西沢 爽 雑学艶学 目 次  艶笑考証・色豪伝   珍棒ばなし   徳川家康は淋病なり   巨 根 列 伝   金 玉 列 伝   人骨は高貴薬   木乃伊《ミイラ》という薬   道鏡でかちん| 譚《ものがたり》   チン豪列伝   マン豪列伝  考証・風呂の雑学   風呂と湯はちがう   銭湯のはじまり   江戸のソープ   腰巻きで火事を消す   旗本愚連隊   風呂場で死んだ英雄たち   ろっぽう言葉   ソープ娘の大スター   丹前とドテラの違い   赤穂浪士四十九人目の男   混浴ばなし   珍奇風呂いろいろ   明治の銭湯珍譚  猥奇・接吻縦横学   珍説・接吻起源説   にっぽん接吻|事始《ことはじめ》   死んだ女の口を吸う   豊臣秀吉のラブレター   江戸の接吻さまざま   わらべ唄「ずいずいずっころばし」はエロ唄だった   古今接吻珍談集   詩《うた》・歌《うた》・謡《うた》・くちづけのうた [#改ページ]   艶笑考証・色豪伝     珍棒ばなし  男の象徴は股間の一物だ。怒張するわが愛刀をうち眺めるとき、よくぞ男に生まれけるの感が深い。  男のモノは平常時、長さ七〜八センチ、太さ周囲八センチ前後、イザ鎌倉というときの長さは十二センチ、太さで十三センチぐらいというのが平均値だという。  なかには日本人のうち何万人に一人だろうが、長さ二十二センチ、太さ十七センチなどという超弩級の巨根もあって、コトに及ぶ際、鍔をはめて全身没入を制御しないと女が死んでしまう剛刀の持主がいるそうな。江戸の川柳にも、   鍔をかける 筈で女房を 呼び戻し  なんて、突きあげられて女房は実家までふっ飛んじゃったらしい句がある。  とにかく、こういうのに出会った女は、子宮内膜炎、卵管炎、はては腹膜炎など起こして命をちぢめる。  江戸の軟書『閨中紀文・枕文庫』にも「長きは肝の臓に当るゆへ 婦人これをきらふ」とある。深く肝銘するなんて言葉は、これが語源かも知れない。  ところがもっと凄いのがある。さる有名な整形外科医に見せてもらった写真だが、なんと隆々たる男根が二本も生えているのだ。奇形には相違ないがオレは何となく羨ましくなった。まず一本を使って、次の一本と交替する。その間に先の一本はゆっくり休養し、ふたたび臨戦態勢、そこでまた|さしかえて《ヽヽヽヽヽ》……。  こりゃあ、キリがないよな。  元禄の頃、尾張藩の学者だった天野|信景《さだかげ》が著した百巻の大著『塩尻』にも、 「予《よ》が采地《さいち》〈知行地〉民の家に 二根ある馬ありて 時々物を駄して〈運んで〉来《きた》る 見るにいとうるさく覚え侍る」とある。  人間どころか馬にもあったらしく、うるさく見えるどころか壮観だ。  とにかく、いかなる剛刀も、この二刀流の珍刀にはかなうまい。この男、きっと宮本武蔵の子孫にちがいないとオレは思う。  以前『七人の侍』という映画の中で、たしか志村喬が扮する剣客が百姓の部落を襲う山賊の集団をむかえ撃つシーンがあった。  この時、数本の抜身を土中に突きさして、とっかえひっかえ刀をかえて斬り合うところがあった。  これは実に理にかなっていて、一本の刀でバッタバッタと斬りまくる、そんじょそこらのチャンバラ映画とは考証がちがうわいと感心した。  まず現在の刀のように鑑賞だけのものは、美しく化粧研ぎしてあるが、むかし実戦の際は荒砥ぎにかけて刃をガリガリにした。このほうが斬れるのだ。  肉屋のオヤジさんが、肉包丁を金属棒の鑢《やすり》で、チャンチャカチャンチャカ研いでは肉を切るところを見たことがあろう。  刀はたたっ斬るためで、刺身をつくるわけじゃない。だから咄嗟の場合は、石でこするとか、土中に数回突きさして刃を荒びさせた。  これを「寝刃《ねたば》を合わす」というのだ。  また、刀というものは折れたり曲ったりする。  伊賀越えの仇討で有名な荒木又右衛門が、鍵屋の辻での決闘に使った当時の名工、京伊賀守|来金道《らいきんみち》つくるところの刀が、もろくも折れた話は知られている。だが又右衛門は用心のため、もう一本、宇多国宗作の二尺三寸の大刀を腰に差していたから危ないところを助かった。  合戦で刀が折れた話は、古典文学の中にもいくつも見えている。  たとえば、『平家物語』巻四、源三位頼政の挙兵による宇治の橋合戦の条にも、筒井浄妙坊明秀が、 「長刀《なぎなた》でむかふ敵《かたき》五人なぎふせ 六人にあたる敵にあふて 長刀|中《なか》より打ち折って捨ててんげり その後 太刀を抜いてたたかふに 敵は大勢なり 蜘蛛手《くもで》 角縄《かくなわ》 十文字 蜻蛉《とんぼう》返り 水車《みずぐるま》 八方すかさず斬ったりけり やにはに八人斬り伏せ 九人にあたる敵が甲《かぶと》の鉢にあまり 強う打あてて 目貫もとより ちゃうと折れ……」  つわもの三百余騎を率いて武名を馳せた武蔵七党武士の村山党の一派金子党の頭目、金子十郎家忠が、 「矢種《やだね》も皆射つくし 弓も引き折れ 太刀も打ち折りければ 折れ太刀をひっさげて あはれ太刀かな 今一度合戦せんと思ひて……」(『平治物語』)  足利十三代将軍義輝は、新陰流の祖、上泉《こういずみ》伊勢守|信綱《のぶつな》の高弟であり剣客としても知られていたが、永禄八年(一五六五)松永久秀の謀反に遭い、京都二条の御所で壮烈なる死を遂げる。  義輝は伝家の名刀を十数本、畳につき立てて、刃が鈍れば替え折れれば替え、押し寄せる松永勢を右に左にと斬って落した。さすがは新陰流極意皆伝の達人だ。敵兵はついにおそれて遠巻きのまま手が出せなくなった。その時、物蔭から忍び寄った敵が義輝の一瞬の油断をついて槍で足を払い、ばったり倒れたところを板戸を持った敵兵が折り重なって押えこむ上から、蜂の巣のように槍で突きとおされて三十歳の男盛りを一期に義輝は無念の討死をとげた。  義輝が奮戦した刀は、誰々の作であったという記録はないが、将軍家の宝刀ともなれば三条宗近、伯耆安綱、備前友成といった名匠が精魂こめて鍛えた今なら国宝ものだったろう。  まして、親爺と阿母がマン然とこしらえてくれたオレッチの刀が、戦《いくさ》のさなか、ぐにゃりと曲っちゃうのは当然ではないか。  そこで、さきほどの二刀流氏の話に戻るが、なんとこの外科医によって一本切り落してしまったという。わが国の刀鍛冶の祖先は天津麻羅命《あまつまらのみこと》と、ちゃんと『古事記』に出ている。ヨタじゃないぞ。さればこそ、われわれは麻羅を「刀」と称するのだ。この男、関の五本松より大事なものをもったいないことをしたものだ。地下で先祖の宮本武蔵がきっと嘆いたにちがいない。  まあ一本でも、何万人に一人という剛刀ならいいが、勃起時、長さ八センチ前後なんてペーパー・ナイフみたいのが三十人に一人、標準の十二、三センチに満たないのが三五パーセントもいるというのは本当か。珍棒の異名のうち「第十一指」というのがあるが、まさにそんな感じだ。  ある女と寝た男、ここ一番、男の真価を見せにゃあと、左三、右三、九浅一深、腰も砕けよと秘術をつくし「どうだ いいか いいか」と聞いたら女が言った。 「早くゥ……指じゃないのを入れてよ」  チンボウとは安南語のチョン(下げる)ボウ(上げる)から訛ったものという一説があるが、このざまじゃ、まさしくチョンボーだよナ。しかし山椒は小粒でひりりとからい。正宗が鍛えた如き短刀もあるとか。  相撲取りなんざ、あのでかい体格を見るとさぞかし巨大と思いきや、並サイズ以下が多いという専門家の話だから、チョンボー連、もって瞑《めい》すべし。  江戸の川柳にも言う、   関取りの 恥しいのは まらばかり   関取りを 女房ばかり 小さがり [#地付き](『柳の葉末』)  ただし、相撲取りは小さくとも精力抜群、何という相撲取りだったか忘れたが、あるとき芸者と寝て、一晩に十一回もやった。  さしもの芸者も腰が抜けそう、それでやけくそになって、 「ネエ関取り もう一回しなヨ。ちょうど一ダースになるからサ」と言ったら、その相撲取り、首を横にふって、 「バカ おれはそれほど助平じゃねエ」  さて男の持物には、黒・白・上反《うわぞり》・下反《したぞり》・長陽根《ながまら》・かわかむり・傘《からかさ》・うつぼの別がある。黒は黒まら、白は白まら、上反、下反、長まらは読んで字の如し、かわかむりは包茎だが、むけば亀のアタマが出てくるやつ。  全然むけないのが「うつぼ」で、これは弓の矢を入れて背負う靱《うつぼ》の形に似ているからだ。「頬かむり」「素呆《すぼ》け」「きぬかつぎ」などの異称がある。「きぬかつぎ」はご存知、里芋の子を皮のまま茹でたヤツで、包茎の感じが出ている。  相撲取りのアンコ(肥満)型には包茎が多いという話を聞いた男、取的をつかまえて、 「オイお前きぬかつぎかい」と聞いたら、取的、 「イエ わしはふんどしかつぎでごんす」  この包茎「越前」とも江戸時代は言われた。  越前国足羽郡福井、三十二万石の大守、松平越前守が大名行列の際押し立てる槍の鞘《さや》は熊の毛皮でつくられていた。  大名の槍の鞘というものは当時は珍重された舶来の羅紗《らしや》を用いたり、極上の和紙を厚く貼り重ねて漆でかため、金蒔絵の定紋などつけたものが多く、熊の皮というのは珍しい。  越前侯の槍の鞘が包茎の形に似ていたからと説く人もいるが、槍の鞘の形なんて大同小異、見よう次第ではみんな包茎のかたちに見える。  やはり熊の皮の鞘、つまり「皮かぶり」のシャレと考えるほうが妥当のようだ。だいいち越前侯の熊の皮の鞘は、『大成武鑑』(嘉永三年・一八五〇刊)で見ると、短冊を二つ折りにしたような変型で、その図にわざわざ「くまのかは」と注がついている。槍の鞘としては珍しいかたちだ。  だが口さがない江戸っ子、越前様をとうとう包茎の代名詞にしてしまい、   越中が はずれて隣の 国を出し  なんていっている。  つまり越中(富山県)褌《ふんどし》がはずれたために越前(福井県)がニョキッと顔を出したという句だ。  傘《からかさ》は松茸のカサが開いたような、いわゆる雁高《かりだか》のこと。  江戸の小咄に、  娘「おっ母さん うちの塀に誰か松茸の落書きをして行ったョ」  母「すぐに行って消してきな」  娘「さっき消したのに またもっと大きな松茸が書いてあるョ。消してこようか」  母「もうおよしヨ。松茸はこするとだんだん大きくなるから」  この松茸型の雁高《かりだか》、江戸は天保の頃、水沢山人《みずたくさんじん》、玉の門主人の作、またの名を恋川笑山、実は柳水亭種清という戯作者の艶本『旅枕五十三次』の「藤川宿」の章に、 「この宿の右のかた 山上に赤茎《あかまら》大妙神の宮あり 氏神へ祈れば男根長寿にして百女ををかすの奇特《きどく》あり そもそもこの神は腎張りの道〈好色・精力旺盛・精液を腎水などと言い、むかしは腎臓が精力の根源と思われていた〉を護り給ひ 託宣してのたまはく 我に祈るものは 陰茎ふとくたくましく百点の筋高く、|かり《ヽヽ》ひらけて松茸のごとく また達者なること 昼夜三百六十五日入れづめにするとも萎《な》ゆる事なからしめんとの御誓願なり 因《ついで》に云《いう》 陰茎は女の喜ぶをもって上下をわかつものなれば、うつくしき白まらを下《げ》とし くろぐろ憎くさげなるを上《じよう》とす まづ雁高は開《ぼぼ》の中《うち》 左右上下のひらひらを……以下略」  と、男根の随一に挙げている。  ついで「麩《ふ》まら」が第二の推奨株だ。「麩まら」という語感では、なんだか頼りない粗チンのようだが実はさにあらず、山人いわく、 「|ふまら《ヽヽヽ》は開《ぼぼ》のうちにて、やはやはとふくれ強くあたらず 開《ぼぼ》いっぱいにぬきさしするゆへ……」  とて巨根をよしとする人がいるが、あれは「御馳走を口一杯に頬張ったようなもの」で味がわからなくなると喝破している。  むかしから「紫色雁高《ししきがんこう》」と言って、雁高のうち紫色をよしとするのは、江戸の男伊達、花川戸助六が歌舞伎十八番のうち『助六《すけろく》由縁《ゆかりの》江戸桜《えどざくら》』で、花の吉原は三浦屋格子先の場に、江戸紫の鉢巻を横にきりきりと結びさげ、 「いかさま この五丁町へ脛《すね》を踏んごむ野郎めらは おれが名を聞いておけ まず第一に瘧《おこり》〈熱病〉が落ちる まだよい事がある 大門《おおもん》をずっと潜ると おれの名を手のひらへ三遍書いてなめろ 一生女郎に振られることがねえ 江戸紫の鉢巻に髪は生締《なまじ》め〈男髷のかたちの一つ、元結の締めかたで名がある〉それ刷毛先の間から覗いてみろ〈俗にちょん髷の折返し点にできる隙間のことで障子ともいう。ただし|ちょん髷《ヽヽヽヽ》とは、頭の毛が薄く短くなって刷毛先をちょんと折り返しただけの老人髷のこと。江戸の男の髪型をすべてちょん髷というのは間違いだ。江戸の男髷にはいろいろな結い方があり、たとえば、本田《ほんだ》とか銀杏《いちよう》とか、髷はそれぞれ結いかたの名で呼んだ〉安房上総が浮絵のように見えるわ 江戸八百八丁に隠れのねえ杏葉牡丹《ぎようようぼたん》の紋付も桜に匂う仲の町《ちよう》 花川戸助六とも またの名を揚巻〈助六の愛人である遊女の源氏名〉の助六ともいう若い者 間近く寄ってしゃっ面を拝みたてまつれぇ──」  と、おっそろしくいい気な啖呵で大見得を切るが、当時の江戸っ子にとっては助六がおのれの身代りみたいに思える胸のすくような場面で、江戸紫といえば助六、助六といえば江戸紫、その伊達姿は江戸っ子の象徴として熱狂的な人気があったものだ。  もっとも花川戸助六なんて虚構の人物、元禄に京都で万《よろず》屋助六という男と、島原扇屋の遊女揚巻が心中した事件があり、京・大阪での芝居で人気を集めたのが江戸へ移ってすっかり筋立てが変わり男伊達の助六が誕生しただけのこと。心中した助六は紫の鉢巻をしめていつの間にやら江戸籍へ転入し、その由来など気にしないおっちょこちょいの江戸っ子のアイドルとなったわけだ。  江戸紫の鉢巻といえば、若い頃、こんな思い出がある。  友達と二人で、ある三流の花街へ遊びに行った。  その翌日、友達が青い顔をしてオレの家へやって来て、どうも昨夜の芸妓に淋病を移されたらしい……と言う。  冗談言っちゃいけねえ。淋病なんてえものは、すぐ症状が現われるもんじゃない。一週間ぐらい経ってから痛みだすんだと言ったが、友達野郎は納得しないのだ。  とにかく痛みがひどくて不安だ、これから医者にみてもらいに行くが、ひとりじゃテレくさいから一緒に来てくれという。  ま、仕方がないから一緒に医者のところへ行ったら、医者が友達野郎のチン棒をうちながめニヤリと笑ったな。  ハハア、こりゃ昨夜、ずいぶんモテましたなあ、なんて感心しているのだ。  やっぱり、淋病じゃなかった。相手の芸妓が吹きすぎたんだ。よっぽど出っ歯か乱杭歯か、とにかく亀のアタマが傷だらけ。  で、医者は赤チンみたいな、いや紫色の薬だった。それを塗ってチン頭をぐるりと鉢巻みたいに繃帯で巻いてくれたが、その薬が滲んで鉢巻も紫色。  以来、オレはその野郎を所かまわず声高らかに、 「オイ! 助六!」なんて呼ぶことにした。     徳川家康は淋病なり  戦前派の人ならわかるが、今の若いもんに「キンシ勲章」と言ったってわかるまい。  金鵄勲章というのは軍人最高の栄誉ある勲章で、よほどの勲功がなくては貰えなかった。名誉の戦死ぐらいじゃダメなのだ。  だがオレが言う「キンシ勲章」てえのはソレじゃない。  かつては淋病にかかるのを「キンシ勲章」をもらったと言ったのだ。男として名誉だった。淋菌にやられると膿と共に菌糸というものが尿の中へ出る。だから菌糸勲章かも知れない。  むかしの若いもんは、やたらに素人娘に手など出さない。そのかわり颯爽と遊廓へ通った。かたぎの女の味は、女房を貰ってはじめて知ったヤツが多かった。昨今は変な具合になったナ。だが近頃は女の子のほうから迫ってくるというから、オレはちと早く生まれすぎたようで口惜しい。  で、遊廓はかなり衛生管理が行きとどいていたから、淋病にやられる危険は比較的少ない。  あぶないのは、三流地あたりの芸者、安カフェーの女だった。  飲んで、ドンチャン騒いで、酔っぱらったあげくだから、コンドームなどつい面倒くさくて省略すると、不運にもやられちゃう。  もっとも、コンドームで堅く武装をしていたのに、名誉の負傷をした武運拙い男がいた。  どうして淋病に罹ったか、よくよく聞いてみたら、ケチなこの野郎、コンドームがもったいないからと、一度使ったやつを|裏返して《ヽヽヽヽ》すぐまた一発やったというトンマな話だった。  ほんとに淋病なんて、昔は不名誉な病気じゃなかった。  なにしろ、神君とよばれた将軍徳川家康でさえこれに罹っている。 『三田村|鳶魚《えんぎよ》全集』第一巻、公方《くぼう》様の話の中に「徳川一世の駿府で、淋病に罹ったことが、渋井太室の『国史』にある。いずれにしても慶長十年の話でみれば、六十四、五歳になっておられるのに──」とある。  この『国史』は未見だが、家康が死ぬまで淋病に苦しんでいたことは『医学天正記』『当代記』など諸々の古文献に散見され、『武徳編年集成』(元文五年・一七四〇・木村高敦編)にも、慶長十二年(一六〇七)の項に「神君旧冬以来 淋疾を患ひ玉ふ」と、その苦悩のほどまで書いている。またこの年の『徳川実紀』にも「大御所の御けしき 甚だ煩はしく見え給ふ」とあっておそらく安倍川の遊女とでも戯れた結果か、駿府城内に阿国《おくに》歌舞伎を招いて興じた揚句の果てであるかも知れない。なんと家康六十五歳での淋病なのだ。まことに御立派としか言いようがない。  今日の歌舞伎の始祖となった出雲の阿国《おくに》の生・没年は謎につつまれているが、とにかく出雲大社の巫女《みこ》と名乗って、諸国を流浪する芸能賤民集団の長で、神楽舞をくずした卑俗な踊りを見せながら、一面売春もするという漂泊の旅をつづけて、慶長八年(一六〇三)の春、京都で少女歌劇のスターのように男装し胸にはネックレスの十字架をさげ、太刀を佩いて、手に鉦を打ちたたき、賑々しく足を踏み踊り狂う、まるで現代のロカビリーみたいなことを演じて京洛の人気を熱狂的に高めた。  歌舞伎とは「傾《かぶ》き」で、異様な身なりで七三にヨタっちゃうかたちのことだ。 「傾《かぶ》く」という言葉は慶長以前からあったが、阿国が「いざや かぶかん」と前置きしてうたい踊りしたことから「かぶき踊り」といわれ、のち風紀紊乱で女歌舞伎が禁止されると、こんどは美少年らが男色を売る「若衆歌舞伎」が発生。これまた禁じられて若衆姿は消え、月代《さかやき》を剃った「野郎歌舞伎」へと移りかわる。  それはともかく、阿国またはその血流の女歌舞伎一座が媚を売り、家康が淋病にかかった頃は阿国はかなりの老齢だったろうから、一座の若いこちゃんが家康のお相手を勤めたと想像する。  話は横道にそれるが、阿国よりもその愛人、名古屋|山三《さんざ》(三左衛門)の方が歴史的には興味深い。  阿国の亭主は三九郎という鼓打ちだったそうだが、かがやくばかりの美男でしかも名ある武士だった山三が阿国の前に現われると、阿国はさっそく古亭主を袖にして山三にくっついてしまった。  山三は蒲生氏郷《がもううじさと》の小姓で、天下の三小姓と呼ばれるほどの美童だったという。 「天正十八年〈一五九〇〉十一月十七日、奥州玉造|名生《みよう》の城攻めに、当時、会津若松四十二万石の領主であった氏郷に従って出陣し武功を建てた。   ※[#歌記号]|槍士《やりし》〈槍つかい〉槍士は多けれども    名古屋山三は 一の槍  とはやり唄にまでうたわれたという。文禄四年〈一五九五〉氏郷が病死すると浪人して京へ上った。山三には美人の姉妹があって、姉は金森可重《かなもりよししげ》〈飛騨高山の領主〉の側室、妹は森忠政〈信州川中島のち作州津山の領主〉の側室だった。  山三は京で阿国と結ばれると、阿国歌舞伎のマネジメントやら演出やらを受け持ったようだ。やがて森家の客分となり五千石の大身となって名古屋九左衛門と改名したが、森家が移封となった作州津山で、日頃犬猿の間柄だった井戸宇右衛門と決闘して討たれてしまった。慶長九年〈一六〇四〉五月三日のことだった」(『名古屋芸能史』に拠る)。  この山三、実は豊臣秀吉の寵妾、淀君の色男であったともいう。  天野信景の『塩尻』に「豊臣秀頼は秀吉の実子にあらず 大野修理の子かと疑ひけるとなりされど其実は当時|卜筮《ぼくぜい》〈うらない〉の為に寵《ちよう》せられし法師あり 淀殿これと密通して棄君《すてぎみ》〈鶴松君・夭逝〉と秀頼を生ぜしとなん 大野は秀吉死後に淀君に婬しける 淀殿は容貌美にして邪智婬乱なりし 名古屋山三が美男なりしに思ひをかけて不義の事ありける」  また京都町奉行与力だった神沢杜口《かんざわとこう》(寛政七年・一七九五歿)の『翁草《おきなぐさ》』には「淀殿は容貌美麗にして甚だ婬乱の質なり 名古屋山三が美男なりしに思ひをかけて 不義乱行の事も有けり」と『塩尻』から引用したらしい記事がある。  さて、家康のことだが、公卿・大名の女《むすめ》をはじめ三百人もの妾をもった秀吉(『史料から見た秀吉の正体』・田村栄太郎・雄山閣)とちがい、正史では妾は十五人しかいないが、神君にしては趣味が悪いといっては何だけれど、下女(お万の方 お六の方)や、後家さん(茶阿の方 お牟須の方 お亀の方 阿茶の方)など愛妾の好みが秀吉より庶民的だ。尾張中村の百姓の出で二度も女房に逃げられた秀吉のように劣等意識をもっていなかったせいかもしれない。  この愛妾の中の茶阿の局《つぼね》は、福永酔剣の研究(『首斬り浅右衛門・刀剣押形』)に拠れば、「戦国時代、遠州井伊谷〈静岡県引佐町〉の井伊肥後守直親の家臣に山田吉秋という者がいたが、永禄五年〈一五六二〉十二月、掛川城主、朝比奈泰能に攻められて主家が滅亡、浪人となった。その子吉長にお八という娘がいて〈『幕府祚胤伝』ではお八だが、『柳営婦女伝系』ではお八は茶阿の局《つぼね》の娘になっている〉これが遠州金谷の鋳物師、椎名土佐に嫁いだが、夫の事故死で後家になっていたのを家康が見染め、はじめは風呂番の女として駿府城内に連れてゆき、やがて手をつけた。この茶阿の局が生んだ子が、のち越後高田七十五万石の大名、松平忠輝となるが、平素の行状や、大坂夏の陣の際の失態で家康の怒りを買い、そのとき責任をとらされて切腹したのが忠輝の伯父にあたる〈茶阿の局の兄〉二万一千石取りの重臣、山田長門守|吉辰《よしとき》で、以来吉春、直俊、貞武と浪人暮しをつづけ、貞武のとき、試し斬りの名人とうたわれた山野勘十郎の門に入り初代浅右衛門が誕生、明治十五年、斬首刑が廃止になるまで八代つづいた」という。  家康はよほど悪性の淋病であったらしく、その激痛はそれから九年後、七十五歳で死ぬまでつづき(元和二年・一六一六・四月十七日・死去)死ぬ直前の三月「医官 片山与安宗哲 御薬の事により 信州諏訪へ謫《たく》せらるる」(『徳川実紀』)と主治医を流罪にしてしまうほどの苛立ちで「鳴くまで待とうほととぎす」と沈着冷静な人物といわれた家康も淋病の痛さには、つい取り乱してしまったらしい。  なにしろこの時代、淋病とは淋菌の感染によるなんて分っちゃいない。  江戸時代の末になっても、性交を途中でやめると淋病になるという俗信がひろくおこなわれていたくらいで、   りんびょうに なる間男は 不首尾なり  人の女房を失敬している最中、見つかって中途で逃げ出した男は淋病になると古川柳は言っている。  元禄の有名な医学者、貝原益軒の『養生訓』の中には、性交は二十代は四日に一回、三十代は八日、四十代は十六日、五十代は二十日に一回で、六十代は、やっても射精しちゃいけないなんてきびしいことを言っている。  そのくせテメエは四十歳で十九歳の女房をもらうまでは、京の島原遊廓などで放蕩していたのだ。明和の頃、京阪に医業を営んだ|橘 《たちばな》春暉《はるあきら》の『|北※[#「窓」の旧字体]瑣談《ほくそうさだん》』に「貝原先生………島原の青楼に遊びて、小紫といふ太夫に契りしが……」とあり、京都遊学を終えて筑前へ帰る益軒に、小紫太夫が、   姿こそ 絵にはうつせど 中々に     通ふ心は 筆に及ばじ  なんてお安くない歌を、別れを惜しんで贈っている。  この益軒先生、もっぱら昼間、女房ともつれ合ったらしく、はじめるときは襖《ふすま》に|〆縄《しめなわ》を張る。おごそかに神の儀式を行なうというしるしなのだ。  すると弟子どもは、たまたま来客などあっても「先生はただ今、御儀式中に御座りまする。めでたく納められるまで、しばらくお待ち下さりませ」なんて大マジメで客に応対したという。   立ち上がる ヒップに 畳のあとがつき [#地付き]金 魚  たぶん、来客だからとて中途で引っこ抜いたら淋病になることを、益軒先生も固く信じていたからだろう。  余談だが、益軒四十歳、妻が十九歳だと二十以上の年齢のひらきがある。  益軒の説に従えば四十代は十六日に一回だ。これで若い女房が我慢できるわけはない。  岡田甫『益軒養生訓異聞』には、豊後日田の有名な学者、広瀬淡窓の弟で、これまた知られた学者広瀬旭荘が著した『九桂草堂随筆』の草稿には、益軒の妻が姦通して、益軒に、二度とその男に逢いませぬ、不始末はいたしませぬと誓約した証文が貝原家から発見されたことが書いてあるという。 『養生訓』の著者自身が自分の掘った穴へ落ちた面白い話ではないか。  さて淋病の治療法も、   りん病の 薬 赤染衛門《あかぞめえもん》なり  と月経時の女性と交われば、淋病がなおると信じられていた。  赤染衛門とは、平安中期、関白道長の妻倫子に仕えた女流歌人だが『栄花物語』の作者とも伝えられる才女だ。  ただその名前が赤染衛門とは、いかにも経血にまみれた陰門みたいだな。  だが、これにはもう一つ深い|うがち《ヽヽヽ》があるみたいな気がする。  百人一首におさめられた衛門の歌は、   やすらはで ねなましものを 小夜ふけて     かたぶくまでの 月を見しかな [#地付き]『後拾遺集』 『百人一首・故事物語』・池田弥三郎の解釈にしたがえば、 「ぐずぐずしていないで、寝てしまったらよかったのに、来るか来るかと期待して起きていて、今宵もふけてしまい、西にかたぶいてしまった月を見てしまった」という意味で、これは藤原道隆という男が、衛門の妹のところへ、今晩ゆくよと言いながら、すっぽかしてしまったのを、妹の気持になりかわって衛門が詠んだ歌だという。  しかし、江戸の川柳子は「あの人が、来るか来るかと毎晩待ってるうちに、とうとう〈月《メンス》を見しかな〉になっちゃったじゃないの……」とカンちがいしたのかも知れない。家康もまた、十五人の妾が赤染衛門のときせっせとお通い遊ばして、涙ぐましい努力をさせられ給うたにちがいない。  薬とてペニシリンもマイシンもない時代だから、ともかく薬草を煎じて飲むか、江戸の文人、大田蜀山人自慢の治淋薬「ミミズ 十筋ほど、よく洗ひ 砂けずゐぶん去るべし きるべし 甘草《かんぞう》一もんめ 水 茶碗に二杯入れ 一杯にせんじ用ふ はなはだ妙也」を試みるか。  江戸町奉行であった根岸鎮衛《ねぎしやすもり》の『耳嚢《みみぶくろ》』に「軽石を満願寺酒〈灘の銘酒〉など上酒に浸し焼きさうらふて また酒にひたし 再遍《さいへん》〈くりかえし〉いたし候へば 粉に成り砕け候を 細末にして呑むに はなはだ奇妙なるよし ためしたる人の物語り也」なんてあやし気な治療薬しかなかった。  日本へ医学を伝えた中国ですら五千年もの昔から淋病があったそうだが、尺八で治療した有名な話があるくらいだから、妙薬は見つからなかったらしい。  中国の春秋時代の末期、およそ紀元前五百年頃、越《えつ》という国の王、勾践《こうせん》は、呉《ご》の王、夫差《ふさ》と戦って敗れた。かつて夫差の父|闔閭《こうりよ》は勾践と戦い戦死しているので、勾践は夫差にとって父の讐《かたき》でもあった。  越王の勾践は片腕とも頼む重臣、范蠡《はんれい》の諫《いさ》めもきかず、無謀な一戦をいどみ呉軍に散々にうち摧《くだ》かれ会稽山《かいけいざん》に逃れたが、そこも呉軍に包囲されてしまった。  越王勾践の愛妾に西施《せいし》という絶世の美女がいたが、涙を飲んで敵王、夫差に西施を捧げ降伏した。  松尾芭蕉が『奥の細道』に、   象潟《きさかた》や 雨に西施が ねふの花  と、象潟(秋田県由利郡)の入江に雨にうたれて淡紅色に咲く合歓《ねむ》の花を見て、愁に沈む窈窕《ようちよう》可憐な西施の姿を思いうかべて詠んだ句があるが、日本でも西施といえば美人の代名詞で通ずるほど知られた美女だ。勾践としては命にも換えがたかっただろう。  さあそれからだ。呉王夫差は淋病を患って苦しんでいた。当時、淋病の膿は人間の口で吸いとると、治ると信じられていた。越王勾践は自ら進み出て、呉王の珍捧を口に含み、その膿《うみ》を啜《すす》り臣従の心をしめしたという。  敗れたとて一国の王、なんとも情ない話だが、勾践としては死するは易し、いかにしても生きながらえ、ふたたび越の国を興すためには、すべてを忍べという范蠡の忠言を肝に銘じていたからだろう。やがて十二年後、勾践は反旗を翻し、呉王を倒す。呉越同舟とか、会稽の恥をそそぐとか、臥薪嘗胆《がしんしようたん》とか、児島高徳が後醍醐天皇のあとを慕い桜の幹を削って「天 勾践を空しうする勿《なか》れ 時に范蠡なきにしもあらず」と書いた話や、越王勾践についての故事は多いが、淋病に関係ないから省略する。  こんな風だから家康の淋病がなおるはずがない。  いまの漢方だと八味地黄丸《はちみじおうがん》と言って、乾地黄《かんじおう》 山茱萸《さんしゆゆ》 山薬《さんやく》 沢潟《おもだか》 茯苓《ぶくりよう》 桂枝《けいし》 牡丹皮附子《ぼたんぴぶし》などを調合し、蜜で練った丸薬を用いると効果があるという話だが、家康の場合、淋菌による尿道炎のほかに、尿道|狭窄《きようさく》、前立腺炎《ぜんりつせんえん》など併発して、手がつけられなかったのかも知れない。  ちょうどこんな時、さっきの松平忠輝が生母、茶阿の局の口添えで家康に詫びを入れて来たが間が悪く、よっぽど痛てえときだったらしく、家康はわが子の嘆願も一蹴して、伊勢の朝熊の配所へ追いやってしまった。寵愛の茶阿の局の月経も薬効なかったらしい。  気の毒に忠輝は、家康の淋病のむしゃくしゃの飛ばっちりをうけて、頭を剃り、最後の配流地、信州諏訪で九十二歳の生涯を終えた。淋《ヽ》しい生涯とはこのことだ。  ところで、家康は脂が乗った後家好みであったせいか、死因にもあぶらっ気がからむ。  元和二年(一六一六)正月、京都の豪商、茶屋|四郎次郎《しろじろう》が家康に拝謁した。  その折「京都には何ぞ珍しき事はなきかと尋《たずね》給へば さむ候 此ごろ鯛を榧《かや》の油にてあげそが上に韮《にら》をすりかけしが行はれて それがしもたべ候にいとよき風味なり」(『徳川実紀』)  という四郎次郎の話に、たまたま榊原内記より鯛を献上してきたので、家康は早速調理させて食べたところ、その夜から腹痛を起こし、次第に病状悪化してついに死んだという。古来、鰒《ふぐ》にあたって死ぬ人は後を絶たないが、鯛の天ぷらで死んだ人は珍しいのではないか。こういうのをフグ鯛天(不倶戴天)の仇《かたき》というのかも知れない。  さて脂ぎった後家ばかりじゃない。家康にはわずか十三歳の少女を手折って側室にしたお六の方というのがいた。家康が死んだときまだ二十の若さだったから、家康としても頑張らなくちゃァーだ。  慶長十五年(一六一〇)というから家康六十九歳の時だが、蝦夷《えぞ》福山藩主、松前慶広が家康に命じられて、その五月に膃肭臍《おつとせい》を献上したことが『徳川実紀』に見える。  もちろん、生きたオットセイでもなければ、オットセイの肉の塩漬でもない。これはオットセイのタケリにちがいない。  タケリとは「猛り」で陰茎のことだ。江戸時代、鯨のソレは腹痛下痢の薬。オットセイのは中国では睾丸のほうを強精の秘薬とするが、日本では陰茎を珍重した。  もっとも、このタケリ、淋病の妙薬ともいわれていたから、家康は強精と治淋の一石二鳥を狙ったのかとも思う。  タケリは中国では神鞭《しんべん》というのだそうだが、長さ二十四、五センチはあろうオットセイの陰茎をかじったか、しゃぶったか知らないが、天下の大将軍様のそんな姿を想像するとおかしい。  紀元前二百年頃、秦《しん》の始皇帝《しこうてい》は美妃三千に取りかこまれて、不老不死の薬がなんとしてもほしくなり、東海の蓬莱島《ほうらいとう》というところにその仙薬なるものがあると聞いて、寵臣|徐福《じよふく》にはるばるその島を探させたが所在もわからず、仙薬も手に入れることなく死んでしまった。  徐福は孝霊天皇七十二年に、紀州の新宮市に上陸したという伝説があり、秦徐福と刻んだ墓がある。またこの徐福は、神武天皇となった人だという学説があるくらいだ。  家康も、始皇帝も、時代こそちがえ求めたものは強精剤だった。  古川柳にいう、   始皇帝 オットセイとは 気がつかず  おやじの家康がそうだから伜の越前宰相も親の訓《おし》えを守って梅毒に罹っちゃった。  慶長十二年(一六〇七)三月朔日の『徳川実紀』の記事には「越前中納言秀康卿は伏見城留守におはしけるが 瘡《そう》〈梅毒〉をわずらひ こころよからず……」とある。 『徳川実紀』という記録は、幕府が家康以来十代将軍家治までの実紀を林|大学頭《だいがくのかみ》に命じてまとめさせた徳川家の正史というべきものだから信頼できる。  最後には鼻が腐って落ちてしまい、つけ鼻で家康と対面したともいわれる。  つけ鼻の素材は知らないが、たぶん桐の木か、張子でつくったものだろう。  江戸の小咄に、  鼻欠けが、つけ鼻屋に行き、鼻をとりつけて貰い友達のところへ立ち寄る。 「オヤ お前 いい顔立ちになったな。どうしたわけだ」 「さればサ 赤坂のつけ鼻屋で鼻を入れてもらった」 「なるほど つけ鼻とは見えぬ。よく出来ているな」と、ほめるとその男、袂から紙に包んだものを出して、 「これを見ろ」  友達が何だろうと思って、紙包みをひらくと、赤い鼻が一つ、 「この鼻は なんだ」  その男「それはサ 酒に酔った時のだ」  西洋では、楽聖シューベルトも哲学者のニーチェも、詩人のハイネやボードレールも、また真偽のほどはわからないが、文豪シェークスピアもまた梅毒で死んだと伝えられる。わが戦国の大名もそうとうなもんで、前田利常、加藤清正、池田輝政などの猛将たちも梅毒には勝てなかった。  三十八歳の若さで死んだ浅野幸長も、葛城太夫《かつらぎだゆう》とか、無右衛門尉《むえもんのじよう》という遊女相手の放埓の果て梅毒と刺しちがえて死んだ。  淋病のほうは鍋島、筒井、生駒らの諸大名や、片桐且元の奥方までがやられている。 「片桐市正室 夜必足心熱|小便淋渋《ヽヽヽヽ》」(『医学天正記』)  もちろん、片桐且元が移したに間違いない。  ずっと時代はあとだが、忠臣蔵の大石内蔵介が梅毒だったことは前著『雑学猥学』に書いたから重複をさけるが、神沢杜口《かんざわとこう》(寛政七年・一七九五・歿)の著『翁草《おきなぐさ》』にも「我友 祇園へ参りて帰るさに 井筒屋へ立寄みれば 何やらん衝立《ついたて》の陰に 家内の者|挙《こぞ》りて座敷を覗《のぞ》く体《てい》なり 何事ぞと尋《たずぬ》れば 由良〈芝居では内蔵介は大星由良助〉さんの息子殿が唯今見えました 御覧《ごろう》ぜよと告《つぐ》る 実《げ》にも さ聞けばいかでや見ずにやは有べきと 彼友も指覗《さしのぞ》き見るに 七十余と見えし鼻の損せし〈鼻が欠けた〉老人なり 爰《ここ》を以て良雄の芳名をおもふべし…… 此老人は所謂良雄が三男 幼名大三郎 後に大石|宿衛《すくえ》と称し……本家芸州〈安芸国広島四十二万石・浅野内匠頭の本家〉へ 本知千五百石番頭格にて呼出されしが 父と違ひ勤嫌ひにて 生涯格別の功労もなき故 余り首尾よろしからず 近年隠居の節 領知三百石減じ 格式も一等下りて 養子大石某当時千二百石物頭格にて勤仕すと……」とあって、親爺の遺産の梅毒で鼻が落ちた大石主税の弟の話が書かれている。どだい大石内蔵介は、はじめから仇討のつもりは無く、赤穂藩の財政は大野九郎兵衛に握られていたため、まず籠城を唱えて大野を脅し立去らせて藩の金銀財宝をおさえ吉良家の警戒の目をあざむくと称して遊蕩三昧に耽っていたが、輩下の浪士たちに突きあげられて、しぶしぶ討入りに踏み切った形跡がある。  だから京は伏見撞木町の安女郎はじめ、手あたり次第。祇園の一力で豪遊などとは嘘っ八だ。  祇園は元禄のはるかあとに出来たもので一力で遊びたくったって祇園が無いのだ。  そのほか瀬川竹之丞なる蔭間役者と馴染んだり、息子の主税も、四条の相山幸之助という蔭間と深い仲だったという。  親子そろって、前後《ヽヽ》の見さかいもなく遊んだらしい。  だいいち、主君の浅野内匠頭もくだらない男だ。ちょっとの時間我慢すればわが身も安全、大勢の家来やその家族を路頭に迷わさずにすんだものを所もあろうに江戸城の松の廊下(実は松の廊下ではなく大廊下《おおろうか》であったという)で白刃をひらめかせて吉良上野介のオデコをひっぱたいちゃった。いくら殿様でも武士なのに無抵抗の老人一人|斬り伏せる《ヽヽヽヽヽ》ことが出来ない腑甲斐なさだ。  幕府が隠密を諸国に派遣して、諸藩の内情を探らせたらしい『土芥寇讎記《とかいこうしゆうき》』という当時の秘密書類がある。昭和四十二年、金井円の校注によって限定出版されたが、原本は東大図書館にあるという。  その赤穂藩の条の一部を抜き書きしてみると「長矩《ながのり》 |女色好※ 切也《によしよくをこのむことせつなり》 故ニ姦曲《かんきよく》ノ諂《へつら》ヒ者 主君ノ好ム所ニ随テ 色能キ婦人ヲ捜シ求テ出《いだ》ス輩《やから》 出頭立身ス……家老ノ仕置〈処置〉モ心|許無《もとな》ク 若年ノ主君 色ニ耽《ふけ》ルヲ諫《いさ》メザル程ノ不忠ノ臣ノ政道 覚束無《おぼつかな》シ」  どうだ、城代家老大石内蔵介の面目、いずくにかある──と言いたくなるではないか。  内匠頭の女漁りを指をくわえて羨ましそうに横目で見ていた内蔵介。主君が切腹するといままでの鬱憤ばらしに、殿様じゃないから上玉は無理だから安いの専門に遊び散らかしたんじゃないだろか。     巨 根 列 伝  さて、もとの巨根譚にもどろう。『性の世界記録』(G・Lサイモンズ著・石渡利康訳)をみると、ペニスの世界最大のサイズは勃起時で三十センチだという。  スーダンの黒人で長さ三十センチ、直径で六・五センチを最高に、西ドイツ人二十一・五センチ、ニグロ十九センチ、デンマーク人二十センチ、アメリカ人・スェーデン人十九・五センチでコチトラ十二センチ並型級など妻楊枝みたいなもの。聞いただけで勃起どころかチヂミあがっちゃう。  もっとも白人はフニャマラが多く、硬度のほどはわからないし、やたらと包茎が多いのは事実だ。  とにかくテキの巨根に一念発起したかどうか『ポルノ聖談』(梶山季之)には、日本一の巨根氏との対談がある。  この巨根氏、大木某といって東京のさる会社へ勤めているサラリーマン。生まれつきは並サイズであった一物へ、女がオッパイをでかくするときつかうシリコンを注入し、十年かかって十回の手術を重ねて作りあげたものだそうな。  なんでも牛乳びんの太さはゆうにあるというからすごい。  ただし、長さは標準サイズ、こればかりはいくらシリコンを入れても長くならない。  だが、これでイタすときが、まさに壮絶。ツバキ油など役に立たないから、なんとラードを塗ってヤルのだという。なんだかギョーザみたいなマラだ。  千軍万馬の売春婦が「キャーッ タスケテーッ」と素っ裸で逃げ出したというから、巴御前《ともえごぜん》のような女豪傑でもない限り勝負にならない。  元暦《げんりやく》元年(一一八四)木曽義仲は源の義経、範頼《のりより》らが率いる大軍を宇治・瀬田にむかえて戦ったが、一敗地に塗れ、近江の粟津であえなく討死をする。  このとき、義仲の愛妾、巴御前は緋縅《ひおどし》の鎧に身をかため、悍馬《かんば》に打ちまたがり、薙刀《なぎなた》をふるって奮戦、寄せ手の荒武者、畠山重忠と一騎討ちとなった。  組んずほぐれつ、|鵯 《ひよどり》越えの逆落《さかおと》しを愛馬を背負っておりたという豪力無双の重忠と、上になり下になり、格闘しばし。  最後は重忠が必死に追いすがるのを振り飛ばして悠々と引きあげたが、   重忠は 巴と組んで 手を洗い  と、江戸の川柳が伝えるところをみると、組み打ちの際、重忠はズブリと巴の変な所ヘ手を突込んだらしい。  中世の軍記物語で有名な『平家物語』には「ともゑは いろ白く髪ながく 容顔ことにすぐれたり」とあるから、なかなかの美女、そのうえ二十八歳の女盛りだ。  畠山重忠にしてみれば、つい変な気を起こしちゃったらしいが、命のやりとりの土壇場で、チョネチョネやるなんざ、やっぱり豪傑だよナ。  また、この巴も「ありがたき強弓《つよゆみ》 精兵《せいびよう》 馬《むま》の上 徒歩《かち》立ち 打ち物〈薙刀・太刀〉もっては鬼にも神にもあはふどいふ一人当千の|兵 《つわもの》なり」と伝えられる。  武蔵国に聞えた強力、御田八郎師重《おんたのはちろうもろしげ》と馬上で組合い「頸《くび》 ねぢきって 捨ててんげり」(『平家物語』・巻九)というから、義仲は凄い女房を持っていたわけだ。日常の性生活でも、   抱きしめられて 木曽殿は 度々《どど》気絶  だが激しい合戦に疲れ果てて、ついには和田小太郎義盛に生け捕られ、鎌倉へ引立てられたが、頼朝に懇願して義盛が妻に貰いうける。   大味《おおあじ》を 承知で和田は 拝領し  しかし、こんどは義盛が生命の危険にさらされる破目になる。   義盛は しめ殺すなと そっと言い  さて江戸町奉行であった根岸肥前守|鎮衛《やすもり》(文化十二年・一八一五歿)が天保の頃、書き留めた聞書《ききがき》『耳嚢《みみぶくろ》』に、こんな話がある。 「信州のある裕福な百姓が、ある日近在へ用たしに出かけた折、俄か雨にあい、とある一軒家の軒下を借りた。  その家のあるじは百姓を家の中へ招き入れ、煙草などすすめて雨が晴れるまで世間話をしていたが、あるじの坐っている膝の間から、もう一つの膝らしきものが顔を出していた。いや、膝ではない、この家のあるじの巨根の頭だった。  百姓が驚くさまを見て、その男は、私はこの近くのつくり酒屋の伜ですが、この巨根ゆえに金銀を費やして妻妾を求めても、だれもおそれて逃げてしまう。はずかしいことですが、あれに繋《つな》いである牝馬を自分の女と見たてて犯し、煩悩《ぼんのう》を晴らしておりますが、いくら女に縁がないとはいえ生きながらの畜生道、何ともおのれが哀れでなりません、と、涙ながらに語った。  やがて雨もあがったので、百姓は暇乞いをしてわが家に戻り、女房に、さてさて今日は大変なものを見た、お前は日ごろ俺のことを粗チンなどとぬかすが、ああいうデカブツは粗チンよりも使いものにならぬわい、と話して聞かせた。  ところが、一日おいたそのあくる朝になって、どこへ行ったのか女房の姿が見えない。使用人などを手分けして八方探したが、とうとう行方がわからなかった。すると使用人のひとりが、そういえばおかみさんは昨日の昼ごろ、床の間にあった太竹の花生を膝にあてて、何やら考えこんでおりましたという。  百姓はふと思い当たって、早速に雨やどりした家へたずねて行った。まさかこちらに私の女房が来てはおりませんかと聞くわけにはいかないから、一昨日の雨やどりの礼にうかがったなどと言って、それとなく様子をさぐるに、この家のあるじ、何となく顔色が冴えない。  何ぞ変わったことでもございましたかと尋ねると、実は昨夜四ツ〈十時〉頃、家の戸をたたく者がいて、戸をあけてみると年の頃四十ばかりになる女が、旅の者でございますがにわかの腹痛で苦しんでおります、どうぞ一夜の宿をお借し下されと言うので、私は独身者ゆえ女の人に宿は貸すわけにはいきませんと断ったが重ねて哀願するので仕方なく一間へ入れて薬など与えているうちに、その女、声をひそめ、あなたの一物は抜群のよし一目見せてほしいと言い出した。  ばかな事を申されるな、だいいちどうして旅の者が私が巨根であることを知っていなさるか、もしや狐狸が女に化けて出たのではないか、と詰め寄ると、あなたの一物のご立派さは街道の馬子《まご》、荷運びの連中までに評判のこと、決して狐や狸ではございません、ですからぜひ見せて下さいと言うので、とうとうその女に一物を見せてしまいました。  女がそれをうっとりと撫でまわし、頬ずりする有様に、私も次第に変な気分になり、いつか折り重なってしまいましたが、女は余程の大陰であったらしく、万事すんなりと納まり、こうなったらどうか女房にして可愛がって下さいと頼むので、こちらもそれは望むところと夢を見ているような気持でした。さて朝になると、女は早くから起き出して女房気取りでまめまめしく立ち働き、飼っている馬に秣《まぐさ》を運んでゆきましたが、馬は日頃私がアレに用いていた牝馬、おそらく女に嫉妬したのでしょうか、いきなり一跳ねに女を押さえて噛み殺してしまったんです。  泣く泣く裏の空地へ死骸を埋めましたものの、もとはといえば私の生まれつきの巨根の罪、坊主にでもなって女の菩提《ぼだい》を弔うつもりでおりますと、涙ながらに語った」という。 「涙と共に語りしを かの百姓聞きて さながら わが妻といはんも面目なければ、哀れなる咄|承 《うけたまわ》る物かな と云ひて立別れけると也」と、根岸鎮衛の原文はこう結んでいる。おそらくバケツ(馬穴)ぐらいの広さはあったにちがいない。  この百姓の女房ばかりじゃない。ひとたびたべた禁断の木の実は、女の生涯を大きく変えてしまう。  鎌倉時代の橘成季の『古今著聞集《ここんちよもんじゆう》』にもそうした話が見える。 「かつて、いちども男のからだを知らない美しい尼がいた。あるとき、ひとり者の僧が、その尼を見染め、恋いこがれてしまったが、どうしても忘れられないので、尼をたずねてゆき、宮仕えをしたくて国から出てきましたが、なかなかにそれもかなわず、よるべのないひとり男でございます。どうぞあなたのところで召使ってはいただけませぬか、と内心は、うまく尼のところへはいりこんで、おりあらば、尼をモノにしようという魂胆だった。  そうとは知らない尼は、おりから人手もないので、その僧を雇うことにした。  僧はまめまめしく立ち働くので、尼もことのほかよろこんでいたが、三年目のある夜、一心不乱に経をあげたあと、尼はひどく疲れ、前後不覚に寝入ってしまった。  僧は好機到来とばかり「よくねいりたる尼のまたをひろげてはさまりぬ かねてよりしかりまうけたるおびただし物をやうもなく〈逞しいモノをわけもなく〉ねもとまでつきいれけり」  驚いたのは尼、僧の一物をひっぱずして持仏堂に走り入ってしまった。  僧は、さあえらいことをしてしまった、あと、どうなることかと胸もとどろに、すくんでいると、持仏堂のほうがなにやら騒がしい。僧は尼の怒りいかばかりか、どんなとがめを受けるやらと逃げることも出来ずにいると「この尼 おもはずに気色《けしき》あしからで──いづくにぞ──と尋ぬる声す うれしくおぼえて──ここに|候 《さむらふ》ぞ──とこたへければ やがてまたをひろげて おほはりかかりてければ かへすがへす思の外におぼえて やがてをしふせて とし比《ごろ》の|ほい《ヽヽ》〈本意〉思ひのごとくにせめふせてけり」と、こんどは尼さんのほうがのしかかってくるほど積極的で、僧は張切って、長年の念願を果たした。  で、僧が「なんで、さきほど、一物を引き抜いて持仏堂にかけこんだのでございますか」と、いぶかしげに聞くと、尼は、 「それは、あんなにいい気持のものをわたしひとりが楽しんでは申訳ない。せめて半分でも仏さまにわけて差し上げよう」と「かねうちならしにまゐりたりつるぞとこたへける」。  まして、大年増の百姓の女房が巨根に憧れて命をかけたのは、無理からぬことだ。  さてこの巨根列伝のしめくくりに、平賀源内の名作『|長枕 褥合戦《ながまくらしとねがつせん》』の一部を紹介しておこう。平賀源内は江戸中期の博物学者であり、戯作者《げさくしや》でもあり、すでにその頃、油絵具をつかう洋画家と、実に多才な人で、エレキテルという発電器をつくったことは有名だ。 『長枕褥合戦』は風来山人《ふうらいさんじん》という筆名で書いたもので、鎌倉時代、頼朝が死んで未亡人になった北条政子の上意によって、その面前で鎌倉武士たちが男根くらべをするところからはじまる。  まず、鎌倉御所の大広間に番場《ばんば》の忠太が記録係となって畠山庄司重忠、梶原|平三《へいざ》景時らをはじめとして大小名綺羅星の如く居並ぶ。  やがて、そこへしずしずと北条政子が出御《しゆつぎよ》遊ばされる。 「|恭 《うやうや》しくも 政子|御前《ごぜん》 御|股間《またぐら》を引捲り 御玉門をひこつかせ 上覧あるこそ晴れがまし 先づ一番に進みしは 越前介|平 《たいらの》川かつ 前皮外せし振|男根《まら》に ひときは目立つ ふくろづの 番場忠太が筆頭に 六寸二分と記したり 次ぎへ出づるは筋太く くわっと開きし松茸なり 太井三郎|頭高《かりたか》と 名乗って通る郭公《ほととぎす》 後へ出づるは住前髪 珍宝太郎と名乗れども 男根《まら》は中指二つ伏せ……中略……  世に覚えのある男根《まら》の数々 男根《まら》々々々々と居並んで、御用いかにと待ち居たる  梶原平三 せせら笑ひ 〈日本広しと申せども すは御用のあるときは ああ無き物は大《おお》男根《まら》なり 何れも六寸二、三分より 七寸に及ぶはなし(約十八〜二十一センチ)  それしきの小|男根《まら》を以て 将軍の|ぼぼ《ヽヽ》をせしめんとは 言語道断の不埓|男根《まら》ども、此の景時が自慢のへのこ目に物見せん〉と引捲くれば 八頭《やまた》の大蛇が杵《きね》の折《をれ》 赤み走って筋太く 一尺有余の照れつくを あやし切って差しつくれば 皆々恐れ入り 〈此方等《こちとら》が自慢の大|男根《まら》より 男根《まら》も強きは梶原様 こりゃ堪らぬ〉と呟きて 男根《まら》を萎縮《なや》して出《いで》て行く  梶原殆んど笑壺《えつぼ》に入り 〈あれ見られよ方々《かたがた》 かく御吟味の上にて某が男根《まら》随一なれば 政子御前と枕を交し 六十余州の総|追捕使《ついぶし》 この日本の己凝島《おのころじま》を今より |へのころ《ヽヽヽヽ》島と名を改め 鎌倉二代の将軍は 此景時と極はまったり〉  と御座《ござ》を目がけて駈け上がるを 庄司重忠|押隔《おしへだ》て 〈頼家卿を差し置いて 将軍職とは狂気の沙汰 後退《しざ》り召され〉ときめつくれば 〈やあ 頼家も糸瓜《へちま》も要らぬ 論より男根《まら》が証拠 政子君を抱いて寝るが 浦山敷《うらやまし》さの妬気《やきもち》か〉……」と景時はいきまき、ここで畠山重忠との言い争いになる。  そこへ「しばらく しばらく」と割って入った大男がいた。 「現れ出でたる大男 からだには袗衣《さんえ》に有髪《うはつ》の僧 何の遠慮も並みをる真中《まんなか》 前を捲って突きつけるは一尺八寸(五十四・五センチ)胴返し(そりかえる)厳物作《いかものづく》り(いかめしい)の黒塗に青筋張ったる一物は 赤銅で鋳た半鐘を 蛇の巻いたる如くなり  人々はっと立ちかかり 不思議不思議と眺むるうち かの男はゆるゆると 男根《まら》の頭を撫で廻し 〈|某 《それがし》は下野《しもつけ》の住人 弓削道鏡《ゆげのどうきよう》が末葉《まつよう》 弓削道久《ゆげのどうきゆう》と云ふ者なるが 先祖代々譲りの大|男根《まら》 夫婦の交合《かたらい》ならざれば 髪はあっても僧の身持ち 然るに君の命によって 諸国の大|男根《まら》御詮議と聞くと等しく来りしところに 梶原公の大|男根《まら》に皆負けしとの物語 いざいざ比《くら》べ申すべしと 男死んで六寸とは世に並々の人のこと 我等が男根《まら》は三人前 長さは三六、一尺八寸 太さも一尺八寸|周囲《まわり》 力のほどは米俵を雁首《かり》に引っかけぶくつかせ 一寸板はぼっそりと突貫く力 新開《あらばち》でも天狗の尻《けつ》でも 蛇《じや》のぼぼでも 此さくぞう(作蔵・男根の擬人名、変った名称では天礼菟久《てれつく》などある)に覚えあり 如何に如何に〉と振廻せば さしもの梶原 言句《ごんく》も出でず 〈ええ いまいましい〉と顰《しか》め顔 腎虚《じんきよ》の男根《まら》を見る如く ぐなりと萎縮《なえ》るぞ心地よき  重忠も詮方《せんかた》なく 〈先づ先づ今日の男根《まら》競べ 道久が第一なれば 何れも異論あるまじ〉  と景時を尻眼にかけ 〈いざ 退出〉と立出づる……」  (昭和29年作品社版・『長枕褥合戦』に拠る)     金 玉 列 伝  巨根すぎても使いものにならないという話は身不肖ながら使いものになっているわれわれにとって、せめてもなぐさめになるが、巨根ならぬ巨睾丸も厄介なもんだろう。  前出『性の世界記録』には「アラビアン・ナイトに出てくるサマンダルという王様は、膝の下までたれ下った睾丸を持っていた」というし、また「ブラジルのベルマンブゴに行けば睾丸を|手押し車《ヽヽヽヽ》で運んでいる人が珍しくない」  つまり、これは象皮病《ぞうひびよう》といってアフリカの黒人に多い病気だが、日本にだってある。  尾張藩の右筆《ゆうひつ》(書役)三好伴五郎(三好想山)が嘉永三年(一八五〇)に著した『想山著聞奇集』には、東海道は戸塚の大金玉のことが書かれている。 「昔は 元禄の事にや 東海道戸塚宿に 大睾丸の乞食有しと云《いう》 然る又 此宿《このしゆく》に明和 安永の頃よりにや 二代目の大玉有て享和の頃までも存命有たりと 予《よ》 子供心に亡父に咄にて能聞置《よくききおく》 又 べらべらつん出せ戸塚の金玉とて 流行唄《はやりうた》にもうたひ 名高き玉有たり……この玉に一つの不思議あり 朝四ツ〈十時〉比《ごろ》より八ツ半〈午後三時〉比《ごろ》迄は甚だ大きく それより夕刻前になりては段々と玉を揉込みて半分程となし 嚢《ふくろ》に入れ首に懸て住所へ帰り 又 朝|出来《いできた》りて段々揉出し 四ツ頃には十分大きくなせし由 或年 紅毛《おらんだ》人通行の時 此玉を見懸《みかけ》て申様《もうすよう》 彼《か》は実に不便《ふびん》の事也 水を取りて治療を|成遣 度《なしつかわしたく》と通辞〈通訳〉を以ていはせければ かの乞食 答て申様 御志しは有がたけれども |私 《わたくし》は何の芸もなく 幸にして今は陰嚢のおかげにて沢山に|施 《ほどこし》を受《うけ》口腹を安穏《あんのん》に養ひ候へば 治療の事は許し給はれと断れりと聞伝へたり」と。三好想山はこのあと、この大金玉は色は黒紫、ぶつぶつ肌で肝腎の珍棒は引こんで穴のようになっていて、鉦《かね》をたたいて銭を貰っていたと書いている。  また天保三年(一八三二)江戸城金奉行をつとめた志賀理斎の『理斎随筆』にもおなじようなことが書いてあり「予が長崎におもむきし寛政のころにも旅人《りよじん》通行せる路傍に出で 陰嚢の上にたたき鉦を置て 念仏申て銭をもらひ 世を渡るいとなみとせる者あり 日暮て家にかへるには彼《か》の|きん《ヽヽ》に紐をからげて結びあげ、肩に掛て戻ると むかしの二代目なりと申たる有り」  と、これは二代目の大金玉らしい。  さきの想山はさらに「予が友 山崎美成〈江戸の雑学者・文久三年・一八六三歿・『世事百談』その他の著書がある〉文化十二年〈一八一五〉三月 戸塚宿通行せし時 往来に蓆《むしろ》を敷きて陰嚢の上に鉦を置て 打ならして銭を乞居《こいい》たるを見受けたり 是は三代目の大睾丸と見えたりといへり」と書いている。このほか想山は文政二年(一八一九)頃、江戸の九段坂上に米弐斗ほど入りそうな乞食がいたので……とそのスケッチを残しているが、どういうわけか戸塚には三代目を襲名する大金玉までいたようで、この大金玉氏、初代、二代、三代とおなじ血統であったかどうか興味が湧く。  また江戸の戯作者、十返舎一九が享和二年(一八〇二)から文政五年(一八二二)に至る二十一年間の歳月をかけて書いた有名な『東海道中膝栗毛』の戸塚の宿の条《くだり》に、どの宿も客でふさがって、弥次さん、喜多さん泊る宿が見あたらず大いにまごつくところに狂歌一首がある。   とめざるは 宿を疝気《せんき》〈せぬ気〉と 知られたり 大きんたまの 名ある戸塚に  作者一九も、戸塚の金玉については、ちゃんと文中にとりあげていて、|そつ《ヽヽ》がない。  でも、戸塚なんて今は東京のベッド・タウンだ。戸塚の人に「どちらへお住いで……えっ戸塚ですかァ……エヘヘ」なんて笑うなよなァ。  大睾丸ではないが、金玉が三つもある人がいた。江戸時代の話だ。  これを手術したのは華岡|随賢《ずいけん》といって、かの紀州の名医、華岡|青洲《せいしゆう》の祖父にあたる人だ。青洲の奇話については前著『雑学猥学』を読んでいただきたい。  で、随賢先生、いよいよ手術となって、三つある金玉のどの二つがホンモノで、どの一つがニセモノか、わからなくなっちゃった。  そこで考えたあげく、患者鼻先に手術のメスをつきつけ「サァ、これから切るぞッ」とすごんだ。びっくりした患者は金玉がちぢみあがっちゃったらしい。随賢先生が手で探ってみると、一つだけ縮まない玉がある。それをつかまえて取り出し見事手術を成功させたという。ウソみたいな話だが、睾丸は吃驚したり、恐怖を感じると睾丸の筋肉が反射的に収縮を起こすから華岡先生の処置は当を得ている。  奇談といえば昭和五年に睾丸から胎児が出たという山口県にあった実話がある。  患者は山口高等学校(旧制)三年生の某二十一歳で十年来、金玉がでかすぎて運動をするにも邪魔になる。そこで山口赤十字病院佐藤外科医長の執刀で手術したところ、陰嚢から直径三センチほどの胎児が出て来た。その胎児、歯、毛髪、皮膚、骨、筋肉すべて人体組織の要素をそなえたもので、これは世界で第二回目の発見とか。日本医学界の貴重な資料になった──とこの年の九月十三日の中国民報は報じている。 「太閤の奥方いはれしは太閤はなかなか子など出来る生まれにてはなし 秀頼は大野修理が子なりと云はれしと也」と秀吉の正妻、北政所《きたのまんどころ》の証言を江戸は文化年間(一八〇四〜一八一七)に和田正路が、その著『異説|区《まちまち》』に記しているが、子種がないくせに秀吉は大金玉で、歴史学者の高瀬|羽皐《うこう》の説によれば、当時の武将はすべて騎馬で往来していたが、秀吉がはじめて駕籠《かご》を用いて以来、武将たちもこれにならって駕籠に乗るようになったという。つまり秀吉は大金玉なるがゆえに馬に乗るのが苦痛だったのがその事情だ。  駕籠といえば、西郷さんも西南の役に大金玉になって動けず山|かご《ヽヽ》に乗って転戦したという。  これは淋病の睾丸炎か、疝気《せんき》か、陰嚢水腫《いんのうすいしゆ》か、象皮病なのかわからないが、なんでも冬瓜《とうがん》ぐらいの大きさに脹れあがっていたという。  明治の故老の思い出話を集めた『江戸は過ぎる』(河野桐谷編)に平井直という人の城山攻撃の回想があり、薩軍の死体収容の際、「その中で首のない死骸があって、それが西郷隆盛の死骸だった。なんで西郷ときまったかといえば、金玉の大きさで確認できた」とある。官軍の見習士官であったひとの話だ。  金玉は男のものと思っていたら、金玉娘というのがいた。斎藤|月岑《げつしん》の『武江年表』を喜多村|※[#「竹/均」]庭《いんてい》が補正した文化四年(一八〇七)の項に、 「葺屋《ふきや》町〈東京・中央区日本橋堀留辺〉河岸小芝居に 金玉娘と云ふを見せものとす 容儀よき娘なるが 前陰より陰嚢の如きもの出でて前は塞がれり みめよき故に大いに評判ありて見物多かりき かの腫瘍を療治するとて庸医《ようい》〈やぶ医者〉にあやまれて死せりとかや」とある。  安永七年(一七七八)の産婦人科、中条《なかじよう》流(ちゅうじょう・ではない)の『産科全書』を見ると「子宮出テサガル事アリ云々」とて、子宮が陰門外に飛びだすことはわかっているのだから(俗に言う茄子《なす》)それではなさそうだ。どんなもんかオレも見たかった。  金玉といえば「狸の金玉 八畳敷」とよく言われるくらいだれもよく知ってることだが、動物園で狸のソレを、いくどものぞいてみたが、信楽《しがらき》焼の狸の置物ほどもなさそうだ。  この「八畳敷」なる由来は、金箔をつくるときタヌキの陰嚢の皮に純金の板をくるみ、上から槌で叩いてゆく。叩いてはのばし、のばしては叩き、なんと約三ミリの三千分の一までの薄さに仕上げることが出来るという。  日本人だけができる芸当だ。だから「叩けば 金箔 八畳敷」が本当でそれがいつかだんだん訛って狸の名誉をきずつけるような俗説が生まれたとか。べつに狸キンでなくても、粘りのあるうすい皮ならいいのだそうだ。  南喜一『ガマの聖談』に「ポンペイの廃墟には、古代の女が抱き合った壁画がのこっているがその壁画の中に、男の睾丸の重さを測っている絵がある。計量器に睾丸をのせて、重さ比べをしている画で、これによって、どちらが男として価値があるか決めようという図らしい」とある。  今なら棹くらべだが、昔は金玉くらべだったらしい。だが金玉ばかり重くても、戸塚の金玉じゃ御婦人用には役立たないから三文の値打ちもない。  こういうのを睾丸無値《こうがんむち》というのだろう。  さて、巨根と巨嚢を兼備した歴史上の人物はというと、これは弓削道鏡ではないか。  道鏡巨根説は世上有名だが、巨嚢説は見当らない。しかしオレは絶対に巨嚢であったと、信じている。  巨根はともかく巨嚢ではアノ時不自由ではないかと疑う向もあろうが、道鏡ほどの人物になれば巨嚢を折り畳んで、たぶん相手の腰枕に用いたと、オレは考えるのだ。  腰枕といえば、江戸の小咄に、おかしいのがある。──ある女郎のところへ、同じ店の女郎が枕を貸してくれと言ってくる。翌朝、返して来たのはいいが、枕に髪油がべっとり。女郎はあきれて「バカらしい 誰か枕にしたそうな」──  弓削道鏡は第四十六代孝謙帝(のち第四十八代称徳帝として重祚《じゆうそ》)に寵愛された怪僧といわれる。  孝謙帝は聖武天皇と光明皇后の間に生まれた女帝だ。  平安朝のはじめ、奈良の薬師寺の僧、景戒によって編まれた『日本|霊異記《りよういき》』には「道鏡法師皇后と枕を同じうして交《まじわ》りを通ず」と女帝との深い肉体関係を利用して天下の政治を壟断したことが書かれている。  道鏡の出自については、天智天皇の皇子施基親王(持統・弘文・元明帝と異母弟、春日宮天皇を追贈される、第四十九代光仁帝の父)の子で臣籍へ降下した皇胤説と、河内国(大阪府)弓削に土着した帰化人説とがあるが、オレは帰化人説をとる。当時、文字はおろか土木、建築、織物、天文、造船、牧畜、医療、あらゆるすべての知識が中国から朝鮮を経て日本に渡来し、のちの日本民族文化の根源となった。  いわばこれらの技術を持って日本に渡来し土着した帰化人の中には、博士であり、技術指導者がいてたいへん厚遇されていた。  およそこの時代に出来た高松塚にしても学者は被葬者を、忍壁《おさかべ》皇子(天武帝の第九皇子)弓削皇子(天武帝の第六皇子)高市皇子(天武帝の第三皇子)その他とし、諸説入り乱れいまだにだれを埋葬したのかわからない。江戸時代は文武帝(天武帝の草壁皇子の子)といわれた古墳だが、あの塚は唐に滅ぼされた高句麗《こうくり》(朝鮮)の技術集団が日本に逃れ、その長を葬ったものと考えるのが自然だとオレは思う。  唐や高句麗の古墳には、高松塚とよく似た王朝風俗を描いた壁画を持つ古墳がいくつも発見されているのに、先日、発掘された草壁皇子(第四十一代持統女帝の皇太子)と見られる丸子塚にも、あのような壁画は無かったし、今まで発掘された多くの古墳にも皆無なのだ。  ただ高松塚、丸子塚とつづいて発掘されたおよそ同時代と見られる両古墳に共通したものが一つある。  それは両者とも埋葬された人間の首、つまり頭蓋骨が紛失していることだ。  この時代、さきにあげた忍壁、高市、弓削そして草壁という皇子たちの伝記を詳しく書けば、そこに多彩な恋あり、一面どす黒く渦巻く権力闘争ありで、いずれも波瀾万丈の生涯を終えた人たちだ。  たとえば天武帝の妃に大田皇女、|※[#「盧+鳥」]野讃良《うのささら》皇女がいる。この二人は天智帝の娘で姉妹で姉の大田皇女は大津皇子を生み、妹は草壁皇子を生んだ。  大田皇女が死に、やがて天武帝の跡をつぎ持統天皇となった※[#「盧+鳥」]野讃良皇女は、群臣に人望の高い大津皇子が妬ましくて仕方がない。わが子、草壁皇子を皇位に就けるには、なんとしてもこれを抹殺しなければならない。  朱鳥《あかみどり》元年(六八六)十月、女帝は大津皇子を謀反の大罪として断罪し刑場に引き出して首を刎ねた。無実の罪だった。  死刑の宣告をうけて刑場に向かう大津皇子が、   百伝《ももつた》ふ 磐余《いはれ》の池に 鳴く鴨を     今日のみ見てや 雲隠《くもがく》りなむ  無心に遊ぶ鴨の群れをこの世の名残りに見て死んで(雲隠る)ゆくのかと嘆いたその心情に胸がいたむが、『日本書紀』は大津皇子の妃、山辺皇女(天智帝の子)が、 「髪《みぐし》を被《みだ》し 徒跣《そあし》にして 奔《はし》り赴《ゆ》きて |殉 《ともにしに》ぬ 見る者《ひと》皆|歔欷《なげ》く」  と、愛する夫のあとを追ってその場で自殺した感動的な物語を伝えている。  いっぽう草壁皇子はこうした持統女帝の願いもむなしく三年後に若死をしてしまう。とにかくこのように、骨肉相食む権力争いの時代背景を考えて、学者先生たちは、何者か怨恨のため、埋葬者の頭蓋骨を盗み出し、死者を辱しめたのであろうなどと言っているが、バカ言っちゃいけない。首がない埋葬者は高松・丸子塚ばかりじゃない。  四肢の骨は腐朽して消えたとしても、頭蓋は残るのに、発掘したら四肢の骨片はあっても頭蓋骨が見当らない古墳はざらにある。  もちろん、いつの時代かに盗掘にあって、副葬品の太刀、勾玉《まがたま》、白銅鏡《はくどうきよう》、金銅冠《こんどうかん》など奇麗さっぱり無くなっている。かの巨大な仁徳陵だって、とっくに盗掘されているのだ。エジプトのピラミッドはそれをおそれて迷路をつくり、盗掘を防ごうとしたが、ツタンカーメンの場合は別として、ナイル五千年の歴代の王の墓はことごとく盗掘されちゃっている。なんでも先祖代々の盗掘専門家がいたそうだから、かなわない。  まして日本の古墳のように単純なものは、技術も一子相伝の秘伝もへったくれもない。  仁徳陵など濠をめぐらした巨大な古墳は中世の争乱にはよく砦《とりで》につかわれたともいう。  それに仁徳陵から盗掘された副葬品はどういう事情か、そっくりアメリカの美術館に渡っていると聞いた。  宮内庁が陵墓の調査を渋るわけがここにある。     人骨は高貴薬  話はそれたが、古墳の頭蓋骨をなぜ盗むのかという疑問は、昔は貴人の頭蓋骨は高貴薬であると俗間に信じられていて、それを削って服用する風習があったことを思えば、疑問はたちどころに氷解するではないか。  古来、人間には頭蓋骨崇拝風習が世界諸国にあり、日本ではいまでも沖縄に残存している。  ヨーロッパのバーバリア・ミューニッチのエベルスブルグには、聖セバスチャンの頭蓋骨を千年も保有し、毎年一月二十日には信徒がこの頭蓋骨に酒をみたして飲む慣例だという。また西蔵《チベツト》のラマ寺にも儀式に用いる美しい装飾をほどこした頭骸盃があると『頭蓋骨崇拝』(金城朝永)には世界諸国の例を挙げて詳しく書かれている。  崇拝ではないが、織田信長が、宿敵、浅井久政・長政、朝倉義景を滅ぼしたとき、その三人の頭蓋骨を漆《うるし》で塗りかためて盃とし、天正二年(一五七四)正月元旦、岐阜城で諸大名に酒を振舞ったことは史書にあきらかだ(『織田信長譜・史籍集覧浅井三代記』)。  艶色古今にならぶものなし、と言われた京都六条の名妓吉野太夫は、井原西鶴の『好色一代男』の中にも、その名妓ぶりが伝えられていて、またその美貌は遠く中国まで鳴りひびき、明《みん》の李湘山《りしようざん》という詩人が、夢で吉野太夫と会ったという詩を、はるばる日本へ送ってよこし、その絵姿を懇望したという話もあるほどの女だった。  彼女は、二十六歳の時、廓を去り、京の豪商で歌人でもあった灰屋紹益《はいやしようえき》の妻となったが、寛永二十年(一六四三)八月、三十八歳で歿した。  そのとき、紹益は吉野の死を嘆き、火葬にした彼女の骨を食べてしまったということが、滝沢馬琴の『羇旅漫録《きりよまんろく》』の中にある。 「吉野が屍を火葬にして 紹益みづからこれを喰ひ尽しけり 紹益がよし野に愛着せしことかくの如し」  べつに灰屋《ヽヽ》という屋号のせいじゃあるまい。のちにこの事が江戸の巷間の歌になって流行した。   ※[#歌記号]お前死んでも どこへも やらぬ      焼いて 粉にして 酒で呑む  話は古墳の頭蓋骨のつづきとなるが、アサヒ芸能54年1月18日号・独占ドキュメント・大阪戦争第2図によれば、 「五十年十月三日、大日本正義団会長、吉田芳弘は、大阪・日本橋《につぽんばし》の路上で山口組系のやくざにピストルで背後から狙撃されて即死した。殺された吉田会長の遺体は三日後、大阪平野区瓜破の火葬場で荼毘《だび》にふされた。  火葬場には正義団の組員二十五人が黒装束で参列したが、いざ遺骨を拾うときになって、組員の一人が〈死人の骨を食べると長生きするんやて〉と、箸でつまんだ遺骨を突然口元に運びなめたのである。  彼は一部で伝わっている迷信を信じていた。この奇行に他の組員二十四人が〈ほんまかいな、ほんならワシも……〉と、つづいたのである……」とある。  また、群馬県磯部温泉にある戦国時代の戦死者の多数を埋めたと思われる首塚が発見されたときも「ところが日がたつとともに骨がだんだん減っていくではないか。よくしらべると、これらの骨が下熱剤として効くというので、近隣の人が夜にきては、持ち去ることがわかった。読者の中には、人骨を飲むなんてと言って、この話に疑問をもつ人もあるかもしれないが、実際にこのような迷信が、かなり一般に広がっていたようである」と、人類学者鈴木尚博士はその著『骨』に書いている。これまた昭和の話だ。  人骨を薬とする俗信は、今日まで生きていた証明だ。  昔、貴人の骨ほど、高貴薬であったことに不思議はない。  人間の骨どころか、得体の知れない動物の骨まで高貴薬だった。  これを「竜骨《りゆうこつ》」といって、漢方のれっきとした薬なのだ。  岡崎寛蔵『くすりの歴史』によれば「竜骨はマンモス・古代のウマ・シカの骨の化石で薬効は精神安定・鎮静」とある。  ウマやシカの骨の化石なぞ飲んだらバカにならないかと心配だが、まだすごいのがある。  木乃伊《ミイラ》という薬だ。     木乃伊《ミイラ》という薬  享保(一七一六〜一七三五)時代の財津種莢《たからつしゆきよう》という経歴未詳の人、もしくは幕臣|新見《しんみ》伝右衛門正朝の著ともいわれる八十歳の老人が思い出話をまとめた『昔々物語』に、 「むかし〈延宝・天和〉六七十年以前 みいらといふ薬 大きにはやり 歴々衆大名も呑む 癪気《しやくき》 痞《つかえ》に能く 虚性を補ひ 脾腎を調へ 気力を強くし食傷《しよくしよう》 其外諸病に能《よし》とて 方々の薬種屋にて売《うる》 赤坂みいらとて赤坂に大阪屋といふ生薬屋《きぐすりや》 下直《げじき》〈安値〉に売る……」  また前出の天野|信景《さだかげ》の『塩尻』にも、「近世蛮薬〈舶来の薬〉の内 木乃伊もまた|人 肉《しやれこうべ》なりとかや 嗚呼 人を以て人を食ふ その不仁の甚しきここに至り……」とか「世に霊天蓋〈頭蓋骨〉を求むる者 寺院の墓所に入りて 密棺〈封をした棺〉をやぶり 死体を損壊する事ありとかや……」と木乃伊や、頭蓋骨を薬として飲むことを嘆いているのだ。  当時は鎖国時代だから、唯一の貿易港の長崎へオランダ船が運んできたのだろうが、木乃伊には偽物を売る薬もあったらしく、和田正路の『異説|区《まちまち》』には、「木乃伊は人にあらず とかく松やに也 それを何か生類《しようるい》を加へて 練布をきせてしめるならん……」ともあって、人間以外の動物を、松やにでかためてあるという説もあるが、オランダ医学の権威であった大槻|玄沢《げんたく》が、寛政十一年(一七九九)に著した『蘭説弁惑《らんせつべんわく》』という本に「問ていはく みいらと称する薬あり 色々の説多し いかなるものや  答へていはく これは本名『|もみあ《ヽヽヽ》』といふ 支那《から》にては木乃伊《ものい》と音訳す ともに誤り也」とあり、また徳川将軍の侍医でオランダ医学に通暁した桂川甫周の記述を天明七年(一七八七)頃、弟である森島中良が編んで刊行した『紅毛雑話《こうもうざつわ》』の中に「陋入多《えじつと》国の内 アレキサンデリヤと云所あり 人死すれば其|腸《はらわた》を抜去て これにかゆるに種々の薬品を以し 布帛〈亜麻布か〉もって屍に纏《まと》い 是を浸《ひた》すに上好の脂油《やにあぶら》〈樹脂〉をもって製したる薬汁を用ひ……此屍年月を歴《ふ》れば上等の薬となる 是|則《すなわち》木乃伊なり 去によりて土人《くにひと》等 古墳《ふるつか》をあばき 棺をくだきて其屍を得交易して能値《よきあたい》を得《う》と也 蛮語にてはモミイといふ ミイラとは日本の俗言なり 杉田玄白は頭盧骨《とうろこつ》を蔵す 予が家には顱《ろ》〈頭蓋〉と膂骨《りよこつ》〈背骨〉を蔵す 其形いささかも欠《かけ》損せず 所として布目あるは |彼屍 《かのしかばね》をまとひたる布の跡なり」とあって、芳香性の樹から採取した香油や、肉桂など使用した本物のミイラに対し『異説|区《まちまち》』の偽物は松やになどを代用し、しかももっともらしく、人間のミイラに見せかけて、布をまきつけてあったものかどうか。  文政年間、橘|春暉《はるあきら》の『|北※[#「窓」の旧字体]瑣談《ほくそうさだん》』にも「贋薬種は 公儀御制禁の事なるに 奸猾《かんこつ》の商人有りて価貴き薬種は贋作贋造多し」と言っている。     道鏡でかちん|譚 《ものがたり》  道鏡の話をつづけよう。  道鏡は、舶来の医術を身につけた帰化人で、一物もまた舶来品(帰化人)だから、女帝に珍重されたのだ。昔も今も女は舶来品には弱い。  やれグッチがどうの、ルイヴィトンがどうの、シャネルがどうの、それがホンモノだ、ニセモノだで、泣いたり笑ったり。むこう出来のニセモノなど、専門家でもひっかかるほどの出来だそうな。おかしいのは、あるブランドの下請けをしてつくっていた工場が、そのブランドの名をつけたニセモノをつくって売ったという。こうなるとニセモノもホンモノも同じ手でつくられたわけで、いったいどうなっちゃってるのか。  寒くもないのに毛皮をほしがったり、見る目もないのにダイヤに憧れたり、女のほうがよっぽど男より「権威主義」だよナ。  道鏡は祈祷という呪術に長じた怪僧ともいわれているが、今ふうにいえば精神医学に長じていたのだろう。  女帝の欲求不満からくる逆上、頭痛、めまいなど、俗にいう血の道の病は、催眠療法かなんかで、どんなねむらせ方をしたか想像にまかせるが、女帝をヘトヘトに疲れさせて、ぐっすり眠らせて治療したのだろう。 『大日本人名辞書』によれば、 「宝字中《ほうじちゆう》〈天平《てんぴよう》〉孝謙上皇 保良宮《ほらのみや》〈近江〉に幸〈行幸〉す 不予《ふよ》〈帝王の病気をいう オレたち庶民だと不慮《ヽヽ》だ〉なり 道鏡常に側に侍す 淳仁《じゆんにん》帝以て為に言う上皇|悦《よろこ》ばず……」  女帝の不予を道鏡が治療して信任されたとは表向き、女帝のヒステリーをなだめる特殊の療術を道鏡が施したことは「淳仁帝 以て為に言う」と、孝謙上皇ににがい諫言をしたことでわかる。女帝と道鏡との怪しげな風聞を耳にしたればこそだ。  しかし、恋路の邪魔への女のうらみはおそろしい。  おなじ皇族でも、孝謙帝と淳仁帝は血縁関係はうすい間柄だから、遠慮することはない。一度退位して上皇になり、淳仁帝に天皇の座を譲ったものの、実権は女帝が温存していたから、たちまち淳仁天皇は追い出されて、淡路へ流され悲憤のうちに世を去る。これが「淡路廃帝」だ。  淳仁天皇を流罪にして、孝謙女帝が称徳天皇と名をあらためてまた天皇の位につくと、道鏡得意の時代が到来する。 『大日本人名辞書』のあとをつづけてみよう。 「是よりさき 藤原仲麻呂寵を得て 権を|擅 《ほしいま》まにす 道鏡を得るに及びて仲麻呂|稍《しよう》々〈しだいに〉疎斥《そせき》せられ 反《はん》を謀りて誅《ちゆう》に伏す」こうして女帝のかつての愛人、藤原仲麻呂もあっさりポイされちゃった。嫉妬に目がくらんだ仲麻呂は反乱を起こして敗れ、ついに殺されてしまう騒ぎ。  これが恵美押勝の乱だ。  むかし、武士は鎧かぶとを納めた櫃《ひつ》の中に春画を入れておく習慣があった。男が女を組み敷いている春画だから、この絵のことを勝絵ともいった。ただし茶臼の画はダメだぞ。ありゃあ負絵になっちゃう。  しかし古川柳に、   天井《てんじよう》を 男の見るは 深い仲  ってえのがあるから 負絵の説はあてにならない。  北静盧《きたせいろ》(嘉永元年・一八四八歿)の考証随筆『梅園《ばいえん》日記』にはこの春画は「圧勝《おしかつ》のまじない」だとある。つまり押勝だ。  恵美押勝とはかつて女帝が仲麻呂に賜わった愛称で、そう考えるとちと助平な愛称だがそれそのように女帝は仲麻呂で満足であったようだ。  ところが道鏡が現れると、   押勝は チンボのように 見限られ  チンボとは子供並み、大人は麻羅だ。ここに標準サイズの悲哀があり「きん(槿)花 一朝《いつちよう》の夢」とはまさにこのことだな。  さっきの根岸鎮衛の話ではないが、   道鏡は 座ると膝が 三っつ出来  で、藤原|仲麻呂《ナカマラ》なんて押勝が威張ったって、とうてい太刀打ちできる相手じゃない。   道鏡では痛し 押勝では痒《かゆ》し  この道鏡の末孫みたいな男が江戸時代にもいた。筆者は未詳だが『天保風説見聞秘録』なる本の天保《てんぽう》六年(一八三五)七月の項には──牛込に住む七百五十石取りの稲森茂三郎という旗本の知行所、武州川越在市原村の百姓、助右衛門二十三歳の一物は古今稀なる大巨根で「このたび助右衛門 着座いたし居り候膝より先き弐寸八分〈八センチ五ミリ〉ほど出で居り候」と、見世物師が当人を買いに押しかけてきた──という話が記されている。  明治十五年(一八八二)一月四日の郵便報知という新聞は、福岡県士族某の九歳と五カ月になる男児は医師の検査によると、なんと長さ六寸(約十八センチ)太さ周径四寸二分(十二・七センチ)の巨根の持主であると報じて、明治のオトナたちをシュンとさせたらしい。  また未見だが江戸の記録『鍋島百物語』には、天保六年、下野(栃木)より長悦《ちようえつ》という盲人が江戸に出て来て両国でその巨根を見世物にしたが勃起時の長さ一尺八寸二分(約五十五センチ)平常でも九寸五分(約二十八・八センチ)もあったと伝えられているそうだ。  江戸の小咄に、 「淋病をわずらった男に、ある人が、それは腹へ灸をすえればなおる。その灸をすえる場所は一物を腹の上へ引きあてて、亀頭の先がとどくあたりだと教えた。しばらくしてその男に会うと、その男、声が出なくなっている。どうしたことかと、よくたずねたら、咽《のど》に灸をしていた」。まさに長悦級だ。  昔から一僧、二盲、三医、四馬鹿というランク付けがあるが、道鏡と言い、長悦と言い、この俗説は間違っていないようだ。  断わっておくが三医はむかしの漢方医、いまの医者には適用できない。だがこれが巨根のことでなく助平のランクだったらオレもナットクする。  現代の巨根伝説としては、一に草人、二に宇礼雄、三四がなくて、五には馬、という昭和のはじめ頃のチン豪の語り草があるが、日本とハリウッドを股にかけて活躍した上山草人《かみやまそうじん》、また人気映画俳優だった江川宇礼雄の両雄がならび立っていた。  しかし峰岸義一『粋人酔筆』には、上山、江川に|やわか《ヽヽヽ》おとるべきチン豪の対決談がある。  今は亡き詩人|千家元麿《せんけもとまろ》は、文壇きってのサラブレッドと自称していた。たまたま仲間のサトウ・ハチローが、これまた威張っていると聞いて心おだやかならず、ある日、ハチローを鶴見川辺の散策に誘った。  二人は川の堤に腰をおろし休憩したが、その時、元麿はズボンからおもむろにナマの一物を引っぱりだし、これへむしった青草を一つかみのせて、一物でピンとひとはじき、青草は空中に舞って川の流れに散っていった。  これを見ていたハチロー、ズボンの釦《ボタン》を|四っつ《ヽヽヽ》はずして、やっと一物をひきだして、手もとにあった平たい小石をセガレの頭にのせるや、鉛筆の尻で棹をチョンと一つき。小石は弾んでチンキラキンと川面を|三段跳び《ヽヽヽヽ》して沈んでいった。  ショボンとした元麿に、サトウ・ハチローはニッコリ笑って言ったという。 「千家モトマラ、おそれ入ったか!」──  オレはサトウ・ハチローを敬愛し、親しくさせていただいた一人だが、なぜ生前チン道について教えを仰がなかったのかと、いまさら悔まれてならない。  晩年「オカアサン」の詩集がベスト・セラーになったが、そのとき現代詩と称するテメエ自身ですらその意味がわからないヘンテコリンな詩を書く連中が「サトウ・ハチローの詩なんて詩じゃない」などと小生意気なことをぬかした。  ギクシャク、カチカチした言葉をやたらに並べ立てる前に、サトウ・ハチローの軽く粋なタッチにあやかったらどうだ。   春の 朝《あした》の   つれづれに   手鏡《てかがみ》たてる   れんじ窓   かみそりあてる   えりもとに   ぽっちりにじんだ   赤いすじ   ふところ紙で   おさえても   あとからあとから   なおにじむ   もしこんなとき   あの人が   いたらやさしく   手をかけて   かすかな痛みに   しみるほど   くちびるあてて   くれように    (昭和六年『小唄と絵』・かすかな痛みに)  こういう粋でなまめかしく、またその時代の風俗まで生きている詩は、ゆたかな体験の中からにじみ出たものだ。  カラッポ頭のてっぺんで、文句をこねくり廻しているいまの詩人に出来る芸当じゃない。  さてまた道鏡のことだが『川柳愛欲史』(岡田甫編)に収められた江戸の川柳に、道鏡の巨根ぶりを引きながら、それへ少々オレの解説をつけ加えると、   道鏡が母 馬の夢 見て孕《はら》み  なるほど、馬なみの道鏡が生まれるはずだ。  いっそのこと、道鏡なんて名をつけるよりドウドウとつければよかったろうに。  でも、お釈迦さまの生母、摩耶《まや》夫人、キリストの生母マリアみたいに処女で懐胎なんて大ウソツキより馬の夢のほうが率直でいい。   それまでは 十人組で 弓削すまし  江戸時代は男の自慰行為を「着せ剥《は》ぎ」なんて言った。皮を着せたり剥いだりするからだ。「手開《てぼぼ》」「|※[#「手へん+上/下」]《せんずり》」「塩つかみ」ともいう。塩つかみなんて、あの手つきをうまく形容しているし※[#「手へん+上/下」]なんてうまい字を考えたもんだ。   せんずりは 隅田の川の 渡し舟     棹をにぎって 川〈皮〉をあちこち  また「五人組」とも言った。本来五人組とは各町内の自治のための制度で、五人の世話役を置くことが江戸の法制だった。  だが川柳の秘語では、五本の指でこするから五人組。世話役に手をかして貰うわけだ。  道鏡は何しろ大麻羅だから、片手では間に合わない。  それまでは……つまり女帝に愛されるまでは、道鏡は性の捌け口をもとめて両手でシコシコやっていたから十人組《ヽヽヽ》なのだ。これが女だと、   こんなとき だれでもと 下女 二人組《ヽヽヽ》  ということになる。   新鉢《あらばち》の 頃が女帝は 乳母《うば》の味  新鉢とは処女の性器、男にさわられたことがないから「手入らず」ともいう。  乳母はお産をした女だから経験も豊富、ゆるくもなっている。  女帝は処女時代、すでに乳母なみだったというわけだ。   乳母が宿《やど》〈乳母の住い〉聞けば下谷の 広小路  広小路でも「したや」と思う女の気持に変わりはない。主人の子供に添乳をしながら、こっそり隠し男を引っぱりこむ。  おさな児は、そんなことには無頓着。乳にすいつくのに夢中だ。そのすきに、   おうような 御子《おこ》だと乳母は 二番させ  だが、変な男が乳母の上に乗っかっているのを見て、子供がおびえてベソをかくと、   おじさんを 負かしたと乳母 茶臼なり  道鏡の時代の『万葉集』にも、   みどり子の ためこそ乳母《おも》は求むといへ 乳飲めや君が 乳母《おも》 求むらむ  という歌がある。  手許の『万葉集』(小学館・日本古典文学全集)の頭注をみると「ずっと年若い男に求婚された歌、若者が乳を飲むはずもないのに、という気持で」いってる歌だとある。  前著『雑学猥学』でも、万葉の難解歌として、意味不明とされている、   汝背《なせ》の子や とりのをかちし なかだをれ 我《あ》を音し泣くよ 息《いく》づくまでに  を『日本書紀』の鶺鴒の説話を引いて新解釈をしめし、オレは学会に衝動を与えた。イヤそれは大ボラだが、とにかく空前絶後の解明をやったのはホントだ。  この歌はべつに難解な歌じゃないが、この頭注は間違いではないか。  乳母がみどり子に乳を与えているところに、チョッとおれにも飲ませてくれ、と、這い寄る男は、その赤ん坊の父親、つまり乳母の雇主でなければ、意味が通るまい。  この歌の意味は「赤ちゃんのために、乳母として私を雇ったのでしょうに、あなたがお乳を飲むために私を雇ったのですか」ではないのか。「求む」というのは乳房を求めるのではなく、求人の求で雇うと解釈すべきだとオレは思う。  乳母といったって若い女もいる。若いからこそ乳もよく出るのだ。  年下の男の求婚とは、どうしても納得できない。   子が出来る までは亭主の 吸うお乳 [#地付き]狐 八  さてアメリカの小咄に──、  西部開拓時代、ある親子が率いる幌馬車隊が、インディアンに襲われ追い散らされて、数台の幌馬車をごっそり持っていかれちゃった。  インディアンが去ったあと、がっかりしたその親爺が子供に言った。 「せめてお前の母親が生きていれば、幌馬車の一台ぐらい隠せたのに……」  女帝は日本人だから、それほどの大陰ではなかったろうが、   道鏡が 出るまで牛蒡《ごぼう》 洗うよう  道鏡の前任者、仲麻呂は牛蒡あつかいにされている。   両の手で 孝謙帝は 御にぎり  なんてのがあるが、これは「御かかえ」かも。なぜなら、   おやかすと 道鏡 |※《まら》へ かくれんぼ  勃起した自分の一物で、自分の姿がかくせるくらいだから、孝謙帝はさながら神社の御神木に張りついたみたいなかっこうになる。  とにかく道鏡の一物は女帝にとって、あらゆる金銀財宝よりも自慢の宝物だった。今でも珍宝というくらいだ。  だから臣下に女帝は、 「法師等を 裙著《もはぎ》とは侮《あなど》りそ 之《そ》が中に 要帯薦槌懸《こしおびこもづちかか》れるぞ 弥発《いよいよた》つ時々 |畏 《かしこき》き卿《きみ》や」(『日本霊異記』)  つまり「坊さんが、女のショート・スカートみたいなものを腰にひらひらさせているからとて、馬鹿にしてはなるまいぞ。薦《こも》を編んで平らにのばすとき叩く、大きな槌をふだんは腰帯にはさんでおさえているが、いよいよの時はその槌のような一物が、ボインと飛びだすのだ。お前たちのような粗チンめらと大違い、尊いお方なのだ」と、おごそかに|詔 《みことのり》し給うている。  またはじめて道鏡と枕を交したときも、 「まさに木《こ》の本《もと》を相《み》れば 大徳食《だいとこお》し肥《ふく》れてぞ立ち来る」(『日本霊異記』) (まあ、大木の根っこを見るようにまるまると太い大徳〈徳の高い僧──つまり有難い坊さん、ここでは、大入道の一物の意味だろう〉が、立ちあがってくる)と感動して、うたっている。   道鏡に 根まで入れろと みことのり  こうして道鏡は、   道鏡は ほんと男の 玉《タマ》の輿《こし》  江戸の性書、『色道禁秘抄《しきどうきんぴしよう》』(天保五年・一八三四・兎鹿斎《とろくさい》先生こと西村定雅の著)の第二十四条に 「諺に小茎の千接より 大嚢の一打というは妙論なり 女仰臥し 両足 天に朝《ちよう》し 陰肉勃起し会陰《えいん》上に向く時 茎の出入に連れて ぼんぼんと 睾丸にて会陰《えいん》を打たんに 按摩せらるる心持にて 早く快路に赴かん」  会陰《えいん》とは蟻のとわたり、陰門と肛門の間のことだ。  前に言ったように、道鏡が巨根のみでなく、巨金であったろうとオレが想像するのはこのことだ。  そればかりじゃない。  平安朝の永観二年(九八四)朝廷の医博士だった丹波康頼《たんばのやすより》が編んで花山天皇に奉った『医心方《いしんほう》』という医学書がある。  日本最古の医学書だろうが、これがまたイキな書物で、後世にいう四十八手を、えんえんと書いている。いま東大の医学部でも教えない学問だ。  そのごく一部を、ちょっと紹介すると、 「令女俯俛 尻仰首伏 男跪其 抱其腹 乃内玉茎 刺其中極 務令深幽 進退相薄 行五八之数 其度自得 女陰開張 精液外溢畢而休息 百病不発 男益盛 南無阿弥陀仏……」南無阿弥陀仏はオレが勝手につけたんだが、そう言いたくなるような御経の文句みたいな文章だ。 「女をうつむきに寝かし、尻を高く、首を低くさせ、男はその背後に跪き、女の腹を抱え、玉茎を入れて、玉門の中央を刺し、更に深々と入れて、そこで出し入れなどして、五八、四十の回数まで読めば、調子がおのずからついてくる。やがて女陰が開いて、精液が外に溢れるから、そこで止めて一休みする。これによって男は益々盛んになる」(『医心方夜話』山路閑古の訳に拠る)。  早い話、これは「後どり」というワンワン・スタイルのことだ。しかも淫して洩らさず、男はやたらに射精すると寿命をちぢめるというのが、昔はかたく信じられていた。  この『医心方』は、すべて中国渡来の知識をまとめたもの。道鏡は、この本がつくられるよりおよそ百年余り前の人間だが唐文化がわが国に盛んに移入されていた時代だから、原本を全部読んじゃって実行したろう。デカイばかりが能じゃないはずだ。  こうして道鏡は、どんなに秀才でも、六位以上には昇進できない弓削姓の身分から、法皇にまでなるという異例の出世をした。  いきおい、図にのって、   珍鉾《ちんぼこ》めらと 公卿《くぎよう》を 嘲弄す  柔弱な長袖族の、粗チン、白マラめとあざ笑った。 「公卿《くげ》の白マラ」という諺もあって、   日にやけた 公卿《くぎよう》仇名《あだな》は 地下《じげ》のまら  と、地下《じげ》とよばれた下層民は、うすぐらい館の中でのらりくらり暮していた貴族とちがい、燦々たる日光の下で労働していたからメラニン色素が沈着し一物も黒々と逞しかったにちがいない。  いまでも、色の黒い女は味がいい、という俗諺がある。  これは中国の古書(『五雑俎《ござつそ》』)をもじった『愚雑俎《ぐざつそ》』(田宮橘庵《たみやきつあん》・天保四年刊・一八三三)にある話だが、ひらたく言うと中国の元の時代の至正《ししよう》二十年は大変な饑饉《ききん》だった。そこである王が兵食のために李仲義という男をつかまえて、これを烹《に》て食おうとした。  すると、その男の妻、劉翠哥《りゆうすいか》というのが、私の夫は痩せていて身体も小さく、食用にはむきません。肥って色が黒い女は味美《あじうま》しと聞いております。私はこのように色も黒く肥っております。どうか私を烹《に》て夫を助けて下さいと哀願したので、王の兵士たちは李仲義を釈放し、女房の劉翠哥を烹《に》たという。  これで見ると、この俗諺は中国渡来のもので、すでにその時代にあったことがわかる。ただ古代中国のように人間の肉を塩漬にした「肉醤《ししびしお》」などなかった日本だから、味は味でも「ちがいでわかる女の味」になったらしい。   道鏡に 崩御《ほうぎよ》 崩御と みことのり  帝《みかど》ともなれば、下々の女みたいに「死ぬ、死ぬ」などと、はしたないことは言わない。 「ああ、もはや崩御なるぞよ」と、おごそかにのたまうのだ。  だが、これが過ぎると女帝は「腮《あご》で蠅を追う」御姿となる。精も根もつきはてて虚脱した状態になるのだ。  よく風呂屋の流し場の板、もっとも今はタイルだが、明治頃までは板張りだった。   ※[#歌記号]板になりたや 風呂屋の板に     おそそ 舐《な》めたり 眺めたり  なんてバレ唄があるが、男湯のほうにも、「板舐《いたね》ぶ」といって、洗い場の板を舐《な》めまわすほどもあるデカチンがあり、うっかり自分のシロモノを踏んで引っくり返ったなんて伝説もある。こういう亭主を持った女は顔色青ざめてやつれ果てている。世に青女房というのがこれだ。   板ねぶと おぼしき人の 青女房  女帝も過ぎたるは及ばざるが如しで、女帝四十三歳から五十三歳までの道鏡との愛欲の歴史は神護景雲《じんごけいうん》四年(七七〇)女帝のホントウの崩御によってとじられる。  けれども女帝の死は道鏡との過淫ではなく国学者|西田直養《にしだなおかい》(元治《げんじ》二年・一八六五・歿)はその著『夜麻都伊毛《やまついも》』で、鎌倉初期、源頼兼の著といわれる『古事談』を引用し、 「称徳天皇 道鏡之《どうきようの》 陰猶《いんをなお》 不足被思食《おもいめされあかず》 |以 薯 蕷依 陰形《しよよをもつていんぎようをつくり》 令《これを》 用之給《もちいしめたまう》」と、だんだん道鏡でも物足りなくなったのか、道鏡が衰えてきたのか、薯蕷《しよよ》(やまいも・自然薯《じねんじよ》・つくね芋・熊掌芋、その他の名があり、畑で作れば長芋だが、地下が岩などで固い山地に発生すると団塊状に膨れて一メートルほどもあるものがあると『古今要覧』にある─『広文庫』による)で男根をつくり用い給うた。ところがこれが途中で折れて、腫《は》れ塞《ふさ》がってしまった。  たまたま百済から渡来してきていた小手尼《こでのあま》という女医師が診療して、必ず癒して差し上げましょうと、手に油を塗って山芋を取り出そうとした。この時、側近に侍していた藤原百川《ふじわらのももかわ》が、こは狐が化けた医師なりと、剣をぬいて小手尼を斬ってしまった。「|仍 無療《よつてりようなく》 帝崩《ていほうず》」そのため治療が出来なくなり、そのまま女帝は崩御された。直養はさらにつづけて「道鏡こと物を 自身のにかへて 天皇をよろこばせ奉らば なかなかに自身の寵おとろふべし しからば|奉 《たてまつり》しにてはなくて 道鏡がをもなほ不足におぼしめし 薯蕷《やまついも》の御すさみおはしましけるとすべし……」と、一説に道鏡が自分のモノのかわりに、山芋の一物を作って、女帝に奉ったというが、そうではない。もし女帝がそれを気に入ってしまえば、道鏡への寵愛がうすくなる。そんなことを道鏡がするはずがない。ただ女帝が道鏡ではもの足りなくなって、御自分で芋男根をつくって楽しまれたのであろう、と説いている。  先年、平城京宮殿址の発掘調査中、木でつくった男根が出てきて、話題となった。奈良朝の女官か、もっとやんごとなき御方《おんかた》が用いたもうたのかわからないが、男の勃起時の標準サイズだというから信仰の対象ではなく、のち、江戸で小間物屋が売り歩いた、ベッコウ製などの張り形同様、女の自慰の道具だったようだ。十二|単衣《ひとえ》の、みやびやかな王朝の美女が、どんなふうに使ったか、想像すると楽しいではないか。  女帝死後は、道鏡は翼を失った鳥のように、まっ逆さまに転落。法皇の地位を追われて当時は僻遠の地、下野国《しもつけのくに》(栃木県)の薬師寺に流され、失意の一生を終った。  さきの高松塚の頭蓋骨ではないが、道鏡の塚の中には、かの一物の骨が凛然と朽ちることなく残っていて、後世、だれかが盗掘して削って飲んだと思う。  ウソをつけ、一物は海綿体で出来ていて骨などあるものか、と思うむきもあるだろう。  そこが凡人と、オレのような猥学博士とのちがいだ。   ※[#歌記号]したきゃ させます 千百晩も     マラの背骨が 折れるまで  と歌にもあるではないか。  イヌやネコにはペニス・ボーンというのが入っている。ライオンもそうだそうナ。  人間もごく稀な例だが、ペニスに骨があるヤツがいることは、医学的に証明されているのだ。ただなんで一物の中に骨形成がなされたかは諸説にわかれて定説はない。  だから、道鏡のチン骨などマンモスなみに竜骨として貴ばれたとオレは信じている。  戸塚の大金玉など、道鏡の塚の盗掘者の子孫かとも疑っている。  ただ大金玉よりおよそ千年も古い時代の骨のこと、効き目が半分にへっていたため、金玉の分だけしか効かなかったのではあるまいか。  かくして道鏡のチン骨はだれかが食べてしまった。  いまは道鏡が栃木県河内郡の薬師寺(東北本線小金井駅東6キロ)へ流されてゆくとき越えた群馬・栃木県境に金精峠《こんせいとうげ》の名をのこしているのみだ。  だが、全国各地に弓削明神、金勢《こんせい》さま、道鏡《どんきよう》さまなど男根を象《かたど》った祭神が祭られ、道鏡の巨根にあやかろうとする連中にあがめられているのは、いまも昔も男はやっぱし女にあおられっぱなしの証拠だ。  愛知県小牧市の田県《たがた》神社は毎年正月十五日には巨大なへのこをかつぎまわるマラ祭りで今なお盛んだが、どうしたわけか猥褻物チン列罪にはならないらしい。古来から、わが国は五穀豊穣、子孫繁栄の民族の願望が巨根巨陰をあがめることに表現されていて、道鏡でなくても性神を祀《まつ》った社《やしろ》はやたらにある。  大黒《だいこく》様だって、表から見れば大黒帽をかぶって俵の上にのって、打出の小槌かなんか持ってにこやかだが、あれをうしろから見てみろ。二つの俵は金玉だ。大黒帽は雁首だ。打出の小槌から何が出るか知らないが大黒さまならぬ男根さまだ。  高村光太郎の父で高名な彫刻家でもあった高村光雲は江戸の思い出話に、 「浅草の歳の市では、男根の張子を売っていた。大きいものは六尺〈一・八二メートル〉小さいのは一寸〈三センチ〉これは玩具にする。これら縁起ものとして買ってゆき、水商売の家などは縁起棚に飾った。その風習はなかなか盛んだった」と言っている。  だが明治五年(一八七二)にこの奇習は、取締当局の弾圧をくって全部没収されてしまった。  さては警察は没収したものの、何しろ莫大な数だ。大小無数の道鏡さまの処分に困って、全部隅田川に流してしまう事にした。  ところが張子《はりこ》の達磨もそうだが、道鏡さまも立てて飾らなくては威勢が悪いから、達磨同様下に鉛のおもりが貼ってある。  だから、川へほうりこんだら、水面からニューッと雁首をつき上げて、数万の巨根がプッカリコプッカリコとまことに壮観。マラのメーデーだ。  見物人は大よろこびで騒ぎ立てる。警察はシブーイ顔して、この一大マラ・デモ行進を見送ったという。     チン豪列伝  さて、万葉集に、   うましもの いづく飽かじを 坂門《さかと》らが 角《つぬ》のふくれに しぐあいにけむ  と、いう歌がある。   「右 時に娘子《をとめ》あり 姓は尺度《さかと》氏なり 高姓の美人《うまひと》の誂《とぶら》ふ所を聴《ゆる》さず 下姓の|※[#「女+鬼」]士《しこを》の誂《とぶら》ふ所を応許《ゆる》す ここに児部女王 この歌を裁作《つく》り その愚を嗤笑《わら》ふ」  つまりこの歌は、ある時、尺度《さかと》の姓を名のる乙女がいた。この乙女は貴族の美男子たちが求婚するのに耳をかさないで、賤しい身分のしかも醜男と一緒になってしまった。だから愚かな娘だことと、児部の女王があざ笑って、この歌をつくった、というわけなのだ。  歌のほうの意味は小学館・『日本古典文学全集』万葉集4によれば、 「いいものは、どなただっていやでなかろうに、坂門《さかと》娘子《おとめ》は なんで角《つの》の野郎などにくっついたのだろう」  とある。 「角のふくれ」はその頭注に「角《つの》朝臣という姓もあり、角恵麻呂・勝麻呂という経師もいた。フクレは肥満か」で、角とは相手の名前か─としている。  これはその解釈でもいいのだろうが、猥学的には面白くない。  中島利一郎『卑語考』によれば「角のふくれ」とは、橘守部がその著(『催馬楽譜入文』)の中で「此《この》 角のふくれも男陰を云《いへ》り」と言っているとある。  橘守部は、江戸後期の国学者で、伴信友、平田篤胤、香川景樹と共に天保の四大学者といわれた人だ。故なくして断言しまい。  ここでむずかしい考証をするつもりはない。ただ「しぐあいにけむ」の「しぐあう」とは物をつくって合わせる意味だから、雄ネヂと雌ネヂがぴったり合ったことで「性交」と考えていい。  すると「角のふくれ」とは、角という姓ではなく、太く角のように飛び出たもの。つまり男根のうちでも、巨根のことを言っていると解釈する方が自然だ。  なぜなら坂門(尺度)の娘子は「公卿の白マラより、地下《じげ》の黒まら」でたとえ身分はいやしくても醜男でも太く逞しい一物を持っているほうがいいわァー、と公達《きんだち》どもを振っちゃったので、児部の女王は「バカだよあの娘、どこへでもいいところへ嫁に行けるのに、いくら道具が立派だって、わざわざあんな男を選ぶなんてサ」と蔑《さげす》みながら、実は腹の中では「ああ、口惜しい。キンダチなんて名ばっかり、せめて麿《まろ》たちの中に、デカチンが一人でもいたらいいのに……」と嫉視羨望している歌だと思う。  女がババアになると、だんだん亭主につらく当たり出すのは、一度しかない生涯を粗チンと添いとげるハカナサを覚えるからで、若いうちは、すきっ腹にまずいものはなし、なんでも口に入ってりゃいいが、味を噛みしめるようになると、もっと美味しいものはないかしらン、なんて巨根憧憬の潜在意識が頭をもたげてくるからだ。  女を稼がせて、そのヒモになっている男がよく一物のアタマに真珠を埋めこんでいると聞く。  どんなヤクザな男でも、女はその味が忘れられないから、逃げないのだとも聞く。  もっとも、真珠みたいな小粒よりも、大粒のものがもっとよかろうと、パチンコの玉を二つも入れた男がいた。そしたら勃起しようにもアタマが重くて持ちあがらない。泣く泣く医者へかけこんで、取り出してもらったという実話も聞いた。  京都の医者で寛文《かんぶん》四年(一六六四)百歳で歿した江村専斎の話を孫の伊藤|宗恕《そうじよ》が筆録した『老人雑話』という本に「織田信長は美濃の斎藤道三の娘、濃姫のところへ婿入の時、広袖のゆかたに陰茎の図を大きく染めつけて着こみ、茶筅髪《ちやせんがみ》で出かけて行った。斎藤家の家老たちは国境まで迎えに出ていたが、そのさまを見て胆《きも》を潰した」とある。専斎は永禄八年(一五六五)という戦国時代のまっただ中に生まれた人だからこの話は信用できる。  信長は、道三の娘、濃姫に対し、頼りになる夫であることを証明するために、巨根の登録商標でデモったにちがいない。  さすがはのちに天下を制圧した信長。女の微妙な心理を見事に把握していた。  それだけに男は一物が役立たなくなると、地球上すべての女から背中を向けられたような寂寥感をおぼえる。   寝起きから 機嫌よいのは |※《せがれ》なり  は、若いうち。やがて、   朝まらは 小便までの 命かな  となり、ついには、   目は眼鏡 歯は入歯にて ことたれど     いまはただ 小便だけの 道具なり  と、老いを嘆くようになる。   ※[#歌記号]ちょいと見は紳士で よく見りゃ やくざ      抱いて寝てみりゃ 糖尿病  こうなっては、女にバカにされるだけだ。  矢野目源一『げんいち風流談』に、こんな話がある。 ──さる重役が、若い社員をつれて地方へ出張したが、宿屋が満員で、一組の布団に二人寝かされる破目になった。  その翌朝、先に目を覚した重役氏、狂喜の声を上げて、 「ワァ……久しぶりで立った……立った」  その声に、目をさましたとなりに寝ていた若い社員が飛び上がって言った。 「専務さん! あなたが握っているモノは、私のです」──  若いうちは、現代川柳にいう、   破裂しそうだと 女を 口説いて居 [#地付き]富 明  と、凛々たる勢いだが、   二十凛然   三十当然   四十悄然   五十茫然   六十全然 [#地付き](西沢 爽つくる)  猥宗の性典の偈《げ》のように、人生の衰えはかけ足でやってくる。  年は争えないものだ。  あるところの父子《おやこ》が、何かのはずみに一物の自慢話をはじめたあげく、よし、それなら力競べをやろうと、土瓶《どびん》をそれぞれの一物にぶらさげ、二階まで階段をあがることにした。  いっせいにスタートしたが、どうしたことか息子の方が、階段の四、五段目で土瓶がずり落ちそうになった。  応援していた嫁さんが「あんたァ頑張ってェ……」とパッと前をまくって黒いものを見せるとたちまち元気恢復。これを見ていた母親「おまえさんしっかりィ……」と親父を声援して、これまた負けずにパッと前をまくると、とたんに、親父の土瓶がガラガラガチャン……。  どうも男がおとろえるのは、自分自身のせいばかりじゃない。  毎日、同じものばかり食ってりゃ、飽きるのが当然。アレはその上に年々鮮度が落ちてくるのだから始末が悪い。  室町時代、山崎宗鑑《やまざきそうかん》がまとめた『犬筑波集《いぬつくばしゆう》』に、     無念ながらも 嬉しかりけり [#地付き](前 句)   去りかぬる 老《お》い女《め》を 人に盗まれて [#地付き](附 句)  今まで、わが家に、デンと居すわった古女房を、人に持って行かれた男の偽らざる気持がうまくうたわれている。  江戸語で「シメル」というのは「交《し》める」で女を手に入れることをいう意味がある。  さきの平資源内の著『痿陰隠逸伝《なえまらいんいつでん》』という本に「前より交《し》めしは前《ぜん》九年といひ、後接《うしろどり》を後《ご》三年と云《いう》」と、八幡太郎義家が奥州の安倍貞任《あべさだとう》、宗任《むねとう》を討伐した前九年の役、とつづいて清原氏を攻略した後三年の役をもじって、麻羅の武勲を語っているが、相手の女も生娘《きむすめ》だと、   しめた晩 痛いかイイヱ いいかアイ [#地付き](『柳の葉末』)  なんて可愛いが、古女房になると、   誰がひろく したと女房 やりこめる  で、ひらき直られたら、江戸時代も今も男のほうが形勢不利だ。  何という本だったか忘れたが、 「隣の家で、キャーッだれか来てェ……という、女の悲鳴がした。ハハァ、また夫婦喧嘩だナと、近所の男が飛んでいったら、なんと女房が亭主を組み敷いていた」という話を読んだことがある。  亭主を押えつけていて「キャーッ」と助けを求めるところなんざ、女って可愛いところもあらアな。  新婚旅行で熱海に一泊。その翌朝、花嫁が心配そうに、彼に囁いた。 「ネェ。あたし、七つ子生むんじゃないかしら……」   めくら判 押されたように 初夜あける [#地付き]けい子  一晩に七ツといえば舎人《とねり》親王や先ごろ墓が発見された太安万侶《おおのやすまろ》によって編まれたという『日本書紀』にもある。  埼玉県|行田《ぎようだ》市外の稲荷山古墳から発見された鉄剣に刻まれていたワカタケル大王の名は雄略天皇のことだそうだが、その雄略天皇(四八〇頃)が、春日《かすがの》和珥臣深目《わにのおみふかめ》の女《むすめ》、童女君《おみなぎみ》を一夜寵愛した。たった一夜だけだったが童女君は懐妊して女子を生んだ。  しかし天皇は疑って、生まれた子を認知しない。その子がよちよち歩きをする姿を見て、物部目大連《もののべめのおおむらじ》が天皇に「あの幼な子はまことに天皇に似ております」と申し上げると、天皇は「あの子を見た者たちは、みなお前とおなじことを言う。しかし、わしは一晩しか童女君と寝ていない。一晩だけなのになんで子供ができるか。だから疑っているのだ」と答えた。 「大連《おおむらじ》 曰《まを》さく 然らば一宵に幾《いく》廻喚《たびめ》ししや 天皇の曰《まをさ》く 七《なな》廻喚《たびめ》しきと のたまふ」  つまり、一晩に七ツやったというわけだ。そこで大連が「孕《はら》みやすい女性は、男の褌《はかま》が触れただけでも妊娠すると申します。いわんや一晩に七つもなさっていて、そのうえ、お疑いなされるのは間違っております」と申し上げると、天皇も納得して、その子を皇女として、童女君を妃としたとある。  妃といっても 皇后は仁徳帝の皇女、草香幡梭姫《くさかのはたびひめ》で、韓媛《からひめ》、稚媛《わかひめ》などの妃もいたから童女君は四号さんになる。  雄略天皇はかなり気性の荒い人だったらしく、池津媛《いけずひめ》という百済《くだら》系の女《むすめ》に手をつけようとしたところ、すでに石川楯《いしかわのたて》と恋仲になっていた。怒った天皇は二人の手足を四つの木に張り、火をつけて焼き殺したりしたが、これほどの天皇が、女にたじたじとなった話が『古事記』にある。  天皇が美和河《みわがわ》(奈良・初瀬川)の辺りへ遊猟に出かけたとき、その川で洗濯をしている美少女に出合った。  そこで天皇は「そちの名は、何と申すぞ」と、たずねると、その美少女は「引田部《ひきたべ》の赤猪子《あかいこ》と申します」と答えた。  天皇は「汝《な》は夫《を》に嫁《あ》はざれ 今喚《いまにめ》してむ」  お前は結婚してはいけないぞ、そのうちおれのところへ呼んでやるから……といい置いて宮廷へ帰って行った。 『万葉集』に、   紫は 灰さすものぞ 海石榴市《つばいち》の     八十《やそ》の衢《ちまた》 立てる児や 誰  と、いうのがある。海石榴市《つばいち》は奈良・初瀬川(泊瀬川)の沿岸で、いまの奈良県桜井市あたりらしいが、その八十のちまた(人出で賑う市)で、ひとりの美少女を見染めた若者が、こううたいかけたのだ。  布を紫に染めるには紫草の根を用い、色を発色・定着させるために椿の灰を媒染剤《ばいせんざい》とする。  いい換えれば、女がしあわせになるのには男が必要なのですよ。あなたの名前をきかせて下さい、というわけだ。もっとも、今でも男は女のためにツバキをつかう。  ところが、名をたずねられた乙女は、   たらちねの 母が呼ぶ名を 申《まを》さめど     道行き人《びと》を 誰と知りてか  母が呼ぶ名、つまり自分の名を教えてあげたいが、どこのだれやら通りすがりのお方には申し上げられません、と、求愛をはねつけている。この時代名を相手に告げることは、求愛をうけいれるしるしだった。 『古事記』には「己《おの》が名は 引田部の赤猪子と謂《い》ふぞとまをしき」とあるから、赤猪子は天皇の求愛をよろこんで受け入れたのだ。  しかし天皇はそれっきり、赤猪子のことを忘れてしまった。  赤猪子は「天皇の命《みこと》を仰ぎ待ちて既に八十歳を経《へ》き」。いつ帝が召して下さるかと、八十歳になるまで待ちわびていた。(八十年待ったという説もある。オレは八十《やそ》、つまり八百万《やおよろず》なんていうように数の誇称で〈長い間あるいはたくさんの月日を待った〉と解したいが、どういうわけか学者がたは八十年待ったとか八十歳になるまで待ったとしている。さきの『万葉集』の歌の〈八十《やそ》のちまた・人出が多く賑う市〉でもわかるではないか)。  だが、すっかり婆さんになってしまい、もう乙女の頃の魅力はかけらほどもない。心細くなって赤猪子は天皇をたずねて行った。  さあ、驚いたのは天皇だ。「いやぁ、すっかり忘れておった。それなのによくわが言葉を守って待っていてくれた。愛《いと》しいぞ」と、「心の裏《うち》に婚《まぐは》ひせむと欲《おも》ほししに 其の極めて老いしを憚《はばか》りて 婚《まぐは》ひを得成《えな》したまはずて御歌を賜ひき」  天皇は感動して赤猪子を抱いてやりたかったが、どうもひでえ婆《ばばあ》になっちゃって、とてもじゃないがその気になれない。しかたがないから歌でごまかした。   引田《ひけた》の 若栗栖原《わかくるすばら》 若《わか》くへに     率寝《いね》ましものを 老《お》いにけるかも  もう少し若ければ一緒に寝たものを、おまえも、ずいぶん年をとったなあ。  赤猪子は丹摺《にずり》の袖を涙で濡らして、   日下《くさか》江の入江《いりえ》の蓮《はちす》 花蓮《はなはちす》     身《み》の盛《さか》り人《びと》 羨《とも》しきろかも  日下の入江に咲いている蓮の花のように、花盛りなら、愛されもいたしましょうが、いまとなってはただ、若い人が羨ましゅうございます。  可哀そうに一生を待ち呆け。引田の赤猪子は、天皇からの沢山の賜りものを手に、すごすごと帰って行った。  後世、こういう女を引田《ひけた》が訛《なま》ってシケタ女という。  雄略天皇は、一晩に七つもやるかと思えばこうしたチョンボーもあったのだ。  前出『性の世界記録』にはフランスの文豪、モーパッサンは一時間に六回と『脂肪の塊』が大好物で、小説『ボヴァリー夫人』で知られるフローベルにそれを証明するために、証人を連れて売春宿へ行き実証したという。彼は「二回性交したあとも、二十回性交した後も、疲労度は変わらない」と豪語したというから驚きだ。  とてもモーパッサンには及ばないが、雄略天皇なみのつわものは俳人小林一茶だろう。  一茶は晩婚で文化十一年(一八一四)五十一歳のとき、信州野尻村の赤川という所の久右衛門の娘|きく《ヽヽ》を女房にしたが、十年ほどで妻に先立たれてしまった。女房が死んだ翌年の文政七年(一八二四)五月、|ゆき《ヽヽ》という飯山藩の侍の女《むすめ》を後妻にしたが、どういうわけか八月には離縁して、   糸瓜《へちま》つる 切つてしまへば もとの水  の句を詠んでいる。  その後、|やを《ヽヽ》という女を妻にし、生涯三人の妻を持ったが、この一茶が書きのこした『七番日記』を見ると、その性豪ぶりに驚嘆させられる。  彼が五十四歳の文化十三年(一八一六)八月の日記を見ると、   六(日) 晴巳刻雨 |きく《ヽヽ》月水〈月経〉弁天詣   八(日) 晴夕方一雨 菊女帰 夜五交合  十一(日) 晴巳刻より晴 寒夜雷雨 夜三交  十五(日) 婦夫月見 三交  十六(日) 晴 三交  十七(日) 晴 墓詣 夜三交  十八(日) 晴 三交  十九(日) 晴 三交  二十(日) 三交  二十一(日) 四交  サンコウ・シコウったって花札のヤクじゃない。まさに連日連夜の大奮闘だ。途中、日数があいているのは、外出で家をあけたり、来客があったりした日で、夫婦で揃っていれば五十すぎて三回〜五回という驚異的記録を書きのこしている。  よく同じものを飽きなかったと感心させられるが、それには秘密があった。  文化十二年(一八一五)五月二日、また十三年(一八一六)五月二十六日のところなどに「為采婬羊霍至紫山」と、紫山へ行って婬羊霍《いんようかく》を採ってきたと書いている。  婬羊霍とは和名「いかり草」のことで、草丈二十センチ前後のメギ科の野生の多年草、イカリジンというアルカロイドが主成分でその根を煎じて飲む。いまでも漢方薬店に売っている陰萎をたちどころに回復させる強精薬だ。飲みすぎると、鼻から射精するおそれがあるから、飲む人は気をつけたほうがいい。これを一茶は採ってきては、せっせと煎じていたようだ。  だが、後妻にむかえた|ゆき《ヽヽ》をわずか三カ月で離縁したのは、実は|ゆき《ヽヽ》のほうが一茶のあまりの激しさに「しころされるゥ……」と、逃げちゃったのかも知れない。  一茶とはじめの妻|きく《ヽヽ》との間には、混三郎、千太郎、石太郎、金三郎、|さと《ヽヽ》、と五人の子供をもうけながら、みんな赤ん坊のうちに死んでしまった。  たぶん毎夜の連続発射で一茶のエキスが薄かったためではあるまいか。  やっと三度目の妻の|やを《ヽヽ》が、|やた《ヽヽ》という女の子を生んで成人したが、すでに六十歳を越えながら、一茶は休むことなく連夜のおつとめを果たしている。だがさすがに衰えはかくせず、|一日一回と記録は低迷し《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、六十五歳で生涯を終えた。でも、すごいよなァ。   痩蛙 負けるな一茶 ここにあり  なんて一茶の句を思いだすと、痩蛙てえのはオレのことか……と、ガックリしちゃう。  婬羊霍は一茶の秘薬だったが、ニンニクやマムシ酒は飲んではいないようだ。  もっともマムシ酒なんて、蝮の精悍な性質を意識する心理的なもので、薬学的には効果はないと聞いた。  ニンニクはグロリコナミールという成分が尿道を刺戟するので勃起をうながすと『媚薬のはなし』(泉三三彦)に書いてある。  ホウレンソウもいいそうで、アメリカ漫画のポパイの怪力は、まんざら嘘ではないそうだ。  朝鮮人参は、サポニンやバナクロインなるものを含んでいて有効だそうで、一茶も六十歳のとき、人参三本ほど人からもらい虎の子のように大切にして知人の椽《えん》の下へかくしておいたら、誰かに盗まれちゃって「只《ただ》 茫々然《ぼうぼうぜん》」と日記に書いている。  変わった強精剤のひとつに、こんな話がある。徳川五代将軍綱吉に仕え、下級旗本から身を起こし、ついに大老となって幕府経営に辣腕《らつわん》をふるった柳沢|吉保《よしやす》の子に吉里という人がいる。  大和|添下《そえしも》郡|郡山《こおりやま》十五万石だが、この重臣に、柳里恭《りゆうりきよう》という二千五百石取りの士がいた。  本名は柳沢権太夫|里恭《さととも》、淇園《きえん》とも号して、書画にすぐれ、文学武芸をはじめ人の師表に立つ才能十六般に及ぶ卓抜した才能を持った人で、仏典にまで精しく坊さんが講義を聞きに来たほどだったと伴蒿蹊《ばんこうけい》(国学者・文化三年・一八〇六歿)の『近世畸人伝』にある。  この柳里恭が二十一、二歳ごろ書きまとめた『独寝《ひとりね》』という本がある。  その中に「十三の時に唐学を学び 今二十一の暮までに覚えし学問 惚れし大夫《たゆう》〈遊女〉の下帯〈腰巻〉と つりかへ〈とりかえ〉にしたし」なんて書いてあって若年ながらなかなかの風流人ぶりだが、その『独寝《ひとりね》』に──ある時、柳里恭が生駒山へお詣りした途中「行歩飛ぶが如く顔色桃の花の如き」老人に出会った。  そこで柳里恭が不思議に思って、そなたはどう内輪にみても、七十過ぎの老人なのに、大変な元気の爺さんだ。まさか仙人でもあるまいが、その孫ぐらいにあたるのではあるまいか。さぞかし不老不死の煉り薬などをお持ちではないか。もしお持ちなら少々わけてほしい。と、からかうとその老人、笑って、なるほどお目が高い。わしは仙人じゃが、だれにも内緒にするなら秘伝の薬の処方を教えてあげましょうといって、島原(京都)の女郎の立ち糞五十匁を、吉原の大夫の小便で煉って飲むのだといったという。  この話にしたがえば、惚れぬいた女の糞尿は若返りの妙薬となる。だれか試してみるひとはないか。  年代・筆者不詳の江戸時代の薬方などを書いた本『五色糸《ごしきのいと》』(早大図書館蔵本という)には、「河豚《ふぐ》の毒を解《げ》するには 糞の汁 ならびに小便をのませて 吐《はき》すてさへすれば さつそく毒をさるといへり」と、書いてあるから、糞尿には大変な薬効があるのかも知れない。  そりゃあ、科学が発達していなかった時代の話じゃないか、と思うむきには 現代の話をしよう。  韓国の朝鮮日報社論説委員の李圭泰という人の著書『性と迷信・韓国の奇俗』(昭和53年東洋図書出版)に韓国にも飲尿や尿浴の風習があったと書いているが、それよりもっと驚くべき一文がある。「最近、インドの厚生相《ヽヽヽ》が、尿を飲めば万病が治ると、公開の席で発言」したというのだ。韓国の錚々《そうそう》たるジャーナリストがまさか嘘は書くまい。  ところで、強精剤ならぬ弱精剤に、こんな小咄がある。 ──痩せおとろえて、杖にすがってやっと歩いている男が薬屋へ入ってきた。 「精を弱くする妙薬はありませんか」  薬屋のおやじが驚いて、 「ご冗談でしょう。あんたみたいな人が、精を弱くしたら死んじゃいますよ」  というと、その男「いえ、うちの女房と女中に飲ませたいので……」  ある女が、オレに言った。隆々とそりかえった一物は、ときに小憎らしい感じがするが、こと終ってショボンとした男のモノは、なにか哀れで可愛いいのだそうな。  日野草城の句にも、   朝顔や 思いをとげし ごとしぼむ  という名句がある。  平清盛の女で、高倉天皇の后であり、安徳天皇の御母であった建礼門院に仕えた右京《うきよう》大夫という女性がいた。  その右京大夫の恋人、|平 資盛《たいらのすけもり》は元暦《げんりやく》二年(一一八五)三月二十四日、壇ノ浦の合戦で平家滅亡の際、海に身を投じて死んだが、右京大夫が資盛を偲んで詠んだ歌の中に、   身のうへを げに知らでこそ 朝顔の     花をほどなき ものと言ひけめ  という一首がある。  林芙美子じゃないが「花の命は、みじかくて」で、この歌は「朝顔って、はかない〈ほどなき〉ものねえなんて、あの人に言ったけど、わたしの恋が、その朝顔よりはかないものだとは、あの頃は露ほども気づかなかったわ」と、まあ一応は解釈すべきだろうが、オレはちと異説を立てたい。 ──かつて、資盛と愛のいとなみのあと、たちまちにしぼんでゆく資盛のモノを打ち眺め、「あらやだ、朝顔みたい」なんて笑ったことがあったけれど、私はもう若くない。あの人のオチンチンのように、いまや私も萎《な》え衰《おとろ》えてゆくのか──」という嘆きが、この歌のホントの意味だと思うのだ。  歌人で、国学者としても知られた平賀元義《ひらがもとよし》(慶応元年・一八六五・歿)は、独学で一家をなした人だが、この人の歌に、   五番町 石橋の上でわが魔羅を     手草《たぐさ》にとりし 吾妹子《わぎもこ》 あわれ  元義先生、岡山の人だから、五番町というのは、岡山かも……よくわからない。  ま、とにかく、その石橋の上で、女に|※[#「手へん+上/下」]《せんずり》をかかせた歌だ。  吾妹子《わぎもこ》とうたっているから愛している女で、夜鷹などの街娼ではあるまい。  もちろん、人通りのない夜更けの橋の上だと思うが、なにもそんなところで、やらせなくてもいいだろう。  この歌が知られて以来、元義先生は、人びとから「吾妹子《わぎもこ》先生」と呼ばれるようになった、という。あるいは、女と夜道を歩いていて、なにかのはずみで、女のほうから、先生の股ぐらへ手をつっこんだのかも知れない。  さて四国は宇和島市に多賀神社というのがある。そこの神主さんは、久保凸凹丸という人だ。凸凹と書いてアイと読む。この人のお父さんの久保盛丸は、春画、秘画、秘具、男根女性陰像とボウ大な蒐集をし、また自ら性宗学と称し、大生殖宗、桃源、大悪書など、いろいろな諸著書をものしているそうだが、その著書のうちオレが愛蔵している『珍経』を読むと、古典を引用、故実を挙げ、説き去り説き来たり、いやはや性についての博引旁証には驚嘆する。単なるエロ・コレクターではないのだ。  オレはまだこの凸凹寺をたずねたことはない。また聞きなのだが、この寺の入門公案(入試)は、まず、   下下下下 下下  を読み解くことだそうな。  これは、下下下下《カカシタカ》 下下《シタシタ》 だが、それだけでは落第で、下という字が六つ並んでいるから「六つシタ」とつづけて読まねばいけないそうだ。  子子子子子子《ネコノココネコ》 子子子子子子《シシノココジジ》 みたいなもののエロ版だろうが、「六つシタ」にヒネリがあって面白い。  明治の都々逸に、   ※[#歌記号]|凹《おう》と凸《とつ》くり 話したうえで      どうか|※[#「凸」の上下反転]凹《いつしよ》に 暮したい  なんてぇのがあるが「六つシタ」なんて小林一茶が聞いたらよろこびそうだ。  だが、一茶も雄略天皇も、絶対、女にはかなわない。さらば、マン豪列伝とゆこう。     マン豪列伝  弁慶は夜な夜な京の五条の大橋で人を襲い、九百九十九本の刀を奪ったが、最後の千本目に牛若丸に負けてしまったという伝説があるが、千人の男に肌を許すと果報があるとて、心願を立てた女がむかしはいたという。  幕末から明治へかけての時代に松戸三草子《まつのとみさこ》という、はじめは深川から|小さん《ヽヽヽ》と名乗って左褄をとる芸者となり、のちには女流歌人となって知られてた女がいた。  祖先は京都嵯峨御所の家来であったというが、三草子の父は江戸で大名方へ出入する商人だった。  三草子は下谷小町とうたわれる絶世の美女だったが十七の年さる高貴な方から望まれて嫁ぎ、すぐ夫と死別、やがて母の重病、家の出火、父の死亡と不幸が打ち続き、かなり裕福だった家運も奈落のどん底へ落ちこんでしまった。  そこで、やむなく深川の芸者になったのだ。ここから三草子の男の遍歴がはじまる。  まず、井上文雄という幕末の三流歌人を情夫に持った。後年、三草子が女流歌人として知られる下地はここにあったのだろう。  ところが、情夫のほうは、深川仲町の甲子楼《きのえねろう》のお職女郎、唐土《もろこし》という女に馴染んだ。唐土もちっとばかり和歌の道をかじっていたから、文雄を師匠としてあがめる。いい気になった文雄は、「いやしくも敷島の道〈歌道〉を学ぶものが、唐土《もろこし》とはなんだ。大和《やまと》と名をかえろ」なんて粋がったのを唐土が本気になったから大変。今までの白ちりめんに墨絵で虎を画いた裲襠《うちかけ》をサラリとぬぎすて、大和《やまと》撫子《なでしこ》を金糸で縫いこんだヤツを着て、改名披露を賑々しくやるという騒ぎ。もちろん、文雄にはそんな金があるわけはない。芸者の三草子のヒモなんだから。  これを聞いた三草子が、カッときた。 「今に見やがれ」と、次なる男を狙っているうち、とんでもない大魚を釣ってしまった。誰あろう、土佐二十四万石の殿様、|山内 容堂《やまのうちようどう》侯だ。山内容堂は、   ※[#歌記号]言うたちいかんちや おらんくの池にゃ 汐吹く鯨が泳ぎよる……  のヨサコイ節の土佐藩だから、自ら「鯨海酔侯《げいかいすいこう》」と称し、吉原へ遊女を買いにゆけば、柳橋で芸者遊びもやる。ひとりで芝居へのこのこ出かけ、平土間(追いこみの下等の席)で見物し、邸に帰ってから「今日は町人に三人も頭を跨《また》がれた。二十四万石の頭をまたぐとは、さてさて大きな股であったナ」なんて笑っているほどの寛濶《かんかつ》な人だったという。  三草子はそのかたわら、こっそり水戸の天狗党の頭目、武田耕雲斎《たけだこううんさい》と情を通じたりしていたという。  三草子の男漁りは転々として、安田銀行の安田善次郎もその一人だと伝えられるが、ついに千人の悲願を果たして、関係のあった連中に赤飯を配り、貰った連中は吉野紙を三草子に答礼として贈った。情交のあとに用いる始末紙を返礼にするとは粋な連中だ。千人目は、明治の俳人、夜雪庵金羅《やせつあんきんら》で、とどめの男が「金羅《きんら》」てえのも洒落《しやれ》ている。  だが千人信心の果報もなく、晩年は中風にかかり、芭蕉の「さまざまの品変りたる恋をして浮世の果ては皆小町なり」の句のように老いぬれば袖ひく男もなく穴なし小野小町同様の余生を八丁堀の裏長屋で送っていたが、大正三年(一九一四)八月、八十三歳の生涯を終ったという。  また「紋ちらしのお玉」という女がいた。  幕末の頃、下谷同朋町の芸者で関係した男の家紋の刺青《ほりもの》を身体に彫りつけた。  お玉の紋を彫った刺青師《ほりものし》の話では、初めのうちは両腕から背中にかけて紋もやや大きく仕上げてきたが、千人信心の願を立ててからは、段々と紋も小ぶりになり、尻から両股、腹と一分の隙もなく彫りつけ、最後には彫るところがなくなって、指の股まで彫ったと言う。  松戸三草子・紋ちらしお玉については中山太郎『千人信心』に詳しい。  さて前出、根岸鎮衛の『耳嚢』に、 「いまだ元文の頃〈一七三六〜一七四〇〉は賤しき者にも風流なる事ありしやと、秋山翁かたりしは 柳原へ出《いで》候 夜発《やほち》 大《おお》晦日《みそか》の夜 三百六拾人の客をとりし女有て 其抱主承りて 今夜に限り ひと年《とせ》の日数《ひかず》なさけを商ひし事珍しとて ひと年《とせ》|おかん《ヽヽヽ》と名乗り候へかしと云ひし由 其頃毎夜 |夥 敷《おびただしき》見物なりし由 秋山も小児の頃故 おはれて見に行しが 美悪は覚へずと語りぬ……」  夜発《やほち》というのは、嘉永六年(一八五三)喜田川守貞《きたがわもりさだ》がまとめた考証『守貞漫稿』によれば、いわゆる夜鷹《よたか》などともよばれた街娼で、江戸の本所、両国はじめ各所に、夜になると組み立て小屋をつくって商売し、朝になると小屋をバラして、いずこかへ消え去る、なんだか屋台のラーメンみたいな感じだが、小屋の入り口には草筵《くさむしろ》を下げ年は十五、六から四十以上の女まで戸口に立って客を呼ぶか、数人の女に一人二人の|ぎう《ヽヽ》と呼ぶ男が付いていて、ひやかし客が、あまり長く戸口に立っていると他の客の邪魔になるので「さあさあざっと御覧なされて なされて」と、とり捌《さば》いたらしく、ずいぶん江戸の男たちは、ぞろぞろと出かけたようだ。  京阪では京で辻君《つじぎみ》、大阪で惣嫁《そうか》と呼び三十二文が相場だが、江戸では二十四文。もっとも、たいていは心付けの小銭を余分にやったらしいが、そば一杯十六文の時代、ずいぶん安いもんだった。   客二つ つぶして夜鷹 三つ食い  そば三杯で四十八文、客二人で四十八文だ。  もちろん布団などない。蓆《むしろ》の上だ。また蓆《むしろ》をかかえて、材木屋の置場のかげなどで春を売る女もいた。  とにかく客はたちまち梅毒にやられる。  女も当然、鼻の落ちたのまでいたらしく、   鼻にまで 明店《あきだな》〈空家〉のある 吉田町   吉田町 おおかた 鼻は 夏座敷  と、鼻の穴と穴の間の壁を「障子」というが、その障子を取っぱらったからフガフガの夏座敷だ。  涼しい顔ってえのはこのことか。  ある男、夜鷹を買って、おっぱじめる。  夜鷹も、   二十四文で 五六度 もちあげる  という川柳があるから、五六、三十文ぶんぐらいのサービスをしたのだろう。  その最中に夜鷹が手をまわして男の金玉にさわる。  意外に大きな金玉なので、 「オヤ お前 疝気《せんき》かえ」  すると男が「イヤ おれは |する気《ヽヽヽ》だ」  江戸の売春は、このほか舟まんじゅう、など、舟に乗って堀川を移るのが三十二文、お千代舟ともいった。   あの顔で お花お千代〈お鼻落ちよ〉は きついこと  これらの数だけでも四千人ほど、そのほか公許の吉原が三千人といわれた。そのほかに岡場所といわれるもぐり売春地が百数十カ所もあった。  ずいぶん江戸の男どもは助平みたいだが、江戸の人口は、江戸百万と世界一の人口でありながら、男と女の数がひどくアンバランスで、町方人口だけ見ても享保六年(一七二一)では男三十二万、女十七万余。寛政十年(一七九八)で男二十八万、女二十万(本庄栄治郎『日本人口史』)このほかに町奉行の管轄以外の人口、寺社奉行関係の、寺社門前町人、三百諸侯に従って江戸詰をしている江戸チョンガーの侍たち。出稼人、非人、無宿者など加えたら、男ばかりだから男女の数はさらに大きくひらいてしまう。  いきおい性の捌《は》け口を売娼に求めることになるのだ。  さきの『耳嚢』の、一晩に三百六十人の客をとったという|おかん《ヽヽヽ》という女は、実は|おしゅん《ヽヽヽヽ》という女で、その数はちょうどキリのいい三百六十五人だったともいわれている。  この|おしゅん《ヽヽヽヽ》にはとても及ばないが、明治十一年(一八七八)十月十八日の東京|曙 《あけぼの》新聞は、「新富町一丁目三番地の細田岩吉の娘、お島といふ二十二年の老練者にて、去《さる》十五日夜、自宅へ十六人の客を引入れ、十人迄は廻《まわ》りしたが、残りの六人の客の処へ廻りかねたるにぞ。六人の客は大いに怒り、揚代金《あげだいきん》〈マエ金《キン》とはこのことだナ〉を戻せといふ懸合《かけあい》の葛藤《かつとう》により声高《こわだか》になりしかば、三尺棒〈警官〉の御厄介と成て、お島を初め十六人がぞろぞろと引かれて調べられ……」たと報じている。十六人そろって……とあるから、全部オール・ナイトの約束をした客だったようだ。  このお島さん、女色豪としては、ちと粒がちいさいから列伝の最後を飾って、本牧《ほんもく》お浜《はま》さんに登場してもらおう。  幕末、黒船の来航によって徳川三百年の鎖国政策は崩壊、外国との通商がはじまる。  慶応元年(一八六五)九月、元治《げんじ》元年(一八六四)十一月に幕府が諸外国と締結した「元治覚書」にしたがい横浜元町を起点にし、また終点ともする二里十二丁の在留外人のための遊歩道が完成する。その道筋に十三カ所、外人の休憩所をつくったが、いつかここが酒を置き近在の娘たちがサービスするバーみたいなものに変わっていった。  酒と女があり、はるばると船に乗って日本にたどりついた外人の溜り場ともなれば、やがて売春の場に発展するのは当然だ。  すべて金次第だ。  これがヨコハマ名物、チャブ屋の濫觴《はじまり》なのだ。  チャブ屋とは英語のチョップ・ハウスで、簡易食堂とでもいうものだが、いつかそれがチャブと訛《なま》ってしまった。  昭和のはじめ頃いまは埋め立てられてしまったが浅草六区のひょうたん池のぐるりに、屋台店がたくさん出ていて、活動写真(映画とは言わなかった)の帰りに、バカ貝を味噌汁で煮た|青柳丼 《あおやぎどんぶり》とか、カメ・チャボなどでオレなぞもよく空腹を充たしたものだ。  カメ・チャボとは、今の牛丼のことだ。なぜそういうのか故事来歴は、幕末のヨコハマ開港の時上陸した外人が犬を見るとカム・オンとかカム・ヒヤーとか呼んだ。ところが日本人の耳には、カメとしか聞えない。 「へえ! 毛唐の言葉で犬はカメかい」と早合点して以来、犬はカメになっちゃった。  カメ・チャボ、丼一杯五銭、市電が七銭の時代だった。  このカメ・チャボ、安いから牛丼じゃない、近くの三河島の野犬の屠殺場から持ってきた犬の肉に、牛肉の汁をまぜて食わすという話だった。真偽のほどはわからない。  とにかく、チャボはチョップ、カメは犬でカメ・チャボの名が生まれた。  さて、チャブ屋のことだが、昭和に入ると本牧は次第に発展し、喜世《キヨ》ホテルというチャブ屋をはじめ、数十軒のチャブ屋が賑う。  遊廓とちがい、すべて洋風で、洋酒をのみ、ダンスに興じ、やがてその店の女と二階のベッド・ルームに消えてゆく。  カフェーと遊廓を一緒にしたようなものだから、昭和はじめのモダン時代、東京からタクシーで乗りつける客も少なくなかった。  もちろん外国船のマドロスも押しかける。ミナト・ヨコハマならでは見られぬエロでエキゾチックな舶来風女郎屋だったのだ。  昭和十二年、藤浦洸《ふじうらこう》・詞、服部良一・曲で淡谷のり子が吹き込んだ『別れのブルース』は今でもナツメロとして大衆に愛唱されているが、実はこのチャブ屋がテーマだ。   窓をあければ 港が見える──とか、 お国言葉はちがっていても、恋には弱いすすり泣き──とか、  チャブ屋情調が色濃くうたわれている。  さてその喜世《キヨ》ホテルに、本牧お浜という女がいた。  お浜は「日本よりも、かえってニューヨーク、サンフランシスコ、シカゴなどで有名で、日本と言ったらヨコハマ、ヨコハマといったらお浜と」(昭和3年『グロテスク2号』梅原北明・談)海外にその名を知られた女だったという。  美人ではなかったが肉体美だったお浜の特技は、尺八《ヽヽ》で、彼女にナメられたら、|立ちどころ《ヽヽヽヽヽ》にイッちゃう。世界一のテクニックが彼女の人気の秘密だったのだ。  このお浜と、梅原北明とが竜虎|相搏《あいう》つ決闘をやった。  そのまえに、ちょっと梅原北明の片鱗にふれておこう。  北明は、昭和のはじめ、左翼運動から一転し『文芸市場』『変態資料』『グロテスク』と性を追求する文献・雑誌の発行に熱中、数十回に及ぶだろう発禁処分にもめげず、今では想像もつかないほど性的記事に厳しい監視の目をひからせていた取締当局へ敢然と挑戦、ついにはさすがの警視庁が北明をもてあましたというスケールの大きい奇人だった。  再々の罰金刑など何のその昭和二年には出版法違反で逮捕される。それでも屈せず、治外法権の上海に飛び、伏せ字なしの印度の性典『カーマシヤストラ』を発行、上海から日本の読者に送りつけるという放れ業《わざ》までやった。  そのため昭和三年、日本へ帰国するや、たちまち逮捕されて市ヶ谷刑務所にほうりこまれてしまった。  この北明には、いかにも北明らしいエピソードがある。 『近代奇人伝』(梅原正紀・昭和53年大陸書房)によると、いまの天皇がまだ摂政《せつしよう》の宮であられて、陸軍の大演習が行なわれたときのことだ。  北明は、そのころ新聞記者をしていて、取材に行った。そのとき、 「北明は通りすぎるようなふりをして摂政の宮と並んだ形になったところを、友人のカメラマンに写真をとらせてしまった。その写真を持って、喜劇役者、曾我廼家五九郎らと一緒に、料亭へ人力車で乗りつけ、ころあいを見て、料亭のおかみがいる席で、五九郎は平伏してみせ──このお方は──と、北明の身分をあかし、写真を見せるのである。──恐れ多くも腹ちがいの兄にあたるが、弟は天皇になるよりほかに能がないので、哀れにおぼしめされ皇位をゆずられたのである。世が世ならば、このようなむさくるしい料亭に来られるかたではない──」  五九郎の演技はお手のもの、堂に入っていた。勘定はタダになるし、選びぬいた美妓はあてがわれるし、すっかり味を占めた二人は、 〈今度は三葉葵《みつばあおい》の紋をつけた羽織を着て、徳川家ご落胤《らくいん》と称して……〉  いやはや、いやはや、天一坊がひっくりかえって驚くような話だが、奇骨、梅原北明ならではの珍譚だ。  むかし、詩人、北原白秋と作曲家、山田耕作が、地方のある宿へ泊った折、それぞれキタハラ・ハクシュウ、ヤマダ・コウサクと名乗ったら、宿の主人が、三尺飛びさがってウヘッと平伏。どうしてそんなことになったかというと、宿のオヤジはキタハラ伯爵、ヤマダ侯爵と大華族さまに聞きちがえたからという話を聞いたことがあるが、北明の話のほうがスケールが大きい。  さて、この北明とお浜との決闘だが、北明はお浜に、お前の名人芸であるフェラチオで、今晩一晩かかって私が一回でもイッたら五十円出す。そのかわり一晩中かかっても私がイカなかったらそっちが五十円よこせ、と挑戦した。五十円といえば当時イッパシのサラリーマンの月給だ。『グロテスク』にも『近代奇人伝』にも、キヨ|ネ《ヽ》・ホテルとなっているが「|本牧で一番大きい《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》のはお浜がいたキヨ|ネ《ヽ》・ホテル──」と北明が語っているから、キヨ|ネ《ヽ》は誤りで数あるチャブ屋の中で頭角を抜いていた喜世《キヨ》・ホテルのことだろうし、お浜は喜世・ホテルの女だった。  いよいよ決戦がはじまったが、お浜が必死にシャブっても北明の一物はたたない。  チャブ屋いやシャブ屋の名折れになるとばかりお浜は髪ふりみだして吹きに吹いたが、途中三度も休憩して一緒に風呂に入り、また続行というロング・ラウンドの果て、ついにお浜が降参した。  もっとも、そのわけは北明はひどい淋病がやっとなおった直後で、インポになって治療中のときだったと真相らしき話も伝えられている。  ところが『粋人酔筆』(峰岸義一)には、 「このとき北明は、ニンニク酒を一週間も飲みつづけて戦場に臨んだ。からくも梟雄《きようゆう》お浜を討ち取って名をなしたが……」と、この一戦はフェラチオではなく、互いに秘術をつくして、上になり下になり、七転八倒、壮絶なホンバンであったという。  ついには、お浜得意の太鼓橋なるワザ、のけぞって、三度持ちゃげて七《なな》ゆすりの体勢がガクッとくずれたら、お浜がヒーッと音《ね》をあげてしまった。 「と、一瞬の差で、北明が床《とこ》にこぼした。すると、部屋中ニンニクの臭気が蒸気のごとく立ちこめた」とある。  どれが真相やらわからないが、北原白秋の戯詩といわれる、   ペニス 笠もち ホーデンつれて     入るぞ ヴァギナの ふるさとへ   来たか ヴァギナの このふるさとヘ     ペニス 笠とれ まだ夜は長い  などという優雅なものではなかったようだ。  北明と女色豪本牧お浜の決闘は、宮本武蔵と佐々木小次郎の巌流島のつぎぐらいに、古今無双の名勝負となって今なおスキモノの語り草となっている。 [#改ページ]   考証・風呂の雑学     風呂と湯はちがう  日本の入浴の始まりは、『古事記』上巻に、伊邪那岐命《いざなぎのみこと》が黄泉国《よみのくに》(死霊の国)黄泉《よもつ》比良坂《ひらさか》から逃れ出たとき、筑紫(九州)の日向《ひむか》の橘の小門《おど》の阿波岐《あはき》原(檍原)という入江で海水に身をひたして死霊の穢《けが》れを洗いおとした(禊《みそ》ぎ祓《はら》い給うた)記事が見えるが、これが文献上の初めだろう。  聖なる河といってもいまや汚れ果てて臭気芬々たるそうだが、かのガンジス河に沐浴して、罪や穢れを清めるというインド民族も、また聖水盤の水をふりかけたり、洗礼を行なうキリスト教の儀式も禊なら、日本人が神仏を拝するとき、口をすすぎ手水をつかう御《み》手洗《たらし》も、滝にうたれたり水垢離《みずごり》をとる信心も禊だ。  正月の朝風呂(初風呂)の風習も、年の始め、まず身をきよめてその年の多幸を祈念した民族の遺風だと思う。  海水浴なども、洋の東西を問わず、古代人の禊の風習の名残りで、伊邪那岐命《いざなぎのみこと》など日本人の海水浴の元祖みたいなものだ。  もっとも今は穢れを落とすどころか、海水浴は穢れにゆくところになっちゃった。工業排水や海中に投棄した糞尿で汚染された海で伊邪那岐命の末裔は、無邪気に波と戯れている。  若い頃、海水浴へ行ったとき、すこし沖のほうへ泳いでいった友達が急にアップアップはじめた。さては腓返《こむらがえ》りかなんかで溺れたかと、急いでそばに泳ぎつき「どうしたッ 大丈夫か……」と声をかけたら、そのヤロウが言った。 「そばに来るなッ いま糞《くそ》をしているところだァ」  こんな連中がいまでも夏は海ヘドッと押し寄せるのだから、海水浴場は大小とりまぜた垂れ流しの大波小波が寄せては返している。こういうのを孔害というのだ。  とにかく「浄《きよ》めの塩」なんて風習も、たぶん『古事記』の禊の遺風で、海水で身を浄めるのを塩をもって代えたものだろう。  だが海や川で身をきよめる風習は太古からあっても、風呂となるとそうはいかない。  平安時代、貴族の家にすら便所は無く、室内に「しのはこ」というものを置いて、やんごとなき王朝の美女でも、その中へ屎・小便を垂れ給うたことは前著『雑学猥学』に詳しく書いたから、ここでは言うまい。  しかし、衣冠束帯《いかんそくたい》、美々しく盛装した殿上人《てんじようびと》、なにがしの大納言、だれそれの中納言でも、宮中で小便を催すと、尿筒《しとづつ》という長い筒へオチンチンを挿入し、皇居の回廊《かいろう》から庭へシャア……とやったのだ。臭気ぷんぷんたる皇居だった。  宮中に参内《さんだい》する服装ときたら、冠《かむり》、袍《ほう》(表衣)、半臂《はんぴ》(袖なしの胴着)、下襲《したがさね》(一|米 《メートル》から身分によって二米もの尾長鶏みたいに背後に引きずる布)、衵《あこめ》(下襲と単《ひとえ》の間に着る衣)、単(ひとえ)、|表 袴《うえのはかま》(大口袴の上にはく)、大口袴《おおくちばかま》、石帯(玉や貴石を飾りにつけた革帯、太安万侶の墓から出た真珠数粒は石帯につけたものと思われる)、太刀、笏《しやく》、襪《しとうず》(足袋)、沓《くつ》(木または皮)といういでたち。  コチトラみたいに、ちょいとチャックをあけて、ちょいとツマミ出すなんてわけにはいかなかったのだ。  風呂は奈良朝時代から寺にはあった。奈良の東大寺とか法隆寺、唐招提寺《とうしようだいじ》などの巨刹《きよさつ》にはかなり大規模の浴室があった。  浴室は七堂|伽藍《がらん》といわれる大寺のその七堂の一つなのだ。 「浄法身」「身心無垢」仏に仕える身に穢れがあってはならぬという仏教の戒律からだが、のち平安朝には僧兵の多勢を擁するにいたるほどの寺僧の数から推しはかって、その燃料たるや莫大なもの。したがって月に三、四度ぐらいしか湯を沸かせなかったのが実情らしい。  寺に風呂があるなら、貴族の邸に風呂があって当然と思うだろうが、当時は仏教天国の時代、今の世は仮の世、来世こそ極楽浄土といういまのオレたちには信じられないような強い信仰が天皇はじめ貴族階級にみちみちていた時代だ。  自分の住居より巨大な寺をつくったのは、そのためだ。  武田勝蔵『風呂と湯の話』によれば、 「各自の家々に御湯殿も風呂場もなく、無論、銭湯もない時代は、皆、寺院の浴堂を利用させて貰っていた。後には寺院が施主ではなく、僧侶や一般人が念願の筋を以て、積善のためとか、両親愛児の追善のため、また自分の死後の冥福のためなどに、寺院に費用を納めて湯をわかして貰いあるいは浴室を借用して自ら風呂を立て、有縁無縁の誰でも入浴させるようになった」という。  これは聖武帝の后、光明皇后が奈良の国分尼寺の法華寺で、乞食、病の者にいたるまで千人の下民を風呂に入れ、御手づから垢を流し給うた故事のその真偽はともかく、そうした慈善湯が寺々で行なわれていたのだ。  平安朝ごろは公卿《くげ》の社会でも湯殿の設備のある家はごく少なく、湯水で身体を拭くか、せいぜい行水程度で、ずっと時代がさがって室町時代になっても公卿たちの間には合木風呂という風習があったくらいだ。  合木風呂とは湯殿の設備のある公卿の家へ薪《たきぎ》をめいめい持参して、湯に入れてもらいに行くことだ。  まして平安時代は、とかくみやびやかに想像する王朝の女など、当時非常に蔓延していた皮膚病にかかっていて、紫式部は、 「いづれの御時にか 女御《にようご》 更衣《こうい》 あまたさぶらひ給ひけるなかに……」ポリポリと源氏物語を書き、清少納言は、 「春はあけぼの やうやうしろくなり行く 山ぎはすこしあかりて むらさきだちたる雲のほそくたなびきたる……」ガリガリと枕草子の筆をとめ、小野小町は、 「花の色は 移りけりな いたづらにィ……」ヒャーッ、かゆいッ、ってんで身をよじらせつつ歌をなん詠みハベレケレだ。  まして下々の民衆など一生涯入浴などしなかったものがずいぶんいたろう。  なにしろ、日本へ文化を伝えた中国ですら、産湯《うぶゆ》と湯灌《ゆかん》以外無縁だったらしく、江戸の雑学者山崎|美成《よししげ》(文久三年・一八六三歿)の『世事百談《せじひやくだん》』にも「世人の諺《ことわざ》に唐人《とうじん》は浴することを好まずとて 人のよごれ 垢つきたるが物ぐさき性《しよう》のものをば 唐人などといふ……」云々のあとに「|諺 曰《ことわざにいわく》 蜀《しよく》人生時一浴 死時一浴」とある。  蜀(二二一〜二六三)とは中国が三ツ巴に魏《ぎ》、呉《ご》、蜀と分立していた時代の国で、およそ日本では邪馬台《やまたい》国の卑弥呼《ひみこ》の頃だ。  風呂と湯とはちがう。もともとは風呂とは蒸し風呂。湯とは沸かし湯。つまり湯槽《ゆぶね》へ入るもので、江戸時代まで、風呂屋と湯屋はハッキリ分けて営業していた。  奈良時代の寺院のそれにも、温堂とか浴堂とかある。温堂とは蒸し風呂、浴堂とは湯であったのかも知れない。  風呂の語義は、風炉《ふうろ》が風呂となったとする説、たとえば橋本|経亮《けいりよう》(国学者・文化三年・一八〇六歿)の『梅窓日記』に「湯あみすることを 風炉に入ると云ふことも久しきことと見えたり……」などとある。  だが民俗学者柳田国男が「フロ」とは「室《むろ》」の転訛なりと言い(大正四年・一九一五・五月『郷土研究』風呂の起源)いまや、それが定説となっているようだ。  風呂は外釜から浴室内へ湯気を送りこむ式や、浴室に簀子《すのこ》を敷き、その下に大釜を据えて湯気を立てるものなどある。  また、今でもある京都八瀬の竈《かま》風呂などその様式はさまざまだ。  むかしは古墳をあばき、その石槨《せきかく》の中へ水を浸した筵《むしろ》を敷き、外で石を焼いて投げ入れて蒸風呂に使用したとも聞く。     銭湯のはじまり  風呂と湯の変遷史を書き出したらキリがないから、寺湯《てらゆ》からやがて湯を商う町湯《まちゆ》へ、そして今日のわれわれに身近な銭湯。  その銭湯のはじまりから話そう。  江戸の銭湯のはじまりは、小田原北条の浪人、三浦浄心がその見聞をまとめた『慶長見聞集』に、 「見しはむかし、江戸繁昌のはじめ 天正十九|卯年《うどし》〈一五九一〉の比《ころ》かとよ 伊勢|與市《よいち》といひしもの 銭瓶橋《ぜにかめばし》〈千代田区大手町二丁目、パレス・ホテルの附近にあった橋〉の辺りに せんとう風呂の一つ立《たつ》る 風呂銭は永楽〈明の永楽九年・一四一一につくられた輸入の銅銭〉一銭なり みな人めづらしきものかなとて入玉《いりたま》ひぬ されど其ころは風呂ふたんれん〈不鍛錬〉の人あまたありて あらあつの湯の雫や いきがつまりて物もいはれず 煙にて目もあかれぬなどと云て……」と、卒倒する者が出るたいへんな騒ぎだった。  この天正十九年の前年の八月、徳川家康は江戸へ移り、江戸城および江戸市街の建設に着手する。  なにしろその頃の江戸は、千代田、宝田、祝田などの村落が点在していたが、集めても百軒あまりの藁屋根。いまの丸の内辺まで海だった。  のち慶長八年(一六〇三)家康が諸大名に命じて神田山を切りくずし、海を埋め立てていまの丸の内も銀座も出来る。削られた神田山のあとが駿河台だ。  とにかく天正十八年の家康の江戸入りは、駿河、遠江《とおとうみ》、三河、甲斐、信濃五カ国、二百五十万石の太守の大移動だから、数万の家臣とその家族、江戸開発にあたる商人、労働者の数を加えたら厖大な人数だ。  こうして、諸国から集まった出稼ぎ人たちは、伊勢與市が開業した蒸し風呂が珍しく、入ってみたものの湯気に当たってひっくり返るやら、悲鳴をあげるやら、この時代、風呂好きの日本人どころか、ろくろく風呂へ入ったことがない連中が多かったのだろう。  人出が賑うところに、こうした風呂が出来ると、また茶や菓子を、さらに酒肴《さけさかな》を売る店が出来る。  なにしろ男ばかりやたらに多い工事現場がひろがってゆく江戸の街づくりの初めだ。  オタフクでもオカメでも若い女を店に置いてサービスさせれば、どっと客が集まってくる。  抜け目のない商人たちは、田舎から若い娘を集めてくる。娘のほうも村で食うや食わずの貧しい生活をしているより、べつに能がなくても女であれば群がる男にチヤホヤされるし、金もタップリ貰えるから、よろこんで江戸へやってくる。  はじめは、ハイお茶をどうぞ……なんて言ってたのが、いつしか、チョイトお酌を……と、色っぽい商売のほうが繁昌するようになる。  風呂もあちこちに出来たろう。商売の競争もはげしくなったろう。  どうせのことなら入浴客の「流し」を若い娘にやらせろって風に発展しちゃった。  これが湯女《ゆな》風呂だ。     江戸のソープ  湯女はべつに江戸が元祖じゃない。『太平記』の延文五年(一三六〇)の条に「今度ノ乱ハ|併  《しかしながら》畠山入道ノ所行也ト落書《らくしよ》ニモシ 歌ニモ読 湯屋風呂屋の女童部《めわらべ》マデモ……」と、すでにこの南北朝時代に湯女がいたようだ。 『古事類苑』地部四十六をみると、鎌倉時代、有馬の湯(神戸市兵庫区)で客同士の入湯争いが絶えないので、女の指図なら喧嘩にもなるまい……と湯女を置いたのがはじまりで「はじめ薬師仏十二神将を表わして十二坊だったものが、次第に繁昌して、今は二十坊。みな二階造りの家でこのほかに民家で湯治客を泊める家が七十余軒、これを小宿《こやど》と言った」(『摂津名所図会』寛政十年・一七九八刊)と、今でいう民宿が、もうその当時に発生している。  つづいて同書の原文には、 「二十坊の家毎に 二婢《にひ》あり 一人を大湯女《おおゆな》と称し 都《すべ》てこれを薩々《かか》と呼ぶ 一人は十三、四才、より十八、九才までの若婦《にやくふ》 美顔を撰んで紅粉を施し容色を荘《かざ》る これを小湯女《こゆな》といふ 二婢共に入浴の旅客に随従して入湯の時刻をしらせ 浴衣を肩にかけて案内し 衣類の預りなどして侍女の如くす あるひは酒宴の席に出て歌を諷《うた》ふ……」  とある。  湯女の語源は、寺院の浴堂を管掌する僧を「湯維那《ゆいな》」と呼んだがこれがのちの湯女(湯那)の名の起こりだという。  さて江戸の湯女風呂はさきの『慶長見聞集』のつづきに、 「湯女といひて なまめける女ども二十人 三十人ならび居て |あか《ヽヽ》をかき 髪をそそぐ そのよふしよく〈容色〉たぐひなく こころざま ゆふにやさしき女房ども 湯よ茶よと云ひて持来りたはむれ うき世がたりをなす かふべ〈頭〉をめぐらし 一度《ひとたび》ゑ〈笑〉めば百のこび〈媚〉をなして 男の心をまよはす……」  これは中国の玄宗皇帝とその寵姫《ちようき》、楊貴妃《ようきひ》をうたった唐の詩人、白楽天の長恨歌《ちようこんか》の一節「眸《ひとみ》をめぐらして一笑すれば百媚《ひやくび》生じ」の引用だが、この湯女たちにちょいと流し目などされただけで、女ひでりの江戸の男達はカッカとのぼせて通った。これが江戸のソープランドだ。  このソープ嬢たち、湯女、垢掻《あかか》き女のほか上方では「猿」などとも呼ばれていたようで、二百石の下級旗本ながら博学で考証に詳しく、また戯作者《げさくしや》としても知られ、その著『|偐紫 《にせむらさき》田舎《いなか》源氏《げんじ》』によって幕府の糺問をうける筆禍事件から自決してその生涯を終えたといわれる柳亭種彦《りゆうていたねひこ》(天保十三年・一八四二歿)の『柳亭遺稿』には、元禄本を引用し「京の町の風呂々々も昔よりの|お猿さま《ヽヽヽヽ》も今は板の間に出て 垢をかくなど 古めかしき事はとんとやめて 下着《したぎ》は白むくに墨絵の近江《おうみ》八景 信濃|八丈《はちじよう》の紅裏《べにうら》……」とすでに元禄ごろにはもう垢をかくより、派手なよそおいで遊興や情事の相手を勤めたらしき事が記されている。  今のソープが、熱気浴や蒸気浴を省略して、いきなり泡踊りをはじめるのと、どこか似ているな。  現代のソープは昭和二十六年四月、東京・銀座東六丁目の東京温泉が鉄筋三階建のどでかい浴場を開業した。階下は大衆大浴場だが、階上は個室のソープランドで、若い奇麗な娘が昭和の湯女として登場した。  当時は敗戦によってうちのめされた日本経済がまだ立ち直っていない時だから、女の子の働く場所も少なく、東京温泉でソープ嬢を募集したとき、応募者の大群が建物のまわりを幾廻りか取り巻く長蛇の列だったという。  オレも好奇心でさっそく行ってみたが、おおぜいの中から選り抜いた女の子たちだから、素直で明るく、なかなかの美少女たちだった。  もちろん、おスペなどとんでもないこと。その上、一部屋に二人づつ配属されていた。風紀が乱れるのを防ぐためか、ソープ嬢予備軍の養成のためだったのか。  へえ、二輪車かいウヒヒなんて思うな。オチンチン丸出しでいると、サッと腰のまわりにバス・タオルを巻きつけられた。病院の看護婦さんだってそうはかたくあんめえ。  で、かんじんの中心部を遠く避ける蛇の生《なま》ごろしみていなマッサージをうけ、余儀なく清潔にハイお時間となった。  昭和三十一年、日本男性史にとって屈辱的な悪法、売春防止法が、ひとにぎりのバアサン代議士の奔走によって成立すると、職場を失った赤線の女武者は続出するソープ城に立て籠ってゲリラ活動を展開したが、昨今はもはやゲリラではない。堂々たるものだ。  ま、とにかく二日酔いなど、ソープでサラシ首みたいな箱に入って蒸すと発汗淋漓、|たちどころ《ヽヽヽヽヽ》に心身爽快になる。  それならサウナのほうがいいじゃねえかという御意見もあろうが、あれは一つ部屋にヤロウばかりゴロゴロ。なにか「留置場」みたいでオレはダメ。  いつだったかソープ五段と称する男に会った。どこで段位を定めるんだと尋ねたら、ソープのハシゴの段数だそうな。つまり五軒ハシゴして五発ぶっ放すわけだ。なるほど孔道館五段とはこのことかと、さすがのオレもあきれて「最後は煙《けむ》しか出なかったろ」とからかったら「いえ、カタカタって音がしただけでさ」と、その野郎ニヤリと笑った。  ふざけちゃいけない。断水の水道の蛇口じゃあるめえし、よ。  さてソープで帰り際に、女の子が「また来てねッ」と名刺をくれた。  こういう所の名刺は、カアチャンに見つかっても露見しないように社用風なヤツだ。  オレが貰ったのは「手動商事株式会社」と刷ってあった。「不動《ヽヽ》の間違いじゃないの?」と確かめたら「手動よ、手を動かすから……隣のソープはピストン産業って言うのよオ」と、彼女はコロコロと笑いやがった。  してみると「ズバリ本番」の娘っ子はどんな名刺をくれるんだ。  まさか「ボーリング株式会社」とか「鑿泉《さくせん》工業」なんてえのじゃあるめえ。  ある有名な作曲家の某(特に名を秘す)が、女たちとの情事の記録を全部フランス語で書いておいた。  これなら女房に絶対に判るまいと安心していたところ、そのカミサン、亭主に内緒でフランス語の講座に通い、みんな解読しちゃって……キーッ、ドタンバタン。  これは本当にあった話だぞ。  だから名刺一枚でも気をつけたほうがいい。  江戸のソープのうちでも丹前《たんぜん》風呂といわれて知られたのは、いまの東京・千代田区神田須田町の西寄りに越後(新潟県)村松三万石の堀丹後守の屋敷があって、その前あたりに津之国、紀之国、桔梗、追手、山方、などの屋号の店のほか数軒の風呂があった。  丹後《ヽヽ》守の屋敷前なので丹前《ヽヽ》風呂と人々は呼んだ。  喜田川守貞が嘉永六年(一八五三)に著わした考証随筆『守貞漫稿《もりさだまんこう》』には「承応・明暦の頃〈一六五二〜一六五七〉……髪洗い女とて 見目よき女二十人 三十人抱へ置き垢を掻き髪をすすぐ……」と一つの店にかなりの女を抱えていたらしい。  この湯女、この頃は風呂の垢掻きばかりではなく、遊女をかねたようなものだった。  いったいこうした商売が江戸の人気を集めた原因は、ソープが珍しいということよりほかに原因がある。  ひとつは女歌舞伎の禁止だ。  およそ慶長八年(一六〇三)頃、出雲の踊り巫女《みこ》、阿国《おくに》の一座が京の四条、五条の河原の野天興行で念仏踊、ややこ踊、かぶき踊、物真似づくしと多彩な芸を見せて熱狂的な人気を集めた。  歌舞伎の語源はもともと「傾《かぶ》く」から出たもの。「傾く」とは、異様な振舞いや風姿という意味だから、女ロカビリーみたいなものを軸とするレビューの一座だったと言える。  阿国の人気を追って、遊女出身の佐渡島正吉、村山左近、出来島長門守、北野小太夫、幾島丹後守その他いずれも男装の麗人のスターが妍を競った。  だが裏では贔屓客との売春と、風紀が乱脈をきわめた寛永六年(一六二九)女歌舞伎は禁止となる。  かわって擡頭したのが若衆歌舞伎だが、これが女と見まごう前髪立ちの美少年たち。たちまち男色狂乱の坩堝《るつぼ》と化して、幕府は女歌舞伎禁止後二十三年あとの承応元年(一六五二)若衆歌舞伎禁止令を出す。  若衆歌舞伎は女歌舞伎が大衆をひきつけたエロチシズムの官能美を踏襲したものだし、堂本正樹『男色演劇史』は「かぶきの一つの大きな特色は、役者は男女ともに色を鬻《ひさ》ぐという、開けっぴろげな点にあった。女役者は勿論、男役者もその肉体を売り、ために芸術家として大成功せぬものもあれば、元祖芳沢あやめ、初代中村仲蔵、四代目松本幸四郎のように、そこから出発しながら後世大成したものもいる」という。  また同書には綿谷摩耶火『性愛嫉妬考』を引き男色余話を伝えている。  武田信玄の寵童春日源助(のちの高坂《こうさか》弾正虎綱)が、信玄が弥七郎という小姓とも関係を持っていることを恨んだため、信玄は、「弥七郎に頻に度々申候ヘ共 虫気《むしけ》〈体調不順〉之由申候 無了簡〈不承知〉候 全我為になく候事」 「弥七郎 とき〈伽〉にね〈寝〉させ申候事無之候 此前も無其儀《そのぎなく》候 |況 《いわんや》昼夜共 弥七郎と彼義〈肉体関係〉なく候……以下略」  合戦の鬼といわれた戦国の猛将、武田信玄が一所懸命に、わが「よか稚児」へ言い訳タラタラの弁明の誓紙を送っている。  この誓紙は信玄二十二歳、源助十六歳のときのもので、現在は東京大学史料編纂所に収蔵されていると小池藤五郎『好色物語』はいう。 「人は石垣 人は|掘り《ヽヽ》」か。信玄の名言はこれから生まれたのだろう。  このような男色盛んな戦国の気風が強く残る時代だから、若衆歌舞伎のスターたちは尻がいくつあっても足りなかったろう。足りないことを不足という。この場合は不尻《ふけつ》というか。  さて、もう一つの理由は江戸のはじめ元和《げんな》四年(一六一八)に幕府は市中の諸所にあった私娼窟を一つに集め、葭原《よしわら》という沼地を埋立て、葭《よし》は葭《あし》に通ずるからと「吉原」と改め、いまの中央区堀留二丁目辺に公許の一大遊廓をつくった。これを元《もと》吉原と言い、明暦の大火後に浅草へ移ってからを新吉原と呼ぶ。  関ケ原や大坂冬、夏の陣以後豊臣方の多くの大名が取り潰され主家を失った浪人が生計の道を求めて江戸に集まってくる。もとより徳川家に怨みを持つ連中だ。  それに加えて諸国からの出稼ぎや、江戸へ行ったら何とかなるべえと国から出て来て何ともならない浮浪組やら、さまざまの人間が雑踏する市中に散娼を許すことは治安上面白くない。  と言って江戸は人口の三分の二が男だ。女ひでりから殺気立ってくる奴がふえるばかりだ。  そこで取締りのしやすいように吉原というところにひとまとめに女を置く。つまり集娼制度をとったのだ。  それなのにこの吉原、寛永十七年(一六四〇)に夜間営業を禁じられてしまった。  さきにいうように江戸の草創期で治安体制は充分ではない。夜間に大勢の人間が出あるくことは、火つけ、追剥、辻斬、盗みなどの犯罪が頻発する危険があったからだろう。  この禁令が出た十一年後ですら由比正雪の変(慶安四年・一六五一)が起こっている。  さて禁令が出た三年後の寛永二十年(一六四三)刊の『色音論《しきおんろん》』には、 「よしはらや 夜の通ひの止《や》みければ 風呂屋の女は流行りもの……」と、女歌舞伎を禁じられ吉原も夜はダメとなれば、江戸の遊び人どもがエロを求めて夜も営業している湯女風呂へ殺到するのは当然ではないか。  ところが……だ。江戸は風呂屋も湯屋も昼間しか営業できなかった。  ではなぜ湯女風呂が……そのことはあとで言う。  まず湯屋、風呂屋の夜間営業禁止のわけは火事をおそれたためだ。     腰巻きで火事を消す  当時、消防技術がきわめて幼稚だったことは言うまでもない。  消火用水といえば表通りの商家など天水桶《てんすいおけ》(直径七十六センチ・高さ一メートル)を間口|一間《いつけん》(約二メートル)に一つ当たり定備していた。  天水桶のほかには一つ町内に「火の用心井戸」が八つ。井戸といっても水が湧いている井戸じゃない。神田上水や玉川上水道によって平素、水を溜めておくささやかな溜め井戸で、承応四年(一六五五)に定められたが、こんなもので燃えひろがる火災は防げない。  元禄ごろ(一六八八〜一七〇三)の消防は一枚が畳二、三畳分もあろうか「火伏せ木綿」といって雑巾の大親分みたいな刺子《さしこ》の布マットを水に浸し、炎を吹き上げる屋根へ敷きつめ、その上から水をかける。水は手桶を大勢の人間がリレー式に手送りで運ぶのだ。  滑稽なのは、かどうか実験してみなけりゃわからないが、人間の背丈《せたけ》ほどもある大《おお》団扇《うちわ》で火の手がこっちへ来ないよう煽ぎ立てる。消すのか、火事を大きくするのか、ちょっと判断に苦しむようなことを大マジメでやってた。  もっとおかしいのは女の腰巻きだ。火事がこっちへ延焼しそうだとなると男たちはてんでにわが家の屋根の上にあがり、スペインの闘牛士みたいに腰巻きを振りまわす。  猛牛ならぬモウ火を防ぐまじないで、これまた大マジメなのだ。  関東大震災の時には東郷元帥の邸でさえ二枚の赤い腰巻きを屋根の上に高々とおっ立てたという話を当時の報知新聞が伝えている。 「皇国の興廃此一戦に在り」とZ旗をかかげて日本海にバルチック艦隊を撃滅した名提督ですら大火事には閉口して、Z旗ならぬ女の真赤な腰巻きを高々と掲揚したのだ。これをY旗という。  この火伏せの腰巻きはなるべく汚れているのがいいというから、女がおおぜいいる家などそら火事だとなると、大いそぎでコシマキ・コンクールをやって一番バッチイのが特命全権大使となる。実はこのまじないは、火は不浄を忌むという観念からきている。  オリンピックの聖火もそうだが、古代から西洋も東洋も火は神聖なものとして祭られてきた歴史がある。いまでも火祭などの神事を行なう地方がある。火は神の恵みなのだ。だからバッチイ腰巻きだと神さまは鼻をつまんでよけてお通りになるというわけなのだ。  江戸には大火がしばしば起こった。江戸の町づくりの変遷史はそのまま江戸火災史でもある。  ことに明暦三年(一六五七)一月十八日、本郷丸山本妙寺から起こったと言われる大火は『江戸火消年代記』(東京消防庁監修・藤口透吾編)によれば、「大名屋敷五百余、武家屋敷七百七十三、町屋千二百町、寺社三百余、橋梁六十一、死者十万七千六人」と、かの大正十二年(一九二三)の関東大震災の死者(九万一千余人)を遙かに上まわる惨状だった。江戸の史料『玉露叢《ぎよくろそう》』には「万石以上百六十屋敷……死者十万七千|四十六《ヽヽヽ》人。ひとまとめにして二丁四方の寺地に埋め、そこに建てたのが回向院《えこういん》」とある。  江戸城の天守閣もこの時、焼け落ちたままついに再建されなかったが、この火事、実は老中松平信綱〈武州川越・七万石・のちに知恵伊豆といわれた人物)が、膨脹する江戸の市街再編整備を一挙に解決するために仕掛けたのではあるまいかと黒木喬『明暦の大火』(中公新書)は興味ある推理をしている。  消防の放水機具は、徳川中期の後半の宝暦ごろ(一七五一〜一七六三)に初めて竜吐水《りゆうどすい》というものがつくられた。 「原理としては、水箱の中の水を木筒から空気の圧力を利用して、水を高く上げる仕掛で、|水箱へは手桶で水を運んだ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》」(魚谷増男『消防の歴史四百年』)  まあ、子供の頃に遊んだ水鉄砲を大きくしたようなもの。竜吐水などと名は勇ましいが、火事にとっちゃあ、小便をひっかけられたくらいのものだったろう。  いや、この発明、ことによるとその小便がヒントかも。  幼い頃、火事を小便で消した夢を見て、目が覚めたら火事は夢で、小便だけが現実で、なんて経験のあるお方もあろう。  大人になっても、眠っていて尿意を催すと小便をする夢を見る。ただしホンモノは出ないが……。  この竜吐水、そんなヒントからの発明みたいな気がしてならない。   ※[#歌記号]寝てて 小便 たびたびしたが      いまだ ウンコは してみない  話も延焼気味、もとへ戻そう。  さて、夜間営業禁止のはずの江戸のソープが夜も賑ったのは、理由は簡単、夜は風呂をたてなかったのだ。大道寺友山《だいどうじゆうざん》(兵学者・享保十五年・一七三〇歿)の『落穂集』にこう書いてある。 「風呂は朝よりわかし 晩は七ツ時《どき》〈午後四時〉に仕廻《しまい》 昼のうち風呂入りの人の垢を流し候湯女も 七ツ切りにて仕廻《しまい》 それより身の仕度を整へ 暮時にいたり候へば 風呂の上《あが》り場に用ひる格子の間《ま》を座敷に構へ 金の屏風《びようぶ》など引廻し 火を燈《とも》し 件《くだん》の湯女ども衣服を改め 三線〈三味線〉を鳴し 小歌やうの物を謡《うた》ひ 客集めせし也」  つまり風呂を焚くことが出来ない夜間は、湯女総出演のショウ・タイムとなるわけだ。  もっともこうした湯女の流行は江戸ばかりではない。  江戸の戯作《げさく》者・雑学者の山東京山《さんとうきようざん》(安政五年・一八五八歿)の『歴世女装考《れきせじよそうこう》』には「天正十八年〈一五九〇〉大阪にも風呂屋といふ事いできて湯女とて 女ども入り来る客の垢をすり髪をあらふ」と、家康江戸入国の年に、すでに大阪ソープの出現を記しているし、浪花の文筆家、浜松歌国(文政十年・一八二七歿)の『摂陽奇観《せつようきかん》』の巻五に「延宝のころ〈一六七三〜一六八〇〉風呂屋と唱《とな》へるは垢すり女あり また湯屋といふは一通りの銭屋《せんおく》〈銭湯〉なるべし 当代〈いま〉は市中に限らず色里の風呂も名のみにて 垢すり女は風呂屋株に添《そえ》たる伯人《ヽヽ》をさしていふ」  この伯人《はくじん》とは、白人とも書くが、べつに欧米人じゃない。江戸吉原とならぶ大阪|新町《しんまち》の廓以外つまり公許の遊里でないところで春を売る私娼を言い、新町の遊女は公認の商売女だからクロウト、そのほかはシロウト、転じて白人と言った。  歌舞伎『|艶容 女舞衣《あですがたおんなまいぎぬ》』の三勝《さんかつ》は、元禄八年(一六九五)大阪千日前で心中した|さん《ヽヽ》という湯女がモデルだ。  近松門左衛門の名作の、『心中|天網島《てんのあみしま》』の小春も、はじめ大阪の南の島之内の湯女から曾根崎新地へ移ったもので、近松も「南の風呂の浴衣《ゆかた》より 今此の新地に恋衣《こいごろも》……」とその素性を語っている。 「江戸もはじめの寛永頃〈一六二四〜一六四三〉は、|赤い腰巻一枚《ヽヽヽヽヽヽ》で上半身裸《ヽヽヽヽ》という湯女のスタイルだったらしく、当時の風俗屏風に描かれたものが現存している。しかしそれから五十年後の天和─元禄頃〈一六八一〜一七〇三〉には、浴衣がけのスタイルに変った」(林美一『枕絵の風呂』による)  湯女は浴衣に襷《たすき》がけで客の垢すりをやった。桃花園三千麿(天保頃の人か・不詳)の『萍花《ひようか》漫筆』にも、 「若き女に風流なる染ゆかたを着せて 湯入の者の垢を流させ……」と、ソープ嬢のユニホームが、しゃれた柄の藍染のゆかたであったことを伝えている。  蒸気をのがさぬように板囲いの下部から這いずり込む式のものだった。もちろん中は濛々たる湯気が立ちこめていて、いまのサウナとちがい随分と呼吸が苦しかったろうと想像する。  さて湯女は、風呂場では髪に漆塗の櫛を二つ挿していた。  これを「湯女の二枚櫛《にまいぐし》」という。  一枚は自分の髪のためのもの。もう一枚は客の髪を洗う時につかった。  なにしろ木蝋と松脂《まつやに》を混ぜた髪油を使っていた時代、おまけにシャンプーなどあろうはずがない。髪は櫛で梳き洗いするためだった。この二枚櫛もともとは「御陣《ごじん》女郎」とよばれた娼婦の遺風なのだろう。  戦乱の世では軍勢のゆくところ、その後方部隊として娼婦の群れがあった。  これが御陣女郎だ。  合戦で討ちとられた敵の首は、これらの女が洗い、髪を梳き結い直し時には紅・白粉で死首に化粧までした上、首実検に供えた。  野戦のときにこうした女郎たちが活躍したが、籠城などの際は、城内のさむらいの女房、娘の仕事であったようだ。  関ヶ原の合戦に敗れて滅びた石田三成(『異説|区《まちまち》』の著者、江戸の国学者和田正路によれば石田ミツヒラと読むのが正しいという)の家臣に山田|去暦《きよれき》という武士がいて|おあん《ヽヽヽ》と呼ぶ娘がいた。主家滅亡後、山田去暦は妻子を連れて土佐に逃れた。  この|おあん《ヽヽヽ》は寛文ごろ(一六六一〜一六七二)まで生き、八十余歳で土佐に生涯を終えたといわれるが、この老女の思い出ばなしを書きとめたのが『おあん物語』だ。その話の中に、 「味方へ取りたる首を天守へ集められて 夫々《それぞれ》に札を付けてならべ置き 夜る/\首におはくろ〈御歯黒〉を付けておじゃる それはなぜなりや 昔はおはぐろ首は能《よ》き人とてしゃうくゎん〈賞翫〉した 夫故《それゆえ》|白は《ヽヽ》〈白歯〉の首にはおはぐろ付け給はれと頼まれておじゃったが 後は首もこわい物で|おりない《ヽヽヽヽ》〈ではない〉 其首共の血くさい中にね〈寝〉た事でおじゃった……」  この話は慶長五年(一六〇〇)関ヶ原合戦直後の大垣か佐和山城においてのことだから、|おあん《ヽヽヽ》十七、八歳ごろと思われる。  とにかく、死首を化粧するうす気味悪い二枚櫛のならわしを、なぜ湯女がうけ継いでいたか。  それは実用上のことでもあろうが、 「古老の伝に 惣じて駅亭の類〈宿場女郎がいるあたり〉は 其辺戦場となりては 勝利方《かちたるかた》の大将 首実検する時は かならず女どもが其《その》首をあらふ事也……遊女が二枚櫛さすは一枚は首あらひの時用ゆる櫛なりとあり 勝たる時 用ふとあれば二ツ櫛は|吉 器《めでたきもの》といふべし」(山東京山『歴世女装考』)  と、かえって縁起のよいものであったようで、ちと論理的に変な気もするが、戦国の遺風は江戸のこんなところに生きていたことが面白い。     旗本愚連隊  江戸の小咄に、   女 郎「わっちゃいっそ侍になりとうありいす」   侍の客「きつい合わせようさ」       (合わせる──調子のいいお世辞)   女 郎「オヤ ばからしい ほんに侍になりたくてなりいせん」       (ばからしい──江戸中期〈明和頃〉吉原などの女たちから言いはじめた江戸の流行語)   侍の客「なぜ?」   女 郎「アイサ 侍はありもせぬ軍《いくさ》を請合って 知行《ちぎよう》とやらを取って居なんすから……」  肉体の切り売りをしなければ一文も貰えぬ女郎が、戦争もないのに俸給を貰っている侍稼業に放った痛烈な皮肉だが、女郎にこう言われなくても、江戸の初めは天下泰平に倦きてる鬱勃《うつぼつ》たる血気のゆき場のない旗本たちが江戸にはごろごろしていた。  戦乱の時代は終わり町人経済が興りつつある時代。さきの小咄じゃないが、ありもしない戦いを請負う武士の影はうすくなる。徳川幕府の礎を戦場を疾駆して切りひらいた旗本八万騎の意気は、今やもうどこへももって行き場がない。  こうした鬱憤の捌《は》け口が旗本|奴《やつこ》を発生させたのだろう。  大小神祇組《だいしようじんぎぐみ》、よしや組など、れっきとした旗本の面々をはじめ、これに追随する御家人《ごけにん》やあぶれ浪人たちの一団が、天下の往来を大手をふって七三にヨタって歩き、喧嘩乱暴勝手気儘、江戸市中を横行したのだ。  その頃、江戸にうたわれた俗謡に(落首《らくしゆ》ともいう)、   ※[#歌記号]夜更けて 通るは 何者ぞ      加々爪甲斐《かがつめかい》か 泥棒か さては坂部の三十か  というのがある。  坂部の三十とは五千石の旗本、坂部三十郎広利のことだろう。  寛文四年(一六六四)旗本奴の暴れん坊、水野十郎左衛門は幕府から切腹を命じられた。五十二歳だった。  坂部の三十もほぼ同年配だから、水野たちと一緒にヨタっていても不思議はないが、こっちは元禄四年(一六九一)八十一歳の長寿を保って歿している。また、加々爪甲斐(甲斐守直澄)は一万石の大名格で、寛文元年(一六六一)町奉行より一段上格の寺社奉行を拝命、寛文十一年(一六七二)まで在任している。隠居してのち嫡子直清のとき成瀬某と知行地境界の争いで非理があり、かつて奉行をも勤めた人間が……と処罰をうけ松平土佐守へ|預け《ヽヽ》の身となる。  しかしなぜか、諸書はすべて加々爪甲斐を愚連隊のメンバーとしている。いちばん新しい一例を挙げれば『巨城の破片・万華の断片』(高木彬光・昭和54年)でも、この俗謡は「加賀爪甲斐のひきいる山の手組、坂部三十郎を頭とあおぐ浅草組が辻斬犯だったことを諷刺する歌と考えていい」とある。寺社奉行が辻斬の常習犯とは驚き入る。また坂部三十郎も無役の旗本ではなく、御鉄砲百人組の青山百人組の組頭を拝命している。※[#歌記号]夜更けて通るは……云々は武家と寺社を取締るのが寺社奉行だから、乱暴旗本らの様子を見廻るため、夜更けて江戸市中を密行する加々爪甲斐という意味ではないだろうか。  とにかく、大田南畝(幕臣・蜀山人と号す・文政六年・一八二三歿)の『一話一言』の「古来侠者姓名小伝」にも、水野十郎左とか、よしや組(白柄組)の頭目、三浦小次郎等は挙げられているが、大者であるはずの加々爪甲斐も、坂部三十も、その名は見えない。  水野十郎左衛門といえば、すぐ思い出されるのが幡随院長兵衛だ。  長兵衛については三田村鳶魚の幡随|意《ヽ》長兵衛(『三田村鳶魚全集』第五巻)に詳しいが、そのなかで鳶魚は長兵衛の素性の異説を紹介している。その要旨は、 「寛延、宝暦ごろの刊本かと思われる『古実今物語《こじついまものがたり》』という本に、   ※[#歌記号]向ふ通るは長兵衛じゃないか 鉄砲かついで 小脇差さして……下略  という手毬唄の故事は、島原の乱の責任でお家断絶となった寺沢兵庫頭の家臣に塚本織部なる者がいて、その子が本多|中務大輔《なかつかさたいふ》の藩中の士のところへ下僕となって奉公したが、藩中の彦坂善八という者を討ったため死罪になるところ、幡随院上人の命乞いで助けられた。これがのちの幡随院長兵衛だ……と、喜田村信節《きたむらのぶよ》は言うが、惜しいことに簡単すぎて長兵衛の素性が明らかにできない……云々」とある。  これは喜田村|※[#「竹/均」]庭《いんてい》(信節・江戸の雑学者・安政三年・一八五六歿)の『嬉遊笑覧《きゆうしようらん》』という考証の書物にあるのを鳶魚が引用したものだ。  実は『古実今物語』という草子はたいへん珍本らしく、偶然、私蔵しているが正しくは『童唄・古実今物語』で文化元年(一八〇四)七月、東都(江戸)日本橋通四丁目上総屋忠助が出版したもので※[#「竹/均」]庭は読んでいない。勿論※[#「竹/均」]庭がいう寛延、宝暦(一七四八〜一七六三)などではない。  また長兵衛は長兵衛でも松前《ヽヽ》長兵衛なる男の荒唐無稽な物語で、幡随院に何のかかわりもなく、考証学者の※[#「竹/均」]庭がなぜこんなデタラメを書いたのだろうか、不思議でならない。  とにかく長兵衛の素性は諸説紛々判然としないし、水野の屋敷の風呂場で槍で刺されて殺されたという有名な話も、真偽のほどはわからない。  ただ、幕府の公式記録である『徳川実紀』の明暦三年(一六五七)七月の項には、 「此十八日 寄合〈無役の旗本をいう〉 水野十郎左衛門|成之《なりゆき》のもとに 侠客幡随院長兵衛といへるもの来り 強て花街に誘引せんとす 十郎左衛門 けふはさりがたき故障ありと辞しければ 長兵衛大に怒り そはをのれが勇に恐怖せられしならんとて 種々罵り不礼をふるまひしかば……」  つまり長兵衛が水野の邸へやって来て、吉原か丹前風呂か、とにかく遊びに誘った。  二人で遊びにゆくとは、気の合った同士のようだがそうじゃない。粋くらべか、伊達くらべかとにかく女遊びの場で優位に立って、相手に恥をかかせてやろうという魂胆で誘ったわけだ。  ところが十郎左は取り合わない。今日はよんどころない用事があって付き合えぬ、と断わると長兵衛がぜん眉を怒らして、とかなんとかぬかしやがって、本当はおめえ、俺がこわくなったんじゃねえか、などと散々罵ったらしい。 「十郎左衛門も怒りにたへず討すてて 其よし町奉行のもとに告しかば 奉行より老臣〈老中〉に|うたへし《ヽヽヽヽ》に 長兵衛|処士《しよし》〈浪人〉の事なれば そのままたるべきむね 老臣より令せられしとぞ」  この『徳川実記』の記録が、はたして真実かどうかは別として、公式には一応そうなっているのだ。  水野の切腹は長兵衛の死後七年も経ってからで、切腹は長兵衛殺しに直接関係はない。     風呂場で死んだ英雄たち  風呂場で殺されたので有名な人物はなにも幡随院長兵衛に限ったこっちゃない。  またまた余談になるが思いつくまま挙げてみると、まず源義朝だ。次がその孫にあたる鎌倉幕府の二代将軍、頼家だ。頼家は伊豆の修善寺の湯で、外祖父北条時政と実母北条政子が放った刺客に襲われて暗殺されたのだから悲惨というよりほかは無い。  北条政子なんて女は、実家の北条家に天下を取らせるためには血も涙もない女だった疑いが濃い。  まず夫の頼朝殺しだ。元禄頃の学者和田正路の著『異説|区《まちまち》』に、 「頼朝 政子に問ふ 諸大名の内にて誰が美男なると 政子答て 畠山重忠に増《まさ》るはなしと也 頼朝疑て 夜に入りて重忠に似せて 政子の寝所に至るを 政子いかりて長刀《なぎなた》にて一断《ひとたち》に殺害す 故に頼朝の死を隠して記せずと」  源頼朝は建久九年(一一九八)正月、相模川の橋供養の帰路、かつて自分が殺した弟の義経や叔父の行家、さらに壇之浦へ追いつめて海へ入水《じゆすい》させた安徳天皇の亡霊を幻覚して落馬し、それがもとで翌正治元年正月、五十三歳で死んだという説がある。  なぜか、いやしくも天下の大将軍なのにその死については記録上まことに曖昧なのだ。  そのためか、さきの『異説|区《まちまち》』みたいに政子の浮気を疑って畠山重忠のふりをして政子のところへ夜這いにゆき長刀でバッサリやられた話ばかりではなく、政子の警護をしていた安達藤九郎盛長に斬られたとか、いや斬ったのは畠山六郎重保(重忠の子)で、畠山がのちに討伐されたのはそのためだとか、『大日本史』第百七十九巻ほか、諸書に頼朝変死説が見えるという。(『異説日本史』)  とにかく天下の将軍がてめえの女房のところへ夜這いに行って殺されたなんてシマラない話だが、政子にうまくノセられて、誤って殺したがごとく、実は策略にひっかかった疑いがないでもない。  政子という女はすごいおヒスだったし、ヒス的の女はえてして残虐性がある。政子が頼家を産んだ頃、頼朝は亀前《かめのまえ》という愛人をこっそりつくり家来の伏見|冠者《かじや》広綱の家に囲っていたが、これを知った政子は北条一族の者に命じて、この家を滅茶苦茶にぶっこわしてしまい、亀前を頼朝から預かっていた広綱は命からがら逃げ出し、挙句の果ては流罪に処せられるという有様だ。  この時代、天下の大将軍に寵妾が三人や五人居たって当然の話だ。今とはモラルの物指しがちがう。  ついでわが子の頼家殺しだ。父親の北条時政には牧の方という後妻がいて、これがまた腹黒い女。この女の謀略で畠山重忠はじめ鎌倉幕府の功臣たちはつぎつぎと殺されている。その女にダマしぬかれた父親に加担し、伊豆の修善寺に幽閉した頼家を元久元年(一二〇四)七月十八日、逃亡のおそれありと刺客を放って、桂川の河原の出湯に入浴中の頼家を襲わせた。頼家はさすが源家の棟梁らしく膂力《りよりよく》にすぐれ、真っ裸で刺客らと渡り合ったが、首に投げ縄をかけられ「陰嚢《ふぐり》を取りなどして殺してけり」と鎌倉の僧慈円の書きのこした『愚管抄』にその最後のさまが伝えられている。つまり、キンタマを握られて殺されたのだ。  その次に政子は兄の頼家のあとを継いで三代将軍になった実頼《さねとも》を殺している。実の子だ。  これが建保七年(一二一九)正月の二十七日、鎌倉鶴岡八幡の石段で頼家の子、八幡宮別当の公暁《くぎよう》によって刺殺される。  あの石段のところに大銀杏があり、観光ガイドなど、そこに公暁が隠れていて八幡宮参拝の実朝の行列を襲ったなどと、大ヨタ話をするが、追剥《おいはぎ》じゃあるまいし八幡宮の大宮司の公暁がそんな事をする必要はない。  この事件は政子と弟の北条義時の書いた筋書き。公暁を嗾《そその》かし、次の将軍職の餌を公暁の鼻先へぶらさげたのだろう。だが結果はたちまち公暁は追手に討たれて政子発行の空手形を掴んだまま哀れ十九歳の生涯を終わった。  こうした政子の策謀は何もオレのでっち上げの話じゃない。史家の中でも指摘し、疑問視する人は少なくないのだが、これを詳しく書くとそれだけで一冊の本になってしまう。  とにかく、義朝、頼朝。頼家とみなキンタマが関係する横死で、サネ朝《とも》なら安心かと思ったらこれも駄目。かくて源氏は亡び、政子念願の北条の天下となる。話はさかのぼるが源氏キンタマ物語の源義朝のことに、ちょっと触れておこう。  世に平治の乱といわれ、平氏にあらざれば人に非ずと、平氏一門の繁栄の道をひらくにいたった平清盛と源義朝の争いは、義朝の敗北となり、平治元年(一一五九)十二月二十九日、孤影悄然、義朝はわずかに鎌田政家、渋谷|金《こん》王丸、玄光法師に護られて、尾張国智多郡野間の長田庄司忠致《おさだしようじただむね》を頼って落ちてゆくが、たのみにした長田忠致にも裏切られ、義朝は橘七五郎、弥七兵衛、浜田三郎ら忠致の家来に襲われ湯殿の中で殺害されてしまう。  豪勇をうたわれた義朝も素っ裸ではどうにもならない。   きんたまを つかめ/\と 長田下知《おさだげち》  義朝の愛妾常盤御前は、義経ら三人の子の命を救うために、仇敵である平清盛に身を委せたことは誰もが知る話だが、祇王、祇女、仏御前などとても及ばない美女だったのか清盛も、   義朝と おれとはどうだ などと濡れ  と、道具の大きさか、テクニックか、そのことは後世の史書には見えないが、とにかく鼻の下を長くしたらしく、常盤は常盤で、   残念か いいか 常盤は|泣いて《ヽヽヽ》させ  義朝を襲った長田忠致も、常盤御前ほどの美女をわがものにしていた義朝にひどく羨望を感じていたらしく風呂場に倒れた義朝の死体の前ヘシャガミこみ、   常盤めを これでと長田 握ってみ  この時、血路をひらいて脱出した義朝の家来、渋谷金王丸はいまの東京の渋谷の祖、その館趾は金王神社となって現存している。  頼朝は北条政子にキンタマをにぎられて天下晴れての浮気もろくにできず、セガレの頼家はキンタマをつかまれて憤死。それに頼朝の親父の義朝までキンタマをつかまれて悲惨な死を遂げている。  誰か「源氏とキンタマ史」なる大論文を書く人はいないだろうか。  また、東京都庁の玄関先に銅像となって東京の開祖とされている太田道灌も、文明十八年(一四八六)主家の上杉家が放った曾我兵庫らの刺客のため相州糟屋の上杉別邸の風呂場で殺されている。  槍で腹を突き通された道灌は、ぐっと相手の槍の柄を握って、   かかるとき さこそ命は惜しからめ     かねて亡き身と 思ひしらずば  と歌を詠んで絶命したというが、カッコいい話でアテにならない。  むしろ「当家滅亡」だったか「当方滅亡」だったか、忠臣であり上杉家の柱でもあるオレを殺すようじゃ|扇ケ谷《おうぎがやつ》上杉家の運命も終わりだ……という意味だがそう叫んで絶命したという話のほうが真に迫っている。  えらいヤツの話はまだある。  明治二年(一八六九)九月二日夜京都木屋町の宿で兵部|大輔《だいふ》(陸海軍次官)大村益次郎が刺客に襲われて重傷の身を風呂桶の中へもぐって難を逃れた。もっともそれがもとで数日後死んでしまった。また、西沢爽がある温泉で美女に追いまわされた……など歴史にのこる話は尽きないがこの辺でとどめおく。     ろっぽう言葉  さて、話はもどって長兵衛ら町奴にも勇ましいのがいた。  はなれ駒四郎兵衛という町奴は、湯女風呂で喧嘩し、二階からおりるところを首を斬られ、その首が前へ落ちかかったが、片手で押さえながら相手を斬り伏せた。しかも七十歳まで存命したと『一話一言』にある。  はなれ駒どころか「はなれ首四郎兵衛」だ。  ほんとうにそんな事があろうかとお疑いのむきに、似たような例を一、二お目にかける。  前出『異説|区《まちまち》』に「宝永正徳頃まで存生していたりし関弥二郎といふ浪人の劔術者あり……弥二郎は猪首にて 猪首になりしは若き頃寐たりし所を 首を切りし者ありしに 起上りてその者を仕とめたり 首切りさげられて吭《のど》のみかかりける中へ 片手にて首をおさへ 下帯《したおび》〈ふんどし〉とやらんにて巻《まき》て療治にかかり本復〈全快〉しけるとなり……云々」 「下谷の内藤下総守殿 家老梶田藤蔵 正月|乗初《のりぞめ》の日 雪降りたりしに 玄関の如き所にて乗馬を見いたりしに ゑりもとひややかにおぼへしまま ふりかへりたれば 乱心者ありて 首を切りかけたり そのまま片手にて自分の頭をおさへ 片手にて右の者の腕をねぢあげてとらふ内に人みな来たりければ かの者を渡し 下帯をときて疵をまき……」この人も全決している。  昭和五十四年四月二十五日の毎日新聞に精神分裂症の男が自分のオチンチンを切り落したのを尿道一本、動脈三本、静脈一本、神経二本をそれぞれ縫合。知覚も、ボッキ能力も完全に元に戻ったという記事があった。  もっともこれは首の話じゃない。雁《かり》|くび《ヽヽ》の話だ。  さて、片や旗本の大小神祇組の頭目は、柴山|弥惣《やそう》左衛門だが、寛文六年(一六六六)六月五日斬罪(『断家譜』による)になっていて、水野十郎左衛門より二年後に処刑されている。  大田南畝の『一話一言』には、この柴山や三浦小次郎などははっきり組の頭目と書いているが水野十郎左衛門の項に「組」とか「頭目」とかいう記載がない。もし名だたる組の首領なら、当然明記されていいはずだし、大田南畝は、三浦小次郎の項に「十郎左衛門より手上《てうえ》のものにて……」と三浦のことを言っているから、水野十郎左は三浦の下についていたものか、とも思う。  よしや組とも白柄組ともいわれた三浦小次郎|義也《ヽヽ》は『一話一言』に、 「三浦小次郎 吉《よし》や組の頭《かしら》也 され共申分立て牢人〈浪人〉被致《いたされ》 孫左衛門と申《もうす》 病死す 武備睫《ぶびしよう》〈鵜飼平矩著・成立年代不詳〉に云《いわ》く……異名を吉やといふ 赤坂祭礼の時あばれけるを 紀伊大納言頼宣|卿御覧有《きようごらんあり》て 御老中へ被達《たつせられ》ける故 父小左衛門へ御預ケ被仰付《おおせつけ》けり」とある。  幕府の諸家士の系図原簿とも言うべき『|寛政重 修諸家譜《かんせいちようしゆうしよかふ》』には「…さきに赤坂において不作法の事ありしとて御勘気かうぶり 父 義景にめしあづけられ 延宝三年六月二十日ゆるさるる」とあるから、十郎左とちがい晩年を無事に終えたようだ。  この小次郎、水野十郎左衛門と一緒に──、  吉原からの帰りに、遊女の小袖を下着にきて、オカマみたいな異様な身ぶりで、芝居小屋へ暴れこみ、揚幕を斬り落としたり(『一話一言』)の乱暴をしたというから十郎左衛門とは親しかったようだ。  その水野十郎左衛門、やがて吉原の山本屋の抱え遊女|小わた《ヽヽヽ》という女をかっぱらって逃げた。遊女を廓外へ連れ出すことはかたく法で禁じられていて、その上、三千石の大旗本が女を盗み出すなどと、途方もない仕業だ。  三千石の旗本とは四千坪ほどの屋敷地をもち、平時でも四、五十人の家来や使用人を置く身分だ。これが女郎を盗んだとあっては幕府も体面上放置できない。  十郎左衛門の母の実家、阿波徳島の藩主蜂須賀家へ永の御預け。つまり無期謹慎を申し渡したところ、その態度が傲岸不遜《ごうがんふそん》、少しも恐れ入る様子が見えないので、幕府は改めて寛文四年(一六六四)三月、切腹を命じた。行年五十二歳。  辞世は、   落すなら 地獄の釜を突ん抜いて     阿呆羅刹《あほうらせつ》〈バカな地獄の鬼ども〉に損をさすべい  この「つんぬいて」とか「べい」という言葉は六方詞《ろつぽうことば》と言って、この連中が好んで使った。六方とは何か。たとえば当時の「よしや組」の風俗は、 「髪を一束《いつそく》に切って、喧嘩のとき、相手に|たぶさ《ヽヽヽ》を掴まれぬ用心をし、冬を紺ちりめんの着物の裾に鉛を三|匁《もんめ》ずつ括《く》け込み、褄《つま》〈着物の裾の左右の端〉が、はねあがるようにし、白帯を三重に廻して締め、|白い柄糸《ヽヽヽヽ》・下緒《さげを》の長い大小を閂差《かんぬきざ》しにして六法を踏んで歩き廻った」(相馬皓『武家の風俗』)という。これが丹前《たんぜん》すがただ。  六方は今では歌舞伎の荒事《あらごと》で、たとえば『勧進帳《かんじんちよう》』の弁慶が花道で踏む勇壮な飛び六法や、両花道から出る『鞘当《さやあて》』の丹前六方《たんぜんろつぽう》にその身ぶり足どりの俤《おもかげ》を残している。  六方とはもともと御法(五法)の上をゆく無法(六法)という意味らしい。  さてその六方詞を、柳亭種彦《りゆうていたねひこ》の『用捨箱』で拾うと、 「詞《ことば》もなまぬるきを忌《いみ》 片言《かたこと》を好みていふ かたじけないを〈かたじ|う《ヽ》けない〉 泪《なみだ》を〈なだ〉 事だを〈こんだ〉 うちかくるを〈ぶっかける〉 いはゆる関東べい也」とあり、『一話一言』の中にも、 「山中源左衛門といふ男伊達あり 五百石《ヽヽヽ》大御番也 正保年中 糀町《こうじまち》真法寺にて切腹|被仰 付也《おおせつけらるなり》」また『寛政重修諸家譜』には「大御番頭 松平出雲守勝隆の組下 賜四百石 正保二年〈一六四五〉十一月十八日 切腹」と、水野十郎左衛門よりおよそ二十年ほど前に切腹させられた山中源左衛門の辞世がある。   わんざくれ ふんぞるべいか 今日ばかり      あすは 烏が かっ噛《かじ》るべい 「わんざくれ」とは、戯れとか、遊びごとという江戸語だが、これは「和讒《わざん》」という言葉に近く「てやがんでぇ、べらぼうメ」と不貞腐れた意昧にとったほうがよさそうだ。  こうした旗本愚連隊の連中、土鼠《もぐら》、ひき蛙、鼠、蛇、みみず、百足《むかで》などを肴に酒盛りをやるという悪食で人の度胆をぬいたりした奇行でも知られている。  余談だが江戸の川柳に、   名を聞けば 八兵衛という 女郎なり  これは千葉船橋辺に成田詣などの客目当に稼いでいた飯盛女《めしもりおんな》という安女郎を八兵衛と言ったもので、客の袂を掴まえて「しべえ しべえ」と誘ったところから、四兵衛と四兵衛で八兵衛と名がついた。十返舎一九(天保二年・一八三一歿)の『房総道中記』にも、   上総には 七兵衛景清 あるやらん     ここに下総 八兵衛飯盛  という狂歌がある。  もっともこれは関東べえでも六方詞ではない。     ソープ娘の大スター  さて、こうした旗本愚連隊、町奴をはじめとして江戸の遊冶郎《ゆうやろう》が血道をあげて通ったのが江戸のソープの丹前風呂だった。  その丹前風呂の一軒、紀之国屋市郎兵衛という風呂に勝山《かつやま》と名乗る女がいた。  俳人であり古筆目利《こひつめきき》であった藤本|箕山《きざん》(宝永元年・一七〇四歿)が諸国の色里を見聞し、三十有余年の歳月をかけて遊びの世界の森羅万象を詳述した大著『色道大鏡《しきどうおおかがみ》』という本がある。  この箕山は、大正時代の終りに大流行した……   ※[#歌記号]逢いたさ 見たさに こわさも忘れ    暗い夜道を ただひとり    逢いに来たのに なぜ出て逢わぬ    出るに出られぬ 籠の鳥  という唄の原型とも思われる江戸投げ節(山家鳥虫歌『諸国盆踊唱歌』明和九年・一七七二刊にも所収)の、   ※[#歌記号]逢いた見たさは 飛び立つばかり      籠の鳥かや うらめしや  の作者ともいわれる。(『定本・色道大鏡』野間光辰編)  その巻十七に、 「勝山 諱《いみな》ハ張子《ちようし》 其ノ姓氏 詳《つまびら》カナラズ武州八王子ノ人ナリ 正保三年 ハジメ紀伊国風呂ニ出《い》ヅ 而テ勝山ト号ス……云々」とある。  本名はハルちゃんか、オチョウさんかわからないが、三田村鳶魚の考証では元八王子慈根寺というところが勝山の故郷であったとしている。(『丹前勝山の時代』)  この勝山を『色道大鏡』ではつづけて「勝山 性大膽而《せいだいたんにして》 有余情《よじようあり》 |活然 而《かつぜんとして》好異風也《いふうをこのむなり》」という。  どんなソープ嬢だったか元禄の文豪井原西鶴の『好色一代男』巻一・煩悩の垢かきの一節をひいてみよう。 「そもそも丹前風と申は 江戸にて丹後殿前に風呂ありし時 勝山といへるをんな すぐれて情もふかく 髪かたち とりなり〈立居振舞い〉袖口広く褄たかくよろづに付て世の人に替〈変〉りて 一流是よりはじめて後は もてはやして 吉原にしゆつせして 不思議の御かたにまでそひぶし ためしなき女なり」  この「髪かたち」とは「勝山髷《かつやままげ》」といって、のちの「丸髷」の母型となった彼女創案の髷だ。  江馬務の『日本結髪全史』は「天和三年(一六八三)刊、浮世物真似|口写《くちうつし》という本に〈|女 中《おんなたち》の伊達風《だてふう》は 兵庫《ひようご》 つのぐる あるひはしまだ かつ山ふう〉とあり、元禄の『女重宝記』には、丸髷の名で代表されている。思うに承応、寛文の頃に始まり、名は勝山といい、のち丸髷(丸輪髷)といい、大体享保頃まで行われた……」という。およそ百年ちかい長い間、流行したようだ。  また宝暦八年(一七五八)文筆をもって痛烈に幕府を諷刺、ついに死罪となった馬場文耕の『近世江都著聞集』にも諸侯太夫の室《しつ》(妻妾)もこれを真似、士農工商の女房や娘もまた競って勝山髷を結ったとあって、いかにこの髪型が人気があったかわかる。  勝山はそればかりじゃない。絶世の美女のうえに、新吉原の妓楼の主《あるじ》だった西田屋又左衛門(庄司勝富・延享二年・一七四五歿)の著『洞房語園《どうぼうごえん》』に「手跡《しゆせき》も女にはめづらしき能書なり 勝山が詠みし歌に、   いもせ山 ながるゝ水の うす氷     とけてぞいとゞ 袖はぬれける」  と、書道、歌道にすぐれていたというし、三田村鳶魚の研究では、この丹前風呂から丹前節なる江戸小唄が流行したが、その名手である桔梗風呂の吉野という女のあとを継いで、三味線にすぐれ、うたも巧みだったという。  どうも江戸のソープのスターは大変な女だったようだ。  さきの西鶴の文中「後は出世して……」とは勝山がのちに吉原に移って、美妓三千といわれる廓中随一の太夫に栄進したことを言うが、つづく「不思議な御方に添ひ臥し……」とは誰のことだろう。  岩波・日本古典文学大系『西鶴集上巻』の頭注には「仙台藩主伊達綱宗に身請《ヽヽ》されたという。また江戸町奉行甲斐庄飛騨守とも」とある。  綱宗説は何が根拠か、臆説もいいところではないか。南町奉行、甲斐庄飛騨守正親とはどう考えても年齢的に矛盾していて、「ばからしう ありんす」だが、ここではくどくなるから触れまい。  さきの『萍花漫筆』によると、 「湯女の中にて勝山と云 美女あり わけて唄三味線に妙なりければ 義也《ヽヽ》といへる風流男に馴染 ついには身を落し 吉原新町山本屋の 元祖勝山といへる太夫女郎となれり」とある。  勝山がソープの大スターから吉原へ移った事情として金に詰まったためで、情人三浦小次郎に入れ揚げた結果のように思える記事だ。  江戸の書『関東潔競伝』(成立年代不詳)に、 「三浦小次郎殿 勝れて風俗|器了《きりよう》よし これに依り江戸中の評判に小次郎義也は風俗さてもよき也 よしやよし也義也とて それよりよしや風とて風俗にも祭りにも致し候」  この記事に信をおけば、勝山が男のために借金で首がまわらなくなったこともうなずける。  女歌舞伎は禁じられて廃絶したが、丹前風呂に、かつての女歌舞伎の花形を凌ぐ勝山の異様な風姿が人気を集めたことは、さきの『洞房語園』にも「寛永の頃 はやりし女かぶきの真似などして 玉ぶちの編笠に 裏付のはかま 木太刀の大小をさし 小唄うたひせりなどいふ 其立居振舞見事にて ゆゝ敷見えしと也……」とある。  この木太刀とは木刀じゃない。中身は白刃ではなく竹光ならぬ木光だが、拵《こしらえ》(外装)は今のチャンバラスターが使うものより遙かに美しく飾られたものだったと思う。  何しろ、それを歌舞伎の人気役者が真似て舞台にかけたというから、勝山の評判のほどがわかる。  勝山は吉原へ移ってからも、従来のおとなしやかな京風の太夫道中の内八文字の歩様を、六方風に外《そと》八文字に変えて江戸の太夫らしい張りをみせた。これを勝山|歩《あゆみ》といって後の吉原太夫道中の歩様はすべてこれにならったという。     丹前とドテラの違い  さて明暦三年の大火で吉原が浅草に移り新吉原となると、その六月、風呂に湯女を置くことは禁止となる。  それまでも吉原は湯女風呂に客足をうばわれ、幕府も吉原の嘆願をうけて、再三にわたり、たとえば風呂一軒に湯女は三人限りなどと制限策を講じたが、ききめはなかった。  そこで明暦の大火後の新吉原発足を機に吉原の夜間営業を許可し、いっぽう江戸のソープをことごとく潰してしまった。 「跡々《あとあと》より度々風呂屋共ヘ申渡候通り 吉原町御立|被成 候《なされそうろう》ニ付 彌《いよいよ》当月十六日切リニ遊女之分町中御拂|被 成候間《なされそうろうあいだ》 自今《じこん》以後 風呂屋江遊女隠置候ハハ 五人組〈町内世話役〉ハ|不 及申《もうすにおよばず》 致僉議《せんぎいたし》 若《もし》今迄隠置候遊女|有之《これあり》候ハ 早々拂|可申《もうすべく》候 少《すこし》モ|相背 申間敷事《あいそむきもうすまじきこと》」  江戸のソープはこうして取りつぶされたが、丹前の名はいまもわれわれの生活の中に残っている。  旗本奴が裾に鉛を縫いつけて、色あざやかな模様を染めぬいた丹前姿には及ばないが、冬の湯上がりなど丹前を着ての酒など、くつろぎをおぼえる。  あれをドテラと混同しているヤツがいるが、丹前とドテラはちがうのだ。  喜田川守貞の考証『守貞漫稿』に、 「丹前とは京坂の名称で、江戸では丹前とは言わない。またそのかたちも少しくことなる。丹前は、綿をところどころ、とじ糸でとめたもので、広袖といって袂を縫わない。襟には黒の半襟をかけたもの。  江戸のドテラは丹前に似ているが綿を緘《と》じない。また丹前よりわずかに綿の入れ方が多い。そして襦袢代りに浴衣を重ね着するものもある。  これによく似た掻巻《かいまき》は夜着より小さく、どてらより大きく、作り方は夜着に似て昼寝に用いたり、寒い時は夜着の下に重ねることもある。江戸にあって、京坂には無い。  夜着《よぎ》は襟袖の着いた布団《ふとん》で、いま夜着を用いるのは遠州〈静岡〉以東で三河〈愛知〉以西は用いない……」と要点をひろえばこんな次第だ。  思えば、江戸丹前の伊達姿が、歌舞伎や草子で京阪でも評判になり、江戸の丹前風の衣服とてそう呼んだのではあるまいか。  勝山という妓名すら、勝山の人気と共に京阪の遊女に名乗るものが出たくらいだ。     赤穂浪士四十九人目の男  さていつの時代にも、もぐり営業というのがある。明暦三年(一六五七)丹前風呂取り潰しで江戸のソープは壊滅したかに見えたが、その後も、寛文二年(一六六二)延宝二年(一六七四)元禄十二年(一六九九)と再々取締令が出されているところを見ると、湯女風呂は江戸の諸所に潜在していたことがわかる。  公娼地吉原のほかは岡場所といって私娼窟だ。岡とは岡目八目と言うように、傍(ほか)の意味で非公認の売春地帯だが、相つぐ飢饉で疲弊した幕政大改革を断行した水野越前守忠邦のいわゆる天保の改革の一つ、天保十三年(一八四二)三月十八日、隠し売女、男娼禁止の令によって岡場所が絶滅(千住・板橋・新宿・品川四宿をのぞく)するまでは、江戸市中に時折の警動《けいどう》という大手入にも屈せずこうした私娼窟が跋扈《ばつこ》した。  花咲一男『岡場所図絵』によれば、天保改革で取り潰された岡場所に、音羽、赤坂、三田、鮫ケ橋、市谷、市兵衛町ほか二十一カ所を挙げている。  湯女風呂もまたこうした岡場所の一郭に隠し売女を置いて命脈を保っていたのだろう。  時は元禄十五年(一六七二)十二月十四日と言えば御存じ赤穂浪士が本所の吉良上野介の屋敷へ討入った日だが、その日、深川富岡町の丁字《ちようじ》風呂に泥酔して湯女と寝ている一人の浪人がいた。正しくは十二月十五日だが、この日の早暁(寅之刻・午前四時)同志四十|六《ヽ》士が(四十七士ではない)が吉良邸に討入ったことも思い出せないほど酔い潰れていた。小山田庄左衛門だ。  討入り直前に逃亡した赤穂の浪士に、毛利小平太がいる。もう一人は浪士吉田忠左衛門の輩下であった足軽、寺坂吉右衛門だ。  赤穂藩の士分の者はおよそ三百名余りか。そのうち復讐の誓いをして連判状に名をつらねたもの百二十五人、そして討入り決行に参加したもの四十六人、あとは一年九カ月の雌伏の期間に脱落してしまった。  この赤穂浪士四十九人目にあたる小山田庄左衛門は、赤穂藩百石取りの侍だったが、宮武外骨《みやたけがいこつ》『猥褻風俗史』によると、十四日に丁子風呂に立ち寄り入浴の際大金を持っているのを湯女に見られよい鴨とばかり、たくみに酒をすすめられて泥酔、ついに討入りに間に合わなかったという。  菊村紀彦『赤穂浪士討入り以後』には、小山田庄左衛門は討入りが近づいた十一月二日、突然脱落した。浪士のひとり横川勘平の書状に小山田は「十一月二日小袖金子小々盗み取り欠け落ちす」と、片岡源五右衛門の家に来て不在と知り、盗みをして逃げたという。  宮武説の出典がわからないのが残念だが、話としては湯女と酒に溺れた四十九人目の男のほうが面白い。  この小山田庄左衛門には、まだたいへんな後日譚がある。 『享保通鑑《きようほつがん》』享保六年(一七二一)一月十五日の項に、 「当正月十五日夜 深川万年町冬木|店《だな》に主殺《しゆごろし》有 中島|隆碩《りゆうせき》と云 本道医《ほんどうい》〈内科〉年来《としごろ》四十四五|有徳《うどく》に而《て》 療治道|者《は》さのみ勝れざれども 近辺より尊敬し 此妻女|者《は》三十三 容儀十人並を越へ……」原文は窮屈だし、長文にわたるので、かいつまんであらましを語ると──、  この医者の妻も、近所の娘や子供たちの手習い師匠をしていた。この家には近所から雇い入れた十五歳になる下女と、上州者の二十三歳になる直助という下男がいた。この直助、ちと手癖悪く時折小銭をくすねたりしていたが、暮も押しつまったある日、患家から薬礼三両が届いたのを直助は隆碩夫婦の留守をいいことに横領したがすぐ発覚してしまった。  怒った隆碩からは散々に打ちすえられ、ともかく年が明け小正月(十四日〜十六日)がすんだら宿請人《やどうけにん》(身元保証人)を呼び、きびしい処置をつけるぞと申し渡された。さてその小正月の十五日の夜、直助は下女に実は隆碩は俺の親の仇、今夜討ち果たすからお前は自分の家へ戻っていろと送り出し、隆碩の寝間へ忍び込み、枕元の刀を奪って斬りつけた。隆碩が起きあがるところを首を斬りつけ、腹を突き、隆碩の妻もめった斬りにして殺し、衣類、道具の目ぼしいものを一包みにして背に負い、有金かきあつめて逐電してしまった。  主殺《しゆごろ》しは江戸の大罪だ。奉行所は捜索がはかどらないので、その年の七月、人相書や盗品の品触れを配布したりした。  話かわって須田彦兵衛という五百石の旗本の知行所、武州荒川村の百姓五兵衛というものが、三月頃、商用で江戸に出た所、糀《こうじ》(麹)町四丁目、舂米屋《つきごめや》大和屋喜兵衛のところで働いている権兵衛という男から脇差を金壱両でゆずりうけた。  しかし五月に入って五兵衛はちょっと金繰りに困ったことがあり、その脇差を同じ村の与五兵衛という者のところへ質に入れ弐分《にぶ》(一両の半分)の金を借りた。  ところが七月の十日頃、地頭である旗本の須田彦兵衛から、万一思いあたることでもあったら届け出よと、奉行所の人相書や品触れが村に届いた。  与五兵衛はどうも俺が質草に取った脇差と寸法(一尺六寸)や拵(外装)が似ているが……と不安になり名主の次郎右衛門の所へ相談すると、紛れもない殺された隆碩の刀とわかった。  驚いた名主はさっそく、江戸の須田家へ飛ぶ。須田家では家来の小林藤右衛門という屈強の侍が糀町の大和屋へ出向き、下男は何人雇っているかと聞くと、二人で御座います。一人は六兵衛一人は権兵衛と申します、との返事だった。  それその権兵衛だッという騒ぎに、いち早く勝手口から露路へと逃げ出した権兵衛を小林藤右衛門が追いかけて取り押さえ、町内のものに監視させておいて須田家から上役の組頭へ、組頭から町奉行中山出雲守へと連絡。主殺しの直助は七月二十二日、江戸町中引廻し、二十四、五日の両日、日本橋に晒され、二十六日、鈴ケ森で|磔 《はりつけ》になった。  ちょうどこの頃、権兵衛こと実は直助ではなく、本名が権兵衛という男がこれまた主殺しで掴《つか》まった。その話はここでははぶくが、これが直助と一緒に晒され、一緒に磔となった。  この両者混合のモデルが、お岩さんで有名な『東海道四谷怪談』(四世鶴屋南北作・文政八年・一八二五・江戸中村座初演)に登場する直助権兵衛。またその実説に近くつくられた戯曲に岡本綺堂『直助・権兵衛』がある。  さてこの直助に殺された中島隆碩とは実は小山田庄左衛門の世を忍ぶ仮の名、赤穂浪士のくずれはいつの間にやら医者に化けていたのだ。  江戸時代、医者の国家試験なんてない。しかるべき医者のところで二、三年も修業するか、少し学問があれば簡単に開業できた。  江戸時代の名医、京都に住み天皇の侍医でもあった橘|春暉《はるあきら》(南谿・文化二年・一八〇五歿)の『|北※[#「窓」の旧字体]瑣談《ほくそうさだん》』にも、 「医者たるものの持つべき書籍は内経《だいけい》 本草 傷寒論の三部なり 此三部は生涯読むべき書なり 是を外にしては医者といふ事なし」とあり、眼光紙背に徹しなくても、この三種の本のウロ覚えで結構開業できた。  ただ商売として成り立つかどうかは腕次第、評判次第で夜逃げの医者だって少なくなかった。  医者といさかいを起こした男。医者が拳《こぶし》を振り上げてなぐろうとすると、ちよっと待って下され、お怒《いか》りなら私を足蹴にして貰いましょうと言う。傍《はた》の人が不思議がると、その男が言うのに足蹴ならば死にはしないが、あの医者の手《ヽ》にかかっては助からぬ……なんて江戸の小咄があるくらいだ。  直助捕縛の端緒となった脇差は備後《びんご》(広島県)三原《みはら》物で無銘だったようだ。享保六年(一七二一)六月の御触書(『御触書寛保集成』による)にも「刀一腰身三原」とある。 『江戸の白浪』(三田村鳶魚)で「三原の伝太の鍛えた脇差」というが、三原の伝太なんて実在しないから「三|池《ヽ》の典太・伝太とも」と混同されたものか。  しかし三池典太光世とは筑後三池住、平安の承保頃(一〇七四〜一〇七六)の刀工と思われ、在銘は絶無にひとしく無銘を極めたものでも大名物《だいみようもの》。庄左衛門ごときものの手に入る刀ではない。  三原は永い間刀剣の産地だから、数多くの刀工はいたが名工に乏しい。  庄左衛門のこの脇差は赤穂城離散の折、分配金と共に武器庫の刀を貰ったものだ。  赤穂義士快挙より十九年目、湯女風呂で泥酔して遅れをとったとも伝えられる小山田庄左衛門は、世を忍び生きながらえたものの、最後は悲惨だった。  赤穂義士異聞といえば赤穂浪士と戦って討死した吉良家の人間に小林平八郎がいる。映画や講談でお馴染の人物だが『まくら絵師列伝・北斎』(林美一)には、 「小林平八郎は討入りの物音を聞くと飛起き五歳になる娘を起こして〈声を立てるな〉と言い聞かせ、討手のすきをうかがい塀を越えて吉良家門前に住んでいた幕府の御用鏡師中島伊勢の表戸を叩き〈母もないこの娘、われ亡きあと何卒不憫をかけられて御養育下さるよう……〉と頼み、吉良邸内へ引き返していった。この娘がなんと有名な江戸の浮世絵師、葛飾北斎の曾祖母にあたる人だ」と詳しく書かれている。  なおまた十七歳の美少年とて義士の中でも格別人気のある矢頭右衛門七は、世間では「ヤトウ」と読むがそれは間違いで「ヤコウベ」と読むのだと『横から見た歴史』(日本放送協会JOAK講演集・昭和4年)の中で太田能寿(『赤穂義士京都圓山の会議』)はいう。     混浴ばなし  戦後間もない頃だったが、北海道は定山渓《じようざんけい》の温泉でガランとして大風呂に浸っていると十数人の女の子がドヤドヤと入って来た。北海道育ちの娘は前をかくさない(今は保証の限りではない)。雄大な自然の環境に育ったせいだろうな。だが驚いたのはオレだ。一列に並んで堂々と大手をふってオレの鼻っ先を通るんだから……。  壮観なんて思う気持の余裕なんかない。ただもうなまぐさい一陣の風と共に、コーモリの大群が飛び去ったみたい。オレはその夜、はらいのけたたき落としても襲いかかる無数のコーモリの大群とたたかう夢を見てウナされた。まさに日本版のヒッチコックおじさんだ。  ところが数年前、伊豆の海辺の温泉で大風呂へ入ろうとしたら、三人ばかりの女の子がボチャボチャやってた。  オレが入ってゆくと「ヤーネ」てな顔をして、そそくさと出て行ったが、タオルを乳房から黒い谷間まで垂らしてオレの目を防ぐカッコウがおかしかった。  日本の女ってえのは、胴長短足が多い。しかも背後は無防備だ。長い背中と短いアンヨにはさまれた尻が、ヨチヨチ・プリプリ。なんのことはないアヒル艦隊の行列だ。ヴェテランのストリッパーは絶対に尻を見せない。てめえの泣きどころを知っているからだ。  前を隠さないといえば、高貴の姫君もそうだそうな。変な意識などまるで無いからであらせられるからだ。  やたらに前をおさえてワァとかキャアとか騒ぎやがる娘っ子は、どだい下賤の育ちなんだ。  で、その三匹のアヒル艦隊が風呂を出ていったあと、宝くじに一番ちがいではずれたような気持で湯ぶねに足をのばすと、ジャリジャリと足にさわるものがある。砂だ。  湯から出て番頭に「おい、湯ぶねに砂があるぜ」と注意したら、番頭が言った。 「たぶん、海水浴の娘さん達が入ったんでしょうヨ。貝は真水で砂を吐くって言いますから……」  混浴なんて今や地方のよほど鄙びた温泉にでも行かなきゃないが、江戸のはじめの銭湯は男女混浴だった。  これ入込《いりごみ》湯というのだ。江戸ではイリコメ湯でもなく、イリコミ湯でもない。イリゴミ湯と言わなきゃ、江戸弁じゃない。  地名でも、むかしは駒込《こまごみ》、牛込《うしごみ》と呼んだ。神田川《かんだかわ》、千川《せんかわ》はカワと澄む。江戸っ子の飲料水を運ぶ川だ。濁っておたまり小法師があるもんか。隅田川は飲み水に関係ない。ガワでいいのだ。  ひところ「神田川《かんだがわ》」という流行歌があったが、あの作詞者も歌手も、きっと江戸っ子の末裔じゃない。  で、男女|入込《いりごみ》のはじめは、古代は温泉だろう。道後の湯、有馬の湯など古くから知られているが、温泉国の日本のこと、諸国諸所に湧き出していて、男女はおおらかに混浴を楽しんだろうが、奈良、平安の頃には男女の別があった。もっとも寺湯で坊主と尼が一緒に入れば、たちまち歓喜仏となるおそれがある。  会津藩の国学者沢田|名垂《なたり》(弘化二年・一八四五歿)の名著『阿奈遠加志《あなおかし》』に──、  むかし|源 敏《みなもとのさとる》という好き者がいて、伊予の湯(道後だろう)に「ゆあみしける時 おなじゆぶねに いりゐたりける尼法師 いと|あて《ヽヽ》〈上品に〉なまめき ゐたるを見て 例のこころみだれ〈好きごころをおこし〉いかで抱《いだ》きつかばやとおもひ 足さしのべて 心あてのほどをさぐりけるに 尼うち驚き こはらうぜきなりと腹立ちけれども……」  源敏が足をのばして、尼の股ぐらを足の指でコチョコチョやると、尼はびっくりして、なにをなさると怒ったが、敏はすかさず、   とても世を よそに 古江《ふるえ》の |あま《ヽヽ》小舟    葦《あし》のさはりを なに 厭《いと》ふらん  つまり海の入江の浅瀬で、海草取りをしている海女《あま》(尼)の舟《ヽ》は入江の葦(足)が触れたからとて気にかけることはありますまい、と歌を詠んだわけだ。  尼もそう言われると、なにかオツな気持になっちゃって、   さらば夙《と》く〈早く〉棹さし寄せよ 世の海の     海松布《みるめ》〈食用の海藻〉をなほも いとふあま舟  あたしは男を断《た》った尼。人に見られたら(|みるめ《ヽヽヽ》)大変。誰も来ないうちにいそいで、その棹《ヽ》を私の舟に押しつけて頂戴な……と、「やをら 寄り来にけり」  源敏に尼が抱きついてきたという物語がある。  江戸時代は、はじめずっと男女混浴だったのに、江戸の後期の寛政三年(一七九一)正月二十七日幕府は男女入込湯|停止《ちようじ》の禁令を出した。  その一部を原文でみよう。 「町中《まちなか》男女入込湯場所 右者《みぎは》大方場末之町々|多《おおく》有之間《これあるあいだ》 男湯女湯と|相分焚候 而《あいわけたきそうろうて》ハ 入人《いりにん》少ク渡世ニ相成|不申《もうさず》ゆへ 入込《いりごみ》ニ仕來《しきたり》候儀と相聞《あいきく》 其段ハ|無 據《よんどころなく》 子細《しさい》も有之《これあり》候得共 場所柄相応之所ハ入込ニ焚候儀 仕來《しきたり》とは|乍 申《もうしながら》 尚|如何《いかが》ニ候 尤《もつとも》是迄|刻限《こくげん》を以相分《もつてあいわけ》 又者《または》日を分《わけ》 男湯女湯と焚來《たききたり》 候も有之候 刻限ニ而《て》ハ却而《かえつて》まきらはしく候間 以來場所柄は勿論 場末たり共 入込湯は一統ニ堅ク停止《ちようじ》せしめ候……以下略」  男女別の湯にすると燃料その他の出費がかさみ商売しにくいというのが入込の理由だったようだ。場所によっては男の入浴時間と、女の入浴時間をわけて営業した湯屋もあったが、これまたまぎらわしいから場末の湯屋といえどもこれからは一切混浴まかりならぬというお達しだった。  しかし、このあと享和三年(一八〇三)に再度、きびしい御触れが出ているところを見ると、せっかく男も女も楽しんじゃってる混浴は跡を絶たなかったらしい。  ついに打ちつづく全国的飢饉で疲弊した幕府の建て直しに登場した老中、水野越前守忠邦のいわゆる天保の大改革によって天保十二年(一八四一)入込湯は息の根をとめられてしまった。  入込湯がなぜいけないか。その事情を物語るものに、肥前平戸(長崎県)六万石の藩主、松浦|壱岐守清《いきのかみきよし》(号・静山《せいざん》・天保十二年・一八四一歿)の著『甲子夜話《かつしやわ》』があるが、その中に、 「多くは入込とて 男女混浴することなり 因《よ》って聞き及ぶに |暗 処《くらきところ》に また夜中などは|縦 《ほしいまま》に姦淫のことありしぞと……」  とある。この江戸の湯屋「柘榴《ざくろ》風呂」とて板囲いの前面に人がくぐって入るほどの入口しかない。これを「ざくろ口」と言った。当時の鏡はガラスじゃない。白銅などの鋳物を磨いたものだ。ざくろの実や、カタバミなどの酸で磨いたため、鏡に要《い》る、「かがみ入る」というシャレで、「ざくろ口」と言った。だから湯槽の中はまっ暗、そこへ男も女も肌を接して入るのだから、いまなら満員電車の停電みたいなもの。痴漢横行に絶好の場で女にとっては「湯断《ゆだん》」が出来なかった。   せんずりを かけと内儀《ないぎ》は 湯屋で鳴り  気の強いオカミさんのどこかを、誰かがさわったか、毛を二、三本引っこぬいたか。 「バカヤロウ てめえなんか 女に手を出すガラじゃあないよ。せんずりでもかいていやがれッ」とカミさんが大がなりというわけだ。   入込はいいが 忰《せがれ》は不得心  女共の間などに入って湯につかっていれば気分の悪かろう筈はないが、困ったことに股間のセガレが怒りだす。まわりの女たちに知られないようにナダめるのに一苦労だ。  だが一面便利なこともあった。娘のミヨちゃんも、若い衆のゲン公も風呂ではハダカで一緒。洗い場も一緒。だからボインに惚れたとか、ヒップが気に入ったとか、見合なんざすることはないくらい結構な時代だった。   念のため 仲人湯屋で 見合させ  野暮な法律、もっとも法律ってえのはいつの時代も野暮なもんだが、天保で一応、ともかく一応なのだ。入込湯は消えた。  江戸のはじめの慶安ごろまでは入込は入込でも男は褌《ふんどし》、女は腰巻きをして湯に入った。腰巻きが湯巻・湯もじといわれる所以だ。  男の褌も女の湯巻もかならず洗濯したきれいなものを湯屋へ別に持参して、それをしめかえて入浴した。  いまは銭湯に汚れたパンティなど持ち込んで洗濯している女がまま居るそうな。もっとも近頃は前をおさえてかくすのは男湯のほうだと銭湯のオヤジの話だ。  湯は昔も今も一人一石(一八〇リットル)の水が必要。湯屋は上水と井戸を併用したが、大阪は井戸水に塩気が多く、川っぷちの湯屋は川から水を引いたという。湯屋の数は京阪は自家風呂が多いため江戸とくらべると数が少なかった。江戸は天保ごろで五百七十軒ほどだった。  関西では「婦女ら風呂に浴するもの麁〈粗〉服多く 美服は甚だ稀也 適々別居する妾など自家に浴戸〈風呂〉なき者 美服にて婢を供し風呂やに行き浴す」(『守貞漫稿』)  江戸ははじめに言ったように将軍様のお膝元。明暦の大火では江戸城まで焼けてしまうひどい目に会っているし、その上、水利の便がひどく悪い。  水道管といっても丸太をくりぬいただけのものだ。とても潤沢に江戸市中へ配水するわけにはいかない。  大阪の狂言作者で雑学者、オレの遠い祖先みたいな西沢|一鳳《いつぽう》(嘉永五年・一八五二歿)が書いた『皇都《みやこの》午睡《ひるね》』には「江戸は埃っぽい街で、海に近く風も強い。水利も悪いので、大名屋敷などは別として、かなり裕福な家でも風呂はない。宿屋も客は銭湯に入りにゆく。豪商の内儀、娘までが銭湯へ通う」と書いている。  だが江戸は政治の都だ。江戸ばかりか諸国の情報や噂はたちまち江戸に伝わる。  風呂とは、江戸市民がこうしたことを逸早く知る場だったのだ。  早耳、耳学問、浴客同士の交歓の世間話こそ当時の新聞だと言ってもいい。  こうした中から、京阪とはちがう江戸庶民の小粋な風俗が生まれていったのは式亭三馬の『浮世風呂』によく書かれている。  江戸時代の風呂の奇習、毛切り石については知っている人も多かろうが、洗い場に毛切り石という拳大の石が二つ置いてあり、男はその石をすり合わせてゴリゴリと毛をすり切った。どこの毛か説明はいるまいが、江戸時代は皮膚病や性病がひどく蔓延していたから、毛切れをするとそこから黴菌が入る。  良い傷薬が無い時代だから、あとあとが大変だ。また男は褌のワキから毛がはみだすので切ったともいう。   柘榴口《ざくろぐち》 蛙啼《かわずな》くなり 毛切石   女湯へ 蛙きこゆる 毛切石  石と石とをゴリゴリ合わせる音を蛙の声に見立てたわけだ。  この毛切り石は元来、男湯だけのもので、女はやらない。   女湯は 石できる音 さらに無し  という句もある。  石で切るのは、ハサミだと切ったあとが鋭角だからチクチクするためだ。  しかし花咲一男『江戸入浴百姿』に所収の当時の風俗画を見ると、風呂場に二人の全裸の男女が画かれてあり、女が男の陰毛を毛抜きでぬいてやっている。これは人目の多い入込湯ではなく湯女か廓《くるわ》の風呂かだろうが、男はすることがないから女の秘所を拇指《おやゆび》でこちょこちょやっているらしく、見るからに羨ましい光景だ。  女も遊女は土手の両側だけはきれいに抜いておいた。これまた毛切れをふせぐためだ。  毛についての詳しいことは前著『雑学猥学』をご覧ありたい。  古代の石鹸は、澡豆《そうず》(小豆《あずき》の粉)、|あかざ《ヽヽヽ》という野草の灰、皀莢《さいかち》という豆科のこれまた野草、これは漢方で利尿・去痰剤《きよたんざい》にもなるそうだがその莢《さや》、米のとぎ汁などが用いられたが、江戸の頃は浴用は米糠を布の袋に入れてつかった。これを糠袋という。これも糯《もち》米の糠が上等といわれた。洗濯は灰のアクなどだったようだ。  洗顔用の高級品は、鶯《うぐいす》の糞《ふん》で、   鳥の糞《くそ》 顔のはたけの こやし也  という句がある。  鶯の糞は値が張ってつかい切れないと、鶏の糞などためした女がいなかったろうか。だって今でも卵の白味で、パックする女性がいるではないか。どっちみち鶏の尻から出たものだ。  余談だが、人形の顔は胡粉《ごふん》という石灰石の粉を塗って白く仕上げるが、美しい艶を出すためには男のザーメンを混ぜると一段と輝きを増すのだと友達の九州博多の粋人、帯谷瑛之介《おびやえいのすけ》に聞いた。嘘だろうと言ったら、絶対に本当だとリキんでいたからひとまず信じておく。  銭湯に行くにはこのほか|へちま《ヽヽヽ》とか軽石、木炭(朴炭《ほおずみ》)など持っていった。木炭は爪・手指などをこするためのものだ。こうした着がえや道具をひとまとめに包むのが湯風呂敷、いまのフロシキだが、湯具以外のものを包むのは、本来は平包《ひらづつ》みと言ったのだ。  さて女湯では、   女湯の 義理は小桶《こおけ》の つかいもの  サアサアおつかい下さいまし、なんて小桶に湯を汲んで知り合いの傍らへ置く。顔のひろい女だと何人もが汲んでくるから身辺はぐるりと桶の行列。この小桶のやりとりを江戸の湯屋は「お世辞湯」といって、文字通り湯水のごとく使われては湯屋は商売あがったりだ。そこで「お世辞湯おことわり」の張紙を出すくらいだった。  その点、男はエチケットをわきまえていた。湯ぶねに入るときは「冷《ひ》えもんでござい」つまり身体が冷えていてせっかくのいい湯をぬるくして相済みませんと先客へ挨拶をした。  その風呂に、田舎から出て来たばかりの爺さんが入っていて「ひえもんでござい」と声をかけられて、 「へえ おらは源右衛門で……」  熱湯好きの江戸っ子の風呂らしい挨拶だが、それでも熱すぎると客は羽目板を叩く。すると湯屋番が出てきて水をうめる。うめたのにまた叩く。 「うめましたよ」「もっとうめろ」そこでまたうめたのにまた叩く。  アタマにきた湯屋の亭主が出て来て湯加減をみて「ウーム こりゃあ素人《しろうと》には熱い……」     珍奇風呂いろいろ  京阪はぬる湯を好むが、江戸っ子は熱湯《あつゆ》の中で目をむき、|いき《ヽヽ》をころして命がけで入っていた。  そんなとき、ドボンなんて誰かが湯ぶねに飛び込んだら、熱さを我慢する限度にきているからたまらない。身体が熱いのか痛いのかわからないくらいビリビリしちゃう。それも江戸っ子ともなれば弱音は吐かない。 「オイ、静かに入らねえか。湯がヌルくなっちゃうじゃねえかッ」  熱湯好きの風習はどうしておこったかわからない。  ただ想像するのに、江戸名物、喧嘩火事、伊勢屋、稲荷に犬の糞と言われるように江戸へは伊勢、近江の商人が多く進出し成功したことは、伊勢松坂の出身越後屋がいまの三越や三井銀行の前身であることでもわかる通りだ。  金もうけに抜け目のない伊勢商人のひとり、さきの伊勢與市が江戸の風呂の元祖であったことなど考えると、江戸の湯屋は伊勢出身が多かったのではないか。 『南総里見八犬伝』で有名な曲亭馬琴《きよくていばきん》(嘉永元年・一八四八歿)の『羇旅漫録《きりよまんろく》』には「伊勢路の居《すえ》風呂は大かた戸棚なり云々」とあって、燃料の経済性もさることながら熱風呂だったと思われるし、また加藤|曳尾庵《えいびあん》(医者・文化八年・一八一一歿)の『我衣《わがころも》』には、 「伊勢・山田あたりにては から風呂〈蒸し風呂〉を焚《たく》 客をよびて入るを第一の馳走とす から風呂に入たる時 背の垢をかく者来りて入たる人の背へ息を吹かけて面白く調子をとりて垢をかく 是を風呂吹きと云ふ……」とあって今日、われわれが食膳に供する風呂吹き大根とて土鍋で輪切りの大根を焚き、熱いやつをフウフウ吹きながら、柚味噌《ゆずみそ》をつけて食べるが、その語源は、この伊勢の風呂吹きが息を吹きかけるところからだと言っている。  つまり江戸人よりさきに伊勢人が熱湯好きで、その伊勢人の商う湯屋が熱いのは当然。武田家の臣高坂昌信の著『甲陽軍鑑』(天正三年・一五七五)にも、「伊勢の国衆ほど熱き風呂を好みて……」とある。それをいつか江戸っ子が馴染んで熱湯好きになったのだとオレは思うのだ。  江戸の銭湯のはじめは弓に矢をつがえたものを表に吊し看板とした。柳亭種彦の『足薪翁記』に「銭湯風呂の看板に矢を出して |ゆいり《ヽヽヽ》とはんじさせたといふ洒落《しやれ》はいつの頃にありしこと歟《か》 今も他国にはあれども 江戸には絶えてなし」  弓矢の看板は「弓射《ゆい》る・湯入る」の洒落だが、元禄ごろまででその看板はなくなり、種彦の天保時代は地方の湯屋にはあっても江戸では見当らなくなったのだ。  こうした看板のこと、いまでは絶えてしまった江戸のさまざまな商売の風俗を図版で詳述したものに林美一『江戸看板図譜』(昭和52年・三樹書房)という好著がある。  さて、銭湯は京阪では風呂と言い、江戸では湯屋と言った。それも「|ゆうや《ヽヽヽ》」と発音しなければ江戸弁じゃなかった。  ところで、この湯屋商売、むかしはいろいろ珍奇なものがあった。  山東京伝(京山の兄・戯作者・雑学者・文化十三年・一八一六歿)の『骨董集《こつとうしゆう》』には、「行水船《ぎようずいぶね》」というのが古くからあったこと。また、六左衛門という男が「万事|元手《もとで》なければ小舟に居《すえ》風呂をこしらへ 碇《いかり》をおろしたる大船のあたりを漕ぎありき 一人三銭の極《きわ》め〈定価〉」で入浴させた上、軽い食事や酒なども用意したらしく、これは重宝と停泊中の大船の連中が入浴したので金儲けをしたと書いている。さらに京伝は「行水船より思ひつきて居風呂船をこしらへ居風呂船より今の湯船といふものいできしなるべし」とも言っている。  今日、われわれが浴槽を「湯ぶね」というのはこれが語源か。  また花咲一男『江戸入浴百姿』によれば、明和三年(一七六六)刊の『和漢船用集』に「湯舟武州江戸にあり 舟に浴室を居《すえ》 湯銭を取て浴せしむる風呂屋舟也」とあるという。  また柳亭種彦の『用捨箱』には、 「延宝八年〈一六八〇〉京師の記に辻水風呂《つじすいふろ》云々といふ事あり……水風呂《すいふろ》を所々に持ありきし事あり それをば荷《にな》ひ水風呂《すいふろ》といへり」とある。  水風呂というのはべつに水ではない。蒸し風呂に対して湯を浴びる据《すえ》風呂のこと。桶をかついで町の一隅で湯を沸かし、これまた三文程度のわずかな銭で入浴させたらしい。  わずかな湯銭、一人用の風呂桶、客がかわるたびに新湯にするはずがないからしまいには、どろどろの湯だったと想像する。  もっと珍奇なのはこれは入浴するためのものではないが、金魚風呂というのがあった。前出、加藤曳尾庵の『我衣』の文化九年(一八一二)の項に、 「居《すえ》風呂の鉄炮《てつぽう》〈筒状の風呂釜〉に火を焚きて その湯の中へ金魚 あるひは緋鯉などを放し見せ物とす 蔵前に壱所 両国に壱ケ所なりしが 此比《このごろ》は所々にふへて見ゆ 見物に疑を晴させん為に その湯の中へ手を入させてみする 熱湯程にはなけれど よきかげんのあつき|ゆ《ヽ》なり 魚は鉄炮のまはりをおよぎ歩行《あるく》 いかなる薬か用ひけん しらず云々……」  で曳尾庵もはじめはその仕掛がわからなかったが、そのあとの記に、 「予 一日《いちじつ》是を見るに 風呂の鉄炮の中より上へ仕切りをして 其上にて火を焚く 湯の上はわけども 中より下は水なるゆへ 魚何ともなく游《およ》ぐ 火は風呂の鉄炮より出るゆへ 誠に不思議に思はる 夫《それ》も緋鯉などは丈夫なれども 金魚は日々死すよし よく工風《くふう》したる物也と銭を出して感心す」  とあって曳尾庵は敵ながら天晴れみたいな感心をしている。  西紀前百年ごろからはじまったというローマの浴場。ことに数ある浴場のうちヂオクレタイン帝がつくったカラカラの浴場は有名だが、その名はカラカラのくせに規模は壮大。十二万四千百四十九平米、二千三百人が一度に入浴できたという(藤浪剛一『東西沐浴史話』)。上下を問わず明け暮れ風呂を楽しんだためにローマ帝国は滅亡したとも言われるが、欧米の風呂についてはまたの機会にゆずりたい。  ただヨーロッパの奇怪な風呂の一つをあげておこう。  相馬二郎『変態風俗史料』(昭和6年)によれば、 「十七世紀の終りから十八世紀の初め頃、ハンガリーのネダスヂー伯爵夫人という絶世の美女が領土から集めた十二、三歳から十七、八歳の少女を片っ端から殺して生血をしぼり取った。およそ二十年間にその数六百人をこえたという。  娘たちの親は、伯爵の城内で侍女として暮しているとばかり思っていたら、その少女たちは生血をしぼられ、その血は城内の奥深い浴槽に運ばれて、日毎夜毎、伯爵夫人の肌を真っ赤に染めていた」という。  さらに同書によれば「西洋の中世紀頃は、死刑があると民衆は我もわれもと刑場にかけつけ、罪人の頸から|迸 《ほとばし》り出る血を茶碗に受けたり、ハンカチにひたしたりして、その場で飲んだ。  フランス革命の時、国王ルイ十六世が断頭台で首を刎ねられたとき、周囲にいた兵士どもが駈け寄って、銃剣やハンカチにその血をひたした事は有名な話で、ドイツでもつい近頃まで死刑になった人の血をハンカチに浸して貰うのが一枚につき十マルク、暖かい血一オンス五十マルクという相場だった。  こうした風習は、人間の血、ことに罪人の血は癲癇《てんかん》や痛風《つうふう》、また若返りの妙薬という西洋人の迷信が今でも伝っている」からだという。     明治の銭湯珍譚  天保の男女入込湯の禁令は江戸でしばらく守られただけでその後もしばしば入込湯の禁令が繰り返し出されているところを見ると、男は女の裸を見たいし、女は男のモチモノに興味津々。湯屋も客足が遠くなっちゃ商売にならないから、つい入込みをやっちゃうため、なかなかそのあとを絶たなかった。 「……男女風呂を一ト風呂に致し候もの有之由相聞《これあるよしあいきこ》え 右は|前々より度々相触れ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》候通り 男女入込は|難 相成《あいなりがたく》……」(慶応三年・一八六七・一月二十日)と、いくら御触れを出してもきき目はなかったようだ。こうしてこの翌年徳川幕府は崩壊し明治に入ると江戸の禁令など紙クズ同然、東京でまた混浴が賑った。  明治九年十一月十五日、東京|曙《あけぼの》新聞の記事に、 「……湯屋では女湯と男湯の境の仕切りを在原《ありはら》格子に仕替へて……」  在原格子とは業平《なりひら》格子ともいって、細い角材を斜に交差させて組んだ格子だから、男湯から女湯は丸見え、この記事は金春《こんぱる》辺(東京・新橋)の芸者の入浴を男湯の連中が品さだめをしていることを報じたものだが、明治になって政府は一応明治二年二月に入込湯禁止を命じたが、板一枚で浴槽の上部を仕切っただけのものだったから、深くしずかに潜行して女湯へバアなんて行くヤツがいた。  五年三月、七年九月、八年十月、重ねて混浴禁止令を出したが一向に改まらない。  この明治銭湯風景を『江戸の花』(野口竹次・明治二十三年)から少々抜いてみよう。 『松葉屋の暖簾《のれん》をくぐる中年増《ちゆうどしま》、新造《しんぞ》の尻を狙ひ込み、凡太《ぼんた》兄きや八熊|連《れん》、其|外《ほか》長屋の鉄《かな》棒曳き……わけて柘榴口の混雑は瓢《ひよ》っ床《とこ》野郎の猿額を別嬪《べつぴん》の臀《しり》に突き当て、お三どんのお臍《へそ》はお爺さんの睾丸《きんたま》と摺れちがう……疥癬《かいせん》のあとを掻き/\遠慮会釈も荒くれ男が、ツーイとトントン拍子でヘイ真っ平御免なせい」  全国公衆浴場業環境衛生同業組合連合会編『公衆浴場史』というおっそろしく長い名前の本によると、 「明治二十三年〈一八九〇〉一月十七日、警視庁令で七歳以上の男女混浴を禁止したが徹底せず明治三十三年五月二十四日、内務省令で十二歳以上の男女混浴の禁令が厳達されて混浴の風習は絶えた」という。  いまは昭和二十三年七月十四日、厚生省令二七号「公衆浴場法施行規則・第三条・十歳以上の男女を混浴させないこと」で混浴してはいけないはずになっているが、地方の温泉地など今なお混浴のところがある。  混浴といえば境田昭造『現代ベラボウ紳士録』に面白い話がある。  いつのころか落語家たちが、伊豆の温泉へ懇親旅行をしたときのことだ。  夜更けて、古今亭志ん朝が、岩風呂へ入ろうとすると、先に湯にひたってる男がいた。三遊亭円楽だ。その円楽が志ん朝に自分の口もとをシーッと指で押さえて、奥のほうヘアゴをしゃくって見せた。 「ほの暗い岩のくぼみに、夜目にも白い若い女の肌がポオッと浮かんでいる。  そのとき円楽が志ん朝にささやいた。 〈何とか話しかける手はないかねェ〉 〈ワケないさ 俺やっちゃうよ〉  本来、無精なくせにこういうことになるとバカにマメになる。スイスイと湯をかきわけて近寄った志ん朝は、愛嬌よろしく、くだんの女性に向かってきいたという。 〈あのォ……いま 何時《なんじ》でしょうか?〉……」  裸の女性が時計をもってるはずがない。  明治時代の混浴は男と女ばかりじゃない。犬を連れて銭湯に入るヤツがいた。のぼせないように濡れ手拭をたたんで頭にのせ※[#歌記号]いい湯だナ……なんて人間様みたいな顔をしている犬を想像するとおかしい。  明治六年十月の『新聞雑誌』第百五十五号に「今般、府廳ヨリ府下浴場ヘ、左ノ指令ヲ掲示セラレタリ。湯屋浴場エ畜犬|引参《ひきまいり》浴セシムル者|有之哉《これあるや》ノ風聞相聞候ニ付、万一右様ノ所業ニ及ビ候者有之候ハハ、屹度《きつと》|相止 可申《あいとめもうすべく》、若不相用《もしあいもちいず》候ハハ速ニ邏卒《らそつ》番人〈明治七年一月・巡査と改称〉ヘ告知|可致 事《いたすべきこと》」  わざわざ東京府庁が通達を出すくらいだから、犬と人間の混浴は当時どこの銭湯でも見られた風景に相違ない。  なお『新聞雑誌』の同じ号に「先ごろ、湯の温度は健康上九十度〈華氏〉を保持せよと府庁が通達を出したのに、客が熱湯好きの連中のせいか、湯屋の一軒も温度を計って焚くものがいない。依然として熱湯《あつゆ》で、温度は九十度とせよというお触れをどうカンちがいしたか、朝から晩まで一日のうちにお百度参りみたいに数十度も銭湯に通ってくる客がいて、湯屋の番頭がわけをたずねると、お上《かみ》のお達し通り、健康になると思ってなんとか一日に八十度から九十度ぐらい湯に入ろうと努力しているのだと大マジメなヤツがいた。そうかと思うと、こっちは一年のうち九十度、湯に入れということかと、四日目ごとに銭湯へ通うのを義理固く守っているヤツもいた」と報じている。  この頃はまだ柘榴口の風呂、明治十五年頃から「改良湯槽」が出来て今のような銭湯へと移ってゆく。  あの銭湯の風景画は大正元年(一九一一)、神田猿楽町のキカイ湯というのが川越広四郎という画家に頼んで描いてもらったのがはじまりだという。ペンキ画かどうかオレは知らないが、とにかくこれが満都の評判となり、市内の湯は、みなこれにならったと前出『公衆浴場史』にある。 「ハダカでつきあう」という言葉があるが、かつては銭湯は社交場であり、浴客は世の出来事や耳学問をする場でもあった。  ときには喧嘩早い江戸っ子、文字通り水かけ論からフリチンの大騒ぎもやったらしく、江戸の銭湯には必ず、「喧嘩口論 堅く無用」の貼札がしてあった。   湯屋の喧嘩 すべったの ころんだの  明治十年八月二日の東京|曙 《あけぼの》新聞は「近頃湯屋に茶汲み女を置いているが、浮気もはなはだしく……」と、江戸の湯女の復活のきざしが明治に入ってあったことを報じている。  もっとも、明治の偉い連中、伊藤博文、大隈重信、井上|馨《かおる》など、新橋の料亭で一風呂浴びては「おとめ按摩」といわれた、|おとめ《ヽヽヽ》という美人に|変な《ヽヽ》マッサージをしてもらうのを楽しみにしていたと、浜の家の女将《おかみ》の思い出話にあるくらいだから、あまりきびしい取締りも出来まい。明治のおスペの客が時の大政治家たちであったとは楽しい話ではないか。  また明治十七年八月十一日の時事新報は「湯屋に煽風器を備えつけた」と報じている。場所は赤坂一つ木の松の湯「天井へ幅三尺、竪《たて》九尺程の唐紙《からかみ》様のものをつるし、これへ縄車を仕掛け」湯屋の番頭がエッサエッサと手で引っぱって風を起こした手動式煽風器だった。電動の煽風機はこの年から十六、七年後にやっと発売された。  明治十一年には、新橋烏森に灌漑湯《かんがいゆ》と言って「ショール・バッス」なるものが開業、人気を集めていると読売新聞・明治十一年七月十七日号にある。  ショール・バッスてなんだと思ったらシャワーで、これがまた大変珍しかったのだ。  紀元前三世紀頃のギリシアの物理学者アルキメデスが風呂に入っていて「浮力の原理」を発見した。いわゆるアルキメデスの原理だ。  ある貴婦人が美肌を保つために、百本の牛乳を湯ぶねに注いで牛乳風呂を楽しんだ。  あとで使用人たちが「もったいない。びんへ戻して、みんなで飲もう」と空びんに詰めてみたら、なんと不思議なことに牛乳が百と一本分あった。これを「洩《も》ラシ女《め》デス」の原理という。 [#改ページ]   猥奇・接吻縦横学     珍説・接吻起源説  女の運命は 最初の接吻のとき 決まる [#地付き](モーパッサン)  接吻のはじまりは、なにか。  まず「口快説」がある。大昔は飲食するにも器物が無かった。  未開の蛮族など、今も器物といえないようなものを食器としているが、唐文化移入華やかなりし時代の日本でも、『万葉集』にあるように、   家にあらば 笥《け》に盛る飯《いい》を 草枕     旅にしあれば 椎の葉に盛る  と、ひとたび都を離れれば木の葉が食器だったから、数千年、数万年の大昔は、どんな風であったか、おおよその見当はつく。  もっともこの「椎の葉に盛る」というのは食器が無いからではなく、旅先で神に祈る行事の時は、飯を椎の葉の皿に盛ったという説がある。  だが、つい先ごろまで、旅先の昼食に握り飯を竹の皮に包んで行ったおぼえのある人は少なくあるまい。  いまは、ビニールかなんかで包む風情《ふぜい》のない時代になっちゃったが、サンダース爺さんのフライド・チキンを、アメリカ乞食みたいにムシャムシャと街頭で食っている若い連中を見ると、握り飯を竹の皮で包んだつつましい昔の頃がなつかしい。  モノは食えばいいってえもんじゃない。いまの若ものたち、盛り場のゴミ箱から、残飯を漁っては歩きながら口ヘ運ぶ浮浪者と五十歩百歩ではないか。  そうかと思うと、握り飯をわざわざ買ってるヤツがいる。買って悪いとは言わないが、あれは自分で握って食べるところに妙味があるのだ。  鮨を握るほどの技術はいらないが、握り飯にもコツがある。コツという生活の知恵が味になっていなくちゃ、ほんとの握り飯とはいえない。  売る方もまた売るほうだ。握り飯は手で握るからニギリメシだろう。なのにポンポンと型で抜いて、握り飯とはこれいかに。メシヌキではないか。  握り飯といえば、オレは|思い出す《ヽヽヽヽ》と|思わず《ヽヽヽ》ゲェーッとなる|思い出《ヽヽヽ》がある。  ずいぶん前の話だが、友人おおぜい打ち連れ立って伊豆の長岡温泉へ行った。  ドンチャン騒ぎの宴が果てる頃、異口同音《いくどうおん》に「腹がへった」という。酒豪ぞろいだから飲んで騒いでいるうちはあまり膳のモノに手をつけていない。  そこでオレが「それじゃ握り飯をつくってやろうか」と飯櫃《おはち》を前にやおら握り飯をつくる段になって、さて手につける水がないことに気づいた。  茶碗片手に廊下に出ると、すこし先に便所があった。古風な建築の旅館で、便所のかたわらに手水鉢《ちようずばち》が置いてあった。  いままでどれほどの人たちが手を洗ったか知らないが、鉢の水は黄色く濁って、おまけに水面を黴《かび》とも埃《ほこり》ともわからないものがうっすらとおおっていた。  こっちもヘベレケに酔っていたし、どうせオレが食うんじゃねえや……と、その水を汲んで座敷に戻った。  それからが大変「オイ 握り飯は丸がいいか 三角がいいか」 「ハイ おれ三角」よしよし。 「丸いのたのむよッ」よしよし。  てんで片っ端から握って皆んなに食わせちゃった。とにかく可笑しいこと、なにしろ水の秘密を知っているのはオレひとりだ。 「ざまぁ みやがれ」と、飯のあるかぎり握って、さてまたドンチャン。ふと気づいて、酔眼もうろうわが手を見ると、いつの間にかオレもその握り飯を食いながら酒を飲んでいた。  話がはじめから脱線、キッスと握り飯とは関係ない。  で、こうした古代、母親は口うつしで子供に食物を与えた。いまでさえその遺習はあるではないか。  この原始的な母性愛の接吻が発展したものだという。  してみると、尺八なども母性愛のあらわれで「早く大きくなれ、早く大きくなれ」と、セガレの健やかな成長を祈る母なる愛の発露かも知れない。「ナメるように可愛がる」とはこれが語源だろうぜ。  さてまた母の乳房を吸う子供の口唇の触感が、母と子の愛情感覚をたかめた。だから幼児が指をしゃぶったりする行為は吸乳感覚の変型だともいう。  幼児に限るもんかね。いいオトッツァンが「愛情感覚をたかめる」という心理学を証明するために、オッパイに武者ぶりついているではないか。   乳首へ 夫は三毛《みけ》のように じゃれ [#地付き]一 雄  かと思うと、年頃の娘が試験勉強かなんかで無意識に鉛筆や万年筆の軸なんぞ、そおっと噛んでいるが、ありゃ何の快感の変型だろか。  そもそも人間の身体の中で、口は生命の門で、唇はその扉だ。  目は見えなくても、耳が聞こえなくても、鼻が無くても、口さえあれば呼吸はできるし、生命の泉である食物が摂取できる。  だから一番大切な唇で他人や他の物に触れるということは愛と敬意の直截的な表現だと考えられる。これが「口快説」につぐ「意識としての接吻」の起源だ。  ヨーロッパでは、古くから皇帝の前に臣下が跪いて、皇帝の足に唇をふれ忠誠を誓ったり、貴夫人の手に接吻して憧れの気持を表わしたりしてきた。  ところが日本はちがう。オレなんざ美女に忠誠を誓おうとしてヒッパタカレタ経験がある。日本のメロウどもには欧州の騎士道などトントわからない。だから敬意の接吻など日本には存在しない。接吻といえば、すべていいかげんな愛情を含めて惚れてるしるしにやるだけだ。  ほかに珍奇な起源説もある。 『キッスとダンスと自殺の学説』(赤神良譲・昭和5年)によれば「所有説」として、エスキモーのように、自己の所有物を舐《な》めることによって自分だけが使用できる|呪 《まじない》としている。したがって妻を時々舐めるのだそうな。どこをどうナメルのか知らないが。  ははあ、ツバキをつけとくってえのは、このことかいな──とオレは理解した。  この舐める行為は、唾液にはそれぞれ固有の臭気があり未開人は嗅覚が発達しているから、その臭気を相手に移し、他人からこの女はだれに属しているかをはっきりさせるための意識によるものだそうな。  文明人の嗅覚の退歩は、糖分の取りすぎという説があり、嗅覚の鋭い犬に糖分を常に与えると嗅覚が鈍るという。未開人は糖分の摂取が少ないから嗅覚が鋭敏なのだとこの本には書いてある。  だがオレはこう思う。嗅覚はダメでも文明人は味覚が発達している。だから相手の舌先の糖分を感知できるから「甘いくちづけ」なんて言うのではないか。  未開人のソレは、ちっとも甘くないから一長一短だ。  また食物などは、それを舐めることによって他の者に嫌悪を起こさせ、いきおい自分が独占できるからだとある。  これなんざ、日本でも子供たちがお菓子の取り合いによくやるテだ。日本民族が蛮族だった時代からの遺伝かも知れない。  また「医療説」というのがあるそうで、未開人は病気ことに精神病に罹《かか》ると、それは悪い霊魂が肉体の中に入りこんでいるからだと考え、エスキモー、アメリカ・インディアン、パラグァイ、ブラジル、豪州、南アフリカの人たちは、その病人に接吻して体内の悪魔を吸いだそうとする。この風習が進んで「あなたの体内の悪魔を、私が吸い出してあげましょう」ということが、「ご機嫌いかが」ということになって、互いに吸い合うようになり、それが愛の接吻となったのだという。  また「嫉妬説」というのは、太古、男が狩に出たあと、その妻がほかの男を家に引き入れ酒食を共にしていはしまいか、という嫉妬から、男は家に戻るや否や、まず妻の口へ自分の舌を入れて酒や食物の匂いや味が残っているかどうか調べる。またそうだから女は夫を送り出すとき、自分の口の味を夫が帰ってきて誤解しないよう念を押すために接吻をして貞操の証《あか》しとした。これが接吻の起源で、欧米では今日でも夫婦が外出するときと帰宅したときは、何をさしおいても接吻するのは、この原始の遺風がつづいているのだという。  さて、もっと愉快なのは「帰一説」なるものだ。  人間はもと三種類あった。一つの身体に男と女の二つがあるもの。それと男と男、女と女の組合せの三通りのものがあった。したがって手が四本、足が四本あり、力が強かったので慢心して造物主である神様に反抗した。怒った神様は彼らを二つに裁《たち》割ってしまった。  以来、彼らはもと一所《ひとところ》に付いていた相手、つまり「よりよき半身」を尋ね求め歩き、その相手にめぐり会うや抱き合って、再び別れることを嫌うようになった。だから男と女の恋もあれば、男と男、女と女の同性愛があるのは当然だという説なのだ。  アメリカのカーター大統領が、大統領就任祝いのパーティーで婦人客に、次から次へいろいろな形のキスをして「キス名人」の異名をとった。ことほどさように、今アメリカでは「キスという名の流行病」の話題でもちきりの時代で、この風潮をカリフォルニア大学のある社会学者は解明して、 「これまで軽く会釈していた相手には握手をし、握手の相手には抱擁、抱擁の相手にはキスと、近ごろ、おたがいの親密さの表現がエスカレートしてきている」という。  結局、これは「現代人の疎外感、孤立化への不安感が原因ではないか」という(昭和52年9月23日・朝日新聞)。またつづいて同紙は、「人前でのキスの流行」とイギリスの風潮に言及し、慎み深さが伝統であった英国で「かつて公衆の面前でキスしたのは王室と酒場の女給だけだった。ところがいまや一般にキスのあいさつが異常にふえ、ちょっとした集りに顔を出すたび、招いてくれた人だけでなく、同席したすべての客に、知人であろうが、初対面の人であろうが、キスをしなければならないなんて……」と、英国のザ・タイムズ紙の投書欄に載った一婦人のうっぷんをとりあげ、ある英国の学者の論評を添えて英国キス騒動のニュースを結んでいる。  いわく「英国は不況になった。おかげで階級を越えた嘆きを共有したことから、社会的ブレーキがはずれたため、人前でのキスが流行したのだ。貧乏は階級の壁を取り除き、人間を平等にする」。  これが英米のキスの近況だ。  日本に不況到来! 大賛成。われらは歯を磨き、口をとがらせ、美女と見ればたちまちチューできる時代を一日千秋の思いで待とうではないか。  オーストリアの劇作家であり詩人でもあったフランツ・グリル・バルツェル(一七九一〜一八七二)は、こううたう。   手は尊敬   顔は友情   唇は愛情   閉じた眼の上は憧れ   てのひらの上は懇望   腕と首は欲望   さてそのほかは狂気の沙汰 [#地付き](生田春月・訳)  さて、そのほかは……って、どこだ。「オレは狂気の沙汰が、いちばん趣味」なんて言うヤツもいようぜ。  江戸の川柳の、   こんにゃくで 舐めるは 男|不心中《ぶしんじゆう》  についての話は前著『雑学猥学』に書いたから、ここでは不心中とは「誠意がない」という意味のことだとだけ言っておく。  江戸時代は現今のように湯上がりで一丁などと簡単じゃないから、かなり醗酵《はつこう》したやつをナメる関係で、コンニャクを使ったのは男の必死の知恵だが、あんなクニャクニャしたもんじゃ女にバレちまう。怒った女に蹴とばされた男「必要は発明の母」という、今度は数の子をくわえてみた。  あれはシコシコ、ザラザラだから、女もウッフーンとなって気付かれることもなく大成功だった。  その男、戦果のかがやかしさを得々と仲間に自慢した。仲間は感心して、 「フーン 考えやがったナ 数の子とはいい工夫だ。で その数の子はどうした?」 「ナニ もってぇねえから 食べちゃった」  オランダの産婦人科医ヴァン・デ・ヴェルデが『完全なる結婚』を発表したのは、大正十五年(一九二六)だ。  これが今からおよそ三十年ぐらい前だったろうか、性解放の気運に乗じて日本でもいろいろな出版社から公刊され名著として大変な人気を集めた。  いわば戦後の性解放ブームのハシリとなった本だ。  だが、ヴェルデのオッサンが書いたその本の中には「日本人や支那人、安南人は、接吻をしない。彼らは口を触れないで、鼻と鼻をつけて、クンクンとやる」などと、ひでえヨタを飛ばしている。  これは嗅ぎ接吻、鼻接吻とも言ってこの風習は、大場正史『世界性語学事典』によれば、 「北はラップランド、東部シベリア、蒙古、中国北部から北米、グリーン・ランド、南はインドシナ、マラヤ、インドの一部、パキスタン、アフリカ諸地方、南米、南太平洋のニューギニア、ポリネシア群島、ボルネオ、オーストラリアにおよんでいる」という。  何事も慣れってえものだろう。口唇でのキッスより嗅ぐほうが興奮するらしく、嗅ぎあっているうちに漏らしちゃう男もいるらしい。  では日本にはいつ頃から接吻が存在したか。残念ながら古代のことはわからない。 『古事記』に、|大国主 命《おおくにぬしのみこと》 の妃《きさき》、須勢理毘売《すせりひめ》が、夫にむかいうたう歌がある。   八千矛《やちほこ》の神の命《みこと》や 吾が大国主《おほくにぬし》   汝《な》こそは 男《を》に坐《いま》せば   打ち廻《み》る島の埼々 かき廻《み》る磯の埼《さき》落ちず   若草の妻 持たせらめ   吾《あ》はもよ 女《め》にしあれば 汝《な》を置きて男《を》は無し 汝《な》を置きて夫《せ》は無し   綾垣の ふはやが下に 苧衾《むしぶすま》 柔《にこ》やが下に   栲衾《たくぶすま》 さやぐが下に 沫雪《あわゆき》の若やる胸を   栲綱《たくづの》の白き腕《ただむき》   素手抱《そだた》き 手抱《てた》き 抜《まな》がり   真玉手《またまで》 玉手《たまて》 さし抜《ま》き   股長《ももなが》に寝《いお》し 寝《な》せ   豊美酒《とよみき》 |献 《たてまつ》らせ  オレのは国文学の本じゃないから、大ザッパに意味をつたえると、 「あなたは男ですから、あちらこちらと若い美女を探しもとめて、まめに歩き廻っていらっしゃいますが、私は女ですもの、あなたのほかに男など居りません。あなた一人が私の夫です。さあどうぞ綾絹のカーテンをめぐらせた寝室で、やわらかな衾《しとね》の上で私の淡雪のようなオッパイに頬をよせ私の白い腕につつまれて抱き合いからみ合い、そのあとでゆっくり足をのばしておやすみ下さい。おいしいお酒など用意いたしましょう」  と、今どきの女房どもに爪の垢を煎じて飲ませたいようなことを言ってるのだ。 「蚕衾《むしぶすま》」というのは苧麻《ちよま》(からむし)というイラクサの一種の茎の繊維で織ったものといわれるが、蚕《かいこ》から採る絹でもいいのではないか。『古事記』が成立するより五百年も前に書かれた耶馬台《やまたい》国の卑弥呼《ひみこ》が登場する『魏志倭人伝《ぎしわじんでん》』にも「蚕桑」という字が見える。もっとも「蒸しぶすま」で、温かい|しとね《ヽヽヽ》という説もある。「栲衾《たくぶすま》」はTAKで朝鮮から渡来した外来語。真っ白な楮《こうぞ》の繊維で、  百人一首に持統天皇うたう、   春すぎて 夏来にけらし 白妙の     衣《ころも》乾すてふ あまのかぐ山  の白妙のことで栲《たく》がのちに妙《たえ》に訛った。  さて須勢理毘売の歌でちょっと気になるのは「素手抱《そだた》き」だ。これは「そっと叩く」という意味だそうだが、大国主は赤ん坊じゃあるまいし、ネンネンヨ、オコロリヨなんて妃がやるわけはない。「手抱き」は抱きあう。「抜《まな》がり」はべつに入れたものを「抜く」わけじゃない。手をさし交して寝ることだそうだが、「素手抱き」とはなにかモミモミのような気がしてならないし、あるいはこれが「接吻」の表現かも知れない。「抜がり」も「ぬきさし」する意味があるのかもと考えちゃう。  なぜなら、これは二人がただ寝るこっちゃない。一義《あれ》がすんだあとは「股長《ももなが》にお寝み下さい」と妃は言っている。この時代にして男の疲労度をちゃんと心得ているのだ。  しかしいい歌だな。古代の女ごころがよくわかる。「綾垣の ふはやが下に……」なんて、つい、   起きて見つ 寝て見つ 蚊帳のひろさかな  加賀の千代女《ちよじよ》の句を思い出しちゃう。  大国主が帰る日まで、綾垣のふはやが下で空閨のさみしさに泣いていた須勢理毘売の姿が哀れだ。  加賀の千代女も、夫に先立たれてさぞ淋しかったろう。  江戸の川柳子も、それを同情している。   お千代さん 蚊帳が広けりゃ 這入ろうか  もっとも、   起きて三つ 寝て三つ 蚤《のみ》を六つ取り  なんて茶化したのもある。ただ近頃はさっぱり蚤がいなくなったから、いまのひとにはこのおかしみはわからない。  さらにずっこけて、   起きて三つ 寝て三つ 朝にもう一つ  だが実は「起きて見つ」の句、千代女の句として有名だが、実は千代女の句ではない。千代女が生まれる十年前の元禄七年(一六九四)の『其便《そのたより》』という本に、長崎は丸山の遊女「浮橋」の句として載っているという。  こんなやさしい妻がありながら、大国主命は、沼河比売《ぬまがわひめ》やら、そのほか若草のような女たちとあっちでいちゃいちゃ、こっちでいちゃいちゃしていたらしい。  妃の須勢理毘売《すせりひめ》のどこが不満で、こう浮気して歩いていたのかと言うと、実は須勢理毘売のアレはかなりユルかったらしいのだ。  そのため大国主は、名器をさがしもとめて、めったに家に帰らなかった。  妃のほうはまさか自分のモノが緩《ゆる》いとは気がつかない。しばらくぶりで帰宅した夫がただうれしくて、この歌をうたったのだ。  うそではない。大国主命とは、読んで字のごとく大きな国の主で「大君」という尊称で本当の名はちがう。こういうユルマンの妃を持った命の実の名はなんと「|大穴持 命《おおあなもちのみこと》であると、ちゃんと『出雲《いずも》風土記《ふどき》』(和銅六年・七一三・成立)に書いてある。  ところで、この歌には「くちずけ」はうたわれていない。だが二人の体位を想像するとピッタり抱き合ってることになる。すると鼻と鼻がぶつかる。「くちづけ」があったと思うのが当り前だろう。  しかし正五位上(死亡時は従四位下)勲五等|太《おおの》朝臣《あそみ》安万侶《やすまろ》が和銅五年(七一二)稗田阿礼《ひえだのあれ》の口誦をもとに編んだといわれるこの『古事記』に、なぜ「くちづけ」が登場しないか。さらにおなじ太安万侶が編纂に関与した『日本書紀』にも「くちづけ」は見えない。くちづけは文献上はこの奈良朝が終って平安初期に『土左《とさ》日記』の中に初めてあらわれる。奈良朝の人々は「接吻」をしなかったのだろうか。  ここでオレの猥学的仮説を立てたい。  昭和五十四年一月二十二日、奈良市田原地区から一農夫によって発見された太安万侶の墓は学界を驚愕させ、その遺骨を鑑定の結果、「歯は臼歯《きゆうし》七本が見つかったが、火葬のため、エナメル質がこわれ、摩耗度ははっきりしないが明らかに歯槽膿漏《しそうのうろう》にかかっており、生前に脱落した歯もあった様子」(昭和54年2月4日・読売新聞)とわかった。  オレはこれだッと思った。つまりだ、安万侶はシソウノウロウで歯はボロボロ、口中は臭気ふんぷん。これじゃあいくら奈良朝の女が垢だらけでも、安万侶にチューされたら吐き気を催す。  あっちの女にも「あんた、口が臭いからイヤッ」こっちの女にも同じようなことを言われて、接吻にすっかり劣等意識を持っちゃった安万侶が「ちきしょうメ、接吻なんてあんなくだらない行為などオレは生涯無視するゾ」てんで、そのため『古事記』も『日本書紀』も接吻の記載はすべて安万侶が意地になって抹殺《ヽヽ》したのだと考えるが、学界の意見はどうか。     にっぽん接吻|事始《ことはじめ》  ヨタはいいかげんにして接吻記事初出の『土左日記』へ移ろう。  平安朝初期の歌人に紀貫之《きのつらゆき》という人がいる。この人が土佐守となって赴任したときの紀行文が『土左日記』(『土佐日記』)。短時日だが花の都からはるばる当時は辺境の土佐国(高知県)まで赴任したのだから、これがほんとのドサ(土佐)廻りだな。もっともドサ廻りとは江戸時代「佐渡送り」になる無宿者たちのことで佐渡を隠語風にひっくりかえしてドサといったのが本当らしい。  この『土左日記』は、それまですべて漢字で書かれていた唐文化模倣から脱却して日本最初の仮名文字で書かれた著作だ。  その承平五年(九三五)の元旦の条《くだり》に、 「いも あらめ〈荒布・海藻〉歯固め〈歯は齢のこと、長寿を祈願した正月三日間に食う餅、獣肉など〉もなし かうやうのものもなき国なり 求めしもおかず ただ押鮎の口をのみぞ吸ふ人々の口を 押鮎も し思ふやうにあらむや けふは京のみぞ思ひやらるる」  押鮎は塩干の鮎。別名「年魚《ねんぎよ》」というところから正月に用いられたものだが「押鮎の頭をしゃぶっていると、なにか男と女が口を吸うさまみたいだ。心あらば押鮎も〈アタシ吸われてるウ〉なんて、そう思うにちがいない。それにしても早く都へ帰って京女たちの口を吸いたいぞよ」  これで当時、男女が口を吸いあう秘戯がすでに行なわれていたことがわかるし、この平安朝の時代の辞典『類聚《るいじゆう》 名儀抄《みようぎしよう》』には「嗚《あ》・クチスフ・両口相接也」と接吻のことがあらわれる。  なぜクチスフが「嗚」かといえば、烏にかぎらないが、鳥はよく|嘴 《くちばし》をつけあうことから口ヘンに烏という字が出来た。  もっとも日本ばかりじゃない。中国では接吻のことは|嘴 《くちばし》を親しむと書いて「親嘴《しんし》」ともいう。  そもそも「接吻」は人間が鳥から教えられたという説もあるくらいだ。  まず鶺鴒《せきれい》が人間に性交を教えた。このことは前著『雑学猥学』に詳しいからはぶくが、イザナギ・イザナミの男女の神がセックスのやり方がわからないで途方に暮れていると、一羽の鶺鴒が飛んで来てピピッと長い尾をうごかせてみせた。それで両神ははじめて男女の道を知り給うたという日本の神話だ。   かよう遊ばせと セキレイびくつかせ   オホホとアハハ 鶺鴒の尾に見とれ   親からは 言われぬことを 教え鳥  もっとも   知りきって いるのに鶺鴒 バカな奴   鶺鴒は 茶臼とまでは 教えねど  なんて古川柳もあるから、真相はイザナギ・イザナミの神々に聞いてみなくちゃわからない。   セキレイ不審 口吸うは誰が伝授  さて下半身のほうはセキレイが教えたにしても、上半身の男女の契りはだれが教えたか。  古川柳は、   口を吸う ことをば鳩が 教え鳥  と、江戸時代は烏が鳩にかわっている。  余談になるが、この『土左日記』に面白い記事がある。  承平五年(九三五)正月の|十 三日《とおかあまりみか》のところで、 「こころにもあらぬ、|はぎ《ヽヽ》をあげてみせける」と、月明のなかで、連れていった女が海辺で「うっかり裾を高くまくってしまったとき、その股の間からちらりと貽貝《いがい》が見えた」と言っているのだ。  貽貝《いがい》といえば、はや御存知だろう。「似たり貝」とも言って、女陰そっくりの貝だ。  先年、伊勢・志摩へ旅をしたとき、オレも宿の夕食の膳で御対面をした。  貝の上部を陰毛のような海藻みたいなものが、ごていねいに黒々とおおっていて、陰唇は乙女のごときピンクもあり、大年増のごとき紫色もあり、ナマ板ショーなどより、この貝をずらっと並べて眺めていたほうが、よほど壮観だわいと三嘆久しうしたもんだ。江戸の百科辞典『和漢三才|図絵《ずえ》』によれば「参州〈三河・愛知県〉勢州〈伊勢・三重県〉に多くこれあり……味|美《うま》からず臭気微《ヽヽすこ》|しくあり《ヽヽヽヽ》」と、匂いまでナニ同様なのだから念入りな貝だよな。  この貝、|また《ヽヽ》の名を「東海夫人」とも言い、さらに「清女貝《せいじよがい》」とも言う。伝説だが『枕草子』を書いた平安朝の才女清少納言は、晩年阿波国(徳島県)の片隅で生涯を終えたという。鎌倉初期の本『古事談』に|源 頼光《みなもとらいこう》が清原某を討った時、たまたま清原邸に尼となった清少納言が泊っていた。討手の坂田金時ら四天王は法師だと思って斬ろうとしたが、驚いた清少納言は前をまくって女である証明を見せて命びろいをしたとある。「清少納言出開事」の条だ。しかし老年の開《ぼぼ》だ。四天王たちも目の保養にはならなかったろう。ともかく若く美しい時分ならば、王朝の貴族たちに舐めるように愛された女陰も、もはや今となっては干鮑《ほしあわび》に白毛《しらが》が生えたよう。なまじこんなものがあるから、この年になってもまだ男がほしいと夜もねずに悶えころげるのだ。これさえなければあきらめがつくであろうと清少納言はついにかつてはかずかずの栄光にかがやき濡れたわが股ぐらのものをえぐり取って海へ流してしまった。  これが海中で蕃殖して、いまの「似たり貝」になったのだという、イガイな物語がある。  壇ノ浦の合戦で平家滅亡。海中に身を投じて死のうとしたが、源義経に捕えられた安徳天皇の御母、建礼門院|徳子《とくし》(平清盛の娘)は、 「太后《たいこう》〈建礼門院〉曰《いわ》く 又|指玩《しがん》するか 廷尉《ていじよう》〈義経〉曰く 否 僅に芳沃《ほうよく》を促すのみ 既にして双扉を開き 紫竜始めて洞口に臨み 出没|畢《つい》に全身を潜む 太后曰く |※[#「口+喜」]《ああ》 廷尉曰く |※[#「口+喜」]《ああ》何ぞ 太后曰く 美なり」(伝・頼山陽『壇之浦夜合戦記』)と、清少納言が羨むような愛欲に耽溺したが、もし、義経に捕えられずに、海中に身を没していたらこれまた貽貝となったろうか。  古川柳にいわく、   門院は 赤貝にでも なるところ     死んだ女の口を吸う  平安朝の末ごろだが『今昔物語集』の巻十九に、大江定基という人の話がある。  この人は参議、大江斉光の子で、三河守などに任ぜられたが、のち出家して寂昭法師と称し、やがて宋へ渡り異国の土となった。  定基は、若く美しい愛人に病死されたとき、葬うこともせず日夜添寝して嘆き悲しんだが、「日|来《ごろ》を経《ふ》るに 口を吸ひけるに 女の口より奇異《きい》しき臭き香の出《い》で来《きた》りけるに 疎《うと》む心|出《い》で来て 泣く泣く葬してけり」  すげえ話だ。死んだ彼女の口を死体が腐ってくるまで吸っていたのだ。死んでさえこうだ。生きているときは日夜はげしく愛しつづけただろう。定基の彼女の死因は、たぶんシコロ性衰弱であったにちがいない。  死人の口を吸うのは、アチラではバビロンの妖女、サロメが、予言者ヨカナーンの首を切り皿の上へのせて、その生首へ接吻する身ぶるいするような物語があるが、日本にもあった。  寛延二年(一七四九)紀州家の臣、神谷養勇軒(善右衛門)が、藩侯徳川|宗将《むねのぶ》の命をうけて編録した『新著聞集』にあるのだ。そのあらましは──、  大阪上町に後家がいた。もとある寺の僧であった男が、還俗《げんぞく》してこの後家と一緒に暮らすようになった。  後家にはお吉というひとり娘がいたが、人なみすぐれて美しかったので、男は後家の目を盗んでしきりに言い寄った。  だが、お吉にしてみれば相手は六十すぎの古入道、まして母親の情夫であり、かりにも父と呼ぶ人だ。その都度、手きびしくはねつけてきたが、そのうち自分はわが家の貸家に住む空月《くうげつ》という寺を持たない若い坊さん(道心)と恋仲になり、継父の誘惑を避けるため長堀の上三軒屋という所へ引き移ってしまった。  怒ったのは嫌われた継父。お吉も憎いが空月も憎いと、かんかんになって奉行所へ訴え出てしまった。  だが、取調べの結果、お吉に言い寄っていた事実がわかって継父は大阪を追放の刑に処せられた。  継父も、もとは坊主だが、還俗《げんぞく》していたから女犯《によぼん》の罪には当たらない。助からないのは空月。僧職にありながら女と肉交することは女犯として江戸時代は重罰だった。  ただし鎌倉時代の昔から妻帯を認めていた親鸞《しんらん》上人の浄土真宗だけは別。ほかの諸宗は仏門の不邪淫戒の戒律を破るとして、一生、女にふれることは許されなかった。だからいきおい坊さんの世界に男色が盛んになったのだ。  上野|東叡山《とうえいざん》三十六坊の近くに湯島、谷中《やなか》の感応寺(天王寺)の|いろは《ヽヽヽ》茶屋、芝の増上寺には芝神明と、大きな寺のそばには男色専門の「蔭間茶屋」なるものが繁昌したのはそのためだ。   弘法は裏 親鸞は表なり  なにも平安時代に真言宗を開いた弘法大師に限らないが、親鸞の浄土真宗だけが女の表門を通れて、あとの宗派は裏口入学専門だった。  寛政八年(一七九六)八月十六日、女犯の僧が江戸の日本橋のたもとで三日晒《みつかざら》しの上、それぞれ寺法によって処罰された。なんとその数、七十余人。さながら西瓜《すいか》の大安売みたいな光景だったろう。これなど江戸市中の私娼窟などに遊びに行っていた坊主を、一挙に検挙したからで、まるで飲酒運転一斉取締の網にかかったようなものだった。  さて空月のは獄門の刑だった。  だが徳川の刑典『御定書《おさだめがき》百ケ条』を調べてもこの判決は納得できない。  寺持の僧ですら元文四年(一七三九)の極《きわめ》(法の成立)として『遠嶋《えんとう》』つまり島流し程度だ。  相手のお吉も出家を誘惑した罪で、これまた獄門。獄門とは牢屋敷内で斬首された首を晒し場に運んでさらすことだが、この二人にとってずいぶんきびしい刑で、その間《かん》、何か事情があったにちがいないが『新著聞集』には書いてない。  江戸の場合は犯罪人が日本橋より東なら千住の小塚原、西なら鈴ケ森だが、空月とお吉の首は大阪の千日寺《せんにちでら》(いまの千日前辺)の晒し場に運ばれて獄門となった。  物見高い群衆がわいわい言いながら見物していたが、そのうちのひとりが「えらいええ女や。だれか口を吸う奴はオマヘンカ」と叫んだ。見事吸ったら褒美に金をやる、ぐらいのことはつけ加えたにちがいない。  晒し場の番人たちは当時非人と呼ばれた連中だ。そうでなくても、ああいい女だ、あんな女を一生一度のおもいでに抱いてみてえ。むしろ、首なんか晒さないで、胴のほう晒してくれりゃいいのに……なんて腹のうちで思っていた矢先だから、われもわれもと寄ってたかって、首だけのお吉さんの口を吸っちゃった。  この騒ぎで非人一同、残らず掴まって牢屋へほうりこまれてしまった──と『新著聞集』は伝えている。  口直しに、甘い口の話をしよう。  幕臣でありながら文人として知られた大田蜀山人(文政六年・一八二三歿)の見聞録『半日閑話《はんにちかんわ》』に、  松平陸奥守の家臣、番味孫右衛門という士《さむらい》が自宅で昼寝をしていると、天女が降りてきて孫右衛門の口を吸った。とび起きてあたりを見廻したが人影はない。不思議な夢を見たものだが、どうも人に話をするには気はずかしい、とひとり胸中におさめていた。  オレなんざ、ブスに追いかけられて崖から飛びおりた夢はみても、天女に口を吸われたなんて結構な夢は見たことがない。  ただ、奈良朝の歌人、柿本人麿《かきのもとひとまろ》は、   うつくしと 思ひし妹《いも》〈恋人〉を 夢に見て     起きてさぐるに なきぞ悲しき  とうたっているが、オレも、   大金を 道でひろった 夢を見て     起きてさぐるに 無きぞ悲しき  という経験はあった。  さて、これからがかんじんの話になる。  その夢を見て以来、孫右衛門の口からなんともいえないかぐわしい匂いが発散するようになった。  周囲の人々は不審に思っていたが、ある時、心やすい者に「あなたは日頃から身だしなみのいい方のようで、いつも芳香の玉を口に含んでおられるのでは……」と尋ねられて孫右衛門は、「いや、はずかしい話なのでどなたにも申すまいと思っていたが、実は……」と、事のありのままを語ったという。天女の話だからって、べつに空事《そらごと》じゃない。 「孫右衛門 美男といふにもあらず または何のしほらしき事もなき男ぶりなるに いかなる思ひ入れありてか 天女はかかる情《なさけ》をかけつらん」と、大田蜀山人は知人、田村隠岐守宗良の臣佐藤助右衛門重友から聞いた奇話を書きとめている。     豊臣秀吉のラブレター  近頃は「恋文《こいぶみ》」なんて死語になりつつある。胸にあふれるせつない慕情を、短い手紙の中に凝縮するワザは、今の若いもんに出来る芸当じゃない、と言ったら、 「いいじゃねえか、おれヨウ、電話でヨウ、話しちゃうから……」  なんて言ったヤツがいた。  バカヤロウ! 手紙がきちんと書けないヤツが、なんでキチンとした電話がかけられるか。しっかりした電話がかけたかったら、引きしまった短い手紙をまず書け。  たとえばだ。竹久夢二の、   待てど 暮らせど 来ぬひとを    宵待草の やるせなさ   今宵は 月も出ぬそうな  だって、はじめは   やるせない 釣鐘草の夕の歌が   あれ/\風に ふかれてくる   まてどくらせど 来ぬ人を   宵待草の 心もとなき   ──おもふまいとは おもへども──   われとしもなき ため涙   今宵は月も 出ぬそうな  だったのを、一度雑誌に発表しながら、二年あまりも練り直し、大正二年(一九一三)の彼の詩集『どんたく』に載せたのだ。  竹久夢二を優れた詩人とはオレは思わない。彼の詩集『三味線草』などには中世近世の歌謡をいただきっぱなしみたいのがいくつもある。しかし、それでも長い詩がこれだけ凝縮されてこそはじめて生きてくる。 「長電話と頭の悪さは正比例する」だったか西洋の諺にあるが、テメエの長電話をそのまま文字にして読んでみろやい。テメエで吐き気をもよおすから……。  むかしは電話ですむことでも手紙を書いた。いまは電話では表現できないことまで電話でダラダラやってる。 「今日は心が|忙しい《ヽヽヽ》から、|長い《ヽヽ》文章しか書けない」  と言った国木田独歩の名言(モーパッサンという説もある)を噛みしめてみろ。  もっとも今は、恋文をいくども読みかえし、そっと袂に抱きしめるような婉なる女の子もいない。 『源氏物語』にある「はかなびたるこそ らうたけれ」なんて女性は、遠い遠い昔に絶滅してしまったが古典文学は恋文の文学でもあったのだ。  麻雀やるひまがあるなら、恋文を書く稽古をしたらどうだ。そうすりゃ入社試験の答案に、碑《いしぶみ》をパイ、朧《おぼろ》をロンなんて書かずにすむのにさ。 「だってよォ、言葉なんてよォ、フィーリングでわかるじゃねえか」  と言ったヤツもいた。  フィーリングなんて失語人間の自己弁護にすぎない。猿と人間のちがいを考えてみろ。  ところで二、三年前、作詞の講座を受け持ったことがあった。  生徒のひとりが提出した習作の原稿を見てオレは目をむいた。歌詞のアタマに「姉は色づく」とあるのだ。へえ、お前の姉さん色づいたのかァーとびっくりして、次の詞句を読んでヤットわかった。姉《ヽ》とは柿《ヽ》のことだった。  恋文といえばオレの若い頃、ひまがあればせっせと恋文を書きためているヤツがいた。  と言っても恋人がいるわけじゃない。  とにかく、「貴女のお姿を一目見てから、私は貴女が忘られません」なんて月並みな文句を、だからみんな同じ内容の手紙なんだ。  何十通か書き溜めると、それを懐中にバスの中、電車の中、行きあたりばったり、出会った娘に配っちゃう。どう手渡すか、その辺のテクニックは聞かなかったが、これが下手な鉄砲も数打ちゃ当たる──で、なかには返事を寄越す娘がいるのだそうな。 「お手紙うれしく拝見しました……ついては某月某日某時、某駅で待っております」なんて返事がくる。  よろこび勇んで出かけていったヤロウがションボリして戻ってきた。  指定の駅をくまなくかけ廻《め》ぐったけれど、どの娘なのか、顔がわからないという。もっとも相手の娘もヤロウの顔をゼンゼンおぼえていないのだからお互いさまだが、ずいぶんと暢気な時代だったな。  しかし今でも素晴らしい女性はたまにはいるらしく、毎日新聞編集局顧問の福湯豊さんの一文を読んで、オレは感動したことがある。福湯さんがある文章講座を持たれたことがある。何カ月かは知らないが講座が終了した日、ある若い女性が──、 「先生、私の文章をこれからもみてくださいますか」 「いいですとも、書いたものを学校の事務の人に渡しておいて下さい」 「女性だからといって遠慮なさらずに、ぴしぴし直していただきたいんです……。私はもし将来理想の男性にめぐり逢える日があったら、その人に素晴らしい手紙を書きたいんです。その日のために私はいっしょうけんめい、文章の勉強をするつもりなんですよ」  ロマンチックなお嬢さん、私は彼女が理想の男性にめぐり逢える日の早からんことを心から祈った。  どのように若い人たちが、日本文を荒らしても、こういう人たちが残っている限り、日本文の伝統は受けつがれてゆくだろうと思った──と福湯さんはこう結んでいる。  どうだい、ロンちゃん、ポンちゃん、おめえッチなんかにゃ、こういう素敵な女の子は絶対に嫁にこねえぞ。  女の子もそうだ。これまた電話、 「エ、なに? エヘヘ……。アキラあんた私《あたし》に惚れてん? ウン、私《あたし》もサ、あんた好きだヨ。そいじゃサ、あしたサ、さっそく喫茶店で会おうジャン。エ? バカ、そりゃそんとき、そんな気持になったらのことジャン。ヤーダ、あんた、そんな勇気あんのォ、ウヒヒ、じゃあネ……ガチャン」  これが恋文ならぬ現代の女の子の恋電話だ。アーア。  尾張中村の水呑百姓の出身から天下を取った豊臣秀吉は、無学ながら人心収攬に長じていた。  信長に仕える前の放浪時代、女房に二人も見限られて逃げられた苦い経験から、女ごころを巧みに操縦できないようでは、天下の人心を集めることはできないと、まるで都知事候補みたいなことを真剣に考え、正妻北政所をはじめ数多い側妾にせっせと恋文を書いた。  恋文で鍛えた腕は、男同士への手紙にも輝きを増す。臣下とはいえ腹に一物も手に荷物もある武将たちを引きつけたものは、秀吉の手紙だったのだ。  この秀吉が愛妾淀君へ送った有名なラブ・レターがある。一つは、 「返す返す 御ゆかしく候まま やがて参りて口を吸ひ申すべく候 又 われわれの留守に 人に口を御すわせ候はんと思ひまいらせ候」と、ちょっと嫉妬心などちらつかせ、また別の一通は「やがて歳末に参り候て申す可く候 其時 くちをすひ申候べく候 たれたれにも すこしもすはせまじく候」  この手紙、実ははじめの一通は文禄四年(一五九五)正月、秀吉が大阪から京都伏見にいる当時三歳のわが子秀頼へ、またあとの一通は慶長二年(一五九七)おなじく秀頼へ送った手紙だが、まだ幼い秀頼が秀吉の手紙を読めるわけもなかろう。  だれが読むかと言えば母親の淀君だ。ここが秀吉のうまいところ。秀頼への手紙にかこつけて淀君の女ごころをくすぐる。だから淀君は「アラ、秀頼へこんな手紙を寄越して……ほんとは私の唇が恋しいんでしょッ ウッフーン」なんて鼻を鳴らしたことは、どの歴史の記録にも無いが秀吉の手のうちは読めるではないか。     江戸の接吻さまざま  さて、江戸に入って元禄の文豪、井原西鶴の『好色五人女』(西鶴の作品ではないという説〈森銑三〉もある)「八百屋お七」の一節に、お七を慕って乞食姿に変装した恋人の吉三郎が、お七の家に入りこむため、家の下男久七に頼んで土間に泊めてもらう。  久七は久七で、いい若衆の吉三郎を男色《なんしよく》の相手にするつもりで、その晩、言い寄るのだ。 「きどく〈奇特〉にあかがり〈皹《あかぎれ》〉切らさぬよ 是なら口をすこしと 口をよせけるに 此悲しさ切なさ 歯を喰いしめて泪《なみだ》こぼしけるに 久七分別して いやいや 根深〈葱《ねぎ》〉にんにく喰《くい》し口中《こうちゆう》もしれずと、やめける事のうれし」  吉三郎が接吻を嫌がるのは、コイツ、きっと葱やニンニクを食って口がくさいせいだと、久七は早合点をしてあきらめたわけだが、男色盛んなりし時代は、男と男の接吻が大ありのコンコンチキだったことは、この一文でもわかろう。  ところで風俗学者宮武外骨の『面白半分』(大正十二年・一九二三)には「結婚式の恒例は、天地人の三才に因んだ三ツ組の盃で、三献を重ねて陽数の極たる九で芽出度納めるのであるが、此|交盃《こうはい》は間接的接吻を表したもので、仮托から現実、漸《ぜん》を以て進む契合の式で、結婚前に男女が接吻を行ふ風習のある西洋諸国に交盃の式は無い」と言っているが、今時、さんざん接吻の本番をやった上で、大マジメに三三九度の盃を交している新郎新婦は、本末転倒ではないか。  江戸時代、結婚の結納品を売る店の看板には、必ず鯛と鯛とが二匹向き合っている絵が描かれてあった。たぶん、アイタイ、スイタイ、オメデタイという意味の判じ絵だろう。   看板も 口を吸ってる 結納屋  江戸の中期、五百石の旗本稼業をサラリとやめて、浮世絵師になった細田栄之の作らしき『婚礼秘事袋』という本がある。『婚礼|罌粟《けし》袋』とし、細田栄之・作と明記した文献もあるがここでは『近世庶民文化第74号』(昭和36年)に拠っておく。「まづ聟、床《とこ》の前、餅の三宝のそばに坐す。待女郎《まちじよろう》〈介添の若い女〉嫁をいざなひて聟の前に直す。最初、嫁より聟の口をすひはじめ、三度|引《ひき》て聟の口へ舌をわたす。聟、嫁の口を三度|吸《すい》て、嫁へ舌をあてがふ。嫁また婿の口を三度吸て納《おさめ》る。是三三九度の寿《ことぶき》とせしかども、其後例格改まりて、今は盃をねぶりて夫婦《めおと》しんるいのかためを祝し納る事、口々《くちぐち》の古例なり」と、古への三三九度とは口を吸い合ったものが、今は盃にかわったとある。また「床盃《とこさかずき》」についても「待女郎、嫁を床《とこ》へ誘引して、つぎに聟をいざなひて、夫婦を床にむかはせ、また盃をあらため、このとき開添《かいぞえ》の女、ぬぐい紙とみだれ箱をもち出るなり。聟、嫁を膝上にだき上《あげ》、盃をとりて互に相呑するが古例なるべし……云々」とある。  時代と共に風習は移り変わってしまい、今の若いもんは「床盃《とこさかずき》」なんて言っても知らない連中のほうが多い。  ナニ知ってるって? バカ! お前の知ってるのは、そりゃ「床急《とこいそ》ぎ」だ。  平安朝時代の「式三献」は、婚礼の宴の客の盃を酌人が一巡するのが「一献」三遍まわって無礼講となった。ただしこの間、花嫁は盃を手にしない。今のような三三九度は江戸のはじめごろかららしい。  もっとも「床盃」は座移《ざうつ》しの盃で、この時チュウチュウパッパとやったかどうか、それとも栄之の大ヨタか、オレは知らない。  江戸の初期、慶安四年(一六五一)というから、その年の七月には由比正雪の事件があった年だ。その年に刊行された艶本『陰陽てごとの巻』には、口説きの秘伝として、 「まず をんなのこころにかなふことをこころがけ はなしなぞするうち をんなさしむかひにゐるゆへ こころわくわくとしてそぞろになり かみかきなで ほうさき〈頬先〉あかく とかくもじもじすべし そのときそろそろとよりそひ ことのはづみに しっかといだきつきて 口をすふに したのちぎれるほど しっぱしっぱとすふべし したの根 ぬらぬらと うるほひあらば をんな きざしたるなり」  江戸のはじめも、昭和の御代も、接吻のきっかけはちっとも変わっちゃいない。  でも、歯ぬけの爺さんがキセルで煙草を吸ってんじゃあるまいし、シッパ、シッパはないだろうぜ。  こういうテの本は江戸時代は数百種類もあったらしい。ことに往来物《おうらいもの》という、いわば恋文往復文の書き方を教えた本で、いまなら「ラブ・レターの書き方」なるものだろうが、手もとの『艶道通言《えんどうつうげん》・布美《ふみ》のゆ幾《き》かひ』を見ると、あじなことが書いてある。  この本は江戸のいつ頃刊行されたのかわからないが、裏表紙に嘉永六年(一八五三)子《ねの》正月、高橋紋三郎、|求 之《これをもとむ》と所有者の書き入れがあるから江戸後期の刊行だろう。まず各頁、四分の一を上段とし、四分の三を下段とわける。この下段は大マジメな恋文の文例集だが、その上段四分の一にこまごまとあやしげなことが書いてある。「年ゆかぬ娘をくどき落す伝」「泣かぬ女をなくやうに仕こむ伝」「大どしま、また、うばを犯す伝」などの秘伝がいたれりつくせりだが、ここに全文を公開するわけにはいかない。  ただ、さっきの恋文の話に関連して「年ゆかぬ娘を口説き落す伝」で、江戸の恋文がどのような効用があったかとうかがってみよう。 「いかなるはす葉娘〈浮気娘〉にても 年十五六なる頃は はづかしさが一ぱいにて 心の中では何とおもふとも 口へは勿論出さず 品《しな》かたちにも こなたへさとらする程の仕打もできぬものなれば どうやら咄《はな》し合のできさうなと思へど やうすしれず うっかりと手だしをして不承知に大きな声でもたてられては 面目なしと遠慮して そのうち人にとらるる事あり 是も又口をしき次第なれば まづ其娘の様子を見んと思はば ちょっとしたるみじかき|ふみ《ヽヽ》をしたためだんまりで袖の中へなげこむとき 娘おどろいて手をいれ そこへなげ出して逃ゆくはなかなかたやすく口説《くどき》おとす事なりがたし しかれどもそこは娘の情《じよう》にて よほど気にくはぬ男ならではかやうにはせず 先づ何を書いてあるやら見たさが一杯ゆゑ たとへば 心にそまぬ男のかたよりおくるとも まづ人なき所でひらき見るもの也  されど返事のかきやうも知らず 元よりあまり嬉しくもなしと思ふゆゑ そのまま打すておくべし  そのとき 男のかたより たびたび返事のさいそくすべし  夫《それ》にても へんじなければ その時は抱きすくめ 頬ずりなどして なさけなき心ぞ などと口説《くどく》ときは 十に八九は出来るものなり よしや 娘のかたにて 否《いな》とおもふとも 始め文《ふみ》をとりたる覚《おぼえ》あれば 声など決して立てず かくてよき折あらば そのまま抱きこかし しっかりと抱きしめて口をすふべし 娘は舌も出さず 又は口をむすびてゐるならば くちびるなどをなめそろそろ内股へ手をやるとき 娘 手を出し夫《それ》を引のけ またをかたくすぼめて 手を入させぬなり かならず力まかせなことをせず しっかりと抱きしめて また口説《くどき》 そのやうすによりて少しはをどしの言葉をまぜていふときは 得心するものなり それよりはなほ気をしづめて空《そら》われのあたりをそろそろといぢりまはすべし 若《もし》 くすぐったいと身をあせらば……」  堅くなったモノを娘に握らせろ。そうすると娘はこわごわながら、珍しいものだから、ソレをかたく柔らかく握ったら、 「また口を吸《すう》なり この時ははじめとちがひ 少し口を開くものなれば 舌をいれて少しかきまはせば 娘は上気《じようき》して 漸く耳たぼを熱くなし 息づかいスウスウスウと鼻へつまらば はやしめたもの 内股を……」  これから佳境に入るのだが現代社会の醇風美俗? を害してはいけないから割愛する。  この本がヨタなのか、実際、江戸の娘とはこんな風なものだったのか、よくわからないけれど、この秘伝を信じて突撃した江戸の若者たちがずいぶんいたにちがいなかろう。  ところで日本の古代文学には接吻の描写がなく中世、近世、近代と近づくにしたがって多くなるのはなぜだろう。  現実には接吻はあったと想像するが、万葉の相聞歌《そうもんか》や王朝の文学では露骨にそれを筆をもって描くことをしなかったようだ。いわゆる|秘めごと《ヽヽヽヽ》で性交そのものでさえ間接的にそれを暗示する表現にとどまっている。 「紐解く」「袖|交《か》う〈互の袖を枕にする〉」「袖|枕《ま》く」など、そこにチューがあったとしても具体的な表現はない。  平安朝の円融天皇の御代、天元五年(九八二)から永観二年(九八四)にかけて、当時の医家|丹波康頼《たんばのやすより》が中国の医書を編纂して天皇に献上したという『医心方』には、さまざまの性交の体位が詳しく書かれ、たとえばその中の魚比目《ぎよひもく》(比目魚《ひらめ》)という体位は、   男女《なんによ》|倶 臥《ともにふし》 女《おんな》|以 一 脚《いつきやくをもつて》 |置 男 上《おとこのうえにおく》 吸口吸舌《ヽヽヽヽ》   男《おとこ》|展 両 脚《りようきやくをのべ》 以手《てをもつて》|担 女 上 脚《おんなのじようきやくをかかげ》  |進 玉 茎《ぎよくけいをすすむ》  で「接吻」はあきらかにあるが、これは中国の伝書で当時一般に接吻が普及していたという証明にはならない。  また、平安の『今昔物語集』にも「口吸い」など見えるが、性愛のテクニックとしての当時の社会への浸透度はわからない。  この時代「はらむ」「身ごもる」という妊娠についてすら「腰のしるし」なんて優雅なことを言っているが、そのくせ、ひどい乱交時代で、乱れたりとはいえ現代など、とても足もとにも及ばない自由性愛謳歌の時代だったのだ。  言うことはすごいが、することはダメ、という言葉はあるが、することはすごいが、言うことは言わない。上流階級ほど、みやびやかに恋歌などかわして、そのあげくは取っかえひっかえ、シコシコセッセとやっていたのが王朝時代。残念ながら庶民の性風俗のナマナマしいのが伝わっていないが、筑波の|※[#「女+櫂のつくり」]《かがい》(前著『雑学猥学』参照)のように、おおらかにやっていたんだろう。  しかし、ボテレン腹の妊娠を「腰のしるし」とは感心しちゃう。現代はどうだ、日本語も落ちたよな。妊婦が大きなおなかをして歩くのを「フグの立泳ぎ」なんて言うではないか。江戸時代でさえ、接吻を「おさしみ」なんて粋なことを言った。   おさしみの 前に土手をば ちょっとなで  いまなら鮪《まぐろ》の土手かなんかだろうが、江戸の頃は鮪は貧乏人にすらバカにされた下魚《げうお》だから、この古川柳、鰹《かつお》の土手と考える。初鰹なんぞ、初物《はしり》は一匹が二両もした時代だ。今の金にして実勢価値は十万円以上だろう。 「江戸名物 喧嘩 火事 伊勢屋 稲荷に犬の糞」の時代、鎌倉沖でとれた初鰹は最高の贅沢で女房を質に入れても食わにゃあ……と気張るのが江戸っ子だった。   寒いとき おまえ鰹が 着られるか  なんて、女房の理屈も「てやんでえ すべたメ」と、男には通用しない。   目には青葉 山ほととぎす 初鰹 [#地付き]山口素堂  素堂は享保元年(一七一六)に七十五歳で歿した俳人だから、初鰹礼賛の風習は江戸の初期から盛んだったようだ。もっとも鎌倉末期の元弘元年(一三三一)吉田兼好の『徒然草《つれづれぐさ》』にも 「鎌倉の海に出づ鰹といふ魚は此頃もてなすものなり 此魚をわれら若かりし世までは はかばかしき人の前に出《いだ》すこと侍《はべ》らざりき」とあるから、鰹は鎌倉時代の終りから格上げになったものらしい。  鎌倉沖でとれた鰹は、馬の背につけて江戸へ運ぶか、早櫓《はやろ》でエッサエッサと芝浦へ舟で運んだ。   芝浦や 初鰹から 夜が明くる [#地付き]一茶  待ちうけた魚屋たちは、その舟へどっと押し寄せて、舟の中へ金を投げこむようにして争って鰹を買付けた。  この初鰹、勝魚に通ずるから喧嘩っ早く、ギャンブル好きの貧乏江戸っ子ほど夢中になったらしく、   伊勢屋から 鰹を呼ぶや いなや雨  つまり、ケチン坊の伊勢屋がどうしたことか鰹売りを呼びこんだから、お天気が急変してにわか雨が降りだしたという句で、   その金で 鯨《くじら》を買うと 伊勢屋言い  など、皮肉ったものである。  とにかく、伊勢屋稲荷に犬の糞と江戸名物になるほど、伊勢屋の屋号を掲げる商家は多く、それぞれひとかどの商人として成功していたことがわかる。  またなんで「犬の糞」が江戸名物かといえば、町が繁昌すれば人々は裕福になる。裕福だから犬を飼う余裕が出来る。だから犬が多くなる。したがって江戸市中犬の糞があちこちにころがっているわけで、貧しい村落には見られない光景で江戸の豊かさの象徴ってえわけだ。ま、風吹けば桶屋が儲《もう》かる式の論法だな。  さてその伊勢屋だが「近江泥棒・伊勢乞食」と古くからの悪口があるが、べつに泥棒でも乞食でもない。  甲州は行商に、越後は米|搗《つ》きや、湯屋の三助《さんすけ》に、越中富山は薬売りに、生国の経済的理由からみんな他国へ出て働いた。財を得て故郷に錦を飾るためには利に機敏だったろうし、倹約にも徹底していたろう。  東京・目黒の豪華な(ちと成金趣味だが)料亭、雅叙園を一代でつくりあげた細川力蔵は、湯屋の三助がふり出しだった。ついには女優入江たか子の姉、公卿華族の東坊城《ひがしぼうじよう》家の令嬢を妻にしてひところ立志伝中の人とはやされたものだ。  近江、伊勢の出身者は今でも財界に重きをなしているし、三井財閥が伊勢の出身であったことはだれでも知っていようが、実は三井の血統は伊勢と近江の混血だから、競馬ならダービーで優勝しそうな血統なのだ。  三井の先祖は、源頼朝の武将で梶原源太|景季《かげすえ》が乗る名馬|磨墨《するすみ》と佐々木高綱が乗る名馬|池月《いけづき》とが宇治川を泳ぎ渡り、先陣争いをした話は有名だが、この高綱の分流で、天下麻のごとく乱れた元亀《げんき》・天正(一五七二〜一五九二)の戦国時代に、越前(福井県)鯰江《なまずえ》の城主だった三井越後守高安が、主家の朝倉家が織田信長に攻められて滅亡したために伊勢へのがれて土着した(異説もある)。その子、高俊の代になってつくり酒屋と質屋をはじめたのが越後屋三井なのだ。  近江の出で、伊勢で芽吹いた三井がなぜ越後屋という屋号を名乗ったかこれでおわかりであろう。 「越後守高安」の「越後」なのだ。  延宝元年(一六七三)江戸の日本橋・駿河町へ進出して、越後屋呉服店を創業し「現銀《げんぎん》掛値無し」の商法で「日に千両の商い」と評判をとったのは高俊の子の高利《たかとし》で、質屋の伜だから高利《こうり》とは理にかなっている。今の三越の前身がこの越後屋呉服店。かたわら両替商を営んだ後身が三井銀行となった。  ついでに江戸時代、東の三井に対し西の鴻池と大阪随一の富豪といわれた鴻池も、これまた御存じ尼子十勇士の山中鹿之助|幸盛《ゆきもり》の二男坊新六幸元が、灘《なだ》の近くの摂津国川辺郡鴻池村でつくり酒屋をはじめたのが成功してやがて子孫が両替商、回船業などで巨財を得た。  これが今の三和銀行の前身だ。     わらべ唄「ずいずいずっころばし」はエロ唄だった  雑学とは文字通りで、主題をはずれてどこへ行っちゃうか書いてるオレにもわからないが、ついでにもうすこし横道へ入っちゃう。   おさしみの 前に土手をば ちょっとなで  の句は、板前が刺身をつくる前に、どういうわけか包丁で魚の土手をサッとひとなでする。  それを接吻の江戸語「おさしみ」の前に、女のドテを撫でる。つまり探春の行為にひっかけたわけだ。  ラテン語でチチラチオ、江戸語で「くじり」「指人形」とも言う。   指二本 |いく《ヽヽ》のの道の 案内者   人形は 足の指まで 曲げられず  また「木舞《こまい》をかく」ともいう。  さて「ずいずいずっころばし」という誰でも知ってる童唄がある。  しかし、あの唄の意味は何だろうか。  ちとかたい話で、興をそぐおそれもあるが、オレが十年ほど前に自分流に解明して、ロータリークラブの卓話や、その他の集会などで話をしてきたことを昭和五十三年十一月十九日、伊勢の皇学館大学で開かれた「日本歌謡学会」で資料を添えて発表した。  なにしろ、浅野建二、臼田甚五郎、新間進一、志田延義、吾郷寅之進、そのほか錚々《そうそう》たる古代・中世・近世の歌謡についての大学者が居ならぶ前だから、いくらオレが図々しくたってキン玉がちぢみあがっちゃう。  ヘタをすれば、たちまち鋭い質問や、反論をくって、コテンパンにやられる場だ。  その上、並み居る文学博士の前で、なぜかオレ一人だけが自称猥学博士。ま、孤軍奮闘、囲みを破って……城山を目指す敗残の西郷隆盛みたいな気持だったが、エイとばかりクソ度胸で「ずいずいずっころばし」は猥歌であるとヤッたわけだ。  その論旨をザッと話すと、こういうことになる。  従来、この唄はお茶壺道中のことをうたった唄と言われてきた。  お茶壺道中の起源ははっきりしない。寛永九年(一六三二)三代将軍家光の時にはじまるとする説もあるが、オレが調べた範囲では『塵塚《ちりづか》 談《ものがたり》』(小川顕道が文化十一年〈一八一四〉七十八歳の時、書き記した江戸の風俗のうつり変わりの記録)に、 「同国〈駿州・静岡県〉阿部郡上田村 海野弥兵衛といふ者の方へ旅宿しけるが この者の先祖東照宮の御代 御茶役人御蔵預りの由 其節の御帳面上書   慶長十七|子《ね》御茶詰候御壺 目録   一、玉虫の御壺 一ツ……云々」と、ある。  そのほか阿茶、まん、なつ、亀、梶など家康の愛妾の分を加えて十六壺を慶長十七年(一六一二)五月五日に、宗圓(お茶壺奉行か)という者から海野家が預かった文書があると記している。  また『徳川実紀』元和二年(一六一六)三月の頃に「日下部《くさかべ》五郎八|宗好《そうこう》、宇治採茶使にさされ暇《いとま》を給ふ」とあり、家康、秀忠時代にお茶壺道中らしきことははじまったらしい。  お茶壺道中は毎年、新暦の四月上旬、御茶壺奉行以下|数寄屋衆《すきやしゆう》、徒士《かち》など三、四十人の一行が六斤入り呂宋《るそん》渡りの葉茶壺を収めた大箱を三挺の美々しい御壺籠に収め東海道を上った。  一行は京都宇治の茶司《ちやつかさ》、上林《かんばやし》家で新茶を受領、ふたたび東海道を下る。  この行程は時代によっては帰路を中山道《なかせんどう》にとる場合もあり、また甲州|谷村《やむら》で茶壺を富士火山の熔岩によって出来た穴の中へ冷蔵するため納めたこともあったらしい。  前出『塵塚談』にも、駿州富士郡の人穴に谷村同様茶壺を冷蔵したと思われる記事がある。  とにかく将軍様が喫せられるお茶とて、虎の威をかる狐の譬《たと》えのように、軽格な茶坊主や下級武士の徒士(七十俵五人扶持・今の年収にして実勢・百五十万円ぐらいか)は、この時とばかり目にあまる横暴ぶりだったという。  将軍家御用の道中だから必ず前触《さきぶ》れがある。そこで街道筋の宿場役人のみか、道筋の藩主、代官からも手勢を繰り出し往来を掃き清め、道中に疎漏のないよう万事に気を配る。|宿 々《しゆくじゆく》では酒肴の接待のほか、酒肴料、土産の付け届け、その上 御馳走|人馬《じんば》と言って一行の道中が楽なように人足や馬を集めて提供した。  それらは将軍家を嵩《かさ》に着ての無理難題をおそれての配慮だったのだ。  お茶壺道中と街道で出会いそうな大名行列は、不慮のトラブルを避けるため脇道へそれて一行が通りすぎるのを待つほどだったと言う。  この間の事情をうかがい知ることの出来る記事として『責而者草』(近藤忠質著『愁遺草《せめてもぐさ》』か)四篇に備前岡山三十二万石の大名池田新太郎光政と、お茶壺道中の争いがある(物集《もずめ》高見『広文庫』による)。  現代語で抄訳すると、 「池田光政の行列が、ある時、お茶壺道中と行き合ったことがあった。ところがお茶壺道中の悪党ども、池田光政を困らせてやれとばかり、御茶壺を道の真ん中に置いて行列が立往生するのを心ひそかに待っていた。  光政の行列は委細かまわず通りすぎようとしたが、この時、行列の牽馬《ひきうま》がお茶壺を蹴飛ばしてしまった。さいわいにお茶壺に別条なかったが、待ってましたとお茶壺道中の連中、おそれおおくも将軍様のお茶壺を馬の足にかけるとは何事だ。責任者は切腹してお詑びをしろと詰めより、池田家の家臣がいくら宥《なだ》めても承知しない。  光政はこれを聞いて、捨ておけと、そのまま通りすぎてから、使者を連中のところへやって──わが行列の馬がお茶壺を踏み返したことは粗相であったが、そのように大切な御茶壺を、馬が踏みそうな粗末な場所へ何で置いたのか。まことに不届な仕業ではないか。この一部始終は江戸に着いたら、老中によく話をしてお前らの処罰をするから左様心得ろ──と、きめつけた。  さあ、青くなったのはお茶壺道中の者たち。うろたえて平身低頭、光政のところへ詑びて来たが、光政は取りあわない。  連中は、光政のあとを追って宿場宿場ごとに哀訴嘆願。やっと、こんどだけは許してやるが、以後そういう事をしたら承知せぬぞ、とさんざん光政に油をしぼられた──」  光政は家康の二女富子の孫であり、二代将軍秀忠の娘、千姫の子の勝子の夫だったから、お茶壺の連中を一喝できたのだろうが、大名さえおそれぬお茶壺道中の傲慢ぶりがわかる話だ。  しかしだ。お茶壺道中ばかりが傲慢であったわけじゃない。  江戸時代、幕府の公務をもって旅をする幕臣のいわゆる「御朱印《ごしゆいん》道中」は用務の如何を問わず権勢を張ったもので、その実態はお茶壺道中と何等異なるところがない。  旧幕臣の話をまとめた『幕末の武家』(柴田宵曲・編)にも御朱印道中は「参覲《さんきん》交代の大名すら横路へ逃げてしまう」と、その威勢が詳しく語られている。   ずいずいずっころばし   ごまみそ ずい   茶壺に おわれて とっぴんしゃん   ぬけたら どんどこしょ   俵の鼠が 米喰って ちゅう   お父つぁんが呼んでも   おっ母さんが呼んでも 行きっこなあし   井戸のまわりで お茶碗欠いたのだあれ  従来、この唄の意味は、 「お茶壺さまのお通りだというので、沿道《えんどう》で遊んでいた子供たちは、茶壺に追われるようにあわてふためき、家や物かげへ逃げ込んだ。  この騒ぎに、俵からこっそり米を失敬していたネズミまでが驚いてチューと鳴いた。  遊びでのどがかわいた子供たちが井戸に集まってわいわい茶碗を奪い合いながら水を飲んだので、ついお茶碗を割ってしまった」(先年、埼玉県鴻巣市でお茶壺道中の御馳走人馬〈助郷《すけごう》〉の古文書が発見された際、それを報じた新聞紙上での同市文化財保護委員の藤井真氏の解説)  またこれを補足して、駒沢大学の丸山雍成助教授は、 「やっかいもののお茶壺が早く行ってしまってほしい……という子供たちの気持が表現されている。  ※[#歌記号]ぬけたらどんどこしょ──も、一行が通りぬけてしまったら遊ぼうの意味だと思うし、父や母に呼ばれても、じーっとしていて返事をするな。井戸の後ろにかくれていて、お茶碗を割ったバカはだれだ……という意味にとれる」という。  こうした解釈は、藤井、丸山両氏に限らない。「ずいずいずっころばし」と「お茶壺道中」とを結びつけたおおかたの解釈も両氏の意見と大同小異なのだ。  さてオレがこの唄の定説ともいえる「お茶壺道中説」に疑問を待ったのは、ごく単純な理由からだ。  それは、この唄をうたうとき、握り拳《こぶし》の穴を人さし指で突つく。つまり性戯を暗示させるしぐさは全く唄の意昧とは無関係な童戯なのか、という点だった。  こうした疑問はオレばかりじゃない。すでに二、三の先学の論稿にも見える。 『定本・うたの思想』(松永伍一)は──、 「この指遊びのうたの意味を説明するのはむずかしい。まるでシュール・レアリズムの詩を前にしたときのそれに似ている。  夢の潜在意識の世界を追及しようとする自動記述法的表現もシャーマン的性格と無関係ではなかった。  表現方法に対する緻密な計算や主張があったとしても、ヨーロッパでは前衛的運動の形をとって進められたが、日本ではその初発の芽は無心に遊ぶときの子供たちのうたの世界にあったと見ることが出来る。まさに無心所着の歌である」  無心所着の歌とは、無関係な詞句が並べられていて、歌全体、意味をなさない歌のことだが、さらに、『現代詩手帖』昭和49年8月号(佐々木幸綱)は──、 「にぎった拳をつつく指遊びの歌だが、これも意味をとることはむずかしい。〈ずいずいずっころばし〉という指突きの擬態語のニュアンス。そして何やら秘密結社的な結束のムードなどと言ってもはじまらない。  もとは、子守娘の悲哀を言った歌だったかも知れないが、それも、これをうたって遊ぶ子供たちには、どうでもよいことだ。  私もこの歌をうたって遊んだ経験があるけれど、その頃はもちろんのこと、現在に至っても前半の意味はわからない。  子供は反意味的歌詩を呪文のようにうたいつつ、自らの遊びを遊ぶ。うたうことで自己に没入する、そのための遊びなのだ」  この二つの意見は「全く意味不明の唄」として「お茶壺道中」には触れていない。  ただ、いずれも不可解な「指遊び」を指摘している。  ところで童唄というものは、今で言えば童謡だが、子供らしい唄を大人がつくって子供にうたわせるようになったのは明治時代になってからだ。  江戸の童唄には性に関する唄がいくらもある。  江戸から明治の末まで盛んにうたわれたものに、   ※[#歌記号]お尻の用心 ご用心……  あるいは上方では、   ※[#歌記号]今日は二十五日 おいどまくり はやった……  がある。  牧村史陽(昭和29年10月『大阪弁』第七集)によれば、この遊びは寛政十二年(一八〇〇)の『狂歌の梅《むめ》』(自縁斎梅好)の五の巻に見え、子供が五人、お尻のまくり合いをしている画に「名にめでて 聞きたるままの尻まくり もの|しり《ヽヽ》顔に書くもおかしや」という狂歌を添えて、その由来が書かれているという。  その由来は省略するが、今でも子供の間にスカートめくりなんて悪戯《いたずら》が実際にある。  江戸においても大田南畝(蜀山人)の『半日閑話《はんにちかんわ》』文政二年(一八一九)の記事に、 「近頃の童謡、|陰褻甚 《いんせつはなはだ》し」とて、   ※[#歌記号]娘 何する 納戸《なんど》のかげで      色〈情人〉に見せよとて [#7字下げ]陰戸の毛をむしる  陰戸はアレのことだが、ふり仮名がない。  また、   ※[#歌記号]|臍《へそ》の下にも 出茶屋がござる     柿の暖簾《のれん》に 豆屋《ヽヽ》と書いて       松茸《まつたけ》売りなら 入《はい》らんせ  などのわらべ唱を挙げているし『街談文々集要』(石塚豊芥子《いしづかほうかいし》)の文化八年(一八一一)の記事にも、 「此節 流行唄《はやりうた》に   ※[#歌記号]あしをからんで 手をくんで     ぼぼ おめこ させもせ/\ヨ   ※[#歌記号]|夕《ゆうべ》ァの客人したあとを おめこさせもせ塗まくら     今朝来て 昼来て 晩に来な       そしてお前は しくじんな [#8字下げ]その時ゃ たか身〈高見か〉で見物だ─  ある人の狂歌に──朝夕にきつつさせもせさせもせも させもが露や 命なるらん──  此|童謡《ヽヽ》 下がかりにて余りに鄙言《ひげん》故 市《まち》へ御触れあり |御停止仰 出《ごちようじおおせだされ》しなり 予 十三才に而《て》夜分うたひ歩行《あるき》し 筆|任《まかせ》に云 文化|辛 未春《かのとひつじはる》〈文化八年・一八一一〉の末より、させもせ/\といへる童謡 又くるためにせもせや といふ事 三才の子もうたふ程にはやる……以下略」とある。  この時の奉行所からの禁制に従い、江戸八百八町の世話役が各町内に廻した文書はつぎのようなものだった。 「此節《このせつ》子供若輩之者 流行唄に足をからんでといふ雑語《ぞうご》をうたひ歩行《あるき》自然と風義にも拘《かかわ》り如何《いかがわ》敷義《しきぎ》に付 町々御同役には御差心得《おさしこころえ》 右体《みぎてい》はやり歌|早々《そうそう》相止被《あいとめられ》 |候 様《そうろうよう》 并《ならび》に申出候者相知れ候はゞ内密名前取調|可 被遣候《つかわさるべくそうろう》  但右体《ただしみぎてい》文句節を付《つけ》つゞり読売いたし候者も有之《これある》 趣《おもむき》に付 読売渡世の者御取しらべ早々《そうそう》相止可被《あいとめらるべく》 候《そうろう》 右者《みぎは》南御番所御用|懸《かか》り方《かた》被仰聞《おおせきけられ》 |候 間《そうろうあいだ》……以下略……未《み》〈文化八年〉五月十八日」 「さのさ」「法界節」「梅ケ枝節」の元唄の「九連環《きゆうれんかん》」が長崎から流行「かんかんのう きうのれんす……中略……めんこん ふはうて しんこんさん もへもんとはいい ひい はう/\」 「大意・私が惚れた男は、顔はまずいが男根が大きくて、とても気持がいい」  これが子供に愛唱され、文政四年(一八二一)これまた幕府から停止令が出されている。  こうした猥的童謡の例は挙げたらキリがない。  とにかくオレは「尻まくり」同様「ずいずいずっころばし」の握り拳の穴を指で突つく動作は歌詞と不可分のものと考えていたが、どうしても意味が解けなかった。  ところが十二、三年ほど前、文化三年(一八〇六)に江戸の戯作者《げさくしや》で有名な式亭三馬《しきていさんば》の『|小野※[#「竹/愚」]※[#「言+虚」]字尽《おののばかむらうそじづくし》』という本を手に入れた。  これは百人一首に、   わたの原 八十島《やそじま》かけて 漕ぎ出でぬと     人には告げよ あまの釣船  とある従三位参議、小野|篁 《たかむら》の『小野|篁 《たかむら》歌字尽《うたじつくし》』をもじったものだ。  小野篁は小野小町の祖父にあたる平安王朝の歌人で仁寿二年(八五二)に歿した。  で、この「ばかむら本」をめくっているうち、 「惣嫁《そうか》 夜発《やほち》 辻君《つじぎみ》 立君《たちぎみ》 ついころばし アノ姉《ねえ》さんは能姉《いいねえ》さん 秤《はかり》にかけて十匁《じゆうもんめ》……」  いわゆる私娼でも最下等の野外で売春する夜鷹《よたか》の別称が列挙されているところに「ついころばし」というのが目についた。  延享頃(一七四四〜一七四七)江戸の上野辺に「蹴っころばし」という私娼が発生、その後、浅草の田原辺にわずか二百文で春を売る「けころ見世」なる賤娼があったが、この「蹴っころばし」の転訛だろうか。とにかくふと「ずいずいずっころばし」とは「ついついついころばし」なのでは……と考えたわけだ。  これが「ずいずいずっころばし」の歌の意味を解く鍵になった。  つづいて、さきに書いた探春のことを「木舞《こまい》をかく」と言った江戸語につながる。  近頃はあまり見られなくなったが、昔は土壁には「木舞」といって竹を細く裂いて縦横に編んだものを芯にした。  この竹を編んで棕梠縄《しゆろなわ》でからげ止めることを「木舞をかく」と言う。  木舞職人の複雑な指の働きから、女陰をまさぐることを「木舞をかく」とたとえたわけだ。  だから古川柳にも、   女房を 稽古所にする 木舞かき  木舞職人は、女房のアレで指のトレーニングをやるのだろうという想像の句がある。   くじる手の 鶺鴒《せきれい》らしい 木舞かき  イザナギ、イザナミに「成り成りて成り余れる処」を「成り成りて成り合わざる処」へドッキングさせることを教えたセキレイの故事を引いた句だが、セキレイの微妙な尾のうごきにまけないのが木舞職人の指さきなのだ。  そこで「ごまみそずい」は「こまいしょ つい」が転訛したものと考えた。 「つい」は強調の口拍子だろう。 「茶壺に 追われて とっぴん しゃん」  茶壺は『閑吟集』の中にも、   ※[#歌記号]新茶の 茶壺よ なふ     入れての後《のち》は こちゃ〈こちらは・古茶にかかる〉知らぬ  と、あるように、女陰の隠喩だ。 「とっぴんしゃん」は「とっぴ」が「へんてこ りん」というように変化したもの、つまり「しゃん」も「りん」も口拍子と考える。 「とっぴ」は「どっぴ」の転訛だろう。  江戸語で「どっぴ」とは「どっと騒ぐ」ということで、   嫁を見に どっぴと路次へ 駈けて出る [#地付き]明和六年 柳多留  いまでも地方の婚礼など、花嫁を一目見ようと、近所の人々が集まって来るが、この句はその光景をうたったものだ。「どっぴ」の用例は文化六年(一八〇九)の式亭三馬の『浮世風呂』などにも見られる。  したがって「茶壺に責めたてられて、悲鳴をあげる」と解したい。 「俵の鼠が 米喰って チュウ」  俵は意味が不明だ。棚《たな》(店《たな》)で貸家・長屋のことかも知れない。 「鼠」は江戸から明治中頃まで、妾商売の女が旦那の目を盗んで一夜限りのアルバイト売春をすることを「相鼠《あいねずみ》」と言って、女房が亭主と相談づくで売春をする意味もある。  しかし「鼠づれ」という「夜這い」の語かとも思う。 「寝通鼻《ねつび》を取る。熟睡せる婦女子を窃《ひそか》に犯すことを俗に斯《か》く云ふ……」(佐藤紅霞『日本性的風俗辞典』)  もう少し解釈をひろげて「性交」そのものと考えてもいいのではないか。 「|こめ《ヽヽ》くって」は「ひどい目にあう」の江戸語だ。 「やり|こめ《ヽヽ》られる」の「込め」だ。 「チュウ」は中国でいう「鳴口《めいこう》」日本では「鼠鳴き」といって、娼婦がひやかし客の気を引くための擬声語だが「込められた女の悲鳴」ともとれる。 「お父つぁんが呼んでも おっ母さんが呼んでも行きっこなあし」  これはそのままの意味で、子供が性の密戯にふけっている最中だ。親に呼ばれても|いき《ヽヽ》をひそめていろってえわけだろう。  これと、事情が反対の古川柳がある。   乗せていて 下女は二《ふ》タ声 返事する  下女がいろ男を自分の部屋に引っぱりこんでオッパじめたところへ、おカミさんの呼ぶ声。うろたえるから、返事も二タ声になるおかしさだ。 「井戸のまわりで お茶碗|欠《か》いたのだあれ」井戸は「居所《いど》」で「尻」のことで「居敷《いしき》」とも「おゐど」とも、現在でも使われている言葉だ。 「お茶碗」は無毛の女陰(かわらけ)のことだが、子供の性戯だから「お茶碗」は当然。 「上方では食器の茶碗は〈お〉をつけないことによって、お茶碗〈無毛〉と区別している」(中野栄三『性風俗事典』)  したがって「ゐどを廻して」の廻すは輪姦(子供の世界ではみんなでイタズラする)の意昧にも考えられる。「お茶碗かいたの……」の「かく」は江戸語だが今日でも芸人などの間で使われている隠語で「情交する」(楳垣実『隠語辞典』)だから現代の子供の「お医者さまごっこ」みたいに、複数の男の子が親の目を盗んで女の子にいたずらしている歌で「だあれ」と「おら知らねえゾ」と言いながら実はその悪童の仲間のひとりということになる。  安永六年(一七七七)の川柳に、『伊勢物語』の筒井筒の段にひっかけて、紀有常《きのありつね》の娘と「昔男ありけり」の幼馴染の秘事を想像した句がある。   井戸端へ 茶碗をおきに 娘出る   井戸端の 茶碗 有常油断なり  もともとはこの唄、子供の世界から発生した歌ではなく、江戸の私娼窟の岡場所あたりの戯《ざ》れ唄だったのが、子供たちへ伝播したため、元の歌詞が転訛し、意味不明の歌になってしまったのではと考えるが、元唄らしき文献資料は発見できないが、とにかく安永以前の歌と思われる。  この唄をうたって子供が握り拳の穴を指でつつくわけは、ざっとこんな意味があるからで、もっと傍証を挙げて詳しく書きたいが、くどくなるからこの辺でやめておく。     古今接吻珍談集  さて話をもとの「おさしみ」に戻して、刺身のすごい話をしよう。  ところは播州竜野《ばんしゆうたつの》というから兵庫県で起きた明治の事件だが、わが家の下女に手をつけた男がいた。いまは人手不足からお手伝いさんなんて歯の浮くようなことを言って、雇主のほうがオロオロと気をつかう時代だが、明治の頃は、親が貧しいため前借《ぜんしやく》をして女中奉公をするものが沢山いたし、江戸のきびしい主従関係の風習も残っていたから雇主が下女に手をつけることは珍しい話ではなかった。   女房の 目の忙しい 下女を置き  で、なまじ顔立のととのったのを雇うと女房のほうは夜もおちおち眠れない。  だから、三平二満《おたふく》の女を探す。   やく女房 千人《ヽヽ》なみの 下女を置き  明治の戯詩にも、 「元《もと》これ年給七、八圓 四六時中肩を息《やすら》へず。昨夜|旦公《だんこう》婢腹に上り 今朝権位《こんちようごんい》島田を冠す」  年に七、八円という安い給料で、四六時中、休む間もなく働かされる下女の身だったが、ゆうべ旦那を腹の上に乗せたために、今朝は妾という身分に昇進して、冠のかわりに島田髷を結った──わけだ。権位《ごんい》とは権妻《ごんさい》のこと。権は権帥《ごんのそち》、権大納言というように「副」という意味であって明治は十三年まで、妾は妻とおなじ二等親として戸籍にデンと記載されていたのだ。  こんな風だから女房もうっかりすると自分の地位が危なくなる。いきおいその危機感から、嫉妬心も今日では想像もつかないほど猛烈だった。日頃、下女とさげすんでいた相手に亭主を寝取られたのだから無理もない。  で、播州竜野の事件は、亭主の留守に下女を女房が殺してしまい、その性器を何も知らない亭主に刺身にして喰わせたと明治八年(一八七五)四月、東京日日新聞は報じている。  刺身の|ドテ《ヽヽ》というのは、これからはじまったのかどうか知らないが、食った亭主は|熊の肉《ヽヽヽ》ぐらいに思ったのか。「味はいかが……」と女房に聞かれて亭主、「うん、マンざらでも……」と言ったかどうか。 「おさしみ」が出たついでに「口取り」といこう。 「口取り」とは「口取り肴《ざかな》」のことで、古式の勧盃《けんぱい》に添える干鮑《ほしあわび》、昆布、勝栗のこともあるが、今では正月の重詰《じゆうづめ》など、きんとん、蒲鉾、卵焼など取りそろえたものをさす場合がふつうだ。  しかし、ここで言う口取りはちがう。  前出『婚礼秘事袋』に、 「こんれいのさかづき 古へは男女たがひに口を吸合て夫婦のかためとせし也 これを口取といふ 今も口とりと名付て こんぶ〈昆布〉を引《ひく》も此古例なるべし」  とあって、夫婦のかための接吻のことを言うが、女房が月経や出産で亭主とデキないとき、やむなくやる場合もあろうが、たいていはしょっちゅう、おヘラ、おヘラと鼻息荒くやる尺八のことを「口取り」とも言ったようだ。ただし、夫婦のかためのほうは「くち|と《ヽ》り」、おヘラのほうは「くち|ど《ヽ》り」と区別したい気がする。  江戸の遊里でも、おヘラはやったらしく、   唇の 毛切れは髪の こわい客  なんて川柳がある。  しかし女がやる尺八より、男がやる舌人形、饅頭喰い、今でいうハモニカのほうが想像するとなんとなく滑稽味がある。  いつの頃か、ブルガンディの領主チボール伯爵は少女ばかり八百九十三人も舐めて死んだという。  一人の娘を二度とは用いず、その所要時間は二、三時間にも及んだそうな。  まさに舐下《てんか》の豪傑だ。  これが情ない話になると、江戸の商家の入聟が登場する。 「小糠三合持ったら 聟にゆくな」といわれた時代、   女房と 思うが聟の 不覚なり  で、家つき娘を女房にしたら「あんたッ、こうして食べていけるのは、一体全体だれのお蔭なのよッ」てな風に一生威張られた。  こんな女房にかかっちゃ名ばかりの亭主は哀れなもの。 「今夜はあんた、たっぷりナメとくれよッ」と言われて、   バカな聟 いい塩梅《あんばい》と ナメてみる  だまってナメりゃいいのに、そこが入聟の悲しさ、 「まことにどうも、結構なお味でして……」  と、心にもないお世辞を言ってるところがおかしい。   味の素 つけて見たらと ふと思い [#地付き]芳 水  こんな女房にかぎってブスで、その上アレの手入れもおろそか  入聟、胸中に思へらく。   いい女 開《ぼぼ》もきたなく 思われず  チャタレイ裁判という騒ぎをひきおこした発禁本『チャタレイ夫人の恋人』は性的不能の夫を持つチャタレイ男爵夫人が、身分の賤しい森番メラーズとひそかに不倫の関係を持ち、やがて妊娠するが、それを告白するシーンで、 「どうぞ私の子宮のところに接吻して、そこに子供がいることが嬉しいと言って下さい」  と、メラーズに哀願する実に女ならでは言えない感動的なせりふがある。  これなど文学の香気高いナメナメだ。  開《ぼぼ》のみか「足接吻」とよばれる行為にも、 「人間の足は塩辛い。酸っぱい味のするものだ。きれいな人は足の指の爪の恰好まできれいにできてる。こんなことを考えながら、私は一生懸命〈女の〉五本の指の股をしゃぶった」 [#地付き](谷崎潤一郎『少年』)  この作品、バルザックの『風流滑稽譚』がネタかも……。だがこれが人情というものだろう。こういうところ、元禄の近松門左衛門は、女ごころをソツ無くとらえていて流石だな。  正徳元年(一七一一)に初演された世話物『冥途《めいど》の飛脚《ひきやく》』の一節に「それが定《じよう》〈ほんと〉なら晩に私の寝所《ねどころ》へござんすか(略)必ず騙《だまし》にさんすなえ、そんならわしはお湯|沸《わか》いて 腰湯《ヽヽ》して待ちます……」。これは飯焚女《めしたきおんな》のせりふだが、たとえ下女でもアレをよく洗って忍ぶ男を待つ元禄女の心意気を活写している。  また、鎌倉末期の元享《げんこう》頃(一三二一〜一三二三)というから北条高時が執権であった頃だが、巨瀬《こせ》飛騨守|惟久《これひさ》によって画かれ、のちに徳川家の伝来となったという『袋法師絵詞《ふくろほうしえことば》』にも舐陰「啜陰《てついん》」の光景が書かれているから、クンニリングスなんていうと西洋からきた新しい愛技にきこえるが、この風習は日本でもよほど古い時代からあったのだ。  この物語は、ある法師が神詣でへゆくさるやんごとなき御所《ごしよ》の局《つぼね》三人を、舟に誘い、離れ小島で四つ巴の秘戯を楽しむ。いったん別れてそれぞれに帰ってゆくが、法師はまっ裸になって、また女たちのところへ押しかける。あわてた女たちは法師を大きな袋の中に押し込み、小出しにして楽しむが、ついに貴き御方《おんかた》の従妹《いとこ》の尼御前《あまごぜん》がこの噂を耳にし、仏門に仕える尼の身も忘れて法師ともつれ合う。敵はおおぜい、味方は一人。ついに法師は精根つきはてインポとなってもとの古寺ヘ一人悄然と去ってゆく、という荒筋だが、古来から有名な秘本だ。その一節に、 「ひげをそりて三日許り過ぎたるおとがひ〈あご〉にて|かの口《ヽヽヽ》〈女陰〉にさしあてて 顔をふるやうにし侍《はべ》りければ 鼻の上 眉のあたり さつと|はせ《ヽヽ》かけ給ふほどに 法師の鼻の穴に入り |ひた《ヽヽ》としはぶき〈咳〉し侍《はべ》りければ……」なんて、無精髭でザラザラとこするくだりがある。「|はせ《ヽヽ》」るという言葉は、中島利一郎『卑語考』では、破前《ハセ》・破勢《ハセ》で、『古語拾遺』『倭名抄』『名義抄』『本朝文粋』などを博引し、男茎としている。賀茂百樹『日本語源』では「男陰《はせ》・破前・麻良・皮のハジクルものなればハゼというか」とある。  ハセには『倭名抄』『名義抄』などの別の意味として「屎《くそ》」としている。ニュッと飛び出すから男茎も屎もその点は似ているが、とにかく水に流れないハセと、水洗できるハセがあるようだ。袋法師の相手の女の場合、女に男茎があるわけはないし、ナメられて夢中になって屎を垂れた……では艶消しな話だ。前出(賀茂百樹『日本語源』)の外《ハツル》の項に「ハツスは|令 放出《ほうしゆつせしむ》なり」とある。これならわかる。つまり女のラブジュースがピューッと袋法師の鼻へ飛びこんだから、法師はむせちゃったわけで、きっとこの女は「潮吹き」だったのだろう。「はせ」は「ハツス」が訛ったものと思う。  このようにピューッと潮をふく女はままいるそうで、産婦人科医などに触診されると興奮してピューッ。だからお医者さんの中にはノゾクとき必ずメガネをかける人がいるそうな。ホント。  中条《なかじよう》(チュウジョウではない)とは江戸時代の子おろし(堕胎医・本来は産婦人科だが、いつかそう呼ばれるようになった)のことだが、古川柳にもある。   中条で 鼻を鳴らして 叱られる  ただ中条医者、メガネをかけていたかどうか知らない。  ナメルについての珍談は……、  明治時代、侯爵西園寺|公望《きんもち》はフランスの里昂《リオン》に滞在、華やかな女遊びをして在留邦人の間に評判だった。  そこへ、たまたま伯爵|後藤象二郎《ごとうしようじろう》が、世界の国情視察のため外遊し、里昂にやって来た。明治維新の元勲は伊藤博文はじめいずれも女遊びにかけては日本の裏面史に燦然たる光茫を放つ連中ばかり。花の吉原へ警護を引き連れ二頭立の馬車で繰りこむ大野暮ばかりだが、権力と金があったから、新柳二橋の芸者など争って片っぱしから手をつける始末だった。西園寺も後藤も異国にあってもその癖はぬけない。  象二郎は早速、ひとりの美女を見つけ、これと深い仲になった。  ところがその女、西園寺とも関係があった女だった。面白くないのは西園寺。よし一つ後藤の鼻をあかしてやれと、一計を案じてその女に「後藤は日本の大臣である。貴女がもし大臣夫人になりたいならば、いいことを教えてやる。日本人たちがおおぜい集まった席で、後藤に〈おん身の顔に接吻せしめよ〉ということを、日本語《ヽヽヽ》ではっきりと言えばよい。ところでその日本語だが……」と何やら紙に書いて渡した。  彼女はひまあるごとにそれを繰り返し暗誦しているうちに、あるとき陸奥《むつ》宗光《むねみつ》ら維新政府のお歴々が里昂にやってきて、盛大な酒宴を催した。象二郎はこの時こそ俺が女にいかにモテルか、連中に証明しなくちゃと、その席へ彼女を呼びよせた。  彼女は大よろこび。いよいよ私は大臣夫人になれるワ……ってえんで、満座の中に後藤の姿を見つけるや、かけ寄って声高らかに叫んだ。 「おゝゴトウ ケツナメロ ケツナメロ」  象二郎、真っ赤になって、ひっくりかえり、陸奥宗光ら一同は腹をかかえてころげ廻ったと、明治三十三年、熊田宗次郎著『洋行奇談・赤《あか》毛布《げつと》』にある。  ケツナメロといえば、こんな笑い話もある。  水に溺れた男がいた。友達があわてて人工呼吸をしたが効き目がない。すると見物の一人が「ケツの穴へストローをさしこんで息を吹き込むといい」と教えてくれた。そこでストローで吹いてみたが疲れて呼吸がつづかなくなった。そこで傍らで見ていた娘さんに、「すいませんが、代って吹いてくれませんか」と、たのむと娘「代ってあげるのはいいけど、あなたが口をつけたストローなんてきたないわ」と、尻の穴からストローを引き抜いて、あべこべにして口にくわえた……。  さて室町末期、山崎宗鑑《やまざきそうかん》(天文二十二年・一五五三歿・歿年については諸説ある)の『犬筑波集《いぬつくばしゆう》』という俳諧連歌《はいかいれんが》に、     くびをのべたる あけぼのの空 [#地付き](前 句)   きぬ/″\に 大若衆の口吸ひて [#地付き](附 句)  というのがある。男色《なんしよく》に一夜を明かした翌朝、別れを惜しんで、自分より背の高い若衆(蔭間)に、ぶらさがるようにして口を吸っている男の滑稽な姿をうたったものだ。  この俳諧連歌から江戸期になって、川柳がうまれるのだが、川柳の源流らしく面白いのがあるから、いくつか紹介しよう。有名な     内《うち》はあかくて 外はまっくろ [#地付き](前 句)   知らねども 女のもてる ものに似て [#地付き](附 句)    きりたくもあり 切りたくもなし [#地付き](前 句)   盗人をとらへて見れば 我子なり [#地付き](附 句)  をはじめとして     馬か人かの程も知らず [#地付き](前 句)   ねをびれに〈寝ぼけていて〉大きな物を入れられて [#地付き](附 句)     こしより|しも《ヽヽ》の さてもきたなき [#地付き](前 句)   袴をも ぬがぬうちに |はこ《ヽヽ》たれて [#地付き](附 句)  |はこ《ヽヽ》は、王朝時代は屋内に便所が無く、筥《はこ》に糞便をしたことから転じて、ここでは糞のことをいっている。     あながちなりと 人や笑はん [#地付き](前 句)   まふくるも 又まふくるも 女子《おなご》にて [#地付き](附 句)  あながちは「一概に」だろうから、出来る子、生まれる子、女の子ばかり。どこの家でもみんなそうではないのに、おたくはマアと、人に笑われそうだという意味はおもてむき。  あながちは「穴勝」で女房の精力にかなわない自分を人が笑いはすまいかという意味だろう。  また話がそれるが、この『犬筑波集』には、福井久蔵『犬筑波集・研究と諸本』(昭和23年筑摩書房)という名著がある。いまは数万円の値がついている。ザラ紙五百頁の粗末な製本だが発行時でも四百五拾円だった。  ただこの本、惜しむらくは、「文殊四郎」を人物と誤認している。文殊四郎は、大和|手掻包永《てがいかねなが》の門(子とも)の包次《かねつぐ》(のち包吉《かねよし》)で文保頃(一三一七〜一三一八)つまり鎌倉末期の刀工だ。のち文殊四郎と名乗る凡工多く、江戸時代は二束三文の駄刀、奈良刀《ならがたな》の代名詞になったくらいだ。たとえば     ひとりと さかを逃ぐる奈良ちご [#地付き](前 句)   般若寺の文殊四郎が太刀ぬきて [#地付き](附 句)  注に「文殊四郎は児子《ちご》を愛する実在の人か」とあるが、文殊四郎は人物ではなく、刀銘であるのが正しく、ここでは坊主の豪刀(大まら)を文殊四郎とうたっているのだ。名著の瑕瑾《かきん》というべきか。この『犬筑波集』の中に、     そもそもこれは 何をするらむ [#地付き](前 句)   姫ごぜを うつぶきにこそ 寝させつれ [#地付き](附 句)  というのがある。これはさきの大若衆の代用に、若い娘の後門を狙ったものか、それともゴトウケツナメロのくちかわらない。  また、江戸の川柳にも『犬筑波集』の大若衆を思い出させるのがある。   嬶《かか》が口 のびあがらねば 吸えぬなり  ははあ、蚤の夫婦で女房は大女かいな、と解釈したら落第。これは69のことで、しかも女上位の体位だぞ。口は口でも嬶の下半身の口だ。  亭主のほうが「首をのべたる |あげぼぼ《ヽヽヽヽ》の空」だ。嘘と思うなら、身をもってためしてみろ。  堀口大学の詩に   砂浜に 唇あてて   貝がらを たづねる あそび   海の匂ひがして   潮みづの匂ひがして  というのがある。  舐陰のロマンだ。ロマンの|ロ《ろ》を口《くち》と読むなよ。  だがこの美意識も、医学的に見るとダメなのだ。  人間はあやまって異物を嚥《の》みこんでも、胃から腸へ、そしてやがて尻から出る。  入れ歯みたいな大きなものでも、咽喉《のど》へつっかえれば一大事だが、のみこんでしまえば騒ぐことはない。  ただ例外の事件が北海道で数年前に実際にあった。何の雑誌だが失念したが医者と作家の対談だったと思う。  なんでも婚約中の二人だったそうだが、若い人でも入歯の人はいるから不思議はないが、キスをしたとき彼の入歯を彼女がのみこんじゃった。  ところが運悪く、胃にひっかかってとれないので、やむなく胃を切開して取り出したのだそうだ。  ま、それで話はめでたし(|は《ヽ》でたしかナ)となるところだが、実はそうはいかなかった。  なんと彼女の胃袋から入歯が「|二つ《ヽヽ》」も出て来たのだ。もちろん、彼女はハ談になったという。  入歯の話のついでに、もう一つ。  女のナニを舐めた男が、うっかりアナの中へ入歯を置いてきちゃった。  そうと知らないつぎの男が、その女と寝たトタン、入歯に珍棒をガブリと噛みつかれた。  その話を聞いた三人目の男、ウソかホントか試してみようと女のところへ出かけていった。  女は「アタシのは危険よ、噛みつくわよヤメテ」と言うのを、いさいかまわず押し倒してまず舐めてみた。危険はなかった。そこで男は安心しておもむろに一物を取り出し本懐をとげ、ゆうゆうと肩をそびやかして帰っていった。  え、なぜかって? それはその男、女のところへゆく前にあらかじめ自分の入歯をはずしていったのだ。  わかるかな、この話。わからない向は、最初の男の入歯のゆくえを探索してみるがよかろう。  入歯の物語の圧巻は昭和二十二年「老いらくの恋」として新聞紙上に華々しく報道され世上の話題となった歌人、川田順の大恋愛だろう。  ときに川田順は六十五歳。相手は歌の弟子で某大学教授の夫人、三十八歳の女盛りだった。不倫の恋に悩み、   つひにわれ 生き難きかも いかさまに     生きむとしても 生き難きかも  と自殺まではかった順だったが、ついに不転の決意をし、   若き日の恋は はにかみて   おもて赤らめ 壮子時《おさかり》の   四十歳《よそじ》の恋は 世の中の   かれこれ心 配れども   墓場に近き 老いらくの   恋は怖《おそ》るる何ものもなし  とうたい、その翌年ついに二人は結ばれ、それから十七年の余生を歌人らしいはなやかな色どりを見せて終えた。(『戦後文壇事件史』読売新聞社による)  で、オレの言いたいのはなにも川田順の老いらくの恋のロマンスじゃない。  この恋が大評判のとき、いまは亡き徳川夢声が痛烈な一句を放った。   総入歯 はずして二人 床《とこ》の中 『近世|畸人伝《きじんでん》』の著者として知られる、伴蒿蹊《ばんこうけい》(文化三年・一八〇六歿)の随筆『閑田《かんでん》耕筆』巻之四に「義歯は俗にいふ入歯なり 四条〈京〉に名工あり……」という書き出しで、「自分の友人がその名工に義歯を依頼したとき、その名工が言うには義歯というものは馴染むまでは気持がしっくりゆかぬものです。しかしそれを我慢していると、まことの歯と変わらぬようになります。それは義子《ままこ》のようなもので血肉をわけた子ではないから愛情もわかないでしょうが、そこを辛抱して養育していると、いつか実子のようになるようなものです、と言ったという。その後、友人は男の子をよそから貰って育てたとき、折にふれその名工の言葉を思い出し、やがてその義子を自分の娘と一緒にさせて跡を継がせたが、義歯をつくったために、義歯《ヽヽ》も義子《ヽヽ》も辛抱する木に花が咲くのだという名工の善い教えを得たとのちのちまで感謝した」という話がある。  さてこの入歯は、西紀前四─五世紀ごろからあったと伝えられ、それは牛の歯を使い金の帯環で固定したものらしく、古代エトルリア人の義歯が現存していて、古代はエジプト、ギリシア、インド、中国などかなり広範な地域にわたり、こうしたものがあったと考えられるという。ただ取りはずしが出来る総義歯は記録上は一六八〇年、オランダの外科医がカバの歯を彫って下顎の総義歯をつくったのが初めだそうな(平凡社『世界百科辞典』による)。  ところがだ。それより少し前に日本で総入歯がつくられていたことがわかった。  その人は誰あろう、講談や小説でお馴染の柳生飛騨守宗冬だ。宗冬は若い時、柳生又十郎といって、ならぶものなき柳生新陰流の達人だった。  のち五代将軍綱吉の刀術の師範、やがて、栄進して四千石の旗本から一万石の大名にまでなったが、この人の総入歯が発見されたのだ。歯科医学者、河越|逸行《としゆき》著『柳生飛騨守の義歯』によって、そのあらましを見ると──、  関東大震災後、台東区北稲荷町の臨済宗の寺、江戸時代、下谷の広徳寺として名高かった寺が区画整理のため改葬を行なった。  広徳寺は柳生家の累代《るいだい》の菩提寺でもあったが、この改葬の際、飛騨守宗冬の遺体が納められていた甕《かめ》の中から、黄楊《つげ》の義床に蝋石でつくった歯を植えた精巧なつくりの上下総入歯が発見された。  同書によれば口科医は織田、豊臣の時代に歯科医としての初めである兼康《かねやす》氏があって、その子孫が徳川幕府の御歯科医となったが、義歯まで作ったかどうか不明であるという。そういえば、何という本であったか忘れたが、徳川家康の歯を、口をあけさせてちょっと見ただけで見事な義歯をつくったという名工の話を読んだおぼえがある。  とにかく宗冬の生涯の年数から推測して寛永十二年(一六三五)から延宝三年(一六七五)の間につくられたもので、さきのオランダの義歯一六八〇年より早く、世界最初の義歯が文献上でなく、実物として発見されたのだから、日本の歯科技術はかなり進んでいたと考えていいだろう。  なお、同書にある兼康氏とは、前出『医心方』の編者、平安朝の丹波康頼《たんばのやすのり》の後裔なのだから、目、歯、麻良のうち先祖は麻良、子孫は歯を受け持って名をのこしたことになる。昔は石膏《せつこう》で歯型をとることはなく、新粉《しんこ》(※[#「米+參」]粉・米の粉)を固く練って用いたり、蜜蝋などを使ったらしい。  さて、のみこんだ異物の中で、胃壁に貼りついて絶対に腸へ流れてゆかないものが一つある。毛だ。一生胃の中へ残る。  プレイ・ボーイなんざ胃の中にいままで別れた女の記念館が出来るくらいた。赤いの、黒いの、縮れてるの、長いの、なかにはどういうわけか白毛がまじっちゃったりして……なッ。  江戸時代は接吻のことを「口吸い」「口ねぶり」「口口」「呂《ろ》の字」「手付《てつけ》」「口印《こうじるし》」「口中を契る」なんて言った。  また京都では「北山《きたやま》」と言った。南部の恐山《おそれざん》のイタコのように、京の北山にも死者の霊魂を呼びよせる「口寄せの巫女《みこ》」がいた。その「口寄せ」をもじったものだ。  呂の字といえば、会津藩の国学者、沢田|名垂《なたり》(弘化二年・一八四五歿)の著作『阿奈遠加志《あなおかし》』に、──ある大臣《おとど》が自分の一族のものが近頃女狂いをしているという噂を耳にして、その男の家来を呼び出してたずねた。 「お前の主人が女に夢中になっているとは、世間もっぱらの評判である。お前はそれについて何か知っていることはないか」  その家来は、やや考えていたが、 「色といふばかりのことこそはべらね 呂文字などは あまた見はべりつ」と、たしかに私の主人がその女とキスをするところはしばしば見ました、と答えると、大臣は、 「げにも 仁文字《にもじ》などは目にもふれじかし」  と、笑われた──。  呂の字は人に見られることもあろうが、二人が上下に重なる仁の字までは人に見られまいと笑ったわけだが、仁の字のひねりがこの一文のねらいなのだ。  世の中は仁義《ヽヽ》を守らなくちゃいけないという教えはこのことかも知れない。  だが、この仁の字の一章を読むとオレはなぜかまた堀口大学の詩を思いだす。   二匹のけものが 一匹に   十月《とつき》のあとに 三匹に  江戸時代の人情本には、やたらにキス・シーンが出てくる。  文化ごろ(一八〇四〜一八一七)の婬水騒人嘗安《いんすいそうじんなめやす》作の『|女護島宝 入船《によごがしまたからのいりふね》』に、 「サァ、 舌を長くお出し」 「アイ こうかえ」 「ムム 左様だ/\と 云いながら力を入れて 舌の根のきれる斗《ばか》りに口を吸い……」  宝暦・明和ごろ(一七五一〜一七七一)の作者不詳の『水の行寿衛《ゆくすえ》』には、 「思ふ男なれば どうがなして心よく はやく情《じよう》をうつさせんと 気をもみすぎて おのれもまたふたたび味なここちになり 息つぎせはしく火のように あつい頬を頬へこすりつけ 我を忘れてとりみだせば 男もいまはこらへかね 力いっぱい抱きしめ 一時《いつとき》に水のもるるとおぼしく目をおしねぶりてぎちぎちと 枕の音のするばかり 詞《ことば》はなくてその事をはり ああ もう口がはしゃいだと 男の口にすりつけて……」  口が|はしゃぐ《ヽヽヽヽ》という江戸語は、おなじ意味の今の「渇く」より生きてる感じだ。  これでもヴァン・デ・ヴェルデのオッサン「日本人は鼻と鼻とを押っつけて…クンクン……」などと、まだ言う気かよ。  江戸の人情本に出てくる接吻でいちばん粋なのは、江戸の文豪、為永春水《ためながしゆんすい》(天保十三年・一八四二歿)の『|春 色梅児誉美《しゆんしよくうめごよみ》』の「|春 色恵《しゆんしよくめぐみ》の花《はな》」巻之一にある色男の丹次郎と芸者|米八《よねはち》のラブシーンだ。  丹次郎が抱きかかると米八が「あれさ まあ 私《わちき》もお茶を呑むはねと 丹次郎の呑かけし茶を採《とつ》て さも嬉しさうにのみ また茶をついて二口三口のみ 歯をならしてくくみし茶を 縁頬《えんがわ》より庭へ吐出し 軒端の梅の莟《つぼみ》をちょいと三ツばかりもぎてかみながら……」  どうだ、江戸の女のマナー。接吻一つにもこうした美意識がはたらいているのだ。  いまならこうなる。   初キッス 相手やいかに 薄目あけ [#地付き]音 羽   吸い合って 二センチのびる 唇《くち》と唇《くち》 [#地付き]住 男   キスマーク よく食べそうな 口の幅 [#地付き]蛙 子  川柳だって江戸のは、   口びるが 張れたと 袖を とって見せ  なんて、可愛い娘もいれば、   口吸えば 簪《かんざし》の蝶 ひらめいて  と、ぜんぜん色っぽさがちがう。   ※[#歌記号]つねりゃ 紫 喰いつきゃ 紅よ      色で 仕上げた この身体《からだ》  どなたもご存知、都々逸や木遣《きやり》くずしでうたわれる文句だが、つねる、噛むというのは惚れあった同士の愛戯だ。   ※[#歌記号]あざになるほど つねっておくれ      あとで のろけの たねにする  と男が友達にデモるために女に頼む。  と女が、   ※[#歌記号]あざになるほど つねってみたが      色が黒くて わからない  ほんとうに江戸って粋な時代だったよな。   噛むように なったと笑う 出合茶屋  前著『雑学猥学』に、出合茶屋のことはいろいろ書いたが、つまりこれは江戸のラブ・ホテル、上野不忍池をはじめ江戸市中ところどころに出合茶屋というアベック専門の貸座敷があった。   出合茶屋 男は半死半生なり   出合茶屋 生きて帰るは めっけもの   出合茶屋 四、五日 男 役立たず  と、どうも今もむかしもいざとなると女が強いのに変わりがない。  だから、はじめはしとやかなふりをしていた女が噛むほどになっては、男たるもの実際は笑っちゃいられない。だが、つねっておくれの|あざ《ヽヽ》じゃないが、友達野郎を羨ましがらせるにはもってこいの証明だ。  江戸の小咄に、女にモテない男、自分で自分の腕を噛んで歯型をつけ……、 「ええ こう見ねえ。ゆうべ女にモテてよ。ほれ こんなわけさ」と歯型を見せる。  友達、首をかしげ、 「へえ おめえがねえ。だが女の歯型にしちゃあ ちっとばっかし でけえじゃねえか」  と言えば、男あわてて、 「そ そうともよ。あの女め 笑いながら噛みついた」     詩《うた》・歌《うた》・謡《うた》・くちづけのうた  さてキッスとは「キッス Kiss 〔英〕接吻、口づけ。この語は、ドイツ語のキュッセン kussen と語源が同じで、古代英語の cyssen からさらにさかのぼって、ゴート語の Kustus から出たという。後者は〈味わう〉という意味だから、当時のキッスは味覚を主体としていたのかもしれない。また、ラテン語系の、たとえばフランス語のベーゼ baiser(動名詞)やスペイン語のベサール besar(動詞)、ベッソ beso(名詞)などは、『ラルース大辞典』によれば、ラテン語のバシオ basio〈接吻する〉→ basiato〈接吻〉から由来し、このラ語はさらに〈口を開く〉意味のサンスクリットから出ている。つまり、初めから性愛接吻であったわけだ」(大場正史『世界性語学事典』)  ところでキッスのことを接吻というのはといえば、そもそも「接吻」という文字は中国の乾隆四十二年(一七七七)『西域《せいいき》見聞録』という書に初めて見えるそうだが、日本では万延元年(一八六〇)遣米使節井上河内守、村垣淡路守ら正副使が七十五人の随行と共にアメリカ軍艦ボウハタン号に乗って、初の太平洋横断をして渡米したが、その航米日録には「合吻」と記されてある。  広田栄太郎『近代訳語考』によると、天明六年(一七八六)の『雑学類編』(柴野貞毅)に「相呂《クチスウ》・親嘴《しんし》・噛唇《ごうしん》」寛政八年(一七九六)の『波留麻《ハルマ》和解』(稲村三伯)に「Kuss・手ヲ握リ口ヲ吸フ礼」「Kussen ・口ヲ吸ヒ手ヲ握ル」その他があったとある。  さて「接吻」は文化十二年(一八一五)長崎出島の通詞(通訳)たちが和蘭《オランダ》人ヘンドリック・ヅーフと仏国《フランス》人フランソア・ハルマがつくった蘭仏辞書を拠本として完成した『和蘭字彙』で、この本は安政二年(一八五五)やっと刊行になったが、それには「|K u s《クス》・接吻《アマクチ》」とあるという。  なお前出『日本訳語考』(広田栄太郎)には(『道訳|法児馬《ハルマ》』ヘンデリッキ・ドウフ・文化十二年・一八一五)「Kuss接吻《アヒクチ》スル Kussen 接吻スル」また安政二年(一八五五)には(『和蘭字彙』桂川甫周)「Kuss接吻《アマクチ》・Kussen 接吻スル」とあって、専門学者でないオレにはよくわからないが、とにかく「接吻」の文字がこの頃に初めて日本に出現したようだ。  明治四年(一八七一)『摩太福音書《マタイふくいんしよ》』という日本版聖書には「イエスウを接吻《しやぶり》ました」なんてキリストもいい迷惑だろうよ、ツバキだらけにされているのだ。そして明治十年(一八七七)『新約馬太伝《しんやくまたいでん》』で初めて「|くちつけ《ヽヽヽヽ》」が登場する。  以来「吸唇《きゆうしん》」「口吻《こうふん》」などと訳を経て、尾崎紅葉、森鴎外、二葉亭四迷らの明治の文豪がしきりに「接吻」を使い出した。  しかし今日われわれが使う「|くちづけ《ヽヽヽヽ》」は明治三十年、京大教授・英文学者として高名だった上田敏の訳詩集『海潮音』で、いままでの「くちつけ」が「くち|づけ《ヽヽ》」と、つが濁音になって今日に至っている。   ながれのきしの ひともとは   みそらのいろの みづあさぎ   なみことごとく |くちづけ《ヽヽヽヽ》し   はたことごとく わすれゆく    (原詩・ウィルヘルム・アレント〈独〉)  明治の詩壇でも、お夏・清十郎をうたった島崎藤村の江戸の枕絵を思わせる官能的な詩がある。   をとこの気息《いき》の やはらかき   お夏の髪に かかるとき   をとこの早き ためいきの   霰《あられ》のごとく 走るとき   をとこの熱き 手のひらの   お夏の手にも 触るるとき   をとこの涙 流れいで   お夏の袖に かかるとき   をとこの黒き 目のいろの   お夏の胸に うつるとき   をとこの紅き |唇の《ヽヽ》   お夏の|口に《ヽヽ》 |もゆる《ヽヽヽ》とき [#地付き](以下略「四つの袖」)  枕絵といえば、江戸の浮世絵師、春信、歌麿、英泉その他、随分接吻のシーンを描いていて浮世絵に珍しくないが今ではチューしてる上半身はともかく、かんじんの下半身は複製の際カットされていて孔開《こうかい》を許されていないからいささか不愉開になる(誤植ではない)。  明治の歌壇に明星派をひきいて活躍した与謝野|鉄幹《てつかん》はこううたう。   根なし言《ごと》 またも 空笑《そらえ》み この憎き     口よと言ひて 吸ひにけらしな  この意味は女が「あたしより誰かさんのほうがお好きなんでしょ。このあいだあの女《ひと》をうっとり見ていたあなたの目つき、ただ事じゃないみたいよッ」と、やきもち半分に男をからかうのを「こいつメ、憎らしいことを言いおって、よしその口をふさいでやるぞ」てなことだと思うが、字づらを見ないで耳だけでとらえると、この歌はかなりワイセツだ。想像力ゆたかなオレなんざ「股《また》も空笑《そらえ》み」と聞こえちゃう。江戸語で「空《そら》われ」は大陰唇のことだ。笑みは「花笑う」なんて俳句の季語にもあるように「われ・ひらく」ことだ。つまり、エミワレルということだから、すると憎い口とは女の下の口ではないのか。※[#歌記号]憎い/\は可愛のウラよ……ってえ歌の文句のように男がムシャぶりついているみたい。根無しごと(たわごと)とは|愛 叫《よがりごえ》のことに思える。なまじオレのように学問があると、かえって歌一つの解釈にもこのように迷うことがあるのだ。  しかしこの歌、   ※[#歌記号]これが嘘つく 口かと思や      噛んでやりたい ことがある  って都々逸によく似てる。  江戸の川柳にも、   よく嘘を つきいす舌と くはへられ  なんてのがある。「つきいす」は吉原の廓言葉《さとことば》だ。  鉄幹は、   妻をめとらば 才たけて   みめうるわしく 情あり   友をえらばば 書を読みて   六分の侠気 四分の熱  の歌などひろく、一般に知られているが、こんなのがある。   女|云《い》ふ(肩に手かけつ)   「誰ゆゑぞ 父母《ちちはは》にさへ   憎まれて わび寝をするは」     (上目《うわめ》して 唇寄せつ)   またも云《い》ふ「抱きて逃《のが》れよ」 ──あなたと恋愛をしたために、父母にさえ憎まれて、あなたに逢えないときは、ひとりわびしい夜をすごしている私なのよ。おねがいどうぞ連れて逃げて頂戴──  とすがる女に、 ──わかった、もうそれ以上言うな──と女の言葉をふさぐものはなんだろう。男涙にぬれた唇ではないか。   これが明治の恋の接吻なら──、  永正十五年(一五一八)柴屋軒宗長《さいおくけんそうちよう》の編(否定説もある)といわれる『閑吟集』にも濃艶な中世の女の媚態を感じさせる歌がある。柴屋軒宗長は駿河国島田(静岡県島田市)の刀鍛冶、島田|義助《よしすけ》の子であるようだ。島田義助は、康正二年(一四五六)在銘の作刀が現存し、これが初代と見られ、江戸期の元文頃(一七三六〜一七四〇)の九代まで続いたが、刀剣の位列では低く名工のうちに入らない。  ただ戦国の時代、実用刀剣製作所として今川家のお抱えの刀鍛冶となり、一家一門を挙げて量産に励んだと思われる。  私見だが、宗長はこの義助の二代目あたりの子かと考えているが、少年時代、今川義忠(義元の祖父)に仕えたことがあった。  若くして出家し、連歌師飯尾宗祇の門に入り、諸国を遍歴ののち、駿河の宇津谷峠に庵を結んで、諸国遍歴中に書きとめた民衆の歌をまとめたのが『閑吟集』だといわれる。戦乱に明け暮れた室町末期の民情をうかがい知ることができる、すぐれた歌が多い。  たとえば、   人買ひ船は 沖を漕ぐ   とても 売らるゝ 身をばたゞ   しづかに 漕げや 船頭どの  この歌の影響をうけたと思われる近代の詩に、   人買船に 買われて行った   貧乏な村の 山ほととぎす   日和はつづけ 港は凪《な》ぎろ   皆さん さよなと 泣き/\言うた    ──野口雨情民謡集・別後──    (浅野建二『閑吟集研究大成』による)  などある。  さて、前おきが長くなったが、その『閑吟集』に、  ※[#歌記号]あまり見たさに そと隠れて 走《は》して来た   まづ放さいのう 放して物を言はさいのう   そぞろ 愛《いと》うしうて 何とせうぞいのう ──逢いたくて、逢いたくて、親の目をぬすんで、駈けてきたのよ。  まあ、ちょっと放して、そんなにしたらものが言えないじゃないの。  好きよ 好きよ。あなたが恋しくてたまらないのよ──。  てな意味だろうが「まづ放さいのう 放して物を言はさいのう」と言うのだから飛んできた女を、やにわに抱きすくめ物をも言わず「くちづけ」ようとしている男の姿が目にうかぶではないか。  さきの、与謝野鉄幹の詩のように、この女も「抱《いだ》きて 逃れよ」と、そのあと言ったかも知れない。  夫の鉄幹がかく「くちづけ」をうたえば妻の与謝野晶子もまけてはいない。   人の子の 恋をもとむる 唇に     毒ある蜜をわれ ぬらむ願ひ  あるいは多情な鉄幹への嫉妬かも……と思えるような、女の魔性をうたった歌があるかと思えば、   病みませる うなじに 繊《ほそ》き 腕《かいな》まきて     熱にかわける 御口《みくち》を吸はむ  と、献身の愛をうたう。昭和十五年七月『夫婦善哉』で文壇にデビュー、戦後、織田作の愛称で人気を集めながら『土曜夫人』を絶筆に肺結核で死んだ作家、織田作之助の喀血を、唇で吸い取った夫人織田昭子の凄絶な愛の話は有名だが「熱にかわける 御口を吸はむ」という晶子の歌も感動的だ。  もっとも惚れたらおフェラでザーメンまで呑んじゃうのが女だ。  ただし「純度の高い蛋白質だもんサ、栄養になるのヨオ」なんて、相手かまわず呑んじゃう女も、ままいるから念のため。  おなじ晶子の「くちづけ」の歌でも、   全身を くちびるのごと 吸ふ波を     やや うとましと 思へる夕  と、ナメられて、半ば恍惚、半ば疲れはてている歌もある。  相手が鉄幹だかだれだか知らないが、何事も時間をかけすぎてはダメだぞ。  過ぎたるは及ばざるが如しといえば、大正の風俗学者、宮武|外骨《がいこつ》の書いたものの中に、   女房は出すぎ 亭主は飛ばせすぎ  という大正の川柳の紹介がある。  一見、女房は|愛  液《ラブ・ジユース》多量、亭主これまた要領悪く、あとで身体にこたえるのも忘れて、|飛ばせすぎ《ヽヽヽヽヽ》たというバレ句のようだが実はちがう。  大正八年(一九一九)十月、東京・大阪間郵便飛行競争に参加した水田という陸軍中尉の女房が、出発の会場の公衆の面前で夫へ派手な別れの接吻をやらかした。女ってえのはクソ度胸があるもので観衆も仰天《ヽヽ》したが中尉どのは恥ずかしさと驚きでカーッとなって、大阪へ着陸するのを忘れて、|和歌山まで飛んでっちゃった《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》。  だから、女房は出すぎ、亭主は飛ばせすぎ──なのだそうな。  おなじ接吻の歌でも栄誉ある伯爵の地位まで投げ出して、酒と女に耽溺した歌人、吉井勇となると一味ちがう。   かにかくに 祇園は恋し 寝るときも     枕の下を 水の流るゝ  この歌はあまりにも知られているが、東京の新《しん》・柳二橋《りゆうにきよう》の花街、はては京の祇園と放蕩の限りをつくして、後年、芸術院会員になったのだから、オレなんざ心を入れかえてもっと酒と女を勉強しないと芸術|陰《ヽ》会員にすらなれそうもない。  女と見れば股ぐらに手をつっこみ引っくりかえすことにしか余技を持たなかった明治の助平宰相伊藤博文だって千円札になってるではないか。  だからオレはしみじみ考えちゃう。   ※[#歌記号]千円札には 及びもないが     せめてなりたや 五百円  で、この吉井勇の歌に、   接吻も 同じ数ほど わかつなり     恨みたまふな 長し 短かし  こんなこと一ペンでもいいから、ぬかしてみてえ。 「あの女は古い恋人、お前は新しい恋人、したがって接吻の累積数には差があるが、今は配分を平等にやっているのだから、ヤキモチをやくな」と新しい女が怨ずるのをナダめているのだ。  だから、   くちづけは 女ふたりに 分たれぬ     いづれ多しと うらみたまふな  とも歌っている。この歌は前のより出来がよくない。  そのくせ、   くちづけは するともよしや そのうらみ     ながく 消えずば いかにすべけむ 「ねえ、キスしてン」と女に迫られて「キスするのはいいけど、あとで君のこと忘れられなくなっちゃったら、どうしよう」  なんとシラジラしいことをサ。シャクなオヤジだよな。  諸君のうちで、ドブスとか、便秘でイキがくさい女などに「キスしてン」なんていわれたら、この歌をいとも優雅に口ずさみ給え。  鎌倉、|扇ヶ谷《おうぎがやつ》上杉家の重臣だった太田道灌が金沢山(横浜市金沢区)へ狩猟に出かけた時、折悪しく烈しい雨に降りこめられ六浦《むつら》(金沢区)の賤《しず》が家《や》へ立寄り「蓑《みの》を借りたい」と呼ばわったがだれもいないようなので、しばらく軒下で雨やどりをしていた。  すると、ややあって十七、八ばかりになる美しい娘(紅皿)が、山吹の花一枝をもって現われ道灌にうやうやしく差し出した。  道灌は「蓑をかせというのに……」と怒って、やがて雨の晴れ間をわが邸へ立ち戻り、その話を家臣たちにすると一人の老臣が、それは、   七重八重 花は咲けども 山吹の     実《み》の一つだに なきぞ悲しき  という|中務 卿《なかつかさきよう》兼明親王の古歌に寄せて、 「実の一つだに無き」は「蓑《みの》ひとつだに」貧しいわが家にはございませんという意味でしょうと答えた。 [#地付き](『艶道通鑑《えんどうつがん》』増穂残口《ますほざんこう》・正徳五年・一七一五・著による)  道灌は、いたく恥入って、それからは熱心に歌の道を学んだという故事がある。この話、だれでも知っていること、ことさらオレが書くまでもない。  ただ、東京・豊島区高田南町一丁目にも「山吹の里」の石碑が建っており、ここが山吹の里なのだという。東京の近県にも山吹の里と称するものが二、三あるようだ。  高瀬勝治『新宿史跡あるき』によると、この近く新宿区東大久保二丁目の大聖院《だいじよういん》に、この紅皿の塔婆《とうば》があり、道灌と紅皿の出会いの場所は、神田川をはさんで新宿区戸塚一丁目と豊島区高田一丁目を結ぶ面影橋のあたりで、橋のたもとの山吹の里の碑は豊島区の文化財に指定されているという。また、自分の無学を恥じた太田道灌は、その後、自分の館に紅皿を招き和歌の道を励んだ。道灌の死後、紅皿は尼になり、生涯の地として大久保に庵を結んだ。大聖院との因縁《ゆかり》は庵が大聖院の近くであったからではないか──とある。  金沢山か、東京・豊島区高田か、その詮索はさておき、新宿西口の公園に道灌と紅皿の銅像が建っているのはどういうわけなのだろう。後世、郷土史家によって実はここがほんとうの山吹の里でありまして……などとまた新説が生まれてこないとも限らない。ちと気になる。  それはそれとしても、なぜ道灌は和歌の友として紅皿をわが館へ呼びよせたか。賎家《しづがや》の娘がそんなにすごい教養をもっていたのか。なぜ道灌の死後尼になったのか、どうも納得できない。  太田道灌は、オレの想像によると、蓑を借りに、ある農家へ立ち寄った。  すると、十七、八の美少女が山吹の花を一枝ささげた。あまりの美しさに、道灌は山吹の枝よりその娘を手折りたくなった。そこで「蓑が無ければやむを得ない。雨があがるまでしばらく休ませてもらおう。おお、茶が一ぷく所望じゃ」なんて図々しく家の中へ入ったにちがいない。 「茶」とは茶壺、壺は「つぼむ」で、昔から女陰の代名詞だ。「茶臼」もそれからきた名の体位だ。   寝そびれたお伽《とぎ》〈添寝をする女〉に お茶を 召されたり  とか「お茶のあたりふくらかに 饅頭をあざむく如くなるこそよけれ」と延宝九年(一六八一)の『朱雀遠目鏡』という評判記にも遊女金太夫の女陰を評しているし、またこういう遊女のいろいろな評判記には必ず遊女のアレのよし悪しが書かれてある。  江戸のはじめ明暦二年(一六五六)の京・島原の廓の遊女列伝に例をとれば、 「初風〈遊女の源氏名〉──|心賢 《こころかしこし》 情ふかき者也 めもと 少たれめ成様にて うるはしからねど 愛敬《あいきよう》有 たんと利発《りはつ》(りこう)者也 物いひそゝはゆく〈たどたどしく〉しょしんなるやうなれど をとこのしこみ功〈巧〉者なり また どこやらんに えもいはぬよき所あり 御茶《ヽヽ》ひろけれど 一義《いちぎ》〈性交〉御好物── 金吾──面躰《めんてい》 おほかたうつくしけれど |しほ《ヽヽ》〈愛嬌〉なし また ねふりめ〈眠り目〉なり 心かしこし なさけもあり またしぶとし〈強情〉 又 すし〈出しゃばり〉也 とりなり〈立居振舞〉 すこし|しゃっきゃく《ヽヽヽヽヽヽ》〈突張ってぎごちない〉也 されども 何とやらん うるはしくみゆ 御茶《ヽヽ》 後むかし〈抹茶の銘にたとえたもの。ほかに初昔、今昔などの評がある。後むかしとは、男の経験豊富という意味か〉」  (天理図書館蔵『近世初期遊女評判記集』本文篇〈小野晋〉)  で、道灌は紅皿の「お茶」を所望したのに紅皿はほんとのお茶を運んできた。  そこで道灌は「バカだな おめえ」ってんで紅皿を割っちゃった。  これがあるいは真説かも知れない。だから、あとでわが館へ呼びよせたのだろうし、紅皿も道灌の死後は尼となったのだろう。  文化十四年(一八一七)ごろ遠州浜松六万石の大名、井上河内守|正甫《まさもと》はいまの新宿御苑辺(異説あり)へ猟にゆき、とある農家の女房の美しさにひかれてこれを手ごめにしてしまった。  そこへ戻って来たのはその家の亭主、怒りにまかせて天秤棒《てんびんぼう》で河内守をぶんなぐったから大変。家臣がかけつけてとにかく殿様が悪いのだから宥《なだ》めなかば恫喝《おど》して騒ぎを納めたが、これが口さがない江戸っ子の耳に入ったからたまらない。江戸市中の大評判となったため、幕内でもほうっておけず、ついに奥州|棚倉《たなぐら》へ国替の処分となった。  それから二十八年後、弘化二年(一八四五)ふたたび浜松藩主として孫の英之助正直が復帰するまで、東北の貧乏藩主として冷飯を食わされた事件があった。道灌が紅皿のお皿を割ったって不思議はない。  蓑をかりずに皿割った道灌みたいな歌が前出の『犬筑波集』にもある。     頭《あたま》ぬらして |つつ《ヽヽ》と入り〈れ〉けり   蓑を着て 笠着ぬ人の 雨やどり  この蓑は陰毛の隠喩だろう。入道頭を|つつ《ヽヽ》とどこかへ入れたわけだ。あるいは道灌の時代と『犬筑波集』の成立とは大ざっぱに言って五、六十年のひらきだから、この連歌を詠むとき太田道灌の故事が、チラと詠者の頭の中をかすめたとも思える。  合の手が長くなっちゃったが、いまの女に、   くちづけは するともよしや そのうらみ……  なんて気取っても、アタマの程度からしておそらく通用しないな。 「女いぶかりて、アラ、それドコのお経……なん申し侍《はべ》る」だ。  女の便秘のイキは閉口《ヽヽ》だが、橋本夢道《はしもとむどう》の句に、   春の闇 妻は牡丹の 息《いき》を吐く  これはかなり華麗妖艶な息だぞ。ウンスウの息なんてゲスなもんじゃない。  その息をもらす唇を男の唇でそっとふさぐ。こういうのをイキが合うと言う。  橋本夢道という人は、志摩芳次郎『性唱詩歌』によれば──、  銀座の甘いもの店「月ケ瀬」を開店した人で、荻原井泉水《おぎわらせいせんすい》の門下、尾崎放哉《おざきほうさい》、|栗林 一石路《くりばやしいつせきろ》と共に三羽烏の一人だった。  無欲|恬淡《てんたん》な性格から「月ケ瀬」は人手に渡ったが、「月ケ瀬」から非常勤重役で遇せられ、   蜜豆を ギリシャの神は 知らざりき  という有名なコマーシャル俳句をつくった人だ。  巨根が自慢で、酔うと人前で開チンする癖があったという。  ある時、飲屋でそれをやったところ、日頃から不愉快に思っていた飲み仲間の一人が、熱燗のアツアツの酒を夢道の一物に浴せたからたまらない。夢道は悲鳴をあげて椅子からころげ落ちた。以来、 「やけどには醤油が一番効くぞ」  と、人毎に吹聴《ふいちよう》して歩いた。  熱燗を浴びせられて火傷した夢道は家に帰って、ドンブリの中に醤油を入れて、一物を三十分ほど浸けといたら、たちまち治った……と言い、で、その醤油は? と聞かれたとき、 「何も知らない女房が煮ものに使って、アラいつもより味がいいわ……ってよろこんでたさ」とペロリと舌を出したという。  幾山河、越え去りゆかば……と哀愁の旅に生きた若山牧水は、   あゝ接吻 海そのまゝに 日はゆかず     鳥|翔《ま》ひながら 死《う》せはてよ 今  と、時も何もかも一切が一瞬に停止するかのごとき情熱的な接吻をうたう。  また、   山を見よ 山に日は照る 海を見よ     海に日は照る いざ唇《くち》を君  とうたう。  でも考えてみりゃ、変な理屈だよナ。  山にも、海にも、おてんとさんが照ってるから、接吻しようてえんだから……。  なんで、おてんとさんと接吻と関係あるのさ。   チンチン電車が 走るのも   郵便ポストが 赤いのも   みんな あなたが 悪いのよ  ナンテ変な歌があったけど、その式のモンだよな。  牧水の歌が出れば、石川啄木を忘れることはできない。  放浪貧窮のはて、胸を患って二十七歳の生涯を終えた天才歌人だが(詩はあまりうまくなかったナ)その啄木が二十三歳の時は北海道|釧路《くしろ》新聞の編集局長だった。  ずいぶんエラそうだが(全員五名)の地方新聞なのだ。  その時、釧路の鶤寅《しやもとら》という料亭の内芸者《うちげいしや》で釧路きっての美人芸者といわれた小奴《こやつこ》と熱い仲になった。冷たい仲なら冷奴《ひややつこ》だ。ま、それはとにかく妻を小樽に残しての単身赴任だったから、啄木としては何かと好都合だったろう。  この小奴との恋をうたった歌にはキスの歌がいくつもある。   小奴といひし女の やはらかき     耳朶《みみたぶ》なども 忘れがたかり  これは尋常なキスじゃない。耳ナメ耳カミだ。  小奴は「感じちゃうッ……」と絶叫したにちがいない。  もっとも啄木は明治十九年(戌《いぬ》年)の生れだ。なッ。   かなしきは かの白玉のごとくなる     腕に残せし キスの痕《あと》かな  と、小奴の腕(二の腕あたりか)を噛んでアザをつけたこともうたっている。 「かなしきは」は「愛《かな》しきは」だろう。  噛まれた小奴ちゃんもまた、腕の歯型をさすりつつ、   あなたが噛んだ 小指がいたい   きのうの夜の 小指がいたい [#地付き](有馬三恵子詞『小指の思い出』)  なんて歌をうたっていたかも……。   きしきしと 寒さに踏めば 板|軋《きし》む     かへりの廊下の 不意のくちづけ  地方の古い料亭なんて、ガラばかりでかくてうすら寒い。田舎の小学校みたいな廊下が廻り廻っていて、その古ぼけた廊下のくらがりで、日本髪に裾を長く引いた御座敷着の小奴の小さく紅い唇に唇を重ねる白面の青年啄木の秘めやかな春画的接吻シーンが目にうかぶ。   一双《いつそうの》 |玉 手千人 枕 《ぎよくしゆせんにんをまくらす》 |半点 朱唇万 客 嘗《はんてんのしゆしんばんきやくをなむ》  しょせん田舎芸者、金次第で客に抱かれる稼業だから、自分から惚れた男と接吻するときは素人女にはわからないほど強くせつない情感がこもったくちづけだったろう。  当今の若いモンがブロイラーの鶏が餌を食うみたいにエレベーターの中で、ちょこちょことキスするのとはわけがちがう。  こうしたキスについての歌や詩はまだまだいくらもあるが割愛してつぎへ移ろう。  こんどは現代の川柳を二つ、三つ。   春近く 抱かれたままで 聞く雪崩《なだれ》 [#地付き]幸 一  キスとは言っていないが川端康成の名作、『雪国』を思わせるような佳句だ。  あるいはこの句、下半身を男の愛撫にゆだね、袖ではずかしそうに顔をおおっているシーンかと思う。   羞恥の手 顔だけ覆い 万事すむ [#地付き]佳 苗  たしか、モラエスの著書の中に「日本の女は袖へキスする」とあったと思う。  モラエス(一八五四〜一九二九)はポルトガル人。日本の女と結婚して徳島に定住して日本文化を世界に紹介した学者だ。  近ごろの日本の娘ならどうだ。今、われもしモラエスなりせば「日本の娘は、角兵衛獅子が|あくび《ヽヽヽ》したみたいに……」と書くだろう。  越後湯沢の温泉芸者だった『雪国』の駒子はモラエスの言うような女だった。温泉宿《ゆやど》の夜更け──帰る帰ると繰り返しながら、いつか午前二時を過ぎた。 「あんたは寝なさい。さあ寝なさいったら」 「君はどうするんだ」 「かうやってる。少し醒まして〈酔いを〉帰る。夜のあけないうちに帰る」と、いざり寄った島村を引っぱった。 「私にかまはないで、寝なさいってば」  島村が寝床に入ると、女は机に胸を崩して水を飲んだが、 「起きなさい。ねえ、起きなさいってば」 「どうしろって言ふんだ」 「やっぱり、寝てゐなさい」 「なにを言ってゐるんだ」と、島村は立ち上がった。  女を引き摺って行った。  やがて、顔をあちらに反向《そむ》け、こちらに隠してゐた女が突然激しく唇を突き出した。  しかしその後でも、むしろ苦痛を訴へる譫言《たわごと》のやうに、 「いけない。いけないの。お友達でゐようって、あなたがおっしゃったぢゃないの」  と、幾度繰り返したかしれなかった。……「私はなんにも惜しいものはないのよ。決して惜しいんぢゃないのよ。だけどさういふ女ぢゃない。私はさういふ女ぢゃないの」……  酔ひで半ば痺《しび》れてゐた。 「私が悪いんぢゃないわよ。あんたが悪いのよ。あんたが負けたのよ。あんたが弱いのよ。私ぢゃないのよ」などと口走りながら、よろこびにさからふために、そでをかんでいた──。 「よろこびに|さからふため《ヽヽヽヽヽヽ》に袖をかんでいた──」など実ににくい表現ではないか。  オレは川端文学は『伊豆の踊り子』と、この『雪国』しか名作だと思わないが、この『雪国』の中には「しーんとしづけさが|鳴っていた《ヽヽヽヽヽ》」なんて、天下の大詩人? 西沢爽がショックで三日もメシがのどへ通らなかったほどの素晴らしい表現がある。   接吻は こうするものと 盗まれる [#地付き]美弥子   舌先を 丸めて礼は すぐ返す [#地付き]暁   平仮名で 書いては キッスらしからず [#地付き]かる代  だが流行歌には、ヘンなのがあるぜ。   僕から君へ 君から僕へ   くちづけを くりかえした [#地付き](橋本淳詞『はじめての夜』)  なんて、時計の振り子みたいなのがあれば、   机の上の写真をだいて くちびる ぬすんでみるのさ [#地付き](たかたかし詞『君がまぶしい』)  性的未熟な恋心だが、便所の中に貼ってあるヌード写真や、オナペットのポスターのときは、どういうことに相成ろうかと思っちゃうのはオレの品性の下劣さによるものか。   COME ON COME ON   熱い耳に   COME ON COME ON   くちびる 寄せて   くり返す くり返す 好きだよと    (一ツ橋けい子詞・岡田冨美子補作詞『恋のペンダント』)  すげえウタだぞ。日本では「死ぬ」という。中国は「我死了《ウオスーラ》」というから「死ぬ」の語源は中国渡来の外来語かも知れない。  古川柳に、   死ぬ死ぬは 人騒がせな よがりよう   君が代や あゝ君が代や 今幾世  君が代は「気味が善《よ》や」だ。英国の女はユー・キル・ミー、アメリカの女は「カムカム」とのたまう。カムカムええ振りボディだ。台湾ではアンカベーショというそうだが「赤んべえしょう」に聞こえちゃう。  こんな歌、ローティーンがプレヤーのボリュームをあげて一緒に絶叫してんだから、親は布団をかぶってイキを殺しているよりほかはない。   目を閉じて 別れのキッス   ひとつ ふたつ みっつ よっつ   十まで数えて…… [#地付き](小泉まさみ詞『バイバイ・ゲーム』)  なんだか 子供を風呂に入れてるみたいな歌だよな。   燃える太陽に くちづけしたら── [#地付き](山口あかり詞『太陽のくちづけ』)  と、ヤケドしそうな歌もあれば、   人が見ているから   口づけは ひとつでいいね── [#地付き](岡田冨美子詞『初恋の絵日記』)  これどういう感覚。人目があれば、ひとつも、ふたつもないじゃン。   瞳〈ひとみとルビがついてる〉を   つむれなんて 叱られて   はじめての キスを 教わるの [#地付き](松本隆詞『くちづけ』)  もう言うことないヨ。キスの時、目をあけてる娘がいるのかえ。  それにヒトミをつむれって、瞳(孔)がひらいたら、人間の生命はどうなるのか、この作詞者知っているのかなあ。  こういう今の歌、とりあげてたらキリがないから、名詩の鑑賞とゆこう。   ねむり給うや 否という   五月《さつき》 花咲く 日なかごろ   湖《うみ》べの草に 日の下に   目とじ 死なむと 君答う [#地付き](三木露風)  初夏《はつなつ》の花咲く真昼どき。  湖畔の草むらに、身をよこたえた彼女は「あゝ、こうしてこのまま死んでゆけたら、どんなに私はしあわせでしょうね」と言う。  それは彼女が初めてのくちづけだったのだろう。くちづけのあとも、まだ彼女は目をあけていない。甘くせつない余情の波の中に、全身をひたしているのだ。 「くちづけ」と|言わず《ヽヽヽ》して、くちづけをうたいつくした素晴らしい詩の世界がここにある。   樹々《きぎ》わたる 風の仄《ほの》めき   白き雲 たゞ 目にしみて   ふるへつゝ 愁ひかすかに   君つげぬ すてなたまひそ [#地付き](くちづけ)  最後の詩句を、彼女がそっと告げた「捨てないでネ」でしめくくるあたり、非凡ではないか。この作者、数え十六歳の少年。ホントだぞ。実は誰あろう天才詩人西沢爽の少年時代の詩であった。  だがこの時、実はオレまだキスをした経験なし。全くの想像で書いた。いまの中学生が羨ましく憎らしいよ、まったく。  でも、あの頃の女性はいまの青年たちには信じられまいが、こんなとき、「捨てないでネ」と、いとも可憐に言ったもんだ。  それがどうだ。昭和45年2月27日の読売新聞によれば「自分のほうから婚約破棄の宣告をすると思うのは、女子学生百人のうち五十三人。男からと思うのはわずか二十四人だ」と。しかもだ、「女は移り気、浮気っぽい、わがままだからと」女性自ら仰言っている。今は、男が「捨てないでネ」という時代になったようだ。  ただし相手に惚れられすぎても、また一難。  明治四十一年(一九〇八)九月 東京日日新聞はこう報じている。 「神奈川県都筑郡都岡村川合番地不詳、鋳掛《いかけ》兼|灸点《きゆうてん》業石川栄吉〈三五〉の妻まさき〈三二〉と云へる女は、ヒステリー症にかかりし結果、非常に接吻を好むに至り、朝から晩まで暇さへあれば良人《おつと》に接吻を迫り、二十二日午後三時頃、まさきは突然栄吉の舌を噛み切り、自分も自ら舌を噛み切りしが、栄吉は外聞を憚《はばか》りて秘密になし、最寄《もよ》りの医師に就きて治療中のところ、何時《いつ》しか世間にもれて同地駐在巡査の耳に入り、二十三日午後三時頃、所轄《しよかつ》都岡警察署より巡査部長出張の上取調べたるが、栄吉の舌尖《したさき》に二枚の歯痕あり、全治まで二週間を要する傷にて、まさきの方は約三分〈約一センチ〉ばかり切れ居りしが、まさきは警察の出張を見て急に恐れを懐《いだ》き、職業用の塩酸をあふって自殺をとげたり」 [#地付き]〈了〉  単行本 昭和五十四年七月新門出版社刊 〈底 本〉文春文庫 昭和六十年二月二十五日刊