[#表紙(表紙.jpg)] 雲仙・長崎殺意の旅 西村京太郎 目 次  第一章 雨の雲仙  第二章 雨の長崎  第三章 指 紋  第四章 夫 婦  第五章 わずかな進展  第六章 新しい不安  第七章 最後の戦い [#改ページ]  第一章 雨の雲仙      1  七月十一日は、朝から、雨だった。  それも、激しい雨足で、島原では、午後になって、普賢岳《ふげんだけ》からの土石流が発生したと、発表した。  午後一時に、国道251号線が、土石流のために、不通になった。  JR長崎駅にも、その掲示が出された。そのせいか、降りて来る観光客の姿は、まばらである。  東京や、大阪でも、土石流発生のニュースは、流れたらしい。この雨では、予定をキャンセルした人も、多かった筈《はず》である。  ショルダーバッグを下げて、青木のタクシーに乗り込んで来た中年の男は、 「雲仙へ行ってくれ」  と、いった。  雲仙へといった客は、今日、初めてだった。  雲仙の温泉と、普賢岳とは離れており、安全を強調して、観光客を呼ぼうとしているのだが、それでも、雲仙で、土石流発生とか、火砕流というニュースが流れると、雲仙温泉でも、キャンセルが、相ついでしまうのである。  雨の長崎市内を抜け、田園地帯に、車は、入った。 「混雑したハウステンボスにくらべると火山で騒いでいるとはいえ、平和な景色だね」  と、ぽつんと、客が、いった。 「この辺は、大丈夫です」  と、青木は、いった。 「運転手さんは、この土地の人?」  と、客が、聞く。 「そうです」 「土石流なんかの被害は、受けなかったの?」 「私のところは、普賢岳の麓《ふもと》でしたから、完全にやられました。畑は、全滅で、今は、仮設住宅に住んでいます」  と、青木は、いった。 「そうなの。大変だね」  と、客は、声を落して、いった。  青木は、微笑して、 「もう、あの辺りには、住めんでしょう。農業も、あと百年ぐらいは駄目だと、諦《あきら》めています。幸い、二種免許を持っていたんで、こうして、タクシーの運転手を、やっております」  と、わざと、明るく、いった。  客に、同情されるのが嫌だったし、同情されたところで、今の生活が、よくなるものでもなかったからだ。  今、青木は、土石流で潰《つぶ》された土地を処分して、別の場所で、新しい生活を始めたいと願っている。だが、土石流で荒廃した土地の買い手はいないし、県も、安くしか、補償はしそうにない。  客は、また、黙ってしまった。  タクシーは、水無川《みずなしがわ》とは、反対側の橘湾《たちばなわん》沿いを、走る。  海水浴場が、点在し、雨は降っているが、平和な景色が続く。小浜《おばま》温泉のホテルや、旅館には、観光客の姿も、見える。  橘湾側の小浜温泉の方は、普賢岳をはさんで島原温泉の反対側にあり、雲仙温泉からも少し離れていて、観光客は、安心して訪れるらしい。  小浜温泉を過ぎてから、車は、山に向って、登って行く。  海は、見えなくなり、深い杉林の中に、入って行く感じだった。  すれ違う車も、ほとんどないのが、青木には、寂しかった。普段なら、観光客を乗せた車の多い季節だし、道路なのだ。  客の口にしたSホテルの玄関に、車を停《と》めた。  大きなホテルだが、青木が、ロビーをのぞいたところ、客の姿は見えない。 (今日は、今の客でおしまいかな)  と、青木は、思った。タクシー運転手をしている青木にしてみれば、同情されるより、一人でも多くの客に、雲仙温泉に来て欲しいのだ。      2  その客は、フロントで、宿泊名簿に、「和田史郎」と、書いた。  住所は、東京。三日前に、予約の電話があった客である。 「静かだね」  と、その客は、いってから、 「今から、芸者さんを、頼めるかな?」 「電話してみましょう」  と、フロント係は、いった。 「出来れば、明美さんという芸者がいいんだが」  と、客は、遠慮がちに、いった。 「おなじみですか?」 「いや、前に、一度だけ、呼んだことがあるだけだよ」  と、客は、いった。  雲仙温泉には、十何人かの芸者がいて、明美は、その中の中堅の芸者だった。  幸い、あいているというので、ホテルには、六時に、来て貰《もら》った。  和田という客は、夕食の時、ビールと、酒を注文した。  その席で、夕食の支度をし、酒を運んだのは、ゆみ子という仲居さんだった。  客の和田は、酒が強いらしく、芸者の明美と、まず、ビールで乾杯し、冷酒を、ぐいぐい空けていった。  そのせいか、食事には、ほとんど箸《はし》をつけなかった。  和田は、あまり、喋《しやべ》らなかった。 「よく降るねえ」  とか、 「静かだな」  とか、ぽつん、ぽつんと、いうだけだった。  芸者の明美も、時々、手持ちぶさたの顔をしていた。  夕食がすみ、ゆみ子が、追加の酒を運んで行くと、客は、畳の上に、枕《まくら》を持ち出して寝転び、芸者の明美は、その枕元に座って、何か楽しそうに、喋っていた。  午後九時頃になって、やっと、雨が止《や》んだ。  芸者は、午後十一時までということになっていた。  たいていの客は、一階にあるクラブに来て、カラオケで歌うのだが、和田は、六階の部屋から、出て来なかった。  午後十一時になって、置屋から、迎えの車が、やって来たが、芸者の明美は、ロビーに降りて来ない。と、いって、延長の電話も入っていないので、仲居のゆみ子が、6012号室に、呼びに行った。  ドアをノックして、中に入ってみた。  が、和田という客も、明美の姿も、消えていた。  フロント係は、多分、二人が、雲仙地獄を見に、裏から出て行ったのではないかと、思った。  この雲仙温泉には、ところどころで、硫黄分を含んだ熱泉が、噴出していて、それが、観光の名所にもなっている。  噴出する水蒸気の音が、雀のさえずりに似ているので、雀地獄、或いは、お糸という女囚の名前をとったお糸地獄などがある。  その一つ、K地獄が、このホテルの裏にあり、客は、裏から、宿下駄を突っかけて、見物に行けるように、なっている。  雨は止んだし、夜でも見られるように、照明がしてあるので、6012号室の客は、芸者と一緒に、見に行ったのだろうと、フロント係は、考えたのである。 「その中《うち》に、帰って来るだろう」  と、フロント係は、ゆみ子に、いった。  だが、十二時になっても、客も、芸者も、戻って来ない。  この辺りは、標高が高いので、夜になると、冷え込んでくる。  心配になって、フロント係の一人が、置屋の運転手と一緒に、K地獄へ、行ってみることにした。  近づくと、強烈な硫黄の匂《にお》いが、鼻につく。  コンクリートの柵で囲まれた中で、水蒸気が、ところどころで、勢いよく噴出している。  だが、どこにも、客と、芸者の姿は、見当らなかった。 「行き違いになったかな」  と、フロント係は、いい、ホテルに戻ると、6012号室を調べてみたが、和田という客の姿は、なかった。  フロント係は、少しずつ、不安になって来た。  坂道が多く、雨のあとで滑るし、崖《がけ》もある。街灯も少い。  ひょっとして、事故を起こしたのではないかと、考えたのだ。  午前一時に近くなって、警察に電話すると同時に、ホテルの従業員と、置屋の運転手が、懐中電灯を手に、周辺を探すことになった。  小浜警察署の雲仙派出所からも、三人の警官が、やって来て、捜索に加わった。  間の悪いことに、また、雨が降り出した。  それに、探す場所が、多過ぎた。雲仙温泉の周辺には、うっそうとした森林が、広がっている。もし、その中に入って行ったのだとしたら、簡単には、見つからないだろう。  雨が激しくなったので、捜索は、一時、中止されて、従業員や、警官たちは、ホテルのロビーに、引き揚げた。  どの顔にも、疲労が、浮んでいる。  夜が明けて、雨が小止みになったので、捜索が、再開された。  警官も、増やされた。  地元の警官や、ホテルの従業員の中には、明らかな、腹立たしげな表情も見えた。深江町の方では、土石流の度重なる発生で、苦労しているのにという気があったのだろう。  昼過ぎになると、警察犬も、捜索に、投入された。 「とにかく、見つけ出せ!」  と、小浜警察署の署長は、警官たちに、はっぱをかけた。  これ以上、暗い印象を与えるのは、ごめんだという気持だった。  それが、功を奏したのか、警察犬と一緒に、林の中に入って行った警官の一人が、ほの暗い地面の上に、Sホテルの名前の入ったゆかた姿の男と、着物姿の女が、横たわっているのを発見した。  最初、二人は、並んで、仰向けに寝ているように見えた。だが、もちろん、そんな筈《はず》はない。  警官たちが、集って来て、二人が、死んでいることが、確認された。  Sホテルの従業員が、男の方が、いなくなっている泊り客であることを、確認した。女の方は、芸者の明美だった。  二つの死体は、車で、橘湾沿いの海岸にある小浜警察署に運ばれた。他殺の疑いもあるというので、県警から、若手の矢木警部以下五人の刑事が、やって来た。  検死官の話では、芸者の明美は、首を絞められており、和田という泊り客の方は、毒を飲んでいるということだった。  矢木は、三十八歳。警部に昇進して、初めての事件である。それだけに、矢木は、緊張していた。  矢木は、最初、これを、無理心中ではないかと考えた。  ホテルの話では、客の和田は、芸者の明美を、指名したという。とすると、前に、和田は、明美に、会ったことがあるとみていいだろう。  と、すると、和田の方から仕掛けた無理心中ではないのか。  二人の死体は、司法解剖に廻されるが、矢木は、刑事部長に聞かれた時、自分の意見として、次のように、話した。 「和田史郎について、まだ、何もわかっていませんが、もし、彼が、毒物を持って来たのだとすると、自殺する気で、雲仙へやって来たのだと、思います。そして、最後に、前に会ったことのある芸者の明美を呼んだ。話している中に、和田は、ひとりで死ぬのが、嫌になったか、怖くなったかして、彼女との無理心中を、図ったのではないかと思います」 「そうだとすると、明美にとっては、いい迷惑だったわけだなあ」  と、広田刑事部長は、苦笑した。  広田は、地元の出身で、芸者の明美とは、二、三回、会ったことがある。  雲仙には、十何人かの芸者がいるが、明美は、その中では、中堅の感じで、前に、一度、結婚したが、今は、確か、離婚している筈である。部長は、そんなことを、考えていた。 「そうです。和田は、明美を連れ出して、一緒に死んでくれとでも、いったんじゃありませんか。明美の方は、当然、断ります。それで、和田は、彼女の首を絞めて殺し、自分は、毒を飲んで死んだのではないかと、思いますね」  と、矢木は、いった。  無理心中が、殺人であることに、変りはない。  小浜警察署に、捜査本部が、設けられた。刑事たちの最初の仕事は、男の方の身元の割り出しだ。  宿泊カードには、和田史郎、東京都世田谷区太子堂、ニュー太子堂マンション208となっていて、電話番号も、記入されていたが、刑事が、その電話にかけてみても、通じなかった。  年齢は、四十二歳となっているが、これも、本当かどうか、わからない。  革製のショルダーバッグと、背広がホテルの部屋に、残っていた。  矢木たちは、まず、背広を、調べてみた。ダンヒルのマークの入った夏物の背広で、そこに刺繍《ししゆう》されていたネームは、「小柴」だった。 (小柴が、本名なのか?)  と、思いながら、矢木は、背広のポケットを、調べた。  運転免許証か、名刺でもあればと考えたのだが、そのどちらも、見つからなかった。  革製の財布には、八万三千円が、入っていた。  その他、ポケットから出て来たのは、麻のハンカチ、二つのキーのついたキーホルダー、煙草のラーク、百円ライターと、いったものだった。  だが、なおも、丁寧に、ポケットを調べてみると、胸ポケットから、二つに折りたたんだ小さなメモ用紙が、発見された。多分、手帳のページを、破り取ったものだろう。 〈芸者——明美〉  とだけ、サインペンらしい文字が、あった。  矢木は、これを、どう解釈していいのか、とっさには、わからなくて、考え込んでしまった。  ホテルの話では、和田は、芸者を呼んでくれと頼んだ時、明美の名前を、いったという。それで、前に、彼女を、呼んだことがあるのだろうと、矢木は、思ったのだが、違うかも知れない。  和田は、誰かに、雲仙へ行ったら、明美という芸者を呼んだらいいと、すすめられ、それをメモして、来たということも、考えられるからである。とすると、和田と、明美は、初対面だったのかも知れないのだ。      3  最後に、矢木は、ショルダーバッグを調べてみた。  ショルダーバッグは、ハンティングワールドで、かなり使われたものだった。  矢木は、中身を、一つずつ、取り出して、テーブルの上に並べていった。  下着、旅行用セット、EEカメラ、胃薬、文庫本、サングラスなどが、並んでいく。  そして、一番下に、紙包みが、入っていた。  その中身を、テーブルに、取り出して、矢木は、考え込んでいた。  五百万円の札束だったからである。  矢木は、それらの品物を、捜査本部に持ち帰り、刑事部長の広田に、見せた。 「わからなくなりました」  と、矢木は、いった。 「何が、わからなくなったんだ?」  と、広田部長が、聞いた。 「私は、男が、死ぬ気で、雲仙へやって来て、芸者の明美と、無理心中したんだろうと、思っていたんですが、明美の名前を書いたメモがあったり、五百万の札束が、入っていたりすると、自信がなくなりました」  と、矢木は、いった。 「そうだな。五百万も持って来たのなら、死ぬ気だったとしても、その金を、景気よく、使ってしまってから、死ぬだろうからね」  と、広田部長も、いった。 「そうなんですよ。私だったら、遊びまくってから、死にますよ。芸者を、総揚げにして、どんちゃん騒ぎをしてからです」 「無理心中が、おかしいとなると、殺人の可能性も、出て来るね」 「出て来ます」  矢木は、嬉《うれ》しそうに、いった。  無理心中では、当事者が有名人である以外、小さな事件にしかならない。しかし、これが殺人事件なら、大きな事件だからだ。 「何とかして、客の身元を知りたいですね。和田史郎というのは、偽名だと、思いますから」  と、矢木は、いった。 「その件は、東京の警視庁に、協力要請したよ。男の似顔絵も作って、FAXで送ってある。それに、背広の小柴のネームと、五百万円の現金のことも、知らせたよ」  と、広田は、いった。  夜になって、司法解剖の結果が、捜査本部に、知らされた。  芸者明美(本名、岩木明子)の死因は、やはり、頸部《けいぶ》圧迫による窒息死で、男の方は、ジギタリスを飲んだことによる中毒死と、書かれていた。  なお、男の胃の中に、コーヒーが、少量だが、残っていたという。  死亡推定時刻は、二人とも七月十一日の午後九時から十時である。  解剖の結果から、また、謎《なぞ》が、生れてきた。  コーヒーである。  そのコーヒーを、男が、何処《どこ》で、いつ飲んだかということだった。  ホテルには、コーヒーラウンジがあるから、そこで飲んだのだろうか? それとも、男は芸者を連れ出したあと、コーヒーと一緒に、ジギタリスを、飲んだのか?  もし、後者だとすると、現場に、コーヒーの入れものが落ちていなければ、おかしくなる。缶コーヒーの缶か、紙コップか、ポットがである。しかし、刑事たちが、いくら現場周辺を調べても、そういったものは、発見できなかった。 (また、他殺の線が、濃くなったぞ)  と、矢木は、思った。  缶コーヒーの缶とか、紙コップ、或いは、ポットは、何者かが、持ち去ったことになって来るからである。  当然、その人間が、毒殺した可能性が、出て来るのだ。  翌十三日の午後、協力要請していた警視庁から、回答のFAXが、入った。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈問題の人物について、今までわかったことをご報告します。  和田史郎という名前も、住所も、でたらめだとわかりました。指紋について、警察庁では、前科はなしとのことです。  こちらでは、ダンヒルの背広と、小柴のネームで、調べてみました。  ダンヒルの背広を販売しているところは、東京都内に、デパートなど、いくつかあり、既製服の購入者でも、顧客名簿に控えておくということなので、小柴の名前で、照会してみました。  その結果、新宿のKデパートで、小柴克美という客に、ここ二年の間に、三着の背広とコートを、売ったことが、わかりました。  この男は、四谷三丁目のヴィラ四谷の502号室に住んでいて、管理人などの話では、七月十日に、旅行に行くといって、外出したそうです。  そちらから送られた似顔絵を見せたところ、間違いないということです。これから、小柴克美の部屋を調べますので、何かわかり次第、報告致します〉 [#ここで字下げ終わり]  夕方になると、二回目の報告が、FAXで、警視庁から、送られてきた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈小柴克美の部屋を調べた結果を、報告します。  502号室は、1LDKですが、全体で、八十平方メートルほどの広い部屋です。部屋代は、月二十五万円ということでした。  今までのところ、小柴の職業はわかりませんが、広いリビングルームの応接セットや、六畳の寝室に置かれた、ベッドは、かなり高価なものです。  小柴は、この部屋に、ひとりで、住んでおり、管理人の話では、時々、若い女が、訪ねて来ていたそうですが、それが、同一人かどうかは、わかりません。  洋ダンスの鍵《かぎ》つきの引出しには、預金通帳が、入っていましたが、定期が、約五千万、普通預金が、一千二百万ほどで、七月九日に、五百万円を引き出していますから、それを持って、雲仙へ行ったものと、思われます。  机の引出しから、手紙の束が見つかりましたが、死につながるようなものは、ありませんでした。部屋を借りたのは、去年の九月で、その時の契約書には、本籍は、福岡市と、ありますが、福岡市内の何処かは、わかりません。  小柴の職業を特定できるものは、見つかりませんし、管理人も、彼が何をしているのか、わからないと、証言しています。  ただ、毎月、新しい時刻表を、近くの書店から、買っていますから、旅好きの人間だったのではないかと、思いますが、或いは、それが、小柴の職業につながっていることも考えられます。今のところ、わかったことは、以上です〉 [#ここで字下げ終わり]  警視庁からもたらされたことは、捜査本部に置かれた黒板に、記入されていった。  小柴克美の名前と、住所、預金金額などである。  だが、これだけでは、小柴の死んだ理由、殺された理由が、わからない。  矢木は、死体のあった周辺の聞き込みに、全力をあげた。  二日たった今、無理心中ではなく、殺人の可能性が、強くなっている。殺人なら、現場から立ち去る犯人を、目撃した人間がいるかも知れなかったからである。  だが、この聞き込み作業は、なかなか、効果をあげなかった。死亡推定時刻が、夜おそくだったし、雨の雲仙で、観光客も、少かったからである。  矢木も、現場周辺を、歩いてみた。  頭上を、どんよりした雨雲が、覆っている。今日も、雨が降りそうな気配だった。      4  捜査本部の意見は、男の無理心中という方向に傾いている。  形だけ見れば、その通りなのだ。男が、芸者の首を絞めて殺し、そのあと、毒を飲んで死んだことになる。  ただ、男の胃の中にコーヒーが残っていたことが、問題を、ややこしくしていた。犯人は、別にいるのではないかという疑問も、生れた。  しかし、それらしい人物が浮んで来ないので、無理心中説が、有力になって来たのである。  矢木は、二人が倒れていた現場に、何度も、足を運んだ。 (なぜ、こんなところで、死んだのだろうか?)  という疑問が、絶えず、矢木の頭に浮んでくるからである。  事件の日は、雨が降ったり、止んだりしていた。しかも夜である。わざわざ、ホテルを出て、ここまで、なぜ、歩いて来たのか。硫黄泉の吹き出す景色を見に来たのだろうか。  男が、毒を飲んでいることを考えると、これが、無理心中なら、あらかじめ毒《ジギタリス》を、持って、雲仙に来たことになる。それなら、照明に照らし出された地獄の景色を見ている中に、芸者と、無理心中する気になったというのでもなさそうである。  最初から、無理心中する気だったのなら、何も、雨の中、外に出て行かずに、ホテルの部屋で、死ぬのが、自然ではないだろうか?  矢木は、今日も、現場に、足を運んだ。  珍しく、晴れ間が見える日だった。  矢木が、急に、足を止めた。  現場近くに、庇《ひさし》の深い帽子をかぶった若い女が、立っているのに、気がついたからだった。  観光客が、たまたま、まぎれ込んだとは、思えなかった。  女の様子も、そんな風には、見えない。じっと、瞑想《めいそう》しているようだったし、二人が倒れていた場所に、小さな花束が、供えられていた。昨日、矢木が来た時は、なかったものだから、この女が、たむけたのではないか。  矢木は、しばらく、女を見守っていた。  彼女と、ここで死んだ二人は、どんな関係があるのだろうかと、あれこれ考えてみた。  芸者の知り合いだろうか? それとも、小柴克美という男の知り合いなのか?  斜め後ろから見ているので、女の表情は、わからない。  白のワンピースに、白いハンドバッグ。帽子は、黒い。年齢は、よくわからなかった。 (死んだ二人との関係を聞いてみようか)  と、思った時、女が、矢木の気配に気付いたのか、急に、振り向いた。  顔の半分が、帽子の庇の陰になっていた。それが、女を、神秘的に見せている。  矢木の方から、近寄って行き、警察手帳を、女に見せた。 「失礼ですが、ここで死んだ二人のお知り合いですか?」  と、矢木は、聞いた。  女は、一瞬、迷いの表情を見せた。どう答えたらいいのかと、迷っているように見えたが、すぐ、決心したように、 「ええ」  と、肯《うなず》いた。 「芸者の知り合い——じゃありませんね。男の方の小柴克美さんのお知り合いですか?」 「ええ」 「どういう関係ですか?」  と、矢木が聞くと、女は、 「彼は、芸者さんと、無理心中をしたみたいに、新聞には、書いてありましたけど、本当でしょうか?」  と、逆に質問して来た。 「あれは、新聞が、勝手に書いていることですよ」  と、矢木がいうと、女は、帽子の下の眼を大きくして、 「じゃあ、警察は、どう思っていらっしゃるんですか?」 「それが、いろいろな意見があって、捜査中なのですよ。出来れば、あなたのお話を聞きたいですね」  と、矢木は、いった。  駐《と》めてあるパトカーに案内し、矢木は、彼女を乗せて、捜査本部の置かれた小浜警察署へ、連れて行った。  矢木が、彼女を案内して、部屋に入って行くと、小さなざわめきが、起きた。それだけ、女が、魅力的に見えたのだろう。  矢木は、刑事たちのそんな視線を感じて、自分が照れたような顔になり、 「まあ、座って下さい」  と、女に、椅子《いす》を、すすめた。  彼女は、ハンドバッグを、机の上に置き、ゆっくり帽子を取った。  矢木は、改めて、眼の大きな女だなと、思った。 「名前を、教えて下さい」  と、矢木は、いった。 「中川ゆみです。ゆみは、平仮名で書きます」  と、彼女は、いった。 「中川さんですか——」  その名前が、彼女に似合っているなと、矢木は、思った。 「それで、小柴克美さんとは、どんなご関係ですか?」  と、矢木は、聞いた。 「私、長崎で、彼と、会うことになっていました」  と、彼女は、いった。 「長崎で、いつですか?」 「七月十二日ですわ。長崎空港で落ち合って、東京に帰ることになっていたんです」  と、彼女、中川ゆみが、いう。  十二日といえば、小柴が、芸者の明美と死んだ翌日である。 「何時の飛行機に乗ることになっていたんですか?」  と、聞いてみた。  ゆみは、ハンドバッグを開け、飛行機の切符を二枚取り出して、矢木に見せた。  七月十二日一四時二五分長崎発東京行の全日空の切符だった。 「彼が来なくて、無駄になってしまいましたけど」  と、ゆみは、いった。 「あなたも、十一日には、長崎に来ていらっしゃったんですか?」  と、矢木は、聞いた。 「ええ。十一日は、長崎に、泊りました。そして、今いいましたように、十二日に、長崎空港で会って、東京へ帰ることにしていたんですわ。でも、彼が、来なくて——」  ゆみは、声を落した。 「それで、どうされたんですか?」 「一人で、東京に帰ろうかと思ったんですけど、彼のことが心配で、長崎に、いることにしたんです。彼から、何か、連絡があるかと思って——」 「だが、連絡がなかった——」 「ええ」 「彼が、雲仙へ行ったことは、知っていたんですか?」 「いいえ」 「もう少し、詳しい話を聞きたいですね。失礼ですが、あなたと、小柴さんとは、どういう関係ですか?」  と、矢木は、聞いた。 「お友達と、いったらいいでしょうか」  と、いって、ゆみは、微笑した。 「失礼ですが」  と、矢木は、また、いって、 「あなたは、何をされているんですか?」 「東京の銀座で、お店をやっています」  と、ゆみはいった。 「なるほど。よければ、その店の名前を、教えてくれませんか」 「平凡ですけど『ゆみ』といいます」  と、彼女は、また、微笑した。 「すると、小柴さんは、お客ということですか?」 「ええ。よく来て下さるお得意さまですわ」 「長崎には、小柴さんと、一緒に来ていたわけですか?」  と、矢木は、聞いた。  ゆみは、小さく首を横に振って、 「違いますわ。私は、ひとりで、十日に、長崎へ来て、ハウステンボスなんかを見て、十二日に帰るつもりでいたんです。そうしたら、どうして知ったのか、突然、十一日に、ホテルに小柴さんから、電話がかかったんです。私が、十二日に、帰るといいましたら、じゃあ、僕も一緒に帰るから、長崎空港で落ち合いたいと、いわれたんです。私が、何時頃の飛行機でと、聞いたら、一四時二十五分というのがある、それで帰りたいから、悪いが、切符を二枚買って、待っていてくれないかと、いうんです」 「それで、十二日に、長崎空港で、待っていらっしゃった?」 「ええ」 「十一日の何時頃、小柴さんから、電話があったんですか?」  と、矢木は、聞いた。 「あれは、確か、午後四時頃だったと思いますわ」  と、ゆみは、いった。  小柴は、午後三時に、雲仙のSホテルに、チェック・インしている。とすると、そのあとで、ホテルから、電話したのだろう。  捜査では、小柴は、外へ電話はしていないことになっているが、一階のロビーの公衆電話を、使ったのかも知れない。 「なぜ、小柴さんは、あなたが、長崎に来ていたことを、知ったんでしょうか?」  と、矢木は、聞いた。 「それが、よくわかりません。店のマネージャーなんかには、長崎へ行って来るって、いっておきましたから、小柴さんは、店へ電話して、知ったのかも知れませんわね」  と、ゆみは、いった。 「小柴さんは、十日に、東京の自宅から、旅行に出ているんですが、五百万円を、おろして、持って来ているんですよ。その五百万を、何に使うつもりだったんでしょうか?」 「わかりませんわ。私は、ただ、空港で待ち合せただけですから」  と、ゆみは、いう。 「でも、心配して、長崎に残っておられたんでしょう?」 「ええ。何しろ、雨が続いて、島原では、土石流なんかが起きていたでしょう。小柴さんが、約束の時間になっても来ないのは、ひょっとして、その土石流に巻き込まれてしまったんじゃないのかと、思ったりしたものですから」  と、ゆみは、いった。 「小柴さんは、島原の生れなんですか?」  と、矢木は、きいた。 「九州の生れだというのは、聞いたことがあるんです。それで、ひょっとしてと、思ったんですわ」 「小柴さんは、何をやっていたのか、知っていますか? 仕事ですが」  と、聞くと、ゆみは、 「どこかの社長さんみたいに、聞いていましたけど」 「違いますね。どうも、何をしていたのかはっきりしないんです。お金に不自由はしていなかったみたいですがねえ」 「そうですの。お店では、いちいち、お客様の仕事を、確かめるわけにはいきませんから、相手のいうことを、そのまま、信じることになるんですけど」 「小柴さんは、社長だと、いっていたんですか?」 「ええ」 「明美という芸者を、知っていますか? 小柴さんと一緒に死んでいた芸者で、本名は、岩木明子ですが」  と、矢木が、きくと、ゆみは、小さく肩をすくめて、 「私が知っている筈《はず》がないでしょう? 私は、雲仙に行ったこともないし、ましてや、芸者遊びしたこともありませんから」 「そうでしょうね。ところで、今日、現場にいましたが、花をたむけていたんですか?」  と、矢木は、聞いた。 「ええ。うちへよく見えていたお客さんでしたから、お花でもと思ったんですわ」 「小柴さんは、どんなお客でした?」  と、矢木は、聞いた。 「これ、訊問ですの?」 「いえ。ただ、何しろ、わからないことの多過ぎる事件なので、あなたの協力を、お願いしているわけです」  と、矢木は、いった。 「私だって、お役に立てるとは、思えませんわ」 「彼が、あなたの店に来ていた時の感じだけでもいいんですよ。どんなお客だったんですか?」  と、矢木は、聞いた。 「どんなお客といわれても——」 「金払いは、いい方でしたか?」 「ええ。とても、きれいに払って下さる人でしたわ」 「来る時は、いつも、ひとりでしたか? それとも、大勢で?」 「それは、その時々でしたわ。おひとりの時も、たまにはあったし、お友達を、沢山連れて、いらっしゃる時もあったし——」 「その友達というのは、どういう人たちでした? その人たちの肩書きと、名前がわかれば、一番いいんですが」  と、矢木は、いった。 「どんな人たちだったかしら?」  と、ゆみは、ちょっと、考える仕草をしていたが、 「M銀行の支店長さんを、小柴さんに、紹介されたことがありましたわ」 「銀行ですか。他には?」 「不動産会社の社長さんもいましたねえ。あとは、自分の会社の部長さんとか、課長さんとか、いってましたけど」  と、ゆみは、いった。 「小柴さんの性格は、どんなでした? 気が荒かったとか、或いは、明るかったか、暗かったか、気がついたところがあれば、いって下さい」 「そんなことが、捜査の参考になりますの?」  と、ゆみは、不思議そうに、聞いた。 「今もいいましたように、小柴克美についての情報が、ほとんどないので、どんなことでも、知りたいわけです」 「では、正直に、お話しますわ。小柴さんは、確かに、お金使いがきれいで、ありがたいお客さんでしたけど、酒癖が悪いんですよ。ある量を越すと、言葉使いは乱暴になるし、時には他のお客さんと、喧嘩《けんか》をして、相手を殴ってしまったりしたことがありましたわ」 「なるほど、好んで、敵を作っていたみたいですね」 「酒癖が悪くなければ、本当に、いい人なんですけどねえ」 「酒に飲まれるというやつですか?」 「ええ。多分、根は、気の弱い人だったのかも知れませんわね」  と、ゆみは、いった。  これで、少しは、小柴克美のことがわかったと、矢木は、思った。  小柴は、会社社長といって、銀座のクラブに出入りしていたらしい。これは多分、嘘《うそ》だろう。銀行の支店長も、一緒に来たことがあるというが、その支店長も、小柴に、欺《だま》されていたのか?  矢木の頭の中で、次第に形作られていく小柴の輪郭は、詐欺師《さぎし》的なものだった。  前に、雲仙温泉に来たことがあったとしても、その時も、小柴は、おれは、大会社の社長みたいな、嘘八百を並べていたのではあるまいか。芸者の明美も、その時、小柴の口車にのせられたのではないか。本当に、東京の大会社の社長だと思い込み、いろいろと、サービスをしたのかも知れない。  小柴は、それに味をしめて、また、雲仙にやって来て、明美を呼んだ。  ところが、小柴に欺されて、ひどい目にあった人間が、彼を追いかけて、雲仙にやって来ていて、彼を、芸者との無理心中に見せかけて、殺して、逃げた。 (そんなところではないのか?)  と、矢木は、思った。 「小柴克美さんを、恨《うら》んでいると思われる人間の名前は、わかりませんか?」  と、聞くと、ゆみは、 「東京に戻って、考えてみないと。今すぐにといわれても、困りますわ」  と、笑った。  確かに、その通りだろうと、矢木は、思った。何といっても、水商売は、客相手である。自分の店の客が傷つくようなことは、なかなか口に出来ないだろう。 「では、東京に帰ってから、思い出して、連絡して下さい」  と、矢木は、改めて、頼んだ。  タクシーを呼び、それに乗せて、ゆみを、送り出したあと、署内には、何となく、華やかさが、急に消えてしまったような寂しさが、残った。それだけ、魅力的な女に見えたということだろう。 「いい女でしたねえ」  と、若い吉田刑事が、ニヤニヤ笑いながら、いった。 「東京に行けば、あんな女が、ぞろぞろいるんでしょうね」 「銀座のどまん中の警察に勤めていたら、毎日、あんな女に会えるんじゃないか」  刑事たちが、そんな他愛のない会話を交しているのを、矢木は、苦笑しながら、聞いていたが、吉田刑事を呼んで、 「警視庁へ、電話してくれ」  と、いった。 「どうされるんですか?」 「今の中川ゆみについて、調べて貰《もら》うんだよ」 「警部は、彼女を、信用してないんですか?」  と、吉田は、びっくりしたような眼で、矢木を見た。 「おい、おい、彼女にいかれちまったのか?」 「そうじゃありませんが、わざわざ、捜査に協力してくれているんですから、嘘はついてないと、思いますが」  と、吉田は、いう。 「かも知れないが、念のためさ」  と、矢木は、いった。  電話に、警視庁捜査一課の十津川が、出ると、矢木は、まず、小柴克美の調査について、礼を、いってから、 「中川ゆみという女性について、調べて頂きたいのです」  と、伝えた。  銀座の「ゆみ」というクラブのママだということ、小柴が、度々、その店に、来ていたことなどを、話した。 「年齢は、二十七、八歳で、身長は、一六五センチくらいだと思います。帽子がよく似合う女性ですよ」 「なかなかの美人のようですね」  と、十津川が、いった。 「わかりますか?」 「矢木さんの口調が、そんな感じですからね」  と、十津川は、いった。      5  十四日の午後、その回答が、電話で、あった。 「面白い結果になりましたよ」  と、十津川が、いった。 「と、いうのは、どういうことですか?」  と、矢木は、聞いた。 「銀座に、『ゆみ』というクラブは、実在しますが、ママは、六十五歳です」  と、十津川が、いう。 「じゃあ、その店で働くホステスだったんですかね?」 「いや、このクラブには、現在、十七名のホステスがいますが、その中に、中川ゆみという女は、いません。最近、この店をやめたホステスも調べましたが、その中にも、該当者は、いませんね」 「どういうことなんですか?」 「わかりませんが、彼女が、嘘をついたことだけは、間違いありませんよ」  と、十津川は、いった。 「その『ゆみ』という店に、小柴克美が、客として、よく行っていたことは、どうなんですか?」  と、矢木は、聞いた。 「それも、ありませんね。それだけでなく、銀座、六本木辺りのクラブや、バーを、調べてみたんですが、小柴克美が、よく遊んでいたという店は、ありませんね」 「どうも、参りました。小柴も、和田史郎という偽名を使っていたし、現場で、もっともらしい顔で、花束を捧げていた女も、嘘八百を並べていたとなると、何を、信じたらいいのか、わからなくなってきますよ」  矢木は、小さな溜息《ためいき》をついた。 「だから、面白いんじゃありませんか?」  と、十津川が、いった。 「面白いですか?」 「ええ。今のところ、死んだ小柴も、そちらへ行った中川ゆみという女も、嘘をついている。ひょっとすると、嘘というか、他人《ひと》を欺すのが、普通の世界に生きている人間たちかも知れませんよ。そう考えると、面白くなるじゃありませんか」  と、十津川は、いう。 「私は、不愉快ですがね」  と、矢木は、いった。 「そうでしょうね」 「え?」 「美人に欺《だま》されるのは、不愉快ですからね。男は、相手が、美人だと、信用したくなりますからね」  と、十津川は、いった。  矢木は、あわてて、 「そんなことは、いっていませんよ」 「彼女の指紋があったら、送ってくれませんか。ひょっとすると、前科があるかも知れません。それから、モンタージュが、作れたら、それも。それで、手掛りがつかめるかも知れないし」  と、十津川は、いった。  矢木は、電話を切ると、吉田刑事に、 「昨日、彼女に、コーヒーを出したな?」 「はい」 「そのカップは?」 「もう、洗ってしまいましたが」 「じゃあ、指紋は、無理だな」 「洗ってなくても、無理ですよ。彼女、コーヒーには、口をつけていませんから」  と、吉田は、いった。 (そうだ。彼女は、コーヒーを飲まなかったんだ)  と、矢木も、思い出した。  あの時は、遠慮しているんだろうと、思っていたのだが、今から考えると、指紋のことを考えて、手をつけなかったのかも、知れない。 「彼女のモンタージュを作るから、協力してくれ」  と、矢木は、刑事たちに、いった。 「彼女が、今度の犯罪に、関係しているんですか?」  と、吉田が、聞いた。 「それはわからないが、彼女が、嘘つきだということだけは、はっきりしているよ」  と、矢木は、渋面を作って見せた。 [#改ページ]  第二章 雨の長崎      1  小柴克美の自宅マンションに、十津川は、亀井を連れて、出かけた。  すでに、西本たちに、調べさせていたから、これが、二度目である。  十津川が、自分自身で、調べてみたいと思ったのは、雲仙に、中川ゆみと名乗る女が現われたと聞いたからだった。  彼女は、明らかに、警察の捜査の模様を、窺《うかが》いに来たのだと、十津川は、思った。それも、二枚の航空券を用意してである。  と、すれば、小柴克美の死が、無理心中である筈《はず》がない。もう一つ、小柴の過去に、何か秘密があるに違いない。  小柴が借りていたのは、1LDKの平凡な造りの部屋だった。 「西本刑事のいった通り、何もない部屋ですね」  と、亀井が、いった。  もちろん、全く何もないわけではない。リビングルームには、高価な応接セットが置かれているのだが、いかにも、出来合いの感じで、絨毯《じゆうたん》の色とも、カーテンとも合っていない。  何もない、というのは、生活の匂《にお》いが、感じられないということなのだ。多分、この部屋は、小柴が、ただ、寝るためのものだったのではないか。  西本は、いくら探しても、事件の手掛りになるような、手紙や、写真が、見つからなかったといっていたが、確かに、一通、一枚も、発見できなかった。そうしたものは、いつも、別の場所に保管していたのか、それとも、小柴を殺した人間が、持ち去ったのか?  本棚もない。読書の楽しみは、持っていなかったのかも知れない。ただ、毎月の時刻表が、山のように、積まれていた。 「旅行が、好きだったのかな?」 「西本刑事が、管理人に聞いたところでは、よく、旅行に出かけていたそうです」  と、亀井が、十津川に、いった。 「どんな仕事をしていたのかは、わからなかったんだね?」 「そうです」 「それなのに、預金が、かなりあった」 「ええ。おまけに、五百万おろして、今回、雲仙に出かけています」 「最近、何をやっているのかわからない得体の知れない人間が多くなってきたねえ」  と、十津川は、笑った。 「どんなことでも、金になるということなのかも知れません」  と、亀井は、ちょっと、皮肉ないい方をした。 「雲仙へ行ったのも、金になると思ってのことだったのかな」 「しかし、五百万持って、出かけています」 「そうだな。その五百万は、何に使うつもりだったんだろうか?」 「雲仙で、芸者を殺しておいて、のんびり、温泉遊びをするつもりだったとは、思えませんが」  と、亀井は、いった。 「小柴は、確か、十日に出かけたんだったな?」 「そうです」 「雲仙は、十一日だった。とすると、十日は、何処《どこ》に、泊ったんだろう?」 「普通、考えられるのは、長崎ということですね」 「私も、そう思うんだが、十一日に、雲仙へ行きたければ、十一日の朝、飛行機に乗れば、十分に間に合うんじゃないかね?」  と、十津川は、いった。 「そうですね。飛行機でもいいし、前日に、ブルートレインに乗れば、十一日の午前中に、長崎に着きますからね」 「と、すると、十日にも、小柴は、何かあったんじゃないかな」 「雲仙のようなことがですか?」 「ああ、そうだ」 「しかし、新聞を見る限り、長崎では、十日に、何も、事件らしきものは、出ていませんね。殺人があったということもなかったようですし——」  と、亀井が、いい、ポケットから、十日の夕刊と、十一日の朝刊を、取り出して、リビングルームのテーブルの上に置いた。  確かに、新聞で見る限り、十日に、長崎で、警察が関係するような事件のニュースは、のっていない。 「長崎では、何もなかったか」  と、十津川は、呟《つぶや》いてから、窓の外に、眼をやった。  空は、どんよりと曇り、今にも、降り出しそうだ。 「今日も、九州は、雨なんじゃないか」 「そうらしいです。昨夜から、雨が降り続いているみたいですよ。また、被害が出るんじゃありませんか」  と、亀井は、いった。      2  長崎は、雨が降り続いていた。それも、豪雨である。  市外に、最近建てられたNホテルの裏山が、突然、崩れて来たのは、午後六時過ぎだった。  丁度、一階のレストランで、食事をしていた泊り客が、この土砂に巻き込まれた。大量の土砂が、レストランのガラス窓を打ち破り、轟音《ごうおん》と共に、全てを呑《の》み込んでしまったのだ。  明りが消え、人々の悲鳴も、かき消された。  七階建のホテル自体も、傾いてしまった。運よく、レストランにいなかった泊り客も、エレベーターが停《と》まり、部屋の明りが消えたことで、パニック状態になった。  救急車と、パトカーが駈《か》けつけたが、一階が、土砂に埋っていて、手のつけようがなくなっていた。  救出作業が始まったのは、翌朝になってからである。  この模様は、テレビでも、放映された。  自衛隊も参加し、ブルドーザーや、シャベルカーも使って、土砂を取り除く作業が、開始された。  幸い、雨は、あがっている。  土砂の中から、遺体が、一体、二体と、掘り出されていく。  ホテル側も、何人の泊り客が、食事をしていたか、わからないといった。レストランの従業員五人と、七、八人の泊り客が、いたのではないかという。  見つかった遺体は、近くの寺に運ばれた。  ホテルの方は、警察に、宿泊者カードを見せ、遺体の確認に、当った。  丸一日かかって、十三人の遺体が掘り出されて、ひとまず、作業は、終った。  その中《うち》、レストランの従業員五人を除くと、泊り客は、八人である。  その一人一人の名前が、宿泊カードと、照合して、確認されていった。東京、大阪の客が、ほとんどだった。  その家族も、駈けつけて来た。  が、一人の遺体だけが、確認できなかった。  年齢三十二、三歳の男の遺体だった。その遺体だけが、該当する宿泊者カードが、見つからないのである。  ホテルのマネージャーは、困惑した顔で、 「どうも、わかりません」  と、長崎県警の刑事に、いった。 「わからないというのは、どういうことですか?」  と、刑事は、聞いた。 「土砂崩れの時、泊り客は、全部で、四十八名でした。その中、無事が確認された方は、四十一名。残りは、七名となります。ですから、遺体は、一名、多いことになってしまいます」  と、マネージャーは、いった。 「宿泊者カードに、記入|洩《も》れということは、ありませんか?」  と、刑事が、聞くと、マネージャーは、きっとした顔になって、 「そんなことは、絶対に、ありません」 「夕食だけとりに、泊り客でない人が、レストランに来るということは、ありませんか?」 「それも、あり得ませんね」 「じゃあ、この男の遺体は、どういうことになるんですか?」 「わかりません。不思議です」  と、マネージャーは、頭を振った。  県警は、当然、この遺体に、関心を持った。  男の背広には、「川田」のネームが、入っていたが、その名前も、宿泊者カードには、のっていない。  県警は、その男の遺体を、司法解剖することにした。  解剖は、長崎の大学病院で行われ、午後になって、県警本部に、結果が知らされた。  死因は、絞殺によるものだということだが、県警が、それより注意を払ったのは、死亡推定時刻だった。  十日の午後九時から十時までの一時間という報告だったからである。  土砂崩れがあった時は、この男は、すでに、死体になっていたのだ。  奇妙な表現だが、土砂と一緒に、男の死体も、ホテルの一階レストランに、流れ込んだことになる。  殺人の疑いが、濃くなった。Nホテルの裏山に、犯人が、男を殺して、埋めておいたのに、降り続く豪雨で、その裏山が崩れ、死体ごと、土砂が、ホテルのレストランに、なだれ込んだのだろうと、県警は、推理した。  この事件は、その奇妙さで、新聞に、大きく取りあげられた。 〈自然災害が、殺人を暴露〉  と、書いた新聞があり、他の新聞の見出しも、似たり寄ったりだった。  豪雨で、ホテルの裏山が崩れなければ、埋めた死体は、発見されなかったろうし、殺人は、発覚しなかったに違いない。新聞は、そんな書き方だった。  十津川も、この事件を、新聞で、知った。ただその受け止め方は、少しばかり違っていた。  十津川が、注目したのは、場所が長崎だということと、殺されたのが、十日の夜だということである。  十津川は、小柴克美のことを、思い浮べた。  小柴は、十日に自宅マンションを出て、雲仙に向った。が、彼は、十日に、雲仙には行かず、翌十一日に、行っている。  すると、十日は、何処《どこ》かに、泊った筈《はず》である。そこは、何処で、何のために、と、考えていって、十津川は、泊ったのは、長崎で、今回の妙な事件に、関係があるのではないかと、考えた。  何の根拠があるわけでも、なかった。完全に、勘である。  十日に殺されて、山に埋められた死体が、長崎で、見つかったというニュースに接した瞬間、彼の脳裏に、小柴克美の顔が、浮んだのである。  乱暴な推理だということは、十津川にも、わかっていた。証拠は、何もないからである。第一、長崎で発見された男の身元も、わかっていないのである。  しかし、十津川は、自分の考えに、拘《こだわ》った。  小柴は、十日に、長崎に着き、そこで、男を殺して、山に埋め、翌十一日、雲仙に、芸者、明美を殺しに向ったのではないのか。  動機は、不明だが、十津川の頭の中で、そんな、直線的なストーリイが、出来あがっていった。  小柴は、それに成功した。ひょっとすると、小柴は、明美の死体も、死体の発見された林の中に、埋める気だったのかも知れない。  十津川は、長崎県警の矢木警部に電話して、自分の考えを、伝えた。  矢木は、明らかに、驚いていた。 「Nホテルのことは、もちろん、知っていますが、雲仙の事件と結びつけては、考えませんでした。なるほど、日時的には、符合しますね」  と、矢木は、いった。 「証拠は、何にもなくて、全くの当てずっぽうです。ですから、無視されて結構なんですが、ちょっと、気になったものですから」  と、十津川は、いった。 「とにかく、長崎の事件を、私も、調べてみます。もし、関連があれば、こちらの捜査にも、プラスになりますから」  と、矢木は、いった。  十津川は、今後の動きを、見守ることにした。雲仙の事件にしても、長崎市の事件にしても、捜査の主導権は、あくまで、長崎県警だったからである。      3  矢木の進言で、もう一度、Nホテルの宿泊者カードが、調べ直された。  七月十日の泊り客に、重点が置かれた結果、一つのことが、判明した。  その中に、和田史郎の名前が、あったのである。  この男は、十日の午後四時二十分頃、Nホテルに、チェック・インし、翌十一日、朝食のあと、チェック・アウトしていた。  ただ、この男が、十日に、ホテルに入ったあと、どんな行動をとったかについては、はっきりしなかった。このNホテルでは、外出する時、いちいち、部屋のキーを、フロントに預けることをしないので、キーの有無によって、外出したかどうかを、確認できないのである。  和田史郎の宿泊カードが見つかった日の午後、矢木は、警視庁の十津川に、電話をかけた。 「十津川さんの予想どおりになりそうな感じですよ」  と、矢木は、いい、和田史郎の名前が、十日の泊り客の中にあったことを、告げた。 「ありましたか」  と、十津川が、電話の向うで、嬉《うれ》しそうな声を出した。 「従って、彼が、十日に、人を殺して、Nホテルの裏山に埋めたことは、十分に、考えられるわけです」  と、矢木は、いった。 「殺された男の身元は、まだ、わからずですか?」  と、十津川が、聞く。 「残念ですが、わかりません。背広にあったネームが、川田ということしか、わからないのです。指紋の照合の結果も、前科なしということで、手掛りには、なりませんでした」 「Nホテルに、泊っていた客でも、ないわけですね?」 「違いました。今、彼の似顔絵を作って、Nホテル周辺の聞き込みをやっています。ああ、いい忘れましたが、雲仙の事件と、関係がありそうだということで、こちらの事件も、私が担当することに、なりそうです」  と、矢木は、いった。 「川田という男ですが、地元の人間ですか? それとも、観光客と、思われますか?」  と、十津川が、聞いた。 「Nホテル周辺の人間ではありませんね。そこに住んでいる人間なら、何か、情報が、入って来る筈ですが、今のところ、それが、ありません。多分、観光客だと思っています。それで、周辺のホテルに当っているんですが、反応が出て来るのを、期待しています」  と、矢木は、いった。  聞き込みの範囲を広げていって、矢木の期待した答が、出て来た。  長崎県内のハウステンボスは、東京のディズニーランドに似ているが、その中に、ホテルもある。  このホテルに、八日から泊っていた男の客が、十日の夜から、行方不明になっているという知らせが、矢木のもとに、届いたからである。  矢木は、刑事を一人連れて、ハウステンボスに出かけた。  長崎市とは、大村湾をはさんで、反対側の海岸に、造られている。  オランダの町並みを、そのまま移した造りで、町の中を、運河が走り、その運河を、観光船が走り、町中を、クラシックなバスと、タクシーが巡回している。  凝った造りで、人気があるのだが、この中には、分譲マンションや、ホテルも、建てられていた。  JRも、ここに、ハウステンボス駅を造り、特急「ハウステンボス」を、走らせていた。  今日も、雨こそ降っていなかったが、どんよりと曇っている。それでも、かなりの観光客が、姿を見せていた。  長崎市内から、ハウステンボスまで、車で、一時間ぐらいである。矢木も、パトカーで、出かけた。  観光船や、バスに、観光客が乗っている。家族連れが多い。  矢木は、中にあるホテルに、向った。このホテルも、オランダ風の、重厚な感じの造りである。  フロント係が示した宿泊カードには、川田ではなく、川西信と、書かれていた。住所は、東京の三鷹市内のマンションになっている。  偽名で、泊っていたということだろう。 「チェック・インされたのは、八日の午後五時頃でした」  と、三十五、六歳のフロント係は、緊張した表情で、答えた。 「それで、十日に、外出したんですね?」  矢木は、手帳に、宿泊カードの名前と、住所を書き移してから、フロント係に、聞いた。 「はい。夕食のあと、タクシーを、お呼びしました」  と、フロント係は、いった。  一般のタクシーは、ハウステンボスの中に入れないことになっているので、専属のタクシーが呼ばれたという。  矢木は、そのタクシーの運転手を、呼んで貰《もら》うことにした。 「八日から、十日まで、この川西信という男は、毎日、何をしていたんですか?」  と、フロント係に、聞いた。 「ほとんど、外出していらっしゃいませんね。いろいろ、楽しい乗り物なんかあるので、見物して廻られる方が多いのに、不思議な人だなあと、思っていました」 「何かを待っているようでしたか?」  と、矢木は、聞いた。 「そうですねえ。一度、外出されているんですが、その時は、戻られてから、しきりに、留守の間に、電話がなかったかと、聞いていらっしゃいましたから、電話を、お待ちになっていたんだと思いますね」  と、フロント係は、いった。 「それで、十日に、電話があったんですね?」 「はい。十日の午後三時頃、外から、川西さまに、電話がありました」 「その電話の内容は、わかりませんね?」 「そこまでは、ちょっと——」 「何処から、かかってきたかは、わかりませんか?」 「それも、わかりません」 「男でしたか? 女でしたか?」 「男の声でした」 「その男は、何と、いったんですか?」 「川西信という人が、泊っている筈だから、つないでくれと、いわれました」 「自分の名前は、いったんですか?」 「いえ。おっしゃいませんでしたが、川西さまが、電話を、お待ちだったようなので、すぐ、おつなぎしました」  と、フロント係は、いった。  フロントの呼んだタクシーの運転手が、来たので、矢木は、彼へ、質問を、移した。  五十歳くらいの誠実な感じの運転手だった。  矢木の見せた似顔絵に対して、 「確かに、この方です。十日の午後七時半頃、お迎えにあがりました」  と、答えた。 「ひとりで、乗ったんですね?」 「はい」 「行先は?」 「長崎駅へ行ってくれと、いわれました。JR長崎駅です」  と、運転手は、いった。 「何時までに行けということは、いったんですか?」 「どのくらいで、行けるのかと、聞かれたので、一時間あれば、着きますと、いいました。そうしたら、安心されたようで、それならいいと、いわれました」 「実際に、JR長崎駅に着いたのは、何時だったんですか?」 「少し早く、着きましたね。午後八時二十分頃です」 「誰か、彼の来るのを、駅で、待っていましたか?」  と、矢木は、聞いた。 「いえ。そんな気配は、ありませんでした。少し早く着いてしまったんじゃありませんか。そんな感じでした」  と、運転手は、いった。 「車の中で、彼は、何か話しましたか?」  と、矢木は、聞いてみた。  運転手は、思い出そうとするように、考えていたが、 「九州は、雨ばかり降っていて、大変だなあと、おっしゃっていましたねえ。自分は、雨が嫌いだとも」 「その他には? 何かを、怖がっている感じは、ありませんでしたか?」 「いや、そんな感じはありませんでした。むしろ、楽しそうな感じでした。だから、女性と、会うのだろうと、勝手に、考えていたんですが」  と、運転手は、いった。  だが、彼は、犯人と会って、その日の中《うち》に、殺されてしまったのだ。強い力で、首を絞められていることを考えれば、多分、相手は、男なのだ。  その相手が、雲仙で死んだ小柴克美ならば、二つの事件は、結びついてくるのだ。  矢木は、もう一度、フロント係に、眼をやって、 「川西信が、部屋に残した所持品を、見せてくれませんか」 「持って来て」  と、フロント係は、ルーム係に、いった。  差し出されたのは、ハンティングワールドのボストンバッグだった。  矢木は、フロント係の立ち会いで、バッグを開け、中身を、テーブルの上に、並べていった。  着がえの下着、洗面道具が、まず、出て来た。これが、全て真新しく、下着の中には、デパートの札がついているものもあったところをみると、あわてて、買って、バッグに、詰めて来たのかも知れない。  東南アジアの観光案内の本が、三冊。長崎空港から、上海と、釜山行の飛行機が出ているから、上海、釜山経由で、東南アジアへ行くつもりだったのかも知れない。  パスポートは、見つからなかった。多分、それは、背広に入れて、持っていたのだろう。彼を殺した犯人が、奪い取って行ったのかも知れないと、矢木は、思った。  バッグの中には、東南アジアへの航空券も、金も、入っていなかった。それらも、犯人が、奪い取ったのだろうか?  それとも、川西信は、金を持って来てくれる人間を、待っていたのだろうか?      4  十津川は、長崎県警の要請で、三鷹のマンションを、当ってみることにした。  川西信というのは、偽名だろう。背広のネームが、川田になっていたということだからだ。  三鷹の住所も、インチキかも知れないが、全く、でたらめとも、思えなかった。  名前の方も、川田が、川西になっただけで、どちらにも、川がついている。本名から、完全に、離れられないのだ。  住所も、完全に、でたらめを書く気なら、世田谷区とか、大田区と書くのではないのか。  東京でいえば郊外の、三鷹市と書いたのは、少しは、三鷹市に、関係があるのではないか。  長崎県警が、FAXで、送って来た住所は、 〈三鷹市井の頭×丁目×番地   グリーンコーポ「井の頭」306〉  である。  井の頭が、三鷹市にあるということを知っている人間は、東京でも、あまり多くないのではないか。現に、十津川の友人で、浅草に住んでいる男は、井の頭は、世田谷区だと、信じている。  それを、きちんと、三鷹市井の頭と、書いているのは、井の頭に住んでいるか、前に住んでいたのではないかと、十津川は、思った。  しかし、グリーンコーポ「井の頭」というのは、存在しなかった。  それでも、十津川は、似た名前のマンションを探した。彼の予想は適中して、スカイコーポ「井の頭」というマンションがあることが、わかった。  十津川は、亀井を連れて、このマンションに、足を運んだ。  スカイというわりには、六階建の、そう高くないマンションである。  その306号室ではなく、603号室の郵便受けに、川田と、書かれていた。 「正解でしたね」  と、亀井が、微笑した。  長崎県警から送られて来た似顔絵を見せると、管理人は、603号室の川田晋という男に間違いないと、証言した。 「でも、川田さんは、お留守ですよ」 「それは、わかっています。彼は、死にましたよ。長崎で」  と、十津川は、いった。 「そうですか。死んだんですか」 「あまり、驚きませんね」 「何か、うさん臭い人でしたからねえ。どこに勤めているのかもわからなかったし、いつも、大きいことを、いってましたよ。百円貸してくれと、私にいったかと思うと、何をして儲《もう》けたのか知りませんが、分厚い札束を、いくつも、持っていたりしてましたからね。まともな仕事はしてない人だと、思っていましたよ」  と、管理人は、いった。 「川田さんは、いつ、出かけたんですか?」  と、十津川は、聞いた。 「確か、八日の昼前でしたよ」 「何処へ行くと、いっていました?」 「ちょっと出かけて来ると、いっただけですよ」 「彼の部屋を見せてくれないか」  と、亀井が、横から、いった。 「何もありませんよ。川田さんは、ここは、寝るだけだと、いってましたからね」  と、管理人は、いい、六階へ、二人を、案内した。  603号室は、確かに、何もない部屋だった。寝るためだけという言葉がふさわしく、2DKの部屋には、出しっ放しの布団だけが、目立っていた。  あと、眼についたのは、電話機だけで、テレビもない。 「確かに、寝るだけの部屋だったみたいですね」  と、亀井が、呆《あき》れた顔で、いった。 「問題は、川田が、何をして、暮していたかだな」  と、十津川は、いった。 「管理人の話だと、百円もないかと思えば、札束を持っていたりしたということですね」 「確かに、まともな仕事をしていたとは、思えないね」 「犯罪に関係していたんでしょうか?」 「かも知れない。指紋を照合したが、前科者カードには、なかった」 「うまく、立ち廻っていたか、たいしたことは、やっていなかったかのどちらかですかね」  と、亀井が、いった。 「もう一つ、考えられることがあるよ」  と、十津川は、いった。 「どんなことですか?」  と、亀井は、がらんとした部屋の中を見廻しながら、聞いた。 「いくら、寝るためだけの部屋といったって、あまりにも、物が、なさすぎるよ」  と、十津川は、いった。 「そういえば、そうですねえ。今は、安く買えるんだから、応接セットぐらい揃《そろ》えてもいいと思います。私の知っている男なんか、応接セットも、洋ダンスも、机も、或いは、洗濯機まで、粗大ゴミの中から、拾って来て、揃えていますからね」  と、亀井は、いった。 「例えば、川田が、サギをやっていたとしよう。いくら、口が上手《うま》くても、こんな部屋に連れて来たんでは、相手が、警戒してしまうだろう」 「確かに、そうですね」 「だから、川田は、別のところに、住居を持ち、全く違う生活をしていたんじゃないかという気がするんだよ」  と、十津川は、いった。 「全く違う生活ですか」 「殺されるには、殺されるだけの理由が、必要だ。ところが、この部屋を見てみろよ。家具は、ほとんど、何もないに等しいし、預金通帳の類だって、見つからない。手紙もだ。その上、何をやっているのかわからない。こんな男を、誰が殺したいと、思うだろう?」 「そうですね。殺しの対象としては、全く魅力のない存在ですね」  と、亀井も、いった。 「だから、この部屋の主としての川田晋が、狙《ねら》われたとは、思えない。別の場所で、全く別の生活をしていた川田晋が、狙われたんじゃないかと、思ったんだよ」  と、十津川は、繰り返した。 「しかし、警部。彼が死んでしまった今、別の生活というのを、見つけるのは、難しいんじゃないですか? 彼も、それを、隠そうとしていたでしょうからね」  亀井は、難しい顔で、いった。 「そうかも知れないが、ひょっとすると、簡単に、わかるかも知れないよ」  と、十津川は、いった。 「わかりますか? どうやってですか?」 「電話さ」  と、十津川は、ぽつんと置かれた電話に、眼をやった。 「その電話が、どうかするわけですか?」 「川田が、二重生活をしていたとしよう。面白くて、楽しい生活かも知れないが、身体は、一つだ。この電話に、かかってきた時、彼が別のところにいたとすると、困ることになる。特に、それが、大事な電話ならね。逆のケースも考えられるわけだよ。それを防ぐために、川田は、転送電話にしておいたんじゃないかと、思うんだ」  と、十津川は、いった。 「なるほど」 「そうなっていたとすれば、電話局に調べて貰《もら》って、もう一つの電話が、見つけられる」 「すぐ、やってみましょう」  と、亀井は、張り切って、大きな声を出した。  管理人の話では、川田は、このマンションを、一年前に借りたが、いつも、いるのかいないのか、わからなかったという。いないと思っていると、突然、顔を出したり、電気が、ついているので、いるのかと思っていたら、留守だったりしたというのである。  それを考えても、十津川のいう二重生活の可能性は、大いにあり得るのだ。  電話局の協力を、要請した。  その結果、予期した通り、その部屋の電話は、転送されるように、なっていた。  転送先の電話番号も、わかった。  それがわかれば、その電話が設置されている住所も、明らかになってくる。  判明した住所は、赤坂の高級マンションだった。      5  そのメゾンニュー赤坂に、十津川は、亀井と、出かけた。  十五階建のマンションである。見上げたとたんに、三鷹市井の頭のマンションとの違いを感じた。  一階には、ホテルのような広いロビーがあり、来客の応接にも、使えるように、工夫されている。  ピカピカのエレベーターで、十一階に、あがって行った。  1103号が、転送電話の置かれている部屋だった。  ドアは、堅い木材が使われ、彫刻が、ほどこされていた。あくまでも、ぜいたくなのだ。  管理人に、開けて貰って、二人は、中に入った。  部屋数は、少いが、それぞれの部屋が広い。  居間は、二十五、六畳くらいはあるだろう。深々とした絨毯《じゆうたん》、外国製らしい応接セット、ぜいたくだが、よく見れば、何となく、成金趣味の感じもする。  寝室に置かれたウォーターベッドにも、そんな感じが見えた。それが快適だからというよりも、珍しいから買ったという感じがするのだ。 「ここの部屋代は?」  と、十津川は、管理人に、聞いてみた。 「丁度、百万です」  四十五、六歳の管理人は、事もなげに、いう。 「百万ねえ」  と、亀井が、ぶぜんとした顔になった。 「ここで、川田は、どんな生活を、送っていましたか」  と、十津川は、聞いた。 「よく、女の人を連れ込んでいましたよ。まあ、この辺りのクラブのホステスたちでしょうがね。時には、五、六人連れて来て、朝まで、騒いでいましたね」  と、管理人は、いう。 「何をしている人間か、知っていましたか?」 「それが、よくわからなかったですねえ。一度、聞いたことがありましたが、ニヤニヤ笑って、教えてくれませんでしたよ。ああいう、何をやってるのかわからない人が、お金を持っている時代ですから」  と、管理人は、いった。  十津川と、亀井は、広い部屋の一つ一つを、見て行った。  洋服ダンスには、高そうな背広や、コートが、ずらりと、並んでいる。  寝室には、小さなホームバーが、設けてあったが、高い外国のウィスキーや、ブランディが、並んでいる。  冷蔵庫を開けてみると、なぜか、口紅や、すけすけのブラジャーや、パンティが、放り込まれている。 「ずいぶん、楽しんでいたらしい」  と、十津川は、苦笑しながら、いった。  寝室の隅には、小型の金庫があり、開けてみると、現金が、百万ほど入っていたが、預金通帳といったものは、一冊も、見当らなかった。  夜になってから、二人は、赤坂周辺のクラブを、廻ってみた。管理人が、よく、ホステスらしい女を、連れ込んでいたと、いっていたからである。 「VIP」というクラブで、川田が、よく来ていたことが、わかった。 「川田さんは、一週間に一度くらい、来てたかしら。来ると、ぱあッと、景気よく遊んで下さるの。バブルが弾けたこの頃じゃあ、本当に、ありがたいお客だったわ」  と、ママは、十津川に、いった。 「一回に、どのくらい、使っていたんですか?」  と、十津川は、聞いた。 「その時によって、違うけど、多い時には、一晩で、百万、二百万と、使って下さる時もあったわ」 「ずいぶん、乱暴な使い方だな」 「でも、うちにとっては、ありがたい、使い方よ」  と、ママは、笑う。 「何をしている人だと、思っていました?」 「川田さんは、セールスの仕事をしていると、いってましたけど」 「それを、信じていました?」 「この不景気に、何を売っているのかわからないけど、そんなに儲《もう》かる筈《はず》はないとは、思ってたわ。それで、みんなで、あれこれ、いってたんだけど、遺産が入ったんだろうとか、ジャンボ宝くじが当ったんじゃないかとか」 「なるほどねえ」 「シホちゃんなんかは、何か悪いことをしてるんじゃないかなんて、失礼なことをいったりしてたんだけど、刑事さんが来たところをみると、そうだったんですか?」  ママは、興味ありげに、きいた。 「それが、わからなくて、こうして、調べているんですがね。ここへ飲みに来る時は、一人でですか? それとも、誰かと一緒でしたか?」 「それが、いつも、一人だったわ。だから友達のいない人だなと、思っていたんですよ」 「家族について、何か話していませんでしたか?」 「そうねえ。別れた奥さんが、横浜かどこかにいるみたいなことを、いってたことが、あったわね」  と、ママは、いう。 「何かを、怖がっていたようなことは、ありませんでしたか?」  と、十津川は、聞いた。 「さあ、いつも、わあわあ騒いでいたから、そんなことは、感じませんでしたけどねえ」 「最後に、来たのは、いつ頃?」  と、亀井が、聞いた。 「あれは、一週間ぐらい前だったかなあ」 「その時、どんな話をしていたか、覚えているかね?」  と、亀井が、聞くと、ママは、かすみというホステスを、呼んでくれた。彼女が、川田のお気に入りだったという。  十津川と、亀井は、かすみから、その時の川田の様子を、聞くことにした。 「あの時の川田さんは、ちょっと、変だったわね」  と、かすみは、いった。 「どう変だったのかね?」  と、亀井が、聞く。 「いつもの川田さんは、騒ぎまくるんだけど、あの日は、騒ぐんだけど、妙に、暗かったわ。それにね、外国へ行くので、しばらく、会えないといって、あたしが欲しがってたシャネルの腕時計をくれたの」  と、かすみはいい、腕にはめている腕時計を二人に見せた。 「それ、いくらぐらいするものなの?」  と、十津川は、聞いた。 「百二十万だったかな」 「外国へ何しに行くと、いっていたんだ?」  と、亀井が、聞いた。 「聞いたけど、いわなかったわ。だから、病気だけは、注意しなさいよって、いったんだけど。長崎で、殺されたなんて、本当に、ショックだったわ」  かすみは、小さな吐息をついた。 「その時、彼は、怖がっているようには、見えなかったかね?」  と、十津川が、聞いた。 「それは感じなかったけど、寂しそうだったわ。だから、遊びに行くんじゃないとは、思ったんだけど」 「川田が、何をしていたかは、知っていたかね?」  と、亀井が、聞いた。 「それが、ぜんぜん。いくらきいても、絶対に教えてくれなかったわ」  と、かすみはいい、煙草をくわえた。  十津川が、それに、火をつけてやってから、 「彼は、いつも、一人で来ていたようだね?」 「ええ」 「そして、荒っぽい金の使い方をしていた?」 「ええ」 「いってみれば、宵越《よいご》しの金は持たないみたいな使い方?」 「ええ。そうね」 「彼は、いつ頃から、ここへ来るようになったのかな?」 「そうねえ。去年の三月頃だったかしら」  と、かすみは、いった。  あの高級マンションを、川田が借りたのも、管理人の話では、去年の三月からだった。一致しているのだ。 「最初から、彼は、金遣いが、荒かったのかな?」 「ええ。最初に見えた時、百万ぐらいを、キャッシュで払ったのは、よく覚えているわ。いいお客だと、思ったわ」  と、かすみは、いった。      6  二人は、その店を出ると、夜の赤坂の街を、しばらく歩いた。  バブルが、弾けたというのに、この辺りは、人があふれている。何をしているのかわからない人間が、高級車を乗り廻している。 「面白いな」  と、十津川が、突然、いった。 「何がですか?」  と、亀井が、聞いた。 「今度の事件で、殺された二人の男のことさ。川田という男は、いったい、何をしていたのか、わからない。もう一人の小柴も、同じだ。何をしていたのか、わからない男だ。そんな男が、二人、続けて、殺されてしまった」 「そうですね」 「今、ふと、射撃訓練のことを、思い出した。標的の人型さ。人間の型をしているが、顔は、描いてない」  と、十津川は、いった。 「二つ並んだ人型ですか」 「ああ。殺した犯人には、きっと、それに、どんな顔が描かれているか、わかっているんだ」 「そうでしょうね。わかっていなければ、殺さないでしょうから」  と、亀井は、いった。 「実際の川田も、小柴も、顔はある。だが、われわれには、まるで、顔の描かれていない標的みたいなものなんだ」 「どんな顔を描いたら、いいんですかね?」  と、亀井が、聞く。 「川田は、刹那《せつな》的な暮しをしていた。多分、犯罪に関係していたんだと、思うね。だから、手にした金は、ぱっぱっと、使ってしまった」 「その彼が、井の頭の安マンションを借りていたのは、どういうことなんでしょうか?」  亀井は、ゆっくり歩きながら、聞いた。 「二つの生活を楽しみたかったんだろう」  と、十津川は、いった。 「どっちが、彼にとって、本当の生活だったんでしょう?」 「赤坂の高級マンションみたいに見えるが、案外、井の頭の安マンションの方だったかも知れないよ。彼は、長崎で泊ったホテルに、向うのマンションの住所を、書いているからね」  と、十津川は、いった。  そのあと、二人は、黙って、しばらく、歩いていたが、十津川は、急に、立ち止って、 「そうだ!」  と、声をあげた。 「どうされたんですか?」 「クラブで会ったかすみというホステスのことさ」 「ええ」 「川田は、彼女を、ひいきにしていた」 「ええ。百二十万のシャネルの腕時計を、プレゼントしていますからね」 「彼女の顔を、どこかで見たような気がしていたんだよ。ずっと、それを考えていた。いったい、どこで見たんだろうと、思ってね」 「今度の事件に関係してですか?」 「ああ」 「別の場所で、あの顔を見ましたかねえ?」  亀井は、首をかしげた。 「見たんだよ。彼女じゃなくて、彼女に似た顔だ」 「どこで見ましたか?」 「雲仙で殺された芸者がいたじゃないか。確か、明美という名前だ。新聞に、彼女の顔写真が、のっていた。その顔に、似ているんだよ」  十津川は、嬉《うれ》しそうに、いった。  二人は、警視庁に戻ると、すぐ、雲仙の事件を報じた新聞を探してみた。 〈無理心中か、殺人か?〉  と、いった見出しで、大きくのっていた。  芸者明美と、小柴の顔写真も、出ている。 「なるほど、よく似ていますねえ」  と、亀井が、感心したように、声をあげた。 「ああ、似ているんだ」 「川田の好みの顔というわけでしょうか?」  と、亀井が、聞いた。 「それだけなら、別に、何ということもないんだがね」 「それ以上のことだといわれるんですか?」 「川田は、別れた奥さんが、横浜にいると、いっていたそうじゃないか」 「ええ」 「横浜というのは嘘《うそ》で、雲仙で、芸者をしていたのじゃないだろうか?」  と、十津川は、いった。 「もし、そうだとすると、川田は、雲仙に行って、明美に会うつもりで、長崎にいたのかも知れませんね」  亀井は、膝《ひざ》をのり出した。 「奥さんは、嘘だとしても、殺された明美と、川田は、親しかったんじゃないか。川田は、何かあって、外国へ逃げ出すことになり、その前に、明美に会いたくなった。ところが、会わせたくない人間がいて、芸者の明美まで、殺してしまったんじゃないだろうか」  と、十津川は、いった。 「川田が、明美に、何か喋《しやべ》ってしまうのを、恐れたんでしょうか?」 「多分、そうだろうね」 「しかし、明美を呼んで、殺したのは、小柴ですよ」 「ああ、何者かが、小柴に依頼して、殺させたんだろう」 「殺させておいて、その小柴まで、毒殺してしまったということですか?」 「そんな風に、考えられるじゃないか」  と、十津川は、いった。 [#改ページ]  第三章 指 紋      1  長崎県警のその後の調べで、川田と思われる男が、島原半島の小浜温泉に、何回か泊り、その時、芸者の明美を、呼んでいたことがわかった。  川田は、その際、川西の名前で、泊っている。  雲仙温泉を降りたところにある小浜は、海辺の温泉街で、雲仙も小浜町の中《うち》である。  川田が、明美と親しかったというのは、十津川の予想した通りだったが、それ以外に、捜査は、これといった進展は、見せなかった。  川田の正体も、小柴の正体も、わからないままに、時間が、過ぎていったのだが、意外なところから、進展を見た。  二ヶ月前、国立市で現金強奪事件が、起きていた。  襲われたのは、K銀行の現金輸送車で、奪われた金額は、二億三千万円である。  この事件の捜査を担当しているのは、十津川と同期で警視庁に入った竹田だった。その竹田が、突然、国立署の捜査本部から、やって来て、 「川田という男のことを、詳しく、話してくれ」  と、いったのである。 「どうしたんだ?」  と、十津川が、聞くと、竹田は、気負い込んだ感じで、 「現金強奪犯が使ったと思われる車は、盗難車だったんだがね。その運転席の灰皿の蓋《ふた》にだけ、犯人のものと思われる指紋が、ついていた」 「それは、聞いている」 「ハンドルに、指紋はなかったから、手袋をしていたんだろうが、多分、煙草を吸いたくなって、灰皿の蓋を開けようとしたが、なかなか、開かなかったんだな。それで、手袋を外して開けた。そのあと、蓋についた指紋を、拭き忘れたんだろうと、思っていた。だが、前科者カードには、ない指紋だった」 「その指紋が、川田のものと、一致したのか?」 「そうだ。左手人差指の指紋だ。警察庁から教えられて、びっくりして、飛んで来たんだ」  と、竹田は、いう。  十津川も、眼を輝かせて、 「もし、それが本当なら、こっちも助かるよ。川田について、情報が集って来ないので、いらいらしていたんだ」  と、いった。  十津川は、川田が、二つの住居を持っていたことを話し、その二つのマンションの写真を、竹田に見せた。 「なるほどねえ」  と、竹田は、小さく肯《うなず》き、 「現金強奪で手に入れた金で、赤坂のマンションを借り、ぜいたくをし、次の仕事の時は、安いマンションに移って、そこから、出かけていたのかも知れないな」 「国立の事件は、犯人は何人だと推測されているんだ?」 「現金輸送車に乗っていた人間は、二人とも、殺されてしまっているんでね。犯人が何人かは、不明なんだが、おれは、少くとも三人以上と、思っているよ」  と、竹田は、いった。 「すると、小柴も、その中の一人だったのかな?」 「長崎で、川田を殺したと思われる男か?」 「そうだ。そのあと、雲仙で、毒死しているが、これも、毒殺されたと見ていいだろう。実は、この小柴という男の経歴も、はっきりしないんだ」  と、十津川は、いった。 「すると、仲間割れが、起きているということかな?」 「仲間割れというより、粛清といった方が、いいんじゃないか。おれは、そう思う」  と、十津川は、いった。 「リーダーが、粛清しているということか?」 「ああ。おじ気づいた仲間を、消しているんじゃないかと、思うね。川田の知り合いの芸者まで、殺している。これは、口封じだ」  と、十津川は、いった。 「小柴という男に、殺させておいて、その小柴も殺してしまったということか」 「ああ。それだけ、相手は、冷酷な人間だよ」  と、十津川は、いった。  それも、犯人は、全く、姿を見せていない。  小柴は、長崎で、川田を殺して山に埋め、次に、雲仙に行き、芸者の明美を呼び出して、殺している。  それが、すんだところで、リーダーが現われ、仕事のすんだ小柴を、毒殺しているのだ。  小柴が、必ず、川田と、明美を殺すと、確信していたように、見える。  この自信は、どこから来るのだろうか。その信頼に応えて、二人も殺した男を、冷酷に、毒殺している。 「他でも、やっているかも知れないな」  と、竹田が、いった。 「他でもって、現金強奪をか?」  と、十津川は、聞いた。 「ああ。だんだん、そんな気がして来たんだ。君のいう通り、冷酷なリーダーだとすると、一発勝負の計画は、立てないような気がしてね」 「プロ的に、きっちり計画を立てて、何回もやるか?」 「そんな気がして来たよ」  と、竹田は、いった。 「そういえば、国立での現金強奪は、二ヶ月前だろう?」 「ああ、そうだ」 「川田が、赤坂の豪華マンションを借りたのは、去年の三月なんだ」 「つまり、その頃から、何かやっていたことになるな」 「そうなるね」 「しかし、去年の三月頃、都内で、現金強奪事件は、起きていないな」  と、竹田は、宙を睨《にら》むようにして、いった。 「ああ。おれも、記憶にないよ。だが、何かやって、大金を手に入れ、あのマンションを、借りたんだ。東京以外で、やったのか、現金強奪以外で、大金を、手に入れたか」 「現金強奪以外というと?」 「例えば、ゆすりだよ。或いは、誘拐」  と、十津川は、いった。 「誘拐は、一件あったが、犯人は逮捕され、身代金も、戻っている」 「とすると、他県で起きた現金強奪事件かな」 「そういえば、去年の一月に、仙台で、現金強奪事件が起きていたな」  竹田は、その事件を、思い出す眼になって、いった。  十津川も、思い出していた。  仙台の繁華街、東一番町の、大手のサラリーローンの金融会社が、狙《ねら》われた事件である。  去年の一月中旬だった。ビルの最上階、七階にあったこの会社が、深夜、襲われ、当直の警備員二人が、殺され、二億九千万円が、強奪された事件だった。  正月ということで、三億円近い現金が、金庫におさめてあった。犯人は、それを知っていて、襲ったものと、みられた。  警備員が、二人とも殺されてしまったので、犯人の輪郭は、つかめない。  警備員は、通常は一人なのだが、この日は、大金があるというので、二人に増やされていたのだが、犯人は、冷酷に、二人とも殺してしまったのである。  二人の警備員が、非常ベルを鳴らす間もなく、殺されていることから、犯人は、複数と考えられた。  宮城県警は、県内に、非常線を張ったが、犯人は、何処《どこ》に消えたか、消息は、つかめずに、時間だけが、経過した。 「その犯人たちが、東京に逃げていたということになるのかも知れないな」  と、十津川が、いうと、竹田も、肯いて、 「仙台の事件と、国立の事件は、考えてみると、よく似ているんだ。二件とも、警備員を、冷酷に、殺しているし、犯人が、複数と思われる点だよ」  と、いった。 「去年の一月に、二億九千万円を手に入れたが、その金がなくなったので、今年になって、国立で、現金輸送車を襲ったということが、考えられるね」 「戻ったら、早速、宮城県警に、連絡してみるが、その前に、赤坂のマンションを、見てみたいね」  と、竹田は、いった。      2  十津川が、案内した。  竹田は、豪華な部屋を、見廻して、 「金が、かかっているな」  と、腹立たしげに、いった。 「地道に稼いだ金じゃないから、どんどん、使ったんだろうね」  と、十津川は、いった。  二人は、川田の仲間のことを知りたいと思い、部屋の中を探してみたが、その手掛りになるようなものは、見つからなかった。  竹田が、国立へ引き揚げたあとも、十津川は、ひとりで、部屋の中を、見て廻った。  何とかして、川田を殺した連中への手掛りを、見つけたかったからである。  だが、見つからない。川田が、残しておかなかったというよりも、川田と、小柴、それに芸者の明美を消した人間が、この部屋を、調べて、自分に不利なものは、全て、持ち去ってしまったに違いない。  諦めて、十津川が帰ろうとした時、ふいに、三十二、三歳の女が、入って来て、 「あんた、誰なの?」  と、十津川に、声をかけて来た。 「あなたは?」  十津川は、逆に、聞いた。  女は、少しばかり、化粧が濃い点をのぞけば、普通の感じだった。水商売の女の匂いはない。 「川西さんは、何処《どこ》にいるんです?」  と、女が、聞く。 「死にましたよ」  十津川が、いうと、女の表情は、険しくなって、 「そんなことをいって、私を、欺《だま》すつもり?」 「いや、私は、事実を話しているだけですよ」  と、十津川は、いい、警察手帳を、女に見せた。  女は、顔を突き出すようにして、警察手帳を見ていたが、 「それ、本物なの?」  と、聞いた。  十津川は、苦笑しながら、 「もちろん、本物ですよ。ここの住人は、長崎で殺されているのが、発見されましてね。今、われわれが、向うの県警と合同で、捜査しているところです」 「長崎で、死んでいたんですか?」  女の語調が、急に、丁寧になった。構えた口調といってもいいだろう。 「そうです。殺されて、埋められていました」 「誰が、殺したんですか?」 「小柴という男です」  と、十津川がいうと、女は、ほっとした表情になって、 「それじゃあ、その事件は、もう解決しているんですわね」 「いや、違います。小柴という男も、殺されたからですよ」 「でも、私には、関係ありませんわ」  と、女は、いい、急に、逃げ腰になった。  十津川は、まっすぐ、女を見つめて、 「名前と、何をしに、ここへ来られたか、話して欲しいですね」  と、いった。女は、後ずさりしながら、 「私は、関係ありませんわ」 「あなたは、ここへ来たことで、殺された川西こと、川田と知り合いであることを、示しているんですよ。警察に協力して下さい」 「出来ません」 「それなら、逮捕状をとりますよ」  と、十津川は、脅《おど》した。  女は、青ざめた顔になって、 「そんな——」 「だから、協力して欲しいのです」 「何をすれば、いいんでしょう?」 「まず、座って下さい。立っておられたのでは、落ち着かない」  と、十津川は、いった。  女は、観念した感じで、居間のソファに腰を下した。  十津川は、手帳を広げて、 「お名前を、教えて下さい」 「戸村あき子です」  と、女は、いい、ハンドバッグから、運転免許証を取り出して、十津川に、見せた。  確かに、戸村あき子とある。住所は、成城になっていた。年齢は、三十四歳。 「今日は、何しに、ここへ?」  と、十津川は、聞いた。 「いわなければいけないんですか?」 「秘密は、守りますよ」 「川西さんと、結婚する約束をしていたんです」 「結婚ですか」 「ええ。川西さんが、結婚してくれと、いったんです」  と、戸村あき子が、いう。 「彼とは、何処で、知り合われたんですか?」 「去年の十月頃でしたかしら。友人と、この赤坂へ遊びに来ていて、彼と出会ったんです。スナックで、飲んでいたら、彼が、声をかけて来ました」 「なるほど。それ以来ですか?」 「ええ。そのあと、二人だけで、会うことになって、ここにも、招待されましたわ」 「彼は、自分が、何をしていると、いっていました?」 「小さな貿易会社をやっていると、いっていました」 「貿易会社ですか」 「最初は、信じませんでしたわ。でも、この部屋に来たら、外国の高い家具が、あったり、無造作に、シャネルのバッグをプレゼントしてくれるので、信用してしまいました」  と、あき子は、いう。 「それで、結婚の申込みに、イエスと、いったんですか?」 「ええ」 「それだけなら、別に、実害はなかったわけですね?」 「そのあと、お金を、貸しました」  と、あき子は、いった。 「お金をね。いくらぐらいですか?」 「取引きで、急に、現金が要ることになったとか、友人に頼まれて保証人になったが、その友人が、借金を返さずに、姿を消してしまったので、困っているとかで、何回かにわたって、全部で、千二百万円くらい」 「ずいぶん、貸しましたね」 「ええ。でも、どうせ、結婚するんだからと思って——」 「少しは、返して貰《もら》ったんですか?」 「二ヶ月前に、二百万だけ、返して貰いましたわ。でも、あとの一千万は、そのままなんです。結婚の話も、信じられなくなって、何とか、全部、返して貰おうと思って、今日、来てみたんですわ」 「なるほど」 「何とかならないでしょうか? 私にとっても、必要なお金なんです」 「失礼ですが、何をしていらっしゃるんですか?」 「妹と二人で、成城で、喫茶店をやっています。川西さんに貸したお金は、お店を広くするために、妹と二人で、貯《た》めたものなんです」 「そうですか——」  と、いったが、十津川に、どう出来るものでもない。 「借用証は、取っているんですか?」 「簡単なものは、貰っていますけど——」  と、あき子はいい、ハンドバッグから、何枚かの借用証を、取り出して、十津川に、見せた。  確かに、きちんとしたものではなく、メモ用紙に、書かれたものである。  二百万、五百万、百万、二百万、と、四回にわたって、川西が書いた借用証だった。印鑑も押してあるが、どう見ても、三文判だった。 「弁護士に相談されると、いいと思いますね」 「でも、川西さんは、殺されてしまったんでしょう?」  と、あき子は、不安気に、いった。 「そうですが、この部屋の家具などが、競売される場合は、その借用証が、力になるかも知れませんよ」  と、十津川が、いうと、あき子は、現金に、ニッコリして、 「そうですわね」 「われわれに、協力してくれますね?」 「ええ。でも、どうすれば——?」  と、あき子が、聞く。 「われわれとしては、どんな人間が、川西の周辺にいたか、知らないのですよ。初めて、彼に会った時、彼は、一人でしたか? それとも、他に誰か、いましたか?」  と、十津川は、聞いた。      3 「あの時は、彼は、一人でしたわ」  と、あき子は、いう。 「その後、何回も、彼とは、会っているわけですね?」 「ええ」 「彼が、誰かと一緒にいるところを、見ましたか?」 「いつだったか、新宿で、彼が女の人と一緒にいるのを、見たことがありましたわ」  と、あき子は、いった。  彼女がいう、その女は、どうやら、雲仙に現われた中川ゆみと名乗った女らしい。 「その女のことを、彼は、どう説明していたんですか?」  と、十津川は、聞いてみた。 「そのあとで、会った時、私は、やきもちで、彼に、聞いたんです。そうしたら、何回か飲みに行ったクラブのママで、あの日、偶然、新宿で、会ったんだと、いっていましたわ」 「その話を、信じました?」 「半分くらいはね」  と、あき子は、いった。 「彼女の名前を、川西は、いっていましたか?」 「確か、ゆきとか、ゆみとか、いっていましたけど」 「その女以外に、彼が一緒だった人物を、覚えていませんか?」  と、十津川は、いった。 「ここに、何回目かに来た時、彼が、急に、倒れてしまったんです。驚いて、救急車を呼んで、近くの病院に、運んだんです」 「いつ頃ですか?」 「確か、先月の六日か、七日でしたわ」 「それで、どうなりました?」 「急に、血圧が高くなったみたいで、一日入院しただけで、治りましたけど、病院に運んだ時は、真っ青で、吐き気がすると、いっていたんです。死にそうな感じでしたわ。それで、誰か、連絡する人はいないかって、聞いたんです。私も、彼が、今にも、死ぬかと思って」  と、あき子は、いった。  十津川は、膝《ひざ》をのり出して、 「彼は、誰に連絡してくれと、いったんですか?」  と、聞いた。 「武藤さんといっていました。電話番号もいったので、私が、電話しましたわ」 「その男は、現われましたか?」 「ええ。一時間くらいして、病院に来てくれましたわ」 「どんな男でした?」 「四十五、六歳の男の人でしたわ。背の高い人でした。背広を、きちんと着て、夜中に、来て下さったんです」  と、あき子は、いった。 「その男は、川西と、どんな話を、していました?」  と、十津川は、聞いた。 「武藤さんが来た時には、彼は、血圧降下の注射をして貰って、だいぶ、落ち着いていましたわ。武藤さんは、彼と二人だけで話したいといって、私を、病室の外に、追い出したんです。だから、彼と、どんな話をしたか、わかりませんわ」  と、あき子は、いう。 「しかし、あとで、彼と話したんでしょう?」 「ええ。彼が、元気になってから、武藤さんについて、聞きましたわ。私としても、お礼をいいたいからって、いったんです」 「彼は、何といいましたか?」 「武藤さんは、先輩で、いろいろと、お世話になっていると、いっていました。でも、お礼は、自分でするからいいといって、住所を、教えてくれなかったんです」  と、あき子は、いった。 「その後、武藤という男に、会いましたか?」 「いいえ。彼も、武藤さんのことを、話したがらないんです」 「電話番号は、覚えていますか?」 「それを、思い出そうとしているんですけど——」 「何とか、思い出してくれませんか。事件解決の手掛りになると、思うんですがね」  と、十津川は、いった。  あき子は、眉《まゆ》を寄せ、一所懸命に、考えていたが、 「確か、3332の××××だったと、思いますけど、局番以外は、自信がありませんわ」  と、いった。 「助かります。お礼をいいますよ」  と、十津川は、いい、それを、手帳に、書きつけてから、 「この男と、前の女以外に、彼と一緒にいた人間は、いませんか?」 「それだけですわ」  と、あき子は、いった。 「何か、彼のことで、思い出したことがあれば、連絡して下さい」  と、十津川はいい、名刺を渡した。  あき子が、帰ったあと、十津川は、部屋の電話を使って、あき子のいった電話番号に、かけてみた。  しかし、電話に出たのは、女の声で、 「ミナミ美容院ですが、ご予約ですか?」  と、いわれた。  どうやら、電話番号が、違っていたらしい。  十津川は、警視庁に戻ると、電話局に頼み、問題のナンバーの周辺で、武藤という名前がないかどうか、調べて貰うことにした。  三時間近くして、回答があった。  最後の二桁《ふたけた》が、逆の電話番号が、武藤寛という名前になっているという。  その住所は、杉並区久我山になっていた。  十津川は、亀井と、パトカーで、急行した。  井の頭線久我山駅で降りて、歩いて十二、三分のところにあるマンションだった。  コーポ久我山の506号室が、問題の住所である。  しかし、管理人は、 「武藤さんなら、もう、引っ越しましたよ」  と、十津川に、いった。      4 「引越先は、わかりませんか?」  と、十津川は、管理人に、聞いた。 「わかりません。自分の車に、荷物をのせて、さっさと、引っ越してしまったんですよ」  中年の管理人は、無愛想に、いった。 「自分の車でって、荷物は、そんなに少かったのかね?」  と、亀井が、眉を寄せて、聞いた。 「家具なんかは、勝手に処分してくれといって、置いていきましたからね。まだ、部屋にありますよ。売れなくて、困っているんです。粗大ゴミとして、持ってって貰《もら》おうかと思っているんですけどねえ」  管理人は、本当に、困ったような顔をした。  十津川と、亀井は、武藤という男が借りていた部屋を、見せて貰うことにした。その506号室が、空いたので、次の人に貸そうと思うのだが、武藤が置いていった家具が部屋にあって、まだ、貸せずにいると、管理人は、エレベーターの中でも、文句を、いっていた。  506号室は、1LDKの小さな部屋だった。  十一畳くらいの洋間には、応接セットが置かれていたが、十津川の眼にも、安物だと、わかった。奥の六畳の和室には、洋ダンスがあったが、これも、どう見ても高そうには、見えなかった。  川田の赤坂のマンションとは、ずいぶん、違うなと思い、ひょっとすると、ここも、仮の住居かも知れないとも、十津川は考えた。 「武藤という男は、ここで、何をしていたんですか?」  と、十津川は、あまり生活の匂《にお》いのない部屋を見廻しながら、管理人に、聞いた。 「確か、中小企業経営コンサルタントをしていたんだと思いますよ」  と、管理人は、答えた。 「中小企業経営コンサルタント?」 「ええ。ドアのところに、そう書いた看板が、かかっていましたからね」 「具体的に、どんなことを、やっていたんだね?」  と、亀井が、聞いた。 「つまり、中小企業の人の相談にのるということじゃないんですか」 「そりゃあ、そうだがねえ」  と、亀井は、苦笑してから、 「実際に、相談に来た人がいるのかね?」 「何人か、見えていたみたいでしたよ。夜おそくまで、話し込んでいた人もいたようですから」  と、管理人は、いう。 「武藤は、どんな経歴の人なんですか?」  と、十津川は、聞いてみた。 「詳しいことは、知りませんが、なんでも、どこかの大企業の重役にまでなったことのある人みたいですよ。そういわれてみれば、態度も、堂々としているし、頭も良さそうな方でしたねえ」  と、管理人は、いった。 「年齢は四十五、六歳、背の高い男でしたか?」  十津川は、確認するように、聞いた。 「ええ。そうですよ。恰幅《かつぷく》のいい方でしたよ」 「何か、おかしい点は、なかったですか?」  と、十津川が、聞くと、管理人は、しばらく考えてから、 「こんなことをいっていいのかな。このマンションは、中古で、部屋代は、安い方ですよ。それに、家具だって、ごらんのように、安物です。コンサルタントなんかやってても、儲《もう》からないんだろうと思って、同情してたんですがねえ。腕時計は、ピアジェだし、着ている服だって、ダンヒルなんですよ。ひどく、アンバランスだなと、思ってましたよ。それに、金なんかなさそうなのに、部屋に、小さな金庫があったのを見てるんです」 「その金庫は、引っ越す時、持って行ったんですね?」 「ええ。私も、手伝って、車にのせました」 「中に、何が入っているか、いっていましたか?」 「私も、興味があったんで、聞いてみたけど、笑っただけで、教えてくれませんでしたねえ」 「その他に、何か、彼のことで、覚えていることはありませんか?」  と、十津川は、聞いた。 「二度だったか、きれいな女の人が、訪ねて来たことがありましたよ」 「同じ女性ですか?」 「ええ。三十代の、和服がよく似合う、きれいな人でしたねえ」  と、管理人は、いう。 「武藤寛の恋人《おんな》かな?」  と、亀井が、聞いた。 「そうじゃないかと思って、武藤さんを、からかったら、スナックをやりたいということで、相談に来ているお客だと、いっていましたよ」 「彼女ですがねえ」  と、十津川は、ポケットから、一枚の女の似顔絵を取り出して、管理人に見せて、 「この女に、似ていませんか?」  と、聞いた。  長崎県警の矢木警部が、FAXで、送って来た似顔絵だった。中川ゆみと名乗って、雲仙の殺人現場に現われた女である。  管理人は、じっと、見ていたが、 「似ているといえば、似てますねえ」  と、いった。 「彼女の名前は、わかりませんか?」 「武藤さんが、何とか呼んでいましたねえ。ゆきさんだったかな。いや、ゆ——何だったか?」 「ゆみ——さん?」 「それですよ。ゆみさんと、呼んでたんですよ。ただのお客なら、ゆみさんなんて、親しそうに、呼びますか?」  管理人は、ニヤッと、笑った。 「他に、何か覚えていることは?」 「そうですねえ。武藤さんは、三年前から、住んでたんだけど、時たま、一週間、二週間と、いなくなることがありましたね。何でも、地方で、中小企業の経営者を集めて、講演をしているんだと、いっていましたがねえ」  と、管理人は、いった。      5  十津川は、管理人と、武藤の506号室の両隣りの住人に協力して貰って、モンタージュを、作ることにした。  その日の中に、武藤の似顔絵が、出来あがった。  確かに、大企業の重役といっても、おかしくない感じがする。  そのモンタージュを、十津川は、黒板に貼《は》りつけ、長崎県警にも、FAXで、送った。  武藤のモンタージュの横には、「ゆみ」という女のものを、貼りつけた。  長崎県警では、中川ゆみという名前は、偽名と考えているようだが、「ゆみ」というのは、本名かも知れない。 「中小企業経営コンサルタントというのは、本当ですかね?」  と、亀井が、聞いた。 「私の知り合いに、中小企業のコンサルタントをやっている人がいてね。彼は、K工業の労務担当の若手の重役だったんだ。その地位を捨てて、コンサルタントになった。今、中小企業の最大の問題は、人手だというのでね。彼は、引っ張りだこで、飛び廻っているよ」 「とすると、中小企業経営コンサルタントというのは、本当かも知れませんね」 「講演で、全国を歩き廻っていれば、怪しまれずに、その地方の経済事情を知ることが出来るし、相談にのっていれば、その土地の銀行や、サラ金のスケジュールも、自然に、わかってくるんじゃないかね」  と、十津川は、いった。 「コンサルタントを、犯罪に利用しているということでしょうか?」  若い西本刑事が、きいた。 「ひょっとすると、最初は、本気で、コンサルタントをやっていたのかも知れないな。最初から、犯罪者というのは、めったにいないからね」  と、十津川は、いった。 「すると、大企業の重役だったというのも、本当だと、思われますか?」  と、亀井が、半信半疑の顔で、聞いた。 「それを、調べてみようじゃないか。多分、東京に本社のある大企業だと思う。それに、武藤が、三年前に、あのマンションを借り、コンサルタントの看板を出したとすると、会社を辞めたのも、その頃じゃないかな。だから、東京に本社のある大企業で、三年前頃、武藤寛という重役が辞めているかどうか調べれば、本当かどうか、わかるんじゃないかね」  と、十津川は、いい、 「すぐ、調べましょう」  と、亀井が、応じた。      6  まず、一部上場会社について、三年から、五年前にかけて、武藤寛という重役が、辞職していないかどうかを、調べることにした。  五年以上前というと、武藤は、現在、四十五、六歳だから、三十代になってしまう。大企業で、三十代の重役というのは、ちょっと、考えられなかったから、調査対象から、外したのである。  だが、結果的に、武藤寛という名前は、浮んで来なかった。  十津川は、範囲を、二部上場の会社にまで、広げてみた。  だが、結果は、同じだった。 「大企業の重役だったというのは、やはり、嘘《うそ》だったんじゃありませんかね」  と、亀井は、ぶぜんとした顔で、いった。 「見栄で、いったというのかね?」 「そうです」 「しかし、見栄を張るんなら、川田のように、豪華マンションに住み、外国の家具に囲まれて、過ごすんじゃないかな」  と、十津川は、いった。 「そうかも知れませんが、現実に、武藤寛という重役は、いなかったんですから」 「彼は、四十五、六歳で、独身だった。奥さんがいた形跡はない」 「ええ。女はいたようですがね」 「別れたのかな?」 「と、思いますね」 「別れたんだとすると——」  と、十津川が、いうと、亀井は、したり顔で、 「警部が、何を考えておられるかわかりますよ。女なら、離婚して、姓が変ることがありますが」 「男だって、変るさ」  と、十津川は、いい、 「もう一度、調べ直してみよう。武藤ではない、辞めた重役の中に、寛という名前が、いないかどうかだ」  と、付け加えた。  再び、上場企業について、調べていった。  その結果、Kデパートの水野寛という人事担当の重役が、三年前の二月に、辞めていることが、わかった。その時の年齢は、四十二歳。年齢と、名前は、一致する。  Kデパートは、東京に本店があり、日本全国に、七つの支店がある。創業は、明治二十五年だが、同族会社で、現在の社長、水野正義七十歳は、四代目である。  水野寛は、その水野の妹夫婦の一人娘と結婚していた。  娘の名前は、水野圭子。水野家の婿に入ったことになる。水野寛の結婚前の名前は、武藤寛だった。 「見つけたぞ」  と、十津川は、思わず、叫んだ。  結婚式の写真と、四十歳で、彼が、人事部長になった時の写真が、手に入った。  彼は、三十二歳の時、水野圭子と、結婚した。  その時、彼は、食品部の仕入係長だった。不遇というわけではなかったが、と、いって、エリートコースに、のっていたわけでもない。  だが、Kデパートの副社長の一人娘と結婚したことで、間違いなく、Kデパートで、出世コースにのった。  水野社長は、親族で、主要ポストを固めようとする思惑があった。それが、幸いして、彼は、人事部長に昇進し、重役の一人になった。  妻の圭子は、写真で見ると、魅力的な女性である。  結婚して、四年目に、子供が出来た。女の子で、ひろみという名前をつけた。  Kデパートの重役の一人になり、魅力的な妻と、可愛《かわい》い娘を得て、幸福な筈《はず》だった。  だが、彼は、突然、離婚し、Kデパートの人事部長の地位を、捨ててしまった。  十津川は、一人で、圭子の父親で、現在、Kデパートの副社長である水野に会って、話を聞くことにした。  水野は、六十五歳だが、年齢より若く見えた。 「今日は、娘さんの夫だった男のことを、聞きに来たんです」  と、十津川が、いうと、水野は、険しい表情になって、 「あの男のことは、話したくありませんね」 「われわれとしては、ぜひ、話して頂きたいのですがね」 「彼が、何をしようと、もう、関係のない人間ですよ」 「警察に、協力できないと、いわれるんですか?」 「他のことなら、いくらでも、協力しますよ。しかし、あの男のことは、ごめんこうむりたい。不愉快なだけですからね」  と、水野は、いう。 「不愉快なことが、あったということですか?」  と、十津川は、聞いた。 「とにかく、話したくないと、いっているんです」  と、水野はいい、立ち上ってしまった。 「水野さん。あなたが話して下さらないと、圭子さんに、話を聞かなければなりませんが」  と、十津川は、相手の背中に向って、いった。  水野が、びくっとしたように、立ち止って、振り向いた。 「娘も、何も話しませんよ」 「それは、お会いしてみないと、わかりません。何処におられるんですか?」 「今、旅行に、行っています」 「旅行? いつ、帰られるんですか?」 「わかりませんね」  水野は、怒ったような声でいい、副社長室を、出て行ってしまった。      7  十津川は、田園調布にある水野邸を、調べてみた。  確かに、圭子が、いる気配は、ない。 「外国へでも行っているのなら、つかまえて、話を聞くわけにもいきませんね」  と、西本が、いった。 「一人娘のひろみは、まだ、小学生だ。その娘を、放っておいて、外国旅行をするとは思えないよ」  と、十津川は、いった。 「しかし、あの邸にいないことは、確かですよ」 「父親の水野が、私たちに会わせたくなくて、一時的に、何処かへ、避難させたんだろう。だが、小学生の娘を放っておいて、外国へ行ったとは、思えない。何かあれば、すぐ戻れる場所にいる筈だ」  と、十津川は、確信を持って、いった。 「都内のホテルですか?」 「かも知れないが、——」  と、十津川は、呟《つぶや》いてから、 「水野は、どこかに、別荘を、持っていないかな」 「調べます」  と、西本は、いった。  西本が、同僚の日下と、調べた結果、箱根の強羅《ごうら》に、水野の別荘があることが、わかった。  そこに、圭子がいるかどうかは、わからなかったが、十津川は、亀井を連れて、行ってみることにした。  箱根登山鉄道早雲山ケーブルカーの上強羅駅で降りて、七、八分歩いたところに、水野の別荘があった。竹垣に囲まれた、和風の別荘だった。落ち着いた、たたずまいで、ひっそりと、静まり返っている。 「いますかね?」  と、亀井が、小声で、いった。 「とにかく、当ってみよう」  と、十津川は、いい、門柱にとりつけられたインタホーンを押してみた。だが、何の返事もない。  十津川は、迷った。誰もいないのかも知れないが、父親の水野が、返事をするなと、いいつけているのかも知れない。 「ちょっと、無茶をするから、カメさんは、ここにいてくれ」  と、十津川は、いった。 「法律に触れることですか?」 「それは、相手の出方次第だな」 「それなら、一緒にやらせて下さい」  と、亀井は、いった。  十津川は、竹垣沿いに裏に廻り、裏木戸を押し開けて、中に入った。  手入れの行き届いた芝生の庭に出た。その庭が、平屋建の建物を、取り巻いている。  二人は、建物に沿って、歩いて行った。  蝉《せみ》の声が、聞こえている。  急に、明るくなった。南に面した裏手の庭に出たのだ。  大きな樹があり、その下に、デッキチェアを置いて、三十四、五歳の女が、休んでいた。  眼を閉じていたのが、十津川たちの足音に気づいて、眼を開け、あわてて、立ち上った。  十津川が、警察手帳を見せ、 「警視庁捜査一課の十津川です。こちらは、亀井刑事です」  と、先に、名乗った。  女は、黙っている。が、出て行けとは、いわなかった。 「多分、お父さんから、聞いていらっしゃると思いますが、水野寛さん、いや、武藤寛さんといった方がいいですかね。その人のことで、お聞きしたくて、伺ったんです。いろいろと、事情もあると思いますが、話して頂けませんか」  と、十津川は、いった。 「なぜですの?」  と、相手が、聞く。 「ある事件を調べているんですが、どうしても、その解決に、武藤さんのことを、知らなければならないのです」 「話したくないと、申しあげたら?」 「令状をとって、ということになりますが、私としては、そういうことは、したくないのです」  と、十津川は、いった。  相手は、しばらく、黙って、考えていたが、 「どうぞ」  と、二人を、部屋に、招じ入れた。  五十五、六のお手伝いが、茶菓子を、運んで来た。  そのお手伝いが、出て行くのを待ってから、 「単刀直入にお聞きしますが、離婚された原因は、何だったんですか?」  と、十津川は、聞いた。  圭子は、二、三秒、間をおいて、 「彼の浮気ですわ」 「女を作ったということですか?」 「ええ。それに我慢がならなくて、彼と、別れたんですわ」  と、圭子は、いった。 「どんな女を、彼は、作ったんですか?」 「そんなことまで、いわなければ、いけませんの?」  圭子は、眉《まゆ》を寄せて、十津川を見た。 「ええ。話して頂きたいのですが」 「つまらない女ですわ」 「クラブのホステスか何かですか?」 「ええ」 「なるほど」  と、十津川は、肯《うなず》いたが、 「どうも、信じられませんね」 「何がですの?」 「ご主人が、女を作ったから、離婚したという話です」  と、十津川は、いった。 「本当の話です」 「あなたは、お母さんを、どう思います?」 「母を?」  圭子は、戸惑いの表情で、聞き返した。 「ええ。お母さんの生き方を」 「尊敬していますわ」 「そのお母さんですが、ご主人の副社長が、どこかのホステスと、いい仲になった時、少しもあわてず、金を渡して、別れるようにいい、ご主人を、責めなかったという話を聞いています」 「————」 「つまり、身内の恥をさらさない。それが、水野一族の名誉を守り、Kデパートの安泰につながるのだというのを、私は、週刊誌で、読みました」 「————」 「そんなお母さんの生き方を尊敬しているあなたが、ご主人が、ホステスと、仲良くしたくらいで、ヒステリックになって、別れるとは、とても、思えないのですよ」  と、十津川は、いった。  圭子の表情が、ゆがんで来た。どうやら、十津川の推測は、当っていたらしい。  それでも、圭子が、黙っているので、十津川は、言葉を続けて、 「ご主人は、別れたあと、昔の武藤姓に戻っています。最初、それを、水野家とは、完全に絶縁したいからだと、私は、思っていたのです。水野家に、腹を立ててですよ。しかし、ひょっとすると、逆なのではないかという気がして来たんです。水野家に、腹を立てているのではなく、水野家に、迷惑をかけてはいけないので、武藤姓に戻ったのではないかとですよ」 「————」 「武藤さんは、今、一人の女性とつき合っています。三十代で、和服の似合う女です。その女性が、なぜか、あなたによく似ているんですよ」 「————」 「わかっています。それが、あなただとはいいません。しかし、よく似ているのです。彼は、別れたが、あなたを、今でも、愛しているんじゃありませんかね」  と、十津川は、いった。 「何も、申しあげることは、ありませんわ」  圭子は、急に、切口上になって、十津川に、いった。 「しかし、殺人事件に関係のあることなんですよ。警察に協力してくれないと、困りますね」  と、亀井が、強い口調で、いった。 「とにかく、何もいいたくありません」  と、圭子は、いった。 「しかしねえ——」  と、亀井が、食いさがろうとするのを、十津川は、 「カメさん。もういい。失礼しよう」  と、声をかけた。 「しかし、警部。武藤寛のことを、いろいろと知りたくて、ここへ、来たんじゃなかったんですか?」 「必要なことは、もうわかったよ」  と、十津川は、いった。 [#改ページ]  第四章 夫 婦      1 「圭子は、北条君と会ってなかったね?」  と、十津川は、確認するように、聞いた。 「会っていない筈《はず》です」  と、亀井が、答える。 「何とか、北条君を、彼女に近づけてくれ。多分、彼女が、今度の事件のカギを握っていると、思うからね」 「北条君に、いっておきます」  と、亀井は、肯《うなず》いてから、 「まだ、圭子は、別れた武藤と、つながっていると、お考えですか?」 「彼女は、S大を卒業したあと、アメリカに留学したと聞いている」 「そうらしいですね。社員の話では、英語に堪能で、将来は、夫婦で、アメリカに出来る支店の責任者として、行く予定になっていたようです」  と、亀井が、いう。 「Kデパートの支店か」 「サンフランシスコ支店です。夫の武藤が、支店長になる筈だったとか」 「その椅子《いす》を放り投げて、武藤は、圭子と別れたのか」 「それを考えても、余程のことがあったんだと思います」 「サンフランシスコ支店は、今、どうなってるんだろう?」 「もちろん、やっています」 「支店長は?」 「なんでも、社長は、彼女にやらせたいらしいんですが、彼女が、渋っているようですね」 「普通なら、さっさと、彼女は、サンフランシスコへ行ってしまっている筈だよ。アメリカにも、友達は、多いだろうし、離婚の傷を癒《いや》すには、日本を離れるのが、一番だからだ。それなのに、彼女は、日本に、とどまっている」 「まだ、武藤に、未練があるんでしょうか?」 「だろうね。それに対して、武藤が、どんな気持でいるのか?」  と、十津川は、いった。 「そうですね。武藤の気持を知りたいですね」  と、亀井も、いった。  翌日になって、亀井が、 「北条早苗君が、圭子に、接触することに、成功しました」  と、十津川に、報告してきた。 「いやに、早かったね」  十津川が、ちょっと驚いていると、亀井は、 「方法は、君に委《まか》せると、いっておいたら、北条君は、古典的な方法を、使うといっていました。それが、うまくいったようで、現在、あの別荘の中にいます」 「古典的な方法って?」 「北条君は、独身のOLということで、小田原から、箱根に旅行しまして、その途中、強羅のあの別荘の前で、急病になり、助けを求めました」 「なるほど、古典的な方法だ」 「断わられたら、他の方法を使ってと思っていたらしいんですが、圭子が、別荘の中で、休ませてくれて、医者も呼んでくれたと、北条君が、連絡して来ました」  と、亀井が、笑顔で、いった。 「医者が来て、仮病が、バレなかったのかね?」 「幸い、北条君は、風邪《かぜ》をひいていて、少し熱があったそうです。医者は、風邪に、疲労が重なったんだろうといい、二、三日、寝ていれば、治ると、いってくれたようで、その間に、もっと、圭子と、親密になると、張り切っています」  と、亀井は、いった。 「連絡は、電話でか?」 「携帯電話を持っているので、それで、連絡して来ています」 「慎重にやるように、伝えてくれ。圭子は、安心な相手かも知れないが、今度の事件では、何人も殺されているからね」  と、十津川は、いった。  そのあと、彼は、亀井を連れて、デパート、スーパー関係の業界紙「パーソナルビジネス」の発行所を、訪ねた。  何とかして、武藤が、Kデパートを辞めた理由を、知りたかったからである。  井上という若い編集者が、会ってくれた。 「Kデパートも、大変でしょうね。このところ、連続して、売りあげが、下がっていますから。まあ、他のデパートも同じですが、Kデパートの場合は、一番、下がり具合が、大きいですからね」  と、井上は、いった。 「理由は、何ですか?」  と、十津川は、きいた。 「いろいろあるでしょうが、第一は、人材難でしょうね。Kデパートは、同族会社の典型みたいな会社で、主要な部署を、同族で固めている。事業が順調に大きくなっている時は、それなりの団結力があっていいんですが、今のような不況の時代には、それに耐える力に欠けます。新しいことをやろうという創造性に欠けますよ。それに、同族特有のどろどろした確執もありますからね」  と、井上は、いった。 「確執ですか?」 「ええ。実力主義なら、あり得ない確執が、起こるわけです。同族会社の弊害の一つでしょうね。実力がなくても、社長の息子なら、偉くなれる。それに対する嫉妬《しつと》も生れる。自然に、どろどろしたものが、湧《わ》き出してくるということです」 「しかし、Kデパートにも、他所《よそ》から、新しい力が入りかけてたんじゃありませんか? 副社長の一人娘と結婚して、人事部長になった男がいたでしょう?」  と、亀井が、いうと、井上は、肯いて、 「ああ、水野寛でしょう? Kデパートに、新しい血が入ったというので、僕は、インタビューに行きましたよ。実は、彼、僕の大学の先輩なんですよ。あれは、四、五年前でしたね」 「どんな感じの男でした?」  と、十津川は、聞いた。 「とにかく、視野が広くて、決断力のある人間という印象でしたね。包容力もあるから、部下にも好かれると思いましたよ。彼が、Kデパートの幹部になることは、会社にとって、大変なプラスだと感じました。それまでのKデパートといえば、金はあるが、江戸時代の呉服屋みたいでしたからね」 「しかし、その男が、辞めてしまいましたね」 「そうなんです。あれは、完全なマイナスですよ」 「彼は、なぜ、Kデパートを辞めたんでしょうか? サンフランシスコに出来た支店の支店長になる予定だったようですが」  と、十津川は、聞いた。  井上は、小さく肩をすくめて、 「あれは、弾き出されたんですよ」 「弾き出された?」 「ええ。あの会社では、彼は、あくまでも、異分子なんです。昔から、Kデパートでは、どんなに優秀な社員でも、水野家につながっていなければ、課長止まりといわれていたんです。彼は、副社長の娘と結婚したので、部長にまでなれた。それだけに、一族の人間たちの嫉妬の的になっていたんだと思いますよ。それで、とうとう、弾き出されてしまったんです」 「サンフランシスコ支店の話も、それで、消えたというわけですか?」 「あの話は、彼の奥さんが、心配して、彼を、海外へ出させようとしたんですよ。そうすれば、嫉妬の眼から、逃げられると、考えたんでしょうね」 「奥さんというのは、水野圭子さん?」 「ええ。彼の本当の味方は、あの奥さんしかいなかったんじゃないですかね」  と、井上は、いう。 「それでも、サンフランシスコに行けなかったんですね。なぜですか?」  と、亀井が、聞いた。 「だから、弾き出されたんです。丁度、その時、二つの事件が、持ちあがりましてね」 「二つの事件というのは、どんな事件ですか?」  と、十津川が、聞いた。      2 「彼は、人事部長を、やっていましてね」 「それは、知っています」 「この不況で、Kデパートでも、人員削減が行われたんです。人事部長に与えられた最初の仕事が、それだったわけです。言葉を換えれば、彼に、その仕事を押しつけたんですよ」 「それで、どんな事件が、起きたんですか?」 「馘《くび》になった社員の一人が、自殺しました。馘首《かくしゆ》されたことを恨《うら》んで」 「ほう」 「彼のやり方が冷酷だということで、叩《たた》かれましたが、僕は、そう思いませんね。彼は、そんなに、冷酷になれる男じゃありません」 「それだけで、彼は、Kデパートを辞めることになってしまったんですか? 人員整理で、一人犠牲者が出たということで」  十津川は、首をかしげて、聞いた。 「もう一つ、理由があったんです。使い込みです」 「会社の金を?」 「ええ。銀座のホステスに、会社の金三千万円を注《つ》ぎ込んで、彼女に店を持たせていたことがわかって、Kデパートを、追われたんです」 「水商売の女に、三千万ですか。どうも、信じにくいですね。奥さんは、美人だし、子供も生れていた。それなのに、三千万もの金を、ホステスに、貢ぐでしょうかね?」 「僕も、信じませんでしたよ。これは、はめられたんじゃないかと、思いましたね」  と、井上は、いった。 「そのホステスは、実在するんですかね?」 「実在します。僕も、会いに行ってみました」 「どんな女ですか?」 「年齢は、二十七、八歳でしょうね。男好きのする女ですよ。会って、話を聞くと、間違いなく、彼から、金を貰《もら》って、店を出したと、いっていましたね。彼と二人だけで写っている写真も、見せて貰いましたよ」 「水野寛本人は、どういっているんですか? その件について」 「わかりません。僕も、会って話を聞こうと思ったんですが、その時には、辞めていて、行方《ゆくえ》がつかめないんです。奥さんと、離婚してしまってね」  と、井上は、いった。 「私も、はめられたような気がしますね。組合は、そのことで、何かいってないですか?」  十津川が、聞くと、井上は、笑って、 「あそこに、組合は、ありません」 「そのホステスの名前を、教えてくれませんか」  と、十津川は、いった。  井上が、教えてくれたのは、浅井みどりという名前と、「プリンセス」という店の名前だった。  その夜、十津川は、一人で、銀座にある「プリンセス」という店へ出かけた。  亀井を連れて行かなかったのは、北条早苗から、連絡が入るかも知れないからである。  雑居ビルの地下にあるクラブだった。  さして広くはないが、ぜいたくな造りだった。金をかけて、改装したことが、ひと目でわかる。  ホステスも、十五、六人はいるだろう。  三千万で、これだけぜいたくな店を持てるとは、思えなかった。  ホステスも、美人|揃《ぞろ》いで、高級店を売り物にしている。  十津川は、カウンターに腰を下し、最初から警察手帳を見せて、ママの浅井みどりを、呼んで貰った。  整った顔立ちというのではないが、井上のいったように、男好きのする顔である。 「あなたに、教えて貰いたいことがあってね」  と、十津川は、話しかけた。 「怖い話みたい」  と、いって、みどりは、笑う。 「Kデパートの部長が、あなたに、入れ揚げて、馘《くび》になったことがありましたね」  と、十津川が、いうと、みどりは、急に、険しい眼つきになって、 「あのお金なら、もう、お返ししましたわよ」 「返した?」 「ええ。あれこれいわれるのが嫌ですからね。会社に、お返ししました」  と、みどりは、切口上で、いった。 「しかし、これだけの店を出すとなると、ずいぶん、お金が、かかったんじゃありませんか?」  と、十津川は、聞いた。 「そりゃあ、かかりましたわ」 「三千万ぐらいじゃ、出来ない?」 「ええ。もちろん」 「誰かに、出資して貰ったんですか?」 「あたしが店を持つのなら、いくらでも、お金を出してあげようという優しい人が、何人もいるんですよ。ありがたいことだと、思っていますわ」 「そのスポンサーの名前は、教えて貰えませんか?」 「それだけは、いくら、刑事さんでも、出来ませんわ。秘密を条件に、出資して下さっているんですから」  と、みどりは、いった。      3  十津川は、その足で、彼女が前に働いていたクラブ「なお子」に、廻《まわ》ってみた。  ママの名前が、なお子で、そのまま、店の名前になっている。  古い店というだけに、落ち着いた雰囲気で、ママも、ホステスも、和服姿だった。  十津川は、四十二、三歳に見えるママのなお子に会って、みどりのことを、聞いてみた。 「彼女、よくやっていると、思いますよ。ごたごたが、ありましたからねえ」  と、なお子は、いった。 「ごたごたというのは、Kデパートの部長のことですか?」  と、十津川は、聞いた。 「ええ。そのことですよ」 「彼は、前から、ここに来ていたんですか?」 「最初に見えたのは、係長さんの頃でしたよ。あの頃は、武藤さんといっていましたわ。仕入れの仕事をやっていて、取引先の接待に、私の店を使っていらっしゃったの」  と、ママは、いう。 「みどりさんとは、その頃からの知り合いだったんですかね?」 「彼女は、途中から、武藤さんの席に着くようになったんですよ。その後、武藤さんの名前が変って、水野さんになって」 「出世コースにのったんだ」 「ええ。すぐ、課長さんになって、部長さんになって。みどりちゃんには、この人は、偉くなる人だから、大切にしなさいよっていったんですけど、まさか、あんなことになるなんてねえ」  なお子は、小さく、溜息《ためいき》をついた。 「彼が、みどりさんに店を持たせるために、会社の金を、注ぎ込んだということですか?」 「ええ。一番いけないことですものね」 「彼女は、その金は、返したといっていましたね」 「私が、すぐ返しなさいと、忠告したんですよ。そんなお金で、店をやっても、うまくいく筈がないからってね。ちゃんと、返したみたいですよ」 「ずいぶん、お金のかかった店を、出していますねえ。沢山スポンサーがついたらしい」  と、十津川が、いうと、なお子は、笑って、 「みどりちゃんは、昔から、年寄りに強かったから、お金持ちのお爺《じい》さんを、沢山つかんだんじゃありません?」  と、いった。  十津川は、もう少し、武藤について知識を得たかったが、なお子は、あまり話したがらなかった。  暗い記憶だからというわけではなく、このクラブでは、もう、遠い昔のことになってしまっているからのようだった。 「この店に、中川ゆみというホステスさんがいますか?」  と、十津川は、最後に、聞いた。  なぜか、なお子は、急に、青ざめた顔になって、 「どういう人ですの? うちには、いませんけれど」  と、聞き返した。 「この銀座のクラブのママだといっているんですが、その店は実在したんだが、中川ゆみという女性は、そこには、いませんでした」 「そうですか——」 「何か知っていますね」  と、十津川は、ママの顔を、のぞき込んだ。  ママは、しばらく黙っていたが、十津川が、じっと、見すえていると、観念した感じで、 「どうせ、わかってしまうでしょうから、話しますけど、前に、うちに、ゆみさんという女の子が、働いていたんですよ。あの子の本名が、確か、中川でしたわ」  と、いった。 「その人は、今、何処《どこ》にいるんですか?」 「亡くなりましたわ」 「死んだ? いつですか?」 「もう、だいぶたちますよ。そう。あれは、みどりちゃんのことで、ごたごたしていた頃ですよ」 「死因は? 病死ですか?」 「いえ。自殺」 「自殺?」 「ええ。だから、彼女のことは、思い出したくなくて」  と、ママは、いった。 「自殺の原因は、何だったんですか?」  と、十津川は、聞いた。 「わかりませんわ。もともと、あの子は、水商売には、向いてなかったんでしょうね、きっと」 「どんな風にですか?」 「まじめ過ぎて、小さなことでも思い悩んでしまうんですよ。もう少し、平気な顔をしていればいいと思うことにも。それで、自殺したんじゃないかと、思うんですけどねえ」  と、いった。 「彼女の写真は、ありませんか」 「ひとりで写っているのはないと思いますけど、何かの記念に、みんなで撮ったのなら」  と、ママは、いい、事務室に入って、探してくれていたが、やがて、一冊のアルバムを持って戻って来て、その中の一枚を、十津川に見せた。  数人のホステスが、一緒に写っていて、その中の一人が、中川ゆみだと、教えてくれた。 (似ていないな)  と、思った。長崎県警が送って来たモンタージュにも似ていなかったし、従って、水野圭子にも、似ていなかった。      4  十津川が戻ると、亀井が、 「北条君から、連絡がありました」 「それで?」 「圭子は、旅行に出るようです。北条君の話では、圭子が、明日から、自分は、ちょっと、旅行に行くが、お手伝いに、きちんといっておくので、安心して、休んでいってと、いったそうです」 「行先は、わからないのか?」 「北条君も、それを知りたくて、いろいろ、圭子に話しかけたみたいですが、行先は、教えてくれなかったと、いっています」 「北条君が、尾行するのは、難しいかな?」  と、十津川は、いった。 「そうですね。圭子が出発したあと、あわてて、出かければ、怪しまれるでしょうね」  と、亀井が、いう。 「それでは、西本刑事と、日下刑事の二人に、これから、強羅に行かせて、あの別荘を見張らせ、尾行させよう」  と、十津川は、いった。  亀井が、二人を呼び、覆面パトカーで、強羅に行かせた。 「警部は、圭子と、武藤が、まだ、つき合っていると、思われるんですね?」  と、亀井が、聞いた。 「確証はないんだがね。今日、銀座で、武藤に関係のあるホステスたちに会ってみて、その可能性が高くなったような気がする」  と、十津川は、いい、浅井みどりや、クラブ「なお子」で聞いたことを、亀井に、伝えた。 「警部は、武藤が、はめられて、Kデパートを追われたと、お考えみたいですね?」  と、聞き終ってから、亀井が、いった。 「ああ、そうだ。三千万円の横領事件は、でっちあげだったと、思うね」  と、十津川は、いった。 「それなら、なぜ、武藤は、抗議しなかったんでしょうか?」  と、亀井が、聞いた。 「どうやって、抗議するんだ? Kデパートには、組合もないし、彼の周囲は、水野一族で占められている。連中が、手を組んで、仕組んだとすれば、武藤の抵抗する方法は、多分、Kデパートを辞めることしかなかったんじゃないかね。裁判に訴えても、他の重役たちや、女が、口裏を合せれば、勝ち目はないからね」  と、十津川は、いった。 「その時、奥さんの圭子は、夫の側に立たなかったんですかね?」 「それは、本人に聞くより仕方がないが、武藤が、Kデパートを辞め、離婚し、元の姓に戻ったところを見ると、奥さんは、助けには、ならなかったんだと、思うより仕方がないね。ただ、奥さんの圭子の方は、それを、どう思っていたか。今でも、武藤と、つながっているとしたら、彼女は、彼に対して、申しわけないと、思っているし、今でも、彼を愛しているんじゃないかね」 「二人の間には、子供がいましたね?」 「女の子で、年齢は九歳。名前は、ひろみだ」 「今、何処にいるんでしょうか?」 「多分、圭子の両親のところに、いるんだと思うね」  と、十津川は、いった。 「一番問題なのは、武藤が、現金強奪事件に、どう関係しているのか、九州で起きた連続殺人に、関係しているのかということだと、思いますが、その点は、どう思われますか?」  と、亀井は、聞いた。 「はっきりしたことは、わからないが、今のところ、関係していると、考えざるを得ないね」  と、十津川は、いった。  別れた妻の圭子は、果して、それを知っているのだろうか?  まさか、彼女が、犯罪に加担しているとは思えないが、もし、武藤が、犯罪に関係しているのを知っているとしたら、今、それを、やめさせようと思っているのだろうか。それとも、仕方がないと、思っているのだろうか?  そうしたいくつかの疑問に対して、どんな答が、見つかってくるのだろうか。      5  翌朝、覆面パトカーに乗っている西本刑事から、無線の連絡が入った。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ——今、別荘にタクシーが呼ばれて、圭子が、それに乗りました。これから、尾行します [#ここで字下げ終わり]  いよいよ、圭子が動き出したらしい。十津川が知りたいのは、彼女と、武藤との関係だった。完全に切れているのか、それとも、今でもつながっているのか。もし、つながっているとすれば、どんな気持でいるのかを、十津川は、知りたいのだ。  それと、もし、圭子が、武藤のところへ行くとしたら、武藤を逮捕して、これまでの事件との関係を訊問《じんもん》したかった。  武藤は、姿を消したまま、行方が、わかっていない。何としてでも、彼を見つけ、事件の解明を図りたいのだ。  もし、圭子が、武藤に会いに行くのだとしたら、尾行を気付かれてはならない。  十津川は、パトカーの西本に向って、彼の方から、呼びかけた。 「今、何処だ?」 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ——どうやら、彼女を乗せたタクシーは、小田原駅に向っているようです [#ここで字下げ終わり] 「絶対に、尾行に気付かれるなよ」 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ——わかっています。上手《うま》くやります。もし、小田原から、彼女が、列車に乗ったら、私と、日下刑事で尾行を続けたいと思います。車は、駅で乗り捨てますが、構いませんか? [#ここで字下げ終わり] 「構わないさ。その場合は、誰かを、引き取りに向わせる。詰らないことを、心配するな」  十津川は、苦笑して、連絡を打ち切った。これなら、尾行に気付かれることもないだろう。 「彼女が、武藤に会いに行くと、思われますか?」  と、亀井が、聞いた。 「会いに行って欲しいと、思っているよ。武藤という男に会って、話をしてみたいんだ」  と、十津川は、いった。 「武藤は、一連の現金強奪事件や、殺人事件に関係しているんでしょうか?」 「カメさんは、どう思っているんだ?」  十津川は、逆に、聞き返した。  亀井は、「そうですねえ」と、考えていたが、 「状況は、明らかに、武藤が、関係していることを、示しています。というより、連中のリーダー格ではないかと思うくらいです」 「だが、疑問も、持っているんだろう?」 「そうです。武藤は、一般の社員では、出世が難しいといわれる会社で、重役になっています。圭子と結婚したからではありますが、それだけの手腕と、魅力があったからだと、思うのです。そんな男が、現金強奪犯の仲間に入るとは、ちょっと、考えにくいのです」 「だが、武藤は、罠《わな》にはまって、会社を追われ、自棄《やけ》になって、犯罪者の仲間入りしたのかも知れないじゃないか?」 「もし、仲間だとすれば、動機は、その一点だけだと思っているんですがね」  と、亀井が、いった時、再び、西本から、連絡が入った。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ——彼女は、やはり、小田原から、大阪までの新幹線の切符を買いました。私と、日下も、同じ列車に乗るつもりです [#ここで字下げ終わり]  と、西本は、伝えて来た。  十津川は、時刻表を見てみた。現在、午前九時三十五分。九時四四分小田原発新大阪行のこだまに乗るとすれば、新大阪着は、一三時二三分である。  十津川の予想したとおり、圭子は、この列車に乗った。  新大阪に着くと、そこでタクシーを拾う。向ったのは、大阪空港である。 (ひょっとして、海外へ出てしまうのではないか?)  と、十津川は、不安になった。  武藤も、すでに、海外へ逃亡していて、圭子が、それを追って、日本を脱出するのではないか。そうなれば、追及の手段も、事件解決の手掛りもなくなってしまうと、思ったのである。  だが、圭子が乗ったのは、一三時五五分発の出雲行のJAS615便だった。 (武藤は、出雲にいるのだろうか? それとも、全く別の用で、圭子は、出雲に行くのだろうか?)  十津川は、山陰地方の地図を見ながら、考え込んだ。      6  出雲行のJAS615便は、YSである。  プロペラ機特有の騒々しい音を立てて、飛び上った。  西本と、日下は、わざと離れ離れの座席に腰を下し、前方の窓際に腰を下した圭子を、見守っていた。  八十パーセントくらいの乗客だった。  気流が悪いのか、低空を飛ぶYSは、ひどくゆれた。  飛行機嫌いの西本は、気分が悪くなった。が、圭子は、じっと、窓の外を見つめたままである。いや、窓の外を見ているのか、眼を、外に向けたまま、何か、一所懸命に考えているのか、わからない。  一時間少しで、飛行機は、出雲空港に、着陸した。  宍道湖《しんじこ》に突き出すような恰好《かつこう》で作られた、小さな真新しい空港である。  空港を出て、タクシー乗り場に向う。  空港の周囲には、まだ、建築中の建物もある。  圭子が、タクシーに乗り込む。続いて、西本たちも、タクシーに乗り、 「前の車を、追《つ》けてくれ」  と、運転手に、いった。 「お客さん。警察の方ですか?」  と、中年の運転手が、車をスタートさせてから、聞いた。 「いや、ただ、あの女に惚《ほ》れているのさ」  と、西本が、いった。  圭子の乗ったタクシーは、宍道湖を左に見ながら、松江方向に、走る。  西本も、日下も、黙って、前方を行くタクシーを見つめていた。こちらの運転手は、やたらに、話しかけて来たが、二人の異様な空気を感じたのか、黙ってしまった。  やがて、松江の街に入り、湖岸に並ぶホテルの一つに、圭子のタクシーが、入った。  ホテルWである。  十一階建の大きなホテルだった。  圭子が、フロントで、手続きをすませ、ボーイに案内されて、エレベーターに乗り込んでから、西本と、日下は、ロビーに、入って行った。  ここでは、二人は、警察手帳を、フロント係に見せ、圭子が書いた宿泊者カードを、のぞかせて貰った。  東京都世田谷区——町 中川ゆみ  それが、圭子の書いた住所と名前だった。  部屋は、最上階の1106号室である。  西本は、フロント係に、武藤の顔写真を見せ、 「この男が、このホテルに、泊ってないかね?」  と、聞いてみた。  フロント係は、二人で、見ていたが、 「いらっしゃいません」  と、いう。  二人は、ツインルームを、とってから、もし、写真の男が現われたら、教えてくれるように、フロント係に、頼んだ。  出来れば、圭子の隣りの部屋に入りたかったのだが、あいにく、空室がなく、仕方なく、同じ十一階の1101号になった。  部屋に入ってから、西本は、十津川に、連絡した。 「面白いのは、彼女が、中川ゆみの名前で、チェック・インしたことです」  と、西本が、いうと、 「やはり、雲仙に現われた女は、圭子かも知れないな」  と、十津川は、いった。 「もし、そうだとすると、彼女は、武藤と完全に切れてはいませんね」 「彼に会うために、松江へ行った可能性が強くなったよ」 「彼は、今のところ、このホテルに泊っていないようですが、もし、現われたら、逮捕します」  と、西本は、いった。  圭子の入った1106号室は、ダブルルームで、宿泊者カードには、中川ゆみ他一名と、書かれていた。その、他一名が武藤なら、あとから、やって来るつもりなのだろう。 「どうも、わからんな」  と、日下が、窓から、湖面に眼をやりながら、呟《つぶや》いた。 「何がだ?」  と、西本が、聞いた。 「いったん、別れたら、女の方が、冷たいというじゃないか。男は、未練がましくて、別れた女から電話がかかったりすると、ほいほい、会いに行くが、その点女は、全く、未練を感じないってね。それなのに、圭子が、別れた武藤に会いに、わざわざ、松江までやって来ている。どういう気持なのかねえ」  と、日下は、首をかしげた。 「まだ、武藤に会いに来たとは限らないよ」 「でも、八十パーセント、彼に会いに来たに違いないと思うね」 「もしそうなら、彼等は、本当に別れてはいないということさ」 「偽装離婚ということか?」 「そんなところだろうね」 「それが、なぜ、犯罪に絡んでしまったのかな?」 「武藤を、捕えて、それを聞いてみたいね」  と、西本は、いった。  夕食は、ルームサービスで、部屋に運んで貰って、すませた。いつ、武藤が現われるか、わからなかったからである。  午後八時三十分を過ぎた時、フロント係から、電話が、あった。 「1106号室のお客さまが、今、外出なさいました」  と、いう。  二人は、部屋を飛び出し、エレベーターで、一階のロビーに、急行した。  フロント係が、「五分ほど前です」と、いって、外を、指さした。  西本と、日下は、ホテルから、飛び出した。  大通りの向うに、湖岸を取り巻く遊歩道が見える。街灯が、その遊歩道を照らし出していて、若いカップルが、夜の散歩を楽しんでいたりする。  西本と、日下は、左右に分かれて、探すことにした。  日下が、宍道湖大橋の方向に向い、西本は、天倫寺温泉の方向に、遊歩道を駈《か》けた。  湖面を抜けてくる風は、少しばかり冷たい。これも、冷夏のせいだろう。  駈けていた西本の足が、突然、止まった。  前方の街灯の下に、見覚えのある女の顔を見つけたからだった。  圭子だった。男と一緒だったが、男の方は、こちらに、背を向けているので、顔は、わからない。ただ、中年の背中としか、見えなかった。 (武藤だろうか?)  もし、そうなら、絶対に、捕えなければならない。  西本は、緊張し、小さく息を吸い込み、街灯の明りを避けるようにして、その男女に近づいて行った。  そのとたん、周囲に気を配る刑事の心得を忘れてしまった。  横の大通りを、ゆっくりと、車が、西本を、追い抜いて行く。普通の時なら、妙な動きをするその車に注意したろうが、今は、圭子と、男だけを見つめていた。  突然、銃声がした。  西本の眼の前で、圭子が、声もなく、崩れ折れる。  刑事の本能で、西本は、反射的に、銃声のした方を見た。  黒い車が、急加速して、走り去って行く。西本は、追いかけながら、ニッサン・シーマと確認する。ナンバーは、島根とだけわかったところで、車は、西本の視界から消えてしまった。  西本は、あわてて、振り返った。  圭子は、街灯の下で、膝《ひざ》をついているが、男の姿は、消えてしまっていた。 「失敗《しま》った」  と、口の中で呟いてから、西本は、圭子の傍《そば》に、駈け寄った。  彼女の左腕から血が、流れ落ちている。 「救急車を呼んで下さい!」  と、西本は、集って来た野次馬に向って、叫んだ。      7 「申しわけありません」  と、西本は、病院からかけた電話で、十津川に、謝った。 「それで、彼女は、どんな具合なんだ?」  と、十津川が、きく。 「弾丸は、左腕を、貫通していますが、命に別条はありません。ただ、何を聞いても、黙《だ》んまりです」 「一緒にいた男は、武藤なのか?」 「わかりません。背中を見ただけですから。ただ、年齢は、同じくらいだと思いました」 「射《う》った犯人は?」 「それは、島根県警が、捜査中ですが、唯一の目撃者の私が、はっきり、わからないのです。車は、ニッサンのシーマですが、夜間なので、黒か、赤か、茶色か、紺かわかりません。乗っている人間も、見えませんでした」 「そうか。そうなると、彼女の証言が頼りだな」 「そうなんです。会っていた男が、誰かは、当然、知っている筈《はず》だし、射った人間も、知っているんじゃないかと思います」 「だが、黙秘か」 「今、日下と、県警の刑事が、病室で聞いていますが、今もいいましたように、完全黙秘です」  と、西本は、いった。 「彼女の傷だがね、全治まで、どのくらいかかるんだ?」  と、十津川が、聞いた。 「医者は、二週間といっています」 「すると、二週間は、彼女を、そこに留めておけるわけだな?」 「そうです」 「私と、カメさんも、明日、そちらへ行く」 「わかりました」 「それから、その病院にかかってくる電話に注意するんだ。彼女と一緒にいた男も、きっと、心配して、かけてくるだろうし、犯人も、結果を知りたくて、問い合せてくる筈だからね」 「そうですね。注意します」  と、西本はいい、電話を切ると、県警の刑事から、小型のテープレコーダーを借り、病院の事務所の電話に取りつけた。  電話を受ける事務員には、電話がかかる度に、テープレコーダーのスイッチを入れるように、頼んでおいた。  そのテープに、何人かの人間の声が、録音された。  その中で、西本と、日下が、マークしたのは、二人の男の声だった。 ——松江東病院ですか? 「そうです」 ——そちらに、今夜、救急車で運ばれた女性がいる筈なんですが 「いますよ。あなたは?」 ——友人ですが、具合は、どうですか? 助かりますね? 「命に別条はありません。彼女に伝えますから、お名前を、おっしゃって下さい」 ——いや、それならいいんです。ありがとうございました ——松江東病院だね? 「そうですが」 ——今夜、射たれて運ばれた女がいたろう? 「はい。いますよ」 ——どんな具合だ? 助かるのか? 「お名前を、おっしゃって下さい」 ——死んだのか? 「まず、名前をいって下さい」 ——(無言)(切れる)  この二つである。  西本と、日下は、前の男の声を、圭子と一緒にいた男が、心配して、かけて来たものではないかと考え、あとの男は、車から、彼女を射った人間ではないかと、推測した。  翌日、昼前に着いた十津川と、亀井に、このテープを聞かせ、自分たちの考えを、いった。 「君たちは、このテープを持って、東京に帰り、武藤のことをよく知っている人間に聞かせてみてくれ。もし、武藤の声だとなれば、彼と圭子は、ここで、会っていたことになる」  と、十津川は、いった。  西本と日下は、テープを持って、すぐ、帰京した。  二人を帰らせたあと、十津川たちは、病院に来ている島根県警の木内という警部に断ってから、ベッドに寝ている圭子に、会わせて貰った。  左腕に巻かれた白い包帯が、痛々しかった。  十津川は、病院の傍の花屋で買って来た花束を、枕元《まくらもと》の花びんに生けてから、 「助かって、良かったですね」  と、声をかけた。  だが、圭子のかたい表情は、変らなかった。何もいうまいと、誓っているように見える。 「あなたのことを心配して、昨夜、この病院に電話して来た男の人がいますよ」  と、十津川がいった時、初めて、圭子の表情が動いた。 (やはり、武藤と、この松江で会っていたのか)  と、十津川は、思いながら、 「あれは、武藤さんだと思うんだが、違いますか?」  と、聞いた。 「違います」  甲高い声で、圭子はいった。が、腕の傷にひびいたのか、顔をゆがめた。 「違いますか。そうですか」  と、十津川は、逆らわずに、肯いてから、 「じゃあ、何をしに、この松江に、いらっしゃったんですか?」 「いいたくありません」 「では、あなたを射った犯人に、心当りは、ありませんか?」 「知りません」  と、圭子は、いう。  傍で、聞いていた亀井が、腹立たしげに、 「あなたを殺そうとした人間なんですよ。知らない筈がないじゃありませんか。知っているんでしょう? 何処の誰なんです?」  と、少しばかり、声を荒げて、聞いた。 「知らないんです」  と、圭子は、繰り返した。 「犯人を捕えたくないんですか?」  と、亀井が、睨《にら》むのを、十津川は、手で制して、病室から、廊下へ連れ出した。 「なぜ、あんなに、警察に非協力的なんですかね?」  と、まだ、怒っている亀井に向って、十津川は、 「犯人については、本当に、心当りがないのかも知れないよ」 「射たれたのにですか?」 「ああ。狙《ねら》われたのは、彼女ではなくて、一緒にいた男の方だったのかも知れないからだよ」  と、十津川は、いった。 「なるほど」 「走る車の中から、射ったんだ。男を狙って、傍にいた彼女に当ったとしても、おかしくはない」  と、十津川は、いった。 「そうだとすると、一緒にいた男は、ますます、武藤の可能性が、強くなって来ますね。彼が、現金強奪事件の仲間なら、狙われる理由は、いくらでもありますから」  と、亀井は、いった。  夕方になって、二つのことが、わかった。一つは、東京に帰った西本からの電話で、例のテープの声が、武藤のものに間違いないらしいというものだった。 「彼をよく知っているという八人の男女に、あのテープを聞かせたところ、五人が、間違いなく武藤だといい、残りの三人も、よく似ていると、証言しました」  と、西本は、いった。  もう一つは、犯行に使われた車が、発見されたことだった。  濃紺のニッサン・シーマ九二年型。発見された場所は、出雲空港近くの空地で、予想どおり、盗難車だった。  十津川と、亀井は、松江警察署に運ばれたその車を、木内警部と一緒に、調べてみた。 「車の所有者は、松江市内の酒店の主人で、昨日の朝、盗まれたといっています」  と、木内が、いった。 「指紋は?」  と、亀井が、聞く。 「一応、採《と》りましたが、犯人のものはないようです。多分、犯人は、手袋をして、運転していたものと思われます」 「この車は、右ハンドルですね」  と、十津川が、運転席をのぞき込んでいうと、木内は、笑って、 「普通の日本車ですから」 「犯人は、大通りを、ゆっくり車を走らせて来て、左側の遊歩道にいた彼女を、射ったわけですね。右ハンドルだと、片手で運転しながら、助手席越しに射たなければならない。これは、少し、難しいんじゃありませんかね」  と、十津川は、いった。 「つまり、犯人は、二人以上だったと?」 「そうです。一人が運転し、もう一人が、助手席か、リアシートから、射ったんじゃないかと思いますね」  と、十津川は、いった。  木内も、十津川の説に賛成した。それで、特に念入りに、助手席と、リアシートを、調べた結果、リアシートの隅から、三発の空の薬莢《やつきよう》が、発見された。  これで、使用された銃の種類も、推定できるだろう。  刑事たちが、興味を持ったのは、薬莢が、三発落ちていたことの方だった。  西本は、圭子たちに向って射たれたのは、一発だけだったと、証言している。  と、すれば、あとの二発は、どこで、誰を射ったのだろうか?  練習のために、射ったのだろうか? それとも、圭子を射ったあとで、また、誰かを、車の中から、狙ったのだろうか?  県警は、湖岸沿いに、しらみ潰《つぶ》しに、聞き込みをやっていった。  その結果、圭子が射たれた現場から、百二十メートルほど先で、遊歩道の松の樹に、二発の弾丸が、射ち込まれているのが、見つかった。  その近くにいたカップルが、二発の銃声を耳にし、走り去る車を目撃していた。  その時刻から見て、圭子を射った直後と、見ていいだろう。  カップルの証言によれば、他に、誰もいなかったというから、犯人は、松の樹に向って射ったとしか思えない。  なぜ、そんなことをしたのだろうか? [#改ページ]  第五章 わずかな進展      1  十津川は、もう一度、圭子に会わなければと、思った。いや、彼女から、真相を聞くまでは、何回でも、会うつもりだった。  十津川と、亀井は、再び、松江東病院に出かけた。  病院には、県警の木内警部がいて、十津川の顔を見ると、小さく、首を振って見せた。 「相変らずですか?」  と、十津川は、聞いた。 「少しは話すようになりましたがね。肝心のことになると、依然として、黙秘です。われわれとしては、一緒に会っていたのが誰なのか、射《う》った犯人に、心当りがないか、それを知りたいんですがね」  と、木内は、いった。 「私たちも、同じことを、知りたいんですよ」  と、十津川は、いい、木内に断って、病室に入った。  圭子は、左腕に包帯を巻いた恰好《かつこう》で、ベッドに、横になっていた。  十津川と、亀井の顔を見ると、もう構えた表情になった。 「県警が、話したかも知れませんが、あなたを射った犯人は、その直後、何のためか、松の木に向って、二発も射っているんですよ」  と、十津川は、圭子に向って、話しかけた。  圭子は、黙っている。が、聞いているのは、聞いている感じだった。 「犯人が、なぜ、そんなことをしたのか、いろいろと、考えてみました。一つだけ、考えられることがあります。それは、犯人が狙《ねら》ったのは、あなたではなくて、連れの男の方だった。それなのに、狙った男ではなく、あなたに当ってしまったことに、犯人は、腹を立て、松の木に向って、二発も、射ち込んだに違いないということです」 「——」 「われわれとしては、二度と、犯人に、あんな真似は、させたくないのです。それに、今回は、あなたが、負傷しただけですみましたが、次は、武藤さんが、殺されるかも知れない。いや、犯人は、偏執狂的なところがあるから、必ず、殺しますよ。それでも、いいんですか?」  と、十津川は、圭子の顔を、のぞき込むように、見た。  圭子は、小さく、首を横に振った。 「武藤とは、もう別れて、関係ありませんわ」  と、圭子は、いう。かたくなな、いい方だった。 「なぜ、そうなんですか? 武藤さんと、まだ、続いているのを、認めたくないという気持は、わからないじゃありませんが、これは、殺人事件の延長上で、起きたことなんですよ。次には、間違いなく、また、一人、殺される。それは、武藤さんです。そんなことになっても、構わないんですか?」  と、十津川は、いった。 「何度もいいますけど、私は、武藤とは、別れたんです」 「何を怖がっているんですか?」  と、十津川は、聞いた。 「何も怖がってなんか、いませんわ」 「じゃあ、なぜ、一緒にいた男のことを、隠すんですか? あれは、武藤さんだったんでしょう? 違うのなら、誰だったのか、話して下さい」 「狙われたのは、私なんです。たまたま、一緒にいた方を、巻き添えには、したくありませんわ」  と、圭子は、いった。 「もう、巻き添えになっていますよ。それに、あなただって、本当に狙われたのは、自分ではなく、一緒にいた男、武藤さんだと、わかっている筈《はず》ですよ。犯人は、絶対に諦《あきら》めない。そのことだって、あなたは、知っている筈です。そして、次は、高い確率で、武藤さんが、殺されることも、わかっている筈ですよ。今までに、何人も、殺されていますからね」 「——」 「どうして、われわれに、協力してくれないんですか?」  と、亀井が、しびれを切らした感じで、口を挟んだ。 「私は、何も知らないから、何も、申しあげられないんです」  と、圭子は、いう。 「私は、あなたの気持が、わかりませんね。われわれには、あなたが一緒にいた人物は、武藤さんだと、わかっているんですよ。そして、狙われたのは、本当は、あなたではなくて、武藤さんだということもです。われわれはね、武藤さんと、あなたを、助けたいんですよ。犯人を捕えたいんですよ。なぜ、それが、わからないんですか?」  と、亀井が、聞いた。 「そういわれても、私は、何にも、知らないんです」  圭子は、相変らず、同じ言葉を、繰り返した。 「では、一緒にいた男の人は、誰なんですか? それを、答えて下さい」  と、十津川は、いった。 「たまたま、知り合った方ですわ」 「たまたま?」 「ええ。あの夜、私は、散歩に出て、たまたま、道を聞いた方だったんです」  と、圭子は、いう。 「なぜ、道なんか、聞いたんですか?」  亀井が、眉《まゆ》をひそめて、聞いた。 「まっすぐ、あの遊歩道を歩いて行くと、何処《どこ》へ行くか、聞いたんですよ。それから、同じ東京の人間だとわかって、立ち話をしていたら、突然、射たれたんですわ。だから、私には、なぜ射たれたのかも、誰が射ったのかも、全く、見当がつかないんです」 「よく、そんな嘘《うそ》がつけますねえ」  亀井が、呆《あき》れたように、いう。 「嘘はついていませんわ」  と、圭子が、いった。  そんな圭子の様子を、十津川は、じっと、見すえた。  この女が、ここまで、嘘をつき通す理由は、いったい、何なのだろうかと、考えてしまう。  一緒にいたのが、武藤だということは、まず間違いないだろう。  そして、犯人が狙ったのが、圭子ではなく、武藤であることも、間違いないと、思っている。  多分、犯人たちは、武藤が、圭子と会うと考えて、彼女を、見張っていたに違いない。そして、圭子が、武藤と会ったのを見て、狙撃《そげき》した。  圭子にとって、それは、わかっている筈である。  それなのに、必死になって、武藤と会ったことを否定する理由は、いったい、何なのだろう?  まず、考えられるのは、武藤が、現金強奪事件に、関係していて、そのために、圭子は、彼のことを、警察に話せないのではないかということである。  十津川も、武藤が、現金強奪事件に、関係していると、思っている。どんな形で、関係しているのかは、わからないが、無関係とは、思えないのだ。  現金強奪事件に関係している人間たちの間で、今、粛清の嵐が吹いている。雲仙では、小柴克美が、芸者の明美と一緒に殺された。その前に、長崎で、川田晋という男が、殺されていた。  小柴と、川田は、以前に起きた現金強奪事件に関係していたことが、わかった。そのために、小柴と、川田が殺され、川田がつき合っていた芸者の明美も、殺されたに違いない。  この川田と、つき合っていたのが、武藤なのである。  その武藤は、十津川たちが近づくのを知って、姿を、消してしまった。  こう考えると、武藤、小柴、川田の三人が、あるグループに属して、過去に、現金強奪事件を働き、今になって、仲間割れが起きて、口封じが開始されたと、思わざるを得ないのだった。  連中は、容赦なく、殺人を行っている。芸者の明美は、ただ、川田と関係があったというだけで、殺しているとしか思えない。川田が、現金強奪事件について、明美に喋《しやべ》っているのではないかと、考え、彼女を、殺したに違いなかった。  今、武藤が、連中の標的になっているのかも知れない。だからこそ、連中は、松江まで、圭子を尾行して来て、彼女が、武藤と会った瞬間を、狙ったのだ。  ただ、自動車の中から射ったので、弾丸は、外れて、圭子の腕を、射ってしまった。 「警部」  と、ふいに、亀井に、呼ばれて、十津川は、我に返った。 「大丈夫ですか?」  と、亀井が、聞く。圭子が、変な顔をして、十津川を、見ている。 「ああ、大丈夫だよ」  と、十津川は、いい、圭子に向って、 「なぜ、別れたんですか?」  と、聞いた。 「え? 何のことですか?」  と、圭子が、聞き返した。 「ご主人と、何で、別れたんですか?」 「主人が、勝手にいなくなったんです」 「そういうことになっているわけですか」 「何のことを、おっしゃってるんですか?」 「あなたの父上や、叔父さんなどが、他所者《よそもの》の武藤さんを、無理矢理、一族の中から、追い出したんでしょう? あなたは、それに同調できなかったし、ご主人を愛していた。だから、今でも、会っている」 「——」 「私はね、武藤さんに、会ったことはないが、立派な人だと思っている。水野一族の中に入って、立派に仕事をやっているし、罠《わな》にかけられて、追い出されても、水野一族の悪口をいったという話を聞いていませんからね。多分、別れたあとも、あなたを愛しているからかも知れない。水野から、武藤の姓に戻ったのだって、水野と呼ばれるのが、真っ平ということより、あなたに、迷惑をかけまいとしての配慮だと、私は、思っています。水野の姓のままで、悪いことをして、週刊誌にのれば、それが、そのまま、水野一族に対する復讐になるのに、そうしていませんからね」 「——」 「一つだけわからないのは、そんな武藤さんが、なぜ、現金強奪事件に、関係したかということなんですよ」  本当に、わからないという顔で、十津川は、いった。 「そんなのでたらめです」  圭子が、キッとした眼で、十津川を睨《にら》んだ。 (やはり、まだ、別れた武藤を愛しているのか)  と、十津川は、思いながら、 「それなら、なぜ、彼が、狙《ねら》われたんですか?」 「彼じゃありません。たまたま、私が、道を聞いた人が」 「このままだと、間違いなく、武藤さんは、殺されてしまいますよ。それに、多分、あなたもだ」  と、十津川は、いった。 「私も?」 「そうです。雲仙では、芸者が殺されましたが、彼女は、ただ、事件を起こした男と、いい仲だったというだけで、消されたんですよ。口封じです。だから、あなたも、狙われる」 「もう、射たれましたわ」  と、圭子は、いった。 「そうでしたね。しかし、今回の場合は、犯人が、武藤さんを狙って、それが、外れて、あなたに当った。だが、武藤さんを殺したあと、連中は、必ず、あなたも殺そうとする」 「私は、平気ですわ」  と、圭子は、いった。 「あなたが、平気でも、われわれには、あなたと、武藤さんを守る義務がある。死なせるわけには、いかないんですよ。しかし、そのためには、いろいろと、知らなければならないことがある。協力して下さい。武藤さんを、殺されても、いいんですか?」  十津川は、圭子に、聞いた。 「何も聞かずに、守ってくれますか?」  やっと、圭子が、こちらの期待に近いいい方をしてくれた。 「ただ、正直に、話して下さいよ。いいたくない時は、黙っていても、構いませんが」  と、十津川は、いった。 「ええ」 「会ったのは、武藤さんだったんですね?」  と、十津川は、改めて、聞いた。  圭子は、小さく肯《うなず》いて、 「すみません。嘘をついて」 「今、武藤さんは、何処にいるんですか?」  と、亀井が、聞いた。 「わかりません。嘘じゃありません。射たれた時、私にも、狙われたのは、自分じゃなくて、武藤だとわかりましたわ。だから、彼に、早く逃げてと、いったんです」  と、圭子は、いった。 「彼は、会った時、何か、いっていませんでしたか?」  と、十津川は、聞いた。 「僕の傍にいると、危険だといっていましたわ。だから、近づくなと」  と、圭子は、いった。 「でも、あなたは、武藤さんを探した。いや、武藤さんが、あなたを、探したのかな。彼は、今、何をしているんですか? 彼を殺そうとする組織から、逃げているんですか? その組織について、何か、いっていませんでしたか?」  と、亀井が、矢つぎ早に、聞いた。 「私は、何も知りませんわ」  と、圭子は、いう。 「しかし、あなたは、中川ゆみの名前を使って、雲仙へ行っていますね? あれは、雲仙で、小柴克美と、芸者の明美が殺されたというので、様子を見に行ったに違いないんだ。つまり、あの時から、何が起きているか、あなたは、よく知っていたわけですよ。違いますか?」  と、亀井が、聞いた。  圭子は、また、黙ってしまった。が、前のような、かたくなな沈黙の感じではなかった。何を、どう話したらいいか、迷っているという感じだった。  亀井が、それを、せかそうとするのを、十津川は、 「圭子さんの自由に委《まか》せようじゃないか。話したくないというものを、無理に聞くのは、酷だよ。彼女も、辛《つら》い目にあっているんだから」  と、いった。 「知ってることは、話しますわ」  と、圭子は、いった。      2 「武藤とは、別れたあとも、時々、会っていましたわ。彼が、あんな目にあったのは、私のせいだと、思っていたんです。彼のことが、心配だった。才能のある人なんだけど、あんな目にあって、刹那《せつな》的になってしまうんじゃないかと思って、心配だったんです。武藤は、笑って、大丈夫だといってました。子供じゃないんだからというんです。私が、あんまり心配すると、怒りましたわ。水野一族を離れたって、ちゃんと、仕事は出来るといわれると、私には、何もいえなくなってしまうんです」  と、圭子は、いった。 「武藤さんは、あなたと別れてから、何をしていたんですか?」  と、十津川は、聞いた。 「自分では、経営コンサルタントをしていると、いっています。Kデパートでも、人事管理の仕事をしていたから、本当に、経営コンサルタントの仕事をしているんだろうと、思っていました」  と、圭子は、いう。 「しかし、それに、疑いを、持ったんですね?」  と、十津川は、聞いた。 「いいえ。疑いはしませんでしたわ。ただ、彼がつき合っている人たちの中に、たまたま、雲仙で、殺された人がいて——」 「なるほど。小柴克美という男ですか?」 「ええ。武藤に会っている時、たまたま、小柴さんを、紹介されたことがあるんです。その時は、武藤が相談にのっている中小企業のご主人ということでしたわ。十三日、新聞を見ていたら、その小柴克美さんが、雲仙で、芸者さんと殺されていたと、書いてあったんです。それで、武藤に関係があるのではないかと思って、雲仙へ、行ってみたんです」 「その時、なぜ、中川ゆみというホステスの名前を、使ったんですか?」  と、亀井が、聞いた。 「私が、雲仙に行ったと知ったら、きっと、武藤が、怒ると思ったからですわ。自分のことを、疑っているのかとですわ。だから、いつだったか、父と一緒に行ったクラブのホステスさんの名前をとっさに使ったんです」  と、圭子は、いった。 「川田晋という名前も、武藤さんに、聞いたことがあったんですか?」  と、十津川は、聞いた。 「聞いたことはありませんでした。ただ、武藤のところに、遊びに来ていたことのある男の人だったんです。おだやかな方で、武藤を、とても、信頼しているようでしたわ。赤坂に住んでいると、おっしゃっていました」  と、圭子は、いった。 「それで、新聞で見て、びっくりしたんですね?」  と、十津川は、聞いた。 「ええ。長崎で、殺されていた、それも、埋められていたというニュースを見ました。その時に、初めて、川田晋という名前だと、わかったんです」  と、圭子は、いった。 「そのことを、武藤さんに、聞きましたか?」 「ええ」 「武藤さんは、何と、いっていました?」  と、亀井が、聞いた。 「自分にも、なぜ、あの二人が、殺されたのか、全くわからないと、いっていましたわ。そういわれると、それ以上、聞くことが出来ませんでしたわ」  と、圭子は、いう。 「雲仙で殺された小柴と、長崎で殺された川田が、現金強奪事件に関係があるらしいという記事は、見ましたか?」  と、亀井が、聞いた。 「ええ。週刊誌でも、読みました。でも、それは、武藤が、関係しているということには、なりませんわ」  圭子が、強い声で、いった。 「それなら、なぜ、彼が、狙《ねら》われたと、思ったんですか? 何もないんなら、銃で射たれるわけは、ないでしょうが」  亀井が、咎《とが》めるように、聞いた。  圭子の表情が、暗く、重くなった。 「それは、何もいいたくありません」  と、圭子は、いった。 「いいたくなければ、いわなくて、構いませんよ」  と、十津川は、おだやかにいった。  十津川は、続けて、 「われわれとしては、何とかして、武藤さんに、会いたいんです。彼を守るためにも、必要ですからね。あなたに、それをやって貰いたいんですがね」  と、いった。 「考えさせて下さい」  と、圭子は、いった。  あまり、彼女を追いつめてはいけないと、十津川は、考え、質問を打ち切って、亀井と、ホテルに戻った。  亀井は、不満のようだった。圭子は、武藤を、十津川たちに会わせるように努力するといったが、 「あんな約束は、ぜんぜん、当てになりませんよ」  と、いうのだ。 「そうかも知れないが、今、彼女も、困っていると、思うからね。何もかも、われわれに喋《しやべ》って、武藤を連れて来る気になるかも知れないよ」  と、十津川は、いった。  その夜おそく、ホテルの十津川に、電話がかかった。  男の声で、名前をいわず、 「彼女を、あまり、責めないで下さい」  と、いきなり、いった。 「彼女って、誰のことですか?」  と、十津川は、わざと、聞き返した。 「水野圭子のことです。彼女に聞いても、何も知りませんよ」  と、男は、いう。 「じゃあ、誰に、聞けば、真相がわかるんですかね?」  と、十津川は、聞いた。  彼は、喋りながら、手を伸して、小型のテープレコーダーを引っ張り出し、それを、電話機に接続した。  亀井も、緊張した顔で、見守っている。 「君は、武藤寛じゃないのか? 君の声に、聞き覚えがある。彼女のことを心配して、松江東病院にかけてきたのも、君なんだろう?」  と、十津川は、相手に、話しかけた。 「私のことは、どうでもいいでしょう。彼女は、間違って、射たれたんですよ。だから、彼女を訊問《じんもん》しても、彼女には、答えようがないんです」 「それは、わかっている。だから、本当は、君に出て来て、全てを話して貰《もら》いたいんだよ。なぜ、出て来られない? やはり、君は、今までに起きた現金強奪事件に、関係しているのか?」  と、十津川は、聞いた。 「そんなことはない。濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》だ」  と、男の声が、いう。 「それなら、堂々と、出て来て、われわれに説明しなさい。逃げ廻っていたら、ますます、疑惑を深めるだけだ。それに、今度は、間違いなく、君は、殺される。それでもいいのかね?」  十津川は、説得した。 「まさか、松江まで、追いかけて来るとは、思わなかったんだ」  と、男は、いう。 「君を狙撃したのは、二人だと、われわれは思っている。車を運転していた人間と、銃を射った人間の二人だ。君は、この二人のことを、よく知っている筈《はず》だよ。どこの誰かだけでも、教えてくれないかね?」  と、十津川は、いった。 「二人とも、知ってるわけじゃない。一人は、多分、市村健二という男だと思う」  と、相手は、いった。 「その市村というのは、どういう男なんだ?」 「年齢は、三十八歳。東京のKという探偵社にいた人間なんだ。恐喝を働いて、その探偵社を、馘《くび》になっている」  と、相手は、いった。 「君との関係は、どういうものなんだ?」  と、十津川は、聞いた。 「ある事件に誘われたが、私が、断った。それで、私を恨《うら》んでいることは間違いないし、私の口を封じようと思っている筈だ」  と、相手は、いった。 「その事件というのは、現金強奪事件のことか?」  と、十津川は、聞いた。 「それは、傷つく人がいるので、イエスとも、ノーともいえない。とにかく、圭子は、何も知らないんだ。訊問で、彼女を、苦しめないで欲しい」  と、男はいい、電話は、切れてしまった。 「とにかく、市村健二という男のことを、調べてみよう」  と、十津川は、いった。      3  Kという探偵社は、四谷に実在した。  十津川は、亀井と、この探偵社を、訪ねてみた。五階建の小さなビルで、探偵社としては、大きな方だろう。  社長の柏木は、元刑事ということだった。  五階の社長室で会い、市村健二について聞くと、六十二歳の柏木は、眉《まゆ》を寄せて、 「ああいう男がいると、探偵社全体の信用をなくすので、本当に困るんですよ」  と、いった。 「恐喝を働いたということですね?」  と、十津川は、聞いた。 「そうなんですよ。お客の依頼で、ある人の身上調査をしていたんですが、その結果を、お客に報告せず、調べた相手を、恐喝していたわけです。それがわかったので、馘にしました」 「市村健二の経歴や、写真が、欲しいんですが」  と、十津川が、いうと、市村が、入社の時に書いた履歴書と、写真を、見せてくれた。  写真は、一見したところ、魅力的な中年男の感じだった。  しかし、履歴書に眼を通して、十津川は、「ほう」と、声をあげた。 「Kデパートにいた人間ですか」 「そうです。あそこは、同族支配のデパートで、それに反撥して辞めたんだといっていましたがね。どうも、何か不始末をして、馘になったようです」  と、柏木は、いった。 「この探偵社には、何年いたんですか?」 「三年間です。その間にも、何件か、恐喝めいたことをやっていたようですが、気がつきませんでねえ。早くわかっていたら、とうに、馘にしていましたよ」 「辞めたのは、いつですか?」 「今年の三月です。その後のことは、全く、わかりませんし、うちとしても、責任を、負いかねます」  と、柏木は、いった。 「どんな性格の男だったんですか?」  と、亀井が、聞いた。 「同僚たちの話では、傲慢《ごうまん》で、鼻もちならないということですよ。女にも、だらしがないといわれていましたね」 「女性のことで、問題を起こしたことが、あったんですか?」 「私の耳に聞こえたのは、一度だけです」 「どんなことですか?」  と、亀井が、聞く。 「名前は、忘れましたが、美人の依頼者がありましてね。旦那が、どうも浮気をしているようなので、それを、調べてくれという依頼でした。ところが、市村は、その依頼者の女性と、関係してしまったんですよ。その時に、馘にしようと思ったんですが、女の方も、合意の上で、馘にすることは、やめたんです。男と女のことにまで、会社が、首を突っ込むことはないと、思ったし、市村が、反省していると、頭を下げたもんですからねえ」  と、柏木は、いった。 「頭の切れる男ですか?」  と、十津川は、聞いた。 「切れましたね。だから、ある面で、お客の評判も、良かったんです。それで、図にのったんでしょうね」  と、柏木は、いった。  十津川は、市村の写真と、履歴書のコピーを借りて、K探偵社を、出た。  パトカーに戻ると、亀井が、 「少し、面白くなって来ましたね」 「市村が、Kデパートで働いていたということかね?」 「そうです。仕入課長にまで、なっています。これは、何かありますよ」 「あの社長は、市村が、何か不始末をして、Kデパートを馘になったんだろうと、いっていたね」 「これから、Kデパートへ行って、市村のことを、聞いてみますか」 「そうだな」  と、十津川も、肯いた。  二人は、パトカーで、Kデパートに廻り、人事部長と会った。人事部長も、水野一族の一人である。 「こちらで、仕入課長をやっていた市村健二のことで、少し、お聞きしたいことがありましてね」  と、十津川がいうと、人事部長は、嫌な顔をして、 「あの男は、三年前に、馘《くび》にしました」 「何か、問題を起こしたんですか?」 「彼は、三十代で、仕入課長になりましてね。うちでは、出世です。才能があり、まじめな男だと思って、抜擢《ばつてき》したんですが、仕入課長の地位を利用して、不正を働き、うちの会社に損害を与えたんです。それで、馘にしました」 「具体的に、どんな不正を働いたんですか?」  と、十津川は、聞いた。      4 「Kデパートといえば、社会的に、信用があります。彼は、うちの名前を利用したんですよ。うちと、取引きをしたいという会社は、いくらでもありますからね。そこの仕入課長なら、もてもてということです」  と、部長は、いった。 「つまり、仕入課長の肩書きを利用して、不正を働いたということですね?」 「そうです。うちと取引きをしたい会社の人間が、仕入課長である市村に、お世辞をいい、供応し、金をつかませる。それで、取引きが出来れば、文句は出ませんが、もっと、市村に金をつかませたところと、契約してしまえば、自然に、文句が出ます。それで、彼を、馘にしたわけです」 「それが三年前ですか?」 「そうです」 「確か、水野寛さんが、圭子さんと離婚したのも、その頃でしたね?」  と、十津川が、聞くと、人事部長は、当惑の表情になって、 「そうでしたかね」 「確か、三年前でしたよ」 「しかし、片方は、社員の不正で、もう一つは、夫婦の個人的な問題ですから」  と、部長は、いった。 「しかし、水野寛さんは、会社の金を横領したということで、責められていたんじゃありませんか?」 「そんなことはありません。あくまでも、夫婦間の個人的な問題で、離婚したんですよ」  と、部長は、いい張った。 「その後、市村健二と、水野寛こと、武藤寛が、どうなったか、知りませんか?」  と、十津川は、聞いた。 「知りませんね。どちらも、もう、うちの人間では、ありませんから」  と、部長は、いった。 「市村健二は、Kデパートを辞めたあと、私立探偵社に入っているんですが、そのことも、ご存知ありませんでしたか?」  と、横から、亀井が、聞いた。 「私立探偵ですか? 知りませんね」 「K探偵社というところです。ご存知ないですか?」 「そういうところと、つき合いがないので、申しわけないが、知りません」  と、部長は、いった。 「失礼ですが、社員の身上調査といったものは、やっておられますか?」  と、十津川は、聞いた。 「一応、やっています。どこの企業でも、やっているんじゃありませんか?」 「それは、誰が、やられるんですか? 人事部長のあなたが、やられるんですか?」  と、十津川が、聞くと、部長は、不快気に、 「それが、何か事件と関係があるんですか?」 「いや、ありませんが、会社によっては、それを、興信所や、探偵社に依頼するということを、聞いていますのでね。ひょっとして、Kデパートでは、同じKというK探偵社に、依頼しているのではないかと、思いましてね」  と、十津川は、いった。 「そうした社内事情については、お答えできませんよ」  人事部長は、怒ったように、いった。  十津川と、亀井は、Kデパートを出ると、念のために、K探偵社の柏木社長に、電話で、この件について、聞いてみた。  柏木の答は、はっきりしていた。 「うちでは、数社と契約して、社員の身上調査をしていますが、その中に、Kデパートも、入っています」  と、柏木は、いった。 「今でも、やっているんですか?」 「もちろん、今でも、やっています」  と、柏木は、いった。  市村は、それを知っていて、Kデパートを馘になったあと、あの探偵社に、入社したのかも知れない。 「妙な具合になって来ましたね」  と、亀井は、嬉《うれ》しそうに、いった。 「問題は、市村と、武藤寛の関係だな」  と、十津川は、いった。 「武藤は、市村にあることを誘われたが、断ったと、電話でいったわけでしょう?」 「そうだ」 「しかし、断ったくらいで、命を狙《ねら》われますかねえ?」  と、亀井は、首をかしげた。 「カメさんのいう通りだよ。それぐらいのことで、わざわざ、銃で、狙ったりはしないだろう。もっと、深い関係があった筈だよ」  と、十津川は、いった。 「誘われるだけでなく、その計画に、参加したのではないかということですか?」 「或いは、もっと深い関係かも知れない」 「と、いいますと?」 「計画を立てて誘ったのは、市村ではなくて、武藤の方だということだって、考えられるじゃないか」  と、十津川は、いった。 「現金強奪事件のリーダーが、武藤だったということですか?」 「可能性としてはね」  と、十津川は、いった。 「そのリーダーが、今になって、裏切ったので、市村が、武藤を狙撃したということですか?」 「私は、あくまでも、可能性を、いってるんだ」  と、十津川は、いった。 「もし、そうだとすると、圭子が可哀《かわい》そうになりますね。彼女は、今でも、武藤を愛しているように見えますから」  と、亀井は、いった。 「カメさんとしては、武藤が、事件に巻き込まれて、それを、圭子が、必死になって、助けようとしていると、考えたいわけだろうな」 「私の考えは、甘いですかねえ」  亀井は、照れたような顔で、いった。 「いや。私は、カメさんのそういうところが好きだよ。最初から、相手を悪《わる》だと決めつけるより、ずっといいよ」  と、十津川は、いった。  亀井を、感傷的だという人がいる。犯人に対して、甘いのではないかというのだ。  しかし、十津川は、別に、亀井を、甘いとは思っていない。時には、十津川より厳しいこともあるし、ある時には、彼の怒りを抑えるのに、十津川が、苦労することもある。  それに、刑事が、感傷的であることは、別に悪いとは、思わないのだ。  十津川が、凶悪事件に数多く接してきて、いつも感じるのは、この社会が、不公平だということである。小説では、貧しく、優しい人間は、最後には、たいてい幸福になり、豊かで、傲慢な人間は、不幸になるのだが、実人生では、そうはいかない。優しい人間は、そこを利用されて、不幸になり、時には、殺人まで犯してしまうのだ。  だから、心優しい亀井は、かえって、感傷的になってしまうのだろう。優しい人間は、幸福になって貰いたいという思いが、亀井は、強いのだ。  十津川は、もう一度、K探偵社に行き、市村が作った調査報告書の控を、全部、貸して貰うことにした。  果して、その中に、今回の事件の参考になるものがあるかどうかはわからなかったが、少くとも市村という人間について、少しは、わかって来るのではないかと、十津川は、思ったのだ。  市村は、三年間、正確にいえば、二年七ヶ月の間に、十五件の調査をし、十五件の調査報告書を、書いている。  調査の内容は、さまざまだった。結婚調査もあれば、信用調査もある。Kデパートから依頼のあった、社員の身上調査もあった。  十津川と、亀井は、十五件の調査報告書を、一つずつ、丁寧に、眼を通していった。Kデパートに関する調査報告書は、なかなか、見つからなかったが、急に、十津川の眼が止ったのは、 〈水野要介に関する素行調査〉  の文字が、見つかったからだった。  水野要介といえば、Kデパートの副社長で、圭子の父親と同じ名前である。もちろん、同名異人ということもあるので、十津川は、慎重に、調査報告書の内容に、眼を通した。  かなり長い報告書だったが、要旨は、六十二歳の水野要介には、女がいて、その女の名前は、銀座のクラブのママ、浅井みどりだという。  彼女とは、彼女が、他の店でホステスをしていた頃からの仲で、水野が金を出して、店を持たせてやったとも、書かれていた。  この調査報告書を、十津川は、亀井にも、読ませた。  亀井は、驚いた顔で、 「この浅井みどりは、確か——」 「そうだよ。武藤が、三千万円を入れあげたといわれる女と、同じ名前だ」  と、十津川は、いった。 「同一人でしょうか?」 「多分ね」 「どうなってるんですかねえ」 「わからないが、面白いじゃないか」  と、十津川は、いった。 「この調査報告書には、依頼人の名前が、ありませんね」  と、亀井が、いった。 「それを、聞きに行こうじゃないか」  と、十津川は、いった。      5  借りた調査報告書を、返しに行ったついでという感じで、十津川は、問題の調査報告書について、柏木社長に、聞いてみた。  柏木は、困惑した顔で、 「実は、その調査については、いろいろあったんですよ。何しろ、Kデパートは、社員の身上調査を引き受けている、いわば、うちのお得意ですからね。その会社の副社長の素行調査ですからねえ。そんなことをしていいのだろうかというためらいがありました。引き受けたのは、市村で、彼に聞いたところ、依頼者は、水野副社長の奥さんだというのです。それに、自分の名前は、絶対に出さないでくれという要望だったというので、報告書には、依頼者の名前がないわけです」  と、いった。 「これは、いつ頃の調査ですか?」 「ずいぶん前です。市村が入社して、すぐだったから、三年近く前ですよ」 「彼が、ひとりで、調査したんですか?」  と、亀井が、聞いた。 「いや、大事な調査なので、ベテランの調査員をつけました。調査したのは、一応、市村の名前になっていますがね」  と、柏木は、いう。 「三年間に、十五件というのは、多い方ですか? それとも、少い方ですか?」  と、十津川が、聞くと、柏木は、 「少いですよ。難しい調査だと、一件に、三ヶ月くらいかけますが、市村の場合、そんな、特殊調査と呼べるものは、やっていませんからね。一月に、一件ぐらいは、やれた筈なのです。さぼっていたのか、こちらに報告せず、勝手に、自分で、調査して、依頼者から、調査料を貰っていたのかも知れません。もし、わかっていたら、もっと早く、馘にしていたでしょうね」  と、柏木は、いった。 「この水野要介に関する調査報告書ですが、依頼者の奥さんに、渡されたんでしょうか?」  と、十津川は、聞いた。 「控しかないし、料金も、入金していますから、渡したと、思いますよ」 「渡したのは、市村ですね?」 「そうです」 「念のために、伺いますが、水野の奥さんが、ここへ来て、依頼したんですか? それとも、電話で依頼したわけですか?」 「ちょっと、待って下さいよ」  と、柏木は、いい、しばらく、考えていたが、 「あれは、確か、電話で依頼があって、市村が、その電話を受け、新宿で、会って、詳しい調査の内容を、聞いて来たんだったと、思います」 「すると、依頼者に会ったのは、市村一人だけですか?」 「その通りです」 「どうも、根掘り葉掘り聞いて、申しわけありませんでした」  と、十津川は、詫《わ》びて、探偵社を出た。  パトカーに戻ってから、亀井は、 「どう解釈したらいいんですかねえ」  と、首をかしげた。 「何がだい?」 「本当に、水野要介の奥さんは、夫の素行調査を頼んだんですかね?」 「私は、頼んだと思っているよ。彼女が頼まなければ、あの探偵社が、調べることもなかったろうからね」 「しかし、その結果、浅井みどりの名前が出て来たのは、びっくりでしたね」 「ひょっとすると、浅井みどりに、三千万円を渡していたのも、武藤ではなく、水野要介かも知れないな」  と、十津川は、いった。 「そうです。われわれは、武藤の話を聞いたわけではありませんから」  と、亀井も、いった。 「水野が、浅井みどりに入れ揚げていたのを、追放した武藤のせいにしていたのかも知れないな。武藤も、結婚したあとは、水野姓になっていたからね」 「それに、市村の調査が、少かったというのも、気になりますね」  と、亀井は、いう。 「ああ。彼は、K探偵社に三年間いたが、その割に、仕事が少かったと、社長は、いっていたね。あそこの調査員は、月給ではなく、一件調べて、その二十パーセントを貰う歩合制だから、仕事が少くても、会社は、あまり、文句をいわなかったと、いっていたね」 「だから、市村が、会社に内緒で、自分のための調査をしていた可能性が強いと、思うのです」 「どんな調査だ」 「現金強奪事件に関する調査ですよ。信用調査ということで、その会社の現金の動きを調べていたんじゃないでしょうか? K探偵社は、かなり大きな調査機関ですから、その身分証明書なり、名刺なりを使っての調査なら、怪しまれませんからね」  と、亀井は、いった。 「そうなると、武藤の言葉の信憑《しんぴよう》性が出て来るね。市村が、自分で調べて、自分で、現金強奪事件の計画を立て、武藤を、誘ったということだ」  と、十津川は、いった。 「そうだとすると、何としてでも、市村を見つけて、話を聞きたいですね」  と、亀井は、いった。  彼が、K探偵社を辞めた、というか、馘になった時の住所は、わかっている。  もちろん、もう、そこに住んでいるとは思わなかったが、二人は、一応、その住所である武蔵境へ、行ってみた。  中央線武蔵境駅から、歩いて、十五、六分のところにあるマンションである。  そこの四階に、市村は、住んでいたのだが、今は、空いたままだった。この辺りでは、大きなマンションで、部屋も、3LDKと、広い。 「二ヶ月前でしたかね。突然、引っ越されてしまったんですよ。行先は、私にも、わかりません」  と、管理人は、いった。 「どんな生活をしていたんですか?」  と、十津川は、聞いてみた。 「それが、変な方で、あまり、お金がないのかなと、思っていると、急に、ぜいたく品を、無造作に、買われたりしていましたね」 「例えば、どんな物をですか?」 「自転車に乗っていて、突然、新車、それも、外国製のスポーツカーを、買って、乗り廻していたりしましたよ。それも、現金で、買ったと、おっしゃっていましたからね。何をしているのかと思って、聞いたら、私立探偵をやっているって。私立探偵って、そんなに、儲かるのかなと、びっくりしたことがありましたよ」  と、管理人は、いった。  そのスポーツカーというのは、どうやら、ポルシェ911らしい。色は、赤だと、管理人は、いった。 「彼の部屋に、どんな人間が、出入りしていたか、覚えていますか?」  と、亀井が、聞いた。 「あまり、お客の来ない人でしたよ。独身なので、きれいな女の人が、来ていることがありましたが、あれは、クラブのホステスさんかなんかじゃなかったかな。水商売の感じの女の人でした」 「この男の人は、来たことがありませんか?」  と、十津川は、武藤の写真を見せたが、管理人は、首をかしげて、 「覚えていませんねえ」  と、いった。  管理人は、そのあと、 「引っ越しする直前でしたかねえ。あの部屋で、大声で、怒鳴り合う声が、聞こえたんですよ。夜おそくでした」 「それは、男同士? それとも、女との口論?」  と、亀井が、聞いた。 「男同士でしたよ。心配になって、四階に行ってみたら、すごい勢いで、男の人が、あの部屋から飛び出して来ましたよ」 「顔は、見ましたか?」 「いや、廊下は、うす暗いですからね。中年の男だということぐらいしか、わかりませんでしたね。そのすぐあとで、引っ越して行かれたんですよ」  と、管理人は、いった。 「荷物は、多かったんですか?」 「ずいぶん、ありましたよ」  と、管理人は、いう。  それなら、ポルシェに積んで、引っ越すというわけにはいかないだろう。  と、すれば、運送会社に頼んだのだろうと考え、十津川と、亀井は、周辺の会社を、当ってみたが、市村から、頼まれて、荷物を運んだという業者は、見つからなかった。  わざと、遠くの運送会社に頼んだのかも知れないし、彼に、仲間がいて、彼等が、運んだのかも知れない。  いずれにしろ、市村の行方《ゆくえ》は、わからなかった。 [#改ページ]  第六章 新しい不安      1  十津川の頭の中で、次第に、一つのストーリイが、出来あがっていった。  市村健二という男がいた。  Kデパートに入り、順調に仕入課長になったが、突然、馘《くび》になる。仕入課長という肩書きを利用して、不正を働いたということである。  Kデパートは、同族会社で、組合もないから、市村を、守ってくれるものはない。  この肩書き利用の不正が、本当にあったかどうか、十津川には、わからない。とにかく、三年前、市村は、何の抗弁も許されずに、Kデパートを馘になったということだけは、間違いないだろう。  市村は、Kデパートと、つながりのあったK探偵社にもぐり込んだ。  K探偵社は、日本で、中堅の調査機関だが、いろいろと、問題のある探偵社である。  日本は、アメリカと違って、探偵の仕事は、許可制ではなく、誰にでも出来る、ライセンスの要らない仕事なのだ。  もちろん、信用のおける探偵社もあるが、いかがわしいものもある。そういう探偵社は、知り得た秘密をネタに、ゆすりをやる。  K探偵社の探偵が、一年に、二、三人は、恐喝容疑で、挙げられていることを、十津川は、知っている。  女性客から、夫の素行調査を、頼まれたとする。車、カメラ、テープレコーダー、指向性の強いマイクなどを使って、夫を尾行し、若い女と関係している事実をつかむ。  しかし、それを、そのまま依頼人に伝えたのでは、規定料金の二十パーセントの報酬しか、ふところに入って来ない。  そこで、依頼主には、いくら調べても、ご主人には、何もありませんでしたと報告し、料金を貰《もら》う。  そうしておいて、密会の写真などをネタに、夫の方をゆするのだ。夫が、資産家で、社会的な地位があれば、五百万くらいは、ゆすれるだろう。  真面目な探偵は、この誘惑に勝つだろうが、負けてしまう探偵もいる。  特に、企業のエリートコースを歩いていて、挫折《ざせつ》し、探偵社に入った人間は、誘惑に負けることが多いと、十津川は、聞いたことがある。  そうした人間は、頭は切れるから、探偵に向いているのだが、一方で、人間不信になっているからだ。  探偵社は、固定給はあっても少く、ほとんどが歩合制である。だいたい、一件の調査をすませて、二十パーセントの歩合が、相場だろう。  十万円の仕事で、二万円の収入である。  素行調査を、三十万で引き受けても、探偵の収入は、六万円でしかない。そこに、うまくやれば、五百万にはなるゆすりのネタを、つかんだとしたら?  この誘惑に勝つのは、容易ではないだろう。  市村も、それで、K探偵社を、馘になった。  ただ、市村の場合は、たまたま、金の誘惑に負けて、馘になったのとは、違うように、十津川には、思えるのだ。  市村は、最初から、K探偵社を、利用して、金|儲《もう》けをしようと考えていたのではないのか。  そのために、市村は、仲間を集めた。どれも、挫折した人間たち。頭が切れたり、何かの才能があるのだが、それを生かすことが出来ず、社会に対して、不満を持つ人間だ。  その中には、九州で死んだ小柴克美もいたのだろうし、川田晋もいたのだろう。  そして、Kデパートを追われた武藤寛もいたのではなかったか。  武藤が、会社の金を横領したという罪を着せられて、Kデパートを追われて間もなく、K探偵社にいた市村が、水野要介の素行調査を頼まれている。  十津川には、偶然とは、思えない。  依頼主は、水野の妻ということだが、本当は、武藤だったのではないか。武藤は、自分を馘にして、Kデパートから追い出したのは、副社長の水野要介だと思っていたに違いない。だから、逆に、相手の素行を調査しようとしたのではないか。  もっと、うがった見方をすれば、Kデパートを追われた武藤に、市村の方から近づいて行って、水野の素行を調べたらどうかと、すすめたのではないかと、十津川は、思う。  同じKデパートにいたから、市村は、武藤の頭の良さを、認めていた。それで、何とか、自分のグループに、取り込もうと、考えていた。  だが、武藤は、まだ、別れた妻の圭子との仲が切れず、市村の誘いにのって来ない。そこで、彼を馘にした水野要介の素行調査をやり、武藤を怒らせ、自分の仲間に、引き込もうとしたのではないか。  市村の計画は、ただ単に、五百万、一千万の金を、秘密を握って、ゆするというところで、とどまってはいなかった。  探偵社の信用調査を利用して、いくつかの会社の現金輸送の実態をつかみ、それを、集めた仲間に、襲わせるというものだった。  すでに、二件の現金強奪が行われたが、犯人は、挙がっていない。  もし、これが、市村たちのグループの犯行だとなれば、二つの未解決事件が、一挙に、解決するのだ。      2  九州での殺人や、武藤が、松江で狙《ねら》われたことは、市村のグループの中で、仲間割れが、生れていることを、示しているだろう。  言葉を変えていえば、粛清だ。 「問題は、今、なぜ、そんなことを、やっているのかですね」  と、亀井が、いった。 「ただの意見の違いとは、考えられないか? それでなければ、分け前の不満から来た仲間割れ」  と、十津川は、いった。 「普通なら、そんな理由が、考えられますが、この場合は、違うような気がします。川田晋は、多分、海外へ逃亡しようとしていて、殺されたのだと、思われますし、彼を殺したと思われる小柴も、雲仙の芸者と一緒に、心中に見せかけて、殺されています。分け前の不満からの殺人には、思えませんし、意見の違いなら、そのまま、海外へ行かせてしまえば、いいわけです」  と、亀井は、いう。 「口封じかな」  と、十津川は、いった。 「私も、そんな気がしますが、なぜ、口封じをしなければならなかったのかですね」 「過去の二つの現金強奪についての口封じということは、ちょっと、考えにくいね。みんな共犯なんだから。喋《しやべ》る心配は、まず、ないわけだ。もちろん、それでも、口封じに殺すことはあるだろうが、立て続けに、何人も殺していったら、目立ってしまう」 「そうなんです。それも、短い時間に、殺しています」  と、亀井は、いった。 「一つだけ、考えられるね」  と、十津川は、いった。 「どんなことですか?」 「リーダーの市村が、新しい犯行を計画していて、他の連中は、それに反対しているというケースだよ」  と、十津川は、いった。 「なるほど。その計画を知っていて、反対する人間は、口を封じなければならないということですか?」  と、亀井が、いう。 「仲間たちは、二件の現金強奪で手にした金で、満足していたが、市村は、違う。彼は、何としてでも、三番目の計画を、実行したいんだ。だから、それに反対する仲間を、殺していったんじゃないか」 「三つ目の計画というのは、また、現金強奪ですかね?」  と、亀井は、いった。 「わからないな。三匹目のどじょうを狙っているのか、それとも、全く新しい計画を立てているのか」 「同じ現金強奪なら、仲間は、賛成したんじゃないでしょうか? もう、金は十分だと思っていても、これまでに成功して来たことですから、リーダーが、もう一度だけだといえば、渋々でも、実行するんじゃないかと、思うんです」  と、亀井は、いった。 「だから、今までとは、違った計画だろうというわけだね?」 「そうです。危険だから、反対した。それで、粛清が、行われた——」 「消した人間の代りは、また、どこかで、補充して、市村は、自分の立てた計画を、実行しようとしているわけか」 「私は、そう思います。それも、次々に殺し、まだ、殺そうとしているところをみると、その計画は、間近に、迫っているのではないでしょうか」  と、亀井は、いった。 「脅《おど》しなさんな」  と、十津川が、笑うと、亀井は、 「私は、本当に、間近に、迫っていると、思うんです」  ニコリともしないで、いった。 「しかし、それが、どんなことかわからなくては、対策の立てようがないよ。市村も、武藤も、行方不明だよ。連中が、いったい、何人のグループなのかも、見当がつかないんだからね」  と、十津川は、小さく、肩をすくめた。 「圭子は、どうなんでしょうか? 彼女は、何も知らないのでしょうか?」  と、亀井が、聞いた。 「圭子が、一番に考えているのは、武藤のことだと思うね。彼女は、今でも、武藤を愛していると、私は、思う」 「その点は、同感です。あの二人は、父親に、無理矢理、別れさせられたようなものでしょう。父親の水野要介だけでなく、Kデパートを牛耳っている一族が、武藤に、業務上横領の罪を着せて、追い出したと、彼女は、思っているんじゃないでしょうか。武藤は、そんな会社のやり口に、怒りを持っているでしょうが、圭子は、今でも、愛しているんじゃないか。二人の動きを見ると、そう思うのです。武藤は、夢を抱いて、婿に入ったのに、突然、追い出されたことで、人間不信に陥って、市村の誘いに応じてしまったんじゃないでしょうか。ところが、それを、悔いて、抜け出そうとして、命を狙われたのではないかと、私は、思っています」  と、亀井は、いった。  いかにも、亀井らしい見方だと、十津川は、思った。  亀井の見方が、正しいだろうと、十津川も、思う。  圭子は、武藤が、市村たちの仲間に入っていることを知っている。だからこそ、中川ゆみと名乗って、雲仙の殺人現場を見に行ったのだろう。武藤が、あの殺人に関係しているのではないかと思い、自分で、調べに行ったのだ。  武藤も、彼女の愛に打たれて、市村たちの仲間から、逃げ出そうと考えている。それで、今度は、彼が、狙われるようになった。  亀井は、そう考えているし、十津川も、同じように、事件を見ている。 「武藤が、自首して来て、全てを話してくれれば、一番いいんですがねえ」  と、亀井は、溜息《ためいき》まじりに、いう。 「武藤が、過去の二つの現金強奪事件に関係しているとすれば、彼の自首を期待するのは、まず、無理じゃないかな」  と、十津川は、いった。 「それでも、私は、武藤が、自首してくるのを、期待しているんです」  と、亀井は、いった。 「期待できるかね?」  十津川は、半信半疑で、聞いた。 「圭子の思いは、必死じゃないかと思います。彼女の心に打たれるということも考えられますし、今度は、武藤が、命を狙われています。その二つから、自首してくる可能性があると、思っているんですが」  と、亀井は、いうのだ。  しかし、十津川としては、武藤が、自首して来るのを、待っているわけには、いかなかった。  武藤や、市村を見つけ出して、逮捕しなければならないのだ。  その市村は、姿を消して、行方が、わからない。武藤もである。  唯一、姿を消していないのは、圭子である。  だから、彼女に、尾行をつけていた。彼女が、武藤と連絡を取り、会おうとするだろうから、その瞬間に、武藤を、逮捕したいのである。  今、圭子は、父親の邸を出て新しく、四谷のマンションを借りて、そこに住んでいた。その方が、武藤が、会いに来やすいと思ってだろう。  そのマンションを、十津川は、監視させていた。  武藤も、圭子も、警察が監視していることを、知っている筈《はず》である。だからこそ、先日、圭子は、わざわざ、松江まで出かけて行って、武藤に、会ったに違いない。だが、武藤の仲間にもわかってしまって、狙撃《そげき》されたのだ。  今のところ、武藤が、このマンションに、現われた気配はない。武藤も、警戒しているのだろう。  彼は、警察に対しても、警戒しているだろうが、自分の命を狙っている仲間も、警戒しなければならないのだから、行動が、慎重なのは、当然だった。  十津川にしてみれば、圭子の電話を、盗聴したいぐらいの気持だった。もちろん、今の日本の法律で、許されることではなかった。  また、直接、圭子に会って、武藤に、自首をすすめるように、説得することも考えたが、これも、やめてしまった。  逆効果になることを、恐れたのだ。それに、圭子自身、別に、十津川が説得しなくても、武藤に、自首して欲しいと思っているだろうと、考えたのだ。  それに、急に、圭子の態度が変れば、武藤は、敏感に、警察の匂《にお》いをかぎとり、一層、隠れてしまうことが、心配されたこともある。  だから、十津川は、根気よく、圭子を監視することにした。  武藤との間に、電話はあるのだろうが、それが、なかなか、圭子の行動に、現われて来ない。  圭子は、毎日、外出するが、それは、近くのコンビニへ買物に行くとか、美容院に行くとかで、いぜんとして、武藤との接触は、なかった。  十津川は、刑事たちに、圭子の行動を、克明に、メモさせた。一日に、何回、何時頃に、買物に行くか、美容院には、何日おきに行くか、何処《どこ》の美容院か、そうしたことのメモである。  突然、圭子は、二日続けて、美容院へ出かけた。  その知らせを受けて、十津川と、亀井は、四谷に、急行した。圭子が、武藤と会うに違いないと、感じたからだった。  現在、マンションの監視に当っているのは、西本と北条早苗の二人である。  彼等の乗っている覆面パトカーに、十津川と、亀井も、乗り込んだ。 「彼女は、今、部屋の中にいます。美容院から戻って、一時間たっていますが、動きはありません」  と、西本が、いった。  十津川は、腕時計に眼をやった。午後三時二十三分。 「夜になってから、出かけるのかな?」  と、十津川は、呟《つぶや》いた。  圭子は、昼間でもいいだろうが、武藤は、夜の方が、好きだろう。犯罪者は、暗い方を、好むからだ。      3  少しずつ、周囲が、うす暗くなっていく。  夕食代りに、十津川たちが、サンドウィッチと、牛乳、コーラを、車内で食べている時、マンションの入口から、圭子が、現われた。  圭子は、ハンドバッグを、下げている。  通りに出たが、タクシーを止める気配もなく、駅の方向に歩き出した。  十津川と、亀井も、パトカーを降りて、圭子の尾行を開始した。  圭子は、周囲を見廻すこともせず、足早に、歩いて行く。  時々、腕時計に眼をやるのは、武藤と会う時間を、気にしているのだろうか?  JR四ツ谷駅前の公衆電話の前に行き、彼女は、どこかに、電話をかける。  十津川と、亀井は、遠くから、それを、眺めた。 「武藤と、連絡しているんでしょうね?」  と、亀井が、小声で、いった。 「多分ね」  と、十津川は、いった。 「しかし、電話連絡だけなら、なぜ、わざわざ、外へ出て来て、やるんでしょうね? マンションの中で、やればいいのに」 「それは、おいおい、わかってくるよ」  と、十津川は、いった。  二、三分の電話が終ると、圭子は、今度は、駅前を出て、四谷三丁目の方向に歩き始めた。  両側は、ビルが、並んでいる。  ゆっくりした歩き方になっていた。  十二、三分も歩いてから、ビルの二階にある喫茶店にあがって行った。  前面ガラス張りになっている店である。  道路からでも、中の様子が、よくわかる店だった。  十津川と、亀井も、店に入って、圭子の様子を窺《うかが》った。  かなり広い店である。客は、五、六人しかいなかった。  圭子は、窓際に腰を下して、街灯のついた眼下の道路を、眺めていた。  十津川と亀井は、奥のテーブルについて、コーヒーを、注文した。  圭子は、何か注文してから、ハンドバッグから、携帯電話を取り出して、テーブルの上に置いた。  小さな音を立てて、それが、鳴った。  圭子が、携帯電話を手に取って、耳に当てる。  何を話しているのか、もちろん、十津川たちのところからは、聞こえない。 「携帯電話を持っているのに、さっきは、なぜ、公衆電話を、使ったりしたんですかね?」  と、亀井が、小声で、聞く。 「多分、われわれの反応を見ているんだ。尾行されていることは、覚悟しているだろうからね」  と、十津川も、小声で、いう。 「われわれを、引きずり廻して、様子を見ているということですか?」 「ああ。武藤だって、警察の尾行が想像される場所に、のこのこ出て来ないだろうからね」  と、十津川は、いった。  ジュースが運ばれて来て、圭子は、携帯電話を切っている。  十津川と、亀井は、コーヒーを、少しずつ、口に運びながら、圭子の様子を、窺っている。 (今日、圭子は、武藤と会うつもりだ)  と、十津川は、判断していた。そうでなくて、電話連絡だけなら、マンションの中でも出来るし、美容院にも、昨日と続けて、行かないだろう。 (携帯電話を使う理由は、もう一つあったんだ)  と、十津川は、気がついた。  武藤が、一ヶ所にいるのなら、携帯電話を使う必要は、あまり無いのではないか。圭子の方から、連絡を取ればいいのだから、四ツ谷駅前では、現に、彼女の方から、電話しているのだ。もちろん、あの電話が、武藤へのものとは断定できないが、今日の怪しげな行動から見て、十津川は、武藤への電話以外には、考えられなかった。  それなのに、圭子が、わざわざ、携帯電話を持って、外に出ているのは、武藤が、一ヶ所にいないで、移動中であることを、示しているのではないだろうか? 「カメさん」  と、十津川は、小声で、亀井に、いった。 「何ですか?」 「武藤が、近くに来ているかも知れない」  と、十津川は、いった。  亀井が、あわてて、周囲を、見廻そうとするのを、十津川は、手で止めて、 「奴《やつ》は、われわれを、監視しているかも知れないんだ。圭子を呼び出したが、われわれが、尾行しているのに気付いて、姿を現わさず、今、彼女の携帯電話に、かけて来たのかも知れない」 「私も、彼女が、携帯電話を持っているのが、気になっていたんですよ」  と、亀井が、いった。 「武藤の指示で、持ち歩いているんだろう。奴が、移動しながら、彼女に、連絡できるからね」  と、十津川は、いった。 「われわれが、彼女のあとを追って、この店に入るところも、見られていたのかも知れませんね」  と、亀井が、いった。 「恐らく、そうだろう」 「そうだとすると、いくらここに張っていても、武藤は、現われませんね」 「だろうね」 「どうしますか?」 「じっと、彼女の動きを見守っているのも芸がないね。われわれが、いる限り、武藤は、現われないんだろうからね」 「しかし、出直すわけにもいきませんよ。西本たちを呼んで、交代しますか?」  と、亀井が、聞く。 「西本たちの顔だって、覚えられていると思うよ。それに、西本たちが、われわれと入れ違いに入って来れば、すぐ、刑事と、わかってしまうだろう」  と、十津川は、いった。  圭子は、窓ガラスの向うの夜の街に眼をやっている。こちらのいらだちなど知らぬげに、悠々としている感じだった。 「武藤は、どの辺にいると思うね?」  と、十津川が、相変らず、小声で、聞いた。 「警部は、この周辺といわれましたね」 「ああ。彼女が、マンションを出て、ここに来るまでの間に、われわれは、武藤に見られたと、思うね。だから、近くにいることは、間違いないんだ」 「しかし、今、路上にいるとは、思えませんね。道路に立っているというのは、無防備な感じになるものです。警察に追われている武藤が、そんな、無防備な真似をするとは、思えません。いつでも、逃げられるように、車の中にいるか、ここと同じような、喫茶店か、スナックみたいなところに、隠れていると、思いますが」  と、亀井は、いった。 「武藤の方も、携帯電話を持っているとすれば、別に、電話の近くでなくても、圭子は、連絡できる筈《はず》だ」 「そうです」 「一度、外へ出てみるか?」  と、十津川は、いった。 「西本たちと、交代するんですか?」  と、亀井が、聞いた。 「そうだ。一か八《ばち》か、やってみようじゃないか。われわれが、諦《あきら》めて、引き揚げたように見せるんだ」 「信用するでしょうか?」 「だから、賭《か》けさ」  と、十津川は、いった。      4  十津川と、亀井は、ゆっくり立ち上って、その喫茶店を出た。  ちらりと、圭子に眼をやると、彼女は、相変らず、窓ガラスの外を、眺めていた。その先に、武藤がいるとは、思えなかった。その視線が、動かないからである。  二人は、外に出た。手をあげて、タクシーを拾う。 「まっすぐ、走ってくれ」  と、十津川は、いった。  タクシーが、半蔵門の方向に向って、走り出す。 (武藤は、きっと、見ているだろう)  と、十津川は、確信していた。  四谷を通過し、麹町《こうじまち》に入る。 「スピードをゆるめてくれ」  と、十津川は、運転手に、いった。  腕時計に眼をやる。七分少々経過している。 「もういいだろう」  と、十津川は、亀井に、いった。  亀井が、肯く。 「Uターンしてくれ」  と、十津川は、運転手に、いった。  タクシーが、Uターンする。 「さっきの店の前へ行ってくれ。スピードをあげてくれ」  と、十津川は、いった。  タクシーが、スピードをあげる。十津川と、亀井は、じっと、前方を見すえた。もし、武藤が、あの店の近くにいて、十津川を見張っていたとすれば、タクシーで、立ち去ったと見て、店に入って行ったか、或いは、彼女を、呼び出しただろう。  突然、十津川の眼が、点になった。 「失敗《しま》った!」  と、叫ぶ。  ビルの二階のその店の辺りから、白煙が、あがっているのが、見えたからだった。  二人は、タクシーから飛び降りて、店のあるビルに、駈《か》け込んだ。  何があったのかわからなかったが、まずいことになったのは、わかった。  二階へ行く階段に、ガラスの破片や、コンクリートの破片が、散乱している。 (爆弾だ!)  と、思った。  人の呻《うめ》き声が、聞こえて来る。店の入口のガラス戸は、粉々に砕け散っている。  店の中は、白煙が渦巻いていて、よく見えない。  十津川は、つまずいて、転びかけた。人間が横たわっていたのだ。  椅子《いす》や、テーブルの一部が、燃えている。  二人は、窓際に突進した。白煙にむせながら、眼をこらした。  窓ガラスも、割れて、飛び散っている。  圭子が、横たわっているのが、見えた。 「救急車!」  と、十津川は、怒鳴った。が、答える者はいない。  亀井が、泳ぐようにして、カウンターにある電話のところへ、歩いて行った。カウンターの傍にも、人が、倒れていた。  亀井は、受話器をつかんで、救急車を呼んだ。  煙が、少しずつ、消えていく。  十津川は、咳《せき》込みながら、店の中を、見廻した。四、五人の男女が、店に倒れているのがわかった。  まもなく、救急車二台が、到着し、救急隊員が、倒れている男女を、担架で、運び出した。  その中に、武藤がいるかと、十津川は、一人一人の顔を、のぞき込んだが、彼は、見つからなかった。  亀井が、店に残り、十津川は、圭子と共に病院に向った。  圭子は、息はあるのだが、救急車の中で、十津川が、いくら呼びかけても、返事は、しなかった。  運ばれた病院で、圭子は、すぐ、集中治療室に、入れられた。  十津川は、廊下で、じっと、結果を、待った。 (失敗った——)  という悔いが、彼を、支配して離さない。 (武藤は、どうしたのだろうか?)  市村は、きっと、武藤が店に入ったところで、爆破させたのだろう。とすれば、武藤は傷ついているに、違いない。  なかなか、医者も、看護婦も、出て来なかった。  一時間近くして、やっと、婦長が出て来た。 「どんな具合ですか?」  と、十津川は、聞いた。 「わかりません」  と、婦長が、いう。 「わからないというのは、どういうことなんですか? 助かるんですか?」  十津川は、半ば、喧嘩《けんか》腰で、婦長に、聞いた。 「だから、わからないと申しあげているんです。ひどい状態ですから」  と、婦長は、いった。      5  亀井が、病院にやって来た。彼の顔も、青白い。 「今、西本刑事たちが、現場周辺で、聞き込みをやっています」  と、亀井は、いってから、 「彼女、どんな様子ですか?」 「今、生死の境にいる」  と、十津川は、いった。 「近くにいた人の証言では、爆発の直後、血だらけの男が、飛び出して来て、逃げ去ったということです」  と、亀井は、いった。 「武藤か?」 「どうも、そうらしいです。顔が血だらけだったそうです」 「彼は、助かったのか」 「彼を見た人の話では、重傷のようです。足もとが、よろけていたそうです」  と、亀井は、いった。 「市村を見た人間は、いないのか?」 「いませんが、あのビルは、裏口からも、出られますから」  と、亀井は、いった。 「武藤を、圭子もろとも、殺す気だったのか」 「そうとしか、思えませんね。市村は、何としてでも、殺したかったんでしょう」 「そうだとすると、市村は、いよいよ、次の仕事に、取りかかる気だと思っていいな」  と、十津川は、いった。 「次の仕事って、何だと思われますか?」  亀井が、険しい表情で、聞いた。彼も、十津川も、気が、立っている。 「それが、わからないんだ」  十津川は、口惜しそうに、いった。 「前の二回は、現金強奪でしたね。同じことをやるんじゃありませんか?」 「それなら、仲間を殺す必要はなかったと、思うがね」  と、十津川は、いった。 「そうでしょうか? 小柴克美や、川田晋を殺したのは、二度の現金強奪で、満足して、三度目をやろうとしないので、市村が、怒って、二人を殺したんじゃありませんか?」  と、亀井が、聞く。 「いや、私は、そうは、思わないんだ。小柴や、川田は、二度の現金強奪で、味をしめている筈だ。うまくやったし、容疑者も、浮んでいなかったからね。市村が、もう一度、やろうといえば、多分、乗って来たと、思う。市村は、恐らく、全く違う計画を立てたんだ。だから、二人は、びびってしまったんじゃないだろうか? 危険の多い犯行だからさ」 「現金強奪より危険な犯行なんて、あるでしょうか?」  と、亀井は、首をかしげた。 「あるんだろう。だから、二人は、おじけづいたんだよ」  と、十津川は、いった。 「例えば、どんなですか?」 「そうだな。例えば、殺人」  と、十津川は、いった。 「殺人——ですか?」 「ああ。現金強奪ならば、最初から、殺人は、考えない。結果として、警備員を、殺してしまってもだよ。だが、最初から、殺人が目的なら、ごめんだという人間が、多いんじゃないかね。悪党でもだ」  と、十津川は、いった。 「しかし、いったい、誰を殺すんですか?」  と、亀井は、聞いた。  十津川は、苦笑して、 「それが、わかっていれば、今、すぐにでも、手を打つよ」  と、いった。 「殺人以外に、何か考えられませんか?」 「そうだな。現金強奪より、危険なことだからね」  と、十津川は、しばらく、考えていたが、 「殺人以外だと、考えられるのは、誘拐かね」 「それは、あり得ますね。現金強奪以外に、大金が入って来る犯罪といえば、誘拐か、詐欺《さぎ》ぐらいしか考えられません。詐欺なら、小柴たちも、おじけづかないでしょうから、やはり、誘拐ですね。誘拐は、身代金の奪取が難しいし、捕まれば、刑は、重いから、逃げ出したい気持は、よくわかります」  と、亀井は、いった。 「すると、殺人か、誘拐か」  と、十津川は、いった。 「誘拐でしょう。殺人では、儲《もう》かりませんから」  と、亀井は、いった。 「だが、誘拐となると、対象が、わからなくては、捜査は、出来ないよ」 「一つだけ、市村が狙《ねら》いそうな相手が、いますよ」  と、亀井が、ニッコリした。 「そうか。Kデパートか?」 「そうです。市村にしてみれば、自分を馘《くび》にした会社です。怨《うら》み骨髄に徹しているんじゃありませんか」  と、亀井は、いった。 「ちょっと、待ってくれよ」  十津川は、急に、亀井の発言を遮った。 「標的が、Kデパートというのは、おかしいですか?」  と、亀井が、聞く。 「おかしくはないが、もし、Kデパートを対象に、誘拐を考えているんだとしたら、水野圭子という恰好《かつこう》の人質がいるじゃないか。彼女は、副社長の娘だ。それなら、彼女を誘拐すればいいのに、武藤もろとも、爆殺しようとした。不自然じゃないかね?」  と、十津川は、いった。 「私も、そう思いますが、考えようは、あります。市村は、最後の目標として、Kデパートを考え、副社長の娘の圭子を、誘拐する計画を立てていた。そのために、まだ、彼女のことを愛していた武藤が、反対したんじゃないでしょうか? だから、市村は、彼が、邪魔になり、執拗《しつよう》に、殺そうとした。武藤がいなければ、圭子を誘拐して、Kデパートを、ゆすれますからね。そう考えれば、辻褄《つじつま》は、合って来るんです」  と、亀井は、いった。 「なるほど。カメさんのいう通りだ。そう考えれば、武藤が狙われる理由が、よくわかるね。しかし、人質に取る筈の圭子が、この病院に運ばれて、瀕死《ひんし》の重傷では、あと、誰を狙えばいいんだ? 他に適当な人間はいないだろう?」  と、十津川は、聞いた。 「一人だけいますよ」  と、亀井は、いう。 「誰だ?」 「副社長の水野ですよ」 「圭子の父親を、狙うのか?」 「市村にしてみれば、圭子よりも、父親の水野の方が、憎い筈ですよ。彼を、馘にしたのは、水野だと思っていますからね。うまく、誘拐できれば、身代金が、手に入るし、恨みも、晴らせます」  と、亀井は、いった。 「しかし、Kデパートの副社長を誘拐するというのは、難しいんじゃないかね」  と、十津川は、いった。 「難しいからこそ、小柴や、川田たちは、逃げ出そうとしたんだと思いますよ。誘拐でも、幼児を拐《かどわか》すのなら、それだけは、簡単ですからね。それに、幼児誘拐なら、顔を覚えられる恐れが少いから、身代金と引き換えに、釈放することが出来るが、成人の水野では、殺すより仕方がありませんからね。小柴たちが、二の足を踏んだのも、納得できます。逃げ出そうとしたので、口をふさいだんでしょう」  と、亀井は、いった。 「水野要介の誘拐か」  十津川は、改めて、呟いた。  水野は、Kデパートの副社長だ。秘書が、いつも傍についているだろうし、めったに、外出はしないだろう。まさか、Kデパートに押しかけて、拐すわけにもいくまい。  そんな難しい相手を、誘拐することが、可能だろうか?  その一方で、市村は、水野本人を誘拐したいだろうとも、十津川は、考える。自分を馘にしたのは、副社長の水野と思っているに、違いないからである。 (水野を誘拐するもしないも、市村の憎しみの度合いに、かかっているな)  と、十津川は、考えた。 「もし、彼が、水野副社長の誘拐を考えているとしたら、前の二回の現金強奪は、その準備ということになるね」  と、十津川は、いった。 「そうですね。小柴と、川田は、その分け前を、使って、ぜいたくをしたり、海外へ出ようとしたりしていたようですが、市村は、ほとんど、使わなかったんじゃありませんか。どのくらいの金を、持っているのかわかりませんが、新しく、人間を傭《やと》うぐらいの金は、持っているでしょう。必要なら、銃を買ったり、爆発物を買ったりすることも、可能な筈です」  と、亀井は、いった。 「爆発物か」  十津川は、四谷三丁目の喫茶店が、爆破された状況を、思い出した。  何人もの人間が、倒れて、呻《うめ》き声をあげていた。市村の狙いは、武藤だったのだろうが、その巻き添えになって、店の人間や、他の客が、重傷を負った。その中《うち》には、死者も出るかも知れないのだ。  市村という男は、そのくらいの犠牲者を出しても、平気だということである。  それなら、平気で、暴力的に、水野を誘拐するかも知れないし、身代金を、手に入れたあと、人質を、簡単に殺してしまうかも知れない。 「すぐにでも、対応策を練らなければいけないな」  と、十津川は、いった。  若い日下刑事を呼んで、病院で、圭子の様子を見させておいて、十津川と、亀井は、捜査本部に戻った。  三上部長に頼んで、捜査会議を、開いて貰った。  爆破された喫茶店に行っていた西本刑事も、戻って来て、まず、報告した。 「使用された爆発物は、プラスチック爆弾だと思われます。これは、まず、間違いないだろうということでした。それから、武藤と思われる男が、あのビルの前から、タクシーを拾っています。乗せたタクシーの運転手は、顔を血だらけにした男が、突然、乗り込んで来たので、びっくりしたそうです。その男は、しきりに、『やられた』と、呟《つぶや》いていたということです」 「武藤と思われる男は、何処で、降りたんだ?」  と、三上部長が、聞く。 「四谷三丁目から、信濃町方面に行き、神宮外苑の中で、降りたそうです」 「なぜ、そんなところで降りたんだ? 負傷しているのに」 「わかりませんが、その辺りに、自分の車を、駐《と》めていたのかも知れません」 「プラスチック爆弾が、使われたことは、間違いないのか?」  と、十津川は、聞いた。 「まず、間違いありません。爆薬の専門家が、そういっていました」 「どこから、手に入れたんだろう?」 「金さえあれば、今は、どんなものでも、手に入るんじゃありませんか。専門家は、多分、日本にいる米軍から入手したんだろうと、いっていましたが」  と、西本は、いう。 「ところで、十津川君は、Kデパートの人間が、誘拐されるんじゃないかと、いっていたが、それは、どれだけの確信があるのかね?」  と、三上部長が、聞いた。 「市村が、また、現金強奪事件を引き起こすとは、考えにくいです。亀井刑事と話し合ったのですが、彼が憎んでいるのは、Kデパートにいた頃の上司です。直接の上司ではなく、同族会社のKデパートの経営者でしょう。とすると、考えられるのは、副社長の水野要介です。私怨《しえん》晴らしと金の両方を手にすることが出来ますからね。水野は、副社長で、いつも、傍に、秘書なり、他の社員たちがついているから、誘拐は、難しいだろうと、考えていましたが、プラスチック爆弾まで、手に入れていたとなると、話は、違って来ます。水野の誘拐は、現実味を帯びて来たと、思います」  と、十津川は、いった。 「それで、市村は、今、何処にいるか、わかっているのかね?」  と、三上が、聞く。 「残念ながら、わかりません」 「彼は、一人なのかね? それとも、何人も仲間がいるのかね?」 「それも、わかりません」 「何もわからずか?」 「そうですが、Kデパートの水野副社長が、次の標的であることは、まず、間違いありません」  と、十津川は、いった。 「しかし、犯人について、何もわからないんじゃ、防ぎようがないんじゃないか? いつ、副社長を誘拐するか、日時も、わからんのだろう?」 「わかりませんが、予想する方法は、あると思っています」  と、十津川は、いった。 「どうやってだね?」  と、三上が、聞いた。 「市村の身になって、考えるんです。そうすれば、何かわかって来る筈です。彼は、スーパーマンじゃありません。考えることは、われわれと、似たようなものです」  と、十津川は、いった。 「それなら、すぐ、考えたまえ」  と、三上は、いった。 「亀井刑事と、考えます」 「それで、水野副社長には、私から、警告しておいた方が、いいかね?」 「警告しても、多分、信じないと思いますね」  と、十津川は、いった。 「そうかも知れないな。彼にしてみれば、夢みたいな話だし、彼を誘拐する計画が、実際に、見えるわけでもないからな」  と、三上は、いってから、 「しかし、一応は、警告しておこう。それが、義務だからね」  と、三上は、いった。  慎重派の三上部長としたら、あとで、警告されなかったと、Kデパート側から、苦情を持ち込まれるのが、不安なのだろう。  これは、三上に委《まか》せることにした。  十津川が、やらなければならないことは、現実に起きるかも知れない誘拐に、対処することだった。  捜査会議が終ったあと、十津川は、部下の刑事たちに向って、 「今から、始めるぞ」  と、いった。      6  さまざまな情報が、集ってくる。  水野圭子は、いぜんとして、重態で、意識不明が、続いていた。  武藤の消息も、聞こえて来た。  爆破が起きた日の夕方、甲州街道の代田橋近くの小さな薬局に、武藤と思われる男が現われ、大量の包帯、消毒液、傷薬、鎮痛剤などを、買って行ったというのである。  その店は、老人夫婦がやっていて、事情を聞きに行った北条早苗刑事に向って、 「頭に包帯を巻いていましたよ。包帯といっても、あれは、手拭いか何かじゃなかったかね。とにかく、それが、血で染まって、赤黒くなってましたよ。服なんかも、ところどころ破れて、血がついていましたね。わたしが、どうしたんですかって、聞いても、返事をしなくてね。気味が悪かったですねえ」  と、こもごも、いった。  武藤と思われるその男は、車を、店の前に乗りつけたというから、外苑の中で、タクシーから、自分の車に乗り換え、代田橋のこの薬局に、やって来たと思われる。老夫婦は、車については、詳しくないので、車種は、わからなかった。  その武藤の行方を知ることも、大切だったが、それ以上に、やはり、市村が、いつ、水野副社長を誘拐するかを、知ることの方が、今は、大事だった。 (市村なら、どうするだろうか?)  と、十津川たちは、考えた。  水野の誘拐を計画したなら、まず、水野の毎日の行動スケジュールを、調べるだろう。  水野は、自由業ではなく、Kデパートの副社長である。それも、社長が、高齢なので、実質的な社長として、君臨している。  副社長ともなれば、毎日、気ままに過すわけにはいかない。自然に、ルーティン・ワークになってくる。  そのスケジュールが、わかれば、一番いい誘拐のチャンスが、自然に、選べるだろう。  市村が、一番難しい時に、水野の誘拐を、実行するとは、思えない。彼だって、冷静に見て、一番、楽なチャンスを狙《ねら》う筈《はず》なのだ。従って、十津川たちが、絶好のチャンスと思う時を、市村も、選ぶのではないか。  十津川は、ひそかに、水野の最近のスケジュールを、手に入れることにした。  過去一ヶ月の行動の記録と、今から一ヶ月先のスケジュールである。  もちろん、今後の予定は、あくまで予定だが、過去一ヶ月の実際の行動を見てみると、予定と、ほとんど、違わないことが、わかった。  水野は、几帳面な男であり、それに、最近の不況は、デパート業界にも、押し寄せているから、水野は、社員に、ハッパをかけるために、毎日、朝早くから、出勤している。  車は、ロールス・ロイスで、五十五歳の運転手が、運転する。車の中で、水野は、自動車電話を使い、重役たちや、取引き先と、連絡をとる。  帰宅時間は、決っていないが、出勤は、必ず、午前九時に家を出て、デパートのオープンする午前十時には、すでに、着いている。  もう一つ、水野は、月一回、新幹線か、飛行機を使って、支店に出かける。  スケジュール表を見ると、五日後の今月二十日に、名古屋支店に出かけることになっていた。使用するのは、新幹線である。  もう一つ、二十五日に、取引き先の一つであるS繊維の社長の娘の結婚式に出席という予定があった。  式場は、Gホテルのくじゃくの間である。  十津川は、狙うとしたら、この三つの中の一つではないかと、考えた。 [#改ページ]  第七章 最後の戦い      1  十津川は、水野要介に会って、誘拐の危険について、改めて、警告することにした。  水野には、何もいわずに、市村が現われるのを待った方が、逮捕のチャンスは、大きくなるだろうが、危険がわかっていて、何もしないわけにはいかなかった。  特に、慎重派の三上部長が、気にしたので、まず三上からも警告してあった。そのため、十津川は、亀井と、水野要介に会いに出かけた。  会ったのは、Kデパート本社の社長室である。水野の肩書きは、副社長だが、社長が、病気がちなので、実質的に、社長として、動いているのだろう。  それだけに、水野は、自信にあふれていた。  十津川は、その水野に向って、誘拐の危険があると、伝えた。 「それも、ただの誘拐ではないと思っています。身代金を取ったあと、あなたを、殺すかも知れません」 「誰が、そんなことをするんだね?」  水野は、じろりと、十津川を睨《にら》んだ。 「市村という男です」 「確か、うちで、馘首《かくしゆ》された男だな?」 「そうです。お嬢さんに、爆発物を使って、重傷を負わせた疑いがあります」  と、亀井がいうと、水野は、顔を赤くして、 「そんな奴《やつ》なら、なぜ、逮捕せんのかね? 君たちは、警察官だろうが。危い危いというだけが能じゃあるまい。私に誘拐の危険があるならなぜ、すぐ逮捕して、私を安心させてくれんのだ?」 「もちろん、全力をあげて、市村を探し出しますが、水野さんも、注意して頂きたいと、思います。何をするかわからない男です。銃を持っています。ダイナマイトも、持っています」  と、十津川は、いった。 「市村よりも、あいつは、どうしている?」 「誰のことですか?」 「武藤だよ。私を裏切った武藤だよ」 「探していますが、行方《ゆくえ》はつかめません。ただ、お嬢さんと一緒に、爆発にあって、負傷していると、思われます」 「いい気味だ。離婚したのに、娘につきまとうから、そんな目にあうんだし、娘も、あんな大|怪我《けが》をしてしまった。見つかったら、責任を取って貰《もら》うつもりだ」  と、水野は、大きな声を出した。 (武藤が、圭子さんにつきまとっているのではなく、あなたが、強引に別れさせたが、まだ、二人とも、愛し合っているんですよ)  と、十津川は、思ったが、それは、口にしなかった。 「とにかく、注意して下さい」  と、念を押して、十津川は、亀井を促して、立ち上った。  Kデパート本社を出てから、亀井が、ぶぜんとした顔で、 「ああいう人間は、好きになれませんね」  と、いった。  十津川は、亀井の、そんな正直ないい方に、苦笑して、 「私だって、好きになれないが、殺させるわけにはいかんよ」  と、いった。 「いうことを聞きますかね?」 「いくら威張っていても、命は惜しいだろう」  と、十津川は、いった。  十津川の予測は、当っていたようで、水野は、外出の時、ボディガードを二人、連れて歩くようになった。  二人は、社員の中から選ばれた、二十七歳と、三十歳の男で、柔道と、空手の有段者だということだった。  水野は、偉そうにいっていたが、やはり、怖いのだろう。  自宅から出勤の時も、ロールス・ロイスには、助手席に一人、リアシートの水野の横に、もう一人のボディガードが、乗ることになった。 「あれでは、誘拐は、ちょっと難しいですよ」  と、亀井は、十津川に、いった。 「支店廻りにも、あの二人のボディガードが、同行するんだろう?」 「と、思います」 「市村が、どう出るかだな」  と、十津川は、いった。  市村も、金で、何人か傭《やと》っているかも知れない。彼等を使って、何をする気だろうか?  十津川は、水野の動きを、監視していた。彼を、守るためである。  水野は、二十日に、名古屋支店に、新幹線で、出かけるが、この時も、十津川は、刑事を同じ列車に、乗り込ませるつもりだった。  その四日前、十六日に、事件が、起きた。      2  Kデパートの六階は、文具、玩具《がんぐ》、カメラなどの売場である。  そこのトイレで、午後六時三十分、閉店間際に、爆発が、起きたのだ。  男子用トイレの一番奥の個室に、爆発物が、仕掛けられていたのである。  丁度、その時、トイレに入って来た五十歳の男が、吹き飛んでドアに衝突して、負傷したが、死者は、出なかった。  もし、その個室に、客が入っていたら、間違いなく、死んだろうが、犯人は、なぜか、ダイナマイトを仕掛けたあと、その個室のドアに、「故障中」の札を、かけておいたのである。  使用されたダイナマイトは、一本、それに、信管をつけ、目覚時計が、タイマーとして、使われた。  十津川と、亀井は、翌日、現場を見に行った。  六階のトイレには、ロープが張られていた。  二人は、そのロープをくぐって、中に入った。 「たいして、こわれていませんね」  と、亀井が、いった。 「それに、犯人は、ダイナマイトを仕掛けた個室に、故障中の札をかけていたらしい。誰も入らないようにね。つまり、これは、警告なんだ。いや、脅《おど》しかな」  と、十津川は、いった。 「多分、そうでしょう」  と、亀井が、いった時、突然、甲高いアナウンスが、聞こえた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈お知らせ致します。お知らせ致します。ただ今、ちょっとした事故がございましたので、安全のため、避難して頂きます。危険は、ございませんので、係員の誘導に従って、避難して下さい。危険はございませんので、係員の誘導に従って下さい。お願い致します〉 [#ここで字下げ終わり]  そのアナウンスが、何回も、繰り返される。  十津川と、亀井は、トイレを、飛び出した。店員が、必死に、客たちを、階段の方へ、連れて行っている。  十津川は、胸に、主任の札をつけている男をつかまえて、警察手帳を見せ、 「何があったんだ?」  と、聞いた。 「わかりません。とにかく、お客を、外に出せといわれています」  と、相手は、いう。 「責任者は?」 「五階の外商部に行けば、そこに誰かいると、思いますが——」  と、主任は、いう。  十津川と、亀井は、階段を、五階に駈《か》け降りた。  五階の奥に、外商部がある。そこに行くと、五十歳くらいの男が、青い顔で、出て来た。  十津川は、その男をつかまえ、警察手帳を突きつけて、 「これは、何なんですか?」  と、聞いた。  男は、声をふるわせた。 「外から、電話があったんです。時限爆弾を仕掛けた。間もなく、爆発するってです。昨日のことがあるので、とにかく、お客を、避難させなければいけないと——」  と、いう。 「相手は、男ですか?」 「そうです。男の声です。なぜ、うちが、狙われなければ、ならんのですか」  と、男は、また、声をふるわせた。  結局、爆発は、起きなかった。  次の日も、昼過ぎに、Kデパートに、爆弾を仕掛けたという電話があった。  いたずらかも知れないと思いながらも、一人でも犠牲者が出てはと思い、Kデパートは、客を、一斉に、避難させた。  この時も、爆発は、なかった。  新聞、テレビが、それを、報道した。  十津川は、十六日のトイレの爆破の意味を、了解した。  あれは、単なる警告ではなかったのだ。脅《おど》しでもなかった。  嫌がらせの始まりだったのだ。トイレを爆破しておいて、そのあと、電話をかけ、時限爆弾を仕掛けたという。あの爆発があるから、いたずらと思っても、その度に、店内にいる客を、避難させなければならない。それが、狙いだったのだろう。  もちろん、市村たちが、こんなことで、満足する筈はない。  これは、連中にとって、第一歩にしか過ぎないのだ。  十九日に、突然、水野が、十津川に、電話をかけて来て、至急、会いたいと、いった。  十津川は、亀井と、Kデパートの社長室に向った。  行ってみて、今日が、Kデパートの休日だと、知った。  がらんとしたデパートに、二人は、通用門から入った。  水野は、社長室に、十津川たちを迎えると、二人のボディガードを、外に出してから、一通の封書を取り出して、十津川の前に置いた。  ワープロで、表には、次のように、書かれていた。 〈水野要介副社長殿〉  差出人の名前はない。  十津川は、封筒の中身を、取り出した。三枚の便箋《びんせん》が入っていて、それにも、ワープロを使った文字が、書かれている。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈どうだ? 困っているか? お前のデパートは、危くて、おちおち、買物も出来ないという評判が立ち始めているぞ。  また、デパートの何処《どこ》かに、爆弾を仕掛けてやる。どこがいいかね? 紳士服売場がいいか? 婦人服売場がいいか? それとも、地下の食品売場がいいか? どこでも、お望みの場所を、爆破してやるよ。ダイナマイトは、まだいくらでもあるんだ。その中《うち》に、お前のデパートは、閑古鳥《かんこどり》が鳴くようになるぞ。  だが、これだけですむと思ったら、大間違いだ。  これは、始まりだ。おれたちは、Kデパートが潰《つぶ》れるまで続ける。それに、お前自身も、痛めつけるぞ。最近ボディガードを連れ歩いているようだが、そんなことで、自分を守れると思ってるのか? 百人、二百人傭ったって、お前を殺すぐらい簡単なんだ。殺そうと思えば、いつでも殺せるんだ。ただし、すぐには殺さない。怯《おび》えさせ、口惜しがらせてから殺してやる。楽しみに待っているんだな〉 [#ここで字下げ終わり]  十津川は、眼を通したあと、それを、亀井に渡した。  水野は、さすがに、怯えたような眼になっている。 「市村が、書いたと思いますか?」  と、十津川は、聞いた。 「そんなワープロでは、誰が書いたかわからないよ。警察は、犯人がわかっているんだろう? わかっているんなら、捕えたら、いいじゃないか。なぜ、捕えられないんだ?」  水野は、怒ったような声で、いった。 「逮捕には、全力をあげています」  と、十津川は、いった。 「言葉だけでは、信用できんよ。今のまま、私のデパートが、脅迫されたら、客が、一人も来なくなってしまうじゃないか。今だって、お客の数が減少しているんだ」 「警官を、店内に、張り込ませてもいいんですが、それでは、かえって、評判を悪くしてしまうんじゃないかと思い、遠慮しているんですが」 「制服の警官が、どかどか入って来られたら、評判を悪くするよ。その辺りは、うまくやってくれればいいじゃないか」  と、水野は、文句を、いった。 「次の爆破だけは、絶対に防いでくれ。私も、明日の名古屋支店行きは、来週に延して、店内を見張る。まさか、お客が沢山いる中で、狙おうとはしないだろう」  とも、いった。  十津川は、刑事たちを、私服で、Kデパートの中に、もぐり込ませることにした。  デパートの保安係にも、市村の写真を見せて、警戒を強めることにしたが、これは、あまり役に立ちそうになかった。市村は、二回の現金強奪事件で、大金を手に入れている筈だから、自分で、爆弾を持ち込むことは、まず、ないだろうと、思うからだった。金で傭った人間に、持ち込ませればいいのだ。  翌二十日は、水野は、名古屋支店には行かず、社長室で、がんばった。  十津川たちは、午前十時のオープンから、店内に入り、客にまぎれて、見張ることになった。  二十人の刑事が動員されたが、広いデパートでは、その数も、ひどく頼りなく思えた。  デパートの保安係は、水野にハッパをかけられたために、やたらと、客をチェックして、口論になったりした。  午後二時。  デパートの最上階にある食堂街の一軒で、爆発が、起きた。  ファミリーレストランの隅で、テーブルの下に置かれた爆発物だった。  Kデパートの袋に入っていて、ウェイトレスが見つけ、客の忘れ物と思って、近寄った時、爆発したのである。  そのウェイトレスは、両手を負傷して、救急車で、近くの病院に運ばれた。  客に負傷者が出なかったのは、午後二時で、客の少い時間帯だったからである。  しかし、ファミリーレストランで、爆発が起きたことは、たちまち、店内の客たちに伝わり、あわてて、帰って行く客がいた。代りに、テレビや、新聞記者たちが、飛んで来た。 「今度も、威力の小さい爆発物を使っていますね」  十津川は、亀井と、焦げた床や、横倒しになったテーブルなどを見ながら、小声で、いった。 「そうですね。わざと、そうしているような気がします」  と、亀井が、いう。 「その代り、犯人のやり方は、執拗《しつよう》だ」  と、十津川は、いった。  十津川は、犯人の強い意志を感じるのだ。脅迫状に書かれていたように、犯人は、Kデパートに客が一人も来なくなるまで、この爆破を、続けるのではないのか。  十津川たちは、問題の袋を置いて行った客の特定を急いだが、肝心のウェイトレスが、病院に運ばれてしまったので、中年の男らしいとしか、わからなかった。  続いて、男の声で、Kデパートの交換に、 「他にも、爆弾を仕掛けたぞ。早く客を避難させないと、死人が、沢山出るぞ」  という電話が、かかってきた。  それで、大騒ぎになり、店員たちは、客を避難させ始めた。      3  十津川と、亀井は、Kデパートの屋上に出て、そこから、逃げ出して行く、客の姿を、見下していた。 「これを、犯人も、何処かで、見ているんじゃありませんか」  と、亀井が、いった。 「多分、見ているだろうね。見て、快哉《かいさい》を叫んでいると、思うよ」  と、十津川も、いった。 「警部のいわれるように、犯人は、執拗ですね」 「それで、私は、犯人に対する考え方を、変えなければいけないんじゃないかと、思い出しているんだよ」  と、十津川は、いった。 「どんな風にですか?」 「犯人は、水野を憎んでいる。だから、彼を殺すか、誘拐するかするんじゃないかと思っていた。だが、今までのところ、Kデパートを、じわじわと、痛めつけている。水野にも腹を立てているだろうが、どうも、Kデパート自体に、憎しみを持っているような気がして来たんだよ」  と、十津川は、考えながら、いった。 「市村が、そんなにまで、Kデパート自体を、憎んでいたとは、思いませんでしたね。彼が憎んでいるのは、自分を馘《くび》にした水野副社長だけだと思っていたんですが」  と、亀井は、いった。  下を見ると、デパートから避難した客たちが、道路の反対側に集って、デパートの方を、注目していた。次の爆発が起きるのを、楽しんでいるのかも知れない。恐怖に襲われて、避難したのだが、安全地帯に逃げたとたんに、野次馬に、変化したのだ。 「私だって、市村が、そんな根深い憎しみを持っていたとは、思っていなかったし、今だって、思っていないよ」  と、十津川は、いった。  亀井は、十津川を見て、 「と、いうことは、この連続爆破の犯人は、市村じゃないと、思われるんですか?」  と、聞いた。 「違うんじゃないかと、思い始めているんだよ。現金強奪事件を起こしたり、探偵社にいる時、水野要介の素行調査をしたのは、彼だと思っているよ。正確にいえば、彼と、仲間だろうね。だが、この、じわじわと締めつけるようなやり方は、市村じゃないような気がするんだよ」  と、十津川は、いった。 「市村じゃなければ、誰ですか?」  と、亀井が、聞く。 「市村でないとすれば、あとは、ひとりしかいないさ。武藤だ」  と、十津川は、いった。 「しかし、武藤は、喫茶店の爆破で、負傷しているんじゃありませんか?」  と、亀井が、首をかしげた。 「だが、もし、今回の犯人が武藤だとしたら、あの負傷は、芝居だったことになる」  と、十津川は、いった。 「しかし、警部。もし、芝居だったら、圭子を殺そうとしたのも、市村ではなく、武藤ということになってくるんじゃありませんか」  亀井は、半信半疑の顔で、いった。 「確かに、そうなって来るね。あの喫茶店の爆破だけじゃなく、松江で、圭子が射《う》たれて、それは、犯人が、武藤を狙《ねら》ったのに、弾丸がそれて、彼女に当ったと考えたのも、おかしくなってくる」 「最初から、狙いは、圭子だったということになりますか?」  と、亀井は、聞いた。 「そうなって来るんじゃないか」  と、十津川は、いった。 「武藤が、圭子を、殺そうとして、松江に呼び出したということになるんでしょうか? 今までは、武藤は、Kデパートを追われたが、妻の圭子は、いぜんとして、彼を愛しているし、彼の方も、彼女を愛していると、われわれは思っていたんですが、その考えも、訂正しなければならなくなりますね」  亀井は、重い口調になっていた。 「われわれが考えていた以上に、武藤の憎しみが、強かったということだろうね。多分、武藤は、水野一族全てが、憎いんじゃないか。自分を罠《わな》にはめ、Kデパートから追い出した水野一族がね」  と、十津川は、いった。 「その中に、妻の圭子も、入っているんでしょうか?」 「彼女の方は、自分は、違うと思っているんじゃないかな。だが、武藤の眼には、彼女も、憎むべき一族の一員でしかなかったんじゃないかね。だから、悪いことはやめてくれという圭子が、うっとうしかったと思う。だから、松江に呼びつけて、自分が狙われたように見せかけて、圭子を、殺そうとしたんだと思うね」  と、十津川は、いった。 「水野一族に、復讐しようと思っていたのなら、圭子を殺さずに、彼女を人質にとって、身代金を要求した方が、よかったんじゃありませんか? なぜ、そうしなかったんですかね?」  亀井が、不思議そうに、聞く。 「カメさんなら、そうしたかね?」 「ええ」 「武藤にしたら、圭子は、心理的な障害になっていたんじゃないかな」  と、十津川は、いった。 「心理的な障害——ですか?」 「ああ、武藤は、水野一族に、復讐することを、決意していた。そのための資金集めに、現金強奪を、やった。だが、圭子は、ひたすら、武藤を愛して、彼に、そんなことをするなと、いっていたんじゃないかな。圭子が、武藤に冷たければ、平気で、彼女を誘拐して、父親の水野要介に、身代金を要求できたと思うよ。しかし、圭子が、ひたすら、よりかかって来ると、それも出来ない。邪魔になり、最後は、憎んだんじゃないかね」  と、十津川は、いった。 「何となく、わかるような気がしますが」  と、亀井は、いった。  西本が、呼びに来て、二人は、ファミリーレストランに、戻った。  爆発箇所を調べていた消防署員が、目覚時計を使った時限装置で、午後二時に、セットされていたと、いった。  三上刑事部長も、駈《か》けつけて来て、 「次の爆発の前に、何とか、犯人を、逮捕するんだ。さもないと、警察の信用が、がた落ちになってしまうからな」  と、十津川に、強い声で、いった。 「犯人は、わかっています」  と、十津川は、いった。 「それなら、すぐ、逮捕したまえ」  と、三上は、いった。 「犯人は、わかっていますが、犯人は、大金を持っています。二度の現金強奪によって得た金です。その金で、いくらでも、ダイナマイトは、手に入れられるでしょうし、人を傭《やと》うことも出来ます。時限爆弾も作れます。傭った人間に、それを、Kデパートに、持って行かせているに違いありません。従って、犯人は、わかっていても、時限爆弾を、持って来る人間が誰かは、わからんのです」  と、十津川は、いった。 「すると、犯人を捕えることは、出来ないというのか?」  と、三上は、不満気に、聞く。 「そうはいいません。間もなく、犯人は、捕まると思っています」 「なぜだね?」 「犯人は、Kデパートと、水野一族を憎んでいると、思います。それも、激しくです。とすれば、Kデパートに、爆発物を仕掛けるだけで、満足しているとは、思えないのです。必ず、水野副社長自身を、狙うと思います。その時が、逮捕のチャンスだと、私は、考えています」  と、十津川は、いった。      4  三回目の爆発は、Kデパートのオモチャ売場で、起きた。  爆発したのは、午前十時ジャスト。開店して、どっと、客が入って来た時間である。  ダイナマイトは、大きな熊のぬいぐるみの中に、仕込まれていて、午前十時に、爆発するように、セットされていたのである。  前日の午後七時に、店が閉まるまでの間に、犯人が、置いたものと考えられた。恐らく、その熊の人形は、Kデパートで前もって、購入されたものと思われる。  犯人は、持ち帰って、中に、時限装置つきのダイナマイトを詰め、翌日の午前十時に爆発するようにセットし、Kデパートの袋に入れて持ち込み、人形売場に、そっと、置いておいたのだろう。  爆発は、大きかったが、死者も、怪我《けが》人も出なかった。あと、五、六分おくれていれば、多分、子供連れが、何人か、死んでいた筈である。  犯人は、それを避けるために、わざと、午前十時に、爆発をセットしたのだろう。  午前十時に、店が開く。最初に入った客が、エレベーターで、五階のオモチャ売場に直行しても、五、六分は、過ぎてしまう。つまり、犯人は、絶対にお客を傷つけないように、時限爆弾を、仕掛けたのだ。  しかし、Kデパートと、お客に与えた心理的効果は、大きかった。  開店と共に、オモチャ売場にやって来た客たちは、焼け焦げたオモチャや、散乱したオモチャを見て、青ざめた。  デパート側は、あわてて、五階だけでなく、全館を閉鎖し、警察を、呼んだ。  新聞、テレビも、大きく取りあげた。これで、Kデパートの、どの売場も、危険だということになってしまった。  その上、犯人は、マスコミに、声明文を送りつけ、「今後も、Kデパートを、危険な状況におくつもりである」と、言明した。  それも、報道された。  当然、非難が、警察に集中した。なぜ、犯人を捕えられないのか、なぜ、好き勝手にやらせておくのか。  Kデパートからも、警察への抗議が、送られて来た。何とかして欲しいと、抗議と、哀願の入りまじったものがである。  三上本部長も、十津川を呼びつけては、叱責《しつせき》した。 「これだけ、犯人が、Kデパートを攻撃しているのに、なぜ、一人も、逮捕できないんだ?」 「逮捕しようと思えば、簡単です」  と、十津川は、いった。 「じゃあ、逮捕したまえ」 「その代り、毎日、Kデパートに来る全てのお客の身体検査を、させて貰《もら》えますか? そうすれば、少くとも、爆発物を、Kデパートに持ち込むのは、防げます」 「そんなことが、出来るかね? 客が、一人も来なくなってしまうよ」  と、三上は、いった。 「その通りです。だから、犯人を逮捕できないのです。それに、もう一つ、犯人は、Kデパートに、今のところ、何も要求して来ていません。大金を要求して来れば、その金の受渡しの時に、逮捕ということが出来るんですが、そうしたチャンスが、ありません」  と、十津川は、いった。 「それなら、やられっ放しということかね? それでは、警察が、何のためにあるか、わからんじゃないか。私のところには、毎日、警察は、何をしているんだという非難の手紙と、電話が来ているんだよ」  と、三上は、その何通かを、十津川の前に、叩《たた》きつけるように、置いた。  十津川は、それを、手に取ってから、 「私のところにも、来ています」 「それなら、あれこれ理屈をいってないで、一日も早く、犯人を逮捕したまえ」  と、三上は、命令口調で、いった。 「日時は、約束できませんが、間もなく、逮捕できると、思います」  と、十津川は、いった。 「それを、記者会見で、いって構わないのかね?」  と、三上が、聞く。 「構いません」 「なぜ、間もなくと、いい切れるんだね?」  と、三上が、半信半疑の顔で、聞いてくる。 「犯人は、Kデパートを痛めつけるだけで、絶対に、満足はしない筈《はず》です。必ず、水野副社長を、直接、狙《ねら》います。殺すか、誘拐するかは、わかりませんが、どちらかを、やると、思っています。その時が、逮捕のチャンスです」  と、十津川は、いった。 「しかし、いつになるかわからんのだろう? 今の調子で、犯人が、Kデパートに、時限爆弾を仕掛け続けていったら、いつまでたっても、犯人は、捕まらんじゃないか」 「犯人は、そんなに、忍耐強くありませんよ」  と、十津川は、いった。      5  犯人は、わかっている。  武藤だ。いや、正確にいえば、武藤と、その仲間と、呼ぶべきだろう。  市村が、その中で、どういう位置を占めているのか、十津川には、はっきりとは、わからなかった。しかし、二人の目的は、一致しているから、Kデパートと、水野要介攻撃の場合は、協力するだろう。  十津川は、武藤の気持を、考えてみる。  彼が、いかに、Kデパートと、水野一族を憎んでいるかは、姓を武藤に戻し、自分が、まだ、圭子に、未練があるように見せかけながら、彼女の殺害を企てたことでもわかる。  今、武藤は、現金強奪で手に入れた金で人間を傭い、ダイナマイトを買い、Kデパートを、痛めつけている。  しかし、客足が、Kデパートから遠のくのを見て、喜んでいるのは、愉快犯の喜びだ。武藤が、そんなことで、満足できる筈がない。満足できるのなら、今までに、何人もの人間を、殺しはしなかった筈だからだ。  武藤は、最後には、水野一族、特に、副社長の水野要介を、殺す気なのだ。だから、仲間が、逃げ出そうとしたのではないか。  現金強奪に際して、たまたま、ガードマンを殺してしまったのは仕方がないが、最初から、水野要介を殺すという話には、小柴克美、川田晋も、ついて行けなくなって、逃げようとしたに違いない。だから、武藤は、彼等の口を封じてしまった。  市村は、同じく、水野要介を憎んでいるので、武藤に、ついて来ているのではないのだろうか? (間もなくの筈だ)  と、十津川は、考えた。  Kデパートに来る客の数は、激減した。  デパート側では、必死で、安全を強調し、店内のガードマンを、倍増したが、効果は、なかった。  警官や、ガードマンの数が増えれば、客は、それで安心感を持たずに、逆に、不安感を持ってしまうのだ。  亀井が、新聞を手にして、 「これを見て下さい」  と、十津川に、いった。  亀井が示したのは、いわゆる三行広告の欄だった。 〈真面目に話し合いたい。金は用意する。 [#地付き]M〉  「Mは、水野か?」  と、十津川は、呟《つぶや》いた。 「ではないかと思うのです。五大紙全部に、のっています」  と、亀井が、いった。 「水野が、お手あげになって、犯人に、呼びかけたのかも知れないな」 「金ですむことならと、思ったんでしょう」 「新聞社の方は、どういってるんだ? Kデパートか、水野に依頼されたと、いってるのか?」  と、十津川は、聞いた。 「いえ。問い合せたところ、各新聞の広告社にやって来た男の人相は、全部、違います。そのくせ、文面は、全部、同じです。それに、話し合いたいといいながら、連絡先の電話番号が、書いてありません」 「つまり、相手が、よく知っているという前提になっているわけだね」 「そうです」 「とすると、Mは、水野の可能性が、強いね」  と、十津川は、いった。 「犯人も、当然、これを見ると思うんです」  亀井が、いう。 「だろうね」 「見たあと、犯人が、どう出るかです」 「水野の方は、今でも、金で解決できると考えていても、武藤の方は、そう考えていないとなると、危いことになるな」 「水野は、予定していた支店行きも、中止していますし、呼ばれていた大事な結婚式にも、出席していません。やはり、怖いんでしょう」  と、亀井は、いった。 「それかも知れないな」  十津川が、急に、眼を光らせた。 「何がですか?」 「武藤が、Kデパートを痛めつけながら、水野に、直接、手を出さなかった理由さ。もちろん、まず、デパートを、痛めつけてから、という気もあったろうが、水野が、まわりをかため、めったに、外出しなくなったことにも、原因があったのかも知れないと、思ったんだよ」  と、十津川は、いった。 「なるほど、外に出て来ない水野は、殺せないということですか?」  亀井も、肯《うなず》いた。 「そうさ。武藤は、水野が、支店に行く時や、友人の子供の結婚式に出席する時を、狙っていたかも知れない。だが、水野は、二つとも、キャンセルしてしまった。このところ、水野は、自宅から、デパートまでの間しか、動いていない。その間も、彼のベンツには、屈強な二人の男が乗っているし、われわれ警察も、護衛している。武藤は、その途中で、襲いたくても、襲えなかったのかも知れない」 「これから、どうなりますか?」 「それを考えると、この広告は、武藤に、格好のチャンスを与えてしまうかも知れないな」  と、十津川は、いった。 「水野が、犯人の武藤と、闇《やみ》取引をしてしまうからですか?」 「そうだよ。武藤は、水野に対して、殺すなどとはいわずに、さも、金ですむみたいなことをいうんじゃないかね。どこそこに、金を持って来いと、命じて呼び出し、水野を、殺そうとする可能性がある」  と、十津川は、いった。 「水野に会って、警告しますか?」 「とにかく、電話してみよう」  と、十津川が、受話器を取った時、水野の自宅の監視に当っていた西本と、日下の二人から、緊急連絡が入った。 ——今、水野が、ベンツで、自宅を出ました 「今日は、デパートは休日だろう。何処へ行くつもりなんだ?」 ——わかりません。とにかく、尾行します 「絶対に、まかれるなよ」      6 「呼ばれて、出かけたんでしょうか?」  と、亀井が、強い眼で、十津川を見た。 「他に考えられないよ。水野は、金で解決できると思って、犯人の呼び出しに応じたんだろう」  と、十津川は、いった。  刻々と、西本たちから、連絡が入ってくる。  水野のベンツは、東名高速に入った。十津川は、清水と北条早苗のパトカーにも、東名に向うように、指示した。 「われわれも、出かけよう」  と、十津川は、亀井を促した。  二人が、パトカーで向ったのは、東名ではなく、警視庁のヘリポートだった。  電話で、連絡しておいたので、五人乗りのヘリが、待機してくれていた。十津川と、亀井が、乗り込むと同時に、舞いあがり、東名高速に向う。  十津川は、今日は、水野が危いと思っていたから、地上だけの監視では、不十分だと、思ったのである。  地上を、追跡している西本たちから、機上の十津川に、無線連絡が、入ってくる。  その声が、突然、乱れた。 ——くそ! 水野の車を見失いました 「どうしたんだ?」 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ——向うが、突然、スピードをあげたとたんに、大型トラックが、割り込んで来まして—— [#ここで字下げ終わり] 「東名高速を走ってるんだ。スピードをあげて、追いつけ!」 ——見つけました! 「水野の車に、間違いないのか?」 ——大丈夫です。色も、ナンバーも同じベンツです 「現在位置は?」 ——横浜インターを過ぎたところです 「わかった。こちらも、すぐ、追いつく」  十津川たちの乗ったヘリが、スピードをあげた。  眼の下に、東名高速が、西に向って、伸びているのが、見えてきた。  あまり、混雑はしていない。  午後三時四十分。  前方に、清水と、北条早苗の乗ったパトカーが、見えてきた。  更に、その前方に、西本と、日下のパトカーが見えた。  一台、関係のない車を入れて、ベンツが、見えた。プレートナンバーで、水野の車と、確認する。 「何処へ行く気でしょう?」  と、亀井が、聞いた。 「わからないが、武藤が、呼び出したことだけは、確かだよ」  と、十津川は、いった。 「曇って来ましたよ」  と、仲田操縦士が、いった。  頭上に、厚い雨雲が、広がって来るのが、わかった。 「雨になると、困りますね」  と、亀井が、心配そうに、いった。 「東海地方は、夕方から、雨になるそうです」  と、仲田が、いう。  その言葉どおり、次第に、暗くなってくる。 「少し、低く飛びましょう。見失うといけないから」  と、仲田が、いった。  下を走るベンツは、厚木インターを通り過ぎて、更に、西に走り続ける。  突然、激しい爆発音と共に、大きく、ヘリがゆれた。  仲田操縦士が、あわてて、機を立て直す。  一瞬、東名高速上で、車が、燃えあがるのが見えた。が、たちまち、視界から、消えてしまった。 「戻ってくれ!」  と、十津川が、仲田に向って、怒鳴った。  ヘリは、反転して、降下しながら、元の位置に戻って行く。 「燃えているのは、ベンツですよ! 水野のベンツですよ」  と、亀井が、叫ぶ。  仲田が、その頭上で、ヘリを、ホバリングさせる。  十津川は、東名高速の上で、燃えている車に、じっと、眼を注いだ。  あのベンツが、燃えているのだ。その後方で追突して動かない何台かの車が見えた。車から降りた人たちが、燃えているベンツに、近寄って行く。その中に、西本たちもいる筈だった。 「何が起きたか、知らせるんだ!」  と、十津川は、無線電話に向って、怒鳴った。  やっと、西本からの連絡が、入った。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ——突然、ベンツが、爆発したんです。時限爆弾が仕掛けられていたんだと思います [#ここで字下げ終わり] 「それで、乗っていた水野は?」 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ——今、日下刑事が、見に走っていますが、火勢が強くて、近寄れないようです [#ここで字下げ終わり] 「何とかしろ!」  と、十津川は、思わず、怒鳴ってしまった。  西本の声が、日下に、代った。 ——おかしいです 「何が、おかしいんだ?」 ——運転していた男は、死んでいますが、水野じゃありません 「誰なんだ?」 ——市村です 「他に乗っていないのか?」 ——市村だけです 「どうなってるんだ?」 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ——わかりません。水野の自宅を出た時は、彼が、運転していたんです。彼が、ひとりで運転していたことは、西本刑事と二人で、確認しています。それが、いつ、市村と、入れ替ってしまったのか—— [#ここで字下げ終わり] 「ベンツを見失った時があったな?」 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ——はい。東名横浜インターの手前です。しかし、すぐ、見つかりましたし、プレートナンバーも確認しました [#ここで字下げ終わり] 「その時、入れ替ったんだ」 ——そんな時間は、なかったと思いますが 「車ごと入れ替ったんだよ」 ——しかし、ナンバープレートが 「そんなものは、いくらでも、偽造できるじゃないか。武藤は、金を持ってるんだ」 ——どうしたらいいでしょうか? 「君と、日下刑事は、その先を、調べてくれ。水野のベンツは、先に行っているかも知れないからね。清水刑事と北条刑事は、逆に、横浜まで戻るんだ。あの辺りで、東名から、出たかも知れないからね」 ——わかりました 「早くやれ!」  十津川は、下の光景を見ながら、命じておき、次に、仲田操縦士に向って、 「横浜インターまで戻ってくれ」  と、声をかけた。  ヘリが、機首を横浜方面に向けて、スピードをあげた。  幸い、東に飛べば、雲が少くなり、雨の心配も少くなってくる。  あっという間に、東名高速横浜インターチェンジの真上に、戻った。  もちろん、そこに、問題のベンツが、待っている筈がない。 「何処《どこ》を探しますか?」  と、仲田操縦士が、聞く。 「私にもわからん」 「それなら、このインターを中心にして、輪を広げて行きましょう。お二人は、よく、見ていて下さい」  と、仲田は、いった。  清水と、北条早苗のパトカーも、横浜インターに戻って来た。  上と下で、連絡を取りながら、捜索の範囲を、少しずつ、広げて行った。  だが、水野のベンツは、なかなか、見つからない。時間が、空しく、過ぎていく。ヘリの燃料も少くなってくる。 「君が、武藤なら、殺したい相手を、何処へ連れて行くかね?」  と、十津川は、亀井に、聞いた。 「ただ殺すだけですか?」 「いや、それなら、東名を走らせたりはしないだろう。殺す前に、恨《うら》みつらみを相手に、いって聞かせる気だ」 「それなら、山の中か、海岸へ連れて行くんじゃありませんか」  と、亀井が、いう。  山か、海か、武藤は、どちらへ、水野を連れて行ったろうか? 「早く、決断して下さい。両方へ行く燃料は、ありません」  と、仲田操縦士が、せかせるように、いった。 「海にしよう」  と、十津川は、いった。 「どの辺の海ですか?」 「三浦半島を、南下して欲しい」  と、十津川は、いった。何の成算があるわけでもなかった。この辺りで、静かな海を考えた時、三浦半島しか、思い浮ばなかったからである。  地上の清水と早苗にも、三浦半島行きを命じた。  ヘリは、逗子、葉山、長者ヶ崎と、半島の西海岸沿いに飛んだ。東海岸より、こちら側の方が、静かだったからである。横須賀のような街に連れ込むなら、東京の中でも、良かった筈だからである。  冷夏の海は、人影も、ほとんどなかった。だが、水野のベンツも、見つからない。  ふいに、仲田操縦士が、 「あれ、違いますか?」  と、前方を、指さした。  人の気配のない砂浜に、車が一台、ぽつんと、停まっているのが、見えた。海岸沿いの道路から、海辺に、その車は、降りて行ったのだろう。 「ベンツですよ」  と、亀井が、いった。  だが、プレートのナンバーが、よく見えない。すでに、周囲が、うす暗くなっているのだ。  しかし、砂浜に、ポツンと置かれているのが、異様だったし、気になった。 「あの砂浜に着陸できないか?」  と、十津川は、仲田操縦士に、聞いた。 「海岸の幅が狭いから、無理ですよ」 「どうしても、降りたいんだ」 「海へ飛び込む気なら、何とかなるかも知れませんよ」  と、仲田は、いった。  ヘリが、海面すれすれまで、降下する。 「飛び降りて下さい」  と、仲田が、いった。  十津川は、ドアを開けた。海面までは、まだ、かなりの高さがある。幸い、風もなく、海面に、波はない。 「カメさん。行くぞ!」  と、声をかけておいて、十津川は、身を躍《おど》らせた。  しぶきがあがって、十津川の身体は、海中に、沈んで行く。必死で、海面まで、浮きあがる。  顔が、水面に出ると、大きく、息をついた。  亀井も、浮きあがって、 「大丈夫ですか?」  と、声をかけてきた。 「ああ、大丈夫だ」  と、十津川はいい、浜辺に向って、泳ぎ出した。服を着たままの身体は、やたらに重く、泳ぎづらい。何とか、泳ぎつくと、それを、見守っていたヘリは、上昇し、羽田方面に、飛び去って行った。  二人は、しずくをたらしながら、ベンツのところまで、歩いて行った。車内には、人の姿はない。ナンバープレートを見ていた亀井が、 「ナンバーは、合っています。水野の車です」  と、興奮した口調で、いった。  十津川は、内ポケットから、拳銃を取り出して、改めて、周囲を、見廻した。  人の姿はない。  水野は、何処へ消えたのだろうか? いや、何処へ、連れて行かれたのだろうか?  それとも、すでに、殺されてしまったのだろうか?  やがて、清水と、早苗のパトカーも、到着した。 「この近くに、水野が、連れて行かれたことは、間違いない。連れて行ったのは、武藤だ。何とか見つけ出すんだ!」  と、十津川は、刑事たちに向って、大声で、いった。      7  寂しい海岸だった。  ところどころに、別荘と思われる建物が見えるが、どの建物も、遠くから見る限り、ひっそりとしている。  バブルがはじけて、売れなくなった別荘なのだろうか? どれも真新しい。 「一軒ずつ、調べてみよう」  と、十津川は、亀井たちに、いった。  十津川と、亀井、それと、清水と早苗の二組に分れて、当ることにした。  清水と早苗が、パトカーで、走り出したあと、十津川と、亀井は、犯人が放置したと思われるベンツに、乗り込んだ。  キーは、差し込んだままになっている。亀井が運転して、海辺から、山腹に造られた別荘の一つに向って、走り出した。 「武藤の奴《やつ》、いったい、何を考えているんですかね? 圭子を殺そうとし、仲間たちを殺し、今度は、水野を殺す気なんでしょう。そのあと、どうする気なんですかね?」  と、運転しながら、亀井が、聞いた。 「水野を殺すことが、最終目的なんだろう。Kデパートも、さんざん、痛めつけたからね」  と、十津川は、いった。 「まだ、殺してないと、いいんですが——」  と、亀井は、いった。  最初の一軒の門の前で、車を降りる。表札はなかった。が、空き家という感じではなかった。  十津川が、インタホーンを鳴らした。が、返事は、ない。  十津川は、押し続けた。が、いぜんとして、反応はない。普通なら、諦《あきら》めて、次に移るのだが、今日は、それではすまなかった。とにかく、人間一人の生命《いのち》が、かかっているのだ。  十津川は、辞職を覚悟で、亀井と、門を乗り越えて、邸内に入った。  車庫に、車はなかった。庭に廻ってみたが、人の気配はなかった。  どうやら、留守とわかって、二人は、車に戻った。  清水たちに渡しておいたトランシーバーから、連絡が、入って来た。向うも、一軒目を調べたが、武藤や、水野は、見つからなかったという。  十津川たちは、二軒目に、かかった。  一軒目より、大きな家だった。  ここも、表札はない。  今度は、亀井が、インタホーンを押した。が、返事がないのも、前の別荘と、同じだった。  もう一度、押してみる。返事は、聞こえて来ない。 「もう一度、やりますか?」  と、亀井が、小声で、いい、二人は、門の鉄柵を、飛び越えた。  中庭に、廻る。  きれいな芝生が、広がり、そこで、別荘の主は、ゴルフのパターの練習でもしていたらしい。  庭から、家の中を、のぞいてみた。  庭に面して、広い応接室がある。カーテンの隙間《すきま》からのぞいた亀井が、「あっ」と、小さな声をあげた。 「どうしたんだ? カメさん」  と、十津川が、小声で、聞いた。 「人が、死んでいます」 「誰が?」 「わかりません。女ですね」  と、亀井が、いう。  十津川も、のぞき込んだ。  ブルーの絨毯《じゆうたん》の上に、五十歳くらいの女が、仰向けに倒れているのが、見えた。  はっきりとはしないが、死んでいるということだけは、わかる。じみな和服姿で、別荘の主というより、留守番という感じだった。 「入ってみよう」  と、十津川は、いった。  トランシーバーで、清水たちに連絡しておいてから、十津川と、亀井は、拳銃で、アルミサッシのガラス戸を叩《たた》き割り、家の中に、入って行った。  中年の女は、眼をむいて、倒れている。頭の下から、血が流れて、絨毯に、しみ込んでいるのが、わかった。多分、後頭部を、何かで、手ひどく殴りつけられたのだろう。  一階の他の部屋も手早く調べた。が、誰もいなかった。 「二階だ」  と、十津川は、小声で、いった。  二人が、二階への階段をのぼりかけた時、突然、上から、 「あがるな! あがって来たら、水野を殺すぞ!」  という、叫ぶような声が、降りかかって来た。  十津川は、足を止めて、 「武藤だな?」  と、上に向って、いった。 「時間がくるまで、下に降りているんだ」  と、武藤の声が、いった。  それに、続いて、水野要介の悲鳴に似た声が、聞こえた。 「いう通りにしてくれ! さもないと、私は、殺される!」 「武藤。何をしようとしてるんだ?」  と、十津川が、いった。 「正義の回復だよ」  武藤の抑えた声が、答える。 「正義だって? 笑わせるな」  と、亀井が、小声で、いい、小さく、舌打ちをした。 「武藤、君と話し合いたいんだ」  と、十津川が、いうと、武藤は、 「もう少し、気のきいたことが、いえないのか。警視庁捜査一課が、お粗末だぞ」  と、いい返して来た。 「カメさん。一度、階下へ降りよう」  と、十津川は、小声でいい、亀井を促して、一緒に、引き退《さが》った。 「武藤の奴、何をしているんでしょうか? 今、水野の首を絞めて、殺そうとしているんじゃありませんかね?」  と、亀井が、聞いた。 「それなら、面倒なことをいわずに、さっさと殺して、今頃、逃げているさ」  と、十津川は、いった。 「じゃあ、何を、今更?」 「正義の回復といってたな?」 「はい」  と、亀井が、肯《うなず》いた時、二人のこわした庭先のガラス戸から、清水と、早苗の二人が、入って来た。緊張した顔で、 「武藤は?」 「二階だ。水野も一緒だ」  と、十津川は、いった。 「二階にあがったら、水野を殺すと、いっているんだ」  と、亀井が、いった。 「何とか、二階の様子が、わかるといいんですけど」  と、早苗が、いった。 「それが、難しい。階段をあがって行けば、水野が殺される。さっき見たんだが、二階の踊り場のところに、小さな犬の置物があった」  と、十津川は、いった。 「何ですか?」  と、清水が、聞く。 「あれと同じものを、前に、電気店で見たことがあるんだ。簡単な音波発信機みたいなもので、人間が、五メートル以内に近づくと、警報が鳴る」 「武藤が、持ち歩いているんでしょうか?」 「いや、この別荘にあったものだと思うね。使わない時、用心のために、置いておくんだろう」 「それでは、階段をあがれませんね」 「安物だが、今のままでは、階段は使えない」 「外から、あがれないか、調べてみます」  と、清水と、早苗は、庭に出て行った。  十津川は、二階の気配を、窺《うかが》った。  武藤の怒鳴り声も、水野の悲鳴も、聞こえて来ない。何が行われているのか、十津川にも、見当がつかなかった。  亀井が、庭に出て行った。が、戻って来ると、 「清水が、樋《とい》伝いに、二階にあがって行くようです」  と、十津川に、報告した。 「大丈夫なのか? 武藤は、銃を持っているかも知れないぞ」 「用心するように、いっておきました。くれぐれも、様子を見るだけで、武藤を、捕えようなんて、思うなとです」  と、亀井は、いった。  その清水が、汗をかきながら、応接間に戻って来た。 「二階の洋間で、水野が、何か書いていました。それを、武藤が、見守っていました」  と、清水は、十津川に、報告した。 「何か書かされているのか?」 「そうです」 「いったい、何をだろう?」 「わかりません」 「何か、誓約書でも、書かされているんじゃありませんか?」  と、横から、早苗が、いった。 「誓約書か」 「ええ」 「書き終ったら、殺す気かも知れませんよ」  と、亀井が、いった。  多分、そうだろうと、十津川も、思った。  今、二階で、水野が、何を書いているのか、わからない。誓約書か、謝罪文か。しかし、武藤は、そんなものを書かせて、どうする気なのだろうか?  とにかく、書き終れば、武藤は、水野を殺すだろう。何とか、それを、食い止めなければならない。もう、殺人は、沢山なのだ。 「二階から、飛び込めそうか?」  と、十津川は、清水に、聞いた。 「ガラス戸を破れば、入れると思います」 「そこから、二人のいる場所までの距離は?」 「約八メートルです」 「飛びかかるには、距離があり過ぎるな」 「そうですね。窓から入るから、助走はつけられません」  と、清水は、いった。  間を置けば、武藤は、水野を、殺してしまうだろう。そのあと、武藤を逮捕できても、それでは、警察の敗北だ。  ふいに、表で、車が停まる音がして、背広姿の若い男が、入って来た。  十津川が、その男を、押さえて、 「何しに来たんだ?」 「何しにって、電話で呼ばれて来たんですよ」 「呼ばれた? 誰に? 君は、何者なんだ?」 「武藤という人です。ああ、僕は、週刊Pの人間です。Kデパート脅迫の真相のわかるメモを渡すといわれましてね」  と、男はいい、名刺を、十津川に渡した。  確かに、名刺には、週刊P編集部「加東清人」と、書かれてある。 「武藤さん!」  と、加東は、二階に向って、呼びかけた。 「週刊Pの加東です」 「来てくれたのか」 「ええ。本当に、Kデパート脅迫の真相が、聞けるんですか?」 「そうだ」 「話が、本当だという証拠は?」 「おれが、犯人だからだよ。下にいる刑事さんに聞けば、わかる。おれを捕えに来てるんだ」  と、武藤が、大声で、いう。 「それで、話は?」 「原稿とメモを、今、渡す。必ず、のせるんだろうな? 警察や、Kデパートからの妨害があっても、自主規制したりはしないだろうね?」 「大丈夫ですよ。そんなヤワな週刊誌じゃありません」 「それなら安心だ」  と、武藤は、いい、大きな封筒を、二階から投げた。 「受け取ったか?」 「受け取りました」  と、加東が、大声で、答える。 「その中に、犯人のおれの原稿と、Kデパートの責任者の反省メモが入っている。それを、次号にのせてくれ。ただ、のせてくれればいい」  と、武藤は、いってから、 「十津川さん。その記者の邪魔はしないでくれ。邪魔をすれば、今、ここで、水野を殺す」  と、いった。 「わかってる」  と、十津川は、いい、自由に、加東を、出て行かせた。  十津川は、それを見送ってから、二階に向って、 「もう、いいだろう。下に降りて来たまえ」  と、声をかけた。 「捕まれというわけか?」 「水野副社長を、殺すなと、いってるんだ。これ以上、死人を出す必要が、どこにあるんだ」 「それは、警察の勝手な理屈だろう。おれには、おれの理屈があるんだ」 「とにかく、話を聞きたい。君にも、いいたいことが、沢山ある筈だ。それを、じっくりと、聞かせて欲しい。私たちは、いくらでも、聞く耳を持っているんだ」  と、十津川は、いった。 「おれのいいたいことは、全て、原稿にして、今の記者に、渡したよ。週刊Pの次号を見てくれ。ああ、水野一族が、いかに、あくどいことをやっていたかも、同じ号に、のる筈だ」  と、武藤が、いった。 「それなら、なお更、もう水野副社長を、解放してもいいだろう。すぐ、階下に、降ろしたまえ」  と、十津川は、いった。 「ところが、水野は、ここで、死にたいと、いってるんだよ」  と、武藤が、いった。 「助けてくれ!」  と、水野が、叫んだ。 「武藤、やめろ!」  と、二階に向って、亀井が、怒鳴った。 「今から、秒読みを始める」  いやに落ち着き払った武藤の声が聞こえた。  冷たいものが、十津川の背筋を、走った。 「逃げろ!」  と、十津川は、叫んだ。  亀井、清水、それに、早苗が、家の外に飛び出した。十津川が、最後に、別荘の外に向って、駈《か》け出した。  それを追いかけるように、爆風が、走った。      8  轟音《ごうおん》と、爆風。  ばらばらと、木片や、コンクリートの破片が、降り注ぐ。  十津川は、振り返った。  別荘の二階が、消えている。いや、爆破され、一階に、落下したといった方が、正確かも知れない。  続いて、炎が、噴き出した。  熱風が、十津川たちに、襲いかかって来た。  それでも、十津川たちは、炎の中に、武藤と水野を、探そうとした。  ふと、煙の中に、人影を見たような気がしたが、それも、たちまち、燃えあがる炎の中に、見えなくなってしまった。 「畜生!」  と、亀井が、叫んだ。 「一一九番しろ!」  と、十津川は、清水に向って、怒鳴った。  女の早苗も、顔を、赤く火照《ほて》らせながら、燃えあがる建物を、見つめている。 「無茶をしやがる」  と、亀井が、歯がみをした。  別荘は、燃え続ける。  やがて、サイレンを鳴らして、消防車が、一台、二台と、駈けつけて、消火作業が、始められた。  放水が始まると、火は、たちまち、小さくなり、やがて、炎が消え、白煙だけになった。  十津川たちは、消防隊員に、警察手帳を見せ、まだくすぶっている焼け跡に、隊員と一緒に、踏み込んで行った。  死体が、三つ、見つかった。  少しでも、息があれば、すぐ、病院へ運びたかったのだが、どの死体も、すでに、魂《こと》切れていた。  武藤と、水野の死体、それに、お手伝いの死体である。それほど、焼けてはいなかったから、すぐ、顔を、見分けることが出来た。 「こんなことをしやがって」  と、十津川は、武藤の死体に向って、呟《つぶや》いた。 「これで、事件は、終ったんでしょうか?」  と、亀井が、小声で、聞いた。 「武藤は、最後の目的を果して、死んだんだ。これで、終ったんだよ。金で、彼に傭われて、Kデパートに、時限爆弾を、仕掛けた人間がいるだろうが、肝心の武藤が、死んでしまった今、彼等が、名乗り出て来ない限り、探し出すのは、不可能だよ」  と、十津川は、いった。  三つの死体は、解剖のために、大学病院に送られ、捜査本部では、最後の捜査会議が、開かれた。  十津川が、これまでの事件の経過について、報告した。 「犯人である武藤を、逮捕できなかったのは、本当に残念です。私が、武藤を、甘く見たためです。水野を殺すことは、予測できましたが、自分もろとも、爆殺することは、予期できませんでした。彼は、最初から、自分に関係した人間を、全て殺し、自分も、自殺する気でいたんだと思われてなりません」  と、十津川は、いった。 「それは、どういうことだね?」  と、三上本部長が、聞いた。 「私は、最初、こう考えていたのです。武藤は、Kデパートと、水野副社長に、復讐するため、自分と同じ目にあった市村と組み、また、九州で殺された小柴や、川田と、手を組んで、まず、現金強奪を働き、復讐に必要な金を、集めました。そのあと、いよいよ、Kデパートへの復讐に入ることにしたが、それに、小柴と、川田が反対した。金にならないし、危険だからです。そこで、口封じに、二人を、殺してしまった。また、離婚した水野圭子も、邪魔になるということで、市村の仕業にして、殺そうと図ったのだとです」 「違うのかね?」  と、三上が、聞く。 「違っていました」 「どこがだね? なぜ、違うと思うんだね?」 「今もいいましたように、武藤は、最初から、死を覚悟していたし、最後になって、あの別荘に、週刊Pの記者を呼んで、自分の書いたものと、水野を脅《おど》して書かせたメモを渡したからです」  と、十津川は、いった。 「その辺りのことを、もう少し、詳しく、説明して欲しいね」  と、三上が、催促する。 「武藤は、多分、自分は、正しい人間で、自分の行動は、全て、正しいと思うような男だと、私は、考えました」  と、十津川は、いった。 「そういう人間は、多いさ」  と、三上は、いった。 「武藤の場合は、少し、それが、強過ぎるのだと思います。水野要介によって、彼は、Kデパートから追放されました。もちろん、悪いのは、水野要介を始めとする水野一族ですが、武藤の方にも、どこか、悪いところがあったんじゃないかと思うのです。しかし、武藤は、悪いのは、百パーセント水野側、Kデパート側にあると考え、復讐するのは、百パーセント正義だと、思い込んでいたと思うのです。現金強奪も、正義です」  と、十津川は、いった。 「そんな馬鹿なことがあるか。現金強奪では、ガードマンが、殺されているんだぞ」  三上は、眼をとがらせた。 「そうですが、武藤という男は、そうは、考えないのです。だからこそ、最後に、自分の主張を書いたメモと、脅して、水野に書かせたメモを、週刊Pの記者に渡し、自分の死後に、のせさせることにしたんだと思います」  と、十津川は、いった。 「それは、仲間の殺害と、どう関係してくるんだね?」  と、三上は、聞いた。 「武藤が、自己主張のメモを、週刊誌にのせても、仲間が生きていて、警察に自供してしまえば、嘘《うそ》が、ばれてしまいます」 「だから、前もって、小柴や、川田を、殺したというのかね?」 「それに、市村もです。彼も、殺されています。圭子も、同じことです。私は、彼女が、今でも、武藤のことを愛しているので、それが、精神的に重荷になり、復讐の邪魔になるので、殺そうとしたのだと、思っていたのですが、今は、違います。小柴たちと、同じ理由で、圭子も殺そうとしたのだと思います。今回の事件に関係した人間が、一人でも生きていて、真実を証言されると、困るからですよ」  と、十津川は、いった。 「武藤は、自分の死後のことまで、心配して、次々に、殺していったというのかね?」  三上は、半信半疑の表情で、聞いた。 「そうです」 「それは、君が、そう思うだけなんだろう? 小柴と川田の二人や、市村は、仲間割れから殺されたのかも知れんだろう?」 「それは、来週になって、週刊Pが出れば、はっきりしますよ」  と、十津川は、いった。  捜査本部は、解散された。  それから三日後に、週刊Pが出た。表紙にまで、大きく、 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈Kデパート脅迫事件の真相。犯人が、遺書で語る真実。悪いのは、Kデパートと、水野一族だ!〉 [#ここで字下げ終わり]  と、書かれてあった。  十津川と、亀井は、その記事を、読んだ。  十津川の予想は、適中していた。武藤の原稿は、最初から、最後まで、自己主張と、弁明で、貫かれていた。  それを、補足するように、水野要介の手記は、武藤に対して、ひどいことをしてしまった、彼が怒るのも無理はない、自分としては、死んで、武藤に詫《わ》びたいと、書かれてあった。 「ひどいもんですね、これは」  と、亀井が、溜息《ためいき》をついた。 「そうだな。予想以上だったよ」 「これに反対する人間は、全部、消されてしまっているんですからね。武藤の勝ちですね、これは」  と、亀井は、いった。 「ちょっと、待ってくれ」  と、十津川は、急に、電話を取った。  二言、三言、話してから、十津川は、微笑して、電話を切った。 「カメさん。一つだけ、いいことがあったよ。入院していた水野圭子が、やっと、快方に向い出したということだ」  と、十津川は、いった。  亀井も、笑顔になって、 「そりゃあ、よかったですね」 「これで、一人だけ、証人が、死なずにすんだことになる」  と、十津川は、いった。 本書は、一九九四年四月、実業之日本社より刊行されたノベルスを文庫化したものです。 角川文庫『雲仙・長崎殺意の旅』平成9年5月25日初版発行                平成16年3月20日4版発行