[#表紙(表紙.jpg)] 西村京太郎 謎と殺意の田沢湖線 目 次  謎と殺意の田沢湖線  謎と憎悪の陸羽東線  謎と幻想の根室本線  謎と絶望の東北本線 [#改ページ]   謎と殺意の田沢湖線      1  中央線の国立《くにたち》駅から、車で北へ十二、三分も走ると、団地に沿って、雑木林や公園の緑が多くなってくる。  まだ、どこかに武蔵野の面影が、残っているということなのかも知れない。  最近、この辺りに、五百坪の土地を買い、和風の家を建てた人間がいた。  木造三階建てという、ちょっと珍しい邸《やしき》である。  東京では、豪邸だった。  表札には、「村越」と書かれていた。  邸の主は、六十歳前後の太った男で、東北|訛《なま》りの喋《しやべ》り方をする。眼つきが鋭いので、ひょっとすると暴力団の組長か何かではないかと、不安がる人もいたが、顔があうと、ニッコリしてあいさつするので、怖いという印象は、次第に近所の人たちから消えていった。  奥さんは、小柄で、大人しい人だった。  広い邸には、この夫婦の他に、四十歳ぐらいの運転手と、六十歳前後のお手伝いさんがいた。二人とも、この近くの人で、邸ができてから傭《やと》われたのである。  村越は、この運転手の運転するベンツで、毎朝、邸を出発して行く。田村という運転手の話では、三鷹《みたか》に大きな家具工場があって、村越は、その社長さんだという。  また、お手伝いの及川ちよ子の話では、三百坪の庭に、大きな池があって、村越は時々、その池の縁《ふち》に立って、ぼんやり、池の面を眺めていることがあるという。 「あの池がとても気に入っているみたいですよ」  と、ちよ子は、いった。  近所の人たちが、村越について知っていたのは、このくらいのことだった。  九月九日の朝、けたたましいサイレンの音をひびかせて、一台、二台とパトカーがこの邸の前に到着して、近所の人たちは、びっくりしてしまった。      2  パトカーから降りた捜査一課の十津川は、部下の亀井たちと、広い邸の中に入って行った。  部屋数の多い邸である。  十津川たちは、一階の三十畳ぐらいの広さのある応接室に入った。  ここだけが洋間で、二組の応接セットが置かれてある。  その一つのソファで、俯《うつぶ》せに、小柄な女が死んでいた。  着物姿の、村越の妻、良子だった。背中を刺されていて、白い革のソファも血でどす黒く染まっている。  次に、十津川たちは、広い庭に出た。  大きな池があり、その池の水面に、これも俯せの形で、村越の死体が浮かんでいた。  村越も、着物姿で、背中を刺されている。  若い西本刑事と、日下刑事が、池に入って、死体を引き揚げようとして、足を水に入れかけて、あわてて戻ってしまった。  池が、やたらに、深かったからである。  仕方なく、棒を使って死体を引き寄せ、そのあと、腕と足を持って、池の縁に引きずりあげた。  検視官が死体を調べている間、十津川は、一一〇番してきたお手伝いの及川ちよ子から、事情を聴くことにした。  ちよ子は、まだ、青い顔で、 「今朝、お食事の仕度をしてから、いつものように、三階の寝室に、ご主人と奥さんを起こしに行きました。そうしたら、お二人とも寝室にいらっしゃらなくて、お探ししたんです。一階の応接室へ入ったら、奥さんが死んでいて、庭のお池でご主人が──」  と、いった。 「二人が殺されたのは、昨夜のことだと思うんだが、物音とか、叫び声に、気がつきませんでしたか?」  と、十津川は、きいた。 「私と、運転手の田村さんは、別棟で寝起きしていますから」  と、ちよ子は、いった。 「昨夜は、何時に、寝たんですか?」 「私ですか? 私は十時頃に寝ました。田村さんもその頃だと思いますわ」  と、ちよ子は、いう。  それが本当なら、村越夫婦が殺されたのは、そのあとだろう。  運転手の田村にも会ったが、彼も、別棟にいたので、何も聞いていないといった。 「今朝、ちよ子さんに知らされて、びっくりしたんです」  と、田村は、いった。  十津川は、もう一度、庭に引き返した。  検視官は、十津川に向って、 「殺されたのは、昨夜の十一時頃じゃないかね。恐らく、被害者は、逃げようとして背中から刺されたんだな」 「そして、自分から池に飛び込んで、死んだのかね?」 「いや、犯人が引きずって行って、池に投げ込んだんだよ。応接室から庭の池まで、死体を引きずった跡があったからね」 「なぜ、こんなことをしたんだろう?」 「それは、あんたたちが考えることだろうが」  と、検視官は、笑った。  二つの死体は、解剖のために運ばれて行った。  そのあと、十津川は、応接室と池の間を、ゆっくり歩いてみた。  犯人は、まず、村越の妻良子を刺し殺し、庭に逃げようとする村越を背後から刺したのだ。  庭に面したガラス戸の傍に、血溜《ちだま》りが見える。  恐らく、ここで、村越は事切《ことき》れたのだろう。  そのあと、なぜか犯人は、村越の死体を庭の池まで引きずって行って、投げ込んだのだ。  検視官のいったように、建物から池のところまで、地面に、死体を引きずった跡があった。  死体を隠すためではないらしい。もし、池に沈めたかったのなら、重石《おもし》をつけただろうが、それは、ない。 「妙な具合だな」  と、十津川が呟《つぶや》くと、西本刑事が、 「妙だといえば、あの池も、妙な池ですよ」 「なぜだね?」 「やたらに、深いですよ。普通は、せいぜい一メートル前後のものでしょう。それなのに、あの池は、五、六メートルは、ありますよ。のぞくと、ちょっと怖いですね」  と、西本がいうのだ。  十津川も、池の縁に立って、のぞいてみた。  なるほど、透明な水底が、はるか下に見える。試しに、傍にあった小さな石を投げ込んでみると、偏平な石は、ゆらゆらゆらめきながら、ゆっくりと沈んで行った。池の底につくのに、かなりの時間がかかったから、確かに、五、六メートルはありそうだった。 「こんなに深かったら、池の底を清掃するのも大変でしょう」  と、日下刑事が、いった。 「それに、この池には、魚がいませんよ」  と、西本が、いった。 「それは、好き好きじゃないのかね」  亀井がいうと、西本は、 「しかし、普通、これだけ大きな池を作ったら、鯉なんかを飼いたくなるんじゃありませんか」  と、いった。  十津川には、どちらかわからない。魚など飼わずに池の美観だけを楽しむ人間もいるだろう。だが、池の深さだけは不可解だった。掃除が大変というだけでなく、危険だからである。  鑑識は、殺人現場と思われる応接室の写真を撮り、指紋の採取をしている。  十津川は、三階にあがって行った。  三階の窓を開けると、周囲に、まだ緑が多いせいで、景色がよかった。 (この景色を楽しむために、わざわざ三階建てにしたのか)  と、思ったくらいである。  反対側の窓を開けると、広い庭が見下ろせた。  寝室の窓になっているから、村越夫婦は時々庭を見下ろして満足していたのかも知れない。  三階から見下ろすと、池の深さが威力を発揮して、真っ青な水面に見えた。 (きれいだ)  と感心しながら、しばらく十津川は見ていたが、そのうちに、池の形が気になってきた。  下で見ていたときは、やたらに大きく、円い感じの池だなとだけ思っていたのだが、上から見ると、ただの円さではないことがわかった。  偶然なのか、それとも意識して作ったのかわからないが、円形の線が、波を打っているのだ。  十津川は、一階にいる鑑識課員を呼んで、三階から、池の写真を撮って貰《もら》った。 「池の形が、何か意味があるんですか?」  と、カメラを構えながら、鑑識課員が不思議そうにきいた。 「私にもわからないよ。現像ができたら、すぐ大きく伸ばして、持って来てくれ」  と、十津川は、いった。  十津川は、再び、一階に降りて行った。  発見者の及川ちよ子の証言によれば、玄関の扉は、錠がおりていなかったというから、犯人は押し入ったのではなく、村越が扉を開けて、招じ入れたのだと、十津川は思った。  しかし、その客に、何かを出した形跡はない。ビールも、お茶も、コーヒーも出さなかったと思われる。 「初めから、楽しい客ではなかったようだね」  と、十津川は、亀井にいった。 「しかし、会ったということは、会わなければならない客でもあったと思いますよ」  と、亀井は、いった。  一階には、広いキッチンがあった。お手伝いの及川ちよ子の話では、このキッチンの包丁や果物ナイフなどは、一本も失《な》くなっていないということだった。 「つまり、凶器は、犯人が外から持ち込んだということだな」  と、十津川は、いった。 「最初から、殺す気だったんでしょうか?」  亀井が、きく。 「いざとなれば、殺してもいいと、思っていたんだろうな」  と、十津川は、いった。  十津川は、西本たちに、周辺の聞き込みをやらせておいて、自分は、亀井と二人、パトカーで、三鷹にある家具工場へ行ってみた。  JR三鷹駅から、車で十五分、調布市に近い場所に作られた大きな工場である。  ここでは、高級家具が専門に製造されていた。  十津川たちは、副社長の立石に会った。  立石は、十津川に聞かされて、初めて、社長の死を知ったといった。 「珍しく、出社がおそいなと思ってはいましたが、殺されたなんて、全く、考えませんでした」  と、立石は、青ざめた顔で、いった。 「会社の経営は、うまくいっているんですか?」  と、十津川は、きいてみた。 「大衆の高級指向を先取りしたので、非常にうまくいっています。年々、売り上げを伸ばしていますよ」  と、立石は、いった。 「村越社長とは、いつ頃からのおつき合いですか?」 「社長が、ここに工場を作られてからで、六年のおつき合いです」 「すぐ、副社長になられたんですか?」 「そうです。私はもともと家具の大手メーカーで働いていたんですよ。それで、社長に乞《こ》われて、この会社に移って来たんです。まあ、社長の熱心さと、高級家具専門にやりたいという先見性に惚《ほ》れたんです」  と、立石は、いった。 「村越さんの経歴を、知っていますか?」  と、亀井が、きいた。 「いや、よく知りません。ご自分の過去を話したがらない方ですからね。東北の生れということは聞きましたが、もうそこには、家族も親戚もいなくて、本籍も全《すべ》て東京に移してしまったと、いっておられました」  と、立石は、いった。 「東北の何処か、わかりませんか?」 「わかりません。きいたこともないので」 「この工場を作る資金は、どうしたんでしょうか?」  と、十津川は、きいた。 「それも、わかりません。相手は社長ですからね。そんなことをきくのは、失礼だから、きいたことは、ないんです。しかし、経営は黒字ですよ」  と、立石は、いった。 「村越さんを憎んでいた人に、心当りはありませんか?」 「憎んでいたですか? さあ、そんな人はいないと思いますがねえ」 「しかし、商売敵《しようばいがたき》というのは、いたんじゃありませんか?」 「この辺りに、他に家具工場はありませんしね。高級家具専門で造っていますから、他の家具メーカーと競合することも少なかったですよ」  と、立石は、いう。  競争相手は、外国の家具メーカーだとも、立石はいった。 「取引銀行は、どこですか?」 「M銀行です。M銀行の三鷹支店です」 「ところで、昨夜、あなたは、どうされていましたか?」  と、十津川は、きいた。  立石は、眉《まゆ》を寄せて、 「私も、疑われているわけですか?」 「被害者の周辺にいた人のことは、全員、調べることにしています」  と、十津川は、いった。 「昨夜は、社長の代理で、得意先の社長を接待して、銀座に飲みに行きましたよ。帰宅したのは、午前二時過ぎです」 「社長の代理というのは、どういうことですか?」 「本当は、社長が接待することになっていたんですが、急用ができたといわれましてね。夕食だけは一緒にしましたが、そのあと社長は帰宅されて、私一人がお得意と銀座のクラブに出掛けたんですよ」  と、立石は、いった。 「夕食は、何処で?」 「銀座です。銀座のK飯店で、中国料理を食べました」 「そのあと、社長は、帰宅したんですね?」 「そうです」 「それは、何時頃ですか?」 「確か、八時頃でしたね」  と、立石は、いった。 「社長は、車で、帰った?」 「ええ。タクシーで、帰りましたよ」 「しかし、社長は、ベンツを持っているし、運転手もいるでしょう?」 「ええ。ただ、接待のときなんかは、運転手を帰して、タクシーを利用されていたんです」  と、立石は、いう。 「車で、銀座から国立の自宅まで、どのくらいかかるかな?」  十津川は、傍にいる亀井にきいた。 「二時間あれば、十分でしょう」  と、亀井が、いった。 「すると、午後十時頃には、帰宅していたことになるな」 「そのあと、犯人が、やって来たということでしょう」  と、亀井は、いった。  十津川は、立石に、視線を戻して、 「村越さんは、急用ができたといったんですね?」 「そうです」 「急用の中身は、何だったんでしょうか?」 「わかりません。社長は、いちいちきかれるのを一番嫌がる方なので、質問しないことにしていましたから」 「しかし、想像はついたんじゃありませんか?」 「食事中も、時々、腕時計を見ておられましたからね。多分、誰かに会う約束をされていたんだと思いますね」  と、立石は、いった。 「村越さんが、誰かにゆすられていたということは、ありませんか?」  と、十津川は、きいた。 「ないと思いますな。少なくとも、ここへ誰かが押しかけて来たということは、ありません」  と、立石は、いった。      3  十津川と亀井は、次にM銀行三鷹支店に行き、山中という支店長に会った。 「村越さんとは、ここ数年、取引きをさせて頂いています」  と、山中は、いった。  彼も、村越夫婦の死は知らなくて、びっくりしていた。 「村越さんは、こちらに、借金をしているんじゃありませんか?」  と、十津川は、きいた。 「ええ。六年前、あの工場を建てられるときに、資金をご用意しましたが」 「担保は、何ですか?」 「あそこの土地です」 「すると、あの土地は、その時に、他の抵当には入っていなかったんですね?」 「ええ。もちろん」 「土地は、現金で買ったのかな?」 「さあ。ともかく、うちで工場建設資金をお貸ししたときは、抵当には入っていませんでした」 「当時で、あの土地は、いくらぐらいしたんですかね?」 「七百坪ありますから、二十億から、二十五億はしていたと思いますよ」 「それで、いくら融資されたんですか?」 「十億です。毎月、きちんと返済されていますよ」 「ということは、儲《もう》かっているということですね?」 「ええ。あの会社は、優良企業です。もっと大きくなると期待していたし、社長さんも、東京以外にも工場を作るといわれていたんですがねえ。殺されるとは、信じられません」  と、山中支店長は、いった。  続いて、十津川たちは、立石副社長のアリバイを調べてみた。  彼が夕食を一緒にし、銀座で飲んだという家具店の社長に会った。  新宿に戦前から店を出している社長だった。 「村越家具の製品は、品質がいいので、うちの店に置いて貰っているんですよ」  と、その社長は、いった。 「昨日は、銀座で一緒に夕食をとられたんですね?」  と、十津川は、きいた。 「ええ。中国料理をね。向うの副社長も、一緒でしたよ」 「村越さんは、夕食だけで帰ったそうですが?」 「そうです。急用ができたとかいってね。それで、副社長と、銀座のクラブで飲みました」 「副社長の立石さんと別れたのは、何時ですか?」 「十二時近かったですよ。何しろ、看板近くまで飲んでいたから」 「死んだ村越さんとは、どのくらいのおつき合いだったんですか?」 「あの会社の家具を、初めてうちで売ったのが三年前だから、それ以来のつき合いですよ」 「村越さんは、どんな人ですか?」  十津川は、漠然としたきき方をした。 「どんなといわれてもねえ」  と、相手は当惑した顔で、考えていたが、 「とにかく、やり手ですね。よくも悪くもね」 「ということは、敵も作り易いということですか?」 「そうですね。しかし、そのくらいじゃないと、浮き沈みの激しい時代に、うまくやっていけないんじゃありませんかね」 「村越さんを恨《うら》んでいた人間に、心当りはありますか?」 「いや、敵は作り易い人だとは思いましたが、現実にいたかどうか、私にはわかりませんよ」  と、家具店の社長は、いった。  十津川と、亀井は、国立警察署に戻った。ここに捜査本部が置かれることになったからである。  西本たちも、帰ってきた。が、冴《さ》えない顔で、 「聞き込みをやってきましたが、これといったことは、きけませんでした」 「何もきけなかったわけじゃないだろう?」 「そうなんですが、村越家はほとんど近所づき合いをしてなかったようなんです。近所の人たちも、大きな家だなと思っていただけで、敬遠していたみたいで」 「近所づき合いは、ゼロか」 「一つだけ、面白いと思ったのは、近くにお寺があって、春と秋にお祭りをするんですが、その時、村越家では、毎年百万円を寄附していたそうです。春と、秋に、五十万ずつです」 「そりゃあ、たいしたものだ」 「ええ。お寺の住職も、感謝しているといっていましたよ」 「村越は、信心深い男だったのかな?」 「と、思いますが──」 「他には?」 「今日の聞き込みでわかったのは、これだけです」  と、西本は、いった。  午後になって、村越夫婦の解剖結果が出た。  どちらも、死亡推定時刻は、昨夜の午後十一時から、十二時の間だった。  死因は、村越の場合は、出血死、妻の良子はショック死である。良子は、背中を刺されたショックで、死んだのだろう。  十津川が一番興味を持ったのは、村越の肺に殆《ほとん》ど水が入っていないという報告だった。  つまり、死んでから、池に投げ込まれたということなのだ。  犯人はなぜ、そんなことをしたのかという謎《なぞ》が、残ったことでもある。  庭の池を三階から撮った写真も、鑑識課員が、持ってきてくれた。  十津川は、それを黒板にピンで止めた。 「何の写真ですか?」  と、亀井が、十津川にきいた。 「何かって、村越の死体が浮かんでいた池じゃないか」  十津川は、笑って、いった。 「本当ですか?」 「ああ。あの池を、三階の窓から写したんだ」 「美しいですね。普通、家の庭に作られた池は、こんなに青くは見えないでしょう?」 「多分、深さがあるからじゃないかね」 「この写真は、どうされるんですか?」  と、亀井が、きく。 「私にも、わからないんだ。ただ、上から見たとき、妙に気になってね。君のいったように、青く、美しい。村越は、そういう池にしたかったのか。だから、五、六メートルも掘ったのか。それにもう一つ、引っかかることがあった」 「何ですか?」 「この池の形さ」  と、十津川は、いった。 「おかしいですか?」 「庭に池を作るときのことを、考えたんだよ。円形、楕円《だえん》、ひょうたん型、と、いろいろだが、きれいな形にするだろう。ところが、この池の形をよく見てくれ。縁の線がぐにゃぐにゃしている。まるで、円形にしようとして、失敗したように見えるんだよ」 「その通りじゃないんですか? ひょっとすると、村越が自分で作った。それで、うまくできなかったんじゃありませんか?」  と、亀井が、いった。 「いや、素人に、五、六メートルも掘ったりはできないよ」 「じゃあ、警部は、わざと、すっきりした円形ではなく、デコボコした池を作ったと、いわれるんですか?」  と、亀井は、きいた。 「私の勝手な想像だがね」 「そのことが、殺人と関係があるんでしょうか?」 「それも、わからないよ」  と、十津川は、いった。  彼自身も、池の形に拘《こだわ》ってばかりはいられないと、わかっている。  これは、殺人事件の捜査であって、池の形の捜査ではないからだった。  十津川は、村越夫婦を知っている人間を、一人ひとり、洗っていくという地味な捜査に、全力をつくさなければならない。それが、捜査の本道だからである。  池の写真は、しばらく、ピンで止めたままになった。  村越家具の立石副社長については、アリバイが成立したが、他の社員も、全て調べることになった。  他に、村越家具の取引き相手、同業の家具製造会社の社長、村越の女性関係と、十津川は捜査範囲を広げて行った。  だが、容疑者はなかなか浮かんで来なかった。  アリバイが成立してしまうし、アリバイが不確かな者には、犯人と特定するだけの証拠が見つからないのである。  空しく、三日間が過ぎた。  いぜんとして、これという容疑者は見つからない。それだけでなく、六年前、村越が三鷹の七百坪の土地を買ったときの資金の出所も、はっきりしないままだった。  四日目に、捜査会議が開かれたが、報告する十津川も、元気がなかった。 「今までに調べた人間は五十人に達していますが、その中に容疑者はいませんでした。もちろん、村越邸で働いていたお手伝いの及川ちよ子と、運転手の田村についても調べましたが、どちらも犯人とは思えません。及川ちよ子の力では村越の死体を池まで運んで行くのは無理だと思いますし、運転手の田村は、村越夫婦が死んで、少しも、トクをしないのです」 「容疑者ゼロということかね?」  と、三上本部長が、きいた。 「今のところは、そうです。しかし、犯人は、必ず、いるわけです」 「動機は、何だと、思っているのかね?」 「怨恨《えんこん》です。邸内から、金や、宝石が盗まれた形跡は、ありませんから」  と、十津川は、いった。 「個人的な怨恨かね?」 「多分、そうでしょう」 「それなら、容疑者は簡単に見つかると思うんだがねえ」  三上本部長は、皮肉な眼つきをした。 「そうなんですが、今回は駄目でした」 「なぜ、今度の事件では、駄目なのかね?」  と、三上が、きいた。 「その恨みの原因が、遠いところにあるのではないかと、思っているんです。だから、彼の周辺をいくら調べても、見つからないのではないかと」  十津川は、あまり自信のない調子で、いった。 「つまり、被害者の過去ということかね?」 「そうです」 「しかし、村越は、全て東京に移してしまって、生れた場所には家族も親戚もいないんじゃなかったのかね?」 「今、それを調べているところです」  と、十津川は、いった。  村越の元の本籍地は、秋田県S郡K村である。だが、そこから、東京に移してしまっている。  秋田県から回答があったのはその日の夕方になってからだが、それによると、K村はダム工事のため水没してしまい、村民はばらばらになって、近くの村に移った者もあれば、都会に出た者もいる、というものだった。 (それで村越は、本籍地を東京に移してしまったのか)  と、思った。  彼の元の本籍地は、消えてしまい、文字の上だけになってしまっているのだ。  亀井は、秋田県S郡というのを地図で探していたが、急に黙って立ち上ると、部屋を出て行ってしまった。  十津川が、呆気《あつけ》にとられていると、二十分ほどして、興奮した顔で、戻ってきた。 「どうしたんだ? カメさん」  と、十津川がきくと、亀井は、手に持っている本を、ポンと机の上に置いた。  写真集だった。 「近くの本屋で、買って来ました」 「何の本だい?」 「日本の有名な湖沼の写真です。ここを見て下さい」  と、亀井は、折り込みをしたページを開いた。  〈田沢湖──日本一の深さを誇る湖〉  と、あり、真っ青な水をたたえる田沢湖の写真が、出ていた。  十津川は、黙って、その美しい写真を見ていたが、急に、 「なるほどね。そっくりだ」  と、呟いた。 「そうでしょう。村越邸の池と、全く同じ形をしているんです」  亀井は、眼を輝かせて、いった。 「よく、わかったねえ」 「秋田県S郡というのが、田沢湖の近くなんです。それで、ひょっとすると、と、思いましてね」 「村越は、田沢湖と全く同じ形の池を、自分の家の庭に作り、毎日、それを眺めていたということになるね」 「庭の池にしては、異常に深く掘ったのは、田沢湖が、日本一の深さだからということもあるし、深く掘れば、同じような青さを、たたえられると、思ったからじゃありませんか」  と、亀井が、いう。 「確かに、三階から見下ろすと、美しい青さに見えたよ」  と、十津川は、いった。  亀井は、田沢湖の写真を見ながら、 「村越は、どういう気持だったんでしょうかね? 自分が生れた近くの田沢湖そっくりの池を庭に作り、毎日、眺めていた。その一方で、本籍を東京に移してしまっている。生れた土地が、嫌いだったようにも、思えるんですが」  と、いった。 「生れた村が、消えてしまったんだから、仕方がなかったんだろう。本籍地が、存在しなくなってしまったから、本籍地でもなくなったと思っていたんじゃないかね?」  と、十津川は、いった。  十津川は、東京に生れ、東京に育っている。だから、本籍地という感じが、よくわからないともいえる。 「しかし、故郷が懐かしければ、生れた村が消えてしまっても、それをずっと本籍にしておきたいものですよ。特に、東北に生れて、東京で生活している人間は」  と、亀井は、いった。 「すると、村越は故郷は嫌いで、同時に懐かしかったということかな」  と、十津川は、いった。 「そこに、或いは、村越夫婦が殺された理由があるのかも知れませんね」  亀井が、相変らず、田沢湖の写真を見つめながらいった。 「田沢湖へ行ってみよう」  と、十津川は、腰を上げた。      4  十津川と亀井は、翌日、東北新幹線で、盛岡へ向った。  九月十三日、東京は残暑がしきりだったが、盛岡駅に降りると、さすがに、みちのくで、ホームに吹く風が涼しかった。  盛岡から、田沢湖線に乗りかえる。  一三時四七分発のL特急「たざわ11号」に乗った。  東北新幹線の車内では、さほどではなかったが、こちらの車内では、東北訛りの声が、飛びかっていた。東北にやって来たという実感がある。  亀井の表情が、生き生きしてきたのは、そのせいだろう。 「カメさんは、いつまでたっても、やはり東北の人間なんだな」  と、十津川は、微笑した。 「私の夢は、警察を退職したら、東北の片田舎に住んで、川で魚を獲《と》り、山に登って、ぼんやり青空を眺めることです」  と、亀井は、いった。  十津川は、車窓に眼をやった。 「村越夫婦は、上京する時、この田沢湖線で盛岡へ出たんだろうね」 「そうですね。他にルートはありませんから、この線に乗ったと思います」  と、亀井も、いった。  村越は、郷里に対して、嫌悪と懐かしさを同時に感じていたと思われる。そうだとすると、何年か前、二人はどんな気持で、盛岡行の列車に乗ったのだろうか?  そんなことを考えている中に、列車は田沢湖駅に着いた。  田沢湖観光の玄関だけに、ここで降りる乗客が多かった。  町も鉄道も観光に力を入れていることがわかる。  駅前には、洒落《しやれ》た観光案内所が設けられ、湖へ行くバスも出ている。貸自転車も並んでいる。  十津川は、田沢湖も見たかったが、同時に消えてしまったS郡K村の場所も知りたくて、バスではなく個人タクシーに乗ることにした。個人タクシーならこの土地の運転手だろうと考えたからである。 「まず、田沢湖へ行って下さい」  と、十津川は五十五、六歳の運転手にいった。  八幡平《はちまんたい》へ続く国道を走り、途中で左へ折れる。十五、六分で田沢湖だった。  湖畔の駐車場には自家用車や観光バスがとまり、湖上には遊覧船が走っている。 「少しばかりイメージが狂ったね」  と、タクシーから降りたところで十津川がいった。 「どこも、観光第一ですよ」  と、亀井が、いった。  ここでは、田沢湖が唯一の観光資源なのかも知れない。  だから、湖の周囲には有料の自動車道が走り、ホテルや旅館が並び遊覧船が行き交うことになってくる。  十津川は、桟橋に立って、湖面を見つめた。  さすがに、水はきれいだった。藻《も》は茂っていたが、魚の姿は見えない。 「警部は、何を考えておられるんですか?」  と、亀井が、きいた。 「死んだ村越夫婦の頭の中にあった田沢湖は、どんな湖だったのだろうかと思ってね」  と、十津川は、いった。  亀井は、十津川の横に来て、並んで湖面に眼をやりながら、 「村越は六十歳、奥さんは五十七歳ですから、子供時代というと、戦前から戦中にかけてでしょう。戦後も少しあるかも知れませんが、とにかく観光化していなかった田沢湖の思い出じゃありませんかね」 「そうだな」  と、十津川は、肯《うなず》いた。  田沢湖線が全通したのは昭和四十年代に入ってからだと、十津川はタクシーの運転手に聞いた。  それまでは田沢湖駅という名前ではなく、生保内《おぼない》という名前の駅だったらしい。田沢湖が売り物ではなかったということかも知れない。  十津川は、眼を閉じて、戦前から戦後までの田沢湖というものを、想像してみた。  湖をめぐる自動車道路というものも、もちろん無かったろうし、遊覧船もなかったろう。  自然だけがあるという景色を、十津川はもう想像できなくなってしまっていた。だから余計に自然というものに憧《あこが》れるのかも知れない。 「村越は、きっと子供の時、この田沢湖で遊んだんですよ」  と、亀井が、いった。 「どんなことをして、遊んだのかね?」 「田沢湖は、全部、深いわけじゃなくて、泳ぐのに適した場所だってあるでしょうし、自分で筏《いかだ》を作って乗りだしていたと思いますよ。私も、子供の頃、そうしていましたから」  と、亀井が、いう。 「村越にとって、一番大事なものは、そうした思い出だったのかねえ」 「そうだと思います。だから、あんな田沢湖を庭に作ったんでしょう」 「そして、毎日、三階から眺めていたのか」 「私だって、金があったら、子供の時に遊んだ野山を、東京に復元して、毎日そこで寝転びたいですよ」  と、亀井が、いった。  二人は、タクシーに戻った。 「S郡のK村があった場所に、行って貰いたいんだ」  と、亀井が、運転手にいった。 「K村といったら、ダムになった村ですよ。そんな村へ行ったって、仕方がないんじゃないかね」  運転手が、不思議そうにいった。 「そのダムを見たいんだよ」  と、亀井は、いった。 「変ってんだね」  運転手は、呟いてから、アクセルを踏んだ。  タクシーは、再び、国道に出て、八幡平方向に向った。  しばらく走ると、大きなダムが見えてきた。今年は雨が多かったせいか、満々と水をたたえている。 「ここかね?」  と、亀井がきくと、 「もっと、先だよ」  と、運転手は、いった。  今度は、ダムが作られつつある現場が見えてきた。  深い谷間《たにあい》で、豆粒のような作業員たちが働いていた。   すでに、新しい道路が、高い場所に作られ、谷底を走る旧道には、雑草が生い茂っているのが見えた。  それに、完全な廃屋になった農家が、点在していた。小さな村である。というより、村だったというべきだろう。  間もなく、ここも、ダムの底に、沈むのである。 「ここでも、ないみたいだね?」  と、十津川が、いうと、運転手は車のスピードをゆるめずに、 「もう少し、先だよ」  と、いった。  今度は、長細いダム湖が見えてきた。多分、この辺りは、細く長い谷間だったのだろう。 「この辺りですよ」  と、運転手は車をとめて、いった。  村の痕跡《こんせき》でもあるのかと思ったのだが、どこを見ても、そんなものは見当らなかった。  昔から、そこに、湖があったとしか思えなかった。  車から降りると、亀井は、ぶぜんとした顔で湖面を見つめている。  岸には、水草が生い茂り、それが風にゆれていた。 「どうしたんだい? カメさん」  と、十津川がきいた。 「私は、自然がこわされて、そこにビルや工場が建つのは嫌いなんですが、ここに来てみて、考えを変えました」 「どんな風にだね?」 「ビルや工場が建っても、人間がそこにいます。しかし、ダムのために村が消えてしまうと、人間も消えてしまう。その方が、不気味ですよ」 「しかし、村人は、どこかにいるわけだよ。村越夫婦が、東京で成功したようにね」 「何処で聞けば、わかるんですかね?」 「K村は消えてしまったんだから、K村役場も、ないんじゃないかな」 「ダムの建設は、県庁の建設局の仕事じゃありませんかね」 「それなら、秋田へ行ってみるか」  と、十津川は、いった。  二人は、タクシーで、田沢湖駅に戻ることにした。  田沢湖駅を一八時二二分に出る「たざわ19号」に乗ることができたが、秋田に着くのは一九時二八分なので、もう県庁は閉まっている。  この日は秋田市内のホテルに泊り、翌日朝食をすませてから、秋田県庁に向った。  最初、建設局で、S郡K村のダムのことで話を聞きたいというと、警戒されてしまった。ダム建設について、苦情をいいに来たと勘違いされたのである。  警視庁の人間で、東京で起きた殺人事件の捜査のためだというと、建設局の中島という課長が会ってくれた。 「一番知りたいのは、K村の人たちが、今、何処にいるかということなんですが」  と、十津川がいうと、中島は当惑した表情になって、 「それは、こちらでもわかりませんね。ここでは、土地の収用と補償が仕事で、その後のことまで追跡調査はやりませんから」 「K村には、何人の人が住んでいたんですか?」  と亀井がきいた。 「二百十四戸、六百二十九人です」 「補償金は、いくら支払われたんですか?」 「そうですね」  と、中島は当時の書類を引っくり返しながら、 「一戸に対して平均二千万円で、合計、四十二億八千万円です。それを、二回に分けて支払いました」 「それで、村の人たちは満足したんですか?」  と、十津川がきくと、中島は笑って、 「こういう補償問題では、満足ということはあり得ませんよ。不満だらけなものです。それに、暴力団まで介入して、あそこの補償問題はごたつきました」 「暴力団が、どう介入してきたんですか?」 「あそこにダムができるという情報をつかんで、東京の暴力団が、K村にやって来て、農家から畠を借り、そこに掘立小屋を建てたんですよ」 「なるほど。補償金目当てにですね?」 「そうです。暴力団の若い者が、その小屋に住みつきましてね。金を出さなければ、動かないと、いい出したんです」 「結局、どうなったんですか?」 「県議に頼みました。それで、何とか、暴力団の方に、話がつきましてね、掘立小屋一つについて、百万円払いましたよ」 「百万円ですか」 「暴力団は、儲かったんですかね?」  と、十津川と、亀井が、いった。  中島は、「さあ」と、首をかしげた。 「畠の借り賃に、掘立小屋の経費両方で、せいぜい十万円ですから、九十万円の儲けですが、暴力団の若い者が、ほぼ、三カ月間、じっと、その掘立小屋に住んでいたから、その人件費を考えると、赤字かも知れませんね」 「その他に、何か問題はありませんでしたか?」  と、十津川は、きいた。  中島は、黙ってしまった。 「何かあったんですね?」  と、十津川は、重ねて、きいた。 「これは、あのとき、新聞に書かれたことなんですがね、補償金の持ち逃げ事件が、起きたんですよ」  と、中島は、いった。 「持ち逃げ事件というのは、どういうことですか?」 「今もいったように、約四十三億円を、二回に分けて、支払ったんですが、二回目の二十一億円余りを、あの村の代表の人間が、持ち逃げしてしまったんですよ。K村の村長で、村の人間の尊敬を集めていたし、一回目の支払いは、きちんと、分配していたので、そんなことをするとは、全く考えてもいなかったんです」 「小切手での支払いですね?」 「もちろんです。われわれが、あわてて、手を打ったときには、すでに、換金されてしまったあとでした」 「それは、六年前のことですね?」 「いや、七年前です」 「六年前じゃないんですか?」 「いや、七年前です。ちゃんと、ここに、記載されています」  と、中島は、記入された日時を、見せた。  確かに、六年前ではなく、七年前の十月五日の日付になっていた。 「持ち逃げしたK村の村長の名前ですが、村越ではありませんか?」  と、十津川は、きいた。  中島は、頭を横に振った。 「違います。永井徳太郎です。当時、五十五歳ですから、現在は、六十二歳ですね。それに奥さんは、いません。死別していました」 「持ち逃げされた二十一億円は、結局、どうなったんですか?」  と、亀井がきいた。 「問題になりました。村の人たちは半分しか貰っていませんから、改めて、二十一億円の支払いを、要求してきましたよ。しかし、村民の方も、委任状を書いて、全てを村長の永井徳太郎に委《ゆだ》ねていますからね。その永井村長に支払いをしたのは、間違いではないということになりました」 「しかし、小切手は、まとめて切るわけじゃなく、各戸別に、切るわけでしょう?」  と、十津川は、きいた。 「もちろんです」 「それに、各人の領収印が必要なんじゃありませんか?」 「そうなんですが、村民は、印鑑を、全部、永井村長に預けてしまっていたんですよ。だから、彼は、すぐ換金できたんです」  と、中島は、いった。 「永井村長の行方は、まだ、わからないんですか?」 「わかりません」 「欺された村民の中に、村越という夫婦は、いませんか?」  と、十津川は、きいた。  中島は、記録を調べていたが、 「いますね。村越と、妻の良子です」  と、いった。      5  二人は、県庁を出た。  丁度、昼食時なので、近くの食堂に入った。  秋田名物の、ハタハタのしょっつる鍋《なべ》を食べながらの会話になった。 「てっきり、村越が、二十一億円を持ち逃げしたんだと思ったが、違ったのは、意外だったね」  と、十津川は、いった。 「永井という村長が、持ち逃げしたのが、七年前。それから、一年たって、村越が、彼を発見して、その金を奪い取り、三鷹に土地を買い、工場を建てたんじゃありませんかね」  と、亀井が、いう。 「それなら、辻褄《つじつま》が合うな」 「これが当っていれば、永井村長は、殺されているでしょうね」  と、亀井が、いった。 「多分ね」 「これで、村越が三鷹に工場を建てられた理由が、わかりましたよ。その金を使ったんですよ」 「永井村長は、東京に逃げて来ていたのかな?」 「そう思います。村越は彼を探して、東京にやって来て、一年後に見つけたんでしょう」 「本来、永井村長から奪い返した金は、他の村人にも分配しなければいけないのに、村越夫婦は、自分たちで勝手に使い、家具工場を建てて成功し、国立に豪邸を建てたんだ」 「そして、今度は、他の村人が、村越夫婦を見つけて、殺したということになってきますね」  と、亀井が、いった。 「死体を、池に引きずって、投げ込んだのは、それだけ、恨みが深かったということだろうね」 「それに、土地収用の補償金を奪われたということもあったと思います。自分たちの住んでいた村は、ダムで水没してしまった。その恨みを、村越の死体を水に放り込むことで、示したんじゃないでしょうか」  と、亀井は、いった。 「村越は田沢湖のつもりで、あの池を作ったのに、夫婦を殺した犯人には、あれが村を水没させたダムに見えたのかねえ」 「そうでしょう」 「村民にとって、永井も、村越夫婦も、裏切り者に見えたんだろうね」  と、十津川は、いった。 「村民が犯人となると、捕まえるのは大変ですね。何しろ六百人余りもいますから」  と、亀井が、いう。 「それに、ばらばらになったから、今、何処に住んでるか、わからないこともある」  と、十津川は、いった。  昼食のあと、二人はもう一度県庁の建設局を訪ね、K村の村民の名簿をコピーして貰った。  有難いことに、名簿の各戸ごとに、連絡先と電話番号が書き込まれていた。  もちろん、その連絡先は、七年前のものである。大部分は変ってしまっているだろうが、ひょっとすると、何人かは、その連絡先に住んでいるかも知れない。  殺された村越夫婦の連絡先は、この名簿では秋田県内になっていた。 「持ち逃げした永井村長、それに村越夫婦をのぞくと、残りは六百二十六人ですか。この中に、村越夫婦を殺した犯人がいるんでしょうね」  と、亀井がコピーした名簿を見ながら、いった。 「個人かも知れないし、何人かのグループかもわからないよ」  と、十津川は、いった。  七年前の名簿なので、連絡先は、ほとんど秋田県内になっている。  十津川と亀井は、もう一日、秋田にとどまることにして、ホテルに入ると、片っ端から電話をかけてみた。  なかなか相手が出ない。その電話番号はもう使われていないという返事があったり、そこは旅館で、該当者はとっくに、引き払っていたりするのである。  十五人目で、やっと相手が出た。  八木晋助という男で、名簿には四十八歳とあるから、今は五十五歳になっているはずだ。  最初、八木は、七年前の補償問題については、話したくないと、いった。  それを、十津川が、説得して、やっと、会ってくれることになった。  八木は、田沢湖の湖岸で土産物店をやっているというので、十津川と亀井は、もう一度、田沢湖に向った。  田沢湖駅で降り、今度は、バスで湖に向った。  八木は、電話ではひどく無愛想だったが、バス停まで迎えに来てくれていた。  その上、軽自動車で、自分の土産物店まで案内してくれた。  小さな土産物店である。  夫婦でやっているのだという。息子と娘は東京へ出てしまっているとも、いった。 「東京で、村越夫婦が殺されましてね。今、その事件を調べているんです」  と、十津川は、湖に眼をやりながら、八木にいった。 「テレビのニュースで見たよ」  と、八木は、陽焼けした顔で、いった。 「それで、七年前のことを話して貰いたいのですよ」 「七年前の補償のことだね。あれは、おれたちも、村長に委《まか》せていたんで、悪かったんだ」  と、八木は、いう。 「しかし、持ち逃げされて、腹が立ったでしょう?」  と、亀井が、きいた。  八木は、肯いて、 「そりゃあ、腹が立ったさ。自殺した者もいたよ。補償金を当てにして、借金をしていたからね」 「皆さんで、永井村長を探して、持ち逃げした金を取り戻そうとは、思わなかったんですか?」  と、十津川は、きいた。 「そりゃあ、思ったよ。だが、何処に逃げたかわからなかったからね」 「村越夫婦は、そのとき、どうしていましたか?」 「あの夫婦だけが、東京へ行ったんじゃないかね。他の人間は、だいたい、秋田に残ったんだ。やっぱり、秋田を離れられなくてね」 「村越夫婦のその後について、何も知らなかったんですか?」 「ああ、おれは知らなかったよ。東京で成功したって噂《うわさ》は、聞いたことがあったがね」 「皆さんの中で、最近、東京に行った人を知りませんか?」 「東京へかね」 「そうです」 「知らないね」  八木は、ぶっきら棒にいった。  そのとき、お茶を出しに来た八木の妻が、 「安田さんが東京に行ったって、いってましたよ。安田のお兄ちゃんが」  と、いった。  八木は、妻を睨《にら》んだ。 「詰らないことをいうんじゃねえ」  と、叱《しか》りつけた。  十津川は、名簿を見た。安田進という名前があった。 「安田進さんのことですね?」  と、十津川が、きいた。  八木はそっぽを向き、彼の妻は返事をせずに、奥に引っ込んでしまった。  安田進は、七年前二十三歳だから、今年三十歳だろう。連絡先は、八幡平の後生掛《ごしよがけ》温泉になっていた。  十津川と亀井は、八木の店を出てから、公衆電話で、後生掛温泉に電話してみた。ここには旅館が一軒だけである。  支配人が、出たので、十津川は安田進の名前をいってみた。  七年前だから、もういないだろうと思って、消息だけでも聞けたらと考えたのだが、 「安田なら、うちで働いていますよ」  と、支配人がいった。 「じゃあ、今、そこにいるんですか?」 「いや、三日前から休んでいます。用があって、東京へ行ってくると、いいましてね。明日あたり、帰ってくるんじゃありませんか」  支配人は、呑気《のんき》に、いった。 「安田さんは、そちらで何をしているんですか?」 「何って、うちの従業員ですよ」 「七年前から、そちらで働いているんですか?」 「七年になりますかね。働き者ですよ」 「東京では、ホテルか旅館に泊っているんでしょうか」 「いや、知り合いのところにいる、といっていました」 「その連絡先が、わかりますか?」 「ちょっと、待って下さい」  と、支配人は、いい、間を置いて、 「ええと、新藤さんという家ですね。新藤研一郎で、東京都中野区東中野になっていますよ」 「ちょっと、待って下さい」  今度は、十津川があわてて、送話口を押さえ、例の名簿を見た。  新藤研一郎という名前があった。新藤研一郎と、妻、みさよとなっている。七年前、三十歳と二十八歳である。若夫婦だから、転機を求めて、東京に出たのか。 「この電話があったことは、安田さんに内密にしておいて下さい」  と、十津川は、頼んでから、電話を切った。 「少しばかり、展望が開けて来たよ」  と、十津川は、亀井にいった。 「東京に戻らなければいけませんね」  と、亀井が、いった。      6  十津川は、急遽《きゆうきよ》、帰京することにした。  田沢湖線と新幹線を利用して、その日の中《うち》に東京に帰った。  捜査本部のある国立署に戻ると、西本刑事が迎えて、 「電話のありました中野の新藤研一郎ですが、今、日下と清水の二人が、行っています。連絡がありまして、新藤夫婦は、東中野で喫茶店をやっているそうです」 「そこにいるのか?」 「はい。いるといっています。『たざわ』という名前の店だそうです」 「たざわ?」 「そうです。連中の田沢湖に対する思い入れみたいなものを感じますね」 「それは、故郷が失くなってしまったからじゃないのかね。自分の生れたK村は、消えてしまった。となると、あの近くの田沢湖が、自分たちの故郷の象徴になっているのかも知れないよ」  と、十津川は,いった。  そのあと、やはり、捜査本部に落ち着いていられなくて、十津川は亀井と一緒にパトカーで、東中野に行ってみることにした。  JRの東中野駅近くの小さな喫茶店だった。雑居ビルの二階で、せいぜい五、六坪ぐらいだろう。  先に来ていた日下と清水が、ほっとした顔で、十津川を迎えて、 「参りました。何も話してくれないんですよ」  と、いった。 「じゃあ、交代しよう」  と、十津川は、いった。  問題の新藤夫婦は、カウンターの中から、睨むような眼でこちらを見ていた。  他に、客はいなかった。この雰囲気では、気まずくなって、帰ってしまうのだろう。  十津川と亀井は、カウンターに腰を下ろして、 「コーヒーをくれませんか」  と、頼んだ。  拒絶するかなと思ったが、夫婦は黙ってコーヒーをいれ始めた。 (人は好いんだ)  と、十津川は、内心、微笑しながら、 「一昨日、K村へ行って来ましたよ」  と、新藤夫婦に、話しかけた。  相変らず、夫婦は黙っている。が、K村という言葉のとき、一瞬表情が動いたのがわかった。今度は亀井が、 「驚きましたね。完全にダムの下に沈んでしまっていた。何もなかった。私も東北の生れだから、あなた方の気持はよくわかりましたよ。あれは、悲しいな」  と、いった。  新藤は、ちらりと、亀井を見た。何かいいかけたが、また、黙ってしまった。  奥さんの方がコーヒーを十津川と亀井の前に置いたが、こちらも無言である。夫婦とも人間不信の顔をしている。特に、七年前の補償の話はしたくないという眼である。  ただ、新藤が何か話しかけたのも、確かだった。亀井は、そこに食いついた。 「自分の村が消えてしまうというのは、いくら補償金を貰っても、やり切れないと思いますよ。私の青森の家も、もうありません。帰郷のたびに、それが悲しくて仕方がありません。私の場合は、両親が亡くなったためですが、少しはあなた方の気持がわかると思っています。その補償金が、身内ともいえる村長に持ち逃げされたとなれば、こんなやり切れないことはないと、思いますよ」  と、亀井は、いった。  亀井の喋り方は、決して上手《うま》くないが、東北人の朴訥《ぼくとつ》さがある。  そのことが、新藤の気持を和らげたのかも知れない。 「犯人は、見つかったのかね?」  と、初めて、口をきいた。  亀井は、ほっとしながら、 「難しい事件ですからね。どうしても、K村の方々の協力を頂かないと駄目なんですよ」  と、いって、夫婦の顔を見た。 「おれたちは、何も知らないんだ。今度の事件のことは」  と、新藤は、亀井にいう。 「永井村長が、二十一億円を持ち逃げしたときのことから、話して貰いたいんですよ」 「ありゃあ、魔がさしたんだと思うよ。いい人だったのにな」  と、新藤がいうと、それまで黙っていた妻のみさよが、突然、 「ありゃあ、女のせいですよ」  と、いった。 「永井村長に、女がいたんですか?」  十津川が、彼女に、きいた。 「ええ。村長さんは補償金の交渉で、秋田の県庁に何回も行ってたんです。その時に、若い女と知り合いになったんです。その女が、けしかけたんですよ」 「その女の名前を知っていますか?」 「確か、冴子という名前でした。あたしが村長さんの家にいたとき、電話が掛ったんです。そのとき、冴子ですって、いってたから」 「その女にけしかけられて、村長は、二十一億円を猫ババした。そして、何処へ逃げたか、わかりますか?」  と、十津川は、きいた。  みさよが、黙って、首を横に振った。  新藤は、固い表情で、 「東京に行ったんだろうって声が、大きかったね」 「探しに行こうという声は、なかったんですか?」  と、亀井がきいた。 「みんなで東京に行って、見つけて、補償金を取り戻そうって話はあったよ。でも、身の振り方で精一杯の人もいたし、身体の弱い人もあってね。おれたちと村越さんが、代表する恰好《かつこう》で、東京へ来たんだ」 「七年前ですね?」 「ああ、そうだよ」 「それで、見つかったんですか? 村長は?」 「来てみて、東京の広さに、びっくりしてしまったよ。毎日、探してあるいたけど、見つかりゃしない。自分たちの生活だって、ちゃんとしなきゃならない。それで、持ってた補償金で、この店を始めたんだ。店を始めたら、今度は、村長を探す時間が、なくなってさ。その中に、もうどうでもよくなったんだ」 「その間、村越さんとは、連絡をとり合っていたんですか?」 「一年ぐらいはね。村越さんも、とうとう見つからなかったといってた。そのあとは連絡もなくなっててね。今度、村越さん夫婦が殺されたと聞いて、びっくりしたんだ」 「村越さんに、最後に会ったのは、いつですか?」 「五、六年前だけど──」  と、新藤がいい、妻のみさよが、 「あのとき、村越さんは、うちへ来たんです」  と、いった。  十津川と、亀井の眼が、みさよに向けられた。 「そのとき、夫婦で、来たんですか?」  と、十津川が、彼女にきいた。 「村越さんひとりで、来たんですよ」 「そのとき、村越さんは、どんな話をしたんですか?」 「村長は、とうとう、見つからない。もう疲れてしまったから、諦《あきら》めて、秋田へ帰るっていったんです」 「秋田へ、ね」  と、十津川は、呟いてから、 「あなた方と、村越さん夫婦は、東京で、村長を探してた。同じ町を探しても無駄だから、分担してたんじゃありませんか?」 「ええ。地図を買って来て、東京を二つに分けて、探してました」 「村越さんは、どの辺りを担当してたんですか?」 「タテに二つに割って、左半分だよ」  と、新藤が、いった。  十津川は、手帳を取り出し、それに、大ざっぱな東京の地図を描いた。 「村越さんが、最後に、どの辺りを探していたか、わかりませんかね?」  と、十津川は、きいた。 「時々、会って、報告し合っていたんじゃありませんか?」  と、亀井も、きいた。 「そりゃあ、そうだがね。最後は、どうだったのかな」  新藤が、首をかしげた。みさよは、じっと考えていたが、 「小田急線の沿線です。村越さんは、中央線とか、小田急線とか、京王線とか、電車ごとに毎日乗って、調べていたんです。そして最後の頃は、小田急線だったんです」 「それを、どういう風に、調べていたんですかね? 都心に近い方から、調べていたんだろうか?」 「それは、真ん中に近い方からです」  と、新藤は、いった。 「安田さんは、知っていますか?」  十津川は、話題を変えた。 「安田って、K村のかね?」 「そうです。安田進さんです」 「もちろん、知ってます。確か、八幡平の旅館にいる筈《はず》だよ」 「電話が、掛ったことはありませんか? ここ二、三日の間に」 「ありましたよ」  と、みさよが、いった。 「いつですか?」 「一昨日だったかしら? 突然だったんで、びっくりしましたわ」 「それで、どんな電話だったんですか?」  と、亀井が、きいた。 「それが、とりとめもなかったんです。一時間近く、ずっと、K村の話をしてました。ダムに沈む前の話ばかりでしたよ。なぜ、あんな話をしたのか、わかりませんね。東京に来てるみたいだったんで、うちにいらっしゃいって、いったんですけどね」 「現われなかった?」 「ええ」  と、みさよは、肯いた。      7  十津川は、小田急線沿線、それも、多摩川に近い辺りに、永井村長、永井徳太郎が、住んでいなかったかどうかを、調べることにした。  沿線の各区役所に、協力を求めた結果、意外と簡単に、この名前が見つかった。  小田急線の成城学園前駅近くだった。  二人は、その場所に急行して、聞き込みに廻った。  まず、区役所で、きいた。  今から七年前の十月十六日に、永井徳太郎と妻の冴子が、住民登録をしている。 「大きな邸を買い取ったんですよ。当時の値段で、五億円はしたんじゃありませんかね」  と、戸籍係の職員が、いった。  十津川と亀井は、その邸を見に行った。  驚いたことに、その場所は、駐車場に変っていた。  二人は、近くの不動産屋に行き、その土地のことをきいてみた。  小柄な店長は、永井のことを、よく覚えているといった。 「いきなり、店に入って来られましてね。木造の家を買いたいって、いうんですよ。いかにも田舎の人って感じでしたねえ。それで、今、駐車場になってる古い木造の邸を紹介したんです。だいたい五億円です。それを、一度に払ったんでびっくりしましたよ」 「女性が、一緒でしたか?」 「ええ。三十歳ぐらいの若い女の人が、一緒でしたね。てっきり娘さんだと思ってたんですが、あとになって、ご夫婦と聞いて、驚きました」 「それが、七年前ですね」 「ええ」 「その後、どうなりました?」 「一年ぐらいして、突然、売り払いたいと、いって来ましてね。まだ、土地が値上りしていた頃なんで、六億円近くで、すぐ売れました。今は、もう下がり気味で、仕方なく、駐車場になっていますがね」 「そのあと、永井さんは、何処へ行ったんですか? 姿を消してしまったんじゃありませんか?」 「いや、この近くのマンションに住んでいますよ。今でも、そこにいるんじゃないかな」  と、店長は、いった。  十津川と亀井は、顔を見合わせた。てっきり、その時、村越に殺されたと考えていたからだった。  そのマンションを教えて貰って、十津川たちは、廻ってみた。  なるほど、問題の駐車場近くの七階建てのマンションだった。  管理人に会って、永井夫婦のことを聞いた。 「ああ、あのご夫婦は、六階の603号室ですよ」 「今も、そこにいるんですか?」 「それが、おかしいんですよ。去年の三月頃でしたかね。突然、ご夫婦とも、いなくなってしまったんですね。ここは買い取りですから、どうしていいかわからなくて、そのままにしてありますよ」 「去年の三月ですか?」 「ええ」 「永井夫婦の様子は、どうでした?」 「それが、毎日、ケンカでねえ。いつも、若い奥さんが、何かわからないが、文句ばかりいってましたね。あの夫婦は、大きな邸に住んでいたんでしょう? それが、2DKのマンション住いになっちゃったんだから、奥さんとしては、面白くなかったんじゃありませんか」  と、管理人は、いった。  十津川と亀井は、603号室を開けて貰った。  一年半近く、人の住んでいなかった部屋は、くもの巣が張り、カビがはえ、湿っぽかった。  電気代も、支払っていなかったろうから、電気も消えている。  二人は、埃《ほこり》を払いながら、タンスの引出しや、三面鏡の引出しなどを調べていった。 「これを見て下さい」  と、亀井が、三面鏡の引出しから、新聞の切り抜きを見つけて、十津川に示した。  一年半前、三月五日の新聞だった。黄ばんだ新聞には、次の記事がのっていた。 [#ここから1字下げ] ○秋田県K村のその後  六年前、ダムに沈んだ秋田県S郡K村では、補償金の半分、二十一億円を、村長が持ち逃げして問題になったが、六年近くたった今でも、その金は戻らず、元村民を口惜しがらせている。村長の行方はいぜんとして不明で、各地に移った村民の多くが、もう諦めましたと、いっている。 [#ここで字下げ終わり] 「なるほどね」  と、十津川は、眼を通してから、肯いた。 「村越夫婦は、六年前、永井村長を見つけて、持ち逃げした金を返せと、迫ったんでしょうね」  と、亀井が、いった。 「村越は、それを、村民に返すといったんだろう。村人たちに頼まれて、村長を探していたと、いったのかも知れない。断れば、警察にいうといったんじゃないのかな。村長はあわてて、邸を処分したり、銀行に預けておいた金を、村越夫婦に渡したんだと思うね」 「そして、告訴だけはしないでくれと、頼んだんでしょうね」 「そうだろう。永井は、金が村人たちに戻ったと、ずっと思ってたんじゃないかね。ところが、この記事で、全然、返っていないことを知ったんだ」 「村越が、猫ババしたと、知ったわけですね」 「今度は永井が、必死になって、村越を探したんだろう」 「見つけたんでしょうか?」 「見つけてなければ、このマンションに今でも住んでいるよ」  と、十津川は、いった。 「見つけて、村越に、金を返せと迫ったんでしょうね?」 「同じ穴のムジナなら、半分よこせぐらいのことは、いったろうね」 「だが、村越は、金を渡す代りに、殺してしまった?」 「多分ね」 「死体は、何処にあるんでしょうか?」 「二人の死体か」  と、十津川は、呟いた。  十津川たちは、なおも、周辺の聞き込みを続けた。  その結果、いくつかのことが、わかってきた。  永井徳太郎と冴子は、七年前、成城学園前に越して来てから、S銀行に十五億円を預金した。  S銀行の支店長は、当時のことを、十津川たちに話してくれた。 「この辺りには、お金持ちが多いんですが、それでも、十五億円をどんと預金されたときは、びっくりしてしまいましたよ。全部、一年の定期にして頂きました」 「その預金は?」 「一年後に、全額、おろされましたよ。あのときもびっくりしましたねえ。私が、残念ですといいましたら、永井さんも、おれだって口惜しいんだと、おっしゃいましたねえ」 「十五億円は、小切手にしたんですか?」 「はい」 「宛名は?」 「確か、村越という方宛の小切手です」 「やっぱりね」 「別に、事業をされてる様子もないのに、突然、十五億円全部でしょう。どうされたんですかねえ」  と、支店長は、いう。 「事業に失敗したんですよ」  と、十津川は、いった。 「どんな事業を、されていたんですか?」 「サギという事業です」  と、十津川は、いった。 「まさか。あんな真面目そうな方が、そんなことを、されないでしょう」  支店長は、びっくりしたように、眼をむいていた。  他にも、わかったことがあった。  永井徳太郎の若い妻、冴子のことだった。  彼女は、七年前に五億円の豪邸に住んだ頃は、得意の絶頂だったらしい。  一千万円以上する真っ赤なスポーツカーを買い求め、颯爽《さつそう》と乗り廻していたという。  また、新宿のデパートの外商が、よく、訪ねてきて、そのたびに、毛皮や宝石を買っていたらしい。  一年して、小さなマンションに移ってからは、隣室の人の証言によれば、いつも永井を怒鳴りつけていたということだった。 「旦那さんのことを、碌《ろく》でなしとか、意気地なしとか、いつもののしっていましたよ。あんなに年齢《とし》の差があると、ああなるのかなと、いっていたんです」  と、中年の夫婦は、笑った。 「その永井夫婦が、急にいなくなった頃のことを、覚えていますか?」  と、十津川は、きいてみた。  夫の方は、気がつかなかったといったが、妻の方は、こんなことをいった。 「去年の三月頃でしたわ。朝早く、お隣りが、やたらに、ガヤガヤしてたんです。いつもの夫婦ゲンカかと思っていたんですけど、あの時は、ご主人も奥さんも、やたらに張り切っていましたわ。車で何処かへ行くみたいで。わたしが廊下に出たら、あの奥さんが、わたしに向って、大きな声で、変なことをいったんですわ」 「どんなことをです?」 「こんな汚いマンションは、もう、おさらばよッて、大きな声でいったんですよ。わたしたち夫婦なんか、このマンションから永久に動けそうもないから、いい気なもんだわって、思ったんです」 「そのあと、永井夫婦は、消えてしまったんですか?」 「ええ。だから、てっきり、売って、何処かへ転居したんだと思っていたのに、あとで、売っていないと知って、びっくりしたんですわ」  と、彼女は、いった。 「永井夫婦の持っていた車ですが、どんな車ですか?」 「国産の、確か、白いカローラでしたわ」  と、彼女は、いった。  その車も、消えてしまったらしい。  永井夫婦が消えたのが、去年の三月。丁度その頃、国立の邸が、完成している。これは、偶然だろうか。  十津川と亀井は、邸の建築を請け負ったN工務店を訪ねた。  木造三階建ての設計を頼まれたのが、一昨年の九月。六カ月で完成したと、N工務店の設計士はいった。 (すると、無関係なのか?)  一昨年の九月には、永井夫婦は、まだ、あの新聞記事を見ていないからである。 「庭の池ですがね。五、六メートルの深さがあるでしょう?」  と、十津川は、きいた。 「五メートルです」 「あれは、最初から、五メートルの深さが欲しいと、村越夫婦がいったんですか?」  と十津川がきくと、設計士は、 「最初は、普通の池のつもりでしたよ。一番深いところで、一メートル五〇です。それで、設計しました」 「村越夫婦も、承知した?」 「ええ。形だけは田沢湖と同じにしてくれといわれましたよ。それで、田沢湖の航空写真を使って、正確に、同じ形の池にしたんです」 「しかし、田沢湖と同じ青さを得るためには、五、六メートルの深さが必要だったんじゃありませんか?」  と、十津川が、きいた。設計士は、笑って、 「そんなものは、底のコンクリートに色をつければ、上から見たとき、水面をどんな風にだって見せられますよ」 「じゃあ、なぜ、あんなに深くしたんですか?」 「まず、家屋が完成して、最後に池を作ることになったんですが、急に、施工主の村越さんが、池を五、六メートルまで深くして欲しいといい出したんですよ。私は、危険だといったんですが、どうしてもというんで、あの深さになったんです。あんなに深くては、人が落ちたとき危険だし、第一、池の清掃が難しいといったんですよ」 「そうしたら、村越さんは?」 「清掃なんか必要ないと、いいましたよ」 「いつですか? それは」 「いつって、何のですか?」 「村越さんが、突然、池を深くしたいといい出した時のことですよ」 「確か、去年の三月中旬でしたよ。一メートル五〇だったのを、五メートルまで掘り足して、コンクリートを流し込んで、あの池ができあがったんです」 「ありがとう」  と、十津川は、礼をいった。  十津川は、問題の池の水を全部排水し、次に、機械を入れて、底のコンクリートをこわし、掘り起こすことにした。  削岩機が、うなりをあげて、池の底のコンクリートをこわしていく。  続いて、掘削機が庭に入って行き、鉄のシャベルで土を掘り起こしていった。  十津川は、亀井と二人、その作業をじっと見守っていた。 「まるで、宝探しですね」  と、亀井が、いった。 「出なかったら、かかった費用のことで、部長から文句をいわれるだろうな」  と、十津川は、いった。 「何か出たぞ!」  と、作業員が、大声で叫んだ。  十津川と亀井は、梯子《はしご》を使って、池の底に降りて行った。  掘り起こした場所から、衣服のからみついた白骨がのぞいていた。肉もまだいくらかついて、髪の毛から、一人は女と推定された。 「永井夫婦ですね」  と、亀井が、いった。 「間違いないよ」 「車も、ここに埋めたんでしょうか?」 「車は、どこでも処分できるさ。プレートを外して、道路に放り出しておけばいいんだ。今は、放置自動車が、どこにでも、ごろごろしているからね」  と、十津川は、いった。      8  二つの白骨死体は、すぐ科研に運ばれて、身元確認が行われることになった。  その作業の途中で、秋田の後生掛温泉の支配人から、十津川に電話が入った。 「うちの従業員の安田が、帰って来ました」  と、いう。 「どんな様子ですか?」 「別に変った様子は、見られませんが」 「何事もなかったように、接していて下さい。明日、私が、そちらへ行きます」  と、十津川は、いった。  翌朝、十津川は、亀井と、東北新幹線に乗った。  盛岡で、L特急「たざわ」に乗りかえる。  田沢湖駅で降り、タクシーを拾い、後生掛温泉に行った。  国道を、八幡平に向う。田沢湖は見えなかったが、例のダムの横を通り過ぎる。  十津川は、持ってきた携帯電話で、科研の佐伯技官にかけた。 「どうです? 仏の身元は、わかりそうですか?」 「男の方は、推定年齢六十歳。女は三十七歳。血液型は、男がBで、女はABだ。まず、君のいう永井徳太郎と、冴子に、間違いないね」  と、佐伯は、いった。  十津川が電話を切ると、運転手が、 「あんた方、警察の方かね?」 「そんなものさ」  とだけ、十津川は、いった。  硫黄の噴出している玉川温泉の近くを通り、山間《やまあい》を登って行くと、後生掛温泉に着いた。  旅館は、一軒だけである。標高千メートルのところだけに、タクシーから降りると、冷気が十津川たちを包んだ。  中に入っていくと、石油ストーブが焚《た》かれていた。  十津川は、支配人に会って、警察手帳を見せた。 「安田は、いますか?」 「本当に、彼が、何かやったんですか?」  と、支配人は、半信半疑の顔で、きいた。 「殺人です」 「そんな風には、見えませんがねえ。朴訥な東北の人間ですよ」 「わかっています」  と、十津川は、いった。  K村の永井村長だって、村越夫婦だって、みんな朴訥な人々だったのだ。 「今、奥の売店にいます」  と、支配人が、いった。 「売店?」 「ええ。ここは一般の宿泊客の棟ですが、奥に長期の逗留《とうりゆう》客が自炊する棟があります。そこに、日用品とか、野菜、肉などを売っている売店があるんです。行けば、わかりますよ」  と、支配人は、いった。  十津川と亀井は、一般客の建物を通り抜けた。  いったん外に出ると、下の方に、支配人のいう長期逗留組の建物が並んでいた。農家の人たちが、農閑期に自炊道具を持って、やってくるのだろう。  だらだら坂をおりて行くと、泊り客が、炊事場で、米をといだり、野菜をきざんだりしているのが見えた。 「私も、ああやって、のんびり温泉に泊ってみたいですね」  と、亀井が、いった。  建物の端に、ちょっとしたコンビニエンスストアのような売店があり、男が一人、店番をしていた。  身体はがっしりしているが、支配人のいう通り、朴訥な感じの顔をしている。  それでも、十津川と亀井は、内ポケットの拳銃《けんじゆう》を一応、確かめてから、売店に入って行った。  亀井が、背後に廻り、十津川が正面から近づいた。 「安田だね?」  と、声をかけ、警察手帳を示した。 「君を、殺人容疑で、逮捕する」  次の瞬間、安田が逃げるか、飛び掛ってくるかと身構えたのだが、相手は「ふうッ──」と、溜息をついただけだった。  手錠をかけても、抵抗しなかった。  十津川は、安田を外へ連れ出した。  支配人に頼んで、訊問《じんもん》のための部屋を借りた。  一階の六畳で、暖房のために、温泉の湯が通るパイプが壁にめぐらしてあった。  十津川は、安田を、畳の上に座らせた。  煙草をすすめると、手錠のまま受け取って、口にくわえた。  十津川は、それに火をつけてやってから、 「村越夫婦を殺したね?」  と、きいた。 「ああ」  と、安田が、肯いた。 「理由は?」 「みんなを欺したからだよ。誰かが殺すと思ったから、おれがやった」 「どうして、わかったんだ?」  と、十津川は、きいた。 「何が?」 「最初、永井村長が、二十一億円を持ち逃げした。それを、村越が横取りした。横取りしたことを、どうして知ったんだね?」  と、十津川は、きいた。 「おれは、村越夫婦を殺したよ。自供したんだから、もういいじゃないか。さっさと連れて行って、死刑にでも何にでもしたらいいじゃないか」 「死刑になるかどうか、わからんよ。殺された村越夫婦も、永井夫婦を殺しているからね」 「やっぱり、そうかね」 「それで、同じ質問だ。君は、どうして、村越夫婦が猫ババしたと知ったんだ?」 「神様が、教えてくれたんだ」  と、安田は、いった。 「何だと!」  と、亀井が、怒鳴った。が、安田は、きょとんとした顔で、亀井を見ただけだった。  十津川は、辛抱強く、 「その神様が誰なのか、教えてくれないかね」 「神様は、神様だよ」 「いいかね、君は、ずっとここにいて、東京には行ってない。それなのに、どうして村越が横取りしたことや、国立に住んでいることがわかったのかね? 不思議じゃないか」 「だから、神様だよ」 「つまり、神様は東京にいて、村越夫婦のことを、君に電話で知らせてくれたんだ」 「───」 「東京にいる神様か。なるほどね。やはり、あの夫婦か」  と、十津川は、ひとりで肯いて、 「新藤夫婦が、その神様なんだろう?」 「知らないよ。おれは」 「あの奥さんは、君に、いい感情を持ってないな。旦那の方は、黙っていたが、奥さんは君が電話してきたと、いっていたよ」  と、十津川は、いった。  安田は、手錠のはめられた手で、頭をかいた。 「みさよさんは、おれが嫌いなんだ」 「なぜだ?」 「おれが、新藤さんに、一緒に行こうと誘ったからだろうさ」 「一緒に村越のところへ行って、殺そうといったのか?」 「みんなが恨んでるんだ。誰かが、殺すんだ」 「金を返せと要求すればよかったんじゃないのかね?」  と、十津川は、きいた。 「どうして?」 「村越だって、永井村長から二十一億円を横取りしたんだ。村越夫婦を脅して、返させることができたんじゃないのかね?」  と、十津川は、いった。 「駄目だよ」 「なぜだ?」 「永井村長は、一年間だ」 「何が?」 「二十一億円持って、一年だよ。しかし、村越夫婦は、六年だよ。六年なんだ」 「だから?」 「だからって、刑事さんだってわかるだろう。一年なら、まだ、金持ちの気持が滲《し》み込んでないんだ。だが六年も大金を持って生きてりゃあ金持ちが身体に滲み込んじまうんだ。そんな奴に、金を返せっていったって、返すと思うかい?」  安田は、暗い眼で、十津川を見た。 「君は、心理学者なんだね」 「何だって?」 「いや、よく見てるといったのさ。でも、なぜ殺したのかね? 補償金を猫ババしたことへの復讐《ふくしゆう》かね?」  と、十津川は、きいた。  安田は、宙に眼をやって、考えているようだった。十津川の質問が、彼にとって馬鹿げていたのか、それとも、とっさに答が見つからなかったのか。 「補償金が半分になってしまったんで、おれはここで働くことになった。新藤夫婦だって、もっと大きな喫茶店をやれた筈なんだ。それなのに、村越が金持ちなのが、我慢が出来なかったんだな。きっと」  と、安田は、いった。 「村越を刺してから、死体を、池に放り込んだね。あれは、なぜなんだ?」  と、十津川は、きいた。 「刺してから、ぼんやり庭を見てたんだ。そしたら、腹が立ってきた。村がダムの底に沈んじまったのに、こいつは、庭に大きな池を作って喜んでいたんだと、思ったらね。それで、池に放り込んでやったんだ」  と、安田は、いった。      9  支配人が、旅館の車で、田沢湖駅まで送ってくれることになった。  ライトバンに、十津川と亀井が、安田を挟んで乗り込んだ。  支配人が運転して、走り出した。 「煙草をくれないかね」  と、安田が、いった。  十津川が煙草を取り出し、安田にくわえさせ、火をつけてやった。  あのダムのところへ来て、十津川は、支配人に、車をとめて貰った。 「ゆっくり見て行くかね?」  と、十津川は、安田に、声をかけた。 「おれは、もう、このダムを見に来られないのかね?」  と安田が、きく。 「少なくとも、何年間かは見られないよ」 「それなら、ゆっくり、見せてくれ」  と、安田は、いった。  十津川は、ドアを開け、安田と一緒に降りた。  彼の身体を、亀井と、両側から押さえるようにして、ダムの傍へ行った。  ダムは満々と、グリーンの水をたたえている。 「君の家は、どの辺にあったんだ?」  と、十津川は、安田に、きいた。  安田の眼が、泳ぐように水面を動いた。 「わからないが、おれの家は、神社の傍にあってさ。子供の頃は、境内でよく遊んだよ。そうだ。賽銭《さいせん》ドロボウをやって、怒られたこともあったな。小学校は山の向うで、毎日、四キロは歩いたよ。今でも、歩けるかな。駄目かな? 駄目だろうな──」  安田が、急に、涙声になった。 「行きましょう」  と、車の運転席から、旅館の支配人が声をかけた。 「列車に間に合わなくなりますよ」  と、支配人は、腕時計を見せるようにしていった。  十津川は、わかったというように、小さく手をあげてみせてから、 「そろそろ、行こうか」  と、安田に、声をかけた。  三人は、また車に乗り込み、車は動き出した。  ダム湖は、すぐ見えなくなり、代って、工事中のダムが見えてきた。  これから沈む村である。まだ、水が満ちていない谷底の村に、人の気配はない。 (この村でも、K村と同じようなことが、起きるのだろうか?)  十津川は、ふと、そんなことを考え、あわてて、首を横に振った。 [#改ページ]   謎と憎悪の陸羽東線      1  最初に見つかったのは、右腕だった。  十月七日、早朝、荒川放水路の土手に散歩に来た付近のサラリーマンが、発見したのである。  痩《や》せた、中年の男の右腕だった。  サラリーマンの通報で、警察が駆けつけた。  台風通過後の水量の増した放水路を、刑事たちは、男の他の部分がないかと、捜し廻った。  三十五分後に、二百メートルほど上流で、男の左腕が見つかり、続けて、右足が発見された。  胴体の部分と左足は、土手をへだてた隅田川の岸で、流れついた板切れの間から見つかった。  ただ、肝心の頭部は、なかなか見つからなかった。  バラバラ殺人事件として、千住警察署に捜査本部が置かれた。  捜査の指揮に当る十津川警部が、第一に考えたのは、被害者の身元の割り出しである。  頭部が見つかれば、手掛りになると思うのだが、捜査範囲を広げても、見つからなかった。犯人は、手足や胴体は狭い範囲に捨てたが、頭部だけは別にしたらしかった。頭部が見つからなければ、身元を隠せると、考えたのかも知れない。  解剖の結果、死亡推定時刻は、十月五日の午後十時から十二時までの間で、胴体部や手足に外傷がないことから、恐らく扼殺《やくさつ》だろうと推測された。  台風18号が関東地方を襲ったのは、十月六日の朝から夕方にかけてである。犯人は、その嵐《あらし》の中で、バラバラにした死体を、荒川放水路や隅田川に捨てて歩いたのかも知れない。  被害者の年齢は、四十代後半から、五十代の前半と、考えられた。  全体に痩せていて、慢性の肝臓障害があり、心臓も肥大していた。 「つまり、病人だったということですか?」  と、十津川は、解剖に当った大学病院の医者に、電話できいた。 「健康体とはいえませんね。特に肝臓は、療養が必要な状態ですよ」  と、医者は、いった。 「手足が細いと思うんですが、これはどう考えたらいいんですか? 運動不足ですか?」 「問題は、足ですね。普通の生活をしていれば、もっと筋肉に張りがある筈《はず》です。恐らく、あまり歩いていなかった人間だと思いますね」  と、医者は、いってから、 「手と足の指が、少し、ふやけた感じがしますね」 「それは、バラバラにして、川に捨ててあったからじゃありませんか?」 「しかし、右足は、ゴミ袋に入ったまま発見されたんでしょう?」 「そうです。他の部分もゴミ袋に入れて捨てたんだと思いますが、台風が通過しましたからね。ゴミ袋が剥《は》がされたんだと、見ています」 「その右足の指も、同じようにふやけているんです」 「とすると、どういうことになるんですか? まさか、病身の水泳選手というわけじゃないでしょう?」  と、十津川は、きいた。が、相手は、医者らしく、小さな笑い声も立てず、 「考えられるのは、温泉付きの療養施設に入っていたんじゃないかということです。私の知っている療養所は、熱海にありましてね。温泉を治療に利用して、患者は毎日二回、温泉に入っています」 「それなら、手足の指がふやけますか?」 「普通の人より、ふやけますよ」 「つまり、内臓疾患にいい温泉つきの療養所にいた人間じゃないかということになりますか?」 「そう思うのですがね。当っているかどうかは、そちらで調べて下さい」  医者は、慎重ないい方をした。  一つだけ、手掛りが、できたことになる。現場周辺に、温泉を利用した療養所は、見当らなかった。  とすれば、被害者は、その療養所から東京に出て来たのではないか。肝臓も心臓も治癒してはいなかったから、一時的な外出ということで、東京にやって来たのだろう。 (誰かに、会いに来たのではないか?)  そして、その相手が犯人だったのかも知れない。  十津川は、日本の地図を広げて、部下の亀井刑事と見入った。  現場の周辺に、温泉のマークはない。しかし、少し範囲を広げると、日本は実に温泉の多い国だと思う。  関東地方だけでも、栃木には那須塩原温泉郷などがあり、群馬には水上など、温泉が点在している。神奈川は、箱根だろう。その他、茨城にもある。  範囲を広げて、伊豆半島を見れば、ここは温泉の印であふれている。  被害者が飛行機を使って上京したとすれば、北海道の温泉も、考慮に入れなければならなくなる。  それに、最近は温泉の効果が見直されて、たいていの温泉地帯に、温泉を使った療養所が作られているのだ。 「全部の温泉郷に問い合せるのは大変だな」  と、十津川は、いった。 「それに、バラバラ事件の照会となると、向うが面倒に巻き込まれるのを恐れて、嘘《うそ》をつくことも十分に考えられますね」  と、亀井も、いった。 「嘘をつかれても、これだけ多いと、検証は不可能だね」 「どの地方の療養所というだけでもわかれば、私が行って調べて来るんですが」  亀井が、口惜しそうに、いった。 「荒川で殺されたということは、被害者が何らかの意味で、荒川周辺に関係があるということなんだろうがね」 「その関係の中身が、問題ですね」  と、亀井が、いう。 「被害者がもともとこの周辺の人間で、病気を治しに温泉治療の療養所に入ったのかも知れないし、逆に、被害者がその療養所の近くの生れで、家族がこの周辺に住んでいるのを、訪ねて来たのかもしれないな。被害者は四十代後半から五十代前半ということだから、年頃の息子や娘がいてもおかしくはない。子供たちが上京して、荒川周辺に住んでいるのを、訪ねて来たことも、十分に考えられるね」 「後者だとすると、被害者を荒川周辺の生れと断定はできませんね」 「それで、聞き込みをやっているのに収穫がないのかも知れないんだ」  と、十津川は、いった。  バラバラ事件ということで、テレビや新聞は大きく取り上げたのだが、まだ一人も情報提供者が現われていない。  警察に問い合せてくる人間もいないし、テレビ、新聞にもである。  刑事たちは聞き込みに歩き廻り、荒川放水路と隅田川を、下流から上流に向って、調べているのだが、これはという話も耳に入って来ないし、被害者の頭部はいぜんとして見つからないのだ。  十月十二日になって、やっと小さな収穫があった。  荒川放水路を探していた警官の一人が、黒いゴミ袋を一つ見つけたのだが、それに血痕がついていたのである。その血液型はO型で、被害者のものと一致した。  更に、そのゴミ袋の隅に、小さな紙片が、へばりついている形で、見つかった。  メモ用紙の破片だった。  これが、その紙片に、ボールペンで書かれてあった文字と数字である。「東」の次には、他の文字があったのだろうが、切れてしまっていて、わからない。 「被害者に関係があるとすると、地名や名前が、まず、考えられますが」  と、亀井が、いった。 「それを、考えて行こうじゃないか。今のところ、これ以外に手掛りらしきものが皆無だからね」   東   16.   十津川は、じっと紙片を、見ていた。 「姓名だとすると、東という一字の姓もありますし、東田、東山、東海林と、いろいろ考えられますね」  と、亀井がいうのを、十津川は、聞いてから、 「このメモを、誰が書いたと思うね?」 「事件に関係があれば、被害者か、犯人じゃありませんか?」 「もし、そうだとすると、二人は顔見知りだ。行きずりに殺した人間が、わざわざ殺した相手をバラバラにして捨てるような面倒なことはしないだろうからね」 「そうです」 「そんな二人が、メモ用紙に、自分の名前や相手の名前を書くかね?」 「よく知っているんだから、今更、書きませんね」 「そうなんだ。従って、これは名前ではない可能性が強いんじゃないかね」  と、十津川は、いった。 「名前ではないとすると、地名ということになりますか?」 「地名か、或いは会社名、グループ名が、考えられるね。会社名の中には、ホテル、旅館から、病院の名前も入ってくる」 「会社名なら、東京──ということも考えられますから、かなりの数が、浮かんで来ますよ」  と、亀井が、眼を輝かせて、いった。  だが、十津川は、難しい顔になって、 「その場合、下に書いてある16という数字は、何だろう?」 「電話番号じゃありませんか?」  と、亀井が、いう。 「しかし、今は、東京の局番は四|桁《けた》で、3か5が頭についているよ。16で始まる局番は、無くなっているんだ」 「改正前の局番ということは、考えられませんか。これが、被害者の書いたもので、地方から東京へ上京したとすると、相手の会社の電話は、古い局番で書き留めていたことも、十分に、考えられるんじゃありませんか」  と、亀井は、いう。  確かに、東京の局番が四桁になったのは、最近だから、地方の人が、古いままで覚えていることも、考えられないことではない。 「しかし、ね。荒川周辺の局番は、昔でいえば、800台だよ。荒川区役所が、802だからね。第一、東京で、160台の局番は無いんだ」  と、十津川は、いった。 「とすると、ホテルや、病院の部屋番号でしょうか?」 「病院じゃないね。温泉を使う病院は、この周辺には、無いと思うからだ。残るのは、ホテルだな。東京の人間が、東京のホテルに泊るということは、あまり考えられないから、地方から出て来た被害者が、泊ったんだろうと思うね」 「当ってみましょう」  と、亀井は、勢い込んで、いった。  ホテル名としては、東京──ホテルもあれば、東──ホテルもある。そうしたホテルを、ビジネスホテルまで含めて、全《すべ》て当ることにした。  被害者の顔は、不明だが、身長は百六十センチくらいの男であろうと、推測されている。痩形で、体重は五十二、三キロ。年齢は五十歳前後、病身で、多分、青白い顔だったのではないか。  そして、十月五日以前にチェック・インし、五日にチェック・アウトしたか、外出して、戻っていない客。こうした線で、刑事たちは、東京都内、特に、荒川周辺のホテルに当って廻った。  十二人の刑事が動き、丸一日かかったが、それらしい人間が泊ったというホテルは、見つからなかった。  会社、ホテル、病院の線が消えた。 「あとは、地名ですね」  と、亀井が、いった。 「地名だとすると、16という数字は何だと思うね?」  十津川は、相変らず難しい顔で、きいた。 「わかりません。電話番号でないことは、確かだと思いますが」 「所番地でも、ないと思うね。それなら、番地だけ書くのは、おかしいからね」 「この数字が、何なのかわかれば、東という字の意味も、わかってくると思いますが」  と、亀井は、口惜しそうに、いった。  十津川は問題の紙片を手にとって、顔を近づけて見ていたが、 「16の横に、小さな点があるように見えるんだが、違うかな?」  と、いった。  亀井も、紙片を受け取って見ていたが、 「16の横下のところでしょう。シミみたいに見えますが」 「拡大鏡はないかな」 「持って来ます」  と、亀井はいい、何処からか、虫眼鏡を持って来た。 「これしか、見つかりません」 「ありがとう」  と、十津川は、それを手にして、もう一度紙片の数字を見つめた。 「やはり、点が打ってあるんだよ。裂かれた部分なので、見えにくくなっているんだ」  と、十津川は、いった。 「点とすると、どうなるんですか?」 「16.──とすると、どうなるのかな。16. 17. 18 ──というわけでもないだろう。それは意味がない」 「地名なら、そんな数字は何の意味もないと、私も思います」 「ひょっとすると、時刻かも知れないな。一六時、つまり午後四時だよ」  と、十津川が、いった。 「なるほど。点があると、16の次に来るのは、何分という数字でしょうね」 「そうだと思う。16.05 とか、16.38 という数字なんじゃないかね」 「午後四時五分、午後四時三八分ということですか?」 「ああ、そうだ」 「しかし、普通の生活では、一六時とはいわずに、午後四時とか、PM四・〇〇というんじゃありませんか?」 「いいね。カメさん」 「そうですか?」 「午後四時とせずに、一六時と書く場合は、何だろう?」 「時刻表!」  と、亀井が突然、大きな声を出した。 「そうさ。列車、飛行機、船などの時刻表なら、午後四時ではなく、一六時になっている」 「とすると、東というのは、駅、空港、港ということになって来ますね」 「その通りだよ」 「多分、これは被害者が、帰る時の列車、飛行機、船の時間を書いたものじゃないでしょうか? 例えば、東は、東京駅、東京空港、東京港ということじゃありませんかね」 「一六時丁度か、一六時何分かに、出発する列車、飛行機、船に乗るつもりだったということになるね」 「調べてみましょう」  と、亀井が、いった。  一六時台に東京駅を出発する列車は、何本もある。東京空港を出発する飛行機も、である。  亀井は、時刻表を持ち出して、調べ始めたが、途中で、 「駄目ですよ。これは」  と、投げ出してしまった。 「なぜだい? カメさん」 「一六時台に、東京駅を出発する列車はわかりますが、肝心の行先がわからなくては、特定できません。飛行機も、船も同じです」  と、亀井が、いう。  十津川は、笑って、 「そうだな。行先不明では、意味がないんだ。では、その紙片を、捨ててしまうかね?」 「そうしたいんですが、これ以外に、何もありませんからね。惜しいですよ」  亀井は、紙片に眼をやって、いった。 「それなら、見直してみようじゃないか」  と、十津川は、いった。 「見直すって、どうするんですか?」 「一六時──東というのは、出発の時刻かも知れないが、向うに、着く時刻かも知れない。その可能性は、半々じゃないかね?」 「ええ。それは、そうですが──」 「だから、その半分に、賭《か》けてみようというんだ。もし、出発の時刻なら、われわれはお手上げだが、到着の時刻だったら、手掛りになる可能性があるんだ。それをやらずに、捨てることはない」 「被害者が帰って行く場所と、その到着時刻ということですね?」 「場所というより駅だよ。それをメモしていたんじゃないかな。被害者は温泉を利用した療養所にいたと思われる。何日かの外出許可を貰って、上京して来ていたとすると、帰る日時が気になっていたんじゃないかね。最寄りの駅に何時に着けば、その日時に帰れると計算して、メモしていたんじゃないか」 「考えられますね」 「東──という駅に一六時何分かに着くということをメモしていたとして、調べてみようじゃないか。これなら、特定できると思うよ」  と、十津川は、いった。      2  東という駅はない。  とすると、問題の駅名は、東大阪とか、東室蘭といった駅と、考えていいだろうと、十津川は考えた。  刑事たちは、東のつく駅名を探した。飛行機は、東のつく空港が、東京以外にはないので、無視することにした。  船も、同じだった。  刑事たちは、時刻表と首っ引きで、東のつく駅名を書き出していった。  実際に調べていくと、北海道だけでも、十九駅もあるのだ。 [#2字下げ]東風連 (宗谷本線) [#2字下げ]東六線 ( 〃  ) [#2字下げ]東旭川 (石北本線) [#2字下げ]東雲  ( 〃  ) [#2字下げ]東相ノ内( 〃  ) [#2字下げ]東根室 (根室本線) [#2字下げ]東釧路 ( 〃  ) [#2字下げ]東鹿越 ( 〃  ) [#2字下げ]東滝川 ( 〃  ) [#2字下げ]東幌糠 (留萠本線) [#2字下げ]東鶉  (函館本線) [#2字下げ]東森  ( 〃  ) [#2字下げ]東山  ( 〃  ) [#2字下げ]東篠路 (札 沼 線) [#2字下げ]東室蘭 (室蘭本線) [#2字下げ]東久根別(江 差 線) [#2字下げ]東静内 (日高本線) [#2字下げ]東町  ( 〃  ) [#2字下げ]東追分 (石 勝 線)  これらの駅に、一六時台に停車する列車があるかどうかを調べていく。  東風連に一六時五二分にという普通列車はあるが、次の東六線に一六時台に停車する列車はないということが、わかってくる。  停車する駅については、近くに温泉があるかどうかを調べ、もし温泉があれば、そこに温泉を利用した療養所があるかどうか、現地に問い合せた。  この作業は、東北、関東、北陸、東海──と続けられた。  三日間かかって、作業を了《お》えたとき、やっと一つの駅名が浮かび上ってきた。  〈東鳴子 16.42〉  である。駅名は、なるこではなく、なるごである。  十津川が、ここに違いないと断定したのは、東鳴子《ひがしなるご》と次の鳴子の間に、私営の療養所があって、ここは温泉を利用して、患者の治療に当っていると聞いたからだし、一六時四二分に着く列車が、あったからである。  十津川は、この「玉木温泉治療院」に、電話をかけた。  電話口に出た事務局員は、十津川の質問に対して、 「確かに、うちに入院している患者の中で、外出している者がおります。十月四日に外出した患者ですが、予定では明日に帰るということなので、別に心配はしていないのですが」  と、呑気《のんき》に、答えた。 「名前は、わかりますか?」 「ええと、津田順造、五十一歳ですね。彼がどうかしましたか?」  と、相手が、きく。その患者が死んだなどとは全く考えていない感じだった。 「まだ、わかりませんが、身長百六十センチくらいで、痩せた方ですか?」 「そうですね、内臓が悪いので、痩せています」 「何処へ行くと、いって、外出したんですか?」  と、十津川は、きいた。 「東京にいる娘さんに会いに行くと、外出届には書いてありますが」  と、相手は、いう。電話ではまだるっこしい感じで、 「とにかく、明日、そちらへ伺います」  と、十津川は、いった。      3  どうやら、被害者は、東鳴子の温泉治療院に入院していた患者らしい。  翌日、十津川は、亀井を連れて、東北新幹線に乗った。古川で降りて、ここで陸羽東線に乗りかえる。  古川発一六時〇七分の快速「いでゆ」に乗れば、一六時四二分に東鳴子に着くのだが、十津川たちは、古川に一一時五九分に着いてしまったので、一二時〇五分発の普通列車に乗った。  二両編成の気動車である。古川を出ると、急に窓の外の緑が濃くなる感じだった。東北新幹線に沿って、東北の開発が行われても、一歩、中央部に入って行くと、自然が色濃く残り、人家もまばらになる。冬になれば、この辺りは、何メートルという雪が積もるのだろう。  東鳴子には、四十分余りで着いた。温泉では、次の鳴子が有名だが、東鳴子の駅にも「東鳴子温泉郷」の文字が見えた。  もう紅葉の季節は過ぎてしまったので、東鳴子で降りたのは、十津川と亀井だけだった。  鳴子が、ホテル、旅館の建ち並ぶ温泉町なのに比べると、東鳴子はスポーツセンターなどがあっても、温泉町という空気はあまりない。  二人はタクシーを拾って、玉木温泉治療院へ行ってくれと、いった。  七、八分も走ると、周囲は完全な田園風景になって、温泉町の姿は消えてしまった。  問題の玉木温泉治療院は、そんな畠の真ん中にあった。驚いたのは、思っていたより、豪華で立派な建物だったことである。こんなところにも温泉が出るのだろうかと思いながら、十津川は、広い建物の中に、入って行った。  確かに、温泉の匂いがする。建物の裏手から、白い湯煙りが立ちのぼっていた。  駐車場には、高級車が数台、並んでいる。  温泉地の療養所というので、何となく湯治場みたいなものを想像していたのだが、違っていたらしい。  よく見れば、病院というより、ホテルの感じで、入口を入ると、広いロビーがあった。  ただ、フロントの代りに、事務局の看板が出ていて、十津川が警察手帳を見せると、白衣姿の若い職員が、 「電話の方ですね」  と肯《うなず》き、ロビーのソファに案内された。十津川がバラバラ死体のことをきくと、 「確かに、うちに入院されている津田さんによく似ていますね」  と、相手は、いった。 「写真は、ありますか?」 「持って来ます」  と、職員はいい、五、六枚の写真を持って来た。  五十歳くらいの患者の写真だった。うすいサングラスをかけた、細面の上品な感じの男だった。  バスローブ姿でサンルームに入り、デッキチェアで休んでいる写真もあれば、看護婦に血圧を測って貰《もら》っている写真もある。 「どれも、サングラスをかけていますね」  と、十津川が、いった。 「眼が弱いので、うすいサングラスをかけているんです」 「どのくらい、ここで療養しているんですか?」  と、亀井が、きいた。 「もう、三年半ほど、ここにいらっしゃいますよ。個室もあり、医者も看護婦もいて、その上、温泉ありで、気に入ったといわれましてね」 「高いんでしょうね? ここに入るのは」 「正直にいって、安くはありませんが、それは考えようだと思います。入院希望者が多いということは、高くはないと思われている方が沢山いるということだと思いますね」  と、職員は、自信にあふれた語調でいった。 「すると、この津田さんという患者は、資産家ですか?」  十津川が、きいた。 「そうです。仙台の資産家です。奥さんが亡くなったし、自分が病身というので、三年半前に、ここに入院されたんです」 「家族は、亡くなった奥さん以外に、いないんですか?」 「娘さんが、一人いる筈ですよ」 「その娘さんは、仙台にいるんですか?」 「いや、東京です」 「それで、二週間の外出届を出して、上京したんですか?」 「そう思いますが、津田さんはあまりご自分のことを話さない方でしたから、詳しいことはわかりません」 「すると、東京の娘さんの住所は、わかりませんか?」 「はい」 「ここの門限は、何時ですか?」  ふと、語調を変えて、十津川がきいた。 「病院ですので、午後五時と、早くなっていますが」  と、職員は、いう。 (それでか)  と、十津川は、思った。津田は、一六時四二分に東鳴子に着けば門限に間に合うと考え、その列車に乗ればよいと思って、メモしておいたのだろう。  それに、ぎりぎりまで東京で、娘に会っていたいという津田の気持の表われなのかも知れない。 「津田さんは、個室に入っていたんですね?」  と、十津川は、きいた。 「そうです。ここでも、ハイクラスの部屋に入っておられます」 「その部屋を見せてくれませんか」  と、十津川は、いった。  二階にある個室に案内された。確かに広い部屋で、ベッドの他に応接セットが置かれ、トイレもついている。  机の上には、こけしが二体、並べてあった。 「ここには、木工場がありましてね。軽い患者の中から希望者には、こけし作りを教えているんです。津田さん、入院してすぐ、自分から覚えたいといって、作り始めたんです。この二つのこけしも、津田さんが自分で作られたんです。それから十月四日に外出する時、自分で作ったこけしを二つ持って行かれましたよ」  と、職員が、教えてくれた。  それは、きっと、東京にいるという娘への土産だったのだろう。 「娘さんの写真を、探していいですか?」  と、十津川は、きいた。 「どこかに、ある筈ですよ」  と、職員はいい、机の中や洋服ダンスを開けて探していたが、 「おかしいですね。持って行ったのかな。いつも机の上に立てかけてあったんですよ」 「持って行ったんだと思いますね。フォトスタンドが、ここにありますよ」  亀井が、空になったフォトスタンドを、洋ダンスの上から見つけて、いった。 「手紙は、来ていませんかね?」  と、十津川が、きいた。 「何通も来ている筈ですがねえ。おかしいな。手紙もありませんね」  職員は、探しながら、しきりに首をひねっていた。 「手紙が来ていたのは、間違いありませんか?」  十津川は、念を押した。 「津田さんが、自慢気に見せてくれたことがありましたからね」 「手紙も、持って行ったのかな?」 「なぜ、持って行くんです? 手紙の主に会いに行くのに」 「そりゃあそうですが、何処にもないとなると、他に考えようがありませんからね」  と、十津川は、いった。  次に、十五人いる看護婦の一人で、津田の世話をよくしていたという市川公子という三十歳の女に会わせて貰った。  小柄で、よく動く眼をしている看護婦だった。 「津田さんから、よく娘さんのことを聞きましたよ。十八歳の時に東京の大学に入って、今は、はやりのフリーターをしているとか、聞きましたけど」  と、公子は、いう。 「手紙も、来ていたと聞きましたが」 「ええ、十通以上、あったんじゃないかしら。私も、二通ほど読まして貰いましたわ」 「娘さんの名前と住所を知りませんか?」 「名前は、確か、めぐみさんだったと思いますわ。住所は覚えていませんねえ。私は東京に行ったことがなくて、手紙に書いてあったんですけど、覚えにくくて──」 「どんな手紙でした?」 「お父さんに会いたいとか、ぜひ東京に来てくれとか、書いてありましたよ」 「娘さんが、見舞いに来たことはないんですか?」  と、亀井が、きいた。 「一度あったと思いますよ。津田さんは、娘の人生は娘の人生という考えの方で、あまりべたべたしたくないといっていましたからね。忙しければ来なくていいと、いつもいってたみたいですわ」 「あなたは、娘さんに会ったことがあるんですか?」  十津川が、きいた。 「一度だけ、見たことがありますわ。頭に怪我《けが》したとかで、包帯をしていらっしゃいましたね。お父さんに会いに来たので、遠慮してお話はしませんでしたけど」 「娘さんの手紙が一通も見つからないんですが、どこにあるかわかりませんか?」  と、十津川がきくと、公子はびっくりした表情になって、 「津田さんの部屋にありませんの?」 「見つからないんです」 「じゃあ、津田さんが持って、外出したのかしら? でも、そんなことをする筈がありませんしねえ」 「あの個室には、誰でも、自由に入れるんですか?」 「いえ。そんなことはありませんわ。普通の病院とは違って、部屋にカギがかかるようになっていますから」 「十月四日に外出するとき、津田さんは、あなたに何かいっていませんでしたか?」 「別に、何も。でも、急に東京に行くことを決めたみたいだったわね」 「なぜですかね?」 「そりゃあ、急に娘さんに会いたくなったんでしょう。娘の人生は娘のものだといっても、二人だけの父娘だったようですから、やはり寂しかったんだと思いますわ」 「津田さんですが、いつもうすいサングラスをかけていたみたいですね?」  と、亀井が、きいた。 「ええ。津田さんは眼がちょっと悪いんで、いつも眼の保護のために、サングラスをかけていたんですよ。ここへ入っていらっしゃった頃は、そんなことはなかったんですけど、一年ほど前から急に眼が弱くなったみたいですわ」 「どんな風に、眼が弱かったんですか?」  と、十津川がきいた。 「私には、物がダブって見える感じだし、明るさが痛く感じるとも、いっていましたわ。ここは眼科がないので、ちょっと不自由なんですけど」 「では、眼の悪い患者は、どうするんですか?」 「駅前に眼科の病院がありますから、そこへ通うか、動けない方には、そこの先生に来て貰っていましたけど」 「じゃあ、津田さんも、そこで診《み》て貰えば良かったんじゃありませんか?」 「ええ。でも、津田さんは面倒くさがって、診て貰わないんです。私なんかがすすめても、笑って、別に見たいものもないからっていっていらっしゃいましたわ」  と、公子は、いった。 「ここに入院するには、かなりのお金が必要なんでしょうね?」  と、亀井が、きいた。 「ええ。眼科はありませんけど、その他は全部揃っていますし、温泉治療ということで、楽しいし、空気もいいですしね」 「津田さんのあの部屋で、いくらぐらい必要なんですか?」 「入院の時に、五百万。その他に、一カ月百万円は必要ですわね」 「じゃあ、津田さんは資産家ですね?」 「ええ。お金持ちですよ」 「すると、津田さんが亡くなると、その財産は一人娘のめぐみさんに行くわけですね?」  亀井がきくと、看護婦の公子は笑って、 「刑事さんて、すぐ、そういう風に考えるんですね」 「何しろ、津田さんが殺されたと考えられますのでねえ」  亀井は、ニコリともしないで、いった。 「でも、全部の財産が娘さんに行くんじゃないみたいですよ。うちの院長の話ですけど、津田さんは、財産の半分は娘に遺すが、あとはこの病院に寄贈したいと、いっていたそうですから」  と、公子は、いう。 「その話は、本当ですか?」 「津田さんからもきいたと思うんですけど、詳しいことは、院長にきいて下さい」  と公子は、いった。      4  十津川と亀井は、三階にある院長室で、玉木にあった。五十歳くらいで、でっぷりと太った、貫禄のある男である。  丁度、新しく入院したいという希望者が、帰るところで、十津川たちはその家族と入れ違いに、院長室に入った。 「事務局の人間から、津田さんが亡くなったらしいと聞いて、びっくりしているところです」  と、玉木は、いった。 「津田さんは、自分が亡くなったら、財産の半分をこの治療院へ寄附すると、いっていたそうですね?」  と、十津川はきいた。  玉木は、穏やかな表情で、 「そうです。私は有難いが、娘さんに全部お上げなさいと、申し上げたんです。それでも、津田さんは、娘は若いし、仕事をしている。それに、十分な財産は遺してやるのだから、半分は当院に寄附したいと、重ねておっしゃられました。まさか、亡くなられるとは思わなかったので、そのときは、お礼をいったのですが」 「津田さんの遺言状は、どこにあるかわかりますか?」 「仙台によく知っている弁護士さんがいて、その方に預けてあると聞いています。一度、その弁護士さんが見えたことがありましてね。名刺を頂いています」  と、玉木はいい、机の中を探して、名刺を見せてくれた。  仙台市内の榊原斉一郎という弁護士だった。十津川は、その名前と住所を、手帳に書き写した。会って、話を聞きたかったのだ。  十津川と亀井は、再び東鳴子駅から、仙台行の陸羽東線に乗った。  二両編成の気動車にゆられながら、十月四日、津田順造も、古川、仙台行の列車に乗ったのだろうと、十津川は思った。  古川からか、仙台からかはわからないが、その日、津田は東北新幹線で娘のいる東京に向ったのだ。そして、翌五日の夜、殺され、バラバラにされて、荒川放水路と隅田川に捨てられている。その間に、何があったのだろうか?  仙台に着いた時はすっかり陽が落ちて、ネオンが輝いていた。そのネオンが妙になつかしかったのは、田んぼの中の療養所から来たからだろう。  榊原法律事務所は、仙台の繁華街、東一番丁にあった。  十津川たちが訪ねると、若い弁護士が一人残っていて、榊原は今日は休んでいると、いった。しかし、十津川が津田順造の遺言状のことをいうと、金庫を開け、それを見せてくれた。  今年の一月十五日に、書かれたものである。  そこに書かれたことは、全財産の半分を娘のめぐみに遺し、残りは東鳴子の玉木温泉治療院に寄附するというものだった。 「津田さんは、二年に一回、一月十五日に書きなおしていらっしゃいました」  と、佐伯という若い弁護士がいう。 「津田さんの全財産というのは、どのくらいあるんですか?」  と、亀井が興味を持って、きいた。 「私は正確には知りませんが、四、五十億円じゃありませんか」  と、佐伯は、いい、詳しいことは所長の榊原弁護士が知っているといった。 「所長さんは、明日はお見えになりますか?」  十津川がきくと、佐伯は当惑した表情になって、 「実は、今月の五日から、調べたいことがあるといって、出かけられて、まだ戻っていないのです」 「五日からですか?」 「ええ。四日に津田さんが見えて、所長と何か話していたんですが、翌日、所長が調べることがあるといって、出かけられたんですよ。何を調べるつもりだったのか、私にもわかりません」 「津田さんが、四日に来たときですが、榊原さんとどんな話をしたか、わかりませんかね」  と、十津川は、佐伯をみた。どうもそれが、今度の事件のカギになっているような気がしたからである。  だが、佐伯は、いよいよ当惑した顔になって、 「なんでも、内密の話とかで、所長と奥の所長室に入って、一時間近く話をしていましたよ。そのあと、所長は、今いったように、調べたいことがあるといって、何処かへ出かけて、まだ戻らないんです」 「津田さんの遺言状を書きかえるなんて話じゃなかったんだろうか?」 「いえ。遺言状のことは、津田さんも所長も、一言もいっていませんね」  と、佐伯はいった。 「榊原さんの行先を知りたいんですが、奥さんにきいてみてくれませんか」  と、十津川は、頼んだ。  佐伯は、すぐ、榊原弁護士の家に電話をしてくれた。  だが、電話を置くと、申しわけなさそうに、十津川を見た。 「奥さんも、知らないそうです。大事な用で、出かけてくる。簡単に解決すればすぐ帰るが、ちょっと時間がかかるかも知れない。でも、心配するなと、奥さんにはいったそうです」 「いつも、奥さんに、そんな風にいう人なんですか?」  と、亀井が、きいた。 「そんな風にと、いいますと?」 「旅行に出かける時、心配するなと奥さんにいうようなです」 「そうですねえ。刑事事件を扱うと、脅迫されたりすることがあります。殺してやるぐらいの電話は、よく掛りますよ。そんな時には、所長は、奥さんにいうんじゃありませんかね。僕は独身だから、わかりませんが」 「今、榊原さんは、そんな難しい刑事事件を扱っているんですか?」  と、十津川はきいた。 「いえ。今月は、そうした刑事事件は扱っていません」 「そうすると、津田さんのことで、榊原さんは危険な旅に出たことになりますね。奥さんに、心配するなといったのは、榊原さんが、ひょっとすると危険な目にあうかも知れないと、思ったからでしょう?」  と、十津川は、いった。佐伯は、青い顔になって、 「脅さないで下さいよ」 「別に、脅すつもりはありませんが、何しろ津田さんが殺された上、バラバラにされていますからね」 「しかし、まだ、それが津田さんだという確証はないわけでしょう? 顔の部分が見つかっていないんだから」 「確かにそうですが、十中八九、津田さんだと思いますね。頭部が見つからないのは、顔がわかって、身元が割れるのを恐れたためと思いますよ」  と、十津川は、いってから、 「われわれとしては、津田さんの娘さんにぜひ会いたいんですが、住所を知りませんか? 遺言状があるんなら、万一の時、娘さんに連絡する必要があるでしょう?」  と、いった。 「所長は知っている筈なんですが、留守の時に机の引出しを開けるわけにもいきませんしね」 「榊原さんは、知っているんですか?」 「そりゃあ、津田さんから聞いている筈ですから」  と、佐伯は、いう。 「何とか、わかりませんかね。今度の殺人事件の犯人の逮捕には、どうしても津田さんの娘さんに会う必要があるんですよ」  と、十津川がいい、傍から亀井が強い口調で、 「ここの所長さんだって、どうなってるか、わからんでしょう。早く手を打たないと、危険かも知れませんよ」  と、脅すように、いった。 「そういえば、榊原からずっと連絡がないんです」  と、佐伯はいい、何か口の中で呟《つぶや》いていたが、決心をしたという感じで、榊原の机の引出しを開けた。  取り出したのは、住所録である。榊原が顧問弁護士をやっている会社、個人の名前と万一の時の連絡先が、書いてあるものだった。  津田順造の項にも、連絡先として、娘のめぐみの名前があった。住所と電話番号も書いてある。  十津川は、それを自分の手帳に、書き留めた。  礼をいって、法律事務所を出ると、十津川と亀井は、近くの公衆電話で津田めぐみの電話番号にかけてみた。  電話は鳴った。が、いつまで待っても、誰も出ない。  鳴っている電話はそのままにしておいて、十津川は亀井に、 「まだ、東京に帰る列車があったかね?」 「仙台発の最終は二一時二六分ですから、ゆっくり間に合います」  と、亀井が、手帳を見ていった。いぜんとして、電話の応答はない。  十津川は、受話器を置くと、 「すぐ、東京に戻ろう」  と、亀井に、いった。  JR仙台駅に急ぎ、その最終に乗り込んだ。津田めぐみの住所は、向島《むこうじま》近くのマンションになっている。バラバラ死体が見つかった地点から見て、下流に当るといえなくもない。  二人は上野で降り、タクシーで向島に向った。すでに午後十一時半を過ぎていたが、一刻も早く、津田順造の娘に会いたかったのだ。  向島のマンションは、一戸ずつが独立した形の集合住宅で、一階と二階のあるぜいたくな造りだった。  五年前にできたのだが、その時でも、一億円近くしたらしい。その一戸に、ローマ字でM・TSUDAの表札が出ていた。  津田が、一人娘のために買い与えたのだろう。  改めて、ブザーを押してみたが、返事はなかった。  管理人にきいてみようと思ったが、通いの管理人らしく、もう帰ってしまっていた。 「いらいらするね。顧問弁護士は旅へ出てしまっているし、一人娘は留守だしね」  と、十津川は、舌打ちをした。 「もう、十二時を過ぎていますよ。この時間に帰っていないというのは、何かあるんじゃありませんか」  と、亀井が、いう。  十津川は、ドアのノブに手をかけて回し、引っ張ってみた。 「開くよ。カメさん」 「入ってみましょう」  と、亀井が、いった。  下手をすると、津田めぐみも死んでいるかも知れない。そんなことを思いながら、十津川は中に入って、スイッチを押した。  急に、部屋が明るくなった。  一階にも、二階にも、死体はなかった。  若い女の部屋らしい色彩が、部屋を飾っている。これも、津田が買い与えたものだろうが、応接室のじゅうたんも、調度品も、立派なものばかりだった。  衣裳ダンスには、ミンクのコートもあった。確か、めぐみは二十五、六歳の筈だが、その年齢の女にしては、ぜいたく過ぎる感じだった。 「鑑識を呼んでくれ」  と、十津川が、いった。 「どうされるんですか?」 「バスルームを調べて貰う。ひょっとすると、そこで、津田順造がバラバラにされたかも知れないからね」  と、十津川は、いった。  すぐ鑑識が駆けつけ、広いバスルームに入っていった。  結果が出るのを、十津川と亀井は、他の部屋を調べながら待った。  二階の寝室にある三面鏡の引出しから、手紙が見つかった。父親の津田順造からの手紙が、五通だった。いずれも、娘の日常を気遣う文句にあふれている。写真を送ってくれと書かれたものもあった。  めぐみの写真は、アルバムになって、見つかった。  この部屋の中で、撮ったものもあれば、ハワイや、冬のスキー場で撮ったものもある。  やはり、どこか父親の津田順造に似ている。 「何枚か、剥がされていますね」  と、亀井が、アルバムのページを繰りながらいった。  彼のいう通り、何枚かの写真を、引き剥がした痕《あと》があった。 「本人が、剥がしたんですかね?」  と、亀井が、首をひねった。 「何のためにだい?」 「父親から、写真を送ってくれと、いわれたからです」 「それなら、新しく、写真を撮って、送るんじゃないかね」  と、十津川がいったとき、一階から、 「ちょっと、来て下さい!」  と、鑑識の怒鳴る声が聞こえた。  二人は、アルバムと津田順造の手紙を持って、一階へ駆けおりた。 「反応が、あったかね?」 「ありました。明らかに、人間の血ですね。バスルームの隅や、壁から、はっきりしたルミノール反応がありました」 「やはり、ここで、死体がバラバラにされたんだな」 「血液型は、すぐには、わかりません。明日になりますよ」  と、鑑識が、いった。  鑑識が引き揚げたあとも、十津川と亀井は現場に残った。  亀井は、一階応接室のソファに腰を下ろしてから、小さな溜息《ためいき》をついて、 「まさか、一人娘が、父親を、バラバラにしたんじゃないでしょうね?」 「バスルームの血痕が、津田順造のものなら、形としては、父親殺しになってしまうねえ」  十津川は、難しい顔で、いった。 「そんなこと、信じられませんよ。こんなぜいたくな生活をさせて貰っているのに、父親を殺すなんて、信じられませんね」  と、亀井が、いう。 「まだ娘のめぐみが犯人と決まったわけじゃない。第一、彼女も、行方不明なんだから」  と、十津川は、いった。 「しかし、ここは彼女のマンションですよ。それに、彼女が写っているアルバムもあるし、父親からの手紙も残ってるんです」 「じゃあ、なぜ、彼女はいないんだ?」 「逃げたんですよ。きっと」 「いやに、荒れてるね」 「こういう犯罪に、一番、腹が立ちますからね」  亀井は、テーブルを拳《こぶし》で叩《たた》いた。彼には二人の子供がいる。それだけに、今度の事件には、拘《こだわ》りを覚えるのだろう。  ふいに、電話が鳴った。  一瞬、十津川と亀井は、顔を見合せてから、十津川が受話器を取った。 「西本です」  という部下の声に、十津川は拍子抜けした感じで、 「何の用だ?」 「今、仙台の榊原法律事務所の佐伯という人から、警部に電話がありました」 「電話の内容は?」 「秋田の横田病院にいるので、電話を下さいということでした」 「理由は?」 「わかりませんが、大事な用件だそうです」  と、西本はいい、その病院の電話番号をいった。  十津川は、そこへ電話してみた。交換手が出る。佐伯弁護士の名前をいうと、聞き覚えのある声に代った。 「十津川ですが、何かあったんですか?」  ときくと、佐伯の声がふるえて、 「所長が重傷で、この病院に担ぎ込まれていました。今も、意識不明です」 「なぜ、秋田に?」 「わかりません。後頭部を殴られているのは確かです。八キロほど離れた雑木林の外れに倒れているのが見つかって、救急車で運ばれたんです。今、わかっているのは、それだけです」 「後頭部を殴られているというのは、間違いありませんか?」 「ええ。医者がいうには、かたいもので何度も殴られたに違いないそうです。殺されそうになったんですよ」 「夜が明け次第、そちらに行きますよ」  と、十津川は、いった。      5  十津川は、今度はひとりで、秋田へ行くことにした。亀井には、東京に残って、津田めぐみの行方を追って欲しかったからである。  十津川は、午前七時一〇分羽田発の全日空便で、秋田に向った。  一時間で、秋田空港着。すぐ、タクシーで、横田病院へ急いだ。  まだ、病院は開いていない。静かな待合室で、佐伯に会った。昨夜は眠れなかったのか、赤い眼をしていた。 「どうですか?」  と、十津川がきくと、佐伯は、 「いぜんとして、意識不明です」 「何か、わかったことはありませんか?」 「今、秋田県警が、調べています。警察の話では、JR新屋近くで、見つかったそうです。秋田から二つ目の駅です。日本海沿いの小さな駅らしいですよ」 「なぜ、そんなところに、榊原さんはいたんですか?」 「わかりませんよ」  若い弁護士は、腹立たしげに、いった。 「何かを、調べていたんだな」  と、十津川が呟くと、 「それは、わかっているんです。所長は、調べることがあるといって、旅行に出ているんですから」  と、佐伯は、また尖《とが》った声を出した。 「現場に行ってみませんか?」 「行きたいですが、所長のことが心配です」  と、佐伯は、いう。  十津川は、秋田市内の県警本部に顔を出し、瀕死《ひんし》の、榊原弁護士が発見された場所に、案内して貰うことにした。  青木という若い刑事が、車で連れて行ってくれた。 「発見者は、地元の六十歳の男です。雑木林の傍に倒れていたんですが、発見者はその雑木林の持主なんです。彼が、驚いて声をかけたとき、榊原弁護士は、妙なことをいったといいます」  車を運転しながら、青木刑事が、いった。 「妙なことって、どういうことですか?」 「榊原さんは、口をもつれさせながら、ベルリンといったそうです」 「ベルリン──?」 「ええ。念を押したんですが、そう聞こえたといっています」 「発見者が、耳が遠いということは、ないんですか?」 「いや、私の質問にもはきはき答えています」 「ベルリン──ですか?」 「榊原弁護士は、ベルリンにくわしいとか、友人が、ベルリンにいるということはないんですか?」 「いや、知りませんが、ベルリンには、関係ないことを調べていた筈なんですよ」  と、十津川はいった。  海沿いの道を十五、六分走ったところで、青木は車をとめた。  日本海が、間近に広がっている。海から吹いてくる風は、すでに冷たかった。  小さな雑木林があり、その傍を抜ける細い道に、青木は十津川を連れて行った。  道の横を、小川が流れている。その向うには、水田が見えた。  ふと、十津川は、なつかしい景色の中にいるのを感じた。自然が一杯だが、自然だけしかない感じの景色である。 「ここに、倒れていたんです」  と、青木が指さした場所には、雑草が押し潰《つぶ》されたようにかたまっていた。 「所持品は、どうなっていたんですかね? 何か盗まれたものは、なかったんでしょうか?」 「佐伯さんにきいたんですが、なくなっているものはない、ということでした。三十万近く入った財布も、盗まれていませんし、運転免許証、腕時計、キーホルダー、キャッシュカードなどが、ポケットに入っていました」 「手帳は、なかったんですか?」 「手帳ですか?」 「そうです。弁護士ですからね。いろいろとメモするのに、手帳を持って歩いているんじゃないかと思いましてね」 「いや、手帳はありませんでした」  と、青木は、いった。 「発見者に、会いたいですね」  と、十津川は、いった。  青木は、百メートルほど離れた農家に、十津川を案内した。  日本海からの強風に備えてだろう、家の周囲を、防風林で囲った構えである。この辺りの家は、たいてい同じ造りに見える。  発見者は、白木という男で、十津川の質問に訛《なま》りのある声で、はっきり答えてくれた。 「そりゃあ、びっくりしたねえ。頭を血だらけにして、俯《うつぶ》せに倒れているんだ。死んでいるんだろうかと思って、声をかけたら、いきなり、しがみついてきて、ベルリン──って、いったんですよ」 「ベルリンというのは、間違いありませんか?」  十津川は念を押した。 「ああ、間違いないね。最近、テレビや新聞で、ベルリンという名前を、よく聞くからね。間違いないさ」  白木は、頑《がん》として主張した。 「あの人を、前に見かけたことがありますか?」 「ないね。あれは、街の人間だろう?」 「仙台市内に住んでる弁護士さんです」 「やっぱりな。おれは、あの時、初めて見たんだよ」 「この辺は、何というところですか?」 「N村だよ」 「村役場は、どの辺ですか?」 「ここから歩いて、三十分くらいかな」  と、白木はいい、地図を描いてくれた。  十津川は、青木刑事と一緒に、村役場に行き、榊原弁護士が訪ねて来なかったかどうか、きいてみた。  だが、誰も榊原を見ていないということだった。 「この近くの村を、全部廻りたいんですがね」  と、十津川は、青木にいった。 「何かあると、思われるんですか?」 「いや、あそこで倒れていたということは、何かの用で来たということですからね」  と、十津川は、いった。  若い青木刑事は、十津川の注文に応じて、車を走らせてくれた。  N村に隣接する村や町を廻った。  夕方近くなって、やっと、十津川の期待する反応があった。  現場から、車で三十分近くかかる山間のT村役場で、戸籍係が、榊原弁護士が来たというのである。 「名刺を頂きました」  と、戸籍係はいい、榊原の名刺を見せてくれた。 「それで、榊原さんは何の用でここに来たんですか?」  と、十津川は、きいた。 「この村で生れた水沼はるみという女性のことを、ききに来られたんです」 「水沼はるみ──ですか」  十津川の知らない名前だった。 「どういう女性か、きかれました。水沼はるみは、確かに、このT村の生れですが、両親はすでに死亡していて、彼女も東京に移っています。現在、二十五歳の筈です」 「榊原さんは、それを聞いてから、どうしました?」 「生れた家を見たいとおっしゃるんで、場所をお教えしました。今は、誰も住んでいませんが」 「われわれにも、教えて下さい」  と、十津川は、頼んだ。  その戸籍係が描いてくれた地図を頼りに、十津川は、青木と一緒にその家へ向った。  ぽつんと建っている、こわれかけた家が見つかった。  家の前の小さな畠にも、雑草が生い茂ってしまっている。  屋根|瓦《がわら》は欠け落ち、雨戸は閉めてあるのだが、隙間《すきま》ができて、そこから野良猫がのぞいていた。  夕闇《ゆうやみ》に包まれてきたせいか、なおさら廃屋の感じがした。  青木刑事が、車から懐中電灯を持って来て、それで照らしながら、家の中に入った。  猫があわてて奥へ逃げ込んだ。 「何もありませんね」  青木が、懐中電灯で家の中を照らしながら、いった。  小さい家である。こんなになっても、貧しさが残っている感じがした。  天井からぶら下っているのは昔風の電灯の傘だったし、台所にはかまどが残っている。新しい道具は、買わなかったのか、買えなかったのか。いずれにしろ、若者には住めない家だったろう。だから娘は出て行ったのに違いない。そして、両親は死んだ。 「ちょっと、それを貸して下さい」  と、十津川はいい、青木から懐中電灯を貰って、床を照らした。  敷かれているゴザはめくれあがり、木の床はところどころ穴があいている。  十津川は片手で、めくれあがっているゴザを広げて見た。  陽に焼け、すり切れたゴザである。  十津川は、しゃがみ込んで、そのゴザの一カ所に懐中電灯を当てた。 「何をしていらっしゃるんですか?」  と、青木が、きく。 「これ、血じゃないかな」  と、十津川が、指さした。  黒いしみが、点々とついていた。その辺りだけ、埃《ほこり》がない。  青木も、緊張した顔になった。 「人間の血だとすると、榊原弁護士がここで殴られたのかも知れませんね」 「そうなら、犯人は、ここからN村の雑木林まで、運んだんですよ」 「なぜ、そんなことを?」 「多分、犯人は、榊原弁護士がここに来たことを、知られたくなかったんでしょう」  と、十津川は、いった。      6  秋田県警から、鑑識に来て貰った。  その結果、十津川の推測が適中した。やはり人間の血痕で、榊原弁護士と同じB型とわかったのだ。  もう一つ、わかったことがあった。同じT村の農家の一軒で、リヤカーが一つ、盗まれていたのである。  このリヤカーで、犯人は、榊原弁護士をN村の雑木林まで運んで、捨てたのだと考えられた。  あの廃屋から、距離にして五、六キロはある。それも、山道が多い。そこを犯人は、人間一人をのせたリヤカーを、黙々と引っ張って行ったのだろう。きっと、もっと遠くまで運びたかったに違いないが、あそこで力がつきてしまったのだと思う。犯人は、榊原が死んだと思っていたに、違いない。  新しく出て来た水沼はるみという女について、十津川は調べることにした。といってもこれは、秋田県警に協力して貰わなければならない。  十津川も、何日間か秋田にとどまらなければならないなと、覚悟した。  十津川の泊ったホテルに、東京に残った亀井から、電話が入った。 「津田めぐみのマンションのバスルームにあった血痕ですが、血液型がわかりました」  と、亀井が、いった。 「津田順造と同じ、O型だったかね?」 「そうです。O型でした。しかし──」 「しかし、何だね?」 「妙なことに、他の血液型も混っていることがわかったんです。大部分はO型の血痕でしたが、わずかながら、A型の血痕も見つかったということです」 「やはりね」 「やはりというと、警部は予測されておられたんですか?」  亀井が、びっくりしたように、声を高くした。 「いや、今日になって、或いはという気になっていたんだ。津田めぐみの血液型が、何とかしてわからないかね」 「彼女の卒業した大学へ行けば、わかると思いますが」 「すぐ、調べてくれないか。多分、A型だ」  と、十津川は、いった。  翌日になると、秋田県警の活躍で、水沼はるみのことが、少しずつわかってきた。  彼女は、秋田市内の高校に入ったが、二年で中退していた。  その高校時代、仲の良かったクラスメイトが、秋田市内にいるというので、十津川は青木刑事に案内されて、会いに出かけた。  吉牟田恵子といい、すでに結婚している女性だった。 「はるみは、高校を中退してすぐ、東京へ出て行ったんです。田舎の暮しが、嫌だといって。その後しばらく連絡がなかったんですけど、今年になって、急に電話がかかってきました」  と、恵子は、いった。 「何年ぶりでした?」  と、十津川が、きく。 「七年か八年ぶりでしたから、びっくりしましたわ」 「そうでしょうね。そのとき、彼女は、何といっていました?」 「いろいろ、東京で苦労したみたいなことを、いっていましたわ。そのあと、ハガキをくれました」  と、恵子はいい、一枚のハガキを見せてくれた。  今年の二月十六日の消印があった。 [#この行1字下げ]〈結婚の感想はどう? 私の方は、何とかやってるってとこね。お金もなかなか貯らないし、いい男にも会わないしね。今、ちょっと面白い仕事をやり始めて、これはちょっとお金になるの。また、電話する。 [#地付き]はるみ〉 「電話はありましたか?」 「いいえ。私もハガキを出したんですけど、返事がないんです」  と、恵子は、いった。 「ここに書いてある、ちょっと面白い仕事というのが、何だかわかりますか?」 「いいえ」 「このハガキを貸して下さい」  と、十津川は、いった。  ホテルに戻ると、十津川は、ハガキに書かれている住所を、亀井に電話で知らせた。 「この女のことを、くわしく調べて貰いたいんだ」 「わかりました」  と、亀井はいってから、 「津田めぐみの血液型がわかりました。やはり、A型でした」  と、いった。  少しずつ捜査が進展する感じがした。  しかし、このすぐあと、佐伯が、榊原弁護士の死んだことを電話で知らせてきた。 「何か、いい残したことは、ありませんか?」  と、十津川は、きいた。 「いえ、意識の戻らないまま、亡くなってしまったんです」  佐伯は、涙声で、いった。榊原が意識を取り戻してくれれば、いろいろなことがわかるのにと思っていただけに、十津川はショックを覚えた。  次の日に、亀井から電話の報告があった。 「警部のいわれた住所に、行ってみました。アパートは見つかりましたが、彼女はいません。三月末に、引越しています」 「引越先は、わからないのかね?」  と、十津川が、きいた。 「わかりません。あの辺は江東区役所なので、行ってみましたが、住民票は移されていません」 「彼女が、何をしていたか、わからないかね?」 「それを今調べているんですが、どうも普通のOLではなさそうです」 「水商売かな?」 「それも、含めて、調べていますが、水商売の線は、うすいと思います」 「なぜだい?」 「同じアパートの住人や管理人にきいても、そんな派手な感じは全くなかったといっていますから」  と、亀井は、いった。  水商売でないとすると、彼女がハガキで、「ちょっとお金になる、面白い仕事」というのは、いったいどんな仕事だったのだろうか? 「何とかして、彼女がやっていた仕事を調べてくれないかね。今年の二月頃にやっていた仕事なんだ」  と、十津川は、いった。  その電話がすむと、十津川は榊原弁護士が入院していた市内の病院へ出かけた。  受付で、すでに遺体は家族と佐伯弁護士が引き取って行ったといわれた。家族は、仙台で荼毘《だび》に付したいといったらしい。  十津川は、別に遺体に用があったわけではない。用があったのは、治療に当った医者だった。  十津川は、医者に会うと、 「榊原さんの容態が、どんなものだったか、教えて頂きたいのですが」  と、いった。  それを、医者は、処置への批判と受け取ったのか、 「ここへ運ばれて来た時は、もう手おくれだったんですよ。もう少し早ければ、何とか助かったかも知れないんだが。私のせいじゃない。どんな名医でも、あれは助けられなかった」  と、眉《まゆ》を寄せた。 「もちろん、そう思います。私が知りたいのは、後頭部の傷の他に、傷はなかったかということなんです」 「県警の刑事さんにもきかれましたが、外傷は、後頭部のもの以外、ありませんでしたよ」 「内傷は、どうですか?」 「内傷?」 「外傷の反対です。例えば、口の中が切れていたとか」 「ああ、それなら、舌に傷がありましたよ。恐らく、後頭部を強打されたとき、舌を歯で噛《か》んでしまったんでしょうね。もちろん、たいした傷じゃないし、致命傷はあくまで後頭部の傷です」 「しかし、舌が傷ついていると、喋《しやべ》りにくいんじゃありませんか?」 「そりゃあね。しかし、ここに運ばれて来てから、意識不明のまま死んだんですよ。一言も喋らずにね。だから、喋りにくかったかどうかは関係ないでしょう」 「どうもありがとうございました」 「他にきくことは?」 「ありません」  十津川は、礼をいい、病院を出た。  舌が傷ついていれば、喋りにくい。そんな状態で、榊原は発見者の農家の人にすがりつき、何かいった。今では、それが、ダイイング・メッセージになった。  発見者は「ベルリン」と榊原がいったという。  青木刑事は何をいってるのかという顔をしたが、榊原の舌がその時切れていたとすると、解釈も違ってくる。あの発見者は、聞こえたとおりを、いったのだ。舌が切れているために、サ行とタ行が、ラ行になってしまったのではないのか。舌が痛いと、発音が、丸くなってしまうからだ。  とすれば、と、十津川は考える。榊原は、ダイイング・メッセージに、「ベツジン」といいたかったのに、それが、「ベルリン」に聞こえてしまったのではないだろうか? 〈別人〉  で、ある。  榊原弁護士は、何を調べていたのか。それは、だいたい想像がつく。  十津川は、すぐ、東京に帰ることを考えた。  まだ、羽田行の飛行機はあるだろう。十津川は、ホテルに戻って、チェック・アウトの手続きをとり、秋田空港へ急いだ。  一八時二〇分の全日空便に間に合った。亀井に電話しておいて、乗った。  一時間余りで、羽田に着いた。空港に、亀井が迎えに来てくれていた。 「水沼はるみのやっていた仕事のことですが、西本と日下が調べています」  と、亀井は、車の中で十津川にいった。 「何とか知りたいね」 「水沼はるみという女は、今度の事件にどんな関係があるんですか?」  と、亀井が、きいた。 「水沼はるみと津田めぐみの接点が知りたいんだ。同じ二十五歳だが、生れた場所も、秋田の寒村と仙台市内と違っているし、学校も違う。一人は高校中退で、一人は東京の大学を出ている。全く接点がないように見えるんだが、何処かでつながっている筈なんだ。それを知りたいんだよ」  と、十津川は、いった。 「その接点が、水沼はるみの仕事ですか?」 「ああ、そうだ」  と、十津川は、肯いた。  それが、わかったのは、翌日の午後になってだった。西本刑事たちの聞き込みが、やっと効果をあげたのである。 「水沼はるみが働いていたのは、共同サービスという会社です」  と、西本が、いった。 「どんなことをする会社なんだ?」 「最近は、共稼ぎが増えたり、家事が嫌いな女性が増えたりしたので、そうした仕事を一時間いくらで請け負う会社です。つまり、一時間一万円なり、二万円で、家の中の掃除から風呂場の洗い、それに庭の手入れまでやる会社です。独身の女性なんかでも、マンションの掃除が面倒だといって頼むらしいですよ」 「水沼はるみが、そうした仕事をしていたわけか?」 「仕事が早いので、人気があったそうです」 「彼女が面白い仕事と書いたのは、なぜかな?」 「家の中を掃いたり雑巾《ぞうきん》がけをしたりするわけですから、その家の秘密をのぞいたりすることもあるんじゃありませんか」  と、西本は、いった。 「それで、電話を受けて、社員が出かけて行くわけだね?」 「そうです。掃除の七つ道具を、軽自動車に積んで出かけるそうです」 「サービスエリアは、どの辺りまでなんだ?」 「だいたい、東京の北東部といっていました」 「すると津田めぐみのマンションは、入ってくるね?」 「入りますし、会社の帳簿を見せて貰ったところ、津田めぐみの名前がありました。どうやら彼女は、家の中の掃除や洗濯が嫌いで、よくこの会社に頼んでいたようです」  と、西本が、いった。  十津川は、思わず、ニッコリして、 「これでやっと、二人の接点が見つかったね」 「それで、どうなりますか?」  と、亀井が、きいた。 「水沼はるみは、面白い仕事だと、友人へのハガキに書いている。西本君は派遣された家の秘密をのぞけるからだろうといったが、若い水沼はるみが、それだけで面白いとは思わないんじゃないかね。彼女は金がなくて、欲しがっていた。お客の家へ行き部屋の掃除や洗濯をしていれば、現金とか宝石とか、見つかることがあるんじゃないか。金のある家がお客に多いだろうからね。それをわからないように盗んでくる。だから、面白い仕事だといったんじゃないか」 「水沼はるみは、津田めぐみのマンションに、掃除、洗濯を頼まれて仕事に行った。そのとき、めぐみの宝石か現金かを見つけて、猫ババしたというわけですか?」 「いや、猫ババしようとして、見つかったんだよ。そこで、はるみは、めぐみを殺した。多分、バスルームでね。それで、めぐみと同じA型の血痕が見つかった」  と、十津川は、いった。 「しかし、それだと、津田順造の死や、榊原弁護士の死が説明できませんが──」  亀井が、きいた。 「もちろん。ただ、水沼はるみが、津田めぐみを殺しただけではね。はるみは、その前にも何回か、津田めぐみのところに仕事に行ってたんじゃないかと思う」 「会社の話では、三回行っていたそうです。そして三月末に突然、はるみは会社をやめてしまったということです」 「三回行っていれば、同じ二十五歳だし、同じ東北の生れだから、話をしたと思うね。そして、はるみは、津田めぐみのことをいろいろと知った。金持ちの一人娘で、父親は、東鳴子の温泉を利用した療養所に入っている。他に、身寄りはない。その上、父親はめったに娘に連絡して来ない。はるみは、めぐみを殺したあと、そんなことを思い出したんだよ。そして、うまくいけば、めぐみになりすませるかも知れないと考えた。唯一の肉親である父親は、入院している。貯金は、印鑑があればおろすことができる。キャッシュカードは、暗証番号さえ知っていれば、自由に引き出せるんだ」 「それで、写真のことがわかりましたよ」  と、亀井がいった。 「写真?」 「アルバムから剥がされていた写真のことです。療養所の父親が、写真を送れと手紙でいってきた。普通なら、新しく写して送るのに、アルバムの古い写真を剥がして、送った。本人じゃないから、新しく写真を撮るわけにはいかなかったんだ」 「そうだよ」 「しかし、警部。娘は一度、療養所に会いに行ってるんじゃありませんか?」 「ああ、看護婦は、一度会いに来たといっていた」 「それは、どういうことなんでしょうか? 行けばすぐ、ニセモノとわかってしまうでしょうに」  と、亀井は、首をかしげた。 「津田順造は、眼が悪くなっていた。光に弱くなり、眼が痛むので、いつもサングラスをかけていた。そのことも、手紙に書いて娘に出していたんだと思うね。だから、会いに来てくれとね。行かなければ、疑われる。そこで、はるみは賭けに出たんだ。眼が悪ければ、うまくごまかせるかも知れないとね。頭に怪我したということで包帯を巻いたりしたのは、津田順造の注意を、顔より怪我の方に引きつけておくためかも知れない。ともかく、賭けは成功して、ばれずに東京に帰った」 「しかし、津田は全く疑わなかったわけじゃないでしょう?」 「そうだよ。疑問は感じたんだと思うね。だから、突然上京して娘を訪ねてみようと考えた。その上、上京する前に、顧問弁護士の榊原に会い、自分の疑いを打ち明けて、調べてくれるように依頼した。そのとき、参考にと、娘から来た手紙や写真を榊原に渡したんだと思うね。だから、療養所に娘の手紙や写真がなかったんだ」 「そのあと津田は、東京に娘を訪ねて殺されてしまったわけですね?」 「突然、津田が訪ねて来て、はるみは狼狽《ろうばい》したと思うね。そこでニセモノだとばれてしまった。そうなれば殺すより仕方がない。はるみは、津田順造を殺し、バラバラにして捨てたんだ。頭の部分はどこか別の場所に捨てたか、地中に埋めたかしたんだと思うね。身元がわかってしまっては、もうぜいたくな生活ができなくなるからね」 「それですんだと思ったら、榊原弁護士がいたわけですね?」 「榊原も、きっと上京してあのマンションへ行ったんだと思う。彼は眼もはっきりしているから、ひと目でニセモノとわかった筈だよ。そして、ニセモノが誰か調べて行った。どんな方法を使ったかわからないが、水沼はるみらしいとなって、彼女の郷里のT村を訪ねることにした。しかし、それに気付いたはるみは、先廻りして彼女の生れた家で、榊原を殴りつけたんだ。倒れて動かなくなった榊原を、死んだと思い、リヤカーで離れたN村で捨てた。ところがそのとき、榊原はまだ意識があった。発見した人にすがりつき、『ベツジン』といった。それがダイイング・メッセージになった。ところが、舌を怪我していたので、はっきり発音できず、発見者には『ベルリン』と聞こえてしまった」  と、十津川は、いった。      7 「今、水沼はるみは、何処にいるんでしょうか?」  と、西本が、きいた。 「わからないが、キャッシュカードで預金を沢山おろして、それを持って逃げていると思うね。ぜいたくの味を覚えてしまったからね」  と、十津川は、いった。 「見つけるのが、大変ですね」  と、亀井が、いった。 「マスコミを使って、追いつめるかな?」 「全部、発表するんですか?」 「そうだ。それが、一番近道じゃないかと思うね。水沼はるみの顔写真は手に入るかね?」  十津川が、西本に、きいた。 「彼女の働いていた会社が、探してみるといってくれています」 「よし。それが見つかったら、記者会見しよう」  と、十津川は、いった。  その日の中に、水沼の働いていた共同サービスが、彼女の写真を二枚、持って来てくれた。  顔写真と、水着で全身が写っているものとだった。  顔は、津田めぐみに、似ていた。もちろん、よく見れば、違うのだが、ぱっと見たときの印象が、似ているのだ。これなら、眼が悪くなっていた津田順造を欺せたかも知れない。  十津川は、津田めぐみと水沼はるみの二人の写真を持って、記者会見に臨んだ。  捜査本部長の三上が、バラバラ死体の身元がわかったことをまず話し、続いて、その娘の津田めぐみのこと、榊原弁護士のこと、そして犯人の水沼はるみのことを、話した。  そのあとの質問には、十津川が、答えた。  十津川は、わざと断定的に話した。慎重派の十津川にしては珍しいことだったが、水沼はるみを追いつめて、自首させたかったのだ。  バラバラ殺人の犯人を断定したということで、この記者会見は、新聞が大きく取り上げた。  十津川は、テレビに出て、水沼はるみに自首を呼びかけ、また、彼女を見かけた人は警察に連絡してくれるように頼んだ。  もちろん、その間も刑事たちは、水沼はるみの行方を追って、歩き廻っていた。東京都内は当然だが、彼女が立ち廻ると思われる場所にも、十津川は、刑事を向わせた。  だが、水沼はるみは見つからなかったし、いくつか寄せられた情報も、空振りに終った。  ただ、水沼はるみと、津田めぐみについて、その後、わかったこともあった。  めぐみは、フリーターをやっているということだったが、彼女は、気まぐれで、殆《ほとん》ど、仕事らしい仕事はしていなかったらしい。それでも、いくらでも使っていいというキャッシュカードを父親に貰っていたので、生活は派手だった。わがままな性格のため、友人も少なく、そのせいで、彼女の生活が変っても、誰も気付かなかったと思われる。  水沼はるみの過去も、少しずつわかってきた。  高校を中退し、十七歳ではるみは上京した。このときは、まだ両親は健在だった。  はるみは最初、上野駅近くの喫茶店で働いている。年齢は、十九歳と嘘をついてである。  この時の店長は、「可愛い顔をしてたけど、やたらにお金を欲しがった」と、証言した。この評価は、彼女が他の仕事についてからも、変らなかった。  二十二歳の時には、新宿のバーで働いている。この頃の同僚のホステスは、「結構、きれいな顔をしているんだけど、お客にやたらにお金をねだるので、結構、嫌われてしまったわね」と、いった。  二十三歳の時、両親が相ついで亡くなっている。葬式には、一日だけ帰郷したが、涙は見せなかったと、T村の人たちは証言した。はるみにとって、故郷も、両親も、いい思い出につながっていなかったのだろう。  二十四歳の時、金沢へ流れて、ここでもバー勤めをしたが、ここでは資産家の老人の客を取り合って、同じ店のホステスを果物ナイフで刺している。店でもこの事件をひた隠しにし、はるみは逃げた。このあと東京に舞い戻って、共同サービスで働くようになったと考えられる。  記者会見をしてから、四日目に、福島の飯坂温泉で、水沼はるみらしい女を見かけたという知らせが入った。  信用できる情報と思って、十津川は、亀井と急行した。  だが、問題のホテルに着いた時は、チェック・アウトしたあとだった。飯坂温泉では一番大きなホテルで、女はそこの最上級の部屋に泊り、酒を飲み、芸者遊びもしていたという。  宿泊者名簿の名前は、篠崎みな子だった。  十津川が、フロントに、水沼はるみの顔写真を見せると、間違いなく、この女だということだった。 「五日間、泊って頂いたんですが、毎日、芸者を呼んで大さわぎなので、まさか警察に追われている人とは、思いませんでした」  とも、フロント係は、いった。 「やはり、東北に逃げて来ていましたね」  と、彼自身も東北の生れの亀井が、いう。  亀井にいわせると、故郷の東北は奇妙なところで、普段はなつかしくないし、時には、重たくなってくるのだが、何かで追いつめられた気持の時は、急になつかしくなってくるのだという。  十津川は、東北の各県警に、三上本部長から連絡して、協力して貰うことにした。亀井の言葉が正しければ、水沼はるみは、これからも、東北の各地を逃げ廻る可能性が強かったからである。  それから、更に二日目の夜、陸羽東線の列車に、若い女が飛び込み自殺をした。      8  一八時一二分|小牛田《こごた》発、新庄《しんじよう》行の快速「いでゆ」が、東鳴子近くに差しかかったときである。  現場近くに、水沼はるみの名前の遺書が置かれていたと聞いて、十津川と亀井は、東鳴子に急いだ。  遺体は、鳴子警察署に置かれていた。  即死だったというが、死顔は、意外にきれいで、水沼はるみに間違いなかった。  はるみは、ブランド物で装い、腕時計はピアジェ。シャネルのハンドバッグの中には、二百万近い現金と、キャッシュカードが入っていた。  遺書は、分厚いものだった。  十津川は、それを読ませて貰った。 [#ここから1字下げ] 〈こういうものを誰宛に書いていいかわからないので、勝手に考えたままを、書いていきます。だから、これを見つけた人は、警察へでも、新聞社へでも、送って下さい。  私は、秋田県のT村というところで生れました。山間《やまあい》の小さな村です。農業だけではやっていけないので、父は、いつも、出稼ぎに行っていました。その父が、東京の工事現場で怪我《けが》をして、働けなくなったのは、私が、高校に入ってすぐです。  もともと貧乏だったのに、それからは父と母が、お金のことでケンカばかりするようになりました。人間の幸福は、お金じゃない、心だという人がいますが、そんなのは、嘘っ八です。お金がないと、心だって荒《すさ》んでしまうんです。  高校二年のとき、どうしても我慢ができなくなって、私は勝手に家出をして、上京しました。家にいると、みじめで、みじめで、どうしようもなくなるからです。  東京に出てから、いろいろな仕事をしました。お金が欲しかったので、水商売が多かった。金沢のお店では、お金持ちのお客のことで、他のホステスとケンカになったこともあります。  お金が、貯ったことだってあるんです。でも、五百万、六百万と貯っても、いつも、もっと増やそうと焦って、かえって欺されてゼロになってしまうのです。でも、こんなことは、いくら書いても仕方がないでしょうね。  新聞が書き立てた事件のことを書きます。水商売にも疲れて、私は新聞で見た共同サービスに入りました。何となく、面白そうだと思ったからです。  掃除の仕方とか、洗濯の仕方の研修を受けてから、家庭に派遣されます。名の通ったタレントの家にも行きましたし、政治家の二号さんのマンションの掃除にも行きました。津田めぐみのマンションに行ったのは、四軒目か五軒目だったと思います。  同じ東北の生れで、二十五歳で、ひとりで東京で暮しているということで、彼女は私が気に入ったらしく、二回、三回と、私を名指しで電話をしてくるようになりました。  でも、話している中に、本当は私が気に入って名指しをしたのではないことが、わかって来ました。彼女にとって、お金持ちの一人娘だということや、ぜいたくが出来ることや、わがまま一杯に生きていることを自慢するのに、私が一番、良かったからだったんです。  同じ東北生れ、同じ二十五歳、同じひとりぼっちなのに、私と彼女の生活は、丸っきり正反対でした。お金持ちの娘と貧乏人の娘、ぜいたくなマンションと、中古のアパート、着ているものだって、車だって、ぜんぜん違います。  彼女が自慢話をするとき、私は笑顔でいいわねえといっていましたが、きっと、ねたみの火花が眼に出ていたと思うのです。彼女はそれを敏感に感じとって、満足していたに違いないんです。  それがわかって、三回目に行ったとき、私は無性に腹が立ち、彼女が大事にしているピアジェの腕時計を盗みました。でも、すぐ、見つかってしまいました。いえ、それは、彼女は私が盗むに違いないと思い、テーブルの上にのせて、わざとトイレに立って見せたんです。そのくらいの意地悪を、平気でする人です。  私は、必死に謝りました。でも、バスルームに突き飛ばされ、シャワーの水を、頭からかけられました。まだ、三月で、寒かった。身体も心も冷え切ってしまって、それが、怒りになりました。私は、彼女にむしゃぶりついていき、気がつくと、彼女は、頭から血を流して死んでいたんです。  正直に書きますが、そのとき、大変なことをしてしまったという気持より、ザマアミロという気持の方が、強かった。会社の軽自動車で、夜になってから、死体を埋めに行きました。埋めたのは、荒川放水路の河原です。  彼女のマンションに戻って、しばらくぼんやりしていました。豪華な調度品や、ミンクのコートなんかを見ている中《うち》に、このまま、彼女になりすまして、ぜいたくな暮しをしたいと思うようになっていったんです。彼女から、自慢げに、いろいろ聞いていたから、上手《うま》く、彼女になりすますことが、出来ると思ったのです。  彼女の唯一の肉親は、東鳴子の療養所にいる父親ですが、めったに会いに来ないし、行ってもいないということだったし、彼女自身、気まぐれで、仕事らしい仕事もしていないと、話していたからです。キャッシュカードも、多分、彼女の誕生日の4163を暗証番号にしているのだろうと思い、銀行で試してみたらその通りでした。  その時、預金額を見たら、八千万円もあったんです。私の夢に見た生活でした。いくら使っても、使いきれないくらいお金があるんです。なくなれば、父親(津田めぐみのですけれど)が、振り込んでくれるのです。  その父親から、時々、手紙が来ました。それには、一所懸命に、彼女の筆跡を真似て返事を書きました。写真を送って欲しいといわれたときは、アルバムから彼女の写真を剥ぎ取って、送りました。そうした危機を切り抜けていくにつれて、私は大胆になり、彼女の車を運転してドライブにも出かけるようになりました。デパートでブランド品を買い、それで身体を飾るようにもなりました。それが一カ月、二カ月と続くと、不思議なもので、私は生れつき大変なお金持ちの家に生れた一人娘のような気がしてきたんです。そのくせどこかで、変に醒《さ》めているもう一人の私がいたんですが。  七月になって、彼女の父親から、眼が次第に悪くなってくるので、一度見舞いに来てくれという手紙が来ました。来なければ、向うから上京するとも書いてありました。行かなければ疑われると思った。彼女は一度も見舞いに行ったことがないといっていたから、医者や看護婦に疑われることはない。問題は、彼女の父親だと思いました。賭けに出るか、逃げ出すか、どちらかだと思いましたけど、私は手に入れた豊かな生活を捨てたくなかったんです。私は、視力が衰えているという彼女の父親の手紙に賭けました。顔立ちが似ているから、化粧で何とか誤魔化せると思いました。ただ、髪の毛が、彼女は細くやわらかいのに、私は、太くかたかったから、頭を怪我したことにして、包帯をして行きました。  彼女の父親を果して欺せたのかどうか、不安でした。でも何とか、疑われずに東京に帰りました。それで賭けに勝てたと思ったのに、彼女の父親は、私に対して疑いを深めていたんです。私を見逃したのは、きっと、疑いながらも、娘が無事でいると信じたかったからかも知れない。  そして、あの日が来たんです。彼女の父親が突然現われ、いきなり私に向って、君は私の娘じゃないな、娘はどうしたんだ、といったんです。その瞬間、私は足下が崩れていくような気がしました。警察に突き出される恐怖より、またお金の心配ばかりしている生活に戻る恐怖に、怯《おび》えたんです。私は、その恐怖から、彼女の父親を殴り殺してしまいました。バラバラにしたのは、彼女を埋めるとき、深くて大きな穴を掘らなければならなかった。もうそんな重労働はごめんだと思ったからです。それだけの理由なんです。頭一つだけなら、小さな穴を掘るだけですみます。嵐の中で、私は、バラバラにした腕や足を捨て、頭を埋めました。  その翌日、私は中年の男につけられました。それが榊原という弁護士だったんです。彼は私をつけ廻し、突然私に向って、水沼はるみという人を知っていますかと訊《たず》ねるんです。  私は怯えて、故郷のT村の家のことが心配になりました。きっとこの弁護士は、私の故郷に行くに違いない。そして私は何もかも調べられて、丸裸にされてしまう。私はあわててT村に戻ってみました。八年ぶりに帰ったわが家は、朽ち果てていました。そこへ、やはり、あの弁護士がやって来たんです。  私は背後から近づいて、石で後頭部を何度も殴りつけました。死んだと思い、遠くへ運ばなければと、リヤカーにのせてN村の雑木林まで運んだんです。  そのあと、今度は警察が、私のことを調べ始めました。そうなると、もう駄目でした。飯坂温泉へ逃げて、毎日思い切りお金を使ってみたけど、あの浮き立つような楽しさは戻りませんでした。それでもう死ぬより仕方がないと思ったんです。  最後に罪を懺悔《ざんげ》すればいいんでしょうが、私はあまり悪いことをしたような気がしないんです。今、思っていることは、死んだあと、あの世でも私は、お金のことばかり心配しなければならないのだろうか、ということだけです。 [#地付き]水沼はるみ〉 [#ここで字下げ終わり]  十津川は、長い遺書を読み了《お》えた。  翌日、十津川と亀井は、飛行機でなく、列車で帰京するため、東鳴子駅まで歩いた。 「彼女、何処へ行く気だったんですかねえ。津田順造の入院していた療養所を見てから死ぬ気だったんでしょうか?」  と、歩きながら、亀井がきいた。 「そうかも知れないし、陸羽東線で新庄まで行き、奥羽本線に乗りかえれば、秋田へ行ける。だから、故郷へ行って死ぬ気だったのかも知れないよ」  と、十津川は、いった。 [#改ページ]   謎と幻想の根室本線      1  片山秀夫に取りついて離れない幻想がある。いや、妄想といった方が、いいかも知れない。ロマンチックであると同時に、恐ろしい妄想だった。  最初、それは、夢として現われた。何歳の時だったか、はっきり覚えていないが、十代の前半だったことだけは、間違いない。  夢の中で、彼は、突然、湧《わ》きあがってきた白い、濃い霧に包まれてしまった。その霧は、彼から、視界を奪ってしまう。最初のうち、彼は、白いミルク色の霧を美しいと思い、見とれていたのだが、そのうちに、次第に息苦しくなってくる。彼を押し包む霧は、どんどん濃くなっていき、まるで、水の中にいるように、息ができなくなっているのだ。  彼は、助けを求めて、叫び、両手を伸ばす。だが、濃い霧の中に溶け込んで、彼の手も見えなくなってしまう。  このままでは死んでしまうと、恐怖にかられたところで、目が醒《さ》めた。まるで、夢の中の濃い霧に濡《ぬ》れたみたいに、彼の身体は、冷や汗で、濡れていた。  片山は、それまで、あまり夢を見ない方だったし、見たとしても、すぐ忘れてしまっていたが、この霧の夢だけは、忘れられなかった。忘れかけるたびに、同じ夢が彼に襲いかかってきたからである。  現在、片山は、二十七歳。中堅の商事会社の管理部門で働いている。それまでに何度、同じ夢を見ただろうか? 時には、醒めてからも、しばらくの間、胸が苦しく、このまま死ぬのではないかと怯《おび》えたこともあった。  そのうちに、片山は、自分はきっとあの夢と同じ状態で死ぬに違いないと、思い込むようになってきた。こうなると、単なる悪夢ではなく、妄想である。  もちろん、そうなるまでに、社内の友人に夢の話をして、相談もしたし、恥しいのを抑えて精神科医に診《み》て貰《もら》ったこともある。  友人たちは、一応、片山の話を聞いてくれたが、真剣には考えてくれなかった。そんなのは気のせいだから忘れてしまえと笑う奴もいたし、おれなんか連続活劇の夢を見てるが、楽しくて仕方がないぜという奴もいた。  医師の方は、さすがに真剣に聞いてくれたが、彼がもっとも興味を示したのは、片山がそんな夢を見るようになった原因だった。 「多分、あなたの幼児体験が原因だと思いますね。三歳から五歳くらいまでの間に、霧に包まれてしまって大変に怖かった体験があったと思います。そうした記憶がありませんか?」  と、医師は、きいた。 「それは、自分でも考えたことがあるんですが、記憶はないんです」  と、片山は正直にいった。 「多分、その体験が幼いあなたには余りにも恐ろしいものだったので、無意識に忘れようと努めてしまったんだと思いますね。だが、夢だけは自分で制御できなかったんでしょう。生れ育ったのは何処ですか?」 「北海道の釧路《くしろ》の近くです」 「なるほど」  と、医師は、満足げに肯《うなず》き、 「確か、釧路は霧で有名なところでしょう?」 「ええ。春から夏にかけて、霧がよく出ますが」 「幼児の頃、あなたはお父さんかお母さんと一緒に歩いていて、濃い霧に出会い、はぐれてしまったことがあったんだと思いますよ。それが、幼児のあなたには、恐ろしい体験だった」 「でも、記憶にないんですよ。それに釧路といっても、正確には尾幌《おぼろ》という小さな町です。釧路から根室に向って五つ目の駅なんです」  と、片山は、いった。 「そこは霧の出ないところですか?」 「いえ。やはり、春から夏にかけては、霧が出ることはありますが」 「それなら、間違いありませんよ。幼児の体験が、元になっています。実は、あなたと同じような悩みを持って、私のところへ相談に来た患者さんがいましてね。若い女性でしたが、電車に乗るのが怖いというのです。理由がわからないし、車や飛行機は怖くないともいうわけです。それでいろいろ調べていくと、彼女は二歳の時、母親と一緒に電車に乗って、親戚の家へ行く途中、母親が電車に乗ろうとしたとき、落し物をしてしまった。あっと思っているうちに、ドアが閉まってしまいましてね。二歳の彼女ひとりが、電車の中に取り残され、電車が走り出した。生れて初めて乗った電車の中で、彼女は多分、泣き続けていたと思いますね。彼女はそのことを忘れてしまっていたんです。というより、今もいったように、無意識に忘れようとしていたんだと思うし、両親も、このことに触れるのを、彼女を怖がらせてはいけないと思って、避けていたんだと思います。問題の母親は、彼女が小学校一年の時に亡くなっていましてね。彼女がもっと大きくなるまで母親が生きていたら、この事件を一つの笑い話として当人に話していたろうと思いますがね。そうなっていたら、彼女はなぜ自分が電車に乗ると恐怖にかられるのか、理由がわからずに悩むこともなかったと思うのですよ」 「先生には、なぜ、彼女の二歳の時の体験がわかったんですか?」  と、片山がきくと、医師は微笑して、 「調べたんですよ。彼女が電車を怖がるのは、何か怖がるような幼児体験があるに違いないと思って、彼女の生れた家の近くを走っている電車を、片っ端から調べてみたんです。幸い、彼女が二歳の時に今いった事件が起きていて、それを覚えている元車掌さんが見つかったんです。その話を、彼女にしてやりました。それで、彼女が電車に乗ると恐怖感に襲われることが無くなったのですよ」 「しかし、僕の両親はまだ健在ですが、霧に迷ったことなんか一度も話してくれませんよ」  と、片山は、いった。 「そうだとすると、あなたがひとりで霧の中に迷ったということかも知れませんね。幼児の時、ひとりで霧に包まれ、大変に恐ろしい体験をした。或いは、恥しい体験をです。あなたは、それを忘れたいと思い、誰にも話さず、あなた自身も忘れたと思い込む。しかし忘れることは不可能で、夢に出て来ることになった。そういうことではないかと思うのですがね」  医師は、そんないい方をした。  片山は、半信半疑だった。確かに、論理的には、あり得ることかも知れないとは思う。電車恐怖症の女性の話は、本当だろう。しかし、何でも幼児体験に持って行こうとするやり方には反発を覚えたし、もし、二、三歳の時にひとりで霧に迷うような恐ろしい体験をしていたのなら、家に帰ってから母か父に泣いて話していただろうとも思うのである。  最近は年に一、二回しか郷里に帰っていないが、帰るとたいてい彼の子供の頃の話が、両親、特に母の口から出る。母にしてみれば、自分たちの手を離れて東京に行ってしまった息子と、子供の時のことを話すことによって、そのきずなを取り戻そうとしているのかも知れない。その話に、今まで、彼が幼児の頃ひとりで霧に迷ったという体験が出て来たことはなかった。  片山を脅かすのが嫌で、幼児期の怖い体験を話すのを遠慮しているとは思えない。大人になった片山が嫌がるような、幼い頃の恥しいエピソードを平気で聞かせることがあるからだ。  片山には、すでに結婚した姉がいて、現在札幌に住んでいる。正月にはその姉も帰っていて、無遠慮に彼の子供の頃のことを肴《さかな》にする。子供の頃は、どちらかといえば内向的で、いじめられっ子で、よく泣いていたと暴露して、姉が笑うのである。その姉からも、霧で迷ったことは聞いていなかった。      2  精神科医に診て貰ったことで、片山はかえって迷いが大きくなった。  そのあとも、霧に包まれて死を感じる夢は見つづけたからである。恐らく、夢と同じような状態で、おれは死ぬに違いないという予感も、ますます強くなっていった。  四月中旬、片山は、大学時代の友人で、現在警視庁捜査一課に勤める西本に会った。そのとき、片山は、その話を西本にしてみた。 「面白いね」  と、西本は、いった。 「みんな、そういうのさ。だが、親身になって考えてはくれん」  片山は、眉をひそめて見せた。 「そりゃあ、しようがないよ。自分のことじゃないし、何といっても夢の話だからな。夢で死ぬ奴はいないと思ってるんだろう」 「確かに夢なんだが、最近は、それが実際に起きるような気がして、仕方がないんだ。いつか、おれは何処かで、霧にまかれて、窒息して死んでしまうんじゃないかってね」 「そんなことはないさ。夢は、夢でしかないよ」 「正夢ということだってある」 「その夢だが、毎日見るわけじゃないんだろう?」 「毎日見ていたら、おれは疲れ切って今頃ノイローゼで死んでるよ」 「なるたけ、見ないようにできないのかね? 運動をして、前後不覚で眠るとか、なるべく楽しいことを考えながら眠るとか」  と、西本が、いった。  片山は、苦笑して、 「そんなことで、夢を見たり、見なかったりはしないんだよ。おれも最初は、熟睡すれば夢は見ないかも知れないと思って、会社の帰りにYMCAのプールに通ってみたことがある。心地よい疲れで眠ればと思ってね。でも、駄目だった。あの夢は容赦なく侵入してくるんだ」 「じゃあ、医者のいう通り、なぜそんな夢を見るのか、原因を見つけるより仕方がないことになるな」  と、西本が、いう。 「君も、そう思うか?」 「ああ。他にいい方法も、僕には思いつかないね。これが現実の事件なら、友人として助けてあげられるが、まさか僕が君の夢の中に入って行くわけにもいかないからね。君自身が何とかして、そんな夢を見る原因を見つけるより仕方がないんじゃないかね」 「そうだな」  と、片山は小さく肯いてから、 「決心がついたよ。今度の日曜日に、北海道へ帰って、原因を見つけてくる。他に方法がないようだからね」  と、いった。 「一緒に行ってやりたいんだが、刑事というのは決まった日に休めなくてね。それに君自身の問題だから、僕が一緒に行っても仕方がないからね」  と、西本は、いった。片山は、肯いた。夢の分析なんて、もっとも個人的なことだから、西本のいう通り、友人の力を借りることは出来ない。  片山はその日のうちに、四月二十日、日曜日の札幌行の航空券を買いに行った。  両親や姉にはわざと日曜日に行くことは知らせなかった。あくまでも自分自身の問題だと思ったからだし、両親も姉も、霧の幻想の原因について知っているとは思えなかったからでもある。  四月二十日、片山は午前一〇時五五分発のJALに乗って、北海道に向った。  羽田で買った新聞には、昨日の午後、釧路周辺で濃霧が発生し、一時交通がストップしたと出ていた。  〈やはり、釧路はロマンチックな霧の町〉  新聞には、そんな優しい見出しがついていた。写真は、釧路市内の幣舞橋《ぬさまいばし》で撮ったとある。片山も何度かこの橋を渡ったことがある。写真では、濃い霧のために、橋の周辺の景色がシルエットに変ってしまっていた。  釧路市内が濃霧なら、片山の故郷の尾幌の近くも、昨日は霧が出ていたのではないだろうか?  片山は恐れと期待の入り混った気持で、一四時四五分札幌発釧路行の特急「おおぞら7号」に乗った。釧路から先は、普通列車になる。  ここまで来る飛行機もだが、列車もかなり混んでいた。座れないことはなかったが、座席は殆《ほとん》ど埋っていた。観光客らしい顔が多い。彼の近くの席には、若い女性のグループが腰を下ろしている。  札幌駅で道内紙を買い、座席についてから広げて眼を通した。  今日も気温が高くなりそうで、夕方から各地で霧が出るだろうと、予報していた。  一九時三〇分、釧路着。  これから先は、二両編成の気動車に乗りかえである。駅の構内に霧は出ていないが、ホームには濃霧注意の標識が出ていた。  片山の中で、恐れが、強くなっていった。自分は霧の中で、いや、霧に押し包まれて、死ぬのではないかという恐怖である。だがここまで来て、引き返すわけにはいかなかった。  覚悟を決めて、普通列車に乗り込んだ。すでに、窓の外は暗い。じっと眼をこらしたが、霧らしいものは見えなかった。  尾幌は、五つ目の駅である。といっても、釧路から三十キロ余りだった。地形の関係もあるだろうが、尾幌の周辺に今夜霧が出る可能性もある。  尾幌の小さな町が霧に包まれたら、何か思い出すだろうか? それとも、恐怖に襲われてしまうだろうか?  根室行の列車がエンジンの音を立てて釧路駅を出発すると、片山はかたい表情で、じっと窓の外を見つめた。 (霧が出てくるだろうか?)  出てきたとき、自分がどんな気持になるのか、片山自身にも見当がつかなかった。  列車は、東釧路、武佐《むさ》と、停車していく。この辺り、別保《べつぽ》川が線路に沿って流れている筈だが、どんよりと曇って月明りもないので、川を見ることはできない。  別保を出ると、トンネルに入った。山間《やまあい》でトンネルが続く。二番目のトンネルが近づいたとき、突然、窓の外が白くなった。 (霧だ!)  と、片山は、思わず呟いた。  運転士がブレーキをかけたとみえて、スピードがおそくなった。  乗客の開けていた窓から、白い霧が車内に流れ込んできた。乗客が騒ぎ出す。ひんやりと冷たい霧が、片山の頬に触れたとき、彼は急に恐怖に襲われた。      3  翌二十一日の朝、西本は自宅マンションで朝食をとりながら、テレビを見ていた。いや、いつもの癖で、テレビを流しながら朝食をとっていたという方が正確だろう。内容よりも、画面に出る時刻表示の数字の方が、気になっている。  ニュースを伝えるアナウンサーの声も、ほとんど右の耳から左の耳に抜けてしまう。それが、突然、 「──片山秀夫さん」  と、アナウンサーの言葉が、耳の中で止まってしまった。  おやッという表情で、西本はテレビ画面を見つめた。 〈片山秀夫さん(二七)〉  というテロップが、画面に写っている。アナウンサーが、喋《しやべ》っている。 「──で、列車が濃い霧に包まれた時、片山さんは列車の窓を開け、走る列車から飛び降りたものと思われます。その時、片山さんはトンネルの壁に強く頭を打ちつけたものと見られています。なぜ片山さんがそんなことをしたのか、現在、警察で関係者から事情を聞いています」  途中からアナウンサーの声が耳に入ってきたので、これでは片山が負傷しただけなのか、亡くなったのかわからなかった。  西本はあわてて、他のチャンネルに回してみた。  Fテレビが、ニュースを初めからやった。それによれば、昨日の午後七時五十分頃、釧路発根室行の普通列車が別保と上尾幌の間のトンネルに入ったところ、突然発生した濃い霧に包まれてしまった。運転士はスピードをゆるめ、徐行して、上尾幌に到着した。が、そのあと、乗客の一人がトンネルの出口附近で倒れているのが発見された。持っていた運転免許証から、東京都三鷹市に住む片山秀夫二十七歳とわかった。すぐ病院に運ばれたが、すでに死亡していた。死因は、頭蓋骨《ずがいこつ》陥没である。  片山秀夫のポケットには、札幌駅で買った尾幌までの切符が入っており、霧に襲われた列車に乗っていたものと推測されたが、なぜ列車から飛び降りたのか捜査中である。  西本は当然のことながら、四月十六日に会った片山のことを思い出した。  あの時、片山は奇妙な夢に怯えていることを話していた。濃霧に包まれる夢の話である。そして、いつか自分は濃い霧に包まれて死ぬのではないかという怯えについても、話していたのだ。  郷里の尾幌に帰って、なぜそんな夢を見るのか原因を調べてくるとも、いっていた。 (彼は、郷里に帰ったのだ)  そして、霧に襲われ、死んでしまった。 (彼は、こんな死に方をするのを予期していたのだろうか?)  西本は、そんなことを考えながら、マンションを出た。  警視庁に入ってからも、片山のことが気になっていた。幸い、事件らしいものが起きず、いつになく捜査一課も静かである。  午後になって、西本に、釧路警察署の三浦という刑事から、電話がかかった。中年の男の声である。 「今、片山秀夫さんの死について捜査しておりまして、西本さんが大学時代の友人というので、お電話したのです」  と、三浦刑事は、丁寧にいった。 「確かに、彼とは大学が一緒でした」 「他の友人の方に伺うと、片山さんは、霧に囲まれて死にかける夢を見ては、怯えていたというのですが、本当でしょうか?」 「本当です。実は、今月の十六日に、久しぶりに片山に会って、その話を聞いたんです。精神科の医者には、幼時の体験の影響だといわれたようで、今度の日曜日に郷里に帰って調べてみるといっていたんです」  と、西本が話すと、三浦は「そうですか」と肯いて、 「それで、二十日に北海道へ帰って来たんですな。霧に怯えていたというのは間違いありませんか?」 「ええ。おれはひょっとすると、霧の中で死ぬのかも知れないと、いっていましたね。そんなことはないと、励ましたんですが」 「それで、列車が、濃い霧に包まれた時、パニックに襲われ、走っている列車の窓から、外に飛び降りたのかも知れませんね」  と、三浦は、いう。 「目撃者はいないんですか? 日曜日だから、車内に、客が沢山いた筈《はず》だと思いますが」  と、西本は、きいてみた。 「確かに、日曜日で客が多く、八〇パーセントほどの乗車率だったといいます。ただ、窓を開けていた客が多く、そこから、濃い霧が、車内に流れ込みましてね。車内は、大さわぎになっていたようなのです。霧も濃かったですしね。片山さんが、窓から飛び出すのを目撃した客は見つからないんですよ」 「遺体は、解剖されたんですか?」 「尾幌に住む両親の許可を得て、司法解剖しました」 「その結果は、どうなんですか?」 「ニュースで、流れたと思いますが、頭蓋骨陥没です」 「列車の窓から落ちたとして、頭を打つということがあるんでしょうか? 普通は足から落ちるんじゃありませんか?」 「その通りです。われわれもそこがおかしいと思って調べ始めたんですが、霧に対して異常な恐怖心を持っていたとすると、あわてて走行中の列車から飛び出したために、頭から落下したということも十分に考えられます」  と、三浦刑事は、いった。 「そうだとして、片山が何に頭をぶつけて死んだんですか?」 「線路に敷きつめてある砕石にです。調べたところ、砕石のいくつかに血痕がついているのがわかりました。その中に、先のとがった石があって、それに頭を打ちつけたものと思われます」 「釧路署では、事故死という見解ですか?」  と、西本は、きいた。 「断定はしていませんが、その可能性が強くなってきたと思っています」  と、三浦は、いった。  電話が切れたあとも、西本はしばらくの間、戸惑いから抜け出せなかった。  十津川警部が、心配したように、 「どうしたんだ?」  と、声をかけてきた。西本が、片山のことを話すと、 「それで、君は、事故死とは思えないわけだね?」  と、十津川が、きいた。 「それが、よくわからないんです。ただ単に列車から落ちて死んだと聞かされたら、そんなことはないだろうと反発したと思いますね。しかし、片山は今いったように、霧に包まれて自分は死ぬのではないかと思い込んで、怯えていましたからね。列車がトンネルに入って、その上、濃い霧に包まれたとなると、怯えてどんな行動をとるものか、見当がつかないのです。窓から真っ逆さまに落ちたということも、あり得ないことではないと、思ったりしまして」 「そんなに、君の友人は、怯えていたのかね?」 「ええ。四月十六日に久しぶりに会って、話し合ったんですが、本当に怯えていました。おれはいつか、霧に包まれて死ぬに違いないって、思い込んでいるんです。それで私は、そんなことはない。やたらに同じ夢を見るには理由があるに違いないから、逃げてないで、それを見つけたらどうなんだといってやったんです。それで片山は、郷里に帰ったんだと思います。何だか、私が彼を死なせてしまったような気がして、仕方がありません」 「行って来たまえ」  と、十津川が、いった。 「は?」 「北海道へだよ。その友人の郷里へだ」 「しかし、こちらの仕事が──」 「君は、優秀な刑事だ。だが、その刑事がノイローゼになっては困るんだよ」  十津川は、微笑した。 「別に、ノイローゼにはなっていませんが」 「なりかけているよ。君は、自分が友人を死なせてしまったのではないかと思っている。それに、頭の中は、その事件のことで一杯の筈だ。完全にノイローゼの前兆だよ。それ以上、症状が重くならないうちに、北海道へ行ってくることだ。君は、その友人に怯えの原因を突き止めろといったんだろう? 今度は、彼に代って、君がその原因を突き止めるんだ。そうすれば、君のノイローゼも、治るんじゃないかね?」  と、十津川は、いった。  確かに、十津川のいう通りだった。片山の死の原因を知りたい気持が強い。ノイローゼにならないまでも、そのことが気にかかって仕方がないのは、事実だった。 「行って来なさい」  と、十津川が、もう一度いった。  西本は、三日間の休暇願を出し、翌日、札幌行の飛行機に乗った。釧路へ直通の航空路もあるが、片山と同じルートで行ってみたかったのである。もちろん、札幌からも同じ特急「おおぞら7号」に乗ってみた。それが彼の死の謎を解くカギになるかどうかはわからなかったが、何か得るものがあればと思ってだった。  釧路の駅には、三浦刑事が迎えに来てくれていた。  電話の声で想像していたよりも、若く見えた。三十五、六歳といったところだろう。とにかく、自分よりも年長であることは確かだと感じて、 「ありがとうございます」  と、西本は丁寧に礼をいった。  三浦は、微笑して、 「本庁の刑事さんにお会いするのは、初めてです」  と、いってから、 「今日も夕方から、この釧路では、海沿いで霧が出ています」 「濃い霧ですか?」 「ええ。今は、二、三メートル先しか見えません。ひどい時には、一メートルという時もあります。駅まで押し寄せて来ないので、助かりますが」 「片山が亡くなった現場近くは、よく霧が出るんですか?」 「あの辺りは、山間でしてね。釧路の街ほど霧は出ないと思いますが、気象台の話では、ゼロということはないということです。ただ、人口の少ない所ですから、霧が発生しても釧路ほど話題になりません。すぐ、行かれますか?」 「そのつもりです」  と、西本は、いった。  二人は、一九時四一分発、根室行の気動車に乗った。二両編成の列車だった。いつもは一両だけの単行運転だが、春の観光シーズンなので二両編成である。  すでに、窓の外は暗い。  釧路の街を離れると、周辺に人家が少なくなる。次の東釧路を出ると、車窓にじっと眼をこらしても、明りはほとんど見えなくなった。 「昼間だと、湿原が見えるんですが」  と、三浦が、いった。  やがて、最初のトンネルに入った。 「次のトンネルで、突然、霧に襲われたと、列車の運転士が証言しています」  三浦が、やや固い表情になって、西本に説明した。  別保と次の上尾幌の間に、三つのトンネルがある。その二番目の釧厚《せんこう》トンネルのところで、突然、濃霧が列車を押し包んだ。 「トンネル内だということと、霧という二つのことで、片山さんは恐怖に襲われたんじゃありませんかね」  と、三浦が、いう。  列車は、その釧厚トンネルに入り、続いて三番目の尾幌トンネルを抜けた。  上尾幌で、二人は降りた。小さな無人駅である。降りたのは、西本と三浦だけだった。 「寒くありませんか? 陽が落ちると、冷えますから」  と、三浦が、いった。確かに、東京育ちの西本には、寒い。 「大丈夫です」  と、西本は、いった。 「現場へ行きますか?」 「ええ」 「少し遠いですよ。釧路と根室の間は、駅の間が近いんですが、別保と上尾幌の間だけが、十五キロ近くあるんです」 「問題のトンネルまでは、十五キロもないんでしょう?」 「それは、ありませんが」 「じゃあ、歩きましょう」  と、西本は勢いよくいい、先にホームから線路上に飛び降りた。 「これを、使って下さい」  と、三浦がいい、ショルダーバッグから、懐中電灯を二本取り出し、その一つを、西本に渡してよこした。  二人は、線路の上を、釧路方向に歩き出した。 「列車は、来ませんか?」  歩きながら、西本が、きいた。 「あと、一時間ほどすると、上りの快速『ノサップ』が来ます。そのあと、下りの列車が来て、それが最終です」 「少ないんですね」 「ええ。根室本線といっても、釧路から根室の間は、ローカル線ですから」  と、三浦は、いった。  最初のトンネルに入った。二人は、懐中電灯をつけた。  二人の足音が、トンネルの壁に反響する。少しずつ、寒さが加わってくる感じで、西本の吐く息が、白くなった。 「道警は、事故死と決めたんですか?」  と、西本が、きいた。 「大勢は、事故死に傾いています。被害者が殺される理由が、見つかりませんしね」  三浦の声が、鈍く反響した。 「しかし、頭から落ちるというのは、どうも、納得できませんね」 「それは、確かに、おかしいんですが。ああ、悲鳴を聞いたという乗客が、見つかりました」 「片山の悲鳴ですか?」 「何しろ、車内にも、霧が入り込んでいたので、その人も、他の乗客の顔は、見えなくなっていたのですが、男の悲鳴だったことは、間違いないといっています。それを聞いたのが、現場近く、トンネル内だそうですから、片山さんに間違いないと、思いますよ」 「悲鳴は、窓から飛び出すときのかも知れないし、誰かに突き落されるときのものかも知れませんね」  と、西本は、いった。 「その通りですが、もし、これが殺人とすると、動機がわかりません」  と、三浦はいう。 (奇妙な夢のせいかも知れませんよ)  と、西本はいいかけて、止《や》めてしまった。夢のために、殺されたというのは、奇妙すぎて、説得力がないと、自分でも、思ったからである。殺人なら、もっと、はっきりした動機がなければならないだろう。  トンネルを抜けると、淡い月の光が、急に明るく思えた。  二人は、懐中電灯の明りを消した。山間を縫うように走る線路は、曲りくねっている。両側は、原生林なのか、黒々としたかたまりのように見える。 「疲れませんか?」  と、三浦が心配して、声をかけてきた。  枕木の上を歩くというのは、妙に疲れるものだが、西本は、「いや、大丈夫です」といい、歩きながら、煙草をくわえた。 「もうじきです」  と、三浦が、いった。  次の釧厚トンネルが見えてきた。  三浦は、その入口のところで、立ち止まって懐中電灯をつけた。 「この辺りの筈ですが──」  と、いいながら、三浦は、足元を照らしていたが、警察が置いた表示板の一つを見つけた。  表示板は、1、2、3と、三枚が置いてある。  積まれた砕石のいくつかに、黒いしみのようなものがついている。血痕なのだ。 「この辺りは、ごらんのように、最近、新しい砕石を入れたんです。それだけに、とがっています。それが、片山さんにとって、不運だったのかも知れません」  と、三浦は、いった。  釧厚トンネルの中から、五十メートルほど外まで、新しい砕石が敷きつめられている。三浦のいうように、そこだけが、石は、白っぽく、鋭角的にとがったものが多い。それが、命取りになったのか? (やはり、三浦刑事のいう通り、事故死なのだろうか?)  そうだとすると、おれに、何がしてやれるだろうか?  片山が怯えていた霧の謎を、何とか解くつもりで、やって来たのだが、休みは、三日間である。本人の片山にわからなかったことが、果して自分に解けるだろうか? 「ここに散らばっている血痕は、もちろん、分析しました。人の血で、片山さんと同じB型の血です」  と、三浦が、説明する。 「死体を発見したのは、誰ですか?」  と、西本は、きいた。 「上りの快速『ノサップ』の運転士です。単線ですから、線路脇に人間が倒れているのを見て、列車をとめ、おりてみたわけです。びっくりして、電話連絡をしたんです」 「彼は、即死だったんですか?」 「それはわかりません。落ちてから、快速『ノサップ』がここを通るまでに、一時間はありますからね。運転士が発見した時は、すでに息はなかったようです」  と、三浦は、いう。  もう、現場で見ることはなくなった。  二人は、線路を離れ、国道272号線に出ることにした。      4  国道沿いの人家で電話を借り、釧路署から、迎えのパトカーに来て貰った。  釧路署に着くと、西本は、署長にあいさつした。 「君のことは、十津川さんから電話があったよ。西本という者が、行くかも知れませんから、その時は、よろしくとね」  と、署長がいった。 「もう、三浦刑事には、お世話になっています。片山が死んだ現場に、案内して頂きました」 「君の友人だったそうだね」 「大学時代の親友です」 「これから、どこを調べるつもりかね?」 「尾幌にいる彼の両親に、会ってみます」  と、西本は、いった。 「何か、他に調べたいことがあったら、三浦刑事に協力させるが、道警としては、事故の線を考えているので、全面的な協力はできない。それは、了解して貰いたい」 「わかります」  と、西本は、いった。  釧路市内のホテルに泊ることにし、チェック・インしてから、西本は、十津川に電話をかけ、現場を見てきたことを話した。 「そうか。道警は、事故死と見ているのか」  と、十津川が、いった。 「そうです。頭から落ちたことに、多少、疑問は持っているみたいですが、今のところ、片山を殺さなければならない動機が、見つからないからだと思います。私も、彼が、なぜ殺されたのか、わからないのです。彼の実家は、資産家でもありませんし、彼自身、小心な方で、敵を作るような男でもないんです」 「夢の話があったじゃないか。霧の夢に怯えているという夢の話が」 「はい。引っかかるのは、それだけなんです。彼はそれで、故郷に帰って、亡くなってしまったわけですから。ただ、夢に怯えている人間を、誰が、何のために殺すのかということになると、わからなくなってしまうんです」  と、西本は、いってから、 「明日、彼の両親に会うので、何かわかればいいと思っています」  と、いった。  翌日、西本は根室本線で尾幌に出かけた。昨日降りた上尾幌の次の駅である。  近くを、国道44号線が海沿いに走っている。その国道沿いに、片山の両親の家があった。自転車屋だった。バイクも、店に並べてある。  ただ、今はガラス戸にカーテンがおり、忌中の札が、かかっている。西本は、刑事とはいわず、片山の友人といって、両親に会った。  二人とも五十代の初めという感じで、父親が、片山によく似た顔をしていた。  西本は、片山がいった夢のことを、二人に話した。 「そのことで、彼は怯えていました。いつか自分が、霧に包まれて死ぬのではないかという怯えです。精神科の医者に、それは霧にまつわる恐ろしい体験があったからに違いないといわれたので、片山はそれを調べにここへ帰って来るところでした」 「あの子は、私たちには何の連絡もして来なかったんですよ」  と、母親が、口惜しそうにいった。 「それは、彼が、何としてでも今度、恐ろしい夢の原因を突き止めたいと思っていたからだと思いますよ。ご両親が、そんなことを考えない方がいいと止めるかも知れないと、思ったからでしょう」  西本がいうと、父親が、顔をゆがめて、 「私は、止める気はありませんでしたよ」 「と、いうことは、ご両親には、それらしい原因について、考えつかれないということですか?」  と、西本は、きいた。  両親は、一瞬、顔を見合せていたが、父親が、 「それは、秀夫が小さい時ですか?」 「そう思います。最初に霧に包まれる夢を見たのは十代の前半だといっていましたから、それ以前の体験だと思います」 「中学の一、二年ぐらいまでということですね?」 「そうです」 「いくら考えても、秀夫が霧に包まれて怖い目にあったというのが、思い出せないのですよ。お前は、覚えているか?」  と、父親は、横の妻に声をかけた。 「私も、知りませんわ」  と、母親も、いった。 「この辺は、よく霧が出ますか?」  と、西本は、きいた。 「釧路ほど有名じゃありませんが、時々、出ますよ。特に、海の近くでね。海霧です」  父親が、窓の外に眼をやった。 「幼い片山が、ひとりで海岸に遊びに行き、濃い霧に包まれて、怖い目にあったということはなかったんですかね? 霧のために足を踏み外して、海に落ちたというようなことですが」 「そんなことがあったとすれば、必ず私たちに話していたと思いますよ。秀夫は小さい頃甘えん坊で、怖いことがあると、泣いて戻って来て、私たちに訴えましたから」 「どんなことを、話しました?」 「そうですねえ。近所の犬に噛《か》まれたときなんか、わあわあ泣いて、逃げ帰って来ましたよ。あと、友だちにいじめられたとか、崖《がけ》から落ちたときですね。どんなことでも、話してくれましたよ」 「その中に、霧に包まれて怖かったということは、なかったんですか?」 「ええ。あれば、覚えていますよ。親なんだから」 「霧の話も、したことはありませんか? 怖かったというのではなく、ただ霧を見たとか、きれいだったとかいう話も?」  と、西本は、きいた。 「それは、どうでしたかねえ」  と、父親が首をかしげると、母親が、 「そういえば、中学に入る頃から、あの子は一度も霧の話をしなかったんじゃないかしら」 「それ、本当ですか?」 「ええ」 「この辺に住んでいると、霧の話はよくするんですか?」 「霧が出た時なんかにはね。それにあの子は、中学、高校が釧路市内でしたわ。ご承知のように、釧路は霧の町でしょう。特に、幣舞橋あたりの霧は、有名ですわ。それなのに、あの子は一度も、霧の話はしませんでした。今になると、不思議ですわ」  と、母親は、いった。 「なるほど。なぜ片山は霧の話をしなかったんでしょうか?」 「わかりませんわ。何か、霧に拘《こだわ》ることがあったんでしょうか? もしそうなら、私も知りたいと思いますわ」  と、母親は、いった。 「小学生の頃の彼のことをよく知っている人というと、ご両親の他に誰がいるでしょうか?」 「担任の先生や、同級生だと思いますけど」 「その中のどなたか、この近くに住んでいませんか?」  と、西本は、きいた。  両親は小声で相談していたが、母親の方が、 「担任の先生が、まだ、存命の筈ですわ。小学校の時は、若い先生だと思っていましたが、今は五十歳近いお年齢《とし》の筈で、教頭をやっておられると聞いていますわ」 「学校の名前は、わかりますか?」 「いいえ。でも、釧路市内の小学校と、聞きましたわ。お名前ですか? 確か、早見先生でした。名前の方は、わかりません」  と、母親は、いった。  西本は、釧路に引き返すことにした。  ひとりで市内全部の小学校を調べるのは大変だったので、三浦刑事の助けを借りることにした。  さすがに地元の刑事だけに、簡単に、早見という小学校の教頭を見つけ出した。西本は礼をいってから、すぐ、その小学校を訪ねた。  早見教頭は、西本の質問に対して、 「片山という子供のことは、よく覚えていますよ」 「なぜ、彼のことをよく覚えておられるんですか? 教えられた子供は、沢山いた筈なのに」  と、西本は、きいた。 「人一倍、感情の起伏が激しい生徒だったからですよ。ですから、彼の扱いには苦労しました」 「どんな風にですか?」 「ちょっと叱《しか》っただけで、ものすごく落ち込んでしまうんですよ。教室での態度が悪いので、頭にコツンとやったら、三日間も学校を休んでしまいました。卒業式のときに聞いたら、その三日の間に、自殺を考えたといっていましたよ」 「彼が、小学生の頃、霧で怖い思いをしたことはありませんでしたか?」 「霧ですか?」 「ええ。この釧路の町は、霧で有名ですから」 「確かに、あの学校は海に近いので、よく霧が流れて来ましたね。窓を開けていて、教室が、霧に包まれてしまったこともありましたよ」 「その時、彼が、怯えたりはしませんでしたか?」 「そんなことはなかったですねえ。霧はむしろロマンチックだという気持の方が、子供にも強いんじゃないんですか」  と、早見は、いう。  西本は、質問を変えることにした。 「感情が豊かということは、大人びていたということになりますか?」 「なる場合が多いでしょうね」 「片山もですか?」 「そうだったと思いますよ。五年生のときだったと思いますが、昼休みに大人の恋愛小説を夢中で読んでいたことがあります。もちろん、注意しました」 「実際には、どうだったんでしょう?」 「実際というと、その頃、異性関係があったのではないかということですか?」 「そうです」 「その時、十歳から十一歳にかけてですからね。女性に対して淡い感情は持ったでしょうが、具体的な恋愛感情はなかったと思いますよ」 「その時の片山のクラスメイトの誰かが、釧路市内に住んでいませんか?」  と、西本がきくと、早見は当時のメモ帳などに眼を通してから、 「本田というのが、駅前で喫茶店をやっていますよ。何カ月か前に、開店の通知を貰いましたから。店の名前は、釧路らしく、〈海霧〉です」  と、教えてくれた。  西本は、その店に足を運んだ。  雑居ビルの一階にあり、奥さんと二人でやっていた。  西本は、コーヒーとケーキを注文しておいて、カウンターに腰を下ろし、マスターの本田に、片山のことを切り出した。  本田は、眉《まゆ》を寄せて、 「片山が死んだと聞いて、びっくりしてるんですよ。ショックでしたね。神経の細かな、いい奴でしたからね」 「小学校時代の彼のことで、何か、思い出になっていることはありませんか?」 「そうですねえ」  と、本田は、コーヒーをいれながら、考えていたが、 「五年か六年の時に、彼、恋をしていましたよ」 「恋ですか?」 「まあ、子供だから、淡いものだったんでしょうがね」  と、本田は、微笑した。 「女の生徒か、女の先生に対してですか?」 「違います。確か、親戚の女子大生が好きだったんですよ。釧路市内の大学に通ってる人でしたよ」 「きれいな人でしたか?」 「そりゃあね。僕は三回か四回しか見てないんだけど、きれいな人でしたよ」 「なぜ、片山が、その女性が好きだとわかったんですか?」  と、西本は、きいた。 「最初の時は、その女性に、喫茶店で、片山と二人、ケーキをご馳走《ちそう》になったんです。片山は、ひとりでご馳走になるのが恥しいんで、僕を一緒に連れて行ったんだと思いますよ」 「その時、片山が、その女子大生を好きだとわかったんですか?」  と、きくと、本田は笑って、 「僕だって、当時、思春期なんだから、感じでわかりますよ。彼はその人の前では変に無口になったり、口をきくとやたらに乱暴になったりしてましたからね」 「その女性の名前、わかりますか?」 「確か、生田かおりさんですよ」 「よく、名前を覚えていますね?」 「実は、片山のノートを盗み見たことがあったんです。その人にケーキをご馳走になってすぐの時ですよ。そしたら、彼のノートに、生田かおりと、書いてあったんです。ああ、あの人の名前だなと、すぐわかりましたよ。それも、生田かおりって、五つも六つも書いてありましたからね。彼女の似顔絵も描いてあったんじゃないかな」 「その人は、今、どうしていますかね?」 「もう当然、結婚してるでしょうね」 「最近、片山から、その女性のことを聞いたことはありませんか?」 「いや、聞いていません。一度、聞いたら、なぜだか、ひどく怒ったんですよ。それで、そのあと聞かなかったんです」  と、本田は、いった。  西本は、彼女に会いたいと思った。ひょっとすると、彼女が、霧に対する怯えの理由を知っているかも知れない。 「今、東京にいるかも知れませんよ」  本田が、ポツリと、いった。 「なぜです?」 「そんなことを、片山から聞いたような気がするんです」      5  東京、青山通り。  午前二時を過ぎていた。  道端にとまっている車が、さっきから、甲高い警笛《ホーン》を鳴らしつづけている。  通り過ぎる車から、何だという顔が見るのだが、とまって確かめようとする者はいなかった。  そのうちに、酔った二人連れのサラリーマンが歩いて来て、鳴りつづけるホーンに怒って、車体を蹴飛ばし、運転席をのぞき込んだ。  和服姿の女が、ハンドルに顔を押しつける恰好《かつこう》で、眠っている。最初、二人にはそう見えたのである。 「うるさいぞ!」  と一人が、もう一度、ドアを蹴飛ばした。  だが、もう一人は、何もいわなかった。いや、何もいえなくなってしまっていたのだ。  白地に蝶《ちよう》をあしらった着物の背中に、ナイフが突き刺さり、にじみ出た血が、白地も蝶も赤く染めていたからだった。  一一〇番され、警視庁捜査一課から、十津川たちが、現場に駆《か》けつけた。  救急車も、同時に到着したが、運転席の女は、すでに死亡していた。  運転席には、彼女のものと思われるハンドバッグが、転がっている。亀井刑事が、その中から、運転免許証を見つけ出した。 〈仁科かおり〉  それが、免許証にあった名前である。年齢三十八歳。住所は、成城になっていた。  鑑識も来て、車内の写真を撮り、指紋の採集も始めた。  十津川は、死体を運び出させておいてから、亀井と、パトカーで、成城に向った。  小田急の成城学園前駅から、車で五、六分のところに建つ八階建てのマンション。その五〇六号室である。ハンドバッグにあったキーホルダーを持ち、十津川と亀井はエレベーターで、五階にあがって行った。  キーを使って、ドアを開け中に入り、明りをつけた。  2DKの部屋で、調度品は、さほど高価には見えないが、洋ダンス二つの中には、高価なドレスが、びっしりと詰っていた。それと、三面鏡の前の化粧品の多さに、十津川は眼をむいた。 「どうやら、水商売の感じですね」  と、亀井が、いった。 「かも知れないね。車内で見たときも、強い香水の匂いがしたからね」  と、十津川も、いった。  ベッドの傍の宝石箱には、ダイヤやエメラルドの指輪が入っていた。押入れには、桐の和ダンスがあり、着物が詰っている。  十津川と亀井は、手紙を探してみた。  洋ダンスの小引出しに、預金通帳や、マンションの賃貸契約書などと一緒に、ゴムバンドで束ねた手紙が入っていた。  二人は、五十通余りの手紙に一通ずつ眼を通して行った。  仁科宏という男からの手紙が、二通あった。文面からすると、別居中の夫にみえる。ハガキの方は、どうしているかという感じの簡単なものだったが、封書の方には、こんな風に書かれていた。 [#ここから1字下げ] 〈仕事の方は、何とか上手《うま》くいきそうだ。だが軌道にのるまで、時間がかかるから、君が用立ててくれた八百万円の返済は、もう少し、待ってくれないか。  君は相変らず、銀座のNで働いているのか? 福島という男には、気をつけろよ。僕が、店に連れて行ったんだが、女癖の悪い奴だからね。このくらいは、いわせて欲しい。まだ僕は、君の夫なんだから。  釧路の義母《おかあ》さんから、何かいってくるか? 僕の両親は、はっきりしろといってくるんだが、まだ、君と別れる気にはなれない。次の日曜日に、ゆっくり話をしたいね〉 [#ここで字下げ終わり]  日付は、今年の二月十三日になっている。 「待てよ」  と、十津川が、急に眉を寄せた。 「どうされたんですか?」 「今日の夕方、北海道に行っている西本刑事から、電話があったんだ」 「霧の謎は解けたんですか?」  と、亀井が、きいた。 「それは、まだらしいが、生田かおりという女を探すといっていたんだ。亡くなった友人のことを、よく知っている女ということでね。現在、彼女は結婚し、東京にいるらしいとも、いっていた」 「生田かおりですか。なるほど、仁科という男と結婚していれば、仁科かおりですね、それに釧路に母親がいる」 「そうなんだよ。あの仏さんは、西本刑事が探している女かも知れないんだ」  と、十津川は、いった。 「年齢は、どうですか?」 「十七年か八年前は、女子大生だったといっていたから、現在は三十七、八歳かな」 「それなら、あの仏さんは、ぴったりですよ」 「夫の仁科宏に会って、聞いてみよう」  と、十津川は、いった。  手紙にあった住所は、中央線の中野である。こちらも、マンションで、着いた時は、午前五時に近かった。  十津川は、構わずに、インターホンを鳴らすと、しばらくして、パジャマ姿の男がドアを開けてくれた。  こんな時間に、なんだという顔をしている。十津川が、警察手帳を見せると、男は険しい眼付きになった。 「悪いことは、していませんよ」 「奥さんの名前は、仁科かおりさんですね?」 「ええ。今、事情があって、別居していますが、家内が、どうかしたんですか?」 「死にました。殺されたんです」 「まさか──」  と、仁科は口をゆがめて、十津川を見返した。 「残念ですが、本当です。青山通りにとまっていた車の中で、刺殺されていました」 「なぜ、そんなことに──」  と、仁科は、言葉を詰らせた。 「奥さんの結婚前の姓は、何ですか?」 「生田ですが、それが何か?」 「奥さんは、釧路の生れじゃありませんか?」 「ええ」 「やはりね。あなたも、釧路ですか?」 「いや、札幌です」 「奥さんと、知り合われたのは?」 「大学を卒業したあと、F工業に入社したんです。釧路支店に廻されましてね。その時、釧路で、彼女に出会ったんです」  と、仁科はいってから、急に警戒の色を見せて、 「僕を疑ってるんですか?」 「被害者のかおりさんと関係のあった人たちに話を聞いているだけですよ。ご主人なら、彼女のことを一番よく知っていると思いましてね」 「正直にいうと、心配してたんですよ」  と、仁科が、声を落していった。 「と、いいますと?」 「僕の働きがないのがいけなかったんですが、家内が、銀座のクラブに働きに出てましてね。自然に生活も派手になるし、客とのごたごただって起きてきますからね。何か事件が起きなければいいがと、思っていたんです」 「釧路で、知り合われたんですね?」 「ええ」 「その時、奥さんは、何をしていたんですか?」 「まだ、大学生でしたね。三年だったかな。僕の一目|惚《ぼ》れでした。ところが、その頃まだ元気だった両親が、僕たちの結婚に、猛反対でしてね。それで、駆落《かけお》ちです。東京に」 「会社は、どうされたんですか?」 「僕はF工業を辞め、家内は大学を無断退学です。東京に出てからは、苦労しましたよ。今も、まあ、家内には苦労をかけてますが」 「片山秀夫という人間を知りませんか?」  と、十津川は、きいた。 「カタヤマ? 家内が殺されたことと、関係がある人間ですか?」 「奥さんの甥《おい》に当るんじゃないかと、思いますよ。二十七歳で、東京でサラリーマンをやっている人間です」 「ちょっと、待って下さいよ。ああ、思い出しました。一度、会ったと思いますね。そのあと、全く会っていないんで、忘れてしまっていました」 「では、その片山秀夫が、亡くなったことも、ご存知ないでしょうね?」 「ええ。知りませんが」 「なんでも、彼は霧の夢にうなされていて、その原因を突き止めようと、四月二十日に郷里の尾幌に帰ったんですが、帰る列車の窓から落ちて死んだんですよ」  と、十津川は、いった。 「列車の窓から落ちるなんて、珍しい事故ですね」 「事故かどうかは、まだわかりません。突き落された可能性もありますから」 「殺人ですか?」 「そうです」 「殺人だとして、犯人は見つかりそうなんですか?」 「向うの事件で、道警の仕事ですから、私からは何ともいえません」 「なるほど。警察の縄張りというやつですか」  と、いって、仁科は小さく笑った。 「念のためにおききしますが、今日の午前二時頃、どこで、何をなさっていました?」  亀井が、きいた。 「午前二時? もちろん、ここで寝ていましたよ。ひとりでね」  と、仁科は、いった。      6  二人は、パトカーに戻った。夜が、明けようとしている。  十津川は煙草に火をつけ、車のフロントガラスを通して、今出て来たマンションに眼をやった。 「仁科の態度で、気になったところはなかったかね?」  と、十津川が、亀井にきいた。 「そうですねえ。いくら別居中といっても、奥さんの死に、あまり驚きを見せませんでしたね。一応びっくりして見せましたが、私には芝居しているように見えましたよ」 「形だけの夫婦かね」 「そうじゃありませんか」  と、亀井は、いう。 「私は、別のことが気になったんだ。片山秀夫のことさ。彼が霧の夢にうなされていたことや、その原因を調べに郷里に帰って死んだと、私が話したのに、仁科は霧のことを全く私に質問しなかった」 「そういえば、全く関心がないみたいでしたね。霧のことも、片山秀夫のことにも、無関心なんですかね?」 「それとも逆に、関心があり過ぎるので、わざときかなかったのか」  と、十津川は、いった。 「どういうことですか?」 「片山秀夫は、夢に出てくる霧に悩まされていた。医者に、それは幼児の体験が関係しているのだろうといわれて、調べるために郷里に戻った。その医者の診断が正しいとしてだが、仁科は、片山の幼児体験に関係しているんじゃないかと、思うんだよ」 「片山秀夫が十歳未満の頃とすると、十七年以上前ですか? 仁科は、三十代ですね」 「そして、殺された仁科かおりは、二十代だろう。それに彼女は仁科かおりではなく、生田かおりだった筈だよ」  と、十津川は、いった。 「二十代といえば、女性の一番美しい時期でしょうね。誤解される恐れがありますが」 「彼女は、今でも、十分にきれいだったよ。派手で、厚化粧だがね。二十一、二歳の頃は、きっと素顔の美しさだったんじゃなかったかね、学生でもあったんだから。当時の彼女の写真が欲しいね」 「仁科が持ってるんじゃありませんか。大学生だった彼女と、駆落ちした男だから」 「果たして、見せてくれるかな?」  と、十津川は呟《つぶや》いてから、亀井ともう一度、仁科の部屋に引き返した。  仁科は、今度は明らかに不機嫌な表情で、十津川たちを迎えた。  十津川が、釧路時代のかおりの写真を見たいと告げると、仁科は一層、不機嫌になった。 「なぜ、そんな昔の写真が要るんですか? 彼女は、今、殺されたんですよ」  と、仁科は、いった。  十津川は、じっと相手を見つめて、 「持っておられないんですか?」 「急にいわれても、探すのに時間がかかりますよ」 「おかしいですね」 「何がですか?」 「奥さんのマンションを調べたんですよ。手紙の類はあったが、写真は無かった。特に、若い時の写真がです。おかしいと思いませんか? 普通なら思い出として、若い頃の写真は、大事にとっておくものでしょう? 女性ならなおさらですよ。それが無かった。あなたも持っていないという」 「探すのが大変だといっただけですよ」 「じゃあ、探して下さい。広い部屋じゃないから、すぐ見つかるじゃありませんか?」 「いや、ここにはありません。別居する前の住居にあると思います。だから探すのが大変だといってるんですよ」  仁科は、肩をすくめるようにして、いった。 「そうですか。それなら、結構です。カメさん、引き揚げよう」  と、十津川は亀井に、声をかけた。  二人はまた、パトカーに戻った。亀井は不満顔で、 「なぜ、急に諦《あきら》められたんですか?」  と、十津川に、きいた。 「仁科が、われわれに見せる気が全く無いとわかったからだよ。たとえ、写真を持っていたとしてもね。その気持がわかれば、もういいと思ったんだ」 「仁科とかおりにとって、その頃の写真は消してしまいたいものなんですかね?」 「ああ、そうだろう。写真をというよりも思い出をね。つまり、片山秀夫にその頃恐ろしい体験があったように、仁科夫婦にも恐ろしい体験があったんじゃないかね」 「その二つの体験が、どこかで、つながっていると──?」 「そうだ。そのキー・ワードが多分、霧なんだ」  と、十津川は、いった。      7  西本は、仁科かおりの、というより、生田かおりの大学の同窓生を探していた。  その一人を見つけて、東釧路へタクシーを飛ばした。  この辺りは、釧路のベッドタウンになっている。独身時代の名前は、村松洋子。今は結婚して、八木洋子になっている同窓生が、東釧路に住んでいると聞いたからだった。  東釧路駅の近く、正確にいえば釧路市貝塚二丁目のマンションに、彼女はサラリーマンの夫と住んでいた。子供も生れて、長男は高校生である。 「かおりさんは、よく覚えていますわ」  と、洋子は、西本に向って笑顔でいった。 「しかし、途中で退学したんでしょう? それなのに、なぜよく覚えているんですか?」 「それは、とにかく、美しい人だったから」  と、洋子は、いった。 「亡くなったのを知っていますか?」 「え?」  と、びっくりした顔になっていた。 「東京で、殺されました。これが、その記事です」  西本は、事件がのった新聞を、相手に見せた。そこだけ切り取って持ち歩いていたのである。  洋子は、仁科かおりの顔写真ののっている記事を見ていたが、 「これ、違いますわ」 「どこが、違うんですか?」 「この写真。彼女は、こんな顔はしていないわ」  洋子は、悲しげな声を出した。 「じゃあ、どんな顔をしていたのか、当時の写真を見せてくれませんか」  と、西本は、いった。  洋子は、奥から、古びたアルバムを持って来て、その中から、三枚の写真を抜き出し、西本の前に並べた。  若い女たちが、二人から五人ぐらいで微笑している写真である。その中には、眼の前の洋子も写っている。  生田かおりは、すぐわかった。三枚の写真の中には、全部で七人の若い娘が写っているのだが、その中で一番美しい娘だったからである。いや、単純に美しいといっただけでは当っていないような気がすると、西本は思った。美しい優しさとでもいったものである。思春期の男の子が、女性に求めてやまない優しさである。  確かに、新聞記事になっている写真は、別人の感じだった。きれいだが、ありふれた美しさなのだ。優しさは、どこにもない。 「この写真を、お借りしていいですか?」  と、西本は、きいた。  洋子は、肯いてから、 「かおりは、なぜ、こんな目にあってしまったんですか?」  と、きく。 「それを、今、調べているんです」 「この新聞には、彼女、銀座のクラブで働いていたと書いてありますけど、本当なんですか?」 「ええ、本当ですよ。学生時代は、そんな風には見えませんでしたか?」 「そんな風になるなんて、ぜんぜん──」  洋子は、怒ったような声を出した。  西本は、三枚の写真を持って、釧路に戻ると、十津川に電話を入れた。 「二十歳から二十一歳にかけての生田かおりの写真を、手に入れました」 「美しいかね?」 「美しくて、優しいですよ。少年の憧《あこが》れる顔をしています」  と、西本は、いった。 「だから、片山秀夫も少年の時、彼女に憧れたのかな」 「多分、それは、信仰に近いものだったと思いますね」 「信仰ねえ」 「そして少年は、いろいろな夢を見るんです。悪者が来たら、守ってあげようとか」 「わかる気がするね」  と、十津川は、いった。 「実は、もう三日間の休暇がなくなって、帰京しなければならないんですが」 「まだ、調べたいことが、そっちにあるのかね?」 「はい」 「それなら、残って調べたまえ。東京と北海道を結ぶ事件になってしまったんだ。遠慮して、休暇をとる必要はもうないよ」  と、十津川が、いってくれた。 「ありがとうございます」 「生田かおりの写真を、一枚だけでいいから、至急送ってくれ。それから、君は、何を調べるつもりだ?」 「霧です。片山が夢で見ていた霧が、現実のものとどうつながっているのか、調べたいと思っています」 「やってみたまえ。道警は、まだ、事故死説か?」 「そうですが、こちらの三浦刑事が協力してくれます」  と、西本は、いった。  西本は、例の三枚の写真の中の二枚を、ホテルの封筒に入れ、十津川へ届くように宛名を書き、ホテルのフロントに投函《とうかん》を頼んだ。  翌日、西本は釧路署に行き、三浦刑事に会った。 「一つ、調べたいことがあるんです」  と、西本がいうと、三浦は気軽に、 「やりましょう。署長に、協力するようにいわれていますから」 「それが、十七、八年前のことなんです」 「十七、八年前──ですか? 私は、まだ、警察に入っていない」  と、三浦が、呆《あき》れた表情をした。 「わかっていますが、どうしても調べたいんです」 「十七、八年前の、どんなことですか?」 「場所は、この釧路の町か、その周辺です。きっと濃い霧が出た日で、事件が起きたんです。そして、その事件は多分、未解決だと思います」  と、西本は、いった。 「ずいぶん、漠然としていますねえ」 「わかっていますが、どうしても、調べて欲しいんですよ。お願いします」  西本は、頭を下げた。 「じゃあ、二人で調べましょう」  と、三浦は、いってくれた。  とにかく、古い話である。二人は資料室に閉じ籠り、十七年前、十八年前の調査書類に、片っ端から眼を通していった。  霧の中で起きた事件ということと、未解決という二つの条件があって、限定できるといっても、雲をつかむような話であることに変りはなかった。  それに、事件の調書に、霧のことまで書き加えてあるだろうかという不安もあった。  眼が痛くなって、途中でしばらく休んだ。  西本は、お礼に、署の近くの喫茶店からケーキとコーヒーを取り寄せ、二人で、口に入れた。  三十分ほど休んで、また、積み上げられた古い調書に眼を通して、いった。  夜になって、二人でチャーハンとラーメンを食べ、今度は一時間休んで、再び、書類との格闘に入っていった。  眼が痛くなると水で冷やし、腰が痛くなると屈伸運動をした。  午後九時近くなったとき、三浦が、やっと、 「これかも知れませんね」  と、やや遠慮がちな声をあげて、西本を見た。  その調書には、「幣舞橋附近における女性刺殺事件」と、書かれてあった。  十八年前の五月八日の事件と、書かれてある。  調書に、西本は、眼を通した。  この日、午後五時頃から幣舞橋附近は、濃い霧に包まれた。一週間前から、時々、霧が立ち込めたが、この夜の霧が、一番濃いものだった。  視界は、一メートルもなくなってしまい、附近の交通は、完全にマヒしてしまった。  濃霧は、およそ二時間にわたって、釧路の町の三分の一を支配した。  濃霧が消えたあと、幣舞橋の袂《たもと》のところで、背中を刺されて死んでいる女が、発見された。  釧路署に知らされたのは、午後八時二十四分である。  その死体は、釧路市内のクラブ「舞」のホステス赤石ゆみ子、三十二歳だった。彼女の服が、まだ濡れていた。彼女が、その濃霧の中で刺殺されたことを示していた。  ナイフは、彼女の背中に突き刺さったままだった。ナイフの柄からは、かすかだが、指紋が検出された。  ナイフは、深く突き刺さり、心臓にまで達していた。そのことが、力の強い男の犯行であることを示していた。  赤石ゆみ子は、札幌市内に生れ、市内の大学を卒業したあと、OLになった。二十六歳で職場結婚したが、一年で離婚。そのあと、水商売に入り、最初、札幌市内のクラブで働いていたが、二十九歳の時、釧路へやって来て、「舞」につとめることになった。  ゆみ子は美人で頭もよく、その上好色で、「舞」でも何人もの男と関係ができていた。  釧路署に置かれた捜査本部は、この男たちを調べた。特に彼女と親しかったと思われる三人の男である。  だが、三人の指紋はナイフの柄についていた指紋とは一致しなかった。他に指紋はなく、男たちは容疑の圏外に置かれた。  捜査本部は赤石ゆみ子の周辺を調べ、彼女と関係のある人間を一人ずつ調べていった。調査対象になった人間は全部で九十六名にのぼったが、結局犯人は発見されなかった。  調書には捜査本部が調べた人間の名前がずらりと並べて記されていた。名前の上に、丸印がついているのは赤石ゆみ子と男女の関係にあった男たちである。  その三人の中に、仁科宏の名前を発見して、西本は、緊張した。  やっと、霧と、マークしていた人間の一人が、結びついたのである。      8  十八年前、この事件の捜査に当った刑事の一人が、その後、定年退職して、現在、釧路市内で本屋をやっていると聞いて、西本は、ひとりで訪ねて行った。  原田という元警部である。  西本が、名刺を渡し、十八年前の事件のことを話して欲しいというと、原田は、首をかしげて、 「あれは、もう、時効になってしまった事件だよ。何しろ、十八年前の事件だからね」 「そうなんです」 「それに、本庁の事件でもないのに、なぜ、興味を持つのかね?」 「私の友人が、殺されたんですが、ひょっとすると、十八年前のこの事件に、関係があって、殺されたのかも知れないのです」 「君は、いくつかね?」 「二十七歳です」 「じゃあ、その友人という人も、同じくらいの年齢なんだろう?」 「そうです。二十七歳です」 「それなら、幣舞橋の袂の事件のときは、九歳だ」 「はい」 「まさか、九歳の子供が、あの事件の犯人だったなどというんじゃあるまいね?」 「それは、違います。とにかく、あの事件のくわしいことを知りたいんです」  と、西本は、いった。彼の真剣な態度に打たれたのか、原田は、 「ちょっと、待っていてくれたまえ」  と、いい、奥に消えると、平たいボール箱を持って、戻って来た。 「あの事件は、私の刑事時代で、迷宮入りになった三件の中の一つでね。しかも、殺人事件なんだ。それで、口惜しいので、自分が撮った写真なんかを、退職のとき、持って来て、この箱に入れておいたんだ」  と、原田はいい、ボール箱の蓋を開けた。  当時、事件を報じた新聞の切り抜きや、被害者の顔写真などが、入っていた。 「これが、被害者赤石ゆみ子だよ」  と、原田は、三枚の写真をテーブルの上に並べた。そんなことをしていると、刑事時代の気持に戻るのか、生き生きした口調になった。  写真には、赤石ゆみ子が店のマネージャーや同僚のホステスと写っていた。 「きれいな女性ですね」  と、西本がいうと、原田は笑って、 「どれも、相当な厚化粧だがね」 「この日は、濃い霧だったようですね?」 「ああ、すごい霧だったよ。私は釧路の生れだが、それでも驚いたね。何しろ、ほとんど周囲が見えないんだから。あの日、確か、濃霧のために、いろいろな事故が起きた筈だよ」 「どんな事故ですか?」 「正確じゃないかも知れないが、車の衝突だけで六件あったんじゃないかね。自転車でも、川へ落ちたというのもあったね」 「殺人は、これ一件ですか?」 「そうだよ」 「調書を読むと、被害者と親しかった男三人を調べたとなっていますが」  と、西本がいうと、原田は肯いて、 「てっきり、その三人の中に犯人がいると思っていたんだがね。ハンドバッグと財布、それにダイヤの指輪なんかも盗られていないので、怨恨《えんこん》であることは確かだったんだ」 「三人の中に、仁科宏という男がいますね」 「ああ、サラリーマンだよ」  と、原田は肯き、ボール箱の中から、男の写真を何枚か取り出した。 「これがその三人の男たちで、これが仁科だ」  と、原田はいい、一枚を西本の前に押し出した。  若い男の写真だった。  仁科宏と、サインペンで書いてある。若くて、ハンサムだった。 「この仁科と被害者の赤石ゆみ子とは、本当に関係があったんですか?」  と、西本が、きいた。 「もちろんだよ。他の二人は、五十六歳と六十歳でね。まあ、男の方が赤石ゆみ子に貢いでいたんだ。ところが、その仁科は、違う。サラリーマンだから、貢ぐ金もなかったろうが、赤石ゆみ子の方が惚れてたんだよ。他の二人はパトロンだが、仁科は恋人だね」  と、原田は、いった。 「すると、三人の中では、一番、仁科を疑っていたんじゃありませんか?」 「そうなるね。赤石ゆみ子の方が、二百万近くを仁科に貸していたという噂《うわさ》もあったからね」 「アリバイは、どうだったんですか?」 「この日は、土曜日でね。仁科は、会社から自宅に帰って、ひとりでテレビを見ていたというし、他の二人も、自宅にいたという。あいまいなアリバイだったよ。証人がいないんだから」 「凶器のナイフの柄に指紋があったと、調書には書いてありましたが」 「ああ、そうだ。絶対にそれが決め手になると考えて、楽観していたんだよ。ところが、問題の三人の指紋とは一致しなくてね。だが、今でも、あの指紋の主が犯人か、或いは犯人に近いと、信じているんだが」  原田は、残念そうに、いった。 「女の指紋ということは、考えられませんか?」 「よほど、力のある女なら、あり得るがね」 「この人のことを、調べましたか?」  と、西本は、一枚だけ持っている生田かおりの写真を、原田に見せた。大学生時代の彼女の写真である。 「右側の美人です」  と、西本がいうと、原田はじっと見つめていたが、 「若いね」 「当時、大学生です」 「調べた記憶はないね。腕が細いな。身体も細い」 「ええ」 「こんなスマートな女では、あのナイフで背中から心臓までは刺せないよ。いったいこの女は、被害者の赤石ゆみ子と、何か関係があったのかね? あったら当然、調べていた筈だが」  と、原田は、いう。 「直接関係はありませんが、当時、仁科宏と関係のあった女です。のちに、結婚しています」  と、西本は、いった。 「なるほどね。仁科には、他に女がいるらしいという話は聞いたんだが、特定できなくてね」  と、原田はいってから、 「もし、彼女が、仁科の女なら、動機はあることになる」 「ええ」 「だが、今いったように、無理だよ、女には。他の二人の容疑者にも、当然、奥さんがいてね。一人の奥さんなんかは、私立探偵を傭《やと》って、赤石ゆみ子のことを調べてさえいたんだ。ヤキモチ焼きでね。だが、指紋は一致しなかったし、刺殺は無理だと思ったよ」  と、原田は、いった。 「調書の中に、指紋がのっていましたが、あれが、凶器のナイフの柄についていたものですか?」  と、西本は、きいた。 「そうだ」 「あの指紋と、この写真の女の指紋を、照合してみたいと思います」 「今、何処にいるんだね?」 「死にました」 「じゃあ、照合ができないんじゃないのかね?」 「死んだのは最近ですから、採取は可能だと思っています」  と、西本は、いった。  原田は、もう一度、生田かおりの写真に眼をやって、 「指紋照合の結果がわかったら、知らせてくれないかね。私も、気になるから」 「必ず、お知らせします」  と、西本は、約束した。  原田に礼をいって、ホテルに戻ると、西本は、十津川に電話をかけ、殺された仁科かおりの指紋が欲しいと、伝えた。 「何か、わかったのかね?」  と、十津川が、きいた。 「それがまだ、確信できないんです。もし、推理が当っていなければ、また、やり直しです。今は、ぜひ、彼女の指紋が欲しいんです」 「彼女のマンションからいくらでも、採取できるだろうし、鑑識が採っている筈だから、すぐファックスで送るよ」  と、十津川は、いった。  翌朝、ホテルのファックスに、指紋が送られてきた。  殺された、仁科かおりの右手、左手両方の指紋である。  西本は、それを持って、再び釧路署を訪ね、三浦刑事に見せた。 「これと、例の調書にあった指紋とを、照合して貰いたいんです」 「一致したら、この指紋の主が犯人ですか? 十八年前の殺人事件の」  三浦は、眼を光らせて、西本を見た。 「そこまで断定はできませんが、犯人に近いとは思います」  と、西本は、いった。  三浦が、照合作業をしている間、西本は署内をうろうろしているのは気が咎《とが》めるので、近くの喫茶店で、コーヒーを飲んでいることにした。  店に入って、コーヒーを注文し、煙草に火をつけた。 (指紋が一致したら、どうなるのか?)  と、考える。  十八年前、この町の幣舞橋の傍で、生田かおりは赤石ゆみ子を、背中からナイフで刺して殺したのだろうか?  しかし、当時、事件を担当した原田は、女では無理だといっている。西本も、当時の、やせた生田かおりには、無理な気がするのだが──。  一時間ほど、一杯のコーヒーで粘っていただろうか。  三浦が、ニコニコ笑いながら、飛び込んで来た。 「一致しましたよ。指紋が一致しましたよ」 「そうですか」  西本の顔にも、自然に笑いが浮かんだ。だが、三浦が、 「これで、十八年前の迷宮入り事件が解決ですね」  と、いうのを聞くと、西本は急に慎重になって、 「そう簡単にはいきません。問題の指紋の主は、当時二十一歳の女性です」 「女ですか」  三浦も、急に、戸惑いの色になった。 「それに、彼女は、死んでいます」 「そうですか。時効の前に、犯人死亡ですか」 「それに、女性には、あの刺殺の仕方は、無理だと、原田さんはいってました」  と、西本は、いった。 「じゃあ、どうなるんですか?」 「ナイフの柄の指紋は、それほど、はっきりしたものじゃないと、あの調書には、書いてありましたね?」 「そうですが、指紋として、完全に採取されていますよ」 「もう少し、調べてみます」  と、西本が、いった。 「上司に、十八年前の事件が解決したと報告してはいけませんか?」  三浦が、期待を持った眼で、西本を見た。 「もう少し、待って下さい。今日明日には、何とか、結論が出ると思います」  と、西本は、いった。  西本は、いったんホテルに帰ると、急に会計をすませ、ホテルをチェック・アウトした。  その足で、釧路空港に急ぎ、一四時発の東京行に乗った。十津川に、直接会って、報告し、その時に自分の考えを説明したいと思ったのである。      9  突然帰京した西本を、十津川はびっくりした顔で迎えた。 「例の指紋は、一致しました」  と、西本は、まず報告した。 「そうか」  と、十津川は肯いてから、じっと西本を見て、 「それだけなら電話ですむのに、わざわざ帰って来たのは、何かあるね」  と、微笑した。 「はい。指紋と一致しましたが、私には、十八年前、生田かおりが赤石ゆみ子を刺殺したとは思えないのです。それに、片山秀夫の件との関係もわかりません」 「だが、君は、君自身の推理を考えてきたんだろう?」 「そうです。ただ自信がないので、聞いて頂いて、判断して頂こうと思ったのです」  と、西本は、いった。 「カメさん」  と、十津川は、亀井を呼んで、 「私と一緒に、西本刑事の話を聞いてくれ。そして、一緒に判断して欲しいんだ」  と、いった。  西本は、まるで面接試験を受けるような気分になって、十津川と亀井に、自分の推理を話していった。  聞き終ると、十津川はあっさりと、 「よろしい。君の推理は、当っていると思うよ」 「それを試してみようじゃないか」  と、亀井も、いった。  十津川は、すぐ、仁科宏の逮捕状を請求した。妻のかおりを殺害した容疑である。  それを持って、十津川自身が、亀井と西本を連れて、仁科の逮捕に向った。  仁科は、十津川に逮捕状を見せられても、平気な顔で、 「僕は家内を殺していませんよ。殺す理由もないし、証拠もないでしょう?」  と、いった。 「弁明は、署で聞くよ」  と、亀井がうむをいわせず、仁科の手に手錠をかけた。  捜査本部に連行しても、すぐには取調べを始めなかった。  不安にさせておいてから、十津川と西本が、取調室で訊問《じんもん》を始めた。 「君は、霧が嫌いかね?」  と、十津川がいきなり、切り出した。  仁科は妻のかおりのことをきかれると思っていたらしく、狼狽《ろうばい》の色を見せて、 「霧って、何のことです?」 「何のことって、君は釧路にいたんだろう? 釧路の霧に決まってるじゃないか」 「ああ、それなら、もちろん知っていますよ。霧の町ですから」  仁科が、あわてていう。  今度は、西本が、横からいきなり、赤石ゆみ子の写真を、仁科の前に、突きつけた。 「この女を知ってるね」 「───」  仁科は、一瞬、何を見せられたのかという眼をしていたが、次には、あわてた顔で、 「知りませんよ。こんな女は」 「十八年前に、濃い霧の中で、君が殺した女だよ。名前は、赤石ゆみ子。釧路のクラブのホステスで、君と関係があったことは、わかってるんだ」  西本が脅かすようにいうと、仁科は睨《にら》むように、西本を見、十津川を見てから、 「ああ、やっと思い出しましたよ。確かに、昔、知ってた女です。名前は忘れてたんです。何しろ、二十年近く前のことですからね」 「君が、殺したんだな?」 「とんでもない。第一、あの事件は、もう時効じゃありませんかね。そんな古い事件を突っついたって、しようがないでしょう?」 「そうさ。だが、今年の四月になってからの殺人事件につながっていれば、話は別だよ。君は、十八年前のこの事件が原因で、片山秀夫を殺し、続いて、奥さんのかおりさんを殺したんだからな」  と、十津川が、いった。 「何のことか、わかりませんね」  仁科は、態勢を立て直すように、顔を上げて、十津川を睨んだ。 「それが、そうはいかないんだよ」  と、西本が、ニヤッと笑って、仁科を見た。また仁科の顔に、不安のかげが走った。  そんな仁科に向って、西本は、 「私は、片山秀夫とは、大学の級友なんだ。君には不運だったがね。片山はいつも、霧の夢に悩まされていた。夢に怯えていた。なぜ、そんな夢を見るのかわからず、友人や知人にも相談していた。君も、君の奥さんも親戚に当るんだから、このことは知っていた筈だ。幼児体験が原因だろうということで、片山は久しぶりに釧路へ帰り、そして殺された。だがね、行く寸前、片山は私に、こんな手紙を残していたんだよ。彼は、これを投函《とうかん》してから、釧路へ行ったんだ。それが私に届いたんだが、私はずっと釧路へ行っていたんで、読むことができなかった。昨日、帰って来て、やっと眼を通したんだ。読むから、聞きたまえ」  と、西本はいい、十津川と相談して作りあげておいた「片山秀夫」の手紙を読み始めた。      10 [#ここから1字下げ] 〈釧路へ行くことにしてからも、ずっと霧のことを考え続けた。幣舞橋の写真を見たりしながらね。そうしているうちに、突然、思い出したんだよ。それも、鮮明にだ。  十八年前、僕が小学校五年の時だ。あの日は土曜日で、僕は港を見るのが好きだったので、ひとりで、幣舞橋の方へ歩いて行った。  そうしたら、あの人を見かけたんだ。親戚の生田かおりという人だ。その頃の僕にとって、あの人は女神だった。あの人の顔や、話し方や、ちょっとした動作を思い出すだけで、僕は心臓が苦しくなった。  その人が、幣舞橋のところにいたんだ。だが、一人じゃなかった。にやけた中年の男と、もう一人、ケバケバしい女が一緒だった。子供の僕にも、その三人が何となく険しい感じであるのがわかったよ。  僕は、あの人が心配で、身体をかくして、じっと見つめていたんだ。そのうちに、急に霧が出てきた。霧はだんだん濃くなっていったよ。僕は、あの人が何を話しているのか知りたくて、その濃い霧にかくれて、三人の方に近づいて行ったんだ。  その時、突然、恐ろしいことが起きたんだ。いきなり、男がナイフでケバケバ女を刺したんだよ。それだけなら、僕はすぐ誰かに知らせたろう。恐ろしいことに、あの人が男を止めないどころか、男に力を貸しているんだ。人殺しにだ。  僕ははっきりと、人を殺すところを見たんだ。だが今まで僕は、そのことを、自分の記憶から消してしまっていた。多分、憧れのあの人がそんなことをしたとは思いたくない、眼の前であったことを、何もなかったことにしたいという気持が、働いたんだろう。僕は、医者じゃないから詳しいことはわからないが、僕の脳が、忘れろと、命じたのだと思う。  しかし、その命令は、夢まで支配できなかった。だから、霧の中で追いつめられる夢を見つづけたんだ。  それを今、突然、思い出した。何もかもだ。すぐ君に話そうと思ったが、十八年前の事件ならすでに時効で、君にはどうにもならないだろう。  だから予定どおり釧路に行き、まず両親に話そうと思っている。そのあと、地元の警察と新聞社に話すつもりだ。人殺しをした男は、もう警察は捕まえられないだろうが、社会的な制裁を加えてやりたいからだよ。ただ、あの人まで傷つけるというのが怖いとは思っているがね。 [#地付き]片山秀夫〉 [#ここで字下げ終わり]  西本は、読み了《お》わると、まっすぐに仁科を見すえた。 「君は奥さんから金を借りて、新しい事業を始めようとしていた。たとえ警察に捕まらなくても、十八年前の殺人をマスコミに書きたてられたら困る。そこで君は、帰郷した片山を、列車からの転落に見せかけて殺したんだ」 「───」 「観念するんだな。この手紙と、十八年前の警察の調書がある。そして、片山秀夫と仁科かおりが殺されている事実がある。これだけあれば、判事は自信を持って有罪にできるさ」  と、西本が、いった。      11  重い沈黙があったあと、仁科がふいに自供し始めた。 「あの頃、僕は、会社の命令で釧路支社にいた。自分でいうのもおかしいが、女にもてたよ。まあ、美男子の方だし、口も上手かったからね。上司に連れていかれたクラブ『舞』で、ホステスの赤石ゆみ子に会ったとき、何とかしてあの女をものにしてやろうと思った。きれいな女だったからだ。三カ月もしないうちに、僕と彼女はいい仲になった。彼女は金を持っていて、いろいろと貢いでくれて、僕はいい気になっていた。そんなとき、生田かおりに会ったんだ。僕は、彼女の清純な美しさに、打たれてしまった。彼女のあと、赤石ゆみ子を見ると、何と醜い女なのかと、慄然《りつぜん》とした。厚化粧には、我慢がならなくなったし、喋り方も無教養に感じられた。  それで、ゆみ子と別れようとした。が、それが、うまくいかなかった。別れるのなら、今まで用立てた金を返せというし、会社にも話すという。そのうちに、あんたを殺してやるといい出したんだ。  それで、その日、幣舞橋で会って、話をすることになった。ところが、かおりも、急に、一緒に行くといい出したんだ。  三人で会ってすぐ、急に、霧が出てきた。濃い霧だったよ。ゆみ子は相変らず僕をののしり、別れてやるもんかという。僕はどうしていいかわからずに、黙っていた。その時、突然、かおりがナイフを取り出して、ゆみ子の背中を刺したんだ。一瞬、何が起きたのか、わからなかった。ゆみ子は刺されて倒れたが、女の力で刺したんだから、死にはしない。這《は》って逃げようとする。その時、かおりが叫んだんだ。『早く殺して!』とね。僕は、神さまのお告げを聞いた人間みたいに、動いた。それでも、指紋のことが気になったんでね、ハンカチを手に巻きつけて、ナイフの柄をつかんで、思いきり力をこめた。ゆみ子は、動かなくなった。僕は、かおりと逃げようとした。その時、眼の前に、子供が現われたんだよ。それが、片山秀夫だったんだ。  そいつが何もいわないので、濃い霧のせいで何も見られなかったんだろうと思って、そのまま逃げた。  そして、十八年たって、片山が本当は見ていて、思い出しかけているのを知ったんだよ。刑事事件としては時効だが、マスコミに出たら、新しい仕事が上手くいかなくなる。だから、片山の口をふさぐことにしたんだ。私立探偵に監視させておいたから、片山の行動は知っていた。あの日、釧路から列車に乗って故郷に帰ることもね。そこで、僕は、同じ列車に乗り込んだ。一方、かおりは、別保と上尾幌の間の二つ目のトンネルで、待ちかまえていて、思い切りドライアイスで即成の霧を作ることになった。芝居や映画の霧だよ。僕は、列車の窓を開けておいた。  釧厚トンネルのところで、計画どおり、列車がドライアイスの霧に包まれた。開けた窓から、霧が流れ込んできた。その時に、僕は、用意したスパナで片山の頭を殴りつけ、窓の外に逆さに放り出したんだよ。うまくいった。  その次に、かおりも殺した。彼女の口を封じたかったから? もちろん、それもあるが、もう一つの理由の方が、大きかったかも知れないね。  何かって? あいつの今の顔を見れば、わかるじゃないか。十八年前、僕は彼女の清純な美しさに打たれ、厚化粧のあつ苦しいゆみ子に反吐《へど》が出そうになって、殺した。ところが、十八年たった今、かおりが、そのゆみ子そっくりになってしまったからだよ」 [#改ページ]   謎と絶望の東北本線      1  最初の手紙は、丁寧というより、哀願調のものだった。 [#ここから1字下げ] 〈伏してお願い申しあげます。  何卒《なにとぞ》、警察の力によって、彼女を探して下さい。彼女の名前は波多乃かおり、二十七歳。身長百五十九センチ、体重五十キロ、色白、眼の大きな女です。  私一人では、この大都会の中で、彼女は見つけられません。それで警察にお願いするのです。今月の末までに、何とかして彼女を探し出して下さい。私は日本の警察の力を信用しております。詳しい事情を書けないのは申しわけありませんが、それは彼女が見つかった時に、お話し申しあげます。今月末になりましたら、連絡しますので、その時には私の喜ぶご返事が頂けることを願っております。   三月一日 [#地付き]K〉 [#ここで字下げ終わり]  この手紙は警視庁の和田総監宛になっていた。もちろん総監が、直接、こんな手紙を読む筈《はず》がなく、受付から行方不明人の捜索を担当する部署に廻された。  だが、そこが、波多乃かおりという女性を探すことはしなかった。手紙の主が、自分の名前をKとしか記さず、真剣なものかどうかも、不明だったからである。行方不明者は毎年、何千人と出ていたし、もっと切実な訴えが数多くあったからでもある。  二度目の手紙は、一転して抗議調の文面になった。宛名は相変らず警視庁の和田総監宛である。 [#ここから1字下げ] 〈警察は国民のためにある筈ではなかったのですか? 私は、僅《わず》かではあるがきちんと税金を払い、国民の一人として恥しくない毎日を送っているつもりです。これまで警察のご厄介になったこともありません。  その私が、初めて警察に頼むのだ。それも、行方のわからない女を一人、探して欲しいという、ささやかなお願いなのに、なぜ応えてくれないのですか? 彼女はこの東京の何処かにいるに違いないのです。もう一度お願いする。彼女を見つけて下さい。特徴をもう一度書いておきます。波多乃かおり、二十七歳。身長百五十九センチ、体重五十キロ。色白で、眼の大きな女です。  わけがあって今は私の名前も住所も明らかに出来ませんが、彼女を幸せにしたいためであることは約束します。早く探し出さなければ、彼女が危険なのです。  ぜひ今月末までに見つけて下さい。三十日に電話します。 [#地付き]K〉 [#ここで字下げ終わり]  そして三通目の手紙が、五月二日に届くことになる。同じく警視庁和田総監宛だったが、前の二通が行方不明人の捜索を担当する部署に廻されたのと違い、捜査一課に廻された。前二通のコピーを添えてである。 [#ここから1字下げ] 〈波多乃かおりを探せ。見つけ出せ。これは命令だ。  この命令に従わない場合は、東北本線を爆破する。これは単なる脅しではない。おれは必ず実行する。  彼女についてのデータはすでに知らせてある。それを参考にして探し出すのだ。  十日までに探し出せなければ、まず警告のために小さな爆発を起こす。そして二十日までに見つけ出せなければ、その時は何人、いや何十人もの死傷者の出る爆発が起きる筈だ。その犠牲は納税者であるおれの頼みを無視した警察が招いたものだということになる。  彼女を見つけ出した場合は、五大紙の尋ね人欄に「カオリが見つかった。連絡されたし。K」の広告を出せ。  おれは怒っている。そのことを忘れるな。 [#地付き]K〉 [#ここで字下げ終わり]      2  本多捜査一課長は、三通の手紙を十津川に見せた。正確にいえば、一通と二通のコピーである。 「どう判断するかを私に委《まか》された」  と、本多はいった。 「差出人が本気かどうかの判断ですか?」  十津川は手紙に眼を落したままきいた。 「そうだ。本気と判断したら、何か手を打たなければならないよ」 「三通も手紙を書いている点、次第に怒りをあらわにしている点などを見る限り、いたずらとは思えませんね。このKという人物は、本気で波多乃かおりという女を探そうとしているんだと思います」  と、十津川は、いった。 「東北本線を爆破するというのも、本気だと思うかね?」 「その点は、何ともいえません。警察の対応に業《ごう》を煮やして、脅しに出ただけかも知れませんから」 「まあ、そんなところだろうね」 「三上部長は、これをどう扱うつもりなんでしょうか」 「判断しかねているから、われわれの意見が欲しいんだろう。脅しに屈して、このケースだけ特別扱いして、波多乃かおりという女を探すわけにはいかない。それだけは、決まっているんだがね」 「それなら、無視すればいいんじゃありませんか?」 「確かにね。ただ、このKという人間が本気の場合が、問題でね。どんな対策を立てたらいいか、検討しろといわれている」 「波多乃かおりという女を探すことは、どうなんですか?」  と、十津川がきくと、本多は苦笑して、 「君だって、家出人や行方不明者の捜索がどんな状況か知っているだろう? 日本全国で二万人もの行方不明者がいるといわれているんだ。全警察官がこの仕事に専念したって、全員を見つけ出すなんてことはできない。まして、このKという人物は、正式に捜索願を出しているわけじゃないんだ。もし、脅かせば、警察が優先的に探してくれるとなったら、おかしなことになってしまう」 「同感です」  と、十津川は、肯《うなず》いた。 「君が、このままでは危険だと判断したら、少し調べてみようかと思っていたんだがね」 「危険人物かも知れませんが、今のところ、何も起きていませんから、判断のしようがありません。今も申し上げたように、このKという人間が、本気で波多乃かおりという女を探していることは、間違いないと思いますが。前に、電話があった時、何と答えているんですか?」 「受付では、正式に捜索願を出すように、と答えている。それ以上、いいようはないからね」  と、本多は、いった。  結局、三通目の手紙も、無視することに決まった。もちろん、マスコミが取りあげることもなかった。  ただ、十津川の記憶の中に、小さな不安として残ったことは否定できない。  本多から話のあった翌日、五月三日。連休初日の午前六時過ぎに、若い女の惨殺体が発見され、十津川はこの殺人事件の捜査に当ることになった。  現場は、池袋西口のビルとビルの間の路地である。  女の死体は、発見された時、雨に濡《ぬ》れていた。梅雨の走りのようなじめじめした雨が、昨夕から降り続いているのである。  女は、首を締められ、俯《うつぶ》せに倒れていた。ミニスカートがめくれあがり、黒いレースのショーツがのぞいている。  シャネルの黒いハンドバッグが、三メートルほど離れた場所に転がっていて、中にあった財布は空になっていた。  十津川は、そのハンドバッグの中から、カルチェの名刺入れに入った数枚の名刺を見つけ出した。  〈池袋ローズマリー  ゆみこ〉  名刺は全《すべ》て同じで、ローズマリーという店の電話番号も印刷されている。 「それ、ソープランドですよ」  と、横から亀井刑事がのぞき込んで、いった。 「カメさん、行ったことがあるのかね?」  と、十津川がきくと、亀井は苦笑して、 「あそこに、看板が出ています」  と、指さした。なるほど、路地の奥に矢印つきの看板が出ていて、「貴男を夢の園へご案内します ソープの中のソープ ローズマリー」と、書かれてあった。 「貴男《あなた》なんて言葉が、こんなところに生きていたんだなあ」  と、十津川は呟《つぶや》き、亀井とその矢印に従って歩いて行った。  ソープランドが三店、それに、スナックやバーなどが並んでいる一角があったが、どの店も早朝の今はネオンを消し、入口が閉まって、ひっそりと静まり返っていた。  ローズマリーという店も、その中にあったが、他の店と同じく、人の気配はない。 「出なおした方がいいようだな」  と、十津川は、いった。  その間に、死体は解剖のために大学病院に運ばれていた。  捜査本部が、池袋署に置かれた。十津川は、夜になってからソープランド「ローズマリー」に行こうと思っていたのだが、ニュースで知ったといって、店の支配人が駆《か》けつけて来た。  田崎という四十代の男で、彼は死体を見て、店で働いていたゆみこに間違いないといった。  田崎は、持参した彼女の履歴書を、十津川に見せた。  本名は、井上弓子。宮城県|石巻《いしのまき》市の生れで、二十八歳。地元の高校を中退したあと、上京している。品川の中小企業に事務員として勤めたり、喫茶店のウエイトレスなどをしたあと、三年前から、ローズマリーで働いていた。 「仕事熱心ないい娘《こ》でしたよ。うちの店では、ナンバー3の中に、常に入っていましたね」  と、田崎は、いう。 「すると、収入も、かなりのものがあったというわけですね?」  十津川が、きいた。 「ええ。貯金も、一千万円近かったと、聞いたことがあります」 「男関係は?」  と、亀井がきくと、田崎は眉《まゆ》を寄せて、 「ニュースは、金目当ての行きずりの犯行ということでしたが」 「そう見せかけているのかも知れません」  と、十津川が、いった。 「なるほど。彼女目当ての常連客もいましたが、特定の男とつき合っているという話は聞いていませんね」 「いつも財布には、いくらぐらいの金を入れていたんでしょうか?」 「多いですよ。二、三十万円は入れていたと思います」 「昨日も、店は開いていたわけでしょう?」 「うちは、年中無休ですから」 「彼女は、何時に、店を出たんですか?」 「午前二時に店が閉まってからですから、二時十五、六分じゃありませんかね」 「彼女の住いは、何処ですか?」 「東上線の下赤塚のマンションです」 「もちろん、電車はもうないから、タクシーで帰るつもりだったんでしょうね?」 「ええ。自分の車を持っている娘もいるし、タクシーで帰る娘もいるし、男がいて、車で迎えに来て貰うのもいますが、彼女はいつも、タクシーを使っていたようですね」 「それなのに、なぜ、あの狭い路地で、死んでいたんですかね」 「わかりません。ただ、店の前の通りは狭くて、タクシーが入って来ないので、大通りまで歩いて行って拾うんですよ。その途中で、襲われたのかも知れません。前にも、うちの娘が襲われましてね。幸い、その時は、怪我《けが》だけですんだんですが」  と、田崎は、いう。  解剖結果も、死亡推定時刻が午前二時から三時の間ということで、店を出たあと、すぐ襲われ、殺されたことを裏付けた。  念のため、常連の男たちや、彼女とつき合いのあった男たちを調べてみたが、いずれも、アリバイが成立した。  二日後の五月五日、捜査本部に速達の手紙が届いた。ワープロで打たれたもので、同じものが、各新聞社にも送りつけられていたのである。 [#この行1字下げ]〈ソープランドの女を殺したのは、おれだ。故郷の恥になるような女は、みんな殺してやる。次はお前の番だ。思い当る女は覚悟しておけ〉  当然、新聞社は、その手紙を、社会面にのせた。  大きく扱った新聞もあれば、小さな記事ですませた新聞もある。テレビも、取りあげた。マスコミは、どれも、興味本位の扱いだが、十津川たちは、そうはいかなかった。  その手紙の主が、井上弓子を殺した犯人なら、第二、第三の殺人が起きる可能性があったからである。  二回目の捜査会議でも、当然、そのことが問題となった。捜査本部長の三上から、意見を聞かれた十津川は、慎重に、 「今の段階では、何ともいえません。犯人が書いたものかも知れませんし、事件に便乗して、世間を騒がせたいだけの人間かも知れません」 「しかし、これが犯人の書いたものなら、また女が殺されるぞ」  と、三上本部長は、いった。  その言葉はすぐ、現実のものになった。  五月八日の夜、今度は新宿西口の中央公園で、ファッション・サロン「ピンク・ドール」のホステスが、死体で発見されたからである。  二十六歳の久保治子、店での名前は、ヒロミだった。生れたのは石川県の輪島である。第一の殺人と同じように、首を締められ、財布から現金が抜き取られていた。  そして、二日後の十日の昼過ぎ、捜査本部に、ワープロの手紙が速達で届いた。 [#この行1字下げ]〈おれは、また殺した。反省のない女は、殺すしかない。次は、お前だ。お前だぞ〉  署名も、差出人の名前もない手紙である。 「危惧《きぐ》していたとおりになったじゃないか」  と、その日の捜査会議で、三上本部長が、それが、十津川の責任みたいにいった。十津川は、黙って肯いた。いまだに容疑者を見つけられずにいたからである。  会議の途中で、宇都宮駅のトイレで爆発事故があったという報告が飛び込んできた。      3  十津川は、とっさに、忘れていた三通の手紙のことを思い出した。 (今日は十日なんだ)  と、思った。  Kという署名の、三通目の手紙には、確か、十日までに波多乃かおりという女を見つけ出してくれなければ、警告のために小さな爆発を起こすと、書かれていた筈である。  十津川は、本多一課長のところへ、飛んで行った。課長も、机の上に三通の手紙を並べて見ていたが、十津川を見ると、 「こいつは、どうやら本気だったようだな」  と、いった。 「二十日までに見つけてくれないと、今度は、何人、何十人の死傷者が出るようなことになると、書いています」 「実行すると、思うかね?」 「多分、やりますね」 「この手紙三通はファックスで栃木県警に送ることにするが、問題は、波多乃かおりという女だね」 「爆発を防ぐためには、探さざるを得ないでしょう。それに、この女に会えば、Kが何者かわかると思います」  と、十津川は、いった。 「そうだが、君は今、連続殺人で手一杯だし、大げさにはしたくない。波多乃かおりを探すためのチームでも作ったら、たちまちマスコミに感付かれてしまうからね。それで田中刑事と北条早苗刑事の二人に、やって貰《もら》おうと思っている」 「北条君ですか」 「ああ。探す相手が女だからね。こちらも、一人は女の方がいいと思ってね」  と、本多は、いった。 「彼女なら、安心して委せられます」 「二人に、私のところへ来るように、伝えてくれ」  と、本多は、いった。  十津川が戻って、二人に伝えると、亀井が、 「波多乃かおり探しですか?」  と、声をかけてきた。 「ああ。課長は、内密で探させるつもりのようだ」 「しかし、大変ですよ。わかっているのは、年齢と名前だけでしょう。百五十九センチ、五十キロという女の人なんか、もっともありふれたサイズだし、色白で眼が大きいというのは、Kという人間の主観ですからねえ」  と、亀井が、いった。  確かに、亀井のいう通りだと思った。この大都会の中で、一人の女を見つけ出すのは、大変な仕事だった。 (だが、二十日までに見つからないと、Kは本当に、大仕掛けな爆破をやるに違いない)  田中と北条早苗の二人に、頑張って貰うより仕方がなかった。  第一、肝心の連続殺人の方が、壁にぶつかってしまっている。  二つの殺人について、十津川は現場周辺の聞き込みに全力を尽くしたが、二件とも深夜のため、目撃者が見つからないのである。  犯人が書いたと思われるワープロの手紙についても、犯人を特定することができないでいた。  ワープロの機種はわかったが、それで犯人に迫るには、売れている台数が多すぎた。  十津川は、焦燥にかられ、不安に襲われた。犯人が、第三の殺人に走る恐れがあったからである。  五月十三日。小雨が降る中で、恐れていた三人目の犠牲者が出てしまった。  早朝の午前五時三十分。浅草寺の境内で、十津川は、若い女の死体を見下ろしていた。  首を締められ、俯せに横たわっている死体だった。第一の殺人と同じように、ミニスカートがまくれあがって、派手なショーツがのぞいている。  十津川は、傍に転がっているハンドバッグを拾いあげた。予想した通り、財布の中身は、抜き取られていた。  ハンドバッグには、他に、口紅、ハンカチ、キーホルダー、コンドーム、胃腸薬などが入っている。その下から、運転免許証が見つかった。  これで、身元がわかるなと思った。眼を近づけて、ふいに、十津川の顔色が、変った。  〈波多乃かおり〉  と、その免許証に、書かれてあったからだった。  何か、背筋を冷たいものが走る感じがした。 「カメさん」  と、十津川は亀井を呼び、少し離れた場所に連れて行って、免許証を黙って見せた。  亀井の顔色も、変った。 「例の波多乃かおりでしょうか?」 「めったにない名前だし、年齢も二十七歳だ。それに、背丈は百六十センチぐらい、体重も五十キロ前後だろう」 「まずいですね」  と、亀井が、いった。 「Kがどう思うかだね。警察が早く見つけてくれないから、殺されてしまったんだと思ったら、二十日を待たずに東北本線を爆破するかも知れない」  と、十津川も、いった。 「あの手紙の語調からみて、やりますよ」 「やるだろうね」 「どうしますか?」 「まさか、この殺人を、無かったことにはできないしね」 「それは、駄目ですよ。発見したのが、仲見世の店主ですから。新聞に出なければ、おかしいと思います」  と、亀井が、いった。 「しばらく、身元不明にしておくか」 「それで、通りますか?」 「三日、いや、二日は何とか、身元不明で通せるんじゃないかね」 「なぜ、二日ですか?」 「今まで、死体が見つかって、二日目に、例のワープロの手紙が届いている。犯人からのだよ。犯人が被害者の身元を知っている可能性が強いからね。そこからマスコミにばれる恐れがある」 「なるほど」 「だから、二日間だ。その二日間に波多乃かおりという女を調べて、Kに辿《たど》りつきたい。Kの正体がわかれば、東北本線を爆破される前に、押さえることができるんじゃないか。そうなることを願っているんだがね」  と、十津川は、いった。  もちろん、十津川の一存で決められることではなかったから、三上本部長に相談した。  慎重派の部長は、不安気に、 「隠して、上手《うま》くいくのかね?」  と、逆に、質問した。 「上手くいかさなければなりません。やる以上は」 「あとで、問題になるだろう?」 「なりますね。しかし、爆破を防ぐために、止《や》むを得ない措置だったということで、了解はしてくれると思います」  と、十津川は、いった。 「しかし、それも、万事上手くいった時のことだろう?」 「そうです」 「今日中に、記者会見をやらなければならないんだが、その時、どう説明したらいいのかね?」 「連続殺人の三人目の犠牲者であることは、間違いありません。ただ、身元は、不明ということにしておきたいのです」 「過去の二件は、水商売の女だった。今度の波多乃かおりは、どうなんだ?」 「同じだと思います。今、西本刑事と日下刑事が、彼女の住所である根岸へ行っていますから、はっきりしたことがわかると思っていますが」 「君は、二日間といったね?」 「はい」 「二日間、身元がわからずにいると思うかね? われわれが伏せておいても、マスコミが、すぐ見つけ出すと思わないかね? 過去二つの事件では、被害者の女は、近くのソープランドと、ファッション・サロンで働いていた。となると、今度の波多乃かおりも、近くで働いていた可能性が強いんだろう?」 「そうです。多分、吉原のソープランドあたりで働いていたと思います」 「それなら、記者さんたちも同じように考えて、調べて廻るんじゃないかね。何しろ、若い女ばかりの連続殺人で、必死に、他紙を抜こうとするだろうからね。今日中にも、身元がわかってしまうかも知れんよ」  と、三上は、いった。  十津川は、肯いて、 「それでも、私としては、時間を稼ぎたいんです。Kという人物は、手紙の中で、二十日までに見つからなければ爆破すると書いていますが、波多乃かおりが殺されたと知った瞬間に、爆破するのではないかと思っているのです。Kについて、何の知識もないと、それを防ぐことが、不可能です。Kが、爆破に取りかかるまでの間に、少しでもいいから、Kのことを知りたいわけです」 「明日、Kが、東北本線を爆破するといったら、防ぎようがないかね?」  三上は、難しい顔で、十津川にきいた。 「正直にいって、自信は全くありません。東北本線は、上野から青森まで、大変な長さですし、狙《ねら》うのが、駅か、列車か、或いはトンネルか、橋かも、不明です。新幹線なら駅は少数ですが、在来線の駅は、沢山あります。相手の出方が不明では、その全てを守れません」  と、十津川は、いった。 「Kのことが、少しでもわかれば、防ぎようがあるかね?」 「完全に防げるとはいいませんが、何とか、Kと戦えるとは思っています」  と、十津川は、いった。 「わかった。今日の記者会見では、身元不明と発表しておこう」  三上は、そういってくれた。 「ありがとうございます。私は、Kのことを一刻も早く知りたいので、記者会見には欠席します。これからは、時間との戦いになりそうですから」  と、十津川は、いった。      4  十津川が捜査本部に戻ってすぐ、西本刑事から電話が入った。 「彼女の働いていた店が、わかりました。吉原のソープランド、店の名前は、ハーレム・ワンですね。アルバムに、その店の前で撮った写真がありました」 「免許証の本籍は、青森市になっているんだが、青森から届いた手紙があったかね?」  と、十津川は、きいた。 「何通かありました。部屋にある写真と手紙は、全部持ち帰ります」 「新聞記者さんの姿は?」 「見えません」 「気付かれないように、戻って来てくれ」  と、十津川は、いった。  西本と日下の二人が戻ってくると、十津川は奥へ連れて行き、衝立《ついたて》のかげで、亀井と報告を聞くことにした。  机の上に、手紙と写真が、並べられた。  十津川がまず注目したのは、青森から届いている三通の手紙だった。  こちらの住所は、根岸にはなっていないし、四年から、五年前の消印になっている。  彼女が前に住んでいた赤羽時代に届いた手紙である。  本籍と同じ場所から届いた手紙は、母親からのものだった。 [#この行1字下げ]〈かおりさん。元気ですか? たまには手紙か電話を下さい。ゆきも心配しています。来月の七日は、お父さんの命日だから、ぜひ、一度、帰って来て下さいよ。いろいろと、聞きたいこともあるしね。 [#地付き]母〉  この手紙の中にある「ゆき」というのは、被害者の妹らしく、彼女からのハガキもあった。住所は青森県の弘前市で、姓が波多乃ではなく青木になっているのは、結婚しているのだろう。 [#この行1字下げ]〈姉さん、元気? 私も何とか元気にやっています。母さんが、いつも心配しているので、電話してあげて。お願いします。 [#地付き]ゆき〉  三通目は、石田美津子という女からの手紙だった。 [#ここから1字下げ] 〈昨日、S高の同窓会があって、十四人が集ったわ。男の子たちから、あなたのことをずいぶん聞かれたわ。あの頃、あなたは、男の生徒に人気があったから。みんな、あなたの消息を知りたがっているわよ。来年の三月にまた同窓会があるから、今度はあなたも出席して欲しいわ。中退だからと遠慮しているのなら、そんな遠慮は無用だわ。来年の同窓会は、東京に出ている加東哲二クンが、通知を出すことに決まったから、返事をしてあげてね。  P.S.  あなたの親友のみどりが、結婚したわよ。 [#地付き]美津子〉 [#ここで字下げ終わり]  写真は、五十枚ほどあった。二十七歳の女にしては、少ない方だろう。問題は、この中に、Kがいるかどうかということだった。  十津川は、Kを、何となく中年の男と思っていた。三通の手紙を読み返していると、そんな感じなのである。もちろん、二十代の若い男かも知れないし、女のケースだってあり得るのだ。  写真は、一枚ずつ丁寧に見ていったが、そこに写っているどの人間が、Kなのか、怪しいのか、判断がつかなかった。  波多乃かおり探しに歩いていた田中と北条早苗の二人も、彼女が殺されてしまった今は、自然に十津川の下に入ってきた。  十津川は、その一人、北条早苗を呼んで、 「すぐ、青森へ飛んでくれ」  と、いった。青森県警に電話で頼んでもいいのだが、どこで秘密が洩《も》れるかわからなかったからである。 「波多乃かおりの母親と、弘前の妹、それに高校時代の仲間に会って、彼女について、聞き込みをやって欲しい」 「わかりましたが、彼女が殺されたことを、話していいんでしょうか?」  と、早苗がきく。 「いや、それは駄目だ。どこでKとぶつかるかわからないからね。刑事であることも内緒にして、話を聞いて来て欲しい」 「では、彼女の友だちということで、行って来ますわ」 「友人という証拠に、これを持って行ったらいい」  と、十津川はいい、西本たちが波多乃かおりのマンションから持って来た普通預金の通帳を、早苗に渡した。残高は五百六十万円余りだった。 「こんなものを私が持ち歩いていいんでしょうか?」  早苗が、当惑した顔で、きく。 「印鑑を別にしてあるから、誰にもおろせないよ。君は、友だちの波多乃かおりがこれを自分に預けて、姿を消してしまったので、困っているといったらいい。母親には、それを渡してしまっても構わない。当人が死ねば、彼女は結婚していないようだから、遺産は母親に行く筈だからね」  と、十津川は、いった。  北条早苗は、預金通帳と波多乃かおり宛の母親と妹の手紙を持って、十一時三十分羽田発青森行の飛行機に乗るために、捜査本部を飛び出して行った。午後一時前に青森に着く筈である。  午後一時に、こちらでは記者会見が行われた。  その時刻、十津川は、亀井と、捜査本部を抜け出して、根岸にある波多乃かおりのマンションに出かけた。  十階建ての最上階に、彼女の部屋がある。1LDKだが、かなり広い。リビングルームが二十畳以上あるからだ。  角部屋で、窓を開けると、視界が広がる。 「この方向が、上野ですね」  と、亀井が、窓から見える方向を指さした。 「よくわかるね。上野駅は見えないのに」 「私も東北生れで、上京してしばらくは、アパートの窓から、いつも上野の方を見ていました。上野を通して、故郷の方向を見ていたのかも知れません」 「波多乃かおりも、そうだったのかな?」 「そうだと思いますよ」 「しかし、彼女は、母親にも妹にも、このマンションは教えてなかったみたいだがね。手紙は、前の住所のところに着いたものしか、見つからなかったからね」 「赤羽です」 「ああ、そうだ」 「赤羽も、この根岸も、上野の近くです。彼女は、理由はわかりませんが、母親からも妹からも、身を隠していた──」 「Kという人物からもだ」 「ええ。それなのに、上野のまわりを、動いているんですよ。きっと、上野から遠く離れると、二度と故郷へ帰れなくなるような不安を、感じていたんじゃありませんかねえ」  と、亀井は、いった。 「東京生れの私には、わからないが」 「特に、東北生れの人間は、そうなんじゃないでしょうか。今は飛行機で帰る人間もいますが、それでもやはり、上野が故郷への入口の感じなんです。羽田には、その感じがうすいんですよ」 「すると、波多乃かおりは、故郷を捨てたのに、捨て切れなかったということなのかな」  と、十津川は、いった。 「それにしても、不自由な捜査ですねえ」  と、亀井は、溜息《ためいき》をついて、 「ソープの仲間に会って話を聞けば、最近の彼女について、何かわかると思うんですが、それができない」 「ここの管理人に話を聞くのも、まずいんだ」  と、十津川は、いった。  二人は、部屋の中を調べて廻った。すでに西本と日下の二人が調べていたし、手紙や写真などは持ち出しているのだが、Kについての手掛りが残っていないかと、思ったのである。  だが、何も見つからない。 「ありませんねえ」  と、亀井が、溜息をつく。 「ああ」  と、十津川が肯いた。が、その生返事に、亀井が、 「何を考えていらっしゃるんですか?」 「波多乃かおりの死体のことさ。ぜいたくな服装だった。シャネルの服、ハンドバッグもシャネル」 「そうです。月に二百万、三百万と稼いでいたんでしょうから、身を飾るものに、金を使っていたんだと思いますよ」 「だがね、腕時計は日本製のデジタルで、一万二千円のものだった。それも、男物だったよ」 「ええ。ただ時計としては、宝石のついたものより正確ですが」 「それは、そうだがねえ。ソープランドの女に、秒単位の正確さが必要なんだろうか?」  と、十津川はいい、急に部屋の電話で捜査本部に連絡をとり、西本刑事に、問題の腕時計を持ってくるようにいった。  西本が持ってくると、それをテーブルの上に置いた。 「この時計には、いろいろな機能がついている。アラーム、世界の時間、それにアドレスブックの代りになる」 「名前、住所、電話番号を、何人分も覚えさせることが出来るんですね」 「被害者が記憶させていたとすると、その中にKがいるかも知れないよ」  と、十津川はいった。  ボタンを押していくと、次々に、名前と住所、電話番号が現われた。全部で、十二名。全て男の名前である。十津川たちは、それを三人で分担して、手帳に書き留めていった。 「多分、これはほとんど、常連の客の名前だと思いますね」  と、亀井が、いった。  亀井の言葉は、当っているだろう。それでも、三人は分担して、十二名の男に電話をかけてみた。  大会社の部長だったり、中小企業の旦那だったりしたが、その中で、十津川が興味を持ったのは、堀内卓也という男だった。その男が、ひとりで私立探偵をやっていると、わかったからである。  十津川は、ひとりで、サングラスをかけて、この男に会いに出かけた。  神田の雑居ビルの中に、堀内は事務所を持っていた。二十歳ぐらいの若い女が受付にいるだけである。 「波多乃かおりという女を、知っているね?」  と、十津川はわざと、高飛車に出た。 「あんたは?」  と、堀内は、きく。 「S組の井上だよ。あの女に金を貸してたのに、逃げやがった。五百万だ。あんたがかくまってるんじゃないだろうな?」  十津川は、実在の暴力団の名前を出して、相手を脅した。 「なんで、私が?」 「あの女の手帳に、お前さんの名前があったからだよ」 「私は、ただ、仕事で──」  と、堀内が、青い顔でいう。 「仕事?」 「そうですよ。波多乃かおりさんとは、お客として会っただけですよ」 「信じられねえな」 「本当ですよ。見て下さい」  と、堀内はいい、調査依頼書を持ち出して、十津川の前に置いた。  依頼のところに、なるほど、波多乃かおりの名前が書かれてある。そして、依頼事項には、次の文言があった。  〈黒井某についての調査〉 「何だ? これは」  と、十津川は、堀内を睨《にら》んだ。 「それが、妙な調査依頼でしてね。男を一人、見つけてくれという依頼だったんです。姓は黒井だが、名前の方はわからない。年齢は四十歳から四十五歳。身長は、百八十センチくらい。痩《や》せている。青森市内の生れと思われるが、違うかもしれない。どうも、あやふやなことばかりなんですが、それで、この男を探して欲しいといわれたんですよ」 「いつだ?」 「去年の十二月です」 「それで、見つけたのか?」 「見つかるわけがないじゃありませんか。フルネームはわからないんだし、あとのデータだって、全てあやふやですからね。結局、見つからないで、終りましたよ」 「その後も、探してたんじゃないのか?」 「今年になって、先月でしたかね、突然、もう一度探してくれといって、二十万円置いていったんですがねえ」 「それで、もう一度、黒井某を探したか?」 「ええ。仕事ですから」 「だが、見つからなかった?」 「何しろ、データが──」  と、いいかける堀内の胸倉を、十津川はいきなり締めあげて、 「嘘《うそ》をつくなよ! 金だけ頂いて、何もしなかったんじゃねえのか? そうなんだろうが」 「すいません。少しは調べたんですが、どうせ見つからないと思って──」 「この男についての資料を、全部よこせ!」  と、十津川は、いった。  堀内は、キャビネットから大きな紙袋を取り出して来て、十津川の前においた。 「これに、全部、入ってます」 「いいか。正直にいえよ。あの女は、なぜ、この黒井という男を、見つけ出したがってるんだ?」 「それは、何度も聞いたんですが、いいませんでしたよ」 「見つけたら、連れて来てくれと、いってたのか?」 「いえ。どこで、何しているかわかったら、そっと知らせてくれといってました」  と、堀内は、いった。      5  波多乃かおりが、私立探偵に依頼して探していた黒井という男が、Kなのだろうか?  イニシャルは、Kにはなる。だが、断定は難しかった。  堀内から預かって来た資料に眼を通すと、彼の苦心もわかる気がした。フルネームがわかれば、東京の電話帳に当れるのだが、黒井だけではそれができない。何しろ、一千万人が住む大都会である。黒井という姓だけでも、一人ずつ当るには多すぎる。  そこで、堀内は、青森市の電話帳で、当っていた。向うの人口は、二十八万だからだろう。黒井の姓は意外に少なくて、十二人。その中から、四十代の男を選び出した。  黒井 均  四十一歳  黒井 一朗 四十六歳  黒井 邦夫 四十八歳  ここで、堀内の調査は終っている。この先、どうしたらいいかわからなかったのか。それとも、わざと調査を中止して、波多乃かおりから、もっと金を引き出そうと考えたのか。いずれにしろ、この三人の中に、Kがいるかどうか、わからないのだ。  午後五時を過ぎて、青森から、北条早苗刑事が、電話してきた。 「彼女の母親に会って来ました。名前は、良子。五十一歳で、ひとりでJR青森駅近くで、土産物屋をやっています」 「それで、何かわかったかね?」  と、十津川は、きいた。 「問題のKにつながるかどうかわかりませんが、わかったことをお伝えします。波多乃かおりですが、去年までは、時々、連絡がとれていたと、母親はいっています。赤羽のマンションに電話して話をしたこともあるというんです。それが、去年の暮れから、突然、行方がわからなくなって、連絡がとれなくなったんだそうです」 「去年の暮れか」 「はい。今年の正月には、何年ぶりかに、青森へ帰って来るといっていて、母親はそれを楽しみにしていたのに、暮れになって、突然、消息が消えてしまったと、悲しそうにいっていましたわ」  と、早苗は、いった。 (その頃、波多乃かおりは、私立探偵に、黒井某を探させている)  と、十津川は、思った。  そして、今年の三月になると、Kが警視庁に投書して来て、波多乃かおりを探してくれといった。  全てが、関係しているのだろうか? 「今日中に弘前に行って、彼女の妹に会おうと思います」  と、早苗が、いった。 「その前に、青森市内で調べて貰いたいことがある」  と、十津川はいい、黒井均、黒井一朗、黒井邦夫の三人の名前を伝えた。 「この三人の何を調べるんですか?」  と、早苗が、きく。 「三人は、青森市の電話帳にのっている筈だ。この中に、今、東京に出て来ている人間がいるか、或いは、しばしば上京している男がいるか、調べて貰いたいんだよ。例の三通の手紙の消印は、いずれも東京中央になっているからね」 「すると、この中にKがいるんですか?」  電話の向うで、北条早苗刑事の声が、急に甲高くなった。 「わからないが、あくまでも内密にやって欲しい。間違っても、直接本人に当るなんてことはするなよ。そいつが、Kかも知れないからね」  と、十津川は、釘《くぎ》を刺した。  電話が終ると、十津川は西本を振り返って、 「波多乃かおりのマンションから持って来た手紙の中に、差出人が黒井というのは無かったかね?」 「ありません」  と、西本は、あっさりいった。十津川は、別に失望もしなかった。もしあれば、波多乃かおりが、私立探偵社への調査依頼に黒井某とは書かなかったろうからである。フルネームを書くだろう。  夜半近くなって、北条刑事から二度目の連絡が入った。 「今、青森市内のホテルです。弘前には行けませんでした。例の三人ですが、この中、二人が、今東京に行っていますわ」 「二人かね」 「黒井均と、黒井邦夫です」 「何をしている男か、わかるか?」 「電話帳には、黒井均は飲食業、邦夫の方は、コンサルタントとなっています。東京で何をしているかは、わかりません」 「できれば、この二人の東京の住所と、東京で何をしているか、それに写真も欲しいんだが──」 「明日、何とかして調べますが」  と、早苗がいう。十津川は、そうしてくれといいかけて、 「いや、今は、無理はしない方がいい」 「それでは、明日は弘前へ行きまして──」 「もう、妹には会わなくていいよ。君は青森市内にとどまって、無理をしない範囲で、二人の黒井のことを調べてくれればいい。それから、私といつでも連絡がとれるようにしておいて欲しい」  と、十津川は、いった。  翌十四日。久しぶりに、初夏らしい晴れた日になった。  十津川は、緊張して、朝刊に眼を通した。が、身元がわかったというニュースは載っていなかった。  それにほっとしていると、昼過ぎになって、吉原のソープランド「ハーレム・ワン」のマネージャーが、捜査本部にやって来た。川中広志という名刺をくれてから、昨日浅草寺の境内で見つかった死体は、自分の店で働く女らしいと、いうのである。 「死体を見ればわかります」  と、いうのだ。  十津川は、困惑した。向うは、身元の確認に来たのだから、喜んで迎えられると、確信している。忙しいのだが、市民の義務として警察に協力しに来たのだという気持が、表情に表われている。 「ご協力はありがたいのですが、実は今、母親だという人が来ていましてね。身元の確認ができそうなんですよ」  と、十津川は、とっさに嘘をついた。  川中は、がっかりした表情になって、 「私は、てっきり、うちで働いている女の子だと思ったんですがねえ」 「もし、今来ている母親で身元がわからなければ、その時お願いに行きます」  と、十津川はいい、引き取って貰った。  十津川は、冷汗をかきながら、亀井を振り返って、 「この分だと、よくて明日一杯だね」 「そうですね。マスコミにも気付かれますね」  と、亀井も、いった。 「君も、青森へ飛んでくれないか」  と、十津川は、いった。 「黒井均か、黒井邦夫のどちらかが、Kだと思われるわけですか?」 「自信はないよ。ただ、どちらかなら、何とかKと戦えるんじゃないかと思っているだけだ」 「わかりました。北条君と一緒に、この二人のことを調べてみます」 「頼むよ。彼女を助けてやってくれ」  と、十津川は、いった。  亀井が出かけて行ったあと、十津川は煙草に火をつけて、考え込んだ。  亀井には、明日一杯は何とかといったが、恐らくもっと早く、被害者の身元がわかってしまうだろう。十津川は、覚悟していた。さっきやって来たソープランド「ハーレム・ワン」のマネージャーは、マスコミの人間にも、自分の店の女の子によく似ていると、いっているに違いないのである。 (明日の夕刊には、出てしまうな)  と、思った。それは、覚悟しておく必要があるだろう。  午後四時には、亀井から、青森に着いたという電話連絡が入った。 「これから、北条君に会い、一緒に聞き込みをやります」  と、亀井はいってから、 「そちらは、いつまで持ち堪《こた》えられそうですか?」 「いいところ、明日の午前中までだろうね」 「明日の昼までですか。厳しいですね。犯人からの手紙は、まだ来ませんか?」 「犯行声明は、まだ届いていないよ」 「前の二通は速達で来ていますから、今日中には届くんじゃありませんか?」 「ああ、その筈だ」  と、十津川はいい、電話が終ると、若い刑事に、郵便物のことを聞いてみた。だが、まだ何も届いていないという。時間からみて、今日の配達は、もう終りである。 (遅いな)  と、思った。犯人が出し遅れているのか、それとも、犯行声明が面倒くさくなって、止めてしまったのか。  夜半近くなって、亀井から二度目の電話が入った。 「あれから北条君と手分けして、二人の黒井について調べました。問題があるのは、コンサルタントの黒井邦夫の方だと思います」 「なぜだい? カメさん」 「市内で、大衆食堂をやっている黒井均の方ですが、奥さんと五歳の子供がいまして、黒井は金ぐりのために、東京へ行っていることがわかりました。最近の不況で、なかなか金ぐりがつかずに、帰っていないということですが」 「黒井邦夫の方は?」 「こちらは二年前に離婚していて、上京した理由がよくわかりません。別れた奥さんに、話を聞こうと思って探しているんですが」  と、亀井は、いった。 「波多乃かおりとの関係は?」 「わかりません。彼女の母親に、直接、黒井邦夫を知っているかときけませんので。母親は、それでなくとも、敏感になっているようです」 「私はうまく立ち廻ったつもりだったんですが、母親は娘に何かあったと感付いたらしくて、いろいろと、問い合せているようなんです」  と、早苗が、いった。 「母親だから当然かも知れないな。こちらは、例の犯行声明が、まだ届かない。新聞社にも来てないらしい」 「中止したんでしょうか?」  と、亀井が、きく。 「それで、考えたんだが、殺された女の身元がわからないからじゃないかと、思ったんだ」 「それは、おかしいと思いますよ。犯人は、彼女がソープで働いているのを知っていて、金を持っているとわかっていて、襲ったんだと思いますね」 「そうだと思うよ。犯人は、三人の被害者が働いていた店で、一度は遊んだと思っている」 「それなら、本名を知らなくても、店での名前は知っていたんじゃないですか?」 「ああ、そうだ」 「それなら──」 「だから、あの犯行声明は、犯人じゃない人間が書いてるんじゃないかと、思っているんだ」 「別人がですか?」 「そうだ。それも、例のKだよ」  と、十津川は、いった。 「Kですか? なぜ、Kが?」 「Kは、必死になって、波多乃かおりを探していた。理由はわからないが、異常ともいえる執念でだよ。彼女の方は、Kから逃げていたんじゃないかな。Kは、警察にも探してくれと要求したが、見つからない。そんな時、第一の殺人が起きた。東北生れで、ソープで働く女が殺されたんだ。そこでKは、犯行声明という手を考える。おれが殺した、故郷を捨てた女はみんな殺してやるという犯行声明をだ。マスコミが取り上げるのを計算してだよ。目的は、東京の何処かにいる波多乃かおりを脅すことだったんだ」 「次はお前だと書いていましたね」 「あれが、手紙の主のいいたいことだったんじゃないかね。故郷を捨てて東京に来ている女全体を憎んでいるのなら、次はお前だと、特定の女に宛てたような書き方はしないんじゃないか。二人目の被害者も、東北じゃないが、石川県から出て来ていた女だった。故郷を捨てた点で同じだから、Kは、また便乗して犯行声明を作り、その中で次はお前だと書き、行方のわからない波多乃かおりを脅したんじゃないか」  と、十津川は、いった。 「Kはボールペンで、犯行声明の方はワープロですが」 「それは使いわけているんだろう。Kの手紙、特に三通目と犯行声明とは、文章の調子がよく似ているんだ」 「三人目は、われわれが身元を隠しているので、Kは被害者がどこの生れかわからず、故郷を捨てた女ということで脅しに使えないということですか?」 「そうだ。本当の殺人犯は、ただ金が欲しいだけで、遊びに行った店の女を殺しているんだと思うよ」  と、十津川は、いった。 「他人のやった殺人まで利用して、波多乃かおりを脅して見つけようとするKというのは、どんな人間なんでしょうか? それに、理由も、知りたいですね」  と、亀井が、いう。 「間もなく、嫌でもわかるようになるさ」  と、十津川は、いった。      6  翌日の昼、テレビのニュースが、突然、波多乃かおりの名前を流した。  連続殺人の三人目の犠牲者は、吉原のソープにいた波多乃かおり、二十七歳とわかった、とアナウンサーはいい、彼女の生れや店での評判などをくわしく説明したあと、なぜか警察は彼女の身元を隠していた節があると、付け加えたのである。  捜査本部に、重苦しい空気が流れた。 (このニュースをKが見ていなければ、もう少し時間が稼げるのだが)  と、十津川は思ったが、ニュースが終ってすぐ、そのKから電話がかかって来たことで、かすかな期待は無残に裏切られてしまった。  十津川が受話器を取ると、いきなり男の声が、 「警察の責任だぞ!」  と、いったのである。  十津川は、とっさに机の引出しからテープレコーダーを取り出し、受話器に接続しながら、 「何のことですか?」 「わかっている筈だ。おれが、あれほど、波多乃かおりを探してくれと頼んでおいたのに。真剣に探してくれなかったから、殺されてしまったんだ。責任を取って貰うぞ」  男の声は、大きくなってくる。 「君が、手紙をくれたKか?」 「おれの警告の手紙は見たな?」 「どんな手紙かね?」 「とぼけるな。おれは、書いたことは、必ず実行する。二十日まで待たずにだ」 「なぜ、そんなことをするんだ? 会って、話し合わないかね? 君が何を考えているのか知りたいし、波多乃かおりを死なせてしまったことは、詫びてもいい。今の君は、別に法に触れることをしてるわけじゃないんだから、顔を見せて、話してくれないかね」  十津川は、一所懸命に、相手を説得しようとした。だが、相手は、こちらの言葉に押しかぶせるように、 「死人が何人出ても、それは警察の責任だ。それは、いっておくぞ!」  と、大声でいい、電話を切ってしまった。  十津川は、すぐ、三上本部長のところに行き、 「Kから宣戦布告して来ました」  と、いった。三上は、青い顔になって、 「それで、防げるのかね?」 「防がなければなりません」 「しかし、東北本線といっておいて、他を狙うかも知れんだろう? 警察を恨んでいるんなら、警察の施設を爆破するとかだ」 「いえ。Kという男は偏執狂的なところがありますから、必ず東北本線を狙いますよ」  と、十津川は確信を持って、いった。 「東北本線の何処だ?」 「わかりません」 「それに、なぜ東北新幹線は含まれないのかね?」  と、三上が、きく。 「それですが、東北新幹線が開通したのは、昭和五十七年です。波多乃かおりは、多分、その前に青森から上京しているんだと思います。だから、Kは、東北本線を狙うんです」 「彼女を上京させた、憎むべき東北本線というわけかね?」 「そうです。Kは、波多乃かおりが、故郷を捨てたことに腹を立てているようですからね。それに手を貸した東北本線にも、腹を立てているんだと思いますね」  と、十津川は、いった。      7  狙われるのは東北本線とわかっても、まだ、範囲は、長く、大きい。  十津川は、青森のホテルにいる亀井に、電話をかけた。彼がKのことをいうより先に、亀井が、 「テレビで見ましたよ。波多乃かおりの身元がわかったことは」  と、いった。 「早速、Kから電話があった。向うは、やる気だ。もう遠慮して調べることはないよ。すぐ、黒井邦夫の別れた奥さんに会ってくれ」 「それなんですが、彼女は今、東京にいることがわかりました。北条君が、調べてきてくれたんです。旧姓の小田恵子に戻っていて、東京の住所は、三鷹市井の頭のアパートです」  と、亀井は、いった。十津川は、そのアパートの名前を書き留めてから、 「すぐ、彼女を訪ねてみるよ。カメさんも、東京に戻って来てくれ。北条君は、引き続き、青森に残って、聞き込みをやって貰う」  と、いった。  十津川は、そのあと、テープレコーダーを持ち、若手の西本刑事を連れて、井の頭に向った。  井の頭公園近くの旭荘というアパートの二階だった。  丁度、小田恵子は、これから渋谷のバーに勤めに出るところだといい、化粧しながらの質問になった。 「黒井ですか? とにかく、変った人ですよ。別れて、ほっとしてるわ」  と、恵子は、あっさりといった。 「どんな風に、変ってるんですか?」  と、西本がきくと、恵子は小さく肩をすくめて、 「自分だけが、正しいと思ってます。それだけならいいけど、それを他人に押しつけるのよ」 「あなたにも、押しつけたわけですか?」 「ええ。それも、ひどいやり方でね」 「どんな風にですか?」 「あたしね、青森に生れて育ったんだけど、青森という町が嫌いだった。青森というより、東北がよ。だから、高校を出てすぐ、両親の反対を押し切って東京に出たわ」 「黒井さんとは、どこで知り合ったんですか?」 「四年前だったかな。母が亡くなったんで、何年ぶりかで、青森に帰ったのよ。久しぶりだったんで、一週間ほどいたとき、黒井と知り合ったんだわ。びっくりしたのは、いきなりお説教されたことよ。故郷を捨てる女は、屑《くず》だ。育てられた町を捨てては、絶対にいけないって」 「それで、結婚したんですか?」 「とんでもない。東京へ逃げたわ。こんな変な男につかまったら大変だと思ってよ」 「それから、どうなったんですか?」 「どうやって調べたのかわからないけど、半年して、東京のマンションに追いかけて来たのよ。東京中を探し廻ったって、いってたわ。そのあと、半ば強制的に青森に連れ戻されて、結婚したのよ。本当に、ナイフで脅されたこともあるわ。承知しなかったら、殺されるかも知れないと思ったわよ」 「だが、別れた?」 「ええ。うんざりしたし、くたびれたのよ。一年半で、くたくたになっちゃったわ」 「よく、黒井さんが承知しましたね?」 「弁護士を立てたりして、大変だったわよ」 「黒井さんの性格は、あなたとの離婚で、変ったと思いますか?」  と、十津川がきくと、恵子は、化粧をすませ、煙草に火をつけてから、 「あの人は変らないわよ。もっとひどくなってるんじゃないかな。結局、あたしが故郷を捨てたというんで、憎んでいると思うしね」  と、いった。 「あなたに、聞いて貰いたいテープがあるんです」  十津川は、持って来たKとの会話テープを、恵子に聞いて貰った。聞き終ると、十津川が何もいわないうちに、 「あの人だわ」  と、いった。 「間違いありませんか?」 「ええ。間違いなく、あの人の声よ。何か、恐ろしいことをやろうとしているみたいね。まさか、あたしのことが原因じゃないんでしょうね?」  と、恵子は怯《おび》えた表情になって、きいた。 「いや、あなたのことは関係がありませんが、青森から上京して、水商売で働いていた二十七歳の女性が、関係しています」 「きっと、彼が、青森へ帰れといって、追いかけ廻していたのね」 「そうです」 「その女の人、可哀《かわい》そうだわ。あの人は異常で、他人の忠告なんか全く聞かないし、相手の女はただ自分のいう通りにすれば幸福なんだと、決め込んでいるから」 「彼は、東北本線も、憎んでいましたか?」 「東北本線?」 「ええ、そうです」 「そうねえ。東京へ出る列車だとか、飛行機がなければ、故郷を捨てる人間なんか出なかったろうにって、いったことがあったわ」  と、恵子はいい、ハンドバッグを引き寄せると、 「もう店に出る時間なの。ごめんなさい」  と、十津川に、いった。  夜に入って、青森から亀井が緊張した顔で、帰って来た。  その亀井に、十津川は、テープを聞かせて、 「やはり、黒井邦夫だったよ。別れた奥さんが、証言してくれた」 「しかし、今、何処にいるか、わからないんでしょう?」 「この電話をかけて来たのは、上野駅近くの公衆電話からだとわかったよ」 「やはり、上野ですか」 「東北の玄関だ」 「まだ、東京にいるんでしょうか? それとも、爆破を実行するために、東北へ向ったでしょうか?」  と、亀井が、きいた。 「今は、まだ、二十日じゃない」 「ええ。しかし、Kはすぐにでも、爆破すると宣言しているんでしょう?」 「そうだ。だが、二十日にやるつもりだったとすると、その前から、ずっと、爆発物を持って歩いているものだろうか?」 「そうですね。普段は何処かに、隠していると思います。いざ爆破という時になって、時限装置を組み立てるようになるのが、普通でしょうね」 「とすれば、今頃、マンションか、ホテルに籠《こも》って爆弾を組み立てていると、思うんだがね」  と、十津川は、いった。 「マンションではないと、思います」  と、亀井が、いった。 「なぜだね?」 「黒井邦夫は、東京を嫌っていたと思うからです。故郷青森の若い女たちが、故郷を捨てて、東京に来てしまうことを憎んでいましたから。その東京で、マンションを買ったり、借りたりはしないと思うのです」 「すると、ホテルか」 「それも、多分、安いビジネスホテルだと思いますね。それほど、金を持っていたとは思えませんから」  と、亀井は、いう。 「都内、特に、上野周辺のビジネスホテルを、徹底的に調べてみよう。黒井邦夫の写真はないが、別れた奥さんに聞いて似顔絵を作ればいい」  と、十津川は、いった。  絵の上手い刑事を、渋谷のバーにいる小田恵子のところへ走らせ、黒井の似顔絵を作ると、それをコピーして、刑事たちに持たせた。  上野周辺のビジネスホテルを、しらみ潰《つぶ》しに、当らせたが、なかなか、結果は出なかった。  夜を徹しての聞き込みだったが、収穫のないまま、朝を迎えた。  午前八時過ぎになって、やっと、池袋近くのビジネスホテルで、反応があった。  十津川と亀井は、駅から歩いて十五、六分のビジネスホテルに、急行した。「午後九時から、二割引き」と書かれた看板を見ながら、十津川と亀井は、中に入り、マネージャーに会った。 「似顔絵の男の人は、うちに、一週間ばかり、泊っていらっしゃいましたよ」  と、マネージャーはいい、六階の部屋に案内した。 「もう、出て行ったんですか?」  と、十津川は、きいた。 「昨日の午後十時過ぎに、急に、チェック・アウトされたんです」  と、マネージャーは、いう。六畳ほどの部屋には、ベッド、テレビ、冷蔵庫などが、並んでいる。そのテレビで、波多乃かおりの身元がわかったというニュースを、見たのだろうか? 「毎日、どこかへ出かけていましたね。何でも、人を探しているんだといってましたが」  と、マネージャーは、いった。 「彼は、ワープロを持っていましたか?」 「それは知りませんが、一度、ワープロを貸してくれるところはないかときかれたことがありましたね」 「あるんですか?」 「この先に、大きな文具店がありましてね。そこで、ワープロや、コピー機、それに、ファクシミリなんかも、貸してくれるんです」 「ちょっと、きいて来ます」  と、いって、亀井が、飛び出して行った。  十津川は、部屋の隅に置かれた屑箱をのぞいてみた。黒井が出て行ってから、まだ、掃除はしてないという。中から、コードの切れ端が、何本も出てきた。それに、ガムテープと、こわれたスイッチ。多分、黒井は、この部屋で、時限爆弾みたいなものを作ったのではないのか。  亀井が、戻って来たところで、十津川は、一緒に、ビジネスホテルを出た。 「黒井は、ワープロを借りて、使っています。機械の型式を調べて来ました」  と、歩きながら、亀井が、いう。 「黒井は、あのホテルで、多分、爆弾を作っているよ。それを持って、昨夜の十時過ぎに、チェック・アウトした」 「今、何処にいるんでしょうか?」 「とにかく、上野駅へ行ってみよう」  と、十津川は、いった。  上野駅は、いつものように、東北・上信越方面へ行く人々で、賑《にぎ》わっていた。また、列車が着くと、懐かしい訛《なま》りを持つ人たちが、降りて来る。  問題は、黒井が、何処へ行ったかだった。  十津川は、駅の公衆電話で、青森に残っている北条早苗を呼び出した。 「波多乃かおりが、初めて青森を出て東京に行った時、どの列車に乗ったか、調べてくれ」  と、十津川は、いった。  一時間後に、もう一度電話すると、早苗は、 「母親にきいたところ、今から十年前、夜行列車に乗って、かおりは東京へ行ったといっています。十七歳の時だそうです」 「その列車の名前は、わからないのかね?」 「覚えていないといっています。覚えているのは、夜行列車に乗って東京へ行ってしまったということだけだそうです」 「君は、黒井邦夫の顔は知っているかな?」 「そちらからホテルに彼の似顔絵を送って来ましたから、わかりますわ」 「よし。君は青森駅へ行って、黒井邦夫が現われないかどうか、見張ってくれ」 「現われますか?」 「彼は、波多乃かおりが上京する時に利用した列車を、憎んでいる筈だ。その列車さえなければ、彼女は、青森を捨てて、上京しなかったのだと思い込んでいる」 「八つ当りもいいところですわ」 「黒井は、そうは思っていないんだよ」  と、十津川は、いった。 「でも、東京へ行く夜行列車は、何本もありますわ。青森発ではなく、札幌発の北斗星もありますし──」 「北斗星は、無視していい。青森発東京行の夜行列車だ」 「ゆうづると、はくつるがあります」 「青森駅で、その列車に乗ろうとする乗客の中に、黒井がいないかどうか見張って欲しい。私と、カメさんは、上野駅から出る夜行列車を見張る」  と、十津川はいった。  そのあと、十津川は、腕時計に眼をやった。午前十時五十分である。  この時間、東北本線を夜行列車(寝台特急《ブルートレイン》)は、一列車しか走っていない。  札幌発の北斗星6号が、大宮と上野の間を、走っているだけだ。  となると、今の時間、マークすべき列車はないことになる。  十津川は、上野─青森間を走る夜行列車(寝台特急)を、列挙してみた。数は少ない。  上り、下りとも、三本である。 [#8字下げ]上野  青森  ゆうづる1号 21:33 → 6:20  はくつる   22:17 → 7:15  ゆうづる3号 23:00 → 8:21  ゆうづる2号 6:36 ← 20:57  ゆうづる4号 6:40 ← 21:24  はくつる   6:37 ← 21:57 「黒井が、これから、列車の爆破を狙っているとすれば、まだ、時間的な余裕がありますが」  亀井が、ほっとした顔で、いった。 「まず、駅長に、今日、この上下六本の列車で、爆発事故がなかったかどうか、聞いてみよう」  と、十津川はいった。すでに起きてしまっていれば、警戒態勢を取ることは、意味がない。  駅長室に行き、調べて貰うと、まだそんな事故はなく、列車は平常どおりに動いているということだった。  十津川は、駅長室から、三上本部長に連絡を取った。 「今夜、この六本の列車に刑事を乗せたいと思います。東京発の方は、われわれがやるとして、問題は青森発の方ですが」 「それは、青森県警に私が、頼むよ」 「お願いします」 「一列車二人でいいかな?」 「相手も、一人で行動すると思いますから、二人で、十分だと思います。それから、はくつるとゆうづるには、電話がついていませんから、連絡用に、携帯電話を持たせて下さい。電話番号も知っておきたいですね」 「青森にいる北条君も、上りの列車に乗せるかね?」 「いえ。彼女は青森駅に残しておきたいと思います。何かの時、連絡したいですから」  と、十津川は、いった。  部下の刑事四人が、上野駅に集った。  十津川は、西本と日下の二人をゆうづる3号、清水と田中をはくつる、そして十津川自身は亀井と、最初に出るゆうづる1号に乗ることに決めた。  もし、今日出発の列車で、爆発事故が起きなければ、十津川たちは今度は上りの列車に乗り、青森県警の刑事たちは下りに乗って、青森に戻る。これを繰り返すより仕方がない。  列車の乗務員にも、もちろん、事情を話して、協力して貰うことにした。  二〇時五七分、青森県警の二人の刑事の乗ったゆうづる2号が、青森駅を発車したという知らせが入った。  二一時三三分、十津川と亀井が乗ったゆうづる1号が、上野駅を出発した。  まだ、上野駅でも、青森駅でも、黒井邦夫の姿は見かけていないが、途中駅から乗ってくることも十分に考えられるから、油断はできなかった。  その発車間際に、黒井がボストンバッグを持って、列車に飛び込んできた。  ゆうづる1号が、ホームを離れる。  十津川と亀井は、通路を走り、最後尾の1号車に乗った黒井邦夫を押さえに行った。  黒井は、1号車がレディースカーなので、2号車へ歩いて来るところだった。  2号車の通路で、十津川は黒井を捕えた。 「黒井邦夫さんですね?」  と、息を弾ませて、十津川がきくと、相手はあっさりと、 「そうです」 「そのボストンバッグを、開けて見せて下さい」 「なぜですか?」 「あなたは、東北本線を爆破すると宣言した。だからです」  亀井が相手を睨んでいうと、黒井は急に笑い出して、 「あれは申しわけありませんでした。好きな女性が殺されてしまったので、ついかっとしたんですよ。まさか警察が、あんな話を真に受けるとは、思いませんでしたねえ」 「とにかく、ボストンバッグを開いて下さい」 「いいですよ」  と、黒井は、馬鹿にしたような笑いを浮かべ、ボストンバッグを開けた。  亀井が中身を調べた。東京土産の人形焼、着がえのセーターや下着などで、爆発物は見つからなかった。 「ご納得頂けましたか?」  と、黒井は、笑いながらきく。 「今日は、何の用で、青森へ行かれるんですか?」  十津川が、きくと、黒井は、 「行くんじゃなくて、青森へ帰るんですよ。東京は嫌いですからね。もう二度と東京に行くことはないと思いますよ」  と、笑いを消した顔で、いった。  十津川は亀井を促して、3号車に移った。 「黒井を逮捕できませんか?」  と、亀井が、いう。 「何の容疑で? 警察に文句をいってくる人間は、いくらでもいる。それをいちいち逮捕できるかね?」 「しかし、奴がただ青森へ帰るために、この列車に乗ったとは思えませんが」 「わかってる。だが、彼は爆発物を持ってないんだ」  と、十津川は、いった。  十津川は、通路に立ち、じっと窓の外に流れる夜景を見つめた。 (奴は何か企《たくら》んでいる。いや、東北本線を爆破してやると宣言したことを、実行する気だ)  その確信は、変らない。  だが、どうやるつもりなのだろうか? (このゆうづる1号を、爆破する気なのか? しかし、そうすれば、自分が疑われることは、知っているだろう)  と、すると、他の寝台特急《ブルートレイン》を爆破し、自分はこの列車をアリバイに使う気なのではないのか?  十津川は3号車のデッキに行き、携帯電話で、青森の駅舎にいる北条刑事を呼び出した。 「黒井は、青森でコンサルタントをやっていたんだったね?」 「そうです。市内に小さい事務所を持っています」 「そこで一緒に働いている人間は?」 「高校を出たばかりの十九歳の女の子が、受付をやっています」 「その娘に会って来てくれないか。会って、黒井が今夜のゆうづる1号で帰ることを知っているかどうか、きくんだ」 「わかりました」  と、早苗は、いった。  一時間少したって、十津川の持つ携帯電話に、早苗から連絡が入った。 「彼女、いません」 「いないって、どういうことだ?」 「彼女は両親と一緒に住んでいるんですが、母親の話では、東京に行ったというんです」 「東京に? それは、いつなんだ?」 「今日です」 「何のために、東京へ行ったんだ?」 「なんでも、東京に行っている所長の黒井から電話があって、急に必要な物ができたから持って来てくれと、いわれたんだそうです。それを届けに、今日、東京に行ったといっています」 「届け物?」 「はい」 「どんな物なんだ?」 「わかりません。彼女は事務所に寄って、そのまま青森駅へ行き、列車に乗ったそうですから」 「どの列車に乗ったか、わからないのか?」 「わかりませんが、明日の朝、東京で所長に渡すといっていたそうです」 「それなら、夜行列車じゃないか」  思わず、十津川の声が、大きくなった。 「そうかも知れませんが、どの夜行列車に乗ったのか、わかりません」 「彼女の名前は?」 「平野あかねです」 「今、君は何処にいるんだ?」 「青森駅に戻っています」 「よし。駅長に話して、上野に向っている三本の夜行列車に連絡して貰うんだ。車掌に、車内放送して、平野あかねを呼び出して貰う。彼女が現われたら、持物を調べるんだ。それが、時限爆弾の可能性がある」 「わかりました。すぐ、駅長に話します」  と、早苗が、声をふるわせていった。      8  黒井邦夫は昨日の夜、池袋のビジネスホテルを出ている。恐らく組み立てた時限装置つきの爆発物を持ってである。  その足で上野に行き、青森行のブルートレインに乗ったのではないか。  最終のゆうづる3号に乗っても、今朝の午前八時二一分に、青森に着けた筈である。  市内にある自分のコンサルタント事務所に行き、そこで爆発する時刻にセットし、ケースに入れておく。  そのあと黒井は、飛行機で東京に戻る。一三時二五分青森発のJASに乗っても、一四時四〇分には東京に戻れるのだ。  東京に戻ると、何くわぬ顔で、事務所の受付をやっている平野あかねに電話をかけ、急に入用になったから、事務所にあるケースを東京に持って来てくれと、頼む。朝早く必要だから、今日の夜行列車に乗ってくれという。何も知らない平野あかねは、時限爆弾を持って、上野行の夜行列車に乗り込む。 「それなら、黒井自身は何のために青森行のこの列車に乗ったんでしょうか?」  と、亀井が、きいた。 「アリバイ作りもあるだろうがね。東北本線が爆発で痛めつけられるのを、自分の眼で確認する気なんだろう」 「どうやってですか?」 「上りの列車が爆破されれば、下りのこの列車だって、一時、停車させられる。それで、確認できる」  と、十津川は、いった。 「しかし、いつ爆発するようになっているんですか?」 「午前二時過ぎじゃないかね」  と、十津川がいうと、亀井はびっくりして、 「なぜ、わかるんですか?」 「このゆうづる1号は、常磐線廻りだ。二三時五八分に平《たいら》に着いて、それから約二時間で東北本線に入るんだ。偏執狂的な黒井だから、東北本線に入るまで、待つだろう。それに、上りの列車が爆破された時、自分も近い位置にいたい筈だよ」  と、十津川は、いった。  水戸を通過したあたりで、北条刑事から電話が入った。 「困ったことになりました。三本の列車とも反応がないと、いって来ました。車掌が何回も呼びかけたのに、平野あかねは現われないというんです」  早苗は、甲高い声でいう。 「平野あかねという名前に、間違いないんだろうね?」 「間違いありません。ヒラノアカネです」 「まさか、寝込んでしまってるんじゃないだろうね?」 「まだ十二時前ですから」 「そうだな。参ったな」  十津川は、当惑した。平野あかねは、乗らなかったのだろうか?  十津川は電話を切ると、また考え込んでしまった。時間は情け容赦なくたっていき、ゆうづる1号が平に着いた。  一分停車で、発車する。このあとしばらくすると、東北本線である。危険地帯というより、危険な時間に入ったのだ。 (何とかしなければ──)  と、思う。焦った。  列車内で爆発が起きれば、何人もの乗客が死ぬだろう。そうなったら、たとえ黒井邦夫を逮捕できても、警察にとっては敗北だった。  二三時五九分に平を出ると、あとは午前五時一二分に八戸に着くまで、列車は止まらないことになっている。  十津川は、もう一度、青森の北条刑事を呼び出した。 「平野あかねだがね。十九歳といっていたね?」 「そうです」 「遊びたい盛りだな」 「はい」 「それなら、今夜、恋人とデイトの約束をしていたかも知れない。所長にいわれて夜行列車に乗ることになったのなら、恋人と夜を過ごすチャンスと思ったのかも知れない」 「はい」 「友だちに金をあげて東京へ行く仕事を頼み、自分は恋人とホテルへでも行ってる可能性がある」 「でも、頼んだ友だちを探すのが大変です」 「探している時間はないよ」  と、十津川は、いってから、 「もう一度、三つの列車で車内放送をして貰うんだ。平野あかねに頼まれて東京に荷物を持って行く人、彼女から大事な連絡が来ているので、すぐ車掌室へ来てくれとだ。もっと、脅す文句を使ってもいい。早くやってくれ。危険な時間帯に入ってるんだ!」  と、最後は、怒鳴るように、いっていた。  電話を切ると、あとは、結果を待つより仕方がなかった。  三十分、一時間とたったが、北条早苗からの連絡はない。十津川は、嫌でも、炎に包まれる列車に血まみれで倒れる乗客の姿を、想像した。  やっと、十津川の持っている携帯電話が鳴った。 「もしもし」  と、十津川が、噛《か》みつくような声を出した。 「青森県警の武田刑事です」  と、男の声が、いった。 「それで?」 「上りのはくつるに乗っていますが、今、爆弾を見つけました」 「それで、どう処理したんですか?」 「われわれでは、処理できないので、列車を止め、線路から百メートル離れた河原に、置きました。周囲に人家もないので、爆発しても、安全です」  と、いわれて、十津川はほっとした。 「やはり、平野あかねの友だちが、乗っていたんですね?」 「そうです。鈴木広子という二十一歳の女性で、前に黒井の事務所で働いていたことがあるので、頼んだんだと思いますね。広子の方は、金を貰って、東京に遊びに行けるので、喜んで引き受けたと、いっています。最初に車内放送で、平野あかねの名前を呼ばれた時は、彼女が他人に仕事を頼んだことがわかると、まずいんじゃないかと思って、黙っていたんだそうです」 「今、列車はどうなっているんですか?」 「発車しました。私が、河原に残っています。宮城県警に電話したので、間もなく、爆発物処理班が来てくれると、思っているんですが──」  と、武田がいった時、突然、鈍い爆発音が聞こえた。 「どうしたんですか?」  と、十津川が、きいた。 「爆発しました。思ったより、大きな爆発でした。驚きました」  と、武田が、声をふるわせた。 「大丈夫ですか?」 「小石が、身体に当りましたよ。命に別条はありませんから、安心して下さい」  と、武田が、いった。      9  午前二時である。  午前二時に爆発するように、セットしてあったのだ。 「少し、奴を脅してやろうじゃないか」  と十津川は亀井にいい、2号車へ足を運んだ。  黒井邦夫は、寝台に腰を下ろして、缶ビールを飲んでいた。 「やはり、眠れませんか?」  と、十津川は、声をかけた。  黒井は、眼をあげて、 「何のことですか?」  と、いった。が、ちらりと自分の腕時計に眼をやっている。午前二時という爆発時刻が、気になるのだろう。 「今、この電話で問い合せています。上りのはくつるで、爆発があったそうですよ。死人も出ているらしい。思い当ることがあるんじゃありませんか?」  と、十津川が、きいた。 「いや、とんでもない」 「一車両の全員が死亡したといっていましたね。時限爆弾の爆発らしいですが、それを持っていた人間も、死亡していますね」 「───」 「私はね、あなたがやらせたんだと思うが、そうなると、証拠はないし、あなたには私たちと一緒にいたという強固なアリバイがある。逮捕は不可能だ」 「私は、やっていませんよ」  といいながらも、黒井はニヤッと笑った。 「私は、あなたがやったと思っているが、証拠がない。私たち警察の負けだ」 「別に、勝ち負けということはないと、思いますがねえ」 「いや、完全な私たちの負けですよ。しかし、なぜ、波多乃かおりを追っかけ廻したんですか?」  と、十津川は、きいた。 「そりゃあ、好きだったからですよ。彼女は、私と一緒になって、故郷の青森に帰れば、幸福になれたんだ」 「何処で知り合ったんですか?」 「彼女がたまたま、ひそかに青森に帰っていた時ですよ。もう東京に戻るなと、私はいった。不幸になるのが見え見えだったからですよ。そして、私が予想したとおり、東京で殺されてしまった」 「犯行声明は、あなたが書いたんでしょう? わかっているんですよ」 「ああ、私です。新聞にのれば、彼女が怖がって、青森に帰ってくれるのではないかと思ったんです。彼女のためにやったことだから、今でも悪いことをしたとは、思っていませんよ」  と、黒井は、胸を張った。 「波多乃かおりが、私立探偵に頼んで、あなたのことを調べようとしていたのは知っていますか?」 「私を? なぜ、そんなことを」 「あなたが、気味悪かったんでしょうね。黒井としか名乗らず、故郷を捨てるのは罪だみたいに脅したからじゃないんですか?」 「馬鹿な! 私は、彼女を助けたかっただけだ。それが、悪いことかね?」  黒井は、腹立たしげに、いった。 「あなた流のやり方でね。それが相手には迷惑だし、怖かったんじゃありませんか」  と、十津川は、いった。 「そんなことはない!」 「別れた奥さんは、そういっていましたよ」 「あいつは、罰当りだ。きっと、不幸になる」 「先日、会いましたが、結構幸福そうでしたがねえ」  と、十津川はいってから、急に眼をあげて、 「今、すれ違って行ったのは、上りのブルートレインはくつるじゃなかったかな」 「はくつる?」  黒井の顔色が変った。 「どうしたんですか?」  十津川が、意地悪く、きいた。 「はくつるは、確か、爆破されて、死者が出たと──」 「そんなことをいいましたか?」 「欺したのか?」 「爆発はしましたよ。ただ、列車の外でね」  と、十津川は、いった。 「あんたを、逮捕する」  亀井が、厳しい声で、いった。 「逮捕? なぜ?」 「列車を爆破しようとした容疑ですよ。あなたに欺された平野あかねが、証言してくれるでしょうからね。彼女も当然死んで、死人に口無しと、考えていたんでしょうがね」  と、十津川は、いった。      10  黒井邦夫が逮捕され、残るのは、連続殺人の方だった。  十津川は、直ちに東京へ引き返すと、亀井たちと、こちらの犯人逮捕に全力をあげることにした。  風俗営業の若い女が、続けて三人も殺されたということで、マスコミは大さわぎだが、十津川は、事件としては難しくはないと思っていた。  犯人は、ソープの女二人を殺し、ファッション・サロンのホステス一人を殺し、いずれも金を奪《と》っている。しかも、それぞれの店の近くでである。その上、被害者が、さほど抵抗した形跡もない。  これらのことから考えられるのは、犯人がこの三つの店に、客として行ったことがあるに違いないということである。  浅草の吉原、池袋、そして新宿のソープやファッション・サロンに、行った男である。  十津川は、この三つの店で、徹底的に聞き込みをやらせた。  その結果、一人の男が、浮かび上ってきた。  立花と、名乗っている男だった。年齢は三十五、六歳で、笑い方に特徴があるので、三つの店の人間が覚えていたのである。ニコニコしているのだが、薄気味が悪かったという。  池袋のソープでは、この男が、殺された井上弓子の客になってすぐ、事件が起きた。あとの二件も、同じだった。  十津川は、この男の似顔絵を、作った。  この男は、遊び好きなのだと、十津川は思っていた。  池袋と、浅草という離れたソープに行き、新宿では、ファッション・サロンへ行っている。獲物を探したということもあるだろうが、生れつき、遊ぶのが好きなのだと思ったのだ。  とすれば、奪った金で、また遊びに行くに違いない。  しかも、この男は、池袋、浅草、新宿と場所を変えている。次に現われるとすれば別の盛り場だろう。  十津川は、ひき続き、渋谷、六本木、上野、錦糸町といった場所に、刑事を張り込ませた。  十津川の推理が適中して、二日目に、渋谷の「道玄坂クラブ」というヘルスに現われた似顔絵の男を逮捕した。  持っていた運転免許証から、本名が近藤信一郎とわかったが、驚いたことに、大企業の係長で、妻子もいるエリート社員だった。  家庭では、優しい夫であり、父だったし、職場では口数の少ない優秀な社員だった。 「僕の場合は、病気なんです」  と、近藤は、訊問《じんもん》する十津川と亀井に向っていった。  亀井は、腹を立て、 「甘ったれるんじゃない。女遊びが好きで、その金が要るんで、殺人《ころし》をやっただけじゃないか」  と、怒鳴った。  東北に絡んだ事件の直後だけに、同じ東北に生れ育った亀井は、機嫌が悪かった。 「まさか、あんたは、青森の生れじゃないだろうな?」  と、亀井はきき、近藤が、 「東京の世田谷の生れです」  というと、やっと、ほっとした顔になった。  単行本 平成四年六月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成六年六月十日刊