西沢 爽 雑学猥学 目 次  縦横糞尿学   王朝糞尿ロマンス   糞という人名   隅田川心中   お電話と喜左衛門   明治の珍聞   京女の立小便   今昔穴響楽   江戸の便所   便所の爆発   風 林 火 山   名 妓 の 屁  珍説・毛ものがたり   ハゲは文明人の証明である   十三ぱっかり 毛十六   八百屋お七に毛がはえた   月 経 の 歌   あの毛・その毛・そっちの毛   大石内蔵助は梅毒だった   髭 と 鯰   ハゲの高貴説  春談・おんな学   詳説・マンぱれえど   一盗・二婢・三妓・四妾・五妻  文庫版のためのあとがき [#改ページ]   縦横糞尿学     王朝糞尿ロマンス  江戸中期のおわり頃、安永二年(一七七三)に出版された『飛談語《とびだんご》』という小咄《こばなし》本がある。  おふき、おもん、という二人の芸者がお座敷をすませて、夜の十時頃、人気《ひとけ》のないお屋敷町を通りかかる。  おふき「ちょっと おもんさん あたしゃ便所へ行きたくなったヨ」  おもん「おや 困ったね ここらはお屋敷町だから 辻便所も無しさ 誰か来ないうちにそれ その溝《どぶ》の端《はた》へ しておしまいな」  早く早くとせかされて、おふきも我慢できないから、尻をまくった。  おふき「ねえ おもんさん 塵紙を持っていないかえ」  おもん「はて 生憎《あいにく》あたしも使い切ってしまった そうそう お前さんが持ってる長唄本《ながうたぼん》があるじゃないか そのおしまいの白い紙のところで拭いたらどうだえ」  それは名案と、おふきは本の末尾を一枚、引裂いてすませ連立って行ったが、その翌朝お屋敷の溝の端に、大糞《おおぐそ》がトグロを巻いていて、その上に紙が一枚、紙に何やら書き付けてある。  見ると、「この主《ぬし》 ふき」  江戸・明治ごろは所蔵の本の末尾に必ず所有誰々、此主《このぬし》誰々と名前を書く風習があった。  ごていねいなのは、県、郡、町村、大字、字、番地、購入場所、購入年月日まで墨痕淋漓と書きつけてあった。  蔵書印を押す人も多かった。たとえば明治の文豪、尾崎紅葉の蔵書印は、「此主 紅葉山人」だ。  おふきさんも、自分の長唄本に「此主」と書いていたため、世間にとんだ物を自分の所有物として誇示してしまったわけだ。  おふきさんならずとも、あの時、紙が無いのは困る。  子供の頃、「ミッチャン ミチミチ……」とうたったことを思い出す。  ※[#歌記号]紙がないから 手でふいたア……と、いう苦境に立つことは、オフィスやデパートの便所ならその心配はないが、公衆便所など紙の備えつけが無いから、シャガミながら立ち往生という変なぐあいになる。  ポケットをごそごそやって、つまみ出したのが宝くじ、だが万一それが当りくじにでもなってみろ、クソ面白くないことになる。  挙句の果て、さっき貰《もら》ったばかりの名刺かなんかでカキ取る。こんなとき名刺を使われた人はまことにウンのツキだ。  回教徒など左手の指で拭きとるから、インドなんざ右手で食べ、左手は不浄として使わないし、欧米人は左手で拭くから、右手を親愛の情を表わす握手に用いる。  ところが日本人は糞を拭いた手で、ジッと汗ばむほど思いをこめて握手をする。どうも日本人同士は、お辞儀ですませておくほうが無難だよナ。  平安朝時代、たとえば才色兼備をうたわれた紫式部は、なんでお尻をふいたか。 『歴史パズル』(吉岡力)という本には、「中国で紙が発明されたのが二世紀のはじめ、日本でつくられたのは四、五世紀ごろ。奈良時代には良質の紙が出来、平安末には再生紙もつくられたが、室町の初め頃までは貴重品、したがって、紫式部が用便後、紙でふいたとは考えられない」とある。  紙は蔡倫《さいりん》という人が発明したと『後漢書』に言う。  天平宝字《てんぴようほうじ》ごろ(七五七—七六四)東大寺で写経につかわれた紙の値段は、上等の紙で二文、最下等の紙で一文であったという。  天平宝字六年の物価は米一升が五・五文(岡田稔・銭の歴史)だそうだから稲や麦の藁《わら》の繊維で漉《す》いた安紙でも米一升で五枚ほどしか買えなかったことになる。  気楽に尻など拭いてはいられないわけだ。  わが国へ紙が伝来したのは推古朝十八年(六一〇)ごろと『日本書紀』にある。  曇徴《どんちよう》という高麗の坊さんが、絵具や墨などと一緒にわが国へ伝えたらしい。  Paper の語源は、西暦前三千年も昔にエジプトのナイル河に繁茂するパピルス Papyrus という植物の内皮に文字を書いたことからだが、これは紙のように植物繊維を漉いたものではない。紙の出現は中国の後漢時代(一〇五)日本でいえば卑弥呼《ひみこ》がまだ邪馬台《やまたい》国の女王になる少し前で、日本では落し紙、ちり紙などが社会一般に普及するのは江戸時代になってからで、紫式部の時代は写経や大切な文書のためのものだったから、尻の始末は、みやびやかな女性でも指で拭いたであろうと想像できる。  手紙という語源だって、昔は紙のかわりに主人が使用人の掌へ用件を書いて先方へ届けたことからと言う。  だが紙のかわりに手で尻を拭くのも「手紙」ではないか。  近頃、平城京(奈良)の宮殿|址《あと》からしばしば発掘される木簡《もつかん》は当時のお役所の伝票や書類として使われたものだ。 『宮都と木簡・よみがえる古代史』(岸俊男)によれば、木簡とはおよそ長さ十センチから三十センチ、幅二センチから四センチ、厚さ〇・一から〇・二センチのものらしく、いわば薄っぺらで細長い木ッパだ。これを削り直しては使用したらしい。いかに紙が貴重であったかがわかる。  ところで、日本では木簡ならぬ雪隠《せつちん》ベラを使う地方が、最近まであったそうな。  このヘラを籌木《ちゆうぎ》というのだが、古くは中国から渡来した風習で、かの楊貴妃なんて窈窕《ようちよう》たる美女でも使っていたと思われる。  高松塚の壁画の風俗を見てもわかるとおり、奈良の都はあげて唐文化に心酔していた時代だから、平安の紫式部もその風習にしたがって実は指で拭いたわけではなく、この籌木でカキ取っていたのではないか……と、オレは想像する。  その平安朝の説話文学として有名な『今昔物語』にこんな話がある。  平氏の一門、世に平仲《へいじゆう》とよばれた平《たいら》の貞文《さだふみ》という男がいた。 『大日本人名辞書』に拠れば、「歌人 仲野親王四代少納言好風の息にして容姿頗る美なり、従五位上|左兵衛佐《さひようえのすけ》に叙任す 和歌に達し古今集に入る 延喜元年(九〇一)九月二十七日病を以て卒す」とある。  貴族でも、従五位左兵衛佐という兵衛府の次官だから、高位高官ではないが、とにかく当代随一の美男、慕い寄らぬ女とてないモテモテの男だったから、色の道にかけては自信満々。時の左大臣、藤原|時平《ときひら》の屋敷にいる侍従の君という美女を見染めると、しきりに恋文をおくった。   ※[#歌記号]返事をくれなきゃ 芍薬《しやくやく》で    毎日 手紙を 杜若《かきつばた》    書いて 破って 葛《くず》の花    あなたの 返事を 菊の花  てなわけで、しきりにラブレターをおくったけれど、一向に反応が無い。   ※[#歌記号]手紙の返事も 梨の花    高嶺の花だと あきらめた    どうせあの娘《こ》は 人の花    そっと涙を 蕗《ふき》の花  と、あきらめりゃいいものを、そこがそれ一押し二押し三も押すのが色道の極意と、平仲は、「あなたに 恋い焦れる私を憐れとおぼしめさば せめて私の手紙を〈見た〉との二文字なりとも ご返事を賜われ」と、哀願の一手に出た。  思いがけなく使いの者が返事を貰って戻ったと聞いて、平仲はころげるように、その手紙に飛びついた。  ひらいてみると、自分が送った手紙の文中の〈見た〉という文字のところを切り捨てて、そこに薄紙が貼られて返されたのだった。  これほどの嫌われ方をしても、そこが色好みの王朝でも名だたるプレイ・ボーイ。ついにある夜、女の寝所に忍び込んでしまった。  手さぐりで暗闇を這いながら、女の寝床にたどりつくと、女は、「いま引戸の掛金をかけて参りますゆえ しばらくそこでお待ちになって……」という。  平仲もせっかくの情事に、人が来ては困るから承知して待っていたが、女は戻ってこない。不審に思って戸口ヘ行ってみると、なんと表から錠をかけられてしまっていた。  かさねがさねの冷い仕打ちに、平仲はアタマにきた。  どんな美女でも、小便もすれば糞《くそ》もする。  この時代は、家の中に便所はない。室内に便器を置く中国の風習が、そのまま日本にも伝えられていたのだ。  そこで大宮人は、美しい漆塗のオマルの中へ用をたした。  これを「しのはこ」というが、つまり私《し》の筥《はこ》、または尿《しし》の筥の転訛だろう。それを召使いが片付けて洗う。尻のほうは、そのあと微温湯《ぬるまゆ》かなんかの小さな下盥《しもだらい》で洗ったようだ。  上流階級はそうでも、庶民大衆はそんな贅沢《ぜいたく》は出来ない。  平安末頃の『餓鬼草紙《がきぞうし》』という絵巻を見ると、都の大路、小路は糞だらけ。夜陰にまぎれてするのだから、人の糞を踏んづけないよう高歯の下駄なんぞ履いた女が尻をまくっている。  そのあたり貴族の屋敷や寺の築土塀《ついじべい》に沿って累々たる糞の山である。  貴族の家に便所がないのだから、四本柱の掘立小屋、土間に藁や筵《むしろ》を敷いて寝ている庶民の住いに便所があろう筈がない。  かれらは日常、裸足《はだし》か、せいぜい藁草履だから、この高下駄、糞専用に共同で用いたものらしい。そればかりかこの絵巻には、死人や瀕死の重病人まで路傍に投げ捨ててある光景が描かれている。  千年の王城の地をロマンを秘めて貫流する鴨川なんてとんでもない。あの川は当時、死人を投げ捨てる川であり、常人の生活から疎外された人々は、地租の無い河原に住みつき、流れ寄る死体を取り片付けて、生計を立てていたのだ。これが「河原者」の初めなのだ。  もののたとえに、「清水の舞台から飛びおりるつもりで」と、いうのがある。「必死の覚悟で」とか「死んだつもりで」とか言うことだが、その通り、あのバカ高い舞台は踊りや舞のためのものじゃない。あれは死骸をはるか下の谷へ投げ捨てるための「風葬タワー」だったという。  話がそれたが、平仲は、侍従の君のオマルを奪い取ることを考えついた。  美女だろうが、ブスだろうが、糞は平等に臭い。そいつを嗅《か》げば百年の恋も一ぺんに醒《さ》めようというもの。その上、あの小憎らしい女に、死ぬほどの恥目を与えることにもなる。そこで平仲が、ある日、時平の屋敷へ忍んで隠れていると、下婢《はしため》がうやうやしく両手でおまるをかかげて、女の部屋から出て来た。 「しめたッ」平仲は、そっとあとをつけて行き、突然、飛びかかって下婢の手からオマルを奪い取った。  奪ったオマルは金の蒔絵をほどこした美しい筥だった。  容器がどんなに美しかろうと、中にはあの小癪《こしやく》な女の汚いウンコが入っているのだ。  胸ときめかせて、平仲がそっと蓋をあけてみると、オシッコらしき液体と、ウンコらしき親指大のものが二つ、三つ。  だがである。そのオシッコのほうは、香木の丁字《ちようじ》を煮出した汁であり、ウンコのほうは黒方《くろぼう》という、沈香《じんこう》、白檀《びやくだん》、丁字、麝香《じやこう》を合せた練香でつくられたもので、何のことはない、今の食堂の蝋《ろう》細工のサンプルの極上版みたいなものだが、まさに美女のイメージにふさわしい馥郁《ふくいく》たる芳香を放っていた。  この勝負、見事に平仲の策略の裏をかいた侍従の君の勝。平仲はたび重なる屈辱に、ついに悶死《もんし》したという。  この今昔物語をネタに、谷崎潤一郎は『少将滋幹の母』、芥川龍之介は『好色』という小説を書いている。  ところで日本の三大奇書といえば、賀茂真淵の高弟で江戸の国学者、山岡明阿弥(安永九年・一七八〇歿)の著述といわれる『逸《いつ》著聞集』、また、会津藩の国学者、沢田|名垂《なたり》(弘化二年・一八四五歿)の『阿奈遠可志《あなおかし》』、それと、桑名藩の大阪留守居役、黒沢|翁満《おきなまろ》の『貌姑射秘言《はこやのひめごと》』を言うが、この『はこやのひめごと』に、平仲の後日譚がある。  見事に振られた平仲は、それでも臆面もなく、侍従の君を見染めてから完膚なきまでに嫌われた一部始終を、絵師に命じて絵物語一巻にまとめさせ、その絵巻の巻末に、「かかるときにや 人は死ぬらん」と、書きしるし、もう一度だけ女の憐みに縋《すが》ろうとした。侍従の君が絵巻物を見ることが好きと、人伝てに聞いていたので使いをやり、 「私のところに面白い恋物語の絵巻がございますのでどうぞご覧下さい さてまた そちらに近頃の恋物語の絵巻などございましたら どうぞ拝見させて下さい」と、言ってやったところ、 「この絵巻のほかにはございませんが よろしかったらご覧遊ばせ」と、竹取物語の絵巻をおくって来た。  竹の中から生まれた「かぐや姫」が、時の帝《みかど》の愛をも素気なく突き放した説話にかこつけて、暗に平仲の求愛を拒絶する小憎らしさに、「よし、相手がそうなら もう金輪際 恋しいなどと思うものか いまに大恥をかかせてやるわい」と、しばらく鳴りをひそめて、ほとぼりのさめるのを待っていた。  さて、平仲が侍従の君の私筥《しのはこ》を奪ったときの下婢は、樋清《ひすまし》女とか、御厠人《みかわやうど》といわれる便器を洗う役の下賤の女だが、年は十五、六、容姿も可愛らしく、ちょいと平仲の好みに合う少女だった。  そこで、平仲は、藤原時平の座敷にしばしば出入し、折を見てはその下婢にちょっかいをかけ物品など贈って歓心を買っているうち、この下婢も年より|ませ《ヽヽ》ていたので、とうとう平仲と情を交わすようになってしまった。  頃やよしと、平仲は下婢に一巻の絵巻物をさずけ、 「さる女官さまより ごらん遊ばされるようにと お届けがございました」と、偽って侍従の君へ手渡すよう言い付けた。  何やらんと、侍従の君が、その巻物をひらくと、「をとこ 女の ばうぞく〈あられもなく〉に むつれ〈もつれ〉あひて ねたるすがたどもを いと うるはしう かけるなりけり」で、極彩色の春画だった。  侍従の君は思わず顔を真赤にして、すぐ絵巻物を巻きおさめたものの、見てはならぬものほど見たいが人情。さいわいあたりに人影もなし、またそっと巻物をひろげると、全裸の男女が、からみ合い、口をなめ、男の指は女の陰核を押しこすっているなど、さまざまな姿態が描かれている。  次第に、侍従の君も妙な気分になりだした。そのとき、部屋のそとで囁《ささや》くような人の声が聞こえた。  耳をすますと、「ほんに お前は愛らしい それその手をここへこう巻きつけて……」などと言っているのは、たしかに平仲の声である。 「あら こんなに甘えちゃって いいのかしらン」なんて鼻を鳴らしているのは、なんと自分の召使いの少女だ。  さては私への面当てに、樋清女を手に入れて、その睦言を私に聞かせようという魂胆なのねッーと思いつつも、やはり気になる。そのうち、だんだん荒くなる息づかいやら、肌と肌がうちあう「ひたひた」という音まで聞こえてくる。  聞くまい、気にすまいと、侍従の君は夜着をすっぽり頭からかぶって耳をおさえてみたりしたが、やっぱり聞きたい気持を押さえることはできなかった。  と、誰やら障子をあけてこちらへ来る気配なので、侍従の君はあわてて臥床《ふしど》からすべり出て奥の間へ隠れてしまった。  部屋に入ってきた平仲は、藻抜けのからになった臥床を引きめくってみると、夜着が腰にあたる部分に、何やらべっとり濡れたシミがついていた。  平仲はニタリとしてその場を立去ったが、あくる朝、「昨夜 お濡らし遊ばされた夜着の弁償に」と、絹を二巻《ふたまき》ほど侍従の者へ届けてよこした。  平仲は彼女の恥にとどめを刺したつもりで「とうとう仕返ししてやったぞ」と喜んでいたが、考えてみるとおろかな朝臣《あそみ》であることよ——と、『はこやのひめごと』にはおよそこんな風に語られている。     糞という人名  ウンコの一日の分量は美女でもブスでも不思議に変らない。だいたい大人で一〇〇グラムから二〇〇グラム、長さにして一五センチから三〇センチ、子供はその半分から三分の一、人間一生にする量は三トンから五トン、ダンプカーで一台分だという。  ただ、これは繊維質の多い食物を摂取する日本人の場合で、肉や乳製品を主とする欧米人は日本人の子供並だそうな。  日本人の腸の長さは身長の五倍、欧米人よりも三メートルも長いのは、東西の食生活の歴史のちがいだろう。 「飯一升に クソ六合」は江戸時代のこと、現代の食生活はすすんでいるから、一生かかってダンプ一台ですむが、奈良・平安の昔は貴族といえど現代からくらべひどい粗食だったから、紫式部も侍従の君も、ソレはかなり物量豊富であったにちがいない。  ところで、もいちど籌木の話になるが、今でも籌木ならぬ靴ベラでやるクラシックなヤツがいる。靴ベラならぬクソベラである。特にベッコウの靴ベラが最上とぬかす凝ったヤツと料亭を出るとき、うっかり靴ベラを借りちゃって、あとでイヤーな気持になっちゃった。  便所は、わが国では古く川屋と呼んだ。川の流れの上に小屋を建てて、ウンコを水葬にした。  いまでも田舎の農家など内便所にせず、離れたところに便所の小屋を設けたところが残っているが、あれは側屋《かわや》で、川屋の遺風なのだ。  万葉集に   香 塗れる 塔にな寄りそ 川隈《かわくま》の    糞鮒喰《くそぶなは》める いたき女《め》やっこ  と、いうのがある。 「ええ、清浄な仏舎利塔のそばへ近寄るな 川隈の糞鮒など漁《あさ》って食べている けがらわしい女奴隷め」と言う意味だが、川隈とは川の流れが曲折して水流が穏やかな場所のことだから、そこに川屋がつくられていたのだろう。そこでポチャンとやれば下で鮒が口をあけて待っているしかけだ。   ※[#歌記号]橋の上から ウンコをすれば    下の泥鰌《どじよう》は 卵とじ  なんて俗謡をおもい出させる光景だ。  今はどうか知らないが、戦前は中国の北部にはほとんど便所というものが無かったという。  大熊喜邦その他の学者によって書かれた『近世便所考』(昭12)によれば、中国の「豚は毛並の黒い猪に似たやつだが、田舎では必ず各戸に数頭飼っている。いや田舎ばかりではない都会でも相当飼っている。その飼養法は甚だ呑気で、豚小屋の中で飼っているのは滅多に見かけない。殆んどが放し飼である。それ故、路傍なり屋敷の隅なりに用を足しておけば、いつの間にか豚が始末してくれる。また犬も多いが、これはまた豚同様で、子供が路傍にしゃがんで用を足せば、一匹の犬がうしろで待っている。そこへ他の犬がやって来て争奪戦となり、子供が吃驚《びつくり》して泣き出したのを見た」とあって、これがほんとのフン戦かいな——と思ったが、古代中国は高床《たかゆか》の家の床下に豚を飼って、上から落す糞便がその飼料になっていたことは事実で、その模型の埴輪《はにわ》など古墳から発掘されている。  溷という字は漢音でコン、和音でカワヤ、豕(イノシシ)を囲い、サンズイはおそらく屎尿《しによう》を意味するものと思う。  なお水田が多い中国南部は、溜糞式便所であったようだ。  すこし前の週刊誌の西洋新聞閲覧という記事は、「ソ連は首都のモスクワでさえ市民の一六%がトイレ・シャワーなしの住宅に住んでいて、三六%の家には温水が出ない。ソ連全体でいえば五〇%が下水道も下水設備もない住宅に住んでいる。こうしたことが解消されるのは一九八〇年ごろだろう」と報じていた。  さて糞鮒を食っている女奴隷をさげすんでも、この奈良朝時代、唐の文化といえば何んでもやたらに模倣した貴族が、文化のお師匠さまである中国の人々が糞豚を食用していたことを知らぬはずがない。  糞鮒が汚ないなら、糞豚も同様だ。その糞豚の国の文化に心酔するのは大矛盾ではないかと思うのだが、もっとシッチャカ・メッチャカなことがある。   稲|搗《つ》けば かかる吾《あ》が手を 今宵もか    殿の若子《わくご》が 取りて 嘆かむ  と、これまた、万葉集におさめられた女奴隷の歌のように、その賤しき糞鮒女のところへ夜は忍んでゆくのだ。  稲搗きの労働で、あかぎれだらけになった女奴隷の手を夜ともなれば、 「おお 可哀そうに……」などと猫なで声で撫でさすり、「ヤリ」たいばかりに心にもないお世辞をぬかすさまは、江戸の、  若旦那 夜はおがんで 昼叱り  という、女中のところへ夜這いに通う若旦那も、殿の若子(若主人)も時代こそちがえ、ちっとも変っちゃいない。  女奴隷を卑しみながら、性行為のほうは気にしない、気にしないというのだから、美人奴隷は高価なもので、筋骨逞しく労働力抜群の男奴隷が稲八百束(馬で二頭分)の価なのに、美女の奴隷は稲千束を超えたという。  桓武天皇の延暦八年(七八九)五月十八日の太政官奏に、「而シテ天下ノ士女 オヨビ冠蓋《かんがい》(冠蓋・冠と車の覆い・高い官職のもの)ノ子弟ナド アルイハ艶色ヲ貪《むさぼ》ッテ 婢ヲ姦シ アルイハ淫奔ヲ挾ンデ奴〈奴隷〉ト通ジ遂ニ氏族ノ胤ヲシテ没シテ賤隷タラシメ 公民ノ徒ヲシテ変ジテ奴婢トナラシム」(滝川政次郎・奴隷賤民論)とあるように、その結果、女奴隷が子を産めばその子はやはり賤民であるから、良い血統なるものが次第に賤民の方へ流れてゆくことを警告しているわけで、ずいぶんいい気な時代だった。  ところで奴隷を糞よばわりしながら、どういうわけか糞を名乗った貴族がいる。  滝沢馬琴の『玄同放言』(文政三年・一八二○)という考証随筆には、推古、奈良、平安時代の変った人名として、  押坂《おしさかの》| 史《ふひと》毛屎《けくそ》、倉臣小屎《くらのおみおぐそ》、阿部《あべの》朝臣《あそみ》男屎《おぐそ》、卜部乙屎麻呂《うらべのおとくそまろ》、巨勢《こせの》朝臣《あそみ》屎子《くそこ》等々の名を挙げている。  もっともこの時代の人名にはずいぶん珍妙なのがある。巨勢《こせの》|造 猿《みやつこさる》、安曇宿祢日女虫《あべのすくねひめむし》、卜部尻《うらべのしり》、阿部《あべの》朝臣《あそみ》毛人《けひと》、その他、鯨《おおいお》、忍足《おしたり》、糠手《ぬかで》、赤猪《あかい》、犬売《いぬめ》、探せばまだまだある。ことにおかしいのは麻羅宿祢《まらのすくね》だ。この人は允恭《いんぎよう》帝二年(四一三)服部連《はとりのむらじ》として織部司《おりべのつかさ》になった。  さて糞の人名のつづきだが、大宝二年(七〇二)の戸籍に記された豊前国仲津郡(大分県中津市)に住む牛麻呂の孫(六歳)になんとズバリ屎の一字の名がある。  また、「平安遺文」という平安朝の文書の寛弘元年(一〇〇四)の讃岐国(香川県)入野《にゆうの》の里の戸籍には町屎女《まちくそめ》という女性の名まで見える。  現代でも虎雄とか、鮎子とか、わずかに見うけるが、上古には禽獣魚虫を名とした人が多かった。たとえば、  舎人糠虫《とねりのぬかむし》、井上蜂麻呂《いのうえのはちまろ》、葦田蟻臣《あしだのありおみ》、犬養子羊《いぬかいのこひつじ》、|物部毛虫※[#「口+羊」]《もののべのけむしくい》、土師菟《はじのうさぎ》、佐伯伊多知《さえきのいたち》、安倍堅魚《あべのかつお》、|堺部※[#「魚+制」]魚《さかいべのこのしろ》、|紀鯖麻呂《きのさばまろ》、吉士赤鳩《きしのあかはと》、|膳 《かしわでの》斑鳩《いかるが》、中臣宮地烏麻呂《なかとみみやじからすまろ》。  これは『日本の人名』(渡辺三男)からその一部をひろったものだが、同書には、豊臣秀吉が晩年、五十三歳になってはじめて児を得たうれしさに、わが子の長寿を祈って鶴松と名付けながら、呼び名を「棄丸」とし、棄丸は秀吉の願いをよそに三歳で夭折《ようせつ》したが、その後、秀吉が五十七歳の文禄二年(一五九三)ふたたび淀君が秀頼を出産するや、棄丸同様、一旦捨てた形をとり、これを松浦讃岐守に拾わせて、「おひろい」と呼び名をつけ、わが子が逆境をはね返して逞しく生育するよう祈った——とある。  現代でも、「捨吉」などという名は、そうした親の慈悲によって名付けられたものだろう。屎もまた、美しくすこやかに育ってほしいわが子へ邪神がとりつくのを避けるためにつけられた呪術的な意味がある名前なのか。屎を自分の分身として豊穰をもたらす屎の呪力にあやかったものか。  古事記や、日本書紀の神話には、イザナミ命が尿《ゆまり》をしたとき、その精となって産まれたのが弥都波能売神《みずはのめがみ》であり、大便(屎《くそまり》)たまうとき産まれたのが埴山姫《はにやまひめ》で、これらの神々から生産にかかわりある神々が産まれてくる。埴山姫は、「此の神の頭の上に蚕《かいこ》と桑と生《な》り 臍《ほぞ》の中に五穀(いつくさのたなつもの)生《な》れり」と語られて、この姫神の子が豊宇気毘売神《とようけひめのかみ》だという。いまの豊受《とゆけ》大神で伊勢神宮に合祀されている豊作の神様だ。  土佐日記の著者として有名な王朝時代の歌人、紀貫之《きのつらゆき》(天慶《てんぎよう》九年・九四六歿)の幼名も阿古久曽麻呂《あこくそまろ》で、阿古は(吾子《あこ》)久曽は(屎)の音の便なのだろう。  ともかく、彼らの珍奇な名前は、これら神話に由来するものか。農耕民族ならではの発想だし、今も関東・甲信越地方に残る風習として、赤ん坊のお七夜祝には、その児を抱いて、便所まわり、雪隠参りなどといって便所の神様に詣でるのは、日本神話の伝統がつづいていることなのだろう。  産神《うぶがみ》とは「くそまりの神」なのだ。     隅田川心中  さて川屋のようにドボンと落しても、昔は、「水は三尺流れて清し」で、すぐ川下で米を洗おうが、水を飲もうが清潔なモンだったが、隅田川を見ろ、最近までなんと川水に糞尿が三〇%を越える汚染ぶりだった。  うっかり身投げでもしようものなら、溺死する前に伝染病にかかっちゃう。  隅田川といえば、江戸時代は都鳥が群れ飛び、柳橋の美妓を乗せた屋根舟が絃歌をさんざめかしてゆきかう粋な川だった。  ところで、時代小説や、テレビなどの時代劇を書く連中でも、屋根舟《ヽヽヽ》を屋形舟《ヽヽヽ》とカンちがいしているのが近頃多いからついでに言っておくが、屋形舟と屋根舟とはまるきり違う舟なのだ。  屋形舟とは長さ十一間(約二〇米)幅三間(約五・五米)もあるものがあり、六人以上の船頭が乗り込んで船を操作する本造りの屋形(館)を構えた舟で、舟の上に神社の本殿みたいのが乗っかっている舟と思えばいい。御座舟とも言って、江戸の初めは大名などの持舟が多かった。  屋形舟のうち、踊り舟といわれたものなんざ、船中に能舞台までしつらえてある豪華な舟だったが、天明二年(一七八二)幕府の緊縮令で衰微した。  屋根舟のほうは船頭一人乗りも二人乗りもあって、冬は紙障子、夏は簾《すだれ》などで囲った小舟で、新見伝右衛門(享保二年・一七一七歿)の『むかしむかし物語』には、「慶長の頃 夏日過暑気強きゆゑ 諸人凉のため平田舟に屋根を作りかけ 浅草川を乗り廻し」とあるから、江戸初期に発生したものらしい。  平田舟ってえのは砂利など運んだ小舟だ。浅草川とは隅田川のこと。江戸の人たちは荒川の下流、綾瀬川が合流する千住辺からを隅田川。その下流の橋場、今戸辺からを浅草川、宮戸川などと呼んだ。さらに浅草、吾妻橋から下流を大川と言ったのだ。  屋根舟は別名「日除け舟」だが、江戸の人々はふつう「やねぶ」と、つづめて言っていたようで、   やねぶから 刷毛先 いじりいじり出る  なんて川柳がある。  屋根舟の中で、当時、粋な男|髷《まげ》として流行だった本多髷の刷毛先が乱れるようなこと、つまり舟で連れ出した女と、何やら髪が乱れるほど揺り揺られていたというわけだ。  幕末頃には四、五百艘もあったという繁昌ぶりで、紙障子を立てるのは武士に限られ、町人は冬でも簾を下した舟でなければいけなかったのだが、法令がゆるんだ天保頃(一八三〇)からは専ら客と芸者、あるいは忍び逢いの情事専門。いわば水上ラブ・ホテルになっちゃって、町人でもチップ次第では船頭は紙障子を立てて川岸に舟を着け、もういいかなアーと思う頃合までどっかへ行っちゃう。だから舟の中には二ツ枕まで置いてあった。  で、この情事の川に文化元年(一八〇四)五月四日、飛びこみ心中があったことが万延元年(一八六〇)に出版された、『街談文々集要』という本に詳しく書かれている。  それによると——男は二十一、二。女は十六、七。対《ペア》の桔梗《ききよう》模様を染めた浴衣姿で、抱き合った上から紫鹿子《むらさきかのこ》の扱帯《しごき》でしっかり結び、死後もお互いの身体が離れないようにして水死をとげていた。  女は髪に挿した銀やベッコウの笄《こうがい》、かんざしなど贅沢なもので、それが死顔をいっそう美しく見せていた。  そのため江戸市中の大評判となり、物見高い見物客が押すな押すなの騒ぎ。  汐のさし引で源平橋から新大橋の間をゆらりゆらりと漂流する死体を、船頭たちははじめ一人八文で舟を漕ぎ寄せ見物させていたが、だんだん見物料を引上げ、十七文、二十四文、三十二文、とうとう五十文の高値をよんで、沢山の舟が心中のおかげで思わぬ金もうけをしたという。  三、四日、こうして心中死体は漂っていたが、誰の仕業か、女の笄、かんざしは勿論のこと、男が締めていた緋縮緬《ひぢりめん》のふんどし、女の白縮緬の腰巻まで剥ぎ取り、盗んだ紫鹿子の扱帯のかわりに、さすが哀れと思ったのか荒縄で二人の裸体を縛りつけてあった。  上物の古着は高価に売れた時代だから、素ばしっこい船頭の誰かの仕業だろう。それにしても、男が真赤なちりめんの褌《ふんどし》、女が白いちりめんの腰巻、この色彩のコントラストはなんとも生々しい感じだ。  五月十一日になっても、心中者の引取り人が一向に現われないので、川筋の廻船問屋の旦那連が人を雇ってやっと引上げ、霊岸寺の浄寛院へ埋葬した。  この本の著者、石塚豊芥子は、「心中をしでかす人間は不心得者にはちがいないが、大切な命をすてるにはよくよくの事情があったろう。それを縁者も知らん顔して引取らず、死体を五十文も払って見に来るやつ、見せて金もうけをするやつ、死出の晴着を剥ぎ取るやつ、世も末だ」と、嘆いている。  身投げの衣類を盗むやつを、「川剥ぎ」というのだそうな。なにやら魚の名前みたいだが、義理人情にやかましかった江戸の世にも、いろいろな人間がいたことがわかる。心中者は、品川歩行新宿、水茶屋鈴木太七養女たつ、十八と、同町太兵衛養子、台屋(吉原でいう喜の字屋、つまり料理の仕出し屋)栄次郎二十五歳で、男には臨月の妻と一子があることがあとでわかった。  この隅田川、その頃のように川水が澄んでいればドブンとやる気もわかるが、今ならどうだろう。変に黒ずんだ糞田川だ。身を投げようと川をのぞきこんだ花もはじらう|おたつ《ヽヽヽ》ちゃん、 「ネエーン 栄次郎さん よしましょうよ だってウンコが浮かんでんだもーん」  死ぬのに綺麗も汚ないもないと思うのは、死んだことのないヤツだ。死に臨んでも人間の美意識ははたらく。きっとこの二人、気が変っちゃうに相違ない。  もっとも、最近はこの隅田川。利根川から引いた水を上流から放流してウスメたり、下水道の浄化処理や工場排水の規制を強化してだんだん鼻をつく悪臭も無くなってきたとか。だが清流に戻るわけがない。この川へ身投げする者が出ないかぎり、川の水は汚れていると思って間違いない。  江戸の後期の天保の頃、江戸の名|女形《おやま》、松本小三郎が供をつれて隅田土手へ花見に出かけた。  歌舞伎の娘役そのまま、緋縮緬《ひぢりめん》の半襟のついた小袖に、これまた燃え立つような緋縮緬の腰巻を裾にちらつかせた色っぽい姿に、本当の娘と思いこんだどこやら田舎の藩の侍が数人、小三郎に見惚れてしまい、酒の酔いも手伝ってか、たわむれかかって来た。  小三郎は、わざと娘のような声色《こわいろ》をつかい、はずかしいやら、困ったやらのふりをする。侍たちはますます興奮して小三郎を取巻き、頬ずりするやら、どこぞをさわろうとするやら大変な騒ぎ。  その時、小三郎は、「私、ちょっと手水《ちようず》に参りとうございます」と言って侍たちの手をおさえ、花見茶屋の便所へ行くかと思ったら、土手へのぼって前をひんまくり、ジャアジャアと立小便をやらかした。  意外な光景に声も出ないで目ばかりパチパチさせている侍たちへ小三郎はニッコリと会釈し、それでもまだ娘らしい声で、「どなたもお静かに」と言って立ち去っていった。  女形というものは、本当の女より色気があったようだ——と三田村鳶魚《みたむらえんぎよ》は、『江戸の実話』に女形隅田立尿《おんながたすみだのたちしと》の顛末を書いている。  ドブンとか、ドボンという擬音語《オノマトペ》ですぐ連想するのは汲取便所だな。あれはまさにウンコの身投げだ。  地方へ旅をすると、よくこの汲取便所と懇意になる。  あれの困るのはパチャンとオツリがはねかえってくることだ。受け取ったうえは、ちゃんと挨拶を返す義理固い便所で、「フンギリをつける」というのはこれが語源かもな。  だから中腰でポイと落してサッと逃げる。この呼吸がむずかしい。フット・ワークが未熟だと、逃げ残った足へピチャッ!  だからせまい便所の中で尻をまる出しにして、中気病みがジルバを踊ってるみたいなカッコウになっちゃう。  いつだったか、コノヤロウと頭に来て、新聞紙を何枚も航空母艦の甲板の如く糞つぼへ拡げて浮かべ、その上へ爆弾を投下することにした。  さながらマレー沖海戦に勇躍出撃、世界に誇る英戦艦プリンス・オブ・ウエルズを襲ったわが爆撃機のごとく、眼下いや股下の巨艦に必殺の一弾を投じた。  命中! 命中! 第一弾はポン、第二弾はバサッ、そこまでは大戦果だったが第三弾に至ってドボーンという音と共に、敵の対空十字砲火はオレに果敢な臭撃を浴びせた。  まさに被害甚大、ヒヤーッてんで便所から逃げ出したことがあったが、あの時は敵ながら天晴れ! と、オレは尻をふくのも忘れて感心した。     お電話と喜左衛門  便所は厠《かわや》、ご不浄、雪隠《せつちん》、後架《こうか》、閑所《かんじよ》、手水場《ちようずば》、はばかり、おしも、お手洗、お化粧室、トイレなどさまざまな呼び方がある。  いまもデパートで使っている「食事」の隠語「喜左衛門」は、もともと「気障《きざ》わる」の転訛で、便意を催すと気が落着かなくなるからだったが、どう間違えたか、食事することに用いられてしまったとオレは考える。つまり出と入とが転倒してしまったのではないか。  そのせいか、デパートによっては食事を「遠方《えんぽう》」などと言うところがある。  なにも食事をそんなに「はばかる」こたあない。口にすることを「はばかる」場所だから「遠方」と言うのではないか。  いまのお嬢さま方は、男性たちと食事などしているとき催すと、 「ちょっと、お電話をかけてきます」と席を立つのがマナーだそうな。  ある本にマナーの先生なる女史がそう書いていたが、そりゃあ女の浅知恵というもんだ。オレなんざ「アノウちょっと、お電話してきます」なんて女の子が席を立ったら……「ハーン、あの娘は長電話かナ、それとも赤電話になっちゃったのかナ」なんて、すぐ気をまわしちゃう。  江戸の頃、神田の名主で、代々、喜左衛門を名乗る老人が、草津だか、伊香保だかへ湯治に出かけた。  山駕籠を雇って峠を越える途中、駕籠かきの片棒が小便したくなって、 「ヨウ相棒 おらア チット喜左衛門だア」と叫んだ。すると相棒もまた、 「おめえそうかよオ おらも喜左衛門だど」  駕籠に乗っていた喜左衛門が驚いた。 「これこれお前たち 二人とも喜左衛門か」 「へえ旦那 どっちも喜左衛門で……」 「フーム 珍しいこともあるもんだナ 実はわしも先祖代々、喜左衛門だ」  Water Closet のWCも古くなり、Gentlemen-Ladies も流行おくれ。いまやいずこも男と女の人形《ひとがた》の切り抜きが表示してある。そういえば交通標識もだんだん絵文字みたいになった。昭和四十二年にルーマニアのタルタリアという村から発掘された粘土板の絵文字は紀元前二千年のもので、クレタ島で発見された絵文字より二千年も古いという。  人間の知恵なんて、だんだん退化してゆくみたいだ。  その絵文字を知ってか知らずか、ホテルのレディスの方へ入った紳士を見とがめたボーイが、「もしもし、困りますねッ、そこはご婦人専用ですよッ」と、きめつけたら、その紳士、ユウ然とおのが巨大な一物をつかみ出して、 「しかしね、君、ワシのコレもご婦人専用じゃヨ」  水洗便所の元祖は一五九六年、日本でいえば豊臣秀吉が朝鮮へ出兵していた慶長の頃、イギリスはエリザベス王朝のジョン・ハリントン卿なる人が、屋根の上に給水塔を作り、水を落したのがはじまりというが、四千五百年も昔にインドのインダスの都市には下水道を利用した水洗便所があったとの説もある。  一七七五年にイギリスのカミングスという時計屋が世界ではじめて水洗便器のパテントを取ったけれど普及しなかった。その頃のヨーロッパは、奈良朝、平安朝なみに寝室に箱型のオマルを置いて用を足す風習だったからだ。  昭和五十二年の日本全国の水洗トイレ設置が可能な下水道を持った地域は人口比にしてせいぜい二五%しか無い。  モダン風俗が開花した銀ブラ時代、つまり昭和のはじめの銀座にはなんと公衆便所が一つも無く、銀座裏の酔客は至る所で立小便。赤い灯、青い灯、バーのネオンが夜空を彩どる銀座裏は、小便の臭いが霞のごとく立ちこめる香り高き街だった。  だから昼間の銀ブラ族はもっぱらデパートを利用した。  銀座には松坂屋(大正十三年開店)三越(大正十三年、はじめ銀座五丁目にバラック・マーケット、のち十四年二月までいまの服部和光のところへ木造二階建、昭和五年現在地へ移る)松屋の三店があったが、便所の入口から遠い松坂屋は人気? が無く、三越、松屋が愛用された。なかにはなぜか歯磨と新聞を持って通うマジメな人間もいたという。  今でもデパートの客が案内係に尋ねる六〇%は、トイレはどこか——ということだそうな。デパートの売上げは、客の糞尿の量と正比例すると考えていい。     明治の珍聞  日本の公衆便所のはじまりは、明治四年に外国船が入港する関係で、日本の風紀の悪いところを見せたくないと、横浜に八十三カ所の公衆便所をつくったが、四斗樽を埋めてまわりを板囲いしただけのお粗末なものだった。汽車が東京—神戸間に全線開通するのは明治二十二年七月だが、まず明治五年五月三日、日本最初の鉄道が六十四粁の品川—横浜間に開通した。陸上を走る蒸気船という意味で、当時の人々はこの汽車を陸蒸気《おかじようき》と呼んだ。  鉄道唱歌に ※[#歌記号]汽笛一声 新橋を はやわが汽車は離れたり……とあって、つい新橋を始発駅の元祖みたいに思いこみ勝ちだが、新橋まで開通したのはその二カ月後だ。そして、この新橋駅とは、いまの新橋駅ではない。大正三年十二月、東京駅が完成して東海道線は東京駅を起点とするようになると、新橋駅は「汐留駅」となり、「烏森《からすもり》駅」が改称していまの新橋駅となった。  この汽車、その頃は便所がついていなかった。汽車に便所がつくのは二十二年全線開通の時である。だから乗車中に我慢が出来なくて小便を漏らすヤツがいた。  もっとも先ごろ、ちゃんとトイレがあるのに新幹線の車中で大放尿をやらかした国会議員さまがいる。それにくらべれば罪はない。  さて汽車内で小便を漏らすと罰金十円だった。明治六年の平均米価は一石で四円八○銭だから、十円ならざっと米五俵(二石)買える金だ。現在の米価(10キロ・四千円として)で換算しても、およそ十二万円というベラボーな罰金だった。  明治六年改正の律例(刑法)に照らしてみると、有罪ではあるが事情あわれむべき者の場合、懲役に行かず金銭で罪を償なうことができたが、その懲役五カ月分に、この罰金は相当するのだ。ガスのほうは五円とこれは気体のせいか罰金も軽かった。  明治十四年十一月十九日の東京日日新聞には、 「京橋区木挽町六丁目に住む長崎県士族深川弥作は横浜より汽車に乗り新橋まで来かかる途中いかにも腹が筋張りてたまらねど中でやつては他の人に気の毒とぐるりと尻をまくり窓からブーと一発やると遂に其筋の聞く否嗅ぐところとなり鉄道規則第六条に依り罰金五円申付られたるは昨十八日のことなり」とある。  傑作なのは明治維新の元勲、岩倉具視公爵まで、汽車の中で漏水の危機に立ち至り、やむ無くかぶっていたシルク・ハットの中へシャア……。  また義理がたく汽車の窓から車外へ放水したヤツもやっぱり罰金をとられた。  明治六年四月十五日の東京日日新聞にこんな記事がある。 「府下第五大区十二小区新吉原江戸町一丁目三十四番地借地荒物渡世増沢政吉なる者商用にて横浜へ到らんと新橋より午後三時の汽車に乗しが乗車前に厠へ至らんと思へる内発車の期来るに付其儘乗込たりしがいよいよ便気堪え難く其場へ漏すべき体なるにつき止むを得ず乗車の窓より小用致せし処鉄道寮官員(鉄道省の役人)に咎められ遂に東京裁判所へ送致せられしが則《すなわち》左の通り御処分ありたり   申渡し  増沢政吉  其方儀 鉄道汽車ニ乗リ運転中 小用致ス科《とが》 鉄道犯罪罰例ニ依リ 贖金《しよくきん》(罰金)拾円申付ル」   ※[#歌記号]汽車の窓から 小便垂れて    これで汽車チン 二度出した  という唄が巷間に流行したのも、この時代だった。  小便どころか、屁をして罰金をとられた時代でもあった。 『明治奇談』(清水谷漫歩)には、 「明治六年二月、吉原の京町の女郎屋の遣手婆さんのキヨなるものが、亀戸《かめいど》天神へお詣りの途中、思わず屁をしたのを邏卒《らそつ》(正確には捕亡吏または取締組番人・明治八年四月邏卒と改め、さらに同年十月巡査と改称)に捕まり罰金七銭の科料に処せられたことが当時の新聞に出ている。故意に人を侮蔑するため面前で屁をした場合は別として、あやまってした屁を罰する法の条文は無いが、不応為律という、なすべからざることをした罰則が適用されたのかも知れない」と書いている。  いま満員電車の中の屁など、罪万死に価するぞ。時限爆弾の犯人のつぎぐらいの悪質さだ。  もっとも通人になると、ドアが開いてドッと人が降りる瞬間にブッ放すのだという。なにもそんなに凝らなくても、ホームへ出てからやりゃあいいのにさ。  明治のはじめ、郵便ポスト(木の箱だった)が設置されたとき、その箱の前に糞をするヤツがしばしばいた。  郵便の郵の字を垂《たれ》と読みちがえて、垂便《たれべん》箱のつもりで、大マジメに垂れていたのだ。     京女の立小便  立小便禁止は明治元年からだ。江戸時代には辻便所といって、町角に樽を埋めた仮小屋風のものもあったが、たいがいはどこかの塀にシャアとひっかける。  だから塀には、お稲荷さんの鳥居を書いた貼り札を打ちつけて、「此のところ 小便無用」と添え書きしてあった。お稲荷さんに小便ひっかけたらアレが曲っちゃうぞ、というわけだ。また鋏の絵などもあった。チョン切るぞという意味だろう。 「此のところ 小便無用」といえばこんな話がある。  松尾芭蕉の高弟、榎本|其角《きかく》がある時、書家の佐々木文山と一緒に紀伊国屋文左衛門に招かれて吉原の揚屋《あげや》で遊んだときのことだ。  揚屋とは、高級遊女のみが出向いて客と歓をつくす貸座敷で、よほど富裕な人間でなければ行けないところだった。  揚屋の亭主は、文山の名筆を知っていたので、春山桜花図《しゆんざんおうかのず》なる見事な金屏風を持ち出して、一筆、讃《さん》を所望した。讃とは、その絵の風景を賞めたたえる文章だ。  ところが酔眼朦朧の文山先生、筆をとるや何と思ったか、「此処小便無用」と書いちゃった。  高価な金屏風へとんでもないことを書かれて真っ青になったのは揚屋の亭主、それを見てとった其角が、 「これ亭主、落胆するまいぞ」と、やおら筆をとって、「花の山」と書き添えた。  落書きが一転して、「このところ 小便無用 花の山」と、春山桜花を讃える名句となり其角の当意即妙に一座はヤンヤ、ヤンヤ。  この屏風、ながく揚屋の家宝となったという。  立小便はなにも男に限らない。優雅で婉な女の代名詞みたいな京女、その京女が江戸時代は実は立小便だったのだ。 『南総里見八犬伝』で知られる文豪、曲亭馬琴が享和三年(一八〇三)の夏から秋にかけて上方旅行をした記録『羇旅漫録《きりよまんろく》』に、 「京の家々 厠の前に小便|担桶《たご》ありて それへ小便するゆゑに 富家《ふけ》の女房も小便はことごとく立ちて居てするなり、ただし良賤とも(身分の差別なく)紙を用ひず 妓女(遊女・芸者)ばかりはふところ紙をもちて便所へ行くなり あるひは供二、三人つれたる女 道ばたの小便たごへ立ちながら 尻をむけて小便をするに恥るいろなく 笑ふ人なし」と、書いている。  立小便の上に、女の縄のれんからしたたる水滴を自然乾燥させるという念のいったもので、かえって水商売の女のほうがちゃんと紙を持って便所へ行ったというのだ。たぶん売物だから、たやすくは見せないためかも。とにかく馬琴先生はビックラしたようで、江戸では見られぬ光景であったことがわかる。  また、考証家として知られた|喜多村※[#「竹/均」]庭《きたむらいんてい》(安政三年・一八五六歿)の『嬉遊笑覧《きゆうしようらん》』にも、若い女が都大路の築垣に向って立小便をすることを記録している。 「京都の婦人も昔は立ちながら小便することはなかりしなり 後に田舎風移りて今のやうにはなれるらん うづくまりてすることは今は江戸のみにや そのほかは大かた立てするなり」  女の立小便の風習は今でも地方にわずかに残っていると聞くが、明治四十一年七月十八日の東京日日新聞には、 「福岡県にては 女子師範 高等女学校 中等学校教育に従事する者 去る十四日 福岡市に集会し学生風紀の振肅に関し協議会を開きたるが その協議事項中に  一、 女子学生の立小便を廃止するよう注意したきこと……」  と、報じられていて、勇壮な明治の女学生ぶりが偲ばれる。ただし、これは自然乾燥であったか、フク岡県であったか明らかではない。  昭和四十六年に読売新聞社から出版された『珍々発明』という本には、なんと女の立小便装置が三件も紹介されている。  その一つ、日本実用新案、昭和四五—一二八〇なるものは、細いゴム管を尿道口に当て、小さな小田原提灯型に伸縮するバルブみたいな容器へ小便を導入する。  昭和四〇—三二五五九の新案は月経帯型で小便をスポンジで吸い取る型だ。  アメリカにもあるぞ。一九二四年、アメリカ特許一五一〇九七三号は、二重底の朝顔型で、前へ当ててシャーッとやる。装置をさかさまにしても、二重底だから小便が逆流しても漏れないところがミソだ。  いつだったかの週刊誌に、東京、大森の巴鋼機という会社が開発した「ミニレット」という女性携帯小便器のことが紹介されていた。  これは航空機内の酸素マスクみたいな型で、そのマスク、たしかにマスクだよナ、で、それにビニール袋がついていて、中間に逆流防止弁があるのだそうな。たためば煙草の箱ほどになるし、スペアの袋と「お手ふき」が一個ずつついている上に、説明書には、「立ったまま使用の場合と、しゃがんで使用する場合」まで懇切丁寧に書いてあるという。  いちど実験いや実見したいものだ。  携帯用ではなく、先ごろ東洋陶器が、「サニー・スタンド」という女の立小便用便器をつくったがあまり売れなかったらしい。  しかし、このネーミングが何とも面白い。女の立小便は発射角度が下方を向いているから、立小便のときは二本の指を前部にあてて、ギュッと引き上げるようにする。自然「サニー・スタンド」になるではないか。  結局、立小便とは男の特権だ。ウーマン・リブの連中が女権の拡張を主張するなら、まず優劣を立小便で争ってもらいたい。  しかるに近頃の団地やマンションは座椅子式便所だから、男の子でもついしゃがんで用を足す。こんな子供が大きくなると、男のくせにプリプリとケツを振って歩くようになるのだぞ。  また、大人のくせに立小便のとき、両手で持ってやるヤツは、小児的感覚がのこっていて、ホモになりやすいと聞いた。多湖|輝《あきら》さんの心理学の話の中に、いいオトッつぁんが自分をさして、やたらに「ボク、ボク」というのは幼児性が残っている証拠だとあった。こういうヤツは、ヤッパシ小便するとき、オチンチンを両手で持つかもヨ。  お互いに子供の頃は、椎の実みたいなものを振りまわして雪に、サイタ サイタ サクラがサイタ、なんて書いたっけ。  ひでえのは、愛刀の先にこびりついた昨夜の紙のカケラを長時間かかって丹念に爪でハギとってるヒマな奴もいる。  さりながら、立小便に油断は禁物。崖の上から虹のごとき大放尿。そこまではよかったがシメククリにブッとガスを一発、その反動でテメエが崖下へ吹っ飛んじゃった。  これを見ていた学者が、その原理を応用して発明したのがジェット・エンジンだ。     今昔穴響楽  ジェットといえば、女はすごい。液体のジェット機だ。  トントン・バタン・シャーッ・チロチロ・カサカサ・プー・パッ・バタン。  この間《かん》、タイム・ウオッチで計ったら、なんと三十秒。  東名・名神道路をつくったとき、公団ではトイレの使用時間を男は一分、女は二分と予測したそうな。しかし実際はそれより時間がかかるそうだが、身じまい、手洗、などの時間も含むからで、実際のソレは女は、三十秒ぐらいだとオレは確信している。  なにしろ女の尿道は太くて短いし、男のように減速加速なんて器用なことは出来ない。発射したら純情一路、一瀉千里だから男のとは迫力がちがう。  水洗だとそれにザーッという水の音がダブって壮絶なる一大穴響楽となる。ベートーベンの交響曲(ウン命)がハダシで逃げ出すくらいなのだ。  だから自己の発生音を、いくら水でカキ消そうとしてもだめ、あれはあさはかな女の知恵というもんで、こっちが精神を統一して耳を澄ませば、マザマザと聞こえちゃう。  で、紳士諸君。あらためて、女がトイレに入ってから出るまでの断続音を早口言葉のごとく繰り返してみろ。  まさに、「便所を疾風のごとく駆け抜ける」感があるぞ。  それにまた、カギをかけ忘れるのも女、手を洗わないのも女が多いと、ある調査を読んだことがある。  医者の話によると、ガラスの容器に採った女のオシッコは綿毛のような浮遊物があって、後から前へ拭き上げる関係か、大腸菌やいろいろな雑菌がウヨウヨ。先日の新聞は近頃、女の子供にまで尿路感染症が多いと報じていた。  なにしろ、安アパートみたいに便所と玄関が壁一重の構造だから、いきおい玄関のドアのあたりに細菌が郵便ハガキみたいにはさまっちゃうのじゃないだろか。  その上、どうして女は、ああガッサガッサと紙の音を立てるのかな。トイレット・ペーパーの金具がチンチロリンのカーラカラ。そのあとガッサガッサと紙を揉む。  乃木将軍の夫人、静子が姪に教えた手紙の中に、「アノあとで妻は紙の音を立ててはいけない」とある。江戸の『女大学』の教えだ。  さすが教養ある女性はちがう。江戸時代は上質の紙を「となり知らず」といった。それなのに今は漉き返しの安ペーパーでガッサガッサ。自分の尻は自分で吟味して選んだ良質の紙で秘めやかに始末するのが女のたしなみというもんだ。  その点、昔の女神は優雅だった。足利時代の末、山崎宗鑑が編んだ『犬筑波集』という俳諧連歌の本にこんな歌がある。   佐保姫《さおひめ》の 春立ちながら 尿《しと》をして    霞のころも 裾はぬれけり  福井久蔵『犬筑波集・研究と諸本』の評釈によれば、「霞の衣は天女などの着る衣として、春を司る女神、佐保姫を配した。立春に霞が野に山にかかっていて、薄い衣で包まれたように〈ぼっ〉としているが、その裾のほうは少し消えかけるのを濡れるとし、これは女神が尿《しと》をされたためとした」とある。  立ちながら尿をして——だから女だてらに立小便だろうが、さすがは女神、現代の女のシャーッ・パッよりはるかにみやびやかではないか。  便所の紙といえば、   ※[#歌記号]カチューシャ可愛や 別れのつらさ    せめて淡雪 とけぬ間と    神に願いを ララ かけましょか  大正三年三月、トルストイ原作「復活」が帝国劇場で上演されたとき、主役カチューシャに扮し、この劇中歌をうたって一躍天下の新劇女優の名声をかち得た松井須磨子のことを思い出す。  松井須磨子は今の長野市|松代《まつしろ》の出身、坪内(逍遙《しようよう》)博士が主宰する文芸協会の俳優養成所の第一期生で、明治四十四年五月、文芸協会第一回公演「ハムレット」で「オフィリヤ」の大役を見事に果たして以来、演劇関係者の注目の的となるが、逍遙の愛弟子であり早大教授であり、そして劇作・演出家でもあった島村抱月との不倫の恋から、抱月と共に文芸協会を追われて芸術座を結成、やがてこの「復活」で大女優とうたわれるようになるが、大正七年十一月、抱月が急逝すると、その翌年一月五日、抱月のあとを追って縊死した。  その須磨子が、まだ抱月との恋を秘密にしていた頃。大正元年六月、大阪帝国座で「マグダ」を公演していたときのことだ。  須磨子が便所に入っていて、「誰か紙を持ってきて……」と叫んだ。  それを耳にした楽屋の連中は、その無作法に憤慨したが、抱月はチョビ髭を撫でながら、そっと須磨子へ紙を持っていった。このため二人の仲のただならぬことが露見してしまったと『逍遙・抱月・須磨子の悲劇』(河竹繁俊)に書いてある。 「早稲田の大野暮」と綽名《あだな》されるほど女にも遊びにも疎かった抱月が、 「ある時は二十の心 あるときは四十の心 われ狂ほしく」とうたい、四十をすぎて妻子を忘れての大恋愛だっただけに、新宿の戸山ケ原である夜、須磨子と青カンをして早稲田の学生に見つけられたり、もっとも今のようにラブ・ホテルが林立している時代ではないが、料亭、貸座敷などもあるのに天下の大学教授が原っぱで青カンとは……それがまた「大野暮」たるところなのだろう。ついに、   ※[#歌記号]月を抱いたは 昔のことよ    今じゃ 須磨子のケツを抱く  なんて、学生間に唄が流行する有様だった。  この青カン事件もそうだが、須磨子の便所の紙の挿話も、生まれつき奔放驕慢な須磨子の気迫に引きずられて、道ならぬ愛に溺れてしまった抱月のすべてを象徴している。  さて、女のトイレにおける穴響楽の中で、いちばん可憐な音は「プー」であると、ある女の子に話したら、 「アーラ、ヤダ、私オナラなんてしたことないワ」と、ぬかしゃがった。こんな女とキスなど出来ないぞとオレは思った。  考えてもみろ、チューチューやってたら行き場を失ったサスライのガスが彼女の口からスー、オイラ一発でダウンだ。  また江戸の小咄《こばなし》にも、  寺の和尚が蔭間(おかま)を買って事に及んでいる最中、蔭間がうっかり屁を洩した。とたんに和尚が「ウーイ」なんてえのがある。  江戸の坊さんは妻帯禁止、こっそり女と関係したことがバレると、「女犯《によぼん》」とて島流しどころか、事情によっては死罪になるくらいだから、もっぱら蔭間を愛用した。したがってこんなおかしな話がうまれたのだろう。  川柳にも、似たのがある。   蔭間の屁 和尚三べん、あくびをし  現代となると、また趣きがちがう。売れっ子のオカマに、 「どうだい、いそがしいかい」と聞いたら、 「おかげさまで……屁をするヒマもないのヨ」  屁といえば、オレの友達で世の中が厭になったのか、フトンをかぶって強烈な最後っ屁をブッ放して死んだヤツがいたナ。  警察医の鑑識では、「ガス自殺」だった。  ついでに屁の江戸小咄を一つ、二つ。  ある惚れた同士の差しむかい。女がうっかり、プウ……。 「アンタ さぞ愛想がつきたでしょうね」と、女が泣けば、  男「なんの 屁の一つぐらいで 惚れた気持が変るものか」  女、よろこんだトタン、思わずまた一発。男、鼻をつまんで、 「さて さて うたぐり深い」  この話の原型らしいのが、寛永十二年(一六三五)に上梓された『昨日は今日の物語』にあるから、原文に少々注釈を加えて紹介しよう。男色《なんしよく》の話だ。 「ある若衆、念者《ねんじや》と寝て(若衆とは寝子《ねこ》と呼ばれる女役、念者はオタチで男役)取りはずしてけがをして(取りはずす——は屁をうっかり洩して。けがをして──は、怪我の功名などというように、失敗《しくじ》って)さらぬ態にて(念者はそれを咎める様子もなく)今のような怪我をしては、腹を切りてもあかねども(切腹して詫びても許されぬ失敗だが)馴染ゆえに何とも存ぜぬ(馴染だから何とも思わないぞ)と、おぼせければ(言ったので)若衆|承《うけたまわ》って、さてさてかたじけない、さやう思《おぼ》しめし候へば世々にも忘れがたい(若衆はそれを聞いて、そう思って下さるなら、お情は一生忘れませぬ)と申すもはてぬに又せられた(という口の下から、また屁を洩した)念者鼻をふたぎて、重ね重ね過分すぎた(かさねがさね念入りなこと)と言ふた」  ある女郎、客と寝ているうちにプーと洩らし、とんだことを……客が気が付かねばよいがと、寝入ってる客を起こし、 「あんた ちょいと起きて下さいな」 「なんだえ」 「いまの……アレ……気がつかなんだかえ」 「なにが……さ」 「あの……大きな……」 「大きな……何んだえ」  女郎、困って、 「ええ……あの大きな地震を……さ」 「フーン……地震だと……してそれは屁の前かえ……あとかえ」  だいたい屁の成分は窒素60%、メタンガス30%、炭酸ガス10%、酸素1%、これに香料として硫化水素、アンモニア、スカトール臭素を配合したもので、屁はエンゲル係数に逆比例して、金持ほど臭い屁をするそうな。つまり肉食など多いと臭いという。粗センイ質の菜食の屁は比較的くさくない。馬の屁がくさくないのも道理だ。  江戸時代にはいろいろな珍商売があったようで、正徳二年(一七一二)井原西鶴の遺著をまとめた『西鶴織留』に、「猫の蚤取り」なんて商売があったことが書かれている。 「猫の蚤取りましょう」と呼び歩く男がいて、頼まれると猫一匹が三文。まず猫に湯をかけて洗い、そのあと狼の毛皮を取り出して猫をつつむ。しばらくそうしていると蚤も濡れた猫の毛はいやだから、乾いた毛皮のほうへ移動する。そこを見はからって、毛皮を大道でうち振い蚤を捨てる、という話だ。  その頃かどうか知らないが、「屁つかみ屋」なんて珍商売があって、 「屁をつかみましょう」と、町々を触れあるく男がいた。  ある夫婦もの、これを聞いて、 「屁などつかめるもンかね ちょっと呼んでからかってやろう」と、その男を呼びとめると、 「もし うまくつかんだら二百文くれ」という。承知して亭主、尻をおっ立ててプッとやったところ、男は亭主の睾丸《きんたま》をギュッ。 「おい それは屁ではないぞ」と言うと男あわてず、 「でも |へのこ《ヽヽヽ》と申しますゆえ 半分の百文いただきます」  見ていて、くやしがった女房、 「そんなら あたしの屁をつかんでみなッ」と、これまたクルリと白い尻をまくってプー。男すかさず、女房の股ぐらへ手を入れて毛のある部分をギュッ。 「やだよ この人 それは屁じゃないよ」と、言えば、男ニタリと笑い、 「そこは |へへ《ヽヽ》でございますによって二ツ分 四百文いただきます」と、言った。 「へへ」は女性器の方言で、「べべ」とも訛る。「へ」は貝原益軒の説のように「火」の転訛だろう。 「ほと——とは男子の陰茎《いんきよう》、女子の陰戸を通じて云。|ほ《ヽ》は火也。陽気の発生する処なり。|と《ヽ》は戸也」(中島利一郎・卑語考) 「アタシ 燃えてるのン」なんていうのは出火場所の状態であることは今も変らない。  平安朝頃までは現在の五十音のほかに、もっといろいろな発音がなされていて、七十音とも八十音とも聞いている。  現代の若い者なんか、「ガギグゲゴ」の鼻濁音すら発音できなくなっているから、昔はもっと微妙な発音がたくさん存在していたとしても不思議ではない。  古代の発音のうちにFi Feなどあったことは事実で、これが「火Fi」からFeになり、さらに「へ」となった。日本人は一音語が苦手、ことに上方《かみがた》の人は、「目」を「めえ」気を「きい」と二音語で発音する。  金田一春彦さんが、伊勢参宮線の「津」まで行こうとして、「ツ一枚」と切符を買おうとしたが駅員に通じない。そこで「ツウ一枚」と言ったらすぐ分ったと、何かの本に書いていた。  だから、「へ」は二音語の「へへ」になり、さらに「べべ」と濁ったにちがいないし「へへ」は本来、女の子供のもので、年頃になってちょぼちょぼと春毛が生えると「べべ」に昇格したものではないかと、オレは想像する。  眼病の男が、目の妙薬というのを買って来た。効能書を読むと、「めじりにさすべし」と書いてある。目が悪いせいか、活字がいたんでいたのか、「め」を「女《め》」と読みちがえたから大変。女房の尻をひんまくり、粉薬を無理矢理に指でねじ込んだ。女房は尻の穴を指でつつかれたものだから、思わずブーッ。粉薬は吹っ飛んで男の目にはいっちゃった。  男、つくづく感心して、「ウーム なるほど」  寛保年間というから、徳川中期の話だが、歌舞伎役者市川海老蔵が、上方芝居へ出演するため江戸を旅立つことになった。  当時は長旅といえば親しい間柄では送別に水盃をかわすくらいだったから、海老蔵は懇意の沢村宗十郎の家へ暇乞《いとまご》いに行き、しばしの別れを惜しんだ。  その帰りしな、宗十郎に見送られて海老蔵が玄関を出ようとした途端、うっかりプッ。そこはそれ粋な役者、少しもあわてず、 「ぷっと出て 顔に紅葉を 置土産」と詠《よ》んだ。  とんだ失礼に顔が赤くなったことを紅葉になぞらえて、ぷいと旅立つ矢先のこと、せめて顔の紅葉をあなたへの置土産にして出かけましょう——と言ったわけだ。  すると、宗十郎、「あまり臭さに、鼻向けもせず」と返した。  鼻向けは「餞《はなむ》け」で、あまりの臭さについ「餞別《せんべつ》」を差し上げるのを忘れました、と揶揄《やゆ》したと(福富織部・屁)という本に載っている。  屁についての論考では何といっても、江戸の科学者 平賀源内の『放屁論』が有名で、この放屁論は宝暦七年(一七五七)に井本蛙楽斎(あら・くさい)という人の戯文『薫響集』の影響を受けているといわれる。  この平賀源内は薬学者であり、小説家であり、さらに科学者であり、大変な才能の持主だった。『|長枕 褥合戦《ながまくらしとねがつせん》』などの戯作や『神霊矢口渡《しんれいやぐちのわたし》』などの浄瑠璃本を書く文才も一流なら、エレキテルなる発電機や寒暖計なども発明した。  安永八年(一七七九)十二月、誤って人を殺したとも、知人の殺人事件に連座したとも伝えられるが、伝馬町の牢内で五十一歳の生涯を終ったが、あまねく東西の学問に通じていたせいか、この江戸の中期にオランダ語をもじって、クートヘーデル(甘藷《さつまいも》) イキムトヘーデル(屁)などの珍語をつくっている。     江戸の便所  昔は肥料問屋といえば人造のコヤシを集荷し売りさばく商売だったが、今は買手どころか処分に困る。  東京で生産される人肥はバキュームカーが集荷する分だけでも、ひと月も経たないうちに新丸ビルが満パイになるような量だ。  都の清掃局は、糞尿船を連ねて静岡県川奈崎と千葉県野島崎を結ぶラインから九キロの外洋に威風堂々と出動し投棄する。晴海から百三キロのところだ。この船団を黄金艦隊というのだ。  かくて硫酸第一鉄を混入し加重されたわれわれの分身は、親をうらむこともなく投棄一時間後には千四百メートルの海底へ淋しく沈んでゆくのだ。  だから海が汚染することは無いというが、東京ばかりじゃない。黄金艦隊は、横浜・川崎・横須賀・千葉からも出動する。  東京のように一、〇〇〇トン級の船があればいいが、百トン程度の船もあって、海が荒れると航行不能。さりとて投棄船が二日も欠航すると糞尿処理機構は麻痺して収臭がつかなくなる。  だから海が荒れたときは、ままよとそこら辺にブン撒いて逃げてくる船がいるようで、それを監視するのが海上保安庁だそうな。監視する必要があるくらいだから事実なんだろう。  これが黒潮に乗らないで押戻され、相模や房総の海岸あたりへ臭来するのだ。こんど海水浴へ行くときは、用心にトイレット・ペーパーを持って行けよナ。  江戸時代は糞尿が溢れて困るようなことは無かった。  豪邸にすむ金持はともかく、一般の江戸市民は、道路に面したところが表店《おもてだな》、その背中合せの住いが裏店《うらだな》。露地をはさんで両側に九尺二間の長屋(半畳の踏みこみ土間、一畳分の炊事場、居住のための畳敷は四畳半、押入れなどはついていない)が多かった。いわゆる裏長屋の標準サイズだ。その露地の中ほどに井戸、奥の突当りに一つ二つの惣後架《そうごうか》という共同便所があった。勿論こうした当時の団地サイズの家だからではない。商家などでもっと広い家構えでも内便所は少なかったのだ。  江戸後期の喜田川守貞という人が書き記した風俗資料集「守貞漫稿《もりさだまんこう》」によれば、 「俗に雪隠と云 京坂俗は常に訛て〈せんち〉と云もあり 婦女は〈こうか〉或は手水場《ちようずば》と云也 男も人前等にては〈てうずば〉と云也 江戸にては男女共に常に〈こうか〉と云也 又てうずばとも云〈せついん〉と云は稀也 長屋と號《なづけ》て一宇《いちう》数戸の兼用とする也 是を京坂にては惣《そう》雪隠《せつちん》と云ふ 江戸にては惣ごうかと云」とあって、京阪は土壁で戸もちゃんとしているが、江戸のは羽目板壁で、戸は下半分だけの「半戸」だという。  勿論、今のように陶製の便器など無い。京阪では「ヒバコ」といって長方形に穴を切り抜いたものだという。ヒバコは「樋筥」で、王朝時代に箱型の便器を「樋《ひ》」といったからその称呼が徳川時代まで遺っていたと思う。また江戸は「踏み板」といって、左右に板を渡し、中間が空いていた。  さて、その糞尿の始末だが、江戸では小便を溝《どぶ》に流し、糞だけを近在から買いに来る農民に売った。  この金《かね》は家主《やぬし》の収入となるが、家主とは長屋の所有者では無い。今でいう差配人のこと。大屋《おおや》とも言った。建物の所有者は地主という。ただし京阪では差配は家守《やもり》、建物の所有者を家主と言った。  この糞尿代金、十人量一カ年分で、金二、三分。いまの米価に換算して、およそ二万円から三万円ぐらい。一両とは金四分、銀で六十匁、時の貨幣相場で変動はあるが銭で四千文から六千文、米価もだいたい一石一両だった。  ちゃちな長屋でも住人の数は十人どころじゃないから、結構いい家主の収入だった。  大阪では尿だけは借家人のもので、年の暮に綿や野菜を汲取人から礼に貰ったし、また路傍に肥桶を置いて、ここに溜った尿だけは近在の村落の所有とするしきたりだった。  また糞のほうも家守ではなく、長屋の所有者の収入となった。  肥料の性質から見て、当時は尿は「かけ肥え」糞便は「もと肥え」と区別していたから、糞尿の処分、換価配分についてすら、江戸と京阪では経済的な合理性のちがいがはっきりしていて面白い。  明治の東京になると、 「昔より借地借家のものは下糞の料を差配人の徳分とするが東京の習慣であつたが、此頃のやうに値の高い米を食つて、|ひつた《ヽヽヽ》糞を、他人の所有物にされては難渋ゆゑ、糞料は|ひりて《ヽヽヽ》の所有になるようにと……」(明治十三年十二月十五日、読売新聞)其筋へ願い出た借家人一同対家主とのフン争が報じられている。  その明治九年のこと。 「近頃、英国で発明された製造法で、人糞を煮詰め水分を取りのぞき、硫酸と混和して臭気を止め袋詰めにして農村へ輸送するといふ方法を、勧業寮(農工業を指導奨励する当時の官庁・のち農商務省となる)が、民間人に教へ、本所区(現・墨田区)の広い空地へ窯《かま》を築き、大きな釜へ人糞数十|石《こく》も入れて、ぐらぐら煮たところ、一大臭煙が立ちのぼり、付近の住民が悲鳴をあげ、大挙して東京府庁へ取止め方を嘆願した」と、同年四月十八日の郵便報知の記事がある。  人糞がいかに貴重なものだったかがわかる。やがて大正ともなると、 「京都では大正六年頃まで〈小便と大根にしょう〉〈肥と水菜にしょう〉と糞尿と野菜の交換を求める汚穢屋《おわいや》の声が町々に聞こえた」(金城朝永・屎尿雑記)——いまのチリ紙交換みたいな感じだったろう。  ところで、「くそも身の内」といわれるわが分身の処理について、昭和三十五年に出版された『厠談義』(杉戸清)に、面白い一文がある。要約すると、 「市は、市民の糞便を始末する義務がある。そのため税金というものを取っているのだ。したがって市民は税金という金で市にふん便を売ったのである。売って金を出し、買って金を取るのも商行為の一つだ。義務を負い、税金をとって買った以上、ふん便の所有権は市にある。市にある以上、早く引取るべきなのに、汲取り料を取るとは何事か。市の所有物をこちらは自宅に保管しているのだから、市はわれわれに倉庫料を支払うべきである」  これは著者の意見ではなく、誰かの迷論の紹介だが、この迷論、なかなか説得力がある。糞尿も食物のゴミだ。ゴミ集めは無料で糞尿のほうだけ、指定の下請業者にせよ何にせよ、清掃代をわれわれから徴収するのは不合理な気がする。  汲取り話の余談になるが、花街では梨の実を「無し」に通ずるから「ありの実」お茶は「おちゃをひく」から「上《あが》り花」鯣《するめ》は「あたりめ」などと縁起をかつぐ。  文化七年(一八一○)に蜀山人大田|南畝《なんぽ》が著した『金曽木《かなすぎ》』という見聞録に、 「新吉原にては 糞《こい》を取るといはず 恋をとるといふ言葉に通ふを忌みて 糞《こい》をあぐると言ふもをかし」と、色恋のメッカ、新吉原の遊廓では汲取りにまで縁起をかついでいたことを伝えている。  さて江戸は、「そとべんじょ」が多かったから、夜中に便所へ行くふりをして、ここが逢びきの場所となる。  若い衆《しゆ》と娘っ子、下女と下男、隣のカミさんとお向いのテイシュ。色とりどりの情事が展開された。クサイ仲とはこのことなのだ。だから、   雪隠《せつちん》を 一人出てまた 一人出る  と、人目を忍ぶ男女の影をうまく川柳はとらえている。  便所を雪隠というのは、鎌倉時代の頃に中国から渡来した言葉で、語源は諸説あって明らかではないが、その一つは、いまも中国の浙江省|寧波《にんぽう》府奉化県に、晋の時代に創造された雪竇《せつちよう》寺という禅寺があり、宋の時代は雪竇山資聖寺といって、名僧が全国から集まる立派なお寺だった。  その名僧の一人に雪竇明覚禅師という人がいて、この坊さんは若いときに浙江省臨安にある雪隠寺で修養をしていたが、人のいやがる便所掃除をすすんでしたことが知られていて、そのため雪竇寺へ来たとき厠の和尚という意味で、便所を雪隠と呼ぶようになった、と、『厠まんだら』(李家正文)はいう。   大難儀 どの雪隠も エヘンなり  列車内のトイレの前で、バタバタと足踏みしている女の子を、時たま見かける。  ベラボーめ、駆足したって乗っている列車より先にテメエが駅へ着くわけじゃあるめえ、と思ったら、さにあらず、真っ青な顔をして洩れそうなのをこらえているのだ。  小便が近い女の世界のこと、おそらく婦人便所にはよくある光景ではなかろうか。小便の量は牛乳|壜《びん》二本ぐらい溜ると自爆状態になるのだ。   雪隠で よけいな紙を 嫁はもみ  こんなんざ、女心がほほえましくなる句だな。  この嫁は、あまりいい暮し向きの家の嫁じゃあない。  セックスのあとに用いる紙は、「御事紙《おんことがみ》」「閨紙《ねやがみ》」といわれた。  吉野|和良《やわら》紙(奈良)や、三栖《みす》紙(奈良)で、スダレのように透けて薄いから「御簾《みす》紙」ともいわれた。  そのほかに京花《きようはな》がある。京都でつくられるハナガミかと思ったら、この紙は博多・唐津・長崎辺の産だという。   みす紙を 寝なんしたかと 下に置き  これは、吉原の遊女が、衣ずれの音もやさしく、客の寝所へ入ってきて、待ちくたびれて狸寝入の客にそっと声をかける艶《なまめか》しい情景だが、「寝なんしたか」の廓言葉を「寝しゃんしたか」とすれば、かたぎの若女房にも通ずる色っぽさがある。  とにかく、「やわやわ紙」とか「隣しらず」といわれた紙だが、この嫁さんが揉んでる紙は何だろう。  あのあとの紙の音を、姑《しうと》ばばあに聞かれたくない一心で、便所へ行ったついでにその分を揉んでいるわけだから、質の悪い「落し紙」にちがいない。  それにしても、亭主と打合せしたわけでもなかろうに、紙を揉んで夜を心待ちする嫁さんの気持は可愛ゆーい。 「落し紙」には「漉返《すきかえ》し」が用いられた。反古《ほご》紙の再生だ。一番安物が「浅草紙」、それでもまだ江戸時代はなかなか紙は高価なものだった。  はじめ浅草でつくられたので、その名があるのだが、のちには千住辺で漉いた。  この時代は「紙屑買い」と言って、書き損じの紙、大福帳など古い帳面その他、不用の紙を、籠を背負い天秤《てんびん》をもち、腰に叩き鉦《がね》や、鈴などつけてチャンチャラ鳴らしながら市中を流してあるいた。いっぽう、「紙屑拾い」という商売もあって、洟《はな》をかんで路傍に捨てた紙などをひろい歩く者もいた。こっちはもっぱら非人とよばれた階級の人間の専業だったが、それでも細々ながら生計が立った。今のように機械による大量生産ではなく、どんな安紙でも「手漉き」なのだから、浅草紙でさえ、百枚百文が相場だった。  裏長屋の一カ月の店賃《たなちん》(家賃)が五、六百文であったこと、東海道などの旅籠銭《はたごせん》(宿泊代)が百五十文前後であったことからみても紙は粗末にできないものだった。  一夜数十両の高級遊女から、一発百文の安女郎をふくめて、三千の女を擁した吉原の廓内から出る種々雑多な使用済の紙は膨大なものだ。  これらの紙や江戸市中で集荷された紙屑を集めて、吉原裏の山谷辺には「漉返し」の業者がいた。  ここの紙漉き職人が、紙を水に冷やかして紙が水に潤《うる》けるあいだ、吉原のチョンチョン格子などへ安女郎をからかいに行く。女郎買じゃない、ひまつぶしなのだ。このことから、買いもしないで買うふりをすることを「ひやかす」と言うようになった。  漉返しの紙は、還魂紙《かんごんし》とも言った。使用済になった紙に、もう一度、生命を与えてこの世に役立つよう蘇生させるからだが、いまなら「再生」というのを「還魂」とは江戸人のほうが含蓄ある言葉をつかっている。  この浅草紙、年配の人なら覚えているだろう。トイレット・ペーパーが普及するまでは、ひろく使われた便所紙だった。 「みす紙」のような高級品は、あのあと遊女が紅唇で何枚かはさみ取り、客と自分のあと始末をする。この紅唇で取るしぐさが色っぽい遊里の風情なのだが、浅草紙となれば色は鼠いろ、紙質は厚手でガサガサしていて、まことに無様《ぶざま》なもの。それを若旦那か、近所の若い衆か知らないが口説かれた山出しの下女、遊女気取りでちり紙をとる可笑しな情景が江戸の川柳にある。   おきやがれ(よしゃがれの江戸語)    下女浅草を 口で取り  反古紙を漉き返すことは平安朝末頃かららしく、書き損じの紙など漉返したので墨の色がうすく残ったため、「薄墨紙」などとよばれていたようだ。  話を雪隠にもどそう。こういう下女が下男などと密会をするときは、夜中にそっと惣後架で落合うことになる。   心待ち 下女出次第に 垂れている  どうも汚ないデイトだが、そのうち相手の男がやって来ると、せまい便所の中で押っつけあってフン闘数十合。   踏み板が はずれて二人 どさり落ち  まことにウンの悪いチン事もあった。  ところで、糞壺へ集団で落ちた話が、江戸幕府の佐渡奉行、勘定奉行、町奉行を歴任した根岸肥前守|鎮衛《やすもり》(文化十二年・一八一五歿)が世上の話を書きとめた『耳嚢《みみぶくろ》』にある。 「文化四年の夏秋の事なり、鍋島十之助家来に川島何某とて小兵なる男ありし。友どち打連て浅草観音へ詣で、そこここ遊びあるきしに、並木の茶屋にて支度などなしけるが、酒飲の少し酔興にもありけん、厠へ至りしに町裏の厠は板を渡して厳重ならず、しかるにかの男、鼻紙袋をあやまって糞坪の内へ取落しけるが、印形書付もあり、金子も南鐐(安永南鐐・二朱に通用の銀銭・一両の八分の一)にて七片ありしゆえ、なにとぞ取り出さんと百計(くふう)なしぬれど取り得ざれば、ひそかに衣類を片脇へぬぎて丸裸になり、糞坪の内へ入りて、かれこれせしうちに、何か踏みわりし音なしければ、さてはここならんといよいよ足にてさぐりけるに、この折ふし往来の女両三人、これもかの茶屋に寄りて小用(小便)たさんと、人の居るとはしらで彼《か》の用場(厠)へ至り戸を開けしに、何か(誰やら)糞坪の中より(にゅっと)手を出しけるゆゑ、わつと言つて気絶して、これも糞坪へ落ちいりしゆゑ、右物音に驚き家内、連れの者も一同立ち集り、やうやく引出して洗い清めけるが、其辺一統の物笑ひなりしとかや」  思う壺ならぬ、思わぬ壺にはまった糞まみれの男女ふたりの姿のおかしさをどうか汲取ってもらいたい。  現代では立派な有料便所まで出来て、どこの駅だったか、藤の間とか、菊の間とか、なんだか温泉旅館みたいな部屋別の豪華なのがあるそうな。  しかし、菊の間とはよく名付けたものよ。ケツのアナは四十八ヒダの菊の花だ。オカマをすることを「菊花を契る」という古語もある。  またケツのアナを美称して「後庭花《こうていか》」とも言った。たしかに裏庭に咲いている花だよナ。  唐の杜牧《とぼく》(八〇三—八五三)という人の詩に、   烟《けむり》は寒水を籠《こ》め 月は沙《すな》を噛む   夜 秦淮《しんわい》に泊して 酒家に近し   商女は知らず 亡国の恨み   江を隔《へだ》ててなお唱《うた》う 後庭花  というのがあるが、この後庭花というのは当時流行した歌謡の題名で、陳の叔宝という王が美女を集めた後宮《こうきゆう》に入りびたりながら、作曲した歌だという。歌と女に溺れてついに隋《ずい》に亡ぼされたが、幽霊になって出てまたうたったという話が伝えられている。べつにケツのアナとは関係ないが、この歌、正しくは「玉樹後庭花」というから、字ヅラから見ると玉と巨木が後庭花へのしかかっている感じでチト気になる。  さてその菊の花についていえば『阿奈遠可志《あなおかし》』に、昔、なにがしかの院に宮仕えしていた女、忍び男が心変りをして寄りつかなくなったのを怨んで、歌を詠んだ。   女郎花《おみなえし》 なまめく野べを よそにして    菊に こころや 移ろひぬらん  おおかたオカマにでも熱中しているんでしょうよ——という皮肉なのだ。  それに「藤の間」とは何だ。上からウンコの下《さが》り藤ではないか。  この有料便所、実は江戸時代にもあった。これを貸し雪隠という。  京都の心学者《しんがくしや》 柴田|鳩翁《きゆうおう》(天保十年・一八三九歿)の『鳩翁道話』に、花見客を相手に貸し雪隠を開業した男の話がある。  花見に美々しく着飾った女たちは、いくら出ものはれもの所きらわずとは言いながら、群衆で賑わう場所で尻をまくれない。  そこを見込んで、雪隠をつくり、手水鉢《ちようずばち》をおいて、墨くろぐろと、「貸し雪隠 一人につき三文」と看板をあげたところ、押すな押すなの繁昌。何しろ金を取った上に、肥料が溜る。それがまた売れて金になる。たちまち大儲けをした。  これを見ていた近所の男、おれも貸し雪隠をつくって儲けてやろう、だがいくら雪隠とはいえ、うす汚ない小屋では客も気分が悪かろう。こっちはひとつ凝りにこって茶室風の立派なのをつくろうと、随分な金をかけて贅沢な普請の便所を建てた。  勿論、そうなると三文で貸すわけにはいかない。八文と値を定めた。  ところが、とんと客が来ない。客にしてみれば八文も支払わなくても、三文の雪隠で用はたりる。  金はかけた、客は来ないで、女房にボヤかれた男。何を思ったかある朝、「おいかかあ 今日は沢山の客が来るぞ 驚くな」と言い残し、弁当を首へくくりつけて、勇んでどこかへ出かけて行った。  なるほど、その日から引きもきらず客が押掛けてくる。たちまち糞壺は満配。いそいで汲み出しては、また客を入れる。  女房はキリキリ舞いをしながら、「それにしても この忙しい中を うちの亭主はどこをうろつき歩いているのやら」と中ッ腹でいると、夕方になってやっと男が帰ってきた。 「アンタ 一体どこへ行っていなさった」と、女房が問えば、亭主、腰をさすりながら、 「ああ おれは三文の貸し雪隠に入って 一日中 しゃがんでいた」  この咄の後日譚みたいなのが、万治二年(一六五九)の『百物語』にある。  商売仇に一日中、雪隠の中へしゃがまれて、大損した男、「あいつはまた明日も来るにちがいない」と、夜のうちに雪隠の踏み板をずらせておいた。  それと知らない相手は、「かかあ、今日も客が大入りだぞ」と、また弁当を首にゆわえ、テキの雪隠を占領すべく出かけたはいいが、雪隠に入った途端、仕かけた踏板がはずれてドボン。  糞まみれになって、ほうほうの態で家に逃げ帰った。  女房、これを見て、「まあ なんと汚ないこと それもこれも お前さんが悪知恵をはたらかした罰ですよ」というと、  男、両方の袂から、糞を取り出し、 「なんの なんの 失敗してもただでは戻らぬ それ この通り 洗濯賃ぐらいの糞は持ってきた」     便所の爆発  有料便所も共同便所の高級化にすぎないが、地方の町などまだまだ水洗化されていないから、とんでもない悲喜劇が起きる。  先年、茨城県八千代町のガソリン・スタンドの汲み取り式便所が、突然、爆発した。  給油に立寄った、ある若い女性がトイレを借りて戸を閉めた途端、ボーンという大音響と共に、その女性が腰から下、スッポンポンで便所から転げ出た。  顔や手足に全治三週間の火傷を負った彼女の話によると、 「ジーパンに手をかけた瞬間、腹部が急に熱くなって、ボーンと爆発した」と言う。  奇怪な事件に所轄の下妻署は県警の応援を得て調査したところ、  彼女が着ていたナイロンのカーデガンと、肌着から起きた静電気が、便所内に充満したメタンガスと接触して起きた爆発、と判明した。間違っても、煙草などくわえて汲み取り便所へ入るなよナ。  まだある。ある男が公衆便所で用便中にタバコを一服、ポイと吸殻を捨てたら、ツボに揮発性の消毒薬を撒いた直後で、ネズミ花火みたいに隣のツボから隣のツボへと、シューッと火が走った。  驚いたのは、隣でズロースをさげていた娘。そのまま表へ飛び出して……これも先ごろ富山県にあった実話だ。  昔の大名の便所など、すでに汲取り式じゃない。  猫みたいに下に砂を敷いた砂雪隠《すなせつちん》とか、下に抽き出し式の箱を置いて、用が済むと女中が洗う式のものだった。  奥方も若殿も姫も、それぞれ専用の便所を持っていて、たとえば入口には家紋が入った漆の手洗桶が置いてあり、便所に入るとまず二畳敷の畳の間、そこの戸棚には絹のふんどし、女なら腰巻、足袋など、しかもこちとら庶民とちがって洗濯したものじゃない。マッサラのものだ。それを便所へ出入りの都度、取り換える。  さて便所は、二畳の広さで、香炉からは名香の煙がうっすらと立ちのぼり、金蒔絵の絢爛たる便器にうちまたがって、おイキミ遊ばされる。  秀吉の彼女の淀君なんざ、黄金づくりの便器だったという。  終るとテメエで尻なんか拭かない。お姫さまでも尻をおっ立てる。そこを御付の女中がお拭き申し上げるてな寸法だ。  将軍家の姫君など、お小水を遊ばされると、はじめキシュー(紀州)で、中ばビシュー(尾州)で、おわりはミトミト(水戸)と、御三家勢揃いの音がしたという。  近頃、将軍家にあやかりたいのか、身の程も忘れて便所に花を活けて悦に入ってるヤツがいる。鼻がつかえるような狭い便所で、どんなカッコウで花をながめる気だ。ハナモチならねえとはこのことだ。  千利休邸の露路の朝顔が見事と聞いて、ある朝、豊臣秀吉が訪れた。さぞや垣根いっぱいに色とりどりの朝顔が咲き競っているだろうと思って来た秀吉は、どこにも朝顔の花が見あたらないのが不審だった。  さて茶室へ入ると床の間に、たった一輪の朝顔が活けてあった。利休は早朝、露路の朝顔の花を全部摘み取ってしまい、ただ一輪の花に美意識を凝縮させて客を迎えたのだ。  便所に花を活けてるダンナ、この話をチト教訓にしろやい。     風 林 火 山  ところで風林火山の武田信玄は、しゃがまないと作戦が練れなかったという。  天正三年(一五七五)に武田の部将、高坂昌信《こうざかまさのぶ》が書いた軍学書『甲陽軍鑑《こうようぐんかん》』には、 「信玄公は便所を京間、六畳敷のひろさにして畳を敷き、椽《えん》の下を通して風呂の流し水を引き水洗にした。香炉を置き沈香《じんこう》を燻《く》べ、家臣二人が付添って書類の決裁などを便所の中でした。  信玄はまた、便所のことを〈山〉と呼んだので、家臣共はそれにならって便所のことを〈甲州各山〉つまり〈甲斐の山々〉などと言ったけれど、どういうわけで信玄が便所のことを〈山〉というのか意味が判らなかった。  数年たったある日、曽弥与市助なる侍、山とは〈登れば下る〉ではないかと言い出し、また日向藤九郎は〈におうてくだる〉つまり杣人《そまびと》のように薪《たきぎ》など荷を背負って山を下る、ではないかと言い、長坂源五郎は〈くさきが絶えぬ〉で、山におい茂る草木と臭きをかけた意味であろうと話し合ったが、結局誰もほんとうは判らなかった」というような話が書いてある。  してみると、有名な武田節の、   ※[#歌記号]甲斐の山々 陽に映えて    われ出陣に 憂いなし  というあの歌は、※[#歌記号]甲斐の山々 屁に映えてー と便所でスカッとしてから、勇躍出陣する意味が隠されているのではないかと、オレは考えちゃう。 「大工の昼ぐそ、女郎の夜ぐそ」と昔は言った。仕事に精出すべき大事な時間に糞を垂れにゆく人間は、「きまり」をつけられないクズ人間だというわけだが、戦場を疾駆する武士の世界ではまた「早飯、早糞、芸の内」といわれた。  今でも会社へ来てから、便所へ入ってなかなか出てこない人間は、絶対に武士の血を引いたヤツじゃないし、出世も覚束ないぞ。  信玄の変幻自在な戦略のウン用は、便所の中から生れたことは、なにも甲陽軍鑑に拠らずとも、かの、 「疾《と》きこと風の如く—徐《しずか》なること林の如し—侵掠《しんりやく》すること火の如く—動かざること山の如し」  という、中国の孫子《そんし》の兵書の語を旗印としていたことでもわかるではないか。  つまり、「疾きこと風の如く」大いそぎで便所に飛び込み、しゃがめば「徐なること林の如く」で、まあ時にはエヘンなど咳ばらいが聞こえるくらいで、あとはシーン。やがて、「侵掠すること火の如く」顔を真赤にしてリキみ、敵陣目がけて尻の間から長槍の腹(伏)兵を矢つぎ早に繰り出す。やがて、「動かざること山の如き」大糞を尻目に悠々と戦場を撤退する。  なッ、これが武田流軍学の便法だ。  戦国時代を過ぎて天下泰平の江戸時代になると、武士にもずいぶん臆病なのが現われる。夜中に便所に行きたいが、恐くて一人では行けない武士。妻をゆり起こして付き添ってもらう。さて、便所に入ったものの、やっぱり恐くて仕方がない。妻は本当に戸のそとで待っててくれるのだろうか、と不安そうに声をかけた。 「コレ 居るか」 「ハイ ここに居ります」 「そなたは おそろしうはないか」 「べつに おそろしいことはございませぬ」  しゃがんで、ふるえてた武士、感心して、 「フーム さすがは武士の妻じゃ」  源頼朝の寵臣、梶原景時は「生得奸侫《しようとくかんねい》にして弁口にあり」と言われ、義経も、また畠山重忠も彼の讒言《ざんげん》によって滅びたという。  頼朝が死ぬと、「虎の威をかる狐」の景時に対し、鎌倉幕府の重臣たちの憎しみは極度に達し、ついに景時は追討される運命に立ち到る。  正治二年(一二〇〇)正月十九日。景時は京都へのぼって勢力を盛りかえそうと、長男の源太景季はじめ七人の子息と郎党合せて三十余騎、所領の相模一宮を出発したが、途中、現在の清水市付近で、宿怨を持つ地侍たちに襲われて、牛が谷山(いまは梶原山という)に立籠ったが、ことごとく討たれてしまった。その時、景時の一行の中に、景時に取り入って出世した安房判官代隆重《あわほうがんだいたかしげ》という武士がいた。  臆病な彼は、戦いがはじまると逸早く付近の松の大木によじのぼって身を隠し、景時一族全滅のさまをふるえながら眺めていた。  やがて松の木の下では地侍や、景時を討つため鎌倉から追ってきた武士らが首実検などはじめる。  早く立去ってくれれば隆重の逃げるチャンスはあるのだが、二十日の夜から戦いがはじまり、二十一日の昼すぎても、相手は引揚げる様子もない。寒さと飢えで隆重は生きた心地もなかったが、その上悪いことに小便をしたくなった。  咋夜来の冷えこみのせいか、こらえきれなくなってしまった。  松の木の下で、討手の糟谷兵衛尉の家来が休んでいると、パラパラと雨が降ってきた。だがこの家来、なにやら雨に変な匂いがあることに気づいて、ふと松の梢をふり仰ぐと、どうも人間らしき影が見える。  そこで家来は、そ知らぬふりをして、そっと主人の糟谷兵衛尉に耳うち、討手一同引揚げと見せて、五人ほどの郎党が木蔭にかくれていると、ヤレヤレとばかり隆重が木からおりてきた。 「捕えられた隆重は〈寒気きびしい中を松の木に隠れて堪えぬいた立派さを思えば、人に小便をかけた無礼など軽いもの〉と討手にあざけられながら、鎌倉へ引かれて首をはねられた」と『家康と女と合戦と』(漆畑弥一)には『鎌倉見聞志』の原文を引用し詳しく書いている。  松の木の蝉なら小便ひっかけて逃げられたろうに、蝉ならぬ人間のかなしさ、小便が命取りになった人はこの隆重ぐらいかも知れない。  どだい、人間の文明は便所から臭気のごとく発生したもので、便所は人智の泉だといえる。   雪隠で 出る分別は 屁のごとし  などと、知恵と言ったって、からっ尻《けつ》みたいな知恵という意見もあろうが、便所で考えついたアイデアで事業に成功した人は少なくない。  新聞を持って入るのも、メモを持って入るのも、なかには便所に黒板をぶらさげるのも、天来の啓示を方三尺の小宇宙に求めるためで、水平思考とは、しゃがんだ姿勢から名づけられたとオレは理解している。  こんな咄がある。 「便所を考所《かんじよ》(閑所のあて字)というのは どうしたわけだ」 「あれは 第一 気が散らないから よい分別が出る それで考所というのだ」  なるほどと思った男、考所へ入ったが、いっこう戻ってこない。案じた友達が、 「どうだ 良い分別は出たか」と戸をたたくと、中から、 「|ふん《ヽヽ》は出たが |べつ《ヽヽ》がまだ出ない」  ともかくロダンの名作の「考える人」の像なんざウンチング・スタイルではないか。あれは排泄から思索が昇華する宇宙を表現しているのだと思う。  古来から、「馬上、厠上《しじよう》、枕上《ちんじよう》」と言って、ゆらりゆらりと馬に揺られて行くときや、便所の中、そして夜半にふと目覚めたときに名案が浮かぶのは、精神がリラックスした状態だからだろう。  さて、その便所にお化けが出るというので、今は亡き喜劇王、榎本健一ことエノケンが、勇んで退治に出かけた話を、何かの雑誌に永六輔さんが書いていた。  まあ、ざっとこんな話だ。  熱海のさる旅館の便所に夜な夜なお化けが出るという噂が立ち、客足が途絶えてしまった。そこでエノケンが、よせばいいのにお化け退治を買って出た。  喜んだのは旅館、有名人にお化けなど出なかったと証言してもらえば宣伝効果は大きいから、エノケンを招待して大宴会。その挙句まだ売春防止法なんてヤボなものが無かった頃だから、エノケンは若い芸者を抱いて、お化けが出るという時刻まで、枕を並べて一寝入り。  やがてウシミツの頃、エノケンは起き上り問題の便所にしゃがんで、お化けを待ちうけていると、誰やら下からぐいぐいとオチンチンを引張るヤツがいる。  びっくりしたのはエノケン。真っ青になって、「お化けが出たア……」と、ひょいと股間をのぞくと、オチンチンが引っ張られるワケだ。  コンドームをはめたまま、オシッコをしていた。     名 妓 の 屁  高尚な文学の話にもどそう。  天和二年(一六八二)十月、井原西鶴の著作『好色一代男』に、江戸吉原の名妓、吉田太夫の話がある。 「京の女郎に江戸の張《はり》をもたせ 大坂の揚屋であはば 此上何か有べし ここに吉原の名物 よし田といへる口舌《くぜつ》の上手《じようず》あり 風義《ふうぎ》は一文字屋の金太夫に見増べし 手は野風(大坂屋の野風太夫)ほど書いて しかも歌道はこころざし深し あるとき飛入《ひにゆう》(島田飛入)といへる俳諧師   涼しさや 夕《ゆうべ》よし田の 座敷つき  と 有るに   螢 飛入《とびいる》 わが床《とこ》のうち  と 即座に 脇(脇句) これにかぎらず毎度聞ふれし事ぞかし 一ふし うたふて引て 自然とこの勤めにそなはりし女なり 万《よろず》かしこきことおもひの外《ほか》也」  つまり、容貌は美女のほまれ高い一文字屋の金太夫にも見劣りはしない。また書道は名手といわれた野風太夫ぐらいに書き、しかも和歌、俳句に長じていた。  飛入という俳人が、よし田という妓名を句に読みこんで、「いとも涼しげに、見えるのは、夏の宵の吉田太夫のお座敷での立居振舞だ」と詠んだところ、すかさずそれへ脇句をつけて、相手の飛入の名前を読みこみ、 「涼しげな夏の風情とは、私が寝ている青い蚊帳に飛んできた仄《ほの》かな螢の火でございます」  と受けた即妙さ。吉田太夫をつたえるこうした才女ぶりの話は沢山あると、西鶴はいう。  この脇句の解釈はさらに、「そして、私をお名指し下さいました飛入さまのお遊びぶりのすがすがしさでございます」と考えてもよさそうだ。  この吉田を山の手のある大尽(世之介)が贔屓《ひいき》にした。  はじめは好きな客ではなかったが、贔屓にこたえ他の客を断り、誓紙血判など交しているうち、だんだん本物の情愛になり、その男をしん底、愛するようになった。  ところが浮気な男は、ほかに好きな遊女を見染め、そのため吉田と手を切ろうと思うが、吉田には何一つ落度がなく、手切れの口実が見つからない。  ある日、「今日こそは何か因縁をつけて、手を切るぞ」と意気込んで、小柄屋《こづかや》小兵衛という太鼓持を供に引連れ揚屋へ乗り込んだ。  早速、吉田に横車を押してみたものの、りこうな吉田は柳に風と受け流してしまう。  男はやけくそから乱酔して、座敷を踊り狂っているうち、燗鍋《かんなべ》を蹴とばし、酒はさざ波のように座敷にひろがり、まことにぶざまな有様となった。  小兵衛が慌てて鼻紙で酒の流れを止めようとしたが、そんなものくらいではどうにもならない。  酒は吉田の豪華な裲襠《うちかけ》の裾近くに迫る。その時、吉田に付添っていた禿《かむろ》(太夫に付添う少女)が、自分の着物を取って素早く酒を浸み取らせて外へ捨てた。  さすが日頃吉田に仕込まれている子よの——と、一座は感心したという。  また吉田も酒が裾を浸そうとするのに、泰然自若として座っていた。高価な衣裳を惜しんで、座を逃げれば、吉原の名花にあるまじき貧乏根性よ、あれが太夫か、と貫禄を云々される。  ここが吉田の性根、太夫の格式の見せ場でもあった。ところが、そのあとがまずかった。  花の蕾もほんのりとほころぶ夕暮れ時、太夫は厠へ立とうとして廊下をゆく途中、プッと、うっかり屁を洩らした。  この音を聞いた大尽、よろこんで、 「これはよい言いがかりが出来た。太夫が座敷に戻って来たら、座敷が臭うて、もはやここには居られぬと言うてやろうわい。いやいやそれとも太鼓持と二人で鼻をつまんで不機嫌な顔でもしていようか。太夫が、どうかしましたかとたずねたらこっちの勝。今日はよい匂いを頂戴いたしまして身に余るしあわせ、と皮肉ってやろうぞ」と、太夫が戻ってくるのを待っていたが、なかなか戻って来ない。 「それも道理じゃ。あんな粗相をしてはとてもここへ顔出しなど出来まい」と、大笑するうち、廊下のかなたから、すっかり衣裳を着換えた太夫が桜の花の一枝を手にしずしずと戻って来たが、先ほどプッと洩したあたりの廊下の板敷をそっと注意しながら踏んでみて、それから畳を踏む足にも気を配るようにしながら部屋に入った。  さて、こうなると男の自信はぐらつく。 「はて、もしやあの音は、板敷が軋《きし》んだ音であったかも……」  うかつに太夫に物を言えなくなって、男は廊下へ出てゆき、いろいろ踏んでみたがミシッともしない。  そんなことで、考えていた悪口も出鼻をくじかれて言い出せぬところへ、吉田は男の前にぴたりと座り、 「この間からのあなたの態度、どうも私は腑に落ちませぬ。初めてお逢いしたときあなたは、お前に飽かれるまで、わしの心は変らぬと誓言《せいごん》なさいました。そのとおり私は今日限りあなたに飽き果てました故、ふたたびお目にはかかりませぬ」と言いすてて、しずかに座敷を出ていった。  見事な大逆転であった。  小咄に、来客の前でうっかり屁を洩した男、いまのは屁ではございませんとばかり、モジモジ尻で椅子の皮をこすったり、きしませたり、失態を何とかゴマかそうと苦心していると、来客が一膝乗りだして、 「やっぱり、最初のが一番そっくりです」  吉田太夫の話に一脈通ずるが、通人通客はたとえ遊女が屁をしても気付かぬふりをするか、もし一座の誰かが騒いでも、この場合なら板敷のせいにして笑いすますのが当り前。吉田も、「もし悪口、皮肉を言われたら、もっと気のきいた物の言い様がございましょう。それを知らないお前さま方は、廓にお通いになる客の器量ではございませぬ」と、切りかえすつもりだったが、 「こっちに、はぐらかされて相手は物が言えなくなり、ほんにおかしうごさいました。たしかに、私が屁を洩したこと相違ございません」と廓の誰彼にありのまま打明けたけれど、吉田を悪く言うものは無く、かえってその才気に感心する一方、男も太鼓持も廓中にその意地悪さを憎まれて、男が見染めた他楼の太夫さえ、それを聞いて逢うことをきらってしまったという。  これが吉田太夫屁物語。つまり西鶴の好色一代男の中の「匂ひはかづけ物」の顛末だ。  遊女の屁の話は小咄に多いが、色香を売る商売に屁は興ざまし。だが艶っぽい世界に突如として発生するとんまな屁だから、それがいっそうおかしいのだろう。  姉女郎が妹分の女郎に、屁が出そうなとき無理にこらえていると、こんどは|おくび《ヽヽヽ》になって出るもの。だから屁が出そうなときは、紙をよく揉んでうしろに手を廻し、屁が出たところをすかさず紙でつつんでそっと袂に入れ、あとで捨てればよい、と教えた。妹女郎承知して、あるお座敷に出たとき、この秘伝通りにうまく屁を紙につつんだ。が、さてその紙を窓から投げたところ、手もとが狂って格子に当たり、紙がつぶれて「プウ……」なんて小咄もある。  寛文八年(一六六八)五月、うろこ屋加兵衛という書肆《しよし》から板行された遊女評判記、つまり今でいうスター評判記の『吉原よぶこ鳥』(天理図書館蔵)には、 「よし田 かぶろ さん やりて くら 角町 玄舟 内 顔うすかわにて なるほどしろく 目もとしほらしく うつくし ちと かいだれたる(おっとりと、けだるい)ともいわんか あまり目もとうつくし過て しほらしさのまま ちと うれいがましくみゆるが 難なるべし 口ちいさく これもうつくし それゆへ わっさり(さっぱり)とせず なるほどなるほど じんじゃうなるうまれにて うつくしきゆへに 人ずきあまりせぬ成べし ものいひ こわ色 聞よし 心もよし 御名もよし田さま也」(小野晋・近世初期遊女評判記集・本文篇)  と 愁いをふくみ おとなし気な中に冴え冴えとした美貌のほどを伝えている。  また、一本の延宝三年(一六七五)刊の『吉原大ざっしょ』には、彼女を、 「しただるき(甘っちょろい)こと きらひなるは いにしへの御の字の流れなり 心しやんとして よし田の君也」  と書いてあり、ここまではいいのだが、 「尻くせあしきとて みな用心をなす事 はさみむしの君かや」  と、やっぱり屁の君であったことが証明されている。  つづいて「よく振る」と、かなり客の選り好みが強かったらしく「また たる次どのと さた(沙汰)す」とあって大酒飲みであったようだ。 「たる次」とは、この時代のすこし前、慶安元年(一六四八)の八月三日、  地黄坊樽次《じおうぼうたるつぐ》こと、酒井|雅楽頭《うたのかみ》の侍医、茨木春朔《いばらぎしゆんさく》が酒飲み仲間を率い、これまた大蛇《おろち》丸底深《まるそこふか》と名乗る池上の郷士、池上太郎左衛門という酒豪がひきいる一党と、川崎の大師川原で壮絶な酒合戦をやった。東軍は樽次を総大将に武州、蕨の住人、半角坊数呑、相州平塚の来見坊樽持、江戸浅草の木下杢兵衛尉飯嫌、川崎南河原の斉藤伝左衛門忠呑ら総勢十七名。  西軍は底深を総大将に、藪下勘解由早呑、朝腹九郎左衛門桶呑ら、十五名で、両軍は、それぞれの陣営に酒樽を並べ、敵側の酒樽を大盃で飲み取ってゆくのだ。  乱戦の果、次第に討死が多くなり、川原のそこここに酔いつぶれが続出する頃、地黄坊樽次は敵の大将、大蛇丸底深に決戦を挑み、七合入りの蜂龍《ほうりゆう》の大盃を間に、大将同士の戦が展開されたが、やがて大蛇丸のほうが先に参ってしまった。  そこで、地黄坊が、「池上に住める大蛇《おろち》と聞きぬれど……」と歌を詠み掛けると、 「酒呑む口は 小蛇なりけり」と大蛇丸が下の句を承けて、バッタリ倒れてしまい、地黄坊もまたそれへ折り重なるように酔いつぶれてしまった——という有名な話があり、解説が長くなったが吉田太夫を「たる次どの」と評したのは、この酒合戦の総大将の名になぞらえたのだ。  しかし吉田太夫ほどの美女の屁なら、オレはよろこんで嗅いでみたい。  なぜなら屁のにおいの成分、スカトールはごく微量だと、素晴しい芳香に変るのだそうだ。麝香鹿《じやこうじか》の下腹部の包皮腺からとる香水の麝香だって、生《き》のままなら気絶するような悪臭なのだそうな。  官能的な匂いといわれる龍涎香《りゆうぜんこう》(アンバー)だって、実は抹香鯨の糞なのだ。オナメラはそれを無水アルコールでうすめた液をシュッシュッとドレスにふきかけ、オレたちを誘惑しようと余念がない。考えてみりゃ汚ねえ話だよな。それに誰もがいやがる腋臭《わきが》でさえごくかすかな匂いなら性的な芳香にかわる。  吉田太夫の屁はスカトールがごく微量で馥郁たる芳香であったと、オレは信じて疑わない。  だが美女の屁はともかく、ヤロウの糞となっては救いようがない。  オレの悪友が、ホテルのパーティでバラの花を一輪もらい、トイレの中で花びらの奥深くてめえのウンコのかけらを一つ忍ばせて、銀座のクラブへ立寄った。 「アーラ いらっしゃい まあ きれいなバラ……」  かけ寄った彼女、よせばいいのに、 「この花 私に頂戴ねッ ワーア いい香りだこと……」  とか何とか、言っちゃって、スーッと嗅いだからたまらない。 「ウーン」てえんで、白眼をむいてヒックリかえっちゃった。 [#改ページ]   珍説・毛ものがたり     ハゲは文明人の証明である  ハゲを笑うヤツは、猿が人間を見て軽蔑するようなもので、救いようのない無知である。人類の歴史とは脱毛の歴史なのだ。住居をつくり、衣服を織り、火を発見し、言葉を操った人類は何十万年かの間に、ゴリラやチンパンジーと決定的な差をつけた。  人類は脱毛という進化と共に発達してきたのだ。  世界的な皮膚医学の権威者、ドイツのホフマン博士は、神経系統の中心である脳髄が発達するほど頭髪は微弱になる。つまり頭をつかうほど人間はハゲる。ことに近来、文明社会の高度の発達はますますそれに拍車をかけ、やがて人類は無毛の時代に入るであろうと言っている。  情報化時代とかで神経をつかう人間が激増している今日、それでは日本にはハゲ人口がどのくらいいるかというと、程度の差こそあれ日本人の人口の一割、つまり一千万人余で、しかも年々三〇%ぐらいは着実に増えておりますというのが、男性用カツラ・メーカーの話で、十年先か二十年先か、ともかくやがて一億総ハゲの時代が来るという。  アデランスとか、アートネイチャーとか、数社の男性カツラ・メーカーが莫大な広告費をかけて、新聞、雑誌、テレビなどで宣伝を競っているが、よほど需要が多くなければ採算はとれまいから、総ハゲ時代に進みつつあることは事実だろう。  職業では医者、弁護士、営業マンなど神経を酷使する職業に多いそうな。  だからカツラ・メーカーは大繁昌、莫大な宣伝費をジャンジャンかけても商売はなり立つのだ。  きっとこれからは、「人を見たらハゲと思え」という時代になる。  ここに面白い医学の実験がある。サルの頭の皮を一部分切り取って縫いちぢめる。つまり頭皮がピーンと張った状態にすると、毛がどんどん抜けはじめる。これをゆるめてやると脱毛が止って新しい毛が生えてくる。中味が発達してくると、ピーンとなって頭皮の下にある血管をしめつけ、育毛を妨げる状態になるのだ。いいかね、中味が少なくて頭の皮のたるんでるヤツにハゲはない。  いい年をして髪の毛がフサフサしてるヤツなど、猿知恵くらいの知能しかもっていないことになるのだ。  まさにハゲとは、高度の文明人の象徴なのだ。ケモノとかケダモノとは毛のある動物をいうのだぞ。  それなら髭や、アソコの毛なども文明の進化によって無毛になる時代がくるか、との疑問もあろうが、あれは脳髄の発育と全く関係ない。  な、だからハゲをあざ笑うヤカラは、猿からまだいくらも進歩してない哀れな連中なのだ、ということになる。     十三ぱっかり 毛十六  毛といえば世の紳士諸公はすぐアノ毛を連想する。それもだ、きまって女性のソレであり、例外なしに娘っ子から色年増あたりまでが対象。間違っても八十婆さんのソレなど連想しない。  学校で習ったわけでもないのにな。そこでまず、その話からはじめよう。  現代っ子は早や小学生のうちから生えはじめるというが、昔は数え十六の御年と決っていた。  江戸の川柳に、   十三と 十六ただの 年でなし   時候たがえず 十六の 春に生え   初物が 十六本ほど 生えるなり  十三とは江戸の俚諺「十三ぱっかり 毛十六」からきたものだ。「十三ぱっかり」には両説あって、一つは数え十三歳になると初潮がある。ワレメちゃんが傷口のようにパッカリと割れて血が出るから——という説だ。もう一つの説は、ワレメが成熟してパッカリと口をひらくという説だ。「パッカリと おいどのひらく お十三」と尻つきが女っぽくなるとの見方もある。   十三で 姫はお馬に 乗り習い  お馬とは月経のこと。昔はいろいろな呼び方があって、月役《つきやく》、手綱《たづな》、お客、用事、差合い、行水《ぎようずい》、込玉《こめだま》、含み紙、詰紙、さわり、汚《けが》れ、手無し、他屋《たや》、別火《べつか》、猿猴《えんこう》などある。手綱は褌のように月経帯をかけるからだし、込玉、詰紙はタンポンのように紙玉をつめることだ。   込玉を してる女房 肘鉄砲 「手無し」は慶長三年(一五九八)の『お湯殿上日記』にもあるように、宮廷では官女は生理のときは、食膳はもとより一切の調度に手を触れることを禁じられていた。手があっても使うことができないから「手無し」なのだ。 「他屋」は、生理時、不浄小屋へ別居させ、また炊事も別にしたから「別火」なのだ。 「他屋」の風習はまた「月経」というもので屋根をつくった。江戸は嘉永六年(一八五三)喜田川|守貞《もりさだ》の『守貞漫稿』によれば、 「慶長中草ぶきを禁じ、板葺《いたぶき》とするものは蛎殼《かきがら》屋根といふものなるべし 昔は今の小舞貫《こまいぬき》なく月役《つきやく》というを用ふ 諸田舎にて婦女月経の間別居し 其《その》所為《せい》にこの割木を作る 長六尺幅一寸四分也 之《これ》のじ足(野地足)となし 其上を板葺とすること享保・延享以前皆然り 其板葺上にかき殻を圧《おし》とせしなり」  この記録中、小舞貫というのは檐《のき》の|※[#「木+垂」]《たるき》にわたす細い板(木舞《こまい》)のことで、土壁の下地にする竹を裂いて編んだ木舞とはちがう。  とにかく、女が他屋に入っている間に、割木を作り、これが「月やく」という屋根材になったことはたしかだ。江戸の大工、屋根の上から、「オーイ、月やくが足りねえぞ、早く持ってこい」なんて怒鳴ったのかも知れない。  むずかしいのは猿猴《えんこう》でエンコウとはエテ公(猿)のこと。ハハン、猿は尻が赤いからそれで月経にたとえたのか、などと思うのは下司のカングリだ。  昔の日本画には猿猴の図が少なくない。渓流に映る月影を取ろうと、猿が十匹あまり藤蔓のように手をつなぎ合い、先頭の猿が水月に手をのばしている図で、記憶があるひともあろうが、身のほどを知らない欲をいましめた「猿猴月を取る」の諺から由来している。篠田実の浪曲「紺屋高尾」のひとふし、   ※[#歌記号]水にうつりし 月の影    手にとれざると 知りながら……  ま、そういうわけで月水を「水月」とし、さらに猿猴のたとえから名づけたのだ。  月経の異名はまだある。月華《げつか》、月見、月のもの、月のさわり。  経水は赤いから赤玉、金魚、赤団子、日の丸、初午《はつうま》、花見、花《はな》七日《なのか》、初花、紅屋などとも言った。  オレたち仲間は、以前はよく温泉地へ遊びに行った。股旅会(また旅かい?)という名のグループだった。幹事がスケジュールを組むと、郵便ハガキに案内を印刷して会員に知らせる。なぜハガキかというと、ハガキだと自然、会員の女房たちの目にふれる。  単に「ちょっと熱海へ行ってくる」などと女房に言えば、あらぬ? 疑いをかけられるが、ハガキの文面は堂々たる野郎同士の懇親旅行だ。女房も安心して亭主をおくり出そうというもの。  だが、そこに男の智略がある。案内状の終りに一行「弁当持参のこと」とあるのだ。  これは銀座のホスちゃんでも、なんでも、テメエの彼女を必ず連れて来いという暗号なのだ。  ある友達の女房、これを見て、「まア幹事さんて大変ねえ。お弁当の心配までして……」と感じ入ったというくらいだから、まずこの暗号は女房族に解読されなかった。  サテ一行十余名、目的地の温泉宿に勢揃いしてみると、手ぶらのヤツが半数以上だ。  連れて来たくても、臨時の彼女すら調達できなかったヤツなのだ。  そこで、当時は売春防止法など無く、おネンネする若い妓がワンサといたし、宿でそれぞれ一部屋とってシケ込むことが出来たから、宴会によんだ芸者たちの中から、それぞれ気に入った妓を幹事が縁結びの役をつとめたもんだ。これをオレたちは「駅弁」と呼んだ。  翌朝はまた朝酒。昨夜の女をかたわらに引きつけて飲む酒は格別だが、ある時、仲間のひとりが冴えない顔でまずそうに酒盃を手にしていた。二日酔でもあろうかとそっと具合をきくと、そいつ、オレに耳打ちして、「おれのは日の丸弁当だったよ、クシュン……」  さて大宝律令《たいほうりつりよう》(七〇一)には、「凡《およ》そ 男 年十五 女十三以上 婚嫁を聴《ゆる》す」とあって、古く奈良朝時代から女子は十三歳で結婚できるとされていたから、初潮をもって女子の成熟のしるしと見るならば、古代より「十三歳初潮説」が成立していたと思われる。   十三と 十六ただの 年でなし  というのも、十三で初潮、十六で春草が芽ぶくという風に解釈すべきだろう。   十六で 娘は道具 揃いなり     八百屋お七に毛が生えた  元禄の文豪、井原西鶴の作(異説もある)とつたえられる『好色五人女』のうち、「恋草からげし八百や物語」をはじめ、歌に、芝居に、その名を知られた八百屋お七は十六歳で火刑になった。  当時の刑罰は十五歳までは刑を一段引きさげられる寛典があったが、十六歳になるとその恩恵はなかった。 「のぞき・からくり」などにうたわれた、   ※[#歌記号]火事は駒込 吉祥寺イ……十四といえば助かるにイ 十五と言ったばっかりにイ……  という俗謡は間違いだ。  お七はお奉行所のお白洲で、なんと言ったと思う。  江戸の川柳がこれを伝えている。   正直に お七生えたと 申し上げ  なッ、これで奉行はお七の年齢を十六歳と確信したのだ。   生えたので お七どうにも 許されず  八百屋お七の話も近頃はだんだん忘れられてゆくから、ここでそのあらましをちょっと話しておこう。  お七が十五歳の天和元年(一六八一)十一月二十八日のこと。江戸は本郷の丸山から出た火で、本郷追分にあった八百屋太郎兵衛の家も類焼した。  太郎兵衛は女房と娘のお七を連れて、駒込の円乗寺の門前に仮小屋を建てて避難した。  やがて、円乗寺の寺小姓、山田左兵衛と知り合い人目を忍ぶ仲となる。   耳のわき かきかきお七 そばへ寄り  いまの娘にこんな色っぽいしぐさはないが、耳のわきをはずかしそうに白魚のような小指の先でかきながら、もじもじと身体をにじらせて好きな男のそばへ寄って行く。  この可憐な恋も、逢う瀬がたび重なると、   卵塔《らんとう》は 藪蚊がくうと お七言い  卵塔とはここでは卵塔場《らんとうば》。つまり墓地のことで、人目忍んで夜更けて墓地の中でシコシコやるから蚊にくわれるのは当然。  ほどなく父親の太郎兵衛は元の所へ家を再建して円乗寺門前を引き払った。  さてそうなると、お七は恋しい左兵衛に逢うことが出来ない。  もういちどわが家が焼けたらまた逢えるようになろうかと、一途な娘ごころから、わが家に放火したが、ついに捕まってしまった。(天和二年正月二十七日という) 「お七の放火は天和二年十二月二十八日(一説に二十六日)駒込の大円寺から出火し、江戸の下町のほとんどを焼野原にした火事のことで、世上これをお七火事と呼んだというが、これは間違いで、お七はすでにその時は伝馬町の牢の中にあった」(江戸火消年代記・東京消防庁監修・藤口透吾)。  またお七の恋人の山田左兵衛について藤沢|衛彦《もりひこ》は、『|江戸紫 真実録《えどむらさきしんじつろく》』に拠って「寺小姓の前髪を落し、僧体になってお七の跡を追おうと自殺をはかったが周囲に止められ」また『近世江都著聞集』を引いて「彼が四十四歳のとき、幕府へ召され御納戸《おなんど》役。さらに御小姓頭になった。父は旗本で二千五百石取りの大身、山田十太夫で、左兵衛はその次男であった」(昭和二年六月・文芸市場・八百屋お七 二百五十年祭追善供養文献集)というが、幕府が寛政十一年(一七九九)から着手し文化九年(一八一二)に完成した、徳川幕府草創期からの諸大名、徳川家直参の諸士の系図をすべておさめた全一千五百三十巻に及ぶ『|寛政重 修諸家譜《かんせいちようしゆうしよかふ》』に左兵衛らしきものは見当らない。  父親なる山田十太夫については、「明暦三年六月二十五日、初めて厳有院殿(四代将軍家綱)に見《まみ》え奉る。時に十六歳。寛文七年七月五日遺跡を継ぐ。二千石を知行し、五百石を弟、監物重直に分ち与ふ。十一月二十一日、御書院番組頭に進み、十二月二十八日|布衣《ほい》を着する事ゆるさるる。天和二年四月二十一日上野国|邑楽《おうら》郡の内にて五百石の加増あり、すべて二千五百石を知行す。三年八月二十九日|御先鉄炮《おさきでつぽう》の頭に転じ、元禄十年正月十一日|御鎗《おやり》奉行に遷り、十五年四月十五日職を辞し、寄合《よりあい》に列す。十六年四月三日死す。年六十二、法名勇心。妻は久永源兵衛重行が女《むすめ》」とある。  そしてこの跡取りだが、「豊重——実は山田三郎左衛門利厚が長男。元禄六年九月朔日はじめて常憲院殿(五代将軍・綱吉)に拝謁す。時に十歳。のち重政が養子となり、その女《むすめ》を妻とす。十六年六月二十五日、遺跡を継ぐ云々——以下略」  と、親族の山田三郎左衛門から養子を迎えていて、ここにも実子の左兵衛の姿はない。  ただ山田諸家のうち、四百五十石取りの下級旗本に、お七が放火した半年後に養子として跡を継いだものがあり、御納戸頭などを勤め、享保四年に歿した人間がいて、重修諸家譜は、「実は某氏が男《むすこ》」と誰の子であったか出自を明らかにしていないのがある。重修諸家譜では本人の名も某とし、名は小兵衛と記されているが、先代がまた小兵衛だから、左兵衛が小兵衛を襲名しても不思議ではない。またこの人間のあとを継いだ政興《まさとも》なるものが名は左兵衛であるから、どうもここらあたりがくさいが、明確にはわからない。  その詮索はともかくとして、お七の事件の責任を感じて山田十太夫は、わが子を身分の低い遠縁の家へ養子にやり、代って養子を迎えたのだろうか。  また大身の旗本の子ゆえに、井原西鶴も左兵衛の実名を避けて、「吉三郎」なる人間を物語に登場させたのだろうか。  ちなみにお七の父親太郎兵衛は、西鶴の物語の中では八兵衛になっている。お七の親だから八兵衛か。悪いシャレだよな。  ところで、※[#歌記号]火事は駒込の吉祥寺……という「からくり唄」は俗説で、吉祥寺は曹洞宗であり宗旨がちがうからあやしい。  吉祥寺は武家寺であり、「太田道灌が江戸を築城するとき、土木工事をやっていたら〈吉祥増上〉という金印《きんいん》を掘りあてた。道灌はよろこんでこの金印を本尊として江戸城内に寺を建てた。さらに北条時代になって、城代の遠山氏が一寺をつくり諏訪山吉祥寺と号したが、天正年間に神田駿河台に移り、さらに明暦三年の江戸の大火に類焼して駒込へ移った」(石母田俊・江戸ッ子)という。  だから吉祥寺ではないが、いまお七の墓がある、文京区指ケ谷の円乗寺であるという証拠もまた無いのだ。  お七は宝永二年(一七〇五)紀海音がつくった「お七歌祭文」また、そのあとの「八百屋お七|恋緋桜《こいのひざくら》」そして今日もしばしば歌舞伎で上演される「伊達娘恋緋鹿子《だてむすめこいのひがのこ》」と、お七を偲ぶ演劇は根強い大衆の愛顧を得てつづいている。  花もはじらう十六の美少女が天和三年三月二十八日、裸馬に乗せられて鈴ケ森の刑場へと引かれてゆく哀艶な光景は、たちまち江戸の大評判となった。  江戸の記録が伝えるところによると、「桃色の裏がついた白羽二重の小袖。紫の二重帯《ふたえおび》をきりりと結び、金蒔絵の玳瑁《たいまい》(べっこう)の櫛を挿し、紅、白粉もあでやかだった」という。  裕福な八百屋の娘であったらしいから、親たちも娘の死出の晴着に心をこめたと見える。「それからの江戸に、ひとしきり其時の風に似せて、前髪に赤手拭をさげることが流行したという」(前出・藤沢衛彦)。  だが、お七のイメージをぶちこわすような記録もある。  医師、加藤曳尾庵が文政八年(一八二五)六十三歳まで書きつづけた『我衣《わがころも》』という見聞録には、 「お七は一体ふとり肉《じし》にして 少し疱瘡《ほうそう》の跡も有《あり》しといへり 色は白かりけれども よき女にてはなかりしと云へり」  これはお七の手習の師匠の高浦《こうほ》という坊さんの手記を伝えたものだ。  さて話をもどして、   めっきりと おいどのひらく お十三  で、娘も十三歳になると乳房もふくらみはじめ、尻(おいど)つきも女っぽくなってくる。当然、前のほうもパッカリ笑み割れるわけで、   初午に なる頃土手に 草が生え  早春二月、お稲荷さんの初午の頃になると、若草がどこやらに芽ぶく。赤い幟《のぼり》を立てた初午は初潮を象徴している。   十六の 春から稗《ひえ》を 蒔いたよう   月を見る 頃には芒《すすき》 土手に生え  稗の種から細い絹糸のような芽が出るのだから、十六とは生えはじめの年齢となり、ヘアと初潮は同時期ということになる。  そして、「十三で姫はお馬に乗り習い」も、十三初潮説ではなく、高貴の育ちで何の苦労もない姫だからこそ、あっちだけは発育よく、早くも十三で初潮をみたという揶揄の句だろう。  しかし、元文(一七三六—一七四〇)版『婦人療治手箱底《ふじんりようじてばこのそこ》』なる本には、「女十四になれば月水を見るものなり」(田中香涯・新史談・民話)とあって、これは十三歳初潮説で、またさっきのお七だが、彼女をうたった富本節の『|艶 容《ことかいな》|錦 《にしきの》画姿《えすがた》』(文政六年・一八二三・中村座初演)には、   ※[#歌記号]十一の書き初めに 恋という字を書き習い はや十三の正月に 月のさわりとなり……  と、早熟な娘としてお七をあつかっている。  初潮は、年齢と身長に深いかかわりがあり、今では四〇—五〇%の女の子が小学校四、五年ではじまるとは医者の話だが、その身長とは平均一四八センチになるとオッパじまるそうな。  しかし、これも社会の繁栄度と関係がありそうで、食生活が良好だと早くなる。だから県民一人あたりの所得が非常に低い県は、所得が多い県の娘より平均一年ほど遅れるという医学の統計(昭和前期のものだが)を見たことがある。  昭和十一年に出版された『月華物語』(医博・福井正憑著)なる本に、興味ある初潮の記録がある。  抄出すると、世界諸国の初潮平均年齢は、   エジプト  十年   インド   十一年十一カ月   北米    十四年五カ月   フランス  十五年二カ月   ドイツ   十五年七カ月   中国    十六年七カ月  日本では、   内地    十四年八カ月   琉球    十六年   台湾(当時は日本領だった)十六年二カ月  で、南国だから早いともいえないし、性的におおらかなヨーロッパが早いというわけでもない。  また、日本の時代別の初潮年齢は、   天保・弘化時代 十五年八カ月   嘉永・安政時代 十五年三カ月   万延・文久・元治・慶応時代 十五年一カ月   明治時代    十四年八カ月   大正時代    十四年四カ月  そして昭和前期のころは、   上級社会    十三年八カ月   中級社会    十四年五カ月   下級社会    十四年十カ月  で、「金持と貧乏人では、初潮の上にも、こんなに差がある。生活が豊かだと衣食住に贅沢で、放逸な生活を営むし、そうした親たちに感化されて、自然に色欲を誘って初潮が早くなる。  貧乏人社会はかろうじて其の日を暮らす境遇なので、滋味美食に恵まれず、快楽の見聞も少ないので、初潮がおそい。ただし、花街の子守っ娘《こ》などは風俗の紊《みだ》れた中にいるので十一、二歳から初潮を見るものがある」と説明している。  食糧事情が良く、見るもの聞くもの性的なものが多い今日、初潮が早くなるのは当然か。今や「十一ぱっかり 毛十三」だろうか。  とにかく、江戸後期から明治・大正・昭和と、ずんずん初潮の平均年齢は進んでいる。この分だと百年たたぬうちに、赤ん坊で初潮があるようになりそうだ。  この『月華物語』の統計で見るかぎり、   十三で 姫はお馬に 乗り習い  の川柳は、十三の初潮は江戸時代きわめて早い生理であって「十三ぱっかり」が初潮であるという説は影がうすくなる。     月 経 の 歌  初潮があると、江戸時代は親は赤飯を炊いて娘の成長を祝った。この風習はいまでも地方に残存すると聞く。これを「初花祝い」といった。だが、   初花に 煙草をつけて 大さわぎ  なんて事もあったらしい。  刻み煙草の粉は、当時、血止めの妙薬だったから、初潮にびっくり仰天した娘が、あわててつけちまったらしい。こりゃあ痛いよナ。 「初花」は初潮だが、「花七日」は初潮ではない。しかし優雅な名をつけたものだ。「けがれ」と忌まれた月経にも、昔の人はこうした美意識がはたらいたと感心する。 「紅屋」なんてえのもいい。   婚礼の 延び饅頭は 紅屋なり  今なら、「へっちゃらよ、彼に我慢させるわよ」なんて花嫁は意気軒昂だろうが、昔は婚礼の前の日あたり突如として生理がはじまっちゃ、親兄弟親戚一同はうろたえたにちがいない。万事万端、披露宴の準備がととのった矢先のことだ。祝い客にどう言い訳して廻ったか、想像するとおかしい。  江戸の有名な菓子舗「紅屋」の饅頭と娘のふっくらした饅頭とをかけた句だが、   毛饅頭 万民これを 賞翫《しようがん》す  なんてのもあって、江戸時代は饅頭という女陰の形容詞には、このほかにお千代舟などとよばれた水上淫売婦の「船饅頭」や「米《よね》饅頭」これは糯米《もちごめ》をつかった饅頭だが、「夜寝まんじゅう」にも通じたものだろう。「よね」とは京阪の下級遊女の別称でもあった。  また「肉饅頭」なんて、「中華まんじゅう」みたいなよびかたもあった。   喰いあきた まんじゅう 指で抉《くじ》ってる  銀座のホステスが、いやな客に口説かれると、一親、二鳥、三メンス、という逃げ方があるそうな。 「今夜はダメよ、いま国から親たちが出て来ているの」 「あたしが家をあけたら、可愛がってる小鳥が餌がなくて死んじゃうわ」 「ごめんなさい、いまアレなのよ」  諸君、もしどこかの都市に、「BAR紅屋」なんて店があったら、はじめからすべてを諦めて飲まねばならないぞ。  紅屋という月経の異称は、江戸時代、民謡にもうたわれていて、江戸のはじめから元禄頃までの諸国の民謡を明和年間(一七六四—一七七一)に編んだ『山家《さんか》|鳥 虫歌《ちようちゆうか》』(一名・諸国盆踊唱歌)という本にも、   ※[#歌記号]おそその中には 紅屋がござる    月に七日の 紅しぼり  という歌詞がある。  現代では、昭和四年、空前の大ヒット曲となった「東京行進曲」のB面ではあったが、これまた当時の大衆の愛唱歌となった「紅屋の娘」があり、「春のお月さんうす曇り」と、初潮と、毛十六を暗喩した文句があるが、そういう意味だとは知らない大衆は、男も女も子供までが声高らかにうたった。  もちろん、取締り当局まで気がつかなかったのだ。  また、「やわ肌の熱き血潮に触れもみで、さみしからずや道を説く君」とうたった、かの情熱の歌人、与謝野晶子の歌に、   下京《しもぎよう》や 紅屋の門を くぐりたる    男 可愛ゆし 春の夜の月  というのがある。  この歌、オレ風に解釈すると、アレになった彼女が、「あたし生理になっちゃったの」なんて言ったとき、 「生理だっていいじゃないか。ボク、君を愛してるもの。汚ないなんて思わないよ」  と、迫ったら、彼女の感動はいかばかりだろうか。  それが、「紅屋の門をくぐりたる 男可愛ゆし」であろう。もちろん、「下京」「春の夜の月」にもその暗喩が含まれている。 「カワユーイ」と言っているところをみると、相手は年下の男だったかもよ。  しかし、ソレであって、ソレらしく感じさせないところが名歌たるところだ。   お馬だよ よしなと下女は 跳ねつける  生理の異称も、「お馬」となると、おヒンが無い。お馬とは越中ふんどし形の月経帯を手綱に見立てたとさきにも言ったが、まさに赤と白とのだんだら手綱。たぶん奉公仲間の下男かなんか、ちょっかい出したんだろうが、すれっからしのじゃじゃ馬下女、後脚で蹴っ飛ばしたにちがいない。かと思うと、   月の夜は 亭主は釜を 抜く気で居  これは、「いろはカルタ」の「月夜に釜を抜く」をもじったものだ。  月夜で明るいからと思って、うっかりしていると、煮炊きの釜をかっぱらわれるぞ。油断大敵釜泥棒という意味だ。江戸時代は釜は安価なものではなく、庶民にとっては大切な生活用具であり財産の一つだった。釜を質入することすら下級生活者の中では珍しいことではなかった。井原西鶴の『西鶴織留』にも、「諸町人 その合点はしていながら いつも月夜に釜をぬかれ 借銭乞(金貸)と無理の口論……」つまり、気をつけなければいけないと承知していながら、うっかりして釜を盗まれるような心掛では、とても商売の成功はおぼつかないというわけだ。  もっともこの句、亭主がよそへ釜を盗みに行くわけではない。釜は釜でもオカマの釜、それも男娼ではなく、月経時の女房の尻の穴を狙う、後門の狼みたいな亭主のことだ。  月経の歌でいちばん古いのは、古事記(七一二・成立)にある。第十二代景行天皇の皇子で熊襲や蝦夷などを討伐し、雄図半ばに病歿した悲劇的英雄、|倭 建 命《やまとたけるのみこと》(日本武尊)が東国の征伐を終えて都へ帰る途中、尾張の国にいる恋人、美夜受比売《みやずひめ》のところへ立ち寄ったとき、姫の襲《おすい》(淤須比・頭からかぶり足先まで垂らした被衣《かずき》)の裾に月経のしみがついているのを見て、   ひさかたの 天の香具山《かぐやま》   とかまに さ渡る鵠《くび》   繊細《ひはぼそ》 手弱腕《たわやかいな》を   枕《ま》かむとは 我《あれ》はすれど   さ寝むとは 我は思へど   汝《な》が着《け》せる 襲の裾《すそ》に   月|経《た》ちにけり 「ひさかたの」は天の香具山の枕ことばだが、ひさしぶり、ひさびさの意味にかかっているかどうか。とにかく、「天の香具山の空を利鎌《とがま》のような形をして飛んでゆく鵠《くぐい》(白鳥)のしなやかな翼を思わせるそなたの手を枕にして一緒に寝たいけれど、困ったことにそなたはどうやらメンスのようだな」  と、うたいかけた。すると姫はこれにこたえて、   高光る 日の御子《みこ》   やすみしし 我が大君   あらたまの 年来経《としきふ》れば   あらたまの 月は来経《きへ》ゆく   諾《うべ》な 諾な 君待ちがたに   我が着せる 襲の裾に   月立ちなむよ 「ながい間、お逢いできなかったあなたを待ちかねて、きっと〈月が経って〉しまったのでございましょう」  と、才気あふれた返し歌をしたという。  古代の人は、月経の汚《けが》れのひとつにもこんな優雅なやりとりがあった。  和泉式部といえば百人一首の、   あらざらむ この世のほかの おもひでに    今ひとたびの あふこともがな  で、よく知られた平安朝の女流歌人だが、このひとの歌に月経の歌がある。   晴れやらぬ 身の浮雲の たなびきて    月のさわりと なるぞ悲しき  これは、はるばる都から紀州熊野まで参詣に来たものの、あいにく生理になってしまい、参宮して奉幣することを差控えなければならなくなった女のからだの悲しさを嘆いた歌だが、月のさわりもあろうさ、生理が出る場所が「熊野」だもの、なんてえのは小咄《こばなし》にもならない。     あの毛・その毛・そっちの毛  さて江戸時代、せっかく生えた陰毛を除毛する風習があった。  ことに遊女は性交の際、毛切れをするとそこから黴菌《ばいきん》が侵入する心配がある。  良い傷薬のない時代だし、ことにこの時代は皮膚病を持っている人間がざらにいたから、毛切れを非常におそれた。  だから毛抜き、線香、二枚貝。遊女はセッセと毛を抜いたり、焼いたり、すり切ったりしたのだ。また毛垢というやつは皮膚についた垢のように簡単には落ちないのだ。洗髪するくらいの手間をかけないとだめだと専門家はいう。  たとえば銭湯などで、少々の上り湯など浴びたくらいでは湯槽《ゆぶね》でつけた湯垢は落ちない。風呂へ入って垢をつけてくる結果になるという。  だから遊女は除毛したのだが、   吉原は 土手通るほど 草を抜き  で、デタラメに除毛したわけじゃない。交通ヒンパンな土手八丁(大陰唇)の両側はきれいに除草するが、そのうえは逆三角形にそろえて苅りのこした。あまり抜きすぎると、   毛を抜くと とんだ大きく 見えるなり  ということになる。  三角形が連鎖した模様をウロコ形といって、これは女の魔除けの形で、昔は娘が十九の厄年をむかえると、鱗形の模様の着物を着る風習があった。そのいわれは蛇が脱皮するように厄から抜け出る縁起なのだそうで、まあ陰毛模様の振袖かなんか着たわけだナ。   惜しい毛を 傾城みんな ひんむしり   小綺麗に 毛を引いておく 店屋《てんや》もの  逆三角形の女は四〇%ぐらい、オケケのスタンダードで受動的なタイプ。そのほか撥形《ばちがた》、円形など全部で七種類に分類できるが、正三角形だと絶倫型だ。これは全体の八%ぐらいで別名、火焔《かえん》不動型という。どれを選ぼうと好き好きだが、オレなんざ、こういうのに出会ったら脱兎の如く逃げることにしている。  ところが女房のような素人衆は除毛をしない。   女房の 毛は十六で 生えたまま   抜くことは 嫌さと女房 かきわける  だがこの時代はパンティなんて厄介なものがなかったからいいのだ。  今の女メラを見ろ。割れ目どころかケツの穴のまわりまで日陰の芝みたいな毛をはやし、そのあげくナイロンのパンティなどはいて、チリチリパチパチ静電気を発生させて歩いてる。こんな発電所みたいな女は昔はいなかった。  女房が生えっぱなしじゃ毛切れはどうなると思うだろうが、なんとカタギは男が除毛した。鋏《はさみ》で切ると切断面に角が出来て、テメエも相手もチクチクと痛いから、風呂屋(湯屋)の洗い場の片隅に毛切り石というにぎり拳《こぶし》大の石が二つあって、それでコリコリと擦り切ったのだ。   股倉の 苅りこみ 石っころでする  ところが、アホな女房が亭主の真似をして、よせばいいのに毛切り石でカチンカチンとやり飛びあがった。   いらぬこと 女房石にて サネをぶち  江戸では男女混浴と、そうでない時代があったから、これは混浴時代の句だと思うが、この女房かなり毛深いのを気にした挙句の失敗と考える。  毛深いといえば中国は唐の玄宗皇帝(七一二)の寵姫で美女として後世に名高い楊貴妃《ようきひ》は、アノ毛がなんと膝頭にとどいたと天保五年(一八三四)版『色道禁秘抄《しきどうきんぴしよう》』という本に書いてある。 「唐書 楊貴妃が伝を閲《み》るに 貴妃 |※[#「女+鬼」]声《かいせい》を発すとあり 是れ即《すなわ》ちぶんやなり 貴妃の陰毛 引のばすときは 膝頭を過ぎるとあれば 毛の多きことを知るべし」  この一文の中の「※[#「女+鬼」]声は ぶんやなり」とは、まず、「※[#「女+鬼」]」だが、字義は「はじらう」ことで、 「※[#「女+鬼」]声」とは愛叫、つまり「よがり泣き」のことだ。  さて、「ぶんや」とは、「江戸、天和年間、文賀《ぶんが》という盲目の三味線弾きに合せて、弥太夫というものが、美声で浄瑠璃を語った」からとする中野栄三説と、 「式亭三馬(江戸の戯作者)の狂歌に、   なけ きこう 京の女郎の 文弥ぶし    ききに北野の ほととぎすほど  とあるごとく、あの時の女の叫び声が、享保の頃、一世を風靡した岡本文弥の文弥節を思わせる」からという高橋鉄説がある。どっちだって、オレの女のことじゃないから、かまわないが、  唐時代の大詩人、白居易《はくきよい》(楽天)がつくった玄宗皇帝と楊貴妃の大恋愛詩『長恨歌』の一節、   眸《ひとみ》を回《めぐ》らして一笑すれば 百媚《ひやくび》生じ   六宮《りくきゆう》の粉黛《ふんたい》 顔色《がんしよく》なし   春寒うして 浴を賜う 華清《かせい》の池   温泉 水 滑《なめ》らかにして 凝脂《ぎようし》を洗う   侍児《じじ》 扶《たす》け起こせば 嬌《きよう》として力《ちから》なし  流し目をしてほほえめば、こぼれるばかりの色気をたたえ、六宮(ハレム)の美女たちことごとく色を失う美しさ。  皇帝に抱かれる日、華清(陝西省《せんせいしよう》・驪山《りざん》に玄宗がつくった温泉宮)の温泉に、白い肌をひたしているうちに、どうしたことかふらふらとなってたおれてしまった。お付きの者があわててたすけ起こしたが、力ないその肢体のなんというなまめかしさよ——てなわけだろうが、この詩で感じられるのは嬋娟《せんけん》たるやさすがたであって、まさか膝まであるほどのそんな多毛たあオレは知らなかった。  玄宗が後宮三千の美女に飽きて、臣下を動員し国中をくまなく草の根をわけて探させた美女だが、こうなると、玄宗自ら楊貴妃の草の根をわけなければならなくなったろう。  その上、『色道禁秘抄』には、「貴妃 体肥満にして 暑を苦しみ 茘枝《れいし》を好んで食《くら》ひ 狐臭《こしゆう》ありし故に 外国の名香を以て掩《おお》ひたりし」とある。  つまり、デブで、あつがりやで、腋臭《わきが》だったというのだ。  なにが侍児、扶け起こせば嬌として力なしだ。白楽天てえ奴は、そうとう嘘つきだよな。  腋臭を狐臭というのは、たしかに狐もくさいけど、この狐は「胡」の当て字なのだ。唐の時代、イラン民族(ペルシャ)を胡族と言った。中国の胡弓という東洋のヴァイオリンみたいなものも、イランから伝来された。  たぶん楊貴妃はイラン系の血が交った女だったのだろう。  楊貴妃があちらの美女の代名詞なら、こっちには、衣通姫《そとおりひめ》という美女がいる。  第十九代|允恭《いんぎよう》天皇(四四〇年頃)の皇后、|忍坂 大中姫《おしさかのおおなかつひめ》の妹だが、姿容絶妙、光艶《こうえん》、衣《い》を徹す。つまり、そのかがやくばかりの肌の光が、衣服を透きとおす、といわれるほどの美女で、そのため衣通姫と世の人は呼んだ。  やがて、義兄の允恭天皇に愛されるが、姉の皇后の嫉妬がはげしく、逢うことが出来ない。ひとり、いつ訪れてくれるかわからない天皇を待って、藤原の宮にさみしい明け暮れを送っていた。  ある日、あまりに天皇への思慕にたえがたく、   わが兄子《せこ》が 来《く》べき宵なり 細蟹《ささがね》の    蜘蛛《くも》の おこなひ 今宵しるしも  と歌った。  これをたまたまそっと忍んで来て隠れ聞いた天皇は、   細紋形《ささらがた》 錦の紐を解き放《さ》けて    あまたは寝ずに ただひと夜のみ  と返し歌をおくったという。  細蟹《ささがね》は蜘蛛の形容で、小さな蟹に似てるからだが、この蜘蛛が巣づくりをしているときは、待人来るの前兆という、呪術的な考えが当時あった。  そこで天皇は小さな紋織りの錦の紐を解いて、おまえと寝たけれど、それはただ一夜の夢だったのに、それでも私を忘れずにいてくれるのか、と感動したのだ。 「紐をとく」というのはすでに大昔から男と女の情事を言いあらわすことで、なにも、「帯ひも解いてしっぽりと」なんて近世のものじゃない。江戸の遊女の唄にも、   ※[#歌記号]ぬしの来る夜は 宵から知れる    締めた 扱帯《しごき》が 空解《そらど》ける  自然に扱帯がゆるんで解けるときは、きっと惚れた男が逢いに来るというのだ。  もっとも、この歌をもじったのがある。   ※[#歌記号]いやなお客が 来る夜は知れる    三日前から 頭痛する  昭和のはじめ流行した「君恋し」という唄に、   ※[#歌記号]臙脂《えんじ》の紅帯《べにおび》 ゆるむもさびしや……  と、カフェーの女給の唄があるが、こんなんざ、いくら帯がゆるんでも、好きなお客が来ないという唄だよな。  さて、肌の光が着ているものから透きとおるという衣通姫だから大変だ。   十二枚 召しても 外へ通すなり  と襲色目《かさねいろめ》も艶な十二|単衣《ひとえ》の重ね着でもだめだから、江戸の川柳子は意地の悪いことをいう。   衣通《そとおり》は 生えたをいつそ 苦労がり   一《ひと》ところ 衣通姫も 御困《おんこま》り  楊貴妃とちがって、竹箒《たけぼうき》みたいに生えてるわけじゃない。|そそ《ヽヽ》と生えてるのだろうが、やっぱし黒いもンは黒いもンな。  だが、あの毛のことなら、わが日本だって楊貴妃に負けないのがいた。  寛政五年(一七九三)二月に大坂の阪町で心中があった。  浜松歌国(文政二年・一八一九歿)の『南水漫遊|拾遺《しゆうい》』には、「男女の屍骸を千日墓所(いまの法善寺辺)に於て晒《さら》せしところ、女の陰毛の甚だ多き評判にて、見物人おびただしく、その後、心中のさらしもの止む」  という、幕府の刑罰のやり方を廃止させるような偉大な多毛の心中女がいた。  心中屍体を全裸で晒すのは、「見こらしめ刑」で心中なんぞするとこういう目にあうぞ。お前たちは不心得な真似はするなよ、という市民への警告だが、こう人気が沸騰しちゃあわてたのは奉行所だろう。奉行所が市民へ特出しの大サービスをやってるみたいなもんだ。これが有名な「毛の心中」といわれている事件だ。  余談だが大学者、太宰春台《だざいしゆんだい》(延享四年・一七四七歿)が、その著『独語』の中で、 「享保のはじめ 難波の浄瑠璃師来りて 彼方なる俗調を弘めし程に 江戸の人いよいよ之を好みて 江戸の旧き浄瑠璃を捨てて ひたすら京・難波の浄瑠璃を習ふ 賤者のみにあらず 士大夫諸侯までも是を好みて一節を学ぶ人あり ただ今の世の賤者の淫奔せし事を語る 其の調べ猥せつなることいふばかりなし 士大夫の聞くべきことにはあらざるは云ふに及ばず 面をそむけて耳を掩ふべきことなり されば此の浄瑠璃の盛に行はれてより此の方 江戸の男女淫奔すること数を知らず 元文の年に及びては 士大夫の族はいふに及ばず 貴き官人の中にも 人の女に通じ 或いは妻を盗まれ 親族の中にて姦通するたぐい いくらといふ数を知らず 是れまさしく淫楽の渦なり」と、怒っているように、上流武士階級どころか、貴紳顕官の中にも人の女房を盗んだり、盗まれたり、近親相姦があったり、いやはや大変な時代で、元禄の近松の浄瑠璃芝居や、清元、常磐津、新内の源流である豊後節が江戸へ入るや、これらのテーマになっている心中物を実行するものが増加した。  町人都市、大坂で流行《はや》っている分には大目に見ていた幕府も、政治の都、江戸で武家階級にまで心中が流行りだすと、たまりかねた幕府は元禄のわずかあとの享保八年(一七二三)に、時の奉行大岡越前守が「心中とはひっくりかえせば忠という字だ。男女の情痴の果の行為にそうした文字を使うことは許さない。これからは相対死《あいたいじに》と呼べ」とお触れを出し、「男女申合 相果候もの之儀 自今死骸は取捨 一方存命に候はば 下手人申付 尤も死骸|弔 《とむらい》|候 事《そうろうこと》 停止《ちようじ》申付く可く且又双方存命に候はば三日晒の上 非人|手下《てか》申付事」  と厳しい処罰令を出した。  死体は取捨て(刑場にさらす)葬式は許さない。(埋葬はできる)一方が生残ったら死罪(ところが女が生き残ったときは死罪にならなかった。女には甘かったな、江戸も)。  で、心中未遂は日本橋の袂(いまの交番のあたり)で三日間、晒ものにされた上、常民の身分を奪われた。その上、心中芝居や豊後節一切禁演という大弾圧だった。そして民衆への見せしめだとして、心中死体は真っ裸で晒す。それがエスカレートして地方などでは、身投げ心中の死体など引揚げると、村の若い者たちが女の死体を輪姦するなんて風習まで生じた。  日本橋で晒された未遂の男女は、三日後、男女別れ別れに連れ去られ、ふたたび結ばれる日はなかった。   四日目は 乞食で通る 日本橋  ということになったのだ。   日本橋 かきわけて見る 買った奴  三日晒の女のほうは、見物人の一人が買ったおぼえのある女郎かなんかだったのだろう。この男、どんな顔でのぞいて見たか、想像するとおかしい。テメエと関係があった女の結婚式の披露宴に、何くわぬ顔で出席しているみたいな感じがするよなあ。   ※[#歌記号]あまりしないので おそその味が    変りゃせぬかと ナメてみた   ※[#歌記号]ナメた拍子に 毛で鼻ついて    くしゃみするとて サネかんだ   ※[#歌記号]かんだおサネを お医者に見せりゃ    お医者近目で またかんだ  酒間でよくうたわれる戯《ざ》れ唄だが、まことに素朴なユーモアがある。  ま、それに近い体験だが、いつだったか東京のさる花柳界へ、ワカメ酒を飲みに行った。  ご存知だろうが、ワカメ酒とは芸者の下半身を裸にして、ピッタリと股を閉じさせ、デルタになみなみと酒をつぎ、交互に野郎共が啜《すす》るのだ。  若い妓でないとこうはいかない。ババア芸者など股の間からスイスイ酒が素通りしちゃう。さて、これを飲むときは、どういうわけか黒田節の三味線に乗って、  ※[#歌記号]酒はア 飲めエ のめエ……と、デルタにワカメのごとくただようオケケを舌の先でチョイとかきわけ、チュッと飲む。  かすかに芳醇な香りもあり、スコーシ塩味がきいてイイお味加減。ちがいがわかる男の酒だ。  むかし、灘から江戸へ酒を船積みして、江戸にはおろさず、また灘へ運びかえることがあった。この間に酒はよくこなれて芳醇さを増した。  これを船に乗って富士を見て戻った酒だというので、「富士見酒」といって、関西では高価なものだった。  上目づかいに黒い逆さ富士を眺めつつ、これこそ現代の富士見酒ではないかとオレは思った。  ある大会社の社長をしているトボケた仲間がいて、この遊びの帰りにひとりで築地の一流料亭へ立寄ったそうな。女将《おかみ》に「ワカメ酒はないか」と聞くと、「ございますとも」という返事。ヤロウよろこんじゃって、さっきの三流芸者たアちがう。一流の新橋のキレイドコロのワカメ酒が飲めるとワクワクして待っていたら、やがて女将が熱燗のお銚子に焼ワカメを入れて持ってきて、こう言ったそうな、 「これは、血圧によござんすそうで、オホホホ」  ワカメ酒を飲む勇気がない向きには※[#六角形の中にケ]印(ケッコウ・ケジルシ)醤油はいかが。  毛はケラチンという蛋白質でできている。これを分解するとアミノ酸に変るのだ。だから食塩を加えてやれば醤油が出来る。作り方は毛に濃塩酸を加えて煮沸する。すると毛の蛋白質は分解してアミノ酸になる。これに苛性ソーダを加えて中和すると、水とアミノ酸と食塩とになりアミノ酸醤油が出来る、と物の本に書いてあった。  惚れた女のオケケで醤油をつくり、家に持って帰ってオシンコにかけて食べたらどうだ。これなら女房に感づかれる心配はない。ついでに女房に喰わせてみろ。 「アラ、お味のよろしいこと」ナンテさ。  さて平安の歌人、和泉式部の歌に、   黒髪の 乱れも知らず 打ち伏せば    まず掻きやりし 人ぞ恋しき  なる濃艶な歌があるが、女を愛撫するとき男はきまって指で毛をまさぐる。  猿がお互いにシラミをとりあっているような光景を見かけるが、実はあれは虱をとっているわけではなく、「毛づくろい」と言って、性の前戯なのだ。体毛にさわられることによって次第に快感を覚え、やがて交尾に入る。  猿は哀れなことに陰毛がないからそうするので、人間は万物の霊長らしく、人間しか無い特別の毛で毛づくろいしなければいけない。じれったいというお方にはいい事を教えてやろう。  指先でヤワラカークおケケの中へ電話番号を書くのだ。自宅の番号はもちろん取引先でもなんでもみんな書いちゃえ。覚えてないヤツは、枕元に電話帳をドデンと置いて片っぱしから書いてみろ。やがて彼女はシトドに濡れてくるぞ。だが、なにも電話帳の上・中・下巻みんな書くこたアない。  女の陰毛は男が平均四・九センチに対し、平均三・九センチだそうな。そして、二、三千本の春草がデルタ地帯にそよいでいる。  しかし日本の女性、五十五人に一人はカワラケなのだ。   かわらけは さっぱりとした 片輪なり  と、江戸の川柳はいうが、本人にしてみれば大変。「夜の花」というカツラを貼りつけたり、発毛剤をせっせと塗り込んだりする。発毛剤は女性ホルモンが入っている軟膏だが、効き目のほどはあやしい。軟膏をせっせとすりこんでいたら、肝心のところに毛が生えないで、指先に毛が生えてきたなんて話もある。 「夜の花」にしても、むかしはいい接着剤がなかったから、69をやったあと相手の男の顔を見たら、いつの間にか見事な髭を生やしていたなんていう悲喜劇もあった。  今は接着剤が進歩したからそんな心配はないが、あまり永く貼っておくとカブれる。半月に一度はシンナーが入っているマニキュアの除光液ではがして風を入れる。  もう一つの方法は植毛だ。歯医者用の電気|錐《きり》をつかって土手に一本一本、毛根のついた頭の毛を植えつけるのだが、日数はかかるし、なんたって女にしてみりゃハズかしいから、パラパラと植わるとそれっきり医者に来なくなる。それじゃ医者は商売にならないから、いろいろ考えた挙句、まず土手の片ぺらだけ植えて、そっちが終ると残りの片ぺらをやることにした。  それに植えたのが頭髪だ。うまく着いてもだんだん伸びてくるんじゃないだろうか。  明治四年に政府は、千住の遊廓に黴毒《ばいどく》院なるものを建て、明治七年には新吉原でも検黴が行われた。大阪では明治五年に松島遊廓に駆楳院《くばいいん》を設けて検黴を実施した。この時、誰言うとなく「このたび病院にて陰門を御吟味なさるるは まつたく陰門からよい真珠が出るさうでございます その真珠を病院で目薬に用ゐるさうでございます」という噂が立ち大騒ぎになったという。  大阪、北新地の芸者加賀松の妹|らく《ヽヽ》という美人は、「生きて恥辱をさらさんより死して検査の患をのぞかんと」十八歳を一期として縊死したという事件もあり、また当時の東京日日新聞の記事では、「吉原の検黴は妓院修繕中のため 貸座敷業|佐野槌《さのつち》こと中村長兵衛方で施行す 本日は江戸町一丁目(吉原の廓内には江戸町はじめ中之町、堺町、京町などの町名があった)より順次検黴すべく告知せしに 衆妓色を失ひ 休業廃業を装ひ 約半数は脱し 成績甚だ不良なり」と報じられている(高橋鉄・近世近代一五〇年性風俗図史)。   絵にかいた 枕草紙をやめにして    ナマを見たがる 馬鹿な役人  という落首に見るように、検黴される側は屈辱と、もう一つは梅毒と診断されることを恐れたようで、必死の抵抗をしたらしい。  この時、ふてくされた一人の娼妓が陰毛で島田髷を結い上げ、土手に顔を描いて、まくった医者が腰をぬかした。  この娼妓、ずいぶん長い陰毛でなけりゃそんな真似は出来ないはずだが、頭髪の植毛でもしていたのだろうか。  さて、こういうカワラケを江戸では、「与吉の女房」と言った。いつの頃かはわからないが、神田駿河台に与吉という人形師がいて、人形の髪を結うことにかけて名人だったそうだが、なんと女房がカワラケだった。もっともカワラケでなければ与吉のことだ、検黴の娼妓よりもうまく女房の股上に元禄高島田かなんか結い上げたにちがいないな。  カワラケは土器《かわらけ》で素焼の陶器だ。無毛をどうしてカワラケというのかについては諸説がある。素焼の陶器は釉薬《うわぐすり》がかかっていない、というシャレや、古語の「かわらか」つまりサッパリしたという意味だ。いやあれは鬼毛、葦毛鹿毛《あしげかげ》などという馬の毛なみのうちの「河原毛」で、河原毛駒のように毛色の「まばら」からであるという説などあって、さだかではない。  戦前、オレが花柳界を遊び歩いていた頃は、芸者は数え十六歳で一本になる。一本とは半玉《はんぎよく》から水揚げをすませて芸者になることだ。その出たばかりの妓と寝たら、なんとあそこがツルツルで、たった一本思い出したように毛が生えていた。生えすぎも閉口だが、こういうのも変に目ざわりなもンだ。だからちょいとつまんで抜いちゃった。  そしたらその妓にワアワア泣かれちゃって困ったことがあった。 「どうして、そんなに泣くんだ」と聞いたら、 「だって、あたし、片輪《かわらけ》になっちゃったじゃないの」  ね、実にあどけない話だろ。  こんな妓が、もし良家の娘だったら、安永三年(一七七四)の豆談語《まめだんご》の中にある咄みたいなことがおきる。  ある娘、爪をひっかけたかどうかしたか判らないが、大事なところを傷つけてしまった。  乳母が、「お嬢さま、大切なところですから、お医者様に診せなさい」と言えば、娘は、「はずかしいから死んでもいや」という。  乳母、一思案して、「それでは私があそこの絵を書きましょう。そしたら怪我をされたところへ、しるしをお付けなさい。それをお医者に見せて、お薬をいただいて参りましょう」と、硯《すずり》を引きよせ形を書き、毛をサッサッと添えた。  すると娘が、「まあいやな乳母、わたしのには、まだ毛が生えてないのに」  乳母すかさず、「なにをおっしゃいます。これを書かねば、上下《うえした》がわかりませぬ」  カワラケはどんな女の無毛でもいうのではない。大年増のは「ほうろく」というのだ。「ほうろく」は近頃あまり見かけないが、茶や豆を炒《い》る片手鍋のような形の土器だ。  小皿形のカワラケと形状の上で区別したのだろう。  この「ほうろく」もう一つ別の使いみちがあった。船中などで小便したくなったとき、男は舷《ふなばた》に鉄砲をのせてシャアでいいが、女は困った。そういう場合、船にはこの炮烙《ほうろく》が用意されてあり、使ったあとは水中へ投げ捨てたのだ。   ほうろくは 船でも豆の 役に立ち  男が老年のインポを嘆いた、   今はただ 小便だけの 道具なり  という句があるが、ほうろくも、ババアとなれば小便だけの道具。アノほうにはご縁がないという隠れた意味があるのでは、と考えるのはオレのうがちすぎだろうか。  安永四年(一七七五)版の『豆だらけ』という本にこんな咄がある。  夜、屋台をかついで売り歩くそばや。とある町の家の軒下で一休みしていると、家の中からひそひそと女房らしい声が聞こえる。そっと耳をよせて盗み聞きすると、「あんたは、毛が無ければ無いでしないし、毛があればあるでしない」とぶつぶつ言っているので、さてはと戸のすき間からのぞいて見たら、なんと筆屋だった。  江戸では男が除毛したが、古代のギリシャやローマでは女共がセッセと除毛した。  中世のヨーロッパでも、その風習は盛んだった。  だから、西洋の女人像の彫刻など毛が無いのだとオレは思う。  はじめは恥毛が不潔と悪臭の根源と見られていたフシもあるが、それより毛を取り去ったほうが女体のエロ的要素を高めるという考えであったようだ。  つまり、毛の無いほうが刺激的だと古代美術の国のギリシャ人は思ったのだ。  現代の彫刻や絵画が毛を描かない風習はここから来ている。もっとも近ごろではポツポツ毛を描いたものも出てきているが。  今日では写真が新しい芸術の分野になったが、ヌード・モデルのかんじんの所はツルツルだ。  毛を写すとヤボな法律で罰せられるからだが、全くわかっちゃいないよねエ。毛の無いほうがよっぽどエロなんだぜ。     大石内蔵助は梅毒だった 「ひげ」は、梅毒がヨーロッパに蔓延した十五世紀の半ばに大流行した。  梅毒にかかると、頭髪も眉毛も、もちろん髭まで脱け落ちてしまう。  だから髭をたくわえるということは、オレは梅毒に罹《かか》っていないぞという証拠のためだったのだ。  徳川家康が淋病《りんびよう》にかかった話は、三田村|鳶魚《えんぎよ》の『公方《くぼう》様の話』(三田村鳶魚全集第一巻)にもあるが、家康は二妻十五妾もいる女のほかに、唄や踊りなどは表向きの芸、実は召されれば枕席に侍る遊女にもちょいちょい手を出した結果らしい。  もっとも、豊臣が滅び、ながく打ち続いた戦乱時代が終ると、いわゆる元和偃武《げんなえんぶ》といわれる平和な時代が到来する。  興亡常なき武家階級にとって、これほどの安堵はない。その気のゆるみか、千軍万馬の錚々《そうそう》たる武将たちは競って遊女に戯れた。  家康の子、結城秀康など、親爺の淋病に負けるものかと張合って、ついに梅毒にかかって死んじゃった。  秀康ばかりじゃない。浅野幸長、池田三左も梅毒で討死した。  加藤清正は、俗説に毒饅頭《どくまんじゆう》で餡殺(あんさつ)されたなんていわれているけど、実は饅頭は饅頭でも、毛饅頭の毒にあたって死んだのだ。  梅毒が日本に入ってきたのは室町時代の永正九年(一五一二)だという。  戸伏太兵『洋娼史談』に拠れば、「悪魔菌〈スピロヘータ・パリダ〉をはじめ東洋に持ってきてバラまいたのは、オランダ人とポルトガル人だった。その根拠地はマラッカで、ここから広東《かんとん》へ伝えられたのが支那の梅毒のはじめで、その年代を愈約斉《ゆやくせい》の〈続医説〉に明《みん》の弘治の末〈一五〇〇年前後〉とし、〈民間、悪瘡を患うは、広東人より始まる、呼んで広瘡《こうそう》となす〉と、広東から中国全土へひろがった。ちょうどその頃、わが国の倭寇《わこう》が盛んに南支方面を荒しまわった時代で、それら八幡船《ばはんせん》海賊が支那で感染した病毒を日本内地に持ち帰った」という。  また同書にはもう一つ琉球からの移入ルートがあるとし、「当時の琉球商船は遠くマラッカに至るまで貿易に従事し、薩摩、豊後、天草にも来往した。梅毒のことを沖縄では〈ナパル〉と呼ぶのは、南蛮瘡の意味だが、日本ではこの二つのルートによって〈唐瘡〉〈琉球瘡〉と言った。京都の竹田秀慶の著〈月海録〉に〈永正九年|壬申《みずのえさる》、人民多く瘡あり。浸淫瘡に似る。是は膿疱瘡翻花瘡の類、稀れに見る所なり……之を唐瘡、琉球瘡と謂ふ〉……」と考証している。  赤穂浪士の大星由良之助《おおぼしゆらのすけ》(大石内蔵助)は京都祇園の一力《いちりき》で、   ※[#歌記号]由良さん こちら 手の鳴るほうへ……などと美しい大夫や、可愛い禿《かむろ》たちに取巻かれて目隠し鬼に鼻毛をのばして遊んでいるが、あれは芝居の嘘っ八。祇園は江戸後期寛政二年(一七九〇年)にやっと廓として公認されるまでは螢茶屋と呼ばれて、比叡山延暦寺の末寺、祇園感神院(いまの八坂神社)の門前の私娼窟だった。  淋しい土地に灯がともるから螢茶屋と言ったのか、尻が値打の女がいたからか、その名の由来はわからない。  その寛政二年の祇園廓のはじまりも、『島原沿革史』によれば「寛政二年十二月当廓(島原)の願いにより、祇園新地、二条新地、北野新地(上七軒)七条新地の四ケ所へ五ケ年間、一ケ所につき遊女十五名、茶屋二十軒づつを限りて免許せられ……」とあって、ちゃちな遊里だったのだ。  今も京の島原には、角屋《すみや》という昔の一流妓楼の遺構がそのままある。元禄時代は寛政より約九十年も昔だ、祇園で内蔵助が遊びたくったって、祇園が存在しないのだ。たぶん螢茶屋の私娼を買うか、儒学者《じゆがくしや》で医師でもあった|橘 春暉《たちばなはるあきら》(文化二年・一八○五歿)の「北窓瑣談《ほくそうさだん》」に、「伏見|撞木《しゆもく》町の青楼は、大石内蔵助|山科《やましな》に在りし頃 折々行通ひし所なり 安永の末つ頃までは いまだ数家残り居て 賤《いや》しけれども妓女数十人有し……」と、大石は笹屋清右衛門という妓楼へ通い夕霧という女と馴染んだこと、義士の面々も一緒によく遊びに来たことなど、七十余歳の老人である亭主の清右衛門が、その母から聞いたという大石の思い出話をいろいろ書いている。  また前出の『洋娼史談』によると、「第一回目の東下《あずまくだ》りの際は、赤坂伝馬町へんの岡場所(私娼窟)で、山城屋一学という比丘尼《びくに》(尼姿の街娼)を買った」とあり、どうも播州赤穂の城代家老にしてはいい趣味じゃなかったらしい。  その因果か、内蔵助切腹のときはまだ幼児であった三男の大三郎が、のちに芸州浅野家(浅野内匠頭の本家)へ父親の手柄のおかげで千五百石という高禄で召し抱えられたが、先天性の梅毒で鼻が欠けてフガフガだったと神沢|杜口《とこう》(寛政七年・一七九五歿)の『翁草《おきなぐさ》』にある。  未見だが『洋娼史談』によれば、小山田|与清《ともきよ》(高田与清・文化年間の国学者)の『松屋筆記巻百四』に「二男は内蔵助とて後に芸州に召出されしが梅瘡を病て鼻落ちたり その時の落首に」  大石が召し出されしも内蔵のかげ 鼻の落ちたもまたくらのかげ  とある。  この歌、つまり大三郎が浅野本家に高禄をもって召し出されたのは、父の内蔵助の御蔭だが、父ゆずりの梅毒で鼻が落ちたのも、またくら(股ぐら)の遺産相続のためだというわけなのだ。     髭《ひげ》 と 鯰《なまず》  さて、日本での髭の大流行は明治維新だ。徳川幕府を倒して天下を取ったものの、その中心勢力たる薩摩・長州・土佐の連中は、文化の中心だった江戸の市民に劣等意識を持っていた。 「小男のひげ」という譬《たと》えがあるが、劣等意識が髭をたくわえることによって、少しでも威厳を保とうとする意識にかわる。  伊藤博文だって、木戸|孝允《たかよし》だって、大久保利通だって、とかく維新の元勲といわれた連中のもとをただせば、大名でもなく、藩の上級武士でもなく、世が世なら吹けば飛ぶよな軽輩の身分だし田舎侍だったのだ。  この連中、天下を取るや、たちまち成り上がり根性まる出しにして、金はある、権力はあるのだから競って女漁りに没頭した。  徳川時代、江戸芸者といえば吉原芸者だった。吉原には一発百文の安女郎もいれば、一夜万金を積まねばならない高級遊女もいて、遊女とあそぶ客の座敷に興を添えるのが芸者の役だった。身体を売らずに芸だけを売る商売だから、筋金の入った芸達者だったし、女芸者と共に男芸者というものもいて、これらは富本・一中節・荻江節・清元・長唄、それぞれの音曲の師匠や、また舞踊家などで、芸を持って一座を取持つ見識があったが、のちには客に媚び、ひたすら歓心を買う幇間《ほうかん》(太鼓持ち)がふえて、男芸者の影はうすくなった。  それでも町芸者とよばれて吉原芸者より一段低い格の花街の女でも、やがて深川に辰巳芸者の嬌名が起こり、代って文化文政頃(一八〇四—一八二九)から柳橋が第一流となり、明治初年には二百数十名の美妓を擁していた。  ところが、江戸の粋《いき》を誇る柳橋の女たちには、女を見ればただもうやたらにひっくりかえすことしか知らない薩長土の野暮天が気にくわない。維新政府のお偉いさんだろうが何だろうが、「遊び」の真髄をわきまえない連中なんかけんもほろろだった。  この時、新橋はわずか二十余人の小さな花街だったが、いわば当時の革命政権の要職にあるお歴々が陸続と二頭立の馬車に乗って集まり、これと共に利権を漁る政商が追従してたちまち一流の花街にのし上がったのだ。当時ではまことに占領軍の基地の女の観があったのである。  女は安直にかぎるというのか、なにしろ金と権力のある連中が集まったのだから、明治三十八年の芸者数の調べでは新橋三百四十二人、柳橋百三十二人と幕臣や江戸の富豪を客として粋とか意気地とか言っていた柳橋は凋落《ちようらく》の憂目を見た。  新橋で政府の大臣・参議が浮名を流したのはそうした事情によるもので、片っぱしから花街の女に手をつけるのを、箒《ほうき》といって花街では最も嫌うが、その箒の大将は伊藤博文で、ついには鹿鳴館の舞踏会で戸田伯爵夫人極子と醜聞を生じて世論の非難を浴び、そのため鹿鳴館は閉鎖を余儀なくされた。  そのほか新橋でのロマンスは、副島種臣《そえじまたねおみ》の小浜、山県有朋《やまがたありとも》のお貞、板垣退助の小清、西園寺|公望《きんもち》のお房、陸奥宗光の夫人となった小かね、等々枚挙にいとまがない。  とにかく柳橋でふられた「おえら方」の意趣ばらしか、明治二、三年頃のある日、八人の立派な身なりの侍が柳橋の青柳亭にあがり、芸者十数人をよんで飲めや歌えの大騒ぎの挙句、芸者たちにむかってお前ら真っ裸になって相撲を取れと言い出した。  芸者たちが真っ青になって、うろたえていると、刀を抜き料亭の柱へ斬りつけて脅した。その時、お玉という芸者が前へ進み出て、裸にならなければ料亭はメチャメチャに破壊されてしまうし、私たちが裸にならないばっかりに、日ごろお世話になっている料亭の主人に大損害をかけてしまう。  裸になればまた私たちがはずかしめをうけることになる。  どっちみち私たちの立場はない。それならいっそ裸になってこの恥辱にたえましょう、と、真先に裸になった。これに励まされてほかの芸者たちも丸裸になって相撲をとった。  これらの侍たちは畳を数枚積み上げた上にあぐらをかき、愉快愉快と酒盃をあげて芸者の裸相撲を楽しんだ。  やがて彼らは亭主をよび家の修繕をせよと、なんと二百数十両(円)の大金を渡した。亭主はこんなにいただく必要はありません、十分の一も頂戴すれば結構です、と言ったが、そのまま立ち去って行った。この八人の侍は西郷隆盛、大久保利通らいずれも維新の高官連であったと明治二十年に出版された『東洋百華美人伝』に書いてある。  まだ国会は開かれず、維新の藩閥が政権をたらい廻しにしていた太政官《だじようかん》時代に、堂々出版された本だから信が措《お》ける。  西郷隆盛は無髯だったが、あとの維新の功臣たちは、さながら髭のコンクールのようにさまざまの形の髭を競ってたくわえた。成り上がりの劣等意識のあらわれである。  上がそうだから下もまたそれにならう。当時、政府の役人は官員とよばれたが、別名、鯰公《ねんこう》とか「なまず」とか陰口された。   ※[#歌記号]髭を生やして 官員ならば    鰌《どじよう》や鯰《なまず》は みな官員  と大衆は、肩で風を切ってから威張りする役人に対し、せいいっぱいの皮肉をうたった。  廃藩置県(明治四年)となり職を失った侍たちは、郷党の先輩を頼って争って役人になって生活を支えようとした。  当時の警察官がほとんど武士の出であったのはそのためだ。  しかし士農工商と身分階級がはっきりしていた江戸時代は去り、階級の垣根がとれると、江戸いや東京の民衆は、へいこらしない。何をぬかしやがる、野暮天の田舎ざむらいメ、てなもんだ。  こうして馬鹿にされるから、小役人どもも劣等意識のうら返しで、 「お前らと、オレとでは教養がちがう」とばかり、やたらに漢語をふり廻しはじめた。  ところが武士といったって学問があるわけじゃない。 「読み書き、算盤《そろばん》」といって、町人のほうが商売上の必要からよほど上だった。  勝海舟の父親はわずか四十石ほどの御家人《ごけにん》だったが(二百石以上が旗本である)軽輩でも幕府直参の武士だ。それなのにろくに字も書けず、晩年ようやくあやしげな字をおぼえて、 「おれは無学でずいぶんはずかしい思いをした。子孫は決しておれの真似をしてくれるな。孫やひこが出来たら、無学のおれが書いたこの書物を見せて戒《いまし》めにしてくれ」と、『夢酔独言《むすいどくげん》』という自叙伝を書きのこした。  別世外(別世界) 籠駕(駕籠) 汲物(吸物) 夜る(夜) 高運(幸運)など、いまの大学生くらい程度の誤字で綴られたものだが、べつに勝小吉にかぎらない。こんな侍が随分いたのだ。  だから明治のはじめ酒間にうたう都々逸などにすら変な漢語がやたらに使われた。   ※[#歌記号]嫌なお客に 渇望《かつぼう》されて    好いたお人はなぜ浮薄《ふはく》   ※[#歌記号]わたしゃ 氷解《ひようかい》 刷清《さつせい》すれば    愚痴や未練は出しはせぬ   ※[#歌記号]あなたの努力で 夫婦になれば    ともに力作《りきさく》せにゃならぬ  力作ったって、べつに気張って子供をつくることじゃない。一所懸命働くということなのだ。  こうして役人たちが下手な漢語をふり廻して権威ぶるほど、民衆はナマズ髭の彼らを軽蔑した。  しかし、鯰にもいろいろあって、高位高官の鯰もいる。だからこんな都々逸もあった。   ※[#歌記号]天晴れ 立派な鯰をおさえ    立派な猫じゃと言われたい  猫とは今でも言う芸者のことだ。  三味線が猫の皮で張られていることに由来する。  鯰でもえらい鯰、政府の高官をうまくたぶらかして、さすがは芸者と人にほめられたいというわけだが、そんな性根のある女ばかりはいない。   ※[#歌記号]猫じゃ猫じゃとおっしゃいますが    首尾よきゃ高位《こうい》の二等|親《しん》  芸者芸者とバカにするけれど、私だってうまくいけば、おえら方の二号さんになれるんだよというわけだ。  この時代、妾はなんと二等親で妻と同格で戸籍に載った。この法律は明治十五年まであった。     ハゲの高貴説 「ひげ」の話はアノ毛の話ほど面白くないから、そろそろ結論に入るが、生活の電化をはじめ食生活、衣服などの省力・簡便化は女房に退屈な時間をもたらした。することがないから、やることを考える。亭主はしなびて女房は精力をもてあます。ウーマン・リブなどとぬかし、昔は家をつつましく守っていた女房が、近頃はドンドン外へ進出する。旅行などで発散しているうちはまだいいが、だんだんと亭主の領域までくちばしを入れはじめる。こんなカカアの鼻の下をしげしげと見たことあるか。ウス黒く髭が生えているぞ。  毛の新陳代謝というものは、男女両性ホルモンのバランスとは医学で解明するところ。ヒゲと陰毛は男性ホルモンが多いと濃くなる。反対に頭髪は男性ホルモンが多いとうすくなることは言うまでもない。  女の生活行動が男の領域まで及んでくると、生活的な刺激で女の身体のホルモンはバランスがくずれて男性ホルモンがふえる。カカアのヒゲが濃くなるゆえんだ。勿論アノ毛だって一段と濃くなる、と同時に頭髪はどんどんうすくなるのだ。  かくして国民経済生活の発展は、やがて女を総ハゲにする時代が来るのである。  女の髪は、古代は男がつかまえるために長かったのだ。  古代人の性交位はワンチャン・スタイル。うしろどりとか、うしろやぐらとか、田植ぼぼといった形のものだった。  田植ぼぼとは、田植をする早乙女のうしろから男が腰をあてがった形で、中世の田植舞などの絵巻にも、そうしたすがたが描かれている。  したがって男は女の髪を手綱のようにさばいた。   うしろから しなとは余程 月迫《げつぱく》し  月迫とは産み月が近くなっていることだ。  産れ出る子供のために、ボテ腹をかばう知恵だが、   しりからは いやと持参を 鼻にかけ  土地つき家つき持参金つきの娘を女房にすると、体位まで注文をつけられた。  だが、こういう性交の体位のために女の髪は長い歴史を辿ってきたのである。  これがどうだ、やがて女房がハゲる時代が来て、勿論、亭主もハゲて、どういう光景になると思う。坊主が二枚じゃ、花札にもならねえ。  女の髪は一日平均〇・四九ミリ伸びる。一年で十八センチ、生れてから五十歳までには、九メートルの長さに及ぶのだ。  こうなったら男が一人でさばける手綱じゃない。団体向きの手綱だ。まるで目刺を釣ったみたいに男が五、六匹並んでぶらさがるぞ。そんな夢でも見て、女はせいぜい髪の毛を大切にするがいい。  さて、恵まれた環境で育った動物の毛は退化してゆく。猪は剛毛でおおわれているが、家畜化した豚は皮膚が透けるほど短毛だ。  人類は脱毛の歴史と共に進化したと、はじめに言った。全身これ剛毛におおわれた人間も時たまいるが、これは先祖帰りといって、原始の先祖の遺伝が突然変異で現われたものだ。毛ばかりじゃない。シッポの生えた人間だって生れてくることがある。  むかしは男も髪を結った。平安朝ごろからは月代《さかやき》と云って冠をかぶる部分を半月に剃《そ》った。  江戸時代に入ると額から頭の中央にかけて剃刀《かみそり》をあてた。  どっちにしても月代は身分の高貴なものでないとこまめに手入れが出来ない。侍でも三日《みつか》月代《さかやき》といって四日目にしか手入しなかった。高貴のお方は侍童などが剃るが、侍はそういうわけにはいかない。え、女房に剃らせろだと——残念ながら女房は月代を剃ることを許されなかったのだ。  女が男の頭の上に手をあげることは、不埒《ふらち》なふるまいとされていたからだ。信じられない時代だったな。  まして、下級の民衆は髪床銭《かみどこせん》を払ってそうそう髪床は行けないから、女房が亭主の月代を剃ったり、髷《まげ》を結ったりした。しかし、そういうチョンマゲは素人がやったものだから不細工で一目でわかる。これは、「かかあ束《たば》ね」といって軽蔑されたもんだった。  身分のいい階級はほかに用も無いし、人手もあるから毎日毎日月代を剃る。その上、寒いところへ出て働くわけじゃなし、立派な邸宅の中でヌクヌクしていた。  それが子孫にハゲを伝えた。つまり毎日月代を剃って恵まれた環境にいると、猪が豚になったように毛が退化をはじめる。  この現象が何代か、何十代かくり返されると遺伝となって子孫に影響を与える。退化の法則なのだ。  床屋へ行ったら風邪をひいたなんてヤツはろくな先祖の子孫じゃない。月代も剃れない下賤なヤツラは、箱根の雲助みたいにいつも頭はボウボウだから、たまに床屋へ行けば風邪をひくのは当り前なのである。 [#改ページ]   春談・おんな学     詳説・マンぱれえど  一休禅師の作と伝えられる詩に、   百発毛頭《ひやつぱつもうとう》 |擁 丸痕《がんこんをようす》  |漫 《みだりに》|雖 有口《くちあるといえども》 更無言《さらにいうなし》   一切衆生《いつさいしゆじよう》 迷遙所《まようところ》   十方諸仏《じつぽうしよぶつ》 |出 身門《しゆつしんのもん》 (一粒の真珠のようなものを、つつむように毛が生い茂っていて、そこにものを言わぬ口がある。あらゆる男すべてが迷わずにはいられない場所だが、無理もない、お釈迦さまはじめ尊い仏さまたちさえ、そこから生れ出たのだ)  男子たるもの、この出身門の千変万化を知らずしては、この世に生れてきた甲斐はあるまい。  この思いは、世界いずこの国の男どもも同じとみえ、たとえばアメリカなど、プッシーのほかに「ハッピー・バリー」しあわせの谷間などときざなことをぬかすのだ。  さよう、女のアレは一人ひとりちがう。そのちがいゆえに一生を棒にふり、あたら命まで捨てる男も少なくない。アナおそろしきものである。   ※[#歌記号]ゆうべ島原で 姫を十人|買《こ》うてみたではないかいな    蛸《たこ》 巾着《きんちやく》 土器《かわらけ》 閂《かんぬき》 愛宕山《あたごやま》 上《うわ》つき 下《した》つき 毛長《けなが》に 前垂《まえだれ》    中でよいのが 饅頭《まんじゆう》ぼぼ    箪笥《たんす》の引出し ひきあけて 紙出せ 紙もめ 紙持って来い    他人でも 三番すりゃ 可愛ゆうてならぬ    中細《なかほそ》りの胡瓜《きゆうり》まら くるりと入れたらば ハァハ ヨーサヨサ 泣く泣くもちゃげた    嘘で涙が出るならば 目に唾《つば》つけて 泣かしゃんせ 泣かしゃんせ……  この唄の文句は、よく宴会などでババア芸者が三味線ジャカジャカ鳴らして、「おてもやん」や「名古屋甚句」などでうたう。  この唄は、日本男児として君が代の次に覚えておかねばならない唄なのだ。  これがどういうものであるか体験的に説明できないヤロウは男のクズと断言していい。   女房で 味をおぼえる 大たわけ  そこでまず「蛸《たこ》」だが、これは膣内の括約筋《かつやくきん》が発達していて吸いこむようによく締るヤツだ。   イボのある ほうが蛸だと 女房言い  という古川柳があるが、三段俵《さんだんたわら》じめ、数の子天井など、この部類に入ると思って間違いなかろう。英語では蛸をヴァキューム・カーというのだ。わかるよなこの感じ。またナッツ・クラッカー(胡桃《くるみ》割り)というのがある。これが巾着だ。 「巾着」は、膣口の括約筋が強靭で、巾着の紐のように締める。よくバナナ切りなどの花電車をやる女のアレがこれだ。    巾着の ふちは紫 中は紅絹《もみ》    巾着は松皮菱《まつかわびし》に 口をあけ  松皮菱とは、家紋にある※[#matsukawabishi.png]のかたちのもので、膣口の感じがよく出ている。  嫁に貰うなら、絶対この家紋の家の娘にかぎるぞ。 『色道禁秘抄』に、「先づ接せんと欲するに 頭《くび》入らざる故 艶候《えんこう》せんと思ひ 指を進ますに二本は入らず漸く一本を入る 追々陰中滋潤して二指を入るるに及んで頭《くび》を進むに肉中に入れたる同様にて寸分の余地なし」  これが巾着なのだ。 「土器《かわらけ》」は関西では「お茶わん」という。ツルツルしているからだろうか。「関西では食器のそれは〈茶わん〉で〈お〉をつけるかつけないかで区別している」(中野栄三・陰名語彙)という。 「かわらけ」についてはこの本の「珍説・毛ものがたり」にもちょっと書いておいたが、江戸時代は「与吉の女房」と言った。  それは喜多村※[#「竹/均」]庭(安政三年・一八五六歿)の考証随筆『嬉遊笑覧』にも、   けみもゆるせ 神田の台の 百姓の    与吉が女房 植えし早苗は  という古い踊り唄の一節が紹介されている。これは寛文十二年刊(一六七二)『後撰夷曲集《ごせんいきよくしゆう》』から引いたものだろう。 「けみ」とは「毛見・検見《けみ》」で、米の収穫前にその出来具合を領主が役人に命じ検査させ、それによって年貢高を決めたことに「毛を見る」をかけたもの。与吉の女房が植えた田は早苗も育たず、かわらけ同様だから検見を許してほしいというわけなのだ。  もっとも亭主の与吉へは、   とんだいい ものさと与吉 負けおしみ   土器は おれが割ったと 与吉言い  と江戸の川柳はからかっている。  秘本『四畳半|襖《ふすま》の下張り』の作者といわれる文豪、永井荷風もその日記『断腸亭日乗』に彼が溺愛した芸者、八重福《やえふく》のことをこう書いている。 「妓、八重福を伴い旅亭に帰る。此妓無毛美開、開中|歔欷《きよき》(すすり泣く)すること|頗 妙《すこぶるみよう》」  さてまた『色道禁秘抄』に、「世俗|不毛《ふもう》の女に交れば、勝負《けが》まけすると称して、武家などは甚だ忌む事也。先年|浪華《なにわ》にて夫を殺して刑に処せられしが不毛なり。京・摂(京都・摂津)にて姦婦刑に処せられし毎に陰処《ほと》を開くに十に八、九は不毛なり」と、かわらけ淫婦説を説くに対し、他書には、「蛸、戸鎖《とだて》、巾着、上《あが》り、饅頭ぼぼ、毛薄、土器、上あじと知れ」と賞揚するものもあって、まあ、どっちでも好き不好きは趣味のもんだから、こちとらが彼これ言うこたあない。 「閂《かんぬき》」は恥骨の出っぱったヤツ。カチカチと金属がぶつかる感じから来た。痩せた男など気をつけないと陰毛が発火するオソレがある。「あたしすぐ燃えるのン」なんてえ女はカンヌキだぞ。  平安朝から鎌倉時代のおわり頃までうたわれた「催馬楽《さいばら》」という歌がある。のちに江戸時代、ふたたびうたわれるようになったが古法とは違うものらしい。  なぜ「催馬楽」というのか諸説あって、神楽歌からという説もあるが、諸国から朝廷へ貢物を陸送する馬方の間ではじめうたい出されたものとも言う。  サイバラとは、チベット語で「田舎の恋歌」だという説もある。  まあ、当時の下層民の中に発生した民謡なのだろうが、やがてこれが貴族の宴歌《うたげうた》として、和琴《わごと》、琵琶、笛、笙《しよう》、篳篥《ひちりき》などの伴奏によって盛んにうたわれた。  もともと庶民大衆の中から生れた歌だから歌詞も、素朴な卑猥さがある。その歌のひとつに、   陰《くぼ》の名を 何とかいふ   陰の名を 何とかいふ   つらたり けふくなう たもろ   ひのなかの ひつきめな     けふくなう たもろ  この意味は難解で、つらたり——意味不明、ハヤシ言葉とも。けふくなう、たもろ——これまたハヤシ言葉とも。また毛ふくれ嚢賜《のりたも》ろで、毛があるふくろ〈男根か〉を下さいとする説もあり(橘守部の説)けふくを気深《けふ》く〈興味深ク〉という意見もある。  とにかく、「女のアレを何というのだ。火の中の、火つき(よく燃える炭)め、な」と言っているところをみると、この男の相手はカンヌキであったかと思う。  ただ、「ひつき」は、襞(ひだ)で、襞突きとする異説(中島利一郎・卑語考)もある。  閂を戸鎖と言って処女膜が柔軟に肥厚していて、閂をかけた戸のごとく、押せども押せども破れないアレをいうのだとの説もある。事実、出産まで処女膜が破れない女性は医学的にいくらも例があるようだ。 「愛宕山」は、これぞ名器中の名器。ミミズ千匹というヤツだ。  愛宕山といえば東京の港区、増上寺の付近だが、今のNHKの前身、JOAKはこの山の上にあった。愛宕権現の坂には男坂と女坂があって、男坂の石段は七十二段、女坂は百八段ある。江戸中でこの男坂ほど急な石段はほかに無かった。講談で有名な寛永三馬術の曲垣《まがき》平九郎が馬で駆け登ったのがこの石段だった。  その石段の数のごとく、膣のヒダが発達していて、これがうごめくのが名器たるゆえんだ。段々良くなるという語源はここから来たのだぞ。  膣という字は、明治のはじめ、外国の医学書を翻訳するとき、日本には適当な言葉がないので、デッチあげた字だが、これは不随意筋のかたまりだから、ご本人の意志とは関係なく、ナマコみたいな軟体動物のように十分間ぐらいの間隔で、子宮から膣口へ向ってクネクネと波形の律動を繰り返すという。だからミミズが千匹もうごめく感じになるが、ミミズの休憩時間におうかがいしたってダメだ。  さてこのミミズ千匹なる言葉、昔からあったのだが、これを流行らせたのは作家の梶山季之が、『女の警察』という小説につかってからだ。  これには(末永勝介・近代日本性豪伝)という本に面白い話がある。  さる地方の温泉芸者で、豪華なマンションをぶっ建てた女がいた。たかが温泉芸者ぐらいでそんなものがつくれるとは不思議千万と梶山センセイ、その女に会ってみた。二十七歳とかでなかなかの美人だったそうだが、訳を聞いてみるとおおぜいの旦那たちがいろいろ貢いでくれたためで、その秘密は「ミミズ千匹」だからというのだ。これが梶山季之のミミズ千匹の聞きはじめで、「嘘だと思うなら私をためしてみてヨ、三十秒我慢できたら私のマンションを差上げます」といわれて、梶山センセイ必死で一戦をまじえたが、わずか十七秒であえなくダウン。  その時、彼女は慰めるように言ったという。 「先生は、でもまだお強いほうですワァ」 「上《うわ》つき」は、これは小股に大いに関係がある。 「小股の切れ上がった女」という表現は昔から言いならわしているが、一体小股とはどこかということになると諸説紛々だ。 「股の下の長いこと、つまり胴がしまって足の長い」これが秋山安三郎説。 「足が長くて、腰から下の線が美しい」これが池田弥三郎説。 「かかとから、ふくらはぎの部分を小股といい、ここが切れ上がっているとは、肉が締って格好がいい」これが花柳章太郎説。  誰の説だか忘れたが「両股《りようもも》のつけねの線が水平状でなく、垂直に近い女」というのもあった。  オレはみんな違っていると思うんだ。「小股」とは「股」を強調するためで小癪な——小面倒くさい——小憎らしい、などと同じで、つまり、「股」が切れ上ってるのだと信じている。股が切れ上がったらどうなる。股の裂け目が上へ切れこんでいるのだから自然ワレメちゃんが上の方にあることにならないか。  だから、「小股の切れ上がった女」とは、「上つきみたいな腰つきをした女」細っそりしていながら、痩せていず弾力性のあるしなやかさをもった姿態だというのがオレの学説だ。  昔から「デブの女に上つきは無い」というではないか。 「下つき」はウン道と壁一重ぐらいの位置だから、しばしば|醗腸味噌《はつちようみそ》など混入してきてバッチイもんだ。   けつを拭きゃ 屎《くそ》をすりこむ 下《さが》り開《ぼぼ》  女が性器に羞恥心をもつのは、実は幼い頃からウンチの穴は汚いという観念がしみこんでいるため、反射的にその隣接地帯までに羞恥が及んでいるのだという学説がある。  ところで江戸時代、両国横山町二丁目、日野屋という小間物屋で売られた鶺鴒台《せきれいだい》という腰枕があった。下つき用の枕なのだ。なんでセキレイ台などと名づけたかには、ふかあい訳がある。  日本書紀(七二〇・成立)に、 「ついて合交《まぐわい》せむとするに、しかもその術《みち》を知らず、時に|鶺 鴒《にわくなぶり》あり。飛び来つてその首尾《しゆび》をうごかす、二神みそなはして、これに学《な》いてすなはち交《とつぎ》の道を得つ」  天照大神の両親であるイザナギ、イザナミの両神がめぐり合い、女神のイザナミが「美哉善少男《あなにえやえをとこを》」(アラ、いい男だこと)と秋波を送ると、イザナギの命《みこと》もまた「美哉善少女《あなにえやえをとめを》」(おお美しい女だなァ)と意気投合して、さてセックスに及ぼうと焦《あせ》るのだが、その方法がわからない。その時、一羽のセキレイが飛んできて、尾羽根をピピッと微妙にうごかした。  セキレイという鳥は、「石たたき」ともいって、清流の石などを尾羽根でたたく習慣がある。  両神はこれをごらんになって、「成陰《ナルホド》」とさとった。そして男女の交わりを結ぶことができたという次第なのだ。   こうすると よくなりますと 教え鳥   かよう遊ばせと セキレイ びくつかせ   あれさもう 気がセキレイと みことのり  などと、江戸の川柳はいう。調子にのって、   セキレイの あとに夜這いを 蟹おしえ  なんてふざけたものもある。  だから昔からセキレイのことを、「おしえ鳥」とか「とつぎのおしえどり」といった。  婚礼の島台(州浜型の台の上に松竹梅、鶴亀、姥尉《うばじよう》、蓬莱《ほうらい》山などの飾り物をのせたもの)は、今でも見かけるが、明治の中頃までは、この故事から、セキレイ台という木と鳥の飾りものをのせた台を婚礼に用いたものだ。  男の性器のうごきを鳥の尾になぞらえたのは、なにもこのような日本神話のみではない。  万葉集に、   汝背《なぜ》の子や とりのをかちし なかだをれ 我《あ》を音《ね》し泣くよ 息《いく》づくまでに  という歌がある。  どういう意味か、手もとの(小学館『日本古典文学全集』万葉集・3)の解釈を見ると、 「わたしの夫よ とりのをかちし なかだをれ わたしを泣かせるよ ため息が出るほどに」とあって、何のことやらサッパリ意味がわからない。  頭註を見ると、「とりのをかちし、なかだをれ——難解。シは強めか。一説にトリノオカを地名とし、和名抄《わみようしよう》の常陸国鹿島郡下鳥〈現・同郡大洋村〉附近に擬し、その岡道《おかじ》が中途で折れ曲っている意とする。しかし原文〈乎加恥《をかち》〉の恥はチでヂとは考えられず、岡道とは解釈しにくい」  結局、なんだかわからないのだ。オレはこう解釈する。  この歌の「汝背の子や」は、「あなたの子・セガレ」ということだが、問題は「とりのをかちし」だ。  これは日本書紀のセキレイの話を考えれば簡単に解釈できるではないか。  つまり、「とりのをかちし」は「鳥の尾梶」だろう。舵でも楫でもいい。舟を操る道具だ。フネってなんだなんてヤボな質問をするな。梶のとりようで舟が行ったり気がいったり。なッ、その男の尾梶が中途〈なかだ——なかば〉でぐにゃっと曲っちゃった。いやガックリ折れちゃった。  現代川柳の、   前略で はじめ早々 頓首寝る ——富一——  みたいに、早漏亭主の腹の下で、「我を音《ね》し泣くよ」わたしは声をあげて泣きます、「息《いき》づくまでに」息がとまっちゃうほど、くやしくてじれったくて、という女房のもだえ泣きの歌ではないか。   ※[#歌記号]オソソの臭いのを ケツめに聞けば    わたしゃ 隣の 愚痴言わぬ [#地付き]チョンコチョンコ  それかあらぬか、女によっては後背位、つまり「うしろどり」を嫌うのがいる。  テメエの下つきを棚に上げて、家庭裁判所の離婚訴訟の理由に、「夫が要求するあの体位は、女性として屈辱をおぼえる」というのが、ままあるそうな。 「犬みたいでイヤよッ」てえわけだろ。もっとも中腰でこれだと「田植ボボ」という形になるから、農村出身の女ならそんなヤボは言うまい。  とにかくオナメラはしょっちゅう便秘をしているから、どうしても潜在的にケツの衛生状態に不安な意識をもっている。  ワンチャン・スタイルがどうのというのは女の言いがかりに過ぎない。いにしえはこれが正しい体位で、女が髪を長くする風習は、男がうしろからつかまるためだった。この体位「けつもどき」ともいう。「もどき」とは「模擬」のことで、雁の肉に似てるというのが「がんもどき」梅に似てるから「梅もどき」だからこの卑語に従うかぎり、前穴は後穴の代用という理屈になる。  後穴専門のオカマも、一流どころは日常の心掛けがちがう。肉食で脂ぎっては客も逃げるだろうし、それに植物性の繊維質を摂取することによって便秘を防ぐ知恵を身につけているのだろうか、有名なオカマちゃんは申し合せたように菜食主義だそうな。  それでこそ客は安心というものよ。これが魚好きのオカマであってみろ。鯵《あじ》の小骨かなんか刺さっちゃう。  とにかく、後背位なんて「屈辱をおぼえる」ほどのもンじゃない。こういう女は後背位がどうのじゃなくて、やりたい恰好でヤッテくれないから別れるというだけのこと。  よく考えると、亭主よりそれを拒絶した女房のほうが哲学的に助平だよな。   じれってえ こと下反《したぞ》りに 下《さが》り開《ぼぼ》 「毛長《けなが》」女のアノ毛はおよそ四センチが標準だが、十センチ以上もあるのがいる。古来、毛長毛深は賤しい相と毛相学ではいう。医学的にはかたい毛の女に意外や発育不良が多く、長い毛に不妊症が多いということで毛相学もアナがち迷信とは片付けられない。  昔はずいぶん毛の長いのがいたらしく、各地の神社仏閣の宝物に七難のそそ毛というのが残っている。七難をそそぐ——すすぎ洗い去ってくれる縁起のよい陰毛だそうで、箱根権現、近江の竹生《ちくぶ》島神社、信濃の戸隠神社、下総の東光寺などにあるそうな。東光寺のは長さ三丈余りという。上野国《こうずけのくに》(群馬県)の神流《かんな》川で、慶長の頃(一五九六—一六一四)洪水に流されて来た陰毛の束は長さ三十三尋(約一・八米が一尋)とあり、村人が詮議したところ、村の山奥に鎮座する野栗権現の流し給うた陰毛であるとわかった。  村人は大いに驚きおそれ、これを箱に納めて毎年六月十五日の祭礼には神輿《みこし》渡御の先触れとして名主が捧持した、と富士崎放江庵の『褻語《せつご》』という本に出ている。  まったく、これがほんとのサキ触れで、サキ触れを露払いとも言うんだから日本語はよく出来ている。   ※[#歌記号]風も吹かぬに ボンボの毛がそよぐ    核《さね》のあくびか 屁の風か  毛長は一面毛深でもあるわけだが、   乳母が開《ぼぼ》 ほどに達磨《だるま》の 大あくび  で、むかしはこの形容を、「手負烏《ておいがらす》」などとも言った。真っ黒な羽根の間から、ぱっくりと赤い傷口が見える烏だというのだ。  こういう異名をさがしているうち、「サネスダレ」というのを見つけた。なるほど言い得て妙と感心して調べてみたら、これは信越国境辺の方言で腰巻のことだった。なお褌は「尻くぐり」というそうな。『近世庶民文化15号』に藤沢衛彦が書いている。 「前垂《まえだれ》」世にこれをホッテントットのエプロンといって、ホッテントット族は、幼いうちから小陰唇を指でつまんで引っ張り、長さ十八糎ぐらいまで発達させるそうな。  これには遠く及ばないが、明治の毒婦として有名な高橋お伝のソレは左六糎、右六・二糎という見事なもので、戦後、浅草松屋デパートの性生活博覧会にフォルマリン漬の本物が初公開されて話題を集めた。  ——ある後家さん。旦那に死なれたさみしさにホカホカと蒸したサツマイモを使って、ひとり楽しんでいるうちに、あまりの気持よさに失神しちゃった。そこへ一匹の鼠がやって来て、そのイモを夢中で喰っているうち、いつしか後家さんの穴深くもぐりこみ、後家さんがハッとわれにかえったときは、もうシッポしか見えない。  サア大変だと後家さん。少々頭の弱い下男の権助を呼び、「権助や一生のお願いだよ」と、権助の股間の太棒で奥の院を突つかせて鼠を追い出そうという苦肉の計。  驚いたのは鼠。うしろのほうから変な棒が突きあげてくるから、奥へ逃げようとしたがそこは行きどまり。苦しまぎれにふりむきざま追ってくる権助の棒先にガブリと噛みついた。権助が「イテエーッ」と飛び上がったすきに鼠は逃げちゃった。  頭の弱い権助のこと、もしもこの事を近所にでも喋られてはと後家さんは充分に手当をやって権助を故郷へ帰した。  さて故郷へ帰った権助に嫁の話が起きる。だが権助は、「女にゃあ、ネズミがいるだ。おっかねえ」の一点張り。それじゃ鼠のいない嫁を世話してやろうとなだめすかして、いよいよ初夜をむかえた。すると床入したばかりの権助の、「鼠が出たアーッ」という悲鳴が聞こえた。  仲人が飛んでゆくと、権助、下半身むきだしにした花嫁の股ぐらを指さして、ぶるぶるふるえている有様。  なんのことやらさっぱり分らない仲人が、「権助、鼠はいったいどこにいるんだッ」と怒鳴ったら、 「あれ、あそこに鼠の耳が見えています」 「まんじゅうぼぼ」江戸時代、女陰のことを毛饅頭とも言った。  ふっくらと土手の高いのは、さながら饅頭の丸みのある感触である。勿論、それに毛が生えているから毛饅頭である。 「湯ぼぼ酒まら」といって湯あがりのアレは格別だが、なかんずくこの饅頭ぼぼの蒸したては絶品だ。  青森県の酸《す》カ湯《ゆ》温泉には「まんじゅうふかし」というのがあるそうな。  なんでも箱の底に穴があいていて、その下を温泉が湯気を立てて流れている。で、その穴へ女は穴をあてて蒸す。  冷え症をなおす子宝の湯てえわけだ。  ところが、世の中には皮肉な夫婦もあるもンで、   不都合さ 亭主湯上り 女房酒  なんてのもあるし、湯ぼぼ酒まらであっても、   酒まらも 程があるよと 女房じれ  と、飲みすぎて、中棒不如意の亭主もいる。よく知られている小咄に、「饅頭がこわい」というのがある。  若い衆が集まって、この世の中で一番こわいものはなんだろうという話になると、その中の一人が、「おれは饅頭を見るとまっ青になってふるえあがっちゃう」という。  仲間たちがこいつは面白いと饅頭を買ってくると、その男、「こわい……こわい」と押入れに逃げこむ。それっとばかり押入れの中へ饅頭を投げこみ、戸をおさえて様子をうかがっていると、そのうち押入れの中の男が変にしずかだ。さては気絶でもしたかと戸を開けると、投げこんだ饅頭をすっかり平げていい顔しちゃってる。  アタマに来た仲間が、「このヤロウ、てめえいったい何がこわいんだ」とドヤしたら、その男、「オオ、おれはお茶が一杯こわい」  この話、饅頭を喰ったあとだから、お茶を飲みたくなったというだけの解釈では困るのだ。  延宝九年(一六八一)の『朱雀遠目鏡《すざくとおめがね》』という遊女評判記の中に、 「お茶のあたり、ふくらかに饅頭をあざむく如くなることこそよけれ」  とあって、お茶とは、茶壺、茶釜、お茶碗などとも言われる、女陰の異称だ。   十六で 娘は 文福茶釜なり  これは、群馬県館林の茂林寺の狸が茶釜に化けた伝説で譬えたもので、文福茶釜に毛が生えた——と娘も十六なれば、茶に毛が生えるというわけだ。  この小咄、饅頭も茶も「女陰」という意味がかくされているから、「女が、いっち好き」というオトシを感じとらないと、おかしみがうすい。   ちぢれてる ほど味のよい 茶の葉むき  手もみの玉露の葉みたいな「茶」の毛は極上で、ちぢれ髪の女は情が濃いという俗説がからませてある。  嘉永六年(一八五三)喜田川守貞の著『守貞漫稿』に、 「江戸にてちぢれつけと云《いう》。何《いつ》の頃にや、縮髪流布し、生質《うまれつき》縮髪なるは昔日《むかし》とても稀なる故に竹を炙《あぶ》り髪に当れば自ら縮と也。好色の輩は為之《こうなし》て縮めしと也」  と、「江戸のパーマ」のやり方を語っているが、現代の女性は、誰もがパーマネントをかけているから、もし江戸人が見たら気の毒にみんな名器と勘ちがいしちゃうだろう。  まさに、羊頭狗肉とはこのことだ。 「茶」が女陰だから男の一物を「茶柱」という。こいつが立つと縁起がいいと言うのは、日本古来の陽根崇拝の信仰からきている。だが近頃の娘はそういうことを知らないから、聞きっかじりで人前はばからず、 「アラ、茶柱が立ったわア。いいことありそオ……」なんて無邪気によろこんじゃったりする。  こういうおかしなことはまだある。 「あたし、ちょっと、お茶っぴいなの」なんてご本人は、茶目っ気のつもりだろうが、このお茶がまさか自分の持ちものたあ気がつくめえ。その上、「お茶っぴい」の「ぴい」がいけない。「ぴい」とは中国語の「|※《ぴ》」で、これまたナニなのだ。この※はそのため中国では売春婦の意味にもなっている。 『閑吟集』(永正十五年・一五一八)にも「茶」の歌がある。   新茶の 茶壺よ なふ    入れての後《のち》は こちや知らぬ  新茶の茶壺とは、年若い娘のソレで、蕾を散らしたあとのことまでは、おれは責任もたないぞ、というのだ。  こちゃ知らぬは、「古茶」にかかっている。  壺の語義は「つぼむ」で、「つび」という女陰の名称は「つぼ」が訛ったものだ。   車井戸 |阿※[#「口+云」]《あうん》そなわる 下女が壺  阿※[#「口+云」]は、一対の仁王や狛犬の口が表現するように、吐く息《いき》吸う息のこと。車井戸の重い釣瓶《つるべ》をおろし、力いっぱい引上げて水を汲む下女のふんばりようを、うまくとらえている。女房の味はお茶漬の味——といえばどんなにぜいたくなものを喰っても、日本人の食事の行きつくところはあのさらさらっていうお茶漬のよさだ。どこを遊び歩こうとも、やっぱり落つくところは家庭の味……とまア、女房はそう善意に善意に解釈するだろうが、新茶のお茶漬ならうまかろうが、どうせ古女房なんて、いうなれば「出がらしの番茶」ではないか。  お茶漬の味ったって、粗食粗マンの味とも言えるのだ。 「実高《さねだか》」なんてえのもあるが、饅頭のようにふっくらしたところへ、中華まんじゅうの真ん中にぽちっとついている食紅の点みたいなものと理解されたい。  しかしこの饅頭も、近頃は整形外科医が、流動パラフィンか、シリコン液か知らないが土手にたっぷり注入して、すぐ一丁あがりとなるから、饅頭も人工甘味料入りになっちゃったナ。  イギリスの人類学者、エレン・モーガン女史の『女の由来』という本には、 「クリトリスは大昔、性感のためのものではなく、女が小便を飛ばすためのもので、指でつまんで引っぱって〈つまり江戸の秘語でいう核長にして〉高い樹の上から自由自在に小便を飛ばす舵の役目をしていた」ものだそうな。それが「やがて森林の中の生活から、豊富な海産物を求めて海辺へ移動してゆくと退化してしまった」という。  この学説にオレが尾ひれをつけると、「退化」したアレは、やがて海産物と「同化」することになる。  鮨屋の隠語と言っても、今日、誰でも知っていることだから隠語とは言えないが、シャリ、カッパ、ヒカリ、オドリ、ヒモ、ヅケ、ゲソ、ジンガサなどあるが、そのほかシャコをガレージなんて言うこともある。  鮨ネタで一杯やろうと、カウンターに腰をおろすと、枝豆などが突出しに出てくる。  突出しの豆だからクリトリスだろうとオレは思ったが間違った。  高級の鮨屋では扱わないが、「青柳」つまりバカ貝がそれだ。  この青柳を舌《した》という。舌べろのことではない。「吉舌《ひなさき》」という古来からのクリちゃんの名称なのだ。  どういうわけで吉舌というのか実は判らないが、吉の「士」の字は人間が両手両足ひろげて伸ばした形のようだし、その股のところに口があるから吉、その口にある舌だから吉舌なのかも知れない。  火は火処《ほと》で、「ほと」は女陰だ。その先に、ちょっとつん出ているから、火のさきが「ひなさき」となった。  ところで突出しの豆説は間違いでも、豆という言葉がクリトリスをさすことは古来から明白なことで、「はじけ豆」「そら豆」「毛豆」などと言う。そいつを盗むやつが「豆泥棒」だ。  江戸時代のはじめ頃から日本全国六十八カ国で民衆にうたわれていた唄を、明和九年(一七七二)に出版した『山家鳥虫歌《さんかちようちゆうか》』別名を『諸国盆踊|唱歌《しようか》』というのがある。  今でもよく知られている唄に、   ※[#歌記号]目出度目出度の若松さまよ    枝も栄えて 葉もしげる [#地付き]山城(京都府)   ※[#歌記号]咲いた桜に なぜ駒つなぐ    駒が勇めば 花が散る [#地付き]伊賀(三重県)  佐渡おけさの文句の原型と思われる、   ※[#歌記号]来いと言うたとて 行かれる道か    道は四十余里 夜は一夜 [#地付き]長門(山口県)  まあそんな風にのちの民謡の定型ともいうべき、二十六音字形の唄を完成したと見られる民謡集だが、中にはごくわずかながら破調のものもある。その一つに、   ※[#歌記号]|早乙女《さおとめ》の 股ぐらを 鳩がにらんだとな    にらんだも道理かや    股に豆を はさんだと なよな [#地付き]——伯耆《ほうき》——  たぶん若い娘が草むしりなんか、しゃがんで働いていて、股ぐらからちらりと見えた豆を、近眼の鳩らしく豆だと思ってのぞいたというわけだろうが、この唄から伯耆の国はいま「鳥取《ヽヽ》県」になっているんだとオレはかたく信じている。  鳩が豆をつっつくのは可愛いが、明治時代、摺子木で豆をつぶした男がいた。  明治十一年六月七日の朝野新聞に、 「腹を立つにも際限の有る者なるに三尺棒さへ這入らぬ処へ摺子木を突入れし困り者は麹町三丁目の車夫秀公にて妻のサダが実家へ往くと欺き近所の明き長屋で男と寝て居たるを見付け出し男は逃げた跡で其家へ引摺り往き之を高手小手に縛り上げ……離縁状をつけて其のまま媒人《なこうど》へ引渡したと云ふが女も悪いが秀公も余り残酷な仕方だと近所の内評」  と、かくしてマメな女房のマメはスリ鉢と共に微塵になったことを報じている。  さて、蛸、巾着、土器、閂、愛宕山……と女陰の異称を挙げてきたが、これで全部ではない。 「濡開《ぬれぼぼ》」は、沖の石とも、洗濯ぼぼ、ともいう愛液多量のヤツである。   新しい うちは女房 沖の石  鵺《ぬえ》退治で有名な源三位頼政の娘の二条院讃岐の歌で百人一首にも入っている、「わが袖は 汐干に見えぬ沖の石の 人こそ知らねかわくまもなし」の下の句がオチだ。洗濯ぼぼは、むかしはタライ桶でしゃがんでゴシゴシと洗濯した。  いきおい腰が調子をとるから、リズムにのってアレがいろいろ変形する。そのため熱をおび、愛液の湿潤が活発となる。  こういう状態になるのを「練れる」というのだ。  しゃがんで洗濯はインスタントな練れで、もっと自然な練れがあった。  女が遠道を歩くと、この自然の練れで極上の味になるといわれて、江戸時代は下町の六カ所の札所の六阿弥陀とか、あるいは目黒不動とか、女房が外出して遠道するのを亭主はよろこんだ。   女房は 駕籠で帰って 叱られる  安永三年(一七七四)に刊行された『豆談語《まめだんご》』という小咄本に、  女房 目黒(不動)参りして帰る 亭主「やれやれ早かつた くたびれてあろふ」といふうちもはや四ツ前(夜の十時)「さあ」といへば 女房「さてさて今日は足に豆が出来て 帰りに行人坂《ぎようにんざか》から駕籠に乗つて戻りました」といへば 亭主「今日は遠道をしたゆえ 能く練れてよかろふか 一日楽しんで待つたに 駕籠とは」と はなはだ不気嫌 女房「それなら仕方がございます」と 梯子《はしご》へあがつたりおりたり十四、五へんして「さあ ねれやしたか」といへば 亭主「いやいや まだ粒がある」  この咄、目黒名物の粟餅を知らないとおかしみがうすい。  亭主が「いやいや まだ粒がある」というのは、女房の土産の粟餅のつぶと練りのたりない女房のソレとを重ねて言っているのだ。   粟餅の ほかに亭主へ いい土産  アレは女の身体の動きと連動式になっていると男はかたく信じているらしく、   立膝の 開《ぼぼ》三角に 口をあき  サノサ節にも、   ※[#歌記号]オソソ 変なもんだ ネ    オソソ変なもんだ 座れば笑う    立てば 怒って口結ぶ    立膝すればね くしゃみする    というて あぐらかきゃ 大あくび [#地付き]サノサ  こういう動きを激しくすることによって「練れ」の度合は濃密になってゆくのだ。 「鞄《かばん》」この異称は明治以後に出来たもの、入口も中も広いアレである。もっともこの鞄という字、明治十年に銀座の谷沢かばん店のオヤジが考えて看板にしたもの。江戸時代は胴乱《どうらん》というものがあったが、文明開化と共に革包(中国語でキャーハン)が入ってきて、それを一つにまとめた文字が鞄だ。いまは辞書にも堂々と載っている。  この看板、明治天皇のお目にとまり、「何という字であるか」と御下問があったが、宮内省の役人共、誰も読めなかった。  そりゃそうだ。かばん屋のオヤジさんが、勝手にこしらえた字なのだ。しかし谷沢かばん店の主人は、「天皇陛下を御悩ませ申し上げ恐れ入り奉る」と、さっそく「かばん」とふり仮名をつけたという。 「皿」はあとの小野小町の稿にゆずって、「糠並《ぬかなみ》」というのもある。  糠に釘だから説明もいるまいが、これは「大つび」であるわけで、大つびには天明八年(一七八八)に歿した壱岐の神官で国学者でもあった吉野秀政が著した『神国愚童随筆』に面白い話がある。  原文をわかりやすくすると、 「むかし播磨の国に大まらの男がいた。筑紫の国に大つびの女がいた。お互に有名だったので、男はぜひいちど女に逢ってみたく思った。女もまた、たのもしい男の噂を聞いて、ぜひ男に逢ってみたいと播磨の国へたずねてゆく。ちょうど兵庫で二人は出会うが、さて二人が営みを交そうとするき、女は|つび《ヽヽ》の中から材木を取り出して八|尋《ひろ》(一尋約一・八米)の家を造って見せた。これが私たち二人の愛の巣ですというわけだったのだろう。播磨の男はそれを見て吃驚して、小便をしにゆくふりをして逃げてしまった。筑紫の女は必死になってあとを追う。男はこれはもう逃げきれないと、海辺の砂を掘りその中へ身を埋め、大まらだけは埋まらないからニュッとそとへ出しておいた。そこへ女が追って来て〈はて、たしかこの柱のあたりまで逃げて来たはずだが、どこへ隠れたのかしら〉と、柱のまわりをぐるぐる廻った。男はおかしくなって、思わず小便を漏らしてしまったが、女は〈これは大雨が来た〉と、もと来た道を急いで引返していった」  という話なのだ。 「蛤」といえばアレの俗称だが、   蛤は初手《しよて》 赤貝は夜中なり  という古川柳をご存知か。  江戸の婚礼の宴席では、まず蛤の吸物から始まったのが当時の風習で、三々九度のお盃もすんで、やがて新郎新婦のお床入り。なッ、赤貝は夜中なりなのだ。  また蛤は王朝の貝合せの遊びにもあるように、おなじように見えても、他の蛤とは合わせてみると絶対に合わない。夫と妻という上下二枚の蛤貝は、他の貝と合わず、いつも一組でいるようにという縁起のための吸物なのだ。で、こんな解釈は、いままでいくたりもの先学が繰り返し書いてきたことだが、ただそれだけの意味での婚礼の蛤の吸物なのか、もっとほかにわけがあるのではないかとオレは考えていた。いや今でも知らないのだがその疑問を解く鍵になりそうな本をみつけた。  明治四十年(一九〇七)の著作だそうだが、ユーゴスラビアの民俗学者クラウスが書いた『日本人の性と習俗』(安田一郎訳・昭53・桃源社)の一部を抄出すると、  ——「日本の結婚式のさいの貝の汁は、おそらくはもと小便が用いられたことの代用であろう。アフリカの多くの黒色人種では、新郎新婦を牛の小便で洗ったりそれをひっかけたりする慣習がある。チュクト人やエスキモー人は夜の客に妻や娘を性行為の相手として差出すが、客はそのまえに碗に注がれた彼女の小便を飲み干さねばならない。そうすると彼はその晩本当に彼女に信用される」  つまりエスキモー蛤のオツユを飲むことがその夜の男と女の契りの導入部になるのだ。  なるほど一理あるし、婚礼蛤吸物起源の解明になりそうな気がした。   赤貝の うまいは蛸の 味がする  赤貝を買って水に入れておいた。赤貝のやつ、ベロを出して口をあけている。そこで男、そっと貝のあいだに指を入れたら、赤貝怒って、ギュッと指をはさんじゃった。痛えのなんのったって、あわてて医者を呼んだら、医者いわく「まだ指でおしあわせ」  さて、蛤で何年か前のことだが、『消費者』という月刊誌にこんな記事がのっていた。  まず、東京に住む一主婦の投書である。 「バス旅行で神奈川の真鶴へ行った。その時、T水産という土産物屋で蛤と記された桶に入った貝を買った。帰ってから蛤にしては大きく、色も少し変だと思って、近所の魚屋に見せたら、蛤ではなく魚屋では捨てるような貝だという。そこでT水産に電話して文句を言ったら、あれは〈沖蛤〉だといった筈だ。蛤とは言わないとの返事。是非この貝を調べて、今後不正表示をしないよう指導して下さい」というのが投書の主旨である。  これに対して消費者協会相談室の回答は、 「早速、この貝の鑑別を農林省水産試験所に依頼したところ、ウチムラサキ貝と判明した。  貝の内側が紫色なのでこの名がある。食べられないことはないが蛤のように美味ではない。しかもこれは真鶴でとれるものではなく、三重県の方から買入れて売っていたもの。あるいは三重地方では、沖蛤というかも知れないが、一地方の呼び名で消費者を錯覚させるのはいけない。取締りの機関に通告しておいた」と、まあそんなわけだ。  オレは、こりゃあ興味ある話だと思う。蛤もウチムラサキになると味が落ちるものな。  むかしは結婚前の男は遊廓などで女を覚えて、閨房の秘技を身につけてから女房を持った。  嫁に来るほうは、今とちがってほとんど処女だから性技などまったく無知だ。  だから亭主は、新妻を仕込んでゆくことに人生の生甲斐を感じたし、新妻はつれそう男によって女の悦びを知った。  夫婦の和合とは、これが理想なのだ。  言いかえれば、女房をしあわせにするため、男は吉原大学など、イヤイヤながら苦労を重ねて卒業したのだぞ。  経験を積まない男が、女をリードし満足させることが出来ようはずもない。  春秋の筆法をもって言えば、売春防止法などという悪法を通過させた女代議士どもは、女の味方と僭称しながら実は女性の敵といえるではないか。  女どもよ、男がそとで遊んだからとて、不潔などと神をおそれざる大それたことを夢ゆめ言うでないぞ。それがやがて複利計算のよろこびとなっておんみらのところへ還元されるのだ。  先年、オレが九州は宮崎へ旅行したときのことだ。  宮崎ってえところは、新婚さんでゴッタ返している。  朝、ホテルのレストランで飯をくいながらあたりを見廻したら、オレ以外、全部新婚のカップルばかり。しかしオレは人間が出来ているから、サミシイともうらやましいとも思わない。  ハハン、このなかで何組ぐらいが、いずれ離婚するのかナ。婚前交渉のあった組はアレだナ。こっちはどうも見合い結婚らしいナ。なんて結構楽しんじゃった。  で、空港へゆく途中、タクシーの運転手に、 「宮崎へ来て、新婚さんにあてられ通しだったよ」といったら、 「いいえ、あれでなかには新婚旅行中に空中分解するのがいるんですよ。花嫁さん一人でサッサと車に乗ってくるから、ご主人はって聞くと、いいの、あんな人、置いてくのよと、サバサバした顔で空港からひとり帰っちゃうのがちょいちょいありますよ」という話だった。 「へえ、婿さんが嫁さんを、ほうり出してくケースは無いの」 「ありませんねえ。嫁さんのほうばかりです。この間なんかひどいのがいましたよ。車の中で花嫁さんが婿さんに怒鳴ってるんですよ。何んて言ってたと思います。あんたみたいに下手な人ははじめてよ……って、驚きましたなぁ」  これにゃあ、オレだって驚く。 「で……婿さん、何てやりかえしたの」と聞いたら、 「いえ、真赤になって下をむいているんです」  ああ世も末だぞ。花嫁のほうはOLかなんか知らないが、婚前にベテランの中年男たちにいろいろ仕込まれて、男というものはすべて、かくのごとき神技を持っているものと、信じていたのだろう。  ところが、あにはからんや、婿さんは未経験か、経験不足かで、とにかく彼女の期待は無惨にうちくだかれたのだろう。  それにしても、ものには言いようがありそうなもの。  このお二人、たぶん東京へ着くやいなや別れちゃったろうが、何事ならんと集まった親類縁者に、花嫁は離婚の理由として「あの人、下手だからイヤ」と公言したかどうか。 『週刊大衆』(53・4・27)に、「テレフォン・セックス・相談室」の荒川靖子室長の仕事が紹介されていた。  この相談室、カウンセラー四人で、一日、千三百人の相談をこなす忙しさ。  ところが相談してくる六五%が男、三五%が女だそうな。  この数字がアベコベならわかるが、これはどうなっているんだ。  かつては男には性の知識も経験もあり、女の子はキッスされただけで妊娠するのではと思い悩むほど可憐だった。  いまは、性に関するかぎり、男のほうがまるでウブなのだ。この記事に、 「一週間後に結婚しますが、非常に不安です。うまくできるでしょうか——。男・二十二歳・千葉」 「旅行四日目ですが、性交しようと思っても、自分の性器が入りません。えっ! 前戯って? 膣って? 性器はどこに入れたらいいのですか——。男・二十五歳・熱海より」  いやはや ※[#歌記号]あわてしゃんすな そこあケツの穴……って昔のバレ唄を地でゆくようなのがいるかと思えば、 「初夜で妻に�ヘタね�といわれショックです。もうセックスする気になれません。それまで童貞でした——。男・二十四歳・都下」  この人、宮崎へ新婚旅行に行った人じゃないだろうか。  これに対し、ガマ先生こと蛎崎要さんは、 「たしかにだらしのない男が増えている。未経験だが情報で知識だけは知っている。クルマを運転できないペーパー・ドライバーみたいなものですね。ひとつは過保護ですよ。ホモもそのひとつだが、新婚旅行まで母親がついてゆくケースがありますからね。そういう母親に依存心の強い坊やは、アメ玉でもしゃぶらにゃボッキせんのだよ」  ペーパー・ドライバーとは、さすが専門の医者だけに言い得て妙だ。  男がペーパー・ドライバー、女が一見新車じつは走行四万キロじゃ、とても人生街道を走るわけにはゆくまい。  過保護うんぬんの指摘も、ごもっともだ。幼稚園へ子供を送り迎えする愚かなママがゴマンといるのだ。  子供なんて、雨でも風でも堂々ひとり行く気概を幼いうちに植付けにゃあ、男らしい人間に成長などおぼつかない。  人間なんてものは、大人も子供も、それ相応の風雪に耐えてこそ、強く生きることを体得するのだ。  さて新婚当時は、   ※[#歌記号]ゆうべ三つして 今朝また二つ [#10字下げ]  合せて五つ    紙は無くなる 目はかすむ [#8字下げ]シノノメノ ストライキ  と、東雲節《しののめぶし》にあるように 励んだもんだ。   その当座 昼も箪笥の 鐶《かん》が鳴り   紙屑を ひろって起きる 若夫婦   内裏雛《だいりびな》 寝床に落ちる 新世帯  やがて、   朝まらや 小便までの 命かな   目は目鏡 歯は入歯にて ことたれど  と嘆く年になるまでは青春ふたたびめぐらず、若さの限り一筋に夜討ち朝駆け、フウとよがればウンと突出す風雲を捲き起こすのが、新世帯ではないか。  そうそう夜討ち朝駆けで思いだした。  昭和七年五月十五日。いわゆる五・一五事件で陸・海軍将校らの襲撃をうけて暗殺された総理大臣犬養毅の名詩がある。  大正のおわり頃か、犬養毅は琵琶湖畔の旅宿、紅葉館に泊った。  ふと、床の間を見ると、陸軍軍医総監、松本順の「暮々最佳満湖情」と達筆に書かれた軸がかかっていた。  意味は、「なみなみと水をたたえた琵琶湖の夕景はまことに美しい」ということになるが、音読してみると、ちとおかしい。 「ボボもっともよし、マンコの情」だ。  ニヤリとした犬養毅はやおら筆をとってこの軸に書きそえた。 「朝々秀絶 沈峰景」  湖の彼方、たちこめる朝靄にに見えがくれする比良、比叡の峰はまことに素晴らしい——だが、これまた、読んでみると、 「朝々秀絶 チンポの景」で、  オレ流の解釈だと、この「朝々」は、「丁々発止」の「丁々」と音《おん》が通じているし、「秀絶」は「ぬきんでいてすぐれ、ならぶものがない」という意味だから、かたい金属のようなものが打ち合う「丁々」と「秀絶」を組合せれば「朝まら」の隆々《りゆうりゆう》たる状態となる。  さすが木堂と号して漢詩に長じていた犬養毅首相らしい作と感心するのだ。  昔の政治家には教養があったな。  女と生れていちばんの悲劇は「皿開《さらぼぼ》」だ。これには二つの状態がある。  一つには処女膜肥厚症。一つは膣欠損症だ。江戸時代にはこの区別ができないので、ひとつにまとめて「お皿」といった。  小野の小町は「穴なし」で名高い。近頃の娘は和裁などやらないから知らないかとも思うが、裁縫につかう「待ち針」というのは針の頭に色のついた玉などある針がそれだ。あれは正しくは小町針、糸を通すメドがないわけであるな。  この穴なしを「鎖陰《さいん》」というが、名付け親は有吉佐和子の小説などで近頃とみに有名になった紀州の藩医、華岡青洲《はなおかせいしゆう》だ。  青洲の家は代々名医で、初代が随賢、二代は直道、三代目が青洲、いずれも南蛮流外科に長じていた。  青洲は宝暦十年(一七六〇)に生れ、天保六年(一八三五)に七十六歳をもって歿した。いわば江戸の後期に活躍した人だ。  この人が鎖陰を治した例はいくつも記録があるが、いずれも「処女膜肥厚症」であったらしく、「膣欠損症」らしき例はない。  青洲の祖父などは鎖陰の女に干大根を入れて治療したようだ。カチカチに干した細い大根をまず挿入する。もちろん奥まで入らないから、わずかでも入るところまでにする。  膣の中でやがて干大根はフヤケてくる。時間をかけてゆっくり膣内をひろげるわけだ。  ひろがると、また新しい干大根をさらに少しずつ奥へ挿入する。これをくり返して次第に道路拡張工事を進めてゆくのだ。  青洲は麻薬をつかって切開し、さらに拡張工事には張形など器具をつかった。  この麻酔薬は曼陀羅華《まんだらげ》や、アイヌが毒矢の先に塗る附子《ぶし》(烏頭)という植物を用いたそうな。曼陀羅華というのは朝鮮朝顔や紫華曼《むらさきけまん》の別名だそうだが、どっちが麻酔薬になるのか知らない。  ただ鎖陰の治療には、「ムラサキ・ケマン」のほうが、ひびきがよくてふさわしい感じだ。  この麻酔薬の研究のため、青洲ははじめ犬や猫の動物実験をしていたが、やがて母親や妻が自ら進んで人体実験を買って出た。  種痘を発見したジェンナーがわが愛児をまず実験に使った話と似ている。その結果、妻の加恵《かえ》は失明してしまうという悲惨な犠牲をはらって、青洲は漢方による麻酔薬の抽出に成功したのだ。  さて、「膣欠損症・無膣」は当時の外科医学の力では青洲先生でも手の下しようが無かったろう。  現代医術ではこれを治療するには、まず処女膜にあたる部分を切開し、次第に中へメスを入れて指二本ぐらい通る道をつける。それへ小腸を切りとって挿入し縫いつけるのだ。腸はのびちぢみするから、だんだんに太いものを受け容れることができる。これが膣欠損症の手術なのだ。  ただ腸をつかっているだけに、前門が時々下痢をするかどうか聞き洩らした。  小野の小町は、肥厚症か無膣か、今は知るべくもない。  小町は平安朝前期、六歌仙にかぞえられた優れた歌人で、学者として歌人として名高い小野篁《おののたかむら》の孫にあたり、父は出羽守良真《でわのかみよしざね》という。  小町は美女の誉高く、今でも美しい娘さんのことをナントカ小町というように、小町とは美女の代名詞にまでなった。  もっとも、いまの娘、小町なんていわれて単純によろこんではいられないよ。「穴なし」の意味もあるんだから……。  この小町、当時美男で知られた在原業平《ありわらのなりひら》の恋人説もあるが、俗説どおりだとしたら、清い関係で終らざるを得なかったろう。だから、   うたたねに 恋しきひとを 見てしより    夢てふものは たのみそめてき (うたたねの夢で、おもいがけなく恋しい人に逢うことが出来ました。それからというものは、私は夢を見ることを心待ちするようになりました)  恋しい人が夢の中へ来るということは、相手もまた、自分を思い、逢いたがっているのだという呪術的考えが当時はひろく信じられていた。  しかし、この歌もっと深い意味がありそうだ。   ※[#歌記号]お顔を見たけりゃ お写真で    お声が聞きたきゃ お電話で    こんな便利な 世の中に    会わなきゃ出来ないことがある  と、会わなきゃ出来ない、激しいセックスを、小町は夢の中でおこなったとオレは解釈する。現実には不能な小町だけにアワレではないか。  小野の小町はオラがとこの出身だと主張する所が日本全国に十指に余るほどあり、小町塚なるものがあちこちにある。  平家落人部落なども、いたる所にあるが、全部、眉唾で、いわゆる貴種流離譚の世界だ。山深く隠れ住んだ平家の落人が川に箸を流したため、下流の里人に発見されて……なんて話は簸《ひ》の川からながれてきた箸で人里を知った、八またのおろち退治の神話と同工だ。  この小町伝説も、どうせ流れ巫女《みこ》かなんかが、「何をかくそう、わらわはもと宮仕せし小野小町なるぞよ」などと吹いた大ヨタを僻地の人々が単純素朴に信じた結果だと思う。  さて、小町は群がる殿上人どもをふりはらい、つきはなしているうちに、やがて年月が流れて、   花の色は 移りにけりな いたづらに    わが身 世に経る ながめせしまに (美しく咲いていた桜の花は、しとしとと降る春の雨にうたれて、すぐに色|褪《あ》せて散ってゆく。私もまた世にながらえて、花のさだめのように、はかなく老ぼれてゆくのか)  この時代、「花」といえば「桜」だから、この花を散らすのは「春|褪《さ》め」で、女の春も色あせてゆく。「眺め」は「長雨《ながめ》」にかかり、また、「長目《ながめ》」でもある。  女のもとへ、男が通わなくなることを「長目」と言い、「夜離《よが》れ」ともいった時代なのだ。まあ、こんな詠嘆をするころは、小町の袖を引くものは誰もいなかったのだろう。  美人の凋落ほど無惨なものはない。ブスが婆あになっても、なるようになった感じだが、美女はむかしの美しさを知るものにとって世の無常をしみじみ思わせる。   手入らずの 婆《ばばあ》と変る 花の色  手入らずとは処女のままということだ。  若き日のその小町に惚れて一命をおとしたのが深草の少将。  俗説にしたがえば、穴が無いのを知らないから、「私のもとへ百夜《ももよ》通って下さったら、あなたに身体を許しましょう」てな不渡手形をつかまされて、牛車《ぎつしや》にゆられてせっせと通った。これが謡曲で有名な「通《かよい》小町」だ。  お稲荷さんで知られた京都伏見の深草の里から、東山区|山科《やましな》の小町の邸まで、少将は雨のふる夜も風の夜も純情一路せっせと通った。  この時代、タイム・レコーダーなんてものはない。  そこで少将は牛車の榻《しじ》に通った数を刻んで記録した。  榻とは|唐庇 車《からびさしのくるま》、糸毛車《いとげのくるま》、網代車《あじろぐるま》、その他いろいろ貴人用の牛車の牛と車を離したとき、車の轅《ながえ》を支えたり、乗り降りの踏み台ともなる道具で、源氏物語に葵の上《うえ》と、六条|御息 所《みやすんどころ》が、葵《あおい》祭りに車争いをして御息所の一行が榻をこわされるくだりがある。平安朝末期の藤原清輔(一一〇四—一一七七)の『奥儀抄《おうぎしよう》』には、 「あかつきの 榻の端書《はしがき》 百夜《ももよ》書き きみが来ぬ夜は われぞ数《かず》書く」という古今集の注釈に、 「昔 あやにくなる女をよばふ男ありけり こころざしあるよしをいひければ 女 こころみむとて 来つつ物言ひける所に榻を立てて〈これが上に 頻《しき》りて百夜臥したらむ時 言はむことは聞かむ〉といひければ 男 雨風をしのぎて 暮るれば来つつ臥せけり 榻の端に寝る夜の数をかきけるを見れば 九十九夜になりにけり 〈明日よりは何事もえ否《いな》びたまはじ〉など言ひて帰りにけるに 親の俄にうせにければ その夜 え行《ゆか》ずなりにけるに 女のよみてやりける歌なり」  とあって、百夜目、急に親が死んだため、ついに男は来ることが出来なかったが、九十九夜通いつづけた男のまごころに、女は「百夜目は私が書きそえましょう」と言ったというのだ。  そして清輔は、 「これは、ある秘蔵の書に言へりと侍《はべ》れど、確かに見たることなし——と疑ってはいるが、しかし疑いながらも無視できないほどに当時は有力な説であったとも言える」と(片桐洋一・小野小町追跡)いう。  この小町と少将の間で行われた「榻《しじ》のはしがき」は、平安の末には恋の伝統的行事のように、女へ通う男が競ってやる風習にまでなる。   思ひきや 榻のはしがき 書きつめて    百夜も同じ まろ寝(ひとり寝)せむとは [#地付き]——千載集——  と貰った手形が落ちなかった気の毒な男もいたようだ。 『奥儀抄』では、九十九夜通った男の誠意に最後の一夜は女がおまけしてくれた。はたしてこれは小町と少将のことであったかどうか。  俗説では九十九夜目に深草の少将は哀れ目的を達しないまま凍死することになっている。   父《と》っ様《つあま》は 良実《よしざね》なのに 惜しい事  と、出羽守ヨシザネの娘が「穴なし」とはと江戸の川柳は惜しむが、その小町に恋して通った少将は川柳では全く三枚目にされている。  岡田甫の『川柳愛慾史』に所収の江戸川柳には、   少将は 一ト夜で肝《きも》を つぶすとこ  これは百夜目に小町の穴が無いことを知った少将のおどろきだが、また少将ははじめから小町の穴無しを知っていたらしく、   少将は |ケツ《ヽヽ》をする気と 見え給う  だから、   もう一夜 通うと|けつ《ヽヽ》を されるとこ  と小町は絶体絶命の危機にあったわけだ。しかし、   百夜目は 素股をさせる つもりで居  と、なかなか小町のほうも策略をめぐらしていたらしくもある。  一生に一度しか女を知らなかったと伝えられる武蔵坊弁慶とこの小町を、江戸の川柳はこう笑う。   弁慶と 小町は バカだ なア嬶《かかあ》  ところでコンバンハ……なんて愛想よく股ぐらをのぞいた途端に、ツーンとくるヤツ。あれはいけねえナ。  江戸の言葉では、あれを「臭開《くさぼぼ》」といったが、   湯つぼは草津 下女頬ぺたも 赤城山   両ほうの 赤いは下女の 仁王門  両ほうとは、両頬と一対の仁王さまをひっかけてある。仁王門は「匂う門」だ。 「中国の後宮では面的といって、官女が帝の夜の招きに応じられない月経時には、あらかじめ頬に紅粉を塗ってその印とした故事から、頬赤は臭開の俗諺が生れた」という。 [#地付き](中野栄三・陰名辞典) 「ある亭主、本を読んでいながら、紙を切って唾をつけ、本の中に貼るを女房が見て、〈モシ、あんた、なぜそのように紙を貼りなさる〉ときけば亭主〈是はどうもわからぬ事を師に聞くときのため、印を貼っておくのじゃ〉  女房これを聞いて紙を引さき唾をつけて、亭主の鼻先へ貼る。〈コレ、なにをする〉と亭主がいえば、女房〈高くもないが〉(鼻の大きな男は持物が大きいという俗説がある。この場合、鼻はひくいのに、お前さんのものは大きいじゃないの……という意味だろう)  亭主笑いながら紙をひきさき女房の頬へペタリ。〈何をなさる〉と女房がいえば、亭主〈赤くもないが〉……」  この原文は寛政八年(一七九六)の小咄本『喜美談語《きびだんご》』にある。  頬赤の人は結核・心臓病など微熱をともなう病気か、体温が高いため自然下のほうの醗酵も早くなるのだという説がある。  医者は大陰唇や、小陰唇のヒダ、それとクリトリスの包皮の間に生ずる恥垢が醗酵してカプリール脂肪酸として悪臭を放つのだという。  江戸の小咄に、  町内の連中、寄り集まって無駄話のさいちゅうに誰かが、 「近頃は、亭主のくせにごきげん取りに女房の股ぐらへ首をつっこんでナメるという意くじのねえ奴がいるそうな。そんな奴の面《つら》が見てえ」  といえば、なかの一人が、うっかり、 「まったくだ、あんな臭えものを……」 「小便くさい小娘」とよく言うが、結婚すると手入れもマメになるから、悪臭もうすれる。  しかし、どう手入れをしても、生れつき臭いのがいる。冷え症や子宮後屈などの女もおりもののためでそうなるが、ほかに異常な汗腺のはたらきのヤツもあって、これを「しもわきが」という。こんな女にぶつかったら悲劇だ。  おれの友達の作曲家で、銀座のクラブの女に惚れた奴がいた。  なみたいていの惚れようじゃない。一晩に三度も四度も通ったのだ。  ところが女はウンと言わない。なんとまる一年、休みなしに通った。  当時売れっ子の作曲家だから収入も多かったが、それでも借金で首が廻らなくなる有様だった。  小野小町をくどきに九十九夜通ったいにしえの深草の少将が、ハダシで逃げ出すほどの熱の上げようだった。のべにして何百回通っただろうか、やっと女はうなずいて愛の一夜を共にした。  わきで見ていても実に天晴れな敢闘精神で、彼自身もやっと念願が叶い、天にも昇るここちだったにちがいないと思った。  ところがその二、三日後、われわれ悪友どもが彼に「首尾はどうだった」と聞いたら、彼の顔色まことに冴えないのだ。とにかく臭くって臭くってまだ匂いが抜けない……とションボリしてる。彼女に捧げる歌まで作曲してレコードにした男の哀れな末路だった。  だからオレは彼に「深クサの少将」という優雅なアダ名を献上した。  もっとも、ひとのことばかりいえない。オレにも似た思い出がある。  二十を少々こえたばかりの頃だ。先輩に連れられて初めて芸者を買った。これがオレの初体験でもあった。   おみなとは かかるものかも 春の闇  という日野草城の句のように、春の一夜をむさぼるように女体をまさぐり、夜の明けをうらんだものだった。  夢のような一夜があけて、オレは会社へ出たが、ふとペンを持つ指が匂うのに気づいた。指を鼻さきにあてると、そこはかとなき女陰の香り。すると楽しかった昨夜の思い出がまざまざと瞼のうらに蘇ってくるのだ。条件反射とでもいうのか、その匂いと共にあの妓が教えてくれたサノサ節が、三味線の音色にのって幻聴のように聞こえてくる。  指をかいではアア サノサ。指をかいではアア サノサ。  以来、オレは鼻くそをほじくるとサノサ節をうたい出す癖がある。 『源氏物語』に光源氏が二十ちょっと前の頃、荒れはてた邸の中から洩れてくる琴の音にひかれて、故常陸宮のむすめ、末摘花へ忍んでゆく。  この姫、姿は胴長の上に無器量で、おまけに鼻が真赤だった。  末摘花とは紅花のことで、古くは呉藍《くれない》といって推古朝の頃、日本へ伝えられた。  この花ははじめ先端の花がひらき、順ぐりに|もと《ヽヽ》のほうへ花をつけては咲く。  それを花が咲くたび摘んでゆくので末摘花といわれる。  江戸時代は羽前国《うぜんのくに》、今の山形県最上川流域の名産で、ここで採取したものを瀬戸内海、日本海を迂回して、大阪から蝦夷地《えぞち》(北海道)まで往復する北前船《きたまえぶね》が舶載してきて大阪に荷をおろし京都へ運んで化粧紅などに精製した。いわゆる京紅、小町紅だ。  いま大阪の名物になっている昆布も、大阪近辺で採れるわけじゃない。この北前船が蝦夷地から交易してきたものを大阪で捌《さば》いた江戸時代の名残がつづいているわけだ。  末摘花の名は、鼻が赤い(紅花)からつけられたものだろうが、光源氏は、   なつかしき 色ともなしに 何にこの    末摘花を 袖にふれけむ (ちっとも魅力のないこの姫を、おれとしたことがどうして手を出しちゃったんだろう)  と後悔しているところをみると、この姫君、ぶきりょうばかりではなく、きっと臭かったのだとオレは想像する。 「西沢源氏」の考察では、作者紫式部が、「花摘花」(鼻つむ花)を「末摘花」と書き間違えたか、あるいは「饐《す》え摘む鼻」を美称したものとしたい。  しかし匂いも人それぞれ、好き好きである。「ワキガのない女は、香りのないアスパラガスである」という西洋の諺のように、体臭の好みは人による。高僧一休禅師にしてからが、「美人陰中に、水仙香あり」などとぬかしている。さすがは名僧、陰中奥の奥にラッパ管があることまで知ってたらしく、ラッパ水仙てえのは一休和尚の命名ではないのか。  中国では、「喫花椒」といって花の香を喫すというのだそうな。  寝ぼけまなこで、朝の食卓についたナポレオンが皿に盛られたチーズの匂いに気づき、「おお、ジョセフィン、今朝はもうよい」と言ったとか。  東洋の植物性、西洋の動物性、匂いもそれぞれ民族の好みをあらわしている。  蛸も巾着も愛宕山も、それぞれ独立した名器ではなく、蛸と愛宕山、巾着と蛸という風に、機能的にユニットになっているところに女陰の妙がある。  いつか梶山季之が、安見という整形外科医との対談(週刊ポスト)で、   梶山 アレにもいろいろな姿カタチがあるものだな。さわりもしないのに、ひくひくと入口が動くのがいたよ。   安見 あれはいいですね。手術台へのせたとたんに、生きもののごとく動くのですよ——。  などと言っていたが、それは「稲妻」といって、「巾着」にある現象だが、「愛宕山」にもかかわりがあるわけで、名器とはまことに巧妙なものだ。また、「稲妻」に対して「雷」というのもある。中が広くて空気が入っちゃってゴボゴボと音のするやつだ。  近頃はセックス体操とか、ヨガとか、ケツの穴を締める練習を積めば名器になると盛んに説く人がいる。  前穴と後穴は8の字形の筋肉の帯でつながっているから、たしかに効果はあるようだが、戦いたけなわにウンコをチビった奥さんもいたというから気をつけたほうがいい。  名器というものは先天性なものなればこそ妙味があるので、後天的なものはイミテーション。どこかムリなところがあろうとオレは思う。  今では整形外科で人為的に、ミミズでも、巾着でも手術で出来るようだが、やはりどこかフィーリングがちがうんじゃないだろうか。整形した鼻が、どこか人間味にとぼしい感じであるとおなじだ。  吉行淳之介の『鼻とセックス』という一文にも、そんなことが書いてあった。  要旨はこうだ——。鼻を整形した女と寝てもつまらない。顔のシワには鶴と亀があって、鼻をちぢめるようにして、眼と眼の間にシワを寄せて、横に何本もくしゃくしゃ寄るのが亀で、横に寄るとともに、クチバシのような長いタテジワの寄るのが鶴である。  面長な顔は鶴が多く、まるい顔には亀が多い。ファニィ・フェイスといわれる顔には亀が多く、それが愛嬌になる。  ところが整形するとツルカメが無くなってしまい、どんなに顔をしかめても、鼻の根もとに一本横ジワが寄るだけで、ノッペリしている。  だから整形した鼻の女と寝ると、「のぺっとしたまま、イッチャウ」——。  さすが鋭い観察と、オレは恐れ入った。  それにだ、婦人雑誌の記事などにそそのかされて、名器を志す女がオイチニーオイチニとケツの穴をスボめている姿を想像すると笑っちゃ悪いが、笑っちゃうぜ。  だがな、女とは哀れなものよ。百人が百人きまって、「あたしのはどう?」なんて聞く。女は顔や若さに自信がなくなるほど名器願望は強くなる。未婚の娘より団地ママなどのほうがオイチニに熱心なのはそのためだ。  そんな時、心あたたかな男は、たとえ「ガタ器」でも「ああ名器だとも……」とよろこばせてやるもんだ。  すると女はいきいきしてきて、名器のフンイキを持ってくるものだぞ。暗示力の神秘だ。  ただ、相手をよく見て褒《ほ》めろ。うっかり変な女をホメるとえらいことになる。  オレも一度、頭の弱い女と知らないでお世辞をいったら、「西沢センセが、アタシのこと、とても名器だって……」と、ヤタラに言い触らされて閉口した。  さて、いつぞやの『週刊文春』に、女性のアレを「あなたならなんと呼びますか。オチンチンにまけない良い呼び名を、考えて下さい」と、知名人からアンケートをとって掲載したことがあった。 「詩の中で、いつも困っちゃうんです。オチンコは可愛いいひびきがあって、抵抗を感じないが、オマンコはきれいじゃない……」 [#地付き]谷川俊太郎 「われめちゃん——はひねりすぎ。かえって淫靡。テトラがいちばんいい。これはボイン以来の傑作」 [#地付き]阿部 進 「女のは�ねむ�がいい。合歓《ねむ》の花はさわるとしまる。また、合って歓ぶ意味だし、夜しまる」 [#地付き]手塚 治虫 「男が�御飯�で女が�みそしる�御飯がたけたよといえば、味噌汁も煮えました、二人は食事をしましょうと寝室へ消える」 [#地付き]井上ひさし  方言などいれたら、アレの呼び名は数百にものぼろうが、結局は穴一つだ。  字で書けば、「開」が昔から慣用されている。なぜ開という字になったかについては、柳亭種彦(本名、高屋彦四郎・旗本二百石・江戸の戯作者で『偐紫《にせむらさき》 田舎《いなか》源氏《げんじ》』その他の著作がある)の考証随筆『柳亭記』に、「開は女門《ひめと》を合わせて※[#「門がまえに女」]。かくのごとく制したる俗字なりしが、はやく和名抄『和名類聚抄』(日本最古の漢和辞典・九三〇年頃成立)の頃は開の字に書改めし故……」とはじめは※[#「門がまえに女」]ではなかったか——と考察している。まこと女の門であることにちがいない。  江戸時代は現代よりもっと研究が進んでいて、恋川笑山(柳水亭種清)の『旅枕五十三次』の中にも、 「筑紫玉|開《ぼぼ》、相模尻早、播磨鍋、備中土器、出羽は臭つび、越後女の徳利ぼぼ、長崎さねなが、明石蛸、浪花巾着、京は羽二重」と、「むかしの好色《すきもの》男の定めおきしは、其道の智者ともいふべし。そもそも男女|交合《まぐわい》の始めは、いざなぎ、いざなみの二柱。あまの浮橋にてみとのまぐはひを始められしこのかた今の世にいたり、日々新にして、上下おしなべこの道を好まぬ者はさらになし……」  なんて諸国の女の郷土料理の味わいをあげている。     一盗・二婢・三妓・四妾・五妻  さて、その女遊びだが、この妙味は天保五年の『色道禁秘抄』に、「女をえらぶに、|妓 《げいしや》、|娼 《じよろう》、|妻 《にようぼう》、妾《めかけ》、娘《むすめ》、婢《げじよ》、嬬《ごけ》、尼《あま》、いづれが佳なりや」 「答えて曰《いわ》く。妻は妾に如《し》かず、妾は婢に如かず、婢は盗に如かず」  という問答があるが、こんなに区別をこまかくしなくても、一盗、二婢、三妓、四妾、五妻という古今不動の格付けがある。 「盗」とは人のカカアを失敬することだ。「婢」はむかしなら下女、今では自分が経営する会社の女子事務員や店員でいい。 「妓」は女郎のことだが、芸者でもホステスでもよろしい。 「妾」は二号さんだが、当今は二号さんのほうも週刊誌の発売日みたいに、月曜のダンナ、水曜のダンナなどと多角経営だから、ダンナと妾とどっちが二号なのかわからなくなった。 「妻」は、   女房の 味は可もなし 不可もなし  で、テメエの家へ泥棒に入ったみたいで、ちーとも面白くない。  さて、「一盗」とは「夫よりあなたが好きッ」なんて鼻を鳴らす人妻を、密通の罪におびえながらも、間抜け亭主の顔など思いうかべ、「ざまあ、みやがれ」とイタす優越感こそ一盗の醍醐味だったそうだが、このごろのように女がヒマをもてあまし、亭主とちがった味がすりゃ誰でもいいわァ……なんて時代は、どっちが盗まれているのかわからないわけで、一盗の一盗たる意義はかがやきを失った。  三、四年も前のことだが、おれたち仲間数人で伊豆の某温泉に遊んだ夜、酒盃をあげて騒いでいると、宿の番頭が「十人ほどのご婦人の団体が、ぜひ御一緒させてほしいと仰言《おつしや》ってますが」と伺いを立ててきた。  こっちは男ばかりで殺風景な一座だから渡りに舟。さあドウゾどうぞと返事をしたら、どやどやと三十から四十がらみのカミサン連がやって来た。B県の婦人会の連中だそうな。一緒になってワイワイと飲んでいるうち、ふと気がつくとFという作詞家とIという作曲家の姿が見えない。  おれたちが風呂に入って寝る頃になって、ニヤニヤしながらこの二人が帰ってきた。 「どこへ行ってたんだ」と聞くと、また顔を見合せてニヤニヤ。ハハア読めたぞ、ヤロウヤッタナときめつけたら、Fが「Iのヤツとおれと壁一重の部屋でよ。すごくよく聞こえちゃって……。オレは遠藤実だなんて、女に言ってるのまで聞こえたぜ」とバラした。するとIが目をむいた。 「そっちばかり聞こえてる訳じゃねえぞ。お前だってオレは西沢爽だなんて言ってたじゃねえか」  だが、ゆきずりの情事に友人の名を騙《かた》ったこの悪党ども、家庭を離れた解放感からギラギラ燃えあがる、中年女の欲情の前にはひとたまりもなかったらしい。  ほかの女たちは、おれたちの部屋で飲んでいたのだから、戦場は当然、女連のあき部屋だ。  二人の告白を聞くと、どちらもその進行のパターンはおなじで、部屋に入るといきなり男のほうがひっくり返され、ヤオラ女は男の股間に顔をうずめてきたという。勿論、仕上げにおいても女上位だったそうだ。 「いやァ、ひでえ目にあった」悪党らは嬉しそうに嘆いたが、ヒデエ目にあったのはオソソわけもいただけない遠藤実とオレではないか。  昨今はこういうことは珍しくないそうで、やはり伊豆の温泉ホテルでながらくバーテンをやっていたオレの親しい男がいる。  そいつの話だと、婦人団体でも第一は外を出あるく職業婦人、お次が人妻、OLはだいたいおとなしいそうだ。  酒の酔いも手伝ってか、男の客を世話しろという。だめならアンタでもいいという。おかげで女にゃ不自由しませんでした、と彼は言った。「どこでヤルんだ」と聞いたら、空室は勿論だが満室のときもある。その時は宴会が終って幕をおろした広間の舞台でやる。あそこは不思議に誰も来ないのです、と話してくれた。  ははァ、男の花道といい、穴場というのはこういうことかいなとオレは思った。  江戸時代は間男は斬りころされても文句はいえなかった。 「その場を去らず重ねて四つ」にバッサリという刃傷沙汰さえあった。 「御定書《おさだめがき》|百箇 条《ひやつかじよう》」とは、当時武士以外の階級に対する法律だが、それには、「密通いたし候 妻死罪 密通の男死罪 密通の男女共に 夫が殺し候はばお構いなし」で、   間男と 亭主抜身と抜身なり  と、間男の抜身と、亭主の抜身のちがっている面白さを古川柳はとらえている。   もち上げる ところを亭主 重ね切り  なんて、ホップしてくる球を発止とたたく王選手みたいな亭主もいた。  だが、たいがいは殺される代りに亭主へ慰謝料として金を差し出して示談にした。  その相場は享保大判一枚、金十両なのだが、たびたびの金貨改鋳で貨幣価値がさがり、七両二分にしか通用しなかった。  したがって、「間男は七両二分」といわれるのだが、のちには安くなり、五両、四両という例もある。またどうしてか、大阪でははじめから五両だった。  大阪では商家の夫人のことを「ごりょんさん・御寮人さん」と呼ぶから、はじめから女房の値段は「五両さん」と決まっていたのかも知れないナ。  たった一ぺん、間男した奴が見つかって、やっと五両で話をつけた。家に帰って女房に金を工面してくれと頼むと、女房が笑って、 「オヤ、たった一回で五両かい。そんならあっちの亭主から差引十両貰っておいで……」  とにかく、江戸時代は妾と間男しても駄目だった。  そんなベラボーな……とおっしゃる向もあろうが、明治になっても権妻《ごんさい》(妾)は戸籍に入っていて、妻と同様二等親の扱いが、明治十五年まで続いていたのだ。  だから御定書百箇条には、「妾と極めおきし女と密通いたし候男女を切殺し候もの 構いなく」と無罪だったのだ。  密通の妻と相手を重ねて四つに切り殺しても無罪という法律は、なんと明治四十一年まであったのだぞ。  いまこんな法律があってみろ。さっきの伊豆のよろめきじゃないが、オレなんざ可哀そうに無実の罪で首が飛ぶところだ。  だから当時の間男は命がけだった。   見つかって 椎の実ほどに して逃げる  と、命もちぢめば、一物もちぢむ。もっとシマらないのは、   間男の 不首尾 こぼしこぼし 逃げ  秋田音頭にもまた、このさまをユーモラスにうたっている。   ※[#歌記号]人のカカすりゃ 忙がしもンだと来たもンだ    湯もじ紐とく ふんどしはずす 入れる もちゃげる よがる 気をやる    紙出す 抜く ふく    下駄|見《め》っけるやら 逃げるやら……  間抜けな亭主に、友達が、 「オイ、お前の女房は間男しているぞ。そっと家のなかに隠れていて、現場をつかまえ、ぶち殺せ」とたきつけた。  亭主そとへ出かけるふりをして引返し、わが家の二階の押入れに隠れていると、間男がやって来て女房とおっぱじめた。  女房「ねえ、あンた。ほんとうに惚れてたら、ナメるという話だけど、あンたは一ぺんもあたしのをナメてくれたことがないじゃないか」  男 「いやなに、そんなことたやすいこと、いますぐでも、ナメるとも」  てえんで、間男は女房の股ぐらへ顔をよせたが、ナメるのは汚ねえから、ちょいと鼻でこすった。  女房「あンた。いまのは鼻じゃないかえ」  男 「いや、たしかにナメた」  女房「いえ、鼻みたいだったよ」  男 「なんの、舌だ」  言い争ってるところへ、亭主、押入れから首を出して、   「モシモシ、どっちに味方するわけじゃないけどね。いまのは、たしかに鼻だ」  ナメるということは、愛情を表明する万国共通の性技だが、江戸の小咄にはこんなのもある。  娘をくどけば、ナメてくれたら、させてもいいと言う。  そこで男、蒟蒻《こんにやく》の一片《ひとかけ》を舌のようにくわえてナメる。  娘、アラ、なんだか冷たいよ、といえば、男、ぐっと呑みこんで、「なんの蒟蒻であるものか……」  こんにゃくで誤魔化そうとしたのは一計だが、あわててのみこんじゃっては、なんのことはない。   蒟蒻《こんにやく》で なめるは男 不心中 「心中」というのは、元禄時代|藤本箕山《ふじもときざん》(京都の人・俳諧・古筆目利《こひつめきき》にすぐれ宝永元年・一七〇四に七十九歳で歿した)が、二十五年の歳月をかけて著作した十八巻の大冊『色道大鏡《しきどうおおかがみ》』の第六巻に、 「心中とは男女の中、懇切|入魂《じゆつこん》の昵《むつ》び、二心《ふたごころ》なき処《ところ》をあらはすしるしをいふなり」と、今日では心中とは情死のことだが、本来は、お互いに「心の証《あか》しを立てる」ことだった。「心中立」ともいう。  男女のあいだで誓紙、髪切り、刺青《いれずみ》、爪放ち、指切りまでやった。小指を詰めたのだ。指切りゲンマンなんて子供の遊びは、このことが童戯になったのだと思う。   母の名は 親父の腕に しなびて居  というのは心中立の刺青だが、たとえば、女の名が「およね」なら、「およね命」と男は二の腕に彫り、女は男の名が七兵衛なら、「七さま命」と彫る。  こういうことは、いくら江戸でもカタギ衆はやらない。  多くは色里の世界のものだった。  この「母の名は」の川柳も、もとは女郎が年《ねん》(年期・二十七歳で明ける)があけて世帯をもったのだろう。  この刺青を消すには、火で焼いて消すしかない。心にもない刺青をして相手をたぶらかした女郎も、金の切れ目が縁の切れ目、相手の男と切れると、刺青を消した。   ふてえ阿魔《あま》 腕に火葬が 二つ三つ  指切りなども、小指のさき一本だけでは商売にならない。数人の客を操るには指が足りないのだ。だから指を詰めるとき何人かの客に配るため、墓掘り人夫などに頼んで、墓をあばき、死人の指を買い集める話が井原西鶴の『好色一代女』の中にもある。  とは知らず、女郎のまごころに感動し、その指に頬ずりしてよろこんだ客は哀れだな。  新聞は、よく「親子心中」などと書いているが、あれは子殺し自殺で、心中なんてもンじゃない。  元禄の情死流行にともない、いつしか情死を心中と呼びならわしてしまったが、このあとの享保に心中禁止令が出ると、心中は相対死と呼ばれるようになる。  それはともかく、「不心中」とは「心の証しを立てない薄情さ」をいうのだ。   心中に 和尚 蔭間の |けつ《ヽヽ》をなめ  なんて、おかしな光景もあれば、   また なめなさるかと 女房 いやな顔  と、せっかくの亭主の心中立も通じない不感症の女房もいたらしい。  もっとも、なめるのは、女の精液は強壮剤という迷信もあったからで、古く中国の王侯など、処女の膣内に棗《なつめ》の実を入れ、その実がふやけたころ取り出して薬にした風習があったという。   馬鹿な婿 いい塩梅《あんばい》と なめてみる   極粋《ごくすい》の好《すき》 べべっこを べえらべら  また69の場合の相互|啜陰《てついん》は「菊戴《きくいただ》き」と言った。  たしかに、おでこの辺へ、四十八ヒダの菊を戴く恰好になるよな。  だがナメてもいいが、「毛長」だけはよせ、|まつげ《ヽヽヽ》に毛虱《けじらみ》をうつされたヤツがいるから……。  さて話を間男にもどして、小咄をもう一つ。  間男してる最中に亭主が帰ってきた。男、驚いて裏口から逃げ出したが、あわてていたもンだから現場へ財布を落してきちゃった。  あれを、亭主に見つかったら悪事露見となるから、覚悟をきめて引返した。 「えー今晩は、与太郎さんはおいでですか」 「おや、八五郎さんじゃないか。何か御用で」 「実はあなたを見込んで知恵を借りにきました。近ごろちと深い仲になっている女がおりまして、今夜そこへ行っておりましたら、生憎《あいにく》と不意にそこの亭主が帰って来まして、いそいで裏口から逃げましたものの、弱ったことに財布を忘れてきました。もし先方の亭主に見つかりますと、えらいことになります。そこでひとつ、何かいいお知恵を……」  かたわらで聞いていた女房、心得たりと間男に目くばせして、 「まア、間男の一つもしようという女なら、まさか証拠になるような品物は、素早くかくしてしまったでしょうよ」といえば、そこの亭主も大きくうなずいて、 「そうとも、間男されるような間抜けな亭主なら、もしその財布が目の前にあったって気がつくまい」  この密通に対する刑罰は、時代と共に緩くなっている。  井原西鶴の「好色五人女」に登場する「おさん・茂兵衛」など、密通の罪で、京都の粟田の刑場で「磔《はりつけ》」にかかっている。五代将軍綱吉のいわゆる元禄時代だ。  八代将軍、吉宗の寛保二年(一七四二)に、従来の法を改訂して新たに制定したのが「御定書百箇条」だが、亭主が密夫密婦を殺さなくても、奉行所へ訴え出れば、「男女双方共 死罪」で牢屋敷内で斬首された。  おなじ死罪でも、磔よりずっと軽い刑だ。戦前は北原白秋の桐の花事件のように姦通罪で懲役刑をくうおそれもあったが、戦後は姦通罪は消滅した。   重って いたらと 亭主 忍び足  明和から文政にかけて、蜀山人大田南畝が世間の出来事を書きとめたものの中に、 「堀之内の道、鳴子(いまの東京・中野区・成子坂)の少々先、竹のきせる筒(煙管《きせる》をおさめる鞘)などへ蒔絵など彫候町人有之、彼《かの》女房間男を致し、主《あるじ》見付両人共捕へ、近所の寺へつれゆき間男をば、らせつ(羅切・陰茎を切りおとす)致し、女は陰門をくりぬき候よし。然《しか》る処《ところ》検使(町奉行所の検死役人)の参候迄、其儘差置候処、いたち(鼬)彼女《かのおんな》のえぐり口へ|夥 敷《おびただしく》付候よし沙汰(噂)ありしなり」と。   鳴子から 縞の浴衣で 江戸へ出る  まくわ瓜が名産だった成子の在に起こったチン事件だった。  また、なかには夫婦共謀して間男させ、相手の男を恐喝することもあった。   女房を ゆるく縛って 五両とり  近頃は、密通どころか、スワッピングとて夫婦交換が流行とか。 「ホーム・ダイヤモンド」という専門の月刊誌まで発行され、書店の店頭に置かれてある。  この月刊誌の「求ム交換」欄は、女房のヌード写真まで添えて、百花|撩乱《りようらん》。だがオレにはなぜか「廃品交換欄」みたいに見えてしょうがない。もっとも、この夫婦交換の連中。新しい性道徳の確立を目ざして……なんて意気盛んだが、スワッピングなんて、ちっとも新しいもンじゃない。遠い遠い昔からあったのだ。  高橋虫麻呂といえば、   千万《ちよろず》の 軍《いくさ》なりとも 言挙《ことあ》げせず    取りて来ぬべき 男《おのこ》とぞ 念《おも》ふ  と、詠んだ万葉の歌人で、戦時中は、この歌は、「千万人といえどもわれ征かん」と戦意昂揚の歌として、もてはやされたものだ。  この虫麻呂の伝記は不詳だが、都から遙々と関東へ赴任してきていた地方庁の役人であったらしい。  この虫麻呂の歌に、筑波の|※[#「女+櫂のつくり」]会《かがい》の歌がある。   鷲の住む 筑波の山の   裳羽服津《もはきず》の その津の上《へ》に   率《あども》ひて 未通女《おとめ》 壮士《おのこ》の往《ゆ》き集《つど》ひ   |※[#「女+櫂のつくり」]《かが》ふ |※[#「女+櫂のつくり」]会《かがい》に   他妻《ひとづま》に 吾《あ》も交《まじわ》らむ   吾《あ》が妻に 他《ひと》も言問《ことど》へ   この山を 領《うしは》く神の昔より 禁《いさ》めぬ行事《こと》ぞ   今日のみは めぐしもな見そ   言《こと》も咎《とが》むな [#地付き]——万葉集——  さてこの歌の意味だが、『常陸風土記』(和銅年間・七〇八—七一四に成立したといわれる)に、 「夫《そ》れ筑波の岳は 高く雲に秀で 最頂《いただき》は西の峯|崢※《けわ》しく これを男《お》の神といひて登臨《のぼ》らしめず但《ただ》 東の峯は四方《よも》磐石《いわお》にして 昇り降り決屹《さか》しく その側に流泉《いずみ》あり 冬も夏も絶えず」  この女体山の泉(裳羽服津)をめぐって、春秋二回、男女が集まって歌垣をやる祭りがあった。  近郷は言うに及ばず、はるばると野を越え山を越え、道なき道をふみわけて遠くからもこの祭りを楽しむために人々が集まった。歌垣は「歌かがい」で、男女が掛合いで歌い、かつ踊り、気に入った相手を見つけて、やがて森蔭に連立って姿をかくし夜を明かした。  女体山の泉に集まること、すでに女陰信仰なのだ。  虫麻呂はこの歌で、「他妻《ひとづま》に吾も交らむ、吾が妻も他《ひと》に言問《ことど》へ」  おれも人妻と寝るから、妻よおまえも誰か見つけて寝てこい。筑波の山に神が籠ったむかしから、この風習は許されていること、この一夜は神も叱言などいわず、慈愛をもって見ていて下さる——と歌っているのだ。  だが、男女がうまく同数というわけにはいかないし、その上、意気投合できずアブれる奴も出てくる。   筑波嶺《つくばね》に 逢はむと言ひし子は誰が    言聞《ことき》けば かみ寝《ね》 会はずけむ   筑波嶺に 廬《いほ》りて 妻無しに    我《わ》が寝む夜ろは 早も明けぬかも [#地付き]——常陸風土記—— (前の筑波の※[#「女+櫂のつくり」]会で、つぎもまた会いましょうと約束したあのひとは、誰に口説かれて寝てしまったのか、とうとう会うことが出来なかった——)と、嘆くのもいれば、 (せっかく筑波へやって来たのに、女の子にアブれて膝をかかえてしょんぼりしているうちに、はや夜が明けてしまった——)と、ボヤく男もいた。  古代は、歌いかけるということは求愛であり、踊るということは「男取《おと》り」で、官能的な身ぶり手ぶりで男の魂をゆさぶることだった。  いまの盆踊などの祖型だ。  常陸風土記には、「俗《よ》の諺に曰く、筑波嶺の|※[#「女+櫂のつくり」]《かがい》に、|嫂 財《つまどいのたから》を得ざれば、児女《じじよ》とせず」とあって、男をつかまえそこなって夜を明かしてしまった娘は、世間から娘として認められなかったという。  このような風習は古代ギリシャにもあり、若い娘たちは神殿の前に集まり、神殿に参拝する旅人を待った。運よく旅人の目にとまり、処女を与えたものだけが結婚できる資格をもつことが出来て、誰にも抱かれなかった娘は、いつまでも神殿の前に残って旅人の誘いを待たねばならなかった。  まさにギリシャ版の「児女とせず」だが、筑波の※[#「女+櫂のつくり」]会に似た遺習は、地方に今も残る暗闇《くらやみ》祭り、尻摘《しりつ》み祭り、雑魚寝《ざこね》祭り、帯とけ祭りなどもそうだろうが、沖縄では、野原に若い男女たちが集まり、蛇皮線に浮かれて飲んだり、踊ったり、やがて意気投合したカップルは森蔭へ消える「毛遊《もうあし》び」の風習が現存している。「毛《け》あそび」ではないぞ。毛《もう》は野や林や森のことだ。  さてこの筑波の※[#「女+櫂のつくり」]会の戯談として、国学者黒沢|翁満《おきなまろ》(一七九五—一八五九)は、その著『藐姑射秘言《はこやのひめごと》』に面白い話を書いている。  歌垣の篝火《かがりび》もやがて燃え果てて、男女はそれぞれ思う相手の手を引いて暗闇の中に消えてゆく。次第に夜も深くなるころ、闇の中で、ひとりの男の袖をとらえそっと歌いかけた女がいた。   筑波嶺《つくばね》の 嶺《ね》ろに隠れ居 過ぎがてに    息《いく》づく君を 率寝《いね》てをやらむ (筑波の※[#「女+櫂のつくり」]会に相手もなくて行き場をなくし、溜息をついているあなたよ。私が一緒に寝てあげましょう)  そこで、男は飛上がらんばかりによろこび歌を返した。   妹《いも》がこと いなとは言はじ 筑波山    隠れのかたに 袖はひきてな (それは願ったり叶ったりです。まっくらな夜ですから私があなたの袖をひいて参りましょう)  と、少々原文をまじえれば、 「やおら 添ひ伏して口さし嘗《な》むれば 女は手をのべて うなじにまとふなるべし」  と、男が女の口を吸うと、女も男の首っ玉へかじりついた。  そして、「家にあらば ねび人のいとかなしう ちひさきがゆゑに しじまいて いとど不甲斐なきを宵々にくちをしき宿世《すくせ》持ちたりけりとなん あかぬここちし侍《はべ》りつるを」 (うちの亭主は、もはや爺さまで、アレも小さく、ちぢんじゃって、ほんとにいくじがないので毎晩、どうして私はこんなだめな人と暮していかなければならないのかと憂うつでした)と、ぐちれば、男も鼻息を荒くして、 「いさとよ まろこそは 醜女宿世《しこめすくせ》を悔い渡りしが さたすき人にさへなんあれば かたましうものねたみして ともすれば うけはしう うちえんずるつらつきのむくむくして」 (それはそれは、わたしもまた醜《みにく》い女と一緒になってしまったが、嬶《かかあ》めも婆あになってきたせいか、だんだん根性がひねくれ、私に文句ばかり、そのときの顔つきときたら……)  てなふうに、お互い調子のいいことを言った挙句、男が、こうして二人が結ばれたのも神のお恵み。このままこっそり二人でどこかへ隠れ住んで、末長く暮したい、というと、女も、ほんとにそう仰言って下さるなら嬉しいとよろこんで、男と戯れ合った。  さて、有明の月は木の間に、夜は白々と明けて、お互いの顔がはっきり見えるようになった。とたん、女がとんきょうな声で叫んだ。 「あらやだよ、おめえ、うちの爺《じい》さまでねえか」  爺さま、びっくりして腰をぬかした。 「ひゃあー、婆《ば》さまだったかえ」  筑波にかがう男は、今宵一夜、神の化身《けしん》となったのであり、性交することによって神の霊力を女にさずけ、子を産むことに象徴する女の五穀豊穰の生産の呪力を高めるための祭典であり、また一面、性に対する共産共有の原始共同体の儀式だったのだ。  いにしえは、遠方より訪れる神に女身を捧げて接待するならわしがあって、この遺習は戦前ごろまで旅の人に娘を一夜妻としてもてなす地方があった。  この筑波の※[#「女+櫂のつくり」]会に参加する男女は、男は成年になって神前でお祓《はら》いをうけて即成年戒《そくせいねんかい》をすませたもの。女も成女戒《せいじよかい》という成年式をすませたものだが、当時の成年とは大宝律令《たいほうりつりよう》が定めた婚姻年齢から、およそ女十三歳、男十五歳ぐらいと考える。平安の光源氏など十二歳で元服をしている。  この時代、※[#「女+櫂のつくり」]会はなにも筑波にかぎったわけではなく、全国諸々で行われたようだ。今も日本の各地に残る、女の尻をツメったり、たたいたりする奇祭は※[#「女+櫂のつくり」]会の流れをくむものだろう。  女の尻をツメり、あるいはたたくことは、中世のヨーロッパの教会や修道院でも盛んに行われた。キリストなんてイキな神様だよナ。もっともこれは、女の尻には悪魔が宿っているという迷信からだが、日本はちがう。産む、はらむという生殖の神秘への性崇拝と、豊年への祈願が結びついたもので、山梨ではオカタブチ、長崎ではジョウメ打、宮崎では孕《はら》め打など嫁の尻を叩く祭りがある。京都の岩倉の尻たたき祭りや、富山県の鵜坂明神の尻たたき、静岡県伊東の音無神社の尻摘み祭りなどがそうだ。  女の尻をたたいたり、ツメったりすることによって部落の繁栄、一家の開運を祈ったのだ。  だから、イエス・キリストも言った。 「たたけよ、さらば開かれん」  古代は、まことに性はおおらかであったようだ。  べつに※[#「女+櫂のつくり」]会だけを指折り数えて待つこともない。日常でも男は女にたわむれ、女は男を誘った。  その、おおらかな姿を伝える歌を一つ二つあげてみよう。   小林《をばやし》に 我《あ》を 引入れて 姦《せ》し人の    名前も知らず 家も知らずも [#地付き]——日本書紀——  これなど、野合とも、通りすがりの男の強姦ともうけとれるが、   この川に 朝菜 洗ふ娘《こ》    汝《なれ》も 我《あれ》も よちをそ 持てる     いで 子|賜《たば》りに [#地付き]——万葉集—— 「よち」というのは「やち」で窪・谷地(湿地)で女陰をいうが、この場合、お互いの性器をさしているようだ。 (もしもし、川で朝餉《あさげ》の菜を洗っている娘さんよ。あんたもおれも、年かっこうのセガレとムスメを持っているではないか。さあ、あんたのムスメを、ちょいといただきにゆこうかい)  たぶんこの娘、川っぷちにしゃがんで菜を洗っていたろうから、着物の前が割れて、股ぐらの奥のうす黒いものが、チラチラと男の目にはいったと想像する。  娘ばかりじゃない。人妻でさえ、こうだった。   人妻に いふは誰《た》が言《こと》    さ衣《ごろも》の この紐 解けと     いふは 誰が言 [#地付き]——万葉集——  紐解くは情事を行う意味だ。 (人妻である私にむかって、一緒に寝ようなんて、何ということを仰言るのです)  と、男をキメつけている歌のようだが、実は反対で、 (アラ、まあ、いけない人ねェ。人妻の私を口説くなんて……。そんなこと仰言って、ほんといいんですかァ……オホホ)とゾクゾクよろこんじゃってる歌と、オレは思う。   人妻を うばわむほどの 強さをば    持てる男の あらば 奪《と》られむ [#地付き]——岡本かの子——  ところが、この人妻を口説いた男の理屈がいい。   人妻と 何《あぜ》か其《そ》をいはむ 然らばか    隣の衣《きぬ》を 借りて 着なはも [#地付き]——万葉集—— (人妻と寝ちゃあいけないなんて、だれがそんなことをきめたのだ。それじゃあ、人の着物を借りて着ることもいけないのかい)  ごもっともな道理だがこの男、気楽に「自分の着物」を人に貸しただろうか。  ずっと時代は新しくなるが、明治時代に堂々と女房交換をやらかそうとしたのがいる。  明治九年七月三日、横浜毎日新聞の記事に、 「これは近頃、世に珍らしき互いに女房の取替をなさんとしたる奇談がありました。藤橋村というところは武州八王子駅より七、八里も離れた片田舎でありますが、この村に作次郎といふ者が、わが家の向ふに常々わけて懇意の仲なる角蔵の女房に深く思ひを掛けてゐたれども、主《ぬし》あるの事なれば容易に言ひ出す事もならぬとて、うつらうつらと心に憧《あこが》れてゐたりたが、一層の事、亭主野郎に打明けて一夜なりとも貸してくれと頼むが近道ならんとて、恋の闇には後と前|見《み》えずに、面とむかつて角蔵にはづかしながらわが頼みを何卒叶てくれぬかと、脇の下から冷汗して言ひ出せば、角蔵はくつくつ笑い出し、おぬしもおれが女房に気があるならば、おれも話すべいが、おぬしの嬶とこのおれは三年さきの烏も知つた深い仲ゆゑ、好いた同志の女なら、いつそ女房の取替をしたならばよい縁組であらうかと、あいた口へ牡丹餅うけたが、とうより飽いた女房なればこれ幸とやる気になれば、作次郎のよろこび大ならず、はじめて聞いた女房の不義さへ、これももつけの幸ひと、天にも昇る心地してさつそく話がととのへば以後の違《たが》ひにならぬやう証文を添へていざこざなしにやり取りしべい、善は急げと……」  作次郎は早速、女房を角蔵へ引渡した。もっとも作次郎の女房は角蔵と以前から、こっそり深い仲だったのだから話は簡単だが角蔵の女房、お玉さんのほうは、そうはいかない。  作次郎は、今日からおまえさんは、おらが女房だど、と手をとって連れてゆこうとする。今まで何の事やら、きょとんとしていたお玉さん。ここでようやく一部始終がのみこめた。  これは大変! と、作次郎の手をふりきって仲人の福五郎方へかけこむ。  福五郎が、作次郎、角蔵二人へ、馬鹿げた真似をするのはやめろと、強意見《こわいけん》をするが、人の恋路を邪魔するやつは、犬に噛まれて死んじまえ、と、あべこべに仲人をおどかす始末。  結局、お玉さんが承知しないので、作次郎は女房を連れて一応わが家に戻ったものの、さては腹がふくれてきている女房の、その種を蒔いたのはおれではなく、角蔵かも知れぬ。こうなっては生れた子は育てるのはイヤだと、こんどは角蔵にかみつき一騒動。そのあとはどうなったことやら、新聞記事はここで終っている。  これと少々、話の筋はちがうが、戦後、間もなくオレが群馬の小さな温泉宿に滞在していたら、宿のあるじが、「ごらんなさい、あそこに行く女。これからよその亭主にサセに行くんですぜ」という。事情を聞いてヘエーと驚いた。  なんでも、その女の亭主というのが、近所の亭主持ちの女とデキちゃった。女も亭主が応召して戦地へ行ったあとの閨《ねや》のさみしさから、ついそうなったらしい。やがて亭主が戦後、復員してきて、秘密がバレた。  怒った亭主は間男をさんざんおどかした挙句、その解決方法が面白い。つまりオレの女房とシタ数だけ、オレにお前の女房の身体で返させろ——で、その話がまとまって毎週一回、間男の女房は通い妻となっているのだというのだ。  実に理にかなった話だよナ。  交換はまだしも、明治八年九月二日の朝野《ちようや》新聞には、女房を月賦で売った男の記事がある。 「人の女房を、わづか七円五十銭で買つた話があります。去月二十三日の事なるよし。ところは新富町五丁目に住む居候の七とか八とか申す者が、亭主の女房と何か悪いことをしてゐるところを、亭主に見つかつて、二人は逃げ出し近辺のさる家へ隠れてゐたれど、なかなかそれでは済まぬとて、その夜懇意の人に詫びを頼み、居候より七円五十銭出してその女房を貰ふことに極めましたところ、手もとに二円五十銭しかないゆゑ、あと金は仲に立つた人が引受けて六十日の成しくずしでこと済みになつたが、亭主は女房を人に呉れた翌晩、ちやんと代りの女房を貰つたといふことであります。買つたものも買つたもの、売つたものも売つたものではありませんか……」  この女房の値段がなんともおかしい。なぜなら間男の首代とおなじ七両二分(七円五十銭)だ。この明治八年、米一石が七円五十銭ぐらい。酒一升、二十五銭ぐらいだった。  昭和五年八月十九日、東京の新聞紙上に声明書を発表して、文豪谷崎潤一郎が、友人佐藤春夫へ妻を譲り渡したのは有名な事件で、当時、社会へたいへんな衝撃を与えたものだった。  「拝啓 炎暑の候 尊堂益々御清栄奉賀候  陳者《のぶれば》 我等三人この度合議をもって 千代は潤一郎と離別致し 春夫と結婚致す事と相成 潤一郎娘鮎子は母と同居可致 素より双方交際の儀は従前通りにつき右御諒承の上 一層の御厚誼を賜度 いづれ相当仲人を立てて御披露に可及候へ共 不取敢《とりあえず》|以 寸楮《すんちよをもつて》御通知申上候 敬具 [#地付き]谷崎潤一郎 [#地付き]千代 [#地付き]佐藤春夫  これが、「細君譲渡事件」といわれたものだが、べつに月賦で売ったわけじゃない。  世評はきびしかったが、譲るほうも、譲られるほうも、そしてかんじんの前谷崎夫人も、ささかもその信念を変えなかった。  密通は命がけの時代でも、したいさせたいは男女の常。  だから、「伊勢の留守」なんて言葉があった。その頃は神詣でといえば、江戸からは江の島弁天か、大山詣でだ。遠くなるとお伊勢参りがあった。  講をつくり、金を積立て旅費が出来ると、町内の何人かで連れ立って、一生一度の長旅、伊勢へと旅立った。  お伊勢参りとなれば日数もかかる。往復どれほどの日数か、個人差もあろうが、東海道五十三次のお江戸日本橋から京都で上《あが》りになる旅で片道ふつう十四日間。遊山旅《ゆさんたび》だと二十日もかかった時代だから、そんな長い間、亭主が家をあけてカカアに我慢しろったってそりゃ無理だ。  なにしろお伊勢参りは名目だけ。宿場宿場で女遊びをしながらブラブラゆく奴も少なくない。韓国や台湾にもっぱら女を目当てに行くいまの連中と大差はない。  当時だって木版刷りながら「お遊び旅行ガイド・女の穴場案内」みたいな本があって、東海道の宿々の女郎や飯盛女の値段が出ていた。  たとえば、 「金谷宿《かなやじゆく》、女五百文、常は廻しなし。川止め(大井川の水量がふえて渡川できないとき)のときは、同宿の女、娘もあれば心安くすべし」なんて泊り客同士の男女の即席恋愛をそそのかしたり、 「吉田、遊女(私娼)二朱または五百文、宿女《やどおんな》(飯盛女)二朱、五百文、いずれも廻しなし。はたご屋、また女もきれい也。かならず泊るべし」という推奨株もある。 「御油《ごゆ》、五百文、三百文、松山城あと也。竹の庄と云《いう》。昔は此宿の前後に遊女多し。今は遊女のていもなけれど、めしもりなどは多し。宿女五百文、三百文、吉田の宿に近きゆへ、はたごや(旅籠屋)等もよろしく、酒肴《さけさかな》もよろし。此宿に泊り飯盛を買うに二朱(一両の八分の一、このガイドが出た江戸後期は一両が六千五百文ほどなので約八百文)といふなり。五百文にて廻しなし。客多きときは三百文の方は廻しあり」と、まことに懇切なものだ。 「廻し」というのは、年配の人なら知っているが、今の若い人には分るまい。廻しとは買切りではなく、女が複数の客を受持つことだ。  この風習はおもに江戸の風習で、京・大坂では少なかった。江戸は全国から出稼ぎの人間が集まって来るから、どうしても女よりはるかに男の数が多い。  享保六年(一七二一)の例をみると、江戸町方人口、五十万一千三百九十四人。  内訳は、男が三十二万三千二百八十五人、女が十七万八千百九人だ。 「江戸百万」にしては少ないようだが、この人口、武家、寺社関係を含んでいないのだ。  江戸というところは、   武家地が、およそ千二百万坪。  寺社地、二百七十万坪。町地、二百七十万坪で、武家地が、江戸総面積の六割を占めていたし、この享保の江戸人口数は、寺社地、武家地の人口は使用人を含めて一切計上されていない。いわば町奉行管下の人口だけだ。  天明七年(一七八七)の江戸の総人口は、百二十八万五千三百人(武家・寺社を含む)で、その頃の外国と比較すると、  ロンドン 約七〇万人  パ  リ   約五〇万人  ベルリン 約一七万人  ニューヨーク 約 六万人  人口では世界第一の都市だった。  アメリカ西部の開拓時代、女がまことに少なく、男ばかりの殺伐な空気がやたらと決闘を招いたことは西部劇を見れば、よくその様子がわかる。  うわべばかりで、実際はそうでもないが、アメリカの女尊男卑の風習もこのために起こった。  男過剰、しかし単身出稼ぎの連中や、参勤交代で国許《くにもと》へ妻を置いてきている江戸チョンガーの諸藩の侍たち。性の市場は「廻し」でこなしても苦情が出ないほど、女に飢えた客がいたためだろう。  その「廻し」にはオレも経験がある。よその客の部屋へ廻っていった女が戻ってくるのを、寝もやらず待っているあの気持。廊下をピタッピタッと草履の音が近づいてくる時なんざ、思わずギュッとセガレをにぎりしめたもンだ。  しかし、女は来ないで夜が明けちゃったりする。  オレが光源氏なら、末摘花、藤袴、紅梅、葵などの女の名前のほかに、こういう女郎に、「宵待草」なんて優雅な名をつけちゃいたいくらいだ。  だが、「夕顔」は見たが「朝顔」は見ずじまいとボヤいた覚えもある。   寝て待てば いかにも長い 小便所   じっとして いなんしえとは むごい奴  江戸の連中も、この廻しには、ずいぶんイライラしたらしく、イライラするほどまた女に嫌われた。こんな唄がある。   ※[#歌記号]思ふ男のお声はせいで あがるお客の面《つら》憎や 悪洒落《わるじやれ》 金びら 聞いた風《ふう》 すえはたらふく酔ひたふれ 夜あけにふいと目をさまし チヨンチヨン手を打ち若い衆 おれが女はどこにゐる 烏が鳴いてもまだ来ない なんぞとじぶくる(ぶつぶついう)声ばかり……  明治十三年刊の同楽相談の戯詩にも、  引け過ぎ(午後十二時)すでに去って夜|幾更《いくこう》 鉄瓶湯|沸《たぎ》って鳴る声清し 腹は立つ相方《あいかた》(相手の女郎)面《つら》を出さず 空しく聞く隣房《りんぽう》(となり部屋)雲数《ウンスウ》の情《じよう》  どの時代も、男ってバカみたいなところあるよな。せめて、   ※[#歌記号]うたたねの 枕に ひざの肌ざはり    おかぜ召すなと やはらかに    肩をつつんだ 袖ぶとん    あら……寝ちやつたの……  なんて男のしあわせに、あやかりたいもンだ。  さて亭主がお伊勢参りの長旅に出かけた留守は、女房の命の洗濯の絶好のチャンスと、むかしは相場がきまっていた。   品川に ゐるのに蔭膳 三日据え  亭主野郎を案じて、女房が「うちの人今ごろどの辺かしら」と蔭膳まで据えているのに、本人は早くも江戸のとっつきの品川宿で、女郎といい機嫌。  だが、こんな可愛い女房は、まずいなかった。   抜けぬぞと おどして亭主 伊勢へ立ち  亭主が伊勢参りの留守に女房が浮気すると、神罰テキメン。膣痙攣《ちつけいれん》かなんか起こして抜けなくなるという俗信があった。  だが、おどされたって何だって、   女房も 岩戸を開く 伊勢の留守   人寄せに 塗り立てている 伊勢の留守  で、コッテリと厚化粧をして町内をデモる女房がいた。  そうとは知らぬ旅帰りの亭主は豆泥棒にまで、   知らぬが仏《ほとけ》 留守中の礼を言ひ  と、町内の挨拶廻りをすませて、やっと夫婦二人になってみると、   旅がへり 思ひなしかは 広くなり  ハテと、小首をかしげながらも、旅疲れで亭主はすぐに高いびき。   留守だから しなとは変な 寝言なり  その女房の寝言も聞こえない。さてその翌朝、 「あンたが、お伊勢様へ発つ前の晩に仕込んだのが、どうやらデキたようよ」  なんて言われて、「ふーん、そりゃ神様のお授りものだ。男の子が生れたら名前を伊勢松とつけようぜ」などと上機嫌。   間男の 子と知らず 伊勢松とつけ  だが、そんなわけの赤ん坊だから、   間男が 抱くと泣きやむ 気の毒さ  しかし伊勢の留守でも、絶対安全な女房がいた。   伊勢の留守 誰も盗まぬ 持参金  近ごろは、そうとうなブスでも嫁にゆく先へ家つき、カーつき、ババアぬき、などと条件をつけ、まるで鏡が無い国の女みたいなことをぬかすが、昔は、ブスは持参金でもつけなけりゃ貰い手はなかったもんだ。   持参金 鼻はあれども 筋がなし  持参金の相場は、もちろん嫁の実家の財力にもよるが、まず百両以上だった。  百両といえば現在の米換算では四、五百万円だが、当時の実際の価値はゆうに千万を越えたろうと思う。  だが、百両が、婿さんの手取りとはならない、一割は仲人への謝礼だった。   十両の 礼金とんだ 顔の嫁  この百両をうまく商売の元手に活用して財産をふやせば上々だが、   百両で 一生赤んべいをされ   百両は 無くなり 顔は残つてる  と、悲哀を味わうヤツもいた。  その上、持参金を持ってきたことを鼻にかける。もっとも、かけるほどの鼻がありゃあ結構な話だが……。   いただいて しなさいといふ 持参金   よく拭いて くれなとねだる 持参金  まあこんなブスなら、伊勢の留守も盗まれる心配はない。  だが嬶《かかあ》という字は女が鼻につくという字だ。  そうなって離縁ということにでもなると、手取り九十両だけ返せばいいというわけにはいかない。  百両キチンとそろえた上、  一、妻之諸道具 持参金相返す上は 離別之儀 夫之心次第なり——  という江戸の法律通り、嫁入り道具に持ってきたものは一つ残らず揃えて、嫁の実家へ返さねばならなかった。  近松門左衛門の「心中天網島」で、五左衛門が紙屋治兵衛の妻となっているわが娘|おさん《ヽヽヽ》を連れ戻そうとする場面で、 「去《さ》り状《じよう》書け、おさんが持参の道具、衣類あらためて封付けん……」と治兵衛に迫るのはこのことなのだ。  一、女房|不致得心《とくしんいたさず》に 衣類等を質屋へ遣《つかわす》には不縁の事 妻親之心次第——  このように、女房の嫁入道具を質に入れただけでも、女房が出てゆく理由になったのだから、もし質流れなどしたら大変なことになる。  そのくせだ。汗水たらして働いてきた亭主の稼ぎで着物を買おうと、うまいものを喰おうと女房の勝手。こういうのを、「やらずぶったくり」といって、いつの世も亭主はみじめなもんだ。  こんなわけで、サラサラと三行《みくだ》り半などかんたんに書いて渡せるものじゃなかった。  江戸は女が少なくて、希少性価値があるから、離縁になったっていくらでもアトクチが待っている。  鎌倉松ケ岡の東慶寺や、上州|世良田《せらだ》の満徳寺など縁切り寺へかけこむ女は、夫に虐待された哀れな女とはかぎらない。  亭主となんとなく暮らすのが嫌になったって、亭主のほうは分《ぶ》の悪い離縁状などなかなか書かないから、しびれを切らしてエイッとばかり縁切寺へかけこんじゃう女の強引な手段にも縁切寺は悪用された。  寺に三年有髪の尼となっていれば一方的に縁が切れたし、亭主のほうがあきらめて離縁状を書けば三年いなくてもすむ。  この場合、女房の一方的離縁申立だから、二年は「いましめ」として寺にいなければならなかった。  ただ、どんな事情があるにせよ、去り状を渡さず、後妻を貰ったり、去り状が無くてよそへ嫁いだりすると重婚ということになり、その刑罰は下手をすれば死罪、軽くても江戸を追放された。  その事例を(昭和11・司法資料・徳川時代裁判事例)から抄出すると、   明和五年(一七六八)十二月十九日 [#地付き]青山久保町 [#地付き]平右衛門|店《だな》(借家人) [#地付き]長 七  右之者儀つね儀夫定七方致欠落罷越妻にいたし呉候様頼候ハハ定七方へ申遣引渡可申処無 其儀つね相頼候迚定七妻と申儀兼々存乍罷在妻に致居候段不届至極ニ付死罪  つまり、|つね《ヽヽ》という女が、岡惚れしたのか長七のところへころげこみ、女房にしておくれと頼みこんだ。長七は|つね《ヽヽ》が定七という男の妻であることを知っていたのだから、当然|つね《ヽヽ》を定七に引渡すべきところなのに、一緒に暮らしていたのは不届だから死罪というのだ。もう一つ例をあげると、  嘉永四亥年(一八五一)町奉行、一色《いつしき》丹後守掛りの裁決で、 [#地付き]笹久保新田 [#地付き]無宿  は る  右之もの儀 武州笹久保新田惣次郎女房之節 無宿勝五郎と密通之上 同人倶々欠落いたし 下総国笹塚新田 善左衛門方厄介に相成居候処 夫惣次郎より取戻之儀申越候に付 一旦立戻候得共 同人憤りも晴兼仕 成方不宜難居遂存候迚 伜源次郎召連 猶又善左衛門方江罷越 惣次郎よりハ相対の上 離縁受候趣に申偽 勝五郎倶々忍罷在候始末不届ニ付死罪  これは、武州笹久保新田の|はる《ヽヽ》という女が、惣次郎の女房でありながら、無宿者の勝五郎と密通して、下総の笹塚の善左衛門のところへ駆落ちした。  そこへ亭主の惣次郎が連れ戻しに来たので、いったんわが家に戻ったものの、惣次郎はカンカンに怒っているので、居たたまれず、「同人 憤《いきどお》りも晴れかねつかまつり なしかたよろしからず つひに居がたく存じ候とて……」  子供の源次郎の手をひいて、またまた下総の善左衛門方へ逃げてゆき、亭主とは話合って離縁となったからと嘘をつき、色男とこっそり同棲していたのを捕って死罪となった。  だから、三行り半の離縁状一本、あるかないかは、生死を決める場合さえある大切な証文だった。     りえん一札の事  此《この》はると申女《もうすおんな》 此度離縁致《このたびりえんいたし》 候《そうろう》  然《しか》る上《うえ》ハ 何方《いずかた》に縁付《えんづき》|候 共《そうろうとも》  此方《このほう》ニ而《て》 少茂《すこしも》 差構《さしかまえ》無御座《ござなく》  後日為《ごじつのため》仍而《よつて》一札《いつさつ》|如 件《くだんのごとし》   嘉永四亥年 月 日 [#地付き]惣 次 郎     はるどのへ  てな一札があったら、|はる《ヽヽ》さんも死罪にならずにすんだのだ。  この時代、契約書などの約定や吉事の取決めなどは七行に書く習慣があった。  七という数字は、お七夜、七五三、七福神、七賢人、七種《ななくさ》、七本槍、七湯、七曜、七つ道具、などの例のように吉数とされていた。  この七行の吉数が、離縁とは真二つに割れるわけだから、三行り半というのだとの説もあるが、ほんとうのことはわからないし、離縁状も必ずしも三行り半ばかりではなく、四行、五行、六行、また二行のものもある。  さて、この裁判事例にも見られるように、間男が出来たため、縁切り寺へかけこむ女房もいた。   間男を 連れて相模へ 逃げてゆき   間男を させぬと女房 旅へ立ち  この句の相模も旅も、相州鎌倉の東慶寺へゆくことを言っている。  亭主のほうも女房が逃げたと知ると青くなって追いかける。   六郷で やうやう嫁を とらまへる  と、六郷の渡し場で女房が舟を待つ間に追いつくこともあれば、   尼寺を 四、五丁にして とつらまり  と、ゴール寸前でつかまっちゃう女房もいた。しかし東慶寺へ入ってしまえばこっちのもの、とたんに女房の気が大きくなる。   鎌倉へ ござれ甘酒 進上《しんじよ》なり  だが、そうまでして、亭主と別れて一緒になりたかった相手の男が、三年も待ったかどうか、そのへんの消息を、江戸の川柳はこう伝える。   三年の うちに間男 気が変り  江戸時代、妻は夫の横暴に泣かされつづけたなんて大嘘のコンコンチキ。  文化十三年(一八一六)武陽隠士という人の『世事見聞録』を読むと、ビックラする。この筆者、誰だか不明だが、おそらく上級旗本かなんか、教養もあり、レッキとした人であったらしい。  さてこの見聞の一節に、 「今、軽き裏店《うらだな》のもの、その日稼ぎのものどもの体《てい》を見るに、親は辛《から》き渡世を送るに、娘は髪化粧、よき衣類を着て、遊芸または男ぐるひなし、また夫は未明より草履にて、棒手振《ぼてふり》などの家業《かぎよう》に出るに、妻は夫の留守をさいわひに近所|合壁《がつぺき》の女房同志寄り集まり、おのが夫を不甲斐|性《しよう》ものに申しなし、互いに身の蕩楽《とうらく》なることを咄《はな》しあい、また紋かるた、めくりなどいふ小博奕《こばくち》をいたし、あるいは若き男を相手に酒を給《た》べ、あるいは芝居見物そのほか遊山物参《ゆさんものまい》りなどに同道いたし、雑司ケ谷、堀之内、目黒、亀井戸、王子、深川、すみ田川梅若などへ参り、またこの道筋近ごろ料理茶屋の類、沢山出来たる故、右などの所へ立入り、または二階などへ上《あが》り金銭を費やすしてゆるゆる休息し、また晩に夫の帰りしとき、終日の務《つとめ》をもいとひやらず、かえつて水を汲ませ煮焚《にたき》を致させ、夫を誑《だま》しすかして使ふを手柄とし、女房は主人の如く夫は下人《げにん》の如く也。邂逅密夫《かいごうみつぷ》などのなきはその貞実《ていじつ》を恩に着せて、これまた夫に嵩《かさにかか》り、とにもかくにも気随《きまま》也……」  いま、育児、炊事、掃除を亭主にやらせ、「ウチのパパは、三ジのパパなのよ」なんて得意然としているバカ女がいるが(もっとも亭主のほうは、もっとバカ亭主だが)昔もやっぱしいたんだよな。  だがウーマン・リブとか、女の権利の主張はいいとして、育児、炊事、掃除は男の介入を断乎として許さないのが女の権利というもンだぞ。それをテメエで放棄しておきながら、何が女権の拡張だよ、ほんとに。  この武陽隠士がいう、「いま軽き裏店のもの、その日稼ぎのものども」は、決して男として恥じる暮しではなかった。  江戸時代は腕一本、脛《すね》一本で稼ぐ人間はたとえ棒手振の行商だろうが、大工、左官のように職人だろうが、その業《なりわい》に胸を張っていた。  武家へ中間小者《ちゆうげんこもの》で奉公したり、お店《たな》奉公をして人に使われて金を貰う連中を見くだす矜持《きようじ》があったんだ。  その日稼ぎこそ、江戸の庶民の生甲斐で、   鐘ひとつ 売れぬ日はなし 江戸の春   江戸っ子の 生まれぞこなひ 金を溜め  江戸は働く意欲さえあれば、年貢でしばられている農民とちがって、税金など全く無いのだから、結構食ってゆけた。だから宵越しの銭《ぜに》など持つヤツは、ろくでもねえ野郎とイキがったのだ。  武陽隠士は、知行取りか、扶持米取りか判らないが、いまの国家から給料をもらう官吏みたいな身分だったらしいから、うら店の連中とはその点、生活感覚のズレがある。  それにしても、亭主の留守に嬶連、寄り集まっての井戸端会議で、宿六の棚おろしやら、若い男を家へ引っぱりこむやら、遊び歩くやら、挙句のはて、疲れはてて帰ってきた亭主をねぎらうどころか、水を汲ませ、煮炊までさせ、そとでこっそり密会する間男もできないブス女房は、「お前さんひとりを大切に守っているのは、あたしぐらいなもんだよ」と、てめえのツラのことは忘れて恩に着せるたあ……この記録、誰だって現代のことだと思っちゃう。  江戸時代は、いつの頃もそうだったようで、西鶴五人女の巻二「情を入れし樽屋物語」の一節にも元禄ごろの女房たちを、 「されば 一切の女 移り気なる物にして うまき色咄《いろばなし》に現《うつつ》をぬかし 道頓堀の作り狂言をまことに見なし いつともなく心みだし(芝居の色事をほんとにして、自分も……という気持になり)天王寺の桜の散り前 藤の棚のさかりに うるはしき男に浮かれ 帰りては 一代養ふ男(一生、自分を養ってくれる亭主)を嫌ひぬ……」と武陽隠士みたいなことを言っている。  そのくせ、亭主がちっとばかり、外で飲んだりしてくると、「そんなお金があったら、あたしにミンクのコート買ってよッ」てなことぬかすのが今の女房だ。  これだって、江戸時代、それとそっくりの唄がある。   ※[#歌記号]一合飲む酒 五勺《ごしやく》にきめて    金《きん》の簪《かんざし》 買《こ》うとくれ  ささやかな亭主の楽しみすら、てめえの虚飾のために取りあげようってえんだから、亭主だって、たまには言いたいことをいう。   ※[#歌記号]金の簪《かんざし》 買《こ》うてやりゃ 落す     湯まき(腰巻)買《こ》うてやりゃ      糞《くそ》つける [#地付き]——大阪・古謡——  江戸の大津絵節は、   ※[#歌記号]私は亭主持ち、主《ぬし》は女房持ち。たがいに主ある身であれば、首尾さへよければ昼間でも、構はず忍んで痴話狂ひ。揚句の果にはかじり付き、鼻息荒くだんまりは、虫が知らせた鳥影に、裏から帰したその後へ、息せきて帰るは亭主二本棒「ヲヤ、お帰りなさい ました」澄ました顔はしてゐれど、心のうちでは「よかつたね」 [#地付き](斉田作楽・編・下がかり大津絵ぶし)  と、江戸の女房の悪知恵をうたうが、だが誰知るまいと思いきや、こういう女房は「壁訴訟」というヤツで、すべてが露見する。  壁訴訟とは、どなたもご存じの白壁の落書きだが、相合傘を書き、その左右へ、密夫密婦の名を誰かが書くのだ。   町内で 知らぬは亭主 ばかりなり  の気のいい亭主も、この壁訴訟で一切をさとる。   白壁を 見ろと去り状 ぶつつける  おなじ女房の浮気でも、『国盗り物語』の斉藤道三が擡頭《たいとう》してくる室町末期の戦乱時代に編まれた『閑吟集』にはずっと可愛い歌がある。   ※[#歌記号]誰そよ お軽忽《きようこつ》 主《ぬし》あるを締むるは    喰ひつくは よしや戯《ざ》るるとも 十七、八のならひよ    そと喰ひついて 給《たも》うれのう    歯型のあらば 顕《あらは》るる (さも気軽に人妻の私を抱きしめたり、噛んだり、いけないことをするのは、ねえ、どこのどなたかしら。そりゃ、私だってまだ若いんだもん。もっと楽しみたいわよ、噛むならそっと噛んでね。歯のあとがついたら、うちの人に気付かれちゃうもん)  この歌には若く色っぽい姿態の動きが感じられる。おなじ女の浮気でも明るく生きいきしている。  女も歌も時代が下ると、だんだん味気がなくなってゆくものか。 「女房は主人のごとく、夫は下人の如き」  現代は、   またかえと 女房笑ひ わらひ寄り  少々うす気味悪いが、カカアと仲よくやるのが無難というものだ。  だが、世の中にはずいぶん粋な夫婦もある。  たしか歌舞伎の名優、先代の中村|鴈治郎《がんじろう》だったと思うが、本宅と妾宅とに一晩ずつ交替で泊っていた。  ある日、妾宅へ行くべき日に、何を勘ちがいしたのか外出先から本宅へ戻ってくると、玄関へ出むかえた奥さんが、にこやかに三ツ指をついて、 「あなた、日をお間違えでは……」と言った。  すると鴈治郎、「おや、そうか」と笑ってくるりと背をむけて出て行ったという。  奥さんも見事、鴈治郎も天晴れではないか。ところが、オレの友達で熱海だか伊東だか温泉芸者と馴染んじゃって、三日も四日も家に帰らないヤロウがいた。  だがわが家は忘れないとみえ、ようやく帰って来たら、出むかえた女房が、ふだん西沢爽の雑学などちっとばかりカジっていたから、ここぞとばかり、三ツ指などついて、 「あのウ、あなた、家をおまちがえでは……」と皮肉たっぷりに言ったら、ヤロウ、 「ああ、そうか」と隣の後家さんの家へ行っちゃった。  さて、「二婢《にひ》」に移ろう。  江戸の後期、洒落本の作者として知られた大田蜀山人の狂詩に下女をうたったのがある。   腰は内庭《なかにわ》の臼《うす》に似たり 歯は新漬の茄子《なすび》の如し 粧《よそおい》なす朝飯の後 流眄《ながしめ》に見る若旦那  この狂詩は、無細工無器量の下女の片想いにとれるし、魔がさしたというのか、昨夜うっかり手をつけたら、今朝はもう女房気取りで獅子っ鼻をヒクつかせている下女にガックリしている若旦那の姿とも想像できる。   若旦那 夜はおがんで 昼叱り——の川柳に彷彿《ほうふつ》たるものがある。  今は人手が無いからお手伝いさんなどと雇う方もお追従《ついしよう》でいうが、戦前は女中、ねえや、明治や江戸は「おさんどん」、下女、と言った。  さて、江戸という町は女が少ないところへもって来て、他国者の寄り集まりの人口が多いから、出稼ぎの独身者がごろごろしている。下女が奉公する商家などはそうした奉公人たちがいる。下女の年給が一両二分、男でもせいぜい二—三両。安女郎を買うことさえ事欠くから、つい手近な下女に性のはけ口を求めるのは理の当然だ。   おかめでも あるべきものが ある強味 [#地付き]——正直——  だから、「ばけべそ」づらの女でも結構モテた。   恋の闇 下女は小声で ここだわナ   ちっとずつ 毎晩しなと 下女は言い   あかぎれの かかとでしめて 下女よがり  いくのの道をきわめる頃には、だんだん図々しくなって、物置や炭部屋どころか自分の部屋に男を引入れておっぱじめる。間《ま》の悪いもので、そんな時にかぎっておカミさんに呼ばれたり、用事を言い付けられたりするものだ。   乗せていて 下女は二声《ふたこえ》 返事する  江戸をはさんで左右に相模(神奈川)房州(千葉)がある。下女の供給源はこの二つの国が多かった。  なかにも厚木、伊勢原辺から江戸へ奉公に出る「相模《さがみ》下女《げじよ》」は好色のほまれ高かった。   兄弟は 相模女に くらいこみ  建久四年(一一九三)五月二十八日、富士の裾野の巻狩の夜。父の仇、工藤祐経を討ちとった曽我兄弟さえ、兄の十郎は大磯の遊女|虎御前《とらごぜん》に、弟の五郎は鎌倉|化粧坂《けはいざか》の少将なる遊女になじんで通った。ことに虎御前という相模女の悲恋は、いまもこの日にふる雨を、「虎が雨」といって十郎討死を嘆いた虎御前の涙雨として、隅田木母寺の梅若塚の物語による「梅若の涙雨」と共にロマンチックな雨の異称になっているくらいだ。   相州の住 またぐらの 乱れ焼き  と、相州鎌倉住五郎入道正宗の名刀には及ばずとも、正宗後代の綱広ぐらいの切れ味をそなえていた上に、   相模下女 口よごしだと しがみつき   色男 喰ふにや足らぬと 相模下女  男はツラじゃない、モノだよと大悟するのがいるかと思えば、   ふてえ下女 一バンすると 何ぞくれ  と、ねだるチャッカリ下女もいた。   手をとると 下女はないきを 荒くする   口どめの たんびに下女は 色がふへ  それからそれへと、数人の男と関係をもつあたり、いわゆる相模下女の本領が発揮されるのだ。  こうして下女が、セックスに飢えた男の奉公人たちの中で揉まれてゆくかと思うと、いわゆる「二婢」たる主人と下女の関係が生じる。  少し目鼻立ちのいい下女は奉公人どもに手をつけられないよう、なるべく自分の目のとどくところへ置くが、なんとしてもカミさんの目が光っている。うかつには手は出せない。  これが将軍様や大名ならば、奥方も三十すぎれば、「おしとね辞退・おしとねすべり」といって自分は引きさがり、召仕えの娘のうちから良さそうなのを代りに推選した。もちろん愛妾ですらおなじ不文律の停年があった。だから十一代将軍の家斉《いえなり》なんざ、二十人も妾がいて、生れた子供が五十四人もいた。  だがこんな記録に驚くことはない。伯爵松方正義は、維新の元勲で、総理大臣もつとめた男だが、将軍家斉にまけないくらいの妾をもっていた。  明治天皇に、「松方、おまえの子供は男の子女の子何人ずつか」と聞かれて、「ヘイ、おそれ入りますがソロバンを拝借」と言ったという。事実、孫まで加えてなんと百五十人いたのだ。  しかし、女房は将軍様や大名の奥方とはちがうから、 「ナニいってんのよ、せっかく味がわかりかけたとこだよッ」と、ことさら亭主の行動を監視する。  そこで、女房が寝入ったころ、夜這いときめこむ。   小便の ついでに這ふは 出来心  これが大名なら、   殿様の 夜這ひはずつか ずつか行き  と堂々やれるが、下々の夜ばいは、   女房を 三声起して 下女へ這ひ  という用心が肝要だ。  そこで抜目のない江戸の版元は、夜ばいの秘伝書を刷って売った。  その一部を紹介すると、 「水いれに水をいれもちゆき 間《あい》の襖《ふすま》 戸障子のみぞへ流し そろりそろりとあけべし また畳の音するは女帯を歩く所に敷き その上をわたり行くべし 襖障子のみぞへ油をぬること無用なり 油は滑らかなるゆゑ 走りすぎて思ひもよらぬ音をなす事あり……女少しもしらぬ体《てい》に寝入りたらば 目のさめぬやうそろりと這ひこみ 決して股ぐら 陰戸《ほと》などへ手をやるべからず うへしたへ手を廻し 女をしつかり抱きしめ 口と口とをおしつけ まづ唇を少しなめ……」  明治の戯詩に、   徐々這出《そろそろはいだす》 夜三更《よるさんこう》(午前一時)  静《しずかに》 提抜身《ぬきみをさげ》|襲 孤営《こえいをおそう》(女のひとり寝の部屋)   中途何事不得進《なかばなにごとぞすすむをえず》  犢褌《ふんどし》|懸  釘《くぎにひつかけ》独自驚《ひとりおどろく》  こんなハプニングもあったりして、首尾よく下女の布団の中にもぐりこんでも、   不承知な 下女十本で おつぷさぎ  と、春草まばらな所を 両手でおさえてイヤダイヤダと進入を許さない。   かたづけて やるわとやつと 股をあけ  いい所へ嫁に世話してやる、嫁入り道具もたんと持たせてやるわい、となだめすかして本望を遂げるよりほかはない。しかし油断大敵、   下女が夜着 かぶつて亭主 あやまらせ  と盛遠と袈裟御前《けさごぜん》の故事にならってか、女房のほうが先廻りをしていて、まんまとカカアの戦略に陥る失敗もある。  平安朝の「催馬楽《さいばら》」にも、夜這いの歌がある。   鶏《とり》は鳴きぬ てふかさ 桜麿《さくらまろ》が 彼《し》がものを 押しはし 来り居てすれ    汝《な》が子 生《な》すまで (おや、鶏が鳴いたな。もう夜明けか、なんて言いながら、桜麿のやつ、まだもの足らずに、どりゃお前に子が出来るよう頑張らなくちゃ、と、またアレを私に押しつけてくるんだから……)  千年の歳月を感じさせない生々しい情感をたたえた歌だ。  江戸の小咄に、 「友達寄つて、〈女は氏《うじ》のふて玉の輿《こし》といふがどふいふ訳じや〉と問へば 大ぜいの中より物知り顔に これにはふかい訳のあること まづ開《ぼぼ》と申すものは いたつてくさいものゆゑ 蛆《うじ》がわきさうなものだが蛆はわかぬ それゆゑ うじのふてといふ さて玉のこしとは まらは開のうちへ入ますれども きん玉はそとに居る それゆゑ玉残し……」  この話、   ※[#歌記号]金玉よ ゆうべのところへ行こうじゃないか    わたしゃ 行くのはよけれども 中に入れる身では無し 裏門たたいて待つつらさ——  という江戸のバレ唄を思わせる。  門を叩くといえば、唐の時代、洛陽の僧の賈島《かとう》が、「僧は敲《たた》く、月下《げつか》の門」と、「僧は推《お》す月下の門」と、いずれの詩句にするか迷って、今日の「推敲《すいこう》」の語源になったことは有名だが、あれだってあの詩句のウラに、「月のさわりになったため」入れてもらえぬ頭の丸い坊さんがホトホトと門をたたいて、すこしだけいいじゃないかと哀願している意味がかくされてあるとオレは考える。「霜刃かつてもちいず 十年一剣を磨く」とうたった詩人だ。磨いた一剣はついに血を見ることはなかったか、それとも血にまみれたか、オレは賈島ではないから知らないが、「月下の門」の終節に、「幽期《ゆうき》は言《げん》に背《そむ》かず」(奥深い感じがひとしおである)と、うたっているところがなんとも気にかかる。 「月下の門」をホトホトとたたく夜這いはともかく、唐文化の模倣に明け暮れた奈良時代の万葉集には夜ばいの歌は数おおい。   奥山の 真木《まき》の板戸を とどとして    吾《あ》が開《ひら》かむに 入《い》り来寝《きな》さね (今夜、私の家の板戸をトントンたたいて合図して下さい。私が戸をあけたら、入って来て一緒に寝て下さいね)  これを、男の側からうたえば、   ※[#歌記号]表から まわれば 垣根っこあるし    裏から まわれば 犬 吠える    鳴くな さわぐな 泥棒じゃないよ    この家《や》の 娘さんの いろ男  てな、真室川音頭みたいなことになるだろう。  さて、「抉《くじ》る」という言葉、最近、耳にしない。いまの若いもンは女のソレに対し「いじる」とか「さわる」とか言う。「くじる」というのは「えぐる・かきまわす」ことで「いじる」「さわる」なんて力のこもらないもんじゃない。「くじる」という言葉が忘れられたのは男が女性化した証拠だ。  難解な川柳として、   入口で 医者と親子が 待っている  という句がよく挙げられる。  つまり、「くじる」ときには薬指と親指と小指が門口で待たされる。昇殿を許されるのは人差し指と中指だけだ。   指二本 いくのの道の 案内者  それに門口で待たされている親指にも仕事がある。   くじるとき 親指 核《さね》の梶をとり  江戸時代は芝居見物が盛んだったが、この芝居小屋の大衆席は、仕切りのない追い込みの平土間《ひらどま》で、これを「切り落し」といった。  満員電車みたいに男女の客がひしめきあっているから、周囲の女へちょっかい出すやつがいる。それがまた楽しみで芝居へ通う女もいたのだ。  芝居見物に連れてゆくといわれてめかしこんだ下女が、急に取りやめとなってガッカリ。男の奉公人に尻をツメってもらって、ああこれでサッパリした、という咄もあるくらいだ。  尻摘み、尻打ち祭りが今もあるように、昔から女の尻をツメることは男の求愛方法の一つだった。  童べ唄にも、   ※[#歌記号]お尻の用心 ご用心……  と、女の子の尻をツメったり、まくったりする子供の遊びがあるくらいなのだ。  ツメるうちはまだいい。切落しで「くじる」ヤツが出てくるが、何分にも混み合った客席のこと、うっかり、   切落し 女房くじって 叱られる  なんてこともあった。   切落し その手で おこし 買って喰い  さて、顔は化けべそでも、中年女のデレっ尻《ちり》とちがって、十六、七の娘の立働くたびにプリンプリンとはじけそうな出っ尻《ちり》が躍動するのを見れば、若い男はたまらなくなる。  だから物置、納屋など人目のない所へ下女のあとをつけてゆき、ちょいと尻をツメったりするから、   物置で 下女沢庵を 振り廻し   不承知な 下女たくあんで くらわせる  と、沢庵で張りとばされる男もいる。ツメられて、あいヨと、すぐ承知する女は「尻が軽い」といわれ、男がどうだどうだと催促するのを、「尻をつつく」とはいまも使われる言葉ではないか。  ツメって効き目がないと今度はふられた男ども数人でよからぬ相談をする。   糠ぶくろ ほおばって下女 腰がぬけ  当時の石鹸であった糠袋を口につっこまれ、声が出ないようにされて風呂帰りに輪姦の憂き目にあった下女も、   口惜しさに 下女 五人目に喰らいつき  と、はかない抵抗をこころみるが、ついには、   かつがれた 下女は空地《あきち》で 賤《しず》ケ岳《たけ》  と、七本槍に突き破られ、   空地から 戸板で下女を かつぎ込み  ついに壮烈なる討死をとげてしまう。  下女受難のなかには、   前ばかりじゃない うしろもと 下女は泣き  と、念の入った念仏講もあった。念仏講とは信者が百万遍の大数珠をみんなでたぐることから輪姦の江戸語だった。  さて「三妓《さんぎ》」だが、江戸、東京の遊里について書けば、それだけで厚冊の本になってしまうので、ところどころつまみ喰いのような話になるが、東京の一流花街、赤坂など、明治までは麦飯女《ばくめしおんな》という私娼の巣窟だった。  麦飯というのは、吉原の女は「米《よね》」と呼んだから「米」より質が落ちるという異称だった。また江戸で「女郎」は関西は「おやま」と言った。 「おやま」の語源は、承応《じようおう》元年(一六五二)の頃、操《あやつ》り人形に小山《おやま》次郎三郎という名人がいて、若い女の木偶《でこ》を巧みにつかったことからとも言われている。  宝永元年(一七〇四)に京都で出版された『心中大鑑』という本の第三巻の三に、近松門左衛門の浄瑠璃で一躍有名になった「曽根崎心中」お初・徳兵衛の真相らしき顛末が詳しく書かれているが、その冒頭に、 「好色のかまどを立てて よるひるのわかちもなく 町汁《ちようじる》 伊勢講の寄りあひ酒にも 人の子 むすこ 人の手代 中より下の出合は かならずここが受合所 新地 新茶屋の|新よね《ヽヽヽ》と……」  とあり、「よね」は京坂の称が江戸に伝わったとみえる。 「よね」とは夜寝・よきね(善寝・好きな女)という意味だが、しかし異説もあり、仏教語のヨニ(印度語・女陰)の転訛ともいう。  また、大阪の言語学者、牧村史陽の説では、|よ《ヽ》たれそつ|ね《ヽ》ーと、|よ《ヽ》と|ね《ヽ》の間に四字《しじ》をはさむからで「しじ」は男根であるという。  しかし、元禄の頃は「しじ」は「指似《しじ》」で指さきほどに小さい、子供のチンボコのことだから、子供が女郎買いするわけでもなし、「よね」なる私娼は、連日連夜のかせぎでゆるくなっているため、一人前の男の|モノ《ヽヽ》も、小指ぐらいにしか感じなかったかも……と考えちゃう。  ところで、古代中国には官吏に登用された時、守るべき「四字《しじ》」の心得というのがあった。  謹(つねに身を正しくして) 励(仕事にはげみ) 和(人と争わず) 緩(心をゆたかにもつ)の四文字だ。  これあたりが、「しじ」の語源に深いかかわりがあるのではなかろうかとオレは思う。  つまり、謹(ふだんはマジメでも)励(はげむときはせっせとヤル)和(相手の女と呼吸を合せ)緩(終ったらまたもとのダラリへもどる)  なッ、このオレの仮説を「支持《しじ》」するものはいないか。  とにかく、赤坂の麦飯女も、やがて明治ともなれば軍閥のたむろするところとなり、「軍人芸者」として一流地にのしあがった。  この芸者、いつ頃どこに発生したのか。それは宝暦年間(一七五一—一七六三)江戸は吉原の廓町からだ。それ以前「踊り子」として技芸を売るものがいたが、芸者の格をもって座敷を張るようになったのは吉原芸者がはじまりとみていいと思うが、そのまえにちょっと遊女についてふれておきたい。  遊女も大夫格ともなれば、歌道、茶道、香道、書道、絵筆もとれば、もちろん、舞芸・音曲・琴三絃の諸芸にすぐれ、源氏物語五十四帖を座右に置く才色兼備の女だった。  芸以前に教養をそなえ、その教養のもとに表現される芸だった。とにかく楼主がこの娘と見込んだのを七つ、八つから一流の先生たちをつけて、みっちり学問、芸事を仕込む。   泣くつらが このくらいだと 女衒《ぜげん》言い  泣き顔でさえ、このくらい、いい顔ですと人買いに売りこまれても、   嘘も すこしつきますと 女衒言い  と、栴檀《せんだん》は双葉より芳《かん》ばし——客を手玉にとる遊女の素質ありと、女衒が保証しても、年頃になって幼女のときは可愛く利口だったはずが、年頃になったら見込みが狂っちゃう場合もある。誰が見ても大夫の素養、風姿を持つ一人の遊女をつくりあげることは、今日、数百人のタレントの中からスターが一人出るか出ないかという確率の低さよりもっときびしいものだった。  格子の中から、「ネエ、ちょいと、遊んでおいきよ」なんて煙管の雁首で客の袖をからんで引張る安女郎とは雲泥の差があったし、第一、手前の店で客をとる安玉とちがい、大夫ともなると客は然るべき紹介を持って引手茶屋へ申込んでも、大夫のスケジュールの都合では一カ月以上も待たされた。さてその日が来ると、大夫は揚屋(貸座敷)まで、禿《かむろ》(遊女の見習いで、まだ幼女)新造《しんぞ》(年頃の遊女で大夫の介添《かいぞ》え、番頭新造・振袖新造など年増も若いのもいた)男衆を引きつれて、八文字に足を踏みながら「花魁《おいらん》道中」をしてやってくる。  なぜ「おいらん道中」かと言えば、吉原の廓内には、江戸町、京町、堺町、伏見町などという町名があって、そこを通るのを旅になぞらえて道中といったのだ。  さて初会《しよかい》となると、客は下座、いいか下座だぞ、大夫は上座にずらりと付添いを従えて座る。大名でもふるぐらいの遊女だから、簡単には抱けない。顔を見るだけで莫大な金がかかるのだ。いくら鼻の下が長い客でもとても付き合い切れないので、寛永年間(一六二四—一六四三)には廓三千といわれる遊女の中に七十五人いた大夫も、宝暦(一七五一—一七六三)頃にはたった四人になっちゃった。  吉原ははじめ、大夫、格子《こうし》、端《はし》の三階級だったが、元禄以降には、大夫、格子、散茶《さんちや》、梅茶《うめちや》、局《つぼね》となって、大夫が少なくなった宝暦頃には散茶クラスが擡頭してくる。  散茶とは粉茶で、「ふらずに出る」という洒落だ。それでも散茶の中で「呼び出し」とよばれたクラスは、店では客を取らない。揚屋が衰微したあと代った引手茶屋まで出向いたのだ。なお大夫の次位の格子とは、格子内で客を引く安玉ではない。それは張見世女郎といって梅茶(散茶をうすめた埋め茶)以下だったし、おなじ吉原でも羅生門河岸とよばれた|どぶ《ヽヽ》っぷちには鉄砲見世といって一発百文という安いのまであった。   早業がきかず 百文 ただとられ  チョンノマだから、インポ気味の男はこうなっちゃう。そうかと思うと、   鉄砲で 二百置きなは 二つ玉  連発がきいたのはよかったが、金も倍とられたりした。  なぜ羅生門河岸と呼んだかといえば、ここに茨木屋という店があって、ひやかし客の片腕をつかまえたら離さない。そこで|渡辺 綱《わたなべのつな》と茨木童子《いばらぎどうじ》の故事にちなんでそう呼んだのだ。  さて、遊芸百般に通じた大夫や、それにつぐ格子の衰退は、必然的にそれに代る役をする人間を登場させる。これが芸一筋の女芸者で、女芸者とは一方に男芸者があったからだ。  男芸者とは、富本、一中、荻江、清元、長唄、常磐津などの音曲の師匠達で、芸をもって一座を取持つ見識があったが、のちには客に媚びる幇間《ほうかん》(太鼓持)がふえて、男芸者の影はうすくなった。  吉原以外の芸者は町芸者といわれて一段格の低いものだったから、芸を売るより身を売るようになり、明治の頃の新橋芸者など、「応来芸者」などという有難くない名で呼ばれたりした。   洗髪島田《あらいがみしまだ》 |頗 《すこぶる》別品《べつぴん》  似狐狸《につこり》|笑 《わらえば》愛嬌《あいきよう》 甚《はなはだし》   可知《しるべし》此猫是応来《このねここれオーライ》    弾三味線《ひくしやみせんは》|鳴 転枕《テンチンとなる》  転枕とは、三味の音色と三味の急所の転軫《てんじん》と枕に転《ころ》ぶ意味が、かかっている。  江戸時代、二朱女郎といえば安女郎の代名詞、二朱は一両の八分の一だから、およそ五百文(一両は四千文が原則だが、江戸末期は経済不安のため、五、六千文にもなった時期もある)。  ※[#歌記号]品川女郎衆は十匁《じゆうもんめ》……とうたわれた品川の飯盛女も、ふつうは二朱ぐらいだった。その二朱女郎の教養をうかがい知る話がある。  加賀、大聖寺藩の遊廓、串《くし》(現・小松市)の遊女も二朱が相場だった。  ここの駒屋の遊女に玉舟《たまふね》というのがいた。加賀藩二千五百石取りの家老、学者としても知られた富田景周《とみたかげちか》がある日、駒屋の有名な庭園を見に立寄って小宴を催した。女郎屋に登楼したのだからパツイチが目的だろうなんてえのは下司のカングリというものだ。富田景周ほどのえらい人になると、女郎を酒宴にはべらせて酌をさせてもそれ以上のことはない。  オレにも体験がある。売春防止法が施かれる少し前のことだが、いまは亡き作曲家の上原げんと、仁木他喜雄などと、よく新宿歌舞伎町の特飲街(青線)へ出かけた。そこになじみの店があって、その店の階下の十畳間(といっても、ほかに六畳一間しかない。あと二階に三畳間が三つ四つあり、そこがこの店に五人ほどいる女が交替でつかう戦場だった)で、女将《おかみ》のつけものや、女を走らせて買わせたヤキトン(トリではない)などを肴によく酒を飲んだが、ついぞ女を抱いたことはなかった。  いま二階で一戦すませた女が、トントンと階段をおりてくる。そいつがベタッと座ってお酌をしてくれる。だからお酌は入れかわり立ちかわりだ。スッとした顔でいま帰っていった客の顔を思い浮かべ、大マジメな顔で酌をしている女の顔をうち眺め、ニヤニヤと盃をかたむけるオカシサは女を抱くよりよっぽど面白かった。  どうだ、富田景周とオレとよく似ているであろうが……。  やがて夕方になって、富田景周が席を立つころには、山の端《は》におぼろな月がかかっていた。その時、玉舟はしずかに筆をとり一詩を富田景周にしめした。   今宵桃李月《こよいとうりのつき》  |一倍 他楼遊《たろうのあそびにいちばいす》   |却 悩 清香影《かえつてせいこうのかげになやむ》  |妾 衣 不永留《しようがいながくとどまらず》  この即興の詩に流石の富田景周がビックラこいた。この玉舟はまだ十九歳だった。  こんな才女が、この廓にズラリとならんでいたわけじゃないが、いま残る当時の女郎たちの俳句を見ても、女子大・国文科卒のメロウより、ちとましじゃないかと思う。   別れ路《じ》や またも見返る 春の月 [#地付き]——友賀——   口説《くぜつ》して(痴話げんかをして)寝かぬる宵や郭公《ほととぎす》 [#地付き]——越路—— [#地付き](加賀の串・川良雄・池田己亥一)  昨今はどうじゃい。オレがやおら席を立つ。ホステスちゃんがうやうやしく書いたものを捧げてくる。一篇の詩歌でもつくったかと、ひらいてみればこわいかに、ベラボーな勘定書だ。  さて、いまの「妓」となれば「ホステス」だろう。「ホステス」なんて名がついたから、近頃のメロウは変に気取りやがる。  大正時代は、「女ボーイ」と言ったのだぞ。昭和のはじめが「女給」だ。   ※[#歌記号]ワタシャ 夜咲く 酒場の花よオ……  と、いう「女給の唄」が流行した。  広津和郎が、菊池寛と銀座のクロネコにいた小夜子(本名・杉田喜久枝)という女給との情事をモデルに書いた『女給』という小説から、この歌がうまれた。  戦時中は「接待婦」だ。戦後は「社交さん」そのあと「ホステス」となった。「ホステス」という名称をネオン街に先取りされて、日航は泣く泣く「スチュワーデス」なんて空飛ぶ美女に命名したのだ。  いつか銀座でこんなことがあった。一見重役風の男に連れられて、シャナリシャナリとホスちゃんが、一流の寿司屋へ入ってきたと思いねえ。男との話を聞くともなしに聞いていると、マキシムの料理はどうの、帝国ホテルの料理はどうの……近頃は質が落ちたわねェ——なんてヌカした挙句、 「チョイト、青柳にぎってェ」  寿司屋のオヤジが目をむいた。青柳なんてえのは場末の寿司屋が赤貝ならぬバカ貝を赤貝の代りに置いてるもんだ。「ヘエ、おあいにくさまで」と渋い顔で答えたら、言ったセリフがいい。 「アラ残念ね、こんど仕入れときなさい∃」さすが一見重役風の男、真赤な顔をしていた。  しゃらしゃら着飾るのもいいが、ちったあテメエの中味を磨けやい。  バーのママなるものが、またひどい。おなじく銀座の話だが、「新宿と銀座じゃ、ずいぶん勘定のひらきがあるなア」と客が言ったら、「そりゃ当り前ですよ、|着てるもン《ヽヽヽヽヽ》がちがうんですからね」  結局は憮然としてオレは水割りを飲み、かたわらの女は、ハブラシみたいなつけまつ毛をパチパチさせてニタニタと座っているだけ。  元禄の作家、井原西鶴の『好色一代女』に、 「情目《なさけめ》づかひとて 近付きにもあらぬ人の辻立にも見かへり こすいた男のやうにおもはせ揚屋の夕暮 はしゐしてしる人あらば それに遠くより目をやりて 思案なく腰掛けて人さへ見れば……其の折を得て紋所をほめ 又は髪ゆふたるさま あるひははやり扇子 何にてもしほらしき所に心を付け 命とる男め 誰にとて此のあたまつきと ひつしやりほんとたたき立てにして行く事 いかなる帥《すい》もいやとはいはぬこかし也」  と元禄の女郎でも、このくらいの知恵があった。  オレが現代訳すると、「情目《なさけめ》づかいと言って、街に立ってる知らない男にもそっと振り返って気をひかれたふりをしたり、知ってる人がやって来たら遠くからうっとりとした目つきで立止ってみつめたり、人目が無い時は〈あら、素敵なネクタイ!〉〈マア、ご趣味のいいお洋服ですこと、どなたのお好みでこんなオシャレをなさるの、女ごろしねェ〉なんて、相手の背中をつついて、ついと立ってゆく……遊びなれた人でもいい気分にさせてしまう手練手管だ」と、こうなる。  三百年後のホスちゃんの頭が、いかに退化しているか歴然たるものが感じられるではないか。オレも戦前、惚れた芸者がいた。札ビラをきって派手な遊びが出来る身分じゃない。待合へあがって、じかにその妓の置屋へ電話を入れる。検番を通して出先へ貰いをかけても貰えないことがあるからだ。置屋も男前のソーサンといえばツウのカアだ。鬼のような置屋だって、一片の情はある。すぐ仕込っ子を出先に走らせて、その妓に耳うち。それからはその妓の臨機応変だ。急に腹が痛くなったり、時々母親を急病にしたり、とにかくその席をぬけ出してオレの所へ飛んでくる。  そこまではいいんだ。心臓がキリキリ痛むような思いでよその席から逃げてくるんだから極度に緊張している。オレの顔を見るとホッとした途端、ドッと疲れが出ちゃうのだろう。布団へ入るやいなや寝入っちゃうのだ。  こっちは若いからイサイ構わずオッパじめる。でもたよりないもんだぜ、相手の妓の寝息を伴奏にシコシコやるのは……。  だから揺り起こしたら、ハッと目がさめたその妓の言い草がいい。 「あら、ごめんネ、あたしあんたと居ると安心しちゃうのヨォ」  変な惚れられ方をした時代であった。  その頃、先輩に、 「芸者ってえのは親切だなァ。小便に行くときも、そっとあとをついて来て待っていてくれる」と言ったら、「バカヤロウ、あれは客が里ごころがつかないために気を配ってんだ」と笑われた。  小便して手を洗うときがいい。手水鉢なんかあって「ひしゃく」でそっと水を掛けてくれる。水道の蛇口じゃあの風情はないやね。  日本の芸者はサービスがいいと聞かされていたある外人が手洗いに立った。  出てくると、芸者が「ひしゃく」を持って待っている。一瞬、何の事だかわからなかったが、すぐ彼はすべてを理解した。 「オオ・サンキュー」と、彼はせっかくズボンにしまった太いのを芸者の前にニューッと出したのだ。  また、あの長襦袢すがたもいいもんだった。あれを嫌いな男は、いないのではないか。少々顔がまずくったって、赤い長襦袢かなんかで、そっと床の中へすべりこんでくると男はムラムラしちゃう。  吉井勇の歌に、   なまめきし 緋の扱帯《しごき》より ほのぼのと    歌麿の夜は 明けにけらしな  ってえのがあるが、あれは長襦袢ではエロすぎるから扱帯と逃げたのだとオレは思う。だがネグリジェはだめ、まずい女がネグリジェなど着てみろ。狸がよだれ掛をしているみたいだ。  西条八十の『わが愛の記』という本に、 「ドラ・シャペルというフランス人と料亭で遊んでいるとき、ぼくに質問した。 〈あなたがたはこうしてゲイシャと雑談をしたり、あるいは歌や踊りを楽しんだだけで別れる。それで高い金を払う。どうしてもっと徹底的な欲望を果たさないで、あなたがたは満足できるのですか〉と。こんな質問は、ほとんどすべての外国人から受ける。そういうときぼくはこう説明してやる。 〈日本の国の色の道は、あなたがたとちがう。あなたがたの国では女を買うとなると、素裸になり、白ぬりのホテルの実用一方の部屋で、ときにはトイレットまで露骨に見える部屋で、ひたすら性戯にふける。ところが日本では習字を書道といい、生け花を花道というように、男女の関係を色道という。すなわちそれはたしなみの一種でもある。だから閨中においても女性は美しい色の長じゅばんを着て、寝具から蚊帳の色模様まで選び、まくらもとのスタンドにも秋草の絵など描かせたりするのだ。われわれは色気というものは、肉体と着衣のあいだにあると信じている〉……」  まことに詩人であり粋人であった西条八十らしい言葉ではないか。  しかし、外国人にそう胸を張った西条先生も、いまの女の子を見たらどう思うだろ。   ドーナツの ようにパンティ ぬぎすてる [#地付き]——きわむ——   一友動議《いちゆうどうぎす》 遊廓《ゆうかく》| 説《のせつ》  艶舌喃々《えんぜつなんなん》|語  春 情《しゆんじようをかたる》   |親  慮  経済《おやはけいざいをおもんぱかつて》|未 同 意《いまだどういせざるに》  伜《せがれは》 忽《たちまち》 |起 立《きりつして》|表 賛 成《さんせいをひようす》 [#地付き](明治13・太平楽府) (悪友に誘われて、女遊びの面白さを聞かされたものの、いや金がかかるし、どうしようと迷っているうち、親の気も知らないで、臍《へそ》の下のセガレが賛成の起立をしている)  こんな風だから、   連れ出した 相手にたたる 山の神   御内儀が にらめつけたと 連れは言い  悪友も怖じ気をふるう、女房のすさまじさ。   風吹けば 吹けと女房 早く寝る  これは『伊勢物語』第二十三段の、 「むかし 田舎わたらいしける人の子ども 井のもとに出でて遊びけるを大人になりにければ 男も女もはぢかはしてありけれど」  ではじまる、「筒井筒」の物語だが、二人が夫婦になってからの、後段のところ—— 「男はそのうち河内に好きな女が出来る。それでも妻はいやな顔一つしないで夫を送り出す。さてはおれの留守に誰かいい男でも引入れているのでは——と、女のもとへ通うふりをして引返し、庭の木のしげみにかくれていると、妻は夫が出て行ったほうを打ち眺め、   風吹けば 沖つ白浪 龍田山   夜半にや 君が ひとり越ゆらむ  と、さぞや途中が難儀なことでございましょうと夫の身を案じて歌を詠んだ。これを聞いて夫は、ああすまなかった、なんとやさしい妻であろうと後悔して、それきり女のもとへ通わなくなった」という『伊勢物語』のうちでも誰にもよく知られた話だが、「かかあ」は婉《えん》なる王朝の女じゃないから、風でも吹きやがれと——フテ寝しちゃう。   蚊にくわれ 沖つ白浪 ちきしょうメ   古へは 行くらん今は 行きゃがる  だいたい女というものは、『源氏物語』の「夕霧の巻」にも、 「はかなびたるこそ 女はろうたけれ」  とあるように、どこか心細そうに、きゃしゃな女であってこそ、抱きしめてやりたい愛しさを男はおぼえるが、   家《うち》に無い ものではないと 女房言い  といっても、ドラム缶から手足が生えたような古女房じゃ、その気が起こらない。  だから朝帰りともなると、   睾丸《きんたま》に 噛りつかれる 朝帰り   隣りから 来て睾丸を はなさせる  なんてすごい女房に、亭主はつい、   調法なものの 邪魔なは 女房なり  と愚痴のひとつも言いたくなる。  それでなくても、「やあ、ゆうべは仲間のつき合いで徹夜麻雀しちゃって!」などと言っても男は根が純情だから、内心すまなさもあって、そんな時に限って、かえって機嫌よく振舞う。   女房へ へつらいすぎて 気《け》どられる   機嫌とると 女房 油断せず  こういうときは亭主ども、すでに女房にバレているものを、あえて隠すな。  古人いわく、虎穴に入らずんば虎児を得ずだ。半分本当のことを言い半分は「昨夜たしかに遊びに行ったけどヨ、その女がひでえヤツで……」と、女にさんざんつれない仕打ちをされて、手もふれずに帰ってきたと、涙ながらに嘘をつけ。そこが夫婦の情というもの、   振られたと 聞けば女房も 腹を立て  亭主の浮気より、亭主をだました女に憎しみの鉾先《ほこさき》がいっちゃう。  さてその晩、   女房の 拗《す》ねたは足で 縄を綯《な》い   焼餅を 焼いてかかあは 柏餅  と、一応、素気なくつっぱねるが、かたき同士で暮しているわけじゃなし、亭主の機嫌直しの策略と知りながら、やがて、   女房の歓喜は 足で合掌し  となる。   悋気《りんき》の角文字《つのもじ》 折れる夜は ゆがみ文字  やきもち女房に角が生えるとはよくいうことだが、その角が折れて機嫌がなおることとはいかなる次第かといえば、  鎌倉末期、元弘元年(一三三一)に、吉田兼好が書いた『徒然草《つれづれぐさ》』の六十二段に、後嵯峨天皇の皇女で延政門院《えんせいもんいん》とよばれた悦子《えつし》の歌がある。   ふたつ文字 牛の角《つの》文字 すぐな文字     ゆがみ文字とぞ 君はおぼゆる  まずふたつ文字はニに似ているから「こ」牛の角文字はその形から「い」すぐな文字は「し」ゆがみ文字は、くの字に曲がることから「く」つまり「こいしく」あなたを思っておりますということになる。  これを江戸の川柳ではこういう。   あれさもう 牛の角文字 ゆがみ文字  この声が出れば、夫婦仲も元どおりとなるのだ。  ある料理評論家の話に、おなじ料理をすすめるにも、たとえば、「このお魚、いまがシュンで、いちばんおいしい時なんですって」てな風に言葉を添えると、「おいしさが二倍になる」とあった。  その通り、「牛の角文字、ゆがみ文字」と言葉を添えただけで、夜食の味は二倍にも三倍にもなる。   君が代や ああ君が代や いま幾世《いくよ》  だが、夫婦もお互いに古くなっちゃおしまいだ。   爺《じ》いさんと 婆《ば》あさん 寝たら 寝たっきり  さて、「四妾」だが、古代の養老時代(七一七—七二三)には本妻、次妻といわれ妾ではなく同等の地位と身分をもっていた。  徳川時代、武士は無断外泊をすれば、事情によっては家禄没収の憂目を見た。いつ戦乱が勃発するかわからない戦国時代の遺風が掟《おきて》の中に生きていたのだ。だから町人のように、黒板塀に見越しの松 あだな姿のお富さん——てな「囲いもの」を持つわけにはいかない。品行のいい勝海舟にしてからが、自邸に七、八人の妾をおいて、その管理役は奥方だったが、賢夫人で妾同士のいさかい一つ起こさせなかったという。なにしろ嗣子が無ければ家は断絶の武士階級では蓄妾はべつに不道徳でもなんでもなかった。  妾は、明治になって「権妻《ごんさい》」とよばれる。権とは「仮」という意味だが、権大納言、権大僧正などというのと同じで「正」に対する「副」とでもいうべきものだった。しかも明治十五年までは妾は妻とおなじ二等親として戸籍に載っており、遺産相続のさい差がある程度だった。大正になって「二号」とか「レコ」と呼ぶようになる。小指を出して「コレ」と表示するのを逆さまにしたのだ。  今日のように女の働く場所が広くなり、収入もふえてくると、何も一人の男に束縛されることはない。本妻だって近頃はヨロメキたくて川上宗薫センセや宇能鴻一郎センセの小説など読みふけり、ひそかに溜息を漏らしている時代ではないか。  オレの知ってる女で、旦那を二人持っていて、隔日制を採用していたが、確実性がなかったらしく、まだ若いのに痩せおとろえて死んじゃった。  なんの病気で死んだのか聞いてみたら「ニコチン中毒」とかいう話だった。  大正ごろは、独身者や学生の下宿など廻って掃除、洗濯などする下女兼妾がいて、これを「地廻り」といったが、こういう下女兼用の妾は江戸時代も珍しいことではなく、元禄の頃、尾張徳川家に仕えたわずか百石取りの下級武士、朝日文左衛門が書きのこした日記『鸚鵡籠中記《おうむろうちゆうき》』にも、妻を離別したあとへ、さっそく下女妾を雇ったことが記されてある。京阪ではこれを「焚きざわり」と言った。 『好色一代女』に、さる大名の側女《そばめ》の条件として、 「十五より十八まで 当世|皃《がお》はすこし丸く 色は薄花桜にして 目は細きを好まず 眉あつく 鼻の間はせはしからず 次第高になりて 口ちひさく歯並白く耳は根まで見え透き 首筋立ちのびて をくれ毛なしの後髪《うしろがみ》 手の指たよはく 長みあって爪うすく 足は八文三分に定め 親指|反《そ》つて 胴間《どうのま》のつねの人よりながく 腰しまりて物ごし衣裳つきよく 姿に位そなはり 心立おとなしく |※子《ほくろ》ひとつもなき」(一部省略)  このように言っているが、これが元禄の美女の理想像だったのだろう。  胴長であることが条件となっているのは、和服で座っている姿は胴長のほうが座高があって美しい。大名の愛妾などジーパンはいてヒョコタラ歩くわけじゃない。もの静かに部屋で香など燻《く》べたり、歌を詠んだりてな暮しだ。立った姿より座っている姿に美の力点が置かれる。またこの時代になると、黒帯のように細かった女帯が次第に幅広くなってきている。今日のような幅広い着物帯は、実は女が胴長であるため発展してきたのだ。胴長で細帯だと昆布巻のカンピョーみたいになっちゃう。  現代の娘っ子のように、足が長くヒップアップだと、着物姿は物干竿に敷布をひっかけたみたいになる。近ごろ、正月とか卒業式とかやたらに娘っ子は和服を着たがるが、身体中に衣裳を縛りつけてるみたいな感じだ。  着物ってえのは、着る以前の立居振舞、身のこなしの素養が着物姿を美しく見せるのだ。女の着物ほどむずかしくない男の洋服でさえ、何十年も着てるくせにヤボにウカンムリとシンニュウをつけたようなヤツがいるではないか。  また、「足は八文三分 親指反って」など憎い注文だ。  足の大きな女に名器はない。むかし中国では纒足《てんそく》といって、幼少のうちから布で足を強く緊縛した。唐の末から起こった風習だという。纒足のため腰でバランスをとるようになる。腰がひきしまり自然に名器が形成されるわけだ。  いまの女の子のように、ペッタンコの靴をはき、ドデドデとガニ股の家鴨《あひる》みたいな歩き方をしてると、生まれつきの粗末なものが、さらに緩マンになっちゃう。  足の指だってそうだ。江戸の浮世絵を見ろ。女が絶頂に達したことを、足の指の曲げ方で官能的に描写している。  つまり、西鶴は、「八文三分の足 親指反り」でそれとなく名器でなければならぬことを言っているのだ。  吾妻雄兎子《あずまおとこ》(瓜生政和《うりうまさやす》・梅亭金鵞とも)の『水揚日記帳』(文久二年・一八六二)には、 「中肉で色は真っ白、足の指がぴんとなりたる所が極上開」とある。  江戸も中期のおわりからは、浮世絵美人のように、面長で柳腰、すらっと足の長い女がもてはやされるが、元禄の丸顔、中肉、胴長にはもう一つわけがある。  この時代、もっともおそれられたのは|※[#「口+勞」]咳《ろうがい》(|※[#「口+勞」]※[#「病だれ+祭」]《ろうさい》)といわれた肺結核だ。良薬のなかったこの時代、これに侵されたら一コロだった。  元和・寛永(一六一五—一六四三)の頃に流行した弄斎節《ろうさいぶし》という唄があった。  永禄(一五六八)頃、日本へ渡来した琉球の蛇皮線が日本風に改良されて三味線となったが、弄斎節が流行した頃は、今のギターのように普及されて、それがまたこの唄の流行に拍車をかけた。   ※[#歌記号]思い出す夜は 枕と語ろ    枕もの言へ こがるるに  平安中期の和泉式部の、   枕だに知らねば 言はじ 見しままに    君語るなよ 春の夜の夢 [#地付き]——新古今集——  を思わせる「枕」を擬人化した唄だが、また、   ※[#歌記号]夢に見てさへ そさま(あなた)のことを    はらと 泣いては 消え消えと  まことに、どちらも哀艶な唄の文句だが、この弄斎節は、「※[#「口+勞」]※[#「病だれ+祭」]節」ともいわれた。おそらくその旋律は、不治の病にやせほそる美女のような哀感にみちたものであったろう。 『色道禁秘抄』にも、「中肉を撰ぶ可き也 背は中位より短かきほうに妙接(ぐあいよし)多し 背の長き女は 彼の時 心を用ひても 心気の下降遅し 因《よ》って妙地に到る事 数少なし」としており、西鶴の美女像の根柢には、「つつましい健康美」の意識があったにちがいない。  妾にもいろいろある。おかしいのは明和、安永頃(一七六四—一七八〇)流行した「小便妾」だ。江戸の立派な武家屋敷などへ、美女が妾にあがり支度金をしこたま取った挙句、いざその夜になると、寝小便をやらかす。生れつきの病気だとあれば仕方がない、相手が閉口して暇を出すと手切れ金をもらってまたほかの屋敷へ口入屋を通じて売りこむ。   小便をして 逃げるのは 妾《しよう》と蝉   ここで三両 かしこで五両 取つて垂れ   蒲団まで 背負はせて出せと お腹立ち  妾には年極め年切れ、みじかいのは月切れなどあったが、月切れどころか、これじゃ一夜切れだ。  さきの武陽隠士の『世事見聞録』に——  邂逅密夫《かいごうみつぷ》など無きはその貞実を恩に着せて……云々という一文があったが、これは出合間男《であいまおとこ》、妾には「出合妾」というのがあった。   朝が来たのね さよならね   街へ出たなら べつべつね   ゆうべ あんなに 燃えながら   今朝は知らない 顔をして   ああ あなたは別れて 別れてしまうのね  美川憲一うたう「おんなの朝」は、現代のラブ・ホテルをテーマにした歌で、オレの作詞だが、実はこのラブ・ホテルが江戸時代にもあった。これを「出合茶屋」という。  ラブ・ホテルばかりじゃない。江戸の頃は、「それ突け・やれ突け」「吹け吹け」などという特ダシ・ショウもあった。  嘉永六年(一八五三)の喜田川守貞の『守貞漫稿』に、「八文ばかりの銭を取り女の衣服裾を開き玉門《ぎよくもん》を顕《あらわ》し、竹筒を以てこれを吹く時、腰を左右にふる。衆人のうち、これを吹いて笑はざる者には賞を出す」と、京は四条河原、大阪は難波新地、江戸は両国、浅草にこうした小屋が賑わったことを書き留めている。  天保七年(一八三六)の『続・燕石十種《えんせきじつしゆ》』に、 「わかき女、前をはだけ、かのところをあらはし、赤き切布にて男根の形をつくり、竹の先へつけ……」とあるのが「それ突け・やれ突け」なのだ。  またトルコ風呂もあったのだ。江戸、神田雉子町の北(いまの須田町と広小路の中間らしい)に有名な丹前風呂とよばれるのがあった。丹前とは越後村松三万石、堀|丹後守《ヽヽヽ》の邸の前にあったからだ。  ついでながら、風呂と湯はちがう。風呂は室《むろ》から転訛したもので蒸し風呂のこと。湯は水風呂《すいぶろ》とも言って、蒸し風呂と区別をした。  だから江戸っ子は、「風呂屋へゆく」なんて言わない。「湯屋へゆく」と言った。それも、「ゆうや」と発音しなけりゃ、江戸っ子じゃなかった。  この丹前風呂は津之国屋、紀之国屋など数軒あって、いずれも美しい湯女《ゆな》を置いて繁昌した。このため公許の遊里吉原の人気が、丹前風呂に移動しちゃう騒ぎとなり、湯女は三人以上置いてはならぬという幕府の禁令まで出たくらいだ。やがて振袖火事といわれた明暦三年(一六五七)の大火のあとは吉原に合併されて丹前風呂は消えるが、ここに正保の頃(一六四四)勝山という美女がいて評判だった。のちに風呂が廃絶後、吉原に移り遊女最高の大夫にまでなった女だった。  湯女《ゆな》とは平安朝の昔からいて、有馬之湯の大湯女《おおゆな》、小湯女《こゆな》など知られるが、江戸の頃はトルコ嬢と芸者を兼ねたものと思えばいい。ここへ旗本の愚連隊、白柄組《しらつかぐみ》、|大小神祇組《だいしようじんぎぐみ》の面々が刀を閂差《かんぬきざ》しにし、六方《ろつぽう》を踏んで陸続とつめかけた。またついでながら白柄組の頭目は水野十郎左衛門じゃない。水野は大小神祇組、白柄組の頭目は三浦小次郎だ。  これらの旗本が縮緬《ちりめん》の「どてら」の裾に鉛など入れて裾をはねかえし、異様な姿で通ったので、「どてら」を「丹前《たんぜん》」というようになったのだ。なお、「どてら」と「丹前」は少しちがう。丹前は綿を入れてところどころを糸で綴《と》じるが、「どてら」は綴《と》じない。「かいまき」は夜具につかう肉の厚い綿入れだ。  この勝山が創始した勝山髷は、のちの丸髷になる。  湯女は死んで丸髷を残し、売春風呂はほろびて丹前をのこす。  また大人のオモチャだって売っていた。女が用いる張形《はりがた》、男用の吾妻形《あずまがた》、姫泣《ひめな》き輪《わ》、りんの玉など、まだまだある。  箱入り娘の腹がふくらむ、父親が怒って相手の男は誰だと問い詰めると、娘が、はずかしながらと、袂から張形を出す。はて張形で腹がふくらむわけがないが……と、手にとると張形に何やら銘が入っている。よく見れば「左 甚五郎・作」  さて、江戸のラブ・ホテルこと出合茶屋についてだが。  安永・天明の頃、上野不忍池の弁天島に十数軒の出合茶屋が立ち並んだ。はじめは弁財天に参詣する客に茶をくむ店で「蓮の茶屋」ともいわれ、不忍池の名産、蓮根の料理を出す料亭風の茶屋だったが、いつか男女の情事の場になった。  出合茶屋はここばかりでなく、江戸市中あちらこちらにあって、二階建の家が多かったが、不忍池のだけは平家建だったのは、池に張り出した建物だったからだろう。  ここが、さきの邂逅密夫とよろめき女房、また出会妾の戦場となる。  男も女もたまりたまったたまの逢う瀬だ。   とぢついた 毛をひつぺがす 出合茶屋  たび重なる激戦に女のアノ毛が糊でかたく貼りついちゃったヤツを、メリメリ引きはがしてまた一戦、その挙句は、   根をしばつても もういけぬ 出合茶屋   出合茶屋 しまひはおつぺしよつて入れ  そして最後は、   出合茶屋 許せの声は 男なり  で、幕になるものの、   出合茶屋 生きて帰るは めつけもの  なんて、川柳子にからかわれる結末となる。  いまのラブ・ホテルだって、入るときより、出るときに気をつかう。入る時はアタリを見廻してナナメにサッと飛び込んじゃえばいいが、ヒョイと出たら知人にバッタリなんてことが無いとは言えない。知人ならずとも人に顔を見られるのはテレくさいもんだ。  江戸人だって、その人情に変りはない。   出合茶屋 あんまりしない 顔で出る  オレが『女の朝』を書くとき、新宿のラブ・ホテル街を、つぶさに研究して(利用してではないゾ)発見したことがある。  つまりラブ・ホテル街をゆくアベックのどれが事前で、どれが事後かだ。この見わけ方を教えよう。  事前型は、男が女の腕をとっている。男の腕の組み方が能動的なのだ。もっとも逃げられる心配もあってかも……。事後型になると、こんどは逆に女が男の腕にぶらさがっていて、男はサッパリしたようなツマらないような顔をしている。  さて、この出合茶屋をうたった句のうちで一つ風変りなのがある。   出合茶屋 四人で来る ごくこんい  これは二通りの解釈が出来る。  つまり一つは、出来合ったカップルがその友達のカップルと一緒に遊びに来たという、お互いに秘密を知り合った仲と考えられるが、「ごく懇意」がひっかかる。ごく懇意な二組の夫婦連れが来たと解したらどうなる。  これは江戸のスワッピングではないか。  そもそも「出合」とは、お互いの住居以外でヤルという意味なのだ。だから出合には茶屋ばかりじゃない、いろいろある。   これからは どこですべいと 麦を苅り  これを「野良出合」という。   稲は苅りとる 穂に穂が咲いて    どこに 寝さしょぞ 親ふたり [#地付き]——山城——  と『山家鳥虫歌』にあるが、「親ふたり」では全く意味が成立たない。両親を麦畠へ寝かすバカがいるか。  この歌本は、寛文頃の諸国の盆踊歌をまとめて安永元年(一七七二)に大阪の神崎屋清兵衛によって出版されたものだが、編者は中野得信という人らしい。のち柳亭種彦の筆写本によって明治十六年にも刊行されるが、とにかくはじめの民謡採集の際の誤記と思われる。巷間のものかも知れないが、   どこに寝さしょぞ、好いた人  のほうがオレは本当だと思う。  どこの国も男と女の出合はおなじだ。  スコットランドの古い民謡で、バーンズという詩人のものだと聞くが、それをほとんど原詩のまま大木惇夫が訳した、   ※[#歌記号]誰かと誰かが麦畠 こっそりキスしたいいじゃないの 私にゃいい人ないけれど誰にも好かれる   麦畠  って歌は、バーンズの原詩を見ていないから断定できないが、「キス」なんてもンじゃないと考える。なつかしの名画「未完成交響楽」に、若きシューベルトと彼女が麦畠でキスをする美しいシーンを今もオレは覚えているが、これだってキスだけだったのかどうか、シュー的に聞いてみなくちゃわからない。  しかしこの野良出合も、   でけえから いやだと麦を ふみ散らし  と、娘っ子に逃げられた男もいた。  戦後は皇居前広場に大都会調野良出合が|阿※[#「口+云」]《あうん》の靄《もや》を立ちのぼらせ、いまは夜の外苑、新宿西口中央公園などに移り、現代野良出合は都会の真っただ中でも大盛況のようだ。   日の光 洩れぬ 峡《はざま》の木がくれに    ひそかに 帯を 巻き なおすかも [#地付き]——原阿佐緒——  これなんざ、「山出合」の歌だろう。「雪隠出合」については「縦横糞尿学」の章の 〈江戸の便所〉をごらんありたい。   お妾は 臍を去ること 一、二寸  臍下三寸どころか、一、二寸の極上品ともなれば男もちょっと手放しにくい。つい小さなバーを持たせたり、小料理屋など出させて歓心を買うようになる。   囲われて 言い訳ほどな 店を出し  おれの友達で妾を持ったヤツがいる。カカアがこわいから絶対に妾の家には泊らない。したがってカカアもまさか亭主に妾がいるとは気がつかなかった。  ところがある晩、自宅で女房の酌で一パイやっているうちに眠くなって、ごろりと横になった。  どのくらい眠ったろうか、ガヤガヤというテレビの音にふと目がさめて、酔眼モーローと起きあがったヤロウのせりふがまずかった、「オイ、また来るよ」  そのあと、どうなったかは聞きもらした。 [#地付き]〈了〉 [#改ページ]     文庫版のためのあとがき  戦前は長髪を風に靡かせて、(今はあらかた抜けてしまった)読んでも判らない経済学の本など小脇に抱えて颯爽と街頭を濶歩した。むずかしい本をかかえているほど女にもてるような気がしたし、事実その確率は高かった。若い女性は畏敬のまなざしでオレを見つめた。ほんと。今どきのようにマンガ本じゃサマにならない。もっとも相手の女性も当時とくらべるとオツムがお幼稚だから、バランスはとれているようで……。  経済学の本を抱えていても、実は熱中してたのは現代詩、自称詩人だが何しろ自分でも判らない詩を書いてるのだから、いい気なものだったが、これが仲間の詩人?たちにバカうけ。お他人さまのほうが、オレの詩精神の高さを認めてくれた。もっとも当時「アイツは詩人だよ」とは頭がオカシイ代名詞的なもンだった。  そのうち、だんだんと戦局は悪化、詩どころの騒ぎじゃない。親友五人のうち三人が戦死という明日をも知れない時代となった。  どうせ死ぬのなら、結婚てえのをやってみようと、無責任なもんで押寄せる女どもをかきわけて今の女房と一緒になったら、あっという間に三十七年経っちゃった。もっとも女房のほうも無責任だったにちがいない。  敗戦後は四畳半のアパートに親子三人、一坪ほど貸してもらった空地にカボチャなど植えて飢を凌いだ。カボチャを食うのではない。待っちゃいられないから、茎を食うのだ。占領軍から救援の、大豆カス、玉蜀黍、つまり動物用飼料の配給があったが僅かばかり。一千万人は餓死すると言われた時代、腹ペコの身分には貴重なものだった。東京の大部分は焼野原。働こうにも職がない。衣類はいつか食料に代って、着たきり雀。思えば悲惨の極みだが鍛えた若さがあった。六十五歳の今も一日中、立っていて平気だ。すぐひっくり返る近頃の若いもンとは、ちとちがうぜ。老の繰り言だろうがもう少し言わせてもらう。  栄養失調でフラフラしながら、女房子供をかかえて、焦土と瓦礫の街をさまよったオレの耳に、実に明るくひびいてきた歌、それは「リンゴの唄」だった(昭和二十一年)。  ここで往年の現代詩人の卵にハヤリ唄のヒヨコが宿る。何しろ現代詩人様だ。ハヤリ唄なんて軽蔑するのが、その資格の第一条件。でも背に腹はかえられない。テレビこそ無い時代だが、ラジオでNHKのラジオ歌謡、まあ平たく言えばホーム・ソング。これなら詩人としての節操を失うことはあるまいと、おそるおそる書いたのが「たそがれの夢」(昭和二十三年)。さいわいにNHKに採用されて、伊藤久男の絶唱で好評、それがきっかけで、コロムビア・レコードに出入、無節操にも詩人は廃業していつか専属作詞家となり、二十年も籍をおいた。  しかし、昭和元禄となるや、故柳家金語楼が評した「不良少年院の学芸会」なるロカビリー、つづいて「幼稚園の学芸会」的可愛い子ちゃんのポップス、恐山のイタコみたいなフォーク、オレの出番なんて無い。昭和五十四年、読売新聞の「顔」という第一面の欄に、休筆宣言をしたが、それ以前にコロムビアを去り作詞は事実上休業していた(今はポツポツ書きはじめた)。  作詞家が作詞をしないのでは、陸《おか》にあがった河童同然。ただひとつ蒐書の趣味があって、コツコツと国文、歴史関係を主体に集めた本が新古合わせて四万点。図書館でも一万二、三千点と聞くから、御想像願いたい。別棟の書庫は満パイ。五十坪たらずの家の中も本だらけ。もっともはじめからそのつもりで建てた家、二十数年たってもビクともしないが、ビルディングでも重量で床が抜けると聞いて、あらためてビックリした。  で、この蔵書を何とか活用したい。小説家じゃないからフィクションの才能は無い。さりとて学者じゃないから学術本は苦手。そこで考えたのがノン・フィクションの雑学本。  まず「雑学猥学」と銘打って一冊まとめた。ある出版社へ持ちこんだら、こんな本は売れないと言う。すったもんだの挙句、出してくれることになったが「雑学」という表題をはずせという。「雑学」のドコが悪いとオレは頑張った。  雑学とはオレが元祖じゃないが、この本が売れ出してから、あちこちで、やたらに雑学と銘打った本がワンサと出たのは事実だ。  ところで版元は、初版(初刷)二千部だという。冗談じゃない。オレ独特の珍にして真たるものを、経済単位で決めるのはそっちの商売だろうが、本とレコードのちがいこそあれ、アタるアタらないという勝負に半生を賭けてきたオレのカンが納得しない。せめて四千部刷ってくれと、ネバリにねばった。  初版(初刷)で終る本は山ほどあるし、その発行部数も、特殊な学術本などわずか三百部なんてえのも珍しくない。  オレもはじめ四千部が限度で討死を覚悟していたのだが、店頭に並ぶや五日間で品切れ。版元もオレもびっくり。あわてて増刷(その後、版元が変る)という始末だった。  以来二十版を重ねたわけは、スケベー主義に徹したオレの姿勢がウケたのかと思っていたら鋭い書評で知識人に定評のある谷沢永一さんの「紙つぶて二箇目」や「閻魔さんの休日」(文藝春秋)で、「そのものズバリの猥学は味気なく興ざめだが、意表をつく豊かな雑学の上に載せると、オトナの修身教科書として噛みしめるにたる」その他、身に余る過褒を頂戴。嬉し涙にくれて、ついでに調子づいて「雑学艶学」「雑学女学」と雑学シリーズを出版した。ほかにも「はやり唄の女たち」(新門出版)「雑学歌謡昭和史」(毎日新聞社)「明治珍聞録」(大正出版)などあるが、昭和五十三年、「雑学猥学」を出してから、年に一冊のわりでオレとしてはすこぶる急ピッチ。これも書評でホメられるたび、欣喜雀躍したオレのおっちょこちょいの所産だ。  面白いのは、東京・大阪の落語家のほとんどが買って読んでくれたという。ネタはこっちが教えてもらいたかった。  もっとおかしいのは幾人かしらないが大学の教授が講義のマクラに使ってるという話、でないと今どきの学生は眠っちゃうと聞いた。  将来、大学に雑学科を設けたら是非オレを教授にしてもらいたい。  しかし資料集めには苦労した。国会図書館にも無い変なものを集めるのだから大変。  たとえば売価二千円ぐらいの本を手に入れるため、ウン万円のタクシー代をつかって地方に買いに行ったこともある。タッチの差で人手にわたるおそれがあるからだ。かと思うとたしかあった本が見当らず、半年もたって発見したり、その間の気持の悪いこと、出かかった何かが出ないような感じもしばしば。ようやく文藝春秋がオレの偉大なる業績?を認めて取上げてくれた。従来のは上製本だから売価も高い。したがって読んで下さる方も限られる。だがこんどは文庫本。気軽に多くの人々の目にふれることを思うと、著者としてこれほど冥加なことはない。まだまだタネはいっぱいある。  今二年がかりの予定で没頭している学術論文がすんだら、また書きたい。悪いやまいかどうか、スケベーなものが、いちばんオレの体質に合っているようだな。  単行本 昭和五十三年八月新門出版社刊 〈底 本〉文春文庫 昭和五十九年二月二十五日刊