[#表紙(表紙.jpg)] 特急「白山」六時間〇二分 西村京太郎 目 次  第一章  上野駅  第二章  死 体  第三章  尾 行  第四章  目撃者  第五章  電 話  第六章  ホテル  第七章  加 担  第八章  当 惑  第九章  札 幌  第十章  ゲーム開始  第十一章 逆 転 [#改ページ]  第一章 上野駅      1  中央商事の長田《おさだ》は、突然、金沢支店への転勤を命ぜられた。  長田は、三十五歳で、東京本社の営業第一課長である。いや、あったというのが正確だろう。  まあ、中央商事では、エリートコースを歩いているといってよかった。  中央商事では、このあと、海外支店へ行き、二、三年働いて、本社へ戻ってくるのが、出世コースといわれていた。  それが、突然の金沢支店への転勤命令だった。  向うでは、営業部長の椅子《いす》を用意してあるというが、誰《だれ》が見ても、左遷である。金沢支店は、小さい規模だし、支店長以外は、現地採用ということになっていたからである。  長田は、仕事の上で、ミスをした記憶はない。  妻子がいるが、妻は、系列会社中央化学の重役の娘である。少しばかりわがままだが、これは、仕方がないだろう。  思い当るのは、たった一つだった。 (あの女だ)  と、思った。  かおりだ。いや、本名は、木元加代子《きもとかよこ》。年齢は、二十五歳だといっているが、恐らく、三十歳近いだろう。  最初の出会いは、営業部長の伊東《いとう》に、彼女の働いている銀座のクラブに連れていかれたときだった。一年ほど前である。 「うちの会社で、一番憎まれている男だよ。何しろ、将来の社長候補だからね」  伊東が、そんな紹介の仕方をして、加代子と、会った。 (美人だな)  と、いうのが、長田の第一印象だった。  前の年のミス・東京だということだったが、本当かどうかはわからない。スタイルもよく、会話にも才気が感じられて、楽しかった。  長田も、いい女だと思い、何とかしたいと思ったが、それ以上に、加代子の方が、積極的だった。  伊東部長のいった「将来の社長候補」という言葉が、きいたのかも知れない。  店で会った翌日には、会社へ、彼女から電話があった。  男と女の関係になるのも早かった。悪い気はしなかった。恵まれた職場と、家庭を持ち、その上、銀座の美人を、恋人に持っているというのは、いわば男の理想のように、思えたからである。  加代子は、何も望まなかった。むしろ、長田には、金を使わせないようにし、彼の誕生日には、高価な腕時計を、プレゼントしてくれた。もちろん、家には、はめて帰れないので、会社の机の引出しに、しまっておいた。  そんな加代子が、突然、結婚を迫るようになったのは、今年に入ってからだった。  長田は、その豹変《ひようへん》ぶりに、狼狽《ろうばい》した。あわてて、金で解決しようとしたのが、かえって、彼女を、怒らせ、態度を、硬化させてしまったのかも知れない。 「結婚してくれないのなら、覚悟があるわ」  と、加代子はいった。  美人だけに、眼を吊《つ》りあげた時の顔は、怖かった。  次の日から、無言の電話が、かかるようになった。  連日である。妻のゆみは、長田の女性関係を、疑い始めた。  その中《うち》に、女の声で、ゆみに向って、 「ご主人に、女がいますよ。その女に、ご主人は、こういったそうですわ。不細工な家内には、もう、あきあきしたって。ひどいご主人ですわねえ」  と、いったという。 (加代子だ)  と、思った。  そして、今度の左遷である。  中央商事は、社員の私生活にうるさい会社だった。まずいことに、長田は、加代子に夢中のとき、二通だけだが、ラブレターを出していた。加代子が、それを証拠に、会社の幹部に、長田のことを、話したに、違いなかった。      2  前例があった。  三年前、管理部長が、女のことで、問題を起こし、処理を誤ったために、週刊誌に、のってしまった。即座に、馘《くび》である。  恐らく、会社としては、そうならない前に、長田を、地方へ飛ばしてしまおうと、考えたのだろう。  それだけなら、長田は、かっとしても、殺意にまでは、発展しなかったかも知れない。  金沢行が、決ってから、会社に、加代子が、電話をかけてきたのだ。 「栄転おめでとう」  と、平気な声で、いう。 「金沢は嫌いだが、君と別れられるのだけが嬉《うれ》しいよ」  と、長田が、皮肉を籠《こ》めていうと、加代子は、電話の向うでクスクス笑った。 「私は、北陸が好きだから、その中に、引っ越すことにするわ。長田さんがいれば、寂しくないしね」 「バカな——」  と、いったが、長田は、彼女が、金沢に、押しかけて来るに違いないと、感じた。 (あの女は、おれを、どこまでも、追いつめて、破滅させるつもりなのだ)  と、思ったとき、殺意が生れた。  だが、殺せば、深い関係のあった自分が、真っ先に、疑われるに、決っていた。二通のラブレターは、その証拠になってしまうだろう。  どうしたらうまく、殺せるだろうか?  考えた末に、長田が立てた計画は、今度の金沢行を、利用してのアリバイ作りだった。  長田が、金沢へ赴任するのは、三月三十一日、ウィークデイである。  飛行機で行くかといわれたが、高所恐怖症なので、列車で行きたいと、長田は、いった。  それに、乗りかえるのも面倒なので、上野から、金沢まで直通の「白山《はくさん》1号」にしたいと、主張した。  まず、長田が、一人で行き、一週間後に、家族が来るということになった。  特急「白山1号」は、上野を午前九時三〇分に出発し、終着の金沢には、一五時三二分に着く。  上野駅には、営業部長と、もう一人、営業の人間が送りに来ることになっていた。  金沢には、列車が着く時間に、支店の人間が、迎えに来ている筈《はず》だった。  列車は、上野から金沢まで、六時間〇二分で走る。その間に、加代子を殺すことにしたのである。  長田が立てた計画は、次のようなものだった。 「白山1号」の時刻表。  上野発9:30→大宮発9:52——富山発14:48→金沢着15:32  もちろん、この間に、いくつもの駅に停車するが、長田が、利用するのは、この四つの駅の時刻表だけである。  上野駅で、見送りを受けて、列車に、乗り込む。  だが、次の大宮駅で降りてしまうのだ。  加代子のマンションは、浜松町の駅の傍《そば》である。そのことも、この計画を立てた、一つの理由だった。  大宮から、浜松町へ行き、彼女を、殺そうというのである。  大宮から、京浜東北線に乗れば、一時間で着く。  乗りかえなどの時間を入れて、一時間三十分とみる。  従って、十一時二十二分には、浜松町の彼女のマンションに着ける。  愛し合っていたとき、キーを貰《もら》っている。この時間、彼女は眠っているだろうから、キーで開けて、中に入り、有無をいわさず、殺してしまう。  これも、三十分から四十分は見ておこう。とすれば、十二時までにすませることで、いいだろう。  殺したあと、浜松町から、東京モノレールで、羽田空港へ向う。  浜松町——羽田間、十六分で着いてしまう。  羽田から、金沢行の飛行機はないが、うまいことに、富山行の便がある。  一三時〇五分の便に乗る。全日空の885便である。  これに乗ると、富山空港に着くのは、一四時一〇分。  空港から、JR富山駅まで、バスで、二十五分と、時刻表にのっている。タクシーなら、もっと早いだろうが、とにかく、十四時四十分には、着く筈《はず》である。  上野を出た「白山1号」が、富山駅を出るのが、一四時四八分だから、間に合って、乗れるのだ。  そして、何くわぬ顔で、金沢駅に降り、迎えの支店の連中に、あいさつする。  三月二十八日、長田は、会社には「東京の友人に、あいさつをして廻《まわ》りたいので」といって、休暇を取り、妻のゆみにも同じことをいって、朝早く、家を出た。  殺人の予行演習をやろうと、思ったからである。  午前九時十分に、上野駅に着いた。  サングラスをかけ、五番線ホームに、向った。  九両編成の列車は、雪山をデザインしたヘッドマークをつけ、クリーム色の車体に、赤とブルーのラインを入れていた。  長田が乗ることになっているグリーン車は、4号車である。  ウィークデイなので、ガラガラかと思ったが、金沢までの直通ということでか、次々に、乗り込んでくる。  九時三〇分の発車時には、八割ほど、席が、埋った。これなら、一人ぐらい、途中で消えても、怪しまれないだろう。  長田は、「白山1号」の金沢までのグリーン券も買ったが、同時に、大宮までの切符も買っていた。そうしないと、金沢までの切符は途中下車の印がついてしまうからである。  上野を出るとすぐ、車内検札があった。  長田は、そのあとで、車内を見て歩いた。どんな列車か、知っておく必要があると、思ったからである。  九両の中、グリーンが一両、指定が六両、残る二両が、自由席だった。  この指定席の中、6号車は、半分が、ラウンジ&コンビニエンスカーになっているのが、わかった。  窓に向ってパイプを使った回転|椅子《いす》が並び、反対側には、ソファが置かれている。コンビニエンスというのは、端の方で、コーヒーなどが、売られているからだろうが、乗客に、あまり知られていないのか、長田が、のぞいたときは、がらんとしていた。  九時五一分に、大宮に着いた。一分停車である。  長田は、いったん、改札口を出て、浜松町までの切符を買い、京浜東北線に、乗った。予行演習なのに、長田は緊張していた。妙なもので、いつもは、何気なく乗っているのに、意識すると、周囲の乗客が、全員、自分を見ているような気がしてくるのである。  京浜東北線の中では、車内検札は無かった。だから、別に、いったん大宮駅でおりて、切符を買わなくてもいいと、わかった。  上野から、浜松町までの切符を持っていればいいのである。  それも、一つ、勉強になった。  浜松町には、予定より十八分も、早く着いた。そのことが、長田を安心させた。ぎりぎりでは、失敗する確率が、高くなるからである。  浜松町駅前の喫茶店に入り、そこから、彼女のマンションを見た。  わくわくしながら、そのマンションのエレベーターに、乗ったこともある。それが、三月三十一日には、殺すために、乗るのである。  コーヒーを飲みながら、長田は、腕時計で四十分たつのを待ち、表に出た。  まだ、十二時八分だった。  東京モノレールのホームに、あがって行く。二、三分待って、羽田空港へ行くモノレールは発車した。  一瞬、長田は、不安に襲われた。もし、三月三十一日、加代子を殺したあと、このモノレールが、途中で故障して、長時間、空中で、とまってしまったら、どうなるのだろうかと、考えたからだった。  そうなれば、富山で、「白山1号」には、追いつけない。アリバイは消え、たちまち、警察に、逮捕されてしまうだろう。 (大丈夫だ)  と、いい聞かせ、マイナスの方向には考えないように、努めた。  予行演習の今、あれこれ考えていたのでは、とうてい加代子を殺せないと思ったからである。  十二時三十分。羽田空港に着いた。  一三時〇五分発のボーイング767は、定員は、二百人を越している。そのことに、まず、長田は、安心した。これだけ多ければ、顔を覚えられることも、少ないだろうと、思ったからである。  ただ、列車と違って、飛行機は、天候が悪いと、欠航する。加代子を殺して、羽田まで辿《たど》りついても、富山行の飛行機が、飛ばなければ、万事休すである。 (当日は、天候にも、注意しよう)  と、長田は、自分に、いい聞かせた。  彼の乗ったボーイング767は、途中ちょっとゆれただけで、無事、富山空港に着いた。  空港からは、タクシーに乗りかけて、やめ、空港—市内の連絡バスに乗った。その方が、顔を覚えられずに、すむからである。  連絡バスに乗っても、二十五、六分で、JR富山駅に着いた。  ゆっくりと、特急「白山1号」に、間に合った。 (うまくいきそうだ)  と、長田は、思い、自分にも、いい聞かせた。      3  三月三十一日は、朝から、快晴だった。風もほとんどなく、暖かい。  妻のゆみは、子供のことがあるので、送れませんといったが、加代子のことがわかって,夫婦の間は、冷えたものになっていた。  上野駅には、営業部長が、送りに来てくれることになっていたのだが、現われたのは、部長秘書だった。 「部長は、会議があって、いけなくなった、よろしく、いっておいてくれ、ということです」  と、若い秘書は、言葉だけ丁寧に、いった。会議があるのは、前からわかっているのだから、それが、理由とは、思えなかった。  長田が、出世コースを外れたことは、社員みんなが知っている。そんな空気を敏感に受け止めて、部長も、送りに来る気がなくなったのだ。  送りに来たのは、その秘書と、かつての長田の部下二人の三人だけである。部下二人にしても、上司にいわれて、仕方なく、やって来たのは、その表情に、はっきり現われていた。  加代子のことが頭にある長田は、たった三人ということは、気にならなかった。  とにかく、「白山1号」に、自分が乗ったことを、誰かが確認してくれればいいのである。いわば、この三人は、アリバイの証人なのだ。 「どうもありがとう。君たちが金沢に来たときは、歓迎するよ」  と、長田は、精一杯、礼をいい、グリーン車に、乗り込んだ。  午前九時三〇分、定刻に、「白山1号」は、上野を出発した。 (始まったぞ)  と、長田は、自分にいい聞かせた。多分、彼は、青い顔をしていたろう。  グリーン車は、六十パーセントほどの乗車率で、長田の隣りは、空席になっていた。  予行演習の時と同じように、上野を出てすぐ、車内検札があった。  まず、第一関門突破である。とにかく、切符に、印がつき、一応、「白山1号」に乗っていたことは、証明されるのだ。  荷物を、網棚に置いたまま、長田は大宮駅で降りた。  すぐ、京浜東北線で、引き返す。予行演習の時よりも、電車が遅く思えるのは、焦りのためだろうか?  浜松町には、十一時五分に着いた。  ホームに降りて、一瞬、迷い、このまま、何もせずに、引き返そうかと思った。一人の人間を、殺すことなんか、出来るだろうかという怯《おび》えだった。それを、このままでは、全《すべ》てが駄目になってしまうのだと、自分に、いい聞かせた。  改札口を抜け、加代子のマンションに向って歩く。  駅の傍なのに、そこまでが、やたらに、遠かった。  この時間、マンションは、ひっそりと静かである。独身者が大半だからだろう。  管理人に見られないように、エレベーターに、乗り込む。  五階のボタンを押す指先が、かすかにふるえた。 (だらしがないぞ、しっかりしろ!)  と自分を、叱《しか》りつける。もう、引き返せないのだ。  五階で、エレベーターをおりる。廊下は、静かで、人の気配はない。  五〇三号室まで歩き、キーを取り出して、差し込む。が、なかなか、開かない。気がつくと、自分の部屋のキーで、開けようとしていたのだ。  あわてて、キーを取りかえたが、それを、コンクリートの床に落としてしまった。大きな音がした。 (加代子が、起きてしまったのではないか?)  それなら、いっそのこと、その方がいい。と思いながら、やっと、鍵《かぎ》を開けた。  ノブに手をかけようとして、手袋をはめてないことに、気がついた。用意して、持って来たのを、すっかり忘れてしまっているのである。  コートのポケットから、手袋を取り出し、それをはめて、ドアを開けた。  部屋の中は、静かだった。  まだ、眠っているに決っている。あの女は、いつでも、午前中は、眠っていた。  ナイフを取り出して、右手に構えながら、居間を抜け、寝室に入った。  カーテンが閉まっていて、うす暗い。長田は、壁のスイッチを探して押した。  ぱッと、部屋が明るくなる。  長田は、その瞬間、危うく、叫び声をあげそうになった。  ベッドの上で、あの女が、血まみれで、死んでいたからである。      4  何分間か、長田は、呆然《ぼうぜん》として、立ちすくんでいた。  子供の時、父親が死ぬのを見たが、血まみれの死体は、初めてだった。  背中を、ナイフか何かで、刺されたのだろう。 「しっかりするんだ」  と、長田は、声に出して、いった。  ここで、まごまごしていたら、警察に、捕まってしまう。そのことだけは、わかっていた。  長田は、のろのろと、後ずさりして、寝室を出た。 (とにかく、逃げるんだ)  と、からからになった口の中で、呟《つぶや》く。  逃げるんだ。  エレベーターでおり、JRの浜松町駅に向って歩く。途中の溝に、ナイフを投げ捨てた。  青い顔で、歩き方がぎこちなくて、きっと病人に見えたろう。  羽田行のモノレールに乗った。  動き出すと、やっと、長田は、ほっとした。死体のあったマンションから、逃げ出せたと思うからである。  その時になってマンションの鍵をかけて来なかったのを思い出した。が、もう、引き返すことは出来ない。  いや、それどころか、手袋をはめたままなのだ。あわてて、他の乗客に見えないように、手袋を、はずし、コートのポケットに、押し込んだ。  やたらに、のどが渇く。  終点の羽田に降りると、長田は、自動販売機を見つけて、ジュースを買い、のどに流し込んだ。  それで、やっと、少しは、落ち着くことが出来た。  空港のロビーの屑籠《くずかご》に、手袋を捨てた。加代子の部屋のキーも、一緒に捨てようとして、やめた。  一緒に捨てては、あとで、疑われると思ったのだ。  キーを持ったまま、一三時〇五分発の全日空に乗った。  スチュアーデスが、廻《まわ》ってくると、眠ったふりをして、顔を伏せていた。名前も、偽名だからいいが、顔を覚えられては困るのだ。そうしながらも、長田の頭を占領していたのは、 (誰が、加代子を殺《や》ったのだろうか?)  と、いうことだった。  それに、もう一つ、加代子が殺されるとわかっていたら、こんな苦労はしなかったのに、という後悔だった。  やっと、富山空港に着いた。  市内への連絡バスに乗って、JRの富山駅へ急ぐ。  少しずつ、冷静になってきた。 (とにかく、おれは、殺してないんだ)  そのことが、冷静にさせるのかも知れない。が同時に、もし、このアリバイ作りが失敗したら、否応《いやおう》なく、犯人にされてしまうだろうとも、考えた。 (手紙!)  そのことを、やっと、思い出して、長田は、バスの中で、唇をかんだ。  加代子を殺し、自分が彼女に出した二通のラブレターを、探して持ち帰ることにしていたのに、すっかり、動転してしまって、今まで、忘れてしまっていたのだ。  警察は、きっと、あの手紙を見つけるだろう。  そうなったら、第一番に、疑われる。アリバイがなかったら、大変なことになるのだ。  バスの中で、長田は、腋《わき》の下に、冷汗が出てくるのを感じていた。  市内で、バスをおり、富山駅まで歩く。  時間は、ゆっくりと、間に合った。  ホームにも、わざと出ないで、「白山1号」が来るのを待つ。 (あッ、キー)  と、また、思った。彼女のマンションのキーを、まだ捨てずに、持っていたのだ。手袋と一緒に捨ててはまずいと思い、ここまで、持って来てしまったのである。  やたらに、忘れている。これでは、他に、何か、大事なことを忘れてしまっているかも知れないと思いながら、キーをポケットから出し、排水口の中に、捨てた。 「白山1号」が、到着した。  わざと、一番うしろの車両から乗り込み、発車してから、ゆっくりと、グリーン車まで歩いて行った。  長田の隣りの席は、まだ、空いたままだった。彼の荷物も、ちゃんと、網棚に置いてある。少し、ほっとした。  腰を下し、煙草《たばこ》に火をつけた。 (何か、忘れていることはないだろうか?)  と、考えた。  大事なことを忘れていたら、殺人容疑で、逮捕される。それも、自分のせいでない殺人のためにである。 (手袋をしていたから、指紋は、残していない。古い指紋は、いくつもついてるだろうが、それは、なければ、かえっておかしいのだ。その手袋は始末したし、キーも捨てたから——)  と、考えているとき、 「——さん」  と、後から呼ばれた。  すぐには、自分のことと思わず、顔をあげずにいると、今度は、はっきりと、 「長田さん」  と、呼ばれた。  びくっとして、顔を上げた。  濃いサングラスをかけた、若い女が、通路に立って、彼を見ていた。  何と返事をしていいかわからず、黙っていると女は、 「これを、金沢に着くまでに、よく、ごらんになっておいて。あなたの損にならないことですわ」  と、いい、紙袋を渡した。 「え?」  と、長田が、戸惑っている中に、女は、さっさと、隣りの車両の方に、姿を消してしまった。      5  しばらくの間、長田は、自分の手の中の紙袋を、見ていた。  知らない女だったし、何が起きたのかも、よくわからなかったからである。  紙袋をあけてみた。  中に入っていたのは、メモと、小さなディスクタイプのカメラだった。  長田は、メモに、眼をやった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈長田様  このカメラには、上野からここまでの車内風景が、写っています。アリバイの強力な助けになるから、金沢に着いたら、すぐ、現像して、見ておくこと。  ラウンジでは、あなたは、東京の女子大生を一人写したことになっています。その写真も入っているので、忘れないで。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]   このメモは、始末して下さい。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]あなたの味方より〉 (これは、何なのだ?)  長田には、わけがわからない。  今のサングラスの女を追いかけようかどうか迷っている中に、次の駅に着いた。  高岡《たかおか》である。  窓から、ホームに眼をやると、さっきの女がいて、眼が合うと、小さく手をあげて見せた。 「あッ」  と、長田が、いっている間に、列車は、動き出してしまった。  あの女は、いったい何者だったのかと、考えても、長田には答が見つからなかった。  敵か味方かもわからないし、なぜ、カメラとメモを渡したのかもわからない。  だが、迷っている間も、列車は、走り続け、終着の金沢へ近づいている。  あと、三十分足らずで、金沢である。それまでに、態度を決めなければならない。少なくとも、メモとカメラを、捨てるか、持って、列車をおりるかを、決めなければならないのだ。  定刻の一五時三二分に、列車は、金沢駅に着いた。  長田は、戸惑いから立ち直れないまま、カメラと、メモを、コートのポケットに押し込んで、ホームに降りた。  ホームには、支店の課長二人が、小さな花束を持って、迎えに来ていた。  一人が、長田のスーツケースを持ち、もう一人が、 「車を、用意してありますので、取り敢《あ》えず、支店の方へおいで下さい」  と、いった。  二人とも、これから、長田の部下になる営業一課長と二課長である。本社の社員に比べると、やはり、冴《さ》えない感じがした。 (おれも、こんな感じになってしまうのか)  と、思いながら、長田は、案内されるままに、駅を出て、待たせてあった車に乗り込んだ。  二人の課長とも、長田が、左遷ということを知っているから、少しでも、彼の気持をなぐさめようとするかのように、片方が、案内役を買って出て、 「向うに見えるのが、スカイホテルです。この先が、香林坊《こうりんぼう》といって、金沢で一番|賑《にぎ》やかなところです」  と、説明してくれる。  夏は、観光客がよく来るという武家屋敷にも、わざわざ寄ってくれたが、長田は、ほとんど、頭に入らなかった。  中央商事の金沢支店は、兼六園《けんろくえん》の近くで、小さな三階建のビルだった。 (おれが、これから何年間か過ごす場所か)  と、長田は、改めて、左遷されたという実感を持った。  いつ、ここから、東京本社に戻れるのだろうか? 「支店長室に、ご案内します」  と、一課長がいい、長田を、三階に、連れて行った。もちろん、エレベーターなどなく、狭い、うす暗い階段を、あがっていくのである。  浅井《あさい》という支店長は、五十七歳で、間もなく、定年である。  意地の悪そうな眼で、じろりと、長田を見て、 「本社のエリートさんには、つまらないところかも知れないが、意外に競争の激しい地区でね。がんばってくれないと困るよ」  と、いった。 「努力します」  と、神妙に答えたものの、長田は、こんな上司の下で働くのかと、うそ寒い気がした。  すでに、午後四時を過ぎていた。  いったん、田中《たなか》という営業第一課長が、長田を、会社の用意したマンションに、案内してくれた。  支店から、歩いて、十二、三分の場所だった。  中古の2LDKのマンションである。  布団などは、先に、送ってあった。 「午後六時から、香林坊の花邨《はなむら》で、歓迎会をやりますので、三十分後に車で、お迎えに来ます」  と、いって、田中は、帰って行った。  長田は、一人になると、コートを脱ぎ、ポケットに入っていたメモと、カメラを、取り出した。  メモの言葉を、そのまま、信じていいかどうかわからない。  カメラに何が写っているか、想像もつかないからだった。「白山1号」の車内風景というが、本当かどうか、わからない。  だが、見たかった。  近くに、カメラ店があったのを思い出し、長田は、カメラから、フィルムを抜き出すと、それを持って、マンションを出た。  カメラ店では、出来るだけ早く、現像し、引き伸してくれと、頼んだ。  マンションに戻ってすぐ、迎えの車が来て、長田は、豆腐懐石の店、花邨へ、案内された。  豆腐|蒲焼《かばやき》、豆腐の刺身、豆腐を肉で包んだ豚《トン》カツなどは、長田には珍しかったし、美味《うま》かったが、これが、本社なら、ホステスを何人も呼んで、賑やかにやるだろうにと思うと、自然に、気が滅入《めい》った。  だから、長田は、すすめられるままに、杯をうけ、したたかに、酔っ払った。 [#改ページ]  第二章 死 体      1  翌四月一日の午後三時少し過ぎに、警視庁捜査一課の十津川《とつがわ》は、殺人事件の知らせで、部下の刑事たちと、現場である浜松町のマンションに、急行した。  JR浜松町駅の近くの高級マンションで、銀座方面のクラブで働くホステスが、多く住んでいるといわれていた。  その五〇三号室である。  被害者は、部屋の主の木元加代子。二十八歳だった。  寝室のベッドの上で、ネグリジェ姿で、背中を刺されて、殺されていた。  血は、もう、乾いている。 「多分、ナイフで、刺したんだな。二十四時間以上、過ぎているよ」  と、検死官の藤沼《ふじぬま》が、十津川に、いった。 「すると、殺されたのは、昨日ですか?」 「昨日の午前十時から、十二時|頃《ごろ》までの間だと思うね」 「クラブのホステスなら、まだ、眠っている時間だな」  と、十津川は、呟《つぶや》いた。  死体の発見者は、木元加代子が働く銀座のクラブ「砂時計《すなどけい》」のマネージャーだった。  彼は、十津川の質問に、答える。 「昨日、彼女、店を休みましてね。ママが、心配して、明日寄ってみてくれといわれたんですよ」 「それで、寄ってみたら、死んでいたというわけですね?」 「そうです。ドアが開いていたんで、おかしいと思って、のぞいてみたんです」  寺本《てらもと》という若いマネージャーは、青白い顔をしていた。 「何か、思い当ることは、ありませんか?」  と、亀井《かめい》刑事が、きいた。 「そんなもの、ありませんよ」  寺本は、甲高い声で、いった。 「しかし、被害者は美人だから、何人か男もいたんじゃありませんか?」 「そりゃあ、いろいろとね」 「その中で、もっとも親しかったのは、何という男ですか?」 「そういわれても、私には、よくわかりません」 「じゃあ、質問をかえましょう。最近、彼女が、悩んでいたことは、なかったですか?」  と、十津川が、きいた。 「ママは、知っていると思いますよ。よく相談にのってくれるママだから」  と、寺本は、いった。  十津川は、寺本に、今夜、ママに会いに行くと、いっておいて、亀井と、部屋の中を、調べることにした。  痴情がらみの殺人と、見たのだ。それなら、この部屋から、男の匂《にお》いを、嗅《か》ぎ出せばいい。  若い西本《にしもと》刑事が、アルバムと、手紙の束を、見つけ出した。  アルバムには、被害者の少女の頃の写真も貼《は》ってあったが、十津川は、一番多く写真に写っている男に、注目した。  三十五、六歳の男である。長身で、エリート然とした表情をしている。  手紙の中からは、二通のラブレターを、拾い出した。  どちらも、同じ男の名前である。  熱烈な文章で、どうやら、その文面から見ると、男には、妻子があるらしい。  その夜、十津川は、亀井と、そのラブレターと、アルバムを持って、銀座の「砂時計」に出かけた。  雑居ビルの地下にあるクラブである。  二人は、ママに会うと、まず、二通のラブレターを見せた。 「この長田|博《ひろし》という男のことを、知っていたら、教えてくれませんか」  と、十津川が、いうと、大柄なママは、 「それ、中央商事の人」  と、あっさり、教えてくれた。 「このアルバムの中に、いますか?」  と、亀井が、ママの前に、アルバムを置いた。  彼女は、ぱらぱらと、めくっていたが、 「この人。何枚も、貼《は》ってあるわ」  と、いった。  十津川が、想像した通り、アルバムの中で一番、数の多い写真の主だった。 「やはり、この人ですか。なかなか、美男子ですね」  と、十津川がいった。 「でも、信用の置けない人よ」  と、ママは、いった。 「なぜですか?」 「彼女が、結婚して欲しいといったら、逃げ出したんだから」 「妻子がいるようだから、逃げるのは、仕方がないんじゃないかな」  と、亀井が、いった。  ママは、ちらりと亀井に眼をやって、 「そりゃあ、彼女だって、全部、わかって、つき合っていたと思うわ。でも、男の方は、愛しているだとか、家内なんか愛していない、君だけだみたいな、おいしいことをいうのよ。その言葉を信じて、女は、バカだから、男に貢ぐわ。いつか奥さんになれると思ってね。そのくせ、いざ、女の方が本気になって、迫ると、男は、あわてて、逃げ出すのよ」 「彼女と、長田博の場合も、同じだったというわけですか?」  十津川が、聞いた。 「彼女、泣いて、あたしに、相談してきたのよ。長田さんを、本当に好きになってしまったって。彼には、奥さんも子供もいるんだから、諦《あきら》めなさいって、いったんだけど、どうしても、諦められなかったみたいね」  ママは、小さな溜息《ためいき》をついた。 「諦めずに、彼女は、どうしたんだろう?」  と、亀井が、きく。 「多分、奥さんと別れてくれって、迫ったんじゃないかしら。そんなことをしたら、それこそ、終りなんだけどねえ」 「長田博を、よく知っているんですか?」  と、十津川が、きいた。 「あたしが? ええ、よくいらっしゃってたから、知ってるわ。もちろん、彼女目当てに、いらっしゃってたんだけど」 「長田が、殺したと、思いますか?」  と、十津川がきくと、ママは、 「さあ、あたしには、わからないわ」  と、当り障りのない返事をした。      2  翌日、十津川は、大手町《おおてまち》にある中央商事本社に、電話をかけた。  人事部長に、長田博のことをきくと、 「彼は、金沢支店に、転勤になりました」 「いつです?」 「三月三十一日に、こちらを、発《た》ちました」 「飛行機で?」 「いや、上野発の列車です。くわしいことは、見送りに行った部長秘書の加藤《かとう》君を、ここへ呼んで、説明させますが」 「いや、これから、そちらへ伺います」  と、十津川は、いった。  直接会って、くわしい話を聞きたかったのだ。  十津川は、亀井を連れ、パトカーで、大手町に、向った。  加藤という営業部長秘書は、十津川たちに向って、事務的な感じで、 「三月三十一日に、上野駅に見送りに行きました」  と、いった。 「三十一日の何時頃ですか?」  相手の顔を見ながら、十津川が、きいた。 「午前九時二十分頃です。九時三〇分発の『白山1号』に、長田さんが、乗られるので」  と、加藤は、相変らず、事務的に、いった。 (どうやら、長田という社員は、この会社では、あまり、尊敬されていないようだ)  と、十津川は、思いながら、 「長田さんは、ひとりで、その列車に、乗ったんですか?」 「そうです。ご家族は、あとから行くことになっていましたから」 「見送りは、あなただけですか?」 「いえ。私の他に、長田さんの部下の方が二人行きました」 「長田さんは、間違いなく、『白山1号』に、乗ったんですね?」 「そうです。グリーンに、乗られました」 「その時の長田さんの様子は、いつもと違ったところは、ありませんでしたか?」  と、亀井が、きいた。 「変ったといいますと?」 「そわそわしていたとか、緊張していたとかですがね」 「気がつきませんでした」  と、だけ、加藤は、いった。  だが、一緒に見送ったという営業課の二人の中の一人は、 「そりゃあ、元気がありませんでしたよ。左遷ですからね」  と、話してくれた。 「左遷ですか?」 「ええ。向うの部長といっても、本社の課長より下ですからね」 「なぜ、長田さんは、左遷されたんですか? 女が原因ですか?」  亀井が、食い込んだ。 「そんな噂《うわさ》を、聞いたことがありますが、本当かどうかは、知りません」  と、相手は、急に、トーンを落として、いった。 「それで、長田さんは、間違いなく、『白山1号』に、乗ったんですね?」  十津川が、念を押した。 「間違いありません。グリーンに、乗られましたよ」 「金沢には、誰か、出迎えに来ていたんですか?」 「支店の人間が、迎えに出ていた筈《はず》です」  と、相手は、いった。      3  十津川と、亀井は、捜査本部の置かれた品川警察署に帰ると、時刻表を、広げて、「白山1号」という列車を調べてみた。  上野から金沢までの直通列車である。  上野から、信越《しんえつ》本線—北陸本線を、走る。  午前九時三〇分上野発で、金沢着は、一五時三二分である。 「解剖の結果では、木元加代子の死亡推定時刻は、三月三十一日の午前十時から十二時の間でしたね」  と、亀井が、自分の手帳を見て、いった。 「だから、長田が、この列車に、本当に乗っていれば、アリバイ成立で、シロということになる」  と、十津川は、いった。 「見送りが、三人もいたんですから、『白山1号』に、乗ったのは間違いないと思いますが」 「だろうね。それに、金沢駅にも、支店の人間が、迎えに来ていたらしいから、金沢で降りたのも間違いないと思うよ」 「しかし、この男が犯人なら、途中で、列車を降りていますね」  と、亀井が、いった。 「途中下車して、浜松町で木元加代子を殺したか?」 「そうです」 「とにかく、『白山1号』で、金沢に着いたかどうかから、石川県警に、調べて貰おうじゃないか」  と、十津川は、いった。  すぐ、十津川は、石川県警に、電話をかけた。  応対してくれたのは、三浦《みうら》という警部である。 「さっそく、中央商事の金沢支店に、当ってみましょう」  と、三浦は、いった。  十津川は、長田の顔写真を、電送した。  三浦が、回答の電話をくれたのは、午後三時を廻《まわ》ってからである。 「まず、金沢駅に、出迎えに行った二人の人間に、話を聞いてきました。課長が二人です。間違いなく、ホームで、『白山1号』から降りてくる長田博を、迎えたそうです」 「そうですか」 「次に、長田とも、会いました。当然のことながら、『白山1号』に、ずっと、乗っていたと、いっています。それから車内で撮った写真を見せてくれたので、それを、ネガと一緒に送ります」  と、三浦は、いった。  その写真とネガは、翌日の午後、速達で、送られて来た。  ディスクカメラのネガなので、円盤型に、並んでいる。  その中、十二枚が、引き伸されていた。  それを、十津川と、亀井は、順番に並べていった。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  1 高崎駅の駅名標示板  2 横川駅のホームで、釜《かま》めしを買っている乗客たち  3 軽井沢駅の駅名標示板  4 車窓の景色。遠くの山に雪が白く積っている  5 高田駅のホーム、上杉謙信《うえすぎけんしん》公居城の大きな字と、川中島合戦のポスター  6 車窓の景色、日本海  7 泊《とまり》駅のホーム  8 車窓の景色、立山《たてやま》連峰が、雪で白い  9 高岡駅のホーム。自動販売機が写っている  10 石動《いするぎ》駅のホーム [#ここで字下げ終わり]  あとの二枚には、若い女性が、写っていた。  同封されたメモには、次のように、書いてあった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈二枚の写真に写っている若い女は、長田が、列車のラウンジ&コンビニエンスカー(6号車)で会った東京の女子大生だそうです。名前は、わからないということです。 [#地付き]三浦〉 [#ここで字下げ終わり] 「問題は、この女性ですね」  と、亀井は、二枚の写真を見ながら、いった。 「そうだね。他の写真は、誰かに頼んで、撮って貰ったのかも知れないからね」  と、十津川は、いった。 「しかし、東京の女子大生というだけでは、ばくぜんとしすぎているね」 「そうだねえ」  と、肯《うなず》きながら、十津川は、二枚の写真を見ていたが、 「この襟《えり》についているのは、バッジじゃないかな」 「そうです。ひょっとすると、学校のバッジかも知れません」  と、亀井は、大きな声を出した。  ネガのその部分だけを、引き伸すことになった。  だいぶ、ぼやけたが、それでも、女の襟につけているバッジの恰好《かつこう》は、わかるようになった。 「藤《ふじ》の花のようですね」  と、亀井が、いった。亀井の家の紋が、下《さが》り藤《ふじ》で、よく似ているというのである。  それを持って、西本刑事が、文部省に、聞きに行った。  わかったのは、八王子《はちおうじ》にある「日本藤花女子大」だということだった。  今は、まだ、春休みだが、事務の職員は、いるだろう。そう考え、十津川と、亀井が、二枚の写真を持って、八王子に向った。  十津川が、想像した通り、ひっそりとした校舎だったが、事務局の職員が二人いてくれた。  その二人に、写真を見せて、ここの学生かどうか、きいてみた。二人とも、調べるより先に、警察が、なぜ来たのか、それを心配していた。 「実は、この人が、ある事件の目撃者なのですよ。それでどうしても、証言が欲しいんです」  と、十津川が、いうと、やっと、安心して調べてくれた。  その結果、今度、四年になる小谷《こたに》ゆう子という学生と、わかった。  住所は、同じ八王子市内のマンションである。  十津川と、亀井はJR八王子駅近くのそのマンションに廻ってみた。  十一階建の高級マンションだった。 「最近の学生は、ぜいたくですねえ」  と、亀井が、苦笑している。 「あの学校自体、金持ちの子供が行くところらしいよ」  十津川が、答え、エレベーターで、十階まで、あがって行った。  留守かも知れないと思っていたのだが、一〇〇五号室のチャイムを鳴らすと、ドアが開いて、写真の女が顔をのぞかせた。  チェーンをかけたまま、 「どなた?」  と、きく。十津川が、警察手帳を見せると、びっくりしたような顔で、チェーンを外し、二人を部屋に入れてくれた。  1LDKの部屋で、通された居間は、十六畳くらいは、ありそうである。  亀井は、改めてソファなどの真新しい調度品に、感心している。 「最近、金沢へ行かれましたね?」  と、十津川が、きくと、小谷ゆう子は、 「金沢から昨日帰って来たんですけど、それが何か?」  と、きき返した。 「いつ、行かれたんですか?」 「三月三十一日ですわ」 「では、これを、覚えていますか?」  十津川は、二枚の写真を、彼女の前に置いた。  ゆう子は、それを、手に取って見ていたが、急に、ニッコリして、 「ああ、これ。覚えてます」 「どこで、撮られたんですか?」  と、十津川は、わざときいた。 「金沢行の『白山1号』の中です。あの列車の何号車だったか忘れましたけど、ラウンジになっていて、そこで、コーヒーを飲んでいたら中年の男の人が、勝手に、撮ったんですわ」 「その男の名前は、覚えていますか?」 「確か、長田とかいってましたわ。東京から金沢へ転勤になったとか。私の名前も教えてくれといわれたんだけど、いわなかったんです」 「なぜです?」 「どんな男の人か、わかりませんものね。中年の男って、油断が出来ないから」  と、いって、ゆう子はクスッと笑った。 「顔は覚えていますか?」  と、亀井が、きいた。 「ええ。まだ、日時がたっていませんから」 「では、この中にいるかどうか見て下さい」  亀井は、用意して来た五枚の写真を、相手の前に並べた。似たような五人の男の顔写真である。  ゆう子は、黙って、見ていたが、 「この人でしたわ」  と、迷わずに、長田博の写真を、指さした。 「この男が、どんなカメラで撮ったか、覚えていますか?」  十津川は、慎重を期すために、そんなことも、きいてみた。 「名前はしらないんですけど、小さくて、ぺしゃんこのカメラ」 「ディスクカメラ?」 「ええ、それですわ。だから、よけい信用できなかったんです。一流の商社の名前をいったんですけど、それにしては安物のカメラでしたもの」  と、ゆう子は、いって、笑った。 「写真を撮られたのは、列車が、どの辺を走っている時か、覚えてますか?」  これは、亀井がきいた。 「確か、横川で、峠の釜めしを買って少ししてからだから、小諸《こもろ》近くを走っていたときだと思いますわ」  と、ゆう子は、いった。  確かに、この写真は、軽井沢のあとのネガに、写っていた。 「本当に、あの人、一流商社のエリート社員だったんですか?」  と、今度は、ゆう子が、十津川にきいた。 「中央商事の社員ですよ。金沢支店の部長になって、転勤して行ったんです」 「へえ。それなら、名前を教えてあげれば、よかったかな」  と、ゆう子は、いう。 「どうしてです」 「美男子で、カッコよかったから」  と、ゆう子は、笑った。      4  十津川たちの報告は、捜査本部長の三上《みかみ》を、失望させた。 「長田博には、アリバイありかね」  と、三上部長は、舌打ちして、 「絶対の本命と、思っていたんだがねえ」 「私もです」 「その女子大生と、長田がグルということは、ないのかね?」 「今のところ、二人の間に、関係は、なさそうです」 「すると、捜査は、出直しか」 「念のために、もう少し、長田と、小谷ゆう子のことも、調べてみますが」  と、十津川は、いった。  西本と日下《くさか》の二人には、小谷ゆう子のことを、調べるように命じ、他の刑事たちには、長田以外に、被害者木元加代子に、男がいなかったかどうか、調べさせた。  西本たちは、帰ってくると、苦笑しながら、 「あの女子大生は、ちょっとした代物《しろもの》ですよ」  と、十津川に、報告した。 「どうしたんだ? いやに、興奮してるじゃないか」  十津川は、若い西本を見た。 「年齢は、二十五歳です。三浪しています。というより、高校を卒業したあと、三年ほど遊んでいたわけです」 「なるほど」 「ボーイフレンドも、何人もいるようですし、中年の男が、時々、ベンツで、送って来たりしているそうです」 「それで、君が、興奮しているのか?」 「呆《あき》れているんですよ」  と、西本はいった。 「その男たちの中に、長田博もいたのかな?」 「いや、これは全く浮んで来ません。長田博には、つながりませんね」 「そうか。私も石川県警に頼んで調べて貰ったんだが、彼女は、間違いなく、三月三十一日に、金沢へ行っているね。夕方、市内のホテル『ニューかなざわ』に、チェック・インしているし、二日間、泊っている」  と、十津川も、いった。 「すると、やはり、長田博は、シロですか?」 「今のところはね」  と、十津川は、慎重に、いった。  殺された木元加代子の周辺を調べていた刑事たちは、長田以外に、何人かの親しかった男の名前を、メモしてきた。  その中に、中央商事営業部長の伊東という名前を見つけて、十津川は、 「これは?」  と、三田村《みたむら》刑事に、きいた。 「中央商事では、お得意の接待に、『砂時計』を使っています。それで、伊東営業部長も、自然と、ホステスの木元加代子と、親しかったということのようです」 「二人の間に、関係はあったのかね?」 「伊東は、あったといっています。しかし、部下の長田を紹介してから、彼女は長田に夢中になってしまったといっています。長田の方もです。これでは、まずいので、長田にも、時々、忠告したんだがと、いっていました」 「この部長には、アリバイは、あるのかね?」 「調べてみましたが、三月三十一日は、会社で、午前九時半から、十時半頃まで、部長以上の会議が開かれていて、それに、出席しています。だから、上野に、長田を送りにも行けなかったということです」 「会議を中座したことは?」 「それは、ないようです。他の出席者にも聞いてみましたが、伊東部長は、最初から、最後まで、いたそうです。他の男たちについても、今、調べているところです」  と、三田村は、いった。 「しかし、長田博ほどの動機の持主は、いないようです」  と、いったのは、清水《しみず》刑事だった。 「参ったな」  と、十津川は、呟《つぶや》いた。      5  最初は、簡単な事件に思えたのである。  美人のホステスが殺され、金や、貴重品は、盗《と》られていない。  よくある事なのだ。痴情関係と思い、彼女とつき合いのあった男たちを調べる。たいてい、その中に、犯人がいるものなのだが、違っていたらしい。  十津川は、女同士の嫉妬《しつと》の線も、調べてみることにした。これも、痴情関係といえるからである。  三角関係で、嫉妬から、被害者を、殺したのかも知れない。  同じクラブのホステス、同じマンションの住人、女友だちなどを、片っ端から、調べていった。  だが、これといった容疑者は、いっこうに、浮んでこなかった。 「砂時計」には、ボーイたちが、被害者と犬猿の仲だというホステスもいたが、彼女には、ちゃんとしたアリバイがあった。三月三十一日には、宝石商のパトロンと、九州の別府《べつぷ》で遊んでいたのである。  壁にぶつかってしまったとき、聞き込みから帰って来た亀井が、興奮した調子で、 「やはり、長田博が、怪しいですよ」  と、十津川に、いった。 「しかし、彼には、ちゃんとしたアリバイがあるよ」 「そうなんですが、長田は、二十八日に、会社を休んでいるんです」 「金沢に行く三日前か」 「そうなんです」 「しかし、休んだからといって、怪しいとはいえんだろう」 「会社には、東京を離れるので、これまでのお得意や、友人に別れをいって廻りたいからといって、休暇を、とっているんです」 「別に、おかしくはないんじゃないか、私だって、多分、そうするよ」 「ところが、お得意や、友人という人たちに会ってみたんですが、誰も、二十八日に、長田に会っていないんですよ」 「本当なのか?」  十津川も、眼を光らせた。 「長田博と、関係のあったと思われる人間には、出来る限り、会ったり、電話したりしてみたんですが、二十八日に、会ったという人間は一人もみつかりませんでしたね。第一、お得意は別にしても、友人たちには金沢へ行くことは、いってなかったようなんです。まあ、実質的な左遷なので、話すのが、嫌だったんでしょうが」  と、亀井は、いった。 「すぐ、石川県警に電話して、当人に当って貰うよ」  十津川は、亀井にいい、電話を手に取った。  石川県警の三浦警部が、こちらの要請で、長田本人に、会ってくれた。  その回答があったのは、夜になってからである。 「三月二十八日のことを、長田に会って、話を聞いて来ました」  と、三浦は、いった。 「長田は、何といっています?」 「最初、予想した通り、お得意や友人に、別れのあいさつをしたんだといいましたがね。全然、会ってないじゃないかというと、青い顔になりましたよ。そして、そのつもりで、休暇をとったんだが、実質的な左遷なので、会う気になれなかったそうです」 「会わずにどうしたんですか?」 「それなんですが、無性に、ひとりになりたくて、伊豆《いず》へ行って、ずっと、海を眺めていたというんです」 「伊豆ですか?」 「西伊豆に三津浜《みとはま》というところがありますか?」 「あります。富士が美しく見える場所です」 「大学時代よく行っていたので、そこへ行ったといっています。そして、夜になって帰宅したそうです」 「三津浜で、誰かに会ったというようなことは話していますか?」 「いや、ひとりになりたかったので、ひと気のない浜にいたと、いっています。風は冷たかったが、ひとりで考えるには良かったそうです」  と、三浦は、いった。  十津川は、そのまま、亀井に、伝えた。 「どう思うね? カメさんは」 「ひとりになりたくて、海を見つめていたんですか」  亀井は、ぶぜんとした顔になっている。 「信じられないかね?」 「まあ、私だって、そういう気になるときもありますがね」 「実質的な左遷だとすれば、ひとりで、海を見ていたくなるのも、無理もないように、思えるんだが」  と、十津川はいった。 「しかし、長田は、三日後、本当に、『白山1号』に乗って、金沢へ行くとき、車内で美人の女子大生の写真を撮り、名前まで聞いています。本当に、都落ちする日は、二十八日より、もっと、滅入《めい》っていたんじゃありませんかねえ」 「そういわれればそうだが、逆に、開き直ったのかもしれない。多分、本人は、二十八日に、ひとりで海を見ていて、やっと、ふっ切れたんだというんじゃないかね」 「どうも、うさん臭いですねえ。ひとりで、海を見ていたなんていうのは」  と、亀井は、いう。 「じゃあ、カメさんは、二十八日は、何をしていたと、おもうんだね?」  と、十津川が、きいた。 「彼は、女のことで、金沢支店へ、左遷させられたわけです。当然、木元加代子を、恨んでいたと思います。だから、二十八日には、彼女に会って、恨みを叩《たた》きつけるか、或《ある》いは——」 「殺すかかね?」 「そうです。その気だったんじゃないかと思うんです。それをいえば、自分に対する疑いが濃くなるので、伊豆の海を見ていたなんて、嘘《うそ》をついたんだとおもうんですがねえ」  と、亀井は、いった。 「だが、二十八日には木元加代子は殺されていないんだから、この日に、長田が、何をしても罪にはならんし、殺された三十一日にも、ちゃんとしたアリバイがあるんだ」 「ひょっとして——」 「ひょっとして、何だい?」 「二十八日に、長田は、殺人の予行演習をしたんじゃありませんかねえ。つまり、アリバイ作りの練習です」  と、亀井は、いった。 [#改ページ]  第三章 尾 行      1  長田は、マンションに帰ると、ほっとして、ソファに腰を下した。  今日も、県警の三浦という警部が、支店にやって来て、三月二十八日の行動について、聞いていったのだ。  あの時は、ぎょっとした。今でも、思い出すと、冷汗が出てくる。  これで、三度目だと、思った。  自分で考えた時間トリックを利用して、加代子を殺しに行って、すでに殺されていたときのショック。これが、一度目。  二度目は、早速、三浦警部が、加代子が殺された時、どうしていたかと、質問に来たときである。予想していたが、やはり、ぎょっとした。  そして、今日である。 (警察も、素早く、調べるものだ)  と、感心しながら、冷汗を流したのである。  二十八日は、伊豆へ行って、ひとりで、考えていたといったが、あんな弁明を、警察が信じたとは、思えない。  きっと、その中《うち》に、長田が、二十八日は、特急「白山1号」に乗ったり、飛行機に乗ったりしたことを、調べ出すだろう。  だが、二十八日には、加代子を殺してはいないのだから、殺人容疑で逮捕される恐れはない。 (やはり、問題は、三十一日だ)  と、思う。  長田は、加代子を殺してはいないが、現実に、彼女のマンションへ行っているから、アリバイは、無い。動機の方は、大ありだから、警察に逮捕されても、弁明のしようがないのだ。  長田は、机の引出しをあけ、例のメモを取り出した。 「このメモは、始末して下さい」と、書いてあるが、どうしても、焼き捨てることが、出来なかったのである。  サングラスをかけた女の姿は、今でも、はっきりと、覚えていた。  彼女の渡してくれたカメラのおかげで、何とか、アリバイは、成立させられたのだが、彼女は、いったい、何者なのだろうかという疑問は一層大きくなったといっていい。  味方なのか、敵なのかも、わからない。助けてくれたのだから、一応、味方だろうが、何を考えてるかわからないのが、怖いのだ。  突然、電話が鳴った。  はっとして、誰《だれ》もいないのに、長田は、あわてて、メモを、ポケットに押し込んでから、受話器を取った。 「私です」  という妻のゆみの声がした。相変らず、冷たい、事務的な声である。 「何だ?」  と、長田は、きいた。しばらくは、単身赴任の形になるが、長田は、そのことには、不満はなかった。どうせ、ゆみとの間に、夫婦の関係はなくなっているし、子供も、妻の方についてしまっている。 「昨日、警察から、電話がかかって来ました」 「何の用でだ?」 「二十八日に、ご主人は、出勤したんですかと聞かれたので、朝早く、あいさつ廻《まわ》りに出ましたと、答えておきましたけど、それで、よろしかったですか?」  と、ゆみは、きく。夫のことを心配しているという口調ではなかった。心配していれば、昨日の中に、電話して来ている筈《はず》である。わざと、一日おくらせて、知らせて来たことに、ゆみの冷たさというか、長田への不信を感じないわけには、いかなかった。 「ああ、それでいい」  とだけいって、長田は、電話を切った。  が、すぐまた、ベルが鳴った。 (うるさいな)  と、眉《まゆ》をひそめ、長田は、受話器を取って、 「何だ?」  と、少し、そっけない声を出した。 「長田さんでしょう?」  と、女の声がした。妻のゆみの声ではなかった。 「ええ」  と、肯《うなず》くと、相手は、電話口で、クスクス笑った。 「何を、緊張して、いらっしゃるの?」 「誰ですか?」 「私。恩人の声を忘れちゃ困りますわね」  と、女は、からかうような声を出した。  長田は、まだ、わからなくて、 「恩人?」 「あなたのアリバイを、作ってあげたじゃありませんか」  と、女は、いう。  あの女だと、やっと、気付いた。 「君は、何者なんだ?」  長田は、当然の質問をした。が、女は、 「そんなことは、どうでもいいじゃありませんか。とにかく、あの写真があったから、あなたは、刑務所に送られずに、すんだのよ」  と、いうだけだった。 「しかし、僕には、時間的なアリバイがあるんだ」  と、長田は、いった。 「ああ、二十八日に、予行演習した面白い時間トリック?」  女は、からかうようないい方をした。 (それも、知っていたのか)  と、思うと、長田の背筋を、冷たいものが走った。  何もかも、知られていて、しかも、見られていたという恐怖だった。 「どうなさったの? 黙ってしまって」  と、女が、楽しそうに、きいた。 「何が、望みなんだ?」 「何ですって?」 「僕に、どうしろというんだ?」 「別に、どうしてくれとも、いっていませんわ」 「しかし、何もなくて、こんなことはしないだろう? 君の名前を、いいたまえ」 「私の名前は、木元加代子」 「よしてくれ。嫌な冗談だ」 「それなら、加代子とだけ、呼んでくださればいいわ」 「それも、断る」 「じゃあ、何とでも。また、電話しますわ」 「ちょっと待て」  と、長田は、あわてて、いった。 「何ですの?」 「何のために、あのカメラを、僕にくれたのか、その理由だけでも、教えてくれ」  と、長田は、きいた。それを知らないと、不安で仕方がないのだ。  また、女は、クスクス笑った。よく笑う女だ。 「何のために、僕を助けてくれたかでしょう?」 「君に助けて貰《もら》ったとは、思っていないよ」 「強がりは、いわないこと。三十一日のアリバイを聞かれて、あの写真を、警察に見せたんでしょう? それなら、あなたを生かすも殺すも、私の自由ということになるんじゃありません?」  と、女は、いった。  長田は、また、うそ寒いものを感じた。確かに、あのカメラの写真を、警察に提出した。あの写真は、長田が撮ったものではないとなれば、たちまち、彼は、逮捕されてしまうだろう。 「何のためなんだ?」  と、長田は、もう一度、きいた。 「あなたに、恩を売るため」 「何だって?」 「少しは、恩を感じて下さってるわけでしょう?」 「とにかく、君が、何者で、何のために、あんなことをしたのか、教えて欲しい」 「あなたは、頭がいいんだから、考えてみたら。また、電話するから、楽しみに、待っていて頂戴《ちようだい》」  と、いい、今度は、長田が、何かいう前に切れてしまった。  長田は、乱暴に、受話器を置くと、じっと、宙を睨《にら》んだ。  女のクスクス笑いが、耳にこびりついて離れない。  向うは、長田の死命を制したつもりでいるのだ。恩を売ったと、思っているのだ。何でも、いうことを聞くと思っているのだ。 (何者で、何を企《たくら》んでいるのか?)  どうしても、それが、気になってしまう。いろいろと、考えているのだが、見当がつかないのである。 (おれは、敵もいなければ、味方もいない人間だ)  と、長田は、思う。  加代子には、恨まれていたし、浮気がばれて、妻も、冷たくなった。しかし、加代子は、死んでいるし、妻のゆみが、あんな真似《まね》をするとは、思えなかった。ゆみは、自尊心の強い女だから、あんなことはしないで、離婚届を、突きつけてくるのではないか。  翌朝、マンションを出て、支店に向って、歩き出したとたん、長田は、ふと、誰かに、見張られているような気がした。  立ち止って、周囲を見廻《みまわ》した。通行人が、ぞろぞろ歩いているが、その中に、自分を尾行している人間がいるかどうか、わからなかった。  また、歩き出す。 (やはり、尾《つ》けられている)  と、思う。そんな気がして、仕方がないのだ。  三月二十八日も、きっと、誰かに、尾行されていたのだろう。  あの時は、時間通りに動けるかどうかだけを考えて、自分が、尾行されているかどうかまで、気はいかなかった。  じっと、思い出そうとしても、列車の中に、どんな乗客がいたかも覚えていないし、飛行機のスチュアーデスの顔も、はっきりしないのである。  あの中に、メモと、カメラを寄越《よこ》した女がいたとしても、わからない。  しかし、間違いなく、彼女はいて、長田を尾行していたに違いないのである。そして、長田が、何を考えているのか、察したのに違いない。  支店に着いたあと、仕事をしながらも、長田は、女のことを、考えていた。  本社なら、忽《たちま》ち、注意されるところだが、この支店は、のんびりしている。仕事が、それほど無いのだろう。無気力といってもいい。  それを、幸い、長田は、回転|椅子《いす》に身体《からだ》を沈め、自分の考えに、ふけった。  あの女は、二十八日に、長田を尾行して、彼が、なぜ、そんな真似をしているのか、その意図を察したのだ。  なぜだろう?……と思う。  答は一つしか考えつかない。相手が、長田と、木元加代子の関係を知っていたということである。  だからこそ、長田が、時間を計りながら、加代子のマンションに行き、また、飛行機で、富山へ行き、富山から、再び、「白山1号」に乗り込めば、長田の意図は、見え見えである。  そして、三十一日に、金沢へ赴任するとすれば、加代子殺しは、三十一日に行われると、予測がつくだろう。  あの女は、そこまで、読んだのだろうし、これは、長田と加代子の関係を知っていれば、難しい予測ではない。  普通なら、加代子に知らせて注意するか、警察に、連絡するかだろう。さもなければ、黙って、見守っているのが、普通の人間だ。  だが、あの女は、長田の計画を利用して、加代子を殺した。  加代子を憎んでいたとすれば、わからないことではない。長田が、逆の立場でも、これは、いいチャンスだと思って、利用するだろう。自分の代りに、犯人になってくれる人間がいるからだ。  ただ、そのあとが、わからない。女は、加代子を殺しておいて、次に、長田のアリバイ作りに、手を貸したのである。  長田は、上手《うま》いアリバイトリックを見つけたと思っていたのだが、よく考えてみると、ひどく、甘い計画だったのである。  警察だって、そんなに簡単に欺《だま》されはしないのである。その証拠に、すぐ、長田に眼をつけたし、二十八日の行動も、聞きに来たではないか。  長田の考えたアリバイトリックだって、すぐ、気がついてしまうに違いない。そうなれば、あの女のくれたカメラがなければ、アリバイは、崩れてしまうところだったのである。  そう考えると、あの女は、命の恩人みたいなものだが、もちろん、長田は、そんな風に、甘くは、考えられない。  人生は、厳しい。現に、長田は、金沢支店に、追いやられたし、左遷が決った瞬間から、周囲は、急に、冷たくなったではないか。 (何を企《たくら》んでいるのか?)  と、思う。  あの女のくれたカメラと、写真を、アリバイに使ってしまった以上、何か要求されたら、それに応じざるを得ない。 (列車の中の女の子は、どうなったろう?)  とも、考えた。  写真の中に、女の子がいた。メモによれば、東京の女子大生だと書いてあった。警察は、彼女を見つけて、質問したのだろうか?  あの女が、わざわざ、メモに書いて来たところをみると、この女子大生も、あの女と、グルと思わざるを得ない。  金を貰ったのか、他の理由があるのかわからないが、警察に聞かれたら、車内で、長田に会い、写真を撮って貰ったと、証言することになっているのだろう。 (すると、あの女と、女子大生の二人が、組んでいることになってくる)  とも考えた。 (もう一人、今朝、尾行していた人間がいた)  あの女ではない。彼女ならわかった筈なのだ。  列車の中の女子大生か。だが、写真を見ているのだから、周囲にいれば、わかったのではないか? (三人——?)  長田は、だんだん、恐しくなってきた。  三人だけならまだしも、あと、何人もいたら、どうなるのだろうか? 「長田君」  と、突然、支店長の浅井に呼ばれて、長田は、現実に、引き戻された。  はっとして、見ると、浅井は、眉《まゆ》を寄せて、睨《にら》んでいた。 「着いて早々、ぼんやりされては困るね。支店の仕事を、甘く見ているんじゃないのかね?」  と、浅井は、嫌味を、いった。      2  退社してから、長田は、すぐには、自宅マンションに帰る気になれず、彼の歓迎会をやってくれた花邨《はなむら》へ寄って、夕食をとり、酒も飲んだ。 「ああ、部長」  と、声をかけられて、振り向くと、営業第一課長の田中だった。  なれなれしく、長田の隣りに腰を下して、自分も、酒を、注文した。  改めて、田中の顔を見た。背がひょろりと高く、狐《きつね》みたいな顔をしていることに気がついた。三十歳だということだが、五、六歳老けて見える。 「どうですか? 支店の居心地は」  と、田中が、きく。 「まだ、よくわからないよ」  長田は、用心深く、いった。まだ、支店の雰囲気もよくわからないし、この田中という男が、どんな人間かも不明だったからである。 「そうでしょうねえ」  と、田中は、肯《うなず》いてから、長田に、酒をすすめ、急に、声を落として、 「あの支店長には、注意した方がいいですよ」  と、いった。 「なぜだい?」 「あの支店長は、無能なくせに、自尊心は、人一倍、強いんですよ。それに、いつ、支店長の椅子を追われるかと思って、戦々恐々としているんです。そこへ、若い部長が、本社からやって来たでしょう。これは大変だと思っていますよ。だから、部長に対して、やたらに、対抗意識を燃やしているでしょう?」 「そういえば、今日も、支店長に、叱《しか》られたよ」  と、長田は、苦笑した。 「そうでしょう。あれだって、殊更、自分を偉く見せているんです。あんなのは、気にしなくて、いいですよ。その中に、あの支店長は、馘《くび》だと思っているんです」 「しかし、有能そうじゃないか。この金沢地区は、競争の激しい所だと、釘《くぎ》を刺されたよ。がんばってくれないと、困るといってね」  と、長田が、いうと、田中は、「は、は、は」と、声に出して、笑った。 「あんなの、はったりですよ。本社じゃよくわかってるでしょう。うちの会社の支店の中、金沢は、一番、成績が悪いんです。その責任は、あの支店長の無能にあります。それで、余計、部長が、煙たいんですよ」  と、田中は、いう。 「しかし、僕は、左遷されて、この支店へ、来たようなものだからね」  長田は、自嘲《じちよう》気味にいった。 「何をおっしゃるんです!」  と、田中は、殊更、力を籠《こ》めて、いい、 「僕は、本社が、テコ入れに、部長を送り込んで来たと思っているんですよ。そうじゃなければ、本社のエリートコースを歩いていた方が、こんな支店に、来る筈《はず》がありませんからねえ」 「支店長も、そう思っているんだろうか?」 「もちろん、そうに決っていますよ。だから、これからも、ことごとに、部長に、当って来ると思いますよ。そんなときは、僕が、味方だということを、忘れないで下さい。僕は、支店長の弱味を、しっかり握っていますから、力になります」  と、田中は、声を、ひそめて、いった。 「あの支店長に、弱点があるのかね?」 「ありますとも。あの顔で、女を一人、囲っているんです」 「へえ。そりゃあ、大したものだ」 「もちろん、奥さんには、内緒ですよ。その女に貢ぐのに、会社の金を流用してるんじゃないかと、僕は、睨《にら》んでいるんですよ」 「本当かね?」 「まだ、証拠はありませんがね。支店長は、無能ですが、何しろ、十年間、ずっと、支店長でいますからねえ。管理部長なんか、支店長の腰巾着《こしぎんちやく》みたいなものです。だから、会社の金を誤魔化《ごまか》していても、わからないし、管理部長なんか、眼をつぶっているんじゃないですか」  と、田中は、いった。  長田は、そんな話を聞いていると、だんだん気が晴れてきた。 「支店長の弱味について、その中に、教えて欲しいね」  と、長田はいった。      3  気分よく、マンションに帰ったのだが、留守番電話に、県警本部からの連絡が入っていた。  たちまち、気が重くなったが、長田は、すぐ、連絡を取った。 「三浦です」  と、相手は、妙に明るい声で、いった。 「まだ、何か用ですか? 全《すべ》て、お話ししましたよ」  と、長田は、文句を、いった。 「それは、よくわかっています」 「それなら、もう、僕に、かまわないでくれませんかね。僕は、サラリーマンでしてね、噂《うわさ》が一番怖いんですよ。殺人事件で、警察に調べられているという噂が立っただけで、立場が、悪くなるんですよ」 「わかります、わかります」 「それなら、なぜ、電話してくるんですか? あの写真で、僕のアリバイは、はっきりしたんじゃないんですか?」 「そうなんですが、何しろ、今度の殺人事件は、東京で起きたことでしてね、東京の警視庁が、捜査しているんですよ」 「だから?」 「われわれは、納得したんですが、警視庁の方が、ぜひ、あなたに、お会いして、お聞きしたいことがあると、いってるんですよ。明日、金沢へ来るというので、会って貰《もら》えませんか」 「構いはしませんが——」 「よかった。その旨、連絡しておきます」  と、いって、三浦は、さっさと、電話を切ってしまった。  長田は、また、気が重くなってきた。もう、アリバイは、証明できた筈なのに、東京の刑事は、いったい、何を聞きにくるのだろうか?  場所は、三浦警部が設定してくれた。  長田の方が、警察は嫌だといい、JR金沢駅近くの大きな喫茶店の二階で、会った。  東京からやって来たのは、十津川という警部と、亀井という刑事である。  どちらも、平凡な中年の刑事にみえた。 「僕は、別に、木元加代子を知らないなんていっていませんよ。知っていたし、関係もあったと、認めているんです。それに、家内との関係も悪くなったし、僕は、加代子を憎んでいた。それも、認めている。しかし、彼女を、殺してはいない。調べてくれれば、わかりますよ」  と、長田は、機先を制するように、東京の二人の刑事に向って、いった。 「そう興奮なさらんで下さい」  と、亀井という刑事が、いった。  長田は、余計、むっとして、 「別に、興奮してなんかいませんよ。冷静ですよ」 「それなら、お聞きしやすいので、助かります」  と、十津川という警部が、いった。 「何を聞きたいんですか?」  長田は、身構えるように、相手を見つめた。 「三月二十八日の件なんですがね」 「それなら、こちらの三浦警部さんに、答えましたよ。いろいろと、考えたいことがあったので、西伊豆の三津浜《みとはま》へ行き、ぼんやりと、海を眺めていましたとね」 「それは、聞きました」 「じゃあ、もういいでしょう?」 「三津浜では、どの辺にいらっしゃったんですか?」 「ちょっと待って下さいよ。加代子が殺されたのは、三十一日なんでしょう?」 「そうです」 「それなら、二十八日に、僕が何処《どこ》で、何をしていようと、関係ないじゃありませんか? そうでしょう? 違いますか?」  長田は、眉《まゆ》をひそめ、十津川を見、亀井を見た。  十津川という警部は、微笑して、 「その通りです」 「それなら、なぜ、二十八日に、拘《こだわ》るんですか?」 「実は、二十八日に、あなたが、『白山1号』に乗るのを見たという人がいるんですよ」  と、十津川が、いった。  長田は、声をあげそうになったのをこらえて、素早く、頭を働かせた。  これは、ハッタリなのだろうか? それとも、本当に、目撃者がいたのだろうか? 「そんな筈は、ありませんよ。僕は、間違いなく、伊豆へ行ってるんだ」  と、長田は、いった。 「おかしいですねえ。その人は、二十八日に、友人を送りに上野駅へ行った。友人も、午前九時三〇分発の『白山1号』に、乗るんで、行ったというんです。そうしたら、あなたが、同じ列車に、乗ったというんですよ」  十津川は、相変らず、落ち着いた声で、いった。 「いったい、誰なんですか? 僕が、二十八日に、『白山1号』に、乗ったなんていうのは」  長田が、きいた。 「名前は、いえませんが、あなたの顔を、よく知っている人です。これだけいいましょう。中央商事と取引きのある会社の社長さんです。当然、あなたとも、仕事のことで、何回も会っている人ですよ」  と、十津川は、いう。 「やはり、人違いですよ」  と、長田は、いった。もし、嘘《うそ》をついたとわかっても、二十八日なのだという気安さが、どこかに、あった。 「おかしいですねえ。その人は、間違いなく、あなただったというんですよ」 「僕だったという証拠は、ないんでしょう? それに、今もいったように、二十八日に、僕が何をしようと、三十一日の殺人とは、何の関係もないでしょう? それなのに、なぜ、二十八日の行動について、いちいち、警察に、弁明しなければならんのですか?」  と、長田は、相手に、噛《か》みついた。 「確かに、その通りなんですがねえ。もし、あなたが、二十八日に、『白山1号』に、乗ったとすると、なぜ、そんなことをしたのか、引っかかってくるんですよ」  と、亀井という刑事が、いった。 「何がですか?」 「これを見て下さい」  亀井は、一枚のメモ用紙を、長田の前に置いた。 〈特急白山1号上野発 九時三〇分→九時五二分 大宮  大宮→浜松町(一時間三十分)  浜松町→羽田空港(十六分)  羽田発一三時〇五分→富山着一四時一〇分  白山1号富山発 一四時四八分→金沢〉  見た瞬間、それが、何を意味するのか、長田には、すぐ、わかった。彼が、何日も研究した時刻表だったからである。  相手は、じっと、長田の顔色を見ている。  それが、わかっていたが、長田は、どうしても、顔が、火照《ほて》ってしまう。反応してしまうのだ。 「何ですか? これは」  と、長田は、きいた。声がふるえているのがわかって、自分でも、情けなかった。 「『白山1号』に乗っていても、浜松町で、殺人が出来るという時刻表ですよ」  と、亀井は、微笑しながら、いった。  十津川が、それに、続けて、 「面白いことに、四月一日になると、羽田発一三時〇五分の富山行の便がなくなって、この時刻表は、役に立たなくなってしまうんですよ。一日前の三月三十一日なら、可能なんです」  と、いった。 「つまり、僕が、三月三十一日に、この時刻表に従って、アリバイ作りをして、浜松町で、木元加代子を、殺したって、いうんですか?」  長田が、きく。 「違いますか?」  亀井が、きき返してきた。 「違いますよ。確かに、僕は、三月三十一日に、『白山1号』に乗りましたが、そのまま、金沢まで、乗って行ったんです。一度も、降りませんよ。そのことは、もう、証明されたと、思っていますがね」  長田は、ちらりと、県警の三浦警部に眼をやった。提出した写真は、まだ、返して貰っていなかった。 「あなたのいう通り、あなたのアリバイは、証明されました。写真は、拝見しましたからね。写真の中に写っている女子大生とも、会って、話も聞きました」  と、十津川が、いった。 「それなら、もう、僕には、用がない筈でしょう?」  長田がいうと、今度は、亀井が、 「そうなんですが、もし、あなたが、二十八日に、この時刻表と同じ行動を取ったとすると、話は、違ってくるんですよ。明らかに、殺人の予行演習をしたことになりますからねえ」 「しかし、肝心の三十一日に、アリバイがあれば、問題は、ないんじゃありませんか?」 「そこが、問題でしてね。あなたのアリバイは、三月三十一日の九時三〇分に、『白山1号』に乗ったという中央商事の社員の証言と、一五時三二分に金沢に着いた『白山1号』から、あなたが降りて来たという支店の人間の証言だけなんですよ」  と、亀井が、いった。 「冗談じゃない。写真と、女子大生の証言があるじゃありませんか」  と、長田は、抗議した。 「写真は、誰かに頼んで、撮っておいて貰ったのかも知れないし、女子大生も、金で、傭《やと》ったのかも知れない」  亀井が、肩をすくめるようにして、いった。 「警察は、なぜ、そんなに、疑い深いんですか? 僕は、誰にも頼んでいないし、あの女子大生と、何の面識もなかったんですよ」 「かもしれませんが、二十八日に、予行演習をしたとなると、疑わざるを得なくなるんですよ。なぜなら、この時刻表では、列車の中のアリバイが、不足なので、人に頼んで、車内の写真を撮って貰い、女子大生に、嘘《うそ》の証言をして貰ったことが、考えられるんですよ」 「冗談じゃない。疑うのも、いいかげんにして下さい」 「二十八日に、あなたが、予行演習なんかしなかったことがわかれば、われわれは、全く、疑いませんよ。しかし、二十八日に、予行演習をしたとなると、話は、違ってくるんです」 「僕は、予行演習なんかしていませんよ。二十八日は、西伊豆の三津浜へ行ったんです」  と、長田は、いった。 「それを、証明できますか?」  と、亀井が、きく。 「ひとりで、海辺にいたんだから、証明できる筈がないじゃありませんか?」 「それなら、われわれが、証明しますよ。三津浜のどの辺に、行かれたのか、それを教えてくれませんか」  亀井という刑事は、執拗《しつよう》だった。 「教えるも教えないも、僕は、考えごとをしたかったから、人のいない海岸を選んで行ったんですよ。こんな訊問《じんもん》をされるとわかっていれば、人の沢山いる所へ行っていましたよ」  長田は、亀井を睨《にら》んで、いった。 「三津浜では、毎月、八の日に、ある行事をやっているんですが、二十八日も、当然、やっていたと思いますが、ご覧になりましたか?」  と、亀井が、きいた。 (また、罠《わな》かな?)  と、長田は、疑った。  長田は、大学時代、三津浜へ行っているが、当時、そんな話は、聞いたことがなかった。  最近になって、亀井刑事のいうように、八の日に、何か行事をやるようになったのかも知れないが、罠かも知れないのだ。罠だったら、うかつに、見たとはいえない。 「知りませんね。今いったように、僕は、人のいない所を、探して、歩いていましたからね」  長田は、用心深く、いった。 「困りましたね」  と、亀井が、いう。 「僕は、別に、困りませんよ。とにかく、僕は、加代子を殺してないんだから」  と、長田は、主張した。これは、事実だから、大きな声で、いうことが出来た。      4  長田は、疲れて、マンションに、帰った。  何とか、いい逃れたのだが、あの二人の東京の刑事が、これで、納得したとは、思えなかった。 (上野駅で、二十八日に、見られたというのは、本当だろうか?)  長田には、判断がつかない。中央商事の得意先の社長というのは、何人も、いるし、長田は、つき合いがある。  長田は、何人もの顔を、思い浮べてみた。  その中の一人が、二十八日に、特急「白山1号」に、長田が乗るのを、見たのだろうか?  見たのかも知れないし、刑事のハッタリかも知れない。見当がつかなかった。  冷蔵庫から、ビールを出して、一本、二本と、飲んだ。酔っ払わなければ、このいらだちは消えてくれそうもなかった。  夜半近くには、酔っ払って、眠ってしまった。  長田は、電話のベルの音で、眼をさました。  枕元《まくらもと》の時計を見ると、午前一時に近い。あの二人の刑事に、追い廻される夢をみていたので、長田は、受話器を取ると、不機嫌に、 「もし、もし」  と、いった。 「どうしたの? いやに、不機嫌ね」  と、女の声が、いった。  あの女の声だった。 「何の用だ?」 「今日は、東京の刑事につかまって、油をしぼられてたみたいね」  また、女は、楽しそうないい方をした。 「見てたのか?」 「さあ、どうかしら」  と、女は、笑ってから、 「二十八日に、予行演習をやるなんて、バカなことをしたものね。警察が、怪しむのも、当然だわ」 「何をいってるのか、わからないよ」  と、長田は、いった。 「私には、嘘《うそ》をつかないでね。私には、何もかも、わかっているんだから。二十八日に、あなたが、上野駅で、『白山1号』に乗るのを見られているのは、本当よ。あなたを見たのは日東《につとう》製工の和田《わだ》という社長さんよ。知っているでしょう?」 「知ってる。が、なぜ、君は、和田社長のことまで、知ってるんだ?」 「他《ほか》にも、あなたについては、いろいろと、知ってるわ。とにかく、あの二人の刑事には、用心した方がいいわね。十津川という警部は、一見平凡に見えるけど、意外に頭が切れるし、亀井刑事の方は、名前通り、ゆっくりとだけど、粘っこいからよ」 「僕は、殺してないんだ!」  と、長田は、怒鳴《どな》った。 「その元気なら、大丈夫ね。『白山1号』の女子大生なら、心配はいらないわ。絶対に、証言は変えないから」 「なぜ、そんなことが、断言できるんだ?」 「理由はいえないけど、絶対に、大丈夫。警察に対しては、木元加代子は殺してないと、否定していれば、大丈夫よ。警察だって、決め手はないんだから」  と、女は、いった。 「君は、何者で、何を企《たくら》んでいるんだ?」  と、長田は、きいた。が、女は、 「また、電話するわ」  と、いって、電話を切ってしまった。 (なぜ、今日、東京の刑事と、会ったのを、知っていたんだろう?)  と考え、長田は、一つの結論に、達した。 (尾行されていた)  それが、結論だった。 [#改ページ]  第四章 目撃者  十津川と、亀井は、その日、金沢のホテルに、一泊することにした。 「奴《やつ》は、嘘《うそ》をついていますよ」  と、亀井は、夜食に、ルームサービスで、カツ重を食べながら、十津川に、いった。  十津川の方は、鍋《なべ》やきうどんをとった。最近、少し太り気味で、それを、妻の直子《なおこ》に、注意されていたからである。 「私も、彼の顔を見ていて、そう思ったよ。二十八日は、西伊豆へ行ったというのは、嘘だね」 「ですから、和田という中小企業の社長のいったことは、当っているんです」 「上野駅で、二十八日に、長田を見たということだろう?」 「そうです。和田社長は、声をかけたが、長田が、知らん顔をしていたので、人違いかもしれないと、いっていましたが、間違いなく、長田だったんですよ」 「それに、長田は、カメさんが、時刻表のメモを見せたら、一瞬、顔色を変えたね」 「そうです。あのとき、私は、彼が、ホシだと、確信しましたよ」  と、亀井は、いい、豚《トン》カツの大きなかたまりを、口に、放《ほう》り込んだ。 「二十八日に、予行演習をやり、三十一日に、実行したか」 「そうですよ」 「しかし、三十一日の彼のアリバイは、どうするんだ? 彼は車内風景を、写真に撮っているし、女子大生も、彼を、確認しているからね」  と、十津川は、いった。  亀井は、お茶を一口飲んでから、 「写真は、誰かに、頼んだに決まっていますし、あの女子大生も、同じですよ」 「金で、傭《やと》ったか?」 「そうです」 「それを、証明できればいいんだがね」 「誰に頼んで、写真を撮って貰ったのかわかりませんが、例の東京の女子大生の方は、名前もわかっていますから、何とか、事実を話させることが、できると思います」  と、亀井は、いった。 「あの女子大生だがねえ」 「ええ」 「いくら調べても、長田との関係は、見つからなかったんだろう?」 「そうです」 「そうなると、長田に頼まれてというのは、ちょっと、おかしくはないかね?」 「私は、三十一日に、『白山1号』の車内で、長田が、頼んだんじゃないかと、思うんです」  と、亀井が、いった。 「三十一日にかね?」 「そうです。長田は、二十八日は、予行演習をやりました。その時、車内で、写真を撮ることと、誰か一人、証人を作ることを、考えたんですよ。だが、なかなか、見つからない。知人か、友人に、写真を撮ってもらうことは、頼んだが、証人にはできない。長田と、関係のある人間だからです。そこで、三十一日の当日、車内で出会った女子大生に、頼んだんだと思いますよ。車内で、友人が、あなたの写真を撮るが、僕が、撮ったことにしてくれとです」  と、亀井が、いう。  十津川は、首をかしげて、 「初めて会った女子大生が、そんなことを、承知するかね?」 「今の若い娘は、金さえ貰えば、たいていのことを、承知するんじゃありませんか? それに、まさか、殺人事件のアリバイ作りに、自分が、利用されるとは、思わんでしょうから、気楽に、引き受けたんじゃありませんか?」 「気楽にね」 「そうです。小谷ゆう子というあの女子大生に、もう一度会って、今度は、殺人事件のアリバイを調べているんだと、正直に話して、みましょう。彼女、びっくりして、本当のことを、話してくれると、思います」 「そうだと、いいがね」 「長田が犯人なら、小諸あたりで、彼が写したというのは、嘘に決っているんですから」  と、亀井は、いった。 「二十八日の件は、難しいな。この日は、殺人は、起きていないんだから、あれ以上、長田を、訊問するわけにも、いかんだろう」  と、十津川は、いった。 「二十八日は、予行演習をしているに違いないんですから、この時刻表のどこかで、長田は見られている筈《はず》です。上野駅で、和田社長に見られたように、『白山1号』の車内でも、富山行の飛行機の中でもです」 「誰か、覚えているかね?」 「調べてみましょう。誰か覚えている筈です」  と、亀井は、自信満々に、いった。  翌朝、朝食のあと、二人は、富山空港に向った。  空港に着くと、全日空事務所で、二十八日の羽田一三時〇五分→富山の便に乗務したスチュアーデスに、会いたいと、告げた。  次の便で来るというので、十津川と、亀井は、ロビーで、待っていた。  五分おくれて、羽田から、着いた便に、二十八日と同じスチュアーデスが、二人乗っていて、話を聞くことが出来た。  十津川が、長田の写真を見せて、二十八日に乗らなかったか、聞いた。  二人のスチュアーデスは、長田の写真を見て、考えていたが、一人は、乗っていたように思うといい、もう一人は、わからないと、首を振った。  十津川たちは、当日の問題の便の乗客名簿を見せて貰った。が、その中に、長田の名前はなかった。  もちろん、それは、長田が乗らなかったという証拠にはならない。二十八日に、長田が、予行演習をしたとすれば、恐らく、偽名で、乗っているだろう。  二十八日のこの便の乗客は、二百六人だった。  十津川と、亀井は、その中から、東京が住所になっている百十一人の名前、住所を、書き抜いて、東京に戻った。  その中に、長田がいる筈だと思ったわけではない。この百十一人に会って、二十八日の機内で、長田を見なかったかを、聞くためである。  十津川と、亀井は、東京に着くと、手のすいている刑事たちを動員し、各自に、長田の写真を渡した。そして、百十一人の乗客名簿を地区ごとに分けて、刑事たちに、持たせた。  聞き込みが、始まった。  十津川が、期待したのは、二十八日の機内で、偶然、長田の隣りに座った乗客がいて、証言してくれることだった。  当日と、翌日の二日間かかって、百十一人の聞き込みが行われた結果、十津川の期待した結果が、出た。  ボーイング767の中央部、右側の窓際の席に座っていた男が、写真の人だという証言が得られたのである。  東京都|世田谷《せたがや》区の酒屋の主人で、五十六歳。二十八日には、金沢に嫁いでいる娘のところへ出かけたという。 「この写真の人は、私の隣りでしたよ。やたらに、時計を気にしていましたね。スチュアーデスに、いつも、定刻に、富山に着くのかと、聞いていましたね。ああ、それから、煙草を吸おうとして、禁煙だと、スチュアーデスに、注意されていましたよ」  と、酒屋の主人は、笑って、刑事に証言した。  十津川が、改めて、二人のスチュアーデスに電話してみると、確かに、そういう男の客がいたということだった。  その男の客は、座席番号から、金沢市|常盤《ときわ》町の横田啓《よこたひらく》となっていたが、石川県警に照会したところ、案の定、この住所に、横田啓という人物は、いないという返事だった。 「やはり、長田は、二十八日に、例の時刻表で、予行演習をやっていたんですよ」  と、亀井は、嬉《うれ》しそうに、いった。 「間違いないようだね」  と、十津川も、肯《うなず》いた。 「これで、彼が、犯人である確率は、九九パーセントですね」  と、亀井が、いう。 「次は、三十一日について、同じ捜査をやってみよう」  と、十津川は、元気に、いった。  三十一日の同じ便の乗客名簿が、取り寄せられた。  ひょっとして、長田は、三十一日も、同じ、「横田啓」の偽名で、乗っていたのではないかと考えたが、さすがに、それはなかった。  十津川たちは、二十八日の乗客にしたと同じように、三十一日の東京の乗客に、片っ端から、当っていった。  今度も、同じような結果が出て、十津川と、亀井を喜ばせた。  長田と思われる男の隣りに座った乗客が、見つかったのである。もし、見つからなければ、東京以外の住所の乗客にも、当る気だったのだが、幸運だった。  今度は、東京|杉並《すぎなみ》の二十五歳のOLで、会社に、三日間の休暇を貰い、両親の住む高岡に帰ったのだという。  尾部に近い座席で、間違いなく、長田と思われる男が、隣りにいたと、証言した。 「よく覚えているのは、その人が、青い顔で、飲み物を、こぼしてしまったからなんです。そんなに、飛行機が怖いのなら、新幹線に乗ればいいのにと、思ったからなんです」  と、彼女は、いった。  この便に乗務したスチュアーデスにも、問い合せた結果、確かに、飲み物をこぼした男の乗客がいたという証言が得られた。  この男の名前も、座席から、わかった。  富山市|浜黒崎《はまくろさき》の「向井昭《むかいあきら》」と、乗客名簿には、書かれていた。  十津川は、同じように、富山県警に照会したが、やはり、その住所に、該当者は、見当らないという回答があった。  どうやら、この偽名の男が、長田と思われるのだが、十津川は、横田啓、向井昭という二つの偽名に、興味を持った。  人間は、頭の中で考えて、ポンと、偽名を作るのは、意外に難しいものである。一番簡単と思われる山田花子でも、郵便局の通帳見本からの連想なのだ。  もっともらしい偽名を考えると、どうしても、実際にある名前を、使いたくなる。安心感もあるからだ。  十津川は、長田が、何から二つの偽名を作ったかを、調べてみることにした。  電話帳は、まず、ないだろうと思った。大き過ぎるし、一つの偽名を作るのはいいが、二つ作るとなると、意外に不便である。同じような名前が、ずらりと、並んでしまっているからである。  多分、大学時代の同窓生名簿か、会社の社員録を、使ったのだろうと、十津川は、眼をつけた。  その二つを、ひそかに、取り寄せて、調べてみた。  十津川の予想は、当っていた。どうやら、長田が利用したのは、彼が出たN大の同窓生名簿のようだった。  その中に、四つの名前が、見つかったからである。  横田|孝雄《たかお》  柳田《やなぎだ》啓  向井|泰輔《たいすけ》  安藤《あんどう》昭  恐らく、長田は、この四人の名前を組合せて、横田啓、向井昭という二つの偽名を作ったのだろう。  十津川が、これを見せると、亀井は、一層、勢い込んで、 「これで、長田を逮捕できるんじゃありませんか」 「確かに、彼が、犯人であることは、間違いないと思うが、問題は、三十一日の『白山1号』に乗っていた例の女子大生だよ。彼女が長田に車内で会って、写真を撮って貰ったといっている限り、彼を、犯人として、逮捕することは、難しいよ。三十一日に、羽田—富山の飛行機に乗ったのは、あくまでも、長田によく似た男ということになってしまうからね」  と、十津川は、いった。 「もう一度、あの女子大生に、会ってみようじゃありませんか」  と、亀井は、いった。 [#改ページ]  第五章 電 話      1  何事もなく、数日が過ぎ、金曜日の夜を迎えた。  長田の働く中央商事では、最近、土、日が二連休になっている。  支店からの帰りに、飲んで、したたかに酔っ払って、長田は、マンションに戻ったが、ドアを開けたとたんに、電話のベルが鳴った。  長田は、無視しようとしたが、いくらでも、鳴り続ける。執拗《しつよう》な鳴り方だった。  長田は、根負けした形で、受話器を取った。  いきなり、あの女の声が、飛び込んできた。 「今日は、午後六時から、一時間おきに、電話してたのよ」  と、彼女は、甲高い声で、いった。 「ちょっと、飲んで来たんだよ」 「支店に、赴任した早々、飲んでばかりいてはいけないわね」 「君に、説教される理由はないよ」  と、長田は、突っけんどんに、いってから、 「今日は、何の用だ?」 「もっと、優しいいい方は出来ないのかしら? 私と、あなたとは、共犯者みたいなものなのにね」  と、彼女は、いった。 「私の方は、君とは、関係を絶ちたいんだ」 「それは、出来ないわ。私は、あなたの恩人なんですからね。それを忘れたら、あなたは、すぐ、刑務所行なのよ」 「それで、何の用なんだ?」 「そんないい方をするところをみると、まだ、手紙を見てないのね?」  と、女は、いった。 「手紙?」 「今日中に着くように、手紙を出しておいたのよ。だから、着いている筈《はず》だわ」  と、女は、いった。  前に、電話して来たときは、「——ですわ」と、一応、丁寧な言葉使いだったのに、今日は、妙に、馴《な》れ馴れしい。  長田は、眉《まゆ》をひそめながら、 「ちょっと、待ってくれ」  と、いっておいて、ドアに付いている郵便受を、調べてみた。  新聞や、ダイレクト・メイルと一緒に、白い封書が、見つかった。  封筒の表には、ワープロで、このマンションの住所と、長田の名前が、書いてあった。  差出人の名前は、木元加代子だった。相変らず、殺された女の名前を、ワープロで書いてくるというのは、どういう気なのだろうか? (嫌な女だ)  と、思いながら、長田は、封を切り、中身を、取り出した。  便箋《びんせん》が一枚入っていて、それにも、ワープロの文字が、並んでいた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈四月九日(土)に、東京へ行き、四谷《よつや》のホテル・ニューオータニに泊って下さい。あなたの名前で、部屋をとっておきました。そのあとは、こちらから、電話をかけます〉 [#ここで字下げ終わり]  それだけの文面に眼を通してから、長田は、もう一度、電話に戻った。 「読んだよ。どういうことなんだ?」 「そこに書いておいた通りだわ。明日になったら、東京へ行き、ニューオータニに、チェック・インして貰《もら》いたいの。午後二時までにね」 「もし、嫌だといったら?」 「あなたに、そんな勇気があるとは、思えないけど」  と、女は、いった。  その通りだった。何といわれようと、刑務所には、行きたくないのだ。 「行ったら、どうなるんだ?」 「ニューオータニに入って、あとは、私の電話を待ってくれればいいの」 「いつ、電話してくる?」 「わからないわ。二時にかけるかも知れないし、もっと、遅くなるかも知れないわ」 「食事はどうするんだ?」 「お腹《なか》がへったら、ルームサービスでとること」  と、いってから、女は、 「とにかく、今、いったように、明日の午後二時までに、ホテル・ニューオータニにチェック・インしておくことね。こちらの指示通りにしないと、あなたは、刑務所行だわ」  と、脅かすように、いった。 「加代子は、君が殺したのか?」 「あなたが殺したんじゃないの? 三月三十一日に」  と、女は、いい、電話を切ってしまった。      2  長田は、自分が、電話の女に、いいように引きずり廻《まわ》されていることに、怒りと、同時に、恐怖も、感じた。相手の狙《ねら》いが何なのか、見当がつかなかったからである。 (あれが、まずかったのだ)  と、長田は、唇を噛《か》んだ。  警察がやって来て、木元加代子が殺されたといわれた時、自分を守るために、謎《なぞ》の女のくれた写真を、利用してしまった。  あの瞬間、自分の運命を、女に握られてしまったのである。  今更、妙な女に貰った写真といっても、警察は、信用してくれないだろう。それどころか、アリバイ作りに、女を利用した卑劣な殺人犯、完全な計画殺人ということになってしまうに、決まっている。  ここまで来てしまうと、刑務所行を覚悟で、警察に、全《すべ》てを話すか、謎の女のいいなりになるかしかないのだ。  結局、長田は、翌、四月九日、東京に向って、金沢を発《た》った。  妻のゆみには、内緒だった。あれこれ聞かれるのは嫌だということもあるし、彼女との間は、加代子のことで、冷え切ってしまっている。事実を話したところで、妻のゆみが、一緒になって、苦しんでくれる期待は、全く、持てなかった。  上野行の列車の中でも、長田は、考え込んでいた。  いったい、あの女は、何を考えているのだろうか? 何が狙いなのだろうか?  彼を、東京のホテルに泊らせて、何をやらせようとしているのかも、わからない。  結局、長田は、午後二時までに、四谷にあるホテル・ニューオータニに、着いた。  長田の名前を、フロントで告げると、女のいった通り、予約が取れていて、ボーイに、本館の一三〇七号室に、案内された。  ダブルの部屋だった。  金沢から、上野までの列車の中では、あれこれ、考えていたが、東京に着き、ホテルに入ってしまうと、かえって開き直った気持になってしまった。いくら考えても、相手の意図が、読み取れなかったからである。  とにかく、相手が、どう出るか、それを見るより仕方がないのだ。  部屋に備え付けの冷蔵庫から、缶ビールを取り出し、窓の外を見ながら、飲み始めた。  東京は、なつかしかった。妻のゆみに会いたいとは、思わないが、東京には、戻って来たいと思う。金沢は、観光にはいい町だろうが、長田には、意志の通い合わない町である。  長田は、アルコールに、あまり強くないから、真昼間から、ビールを飲むことなど、めったにないのだが、今は、やたらに、飲みたかった。  テーブルの上に、缶ビールの空缶が、たちまち、二本、三本と並んでいったが、いっこうに、酔わなかった。  三時近くなったとき、部屋の電話が、鳴った。  一瞬、長田は、電話機を見つめてから、手を伸ばして、受話器を取った。  男の声が、 「長田様に、木元加代子様からお電話です」  と、いい、電話が、つながれた。 「来てくれたので、安心したわ」  と、例の女の声が、いった。 「来るより仕方がないだろう」  と、長田は、不貞腐《ふてくさ》れて、いった。  女は、また、笑った。よく笑う女だ。 「もし、来ていなかったら、警察へ電話して、全てを、話さなければならないなと、思っていたのよ。あなたを、刑務所へ入れずにすんでほっとしたわ」 「用件を、いってくれ」  と、長田は、いった。 「そこに、メモ用紙があるわね?」  と、女が、きいた。 「電話の傍《そば》にあるよ」 「じゃあ、そこに、メモをして貰うわ。四六〇—××××」 「何だ? 電話番号か?」 「もちろん、そうよ。午後四時きっかりに、そこへ電話して貰いたいの」  と、女は、言った。 「相手は、誰《だれ》なんだ?」 「名前だけは、教えてあげるわ。村田淳《むらたじゆん》。それ以上のことは、知らない方が、いいわね」 「それで、電話するだけでいいのか?」  と、長田は、きいた。 「赤坂に、ナポリというイタリア料理の店があるわ。地下鉄赤坂駅の傍だから、行けば、すぐ、わかる筈よ」 「ナポリ? それが、どうかしたのか?」 「まず、午後四時になったら、今いった番号に、電話をかけるのよ。相手が、村田淳であることを確かめて欲しいわ。相手は、どこへ持って行けばいいんだと、聞く筈だから、その時は、赤坂のナポリに、午後六時に来てくれというのよ」  と、女は、いう。 「それで?」 「相手は、きっと、目印はと、きくと思うの。そしたら、ナポリの奥のテーブルで週刊アルファを、テーブルの上に置いておくと、いったらいいわ。あの週刊誌は、表紙が、派手だから」 「それから?」 「村田は、また、写真のことを聞くと思うわ」 「写真? 何の写真だ?」 「それは、あなたは、知らなくていいの。聞かれたら、取引きが、順調にいけば、あとから、必ず、郵送するといえばいいわ。それで、相手が、納得しなかったら、取引きは、中止だと、脅して。多分、相手は、それで、取引きに応じてくるわ」 「何の取引きなんだ?」  と、長田は、きいた。が、女は、それには答えず、 「あなたは、そのあと、午後六時までに、赤坂のナポリに行き、週刊アルファをテーブルの上に置いて、食事をしなさい。さして、高くない店だから、部長さんの給料なら、気軽に、食事できる筈よ。村田淳が、やって来たら、相手の渡すものを受け取って、ホテルに、帰っていること。余計なことを、喋《しやべ》らない方がいいわ。といっても、あなたは、知らないでしょうけどね」 「そのあとは、どうするんだ?」 「また、午後九時に電話を入れるわ。だから、それまでに、ホテルに帰って来て貰《もら》わないと困るわね」  と、女は、一方的に、いってから、 「村田という男の人相を教えておくわ。年齢は、四十歳。エリートサラリーマンで、いつも、きちんと、背広を着ているわ。身長は、一七八センチで、少し高い方ね。丸顔で、頭の毛は、少しうすくなっている。俳優のSによく似ているのが自慢だから、見れば、わかる筈よ」 「私が、いう通りにすると、思ってるのか?」 「思ってるわ。刑務所へ行くのは勝手だけど、殺人、それも、計画殺人だと、十年は、入っていなければならないわよ」  と、女は、いい、電話を切ってしまった。      3  午後四時になると、長田は、ためらいながらも、指示された通りの番号に電話をかけた。  刑務所へ行くのは、嫌だったし、どんな風になるのかにも、興味があったからである。  すぐには、相手が、出なかった。  二、三分して、やっと、男の声が出た。 「もし、もし」  と、声を落として、いる。 「村田さんですね?」  と、長田は、きいた。 「ああ、そうだ。どうすればいいんだ?」  男の声は、怒っているように、聞こえた。  ふと、長田の心にサディスチックな興味がわいてきた。  思ってもみなかったことである。相手は、こちらのことを何も知らず、怯《おび》えているに違いない。そう考えると、急に、面白くなってきたのだ。 「あわてなさんな」  と、長田は、優位に立った気分で、相手にいった。 「早くいってくれ。こんなことは、早くすませたいんだ」  男は、いらだった調子で、いう。  長田は、ますます、サディスチックな気分になって、 「おれは、午後六時に、赤坂のナポリという店へ行く。一緒に夕食を、どうだね?」 「そこへ行けばいいのか?」 「午後六時だよ。持って来るものは、忘れなさんなよ」 「わかってる。そっちも、ちゃんと、持って来いよ」 「わかってる」 「間違いないという目印は?」 「おれは、その店で、奥に座り、週刊アルファを、テーブルの上に、置いておくよ」  と、長田は、いった。 「これで、終りなんだろうな? 約束は、守ってくれるんだろうね?」 「それは、そっちの出方次第だ」  と、長田は、いった。  電話のあと、長田は、五時を過ぎてから、ホテルの売店で、週刊アルファを買い求め、それを持って、タクシーで、赤坂に向った。  女のいった通り、地下鉄赤坂駅の近くに、ナポリという料理店が、あった。  洒落《しやれ》た店で、イタリアの旗が、飾ってある。  長田は、店に入り、奥のテーブルに、腰を下ろした。  メニューを見たが、イタリア料理は、初めてなので、よくわからなかった。仕方なく、知っているあさりのスパゲティを、注文した。  午後六時近くになると、緊張が、高まってくる。  折角の週刊アルファを、ポケットにねじ込んだままだったので、あわてて、テーブルの上に置いた。  サングラスも、かけた。  ふいに、眼の前に、男が立った。中年の背の高い男である。  なるほど、俳優のSに似た顔だった。頭髪がうすくなっている。 「村田さんですね?」  と、長田の方から、声をかけたのは、黙っていると、息苦しくなってくるからだった。  男は、緊張し、青白い顔をしている。黙って、長田の前に腰を下ろし、 「持って来たぞ」  と、声をふるわせ、テーブルの上に、ヴィトンの小さなボストンバッグを、置いた。  その手が、小さくふるえていた。  それを見て、長田は、また、落ち着きを、取り戻した。明らかに、こちらの方が、優位に立っているのだ。  長田が、ボストンバッグの中を、見ようとすると、男は、 「ちゃんと、入っているよ」  と、いった。 「じゃあ、あんたを信用しよう」 「それで、あれは?」 「写真か?」 「そうだ。早く、渡してくれ」 「あわてなさんな。写真は、あとから郵送するよ」  長田は、無意識に、脅かすような口調になっていた。 「信用していいのか?」 「信用してくれなきゃ、困るよ。一緒に、食べていくかね?」 「必ず、写真を渡してくれよ。ネガも一緒だ」  と、いって、村田は、足音荒く、帰ってしまった。とたんに長田は、気が抜けたようになり、小さな溜息《ためいき》をついた。      4  すぐ、ボストンバッグの中を、見たかったが、客が混《こ》んで来てしまい、仕方なく、長田は、ホテル・ニューオータニに、戻った。  ドアに、カギをかけてから、長田は、ボストンバッグを開けた。  銀行の名前の入った袋に詰められた、一万円札の束が、出て来た。  百万円の束が十箇。一千万円である。  多分、札束だろうと、思っていたのだが、実際に、眼の前に見ると、自然に興奮してきた。  やはり、ゆすりだったのだ。だが、恐しいという気持にはならなかった。あの村田は、どうせ、悪いことをしたのだろう。だから、ゆすられているのだと思っただけだった。  それどころか、いかにも、エリート然とした感じの相手に、反感を持ち、いい気味だという気分になっていた。  長田も、少し前までは、他人《ひと》に羨《うらや》ましがられるエリート社員だったのである。それが、あの女のおかげで、一瞬の中《うち》に、奈落《ならく》に落ちてしまった。だから、余計、エリート然とした男には、腹が、立ってくるのである。  その男を、脅してやれたと思うと、いい気分になってくるのだ。  長田は、一千万円の札束を、テーブルの上に置いて、しばらく、眺めていた。  午後九時かっきりに、あの女から、電話がかかった。 「うまくいったようね」  と、女は、いきなり、いった。 (見ていやがったのか)  と、長田は、思いながら、 「あの男の秘密の写真でも撮って、ゆすったんだな?」  と、きいた。 「そんなことは、知らない方がいいわ。それとも、殺人以外の罪も、かぶりたい?」  女は、からかうようないい方をした。 「あの一千万円は、どうすればいいんだ? ここに、取りに来るのかね?」 「あなたは、明日、そこを、チェック・アウトして、奥さんや、子供に、会っていらっしゃい」 「別に、会いたくもないよ」  と、長田は、いった。 「せっかく、日曜日を、あけてあげたのに、そんなこというもんじゃないわ。それに、全く家族に会わないと、警察に疑われるわよ。何かあるんじゃないかと」  と、女はいった。 (そうかも知れない)  と、長田も、思った。警察は、まだ、彼のことを、シロと見たわけではない。  それは、よく知っているからである。 「わかったよ」  と長田は、いった。 「聞きわけがよくて、ほっとしたわ」 「この金は、どうすれば、いいんだ?」  と、長田は、きいた。 「明日、チェック・アウトする時、ボストンバッグをきちんと閉めて、ホテルのフロントに、預けていって欲しいわ。木元という女性が取りに来たら、渡して、下さいと、いってね」 「フロントにね」 「お礼に、その中の百万円を、あげるわ。百万円あれば、ちょっとした奥さん孝行が、出来るわよ」 「そんな気はないよ」 「じゃあ、百万円で、遊んだら? かなり、ぜいたくに遊べる筈よ」  と、女は、いった。  そんな金が貰えるか!——と、いいたかったが、長田には、出来なかった。自分のだらしなさに、自分で腹を立てながら、その一方で、百万円あれば、存分に、うさ晴らしが出来るなとも、計算していた。  長田が、黙っていると、女は、 「いいこと、ボストンバッグを、フロントに預けておいて、ロビーで、見張っていたりしたら、こちらは、すぐ、警察に、通報するわよ。そのことは、覚えておいてね」  と、いって、電話を切った。  そのあと、長田は、しばらく、考え込んでいた。いや、正確にいえば、呆然《ぼうぜん》としていたというべきだろう。  相手の自信満々ないい方に、圧倒されてしまったといってもいい。  あの女は、長田が、一千万円を持ち逃げすることなど、全く、考えていないらしい。絶対に、指示通りに、動くと、信じているのだ。 (あの自信は、どこから来るのだろうか?)  ふと、そんなことまで、考えてしまう。  もし、逆の立場だったら、どうだろうかと、長田は、考えた。  たとえ、自分が、相手のアリバイを握っていて、自分の一言で、相手が、刑務所行とわかっていても、長田は、こんなに、自信満々には、なれないだろう。 (なぜなんだ?)  と、その方を、考えてしまった。  心理学でも、勉強していて、こちらの心理が、読めるのだろうか?  いや、そうではないだろう。学問なんて、実戦では、役に立たないものだ。 (ひょっとすると——)  と、長田は、思った。  彼が、考えたのは、女にとって、自分が、初めての獲物ではないのではないかということだった。  だから、経験で、長田が、結局、自分の指示通りに動くと、わかっているのでは、ないだろうか?  翌日、長田は、百万円を、自分のポケットに入れ、残りの九百万円が入ったボストンバッグを、フロントに預け、ホテル・ニューオータニを出た。  ロビーにかくれて、ボストンバッグを取りに来る相手を、見ていたい気がしたが、あの女は、間違いなく、警察に、連絡するだろう。そう思って、やめたのである。  と、いって、長田は妻のゆみに会いたいという気持は、なかった。  冷え切ってしまった相手である。恐らく、妻の方から、別れ話が、持ち出されてくるだろう。  何といっても、重役の娘なのだ。彼女も、父親も、長田の出世を信じて、結婚したのだろう。それが、駄目になれば、即、結婚は、失敗だったと、考えるに、違いなかった。  子供には、会いたかったが、子供にだけ、会うわけにはいかない。それなら、黙って、金沢へ戻ってしまった方がいいと、長田は、思った。  上野へ出たが、すぐ、列車に乗る気になれず、浅草へ出て、ソープランドで遊んだ。百万円という余分の金が入っていたから、ソープ嬢に、チップを沢山やった。  上野から、金沢へ戻る列車に乗ったのは、夕方になってからである。  長田は、奇妙な気持になったまま、列車にゆられていた。  これで、ますます、あの女のいいなりにならざるを得なくなってしまうのではないかという恐れと、不思議な充実感の二つを、感じていた。  もう一つ、あんなに簡単に、一千万円もの大金が、手に入るのかという思いもあった。  営業部長といっても、今の長田の給料は、五十万くらいのものである。ボーナスをいれても、年間、一千万円にならない。  それなのに、昨日一日で、あっさり、一千万円が、手に入ったのだ。もちろん、その金は、例の女のものになってしまったが、それにしても、簡単な仕事だったと思う。 (村田という男は、写真を渡せといっていたな)  と、長田は、考える。  不倫の証拠写真でも、あの女に、撮られたのか?  そういえば、長田の場合も、写真だった。  こちらは、長田を助ける写真だったのだが、結局は、それをタネに、脅迫されているのだ。 (プロの脅迫屋)  そんな言葉があるのかどうかわからないが、あの女は、ある意味で、プロではないのか?  そんなことを考えていて、金沢に着いた。  明日から、また、退屈で、出世の見込みのない仕事が、始まる。 [#改ページ]  第六章 ホテル      1  四月十一日の昼頃、石川県警の三浦警部から、十津川に、電話が入った。 「九日の土曜日ですが、長田は、どうやら、東京に行ったようです」 「それは、長田が、いったんですか?」  と、十津川は、きいた。 「いや、彼は、ただ、土、日と連休なので、金沢周辺を、見物して、廻ったと、いっているだけです」 「違うんですか?」 「証拠はありませんが、われわれが調べたところでも、金沢周辺のホテル、旅館には、泊った形跡が、ないんですよ」 「それで、東京へ行ったと、考えられたわけですか?」 「いや、それだけじゃありません。九日に、金沢駅で、彼を見かけた人間がいるんです。朝早くです。新潟行の列車に乗ったそうですが、新潟から、上越新幹線で、上野へ行ったと、私は、推測しています」  と、三浦は、いう。 「彼は、東京に妻子を残して、単身赴任でしたね?」 「そうです」 「妻子に、会いに行ったということは、ありませんか? 土、日の連休を利用して」 「それなら、金沢周辺を見物していたなんて嘘《うそ》はつかんでしょう」 「確かに、そうですね」 「それで、何とか、調べて貰いたいと思うのですが」 「東京の何処《どこ》へ行ったかをですね?」 「そうです」 「やりましょう。もともと、これは、うちの事件ですから」  と、十津川は、いった。  電話が切れると、十津川は、険しい顔で、考え込んでしまった。  十津川は、亀井たちと、何とかして、長田のアリバイを崩そうと、十日の日曜日に、例の女子大生に、会って来たのだ。  彼女、小谷ゆう子に、会うのは、これで、二度目だった。  八王子の豪華マンションである。 「あら、また、いらっしゃったんですか」  と、ゆう子は、びっくりした顔で、十津川と亀井を迎えた。 「三月三十一日の『白山1号』のことで、もう一度、お聞きしたいことがありましてね」  と、十津川は、いった。  ゆう子は、ニコニコしながら、 「構いませんわ。どんなことですか?」 「あなたの写真を撮った男のことです。どうしても、納得できないことがありましてね」 「でも、あの列車の中で、写真を撮られたことは、間違いありませんわ」  と、ゆう子は、いう。 「実は、長田は、三月二十八日に、同じ『白山1号』に乗って、金沢へ行っているんですよ」 「それが、何かおかしいんですか?」 「明らかに、殺人の予行演習だったんです」  と、亀井が、いった。  ゆう子は、「へえ」と、小さく、声を上げて、 「殺人の予行演習?」 「そうです。アリバイ作りの演習といってもいいんですがね」 「わかった」  と、突然、ゆう子は、大きな声をあげて、十津川を驚かせた。 「何がわかったんですか?」  と、十津川が、きいた。 「つまり、その予行演習どおりだと、列車の中で、乗客の一人の写真を撮ることは、出来ないということなんでしょう? 違いますか」  と、ゆう子はしたり顔で、いった。 「よくわかりましたね。正確にいうと、小諸あたりでは、絶対に、撮れないんですよ。富山と金沢の間でしか、撮れない筈なんです」  と、十津川は、いった。 「富山といったら、金沢のすぐ、手前じゃありません?」 「そうです」 「それは、絶対にありませんわ。間違いなく、小諸の近くでしたわ」 「思い違いということは、ありませんか?」  と、十津川は、念を押した。 「ありませんわ。富山は、午後でしょう?」 「一四時四八分発です」 「私が、写真を撮られたのは、午前中ですもの」  と、ゆう子は、いった。  なるほど、時刻表によれば、小諸は、一一時三九分なのだ。 「それを、証明できますか?」  と、十津川が、きくと、ゆう子は、眉《まゆ》を寄せて、 「警察は、私まで、疑ってるんですか?」 「そんなことは、ありませんが、何とかして、事件を解明したいのですよ。この男が、シロなら、シロであることを、証明したいわけです。それで、お願いしているんです」  と、十津川は、頼んだ。 「何を証明すれば、いいんですか?」  と、ゆう子が、きいた。 「この写真を撮ったのが、間違いなく、午前十一時頃だったという証明か、さもなければ富山—金沢間ではあり得ないという証明です」  と、十津川は、いった。 「突然、そういわれても——」  と、ゆう子は、当惑した顔になって、考え込んでいたが、 「第二の方なら、証明できるかも知れませんわ」 「どんな風にですか?」 「横川で峠の釜《かま》めしを買っていたので、それで、お昼をすませたんです。それが、十二時と、午後の一時の間だったと思います。そのあと、6号車に行ったら、東京のS大の男の学生が二人いて、声をかけられて、金沢まで、トランプをやっていましたわ」  と、ゆう子は、いった。 「その学生の名前は、わかりますか?」 「ええ」  と、ゆう子は、肯《うなず》き、隣りの和室から、封書を持って来て、十津川たちに、見せてくれた。  東京都 杉並区 下高井戸  大竹英明  これが、差出人の名前で、中には、便箋《びんせん》一枚と、写真が、五枚入っていた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈三月三十一日に、「白山1号」の車内で撮った写真が出来たので、送ります。もう一度「バクチ」をやりたいですね。渡辺《わたなべ》も、よろしくといっています〉 [#ここで字下げ終わり]  と、便箋には、書かれ、五枚の写真には、ゆう子と、若い男が二人、写っていた。 「こちらが、大竹《おおたけ》君、こちらが、渡辺君だったと思います」  と、ゆう子は、指さして、教えてくれた。      2  十津川と、亀井は、下高井戸《しもたかいど》のマンションに住む、大竹|英明《ひであき》というS大の学生にも、会いに、行った。  大竹は、車内でやった「バクチ」のことで、刑事二人が来たと思ったらしく、 「あれは、別に、どうってことはないんですよ。ただの遊びです」  と、しきりに、弁明した。  十津川は、笑って、 「それは、別に、構いませんよ。われわれは、あなたが、『白山1号』の車内で、何時頃、彼女と、トランプをしていたか、知りたいんです」 「何時頃?」 「そうです」 「正確な時間は、覚えていませんが、午後一時過ぎだったことは、間違いありません」  と、大竹はいった。 「なぜ、そういえるんですか?」 「なぜって、僕と、渡辺は、十二時過ぎに、駅弁を食べたんですよ。そのあと、ビールが飲みたくなって、6号車のラウンジへ行ったんです。だから、午後一時頃だった筈です。ラウンジで、缶ビールを飲んでいたら、彼女が、入って来たんです。美人だなと思って、声をかけたんです」 「それが、一時過ぎ?」 「一時半頃じゃなかったかな。お互いに、学生だということがわかって、丁度、渡辺が、トランプを持っていたんで、やろうということになったんです」 「何時頃まで、やっていたんです」  と、亀井が、きくと、大竹は、笑った。 「何時って、金沢に着くまで、三人で、ずっと、やってましたよ」 「一時半から、金沢着の午後三時三十二分までですか?」  と、十津川は、念を押した。 「そうです。楽しかったですよ」 「その間に、この男が、ラウンジにやって来て、彼女の写真を、撮ったということは、ありませんか?」  十津川は、長田の写真を、相手に見せた。  大竹は、興味|津々《しんしん》という顔で、写真を見ていたが、 「この人が、どうかしたんですか?」 「同じ『白山1号』の車内で、この男も、彼女の写真を、撮っているんですよ」 「そりゃあ、彼女が、美人だからでしょう」  と、大竹は、いう。 「この男が、午後二時四十八分から、金沢に着くまでの間に、彼女の写真を撮るということは、あり得ませんか?」 「それは、絶対に、あり得ないですよ。午後一時半から、彼女と三人で、ずっと、トランプをやっていたんだから」  と、大竹は、いった。  きっぱりしたいい方だった。 「それで、『バクチ』は、誰が、勝ったんですか?」  と、最後に、十津川が、きいた。  大竹は、ニヤッと、笑って、 「それが、彼女の一人勝ちでしたよ。彼女、度胸がありますよ」  と、いった。      3  この大竹という学生にしろ、小谷ゆう子にしろ、いくら調べても、長田との関係は、出て来ない。どこにも、接点は、なかった。ということは、彼らの証言を、信じるより、仕方がないということだった。  だが、長田が犯人に違いないという確信は、変らないのである。  そこへ、三浦警部からの電話だった。 「連休に、東京に戻っていたらしいというわけですか」  と、亀井も、考える顔になった。 「自宅には、帰っていないらしい」 「どうも、あの家庭は、冷え切っているようですからね。しかし、東京へ来ていたとすると、いったい、どこへ行ったんでしょうか?」  と、亀井が、きく。 「わからんなあ。一応、念のために、都内のホテルや、旅館に、当ってみるか。本名じゃ、泊っていないだろうがね」  と、十津川は、いった。  西本刑事たちが、電話で、都内のホテルや、旅館に、片っ端から、当ることになった。 「わかりました」  と、西本がいってきたときには、十津川の方が、驚いてしまった。  ホテル・ニューオータニに、本名で、泊っていたからである。  十津川と、亀井は、さっそく、ホテル・ニューオータニに、行ってみた。  フロントで、宿泊者カードを見せて貰うと、間違いなく、九日に、チェック・インしていた。  十津川が、長田の写真を見せると、間違いなく、この人ですと、フロント係が、いう。 「ひとりで、泊ったんですか?」  と、亀井が、きいた。 「そうです。お一人でした」 「誰かが、訪ねて来たということは、ありませんでしたか?」  十津川が、宿泊者カードの筆跡を見ながら、きいた。間違いなく、長田の筆跡だった。 「誰も来ませんでしたが、電話は、ありました」  と、フロント係は、いった。 「男ですか? それとも、女ですか?」 「女の人です。この長田様が、チェック・インされて、一時間ほどして、掛りました。それから夜にも一度。お部屋を予約されたのも、女の方です」 「女ですか。他《ほか》には?」 「他に、電話は、ありません。それから、長田様は、翌十日にチェック・アウトされたとき、小さなボストンバッグを、フロントに、預けていかれて、あとで、木元という女の人が取りに来るから、渡してくれといわれました」  と、フロント係が、いった。 「木元?」  十津川は、思わず、亀井と、顔を見合せてしまった。  木元といえば、殺された女の姓だったからである。 「それで、その女は、取りに来たんですか?」  と、十津川は、きいた。 「ええ。夕方になって、見えました。そして、ボストンバッグを、持って行かれましたが」 「どんな女の人でしたか?」 「サングラスをかけた、若い女の方です。背のすらりと高い、なかなかの美人でした」  と、フロント係は、微笑した。 「ボストンバッグの中身は、わかりませんか?」 「わかりません。中身を、拝見することはありませんから」 「そのボストンバッグですが、長田はチェック・インしたときも、持っていましたか?」 「さあ、覚えていませんが——」  と、フロント係は、いった。 「どんなバッグだったか、教えて貰えますか?」  と、亀井が、いった。 「ルイ・ヴィトンのボストンバッグですよ。確か、同じものが、このホテルの名店街で、売っている筈です」  と、フロント係は、いい、十津川たちを待たせておいて、取り寄せてくれた。  長さ二十センチほどの小さなものだった。  十津川は、借用証を書いて、そのボストンバッグを、持ち帰ることにした。  十津川には、もう一つ、確認したいことがあった。彼は、大竹英明が撮った小谷ゆう子の写真を、フロント係に見せた。 「木元という名前をいって、ボストンバッグを受け取りに来たのは、この女性じゃありませんか?」 「違いますよ。もう少し、年上の感じだったし、顔の輪郭も、違いますね」  と、フロント係は、いった。 「そうですか」  と、十津川は少しばかり、失望した表情になったが、 「あとで、係員を寄越《よこ》しますから、その女の似顔絵を作るのに、協力して下さい」  と、いった。      4  十津川と、亀井は、ホテルを出て、パトカーに戻った。 「私も、てっきり、小谷ゆう子だと思ったんですがねえ」  と、亀井は、車をスタートさせてから、十津川に、いった。 「カメさんも、同じことを、考えたのか?」 「そうです。あの小谷ゆう子は、長田が、前もって、アリバイ作りを頼んでおいたサクラだと、私は、思っていました。小谷ゆう子と、長田との間に、関係がないのは、純粋に、金で傭《やと》ったからではないか。そう思ったんです。それなら、まんまと、木元加代子を殺した今、礼金を払う筈だと、考えたわけです。このボストンバッグなら、一千万か、二千万くらい入れるのに、丁度いい。長田は、連休を利用して、あのホテルに来て、小谷ゆう子に、礼金を払ったに違いないと、思ったんですがねえ」 「私も、同じことを、考えたんだよ。ホテルに泊った長田に、電話して来たのは、小谷ゆう子で、彼女は、電話で、礼金の受け渡し方法を、指示して来たんだろうとね」  と、十津川は、いった。 「ところが、受け取りに来たのは、小谷ゆう子じゃなくて、がっかりしました」 「小谷ゆう子が、知り合いの女に頼んで、ホテルに、取りに行かせたのかも知れないがね」  と、十津川は、いった。  そう考えれば、二人の推理が、全く間違っていたことには、ならない。 「しかし、警部。肝心の現金を受け取るのに、代理人を、頼むでしょうか? もし、それなら、別に、ホテルでなくてもいいわけです。駅の手荷物預所に、預けておいて、預り証を、女に渡してもいいし、コインロッカーを利用すれば、お互いの顔を、第三者に、見られずに、すみます。なぜ、その方法をとらなかったんでしょうか?」  と、パトカーを走らせながら、亀井が、いった。 「カメさんのいう通りなんだ。駅のコインロッカーを使うのが、一番いい。ホテルでは、長田も、女も、フロント係に、顔を見られてしまうからね」 「そうでしょう。それで、受け取りに、代理人を使うのは、ナンセンスだと思うのですよ。顔を、第三者に見られたくないのなら、今、いったように、駅のコインロッカーを利用してもいいし、他に、方法は、あった筈です」 「すると、どういうことになってくるのかね?」 「それが、わからないんです」  と、亀井は、口惜《くや》しそうに、いった。  十津川は、捜査本部に着くと、すぐ、絵の上手《うま》い刑事を、ホテル・ニューオータニに、行かせた。  ホテルに、ボストンバッグを取りに来た女のモンタージュは、これで、出来るだろう。  十津川は、石川県警の三浦警部に電話をかけ、ホテル・ニューオータニで、わかったことを、話した。  三浦は、「なるほど、なるほど」と、肯《うなず》きながら、聞いていたが、 「すると、十津川さんは、長田が、東京に行って、アリバイの礼金を、払ったと、お考えなわけですね」 「他に、ありませんからね」  と、十津川は、いった。 「しかし、それにしては、おかしいと?」 「まず、ホテルに、長田という本名で、予約したことです。予約したのは、女の声だったといいますが、それにしても、なぜ、偽名にしなかったのか? 長田は三月二十八日の予行演習の時でも、飛行機には、偽名で乗っているんです。もう一つは、ホテルに、ボストンバッグを取りに来た女が、小谷ゆう子では、なかったことです。顔を、第三者に見られたくないのなら、他に、受け渡しの方法は、いくらでもありますからね」 「なるほど。その二つの疑問には、今のところ、解釈の仕方が見つかりませんか?」 「そうです」 「しかし、私も、そのボストンバッグには、札束が入っていたと、思いますね」  と、三浦は、いった。 「その点、同感です」  と、十津川も、いった。  四時間ほどして、ホテルにやっていた刑事が、帰って来た。  彼の描いた問題の女の顔を、十津川は、亀井と二人で、見た。  大きなサングラスをかけた女である。  美人でもある。 「確かに、これは、小谷ゆう子じゃありませんね」  と、亀井が、いった。 「年齢は、小谷ゆう子より、上じゃないかな」 「どう考えたらいいんですかね? この女のことを」 「長田が、犯人だとすれば、あのアリバイは作られたものだよ。もちろん、小谷ゆう子が、列車が、小諸附近を走っているときに、長田に写真を撮られたというのも、嘘《うそ》だ。だが、長田は、礼金を、他の女に払った。とすると、こう考えるより仕方がない。長田は、このモンタージュの女に、アリバイを頼んだ。この女は、自分が、『白山1号』に乗れないので、学生の小谷ゆう子を傭《やと》って、乗せた」 「或《ある》いは、こうかも知れません。この女が、『白山1号』の車内で、小谷ゆう子の写真を撮り、それを、長田に渡したというわけです。カメラごとです」  と、亀井が、いった。 「そうだね。小谷ゆう子の写真を撮る人間も必要なわけだよ。長田は、大宮—富山間は、乗っていないんだから」 「そうなんです。長田のアリバイを作るためには、最低二人の人間が、必要だったわけです」  と、亀井が、いった。 「何とかして、その女の身元を、知りたいがねえ」 「われわれの推理が正しければ、この女と、小谷ゆう子の間には、何らかの関係がある筈です」 「小谷ゆう子の周辺を調べていけば、自然に、この女が、浮かんでくるかな?」 「そう思います」 「やってみよう」  と、十津川は、いった。  モンタージュの女のコピーが作られ、それを、持って、刑事たちが、出かけて行った。  小谷ゆう子の友人、知人、大学の先輩などに当ってみるためだった。      5  この捜査には、十人を越す刑事が動員された。  しかし、なかなか、モンタージュの女の身元は、判明しなかった。  十津川と亀井の自信が、少しずつ、崩れていった。  それに、拍車をかけることが、一つあった。  十津川は、問題のボストンバッグに、札束を詰めてみた。一万円札で、二千万円まで入ることが、確かめられた。  恐らく、長田は、この中に、一千万円か、二千万円の札束を入れて、女に渡したに違いない。百万か二百万なら、封筒に入れて、渡せばいいのである。  多分、一千万円ぐらいだろうと、十津川は、見当をつけた。何しろ、殺人のアリバイを頼むのである。五百万では、少ないが、と、いって、二千万では、多すぎると、思ったからである。  その一千万円を、長田は、どうやって、作ったのか?  中央商事の金沢支店の営業部長といっても、サラリーマンである。ただ、重役の娘と結婚しているから、貯金は、あるだろう。そこで、最近、長田が、一千万円の金を引き出していないかどうか、銀行に協力して貰《もら》って、調べてみた。  だが、いくら調べても、長田が、一千万円を引き出した形跡がないのである。一千万どころか、百万とまとまった金額の引出しも、なかった。  また、ホテル・ニューオータニで九日に、長田を部屋に案内したボーイが、はっきりとは覚えていないが、あのとき、ヴィトンのボストンバッグは、持っていなかったような気がすると、いって来た。  捜査は、壁にぶつかってしまった。  モンタージュの女の身元はいぜんとして、判明しないし、長田が、アリバイの証言の礼として、一千万円ぐらいを、支払ったのだろうという推理も、崩れてきた。  ホテルのボーイの記憶が正しければ、長田は、何も持たずに、チェック・インしたことになる。  十日には、チェック・アウトしているのだから、長田は、九日の中に、ボストンバッグを、手に入れたことになる。もちろん、中身もである。  九日は、土曜日で、長田が、チェック・インしたのは、午後二時頃だから、銀行は、当然、閉っているし、CDカードも、使えない。とすると、金は、どこで、工面したのだろうかという疑問が、わいてくる。  ボストンバッグの方は、九日に、どこかで買い求めたのだろう。ホテル内のルイ・ヴィトンの店では、買ってないから、外出して、買ったと思われる。が、中身の金が、わからなかった。  長田は、妻子と会っていないから、家族が、渡したわけでもない。 「中身は、金ではなかったのかねえ」  と、十津川は、首をかしげてしまった。 「しかし、金以外は、考えられません。ただのプレゼントだとしたら、長田は、犯人ではなくなってしまいますよ」  と、亀井は、いった。 「このモンタージュの女の身元が、わかればねえ」  と、十津川は、溜息《ためいき》をついた。  十五日になって、また、石川県警の三浦警部から、連絡が、入った。 「昨日、長田が、車を購入しました」  と、三浦は、いった。 「それ、新車ですか?」 「そうです。二百万の国産車ですが、頭金として、八十万円を、現金で、払っています」 「彼の月給は、四、五十万のものでしょう?」 「そうです。その中、三十万ほどは、東京に残っている家族に、送っています」 「マンションの部屋代は、会社が出しているんですか?」 「半額を、会社が、負担していますから、長田の支出は、四万円でしょう」 「それでも、楽じゃありませんねえ」  と、十津川は、きいた。 「そうなんです。それに、まだ、給料前ですからね。どこから、八十万を、手に入れたのか不思議で、仕方がないんですよ」  と、三浦はいう。 「八十万ですか」  十津川も、考え込んでしまった。 「CDカードを持っていますから、それで、おろしたのかとも思ったんですが、長田は、最近、CDカードを、使っていないんです。となると、東京へ行って、儲《もう》けて来たとしか、思えないんですが」 「長田本人に、聞くわけにもいきませんね?」 「ええ。一千万、二千万なら、聞けますが、八十万では、前から、持っていたといわれれば、それで終りです」  と、三浦は、いった。  十津川は、また、考え込んでしまった。 「カメさんは、どう思うね?」  と、十津川は、亀井に、意見を求めた。 「私にも、わかりません。本当なら、彼は、東京へ行って、アリバイ作りの礼金を支払って、ふところが、寂しくなっていなければならない筈ですからね」  亀井も、首をかしげた。 「三浦警部は、長田が、東京で儲《もう》けて来たんじゃないかと、いっているがねえ」  と、十津川が、いうと、亀井は、 「そんなことは、ありえませんよ。長田は、犯人のアリバイを、作ってやったわけじゃないんですから」  と、いった。 「ひょっとして、長田は、犯人じゃないんじゃないかね?」      6 「しかし——」 「三月二十八日には、予行演習をしているというんだろう?」 「そうです」 「こう考えたら、どうかな。長田は、本気で、木元加代子を殺す気でいた。列車を使ったアリバイトリックを考え、三月二十八日には、予行演習までした。そして、いよいよ三月三十一日に、実行ということになった。計画通りに、木元加代子のマンションへ行ったら、他の誰かが、偶然、その時、彼女を、殺すのを、目撃したんじゃないのかね」  と、十津川は、いった。 「犯人は、別にいるということですか?」 「そうだよ。しかも、その犯人は、長田の知っている人間だったんだ」 「すると、こうなりますか? 長田が、ゆすられているのではなく、彼が、逆に、誰かを、ゆすっている——」 「ああ、そうだ」 「確かに、その考えもなり立ちますが、そうなると、モンタージュの女は、どういうことになるんでしょうか? 長田が、この女に、金を渡したと、思われますが」 「長田は、九日に、東京へ来て、ホテル・ニューオータニに、チェック・インした。その時、何も持っていなかったというから、九日中に、誰かを、ゆすって、金を手に入れたんだと思うね。誰かというのは、つまり、真犯人をということだよ。例えば、一千万円をゆすったとしよう。長田と、奥さんとは、多分、冷え切っているんだろう。そこで、新しい女を、作っていた」 「それが、モンタージュの女ということですか?」 「そうなるね。一千万円をゆすり取ったとすれば、その中の半分かそこら、を、女に渡し、自分は、残りを持って、金沢に行ったんじゃないかね。だから、すぐ、頭金として、新車が、買えたんだと思うがねえ」  と、十津川はいった。 「小谷ゆう子は、どうなりますか?」  と、亀井が、きいた。 「長田は、モンタージュの女と、木元加代子殺しの計画を練っていたんじゃないかね。『白山1号』を使ったトリックを考えたのは、金沢に赴任する長田だったと思うね。その計画に対して、モンタージュの女が、車内に、アリバイ作りのための女を一人、置いておくことを、提案したんだと思うね」 「モンタージュの女が、見つけて来たということですね」  と、亀井が、いう。 「そう思うね。長田とは、全く無関係な女子大生を、見つけて来たんだろう。結局、金をやったんだと思うが、或いは、モンタージュの女と、どこかで、つながっている女かも知れない」 「警部の推理が当っているとすると、木元加代子を殺した真犯人というのは、いったい、誰なんでしょうか? 長田の知っている人間じゃないかと、いわれましたが」  と、亀井が、きいた。  十津川は、考えながら、 「木元加代子が働いていたクラブは、中央商事が、接待用に、よく利用していた店だったね?」 「そうです。長田も、最初は、上司の伊東という部長に、連れて行かれたということです」 「それなら、その伊東という部長だって、容疑者の一人じゃないかね。木元加代子は、この部長とも、関係があったのかも知れない。彼女は、長田を、ゆすっていたと思うが、伊東という部長だって、ゆすっていたかも知れないんだ。この二人だけじゃない。彼女は、自分と関係のあった男たちを、片っ端から、ゆすっていたことだって、考えられるよ。中には、金を払っていた男だって、いるんじゃないかな」  と、十津川は、いった。 「長田は、どうしますか? 彼の身辺を洗うのは、中止しますか?」  と、亀井が、きいた。  十津川は、首を横に振って、 「いや、いぜんとして、あの男の容疑は、消えていないよ。だから、調べる必要はある。ただ、これからは、犯人は別にいるという可能性も考えて、捜査範囲を広げていこう。今いった、伊東という本社の営業部長も、対象の一人だ」 「わかりました」  と、亀井は、肯いた。 「それにしても、このモンタージュの女の正体が、わかれば、事件は、一挙に解決するんではないかと、思うんだがねえ」  十津川は、いらだたしげに、いった。 「その件では、もう一度、長田の女性関係を調べてみましょう。木元加代子のことがあったので、他の女性のことは、考えなかったのが、いけなかったと思います」  と、亀井は、いった。 「それに、引き続いて、小谷ゆう子という女子大生もだよ」  と、十津川は、付け加えた。 [#改ページ]  第七章 加 担      1  長田は、例によって、飲んで、マンションに帰った。  自分の部屋に入ってから、ドアに付いている郵便受けを、のぞいてみた。夕刊、広告などに混じって、雑誌大の茶封筒が、見つかった。  速達で、送られて来たものだった。宛名《あてな》は、ワープロで打ってあるが、差出人の名前は、なかった。  嫌な予感を覚えながら、長田は、封を切ってみた。  中には、写真が一枚、それに、その写真が折れないようにと、同じ大きさのボール紙が入っていた。  長田は、大きな写真を、机の上に飾って、眺めた。  三十五、六歳の男の上半身の写真である。  きちんと背広を着ているが、眼つきの鋭い、ぶつかったら、ちょっと、眼をそらせたくなる感じの男だった。  鼻の下に、ひげを生やしている。普通なら、ニヤけて見えるだろうが、この男の場合は、むしろ精悍《せいかん》に見える。  写真の裏には、これも、ワープロで、次のように、書いてあった。 ○身長 一七六センチ  体重 七五キロ  右足を少し引きずって歩く。  この男の顔をよく覚えておくこと。  覚えたあとは焼却せよ。  写真を送って来た人間の見当はすぐついた。あの女に違いないのだ。だが、目的が、わからなかった。  翌日の夜、彼女から、電話がかかった。 「写真は、届いたわね?」  と、彼女が、きいた。 「何の真似《まね》なんだ。おれは、こんな男は知らないし、興味もない」  長田は、吐き捨てるように、いった。  女は小さく笑って、 「別に、あなたを、ホモだなんて、思っていないわ。ところで、今度の日曜日、十七日が、何の日だか、わかってるわね?」 「知らないね」 「困ったお父さんね。あなたの娘さんの小学校で、春の運動会がある日よ」 「運動会?」 「可哀《かわい》そうに、奥さんが、教えてくれなかったの?」 「娘の運動会とか、父兄参観には、行かないことにしているんだ」 「では、今度の日曜日には、ぜひ、行ってあげなさい。十六日の土曜日に東京へ行き、ホテルに一泊してから、十七日の日曜日には、娘さんの通っている世田谷第×小学校に行くのよ。午前十時から、運動会は始まるけど、あなたは午後から参加するつもりで、午後一時に、小学校に着くように、行けばいいわ」  と、女は、いう。 「おれに、何をやらせようと、いうんだ? おれに、娘の運動会を見にいかせるのが、目的なんじゃあるまい?」  と、長田は、きいた。 「その通りよ。京王《けいおう》線の千歳烏山《ちとせからすやま》駅で降りて、北に向って、歩いて行く。甲州《こうしゆう》街道を渡って、更に北に行くと、N公園があるわ」 「知っているよ、娘の入学式のとき、行ったからね」 「それなら、話は、早いわ。このN公園を、斜めに横切ると、娘さんの小学校への近道になることも、わかってるわね?」 「それが、どうしたんだ?」 「あなたは、千歳烏山駅に降りてN公園に午後一時頃に行くようにして欲しいのよ。この時間は、守って貰《もら》わないと困るわ」 「なぜ、そんなことをしなくちゃ、ならないんだ?」  長田は、いらだってきて、自然に、声を荒らげた。  女は、そんな長田の気持には、構わずに、 「日曜だし、午後一時だから、公園には、人はいないと思うわ。子供たちも、その父兄も、運動会で、小学校に集まっている筈《はず》だからよ。それに、小さな公園で恋人同士が、散歩する場所でもないしね」 「早く、用件をいいたまえ」  と、長田は、いった。 「あなたは、午後一時に、N公園に入ったら、公衆トイレの裏のような、人の眼に触れない場所で、石で、自分の頭を殴るのよ。血が出るくらいにね」  と、女は、いった。      2 「石で、自分の頭を?」  長田は、思わず、顔をしかめて、きき返した。 「そうよ。拳大《こぶしだい》の石が、いくつかあるのは、調べてあるわ。それで、自分の頭を殴るのよ。それから、服に、土をこすりつけるのもいいわ」 「なぜ、そんなことをしなければ、ならないんだ?」 「質問は、私の話が終ってからにして欲しいわ。あなたは、服が汚れ、頭から血が流れ出ている恰好《かつこう》で、N公園の傍《そば》にある派出所に駆《か》け込むのよ。そして、今、あの公園で、男とすれ違ったとき、肩が触れたら、相手が、いきなり殴り掛って来たと、警官にいって頂戴《ちようだい》」 「————」 「あんな乱暴な男は、すぐ、捕えてくれというのよ」 「それで?」 「警官は、必ず、その男の人相はと聞くわ。その時、あの写真の男の人相をいえばいいの。背広も、あの写真と同じ、グレーで、ネクタイは、ストライプ。身長も、忘れずにね」 「なぜ、そんなことをしなければいけないんだ?」  と、長田は、きいた。  その質問には、女は、答えず、 「謝礼は、百万。やってくれるわね?」 「嫌だといったら、君が、警察に行って、三月三十一日のおれのアリバイについて、証言するというのか?」 「そうよ。あなたは、たちまち、殺人犯として逮捕されるわ」 「脅迫か」 「その通りよ。あなたの運命を、私が握っていることを、忘れないでね」 「おれに、百万払って、君は、いくら儲《もう》かるんだ?」 「そんなことは、考えずに、私のいった通りに、動いてくれればいいの。そのあと、小学校へ行って、娘さんの運動会を見ようと、どうしようと、あなたの勝手だわ」 「なぜ、娘の運動会を利用するんだ?」 「それが、一番、自然だと思うからよ。金沢にいるあなたが、東京に来ている理由が、不自然だと、困るのよ」  と、女は、いう。  長田は、少しずつ、女が、何を企《くわだ》てているか、わかって来た。 「つまり、おれがあの写真の男のアリバイを作ってやるわけだな? そうなんだろう?」  と、長田が、きくと、 「さすがに、エリートサラリーマンだけのことは、あるわ」  と、女は、いった。 「写真の男は、十七日の日曜日に、何をやるつもりなんだ? 殺人か、強盗か?」 「それは、あなたが気にすることはないわ。それに、二、三日したら、刑事が、あなたに、電話で聞くと思うから、自然に、わかるわ」  と、女は、いった。 「おれに、芝居が出来ると思ってるのか?」 「思ってるわ。この間、東京のホテルでは、うまくやったじゃないの。あなたは、自分で思っている以上に、度胸もあるし、芝居も上手《うま》いのよ」  と、女は、いった。 「雨が降ったら、運動会はないぞ」 「その時は、全《すべ》て、中止。次の機会を待つことになるわね」  女は、落ち着いた声でいった。  長田は、電話が切れると、しばらくの間、じっと、考え込んでいた。  あんな女の命令で動いて堪《たま》るかと思う。このままでは、ずるずると、深みにはまっていくばかりだと思う。  しかし、今から、警察に行って、全てを話しても、信じてはくれないだろうという気もするのだ。たちまち、殺人犯として、逮捕されてしまうことは、眼に見えている。  警察は、三月二十八日の予行演習まで、知っているのだ。三月三十一日に、木元加代子を殺したと、決めつけるに、決っている。  そうなれば、裁判でも、有罪になるだろう。木元加代子が、殺された時、彼女のマンションに行っていたことは、確かだからである。動機もある。 (参ったな)  と、長田は、深い溜息《ためいき》をついた。  女の意のままに動かされるのは、癪《しやく》だが、だからといって、刑務所に行くのは、なお、嫌だった。  結局、女のいう通り、十七日の日曜日には、N公園に行くことになってしまうだろうと、長田は、思った。      3  十六日の土曜日に、長田は、東京に戻り、新宿のホテルに、泊った。  明日は、雨が降ればいいと願ったのだが、朝、眼がさめ、窓のカーテンを開けると、眩《まぶ》しい朝の光が、射《さ》し込んできた。  午前十一時に、ホテルをチェック・アウトすると、京王線で、千歳烏山に向った。  少し、早く、着いてしまったので、長田は、駅近くの喫茶店で、時間をつぶすことにした。  コーヒーと、トーストを注文したのだが、食欲がわかず、コーヒーを飲んだだけで、店を出た。  時間に合せて、ゆっくりと歩く。京王|多摩川《たまがわ》や、高尾山《たかおさん》方面へ行く京王線の電車の中は、家族連れで混《こ》んでいたが、住宅地の千歳烏山で降りたのは、長田一人だった。  あの女のいった通り、ほとんど、通行人がいなかった。  午前中に、出かける人は、出かけてしまったのだろう。  N公園に、午後一時に着いた。  公園の中は、ひっそりと、静かである。 (どうせ、やらなければならないのなら、早くやってしまおう)  と、長田は、自分に、いい聞かせた。  公衆トイレが見えた。  その裏に廻《まわ》る。石を探す。拳大《こぶしだい》の石が見つかると、それを、手につかんだ。  覚悟を決めて、石で自分の頭を殴った。が、自然に、ブレーキが効いて、血が出ない。  長田は、溜息をつく。もう一度、殴った。そして、もう一度。  石のとがったところが、当って、眼の上が切れて、血が、噴き出した。  長田は、血のついた石を排水口に投げ捨て、次に服を、泥だらけにした。  痛さと、情けなさで、涙が、流れた。  派出所は、公園を出たところにある。  長田は、よろけるようにして、派出所に辿《たど》りつくと、 「助けてくれ!」  と、そこにいた警官に向って、叫んだ。  若い警官は、びっくりした顔で、 「どうしたんです?」 「今、そこのN公園で、いきなり、殴られたんだ」 「血が出てますよ」 「血?」  長田は、初めて気がついたように、頬《ほお》に、流れている血を、手で拭《ぬぐ》った。 「大丈夫ですか?」 「ああ、何とかね」 「救急車を、呼びましょうか?」 「包帯があったら、手当てしてくれないかな。それで、何とか大丈夫だと思う」 「待って下さい」  と、警官はいい、救急箱を取り出して来て、薬をつけ、包帯を巻いてくれた。  長田は、ずきずきする痛みに、眉《まゆ》をひそめながら、 「ありがとう。血が止まった」 「調書をとりたいんですが、いいですか?」  と、警官が、きいた。 「いいですよ」 「名前から、お願いします」 「長田博です」 「この近くの方ですか?」 「いや、今は、中央商事の金沢支店で、営業部長をやっています」 「金沢ですか? 金沢の方が、なんで、ここに——?」 「単身赴任で、家内と娘は、この世田谷に、今でも、います。実は、今日、娘のいっている小学校で、運動会がありましてね」  と、長田がいうと、若い警官は、「ああ」と肯《うなず》いた。 「この先の×小学校で、運動会をやっています」 「娘が出るので、応援に行ってやりたくて、わざわざ、金沢から、出てきたんですよ」 「なるほど、娘さんは、何年生ですか?」 「五年生で、名前は、長田みどりです。朝から、行きたかったんですが、都合で、午後になりましてね。千歳烏山で降りて、N公園を抜けて、×小学校に行くところだったんです」 「それで、何があったんですか?」 「公園の中で、男と、すれ違ったんですが、そいつが、肩をぶつけて来たんですよ。まるで、わざとみたいにね」 「なるほど」 「それで、謝りもしないので、カッとしましてね。注意したんです。そっちから、ぶつかって来たんだから、謝りたまえとですよ。そしたら、いきなり、殴りかかってきたんです」 「ひどい話だね」 「殴られて、地面に転んだら、今度は、靴で、蹴《け》られました」 「それで、頭から、血が出たんでしょう。その男は、どうしました?」 「私を、殴っておいて、逃げてしまいましたよ。殴って、蹴ってね」 「その男の顔を、覚えていますか?」 「ええ。覚えていますよ」 「では、最初から、書きましょう。今、午後一時半だから、一時頃ですか?」 「そうです。一時頃でしたね」 「午後一時頃、N公園を通り抜けようとして、男とすれ違った。ぶつかって来たので、注意したところ、いきなり、殴る蹴るの暴行を受け、頭から、血を流した。これでいいですね?」 「その通りです」 「男の人相を教えて下さい」 「細面で、チョビひげを生やしていましたよ。眼が、ちょっと、吊《つ》りあがっている感じでしたね。身長は、私と同じくらいだから、一七五、六センチでしょうね。がっしりした身体《からだ》つきでした」 「服装は覚えていますか?」 「きちんと、背広を着て、ネクタイをしていましたよ。だから、いきなり殴ってくるなんて、思わなかったんですよ」 「背広の色を、覚えていますか?」 「グレーだと思うが、はっきり覚えていませんね」  と、長田は、わざと、あいまいないい方をした。その方が、信用されると、思ったからだった。 「とにかく、傷害容疑で、手配してみます」  と、警官は、いった。  長田は、自分の名刺を、警官に渡した。 「今日中に、金沢に戻らなければなりませんので、何かあれば、ここへ電話して下さい」 「これから、×小学校へ行かれますか?」  と、警官が、きいた。 「そうですね。ちょっとだけでも、顔を出してみます」  と、長田は、いった。      4  長田は、小学校へ行き、娘のみどりが、リレー競技に出るのを見た。  妻のゆみも来ていた。声をかけると、びっくりした顔になったのは、長田が、今日、来るのを、連絡してなかったからだろう。びっくりはしていたが、長田が、娘の運動会に来たことを、喜んでいる顔ではなかった。 「明日は、支店に出なければならないから」  と、長田は、妻にいい、二時間ほど、娘の姿を見て、帰ることにした。  妻は、別に、それを止めるでもなく、見送っていた。  長田は、その日の中《うち》に、金沢に帰った。 (アリバイ作りに、利用されたに違いない)  とは、思っていたが、果して、どんな事件のアリバイなのか、長田には、見当がつかなかった。  夜になると、TVをつけ、ニュースに、注目した。が、東京では、殺人事件が、三件も起きていたし、酔っての傷害事件もあって、そのどれかが、わからない。  午後一時頃に限定しても、殺人が、二件起きていた。 (何も知らない方がいいかも知れない)  と、思い直してTVを切ってしまったが、やはり、気になって、仕方がなかった。  翌、月曜日になって、出社しても、長田は、新聞に眼をやったりして、落ち着けなかった。  十九日の火曜日、長田が、マンションに帰ると、待っていたように、電話が鳴った。  受話器を取ると、男の声が、 「こちらは、神奈川県警ですが、長田さんですか?」  と、きいた。 (神奈川か——?)  と、長田は意外な気がしながら、 「そうですが」 「四月十七日の日曜日に、東京へ出ていらっしゃいましたか?」 「ええ、家内と娘が東京に残っていましてね。その娘の運動会が、十七日にあったものですから、見に行きました」 「何時頃ですか?」 「世田谷の×小学校に着いたのは、午後二時近かったですね」 「その途中で、何かありましたか?」  と、相手は、きいた。もちろん、知っていて、聞いているのだろうと思いながら、 「途中の公園で、男に殴られましてね。近くの派出所で、若いお巡《まわ》りさんに、手当てをして貰ったり、その男のことを、話したりしたんで、遅れたんですよ。午後一時には、学校に顔を出したかったんですがね」 「その男のことを、覚えていますか?」 「今いった若いお巡りさんに、話しましたよ。調書を取っていたから、お聞きになって下さい」  と、長田は、いった。 「あなたのいわれた派出所には、行って来ましたし、警官の作った調書も見ました」 「じゃあ、それで、いいでしょう。とにかく、乱暴な男なんですよ。捕えて欲しいですね。神奈川県警とは、関係がないでしょうが」  と、長田は、いい、相手の答えを、待った。 「実は、あなたを殴ったと思われる男を逮捕しました」  と、相手は、いう。 「そうですか。それを、知らせて、下さったんですか?」 「また、東京においでになる予定は、ありませんか?」  と、相手が、きく。 「なぜですか?」 「われわれが逮捕した男を、確認して貰いたいのですよ」 「私を殴ったことを、否定しているんですか?」  と、長田は、きいた。  長田にしてみれば、暗闇《くらやみ》の中で、手さぐりをしているのに、似ていた。虎《とら》の尾を踏むような気持でもある。 「いや、十七日の午後一時頃、世田谷のN公園の中で、中年の男を、殴ったとは、いっているんです」 「それなら、問題はないんじゃありませんか? 当人が、認めているのなら、私が、確認しなくても」  と、長田はいった。 「そうなんですが、この男は、別の事件にも、関係がありましてね」 「別の事件?」 「そうです」 「どんな事件ですか?」  と、長田が、きくと、相手は、それには、答えず、 「平川良平《ひらかわりようへい》という男をご存知ですか?」  と、逆に、きいた。 「ヒラカワ——? 誰《だれ》なんですか?」 「ご存知ありませんか?」 「いや、全く、知りませんよ」 「それでは、田原圭一郎《たわらけいいちろう》という男は、どうですか?」 「知りませんね。いったい、誰なんですか?」 「失礼ですが、横浜に住んだことは、ありませんか?」  と、相手は、きく。 「一度もありませんね。山下公園や、中華街に遊びに行ったことは、ありますが」 「伊勢佐木町《いせざきちよう》はどうです?」 「名前は、知っていますが、行ったことは、ありません」 「そうですか」 「わけがわかりませんが、いったい、何なんですか?」 「明日、私の方から、伺うことにします」  と、相手は、いった。      5  翌日の午後、支店の方に、神奈川県警の二人の刑事が訪ねて来た。  話をしたのは、電話をかけて来た田辺《たなべ》という中年の刑事で、もう一人の若い方は、黙って、聞いているだけだった。 「電話では、失礼しました」  と、田辺刑事は、長田に向って、まず詫《わ》びてから、 「実は、難しいことになっていましてね」 「私は、あの時、ただ、やみくもに、殴られただけで、別に、難しくはありませんが」  と、長田は、いった。 「最初から、説明しましょう。横浜の伊勢佐木町で、宝石屋を経営している田原圭一郎という男が、十七日に、殺されたんです」 「その名前は、電話で、聞きましたよ」 「われわれは、容疑者として、共同経営者の平川良平という男を、逮捕しました。動機は、十分にあります。ところが、この男が、犯行時刻に、東京都世田谷区千歳烏山近くの公園で、男とケンカをして、殴ったといい出しましてね。それで、N公園傍の派出所で聞いたところ、あなたの名前が、出たわけです」  と、田辺刑事は、いった。 (やはり、殺人事件のアリバイ作りだったのか)  と、長田は、思い、それを、相手に、さとられぬように、表情をかたくした。 「事情は、わかりました」  長田は、努めて、平静を装って、いった。 「それで、この写真を、見て頂きたいのですよ」  と、田辺はいい、長田の眼の前に、五枚の写真を並べた。  似たような顔付きの男たち五人の写真である。  全員が、チョビひげを生やしている。 「この中に、あなたを殴った男が、いますか?」  と、田辺刑事が、きいた。  長田は、女の送って来た写真を、何回も見ていたから、簡単に、選ぶことが、出来た。  彼は、その男の写真を、指さした。 「これです。この男ですよ」  と、長田がいうと、田辺刑事の顔に、明らかに、失望の色が、走るのが見えた。  長田は、内心、びくつきながらも、刑事に、打撃を与えたことに、小さな興奮を、感じた。 (偉そうな顔をしてるが、この刑事たちは、何もわかっていないのだ)  とも、思った。 「この男に、間違いありませんか?」  と、田辺が、未練がましく、きいた。 「ええ。この男ですよ」 「この男のことで、他《ほか》に、何か覚えていることは、ありませんか? やたらに、咳《せき》をしていたとか、左利きだとかですがね」 (左利き?)  一瞬、長田は、頭が、混乱した。写真の男が、左利きかどうか、教えられていなかったからである。 (ここで、下手なことをいったら、殺人の共犯にされてしまうだろう)  と、思い、必死になって、考えた。  女が、何もいって来なかったことをみれば、左利きではないのだ。長田は、そう考えた。 「左利きじゃなかったですよ。右手で、殴られましたから」  と、長田は、いい、続けて、 「逃げるとき、右足を引きずるような感じでした。右足が、悪いんじゃありませんかね」 「右足ですか——」  と、田辺は呟《つぶや》き、連れの若い刑事と、顔を見合せている。 (おれのいったことが、合っていたんだな)  と、長田は、思った。  田辺刑事は、急に、緊張の消えた眼になって、 「それで、あなたは、この男を、告発されますか?」  と、きいた。 「もちろん、告発しますよ。あんな無茶な男を、放《ほう》ってはおけませんからね」  長田は、わざと、強い調子で、いった。いきなり、殴られ、蹴られたことになっているのだ。怒らなければ、おかしいと、思ったのである。 「わかりました。東京の警視庁から、また、連絡がいくと思いますよ」  と、田辺はいい、若い刑事を促して、そそくさと、帰って行った。  長田は、二人がいなくなると、庶務課から、新聞の綴《と》じ込みを借りて来て、十八日月曜日の朝刊に、眼を通した。  全国紙に、問題の事件が、のっていた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈十七日午後三時頃、横浜市伊勢佐木町の宝石店「プラス2」の社長田原圭一郎さん(三十四歳)が、店から五百メートルのところにある自宅マンションの306号で、背中を刺されて死んでいるのを、たまたま遊びに来た女友だちによって発見された。   この日、店は休みで、女友だちは、車で田原さんを迎えに行き、発見したものである。警察は、室内が物色されていないことから、怨恨《えんこん》による殺人と見て、捜査を進めている〉 [#ここで字下げ終わり]  十八日の夕刊にも、この事件の続報が、のっていた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈十七日の宝石店主殺人事件について、警察は、解剖の結果、死亡推定時刻は、十七日の正午から午後一時の間と見て、捜査を進めていたが、共同経営者のH氏(三十五歳)を重要参考人として、事情を聞いている〉 [#ここで字下げ終わり]  長田は、この日の帰り、書店に寄って、関東地方の地図と、時刻表を買い求めた。  マンションに戻ると、地図を広げ、千歳烏山と、横浜市の二点を、比べてみた。  直線距離は、そう遠くはない。  だが、正午から、午後一時の間に、横浜市内で人を殺した男が、午後一時に、世田谷区のN公園で、ケンカは、出来ない。  それが、平川良平という男のアリバイなのだ。  そして、二十二日の金曜日、支店からマンションに帰ると、ドアに取りつけた郵便受けに、百万円の束が茶封筒に入って、投げ込まれていた。 [#改ページ]  第八章 当 惑      1  その頃、十津川たちは、壁にぶつかって、苦闘していた。  十津川たちは、三つの方向で、捜査を進めていた。  第一は、アリバイ証人である小谷ゆう子を、もう一度、徹底的に、調べることだった。  第二は、長田の女性関係。  第三は、長田の上司で、木元加代子とも知り合いである中央商事の伊東部長の身辺調査である。  小谷ゆう子については、生れ故郷から、小学校、中学校、高校、そして、現在の大学まで、彼女と関係のあった人間に、片っ端から、当って、話を聞いた。  どこかで、長田と結びつくのではないかと思ったからである。  だが、いくら調べても、長田博の名前は、浮んでこないのだ。 「大学に入ってから、少し変ったわ」  と、高校時代の同窓生の一人が、証言した。  十津川たちは、かすかな期待を持って、この証言に飛びついた。ひょっとして、大学に入ってから、エリートサラリーマンの長田と知り合い、不倫の関係になったのではないかと、思ったからである。  小谷ゆう子が、大学に入って、変ったという人はもう一人いた。  高校時代、彼女の担任だった国語の教師である。  同窓生も、この教師も、「どう変ったのか?」という十津川の質問に対して、ほぼ同じ答えを、返して来た。 「急に、大人になったわ」  と、同窓生がいい、教師は、 「いい意味で、図太くなりましたよ」  と、いった。  第二の長田の女性問題の調査も、芳《かんば》しくなかった。  長田は、背が高く、なかなかの美男子だから、女性にもてた。  だが、重役の娘、ゆみと結婚してからは、出世だけを考える典型的なエリートサラリーマンになってしまった。  もし、木元加代子と知り合わなければ、今頃、本社の部長ぐらいになっていたかも知れない。  ただ一人、木元加代子と、関係したために、妙な具合になり、夫婦仲は冷え、金沢に、都落ちする破目になってしまった。従って最近は、木元加代子しか、浮んで来ないのである。  ゆみと、結婚する前には、何人かの女の名前があった。十津川たちは、その一人一人にも、当ってみた。  だが、彼女たちが今度の事件に関係しているという証拠は、全く、見つからなかった。      2  十津川は、第三の調査に、希望をつないだ。  殺された木元加代子とは、長田より部長の伊東の方が、先に、親しくしていたからである。  伊東は、四十九歳。妻は、中央商事のOLだったから、職場結婚である。  同族会社的な中央商事では、伊東は、出世コースにいたとはいえなかったが、上司に取り入るのが上手く、それで、部長にまでなったといわれている。  伊東にとって、重役の娘と結婚して、出世コースにいる部下の長田博は、脅威だったのではないか。  だから、木元加代子に、長田を誘惑させ、それを週刊誌にリークして、彼の夫婦仲を毀《こわ》してしまい、金沢に、追いやった。いや、それ以上で、伊東が、木元加代子を、殺していたのではないのか?  十津川は、そうも、考えたのである。  動機は、木元加代子を使って、長田を、金沢に追い払ったが、そのことで、彼女が、伊東をゆすったためではないか。  十津川たちは、三月三十一日の伊東のアリバイを、もう一度、調べ直してみた。  伊東は、本社で、午前九時半から十時半まで、部長以上の幹部会議に出席している。アリバイとしては微妙だ。 「参ったね」  と、十津川は、溜息をついた。 「八方ふさがりです。でも、この二人以外に、犯人がいるんでしょうか?」  亀井も、眉をひそめて、いった。 「木元加代子には、何人も男がいた筈だから、その一人か、或《ある》いは、その男たちの恋人が、嫉妬《しつと》に狂って、殺したか」 「調べてみますか?」 「彼女の男関係は、全部、調べた筈だよ」 「そうでしたね。調べた揚句、長田が、一番動機があったんですね」  と亀井は、肯いた。 「長田には、何かある筈だと、私は、今でも思っている」  と、十津川は、いった。 「しかし、その何かが、わかりませんね」  亀井が、元気のない声を出した。  そんな重苦しい空気のところへ、石川県警の三浦警部から、電話が、かかった。 「例の長田博ですが、何かあるかと思って、見張りをつけておいたんですが、妙なことが、わかりました」  と、三浦は、いった。 「どんなことですか?」 「神奈川県警の刑事が二人、会社へ、長田を訪ねて来たんです」 「何をしに来たんですか?」 「それは、わかりません。神奈川県警に、問い合せてみますか?」 「いや、私の方で、聞いてみます」  と、十津川は、いった。  十津川は、すぐ、神奈川県警に、電話をかけた。  田辺という刑事が、電話口に出て、事情を説明してくれた。 「長田が、殺人事件のアリバイ証人になったわけですか?」  十津川は、当惑の表情となっていた。 「そうです。アリバイ証人です。彼に、前にも、何かあったんですか?」  と、田辺の方が、きいた。 「三月三十一日に起きた殺人事件の容疑者ですよ」 「ほう。面白いですね」  田辺が、声をあげた。 「今度の殺人事件の容疑者は、男ですか?」 「そうです。平川良平という三十五歳の男です」 「それが、若い女子大生なら、よかったんですがね」  と、十津川はいった。 「交換殺人ではなく、交換アリバイというわけですか?」  と、田辺が、いった。 「ぜひ、会って、詳しい話を聞きたいですね」 「こちらもです」  と、田辺も、いった。  十津川は、会う時刻を約束して、電話を切って、亀井に、今の話を、伝えた。  亀井も、期待と、当惑の入り混じった表情になった。 「何といったらいいか——」 「何かあるような気がするんだが、それが、何なのか、わからないんだよ」 「確かに、偶然とは、思えませんね、三月三十一日に、殺人事件の容疑者だった男が、三週間後に、殺人事件の証人になっているんですから」 「だから、カメさんも、一緒に、神奈川県警の刑事と、会って貰《もら》いたいんだ」  と、十津川は、いった。      3  神奈川県警の田辺刑事と、東京駅|八重洲口《やえすぐち》のホテルで、会った。  その三階にある喫茶ルームで、十津川と、亀井は、田辺に、わざわざ、出向いてくれた礼をいった。  田辺は、恐縮して、 「私どもとしても、何とか、今度の事件の解決への手掛りをつかみたいと思っています」  と、いった。 「情報の交換が、お互いのヒントになればいいんですがね」  と、十津川も、いった。  まず、田辺が横浜で起きた事件を、詳しく話してくれた。 「殺された田原圭一郎も、共同経営者の平川良平も、女はいますが、一応、独身で、片方が死ねば、宝石店は、もう一人のものになるようになっていたんです」 「つまり、平川以外に、犯人は、考えられないというわけですね?」  と、亀井が、いった。 「田原の女性関係は、一応、調べたんですが、彼を殺すほど、愛したり、憎んだりしている女は見つかりませんでした。それで、平川が、犯人と思ったんですが、アリバイが、ありましてね」 「平川の家は、どこなんですか?」  と、これは、十津川が、きいた。 「横浜の緑《みどり》区です」 「その平川が、なぜ、東京の世田谷にいたといってるんですか?」  と、十津川は、きいた。 「十七日は、宝石店が休みだったので、平川は、世田谷区千歳烏山に住む、大学時代の友人の家に、遊びに行ったというんです」 「本当に、そんな友人がいるんですか? 千歳烏山に」 「調べてみると、いるんです。沢口清《さわぐちきよし》という建築デザイナーです。前に、遊びに来てくれといっていたので、行ってみたら、留守だったというわけです。面白くなくて、N公園を抜けて、帰ろうと思っていたら、中年の男と、ぶつかった。向うから、ぶつかって来たのに、注意されたので、カッとして、殴りつけ、蹴飛ばした。血が出たので、あわてて、逃げたというのです」 「それが、十七日の午後一時頃というわけですか?」 「そうです」 「友人の建築デザイナーが、その時、留守だったというのは、本当なんですか?」  と、亀井が、きいた。 「本当です。沢口清という男は、確かに、平川と同じ大学を出ていましてね。若手の建築デザイナーとしては、才能があり、四月五日から、家族と一緒に、アメリカへ行っているんです。帰国は、来年の三月ということです」 「辻褄《つじつま》は、合っているということですね?」  と、十津川。 「そうなんですよ。そして、ケンカの相手も、中央商事の金沢支店の部長さんですからね。証人としての信頼性は、十分です。また、N公園傍の派出所の警官も、長田博の傷の手当てをしたと、証言しているし、その時間も午後一時過ぎというわけです。横浜の伊勢佐木町のマンションで、田原圭一郎が殺されたのが、正午から、午後一時ですから、完全なアリバイになってしまうんです」 「正午に殺して、午後一時に、世田谷のN公園に行くことは、可能ですか?」  と、十津川が、きいた。 「まず、不可能ですね。それに、平川は、運転免許証を持ってはいますが、スポーツ・カーを、ぶっ飛ばすというわけにも、いかないんでしょう」 「証人の長田は、娘の運動会に行く途中だったというんでしたね?」 「そうです。千歳烏山近くの×小学校です。間違いなく、長田の娘が、五年生にいて、十七日は、運動会でした。長田は、午後二時近くに、頭に包帯を巻いて、運動会に現われ、二時間ほど、娘が走るのを見たりして、帰っています」  と、田辺は、いった。 「平川良平と、長田とは、全く、赤の他人ですか?」  と、亀井が、きいた。 「問題は、そこにあると思って、いろいろと、調べました。本籍から、小学校、中、高校、そして、大学と、二人の経歴を全部、調べましたが、どこでも、交叉《こうさ》しないんです。参りました」  田辺は、声を落として、いった。      4 「作られたアリバイ臭いですねえ」  と、亀井が、いった。  十津川は、煙草に、火をつけてから、 「同感だな。長田のアリバイも、作られたものの匂《にお》いがしたがね」 「しかし、このアリバイは、しっかりしていて、崩しようがないんです。平川と、長田との間には、いくら調べても、関係が見つかりませんから、平川は、アリバイが、成立してしまうのです」  と、田辺は、口惜《くや》しそうに、いった。 「長田は、殴られたので、平川を、告発すると、いっているんでしたね?」  と、十津川が、きいた。 「そうなんですが、まあ、示談になるんじゃありませんか。長田の傷は、軽傷だし、平川に、前科はありませんから」 「芝居くさいですがねえ」  と、亀井が、いう。 「長田が、殴られて、血を流したことがかね?」 「そうですよ」 「しかし、芝居だという証拠は、ないんです」  と、田辺が、いった。  十津川と、亀井は、田辺と別れて、捜査本部に戻った。  十津川は、三上《みかみ》本部長に、横浜伊勢佐木町の殺人事件を、報告した。  三上部長は、聞き終ると、ぶぜんとした顔で、 「長田という男も、忙しい奴《やつ》だねえ。殺人の予行演習までやったと思えば、東京のホテルで、おかしな行動をとるし、今度は、別の殺人事件のアリバイの証明か」 「その通りです」  と、十津川は、肯いた。 「どうなっているのかね?」  と、三上が、きく。 「偶然とは、思えません」 「それで?」 「誰かの指示で、動いているような気がして仕方がないのです」 「その誰かは、見当がついているのかね?」 「正直にいって、全くつきません」  と、十津川は、いった。 「君らしくもないじゃないか」 「ひょっとすると、事件全体を、根本的に、見直さなければならないかも知れません」  と、十津川はいった。  翌日、神奈川県警の田辺刑事が、電話をかけて来た。 「昨日の件で、一つ、わかったことがありましたので、お知らせします」  と、田辺は、いった。 「平川良平のことですか? それとも、長田のことですか」 「平川のことです。十七日に、平川が、世田谷の千歳烏山にいる友人を訪ねたと、証言している件なんです」 「確か、平川の大学時代の友人で、建築デザイナーの家でしたね」 「名前は、沢口清です。平川は、彼が、家族と一緒に、アメリカへ行ったのを知らずに訪ねて行き、がっかりして帰る途中で、N公園内で、長田とぶつかって、殴ったと、いっているわけです」 「それが、どうなったんですか?」 「同じ大学の同窓生に、会って、聞いてみたんですが、沢口が、アメリカへ、一年間、勉強に行くというので、四月一日に、歓送会をやったというのです。三人ほどが世話役になり、勧誘の手紙を、同窓生に、送ったというわけです」 「平川は、その歓送会に、出席しているんですか?」 「いえ。欠席していますが、世話役の三人のところに、五万円送って来て、餞別《せんべつ》だから、沢口に渡してくれと、頼んだというのです」 「すると、平川は、沢口清が、四月五日から一年間、家族と一緒に、アメリカへ行っていることを、知っていたことになりますね」 「そうなんです。だから、平川が、沢口の家を訪ねたというのは、不自然です」 「それに対して、当の平川は、何といっているんですか?」  と、十津川は、きいた。 「さっき、会って来ましたが、平川は、最近忙しかったので、沢口が、アメリカへ行っているのを、つい、うっかり忘れてしまったんだと、平然としていますよ」 「つい、うっかりですか——」 「そんな筈はないと思うんですが、違うという証拠がありません。残念で、仕方がありませんが」  と、田辺は、いった。 「それでも、平川の証言が、嘘《うそ》らしいとわかっただけでも、収穫ですよ」  十津川は、慰めるように、いった。 「私も、そう思っているんですが、いぜんとして、平川良平のアリバイを崩せません」 「必ず、崩せますよ。こちらでも、長田のアリバイを崩したいので、協力して、やりましょう」  と、十津川は、いった。  電話を切ったあと、十津川は、煙草をくわえて、考え込んだ。  人間、つい、うっかり忘れるということは、よくあることだ。十津川も、大学時代の友人が、アメリカへ行っているのを忘れて、電話をかけてから、気がついたりしたこともある。  だが、今度の場合、平川という男が、友人の沢口がアメリカへ行ったのを忘れて、訪ねて行ったというのは、眉唾《まゆつば》だと、十津川は、思うのだ。  恐らく、世田谷区千歳烏山に行ったという証明に、沢口という友人を、利用したに違いない。  もし、この通りなら、平川と、N公園でケンカしたという長田の証言も、嘘ということになってくる。  長田は、なぜ、そんな嘘をついたのか?  そこに、今度の事件の謎《なぞ》があるような気がするのだが—— [#改ページ]  第九章 札 幌      1  壁にぶつかってはいたが、十津川は、それほど、悲観してはいなかった。  一つのヒントが見つかれば、必ず、解ける筈《はず》だという確信があったからである。  そのヒントを見つけるために、十津川は、ここ一年間の新聞の縮刷版を、じっくりと調べ、それをメモしておいて、各県警に電話をかけた。  その作業を、根気よく何回も繰り返した結果、やっと、求めていたヒントを見つけ出した。 「カメさん。一緒に、北海道へ行ってくれないか」  と、十津川は、亀井に、声をかけた。 「今度の事件に、関係があるんですか?」 「あると、思っているんだがね」 「じゃあ、行きましょう」  と、亀井は、応じた。  札幌《さつぽろ》行の飛行機に乗り込んでから、十津川は、北海道行の理由を、亀井に、説明した。  十津川は、まず、縮刷版から、コピーしたものを、亀井に、見せた。 〈定山渓《じようざんけい》で、大学生殺される〉  と、いう去年の八月中旬の事件の記事だった。  亀井は、その記事に、眼を通した。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈八月十五日の午後十時半頃、定山渓で、近くの旅館に、宿泊している東京のN大生、岩田治《いわたおさむ》さん(二十二歳)が、死んでいるのが、発見された。岩田さんは、後頭部を殴られており、道警では、殺人事件とみて、捜査を始めた〉 [#ここで字下げ終わり] 「これが、どうかしたんですか?」  と、亀井が、きいた。 「この岩田という大学生だが、他の仲間三人と、夏休みを利用して、北海道旅行に来ていたんだ。男二人、女二人の四人でね。女二人は、女子大生だ。第一日目は、定山渓で一泊し、翌日から、稚内《わつかない》や、網走《あばしり》、釧路《くしろ》、それに、知床《しれとこ》などを廻《まわ》ることにしていたらしい」 「————」 「この事件は、まだ、犯人が、見つかっていないんだよ。実は、ここ一年間、日本の各地で起きた事件で、未解決のものを、ピックアップして、調べていたんだよ」 「なぜですか?」 「理由は、これから説明するが、この定山渓の事件で、二人の女子大生がいるわけだが、その一人が、小谷ゆう子という名前でね」 「小谷ゆう子?」  と、亀井は、おうむ返しに、呟《つぶや》いてから、 「長田のアリバイを証言した女子大生ですか?」 「そうらしい」  と、十津川は、微笑した。 「どういうことなんですか?」 「長田は、『白山』の車内での殺人事件の容疑者だったが、その男が、次に、殺人事件のアリバイの証人になった。とすると、小谷ゆう子という女子大生も、同じことをしているんじゃないかと、考えたんだよ。それで、最近の殺人事件で、未解決のものを選んで、各県警に聞いてみた。その中に、小谷ゆう子の名前が出て来ないかと思ってね」 「そして、この北海道の事件で、出て来たわけですか?」 「そうなんだ。これから、くわしいことを聞きに、道警へ行くわけだよ」  と、十津川は、いった。  札幌に着くと、二人はすぐ、道警本部に、向った。  去年の夏のこの事件を担当した、平井《ひらい》という警部が、十津川の質問に、答えてくれた。 「この四人は、学校は違うんですが、旅行好きということで、仲が良かったというんです。殺された岩田というN大の学生と、小谷ゆう子とは、恋人同士でしてね」 「小谷ゆう子は、日本藤花女子大でしたね?」  と、十津川は、念を押した。 「そうです。この小谷ゆう子と、岩田とは、今、いったように、恋人同士だったのですが、われわれの調べたところでは、当時、岩田の方に新しい恋人が出来て、仲が冷たくなっていたというのです。札幌へ着くまでの間も、二人は、口論していたというので、われわれは、てっきり、この女が、犯人に違いないと、考えたんです」  と、平井は、いう。 「だが、違っていたんですか?」 「アリバイが、あったんですよ」  と、平井は、口惜《くや》しそうに、いった。 「どんなアリバイですか?」 「この四人は、定山渓のKという旅館に泊っていたんですが、同じ旅館に、東京のカップルが泊っていましてね。岩田の殺された時刻に、小谷ゆう子と三人で、娯楽室で、ビリヤードをやっていたというんです」 「ビリヤードをね」 「死亡推定時刻は、八月十五日の午後八時から九時の間でしてね。三人は、八時前から、十時近くまで、三人で、ビリヤードをやっていたというのです」 「当然、そのカップルのことは、調べられたんでしょうね?」 「もちろん、調べましたよ。二人の名前は、小笠原貢《おがさわらみつぐ》と、藤代冴子《ふじしろさえこ》で、恋人同士です。男は、自分で、宝石店を経営しており、女は、一応、無職でした。この二人と、小谷ゆう子の関係を調べたんですが、何も、出て来ませんでした」 「それで、アリバイ成立ですか?」 「そうです」      2 「他に、容疑者は、なかったんですか?」 「一緒に行った、他の二人の学生も調べましたが、この二人は、動機もないし、アリバイも、成立しました」 「それで、未解決ですか?」 「そうなんですよ。残念なんですが」  と、平井は、肩をすくめてから、 「十津川さんは、なぜ、この事件に、興味を持たれたんですか?」  と、きいた。 「この事件というより、小谷ゆう子という女にです。今、われわれが捜査中の殺人事件で、彼女が、容疑者のアリバイの証人になっているんです」 「それは、奇妙な偶然ですね」 「いや、われわれは、偶然とは、思っていないんです」  と、十津川は、いった。  平井は、首をかしげて、 「しかし、十津川さん。いくら調べても、このカップルと、小谷ゆう子の間には、何の関係もなかったんですよ。同じ旅館に泊ったのも、偶然なんです」 「そうかも知れませんが、私は、そのカップルが、嘘《うそ》の証言で、小谷ゆう子のアリバイを作ったと思うのですよ」 「何のためにですか?」 「多分、あとで、小谷ゆう子を、利用するためです」  と、十津川は、いった。 「このカップルには、話を聞いていますが、そんな悪党には、見えませんでしたがねえ」 「どんな男と、女ですか?」 「小笠原の方は、三十九歳で、いかにも、青年実業家といった男です。女の方は、二十七歳といっていましたね。美人ですが、ちょっと冷たい感じでした」 「宝石店の方は、うまくいっているんですか?」 「われわれの調べた限りでは、うまくいっていましたね」  と、平井は、いった。  十津川は、そのカップルの住所を聞き、手帳に、書き留めた。 「この二人も、北海道旅行に、来ていたわけですね?」  と、十津川は、手帳をしまって、平井に、きいた。 「レンタ・カーで、廻るといっていましたよ」  と、平井は、いった。  十津川と、亀井は、その日の中《うち》に、東京へ引き返した。  羽田に着いたのは、午後五時近かったが、タクシーで、新宿に出て、小笠原貢のやっている宝石店を、見てみることにした。  東口の雑居ビルの三階にある店だった。従業員は、五人ほどの中堅の宝石店と、いったところだろう。  若者向きの、手頃な値段のものが多い。  十津川は、従業員の一人に、警察手帳を見せて、社長の小笠原さんに、会いたいと、いった。  少し待たされて、奥の社長室に、通された。  社長室にしては、狭かった。  小笠原は、長身で、運動選手のように見える。 「去年の夏、定山渓で、殺人事件の証人になられましたね?」  と、十津川は、きいた。  小笠原は、「去年の夏?」と、きき返してから、 「覚えていますよ。確か、大学生が殺された事件でした」 「あなたと、もう一人、女の人が、一緒に、証言していますね?」 「ああ、藤代冴子さんです」 「今でも、親しくしておられるんですか?」 「まあ、つき合ってはいます」  と、いってから、小笠原は、 「なぜ、警視庁の方が、北海道の事件に、興味を持たれるんですか?」  と、きいた。 「あなた方が、アリバイを証言した小谷ゆう子という女子大生ですが、今度、われわれの担当した殺人事件の証人なんですよ」 「それは、知りませんでした。彼女とは、全く、連絡がありませんから」  と、小笠原は、いった。 「去年の夏ですが、小谷ゆう子と、同じ旅館に、お泊りだったんですね?」 「そうです。前から、彼女と知り合いだったんだろうと、ずいぶん、しつこく、向うの警察で、聞かれましたよ。天地神明に誓っていいますが、全く、知りませんでした。僕は、ガールフレンドと、北海道旅行に行って、偶然、同じ旅館に泊っただけなんです」 「殺人があった時、あなたがたは、小谷ゆう子と、ビリヤードを、やっていたそうですね?」 「そうなんですよ。僕たちが、娯楽室のビリヤードで遊んでいたら、小谷ゆう子さんが、ひとりでやって来て、教えてくれと、いったんですよ。まあ、僕は、学生時代にやっていたんで、教えてあげましてね。二時間近く、一緒に遊んでいましたがね。殺人は、その間に起きたから、彼女は、間違いなく、シロなんですよ」  小笠原は、いっきに、まくしたてた。 「小谷ゆう子さんは、なぜ、ひとりで、娯楽室に来たんですか? 連れの三人が、いたわけでしょう?」 「四人で、来ていたと聞きましたよ。ただ、恋人の岩田さんは、その時、どこかへ行ってしまって、姿が見えなかったし、他の二人は、仲のいいカップルだから、彼女は、ひとりで、寂しかったんだと思いますよ」  と、小笠原は、いった。 「それで、向うで、アリバイを、証言したんですね?」 「そうです。無実の人間を助けるのは、僕たちの義務ですからね。余分のことをして、警察に憎まれるのは、嫌だなという気はありましたが」 「藤代冴子さんは、今、何処《どこ》にいるんですか?」  と、十津川は、きいた。 「昨日から、フランスへ行っていると思いますよ」 「フランス? 何しに行っているんですか?」 「彼女は、宝石のデザイナーでしてね。それで、僕とも、親しくなったんですが、今日からパリで、世界宝石デザイン展があるので、昨日、出かけたんです。すぐ、帰ってくると思いますよ」  と、小笠原は、いった。 「将来、結婚されるんですか?」  と、亀井がきくと、小笠原は、笑って、 「さあ、どうですかね。彼女は、独身の方が、気楽でいいと、いってますが」 「あなた方が助けた小谷ゆう子さんですがね。今年の三月三十一日に、特急『白山』に乗っていて、ある殺人事件のアリバイの証人になっているんですが、ご存知ですか?」  と、十津川が、きいた。  小笠原は、眼を大きくして、 「本当ですか? 全く知りませんでしたね。あれ以来、つき合っていませんから」 「どう思いますか?」  と、十津川は、きいた。 「何がですか?」 「去年の夏に、あなた方のアリバイ証言で助けられた人が、今年の三月に、別の殺人事件のアリバイ証人になったことについてです」 「偶然でしょうが、いいことだと思いますよ。何といっても、人助けですからね。彼女も、気分がよかったんじゃありませんかね」 「そのことで、彼女から、何か連絡がありましたか?」  と、亀井が、きく。 「いや、全くありませんでしたよ。初めて知ったんです」 「実は、そのあと、もう一度、偶然が、重なりましてね」 「どんなことですか?」 「彼女のアリバイ証言で、助かった長田という男がいるんですが、今度は、東京で起きた殺人事件のアリバイ証人になっているんですよ」  十津川は、じっと、小笠原の顔を見て、いった。 「そりゃあ、面白いですね」  と、小笠原は、いう。 「面白いだけですか?」 「他に、いいようがありませんからね。まあ、面白い偶然としか、思えませんね」 「偶然とは、思えないんですよ」  と、十津川は、いった。 「どういうことですか?」  今度は、小笠原が、反問した。      3 「これは、どう考えても、偶然とは、思えませんね。アリバイ証言で助かった殺人容疑者が、次に、アリバイの証人になる。その次に、また、助けられた殺人容疑者が、新しい事件のアリバイを証言する。これは、偶然じゃない。一つの意志が働いていますよ」  と、十津川は、いった。  小笠原は、笑った。 「それは、刑事さんの考え過ぎじゃありませんか。この世の中には、偶然と思えることが、多いものですよ」  と、いってから、すぐ、付け加えて、「第一、この僕にしろ、藤代君にしろ、去年の夏に、アリバイの証人になりましたが、その前にも、後にも、事件に関係していませんからね。偶然である証拠じゃありませんか」 「商売の方は、うまくいっているんですか?」  亀井が、急に、話題を変えた。 「ありがとうございます。何とか、うまくいっていますよ」  と、小笠原は、いった。 「四谷のホテル・ニューオータニに、泊ったことはありませんか?」  亀井が、きくと、小笠原は、眉《まゆ》を寄せて、 「それ、何ですか?」 「いや、先日、あなたを、ニューオータニで見たという人が、いるもんですからね」 「それは、何かの間違いですよ。僕は、東京の人間だから、東京のホテルには、泊ったことがありませんからね」  と、小笠原は、いった。 「じゃあ、人違いかな。小谷ゆう子さんが、アリバイ証言した長田というサラリーマンがいるんですがね。あなたが、その男と一緒に、ニューオータニにいたという証人がいたんですよ」  亀井がいうと、小笠原は、一層、不機嫌になった。 「警察は、僕を、何かの罪にしたいわけですか? 僕は、ただ単に、一人の女子学生のために、証言しただけですよ。それが、いけないというんですか?」  と、食って、かかった。 「そうは、いっていませんが——」 「市民の義務を果して、警察に睨《にら》まれるんでしたら、今後は、見ざる、聞かざる、言わざるでいくことにしますがね」  と、小笠原は、怒り出し、大声に、なった。  十津川は、亀井に眼くばせして、店を出た。 「やたらに、怒っていましたね」  と、ビルの外に出たところで、亀井が、苦笑まじりに、いった。 「わざと、あんな態度を取ったんだと思うね」  と、十津川は、いった。 「なぜでしょう?」  歩きながら、亀井が、きいた。 「恐らく、自分たちのところに、警察が来るとは、思っていなかったんだろう。だから、あわてたんだ」 「それを、知られたくなくて、わざと、攻勢に出たということですか?」 「そう思うよ」 「あの男も、別の殺人事件に、関係して、容疑者になっているんでしょうか?」 「それは、ないと思うよ。あとでわかったときに、一層、警察に、マークされるからね」 「しかし、あの男だけが、一方的に、アリバイ証言をしたんでしょうか?」 「もう一人、藤代冴子という女がいるよ」  と、十津川は、いった。 「そうでしたね。あの男が、市民の義務だけで、無実の女を、助けたとは、思えませんがねえ」  と、亀井は、いう。 「同感だよ。何か、考えることがあって、去年の夏、人助けをしたんだろう」 「すると、彼は、無実の人間を、助けたんじゃなくて、有罪の人間を助けたわけですか?」  と、亀井が、きいた。  十津川は、立ち上って、 「その通りだよ。本当に、シロの人間では、あとで、利用できない。多分、小笠原と、恋人の藤代冴子は、定山渓の旅館に泊っていて、偶然、殺人事件に、ぶつかったんだ。二人は、小谷ゆう子が、恋人の男を殺すところを見たのかも知れない。そこで、自分たちが、アリバイを作ってやると、持ちかけた。ゆう子の方は、飛びついた。そして、小笠原のメモに、彼女は、登録されてしまったんだ」 「自分たちのいいなりになる人間ということですか?」 「そうだ」 「なぜ、そんなことをしたんでしょうか?」 「わからないね、何かに、利用しようとしているのかも知れないが」  と、十津川は、いった。  二人は、また、歩き出した。落ち着いて、考えをまとめたくて、二人は、空《す》いている喫茶店に入った。  コーヒーを飲みながらの検討になった。 「長田が、一番、われわれに近い容疑者だったから、彼を、中心に、考えてみようじゃないか」  と、十津川は、いった。  亀井も、コーヒーを、かき廻しながら、 「これで、小谷ゆう子が、『白山』に乗っていたのは、偶然とは、いえなくなりましたね」 「それは、長田に頼まれたとも思えない。長田と、小谷ゆう子の接点が、見つからないからね」 「長田が、小笠原に頼んで、アリバイ作りに、小谷ゆう子に、『白山』に乗ってくれるように、頼んだんでしょうか?」  と、亀井が、きく。 「その可能性は、あるね。しかし、それなら、『白山』を使ったアリバイ作りなんかする必要はなかったんじゃないかな? それに、長田は、三月二十八日に、予行演習までしている。あんなことは、かえって、警察の疑惑を招くだけだし、現に、われわれは、あれで、疑惑を深めたんだ」 「そうですね。小谷ゆう子という、いわば、共犯者が、見つかっていれば、あんな、綱渡りのような計画は、必要ないわけです」  と、亀井も、いう。 「とすると、どういうことになるのかな?」  十津川も、考え込んだ。  しばらく、考えてから、十津川は、 「小笠原は、恋人の藤代冴子と二人で、いろいろなところに、触手を伸して、殺人を犯しそうな人間を、探していたんじゃないかね。その触手に、長田という男が、引っ掛ったんだ。恐らく、彼が、三月二十八日に、殺人のための予行演習をやったことも、知っていたんだと思うね」 「それで、三月三十一日に、長田が、殺人を実行したとき、小谷ゆう子を使って、彼のアリバイを、作ってやったんだと思うよ。去年の夏に、定山渓で、小谷ゆう子を、助けたようにね」 「あの写真——」  と、亀井が、呟《つぶや》いた。  十津川は、肯《うなず》いて、 「そうだよ、『白山』の車内で、長田が撮ったという小谷ゆう子の写真は、もちろん、彼が撮ったんじゃない。彼女が、セルフタイマーで撮ったか、或《ある》いは——」 「小笠原ですか?」 「ああ、そうだ。そして、カメラと写真は、長田に渡され、アリバイに利用されたんだ。長田は、アリバイが出来て、助かった代りに、小谷ゆう子に、首根っ子を、押さえられた。いや、彼女を通して、小笠原にかな」  と十津川は、いった。 「小笠原が、やっているとして、なぜ、そんなことをしているんでしょうか?」 「カメさんは、なぜだと思うね?」 「自分のいいなりになる人間を、作りたいんでしょうか?」 「私も、そう思う。小谷ゆう子にしろ、長田にしろ、何といっても、殺人を犯しているんだ。作られたアリバイが、消えてしまえば、たちまち、刑務所行だ。その恐怖がある限り、小谷ゆう子も、長田も、小笠原のいうがままに動くと思うね」  と、十津川は、いった。 「長田が、アリバイを作ってやった男がいましたね。平川良平。あの横浜の人間も、小笠原が、長田を使って、アリバイを作ってやったわけでしょう。とすると、この男も、小笠原のいいなりになる人間じゃありませんか?」 「三人か」 「それに、長田は、ホテル・ニューオータニへやって来て、まとまった金を受け取って、その金を、女に渡しています。誰《だれ》かを、長田を使って脅迫したんだと思いますね。もし、その相手が、他の三人と同じように、殺人事件を犯していて、小笠原に助けられていたとすると、人数は、四人になります」 「小笠原は、その四人を、どうする気なのかな?」 「金ですかね? 毎月、金をゆするつもりでしょうか?」  と、亀井が、きく。 「それが、普通の考えだがね。大学生の小谷ゆう子が、そんなに金持ちとは、思えないし、長田は、普通のサラリーマンだ。奥さんは、会社の重役の娘だが、浮気した長田のために、金は、出さないだろう。金になりそうなのは、宝石店の共同経営者を殺した平川だけだ。が、あの宝石店は、さして、大きな店じゃない。それに、小笠原は、自分も、宝石店をやっているんだから、他の宝石店を、手に入れても仕方がないだろう」 「ゆすりだけが、目的じゃないということですか?」 「金だけが目当てなら、もっと、金持ちを、狙《ねら》い射《う》ちにするんじゃないかな。金持ちだって、誰かを殺したい人間は、いくらでも、いるだろうからね」  と、十津川は、いってから、すぐ、言葉を継いで、 「それに、同じ人間を、何回も、アリバイの証人には、使えないだろう。二度は無理だ。怪しまれる」 「そうですね」 「小笠原貢という男を、徹底的に、調べたいね。いったい、どんな人間なのかをだよ」 「逮捕して、小谷ゆう子や、長田たちとの関係を、吐かせますか?」  と、亀井が、きいた。  十津川は、手を振って、 「無理だよ。あの男が正直に、話すものか。それに、証拠もない」 「小谷ゆう子なり、長田を、ひとりひとり、訊問《じんもん》して、小笠原に頼まれて、殺人事件のアリバイ作りをしたことを、吐かせたらどうでしょうか?」 「それも、無理だよ。単なる偽証なら、脅かして、本当のことをいわせることが可能だろうが、彼らは、それぞれ、殺人を犯しているんだ。それがわかれば、刑務所行だ。なかなか、正直には、話してはくれないよ」  と、十津川は、いった。      4  翌日から、十津川は、小笠原貢という男の身辺調査に、全力を、傾けた。  それが、犯人がわからず、未解決のままになっているいくつかの事件を、解くことでもあると、考えたからである。  小笠原は、二代続いた宝石店の社長だった。  父親も、新宿の同じ場所で、宝石店をやっていた。  その父親も死に、母親も、二年前に亡くなっている。  小笠原が引き継いだ財産は、新宿の宝石店と、あと、阿佐谷《あさがや》の邸《やしき》、伊豆の別荘など、約二十億円といわれている。  同業者の間で、小笠原は、典型的な二代目と、いわれていた。 「とにかく、仕事に関しては、大らかで、優雅だそうです」  と、西本刑事が、報告した。 「それは、誉《ほ》め言葉なのかね?」 「半ば、軽蔑《けいべつ》です。こんなやり方では、遠からず、潰《つぶ》れるだろうと予想している人間が、多いようです」 「とすると、商売上の敵はいないのかね?」 「そうですね。だから、同業者の間の評判はいいですよ。中には、親身になって、心配している人もいましたね。父親は、やり手だったが、今の社長は、人生を楽しむ方に熱中していて、仕事に熱心じゃないから、どうなるのかと、心配しているんです」 「人生を楽しむって、何をしているんだ? 別荘だって、伊豆に、持っているだけなんだろう?」 「別荘は、そうですが、例えば、彼は、大変な車道楽で、フェラーリの一番新しい車が、プレミアムがついて、二億円だというと、二億円出して、手に入れたりするわけです。あんな金の使い方をしていては、遠からず、店はつぶれるという人が多いです」 「フェラーリの、三百キロ以上出るという車だろう?」 「そうです」 「他には?」 「儲《もう》からない映画に、金を出すのも、趣味だそうです」  と、日下《くさか》刑事がいい、十津川が、タイトルだけ知っている映画の名前を、あげて見せた。 「そんな男には、見えなかったがねえ」  と、十津川は、いった。 「映画に、金を出す人間ということでは、かなり有名で、小笠原に、金を出して貰《もら》おうと、何人も、やってくるそうですよ」 「それは、名誉欲かね?」 「わかりませんが、華やかなことが、好きなんじゃありませんか。藤代冴子という女ですが、彼女は、小笠原が、金を出した映画に出ていた新人女優だそうです」  と、日下は、いった。 「確かに、優雅な人生だねえ」 「そんな点が、同業者にいわせると、商売を甘く見ていると、いうことなんだと思います」 「従業員の評判は、どうなんだ?」  と、十津川は、きいた。 「とにかく、ワンマンだが、面倒見は、いいそうです」  と、いったのは、清水刑事だった。 「すると、命令するのが、好きな男なのかな?」 「それは、あるみたいです。映画に、金を出すのも、その現われなんじゃありませんか。とにかく、監督や、俳優から社長、社長と、たてまつられますからね」 「映画に、金を出すといっても、今は、億単位の金になるんだろう?」 「そうです。ちょっとした映画でも、二億、三億の金は、必要ですから」 「度胸もあるということかね?」  と、十津川が、きくと、西本刑事が、 「度胸ということでは、暴力団の幹部が、金にしようと思って、あの店の宝石に、クレームをつけて、乗り込んで来たことがあったそうです。有名な暴力団の名前だったんで、従業員は、青くなったようです。しかし、社長の小笠原は、平気な顔で、応対したので、みんな、びっくりしたということです」  と、いう。 「もともと、度胸のある人間なのかね?」 「彼は、S大の出身ですが、学生の頃は、無口で、目立たない青年だったと、いいます。ただ、その頃から、度胸は、あったみたいですね」 「藤代冴子という女の方は、どうなんだ? 新人女優だったというのは、わかったがね」  と、十津川は、きいた。 「彼女は、面白い経歴で、十代の時は、ぐれて、遊び廻っていたそうです。父親は、有名企業の部長で、兄は、国立大学を出ています。今は、勘当というのは、ないんでしょうが、十代の頃は、そんな具合で、家族から離れて、暮らしていたようです」 「今は、どうなんだ?」 「現在も、家族とのつき合いは、ないみたいですね。彼女自身、家族のことをいわれるのが、嫌だそうです」 「まだ、女優ではあるのかね?」 「いえ、小笠原と関係が出来て、やめたそうです。もともと、有名ではなかったので、未練はないみたいですね」  と、西本がいった。 「すると、彼女も、度胸があるということだな?」 「そう思います」  と、西本が、肯いた。      5  その藤代冴子が、パリから、帰ったという知らせが、入った。 「どうも、小笠原が、急に、呼び返したようです」  と、西本が、報告した。 「われわれが、動いたからかな?」  と、十津川は、傍《そば》にいる亀井を、振り向いた。 「そうかも知れません」 「会ってみるかね?」 「会いたいですね」  と、亀井も、肯いた。  二人は、冴子が住んでいる渋谷区|松濤《しようとう》のマンションに、出かけた。  この辺りは、高級住宅地である。  十一階建のマンションの九階に、彼女の部屋があった。  十津川たちが、訪ねたとき、冴子は、まだ、パリから持ち帰ったドレスや、靴を、整理しているところだった。  うすいサングラスをかけていた。  女優だっただけに、美人だが、眼が、きつい感じだった。 「小笠原さんとの関係は、別に、否定しませんわ」  と、冴子は、微笑した。 「正式には、小笠原さんとの関係を、何といったらいいんですかね?」  十津川が、きいた。 「さあ、個人的な秘書かしら」  と、いって、冴子は、また、笑った。 「小笠原さんは、あなたが、宝石のデザイナーだといっていましたが、女優でもあったわけでしょう?」 「宝石のデザインの方は、趣味でやっていたんです。女優はやめてしまったので、むしろ、デザインの方が、本職みたいになってしまいましたけど」  と、冴子は、いった。  彼女は、自分がデザインしたという指輪のいくつかを見せてくれた。 「去年の夏、小笠原さんと、札幌へ行きましたね?」  と、亀井がきくと、冴子は、先廻りするように、 「女子大生のアリバイの件でしょう? 間違いなく、私と、小笠原さんが、証言しましたわ」 「長田という男を、知っていますか?」 「長田——さん?」 「そうです。商事会社の金沢支店の営業部長です」 「知りませんわ。金沢には、行ったことがありますけど」 「この男は、殺人事件の容疑者なんですが、そのアリバイを、小谷ゆう子という女子大生が、証言しましてね。彼女は、ご存知ですね? あなた方が、アリバイを証言した人間だから」 「ああ、あのきれいな人ね」  と、冴子は、肯き、 「彼女は、本当に、無実ですわ。私や、小笠原さんと、ビリヤードをしていたんですから」 「平川良平という宝石店の主人は、どうですか?」  と、亀井が、間を置かずに、きいた。 「その人、小笠原さんの同業の方ですか?」  と、冴子は、きいた。  とぼけているようでもあり、本当に、知らないようにも、見える。元女優だから、演技かも知れない。 「いや、この人も、殺人の容疑者ですが、今いった長田が、アリバイ証言をしているんです。どう思いますか? これを」  亀井が、強い調子で、きくと、冴子は、笑って、 「まるで、数珠《じゆず》つなぎみたいですわね」  と、いった。 「そうですよ。全部、つながっているんです」 「でも、私には、関係ありませんわ」  冴子は、首をすくめるようにして、いった。 「われわれは、これが、偶然だとは、思っていないのですよ。誰かが、指図して、小谷ゆう子、長田の二人に、アリバイを証言させているんじゃないかと、考えているんです」  と、十津川は、いった。 「それが、私だと、おっしゃるんですか?」 「あなたか、小笠原さんでは、ないかと、思っていますがね」 「なぜ、私か、小笠原さんが、そんなことをしなきゃいけませんの?」 「わかりませんね」 「無責任ね」  と、冴子は、急に、咎《とが》める眼になって、十津川を、睨《にら》んだ。勝気な性格が、ちらりと、のぞいた感じだった。 「三月三十一日に、どこにいらっしゃいました?」  と、亀井が、きいた。  冴子は、さらに険しい眼つきになった。 「私が、何かの事件の容疑者になっているんですか?」 「いいや、それは、ありません」 「それなら、私のアリバイを、あれこれいう必要は、ないんじゃありませんか?」  と、冴子は、いった。 「確かに、そうですが、ひょっとして、三月三十一日には『白山』に、乗っていたんじゃないかと、思いましてね」  と、十津川は、いった。 「急に、パリから帰られたのは、何か理由があるんですか?」  と、亀井が、横から、きいた。 「ちゃんと、予定通りに、帰国したんですけど」  と、冴子は、いった。 「急に、小笠原さんが、呼び戻したという噂《うわさ》もあるんですが、違いますか?」 「それはありませんわ。パリで開かれていた、世界宝石デザイン展が終ったので、帰って来ただけですわ」 「その展示会ですがね、明後日《あさつて》まで、やっている筈ですよ」  と、十津川は、いった。  冴子は、平然として、 「私にとって、もう終ったんですわ。見るものは、全部、見てしまいましたから」  と、いった。 「これから、どうされるんですか?」  亀井が、きいた。 「まだ、わかりませんわ。とにかく、のんびり生きるのが、私のモットーなんです」  と、冴子は、笑顔に戻って、いった。      6  小笠原が、何かを企《たくら》んでいるに違いないと、十津川は、思った。そのために、冴子を、急に、呼び返したのだろう。  だが、何を企んでいるのか、わからなかった。  四月二十五日になって、西本刑事が、一つの情報を、つかんできた。 「小笠原が、スポンサーになって、新しい映画の撮影が、間もなく、始まります」  と、西本は、いった。 「また、映画に、金を出すのか?」 「そうです。前々から、話のあったもので、山中《やまなか》という監督が、シナリオも書き、俳優も誰を使うか決めて、小笠原に、金を出してくれと、頼んでいたものだそうです」 「小笠原が、オーケイと、いったわけかね?」 「そうです。山中監督は、張り切って、すぐ、撮影に入りたいと、いっているそうです」 「どんな映画なんだ?」 「これが、シナリオです。準備稿ですが」  と、西本が、貰って来た脚本を、十津川に見せた。  白表紙で、準備稿と、書かれている。 〈都会の夜に穴をあけろ〉 「何だい? これは」 「ハードボイルドの刑事物だそうです。斜め読みをしたんですが、同じ高校を卒業した同窓生が、一人は、刑事になり、一人は、暴走族あがりの銀行強盗になる話のようです」 「舞台は、東京かね?」 「そうです」 「これに、小笠原が、資金を出したか」 「そのために、小笠原コーポレーションという会社を作っています。その代表者が、なぜか、冴子になっています」  と、西本が、いう。 「彼女がね。俳優として、出演はしないのか?」 「それは、まだ、わかっていませんが、とにかくスポンサーの彼女ですから、急に、やりたいと、いいだすかも知れません」 「いつから、撮影に入るんだ?」 「間もなく、決定稿が出来るそうです。そうしたら、早速、撮影に入ると、いっていました」  と、西本は、いう。 「藤代冴子を、呼び返したのは、このためなのかね?」 「一見、そう思えますが」 「どうもわからんなあ」  と、十津川は、呟《つぶや》いた。  彼が、わからないのは、小笠原が、映画に、金を出したことではなかった。それは、いわば、金持ちの道楽みたいなものだ。彼は、前にも、やっている。  したがって、スポンサーになっても、おかしくはないのだが、それと、一連の事件との関係だった。 「カメさんの意見を聞きたいな」  と、十津川は、いった。  亀井は、十津川から受け取った脚本を、ぱらぱらめくっていたが、 「小笠原コーポレーションというのは、ちゃんと印刷されていますから、彼は、前から、この映画のスポンサーになる気だったんでしょうね。だから、怪しい点は、別に感じられませんが」 「単なる道楽か」 「それは、調べてみないと、わかりませんが——」 「会ってみるかね?」 「小笠原にですか?」 「いや、この映画の監督にだよ」  と、十津川は、いった。  山中監督は、夜の東京を、車でロケハンするということなので、十津川と亀井は、その車の中で、話を聞くことにした。  カメラマンの運転する車だった。  山中は、三十七、八歳に見える若い監督だった。 「本物の刑事さんからも、いろいろと、取材させて、貰いたいですねえ」  と、山中は、走る車の中で、十津川に、いった。 「小笠原さんとは、いつ頃からの知り合いですか?」  と、十津川は、きいた。 「正式にお会いしたのは、去年の春頃でしたね。四月の下旬じゃなかったかな。何かのパーティで、お会いしたんですよ」 「その時、この映画の話を、したわけですか?」 「そうです。前から、この映画を撮りたかったんですが、なかなか、スポンサーが、見つからなくてね。いろいろな会社に、話を持って行きましたよ。食品会社、銀行、電器メーカー、自動車メーカー。全部、断られました。それで、前に、小笠原さんが、映画に、金を出したというのを聞いていたので、口説いたんですよ」 「すぐには、出すとは、いわなかったんですね?」 「まあ、それが、当然でしょうね。大金を出すんだから。最初は、どんなストーリイなのかだけを話したぐらいです。そのあと、とにかく、根気よく、お願いして、今度、正式に、スポンサーになって頂いたわけです」  山中は、ニッコリした。  時々、車をとめ、降りて行って、カメラマンと、話をする。  その間、十津川と、亀井は、車の中で、待った。 「急に、決まったということは、ありませんか?」  と、十津川は、再び動き出した車の中で、山中に、きいた。 「そうですねえ。五、六月頃と思っていたのに、少し早くなりましたね。私は、ほっとしていますが」  と、山中は、答えた。 「契約するというのは、小笠原さんの方から、いって来たんですか?」 「そうです。突然、電話がありましてね。オーケイの返事を貰ったんです。嬉《うれ》しかったですよ」 「正確には、いつですか?」  と、十津川は、きいた。 「四月二十四日の午後です」  と、山中はいう。  そのすぐあとで、冴子が、パリから、帰って来たことになる。 「小笠原コーポレーションの代表者に、藤代冴子さんがなりましたが、彼女に、会いましたか?」 「何回も会っていますよ。美人で、頭のいい女性ですね。女優時代の彼女については、僕は、知らないんです」 「小笠原さんは、あの映画について、何か注文をつけましたか?」  と、亀井は、きいた。 「二つだけ、いわれましたね」 「どんなことですか?」 「一つは、常に、連絡をとること。これは、当然でしょうね。もう一つは、夜の東京を、きれいに、撮って欲しいということでした」 「夜の東京をですか」 「ええ。小笠原さんは、こういうんです。昼間の東京は、埃《ほこり》っぽくて嫌いだが、夜の東京は、世界一魅力的だと。同感ですと、僕は、いいましたよ。今度の話は、夜のシーンが大部分だから、小笠原さんも、気に入られるんじゃありませんか。あッ、ここで、とめて」  と、山中は、急に、いい、また、カメラマンと、車を降りて行った。      7  十津川と、亀井は、途中で、車を降り、夜の東京の町を、ゆっくり歩いた。  皇居の濠《ほり》に沿って、歩く。  すでに、夜の十二時を回っていた。 「小笠原は、どういう気なんでしょうか?」  亀井が、きく。 「わからないね。聞けば、道楽だというだろうが」 「別に悪いことじゃないから、あれこれ、詰問も、出来ませんね」 「道楽としては、いい道楽だよ」  と、十津川は、いった。 「儲《もう》かるんですかね?」 「よほど、映画が当たれば、儲かるだろうが、たいていは、赤字になると思うよ」  と、十津川は、いった。 「気になるのは、五月、六月に契約といわれていたのに、一か月早く、小笠原が、契約したことですが」  亀井が、歩きながら、いう。 「そして、急遽《きゆうきよ》、藤代冴子を、パリから、呼び戻している」 「それも、彼女が、小笠原コーポレーションの代表だから、当然ということになるんですが」 「映画というのは、完成に、どのくらい、かかるんだろうか?」 「最低でも、二、三か月は、かかるんじゃありませんか。カメラが回ってしまえば、一か月くらいでいいでしょうが」  と、亀井は、あまり自信のない顔で、いった。 「問題は、小笠原が、何を考えているかだな」  十津川は、ひとりごとのように、いった。 「そうですねえ」 「当分、見守っていくより仕方がないかな」  と、十津川は、いった。が、すぐ、 「情報を集める必要があるね。小笠原が、何を考えているか、知りたいんだ」  と、付け加えた。  翌日のスポーツ新聞の芸能欄に、この映画のことが、のった。 〈山中監督、次回作を語る〉  という見出しで、小笠原が、スポンサーになったことを、書いていた。  小笠原の談話も、のっていた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈とにかく、楽しい映画を、作って貰いたい。私自身は、これで、儲けようという気は、全くありませんね。若い山中監督の才能に期待しています〉 [#ここで字下げ終わり]  出演する俳優も、決まり、四月二十九日の連休から、撮影が、始まることになった。  連休が始まると、東京の住人が、旅行に出て、東京の中でのロケが、しやすくなるからだと、山中監督が、話した。  その通りだろうと、十津川は、思った。  連休中は、東京の街は、ひっそりと、静まり返るからである。  十津川は、小谷ゆう子たちの動静を調べさせた。  彼女は、この連休の間、ひとりで、旅行に出ると、いった。  金沢の長田は、東京に帰るかも知れないが、まだ、決めていないという。  横浜の平川良平は、店は、連休にして、どこかへ、釣りに行くということだった。  肝心の小笠原と、藤代冴子は、映画のことがあるので、東京を、離れられないといった。 「金は出すが、口は出さない主義ですが、ロケには、陣中見舞いに行くことになるでしょうね」  と、小笠原は、芸能記者に、話していた。 「みんな、ばらばらですね」  と、亀井が、黒板に書かれた五人の予定表に、眼をやった。  そこに、小谷ゆう子たち三人の名前が書かれているのだが、それは、同時に、三つの事件が、未解決だということでもあった。  もう一人、長田が、金を受け取った相手がいる筈なのだが、その人間の名前は、わかっていない。 (小笠原は、何かを、企んでいるに違いない)  と、十津川は、思う。  だが、それが何か、わからなくて、焦燥《しようそう》にかられるのだ。  その一方で、小笠原が、何かをやれば、未解決の事件が、一挙に解決するという期待も、持っていた。 「連休の間、警戒しよう」  と、十津川は、部下の刑事たちに、いった。 [#改ページ]  第十章 ゲーム開始      1  石川県警から、一つの報告が、届いた。  長田が、五月一日、二日と、休暇をとり、四月二十九日から、五月五日まで、一週間の休みを手にしたというものだった。 「五月一日、二日の休暇願には、私用のためとしか書かれていませんし、連続一週間の休暇をとるために、一日、二日の休暇願を出す社員は多いので、別に、不思議とは、思われていません」  と、県警の三浦警部は、いった。 「彼は、その期間、東京へ帰る気でしょうか?」  と、十津川は、きいた。 「帰ると思います。と、いうのは、四月二十八日の富山—東京の最終飛行便の切符を、もう買っています」 「最終便というと、何時でしたかね?」 「富山発一九時五五分です。会社が終ってから、乗るものと思います。羽田着は、二一時丁度になっています」 「誰《だれ》かと一緒ということは、ありませんか?」 「それはないみたいです。支店の女の子が、長田に頼まれて、一枚だけ、買ったそうですから」  と、三浦は、いう。  十津川は、黒板に、カレンダーをピンで止め、四月二十八日のところに、「長田」と、書き込んだ。 「長田が、東京へ来るわけですか」  と、亀井が、それを見て、いった。 「元々、東京の人間だから、連休を利用して、帰って来ても、おかしくはないんだが、今度ばかりは、気になるね。小笠原が金を出した映画の撮影が、二十九日から始まるからね」 「小笠原が、長田を、呼び寄せたんでしょうか?」 「証拠はないがね」 「他《ほか》の連中も、この連休を期して、小笠原のところに、集まってくるんでしょうか?」 「小谷ゆう子にしても、藤代冴子にしても、東京の人間だから、東京にいても、おかしくはないんだ」 「横浜の平川良平は、どうですか?」 「今のところ、何の動きも、見せていないよ」 「もう一人、男がいますね。長田が、金を巻きあげた人間ですが」 「この男も、恐らく、小笠原によって、殺人のアリバイを作って貰《もら》った人間だろうが、フルネームは不明だし、どこの、何をやっている人間かも、わからないのでね。調べようがないんだ」 「全部で、今のところ、六人ですか」 「そうなるね」 「男四人に、女二人ですか。これで、何が出来ますかね?」 「リーダーが、しっかりしていて、部下が、その指示に、忠実に動けば、たいていのことが、可能だと思うね」 「脅迫によって、命令を実行させても、同じですかね?」 「効果は同じだろう。軍隊を支配しているのは、使命感よりも、むしろ、強迫観念のことが多いからね」 「殺人事件の犯人になるかどうかということは、かなりの圧力になりますよ」 「それなら、忠実な部下になると思うね」 「となると、あとは、リーダーの頭脳ですか?」  と、亀井が、いう。 「その小笠原のことだがね、西本君たちが、引き続き、調べてくれているよ」  と、十津川は、いった。  その西本たちが、調べて来たことを、十津川たちに、報告した。  それは、いくつかのエピソードだった。  犯罪には、関係なさそうな話が多かったが、その中でも、十津川が、興味を持ったエピソードが、二つあった。  一つは、小笠原が、ファミコン好きというものである。中でも、戦争のシミュレーションが、大好きだという。 「本当かどうかわかりませんが、小笠原は、自分でも、パソコンを使って、戦争ゲームを作っているといいますし、ソフトは、百本近く持っているとも、いわれています」  と、西本は、いった。 「戦争のシミュレーションゲームだけかね?、彼が熱中しているのは」  十津川が、きくと、西本は、ポケットから、ファミコンゲームのソフトを、一つ取り出した。 「これも、小笠原が買ったといわれるものです。気になるので、買って来ました」  と、西本は、いう。  そのソフトにつけられた題名は、「M銀行新宿支店を狙《ねら》え」だった。  ケースにつけられた宣伝文句は、こうなっていた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈このゲームは、M銀行を襲撃する七人の強盗団と、これを待ち受ける七人の警備陣の頭脳の戦いです。金庫の中の五億円を、果して守ることが出来るか、或《ある》いは、警備陣を出し抜いて、見事、五億円を手に入れることが出来るか、あなたが、強盗団のリーダー、或いは、警備陣の責任者になって、考えて下さい〉 [#ここで字下げ終わり] 「これを、小笠原が、買っていったのは、間違いないのかね?」  と、亀井が、きいた。 「それは、間違いありません」 「ただの遊びですかね?」  亀井が、十津川を見た。 「そうなら安心だがね。念のために、やってみようじゃないか」  と、十津川は、いった。  ファミコンのゲーム機を借りて来ると、十津川たちは、このゲームを、やってみることにした。  まず、攻める側か、守る側かを、選ぶ。  攻撃側を選ぶと、「アナタハ、リーダーデス」と、文字が出て、六人の部下の名前と、特技が、知らされる。  この辺りは、アメリカ映画によくあるケースだった。  電気の専門家、射撃の名手、錠前あけの名人、爆発の専門家、運転の名人といった部下の特技が、紹介されるのだ。  次は、M銀行新宿支店のことである。  攻撃側としては、この支店の内部構造や、警報装置を、知りたいわけだが、ある点までいくと、 〈ソレハヒミツナノデ、オシエラレマセン〉  という文字が、現われたりするのである。 「なかなか、面白そうですね」  と、亀井が、テレビの画面を見ながら、いった。 「だが、これは、あくまで遊びだよ」  と、十津川は、画面を消して、いった。 「しかし、最近の人間は、映像と、現実の区別がつかなくなっているといいますよ」  若い日下刑事が、口を挟んだ。 「このファミコンで、銀行強盗に成功すると、現実にも、成功すると、思い込むということかね?」 「そうです。現実も、このゲームと同じだと思い込むんです」 「そんな気持に、本当になるものかね?」  と、亀井が、きいた。 「今の現実というやつも、意外に、甘っちょろいですからね」 「甘いかね?」 「甘いですよ。豊田《とよだ》商事なんか、口先三寸で、何千億もの金を集められる世の中です。だから、五億円ぐらいの金は、何とかなると、思う人間がいても、おかしくありません。しかも、そいつが、頭がよくて、自由に動かせる人間が何人もいて、このファミコンゲームを、簡単にやってしまったら、それを、実行に移そうと考えても、おかしくは、ありませんよ」  と、日下は、いった。 「君は、ファミコンは?」 「やりますが、いつも、途中で、放り出してしまいます。このゲームだって、多分、金庫室の前まで行けませんよ」  と、日下は、笑った。 「小笠原は、このゲームを、クリアしたかな?」 「聞いてみますか?」  と、亀井が、いった。  十津川は、笑って、 「面白いが、彼が、どう答えたって、逮捕のきっかけにはならんよ」 「もう一つのエピソードを聞かせてくれ」  と、亀井は、西本たちに、いった。 「これは、小笠原の親友だった男で、現在、仲違いしている男の証言です」  と、西本が、いった。 「どれほどの親友だったんだね。それによって、信頼できる情報かどうかわかるからな」 「大学時代の友人で、小笠原に求められて、彼の宝石店に入社し、副社長をしていた男です」 「なぜ、辞めたんだ?」  と、十津川が、きいた。 「それが、面白いところです。最近の小笠原の考えに、ついていけなくなって、辞めたといっています」 「小笠原は、最近、どんな考え方をしたというんだ?」 「第一に、本来の仕事に熱意を持たない。いくら忠告しても、小笠原は、宝石商としての仕事に、熱意を持たなくなってしまったというのです」 「理由は、何なんだ?」 「他のことに、興味を持ったということでしょう」 「何に?」 「それがわからなくて、彼は、辞めてしまったわけです」 「どうも、ピンと来ないね」  と、亀井が、文句をいった。 「その点を、聞いてみました。映画に金を出したりするのが困ったのかというと、違うというのです。映画に金を出すのは、構わないというのですよ」 「では、何が困ったというんだ?」 「小笠原は、本当に、映画が好きで、金を出しているんじゃない。全く、別のことを考えているといっています」 「何を?」 「もっと、刺戟《しげき》的なことをです」 「もっと、刺戟的なこと?」 「彼が、最初に金を出した映画では、ストーリイの中で、二人の男女が、射殺されます。小笠原は、他の場面では、退屈そうに、あくびをかみ殺していたのに、殺人の場面だけは、生々として、熱心に、見ていたというわけです。それで、友人は、小笠原が、もっと、強い刺戟を求めていくんじゃないかと、怖くなって、忠告したというんです」 「もっと強い刺戟というと、本当の殺人かね?」  と、十津川は、きいた。 「その友人の見たところ、殺人を含めて、犯罪ということだそうです。ただ単に、金が欲しいために、犯罪に走るのではなくて、刺戟を求めて、犯罪に走るような気がするというわけです。忠告したが、小笠原は、笑って、取り合わない。それで、彼と心中するのは嫌だから、別れたと、いっています」 「刺戟を求めて、犯罪か」 「彼には、金があります。社長であり、外国の高級車も、持っています。女にも、もてる。商工会議所の会員でもあり、政財界人が会員のゴルフ場にも、入会しています。恵まれ過ぎた人生です。それが、小笠原には、退屈なんでしょう」 「すると、長田にゆすらせて、金をとらせたのも、金が欲しいからではなく、刺戟が、欲しかったということなのかね?」  と、亀井が、眉《まゆ》をひそめて、きいた。 「そのことも、今いった友人に話してみたんです。そうしたら、脅迫という刺戟が欲しかったんだろうと、いっていました」 「それも、自分は、安全地帯にいて、長田にやらせている」  と、亀井は、腹立たしげに、いった。 「次に何かをやるとしても、同じように、刺戟が欲しいからで、自分は、安全地帯にいてという形をとるかな?」  と、十津川が、きいた。 「そう思います」  と、日下が、いった。      2  十津川は、その友人に会うことにした。  名前は、井原博士《いはらひろし》。現在は、中小企業のコンサルタントをやっているという。  十津川と、亀井は、小田急《おだきゆう》線の経堂《きようどう》にあるマンションに、井原を訪ねて行った。  井原は、十津川に向って、 「若い刑事さんに話した以上のことは、私には、わかりませんよ」  と、いった。  眼鏡をかけ、いかにも、温和で、理知的な感じだった。 「とにかく、あなたは、小笠原のことを、よく知っている。今は、あなたが、頼みの綱です」  と、十津川は、いった。 「彼が、何かやりそうなんですか?」 「そうです」 「何を?」 「それがわからなくて、困っているんです」  十津川は、長田のこと、小谷ゆう子のことなどを、話した。 「恐らく、小笠原は、彼らを使って、何かをやる気でいると思っています」 「そうですか」 「それも、刺戟のある犯罪をです」 「いつか、やるだろうと、思っていました。だが、その長田とか、小谷ゆう子といった連中を、逮捕できないんですか? 手足がなければ、小笠原も、何も出来ないと思いますよ」  と、井原は、いう。 「それが、出来ないので、弱っているんです。作られたアリバイとは、わかっているんですが、強固なアリバイだし、殺人をしている人間が、それを自供するとは、思えないんです。小笠原も、それを知っているから、平然としているんです」 「なるほど。わかりますよ」 「問題は、彼が、何を考えているかということです」 「それも、わかります。私だって、事前に、止めたいと、思いますよ」 「小笠原は、今、銀行強盗のファミコンに、こっています。実際に、彼が、銀行強盗をやると、思いますか?」  と、十津川は、きいた。  井原は、首を小さく振って、 「何ともいえませんね。それが、今、彼にとって、最も刺戟的なことなら、やるかも知れないし、他に、もっと強い刺戟があれば、そっちへいくでしょうね」 「どうやら、今度の連休に、何かやると、思われるのです」 「映画の話も、聞いていますが、映画の撮影と、同時にですか?」  と、逆に、井原が、きいた。 「かも知れません」 「私が、もう一度、彼に会って、それとなく、聞いてみましょうか? 私になら、油断して、打ちあけてくれるかも知れませんから」 「頼みます。われわれは、出来れば、事前に防ぎたいのです」 「私も同じですよ。今は、仲違いしていますが、親友でしたからね。助けたいと、思っているんです」  と、井原は、いった。 「条件をつけて、申しわけありませんが、事は切迫しています。連休の始まるまでに、何とか、解明したいのです」 「わかりました。今夜中に、彼に会って来ますよ。その結果は、明日、報告します」  と、井原は、いってくれた。  翌、四月二十八日は、忙しかった。明日から、連休の始まりである。  小笠原たちの監視を強めなければならないのだが、何の証拠もなしに、尾行はつけられなかった。  従って、遠くから、見張るより仕方がなかった。  それに、忙しかったのだ。  昼頃、井原が、十津川に、会いに来た。  疲れた表情をしていた。十津川は、それを見て、 「うまくいきませんでしたか?」  と、きいた。 「残念ですが、何もわかりませんでした。いろいろと、探りを入れてみたんですが、駄目でした。ただ、映画のことは、気に入っているようでしたよ」 「しかし、前の映画の時も、映画そのものには、あまり、熱意を持っていなかったんでしょう? 殺人シーンには、興奮していたが」  と、十津川は、きいた。 「そうです。しかし、今度の映画には、満足しているみたいですね」 「まだ、撮影も、始まっていないのに?」  亀井が、不思議そうに、きいた。 「そうなんです。不思議でしたね。ひょっとすると、映画そのものが好きになったのかと思い、それなら安心だなとも、考えましたが」 「違いますか?」 「違いますね。何か別のことで、今度の映画に、満足しているんだと思います」  と、井原は、いう。 「それは、何ですかね?」 「わかりません。ただ一つ、今度の映画のシナリオに、小笠原が、いろいろと意見をいったというのを、聞いたことがあります。前の映画の時は、金は出すが、口は出さないという主義でしたが」 「すると、自分の希望通りのシナリオなので、満足しているということでしょうか?」  と、十津川が、きいた。 「そうじゃないかと、私が、勝手に、推測したわけです」  と、井原は、いった。  十津川と、亀井は、礼をいって、井原を送り出してから、手に入れたシナリオのページを、繰ってみた。  前の映画が、殺人を通して、人間の優しさを追求したストーリイなのに、今度のシナリオは、ひたすら、射《う》ち合いであり、カーチェイスであり、ビルの爆破である。 ○東京の一角が、火の海と化す  そんな文章も、見える。  もちろん、大部分は、セットでの特撮なのだろうが、連休で、がらんとした都心で、カーチェイスの撮影は、するらしい。 「それを、犯罪に利用するのかも知れません」  と、亀井が、いった。 「あり得るね。小笠原は、それで、わくわくしているのかも知れない」 「連休中の都内での撮影は、止めさせますか?」 「それは、出来ないよ。今のところ、小笠原は、善良な宝石店のオーナーだし、彼が、映画に出資するのは、悪いことじゃない。アリバイ作りをやって、何かの殺人犯を助けているといっても、証拠はないんだ」 「畜生!」  と、亀井が、呟《つぶや》いた。  十津川は、西本たちに向って、 「連中の特技は、わかったかね?」 「わかりましたが、これといったものはありませんね」  と、西本は、肩をすくめるようにしていい、黒板に、書きつけていった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ○長田博  大学時代、テニスの同好会にいたが、特別に運動神経が秀《すぐ》れているとは思えない。  運転免許所持。 ○小谷ゆう子  高校時代、短距離の選手だったが、大学に入ってからは、やっていない。  運転免許あり。英会話。 ○平川良平  K大理工学部卒。  趣味、狩猟。猟銃所持(三丁)。  運転免許。 ○藤代冴子  女優としての経験あり。  エアロビクスの指導員の資格。  運転免許。 ○小笠原貢  大学は政経学部。  ヨットの経験あり。クレー射撃の免許を持ち、二丁の銃を所持。  運転免許。 [#ここで字下げ終わり] 「問題は、小笠原と平川が、銃を持っていることだな」  と、十津川が、いった。 「映画のシナリオにも、刑事と、銀行強盗が、銃を射ち合うシーンがあります」  と、亀井が、いった。 「全員が、運転免許を、持っているか」 「これは、今では、普通です」  と、日下が、いった。 「全員の運転の技術は、どうなんだ?」  と、亀井が、きいた。 「長田は、運転歴七年で、事故は、一回だけです。安全運転といったところですね。小谷ゆう子は、車を買ったばかりです。友人の話では、かなり大胆な運転をするそうですが、一年では、テクニックは、タカが知れています」 「他の人間はどうだ」 「平川も、運転歴は、十年と長いですが、安全運転で来ています。ただ、気性は、意外に激しいところがあるので、いざとなると、強引な運転をするかも知れません。藤代冴子は、映画で、女性レーサーの役を、代役を使わずにやったことがあります」 「すると、運転は、うまいんだな?」 「女性としては、上手《うま》い方だと思います」 「小笠原は、どうだ? 金にまかせて、スポーツカーの運転を、楽しんだりしているんじゃないのかね?」 「それは、あります。ポルシェや、フェラーリを、運転した経験がありますが、テクニックは、わかりません」 「銃は、全部で、五丁か」  と、十津川は、呟いた。  全員が、持っているようなものではないか。  それが、使われるようなことが、あるのだろうか?      3  二十八日の二一時〇〇分、羽田に着いた富山からの飛行機で、長田が降りて来るのを、待っていた清水刑事が確認して、十津川に、電話で、知らせて来た。 「ひとりか?」  と、十津川が、きいた。 「連れは、いないようです」 「誰か、迎えに来ているか?」 「いや、来ていませんね。長田は、タクシーのりばの方に、歩いて行きます」 「尾行してみてくれ」  と、十津川は、いった。  一時間半後に、長田が、四谷のホテルにチェック・インしたことが、確認された。 「長田の名前で、二十八日から五月五日まで、予約されていました」  と、清水が、電話で、いった。 「部屋は?」 「シングルです。これから、どうしますか?」 「部屋は、あいているか?」 「都心のホテルは、あいていると思いますが」 「それなら、今夜は、そこへ泊ってくれ。長田が、この連休に、どんな行動をとるか、知りたいんだ」  と、十津川は、いった。  十津川たちも、連休中は、捜査本部に、泊ることに決めていた。  その捜査本部で、十津川は、テレビのニュースを見た。  午後十一時のニュースによると、すでに、帰省ラッシュは、始まっていて、東京発の列車や、飛行機は、いずれも、満席だという。  海外へも、出かける人が多く、成田空港は、今日も、乗客であふれているらしい。  その空港や、東京駅、上野駅などのラッシュの光景が、次々と、テレビ画面に、映し出されていく。 「東京の都心は、明日から、ゴーストタウンと化すと思われます」  と、アナウンサーがいい、去年のゴールデンウィークの時の都心の光景が、紹介された。  特に、国会周辺や、官庁街、ビジネス街は、人の姿が消え、時たま、車が走るだけである。 「明日から、こんな風になるのか」  と、十津川は、溜息《ためいき》をついた。 「映画の撮影には、絶好でしょう」  亀井が、いう。 「だから、都心での撮影が、許可されたんだよ」 「しかし、連休中は、銀行も閉まっていますから、銀行強盗は、出来ませんよ」  と、亀井は、いった。 「確かに、そうだが、金もないのかな?」 「本店に、集められているんじゃありませんか?」 「それでは、支店を襲っても、無駄骨か」 「そう思いますが」  と、亀井は、あまり、自信のない顔で、いった。 「映画の撮影場所のくわしい地図が欲しいな」  と、十津川は、いった。  深夜だったが、亀井が、山中監督に、電話をかけ、ロケ現場の地図が欲しいと、告げた。  この映画のために作られた小笠原コーポレーションに、電話しなかったのは、すぐ、小笠原に、知られてしまうからである。  東京の地図に、×印のついたものが、ファックスで、送られてきた。  三宅坂《みやけざか》周辺、東京丸の内周辺、日比谷公園附近に、×印がついている。「日時は、書いてないね」  と、十津川は、いった。 「山中監督の話では、その時の都合で、どこから先に撮るかわからないので、今から、何日の何時と、決められないそうです」  と、亀井が、いう。 「山中監督には、小笠原には黙っているように、いったのかね?」 「釘《くぎ》を刺しておきましたが、恐らく、通じてしまうと、思います」  と、亀井は、いった。 「そうだろうね」 「この三か所を、警戒しますか?」  と、亀井は、きいた。 「それなんだがねえ」  十津川は、じっと、ファックスで送られて来た地図を眺めた。 「フェイントということも考えられますか?」 「怖いのは、それだよ。われわれに、この地図の場所を警戒させておいて、他の場所で、騒ぎを起こす気かも知れない。もし、そうだったら、この地図に、とらわれるのは、危険だぞ」  と、十津川は、いった。  翌二十九日、連休第一日のスポーツ新聞は、一斉に、問題の映画のロケのことを伝えた。  裏面の芸能のページを、全部使っての大きな広告だった。 〈ゴーストタウンの東京都心で、大ロケーション敢行!〉 〈連休万歳! ロケに最適と、山中監督、会心の笑み!〉 〈逃走中、パトカー入り乱れてのカーチェイス!〉  そんな大見出しが、どのスポーツ新聞の芸能欄にも、踊っていた。  十津川は、机の上に、五種類のスポーツ新聞を並べた。 「どういうことなんだ? これは」 「小笠原コーポレーションが、莫大《ばくだい》な金を出したんでしょう」  と、亀井が、いった。 「しかし、何のために?」  十津川は、難しい顔になっていた。 「作品の宣伝だったら、早すぎますね」 「そうだよ。それに、これを見て、人が集まったら、ロケに支障を来たすんじゃないかな」 「場所は、書いてありませんね」 「その理由も、わからないんだ」 「まるで、われわれに対する、挑戦状に見えますね」  と、いったのは、西本刑事だった。 「それかも知れませんよ」  亀井が、きらりと、眼を光らせた。 「挑戦か?」 「われわれが、小笠原たちをマークしていることも、映画撮影に対して、疑いの眼を向けていることも、知っている筈《はず》です。だから、これは、西本君のいうように、彼らの挑戦状の可能性が、強いと思います」 「彼らのというより、小笠原のだろう」  と、十津川は、いった。  もし、これが、警察に対する挑戦なら、撮影に合せて、何かやるぞと、宣言しているようなものではないか。  午前十時に、清水刑事から、電話が入った。 「長田は、まだ、ホテルにいます」 「間違いないかね?」  と、十津川は、念を押した。 「それは、間違いないんですが、妙な具合になって来ました」  と、清水がいう。 「何が妙なんだ?」 「例の映画のことなんですが——」 「早くいいたまえ」  と、十津川が、いらだって、大声を出した。 「ロケ隊が、このホテルに、やって来たんです」 「ロケ隊が?」 「そうなんです。ロケバスや、撮影に使うパトカーや、強盗役の乗る車が、次々に、集まって来ています」 「しかし、シナリオには、ホテルの場面なんか一つもないぞ」  と、十津川は、いった。 「なんでも、全員が、このホテルに泊っていた方が、撮影に便利だというので、連休中、全員が、寝泊りするそうです」  と、清水は、いってから、 「その全員を、私一人では、見張れませんが——」 「わかってる。君は、長田だけ、見張っていろ」  と、十津川は、いった。 「何かあったんですか?」  と、亀井が、きいた。  十津川は、電話を切ってから、ホテルに、ロケ隊が、来たことを、話した。 「四谷のKホテルですか」 「考えてみれば、四谷は、ど真ん中だから、便利は便利なんだがね」 「それも、小笠原の計画の一つですかね? それとも、偶然でしょうか?」 「わからないが、同じホテルに、長田が泊ったのは、偶然とは、思えないね」  と、十津川は、いった。  十津川は、東京の地図を見つめた。  四谷からなら、三宅坂にも、丸の内にも、簡単に行けるだろう。 「Kホテルに、行ってみますか?」  と、亀井が、きいた。 「様子を見てくるか」  と、十津川も、肯《うなず》いた。  二人は、覆面パトカーで、四谷のKホテルに、行ってみた。  なるほど、駐車場に廻《まわ》ってみると、プロダクションの名前が、横腹に描《か》かれたマイクロバスが二台と、撮影用のパトカー三台が見えた。  そのまわりに駐《と》めてある車は、主役の俳優たちが、乗って来たものだろう。  十津川は、パトカーから降りて、マイクロバスのフロントガラスを拭《ふ》いている男に、声をかけた。 「今日は、何時頃、出かけるんですか?」 「あんたは、誰なの?」  と、運転手らしい男が、逆に、きいた。 「このホテルの人間で、いつ出発するのか、聞いて来いと、いわれたもんですからね」 「今日は、夜間撮影だから、夕食のあと、出発する予定ですよ」 「場所は、どこですか?」 「さあね。それは、監督に聞いてくれないかな」  と、相手は、いった。  十津川は、車に戻った。煙草に火をつけて、今日は、夜間撮影らしいと、亀井に、話した。 「夜まで、動きはなしですか」 「と、思うがね」 「五月五日までだと、長いですね」  と、亀井が、小さくいった。  二人は、車をスタートさせた。四谷から、三宅坂へ廻ってみる。  確かに、ゴーストタウンになっていた。国会も、休みだし、官庁街も、ひっそりと、静まり返っている。  いつもなら、渋滞をくり返す日比谷《ひびや》周辺も、嘘《うそ》のように、静かで、車の量も、極端に、減ってしまっている。 「怖いくらいに、静かだね」  と、十津川は、周囲を見廻して、いった。 「こんな場所で、事件を起こせば、追いかけるのは、楽ですよ。逃げるのも、楽でしょうが」  と、亀井が、いった。  二人は、捜査本部に戻った。  何事も起きないままに、時間が、経《た》っていく。  午後四時近く、清水刑事が、また、電話して来た。 「妙なことが、わかりました」 「今度は、何なんだ?」  と、十津川が、きく。 「三時に、ロケ隊の一行と、長田が、ロビー横の喫茶ルームで、一緒に、お茶を飲んでいました。それで、長田がいなくなってから、ロケ隊の一人に、聞いてみたんです」 「それで?」 「長田は、この映画のために作られた小笠原コーポレーションのスタッフの一人になっているというんです」 「スタッフ?」 「そうなんです。名刺も、見せて貰いました。間違いなく、小笠原コーポレーション広報係の肩書きつきの名刺になっています」 「すると、他の小谷ゆう子や、平川良平なんかも、小笠原コーポレーションのスタッフになっているのかな?」 「そうかも知れません」 「小笠原の奴《やつ》」  と、思ったが、それだけでは、彼らを、逮捕することは、出来なかった。  映画を作るために、プロダクションを作るのは、よくある話だし、スタッフとして、誰を傭《やと》おうと、勝手だからである。  夕食のあと、ロケ隊は、Kホテルを出発したが、その時は、長田も、スタッフの一人として、同じマイクロバスに、同乗した。  ロケ隊が、出かけたのは、国会議事堂前から、三宅坂へかけての地区だった。  十津川も、亀井も、覆面パトカーで、議事堂前へ出かけた。  午後十時を過ぎると、その附近は、全く、車も、人も、通らなくなった。  犯人の車と、パトカー三台のカーチェイスの撮影が、始められた。  もちろん、スタントマンたちが、運転している。  パトカーの一台が、横転して、もう一台に、激突する。  十津川は、そんな場面より、長田のことが、気になったが、彼は、なかなか、マイクロバスから、出て来なかった。  撮影は、深夜の二時過ぎまで、行われ、一行は、再び、Kホテルに、引き揚げていった。  ロケの間、たまたま、通りかかった車が、とまって、見物しているようなこともあったが、撮影は、順調に、行われたようだった。 「何も、起きませんでしたね」  と、亀井が、拍子抜けした顔で、いった。が、このあと、長田が、消えてしまったのである。  長田は、ロケ隊と一緒に、Kホテルには、戻らなかった。 「撮影中に、消えたんだと思います」  と、清水は、いった。 「しかし、マイクロバスから降りて来なかったぞ」 「それが、バスの中で、服を着がえ、かつらをつけて、変装して、姿を消したみたいです。ロケ隊の一行が、そんな話を、していましたから」 「変装をか」  十津川は、舌打ちした。  この夜の中《うち》に、小谷ゆう子や、平川良平たちも、一斉に、姿を隠してしまった。  それが、何やら、ゲームの開始の合図のように、十津川には、思えた。 [#改ページ]  第十一章 逆 転      1  四月三十日、五月一日、二日と、何事も、起きずに過ぎ、ロケだけが、順調に、進められていった。 「何も、起きませんね」  と、亀井《かめい》は、都内ロケの様子を、大々的に報じているスポーツ新聞を見ながら、十津川《とつがわ》にいった。 「そうだね」 「まさか、われわれの注意を、東京都内に集めておいて、地方で、何かやろうとしているんじゃないでしょうね?」 「それはないさ。例えば、長田《おさだ》を、東京に呼び寄せたりしている。この東京都内で、何かやる気でいることは、間違いないよ」 「小笠原《おがさわら》は、今日、自分の車に乗って、ロケ隊について廻《まわ》っていたようです」 「知ってるよ」 「スポンサーとしては、当り前の行動なんでしょうが、どうも、気になりますね」  と、亀井は、いった。 「同感だが、それを止める権利は、われわれにはないよ」 「小笠原の本当の目的は、何なんですかね? まさか、ロケの見物じゃないと思うんですが」 「あのベンツに、小笠原以外の人間は、乗っていなかったね?」 「彼一人で、自分で運転しています」 「昨日は、あのベンツを、西本《にしもと》刑事が、尾行していたんだったね?」 「西本と日下《くさか》の二人です」 「呼んでくれ」  と、十津川は、いった。  二人が来ると、十津川は、昨日一日の小笠原の様子を聞いた。 「三宅坂《みやけざか》周辺でのロケが始まったのが、午前十時|頃《ごろ》でした。それに合せるように、小笠原が、ベンツでやって来て、ロケの終る午後四時まで、ロケ隊に、ついて走っていましたよ」 「その間、彼は、ベンツから降りたりしたのか?」 「いえ、一度も、車から降りませんでした」 「昼食の時もかね?」 「昼食は、ロケ隊に弁当が出たんですが、それを、小笠原は、自分の車の中で、食べていましたよ」  と、西本は、いってから、 「そういえば、一度も、車から降りなかったのは、不思議といえば、不思議ですね。昨日のロケは、別に、カーチェイスでなくて、刑事の一人が、恋人とあの辺りを歩くシーンとか、パトカーが、三台、つながって、走って行くシーンとかですからね。車から降りて、見た方が、よく見えた筈《はず》なんです」  と、首をかしげた。 「彼は、車の中で、午前十時から午後四時まで、何をしていたのかな?」 「いろいろでしたよ。今いったように、食事をしていることもあったし、眠っていることもありました」 「自動車電話は、かけなかったのか?」 「かけていません」 「それだけでは、別に不審な点はないね」 「警部」  と、日下が、急に、顔を突き出すようにして、 「今になってみると、一つ、妙なことがありました」 「何だ?」 「昨日のロケには、女優の牧野《まきの》きみ子が、出ていたんです。マネージャーの運転する車に、乗って来ていました。三宅坂から、四谷《よつや》をへて、|市ヶ谷《いちがや》まで、シーンが変るので、彼女も、車で、動いていたんですが、その車が、途中で、故障しましてね、マネージャーが、小笠原に頼んで、牧野きみ子を、ベンツに乗せて貰《もら》おうとしたんです。そしたら、断られていましたよ」 「美人女優なのに、断ったのか?」 「彼女のマネージャーが、文句をいっていましたよ。仕方なしに、タクシーを、使っていましたがね」 「なぜ、小笠原は、彼女を、自分のベンツに、乗せてやらなかったのかね?」 「小笠原に、きいてみますか?」 「バカなことを、いいなさんな」  と、十津川は、笑ったが、謎《なぞ》は、残ったままになった。  小笠原は、別に女嫌いではない。十津川が調べた限りでは、むしろ、女に優しい男である。  その小笠原が、なぜ、女優を、自分の車に乗せなかったのだろうか? 別に、用があったわけでもないのにである。 (わからないな)  と、十津川は、呟《つぶや》いた。      2  翌五月三日。  十津川は、小笠原への尾行と監視を強化することにした。人数を増やし、十津川自身も、亀井と、覆面パトカーに乗り、遠くから、小笠原のベンツを、監視することにした。  今日の都内ロケは、明治神宮《めいじじんぐう》周辺から、西参道《にしさんどう》を通って、甲州《こうしゆう》街道へ移動することになっていた。  午前十時から、ロケが始まった。  小笠原は、一人で、ベンツで、明治神宮にやって来た。  十津川は、離れた位置にとめた車の中から、双眼鏡で、小笠原のベンツを見つめた。  間違いなく、一人である。リア・シートに、誰《だれ》かが、隠れている気配はない。  ロケバスが移動すると、小笠原のベンツもそれについて行く。  時々、窓を開けて、ロケ隊のスタッフに、話しかけていたが、車から降りる気配はなかった。 「いったい、何のつもりなんですかね?」  と、亀井が、眉《まゆ》をひそめて、いった。小笠原の目的がわからず、いらいらしているのだが、それは、十津川も、同じことだった。 「長田たちは、どこにいるのかわからないのが、不安だね」 「小笠原が、どこかへ、自動車電話をかけている気配は、ありませんね」 「それなんだよ」  と、十津川は、肯《うなず》いて、 「車の中から、自動車電話で、どこかへ連絡しているんじゃないかと思ったんだが、今のところ、全く、受話器を取っていないね」 「これでは、スポンサーとして、ロケを見に来ているという形ですよ」 「もし、本当にそうなら、長田たちが、東京に来る必要はないんだよ」 「そうなんですよ。何かやる気だとすると、リーダー格の小笠原が、ひとりで、ロケを楽しんでいるというのは、どう考えても、不可解です」 「小笠原の様子はどうだ?」  と、十津川は、ベンツの傍《そば》にいる西本たちの車に、無線電話をかけた。  ——別に、変ったところはありません。今、ちらっと、自動車電話に、眼《め》をやりました。 「電話をかけるのか?」  ——いや、何もしませんね。すぐ、ロケ隊の方へ、視線を戻してしまいました。 「受話器を取りかけたということはないのか?」  ——ありません。 「おかしいな」  と、十津川は、呟いた。 「かけようとして、監視されているので、止《や》めたんじゃありませんか?」  と、亀井が、きいた。 「かも知れないが——」  と、十津川が、いったとき、ロケ隊のバスが、移動を始めた。  主役の俳優の車や、撮影用のパトカーが、その後に、続く。  小笠原のベンツも、動きだした。 「今日一日、彼は、ロケにつき合うつもりのようですよ」  と、亀井が、いった。 「何のためだろう?」  十津川は、それを知りたかった。  ロケ隊は、甲州街道を、西に向って走って行く。  連休で、この道路も、閑散としている。ロケには、もって来いだろうが、十津川は、別のことを考えていた。なぜ、小笠原が、このロケ隊に、同行しているかの理由だった。  十津川は、じっと、前方を走って行くベンツを見すえていたが、 「ひょっとすると——」  と、呟いた。 「何です? 警部」 「小笠原は、囮《おと》りかも知れないぞ」 「囮り? しかし、彼は、リーダーですよ」 「だから、囮りとしての価値があるんだ。われわれを、引きつけておけるからだ」 「しかし、リーダーとすれば、何をやるにしても、刻々と、その動きを、見ていたい筈《はず》ですがねえ。電話を使っていないとすると、どうやって、小笠原は、指揮しているのか、それが、わかりません」 「どうだ? 小笠原の様子は?」  と、十津川は、ベンツのすぐうしろにくっついている西本たちの覆面パトカーに、電話をかけた。  ——全く、変った様子は、見えません。 「本当に、何も変化はないのかね?」  ——音楽をかけています。 「音楽?」  ——CDだと思いますが、かすかに、聞こえて来ます。 「のんきにやってるんだね」  ——一九六〇年代のジャズです。 「君の知ってる曲なのか?」  ——さっき、待っている時に、ベンツに近づいてみましたら、「霧のサンフランシスコ」をかけていました。あの曲だけは、知っていたんです。 「あの年代なら、あの頃のジャズが好きでも当然でしょうが」  ——ええ。今、ちょうど、自動車電話に眼をやりました。 「電話に? これで、二度目だね?」  ——そうです。しかし、受話器は、取りませんね。すぐ、視線を戻しました。 「かけたくて、いらいらしてるのかな? 自動車電話は、運転席と助手席の間についていたんだな?」  ——そうです。運転しながら、電話が出来るようになっています。 「二度目ね——」  と、十津川は、難しい顔で、考え込んでいたが、突然、 「君たちは、そのまま、ぴったり、小笠原に、貼《は》りついていてくれ」  と、西本たちに指示してから、運転している亀井に、 「止めてくれ!」  と、叫んだ。  亀井が、あわてて、ブレーキを踏み、車を、歩道側に寄せて、止めた。 「どうされたんですか? 警部」 「やっぱり、小笠原は、自分が囮りになっているんだ。われわれを、自分に引きつけておいて、その隙《すき》に、長田たちに、何かやらせようとしているんだよ」 「しかし、どうやって、指示を出しているんです?」 「計画は、事前に、打ち合せてあるんだよ」 「しかし、それが、間違いなく、実行されてるかどうかは、判《わか》らないんじゃありませんか?」  と、亀井がきいた。 「もちろんだよ」 「じゃあ、どうやって、連絡を?」 「電話だよ。自動車電話を使っているんだ」 「しかし、小笠原は、一度も、受話器を取っていませんよ」 「そうだ。だが、西本刑事の話では、二度、電話に眼をやっている。最初が午前十一時で、二度目が、十二時だ」 「どこかに、電話しようとして、やめたんじゃありませんか?」 「カメさん。別に、受話器を取らなくても、連絡は出来るんじゃないかな」  と、十津川は、いった。  亀井が、突然、「あッ」と、声をあげた。 「電話を鳴らすだけでも、連絡は出来ますね」 「そうだよ。午前十一時に電話が鳴る。それが、全員が、現地に集合した合図。次の電話が、計画を実行に移す合図。二度鳴らすことにしておけば、他の電話とまぎれることはないんじゃないかな。計画が、うまく実行されている内は、同じ合図を送る。失敗したときは、何分間か、鳴らし続ける」 「CDをかけているのは、その電話の音を消すため——?」 「多分ね。ただ、電話が鳴ると、どうしても、反射的に、眼を向けてしまうんだ」 「しかし、連中は、どこで、何をやっているのか、それが、わからないと——」  亀井が、いまいましげに、舌打ちした。      3  田園調布《でんえんちようふ》の高級住宅地の外れにあるM銀行田園調布支店の近くに、大型のバスと、パトカー一台が、とまっていた。  バスの横腹に、「——撮影所」と、大きく描かれている。  背広姿の長身の男が、若い、ちょっと化粧の派手な女を連れて、銀行のまわりにある商店や、住宅に、一軒ずつ、あいさつしていた。 「私は、小笠原プロで、今度撮影する映画のプロデュースをやっている者です」  と、長身の男がいい、名刺を差し出した。 〈小笠原プロ 長島久一郎〉  と書かれた名刺である。 「それから、これは、その映画でデビューすることになった女優の里見《さとみ》マヤ君です」  と、男は、連れの女を紹介した。  その女と、男は、警視庁の出した、都内のロケ許可証を見せた。 「この附近で、これから、映画のロケをやります。パトカーが、サイレンを鳴らして走ったり、ドンパチ銃声がしても、ごらんのように、撮影用のニセパトカーだし、空砲ですから、安心して下さい」 「ロケのことは、新聞で見ましたよ」  と、応対した人たちは、笑顔で、迎えた。  二人は、M銀行田園調布支店にも、あいさつに行った。  表は、シャッターが下り、通用門のところに、守衛室がある。  二人は、その守衛室に行き、そこにいた中年の守衛に、同じあいさつをした。  守衛も、スポーツ新聞で、ロケのことを知っていた。 「守衛さんは、今日、何人いらっしゃるんですか?」  と、長身の男が、きいた。 「なぜですか?」 「いや、もし、何人かいらっしゃるんなら、お一人、守衛の役で、映画に参加して貰《もら》いたいと思いましてね。もちろん、出演料は払いますよ」  と、男は、にこやかにいった。 「エキストラね、残念ですが、二人しかいないんで、無理ですよ」  と、守衛も、笑った。  男と、女は、ロケバスに、戻った。  中には、二人の男と、一人の女が、いた。  男二人は、警官の制服を着ていた。  その一人、村田淳《むらたじゆん》が、戻って来た平川良平《ひらかわりようへい》に向って、 「どうだった?」 「上出来だ。銀行も、他の商店、住宅も、ロケだと思い込んだから、銃声が聞こえても、怪しまれないよ」  と、平川はいい、素早く、背広を脱ぐと、ジャンパー姿に、野球帽という恰好《かつこう》になって、重い、プロ用のビデオカメラを担いだ。そのカメラにも、——映画の名前が、入っている。 「映画なのに、ビデオカメラじゃ、疑われるんじゃないか?」  と、村田が、きく。  平川は、笑って、 「ロケと信じ込んでいれば、疑わないさ」  と、いった。  他の四人が、元気なのに、警官姿の長田は、青い顔をしている。 「君は、パトカーに、乗っていてくれ」  と、平川は、指示してから、 「リーダーに、連絡はしてくれたんだろうね?」 「ああ、間違いなく、電話をしたよ」  と、いってから、長田は、ロケバスを降り、パトカーに歩いて行った。 「さあ、行くぞ」  と、平川は、他の三人に、声をかけた。  警官姿の村田、女優役の藤代冴子《ふじしろさえこ》。そして、男の子のような恰好をした小谷《こたに》ゆう子の三人が、腰を上げた。  村田と、藤代冴子が、猟銃を持ち、ゆう子は、大きなリュックサックを担いで、バスをおり、M銀行の通用門に向って歩いて行った。  冴子が、にこやかに、二人いる守衛に向って、 「これから、撮影を始めますから、よろしく。私は、犯人の情婦の役なんです」 「きれいな方だから、似合いますよ」  と、守衛は、お世辞をいったが、その声が、急に、消えてしまった。  冴子と、村田が、いきなり、二人の守衛に、猟銃を向けたからである。 「冗談はやめて下さいよ」  と、守衛の一人が、いった。 「本気だよ」  と、警官姿の村田がいい、いきなり、床に向って、引金をひいた。  猛烈な発射音と共に、弾丸が、床にめり込んだ。  その一発で、二人の守衛は真っ青になってしまった。  村田は、二人を、後手錠にし、口に、無理に猿ぐつわをかませた。 「よし。行け」  と、平川は、村田と、ゆう子に、いった。  二人は、守衛室から、鍵《かぎ》の束を持ち出して、銀行の勝手口のドアを開け、中に入って行った。  あとに、猟銃を持った冴子と、ビデオカメラを持った平川が、残った。  商店街も、住宅街も、連休で静かだが、それでも、四、五人の野次馬が、寄って来た。  パトカーに戻っていた長田が、降りて来て、彼らに、 「あまり、傍へ寄らないで下さい」  と、声をかけた。 「銀行襲撃のシーンですか?」  と、野次馬の一人が、きく。  彼らに向って、冴子が、ニッコリと、笑って見せた。  手錠をかけられている二人の守衛が、必死になって、呻《うめ》き声をあげた。  すかさず、ビデオカメラを持った平川が、 「もっと、大きな呻き声をあげてくれないと困るな。必死の筈なんだから」  と、大きな声で、いった。      4  村田と、ゆう子は、銀行の中に入った。  連休で、現金は、本社へ運ばれてしまっている筈だが、それでも、二人は、地下へおりて行った。  巨大な金庫室の前に立った、貸金庫室である。 「やっぱり、正面からは、開けられないわね」  と、ゆう子は、肩をすくめるようにして、いった。 「計画通り、天井に穴を開ける」  と、村田は、短く、いった。  一階に戻り、ちょうど、金庫室の上に、ゆう子が、リュックサックを置いた。  電動の削岩機を取り出し、コードにつないで、村田が、コンクリートの床に、穴をあけ始めた。  ゆう子は、腕時計に、眼をやった。  全《すべ》て、時間表通りに、やる必要があった。  何か所か穴を開け、そこに、ダイナマイトを詰め、導火線を結ぶ。 「あと、二分」  と、ゆう子が、叫ぶ。  表では、警官姿の長田が、パトカーに戻り、午後一時に、サイレンを鳴らして、銀行前の通りを、往復し始めた。  同時に、銀行の中で、村田は、スイッチを押した。  轟音《ごうおん》がとどろき、コンクリートの破片が飛び散り、埃《ほこり》が舞いあがった。  円形に、コンクリートが崩れて、地下金庫の天井に、穴があいた。 「やったぞ!」  と、村田が、ニヤリと、笑った。  二人は、ロープを使って、金庫室へ降りて行った。  貸金庫が、ずらりと並んでいる。  この銀行の周囲は、有名な高級住宅地なので、その資産家が、借りている金庫が、ほとんどである。  二人は、金テコを使って、片っ端から、貸金庫を、開けていった。  預金通帳は、そのままにしておき、現金、宝石、金塊だけを、リュックサックに、詰め込んでいった。  時間が、経過していく。  二人は、ふくらんで、重くなったリュックサックを、一緒に押しあげ、自分たちも、ロープで、あがっていった。  削岩機や、金テコは、指紋を拭《ふ》き取って、置いて行く。これも、計画にあることだった。  村田は、警官の制服を脱ぎ捨てた。下には、黒い戦闘服である。  その恰好になり、二人で、重いリュックサックを持ち、猟銃を片手にして、腕時計に、眼をやった。  午後一時四十分。  守衛室の前で、平川が、ビデオカメラを、担いだまま、四、五人の野次馬に聞かせるように、大声で、 「これから、銀行強盗の逃げるシーンを撮ります!」  と、いった。 「君も、向うへ行って、一緒に、逃げて来るんだ!」  と、続けて、冴子にも、いった。  冴子は、猟銃を抱え、スカートの裾《すそ》をひるがえして、銀行の勝手口に向って、走って行った。  やがて、彼女と、村田、ゆう子の三人が、姿を現わした。 「用意いいか!」  と、平川が、大声で、三人に呼びかけた。 「オーケイ!」  と、村田が、大声で、叫ぶ。 「じゃあ、こちらに、走って来てくれ!」  と、平川は、ビデオカメラを構えて、怒鳴った。  村田は、猟銃を冴子に渡し、ゆう子と二人で、ふくらんだリュックを担いで、ビデオカメラに向って、駆け出した。  そのあとを、冴子が、二丁の猟銃を抱えて、追いかける。  途中で、ハイヒールが脱げると、それを手に持って、裸足《はだし》で、走った。  見物していた野次馬が、拍手した。  冴子は、息を切らしながら、カメラの前を通り過ぎると、見物人に向って、投げキッスをして見せた。  また、拍手が、起きた。  平川は、ビデオカメラを下に置くと、見物人に向って、 「これで、このシーンの撮影は終了しました。ご協力、ありがとうございました」  と、丁寧に、頭を下げた。  見物人たちは、納得して、引き揚げて、行った。  村田や、ゆう子たちは、リュックサックと一緒に、ロケバスに乗り込んだ。  守衛室の中では、手錠に猿ぐつわの二人の守衛が、うめき声をあげている。  平川は、その二人に向って、 「殺されなかっただけ、もうけものと思うんだな」  と、捨てゼリフをいい、守衛室の戸を、閉めてしまった。  平川は、ロケバスに乗り込んで、運転席に腰を下した村田に向って、 「さあ、引き揚げるぞ」  と、声をかけた。  バスが、走りだし、長田の運転するパトカーが、ついて来る。  本物のロケ隊は、今、甲州街道で、撮影中の筈だった。  平川たちは、ひたすら、それと離れる方向に向って、走った。  ゆう子と、冴子は、座席の上に、リュックサックをのせ、中から、宝石や、金塊を取り出して、歓声をあげながら、眺めている。  平川は、自分も、それを、一つ一つ手に取って、宝石商の眼で、見てみた。 「さすがに、高級品が、多いな」  と、平川は、感心したように、いった。  ダイヤも、五カラットや、八カラットぐらいのものが、沢山あった。 「これを、みんなで、分配するんでしょう?」  と、ゆう子が、眼をきらきらさせて、平川を見た。 「現金と、金塊以外は、駄目だ。こんな宝石を、身につけていても、売っても、すぐ、捕まってしまうよ」  と、平川は、肩をすくませた。 「じゃあ、どうなるの?」  と、ゆう子がきく。 「彼が、全部、買い取るわ」  と、冴子が、いった。 「彼って、小笠原さんが?」 「ええ。平川さんに、専門家だから、査定して貰って、それに見合う金を、小笠原が、みんなに払ってくれるのよ」 「それで、小笠原さんは、この宝石を、どうするの?」 「それは、知らないわ。ただ、手配されるようなことはしない筈よ」 「でも、ただ持っていたんじゃ、儲《もう》からないじゃないの?」  ゆう子が、不思議そうに、きいた。 「そうね。でも、彼は、損でも、こんなことをするのが、好きなのよ」  と、冴子は、いった。 「変な人ね」  と、ゆう子が、呟いた。      5  十津川と、亀井は、どこかで起きているかも知れぬ事件を、当てもなく、追いかけていた。  どの幹線道路も、がらがらだった。亀井の運転する覆面パトカーは、百キロ以上のスピードで、疾走した。  どこかで、事件が起きていたら、すぐ連絡してくれと頼んであるのだが、いっこうに、無線は、入って来ない。  ——西本です。  と、入ったのが、最初だった。 「ロケが、終ったのか?」  ——そうです。今日の撮影が終って、引き揚げるところです。 「小笠原は、どうしている?」  ——彼のベンツも、引き揚げようとしています。どうしますか? 尾行しますか? 「そうしてくれ」  と、十津川は、いった。  また、静かになった。  亀井は、赤坂見附《あかさかみつけ》で、車をとめた。 「ただ、走り廻っても、どうしようもありません」  と、亀井は、溜息《ためいき》をついた。 「集団で、何かやった筈だから、目立つわけなんだがね」 「よほど、うまくやったと思いますよ」  と、亀井が、いったとき、突然、一一〇番通報が、入った。  田園調布のM銀行支店に、集団強盗という知らせだった。 「そいつだ!」  と、十津川が、叫び、亀井は、車を急発進させた。  サイレンを鳴らして、疾走する。  それでも、現場に着いた時には、すでに、二台のパトカーが、来ていた。  十津川と、亀井は、車からおりると、銀行の通用門を、入って行った。  守衛室では、二人の守衛が、早口で、パトカーの警官に向って、まくし立てていた。  十津川が、声をかけると、その警官が、緊張した顔で、 「映画のロケ隊に化けた五人の男女が、地下の貸金庫から、現金、宝石、金塊などを、奪って行ったそうです」  と、報告した。 「ロケ隊?」  十津川と、亀井は、思わず、顔を見合せた。 「すっかり、本物のロケ隊と信じて、やられたそうです」  と、警官がいう。  十津川と、亀井は、二人の守衛に案内されて、銀行の中に入った。  十津川たちが、無残にこわされた貸金庫を見ていると、支店長が、あわてて、駆けつけて来た。 「葉山《はやま》に行っておりまして」  と、十津川に、頭を下げてから、貸金庫を見て、 「これは——」  と、絶句した。  見事なほどに、全ての貸金庫がこわされ、預金通帳が、床に散乱している。  支店長は、二人の守衛に、それを、拾わせておいて、十津川に、 「誰が、こんなことを——?」 「だいたいの見当はついていますが、奪《と》られたのは、現金や、宝石類ですね?」 「そうらしいです」 「被害の総額は、わかりますか?」 「貸金庫に、何を入れるかは、契約したお客様の自由ですので、私どもにはわかりません。もちろん、お客様が、申告して下されば、計算は、出来ますが」 「およその金額は、わかりませんか?」 「この辺のお客様は、資産家の方が多いので、少なくとも、十億円は、あると思います」 「上限は、どのくらいです」 「見当もつきません。二十億か、三十億か、わかりません」  と、支店長はいった。 「宝石も、高級品が多いということですね?」 「そうです。私は二、三人の方のものしか知りませんが、一つ、何千万もするダイヤの指輪をお持ちの方も、いらっしゃいます。八カラットぐらいはありましたよ」  と、支店長は、いった。  そんな大きなダイヤなら、処分すれば、すぐ、わかるだろう。  鑑識に、あとを委《まか》せ、十津川は、二人の守衛に、捜査本部に来て貰うことにした。襲った人間について、証言して貰うためだった。  二人は、ようやく、恐怖から解放されて、いろいろと、証言してくれたが、五人の男女がいたことはわかったが、一人一人の顔立ちについては、証言が食い違ったり、あいまいになったりした。  十津川は、長田、平川、小谷ゆう子、藤代冴子の写真は、用意し、それを、二人の守衛に見せた。  彼らの犯行に間違いないのである。  だが、二人の守衛の証言は、意外なものだった。似ているようだと片方がいうと、もう一人は、全然、似ていないという。彼らは、四人を、確定できないのだ。  特に、藤代冴子の写真には、二人とも、首を横に振ってしまった。  十津川は、当惑した。  彼らの犯行と、確信しているのだが、肝心の証人が、これでは、逮捕も出来なくなりそうである。 「メイクアップの技術ですよ」  と、若い西本刑事が、いった。 「映像関係の今のメイクは、大変な進歩ですからね。人間の顔を、猿の顔に変えるぐらい、簡単に、やってしまうんです」 「しかし、そうなれば、相当な厚化粧だろう? 証人は、それを、怪しいと、思わなかったのかね?」  と、亀井が、顔をしかめた。  十津川が、「カメさん」と、声をかけた。 「連中は、ロケ隊として、やって来たんだし、二人の守衛も、そう思い込んでいたんだ。厚化粧していても、当然だと思うよ」 「しかし、連中が、どうして、そんな特殊なメイクを、知っているんでしょう?」 「五人の一人、藤沢冴子は、女優だったんだ。その方面の知識や、技術があっても、不思議はないよ」 「そうなると、あとは、現場に残した指紋が頼りということになってしまいますね。野次馬が何人かいたようですが、彼らの証言は、もっと、頼りないと思いますから」  と、亀井は、憮然《ぶぜん》とした顔になった。 「それに、リーダーの小笠原は、犯行に無関係と主張するだろうね。尾行していた警察が、証人になってしまうんだよ」  と、十津川は、苦笑した。  肝心の証人が、当てにならないとわかっても、もちろん、五人の男女が、長田たちだという確証は、変らなかった。  彼らの行方を追及する一方、小笠原|貢《みつぐ》の行動を、徹底的に、監視することにした。  五人が奪い取った宝石などが、小笠原の手に行く筈と、考えたからである。  翌四日になっても、いい結果は、出て来なかった。  犯行現場には、金テコや、警官の制服などが、放置されていたが、指紋は、検出できなかったし、これらの遺留品から、犯人に、辿《たど》りつけるかどうか、自信がなかった。最近は、全てのものが、大量生産されるからである。  この日の夜になって、神奈川県|厚木《あつぎ》市内で、大型バスと、パトカーが、発見された。  明らかに、犯行に使われたものである。しかし、どちらの車内からも、指紋は、検出できなかった。きれいに、拭き取られていたのである。  長田たち五人の行方も、いぜんとして、つかめなかった。  五月五日、連休最後の日になっても、事態は、変らなかった。  小笠原は、ベンツを一人で運転して、都内ロケに、同行し、楽しんでいた。  新聞、テレビは、五月三日に起きた銀行強盗事件を、連日、大きく報道している。  それは、即、後手に回った警察への非難でもあった。  被害金額は、なかなか、はっきりしなかった。  貸金庫の持主の中には、自分が、どんな宝石や、どれだけの現金を預けていたか、知られたくない人がいるからである。  十津川たちは、彼らを、一人一人、説得して、被害届けを出して貰うことにした。  その結果、出された被害届けに従って、十津川は、宝石の手配をした。届けが出たのは、大きな宝石が多く、これなら、犯人が、売りに出せば、すぐ、わかるだろう。  連休が終った六日の午後、石川県警から、連絡が入った。 「長田は、ちゃんと出社しています」  と、三浦《みうら》警部は、いった。 「会われましたか?」 「向うの昼休みに、会って来ました」 「連休の間、どうしていたと、いっていますか?」 「なんでも、東京に行ったが、奥さんに会う気になれず、福島県の小さな温泉へ行って、骨休めをしていたそうです」 「温泉?」 「そうです。会津《あいづ》の山の中の小さな、旅館が一軒だけの温泉だそうですよ。五月一日からだといっています」 「その温泉の名前は?」 「三無《みなし》温泉という名前だそうです」  と、三浦はいい、その場所を、教えてくれた。  十津川は、これを、手帳に、書き留めた。  同じ日、小谷ゆう子も、日本藤花女子大に顔を出し、藤代冴子も見つかった。  十津川と、亀井は、すぐ、二人に、会いに出かけ、連休中の行動を聞いた。 「東北のひなびた温泉へ行っていました。山奥に、ぽつんと、一軒だけある旅館が見つかったので、そこで、五日までいました。三日? もちろん、そこにいましたわ」  と、いったのは、小谷ゆう子だった。 「その旅館は、福島県の三無温泉じゃないの?」  と、亀井が、きくと、ゆう子は、ニッコリ笑って、 「刑事さんも、いらっしゃったことがあるんですか?」  と、きき返した。  藤代冴子の答は、こうだった。 「ストレスがたまってしまって、連休には、どこか静かなところで、過ごしたいと思って、小笠原さんに、相談したんです。そうしたら、福島県に、本当に、静かな温泉がある、山奥の一軒家だが、行ってみるかというので、ええといって、教えて頂いたその温泉に行きました。ええ、連休中ずっとですわ」 「三無温泉?」 「ええ、知っていらっしゃったんですか?」  冴子は、ふふふと、笑った。 「それで、小笠原さんも、そこへ行ったんですか?」  と、十津川は、わざと、きいてみた。 「なるべく行くようにすると、おっしゃっていたんですけど、確かスポンサーになっている映画のことで忙しくて、とうとう、お出《い》でになれなかったようですわ。とても、口惜《くや》しがって、いらっしゃいましたけど」  と、落ち着いた声で、いった。 「平川良平にも、会ってみますか?」  と、亀井が、十津川に、きいた。  十津川は、苦笑して、 「どうせ、僕も、連休は、三無温泉へ行っていたというに、決ってるさ。この温泉が、実際にあるのかどうか、現場に行ってみようじゃないか」  と、十津川は、亀井に、いった。  二人は、五月七日の朝、東北新幹線で、郡山《こおりやま》に向った。  郡山からは、磐越西《ばんえつさい》線で、会津|若松《わかまつ》へ。そのあとは、タクシーを使った。  車で、二時間半近く走った山の中である。  確かに、古びた一軒の旅館が、建っていた。 「三無温泉」の看板が見え、旅館の前に、ジープが一台、停《とま》っていた。  二階建の旅館だが、ひっそりと、静まり返っている。  二人を乗せて来たタクシーの運転手は、 「この旅館は、潰《つぶ》れたと思ってたんですがねえ」  と、いった。 「潰れた?」 「ええ、お客が、全くないんで、持主が、手放したと聞いてますよ。誰か、物好きが、買ったんですかね」 「しかし、今は、温泉ブームじゃないの?」 「でも、温泉が出なくなったら、どうしようもないでしょう」 「出なくなったの?」 「そう聞きましたよ」  と、運転手はいい、ホーンを、二度、三度と、鳴らした。  ひっそりしていた建物の中から、中年の男が出て来た。 「お客は、とれないんだ。しばらく休業したいんでね」  と、男は、十津川たちに、いった。  十津川は、その男に、警察手帳を見せた。 「あなたが、ここのオーナーですか?」 「そうだよ」  と、男は、ぶっきらぼうに、肯いた。 「名前は?」 「なぜ、名前をいわなきゃいけないんだ?」 「名前をいえない理由があるんですか?」  十津川が、きき返すと、男は、渋々、 「村田だよ。村田淳だ」 「なるほど。あなたが、村田さんですか」  と、十津川は、微笑した。 「長田|博《ひろし》、小谷ゆう子、藤代冴子という男女が、ここへ来たといっているが、本当かね」  と、亀井が、きいた。 「名前は知らないが、連休中、何人か、泊っていたよ。宿泊者名簿を、持ってくる」  村田は、中に入ると、名簿を持って来て、十津川たちに見せた。  なるほど、五月一日から、長田博、平川良平、小谷ゆう子、藤代冴子の四人の名前が、のっていた。 「この四人しか、泊っていなかったんですか」 「そうだよ。四人でも、うちでは、多い方でね」 「温泉が出なくなっているということですが?」 「いや、熱い湯が出ないだけだから、熱くして、入って貰っている」 「いつ、この温泉を買ったんだ?」  と、亀井が、きいた。 「先月の中旬かな。昔から、こういう所に住みたいと思っていたんだよ」 「この四人は、本当に、五月一日に来たのかね?」 「そうだよ。時間は、ばらばらだったがね」 「五月三日に、全員が、出かけたんじゃありませんか?」  と、十津川が、きいた。 「そんなことはないよ。みんな、ずっと、ここにいたよ。こんな所でも、結構、楽しいんだ。山歩きも楽しいし、小川では、釣りも出来るからね」 「お客は、あなたが、そのジープで、迎えに行くんですか?」 「ああ、駅から遠いので、おれが、送迎するんだ」 「小笠原貢という男を、知っていますね?」 「そんな男、知らないな」 「では、四人の男女が、五月三日に、ここにいたという証拠はあるのかね?」  と、亀井が、きいた。 「ちゃんと、宿帳に、のってるじゃないか。それに写真もあるよ」 「写真?」 「ああ、うちでは、泊り客の写真を撮ってあげるんだよ。記念にね」  と、村田は、いい、その写真を、持って来た。  村田を真ん中に、旅館の前で、男二人、女二人が笑っている写真だった。 「これを、五月三日に撮ったという証拠は?」 「ちゃんと、日付が入ってるよ」 「こんなのは、カメラをいじれば、どうにでも出来るよ」  と、亀井がいうと、村田は、外人のように、肩をすくめた。 「そんなこといったら、どうしようもなくなるじゃないか。そっちだって、これが、五月三日じゃないと、証明できるのかね?」  と、いった。      6  二人は、旅館の電話で、タクシーを呼び、それに乗って、会津若松に戻ることにした。 「どうしますか? いっそのこと、連中を、一人残らず逮捕しますか?」  と、亀井は、帰りのタクシーの中で、十津川に、いった。 「逮捕しても、犯行を証明するのが難しいんじゃないかね。何しろ、連中は、小笠原に、殺人事件のアリバイを作って貰っているんだ。彼の証言一つで、殺人犯になるとすれば、連中が、今度の強奪事件を自供することは、あり得ないよ。その上、リーダーの小笠原には、立派なアリバイがある」 「恐怖心を利用して小笠原は、五人を支配しているわけですね?」 「そうだ」 「その恐怖を取り除くことが出来れば、連中の自供をとれますが」 「何しろ、殺人犯にされるかどうかだからな。それ以上の罪はないわけだから、強いよ」  と、十津川は、いった。 「口惜しいですね。連中が、殺人犯であり、今度の事件の犯人とわかっているのに、逮捕も出来ないというのは」 「何よりも、証拠だよ」  と、十津川は、いった。  だが、二人が、東京に戻ってからも、盗まれた宝石類は、いっこうに、売りに出される気配がなかった。  どこかに、消えてしまったのだ。  その代りに、小笠原が、店を担保に、銀行から、二億円を借りたという情報が、入って来た。  それなのに、その二億円で、小笠原が、何か新しい事業を始める気配がない。借金返済というわけでもないようだった。 「多分、連中が、強奪した宝石類を、小笠原が、二億円で、買い取ったんだよ。或《ある》いは、二億円の報酬を約束していたかだ」  と、十津川は、亀井に、いった。 「五人で分ければ、一人、四千万円ですね」 「そうだ。悪くはない」 「小笠原は、手に入れた宝石類を、どうする気なんでしょう? まさか、自分の店で、販売する気じゃないと思いますが」 「そんなことをしたら、すぐ、警察に逮捕されることは、知っている筈だよ。われわれが、見張っているのは、当然、知っているだろうからね」 「すると、死蔵するつもりですかね? それでは、なぜ、強奪したか、わからなくなってしまいますよ」 「死蔵か」  と、十津川は、呟いた。  今のままでは、小笠原は、手に入れた宝石を死蔵するしか仕方がないだろう。あとは、海外へ持ち出して、売ってしまうことだが、出国すれば、怪しまれることも、わかっている筈である。  小笠原も、出国する気配は見せなかった。  十津川は、何か、奇妙な思いがしていた。  大きな事件が起きたのに、何一つ、変っていないような気がするからだった。  どこかで、何かを、打ち破らなければいけないのだと、十津川は、自分に、いい聞かせた。  発見されたロケバスは、盗まれたものだったし、ニセパトカーも、撮影所から、盗まれたものとわかった。従って、この二つの事から、犯人に到達できる可能性も、なくなったのである。  五月十日になった。  いぜんとして、小笠原は、じっと動かないし、他の五人は、普通の日常生活を送っている。 「カメさん」  と、十津川は、改まった顔で、亀井に、声をかけた。 「一つ、一緒に考えて貰いたいことがあるんだよ」  と、十津川は、付け加えた。 「何ですか?」 「五人は、殺人を犯し、小笠原に、アリバイを証明して貰っていると、考えてきた」 「そうです」 「それで、もう一度、五人のことを、調べてみたんだがね。私が、気になったのは、長田博のケースなんだ」 「どこか、おかしいですか?」  と、亀井が、きく。 「長田博が、くされ縁の木元加代子《きもとかよこ》を殺し、それも、小笠原が、小谷ゆう子を使ってアリバイを作ってやった。われわれは、そう考えてきた」 「ええ。違うんですか?」 「わからないが、疑問を、感じるようになってきたんだ」  と、十津川は、いった。 「どこがですか?」 「長田は、金沢《かなざわ》行の『白山1号』に乗り、それを、大宮《おおみや》で降りて、浜松町《はままつちよう》に引き返し、木元加代子を殺す。そのあと、全日空機で、羽田《はねだ》から、富山へ飛び、もう一度、『白山1号』に乗って、アリバイを作ろうとした。これは、長田自身の計画で、二十八日に、その予行演習もやっている」 「そうです」 「彼が、三月三十一日にも、この通りにやったことは、間違いないんだ。とすると、大宮—富山間の『白山1号』の車内の写真は、撮れないことになる」 「だから、その間のアリバイを、小笠原が、小谷ゆう子を使って、作ってやったことになります」 「そうなんだが、長田は、二十八日の予行演習で、自信を持った筈だよ。その時に、既に、小笠原に助けて貰う気なら、こんな予行演習は必要ないし、あんな、綱渡りのような列車の利用も必要なかったんだ。どうせ、木元加代子が死ねば、疑われるんだからね。また、三十一日に、同じルートで、殺人をやったことにも、自信が表われていると、私は、思っているんだ。それなのに、なぜ、小笠原の助けを借りたのか?」 「そうですね」 「それは、自信満々だった彼の殺人計画が、当日、どこかで、ミスがあったからじゃないかな?」 「しかし、三月三十一日は、定刻通りに、列車も、飛行機も動いていましたし、長田も、きちんと、富山から、『白山1号』に、乗っていますよ」 「だから、彼が、ミスしたとして、そうした外的なことじゃないと思うんだよ。カメさんのいう通り、彼は、三月三十一日、予行演習通りに、行動したんだと思う」 「では、何が、計画通りではなかったと思われるんですか?」 「考えられるのは、殺人そのものが、狂ってしまったんじゃないか。つまり、彼が、木元加代子を殺すつもりで、浜松町のマンションへ行ったら、彼女が、すでに、殺されていたんじゃないのかな。それで、長田は、狼狽《ろうばい》した。普通なら、自分が手を下さなくてすんで、喜ぶべきところなんだが、彼は、すでに、計画に従って、動き出してしまっている。逃げ出せば、自分の首をしめるだけなのだ。とにかく、アリバイを作るために、計画通りに、動かなければならない。そう思って、彼は、飛行機で富山に行き、『白山1号』に、乗り込んだが、多分、この時、自分の立てた計画に、自信を失ってしまっていたんじゃないのかね。それで、小笠原のアリバイに頼ることになったんじゃないかな」  と、十津川は、いった。 「すると、殺したのは、小笠原貢ですか?」 「いや、違うね。彼には、そんなことをする必要はないんだ。長田が、木元加代子を殺すのを待っていればいいわけだよ」 「と、すると、長田以外に、彼女を殺したい人間がいて、そいつが、殺したわけですね?」 「そうだと思う。木元加代子を殺したい人間が、他にいて、長田が、殺したがっていることを知って、先廻りして、彼を、犯人に仕立てようとしたんだよ。その二人の間に、小笠原が入り込んだので、複雑になってしまったんだ」 「事件の当初、長田以外にも、何人か、容疑者が浮んでいましたね。長田の行動がおかしかったので、彼一人に、しぼってしまいましたが」 「あの容疑者の中に、本当の犯人がいたんだと思うね。もう一度、連中を、洗い直してみよう」  と、十津川は、いった。      7  五月二十日になって、十津川と、亀井の二人は、金沢に出かけた。  中央商事の金沢支店を訪ね、長田に会った。  長田は、あからさまに、不快げな顔をしていたが、十津川は、構わずに、相手を、外に連れ出した。 「今日は、あなたに、相談したいことがあって、来たんですよ」  と、十津川は、丁寧に、いった。 「相談?」  長田は、警戒するように、十津川を見た。 「われわれは、木元加代子殺しを、もう一度、調べ直してみたんですよ」 「私は、犯人じゃありませんよ。アリバイがあるんだ」 「そうです。あなたは、犯人じゃない」  と、いって、十津川は、長田に、笑いかけた。  長田は、一瞬、面くらった顔で、 「そりゃあ、当り前ですよ」 「アリバイも、必要なかったんです。木元加代子を殺したのは、本社で、あなたの上司だった伊東《いとう》部長です」 「伊東部長?」 「そうです。彼も、木元加代子と関係があり、あなた同様、彼女に、ゆすられていたんです。あなたが、三月二十八日に、殺人の予行演習をしたのを知って、三十一日に、あなたの行動に合せて、木元加代子を殺したんです。昨日、伊東を逮捕しましたよ」 「————」 「あなたは、無実です。もう、木元加代子殺しについて、逮捕されることはないんですよ」 「————」 「そこで、相談です。あなたは小笠原や、小谷ゆう子に、アリバイを証明して貰うことはなかったんです。しかし、今のままでいくと、あなたは、その中《うち》に、今より、もっと恐しい事件に、巻き込まれてしまいますよ」  と、十津川がいうと、長田は、どうしていいかわからないという顔になって、 「しかし、私は——」 「田園調布の銀行強盗のことを、いっているんでしょう?」 「————」 「あの事件の解決について、あなたに、協力して貰いたいんです。あなた以外の人間は、実際に、殺人をやっていて、小笠原に、アリバイを作って貰っている。だが、あなたは、本当に、殺人をやっていない。だから、彼らから、離れなさい。さもないと、破滅してしまいますよ」 「しかし、私は、もう、銀行強盗を、やってしまって——」 「そうです。だが、あなたは、脅迫されて、仕方なく、参加したんでしょう?」 「そうですが——」 「それに、事件の解決に、協力してくれれば、情状酌量されます」 「————」 「どうですか? 警察に、協力して貰えませんか」  と、十津川は、頼んだ。  長田は、しばらく、考え込んでいたが、 「どうすれば、いいんですか?」  と、きいた。 「連中のことを、何もかも、喋《しやべ》ってくれればいいんですよ」  と、十津川がいうと、長田は、また、考えていたが、最後に、肯いてくれた。 「来た甲斐《かい》がありましたよ」  と、十津川は、本心から、いった。 「協力しますが、一つだけ、私の方からも、調べて欲しいことがあるんです」  と、長田が、いう。 「どんなことですか?」 「三月三十一日に、富山で、『白山1号』に乗り込んだら、女が近づいて来て、カメラを渡されたんです。ここまでの『白山1号』の車内のシーンが写っているから、アリバイに使えといってです。その女は、あとで、藤代冴子とわかりました」 「その写真は、見ましたよ。小谷ゆう子が、写っていましたね」 「富山で渡されたから、富山から金沢の間は、撮っていない筈なんですが、高岡《たかおか》駅や、石動《いするぎ》駅が、写っていたんです」 「われわれは、あなたが、富山以後は、撮ったと思ったんですがね」 「私は、気が動転していて、それどころじゃありませんでした」 「それなら、連中が、前もって、写しておいたんですよ。多分、二十九日か三十日にね」  と、十津川は、いった。      8  長田を、東京に連れ帰って、十津川は、彼に、本格的に、喋《しやべ》って貰った。  殺人で逮捕されることはないと知ると、彼の口調は、滑らかだった。  彼の自供に基づいて、逮捕状が出て、十津川たちは、小笠原たちの一斉逮捕に向った。  十津川が、一番知りたかったのは、小笠原が、連中を使って、銀行強盗を実行した動機だった。  金はあり、藤代冴子という美人の恋人もいる。それなのに、なぜ、銀行強盗を、ということだった。  取調室で向い合った小笠原は、さすがに、顔色は、青白かったが、喋る言葉は、落ち着いていた。 「なぜ、あんなことをやったのかね?」  と、十津川がきくと、小笠原は、 「なぜだと思います?」  と、逆に、きいた。 「わからんね。別に、金が欲しいようにも見えないんだが」 「退屈だったんですよ」  と、小笠原は、いった。 「退屈だから、銀行強盗をやったのかね?」  同席した亀井が、睨《にら》んだ。  小笠原は、小さく肩をすくめて、 「私は、おやじから、今の店を引き継ぎました。金もあります。普通なら、もっと、店を大きくしようとか、他の事業にも手を伸ばすんでしょうが、私には、そんなことをする気はなかった。もともと、商売が、苦手なんですよ。と、いって、自分で、冒険をする気力も、体力もない。ヨットで、太平洋を横断したり、自転車でアフリカを旅行したりする気力も、体力もですよ。そのくせ、毎日が、退屈なので、何か、世の中を驚かすようなことをしてみたいと思い続けていたんです。それも、頭を使った、大仕事です」 「それで——?」 「たまたま、小谷ゆう子のアリバイを作ってやったとき、これだなと、思ったんです。同じ方法で、人を集めたら、自分の思う通りに動かせる人間が集められるんじゃないかとですよ」 「そして、藤代冴子を含めて、五人が、集ったというわけか」 「冴子は、別ですが、他の四人は、恐怖で支配できた。それが、楽しかったですよ」 「恐怖で支配か?」 「そうです。普通の人には、出来ないことですよ」 「しかし、君は、長田に村田をゆすらせているじゃないか。金が欲しかったんじゃないのかね?」  と、亀井が、きいた。  小笠原は、くすッと、声を立てて、笑った。 「何がおかしいんだ?」 「あれは、儀式ですよ」  と、小笠原は笑った。 「儀式?」 「そうですよ。長田が、私の命令どおりに動くかどうかを試す儀式だったんです。同時に、村田も、試せますからね。他の二人にも、同じことをさせましたよ」 「その儀式で、自信を得て、いよいよ、銀行強盗計画を企てたわけかね?」  と、十津川が、きいた。 「そうです。楽しかったですよ。全てが、自分の計画どおりに動き、世間が、大さわぎするというのはね」 「その褒美に、二億円を、やったのかね?」 「そうです。ムチの他に、アメも必要ですからね」 「それで、強奪した宝石類は?」 「私の店の方に、保管してありますよ。いつでも、返せるように」  と、小笠原は、いった。 「本当に、宝石などが、欲しかったわけじゃないのか?」 「退屈だったからだと、いった筈です」 「君の失敗は、本当は、殺してない長田まで、仲間に入れたことだな」  と、十津川は、いった。 「そうですね。長田を、入れてなければ、あと、何回か、楽しい冒険が出来たでしょうね」  と、小笠原は、いった。 「これからは、退屈でも、刑務所の中で、我慢することになるぞ」  と、亀井が、いった。 本書は、平成元年十一月に刊行のカドカワノベルズを文庫化したものです。 角川文庫『特急「白山」六時間〇二分』平成4年2月25日初版発行                   平成11年10月10日21版発行