようなわけにはいかないが、土は思ったよりはやわらかだった。後頭部に当る小石をわずかに首をよじって外し、節子は手足をのばした。手も足もひどく重い。それらはすでに死につつあるのではないかと思う。節子はしっかりと両眼を見開き、真直ぐ前を見据える。さえぎるものは何もない。無限の空間の彼方、無数の星が満天に散っていた。焼土の瓦礫は闇がかくして、今、節子のまわりからは醜いものはすべて消えた。風はさわやかで、かすかに潮の匂いがした。十米と離れていないところに帷子川があった。東京湾の一隅に注ぐこの川は、この辺りではいつも何割かの海水を含んでいる。数年前に死んだ節子の祖母は、帷子川を「かわ」と呼ばず「うみ」といった。うみっぷちで遊ぶんじゃないよ。危いからね。その声を聞き流して、節子たちは川べりに腰かけて、下駄の鼻緒を足の拇指の先にひっかけてぶらぶらさせながら、おしゃべりをした。川沿いに工場が建ち並ぶようになって川は黒ずみ、祖母のいう「泳げるうみ」からは遠くなったが、一度くらげの大群が川を遡ってきたことがあるのを節子は知っている。白くすき透った大小の輪が無数に漂う川は、節子が見なれたそれまでの川ではなかった。それはまさしく「海」であった。帷子川に屍体が上ったのは、大空襲の日の翌々日の午後であった。屍体は倍の大きさにふくれ上り、顔も首すじも緑色をしていた。眼と唇が裂けたようにまくれかえって飛び出し、そこだけが鮮やかな桃色をしていた。隣組の居合わせた男達が川岸の道にひき上げて調べ、着衣の名札から近くの鉄工所の従業員であることがわかると、生き残った同僚たちがリヤカーに木切れを積んできてその場で屍体を焼き始めた。節子たち罹災者の仮の宿の電車からは眼の下に見下せる場所であった。日暮れと共に炎は赤々と割れ残った窓硝子に映えた。木切れで人を焼くのは随分長い時間がかかるものだということを、節子はその時はじめて知った。ひえびえと顔が濡れてくる。夜露がおりるのだ。四囲に立ちこめる気配はすでに秋であった。節子は何かを抱きしめたい思いを押えることが出来ずに、重い腕を動かして自分の両の肩を抱く。つめたく固い肩であった。そしてその感触と同じものを過去に抱きしめたことのあるのを、節子の掌が思い出す。  もしかして、この塀の向う側が庭だとして、もしかして、今がお休み時間で、もしかして、パパがこの塀の向う側にこんな風に、今、なおみがしているみたいに寄りかかっているかもしれないでしょ。そう思って眼をつぶってじっとしてると、塀がだんだん冷たくなくなって、パパの背中みたいに暖かくなってくるの。そうしてるうちに塀が消えちゃって、姿は見えないけど、背中じゅうにパパの背中を感じるのよ。  東京拘置所の高く、長く、厚いコンクリートの塀にぴったりと背を寄せて、なおみは身じろぎもせずに立っていた。閉じた眼の長い睫《まつげ》が神経質にひくひくとふるえ、今にも泣き出すのではないかと節子は思ったが、なおみの頬に涙はなかった。言葉もなく節子はなおみの肩を抱き寄せた。肩は石のようにかたく、石のように冷たかった。コンクリートの塀が人間の体温で暖まるはずはなかった。そしてなおみの心が独房の奥深くにいる父親に伝わるはずもなかったのである。なおみさん。今はもう、大好きなお父さまと御一緒なのね。声に出していってみる。そのことで心が和み、腕の力が脱けて節子の手はだらんと肩から落ちた。みんな終ってしまった。私も早く終りたい。空の果てが見極めがたくなり、遠い星から光を消し始めた頃、節子は出て来たときと同じことを、逆の順序でくりかえして壕舎へ戻った。此の世で最後の星の輝きを、はげしく脳裏にやきつけた後に。 [#ここから3字下げ]  なおみさん  たうとう「本土空襲」ですね。来るべきものが遂に来た、といふ気持です。  実は私は、「空襲」の経験があるのです。私が鳩野に入学したばかりの四月、土曜日のお昼過ぎでした。掃除当番で少し遅くなつてお友達と学校からの坂道をぶらぶら降りてきたら、そんなところを歩いてゐては駄目だ。早く避難しなさい! と、警防団の人にどなりつけられたのです。ぽんぽんといふ音がして空に煙がぱつぱつと開いてゐました。私はお友達と木の蔭にかくれて、今日の防空演習はすごく真剣にやつてゐるわね、と話し合つたのですが、後で、その日本当にアメリカの飛行機がやつて来て爆弾を落したのだといふことを聞いて、びつくり仰天してしまひました。ぽんぽんといふ音は、味方の高射砲の音だつたのです。  でも、これからの空襲はそんな生やさしいものではないでせう。大分前に、「今に日本中が空襲されてみんな死んでしまふ」といふ恐ろしい話を聞いたことがあります。前にもお話しした兄のお友達のお兄さまが、さういふことをおつしやつたさうです。その時はとても本当とは思へなかつたのですが、今は、さういふことは絶対にないとはいひ切れないやうな気がします。決意を新たに、日本国民としてしつかり戦ひ抜かなければならないとつくづく思ひます。  先日、私の家のすぐ近くまで、強制疎開に決りました。幼いときからのお友達が一度に何人も遠くへ行つてしまふので、淋しい気が致します。けれどもこれもお国のためですから、どこへ行つても戦時下の国民の生き方に変りはありませんし、お互に元気に頑張りませうと励まし合ひました。  なおみさん。  この前お逢ひしたときにもいひましたけれど、あなたの通つてゐる工場では、学徒の受け入れ態勢がまだ充分出来てゐなかつたのだと思ひます。きつとぢきに精一杯働けるやうになると思ひますから、がつかりしないで、一所懸命働いてください。私の心からのお願ひです。では、また。 [#ここで字下げ終わり]       十一月○○日 [#地付き]大泉節子   夜になっても父は戻らなかった。すでに母と娘は、引込線に入っていて半ば焼けた京浜急行の車輛の一隅を仮の住居と定めて、庭に埋めた日用品を詰め込んだ三箇の罐を掘り出して運び入れてあった。節ちゃんだってちゃんと帰れたんだから、父さんだって大丈夫だよ。母のみねはつとめて平気そうに振るまっていた。菓子屋が卸用に使うその大きな三箇の四角い蓋つきの罐は、立派にその役を果した。庭の片隅には常にそれらが納まるだけの穴が掘られてあって、いざという時には手まわりの物を罐に詰めてその穴に入れ、上をトタン板で被い、更にその上から時間の許す限り土を被せるという手筈になっていた。今日はみね一人だったのでふだん用の敷布団三枚を土の代りにトタン板の上に重ね、バケツに水を汲んで上から二度掛けただけであったが、囲りに燃えるものがなかったせいか、二枚目からの布団はまわりが焦げただけで、そっくり残った。むろんトタン板の下の罐には全く異常がなかった。父さんが帰ってきたら、今夜は御馳走にしようね。みねのいう御馳走とは鯖の水煮と福神漬の罐詰を開くことであった。ふだん使っている箸や茶碗を罐の中から取り出し、座席に風呂敷を広げ、食卓らしい体裁をととのえる母の変りない様子を見ながら、節子は母が無事だったことのよろこびを改めてかみしめていた。父さんは今日は頭が痛いといっていつもより遅く出かけたのよ。それが入れ違い位に空襲警報になって、もうちょっと待ってれば、母さんも一人で心細い思いをしなくて済んだのに。でも怪我もなかったんだから、文句いうことないわ。そりゃそうだけど。父さんが判らないといけないから万里橋の上まで出ていようか。そうね。節子は口ごもる。夜風に当れば悪寒がたちまち全身をおそうに違いなかった。熱は依然として下った様子がなかったのだ。母のよく効く眼をごま化してくれる暗闇が、節子はありがたかった。私、少し疲れたから、ここで荷物の番をしているわ。それもそうだね。川崎から歩いて帰ったんじゃいい加減くたびれたろうね。でも、節ちゃんだけでも夜にならないうちに帰って来てくれて本当によかった。夜までどっちも帰って来なかったら、母さん一人で、いったいどうしようかと思ったよ。みねは焼け残った二枚の敷布団を重ねて床に敷き、少しここで寝ていなさい。父さんが帰って来たら起してあげるから、といってよいしょと電車から飛び降りて行った。節子は二枚の敷布団の間にもぐりこみ、ぐったりと手足を伸ばした。上の布団を胸まで引っぱると、焦げた綿の匂いがきつく鼻についた。眼を閉じると、今日の午後の激しかった数時間がまざまざと思い出された。林正子はどうしたであろうか。リヤカーの上で真赤な顔で眠っていた幼い女の子は、今頃はもう落着くべき家に落着いたであろうか。  煙の立ちこめる町中を、屍体をよけながら下をみつめて歩いていた間は、極限状態はまだ節子の中で個別的な意味しか持たなかった。しかし、青木橋の上に立って見渡す限りの荒廃を知り、空襲とはこのようなことであったのかという思いにとらえられた時、節子の中に過去のある情景が浮かび上り、それが今、次第に深い苦悶を自覚させつつあった。かつて小学生の節子は、渡洋爆撃の勇士たちに慰問文を書いた。私はえいがかんでニュースえいがを見ました。日の丸のついた日本のばくげききがしゃんはいの町の上でばくだんを落しました。ばくだんの落ちたところからは、黒いけむりがもうもうと上りました。だれかがばんざいといいました。私も大きいこえでばんざいといいました。あの爆弾の下でどれほどの支那人が死に、支那の家々とその生活が失われたのかを、節子は今、はじめて考えるのである。日本にとって支那は敵国であり、日本人にとって支那人は敵であった。だから当然のこととして容赦なく爆弾を落し、その生命と家とくらしを奪ったのであった。だから今、アメリカが日本を爆撃し、日本人を殺しその家と生活を破壊してもそれは当然のことなのであった。全滅した横浜の報道写真を見て、アメリカの子供たちが英語で万歳を叫んだとしても当然のことなのであった。しかし、本当に、これが当然のことなのであろうか。節子は自分の中に湧き上る不条理に苦悶する。なおみの絶筆となった灰色のノートの言葉が節子の脳裏を駆けぬけた。戦争のない時代に生れてきたかったと心の底から思います。みんな同じ人間なのに、どうして戦争などするのでしょう。節子の胸がつぶれるばかりに苦しいのは、高熱のせいだけではなかった。  いつか節子は眠り、ふと気がつくと足元でみねが手探りで罐の中をかきまわしていた。お母さん。いつ戻ったの。お父さんは? 今夜はもう帰らないね。雨が降ってきたし、何しろ真暗闇だからね。明るくなるまで一足も動けやしないよ。みねは罐の中から乾パンを探し出し、手渡すために節子の手を探って、節子、お前、熱でもあるんじゃないの。ばかに熱い手をしてるじゃない、と驚いていった。大丈夫よ。何でもないわ。節子は内心の動揺を押えて、頭痛をこらえ勢いよく起き上ってみせた。あんまり歩き過ぎたもので、身体中がほてっているのよ。それに敷布団なんか掛けてぐうぐう眠ってたんだもの。手だって熱くなるわよ。そうかい、それならいいけど。こんなとき病気になんかなったら、それこそお手上げだからね。私、のどが乾いたわ。どこかに水ないかしら。立ち上ろうとした節子ははげしい目まいを感じて、がくんと膝をついた。みねに気付かれたかと節子ははっとしたが、みねはただつまずいただけだと思ったようであった。足元に気をつけなさいよ。暗いから動かない方がいいよ。水は汲んであるから今あげるよ。水筒ごと渡された水を節子はいつまでも飲みつづけた。咽喉から食道を通り胃に達するまで冷ややかな水の感触がはっきりと感じられた。おいしいわ。いくらでもお飲み。なくなったら又汲んでくるからね。みねの口調は、何となく得意そうであった。水道が出るのね。そうだよ。母さんがちゃんとしておいたからね。大震災の時には水で苦労したからね。神奈川の方まで天秤《てんびん》で水運びに行ったんだよ。何しろ、生れてはじめてのことだからね。途中でみんなばしゃばしゃこぼれちゃって、家へ着いてみると半分も残ってないんだもの。あのときは本当に泣きたいようだったよ。だから今日はいよいよ逃げ出すって時に水道の栓を一ぱいに開けて出し放しにしておいたの。鉛管は少しくねったけど、蛇口もちゃんと利くし、水に不自由はしないよ。ありがとう。お母さんて偉いのね。当り前だよ。父さんも節ちゃんも居ない間は責任があるものね。乾パンと水の食事が終ると、みねは節子と並んで横になった。これで父さんさえ無事な顔を見せてくれたらねえ。大丈夫よ。お父さんは男だもの。どんなにしたって逃げられるわよ。眼を閉じても、みねも節子も眠ることは出来なかった。しばらくして、声を殺して、みねがいった。だけど、まったく、今日のは凄かったねえ。お母さんはどこに逃げたの。どこって、いろんなところよ。はじめは一人でうちの防空壕に入ってたんだけど、何だか今日はやられそうな予感がしてね。いつもの|かんかん《ヽヽヽヽ》を大いそぎで穴にいれてさ。それからおばあちゃんのお位牌だけ持って外に出て見たら、もうあっちにもこっちにも煙が上ってるんだよ。何だか一人じゃ心細かったからしばらく隣組で掘った表の防空壕に近所の人たちと一緒に入ってたんだけど、どうも様子がおかしいからってちょっと外をみたら、もう方々のうちが燃えてるじゃないの。若松旅館の旦那が、このままここにいたらむし焼きになるのが落ちだっていって、みんなを壕の外に出してね。とにかくまわりに燃えるもののない広いところへ行かなきゃ駄目だっていってくれたの。それから後はみんなばらばらでね。母さんは万里橋の下に入って一尺ばかりの石垣に乗っかって、橋桁にへばりついていたんだよ。眼の前の川に焼夷弾がきりもなくぶすぶす突きささって、まあ、アメリカって国は何て惜し気もなく焼夷弾をばらまくのかと思ったねえ。向うの隅で子供のおびえたような泣き声がし、母親らしい声がよしよしといってその背を軽く叩く音が聞こえた。あれは床屋の子だよ。あそこは小さな子が三人もいたのに、みんな無事に助かって、本当によかったよ。さあもうおしゃべりはやめて寝ようね。明日は大変なんだから。自分でいっておきながら、しばらくして、みねは又、節子にいった。朝になったら最初に何をしなきゃいけないか、節ちゃんにわかる? さあ、何からしたらいいのかしら。ごふじょう作り。そんなもの、どうやって。まあ、まかしておきなさいって。母さんは大震災の経験者だからね。こんな時、どうしたらいいか、ちゃんとわかってるのよ。さあさあ、ほんとにねましょ、ねましょ。お休み。お休みなさい。節子は陽気過ぎる母の言葉から、その胸にある不安を痛いほど感じていた。戻らぬ父を案じて、母がどれほどその胸を痛めていることか。その母をこれ以上苦しめないために、節子は自分の病気をけっして母に悟らせてはならないのだ、とかたく決心した。  夜明けの空が白む頃、すでにみねは起き出して、庭の一隅にかなりの深さの穴を掘った。焼跡から柱の燃え残りを二本探し出し、その穴の上に間を少しあけて並べて渡した。穴の囲りに穴を四カ所掘って、燃え残りの梁を立てた。このまわりをトタンで囲えばそれで出来上りだよ。そっちの用意はいいかい。みねに言いつけられて、節子は水道の下で焼トタンを四枚洗った。今朝はどうやら熱がかなり低くなっていることで、節子はほっとしていた。三枚のトタンを周囲に立てかけて、一カ所だけ隙間を作り、紐でずれないようにしっかりと固定させることは女手にはきつい作業だった。四枚目のトタンは隙間の部分をふさぐように外側から立てかけられた。穴の半分位で土で埋めて、引越しするのがかんじんなところよ。節ちゃんに一番先に使わせてあげようか。みねは得意気な笑顔で節子にいった。それから急に声を落した。節ちゃん、今月のお客さんは。ちょっと前に済んだわ。それはよかったね。母さんはもうじき、もうそろそろ御用納めだと思うんだけど。こんなとき、女は本当に困るねえ。母と娘は互に顔を見合わせて、仕方ない笑いを交した。夜がすっかり明け切り、一夜をどこかに明かした人々が横浜駅を目ざして節子たちの眼の前の道を通り始めていた。用意の七輪を防空壕から出して来て火を焚き、台所跡から探し出した鉄釜で、今日こそ御馳走にしようね、とみねがとっておきの白米をふんぱつして煮たおじやが、すっかり冷たくなっても、父はやはり戻らなかった。駅の方へ行って様子を聞いてくる。といいながら出かけるみねには、もはやよそおいの陽気さはなかった。間もなく戻ってきたみねの顔はほとんど蒼白だった。京浜急行の沿線はひどいんだってよ。日ノ出町や黄金町の辺は、死人の山だって。父さんは、電車がすぐ来たとしてもとても杉田まで行く時間はなかったと思うの。母さんはこれから父さんを探しに行くからね。水筒に水を入れておくれ。私も一緒に行く。節ちゃんはここに居て。もし行き違いになると大変だからね。夕方までには帰ってくるから。みねは、節子の弁当箱に冷えたおじやを詰め水筒をもって、身仕度もそこそこに飛び出して行った。母の必死の様子が節子を一層不安にした。昨日神奈川の辺りで、節子は明らかに男とわかる屍体を何体も見てきているのだ。男一人、身軽とはいえ、父が無事だとどうしていい切れるだろう。一人になると節子は突然膝ががくがくとふるえ、立っているのもおぼつかない自分の体調に気付いた。焼跡の整理も、埋めておいた非常用具を掘り出すことも、なすべきことは多くあったが、節子は水をはってあったために焼け残った風呂桶の底の白い木の板に、焼け焦げた木切れで、大泉は裏の電車にいますと書き目に立つところに立てかけただけで、おじやの残っている釜を持って電車へ戻った。しかし、そこで節子は思いがけないつらい出来事にまきこまれた。近所の菅原理容館の三人の幼児たちが、みねが必死になって持ち出した罐を勝手にかきまわして、非常食の乾パンを夢中で食べていたのである。いくら離れているとはいえ、同じ車輛に居合わせながらその子達の母親は、かたくなな背を向けて、座席に寄りかかって居眠りをよそおっているのだった。節子に気付くと彼らは口をへの字に曲げ、節子が何も言わないうちに、いっせいに声を上げて泣き出した。その声にあわてて走ってきた母親は、小さな子のしたことですからかんべんしてやってください。今度配給があったらきっとお返ししますから。というばかりであった。子供たちが大泉さんの乾パン食べてるよって、何度も教えてやったのに。図々しいったらありゃしない。知ってて知らんふりしてたくせに。隣家の主婦が少し離れた座席から聞こえよがしにいった。私、少し休みたいので、坊やたちをあっちへ連れて行ってください。節子は散らばっている手拭いやみねの櫛や鏡などを拾い集めながら、母親の顔は見ずにいった。敷布団の間にもぐりこんだ節子の耳に、もっと食べたいようという子供達の泣き声が執拗に追いかけてくる。大体親の心がけが悪いよ。小さな子が三人もいるのに非常食のひとつもとっておかないなんて。隣家の主婦のよく聞こえる独り言から、節子は布団の下で両手で耳を被ってかろうじて逃れた。菅原理容館の主人は、日支事変で片足を膝下から失った傷痍軍人であった。義足をことこと鳴らし、立ち仕事はどうもつらくてとこぼしながら、いつも疲れているようなくろずんだ顔で働いていた。三人の幼児をかかえ、買い出しもほとんど出来ない家庭で、非常食のそなえがないのは心がけが悪いのだ、といい切ることが出来るだろうか。大人三人だけの節子たち一家にとってさえ、非常食糧を貯えておくのは辛抱のいることだったのである。節子の胸をやり場のない憎悪がかけめぐった。乾パンを盗んで食べた幼い三人の子供たち、それを見て見ぬふりをしていたその母親、聞こえよがしに独り言をいう隣家の主婦、そしてもっと欲しいよという幼い子供の泣き声を耳にしながら、残り少ない乾パンを大事にしまいこんだ節子自身をも、節子ははげしく憎悪した。  正午少し前に岡本が訪ねて来た。少しは元気になりましたか。おかげさまで。昨日はお世話さまになりました。岡本は自転車に乗って来ていた。ぼくの家は焼けなかったのですよ。しかし、昨日想像していたよりもはるかに凄い空襲だったことが、今日はよくわかりました。お母さん、無事でよかったですね。節子は父の帰らないことを結局黙っていた。まだ帰ってくるかもしれないのだ。話したことで、本当に帰らないことになるかもしれないという、迷信めいた考えが節子の頭のどこかにあった。岡本は自転車の荷台からかなりの大きさの風呂敷包を降し、節子にさし出しながら、押しつけがましいことを恥じるようないい方をした。母と姉がこれを持って行けといってきかないのです。布団は持ち出しても枕は案外忘れるものだなんていってました。枕と身のまわりのものが入ってるそうです。何が入ってるのか調べようとしたら、男の見るものじゃないと叱られました。もし変なものが入っていても怒らないでください。生真面目な口調は沢辺惇に似ていた。この岡本の母や姉の好意は、思いがけなかっただけに節子の心に深くしみた。これから工場へ行ってみます。沢辺にあなたを無事に送り届けたことの報告をしなければなりませんからね。笑いながら去る岡本を見送りながら節子は涙ぐんでいた。その時、一人の男が焼跡に入って来て、ようやく整理を始めていた人々に、握り飯はいりませんかとささやくように話しかけた。男が下げていた風呂敷包を開くと、飯台に子供の掌ほどの白米の握り飯がいっぱい並べられてあった。人々はぞろぞろと集って行ったが、節子はみねの炊いたおじやがまだ残っていることを思い出し、電車に戻った。顔見知りの人間ばかり集っている電車の中で盗難をおそれなければならないのはつらいことであったが、自分の留守の間、今度は三箇の罐に異常のないことをたしかめて節子はほっとした。ちょいとあんた、冗談もいい加減におし。突然焼跡に隣家の主婦のきつい声がひびき渡った。いったいあたし達を何んだと思ってるんだい。人の弱みにつけこんでこんな小さなおむすびを一つ十円だなんて。あんたそれでも日本人かい。誰か駅前の交番へ行っておまわりを呼んどいで。警察につき出してやる。立ち上った節子の眼に、風呂敷包を片手にあたふたと逃げ出す男の後姿が見えた。電車に戻った菅原理容館の三人の子供達は、おむすびほしいようと何時《いつ》までもぐずっていた。その握り飯が夕方になってから一人一箇ずつ配給になった。これは平塚の方の婦人会の方々が特に炊きだしをしてくださったものです、と、握り飯を貰うために行列をしている人々に向って町会の役員が大声で説明した。おむすびおいしいよう。それは米粒よりも大豆の方が多いような握り飯だったが、子供たちのはしゃぐ声に、なんだかこのおむすびは胸につかえるねえ、と隣家の主婦までがしんみりした声になった。みねは夜になってから戻ったが、節子から父のまだ帰らないことを聞くと、へたへたとその場に坐りこみ、ことによったらもう駄目かもしれないよ、とひくくいった。節子の脳裏からは、神奈川の焼跡で節子がまたいで通ってきた黒焦げの屍体の消えることはなかったが、その翌日、もう一日工場を休んだだけで、節子は四日目から何事もなかったように静かな表情で出勤した。 [#ここから3字下げ]  節子さん  なおみは今日、たうとう休学届を出しました。明日から工場へは行きません。他の人に何といはれても私はもう平気ですけれど、節子さんにだけは、本当のことをわかつて頂きたいのです。  私の動員中の工場は、毎年会社の創立記念日に社員慰安演芸会を催すことになつてゐて、本職の芸人も来ますけれども、社員の素人演芸もやるのださうです。今年は、楠公父子の桜井の別れの劇をやることになり、楠木正成には女子の工員さんがなり、正行は学徒がやるといふことに決つたのです。ところが厚生課の演芸会係がどういふわけかその正行の役を私にやらせようとしたのです。先生が私を呼んでその役を秋山義子さんにゆづるやうにおつしやいました。先生のおつしやることはもつともでした。私が正行なんかになつたら、どこか知らない遠いところで楠公父子がかんかんになつたにちがひありません。私もそんな柄にない役はお断りするつもりでゐたので、それはそれでよいのですけれど、そのことからパパのことが工場中に知れ渡つてしまひました。そして、この春、鳩野高女に入つたときと同じことが又始つたのです。節子さんもご存じのやうに、私は此の頃とても真面目にやつてゐました。遅刻も欠勤もしませんし、心の中でぶつぶついつても草取りだつて一番一所懸命やつたと思ひます。何かいやなことがあつても、決して反抗的な態度をとつたりしませんでした。でも、私はもうくたびれてしまひました。決して私を許さうとしない多勢の人々の中で、たつた一人で努力することに疲れ切つてしまつたのです。私はどうせ非国民のパパの子どもです。もう決して、二度と、立派な軍国少女になりたいなんて、身の程知らずな望みを持つたりはしません。  節子さんに相談もしないで、勝手にこんな大事なことを決めてしまつて、さぞ不愉快にお思ひでせうね。でも、なおみはもう我慢できなかつたのです。どうぞ、お願ひですからなおみを叱らないでください。  理由はもう一つあります。ママが病気になつたのです。こつちの方を主な理由にすれば節子さんにそんなに叱られずにすむかもしれないと思つたりしましたが、節子さんにまで嘘をいひたくありませんでした。ママの病気はおまけみたいなものですから。ママは前から胃が痛いといつてゐましたが、勝手にパパのせいにして、苦労するから神経性胃炎になつたのよ。お医者様に行つても治りやしないわ、つて、ぐづぐづしてゐたのです。さうしたら一週間位前、たうとう血を吐いてしまひました。パパの昔からのお友達の石塚先生に診ていただいたら、正真正銘の胃潰瘍だといふことでした。先生は入院した方がいいとおつしやつたのに、ママはいふことをきかないで、私はパパが帰つてくるまでここを動かないつて、パパの書斎に頑張つてゐるのです。仕方がないのでソフアやテーブルを寝室に移して、ベツドを書斎に入れて、ママの病室にしました。ママが病気だから休みたいなんていへば、又非国民とかいはれるにきまつてゐますから、なおみが肺浸潤といふことにして診断書を書いて貰つて、今日、休学届と一緒に出して来たといふわけです。  だから、私は今日から看護婦兼家政婦です。本物の病気といふことがわかつてから、ママはやけにおとなしくなつて、一人で黙つて寝てるので、私は何だか拍子抜けがしてゐます。もつともお掃除をし始めたらきりがないので、ふだん使つてゐる部屋、パパの書斎と台所と玄関以外は気にしないでいいわとママが言つてくれたせいもあります。ご近所のうちはほとんどが疎開をして留守番位しかゐませんから隣組の仕事も余りありませんし、工場へも行かず、ママに手がかからないとすれば、これからはかなり退屈な人生を覚悟しなければならないかもしれません。それで、何かいつまで読んでも終りさうもないやうな長い小説はないかなと思つて、吉川英治の「宮本武蔵」をひつぱり出してきました。あんまり長いので今まで敬遠してゐたのです。  節子さん。  私はたうとう本物の非国民になつてしまひましたが、節子さんは、私がなりたくてさうなつたのではないといふことを、解つてくださいますわね。私はこれでもせいいつぱい努力したのです。 [#ここで字下げ終わり]       十一月○○日 [#地付き]丹羽なおみ   いつの間にか壕舎の中にも、朝の光が射しはじめた。屈折した光は初秋の陽ざしとは思えぬほどのやわらかさで、横たわる節子の上半身に注いでいた。闇の中で節子の指先が見たと思った壕舎の梁や柱のすべてが、今はうす明りの中でひっそりと見えていた。壕舎に張った天井板は奥の方がすでに朽《く》ち始めていて、二百十日までには何とかしなければ、と生前母が口ぐせのようにいっていたのである。今日は、いったい何日なのか。多分、その二百十日頃なのではないであろうか。嵐がくればきっと崩れて、あそこから水が流れこむようになると、母は心配していたのだった。しかし、今朝の節子は、そのようなことに思いわずらわされることはなかった。その朝の節子は久しぶりに気分がよかった。熱も下り、意識もはっきりとし、激しかった咳も痰も信じられぬ程、落着いていた。けだるい快さの中で、節子は何日ぶりかの陽ざしを頬に感じ、ゆたかな陽の匂いにひたった。ゆっくりと右手を伸ばして、眼の前にかかげてみた。やせ細った指に関節だけが異様にふくらみ、長く伸びた爪には、垢とも泥ともつかぬ黒いものが深くつまっていた。節子は眉をひそめた。何という汚なさであろう。それからその汚なさが自分の全身を被っていることに思い至り、淋しく苦笑する。母が死んだ時、節子は釜に湯を何杯も沸かし、心をこめてその身体を浄《きよ》めたのだったが、節子が死んでもそれをしてくれる人間は、すでに誰一人として居ないのである。雑嚢を探って鏡をとり出したが、それで自分の顔を眺める勇気はなかった。しばらくためらった後、ついに節子はそのまま鏡をもとの雑嚢にしまいこんだのであった。熱に浮かされている間に、夢と現実の境目のあたりで、節子は何度か自分の死んだ後のことを考えたのだったが、はっきりした意識の下で、白日の下で自分の死後を考えることはいかにもつらいことであった。間もなく私は死ぬだろう。しかし、それを看《み》とる人間はいないのだ。死のあとはただ野ざらしとなるだけなのである。戦争が終った今、かつての戦場には、どれほどの野ざらしが葬る人もなく白日の下に曝《さら》されていることか、と節子は思う。海ゆかば水漬く屍《かばね》 山ゆかば草むす屍 大君の辺にこそ死なめ かへりみはせじ、荘重で哀切な調べをもったその歌を、ほとんど子供の時分からうたい続けてきたのだったが、自分が何をうたい続けてきたのかを、節子は今、ようやく理解することが出来たのだった。  学徒諸君。私は本日のこの記念すべき学徒隊結成式にのぞみ、諸君がその持てる力のすべてを、国のため、天皇陛下のおんために捧げつくして、尊い産業戦士としての責務を十二分に遂行されることを期待してやみません。五月の末に胸をはって叫ぶように述べた社長は、二カ月半後、悲壮感に満ちた口調で言ったのである。学徒諸君。私は本日のこの学徒隊解散式にのぞみ、我等の努力足らずして、無条件降伏という有史以来の汚辱《おじよく》にまみれるに至ったことを、畏れ多くも天皇陛下に対し奉り、諸君と共に深く深く地にひれ伏してお詫び申し上げる次第であります。節子は揺れる地面にかろうじて立っていた。息苦しさで額には脂汗が浮いていた。熱も高かったし、衰弱も進んでいたが、節子の胸には憤りの嵐が吹き荒れていた。抑えがたい激情のままに節子はもつれる足を踏みしめて、社長の前に進み出た。私は、天皇陛下に、お詫びすることは何もありません。私は申しわけないことなどしておりません。どうして無条件降伏などをするのですか。本土決戦をするのではなかったのですか。一億玉砕するまで戦うのではなかったのですか。人々は呆然とし、社長は蒼白になった顔をそむけて、何をいうのだ、君は。と、節子の胸を押しのけた。そして、節子の気力はそこで尽きた。節子は失神して倒れ、休護室に運ばれて行った。節子が意識をとりもどしたとき、枕辺には担任の老女教師が頬にあふれる涙を拭おうともせず、悄然として坐っていた。気がついたのですね、大泉さん。起き上ろうとする節子を押しとどめ、赤く濡れた眼でじっと節子をみつめ、老女教師はいった。大泉さん。あなたのいうとおりですよ。あなた方には謝らなければならないようなことは何もありません。私たちがあなた方に謝らなければならないのですよ。昨日、御詔勅を聞いてからずっと考え続けてきたのです。自分のしたことを、自分が何を生徒達に教えてきたのかということを。許してくださいね。大泉さん。節子は二年生の時、国語担当のこの老女教師が少女のように声をはりあげて大木惇夫の詩を朗読したことを思い出した。言ふなかれ 君よ わかれを 世の常を また生き死にを 海ばらのはるけき果てに今や はた何をか言はん 熱き血を捧ぐる者の大いなる胸を叩けよ 満月を盃《はい》にくだきて 暫《しば》しただ酔ひて勢《きほ》へよ わが征くはバタビヤの街 君はよくバンドンを突け この夕べ相|離《さか》るとも かがやかし南十字を いつの夜か また共に見ん 言ふなかれ 君よ わかれを 見よ 空と水うつところ 黙々と雲は行き雲は行けるを。あの時、あなたを無理にでも休養させるべきでした。老女教師の悔恨はつきなかった。病気だということがわかっていながら、あなたの一途《いちず》な姿に感激していた私は、何という愚かな教師だったのでしょう。御両親にお詫びをしなければならないから家まで送るというのを固く辞して、節子は横浜駅で老女教師と別れたのだった。  今、節子の胸に激しい感情はすでになかった。いきどおりも悲しみも静かに深く沈みこむばかりであった。八重汐や 汐の八汐路 はろばろと国を離りて みんなみの果てにしあれど 大君の辺に死するなり 大君の辺に死するなり。と大木惇夫はうたったが、南溟《なんめい》の地の野ざらしには、そして、横浜駅のすぐ近くの壕舎の中で、やがて野ざらしとなるであろう節子には、「海ゆかば」こそふさわしいのであった。  一日の作業を終えて帰るとき、節子の疲労は耐えがたいものがあった。節子は自分の中の深い疲労と真向うことをおそれて、僅かの時間にも本を開き、その虚構の世界へ逃れたのだ。電車は混雑を極め、車輛の中央に押し込まれると、人と人との間に挟まって身体が浮くほどであった。電車が正常に走っているときは、そのような状態はむしろ快かった。体重を自分の両足で支えなくても済むからである。両肩に交叉して掛けている雑嚢と防空頭巾は、身体から離れて遠くへ引張られることのないように、両手でしっかりと持っていなければならなかった。そばに友達がいても話し合うことは何もなく、降りる駅が近づくと友達はどのようにして出入口近くに留まるかを必死に考えなければならないのだった。横浜駅のように降りる人々の方が多い大きな駅はよいのだったが、途中の駅では余程素早く降りないと乗る人々の力で中へ押し戻されてしまうのである。焼け出された後、節子は沢辺惇から一冊ずつ本を借りて読んでいたが、電灯のない暮しではいくらも読み進むことが出来なかった。日曜日だけは、晴れていれば省線の土手に寝ころび、雨の日は壕舎の階段にもたれて終日読み耽ったのだったが。だから通勤の電車を待つ時間は貴重な読書時間だった。普通はわずかな時間だったが、電車が遅れて思いがけない長い読書時間を持つこともかなりしばしばあったのである。そのようにして本を読んでいても、乗るべき電車が近づくと大いそぎで本は雑嚢にしまうのである。本に気をとられていて、ついしまいそびれたりすると、人々に揉まれているうちに本はあっけなく掌から|※[#「手へん+宛」]《も》ぎとられて、二度と戻っては来なかったのだ。  母の死を、節子は横浜駅の改札口を出るまで知らなかった。改札口に身を乗り出すようにしている隣組長と隣家の主婦の姿を認めたときも、待たれているのが自分だとはまったく考えもしなかった。しかし、せつこちゃん、ごめんよ。と不意に隣家の主婦が顔を被って泣き出したとき、母の身に容易ならぬ出来事が起ったのを、節子は直感した。ごめんよ。どうしようもなかったんだよ。ほんとにあっという間だったんだよ。何かを語ろうとする隣家の主婦の言葉は、涙にさえぎられて意味をなさなかった。横浜駅に隣接する神奈川郵便局の石の階段に並んで腰を降した後、隣組長の重い口がようやく開かれ、節子は母の死を告げられた。罹災直後の特別な配給が一応終ってしまうと、それまでの配給ルートが一切焼失してしまったために、焼跡に留まった人々の配給物資は極端に乏しくなった。買い出しに行こうにも、物々交換の元手を失ってしまっては、目的を達する望みはまずなかった。人々は皆一様に餓えていた。その日、罹災後はじめてといってよい朗報が入った。主食の代用として新じゃがの配給があるというのであった。それも十日分まとめて来るというのである。当番の隣家の主婦と節子の母は、人々の期待の中をリヤカーを引いて、仮りの配給所の県立第一高女まで出かけたのだったが、数時間後、人々の迎えたリヤカーは大泉みねの遺骸をのせて戻って来たのであった。警戒警報が出ても退避する人はいなかったのです。こんな焼跡がもう一度空襲されるなんて誰も考えませんでした。P51が二機、海の方からやってきて、保土ヶ谷の方へ飛んで行ったのです。あいつら、配給物の行列をねらったんだ。だだだだって、機銃を射ちながら、にやにや笑いながら大泉さんたちを殺したんだ。すごい低空で飛び抜けて行き、飛行機の中の人間の円い頭がはっきりと見えたそうです。一カ月余り前、父を失ったばかりの節子は、今またたった一人残った母の死を告げられたのであった。隣組長の説明を聞きながら、節子は重い腰を上げ、のろのろと歩き始めた。頭のどこかがしびれていて、事態を理解することを拒《こば》んでいた。しかし、同時に、節子はすでにすべてを理解してしまっていた。走り出したい思いと一歩も動きたくない思いが節子の中でせめぎ合い、その歩みを一層遅くしていた。節子のまわりでも、すでに多くの人々が死んでいた。死はほとんど日常茶飯事だったのである。母の死といえども、その意味では特別のことではなかったのだ。人々は節子たちの壕舎の前ではなく、隣家のあたりに佇んでいた。防空壕じゃなんだから、うちに寝かせてあるんだよ。隣家の主婦は前かけで眼を拭い、やっといつもの様子をとり戻していった。隣家では徴用工で働いている二人の息子たちが休日を利用して、焼跡にバラックを建て、一応家らしい住居を持っていた。他人ごとじゃないよ、一尺たまがそれていたら、私がやられたんだから。板の間に、目の粗《あら》い毛布を敷いただけのバラックの床に、みねはじかに寝かされていて、顔にかけた新しい晒の布がなまなましく白かった。布をわずかにあげて節子は母をみた。少し眉を寄せていたが、表情に苦悶のかげはなかった。布を元にもどし、眼を閉じた節子の頬を涙があふれ落ちたが声はなかった。今晩は、ここでお通夜をしようね。せつこちゃん。枕元の蝋燭のそばに小さな鉦が置かれていて、隣組の人々が時々ちんと鳴らしては手を合わせた。隣組中あたっても、線香はなかったのだと組長がいった。いろいろお世話になりましたが、母を防空壕に連れて行きたいのです。今夜一晩、母と二人で、絶句して深く頭を垂れる節子に、人々も言葉を失った。間もなく隣家の息子たちによって遺骸は防空壕に運びこまれた。せつこちゃん。気の済むまでお母さんのお通夜をしてあげるといいよ。配給はほとんどが隣組単位で当番が受け取りに行くことになっていた。今日の当番が自分だったら、という思いが集っている人々の誰の胸にもあった。一度帰りかけた隣家の主婦が戻ってきて、声をひそめて言った。薪を持って行かないと久保山でもすぐには焼いてくれないという話だよ。煙草かお酒でもあれば、薪の都合がつくんだけどねえ。新しい銘仙があるんですけど。節子はいつか母が秘密めいた笑顔で出してみせた銘仙のことを思い出し、防空壕の奥の茶箱の中から探し出して、隣家の主婦に渡した。これでなんとかならないでしょうか。こんないいものがあれば大丈夫だろうよ。だけどもったいないねえ。せつこちゃんが着られるのに。隣家の主婦を見送ると、節子は壕舎の入口の戸を閉めて、内がわからしっかりとしんばりをかった。ほの暗い蝋燭の揺らめく炎の中で、一人でじっと母を見守っていた節子の胸を、押えに押えていた悲しみがほとばしり溢れた。おかあさん! おかあさん! すでに冷たくかたい屍の母にしがみついて、泣き叫び、握りこぶしでその身体を打った。節子には母の死が、この上もない背信のように思えた。父や兄は二度と帰らなくとも、あの大空襲の中を逃げおおせた母だけは、節子と共に最後の時までその生死を分ち合うものと信じ切っていたからである。握りしめた母の手は、節子の手が冷え切ってしまっても、二度と暖かみを取り戻すことはなかった。節子の心の中にも、次第に冷たい絶望感が沈み始めた。もはやどうすることもできないのだ。このきびしい現実に耐え、その中からたとえ行手には絶望しかないにしても、今は新しい出発をしなければならないのであった。長いこと独りで泣き続けた後で、節子は再び壕舎の外に出た。何時か夜空は厚く曇り、頬にふれる湿った空気が一層むし暑く感じられた。壕舎の入口に近い壁ぎわに、母が焼け残った木材を丹念にこなして七輪で燃しやすいように小さな束にくくった薪が積んであった。釜に水を汲み、その薪を七輪で焚きながら、節子は再び涙を流した。明日からの一人っきりの生活を一体どのようにして保てばよいのか。身体の不調のこともあって、日常生活の面ではまったく母に頼り切っていた節子だった。洗面器に湯を汲んで壕舎に戻り、節子はしずかに母の顔を拭き、手を拭いた。それから母の胸を開けて、節子の眼はその一点に吸い寄せられた。左の乳の下のあたり、ぽかっと深い小さな穴が口を開けていたのである。弾丸は背から心臓を貫通していた。肌着にさえもひどい出血の痕はなかった。背の方の穴は胸のよりも更に小さかった。焼跡に並んで乏しい食糧の配給を受けようとしていた日本人もまた、アメリカにとっては敵なのであった。夫を失い、息子を戦場に送り、病気を秘して工場へ通う娘の健康をひそかに案じながら、ほそぼそと壕舎ぐらしをしている一人の母も亦、敵なのであった。一度焼けてしまえば二度と焼かれることはないと父はいったのだったが、その焼跡に日本人が生きている限り、そこはあくまでも戦場なのであった。戦争をするということはこのようなことでもあったのか、と、節子は又一つ、新たな苦悶をその胸に加えたのであった。  夜更けてから再び隣家の主婦が訪ねてきた。死者が出たからといって、配給物は受け取りに行かなければならなかった。隣家の二人の息子達は、夜になってから、じゃがいもを受け取りに行き、それぞれの家まで配って歩いたのだ。仏さんに供えて、あんたも食べるといいよ。ゆでたじゃがいもの皿を節子に渡し、狭い壕舎の中を這いこむようにみねの枕元まで来て、手を合わせた。大泉さん。せつこちゃんのことは、私が自分の娘だと思って面倒をみるからね。せめてそれだけは、安心して行ってくださいよね。鉦を鳴らし手を合わせ、しばらくの間、鼻をつまらせてしきりと涙を拭いていたが、頭を上げて節子に向い合ったときには、すでにしっかりした物言いになっていた。薪の都合はついたよ。明日の朝、向うでここまで運んできてくれるように頼んできたからね。明日はうちの総領息子を休ませて、久保山まで行かせるよ。なあに、まかり間違えば自分の母親を運ぶところだったんだからね。文句はいわせないよ。せつこちゃんも、しっかりしなきゃ駄目だよ。といって去る隣家の主婦を送って外に出た節子は、いつか音もなく細い梅雨の雨がひっそりと天地を被っているのを知った。 [#ここから3字下げ]  なおみさん  今日は大詔奉戴日でした。分列行進をしながら、男子学生の数がめつきり少なくなつたことに、今更ながら驚きました。みんな志願して出征して行つてしまふのです。なおみさんにはまだお話ししてなかつたと思ふのですが、工場では私は読書家といふことになつてゐて(をかしいでしよ。あなたにお借りした本を、お休み時間に読んでゐたりするのでみんなが誤解するのです)これを読んでごらんなさいと本を貸してくださる学生さんがゐました。原田さんといつて、背が高くすてきな方なので、他の人がいろいろいひ、二重三重に誤解されて、困つてしまひました。なおみさんにお借りする本でさへむづかしくて困つてゐますのに、原田さんは、いきなり「ジヤン・クリストフ」といふ本を貸してくださいました。原田さんはロマン・ローランといふフランスの作家に傾倒してゐるのだと御自分でいつてゐました。その原田さんも数日前に海軍を志望されました。兄よりちやうど一年後輩になるわけです。出征される前に、お友達の沢辺さんといふ方を紹介してくださり、原田さんの御本をみんな沢辺さんに預けたから、自分が出征してゐなくなつてもどんどん沢辺さんにいつて読んでほしいといはれました。自分の大事にしてゐた本が、誰かに読まれてゐるといふことを考へるのは、自分が読めなくなつてからもとても楽しいことにちがひないと思ふとおつしやつたのです。さういふやうなこともあつて、此の頃の私は夢中になつて小説を読みとばしてゐます。どうして今まで、小説を毛嫌ひしてゐたのか、と残念でなりません。このことだけでも、なおみさんとお友達になれたことを、幸せだつたと思ひます。そのうちにもう一度「チボー家の人々」を貸してください。此の前の時にはわからなかつたことが、今ではもう少し理解できるやうになつてゐるのではないかと思ひます。特に、一九一四年夏と終章、なおみさんのお母さまのノートの部分を読み直して、よく考へてみたいと思ひます。あなたが休学届を出した理由について、いろいろ考へてゐるうちに、さういふ気持が強くなりました。  正直にいつて、あなたが休学してしまつたことはとても残念です。もつともつと頑張つてほしかつたと思ひます。せめて私がそばにゐて励ましてあげることが出来たら、と思はずにはゐられませんでした。戦争が続いてゐる以上、私だつたらどのやうな理由があらうと戦列を離れることはしなかつたと思ひます。きついことをいつてごめんなさい。でも、私もあなたに嘘をいふことはいやなのです。勿論私があなたの立場について理解してゐないなどと思はないでください。ただ、どんなにつらくても私だつたら工場を辞めたりはしないだらうと思ふのです。  でも、あなたがどういふことになつても、私たちがお友達だといふことに変りはありません。私が怒つてゐるなどと思はないでください。私は残念なだけなのです。それからあなたをそこまで追ひこんでしまつたあなたの周りの人々を腹立たしく思つてゐるのです。お母さまの御病気が快くなつたら、あなたもまた気をとり直して戦列に戻つてくださると思ひます。その日が一日も早く来るやうに祈つてゐます。 [#ここで字下げ終わり]       十二月○日 [#地付き]大泉節子   人々は、まったく唐突に、その日常生活の場から去っていった。さよならと川崎駅のホームで手を振って別れた友が、その夜、焼夷弾に焼かれて死んで行くのであったし、工員だけの特配の冷凍みかんを少女達に分け与えてくれた親切な工員にも召集令状が来て、ある朝、その作業台にその姿はなかった。一日が始り、お早ようといい交わす挨拶にはまた逢うことが出来た喜びがあふれ、夕方、さよならと見交す瞳には、これが最後かも知れぬ哀惜の情がこめられるのである。  四月以来の節子たちの級担任であった若い女教師の松井綾子も亦、或る日、突然受持ちの少女たちに別れを告げた。松井綾子は奈良女高師の出身で、実家も奈良であった。先生、疎開なさるのですか。少女達には、姉のように親しんできた受持ち教師の帰郷は不満だったのである。頼りにしていた相手に不意に見捨てられたような心細さがあった。ええ、まあ、松井綾子はふだんのはきはきした様子をまったく失って、別人のように口ごもるのだ。それが、少女達をますます感情的にした。先生、どうして最後まで私達と一緒に頑張ってくださらないのですか。私もそうしたかったのですが。先生、どうしてですか。どうしてですか。少女達の鋭い語調に松井綾子はついに顔を伏せてしまった。先生は、ただ疎開なさるのじゃないのよ。情報屋の横山厚子が大人のような意地悪さでいった。先生は郷里へ帰られて婚約者の方と結婚なさるのよ。まあっという小さな叫び声が少女達の唇から洩れ、やがてざわめきは消え、一種白々とした静けさが広がった。ごめんなさい。先生も最後まで鳩野高女の一員として頑張りたいと思ったのですけれど、いろいろ事情があって。少女達は黙りこみ、松井綾子の帰郷の止めがたい理由を納得した。しかし、身近な男子学生や工員達が次々と出征していくことと思い合わせると、婚約者と結婚するということが、この上ない不道徳な行為のように思われるのであった。惜別の情があふれる筈の場に、冷ややかな感情の硬化が起り、松井綾子と少女達は、ともにどのようにしてこの場にしめくくりをつけるかに困惑した。そのとき、ひどいわ、ひどいわ、あんまりだわ。と、少女の一人が泣き声をあげた。事務室勤務の大野洋子が列の中からとび出し、松井綾子を背にかばうように少女達の前に立ちはだかって叫んだ。松井先生は、ご自分のために結婚なさるんじゃありません。先生の婚約者の方は傷痍軍人で眼がご不自由なのです。先生はその方と、その方の御両親をお世話なさるために結婚されるのです。いいえ、それは違います。松井綾子は、ようやく意を決したように緊張に青ざめた顔をあげ、ひくいがはっきりした声でいった。たしかに先生の婚約者は眼が見えませんし、両親は年老いています。でも、先生は、相手が傷痍軍人だから、そうすることが、お国のためだから結婚するのではありません。自分が結婚したいから、自分の幸せのために結婚するのです。少女達はその時、この若い女教師の言葉の深い真実を理解したのではなかった。しかし、自分達の理解をこえる激しい何かのあることを、そしてそれは、松井綾子にとってだけでなく、少女達自身にとっても極めて大切なものであるらしいことをも理解した。先生、ごめんなさい。と誰かがしゃくりあげると、他の少女達もいっせいにすすり泣いた。別れのために与えられた短い三十分は忽ち過ぎた。少女達は、泣きはらした赤い眼でそれぞれの持ち場に戻り、各自の胸に不意に忍びこんだ熱い感情にとまどいながら、ほとんどおしゃべりもせずに作業に励んだ。  松井綾子の後任には、思いがけなくなおみの事件の日の日直だった沖村が来た。沖村の髪には白いものが更にふえ、頬の肉の落ちた顔は一層気難かしそうに見えた。しかし、昼休みに、一人で本を読んでいた節子のそばへ来て、しばらくだね、と気軽に声をかけた。あの勇ましい一年生は今、どうしているの。今でも相変らず元気なのかね。いろいろなことがあって、かわいそうなのです。父親はまだ帰れないのかね。お父さまは亡くなりました。お母さまは御病気です。休学届が出ているはずですわ。そうか、そうだろうね。もともと英文学専攻の英語教師だった沖村にとっても、今の世の中の生き難さは同じであった。そうだろうね、という言葉には、深い共感とやり切れなさがにじみ出ていた。その沖村も、一カ月余りで節子達の前から去ってしまった。夢にも思わなかった召集令状が来たのである。ぼくは今年、四十六だよ。兵種だって第二乙だ。ぼくのような男を連れて行って、いったいどんな兵隊にするつもりなのか。節子の作業台に来て、ピンセットの先で自分の掌を突きながら、吐き捨てるようにいい、それきり二度とその姿を見せることはなかった。職場から出征兵士を送るときは、一同で万歳を三唱し、出征兵士を送る歌をうたうのが慣例だったが、沖村はそれを拒絶し、教師らしい態度で生徒たちに別れを告げることさえも放棄して姿を消してしまったのだった。  沖村の後に来た国語担当の老女教師をみて、横山厚子が皮肉な調子でささやいた。今度は長つづきしそうね。結婚にも出征にも縁がなさそうだから。  静かな明るさの中で、節子は眠った。絶えて久しくなかった安らかな眠りであった。眠りの中に現われては消える情景はとらえがたかったが、節子の限られた青春を彩《いろど》るささやかなはなやぎとなって、その口元を微笑ませるのだった。  そこは教室のようであった。級友達がそれぞれの席についてノートをひろげている。教師が黒板の前にチョークを持って立っている。黒板には幾何の問題が書かれている。図形は複雑だ。教師がしきりに何かを説明しているが、少しも言葉が聞こえない。今度は何か質問している。生徒達は誰も手をあげて答えようとしない。教師が何かいいながらこちらへ歩いてくる。教師は右足をひきずっている。教師は沢辺惇だ。節子達がノートをひろげているのは机の上ではなく作業台の片隅である。ああ、これは学校の授業ではない。と節子は思う。男子学生が女子学生のために特別に行なった始業前の早朝授業だ。節子はそこで数学や物理の知識を学んだだけでなく、沢辺惇へのひそかな思慕も育てたのだ。  そこは図書館のようであった。壁いっぱいに書棚が並び周囲は不透明な暗さで被われながら、皆の集っているあたりは明るくさわやかな空気が充ちていた。机を並べてみな本を読んでいた。なおみも沢辺惇も原田潔も、肇や湧井修三さえも、静かに本を読み続けていた。節子はその一人一人の姿をなつかしく見つめた。原田潔が立ち上って、大泉さん。ぼくのかわりにぼくの本を読んでください、といい残し、くらい書棚の中に去った。原田潔は肇の出征のときと同じように、寄せ書きの日章旗を肩からかけており、その軍人のような規則的な足音だけがいつまでも長くひびいた。沢辺惇が顔をあげ、勉強できる時に、一所懸命勉強しておきましょう、ともの静かな口調でいった。手には新しいノートと鉛筆を持っていた。大泉さんにはこれが一番必要なのだと思います。それは節子の焼け出されたときのことだ。節子はいつか焼跡に立っていた。本箱の置いてあったあたりに、本の部厚い灰の塊りが層を成して残っている。その塊りはやがて一枚一枚のうすい灰になって空に舞い上り、陽に透けて活字の列が影絵のように浮かび上った。なおみの家の丹羽教授の書斎跡の本の灰はおびただしい量であった。節子は泣きながら両手でその灰の山を掘っていた。その中になおみ母娘がいるはずなのだ。いくら掘っても本の灰には限りがなかった。しかもなおみはどこにもいないのだ。不意に節子は自分の掘った灰の穴にのめりこんだ。灰が節子の顔を厚く被い、節子は必死にもがいた。  そして、現実の息苦しさの中で節子は目覚めた。しばらく咽喉を切れない痰に苦しんだ後、ようやく水筒の水をのみ、節子は落着きをとりもどした。指先に、濡れた灰のはりついて離れない感触がまだ残っていた。  その日節子は久しぶりになおみの家を訪ねた。なおみの父の死後、節子ははからずも自覚することになったなおみへの友情の虚構に、自虐的といってもよいほどに苦しんでいた。健康もすぐれなかったが、なおみの前に立つことを恥じる気持がつよかった。その逡巡の中に、なおみが別れを告げに来たのだ。なおみは節子さんに甘え過ぎていたのだと思います。長いこと親切にしてくださって有りがとうございました。これからはどうぞ心おきなく、お国のために働いてください。灰色のノートのなおみの最後の言葉が激しく節子の心を打った。節子は休日を待ちかねて、なおみのもとへ来たのだった。だが庭木の多いその静かな邸町も、すでに焦土と化していた。空襲は連日のように繰り返され、なおみの家が今、焼けてしまっていたとしても、あやしむことはなかった。しかし、節子の胸は一瞬痛恨に打ちぬかれた。ママはパパのお骨を抱いてパパの本に埋もれてその火に焼かれて死ねば本望だというの。節子さん。うちには防空壕もないのよ。一週間前の日曜日、節子の家を訪れたなおみは、さり気ない口調で語った。静かなおとなびた様子が、淋しさをにじませていた。節子は異常とも思えるなおみ一家の愛情の深さの前で、いうべき言葉がなかった。コンクリートの塀に区切られた四角い空間はまさに廃墟と呼ぶにふさわしいものであった。丹羽教授の骨壺を抱いた夫人とその一人娘のなおみが、そこで生命を果てたことはもはや疑う余地はなかった。蔓草模様の青銅の門扉に手をかけると、それは意外に抵抗なく、わずかに悲鳴のような擦過音をともなって開いた。一歩踏み入った節子の眼の前を不意にめくるめくような黄色の記憶が横切った。それは門から玄関までの道の両側に植えられた豊かな水仙の花の列であった。冬枯れの風景の中にあって、その黄金色の塊りの連なりは、眩しく鮮やかであった。節子が此の前この家を訪《たず》ねたのは二月の末であった。丹羽教授の死がなおみに知らされて以来、はじめての訪問であった。節子さん! と呼びざま、節子の胸に身を投げて激しく泣きじゃくったあの時のなおみは、今は既に亡い。節子との友情にさえ絶望したまま、なおみは死んで行ったのである。そのことを思うと、自分の背信の重さに節子は呆然とする。この一年間、自分はいったいなおみに何をして来たのか。最後に裏切るために、なおみとの友情はあったのだろうか。しかも、節子は今、なおみの魂に向って、許してくださいということが出来なかった。許しを乞う資格さえ自分にはないのだ、と思うのである。なおみは灰色のノートの最後の頁に、私は今でも節子さんが好きなのだと書き、節子も亦、なおみへの変らぬ愛情を持ち続けていた。その二人をひき裂いたものは、二人の意志を超えたところにあったのだということを、節子は此の時まだ理解することが出来なかった。節子は長い時間、その焼跡に立ちつくしていた。深いむなしさが節子の中の空洞を吹き抜けた。背信の絶望感は、なおみによりも節子自身に、より一層激しい衝撃をのこしたのだ。門を閉じるとき、そこに縛りつけられた、御用の方は左記まで御一報ください。長野県諏訪市上諏訪──。と書かれた木札に気がついたが、足を止めることなく節子は通り過ぎた。なおみは数え年十五歳の短い生涯を終えたのだったが、節子も亦数え年十七歳の生命をやがて終ろうとしていた。二人の友情の破綻を、節子は自分の責任だと思い決めてしまったのだが、なおみ一家のような存在が、このような時代に生き伸び得るすべはなかったのである。そういう時代そのものの終焉《しゆうえん》を、それはわずか数カ月後に迫っていたのであったが、考えることは誰にも出来なかったのであった。  壕の外で子供の声がした。何が嬉しいのか、嬉々とたわむれる様子がきんきんとした声と共に、節子の不透明な静寂の世界まで入りこんできて、節子を微笑ませた。絶対に終らない戦争なんてものはありえないのですよ。それに、人間位したたかな生き物はいませんよ。死に急ぐことはない。何としてでも生きなければ。湧井捷一は、節子の手を握りしめ、かみつくような激しさでいったのだったが、その掌はすでに力弱く、その声はとぎれ勝ちであった。あの声は、菅原理容館の子供達であろうか。菅原理容館の主人は、空襲で逃げまどった時もその商売道具だけはしっかり持ち出していて、焼跡の土台石を積み上げた上に座布団を敷いて客を腰かけさせ、仕事に励んでいた。住居は京浜急行の線路の石垣に|さっかけ《ヽヽヽヽ》をつくり、雨露をしのぐだけのものであったが、子供たちは今では餓えることはなかった。敗軍の兵であっても、内地勤務の兵士達は皆何がしかの食糧を持っていて、横浜駅で帰郷の汽車を待つ間、菅原理容館の石の椅子に腰かけてさっぱりと髯をそらせた後、料金の代りに子供達に持っている食糧の一部を置いて行ったからである。終戦の翌日、学徒隊の解散式の時、節子をおそった激情は今はなかった。本土決戦、一億玉砕ということになれば、あの子供達も亦死んで行かなければならなかったのである。自分が何故死ななければならないかを理解する力もなく、恐ろしいおびえと痛みの中でその幼い魂と生命は絶えて行かなければならなかったのである。あの子供達には戦争の終ったあとを生きてゆく資格と力がある、あの子達のためだけにでも、戦争が本土決戦の前に終ったことを喜ぶべきなのだと節子は思った。戦争に敗けても人間のくらしはなくなりはしない。といった湧井捷一の言葉がまざまざと節子の胸によみがえった。どんな戦争だって必ず終る時が来て、パリは平和がくると不死鳥のようによみがえるのですって。灰色のノートの中のなおみの言葉もよみがえった。しかし、戦争の終る前に死んでしまったものはどうなるのか。決してよみがえることのない生命のかずかずを思い、節子は苦悶する。死んだ兵士は野ざらしとなっていずこの果てかに打ち棄てられ、生きのびた兵士達は衣類や食糧を背負って故郷へ帰ってくる。国のため、天皇陛下のために前線も銃後もなく国民は生命がけで戦ったのだったが、戦争に敗けても、国も天皇もなくなりはしなかった。いったい戦争とは何だったのか。節子は絶望的な混迷の中でもがきながら、いつか再び、苦しい眠りにおちていた。午後になって熱が高くなり、短い節子の小康状態は終ったのであった。  せつこちゃん。あんた、どこか疎開するところはないの。八月十六日の早朝、節子は隣家の主婦の大声に呼び起された。疎開って、もう空襲はなくなったんでしょ。そうじゃないんだよ。日本は戦争に敗けたんだからね。せつこちゃんのような若い娘は、どっか山奥にでもかくれなきゃ大変なことになるよ。大変なことって。まあいいから、ちょっと外に出てごらん。節子は気分がよくなかった。八月十三日、川崎駅をねらった爆撃で沢辺惇を失い、更に電車の不通で鶴見駅まで歩いて帰らなければならなかったことで、急激に節子は弱っていた。十四日は、終日高熱にうなされながら壕舎の布団から起き上ることが出来ず、十五日の朝も熱は下っていたが歩ける状態ではなく、工場へ行くことは断念しなければならなかった。正午のラジオの重大放送だけは隣組の皆と一緒に崎陽軒食堂まで聞きに行ったのだったが、壕に戻ってからは又、一層高く上った熱に悩まされていた。しかし、今日は何としてでも工場へ行かなければならないと、節子は思った。玉音放送は雑音の中で聞き馴れぬ声の調子が、その言葉の意味を伝えかねていて、いよいよ本土決戦だから覚悟して戦うようにという励ましのお勅語だといい張る者もいた程だったが、節子はそれが降伏の勅語だということを直感した。あろうことか。沢辺惇の言葉は、そして湧井捷一の言葉はまさしく真実であったのだ。皆はどうしただろう。敗れるときは、そのまま自決のときの筈であった。級友たちは、昨日のうちにすでに自決して果てたのであろうか。工場へ行かねばならない以上、起き上らなければならない。気分は悪かったが、熱はたいして高くはないようであった。壕舎の外に這い出てみて、節子は驚いた。この横浜の焼跡のどこにこれ程の人間がひそんでいたのかと呆れる程の人の列が横浜駅の方から万里橋を越えて、東横線のガード下の近くまで続いているのであった。この人達はみんな女たちを田舎へかくすための切符を買う行列をしているんだよ。ちょっと行って、あの人達の話を聞いてごらん。ふん、何が皇軍だ。自分たちが支那でさんざん悪いことをしてきたもんだから。そんな兵隊ばかりだったから戦争にだって敗けちまったんだ。節子はこの時もことの真実をはっきりと理解したわけではなかったが、耳をふさぎたくなる醜悪なものを直感した。大きな声じゃ言えねえけどよ、南京占領のどさくさにゃ千人斬りをした伍長がいたってよ。あんたもその口だろう。とんでもない。あたしゃせいぜい十人斬りだね。そのくせ今度はあわてふためいててめえの女房はかくしちまおうって寸法だ。当り前だ。あんなかあちゃんでも、そう簡単に斬られてたまるか。帷子川に並んで放尿しながら男達は話していた。その声は、それ程大きくはないのだったが、風にのって節子の耳まではっきりと届いた。そしてそのやわらかな胸を汚辱でくろぐろと染めたのである。日本で南京陥落の提灯行列が美しい火の渦を描いていた頃、南京ではそのような厭《いと》うべき行為が行われていたのであったか。戦争とはそのようなことでもあったのか。節子の全身に溢れる嫌悪《けんお》の情を押しのけるように、隣家の主婦は節子の腰をどんと叩いた。いやがってる場合じゃないよ。せつこちゃん。こんなとき、日本人だってアメリカ人だって男はみんな同じだからね。やられるのは今度はこっちなんだってことを忘れちゃいけないよ。私は当分小机の方の親戚に行って様子を見るつもりなんだよ。なあに危いのはしばらくの間だけさ。気が立ってるからね。落着いたら又戻ってきて、仲良くやろうね。壕舎に戻り節子は昨日の昼に煮た雑炊の残りを釜からじかに、匙ですくって食べた。茶碗によそうほど残ってはいなかったが、節子は何かをするのがひどく億劫だった。雑炊はたきたてはすする感じだが、冷えてくると糊をとかしたようなべろべろした塊りになるのだった。みねの死んだ時、自分の娘だと思ってめんどうを見ると誓った隣家の主婦がその誓いどおりに、貴重な食糧を分け続けてくれなかったら、節子はとうに餓死していたところだった。食欲もなかったが、休日に買い出しに行く気力も体力もすでになかった。弁当を持って行くことも大分前にやめてしまった。汁にわかめや菜っぱの屑と、わずかの外米が漂う茶碗いっぱいの雑炊が、工場で昼食時に特配になるのだったが、それさえも、節子は残すことがあった。空腹感はほとんど常に残っていたが、それにもかかわらず食欲はまったくなかった。節子は壕舎の中を見苦しくないように整理した。布団も上げようとしたが、それはびくとも動かず、ただきちんと形を整えるだけでやめた。肌着をとりかえて外に出、汚れた食器と、いま脱いだ肌着を洗った。もしかしたら、これきりここへは帰らないかもしれないのである。自分の去ったあと、いずれは誰かの眼に触れることになるであろうことを節子は思った。節子の眼の前には、敗戦の混乱を怖れて田舎へ逃げ出す人々の群れがざわめいていたが、節子はまだ、そうでない何かを、信じたい気持を捨て切れないでいた。節子の愛した日本、節子の信じた日本人が、このように醜悪である筈はないと思うのであった。しかし節子の信じたいと願った美しい何かは、どこにもなかった。横浜駅の混乱にも、静まりかえった工場の空虚さの中にも、節子を慰め、その願いを満たすものは何もなかった。日本の危機には必ず国を救うはずの神風も吹かず、敗戦の恥かしめを拒んで自決することもなく、節子の信じたものは跡かたもなく消え失せて、わずかに老女教師の涙が、許してくださいね、という言葉と共に、節子の心の空洞に注がれたのみであった。そして、その夜以来、ひたすら死を待つだけの、節子の長い忍耐の時が始った。隣家の主婦の最後の心づくしのいり米の袋にもほとんど手をつけず、ただ水だけを飲みながら、生きながら葬られた人間のように、半地下の壕舎の中に横たわることになったのであった。 [#ここから3字下げ]  節子さん  今日はお伺ひ出来なくて本当にごめんなさい。きつと一日中待つてゐてくださつたのだと思ふと、申し訳なくてどうしてよいかわからないやうな気持になります。お詫びのお葉書を書いても、それだけではどうしても気が済まなくて、それにとてもつまらなくて、又ノートを出して来ました。ママの病気がよくならないのは、まつたくママの責任だと思ひます。十日も半月もちやんと食餌療法を守りながら、急にどうしても我慢できなくなつてお酒を飲んだりするのですもの。でも此の頃のママを見てると、腹を立てる気もなくなつてしまひます。ママはパパのことを心配して人が変つたやうにしよんぼりしてしまつたのです。何しろ、もう半年もの間、パパの消息がわからないのですもの。石塚先生に頼んでパパの様子を探つていただいてはゐるのですけれど。私も何だか、パパはもう生きてゐないのぢやないかといふ気がして仕方がありません。でも、私もママもそのことは絶対に口に出しては言ひません。そんな恐ろしいこと、言葉にして言つてしまつたら、それこそ本当にパパが死んでしまふやうな気がしますもの。  毎日、お食事の仕度やお掃除や洗濯などをして暮してゐると、私は、時々自分がひどく年とつた人間になつたやうな気持になります。変つたことは何もありません。うちには食べる物もあるし、警報が出ても退避しないし、此の頃はママとも余りおしやべりもしないので、もう何年間もずつとかうして暮してきて、これからもずつとかうして暮していくのだらう、といふ気がするのです。今晩にでも空襲で死んでしまふかもしれないのに、人間の気持つて、ほんたうに不思議ですわ。お食事の仕度をするのは嫌ひではありませんが、お洗濯は冷たいしくたびれるので嫌ひです。シーツだのママの浴衣なんて、絞る時も干す時も本当に苦労します。それに日当りのいい表庭に干すと、警報の出る度にとりこまなければならないので(だつてお隣りがうるさいのです)植込みの多い裏庭に干すものだから、中々乾かないのです。でも、これは考へてみればばかげたことですわ。空襲の時、洗濯物をとりこむのは敵機の目標にならないためで、近所の人の目につかないから出し放しにするなんていふのは、本当によくない考へ方だと思ひます。でも、私にとつては敵機よりも近所の人の目と文句の方がこはいのです。空襲されることよりも、重たい洗濯物をとりこんだり、又干したりといふ手間の方がずつといやなことなのです。節子さんは、ママの病気がよくなつたら、又なおみも気をとり直して頑張れるやうになる、と書いてくださいましたけれども、さういふことは多分ないと思ひます。私はもう、心の底から堕落してしまつたのだと思ひます。ママと二人きりで暮してゐたら、誰だつて(節子さんは別ですけど)さうなると思ひますわ。  ママは此の頃起きてゐる時でも何となくぼんやりしてゐるのです。そのくせ、急にお酒を飲み始めたりするのです。ママにお酒を飲ませてはいけないと、石塚先生にいはれてゐるので、私は本当に困つてしまひます。はじめに血を吐いた時、ママは自分で残つてゐた焼酎をみんな捨ててしまひました。それなのに一と月もしないうちに、蓄音機とうちにあるレコードの全部と、清酒三本とをとりかへてしまつたのです。闇屋さんと仲良くなりすぎたのがいけないのですわ。闇屋さんは家中をじろじろ眺めて、ミシンを欲しいといつてゐる人がゐるんだけど、白米五升でどうですか、なんていふのです。ママは、どうせ空襲になればそれつきりだからつて、何でも闇屋さんのいふ通りにしてしまひます。今に、パパの書斎以外は家中がらがらになつてしまふのではないかしら。でも、私も此の頃はそんなことはどうでもいいみたいな気がして仕方がありません。私たちはパパが死んだのではないかと思つて心配してゐるのですけれども、その私達の方が今夜にでも死んでしまふかも知れないのですものね。  おさんどんのひまには、本を読んでゐます。「宮本武蔵」の後、ずつと時代ものを読んでゐます。大衆小説といふのですつて。中里介山とか直木三十五とか、今まで全然気がつかなかつた作者の本が書棚の隅つこにあるのでへえつと思つてしまひます。ちよつと読んでみてつまらないと、すぐ止めて、外のを読み始めるのです。今まではそんなことはしなくて、つまらないと思つても、一応ちやんとおしまひまで読んでゐたのですけれど。だつて何時死んでしまふかわからないのに、つまらないと思ひながら我慢して読むことなんかありませんもの。今、沖野岩三郎といふ人の「紀南太平記」といふのを読んでゐます。徳川吉宗の外伝で、とても風変りな書き方をしてゐるのです。でも、それが又面白いのです。節子さんにも読むやうにすすめようかしら、と私がいつたら、「ジヤン・クリストフ」を読んでゐる人には向かないと思ふわ、とママがいひました。もし気が向いたらいつてください。全部で五巻で、大衆小説にしてはかなり読みでがあります。  私、お正月には節子さんをお呼びして、ママと三人で百人一首やトランプをして御馳走を沢山作つて楽しく遊ばうとずつと前から考へてゐたのですけれど、ママが病気だから諦めなければならないと思つてゐます。その次のお正月まで生きてゐられるとは思へませんから、結局、運がなかつたのですね。  ママの病気が今のやうですと、これからもお約束の日に伺へないといふやうなことがあると思ふのですが、その代り節子さんがうちへいらしてくださるわけにはいかないかしら。呼びつけるみたいで悪いのですが、さうしないと、一と月に一度位しかお逢ひできなくなつてしまひさうですわ。私のうちには回覧板を持つてくるお隣りの人と石塚先生と闇屋さんしか来ないのです。私はママと二人つきりで、そのママも新しいお薬に変つてから、一日中ほとんどおとなしく寝てるだけですし、なおみは本当にひとりぼつちなのです。なおみをかはいさうだと思つて、どうぞ我儘を聞いてください。 [#ここで字下げ終わり]       十二月○○日 [#地付き]丹羽なおみ   五月半ばのある日曜日の午後、節子は大森の高台の湧井家を訪れた。肇の住所録の中から湧井修三の名を探し出し、その住所を調べ、大森駅で降りて交番で尋ね、その立派な邸宅の前に立つまで、たいした苦労はなかった。しかし、門は閉ざされたままであったし、呼鈴を鳴らしても声をかけても応答はなかった。まだ空襲の跡のないその緑の多い邸宅街は、奇妙に静まりかえっていた。節子は焼ける前のなおみの家を思い出した。どこといって変ったところは何もないのに、奥深いところでひそかに荒廃が進んでいるという感じがするのである。今のような時代に庭の手入れどころではないのであろうが、庭木も形がくずれ、雑草も丈が高く伸びたままになっていた。  なおみの死後、節子は、丹羽透子夫人の遺品となった「チボー家の人々」のノートの処置に困惑していた。なおみが友情のかたみとして持っていてほしいといった本の方はともかく、このノートだけは、私が持っている資格はないと節子は思うのである。ジャック・チボーの最後の絶望的な行為を、節子は今ではよく理解していたばかりでなく、ほとんど肯定してさえもいたのだったが、しかし、自分のこととしてそれを受け入れることは出来なかった。そういう柔軟な思考のできる限界を、節子ははるかに超えてしまっていた。もはや後戻りも、違った道へ移ることもできなかった。今まで信じて歩きつづけてきたこの道を、たとえ行手にあるのが一億玉砕、死だけであるとしても、そこをひたすら歩きつづけることにしか自分の生きる道はないのだと節子は思うのである。誰か此のノートを持つにふさわしいものはいないか、と考えたあげく、湧井修三の長兄のことに思い至ったのであった。湧井捷一はとにかく丹羽教授の教え子なのだ。話に聞いた限りでは、湧井捷一こそこのノートを持つ資格のある唯一の人間のように節子には思えた。そして思い切って、この兄の親友の家を訪れたのだった。留守なら仕方がないことであった。二足、三足戻りかけて、節子は咳をし、チリ紙に痰を吐き出した。そして一瞬息をのんだ。その痰には半ば赤いものが混っていた。初めての血痰であった。節子はすでに自分の病気を知っていた。工場の医師に学校に戻り療養をするように言われていたのに、母にさえもそれをかくして、働き続けていたのである。その結果の血痰を見て、今更驚くことは何もないのだ、と、ややたって、節子は自分に言い聞かせた。どうなさいました。ご気分でもお悪いのですか。何時来たのか、そこに女中らしい若い女を連れた初老の婦人がいて、節子に声をかけた。眼を上げた節子は、その初老の婦人の顔に、湧井修三の面影をはっきりと見た。  私共、御縁があったのでございますわね。湧井夫人は節子を応接間に招じ入れたあと、しみじみした声音《こわね》でいった。疎開して以来初めて、それもほんの三日ほど、止むを得ない用事があって戻って参りましたのよ。昨日はお客様があって、それでこの部屋もお掃除をすませました。そうでなかったらとても、坐って頂くところもありませんでしたわ。湧井夫人はじっと節子を見つめた後で、額から眼のあたり、お兄さまとよく似ていらっしゃる、といい、指先で眼尻のあたりをそっと押えた。肇の面影に重なって、湧井修三の姿を思い出したのであろうと節子は思った。大泉さんは本当によくできた方でしたわ。修三のような我儘者のお相手を、嫌な顔一つしないでよくしてくださいました。私共には男の子が三人いましたが、中のは早く亡くなりましたし、長男は親不孝な子でして、結局修三一人しか手元に残りませんでしたから、失礼ないい方ですけれど、大泉さんは自分の息子のように思っておりました。娘達は何人居りましてもかたづいてしまえばそれっきりでございますもの。でもこんな御時世では、息子も娘もありませんわね。みんなばらばらで、主人ともめったに逢えませんし、私もいつもあの娘と二人で畠仕事などをしていますの。香りのよい紅茶を運んできた女中の後姿を見やって、湧井夫人はいった。お客様にと思って、少しだけ持って参りましたの。どうぞ召し上って、今ではこんなものでも御馳走になってしまいましたものね。湧井夫人の話は、離ればなれになっている六人の子供達の上を限りもなく行ったり来たりし、死んでしまった息子にさえも再三及ぶのだったが、節子が触れたいと思う捷一の名は決して出ないのであった。湧井夫人の世界からは、捷一はすでに遠い存在なのであろうか。相槌を打ったり、共に笑ったりしながら、節子は途方にくれていた。節子は丹羽透子夫人のノートをついでの時に湧井捷一のもとに届けてもらえるものと、簡単に考えていたのであった。まあ、私ときたら、自分勝手な昔話ばかりしてしまって、わざわざいらして頂いた御用件もまだ伺っていませんでしたわ。何か修三のことでもお兄さまからお知らせがありましたの。節子の顔にうかぶ困惑した表情にようやく気付き、湧井夫人は思い出の世界から戻ってきた。そして、節子の口から湧井捷一の名を聞くと、まあ、あなたがどうしてあの子を御存じですの、と驚きと疑いでその顔はさっと緊張した。節子は自分をはさんでの湧井捷一となおみの思いがけない関わり合いを正確に話しながら、湧井夫人のかたい表情が、次第に悲し気にくずれてゆくのを見た。そして湧井夫人にとって湧井捷一が決して遠い存在などではないことを知った。あの子は親不孝な子で、と湧井夫人はくり返した。あんな身体ですから身のまわりのことを出来るだけ不自由のないように気を使ってはいますけれども、父親からは勘当同然ですし、当人の方でも家族を近づけないようなところがありますの。そうですか。志願するまえに修三は捷一を訪ねたのですか。やはり兄弟なのですわねえ。湧井夫人の視線は節子に注がれていたが、そのなつかしげな瞳ははるかに遠いところをみつめていた。昔はようございましたわ。子供達もまだ小さくて、男の子三人と女の子四人がみんな集って、椅子にかけたり床に坐ったりして、私のピアノを聞いてくれたものでしたわ。ここにもまた戦争によって不幸な晩年を余儀なくされた不幸な母親がいた。しかし考えてみれば節子の母もなおみの母も、その例外ではないのである。戦争によって不幸にならない母親はいないのだということを、節子は改めて思い知った。これは私共が信州へ帰る時の切符を買うための証明書ですが、まだ行先も日付も記入してありませんからいつでもお使いになれますわ。私共は何とでもなりますから、どうぞ捷一を訪ねてやってくださいまし。向うは乗物の便がひどく悪いそうですから、前橋におつきになったら、はじめにうちの前橋工場を尋ねてください。工場の方で乗物を何とか都合するように、とりはからっておきますから。湧井夫人に渡された紙片には、公用という朱印が押してあった。毎日早朝から横浜駅に長い時間行列をして切符を買う人々の群れを思い、節子の心は痛むのだが、湧井捷一を訪ねるためには他に方法がなかった。そして、湧井捷一を訪ねて托す以外に、丹羽夫人のかたみのノートを心おきなく手放す方法はないのであった。湧井夫人と別れの挨拶を交しながら、再びこの初老の婦人と逢うことはないであろうと節子は思った。さわやかな五月の夕暮れの風に向って歩きながら、一期一会《いちごいちえ》と、節子は声に出していってみた。毎日が文字通り一期一会なのであった。 [#ここから3字下げ]  なおみさん  毎日寒い日が続きます。小さなあなたが炊事や洗濯で冷たい水を使つてゐることを思ふと、かはいさうに思へて仕方がありません。お母さまは、此の頃は如何ですか。此の前お伺ひした時、何だかやつれて、本当に元気がないやうに思ひましたので、心配してをります。でもその私も、風邪をひいてもう一週間も工場を休んでゐます。高熱が三日も続いて、その上咳と痰がひどくて、すつかり弱つてしまひました。自分では気がつかなくてもふだん無理をしてゐるせいか、一度寝こむといつぺんに疲れが出て、熱が下つても起きられないのです。母が心配しますので、もう、二、三日休むつもりでゐます。その間に、できるだけたくさん本を読まうと思つてゐます。  なおみさんのお母さまが空襲警報が出てもベッドから動かないといふお気持が、今度は私にもよくわかりました。病気になると身体を動かすのが本当につらいのです。うちでも熱の高い間、私が動きたくないといつて手こずらせたものですから、父がかいまきごと私を抱いて防空壕まで運んでくれたりしました。でも上手に風邪をひきましたから、お約束の日にはお伺ひできると思ひます。工場を休んでゐても、あなたにお逢ひする日はちやんと出かけるつもりなのですから、私の立派な軍国少女もあやしいものですわ。  その時までに元気になつてゐたら、又、お掃除のお手伝ひをしてあげます。とにかくあなた一人でお掃除するにはあなたのお家は広過ぎますもの。私があなたのことを話すと、母があんな小さなお嬢さんが一人でやつてゐるなんてとても信じられないといひます。近ければ毎日でもお手伝ひに行つてあげられるのに、と本気でいふのです。私もさうできたらいいのに、と心から思ひます。思ふばかりで実際には何一つしてあげられなくて、本当にごめんなさい。  ちよつと起き上つてこれを書いてゐても、それだけでもう疲れて眼がくらくらしてくるやうな感じです。風邪をひいた位でこんなになるなんて、精神が|たるんで《ヽヽヽヽ》ゐる証拠だと思ひます。情けないことですわ。早く元気になつて、一所懸命働かなければなりませんのに。では又、お逢ひした時、沢山おしやべりをしませうね。 [#ここで字下げ終わり]       一月○日 [#地付き]大泉節子   喀《は》き出しても喀き出しても、胸を溢れる血は少しも減らなかった。赤くゆれる血の海の中を節子は漂っていた。身体中の血を喀き尽して、紙のように薄くなって浮かんでいた。私はどこへ行くのか。私はもう死んでしまったのだろうか。それならば、父や母や兄やなおみに逢えるのも、もう間もなくにちがいない。漂い浮かんでいるのは苦しかった。少しでも身体を動かすと、たちまち無限の深みに沈んでゆくような気がした。血の波が、今にも節子を吸いこみそうになる。大泉さん、もうすぐですよ。あれは湧井捷一の声ではないか。そうだ。彼も病気なのだ。彼も血を喀きながらこの海に漂っているのだろうか。大泉さん、戦争はもう終りだ。あの声は沢辺惇である。この血の海の中に沢辺惇の首筋から噴き出した血も流れこんでいたのだ。不意に節子の身体が沈みはじめた。大泉さん! 大泉さん! 沢辺惇と湧井捷一の声が代るがわる節子を呼んだ。節子は必死に手足をもがくが、身体は沈むばかりであった。気がつくと節子は血の海に漂っているのではなくて、見渡す限りの焼跡に立っているのだ。あの日までそこに暮していたあの多勢の人々はどこへ行ったのか。ああっ。悲鳴をあげて節子はとびのいた。節子は屍の上に立っていたのだ。しかし、飛び退いたところも、やはり屍の上であった。見渡す限りの焼跡は、見渡す限りの屍の原に変った。屍は次第に野ざらしとなり、その中で節子も亦、一箇の野ざらしとなった。よく来てくれましたね。野ざらしの一つが節子に語りかけた。野ざらしの顔はどれも同じだ。だがその声は湧井捷一の声であった。丹羽先生のお知り合いだということだったので男の方、それももっと年輩の方かと思っていたのですよ。こんなに若いお嬢さんがいらっしゃるとは思いませんでした。そして、節子は目覚めた。目覚めて閉ざされた世界に、野ざらしでない湧井捷一の、奥深く輝く黒い瞳があった。  湧井捷一の病室は、浄照寺の本堂の裏手、北東の一隅の、畳を一列に並べた細長い六畳の部屋であった。もともとここは旅の修行僧の泊る部屋なんだそうですよ。外には手洗いもついていて、一応俗世と関わりなく過すことが出来るようになっています。そこが出入口になっている本堂をめぐる廊下の障子のすぐ際に夜具がのべられ、その枕元にラジオがおかれ、あとはおびただしい書籍がところかまわず畳にじかに積み上げられているのみであった。和尚さんが、今日は何もないで、本堂つかえと。庫裏《くり》の方から座布団を二枚抱えてきて、どさりと本堂の片隅の畳におろしながら、頭の地肌が浮き上るほどきつく髪をひっつめに結ったモンペ姿の女が、立ったまま言った。和尚さんにありがとうっていっておくれ。女が去ると湧井捷一は、大きな羽根枕を持って本堂の方へ出て来た。ぼくは失礼して横にならせて貰います。背に座布団を敷き、肩からすっぽりと包みこむように枕を当てて仰臥すると、洗いざらしのワイシャツとズボンに包まれたその長身の身体は、すでに枯れはじめている巨木のように、かたくもろく感じられた。何か、ぼくに預かってほしいものがあるそうですね。  あの時、何故あのように激しく泣き出してしまったのか、今になっても節子は本当の理由はよくわからなかった。節子には、若い娘にありがちな意味もなくすねたり甘えたりして泣くというようなところは、もともと、まったくといってよい程なかったのである。初対面の湧井捷一の前で、どうしてあのように泣き出してしまったのか。あの時の狼狽が、今でも節子の胸を熱くするのだ。壕の中はかなりうす暗くなっていた。頭の上で誰か水道を使う音がした。人々が何事もなく暮している様子を思うと、節子の心は和《なご》むのだった。戦争が終っても人々は生きてゆく、と湧井捷一は、はっきりといった。戦争が終った時、を考えることを拒んだ節子だったが、その言葉は忘れがたく残っていた。不意に節子の口元が苦くゆがんだ。二度目に茶を運んできて、泣いている節子と当惑している湧井捷一を見くらべながら、あの風変りな女は軽蔑の念をこめて吐き捨てるようにいったのだった。肺病やみの死にそこないが、こんな若い娘を泣かせるなんざ、|まさか《ヽヽヽ》呆れた。和尚さんにいいつけてやる。湧井捷一は仕方なさそうに笑い出し、節子はあわてて女をひきとめた。自分が泣いているのは湧井さんのせいではない、とくり返しいったのだが、女の疑い深げな眼の色は容易に消えなかった。わずかに首を傾けただけで、節子は水筒の水を呑んだ。唇をこぼれた水が首筋から脇へ伝わり、その冷たさが全身に悪寒《おかん》をよびさました。また熱が高くなっているのだ、と節子は思った。あの人は、と女の去るのを見送った後、湧井捷一はいった。少し頭が悪いのですよ。この村の生れで親兄弟もいるのですが、年頃になって悪い男達に追いかけまわされて困りぬき、何とか助けて貰えないかと和尚に泣きついてきたんだそうです。それ以来、もう二十年近くもここで暮しているということです。よく働くし、寺でも彼女がいなければやっていけないんじゃないですか。中気で十三年間寝たきりだった先代のめんどうをみたのも彼女だというし、今はまた、ぼくが世話になってる。キヨちゃんは他人のためによく尽すから、何回生れ代っても絶対極楽ゆきだって和尚がいうものだから、よろこんで、尚のこところころ働くのですよ。湧井捷一のさり気ない話しぶりには、節子への深いいたわりがこめられていた。節子の昂《たかぶ》った神経のしずまるのを待って、彼はおだやかに、辛抱づよく更に話し続けたのであった。ここは一種の治外法権でしてね。この村にいる限り、ここの和尚には絶対服従なのですよ。生活の中から生れた智恵というものには、恐ろしいようなところがありますね。ここでは代々、寺のだいこくが産婆をしているのですよ。医者のいない村で、看護婦の心得のある産婆の果す役割ははかりがたいほど大きいのです。とにかく生死に関わり合うときは、必ずこの寺に来なければならないのですからね。村長だって校長だって駐在だって、その例外ではない。だから、ぼくのようにアカで肺病やみといういわば二重の極道を背負った男でも、和尚の袖にすがってこんな時代に何とか生きてゆくことが出来るのですよ。和尚とぼくの父とは学生時代からの友達なのです。まったく、どうして父のような俗物に和尚のような人と長い交友関係が保てたのか、不思議でならないのですよ。三度目に現われた女は、大きな盆を持っていた。盆の上には赤飯と目玉やきとわらびのおひたしの皿が並んでいた。どこで生れたの。と湧井捷一が聞いた。西倉の新宅だ。かわいそうになあ。生れた子は父親知らずだで。戦死の公報が来てからだもんなあ。湧井捷一は形ばかり箸をつけただけで、再び仰臥した。食べなければいけないと思っているのですが、どうも食べたくなくて困ります。節子もすすめられるままに箸をとったが、やはり食欲はなかった。早朝から混雑した電車や汽車を乗りついできた疲れが、被いがたく節子の全身に見えていた。ここにいると赤飯と葬式まんじゅうにはこと欠かないのですよ、と、湧井捷一が笑った。  あの時、私が泣いたのは、湧井捷一の周囲があまりにもあたり前すぎたからではなかったか、と節子は思う。耐えに耐えてきた異常な日常生活の重圧が、長いこと忘れていた静かで平穏な日常生活に触れたとき、節子の心の中の平衡を押しつぶしてしまったのではなかったか。人間らしい暮しの穏やかさを失って、もう随分長い歳月が過ぎたように思うのだ。時の長さばかりでなく、荒《すさ》んだ人間の心は、敵を憎むことだけにあおりたてられて、その救いがたい荒廃にはゆきつく果てがないように思われた。あなたも身体の具合が悪いのではありませんか。仰臥して眼を閉じたまま、湧井捷一が言った。さっきから咳をされている様子がひどく気になるのですよ。はい。此の前の健康診断のとき、肺に影があるといわれました。それなのに、こんなところまで来るなんて無茶ですよ。でも、どうしても湧井さんにお渡ししなければならないものがありましたので。  あの時、節子のさし出すノートを受けとりながら湧井捷一は淋しそうにいったのだった。しかし、空襲で死ぬことはないとしても、ぼくの生命も長くはもたないかもしれませんよ。持っている資格云々ということになれば、ぼくだって同じことじゃないですか。節子のいう資格がないということの意味が、生命の長さの問題ではないのだということを説明するのに、節子はさして苦労する必要はなかった。再び訪れた壕舎の夜の闇に横たわり、眼を閉じた節子の世界の中で、あの時の、みるみる大きく見開かれ、くい入るように節子を見つめた湧井捷一の黒い瞳がまざまざとよみがえった。あなたはそのことのために、わざわざぼくを訪ねて来られたのでしたか。 [#ここから3字下げ]  節子さん  パパが亡くなりました。亡くなつたのは五日前です。パパの遺志で、ママも私も臨終を看取ることができませんでした。そればかりでなく、家族に知らせるのは、焼いて骨になつてからにしてくれるやうにと、かたく言ひ遺したといふことです。  ママはここのところ又具合がよくなくて、石塚先生がなおみくんはママのそばにゐてあげた方がいいとおつしやるので、パパは石塚先生に迎へに行つていただきました。昨日も一昨日も、私はずつとパパのことを考へつづけてゐました。此の前、最初に石塚先生がパパの消息を知らせに来てくださつたとき、節子さんも御一緒でしたから、パパの健康状態のことはご存じですわね。私は、石塚先生のお話を聞いたとき、シヨツクで身体中がふるへ出して止らなくなつてしまつたのでしたが、そのあとでは、そんなこと嘘だ、絶対に信じないと思つてきました。でも、今は違ひます。パパがお骨になるまで家族に知らせてはならないと言ひ遺したといふことを聞いたとき、私は、石塚先生の言葉を信じたのです。めくらで、歯なしで、頭の半分もはげ上つてしまつて、ミイラのやうに痩せたパパを、私は今、大切に私の心に抱きしめてゐます。かはいさうなパパ! どんなに苦しかつたことでせう。パパがどんなに醜い姿に変つてしまつても、私のパパを大好きな気持に変りはありません。でも、あの素敵だつたパパを、そんなお化けみたいなパパに変へてしまつた人間を、私は憎みます。私が生きてゐる限り、一生涯呪ひます。パパをそんな風に変へてしまひ、殺してしまつたのが誰なのか、今の私にはわかりません。でもいつか大人になつたら、必ず、必ずパパの敵討ちをします。たとへ相手がどんなに強くても、偉くても、決してあきらめません。今、私の胸の中は憎しみと怒りで燃え狂つてゐます。ママみたいに、パパのお骨を抱いて泣きわめいたりはしませんけれども、心に深く復しうを誓つて、今はぢつと我慢してゐるのです。  石塚先生とママとなおみの三人で相談して、パパの亡くなつたことはどこにも知らせず、お葬式もしないことに決めました。パパはもともとクリスチヤンなのですけれど、どのやうに有難い神様のお言葉でも、パパの魂を慰めることはできないだらうと思ひます。  節子さん  一つだけお願ひがあります。今度、節子さんがお見えになつた時、どうぞなおみを泣かせてください。節子さんの胸で、思ひ切り泣きたいのです。泣きたいものがいつぱいに詰まつてゐるのに、どうしても泣けない感じで、胸が苦しくて、息がつまりさうなのです。あと五日。なおみがどんなに節子さんを待つてゐるかといふことが、節子さんにわかつて頂けたら、と思ひます。 [#ここで字下げ終わり]       二月○日 [#地付き]丹羽なおみ   丹羽先生の場合は、ぼくなどとはちょっと違うのですよ。専門はアメリカ経済ですからね。ぼくらから見れば、典型的なプチ・ブルという感じでした。思想犯といってもはじめは単純な筆禍事件でしてね。ぼくの友人に出版関係の仕事をしている奴がいて、ぼくがここに引込んでしまってからも、随分長い間娑婆の様子を知らせてくれていたものですから、丹羽先生のことも大体はわかっているのです。日米関係が行詰って来た頃、彼我の経済力の差から考えても日米戦争などはやれたものではないというような論文を書かれた。勿論、経済学者としての立場から書かれたわけですが、編集の段階で時節柄自重した方がいいということになって、雑誌にはのらなかった。ところが、誰か密告したものがあったらしく、軍に知れてしまった。それでひっぱられたわけですが、はじめから謝ってしまえばよかったのかもしれませんが、丹羽先生は逆に自分の見解の正しいことを力説されたそうです。それでこじれにこじれて、たしか未決のまま、長期拘留ということになっていたのだと思いますよ。友人に赤紙が来てしまって、その後のことはぼくにはわからないのですがね。そうですか。丹羽先生は亡くなられたのですか。そんな悲惨な最期をとげられたとは、想像もできないですね。ぼくらが伺っていた頃、男の子みたいに元気のいい小さなお嬢さんがいましてね。いつも先生の机の下にかくれているのです。一度などは、落したペンを拾おうとして机の下にもぐった学生と鉢合わせして、大さわぎでしたよ。そうですか。奥さんもあのお嬢さんも、みんな亡くなられたのですか。  なおみさんは下級生でしたけれど、私はいつもなおみさんに何かを教えられていたのだと思います。しかも、最後までそのことには気づかずに。はじめはなおみさんのかわいそうな立場をかばってあげているつもりでしたが、何故なおみさんがかわいそうなのかということを考えるようになって、私は本当に困ってしまいました。どんなになおみさんをかばってあげようと思っても、私はなおみさんとは違うところにいるのだということが段々わかってきたからです。私のようなものの存在が、なおみさんをかわいそうな立場においているのだということが、段々わかってきたからです。なおみさんが亡くなってから、私は「チボー家の人々」と灰色のノートを読み返してみました。私は結局、なおみさんを苦しめることに役立っていただけなのだと思います。  それは違うと思いますよ。今、ざっと読ませて頂いた限りでも、このノートの中でなおみさんがあなたに深い信頼を寄せていたことがよくわかります。あなたがそのなおみさんの信頼に充分に応えていたということも。昔、ぼくは立場を越えた人間の連帯というようなことは欺瞞《ぎまん》だと思っていました。しかし、ここで長いこと暮してみて、書物の中に納まり切らない民衆の大きさというようなものをつくづく知ったのですよ。呉越同舟。結局、人間であるという一点に於ては、誰もみな同じなのだと思います。  私は偽善者です。心の奥の方では、秋山さんたちと同じようになおみさんのお父さまを非国民だと思っていたくせに、なおみさんをかばってあげようとしたりして。私にははじめから、なおみさんのお友達になる資格などなかったのですわ。  そんなに性急に自分を責めてはいけません。あなたの年齢で丹羽先生を非国民だと思うのは当然のことですよ。それはあなたの責任ではありません。むしろぼくは、今のような時代に、あなたのようなお嬢さんがいられるということに驚嘆しているのですよ。なおみさんのような特殊な環境に育ったのならともかく、なおみさんの書かれたところによると、あなたは学校でも模範生だったそうですからね。  私は、なおみさんの前でもいい子でいたかったのですわ。今だって、あなたの前で、やはりいい子になりたいと思っているのですわ。私には、湧井さんとこんな風にお話をする資格なんかないのに、すぐに湧井さん達と同じみたいな顔をしてしまうのですわ。  そういう考え方は間違っていますよ。いいですか、ぼくのいうことをよく聞いてください。ぼくは此の頃戦争というものは、個々の民衆にとっては嵐みたいなものだと考えているのですよ。自分たちの意志とは関わりなくやってきて、その生活を根こそぎつき崩し、或る日、不意に過ぎて行ってしまうのです。戦争を支え、戦争を遂行するのは我々一人一人の国民なのに、戦争を始めたり終らせたりするのは我々ではない。そういう仕組みの中にはめこまれた一人の人間としては、ぼくもあなたも同じなのですよ。ただ、ぼくはあなたより長く生きてきて、自分の意志とか思考とかいうものを自分なりに持つ時間がありましたが、あなたにはその時間がなかった。しかし、今、あなたはぼくが書物の中で知識として知った戦争の実態というものを、現実そのものの中で体験しながら、一人の人間として思考し、模索しているのだと思います。そういう姿勢がある限り、あなたはなおみさんにとって最良の友であったと思いますよ。  そういって頂くと、とても慰められるような気がします。でももういいのです。みんな終ってしまいましたわ。なおみさんも亡くなってしまいましたし、重荷だったなおみさんのお母さまのノートも湧井さんにお届け出来ましたし、私も決心がつきました。  どんな風に決心されたのですか。  日本人として、最後まで国と運命を共にして戦い抜こうと心に決めました。  それはおかしい。あなたはこんなにもよくわかっているではありませんか。ぼくの見るところでは、戦争はやがて終ります。それもそう遠い話ではない。あなたは正義のための戦争を信じているのでしょうが、純粋に思想のためだけの戦争などというものはないのですよ。結局は勢力争い、経済的支配のための勢力争いなのですからね。戦争の被害が国民にだけ及んでいる間は、聖戦完遂、一億玉砕を叫んでいても、危険が自分達に迫ってくれば、彼らが拠《よ》りどころとしている、皇室とか国家そのものの存亡に関わってくるということになれば、もう戦争を続ける理由はないのです。大泉さん、もうすぐですよ。もうすぐ戦争は終ります。それまで辛抱して待つことです。戦争が終った後には、あなた方のような優秀な若い人の為すべき仕事が、両手をひろげて待っていますよ。  湧井さんには戦争の終ったあとのことを考える資格がありますわ。でも、私にはないのです。私は子供の時から戦地の兵隊さんに、お国のために一所懸命戦ってください。私も銃後を守って戦い抜きますという手紙を書き続けてきましたし、今でも毎日、お国のため、戦争に勝つためと思って真空管を作り続けています。私の作った真空管がどのようにして戦争に役立っているのかよく知りませんけれども、今になって逃げ出す資格は私にはありません。私には、今まで信じて来たことを、これからも信じて行く以外に道はないのです。  誰があなたにそれを信じこませたか、ぼくにはよくわかっていますよ。責任は信じこんだあなたにではなく、信じこませた側にあるのだということも。しかし、あなたにそういう思想を信じこませた奴らは、自分自身では決してそのことの責任を取ろうとはしないのです。彼らは必要となれば平気で、いつでもあなたを裏切るでしょう。  いいえ、そんなことはありません。偉い人達が国民を裏切るなんてことは決してありません。私はそんなことは絶対に信じません。 [#ここから3字下げ]  なおみさん  この前私がさしあげたお手紙はたうとう届かなかつたやうですね。郵便物だつて空襲を免れるわけにはいきませんもの。仕方のないことですわ。お察しの通り、私の風邪はまだ私の身体の中でぐづぐづしてゐます。工場の方はどうにか休まないで通つてゐるのですが、土曜日の夜になるときまつて熱が出て、日曜日は一日中起きられないのです。咳も痰も相変らずですし、なおみさんはお母さまの看病で来られないのだから、私が行かなければお逢ひできないといふことがわかつてゐても、どうにもならなかつたのです。ごめんなさいね。でも次の日曜日には必ず伺ひます。  あなたがこの前お書きになつたところを何度もくり返して読みました。でも、私はそれに対してどのやうに書けばよいのか、見当もつかないのです。どんなおくやみの言葉も、すべてむなしいやうに思はれます。あなたの受けられた衝撃とはくらべることは出来ないと思ひますが、私も亦大きな衝撃を受けました。この前お伺ひした時にお借りしてきた「チボー家の人々」を再読して、とくに一九一四年夏の部分をくり返し読んでみて、ジヤツク・チボーやあなたのお父さまのやうに、生命をかけてまで守らなければならない戦争反対の思想とはいつたい何なのか、といふことをつくづく考へました。私も亦、今、生命をかけて聖戦完遂のために戦つてゐます。同じ時に、お互に生命がけで反対の戦ひをしてゐるといふことはどういふことなのでせうか。私にはわかりません。何かわからない大きな衝撃の中で、ただもがき苦しんでゐる感じなのです。まだ小さな女の子にしか過ぎないあなたが、お父さまの復讐を誓ふといふやうなことは、本当なら年上の友人としては思ひ直すやうに忠告すべきなのかもしれません。でも、私にはさういふことはとてもできません。あなたの怒りの激しさも、おそらくはそれが正当なのだといふこともわかるやうな気がします。そして、私はそこで、自分の立場のあいまいさ、いい加減さに立ちすくんでしまふのです。  私には、なおみさんと一緒に手をとりあつてあなたのお父さまの最期を憤り、復讐を誓ふことが出来ません。私は、風邪の身体に鞭打つて、聖戦完遂のための職場に通ひ、増産にはげんでゐるのです。あなたの怒りや悲しみがわかるといひながら、まるで逆のことを、毎日、それが正しいのだと信じて一所懸命やつてゐるのです。  私には、本当は何一つわかつてなどゐないのです。さもあなたのための一番良いお友達みたいなふりをして、仲良しらしくしてゐても、私にはそんな資格はなかつたのだといふ気がしてなりません。  なおみさん。  許してください。私の病気はあなたにお逢ひする勇気がないことの、口実になつてゐるのかもしれません。 [#ここで字下げ終わり]       二月○○日 [#地付き]大泉節子   その息苦しさがいつから始ったのか、節子にはわからなかった。節子は夢中で胸をはだけた。モンペの紐も解いた。身体をしめつけているものをすべて捨ててしまえば、少しはこの息苦しさから逃れられるのではないかと思ったのである。壕舎の中の空気が汚れているのは事実なのだが、空気そのものが失くなってしまったかのような異常な息苦しさなのであった。ここで一緒に、戦争の終るのを待ちましょう。ここにいれば、その時までにあなたの病気は治ってしまいますよ。湧井捷一の声と共に、一瞬、本堂の裏の竹藪を渡るさわさわという風の音と、ゆたかな空気が節子を包んだ。キヨちゃんよ。このお嬢さんも病気なんだって。ぼくと一緒にめんどうみてくれないかな。和尚さんがめんどうみれっていや、しようがなかんべさ。肺病やみが肺病の嫁さん貰って寺の本堂で寝てりゃあ|まさか《ヽヽヽ》似合いだあ。容赦のない高笑いに節子は立ちすくんだ。現実にそのようなことの出来るはずはないのだが、節子の中に、この静かな日常生活の場を去り難い感情がなかったとはいい切れなかった。驚いたのは湧井捷一も同じであった。とんでもないことをいい出して。普通の人間ではないので、許してやってください。しかしそのことで、節子の昂った心は一度に冷静さをとり戻したのだった。節子は湧井捷一との間の距離を思い知った。なおみがいなければ、節子が湧井捷一を訪ねることなど思いもよらなかったのである。そのなおみにさえ、自分は遠い人間でしかなかったのだという自覚は、節子を深く傷つけていた。ただ、初対面の、しかもわずか数時間の触れ合いしか持たなかった湧井捷一が、その節子の傷心を鋭く見抜き、いたわってくれたことを節子は深く感謝した。思い出に慰められて、節子は浅い眠りにおちた。眠っている間も息苦しさがうすらぐことはなかった。透明でくらい気体が節子の周囲をしずかに厚く被いはじめていた。それは層を重ねるにつれて透明なままでくらさだけが次第に積み重なっていくのである。その底に沈み、身動きもならず、節子はわずかな呼吸を求めて喘《あえ》ぐのみであった。どうしても、もう一度考え直すことはできませんか。日が西にまわり、本堂の南側の幅広い廊下には夕暮れ前のおだやかな時間があった。湧井捷一は高い屋根を支える太い柱の一本に、大きな羽根枕を背に当ててよりかかり、眼を閉じていた。長く投げ出された足の白さがまぶしかった。あれはいつのことだったか。肇の足もこのように白かったのを、節子は思い出した。あなたが死にいそぐ理由は何もないとぼくは思うのですよ。私には戦争の終った後まで生きのびる資格などありませんわ。そういう自覚を持ちながら、この現実を生きているということが貴重なのではないですか。そういう人間だけが、戦争の終った後で何を為すべきかということを、本当に考え得るのだと思いますよ。中庭には枇杷《びわ》の巨木があり、茂り合った枝々の厚い葉の重なりの奥に、無数の小さな実がひしめきあっていた。その梢のあたりを小綬鶏がにぎやかな啼き声を残してとび立って行った。もう一と月遅く見えられたら、此の枇杷が食べられたのに惜しいことをしましたね。湧井捷一は瞳をあげて、小綬鶏のとび去ったあたりの空を眺めていった。ぼくも数年前まではキヨちゃんの眼を盗んでこの木に登り、日にぬくめられた枇杷を、手の届く限りうまそうな奴からもいで食べたものです。食後には洗って井戸水で冷やしたのが食べられることがわかっていても、それよりも自分で木に登って、自分でもいで食べたかったのですね。短い沈黙の後で、今は、もう、駄目です。といった湧井捷一の声は重く、絶望的なひびきがあった。  節子は限りなく降り積るくらい透明な層の中にとじこめられて、次第に硬化していく自分の肉体をみていた。頭も四肢もすでに動かず、わずかに肺だけが最後の喘ぎを続けているのだ。赤いなだらかな塊のところどころに結核菌に侵蝕された空洞が円いかげを描いていた。苦しげに肺が身悶えするとその穴の中にじくじくと血がにじみ出て溜り、細い管を伝って気管支へ流れていく。気管支はたまった血を外へ吐き出そうと切なげに身をくねらせるのだが、血はたまるばかりなのだ。節子はすでに閉じている眼を何度も閉じ直す。自分の胸の中で苦悶する肺や気管支の姿を見つめていなければならないというのは、何という苛酷なことか。しかしどのようにきつく閉じ直しても、執拗にそれらは閉じた眼の内側にあるのだった。人間くらいしたたかな生き物はいないと思いますよ。国と共に滅びてしまった民族などはないのです。すべてが失われても、人間が生きてさえいれば、そこに未来を托すことが出来ます。大泉さん。生命を大事にしてください。迎えの車が来たとき、湧井捷一は杖にすがって寺の門まで見送りに出た。こういうことは、ぼくの信条にそむくことなんだ。生命を縮めてまであなたを見送るなんてことは。自嘲をこめてそういった後で、湧井捷一は懇願するような口調になった。そのぼくが、何故無茶を承知でここまで出て来たかということをわかってください。杖の握りに両の掌を重ね、その上に重たげに頤《おとがい》を乗せて、湧井捷一の胸は荒い呼吸にはげしく揺れた。戦争が終った後にこそ、あなたの本当に生きるべきときが来るのだということを信じてください。それを信じて生命を大事にしてください。くらい透明な層はすでに幾重にも節子の上に積み重なっていた。壕舎のせまい空間を埋めつくし、更に壕そのものを被って、天も地もびっしりと包みこんでいた。節子の眠りは次第に深く、呼吸は浅くゆるやかになっていった。 [#ここから3字下げ]  節子さん  たうとう四月になつてしまひましたね。三月中、一度も節子さんはいらしてくださいませんでした。お加減がよくないのだといふことはわかつてゐても、工場へは休まずに通つていらつしやるのだから、一日位、なおみのためにくださつてもいいのにと思つてゐました。この頁の前、何頁も破つたあとのあるのを、節子さんもお気付きになりましたわね。破いた頁に何を書いたか、おわかりになりますか。さうです、冷たい節子さんに、うらみつらみを沢山書きました。でも、今日、私はその頁をみんな破り捨てて、庭で燃してしまひました。私は明日、節子さんのところへ伺ひます。石塚先生に一日だけ看護婦さんをよこしてくださるやうに頼みました。明日、帰りがけにこのノートを節子さんにお渡しして、なおみが帰つてから読んでくださいといふつもりです。もう、おわかりになりますわね。なおみは節子さんにお別れをするために、明日、うかがふ決心をしたのです。  パパが亡くなつたあと、私は節子さんに沢山慰めて頂けるものと思つてゐました。節子さんは私と一緒になつて怒り、悲しんでくださるものと思つてゐました。でも、さういふわけにはいきませんでした。  私は今になつて、節子さんにどんなにご迷惑をおかけしてゐたのかといふことがよくわかりました。なおみは節子さんに甘えすぎてゐたのだと思ひます。でも、これだけは信じてください。なおみは今でも節子さんが好きです。好きだからこそ甘えてゐてはいけないと思つたのです。去年の四月、お友達になつていただいてから一年間、節子さんはなおみにとつて本当に大切な人でした。それはこれからもずつと変りません。  でも、もういいのです。なおみは節子さんとお別れする決心をしたのです。これ以上、なおみが節子さんに甘えてゐては、節子さんを苦しめるばかりだといふことがよくわかつたからです。  パパの復しうのこともあきらめました。もともと、そんなこと出来るはずがなかつたのですわ。何故つて、大人になるまでなおみが生きてゐるはずはないのですもの。でも、それももういいのです。早く死ぬといふことは、それだけ早くパパに逢へるといふことですもの。天国にゐるパパは、どんな姿をしてゐるのかしら。勿論、醜い姿のパパだつていいのですけれど、できることなら昔の、あの素敵なパパに逢ひたいと思ひます。  節子さん。  戦争のない時代に生れてきたかつた、と心の底から思ひます。みんな同じ人間なのに、どうして戦争などするのでせう。地球儀をぐるぐるまはしながら、つくづく考へます。地球ができた時、地球を区切る線なんかどこにもなかつた筈なのに、いつたい誰が国境などといふものを考へ出したのでせう。地球の上から国境の線をみんな消してしまつて、日本人もアメリカ人も支那人もなく、みんなただの人類になつて、どこででも、誰とでも仲良く暮せたらどんなに幸せでせう。  長い間、親切にしてくださつて、ほんたうにありがたうございました。お貸ししてある「チボー家の人々」はせめてもの二人の友情のかたみに持つてゐてください。どうぞこれからは、心おきなくお国のために一所懸命働いてください。 [#ここで字下げ終わり]       四月○日 [#地付き]丹羽なおみ      大泉節子様  節子は、くらい透明な空間をさ迷っていた。遠い周囲は真の闇だったが、節子の身辺にはいくらかの明るさがあり、節子は何かを求めて前へ前へと進んでいた。それは音のようでもあり、言葉のようでもあった。それがどこからくるのかもわからなかった。くらい透明な層がどこまで続くのか、節子の進むところがどこなのか、まったくわからないのだ。ただ、それはどこからか来て、節子の魂の深みをゆさぶり、すでに消えようとしている生命の炎をかきたてるのだ。節子は次第に意識をとりもどした。そして、その耳に、その口笛ははっきりと聞こえたのだ。お兄ちゃん! 口笛はまさしく壕舎の外から聞こえて来た。深い眠りに沈んでいた節子の中の残された力のすべてが目覚め、節子をつきあげた。お兄ちゃん! 節子は渾身《こんしん》の力をこめて壕舎の入口に向って這った。階段をほとんど腕だけでずり上った。お兄ちゃん! 茫とした明るさの中に人影が立っていた。人影は見極めがたかったが、口笛はまさしくそこから聞こえていた。お兄ちゃん! 節子は絶叫したが、それはほとんど声にならなかった。しかし、人影は何かの気配を感じたらしく口笛がやんだ。人影は何かをいった。何かを。それは日本の言葉ではなかった。帷子川のほとりの焼跡の壕舎の側に立って、空に向ってスコットランド民謡を口笛で吹いたその人影は、極めて早い時期に日本に上陸してきた米兵の一人だったのである。節子は壕舎の床にずるずるとすべり落ちた。そして二度と動くことはなかった。  初出誌 文學界 昭和四十七年十二月号 〈底 本〉文春文庫 昭和五十年七月二十五日刊