PROFANUS[#冒涜・不敬の意] 西脇順三郎 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ <例> 或は軽蔑《けいべつ》して |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 <例> ココアの油と|麝香《じゃこう》と瀝青とで [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 <例> [#改ページ] -------------------------------------------------------      ㈵  詩を論ずるは神様を論ずるに等しく危険である。詩論はみんなドグマである。マラルメがイギリスの学生に聞かせた講義も今では軽薄なるドグマになった。  人間の存在の現実それ自身はつまらない。この根本的な偉大なつまらなさを感ずることが詩的動機である。詩とはこのつまらない現実を一種独特の興味(不思議な快感)をもって意識さす一つの方法である。俗にこれを芸術という。  習慣は現実に対する意識力をにぶらす。伝統のために意識力が冬眠状態に入る。故に現実がつまらなくなるのである。習慣を破ることは現実を面白くすることになる。意識力が新鮮になるからである。しかし注意すべきことは習慣伝統を破るために破るのでなく、詩的表現のために、換言すれば詩の目的としてつまらない現実を面白くするために破るのである。実際に習憤伝統を破るならばそれは詩ではない。倫理であり哲学である。人間が現実を意識する習慣上の方法は普通の感情であり、理性である。この通俗の感情、この理智を破るときは、意識力が習慣伝統より脱して現実を新鮮に意識することが出来るのである。これは俗に批評家が近代の詩は破壊のみをなし建設せぬと言って罵るところであるが、実はこの破壊は詩の建設である。この破壊がなければ詩が創造力を得ない。理智は現実を理性をもって意識するが、詩は理性を破り或は|軽蔑《けいべつ》して現実を意識するのである。  パスカルが「哲学を軽蔑するのは真の哲学者である」と言っている。これはニーチェの哲学である。如何に偉大な権威を有する伝統でも、伝統はこれを受くべきものではないとは彼の考えである。詩の形式も一個の伝統である。  十九世紀になってから詩の伝統が著しく亡びつつあるは近代意識であった。ボードレールは俗人の美に対する感覚や道徳までも軽蔑した。   ココアの油と|麝香《じゃこう》と瀝青とで   複雑した香に熱烈に酩酊する。 は俗人を驚かしたが、今日では普通の詩人の考えるところとなった。ハイネは唱歌になり、ヴェルレーヌは「Il pleure dans mon coeur」(わが心に雨が降る)と歌ったが、これも通俗の感じ方となってしまった。  人間の感情の力はそれ自身調和する、|恰《あたか》も気象の如く運動する。そうして無となる。神様の存在に調和するのである。「神は、統治せんがために生存を欲しない唯一の存在である。」この種の運動に二つある。或時は遠心的に動き、秋の樹木の葉の如く散乱して紙屑の様にボロボロになって遂に無となる。或時は求心的になり、レンズの如く太陽の光線を焦点に集め自ら燃焼するのである。前者はデカダンの詩にあり、後者は「リヤ王」やボードレールの魂のカンシャクである。即ちエモーションである。 「厳密になお簡単にいうと、一つの崇高なる美に対する人間の熱望であって、この詩の本質は魂の向上、即ち一つの熱心という存在の中に表わるるものである。」この崇高なる一つの美とは寧ろ人間の魂が完全に満足し得る境地をいうのであって、所謂情熱の求める美とは異るものである。Vivamus, mea Lesbia……(私のレズビアよ、生きよう)と歌うカトゥルスとは違う。  ボードレールは愛は売淫の趣味であると言う。「情熱はあまりに自然なるために、純粋の美の世界に無礼なる不調和なる調子を導くものであり、あまりに通俗にしてあまりに乱暴なるがために、詩の超自然的境地に存在する純なる希望や美なる|憂欝《ゆううつ》や高尚なる失望を|寧《むし》ろ軽蔑するものである」とまた言っている。 「常に酔っぱらっている必要がある、そこにすべてがある、何んでもよろしい、|葡萄酒《ぶどうしゅ》でも詩でも……。」  ボードレールは既に詩が単に思想や感情を歌う如き原始的意義を失った。これが近代詩の精神であった。  詩は原始的である。原始時代の言葉の精神は詩である。フンボルトは、人間は「歌う生物」であると言った。この詩の観念は言語学上にて言語の起原を論ずる為に便利であるが、詩に対するもっとも優れた考え方ではない。レッシングのいう|所謂《いわゆる》 Libhaber(素人詩人)である。今のオックスフォード大学の詩学教授であるギャロッド氏は言った、「この頃は詩を作ることが大変むつかしくなった。昔の長髪時代にはシャベルとすぐ詩になった」と。  人生を再現するということが詩である。この説はプラトンが第一、「共和国」の中で不賛成をしている。ホメロスが英雄を砂の中でカクカクと泣かしたことや、毛むくじゃらのオデッセイが孤島の海岸で故郷を憶いサメザメ泣く光景を歌ったのは、なる程人間性の表現として最初の自然主義者であるかもしれないが、そういう詩はプラトンがよろこばなかった単に人生の模写である。恐らくこのプラトンの説を|反駁《はんばく》してアリストテレスか詩論を書いた。  アリストテレスは詩は単に人生の模擬でない、人間の一般不変なる性質及び傾向を表現するのであると説く。この説は人間性の模写の範囲を制限することであって、人間の「可能性」及び「必然性」に重きを置くのである。  プラトンの詩に対する不満は、詩には批判がないことであった。後世、「すべて偉大な詩人は必然的に最後に批判者となる。本能にのみからるる詩人は気の毒に思う——」と言ったボードレールはプラトンと共に道徳家(この日本語は安っぽいが)であった。大体に於てアリストテレスは本能主義者で、後世イタリヤのルネサンスや、下ってはフランス十九世紀の自然主義者と共通なところがあった。  アリストテレスは詩の起原を、人間に|模擬性《もぎせい》があることと、模擬した作物をよろこぶ性質があることとに帰した。この起原説は、詩の特質を説明するには余り範囲が広すぎて、他の芸術にも当てはめることが出来るだけ、それだけ不明となる。詩は芸術の一部分であると説明するにすぎぬ。  十七世紀の初めフランシス・ベーコンが「学問の進歩」を書いて王様に献じた。この中に詩論がすこしある。実に寄妙なることはこの簡単な詩論が近代(二十世紀)詩論(ダダ・シュルレアリスム)の中に完全に実現されている。尤も十七世紀の(ジョンソン博士の言葉で)形而上派という詩人達にも又シェイクスピアにも表われている思想である。  ベーコンは詩人であった。詩人でなければあんなにつっこんだことは言えない。ポーが詩人のみ詩論が出来ると言ったことは実際である。ベーコン自身は詩人であった。余言であるが「シェイクスピアのベーコン説」を認めたい。論者としてのベーコンはモンテーニュより論理整然として詩的なところがない。しかしベーコンの作品がすたれてしまったという時代は|到底《とうてい》想像が出来ぬ。  詩はイマジネーションという心理作用に属す。この分類はエスパニヤ人のなしたものである。この説は昔も今も認められている。併しベーコン以前は「想像」は詩の異常的方面として認められていた。しかし、べーコンはこれを創造力であると認めた。この点は近代の思想である。コウルリッジでもボードレールでもマックス・ジャコブでも認める。「想像する」ことは、イデーの結合にすぎない。ドクター・ジョンソンが形而上詩人を評した「出来るだけ異種の心象を乱暴に結びつけたもの」であって、所謂ボン・サンスとかコモン・センスに反するものである。シェイクスピアやマーヴェルやダンの詩に表われている様な奇想は倫理的意識を軽蔑したものである。昔の人はこれを狂気というのである。現代のフランスの詩にあるトリスタン・ツァラやジャン・コクトーやイヴァン・ゴルは、この想像の術を示している。この種のメタフォルや連想を作るテクニィクは、科学的に性質を異にするものを結びつけることである。又時間的にも空間的にも、最も遠くはなれたものを結びつけることである。常識にて到底不可能なる連想を行うのである。グルモンの可逆的な分離作用はこの種の連想をいう。英国の十八世紀の常人を重んじた詩人(ドライデン及ポープを中心とした)やホラチュウスやボアロー等は、詩的連想はなるべく同種の中から心像を結ぶことを俗人に教えた。  ドクター・ジョンソンが「最も異る種類のアイデアを暴力をもって結合する」と言ったことは十七世紀の詩人に対する皮肉な言葉であるが、これが実は近代の詩のテクニィクである。この暴力を十九世紀の詩人は情緒とか情熱とか称して詩の創造の重要分子にした。ギャロッド氏はこの種の詩的創造の気持を「連想の暴風」と称した。  連想の哲学者であるハートレイの影響を受けたコウルリッジは、「想像すること」を明かに詩の条理とした。要点は反対の性質をもった心像が調和し平均するところに詩の創造の力が表わるるものである。或は同が異に平均し、一般性が具体性と平均し、心像が物像と一致し、新が旧と平均し、平凡なる理性が深刻な情熱と連結する如きものである。その後シェリーが、「つまらないものをまるでつまらないものでないようにするのが」詩であると言う。例えば噴水の水が単にながれているつまらない現実をマーヴェルは   噴水の流動体の鐘が   くぼんでいる貝殻の中で鳴る と歌う。  コクトーの詩に人間のつまらない耳の存在を歌って、   オレの耳は一つの貝穀である   海の音響を愛す  現今フランスにシュルレアリスムの運動がある。この名称は包括的なもので、昔立体派とかダダとか称せられた連中が皆この名称に満足して統一された。自らその中にもグループが分けられているようであるが、その一派でアンドレ・ブルトンは他の一派のピエール・ルヴェルディに皮肉を言っている。ルヴェルディの想像は後天的であると言う。その意味は詩の連想が未だ同種の心像から出来ているからである。ルヴェルディは|勿論《もちろん》理論として「二つの現実の関係が遠く離れれば離れる程、又それが平均すればする程、その心像の力が強くなる」と言っている。ルヴェルディの「正確」という意味とコウルリッジの「平均」ということは同じなのである。ブルトンはルヴェルディよりは過激である。平均ということをあまり考えていない。その効果は実に破壊的である。  要するにこの超自然主義の詩は昔から偉大なる詩人のもっていた思想であった。別に新しい詩の形式ではない。  しかしこの「想像」は詩それ自身でない。ただ詩を作る方法である。詩の目的は詩それ自身であるとボードレールなども言っている。又ゴーチエの伝統を受けた芸術のための芸術詩を宣伝したイギリスのワイルドなどは実際そう思って死んでいってしまった。詩が芸術であるというのは、詩はそれ自身の目的を果すための一つの方法をもっているということであって、この方法を俗に芸術という。  詩に前述の「想像力」が大切であるということは、詩が目的を達するためにそれが必要なる方法であるという意味である。  詩の目的とは何んであるか。  第一に、原始時代に於ては人間の思想や感情を「歌う形式」で表現することであった。今でも素人的詩人にはこの考えがある。アリストテレスは人間の一般通有性を表わしていなければ詩でないという。医者が学問を「歌う形式」で書いても詩でない。恐らくルクレチュウスは詩人でないといわれただろう。併しテオドール・ド・バンヴィルは「歌うという以外にはポエジーもヴァースもない」と言って、即ち韻文という形式に重きを置いている。表現された材料をもって詩の正否を判断するのはアリストテレスである。この伝統は今日でも詩を論ずる場合必ず問題となる。要するに原始的詩の目的は人間の考えたこと感じたことを表現することである。  第二に、フランシス・べーコンには近代詩人の考えと一致する点があった。自然界は人間の霊魂より比較的劣っているがために、事物の自然は人間の理智に満足を与えない多くの部分をもっている。詩の目的はこの部分に対して、人間の理智に多少の満足の影を与えることである。理智の満足の範囲が拡大される。この理由のために人間の精神の偉大さが以前よりも大になり、その善性が以前よりも正確になって、事物の自然中に以前よりは絶対な多様性を発見することが出来るという。又その方法は事物の光景を理智の希望通りに服従させることである。これ等の意味を現代語で分解すれば、詩とは現実の人生に不満を感じ、現実の人生を以前よりは理知に満足を与えるような形体に変化させんとする人間の希望である。この詩的精神は現今のシュルレアリスムの先祖とも見做されるランボーによく説明されている。彼の詩には事物の存在がない、しかし希望ばかりある処から出て来る。この詩に対する観念に比するとアリストテレスの説は未だ写真術のような気がする。レッシングのラオコーンは芸術写真の論である   役者が自然に近づけば近づくぼど、それだけ我々の眼や耳を不快にする から少しボカしたらよいという論である。  ランボーは超現実主義の詩人達からは詩の使徒とか天使とか言われている。ベーコンの説が今日パリで説明されているとは実に面白い現象である。  かくの如き希望が詩である。  ベーコンの「事物の外観を理智の希望に従え服従する」という意味は、前述の「想像する」ことと同意義である。即ち、イデーの連結をいう。詩の上で想像することは空想とか夢でなく矢張り理智の力である。  ランボーの詩の解説者の多くは、彼の詩は無意識であるとか夢であるとか力説する。併しこれは非常なる誤解であると思う。なる程イデーの連結方法は超自然主義に於ては異常なるものであって、その形体は夢に多くみる如き無意識なるものである。然し、詩は夢でない。全然有意識の心像の連結である。詩はエスプリで考えることであると言われている。      ㈼  詩は現実に立っていなければならぬ。しかしその現実につまらなさを感ずることが条件である。なぜ人間の魂は現実につまらなさを感ずるのか。人間の存在自身が淋しい。その辺に遊んでいる犬もつまらない気持がしているのかしら。人間の魂を解剖してそのどん底まで行ってみると、この淋しい気持が本質的に存在している。人間が考えるがために却って苦しむ。  詩は「想像」により多少つまらない現実を変化させてくれるが、しかし実際は消極的なものである。ゴマカシである。積極的なものは神様ばかりである。来世の幸福を仮定して現実のつまらなさを慰めるのは一つの宗教である。詩でない。死も睡眠も現実を一時忘れるがこれもまた詩でない。プラトンのようにイデーの世界に入ってしまうのもいいが詩でない。昔の詩人のように強烈なお酒をのんだり、阿片をたべたりして現実をゴマカシてもそれは物理で詩ではない。ペトラルカのように山の方へ行って桃をつくったり、傍ら風月をたのしんでもいいが、それ自身が現実で、詩にならない。現実に反抗したり、又は現実の奴隷になってヘトヘトにつかれて、遂に無闇にボードレールの様に|倦怠《けんたい》を感じたり、或は実に怠惰な胃病患者のようになってダラダラ終りをつげるのも詩でない。しかし結局は想像力をもって現実を変化させ、|所謂《いわゆる》ベーコンの幾分の影を得るのが詩である。  現実は人間を無限に圧迫する。山の中へ逃げてもそこにはカモシカのやさしい眼や薔薇のような雪があって人間の感覚を苦しめる。又三十年位砂漠の中で商業を営んでから妻をすてて遠くの国へ行ってもそこには又シトロンの花が咲いていたりして現実がある。ここに異郷憧憬者の心理上の破産がある。現在の現実に飽き、過去の現実を懐しがる古典主義もある。宗教と共に未来を目的にする未来派がある。すべてを否定して死と共に自滅する破壊主義もある。しかし、詩は現実を認めなければならない。あくまでも現実を受入れなければならぬ。詩は現実主義である。現実は習慣で当然つまらなくなる。|埃《ほこり》のようにつまらない。けれども詩はこのつまらない現実を常に新鮮に保たなければならぬ。これが詩である。そうでないと人間の魂は現実を受け入れられない。  詩は又真理を認めなければならぬ。しかしその真理を想像力により変形して、それを魂の中に吸収するのである。  詩は故に、意識する一つの方法である。現実を非現実に変形し、真理を非真理に変形して、現実、真理を魂の中に吸入するのが詩である。外形からみると詩は非現実で非真理であるが、実は現実、真理を認識するのである。  詩はベーコンの分類した学問の一つである。現代流に解説すれば詩は一つの認識の方法である。現実や真理を魂の吸収し易いように変形して、その現実や真理を認識するのである。  現実をそのまま変化せずに吸収し易い自然界の断片がある。オデッセイに、吹きくる微風は「生みもし又熟さす」などは、地中海の島に果物の豊富なる事実をそのままもって来たのであるが、北方人には詩である。又人間の内面的の一片として恋などは、そのまま吸収し得る形態となる。しかし斯の如く吸収し易い現実を詩とするのは創作上危険である。食物をまるのみにするようなもので、不消化を起し、詩的認識が不完全となり易いのである。また丁度これと反対に、現今のダダや、超現実主義者の詩には、現実を変形することにのみ重きを置き、現実を忘れてしまうことがある。コウルリッジの所謂ファンシーになる。或はポーの怪談や、少年文学にある冒険小説と類似な傾向にある。  詩の正統な形式はイマジネーションにより現実を一旦魂の吸収に適するように変形して表現することである。  例、空が眼に青く見える物理上の事実、換言すれば|所謂《いわゆる》、つまらない現実「普通の事柄」を詩的認識にするために、詩人は「汝の空の眼球」と言う。これを原始時代的詩人は単に「空は青い」と現実そのままに用いるだろう。前者は近代の詩人の詩的変形である。  この詩的変形方法は、これを詩の歴史から観ると時代と個人により変遷して来た。しかし大体に於て二大別することが出来る。  第一、人間の感情の流れに調和する形態をとる。このカテゴリーの中では美感が主なるものである。ローマ時代の小説家アプレウスの「金の驢馬」が再び人間になりたいために|薔薇《ばら》の花を摘む話がある。人間の美を求める心は否定することが出来ぬ。グルモンじいさんは、これは種族保護の原則から来ていると言った。これは詩人の最も普通な変形法である。このうちにもヴェルレーヌの如く夕暮の美、シェリーの朝ぼらけの美、キーツのサフランの花影、ポール・ヴァレリの果実の熟したような美、コクトーの金時計のような美、ヴァージルの牧場の香の美、ボードレールの香水の美、ワイルドの造花の美等、その他世界中の人間のシャツのボタンを計算するよりも数うるにいとまなし。  又「物の哀れ」をそそる如き形態もある。なんとなく悲しいような淋しいような気持の流動体に変形することである。「人生は短し」とか「恋のはかなき」有様を歎息する。ルネサンス直後のソネットに表われているようなものをいう。半ば宗教的、半ば肉感的のミケランジェロのソネットがある。  涙腺の悲劇のようにそれ自身流動的なミュッセやラマルティーヌがいる。  尊く且つ貧しいフランシス・トムソンがタンポポの毛を路傍で吹く。偉大なる先輩としてヴィヨンがいた。  田舎を非芸術的であるといって、大都会に出てカフェの暖炉のそばで白鳥の歌をラテン語の月影の流るる如き調子で哀れに朗読する。これはイギリスの世紀末の詩文家に多いのである。  次にこのカテゴリーの中で最も有力な形態は恋愛の流動体である。これはダンテを始めとして多くの偉大なる詩人の道具立てとなった。後世寧ろ弊害を招いた。言葉に窮するとすぐ amoureux という形容詞を使用すれば詩的になった。  Ha^[#aはアクサンシルコンフレックス(^)付き] que nous testimons heureuse  Gentile cigalle amoureuse!   (ああ、われらいかに君を幸せと思えることぞ。    しとやかなる恋の蝉よ)  次に、病人の怠惰な気持は一種ケイレン的な快感をもつ感情の流れを呼び起す。デカダンの詩に多くある。  次に、又熱狂的な感情の流れが発散する如きはシェリーの詩である。この場合は多く|優越心《ゆうえつしん》の溢れである。  次に、爆発の如き|癇癪《かんしゃく》が次の瞬間には|屡※[#底本では「尸+婁」、 第3水準1-47-64→78互換包摂 屡]々《しばしば》大流の去った後の|玲瓏《れいろう》たる響きと共に感情が永遠に流れ去る如き形態としては、ボードレールなどは適例である。  次に、ワイルドが自然の花よりも造花の形態を求めたのは、ゴーチエの線の美、色彩の美の流動が結晶する例と共に注意すべきである。  以上は、心像が変形する主なる形態である。  次に、詩は歌うのが本質であるために、詩は伝統上歌わるるものであったがために、音声の音楽的規律を定めた。これは詩的変形作用を助けるものである。であるから詩となるに必ずしも必要なものでない。ベーコンはエロキューションにすぎないと言う。その他多くの批評家は韻文を詩の根本要素としない。又言葉自身が有するメロディも勿論助けになる。要するに、韻律法は一つの詩的作用を助けるものである。(勿論近来この旧来の作詩法は崩れて来た。遂に寧ろ邪魔になるものだとして全然無視する人も多い)又文章の構造や文句の使用法は大切な詩的表現の一つである。英語の所謂ポエティクディクションとは語法の伝統である。ある一人の小学生が、詩と散文との区別を間われ blue violets は散文では violets blue は詩であると言ったそうである。大体に於て詩の文体は文章体である。英国でミルトンの語法が伝統として十九世紀までつづいた。そしてワーズワスが農夫の言葉即ち口語的の文体を使用することを企てたがその当時は勿論失敗した。ヴェルレーヌは文章を簡単にした。修辞的な言葉を破壊した。その後アポリネールが「町の言葉」を使い出した。オズバート・シトウェルはパンフレットを出して、伝統を軽蔑して、「今日の言葉」で書くことを説いた。又しかし「町の言葉」とか「今日の言葉」とかを使用することも悪い、寧ろ普通の人間があまり使わない会話法で書くものであると考える者もいる。詩は学校の作文でない。要するに伝統としての語法はデミトリオスの「目や耳に美しく感ずる」「美語」を使用することもよろしいと言ったことに結局全部説明されている。ハントは十九世紀の前半の終りに「近来若い人達の間で語法が散文的になった、これは怠惰な気持の結果である」と言ったことは、その時分から語法が崩れて来たと思われるのである。  以上、第一のカテゴリーに属する詩の変形法は十九世紀までの伝統の大系である。勿論、多くの偉大なる例外はある。  第二、第一に挙げた方法は、人間に固有な感情の傾向に調和して現実を詩的に変形するものであるが、しかしまたこれと反対にこの固有の傾向に調和せず寧ろ、その調和を破ろうとする変形方法である。「人間の理智は習慣に冬眠する」故にそれを驚かして(|寧《むし》ろおどかして)その冬眠より呼びさまし、理智の注意を完全に|惹《ひ》くことである。昔から芸術は「驚かす」ことであるといわれている。これは詩的認識として最も有力なるものである。その方法は先ず、習慣即ち人間の心理上、知識上、形式上の伝統を破ることである。近来の詩人はこの方法を多く用いる。これを批評家は単に「破壊者」として|罵《ののし》ることがあるが、しかしこの破壊が却って詩的認識の建設である。さて如何にして破壊するかというに、その主要なる分類をやってみたい。  第一、人間の常識及び論理として有する意識の習慣を打ち破ること。これがためには連想として最も遠い関係を有する概念を結合するのである。所謂ベーコンの「予期せざる」驚きを与えるとはこのことである。ランボーの「無意識」の表現法はこれである。現代のダダイストや超現実主義者の詩にはあり余る程この方法が使われている。しかし彼等の多くは、この方法にのみ興味をもち、肝心な現実の認識を忘れることが多い。目的と手段を混合している。ブルトンやポール・エリュアールの一派は独逸の表現主義と共にこの弊害をもつ。   世界   一個の花のために造られた指環   花花の輪のための一個の花花   数個の花に満された紙煙草入   数個の眼球をもった一個の小さい機関車   我等の花の花花花の如き数個の花の皮膚をもった花のための一対の手ぶくろ   そうして一個の玉子  これはツアラの詩の一節である。その最後の一行はあまり突然で驚かされる。  昔、キュビストと称せられたルヴェルディの詩に、   小川の中に流るる一つの歌がある とあるのに対してブルトンは「最小限度のプリメディテーション」が無いと言っている。これは一種の無意識状態をいうものであると想像される。  第二、人間の伝統としての感情及び思想(通俗の美に対する感覚や道徳、倫理、論理をいう)を破り、若しくはこれを軽蔑し、皮肉に批判するのである。ボードレールの詩はこの方法の代表的なものである。又はランボーの、   杉の樹と唇形科植物との神様の様にしとやかなる   おれは偉大なるヘリオトロープの花の承諾をもって   実に高く実に遠く|鳶色《とびいろ》の天に向って小便する の如きは適例である。神様に対する通俗の倫理を軽蔑すると同時に、又通俗の美に対する習慣をも軽蔑している。これは単に表現法であって、人の冬眠的理智を一旦驚かし、それをめざませてそれからそこにある美しい現実に注意を払わしたのである。花の中に小便するというおどかしを以て其処に美しい夕暮の空と、森影にヘリオトロープの花が咲いている現実に対して注意を詩的に促したのである。自然主義者のように、小便することそれ自身に興味をもっているのでない。先年ジェイムズ・ジョイスが「ユリシーズ」を書いたのも一種のおどかしである。要するにかくの如き詩的表現法は伝統を破るのが目的でない。手段にすぎない。  近代のイギリスにはこの表現法があまりない。極く軽微なものである。ルパート・ブルックの戦前の作の中で「グランチェスター」に多少こんな形態があるが、また表現法として意識的でない。   おれの小さい部屋の前一面に   今時分はライラックの花が咲いているだろう——   オー、其処にはまたマロニエが夏中おれのために   河端に緑の憂欝のトンネルを造る   そうして上の方でデップリ眠る   そうして下の方には緑の深いあの水流が   不思議に滑るのである   夢のように緑に、死の如くすてきに深く   オ! 畜生! 知っていら…… と一九一二年五月ベルリンの或るカフェで叫んだ。  ポーは「詩の定理」の中で自作の「烏」を例にひいて神秘主義は詩的表現法としてよろしいものであると説いた。しかしこの程度の神秘主義は前述の第一のカテゴリーに属す。人間の好奇心を応用して心に注意を促すに過ぎない。丁度ダンテが人間の肉欲心を応用したと同じように第一のカテゴリーに入る。この神秘主義がダンテやブレイクを下ってメーテルリンクの中で亡びてしまった。しかしこの神秘主義が激烈になって、殆んどボードレールやスターンのグロテスクになる例がある。それはジャン・ド・ボッシェルである。俗に不健康なサンボリスムと言われている。その中で   おれの親じのシァッポは神聖にて侵すことが出来なかった   まだその他にも沢山親じがいた……しかし   彼は誠実をもって煙草を吸うのであった   彼の有する人間の臭いを鼻によってひっぱり出すために   人々は彼に近づいて行った   ……   そうしておれの母親はトーストパンであった   六時頃のつめたい露と桜実であった   ……   おれはミルクの皮のように   緑で苦味の子供であった  それからT・S・エリオットはこの派に属するものとみれば適当である。彼の「ブラースト」時代より「荒地」にはこのミスティクなところが増して来た。「水死」に、   フィニキア人のフレバスが二週間前に死んでしまった   彼は鴎※[#底本では「區+鳥」、第3水準1-94-69→78互換包摂 鴎]の歎叫もそれから遠洋のうねりも   それから金銭の利益も損失もみんな忘れてしまった   海の下にある一つの水流が   ひそひそと話しながら彼の骨骨を拾った   上下浮遊している際に遂に   あの渦巻の中に入ってしまって   彼の青年期も老衰期をも越してしまった   猶太人でも異邦人でも   オー、車を廻転して風の方向を眺むる人よ   お前のように曾ては柄の大きい立派な男であった   フレバスを考慮せよ  形式上の伝統を軽蔑することも又詩的表現法の第二のカテゴリーに属す。フランスにて、ラ・フォンテーヌ辺りから自由詩があった。それがサンボリスト時代には大びらになった。この自由詩はまだ伝統的な「歌う」という形式から離れぬ。ただ伝統的な|韻律《いんりつ》を極少にしたというにすぎぬ故に、現今の多くの詩人は全然音韻法を使用せぬ。所謂散文となった。これに「自由詩」という術語の意義を当てるは大なる誤りである。又全然所謂作詩法を用いぬことは重大なる意義がある。即ち人間の歌うという気持や感情のリズムの自然傾向にわざと反して一種の「おどかし」の効果を求めるのであるから、今日、散文にて詩を書く人を責めるのは真の詩的表現法が如何なるものであるか知らぬ人達である。その他、句読法を無視したものをキュビスムと言っていた時代がある。要するに「おどかし」である。今ではフランスの若い人達は大部分この形式をとる。イヴァン・ゴルの監修している超現実主義の雑誌の第一号に「二十世紀までは詩の質を決定するのは耳であったが、二〇年以来眼がその後をとった」とある。所謂イマジストはこの耳を無視したというに他ならぬ。すべての詩の表現はイマジネーションであるからイマジストという名称は不当である。  以上二つのカテゴリーを仮定して詩の心理的発動を考えてみた。第二のカテゴリーは主に二十世紀の詩的認識の心理作用の説明に当てた。これは勿論未来に及ぼさぬ。約一九二〇年位までの詩についての論である。  ヘルマン・バールの「表現派」に、過去に先例なき事を求めているこの派の画家及び詩人についての論があるが、しかし過去が余り遠くなって忘れられた時は、又その過去が新しくなる。再び耳が眼に代る時代もないとは言えぬ。第一のカテゴリーに属する詩的認識法が第二のそれより再び勢力を占むることもあるだろう。  詩は認識である。その方法は人間の理智の発展につれ変遷するものである。  常に新しい方法により、習慣の中に冬眠する人間の魂を意識の世界へ呼び戻すことが詩人の尊い努力である。    我々の意識界の或る瞬間に、現実の対照となる永遠とか無限とか神とかとして表わし得る一種絶大なる存在が反射的に人間の存在をつまらなくする。この時小なる人間の魂がこのつまらない現実に対してカンシャクを起す。これが詩的魂でエモーションという。このカンシャクは理性を軽蔑して「想像力」によってつまらない現実が興味ある現実となる。現実に対する意識が新鮮にされたためである。これが詩の目的である。  詩を論ずるのは危険である。もう断崖から落ちてしまった。 [#地から一字上げ](大正十五年四月)