[#表紙(表紙.jpg)] 赤い帆船《クルーザー》 西村京太郎 目 次  プロローグ  第 一 章 成功の甘き香り  第 二 章 東京—タヒチ間一千万円レース  第 三 章 一枚の写真  第 四 章 劇的な死  第 五 章 疑惑の風《ウインド》  第 六 章 南十字星の海  第 七 章 捜査の壁  第 八 章 S・O・S  第 九 章 サンゴ礁《しよう》の死  第 十 章 幽霊船  第十一章 疑惑への接近  第十二章 遭 難  第十三章 幻のクルー  第十四章 放 火  第十五章 罠《わな》をかける  第十六章 トリックの解明  エピローグ [#改ページ]  プロローグ      1  十月十八日の深夜、第三|京浜《けいひん》国道を東京都心に向かって、制限速度を越す時速一〇〇キロ以上のスピードで飛ばす一台のスポーツカーがあった。  アイボリー・ホワイトのポルシェ911S「タルガ」である。日本円にして七百万はする高級車だが、運転しているのは、三十二、三の若い男だった。陽焼《ひや》け、というより潮焼けしたその顔は、精悍《せいかん》だが、眼のふちに、かすかな疲労の色が漂っていた。  その車が、多摩《たま》川を渡り、世田谷《せたがや》区内にはいってすぐ、突然、方向感覚を失ったように、反対車線に突っ込んで行った。一瞬の出来事だった。  第三京浜の中央分離帯には、金網が張ってある。その金網に、激突する形になった。  すぐパトカーが駆けつけたが、そのときには、スポーツカーの白い車体は、金網にめり込み、ブリキ板のように潰《つぶ》れてしまっていた。  アイボリー・ホワイトのポルシェ911S、その逞《たくま》しく、華麗な車体は、いまや、ひとかたまりの鉄屑《てつくず》に化し、運転していた男は、血だらけで、即死していた。  パトカーの警官は、そのひん曲がった車体の中に辛うじて手を突っ込み、やっと車検証を取り出した。 〈内田洋一《うちだよういち》〉  と、そこに書いてある所有主の名前を見て、警官は、ちょっとびっくりした眼になって、血だらけの死体に眼を向けた。  ヨット好きの若い警官は、内田洋一の名前をよく知っていた。いや、彼だけでなく、いま、日本人のほとんどが、内田洋一の名前を知っているだろう。内田洋一は、二五フィートのヨットで、単独無寄港《ノンストツプ》世界一周に成功した現代の英雄だったからである。  油壺《あぶらつぼ》にある内田洋一の家に連絡する一方、警官たちは一時、第三京浜の一部車線の交通を止め、実地検証に当たった。もちろん、救急車の手配もした。  現場はゆるいカーブだが、見通しは悪くない地点である。内田がブレーキをかけた痕跡《こんせき》はなかった。  後続車の運転手の証言によると、内田は、一〇〇キロ以上で飛ばしていたようである。警官は、ふと、中央高速道路で事故死したボクシング選手のことを思い出した。場所はちがえ、状況が似ていたからである。あのボクシング選手の場合も、アメリカ製のスポーツカーを一〇〇キロ以上で飛ばしていて、カーブ地点で反対車線に飛び込み、トラックに激突して即死したのである。  ボクシング選手だけに、自分の運動神経を過信し、一〇〇キロ以上のスピードでカーブを曲がれると考えたのが事故につながったというのが、そのときの結論だった。  今度も、同じかもしれないと警官は考えた。  職業はちがっても、内田洋一もスポーツマンである。しかも、同じように一〇〇キロ以上でポルシェをすっ飛ばして来た形跡がある。たぶん、そのまま、このゆるいカーブを曲がれると思っていたのだろう。そうしたら、急に片方の車輪が浮き上がって、中央分離帯の金網に激突してしまったにちがいない。  パトカーの警官が、そう結論を下したとき、救急車が駆けつけた。が、隊員たちが、グシャグシャに潰れた車体から、内田洋一の死体を引き出すことは不可能だった。仕方なくアセチレンガスが運ばれて来て、潰れた車体の何か所かを焼き切ってから、ようやく、頭蓋骨《ずがいこつ》が潰れ、顔も身体《からだ》も血だらけになった死体が、外へ引き出された。  救急車が、内田の死体を乗せて走り去ったあとになって、やっと、新聞記者やカメラマンが知らせを聞いて駆けつけ、「こいつは、ひでえなあ」と、口々に呟《つぶや》きながら、白い鉄屑になったポルシェの残骸《ざんがい》と、ひん曲がった金網に向かって、フラッシュを焚《た》いた。      2  内田洋一の死体は、パトカーに先導された救急車で、近くの前田《まえだ》病院に運ばれた。即死であることは、警官にも救急隊員にもわかっていたから、死体を病院に運んだのは、助けるためではなく、死因を確認するためにすぎなかった。  深夜なので、病院には当直の三十代の若い医者と、看護婦しかいなかったが、医者は、死体を見、警官の話を聞いてから、「まあ、頭蓋骨骨折による死亡でしょうね」と、診断を下した。念のための解剖のほうは、内田洋一の家族が来てから、その承認を取って行なわれることになった。  内田洋一の妻、亜矢子《あやこ》が、ハイヤーで油壺の家から前田病院に駆けつけたのは、約一時間後だった。時間は、すでに十月十九日にはいっていた。  すらりと背の高い、理知的な美人だった。内田と彼女が結婚したときは、TVや週刊誌でも、賑《にぎ》やかに報道されたから、警官も、彼女の顔には記憶があった。  亜矢子は、蒼《あお》ざめた顔で、夫の死体を確認したが、確認し終わったとたん、ふらふらと倒れかけ、警官の一人が、あわてて彼女の身体をささえ、近くにあった椅子《いす》に腰かけさせた。  彼女は最初、夫の遺体を解剖することに反対した。見るも無残に変わり果てた夫の遺体を見て、それをさらに解剖するということに反対するのは、妻としたら当然のことかもしれない。それでも、警官が、死亡診断書がどうしても必要だからと、根気よく説得すると、彼女も、やっと同意してくれた。  解剖のため、病院の副院長が駆けつけ、遺体が手術室に運ばれたあと、警官は、「これは、あくまで、念のためですが」と、断わってから、亜矢子に、 「なぜご主人は、あんな時刻に、第三京浜を飛ばしていらっしゃったんですか?」  ときいた。努めてなにげなくきいたつもりだったが、亜矢子は顔色を変えた。 「なぜ、そんなことまで答えなきゃいけませんの? これは単なる事故なんでしょう?」  意外に強い反撥《はんぱつ》に、中年の警官は、いささかあわてて、 「これも仕事でして——」と、言いかけてから、なにげなく、相手の下腹部に視線をやり、その辺りが、かすかにふくらみを持っているのに気がついた。 (妊娠しているのか)  と、思ったとたん、警官は、それ以上、追いかけて質問するに忍びなくなって、口を閉ざしてしまった。  警官が気まずくなって、煙草《たばこ》に火をつけたとき、当直の若い医者が、妙に緊張した眼《め》つきで、手術室から出て来た。警官は、ほっとした表情になって、医者に近づくと、 「解剖のほうは、終わりましたか?」 「いや、副院長が執刀中です。ただ、どうしても、あなたの耳に入れておきたいことができたので」  と、医者は、亜矢子から離れた廊下の隅に、警官を連れて行った。 「いったい、なんです?」 「これは、まだ推定の域を出ませんが、内田洋一さんは、単なる事故死じゃないかもしれません」 「なんですって? 先生はさっき、遺体を見て、死因は頭蓋骨骨折だと言われたじゃありませんか?」 「あなたの報告や、血まみれの遺体を見れば、他に考えられなかったからです。しかし、解剖のために、死体を拭《ふ》き清めたところ、皮膚に、毒物反応と見られるものが発見されたのです」 「本当ですか?」 「正確なことは、解剖の結果を見なければわかりませんが、まずまちがいないでしょう」 「というと、いったい、どういうことになるんですか?」 「内田さんが、事故の前に、毒を飲んでいたとすると、単なる事故死ではなくなるでしょう?」 「確かにそうです」  警官は、うなずくと、病院前にとめてあるパトカーに向かって走った。これがもし事故死でなく、殺人なら、捜査一課の仕事になるからである。 [#改ページ]  第一章 成功の甘き香り      1  それより二か月前の八月三日の朝、内田洋一を乗せた二五フィートの|外洋ヨット《クルーザー》「マーベリック㈵世号」は、十一か月間(正確にいえば三二六日間)にわたる単独無寄港《ノンストツプ》世界一周という輝かしい成功を引っ下げて、八丈《はちじよう》島沖を北上していた。  事件は、この時点で、すでに始まっていたといってもよかった。 「マーベリック㈵世号」が、当時まだ無名だった内田洋一という三十二歳の青年一人を乗せ、神奈川県油壺のヨット・ハーバーを出港したのは、十一か月前、正確にいえば、去年の九月十二日の朝であった。  目的は、単独無寄港世界一周である。  二年前、K・H氏が、同じように、単独無寄港世界一周をめざして、西宮《にしのみや》港を出港した。三本マストという新設計のクルーザーで、K・H氏も、自信満々の出発だったが、出港後二日目に、強風で、新設計のマストが次々に折れるというアクシデントがあり、海上保安庁の巡視船に救助されるということがあったため、内田洋一の「マーベリック㈵世号」の出港が近づくにつれて、無謀だとか、功名心ばかり先走っていて、技術が、それに伴っていないのではないかといった、ヨットマン仲間からの批判もあったし、海上保安庁も、「規制はできないが、できれば、無謀な航海は中止してほしいと思っている」と、暗に警告したものだった。  だが、内田洋一は、「ぼくは、一〇〇パーセントの成功を信じている」と言い残して、出港したのである。  内田が、この航海に賭けた執念の中には、十年前、単独太平洋横断に成功したK・Hへの激しいライバル意識があったことは、否定できない。  それに、K・Hが、もう一度、この冒険に挑戦するらしいという噂《うわさ》も聞いていた。  どんな世界でもそうだが、最初の成功者が英雄である。大西洋横断飛行を考えてみるといい。単独で大西洋横断飛行に成功した飛行士は、リンドバーグだけではない。だが、最初の成功者になったリンドバーグだけが、英雄視され、彼の愛機スピリット・オブ・セントルイス号は博物館に飾られ、その飛行は映画化された。  ヨットの世界も同じである。いや、飛行機の世界には、速度をあげ、時間を短縮していく道が残されているのに、風まかせのヨットでは、急激な時間短縮は望めない。となれば、どの世界よりも、最初の成功者にならなければ、意味がないのである。  K・Hが、太平洋単独横断に成功したときの日本中の騒ぎっぷりは、一種、狂気じみていた。無名の一ヨットマンにすぎなかったK・Hは、一躍、現代の英雄になり、彼が書いた本はベストセラーになり、そして映画になった。似ている点で、小型リンドバーグといえるだろう。  K・Hのあと、太平洋横断をめざす単独ヨットマンがいなかったわけではない。何人かがアタックし、成功した者もあったし、中には、横断だけでは、K・Hと同じだと考えたのか、太平洋の往復に成功したヨットマンもいた。だが、彼らは、ほとんど騒がれなかったし、彼らの書いた本は、ベストセラーにはならなかった。  そして、後続者の名前が、次々に忘れられていくのに、K・Hの名前だけは、依然として、世間に覚えられているのである。  後続者たちが、K・Hより楽な航海をしたわけではない。海はつねに危険が伴う。気候の激変で、K・Hより危険で困難な航海をした者もいたはずである。  だが、世間というものは、そうは見ないのだ。世間を代表し、リードする形のマスコミも同じである。最初の成功者に対して、彼らは、「冒険に成功した英雄」扱いするが、後続の人間に対しては、「単なる航海に成功したヨットマン」扱いしかしないのだ。  冒険は、つねに冒険であるはずである。だが、世間もマスコミも、そうは考えない。二度目からは冒険が冒険でなくなってしまう。  だからK・Hが、太平洋横断に成功したとき、切歯扼腕《せつしやくわん》したヨットマンも数多かった。口では、「わが国ヨット界の壮挙」と持ちあげながら、「あんな若僧にしてやられて」と、陰で口惜《くや》しがっていたベテラン・ヨットマンが数多くいたことを、内田は知っていた。  内田自身も、もちろん、その一人だった。年齢がK・Hに近かっただけに、口惜しさも人一倍だった。もともと、傲慢《ごうまん》だと悪口を言われるくらい自尊心の強い性格の内田である。ヨット歴も、さして自分とはちがわぬK・Hの成功は、激しいショックであった。  それだから、二年前、K・Hが、新設計のクルーザーで、単独無寄港世界一周に西宮港を出発したのは、新しいショックだった。新聞記者に、同じヨットマンとしての感想をきかれたときは、「あのK・Hさんなら、成功するでしょう」と、笑顔で言ったが、内心では、失敗すればいいと願っていた。それは、明らかに嫉妬《しつと》心だった。スポーツマンは、淡白だといわれ、人がいいといわれる。マスコミもそう書くが、マスコミに書かれるようなスポーツマンは、たいてい勝者である。勝者が、嫉妬心がなく、淡白に見えるのは、当然のことだろう。  単独無寄港世界一周はイギリス人が二人成功しているだけで、もちろん、日本人はまだ、誰《だれ》も成功していない。  内田自身の実感からいっても、スポーツマンほど嫉妬心の強い者はない。勝者か敗者しか存在しない世界なのだから、それが当然なのだとも思っている。  西宮港出港後、三日目にK・Hの失敗が報道されたとき、内田洋一は内心、快哉《かいさい》を叫んだ。  単独太平洋横断の英雄の座をK・Hに奪われ、今度また、単独無寄港世界一周の英雄の座まで、彼の手に握られてしまうことは、功名心に燃える内田としては、絶対に我慢がならなかった。  ただ単に、海を愛し、ヨットが好きでたまらないのだというヨットマンがいなくはないだろうし、本を読めば、ヨットマンは、そうでなければならぬとしている。だが内田は、それだけでは、我慢ができないのだ。現代の英雄でありたいし、現代の成功者でありたい。  だからK・Hの失敗が報ぜられたとき、内田は、K・Hよりも先に、単独無寄港世界一周をなしとげるのは自分でなければならぬと決心し、その準備を始めた。  さいわい、内田の家は資産家で、彼はその家の一人息子だった。  彼は金を惜しまずに、性能の秀《すぐ》れた二五フィートのクルーザーを建造した。その前にK・Hが、ふたたび世界一周に挑戦することも十分考えられたが、一年間は、あの無残な失敗から立ち直れまいというのが、内田の計算だった。新艇ができたからといって、すぐ世界一周に出港というわけにはいかない。少なくとも二、三か月の近海での試走が必要である。K・Hが失敗したとき、その試走が足らなかったのではないかという批判が出た。それだけに、再度試みるとしても、慎重にならざるを得ないはずだからである。  どうやら内田の計算は当たり、約一年後の九月十二日になっても、K・Hはまだ、新艇の建造段階だった。  内田は、月はちがっても十二日という同じ日を、出港の日に選んだが、ここにも、K・Hに対する激しい対抗意識があった。同じ条件のもとで、単独無寄港世界一周を成功させ、K・Hを打ち負かしたかったのである。  九月十二日は、晩夏には珍しく冷たい小雨が降っていた。内田は、可能な限り、自分の出発を宣伝したつもりだったのに、見送りに来た人の数は少なかった。  新聞社も、一社が来ただけである。K・Hが西宮港を出港するとき、テレビ局まで放映したのに比べれば、あまりにもちがいすぎた。内田は、否応《いやおう》なしに、自分と、K・Hの世間の評価の差を感じないわけにはいかなかった。  K・Hが単独太平洋横断したのは、すでに十年前であるにもかかわらず、K・Hは依然として、英雄だったのだ。そして、K・Hなら、単独無寄港世界一周もやりとげるだろうという期待が、各新聞社やテレビ局を、西宮港へ殺到させたのだ。  だが、世間的に無名の内田では、成功はおぼつかないと思って、無視したのだろう。それに、K・Hに比べて彼にはネームバリューもない。その点、世間は冷酷である。それだけに、内田はよけい、「いまに見ろ」と歯がみをしながら、寂しい見送りの中を出港したのだった。      2  そして、十一か月後のいま、「マーベリック㈵世号」は、成功という甘い果実をのせて、八丈島沖に戻って来たのである。日本人で初めての成功である。  十一か月前、内田洋一の名前を知っているのは、ヨット仲間でもほんの一握りだった。功名心に燃えながら、ひたすら悶々《もんもん》としていた三十二歳の無名の青年にすぎなかった。  だが、いまや内田洋一は、かつてK・Hがバイロンの言葉を地で行ったように、一躍、英雄になっていた。最後の難関である黒潮の帯を乗り切り、三宅《みやけ》島に向かって、帆走《セーリング》をさせながら、内田は、頭上に新聞社の取材機が飛び回るのを見上げた。内心では、現金なものだと苦笑しながら、彼は思い切って手を振り、カメラを飛行機に向けて、何度もシャッターを切った。  伊豆《いず》大島に近づくと、取材機に、モーターボートの歓迎陣が加わり、その数は、「マーベリック㈵世号」が、油壺のヨット・ハーバーに近づくにつれて、急激に増加していった。  大島沖は午後五時。このままのスピードで走れば、油壺には、その日のうちに到着できたが、内田はわざと、ここで錨《アンカー》を下ろし、入港を翌日に伸ばすことにした。  もし、油壺到着のとき、夜になっていては危険だからという理由もあったが、本心は、現代の英雄の帰還は、燦々《さんさん》と降り注ぐ陽光のもとでなければならぬ、という計算があったからである。それに、暗くなってしまっていたら、テレビに映らないのではないかという配慮もあった。いまは映像の時代なのだ。テレビが取り上げてくれなかったら、英雄像は片輪のものになってしまうと、内田は、彼なりに計算していたのである。  翌八月四日、午前四時半に、内田は錨《アンカー》をあげ、最後の仕上げのための帆走《セーリング》を始めた。もう少しで、全航程約五万キロの航海は終わる。  午前九時ごろになると、艇に積み込んだトランジスタラジオは、油壺のヨット・ハーバーに、テレビ中継車が集まり、見物人の人垣ができたことを伝えた。  今日は土曜日でも日曜日でもない。とすれば、午後〇時から一時までの時間帯は、どの局もアフタヌーン・ショー的なナマ番組を組んでいるはずである。ちょうどその時間内に入港すれば、その様子が、ナマで茶の間に流されるだろう。それに、新聞のほうも、夕刊に間に合う。  内田は、そうしたことを細かく計算しながら、「マーベリック㈵世号」を油壺に近づけていった。  ヨット・ハーバーに入港したのは、八月四日の午後〇時二十八分だった。内田の計算したとおりの時間だった。「マーベリック㈵世号」が錨を下ろし、多数の見物人に手を振りながら、内田が桟橋にあがると、彼の期待したとおり、テレビカメラと新聞記者が、彼めがけて殺到してきた。  各テレビを代表した形で、NHKテレビのアナウンサーが、内田にマイクを向けた。彼の耳にイヤホーンが差し込まれる。そんなことをしている間も、彼を取り囲んだカメラは、カシャカシャとシャッターの音と、フラッシュの閃光《せんこう》をきらめかせていた。 「赤坂《あかさか》のスタジオに、あなたのご両親に来ていただいています」  と、NHKのアナウンサーが言った。 「この放送は、北は北海道から南は沖縄まで実況中継されています。まず、成功の感想を伺いたいんですが」 「とうとうやったぞっていう喜びもありますが、いまは動かないベッドで寝たいですね。とにかく、十一か月間、一日も、動かない大地を踏まなかったもんですから。こうして立っていても、足が変にふらつきます」  と、内田は笑って見せた。そんな言葉も、大島沖から油壺へはいるまでの間に、考えてきたものだった。あまりさらりと言っても、テレビや新聞の見出しとしては弱い。だからといって、航海中の苦労話をトクトクと喋《しやべ》るのも、嫌味に聞こえるだろう。そんなことまで考えての上陸第一声だったが、そうした配慮が必要なかったほど、テレビ関係者も新聞記者たちも、見物に集まった人たちも、熱狂していた。  内田は、ほとんど暴力的な強引さで、NHKのスタジオにいる両親とあいさつさせられ、それがすむと、大新聞の一つが、「もし航海日誌を発表されるなら、うちで連載させてください」と、申し込んできた。相手は、最初からそのつもりで乗り込んで来たらしく、カメラマンや記者の他にデスクもじきじき姿を見せていた。  内田は、相手の名刺をポケットに納めてから、「考えておきましょう」と、鷹揚《おうよう》に言った。自分でも、いくらか薄気味悪くなるくらいのもて方だった。  彼には、彼自身も計算に入れてなかった幸運があった。  一つは、K・Hの単独太平洋横断から十年以上が経《た》ち、新しい海の英雄が求められていたことである。もし内田の成功が、K・Hの成功の二、三年後だったら、これほど歓迎されなかったであろう。  もう一つは、レジャーの、というより、レジャー産業の眼が、大きく、海に向けられる時機になっていたことである。数年前まで、若者たちの英雄は、自動車レーサーだった。車の二大メーカーが、それぞれ大馬力のマシンを登場させ、しのぎを削っていたころが、彼らにとって、もっとも華やかなころだった。そして、優勝者は、現代の英雄であり、美女を手に入れて、それにいっそうの華を添えたことは、まだ記憶に新しい。  だが、自動車が公害の元凶だと騒がれだしてから、彼らは、現代の英雄の座から滑り落ちてしまった。二大メーカーは、公害のない車を作ることが至上命令となり、スピードレースから手を引いてしまったいま、会社専属のライダーは、見物人の前で、テクニックを披露する場所がなくなってしまったのである。  レジャー産業は、車が駄目なら、当然のように、海に眼を向けた。そして、公害をまき散らすことのないヨットに注目するのは、当然の成行きだった。さらに、車はすでにほとんど行きわたり、新しい若者の憧《あこが》れがヨットに向けられたことも、それに拍車をかけた。以前、デパートが、車を売って注目されたように、いまは、デパートが、車の代わりにヨットを売り、あるデパートなどは、マリーン・クラブを組織して、ヨットの技術指導まで始め、そのおかげで、三か月間に、ヨットを四十隻も売りさばいたという。それに、昭和五十年には沖縄海洋博がある。  そんな時機の、内田の成功だった。タイミングがピッタリ一致したと言うことができる。十年前、K・Hが、あれほどの評判を得ながら、彼自身のまわりに、大きくヨットブームが広がっていかなかったのは、当時はまだ、ヨットの大衆化とタイミングが合わなかったと言えるだろう。その点でも、内田は幸運だと言える。  さらに、この時点では、まだ内田は知らなかったが、最近、レジャー関連産業に、めざましい勢いで進出して来た新興会社の丸栄《まるえい》物産が、大々的に、海洋レジャー面に乗り出すことを決定していたのである。  丸栄物産は十五年前、従業員二十名足らずの小さな不動産会社として出発したのだが、土地ブームに乗ったのと、警官あがりの若い社長の行動力で、みるみるうちにふくれあがり、いまや、ゴルフ場、ボウリング場の経営といったレジャー産業で、有力会社の一つにのしあがってきていた。一時、プロ野球の球団を買収するという噂も立ったが、その代わりに、丸栄物産の社長|長谷部《はせべ》が眼をつけたのが、海洋レジャー部門だった。  長谷部は、新しく海洋レジャー部を設け、五十二歳の大野《おおの》を部長に任命した。大野は、才能がありながら、課長で我慢していたから、この昇進に大いに発憤した。それに、丸栄は軍隊式で信賞必罰主義である。大野が成功すれば、将来の重役待遇も約束されるだろうが、失敗すれば、左遷を覚悟しなければならない。  大野の第一の仕事は、単独無寄港世界一周に成功した内田を、宣伝媒体として、手に入れることだった。だから、内田がテレビ番組に引っ張り回されている合い間をぬって、内田洋一を世田谷のマンションに訪ねた。大野は、「日本の若者の勇気を世界に示してくださって、同じ日本人として本当に感謝しています」と持ちあげたあと、 「うちは、今年から来年にかけて、大々的に海洋レジャー部門に進出することになりましてね。週休二日制ともなれば、レジャーが大型化するのは眼に見えています。陸上は、もうこれ以上発展がないし、空は、免許その他でたいへんとなれば、あとは海しかありませんからね」 「それで、ぼくに用件というのは?」 「内田さんの艇は、確か、N造船機械でお作りになったんでしたね?」 「そうです」 「もちろん、N造船機械が、わが国最大のヨットメーカーである中央造船の子会社であることは、ご存じでしょうな?」 「ええ、知っています」 「それは結構。じつは中央造船と、私のところと提携して、大々的にヨットの販売に乗り出すことになったわけです。中央造船では、一隻十万円クラスの釣り舟から、一千万円台のクルーザーまで造っているわけですが、内田さんの成功を見て、二五フィート艇の製造に主力を置くことに急遽《きゆうきよ》決めました。内田さんは、一人で乗られたわけですが、われわれとしては、それを、三人から五人乗りのファミリー艇として売り出すつもりなのです」 「なるほど」 「ここまで申しあげれば、もう、私が来た目的はわかっていただけたと思います。中央造船では、二五フィートのファミリー艇だけで、一年間に二万隻の大量生産を考えています。日本全国で一年にヨットが五万隻増えると、われわれは見ていますから、これは十分に販売できる数と考えています。問題は宣伝です」 「ぼくに、その宣伝に、一役買ってくれというわけですか?」 「そのとおりです。まず、内田さんに、わが社の顧問になっていただきたい。もちろん、顧問料は、月々お払いいたします。それから、中央造船で大量生産する二五フィート艇に、内田さんのマーベリックという名前をいただきたいのです。『マーベリック25』という名称で、中央造船も売りたいと言っていますし、販売を引き受けたわれわれとしても、売りたいわけです。ああ、もちろん内田さんの船の名前をつけさせていただくわけですから、意匠料という形で、できるだけのことをさせていただきます。たとえば、マーベリックという名前を、五百万で譲っていただくというようなですな」 「ずいぶん思い切った金を出されるんですね」 「今年から来年にかけてのレジャーの中心は海ですからね」 「ぼくが顧問ということになると、他《ほか》に、どんなことをすればいいんですか?」 「いろいろとやっていただかなければならないことがあります。宣伝のために、テレビにどんどん出演していただきたいし、『マリーン・クラブ』のようなクラブ組織を作って、会員をふやしていきたいので、この会員に、技術指導もしていただきたいのです」 「ぼくなんかが、テレビのCMに出ても、仕方がないでしょう?」  もちろん、本心で言ったのではなく、謙遜であった。 「とんでもない」  と、大野部長は、内田の希望どおり、即座に否定してくれた。 「あなたの陽焼けしたその顔は、絵になりますよ。もちろん、テレビに出ていただく以上、専属料の形で、十分な手当は差しあげます。それも、一流のテレビタレントなみの金額は、差しあげるつもりです」 「しかし、ぼくより古手のヨットマンは、いくらでもいるでしょう? そういうかたには、当たってみられなかったのですか?」 「ヨットマンのかたは、いくらでもおられるでしょうが、内田さん以上に宣伝力のあるかたは、一人もおられんのです。まあ、これは内証の話なんですが、うちが中央造船と提携して、海洋レジャー部門に乗り出すことを知ったらしく、何人ものヨットマンのかたが、自分を売り込みに見えましたがねえ」  大野部長は、何人かのヨットマンの名前をあげてみせた。その中には、内田の知っている名前もあった。日本ヨット連盟の指導的立場にいる人もである。それが、内田の耳を楽しく擽《くすぐ》った。 「村上邦夫《むらかみくにお》というヨットマンは来ませんでしたか? ぼくと同じ年の三十三歳の男ですが」 「村上邦夫?」  と、大野部長はきき返してから、ちょっと考えていたが、 「ああ、見えましたよ。そうだ。あなたの友人で、ヨット歴も、あなたより長いと言ってましたね」 「友人——」  内田の口元に冷笑が浮かんだ。 「友人なんかじゃありませんよ。それで、村上邦夫は、どうなったんですか?」 「もちろん、お断わりしましたよ。無名のヨットマンでは、宣伝になりませんからねえ。ところで、いまの話、承諾していただけますか?」 「いいでしょう。ぼくも、ヨットの普及に少しでもお役に立てば、嬉《うれ》しいですから」 「承諾していただけて、私も、来た甲斐《かい》がありました」  と、大野部長は、ほっとした顔で、額に浮かんだ汗を拭いてから、 「ところで、毎朝新聞に、内田さんは、航海日誌の連載を頼まれたんじゃありませんか?」 「よく知っていますね。まだ内諾しただけですが——」 「毎朝新聞にも、私の友人がおりますからね。ところで、もし連載が決まったら、その題は、ぜひ、『マーベリック㈵世号の冒険』にしていただきたいのですが」 「なるほどねえ」  と、内田は苦笑した。 「すべてを、『マーベリック25』の販売に利用しようというわけですか」 「まあそうです。そのくらい、わが社がヨットの販売に力を入れていると、理解していただければありがたいと思います」  と、大野は真面目《まじめ》に言った。  大野部長が、正式契約は明日、日本橋《にほんばし》の本社で、と約束して帰ったあと、内田は、自然に浮かんでくる笑いを噛《か》み殺しながら、勢いよくベッドに転がった。      3  ちょうどそのころ、村上邦夫は、六畳一間のアパートで、激しい嫉妬を燃やしながら、テレビの録画に映っている内田洋一の笑顔を見つめていた。  村上にとって内田洋一は、いまや単なるヨット仲間ではなかった。  高校時代から同級生だった二人は、そのころから、ともに海に憧れていた。ヨットの世界にはいったのも、ほとんど同時である。  大学でも同じように、ヨット部に籍を置き、そとめには学生運動に無縁なヨット好きの二人の学生だった。性格は、内田が陽性で、村上が陰性と、正反対だったが、かえってそれが、二人を仲よくさせていたのだろうと、当時の同級生は言う。はためには、二人は親友に見えていたのだろうが、少なくとも村上にとって、いまの内田は、憎むべき敵であった。  村上は頭のよさにおいても、ヨットの操縦のテクニックにおいても、自分のほうが内田より勝《まさ》っていると考えていた。これは、あながち、彼の自惚《うぬぼ》れとばかりは限らない。彼らの卒業したS大は、ヨット部の充実した大学として知られているが、村上が二年でレギュラーになれたのに対して、内田は四年のときにやっと、レギュラーとして対抗レースに出られたにすぎないからである。  だが、陰気な性格が災いしてか、在学中もレギュラーの村上にはあまり人気がなく、陽性の内田のほうに、下級生や女性の人気が集まっていた。  しかし、二人の間の決定的な差異は、大学を卒業したあとに現われた。  ヨットは本来、金のかかるスポーツである。太平洋横断とか、世界一周とか、計画が大きくなればなるほど、金とヒマが必要になってくる。  村上も、好きなヨットで身を立てたかった。ヨット部の部員の中には、設計の才能を生かして、卒業後、中央造船に就職した者もいたが、村上の場合は、そううまくはいかなかった。といって、内田のように資産もない。大学も、村上自身がアルバイトをしながら卒業したのである。  村上は、不本意ながら証券会社に就職した。平凡なサラリーマン生活で、ヨットとは無縁な生活である。株にも興味がなかった。もちろん、証券マンとして一生を送るつもりはなく、K・Hのように、ヨットによって、現代の英雄になることを夢見ていた。現代の英雄になれば、金は自然に向こうからはいってくる。それが、マスコミの極度に発達した現代の日本なのだと、村上は考えていた。それができなければ、負け犬でいるより仕方がない。  だから村上は、さして多くない月給の中から、クルーザー作製のために貯金をしてきたし、日曜日には、油壺のヨット・ハーバーに行き、貸しヨットで帆走《セーリング》し、勘の鈍るのを防いだ。  油壺では、よく内田に会った。内田のほうは村上よりも、はるかに恵まれた生活を送っていた。  油壺の近くにマンションを購入し、どこにも勤めず、毎日のようにヨットを走らせていたからである。日曜日には、二人は張りあうように、小型ヨットを走らせたが、村上自身にも、内田の腕がどんどん向上していくのがわかった。日曜日だけの練習と、毎日の練習とでは、進歩に差が出るのが当然だった。だが、それだけなら、村上にはまだ救いがあった。  K・Hが、単独無寄港世界一周に出発したとき、村上も、同じことを考えていたのである。だが、そのとき、彼の貯金は、まだ百万円をわずかに越えたばかりだった。  各地に寄港しながら、ゆっくり世界一周をするのなら、小型艇で、装備が不完全でも可能かもしれないが、無寄港世界一周となれば、少なくとも二五フィートの大きさは必要だと、村上は計算していた。二五フィート艇となると、船歴二、三年の中古でも、百五十万から百七十万円はする。あれこれ注文をつけて、新しく作ってもらうとなれば、楽に三百万はかかってしまう。もちろん、無寄港世界一周となれば、優秀な無線機も積み込まなければならないし、食糧、その他の用意もたいへんである。合計四百万は最低必要だった。  K・Hが失敗したとき、村上は、内田と同じように胸の中で快哉を叫んだものの、四百万の金を用意するには、あと二年必要だと計算し、その間、誰も、同じ計画を立ててくれるなと念じていたのだが、内田が、いともあっさりと、金にあかせて新艇を作りあげ、一年後に、単独無寄港世界一周に出発してしまったのである。  村上にとって、K・Hが成功したほうが、まだましであった。村上も現代の英雄になるチャンスを失う代わりに、内田も同じように、そのチャンスを失ったはずだからである。 「マーベリック㈵世号」が成功しそうだというニュースがはいって来るたびに、村上は激しい焦燥《しようそう》にかられた。  内田が成功してしまったら、いままでコツコツと貯金してきたことの意味は、ほとんど失われてしまうからである。村上には、平凡にサラリーマン生活を送り、その余暇に、中古のヨットを走らせて楽しむような気持ちはまったくなかった。彼は、内田洋一と同じように、ヨットによって現代の英雄になりたかったのだ。二番|煎《せん》じの世界一周をしたところで、英雄にはなれない。  内田の成功の確率が次第に高まってくるにつれて、それに歩調を合わせるように、日本レジャー産業の眼は、海洋に向けられていった。それも、村上の計算していたことだったが、本当は、そのことが、彼自身の成功に華を添えるはずのものだったのである。だが、いまや、それは、ライバルの内田洋一の成功に華を添える結果になろうとしている。  丸栄物産が中央造船と提携して、本格的にヨットの販売に乗り出すと、先輩のヨットマンから聞いたのは、内田の「マーベリック㈵世号」がオーストラリアの南を回り、タスマニア沖を通過したというニュースがはいったころだった。  内田が成功して帰れば、彼がマスコミからもてはやされるのは眼に見えていた。無名のヨットマンにしかすぎない村上との間には、天と地の差ができてしまうだろう。  村上は、せめてその前に、丸栄物産にはいり、将来に備えたいと思った。ヨットに関係のある場所にいれば、いつか自分も、現代の英雄になるチャンスがあるだろうと思ったからである。  村上はそれまで、先輩に|贈り物《プレゼント》などしたことはなかったのだが、貯金を下ろして、大学の先輩何人かに贈り物をし、丸栄物産への推薦状を書いてもらった。 〈村上邦夫君は、ヨットマンとして、技術、マナーともに秀れ、指導者として優秀な人物であります〉  といった趣旨の推薦状だった。丸栄物産では、将来のマリーナの候補地として、逗子《ずし》、伊豆、その他の土地を買収ずみという情報も得ていた。そのどこかのマリーナの責任者にでもしてもらえれば、日常がヨットの練習にもつながるし、自動車レーサーが会社の援助を受けて英雄になったような、ファクトリーチームの道もひらけるかもしれない、と思ったからである。  村上は、日本橋の丸栄物産本社で、大野部長に会った。  広い、エアコンディショニングのきいた応接室に通された。最初のうち、相手はひどく好意的に見えた。  大野部長は、推薦状に眼を通すと、 「私も若いころ、ヨットが好きでしてね」  と、笑顔で言った。 「これからは、海洋レジャーの時代ですから、村上さんのようなヨットマンのかたは、さぞおもてになるでしょうな」 「そんなこともありませんが——」  と、笑顔を返しながら、村上はふと、千坂《ちさか》亜矢子の魅力的な水着姿を思い浮かべた。油壺のヨット仲間からミス・ヨットと呼ばれている彼女なのである。だがいまは、まず、丸栄物産にはいらなければならない。  村上は、丸栄物産が、海洋レジャー部門に進出しようとしていることを賞賛した。 「それで、少しでもぼくの技術がお役に立てばと思って、参ったんですが——」 「それは、どうも——」  と、大野は、微笑したが、そのあと、海洋レジャーの将来性について、滔々《とうとう》と論じるだけで、なかなか、村上のことに触れてくれなかった。  そのうちに、大野は、ふと腕時計に眼をやり、「失礼」と言って立ち上がると、応接間の隅にある大型テレビのスイッチを入れた。  ニュースが始まり、政治情報の次に、三宅島沖を通過中の「マーベリック㈵世号」が映し出された。 「ほう。もう三宅島まで来たか」  と、大野は、ひとりで感心し、電話で秘書を呼びつけた。若く美しい女秘書がはいって来ると、 「『マーベリック㈵世号』の正確な到着日時を調べて、うちの会社の名前で花束を贈る手筈《てはず》をととのえたまえ。渡すのは、今年のボートショーで、うちが採用したマリーン・ガールがいいな」  と、命令した。村上の存在を完全に無視した態度だった。  秘書が出て行くと、大野はやっと村上をふり返り、 「さて、ご用件はなんでしたかな?」  と、きいた。その質問は、村上にとって、侮辱《ぶじよく》以外の何ものでもなかった。相手は最初から、無名の村上など採用する気はさらさらなかったのだ。会ったのは、各界にある程度の地位を得ている先輩の推薦状の手前があったからだろう。  それでも村上は、最後の勇をふるって、 「じつは、ぼくは、内田君とは大学時代のヨット仲間なんですが」  と、言ってみた。「ほう」と、大野部長は声を出した。が、それだけであった。大野の眼から見れば、友人ではなんの宣伝材料にもならないのだ。  村上は、自分がいっそうみじめな気分になった。嫌いな内田の名前まで出し、それにすがろうとした自分に腹を立てながら、それでも無理に笑顔を作って、丸栄物産を辞した。      4  丸栄物産が、内田洋一を、顧問として破格の待遇で迎えたことは、それから数日して、村上の耳にはいった。  同時に、毎朝新聞に「マーベリック㈵世号の冒険」の連載が始まった。  テレビのCMにも、陽焼けした内田の顔が映し出された。  中央造船が、丸栄物産と提携して、大々的に売り出す「マーベリック25」クルーザーの宣伝だった。  ビキニ姿の美女数人といっしょに、内田が、「マーベリック25」に乗って、手を振っているフィルムに、内田の声がかぶさる。 「この『マーベリック25』は、ぼくが単独無寄港《ノンストップ》世界一周に成功した『マーベリック㈵世号』と、性能、耐久性ともにまったく同じ、すばらしいクルーザーで、ファミリーレジャーに最適です」  それはすべて、村上が演じたかった役柄だった。それをいま、彼がもっとも憎んでいる内田洋一が、得意気に演じているのだ。  むしゃくしゃした気持ちを、少しでも癒《いや》そうと、日曜日に、油壺のヨット・ハーバーに出かけると、さらに不快なことが村上を待ち受けていた。  千坂亜矢子の姿が見えないのである。貸しヨットで、三時間ばかりの帆走《セーリング》をおえて、ハーバーにもどり、村上は昼食をとるために、マリーナの建物へはいって行った。いつもなら、そこで千坂亜矢子の笑顔に出会うはずだった。また、会うように、今日も時間を図って昼食をとりに来たのに、彼女の姿はどこにも見当たらない。  亜矢子について、村上は、恋人がふつうに知っている程度の知識は持っていた。年齢は二十六歳。テレビタレントであり、詩人であり、ときには、イラストの仕事もしている。彼女自身は、自分は自由人だと言い、適当に人生を楽しんでいるようなところがあった。村上が初めて亜矢子に会ったのは、二年前の七月である。  日曜日で、村上が、貸しヨットで港の外へ出ようとしていると、初心者用のモス級ヨットに一人の女性が乗り、港から出るのに四苦八苦しているのを見つけた。ベテランのヨットマンは、一見、なんの苦もなく、艇を港の外へ出してしまうが、何十隻ものヨットが繋留《けいりゆう》され、そのうえ、入口の狭い油壺のようなヨット・ハーバーでは、艇を港の外へ出すのは、意外にむずかしいのである。だから、大型クルーザーは、港の出入用に、小型エンジンを積み込んでいる。小型ヨットの場合、港内というのは、風の吹く方向が一定していないし、たいてい沖からの向かい風の中を出て行くことになる。当然、ジグザグ帆走で出て行くわけだが、初心者は、これがなかなかできないのである。  亜矢子がそれだった。村上は見かねて、自分の帆走はやめて、その日、彼女にコーチしてやった。それが、彼女との最初の出会いであった。  彼女は美しかった。が、村上は、それだけに魅《ひ》かれたわけではなかった。亜矢子には、奇妙な、としか言いようのない魅力があった。  たとえば、最初に出会った日、お礼だといって彼女は、村上を夕食に誘ってくれたが、その席で、彼が、日曜日しかヨット・ハーバーに来られないと言うと、 「他の日には、きっと、いい人がいらっしゃるんでしょうから、あたしは、日曜日の恋人にしてくださいな。それとも、油壺の恋人と呼んでいただこうかしら」  と、言って、ニッと笑った。その言葉が、村上の心を擽った。その後、村上のほうから手紙を出したりしたのだが、その返事にしても、 〈——村上さんは、私にとって、ヨットの先生ですわね。先生には、どんなことでも絶対に服従いたしますわ〉  と、書いてあり、「どんなことでも」のところに、思わせぶりに、朱線が引いてあったりして、村上を変な気分にさせた。  次の日曜日、貸しヨットに亜矢子を乗せて、沖へ出て、思い切って抱き寄せると、キスだけは簡単に許したが、それ以上のことになると、許そうとしなかった。  そのくせ、夜中に、ふいに電話をかけてきて、「油壺の恋人ですけど」と、ふくみ笑いをしながら言い、「いま、ひとりで、お風呂にはいっていたところ。あがってから、ベランダで涼んでいるんだけど気持ちいいわあ。私がどんな恰好をしているかわかります? 先生」  などと、からかうような、誘うようなことを言うのである。  そうかと思うと、亜矢子は、自分で「感情の激しい性格」と言うだけに、なにか気に入らないことがあると、「村上さんとのおつき合いも今日限り」と、冷たく、突き放すように言ったりして、村上を狼狽《ろうばい》させたりした。そんな、捕まえどころのない亜矢子に、村上は、だんだん自分がのめり込んでいくのを感じていたのである。  彼に、三十三歳の今日まで、恋人がいなかったわけではない。陰気で、容易に他人に自分の気持ちをさらけ出すことのない村上だが、それが、ととのった顔立ちには、冷たい魅力にもなって、何人かの女性と恋もしたし、短期間だが、アパート一間で、同棲《どうせい》生活を送った女もいた。だが、どの女性も平凡で、野心家の村上には物足りなかった。  亜矢子は、そうした何人かの女性の誰とも似ていなかった。彼女自身が、村上に似て、野心の持ち主だった。確かに彼女は、頭もよかったし、何事でも、上達が早かった。ヨットの操縦も、村上のコーチで、めきめき上達していった。 「わたしは、頭が悪い人と、気のきかない人は嫌い。それに、平凡な人も我慢がならないわ。その代わり、何かに命を賭《か》けて、それに成功した人のためなら、なんでもつくしてあげたくなる性分なの」  とも、亜矢子はよく言った。つまり、成功者が好きだということなのだ。村上が、単独無寄港世界一周をやろうと思い立った理由は、K・Hや内田に対する対抗意識、野心、その他に、彼女に対する気持ちが重なっていたことは否定できない。  亜矢子と村上の間に、内田洋一が無遠慮にはいり込んで来たのは、一年半ほど前からだった。  内田には、村上にはない有利な点があった。強引で、陽気な性格もその一つだったが、村上にとって我慢がならないのは、自分との経済的な力の差だった。親の恵まれた資力のおかげで、大学卒業後も、一定の職につかず、気ままな生活を送っていたから、村上とちがって、会いたいときに、いつでも亜矢子に会うことができた。日曜日にしか彼女に会えない村上は、それまでの六日間に、二人の仲がどれほど近づいたかを考え、嫉妬するようになった。  だから、内田が、単独無寄港世界一周に出発したとき、村上は、「畜生!」と思い、失敗することを願ったが、亜矢子との仲に関して言えば、内田のいない間に、彼女との仲を、できれば結婚にまでもっていけるのではないかという期待を持った。内田が惨めに失敗し、世間の批判の矢面《やおもて》に立たされ、亜矢子の気持ちがいっそう自分に傾いてくれればいいと願ってもいた。  内田がいない間、確かに亜矢子は、村上に対して、前以上に媚態《びたい》を見せるようになり、たまたま話題が内田のことにおよぶと、 「冒険が好きなことはわかるけど、あたしになんの断わりもなしに出かけるなんて、嫌いよ」  と、言って、村上を喜ばせたが、その一方では、わざとのように、 「内田さんが成功すると思う?」  と、きき、村上が、 「彼なら成功するだろうし、友人として、成功してもらいたいよ」  と、答えると、亜矢子は、彼の心を見すかしたように、ふッふッと笑ったりした。内田がいない間、村上は、思い切って二度ほど、彼女に対してプロポーズをした。丸栄物産の大野部長を訪ねたのは、自分の好きなヨットを仕事にしたかったことも理由だが、亜矢子に対する意識もあった。内田が英雄として帰還すれば、亜矢子の気持ちは強く彼に魅かれてしまうだろう。それを考え、ヨット指導者になっておいて、少しでも、彼女の気持ちを引きつけておきたかったからでもあった。      5  その亜矢子の姿が、日曜日のヨット・ハーバーから見えなくなった。彼女の住んでいるマンションの電話番号は、教えてもらってあったから、何回かそのダイヤルを回してみたが、電話は鳴っていても、彼女は出る気配がなかった。  村上は、彼女が、テレビタレントやイラストレーターといった、さまざまな仕事をしていたことから、TV局や、イラスト関係の有名な事務所に、次々に電話して、亜矢子のことをそれとなくきいてみた。村上が、これほど熱心に彼女の行方を知ろうとしたのは、もちろん、彼女の不思議な魅力に参ってしまっていたこともあるが、それ以上に、といっていいくらい、内田に対する意識も働いていた。  いま、内田は、日本人で初めて、単独無寄港世界一周をなしとげた英雄である。そして、丸栄物産に顧問として迎えられ、毎朝新聞には、「マーベリック㈵世号の冒険」を連載中である。テレビにも数多く出演している。その点に関する限り、彼は勝者であり、村上は敗者である。そんな村上にとって、いま、内田に対して、ただ一つ勝つものが残されているとすれば、亜矢子の愛をかちとることだけだったからである。  だが、どのTV局でも、亜矢子の行方を知らなかった。 「彼女は変わり者だから、いまごろ、パリあたりをフラフラ歩いているんじゃないかな」と、笑いながら答えるTV局員もあった。そう言われると、亜矢子には、そんな風船玉のような気ままなところもあった。  イラストの仲間たちも、同じように、彼女の行方を知らなかった。ここでは、「イラストレーターといっても、彼女は、それが本業じゃなかったからねえ」という声も聞かれた。  結局、何もわからず、千坂亜矢子は、村上の前から突然、煙のように消え失せてしまったのだ。少なくとも、村上の狭い視野から見る限り、消え失せたとしか考えようがなかったのだが、八月末の朝、ベッドに寝転んだまま新聞を広げて、村上は、あっと驚いた。  社会面の一隅に、れいれいしく、「内田洋一氏婚約」のニュースがのっていて、そこに、どこか南の海で撮ったらしい内田と亜矢子の水着姿の写真があったからである。どうやら、沖縄あたりらしい。村上が探し回っていた間、彼女は、内田と沖縄で遊んでいたのだ。  村上は、すーっと自分の顔から血の気が引いて行くのを感じた。 〈単独無寄港世界一周によって、一躍、現代の英雄になった内田洋一氏(三十三歳)は、今度、才媛《さいえん》のほまれ高い千坂亜矢子さん(二十六歳)との間の婚約を発表した。二人のなれそめは、氏が、油壺のヨット・ハーバーで、亜矢子さんに、ヨットの指導をしたのが始まりということである〉  次の日には、二人が連れ立ってTVに出演し、そこで内田は、ぬけぬけと、 「じつは世界一周に出発するとき、彼女と約束を交したのですよ。もし成功して帰って来たら、結婚しようと」  と、言い、司会者が、亜矢子のほうにマイクを向けると、今度は彼女が、 「二人で誓約書を取り交したんです。彼は、たった一人で、ヨットに乗って、そのうえ、どこにも寄らずに世界を一周して帰ってくるんだから、人魚とでも浮気する以外、浮気のしようがない。だから、不公平だって言うもんだから、わたしも、留守の間、絶対に浮気はしませんという誓約書を書いて、出発する彼に渡したんです」  と、のろけるようなことを言った。内田が、その誓約書を、航海中ときどき取り出して、読み返していたと喋り出したところで、村上は、TVのスイッチを切ってしまった。亜矢子は明らかに村上を欺《だま》していたのだ。  彼が、二度にわたってプロポーズしたとき、亜矢子の気持ちはすでに完全に内田に傾いていたにちがいない。それを知らずに、日曜日のマリーナに彼女を探し、TV局やイラストレーターたちに電話した自分は、まるっきり道化師《ピエロ》ではないか。怒りよりも、激しい屈辱感が、村上を捕えて放さなかった。きっといまごろ、あの二人は、自分たちの幸福を、いっそう高めるために、彼を肴《さかな》にして笑っているかもしれない。そう考えただけで、村上は、身体がぶるぶるふるえるような気がした。  亜矢子は笑いながら、婚約した内田に向かって、 「あんたの留守の間に、村上さんから二度もプロポーズされたわよ」  と、喋っていることだろう。 「それで、どうしたんだい」  と、内田がきく。 「気があるような、ないような返事をしておいたわよ」 「可哀《かわい》そうに。お前も罪なことをしたもんだなあ」  と、内田も笑いながら言うだろう。そういうときほど、男が勝利感に酔えるときはないからだ。  自分にもし、内田くらいの資力があったら、先に新造艇を完成し、単独無寄港世界一周に出発していたのに、と村上は思う。ヨットの腕が内田に劣るとは、一度も思ったことはない。大学のヨット部でも、内田が補欠のとき、自分はすでに正選手だったのだ。もし内田のように、親から潤沢な援助が得られて、「マーベリック㈵世号」のようなヨットがあったら、絶対に成功していただろう。そうなっていれば、いまの地位は、完全に逆転していたにちがいないのだ。 [#改ページ]  第二章 東京—タヒチ間一千万円レース      1  丸栄物産と中央造船が提携して行なった海洋レジャー作戦は、内田洋一という恰好《かつこう》の宣伝媒体を得て、部長の大野が期待した以上の成果をあげていった。  中でも、主力商品である「マーベリック25」型クルーザーは、「世界一周に成功した『マーベリック㈵世号』とまったく同じ性能と安全性」のキャッチフレーズがきいて、製造が追いつかぬ売れ行きを示した。  丸栄物産が、マリーナの候補地として、日本各地の海岸線に、土地を買い占めておいたのも成功の一因だった。ヨットの持ち主が一番困るのが、繋留しておく場所である。その点まで神経を使ったことも、「マーベリック25」の売れる原因だった。  丸栄物産の成功に刺激されて、他のレジャー関係の会社やデパートも、ヨットの販売に力を入れはじめた。  ある会社は、「海こそ、わが社のテーマです」と、新聞にCMをのせた。 「ヨット、ボートをマイカー並みに」の掛け声で乗り出して来た業者もある。彼らも、丸栄物産にならって、有名なヨットマンを、顧問や、自分のところで育てたマリーン・クラブの指導者に迎えようとした。  一番の適任者は、内田洋一のように、若くて、現代の英雄的な存在である。だが、内田洋一は一人しかいないとなれば、丸栄物産のライバル会社が迎えるのは、ヨット界のベテランである。宣伝効果は少ないが、ヨット界には発言力があるし、技術も確かだからである。だからここでも、若く、無名の村上のはいり込む余地はなかった。彼にとって、無味乾燥な机に向かってのサラリーマン生活がつづいていた。  丸栄物産の大野部長は、すでに、村上という青年の名前など、忘れてしまっていた。  大野にとって、現在の最大の関心事は、独走の形になっているヨットの販売実績を、より完全なものにすることだった。  丸栄物産にとって、最大のライバルになりそうなのは、西日本造船と組んで、ヨットやボートの販売に乗り出して来た新東亜《しんとうあ》デパートだった。  新東亜デパートの親会社は、デパートだけをやっているわけではない。私鉄、不動産など、あらゆる部門に手を広げていて、デパートは新東亜コンツェルンの一部門にしかすぎない。新東亜デパートがヨットの販売に乗り出したということは、そうした新東亜コンツェルンの後押しがあると考えなければならない。丸栄物産は、日本全国の海岸線に、マリーナ候補地の買収をやったが、新東亜デパートの場合、その役目は、新東亜不動産がやっているはずであった。  また西日本造船は、丸栄物産が提携した中央造船につぐ、日本で第二のヨットメーカーである。  新東亜デパートも、「新しいディスカバー・ジャパン。それは海です。海、それこそ、新東亜の心のテーマです」という宣伝文句のもとに、西日本造船に二五フィート艇を大量生産させ、それに、「シー・エリート25」の名前を冠した。  ポスターも、丸栄物産のものに輪をかけて派手なものだった。  いまのところ、「マーベリック25」の売れ行きが「シー・エリート25」のそれを押えている。  単独無寄港世界一周に成功し、現代の英雄になった内田洋一という恰好の材料もあるし、先行した強みもある。だが、大野は、追われる苦しみも、十分に知り抜いていた。  競馬でいえば先行馬の辛《つら》さである。いや、競輪のほうが、たとえとして適切だろう。競輪の場合、先頭を切ると、風圧をまともに受けて苦しい。だから、二位か三位につけ、先頭車のかげにかくれて風圧を避け、最後で追い抜くのが一番賢明な作戦だといわれている。  いま、大野は、同じ苦悩を抱えていた。新しいマリーナの建設には、現地の漁業組合とのトラブルがつきものである。その風当たりも、丸栄物産が先頭を切っているだけに、一番、強いものになってくる。宣伝にしても、同じである。先頭を切っているものには、創造の苦しみと、試行錯誤がつきものだが、二番手は、相手の欠点を直し、より派手にすればいいから楽である。  大野は、ヨット販売を一手に委《まか》された海洋レジャー部長として、後を追ってくる新東亜デパートとの差を、もっと広げておきたかった。 「マーベリック25」と「シー・エリート25」の性能は、専門家の間で、ほとんど同じと見られている。値段も同じ二百五十万円である。  とすれば、差を広げるには、宣伝以外にはなかった。  そのために、大野が考えたのは、賞金一千万円のヨットレースだった。  距離は、東京オリンピックのときに作られた江《え》の島《しま》のヨット・ハーバーから、ポリネシア諸島のタヒチまでの六〇〇〇マイルである。タヒチを選んだのは、若者たちの間にある観光ブームと、原始生活への憧れに引っかけたのである。  大野の提案は、重役会議にはかられ、社長の長谷部|大造《だいぞう》によって受け入れられた。が、会議が終わったあと、大野は、一人だけ社長室へ呼ばれた。  長谷部の机の上にまだ、大野の出した計画書が、開いたままになっているのを見て、大野は、自分が改めて呼ばれた理由がすぐわかった。長谷部には、部下の失敗を許さぬ厳しいところがある。部長でも、失敗があれば容赦なく課長に格下げするのが、長谷部のやり方だった。だから、丸栄物産では、部課長でも、長谷部の前では、ピリピリしていた。 「まあ、すわりたまえ」  と、微笑して、大野に椅子をすすめたが、その眼は笑っていなかった。 「君の案に賛成したが、疑問の点も出て来たので、もう一度、説明を聞きたいと思ってね」 「はあ」 「主催を、日本ヨット連盟にして、わが社が協賛という形にしたのは、私も賢明だと思う。わが社が主催では、八百長と思われるからな。それに、艇長を二五フィート以内のクルーザーとしたのも、『マーベリック25』の販売に好都合だろう。ただ、心配なのは——」 「新東亜デパートの出方ですか?」 「そのとおりだ。まさか、わが社の『マーベリック25』以外のクルーザーの参加を認めないというわけにもいかんだろう?」 「もし、そんなことをすれば、逆に、宣伝効果よりも、マイナス面が大きくなってしまいます。さまざまなクルーザーが参加した中で、うちの『マーベリック25』が圧勝すれば、もっとも宣伝効果があるというものです」 「だろうな、ところで、問題の新東亜デパートだ。『シー・エリート25』が参加を申し込んでくる可能性も考えられるだろう。レースで、うちの『マーベリック25』を打ち負かせば、向こうとしては、絶好の宣伝材料になるからな」 「そのとおりです。十中八、九、参加を申し込んで来ると思います。もちろん、新東亜デパートとしてではなく、個人名で。後発会社ですから、敗《ま》けても、そうたいしたマイナスにはならない。勝てば、宣伝効果は絶大ですから」 「私の懸念もそれだ。個人名で参加を申し込んできたら、参加を断わるわけにもいかんだろうからな」 「もちろん、断われませんし、『シー・エリート25』が参加したレースで、うちの『マーベリック25』が圧勝してこそ、宣伝効果があり、新東亜デパートとの差を、もっと広げられると思うのです」 「しかし、うちの艇が、絶対に勝つという保証はあるのか?」 「開催日は十月十日で、あと一か月半あります。その間に、勝つための手を打っていくつもりです。いえ、すでに、部下に命じて、打たせています」 「どんな手だ?」 「うちの『マーベリック25』と、新東亜デパートの『シー・エリート25』とでは、性能はほとんど同じだと専門家はみています。となれば、勝敗を分けるのは、乗るクルーの技術ということになります」 「一隻に、内田洋一を乗せるか?」 「いや、あの男は乗せません」 「なぜだ?」 「理由は二つあります。第一は、『マーベリック25』は、あくまでファミリー艇として売り込んでおります。そのため、その文書にも書きましたように、レースには三人のクルーが乗ることという規則にするつもりです」 「それなら、内田洋一の下に、クルーを二人つけて参加させたらどうなんだ?」 「それも考えましたが、あの男は、単独で何かやる場合には、秀れた性格ですが——」 「傲慢で、統率力と、協調性に乏しい人間というわけだな」 「さすが、社長はよく人間を見ていらっしゃいます。あの男には、そんなところがあるのです。それに、意外にヨットマン仲間の評判がよくありません。これは嫉妬もあるでしょうが、多分に、あの男の性格にも原因があると思っています」 「君は、二つの理由があると言ったが、あと一つの理由は何かね?」 「第二は、あの男が、いま、うちにとって、最大の宣伝材料になっているからです。あの男が敗ければ影響が大きすぎます。ですから今度のレースでは、絶対に傷つかない、スターターといった、名誉職のようなものをやってもらおうと思っているのです」 「なるほど。あの男の件は了承した。ところで、絶対に勝つための手というのは、どんなものを考えているのかね?」 「いちおう、日本ヨット連盟主催という形にしましたが、調べてみると、この日本ヨット連盟の中が、さまざまな小さなクラブに分かれているのです。正式に登録されているクラブだけでも十指に余ります。その間の競争意識も相当なものです。表面上はスポーツマンらしく、協調を謳《うた》い文句にしていますが、裏面での静かなライバル意識は激しいようです」 「そういえば、ミュンヘン・オリンピックに派遣するヨットマンのことでも、何かゴタゴタがあったと聞いたことがあったな」 「ぜんぶのクラブに手を打つわけにはいきません。それで、一番大きな組織といわれている日本セーリングクラブに、部下をやって話をつけさせています。このクラブの中から、優秀なクルーをよりすぐって、『マーベリック25』五隻に乗って、出場してもらおうと思っているのです。もちろん、参加は、個人の資格でやってもらうつもりです」 「話はつきそうなのか?」 「たぶん、つくはずです。ただし、金《かね》が必要です」 「金か。どのくらいかかる?」 「金額はまだいくらと申しあげられませんが、相手はスポーツマンの団体を自負しているだけに、ただ単に金を与えるだけでは、かえって相手の自尊心を傷つける恐れがあります」 「面倒なものだなあ。スポーツマンというやつは」  と、長谷部は、眉《まゆ》をしかめた。 「体協でも、金銭問題でゴタゴタを起こすくせに、社会的には、清廉潔白を表《おもて》看板にしているんだからな。それで、日本セーリングクラブへのアプローチは、どういう方法でやる気だ?」 「寄付という形で、金を与えるのも手ですが、私はむしろ、『マーベリック25』五隻を、日本ヨット界発展の一助にという名目で、日本セーリングクラブに寄贈するのが一番だと思っています」 「その五隻で、レースに参加してもらうというわけだな。いいだろう」 「ただ、日本のヨットマンの中には、他に職業を持っている人が多いことを考えると、そのほうの手当も必要と思います。江の島からタヒチまでの航海の間、約二か月間も会社を休まなければなりませんから」 「わかった。君のやりたいようにやりたまえ。ただし、レースには、絶対に、うちの『マーベリック25』が一着でタヒチに到着しなければならん」 「わかりました」 「ところで、タヒチまで、ヨットで何日かかるんだ?」 「内田洋一にきいたんですが、二五フィート艇ぐらいだと、一日に、風に恵まれて一〇〇マイルだと言っていました。東京—タヒチ間六〇〇〇マイルを単純に一〇〇で割ると、二か月ということになりますが、ヨットは風まかせですから、六十日以上かかると思います」 「すると、タヒチ到着は、十二月下旬ということだな」 「そうです。それで、スタートを十月十日にしたのです。一千万円レースのキャッチフレーズの他に、正月をタヒチでという宣伝もできるからです。とくにこれは、本当の個人参加者が喜ぶと思うのです。ただ、参加者のタヒチでのホテルは、こっちで手配する必要がありますが」 「タヒチで正月を、はいい考えだ。それも君に委せよう」  と、社長は言った。      2  優勝賞金一千万円、江の島からタヒチまで六〇〇〇マイルのヨットレースの広告は、新聞の一ページをさいて、大々的に行なわれた。もちろんヨットの専門誌にも載った。  日本でも、ヨットレースはしばしば行なわれてきたが、これほど大々的で長距離なのは、初めてだった。それだけに、当然、ヨットマンたちの注目を集めずにはおかなかった。  大野が、このレースの別名を、「日本グランプリ」としたのは、プロ級の外国艇や外国人クルーの参加をシャットアウトするためだった。  だから、レース条件の中に、外国人の参加も認めるが、日本に一年以上在住の者に限るという一項目を入れておいた。確かに、K・Hや内田洋一のような個人的な英雄は生まれたが、レースとなればべつである。ヨットの発祥の地と言われるイギリス、アメリカン・カップ・レースに不敗を誇るアメリカ、あるいはオーストラリアやヨーロッパ諸国に比べて、まだ、二、三十年の差はあると言われている。それは、オリンピックのヨットレースの日本選手の成績が明瞭《めいりよう》に物語っている。もし外国の優秀な艇やクルーに参加されたら、「マーベリック25」に勝ち目はなくなってしまう。それへの防衛策だった。  だから、大野の注意は、ライバル会社である新東亜デパートの出方だけに向けられていた。  出場申込みの受付けは、十月五日までにしてあった。が、「シー・エリート25」の出場申込みは、なかなか日本ヨット連盟に届かなかった。  しかし、大野の情報網は、新東亜デパートの社員が、日本セーリングクラブと並ぶヨットマンの集まりである、関東セーリングクラブと接触を始めたことを知らせてきていた。おそらく、目的は、丸栄物産が、日本セーリングクラブに接触したのと同じであるにちがいない。  大野の予感は当たった。締切りの迫った十月三日になって、「シー・エリート25」艇五隻が、参加を申し込んできたからである。もちろんぜんぶ、個人名での参加申込みだったが、大野は、その背後に、新東亜デパートの大きな影を読み取らざるを得なかった。  その時点で、大野はまた、社長の長谷部に呼びつけられた。長谷部はまだ若いだけに、大事な事業となると、陣頭指揮を取ることが多い。それだけ、部下の大野にすれば、功績を示す機会にも恵まれるのだが、逆になれば、恐くもあった。 「やはり、『シー・エリート25』が申し込んできたようだな」  と、長谷部は、大野の顔を見るなり言った。 「そのとおりです。個人名での参加ですが、クルーの名前を調べたところ、すべて、関東セーリングクラブに所属するヨットマンです。このクラブと新東亜デパートと接触があることは確かですから、背後に新東亜デパートがあることは、まずまちがいありません」 「いよいよ決戦か」  と、長谷部は、ジロリと大野を見た。 「それで、いままでの申込みは、何隻になっている?」 「現在、十六隻です。そのうち五隻が『シー・エリート25』で、九隻がうちの『マーベリック25』です。他の二隻は新艇ですが、完全な自家製のヨットで、性能は劣ります」 「まだ締切日までには、二日あったな?」 「はい。おそらく、参加艇は、ぜんぶで二十隻から二十五隻になると思います」 「もう一度聞くが、勝てるんだろうな?」 「万全の備えはしました。参加してもらうために、日本セーリングクラブに寄贈した五隻の『マーベリック25』ですが、中央造船に頼んで、外見は同じですが、スピードの出るように、特別に設計してもらいました。スピードが出るようにすると、どうしても安定性が減るというので、二段構えにし、五隻のうち二隻は、スピードに重点を、他の三隻には、安定性に重点をおいて造ってもらいました。中央造船にとっても、レースに勝ってもらいたいのは同じなので、短期間でしたが、ずいぶん無理をきいてくれました」 「それなら大丈夫だろう」  と、社長もやっと安心した眼になった。      3  村上も、東京—タヒチ間一千万円レースの記事を新聞で見た。そのとき、 (一つのチャンスが来た)  と、直感した。  問題はヨットである。村上も、日本セーリングクラブの会員であり、丸栄物産から五隻の「マーベリック25」が寄贈されたことは知っていたが、そのクルーには選ばれなかったから、改めて村上は、自分の置かれた位置の低さや頼りなさを、自覚させられることになった。  あとは、自分の艇で、レースに参加する道しか残されてはいない。  いまからヨットを新造する時間もないし、金もない。となれば、中古ヨットを購入する方法しかなかった。それに、三人のクルーという条件があるから、あと二人の仲間を集めなければならない。  レースの広告が出た翌日、村上は、五年間勤めた証券会社に辞表を出した。退職金を当てにしてのことだったし、それだけの覚悟を決めたからでもある。  船歴二、三年で、二四、五フィートの中古ヨットなら、貯金だけで買えないことはない。だが、NORC(日本オーシャン・レーシング・クラブ)では、レース参加艇には、次のような備品や装備をしなければならないと規定している。タヒチへのレースも、当然、それに準じて行なわれるはずだった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 1 乗員半数以上の寝台《バース》。 2 レース距離一〇〇カイリにつき一人四リットル以上の清水。ただし二個以上のタンクまたは容器に入れる。 3 食糧一〇〇カイリにつき一人二日分以上。 4 炊事設備、荒天時でも全員に温かい食事が安全に作れる設備。 5 航海灯・両色灯または舷灯《げんとう》一組。晴天なら一カイリから認められること(六ワット以上の電球)。 6 防水手提灯二個のうち一個は発光信号に使える強力なもの。バッテリーは二四〇V・A・H以上のものが望ましい。電球は六ワット以上。 7 必要な海図、航海要具一式。 8 有効なトランジスタラジオ、できればRDF(無線方向探知機)。 9 コンパス二個。うち一個は船体付で照明が必要。 10 霧中号笛。 11 手旗。 12 有効な排水装置。 13 ハッチ、スカイライトの吹き飛ばされない仕掛け。 14 大きい窓の盲板。 15 外舷開口には弁が必要。木栓も用意。 16 修理道具(ノコギリ、ドライバー、ペンチなど)。 17 修理予備品(ワイヤー、ねじ、ロープ、タンパックル、針金など)。 18 応急|操舵《そうだ》用テイラー(テイラー=舵柄《だへい》)。 19 バウパルピット(艇首部分の手すり)。 20 ライフライン(乗員が落ちないように甲板《デツキ》に張ったロープ。荒天のときこれにライフベルトの金具を引っかける)。 21 メンスルに有効なリーフ装置(主帆《メインセール》を縮帆《リーフ》する装置)。 22 荒天用セール、ストームジブ(強風のときに使う面積の小さい帆)。 23 消火器二個。 24 ライフジャケット(全員分)。 25 救命ブイ二個。 26 救急箱。 27 救難信号(六発水密缶入り、または火箭《かせん》)。 28 安全ベルトおよび命綱《ライフベルト》(全員分)。 29 錨《アンカー》二丁。 30 錨索《いかりづな》、曳索《ひきづな》。十分な強度と長さのもの二本以上。 [#ここで字下げ終わり]  この他、タヒチまでの長距離レースとなれば、救命ボートや、無線機も必需品になってくる。食糧なども二か月分以上必要である。  そうした備品購入にも金はかかるし、行く先が外国だけに、パスポートをとるにも金がかかる。それらに、村上は、五十七万円の退職金を当てるつもりだった。  仲間《クルー》二人は、新聞に三行広告を出して集めることにした。  小さい広告だったが、たちまち十人近い若者が村上に連絡してきた。いずれも海とヨットが好きなのに、いろいろな理由で、自分のクルーザーを持てず、いらいらしていた若者ばかりで、遠くは大阪あたりからの申込みもあった。村上は、その中から、同行するクルーとして、次の二人を選んだ。  服部克郎《はつとりかつろう》(二十五歳)  山下太一《やましたたいち》(二十八歳)  一人は東京、もう一人は神奈川の男だったが、どちらも、どこか自分に似た暗さが見えたのが村上の気に入ったのである。  買う中古艇は、すでに決めてあった。  ヨットの専門誌に、次のような広告が、「売ります」欄に載っているのを見ていたからである。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  ▽クルーザー 二五フィート。船体ベニヤ。デッキ木造の安全第一に設計したファミリー艇。船体、赤。補助エンジンは三十馬力と強力。セール五枚、その他|艤装《ぎそう》品一式付。価格百五十万円。 [#ここで字下げ終わり]  持ち主は、伊豆の深沢《ふかざわ》という男だった。百五十万なら安かった。実物も見たが、掘出し物といってよかった。船齢もまだ二年だという。村上はそれに決めていた。他の二人も、キャプテンの買物だから異存はなかった。  村上は、締切り前日の十月四日に、レースへの申込みをした。それから、レース日の十月十日まで、村上を含めて、三人は、大車輪の行動を要求された。  各自のパスポートの申請。必要な備品の購入。このほうは、服部と山下の二人に委せた。東京に住んでいる服部が、中古車を持っていたので、それが大いに役に立ってくれた。  十月七日に三人は、それぞれべつべつに、西伊豆の木負《きしよう》の港に集合した。そこには、村上が深沢から買い求めた二五フィートのヨットが、三人を待っていた。真っ赤に塗られた船体は、なぜか重い感じだったが、色を塗りかえる時間もなかったし、船名も、元の持ち主がつけた「サンダーバード号」と書かれたままだった。  それでも、服部と山下は、自分たちのヨットを見て歓声をあげた。購入した無線機や救命ゴムボート、それに食糧品などを積み込んで、出発地点である江の島のヨット・ハーバーに向かって錨をあげようとすると、元の持ち主である五十二歳の深沢が、「がんばってください」と、三人を激励し、シャンパンをプレゼントしてくれた。 「さあ、行こうか」  と、艇長《キヤプテン》の村上は、服部と山下の二人に声をかけた。十月十日まで、あと三日しかないとなれば、艇を江の島まで運ぶのも、一つの訓練だった。 「OK、キャプテン」  と、若い服部が、指でOKのサインを作って見せた。  補助エンジンで港外に出たところで、ゼノア(弱風用の帆)を張り、メンスル(主帆)をあげる。風は南西の微風である。艇はほとんど動かない。風が強くなるまでの間、三人は、手分けして、甲板を洗い、キャビンの中を整理し、陽焼けどめのクリームを顔に塗った。十月初旬といっても、陽差しはまだ強烈である。  そのうちに風が出て来た。  ジブが風をはらみ、バウ(艇首部分)が音を立てて水を切り、「サンダーバード号」は、滑るように進み始めた。  呑気《のんき》に陽焼けどめクリームを塗っていた三人の顔に、たちまち生気と緊張がみなぎった。 「スピンをあげる練習をするぞ!」  と、舵《かじ》を取りながら、村上が怒鳴った。 「スピン・スタンバイ!」 「OK」  と、二人の声がはね返ってくる。 「よし! あげろ!」  追い風用のスピンネーカー(袋帆)をあげると、艇速がいっきにあがった。 「九ノットは出てますよ、キャプテン」  と、山下がご機嫌で叫んだ。  また風がなくなると、村上は、「補助エンジンだけで走ってみよう」と、急に提案した。 「三気筒三〇馬力という大エンジンが、どのくらいの威力があるものか、知りたいんだ」 「やってみましょう」  と、すぐ山下が応じ、帆を下ろして、エンジンを始動させた。  ふつう、ヨットの補助エンジンは、港からの出入りぐらいにしか使用しないから、小馬力がふつうである。二五フィート艇で、五馬力ぐらいが標準であろう。だから三〇馬力というのは、大エンジンなのだ。  エンジンが唸《うな》ると、かなりのスピードが出た。 「一三ノットは出ていますよ。ちょっとしたモーターボートですね」  と、服部が笑いながら言った。が、山下のほうは、エンジンを止めたあと、 「この大エンジンですが、レースまでに、五馬力ぐらいのものと取りかえられませんか」  と、キャプテンの村上に言った。 「レースは当然、補助エンジンの使用禁止でしょう。そうなれば、この大馬力エンジンの重さは、相当なハンデになりますよ。このエンジンだけで、三五〇キロの重さはありますからね」 「もちろん、それは考えたさ。これが船外機だったら、ぼくもすぐ、五馬力ぐらいのものと取りかえていたよ。だが、このエンジンは、船内機《インボード・エンジン》なんだ。それに、最初から三〇馬力の大エンジンを積むつもりで、前の持ち主は設計しているんだ。だから、軽い小馬力のものに替えるには、改造が必要なうえ、バランスが崩れる恐れもある」 「確かにそうですね」  と、山下も納得した顔になった。村上は笑って、 「そういう不利なところは、われわれのテクニックで補おうじゃないか。これは中古艇の宿命なんだから」  さまざまなセーリングの訓練を行ないながら、伊豆半島を回り、「サンダーバード号」が江の島のヨット・ハーバーに到着したのは、その日の夕刻だった。  十月十日に備えて、『江の島—タヒチ間六〇〇〇マイル、賞金一千万円ヨットレース』の大アーチが作られていた。  ピカピカの「マーベリック25」や「シー・エリート25」も、ハーバーの中に集まっていた。一隻だけ見たときは、中古の「サンダーバード号」も、すばらしいクルーザーに見えたのだが、新造艇と並ぶと、やはりみすぼらしさは隠しようがなかった。赤い塗装が、ところどころ剥《は》げているのも気になった。 「金は極力節約しなければならないから、十月十日まで陸《おか》に宿をとらず、艇に寝泊まりする」  と、村上が言っても、二人とも文句は言わなかった。一番年下の服部が、自然にコック役になり、自分から台所《ギヤレー》にはいって行った。できあがりのあまりよくないライスカレーだったが、久しぶりに帆走《セーリング》したせいか、美味《うま》かった。  翌八日は、午前中に、ヨット・ハーバーの付近で、セーリングをすませ、午後は陸にあがった。午後二時からマリーナで、主催者になっている日本ヨット連盟から、参加者全員に、レースの説明があることになっていたからである。  説明会には、艇長《キヤプテン》の村上だけが出席した。  入口でまず、今回のレースの目的が、「ヨットの普及と、真のスポーツマン・シップの養成にある」と書かれた、もっともらしいパンフレットを渡された。  会場にはすでに、大半のクルーが集まっていた。その場の空気は、熱っぽい反面、妙に冷たいものがあった。  村上のようにキャプテンだけが来ているのもあれば、クルー全員が参加している艇もあったが、三、四十人のヨットマンが、なんとなく三つのグループに分かれて腰を下ろしていた。  第一のグループは、完全にプライベートな参加者たちである。彼らは、説明が始まるまで、和気|藹々《あいあい》と喋りあい、自慢しあい、また自分の失敗談を披露しあっていた。  第二のグループは、日本セーリングクラブから選ばれて、「マーベリック25」五隻に分乗するクルーたちだった。彼らは彼らだけでひとかたまりになって、何か、ひそひそと話しあっていた。  第三のグループは、もちろん、第二グループの対抗馬である、「シー・エリート25」五隻に乗る関東セーリングクラブのクルーたちだった。彼らも、ひとかたまりになって、ひそひそと小声で話しあっていた。  もともとこの二つのクラブの間には、昔から対抗意識があった。それを、日本ヨット連盟内における主導権争いと見る人もいる。が、裏面ではともかく、表面上は、「日本ヨット界の発展」という大前提のために、手をつないでいるように見えていたのだが、今度のレースで、その対立が表面化した感じであった。おそらく、このレースで勝ったほうが、日本ヨット連盟内での主導権をつかむようになるだろう。だから、丸栄物産と新東亜デパートとの競争は、同時に、二つのヨットクラブの争いにもなってきてしまったのである。  そんな空気の中で、村上は、ひとりだけ離れて、椅子《いす》に腰を下ろした。  最初に、日本ヨット連盟理事長の榊原紳一郎《さかきばらしんいちろう》が姿を見せ、今度の外洋レースの目的は、本格的なオーシャンレースを通じて、秀れたクルーを養成し、外洋ヨットの性能向上を図ることであるといった、当たりさわりのない宣言文が読まれたあと、細かい注意が一つ一つ確認された。それも、ふだんの外洋レースとだいたい同じものであって、今度の場合も、要約すれば、次の三点だった。  一 使用艇は二五フィート以下とする。  二 乗組員《クルー》は三名とする。  三 補助エンジンは馬力を問わないが、途中でエンジンによる機走をした場合は、その時点でレースを棄権《リタイア》したものとみなす。  ついで、江の島からタヒチ島までの海図《チヤート》が渡され、みんなの顔が次第に緊張していった。エントリーしたのは、二十五隻だったが、今日になって、四隻が参加を中止し、二十一隻で、六〇〇〇マイルのレースが争われることになった。  スターターとして内田洋一が紹介されたときは、ちょっとしたざわめきが生まれた。そのざわめきの中には、いまやタレント並みの人気者になった内田への羨望《せんぼう》と嫉妬と軽蔑《けいべつ》が、複雑に入り混っているようだった。  協賛者である丸栄物産からは、大野部長だけが出て、簡単にあいさつしただけだった。意識的に簡単にすませたのだが、事情を知っている者が聞けば、逆に、今度のレースへの丸栄の影響の強さを感じただろう。一着賞金一千万円を出すのは、丸栄物産と誰でも知っていたからである。  その他の細かい打合わせが終わって、村上が外に出ると、内田が後から追いかけるようにして来て、堅い表情で肩を叩《たた》いた。 「君の手紙は、一昨日《おととい》受け取ったよ」  と、内田は小声で、村上に言った。 「そりゃあよかった」 「手紙は焼いたよ」 「だろうね」 「あれは、本気なのか?」 「ああ、本気だ」と、村上は、そっけなく言った。 「もっとも、いまは、レースのことを考えているがね」 「君を丸栄物産へ紹介してもいい」 「そいつはありがたいね」  村上は、ちょっと皮肉な眼つきになって笑い、内田をその場に残して、大股《おおまた》に自分の艇へ向かって歩いて行った。 「ちょっと」  と、また声をかけられ、「なんだ?」と、怒った声でふり向いたのは、また内田かと思ったからだったが、そこに立っていたのは、取材に来ていた新聞記者の一人だった。 「東日《とうにち》新聞の大《おお》河原《かわら》だけど、あんたは、『サンダーバード号』のキャプテンだろう? 名前は確か——」 「村上です」 「そうだった。村上さんだ。度忘れしてしまって失礼」 「そんなことは、かまいませんよ。ぼくの船なんか、ビリの有力候補なんだから」 「そうはいっても、内心では、ファクトリーチームに一泡ふかせてやろうと思ってるんじゃないのかな?」 「ファクトリーチーム?」 「二十一隻のうち、『マーベリック25』五隻と、『シー・エリート25』五隻が、丸栄物産と新東亜デパートの丸抱えだということは、知る人ぞ知るでね。いわば、ファクトリーチームでしょう。あとの十一隻のうち、六隻は『マーベリック25』で二隻は『シー・エリート25』だ。自家製ヨットも二隻いるが、新艇だ。変わりダネというと、君の『サンダーバード号』しかない」 「変わりダネというより、中古艇ですよ」 「ところで、君の船について、妙な噂が流れているのを知っている?」 「噂って、なんのことです?」 「本当に知らないの?」 「知りませんよ。いったい、どんな噂です?」 「レースの前に、こんなことを言っていいかどうかわからないんだが、君は、縁起をかつぐほうかな?」 「いや」 「それなら、言ってもいいか。つまり、縁起の悪い船だという噂なんだ」 「へえ」 「前の持ち主から、何も聞かなかったのかい?」 「べつに、何も聞いていないけど」 「いくらで買ったの? あの船」 「それが、どうかしたんですか?」 「少し安いとは思わなかった?」 「そうですね。ふつうなら、百七十万から百九十万ぐらいするのに、百五十万で手に入れましたからね。安いなとは思いましたが、それが、どうだというんです?」 「これは、あくまで噂だがね。前の持ち主が、あの船を造ってから不幸がつづいたんで、気味悪がって、君に安く売ったというんだ」 「そんな噂、誰が流しているんです?」 「わからないが、もっぱらの噂でね」 「そうですか。ぼくは、そんなことは気にしませんが、他の二人のクルーには、言わないでください。気にすると困るから」 「OK。健闘を祈るよ」  と、大河原記者は、村上の肩を叩いた。 「これは野次馬根性だけど、君の中古艇が、ファクトリーチームを敗《ま》かすのを楽しみにしてるんだ」      4  十月十日は、朝から快晴。東南の風五・五メートル。まずは絶好のヨット日和《びより》だった。  スタートラインは、ヨット・ハーバー沖一〇〇メートルに敷設されたブイによって決められ、大会本部の旗を立てた大型モーターボートの上に、スタートを知らせるシグナルポストが立っている。  スタート十分前を知らせる号砲が鳴り、シグナルポストには、信号旗があがった。  スタート五分前。ふたたび号砲が鳴り、信号旗P旗が掲げられると、二十一隻のクルーザーはいっせいに動き出し、スタートラインを行ったり来たりしはじめた。  風が頼りのヨットレースでは、号砲一発いっせいにというわけにはいかない。五分前の合図と同時に各自、艇を動かしはじめ、スタート合図の瞬間に、ブイによって作られたスタートラインを越えていなければいいのである。  今度のレースのように、長距離ともなれば、スタートの巧拙は、それほどレースにひびかないといっても、上手《うま》くスタートするに越したことはない。  いよいよスタート。号砲が鳴り、シグナルポストに掲げられていたP旗が下ろされ、それを合図に、各艇はいっせいに、タヒチへ向かって滑り出した。  本命と見られている五隻の「マーベリック25」と、同じく五隻の「シー・エリート25」は、それぞれ連絡し合って、集団を形成して進んでいくのが印象的だった。  村上たちの「サンダーバード号」は、思った以上に艇速が伸びず、たちまち先頭艇に水をあけられていった。 「落ち着いて行こうぜ。先は長いんだ」  と、キャプテンの村上は、部下のクルーに声をかけた。  追い風が出て来て、各艇がいっせいにスピンネーカーを張ると、海面に急に花が咲いたようになった。ふつう、ヨットのメインセールやジブヤールは白だが、追い風用のスピンネーカーは、言い合わせたようにカラフルである。 「マーベリック25」のスピンは、真紅である。それに対して「シー・エリート25」のスピンは濃紺で、鮮やかな対照を見せているのも、一種の対抗意識だろう。  そんな中で、「サンダーバード号」だけは、スピンネーカーも、中古品の、赤、青の縞《しま》模様である。  突然、頭上に爆音がした。  舵を取りながら村上が見上げると、双発のビーチクラフト機が、頭上を、南に向かって飛び去って行くところだった。翼に、毎朝新聞のマークが見える。つづいて、他の新聞社の飛行機も飛んで来た。  村上や他の二人のクルーが、手を振って見上げたが、二機とも応《こた》える様子はなく、南へ飛び去ってしまった。 「おれたちには、用がないらしい」  と、山下が、鼻を鳴らした。村上に似て背の高い彼には、三人の間で、キリンの綽名《あだな》がついていた。ガッチリタイプの服部は、ゴチ《ゴチゴチしているから》、村上は、単にキャプテンだった。 「『マーベリック25』と『シー・エリート25』の先頭争いが新聞社の狙《ねら》いなのさ。おれたちは、ニュースの外というわけだ」  と、村上は、苦笑して見せた。 「そういえば——」  と、ゴチこと服部が、飛行機の消えてしまった、抜けるような青空を見上げて言った。 「マリーナにいたとき、新聞記者が寄って来たんで、へえ、おれたちも取材されるのかと思ったら、この『サンダーバード号』は、幽霊船だという噂があるが本当かなんて、ききやがった」 「東日新聞の大河原という記者じゃなかったかい?」  村上がきいた。 「そうですよ。キャプテン」 「じつは、おれにも、同じことをきいたんだ、クルーには、つまらないことを言わないでくれと、頼んどいたんだが」  と、村上は、眉をしかめた。キリンこと山下が、ニヤッと笑って、 「キャプテン。新聞記者なんて代物《しろもの》は、喋らないでくれって頼めば、よけい喋り回るもんですよ。いまごろ、江の島のヨット・ハーバー中に、この『サンダーバード号』が幽霊船だっていう噂が流れていますよ」 「弱ったな。このヨットは、持ち主が造ったあと、奥さんが病死しただけのことなんだ。気にするなよ」 「大丈夫ですよ」  と、山下が笑った。  風は順調で、スピンネーカーの効果も出て、艇速がおもしろいように伸びている。 「おれたちが一着になったら、奴らがどんな顔をするか見ものだな」  と、服部が、楽しそうに言ったが、舵を村上から山下に代わったとたんに、急に風が弱くなった。海の上では、よくこんなことがある。誰かがひょっと動いたり、ウォッチ(見張り)を代わったりしたとたんに、急に風の変化が出てくるのだ。  仕方なく、スピンネーカーを下ろし、レギュラージブだけにする。右手に見えるのは大島だが、島影がいっこうに動かなくなった。  こうなると、ヨットは風まかせ、潮まかせである。 「これじゃあ、『サンダーバード』でなくて、『タートル号(ドン亀)』だ」  と、山下が言った。 「いまのうち、食事の支度をしておいてくれ」  と、村上は、コック係の服部に頼んだ。 「OK、キャプテン」  服部がキャビンに消えた。  うねりが大きいのだが、風はいっこうに強くならない。  さっき南へ飛び去った新聞社の飛行機が、翼を接するように戻って来て、北へ姿を消した。きっと、「マーベリック25」と、「シー・エリート25」の先頭争いを写真に撮ってきたのだろう。 「トローリングでもやりますか? キャプテン」  と、山下が、動かない艇速に業《ごう》をにやして、村上に言った。 「この辺りなら、カツオが釣《つ》れるんじゃないですか」 「そうだな。やってみるか」  村上もうなずいて、スピニングリールを二本持ち出して来た。一日や二日でつく勝負ではないのだ。二か月はかかる、前途の長い勝負なのだ。こんなときに、トローリングで気をまぎらわせるのも悪くない。  擬似餌《ぎじえ》をつけて、流しにかかった。 「おーい。ゴチよ。うまくいけば、今晩のおかずは、生きのいいカツオの刺身になるぞ」  と、長身の山下が台所《ギヤレー》に向かって怒鳴った。 [#改ページ]  第三章 一枚の写真      1  丸栄物産の社長室には、新しく、大きなテーブルが運び込まれ、そこに、東京から南太平洋にかけての大地図が、鋲《びよう》で止められた。その地図の上に、赤い船形の模型五隻と、青い船形の模型五隻が並べてある。それは、丸栄物産と新東亜デパートのファクトリーチームのヨットの、それぞれの現在地を示していた。この役目は、ヨットから発せられる無線を聞いている若い女秘書の役目である。 「どうやら、いまのところ、うちの艇二隻が、先頭を切っているようだな」  と、大地図を見ながら、社長の長谷部が、満足そうに大野に言った。  大野は、疲れた顔をしていた。とにかく、この大レースに、「マーベリック25」を優勝させなければならない責任が、自分の肩にのしかかっているからである。 「まだ前途は長いですから、どうなるかわかりませんが」 「しかし、八丈島沖を通過した地点で、うちの二隻が、新東亜デパートの『シー・エリート25』を約八〇〇メートルリードしているそうじゃないか」 「五隻のうち二隻だけを、安全性よりスピードが出るように設計しなおしたのが、いまのところ、成功しているようです」  と、大野は言った。が、その顔に、さしたる喜びの色はなかった。まだ先は長いし、いまの段階で八〇〇メートルのリードくらい、ないに等しい。  ふつう、二四、五フィートのクルーザーの安定性は、一万トンクラスの客船に匹敵するといわれる。  しかしいま、先頭を切っている二隻の「マーベリック25」は、その安全性をかなり犠牲にして、スピードを出すようになっている。いまのところ、それが成功しているが、赤道の台風発生地帯に近づいたとき、どうなるのか、彼にもわからない。 「一番しんがりは、『サンダーバード号』とかいう中古艇だそうじゃないか」  と、社長の長谷部は、愉快そうに笑った。 「まあ、無事、タヒチに着いたら、残念賞でもやるんだな。次には、うちの『マーベリック25』を買ってくれるかもしれん」 「わかりました」 「その『サンダーバード号』というオンボロヨットは、幽霊船だという噂が立っているそうじゃないか。うちの若い社員が、江の島のマリーナで聞いて来たそうだ」 「私も聞きました。船乗りというのは、迷信家が多いですから」 「それも、何かうちの宣伝に利用できんかね?」 「ちょっと無理ですな。ライバルの『シー・エリート25』に幽霊船の噂が出ているのなら、おもしろいんですが」 「そうか」  と、簡単にうなずき、長谷部は、それで、「サンダーバード号」の話はやめてしまった。 「ところで、今日の新聞を見たかね?」  長谷部は、葉巻をプカプカ吹かしながら、大野にきいた。社長の機嫌のよいときの癖だった。機嫌のいいとき、社長の葉巻の消費量が増える。 「見ました。昭和五十年の沖縄海洋博の記事でしょう? 何か、組織委員会では、海洋博を記念して、沖縄とサンフランシスコ間九〇〇〇マイルの太平洋横断ヨットレースを企画しているようですな」 「それだよ。あの記事を読んだとき、思わず快哉を叫んだね。われわれがその先鞭《せんべん》をつけたわけだからな。ぜひとも、今度のレースは成功してもらわなきゃ困るぞ」 「わかりました。ところで、これは、あまり楽しい話ではないのですが、どうしても社長のお耳に入れておかなければならないので、申しあげるのですが——」  大野は、語尾を濁して言った。  社長の長谷部は、吸いかけの葉巻を灰皿に押し潰した。 「楽しくない話というと、内田洋一のことかね?」 「そうです」 「今度は、何を要求してきたんだ?」 「毎月の顧問料の値上げです。『マーベリック25』の売上げを計算していまして、安過ぎると言うのです」 「それで、いくらにしろと言っているんだ?」 「いまの倍額にしてくれと言っています」 「倍額だと?」  と、社長は怒鳴った。 「他にも、要求していることがあります」 「他に、なんだ?」 「うちと契約している中央造船が、三五フィートの豪華艇の作製を始めたのを知って、その第一号艇を譲ってほしいと言ってきています。彼の言い分によると、それに、妻や友人を乗せて、のんびり世界一周をやりたいというのです。譲ってくれというのは聞こえはいいですが、要するに、タダでよこせというわけです」 「その豪華艇の値段は、いくらぐらいするんだ?」 「生産原価で、一千万円を越えます。中央造船では、小売価格は、一千八百万から二千万くらいと言っています。私も見てきましたが、とにかく、内装にチーク材をふんだんに使った豪華なヨットです」 「内田は、どこまでつけあがる気なんだ?」 「うちの『マーベリック25』が売れているのは、ひとえに自分のせいだと思っていますから、そのくらいの反対給付は当然と考えているらしいのです。どうも弱った男です」 「最近、うちの社員からも、苦情がきているぞ。仕事中に、ずかずか部屋にはいって来て、若い女子社員をからかったり、自慢話をして、仕事の邪魔をするそうじゃないか」 「私も、そんな噂は聞いています。どうも、天狗《てんぐ》になっているようで、他のヨットマン仲間の受けも、だいぶ悪いようです」 「ということはだな、内田洋一について、デメリットが出て来たということだな?」 「そのとおりです。デメリットは、だんだん大きくなっていくとみなければなりません。単独無寄港世界一周の快挙という宣伝メリットも、時間が経つにつれて、だんだん薄れていくと考えなければなりませんから。現にいま、社員が買ってきた夕刊に、こんな記事が出ていました」  と、大野は、夕刊を広げて社長に見せた。 〈またまた示した日本青年の心意気。手作りの小型ヨットで、ホーン岬を通過。世界一周へGO!〉 「また一人、英雄が生まれようとしているわけか?」 「そのとおりです。新しい英雄が生まれるたびに、古い英雄は色あせていくのが、世の中の習性というものです」 「毎朝新聞に連載している内田洋一の『マーベリック㈵世号の冒険』は、いつ終わるんだ?」 「あと十二日間で終わります」 「あれも、内田洋一が書いているんじゃなくて、ゴーストライターが書いているそうじゃないか?」 「そうです。内田には文才がありませんので、うちの社員の一人が、彼の航海日誌を元にして、あの原稿を書いています。ヨット販売宣伝課の小西清治《こにしせいじ》という青年ですが、詩人としてもかなり有名だそうで、今度の仕事は、あまり喜んでいないようですが」 「今度のレースに内田洋一は、欠くべからざる存在なのかね?」 「いや、他のヨットマンから、風当たりがこれだけ強くなると、むしろ、彼が口を出したりすると、反感を買うでしょう。もっとも、約束ですから、新婚旅行代わりに、内田夫妻をタヒチに遊びにやらざるを得ないでしょうが」 「すると、賞金授与を、内田にやらせるのは考えものだな」 「そのとおりです。今度のレースに参加しているのは、ベテランヨットマンが多いですからね。いまのような、傲慢な態度の内田洋一から賞金を渡されては、いい気持ちはしないと思います。それで、私がタヒチへ飛んで、賞金を渡すことにいたしました。このことは、スタートの日に、私の口から、各艇のキャプテンに伝えてあります」 「確かに君が適任だろう。だとすると、そろそろ彼を馘《くび》にする潮時ということか? 『マーベリック25』という商品名は、わが社が買い取ってしまったんだから、内田も、二度と使用できないはずだろう」 「それは、そうです。ただ、いま、彼を突き放すと、口の上手《うま》い男ですから、あることないこと、うちの悪口を言いふらすかもしれません。それに、新東亜デパートに走ることも、考えませんと」 「しかし、このままでいくと、内田という男のマイナス面が、次第に大きくなっていくわけだろう? ちがうかね? 部長」  社長は、最初の上機嫌はどこへやら、不機嫌を表面に出して、大野を睨《にら》んだ。 「確かに、いまのままだと、内田に対する他のヨットマンの風当たりは強くなるばかりです。それが、内田個人に向けられているうちはいいですが、彼の背後《うしろ》に、わが社がいることは、天下周知の事実ですから、いつか、と言うより、すでに、内田の傲慢さに対する批判が、わが社に向けられつつあります」 「弱ったな。なんといっても、内田一人のために、他のヨットマンぜんぶの反感を買うようなことになったら、確実に業績が落ちるだろうからな」 「ライバルの新東亜デパートも、おそらく、それを狙って、他のヨットマンに働きかけるものと思います」 「だろうな。ところで、内田洋一のことは、調べさせているんだろうな? この大事なときに、馬鹿なマネをされては困るからな。顧問料を倍にしろという要求なら、こちらで処理できるが、刑事事件でも引き起こされたら、元も子もなくなる」 「その点は、私立探偵に調べさせています」 「それで、結果はどうなんだ?」  いらいらしたように、社長の長谷部は、声を荒らげた。 「内田の妻、亜矢子は、妊娠しています」 「それは、前に聞いた。他には」 「彼は、べつに女を作っています」 「なんだと!」  また、社長は怒鳴った。 「どんな女だ?」 「銀座《ぎんざ》の一流バーのホステスで、名前は山代《やましろ》ルミ子です。年齢は二十四歳で、なかなかの美人です」 「ただその店へ行って、ひいきにしているぐらいの仲か?」 「いや、都内に高級マンションを買い与えています。顧問料を倍にしろという要求も、その女に与える金のせいかもしれません」 「その山代ルミ子という女のほうは、どうなんだ? 内田に惚《ほ》れているのか?」 「内田は、なかなかの男前だし、目下のところ、現代の英雄ですからね。それに金離れもいいので、女のほうもそうとう気持ちが傾いているようです」 「まずい。まずいぞ、君」  と、社長は舌打ちをした。 「それはスキャンダルだよ。君。スポーツマンというのは、正義漢で、フェアプレーが表看板だろう。その男が、妻の他に、バーのホステスを囲っていると知れたら、どうなるね? 完全なスキャンダルだよ。イメージダウンは、まぬがれんだろう?」 「そのとおりです」 「週刊誌に知られている気配は?」 「さいわい、いまのところ、その気配はありません。これがバーのホステスではなく、相手がタレントででもあれば、すぐ書かれるでしょうが」 「注意はしたんだろうな?」 「もちろん、しました」 「それで?」 「笑っています」 「笑っている?」 「自分のヨットマンとしての技術に対して、金をもらっているのは認めるが、プライバシーまで売った覚えはないと言うのです」 「困った男だな。といって、馘にするわけにもいかんし——」 「そうですなあ」 「いっそ、劇的な死にぶつかってくれるといいんだが」  と、ふと、社長は呟《つぶや》いた。 「なんですか? 社長」  聞き咎《とが》めて、大野が聞き返した。社長は立ち上がって、窓のところまで歩いて行き、下の通りを見下ろしながら、 「君は、ジェームス・ディーンというアメリカの俳優を知っているかね?」 「ええ、知っています。彼の出た映画も見たことがあります。あの映画は、確か、『エデンの東』とかいう題だったと覚えていますが」 「そのジェームス・ディーンは、三本の映画に出て、二十四歳でスターになった直後、突然、自動車事故で死んだ。それも、ポルシェというスポーツカーの名車を、二〇〇キロ近い猛スピードで、ハイウエーを飛ばしていて、他の車に激突し、一瞬にして昇天してしまったのだ。そのために、ジェームス・ディーンは、いまだに若者のアイドルになっている」 「なるほど」 「そのジェームス・ディーンは、さまざまな女優と噂があった。当然、スキャンダルになるところだが、彼の死が、あまりにも劇的だったために、かえってそれが、彼の栄光に拍車をかけた。いま、ふと、それを考えたんだ。これは、もちろん、私の空想だが、もし内田洋一が、ジェームス・ディーンみたいな劇的な死を遂げてくれれば宣伝にもなるし、スキャンダルも消え、『マーベリック25』の売れ行きも伸びるはずだからな」 「…………」  ふと大野は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。が、それは一瞬のことだった。  確かに社長の言うとおりだったからである。内田がいま、劇的な死を遂げたら、そのとおりになるだろう。 「内田は、車を持っていたかな?」  と、社長は、窓の外に眼を向けたままきいた。 「持っています。それが、おもしろいと言っては変ですが、アイボリー・ホワイトのポルシェです」 「ほう」 「得意になって乗り回しているそうです」 「彼はスピード狂かね?」 「はあ。先日も夜の高速《ハイ》道路《ウエー》を、二〇〇キロ以上で飛ばしたと自慢していました」 「…………」  社長は黙って、大野に背を向けたまま、葉巻をくわえて、火をつけた。大野はその背中に、いままで知らなかったべつの社長の姿を見たような気がした。  長谷部は〈遣《や》り手《て》〉で通っていた。すでに五年近くそばに仕えている大野の社長に対する認識も、物に動じない、遣り手の男というものだった。  だが、この長谷部という男は、もっと恐ろしい人物なのかもしれない。  社長は、大野に背を向けたまま、黙って葉巻を吸いつづけている。  それはまるで、大野に対して、質問を与え、その答えを待っているように感じられた。  質問はもちろん、内田洋一を、ジェームス・ディーンのように、劇的な死に方をさせられるかということである。 (まさか——)  と、大野の顔が、自然に蒼ざめた。 (まさか、社長は、この自分に、内田洋一を劇的に死なせろと命じているのではあるまいな?)  社長の沈黙が長ければ長いほど、大野は気が重くなり、疑心暗鬼に捕われていった。 「ところで」  と、急に、社長がふり返った。思わず大野は、ほっとした。これ以上、社長の沈黙がつづいたら、大野は、逃げ出すか、「私がやりましょう」と、あらぬことを口走っていたかもしれなかったからである。 「内田洋一の細君の名前は、亜矢子といったな?」 「そのとおりです」 「妊娠しているのは事実か?」 「内田がそう言っていましたし、私立探偵の報告もそうなっていましたから、確かだと思います。私に向かって、家内の腹がふくれちまってねと言いました」 「下品な言い方だな」 「下品なというより、狎《な》れ狎《な》れしすぎると言ったほうがいいかもしれません。私に対しても、最初は、大野さんでしたが、最近は、故意にのように、ときどき、大野君と、クンづけで呼んだりします」  と、大野は苦笑して見せた。 「ですから、他の社員が頭に来るのも、無理はないかもしれません」 「ところで、内田洋一はいま、どうしているんだね?」 「十一日から十四日まで、沖縄に行っています。今日は十五日ですから、帰って来ているはずですが」 「沖縄へ何しに行ったんだ?」 「沖縄本島、宮古《みやこ》島、石垣《いしがき》島に、まだマリーナの適地があるはずだから、専門家の眼で調べて来てやると、カメラを持って出かけたんです」 「ふーん。内田でも、わが社のためにつくそうという気は残っていたのかね」  社長が笑いながら言った。 「まあ、顧問料の倍額を要求したり、新艇をくれと言ったりしたので、その手前もあってのことだと思います」 「恩を売りつけておこうというわけか?」 「たぶん、そうでしょう。いまの内田が本気で、わが社のために働いてくれるとは思えませんからな。それに、沖縄への往復旅費や、フィルム代は、ちゃっかり請求して、持って行きました。沖縄に、うちの社が新しいマリーナでも作ったら、おれの名前を冠《かぶ》せろぐらいのことは言いかねません」 「ともかく、内田洋一というのは、扱いにくい男のようだから、完全なデメリットにならぬうちに、なんとかすることだな」  と、それが結論のように、社長の長谷部は言った。冷静な、というより、冷酷な言い方だった。      2  大野は、自分の部屋に戻ってからも、社長の言葉が心に引っかかっていた。いや、社長の言葉が、というより、あのときの社長の沈黙が、と言ったほうがいいだろう。  あの沈黙の間、社長はいったい、何を考えていたのだろうか。どうしても、考えがそこにいってしまうのだ。  中央造船と提携して、海洋レジャーに進出を決定したのは、社長の長谷部である。しかし、内田洋一を顧問として迎え入れ、毎朝新聞に、「マーベリック㈵世号の冒険」を書かせる一方、新しく中央造船の造った二五フィート艇に「マーベリック25」の名前をつけて売りまくる企画を立てたのは、大野である。タヒチまでの賞金一千万円外洋レースの企画も大野だった。  いまのところ、彼の立てた企画は、すべて上手《うま》くいっているように見える。ライバルである新東亜デパートに、大きく水をあけているのも事実だ。今度のレースで、「マーベリック25」が「シー・エリート25」に大差をつけて勝てば、もっと差をあけられるだろう。  だが、肝心の内田洋一が重荷になってきたのは、大野の予想外のことであった。重荷であるうちはまだいい。彼が丸栄物産にとってマイナスの存在になったらどうするのか。いや、すでに、社長にも言ったように、デメリットになりつつある。 (弱ったな)  と、大野が呟いたとき、秘書の金子昌子《かねこまさこ》が、顔色を変えて飛び込んで来た。 「部長さん、たいへんです。ヨット販売宣伝課の部屋で、遊びに来た内田さんと、課員の小西さんが、取っ組み合いの喧嘩《けんか》をしています」 「喧嘩? 課長はいないのか?」 「それが、お留守だそうです」 「しかし、他に誰かいるだろう? 課長補佐や他の課員が制止《とめ》ないのか?」 「相手が内田さんなもんですから、皆さん遠慮して、遠巻きにしているだけなんです」 「困った奴らだな」  と、大野は舌打ちをして、立ち上がった。 「それで、喧嘩の原因はなんなんだ?」 「それが、よくわからないんです」  金子昌子は、蒼い顔で言う。  大野は、足早にヨット販売宣伝課の部屋に行ってみた。彼女の言ったとおりだった。  部屋のまんなかに、内田洋一と小西清治が、凄《すご》い顔で睨み合い、他の課員たちは、触らぬ神にたたりなしといった顔で、遠巻きにしている。  二人とも、そうとう殴り合ったらしい。小柄な小西のほうは、唇を切って血を流し、上着の袖もちぎれてしまっていた。内田洋一のほうも、ワイシャツに血がついているが、これは小西の返り血らしい。詩才はあるが腕力のない小西と、高校時代から海で鍛えた内田とでは、勝負にならないだろう。 「まあ、まあ」  と、大野は大股に二人の間にはいり、内田に向かって、 「内田さん、私の部屋にいらっしゃいませんか。お話ししたいことがあります」  と、言ってから、小西に向かっては、わざと声を荒くして、 「みっともない。顔を洗って来たまえ!」  と、怒鳴りつけた。  それで、内田洋一は少し機嫌を直したらしく、部屋を出ながら、 「ぼくも、腕力なんか振るいたくなかったんですが、あの小西という社員が、あんまり頭にくることを言うもんだから、ついカッとしちまいましてね」  と、いくらか照れた顔で言った。  大野は部長室にはいり、ドアを閉め、内田に椅子をすすめた。 「原因はいったい、なんだったんですか?」 「毎朝新聞の連載記事のことですよ。彼に、もう少し迫力があるように書いてくれないかと頼んだんです。ところが、彼は、元が悪いのに上手く書けるかと、ケンもホロロでしてね。それで、つい、口論になったら、いきなり殴りかかってきたんですよ」 「そりゃあ、うちの社員が悪い。あとでよく言い聞かせておきましょう」  と、大野は頭を下げた。 「そうしてくださいよ。あれでも、本当に詩人なんですかねえ。海とヨットは、それだけでも詩ですよ。それなのに、下手《へた》だなあ。あれなら、ぼくの航海日誌をそのまま載せたほうがいいくらいですよ」 「わかりました。もっと上手く書くように言っておきましょう」 「頼みますよ。ところで、話というのは、いったい、なんです?」  内田が、きいた。  大野は、「まあ、煙草でも」と、相手にすすめた。べつに、なんの話があったわけでもない。話があると言ったのは、二人の喧嘩を止めるための方便だった。 「例の顧問料の件は、社長に話しておきましたよ」  と、大野は、仕方なしに言った。 「それで?」  と、内田は、急に機嫌がよくなった。 「社長は、考えておくと言っています」 「それは、好意的に受け取っていいんでしょうね?」  内田は、念を押すような言い方をした。 (ヨットマンというより、すっかり商売人になったな)  と、大野は、改めていやな気がした。が、内田のほうは、ニコニコと満足気に笑い、ポケットから、撮影ずみのフィルムを何本も取り出して、机の上に並べた。三十本近くあるだろう。 「沖縄で撮りまくってきたカラーフィルムです。丸栄が、本格的に沖縄へ進出する場合、大いに役に立つと思いますよ」 「そりゃあ、どうも、ご苦労さまでした」 「沖縄に着いてすぐ、簡単な報告書を書いて出したんですが、読んでくれましたか?」 「いや、まだ拝見していません。今日あたり着くんじゃないですか?」 「十一、十二、十三日と。そうですね。今日あたりになるかもしれませんな。これなら、じかに報告すればよかった」  と、内田は笑ってから、急に眉をしかめて、 「ぼくがこれだけ丸栄のために働いているのに、あの小西という若僧が、ぼくの航海日誌を、あんな下手くそに書き直すから、よけい腹が立ったんです」 「ごもっともですな」  と、大野は言った。会社にとって荷物になってきたといっても、いまの段階で、この男を怒らせるのは、得策でないと考えたからである。  とにかく、機嫌を直させ、内田洋一を帰したあと、今度は、帰社したヨット販売宣伝課長が、部下の小西清治といっしょに部長室にやって来た。その小西の顔が引きつったようになっているので、何を言いに来たのか、大野にはすぐ想像がついた。 「小西君が、会社を辞《や》めさせてくれと言うので困っています」  と、課長が言った。 「小西君の才能は、うちの宣伝の仕事には、必要欠くべからざるものなので、部長からも慰留していただきたいのですが」  課長に言われるまでもなく、大野も、小西の才能は認めていた。丸栄物産が海洋レジャーに乗り出してからの数多くの標語やポスターは、ほとんど小西が中心になって作ったものだし、いずれも好評だった。一般に退屈だと言われる社内報の編集にも、小西はタッチしていて、丸栄物産のものに限っておもしろいといわれるのも、小西の文才によるところが多いのである。 「さっきは、わざと叱《しか》るような言い方をして許してくれたまえ」  と、大野は、素直に小西に詫《わ》びた。が、若い詩人は、まだ蒼ざめた顔のままである。怒りが、なかなか納まらないのだろう。 「内田さんのわがままは、少しひどすぎます」  と、小西は、声をふるわせて言った。 「内田洋一は、君が先に殴りかかってきたと言っているが、本当はどうなのかね?」 「冗談じゃありません。課の誰に聞いてもわかっていただけると思いますが、内田さんが部屋にはいってくるなり、いきなりぼくを怒鳴りつけて、殴ったんですよ」 「なんと言ってだね?」 「よくわからないんですが、連載記事にちっとも迫力がない、あれじゃあ、おれの努力が全然、大衆に伝わらないというんです。部長も、彼の航海日誌はご覧になったでしょうが、ひどいもんです。あれを冒険話に直すのは、並み大抵の苦労じゃありません。ヨットに関するいろいろな本も買い集めました。そういうのは、ぜんぶ自費で買っているんです。それなのに、あんな罵倒《ばとう》をされたうえ、いきなり殴られたんじゃ、立つ瀬がありません。ぼくにだって、男の意地があります。だから、辞めさせてもらいたいんです」  小西の声は、まだふるえていた。 「まあ、まあ」  と、大野は、手で制してから、 「おおかた、そんなことだろうと思っていたんだ。じつを言うとね、最近、内田洋一のわがままには、私も当惑しているんだよ。だが、いまの段階で、彼を放り出すわけにもいかんしね。君が怒るのも、よくわかるんだ。ただ、毎朝新聞の連載も、あと少しで終わるんで、なんとか我慢して、書いてくれないかね。終わった時点で、君に悪いようにはしないし、社長とも相談して、いろいろと考えているんだよ。あの連載が、君の文才によることは、私が一番よく認めている。だから、辞めることは、思いとどまってくれないかね?」 「内田さんのことは、どうしてくれます?」 「私が責任をもって、今日みたいなことはさせない。これは誓ってもいい」  大野が約束し、もう一度頭を下げると、小西清治も、やっと辞職のことは考え直してみますと言って、課長といっしょに戻って行った。 (やれやれ)  と、大野は、ハンカチを取り出して、額の汗を拭いた。彼の耳に、また、社長の声が戻って来た。内田洋一が劇的な死に方をすれば助かるという、社長の言葉である。 (劇的な死か)  と、呟いたとき、秘書がはいって来た。なんとなくぎょっとして、怖い顔になったとき、 「部長さんにお手紙です」  と、女秘書は、机の上に、絵ハガキを置いて言った。 「守礼之門《しゆれいのもん》」の、沖縄の絵ハガキだった。十月十二日の那覇《なは》郵便局の消印がついている。差出人は、さっき帰った内田洋一である。 〈こちらには、まだ夏が残っている感じです。もう写真を五、六本撮りました。海も空も青く、ここにいると、のんびりします。   沖縄にて。 [#地付き]内田洋一〉 (これが報告書か)  と、大野は、馬鹿馬鹿しくなり、内田の置いていった撮影ずみのフィルムといっしょに、机の引出しに放り込んだ。      3  ファクトリーチームの「マーベリック25」からの無線連絡によれば、小笠原《おがさわら》沖に達したところで、依然として、二隻の「マーベリック25」が先頭を切っているようである。その点で、社長の長谷部はご機嫌だった。  が、大野には、不安が一つあった。  それは、小笠原諸島の南に、低気圧が発生したという気象通報だった。かなりスピードが早いらしい。  現在、先頭を切っている二隻の「マーベリック25」は、安全性よりもスピードに重点を置いて、特別に設計されたものである。いまのところ、それが成功しているのだが、低気圧に巻き込まれたらどうなるのか、素人の大野にはわからなかった。  もちろん、ベテランのヨットマンたちだから、低気圧は避けて、タヒチに向かうだろう。ただそのとき、安全性よりスピードに重点をおいた設計が、裏目に出るかもしれない。クルーたちが、必要以上に用心して、大回りをすれば、その間に、「シー・エリート25」に抜かれる恐れもある。 (だが、あとの三隻の『マーベリック25』は、ふつうの設計だから、二隻がまずくなっても、それをカバーしてくれるだろう)  と、大野は、自分に言い聞かせた。二段構えにしておいてよかったと思った。  それはそれで、いちおう自分に納得させられたのだが、午後になって、毎朝新聞の記者、伊達《だて》が訪ねて来て、また、一つの問題が持ち上がった。  伊達は、「マーベリック㈵世号の冒険」の連載を担当している男で、大野とは、それを通じての知り合いである。 「ちょっと、内密の話があるんですがね」  と、伊達は、大野の顔を見るなり小声で言った。とたんに大野は、先日のこともあるので、いやな予感に襲われた。  大野は伊達を、会社近くの小さな喫茶店に誘った。午後二時という時間のためだろう、客の数は少なく、内密の話には最適だった。 「内密の話というのは、なんだか怖いね」  と、大野は、強《し》いて笑顔を作って見せた。 「まさか、あの連載が中止になるんじゃないだろうね?」 「いや、あれはあと三回で終わりだし、評判もいいので、中止の考えはまったくありません」 「それを聞いて、ほっとしたよ。じゃあ、本にする段階で、何か問題になることでも出て来たの?」 「いや、うちが本にしなくても、あれを本にしたいという出版社はいくらでもありますからね。その点はいいんですが」  伊達は、奥歯に物がはさまったような言い方をした。 「じゃあ、内密の話というのは、いったい、なんなんだい? ズバリと言ってくれないか?」 「今度、勝田登《かつたのぼる》という青年が、手製の小型ヨットで、魔の海峡と呼ばれる南米最南端のホーン岬を通過したというニュースは、ご存じでしょう?」 「ああ、新聞で読んだよ。最近は、ヨットの記事は見逃さない癖ができてしまったからね。ただ、勝田登という青年は、無寄港世界一周ではなく、港々に立ち寄って、のんびり世界一周するのが目的なんだろう?」 「そのとおりです。ホーン岬でシケに遭《あ》い、何度か転覆しながら通り抜け、やっとアルゼンチンのブエノスアイレス港にたどりつき、大歓迎を受けたということです。ホーン岬は、シケの激しさで知られているところで、なんでも、彼の手製ヨットは、いままでにホーン岬を通過した最小のヨットだそうですよ」 「それで?」 「ブエノスアイレスでは、日本人《ハポネス》万歳と、大歓迎ということなので、うちでは、支局に電話を入れて、くわしいことを知ろうとしたんです。そうしたら、妙なニュースがいっしょにはいってきたんですよ」 「どんなニュースだ? その勝田とかいう青年が、内田洋一のように、うちの社の顧問にでもなりたいと言うのかね? それとも、うちのライバルの新東亜デパートが、もうその男に手を伸ばしているのかね?」 「いや、どちらでもありません」 「どうも、君の話は、まだるっこしいな。早く核心に触れてくれんかね」 「その電話の中で、支局員は、ブエノスアイレスの歓迎ぶりを伝えてくれたんですがね。その中に、気になることを言ったんです。今度のヨットの前に、日本人のヨットらしいのが寄港して、三日間、艇の修理と、飲料水の補給をしたというんです」 「ほう」  と、大野が、ぼんやりしたうなずき方をしたのは、とっさに、伊達の言った意味の重要性が、呑《の》み込めなかったからである。しかし、すぐ顔色が変わり、「まさか!」と叫んだ。 「まさか、そのヨットが——?」 「ぼくも、同じことを考えたんで、くわしく知らせてくれと頼んだんですがねえ。どうもよくわからんというのです」 「なぜ?」 「そのヨットが、よれよれの姿で入港して来たのが、今年の一月末だったそうですが、なぜか、艇名を書いた艇尾をかくし、国の印の旗も立ててなかったというのですよ。そして、ブエノスアイレスでも、もっとも目立たない小さな個人の造船所で修理し、水と食糧の補給をしたそうです。それも、終始、手まねだったので、何国人かわからなかったが、東洋人だったことだけは確かだと、その造船所の持ち主は言っているそうです」 「君のところで連載している『マーベリック㈵世号の冒険』では、ホーン岬を通過したのは、いつになっていたかな?」 「すぐ調べましたよ。そしたら、今年の一月二十二日から二十三日にかけてです。その記述どおりだと、ホーン岬で特有の激しいシケに見舞われたが、艇の優秀さと操作が成功し、一度だけ転覆したが、なんとか、ホーン岬を通過し、大西洋に出たと書いてあります」 「ブエノスアイレスのことは?」 「全然、書いてありませんよ。だが、ヨット連盟に問い合わせたところ、今年の一月末に、ブエノスアイレスに寄港した日本のヨットは、一隻もないことになっています。もし、あるとすれば——」 「『マーベリック㈵世号』か?」  大野が蒼ざめた顔できいた。伊達が、荒っぽい動作で、煙草をくわえて火をつけた。 「そのとおりです。もしそのヨットが、日本のヨットなら、『マーベリック㈵世号』だけですよ」 「君は、自分がどんなにたいへんなことを言っているのか、わかっているのか?」 「もちろん、わかっていますよ。内田洋一の単独無寄港世界一周は、嘘《うそ》だということになりますからね。もちろん、世界一周自体すばらしいことだが、嘘に変わりはないですからね」 「本人は、どう言ってるんだ? 内田洋一にはきいたんだろう?」 「もちろん、油壺の別荘に電話してみましたよ」 「そしたら?」 「笑ってましたよ。東洋人といったって、日本人だけじゃない。フィリッピンやタイの金持ちだって、ヨットは持っている。おおかた、他の東洋人のヨットだろうと言ってね」 「君はどう思ってるんだ? 本心を言ってくれ」 「正直に言って、他の東洋人のヨットだとは思えませんね。それなら、国旗を立てて、堂々と入港すればいいんですから」 「そりゃあ、そうだな」 「第二に、日時が合いすぎています。一月二十二日から二十三日にかけて、ホーン岬を通過したのなら、一月末に、ブエノスアイレスに到着するのが、ぴったり合いますからね」 「その艇や、人間のことが、もっとくわしくわからないのかね?」 「いま、ブエノスアイレス支局に調べてもらっていますよ。どうも、不吉な予感がして仕方がないんですがね」  伊達は、また乱暴な手つきで、二本目の煙草に火をつけた。  大野のほうも、相手以上に狼狽を感じていた。もし、ブエノスアイレスに入港した国籍不明のヨットが、「マーベリック㈵世号」なら、単独無寄港世界一周は嘘になり、当然、それは、「マーベリック25」の販売にひびいてくるだろう。たった一か所だけ寄港して世界一周したのだから、やはりたいしたものじゃないか、と、世間は見てはくれない。欺《だま》されたという気分のほうが先に立ってしまうし、一か所に寄港したのなら、他に何か所寄港したのか、わかったものじゃないと考えてしまうのだ。 「まずいよ、君。おおいにまずいよ」  と、大野は、声を大にして、伊達記者に言った。 「そのニュースは、ぼく以外に喋ってないだろうね?」 「もちろん、喋ってませんがね。ブエノスアイレスに支局があるのは、毎朝新聞だけじゃありませんからね。うちで押えても、東日新聞が書くかもしれません。なにしろ東日は、内田洋一をよく思っていませんからね」 「なぜだ?」 「じつは、例の連載の版権ですがね。内田は、東日新聞にも、色眼を使っていたんですよ。そして、原稿料の多いうちに売ったわけです。それだけに、東日新聞としたら、内田のミスは、大々的に報道するでしょうな」 「弱ったな。なんとかならないかね? 君」 「まさか、東日新聞の記事を押えられませんからねえ。ぼくとしてできるのは、ブエノスアイレス支局から、くわしい情報をとることだけです」 「その不明のヨットのことは、いまのところ、いま、話してくれたことしかわかっていないのかね?」 「そうです。その個人造船所の人が、こっそり写真を撮ったということも聞きましたから、もし、その写真が届けば、はっきりするんですがね」 「写真はいつ届く?」 「明後日には届くでしょう。ちょうど、うちの連載が終わった日ぐらいです」 「うーん」  と、大野は唸ってしまった。  おそらくそのヨットは「マーベリック㈵世号」にちがいない。どうしても、そんな気がするのだ。内田が人に好かれる性格なら、なんとか切り抜けられるかもしれないが、あの傲慢な性格は、そんなとき、マイナスの方向に作用することは、眼に見えている。全国のヨットマンたちは、いっせいに、内田洋一を非難するだろう。その非難は、当然、内田のバックになっている丸栄物産にも向けられてくる。そのとき、うちも被害者で、内田洋一にまんまと欺されたと逃げる以外、方法はないだろうが、怖いのは、「マーベリック25」の売れ行きだ。これは、どう考えても、完全に落ちると見なければならない。単独無寄港世界一周した「マーベリック㈵世号」と同じ艇という宣伝文句が、嘘になってくるからである。  新聞記者の伊達も、言葉を失ったように黙ってしまった。大野の脳裏に、また、社長の長谷部の沈黙が、思い出されてきた。長谷部は、自分が命令してからやっと動くような部下は必要ない。自分の意図を素早く汲《く》み取って動け、が口癖だった。とすると、あの沈黙は、一つの命令だったのだろうか。      4  それから三日目に、毎朝新聞の「マーベリック㈵世号の冒険」が無事終了したが、その間、大野は、同じことを考え悩みつづけたといっていい。それにたたみかけるように、その日の午後、伊達が、一枚の写真を持って来て、大野の前に置いた。  やや不鮮明だが、セールを下ろしたヨットと、デッキにしゃがんでいる若い男が写っていた。バックは明らかに外国である。 「これが、問題のヨットですよ」  と、伊達が、椅子に腰を下ろして、長い脚を組んだ。 「あんまりはっきりしない写真だな」 「虫眼鏡があったら、それで男の顔を見てごらんなさい」  と、伊達に言われて、大野は、秘書の金子昌子に、虫眼鏡を持って来させた。  大野は、それで、じっと、デッキの上にかがんでいるヨットマンの顔を見た。横顔しか見えないし、頬《ほお》ひげも伸びている。  が、眼のふちに、ホクロがはっきり見えた。  思わず大野は、眼がクラクラっとした。 (まちがいない。内田洋一だ)  と、思った。あの男にも、同じ位置にホクロがある。 「どうします?」  と、妙に落ち着いた声で、伊達がきいた。声は落ち着いていたが、眼は怒っていた。 「どうすると言ったって、君——」  大野は、戸惑った。受話器に手を伸ばした。が、すぐ引っ込めてしまった。内田洋一に電話して、問いただしてみたところで、向こうは否定するに決まっている。万一肯定したところで、いまさらどうにもならないのだ。 「毎朝のブエノスアイレス支局に頼んで、この写真のネガを買い取らせ、写真の主に、口止めはできないかね?」 「無駄ですね」 「なぜ?」 「東日の支局もありますからね。うちが変な動きをしたら、すぐ嗅《か》ぎつかれて、かえって藪蛇《やぶへび》だ。それに、東日だけでなく週刊誌もありますよ」 「週刊誌か——」 「新聞は、確固とした証拠がなければ書きませんが、週刊誌は噂だけでも、書きまくりますからね。東日より、そのほうが怖いんじゃないですか。いまのところ、週刊誌が嗅ぎつけた様子はありませんが」 「どうしたらいいと思う?」 「ぼくにもわかりませんよ。ぼくだって、もしこれが発覚したら、せっかく内田洋一の原稿を東日と争って取って、局長賞をもらったのも、パアですよ。そうなれば、よくて地方支局へ左遷、悪くすれば、馘《くび》ですよ。あん畜生!」  と、伊達が叫んだ。  大野は懸命に、どうしたらいいかを考えた。  また、社長の言葉と沈黙が、彼の脳裏によみがえってきた。丸栄が新興会社だからこそ、私大出の大野でも抜擢されて、新設の部長の椅子をつかむことができた。たいへんな幸運だったのだ。  それだけに、部長の椅子は失いたくなかった。それに社長の長谷部は、一度失敗した人間は、二度と重用しない冷たい男でもある。新しい会社で内部の競争が熾烈《しれつ》だから、かばってくれる人間はいないだろう。自分で守るより仕方がないのだ。 「ジェームス・ディーンか」  思わず、大野が声に出して呟くと、伊達が、「え?」と、変な顔をした。 「ジェームス・ディーンが、どうかしたんですか?」 「なんとなく、いま、内田洋一が劇的な死を遂げてくれたらと思ってね」  と、大野は、冗談めかして言った。伊達が急に、ニヤッと笑った。 「なるほどねえ。日本人というやつは、死者には甘いからなあ。内田洋一が三十三歳の若さで劇的な死を遂げたら、一生、現代の英雄でいられるかもしれないですね。もちろん、死ねば、忘れられるのも早いだろうけど、東日新聞だって、死者に鞭打《むちう》つようなマネはしないでしょうからね」 「本当にしないかね?」 「新聞記者って奴は、意外に古めかしい気質がありましてね。仁義にはずれたようなマネはしないものですよ」  と、伊達は、まるで自分に言い聞かせるような調子で言った。 [#改ページ]  第四章 劇的な死      1  そして、十月十八日の深夜、あの劇的な自動車事故が、第三京浜で発生したのである。  翌日の早朝、正確に言えば、翌十九日の午前四時すぎ、警視庁捜査一課の十津川《とつがわ》警部補は、課長に呼ばれていた。  十津川は、まだ三十歳だが、頭の切れることで知られている。中肉中背だが、どこか鋼鉄《はがね》を思わせる身体つきだった。眼つきも鋭い。 「まあ、すわりたまえ」  と、課長は、十津川に椅子をすすめてから、 「君は確か大学時代にヨットの経験があったな?」 「ええ、いまでも、ときどき乗っていますが」 「その君に、内密に調べてもらいたい事件が起きた」 「殺人事件ですか?」 「いや、それが、まだわからんのだ。だから、内密にと言ったのだよ」 「どんな事件ですか?」 「いまから四時間半くらい前、第三京浜で、内田洋一というヨットマンが、自動車事故を起こしたんだ」 「あの単独無寄港世界一周に成功した内田洋一ですか?」 「遺体は、いま、病院で解剖中らしいんだが、その途中、皮膚に青酸死特有の反応が認められたと、言ってきたんだ」 「毒死ですか」 「そうらしい。ただ、まだ解剖が終わってないので、断定はできないが、単なる自動車事故とは考えられなくなったので、君に行ってもらいたいんだ」 「わかりました」 「断わっておくまでもないと思うが、慎重にやってもらいたいのだ。なんといっても、死んだ内田洋一は、単独無寄港世界一周に成功した現代の英雄だし、丸栄物産との関係もあるからね」 「わかっています」  と、短く言い、十津川警部補は課長室を飛び出した。  内田洋一の噂は、いろいろと聞いていた。賞賛の声もあれば批判の声もある。おそらくどちらも真実であろう。昨日までは、それを他人事《ひとごと》として眺めていたのだが、今日からは、いやでもかかわり合いを持つことになるかもしれない。  問題の前田病院に着いたころ、内田の急死を悼《いた》むかのように、小雨が降りだした。  十津川は病院にはいると、すぐ解剖に当たった副院長に会った。 「内田洋一の解剖のほうは?」 「ついさっき、すんだところです」  副院長は、さすがに疲れた顔で、煙草に火をつけた。 「それで、青酸は検出されましたか?」 「ええ。胃の中から、致死量以上の青酸カリを検出しました。しかし、微妙なところですね」 「微妙と言いますと?」 「直接の死因のことです。青酸カリによる死と、衝突による頭蓋骨骨折による死と、どちらが早かったか、非常に微妙でしてね」 「なるほど。しかし、検出された青酸カリは、致死量を越えていたんでしょう?」 「そのとおりです」 「すると、自動車事故が起きなくても、内田は、まちがいなく死んでいましたね?」 「そうです。だから私は、医学的立場から考えてと、申しあげたんです」 「…………」  十津川は、黙って腕を組んだ。睡眠薬を飲んで、車をぶっ飛ばし、衝突して死んだ若者の話は、聞いたことがある。その青年は、最初から自殺する気でそうしたらしい。  だが、青酸カリを飲んでスポーツカーをぶっ飛ばし、自殺したなどという話は、聞いたことがない。 (これは犯罪だ)  と、十津川は直感した。それも、ぷんぷん匂《にお》ってくる。 「ところで、警部補さんに見ていただきたいものがあるのですが」  副院長は立ち上がると、奥から薬瓶を持って来て、テーブルの上に置いた。  カプセルの錠剤がはいった、かなり大きな薬の瓶だった。  いまはやりの漢方薬で、「セイノオー」と薬品名が書いてあった。 「これが、どうかしたんですか?」 「遺体のポケットにはいっていたのです。いまは漢方薬ばやりなので、飲みやすいように、そういうカプセル入りも市販されているんです」 「成分は、朝鮮人参や鹿《しか》の角の粉末などとなっていますね」 「一種の精力剤ですよ」 「なるほどね」 「セイノオー」というのは、「精の王」の意味であろう。内田は確か、まだ三十三歳のはずだが、こんな薬を愛用していたのか。 「それで?」 「念のために、この薬を調べてみたんですが、カプセルのいく粒かに、中身が漢方薬の粉末ではなく、青酸カリの粉末がはいっているのがありましてね」 「本当ですか」  十津川の眼が光った。 「この『セイノオー』という薬は、どこの薬局でも売っているものですか?」 「たぶん、売っているでしょう。大きな製薬会社の薬ですから」 「それで、素人でも、カプセルの中身を取りかえることはできますか?」 「簡単ですよ」  副院長は、薬瓶からカプセルを一個つまみ出して、十津川に持たせた。 「両端を軽くつまんで引っ張ってごらんなさい」  と、医者の言うままに、十津川が引っ張ると、赤と黄の二色に塗り分けられたカプセルは、簡単に二つにはずれて、中の粉末がテーブルにこぼれ落ちた。はめるのも簡単だった。これなら、誰でも中身を取りかえられるだろう。 「ところで、このカプセルは、飲んでからどのくらいで溶けるものですか?」 「人によってちがうと思いますが、まあ、五、六分というところじゃないですか。おそくとも十分以内には、胃の中で、カプセルは溶けるはずです」  と、医者は言った。 「話はちがいますが、内田洋一の家族は?」 「さっきまで奥さんが来ていました。若くて、きれいな人でしたよ。解剖がすんだので、いったん油壺の家に戻り、改めて遺体の引き取りに見えるそうです」 「その細君には、青酸カリのことは話されたんですか?」 「いや、まだ話してありません。ご主人が急死しただけでも、たいへんなショックでしょうからね。それに追い打ちをかけるのもお気の毒な気がしたので、まだ話してありません。いずれ話さなければならんと思っていますが」 「新聞記者もやって来たんでしょう?」 「ええ。しかし、まだ解剖がすんでいなかったので、青酸カリのことは一言も話しておりません」 「それなら、当分、青酸カリとこの漢方薬のことは、内密にしておいていただけませんか」 「なぜです?」 「影響するところが大きいですからね。お願いします」 「わかりました」  と、副院長は、うなずいてくれた。 「死亡診断書のほうも、いちおう、頭蓋骨骨折にしておきましょう」 「頼みます」  と、十津川は言い、「セイノオー」の薬瓶をポケットに投げ込んで、前田病院を出た。まだ、小雨が降りつづいていた。      2 〈第三京浜で、内田洋一さん劇的な死〉  という朝刊の記事を、いろいろな人が、さまざまな思いで見たはずだった。  一般紙も、社会面で大きく扱ったし、スポーツ紙は、第一面を、内田の死で埋めた。〈現代の英雄、第三京浜で散る〉と、わざわざその見出しだけ赤インクを使ったスポーツ紙もあったくらいである。潰れたポルシェの写真と、「マーベリック㈵世号」の写真を並べて載せたものが多かった。  丸栄物産では、海洋レジャー部長の大野が、出社するとすぐ、社長室に呼ばれた。  長谷部は、葉巻をくわえ、広い社長室を歩き回っていた。その顔は、悲しげだったが、眼は、それと反対の色をしていた。 「内田洋一が死んだな」  と、社長は立ち止まって、大野を見た。 「今朝の新聞を見てびっくりしました。さっそく庶務課長を、油壺の家へ、弔問にやりました」 「なるたけ丁重にやってくれ」 「わかりました」 「しかし、私の予言どおりになったな。ジェームス・ディーンと同じような事故死だ。しかも、車も同じポルシェだ」 「私も、それで、記事を読んだとき、なんとなく、背筋に冷たいものが走るのを感じました」 「君も心の中で、内田洋一の死を願っていたからかね?」 「いえ、そんなことはありませんが」  大野は、あわてて言ったが、社長は手を横にふって、 「いま、ここには、君と私としかおらんのだから、嘘はつかんでもよろしい。正直に言うとな、大野君」 「はあ」 「新聞を見た瞬間、君がやったのかと思った。君が、事故死に見せかけて、内田洋一を殺したのかとね」 「めっそうもない。なぜ、私が——」 「君は私に、ブエノスアイレスのことを、黙っていたからだよ」 「社長、あれは——」 「いいんだよ。君に情報網があるように、わたしにもあってね。そこから、内田洋一がブエノスアイレスに寄港して、ヨットを修理し、飲料水を補給したらしいというニュースが、わしの耳にもはいっていたんだ。君が、それをどうするか、見てやろうという気もあった。だから新聞を見たとき、とっさに君が手を回したのかと思ったのだ」 「とんでもありません。第一、今度の内田洋一の死は、事故死です」  大野は、声を強めて言った。社長は、あっさりとうなずいて、 「そうだったな。この際、死んだ内田洋一には、できるだけのことをしてやることだ。そうすれば、また彼は、若者のアイドルになる。日本人というやつは、いつになっても、悲劇的な人物が好きだからね。それに、ブエノスアイレスのことも、新聞は書かんだろう。死者にとって、マイナスだからな」 「葬儀のほうは、どうやりますか?」 「喪主は細君ということになるが、うちの顧問をしていたのだから、おおいにバックアップしてやりたまえ。そうだ、場所は油壺のヨット・ハーバーがいいんじゃないか。『マーベリック㈵世号』の前でやれば、うちの『マーベリック25』の宣伝にもなる」 「わかりました。さっそくその手筈をとります」  と、大野が言い、社長室を出ようとすると、社長の長谷部がはじめてニッと笑い、 「おたがいに助かったな」  と、言った。  大野は、自分の部屋にもどると、すぐヨット販売宣伝課長を呼んだ。 「内田洋一の葬儀は、ヨットマンの死らしく、油壺のヨット・ハーバーでやる」  と、大野は、社長の意を伝えた。 「なるほど。うちの『マーベリック25』の宣伝にもなるというわけですな」 「そうだ。だが、その意図が、露骨に見えたらマイナスになる。そのところを、上手く、内田の細君と連絡し、プランを立ててもらいたいのだ。プランは今日中に立ててくれ」 「小西君にやらせます。彼なら、上手にプランを立ててくれると思います」 「ああ、あの男か」  大野はいつかの喧嘩のことを思い出して苦笑した。 「あれから、どうしていたね? あの若い詩人は?」 「しばらくは、悶々としていた様子でしたが、やっぱり若さですな。二日目ぐらいから、さっぱりした顔で仕事に戻っています」 「そうか。毎朝新聞の連載も終わったし、喧嘩相手の内田洋一も死んで、彼もほっとしてるだろう。上品で、人の同情を引くような、いかにもヨットマンらしい、いや現代の英雄にふさわしい葬儀のプランを頼むよ」  と、大野は、課長に言い、相手が消えると、もう一度、新聞の社会面に眼をやった。  今朝は、普通紙からスポーツ紙まで、買い集めたのだが、どの記事も、若くして死んだ内田洋一を惜しむ言葉で埋まっている。  内田のことをあれこれと批判し、金もうけ主義で、スポーツマンシップに欠けるとまで酷評していたヨット界の長老まで、「りっぱな冒険家を失って惜しいことをした」と、書いていた。大野の予想したとおり、死者に鞭打つことを恥とする日本的慣習は、いまも生きているのだ。  大野は机の引出しをあけ、伊達記者の置いていった写真を取り出した。ブエノスアイレスの写真である。  ここに写っている若い東洋人は、まちがいなく内田洋一である。ヨットも、「マーベリック㈵世号」にまちがいない。おそらく、魔の岬といわれるホーン岬で、艇をもてあそばれ、転覆し、損傷を起こし、その修理と飲料水の補給のために、ブエノスアイレスに寄港したのだろう。だが、単独無寄港世界一周を謳い文句に出発しただけに、コソコソとブエノスアイレスに寄港し、ごまかしたにちがいない。ヨットマンの風上にもおけないと言えば言えるが、おかげで内田洋一は、現代の英雄になれたのである。  その内田洋一も、社長の願いどおり、劇的な死を遂げてしまった。東日新聞にしても、死んだ人間のことについて、ブエノスアイレス支局に、あれこれ調べさせまい。新聞社というものは、そんなにヒマではないはずだ。  それに、顧問料の倍額値上げ要求や、千八百万円の豪華ヨットをよこせといった内田の要求も、これで立ち消えになったし、社員と内田との摩擦を心配しなくてもすむことになった。  他のヨットマンも、おそらく、内田洋一の死を、内心では歓迎しているだろうから、丸栄物産への風当たりも弱くなるはずだ。あとは、「マーベリック25」が、一着で、タヒチへ到着してくれればいいのである。  大野は、耐火ガラス製の灰皿に、写真をかざすようにして、ライターで火をつけた。  印画紙特有の異臭を放ちながら、写真はメラメラと燃えあがった。その炎を見ながら、大野の顔に、自然に笑いがこぼれていた。 (もう、これで、内田洋一については、何も心配することはないのだ)  と、大野は、自分に言い聞かせた。 (あの傲慢なヨット青年は死に、うちの社のために、現代の英雄という偶像と、『マーベリック25』を遺してくれたのだ)  やがて、写真は燃えつき、黒い小さなかたまりに変わってしまった。      3  そのころ、十津川警部補は、油壺で、喪服姿の内田亜矢子と会っていた。  油壺のヨット・ハーバーには陽が落ち、もやっている何十隻というヨットは、美しい姿のシルエットを見せていた。  内田邸は、ヨット・ハーバーを真下に見下ろす丘の中腹にあった。豪邸というのではないが、鉄筋二階建てで、どことなく、外洋ヨットを思わせる造りの洒落《しやれ》た構えである。  十津川は、この邸も、おそらく、丸栄物産が「マーベリック」の名前を取得する代償として、内田に与えたのだろうと考えた。丸栄は、もと不動産会社として出発したのだし、各地のマリーナに投資していることは、知られていたからである。  内田の妻、亜矢子の初印象は、美しく理知的な女というものだった。夫が急死し、表情が堅いせいか、冷たい女だという印象も受けた。十津川が警察手帳を示したとき、彼女の顔に最初に浮かんだのは、当惑の色だった。 「今日は、ご主人の死因に不審な点が出て来たので、伺ったのです」  と、十津川は、静かな口調で言った。 「不審な? お医者様は、何もおっしゃっていませんでしたけど」  亜矢子は眉をひそめた。 「それは、ぼくが、わざと口止めをしておいたのです」  十津川は言い、広い窓に眼をやった。その窓から、ヨット・ハーバーの夕景が見下ろせた。黒いシルエットで、ゆっくり入港してくるヨットの姿も見えた。その航跡が、白く美しい線を作っている。 「ご主人がこの薬を飲んでいたのをご存じでしたか?」  十津川は、亜矢子に視線を向け直し、例の「セイノオー」の薬瓶を、彼女の前に置いた。  亜矢子は、テーブルの上で、白く細い指を、組んだりほどいたりしながら、 「ええ」  と、うなずいた。 「丸栄物産の顧問になってから、とても忙しくて、身体が疲れて仕方がないと言って飲むようになったのは、知っています。一か月半くらい前からですわ」 「あなたもお飲みになりましたか?」 「いいえ。私は、昔から、薬と名のつくものは嫌いでしたから。ところで、その薬が、どうかしたんでしょうか?」 「じつは、前田病院で、ご主人の遺体を解剖したところ、事故当時、致死量以上の青酸カリを飲んでいたことがわかったのです。そして、この薬のカプセルに、青酸カリの粉末が仕込んであったのですよ」 「じゃあ、主人は、誰かに殺されたということなんですか?」  亜矢子の顔色が変わった。十津川は、わざとゆっくり、 「その可能性があります。ですから、こうして伺ったのです」  と、言ってから、相手の緊張をほぐすように、 「煙草を吸ってもかまいませんか?」 「どうぞ」  亜矢子は、ぎこちない手つきで、テーブルの上の灰皿を、十津川のほうへ押し出した。ブイの形をした灰皿だった。十津川は、セブンスターに火をつけてから、 「昨夜、ご主人は、なぜ、あんな遅く、車で出かけられたんですか?」 「電話がかかってきたんです」 「なるほど。その時間は?」 「十時半ごろだったと思います」 「誰からですか?」 「存じません。電話は階下にあって、二人で二階にいたときにかかったんです。主人がおりて行って、出ましたから」 「それから?」 「急用ができたからと言って、着替えて、車で出かけて行きました」 「誰に会うとは言わなかったんですか?」 「ええ」 「しかし、そんなに遅い時間に出かけるのを、べつにおかしいとは思わなかったんですか?」 「あたしたちは、結婚するとき、おたがいの私生活には、干渉しないようにしようと、約束していましたから」  と、亜矢子は言った。 「なるほどね」  とうなずいたが、三十歳で、まだ結婚していない十津川には、こういう夫婦のあり方が、よくわからなかった。 「奥さんには、そのときの電話の相手が誰だったか、想像がつきますか?」 「いいえ」  と、亜矢子は、くびを横に振った。 (女かな?)  と、十津川は思った。が、それは、口にしなかった。 「ところで、ご主人が、この薬を、どこの薬局で買ったかわかりますか?」 「たぶん、この下にある、井上《いのうえ》薬局だと思いますけど」  亜矢子は、場所を教えてくれた。十津川はその薬局の名前と場所を手帳に書きとめた。 「ご主人に敵は多かったですか?」  と、十津川はきいた。ふつう、こうきくと、返ってくる返事は、敵なんかいたとは考えられないという紋切り型が多い。主人に限って、他人に恨まれるはずなんかと、顔色を変えて喰ってかかられたことも、何度かある。  だが、亜矢子という女はちがっていた。彼女は、いかにも聡明《そうめい》そうな眼で、じっと窓のほうを見やってから、 「主人には、敵が多かったと思います」  と、はっきりした声で言った。      4 「なぜ、そう思われるんですか?」 「変な言い方ですけれど、主人は、成功しすぎましたから。それに、正直にものを言いすぎましたし——」 「それを、具体的に言うと、どういうことですか? 成功というのは、単独無寄港世界一周に成功したということですか?」 「いいえ。そのことなら、主人がやらなくても、いつか、他のかたが、やりとげたと思うんです。あたしが、成功しすぎたと言ったのは、帰国したあとのことです。一躍、現代の英雄扱いされましたし、丸栄物産には、顧問に迎えられましたし、『マーベリック』は、商標にまでなりましたし——」 「それに、毎朝新聞には、冒険譚《ぼうけんたん》も連載した——」 「ええ。タイミングもよすぎたんですわ。やっと日本も、海洋レジャー時代に突入したときの世界一周の成功でしたから。それで、主人は、名誉のほかに、物質的にも成功者になってしまったんです」 「それに、あなたのような美しい女《ひと》も獲得した」  と、十津川が言うと、亜矢子は、はじめてかすかに微笑した。 「ところで、正直にものを言いすぎたというのは、どういうことですか?」 「主人は、勝てば官軍式のものの考え方を持っていたんです。それに、実力がなくても、古くからヨット界にいるから尊敬されるといったことが、嫌いな性格でした。世界一周にしても、皆さんのおかげとか、幸運に恵まれたからとか、日本人らしい謙虚さで言えばよかったんでしょうけれど、正直に、実力だとか言うもんですから、古いヨットマンのかたがたからは、あまりよく思われていなかったようです」 「なるほど。ご主人は、十月十八日の深夜に、東京に向かう途中で亡くなられたんですが、どこへ行くつもりだったか、想像がつきますか?」 「いいえ。さっきも申しあげたとおり、誰からの電話か、あたしには言いませんでしたから」 「そうでしたね。ところで、これは失礼なお願いですが、ご主人の書斎を拝見できますか?」  と、十津川はきいた。亜矢子は、すぐにはいいとも悪いとも言わず、逆に、 「主人が誰かに殺されたと、あなたはお考えなのですか?」  と、きき返してきた。 「まだ、なんとも言えませんが、私は、その可能性が大きいと考えています」 「それなら、どうぞ、ごらんになってください」  と、亜矢子は立ち上がった。 (若いが、しっかりした女だ)  と、思いながら、十津川は、彼女のあとにつづいた。しっかりしているが、その分だけ、冷たい感じもするが、これは、夫に急死されたせいかもしれない。  ブルーの絨毯《じゆうたん》を敷いた階段をあがっていくと、二階は夫婦の寝室と、内田の書斎になっていた。  本棚には、さすがにヨットや船舶関係のものが多かった。百科事典も並んでいたが、このほうは真新しいので、いまはやりのように、調度品の一つとして購入したのかもしれない。  洒落た状差しには、二十通近い手紙が突っ込んであった。十津川は亜矢子に断わってから、その手紙に眼を通させてもらった。  地方の少年からの賛美の手紙もあれば、内田の行動を批判するヨット仲間からの手紙もあった。  その中に、沖縄の絵ハガキがあるのを見て手に取った。那覇の消印が押してある「紅型《びんがた》」という沖縄の染め物の絵ハガキで、死んだ内田洋一から、妻の亜矢子にあてたものである。 〈沖縄はやはり美しい。君といっしょに前に来たときのことが思い出される。今度もいっしょに来たかったのだが、仕事だから仕方がない。子供が生まれたら、三人でまたいっしょに来よう。 [#地付き]洋一〉 「ご主人は最近、沖縄に行かれたんですか?」 「ええ。十月十一日から十四日まで、丸栄さんの仕事で行って来たんです。マリーナの候補地探しです。その絵ハガキより、当人のほうが先に帰って来てしまいましたけど」 「そういえば、那覇の消印は十月十二日になっていますね」  と、微笑しながら、その絵ハガキを元にもどしてから、十津川は、 「ご主人に脅迫状めいたものは来ませんでしたか?」 「そういうものは見たことはございませんけれど、お金の無心の手紙なら、何通か見たことがありますわ」 「無心というと?」 「見ず知らずの若い人からなんですけど、あなたは、ずいぶん金もうけをしたはずだから何十万か貸せとか、ヨットがほしいが金がないから、なんとかしてくれ、ヨット仲間なら、そのくらいのことをしてくれるのが当然だろうというのが、五、六通、来ましたわ」 「有名税というやつですな。そういう手紙はどうしました?」 「主人は、そういう依頼心の強い人間は嫌いでしたから、すぐ焼いてしまいましたわ」  亜矢子は、あっさりと言った。これは犯罪には関係がなさそうだと、十津川は思った。そんな人間に電話で呼び出されても、内田が深夜に出かけるはずがないと思ったからである。  棚には、銀製の「マーベリック㈵世号」の模型が飾ってあった。丸栄物産からの贈り物だという。 「ご主人は、何か新しい計画をお持ちでしたか?」 「べつに聞いておりませんでしたけど、中央造船が造っている一番大きなクルーザーをほしがっていましたわ」  と、亜矢子は、壁に貼《は》られた写真を指さした。三五フィートはある豪華艇だった。一瞬、十津川は、自分が刑事であることを忘れて、その写真に見とれた。 「子供が生まれたら、あたしたち家族と、友人で、あのクルーザーでゆっくり、世界一周をしたいと言ったことがあります」  と、亜矢子は、いくらか顔を赧《あか》らめて言った。 (市販価格は、二千万円近くはするだろう)  と、思ったとたんに、十津川は、現実に引きもどされ、いつもの鋭い眼になった。 「内田さんは、保険にはいっていましたか?」 「ええ」 「はいったのは、いつですか?」 「あたしに子供ができたとわかってからですから、一か月前です」 「ほう。金額は?」 「三千万です。もちろん、あたしもはいりました。おたがいを受取人にして」 「すると、近く、三千万円が、あなたの手元にはいってくるわけですな?」 「でも、彼が死んでしまっては、なんにもなりませんわ」  亜矢子は、眼を伏せた。  十津川は、礼を言い、内田邸を出た。収穫はほとんどなかったが、十津川は、べつに失望していなかった。事件の最初というのは、だいたいこんなものである。  十津川は、内田の家を出たあと、彼女の言っていた井上薬局に寄ってみた。国道一三四号線に沿ったところにある、かなり大きな薬局だった。  中にはいると、「セイノオー」の大きな広告が眼に飛び込んで来た。 〈精力増大、疲労回復に、ぜひ、漢方処方のセイノオーを。本物の朝鮮人参を使った、飲みやすいカプセル入りです〉  と、書いてある。ほかにも、漢方薬と謳った薬が多い。それほど漢方薬ブームなのだろう。  奥から出て来たのは、白衣を着た四十年輩の女だった。十津川は警察手帳を見せてから、 「内田洋一さんを知っていますか?」 「ええ。今度は、お気の毒なことになってしまって」  と、女は、眼をしばたたいた。 「ここで、『セイノオー』という薬を買いませんでしたか?」 「ええ、お買いになりましたよ。最初、お見えになったとき、最近、疲れて困るんだが、何かいい薬はないかとおっしゃるんで、『セイノオー』をおすすめしたんです」  女は、背後《うしろ》の棚から、箱にはいった新しい「セイノオー」を取って、十津川の前に置いた。大きさは、十津川が前田病院で押収したものと同じだった。百二十錠入りと書いてある。 「大きさはこれ一種類ですか?」 「ええ」 「一瓶いくらですか?」 「五千円です」 「高いなあ」  と、思わず、十津川は言ってしまった。 「一回三カプセル。それを朝昼晩と三回飲めと書いてあるから、百二十カプセル入りでも、半月分がいいところでしょう。それで五千円は高いなあ」 「でも、本物の朝鮮人参がはいっているんだから、けっして高くはありませんですよ」  と、女は、懸命な顔で言った。 「旦那《だんな》さんもお飲みになったらいかがですか? 飲んだかたはみんな、よくきくと、言ってくださいますよ」 「ぼくは、まだそんな年じゃない」 「いいえ、二十五歳くらいから、この薬は飲んでいたほうがよろしいんですよ」 「まあ、いいよ」  と、十津川は、苦笑してから、 「ところで、一番最近、内田洋一さんが、この薬を買いに来たのは、いつですか?」 「十月十日の夜です。たしか、夜の八時ごろでした」 「確かですか?」 「ええ、まちがいありません。例のタヒチまでのヨットレースですか、あれがあった日の夜でしたもの。今日はスターターをやらされたと、言っていらっしゃいましたもの」 「他には、何か言っていませんでしたか」 「そうですわねえ。明日から四日ばかり沖縄へ行って来るんだとおっしゃってました。いいですわねえと言ったら、仕事だからつまらんと笑っていらっしゃいましたけど」 「他には?」 「ちょうど、この薬がなくなったところだとおっしゃってました」 「買ったのは一箱だけ?」 「ええ」 「この『セイノオー』は、他の薬局でも売っているんでしょうね?」 「ええ。大きな薬局なら、たいてい売っているはずですわ。とても評判のいい薬ですから」 (十月十日の夜に、新しく買ったのか)  と、十津川は、前田病院で押収した薬瓶を見た。カプセルは半分くらい減っている。十月十日に買ったことと量の減り具合は、だいたい一致していると思った。  十津川は、桜田門《さくらだもん》に戻ると、捜査一課長に、調べたとおりを報告した。 「前田病院の医者にも、内田亜矢子にも、青酸カリの件は、当分伏せておくように頼んでおきました」 「それはよかった。ところで君は、今度の事件を当然、殺しと思っているんだろうな」 「九九パーセント、殺人事件と思います」 「あと一パーセントの疑問はなんだね?」 「動機ですね。その動機が、あるようで見つからないのが、なんとなく心に引っかかるのです」 「しかし、内田洋一は、あまり周囲からよく思われていなかったのだろう?」 「そのとおりです。ただ、それが、殺すほどの憎悪だったかどうか、まだわかりません」 「ヨット仲間の評判も、よくなかったようじゃないか」 「批判的な眼で見ている者が多いのは、事実です。しかし、重《おも》だったヨットマンは、たいてい今度のレースに参加しています」 「なるほど。内田が、あの『セイノオー』という薬を最後に買ったのが、十月十日の夜、つまり、レースの夜となると、レースに参加しているヨットマンには、青酸カリ入りのものとすりかえる時間がないということか」 「そのとおりです」 「細君はどうだ? 君の話だと、三千万の保険金を、おたがいにかけていたんだろう。三千万なら、十分に動機になるんじゃないかね?」 「確かになりますが、彼女はいま、内田洋一の子供を宿しています。すでに三か月でしょう。となると、三千万の金額も、少々、動機として弱くなってしまうのです」 「なるほどな。ところで、『セイノオー』という薬だが、カプセルの溶ける時間から見て、油壺の家を出るときに飲んだんじゃないな」 「はい。たぶん、衝突事故のあった地点から、三、四キロ手前のドライブインか、ガソリンスタンドで飲んだのだと思います。いま、部下に調べさせています」 「『セイノオー』という漢方薬は精力剤だったな?」 「そうです。高価な薬です。われわれにはとうてい手が出ません」  と、十津川は苦笑した。 「深夜に、しかも都心に向かって車を飛ばす途中で精力剤を飲んだということは——」 「女ですか?」 「たぶんそうだろう。都心に若い女でも囲っていて、会いに行く途中だったと考えるのが一番自然だ。その線も洗うんだな」 「わかりました。鈴木《すずき》刑事にやらせます」 「よし。ところで君は、これからどうする?」 「明日一日、時間をいただきたいのです。もし殺人事件なら、何か見つかるはずですから」      5  翌日、十津川警部補は最初、毎朝新聞か、丸栄物産を訪ねてみようかと考えたが、途中で気を変えて、東日新聞に車を向けた。  内田洋一の手記を、毎朝と東日が取り合った(というより、内田が両方を天秤《てんびん》にかけて原稿料の高いほうに売りつけた)ことは、かなり知られていたからである。東日なら悪口も聞かされるだろうが、真実も聞ける可能性も強い。  有楽町《ゆうらくちよう》にある東日新聞に行き、内田洋一のことを聞きたいと受付で言うと、運動部記者の大河原が階段をおりて来た。 「やあ、君か」  と、十津川が笑ったのは、油壺や江の島のマリーナで、二回ばかり会ったことがあったからである。おもしろいことに、そのときは、十津川のほうが非番で、向こうが仕事だった。 「内田の死に、何か不審な点が出たんですか?」  と、大河原はさすがに記者らしく、単刀直入にきいてきた。 「いや、そんなことはない。ただ、前にもボクシングの選手がスポーツカーで、高速道路で同じような事故を起こしているんでね。二度も同じ事故が重なると、問題だし、われわれのほうとしても、いちおう調べる必要が生じてきたというわけでね」 「ほう。警察でも敏腕で鳴らした十津川警部補がねえ」 「警察の仕事は、市民の安全を守るのが第一だよ」 「上手いことを言いますねえ」  と、大河原は笑った。 「ところで、死んだ内田洋一のことで、何か聞いてないかね?」 「何かと言いますと?」 「内田洋一についてのおもしろい話だ。毎朝や丸栄物産は、彼が死んだんで、大きな痛手だろうね? とくに『マーベリック25』を売っている丸栄物産のほうは」 「果たしてそうでしょうかねえ」  と、大河原は、思わせぶりな言い方をした。 「どういう意味だね? そりゃあ」 「タダじゃあ教えられませんよ。こちらもニュースを取るのが商売ですから」 「とすると、どうなるのかね?」 「十津川さん。あなたが交通係の手助けをしているなんてことを、どうして信じられます? 内田の死に、何か不審な点があったということなんでしょう? そうでしょう? 十津川さん」 「知らんなあ」 「じゃあ、こちらも、とっておきのニュースがあるんですが、お教えできませんねえ」 「どんなニュースだ?」 「さっき言った、内田の死を、丸栄物産がむしろ喜んでいるかもしれない理由ですよ」 「本当にそんなニュースを持っているのか?」 「持っていますよ。たった一枚の写真ですがね。これが、かなりな衝撃になる。ただ、いまの段階では、死者に鞭打つ形になるので、差し止めているんですがね。もし内田洋一の死が単なる事故死でないとすると、話はべつですが」  大河原の思わせぶりな言い方に、十津川は、わざと気のなさそうな返事をして、警視庁に戻ったが、戻るとすぐ、捜査一課長に相談した。 「ギブ・アンド・テイクというわけか」  と、課長は苦笑した。 「君は、その提案に乗るつもりでいるんだな?」 「青酸カリの件は、いつまでも秘密にしておけるものではありません。とすれば、私としては、早く問題の核心に触れたいのです」 「じゃあ、君のいいようにやってみたまえ。ただし、他の新聞社から恨まれるのを覚悟しなきゃならんぞ」  と、課長は釘《くぎ》を刺すような言い方をした。  十津川は、その日のうちに、もう一度、大河原に会った。 「やっと決心がついたようですね」  と、大河原が機先を制して言うのへ、十津川も、 「君もあれから、あわてて前田病院へ問い合わせたんだろう?」  と、やり返した。大河原は頭をかいた。 「そのとおりです。ところが、解剖をやった医者の口が堅くて堅くて」 「こちらが口止めしといたからね。ところで、君の切り札というのを先に見せてくれないか?」 「これです」  と、大河原は、ブエノスアイレスの例の写真を取り出して見せた。 「そこに写っているのは、拡大して見るとわかりますが、内田洋一です。日時は今年の一月下旬。つまり彼は、単独無寄港世界一周をしたのではなく、少なくともブエノスアイレスにはひそかに入港して、小さな造船所で艇の修理をし、飲料水の補給もしているのです」 「丸栄物産も知っているのかね?」 「うちの支局が毎朝新聞の支局の動きがおかしいので、追いかけていて、つかんだネタなんです。毎朝と丸栄物産は、いまのところ持ちつ持たれつで、『マーベリック25』の売上げをやってますからね。毎朝が最初、『単独無寄港世界一周』という題だったのを、丸栄の要求で、『マーベリック㈵世号の冒険』に変えた。その代わりに、『マーベリック25』の広告、半ページ分を毎朝に載せた。そういう関係ですからね。まず知っているでしょうな」 「おもしろいな」 「でしょう? ところで解剖の結果、何が出たんです?」 「青酸反応だよ。それも、かなり多量にだ。彼が愛飲していた漢方薬のカプセルにはいっていた。自分で飲んだのか、誰かに飲まされたのか、いまのところわからんがね」  十津川が言ったとたん、大河原の姿はもう眼の前から消えていた。社会部に知らせに行ったのだろう。  十津川は苦笑し、大河原の置いていった写真をポケットにねじ込んだ。 [#改ページ]  第五章 疑惑の風《ウインド》      1  丸栄物産社長の大テーブルには、相変わらず南太平洋の大きな地図が広げてあった。  模型のヨットはいま、グアム、テニアンの沖あたりに置かれてあった。無線連絡によれば、依然として二隻の「マーベリック25」が先頭を切っているようだが、油断はできない。  小笠原沖で、純然たる個人参加艇二隻が、低気圧に巻き込まれ、一隻はメインセールをやられ、やむなく補助エンジンをかけ、死力をつくして父《ちち》島の二見《ふたみ》港へ退避した。もう一隻はマストを折って、これも二見港へ避難した。レース棄権《リタイア》である。  だが社長の長谷部には、個人艇のことはどうでもよかった。自分のところのファクトリー艇が優勝してくれればいいのである。その点、順調に首位を走りつづけているのは嬉しいのだが、今朝の東日新聞を見たとたんに眉をしかめた。 (青酸カリだと——)  と、呟いてから、インターホーンに向かって、 「大野部長はまだ来てないのか!」  と、怒鳴った。  大野がはいって来たのは、それから数分後である。 「遅いぞ!」  と、叱られて、大野は壁の時計に眼をやったが、九時の始業時間にはまだ間があった。しかし、それを言うには、社長はワンマンすぎたし、大野自身も東日新聞のスクープで狼狽《ろうばい》していた。 「東日新聞は見たろうな?」  社長の長谷部は、いらだったときの癖で、広い社長室を動き回りながら大野を見た。 「もちろん見ました。青酸カリを飲んでいたというのは、ショックでした。内田はなんでそんなものを飲んで、スポーツカーなんか運転していたんでしょう?」 「そんなことはどうでもいい。問題は、警察だ」 「警察?」  大野の顔が、蒼くなった。 「警察が出ばって来ますでしょうか?」 「当たり前じゃないか。わしだってこの記事を見たとたん、内田は殺されたのかもしれんと思ったくらいだからな。まさか、君がやったんじゃあるまいな?」 「なんで、私が——?」 「君じゃなければ、それでいい。だが、警察が調べ出すと、当然、例の写真が明るみに出てくると考えなきゃならん。内田が無寄港世界一周ではなくて、ブエノスアイレスにひそかに寄港していたとわかったら、どうなると思うね?」 「私もじつは、それを真っ先に考えました」 「この企画は、君が立てたんだったな?」 「はあ。しかし——」 「それに、内田洋一を顧問に迎える工作をしたのも君だ」 「はあ。しかし——」 「安心したまえ。君を馘にするつもりで言ってるんじゃない。君が海洋レジャー部長として、『マーベリック25』の販売に功績があったことは、おおいに認めている」 「ありがとうございます」 「しかし、警察が動き出せば、真っ先に尋問されるのは君だ」 「はあ」 「すぐ、タヒチへ飛びたまえ」 「しかし、レースはまだ、半分の行程にも達していないんですが」 「そんなことを言っている場合かね。それに、どうせ君は、賞金授与でタヒチに行くんだろう。レースが終わるまで、向こうでゆっくりしていたまえ。タヒチだけでなく、近くの島で遊んでいてもいい」 「わかりました。では、すぐ部屋にもどりまして、事務の引継ぎをしましてから」 「何を馬鹿なことを言ってるんだ。そんなことをしているうちに、警察が来たらどうするんだ」 「では、どうしたら?」 「君は、パスポートを持っているか?」 「はあ。どうせタヒチに行くことになると思って、パスポートはもらってあります」 「それなら、すぐ都内のホテルへ行くんだ。航空券と金は、そこへ届けさせる。それから、賞金授与には、美人のマリーン・ガールが必要だが、それもあとで選んで、タヒチへやる。それでいいだろう?」 「わかりました」 「東京駅に近いSホテルがいい。これからすぐ、あそこへ行きたまえ。わかっているだろうが、偽名で泊まるんだ。香山三郎《かやまさぶろう》がいい。私の甥《おい》の名前だ」 「わかりました。すぐSホテルへまいります」  大野があわてて出て行ってから、二十分ほどして、社長の予想どおり、警視庁の十津川という警部補が訪ねて来たと、秘書が告げた。  長谷部はほっとして、応接室で、中肉中背だが、変に眼の鋭い警部補を迎えた。  十津川は、すぐには用件を切り出さず、女事務員がテーブルの上に置いていったコーヒーに手を伸ばした。 「いまのところ、お宅の『マーベリック25』の二隻がリードしているようですな」 「幸運にもね。だが、まだ半分も行ってないんだから、結果はわからんがね」  と、長谷部は相手の顔色を窺《うかが》った。 「内田洋一さんの自動車事故死に、不審な点が出て来ましてね」 「それなら、わしも東日新聞を見てびっくりしたんだが、青酸カリが検出されたというのは、本当なのかね? わしには、どうも信じられないんだが」 「事実です。それで、内田さんのことをいろいろと伺いたくて、参上したんですが」 「そいつは残念だったねえ」 「というと?」 「内田君のことは、いっさい、海洋レジャー部長の大野君に委せてあってね。顧問の契約のことから、何もかもだ。その部長が、いま、日本にいないのだよ」 「どこにいるんです?」 「タヒチに飛んでもらった。いろいろと準備なんかもしてもらわなくちゃならんのでね」 「しかし、レースはまだ、全行程の半分も行ってないんでしょう? 少し早すぎやしませんか?」 「そうかもしれないが、いろいろと用があってね。ヨットマンたちが到着すれば、ホテルも確保しなければならんし、正月の一週間ぐらいはタヒチで、選手たちにのんびり過ごさせたいしね。そういう準備もしに行ったわけだよ」 「行かれたのはいつですか?」 「昨日《きのう》だ」 「なるほど、昨日ですか——」  十津川は、壁にかかっている世界地図に眼をやった。 「その部長さんの他に、内田さんと親しくしていた人はいなかったんですか?」 「それが、あいにくなことに、いまも言ったように、内田君のことは大野君を通してやっていたんでねえ。何しろうちは、ヨットの販売だけをやってるわけじゃなくて、レジャー関係のあらゆる商品を扱っているんでね」 「タヒチのなんというホテルに泊まるんです?」 「わからんね。向こうへ着いたら連絡してくることになっている。そうしたら、あんたにも連絡しよう」 「そう願いたいですな」  と、十津川警部補は言った。      2 「丸栄物産の社長は、明らかに嘘をついていますね」  十津川は確信をもって、上司の捜査一課長に言った。 「部下に調べさせたところ、大野部長がタヒチに向かったのは昨日ではなく、今日です。どうやら、都内のホテルにかくれていて、そこから羽田《はねだ》へ向かったと思われます。もちろん、すべて、社長の指示でしょう」 「丸栄物産も、ずいぶん、七面倒臭いことをやるもんだな」  と、課長は苦笑した。 「おそらく、殺人事件の匂いがするので、それに会社が巻き込まれるのは困ると考えたからでしょう。内田のことを知っているのが、その大野という海洋レジャー部長だけでは、こちらとしても、手の打ちようがありませんでした」 「それにしても、慎重すぎるな、丸栄は。あの会社は、ヨットの販売を手がけたのは最近で、いまでも、不動産やゴルフ、ボウリングなどの部門で、もうけているんだろう。ヨットの売上げの比率は、そう高くないと思うんだが」 「しかし、これからは海洋レジャー時代ですし、売上げの比率は小さくても、将来性から考えれば、重視せざるを得ないんでしょう。今度の事件で、内田の冒険にインチキがあったとわかると、企業イメージがダウンしますからね。そんなことで、あわてたんだと思います」 「そうかもしれんな。ところで、九九パーセントの君の確信は、さらに高まったかね?」 「殺人事件の確信は強くなりましたが、弱ったことに、容疑者の範囲が広がってしまいました。最初は、むしろ、丸栄物産と対立関係にある新東亜デパート側か、内田洋一の成功を妬《ねた》んでいる他のヨットマンの仕業かと思っていたんです。これは、今度のレースに参加していないヨットマンですが。しかし、ブエノスアイレスの件があって、単独無寄港世界一周がインチキだとなると、それを一番知られたくなかったのは、丸栄物産ということになります。丸栄の責任者が、内田の劇的な死を望んだとしてもおかしくはありません」 「プライベートな線も無視できんだろう? 細君の線も」 「いちおうは、無視できません」 「よし。捜査本部を置いて、徹底的に調べてみよう」  と、捜査一課長は、断を下した。信頼する十津川警部補の言葉もあったし、それに、東日新聞が青酸カリの件を載せてしまったこともあった。夕刊には、ぜんぶの新聞が書き立てるだろう。警察としても、その前に断を下す必要があった。  警視庁内に捜査本部ができると、十津川警部補は、改めて、部下の刑事を四方に走らせた。  捜査一課長の予想どおり、その日の夕刊は全紙、内田洋一の死因に疑問のニュースを大々的に報じた。中には、もう殺人事件と決めてかかった書き方の新聞もあったくらいである。漢方薬「セイノオー」に触れている記事もあった。  夜遅くなって、部下の刑事が、おいおい戻って来た。  収穫のあった(といっても、いまの段階としては、ということだが)刑事もいれば、何もつかめずに戻って来た刑事もいた。  十津川は、それらを整理して、わかったことを黒板に書きとめていった。  第一は、死んだ内田洋一に、妻の亜矢子のほかに女がいたことである。   山代《やましろ》ルミ子(二十四)  と、十津川は、まず黒板にその名前を書き、彼女のことを調べてきた中年の刑事に、 「どんな女だ?」  ときいた。 「じつは、まだ会ってないんです」  と、その刑事は、ベテランらしくなく、頭をかいた。 「銀座の高級バーじゃ、われわれのポケットマネーじゃ、はいれませんからね。新聞記者から聞いたんです。内田はこの女に、明大前《めいだいまえ》に高級マンションを買い与えていたということですよ」 「明大前というと、甲州《こうしゆう》街道沿いだな」 「そうです。第三京浜から環七に出れば、大原《おおはら》交差点を経て、すぐ明大前です」 「なるほどな。すると、あの夜、内田は、この女のマンションに行くために、第三京浜をすっ飛ばしていたのかもしれん。私が明日、その女に会ってみよう。ところであの夜、内田が薬を飲んだ場所はわかったか?」  と、十津川は、べつの刑事を見た。 「わかりました。主任が考えられたとおり、あの夜、事故現場から三キロほど手前にあるガソリンスタンドで、給油しています。従業員が、内田の顔を覚えていました。その男の話によると、内田は、満タンにいれさせたあと、水をコップで持って来させて、薬を飲んだそうです」 「よし」  と、十津川は満足そうにうなずいた。やはり考えたとおりだったのだ。おそらく、内田洋一は、数分後に、自分が死ぬとも知らず、女に会うことを考えながら、「セイノオー」を飲み、ポルシェ911S「タルガ」を、すっ飛ばしたのだろう。  次に、十津川が黒板に書いたのは、「内田亜矢子」の名前だった。内田にべつの女がいたとなれば、妊娠していても、彼女も十分、容疑者の中にはいってくるのだ。いや、妊娠していることが、よけい嫉妬と憎しみの理由になってくる。 〈動機=三千万円の保険プラス嫉妬〉  と、名前の下に書き加えた。 「ほかに容疑者は?」 「丸栄の小西清治という二十八歳の男がいます。海洋レジャー部のヨット販売宣伝課の人間です」 〈小西清治(二十八)丸栄・ヨット販売宣伝課〉  と、十津川は黒板に書いた。 「説明を聞こうか?」 「この男は、詩人でもあり、非常に自尊心の強い男です。例の毎朝新聞の『マーベリック㈵世号の冒険』のゴーストライターをやらされていましたが、そのことで、しょっちゅう内田と衝突し、内田が死ぬ三日前には、会社で大喧嘩をやっています」 「すると動機は、自尊心というやつか?」 「それに、内田に対する軽蔑もあったんじゃありませんか?」 「軽蔑から、人を殺すかね?」 「単なる軽蔑なら、殺さんでしょう。しかし、詩人という人種の精神構造は、われわれ凡人にはわかりませんからね。それに、小西から見れば、内田洋一は、じつにつまらん男に見えたと思うのです。そんな男がチヤホヤされたり、いばりくさっているのが、許せないということもあったんじゃないかと思うのです」 「なるほどな。詩人的な怒りか。他には」 「村上邦夫」  と、刑事の一人が、自分の手帳を見ながら言った。 「村上? 何者だい? そいつは?」 「高校、大学と、内田洋一といっしょだった男です」 「友人か?」 「友人というよりライバル関係にあったようです。油壺で聞いてきたんですが、亜矢子を先にくどいていたのは、村上のほうだったといいます」 「嫉妬と功名心か」 「ただし、この男はいま、太平洋の上です」 「なんだって?」 「中古船で、今度のタヒチまでのレースに参加しているからです。他にクルーが二人乗っています。艇の名前は『サンダーバード号』。名前だけはりっぱですが、中古なので、目下のところ、一番しんがりを走っているようです」 「じゃあ、アリバイがあるんじゃないか」 「私もそう思いましたが、主任が、動機のある者をぜんぶ書き出すということでしたので——」 「まあいい。あとは、丸栄物産の部長の大野だな。この男の動機は、ちょっと複雑だが」  十津川は黒板に「大野海洋レジャー部長(五十二)」と書き、その下に、ブエノスアイレスの例の写真を、鋲でとめた。 「たぶん、動機は、あの写真だろう。内田洋一に劇的な死に方をしてもらいたい気持ちは、わかるような気がするからな」 「ライバル会社の新東亜デパートのほうも、無視できないでしょう?」  と、他の刑事が言った。 「確かにそうだ。他に毎朝新聞と東日新聞のライバル意識も、無視はできん。それに、内田洋一は、他のヨットマンに評判が悪かったようだからな。今度の江の島—タヒチ間六〇〇〇マイルレースに参加していなくて、内田洋一を憎んでいたり、恨んでいたりしたヨットマンも、マークする必要があるな」 「丸栄物産や新東亜デパートが、本格的に、ヨットの販売に乗り出してから、ヨットマンの売込みがなかなか激しかったようです。それが、内田洋一のせいで、はじき出されたとなると、彼を恨んでいたヨットマンも多かったと思います」  と、刑事の一人も言った。 「容疑者の多い事件になりそうだな」  十津川はむずかしい顔で、  新東亜デパート関係(ライバル会社)  毎朝と東日の確執(に巻き込まれたか?)  他のヨットマンの妬み(レース出場者を除く)  と、書き並べた。果たして、黒板に書いたこれらの中に、犯人がいるかどうか、いまの段階では、なんとも言えない。不安だが、同時に、楽しいときでもあった。とにかく、明日からの捜査に、すべてがかかっていた。      3  翌日、十津川警部補は、明大前の高級マンションに、山代ルミ子を訪ねた。今日は車でなく、電車である。銀座の高級バーだろうが、ホステスなら、どうせ起きるのは昼近いだろう。急ぐ必要はないという考えからだった。  私鉄の電車の中で、十津川は、新聞に眼を通した。  社会面には、相変わらず、内田洋一の死が載っているが、毎朝も東日も、ブエノスアイレスの例の写真は載せていなかった。死者に対する礼儀なのか、それとも、おたがいに牽制《けんせい》し合っているのか、十津川には見当がつかなかった。  レースの模様も出ていた。  どうやら、先頭集団は、小笠原沖の低気圧圏を無事に切り抜けて、ウエーク島の方向に向かっているらしいが、先頭は目下不明と書いてある。まだ先は長いのだ。とにかくタヒチは、|日 付 変 更 線《インターナシヨナル・デート・ライン》を越えなければならないのだから。  私鉄を明大前でおりる。麻雀《マージヤン》屋がやたらに並んでいて、けっこう、客がはいっているのは、どこの大学の近くでも同じ現象である。  マンションは、M大の裏にあり、山代ルミ子はもう起きていた。  会ってみて十津川は、内田があんな美人の細君がありながら、べつに女を作った理由がわかったような気がした。  亜矢子は、確かに若くて美人だし、魅力がある。だが、話していると、才走りすぎている感じがした。それに比べて、いま、眼の前にいる山代ルミ子は、同じように美人だが、どこか白痴的な感じがする。もちろん銀座の高級バーにいるくらいだから、頭の悪いはずはないのだが、亜矢子のように、才気が表に出てくる感じがまったくない。男が右を向けと言えば、亜矢子ならまず、なぜときくだろうが、この女のほうは、黙って右を向く感じがする。おそらくそんなところが内田の気に入ったのだろう。 「内田さんが死んだ次の日、お店を休んで、一日中、泣いていたわ」  と、言ったが、その顔は、言葉とは裏腹に、ケロリとしていた。 「最初に会ったのは、いつだね?」 「あの人が成功して日本へ帰って、一週間くらいしてよ。丸栄物産の大野という部長さんといっしょだったわ。それから、二回いっしょに来て、四回目から、ひとりで来るようになったのよ」 「そして、このマンションを買ってくれたというわけかね?」 「ええ」 「君ぐらいのホステスなら、他にもマンションぐらい持ってたんじゃないのか?」 「ええ、このほかに二つ持ってるわ。もったいないから、家賃を取って、人に貸してあるけど」 「たいしたものだ」  十津川は、自然に苦笑をもらした。警視庁捜査一課警部補の彼がまだ独身で、官舎暮らしなのに、二十四歳のこの女は、細腕で、三つのマンションに部屋を持っているのだ。 「事故のあった夜のことを、くわしく話してくれないか?」 「そうねえ。あの日、お店から彼に電話したのよ。会いたかったから。お店が閉まる直前だったから、十時半ごろだったかな」 「やはり、油壺へ電話したのは君か。それで?」 「すぐこっちへ来るっていう返事だったから、あたしもまっすぐ帰って、お化粧をしなおして待ってたわ。あの人の買ってくれた香水もつけてね。そしたら、朝になったって来ないじゃないの。馬鹿にしていると思って、プンプンしてたら、事故のニュースでしょう。もうビックリよ」  山代ルミ子は、大きな眼をいっそう大きくして見せた。  かわいらしい女である。少なくとも、男に、そう感じさせるものを持っている女だった。こういう点が、内田亜矢子にはない。 「君は、内田洋一に、細君がいたことは知っていたのかね?」 「もちろん知っていたわよ。名前までは知らなかったけどね」 「君は、内田を愛していたのか?」 「そうねえ」  山代ルミ子は、煙草をつまみあげ、ダンヒルのライターで火をつけ、美味《うま》そうに吸ってから、 「好きだったことは確かね。恰好はよかったし、有名だったし、金離れはよかったし。でも、死んじゃったとなると、また、新しい彼氏を探さなきゃならなくなっちゃった」 「四軒目のマンションをくれる男をかね?」 「まあ、そんなところね」 「君と内田の仲は、そういう関係だったというわけか?」 「まあ、そんなところね」  山代ルミ子は、自分のものになった三つ目のマンションを、満足気に見回した。  もう、この若いホステスからきき出せそうなことは何もなさそうだった。      4  捜査本部へ帰る道で、十津川は、亜矢子が山代ルミ子の存在に気づいていたにちがいないと考えた。亜矢子は頭のいい女である。それに、夫が深夜に出かければ、女がいると考えるのが、常識というものであろう。  新宿の駅まで来て、なにげなく新聞売り場に眼をやると、 〈内田洋一の単独無寄港世界一周に衝撃の疑惑〉  の大きな字が、眼に飛び込んできた。  新聞ではなく、今日発売の男性週刊誌の広告だった。  十津川は、生まれてはじめて、若者向きのその週刊誌を買い、霞《かすみ》ケ関《せき》までの地下鉄の中で、問題のページを開いてみた。  あの写真が大きく引き伸ばされて、掲載されていた。が、記事のほうは、広告ほど断定的なものではなかった。おそらく、こうした週刊誌のつねとして、表紙の活字だけ先に印刷してしまったのだろう。  この週刊誌『男性《ガイズ》ウィークリー』は、ブエノスアイレスに駐在員がいるはずがなかった。他の古い男性週刊誌に比べて、発行部数もそう多いはずはなかったから、独自の調査網でこの写真を手に入れたとも思われない。 (東日新聞の大河原だな)  と、すぐニュースソースは想像がついた。それで、まっすぐ捜査本部に戻るつもりだったのを変えて、十津川は東日新聞に行き、大河原を呼び出した。相手の顔を見るなり、『男性《ガイズ》ウィークリー』を見せて、「アルバイトをやったな」と、きめつけると、大河原は、エヘヘヘと笑った。 「なぜ自分のところの新聞に載せないんだ? 特ダネだろう?」 「ですがねえ。内田洋一が死んで、まだ間がないですからねえ。死者を鞭打つような記事を載せると、読者受けが悪いんですよ。デスクが、もう少し待てと言うんで、こっちは我慢がしきれなくなって、その週刊誌に売っちまったんです。ぼくとしては、金もうけというより、真実を知らせたい気持ちからの行為だったんですが、丸栄物産は、どこから知ったのか、今週号を多量に買い占めたそうです」 「そういえば、新宿駅の売店にも、これ一冊しかなかったな。しかし、この出版社は、刷れば刷っただけ売れるんだから、笑いが止まらんだろう?」 「丸栄がいくらでも買うからですか? ところが、そうはいかないんですね。この『男性《ガイズ》ウィークリー』は、だいたい十万部くらいしか毎週出てないんですが、これ以上出さないらしいですよ。しかも、そのうち八万部以上は、丸栄物産が買い取ってしまったらしい」 「どうしてだね?」 「よく、その週刊誌を見てください。グラフが多いでしょう。いい紙を使って、写真、それもカラー写真が多くて、値段は百円です。十万くらいじゃもうかりません」 「だが、毎週出ているじゃないか?」 「つまり、広告をたくさん載せているからですよ。それで、辛うじてもうかっているんです」 「なるほどね。丸栄物産で、これから毎週、ヨット関係の広告を載せると約束したわけだな」 「たぶんね。出版社としたら、御《おん》の字ですからねえ。それで、今週号はもう刷らないんです」 「君としたら、思惑はずれか?」 「いや、少しでも売れれば、効果はあったと思っていますよ。現に、十津川さんも買ってくれたじゃありませんか」 「君は、誰が内田洋一を殺したと思うね?」 「やっぱり警察は、他殺と断定しているわけですね?」 「質問しているのは、こっちだよ」 「ぼくなんかには、わかりませんよ。素人なんだから。とにかく、現代の英雄にはちがいなかったが、傲慢でいや味な男でしたからねえ。死んで、喜んでいる人間も多いんじゃありませんか」 「まさか、君が殺したんじゃあるまいね?」 「冗談じゃないですよ。それほどの正義感も勇気も、ぼくにはありません」 「内田にインタビューしたことは?」 「世界一周から帰港したときと、もう一回の二回やりましたよ。いや、結婚式のときに会ったから、三回か。会うたびに、天狗になっていくのがわかって、いやでしたね。だから、昔風のヨットマンから見たら、鼻持ちならなかったんじゃないですか」 「すると君は、ヨットマン犯人説かね?」 「そうは言いませんよ。むしろ、丸栄物産の人間なんかのほうが、怪しいと思いますね。これは想像ですが、丸栄じゃあ、例の写真のこともあって、内田洋一をもてあましはじめてたんじゃないですかね。これは丸栄の社員に、酒を飲みながら聞いたんですが、『マーベリック25』の売れ行きがいいんで、内田は、丸栄へ来て、威張り散らしていたようですよ。それをおもしろく思わない社員も多かったんじゃありませんか」 「たとえば、小西清治という男かね?」 「よくご存じですねえ」 「警察にも、情報ははいってくるんでね。よく知らんのだが、ゴーストライターというのは、原稿料の何パーセントかをもらうんだろう?」 「ふつうはね。しかし、小西の場合は、丸栄の社員ということで、全然もらっていなかったんじゃありませんか。それなのに、毎朝の連載について、内田はずいぶん小西に文句を言ってたそうですから、あの詩人も、そうとう頭に来てたんじゃありませんか?」 「小西清治は、詩人としてかなり有名だったのかね?」 「ぼくは、そのほうはくわしくありませんが、友人に聞いたところでは、若手としては、そうとう有望な詩人のようですよ。それだけに、内田には、腹を立てていたでしょうねえ。ぼくが見たって、あの連載のよさは、小西の力ですよ」 「さっき君は、丸栄が内田洋一をもてあましてたんじゃないかと言ったな?」 「じゃないかと想像しただけですよ」 「しかし、まだ利用価値はあったはずだが」 「例の写真が世に出て、単独無寄港世界一周がインチキとなったらどうでしたかね。それに、内田の存在が、他の社員の士気に影響するとなると問題でしょう? だが馘にもできない。一番いいのは——」 「劇的に死んでくれることか?」 「まあ、そうです。それによって、また現代の英雄はよみがえるし、日本人の性格として、死者を鞭打つようなマネはしない——」 「なるほどね。君を部下にほしいね」 「あいにく、警察はあんまり好きじゃないんです」  と、大河原は笑った。十津川も、もちろん、冗談で言ったのだが。 「ところで、村上邦夫という若いヨットマンを知ってるかね?」 「村上? ああ、今度のレースに、中古艇で参加した男でしょう。艇の名前は、確か、『サンダーバード号』だったな。もっともぼくは、幽霊船と呼んでいましたがね」 「そんなにオンボロなヨットなのかね?」 「いや、前の持ち主のとき、夫婦で大島までセーリングに出かけたら、細君が熱病で死んじゃったんですよ。どうやら、デッキで雨に打たれたのが原因で、肺炎になったらしいんですが、持ち主は、それで気味悪がって、安く村上に売っちまったという噂です」 「村上はそのことを知っているのかね?」 「彼も他の二人のクルーも、知っていますよ。ぼくが教えてやりましたからね。三人ともいやな顔をしましたがね。いや、ぼくが噂の張本人じゃありませんよ。誰からともなく、スタート前から、あのヨットは幽霊船だという噂が、江の島マリーナに流れていたんです」 「|乗り手《クルー》としたら、いい気持ちはしないだろう?」 「でしょうね」 「ところで、村上は、内田とはライバルだったらしいね?」 「ええ。だから村上も、中古艇を買ってでもレースに参加して、あわよくば一着になって、内田を重用している丸栄物産に一泡ふかせる気でいるんじゃないですか。もっとも、村上が一着になれば、新しい英雄出現で、丸栄が採用しなくても、ライバルの新東亜デパートがほうっておかないでしょうがね」 「その『サンダーバード』が一着になる可能性はありそうかね?」 「まず、無理でしょうな。今度のレースは、個人参加も多いですが、いわば、丸栄物産の『マーベリック25』と新東亜デパートの『シー・エリート25』の争いみたいなものですからね。ファクトリーチーム同士が優勝を争うとみるのが、順当じゃありませんか。おのおのの造船所も力を入れて、市販艇より少しでも性能のいいものを造って、参加させていますからね。村上に限らず、個人参加艇に、まず勝ち目はありませんね」 「勝ち目はなくても、参加するものかね?」 「それだけ、海とヨットが好きなんでしょう。それに、万一ということもあるし、行く先がタヒチとなれば、その楽しみもあるんじゃないですかね。ゴールのタヒチに着けなくても、あのあたりには、楽しい島がたくさんありますからね。ビリでも、悪くないですよ」 「なるほどね。ぼくもそんな航海はしてみたいね」  と、十津川は笑ってから、 「ヨットマンで、今度のレースに参加していなくて、内田洋一を憎んでいた者は知らないかね?」  と、生真面目《きまじめ》な表情にかえってきいた。 「そうですねえ。若いヨットマンの中には、内田と同じように、単独無寄港世界一周を計画していた者は、何人かいたと思うんです。K・Hが単独太平洋横断をなしとげたあと、残された冒険といえば、それを、誰でも第一に考えますからね」 「そして、内田洋一に先を越されて、彼が現代の英雄に祭り上げられたとなれば、強い嫉妬を感じないわけにはゆかないというわけだな。ここ三か月ばかり、まるでヨットマンといえば、内田洋一しかいないみたいな騒ぎだったからな」 「そうですね。単独無寄港世界一周はおれがやるはずだったと、その後、口惜しがっていた若いヨットマンに、何人か会いましたよ。その中の何人かが、丸栄物産や新東亜デパートがヨット界に乗り出すと聞いて、自分を売込みに行って、断わられたのも知っていますよ。これは断わられるのが当然で、ただの冒険好きの若者じゃあ、宣伝価値がありませんからねえ」 「その若者たちの名前を知っているかね?」 「ええ。十津川さんは、その中に、内田洋一を殺した犯人がいると思うんですか?」 「わからんよ。だが人間、とくに若い人間は、嫉妬から簡単に人を殺すことがあるからな。それに、操艇技術は自分のほうが上だと確信している若いヨットマンなら、なおさらだろうと思うんだ」 「なるほどね。いちおう名前は教えますが、ぼくが喋ったことは内証にしておいてくださいよ」  と、念を押してから、大河原は、自分の手帳に書いておいた五人の若いヨットマンの名前を、十津川に教えた。その中には、「サンダーバード号」で今度のレースに参加している、村上邦夫の名前もあった。 「みんな、二十代から三十代の若者ですよ。もし、この中に犯人がいたとしても、ぼくは、非はむしろ内田洋一のほうにあったような気がしますね。成功してから天狗になって、少し威張りすぎましたからね」  大河原は、殺された内田に、あまり同情のない調子で言った。その冷たさの中には、毎朝への対抗意識もあるようだ。 「どうも、みんな、油壺のヨット・ハーバーでセーリングをやっていた連中のようだね?」 「そのとおりです。だからよけい、内田に嫉妬心がわいたんだと思いますよ。彼らに会って、内田洋一のことを話してごらんなさい。とにかく、クソミソですよ」 「油壺へ行って、会ってみよう」  十津川は、村上を含めた五人の名前を手帳に書き写しながら、大河原に言った。 「ところで、例のブエノスアイレスの写真だがね。あれは、いつごろ手にはいったんだ?」 「タヒチへのレースが始まったあとです。正確に言えば、新しい英雄として、小型の自家製ヨットで、ホーン岬を越えてブエノスアイレスへ入港した日本青年のことが、新聞に載ったでしょう。あの青年のことを、ブエノスアイレス支局に問い合わせた副産物としてはいってきたニュースだったわけです」 「そうだったな」 「しかし、ヨットに少しくわしい人間だったら、内田洋一の単独無寄港世界一周は、なんとなくおかしいと思っていたんじゃないですかねえ」 「毎朝に連載した『マーベリック㈵世号の冒険』の記事のことかい?」  自分もヨットマンとしての経験のある十津川は、連載記事を思い出しながら、眼を光らせてきいた。 「そうです。内田も、ホーン岬をひとりで乗り切ったわけだし、それをクライマックスにして書いていますよね。まあ、ゴーストライターの腕がいいんで、なかなかあの場面は迫力があるし、感動的に書いてありましたが、ホーン岬がどんなに危険なところかは、ヨットマンの十津川さんなら知っているでしょう?」 「もちろん、知っているさ。ヨット仲間では、�海のエベレスト�と呼ぶ者さえいる。確か、イギリス人の書いた航海記だったと思うが、五人乗りのヨットでホーン岬を越えるとき、一週間も、この海の地獄から抜け出せず、休みない暴雨風と大波との闘いで、三本のマストがぜんぶ倒れる悪夢まで見たと書いている。それに、あの辺りは南極に近いから、流氷群に出あわす危険もあるそうだしね。この五人は、誰もが、一種の錯乱状態にあったとも書いている」 「それに、まれに風が穏やかなことがあっても、大波のほうは、あとからあとから押し寄せてくる難所ですよ。だから、この南端のホーン岬を通過したヨットマンには、『ケープ・ホーナーズ・クラブ』から表彰されるくらいです。先日、自家製ヨットでホーン岬を通過した、例の日本の青年も、横倒しと転覆をくり返し、大波がぶち当たるたびに、キャビンの中ではね飛ばされたと書いています。ホーン岬を通過したのは奇跡だったと。そして、とにかく、ヨットの修理が必要になって、ブエノスアイレスに入港したわけです。そして数か月、ヨットの修理のために、ブエノスアイレスに滞在すると語っています。もちろん、この数か月というのは、修理代をかせぐためのアルバイトの期間もはいっているんでしょうが、それにしても、大修理が必要だったわけです」 「『マーベリック㈵世号』の場合は、どう書いてあったかな?」 「四〇メートルの暴風雨が吹き荒れ、シーアンカーで、辛うじて船の安定を保ったが、大波を受けて転覆。しかし奇跡的に『マーベリック㈵世号』は立ち直った。気圧計は九八〇ミリ以下を示している。波は、波というより山だ。キャビン内は完全な水浸しとなる。二日目の朝、ホーン岬を波間に見る。恐怖と歓喜が重なった。ぼくは自分に言い聞かせた。とうとう、自然との闘いに勝ったのだぞと」 「よく覚えているね」 「うちに連載になるはずだった航海記ですからね。だが、これだけ打撃を受けたのに、どこにも入港しなかったのは、それこそ奇跡としか思えませんよ」  大河原は、皮肉な言い方をした。ヨットマンでもある十津川には、あながち大河原が、毎朝に対する対抗意識からだけで、皮肉を言っているのだとは思えなかった。確かに、魔のホーン岬で、四〇メートルの暴風雨にあい、一度転覆しながら、その後どこかに寄港して修理もせず、そのまま世界一周を達成したのは、奇跡に近いのだ。 「だから、前から、あの無寄港世界一周はマユツバだという噂は、流れていましたがね」  と大河原が、つけ加えた。 「毎朝に、ホーン岬通過の場面が載ったのは、いつだったかね?」 「確か、レースが始まって三日目ですよ。本来なら、もっと早く書かれなければならないんですが、おそらく、丸栄がレースを盛りあげたいという営業政策もあって、ホーン岬通過を、後のほうにもってきたんでしょう。とにかく、恐怖の代名詞にもなっているホーン岬通過は、最大のクライマックスですからね」 「その部分を正確に読みたいな。君の話で、だいたいわかったが」 「それなら、毎朝へ行って見せてもらうんですな」  と、大河原は、冷たいことを言った。十津川は苦笑してから、 「話は変わるが、君は、内田洋一が『セイノオー』という漢方薬を飲んでいたことを知っていたかね?」 「例のカプセル入りの漢方薬でしょう。もちろん知っていましたよ」 「もちろんというのは?」 「内田自身が吹聴《ふいちよう》していましたからね。たいていの人間が知ってたんじゃないですか」 「しかし、三十三歳の若さで精力剤を飲むというのは、自慢になることじゃないと思うんだが、なぜそんなことを吹聴していたんだ?」 「その薬そのものを自慢していたわけじゃなくて、いかに自分が女にモテるかを自慢したくて、その自慢話に花をそえるために、『セイノオー』を出してる感じでしたね。なんでも、銀座の高級バーのナンバー2か3を、囲ってたそうじゃありませんか。あれじゃあ、精力剤も飲みたくなるでしょうね」  大河原は、羨望とも軽蔑ともつかぬ調子で言った。 「とすると、『セイノオー』のことは、丸栄の人間も知っていたことになるかな?」 「知っていたと思いますよ。内田はいつもポケットに入れて持ち歩いて、よく人に見せていましたからね。ああ、丸栄に、大野という部長がいるでしょう。あの人に、銀座のバーで会ったとき、内田に『セイノオー』をすすめられたと言ってましたよ。まあ、丸栄の部長ぐらいになれば、五千円の薬も簡単に買えるでしょうが、安月給のぼくには手が出ませんよ」 「よく、五千円と知っているね?」 「近所の薬局へカゼ薬なんかを買いに行くと、デカデカと『セイノオー』の宣伝ポスターが貼ってありますから、いやでも眼にはいります。もっとも、こっちは女にはモテないから、当分、精力剤は要りませんがね」  と、大河原は笑った。      5  十津川は警視庁にもどると、資料室で、毎朝新聞の綴《つづ》りを調べてみた。大河原の言った、ホーン岬通過の場面は、江の島—タヒチ間六〇〇〇マイルレースのスタート後、三日目の朝刊に載っていた。正確に言うと、三日目から四日目にかけ、二日間にわたって連載されていた。 〈今度の航海で、最もスリルに満ちた経験は、なんといっても、航海者から恐怖の代名詞として恐れられているケープ・ホーン(ホーン岬)の通過だった〉  という書出しになっている。  内容はだいたい大河原が言ったとおりだが、詩人の小西清治が内田の航海日誌をもとにして書いただけに、迫力のある描写になっていた。  その中に、こんな描写があった。 〈襲いかかる風と大波のため、艇とデッキのつぎ目に大きな亀裂《きれつ》が生じてしまった。転覆から立ち直ったものの、キャビンへの浸水激しく、そのうえ、自動操舵装置をこわされ、ウインドベーンは跡形もない——〉  これでは当然、岬を通過したあと、どこかへ入港して修理するのが常識である。とくに、ウインドベーンがないと、艇速が極端に落ちるからだ。そのくらいのことは、ヨットを少しでもやった者なら、常識である。  だが、他の日の描写に、困ったという描写はもちろん、入港して修理した記事もない。  内田が帰港したとき、十津川は、刑事としてではなく、一人のヨットマンとしてそのニュースを聞いた。そして、おそらく、ホーン岬を通過したとき、非常な幸運に恵まれて、この魔の海が眠っていて、あまり風のないときに通過したのであろうと考えたのである。  しかし、この記事を読むと、一度、転覆したうえに、艇とデッキの間に亀裂が生じ、自動操舵装置がこわれ、ウインドベーンは失われていると書いているのである。それに、考えなければならないのは、「マーベリック㈵世号」が、中央造船という大きな会社で造った規格品に近く、しかも、|FRP《フアイバーグラス》(強化プラスチック)製だということである。ふつうに考えると、手製のヨットより、造船所で造ったヨットのほうがいいように思えるが、破損した場合は、まったく逆なのである。手製のベニヤ製だと、修理しやすいし、改造も簡単にできるからである。それに反して、造船所で造らせたFRP艇は、修理するのがむずかしいし、修理する場合は、やはり、小さくても、造船所へ入れなければならないのである。  これも、たいていのヨットマンならわかることだから、この描写を読んだだけで、単独無寄港世界一周は、ちょっとあやしいと思ったはずである。  十津川は、そんなことを考えながら、捜査本部に戻ると、部下の刑事たちも、あらかた帰っていた。  彼らが異口同音に言ったのは、容疑者のアリバイ調査の困難さだった。  無理もない。  内田が油壺に近い井上薬局で、最後に「セイノオー」を買ったのは、十月十日の夜である。  そして、翌十月十一日から十四日まで、仕事で沖縄へ行っている。刑事が調べたところによると、内田が沖縄へ往来した正確な時間は、次のとおりである。   十月十一日十時四十五分羽田発(日航)   十月十四日二十一時五分羽田着(日航)  と、なると、十月十四日の夜、内田が沖縄から東京にもどってから、第三京浜で死んだ十月十八日の夜までの間に、誰かが、内田の持ち歩いている「セイノオー」と、青酸入りのものと、すりかえたことになる。正確に考えれば、井上薬局で内田が買った十月十日の夜も考慮しなければならない。  問題は、その間に内田が、いったい誰とどこで会ったかだが、肝心の内田洋一が死んでいるので、きき出す術《すべ》がなかった。 「小西清治ですが、彼は、内田洋一が『セイノオー』を飲んでいたことを知っていたと言っています。どうも、内田となんらかの接触があった丸栄社員は、全員知っていたようです。ただし、小西は、青酸入りのものとすりかえたことは、固く否定しています」  と、最初の刑事が言った。 「しかし、彼は、十五日に、内田と取っ組み合いの喧嘩をしたんだろう? そのときに、すりかえるチャンスはあったわけだ」 「私も、その点をついてみたんですが、小西は、殺さないの一点張りです」 「青酸カリについてはどうだ? 小西には、入手するところがあったようかね?」 「正確にはわかりませんが、小西は文科出ですから、友人に青酸カリを扱っている者がいる可能性は、ごく少ないと思われます。その点が、小西についての問題点ですが」 「内田が殺されたことについては、どう言っていた?」 「殺されて当然だと言っていましたよ。ヨットマンというのは、りっぱな人物ばかりかと思ったら、あんないやな奴もいるとわかって、幻滅したとも言っていました。詩人のせいか、海が心を洗い清めない場合もあるんだななんて、妙な言い回しでしたが」 「小西は、どんな生活をしているんだ?」 「アパートに一人暮らしです。いちおう、アパートの近くにある薬局で、小西が『セイノオー』を買わなかったかどうか聞いてみたんですが、返ってきた答はノーでした。もっとも、小西が内田を殺すつもりで『セイノオー』を買ったとすれば、すぐにバレる近所の薬局では買わんでしょうが」 「たぶんな。小西の女関係はどうだ?」 「管理人の話では、二、三回、人妻風の女性が訪ねて来たことがあったそうです。しかしこれは、今度の事件とは関係がなさそうです。あるとすれば、その女に、『セイノオー』を買わせたかもしれない点くらいのところですが」 「つまり小西については、進展なしということか。タヒチに行った大野部長については、何か情報がはいったか?」 「噂ぐらいしか聞けませんでした」 「どんな噂だ?」 「最近、大野部長も、内田洋一をもてあましていたらしいといった程度の噂です。それから、これは、べつに事件の参考にはならないと思いますが、こんな写真をもらって来ました」  刑事は、二、三十枚のカラー写真を、テーブルの上においた。 「なんだい? こりゃあ」 「内田洋一が、十月十一日から十四日まで沖縄へ行って撮って来た写真の一部です」 「ああ、彼は四日間、丸栄の仕事で沖縄へ行ってたんだったな」 「それもどうやら、内田のほうから持ちかけた仕事らしいのです。もちろん彼は、ガッチリ、旅費からフィルム代まで、丸栄に請求したそうですが」 「それで、内田の撮って来た写真は、丸栄にとって役に立ったのかね?」 「それが、やたらに海岸を撮っただけのことで、マリーナ候補地の選定には、ほとんど役に立たなかったそうです」  と、刑事は苦笑した。 「そうか。では、次の報告を聞こうか」  と、十津川は、内田亜矢子のことを調べにやった刑事に眼を向けた。 「彼女は今日、生命保険会社に対して、内田にかかっていた三千万円の保険金を、至急払うようにという請求をしています」  と、背の高い刑事が答えた。 「夫を失った悲しみの中でも、金のことは忘れずというわけか」  十津川は、亜矢子の、美しいがどことなく冷たい横顔を思い出していた。 「薬のほうはどうだ?」 「いまのところ、彼女が一番『セイノオー』をすりかえるチャンスがあったわけですが、彼女が買ったという証拠はつかめませんでした。もっとも、あの薬は、ほとんど全国の薬店で売っているそうですから、内密に買おうとすれば、車を飛ばせばいいんですから、買わなかったという証拠もありません」 「彼女は夫の内田に、山代ルミ子という女がいることは知っていたようだったかね?」 「名前は知らないが、夫に女がいたことは知っていたようです。自分の口から、あっさり言いました。平気だったのかときいたら、おたがいの自由を束縛しない約束で結婚したんだと、ケロリとした顔で言っていました」 「そのセリフは、ぼくも聞かされたよ。ということは、逆に言えば、彼女のほうも、内田以外に男がいたことも十分に考えられるな」 「はい」 「その男が、たとえば、行きつけの産婦人科医だったとすれば、青酸カリの入手は可能だったわけだ。妊娠していたんだから、産婦人科医は決めてあるわけだろう?」 「あの家の近くに産婦人科医があって、そこの医者に、いろいろと妊婦の心得なども聞いているようです」 「その医者に会ったか?」 「会いました。三十七、八で、なかなかハンサムな男です」 「ちょっと引っかかるな」  と、十津川は言った。亜矢子には、男の気持ちを引きつける奇妙な魅力がある。相手がインテリなら、なおさらだろう。インテリの男に限って、ああいう女に弱いものだ。 「彼女の経歴はわかったか?」 「M女子大を出たというので、調べてみましたが、確かに卒業しています。当時からなかなかの才媛だったようです。その後、社長秘書をやったり、タレント的な仕事もやったりしていたそうですが、彼女の女友だちの証言によると、昔から、仕事がなくて遊んでいるときでも、いつも金には不自由していなかったと言っています」 「ということは、つまり、金持ちの男が、いつも彼女の周囲にいたということだな」  十津川は、皮肉な眼つきをしてから、 「引きつづいて、彼女と医者との関係を洗ってくれ。もし彼女が、その医者から青酸カリを手に入れていたら、決め手になるからな」 「わかりました」 「次は、丸栄と新東亜デパートの状況だ」  と、十津川は、べつの刑事に声をかけた。      6 「君は、丸栄の社長の長谷部に会って来たんだろう?」 「会って来ました。社長室に入れてくれましたが、話が大野部長のことに触れると、ノーコメントの一点張りです。主任の言われたとおり、大野が急にタヒチに飛んだのは、彼の口封じのようです」 「社長室はどうだった?」 「テーブルの上に、でかい南太平洋の地図が広げてあって、ヨットの模型が並べてありました。それだけでは、まだ物足らないのか、馬鹿でかい地球儀も机の上にのっていましたよ。目下のところ、『マーベリック25』が先頭を切っているとかで、話がその点に触れると、急にご機嫌になって、饒舌《じようぜつ》になりましてね」 「内田洋一の死を、悲しがっているようだったか?」 「いちおう口先では、じつに惜しい男を失くして残念だとは言っていましたが、悲しんでいる様子はありませんでした。例のブエノスアイレスの件があったりして、内田洋一のデメリットが出はじめていたときでしたからね。本人は、内田が死んでくれて、ほっとしているんじゃありませんか」  その刑事は、うがったものの言い方をした。  十津川も、うなずいて、 「つまり、丸栄物産としては、内田洋一は、うまく劇的な死を遂げてくれたというところだろうな。殺人事件になってしまったのは誤算だったろうがね。それで、一刻も早く、新しい英雄がほしい。タヒチに一着で到着した『マーベリック25』のクルーは、たぶん強引に、新しい英雄に仕立てあげられることだろう。もっと露骨に言えば、宣伝材料にされるな」 「しかし、まだ、『マーベリック25』が勝つかどうかわかりませんよ。何しろ、江の島—タヒチ間は、日本とアメリカ間に匹敵する距離ですからね。タヒチ到着は、あと一か月くらいはかかるはずです」 「そうだったな。新東亜デパートのほうはどうだ?」 「こっちはもう、丸栄とは完全に空気が逆です。内田洋一の単独無寄港世界一周は、完全にインチキだと決め込んでいます」 「そうだろうな。意気盛んというところか」 「社長にも、営業の担当者にも会って来ましたが、みんな、例の『男性《ガイズ》ウィークリー』を持っていましたよ。いくらでも買い込んで、全国にバラ撒《ま》きたかったんだが、丸栄が卑怯にも買い占めたと怒っていました。ただ、これで現代の英雄は死んだと、喜んでいましたね。そのうえ、タヒチレースで『シー・エリート25』が優勝すれば、文句はないでしょう。おもしろいことに、新東亜デパートの社長室の机の上にも、馬鹿でかい地球儀がのっかっていました。気持ちは同じということでしょうか」 「犯罪の匂いはどうだ? 新東亜デパート側の誰かが、内田を殺した匂いは感じられなかったかね?」 「ちょっとわかりませんでした。ただ、やったとすれば、新東亜デパートのヨット部門の営業部長でしょう。とにかく、丸栄に対して、後手後手に回り、ヨットの販売実績でも水をあけられ、江の島—タヒチ間レースの企画でも、先手を取られ、やむなく参加せざるを得ない形ですからね。おそらく、社長から、いろいろと言われていたと思うんです。内田の今度のことで、やっと息を吹き返したところだと思います」 「新東亜デパートのヨット関係の営業部長は、なんという名前だ?」 「杉山《すぎやま》です。小柄だが猪首《いくび》の、何か強引なことをやりそうな四十男です」 「しばらく、その杉山という男をマークしてみてくれ。内田の死で、形勢が新東亜デパートに有利になったとすれば、疑わしい点はあるわけだからな。それに、内田が『セイノオー』を飲んでいたことは、新東亜デパート側も知っていたと考えたほうがいいからね。そのくらいの情報網は持っているはずだ。それに、強引に内田を引き抜こうとして失敗し、それならというので、殺したのかもしれん。問題は、その杉山という部長が、内田と接触を持ったかどうかだな」 「持とうと思えば、簡単に持てたと思います。内田は、金に弱い男だったようですから、大金をちらつかせれば、丸栄のライバル会社の人間とでも会ったと思います」 「そういえば、内田には前科があったな。航海日誌を、毎朝と東日の両方に売りたいようなことをほのめかしておいて、原稿料をつりあげ、結局、原稿料の高い毎朝に売ったという前科がな」  と、言ってから、十津川は、引きつづいて、同じ線を調査するようにと、部下に言った。  刑事たちがふたたび捜査に出て行ったあと、十津川は、例の「セイノオー」の瓶を取り出して眺めた。  これを調べた医者の言葉では、中のカプセルには、青酸の粉末を入れたものと、本来の漢方薬のものが入り混じっているということだった。おそらく、すりかえた犯人は、上のほうには本来のカプセルを入れ、中段に青酸入りのカプセルを入れておいたのだろう。もちろん、目的はアリバイ作りだ。  だから、今度の殺人事件に限って、何月何日の何時という短く限定されたアリバイは問題にならない。そこが今度の事件の困難な点だった。いまのところ、アリバイがあるのは、レースに参加したヨットマンだけである。      7  翌日、朝の光の中を、十津川は、油壺のヨット・ハーバーに出かけた。  彼の手帳には、東日新聞の大河原記者から教えられた五人の若いヨットマンの名前が書き込んであった。  内田洋一は、現代の英雄に祭りあげられてから傲慢になり、ヨット仲間は批判的になっていた。  だが、全員を容疑者として調査するわけにはいかなかった。第一、ただ生意気だというだけで、内田洋一を毒殺はしないだろう。それで、ヨット関係者に顔のきく大河原に、これはと思うヨットマンの名前をあげてもらったのである。  村上邦夫  斎藤周三《さいとうしゆうぞう》  宍戸《ししど》 賢《けん》  山下太一  西沢栄太郎《にしざわえいたろう》  の五人である。大河原によれば、この五人は、年齢も、だいたい内田と同じくらいで、内田やK・Hと同じように単独無寄港世界一周を自分の手でと考えていたらしい。それだけに、内田が成功したと伝えられたときには、ショックだったろうというのである。  十津川は、電車の中で、手帳を広げ、五人の名前を、改めて見直した。  この五人のうち、村上邦夫は、中古艇「サンダーバード号」を買って、六〇〇〇マイルレースに参加しているし、四人目の山下太一も、そのクルーの一人として、村上といっしょに、同じ艇に乗っている。  とすると、残るのは、三人だけだった。  だから、油壺マリーナで十津川が会えたのは、村上、山下をのぞいた、他の三人である。  いずれも二十四、五歳から三十二、三歳までの若いヨットマンたちだった。  ちょうど日曜日なので、これから貸しヨットでセーリングを楽しみたいという彼らに、十津川は、マリーナの建物の中にあるレストランに集まってもらった。  すでに十一月にはいっていたが、まだ温かく、沖に出ているヨットも多かった。  三人とも潮焼けして、黒光りする顔をしていた。いずれもサラリーマンで、給料のほとんどは、ヨットの製造につぎ込んでしまうと言った。 「ぼくは、もう少しで完成するんで、いまは、会社から帰ると、ほとんど徹夜でヨット造りです。小さいクルーザーですがね」  と、二十五歳だという斎藤が言った。  他の二人も、それぞれ自分でヨットを製作中だと言った。 「目的はやはり、単独無寄港《ノンストツプ》世界一周かね?」  十津川がきくと、三人の若者は眼を輝かせて、同じように、「もちろんですよ」と、言った。 「K・Hが単独太平洋横断をやってしまったんで、残るのは、単独無寄港世界一周ですからね」 「それじゃあ、内田洋一が成功したときには、こん畜生と歯がみして口惜しがったんじゃないのかね?」 「そりゃあ、もちろん、一瞬、目標を見失った感じで、こん畜生! と叫びましたよ。しかし、毎朝の連載を読んでいるうちに、こいつはインチキ臭いと思うようになりましたね」  一人が言うと、他の二人も、そのとおりだというように、いっせいにうなずいた。 「だから、いま、ぼくたちは、自家製ヨットの製造に全力をあげているんですよ。内田洋一の単独無寄港世界一周が嘘だとなれば、ぼくたちにそのチャンスがあるわけですからね」 「インチキ臭いとわかったのは、ホーン岬の場面からかね?」 「よくわかりますね?」 「こう見えても、ぼくもヨットマンの端くれだからね。あれだけの損傷を受ければ、近くの港へ寄って修理するのが当然だと、ぼくも読んでいて考えたよ」 「そうでしょう? おそらく内田は、おもなヨットマンがレースに参加して、日本にいなくなったので、少し、劇的に書き過ぎて、ついボロが出たんでしょうね。それに、もっと妙な噂も聞いているんです」  と、今度は西沢が、小声で言った。 「ほう。どんな噂だね?」 「内田が世界一周中のことなんですが、中央造船の技術者が一人、あわてて、ブエノスアイレスに飛んだという噂です。どうも、これは、本当のようです」 「なるほどね。『マーベリック㈵世号』の修理に、ブエノスアイレスに飛んだわけか。あの艇は中央造船製で、|FRP《フアイバーグラス》製だから、専門家じゃないと、修理がむずかしいからな」 「そうです。中央造船だって、内田に、単独無寄港世界一周をやってもらえば、宣伝になりますからね。だから、あわてて技術者をやったんでしょう」 「そうかもしれんな。ところで君たちは、内田が、『セイノオー』という薬を飲んでいたことは、知っていたかね?」 「セイノオー?」  と三人は、顔を見合わせてから、 「新聞に出ていた例の漢方薬のことでしょう?」 「そうだ。やけに高い精力剤でしょう?」  と、口々に言った。十津川は、そんな三人の若者の顔をじっと眺めたが、べつに、惚《とぼ》けているようには見えなかった。 「それで、新聞で見たときの感想は、どうだったね?」 「若いのに、精力剤なんか飲まなきゃならないとは、可哀そうだと思いましたね。もっとも、新聞によると、犯人はその薬に青酸カリを入れて、内田洋一を殺したようですから、可哀そうだなんて言うのは、不謹慎かもしれませんね」  一番年長に見える西沢が言った。 「ところで、君たちは、毎日、どうしているんだ?」  と、十津川がきくと、三人は顔を見合わせて笑った。 「内田洋一の航海がキナ臭いと感じてから、われわれは、おたがいに張り切りましてねえ。それぞれの会社から帰ると、まっすぐ造船所へ直行ですよ。そして、たいてい午前二時、三時までヨット造りに精を出しているんです。三人で誓い合ったんですが、この三人のうち誰が成功したにしても、天狗にはなるまい、いままでどおり仲よくやってゆこう。そして、内田洋一みたいに、修理のために寄港したら、ちゃんと申告しようと」 「君たちの造船所は、どこだね」 「大船《おおふな》です。中央造船みたいな大きなものじゃなくて、いわばニワトリ小屋みたいな、ちっぽけなものですけどね。良心的にヨットの設計と製造をやってくれるところが、いくつかあるんです。われわれはそこで、自家製ヨットを造っているんです」 「三人ともべつの造船所かね?」 「設計者は同じです。ただ、べつの棟で造っているというだけのことです」  と、三人を代表した形で、西沢が言った。  十津川は、当然、大船にあるその造船所を訪ねてみた。  海岸近くにあるそれは、造船所というよりも、大きな物置が三つか四つ並んでいるといった感じの建物だった。が、中にはいると、そこは十津川にとって、なつかしい匂いに満ちていた。  ベニヤとチーク材と耐水ペンキの匂いである。最近は|FRP《フアイバーグラス》全盛だが、十津川は、木製のヨットのほうが好きである。いかにもヨットという感じがするからだ。  まだ竜骨がむき出しになっているものもあれば、完成間近いヨットも並んでいた。いかにも、どの艇も、手製の感じの個性的なものだった。  十津川は、ここの経営者でもあり、ヨットの設計者としても著名な関谷直一郎《せきやなおいちろう》という男に会った。十津川も名前だけは知っていたが、会うのは初めてだった。意外に若く、彼自身もセーリングを楽しむらしく、潮焼けした顔をしていた。 「あの三人なら、よく知っていますよ」  関谷は、完成間近いヨットのバウ(船首)あたりを、いつくしむようになでながら、十津川の質問に答えた。 「毎日、会社の帰りにまっすぐここにやって来て、熱心に手伝っていきますよ。ときには、午前二時、三時まで。今日のような日曜日には、油壺の貸しヨットで、セーリングを楽しんでから来ることもありますが」  そのために、都心の勤務先からここ大船まで、定期券を買っている者もいると言って、関谷は笑った。 「十月十四日から十八日まではどうでした?」 「ええと——」  関谷は、壁に掛かっている日付のはいった黒板に眼をやってから、 「毎日、三人とも、勤務先からまっすぐここへ来ていましたね。いまは、少しずつ自分のヨットができあがっていくのが嬉しくてたまらない時期ですからねえ」  と、言ってから、黒板を指さし、 「十月一日から毎日ずっと、三本ずつ線が書いてあるでしょう?」 「なんですか、あの棒線は?」 「三人がラーメンを注文した印ですよ。つまり、勤務先から、まっすぐここへ来て、ここで夕食にラーメンをとったということです。勘定は、月末にまとめて払うことになっています」 「なるほどね」 「みんな夢中ですよ。ですから、彼ら三人のうちの誰かが、日本人で最初の本当の[#「本当の」に傍点]単独無寄港世界一周という快挙をなしとげてくれると思っているんです。こんな言い方をすると、自惚《うぬぼ》れに聞こえるかもしれませんが、ぼくは、外洋ヨットの設計には自信を持っているし、あの三人は本当に海とヨットが好きな若者たちですからねえ」 「内田洋一の単独無寄港世界一周がインチキだというのは、どうしてわかったんです? やはり、毎朝の連載からですか?」 「まあ、そうです。ホーン岬であんなに艇が痛めつけられたら、誰が考えても、近くの港に寄って修理が必要ですよ。そのくらいのことは、ヨットマンならすぐわかることじゃないですか。ホーン岬通過が最後じゃなくて、内田君の場合はあのあと、大西洋を横断し、インド洋に出て、日本に帰って来たんですからね。木製で、手造りの艇だったら、無風状態になったとき、海の上で、自分で修理することも可能ですが、『マーベリック㈵世号』は、FRP製のうえ、規格品に近いヨットですからね」 「なるほどね」 「それに、こういう仕事をやっていると、いろいろと情報がはいってきますからね」 「というと、たとえば、中央造船の技術者が、ブエノスアイレスに飛んだという話ですか?」 「あの三人に聞いたんですね」  と、関谷は微笑した。 「その噂を聞いたんで、内田君に先を越されたと、がっかりしているあの三人を勇気づけたんですよ。案の定、そのあと、毎朝にホーン岬の部分が載るし、『男性《ガイズ》ウィークリー』に、真相が出ましたがね」  関谷はつづけて、内田も、単独世界一周そのものがりっぱなことなのだから、ブエノスアイレスに寄港をしたことを、隠す必要はなかったとも言った。  十津川は関谷の話を聞きながら、頭の中で、五人の若者の名前を、容疑者から消していた。村上と山下には、レースに参加しているというアリバイがあり、他の三人には、動機が消えてしまったからである。彼らは、内田の単独無寄港世界一周がインチキと知っていた。そして、彼を軽蔑していた。そんな男を殺すはずがない。 [#改ページ]  第六章 南十字星の海      1  十二月六日朝、「マーベリック1号」艇は、ギルバート諸島付近で、赤道と日付変更線を、ほとんど同時に通過した。  キャプテンの森下《もりした》は、それを記念して、小さな鯉《こい》のぼりを船尾《スターン》に立てた。三日前まで、僚艇の「マーベリック2号」艇が先頭を切っていたのだが、低気圧に巻き込まれたとき、リーフ(縮帆)が遅れたため、マストを折ってしまったのだ。  強風が吹きそうだとみたら、早目にリーフしておくのが、ヨットマンの常識である。強風になってからのリーフは、作業がしにくく危険だからである。2号艇は、その常識にさからい、マストを折ってしまったのだから、明らかにキャプテンの責任なのだが、森下には、2号艇のキャプテンやクルーの気持ちが、痛いほどよくわかるのだ。 「マーベリック25」の五隻は、丸栄物産から、今度のレースに、優勝せよという至上命令を受けている。もちろん社長も、海洋レジャー部長の大野も、露骨には言わなかったが、顔色でわかるのだ。そのうえ、1号艇と2号艇は、スピードを増すために、他の「マーベリック25」とはちがった設計がなされていることも知っていた。  それだけに、ずっと先頭を切りつづけていた2号艇のキャプテンが、ギリギリまでリーフをためらった気持ちが、森下には、痛いほどよくわかるのだ。  無線連絡によると、2号艇は、折れたマストをロープで継ぎ、航海は可能なようだが、これで、大きく、遅れることだけは確かだろう。  夜になると、満天の星だ。風は弱いが、ランニング(追風)で、舵がよく決まって気持ちがいい。赤道直下ということもあって、風は生あたたかい。  他のクルー二人は、あと二時間後の交代まで、キャビンで寝ているはずなのに、きれいな夜空に誘われたのか、言い合わせたようにデッキに出て来た。  一人が、トランジスタラジオのスイッチを入れると、さまざまな放送が飛び込んでくる。  ハワイの放送もはいってくるし、オーストラリアの放送もである。 「2号艇が駄目だとなると、目下、われわれが先頭を切っている勘定だな」  と、クルーの一人、日野《ひの》が、周囲の海を見回しながら呟いた。  夜の海はロマンチックであると同時に、不安でもある。とくに、こんなレースの場合はそうだ。他の艇が見えないと、自分が先頭を切っているのだと信じていても、ときどき、ふっと、自分の艇はビリではないのかと思ったりするものだからである。  そのとき、「おやっ」と、森下が、大きな声を出して、ラジオのボリュームを大きくした。  ちょうど、ハワイのホノルル放送に波長が合っているところだった。音楽の合い間に、ディスク・ジョッキーが、もちろん英語でだが、こんなことを言ったからである。 〈聞くところによると、日本では、十月十八日深夜に、単独無寄港世界一周で名をはせた、ミスター・ヨウイチ・ウチダが、高速《ハイ》道路《ウエー》で、事故死したそうです。しかも、その愛車がアイボリー・ホワイトのポルシェとなると、われわれはどうしても、あのジェームス・ディーンの劇的な最期を思い出さずにはいられないのです。そこで、若くして死んだこの二人のために、映画「善人は若死にする」のテーマ音楽から——〉 「聞いたか?」  と、森下は、他の二人に、英語を訳して聞かせてから、堅い表情で二人の顔を見た。 「十月十八日の夜というと、おれたちの艇が、小笠原とグアムの間あたりを走っているときだな」 「日本のラジオはなぜ、言わなかったんだろう?」 「たぶん、丸栄物産あたりが押えさせたんじゃないか。ライバルの『シー・エリート25』を勇気づけちゃいけないと思って」 「そうかもしれないな。じゃあ、内田洋一の冥福《めいふく》を祈って、黙祷《もくとう》でも捧げるか?」  森下が、二人の顔を見ると、二人は顔を見合わせてから、急にニヤッと笑った。 「おれは、シャンパンでも持ち出して来て、乾杯したいね」  と、日野が言うと、もう一人の佐々木《ささき》も、 「同感だね」  と、笑った。  優勝したときに飲むつもりで、シャンパンが三本、積んである。実際に、佐々木が、一本持ち出して来て、勢いよく栓を抜き、回し飲みをしたが、ぜんぶ飲み終わらないうちに、急に風が強くなりだしてきた。  北東《NE》の風だ。どんどん強くなってくる。風速計の針が、はねあがってくる。 「荒天準備! 命綱《ライフベルト》をつけろ!」  と、2号艇のことがあるから、森下が怒鳴った。海は魔物だ。ついさっきまで、ゆりかごのように艇をゆすっていたのに、デッキライトの中で、白い波が牙《きば》をむき出している。船足は早くなるが、ヒール(傾き)も激しくなる。生あたたかいスプレー(水しぶき)が、顔にぶち当たってくる。瞬間風速二〇メートル。 「二ポイント・リーフ!」  と、森下が叫ぶ。満天の星だったのに、いまはすっかり、黒雲が頭上を蔽《おお》ってしまっている。船が激しくがぶる。デッキを波が洗う。波しぶきが、霧になってセールを包む。  だが、みんなベテランだけに、冷静だった。 「おれたちが、一着だと、今度は内田洋一に代わって、おれたちが現代の英雄になるわけだな」  と、日野が、呑気なことを言っている。  森下も舵をあやつりながら、同じことを考えていた。世間は、いつでも、英雄を待望しているものだ。とくに丸栄物産は、内田洋一亡きあと、新しいヨット界の英雄が必要だ。この1号艇が優勝すれば、われわれ三人は新しい英雄になるはずだ。いや、否応なしに、新しい英雄に仕立てあげられてしまうだろう。      2  七日の朝が来ると、昨夜の荒天が嘘のように、南太平洋の海は静けさを取り戻した。  コック役の佐々木は、たいへんだ。昨夜の荒天で、ギャレーがメチャメチャになってしまったからだ。それを整理してから、ヘルメットを放り出し、バースで泥のように寝入ってしまった。  森下も、舵を日野に委せて、デッキの上に寝転んだ。腹這《はらば》いになって、双眼鏡で海面を見回すが、他の艇は見えない。また不安になる。本当におれたちは先頭を切っているのだろうか。  風速約二・五メートル。遊びのクルージングなら快適だが、レースともなると、もっと風がほしい。少なくとも、七、八メートルは。  遠くに島影が見えるのは、ギルバート諸島だろう。  昼ごろ、スコールが通過したが、風のほうはいっこうに強くならない。艇はゆらゆら揺れるだけだ。 「九時の方向に変な舟が来る」  と、日野が叫ぶので、森下があわてて起きあがり、彼の指さすほうに双眼鏡を向けると、現地人のあやつる白い三角帆のカヌーだった。漁でもしているのだろう。向こうもこっちを眺めている。呑気な漁師だ。  佐々木が起き出して来て、飯を作る。潮風にカレーの匂いが混じってくる。毎日、同じことの繰り返しだ。飯を食べ、寝て、ヨットを走らせる。それでもいっこうにあきないのだから、よほど海とヨットが好きなのだ。それに、冒険もである。そして、さらにつけ加えるなら、名声もと言ってもいい。  海が荒れない限り、この辺りの日没は、まるで絵だ。西の空が真っ赤、というより七色に染まる。記録係の日野が、舵を森下に委せて、盛んにカメラのシャッターを切っている。  また、きれいな星空になる。南十字星が船尾《スターン》の方向で輝いている。海は美しい。海の荒くれ男たちが、いちように詩人になるときだ。夜光虫がきらきら光っている。  ラジオには、やたらにハワイのVOA放送がはいる。驚いたことに、ときどき、モスクワ放送が飛び込んでくるのは、それだけ、この二大国の電波が強力だということだろう。ここまでくると、日本の放送はいっこうにはいって来ない。ただ、丸栄本社とは波長が決めてあるので、一日の定時に、位置を報告できるだけである。  おそらく、南十字星は、タヒチに近づくにつれて、船尾《スターン》から、だんだん船首《ステム》のほうへ移っていくだろう。      3  十二月十七日。朝。  交代で、キャプテンの森下がウォッチしていると、前方にかなり大きな島が見えた。地図によれば、西サモア島である。いよいよゴールのタヒチが近づいたのを感じた。方向探知機がピーピーと鳴って、島が近いことを告げる。  ソフトカラーの夜明けに見とれていると、日野が眠そうな顔でコックピットに出て来た。 「いま、『シー・エリート25』同士の交信を傍受していたんですがね。どうやら、二番手、三番手は彼ららしいね」 「おれたちとは、どのくらい離れている?」 「わからん。さっき日付変更線を越えたと通信していたが、どの辺りで越えたのか、わからないんでね」 「まあ、いいさ。おれたちが一着で、タヒチに着けばいいんだ」  森下は、自分に言い聞かせるように言った。  いっこうに風が強くならない。まるで無風状態だ。荒天も参るが、無風状態はもっと参る。艇はただゆれているだけだ。 「ひげでも剃《そ》るか?」  と、日野が言う。何か変わったことをすれば、天候が変わるというジンクスみたいなものがあるからだ。そういえば、三人とも、すでにひげが長く伸びている。優勝したら、それを記念して剃ることにしてあるからだ。  日野は、ひげを剃らなかったが、その言葉の影響か、風が少し出て来た。風力はせいぜい一、二。頭上は雲一つない真っ青な空で、熱帯の太陽がギラついている。風力もせいぜい二ノットだ。 (『シー・エリート25』に追いつかれないだろうか?)  そんな不安が、ふと森下の脳裏をよぎる。向こうさんは、上手く風をつかんで、どんどん距離をつめているのではあるまいか。  夕食を食べ、残飯を海に捨てたら、二メートル近いサメが、五、六匹寄って来て、森下たちをギョッとさせた。タイガーシャークというやつだ。ありがたいことに、彼方に黒雲が現われ、それが、すさまじい勢いで近づいて来た。たちまち艇速があがり、ヒールが激しくなる。スコールがデッキを叩くのはありがたくないが、それでも、風が出たのは感謝しなければならない。  弱いスコールが通り過ぎたと思ったら、今度は前方に黒雲が現われた。またスコールが近づいてくるのがわかる。が、森下は、避ける気がなかった。避ければ、時間を喰《く》うからだ。これは、気ままなクルージングではなく、レースなのだ。  さっきの弱いスコールのつもりで、全員デッキに出ていたのだが、今度は、猛烈に強いやつだった。身体に当たる雨が痛い。そのうえ、赤道直下だというのに、寒くなってきた。こういうことは、実際に赤道直下でスコールにぶつかってみないとわからない。  ウォッチの森下は、あわてて雨ガッパをかぶり、他の二人も、あわててキャビンに逃げ込み、日野がゆれるギャレーで、三人のために熱いコーヒーをわかしてくれた。冷えた身体で飲むコーヒーは、この上なく美味い。スコールのあがった、ギラギラした太陽の下で飲む熱いコーヒーというのは、何か奇妙なものだ。  海流に少しずつ流されるので、それを計算しながら、舵を取る。この辺りは、海流も不規則だが、風も不規則だ。佐々木が天測する。だいたい予定した航路を走っている。このままで行けば、あと二日くらいで、クック諸島が見えてくるだろう。  夕食は、例によって缶詰を使った豆料理とスープ。それにご飯。トローリングでもしてカツオを釣り、刺身でも食べたいが、優勝がかかっているレースでは、そんな呑気なことをしているわけにはいかない。  デッキで食事をしながら、三人ともいちように風呂にはいりたいと言う。スコールで身体を洗ったりしているものの、熱い風呂にゆっくりはいりたいのだ。 「やっぱり、おれたちは日本人なんだなあ」  と、三人とも異口同音に言った。空《から》になった缶詰の缶は、ポンポン海に捨てる。海洋汚染が叫ばれているいま、本来ならば、空缶は持って帰るべきなのだろうが、勝つためには、少しでも艇を軽くしていく必要がある。実際には、たいしてちがわないのだが。  夜、また風が強くなった。「それっ」と全員、持ち場につく。例によってヒールが激しくなり、艇速は出るが、それだけ揺れが激しくなってくる。赤道越えのとき、船尾《スターン》に立てておいた鯉のぼりも、いつの間にか吹っ飛んでしまったが、誰もそんなことは気にしていない。波しぶきが激しくなり、着ているものは、たちまちずぶ濡《ぬ》れになる。  風と波が本当に激しくなると、船が飛びあがるみたいになる。ストーム・ジブにしてあっても、それでもマストがしなってギイギイと無気味な音を立てる。風が唸り、海が叫ぶ。何回、同じ目にあっても、こんなときの海は怖い。猛烈に怖い。キャビンにもぐっていても、身体が浮いて、壁に叩きつけられる。 「がんばれよっ」  と、森下は怒鳴った。他の二人のクルーに向かって怒鳴ったというよりも、むしろ、自分に向かって怒鳴ったのだ。 「クック諸島を通過すれば、あとタヒチまで五〇〇キロぐらいだぞっ」  いま、一番怖いのは、島に近づきすぎて、暗礁に乗りあげることだった。この辺では、暗礁というより、サンゴのリーフというべきだろう。  森下は一度だけ、タヒチまでクルージングしたことがある。そのときは、キャプテンではなく、アメリカ人のヨットに同乗させてもらったうえ、オーストラリアからタヒチまでだったが、それがいま役に立っていた。南太平洋には、ミクロネシア諸島、ポリネシア諸島と、似たような島が多い。タヒチとまちがえて、他の島に寄港してしまったら、それだけ時間をロスしてしまう。  シケはいっこうにやみそうもない。空は真っ暗だ。狂った海水がクルーの足をすくう。やたらに寒い。ここ一週間、夜になると風が強くなり、朝になるとパタリとやむといった気象の繰り返しだったが、今夜のシケは、どうやら、朝になってもやみそうもない。それは森下の経験から出た直観だった。デッキにいると、ライフベルトが文字どおり命の綱だ。  案の定、朝になっても、荒天はつづいた。うねりが次から次へと「マーベリック1号」艇に向かって、襲いかかってくる。空は明るくなったが、低い雲が水平線をぐるりと取り巻いている。そんな中で、コック役の佐々木がキャビンにはいって、あっちこっちに身体をぶっつけながら、おむすびを作ってくれた。やたらにでかくて、無恰好なやつだが、こんなときには、美味くて元気の出るものだ。  うねる海だけが見え、島影も、他の艇の姿も見えない。こんなとき、地球上にいるのは、この「マーベリック1号」艇と、自分たち三人だけではないかと思ったりしてしまう。 「おい。虹《にじ》だっ」  と、佐々木が、遠くの空を指さした。確かに前方に、きれいな虹が見えた。あの辺りは晴れているらしい。  またスコールが来る。まるで定期便だ。  この船には、丸栄が、優秀な器具を積んでくれた。最新式の無線器具、超音波式測深機、自動水温計、航海計器、コンパス、ハム、その他である。もちろん、森下たちの安全のためではない。「シー・エリート25」に勝ってもらいたい一心で用意させたものである。そんなことは森下たちにもわかっていた。 「水深一二メートル!」  と、佐々木が叫んだ。しばらくすると、 「水深一〇メートル!」  と、叫ぶ。  どこかの島に近づきすぎたらしい。方向探知機がピーピー悲鳴をあげる。曇っているので、島影は見えないが、クック諸島の一つかもしれない。森下はあわてて、逆に舵を向けた。  島を見ると、ほっとするが、同時に危険でもある。  周囲がどんどん明るくなってくる。あと少しだと、森下は改めて、自分に言い聞かせた。タヒチ島の首都、パペエテの入江に最初に着くヨットは、自分たちの乗った「マーベリック1号」艇でなければならないのだ。 [#改ページ]  第七章 捜査の壁      1 「亜矢子が子供を堕《おろ》したって?」  と、十津川警部補は、部下の刑事に大声できき返した。容疑者が多いのに、その中からいっこうに犯人が浮かびあがってこないことに、十津川は多少いらだっていた。 「そうです。主任の命令で、内田亜矢子を見張っていましたところ、一昨日、例の産婦人科医院にはいりました。私はてっきり、妊娠中の注意事項でも聞きに行ったと思ったのですが、いっこうに出て来ません。変だと思っていたら、堕してしまったのです。医者に聞いたんですが、亜矢子は、夫が亡くなって、育てる自信がなくなったし、身体に自信もないので、堕してくれと言ったそうです。医者は、いろいろ説得したそうですが、どうしてもと言うので、手術をしたそうです。三か月を過ぎていたと医者は言っています」 「日本が堕胎王国だと言われても仕方がないな。それで、亜矢子のほうは、大丈夫だったのか?」 「一日入院しただけで、けろりとした顔で退院していますよ。これは、彼女の学校時代の友人に聞いたんですが、三千万円の保険がおりたら、油壺の家を他人に貸して、タヒチか、トンガ王国あたりで、のんびり二、三年遊んで来るつもりだと言ったそうです。そして、退屈してあきたら、また日本へ帰って来るんだと。女はいいですなあ」  若い刑事は、うらやましげに言った。 「タヒチか、トンガか。夫にかけた保険はおりそうなのか?」 「彼女が犯人なら問題でしょうが、いまのところ、犯人だという証拠はありませんから、保険会社にしても、請求があった以上、支払わざるを得ないんじゃないでしょうか。保険会社のほうは、あと一週間以内に彼女が犯人と証明されない限り、支払うと言っています」 「三千万か。それはいいとして、問題は、なぜ彼女が子供を堕したかだな。彼女が夫を憎んでいたからなら動機の補強になる」 「友人には、身軽になりたかったと言ったそうですが」 「身軽か。ところで、彼女が、青酸カリを入手できたかどうかだが、まだ何かつかめないか?」 「例の医者の話は駄目でした。しかし、ヨット・ハーバーに行って気がついたんですが、医者というのは、意外に、大きくて贅沢《ぜいたく》なクルーザーを持っている人が多いですね」 「金があるからな。とすると、ヨット・ハーバーで知り合った医者から、青酸カリを手に入れた可能性もあるわけだな」 「あのとおりの美人だし、スタイルも満点ですからね。あんな女に頼まれたら、青酸カリを渡す医者がいないとも限りません」 「そうだな。その線を追ってみてくれ」  十津川は、黒板に書かれた内田亜矢子の名前の上に、丸印をつけた。 「丸栄物産のほうはどうだ?」 「ゴーストライターの小西清治のほうは、まだ、アリバイが不確かです。青酸カリの入手経路のほうもです。もっとも、詩人仲間や、ヨット販売宣伝課の同僚たちの評判は、なかなかよくて、彼が殺人を犯すとは、考えられないと言っていますが」 「評判のいい人間が、よく殺人を犯すものさ。堅い人間ほど、いざとなると、狂気に近い爆発力を示すものだからな。タヒチへ逃げた大野部長の消息はどうだ?」 「社長の長谷部は、相変わらず、レースの表彰のために早く行かせたの一点張りで、一月七日までタヒチにいるそうです。それから、賞金と賞品を授与する係りとして、美人のマリーン・ガール三人が、昨日の飛行機でタヒチへ向かいました」 「大野の人柄や評判はどうだ?」 「とにかく、仕事熱心で遣り手だということは、ライバル会社の幹部も認めています」 「丸栄には、部長は何人いるんだ?」 「六人です。それぞれゴルフ場経営や、ボウリング場経営など、独立採算制になっているようです」 「というと、その中での競争もたいへんだろうな?」 「そりゃあ、すごいらしいです。あそこは、社長の長谷部のワンマン会社で、少しでもヘマをやれば、たちまち格下げになるそうです。過去にも、部長から課長にされた社員がいたと聞きました」 「信賞必罰というやつか。だとすると、ボロの出かかった内田洋一の口を封じることぐらい、大野が考えたとしても、おかしくはないな。日本人というのは、死者には優しいから、デメリットを最小限に喰い止められる。それに、丸栄物産の部長なら、なんとかして、青酸カリぐらい入手できるだろう」  十津川は、大野と小西清治の名前の上にも丸印をつけた。  ホステスの山代ルミ子の名前は、二本の線で消された。  彼女に動機のないことがわかったからである。内田との仲が冷たくなっていたという話も聞かなかったし、現に、十月十八日の事件の日に、深夜、内田は、彼女に会うために第三京浜を飛ばしている。それに、明大前のマンションは、すでに彼女の名義になっているから、内田を殺すことで、なんの利益も得られないはずである。もう一つ、十月十四日の夜、つまり内田が沖縄から帰ってから、死ぬ十八日まで、彼が銀座の彼女の店にも、明大前のマンションにも行っていないこともわかった。 「新東亜デパートの、杉山というヨット関係の営業部長はどうだ?」 「彼は目下、精力的に動き回っています。表情も生き生きしていますよ」 「ほう」 「内田のボロが週刊誌に出たので、がぜん攻勢に出たんでしょう」  担当の刑事は、一枚のパンフレットを十津川に見せた。 〈とうとうボロを出した『マーベリック25』〉  という見出しで、例の内田洋一のブエノスアイレス寄港のことが書いてあり、したがって、その量産型といわれる「マーベリック25」も、その強度に信用が置けないと非難している。 「これは、江の島のマリーナで手に入れたんですが、同じものが、日本各地のヨット・ハーバーや、ヨットクラブにばら撒かれているようです。署名はありませんが、いろいろとたどって行くと、刷られたのは、新東亜デパートの杉山の命令だと思われます。ただし、べつに嘘は書いてないので、名誉|毀損《きそん》にはならんでしょう」 「それで、杉山のアリバイはどうだ?」 「アリバイは成立しました。彼は、十月十日から二十日までの十日間、会社の命令で房総《ぼうそう》半島を駆け回っています。目的は、マリーナに適した海岸の買占めです」 「まちがいないか?」 「これを見てください」  部下の刑事は、スポーツ紙の切抜きを十津川に見せた。 〈南房総で国盗り合戦!〉  の派手な文字が、躍っていた。内容は、海洋レジャー部門に乗り出した丸栄物産と新東亜デパートが、東京に近く、しかもまだ過疎地である南房総に眼をつけ、土地買占めにしのぎを削っているというものだった。その中に、こういう記事があった。 〈丸栄物産は、伊豆の下田《しもだ》に相当する南房総の勝浦《かつうら》港にマリーナ建設の橋頭堡《きようとうほ》を作ったが、十月にはいって、ライバルの新東亜デパートが突然『勝浦マリーナ』計画をまとめ、強引に港に面した民有地の一部買収に乗り出して来た。まさに勝浦を占拠した丸栄城を攻め落とすための、新東亜デパート側の敵前上陸である。このため、新東亜デパートの杉山営業部長が自ら十月十日から二十日まで勝浦市内のホテルに泊まり込み、陣頭指揮を取った。丸栄側でも負けてはいず、勝浦マリーナの攻防戦は当分つづき、二億円近い金が動きそうな気配である〉 「アリバイ成立か」  十津川は、黒板の杉山の名前を、乱暴に消した。 「もっとも、新東亜デパート側にしてみれば、内田のボロがもう出かかっていたんだから、無理に殺すこともなかったはずだな。むしろ、内田が生きていてくれたほうが、丸栄をやっつける材料にできたかもしれん」 「ところで、主任。ヨットマンのことなんですが」  と、ベテランの永井《ながい》刑事が口を挟んだ。 「内田と同じように、単独無寄港世界一周をやろうとしていた若い五人のヨットマンがいましたね?」 「ああ。五人だろう。あれはシロだ。毎朝新聞のホーン岬通過の記事で、彼らは内田の失敗を見抜き、いっそう、自家製ヨットの製作に熱を入れているからね。設計者も彼らのアリバイを認めている」 「しかし、それは五人の中の三人でしょう。あと、村上と山下は、会われなかったんでしょう?」 「ああ。だが、この二人は、もう一人のクルーと『サンダーバード号』という中古艇で、今度の江の島—タヒチ間レースに参加している」 「しかし、もし——」 「そうか。参加したと見せかけて、大島あたりで引き返し、その二人が内田を殺したこともあり得るというんだな?」 「そう考えたんですが——」 「確かに一理はある。念のために『サンダーバード号』の位置を確かめてみてくれ。それに、いまも『サンダーバード号』に、村上、山下、それにもう一人の三人が乗っているかどうかもだ」  十津川の言葉で、永井刑事は、すぐ、今度のレースのいちおうの主催者である「日本ヨット連盟」に飛び、無線で、航海中の「サンダーバード号」に、連絡を取って、もらうことになった。  その永井刑事が捜査本部に戻ったのは、深夜にはいってからだが、待っていた十津川に、 「どうも、私のまちがいでした」  と、頭を下げた。 「というと、『サンダーバード号』は、タヒチに向かって航海中だったんだな?」 「そのとおりです。現在、参加艇中、一番ビリのようですが、りっぱにマーシャル諸島とウエーク島の中間あたりを航海中でした」 「三人乗っていることは確かめたのか?」 「実際に私が、交信させてもらいました。三人の男が交代で出てくれました。村上邦夫、山下太一、それに服部克郎の三人のクルーです。村上と山下については、連盟に声を知っている者がいたので聞いてもらったところ、まちがいないということでした。どうも、申しわけありません」 「しかし、本当にマーシャル諸島沖から無線して来たかどうかわからんだろう? K・Hのときも、海上保安庁が、場所がわからず振り回されたじゃないか」 「それも、念を押しました。確かに、無線の報告では、現在どこにいるのか確かめられないそうです。ただ、『サンダーバード号』の場合は、幸か不幸か、二日前に、マーシャル諸島の近くで、焼津《やいづ》の『第十六太平丸』という遠洋漁船に出会っているのです。その漁船から、連盟のほうに報告があって、『サンダーバード号』の名前も見えたし、デッキに三人のクルーが出て来て、元気に手を振っていたというのです。どうやら、私のまちがいでした」 「まちがいは、誰にでもあるさ。容疑者が少なくなっただけでも、君のお手柄だ」  と、十津川は、ベテランの永井刑事の肩を叩いた。      2  丸栄物産社長、長谷部は、いらいらと社長室を歩き回っていた。  大テーブルには、相変わらず、南太平洋の大地図が広げられ、机の上には地球儀が置いてあった。  それにもう一つ、新東亜デパート側が撒いたと思われるいやがらせのパンフレット。  長谷部は、インターホーンのボタンを押し、総務部長を呼んだ。 「このパンフレットは、当社に対する名誉毀損で、告訴できんか?」  と、社長は総務部長にきいた。総務部長は、大野ほど頭の回転は鋭くないが、その代わり、沈着な男である。 「できないことはないと思いますが、裁判になりますと、かえって内田洋一のインチキが、天下に公表される形になってしまう恐れがあります」 「なるほど。それにしても、内田洋一のことを、なぜ早く世間は忘れてくれんのかな」 「殺人事件では仕方がないでしょう。しかし、今度のレースで、うちの『マーベリック25』が優勝し、新しい英雄が生まれれば、内田のことなど、世間は自然に忘れてくれると思いますが」 「まだ、うちの艇がトップを切っているようだな」 「無線で確かめたところ1号艇はトップを走っています。まず優勝はまちがいないと思います」 「君もそう思うか」  今日、初めて、長谷部の顔が和《やわ》らいだ。 「ぜひ優勝してもらわねばならん」 「今朝、クック島沖を先頭で通過したと無線がはいりました。日付変更線の向こうですから、正確には昨日ですが。二番艇は視野の中にはいらないと言っています。ヨットの専門家に聞いたんですが、ここまでトップなら、まず優勝はまちがいないだろうということです」 「よし、よし。2号艇のほうは、どうも駄目らしいな」 「このほうは、マストを折ってしまったので、航海はできるようですが、まあ、レースからは脱落したと考えなきゃならんでしょう」 「役に立たんクルーだ。ところで、1号艇が優勝したら、盛大なキャンペーンをやって、内田の死をかき消さねばならんな」 「その手はもう打ってあります。タヒチの大野部長にも、国際電話で連絡しておきました」 「それでいい。ところで、警察のほうはどうだ? うちとしては、内田洋一が事故死のほうがありがたいが、こうなっては、どうにもならんな」 「警察が容疑者としてマークしているのは、内田亜矢子と、うちの——」 「大野と、ヨット販売宣伝課の小西とかいう社員だろう?」 「そのとおりです。社長が大野さんをタヒチに早く送り込まれたのは賢明でした。もちろん、大野さんがなんでもないことは、私も信じていますが」 「うちから犯人なぞ出したら、それこそ大幅なイメージダウンだ」  長谷部はいやな顔をしたが、不安がないではなかった。彼は、内田が劇的な死を遂げてくれることを望むと、大野に何回か言った。まさかとは思うが、大野がそれを考えすぎて、妙な忠義立てをしたのではないかという不安が、心の隅に引っかかっていたからである。 「小西という社員のほうはどうだ?」 「他の部なので、よくわかりませんが、今日は休んでいるそうです」 「そうか——」 「もう少しで『マーベリック25』優勝の報告がはいってくると思います。そうなれば、万事ガラリと好転するはずです」  と、総務部長は、自分の期待を含めて言った。      3 「なんだって? 小西清治が心中した?」  十津川が、これ以上、大声は出せないという声で叫んだ。相手は、小西をマークしていた刑事である。 「相手は誰だ? まさか内田亜矢子じゃあるまいな?」 「ちがいます。詩の同人の会で知り合った女性ですが、人妻です。アパートの管理人が言っていた女です。二年くらい前からつき合っていたそうで、遺書があったので、三角関係の清算とわかりました」 「場所は?」 「巣鴨《すがも》にあるKというホテルです。よく二人は、このホテルを逢引《あいび》きに使っていたようです。ここは自炊設備もあるので、女のほうは小西に、妻のようにつくせるのが嬉しかったんじゃないでしょうか。夫は、小さなレストランをやっていて、忙しさにかまけて、細君を放ったらかしていたようですし、詩なんかには、まったく無関心な男です」 「心中した二人に、同情的な言い方だな」 「いえ。そんなつもりはありませんが——」 「心中方法は? 毒物死か?」 「いえ。ガスです」 「ガスか。これが、青酸カリを飲んで死んだとでもいうのなら、なんとか内田の事件と結びつくんだがな。それで、遺書を見たか?」 「ええ。見せてもらいました」 「内田のことは書いてあったかね?」 「それを期待したんですが、まったく、書いてありません。ただただ、二人のことがめんめんと書きつづってある遺書です。筆跡も、小西のものにまちがいないと駆けつけた詩人仲間が証言してくれました」 「人妻との恋に悩む若き詩人か」  十津川は、舌打ちをして、 「どうも小西は、内田洋一の死には無関係のようだな」 「私もあの遺書を読んで、そう思いました。あの妙な詩人の頭は、ここ二年間、あの人妻とのことでいっぱいだったとしか思われません」 「とすると、小西清治は、容疑者でなくなったと見たほうがいいようだな」  十津川は、黒板に書かれた小西清治の名前を、ごしごしと手でこすり消した。少しずつ容疑者の名前が消えていくのは、嬉しくもあり、不安でもある。 「これで、あと残ったのは、丸栄物産の大野部長と、被害者の妻、内田亜矢子の二人だけになったわけか」 「どうも難物ですな。大野はタヒチだし、内田亜矢子のほうは、わけのわからん女ですから」 「レースはいつ終わるんだ?」 「情報では、あと二、三日で、最初のクルーザーが、タヒチの首都パペエテに到着する予定だそうです」 「今年中に優勝決定か。それで、『マーベリック25』と、『シー・エリート25』のどっちが勝ちそうなんだ?」 「どうやら優勝は、『マーベリック25』のようです。丸栄の社内では、そういう噂でわいていますから」 「それなら、さぞ喜んでいるだろうな。『マーベリック』が優勝すれば、新しい英雄が三人も生まれ、内田洋一のボロが隠せるというわけだ」 「なんでも表彰式は、全艇がタヒチに到着してからやるようで、大野は、それまでタヒチに滞在する模様です」 「その間、大野の訊問《じんもん》はできずか」  十津川は舌打ちをしたが、翌日には、もう一つ、彼を激怒させる事件が起きてしまった。  容疑者の一人、内田亜矢子が、監視の眼を盗んで、タヒチ行きの飛行機に乗ってしまったのである。      4 「いったい、何をやっていたんだ!」  と、十津川は、亜矢子を見張らせていた永井刑事を、頭ごなしに怒鳴りつけた。 「何年、刑事の飯を喰ってるんだ。たかが女一人が見張れないのか?」  十津川は、ぶん殴りかねない見幕である。こんなときの彼は、自分より経験の豊富な刑事だろうと、容赦はしなかった。  ベテラン刑事の永井も、頭を下げるより仕方がない。 「私のミスでした。パスポートは持っているかもしれんとは思っていたんですが、航空券を電話で予約できるという初歩的なことをすっかり忘れてしまっていたんです。羽田で追いついたときには、彼女はもう機上でした。逮捕令状でもあれば、ジェット機を押えてでも、捕まえられたんですが」 「行く先はタヒチにまちがいないんだな?」 「まちがいありません。今度、フランス航空に、東京からタヒチまでの直行便ができて、彼女はそれに乗りましたから」 「三千万円の保険はどうなったんだ?」 「それなんです。まだおりていません。弁明はしませんが、それでつい油断をしてしまったのです。タヒチへ行くとしても、保険がおりてからだろうと。どうやら彼女は、タヒチへ落ち着いて、保険金はタヒチあてにドルで送金させる模様です」 「…………」  十津川は、黙って煙草に火をつけた。少しずつ怒りが静まってくるにつれて、彼本来の冷静さが働いてきた。  亜矢子は、なぜ、あわただしくタヒチへ発《た》ったのだろうか。内田を殺した犯人だからか。しかしいま、あわてて東京を発てば、警察に疑われることぐらい、賢明な彼女のことだから、よくわかっているはずだ。  とすると、これは、女性特有の衝動的な行動なのだろうか。それに彼女は、内田が殺されたあと、タヒチあたりへ行きたいと、友人にもらしているのだから、彼女にしてみれば、唐突という感じはないのかもしれない。  十津川は、亜矢子に会ったときの印象を思い直してみた。美人で聡明だが、どこかエキセントリックなところもあった。十津川が唐突と感じる行動も、彼女にしてみれば、自然の行動かもしれない。 (わからんな)  十津川は、呟いた。亜矢子に限って、今度の行動が、犯人だからというようにも思え、逆に、犯人でないから、突然、タヒチに行ってしまったとも思えるのだ。だが、容疑者の一人が、東京から消え去ってしまった口惜しさは、どうしても残ってくる。  それでも捜査一課長に報告に行くときには、十津川はふだんの冷静さに完全に戻っていた。 「亜矢子を足止めできなかったのは、私のミスです。何か証拠の一つでも見つかっていれば、強制的にでも、足止めしておくんでした。申しわけありません」  十津川は、自分の責任として、課長に頭を下げた。 「すると、残った容疑者は、丸栄の大野という部長と、内田亜矢子の二人だけか?」 「そうです。そして、偶然かどうかわかりませんが、いま二人ともタヒチです」 「二人が共犯ということは考えられないのか?」 「犯行の時点で、二人の利害が一致していたことは事実です。内田洋一は、『マーベリック25』の販売を伸ばす役目は果たしましたが、最近になって、傲慢さが目立ち、例のブエノスアイレスの件でボロが出かかって、丸栄としては、いささかもてあまし気味だったにちがいありません。責任者の大野としては、その意味で、内田の死を望んでいたのは事実だと思います。また、亜矢子のほうは、夫に女ができたことを知っていて、三千万円の保険がかかっていれば、死を願うでしょう。その点で、利害は一致しています。ただ——」 「ただ、なんだ?」 「共犯にしては、なんとなく犯行がぎこちない気がするのです。ふつう、共犯の場合、アリバイ作りをまず考えるのですが、今度の事件の場合、大野にも亜矢子にも、確固としたアリバイがありません。それに、二人ともタヒチに集まってしまって、まるで二人の仲を疑ってくれといわんばかりなのも、ちょっと妙な気がするのです」 「逆手を取ったのかもしれんぞ。大野には妻子はあるんだろう?」 「細君と子供が二人います」 「二人の間に関係はあったのかね?」 「その点は、極力調べさせたんですが、いまのところ全然、出て来ません。それに、私の直感ですが、大野という男は、亜矢子の好きなタイプではなかったと思うのです。ですから、もし二人が結びついていたとしたら、利害関係でだけだったと思われます」 「タヒチまで何時間だったかな?」 「直通便で十一時間です」 「君に行ってもらいたいが、いまの段階では、許可がおりそうもない。二人が犯人だという確証は、まだつかめてないんだろう?」 「残念ながら、ありません。あるのは、動機だけです。それにアリバイ不明の二点だけです」 「大野はレースが終われば、いやでも東京に帰って来るんだろう?」 「そのはずですが、丸栄では、レースの全参加者を、正月の七日まで、タヒチで歓迎するそうですから、大野が帰国するのは、それ以後になると思います。亜矢子のほうは、まったくわかりません。あれは変わった女ですから、ひょっとすると、タヒチの人間と結婚して永住もしかねません」 「優勝者が決まるのは、明日あたりだったな?」 「そうです。毎朝と、東日の記者も、ジェット機でタヒチに向かったそうです。『マーベリック25』が優勝すれば、丸栄は、また大々的に宣伝して、内田によって与えられたマイナスを取り返そうとするでしょうな」 「あの、なんとかいった中古艇は、どうしているね? 『サンダーバード号』か。あれは、村上という内田の友人が乗っているはずだな」 「そうです。相変わらず一番ラストをのんびり走っているようです。もっとも、当人たちにとったら、必死でセーリングしているんでしょうが」 「そんなに、他の艇と技術がちがうのかね? 君はヨットにくわしいからわかるだろう?」 「技術のちがいというよりも、艇のちがいだと思います。『マーベリック25』も、『シー・エリート25』も、元来はファミリー・クルージングのために設計、販売されたものですが、今度のレースは、丸栄と新東亜の威信がかかっていますからね。とくに、レースを考えた丸栄側は、そうだと思うのです。それで、双方とも、参加艇には、レース用に設計された特別の二五フィート艇を参加させたようです。それに比べて、例の『サンダーバード』という中古艇は、もともと伊豆に住む老夫婦が、楽しむために造ったクルーザーです。当然、レース用ではないし、そのうえ、中古艇ですから、遅れるのは当然でしょう。少し遅れ過ぎているようですが、もう優勝は絶望なので、三人のクルーが、のんびり南太平洋のクルージングを楽しんでいるのかもしれません」  十津川は話しながら、南太平洋の美しい夕焼けを思い出していた。大学時代、彼は一度だけ、友人とバリ島に旅したことがあった。もちろん、クルージングなどという呑気なものではなく、団体旅行のうえに、わずか五日間の旅だったが、赤道の海のカラフルな朝と、真っ赤に燃えるような夕焼けは、まだはっきり覚えている。タヒチの夕焼けは、おそらく、もっと美しいだろう。太陽は真っ赤に燃えながら沈むのだ。血のような赤さで。そして帆と船体を、夕陽に赤く染めて走るクルーザーを想像した。それは、美しい光景だが、同時に不気味な景色のようにも思えた。 [#改ページ]  第八章 S・O・S      1  仏領タヒチは、佐渡《さど》の二倍はある大きな島である。  タヒチには、さまざまな形容詞がつけられている。夢の島、最後の楽園、あるいは、美しい娘たちにあふれた男の楽園、エトセトラ、エトセトラである。  いまから約八十年前、フランスの画家ゴーギャンは、ここを「魅惑の島」と呼んで住みつき、絵と同時に、『ノアノア(よい香り)』という本を出した。  そのため、なんとなく、野生の匂《にお》いの残っている島のように思われがちだが、実際には、ポリネシア諸島の中で、ハワイについで洋風化されている島である。ゴーギャンの絵の中の|島の娘《ヴアヒネ》たちは、小麦色の肌をおしげもなくさらしているが、いま、街には、裸の娘は見られないし、ジェット機や客船で、毎日のように観光客が来て、俗化も激しい。  もちろん、まだ海も空も美しい。娘たちも美しく天真らんまんである。だが、かつて戦艦バウンティ号の反乱の原因となった娘たちの多くは、白人との混血になってしまった。  人口二万七千人の首都パペエテは、フランス風の洗練された都会である。街に近いパペエテの港には、絶えずクルーザーや大型ボートが訪れ、街には車もはんらんしている。現代化の波がひたひたと、この南の楽園にも押し寄せているのである。日本製品の進出は、ここでも激しく、現地産のムウムウだと思って買ったりすると、メイド・イン・ジャパンだったりする。オモチャなどは、ほとんどメイド・イン・ジャパンである。もちろん貝殻が通貨の時代はもう遠い昔の話で、今はCFP《パシフィック・フラン》という通貨である。一パシフィック・フランは、日本円にしてだいたい三円五、六十銭になる。  だが、やはりタヒチはタヒチだと感じる場所も生活も、まだたくさん残っている。  まず、人々がのんびりしていることである。ここでは、多少の時間のちがいは問題にならない。たとえば、この島の交通機関は、トラックを改造したバスだが、行く先もはっきりしないし、出発の時間もはっきりせず、客が満員になり次第に出発という悠長さである。一見不便のようだが、どこでも乗せてくれるし、どこでもおろしてくれるから、便利でもある。  それに、南十字星は南太平洋の象徴だ。また、街を離れれば、バナナが実り、サンゴ礁の海には熱帯魚があふれ、娘たちは、ゴーギャンの絵にあるように、真紅のハイビスカスを耳につけ、情熱的なタヒチアンダンスを見せてくれる。  そのタヒチが、いま、突然乗り込んで来た日本人に、ひっかき回されていた。  丸栄物産の大野は、タヒチに来るとすぐ、完全な西洋式の近代ホテル、マエバビーチホテルを、強引に正月七日まで借り切ってしまった。このホテルは、タハラ・インターコンチネンタルとともに、タヒチでは一、二を争う大きなホテルである。白い砂浜に面した素敵なホテルだった。また大野は、タヒチにあるタクシーのうち十台を、運転手ごと同じく正月七日まで借り切った。大金を惜しげもなく投げ出すこのビジネスマンに、のんびり屋の多いタヒチの人々は、何事かとびっくりしていた。ほしいものがあれば、それが手にはいるだけ働き、手にはいれば、それで働くことをやめてしまうことを生活信条としているタヒチの人々には、猛烈に動き回る大野の姿は、狂人のように見えたかもしれない。  また、タヒチはフランス領だから、当然、フランス人も多いわけだが、彼らにも、大野の行動は、これこそエコノミックアニマルの姿と、映ったであろう。  大野は、それだけでなく、パペエテの港に、「日本—タヒチ間六〇〇〇マイルレースゴール」と、日本語とフランス語で書いた大きなアーチを立てさせた。こんなところには困るという声もあったが、それも金の力で黙らせた。  大野はそれがすむと、借り切ったマエバビーチホテルの一室に落ち着き、毎日、借り切った車の一つで、近くにあるビーナス岬に出かけた。この岬はタヒチの北端にあり、昔、キャプテン・クックが、ここから金星《ビーナス》を観測したといわれるところである。大野は、ここから毎日、暗くなるまで、双眼鏡で水平線を眺める日課をつづけた。  やがてあの青い水平線に、六〇〇〇マイルの航海を終えたヨットが現われるのである。そして、大野の双眼鏡の中に最初にはいってくるのは、「マーベリック25」でなければならないのだ。  十二月二十二日の午後六時ごろのことである。  例によって、ビーナス岬で双眼鏡を海に向けていた大野は、その視野の中に、白い小さな点がはいってくるのを見て、胸を躍らせた。あわてて焦点を合わせる。スピンネーカーの色は? (赤だ!) 「マーベリック1号」艇だ。「マーベリック25」が勝ったのだ。他に、双眼鏡の視野の中にヨットは見えない。 「すぐパペエテの街へもどってくれ!」  と、大野は、運転手に英語で怒鳴った。ここはフランス領だが、英語も通じる。  入港は夜になるだろう。最大限に盛大にやらなければならない。そのために、わざわざ東京から新聞記者も呼んであるのだ。  パペエテに戻ると、大野はすぐ、マエバビーチホテルの支配人を呼んで、暗くなったら、全室に明かりをつけてくれと命令した。相手は、泊まり客がいないのにといぶかったが、大野は、そんな相手の思惑など、完全に無視した。すべて宣伝なのだ。  次に、前もって借り切ってある十台の車を、岸壁にずらりと並べ、暗くなったら、フロントライトを港の外に向けて点《つ》けるように命じた。  東京から来た三人のマリーン・ガールにも、出迎えの準備をさせた。それから現地人の子供たちを金でかり集め、花火を用意させた。フランス領だが中国人が多いので、中国式の花火である。 (これで用意はととのったぞ)  と、大野は思った。それは、丸栄での自分の地位を守るための用意でもあった。      2  十二月二十二日午後八時三十二分。 「マーベリック1号」艇は、タヒチのパペエテ港にはいった。フィニッシュだ。  舵を取っていたキャプテンの森下は、眼の前にパペエテの街の明かりを見ながら、なんとなく、まだ勝ったという実感がわかなかった。  ふいに、暗かった岸壁からいっせいにライトが投げかけられた。岸壁に並べた車の明かりの歓迎だった。そしてはじける花火の音。その明かりの向こうに、寺院《カテドラル》の白い建物が浮かびあがった。 「なかなか派手な演出じゃないか」  と、日野が、愉快そうに笑った。  三人とも、甲板に出て、近づいて来るパペエテの街を見つめた。港にはたくさんの人たちが集まっていた。ネオンを点けた大きなアーチも、彼らを歓迎している。 「勝ったんだな」  と、佐々木が、ポツンと呟《つぶや》いた。その陽焼けした顔が、涙でクシャクシャになっている。キャプテンの森下も、やっと優勝した実感がこみあげてきた。日野の顔にも涙が光っている。さまざまな航海中の苦しみが、森下の脳裏を一瞬のうちに通り過ぎた。 「マーベリック1号」艇が接岸すると、まず丸栄の大野部長が、わざわざ向こうから乗り込んで来て、「ありがとう、ありがとう」と、涙声で言いながら、森下たち一人一人と握手した。  上陸すると、現地娘《ヴアヒネ》と同じ恰好《かつこう》をしたマリーン・ガール三人が、森下たちに花のレイをかけ、その陽焼けして真っ黒な顔にキスした。 「ひげを剃《そ》っていてよかったな」  と、佐々木が小声で森下に言った。  花火は景気よく鳴りつづけている。マリーン・ガールたちは冷やしたビールをなみなみと三人に注いでくれた。  長いレースのあとの、しかも勝利のビールの美味《うま》さは格別である。いくらでも飲める感じだ。大野部長は、まだ、「ありがとう、ありがとう」と叫んでいる。「おめでとう」と言わずに「ありがとう」という言い方に、大野の、というより、丸栄物産の気持ちがこもっている感じだった。  日本から来ているカメラマンが、盛んにフラッシュを焚《た》き、毎朝と東日の記者が、取材しようと、三人のクルーを取り囲んだ。 「勝因は?」  と、東日の大河原記者がきく。キャプテンの森下は、謙虚に、 「いい船に恵まれ、幸運に恵まれたからでしょうね」  と、答えた。その返事の中に、内田洋一への反撥《はんぱつ》もこめられていた。そばで大野が、いいことを言ってくれると喜んでいる。  森下たちは、用意されていたマエバビーチホテルに連れていかれ、そこで、三か月ぶりに風呂《バス》にはいることができた。入国査証のほうは、大野が三人のパスポートを預かっていて、きちんとやってくれた。  森下たち三人にとって、これで今度のレースは終わったのだ。あとは内田洋一に代わって、現代の英雄になる道だけが残されている。      3  十時間後、翌日の午前六時五十八分に、「シー・エリート3号」艇が、二着でパペエテ港に入港した。  三着も「シー・エリート2号」艇だった。できれば、一、二、三着を「マーベリック25」で独占したかった大野の夢は破られたが、そこまで欲ばるわけにはいかなかった。とにかく、「マーベリック25」が優勝したことにまちがいはないのだから。  後続艇も次々にパペエテ港にはいって来た。そのたびに、大野が迎えに出、花火をあげ、ビールで乾杯し、三人の美しいマリーン・ガールたちは、それぞれのクルーに花のレイを捧げ、用意したホテルに案内した。途中、小笠原で棄権《リタイア》した二隻を除き、十八隻が到着した。  だが、中古の「サンダーバード号」だけは、いつまでたってもタヒチに着かなかった。途中で棄権《リタイア》したという報告も届かなかった。 (遭難)  が、噂《うわさ》されはじめた。  無事、パペエテに入港した他のヨットマンたちも、「サンダーバード号」のことを心配しはじめた。  丸栄物産の大野にしてみれば、個人参加の「サンダーバード号」が遭難したとしても、べつに、どうという感慨はなかった。「マーベリック1号」艇が優勝し、他の「マーベリック25」が、とにかく全艇無事にタヒチに到着したことで、十分、満足していた。東京に国際電話を入れたところ、社長の声も満足そうだった。それに、六〇〇〇マイルの大レースともなれば、一隻ぐらい遭難ヨットが出ても仕方がない。問題は、それが丸栄物産に影響を与えるかどうかということだけである。 「今日、このホテルで盛大な皆さんの歓迎パーティをやりましょう。まだ個人参加の一隻が着いていませんが、そのうちに到着するでしょう。パーティの席上で、賞金の授与も行ないたい。きれいなタヒチ娘にも大勢、協力してもらうつもりでおりますから、十分、タヒチの休日をお楽しみください。島の娘との間にロマンスが生まれても、いっこうにかまいません」  と、ヨットマンたちに大野が言ったのは、十二月二十八日(日本時間)の昼食のときだった。彼の最後の言葉で、どっと笑いがきた。ヨットマンたちは、長い航海をおえて、みんな解放感に浸っていた。それに、一月七日までの滞在費は、丸栄物産持ちだということで、のんびりもしていた。来年の七日まで、タヒチでゆっくり休養をとり、次の島へ行く計画を立てている個人参加のクルーもあった。  だが、この日の夕刻、南太平洋上で「サンダーバード号」は、S・O・Sを発信していたのである。      4  正確に言えば、最初のS・O・Sが発信されたのは、十二月二十八日の午後六時三十分だった。  夕焼けが洋上を真っ赤に染めはじめる時刻である。もちろん周囲はまだ明るい。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  S・O・S  S・O・S  こちら「サンダーバード号」の艇長《キヤプテン》ムラカミ。  現在地、西経一四八度三〇分、南緯一三度〇分。  艇はマストが折れ、航行不能。他の二人のクルーは、原因不明の熱病にて、相ついで死亡し、現在、生存しているのは、艇長《キヤプテン》の私だけである。  艇は損傷甚しく、沈没の恐れあり。ただいまより、ゴムボート(救命ボート)で脱出する。助けを乞う。  もう一度、繰り返す。こちらは、東京—タヒチ間レースに参加中のクルーザー「サンダーバード号」。他の二人は、原因不明の熱病で死亡し、マストは折れ、沈没の恐れあるため、ゴムボートにて脱出する。  現在地点、西経一四八度三〇分、南緯一三度〇分。助けを乞う。  S・O・S  S・O・S [#ここで字下げ終わり]  英語で行なわれたこの海難信号は、多くの場所で傍受されたが、タヒチのヨットマンたちは、誰《だれ》一人、知らなかった。なぜなら、その時刻は、ホテルで授賞式の真っ最中だったからである。  海難信号は、何か所かで傍受されはしたが、ぜんぶが救助のために行動を起こしたわけではない。たとえば、ハム仲間などは、S・O・S信号を受けても、船も飛行機も持っていなければ、どうしようもないのである。  日本でも、村上の発したS・O・Sを聞いたハムはいた。が、彼がやったことは、せいぜい、電話で海上保安庁に連絡したことだけである。  海上保安庁も困惑した。巡視船を出すには、あまりにも遠すぎるからである。  もっとも早く行動を起こしたのは、ハワイのヒッカム米空軍基地だった。  海難救助も空軍の一つの任務である。それに、西経一四八度三〇分、南緯一三度〇分といえば、ハワイからそう遠くはない。  海難信号を受けてから七分後に、グラマン・ホークアイGが、捜索のためにヒッカム空軍基地から飛び立った。  全幅二四・六メートル、全長一七・二メートル、重量二二・五トンの双発機である。ジェットエンジンではないから、最大速度は六六〇キロと遅いが、目標を発見するには、このくらいの速度のほうが便利である。  航続距離は三一〇〇キロ。ハワイから遭難地点までなら、十分すぎる航続力である。ただ、このグラマン・ホークアイGは、もともと海難救助機ではなく、索敵機である。そのため、あらゆる電子装置は備わっているが、それが今度の救助には役立ちそうもなかった。  乗員は、機長のヘンダーソン少佐以下五名。チームワークはいい。  東の空が、夕焼けで真っ赤に燃えている。 「まずいな」  と、ヘンダーソン少佐は、副操縦士のジムに肩をすくめて見せた。それだけで、ジム中尉にも、機長の不安がわかった。  何万トンという大きな船でも、広い洋上で見つけるのは、容易なことではない。それなのに、相手は、小さなゴムボートである。そのうえ、夕闇《ゆうやみ》が近づいている。相手がゴムボートでは、電探《レーダー》の使用も不可能である。 「そろそろ、西経一四八度三〇分、南緯一三度〇分です」  と、地図を眺めていたフィッシャー軍曹が大声で叫んだ。 「低空を飛ぶから、眼《め》を皿にして、ゴムボートを探し出せ!」  ヘンダーソン機長は、部下に怒鳴ってから、操縦|桿《かん》を前に倒した。青い海面がグングン近づいてくる。  高度五〇〇メートルで水平飛行に移り、ヘンダーソンは、付近の海面を旋回しはじめた。  西側に向いた窓は、相変わらず夕陽《ゆうひ》で真っ赤だ。陽はどんどん沈み、青く見えた海が、次第に黒ずんでくる。ただ一つ幸運なのは、S・O・Sのあった近くの海面が穏やかなことだった。 「三〇〇メートルまで下げるぞ!」  と、ヘンダーソンが怒鳴ったとき、 「右下方に、漂流物発見!」  と、若いジェニング伍長《ごちよう》が叫んだ。  ヘンダーソンは、高度を三〇〇メートルまで下げて、いまの進路を戻りながら、双眼鏡を眼に当てた。 (いた!)  と、思った。見つけたぞ!  小さな波の合い間に、赤色のゴムボートが見えた。が、それは、一瞬の間に、後方に消え去った。 「よく見たか?」 「人間が一人乗っていました。黄色いライフジャケットをつけ、白いヘルメットをかぶっていたようです」 「ヘルメット?」 「確かに、そう見えたんですが——」 「もう一度、確認する」  ヘンダーソンは、さらに高度を下げて、ゴムボートの周囲を旋回した。  ジェニング伍長の言葉は事実だった。  双眼鏡で見ると、赤いゴムボートの上に、黄色いライフジャケットをつけた男が、ぐったりした様子で、仰向けに乗っている。白いヘルメットをかぶっているのも事実で、双眼鏡の焦点を合わせると、ヘルメットに「CAPT.」の文字が読めた。艇長のつもりだろう。  そうしている間にも、海面はどんどん暗さを増し、ゴムボートも、その上の人間も、うすぼんやりしか見えなくなった。やがて、夜の暗闇がすっぽり南の海を隠してしまうだろう。 「救助は明日、早朝にする」  と、ヘンダーソンは決断を下した。食糧や新しい救命ボートが、次々に投下され、グラマン・ホークアイGは、ハワイへ帰投の飛行についた。      5  その夜、タヒチのパペエテの町は、まるで日本人のためのお祭りのような騒ぎだった。  夕方から始まった授賞式が終わり、百名近いヨットマンとその関係者たちが、ホテルからパペエテの町に繰り出したからである。  タヒチの人々はもともと親日的で、客好きである。親日的なのは、戦前、数人の日本人が、リン鉱石の採掘のためにここにいて、彼らが、タヒチの人に親切だったためといわれている。  フランス領だけに、市場には例の長細いフランスパンが数多く売られている。他にも、文明の波はひたひたと押し寄せ、町中を、アベックを乗せたオートバイやバイクが走り回っている。バイクの貸し店まで開かれている。ただ、東京のカミナリ族とちがうのは、若い島のアベックが、髪を美しい南の花で飾っていることである。彼らは、排気ガスの代わりに、花の匂いをまき散らして走り回っているのだ。  大野部長もシャンパンに酔い、ご機嫌で、夜の海岸べりを散策していた。「マーベリック1号」艇は優勝したし、三人のクルーとは専属契約を結んだ。今後は、死んだ内田洋一に代わってあの三人が「マーベリック25」の宣伝に当たってくれるだろう。「マーベリック25勝利の記録」という題で、航海記を毎朝新聞に連載することも決まった。すべて目算どおりである。これで、定年後も、丸栄物産に重役として残れる公算が大きくなったと、大野は満足なのである。  途中で、一個十五パシフィック・フラン(約六十円)で買ったパイナップルをかじりながら歩いていると、向こうから歩いて来た若い女が立ち止まって、じっと大野を見た。  最初は、|島の娘《ヴアヒネ》かと思ったが、「丸栄の大野さんじゃなくて?」と、日本語で言われて、やっと、相手が内田亜矢子だと気がついた。|島の娘《ヴアヒネ》のように、耳のところに赤いハイビスカスの花をさしていた。 「いつ、タヒチにおいでになったんです?」  大野は、食べかけのパイナップルを海へ投げ捨ててからきいた。 「もう十日以上になるかしら」 「どこのホテルにお泊まりです?」 「ホテルは嫌いなの。だから、もとフランス人が住んでいたという家を一軒借りて住んでいますわ。ここが気に入ったら、いつまでもいたいと思っているんですよ」  と、亜矢子は笑った。夫が死んだ悲しみなど、すっかり忘れてしまったような笑顔だった。 「あとで、ホテルに遊びにいらっしゃいませんか」  と、大野は、自分のいるホテルの名前を言って、亜矢子と別れた。  そのあと、大野はゆうゆうと、海風に吹かれながら、ホテルへ引っ返しはじめた。ヤシの葉越しに、青い月が見える。月が青く見えるのは、空気が澄みすぎているからだろう。  少し歩き疲れたので足を止め、大野はヤシの木に寄りかかった。今夜のパペエテの町は、「タポネ、タポネ」でたいへんだった。日本人のことである。「ジャポネ」なのだが、タヒチ人が発音すると、「タポネ」になってしまうのである。 (少し酔ったかな)  と、思い、大野は腕時計を月にすかすようにした。 (八時か)  そろそろホテルにもどって、亜矢子の来るのでも待とうかと、ふたたび歩き出したとき、大野はふと背後に足音を聞いた。一瞬、立ち止まり、そして、また歩き出したときである。  最初の一撃が、大野を襲った。  鋭利なナイフが彼の背中に突き刺さり、つづいてもう一度、同じナイフが大野の背中をえぐった。  悲鳴をあげるひまもなく、大野海洋レジャー部長は、東京から六〇〇〇マイル離れた海岸で、俯伏《うつぶ》せに倒れ、身体をけいれんさせながら死んでいった。      6  赤道直下の夜明けは早い。  午前五時。ハワイのヒッカム空軍基地では、ヘンダーソン少佐が早い朝食をすませ、部下を督励して、グラマン・ホークアイGに乗り込んだ。  気象班からの報告によれば、今日もあの遭難地点は快晴のはずであった。 「よし、行こう!」  と、ヘンダーソンは、操縦席から整備員にOKの合図を送った。  五人を乗せたグラマン・ホークアイGは、轟音《ごうおん》を残して飛びあがり、進路を南に向けた。 「昨日のところにいてくれるとありがたいがな」  と、ヘンダーソンは、海面に眼をやりながら言った。 「あの辺は海流が強いから、一夜のうちにだいぶ流されているかもしれません」  副操縦士のジムが言った。  昨日の現場に着いたが、赤いゴムボートの姿はない。せっかく投下した食糧品や、新しい救命ボートだけが、空《むな》しく浮かんでいるだけである。 「近くに島があると思って、必死に漕《こ》いだのかもしれませんな」 「それとも、沈んでしまったか」  と、ヘンダーソンは言ってから、 「とにかく、燃料のある限り、この付近を捜索するぞ」  と、部下たちに言った。  昨日の地点から少しずつ、扇形に捜索範囲を広げていく方法をとった。  十五、六分飛んだころである。ヘンダーソンは、波間に、ちらっと赤い小さな点を発見した。  機を近づけると、まぎれもなく、赤いゴムボートだった。昨日の地点から一〇キロほど南である。白いヘルメットをかぶり、黄色いライフジャケットをつけた男も見える。その頭上を低く何度も往復すると、やっと気がついたらしく、ゴムボート上の人間は、「CAPT.」と書いた白いヘルメットを脱いで、それをゆっくりと振った。 「この近くに船はいないのか?」  と、ヘンダーソンは、電信係のレーンに声をかけた。 「駆逐艦《くちくかん》『メービス』が近くにいます。パールハーバーへ帰投の途中です」 「よし、その艦長に連絡して、ここへ来てもらえ。何分で来られるかきくんだ」 「二十分あれば、十分に到着できるそうです」 「それまで、あの日本人を励ましてやるか」  ヘンダーソンは、速度を落とし、ゆっくりと、ゴムボートの上を旋回しながら、絶えず、近づいてくる駆逐艦「メービス」と連絡をとりつづけた。  正確に二十分後に、南東の海面に「メービス」の姿が現われた。ヘンダーソンは、ゴムボートの正確な位置を知らせるため、黄色い発煙筒を海面に投下してから、駆逐艦「メービス」に向かって、翼をふって見せた。 「さて、これで事務引継ぎは終わったから、帰って、昼飯にするか」  ヘンダーソンは、部下に笑って見せ、機首をハワイに向けた。 「事務引継ぎ」をしたアメリカ駆逐艦「メービス」は、ゴムボートの二〇〇メートル手前で停船し、ボートを下ろした。  士官一名と水兵五人が乗り込んだモーターボートは、猛然と水煙を立てて、ゴムボートに近づいて行った。 「ヘイ・ユー。大丈夫《オールライト》か?」  と、水兵の一人が怒鳴った。アメリカ人のつねで、相手が日本人と聞いていても、英語が通じると、頭から信じ込んでいるのである。  さいわい相手は英語がわかったらしく、顔だけ向けて、 「|疲れているんだ《アイ・アム・タイアード》」  と、かすれた声で言った。唇が乾いて、カサカサになっているようだった。  二人の水兵が、相手を抱くようにして、救命ボートに移した。 「ゴムボートはどうするね?」  と、士官がきくと、日本人は、要らないというように、首を横にふった。  駆逐艦「メービス」に着くと、すぐ毛布で身体がくるまれ、医務室に運ばれた。医者が診察している間、士官がはいって来て、いろいろと質問したが、その質問の仕方は、丁寧なものだった。 「疲れている以外、異常はない」  と、医者は言った。 「あなたの名前から伺いましょうか?」  と、士官が言った。 「村上邦夫。三十三歳。東京。ジャパン」  と、村上は言い、相手の差し出した手帳に、Kunio Murakami(33)Tokyo JAPAN と書いた。 「そこに、セロファン紙に入れて、大事そうに持っているのは、なんですか?」 「航海日誌と、三人のパスポートです」 「あと二人のクルーは?」 「サモア諸島沖を通過したあたりから、急に原因不明の熱病にかかって、四十度近い熱がつづき、相ついで死にました。いまになっても、原因がわかりません。そのあと、低気圧にぶつかってマストが折れ、ヨットも沈む恐れが出て来たので、ゴムボートで脱出したのです」 「それで、二人の遺体は?」 「海の男らしく、水葬にしました。何か遺品をと思ったんですが、適当なものがなく、タヒチへ着いたら使うはずだった彼らのパスポートを、こうして持って脱出したんです」 「すると、あの、東京—タヒチ間のレースに参加されていたんですな?」 「そうです」 「この駆逐艦は、残念ながら、タヒチに向かわず、ハワイのパールハーバーへ帰投するところです」 「そのほうがありがたいです。一刻も早く日本へ帰って、死んだ二人のクルーの家族に知らせたいですから」 「先生《ドクター》は、その二人は、なんの熱病だったと思われますか?」  と、士官は、村上の診察をおえた医者にきいた。 「わからんねえ。わたしは現場に居合わせたわけではないから。想像できるのは、たぶん、カゼから肺炎を併発したのかもしれん」 「こんな熱いところでですか?」 「それが素人の先入観というものだよ。熱帯でも、大型のスコールに打たれると、身体がガタガタ震えるほど寒くなることがあるものだ」 「そういえば、あの二人はスコールのたびに、裸になって身体を洗っていました。ぼくはあんまり好きじゃないので、スコールが来ると、キャビンに逃げ込んでいましたが」  村上が言うと、でっぷり太った医者は「それが原因かもしれんな」と、言った。  村上邦夫がゴムボートで漂流中を、アメリカ駆逐艦「メービス」(三八〇〇トン)に救助されたというニュースは、ハワイ経由で東京に打電された。  また、それと同時に、丸栄物産の大野部長が、タヒチの海岸で、背中を刺されて殺されたニュースも、東京に届いた。      7  村上邦夫のほうのニュースは、他の二人のクルーの死にもかかわらず、明るいニュースとして受け取られたが、大野殺害のほうは、暗いニュースであり、とくに、警視庁捜査一課に激しい衝撃を与えた。 「ぜひ、タヒチへ行かせてください」  と、十津川警部補は、捜査一課長に懇願した。 「君は、タヒチで大野が殺されたのが、第三京浜での内田洋一の死と関係があると思うわけだな?」 「そのとおりです」 「しかし、大野は、容疑者じゃなかったのかね?」 「そうです。残った容疑者二人の中の一人でした」 「すると、犯人は、もう一人の内田亜矢子ということになるのかね?」 「単純に消去法で計算すると、そうなります。それに、いま、彼女もタヒチにいます」 「しかし、内田亜矢子が犯人としたら、なぜ大野を殺したのかな? 彼女が、夫の内田を殺す動機は理解できるが」 「二人は、内田を殺したい点で一致していたと思うのです」 「共犯だったのが、仲間割れしたということか?」 「とも考えられますし、内田洋一を殺したのは妻の亜矢子で、何かその証拠を大野につかまれた。三千万円の保険がおりたら、いくらか出せと脅迫されたのかもしれません。それで、亜矢子は急いでタヒチに飛び、大野を刺し殺したとも考えられます。とにかく、現地へ行ってみないことには、何もわかりません」 「よし、行って来たまえ。上司には、私が了解をとっておく」  と、捜査一課長は言った。  大野の死は、丸栄物産にとっても、激しい衝撃《シヨツク》であった。その前日まで、すべて順調ということで、社長の長谷部は満足していたのである。大野からの連絡によれば、「マーベリック1号」艇が優勝し、三人のクルーは、丸栄と専属契約を結んだ。そして、レースの模様は、毎朝新聞に連載されることに決まった。  これで、内田洋一によって与えられたマイナスが埋められると喜んでいた矢先の、大野の死であった。  社長は、部下の死を悲しみはしなかった。それよりも、現地の混乱のほうが心配だった。そこで、ニュースがはいるとすぐ、総務部長を現地に送り込んだ。「マーベリック1号」艇の優勝によって得たプラス面を、この際、少しでも失いたくはなかったからである。 [#改ページ]  第九章 サンゴ礁《しよう》の死      1  十二月三十一日。大晦日《おおみそか》である。  十津川警部補は、夜十時発のエールフランス機に乗った。直通便でタヒチまで十一時間である。ちょうど、ハワイで一日休養をとった村上邦夫が、死んだ二人のクルーの遺品であるパスポートを持って、羽田へ向かったときだった。  直通便といっても、ボーイング707は、途中で給油する。夜が明けてからウエーク島で給油し、ふたたび飛びあがってすぐ、|日 付 変 更 線《インターナシヨナル・デート・ライン》を越える。スチュワーデスが、そのことをアナウンスすると、乗客の中に、軽いざわめきが起き、窓の下を見下ろす者もいた。海の上に、そんな線がないとわかっていても、なんとなく見下ろしたくなるのが人情というものらしい。  十津川もボーイング707の窓際に腰を下ろしていたので、反射的に海を見下ろした一人だが、眼下の海は、ただ青く広がっているだけだった。白雲がときどき後に飛び去って行く。こんな中で、小さなゴムボートを見つけ出すのは、さぞたいへんだろうと、村上邦夫を見つけたアメリカ空軍機のことを考えたりした。  タヒチの海沿いにある空港に着いたのは、日付変更線を越えた関係で、東京を発《た》ったときと同じ十二月三十一日の午後一時二十五分だった。頑健な身体つきの十津川も、時差というやつは苦手である。どうしても身体に変調を来たしてしまう。  それでも、空港の待合室で一休みすると、十津川はすぐ、首都パペエテにあるタヒチの警察署へ出かけた。  タクシーに乗ったのだが、窓から見る人々の生活は、洋式化されているとはいえ、日本人の彼から見ると、いやにのんびりしている。オートバイに乗っている若者は別だが、他の者は、みんな、やけにゆっくり歩いている。まるで、ここでは、駆け出してはいけない法律があるみたいだ。  白い大きな教会《カテドラル》も目立つ。これも、西洋化の表われの一つだろう。タヒチ警察署は、いかにもフランス風の洒落《しやれ》た建物だった。  署長は五十歳ぐらいの小柄なフランス人で、エルキュール・ポワロみたいな見事な口ひげを生やしていた。フランス語しか通じないのでは困るなと思ったが、さいわい、十津川の英語でも相手に通じた。 「まあ、紅茶でもどうぞ」  と、署長は、いやにのんびりと遠来の客を迎えた。ここでは、向こうのペースに合わせるより仕方がないと考え、ありがたく紅茶を頂戴《ちようだい》することにした。 「さてと。日本からいらっしゃったのは、殺された日本人ビジネスマンのことですな」  と、世間話が一区切りついてから、やっとフランス人の署長は切り出した。 「確か、ミスター・オオノでしたな」 「そのとおりです。殺されたときの状況を、くわしく話してくれませんか?」 「ミスター・オオノは、二か月くらい前にここへ来ましてね、マエバビーチホテル全室を一月七日まで借り切りました。さすがG・N・P自由世界第二位の日本のビジネスマンだと、驚いたものです」  署長は、見事な口ひげをなでながら、いくらか皮肉をまじえて言った。 「いまは、日本のヨットマンたちでいっぱいですがね」 「大野が殺されたのは、十二月二十八日でしたね?」 「それは、日本時間でしょう。こちらでは二十七日です。ここから二キロほど先の海岸です。あのあたりは、アベックなんかが散策するところですが、ミスター・オオノは、背中を二か所刺されて死んでいました」 「検視の結果は?」 「医者は、おそらく即死に近かったろうと言っています。死亡推定時刻は夜の八時ごろだろうと言っています」 「目撃者は?」 「今のところゼロです。まあ、虫は見ていたでしょうがね」 「虫?」 「あのあたりは、虫がよく鳴くところだからですよ」  と、署長は、また呑気《のんき》なことを言った。 「それで、凶器は見つかりましたか?」 「いや。おそらく犯人が持ち去ったのでしょう。ただ、医者は、切り口から、水夫などのよく使うナイフではないかと言っています」  署長は、暗に、日本人同士の喧嘩《けんか》ではないかと言いたげだった。そういえば十津川は、この近くの東サモアで、日本人の漁船員同士が殺し合いの喧嘩をし、以来、「ジャパニーズ」嫌いの島民が多くなったと聞いたことがあった。 「まず、犯人は、この島の人間じゃありませんな。ここ数年、殺人事件など一件も起きておらんですから」 「水夫が使うナイフだとすると、いま、パペエテに入港しているヨットマンのほとんどが、持っている可能性がありますね?」 「それも考えて、全員を調べようかと思いましたよ。しかし、やめました」 「なぜです」 「第一、人手がない。第二に、犯人なら、凶器のナイフをいつまでも持っているわけがないと思ったからです」 「ほかに、何か気がつかれたことはありませんか?」 「そうですなあ。物盗《ものと》りの犯行じゃありませんな。ミスター・オオノは、五万フランほどの現金を持っていましたが、盗られていません。また、ホテルにはさらに多くの現金も預けていましたが、これも無事です」 「なるほど。ところで、この女のことを調べていただきたいんですが」  十津川は、内田亜矢子の写真を見せた。 「最近、タヒチに入国したはずなんですが」 「これは美人だ」  と、署長は、フランス人らしくニッと笑い、 「これほどの美人なら、私が知らんはずがないのだが——」  と、しばらく考えていたが、急に、「おお」と、膝《ひざ》を叩いた。 「思い出しましたよ。プナアウィアに家を借りて住んでいる女性《マドモアゼル》です。昔、フランス人が別荘に使っていた家です。一度、その家の前で会いましたよ。このマドモアゼルが、何かしたのですか?」 「いや。ただ、会って、話を聞きたいことがありましてね」 「そうでしょうな。こんな美しいマドモアゼルが、悪人であるはずがない」  と、署長は、ひとりで決め込んでしまい、急に椅子《いす》から立ち上がった。 「では、これから、このマドモアゼルを訪問しようじゃありませんか」 「え?」 「若い婦人に会うには、急ぐのが礼儀です」  と、フランス人の署長は、妙な格言みたいなことを言い、鏡に向かって、服装を直し、口ひげをしごいた。  十津川は、相手の現金さに苦笑しながら、署長のあとにつづいた。  タヒチは、ひょうたん形をした島である。首都のパペエテのある北側は人口も多く、観光客も集まるが、南部は切りたった断崖《だんがい》が多く、人口も少ない。パペエテの近くに、ビーナス岬という風光|明媚《めいび》な場所があるが、署長が案内したのは、西側の海岸にある白い家だった。昔、フランス人が別荘に使っていたというだけあって、白を主体とした洒落た邸で、庭には、ハイビスカスやブーゲンビリアの花が咲き乱れていた。このプナアウィアという所は、昔、ゴーギャンが住んでいたことで有名である。  署長は、また、うすくなった髪をなでつけてから、呼鈴《ベル》を押した。出て来たのは、猛烈に太った五十五、六歳のタヒチの女だった。  食事の関係か、タヒチの|若い娘《ヴアヒネ》は美しく魅力的だが、中年を過ぎると、ビヤダルのように太ってくるらしい。  署長が、タヒチ語できくと、女は、首を横にふり、何か早口でまくしたてた。 「彼女は女中だそうですが、主人のマドモアゼル・アヤコは留守だそうですよ。私も、美しいマドモアゼルに会えなくて残念です」 「いつごろ帰ってくるんです?」 「それが、わからんというんです。何しろ、急にいなくなってしまったそうで」 「急にいなくなった? それは、いつからですか?」 「この婆さんは、数の観念があまりはっきりせんのですが、どうやら、ミスター・オオノが殺された日あたりからのようですな」  署長は、なにげなく言ったのだが、十津川の顔色が変わった。東京で想像したことが、当たったかもしれないと思ったからである。 (亜矢子は、大野を殺してタヒチから逃亡したのではあるまいか?)  といって、フランス領のこの島で、単なる推測だけで、家宅捜査もできない。第一、このタヒチの署長は、たいへんなフェミニストらしいから、美人の住んでいる家の家宅捜査など、許してくれないだろう。しかし、このままでは済まされない。 「じつは——」  と、十津川は、署長に、亜矢子が東京で起きた殺人事件の容疑者であり、ここにいたって、大野殺しの容疑者とも考えられるようになったと付け加えた。 「それは、悲しい話ですな」 「悲しい?」 「美しい婦人が犯人だというのは、いつも悲しいことです」  フランス人の署長は、小さく肩をすくめて見せた。十津川は、だんだんいらいらしてきた。国民性のちがいなのだろうが、なかなか気持ちが噛《か》み合ってくれない。 「そういうわけで、彼女はすでにここから逃亡した恐れもあるのです。調べていただけませんか?」 「いいでしょう」 「なるべく早くお願いします」 「ウイ、ウイ」  と、署長は、口ひげをひねったが、動作は相変わらず、ゆったりとしていた。  十津川としては、ここが外国だけに、すべてを相手に委《まか》せて、じっと待つより仕方がなかった。  とりあえずホテルをとり、タヒチ警察の調査を待つことにした。日本人の性急さで、翌日、電話をしてみたが、まだ何もわからないという返事だった。  年があけて、一月五日になって、やっとだいたいの調査が終わったという返事がもらえた。十津川は飛んでいくと、署長は、また、のんびりと紅茶をすすめた。だが、話を聞いているうちに、十津川が感心したこともあった。確かに調査はのんびりしているが、ヨーロッパ人らしく、その調査が徹底していることだった。 「まず、申しあげますが、マドモアゼル・アヤコは、まだ行方不明です」  と、署長は、タイプされた報告書を見ながら、十津川に言った。 「それは知っています。毎日、あの別荘に行ってみましたから」 「さて、彼女が、タヒチから国外へ逃亡したかどうかという点ですが、まず、空港と港を徹底的に調べてみました。空港に備えつけてある乗客名簿に、去年の二十七日以後、アヤコ・ウチダの名前はありません。お預かりした写真を空港税関に見せましたが、同じく、見たことがないそうです。港のほうは、月二回、客船がはいりますが、このほうも、乗客名簿にないし、税関職員も彼女を見ていません」 「港には、ヨットやモーターボートがたくさんありますね。あの中の一隻が盗まれたということはありませんか?」 「もちろん調べましたが、このほうもノンです。第一、マドモアゼル・アヤコは、ここへ来てから、モーターボートを一隻購入しているのです。さして大きなものではありませんが、それも、ちゃんと港につながれています。二十七日前後に起きた事件といえば、ガソリンスタンドから、重油が三缶盗まれたくらいのものです。三缶といっても、例のポリエステル製の四角いやつですが」 「犯人は、捕まったのですか?」 「まだです。が、どうせ、オトキチの若者の仕業でしょう。どうも、この島では、盗みが悪いという観念があまりないので困るのですよ。バナナやパイナップルなんか、いまでこそ売っていますが、昔は、いくらでも野生でなっていて、誰がもいでも何も言いませんでしたからね。そのくせが、いまだに抜けんのですよ」 「なるほど。ところで、内田亜矢子のことですが、タヒチから国外へ出ていないとすると、どこへ消えたかわかりませんか?」 「一つだけ、可能性がある場所があります。そこをいま、調べさせています」 「どこですか?」 「まあ、この地図を見てください」  署長は、タヒチを中心として点在する島の地図を、広げた。 「この付近一帯の島は、ソサエティ諸島といって、ここと同じくフランス領です」 「ということは、これらの島なら、パスポートなしに行けるわけですな?」 「そのとおりです。観光客の中には、タヒチより周辺の島々のほうが、観光化していないといって、船で行く人も多いのです。一番近いモオレア島へは、ここから毎日遊覧船が出ているし、遠い島へは、エア・タヒチの飛行機か漁船か、コプラ採集船に便乗すれば行けます。いま、これらの点在している島の責任者に問い合わせているところです」 「ありがとうございます」 「あなたもたいへんですなあ」  と、署長が言った。      2  フランス領ソサエティ諸島には、タヒチを入れて、大小十四の島がある。人の住んでいるのは、その中の九島である。タヒチのほかでは、モオレアとかボラボラなどが有名で、とくに、ボラボラ島の場合は、この島こそ本当の楽園だと言う人もいる。  タヒチから見えるモオレア島も、美しい島である。朝夕、タヒチから眺めたモオレア島の美しさは格別だった。その他のライアテア、タハア島などは、かなり離れている。署長は、電話での問合わせでは心もとないと思ったのか、それらの島々を、みずから、モーターボートで回っているようだった。そんなところは、変に気さくで、行動的なのである。  十津川が、同行しましょうと申し込むと、署長は、これはタヒチ警察署長の自分の仕事であり、自分と部下で調査するから、ホテルでゆっくりお待ちくださいと言った。  そう言われてしまうと、他所《よそ》者の十津川には、どうすることもできない。ホテルから東京に国際電話を入れ、捜査一課長に事情を報告し、そのあと、島を歩き回って、彼の自由のきく限り、調査してみた。  一月七日まで、レースに参加したヨットマンたちは、丸栄物産の費用で、タヒチのホテルにとどまっているので、彼らにも会って、殺された大野のことをきいてみた。  いちように返って来たのは、大野が殺されたことは、驚きの一語につきるといった平凡な返事だった。  十津川は、亜矢子が本命と考えてはいたが、ひょっとすると、丸栄とライバル関係にある新東亜デパートのファクトリーチーム五隻のクルーの中に、犯人がいるかもしれないとも考えた。「シー・エリート25」は、二、三着は占めたものの、優勝は逸している。その口惜しさから、丸栄の大野を、酔った勢いで刺したのではないかと考えたからである。  可能性は小さかったが、五隻のクルー十五人の、事件当日の行動を洗ってみた。十二月二十七日の午後五時から、授賞式は始まっている。その後、パーティになり、十五名のうち六人は、酔い潰《つぶ》れて、ホテルの自分の部屋に引き揚げ、あとの九人が、夜のパペエテの街に繰り出したことがわかった。  が、二十代から三十代のこの若い九人のクルーは、ホテルを出ると、どこの港町にもあるダンスホールに繰り込み、深夜までビールを飲み、タヒチ娘を抱いて、楽しんでいたことがわかった。これは、そこの店主や、働いている娘たちの証言で確かめられた。  あとは、「マーベリック25」のクルーたちだが、彼らが大野を殺すとは思われなかったし、殺す理由がなかった。着外でも賞品が出たし、一月七日まで、ホテル代は丸栄の負担だからである。 (すると、残るのは、やはり内田亜矢子だけになるか)  と、十津川は結論したが、その結論には、たった一つだけ不安のタネがあった。  それは、上司に国際電話で報告したとき、捜査一課長が、 「保険会社が一昨日、三千万円の生命保険を亜矢子に支払うと決定し、銀行に払い込んだよ。間もなく、タヒチの銀行に着くはずだ」  と、言ったからである。  タヒチは物価が安い。とくに食料は羨《うらや》ましいくらいに安い。マーケットでも、日本円にしてバナナは一本二円、パイナップルは六十円でしかない。二、三百円あれば、一日の食費は十分にまかなえるのである。  そんな島での三千万円は、大金だ。大野を殺す動機はわかっても、姿を消してしまっては、せっかく東京から振り込まれて来た三千万円を受け取ることができないではないか。  それとも、この近くの小島に、ひっそりと身をひそめていて、十津川がしびれを切らして東京に戻ってから、タヒチに戻り、振り込まれた金を受け取るつもりなのだろうか。  一月七日。明日はヨットマンたちが、それぞれに行く先を決めて船出する。  そんなとき、ホテルで食事していた十津川は、電話で呼び出された。相手は、例のフランス人の署長だった。いつもは、こっちがいらいらするほど、のんびりしているのに、今日は、「すぐ港へ来ていただきたい」と、早口に言って、電話を切ってしまった。 (亜矢子が見つかったのだろうか?)  と、食事もそこそこに港に駆けつけると、警察のモーターボートの上で、白い麻の背広をキチンと着て、口ひげをしごきながら、署長が待っていた。  港の海面には、たくさんのレイが浮かんでいる。昨日出港した観光船の乗客が投げ捨てたものである。 「彼女の行方がわかったんですか?」  と、ボートに乗り込みながらきくと、署長は、厳しい顔で、 「ついさっき、モオレア島から連絡がありまして、オプノフ湾に、若い女の水死体があがったというのです。それが、どうも、マドモアゼル・アヤコのようなので」 「なんですって?」  愕然《がくぜん》として十津川が問い返したとき、モーターボートは猛然とモオレア島へ向かって走り出した。  約三十分で、十津川たちを乗せたボートは、モオレア島のオプノフ湾に到着した。島の中央には、巨大な山がそそり立っている。  漁師たちが迎えに来ていて、十津川たちを、水死体を引きあげた砂浜に案内してくれた。  サンゴの細かい粒で蔽《おお》われた白い砂浜である。そこに、若い女の死体が寝かされていた。何日か水に浸っていたとみえて、身体《からだ》全体がふやけていたが、その顔は、まちがいなく内田亜矢子だった。 「まちがいありません」  と、十津川は、署長に言った。陽気な署長の顔も、その言葉で暗く曇った。  署長が、発見者だという島の漁師にタヒチ語できいてくれたところによると、朝九時ごろ、カヌーで漁に出かけたところ、サンゴの環礁に、この水死体が引っかかっているのを発見したのだという。おそらく、海流で流れてきて、環礁に引っかかったものだろうと、漁師は、手ぶりを混じえながら、署長に語った。  十津川は、死体を仔細《しさい》に調べてみた。  花模様のワンピースを着ていたが、これはおそらくタヒチへ来て買ったものだろう。身体に外傷はないが、後頭部には傷があった。が、誰かに殴られてできたものか、環礁にぶつかったときにできたものか、解剖してみなければわからないが、十津川は、「殺された」と直感した。  亜矢子が、海に出て溺《おぼ》れたとは考えられない。なぜなら、彼女の買ったモーターボートは、パペエテの港につながれたままだからである。彼女が、海に遊びに出たとすれば、当然、あのボートを使うはずだ。それに、パペエテからモオレア島へは、毎日、遊覧船が出ているが、客が落ちたという噂も聞いていない。 「タヒチで解剖はできますか?」  と、十津川がきくと、署長は、 「カソリック系の優秀な病院がありますから、そこでさせましょう。私としても、この美しいマドモアゼルが、事故で溺死《できし》したのか、殺されたのか、ぜひ知りたいですからね」  と、厳しい声で言った。  内田亜矢子の遺体は、パペエテの病院へ運ばれ、そこで解剖された。  結果は、十津川の直感のとおりだった。溺死ではなく、後頭部の傷が致命傷であり、殺されてから海に突き落とされたものということだった。 (殺人か——)  十津川の直感は当たった。  だが、残った二人の容疑者のうち、大野は殺され、いま、最後の一人、内田亜矢子も殺されてしまった。  解剖所見によれば、死亡推定時刻は、日本時間で十二月二十八日から二十九日にかけてだという。つまり、大野の死亡推定時刻に近いのだ。 (今度こそ、本当の壁にぶつかってしまったな)  と、十津川は歯がみをした。 [#改ページ]  第十章 幽霊船      1  日亜《にちあ》郵船の客船「オーシャン・クイーン号」一万五〇〇〇トンは、南太平洋諸島からのクルージングから、帰途についていた。  この「オーシャン・クイーン号」は、もともとアメリカの船だったのを、日亜郵船が買い取ったものである。  日亜郵船は最初、国内航路に使うつもりだったが、若者たちの海外旅行ブームに眼をつけ、会員を募り、南太平洋のクルージング船に変更したのである。この企画が見事に当たって、今度の「トンガ王国への二週間の旅」も満員であった。そのほとんどが男女の若者たちである。 「オーシャン・クイーン号」は、トンガ王国への旅をおえて、いま、帰国の途についていた。  一月十二日早朝のことだった。 「オーシャン・クイーン号」は、サモアの西を通過中だった。一万五〇〇〇トンの純白の巨体は、約一九ノットの快適な速力で北上していた。波も静かで、快適な船旅だったが、この朝は、海面に深い濃霧が立ちこめていた。乳白色の霧である。そのため、「オーシャン・クイーン号」は、一定間隔で霧笛を鳴らした。  船橋《ブリツジ》で監視に当たっていた船員は、濃霧の向こうに眼をこらしていたが、ふと、左舷《さげん》前方に、黒っぽい影のようなものを見たような気がした。無線連絡によれば、この付近に他船はいないはずであった。  船員は、あわてて双眼鏡を向けた。が、その瞬間、すーっと背筋を冷たいものが流れるのを感じた。 (幽霊船!)  と、感じたからである。  濃い霧の中に、黒い影と見えたのは、小さな船であった。こちらが霧笛を鳴らしているのに、その船は、なんの応答もせず、やや左に傾いて、ただ、ゆらゆらと漂っている。どうやら人の気配も感じられない。  さらに双眼鏡を向けて見つめると、どうやらヨットらしい。だがそのマストは、中ほどで折れ、帆《セール》は切れて垂れ下がっている。赤い船体も、ところどころ剥《は》げ落ちて、まだらになっている。まさに幽霊船だ。 「左舷に幽霊船!」  とその若い船員は思わずふるえ声で叫んでしまった。 「幽霊船だと?」  と、船長は、急いで双眼鏡を左舷の海面に向けた。一瞬、彼も、「幽霊船——」と思った。が、船長の長い経験が、若い船員ほど、彼をあわてさせなかった。それに、さいわいにも、濃霧が少しずつ晴れてきていた。  船長は、じっと、漂流しているヨットを見つめていたが、その傾いた船尾に、艇の名前を読み取った。 「『サンダーバード号』だ」  と、船長は呟《つぶや》いた。彼は、村上邦夫がアメリカの駆逐艦に救助されたことを、ハワイの放送で知っていた。その村上の乗っていたヨットの名前が、確か、「サンダーバード号」だったはずである。  いま左舷の海面に、人気《ひとけ》もなく、こわれた残骸のような恰好で漂流している船は、その「サンダーバード号」らしい。 「エンジン停止!」  と、船長は、反射的に怒鳴った。  エンジンは停止したが、一万五〇〇〇トンの巨体は、惰性でゆっくりと、「サンダーバード号」の横を通り過ぎてから、やっと停止した。  船客たちも、何事かと、ぞろぞろとデッキに出て来た。眠たげに眼をこすっているカップルもいる。朝もやが晴れ、三〇〇メートル彼方に漂流している「サンダーバード号」の姿を、次第にはっきりさせてきた。それは、刀折れ矢尽きた姿に見えた。 「どうします? 船長《キヤプテン》」  と、一等航海士がきいた。 「このままほうっておけば、沈むかもしれんな」  と、船長は、双眼鏡を当てたまま言った。 「と、思います。いまでも、左にかなり傾いていますから、浸水しているものと思われます」 「曳航《えいこう》が無理とすれば、こちらの甲板に引きあげて、日本まで運ぶより仕方がないな」 「ハワイ放送では、二人のクルーが原因不明の熱病で死んだと聞きましたが」 「その点は大丈夫だろう。助かった艇長《キヤプテン》の村上という男は、なんともなかったそうだから」 「では、とにかく、様子を見て来ます」  一等航海士の三崎《みさき》は、船員二人を連れ、船客の見守る中で、モーターボートで、「サンダーバード号」に近づいて行った。三崎が、ヨットにあがってみると、人の気配はなく、その代わりに、激しい臭気が鼻をついた。  キャビンをのぞいて、その理由がわかった。積んであった野菜が、完全に腐ってしまったのだ。発電機も切れたとみえて、冷蔵庫の中のものも、完全に腐敗してしまっている。  左舷には、小さな穴があき、キャビンには足首あたりまで海水が溜《た》まっていた。ひどい嵐でもくれば、あの穴から、海水がどっと流れ込んできて、沈没するかもしれない。  三崎が、レシーバーで連絡すると、船長から、「後甲板に積んで、東京まで運んでいくことにしたぞ」と、言ってきた。 「いま、本社に連絡したところ、運んで来いというのだ。起重機で吊《つ》りあげるから、モーターボートで、本船の近くまで引っ張って来てくれ」 「わかりました」  と、三崎はレシーバーに向かって言った。      2  デッキに鈴なりの船客が見守る中で、傷ついた「サンダーバード号」は、起重機で吊りあげられた。  船体が宙に持ちあげられたとき、キャビンに溜まっていた海水が、ザアッと音を立てて海面に落下した。海面下にあった船体には、長い航海を物語るように、貝類がびっしりと付着している。  こわれ、傷ついた「サンダーバード号」は、ゆっくりと後甲板に据えられた。とたんに、船員たちの制止を振り切って、若い船客たちは、「サンダーバード号」に殺到したが、キャビンからもれてくる腐った野菜類の匂いに、「うへっ」と驚いて、逃げ出した。  船長はふたたび、エンジン始動を命じてから、一等航海士の三崎に、 「あのヨットのいまの状態を、細大もらさず記録しておいてくれ。何かの役に立つかもしれんからな。記録したあとで、腐った野菜類は海に捨てるんだ。あれじゃたまらん」 「わかりました」  と、三崎は言い、船員といっしょに、もう一度、「サンダーバード」のキャビンの中にはいって行った。 「まるで幽霊船ですね」  と、ベテランの船員は、顔をしかめながら、三崎に言った。  三崎も、確かにそうだと思った。野菜が腐っているのを除けば、キャビンの中はきちんとしている。バースもギャレーも、トイレもきれいだ。  だが、外観となると、まるで逆だった。肝心のマストは折れ、帆《セール》はちぎれてデッキに落ちている。そのうえ、左の舷側《げんそく》には、小さな穴があいている。アンカーも失われてしまっている。スピンネーカーもない。 「何もかも書きとめるんですか?」  と、キャビンの中で、船員がきいた。 「そうだ。細大もらさずだ」 「この腐った野菜もですか?」 「とにかく、何もかも書いておくんだ」  三崎が、キャビンに首を突っ込んで言ったとき、船医がやって来て、のぞき込んだ。 「幽霊船というやつを一度、じっくり見たくてな」  と、船医は、同じように、腐った野菜の匂いに顔をしかめながら、キャビンにはいって来た。 「朝もやの中に、左に傾いて漂っているのを見たときは、本当に、話に聞いた幽霊船に見えましたよ」  と、三崎は、船医に言った。  若い船員がやって来て、腐った野菜類を、書きとめるそばから捨ててくれたので、キャビンの中も、だいぶ楽になってきた。 「例の、アメリカ駆逐艦の救助の話を聞いていたんで、幽霊船の恐怖は感じなくてすみましたがね」 「なんでも、三人乗っていて、他の二人のクルーは、原因不明の熱病で死んだということだったね」 「そうです。しかし、伝染病だったら、村上というキャプテンも死んだはずでしょう?」 「そのとおりだ。たぶん、カゼから肺炎にでもなったんだろう。これは、村上を助けた駆逐艦の船医も言っていたようだがね」  船医は、棚にあった救急箱を取りあげ、中をあけた。 「アスピリンが減っているね。熱が出た証拠だな。それに、この二本の体温計を見たまえ」 「水銀が、四十度あたりでとまっていますね」 「おそらく、そのくらいの高熱が出たんだろう。体温計の水銀というやつは、振らない限り、その目盛りから下らんからね」 「赤道直下の暑さで、あがったんじゃありませんか?」 「馬鹿を言うな。赤道直下だって、海の上で四十度になるか」  と、船医は笑った。 「しかし、助かったキャプテンのことを知ってなかったら、君の言うとおり、本当に幽霊船と思ったかもしれんな。誰も乗っていない、マストの折れた赤いヨットが、海上を漂っていたんだから」 「そういえば、この『サンダーバード号』については、変な噂を聞いたことがありますよ」  と、一等航海士は、キャビン内を点検しながら、船医に言った。 「ぼくも、ヒマなときは、よくヨットに乗るんですが、この『サンダーバード号』は、レースに参加する前から、幽霊船の噂がありましてねえ」 「ほう。すると、その噂が本物になったわけか」 「これは中古艇で、前の持ち主の夫婦のうち、細君のほうが、船の中で死んだというだけのことなんですが、船に乗る人間は、縁起をかつぎますからね」 「そんな噂が立っているのに、よく、三人はこれでレースに参加したねえ」 「きっと若いんでしょう、三人とも。ただし、そのうちの二人も死んだとなると、ぼくも、これからヨットに乗るのが怖くなりましたね」  三崎は、冗談とも本音《ほんね》ともつかぬ声で言った。      3  そのころ、十津川警部補は、すでに直行便で東京に帰っていた。だから、日亜郵船の客船「オーシャン・クイーン号」が、サモアの西で、漂流中の「サンダーバード号」を拾い上げたというニュースは、捜査一課の机の上で、新聞記事で読んだ。  その新聞は毎朝で、同じ日のものに、 〈明日より、『東京—タヒチ六〇〇〇マイルレース——制覇の記録』連載〉  の予告も載っていた。  十津川は、その二つの記事を読み、ひどくむずかしい顔になった。  黒板に書かれてあった容疑者の名前は、いま、ぜんぶ消されてしまっている。最初からやり直しなのだ。こんなことは珍しくないと、負け惜しみを言いたいところだが、十津川にとっては、初めての経験だった。十津川は、三つの殺人事件は、東京、タヒチと六〇〇〇マイルも離れて起きているが、同一犯人の仕業だと考えている。これは、理屈ではなく直感だった。  この直感は、おそらく正しいだろう。とすれば、いままでの捜査のどこかに誤りがあるのだ。前提が、どこかでまちがっていたのだ。 (いったい、どこがまちがっていたのだろうか?)  十津川が、渋い顔で天井を睨《にら》んだとき、 「主任にご面会です」  と、若い警官がはいって来て言った。 「誰だ?」 「東日新聞の大河原という記者です」 「ああ、あの男か」  十津川は、うなずいて立ちあがり、階下へおりて行った。十津川は、大河原という記者には、なんとなく好意を感じていた。 「おたがい、タヒチ焼けですな」  と、大河原は、十津川を見て笑った。確かに二人とも、陽焼けした顔をしていた。 「少し歩かないか」  と、十津川のほうから誘い、二人は警視庁を出て、皇居の堀に沿って、ゆっくり英国大使館のほうへ歩いて行った。 「容疑者がぜんぶ消えちまって、弱ってるんじゃないんですか?」  と、大河原は、歩きながら無遠慮に言った。 「確かに参っている。君のほうは楽しそうだな。『マーベリック25』が優勝したのに」 「本心を言えば、『シー・エリート25』のほうに勝ってもらいたかったのですがね」 「毎朝は、勝利の記録を連載するそうじゃないか」 「うちもそれに対抗して、明日から連載を始めますよ」 「ほう。なんのだい? 二着の記録かい?」 「いや、現代の幽霊船『サンダーバード号』の記録です。題名は、もっと劇的なものにしますがね」 「あのヨットか」 「アメリカ駆逐艦に救助された村上邦夫も、一種の現代の英雄ですからね。さいわい彼は、ゴムボートで脱出するとき、航海日誌はしっかりと抱えていました。それに今度、『オーシャン・クイーン号』が漂流中の『サンダーバード号』を拾いあげた。この連載は、きっと受けますよ」 「…………」 「どうしたんです? 十津川さんには、あまりおもしろくありませんか?」 「いや、おもしろいよ。というより、君の考えてる以上に、おもしろい記事になるかもしれんよ」 「どういうことですか? それは」 「おれの想像さ」  とだけ十津川は言った。 「ところで村上は、ハワイから帰ったあと、どうしている?」 「べつに、どうもしていませんよ。ああ、そうだ、死んだ二人の仲間《クルー》の遺品を、両親に届けたいと言っていましたね」 「遺品?」 「二人のパスポートです。二人が無事、タヒチへ着いたら、必要だったはずのパスポートですよ」 「君の新聞に連載するやつは、内田洋一と同じように、ゴーストライターを使うのかね?」 「いや」 「なぜ?」 「うちで、無名だが、優秀な作家を紹介したんですがね。彼は、脚色しない、事実だけを書いた航海日誌を、そのまま連載させてくれと言いましてね。うちのほうでも、かえってそのほうが迫力が出ると思って、OKしたわけです」 「事実ありのままか」 「ええ。これは、勝利の記録なんかよりおもしろいですよ」 「そうなることを祈るよ。じゃあ、急用を思い出したんで、|Parahi《パラヒ》 |oe《オエ》!」 「なんですって?」 「もう忘れたのかい? タヒチ語でサヨウナラさ」      4  十津川は、警視庁に戻ると、捜査一課長に会った。 「われわれは、まちがった方向ばかり探し回っていたんです。うかつでした。やっと、それがわかりましたよ」 「まちがっていたのは、容疑者と考えていた二人の男女が、タヒチで殺されたことでわかる。問題は、どうまちがっていたかだ」 「そのとおりです。容疑者はぜんぶ消えて、一見、壁にぶつかってしまったように見えました。しかし、犯人は、われわれの考えていた、大野と亜矢子を殺すことで、われわれに、捜査方針のまちがいを教えてくれたのです。いや、今度の連続した事件の動機をと言ってもかまいません」 「正しい動機というわけか?」 「そのとおりです。犯人は一見、成功したように見えながら、失敗もしたのです。内田洋一が殺されたとき、彼を恨んでいるか、彼が死ねばトクをする人間を、われわれは犯人と考えました。それが動機かと思ったからです。内田を憎んでいる人間は数多く、われわれは、容疑者をしぼるのに苦労しました。そして、やっと、丸栄物産の大野と、妻の内田亜矢子の二人にしぼったのです。もし犯人が、この二人を殺さなかったら、われわれはいまでも、この二人のどちらかが犯人か、あるいは共犯と見て、追いかけ回していたでしょう。犯人にとっては、むしろ、そのほうが得策だったのです」 「なるほど。そういう考え方もできるか」 「ところが犯人は、この二人も殺してしまいました。もちろん、六〇〇〇マイルの彼方で、理由もなく、二人の男女を殺すとは考えられません。殺す動機があったからです。となれば、犯人は、内田洋一、亜矢子、大野、この三人に恨みを抱いていた者ということになります。いったん壁にぶつかったように見えながら、犯人は、みずから、その容疑者の範囲をわれわれに教えてくれたのです。内田洋一だけを憎んでいた者なら、数は多くても、三人の人間を同時に憎んでいた人間となれば、当然、数は限定されてきます」 「動機を、憎悪だけと限定できるのか?」 「できます。もし金だったら、タヒチで、亜矢子が三千万円の保険金を受け取ってから殺したでしょう。さらに、タヒチで殺された大野も、所持金を奪われていません」 「なるほど」  だんだん、捜査一課長の顔が輝いてきた。十津川は、書棚から世界地図を持って来て、南太平洋の部分を開いた。 「犯人は、もう一つ、われわれに資料を提供してくれました。日本時間で十二月二十八日の夜、ここから六〇〇〇マイル離れたタヒチで、大野を殺したのです。亜矢子のほうも、たぶん、同じ日に殺されたのだろうと、タヒチの医者は言いました」 「つまり、犯人は、その時刻に、タヒチにいたということだな」 「そうです。おそらく犯人は、東京と、六〇〇〇マイル離れたタヒチにまたがる連続殺人ということで、いまごろ、得意になっているでしょう。だが犯人は、自分の立っている地盤が、小さく、心細くなったことに気がついていないのです」 「しかし、そいつは、いったい誰なんだ?」 「東京—タヒチといえば、まず、考えつくのは、今度のレースです」 「なるほど。犯人はあのレースを利用したわけか。つまり、君は、あのレースの関係者の中に、犯人がいると考えているわけだな?」 「そのとおりです。なんの疑いもなく、タヒチに行けるのは、レースの関係者だけですから」 「しかしねえ、十津川君」  捜査一課長は、急にむずかしい顔になって、二人の間にひろげられた南太平洋の地図を眺めた。 「なんです? 課長」 「君は、もっと端的に言えば、今度のレースの参加者の中に、犯人がいると考えているんだろう?」 「そうです」 「だがね。二十一隻のヨットが、江の島を出発したのは、十月十日の午後二時だ。それなのに、内田が、問題の『セイノオー』を、近くの井上薬局で買ったのは、同日の夜だ。そして十八日に第三京浜で死んでいる。つまり、レースに参加した人間が、内田洋一の『セイノオー』をすりかえるチャンスはなかったことになるじゃないか。ちがうかね?」 「確かにそうですが、私はどうしても、レース参加者の中に、三人を殺した犯人がいるとしか考えられなくなったんです」      5 「その犯人というのは、誰だね?」 「いまマスコミを賑《にぎ》わしている村上邦夫です」 「理由は?」 「理由は二つあります。第一に、動機です。村上は内田洋一の同期生でありながら、相手が現代の英雄になったのに、彼のほうは、無名でした。そのうえ、亜矢子を内田に取られました。また大野についてですが、調べたところ、丸栄物産がヨットの販売に乗り出すと聞いて、村上は、自分を売り込みに行き、大野に体《てい》よく断わられています。しかも大野は、彼を断わっておいて、彼のライバルの内田を顧問として迎えたのです。村上にとっては、たいへんな屈辱だったと思います」 「第二は?」 「私が最初、五人の若いヨットマンを容疑者の中に入れていたことは、覚えておいでだと思います」 「ああ。西沢たち五人だろう。確か、あの五人の中に、村上邦夫も含まれていたな?」 「そうです。単独無寄港世界一周を考えていて、内田洋一に先を越された連中五人です」 「しかし、君は、ぜんぶシロだったと言ったはずだぞ」 「そうです。五人のうち、村上と山下は、レースに出ていたので、あとの三人に会いました。ところが三人とも、毎朝新聞に連載中の『マーベリック㈵世号の冒険』を読んでいて、ホーン岬の場面で、インチキ臭いと気がついたと言いました。ヨット経験のある私も、同意見でした。そして、三人は、まだ先を越されていないのだと気づいて、自艇の製作に、また精を出しはじめたのです。もちろん、アリバイもありましたが、肝心なのは、新聞を見て、内田のインチキに気づいた点です。まだ単独無寄港世界一周のチャンスがあるとなれば、内田を殺すより、そのチャンスに賭《か》けるのがヨットマンです。成功すれば、内田を蹴落《けお》として、一躍、現代の英雄になれますからね。毎朝にホーン岬の場面が載ったのは、レースの出発後であり、しかも、内田が殺される前です。つまり、犯人は、毎朝を読めない場所にいたヨットマンということになります。あのとき私は、五人のうち、レースに出ている二人より、三人のほうが怪しいと思ったんですが、本当は逆だったのです。二人のほうが怪しかったのです。そのうち、山下太一のほうは、大野と亜矢子について、動機がありません。とすれば、残るのは、村上邦夫一人です」 「彼に動機があることは、君の説明で十分にわかった。だが、彼は、東京—タヒチ間六〇〇〇マイルレースに、『サンダーバード号』という中古艇で参加しているんだ。しかも、タヒチまで行けず、アメリカ駆逐艦『メービス』に救助されている。どうやって、東京で内田を殺し、タヒチで大野と亜矢子を殺すことができるのかね? まさか本物の幽霊船に乗って、空中を飛び回ったわけじゃあるまい?」      6  その幽霊船は、「オーシャン・クイーン号」に積まれて、一月二十三日朝、東京の晴海埠頭《はるみふとう》に到着した。  埠頭は、船客を出迎える家族の数も多かったが、新聞やTVの報道がきいたとみえて、南太平洋で拾われた「サンダーバード号」を見ようという野次馬や、報道関係者も多かった。  その中には、十津川警部補もいたし、東日新聞の大河原記者もいたし、村上邦夫本人もいた。  一万五〇〇〇トンの「オーシャン・クイーン号」は、客船としてはそう大きい船ではない。純白の船体に、煙突だけが青と赤に塗りわけられているのが美しいが、それにしても、後部甲板に、ロープでとめられている全長二五フィートの「サンダーバード号」は、それに比べて、やけに小さく見える。マストが中ほどから折れ、帆は傷ついて垂れ下がり、左側面に穴があいており、海水に浸っていた部分には、貝殻などが付着して、赤い船体も剥《は》げたり、どす黒く汚れているのだから、なおさらである。  が、また、そこが幽霊船らしくていいのか、村上を横に立たせては、記者たちが、やたらに写真を撮りまくっていた。  十津川は、カメラマンにあれこれ指示している東日新聞の大河原に声をかけた。十津川は、なんとなくこの若い運動部記者に好意を持っていた。なかなか頭が切れそうだし、社会部記者のように、向こうからこっちを追い回さないところがいい。 「あの幽霊船を、どうする気なんだね?」  と、十津川がきくと、大河原はニヤッと笑って、 「社の前に当分飾っておくつもりですよ。ちょうど村上の航海日誌を連載中ですからね。いい宣伝になるはずです」 「村上本人は承知したのかい?」 「ええ、してくれましたよ。紹介しましょうか?」 「そう願いたいね」  と、十津川は、渡りに舟の感じでうなずいた。  実物の村上邦夫を見るのは、今日が初めてだった。黒く陽焼けした手と握手したとき、十津川は、なぜか、死んだ内田洋一との類似を感じた。顔つきも感じも正反対なのにである。内田が陽気な傲慢さなら、この男は、陰気な不逞《ふてい》さを身につけていると思った。ヨットマンには必要な不逞さだが、犯罪者にも必要であろう。とくに、綿密な連続殺人などを行なう人間には。 「内田洋一の殺人事件を追っています」  と、十津川が言うと、村上は顔色も変えず、 「それはたいへんですねえ。早く捕えてやってください。いろいろと噂のあった男ですが、ぼくの友人だし、ヨットマンとしては優秀な男でしたから」  と、平然と言った。  十津川はわざと、今日はそれだけのことしか言わず、また写真を撮りはじめた彼らを残して、「サンダーバード号」を引きあげた責任者の一等航海士の三崎に会った。 「とにかく、発見したときは、海面に濃い朝もやがたちこめていましてね。そんな中を、赤いヨットが左に傾斜して、漂流していたものだから、本当に幽霊船かと思いました」  と、三崎は、当時を思い出すように、ちょっと緊張した表情をした。 「引きあげてから、克明に、メモをとられたそうですね?」 「ええ。東京に持ち帰って、本人に返すとき、何か失《な》くなっていたなんて、ケチをつけられたんじゃ、好意が仇《あだ》になりますからね」 「そのメモはありますか?」 「村上さんに渡しましたが、写しは取ってあります」 「それを見せていただきたいですな」  十津川が言うと、相手はすぐ、ゼロックスした分厚い書類を持って来てくれた。 「すごい量ですね」 「とにかく、何もかもヨットについているものはぜんぶ、書きとめておきました。野菜はほとんどぜんぶ腐っていましたが、それも書きとめてから、海へ捨てました」  三崎が自慢げに言うだけあって、とにかく、どんなものも書きとめてあった。たとえば、こんな具合にである。  米 二二・五キロ  小麦粉 一〇キロ  即席ラーメン 二ダース  しいたけ 〇・三キロ  玉ねぎ 九キロ  ニンニク 一・八キロ  サバ缶詰 一ダース  といった食糧品から、  カゼ薬 五〇〇錠  胃腸薬 三〇〇錠  蚊取線香 二箱  タルカンパウダー 一箱  といった具合である。万年筆からマジックペンも書きとめてある。ハサミから歯ブラシもである。海水パンツ三枚などというのは、ちょっとユーモラスだった。  赤いクルー用のヘルメットが二個あるのに、白いキャプテン用のヘルメットがないのは、村上がゴムボートで脱出するとき、かぶって乗り込んだからだろう。  ちょっと気になったのは、ライフジャケットが二個しか書いてないことだった。一つは、村上が脱出のときに身につけたはずだから、数としては、あと、クルー用二個で、ぴったり合うのだが、ふつう、今度のような長距離レースの場合は、予備を積み込むものだからである。  もっとも、途中で、ライフジャケットの一つがこわれたので、捨てたのかもしれない。  十津川がもっとも注意して眼を通したのは、「船舶用品」の部分だった。 「無線機とエンジンは、使用可能と注がしてありますね?」 「ええ。どちらも、こわれていませんでした。もっとも、エンジンのほうは、肝心の重油が一滴もありませんでしたが」 「三〇馬力の船内機というのは、二五フィートのヨットにしては、少し、馬力が大きすぎますね」 「そうですか。私は、ヨットのことはあまりくわしくないので」 「ふつう、二五フィート艇なら、せいぜい五馬力程度です。港の出入りのときぐらいしか、必要ありませんからね」 「なるほど」 「それから、錨《アンカー》が書いてありませんが、なかったんですか?」 「ええ」  ふつう、クルーザーは、二、三個のアンカーを持っているものである。港外で停泊のときにも、もちろん必要だが、クルーザーの場合は、荒天に巻き込まれたときに、アンカーが必要なのである。ロープをつけてアンカーを流すと、艇の流され方が少なくなって、安定もよくなるからである。これをシーアンカーを流すという。 「マストが折れていたとありますが、折れた部分は、なくなっていたんですか?」 「ええ。キャビン内を探したが、見つかりませんでしたね」 「これを、お借りしてかまいませんか?」 「ああ。どうぞ」  と、一等航海士は、あっさりとうなずいた。  船からおろされた幽霊船は、東日新聞が用意して来たトレーラーで、すでに運び去られてしまったあとだった。十津川は、東日新聞に行ってみることにした。そこへ行けば、もう一度、村上邦夫に会える気がしたからである。      7  十津川の予想は当たっていた。大河原と村上は、新聞社の地下にある喫茶店にいた。 「なかなかの人気ですな」  と、十津川は、同じテーブルに着きながら、大河原にともなく、村上にともなく言った。 「ところで、村上さんに質問したいことがあるんですが?」 「どうぞ。内田君のことでしょう?」 「なぜ、そう思われるんです?」 「刑事さんが、ぼくに質問といえば、ほかに考えられませんからね」 「いや、今日は、このことです」  十津川は、もらって来た書類を村上に見せた。 「ぼくも、ヨットを少しやるので、聞きたいことがありましてね」 「ほう。なんです?」  村上は、平然として、自分も持っている書類を取り出した。 「第一に、アンカーです。クルージングにはふつう、二、三個のアンカーを持って行くべきなのに、それが書いてありませんね」 「それですか。もちろん、出港のときは、三五ポンドと三〇ポンドのアンカーを、一個ずつ積み込みました。ところが、ご存じのとおり、タヒチの近くまで来て、マストは折れ、他の二人のクルーは熱病で死んでしまい、航行不能に陥ってしまったんです。それでも最初は、とにかく、石にかじりついてもタヒチに着きたくて、重いものをどんどん海へ捨てたのです。アンカーもそのときに捨てました」 「エンジンが完全なのに、重油がなくなっていましたが?」 「それも同じなのです。もちろん、レースで、補助エンジンを使うのは違反ですが、あの状態では、そうもいっていられないので、補助エンジンを使ったのですが、もともと燃料は、少ししか積んでいなかったので、すぐなくなってしまいました」 「どのくらい積んでいたんです?」 「重油六〇リットルです」 「なるほど。それにしても、三〇馬力の補助エンジンは、二五フィートのクルーザーとしては大きすぎるんじゃありませんか? ふつうは五馬力か六馬力ぐらいのものでしょう?」 「確かにそうです。ヨットの場合、入港、出港のときしか使いませんからね。ただ、ぼくのほうは、中古を買ったので、ついていたエンジンをそのまま使ったんです」 「お買いになったのは、確か伊豆の人でしたね?」 「ええ。西伊豆の木負《きしよう》という所に住んでいる深沢というかたです。年齢は五十歳ぐらいですかね」 「もう一つ聞きたいんですが、幽霊船の噂は、出発前から、江の島マリーナに流れていたそうですね?」 「ええ。それで、ずいぶんぼくも迷惑しました。やっぱり気になりますからねえ」 「その噂を流したのが誰なのか、まだわかりませんか?」 「わかりません」 「しかし、いまとなると、幽霊船ということが評判になって、あなたも、一種の英雄になっている」 「とんでもない。ぼくは、二人のクルーを病気で失ってしまったんです。そんな浮かれた気にはなれませんよ」 「原因不明の熱病ということでしたが、原因はまだわからないのですか?」 「わかりません。ぼくを助けてくれたアメリカ駆逐艦の船医は、おそらく、カゼから肺炎を併発したのだろうと言っていました。赤道直下でも、強いスコールに当たったあとなんかは、ガタガタするほど冷えますからね」 「それは、ぼくも知っていますよ。ところで、連載中の航海日誌は、毎日、楽しく読ませてもらっています」  十津川はお世辞を言い、二人と別れたが、その足ですぐ西伊豆に向った。  西伊豆の木負というところは、|浮かぶ《フローテイング》ホテルで有名なスカンジナビア号がある場所である。その近くの小さな別荘で、十津川は、一人暮らしを楽しんでいるという初老の深沢に会った。 「確かに、あの『サンダーバード号』というクルーザーを村上さんに売ったのは、私です」  と、深沢は、コタツを十津川にすすめてから、うなずいた。 「聞くところでは、あの船の上で、奥さんが、原因不明の熱病で死んだことから、幽霊船の噂が流れたと聞きましたが?」 「とんでもない」 「というと?」 「確かに私の家内は、あのクルーザーを造ってから亡くなりました。それで売ってしまったんですが、船の中で死んだんじゃありませんよ。大島へ行っての帰りに、急に熱を出しましてね。あわてて下田へ入港して、病院へ入れたんです。亡くなったのは、その病院でです。もともと身体の弱い女でした」 「なるほど。ところで、三〇馬力という大きなエンジンをつけた理由は?」 「あれですか。じつは私は、ヨットの操縦はあまり上手《うま》くないし、それに気が弱いんです。年齢《とし》も年齢ですしね。それで、ちょっと風が強くなると、帆を下ろして、もっぱらエンジンで走ることにしたんです。だから、亡くなった家内なんか、ヨットって、エンジンで走るものだと思っていたくらいです。エンジンだけで、一時間に十二、三ノットは出ましたよ。だから、家内がそう言うのも無理がなかったんですが」  深沢は、微笑した。 「ところで、あの船はファミリー艇でしたね?」 「ええ。この年齢でレーサー気取りも恥ずかしいですしねえ。だから、造ってもらうとき、安全第一に造ってもらったんです」 「売るときは、雑誌の売買欄に載せたんですか?」 「ええ。『ヨット・エイジ』という雑誌があるでしょう。あれに載せてもらったんです。載ったのは確か十月号でした」 「その雑誌は、いま、お持ちですか?」 「ええ。バックナンバーはぜんぶ揃《そろ》える主義ですから」  深沢は、気軽くコタツから出て、『ヨット・エイジ』十月号を持って来てくれた。  十津川は、その雑誌を借りて、西伊豆を後にし、沼津から電車に乗った。彼は、東京までの電車の中で、その雑誌を広げ、雑誌の最後にある「売ります」欄を、何度も読み返した。 「売ります」欄には、五十隻近いクルーザーが売りに出されている。「サンダーバード号」は、その中の一つだった。 [#改ページ]  第十一章 疑惑への接近      1 「村上については、多くの疑惑が生まれてきました」  と、十津川は、捜査一課長に報告した。 「第一は、この雑誌の売買欄です。村上はここを見て、『サンダーバード号』を購入したのですが、他に、五十隻ものクルーザーの売り物が出ています。とくに、朱筆で囲ったところを見てください」  十津川は、『ヨット・エイジ』十月号の売買欄を広げて、上司の前に置いた。彼が朱筆で囲んだところは二つで、どちらも二五フィート・クルーザーの売り物だった。 「どちらも船歴は、『サンダーバード号』と同じく二年です。値段も、ほとんど変わりません。そのうえ、一隻は、レーシング仕様と断わり書きがあり、もう一隻は、油壺—八丈島間レースに優勝の経験ありと書いてあります。それに比べて、『サンダーバード号』のほうは、ファミリー艇と書いてあるのです。ふつうのヨットマンなら、レースに参加するんですから、当然、この二隻の中から選ぶはずです。それなのに、村上はわざわざ、レース用でない『サンダーバード号』を購入しているのです」 「クルーザーにも、レース用というのがあるのかね?」 「あります。今度のレースでも、丸栄物産と新東亜デパートは、それぞれ、市販の『マーベリック25』と『シー・エリート25』ではなく、レース仕様の特別の艇を五隻ずつ参加させているのです。だから、世間から、ファクトリーチーム同士の闘いだなどといわれるのです」 「この二隻はすでに売れてしまっていたので、村上は仕方なく、ファミリー艇の『サンダーバード号』を買ったんじゃないのかね?」 「それも調べてみましたが、二隻ともまだ売れていないし、村上から問合わせもなかったといっています」 「ほかには、どんな疑問があるんだね?」 「次は、この書類です」  と、十津川は、「オーシャン・クイーン号」でもらったゼロックスを、捜査一課長に見せた。 「これによると、発見時に、アンカーが二つ失くなっていました。村上は、艇が沈まないように、重いものを海に捨てたと言いました」 「理屈にあっているじゃないか?」 「でしょうか? それなら、なぜ、腐った野菜は捨てなかったんでしょうか? 重油が切れて使えなくなったディーゼル・エンジンは、なぜ捨てなかったんでしょうか?」 「うーん」 「また、マストが折れていますが、折れた部分がありません。これも、ヨットマンの常識にはずれています。マストが折れた場合、それを取っておいて、ロープで継ぎ合わせ、帆をとれば、なんとか走れるものなのです。現に『マーベリック2号』艇は、マストが折れたにもかかわらず、そうやってタヒチにたどりついています。これは、マストが折れたときのイロハみたいなものです」 「ほかには?」 「次は、左舷にあいた穴です。発見したとき、そこから海水がはいり、キャビンは水びたしだったといっています」 「村上の出したS・O・Sにも、確か、沈没の危険があるので脱出するとあったようだな」 「そうです。しかし、『サンダーバード号』は、|FRP《フアイバーグラス》製ではなく、ベニヤ製です。穴があけば、補修できるのです。現にこのリストの中にも、耐水合板四枚と、補修用材木、ステンレス板などがありますし、ハンマーからカンナ、ノミ、ノコギリ、ボルトなども積んでいるのです。だから、舷側に穴があいたら、まず補修するのが第一歩です。それなのに村上は、何もせず、脱出しています」 「それは、いっしょのクルー二人が、次々に原因不明の熱で死んだので、怖くなって、補修どころじゃなかったのかもしれんな」 「かもしれません。しかし、ヨットマンらしくない行動が、再三あることは、まちがいありません。それに幽霊船の噂が、レース前から江の島マリーナに流れていたというのも、不審なのです。東日新聞の大河原記者の話では、前の持ち主の細君が、ヨットの中で死んだから幽霊船の噂が立ったのだろうということでしたが、私が実際に西伊豆へ行って、元の持ち主に聞いたところでは、確かに細君は亡くなっていますが、それはヨットの中ではなく、下田の病院です。それに、優勝しそうもない『サンダーバード号』について、幽霊船などという噂が、スタート前から流れていたというのは、おかしくはありませんか?」 「すると、君は、幽霊船の噂は、村上邦夫自身が、自分で流したとみるのかね?」 「私は、そう思います。そうしておけば、部下の二人のクルーが次々に死んでも、なんとなく納得させられてしまいますから」 「少し考え過ぎじゃないかね?」 「かもしれません。しかし、いま、残っている容疑者は、村上邦夫ただ一人です。だから、少しでも怪しい点があれば、見逃せないのです」 「わかった。わかったが——」  捜査一課長は、むずかしい顔で、机の上に置いてある世界地図に眼をやった。      2 「だが村上は、東京—タヒチ間六〇〇〇マイルレースに出場している。これは、まぎれもない事実だ。他の二人のクルーとだ。それが、どうやって、東京で内田洋一を殺すことができたんだ? それが説明できない限り、村上邦夫は捜査圏外だぞ」 「わかっています」  十津川は、手を伸ばすと、机の上の世界地図を取りあげて広げた。 「レースは、十月十日に、江の島マリーナをスタートしました。二十一隻のヨットは、いっせいに南下しました。よく、この地図を見てください。各ヨットは、伊豆七島、小笠原、テニアン、グアムと、つづいた列島沿いに南下し、そこから大きく弧を描くようにして、ギルバート諸島方向に向かっています」 「よくわからんのだが、なぜ、まっすぐタヒチに向かわなかったのかね?」 「課長、地球は丸いのです。地図の上の直線が、必ずしも最短距離とはいえません。それに、島沿いに走れば、自分の位置がよくわかります。第三に、風です。陸、といっても島ですが、陸沿いに走れば、風を拾いやすいのです。ヨットという代物は、風がなければ、ニッチもサッチもいきません。ところが、海のどまんなかで、よく無風状態にはいってしまうことがあるんです。しかもそれが、四日も五日もつづくことがあります。そうなれば、もうお手あげです。それに比べて、陸地近くというのは、比較的、無風状態が少なくて、風に恵まれるのです。ヨットの場合は、風さえあればいいのです。逆風でも、ヨットというものは前進可能ですからね。これは、クローズ・ホールドという走り方ですが、まあ、以上の理由で、各艇とも列島沿いに南下したはずなのです」 「そういえば、今日の毎朝新聞に載っていた例の『マーベリック25、六〇〇〇マイルレースを制覇』の連載だがね。十月十八日に小笠原沖を通過したと書いてあったよ。そして、『いまにして思えば、この日、内田洋一君が劇的な死を遂げていたのだ』と、つけ加えてあったな」 「それは、私も読みました。東日新聞には、村上の航海日誌が、毎朝新聞のと競い合う形で連載されていますが、十月十八日には、八丈島と小笠原の中間地点をセーリングしていたと書いています」 「それで?」 「今度のレースに参加したクルーザーは、すべて三人乗りです。しかし、二五フィートぐらいの艇なら、一人か二人でも動かせます」 「君はつまり、『サンダーバード号』の村上だけが、あとの二人に艇の操縦を委せて東京に引き返し、内田洋一の『セイノオー』を、青酸入りのものとすりかえたと言うのだね?」 「そのとおりです」 「くわしく聞こうか」 「『サンダーバード号』は、最初からビリでスタートし、他の艇に引き離されました。世間の注目は当然、先頭争いに向けられ、ビリで走っている『サンダーバード号』などには、誰も注目しません。村上は、それを利用したのです」 「先をつづけたまえ」 「たとえば、伊豆七島を考えてみてください。小さな島をのぞくと、大島、三宅島、八丈島と、レースのコースに並んでいます。そのうえ、この三つの島には、飛行場があります」 「そうか。レースに出発したあと、『サンダーバード号』を、この三つの島のどれかの近くに寄せ、村上が上陸し、飛行機で東京に舞い戻り、内田洋一を殺したというわけか?」 「そうです。すりかえておいて、また、何喰《なにく》わぬ顔で飛行機で引き返し、待っていた『サンダーバード号』に乗り込み、タヒチへの航海をつづけたにちがいありません」 「江の島をスタートして、南下せずに、油壺のヨット・ハーバーに向かって、そこで村上がおりたとは考えられないか?」 「それは考えられません」 「なぜだね?」 「毎朝と東日が、スタートの日とそれにつづく二日間、ビーチクラフトを取材のため、八丈島近くまで飛ばしているからです。この二機のパイロットとカメラマンに会って来ました」 「それで?」 「もちろん二機とも、先頭争いの取材が目的ですから、航空写真も、先頭争いをしている『マーベリック25』と、『シー・エリート25』しか写っていませんでしたが、不思議に、ビリで走っていた『サンダーバード号』のことも覚えていました」 「なぜだろう?」 「スピンネーカーのせいです。スピンネーカーというのは、日本語に訳すと、袋帆という妙な言葉になってしまうんですが、追い風のとき、速力を増すために使う帆なんですが、これが、カラフルでしてね。『マーベリック25』が赤、『シー・エリート25』が青というわけです。それに比べて『サンダーバード号』だけは、赤と青のだんだら模様なので、いやでも眼についたというのです」 「それで?」 「東日のパイロットの証言ですが、三日目に赤い『サンダーバード号』を見たとき、ちょうど三宅島と八丈島の間を、スピンネーカーを張って通過中だったというのです。そしてデッキには、三人の男がいて、手を振っていたと」 「三日目というと、十月十二日か。まだ内田はピンピンして沖縄に行っていたわけだな」 「そうです。ですから私は、利用したとすれば、八丈島だと思うのです。『サンダーバード号』が八丈島に近づく四日目は、新聞社は取材飛行をやめています。それに、大島、三宅島には、東京との間に、一日一往復しか航空便がないのに、八丈島の場合には、東京との間に、一日八往復もあるからです。それだけ、利用しやすいということになります」 「すると君は、こう考えるのだね。村上邦夫は、最初から、アリバイ作りのために、今度のレースに参加した。わざと遅い、中古のファミリー艇を購入して参加し、八丈島で彼だけがおりて、飛行機で東京に引き返し、折りを見て、恨み重なるライバルの内田洋一に復讐したというのだね?」 「まず、この推理にまちがいはないと思います。『サンダーバード号』は、夜の闇の中で八丈島に接近し、村上は上陸、翌朝、飛行機で東京に舞い戻ったのです。もちろん、サングラスをかけるなりして、変装したと思いますが」  十津川は、自信をもって言った。      3  いま、二人の前の地図は、南太平洋のものから伊豆七島のページに変えられた。 「しかし、君の説が正しいとして、村上が一人だけ、八丈島でおりることを、他の二人のクルーがよく承知したな?」 「理由はいくらでもつけられますよ。たとえば、パスポートを忘れてきてしまったとか。どうせビリで走っていて、勝ち目はないんです。同意させるのは簡単でしょう。それに、二人の中の山下のほうは、もともと内田に単独無寄港世界一周の先を越されて、彼を恨んでいたかもしれませんからね。ひょっとすると、疑っても、文句は言わなかったにちがいありません」 「他にも疑問があるんだが?」 「どうぞ」 「東日のビーチクラフトは、三日目に、三宅島と八丈島の間にいる『サンダーバード号』を見たんだったな。そして、そのときは、クルーは三人ともいた」 「そうです」 「そうすると、四日目の夜ごろ、八丈島に近づいたと考えていいんじゃないのか?」 「そのとおりです」 「つまり十月十三日の夜だ。その日に村上が八丈島に上陸し、翌日の飛行機で東京に戻ったとすれば、十月十四日になる」 「内田はもう沖縄から帰って来ていました」 「ああ、そうだ。だから、二人が会って、村上が『セイノオー』をすりかえられたことは認めるよ。だがね、もし十四日にすりかえたとしよう。そして、内田が死んだのは十八日で、その間、五日ある。君の考えが正しいのなら、すりかえられた『セイノオー』の上のほうには、ふつうのカプセル錠があり、途中に青酸入りのカプセルが入れてあったんだろう。そこはいいんだが、五日間の間に、なぜ内田が、村上のことを誰にも話さなかったんだろう? もし内田が、五日の間に、レースに出ているはずの村上に東京で会ったよと、誰かに言っていたら、このトリックは簡単にバレてしまっていたはずだ。どうも、そこがわからんね。もし君の考えたように、飛行機で東京に戻ったのなら、薬をすりかえるような面倒なことはせず、大野のように刺し殺したほうが、トリックとしては完全じゃなかったかね?」 「それは、私も考えました。確かに、課長の言われた疑問が残ります。それに対して、私なりに、答えをいくつか考えてみたのです」 「どんな答えだね?」 「第一は、その五日の間、内田が、自分のことを誰にも喋らないという確信が、村上にあったということです。なぜか、理由はわかりません。第二は、十三日の夜、八丈島に上陸したが、すぐの飛行機がなくて、十八日に東京に着いたという場合です。そして村上は、夜、油壺の家に行ったとき、ちょうど、女に会いに行くために出て来た内田にバッタリ会った。そこで、何か、話しかけながら、すりかえたという考えです」 「その場合は、すりかえた薬瓶の上のほうに、青酸入りのカプセルがはいっていたということだな。そして、すりかえられたのを知らずに、女のマンションへ行く途中のガソリンスタンドで、それを飲んだということか」 「そうです」 「このほうが、可能性は強いな。ところで、カプセルの量は問題にならんかね? すりかえたにしても、中のカプセルの量が、同じくらいじゃないと、怪しまれるだろう?」 「それは、こう考えたんです。内田は、よく他人に『セイノオー』を見せびらかしていたようですから、見たときのだいたいの残りから計算していけると思うのです。一日に何個飲むか、わかるわけですから」 「なるほどな。もし君の考えが当たっているとすれば、十月十四日から十八日までの間に、八丈島から東京に舞いもどり、東京か油壺近くかで内田に会い、『セイノオー』をすりかえて、彼を殺したことになるな」 「ほかには考えられません」 「しかし、どうやってそれを証明するね? 国内線だからパスポートは要らん。偽名でも乗れるんだよ」 「わかっています。しかし、いくら偽名を使っても駄目です」 「なぜだね?」 「考えてみてください。ふつうの観光客は、東京→八丈島→東京のコースです。しかし、村上はそのコースは取れないのです。なぜなら、ヨットで八丈島まで来てしまっているからです。つまり、彼の場合は、八丈島→東京→八丈島というコースになります。地元の八丈島の島民以外に、このコースの乗り方をした男がいたら、それが村上邦夫です」      4  刑事が総動員され、全日空の十月十四日から十八日まで五日間の、八丈島→東京間の乗客名簿が総点検された。  とにかく、乗客の多いのに驚かされた。ウィークデーでも、ほとんど往復とも満席なのだ。十月中旬から下旬というと、夏期以外の一つの行楽シーズンなのかもしれない。  延べ人員にすると、五日間に、YS11で東京—八丈島間を往復した人員は、二一〇三人に達するのである。これは、十津川の想像を越えた人数だったが、だからといって、べつにあわてもしなかった。百人だろうが、一万人だろうが、コツコツ当たっていけば、最後には犯人にぶち当たるのだ。  それに、二一〇三人といっても、女子供は除外できる。実際に調査する人員は、七百人を割るのだ。もっとも、国内線の場合、年齢は不確かだから、はっきりと子供とわかるもの以外は除外しなかった。 「とにかく、全力で洗ってくれ。村上は偽名で乗ったにちがいないから、その点を注意すること。とくに、東京→八丈島→東京の客ではなく、八丈島→東京→八丈島のほうに重点を置くこと。必ずこの乗客の中に、村上邦夫がいるはずだから、しっかり調べてくれ」  と、部下たちにハッパをかけた。  簡単に乗客といっても、実際にはたいへんな仕事だった。東京から乗ったといっても、必ずしも東京の人間とは限らないからである。住所が大阪だったり、ときには北海道だったりもするのである。そのたびに刑事たちは、各県警に連絡して、その乗客が実在の人物かどうかを、確認しなければならない。  二一〇三人の中に、「村上邦夫」の名前はなかった。が、それは、十津川に、かえって自分の推理に確信を持たせた。村上邦夫の名前があったら、むしろ十津川は、当惑したかもしれない。  少しずつ分厚い乗客名簿がうすくなっていく。本来なら、それは、少しずつ的がしぼられていくことを意味しているのだが、十津川は逆に、少しずつ焦燥にかられてくるのを感じた。彼が期待する結果が、なかなか出てこないからである。  まず、十津川は、八丈島→東京→八丈島の乗客について、優先的に調べさせた。捜査一課長にも説明したが、村上が、彼の考えたように、八丈島でヨットをおりて東京に戻り、内田洋一を殺したとすれば、通常の八丈島観先客とは逆のコースをたどったと思われるからである。  このコースの乗客は、観光客でないせいか、意外に少なくて、二一〇三人中、わずか九十八人であった。  その九十八人について、十津川は、徹底的に調べさせた。その中に村上邦夫がいるにちがいないと思ったからである。だが、十津川の期待は、空しく崩れ去った。  九十八人は、ぜんぶ八丈島の島民で、実在の人物だったからである。村上邦夫はいなかったのだ。  次は、残りの東京→八丈島→東京の乗客だった。理論的に言えば、八丈島でヨットをおりた(と考えられる)村上が、このコースで飛行機に乗るはずはないのだが、念のためである。  このほうは、八丈島の観光客が多いせいか、偽名と思われる名前も、ポツン、ポツンと出て来た。が、十津川が考えていたほど多くなく、五日間かかって調べ終わった時点で、わずか七名である。  しかもこのうち三人は女性だった。  残りの四人の男は、名簿の上で、いずれも二十五歳から三十三歳となっており、問題の村上の年齢に近い。  捜査本部は気負い込み、ベテランの永井刑事が、すぐ八丈島に飛んだ。そして、永井刑事からの報告は、十津川を喜ばせるものだった。  偽名の四人のうち、三人は連れで、十月十四日に全日空でやって来て、十六日に帰っていたが、その三日間、R旅館に泊まって、毎日、玉突きや三人マージャンに興じていたという。R旅館の女中の証言によれば、三人ともどこかの大会社の社員らしく、会社をサボって八丈島に遊びに来たらしいということだった。三人揃って偽名を使ったのも、そのためらしい。  残る一人が、問題だった。   渡辺一夫(三十歳)東京都|目黒《めぐろ》区目黒十丁目××番地  これが、八丈島から戻った永井刑事のもたらした四人目の男だった。 「この住所は、完全にでたらめです」  と、永井刑事は、メモしてきた手帳を見ながら、十津川に報告した。 「名前の渡辺一夫も、いかにも偽名らしい偽名だな」  と、十津川は苦笑した。 「渡辺、田中、鈴木なんかは、一番多い姓だからな。年齢の三十歳も、村上の三十三歳と合わないが、わざとちがえたのかもしれん」 「ところで、この渡辺一夫について、おもしろいことがあります」  永井刑事が言う。 「どんなことだ?」 「この男は、十月十二日の十二時三十五分羽田発の全日空で、八丈島に向かっていて、十四日の九時十五分、八丈島発の飛行機で、東京に帰ったことになっているのです」 「三日間、つまりまる二日、八丈島にいたわけか」 「そうです。それで、どこかの旅館なりホテルに泊まったはずだと思って、八丈島にあるホテルと旅館を片っ端から洗ってみたんですが、妙なことに、どこにも、この男らしい人間が泊まった形跡がないんです」 「そいつはおもしろいな。この男の人相はわかっているのか?」 「それが、スチュワーデスがぼんやり覚えているだけです。とにかく、ぜんぶの便が、ほとんど満席ですから、無理もないと思うのです。わかっているのは、サングラスをかけた三十歳ぐらいの男で、背がわりと高いというくらいです」 「まだ、八丈島は暖かいだろう?」 「はい。日本のハワイといわれるだけに、まだ暑いくらいでした」 「じゃあ、野宿も可能だな」 「もちろん、可能です。それに、あそこには、夏の間の貸し別荘もありますから、そこに黙ってもぐり込んで眠ることも可能です。主任は、この渡辺一夫が、村上邦夫とお考えですか?」 「たぶんな。だが、気に入らん点もある」 「渡辺一夫が、八丈島→東京の客でなくて、東京からやって来て、帰っている点ですね」 「そうだ」 「じゃあ、筆跡を、村上のものと比べてみたらどうでしょうか? この渡辺一夫という男は、全日空便の往復切符を買って、十二日に八丈島に来たのです。そのとき、名前と住所を書き込んだ用紙を、無理を言って、借りてきましたから」 「往復切符を買ったのは、十二日か?」 「そうです」 「すると、『サンダーバード号』が三宅島に近づいてくるころだな。すると、買ったのは村上のはずはないが、念のためだ。村上の筆跡を手に入れて、同一人のものかどうか、専門家に回してくれ」 「わかりました」  と、永井刑事はにっこりした。  筆跡鑑定には時間がかかる。その間、念のために、船のほうの乗客名簿も調べてみた。  八丈島—東京間には、東海汽船が毎日、�走るホテル�と銘うって、観光船「ふりいじあ丸」を三宅島経由で就航させていたからである。  飛行機のように、一時間十分では着かないが、約十時間で、八丈島から東京へ着くのである。  同じように、十月十四日から十八日までの間の船客全員を、刑事たちは調べた。 「ふりいじあ丸」は、二三〇〇トンの新造船で、乗客定員一一〇〇人、巡航速力一八ノットである。こちらは、運賃が安いせいか、若者、とくにカップルの客が多かった。  刑事たちが調べた船客は、全日空の場合よりさらに多く、五千人に近かった。だが、結局、船便のほうも収穫はなかった。偽名の船客も何人かいたが、いずれも、十七、八から二十二、三歳で村上邦夫の三十三歳には合わなかった。  結局、残ったのは、全日空の「渡辺一夫」一人だった。  船客の調査がぜんぶ終わったとき、筆跡鑑定の結果が、十津川の手元にもたらされた。 〈渡辺一夫の筆跡と、村上邦夫のものは、同一人の筆跡とは、認めがたい〉  報告書にはそう書いてあった。が、十津川は、べつに落胆しなかった。渡辺という人物が、十月十二日に往復切符を買ったとすれば、村上邦夫が、それをできるはずがなかったからである。      5  捜査一課長には、八丈島—東京間についての調査を、ありのままに報告した。課長は黙って、腕を組んで聞いていたが、 「君は、その渡辺一夫という正体不明の男が怪しいというわけだね?」 「そのとおりです」 「もっと突っ込んで言えば、レースに参加した村上邦夫が、渡辺一夫の偽名を使って、八丈島から東京に舞い戻り、内田の持っていた『セイノオー』とすりかえて、毒殺したと、考えているだけだね?」 「まだ、いろいろ矛盾した点はありますが、村上が犯人とすれば、この渡辺一夫という偽名の男しか浮かんでこないのです」 「十月十四日の朝の全日空で、八丈島から東京に戻っているところは、君の推理とぴったりだが、いま、君自身が言ったように、矛盾も多いな。十月十二日にその男は、東京から八丈島に来ている点や、筆跡が合わない点が引っかかるな」 「そうした矛盾を、一つだけ解く推理はあるんですが」 「なんだ?」 「東京から八丈島へ来た渡辺一夫と、十四日に東京に戻った渡辺一夫が、別人だという推理です」 「ふーむ」 「あらかじめ村上は、レース前に、自分に年|恰好《かつこう》の似た男に、偽名で東京から八丈島に来てもらうように頼んでおく。その男は、往復切符を買って、十月十二日に八丈島に着き、村上がヨットで着くまで、旅館やホテルに泊まらず、かくれて待っていた。そして、村上は、十三日の夜、『サンダーバード号』から上陸すると、その男とすりかわって、東京に舞い戻ったという考え方です。これなら、矛盾の大部分は解決します」 「なるほどな。その男は、レース前に、金でやとっておいたということか?」 「金かもしれませんし、村上と同じように、なんらかの意味で、内田に恨みを持っていた男かもしれません」 「おもしろいが、いまのところ、君の推理だけで、確証はないし、そのとおりだとすると、八丈島で入れかわった渡辺一夫のほうはどうなったかという問題も出てくるな」 「そうです。いまのところ、あくまでも推定の域を出ません。それで、私としては、自分の推理を、さらに押し進めてみようと思うのです。そうすれば、逆に、推理の延長上から、今度の事件が解けてくるかもしれませんので」 「それも一つの方法だが、具体的に、どんなふうに推理を進めていくつもりなのかね?」 「問題の渡辺一夫は、十月十四日朝九時十五分の全日空で東京に戻っています。羽田着は十時二十五分です。だが、その日のうちに、うまく内田に会い、『セイノオー』をすりかえることができたかどうか疑問だと思うのです」 「そうだな。内田自身、十月十一日から十三日まで沖縄にいて、十四日に帰って来たんだからな」 「内田が羽田に着いたのは、十四日の二十一時五分。つまり午後九時です。最小限に見つもっても、その時まで村上は、内田に会えなかったわけです」 「そうだな」 「問題は、その間の『サンダーバード号』のほうです。じっと、キャプテンの村上が戻って来るのを、八丈島の近くで待っていたとは思えません。村上も、そんなことはさせなかったはずです。まだ二人のクルーが残っていたのですから、航海はできたはずですし、八丈島近くでじっとしていたら、いくらビリでも怪しまれます。ヨットというのは、船体が小さいくせに、帆《セール》が大きくて目立ちますからね」 「それに、村上も、十月十四日に東京に舞い戻ったとしても、いつ内田に会って、青酸入りの『セイノオー』とすりかえられるか、わからなかったはずだな。正確なスケジュールがわからないのに、『サンダーバード号』を八丈島にとどめておくのは、確かに危険だ。島民なり、近くを通りかかった漁船なりに見つかれば、それで、すべてトリックが駄目になってしまうはずだからな」 「そうです」 「つまり君は、村上邦夫が東京に戻って、内田洋一を狙っている間、『サンダーバード号』のほうは、あたかも三人のクルーが乗っているように見せかけて、タヒチへ向かって南下をつづけたと考えるわけだね?」 「そのとおりです。そうすれば、誰にも怪しまれませんし、航海日誌も、きちんと合ってきます」 「すると、村上が内田洋一に会って、青酸入りの『セイノオー』とすりかえたあと、ふたたび『サンダーバード号』に戻ったのは、八丈島ではないことになるが」 「そう考えるほうが、自然だと思うのです」 「では君は、いったいどこで村上は、『サンダーバード号』に舞い戻ったと思うのかね?」 「優勝した『マーベリック1号』艇の森下キャプテンは、毎朝新聞の連載の中で、小笠原沖を十月十八日に通過したと書き、『いまから思えば、あのとき、内田洋一さんが劇的な死を遂げていたのだ』と書いています」 「じゃあ、小笠原か?」 「いや、ちがいます」  十津川は、断定的に言い、また書棚から地図を持って来て、課長の前に広げた。 「確かに、八丈島から南に下がって行くと、小笠原諸島にぶつかります。父島の二見港のように、ヨットが入港できる港もあります。時間的にも、位置的にも、絶好です。ただし、小笠原へ行く交通機関がありません」 「そうだ。わたしの友人が戦時中、父島に兵隊として行っていたが、当時の飛行場は、草ぼうぼうで使えないそうだね」 「飛行機の定期便がありません。せいぜい、チャーター船による団体ツアーがあるだけですが、これは不定期のうえ、去年は、四月十二日から十月六日まで、七回しかチャーター船は出ていません。あとは、東京都の物資補給船がときどき往来するだけです。兄《あに》島に飛行場を建設中ですが、まだ完成していません。無理をして民間機をチャーターしても、いまの日本には、小笠原諸島まで飛べる足の長い民間機はないそうですし、課長の言われたとおり、草ぼうぼうでは、着陸できないでしょう。とすれば、村上は、小笠原諸島よりもっと先で、『サンダーバード号』に戻ったにちがいありません」 「小笠原の先というと——」  捜査一課長は、地図に眼をやり、指で、八丈島→小笠原と、すべらせていった。が、その指先は、グアム島で止まった。 「グアムか?」 「そうです。ほかに考えられません。もちろん、タヒチまでには、ほかにも何百、何千という島があります。マーシャル諸島、カロリン諸島、ギルバート諸島、サモア諸島などです。しかし、村上は、犯行のあとでは、一刻も早く『サンダーバード号』に戻りたかったはずです。それに、マーシャル諸島近くでは、日本の漁船『第十六太平丸』が、三人のクルーの乗った『サンダーバード号』に出会っています。つまり、そのときには、すでに村上は『サンダーバード号』に戻っていたわけです。その点、グアム島は、小笠原諸島についで、もっとも日本に近く、しかも、飛行機の便が非常にいいところです。ジェット機なら、羽田からわずか三時間で到着します」 「そういえば、グアムには、日航もパン・アメリカンも、ジャンボ機を就航させていたな」 「そのとおりです。ちょっと調べたんですが、日航もパン・アメリカンも、毎日、グアムにジェット機を飛ばしています。課長の言われたように、ジャンボ機ですが、ほかにも、日曜、火曜、木曜の三日間は、ジャンボ機のほかに、日航、パン・アメリカンとも、DC‐8を飛ばしています」 「内田を殺したあと、村上は、グアムで落ち合う日時を決めておいて、『サンダーバード号』に戻るために、グアムに飛んだと、君は考えるんだな?」 「そのとおりです」 「ほかの二人には、なんと言って納得させたんだろうかね?」 「それは、前にも申しあげたように、たとえば、途中で、パスポートを忘れて来てしまったとでも言えば、ほかの二人は納得したと思います。ビリで、優勝の可能性はなかったし、『サンダーバード号』自体、村上のものですからね」 「なるほどな。ところで、グアムだとすると、あそこはアメリカ領だから、パスポートが必要だな?」 「そうです。だから、逆に、こちらから糸口がつかめるかもしれないと考えたのです。パスポートも必要だし、出入国のチェックも受けます。それに、グアムなら、乗客名簿に偽名は書けませんから」 「もし君の推理が当たっているとしたら、今度こそ、捜査線上に、村上邦夫の名前が浮かんでくるというわけだな?」 「いや、他の二人のクルーの名前が、と言ったほうが正確でしょう」 「というと?」 「『サンダーバード号』には、村上邦夫を含めて三人のクルーが乗っています。そして、全員、タヒチへ上陸するので、パスポートを持っていた。とすれば、村上が、他の二人のクルーのパスポートを借りて、使用した可能性もあります。したがって、村上邦夫以外に、山下太一(二十八歳)服部克郎(二十五歳)の名前についても調べる必要があると思っています」 「いつから調査にかかるのかね?」 「すでに部下に調査を命じています」  と、十津川は言い、眼の前にある地図を睨《にら》んだ。東京からグアムへは、太い青い線が引かれている。それは、航空|路《ルート》を示している。村上邦夫は、去年の十月十四日から十八日までの間に、内田洋一の「セイノオー」をすりかえた後、この青い線の上をグアムへ飛び、ここで「サンダーバード号」にもどったにちがいないのだ。  村上が、東日新聞に連載している航海日誌によれば、「サンダーバード号」が、グアム島沖を通過したのは、十一月九日になっている。とすれば、村上は、内田の死を確かめてから、グアムで、「サンダーバード号」に乗り込んだということになる。  ヨットの知識のある十津川から見れば、江の島|出発《スタート》が十月十日で、グアム島通過が十一月九日というのは、少し遅い感じである。とくにレースとなれば、遅過ぎると言えるだろう。  ヨットのベテランにも意見を聞いてみたが、その四十歳を越したヨットマンは、笑いながら、「ひねもすのたりのたりだな」と言ったものである。  だが、もちろん、これだけで、村上の航海日誌を嘘《うそ》ときめつけるわけにはいかない。第一にヨットは、風まかせである。どんなに優秀なクルーが乗っていても、風に恵まれなければ、眼の前に見える島にでさえ、三日も四日もかかってしまうものなのだ。  第二に、「サンダーバード号」は、レース艇ではなくて完全なファミリー艇である。当然、船足は遅い。(そこにも十津川は、村上の計画された殺意を感じるのだが)グアムまで、実際に一か月近くかかったかもしれない。  そこで、問題になってくるのは、東京—グアム間の乗客名簿を調べるのを、いつからいつまでに限定したらいいかということだった。  十月十五日からであることは、はっきりしている。なぜなら、問題の渡辺一夫は、十月十四日に、八丈島から東京に舞い戻っているが、その日に内田洋一に会えたとしても、午後九時以後のはずである。そして、東京からグアム行きの飛行便は、パン・アメリカンが午前十時四十五分羽田発、日航が午前十一時十五分発である。とすれば、もっとも「セイノオー」のすりかえが早く、上手《うま》くいったとしても、村上がグアムへ向かって出発できたのは十月十五日のはずだからである。  これは、はっきりしているが、問題は、何日までかということだった。  村上が東日新聞に連載している航海日誌を信用して、十一月九日までに限定するわけにはいかない。彼が犯人とすれば、航海日誌にも、細工してある可能性が強いからである。 (余裕をみて、あと一週間か)  と、十津川は考えた。つまり十月十五日から十一月十六日までの、まる一か月間の乗客全員を調べる必要があると考えたのである。  これだけの余裕を見ておけば、その網から、村上邦夫がこぼれることは、まず、ないだろう。  しかし、まる一か月間の航空機の乗客を調べるのは、たいへんなことだった。  また、刑事たちにとって、地味で、根気のいる仕事が始まった。      6  しかも、村上邦夫という名前だけを、チェックしていけばいいわけではない。今度は、   村上邦夫(三十三歳)   山下太一(二十八歳)   服部克郎(二十五歳)  の三人の名前を、同時にチェックしていかなければならない。そのうえ、国際線だけに、日本人はローマ字の名前になっているので、漢字の場合のように、一眼見てぱっとわかるというわけにはいかなかった。そのうえ、ローマ字だと思って、苦心して読んでいたら、アメリカ人の名前だったりする。一番困ったのは、フルネームが書いてない場合があることだった。たとえば長谷川健太郎を、Kentaro Hasegawa と書く代わりに、K. Hasegawa と書いてあったりするのである。  刑事たちは、羽田空港にある日航とパン・アメリカンの事務所に缶詰になって、乗客名簿を洗っていった。  村上と山下というのは、日本人の姓としては、平凡なほうにはいるせいか、意外に多かった。  だが、Kunio Murakami にも K. Murakami にも、ぶつからなかった。  その代わりに、山下のほうで収穫があった。しかも、二名である。  日航に一人の T. Yamashita  パン・アメリカンにも一人の T. Yamashita  の二人である。  日航の場合は、十一月三日羽田発(十二時四十五分)のジャンボ機であり、パン・アメリカンの場合は、十一月五日羽田発(十時四十五分)の同じくジャンボ機である。  それぞれのグアム到着時刻は、四時間十五分後の、日航は十七時〇分、パン・アメリカンは十五時〇分になっていた。  この報告は、もちろん、十津川を欣喜《きんき》させたし、捜査本部の空気そのものを、沈滞から救ってくれた。  どちらの T. Yamashita が山下太一かはわからない。だが、これで、村上が、山下太一のパスポートを借りて、東京からグアムに飛び、「サンダーバード号」に戻った可能性が出て来たのだ。 「村上邦夫を呼んで来てくれ」  と、十津川は、部下の刑事に命じた。 「だが、あくまで参考人として、丁重に連れて来いよ」      7  村上邦夫は、パリッとした服装で、捜査本部に出頭して来た。  彼の、まだ陽焼けの残った顔は、自信にあふれていた。  村上は、いまや、有名人なのだ。今度のレースで優勝した「マーベリック1号」艇の森下たち三人のクルーよりも、むしろ、村上の名前のほうが、世間的に知られていた。  日本初の六〇〇〇マイルレースの優勝は、ヨットマンにとって、この上ない名誉である。だが、世間は、そうは見ない。原因不明の熱病で二人のクルーを失い、アメリカ駆逐艦に救助され、しかも、その艇が、幽霊船のように、南太平洋を漂流していたというほうに、世間の興味は集中してしまうのだ。優勝した三人のクルーが、二回しかTVに出ないのに、村上は、すでに七回もTVに出演し、脱出や、クルーの死の恐怖について語っている。  新東亜デパート側が、そうした村上の人気に眼をつけ、「シー・エリート25」の販売に利用するために、顧問に迎えようとしているという話も、十津川は聞いていた。  世間は移り気だと、十津川はつくづく思う。  去年の十月十八日の深夜、第三京浜で劇的な死を遂げた内田洋一のことなど、もう誰も口にしないし、ヨットの専門家も取り上げなくなった。いまや内田洋一に、村上邦夫が取って替わったのである。  だが、十津川たちは、もちろん、内田洋一のことを、一時《いつとき》も忘れてはいなかった。 「まあ、楽にしてください」  と、十津川は、丁寧に村上に言った。参考人として来てもらった以上、その礼は守らなければならない。  十津川は、わざと机の上に、南太平洋の地図を広げておいた。  十津川は、セブンスターをすすめてから、 「最近は、すっかり人気者におなりですな。一昨日《おととい》もTVで拝見しましたよ」 「なに、虚名ですよ。世間はぼくよりむしろ、幽霊船騒ぎのほうが珍しいんでしょう」  村上はいちおう、謙遜して見せたが、眼は、誇らしげだった。捜査本部に来ても、少しもびくついていない。新聞やTVがこの男に、すっかり自信を持たせてしまったのだ。十津川は、明治時代、「貫禄《かんろく》などというものは、四頭立て馬車で、東京中をひと回りすれば、自然についてしまうものだ」と言った、ある政治家の言葉を思い出した。いまなら、四頭立て馬車の代わりに、マスコミということになるのだろうか。 「去年殺された内田洋一さんとは、学校の同期生だったそうですね」  と、十津川は、ゆっくりと核心に触れていった。 「ええ。まだ、犯人はわからないんですか?」 「最初は、丸栄物産の大野部長か、内田さんの細君の亜矢子さんかと考えたんですが、二人ともタヒチで殺されたとなると、この二人は除外しなければならなくなりました。ということは、われわれの考えを、百八十度転換する必要に迫られたのです」  十津川は、わざとゆっくり、自分の思考を再確認するように言いながら、村上の反応を窺《うかが》ったが、相手の顔には、余裕のある微笑が浮かんだだけである。その笑いが何を意味しているのか、十津川にはわからなかった。十津川の言葉が、彼の予期していたものだったからなのだろうか。 「百八十度転換といいますと?」  と、村上は微笑しながらきいた。 「それはつまり、最初われわれは、内田洋一を殺したのは、東京周辺にいる人間、つまり、彼の身近にいる人間と考えていたのです。それを百八十度換えて、これは、東京—タヒチ間六〇〇〇マイルレースに参加しているヨットマンの中にいるのではないかと考えたわけですよ」 「おもしろい」 「なんですって?」 「そういう発想は、おもしろいと思うんです。一見して、捜査圏外にあると思われるレース参加者の中に、犯人がいるのではないかというのは、いかにも推理小説的で、おもしろいと申しあげたんです」 「私は、冗談で申しあげているんじゃありませんよ」 「いや、わかっています、わかっています。日本の警察は、世界一真面目だそうですからね」  村上は、からかうような眼になって、十津川を見て、 「それでつまり、ぼくに眼をつけられたわけですね。今度のレースには、二十一隻のクルーザーが参加した。クルーの人数は六十三名。そのうち、内田洋一に対して殺人の動機を持っているのは、第一にぼくだ。だから、ぼくに眼をつけられたというわけですね?」 「殺《や》ったのは、あなたですか?」 「とんでもない。レースに参加していたぼくが、どうやって東京にいる内田を殺せるんです?」 「その点は、こう考えたのですよ」  十津川は、わざと、自分の推理を相手に聞かせる気で、村上を呼んだのである。聞かせながら、相手の反応を見る気だった。 「まず、あなたは、レースの話を聞くと同時に、殺人計画を立て、いままでに溜めてあった貯金と退職金で、中古艇を買った」 「殺人計画を立てたということは、納得できませんが、ヨットマンとして、東京—タヒチ間六〇〇〇マイルレースに参加したいと思うのは、当然じゃありませんか? だから、いままで勤めていた証券会社を辞めてまでして、退職金をもらい、貯金と合わせて、あの『サンダーバード号』を手に入れたんです」 「もちろん、レースに勝つつもりだったんでしょうね?」 「そりゃあ、そうですよ。結果的には、こんなことになってしまいましたが、ぼくにしても、死んだ二人のクルーにしても、勝つつもりでしたよ。敗けてもいいと思って、レースに参加するヨットマンなんて、いるはずがないでしょう」 「おかしいですな」  十津川は、わざと首をひねってみせた。 「何が、おかしいんです?」 「『サンダーバード号』は、雑誌の読者の通信欄で見て、買われたんでしょう?」 「ええ」 「この雑誌じゃありませんか?」  十津川は、『ヨット・エイジ』十月号を持ち出して来て、「売ります」の欄を開いて、相手のほうに向けて置いた。 「ああ、これです。ちょうど、考えていた値段のものがあったので、あれを購入したわけです」 「しかし、百五十万円といえば、インフレ時代のいまでも、かなりの大金ですよ。もう少し慎重になられるのが当然じゃありませんか。ここには、五十隻もの中古艇の売り物が出ているのに、ほかには眼もくれず、この『サンダーバード号』に飛びついたんですか?」 「そんなことはありませんよ。比較検討した結果、これが一番いいと思って決めたんです」 「しかし、レースには、勝ちたかったんでしょう?」 「もちろんです」 「どうもその点がおかしいですね。この船には、ファミリー艇と断わってありますよ。ほかに、レース艇の売り物が、ここには二隻も出ているし、そのうちの一隻は、東京—八丈島間のレース優勝艇です。しかも、船歴は同じく二年です。なぜ、こちらを買われなかったんです?」 「忘れましたが、値段の点でしょう」 「いや、値段も同じ百五十万円ですよ」 「そうですか。じゃあ、実物を見て、気に入らなかったのかな」 「それも嘘ですな。この二人に電話したところ、あなたが見に来たことも、電話連絡も、まったくなかったそうですよ」 「そうですか——」  自信満々だった村上の顔に、一瞬、不安の色が走ったのを、十津川は見逃さなかった。村上にしてみれば、まさか、こんな方向から訊問されるとは予期していなかったのだろうか。 「とにかく、レースが迫っているので、これに決めたんだと思います」  と、村上は、また平然とした顔色に戻っていた。それで押し通す気になったらしい。  十津川のほうも、わざと深追いせず、べつのほうへ話を変えた。 「では、事件についての私の推理を申しあげましょう」      8 「あなたは、わざと、船足の遅いファミリー艇の中古艇を買い、レースに参加した。当然、スタート直後には、もう最後尾になった。つまり、注目の外に置かれたわけです。あなたの思惑どおりにね」 「ビリになったのは事実ですが、ぼくたちは最善をつくしたんですよ。あなたの言葉は、亡くなった二人のクルーを冒涜《ぼうとく》するものですよ」 「私の推理がまちがっていればでしょう。だが、私は、自分の推理に確信を持っているのです」 「ほう。どんなふうに推理なさったんです?」  村上は、おもしろがっているように見えた。それが、十津川に、カチンと来た。そのうちに、蒼《あお》い顔にしてみせるぞと、十津川は、ジロリと相手を睨《にら》んだ。だが、あくまで言葉は丁寧に、 「考えられる殺人方法は、一つしかありません。三人のクルーのうち、あなただけが、途中の島で下船し、飛行機で東京に戻って、『セイノオー』をすりかえることによって内田洋一を殺し、ふたたび飛行機で、もっと先の島で、『サンダーバード号』と落ち合って乗り込んだということです」 「まるでお伽話《とぎばなし》のような話ですね」  村上は、不敵に笑った。 「お伽話ならいいですがね。内田洋一は、本当に殺されているんですよ。笑うのは、少し不謹慎じゃありませんか」 「これはどうも——」 「さて、私の推理をつづけましょう。『サンダーバード号』は、三宅島沖を通過中まで、東日新聞のビーチクラフトに見られている。そのとき、パイロットは、デッキの上に、三人のクルーが手をふっているのを見たと証言しています。とすれば、あなたが上陸して、東京に引き返した島は、八丈島しか考えられないのです。東京—八丈島間は一日八往復のYS11が飛んでいますからね。あなたは偽名を使って、飛行機で東京に舞い戻り、内田洋一の愛用していた『セイノオー』と、青酸入りのものとをすりかえたのです。そして、内田は、十月十八日夜、第三京浜で死んだ——」 「ぼくが八丈島から東京へ戻ったというのは、証明できたんですか?」 「いや、まだです。だから、推理だとお断わりしているのです。さて、あなたはおそらく、十月十三日の夜、『サンダーバード号』から八丈島におり、翌朝、飛行機で東京に戻り、様子を窺っていて、内田の『セイノオー』を、すりかえたのだと思う。たぶん、そうしておいてから、あなたは東京にかくれていて、内田洋一が毒死するのを確認したのだ。もっとも、第三京浜で、あんな劇的な死をとげるとは、あなたも計算してはいなかったでしょうがね。さて、十月十四日に東京に戻り、内田の『セイノオー』をすりかえている間にも、二人のクルーだけになった『サンダーバード号』は、南下をつづけていたにちがいありません。レース参加のヨットが、八丈島周辺でうろついていたら、怪しまれるからです。そこで、あなたは、八丈島より南で、『サンダーバード号』に追いつき、乗り込まなければならなくなったわけです」 「なかなか複雑ですねえ」 「八丈島から南には、小笠原諸島とマリアナ諸島が並んでいます。小笠原諸島はまだ飛行機の便がないし、船便も不定期です。とすれば、残るのはマリアナ諸島です。とくにその中のグアム島には、日航とパン・アメリカンがそれぞれ毎日、ジャンボを飛ばしている。とすれば、落ち合う場所は、グアム島以外には考えられない」 「なるほど。なかなか論理的ですね」 「それで、日航、パン・アメリカン両方の乗客名簿を調べさせました」 「それで、ぼくの名前が出て来たというわけですか?」 「いや、あなたが、自分のパスポートを利用したとは思えない。そんなことをすれば、たちまち犯行が露見してしまいますからね。だから、ほかの二人のクルーのパスポートを借りて、それを使ったにちがいない。私の予感は見事に当たりました」 「ほう」 「あなたは、クルーの一人、山下太一(二十八歳)のパスポートと名前を利用したのだ。二十八歳と三十三歳なら、年齢もほとんどちがわないし、きっと、あなたと同じような顔つきだったにちがいない。そして、乗客名簿の中に、山下太一の名前が見つかったのですよ。T. Yamashita という名前がね」 「偶然の一致とはいえ、おもしろいですねえ」  村上は、平然とした表情で、そんなことを言った。十津川は内心、むっとしながらも、 「これが偶然の一致かどうかは、調査が進むにつれて、わかってくるはずですよ。そして私は、その調査線上に、あなたが浮かんでくると、確信しているのですがね」 「うふふふ——」  と、急に、村上は、さもおかしそうに笑い声を立てた。さすがに十津川の眉《まゆ》が寄った。 「私が、何かおかしいことを言いましたか?」 「ええ、ちょっとね」 「どんな点です?」 「十津川さん。あなたのような名刑事に、ご意見を申しあげるのは、シャカに説法かもしれませんが、あなたが無駄なことをなさろうとしているのが、お気の毒で、見ていられないのですよ」 「どこが無駄なのかね?」  自然に、十津川の口調が乱暴になった。 「第一に、あなたは T. Yamashita の名前があったと言うが、イニシアルのTが、果たして太一かどうか、わからんわけでしょう?」 「調べていけば、いずれわかることだ」 「調べる必要はありませんよ」 「なぜだ?」 「それは、亡くなった山下太一君のはずがないからです。もちろん、ぼくの言う意味は、ぼくが彼のパスポートを使い、名前を借りて、そんなひどいことをするはずがないということですが」 「なぜ、そう言える?」 「ぼくは、『サンダーバード号』から脱出するとき、航海日誌といっしょに、亡くなった二人のクルーの遺品として、パスポートを大事に持ち帰ったからです。帰国してから、遺族にお渡しせねばと思いながら、例の新聞の連載があって、毎日、その校正に追われ、まだ渡してないのです。それを見れば、警察のかたが、眼くじらを立てて調べ回る必要はないわけでしょう。もしぼくが、山下君のパスポートを使って、グアムへ飛んだとすれば、そのパスポートには、出国・入国の判《サイン》が押されているはずですからね」 「本当にパスポートは持っているんだろうな?」 「嘘は言いませんよ。大事な遺品ですからね。二人の遺族に渡すまでは、失《な》くせません。それに、ぼくのパスポートもついでにお見せしましょう」 「よし、見せてもらおう」  と、十津川は、相手を喧嘩ごしに見つめて言った。      9  十津川はひとりで、村上のアパートへ出かけた。  中野《なかの》の安アパートである。だが、間もなく、この男も、死んだ内田洋一のように、金をもうけ、りっぱな高級マンションに住むようになることだろう。新東亜デパートの顧問にでもなれば、内田のように、金《かね》がはいってくるにちがいないからである。  村上は十津川が上がると、すぐ本棚の上から、新しい風呂敷に包んだ三通のパスポートを取り出して、十津川の前に置いた。   村上邦夫   山下太一   服部克郎  三人の名前が書かれたパスポートである。  十津川は、一枚一枚、調べていった。  村上邦夫のものには、ハワイの出国、羽田入国の印があったが、これは、彼が、アメリカ駆逐艦に助けられてハワイに行き、そこから東京へ飛行機で帰国したのだから、当然だろう。  問題の、あとの二つのパスポートを、十津川は、ある期待と不安を同時にいだいて、広げてみた。  不安のほうが的中した。  山下太一のものも、服部克郎のものも、なんの印もない、きれいなものだった。一度も使われていないのだ。 「どうです? きれいなものでしょう?」  と、横から村上が、のぞき込むようにして言った。静かな言い方だが、勝ち誇った眼つきだった。  十津川は、失望をぐっと噛《か》み殺して、村上を見返した。これで勝負は終わったわけではないし、これで、村上犯人説を捨てもしないつもりだった。この男が無実なら、犯人はいなくなってしまうからだ。 「この三通のパスポートを借りていいかな?」 「どうぞ、どうぞ。ひょっとすると、偽造されたものじゃないかとお考えなんでしょうが、ぼくには、そんな時間的余裕はありませんでしたよ」  と、村上は、十津川の考えを先回りしたような言い方をした。  十津川は、無表情に、三通のパスポートをポケットに入れた。が、村上は、追い討ちをかけるように、 「いくら調べられてもけっこうですが、それは、さっきも申しあげたとおり、亡くなったクルーの唯一の遺品で、いつか遺族に返さなきゃならないものですから、大事に扱ってください」 「わかっていますよ」  と、十津川は、むっとした顔でうなずいたが、 「最後にもう一つ、質問があるのですがね」 「どうぞ。なんでもきいてください」  村上は、余裕をもって言った。そんな態度も、十津川にはカチンと来たが、それを顔には出さず、 「ゴムボートに乗り移ったとき、なぜ、ヘルメットなんかかぶっていたんです。あの辺りじゃ暑くて仕方がないでしょう?」 「ええ。でも、白いヘルメットをかぶっていれば、飛行機が探しに来てくれたとき、目立って、見つかりやすいと思ったからです。それに、あれは、いろいろな役に立ちますからね。ボートの中に溜まった水も汲み出せるし、雨が降ればヘルメットで受けて、飲むこともできます。そう考えて、脱出するとき、白いヘルメットをかぶってゴムボートに乗り移ったのです」 「そつのないお答えですな」  十津川は、いくらか皮肉をこめて言い、村上のアパートを出たが、少し歩いたところで、東日新聞の大河原記者に出会った。 「やあ」  と、おたがいに言い、大河原のほうから十津川を、近くにあった喫茶店に誘った。 「村上邦夫に、なんの用だったんです?」 「いや、べつに。君のほうはなんの用なんだ?」  十津川が、きき返すと、大河原は得意気に、にっこり笑って、 「例の航海日誌の連載が、たいへんな好評でしてねえ。うちで、連載が終わり次第、単行本にしたいので、その打合わせに行くところです。営業じゃあ、ベストセラーまちがいなしと言っていますよ。冒険と幽霊船という、ロマンチシズムが重なっていますからね」 「村上邦夫も、名士だな」 「新東亜デパートじゃ、支度金一千万円で、彼を顧問にするはずです。まあ、顧問というより、宣伝媒体といったほうが正確ですが」 「名士で、金持ちか」 「丸栄じゃあ、ちょっとした当て外《はず》れじゃなかったんですかねえ。荷厄介になりだしていた内田洋一は、うまく死んでくれたうえに、東京—タヒチ間レースでは、『マーベリック25』が優勝してくれたものの、優勝した、三人のクルーより、村上のほうが、有名になってしまいましたからね。それに、内田の事件だって、まだ解決していないし、遣《や》り手《て》の大野部長も死んでしまいましたからね」 「事件は、もうじき解決するよ」  と、十津川は言った。が、その言葉は、大河原にというより、自分に言い聞かせたといったほうがよかった。ヨットの経験のある自分に、わざわざ、その事件を担当させた捜査一課長の期待に添うためにも、解決させなければならないと思ったからである。 [#改ページ]  第十二章 遭 難      1  捜査一課長の前に、十津川は、持ち帰った三通のパスポートを並べた。 「村上は得意満面で、この三つを私の前に並べて見せましたよ」  と、十津川は、そのときの村上の顔を思い出しながら言った。  課長は丹念に、三通のパスポートを見た。 「これで、お手上げというわけだな。君がせっかく、乗客名簿の中から見つけた二人の T. Yamashita は、別人ということになったわけだろう?」 「いや、まだ、そう断定するのは早過ぎます」 「なぜだね?」 「村上は、なかなか頭のいい男です。油断のならない男です。このパスポートにしても、本当に亡くなった二人のクルーの遺品として持ち帰ったのか、自分が疑われるのを予想して持ち帰ったのか、わかったものじゃありません。よくできた偽造《にせ》パスポートということもありえます」 「なるほどな」 「とにかく、本物かどうか、科研に送って調べてもらうつもりです」 「本物だったら?」 「たとえ本物でも、油断はできません。タイのチェンマイで逮捕された玉本《たまもと》のことを思い出してください。彼はパスポートが、外務省と各都道府県の両方で発行されるのを利用して、二通手に入れ、そのうえ、紛失したと、再交付を申請して、合計三通ものパスポートを持って、それを巧みに利用していたのです」 「なるほどな。山下のパスポートも、もう一通あったかもしれないというわけだな?」 「そのとおりです。とにかく、村上以外に、私には犯人が考えられないのです。ですから、徹底的に調査するつもりです」 「二人の T. Yamashita はどうするね?」 「村上が犯人なら、当然、二人のうちの一人は、山下太一であるはずです。パスポートを調べる一方、新聞に頼んで、二人の T. Yamashita のことを調べてもらおうと思っています。村上がシロなら、完全な別人が名乗り出てくるでしょうからね」  と、言ってから、十津川は、急に微笑を浮かべて、 「ところで、村上のアパートで、おもしろいものを見つけました」 「なんだ?」 「これです」  と、十津川は、一冊の単行本を課長に差し出した。 「これは、松本清張の短編集じゃないか。これがどうかしたのかね?」 「村上のアパートで話している間、何気なく本棚を見たら、その本が眼についたのです。それで、帰る途中で、同じものを買い求めたのです」 「なぜ、この本が気になったんだ?」 「村上の本棚は、ヨット関係の参考書や、旅の参考資料がいっぱいつまっていました。もちろん、グアム島の案内書もです。ところで何冊かあった推理小説の中で、この『火と汐《しお》』という本のタイトルがなんとなく気になったのです。海に関係した題名の推理小説はこれだけでしたから。それで、途中で買って、読んでみたのです」 「それで?」 「おもしろいことがわかりました。問題は、その本のタイトルになっている『火と汐』という短編です」 「今度の事件に似たストーリーなのか?」 「そのとおりです、課長。その短編のストーリーを簡単に申しあげますと、油壺から伊豆七島の三宅島を回って帰ってくる外洋レースの話です」 「なるほど。似た話だな」 「似ているのは、それだけではありません。そのレース中に、東京で女性が殺され、容疑者は、そのとき、レースに参加しているというアリバイがあるのです。結局、二人乗りのクルーザーなんですが、犯人は一人で、三宅島でおり、飛行機を利用して、東京に舞い戻って殺人を犯したというトリックです。もちろん、偽名を使って戻ったわけですが、そうしておいてから、もう一人のクルーが、三宅島を回って、真鶴《まなづる》まで戻って来たところで、ふたたびヨットに乗り込み、アリバイを完成させてしまうのです」 「今度の事件と似ているな」  と、課長は、眼を光らせた。 「似ているのは、それだけではありません。犯人は真鶴でふたたびヨットに乗ったところで、もう一人のクルーを、事故に見せかけて殺し、口を封じてしまうのです」 「そういえば、村上の『サンダーバード号』でも、二人のクルーが熱病によって、南太平洋で死んだことになっていたな」 「そのとおりです」 「とすると、村上邦夫は、この松本清張の『火と汐』にヒントを得て、今度の殺人計画を立てたにちがいないと、君は考えるんだな?」 「そうです。あまりによく似たケースですからね。三宅島回りのレースが、タヒチ島までに、大きく広がったと考えればいいと思うのです。そして、今度の事件の場合は、三宅島が八丈島であり、真鶴がグアム島に当たるのだと考えたのです」 「しかし、この小説のストーリーと、少しちがうところもあるわけだろう?」 「確かに、小さい面で、いろいろとちがうところもあります。たとえば、真鶴でふたたびヨットに乗り込む場合には、パスポートは要りませんが、グアム島では、パスポートが必要です」 「そのパスポートが、シロなのはちょっと困ったな」 「しかし、私は、この本で自信を得ました。村上は、この『火と汐』のトリックを応用したにちがいありません。ですから、このパスポートにも、何か細工がしてあるにちがいないと思うのです」  十津川は、自信をもって、同時に三つの方向で調査を開始したが、最初に回答が寄せられたのは、科研からだった。  三通のパスポートは、いずれも本物だというものだった。  十津川は顔色も変えずに、その報告を受け取ったが、二つ目の部下からの報告には、十津川の顔が少し歪《ゆが》んだ。  三通のパスポートは、いずれも外務省で発行したもので、他の道府県では発行していなかったし、再交付もしていないという報告だったからである。  T. Yamashita という二人の乗客に対する問合わせは、新聞に載せてもらったが、その反応が五日目と六日目につづけてもたらされ、それが、十津川の推理に、完全にとどめをさす形になった。  二人とも実在の人物だったのである。  日航の T. Yamashita は、フルネームが山下|徳太郎《とくたろう》(三十五歳)で、東京のサラリーマンであり、直接、捜査本部に出頭して来て、三日間休暇をとって、グアムで遊んで来たと言った。  パン・アメリカンの T. Yamashita は、二十二歳の大学生で、フルネームは山下|民雄《たみお》。これも、捜査本部に出頭して来て、グループでグアムに行き、向こうで恋人ができたと、得意気に、彼女と並んだ写真を刑事に見せたりした。  十津川は、もちろん、念のために、この二人を調べさせたが、村上邦夫との関係は出て来なかったし、十一月三日と十一月五日に、それぞれ実際に、グアムに行ったこともわかった。  一日おいて、二人の T. Yamashita が来て、帰ったあと、さすがの十津川も、疲れ切った表情になっていた。 「参りました」  と、十津川は、捜査一課長に結果を報告したあとで、頭を下げた。 「これで、村上を犯人だとする証拠は一つも見つかりません。彼以外に犯人がいるとは思えないのですが、残念ながら、これでは、どうしようもありません」 「乗っていたヨットが、遭難したようなものだな」  捜査一課長は、若く優秀な部下の警部補を、なぐさめるように、軽く肩を叩《たた》いた。 「そんな心境です」 「君は、少し、村上邦夫に固執しすぎるんじゃないのかね? 松本清張の『短編集』にしても、偶然、村上が持っていたのかもしれんしな」 「しかし、内田、大野、それに亜矢子の三人を殺す動機の持ち主は、村上以外に考えられないんですが」 「本当に彼以外に考えられないかね?」  と、捜査一課長は、煙草に火をつけてから、首をかしげた。 「思わぬところに、真犯人がいるんじゃないかね?」 「思わぬところと言いますと?」 「たとえば、丸栄物産社長の長谷部さ」      2 「しかし、まさか丸栄物産の社長が殺人をやるとは——」 「どんな人間でも、殺人はやるものだよ。それに、動機もある。確かに丸栄は、レジャー部門では大手の会社かもしれん。しかし、ここ十五、六年の間に急速にのしてきた新興会社で、三井や三菱といった大会社とはちがって、基盤は意外に脆《もろ》いんじゃないかな。それに、長谷部という男は、ワンマンで、部下の失敗は絶対に許さない冷酷な性格だとも聞いている。ところが、問題の内田洋一のメリットがなくなり、逆に、デメリットが出はじめた。といって、馘《くび》にすれば、悪宣伝に利用されかねない。長谷部社長が、内田の死を願ったとしても、おかしくはない」 「しかし、丸栄の社長自身が、内田を殺したというのは——」 「社長が無実だという証拠はないんだ。それに内田洋一は、社長が大野に殺させたのかもしれない。事故死に見せかけろと言ってだ。成功したかに見えたが、君が他殺と見破った。あわてた社長の長谷部は、大野をタヒチに飛ばした。が、いつか大野が、社長に頼まれたと自白するのではあるまいかという恐怖に襲われた」 「それで、長谷部は、ひそかにタヒチに飛び、大野を殺したというのですか?」 「考えられなくはないだろう。相手が社長なら、大野は油断して背中を向けるからな。殺すのは楽だったはずだ」 「しかし、内田亜矢子はどうなります? 彼女を殺す理由は、社長にはないでしょう?」 「動機がなければ、人間は必ずしも殺人を犯さないというものじゃないよ。偶然ということもあり得る。社長がタヒチで大野を殺すところを、たまたま亜矢子に目撃されたということだって考えられるんじゃないかね? とにかく、彼女は、タヒチにいたんだから」 「偶然の目撃者ですか」 「案外、多いケースだよ」 「では、丸栄物産の社長を、いちおう調べてみます」  と、十津川はうなずいた。  だが、丸栄物産社長、長谷部のアリバイは、簡単に成立してしまった。  内田の殺しを、部長の大野に命じたかどうかは、大野が殺されたいまでは調べようがなかったが、その大野が、タヒチで殺された十二月二十八日の午後八時には、テレビの生《なま》番組に出て、これからの海洋レジャーについて、評論家や若者たちと、一時間半にわたって話し合っていたからである。それに、十二月二十七日から二十八日にかけての、タヒチ行きの飛行機の乗客名簿に、長谷部の名前は見つからなかった。 「これで完全に、捜査本部は遭難だな」  と、捜査一課長は、腕をこまぬいて、十津川に言った。 「内田、大野、亜矢子の三人が殺され、犯人と思われる村上と、丸栄の社長がシロとなると、どう考えても遭難だ。君は、ヨットに乗っていて、遭難したことがあるかね?」 「もちろん、あります。二度ばかり、乗っていたヨットが転覆しました」 「ヨットというのは、転覆しないように、舟底に板がついているんじゃないのかね?」 「センターボードのことですか。あれは転覆を防ぐためというより、むしろ、艇の横流れを防ぐためのものです。ヨットは、風まかせですから、あれがないと、どんどん横に流されてしまいますからね。だから、ちょっと、油断していると、わりと簡単に転覆します。とくに初心者で、転覆の経験のないヨットマンというのは、ほとんどいないんじゃありませんかね。ヨットというのは、走っているときより、止まっているときのほうが転覆しやすいのです。初心者は、それを逆に考えて、止まっているとき、むやみにデッキを歩き回って艇のバランスを崩し、横転させてしまうことが多いのです」 「転覆したときは、どうしていれば一番いいのかね?」 「そうですね。まず第一に、船を離れないことです。ヨットは転覆しても沈みません。だから、しがみついていることです。もし荒天だったら、ロープで身体と艇を結びつけておくことです。逃げ出すのは、一番危険です。そうしておいて、帆《セール》をはずし、艇を引き起こすのです。ヨットが転覆しても助かった場合というのは、たいてい、艇から離れずに、しがみついていた場合です」 「それが、君の人生哲学でもあるわけだな?」  課長は、皮肉でなく言った。 「あくまで、村上邦夫犯人説を捨てない気なんだろう?」 「ほかに、強い動機の持ち主がいない以上、どうしても捨て切れません」 「しかし、これ以上、村上に固執するには、それだけの覚悟が必要だぞ。下手をして、村上に告訴されたら、いまの状態では勝ち目はないからね。それに、向こうには、東日新聞もついている」 「覚悟はしています」  と、十津川は、きっぱりと言い切った。 「それならいい。だが、あの三通のパスポートは、返さざるを得ないだろう?」 「今日、部下に返しにやります」  と、十津川は答えた。  若い刑事が、その日の午後、村上、山下、服部の三通のパスポートを返しに行ったが、無念やる方ないといった顔で帰って来た。 「その顔つきだと、だいぶ村上にいや味を言われたな?」  十津川がきくと、若い刑事は、歯がみをして、 「いやな奴です」  と、舌打ちをした。 「真新しい3DKの高級マンションに引っ越して、ソファにふんぞり返っていましたよ。なんでも、そのマンションは、新東亜不動産の持ち物らしいですが」 「新東亜コンツェルンの一つか。すると村上は、新東亜デパートの顧問に納まったらしいな。会社はちがえ、内田洋一の二代目ができたわけだ」 「私がパスポートを返したら、いんぎん無礼な調子で、どうやら警視庁も、自分の誤りに気づかれたようですなと、ニヤニヤ笑いましたよ」 「笑ったか」 「それから、帰るとき、この本を主任に渡してくれと頼まれました。今日、刷りあがったばかりだそうです」  と、若い刑事は、一冊の本を十津川に渡した。東日新聞に連載した航海日誌を単行本にしたものだった。『死と冒険の南太平洋』と、大げさな題がついている。  表紙を開くと、次のような献辞の言葉が書いてあった。 〈この本を、名警部補・十津川氏に捧ぐ  村上邦夫〉  読みようによっては、皮肉にとれないこともない。いや、明らかに村上は、皮肉のつもりで、名警部補などと書いたのだ。 「遭難に追い討ちをかけた気でいやがる」  と、十津川は、苦い笑い顔を作ったが、その本を屑籠《くずかご》に放り込むような馬鹿な真似《まね》はしなかった。彼は、そうする代わりに、大事に、自分の机の引出しにしまった。この本の中で、村上が尻尾《しつぽ》を出しているかもしれないからである。 『死と冒険の南太平洋』と大げさな題をつけた村上の本は、大河原記者の予言どおり、たちまちベストセラーになった。幽霊船、遭難、アメリカの飛行機による捜索と、駆逐艦による救助。そのすべてが、若者たちの夢をかき立てるのだろう。  いまの状態では、そんな村上に対して、十津川は、手も足も出せないのだ。彼が犯人だという確信はある。だが、確信だけでは、どうにもならない。  二月五日。十津川は、捜査本部に出てくると、ベテランの永井刑事に、 「これから、グアムへ行ってくる」  と、いきなり言った。 「パスポートももらったし、自費で航空券も買った」 「しかし、課長の許可は?」  あわてて、永井刑事がきいた。 「許可は受けていない。だから、自費で行ってくるんだ」 「そんなことを無断でなすったら——」 「辞職届は、机の引出しにはいっているよ」 「課長にきかれたら、なんと答えればいいんです? 事件が壁にぶつかっているのに、主任が無断で休暇をとって、グアムへ行ったなんて言えませんよ」 「それなら、こう課長に言っておいてくれ。転覆したヨットの水をかい出しに、グアムへ行ったと」 「なんのことですか? それは」 「そう言えば、課長はわかってくれるさ」 「わかってくださらなかったら?」 「そのときは、引出しの辞職届を渡しておいてくれ」      3  十津川は、その日の日航九四一便で、グアムに発った。  十二時四十五分発のジャンボ・ボーイング747である。  バリ島へは行ったことはあるが、グアムは初めてである。やたらに機内に若いカップルが多いのは、常夏《とこなつ》のグアムが、ハワイとともに、いまや日本の若いカップルのメッカになっているのだろう。  グアムに行って、何がわかるという目当ては、十津川にはなかった。だが、彼の推理が正しければ、グアムに、今度の事件の鍵《かぎ》があるはずなのだ。  四時間十五分の旅の間、十津川は、『死と冒険の南太平洋』と題した、村上邦夫の航海日誌を、読んで過ごした。むずかしいことだったが、同じヨットマンとしての眼で、冷静に読もうと努力した。そのほうが、航海日誌に嘘があれば、気がつくと思ったからである。  一見、不審な点は、どこにもない航海日誌に見える。が、冷静に読むと、首をかしげたくなる個所《かしよ》もあった。  たとえば、小笠原諸島からサイパン島(いずれも、その沖合まで)まで、八日間しかかかっていないのに、サイパンからグアム島まで、六日間かかっているのである。  ㈰小笠原諸島→サイパン島(七九〇マイル)  ㈪サイパン島→グアム島(一三〇マイル)  である。㈰は㈪の約六倍の距離である。それなのに、わずか二日間しかちがっていない。もちろん航海日誌には、サイパン島→グアム島までの間、無風状態がつづいたとして、辻褄《つじつま》は合わせているが、十津川の眼から見れば、二人のクルーが、グアムで村上と落ち合うために、サイパンからグアムまで、わざとゆっくり走らせたと考えられなくもないのだ。  次は、二人のクルーの死の個所だ。航海日誌によれば、サモア沖を過ぎてから、山下、服部と、次々に原因不明の熱病にかかり、手当の甲斐《かい》もなく死亡したとある。  だが、そのとき、なぜ村上は、S・O・Sを打たなかったのだろうか? 一人目の山下が死んだとき、S・O・Sを打っていれば、二人目の服部は、助かっていたかもしれないのである。  十津川から見れば、それもおかしいのだ。熱病は嘘で、村上が口封じに、他のクルー二人を殺したとも考えられるのだ。  そんな十津川の疑惑を乗せたまま、ボーイング747は、午後五時ジャストに、グアム島の国際空港に着陸した。  グアム島は、横井庄一《よこいしよういち》さんの事件以来、すごいジャングルの島と思われがちだが、実際に着いてみると、想像以上にアメリカナイズされた島である。  二月でも、平均気温が二十五、六度という暖かさで、寒い東京から着いた十津川は、空港におりたつと、激しい西陽《にしび》に、思わず眼をしばたたいた。  空港から車で十分ほど南下したところが、グアムで一番大きいアガナ(アガニア)の町である。ここには、娯楽設備がなんでもあった。熱帯魚の泳ぐ美しい砂浜《ビーチ》も近いし、近代的なホテルも並び、モーテル、レンタカー、ポルノを上映している映画館まであった。聞くところによると、最近、日本資本によるトルコ風呂まで進出して来ているという。  日本人の観光客が多いせいか、「さくら」というレストランがあったり、「ヤキニク」などと片仮名が、食堂《レストラン》に書いてあったりした。もちろん、それらは、いまの十津川には関係のないものばかりだった。  アガナの町はまた、グアムの官庁が集まっているところでもある。郵便局、電報局、博物館などのある一角に、警察署もあった。  十津川は、まっすぐに警察署に向かった。建物の前には、アメリカ映画でおなじみの、白と黒に塗りわけられた馬鹿でかいパトカーが二台、並んで止まっていて、いやでもここがアメリカ領であることを十津川に教えてくれた。  アメリカ人は時間にうるさく、五時になると、パッと帰宅してしまうと聞いていたが、警察だけは、べつなのか、太った赤ら顔の署長が、五時過ぎにもかかわらず、気さくに会ってくれた。ギシギシと、椅子をきしませながら、 「あのヨットレースは、ここでも評判でしたよ」  と、署長は、十津川にお世辞を言った。 「この島にも、ヨット好きの若者が多いですからな」 「日本人の観光客が多いですね」 「おかげで観光収入が増えて、感謝しています。何しろ観光以外に、何もない島ですから」  署長は、薄いサングラスの向こうで笑い、「冷えたコカ・コーラを持って来い!」と、部下に怒鳴った。 「じつは、お願いがあって伺ったのです」  十津川は、冷えたコーラを口に運んでから、改まった口調で言った。英語は得意なほうだが、どうしても、まだるっこしさを感じてしまう。 「優秀な日本の警察のかたが、どんなことでしょうか?」 「最近ここで、日本人が行方不明にならなかったかどうか、調べてほしいのです」 「行方不明というのは、穏やかじゃありませんな」 「年齢は三十歳くらいの男です。なんという名前でここに着いたかわからないのですが、もし私の推理どおりなら、ここで消えてしまったはずなのです」 「名前がわからないというのは、どういうことですか?」  署長は興味を持ったらしく、大きな身体を乗り出してきた。 「村上邦夫というのがその男の名前ですが、他人のパスポートで、東京からジェット機でここに着き、ここで姿を消したと思われるのです」 「Kunio Murakami」  と、署長は、口の中で呟いたが、記憶はないようだった。 「その男はいったい、何をやったんです? 麻薬の密売か何かですか?」 「いや、殺人《マーダー》です」 「ほう。それで、ここに来たと思われるのはいつごろです?」 「去年の十一月七日から、十四、五日までの間だと考えているのですが」 「ここで消えたというのは?」 「さっきの外洋レースに関係があるのです」  十津川は、自分の推理を簡単に説明した。 「|おもしろい《スプレンデイツド》!」  と、署長は、叫んだ。身体も大きいが、声も馬鹿でかい。  彼は、コカ・コーラをラッパ飲みにすると、太った身体をゆすって、 「よろしい。全力をあげて調べさせましょう」  と、約束してくれた。  その日、十津川は、近くのホテルに泊まった。翌日、午後になって、警察から電話があり、急いで出かけると、署長がニコニコ笑いながら、十津川を迎えた。 「喜んでください。見つけましたよ」 「本当ですか?」  と、今度は十津川が叫んだ。 「去年の十一月八日に、日本人が一人、行方不明になっています」      4 「名前は?」  と、十津川は、急《せ》き込んだ調子できいた。署長は、机の上の書類に眼をやった、 「TAKASHI NATORI 三十一歳と書いてありますな」 「タカシ・ナトリ?」  おそらく、名取孝とでも書くのだろう。それとも、名取高志か。いずれにしろ、これまでの捜査線上に、一度も出て来なかった名前である。いったい誰なのか? 「この名前に記憶はありませんか?」  と、署長が、またコーラをラッパ飲みしてからきいた。 「初めて聞く名前です」 「そいつはちょっとがっかりですな。それに、この日本人は、東京からの便で来たんじゃありませんよ」 「どこから来たんです?」 「オキナワからです」 「沖縄? 沖縄からも飛行便があるんですか?」 「もちろん、ありますよ。日本からの飛行便は、トウキョウのほかに、オオサカからも週三便来ているし、オキナワからも、マイクロネシア航空《CO》とトランス・ワールド航空《TWA》の飛行機が来ています。このタカシ・ナトリという日本人は、トランス・ワールドで、十一月三日に着いています。ちゃんとしたパスポートを持っていました」 「八日に、どんな具合に、いなくなったんですか?」 「この近くに、タモン・ビーチという海岸があるのです」 「その名前なら、飛行機の中でもらった観光地図で見ましたが」 「それなら都合がよろしい。このタモン・ビーチには、ヨットをはじめとして、アクアラングまで貸す店があるんですが、問題の日本人は、ここへ着いた日から、毎日、一人乗りのヨットを借りて、リーフの外まで出ていたそうです。ところが、十一月八日には、リーフの外へ出て行ったまま、いつまで経っても戻って来ない。店のほうでは、よそへ乗り捨てて、ホテルへ帰ってしまったんだろうと思っていたそうです。ところが翌日、軍人の家族の乗ったクルーザーが、転覆しているヨットを見つけたのです。付近を探したが、タカシ・ナトリという日本人は見つからなかった。これが、十一月七日から十一月八日にかけて起きた事件です」 「それで、どうなりましたか?」 「ええと——」  と、署長は、書類を繰ってから、 「突風を受けて、ヨットが転覆したのだろうという結論になったのです」 「死体はあがったんですか?」 「|いや《ノー》。あの辺は、サメの多いところでしてね。タイガーシャークという荒っぽい奴です。目下のところ、サメにやられたという説が有力です」 「それで、パスポートや所持品は、どうしました?」 「仕方がないので、パスポートにあった日本の住所に、すべて送り返しましたよ。事情を書いた手紙を添えましてね。どうも、ああいう手紙は苦手ですな」 「沖縄から来たとすると、沖縄の住所へ、送り返したわけですね?」 「|いや《ノー》。オキナワではなかったと思いますよ。私は、日本の地名には、くわしくはないんだが」  署長は、部下に、そのときの書類を持って来させて、十津川に見せてくれた。確かに、送り先は、沖縄ではなかった。   TAKASHI NATORI(31)   367-6 chome ××cho CHIBASHI JAPAN  となっている。千葉市なのだ。そして、送ったものは、白色のスーツケース一つにパスポート。それに、現金百二十ドルと書いてある。スーツケースの中身は、合服と下着類らしい。  十津川は、その番地と名前を書きとめてから、問題のタモン・ビーチに行ってみることにした。      5  署長が親切に、若い警官とパトカーを貸してくれた。白と黒に塗りわけられた馬鹿でかいやつである。運転してくれる若い警官は、すごくハンサムな白人だった。  警察署からすぐ、ルート|1《ワン》に出る。島の西側を南北に走っている海岸通りである。その北端には、B52で有名になった空軍基地がある。  若いハンサムな警官は、日本から遊びに来た娘たちにいかにモテたかを、とくとくと喋《しやべ》りながら、ルート|1《ワン》を北に向かってすっ飛ばした。  左側は、ヤシの並木と白砂のつづく海岸である。右側は、やたらに土産物店《シヨツピングセンター》が多い。その間に、教会やドラッグストアが点在しているのが、いかにもアメリカ的だ。  十分も走ると、そこがタモン・ビーチだった。右へ折れれば空港。そこを逆に左に折れたところが、タモン・ビーチである。海岸沿いにホテルが並び、それでも足らないとみえて、日本の業者が新しいホテルを建設中だった。  ヤシの並木と白砂の間に、ホテルが並んでいるのは、なかなかの景色である。ここもサンゴの海で、沖にはヨットが数隻、浮かんでいる。  若いアメリカの警官に礼を言い、パトカーを返してから、十津川は、ヤシの並木を抜けて、海岸に出てみた。白砂の海岸に、二人乗りの小さなヨットが、何隻か引きあげてあり、麦わら帽をかぶった半ズボンのいい年齢《とし》をしたおやじさんが、店番をしていた。近づくと、看板に、英語で「貸しヨット、二人乗り一時間五ドル」と書いてある。一枚帆の小さなヨットばかりである。海岸には、若い日本人のカップルも、水とたわむれていた。  十津川は、五ドル札をおやじさんに渡して、ここで去年の十一月、行方不明になった日本人の男の話を聞かせてくれと頼んだ。 「その日本人のことなら、よく覚えているよ」  と、腹の突き出た白人のおやじは、なまりの強い英語で言った。 「すぐそこのビーチホテルに泊まっていてね。毎日、午後になるとヨットを借りに来たよ」 「何時間くらい借りていたのかね?」 「たいてい、うす暗くなるまで乗っていたね。だから、四、五時間かな」 「上手《うま》かったかね? ヨットの操作は」 「まあまあだったねえ。そう上手くもなかったけど、そう下手でもなかったな」 「それで、十一月八日には、もどって来なかったんだね?」 「そうなのさ。五日目だったかね。いつもちゃんと返しに来て、料金も払ってくれるんで、信用していたんだ。ところがあの日は、暗くなっても戻って来ない。てっきり、どこかに乗り捨てたんだと思ったよ。たちの悪い客もいるからねえ。それで、文句を言ってやろうと思ったんだが、あそこのビーチホテルの客だとはわかっても、名前がわからない。それに、あんたの前だが、日本人の顔というのは、みんな同じに見えちまってねえ。それで、あきらめてたら、次の日、空軍基地の兵隊の家族の乗ったクルーザーが、沖で転覆しているうちのヨットを見つけてくれたのさ。艇の番号《ナンバー》から、あの日本人に貸したヨットだと、すぐわかったよ」 「それで、発見された場所は?」 「それが、島の反対側なんだ。反対側というより、南の端と言ったほうがいいかな」 「それで、あんたは、その日本人が死んだと思ったんだね?」 「ああ。一週間過ぎても、ビーチホテルに戻らんというし、沖にはサメが多いからね。現地人の漁師なんかでも、よくサメにやられるんだ」 「その男のことを、どんなことでもいいから覚えていないかね?」 「いまも言ったとおり、日本人の顔はみんな同じに見えるんでね」 「東海岸には、貸しヨットはないのかね?」 「貸しヨットは、ここだけだよ」  と、おやじさんは、ちょっと得意気に鼻をうごめかした。そのあと、しきりに、ヨット乗りをすすめるのを断わって、十津川は、ナトリ・タカシという日本人が泊まっていたというリゾートホテルへ歩いて行った。  ありがたいことに、ここは、日本人経営のホテルで、フロントも日本人だった。  十津川は、警察の者だと断わってから、ナトリ・タカシという客のことについて、フロントできいてみた。 「そのおかたのことなら、事件がありましたので、よく覚えております」  と、いかにも海外進出の尖兵《せんぺい》といった感じの、頭のよさそうなフロントマンは、ハキハキと答えてくれた。 「沖縄からいらっしゃって、去年の十一月三日からお泊まりでした」  と、宿泊者カードを見せてくれた。それには、TAKASHI NATORI とローマ字で書いてあった。 「どんな客だったね?」 「とても無口なかたでした。ボーイやウエートレスとも、ほとんど口をおききにならなかったようです。それから、ヨットがとてもお好きだったとみえて、毎日、午後になると、海岸へ行かれて、夕方までヨットにお乗りだったようです」 「この男じゃなかったかね?」  十津川は、日本から持ってきた村上邦夫の写真を相手に見せた。が、反応は鈍いものだった。 「よくわかりませんなあ。あのかたは、いつもサングラスをかけていらっしゃいましたし、頬《ほお》ひげを生やしていらっしゃいましたから。似ているようでもあり、ちがうようでもあり、ちょっとわかりかねます」 「じゃあ、この宿泊人カードの字は、本人の筆跡だね?」 「はい」 「指紋は?」 「と申しますと?」 「その男が泊まった部屋には、指紋が残っているはずじゃないのかね?」 「しかし、私どもでは、年があけると、ぜんぶを塗りかえて、お客様にサービスいたしますので」 「すると、指紋もなしか。しかし、千葉市の住所には、こちらからも連絡したのだろう?」 「それは、いたしました。アガナの警察署がおもにやってくれましたが、私どもとしましても、丁重にお悔やみの手紙を差しあげました。その礼状も参っております」 「それを見せてもらいたいね」  十津川が頼むと、フロント係は、航空便を一通、持って来てくれた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  拝啓  丁重なお手紙ありがとうございました。弟がいろいろとお世話になり、そのうえ、ご迷惑をおかけしたことと思います。海の好きな弟が、美しいグアムの海で死ねたのが唯一の慰めです。いつか、グアムに行き、弟の亡くなった海を見たく、またお礼も申しあげたいと思っております。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]草々        日本・千葉市××町 スーパー「ナトリ」 [#地付き]名取|高一郎《こういちろう》拝    きちんとした字であった。弟と書いてあるところをみれば、兄からの礼状ということになる。千葉市内でスーパーを経営しているのか。 「この名取高一郎という人は、その後、やって来たかね?」 「いえ、まだお見えじゃありません。きっと、仕事がお忙しいんでしょう」  と、フロント係は、そつなく言った。十津川は、その礼状を借り受けて、リゾートホテルを出た。眼の前の海には、相変わらず若いカップルがたわむれ、二色の美しい帆をかかげた小さなヨットが、沖を走っていた。貸しヨット屋のおやじさんは眠そうな眼で、海を眺めている。  十津川は、その日の夕方、午後六時三十分の日航機で東京に帰った。羽田着は午後八時五十五分。最近の東京の冬には珍しく、粉雪が舞っていた。      6  翌日、捜査本部に出ると、十津川は、すぐ自分の引出しをあけてみた。辞職届はそのままになっていた。  捜査一課長も、べつに、彼のグアム島行きを叱《しか》りもせず、むしろ笑いながら、 「転覆したヨットは、復元できそうかね?」 「わかりませんが、名取高志という妙な名前を拾って来ました」 「初めて聞く名前だが、今度の事件に関係があるのかね?」 「いまのところ、まったくわかりません」  と、十津川は正直に言った。 「しかし、最近、グアムで行方不明になった日本人は、この男だけです」 「君の推理が正しければ、グアムで消えた男が、村上邦夫ということになるわけだったな」 「それで、これから千葉市に行って、この男の兄に会ってきたいのですが」 「好きなようにやりたまえ。ただし、一年越しの事件になってしまっていることを忘れずにな」  と、課長は釘《くぎ》をさした。十津川にもそれはよくわかっているのだ。だからこそ、今度の事件では、つねに辞職届を用意している。彼の推理がはずれていれば、捜査は振出しに戻ってしまうし、いまのところ、その確率のほうが高そうなのだ。      7  千葉市はいま、東京の衛星都市として、猛烈な勢いで発展しつつある街である。その活気が、街にはいっても、十津川の身にピンピンひびいてくるようだった。 「名取スーパー」は、市の中心部の近くにあった。手紙にあった名取高一郎は、現在、社長で、十津川は二階の社長室に案内された。背広の上からスーパーのマークのはいったユニフォームを羽織った高一郎は、 「まだ、弟が死んだとは、信じられないのですよ。何しろ、遺体を見ていないんですから」  と、言い、来月になったら一度、弟が死んだグアム島へ行ってみるつもりだと言いそえた。 「遺品を送って来たでしょう?」 「ええ。グアム警察から送っていただきました。焼き捨てようかと思ったんですが、いまも言ったように、まだ死んだと信じられないので、そのままにしてあります」 「助かりました。見せていただけませんか?」 「いいですとも」  高一郎は、奥から白いスーツケースを持って来て、十津川の前で開けてくれた。 「送られて来たものは、すべてこの中にはいっています」 「拝見します」  十津川は、中身を取り出した。パスポートがあった。発行は外務省で、去年の十月三日になっている。沖縄出国→グアム入国の判《サイン》があるのは、予想どおりだった。年齢は三十一歳。貼ってある写真は、平凡で、頬ひげが生えている。  沖縄やグアムの絵ハガキや、有名な紅型《びんがた》の掛け物などもあった。土産に買ったのだろう。あとは、下着類や洗面道具などである。 「このスーツケースは、弟さんのものにまちがいありませんか?」 「ええ。旅行前に私が買ってやったものです」 「弟さんの友人で、村上邦夫という名前の男に心当たりはありませんか?」 「その人は、例の幽霊船で有名になった人でしょう? しかし、弟から、その人の名前を聞いたことはありませんね」  十津川は、名取高志の学歴や職歴をきいたが、そのどこでも、村上と交わらなかった。 「次男なのに、高校を出るとすぐ、ここの仕事を手伝わせてしまったので、いつも悪いと思っていたのです。それで去年、急に旅に行きたいと言ったときも、簡単に賛成したんですが」 「急に言い出したんですね?」 「ええ。十月の初めだったと思います。これから二、三か月ばかり旅行してくる。パスポートも申請した、と言ったんです」 「どこへ行くと言っていました?」 「きいても、笑って答えないんですよ。弟には、そんなところがありましてね。パスポートを取るというので、外国だなとはわかりましたが」 「家を出たのは、いつですか?」 「去年の十月十日です」 「そして、最初、沖縄へ行き、そこからグアムへ行ったわけですね?」 「ええ」 「電話かハガキが来ましたか?」 「沖縄とグアムから、絵ハガキが一通ずつ来ましたよ」  高一郎は、二通の絵ハガキを見せてくれた。一通は、サンゴ礁の海が印刷された沖縄の絵ハガキで、もう一通は、ココヤシの並木を印刷したグアム島の絵ハガキだった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  いま、沖縄に来ている。まだここには夏が残っていて暑い。明日は、ひめゆりの塔でも見物するつもりだ。沖縄にしばらくいて、それからグアム島へ行き、そのあと、南太平洋の島々を回ってみたいと思っている。では、また。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]那覇にて 高志     十月二十日 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  今日、沖縄からグアム島に着いた。  こちらは本当の夏だ。やたらに日本人の観光客が多い。タモン・ビーチにあるビーチホテルで、これを書いているが、明日から、ヨットの練習でもしてみたい。気をつけてやるから、心配しないでください。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]グアムにて 高志     十一月三日  どちらの絵ハガキにもそれぞれ、那覇と、グアム島アガナの消印が押してあって、その日付も、ハガキに書かれた日付と一致していた。 「弟さんの筆跡にまちがいありませんか?」 「まちがいないですよ。とにかく、三十年以上つき合っているんですから」 「弟さんは、ヨットはお好きでしたか?」 「ええ。ヨットが、というより海が好きでしたね。大きなクルーザーに乗って、南の島々を回ってあるくのが夢だといつも言っていました。その代わりに、飛行機で回る気になったのだと思っていたんです」 「しかし、これだけのお店をやっておられたら、二〇フィートクラスのクルーザーを、弟さんに買ってあげることぐらいできたんじゃありませんか?」 「それはできましたが、買ってやっても、動かないんじゃ仕方がないでしょう」 「しかし、ヨットはお好きだったんでしょう?」 「ええ。最近、店が休みのとき、ヨットの操縦を習いに行っていたようです。でも、まだ五、六回でしたから、クルーザーなんて、一人じゃ、とうてい無理ですよ。だから、グアムで、ヨットが転覆して死んだと聞かされて、下手なくせに、なぜ、そんな馬鹿なマネをしたのかと、悲しいのと腹立たしいのと両方を感じたくらいです。もっとも、下手だからよけい、乗りたかったのかもしれませんが」 「三十一歳というと、結婚のほうは?」 「今年の四月に結婚するはずでした。相手は、この先の菓子屋の娘でしたが」 「その娘さんの名前は?」 「藤沼加奈子《ふじぬまかなこ》さんです。店に出ているからすぐわかりますよ」  高一郎はふと、こらえ切れなくなったように眼をしばたたいた。      8  彼の言うように、藤沼加奈子という娘は、すぐわかった。二十五、六で、丸顔の小柄な女だった。菓子店だが、店の半分が喫茶店風になっている。十津川が警察の者だと言うと、加奈子は、そちらの方へ案内した。 「あたしは、高志さんが死んだなんて、まだ信じられないんです」  と、彼女も、高一郎と同じ言葉を口にした。遺体がないのだから、仕方のないことだし、四月に結婚が決まっていたとすれば、なおさらであろう。 「旅行のことは、あなたにも言っていたんでしょう」 「ええ。急に行くと言って。でも、ハネムーンには同じ所へ連れて行くと、笑ってくれたのを覚えています」 「行く先も言っていましたか?」 「南太平洋の島を回って来ると言っていましたけれど」 「手紙は来ましたか?」 「ええ。沖縄とグアムから、絵ハガキが一通ずつ来ました」  加奈子は、それを奥から持って来て見せてくれた。  沖縄のは、ハイビスカスの絵ハガキ、グアムのものは、首都アガナの遠景の写真だったが、それぞれの日付は、高一郎が見せてくれたものと同じだった。たぶんいっしょに書いたのだろう。もちろん文句は、加奈子あてのもののほうが甘かったが。—— 「グアムへは行かれましたか?」 「ええ。事故の通知があったあと、ひとりで行って来ました」 「それで?」 「でも、ただ、海を見て来ただけです。だって、高志さんの遺体はないんですもの」  彼女は、急に涙声になった。十津川は、ちょっと間をおいてから、 「高志さんは、ヨットが好きだったようですね?」 「ええ。最近習いはじめたんです」 「上手《うま》かったですか?」 「いいえ」 「なぜわかります?」 「今度の旅行に行く少し前、貸しヨットに乗せてもらったことがあるんです。だいぶ腕があがったからって。池で、二人乗りのヨットだったんですけど、風もたいしてないのに、あっという間に横転して、ヨット屋さんに叱られてしまいましたもの」  加奈子は、初めて笑ったが、すぐ悲し気な表情に戻って、 「それなのに、グアムでヨットに乗るなんて、むちゃだわ」 「本当に、風がないのに、すぐ横転してしまったんですか?」 「ええ。少しは吹いていましたけど、方向転換しようとしたら、あっという間に転覆しちゃったんです。まだ一人じゃ無理だねえって、ヨット屋さんにも言われてました」 (少し、おかしいな)  と、思ったが、胸に浮かんだ疑惑は、相手には黙っていた。第一、突然飛び出して来た名取高志という男が、今度の事件に、果たして関係があるのかどうかもわかっていないのである。ただ、関係があってほしいと願っているだけだし、もしそうなら、どう関係しているのかが知りたいだけである。冷たい言い方をすれば、眼の前の娘と名取高志という男の恋愛関係など、どうでもよいことなのだ。  十津川は、名取高志から彼女に来た手紙を借り受けて、東京に戻った。      9 「かすかですが、突破口らしいものを見つけました」  と、十津川は、課長に報告した。 「例の名取高志という男か?」 「そうです。これが、グアムから送られて来た彼の遺品です」  十津川は、白いスーツケースと、その上に、四通の絵ハガキを載せて、課長の前に置いた。 「その遺品の中に、何か今度の事件を解く鍵でもあるのかね?」 「まだわかりませんが、名取高志という男の死に、不審な点があることも事実です。問題は、それが今度の事件とつながるかどうかですが」  十津川は、話しながら、スーツケースをあけて、パスポートを取り出した。 「まず、ヨットのことです。兄も恋人も、名取高志はヨットを習いたてで、操作は下手だったと言っています。風もないのに池の上で、方向転換しようとして転覆したそうですから、腕も知れています。ところが、グアム島の貸しヨット屋のおやじは、まあまあの腕だったと言っているのです」 「沖縄で、一生懸命に習ったんじゃないのか?」 「かもしれませんが、不審な点は、ほかにもあるのです。名取高志は十月十日に旅行に出たはずなのに、沖縄から絵ハガキを出したのは、そこにあるように、十月二十日なのです。それに、南太平洋を回るといってパスポートまで取ったのに、彼は、まず沖縄へ行っています。その辺も、ちょっとおかしいと思うのです」 「十月十日から二十日というと十日間か。それに、グアム島へ着いたのが十一月三日とすると、沖縄には十三日以上いたことになるな。南太平洋を回るはずの人間には、少しばかり長い滞在だな」 「そうでしょう。沖縄は確かにいい所ですが、彼の目的は南太平洋の島めぐりだったはずですから、沖縄に十三日以上もいたというのは、確かに異常ですよ」 「確かに異常だな。ただ、問題はそれが、今度の事件に関係があるかどうかだが」 「それでいま、部下の刑事に、この男が実際に沖縄に行った日を調べさせています。旅行に行くと言って家を出た十月十日に、沖縄へ発ったのか、それとも、もっとあとだったのか」 「それを調べてどうするんだね?」 「もし、この名取高志という三十一歳の男が、今度の事件に関係しているとすれば、十月十日には、沖縄へ発っていないと思うからです」  断定するように、十津川が言ったとき、部下の刑事が飛び込んで来た。 「名取高志の乗った飛行機がわかりました。彼は、ちゃんと本名で、那覇行きの日航機に乗っています」 「それはそうだろう。沖縄から兄と恋人に、絵ハガキを出しているくらいだからな。偽名なんか使うはずがない。それで、何月何日の便に乗っているんだ?」 「それが妙なんです。日航の乗客名簿によると、十月十日ではなく、十月十九日午前十時四十五分東京発九〇三便に乗っているんです」 [#改ページ]  第十三章 幻のクルー      1 「われわれのヨットは、どうやら復元しそうです。転覆しても、しがみついていた甲斐がありました」  と、十津川は、久しぶりに捜査一課長に向かって、笑顔を見せた。 「それは、この名取高志という男が、今度の事件に関係があるということか?」 「そうです」 「しかし、この男は、問題の村上邦夫とは、なんの関係もないんだろう? 学校もちがうし、生まれたところもちがうし、村上は東京のサラリーマンだったが、名取という男のほうは、千葉市内で兄のスーパーマーケットを手伝っていた——」 「そのとおりです。だからこそ村上は、この男をダミーに使ったんですよ」 「ダミーというと人形だな?」 「身代わり人形です。正直に言うと、私は、『サンダーバード号』のクルーが、村上を入れて三人だったことから、一つの先入観を持ってしまっていたんです。また、それが、村上の狙いだったにちがいありません。村上が利用した人間は、二人のクルーの中にいるにちがいないと、自然に思い込んでしまったのですから」 「確かにわれわれは、村上が、死んだクルーの中の一人、つまり、山下太一か服部克郎の名前を利用したにちがいないと考えてしまった。そして、二人のパスポートがまっさらだと知って、がっくりしてしまったんだったな」 「そのとおりです。村上はおそらく、そこまで読んでいたにちがいありません。考えてみれば『サンダーバード号』には、三人のクルーしか乗っていなかった。だから、村上が利用できたのは、他の二人のクルーの名前とパスポートだけだったと、最初に思い込んでしまったのがまちがいだったと思うのです。しかし、村上は、レースのことを知ってから、わざとスピードの出ないファミリー艇を買い、新聞広告で、同乗するクルーを募集したのです。それに応じたのが、山下太一と服部克郎の二人だけだったとは限らないと思うのです。クルーザーで、東京からタヒチまで六〇〇〇マイルのレース。しかも、タヒチに着けば、費用は、丸栄物産持ちで、正月七日まで遊べるというんですから、自分のクルーザーを持っていなくて、ヒマがあって、冒険好きの青年は、そうとう、村上の呼びかけに応じたと思うんです」 「その中に、今度の名取高志もいたというわけだな?」 「そうです。村上は、今度のレースが発表されたときから、綿密な内田洋一殺害計画を立てたにちがいありません。そして、その計画には、どうしても、名取高志のような存在が必要だったのです」 「しかし、必ずしも名取高志でなくてもよかったんだろう。彼の代わりが、山下太一でもよかったんじゃないのか?」 「いや、ちがいます。山下では、まずかったと思います。村上が、その名前とパスポートを利用する相手は、次の二点を備えている必要があるからです。第一は、自分に年齢が近く、比較的顔つきが似ていること」 「その条件なら、山下太一だって備えているんじゃないか。年齢も近いし、顔立ちも似ていないことはない」 「そのとおりです。しかし、第二点で、条件からはずれます」 「どんな条件だね?」 「ヨットと旅行好きだが、ヨットの腕前は下手で、レース規制や、|外洋ヨット《クルーザー》についての知識があまりない人間という条件です」 「なぜ、そんな条件が必要なんだ?」 「まず第一に、その青年は、家に内証で応募してくるにちがいないからです。なぜなら、すぐヨットを転覆させてしまうような男に、タヒチまでのレースへの参加を許す家族は考えられないからです。おそらく、名取高志は、内証で応募したにちがいありません。事実、兄も恋人も、今度のレースのことは、一言《ひとこと》も名取高志から聞いていませんでした。つまり、利用しても、われわれが、レースと名取高志を結びつけられないからです」 「なるほどな」 「第二に、レースやクルーザーについて知識が乏しければ、キャプテンである村上が、多少非常識なことを言っても疑わずに、それに従うはずです。その点、山下太一くらいのヨットマンになると、変なことを命令すれば、怪しまれてしまいますからね」 「君は、村上が名取高志に、どんなことをさせたと思うのかね?」 「村上邦夫にとって必要だったのは、名取高志の才能でも人柄でもなく、ただ、その名前とパスポートだけだったことは確かです。村上はまず、名取高志が、自分の求めている二つの条件を備えているのを知ると、クルーとして採用するから、パスポートをとれと命令したにちがいありません。文字どおり、幻のクルーとしての採用です」 「そこまでは、私にも推測はつく。問題はそのあとだ」 「村上は、八丈島で『サンダーバード号』をおり、東京に引き返して、内田洋一を殺した。村上を犯人と考える限り、これ以外の方法は考えられないのです。したがって、名取高志をその計画に沿って利用したにちがいありません。相手がレース規則やクルーザーにくわしくないのを利用してです」 「どんなふうにだね?」 「二つ考えられます。第一は、すでに自分を入れて三人のクルーが決まってしまっていて、スタートの江の島マリーナでは乗せられないが、途中の八丈島で乗せてやるから、十四日までに八丈島に来て待っていろと言ったのではないかということです。レース規則にくわしいヨットマンなら、すぐ、おかしいことに気づくはずですが、相手は池の中でさえヨットを転覆させてしまう名取高志です。途中でクルーが一人ぐらい増えてもかまわないんだろうと単純に考えたでしょう。もう一つは、三人のクルーは決まってしまったが、その中の一人が、どうしても急用ができてしまった。スタート地点では、その男の名前になってしまっているので、おろせないから、途中の八丈島で交代してくれと頼む。どちらにしろ、村上の目的は、自分の都合のいいときに、名取高志を八丈島に呼び寄せることだったのです」 「すると、例の渡辺一夫という偽名で、十月十二日に八丈島へ来た男は、名取高志だと、君は考えるわけだね?」 「そうです」 「しかし、なぜ名取高志は、渡辺一夫などという偽名を使い、往復切符まで買って、八丈島へ行ったのかね?」 「それは、もちろん、村上がそうさせたんでしょう」 「そんなに自分に都合よく、相手を動かせるものかね?」 「これは、意外に簡単だと思うのです。まず名取高志に、八丈島で『サンダーバード号』に乗せてやると言う。ただ、ヨットは風まかせだから、十二日ごろから来ていてくれと言えばいいのです。そして、これは秘密だから、偽名を使って飛行機に乗って来いと言えば、レースのことをほとんど知らない名取は、簡単にその指示に従ったと思うのです。それに名取自身も、家に内証という弱味がありましたからね。偽名を使うことは、すぐ承知したと思うのです。十二日に八丈島に着いてから十四日まで、旅館にもホテルにも泊まらなかったのも、村上の指示に従ったからだと思うのです」 「じゃあ、往復切符はどうだ? 村上にしてみれば、東京へ戻る切符があれば便利で、筆跡を調べられることもないわけだが、どうやって名取に、片道でなく往復切符を買わせることができたかだ。疑われずにだよ」 「それも簡単ですよ。たぶん、こう言ったんだと思います。君を八丈島から『サンダーバード号』に乗せてやるが、そのために、クルーの一人を東京へ帰さなければならない。そいつのために、飛行機の切符を買ってやってほしい、とです。こう言えば、クルーザーに乗ってタヒチまで行きたくて仕方がない名取は、なんの疑いもなくどころか、喜んで東京—八丈島間の往復切符を買ったと思いますよ」 「なるほどな」  と、課長はニコリとした。 「そうしておいて、渡辺一夫の偽名で、十月十二日から八丈島に来ていた名取高志の代わりに、村上がその切符で、東京に舞い戻ったわけだな?」 「そのとおりです」 「すると、名取高志は——?」 「おそらく、八丈島で殺されたと思います。村上邦夫によって」 「ただ単に、名前とパスポートがほしいために、村上は、一人の男を殺したのか?」 「そうです。そうしておいて村上は、東京に戻って、内田洋一を毒殺してから、名取高志の名前とパスポートを持って、沖縄—グアムと飛び、『サンダーバード号』が来るのを待って、ふたたび、乗り込んだのです」 「しかし名取高志は、沖縄とグアムから、兄と恋人に絵ハガキを出していて、その筆跡は、まちがいなく名取高志のものだと、二人とも断言しているのだろう。これはどう解釈するね?」 「もちろん、村上が名取に書かせたんです。沖縄やグアムへは旅行する者が多いから、絵ハガキも容易に手にはいりますからね。村上は、名取には、こんなふうに言ったんだと思います。君も八丈島で『サンダーバード号』に乗せてやるが、乗ってしまえばタヒチまで約二か月間、家に連絡できない。心配するといけないから、沖縄から、グアムに回るような絵ハガキを書いておきたまえ。そちらへ行く友人がいるから、頼んで、現地で投函させておくよと。そして、用意しておいた沖縄とグアムの絵ハガキを渡した。名取高志のほうは、兄にも恋人にも、レース艇に乗るとは言っていないし、南太平洋の島を回ってくると言っていたわけですから、一も二もなく、村上の申し出に応じたと思うのです」 「なるほどな。だが、村上は、内田洋一を薬のすりかえによって毒殺したあと、なぜ直接グアムに行こうとせず、沖縄へ行ったんだろうか?」 「たぶん、われわれの眼をごまかすためでしょう」 「ごまかす?」 「直接グアムへ行けば、われわれが、東京→グアムの飛行便を調べるのはわかっていますからね。それで、わざとワン・クッションおいて、東京→沖縄→グアムの航空路を選んだんだと思います。沖縄からも、グアムへ飛行機が飛んでいることを知っている人は、意外に少ないですからね。これに、『サンダーバード号』が、八丈島からグアムへ来るまでの間、沖縄あたりに隠れているのが、一番安全だと考えたんでしょう」 「確かに、沖縄経由でグアムというのは、ちょっとした盲点だったな」 「しかし、これでどうやら、村上の尻尾をつかまえましたよ」      2  十津川の声は、次第に自信に満ち、熱を帯びてきた。捜査一課長の顔も輝いてきた。どうやら、一つの突破口が見えてきたと感じたからである。 「八丈島で名取高志の死体が発見されれば、村上の犯行がほぼはっきりするな」 「そのとおりです。そして、グアム島で貸しヨットに乗り、転覆して死んだと思われている名取高志は、じつは村上邦夫で、十一月八日に『サンダーバード号』が現われ、それに乗り移ってから、わざと貸しヨットを転覆させておき、本物の名取高志がグアムで事故死したと見せかけたのです」 「八丈島では、どうやって名取を殺したのかな? あそこは断崖《だんがい》が多いから、海に突き落としたのかな?」 「ちがうでしょう。私はそうは思いません」 「なぜだね?」 「海に突き落とした溺死体というのは、意外に簡単に岸に打ち寄せられて、発見されやすいものだからです」 「すると、陸上で殺して、島のどこかに埋めたか?」 「と、思います。村上は、島のどこへでも相手を呼びつけられたわけですからね。それに、まだまだ人口密度の薄い島です。山の中にでも埋めてしまえば、なかなか発見できません。それに名取高志は、グアム島で貸しヨットが転覆して死んだことになって、辻褄は合っていますからね。誰も、八丈島に死体が埋められているとは考えないでしょう」 「だが、われわれの手で、絶対に見つけ出してやろうじゃないか。見つかれば、われわれの推理の正しさが証明されるわけだからな」  と、一課長は、大きな声で言った。  十津川は、部下三人を八丈島にやり、地元警察の協力を求めて、島のどこかに埋められているにちがいない名取高志の死体を探し出して来いと命じた。 「死体が見つかるまで帰って来るな」  と、十津川はハッパをかけた。  十津川たちが、こうして悪戦苦闘している間にも、村上邦夫の書いた航海日誌『死と冒険の南太平洋』は、依然としてベストセラーをつづけていた。  そのうえ、世の中には物好きがいるとみえ、東日新聞社の前に飾ってある満身|創痍《そうい》の「サンダーバード号」を、五百万円で買いたいという者が現われ、それがまた新聞記事を賑《にぎ》わせた。  その新聞記事を見た日、十津川はすぐ、東日新聞の大河原記者に電話を入れた。十津川は調査の進展には触れず、 「例の本は、相変わらずよく売れているようだね?」 「おかげさまで、六十万を軽く突破しましたよ。このぶんでいけば、百万部まで行くでしょう」 「ところで、あの幽霊船を五百万で買いたいという篤志《とくし》家が現われたそうだね?」 「そうなんですよ。湘南海岸近くのレストランの持ち主なんですがね。どうも店の宣伝に使いたいようです。今朝も電話してきて、六百万まで出してもいいと言いましたよ」 「それで、持ち主の村上邦夫は、なんと言っているんだね?」 「売ってもいい口ぶりでした——が」 「が、なんだね?」 「ぼくが、待ってもらったんです。あの幽霊船は、本のいい宣伝になっていますからね。それに、レストランに買われたら、どう改造されてしまうか、わからんでしょう。たぶん、コンクリートでかためられちまうでしょうからね」 「村上は、いつまでなら待っていいと言っている?」 「あの本が売れつづいている限り、待ってくれるでしょう。まあ、あと二、三か月は」 「あと、二、三か月か」 「何かあるんですか?」 「いや、ぼくもヨットマンの端くれだからね。あのヨットを修理して、一度、走らせてみたいんだ」 「なるほど、そいつはおもしろいアイデアだな。本が百万部突破したら、あれを修理して、大島あたりまで読者を抽選で何人か乗せて、クルージングするのも悪くないですね。�幽霊船への試乗会�、これは受けますよ」 「そのときは、ぼくも招待してもらうよ」  と、十津川は約束して、受話器をおいた。十津川は、あの「サンダーバード号」が補助エンジンを使って実際にはどのくらい速力が出るか知りたかったし、その必要が出てくる予感がしたのである。      3  八丈島から、死体発見のニュースはなかなか届かなかった。無理もなかった。八丈島は伊豆七島中、大島につぐ大きな島であり、北には八丈富士と呼ばれる西山(八五四メートル)、南には三原山《みはらやま》と呼ばれる東山(七〇〇メートル)などがあり、山中に埋めれば、なかなか発見しにくいであろう。  その間、捜査本部としては、八丈島からの報告を、ただ漫然と待っているわけにはいかなかった。  十津川は、村上邦夫が犯人と確信している。その線で調べなければならないことは、まだいくらでもあった。  内田洋一の事件は、八丈島で名取高志の死体が発見されれば、ほぼ解決するだろう。だが、まだ、タヒチでの大野部長と内田亜矢子の殺人事件が残っている。それに、原因不明の熱病で死んだといわれるクルー二人のこともである。  まず、十二月二十八日(日本時間)の夜に、村上邦夫が、大野と亜矢子を殺すことが可能だったかどうかを調べなければならない。常識的に考えれば、まず不可能である。なぜなら、村上は、十二月二十八日の午後六時三十分から漂流し、翌朝、アメリカ駆逐艦に救助されているからである。そして、大野も亜矢子も、村上がゴムボートで漂流中に殺されているからだ。  十津川は、外務省を通して、ハワイのアメリカ空軍基地から、救助の詳細を報告してくれるように、頼んでもらった。  その回答が届いたのが二月下旬である。八丈島からは、まだ依然として死体発見の報告ははいって来ていなかった。  外務省ですでに翻訳してくれていたため、十津川の手元に届けられたのは、英文と邦文の二通だった。いかにも軍人がタイプしたものらしく、味もそっけもない代わりに、簡潔で、要点はピシッと書いてあった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  ご質問の件につき、次のとおり回答する。  十二月二十八日(日本時間)午後六時三十分、当ヒッカム空軍基地で次のごときS・O・Sをキャッチした。  S・O・S  S・O・S  こちら「サンダーバード号」の艇長《キヤプテン》ムラカミ。現在地、西経一四八度三〇分、南緯一三度〇分。艇はマストが折れ、航行不能。他の二人のクルーは、原因不明の熱病にて、相ついで死亡し、現在、生存しているのは、艇長の私だけである。  艇は、損傷甚しく、沈没の恐れあり。ただいまより、ゴムボート(救命ボート)で脱出する。助けを乞《こ》う。  もう一度、繰り返す。こちらは、東京—タヒチ間レースに参加中のクルーザー「サンダーバード号」。他の二人は、原因不明の熱病で死亡し、マストは折れ、沈没の恐れあるため、ゴムボートにて脱出する。  現在地点、西経一四八度三〇分、南緯一三度〇分。助けを乞う。  S・O・S  S・O・S  七分後、第一救難隊のグラマン・ホークアイG612号機が、ヒッカム空軍基地より捜査に飛び立った。五十七分後、当該海面に到着、高度を五〇〇メートルから三〇〇メートルに下げて、捜索開始。七分後、ジェニング伍長が、右下方に漂流物を発見。旋回して近づき、双眼鏡で確認すると、赤色のゴムボートに、黄色いライフジャケットをつけ、白いヘルメットをかぶった人間が乗っているのを確認した。その白いヘルメットには、CAPT. の文字が読めたので、S・O・Sを発した日本人にまちがいないと考えた。海面は、一、二メートル程度の風だったが、残念ながら、夕闇が濃くなったため、食糧その他を投下して、いったんヒッカム空軍基地に帰投した。  翌十二月二十九日午前五時。夜明けとともに、ふたたび捜索に飛び立ち、昨日の海面に到着したが、昨日投下した食糧、救命ボートなどは発見するも、肝心のゴムボートは発見できず、おそらく、自力で近くの島へ向かって漕いで行ったと考え、まず南へ向かって扇形に捜索範囲を広げてみた。  約十五、六分飛行後、昨日の位置より南へ約一〇キロの海面に、昨日の赤いゴムボートを発見。その頭上を低空で旋回すると、遭難者も気づいたと見えて、白いヘルメットをふって応答した。われわれはただちに、付近をハワイに向けて航行中の駆逐艦「メービス」に連絡をとった。二十分後、艦影が現われたので、黄色い発煙筒を海面に投下し、艦長が確認する言葉を聞いたのち、ヒッカム基地に帰投した。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]機長 J・A・ヘンダーソン   「軍人らしく、要領のいい報告じゃないか」  と、捜査一課長が、読み終わってから十津川を見た。 「簡にして要を得たというやつだ」 「問題は、その地点です」  と、十津川はまた、二人の間に、南太平洋の地図を広げた。 「課長、よく見てください。タヒチからあまり遠くない地点です。正確に言えば、海面です。もっとも、タヒチまで二二〇キロから二三〇キロはありますが」 「だが、ゴムボートを漕いで往復は無理だろう。二十八日の午後七時三十分過ぎに、アメリカの飛行士に見られているんだ。そして、大野の殺されたのは、同日の午後八時だ。その間、三十分しかない。問題の地点からタヒチまで、約二〇〇キロはある。ゴムボートを漕いで、三十分で二〇〇キロは、絶対に不可能だよ。モーターボートだって、不可能だ」 「だから、よけいに引っかかるんです」 「村上が、何かトリックを使ったというのかね?」 「それは、まだわかりませんが、この報告書に、一か所だけ引っかかるところがあります」 「よけいなことでも書いてあるかね?」 「その逆です。当然、書かれてなければならないことが書いてありません」 「なんだね? そりゃあ」 「『サンダーバード号』のことです」      4 「翌日の捜索のとき、『サンダーバード号』のことが書かれていないのは、不思議とは思いません。ゴムボートは、昨日の海面より南へ約一〇キロ動いていますから、『サンダーバード号』のほうも、夜の間に流されたかもしれないからです。ただ、最初の日の捜索の場合に、一言も触れていないのは、おかしいとは思いませんか?」 「なるほどな。村上は、西経一四八度三〇分、南緯一三度〇分で、艇を捨てたとS・O・Sを発しているんだったな」 「そして、アメリカ機は、五十七分後、正確に言えば、それに七分プラスした一時間四分後、その位置で、ゴムボートと、ライフジャケットをつけた村上を発見しているのです。しかも、当日の海面は一、二メートルの風と書いています。まあ、無風に近い状態です。そのうえ、『サンダーバード号』は、マストは折れ、帆《セール》は切れて垂れ下がっていたのです。おそらくほとんど動かなかったでしょう。それなら、ゴムボートのそばに、傷ついた『サンダーバード号』もいなければおかしいじゃありませんか。小さいゴムボートは見つけられて、大きいヨットが見つからないはずはありません。それなのに、この報告書は、一言も『サンダーバード号』のことに触れていません」 「確かにそうだな。ただ、相手は軍人だ。軍人の律義《りちぎ》さというやつで、質問事項にしか回答してこなかったのかもしれない。ヨットは見たが、それは書く必要がないと思ったんじゃないかね。軍人というやつは、どこの軍人でも、質問したことにしか答えないからな」 「私も、考えられる理由は、それしかありません。しかし、念のために、もう一度、照会してもらいたいのです。第一日目の捜索のとき、ゴムボートの近くに、マストの折れた『サンダーバード号』を見なかったかどうか」 「よし。もう一度、外務省に頼んでみよう」  と、一課長はうなずいた。  八丈島のほうは、山の中腹の、これはと思われる地点を、次々に掘り返しているようだったが、まだ名取高志の死体を発見したという報告ははいってこなかった。が、十津川は、べつにあわてなかった。名取高志の死体は、絶対に八丈島に埋められているという確信があったし、八丈富士で遭難した飛行機の発見にでも、一か月近くかかったのである。  ハワイのヒッカム空軍基地からの再報告のほうが、先に十津川の手元に届いた。  今度の報告書も、簡単明瞭そのものであった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  おたずねの件につき、次のとおり回答する。  十二月二十八日(日本時間)に、ゴムボートと遭難者を発見した際、その付近にヨットは存在しなかった。  当時の視界は、夕闇にしてはかなり良好だったが、搭乗員五名全員、ゴムボートと遭難者以外、付近の海面には、木片一つ確認していない、以上。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]機長 J・A・ヘンダーソン    その報告書を、十津川は課長といっしょに読んだ。  課長は一読してから、笑って、 「木片一つ確認できずというのは、アメリカ人らしい大袈裟《おおげさ》さだな」  と、言ってから、表情を引きしめて、 「『サンダーバード号』が、まったく視界の中にはいらなかったというのは、確かにおかしいな。君は、こういう報告を予期していたらしいが、ちがうかね?」 「確かに予期していました。これで、タヒチの事件についても、少しずつわかってきましたよ」 「どうわかってきたんだね?」 「村上が、タヒチで、大野と亜矢子を殺した方法です」 「君の推理を聞こうか」 「このヘンダーソン機長の報告が、一つの鍵になると思います。軍人が、しかも、べつに利害関係のないアメリカの軍人が、嘘をつくとも思えません。この報告のとおりとすると、『サンダーバード号』は、ゴムボートのそばにいなかったことになります」 「どこにいたと思うんだ?」 「私は、S・O・Sを出したのが夕刻だったことと、その地点が、ハワイのヒッカム空軍基地からかなり離れた場所だったことにも引っかかるんです。現実に、捜索機は、五十七分かかって到着しています」 「だんだん君の考えていることがわかってきたぞ。つまり、君は、あのS・O・Sは、インチキだと言いたいんだろう?」 「可能性を考えているのです。自分が村上だったらどうしたろうかと、逆に考えてみたんです。名前とパスポートがほしいだけのために、恨みも何もない名取高志という一人の男を平気で殺してしまうような村上です。目的のためなら、どんなことでもするでしょう。それで、いま、課長が言われた方法をとったのではないかと思ったのです。つまり、S・O・Sを発した時点では、『サンダーバード号』は無傷だったのではないかと。もちろん、他の二人のクルーは、口封じのために、原因不明の熱病と称して、殺して水葬にしてしまったにちがいありませんが」 「救急箱の中にあった二本の体温計が、四十度近くになっていたのも、もちろん、作為があったというわけだな?」 「そうです。たぶん、水銀の部分に、ライターの火でも近づけて、暖めたんでしょう。体温計というやつは、一度上がれば、水銀は下がりませんからね。ところで、S・O・Sの件ですが、そのとき村上は、無電で知らせた位置より南にいたんだと思うんです。あの辺なら、ハワイのアメリカ空軍基地から捜索機が来ることは、常識でわかります。それに、捜索機は、たいていプロペラ機ですから、到着する時間も推定できる。それを計算して、『サンダーバード号』からS・O・Sを出し、ゴムボートに乗り移って、無線で知らせた海面まで漕いで行ったんじゃないかと思うんです。当日は風もありませんでしたから、ヨットのほうは錨《アンカー》を入れておけば、ほとんど動かないと思うのです」 「そして、遭難したと見せかけ、飛行機が飛び去ると、また『サンダーバード号』に戻ったというわけか?」 「そのとおりです。S・O・Sを出したのが六時三十分という夕刻です。いくら熱帯とはいえ、次第に周囲は暗くなっていきます。さらに、ハワイのヒッカム空軍基地を飛び立った捜索機は一時間ばかりかかって現場に到着し、ゴムボートと村上を発見したものの、すぐ周囲が暗くなったため、救助を翌日に延期して、いったんハワイへ引き返しています」 「つまり、村上は、そこまで計算していたというわけだな?」 「計算して、午後六時三十分にS・O・Sを出したにちがいありません。計算どおり捜索機が飛び去ると、村上は、ゴムボートを漕いで、無傷の『サンダーバード号』に戻り、タヒチに全力で走ったのです。大野を殺すために。そのときには、亜矢子がタヒチに来ていることは知らないはずですから、彼女のことは、計画になかったでしょう。だが、タヒチに着いてから、亜矢子を見つけ、ついでに殺したにちがいありません」 「そのあと、また前日の海面に戻り、ゴムボートに乗り、捜索機が来るのを待ったというわけか?」 「そのとおりです。亜矢子のほうはたぶん、『サンダーバード号』の上で殺し、途中で海に投げ込んだんだと思いますね。大野が殺され、亜矢子がタヒチから姿を消せば、警察は彼女が犯人と考えると計算したんでしょう。事実、私も、しばらくは、彼女が犯人だと思い込んでいました。ところが、彼女の死体がモオレア島のサンゴ礁に引っかかっているのを現地人の漁師が発見して、村上の計画は崩れ去りました。たぶん、村上は、タヒチ周辺にくわしくなかったので、海流が亜矢子の死体をモオレア島へ運んでしまうとは、思わなかったんだと思います」 「なるほどな。少しずつ村上邦夫を追い詰めつつある感じだな」  と、課長は満足気に、机の上の南太平洋の地図を眺めた。 「アメリカの捜索機まで、自分の殺人計画に使ったとは、あきれた男だ」 「アメリカ駆逐艦も利用しましたよ」 「ところで、君の推理が当たっているとして、最初のS・O・Sのとき、『サンダーバード号』とは、どのくらい離れた位置にいたんだろう?」 「正確にはわかりませんが、推測は可能です。アメリカの捜索機が飛び去ったあと、またゴムボートを漕いで戻らなければならないんですから、そう離れた海面ではなかったはずです。といって、その機長の報告では、視野の中にはいらなかったというのですから、あまり近くでもない。とすると、一〇〇〇メートルぐらいの距離じゃないでしょうか?」 「一キロか」  その距離は、地図の南太平洋の上では、点でしかない。だが、だいたい電車の一駅の距離である。薄暮の海面なら、そのくらい離れていれば、捜索機の人々には見えなかったろう。 「しかし、待ってくれよ」  と、課長は、急に首をかしげた。 「確かに君の話はおもしろい。インチキなS・O・Sを出して、アメリカ空軍の捜索機に確認させておいてから、無傷の『サンダーバード号』に戻り、それでタヒチまで行って、大野と亜矢子を殺したというのは、あり得ることのような気がする。だが、問題は、時間だ」  課長は、遭難地点とタヒチ島の間に指を広げた。地図では、課長の太い手を広げれば、すっぽりはいってしまう近さだが、実際には二〇〇キロの距離がある。 「アメリカの捜索機は、午後七時三十四分に現場に到着し、ゴムボートと村上は発見したものの、海面が暗くなったので、ハワイの基地に引き返している。七時三十四分に引き返したわけじゃない。おそらく十五、六分間は、この地点にいただろう。村上はそのあと、ゴムボートを漕いで、君の推理によれば、一キロ離れたところに錨《いかり》を下ろしていた『サンダーバード号』に戻り、タヒチに向かったことになる。ぼくは、去年の夏、家族が千葉の海に行き、ゴムボートというやつを、生まれて初めて漕いだが、それは、なかなかスピードが出ないし、手が疲れるものだよ」 「もちろん、知っています。私も乗ったことがありますから」 「一キロ漕ぐのに、何分かかるかわからないが、三十分はかかるだろう?」 「と、思います」 「その時間を、ゼロと考えてもいい。午後七時三十四分に、アメリカの捜索機が引き返したと考えてもいい。だが、大野は、八時に、タヒチで殺されているんだ。二〇〇キロを、『サンダーバード号』で、三十分で走れるはずはないだろう? ちがうかね?」 「…………」 「たとえ三〇馬力の補助エンジンをフル回転しても、この地点に午後七時三十四分にいた村上が、同じ日の午後八時に、二〇〇キロ離れたタヒチで殺人を行なえるはずがない。村上が、遭難に、わざと薄暮の時刻を選び、それを利用したと考えるのはいいが、今度は、それがかえって逆にアリバイを作ってしまうんだ」 「二〇〇キロを三十分——」  十津川は、重い口調になって呟いた。自分の推理に酔って、一瞬、二〇〇キロという距離を忘れてしまったのだ。 「そうだ。二〇〇キロを三十分だ。それも、私がいま言ったように、他のいろいろな時間を無視しての話だ。アメリカ機の滞空時間や、ゴムボートを漕ぐ時間などを計算したら、一分もないんじゃないだろうか。そうなったら、二〇〇キロを一分間で走らなきゃならなくなる」 「そのとおりです。奇跡でも起きなければ、『サンダーバード号』では、せいぜい一時間で二、三〇キロがいいところでしょう」  十津川の声は、だんだん重くなった。彼の推理は、明らかに破綻したのだ。課長の言うとおり、十津川が怪しいと睨んだ薄暮のS・O・Sが、逆に村上邦夫のアリバイ証明につながってしまうのだ。  西経一四八度三〇分、南緯一三度〇分という遭難地点は、アメリカの捜索機が確認しているのでまちがいようがない。内田洋一殺害の場合とちがって、二回も報告書をくれたJ・A・ヘンダーソン機長を、ニセモノと考えるわけにもいかない。外務省を通じての報告書なのだ。 (おれの推理の、どこがまちがっていたのだろうか?) (画像省略) [#改ページ]  第十四章 放 火      1  八丈島から、死体発見の電話がはいったとき、十津川は、新しい壁にぶつかって、四苦八苦していたときだけに、嬉しさは隠し切れなかった。  電話してきたのは、派遣した三人の中では一番ベテランの永井刑事である。 「これはと思う雑木林や山の中を、いくら掘り起こしても、見つからなかったはずです。この島に、大賀郷《おおかごう》の東里というところがあって、ここには、有名な流人《るにん》の宇喜多秀家《うきたひでいえ》の墓やその他の墓がいくつもあるんですが、その墓石の下に、投げ入れてあったんです。ここは八丈島では名所旧跡だし、墓をあばこうなんて島民はいませんから、犯人にしてみれば、絶好の死体の隠し場所だったわけです」 「そこは、飛行場から遠いのか?」 「それが、飛行場のすぐそばなんです。盲点をつかれた感じです。もっとも、宇喜多秀家とその家臣たちの墓のあるところは、まきの樹に囲まれた、静かな場所ですが、観光コースにもはいっているんです」 「よく見つかったな?」 「それが、偶然でしてね。ふつうなら、誰も、苔《こけ》むした墓の下に死体が隠されているなんて気づきゃしません。ところが、昨日、岡山県の団体客が来島したんです。ご存じのように、宇喜多秀家は、いまの岡山県の殿様です。その団体の中に、なんとかいう秀家の家来の血筋を引いているという老人がいましてね、苔むした先祖の墓石の前で、三百年前を偲《しの》んでいたら、異臭がするといって、警察に届けてきたんです。もし、あの一行が来なければ、われわれはまだ、八丈富士のふもとあたりを、あっちこっち掘り起こしていたにちがいありません」  電話の永井刑事の声も、はずんでいた。 「それで、死体の確認は?」 「相当腐乱しているうえ、衣服を脱がされて、全裸の状態で投げ込まれていたので、名取高志かどうかの確認は、まだできません。いま、八丈島の病院で調べていますが、推定年齢二十歳から三十歳くらいの男子で、身長は約一七三センチ、痩《や》せぎすで、死後四か月以上は経過しているだろうということでした」 「名取高志が家を出たのが十月十日だから、だいたい四か月で合うな。すぐ千葉市の彼の兄を八丈島へやって確認させよう。それで、他殺の形跡はあるのか?」 「医者は、後頭部の骨に陥没が認められるから、たぶん背後から鈍器のようなもので殴られたのだろうと言っていました」 「それはいい」  と、十津川は、第三者から見れば、不謹慎と思われかねないことを口走った。  すぐに千葉市内の名取高一郎に電話をかけた。相手は、八丈島で弟の死体が見つかったという十津川の言葉を、最初、なかなか信用してくれなかった。無理もなかった。弟からは、沖縄とグアムから絵ハガキが届いているのだし、死んだのはグアム島と思い込んでいるからである。その死さえ、兄は半信半疑だったのだ。 「わざわざパスポートまでとったのに、なぜ弟は、八丈島なんかに行ったんです?」  といった当然の質問も、高一郎の口から飛び出した。 「事情はあとで説明します。とにかく、八丈島へ行き、弟さんかどうか確認してください。飛行場には、うちの永井刑事がお迎えに出ているはずです」 「しかし、どう考えても、弟が八丈島で死んだなんて。現に、あなただって、沖縄とグアムから来た弟の絵ハガキをごらんになったはずじゃありませんか?」 「それが、犯人のトリックだったんです」 「犯人? どういうことです? それは——」 「弟さんは、殺された可能性が強いんです。だから、よけいに早く行って、弟さんかどうか確認してほしいのです。死体は腐乱していて、人相はよくわかりませんが、身長は一七三センチくらいということです」 「確かに、弟も身長は一七三センチくらいだったとは、思いますが」 「そして、どちらかといえば、痩せぎす?」 「ええ。弟は痩せているほうでした」 「それなら、あなたの弟さんである確率は高いと思われます。ぜひ、すぐ、八丈島へ飛んで、死体の確認をしてください」 「わかりました。まだ何がなんだかよくわかりませんが、明日、一番の便で、八丈島へ発つことにします」  と、名取高一郎は、やっとうなずいてくれた。  そして、十津川は、期待をもって、その答えを待つことにしたのだが。      2 「なに! ちがうだって?」  翌日の夜、十津川は、電話口に向かって叫んでいた。 「そんな馬鹿なことがあるか。本当に名取高一郎は、弟の死体じゃないと言ったのか?」 「そうです。こちらの病院で確認してもらったんですが、ちがうと言うのです」  八丈島から報告している永井刑事の声は、重く沈んでいた。 「弟は、奥歯に金をかぶせたものが三本あるはずだというのです。ところが、発見された仏さんには、金歯はぜんぜんありません。まるで健康優良児みたいに、虫歯も、欠けた歯も一本もないのです」 「じゃあ、いったい、誰の死体なんだ?」 「こちらの警察の話では、去年の夏に、東京から来た若者の集団同士が、浜で乱闘したことがあったというのです。どうも、そのときに、若者の一人が死んだのを、あの墓の下に隠して、東京に逃げたのではあるまいかと言っています。これは事実のようです。名取でないことだけは確かです」 (そんな馬鹿な——)  と、十津川は、蒼ざめた顔で思った。 「どうしたんですか? 主任」  と、電話の向こうで、心配そうに永井刑事がきいたとき、 「十津川君」  と、捜査一課長が彼を呼んだ。  十津川は、あとの指示はまた出すと言って電話をきり、蒼ざめた顔のまま、課長室にはいった。 「じつは、八丈島で発見された死体のことですが——」  と、十津川が重い口をひらくと、課長は、「まあ、すわりたまえ」と、椅子をすすめながら、 「死体は、名取高志じゃなかったんだろう?」 「なぜ、それを?」 「君の顔色を見ればわかるよ」 「申しわけありません。しかし、名取高志が、八丈島で村上によって殺されたという確信は変わりません。ですから、もう一度、部下を督励して、死体を探させてみるつもりです」 「無駄だよ」 「え?」  びっくりして、十津川は課長を見た。 「いま、なんておっしゃったんですか?」 「無駄だと言ったんだよ」  課長は、ゆっくりと言った。 「なぜ、無駄なんです?」 「まあ、これを見たまえ」  課長は、一冊の週刊誌を十津川にほうってよこした。 「これは、東日新聞で出している週刊誌ですね」 「そうだ。さっき、なにげなく売店で買ったんだ。その三十六ページをあけてみたまえ」  と、課長に言われるままに、十津川は膝の上で、三十六ページをひろげて見た。  そこに、半ページ大の大きな写真が載っていた。  帆走《セーリング》中のクルーザーの写真だった。デッキには、三人の男が手を振っている。 「サンダーバード号」だった。三人の男の顔も、はっきりわかる。その中の一人は、まちがいなく村上邦夫だ。 〈八丈島の南五〇キロ地点を南下中の『サンダーバード号』   十月十四日午前十時二十分写す。 [#地付き]第九|昭栄《しようえい》丸船員 丸山晋太郎《まるやましんたろう》〉   その説明文を読んだとき、十津川は自分の顔から、すーっと血の気が引いていくのがわかった。 「それが何を意味するかわかるかね?」  と、課長がきいた。 「わかります」 「村上邦夫だと思われる渡辺一夫は、十月十四日の午前九時十五分の全日空で、八丈島から東京へ発っている。そして、内田洋一を毒殺したと、君も私も考えた。だが、その写真によれば、それより一時間後に、村上邦夫は、『サンダーバード号』で、八丈島の南五〇キロ地点を、南へ向かってセーリングしていたんだ。村上邦夫だけじゃない。あとの二人も、山下太一と服部克郎にまちがいない」 「しかし、もしこの写真が——」 「まちがっていたらというんだろう? 私もそう考えて、電話で問い合わせてみたよ。その第九昭栄丸というのは、伊豆の下田の漁船だ。船長も他の船員も、まちがいなく去年の十月十四日の午前十時過ぎに、八丈島の南を走っている『サンダーバード号』を見たと証言してくれたよ」 「しかし、なぜ、いまになってこんな写真を?」 「それを撮ったときは、なんとなく撮ったんだと言っていた。ところが、最近になって、『サンダーバード号』のことが、こんなに有名になったので、写真を東日新聞に届けたんだと言っていたよ。東日は、五万円でネガを買ったということだ」 「…………」 「これで、残念だが、われわれの推理は、完全にまちがっていたことが証明されたわけだ。村上邦夫は、八丈島から東京に舞い戻らなかったし、名取高志になりすまして、沖縄へ行ったり、グアムへ行ったりもしなかったんだ。彼は、ずっと、遭難するまで、『サンダーバード号』に乗っていたことになる。名取高志は、関係のない人間だったのだ」 「…………」 「少なくとも、そう考えざるを得なくなったことだけは確かだよ。残念だがね」 「とにかく、永井刑事に、八丈島から帰ってくるように伝えます」  十津川は、低い声で言い、のろのろと椅子から立ち上がった。      3  十津川は、自分の机に戻ると、近くにいた若い刑事に、 「八丈島へ電話して、永井刑事に、すぐ帰ってくるように伝えてくれ」  と、言った。自分で言う元気は、いまはなかったからである。  十津川は、八丈島へ連絡している部下の声を聞きながら、煙草に火をつけた。彼の推理は、ものの見事に破れた。敗北だ。 (だが——)  と、十津川は、煙草を噛《か》んだ。  内田洋一を殺したと思われる容疑者のうち、大野部長と内田亜矢子は、タヒチで殺され、小西清治は人妻と心中した。丸栄社長、長谷部のアリバイも確定した。  となれば、残るのは村上邦夫だけなのだ。 (村上邦夫以外に、犯人は考えられない)  不思議に、その確信だけは動かなかった。  だが、一度破れたと思った村上のアリバイは、また厚い壁となって、十津川の前に立ちはだかってしまったのだ。  八丈島で、村上だけがヨットをおり、東京に舞い戻り、内田を毒殺してから、グアムに先回りして、ふたたび「サンダーバード号」に乗り込んだという彼の推理は、破れ去った。第九昭栄丸の船員の撮った写真と証言を、崩すことはできない。一瞬、彼らを、村上なり東日新聞が買収したのではあるまいかとも考えたが、その考えは、すぐ自分で打ち消した。たった一人の人間なら買収も可能だが、相手は、一隻の漁船の乗組員全員なのだし、殺人事件に関係があることでは、買収はきくまいと考え直したからである。それに、天下の東日新聞が、そんなつまらないことをするとも思えなかった。 (だが、犯人は村上邦夫なのだ)  と、十津川は、もう一度、自分に言い聞かせた。村上は、東京—タヒチ間のレースに参加しながら、東京で内田を殺したのだ。ほかには考えられない。  それに、タヒチで、丸栄の大野部長と内田亜矢子を殺したのも彼だ。それだけではない。熱病で死んだという二人のクルーも、村上が殺したのだろう。  十津川が、そう考えたとき、若い刑事が、血相を変えて部屋に飛び込んで来た。 「主任、火事です!」 「馬鹿野郎! うちは捜査一課だぞ」 「それはそうですが、燃えているのが、例の『サンダーバード号』なんです」 「なんだと!」  十津川は叫ぶと同時に、コートを引っつかんで、廊下へ飛び出していた。  暖冬のつづく東京といっても、まだ外はうそ寒い。それに深夜だったにもかかわらず、東日新聞の前には、どこから来たのか、野次馬が黒い人垣を作っていた。  消防車が数台来ていたが、十津川がパトカーで現場に着いたときには、すでに火は消えかかっていた。  問題の「サンダーバード号」は、まだ原型をとどめているとはいえ、船尾部分とキャビンが焼けただれ、見るも無残なありさまになっていた。赤い船も、黒くすすけてしまっている。 「こりゃあ、本物の幽霊船だな」  と、野次馬の一人が無責任に言うのが、十津川の耳に聞こえた。確かに、これでは、本物の幽霊船だ。舷側にあいていた穴は、さらに大きくなり、木製のせいもあって、手で触れれば、そのままボロボロと崩れ落ちそうな感じだった。 「サンダーバード号」のそばには、あわてて駆けつけて来たらしい大河原記者や、村上邦夫の姿も見えた。  とくに大河原は、眼を真っ赤にしていた。 「誰が、こんな馬鹿なことをやったのかわかりませんが、ひどいことをするもんですよ」  と、彼は、十津川を見ると、怒りをぶちまけた。 「消防庁の人にきいたら、船体にガソリンをかけて火をつけたそうですから、下手をしたら、『サンダーバード号』がまる焼けになったうえ、社屋にも飛び火しかねなかったところです」 「なるほど。ガソリンの匂いがするね」  十津川は、鼻をひくつかせながら、大河原の横にいる村上邦夫に眼を向けた。 「自分のヨットがこんなになってしまって、どんな気持ちです?」 「ぼくは結婚もしていないし、したがって子供もありませんが、きっと子供がいたら、子供を殺されたような気持ちだと言うでしょうね。それに、亡くなった仲間《クルー》二人にも、申しわけない感じです」  村上は、焼けただれた「サンダーバード号」に眼を向けて言った。 「放火であることは明らかですが、犯人に心当たりは?」 「いま、車で駆けつけたばかりですから、なんにもわかりませんが、きっと、このヨットが眼ざわりだったんじゃありませんか」 「眼ざわりというと?」 「自分の口から言うのは変ですが、妙なことから、ぼくは有名になってしまいました。本はベストセラーになるし、新東亜デパートのほうからも、顧問に迎えたいという申し出も受けています。そんなぼくの現在に対して、反感を持っている人も多いと思うんです」 「ズバリと言えば、放火したのは、あなたの成功を妬《ねた》んだ無名のヨットマンということですか?」 「そうは言いませんが」 「その気持ちは、あなたにはよくわかるかもしれませんね」  十津川は、皮肉な眼つきになって、 「内田洋一が現代の英雄に祭りあげられたとき、あなたも同じ反感を彼に感じたんじゃありませんか?」 「馬鹿な。ぼくと彼とは友人です。第一、ぼくは彼のヨットに火をつけたりしませんでしたよ」 「確かにそうでしたね」  十津川は、手を伸ばし、焼けただれた船体の一部に、手袋で触れてみた。とたんに、その部分が、ボロボロと崩れてしまった。 「こりゃあひどいな」  十津川は、ひとりで呟いた。このぶんだと、原型を保っている部分も、修繕はきかなくなってしまったことだろう。折れたマストも、黒く焦げてしまっている。 「これをどうするつもりだね?」  十津川は、ふり返って、大河原にきいた。 「このままここに飾っておくつもりかね?」 「それは、持ち主の村上さんと相談しなきゃなりませんが、うちとしては、これはこれで飾っておきたいですね。不幸中の幸いというか、これでいっそう、幽霊船らしくなりましたからね」 「ところで、例の話は、村上邦夫に話したのか?」  と、十津川は、大河原を人垣の外へ引っ張り出して小声できいた。 「例の話って?」 「あの『サンダーバード号』を修理して、大島あたりまでクルージングするという話さ」 「もちろん、しましたよ。おもしろい企画だと思ったし、できれば、船内で、招待した読者に、村上さんにサインしてもらいたいと思いましたからね」 「私が、それに乗船を希望していることもかね?」 「ええ。話しましたよ」 「彼は、なんと言っていたね?」 「そうですかと言っただけです。それがどうかしたんですか?」 「いつ彼に話したんだ?」 「昨日《きのう》です」 「いま私がきいたことは、村上邦夫には内証にしておいてくれ」 「なぜです?」 「いいから、内証にしておいてくれよ」  十津川は、相手の肩を軽く叩いてから、待たせてあったパトカーに戻った。野次馬はまだ、焼けただれた「サンダーバード号」を取り巻いて騒いでいた。      4  翌日の新聞には、「サンダーバード号」に放火されたことが、大きく出ていた。もちろん、東日新聞が一番大きく扱っていて、「犯人は、英雄視されている村上邦夫さんへの嫉妬からか」と、推測がつけ加えてあった。  当然、捜査本部でも、この放火事件は話題になった。 「一連の殺人事件と、なんらかの意味で、関係があると思うかね?」  と、捜査一課長が十津川にきいた。 「君は昨夜、焼けた『サンダーバード号』を見て来たんだろう?」 「見て来ました。犯人は、ガソリンを撒いて、徹底的に焼くつもりだったようです。消火活動が早かったので、幸いに原型をとどめている部分もありますが、あれではもう修理は不可能でしょう。触るとボロボロ崩れるくらいですから」 「それで、関係は?」 「もちろんあると思います。それに、私には、放火犯人の見当もついています」  十津川は、勢い込んだ眼で言った。課長は、「ほう」という顔になった。 「いったい、誰だ?」 「村上邦夫です」 「村上? しかし、彼のヨットだろう? 彼が、自分の成功のシンボルであるヨットに、自分で放火したというのかね?」 「そのとおりです」  十津川は、確信をもって答えた。課長は首をかしげて、 「しかし、あの傷ついたヨットは、いまも言ったように、村上にとって、いわば彼の栄光の象徴のようなものだろう? それを、わざわざガソリンをかけて焼くという理由がわからんな。まさか、より幽霊船らしく見せるために放火したんじゃあるまい」 「村上の用心深さのために、逆に、尻尾《しつぽ》を出したんです」  十津川は、ニコッと笑って、 「内田洋一殺しについて、われわれの推理がはずれて、がっくりきていたところへ、今度は村上のほうが、勝手にミスをやってくれたんです。もし、この放火事件がなかったら、私はまだ、敗北感から脱け出せずにいたと思います。幸運でした。村上は、より用心深くしようとして、向こうから勝手に尻尾を出してくれたんですから。これで、私の村上邦夫犯人説は、前よりもいっそう強いものになりました。大げさに言えば、旱天《かんてん》に慈雨みたいなものです」 「尻尾というのは、いったい、どういうことかね?」  課長が、不審そうにきく。十津川は、膝をのり出すようにして、 「前に私は、東日新聞の大河原記者に、あのヨットを修理して、大島あたりまでクルージングしてみないかと持ちかけてみたのです。そうしたら、向こうは、いい宣伝になると乗り気になりましてね。やると言うので、そのときには私も乗せてくれと言っておいたんです。大河原記者によると、そのことを昨日村上に話したそうです」 「そして、翌日、放火か」  課長は、むずかしい顔になって、腕を組んだ。 「確かに話が合いすぎるな。だが、君の言う尻尾というのは、なんのことだ?」 「私がそんな話を持ちかけたのは、あの『サンダーバード号』が、実際には、どのくらいの早さで走るものか知りたかったからです」 「しかし、ヨットは風まかせで、スピードは風次第なんだろう?」 「そうです。私が知りたかったのは、ヨットとしての通常の性能ではなく、三〇馬力というエンジンの力です。村上がタヒチの二人の殺害犯人とすれば、風のような気ままなものをアリバイに利用するはずがありません。計画が立てられませんからね。きっと、利用したのは、三〇馬力という、二五フィート艇にしては、馬鹿でかい補助エンジンの力だと考えたのです」 「そうだな。ガソリン・エンジンなら、無風でも、一定のスピードが出せるな」 「それで、大島までのクルージングを大河原記者に提案したんですが、たぶん村上は、それを聞いたとたん、こちらの意図を察して、あの『サンダーバード号』が二度と使いものにならんように、ガソリンをかけて火をつけたのです」 「それで、君は、尻尾を出したと考えるわけか?」 「そうです。つまり村上は、あの船のスピードを調べられるのが怖かったのです。ほかに考えられません。それに、いま思い出したんですが、タヒチで大野が殺された日、パペエテの署長が、ガソリンスタンドで、重油が三缶盗まれたと言っていました。船のエンジンというものは、重油をすごく食うものなんです」 「ヨットに三〇馬力のエンジンをつけると、ふつう、どのくらいのスピードが出るものかね?」 「クルーザーというものは、軽くできています。だからこそ、二五フィート艇でも、ふつうは五馬力程度の補助エンジンでいいわけです。マリーナからの出入りなら、そのくらいの小馬力で十分だからです」 「すると、三〇馬力だと、そうとうのスピードが出るはずだな」 「たぶん一〇ノット以上は出るでしょう。前の持ち主は、一三ノット出たことがあると言っていました」 「一ノットは一時間に一・八五キロか。一三ノットといえば、二四キロだな。そうとうな早さだ。君の言うように、ちょっとしたモーターボートだな」 「それに、エンジンなら、風に頼る帆走《セーリング》とちがって、一定時間、ほぼ同じ速度を維持できます。海上でのアリバイ作りには絶好の道具です。村上も最初から、そのために、三〇馬力つきのあの中古艇を買ったんだと思います」 「しかし、君の前の推理では、たとえ時速二四キロでも、無理だぞ。何しろ、タヒチまで二〇〇キロの距離があるんだからな。しかも、午後七時三十分から午後八時までの三十分しかない」 「わかっています。三十分に二〇〇キロは、飛行機でなきゃ無理です。モーターボートで一四〇馬力ぐらいをつけても、六〇キロぐらいがせいぜいですから」 「南太平洋のまんなかじゃ、飛行機には乗れんな」 「そのとおりです。だが犯人は、どう考えても村上です。だからこそ昨夜、『サンダーバード号』を焼いたんです。三〇馬力エンジンで、どのくらいのスピードが出るか、試されるのが怖かったからです。つまり、それは、タヒチの殺人に、村上が、三〇馬力エンジンをフルに利用したということの証拠だと、私は思っています」 「二〇〇キロを三十分で走れるのを知られるのが怖かったからかな」  と、課長は笑った。十津川は首をすくめ、机の上に広げられた南太平洋の地図を眺めた。  もう何度、同じ地図を眺めただろう。  どう見ても、十二月二十八日の午後七時三十四分に、アメリカ捜索機がゴムボートと村上を見つけた地点は、タヒチから二〇〇キロは離れている。いや、二二〇キロはある。それに、J・A・ヘンダーソン機長の報告に、嘘があるとは考えられない。嘘の報告をする理由がないし、現に翌朝、駆逐艦「メービス」が、村上を救助している。これは、まぎれもない事実なのだ。 (二〇〇キロの壁か)  だが、東日新聞社の前に飾られた「サンダーバード号」は放火された。村上が放火犯人だという十津川の確信は変わらない。すでに、あそこに飾られてから一か月以上たっているのだ。村上の成功に嫉妬して放火するのなら、もっと早く火をつけているだろう。だから、放火犯人は村上以外に考えられない。それに、放火した目的も、たぶん、十津川の推理どおり、「サンダーバード号」の速力を知られたくなかったからにちがいない。 (ということは、二〇〇キロの壁に穴があるということではあるまいか。だからこそ、万一に備えて、村上は、『サンダーバード号』を焼いたにちがいない。もし絶対的な壁ならば、放火などしないはずだ) 「もう一度、J・A・ヘンダーソン機長の報告を見せてくれませんか」  と、十津川は課長に頼んだ。      5  十津川は課長の前で、二通の報告書を読み直してみた。英文と邦文の両方である。 「いくら読み直しても、何も見つからんだろう?」 「そうですね」  と、十津川は、口惜《くや》しそうに言い、報告書をほうり出したが、 「逆は可能なことはわかりましたよ」 「逆と言うと?」 「タヒチで殺人をやってから、救助された位置まで戻ることです」  十津川は、また南太平洋の地図に眼をやった。 「タヒチで大野が殺されたのが、十二月二十八日の午後八時です。そのあと、ガソリンスタンドで重油を盗み、亜矢子を連れて『サンダーバード号』に戻るのに、三、四十分かかったとしましょう。それから村上は、三〇馬力エンジンをフル回転して、遭難現場に向かった。時間はたっぷりあります。この報告書にもあるとおり、アメリカ捜索機は、翌朝五時にヒッカム基地を飛び立っています。昨日と同じグラマン・ホークアイGのはずですから、現場に到着したのは、約一時間後、午前六時のはずです。一方、タヒチを村上が出発したのが、午後八時半としましょう。朝の六時までに九時間半の余裕があったわけです。時速二四キロが可能だったとすると、二二八キロとなって、途中で亜矢子を殺して海へ投げ捨てたとしても、悠々と遭難現場に戻れたわけです」 「確かに帰りは、時間は十分間に合うな」 「しかも、この報告によれば、前日より一〇キロ南、つまり一〇キロ、タヒチ寄りで発見されていますから、そのぶんの時間的余裕があったわけです。おそらく村上は、その間に、『サンダーバード号』の舷側に小さな穴をあけ、エンジンをかけっぱなしにし、舵を固定して、乗り捨てたんでしょう」 「なぜ船底に穴をあけて、沈めなかったのかな? 時間がなかったのだろうか?」 「私はそうは思いませんね。うまい言葉が見つかりませんが、自尊心のためだと思います」 「自尊心?」 「村上が今度のレースに参加した目的は、第一に、ライバルの内田洋一を殺し、自分を馬鹿にした丸栄の大野部長や、自分を捨てた亜矢子をも殺すことだったと考えます。しかし、そのほかに、あわよくば、自分が内田に代わって、現代の英雄になりたいという欲望もあったにちがいありません。しかし、レースに勝てる見込みは最初からありませんでした。レースに勝つことと殺人計画とは、両立しないからです。それでも、南太平洋で遭難し、恐怖と冒険を味わったとなれば、人気者になる可能性がありますし、殺人計画にも合致します。ただ、船が沈没して、助けられたというのでは、ロマンに欠けます」 「それで、幽霊船か?」 「そのとおりです。マストは折れ、舷側に穴のあいた『サンダーバード号』が、無人で、幽霊船のごとく漂流しているところを発見されれば、これは、現代のロマンになりますからね。そして、村上の思惑どおり、彼は人気者になりました」 「その折れたマストのことなんだがね。前から君にききたかったんだが、折ろうと思えば簡単に折れるものかね?」 「まともに台風の中にでも突っこまない限り、クルーザーのマストは、なかなか折れるもんじゃありません」 「じゃあ村上は、どうやって?」 「方法の想像はつきます。折りたい部分に、ナタかナイフで小さな傷をつけておく。そのあと、アンカーを利用するんです。マストにロープを巻きつけ、そのロープの先に二つのアンカーをつけて、浅瀬に投げ込む。そうしておいて、三〇馬力のエンジンをフル回転させて、反対方向に突っ走る。これでマストは折れるはずです。地図を見てください。タヒチの周辺には、小さな島が点在しています。無人島も多いし、サンゴ礁の島ばかりです。アンカーを引っかけるには絶好です。ただし、アンカーとマストの折れた部分は、回収不可能になってしまいますが」 「なるほどな。それで『オーシャン・クイーン号』の一等航海士の作ってくれたリストに、アンカーとマストの折れた部分がなかったわけだな」 「舷側の穴は、たぶん、ナタであけたんでしょう。リストに載っていましたから」 「沈まない程度の小さな穴をだな」  と、課長は笑ったが、十津川は笑えなかった。二〇〇キロの距離の壁は、依然として彼の前に立ちはだかっていたからである。  その夜、十津川は、二枚のアメリカ機長の報告書を自分の家に持ち帰り、寝床で横になってからも、読み返した。味もそっけもない、それだけに、事実しか書かれていない報告書である。  村上邦夫はいま、この報告書を、隠れ簑《みの》にしている。逆に言えば、いま、この報告書が壁になっている。だが、この報告書が、事実を書いているのなら、それは、村上の犯行を指摘する鍵に変わるはずなのだ。そして、事実が書かれていることも確かなのだ。  何度、読み返したかわからない。しまいには、二枚の報告書の文章をぜんぶ暗記してしまった。  暗記した文句を、十津川は、天井を見つめながら、何度も口の中で繰り返した。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  〈——高度を五〇〇メートルから三〇〇メートルに下げて、捜索開始。七分後、ジェニング伍長が、右下方に漂流物を発見。旋回して近づき、双眼鏡で確認すると、赤色のゴムボートに、黄色いライフジャケットをつけ、白いヘルメットをかぶった人間が乗っているのを確認した。その白いヘルメットには、CAPT. の文字が読めたので、S・O・Sを発した日本人にまちがいないと考えた。海面は、一、二メートル程度の風だったが、残念ながら、夕闇が濃くなったため、食糧その他を投下して、いったんヒッカム基地に帰投した——〉 [#ここで字下げ終わり]  これが第一日目の報告だ。  ふと、何か物足りない感じが、十津川の頭をよぎった。 (いったい、何が物足りないのだろう?)  十津川は、あわてて起きあがると、報告書を読み返し、二日目の個所に眼を通してみた。二日目の個所も、物足りないだろうか。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  〈——約十五、六分飛行後、昨日の位置より南へ約一〇キロの海面に、昨日の赤いゴムボートを発見。その頭上を低空で旋回すると、遭難者も気づいたと見えて、白いヘルメットをふって応答した。  われわれはただちに、付近をハワイに向けて航行中の駆逐艦「メービス」に連絡を取った——〉 [#ここで字下げ終わり] (こちらには物足りなさがない)  なぜだろうか?  なぜだろう? 「わかったぞ!」  と、十津川が思わず大声で怒鳴ったとき、壁の電気時計は、すでに午前二時を過ぎていた。 [#改ページ]  第十五章 罠《わな》をかける      1 「この、第一日目の機長の報告書を、よく読んでください」  と、翌日登庁した十津川は、興奮した口調で捜査一課長に言った。 「何か物足りなくて仕方がなかった。それが、やっとわかったんです」 「べつに、どこといって不審な点はないがね、『サンダーバード号』のことが書いてないことは解決ずみだし——」  課長が首をかしげるのへ、 「それは課長が、まだ海で遭難した経験がないからですよ。私は、自慢にはなりませんが、ヨット練習中に遭難しかけたことがあります」 「それは前に聞いたよ。だがそれが、どう関係してくるのかね?」 「村上は、午後六時三十分にS・O・Sを出し、船が沈没の危険があるので脱出すると無電して、ゴムボートに乗り移ったわけです。本来なら、周囲は薄暗くなってくるし、不安はつのるし、一刻も早く救いが来てほしいはずです」 「しかし、それは芝居だったわけだろう?」 「芝居とすれば、よけい、それらしく振る舞うはずです。たとえば、アメリカの捜索機が来れば、喜びを全身で表わして手を振るとか。ところが報告書によれば、第一日目は何もしていません」 「確かにそうだな。暗くて飛行機が見えなかったんじゃないのかな?」 「そんなはずはありませんよ。飛行機からは見えたんですから。第一、爆音が聞こえるはずです。当然、手をふるなりなんなりして合図を送るはずです。ゴムボートでの漂流は心細いですからねえ。ところが、この報告書を見る限り、何もしていないのです。白いヘルメットをかぶったままです」 「ということは、つまり——」  課長の顔色が変わった。課長もここに来て、十津川と同じことを考えたにちがいない。 「つまり、一日目に見つかったゴムボートの中の村上邦夫は、死体だったということか?」 「そうです。ほかには考えられません。そう考えて、はじめて距離の壁が突き破れるんです」 「死体というと、他の二人のクルーの片方ということだな?」 「たぶん、自分に似た山下太一のほうを使ったんでしょう。そのうえ、CAPT. と書いた白いヘルメットをかぶせておけば、飛行機の上からでは顔つきまでわかりません。彼は、前に、目立つと思ってかぶっていたと言いましたが、明らかに顔を隠すためですよ」 「村上は、二人のクルーのうち一人を殺して水葬にし、もう一人は殺して、自分のダミーに利用したわけだな?」 「そのとおりです。最初から同じゴムボートと白い CAPT. のヘルメットを、二つ用意して出発したんだと思います。そうして、二人のクルーを、自分の殺人計画に利用するために殺し、自分に似た山下のほうに、そのヘルメットをかぶせて、ゴムボートに乗せて流したんでしょう」 「そうだとすると、ひどい奴だな」 「そのゴムボートを流したのは、たぶん、十二月二十八日の早朝だったと思います。そうしておいて、村上自身は、三〇馬力のエンジンに物をいわせて、まっすぐタヒチに向かったのです。死体を乗せたゴムボートのほうは、当日ほとんど風がなかったとのことですから、だいたい同じ海面に漂っていたと思います。そして、村上は、午後六時三十分になったとき、救難信号を出したのです。もちろん、遭難位置は、朝、死体を乗せたゴムボートを流した位置、つまり、いままでわれわれが地図の上に×印をつけていた場所です。村上は、その時刻に救難信号を出せば、ハワイから飛来するアメリカ捜索機の現場到着が薄暮になり、発見してくれるだろうが、救助は明日になるだろうと計算したんだと思います。そして、彼の計算どおりに事は進行したわけです。その時刻には、村上本人は、タヒチの近くまで来てしまっているわけですから、距離の壁なんか、まったくなかったわけです」 「タヒチのパペエテの港にはいるとき、怪しまれなかったろうか?」 「その点は大丈夫です。当日、あの港には、レースに参加した十八隻の日本のヨットがひしめいていたし、あの港には、南太平洋を航行する|大型ヨット《クルーザー》が、絶えず立ち寄りますから、夕方、一隻のクルーザーが入港しても、誰も怪しまなかったと思いますね」 「そうしておいて、大野と亜矢子を殺し、重油を盗んで、本当の遭難者になるべく、もとの位置へ急行したわけだな」 「そうです。前にも申しあげたとおり、帰りの時間は十分だったはずです」 「確かにそうだが、死体のほうはどうなるかね? 自分に似せた死体のほうも、プカプカ海面に浮かんでいたら、たちまちばれてしまうだろう。だが、実際には、前日同様、アメリカ捜索機は、ゴムボートは一つしか発見していない。これはどう説明するかね?」 「ゴムボートに小さな穴をあけておけば、少しずつ沈んでいくものです。たぶん村上は、レース前に、ゴムボートを沈める実験をしたんだと思います。どのくらいの穴をあけておけば、何時間で沈むかという実験です。おそらく現場では、夜の間に沈んだんでしょう。だから、翌朝、アメリカ捜索機が見たとき、前日投下した食糧や、救命ボートなどは現場に浮かんでいたのに、肝心のゴムボートは消え、一〇キロ南に浮かんでいたわけです。ふつうなら、アメリカの新しい救命ボートに乗り換えるのに」 「おもしろい考えだ。ただ、死体をゴムボートに乗せておいたとしても、ライフジャケットをつけていたと、この報告書には出ている。とすると、ゴムボートは沈んでも、死体はプカプカ浮かんでいるんじゃないかね? ライフジャケットにも、穴をあけておけばいいわけだが」 「いや、空気の抜けたペチャンコのライフジャケットをつけていれば、機長が怪しんで報告書に書きますよ。たぶん、ちゃんとふくらんだライフジャケットを、死体につけておいたと思いますね。ただし、その中身は、空気でなくて海水だったのかもしれません。その他、死体に何か重いものを結びつけておけば、ゴムボートが沈むと同時に、ライフジャケットをつけておいても、いっしょに沈むでしょう。方法はいくらでもあったと思います」 「そうだな。だが第一日目は、薄暮の中で、アメリカ捜索機は、ゴムボートと、白いヘルメットをかぶった漂流者を見ている。低空飛行で、何度も見たといっても、遭難者の顔をはっきり見たわけじゃない。となると、翌日、駆逐艦『メービス』が救助した村上と、別人だったという証言は得られそうもないな」 「無理でしょう。現にこの報告書は、同一人物と信じ込んで書いているんですから」 「すると、村上を起訴しても、彼は、十二月二十八日午後六時三十分に、沈みかけた『サンダーバード号』から脱出し、不安のうちにゴムボート上で過ごし、翌日は、アメリカ駆逐艦に救助されたと主張するだろうな。いまとなっては、二十八日のゴムボートに乗っていたのは、村上ではなくて死体だったと証明することは不可能だ。まさか、南太平洋の海底を浚《さら》うわけにはいかんだろう」 「そのとおりです」 「そのうえ、村上は用心深く、東日新聞社前に飾られた『サンダーバード号』を燃やしてしまった。となると、一時間に何キロ走るかも証明できなくなったな」 「確かに村上邦夫という男は、頭がよくて、用心深い人間です」  と、十津川は、うなずいたが、その顔には、ある自信があふれていた。 「いま課長が言われた、『サンダーバード号』をいち早く、放火して焼いてしまったことにも、その用心深さは、よく表われていると思います。しかし、私には、それが、村上の神経質さ、つまり、弱さにも受け取れるのです。現代の人気者になり、金も手にはいったいま、彼は、もっと神経質になっていると思います。現在の地位を失うまいとして。そこがこちらのつけ目です」 「それで、どうする気だね?」      2 「罠《わな》をかけようと思います」 「罠? そんなに上手《うま》い罠があるかね? 六〇〇〇マイルのレースはもう終わり、三人の男女、いや、ぜんぶで六人の男女は、すでに殺されてしまっているし、内田殺しのアリバイは崩れなかった。村上を脅かせるような証拠は、何もないんじゃないのか? それとも、『サンダーバード号』と同じヨットをもう一隻、どこかで見つけたとでもいうのかね?」 「いや。あんな、三〇馬力もの大エンジンをつけた二五フィート艇は、あれ一隻でしょう」 「じゃあ、どうやって、罠にかけるんだ?」 「『サンダーバード号』は焼けても、あのヨットが三〇馬力のエンジンで、一時間に何キロ走るか知っている人間がいます。もちろん、村上のほかにです」 「設計者か?」 「いや。設計者は、計算上の数字は推測できても、実際の早さはわからないでしょう。『サンダーバード号』の前の持ち主です」 「ああ。あの船は船歴二年の中古艇だったな」 「そうなんです。前の持ち主は、いまでも西伊豆の木負《きしよう》というところに健在ですし、エンジンだけで走ったことがあるとも言っていました」 「だが、罠は、どうやってかけるんだ?」 「これから村上邦夫に会って、ちょっと脅かしてやります。そして、彼が、前の持ち主の口を封じないと危ないと思わせてやるつもりです。上手くいけば、村上は西伊豆に、前の持ち主を殺しに出かけるでしょう。その口を封じれば、彼にはもう怖いものはないはずですからね」 「深沢とかいったな、前の持ち主は?」 「そうです。深沢徳太郎です」 「そっちのほうが危険なことはないのか?」 「大丈夫です。永井刑事たちを、もう西伊豆にやってあります。あとは、村上が罠にかかってくれるかどうかということです」  十津川は、自信にあふれた声で言った。彼はすでに、何度か村上邦夫に会っている。その間に、彼の性格も、かなり読み取っているつもりだった。  それに、無名時代の村上邦夫なら、怖いものはなかったろう。だが、いまの村上は、急に自分のものになった栄光を失いたくないはずだ。そこが、彼の最大の弱点のはずなのだ。      3  その日の夕刻、十津川は、マンションに村上邦夫を訪問した。  3DKのりっぱなマンションである。この間まで、六畳一間で、陰湿に、ライバルたちの殺人計画を立てていた男が、いま、都心の大きなマンションに住んでいるのだ。やがて内田のように、どこかのマリーナの近くに、別荘でも持つことだろう。いや、すでに、もう持っているかもしれない。  十階にある村上の部屋のベルを鳴らすと、最初、二十三、四歳の若い美人が顔を出し、そのあとから村上が、ゆっくり現われた。相手が十津川だと知ると、村上はその娘を帰してから、居間に招じ入れた。 「マリーナで知り合った娘でしてね。べつに、どうということもないんですよ」  と、いくらか言いわけがましく村上は言った。金と栄光を得たあとは女かと、十津川は苦笑した。いまは生活が楽しくて仕方がないだろう。  棚には、五五フィートクラスの豪華なクルーザーの模型が飾ってあった。 「今度、新東亜デパートが、イギリスから輸入して売り出すクルーザーです。値段はたぶん、五千万円くらいでしょう」  と、村上は、誇らしげに言った。十津川はふと、内田の別荘にも、同じような大型クルーザーの写真があったのを思い出した。考えることはみな同じなのだ。この村上にしても、そのうち、この豪華ヨットを手に入れたがることだろう。人間の欲望には限りがないし、手にはいりそうな立場になると、よけいにほしくなるものなのだ。  十津川がわざと黙っていると、村上は次第にじれてきたらしく、 「今日は、なんの用です?」  と、きいた。  十津川は、煙草を取り出して火をつけた。 「じつは、『サンダーバード号』の放火の件ですがね」  十津川は喋りながら、テーブルの上にあった新聞をやぶき、それをまるめて、灰皿の上で火をつけた。めらめらと燃えあがる炎を、村上は、当惑した眼で見つめた。警部補ともあろう者が、なぜ、そんな子供じみた真似をしたかわからず、当惑しているらしい。 「あれに放火したのは、あなただと言う者がいるのですよ」  十津川は、燃えあがる新聞紙を見ながら、わざとゆっくり言った。 「冗談じゃない! 自分のヨットに自分で火をつける馬鹿な人間が、どこの世界にいるんです?」  と、村上は、顔を真っ赤にした。 「確かにそうですな。私もそう思いました。しかし、いろいろと調べていくうちに、あなたかもしれないと思うようになってきたんです」 「いろいろって、なんのことです?」 「去年、連続して起きた殺人事件のことですよ。東京で内田洋一が殺され、タヒチでは、丸栄物産の大野部長と内田亜矢子が殺された」 「あの事件に、ぼくが関係がないことは、よくご存じのはずですよ。ぼくには、れっきとしたアリバイがある。東京—タヒチ間六〇〇〇マイルのレースに参加しているし、タヒチで大野さんたちが殺されているとき、ぼくは南太平洋で遭難して、アメリカ駆逐艦に救助されていたんですからね」 「確かにそうでしたね。だが、そのアリバイが、どうもあやふやになってきたのですよ」 「あやふや? そりゃあ、どういうことです?」  村上の顔が、いくらか青ざめた。十津川は、わざと、また新聞をちぎって火をつけた。ここで、内田殺しのトリックがわかっていれば、まず、それをぶっつけてやるところだが、残念ながら、それができない。 「ところで、われわれは、アメリカ人機長が書いた報告書を手に入れたんですが、それを読んでいくうちに、いろいろと疑問が出てきたんです」 「どんな疑問です?」  村上がきいた。彼が少し不安になってきた気配を、十津川は敏感に感じ取って、微笑して、燃える新聞紙に眼をやった。 「疑問を感じ取ったので、われわれは——じつは、外務省を通じてきいたところ、あなたがゴムボートで漂流しているところを、第一日目と二日目の両日、捜索機が航空写真を撮っていたことがわかったのですよ」 「…………」  ほんのかすかだが、動揺の色が村上の顔に浮かぶのを、十津川は見逃さなかった。 「ところで、その写真なんだが、一枚一枚を現像して引き伸ばしたところ、第一日目の漂流者と、翌朝、救助した漂流者、つまりあなたとは、どうも別人だと、言ってきたのですよ」 「そんな馬鹿な。どちらもぼくですよ。決まってるじゃありませんか」 「しかしねえ、向こうは、写真ですからねえ」 「いくら写真だって、そんな馬鹿な——」 「ところが、漂流中のあなたを発見したグラマン・ホークアイGという飛行機は、単なる捜索機ではなく、軍用の索敵機なんです。そして、あなたを写した写真も、とても精密な軍事用のものだというのです。しかも、これは、ベトナム戦で開発された、特殊なカラーフィルムだというのです」  十津川は、真顔で言った。もちろん嘘だが、村上の顔は戸惑っていた。本当だろうか、嘘だろうか、と、迷っている眼である。 「その特殊フィルムというのは、いったい、どんなものなんです?」  と、村上は、努めて平静さをよそおった顔で、十津川にきいた。  十津川は、わざとゆっくり二本目の煙草に火をつけた。 「私にもよくわかりませんが、そのカラー写真だけで、写っている人間が、死人か生きている人間か、わかるというのです。ベトナムのゲリラ対策に開発されたフィルムだからでしょう。そして、第一日目の漂流者は、どうも死んだ人間のようだと、言ってきているのです。それで、これは、どういうことかと、外務省を通じて、警察庁へ問合わせがきたわけです」 「それで?」 「私も、まさかと思いましたよ。しかし、写真は信じないわけにはいかない。とすると、これはいったい、どういうことになるのか? この奇妙な出来事の説明は、たった一つしかないことがわかったのです」 「どんな説明です?」 「あなたが、タヒチの二つの殺人事件の犯人だということですよ」 「そんな馬鹿な!」 「まあ、そう怒鳴らんで聞いてください。あなたは、二人のクルーを殺し、そのうちの一つの死体に、キャプテンのヘルメットをかぶせ、ゴムボートに乗せて漂流させ、そうしておいて『サンダーバード号』でタヒチへ向かった。タヒチに近づいたところで、S・O・Sを発信する。ハワイから飛び立った捜索機は、ゴムボートを発見したが、それは、本当は死体だったというわけです。一方、タヒチに近づいていたあなたは、上陸して大野部長を殺し、内田亜矢子さんを連れ、重油を盗んで、ふたたび『サンダーバード号』で漂流地点へ引き返した。亜矢子さんはその途中で殺して、海中へ投げ捨てた。彼女がタヒチから消えれば、すべての疑惑が彼女に向けられると考えたからでしょうが、彼女の死体は海流の関係で、タヒチの隣りにあるモオレア島へ流れ着いてしまったのですよ」 「ぼくの知ったことじゃない」 「さて、あなたは、三〇馬力のエンジンをフル回転して、死体と入れ替わるために、漂流現場に急行し、見事に入れ替わった。死体を乗せておいたゴムボートのほうには、おそらく小さな穴をあけておいて、少しずつ沈むように細工してあったんでしょうな。あなたは成功し、一躍、現代の英雄になった。しかし、写真はごまかせなかったというわけですよ。その写真が、今週中にハワイから外務省を通じて送られてくるのです」  十津川は、また、わざと新聞紙をちぎって、灰皿の上で燃やした。 「やめてくれ!」  と、村上が、ヒステリックに叫んだ。 「そんな子供っぽい悪戯《いたずら》はやめてくれないか」 「これは失礼。じつは、『サンダーバード号』の放火のことばかり考えていたものですからね。いまも言ったように、写真が送られてくると、あなたの立場は、非常に不利になる。だが、問題は『サンダーバード号』の三〇馬力エンジンで、時間内にタヒチから漂流地点まで、果たして戻れたかどうかということです。もし、戻れることがわかると、あなたの立場は、決定的に不利になりますね。だから、あの放火は、あなたの仕業だということも考えられるのですよ」 「馬鹿な。ぼくじゃない。ぼくもヨットマンだ。自分の船を自分で焼いたりはしない」 「そうですか。他の者の仕業だとすると、あなたは、その人間に感謝しなければなりませんな」 「なぜぼくが感謝しなければならないんです?」 「いまも言ったように、あれを修理して、三〇馬力エンジンで走らせてみて、事件の翌日、ハワイからアメリカ機が来るまでに漂流地点へ戻れることが証明されれば、アメリカから送られてくる写真といっしょになって、起訴はまぬがれないところでしたからねえ。ああ焼けてしまっては、修理のしようがない。もっとも、あの船を、三〇馬力エンジンで走らせた経験者がいて、その人が証言してくれればべつですが、いまの段階では、写真が送られて来ても、われわれは、あなたを、どうすることもできないのですよ」 「無実なんだから、当然でしょう」  村上は、蒼ざめた顔で、怒鳴るように言った。手応《てごた》えはあったと、十津川は内心、ほくそえんだ。  写真|云々《うんぬん》の嘘は、そうとうなショックを村上に与えたようだ。  つまり、それは、第一日目の漂流者が死体であって、村上がアメリカ機を、実際には自分の眼で見ていないという弱味のためにちがいない。 「私も同じヨットマンとして、あなたが無実だといいと念じていますよ」  と、十津川は言い、ジロリと相手の顔を見てから、立ち上がった。      4  罠はかけられた。  村上はすぐ、「サンダーバード号」の前の持ち主のことを思い出すだろう。そして、十津川が言い残していった「サンダーバード号」の性能についての証言者さえ見つかれば、あなたを起訴するのだが、という言葉もである。  十津川は、マンションの近くに待たせておいた黒塗りの警察の車に戻った。 「村上の反応はどうでした?」  と、崎田《さきた》刑事が、マンションを見上げながらきいた。 「ビクつくのがわかったよ」 「主任はいったい、どうやって奴を脅かしたんです? 完璧《かんぺき》なアリバイで、脅かせるところなんかないように見えますが」 「そこが、逆に言えば、奴の弱味さ。犯人なのに、アリバイがあるということは、実際には、そこにいないということだ。だから、そこで起きたことは、本当は知らないわけさ。そこを、ちょっと針で突っついてやったんだ。ビクつくのがわかったよ」 「すると奴は、西伊豆へ出かけますか?」 「まちがいなく出かけるね。そのほうの脅しも、それとなく匂わせておいたからね」 「すぐにでしょうか? それとも、しばらく様子を窺ってから動き出すでしょうか?」 「すぐに動く。それも今日中にだ」 「なぜ、そうわかります?」 「『サンダーバード号』の性能を知っている人間がいたら、君を起訴できるんだがと、思わせぶりに言ってやったからさ。村上はしばらく様子を窺ってから、前のように綿密に計画を立てたいだろうが、警察が前の持ち主に気づいたらたいへんだと思うはずだ。一刻も早く前の持ち主を消さなければ、起訴されるかもしれん。その恐怖で、じっとしていられないはずだよ」 「だが、なかなか出て来ませんね?」 「まだ明るいからな。それに、あの男は用心深い。たぶんいまごろ、前の持ち主に電話していることだろう」 「電話して、どこかへ呼び出して、殺す気でしょうか?」 「おそらくな。西伊豆まで行けば、足取りをとられる危険がある。急がなければならなくても、そのくらいの用心はする男だ」 「どこへ呼び出す気でしょう?」 「そうだなあ——」  と、十津川は、腕を組んで考えていたが、急に崎田刑事に、 「新東亜デパートに電話して、東京から一番近い、新東亜デパート系のマリーナがどこかきいてくれ。そして、そこに、村上のヨットがあるかどうかをきくんだ」  崎田刑事は、車から飛び出すと、近くの電話ボックスに飛び込んだ。十分ほどして、この若い刑事は戻って来ると、 「わかりました。最近、東伊豆の城ガ崎に、マリーナを作り、村上のヨットも置いてあるそうです。三五フィートの豪華ヨットらしいですよ」 「なるほどな。そのうち、外国製の五五フィート艇ももらう気でいるんだろう」 「奴はそこへ、前の持ち主を呼び出す気でしょうか?」 「十中八、九、まちがいない。前の持ち主もヨット好きだ。すばらしい三五フィート艇を見せるといえば、喜んでやってくるだろう」  それは、十津川の刑事としての確信でもあったし、ヨットマンとしての確信でもあった。 「出て来ました!」  と、急に崎田刑事が叫んだ。      5  前を行く村上の車は、彼の心のいらだちを示すように、制限速度以上で突っ走っている。十津川は、パトカーが横槍を入れないことを祈った。刑事としては、妙な気持ちでないこともない。  相手の車は、熱海《あたみ》から伊豆半島の東海岸沿いの道路にはいった。尾行している十津川たちの車には、まったく気づいていない様子だった。一刻も早く、前の持ち主である五十二歳の深沢徳太郎を処分してしまえば、それで安心だという気があるからだろう。  城ガ崎海岸は、伊東《いとう》から車で四十分くらいの場所で、天城《あまぎ》火山の噴火で流出した溶岩で形作られたところである。そのため、絶壁が数十メートルにわたってつづき、おだやかな東海岸には珍しい、荒々しい景観を呈している。  そんなところにも大資本がはいり込み、コンクリートと機械の力で、ヨット・ハーバーが作られているのである。  まだできて間もないらしく、「新東亜城ガ崎マリーナ」の字は大きくても、比較的静かであった。周囲はもう暗くなっている。  ハーバー内には、十数隻の大型ヨットが繋留《けいりゆう》されていたが、その中で、ひときわ豪華なクルーザーが、村上のものらしかった。  村上は車をおりると、一瞬、周囲を見回してから、桟橋の明かりの中を、「シー・シャーク号」と名づけられた、その三五フィート艇に向かって歩いて行った。  十津川が、少し離れた位置に車を止めさせておりると、物かげから、西伊豆にやって来ていた永井刑事が、「主任」と、近寄って来た。 「前の持ち主の深沢は?」 「三十分前に着いて、あのヨットの中で、村上を待っています」 「予定どおりだな」  と、十津川は、満足そうにうなずき、部下たちを制して、自分一人で桟橋を歩いて行った。 「シー・シャーク号」のキャビンには、明かりが点《つ》いていた。十津川は、足音を忍ばせて近づき、そっとヨットに乗り移った。三五フィート艇ともなれば、やはり、豪華艇の感じである。  さいわい、デッキランプは消えている。十津川は腹這《はらば》いになって、窓からキャビンの中をのぞき込んだ。  チーク材を使ったぜいたくな造りのキャビンに、テーブルに向かい合って、村上と深沢が腰を下ろしていた。二人の声が、かすかに聞こえてくる。  何も知らない初老の深沢は、まったく疑いを持っていない顔で、キャビン内を見回していた。 「さすがに三五フィート艇ともなると、ゆったりとしていますなあ」  と、呑気なことを言っている。 「フランス製です。まあ、別荘代わりに使っているんですが」  と、村上が言い、 「例の『サンダーバード号』こそ、いいヨットなのに、心ない人間に放火されて、残念で仕方がないのですよ。とにかく、二か月間も、江の島から南太平洋まで、ぼくと苦労をともにしてくれたヨットですから」 「いや、あの船も、あなたのような優秀なヨットマンに乗っていただけたことを、光栄に感じているはずですよ」  深沢は、年長者だけに、そつのないお世辞を言った。 「とんでもない。とにかく、いい船でした」  村上は笑顔で言い、持って来たシャンパンを相手に見せてから、 「このヨットのために乾杯してくれませんか」  と言い、自分で台所《ギヤレー》にはいって行った。そこは、十津川の位置からは死角になっている。村上はすでに注がれたシャンパン・グラスを二つ持って、台所《ギヤレー》から現われ、その一つを深沢にすすめた。 (飛び込んで、飲むのをやめさせるべきか)  と、とっさに思った。もし青酸カリでもはいっていたら、それこそ警察を辞職するぐらいでは追いつかないだろう。現に、村上は、内田を殺すのに青酸カリを使っている。  だが、そう思ったときには、深沢はすでにグラスを口に運んでしまっていた。一瞬、十津川は眼をつぶったが、深沢には、べつに変わった様子は起きなかった。  十津川がほっとしている間にも、村上と深沢の間には、罪のないヨット談義が交されていた。  そのうちに、深沢の身体がグラリとゆれたと思うと、そのまま、テーブルの上に突っ伏してしまった。村上は、医者が患者でも見るような冷静さで、深沢の顔を持ちあげ、その眼をのぞき込んだ。十津川もデッキから眼をこらした。明らかに睡眠薬がきいてきた症状で、トロンとしている。「深沢さん」と、村上は、ゆすったが、正体をなくしてしまっている感じだ。睡眠薬とシャンパンが両方きいて、心地よく眠ってしまったのだろう。 「よく眠ってるな」  という村上の呟きが聞こえ、つづいて、彼は、船内《インボート》エンジンをかけた。  船体がブルブルとふるえ、三五フィートの「シー・シャーク号」は、帆を下ろしたまま、ゆっくり港外へ出て行った。十津川が部下に合図する余裕もない、手早い村上の行動だった。今夜中に、一気に深沢を消してしまう気らしい。  早春の海にしては凪《な》いでいたが、夜の海風は冷たい。十津川は、かじかむ手でデッキにしがみついていた。  十二、三キロ沖に出たところで、村上は船を止めた。  急にデッキランプが点き、村上が、キャビンから、正体を失った深沢を担ぎ出して来た。そのあと、ロープで深沢の身体を縛り、その端をアンカーに結びつけはじめた。アンカーを重りにして、深沢の身体を海に沈めるつもりらしい。ロープが解けて、死者となって浮かび上がっても、睡眠薬しか胃になければ、地元の警察は、単なる事故死か自殺で片づけると、考えたらしい。だから青酸カリを使わなかったのだろう。  十津川は、デッキに立ち上がり、拳銃《けんじゆう》を取り出して、村上に近づいた。が、村上は、それにも気づかず、一心不乱に深沢を縛ったロープに、アンカーを結びつけている。そんな村上に対して、十津川は、激しい怒りと同時に、かすかな哀れみを感じた。多くのヨットマンにとって、ヨットは、海という大自然に接するための手段にすぎない。だが、この男にとって、ヨットは、自分を売り出すための道具であり、また、殺人の手段であるにすぎなかった。その差が、いま、この三十三歳の男を、ひどく惨めに見せているのだ。 「そこまでだな、村上」  と、十津川は声をかけた。 「幕は下りたんだ。今度は、すべて話してもらおうか」 [#改ページ]  第十六章 トリックの解明      1  村上邦夫は、捜査本部に連行されると、意外に素直になった。「最後ぐらい、スポーツマンらしくしろよ」という十津川の言葉がきいたのかもしれないし、村上の性格が、案外、観念すると、ポッキリいくような弱さを持っているのかもしれなかった。 「まあ、煙草でもどうだね」  と、調べ室で向かい合うと、十津川はまず、相手に笑顔を向けた。 「国産の煙草で悪いんだが」 「どうも」  と、村上は、頭を小さく下げ、十津川の差し出したセブンスターを手に取った。 「ところで、最初から、くわしく話してもらおうか。まず、なぜ内田洋一を殺したのか、その動機を聞かせてくれないか? ライバルが現代の英雄になったことへの嫉妬《しつと》かね? それとも、女をとられたことへの復讐なのかね?」  十津川がきくと、村上の潮焼けした顔が、急にゆがんだ。 「それだけのことでは、ぼくは、内田みたいな軽薄な男は殺しませんよ」 「それじゃあ、本当の動機は、なんだったんだ?」 「ぼくの大学二年のときのことが始まりなんです」 「ずいぶん古い話だな」 「確かに、古いことです。しかし、あのときのことが、いつもぼくの心のどこかにくすぶりつづけていて、それが今度の事件で、引金の役を果たしたんです」 「大学二年のとき、いったい何があったのかね?」 「あれは五月十二日の午前中だった。日時も、ちゃんと覚えていますよ」  村上は、ふと、遠くを見る眼つきになった。 「僕も内田も、大学のヨット部にはいっていたんだが、ぼくのほうは、正部員だったが、彼は補欠でした。六月に対抗試合があるというので、部員は練習にあけくれていたんです。そのうちに、部員の一人が怪我《けが》をしてしまいましてね、補欠だった内田を使わなければならなくなったんです。キャプテンは、ぼくと内田を組ませた。二人乗りのスナイプ級の競技でしたからね。キャプテンは、ぼくと内田が、高校も同じなので、単純に、仲よくやると考えたんでしょう。五月十二日、ぼくと内田は、ヨット・ハーバーを出て、帆走《セーリング》の練習にかかったんです。五月にはいっているのに変に寒くて、海水の冷たい日でした。そのころの内田は下手《へた》くそで、ぼくは、ものすごく神経を使いました。そのせいでしょうね、風が変わった瞬間、横棒《ブーム》(帆桁《ほげた》)で頭を打って、不覚にも、海へ落ちてしまったんです」 「ぼくも、ブームで頭を打ったことがある」  と、十津川は言った。風が変わったり、方向転換するときなど、帆《セール》がくるりと回るので、うっかりしていると、帆《セール》についてる横棒《ブーム》で頭を打つことがある。そのために、ヘルメットを着用したり、毛糸の帽子をかぶったりするのである。 「海へ落ちてから、どうしたのかね?」 「ライフジャケットをつけていたので、溺れる恐れはありませんでしたが、海水の冷たさがこたえました。もちろん、大声で内田に助けを求めましたよ。ところが内田は、引き返して助けてくれる代わりに、どんどん艇を先に進めてしまったんです。もしあのとき、近くを通りかかった漁船が助けてくれなかったら、ぼくは、まちがいなく凍死していたでしょうね」 「もちろん、あとで内田を難詰したんだろう?」 「ええ、二人だけの場所でね。だが、内田は、助けたかったが、艇の操作が自由にならなかった、何しろ、ぼくは補欠だからねえ、と、笑いましたよ。だが、ぼくは、彼があのとき、ぼくを見殺しにする気だったとピンと来ました。正部員のぼくが死ねば、補欠の彼が正部員になれるチャンスが生まれますからね」 「そのことは、他の者にも話したのかね?」 「いや、誰にも話しませんでした」 「なぜ?」 「本当の出来事を知っているのは、ぼくと内田の二人だけでしたからね。それに、正部員のぼくが、ブームに頭を打って海に落ちたというのは、恥をさらすようなものだからです」 「しかし、君は、そのときのことを、ずっと忘れなかった?」 「そうです。表面上は、笑顔で内田と話していても、心の中では、十一年間、ずっと忘れずにきましたよ。ずっとです。加害者のほうは、すぐ忘れても、被害者は、やられたことは忘れないものです」      2 (十一年間か)  十津川は、改めて眼の前の村上を見た。この男は、うらみつらみを、じっと胸にこめていて、いつか、その復讐をする陰湿な性格の持ち主なのだろう。計画的に、冷静に。 「それが、内田殺しの動機というわけか?」 「正確に言えば、それが芯《しん》になっていたというべきです。彼の成功への嫉妬や、亜矢子のことなどが、その芯のまわりにくっついてきて、大きな殺意にふくれあがっていったんです」 「なるほどね。だが、どうやって内田を毒殺したんだ?」 「本当におわかりにならないんですか?」 「一つの推理は立てた。だが、その推理が誤りだとわかった」  と、十津川は、正直に言った。  村上の顔に、はじめて笑いが浮かんだ。 「すると、やはりぼくが、八丈島でおりて、全日空で東京に舞い戻り、そこで内田を毒殺してから、グアムあたりへ飛んで、ふたたび『サンダーバード号』に乗ったと、推理なさったんですね」 「まあ、そうだ」  と、十津川は、思わず苦笑してから、 「そうか、あの本は罠だったのか」 「松本清張の短編集ですか?」  と、また村上が小さく笑った。 「そうだ」 「確かにあの本を置いておいたのは、あなたを罠にかけるためでした。その前に、あなたは、ぼくが八丈島から飛行機で東京に舞い戻ったんじゃないかと、カマをかけられましたからね。じつは、あの本一冊だけ置いておこうかとも考えたのです。目立ちますからね。しかし、あなたは、頭もよく勘も鋭い。罠と見破るかもしれない。だから、他に何冊かの推理小説も一緒に置いておいたのです。他はすべて、海に関係のないものばかりを。ぼくの計画が当たれば、たぶん、買って読むだろうと思ったのです」 「ああ、そのとおりだ。ぼくは松本清張の『火と汐』を読んで、自分の推理に確信を持ってしまった。まんまと君の罠にはまったわけだ。確かに、あれ一冊しかなかったら、罠と思ったかもしれないな。この辺は、狐《きつね》と狸《たぬき》の化かし合いだな」 「そうですか。ぼくのちょっとしたトリックが、そこまでは成功したわけですね」 「まあそうだ。だが、最後には、逆に、君は、われわれのかけた罠にかかった」 「そうでしたね。皮肉なものですね」  村上は自嘲《じちよう》した。 「ところで、内田は、どうやって殺したんだ?」 「簡単ですよ。ぼくが東京へ舞い戻る代わりに、内田を八丈島に呼びつけたんです」 「呼びつけた? すると、あの渡辺一夫という偽名の男は、内田洋一だったのか?」 「そうです」 「しかし、待ってくれよ」  十津川は眉をしかめ、じっと天井を睨んだ。 「しかし、渡辺一夫が八丈島に着いたのは十月十二日だ。だが内田は、十月十一日から十四日まで、丸栄物産の仕事で沖縄へ行き、写真を撮りまくっていたはずだ」 「そうでしたね。帰国してからそれを知って、ぼくは思わず笑ってしまいましたよ」 「笑った? なぜだ?」 「二重の意味でおかしかったからです。一つは、警察というものは、犯人のアリバイは必死になって調べるが、被害者のアリバイというやつは、あっさりしか調べないとわかったからです。あのアリバイは、内田自身が作ったものですよ。もう一つは、自分を加害者だと思い込むと、その気持ちでしかものを考えなくなるということが、自分でわかったからです」 「確かにわれわれは、内田洋一が沖縄へ行ったことは、乗客名簿でしか調べなかったが、あとの意味は、どういうことなんだ?」 「それは、これから説明しますよ」  村上は、うまそうに煙草を吸った。警察に逮捕されてしまったことで、かえって気が楽になったのだろう。 「あのタヒチまでのレースが発表になったとき、ぼくは冷静に、殺人計画を立てました。まず、内田洋一を殺す計画をです。そのあと、丸栄物産の大野部長が、タヒチで賞金授与をやると知って、彼の殺害計画も立てました。大野部長には、就職を頼みに行って断わられた屈辱感以外には、恨みはなかった。だが、内田洋一に味方したということで、許せなかったんです」 「それで、どうやって内田洋一を殺したんだ? 君は、自分が東京に舞い戻る代わりに、内田を八丈島に呼びつけたと言ったが、どんな手を使ったんだ? 十一年前の、ヨットから落ちた事件を脅迫のタネにしたのか?」 「いや、あんなことで、内田みたいな傲慢《ごうまん》な男が、八丈島までのこのこやっては来ませんよ」 「じゃあ、何をタネに?」 「彼の単独無寄港世界一周がインチキだという情報ですよ」 「ちょっと待ってくれよ」  十津川が、眼を三角にした。 「そいつはおかしいぞ。毎朝新聞に内田のホーン岬通過の場面が載ったのは、十月十日の、レーススタート後のはずだ。多くのヨットマンたちが、内田の単独無寄港世界一周に、疑問を持ちはじめたのは、あの記事を見てからなんだ。ブエノスアイレスの写真が見つかったのは、さらにそのあとだ。だから最初、われわれは、レース参加のヨットマンを容疑者の圏外に置いたくらいだ。それなのになぜ、君は、十月十日前に、それを知っていたんだ?」 「あれがインチキだと、早くから知っていた人間がいたはずですよ」 「本人の内田洋一か。ただ、内田が話すはずがない」 「当然です。しかし他にもいたはずですよ」 「誰だ? ブエノスアイレスの小さな造船所の人間か? しかし、そこの人間が君と連絡がとれたとは思えないが」 「日本人で、他にいたはずですよ」 「誰だ?」 「あの『マーベリック㈵世号』を造った、中央造船の技術者ですよ」 「あっ」  と、十津川は思った。 「そういえば、中央造船の技術者が、あわててブエノスアイレスに飛んだというのを聞いたことがあったな。その技術者から、君は聞いたのか?」 「いや。中央造船のマイナスになるようなことを、ぼくみたいな一介のヨットマンに話してはくれませんよ。ただ、大学時代のヨット部の部員の一人が、設計の腕を買われて、中央造船に就職していましてね。彼は、内田が本当は単独無寄港世界一周なんかやってないのに、威張り散らしているのに、反感を持っていましてね。ぼくに会ったとき、それとなく匂わせてくれたんです。こっちもヨットマンだから、すぐピンときましたよ」 「それをタネに、内田を脅迫したのか?」 「レースの直前に、彼あてに手紙を出したんです。中央造船のある男から、ブエノスアイレスのことを聞いた。もし、それを内密にしてもらいたければ、百万円持って来い。ぼくはこれからレースに参加するので、途中の八丈島で受け取る。そのほうが、誰にもバレなくていいだろう。八丈島に『サンダーバード号』が着くのは十月十二日から十三日夜までの間だろうから、それに間に合うように、八丈島に来いとね」 「しかし、彼の油壺の家には、そんな手紙はなかったが」 「当然でしょう。内田には、見られてはまずい手紙ですからね。十月十日に江の島マリーナのスタート地点で会ったとき、内田は、あの手紙は焼いたよと、小声でぼくに言いましたよ。つまりそれは、彼の承知したというサインでもあったわけです」 「百万円と言ったね?」 「ええ。もちろんぼくは、百万円がほしかったわけじゃない。本当の目的は、あくまでも内田を殺すことだった。だが、ただ、八丈島へ来いでは、向こうが用心してしまうでしょう。だから、わざと、百万よこせと吹っかけたんです。そうすれば、内田は、ぼくを金で買収できる人間と見て、やってくると計算したんです」 「しかし、内田の壮挙がインチキとわかったのなら、それを天下にバラして、彼を社会的に葬ることだってできたんじゃないのか? べつに殺さなくとも」 「果たしてそうでしょうか? 無名のぼくが、ジャーナリストの間を言って回っても信じてくれなかったでしょう。また、あの時点では、ブエノスアイレスの写真もなかったし、中央造船も内田も否定するに決まっていますからね。それに、ぼくには、ただ内田を社会的に葬るだけでは我慢できないものがあったんですよ。これは、ぼくの性格的なものかもしれませんが」 「そして、君は、内田の愛用している漢方薬『セイノオー』を、どこかの薬店で買い、カプセルの中身を、青酸カリの粉末と入れかえておいた?」 「そうです」 「内田は百万円を持って、八丈島へやって来た。渡辺一夫の偽名で十二日に。十四日朝の便の往復切符を買って?」 「そうです」 「君の『サンダーバード号』は、十三日の夜、八丈島へ着いたんだろう?」 「そうです」 「しかし、他の二人のクルーを、どうやって納得させたんだ? まさか百万円巻きあげるために上陸すると言ったんじゃあるまい?」 「そんな馬鹿なことは言いませんよ」  と、村上は微笑した。 「じゃあ、なんと言ったんだ?」 「小さな事故を、わざと引き起こしたんです。一人でキャビンにいるとき、飲料水のはいった容器のコックを、はずしておいたんです。三宅島と八丈島の間には、ご存じだと思いますが、太い黒潮の帯が流れています。そこへかかる直前に、コックをはずしておいたんです。黒潮帯を横切るときは、当然、すごくゆれる。計画どおり飲料水はこぼれました。飲料水が、長い航海の場合、どんなに重要なものか、ヨットに経験のあるあなたには、よくおわかりでしょう。それに、まだ八丈島あたりでは、スコールも期待できませんからね」 「なるほどな。飲料水を汲んでくると言って、君は八丈島に上陸したわけか?」 「そうです。コック役の服部が、自分が行きましょうと言いましたが、コックを閉め忘れたのは、ぼくの責任だと、強く主張しましてね」 「それで、八丈島には、どうやって上陸したんだ。まさか、ヨットを、どこかの港に入港させたわけじゃないだろう?」 「そんなことをしたら、せっかくの計画が台なしですよ。われわれは、八丈島の東側に近づいたんですが、東岸には、神湊《かみなと》港とか底土港といった港がありますが、そこへ接岸はできません」 「じゃあ、泳いで上陸したのか?」 「いや、飲料水を汲んでくることになっていましたから、ゴムボートで行きましたよ。ヨットが八丈島沖に着いたのが、十三日の夜八時ごろでしたね。底土港の少し先に帆を下ろして停泊させ、そこからゴムボートで上陸したんです。それより南に下がると、断崖がつづきますからね。ゴムボートは岸に引きあげ、そこから、内田に手紙で指示しておいた供養《くよう》橋のところまで、歩いて行ったんです」 「時間も指示しておいたのか?」 「もちろんです。十月十二日か十三日の午後九時から十時の間に、供養橋の近くで待てと、指示しておいたのです。ここは、八丈空港や町の近くにありながら、寂しい場所でしてね。とくに、十月ともなると、夏の行楽期が終わって、観光客が少なく、すっかり人気《ひとけ》がなくなっていますから、秘密に会う場所としては絶好の位置でした。こちらとしても、飲料水も汲んで戻らなければなりませんからね。このほうは、近くに『大川』が流れているので、そこから汲みました。まだ八丈島は、川の水がきれいでしたよ」 「内田は、ちゃんと待っていたかね?」 「ええ。ぼくが指定した供養橋の袂《たもと》のところに、ちゃんと待っていましたよ」      3 「そして、そこで何があったんだ?」  十津川は、新しい煙草に火をつけて、先をうながした。 「内田は、まず百万円出しました」 「ちょっと待ってくれ。君がアメリカ駆逐艦『メービス』に救われたときに、百万円の札束のことなんか、ぜんぜん話題になっていなかったが?」 「百万円といっても札束とは限らないでしょう? 第一、有り金をはたいて『サンダーバード号』を買ったぼくが百万円の札束を持っていたら、怪しまれますからね」 「じゃあ、ダイヤか?」 「いや」 「金《きん》とすれば、かなりの重量になるが」 「ぼくの所持品の中に、キー・ホルダーがあったでしょう。それを出してください」 「いいとも」  十津川は、キャビネットから、ハンカチに包んだ村上の所持品を取り出した。万年筆や財布にまじって、キー・ホルダーもあった。直径八センチくらいの円型の薄い物入れのついたキー・ホルダーだった。 「中に百万円はいっていますよ」  と、村上が言った。  十津川は、首をかしげながら爪《つめ》を立てるようにして蓋《ふた》を開けた。中にはいっていたのは、三枚の旧《ふる》い日本の金貨だった。 「これが百万円?」 「そうですよ。それは、旧い日本の二十円金貨です。金の分量だけなら一万円くらいのものでしょう。だが、いまはコインブームでしてね。いまそれが、デパートや専門店で、一枚四、五十万円で売られているんです。もちろん、こちらから売る段《だん》になったら、三枚で百万くらいでしょうがね。内田に、それを買って持ってくるように指示したんです。アメリカ船に救助されて、それが見つかっても、彼らには日本のコインの値打ちがわかりはしない。これはぼくのお守りだと言うつもりでした。もっともアメリカ人は、こんなキー・ホルダーは調べもしませんでしたがね」 「なかなか頭が回るな。それからどうしたんだ?」 「それから内田に、君はよくきく漢方薬を持っているそうだが、見せてくれないかと言ったんです。いつも持ち歩いて、見せびらかしているのは有名でしたからね。彼はポケットから出して、見せてくれましたよ。ぼくはそれを、よく見るふりをして、用意してあった青酸カリ入りの『セイノオー』とすりかえて、彼に返したんです。瓶の中のカプセルの量も少しちがっていましたが、そのときに調節したんです」 「なるほどね。内田は、すりかえられたとも知らず、翌朝、東京に戻り、十八日に毒薬入りのカプセルを飲み、第三京浜で死んだわけか」 「すぐに死なれては困るので、上のほうには、ふつうの錠剤を入れておきましたからね」 「そして、君のほうは、水を汲んで、何喰わぬ顔で、その夜のうちに『サンダーバード号』に戻り、すぐ南下したわけだな?」 「そうですが、その前に、ちょっとしたことがあったのです」 「なんだ?」 「さっき言った、加害者と被害者のことです。ぼくが『セイノオー』をすりかえたあとで、急に内田が、もう片方のポケットから、箱入りの新しい『セイノオー』を取り出しましてね。タヒチまでは長い航海だ、疲れたら、これを飲みたまえ、すぐ疲れがなおると言って、ぼくにくれたんです」 「ほう」 「人間というのは、おかしなもんですね」  と、村上邦夫は、急にクスッと笑った。 「自分が相手を罠にはめた、殺しを仕掛けたという気持ちになって得意になっていると、相手もひょっとすると、自分を殺そうと考えているのではないかとは、少しも考えないものですね」 「ということは、内田がくれた真新しい『セイノオー』にも、毒がはいっていたということかね?」 「そうです。内田洋一のほうも、ぼくを殺すつもりで、八丈島にやって来ていたんです。だからこそ、偽名を使ったうえに、アリバイ作りに十月十一日から十四日まで、丸栄の仕事で沖縄に行ったということにしたのですよ。ぼくが笑ったという意味が、これでおわかりでしょう? たぶん誰かに金をやって、自分の名前で沖縄に行かせたんでしょう」 「そういえば沖縄の仕事は、内田のほうから申し出たと、丸栄物産では言っていたな」 「そうでしょうね」 「だが君は、死んでいない。毒入りと気づいて、飲まなかったのか?」 「いや、ただ、幸運だったのです。いまも言ったように、ぼくは、自分が加害者だという意識しかありませんでしたから、内田のくれたものに、同じように毒がはいっているなどとは、少しも考えていませんでした」 「じゃあ、なぜ、君は死ななかったんだ?」 「それを、これから説明します」  村上は一息つき、手を伸ばして、十津川がテーブルに置いたセブンスターを新しく一本、口にくわえた。      4 「ぼくの計画では、タヒチ近くで同乗のクルー二人を殺し、死体を利用して、タヒチにいるはずの大野部長を殺すことになっていたのです。だからこそ、スタートのとき、自分で幽霊船の噂までバラ撒いておいたんですが」 「事実、君は、そのとおりにやってのけたじゃないか」 「ええ」  村上は、煙にむせたように、軽く咳込《せきこ》んだ。 「しかし、『サンダーバード号』に乗った二人のクルーには、ぼくは、なんの恨みもないんです。それどころか、低気圧にぶつかったりして、いっしょに苦労している間に、だんだん友情がわいてきて、どうしても殺せなくなってきたんです。命綱《ライフベルト》で結ばれた仲間《クルー》ですからね。これはべつに、自分の罪を少しでも軽くしようとして、言っているんじゃありません。ぼくは、死刑を覚悟しているから、嘘は言いません。だから、無理に信じてくれとは言いませんが」 「いや、信じるよ。ぼくもヨットマンの経験があるからね。同じ艇に乗っていると、いやでも友情が生まれるものだ。ただそれなら、なぜ君は、二人を殺したんだ?」 「サモア諸島に近づいたときです。ぼくはもう、あの二人を殺す気はなくなっていました。内田洋一を殺したことで満足して、そのままタヒチに行こうと考えたんです。ところが、二人が疲れを訴えた。そこで、内田からもらった『セイノオー』を、二人に飲んでみないかとすすめたんです。何度も言いますが、ぼくは、それに毒がはいっているなんて、少しも考えていなかったのです」 「君も、それをいっしょに飲んだのか?」 「いっしょに飲んでいれば、いまごろここにこうしていませんよ。ぼくは、新しいほうを二人にやり、自分は、内田からすりとったほうを飲んだんです。五、六分して突然、山下と服部の二人は、苦しみだして、あっという間に死んでしまったんです。そのときになって、ぼくははじめて、内田のほうもぼくを殺すつもりで、八丈島に来たんだなということに気がついたんです。だから、人間なんておかしいもんだと申しあげたんです。自分が相手を殺す気で、しかも、それが上手《うま》くいくと、向こうも同じ考えを持っているとは、考えなくなってしまう」 「二人が死んだんで、君は予定どおり、計画を実行に移したんだな?」 「そうです」 「すると、二人のクルーを殺したのは、君じゃなくて、内田洋一ということになるのか?」 「いや、結局は、ぼくのせいですよ。ぼくがあの二人をクルーとして採用しなかったら、いや、採用していても、内田洋一の殺人計画を立てなければ、死なずにすんだんですからね」 「殊勝だな」 「事実を言っているだけです」 「それからあとは?」 「あとはたぶん、あなたの推理と同じだと思いますね。ぼくは最初の計画に従って、山下の死体にキャプテンのヘルメットをかぶせて、漂流させ、その間に、三〇馬力の大エンジンに物をいわせて、タヒチに向かったんです」 「そして、夕方になって、S・O・Sを発信したのか?」 「そうです。そうしておいて、ぼくはパペエテの港にはいり、上陸して、大野を探しました。彼が来ていることは、レースの説明のとき、賞金授与に行くと言っていたから知っていましたからね。ただ、どこにいるかわからなかった。幸運だったのは、あの日が授賞パーティで、お祭りさわぎだったことです。日本人のぼくが歩き回っていても、少しも怪しまれませんでしたからね。そして海岸で、酔いをさましている大野を見つけて、背中から刺したんです」 「しかし、内田亜矢子は、なぜ殺したんだ?」 「彼女ですか——」  ふっと、村上の顔が歪んだ。 「ぼくは、彼女がタヒチに来ていることも知りませんでした。だが、大野を刺して艇へ帰る途中で、バッタリ彼女に会ってしまったんです。あのとき、偶然が働いていなかったら、彼女だけは殺さずにすんだのに」 「それは、まだ彼女に未練があったということかね?」 「だらしのないことですが、そのとおりです。顔が会ったとき、彼女は、ぼくに対してなんの疑いも示しませんでしたよ。当然かもしれませんね。彼女はまだ、大野が殺されたことを知らなかったんですから。ぼくもビリで、やっとタヒチに着いたと思ったようです。それで、内田が死んだことや、東京の街がいやになったので、タヒチにやって来たことなんかを、話してくれましたよ」 「それで?」 「髪に真紅のハイビスカスを差した彼女が、やけにきれいに見えましたね」 「長い航海のあとは、女がやたらに美しく見えるというからな」 「そうかもしれません。それでつい、ぼくは彼女を口説いたんです。内田が死んで独りなら、いっしょにならないかと。なぜあんなときに、そんなことを言ったのか、いまになってみると、ぼく自身にもよくわかりません」 「そして、こっぴどくはねつけられた?」 「彼女は笑ったんですよ。それも、さもおかしそうにね。そして、こう言いましたよ。あたしはお金のない人は嫌いだと。そう言われても、仕方のない状態でした。日本に帰ってからは、妙な具合に有名になり、金もはいりましたが、そのときは、なけなしの金で中古ヨットを買った失業者ですからね」 「そして、カッとして彼女を殺した?」 「気がついたときは、彼女を殴っていたんです。重油を盗むのに必要だと思って持っていたスパナで。気がついたとき、彼女はもう死んでいました。ぼくは仕方なく、死体を『サンダーバード号』に運び込んだんです」 「それと、重油三缶だろう?」 「そうです。あのエンジンは、やたらに油を食いますからね」 「そして、途中の海に亜矢子の死体を捨てた?」 「捨てた、というよりも、ぼくは、水葬したという気持ちでした。本当ですよ。そうでなければ、重石をつけて沈めます。流れて、サンゴ礁に引っかかって、発見されるようなことはしませんよ。だが、ぼくには、彼女の身体に、重石をつけるような気にはなれなかったんです」 「信じよう」 「ありがとう」  と、村上は、軽く頭を下げた。 「そのあとは?」 「前の海面に急行して、死体と入れかわった。それだけです。ぼくの予想どおり、山下の死体を乗せたゴムボートは、沈んでいました。あとは、計画どおり上手くゆき、アメリカ空軍の捜索機が来、そして、駆逐艦が来て、救助されたんです」 「そして、現代の英雄に祭り上げられたんだったな?」 「そうです」 「放火も認めるんだな?」 「否認しても、あなたの仕掛けた罠に、見事に引っかかったんだから、放火も自供したようなものでしょう」 「君が、松本清張の本で、われわれを引っかけたお返しさ。ところで、まだ、いろいろとわからんことがある」 「なんです? こうなれば、なんでも話しますよ」 「白いヘルメットとゴムボートは、二つ用意してあったわけだろう?」 「そうです」 「そのことで、二人のクルーが、疑問を持たなかったかね?」 「いや、ゴムボートが二つあるということは、安全ということで、かえってクルーは喜んでいましたよ。ゴムボートは折りたたみ式ですから、たいしてかさばりません。それからヘルメットは、彼らのも、二つずつ揃えておきましたから、これもべつに疑われませんでした。もちろん、『サンダーバード号』を流すときには、一つずつにしましたが」 「ゴムボートに穴をあけて、上手く沈む時間を調節できたのは、前に実験でもしたのかね?」 「大学時代に、ゴムボートに小さな穴があいていて、ゆっくりと沈んだことがあったのです。そのとき、引きあげて、いろいろと調べた。それが役に立ったんです」 「マストは、二つのアンカーとロープを使って折ったんだろう?」 「そうです。あの辺りには、アンカーを引っかけるサンゴ礁がいくらでもありますからね」 「青酸カリは、どうやって手に入れたんだ? 証券会社じゃ、青酸カリは扱っていないはずだが?」 「ええ。手に入れたのはずいぶん前ですよ。下町のメッキ工場のおやじに、ある株を推奨して、少しもうけさせてやったのです。おやじはそれを喜んで、自分の家へ呼んで大歓迎してくれました。そのとき、工場も見せてくれました。当時は、金や銀のメッキに、青酸カリを使っていたんです。いまは知りません。そのとき、内証で、少し盗って帰ったんです。べつに何をするという目的も、そのときはなかった。これは本当です。そして、なんとなくしまっておいたのを、今度、利用したのです。効力が失《う》せなかったのは、ガラス瓶に入れ、暗い机の引出しにしまっておいたからでしょう」  村上は、冷えたお茶をのどに流し込んだ。 「もう、きくことはないでしょう?」 「いや、もう一つある」 「なんです?」 「名取高志という男のことだよ。あれは、今度の事件とは、まったく関係のない人間だったのか、それとも関係があったのか、どうしてもわからん。どうなんだね?」 「ああ、あの気の毒な男のことですか——」  村上は、小さく溜息《ためいき》をついた。 「じゃあ、君は知っているんだな?」 「ええ」 「君の計画の中に組み込まれていた人間ということか?」 「そうです」 「だが、なんの役目をさせる気だったんだ? われわれ警察の捜査を、誤った方向に導かせるためか?」 「いや、ちがいます」 「じゃあ、なんの役目に使ったんだ?」 「彼は、ぼくがクルーを募集したとき、応募して来た一人です」 「だと思ったよ」 「だが、話してみて、とうていクルーに雇えないことがわかりました。ヨットと海は好きだが、クルージングの経験も知識も、ほとんどなかったからです」 「それで?」 「最初、すぐ帰そうと思いました。が、彼がある意味で必要なことがわかったのです。それでぼくは、グアム島で待っていれば、そこで『サンダーバード号』に乗せてやると嘘を言ったのです。グアムへ着くのは、たぶん十一月六日から九日の間だろうと。このほうは、だいたい正確な、というより、余裕を持った日時を教えたんです」 「じゃあ、やはり、われわれをあざむく目的で利用したんじゃないか。おかげでわれわれは、君が名取高志を八丈島で殺し、沖縄→グアムと、彼になりすまして飛んで、『サンダーバード号』に乗り移ったと考えてしまったからな」 「結果的には、そうなったかもしれませんが、本当は、逆の目的で、名取高志をグアムへ行かせたんです」 「よくわからんな」 「ぼくは、警察が、八丈島から東京へ舞い戻って内田を殺し、グアムに飛んで、『サンダーバード号』にふたたび乗り込んだと推理するだろうと思ったのです」 「そのとおりになったんだから、思う壺《つぼ》だったわけだろう?」 「そうです。だが、ひょっとすると、困ったことになるかもしれないという危惧《きぐ》も感じたんです」 「どんな?」 「警察がそう考えたとき、反証が必要だからです。最初、二人のクルーは、殺す計画でしたから、ぼくが八丈島から東京に舞い戻り、またグアムで乗り込んだのではないことを、証言してくれる人間はいなくなってしまう。それに、内田も殺すわけですから、彼の証言も期待できない。もし、同じ時期に、ぼくと同年輩ぐらいの犯罪者が、ニセのパスポートでも使って、グアムに飛び、そこで姿をくらましたなら、あなたがたは、その男こそぼくだと考えるでしょう。実際にはちがっても、ぼくには、反論ができないのです」 「なるほどな。考えてみれば、そうだな」 「結果的には、第九昭栄丸という伊豆下田の漁船が、十月十四日の朝、八丈島の南で、ぼくたちを写してくれたので、それが有力な反証になりましたが、あれは偶然です。計画の段階では、偶然は期待できません」 「そうか。君は、名取高志を、証人にしようと考えたのか?」 「そのとおりです。グアムで乗せてやろうと言えば、あの男は、喜んでグアムで待ち、海を眺めて待っていると思ったのです。グアムの南端で、ヨットを近づけ、そこで乗せてやると、地図で教えてやっておいたのです。十月十日のスタートの日、彼が見送りに来ていたのを、ぼくは知っていましたよ。手で、変てこな輪を作って、ぼくに合図を送っていたこともね。ぼくは、彼が待っているグアム島の南端へ、『サンダーバード号』を近づけ、彼の見ている前で、置いてきぼりにして、南下してしまうことにしていたのです。そうすれば、あの男は、怒って、グアム島で乗せると約束していたのに、寄らずに逃げたと言いふらすでしょう。それが、ぼくがグアムから『サンダーバード号』に乗り込まなかった一つの証言になると考えたんです」 「なるほどな。用意周到だな」 「わざと艇をゆっくり走らせたりして、グアムへ近づく日を調節するのに苦労しましたよ。その前に、第九昭栄丸に会っていましたが、彼らが撮ってくれた写真に、ちゃんとぼくが写っているかどうか、わかりませんでしたからね。だから、どうしても、名取高志を目撃者にしておきたかったんです」 「それで、君の書いた航海日誌に、いやに早い区間と、いやにゆっくりした区間があったんだな。あれは、名取に、グアム島へ近づく日時を指定してあったので、途中でスピードを調節しながら走らせていたからだったわけか」 「そうです。とくにサイパン島の沖に早く着きすぎたので、サイパンからグアムまで、ゆっくり走らせるのは、苦労しました。さいわい、無風状態がつづいたので、助かりましたが」 「しかし、他の二人のクルーが、よく怪しまなかったな?」 「われわれの艇は、もう、完全に優勝争いから脱落していましたからね。まあ、ゆっくり行こうやと言ったら、山下と服部も、べつに怪しみませんでしたよ。こっちは、目撃者のことで必死でしたが」 「ところが、その名取高志のほうは、君が命令したように、じっと待ってはいず、毎日毎日、貸しヨットを借りて、一生懸命、練習していたというわけか」 「そうです。たぶん最初は、十月十日にわれわれのスタートを見送ったあと、家に帰らず、日本のどこかのマリーナで練習し、それから沖縄へ行って練習し、グアムへ来ても練習していたんでしょう。『サンダーバード号』の一員になるためにね。悪いことをしてしまいました」 「そして、十一月八日に、練習中の貸しヨットが転覆して、グアムで死んだか」 「そうです。『サンダーバード号』は、翌日の九日の午後三時ごろ、グアム島の沖に着いたんです。南端へ行ってみたが、陸地には、いくら望遠鏡で見ても、彼の姿は見えませんでした。その前日に、貸しヨットが転覆して死んでいるなんて、夢にも考えませんでしたからね。本当に気の毒なことをしたと思います。彼も、ぼくが殺したようなものですからね。だがあのときは、望遠鏡で見えなくても、どこかで『サンダーバード号』を見ているはずだと信じたのです。だから、わざとグアム島の沖を、ゆっくり走らせてから、南下したんです」 「そして、日本へ帰ってから、名取高志の死を知ったのかね?」 「いや。帰ってしばらくは、知りませんでした。千葉市の彼の家へ電話するのは、危険と思ったからです。それに、東日の人から、第九昭栄丸の船員の撮った写真に、ちゃんと自分が写っていると聞いてからは、名取高志の証言が不必要になったので、彼のことは忘れてしまっていました。せいぜい腹を立てているくらいに考えてです。彼がグアムで死んだと知ったのは、ごく最近です。東日新聞社に行ったとき、偶然、去年の縮刷版を見ていて知ったのです。いまから考えると、無益にあの人を死なせてしまったと後悔しています。本当にきまじめで、いい人でしたからね」  村上は、大きく溜息をつき、疲れたように眼を伏せた。 [#改ページ]  エピローグ  すべては終わった。  村上邦夫は起訴され、おそらく死刑の判決を受けるだろう。  十津川警部補は、自分の机に戻ると、疲れた表情で眼をこすり、それから、横に投げ出されてあった夕刊を手に取った。  社会面の隅に、今日、西沢栄太郎という青年が、手造りのクルーザーで、油壺から単独無寄港《ノンストツプ》世界一周に出発したというニュースが載っていた。  十津川は、油壺で会った三人の若いヨットマンの一人の顔を思い出した。  二人の若者が現代の英雄になったとたんに、一人は殺され、一人は起訴された。そしていま、また一人の若者が、現代の英雄を目ざして船出している。 この作品を執筆するにあたり、松本清張氏のご好意により、氏の中編『火と汐《しお》』を参考にさせていただきました。ここに謹んで謝意を表します。 角川文庫『赤い帆船』昭和57年9月10日初版発行           平成8年7月30日43版発行