[#表紙(表紙.jpg)] 消えたエース 西村京太郎 目 次  リリーフ・エース  一人の女  第一戦  惨 敗  深夜の訪問者  脅 迫  新幹線  第二戦  アクシデント  不審な死  裏切り  記憶を追う  別 荘  ラスベガス  第三戦  対 決  追いつめて  優勝に向って [#改ページ]   リリーフ・エース  九月十三日の横浜球場。  十八年ぶりに、巨人、広島と共に優勝戦線に残った京神ハンターズは、大洋ホエールズとの三連戦の最後の日を迎えていた。  一戦、二戦を、それぞれ、4—2、2—0で連勝した。  しかし、本拠地甲子園へ帰ってからの対巨人四連戦を考えると、大洋には、三連勝しなければならなかった。  ライバルの巨人も、広島も、勝ち続けているからである。  三戦目には、ローテーション通り、右のエースの大林を立てた。  相手は、速球とフォークの遠藤である。  三回の表、ハンターズは、掛井の2ランが出て、先行した。  大林は、六回まで、大洋打線を散発四安打におさえて、得点を許さない。七回の表のラッキーセブンには、上位打線が、足を生かした速攻で、1点を追加した。  3—0で、七回の裏である。  楽勝を思わせる展開だったが、ベンチの奥にいる監督の片岡は、落着かなかった。  下手投げで、二十勝投手といわれた大林も、三十二歳という年齢のためか、去年の後半から、安定感がなくなっていたからである。前半、すばらしい好投をしていて、後半、突然、崩れることが多くなった。明らかに、スタミナがなくなったのである。  もともと、投げるたびに、帽子が落ちるような力投型だけに、年齢の壁が、重くのしかかってきたのかも知れない。気の強い大林は、肩の衰えを認めようとしない。強気で、バッターに向っていっては、手痛い一発を食ってゲームを引っくり返されてしまうのだ。今日も、片岡の不安が適中した。  簡単にツー・アウトを取ってから、四球を連発して、たちまち、フルベースのピンチを背負ってしまった。  それまで、浮きあがる球に手を出してくれていたのが、ボールに勢いがなくなったので、じっくりと見られてしまうのだ。  静かだった大洋ファンが、鉦《かね》や太鼓を打ち鳴らして、一斉に、応援を始めた。  大林は、青白い顔で、神経質に、足元をかきならしている。  バッターボックスは、大洋で、現在、もっとも打率のいい山下である。打率三〇四。ホームラン二十一本。長打が出れば、たちまち同点である。  ピッチングコーチが、タイムを取って、マウンドに駆け寄って行く。  監督の片岡は、ブルペンと結んでいる電話をとった。  いつもなら、ここは、当然、リリーフ・エースの江島を救援させるところだった。そうして、ここまで、今年の京神ハンターズは勝って来たのである。  しかし、なぜか、今日、ベンチに、江島の姿はなかった。  十八年間、優勝に見放されていた京神ハンターズが、突然、今年、優勝のチャンスをつかんだ理由は、いくつかある。  球団社長が、情熱家の青木に代ったこと。  新監督片岡の好采配《こうさいはい》。  打撃陣の奮起。  若手投手陣の成長。  だが、最大の理由は、リリーフ・エースの存在だった。  開幕前、ハンターズの優勝を予想する野球評論家は、一人もなかった。Aクラス入りさえ、七人の評論家中、一人しか、予想しなかったくらいである。  Aクラスは、巨人、広島、ヤクルトで、この中から、優勝チームが出るだろうというのが、彼等のまず一致した意見だった。  その時、彼等が一致して指摘した京神ハンターズの弱点は、投手陣である。  ハンターズには、上手投げの山元、下手投げの大林という左右のエースがいるが、共に、年齢的に峠を越して、スタミナの心配がある。若手の成長は予想されても、せいぜい十勝止りの投手ばかりと考えられたからだった。  しかし、シーズンに入ると同時に、江島功というリリーフ・エースが誕生して、不安を吹き飛ばしてしまった。  江島は、二十九歳。ノンプロのN電機からハンターズに入団して四年目である。左腕の速球派として、期待されて入ったのだが、三年間は、鳴かず飛ばずだった。  コントロールの悪さが致命的だと、監督やコーチは指摘したが、本当は、江島のわがままな性格や、乱れた女性関係を、嫌って、干しているのだという噂《うわさ》もあった。  江島の方は、当時の監督や、ピッチングコーチを、バカ呼ばわりし、オフになると、他球団へトレードしてくれと要求した。  今年、監督が片岡に代ると、三振のとれるリリーフ投手として、江島を使うことに決めた。  江島を信頼してのことではなかった。大林、山元という両エースが、後半で崩れることが多くなったことと、他に、適当なリリーフ投手がいなかったからである。いわば、いちかばちかのバクチだった。  そのバクチが、見事に当ったのである。  最初の成功は、まぐれに見えた。しかし、二つ、三つと、セーブポイントをあげていくにつれて、幸運が自信になった。コントロールもよくなった。  エゴイズムのかたまりのような江島が「チームの優勝のために、おれは、毎日ベンチ入りする覚悟だ」と、新聞記者に話して、その変身ぶりを驚かせたりした。  その江島が、大事な今日の試合に、ベンチに入っていないのだ。  片岡は、仕方なしに、池田をリリーフに送った。 「大林に代って、ピッチャーは池田」  と、場内アナウンスが告げたとたん、球場内に、奇妙などよめきが起きた。  京神ハンターズのファンは、関東にも多い。  今夜も、三塁側の方が、観客が多いくらいだった。その観客のどよめきは、明らかに、失望の溜息《ためいき》だった。  観客は、今日、江島がベンチに入っていないのを知らなかったから、この場面は、当然5勝2敗23セーブの江島のリリーフと、信じていたからである。  ピッチャーマウンドに歩いて行く池田も、そんな観客席の空気を、敏感に、背中に感じていた。  自分は期待されていないのだという気分ほど、投手をくさらせるものはない。その気持が、ピッチングに出てしまったのだろう。  当っている山下に対して、第一球を、無造作に内角に投げた。いくらかシュートがかかっていたが、甘いコースに入った。スピードもない。  山下のバットが、鋭く振られると、白球は、ライナーとなって、左中間を割った。満塁の走者が、次々に、ホームに駆け込んでくる。  三塁打である。走者は一掃されて、たちまち、3—3の同点になってしまった。  片岡は、苦虫を噛《か》みつぶしたような顔で立ち上ると、球審に、ピッチャーの交代を告げた。  下手投げの小町である。  しかし、小町も、次の打者に四球を与えて、一、三塁にしてしまった。  次のバッターは、左の高木である。  片岡は、気ぜわしく、また立ち上ると、投手を、今度は、左の福井に代えた。  球審に告げて、ベンチに戻るとき、片岡は、吐き出すように 「江島の野郎——」  と、呟《つぶや》いた。  福井は、どうにか高木をおさえたが、がぜん、乱戦模様になった。  こうして、ハンターズが、横浜球場で苦戦を強いられている時、リリーフ・エースの江島は、新幹線ひかりのグリーン車に、腰を下して、眠っていた。  隣りには、球団マネージャーの今西健太郎が、座っている。監督の片岡から、江島を、神戸の自宅へ、ちゃんと送り届けろと命令されていた。  京都が近づくと、江島は、眼を開けて、立ち上った。通路をトイレの方に歩いて行った。  列車が、京都駅に着いたが、江島は、なかなか、トイレから戻ってこない。  今西は、嫌な予感を感じて、あわてて、出口に駆けて行った。  案の定、江島は、ホームにおりていた。 「ここでおります。監督によろしく」 「おい。どうする気だ!」  今西が、怒鳴ったとき、ドアは閉まり、列車は動き出してしまった。  ホームにおりた江島は、ニヤニヤ笑って、手を振っている。その姿も、あッという間に、見えなくなった。 (あの馬鹿《ばか》が——)  と、今西は舌打ちした。  新監督の片岡と、心中しかねないような言動を見せ、チームの優勝のためには、左腕が折れてもかまわないといっていた江島だったが、先月あたりから、わがままな地金が出はじめたのである。  四百八十万円の安い年俸では、馬鹿らしくて、連日のように登板は出来ないと、ごねはじめた。この時は、片岡が、球団社長の青木にかけ合って、百万円の臨時ボーナスを出させた。  片岡は、それで、江島のわがままも、おさまるだろうと、計算したのだが、結果は逆に作用してしまった。  今なら自分のわがままが通るという自信を江島に植えつけてしまったのである。  今日も、それだった。  今度の大洋との三連戦には、三日間とも、ベンチ入りするという約束になっていたのである。  それが、三戦目の今朝になって、登板過多で、肩が重いから、一足先に神戸に帰って、かかりつけの医者に診《み》せたいといい出したのである。  第一戦こそ、八回ワン・アウトから、山元をリリーフして、23個目のセーブポイントをあげているが、昨日の第二戦は、若手の伊東が、完投している。  だから、片岡は、登板過多による肩の痛みというのは嘘《うそ》だろうと思ったが、江島の一足早い帰阪を許可した。  一日旅行日を置いて、九月十五日からの甲子園での巨人との四連戦こそ、天下分け目の戦いと考えたからである。残り試合を考えると、もし、この四連戦に、巨人に負け越したら、優勝は難しくなるし、勝ち越せば、優勝が近くなる。この際、少し、江島を甘やかしても仕方がないと、片岡は、自分にいい聞かせた。  その代りに、お目付けとして、今西をつけたのである。  今西の方も、それがわかっているから、江島が、京都でおりてしまったことに、地団駄《じだんだ》ふむ思いだった。  江島が、京都におりた理由は、わかっている。  神戸の自宅には、三年前に結婚した妻の可奈子がいるが、発展家の江島は、京都のクラブのホステスと関係があることを、今西は、知っていた。  祇園《ぎおん》の「かえで」というクラブのユキというホステスである。  今、九時十五分、彼女に会いに、店へ行ったことは、間違いないだろう。  今西が、新神戸に着いたのは、午後九時五十二分だった。  大洋戦は、もう終っている時刻である。  駅の黄色い電話器に、百円玉を投げ込みながら、ハンターズの宿舎になっているK旅館に連絡してみた。  選手たちは、すでに、宿舎に帰っていた。  電話口には、監督の片岡が出た。 「負けたよ」  と、片岡は、いきなりいった。 「3—0で勝っていたのは知っていたんですが——」 「大林が降板してからは、もう、めちゃめちゃさ。こっちも、遠藤を引きずりおろしたんだが、7—6で、十回サヨナラ負けだ」 「ずいぶん、点を取られたんですね」 「うちのピッチャーは、みんな気前が良すぎてねえ。昔の君みたいに、根性のあるピッチャーがいてくれると助かるんだが」  と、片岡がいった。  今西は、黙って、頭をかいた。  十年前まで、今西は、エースとして君臨していた。それも、打たれ強いことで有名だった。最初は、速球投手だったが、一度肩をこわし、再起不能といわれながら、見事に、カムバックした。十安打以上打たれながら、相手をシャット・アウトしたことが、何度もある。  それを、人々は、根性のピッチングといった。つまり、今西は、負けるのが嫌いなのだ。その気持は、今も変っていない。 「江島は、無事に、神戸の自宅へ帰ったかね?」  片岡が、きいた。 「送り届けたから、安心して下さい」  と、今西は、嘘をついた。この時期に、監督とリリーフ・エースの間が、気まずくなっては困ると思ったからである。 「明日は、新神戸着、十六時四十分のひかりで帰る。明日も、午後六時から、甲子園で、軽い練習をするから、江島も連れて来てくれ」 「わかりました。必ず連れて行きます」  と、今西は、いった。  京都では逃げられてしまったが、明日は、江島の首に綱をつけてでも、甲子園に引っ張って行く。それが、チームの為でもあり、江島の為でもあるからだ。 「これで、巨人とは一・五差ですね」 「一・五差だ。広島と同率二位だ。だから、甲子園では、最低、三勝しなきゃならないんだよ」  翌日、今西は、神戸市内の自宅のマンションで眼をさますと、すぐ、外出の支度《したく》にかかった。  ネクタイをしめながら、テレビをつけた。  ニュースが映っている。それを見ているうちに、今西は、突然、顔色を変えた。  あの女が、殺されたのだ。  今西は、手を伸して、テレビのボリュームをあげた。  京都の五条河原《ごじようかわら》町にあるマンションの一室で、若い女性が、くびを絞められているのが発見されたが、この女性は、祇園のクラブ「かえで」のホステスでユキさんこと、沢木由美さん二十五歳であることが判明したと、アナウンサーがいう。  テレビの正面に、彼女の顔が、大きく映し出されている。 (やっぱり、あの女だ)  と、今西は、改めて、確認した。  二度ばかり、今西は、そのクラブに連れて行かれ、彼女に会っているのだ。  沢木由美という本名は知らなかったが、店の中でも、二人は、恋人同士だということをかくそうとしなかったのは、覚えている。  彼女が、殺されたことは、今西にとって、驚きではあったが、悲しみではないし、驚きも、すぐ、消えてしまった。  今西の思惑《おもわく》と不安は、この事件と、江島が関係しているのかどうかということだった。  無関係ならば、どうということもない。沢木由美という女の死は、むしろ、江島にとって、よかったのだとさえ思う。  しかし、万一、どんな形であれ、殺人事件に関係しているということになったら、一大事である。  テレビのニュースは、すぐ、他の話題に変ってしまったので、事件のくわしいことは、わからなかった。  今西は、結びかけたネクタイをそのまま、受話器を取ると、神戸の江島宅のダイヤルを回した。 (帰っていてくれ)  と、念じながら 「もし、もし」 「江島ですけど」  という女の声が聞こえた。  江島の妻の可奈子の声だった。 「今西です」 「ああ、今西さん」 「江島君は、まだ帰っていませんか?」 「昨夜まで、横浜球場でゲームがありましたから、今日の午後、皆さんと一緒に帰って来る筈《はず》ですわ」 「いや、江島君だけ、一足先に帰ることになったんです」 「でも、まだ、何の連絡もありませんけど」 「そうですか——」  今西は、眉《まゆ》をひそめた。どうやら、まずいことになっていきそうだなと思いながら 「江島君から、電話があったら、至急、私に連絡するようにいって下さい。それから、今日の午後六時から、甲子園で、明日からの巨人戦に備えて、練習をやります。それも伝えておいて下さい」  と、いって、電話を切った。  監督の片岡に報告するにしても、事実を調べてみなければならなかった。  今西は、京都へ行ってみることにした。  もう一度、ネクタイを結び直した。京神ハンターズに入ることになって、今西は、妻子を東京に置いて、単身、こちらへ移って来ている。  靴に、軽くブラシをかけて、今西は、マンションを出た。きれいに澄んだ秋空が、頭上に広がっている。気温は二十四、五度だろうが、陽差しが強いので、駅に向って足を速めると、身体が、汗ばんでくる。 (今頃《いまごろ》のナイターが、暑くも寒くもなくて最高だな)  と、考えながら歩いた。甲子園での巨人との四連戦は、間違いなく、連日、超満員になるだろう。 (それにしても、江島の奴め)  改めて、腹が立ってきた。  新幹線で、京都へ向った。何よりも、事件のくわしいことを知りたかったからである。  京都に着くと、タクシーで、五条河原町にある沢木由美のマンションに行ってみた。  五階建の、真新しいが、小ぢんまりしたマンションである。京都の旧市内は、条例で、建築物の高さが制限されているので、こうした五、六階建の小さなマンションが多い。部屋数も、せいぜい、二十室ぐらいだろう。 「エクセル五条」という表札のかかったマンションの前には、パトカーが一台とまり、制服の警官が二人、ロープを張って、出入りする人間をチェックしていた。  五、六人の男が、ぞろぞろと、マンションから出て来たが、刑事ではなく、どれも、報道の腕章をつけている。ビデオカメラをかついだテレビ局の人間も、そのあとから出て来た。  一人のクラブホステスが殺されたというだけなら、こんなに大げさな報道合戦とならないだろう。それを考えると、今西は、ますます、不安になって来た。  その時、ふいに、横から肩を叩《たた》かれた。  中央スポーツの宮野だった。 「心配だね。今西さんも」 「何がだい?」  と、今西は、とぼけた。 「とぼけなさんな」 「何も、とぼけてやしないよ。宮さんこそ、どうして、こんなところにいるんだ?」 「よしてくれよ。あのマンションで、沢木由美ってホステスが殺されたんで、今西さんも、あわてて飛んで来たんだろう?」 「そんな女を知らんね。君こそ、スポーツ記者のくせに、なぜ、社会ダネに、飛びついて来たんだい?」 「今西さん。ちょっと、ちょっと」  宮野は、今西を、近くの喫茶店へ引っ張って行った。  まだ、昼前なので、店は、がらんとしている。 「お互いに、本音《ほんね》で話しましょうや」  と、宮野が、眼鏡越《めがねご》しに、今西を見た。  中央スポーツは、どちらかといえば、京神ハンターズに好意的な記事をのせてくれる新聞だったし、小太りの宮野も、そう人は悪くない。 「犯人は、もう見つかったのかい?」  今西は、そんなきき方をしてみた。  宮野は、運ばれてきたコーヒーに、砂糖を入れながら 「まだだが、ハンターズの江島ねえ。彼のことが心配で、今西さんは、駆けつけたんだろう?」 「江島がどうしたって?」 「記事にはしないから、そう隠しなさんな。警察も、江島に眼をつけてるよ。あんたが、隠したって、駄目なんだ」 「それ、本当か?」 「殺されたホステスの沢木由美と、江島の仲は、店じゃあ、有名だったそうだから、警察だって、当然、マークするさ。それに、江島は、昨夜の横浜球場のナイターには出ずに、一足先に帰阪している」 「うん」 「それに、昨夜の十二時頃、酔った被害者と、江島が、一緒にあのマンションに帰って来たのを、管理人が見てるんだ。その管理人が、大のハンターズファンでね。江島の顔を見間違える筈がないというわけだよ。その時刻から考えて、江島は、彼女の部屋に泊ったと、誰《だれ》でも思うさ。警察も、そう思ってるよ。そして、彼女と、ごたごたが起きて、喧嘩《けんか》になり、カッとした江島が、彼女のくびを絞めた——」  宮野は、丸っこい指先で、くびを絞める真似《まね》をした。  今西は、手を振って 「よしてくれ」 「江島は、どうして、一足先に、帰って来たんだい?」  と宮野が、きいた。 「明日からの巨人との四連戦には、江島には、四連投して貰《もら》わなきゃならんかも知れん。それを考えて、監督が、一足先に、帰阪させたんだ」 「片岡監督がねえ」  と、宮野は、皮肉な眼つきをして 「最近、江島に、例のわがまま癖が出てきて、さすがの片岡監督も、手を焼いているって聞いたがねえ」 「そんなことはないさ。うちは、新監督のもと、鉄の団結を誇ってるよ。だからこそ、今、巨人、広島と三《み》つ巴《どもえ》で、優勝争いをしているんだ。変な噂は、流さないでくれよ」  今西は、むきになって、いった。  チームが内部崩壊するのは、つまらない噂話からということもある。選手同士が、疑心暗鬼にとらわれて、ゲームに熱中できなくなってしまうのだ。  それに、新聞というのは、内部抗争を、あおりたてるような書き方をする。  宮野が、また、皮肉な眼つきをした。 「今、江島は、どこにいるの?」  と、宮野がきいた。 「明日からの四連戦に備えて、神戸の自宅で休養してるよ」  今西がいうと、宮野は、小さく笑った。 「江島の奥さんには、もう電話して確かめたんだよ。警察だって、神戸の自宅にいないことは、確認しているよ」 「警察は、本当に、江島を容疑者と見ているのか?」 「これは、大新聞の社会部の記者に聞いたんだが、被害者は、ベッドで、裸同然で殺されていたんだが、金や宝石類は、奪われていなかった。だから、警察は、怨恨《えんこん》が原因と考えているし、顔見知りの犯行だとみているらしいんだ。それに、部屋には、江島と仲良く肩を寄せている写真が飾ってある。さっきもいったように、夜の十二時に、江島が、彼女と帰って来たところを見られている。こうなれば、僕だって、江島を容疑者のナンバー・ワンとみるよ」 「警察は、それを新聞記者に発表するつもりだろうか?」 「さあね、今のところ、警察の口はかたいね。それは、江島みたいな有名選手が、容疑者だからさ。ねえ、江島は、どこにいるのさ。どこに隠したの?」 「実は、おれも知らないんだ。これで失礼するよ」 「おい、今西さん」 「明日の甲子園で会いましょうや」  今西は、二人のコーヒー代を払ってその店を飛び出した。  警察が、容疑者として、江島をマークしているという宮野の話は、本当だろう。  球団マネージャーの今西としては、その噂がマスコミに流れるのを阻止しなければならない。  タクシーを拾うと「五条署にやってくれ」と、いった。  五条警察署は、河原町通りより西の烏丸《からすま》通りにある。  受付で、名刺を示すと、すぐ、二階へ案内された。  通された部屋の入口には、早くも「マンション殺人事件捜査本部」と書かれた札がかかっていた。  この事件を担当する矢部という三十七、八歳の警部が、今西に、椅子《いす》をすすめてくれた。 「率直にうかがいますが、警察は、江島を容疑者と考えているわけですか?」  と、今西は、きいた。  矢部は、大きな身体をゆすりながら 「そんなことは、ありませんよ。今は、参考人として、江島さんに、話をうかがいたいと思っているだけです。江島さんは、被害者ともっとも親しくしていたんですからね。今西さんにお願いしたいのは、一刻も早く、江島さんを、連れて来て貰いたいことです」 「参考人といっておいて、出頭したら、容疑者として逮捕するなんてことはありませんか?」  今西がきくと、矢部は、笑いながら、手を振った。 「そんな馬鹿なことはしませんよ。われわれとしては、江島さんの立場も、十分に考えて、捜査に当るつもりでいますからね。私を始めとして、うちの署員の大部分は、ハンターズファンでしてね。江島選手の大車輪の活躍で、ぜひとも、巨人、広島を蹴落《けおと》して、優勝して貰いたいと思っているのです。ですから、あくまでも、江島さんは、参考人として、来て頂きたいと思っているのですよ。それも、ゲームに支障のない時間に来て頂ければいい。そう思っているわけです」 「ご配慮を頂けて、ありがとうございます」 「記者諸君には、まだ、何もいっていません。ですから、一刻も早く、出頭して頂きたいですね。こういうことは、変に、逃げかくれされると、かえって、こじれるものだし、われわれの心証も悪くなりますからねえ」 「よくわかります」 「今西さんは、江島さんの居所をご存知なんでしょう?」  矢部警部は、今西の顔をのぞき込むようにして、きいた。 「正直にいいましょう」と、今西が、いった。 「江島君は、このところ連投に連投で疲れているので、片岡監督が、明日からの巨人との四連戦に備えて、一日早く帰阪させたんですが、その途中で、京都に寄りたいといいましてね。もう一人前の大人ですから、許可したんですが、こんなことになるとは、思ってもいませんでした。私は、当然、神戸の自宅に帰っているものと思っていたわけです」 「すると、あなたにも、行方がわからないわけですか」  矢部は、腕を組み、難しい顔になった。  今西は、不安になった。警察は、ただの参考人だから、早く出頭して貰いたいというが、いつまでも、いい顔はしてくれないだろう。  いつ、参考人が、容疑者にならないとも限らないのである。  いや、今だって、警察の本心は、江島を、容疑者、それも、ナンバー・ワンの容疑者と見ているかもしれないのだ。  関係のあった女が、くびを絞められて殺され、肝心の男が逃げていれば、誰だって、その男が犯人ではないかと疑うだろう。 「なるべく早く、江島さんに出頭するように伝えて下さい」  と、矢部は、同じ言葉を繰り返してから 「いつまでも隠れておられると、われわれとしても、殺人を犯して、逃げていると断定して、指名手配に踏み切らざるを得なくなるかもしれません」  と、脅かすようにいった。 [#改ページ]   一人の女  京都の五条警察署を出たところで、今西は、もう一度、神戸の江島宅に電話してみた。が、いぜんとして、江島は、まだ、帰っていないということだった。  仕方なしに、今西は、大阪中之島にある京神ハンターズの球団事務所に、足を運んだ。  京神ハンターズの親会社は、京神電鉄という私鉄会社である。  従って、ハンターズの球団事務所も、京神電鉄本社ビルの二階にあった。  球団事務所は、いつも、ざわついている。入口近くの応接室は、記者たちに開放されているし、電話も、勝手に使っていいことになっていたから、常に、何人かの記者がたむろしていた。  女の子が二人いて、出前もとってくれる。  しかし、今日は、球団事務所の前に立った時から、様子がおかしかった。いつもの、和気あいあいの雰囲気の代りに、何か、とげとげしい空気があった。  選手たちは、まだ、新幹線の中の筈である。予定では、あと二時間しなければ、帰阪しない。  それなのに、記者たちが集っているし、その記者たちの眼つきが鋭くなっている。 「責任のある言葉が聞きたいんだがねえ」  記者の一人が、奥に向って、大声で怒鳴った。  事務所の一番奥は、社長室である。つまり、社長の回答を求めているのだ。 (江島のことだな)  と、すぐわかった。  二十人近い記者の中には、社会部の記者も半分くらい混っていることが、それを示している。殺人事件がからんでいれば、これは、スポーツダネではなく、社会ダネだからだ。  こんなところへ入って行けば、たちまち、記者たちに取り囲まれて、質問攻めにあうに決っている。  今西は、京神ビルを出ると、外から、球団事務所に、電話を入れてみた。  電話には、女の子が出た。 「社長も、広報課長も、現在、外出しておりますけど」  と、切《き》り口上《こうじよう》でいった。  今西は、苦笑しながら 「今西だよ」 「ああ、今西さん」  女の子は、急に、ほっとした様子で、すぐ、広報課長の田島の声に代った。 「今西さん。どこにいるんです? こっちは、記者さんたちの質問攻めにあって、青息吐息ですよ」 「そうだろうと思って、外から電話したんですよ。江島君から、事務所にも連絡して来ませんか?」 「ぜんぜんないんで困っているんだ。僕は、あんたが知っていると思って、連絡を待っていたんですよ。江島君が見つからないと、大変なことになるんだ」 「こちらも、必死で探しているんですよ」  今西は、それだけいって、電話を切った。  自宅にも帰っていないし、球団事務所にも連絡して来ていないとすると、江島が、いったいどこにいるのか、今西にも見当がつかなかった。 (まさか、江島が、女を殺したんじゃあるまいが、犯人でないのなら、なぜ、姿をかくしているんだろう?)  姿をかくしていたら、疑われるだけではないか。 (世話をやかせる男だ)  と、今西は、橋を渡りながら呟いた。  投手には、変り者が多い。たいていの投手が、わがままで、気が強く、頑固だ。多分、それは、マウンドが孤独だからだろう。  巨人の江川や、西本、或《ある》いは、日本ハムの江夏も、どちらかといえば、変り者だといわれている。優秀な投手ほど、我が強い。今西も、現役時代は、そうだった。  監督と喧嘩したことも、何度かある。だから江島の態度に、共感を覚えることもある。  だが、決定的な違いが一つあった。  それは、今西が、どんな場合でも、絶対に逃げなかったことである。現役時代の今西は、傲慢《ごうまん》で、鼻持ちならないといわれたものだった。口下手《くちべた》で、弁明するのが嫌いだったから、余計、そう思われたのだろう。  女遊びだって、派手にやったものだった。しかし、いざとなれば、逃げなかった。どんな時でも逃げないというのが、今西の信念でもあったのだ。 (エースなら、逃げるな!)  今西が、眉をひそめて呟いた時、ふいに背後から 「今西さん」  と、女の声で、呼び止められた。  立ち止って振り向くと、二十五、六歳に見える女が、すっと、寄って来て、肩を並べ 「歩きながら話しましょう」  と、小声でいった。 「何を?」 「江島さんのこと」 「江島の?」  今西は、自然に、その女と並んで歩き出していた。  初秋というより、まだ、夏の名残《なご》りのような強い太陽が、照りつけている。歩きながら、今西は、サングラスを取り出して、それをかけた。 「君は、江島とどんな関係の人間なんだ?」  今西は、女の横顔に向って話しかけた。女の方は、彼の名前を知っていたが、彼の方は、初めて見る顔だった。  美しい横顔だった。端正というのだろう。だが、冷たい感じを人に与える顔でもある。 「そんなことより、あなたは、江島さんを探していらっしゃるんでしょう?」 「知っているのか?」 「いいえ」 「じゃあ、なぜ、おれに、江島のことで話しかけて来たんだ? おれは忙しいんだ。何も知らないなら、喋《しやべ》るのは、時間の無駄だからね」  今西は、むっとした顔でいった。  女の冷たい口元に、笑いが浮んだ。皮肉な、からかうような笑い方だった。 「今西さんて、現役時代は、気が短くて、よく、監督やチームメイトと喧嘩をしたんですってね。その性格は、まだ、直ってないみたい」 「おれのことは、どうでもいい。今は、江島のことが問題なんだ。彼が、今どこにいるか知りたい。君が知らないのなら、何も話すことはないね」 「私は知らないけど、橋渡しは出来ますわ」 「橋渡し?」 「ええ」 「意味がよくわからないんだが——」 「明日から、巨人との四連戦がありますわね。リリーフ・エースの江島さんがいないと、京神ハンターズは、大変なことになるんでしょう?」 「ああ、勝ち越しは難しいだろうね」 「負け越したら?」 「多分、十八年ぶりの優勝は、断念せざるを得ないだろう」 「じゃあ、どんなことをしてでも、明日のゲーム開始までに、江島さんを見つけたいわけね?」 「その通りだ」 「それなら、私が必要の筈ですわ。今のところ、私が、唯一の江島さんとの連絡係ですものね」 「君にいえば、その言葉が、江島に伝わるということかね?」 「ええ」 「しかし、君は、江島がどこにいるか知らないといった筈だよ。居所を知らない君が、どうして、彼に連絡できるというんだ?」 「くわしくは説明できないけど、江島さんの居所を知っている人を、私が知っているといったらいいのかな。とにかく、今は、私を通す以外、江島さんに連絡する方法はない。それを知って欲しいわ」 「はっきり、いってくれないかね」と今西が言った。 「君の目的は、いったい何なんだ? 金か?」 「今の江島さんには、どのくらいの価値があるのかしら?」 「年俸は、五百万くらいのものだ」 「それは、去年の更改の時のでしょう? 今年のめざましい活躍で、価値は、ぴーんと、はねあがっていると思いますけど。来年の年俸は、いくらぐらいになるのかしら?」 「もし、京神ハンターズが優勝すれば、三倍くらいの年俸になるだろうね」 「その二倍は、頂きたいわ」 「二倍?」 「ええ。本当は、三倍は頂きたいんですけど、急なことだから、二倍で結構ですわ。来年の年俸が千五百万円として、二年分で三千万円。広島カープの江夏さんだって、二年間、リリーフ・エースとして大活躍して、カープを二年連続日本一にしたわけでしょう? だから、江島さんだって、二年間は、リリーフ・エースとして、活躍できると思うんですよ。だから、二年分は、頂きたいわ」  女は、事もなげにいった。  今西は、立ち止って、女を、正面から見すえた。 「君が、江島を誘拐したのか?」  今西が、睨《にら》むようにしてきくと、女は、クスクス笑い出した。 「何がおかしいんだ?」 「江島さんは、逞《たくま》しい運動選手でしょう? そんな江島さんを、私みたいな力のない女が、誘拐なんか出来る筈がないじゃありませんか。誘拐なんか、ぜんぜん、関係ありませんわ。ただ、三千万円頂ければ、江島さんに連絡をとってあげるといっているだけですわ。いやならば、それで構いませんけど」 「江島に連絡できるという保証は、あるのかね?」 「保証というより、私が、江島さんに連絡がとれるという証拠はありますわ」 「見せて貰いたいな」 「このライター」  女は、ハンドバッグから、金張りのデュポンのライターを取り出して、今西に見せた。  今西は、そのライターに、見覚えがあった。  側面のところに、「ゴルフ・コンペ優勝記念」の文字が入っていたからである。  去年のシーズン・オフに、球団主催のゴルフ・コンペがあり、江島が優勝したときの記念だった。 「見覚えがあるでしょう?」  と、女が、得意気にいった。 「これは、確かに、江島のものだ。それを、どうして、君が持っているんだね? 盗んだのか?」 「盗んだといえば、警察に突き出すつもりなのかしら? それなら、拾って、あなたに届けたのでもいいですわ」  女は、用心深くいった。 「おれが、君のいう通りに、三千万円を用意して、渡したら、江島は、すぐ、帰って来るのか?」 「それは、わかりませんわ」 「わからない?」 「私は、あくまで、連絡係ですもの。あなたの言葉は、江島さんに伝えることは約束しますけど、その結果については、責任を持てませんわ」 「そんなあやふやなことに、三千万円も払えるかね」 「それなら、勝手にお探しなさいな。見つかるものなら」  女は、その場に今西を残して、さっさと歩き出した。  一七〇センチ近い長身の上に、胸を張った、颯爽《さつそう》とした歩き方なので、女の態度は、強い意思表示に見えて、今西をあわてさせた。 「君!」  と、呼び止めて 「突然、三千万円といわれても、おれの一存では、どうすることも出来ない。球団のお偉方と相談して返事をしたいが、君に連絡するには、どうしたらいいんだ?」  女は、くるりと振り向いて、ニッコリした。 「二二七の××××に電話を下さいな。私が出ますわ」 「君の名前は?」 「江島弓子」 「冗談はやめて欲しいね」 「じゃあ、弓子とだけ覚えておいて下さいな」  と、いい残して、歩きかけてから、急に、振り向いて 「警察に私のことをいって、逮捕させても、何にもなりませんわよ。私は、何も知らないっていいますから」 「わかった」  と、今西は、いった。  電話番号から、住所は突き止められるだろう。警察に通報して、女を逮捕することも簡単だ。しかし、女のいう通り、何も知らないといわれてしまえば、それで終りだろう。第一、今、江島には、殺人の容疑がかかっている。警察は、参考人として、探しているというが、今西は、そのまま鵜呑《うの》みにしてはいない。  女の後姿は、たちまち、通行人の群れの中に消えてしまった。  今西は、立ち止ったまま、彼女が渡していったライターを見た。  間違いなく、江島のものだが、どうして、あの女が持っていたかが問題なのだ。第一、彼女と、江島が、どんな関係かもわからない。 (それにしても、このライターが、犯行現場になくて良かった)  と、思った。死体の傍《そば》に転がっていたら、間違いなく、江島は、容疑者だろう。警察だって、参考人などと、きれいごとはいうまい。  球団事務所に引き返してみたが、入口には、相変らず、新聞記者が詰めかけていた。人数は、前よりも増えたようだった。  仕方なしに、また、外から、田島広報課長に、電話をかけた。 「新幹線の中で、うちの片岡監督も、記者たちにつかまって困っているようだよ」  と、田島は、電話の向うで、溜息をついた。  今西は、女のことを話した。 「どうしたらいいと思いますか?」 「その女は、信用がおけるんですか?」  田島が、食いつくような声できいた。記者たちの質問攻めに、音《ね》をあげているのだろう。 「わかりませんね」  と、今西は、正直にいった。 「頼りない話ですね」 「そうです。頼りない話です。その女自身、江島君の居所は知らない。ただの連絡係だといってます。それも嘘かも知れません。ただ、彼女の置いていったデュポンのライターは明らかに、江島君のものです」 「三千万円払ったら、江島君は、帰って来ますか?」 「それもわかりませんね」 「それでは、三千万円もの大金は、支出できませんな」 「しかし、目下のところは、江島君を見つけるための唯一のルートかも知れません」 「監督と選手たちは、十六時四十分新神戸着の新幹線で帰って来ます。片岡監督と、相談してみてくれませんか。その結果を、また、知らせて下さい。オーナーには、その結果で、話してみますよ」  と、田島は、いった。  今西は、電話を切ると、腕時計に眼をやった。まだ、時間は早いが、神戸へ行ってみることにした。  新神戸駅に来てみると、片岡監督の談話を取ろうとして、記者たちが、ホームに集っている。  今西は、近くの喫茶店に入り、ひかり137号の片岡に電話をかけた。 「新神戸駅には、記者たちが、あなたのコメントを取ろうとして、手ぐすね引いてますよ」  と、今西は、いった。 「江島は、君と一緒にいるんじゃないのか?」  片岡が、きいた。 「残念ながら、目下、行方不明です」 「しかし、君。神戸の自宅に、連れて行ったといった筈だよ」 「その点についても、至急、監督と二人だけで、お話したいのです」 「私も、君から話を聞きたいがね。記者たちにつかまったら、君の話も聞けんな。間もなく京都だから、私だけ、京都でおりよう。京都市内で会うというのはどうかね?」 「結構です」 「阪急さんのホテルを借りよう。まさか、京神ハンターズの監督が、阪急さんのホテルにいるとは思うまいからね。四時三十分に、京都駅前の阪急ホテルのロビーだ。いいね?」 「わかりました」  と、今西はいった。  電話を切ると、今西は、また、京都に向った。  京都駅前に新しく出来た阪急ホテルのロビーで、片岡に会った。  阪急ホテルは、京都駅北口に新しく建てられたホテルである。  秋の観光シーズンに入ったせいか、ロビーは、外人観光客や若いカップルで、ごったがえしていたが、何分間かすると波が引くように、人の気配がなくなって静かになった。  二人は、ロビーの端のソファに、わざと、入口に向って、並んで腰を下した。 「江島が、殺人事件に関係しているというのは本当なのかい?」  片岡は、小声できいた。  片岡は、六大学出身で、ハンターズの生え抜きである。小柄で、一見したところ、貴公子風だが、芯《しん》が強いことで知られていた。 「殺されたのは、江島君が親しくしていた女ですが、警察は、彼を容疑者とはいっていません。参考人として、話を聞きたいということでしたが、このまま、江島君が姿を消していると、警察の心証を悪くすると思います」 「江島の消息は、全くつかめないのかね?」 「今のところ、どこに消えたのかわかりません。唯一の消息といえば、妙な女が現われて、三千万円を要求したことくらいです」  今西は、事情を説明し、デュポンのライターを、片岡に見せた。  片岡も、去年のシーズン・オフのゴルフ・コンペには、二軍の監督として、出ていたから、デュポンのライターには、見覚えがあった。 「確かに、このライターは、江島のものだが、君は、その女を信用できると思うかね?」 「正直にいえば、ノーですね」 「そうか、君も、信用していないわけか」 「そうです。常識で考えても、ただ、連絡するだけに、三千万円もの大金を払う人間はいませんよ。その連絡だって、本当に、江島に伝わるのかどうか、保証がないわけですからね。しかし、問題は時間が限られていることです」 「そうなんだ。正直にいって、私は、江島という男は、どうしても好きになれない。指揮者としては、いけないことかも知れないが、ね。チームが一丸となって、十八年ぶりの優勝に向ってひた走っている時に、そのチームの和を乱すような行動に出るんでね。だが、同時に、うちが優勝するには、どうしても、江島の力を必要としている。特に、今度の巨人との四連戦には、江島がいなくては、勝ち越しは望めないよ。向うは、投手陣が揃《そろ》っているから、そう点は取れん。それだけ、こちらも、守りを固める必要があるからだ」 「明日の第一戦は、巨人は、当然、江川で来るでしょうね」 「他には考えられないね。江川のうちに対する防御率は、二・〇三だ。つまりうちは二点以上取れないんだ。となればこちらも、巨人を二点以内に抑えなければ負けることになる。江島は必要だ。たとえ、三千万円払ってもね」 「社長が、承知すると思いますか?」  今西がきいた。  ハンターズのオーナーは、球界では、ケチで通っている。そのオーナーの意を受けている社長の青木も、しぶいことで知られている。それを考えて、今西は、きいたのだが、片岡は「私が話すよ」と、いった。 「何としてでも承知して貰う。駄目だというなら、私の家を担保に銀行から借りたっていい。京神ハンターズのファンは、十八年ぶりの優勝を、熱い期待を持って見つめているんだ。その期待を裏切ることは出来んよ。そして、優勝のためには、江島の左腕が必要なんだ。君は、金の心配はしないで、まず、その女に当ってみてくれ」 「わかりました」  今西は、感動した。  片岡は、ハッタリのない男である。地味すぎて面白《おもしろ》くない男だといわれているくらいである。  選手がホームランを打った時など、前の監督は、太った身体をゆすりながら迎えに出て、それが一つの愛嬌《あいきよう》になっていたのだが、片岡は、じっと、ベンチの奥に腰を下したままである。  派手なことが嫌いなのだ。それだけに、嘘や、ホラのふける人間ではない。自宅を担保にしてもというのも本心だろう。  監督が、それだけの覚悟をしているのなら、今西も、いいかげんな気持で、江島を探すわけにはいかなかった。  今西は、片岡と別れると、女が教えてくれた電話番号に、公衆電話から掛けてみた。  聞き覚えのある女の声が出た。あの女の声である。 「今西だ」 「ああ、お待ちしてたわ。決心がついたのね」  女は、電話の向うで、満足そうにいった。 「すぐ、会って、話をしたいんだが」 「じゃあ、七時に、北のクラブ『シャルム』に来て頂戴《ちようだい》」 「もっと早く出来ないのか? 時間が惜しいんだ」 「でも、クラブが開くのは、七時からなのよ」 「君のところへ行ってもいいんだがね」 「あたしの方で困るのよ。女ひとりの部屋に、男の人が入ってくるのは」 「それなら、外で会ってもいい。夕食をとりながらでも、お茶を飲みながらでも話は出来る筈だ」 「そんなにあわてないで、巨人との試合は、明日からでしょう? それに女がひとに会う時は、お化粧もしなきゃならないし、簡単にはいかないの。七時に、クラブ『シャルム』で」  それだけいうと、女は勝手に電話を切ってしまい、今西が掛け直しても、もう、電話口には出て来なかった。  今西は、大阪へ出ると、地下鉄梅田駅をのぞいてみた。  よく、新聞の号外が貼《は》り出されるからである。夕刊紙の号外が貼り出されるのは、大阪だけだろう。  丁度、夕方のラッシュ・アワーに入っているので、駅のホームも通路も、勤め帰りのサラリーマンで、ごった返している。  その足が、構内の柱の前で、止って、人垣が出来ていた。やはり、夕刊新聞の号外が出たのだ。  今西は、恐る恐る、人垣のうしろからのぞいて見た。彼は一七八センチの長身である。今の若手投手陣の中に入ったら、むしろ、小柄な方だろうが、一般の人たちの中では、楽に、肩越しに見ることが出来た。 〈京神ハンターズのリリーフ投手失踪《エースしつそう》か?〉 〈殺人事件に関係した疑いで、警察が追及中〉 〈球界の不祥事に発展か?〉  そんな見出しの文字が、いやでも、今西の眼に飛び込んできた。  江島の名前を書いてはいない。しかし、京神ハンターズのリリーフ・エースといえば、江島しかいないのだ。  構内の太い柱に、号外が、べたべた貼りつけてある。どの新聞も、真っ赤な文字が、毒々しく踊っている。  巨人に肩入れしているZ紙が、一番攻撃的だった。 〈またか、京神ハンターズ。前に、球界の黒い霧事件でゆれたハンターズが、今度は、殺人事件で大ゆれ!〉  そんな見出しで、京都のクラブのホステスが殺され、京神ハンターズのリリーフ投手Eが、警察に追われている。もし、彼が、姿を現わしたとしても、殺人の容疑を受けている選手が、プレートに立つことを、ファンは許さないだろうと、書いていた。 「くそ!」  と、今西は、歯がみをした。明日から始まる巨人との四連戦に、江島が出られなければ、京神ハンターズは、間違いなく、負け越すだろう。  巨人が、江川という絶対の切り札を持っているのに、ハンターズには、江川に対抗できる投手がいない。大林や山元という先発投手陣に、リリーフ・エースの江島をプラスして、はじめて、江川を筆頭とする巨人の強力投手陣に対抗できるのである。その江島がいなければ、負け越しどころか、四連敗の危険さえあった。 (巨人の江川が、同じ目にあっても、Z紙さんは、こんな風に書くのかねえ)  と、今西は、胸の中で毒づいてから、腕時計に眼をやった。  間もなく七時だった。  北のネオン街は、やっと賑《にぎ》わいを見せ始めていた。 「シャルム」というクラブは、雑居ビルの四階にあった。エレベーターで四階にあがり、扉を開けて、店に入った。  まだ、客は一人も来ていなかった。  ホステスの姿もなく、マネージャーが、忙しげに、テーブルに花を置いたりしていたが、今西の顔を見ると、近寄って来て 「失礼ですが、今西さんじゃありませんか?」  と、声をかけてきた。 「そうだが」 「今、ママさんから電話がありまして、しばらく待って頂くようにということでした。何をお飲みになりますか?」 「ママさん?」 「はい」 「若いのに、こんな大きな店のママさんなのかい」  今西は、正直いって、意外だった。北のクラブでといわれた時、てっきり、ホステスの一人と思ったのである。 「皆さん、おどろかれます」  四十五、六の小柄なマネージャーは、ニコリともしないでいった。蝶《ちよう》ネクタイをしめ、やや、髪のうすくなったこの男は、水商売の男というより、実直なサラリーマンに見える。 「ママさんの名前は、何といったっけね?」と、今西は、きいてみた。  彼女は「江島——」といったが、それは、もちろん、冗談だろう。  マネージャーは、ポケットから、名刺を取り出して、今西の前に置いた。  表に「クラブ・シャルム」と刷ってあり、裏に返すと「新谷敏江」とあった。 「新谷敏江さんか」 「はい。水割りでよろしいですか?」 「ああ」  と、今西は、肯《うなず》いた。  マネージャーは、バーテンに、水割りといって、奥へ姿を消してしまった。口数の少ない男である。  今西が、水割りを前に置いて、煙草《たばこ》を吸っているところへ、和服姿の女が、入って来た。  ちらりと見て「美人だな」とは思ったが、今西が、視線を戻してしまったのは、その日本的な美人が、昼間、中之島で会った女とは思わなかったからである。  今西の前へ来て 「ごめんなさい。待たせてしまって」  と、いわれて、初めて、同じ女なのだと気がついた。  全く印象が違ってしまっている。髪の型が違うのは、昼間は、かつらだったのだろう。髪をアップにして、うすいクリーム色の和服を着た女は、しっとりと落着いた日本的な感じに見えた。 「驚いたね」 [#改ページ]   第一戦 「女って、化けるものでしょう?」  女は、楽しそうに笑った。今西の見せた反応が、愉快だったのだろう。 「新谷敏江さんか」 「敏江です。よろしく」 「さっそくだが、江島のことを話して貰いたくてね」  今西が切り出すと、敏江は、ちょっと考えてから 「上の部屋へ行きましょう。その方が、落着いて話せるわ」 「他に部屋があるの?」 「特別のお客さまのためのお部屋」  敏江は、カウンターのうしろにある狭い階段へ、今西を案内した。  敏江は、意味ありげにいったが、八畳ほどの洋間だった。  ただ、じゅうたんも、ソファも、階下の店よりも上等で、ぜいたくな造りになっている。  部屋の隅に、小さなホーム・バーがあり、敏江は、そこへ入って、改めて、水割りを作ってくれてから、自分も、同じものを手にして 「乾杯しましょうか」 「何のために、乾杯するんだね?」 「商談成立の前祝いかしら」 「商談か」  今西は、苦笑し、腕時計に眼をやった。  七時半になっていた。選手たちは、明日の対巨人四連戦の第一戦に備えて、甲子園で軽い練習をしている頃だ。  選手たちは、もう、江島のことは知っているだろう。選手たちの間を歩き回って、ニュースを告げて回るお節介な記者が、何人もいるからだ。 (選手たちの間に、動揺は起きていないだろうか?) 「お金がからめば、全《すべ》て、商談じゃないかしら」  と、敏江がいった。 「そいつは理屈だな。それなら、君のいう商談に入ろう。君のことは、監督に話したよ」 「監督って、片岡さんね」 「そうだ。監督は、球団に話してみるといっている」 「でも、ハンターズ球団って、ケチで有名なんでしょう?」 「そんなことはないし、監督は、もし、球団が、金を出さないといったら、自分で作るといっている。自宅を担保に、銀行から借りてもいいとさえ、いっているんだ」 「片岡さんて、いいところがあるのね」 「だから、おれも、いい加減な話に、大事な金を払うわけにはいかないんだ。江島が帰ってくる保証が欲しい。その保証がなければ、金は払えないね」 「私は、ただ、江島さんに連絡がとれるとしか、いわなかった筈だけど」  と、敏江が、いった。 「それは、君が、江島の居所を知っているということかい?」 「さあ、どうかしら。とにかく、私に出来ることは、あなたの言葉を、江島さんに伝えるだけなの。でも、今は、それだけでも、京神ハンターズにとっては、必要なことでしょう?」 「彼に伝わったという証拠は貰えるんだろうね?」 「多分、江島さんが、あなたか、球団事務所に、電話を入れると思うわ。でも、彼が、返事をしたくないといえば、電話もしないと思うけど」 「それじゃあ、無意味だよ」と、今西がいった。 「電話がなくて、それに、江島が返事をしたくないから、といわれてしまえば、それまでだからね。君が、彼に連絡してくれたかどうかもわからなくなる」 「それは、確かに、そうね」  敏江は、クスクス笑い出した。  今西は、次第に、いらいらしてきた。  明日の午後六時三十分に、巨人との第一戦が開始される。あと二十三時間しかないのだ。 「まさか、君は、江島の失踪のニュースを聞いて、何も知らないくせに、でたらめをいって、うちの球団から金をせしめようとしているんじゃなかろうね?」  今西がいうと、敏江は、急に、険しい表情になって 「あのライターは、間違いなく、江島さんのものだったでしょう? 私を信用しないのなら、それでもいいわ。勝手に、自分で、探して歩いたらいいじゃないの」 「あのライターは、本物だったよ。だからこそ、監督に話したんだ」  と、今西は、あわてていった。 「しかし、われわれは、今度の巨人との四連戦に、江島に投げて貰わなければならないんだ。ただ、彼に連絡がとれただけでは、どうしようもない。それも、電話か何かで、おれが説得できるのならいいが、君に手紙を渡して、それを渡して貰うだけでは、どうしようもないんだよ」 「でも、私には、それ以上のことは出来ないわ」 「それじゃあ、三千万円なんか、とうてい払えんね。一千万円も駄目だ。その代り、君の力で、江島が帰って来てくれたら、喜んで、三千万円払おうじゃないか。ただの連絡では、それも、不確かなものには、せいぜい二、三十万しか払えないよ」  今西は、強く出てみた。  敏江は、ソファに身体をうずめて、考え込む表情をしていたが 「わかったわ。でも、二、三十万では、お話にならないから、百万円払って頂戴。それで、江島さんに連絡を取ってあげる。そして、江島さんが帰ったら三千万。それでどう?」  今西は、クラブ「シャルム」を出た。  すでに、午後八時を回っていた。甲子園での練習は、一時間といっていたから、もう終っているだろう。  球団事務所に電話を入れてみると、電話口に出た女の子が、相変らず、記者たちが押しかけていて、どうしようもないという。  次に、片岡の家へ電話してみた。  片岡の妻の多恵子が出た。もと宝塚のスターで、片岡との恋愛は、当時の週刊誌が、華やかに報じたものだった。今は、一男一女の母親になっている。 「さっき、主人から電話がありましたわ。今西さんから連絡があったら、大阪駅近くのホテルPに泊っていると知らせてくれと。部屋は一二〇五号室だそうですわ」  と、多恵子がいった。 「じゃあ、お宅にも、記者たちが押しかけているんですか?」 「ええ。江島さんのことで、監督の考えを聞きたいと、おっしゃって」  多恵子は、気丈に、笑っている。  今西は、車をホテルPに飛ばした。大阪駅の近くにあるホテルPに着くと、記者たちが来ていないのを確かめてから、エレベーターで十二階へあがった。  一二〇五号室のベルを押すと、片岡は、確かめてからドアを開けてくれた。  ツインの部屋に、ヘッドコーチ兼ピッチングコーチの大山も一緒にいた。  テーブルの上には、五、六冊のノートが散らばっている。巨人の選手の一人一人のデータを、克明に記入したノートである。それをもとに、明日の第一戦の作戦を立てていたのだろう。 「大山君。ひと休みしよう」  と、片岡は、声をかけてから、今西に 「どこへ行っても、記者さんたちに囲まれるんでね。ここへ逃げ込んだんだ」  と、笑って見せた。 「選手たちに、動揺はありませんか?」 「今度は、黒い霧事件と違って、あくまでも、江島個人の問題だからね。今のところ、選手たちの間に、動揺は見られない。だが、江島抜きでは、正直にいって、作戦の立てようがないんだ」  片岡が、溜息をつくと、大山は、例の甲高い声で 「江島君がいれば、最少得点を守って逃げ切りという作戦が立つんだが、彼がいないと、逃げ切りの切り札がないわけだから、無理しても、大量得点を狙《ねら》わなきゃならん。ところが、うちの打線は、君も知っているように、ピストル打線だからね」 「それで、女には、連絡をとれたのかね?」  片岡が、今西にきいた。  今西は、クラブ「シャルム」でのことを話した。 「明日、銀行があいたら、百万円をおろして、もう一度、彼女に会ってみます」 「その女は、信用できるのかい?」  大山が、細い眼で、いって、今西を見つめた。 「正直いって、信用出来ないよ」  と、今西はいった。  大山と今西は、同じ年にプロ野球に入っている。今西は、度胸と快速球で、大山は、冷静さと、絶妙のコントロールで、共にエースとして活躍したものだった。 「江島の居所なんか、全く知らないのかも知れないんだ」 「しかし、ライターは、本物だったんだろう?」 「そうだがね。彼女は、クラブのママだ。江島が、たまたま、あの店に飲みに行ったとき、忘れていったのかも知れない」 「それなのに、百万円払うのかね?」  大山にきかれて、今西は「そうだ」と肯いた。 「結果的に、百万円を、ドブに捨てるようなことになるかも知れない。彼女が、百万円受け取って、何もしないかもわからないし、その時でも、警察に訴えるわけにはいかないからね。だが、この切羽つまった時に、他に、江島を探す手段がないんだ。だから、百万円払うのさ」 「今西君の考えに賛成だね」  と、片岡がいった。  その片岡が、百万円は、自分が用意しようといったのを、今西は、取りあえず、自分が出しておくといって、ホテルPを出た。  自分のマンションに帰ったのは、十一時近かった。  江島のことは、一般紙の夕刊にも出ていた。殺人事件が絡んでいるのだから、当然かも知れなかった。  夕刊紙のように、えげつない書き方ではなく 〈某球団の投手が、この事件に関連して、警察が、事情を聞きたがっているが、姿をかくしている〉  といった書き方である。  だが、そんな記事を読むたびに、なぜ、連絡して来ないのだと、改めて、江島に対して腹が立った。  興奮して、なかなか眠れず、午前二時近くなって、やっと眠ることが出来た。めったに夢を見ない今西が、怖い夢を見て、朝、眼覚めたときには、びっしょりと寝汗をかいていた。  牛乳と、トーストで、簡単な朝食をとりながら、配達されたスポーツ紙を広げた。やはり、第一面は、巨人戦と、江島のことで埋っている。 〈今日から天王山の四連戦。しかるに、勝敗のカギを握る江島は、いぜん行方不明。このままでは、京神ハンターズの四連敗も〉  球団事務所には、昨夜から、心配したファンの電話が殺到しているとも書いてある。 (どうしても、江島を見つけなければ——)  午前九時になるのを待ちかねて、今西は、銀行へ行き、百万円をおろした。  銀行の封筒に入れて、ポケットにおさめると、改めて、金の価値がなくなったのを実感した。有難味《ありがたみ》が薄いのだ。  今西が、プロ野球に入ったのは、ドラフトの前で、彼の契約金は、三百万円だった。しかし、東北出身の今西には、それが、大変な金額に思えたものだった。今の三千万円より大きな金額だったような気がしてならない。  これは、プロ野球選手の待遇が、相対的に下ったということかも知れなかった。  公衆電話ボックスを見つけて中に入り、女の電話番号を回した。  ねむたげな新谷敏江の声が聞こえた。 「百万円を用意した」  と、今西は、いった。 「わかったわ。すぐ、私のマンションに持って来て」 「行っていいのかね? この前は、困るといっていたが」  今西の口調は、自然に、皮肉なものになったが、敏江は、それを感じない様子で 「商売なら別よ。ホテルプラザは知っていて?」 「何回か泊ったことがある」 「それなら、私のマンションは、すぐわかるわ。環状線の福島駅から、大通りをホテルプラザの方へ歩いて来て、ホテルを行き過ぎて七十メートルほどのところに、シャトー『福島』という九階建のマンションがあるわ。それの九〇六号室だから」 「すぐ行く」  と、今西はいった。電話ボックスを出ると、すぐ、タクシーを拾った。  女のいったシャトー「福島」は、すぐわかった。  純白の外観を持った、いかにも、女性が好きになりそうなマンションである。  階下の郵便受で、九〇六号室が、新谷という名前になっているのを確認してから、エレベーターで、九階にあがった。  九〇六号室のベルを押すと、ドアが細目に開いて、敏江の顔がのぞき、それから、今西を、中に請じ入れた。  わざとそうしているのか、それとも、着がえの時間がなかったのか、敏江は、ネグリジェ姿だった。  胸元から、豊かな乳房の盛りあがりが見えて、十分に魅力的だったが、今の今西には、それをゆっくり観賞している余裕はなかった。  現在、九時三十五分。あと、九時間足らずで、天下分け目の巨人との第一戦が始まるからである。  それまでに、何としてでも、江島を見つけ出し、甲子園のグラウンドに連れていかなければならない。  今西は、封筒から百万円の束を取り出すと、テーブルの上に置いた。 「これで頼む」  敏江は、きれいにマニキュアした手で、すくいあげるように、百万円の束を取りあげて 「領収書が、要ります?」 「そんなものは要らないから、とにかく、江島が一刻も早く帰るようにして欲しい」 「わかったわ。連絡がとれるように努力してみるわ。何か、お飲みになる? これは、お代は頂かないわ」  敏江が、微笑して、今西を見た。 「いや、結構だ」 「そう」  と、敏江は、ちょっと顔をしかめてから、煙草をくわえて、火をつけた。 「とにかく頼む。江島が確実に帰ってくるとわかれば、二千万でも、三千万でも払っていいんだ。また、それを警察にいったりもしない」 「それだけ、大事な選手だということなのね」 「そうだ。球団にとっても、ファンにとってもだ」 「約束は果たすわ。その代り、約束して貰《もら》いたいことがあるわ」 「何だね?」 「誰《だれ》かに、私を監視させたり、私の行動を尾行したりしないこと。前にもいった通り、私は、江島さんと連絡は出来るけど、彼の居場所を知っているわけじゃないんですからね」 「わかった。そんなことはしない」 「じゃあ、もう、お帰りになって下さいな」  敏江は、冷たくいった。 「結果は、いつわかる?」 「私は、時間を区切られるのが嫌いなの」 「いいだろう。とにかく、お願いする」  今西は、こん畜生と思いながらも、女に向って、深々と頭を下げてから、部屋を出た。  エレベーターで、階下におりる。  管理人室の前まで来ると、カーテンがおりていて「外出中」の札が出ていた。  管理人室の横に、各室の郵便受が、並んでいる。  九〇六号室「新谷」の箱には、カギがかかっていなかった。  周囲に人がいないのを確かめてから、ふたを開け、中に入っている数通の手紙を取り出した。どんな手紙が来ているのか、調べようとしているうちに、正面に、タクシーがとまって、若い男女が、マンションに入って来るのが見えた。  今西は、一瞬の迷いのあと、その手紙の束をポケットにねじ込んで、外に出た。  これは、明らかに犯罪だという意識がないわけではなかった。それでも、なお手紙を持ち出してしまったのは、何としてでも、江島を見つけたかったからである。それに、新谷敏江に、百万円を渡して頼みながら、相手を信用していないせいでもあった。  タクシーをとめて乗り込んでから、その手紙を一つ一つ見ていった。  ハガキが三通と、封書が二通である。  まず、ハガキから眼を通してみた。  高校の同窓会へのお知らせという往復ハガキ。そのハガキで、敏江が、九州の高校を出ていることがわかった。  福島駅近くに新しく出来た美容院の開店通知もある。  九州の妹からのハガキ。たまには、帰って来て下さいと書いてある。  次は、二通の封書だった。  片方は、梅田の宝石店からの案内状だった。宛名《あてな》の新谷敏江も、住所も、プリントされているところをみると、敏江は、この宝石店のいいお得意なのだろう。中を見るまでもなかった。招待状には、粗品券や、駐車券が入っているだけに違いない。  最後の封書の差出人は、ちょっと変っていて、今西の眼を引きつけた。 〈京都市左京区 日下探偵事務所〉  そう印刷されてあったからである。  探偵事務所という文字にも興味を持ったが、もう一つ、今西が、おやっと思ったのは、その探偵事務所が、大阪ではなく、京都だったことである。  大きな探偵社や、興信所は、東京と大阪に集中している。それだけ、需要があるからである。  普通なら、大阪に住んでいるのだから、大阪の探偵社なり、興信所へ頼みそうなものを、なぜ、わざわざ、京都の探偵社に頼んだのだろうかと疑問が起きた。それに、この手紙に関係があるかどうかわからないが、京都のクラブのホステスが殺され、江島が失踪《しつそう》している。  うすっぺらな封書だから、中に、調査報告書が入っているとは思えない。だが、中に何が入っているのか見たかった。  私信を開封すると、どんな罪になるのだろうか?  罰金刑だけだったろうか? それとも、一年以下の懲役だったろうか? 或《ある》いは、もっと重かったか?  今西は、何度か迷った末、その封書を開封した。  中身は、うすっぺらな紙切れ一枚だった。   〈領収書〉    一、金五拾万円也    右正に領収いたしました。    但し、調査費として、      九月十三日 [#地付き] 日下探偵事務所       新谷敏江様  九月十三日は、一昨日《おととい》である。江島が、京都で、新幹線をおりてしまった日だ。だから、常識的に考えて、この調査というのは、江島の失踪とは、無関係に見える。  だが、今西は、引っかかるものを感じた。  アメリカの私立探偵は、免許制だが、日本の場合は、免許は要らない。体力と情熱があれば、誰にでも出来るということである。  今西の知っている男で、現在、大阪で一匹狼《いつぴきおおかみ》の私立探偵をやっているのがいた。  元、京神ハンターズの二軍選手だった松尾という男である。大変な努力家だったが、肩を痛めたのが致命傷になり、三年のファーム暮しのあと、馘《くび》になった。その後、いろいろな職業についたらしいが、去年の春、突然、私立探偵を始めたという案内状を貰ったのである。  今西は、福島駅近くの電話ボックスで、松尾の探偵事務所の電話番号を調べて、かけてみた。 「やあ、今西さん」  という、なつかしそうな松尾の声が聞こえた。 「会って、頼みたいことがあるんだが、どこかで、昼飯でもどうだね?」 「いいですねえ」  松尾が、嬉《うれ》しそうにいった。 「仕事の方は、いいのかね?」 「今西さんの誘いなら、どんな儲《もう》け仕事だって放り出して駆けつけますよ」  と、松尾がいった。  相変らず、調子のいい男だなと、思いながら、今西は、落ち会う場所を決めて電話を切った。  梅田近くのRというトンカツ料理の店には、今西が、先に着いた。  五、六分して、松尾が、のっそりと、巨体を現わした。 (相変らず大きいな)  と、思いながら、今西は、手をあげた。  松尾は身長一八六センチ、選手時代から、百キロ近い体重があった。今は、もっと、重そうである。野球選手というより、プロレスラーの感じで、ハンターズをやめたあと、プロレスラーになろうと思ったこともあったらしい。事実、ファーム一の力持ちといわれたものだが、腕力だけでは、プロ野球では通用しないのである。 「今日はご馳走《ちそう》するよ」  と、今西は、いってから 「その代り、頼みたいことがあるんだ」 「今西さんのためなら、たとえ、火の中、水の中でもですよ」 「相変らずだねえ」 「いや、本気ですよ。京神ハンターズを辞めてからも、今西さんは、親身になって、いろいろと、相談にのってくれたから」 「二つ、三つ、仕事を世話しただけさ」  と、今西は、照れたように笑ってから 「まず、食事を注文しよう」  ウエートレスを呼び、特上のひれかつ料理を三人前頼んだ。二人分は、もちろん松尾のためである。 「君に聞きたいんだが、五十万円の調査費というと、どんな調査だろう?」 「調査にもいろいろありますからねえ。いちがいにはいえませんが、普通の結婚調査とか、素行調査なんかは、十万円から二十万円といったところですね。これは基本料金で、この他に、日当とか、出張する場合は、実費も貰いますが、五十万円というと、特殊調査じゃないかな」  松尾は、考えながらいった。 「特殊調査って、どんなのがあるんだね?」 「行方不明の息子《むすこ》を探してくれとか、裁判に有利になるような証拠を見つけてくれとか、僕は、ごらんの通りの身体ですから、ボディガードを頼まれたことがありますよ」 「なるほどね」  と、今西は、肯《うなず》いたが、これでは、新谷敏江が京都の探偵事務所に何を頼んだのか、わからなかった。 「キタに、『シャルム』というクラブがあるんだがね」 「知っていますよ。高い店ですよ」 「そこのママは、新谷敏江という名前でね。彼女は、京都の日下探偵事務所というところに、何かの調査を頼んだ。それが、何なのか君に調べて貰いたいんだ」 「それは、江島選手の事件と何か関係があるんじゃありませんか?」  松尾が、ずばりと、きいてきた。  今西は、黙って、松尾を見ていたが 「君は、秘密を守れるかね?」 「これでも、京神ハンターズのOBですよ」 「わかった。君を信用しよう。今、江島が行方不明になっている。ホステス殺しに関係して逃げているのか、それとも、全く別の理由なのか、わからん。しかし、今度の巨人との四連戦には、どうしても、彼の左腕が必要なんだ。何とかして、見つけ出したい。ところが、『シャルム』のママが、江島と連絡がとれるといって来たんだよ。本当か、嘘《うそ》かわからないが、ワラにもすがる気持で、百万円を支払った」 「それで、江島君と連絡がとれたんですか?」 「いや、まだだ。連絡がとれるという保証もないんだ。そこで、君に、彼女のことを調べて貰いたい。感づかれないようにね。彼女は、事件の直前に、今いった京都の探偵事務所に、五十万円の調査を頼んでいる。これが、何だったのかも、調べて貰いたいんだ。もちろん、江島の行方もね。上手《うま》くいったら、君には、十分な謝礼を払うよ」 「ぜひ、僕にやらせて下さい。僕だって、OBとして、久しぶりに、ハンターズに優勝して貰いたいですからね」  松尾は、膝《ひざ》を乗り出すようにして、強い声でいった。 「頼むよ」  と、今西は、いった。  ビールと、料理が運ばれてきた。  十二時を少し過ぎていた。あと、六時間と少ししかない。  甲子園には、試合開始六時間前だというのに、観客が、続々と詰めかけた。  徹夜組も、三百人を越えた。伝統の一戦の上に、ハンターズにとって、十八年ぶりの優勝のチャンスだから、ファンが熱狂するのも無理はなかった。  午後二時には、すでに、内外野とも、満員札止めになった。  午後四時半から巨人軍の練習があり、続いて、ハンターズの練習が始まった。  それに合せて、今西は、甲子園に出かけた。  監督の片岡が、そっと、今西の傍《そば》へ寄って来て 「江島は、見つかりそうかね?」 「まだです。手掛かりもつかめません」  今西は、疲れた声でいった。 「『シャルム』のママの方は?」 「百万円は渡しましたが、まだ、何の連絡もありません」 「だとすると、今日は、江島抜きで戦うより仕方がないな」 「申しわけありません」 「君が悪いわけじゃない。君は、引き続いて、江島を探してくれ」 「わかりました」 「他の選手たちが、元気なのが、救いだよ」  と、片岡は、いった。  練習が終ると、片岡は、特に、選手たちを、外野の一角に集めた。 「みんなも知っているように、江島は、まだ見つからん。今日のゲームは、江島抜きの戦いになる。それに、いろいろと、嫌な噂《うわさ》も入って来ているだろうと思う。しかし、君たちは、栄光ある京神ハンターズの選手なんだ。それに、今日からの巨人との四連戦には、優勝がかかっている。巨人を叩《たた》きのめして、十八年ぶりの優勝をかちとって、美酒に酔おうじゃないか。私は、十八年前の優勝のときの一員だったから、それが、どんなに素晴しいものか知っている。一生の思い出になるんだ。それに、優勝をかちとれば、来季の年俸もあがる。もし、江島がいないために、この四連戦に負け越したら、新聞は、一斉に、江島がいなければ、ハンターズは、勝てないのかと書き立てるぞ。そんなことになったら、君たちの恥だ。江島なしで、巨人に四連勝して見せようじゃないか。私のいいたいことはそれだけだ」  片岡は、大声を出すではなく、むしろ、静かにいった。  そのあと、ピッチングコーチの大山が、投手陣に、注意を与えた。江島不在では、先発投手の完投が要求されるからである。打撃陣も、大量得点して、投手を援護する必要があった。  片岡は、第一戦に左腕の山元を立てた。  巨人は、予想どおり、江川の先発である。  五万を越す大観衆の見守る中で、第一戦が開始された。 [#改ページ]   惨 敗  山元は、リズムで投げるピッチャーである。リズムに乗っている時は、切れ味鋭い投球をする。  ただ、球が軽い。ロッテの村田のような剛球投手なら、リズムが多少狂っても、長打を浴びる危険は少ないが、山元の場合は、球が軽いだけに、長打を食ってしまう。  一回の表、先頭打者の松本を警戒しすぎて、四球で、塁に出してしまった。  ベテランの山元が、固くなっているのだ。  左の山元なので、盗塁をされる心配はない。  巨人は、手堅く、二番の河埜に送らせてきた。 (向うさんも、この四連戦を天王山と見て、第一戦必勝で来ているな)  と、片岡は、思った。  それに、投手が江川とくれば、先取点が、大きく物をいう。  三番は、左の篠塚である。それなのに、山元は、力んで、四球を出してしまった。  ワン・アウト一、二塁。  四番の中畑が、ゆっくりと、バッターボックスに歩いてくる。  片岡は、ちらりと、データに眼を走らせた。中畑対山元は、打率三五〇、ホームラン三本。悪い数字だ。  ツーストライクをとりながら、コースを狙《ねら》いすぎて、ツー・スリーに持ち込まれてしまった。山元の端正な顔が、青白くなっている。 (危いな)  いやな予感を覚えたとき、かあーんという快音を残して、打球が飛んだ。  一瞬、片岡は、眼を閉じた。ここで、先取点を取られたら、苦戦は、まぬがれない。  だが、中畑の打球は、サード掛井へのライナーとなって、飛び出した松本と、併殺することが出来た。  甲子園全体に、ほっとしたどよめきが流れた。 (ついているが、この調子だと、山元の代え時が問題だな)  と、片岡は、思った。中畑を打ち取れたのは、山元のピッチングに力があったからではない。ついていたからだ。次のピンチにも、また、幸運がほほえむという保証は、どこにもなかった。  代って、一回裏。  マウンドに立った江川は、小憎らしいくらい落着いて見える。今シーズン、江川は、ハンターズに対して五勝一敗だから、自信満々なのも、当然かも知れない。  先頭の真岡は、江川の第一球を、いきなり引っぱたいた。  バットの真《ま》っ芯《しん》に当ったとみえたが、打球は、鋭いライナーとなって、一塁側の内野スタンドに飛び込んだ。悲鳴とも、歓声ともつかぬ声があがった。  そのファウルを見て、片岡は (今日は苦戦するぞ)  と覚悟した。  片岡は、時速何キロといったボールのスピードは、信用しない男だった。  時速一五〇キロの快速を投げているから、その投手は調子がいいという見方はしない。  片岡は、ファウルの飛び方で、その投手の調子を見た。  昔、稲尾和久が、西鉄ライオンズのエースとして君臨していた頃《ころ》、彼の決め球は、右打者の外角一杯に決る速球とスライダーだった。  監督の三原は、右打者のファウルが、一塁側の内野スタンドに飛び込んでいる間は、全く、心配しなかったという。それは、稲尾の球威が、完全に、バッターを圧倒している証拠だったからである。  ファウルが、だんだん、外野の観客席まで飛ぶようになると、三原は、稲尾が少し疲れて来たなと見たともいわれている。  片岡も、同じ見方をした。  江川の第一球は、外角一杯の速球だった。  何の変化もしていない。それを、真岡は、ジャストミートした。当然、ライト線を破るヒットになるべきなのに、一塁側の内野スタンドに飛び込むファウルになった。  真岡は、小柄だが、腕力があり、一シーズン常に、十本以上のホームランを打っている。外角球を、ライトへ打つ技術も、恐らく、チームで一、二の上手さだろう。  その真岡は、最初から、江川の外角球に的をしぼっていた。第一球は、真岡の狙いどおりの外角速球だった。  だから、会心の当りだった筈《はず》である。一瞬、片岡も、ライト線を抜く二塁打と思ったのだが、それが一塁側の観客席に飛び込むファウルになってしまったのだ。  片岡の眼から見れば、これは、江川の球に力がある証拠である。  案の定、クリーン・アップまでが、江川のスピードボールを振り遅れ、フライを打ちあげた。  山元も、二回から打たれながらも、要所を締めて、得点を与えない。ゼロ行進が続いた。  スコアの上では、接戦である。しかし、片岡はハンターズが、完全に押されているのを感じていた。  角力《すもう》でいえば、土俵際まで押されて、辛うじて残しているに過ぎない。一点でも与えたら、それで、このゲームは、負けになるだろう。それほど、今日の江川は、好調なのだ。  去年、二十勝し、投手の三部門の賞を独占した好調さを、今年も、持続している。 (江島がいてくれたら)  と、片岡は、また思った。  山元が、六回か、七回まで、巨人をおさえてくれて、そのあとを江島が引き継いだとき、江川の投げている巨人と、初めて、対等に勝負が出来るし、江川を崩すチャンスも生まれてくる。  六回の裏。簡単に二死になってから七番の藤田が四球で出た。  八番のキャッチャー若木が、ライト線の二塁打を打った。一塁走者が三塁に走る。  ツー・アウト、ランナー、二、三塁。チャンスと見て、ハンターズの応援団が、立ち上って、大声援だ。「今年こそ優勝だ!」と書いた大きな横断幕を持った二人のファンが、観客席を駆け回っている。  鉦《かね》と太鼓の応援が、鉄傘にこだました。初めて、ハンターズの選手が、得点圏まで進んだのである。  ここで点が入れば、或いは勝てるかも知れない。ファンは、そう思っているのだろう。  だが、片岡は、違った。  江島がいたら、ここは躊躇《ちゆうちよ》なく、ピッチャーの山元に代打を送って、先取点を狙うところである。一点でもとれれば、七回表から、リリーフ・エースの江島を投入して、勝ちにいける。たとえ、代打策が失敗しても、江島で勝負は、五分である。  その江島がいないのだ。  池田、小町、福井と、ピッチャーはいるが、江島のように信頼できるリリーフはいない。  大林は、大洋との最終戦で投げたばかりだし、もともと、リリーフは、得意ではなかった。若手の久藤や伊東は、二戦以後のローテーションに入っている。 「監督」  と、ヘッドコーチの大山が、片岡に小声でいった。 「もう六回だし、相手は江川です。このチャンスを逃がしたら、もう得点のチャンスはないかも知れません」 「ブルペンは?」 「池田と福井が投げています」 「七回は、篠塚からだから、出すとすれば、左の福井だが」 「一回は抑えてくれると思います」  決断をしなければならなかった。  ファンは、代打を要求している。歓声と手拍子が、それを示していた。  冷静な片岡が、つい、その拍手と歓声に負けた。  ここで、ヒットが出て二点入れば、あとの三回は、小刻みな継投で、何とか抑えられるのではないかという甘い考えが、片岡をとらえてしまった。  片岡は、ダッグアウトを飛び出すと、すでに、バットを持って、バッターボックスに歩き出している山元を呼び止め、代打に、竹下を送った。 「バッター山元に代って、竹下」のアナウンスに、大歓声があがった。竹下は、三十七歳のベテランである。代打に徹して、今年は、三割を超す打率を残している。打点も多く、ハンターズの代打の切り札だった。  竹下が、バッターボックスに入った。  今西は、球団事務所で、テレビを見ていた。  竹下が、バットの先で、コツンと一回ホームプレートを叩いてから、構えた。いつもの竹下のくせだった。  三十二、三歳までの竹下は、典型的なホームランバッターで、彼がバットの先で、ホームプレートを叩くと、新人投手は、ふるえあがったものだろう。  だが、三十七歳の今は、飛距離が出なくなって、長打は望めない。 「ここは、単打《ヒツト》でいいんだ!」  今西の傍で、球団職員の一人が、テレビに向って、叫んだ。  今西は、画面を気にしながら、ちらりと、腕時計に眼を走らせた。  午後八時を少しだが過ぎているのに、まだ何の連絡も入って来ない。江島からはもちろん、新谷敏江からもである。  自信満々に、江川が、第一球を投げ込んだ。  内角高目の速球だった。  腰の回らなくなったベテランバッターには、内角の速球と、山倉が考えたのだろう。  バッターの竹下も、内角を攻めてくると読んでいたらしく、いきなり強振した。  だが、空振り。  一四九キロという数字が、誇らしげに、画面に示された。  —さすがは、江川ですねえ  —まったく、球威は衰えていませんよ  アナウンサーと、解説者が、したり顔で喋《しやべ》っている。 「当ててけ。当ててけ!」  今西の横で、また、球団職員が怒鳴った。  第二球も、内角へ、快速球が飛び込んできた。  今度は、辛うじて、バットにかすったが、ボールは、弱々しいフライとなって、内野にあがっただけだった。  サードの原が、手をあげた。  テレビを見ていた職員たちの間から、思わず、溜息《ためいき》が洩《も》れた。 「これから、これから」  と、その中の一人が、励ますように、いった。  しかし、今西は、これで、第一戦は負けたという気がした。  六回まで、山元が、打たれながらも、ゼロにおさえてきた。だが、池田や福井には、おさえきれまいと、今西は、思ったからである。彼等には、実績がなかったし、天下分け目の四連戦の、しかも大事な第一戦である。その重圧に耐えられまい。  ブラウン管に、口をへの字に曲げた片岡の顔が映っている。  左手で投げる恰好《かつこう》をしながら、主審に、ピッチャーの交代を告げている。  いつもなら、そのゼスチュアーは、江島を指しているのだが——。  軟投の左腕、福井の登板である。  右打者の外角にゆるく落ちていくシュートが武器だった。それを引っかけてくれれば、福井のペースになる。  だが、マウンドにあがった福井は、明らかに、かたくなっていた。  篠塚に対する第一球は、とてつもなく高いボールになった。  しかも、時速一三〇キロと表示が出た。 (まずいな)  と、今西は、舌打ちした。  福井の球は、ゆるいから、かえって相手が、待ち切れずに引っかけてくれるのだ。それなのに、一三〇キロでは、かえって、打ち頃になってしまうではないか。  案の定、力んで投げた第二球を、篠塚が、軽く流し打った。きれいなレフト前ヒットになった。  巨人の藤田監督は、次の中畑に、手堅く、バントを命じた。  一点とれば、江川で勝てると読んだのだろう。 (これは、かえって、助かったぞ)  と、今西は、見ていて、ニヤッとした。  バントをやらせればいいのだ。中畑は、バントが上手くないから、篠塚をセカンドで封殺できる確率が高い。当りが強ければ、ゲッツーも可能だ。  ところが、福井は、バントを警戒して、ボールを連発した。たちまち、スリー・ボールになってしまった。  今西は、見ていられなくなって、テレビの傍を離れると、奥の電話で、クラブ「シャルム」にかけた。  聞き覚えのあるマネージャーが出た。 「ママさんは、まだ見えてませんが」  と、マネージャーは、事務的な声でいった。 「今西だが、ママさんから、何か伝言はなかったかね?」 「ございません」 「じゃあ、江島選手からの伝言は?」 「それも、ございません」  取りつく島がないというのは、こんなことをいうのだろうと思いながら、今西は、電話を切ると、今度は、敏江のマンションのダイヤルを回した。  ベルが鳴っているのだが、相変らず、誰も電話口に出ない。  ひょっとしてと思い、神戸の江島の自宅にも、電話を入れてみたが、江島の妻の可奈子は 「まだ、何の連絡もないので、心配しているんですけど」  と、心細げにいった。 (いったい、どうなってるんだ?)  今西は、腹を立てながら、テレビのところへ戻った。  やはり、福井は、中畑を歩かせてしまって、ピンチが大きくなっていた。  福井は、次の原に対しても、ボールを二つ続けてしまった。  マウンド上で、ニヤッと笑おうとしているのだが、その笑いが引きつってしまっていた。 「福井のアホッ、代れ!」 「ピッチャー、交代!」 「江島を呼んで来い!」  そうした怒声が、ダッグアウトの中にいる片岡の耳にも聞こえてくる。  片岡は、堅い表情で、ダッグアウトを出ると、ゆっくり、ピッチャーマウンドに歩いて行った。  福井は、むしろ、ほっとした顔で、自分から、すたすたと、マウンドをおりて来た。  片岡は、その福井を、じろりと睨《にら》んだ。 「マウンドをならして行け、それが、尻《しり》ぬぐいをしてくれるピッチャーに対する礼儀だろうが」 「————」  福井は、びっくりした顔で、マウンドに戻ると、自分が荒らしたところを、スパイクでならした。  片岡は、温和な人柄だと思われている。めったに、大声をあげないし、ロマンスグレーのおだやかな顔立ちも、そう思わせるのだろうが、本当に、彼を知る人は、あんな気性の激しい男はいないという。  その激しさが、ひょいと顔をのぞかせた感じだった。  片岡は、福井に代えて、下手投げの小町を送った。  体重が六十二キロしかない痩《や》せた小町は、球威で抑える投手ではない。コントロールで打ち取るタイプである。  いつもなら、交代する投手に、何もいわない片岡だったが、やはり、この第一戦は負けられないという気持のためか、ボールを渡しながら 「低目を丁寧《ていねい》についていけ」  と、小町にいってしまった。  片岡が、しまったと思ったのは、原に対する第一球が、ワンバウンドになるのを見たときだった。  これで、スリー・ボールである。  腕が、縮んでしまっているのだ。福井が、四球を出して交代させられているのを見ているから、そうしまいと思って、腕が縮んでいる。 (まずいな)  と、片岡は、腰を浮かした。満塁にしても構わない。バントの構えの中畑を無意味に歩かせたのと、原に四球を与えるのとでは、意味が違うのだと、捕手の若木に伝えに行こうとした時、小町が、第二球を投げた。  何の変化もしない半速球が、すーっとどまん中に入ってきた。  原のバットが振られた瞬間、片岡は、ボールの行方を追わず、ダッグアウトの中で、くるりと背を向けてしまった。  5—0の完敗だった。  原に、スリーランを打たれた時、第一戦の敗北は決ったので、あとの二点は、つけたしみたいなものであった。  片岡は、江川にヒット三本、三振十二に抑え込まれた打撃陣に対して、一言も、文句をいわなかった。  どんな強打線をもってしても、今日の江川を打ち崩すのは容易ではなかったろうと思うからである。  だからこそ、投手陣に踏んばって貰いたいのだ。  ベテランの山元は、六回まで、よく投げてくれた。三十二歳の山元が、粘りのある投球で、巨人に点を与えなかったのに、二十代の若い福井や小町が、なぜ、ふんばれないのか。そのことに、片岡は腹が立っていた。しかも、自滅しているのだ。  江川が相手の時は、こちらも、巨人に点をやらないようにもっていくしかない。  ゼロを重ねていけば、巨人の方があせってくるに違いなかった。  なぜなら、江川は、エースとして抜群の安定感を持っているが、西本と定岡には、去年ほどの安定感がないからである。リリーフの角も、こちらが、あの横手投げになれてきている。  巨人は、連戦のとき、江川でまず一勝と計算してくる。その江川を、ゼロ行進の泥沼に引きずり込めば、他の投手に安定度がないだけに、巨人に対して、三連勝、四連勝する可能性も出てくるのだ。  片岡は、敗戦を噛《か》みしめるように、甲子園を出ると、自分の車に乗った。  すぐ自宅には帰らず、球団事務所に回ってみた。  今西が、まだ、事務所にいた。 「今日は、残念でしたね。六回に、一点でも、二点でもとれていたら、戦局も変ったろうと思うんですが」  今西が、なぐさめるようにいうと、片岡は、強く、かぶりを振って 「私の采配《さいはい》のミスだよ」 「これで、巨人との差は、二・五差になりましたね」 「だから、あとの三連戦を、全勝しなければならなくなった。二勝一敗では、一・五差で、この連戦が始まる前の状態になってしまうからね。しかし、三連勝するためには、やはり、どうしても江島が必要だよ。まだ、何の連絡も入って来ないのかね?」 「まだです。クラブの方にも、マンションの方にも、新谷敏江は、いません。どこかへ出かけたまま、帰っていないのです」 「やられたかな?」 「百万円を、ただで取られたということですか?」 「ああ」 「かも知れませんが、それにしては、手がこみ過ぎていると思うのです」 「というと?」  片岡は、煙草に火をつけて、今西を見た。 「新谷敏江は、江島君のライターを持っていて、私に返してよこしました。あのライターは間違いなく、江島君のものです」 「だからといって、女が信用できるとは限らんだろう?」 「それはそうですが、江島君について、何か知っている筈だとは思っているのです。現在の居所まで知っているかどうかは、わかりませんが」 「江島が、誘拐されたということは、考えられないかね?」 「そうなら、今頃、球団事務所に、身代金の要求が来ている筈ですよ」  と、今西は、いってから 「とにかく、新谷敏江を探して来ます」 「しかし、クラブにも、自宅マンションにもいないんだろう?」 「ひょっとして、居留守《いるす》をつかっているのかも知れませんから」  と、今西は、いった。  球団事務所を出ると、今西は、もう一度、公衆電話で、敏江のマンションにかけてみたが、いぜんとして、応答はなかった。  仕方なしに、クラブ「シャルム」へ行ってみた。  前に行った時は、時間が早くて、閑散としていたが、今度は、十時を過ぎた時間のせいか、店内は、ほぼ一杯だった。  今西は、奥のカウンターに腰を下し、横に座ったホステスに 「ママさんは?」  と、きいた。 「今夜は、まだ見えないわ。いつも、今頃に来てるんだけど。何になさる?」 「水割りでいい」 「水割りね」と若いホステスは、ボーイにいってから、今西に 「ママのお知り合い?」 「まあね」  今西が、あいまいにいったとき、大きな身体が、彼の隣りに、どすんと腰を下した。  松尾だった。 「探しましたよ」  と、松尾は、汗を拭《ふ》きながらいい 「おれも、水割りを貰うか」  と、遠慮なくいった。 「それで、何かわかったのか?」  今西は、せっかちにきいた。 「まあ、一口飲ませて下さいよ」  と、松尾は、運ばれたグラスを、ぐいと、口に運んでから 「ここのママが、京都の日下探偵事務所に、何を調査させていたかわかりましたよ。向うの探偵社の口を開かせるのに金を使いましたが」 「ちゃんと払うさ。それで何だったんだ?」 「白井泰造という男のことを調べさせていたんですよ。この男のことを説明しますと——。白井泰造。年齢六十五歳。住所は芦屋《あしや》の高級住宅街ですね。アシヤ製薬の社長です。まあ、俗にいえば、薬屋の主人です」 「アシヤ製薬? どこかで聞いたことがあるな。何だったかな」 「この会社は、二部上場会社なんですが、去年の暮に、ガンの特効薬キタノワクチンを発明したということで、一部の週刊誌が取りあげ、株が暴騰した会社ですよ」 「ああ、思い出したよ。あれは、どうなったんだったかね?」 「キタノワクチンは、まだ試作の段階で、市販されてはいないんです。株価の方も、落着きましたが、あの騒ぎで得をしたのは、株の大半を持っている社長の白井ひとりだろうといわれています」 「その白井泰造のことを、新谷敏江は、なぜ、私立探偵に調べさせたんだろう?」 「調査報告書は、どうしても、見せてくれないので、くわしいことはわかりませんが、白井と、彼女とが、どんな関係かはわかりました」 「どんな関係なんだ?」 「彼女がママになっているこのクラブのオーナーが、白井なんです」 「ほう」 「それだけじゃありません。白井は、製薬会社の他にも、いろいろな事業をやっているんですが、その一つが、こうしたクラブの経営でしてね。シライ企画という会社を作って、それがやっているわけです。クラブも、いくつか持っていて、その中には、京都の『かえで』という店も入っています」 「『かえで』といったら、殺された沢木由美って女が働いていた店じゃないか」  思わず、今西の声が、大きくなった。 「その通りなんですよ」  と、松尾は、得意そうにいった。 「どういうことになってるんだ?」  と、今西がきいた。 「今のところは、それだけのことです。白井泰造は、二つのクラブのオーナーで、そのオーナーのことを、新谷敏江が、京都の私立探偵に調べさせていたということしかわからんのです」 「じゃあ、江島が失踪したことと、どんな関係があるのか、わからんわけかね?」 「ぜんぜん、わかりません。関係があるのか、ないのかもです」  松尾は、呑気《のんき》に言った。身体の大きな男だけに、よけい、のんびりと聞こえて、今西は、腹が立った。 「わからんじゃ困るじゃないか。江島の失踪と関係があるのなら、徹底的に調べて貰いたいし、ないのなら、その方の調査は、打ち切りだ」  今西がいうと 「今西さん、いい弁護士を知っていますか?」  松尾は、急に、変なことをきいた。 「弁護士?」 「そうです。いい刑事弁護士がいいんですがね」 「何のことだい? 何か警察の厄介になるようなことをやらかしたのかね?」 「いや、これから、やろうと思っているんですよ」  相変らず、呑気な口調で、松尾がいった。 「おい、おい、脅かさないでくれよ」 「大丈夫ですよ。今西さんには、絶対に迷惑はかけません。ただ、警察に捕ったとき、いい弁護士がいると助かるなと思うだけでしてね」 「何をやろうというんだ?」 「それはいえませんな。今西さんにいえば止められるに決っているから」 「まさか——?」 「安心して下さい。人殺しや、強盗みたいな物騒なことをやろうというんじゃありません。まあ、いってみれば、子供のいたずらみたいなことを、やってみようかなと、思っているだけですよ。子供の遊びです」  と、松尾は、くり返した。  今西には、彼が、何をやろうとしているのか、見当がつかなかった。  松尾は、昔から、ぼうようとしていて何を考えているのか、わからないところがあった。  それだけに、松尾の言葉が、心配になった。 「本当に、大丈夫なんだろうね?」  と、念を押した。 「大丈夫です。どんなことがあっても今西さんには、迷惑をかけませんよ。もちろん、京神ハンターズにもね」 「しかし、君は、ハンターズのOBなんだ。このことは、どこまでも、ついて回るよ。君が、警察に捕るようなことをすれば、元京神ハンターズの選手が、と書かれるんだ」 「わかっています。その点も考えて、行動しますよ」 「そうしてくれ」 「それにしても、京神ハンターズにはどうしても、今年、優勝して貰いたいですねえ」  松尾が、語調を変えていった。 「江島がいてくれれば、優勝のチャンスは、大いにあるんだ」 「江島の奴、途中で、京都の女になんか、会いに行かなければ、こんなことにならなかったのに」  と、松尾は舌打ちした。 「それは、今更、どうしようもないんだ。それより、一刻も早く、江島を見つけ出してほしい」 「わかっています。やりますよ。京神ハンターズのOBとして、球団のためにも、今西さんのためにも」 「おれのことは、どうでもいいよ。ファンは、今年こそと思っている。その期待を裏切りたくないんだ。ファンあっての球団だし、選手だからね」 [#改ページ]   深夜の訪問者  京都の夜は早い。  祇園や、木屋町など、盛り場の一部を除いて、たいていの店は、九時頃になると、全て戸を閉めてしまう。  左京区の鴨川《かもがわ》沿いのあたりも、十二時を過ぎると、ひっそりと、眠りについてしまう。  松尾は、わざと、百メートルほど手前で車をおりてから、日下探偵事務所のある小さなビルまで歩いて行った。  松尾は、初めてマウンドにあがったときのことを思い出していた。とうとう、一軍のピッチャーとしての登板はなかったが、二軍のマウンドでも、どきどきしたものだった。 (落着けよ)  と、松尾は、その時と同じように、自分にいい聞かせた。 (あの時は、必死になって、おれを打とうというバッターが、待ち受けていたものだった。だが、今夜は、そんなものはいないのだ。それだけ、気楽ではないか)  川沿いに歩きながら、煙草に火をつけた。  夜に入っても、まだ、暑い。川沿いなのに、風がなかった。  三階建のビルに着いた。  松尾は、煙草を消して「日下探偵事務所」と書かれた看板を見上げた。このビルの三階である。  松尾は、ビルの裏に回った。人の気配がないところをみると、宿直の人間は、おいていないらしい。  もちろん、裏口にも、カギがかかっている。  松尾は、周囲を見回してから、持参したスパナを取り出し、その先に、ハンカチを巻きつけてから、ドアのガラスを叩き割った。  深夜の町に、大きな音がひびいた。  松尾は、一瞬、息を殺して、周囲の気配をうかがった。  しかし、人が駆けつけてくる様子はなかった。人の声も、犬の鳴き声も聞こえない。  松尾は、割れたところから片手を差し込んで、ドアを開けた。  ビルの中は、真っ暗である。その闇《やみ》の中に、松尾は、身体を滑り込ませた。  ドアを閉めてから、暗闇に、眼がなれるのを待った。  少しずつ廊下の様子が、わかってきた。  階段も見える。松尾は、階段を、三階に向って、あがって行った。  三階にあがったところに、日下探偵事務所があった。 (おれの事務所より、立派だな)  そんなことを考えながら、松尾は、手袋をはめた手で、ドアのノブをつかんだ。 (あれ?)  という顔になったのは、ノブを回したときドアが、細目に開いたからである。 (不用心だな)  と、思いながら、中に入ると、松尾は、小型の懐中電灯のスイッチを入れた。急に、光りが、闇の中に走った。  欲しいのは、ただ一つ、白井泰造に関する調査報告書である。  今日、夕方訪ねたとき、日下は、十万円もふんだくりながら、白井泰造の名前しか教えてくれなかった。  それ以上のことは、職務上の守秘義務があるから教えられないと、いったのである。 (何が守秘義務だ)  と、松尾は思う。どうせ、金額を吊《つ》りあげるための駆け引きだろうとは思ったが、あの調子では、こちらの足元を見て、百万、二百万と、あげてくるのは、眼に見えていた。  江島の失踪に関係があるとわかっていれば、今西に頼んで、百万でも、二百万でも出して貰うが、何もわからない段階では、それはいい出せない。  この部屋の様子は、夕方に来たときに、よく見ている。  部屋の奥に、キャビネットが並んでいた筈である。調査報告書の写しは、そこに入っているに違いない。  松尾は、キャビネットのところに歩いて行き、懐中電灯の明りを向けた。  キャビネットには、五段の引出しがついていて、アイウエオの表示がしてある。「サ—ソ」と書かれた引出しを開けてみた。  松尾の事務所と同じように、報告書の写しが、アイウエオ順に、整理して入っていた。 「シ」の部分には、三つの報告書が入っていた。  だが、なぜか、そこには、白井泰造に関する報告書は、入っていなかった。  分類を間違えたかも知れないと思い、全部の引出しを調べてみた。  しかし、白井泰造のものは、どうしても、見つからなかった。 (畜生!)  と、舌打ちした。  今夜、松尾が盗みに来るのを予期して、どこかへ隠してしまったわけではないだろうが。 (おれが、やたらに見たがったので、日下は、白井泰造に関する調査が、金になると考えて、どこかへ隠したのか?)  隠したとすれば、机の中かと、松尾は、窓のところに、置かれている大きな机に眼をやった。  なかなか、立派な机である。松尾は、その引出しを調べてみようと思い、机のうしろへ回ってみた。  何かが、足に触れた。危うく、それに足をとられて、転びそうになり、松尾は、懐中電灯の明りを、自分の足元に向けた。  その顔が、一瞬、凍りついてしまった。  男が、足元に倒れていたのだ。  背広を着た、小柄な男である。 (日下だ)  と、思った。夕方来たとき、会った男だった。靴先で、押してみた。が、ぴくりともしない。 (死んでいる)  と、思った。  屈《かが》み込んで、脈を診《み》る気持の余裕もなかった。いや、そんなことをしなくても、直感で、死んでいるとわかった。まさか、こんなところで、眠っているわけでもないだろう。 (どうしようか?)  松尾は、迷った。  こんなところを、警察にでも見つかったら、間違いなく、犯人扱いにされてしまうだろう。  もう一度、懐中電灯を向けてみた。少しは落着いてみることが出来た。  髪の毛のうすい頭に、血がこびりついているのが見えた。やはり、病死ではなく、何者かに、殺されたのだ。 (とにかく、落着くんだ)  と、松尾は、自分にいい聞かせた。  すぐ逃げ出してもいいが、それでは、何のために、忍び込んだのか、わからなくなってしまう。  こんな時にも、京神ハンターズのOBだという意識が働いた。それは、松尾にとって、もっともなつかしい思い出だったし、誇りでもあった。たとえ、一軍には、あがらずに終っていてもである。 (白井泰造の報告書を見つけるんだ!)  と、松尾は、自分に命令した。  もし、それが、江島の失踪に関係していれば、ハンターズの十八年ぶりの優勝に、OBの一人として、貢献できるかも知れないのである。  床に転がっている死体を見ないようにして、松尾は、机の引出しを、上から順番に調べていった。  いっこうに、調査報告書は、出て来ない。 (日下を殺した奴が、持ち去ったのではあるまいか?)  と、松尾は、思った。  そう考えれば、辻褄《つじつま》は合ってくる。日下が、渡すのを拒んだか、それとも、値段を吊りあげたかして、怒った犯人が、彼を殴り殺したのではないだろうか?  と、すると、問題の報告書は、もう、この事務所には、ないことになる。  机の引出しを、全《すべ》て調べたが、見つからなかった。  時間がたっていく。  ふいに、近くの通りを、車が通ったらしく、そのライトが、窓を明るくした。ぎょっとして、思わず身体を低くした。自然に、死体が、顔の傍にきた。日下は、無念の形相すさまじく、死んでいる。その顔も、眼に入った。 (おれを恨まないでくれよ。殺したのは、おれじゃないんだからな)  松尾は、そう呟《つぶや》いて立ち上ったが、その時、日下の右手が、何か、白いものを、かたく握りしめているのに気がついた。  名刺の切れ端だった。  日下は、すでに、死後硬直をおこしていた。  名刺の切れ端を、取ろうと思っても、硬く閉じた右手の指先が、なかなか開かない。  松尾は、腕力にまかせて、ポキポキと、日下の指を開いてゆき、破片を、つまみあげた。  名刺が、斜めにちぎれている。相手は、これを奪って逃げようとしたが、日下は、必死でつかんだのだろう。 〈白井〉  という字だけが読めた。「井」の字も、半分近くが、ちぎれてしまっている。 (白井泰造か)  思わず、松尾は、ニヤッとした。  白井か、或いは、彼の使いが、ここにやって来て、例の調査報告書をよこせといったのではあるまいか。  多分、報告書には、白井にとって、都合の悪いことが、書かれていたのだ。  日下は、拒否したか或いは、相手の足元を見て、何百万という金額を吹っかけたのかも知れない。恐らく、後者だろう。  怒った相手は、日下を殴り倒して、報告書を奪った。その時、日下は、犯人の出した名刺をしっかりつかんだのだろう。あわてた犯人は、名刺を奪い取ろうとしたが、ちぎれてしまったのでは、あるまいか。  松尾は、そのちぎれた名刺を、ポケットに入れると、もう一度、暗い室内を見回してから、事務所を出た。  懐中電灯を消し、階段をおりた。  ビルの外に出る。  車のところまで、わざと、ゆっくりと歩いて行き、乗り込んでから、急に、どっと、冷汗が出てきた。  しばらく、ハンドルに手を置いたまま、松尾は、じっとしていた。  五、六分もそうしていたろうか。やっと、気分が落着いてから、松尾は、スターターをかけた。  大阪に向けて走らせ、市内に入ったところで、車を止めた。  公衆電話ボックスを見つけて、中に入り、一一〇番を回した。  相手が出る。 「京都の左京区にある日下探偵事務所で、人が殺されている。すぐに行ってくれ」  と、松尾は、いった。 「京都?」  相手は、びっくりしたようにいった。 「そうだ。京都の左京区だ。鴨川の近くのビルの三階だ。日下探偵事務所だ」  それだけいって、松尾は、電話ボックスを出た。  一一〇番は、こちらが切っても、つながったままになっている。だから、まごまごしていると、パトカーが駆けつけてくるからだ。  松尾は、自宅のマンションに帰ると、ベッドにもぐり込んだ。  やはり、なかなか寝つかれなかった。が、明け方近くになって、やっと、眠ることが出来た。  死体が、ごろごろ転がっている夢を見た。  細い道を、死体がふさいでいる。それを、またいで進んでいくのだが、いくら進んでも、死体ばかりだった。  疲れ切って、音《ね》をあげたとき、突然、電話のベルが鳴った。  夢か現実かわからず、松尾は、眼を開けた。電話のベルは、まだ鳴っている。それで、電話は、夢ではないと気がついた。  松尾は、のそのそと起き上り、手を伸して、受話器を取った。 「もしもし」 「私だ」  という声がした。 「え? どなた?」 「もう十時だぞ。眼をさませ!」  相手が、怒鳴った。 「ああ、今西さんですか」 「テレビのニュースを見たな」 「まだ、見ていません。何かありましたか?」 「まさか、君が殺《や》ったんじゃあるまいね?」 「何のことですか?」 「例の京都の探偵が、昨日、殺されたんだ。ひょっとすると、君が犯人じゃないかと思って、心配してるんだ」 「僕じゃありませんよ。いくら何でも、人殺しは、しませんよ」 「本当だろうね?」 「信じて下さい」 「じゃあ、君、無関係なんだな?」  と、今西は、念を押した。  松尾は、ちょっと迷ってから 「全く関係がないとは、いえませんが——」 「何だって?」  今西が、怒鳴った。  松尾は、思わず、受話器を、耳から離して 「犯人じゃないから、その点は安心して下さい。犯人なら、とっくに逃げていますよ。くわしいことは、会って話します」 「これから、どうするつもりだ?」 「ゆっくり、スポーツ新聞を読んでから、芦屋へ行って来ます」 「新聞は見ない方がいい。トップは、京神ハンターズ惨敗の記事だよ。ハンターズに、果して、優勝しようという気概があるのかと、手ひどく叩かれている」 「じゃあ、新聞を見ないで、すぐ、芦屋へ行って来ましょう」 「白井泰造という男に会いに行くのかね?」 「そうしようと思っています」 「その男に会えば、江島の行方がわかるのかね?」 「わかりませんが、何かあると思っています」  電話を切ると、松尾は、外出の支度《したく》をした。  車を運転して、芦屋に向った。朝食は、信号で車がとまるたびに、菓子パンを食べることですませた。  プロ球界に入ったとき、松尾は、何千万円という高級取りになったら、芦屋の高級住宅街に、大きな邸宅を買いたいと思ったことがある。  神戸に生まれ育った松尾にとって、芦屋に住むことは、子供の頃からの夢だった。  その夢の邸宅の前で、松尾は、車をとめた。  高い塀が、千坪近い敷地を、ぐるりと取り囲んでいる。緑が、大きな二階建の建物を半分ほど隠していた。  車から降りて、松尾は、しばらく、眼の前の邸を、眺めた。自然に、溜息が出てくる。  二十代の時には、こんな邸に住めるかも知れないという夢を持っていた。特に、二十代の前半は、どんなことでも可能な気がしたものだった。  三十歳を越した今は、自分の力の限界というものが、わかってきた。  野球での成功は、夢に終ってしまったし、他の仕事でも、上手くいかなかった。私立探偵になったが、これで、蔵が立つとは思っていない。  能力の限界がわかるということは、寂しい。多分、いや、十中八九、一生かかっても、今、眼の前にある邸には住めないだろう。  それだけに、なおさら、万一の棚ボタを願う気持も強くなってきていた。 (もし、この邸の主が、日下という私立探偵を殺したのだとしたら?)  ふと、そんなことを考えた。  松尾は、今西に恩義を感じているし、彼が好きだった。  今度の仕事を引き受けたのも、今西のために、失踪した江島を探し出してやりたいという気持からだった。  その気持は、今も変りはない。  だが、日下の死体が転がっているのを見てから、少しばかり、事情が変ってきたのを感じた。 (白井泰造を脅かせば、まとまった金が手に入るかも知れない)  ふと、そんな思いが、松尾の頭をかすめた。  松尾は、門柱についているインターホーンのベルを鳴らして、来意を告げた。  五、六分待たされてから、門が開き、若い男が、迎えに出てきた。二十五、六歳で、がっちりした身体つきの男だった。三《み》つ揃《ぞろ》いの背広を着た、一見すると、エリート社員のように見える。  白井泰造の個人秘書なのかも知れない。 「どうぞ、お入り下さい」  と、男は丁重にいった。  居間に通された。  北欧風の家具が、ゆったりと、並んでいる。  壁にかかっているのは、本物のピカソのデッサンだった。白井は、ピカソが好きなのか、七枚もデッサンが、並べて、かけてある。  何となく、その優れたデッサンを見ていると、白井泰造という男に対する先入観が、変更をせまられてくるような気がした。  人間の先入観というのは、おかしなものである。  野球選手というと、たいていの人は、本なんかは、碌《ろく》に読まず、暇なときは、酒を飲んでいるのだろうと考えている。そうでなければ、ゴルフを楽しんでいると。  しかし、読書好きの選手だっているし、趣味は、盆栽だという選手だっているのである。  同じように、松尾は、金持というと、でっぷりと太っていて、傲慢《ごうまん》で、二号を囲って、無教養でという先入観を持っていた。  白井泰造という男に対しても、同じである。京都と大阪の高級クラブのオーナーと聞いて、一層、その気持は、強くなった。  だが、その先入観は、少し違っていたらしい。居間には、何百万円もするような骨董品《こつとうひん》が、これ見よがしに並べてあるのではないかと思っていたのだが、この居間にあるのは、ピカソのデッサンだけである。他に、何も飾ってないシンプルな感じの部屋だった。 「ふーん」  と、松尾は、鼻を鳴らした。  だが、油断のならない相手だという気も強くなった。  ドアが開いて、軽い足取りで、痩身《そうしん》の老人が入ってきた。 「私が、白井だ」  と、老人はやや、甲高く聞こえる声でいい、あわてて立ち上ろうとする松尾に向って 「まあ、楽にしたまえ」  と、いった。  若く、美しい娘が、コーヒーを運んできた。老人の娘とは思えなかった。彼女も、さっきの青年と同じように、個人秘書なのだろうか。 「野球は、お好きですか?」  と、松尾は、そんなことから切り出した。 「嫌いではないね」  老人は、落着いた声でいった。 「私は、昔、京神ハンターズの選手でした」 「なるほど、それで、立派な体格をしているのかね」  白井は、微笑した。 「体力には、自信があります」 「それは、いいことだ」  相変らず、白井は、落着いている。松尾の方が、いらだってきた。 「本題に入りましょう」 「それがいい。私のように年齢《とし》をとってくると、時間は、貴重だからね」 「失礼ですが、白井さんは、京都の『かえで』と、大阪の『シャルム』という二つの高級クラブを、経営されていますね?」  と、松尾は、きいた。  ひょっとすると、否定するかも知れないと思ったが、白井は、笑って 「経営しているというのは、正しくはないね。頼まれて、金を出しただけのことだ」 「しかし、シライ企画というのは、関連事業の一つじゃないんですか?」 「あれは、息子《むすこ》がやっている会社だ。私には関係がない。そんなことを言いに来たわけではないだろう?」 「京都に、日下探偵事務所というのがあります」 「君も、私立探偵だといったね?」 「そうです」 「その日下というのも、君の仲間なのかね?」 「いや、違います。私は、大阪ですから」 「それで、何がどうしたのかね?」 「日下というその探偵が殺されました」 「君が殺したのかね?」 「とんでもない。さっき、申しあげたように、その犯人と、あなたが関係があると思われるのです」 「どう関係があるのかね? 私は、日下などという人物は、知らないが」 「私は、ある用件があって、日下に会いに行きました。ところが、彼は、殺されていました。驚きましたが、死んだ日下は、右手に、しっかりと、一枚の名刺の切れ端をつかんでいたのです。警察が、それを見れば、間違いなく、その名刺の主が、犯人と考えるでしょうね。これは、間違いなく、一種のダイイング・メッセージですから」 「それで?」 「私は、好奇心が強いものですから、その名刺の切れ端を、死体から取りあげてみました」 「面白《おもしろ》いね」 「そこには、驚いたことに『白井』と書かれていたのですよ」  松尾がいった瞬間、老人の顔色が変ったように見えた。  しかし、すぐ、冷静な表情に戻って 「白井としかわからんのだろう?」 「そうです。そこで、ちぎれていましたから、住所もわかりません」 「白井というのは、意外に多い姓名でね。白井だけでは、どこの誰《だれ》かもわからんじゃないか」 「しかし、私は、あなたの名刺だと思っています」 「理由は?」 「ある女性が、この日下という探偵に、あなたのことを調べてくれるように、頼んでいたからですよ」 「女がね。私の知っている女かね?」  白井は、さぐるように、眼を細めて、松尾を見た。 「かも知れませんね」  と、松尾は、思わせぶりないい方をした。  白井は、煙草《たばこ》を取り出して火をつけた。 「先を話したまえ」 「その調査報告書は、すでに、依頼主である問題の女性に渡ってしまっていますが、探偵社には、その写しが、とってある筈《はず》なのです。ところが、その写しが、無くなっていました。となると、誰が考えても、日下を殺した犯人が、その写しを持ち去ったに違いありません」 「うむ」 「そして、その書類が、どうしても欲しい人間ということになります。依頼主の女性は、本物の報告書を持っているわけですから、コピーを欲しがるとは思えません。となると、残るのは——」 「調べられた私ということになるのかね?」 「警察は、そう考えると思いますよ。まして、死体が『白井』と印刷された名刺の切れ端をつかんでいるとしたら、なおさらでしょう」 「それで、私に、何をしろというのかね?」 「私は、その名刺の切れ端を持っています。それに、日下探偵事務所から、あなたに関する調査報告書の写しが盗み出されたのを知っているのも、今のところ、私一人でしょう。ですから、私が、沈黙している限り、警察は、あなたをマークすることは、絶対にないと思いますね」 「いくらだね?」 「え?」 「君が持っている名刺の切れ端だよ。私に値段をつけさせたいんじゃないのかね?」 「いくらで買って貰《もら》えますか?」 「いいかね、一ついっておくが、その名刺は、私のものではないし、私は、日下とかいう男には、何の関係もない。ただ、あれこれ、勘ぐられるのが面倒だから、買ってもいいと思うだけのことだよ」 「それは、よくわかっています」  松尾は、逆らわずに、いった。 「では、値をつけてみたまえ」  と、白井が、いった。  松尾は、迷った。  大金をつかむチャンスが、突然、舞い込んで来たのである。  このチャンスを逃がしたくないと思う一方、ここで、金を貰ってしまったら、江島を見つけ出すことが難しくなるのではないか。そうなると、今西に申しわけないと思った。 (両方手に入れられれば——)  と、虫のいいことを思った。 「早くいいたまえ」  白井が、促した。  松尾は、小さく咳払《せきばら》いし 「一千万円で、どうです?」  一千万円という大金を、白井が支払うとは思わなかった。それなのに、一千万円と吹きかけたのは、それによって、相手の反応を見たかったからである。  白井が、一笑に付したら、彼は、犯人ではないのだろうし、消えた報告書にはさほど重要なことは書かれていなかったということになる。  逆に、少しでも、支払うポーズを見せたら、犯人は多分、この老人なのだ。直接、手を下していなくても、命令したのは、白井だろう。それに、報告書には何か、重大なことが、書かれていたのだ。  白井は、黙って、しばらく考えていたが 「おい、鈴木!」  と、大声で、呼んだ。  ドアが開いて、さっきの青年が入ってきた。  白井は、青年に、小声で何かいってから、松尾に 「名刺の切れ端は、そこに持っているんだろうね?」 「持っています」 「それならいい」  白井が、青年に持って来させたのは、小切手帳だった。  白井は、軽く、ペンを走らせてから 「これでいいかね?」  と、いった。  見せられた小切手には、間違いなく、一千万円の数字が、書き込まれていた。  松尾の方が、呆然《ぼうぜん》として、手渡された小切手に見とれてしまった。 「では、名刺を貰おうか」  白井が、冷静にいった。  松尾は、ポケットから、封筒を取り出して、相手に渡した。 「その中に入っています」  松尾がいうと、白井は、封筒の中身を出し、その名刺の切れ端を、確認してから、自分のポケットにしまった。 「これで、取引きは、終ったな」 「江島がどこにいるか、ご存知ですか?」  松尾は、ふいに、きいてみた。  白井は、立ち上りかけていたが、そのポーズのまま 「江島?」 「京神ハンターズのピッチャーです」 「ああ、名前だけは、知っているよ」 「では、沢木由美という女性は、ご存知ですか?」 「知らんな」 「それは、おかしいですね。あなたがスポンサーの『かえで』のホステスで、殺されたんです。新聞に、大きく出ていた筈ですがね」 「私には、関係がない」 「もう一つ、おききしたいんですが——」 「話は、これで終りだ」  白井は、そっけなくいうと、さっさと、部屋を出て行ってしまった。 [#改ページ]   脅 迫  今西は、球団事務所で、朝のテレビニュースを見ていた。  京都で、私立探偵の日下が殺されたという報道があった。鴨川沿いの事務所で、死体で発見されたが、警察は、盗みに入った犯人が、日下に発見され、逆に居直って、殺したのではないかと見ているらしい。  ——男の声で、日下さんが殺されているという一一〇番があり、警察は、その人を探しています  と、アナウンサーがいった。  今西は、その通報者が、松尾であることを知っているし、その事務所から、白井泰造の調査報告書の写しが消えていることも知っている。  松尾が知らせてきたからだ。  だが、江島の失踪《しつそう》と、日下という探偵の死が、果して、関係があるのかどうかは、今西にも、わかっていなかった。もし、関係がないのなら、日下という私立探偵も、白井泰造という男も、今西には、何の関心もない。  新谷敏江からは、いぜんとして、連絡がなかった。  江島からもである。  三十分おきぐらいに、敏江のマンションに電話を入れてみるのだが、応答がなかった。  江島に続いて、敏江まで、姿を消してしまったのだろうか?  午前十時近くなって、事務所の奥で電話が鳴った。  女性事務員が受話器を取って「もし、もし」と、やっていたが「今西さん」と、呼んだ。 「責任者に、出て欲しいんですって」 「誰かいないのかい?」 「皆さん、新聞がうるさいんで、逃げてしまっているんです」 「江島は消えるし、昨夜は、大事な巨人戦に惨敗するからね」  と、今西は、苦笑いしながら、受話器を受け取った。 「もし、もし、今西といいますが」 「球団の責任者か?」  詰問するように、男の声がいった。 「そう考えて下さって、結構ですよ。ご用は何んですか?」  今西は、多分、昨夜のゲームのことで、ファンの一人が、電話して来たのだろうと思った。  ハンターズのファンの中には、熱狂的な者もいて、昨夜のような負け方をすると、さっそく、叱責《しつせき》の電話をしてくるのだ。  しかし、違った。 「江島功のことだが」  と、いったからである。 「江島のことというと?」 「彼を預っている。一億円払えば、江島を返してやる」 (誘拐)  という言葉が、とっさに、今西の頭に閃《ひら》めいた。  だが、今西は、素早く頭を働かせた。江島の失踪は、新聞が大きく扱っているから、球団をゆすろうと思えば、誰だって出来る筈である。 「何のことかわからないね」  今西は、突き放すようにいった。 「江島が、どうなってもいいのかね? 江島がいなかったら、京神ハンターズは絶対に、優勝ができないんじゃないかね?」  男は、粘っこくいった。 「それはそうだが、江島の行方を知っているから、金を出せという電話は、いくつもかかって来るんだ。いきなり一億円などといわれても、信じられないね」 「おれの場合は、そんなガセネタじゃない。本当に、江島を預っている。京神ハンターズが、優勝しなくてもいいのなら、信じなくてもいい。彼の家族に払って貰うことにする」 「ちょっと待ってくれ。本当に、江島の行方を知っているのか?」 「預っているといった筈だ」 「それだけでは、信用できないね。何か、証拠が示されれば、私が球団に話して、いくらでも、身代金を払うようにする。江島を預っているというのなら、その証拠を示してくれ」 「今西といったな?」 「ハンターズのマネージャーの今西だ」 「証拠は、すでに、そちらに送りつけてある」 「どこに?」 「球団事務所に、小包を送っておいた。その中身を見れば、おれが、嘘《うそ》をついていないことがわかる筈だ」 「ちょっと待ってくれ。今、調べて来る」 「十時半に、また電話する。よく考えておくんだ。警察には、電話するな。優勝したかったらな」  男は、それだけいうと、一方的に、電話を切ってしまった。  今西は、あわてて、事務所の受付に行ってみた。  受付には、制服姿の守衛がいる。勤続二十年の守衛である。 「小包が届いていないかね?」  と、今西がきくと、守衛は「これですか?」と、床に置いてあったダンボールを取りあげた。 「今朝、出勤したら、外に置いてあったんです。ファンの方が、置いて行ったんだろうと思って、中に入れたんですが」 「見せてくれ」  今西は、そのダンボールを、奥へ持って行き、鋏《はさみ》を使って、ガムテープを切り、ふたを開けた。  中には、ハンターズの選手が、旅行の時に着るブレザーが入っていた。  濃紺のブレザーに、豹《ひよう》のマークが入っていた。まぎれもなく、ハンターズの選手が、遠征の時に着る揃《そろ》いのブレザーである。  これに、ネクタイを合せて、一人分十万円で球団が作ったものだった。  しかも、ブレザーの裏側には「江島」と名前が入っていた。  間違いなく、江島のブレザーである。このブレザーを、今西が最後に見たのは、九月十三日の午後、彼と二人で、新幹線で帰るときだった。  江島は、京都で降りてしまい、それ以来、江島も、ブレザーも、姿を消してしまっていたのである。  今西は、ブレザーを手に取って、仔細《しさい》に調べてみた。もし、血痕《けつこん》でもあれば、江島が怪我《けが》をしていることになるが、そうしたものは見つからなかった。  だが、このブレザーは、さっきの電話が、冗談や、遊びでないことを示していた。相手は、本気だし、江島を押えていると考えざるを得なかった。 (一億円か)  それは、もう、今西の一存で、何とか出来る金額ではなかった。監督の片岡にも、手に余るだろう。  相手は、京神ハンターズという球団を脅迫しているのだ。  今西は、すぐ、片岡の家に電話をかけた。  彼は、幸い、家にいてくれた。今西の言葉をきくと 「やっぱり、江島の失踪は、誘拐だったのか」  と、電話の向うで、むしろ、これで、はっきりしてくれてよかったという口ぶりを見せた。  今西は、改めて、片岡という男を見直した。片岡は、新監督として、十八年ぶりに、京神ハンターズを、優勝争いにまで持ってきた手腕は認められても、これまでの監督としての実績のなさから、いぜんとして、その才腕に対しての評価は低いものだった。  小柄で、見栄《みば》えのしない外観も、損をしているのかも知れない。一七〇センチあるかないかの身長のうえ、多分、六十キロそこそこと思われる体重である。  半白の頭髪は、一般の社会では、ロマンスグレーと呼ばれるかも知れないが、野球の世界では、弱々しく見える。  だが、今西が、一億円の身代金を伝えても、あたふたした気配を見せなかった。 「これで、かえって、対応しやすくなったじゃないか」  とまたいった。  確かに、そうなのだ。江島がいったいどうしたのかと、迷うことは、これでなくなったのだ。 「すぐ、青木社長に伝えて、私も、そちらへ行くよ」  と、片岡は、いった。  球団事務所には、青木社長と、片岡があいついで駆けつけてきた。  事務所の一番奥がオーナー室だが、ここに、オーナーが来ることは、めったにない。  次に、社長室と、会議室がある。  会議室では、スカウト会議、記者会見、年末の契約更改などが行われる。  社長の青木は、事務所の入口にいるガードマンに、 「しばらくは、誰も入れるな」  と、命令してから、片岡と、今西を、会議室に呼び入れた。 「江島に関して、一億円の身代金が要求されて来たのは、本当なんだろうね?」  青木は、今西に向って、念を押した。  今西は、テーブルの上に、江島のブレザーをのせた。 「本当です。警察に連絡して、来て貰いますか?」 「相手は、警察には、連絡するなといったんだろう?」 「その通りです。しかし、誘拐の場合そういうのが、犯人の常套手段《じようとうしゆだん》ですが」 「まあ、警察に連絡するのは、少し待ちたまえ。犯人は、また連絡してくるといったんだな?」 「はい。それまでに、一億円を用意しておけといっていました」 「片岡君」  と、青木社長は、眼鏡《めがね》をかけた顔を、監督に向けた。 「はい」 「江島功には、一億円の価値があるかね?」  そのいい方は、片岡が、一瞬、ぎょッとしたほど、冷静だった。 「私はね、片岡君。銀行の人間だった。数字ばかり相手にしてきた男だ。だから人間の価値を、金額で測るくせがついている。それが、私には、一番わかりやすいからだ。私を、冷酷な人間だと思わんでくれよ。私は、球団経営を、オーナーに委されたとき、私情をはさまず、その代り、冷静に、ソロバンをはじいて行こうと決心したんだよ。全《すべ》て、それで通して来た。契約更改でも、その信念を曲げたことはない。だから、江島に一億円の価値があるなら、電話して来た男のいう通りに、払ってやろうじゃないか。もし一億円の価値がないのなら、支払わん。どうだね? 江島は、一億円の価値があるかね」 「あります」  と、片岡がいった。 「それは、冷静に考えてだろうね? 人の命は、地球より重いからなどという感傷では困るよ。私はね、人の命だって、重い、軽いがあると考えている人間だからね」 「もし、江島がいなければ、今度の巨人との四連戦は、間違いなく、負け越すでしょう。優勝は、多分不可能です。優勝戦線から脱落すれば、間違いなく、観客は減ります。だから、一億円の価値はあります」  片岡は、なおも、言葉を続けた。 「うちが、優勝戦線から脱落しても、伝統の巨人戦は、甲子園は一杯になるかも知れません。問題は、他とのゲームです。優勝の可能性がゼロになれば、ヤクルト戦や、大洋戦は、恐らく、ガラガラでしょう。しかし、最後まで、優勝を争っていれば、こうしたカードでも、三万以上の観客は集ります」 「江島がいれば、それが可能なのかね?」 「可能です」 「巨人戦以外で、甲子園が満員になれば、観客動員三百万も、あながち夢じゃないな」 「そうです」 「よし、一億円を用意しよう。犯人から電話が入ったら、すぐ用意するといっておきたまえ。しかし、必ず、江島との交換だぞ」  青木は、それだけいうと、あたふたと、会議室を出て行った。  片岡が、ふうっと、吐息をついた。 「驚いた人だ」 「しかし、変にヒューマニズムを口にされるより、すっきりしていて、いいじゃありませんか」  と、今西は、笑った。 「それもそうだな」 「しかし、一億円の身代金は支払っても、江島が返されなかったら、返されても、京神ハンターズが、優勝戦線に残れなかったら、監督も私も、即刻、馘《くび》かも知れませんよ」 「そうかも知れないな」  と、片岡も、苦笑した。 「しかし、どうもわかりませんね」 「何がだね? 社長の考え方がかい?」 「いや、社長の考えは、割り切れていて、よくわかりますが、今度の事件です。身代金目当ての誘拐なら、なぜ、最初から、身代金を要求して来なかったんでしょうか? クラブのママが、江島の居所を知っているようなことを匂わせたりしていましたからね。それが、突然、身代金を要求してきた。どうも、よくわかりません」 「私としては、江島が、帰って来て、投げてくれれば、それでいいんだ」  片岡は、割り切った口調でいった。  今西は、会議室のロッカーから、会議のときに使うテープレコーダーを取り出した。  アダプターを使って、それを、電話器に接続した。  社長の青木は、まだ、警察には連絡するなといった。しかし、いつまでも、通報せずにいるわけにはいかないだろう。その時のために、犯人との会話を、録音しておこうと思ったのである。  セットし終って、今西が一服したとき、それを待っていたかのように、電話が鳴った。  今西は、テープレコーダーのスイッチを入れてから、受話器を取った。  聞き覚えのある男の声が、耳に入ってきた。 「ブレザーは見たかね?」 「見たよ」  と、今西は、いった。 「では、一億円払う気になったろう?」 「今、社長が、一億円を用意するために、走り回っているところだ。しかし、一億円払えば、確実に、江島君が返されるという保証があるのかね? 社長は、その保証なしには、一円だって、支払わんといっている」  今西がいうと、なぜか、男は、電話の向うで、クスッと笑った。 「そいつは、いかにも、あの社長らしいな」 「何だって」 「いや、何でもない。金は、どのくらいで用意できるんだ?」 「一時間は必要だ」 「よし、また、一時間したら連絡する」 「もし、もし」  今西は、あわてて、呼びかけたが、相手はさっさと、電話を切ってしまった。  今西は、受話器を置いて片岡を見た。 「聞こえましたか?」 「ああ、聞いたよ。誰かの声に似ていないかと思ったが、初めて聞く声だな」 「年齢は、三十歳から四十歳といったところだと思います。そう若い男じゃありません」 「私もそう思う」  と、片岡は、いってから、ちらりと、腕時計に眼をやった。  間もなく、十一時になる。 「四時半には、球場入りですね」と、今西がいった。 「江島君のことは、私に委せて下さい」 「大丈夫かね?」 「大丈夫です。それより、巨人とのゲームに、監督は、全力をつくして下さい。江島がいなくて、大変でしょうが」 「頼むよ。それから、江島は、名前だけでもメンバーに入れておく。そのつもりで、犯人と交渉してくれ」 「わかりました。四時半までに返すように交渉します」  と、今西はいった。  片岡が、コーチたちとの作戦会議に出るために帰って行ったあとで、田島広報課長が、姿を見せた。  今西が、身代金の話をすると、田島は、蒼《あお》い顔になって 「それは、大変だ。どうしたらいいのですか?」 「まず、落着いて行動することです。一番怖いのは、マスコミが騒ぎ出して、それが、犯人を刺激することです」 「もう、江島のことで、マスコミは騒いでいますよ。いつも、彼らの質問は同じです。江島は、どこにいるんだ? ホステス殺しの犯人なのか? 江島がいなくて、優勝できるのか? 頭が痛くなりますよ。その上、誘拐騒ぎときては、どう対処していいかわからん」 「今まで通りの応対をして下さればいいと思いますね」 「それが出来ればいいですがねえ」  と、田島は、自信なげにいってから 「社長は、どこへ行かれたんですか?」 「一億円の身代金を、用意してくるといって、出て行かれたんだが」 「しかし、今西さん。今日は日曜日で銀行は、休みですよ」 「そうだ。今日は、日曜日でしたね」  今西は、あわてた。  プロ野球の世界にいると、土曜、日曜はゲームの日である。他の日にも、もちろんゲームがあるが、この二日間が、かき入れどきである。一般のサラリーマンとは、曜日の感覚が違ってしまうのだ。  銀行が休みで、一億円の大金が、用意できるだろうか?  しかし、社長の青木は、自分でもいうように、銀行家あがりである。その青木が、今日が日曜で、銀行は休みだと知らない筈はない。とすれば、何か目安があるのだろう。  二十分ほどして、青木が、タクシーで帰って来た。  大きなスーツケースを会議室に持ち込むと、それをテーブルの上に置き、今西と、田島の前で、開いて見せた。  一万円の札の束が、ぎっしりと詰っていた。 「銀行が休みなのに、よく、用意できましたね」  と、田島がいうと、青木は 「田島君。巨人と人気を二分する天下の京神ハンターズだよ。一億円ぐらい集められなくてどうするんだね」  と、胸をそらせた。しかし、額にふき出している汗が、この金策が、そう簡単なものでなかったことを示しているように、今西は、思えた。 「それで、今西君。犯人からの連絡はあったのかね?」 「ありました」  今西は、録音したテープを、青木に聞かせた。  青木は、額の汗を拭《ふ》きながら聞いていたが 「一時間後というと、十一時半ということだな」 「警察に連絡するかどうかということですが」 「うん」 「われわれは、プロ野球には慣れていますが、こうした事件には、何といっても、素人《しろうと》です」 「警察に委せろというのかね?」 「餅《もち》は餅屋ということもあります」 「しかし、本当に信頼できる警官がいるかね? ただいたずらに、大騒ぎするだけの警察では困るよ。一億円は払ったが、警察が介入したために、江島が返されないなどということになっては、計算が合わんからね」 「知り合いの警部がいます。彼なら、信用できると思います」 「どんな男だね?」  と、青木がきいた。 「ハンターズのファンで、大阪府警本部の捜査一課の警部さんです」 「変に頭の切れる男は困るよ。そういうエリート人間は、私は信用せんのだ。たいてい、使い込みをやるのは、そういう男だからな」 「その点は、大丈夫です。何ごとにも、無理はしない人ですから」  と、今西は、笑った。 「それならいい。私も、無理はしないというのは賛成だ。呼びたまえ。ただ、あくまでも、秘密裏にだ」 「わかりました」  今西は肯《うなず》いて、受話器を取った。  大阪府警本部に電話をし、藤木警部を呼んで貰った。 「藤木だ」  という、いくらか甲高い声が聞こえた。  この前会ったのは、ハンターズの激励会だった。  ぼうようとした、大阪的な顔を思い出しながら 「京神ハンターズの今西ですが、あなたにお願いしたいことがありましてね」 「どんなことです?」 「これからいうことを、黙って聞いて欲しい。江島功が失踪したことは知っているでしょう。これが、どうやら、誘拐くさくなってきたんですよ」  今西は、脅迫電話のことを、くわしく話した。  藤木は、黙って聞いている。今西が話し終っても黙っているので、今西は、不安になってきた。 「聞いているんですか?」 「聞いていますよ。五分で、そちらへ行きます」 「こちらで、何かしておくことは?」 「何もしないでいてくれれば、一番ありがたいですね」  と、藤木はいった。  正確に、五分して、藤木が、中年の刑事を一人連れて、球団事務所にやって来た。  相変らず、ずんぐりと太っていた。青木社長には、丁寧《ていねい》にあいさつしたが、かといって、京神ハンターズのファンですなど、調子のいいことはいわず 「電話の声を聞かせてくれませんか」  と、すぐ、仕事に取りかかった。  藤木は、同行した西田というベテラン刑事と、問題の電話のテープを、くり返し、聞いた。 「何かわかりましたか?」  と、今西がきいた。 「いや、ただ�いかにも、あの社長らしいな�といって、電話口で笑ったところが気になりますね」 「なぜだね?」  青木社長が、藤木にきいた。 「普通の野球ファンは、有名選手のことは、くわしく知っています。ひいきの選手の住所は、もちろん、食べ物の好き嫌いから、誕生日までです。しかし、球団社長のことは、あまり知らんものでしょう。名前も知らないんじゃありませんかね。ところが、この犯人は、あなたのことを、よく知っているような口ぶりですからね」 「しかし、君、私は、この男の声に、全く、聞き覚えはないんだ。私は、六十八歳だが、それでも、耳はいいし、物覚えもいい方だと自負している。犯人の声は、ぜったいに初めて聞く声だよ」 「こちらが知らなくても、相手が知っていることは、よくあるものです。京神ハンターズの社長ともなれば、あなたが知らなくても、向うが、社長を知っているという場合が、いくらでもありますよ」  藤木はニコニコ笑いながら、いった。 「はったりかも知れん。私のことを、いろいろ知っているぞと、はったりをかけているのかも知れんじゃないか」  と、青木がいった。  藤木は、逆らわずに 「そういうことも考えられますね」  と、いっただけだった。 「次に犯人から電話があったときだがね」  と、青木が、藤木にいった。 「逆探知できるように、なるべく、会話を引き伸した方がいいんだろう?」 「そうして頂ければありがたいですが、最近の犯人は、テレビなんかで、逆探知ということをよく知っていますから、なかなか、話を伸してくれません」 「肝心の警察が、そんな弱気なことじゃ困るじゃないか」  青木が、眉《まゆ》を寄せて、藤木を睨《にら》んだ。せっかく、自分が、いい案を示したのにと、性格が、短気なだけに、むッとしたらしい。  しかし、藤木の方は、そんな青木の怒りは、あまり、感じない顔で 「別に、弱気になっているわけじゃありません」  と、のんびりといった。 (この男で、大丈夫かね?)  という顔で、青木は、今西を見た。今西は、大丈夫ですよというように、肯いて見せた。  それでも、青木は、いらいらしたように、腕時計に眼をやっている。間もなく、犯人のいった一時間になる。  突然、電話が鳴った。  まだ、五、六分前だった。  青木が、あわてて、受話器へ手を伸そうとするのを、藤木は、押しとどめて 「深呼吸を一つして下さい」  と、いった。 「それから、電話に出た方がいいでしょう」  青木は、いわれた通り、深呼吸をしてから、受話器を取った。 「もし、もし、青木だ」 「一億円は、用意できたかね?」  と、犯人の声が、いった。 「ああ、用意した。一万円札ばかりで一億円だ。ナンバーなど控えていないから、安心したまえ」 「では、これから、どうしたらいいか、指示を与える」  と、犯人は、命令口調でいった。  一瞬、青木は、むっとしたが、ぐっと、唇を噛《か》んだ。 「どうすればいい?」 「まず、N社製の白いスーツケースを用意しろ、一番大きなやつだ。それなら、丁度、一万円札で一億円入る」 「それから?」 「そちらに、田島という広報課長がいるな?」 「ああ、いる」 「その男に持たせるんだ」 「うちの今西君が、運んで行くといっている。うちの一軍のマネージャーだよ」 「今西という男など知らん。田島広報課長は、前に、スポーツ新聞で、写真を見たことがあるからな。田島がいい。刑事が変装したりできないからな。監督の片岡に運んで貰いたいが、それでは、そちらが困るだろう。今夜は、大事な巨人との第二戦だからな」 「その試合に間に合うように、江島君を返して貰えるんだろうね?」 「そちらが、妙な気を起こさずに、こちらの指示通りに動き、一億円の身代金が手に入ったら、人質はちゃんと返すさ。田島広報課長を、電話口に出せ。彼に、直接、指示を与える」 「すぐ呼んで来るから、待っていてくれ」  と、青木がいうと、犯人は 「いや、また五分後に電話する。今度は田島を、電話の傍《そば》に待たせておくんだ」 「彼はここにいるから、すぐ代る」 「こちらとしても、逆探知をされると困るんでね」  犯人は、一方的に言って、電話を切ってしまった。  青木は、舌打ちをしてから受話器を置き、今西に、N社の白いスーツケースを買って来てくれといった。 「なぜ、N社の白いスーツケースを指定して来たんでしょうか?」  今西は、首をかしげた。 「そんなこと、私にわかるもんか。とにかく、一番大きなやつを、すぐ、買って来てくれたまえ」  と、青木は言った。  ついで、青木は、田島広報課長に、犯人の言葉を伝えた。 「相手は、君を指定してきた。悪いが、君が身代金を運んでくれたまえ」 [#改ページ]   新幹線  田島の顔が、青白くなっていた。  彼は、プレイヤー出身でなく、京神電鉄から出向してきた男である。  もとは、親会社で、経理を担当していたという変りダネだけに、細かいことに気がつくが、豪快というタイプからは、ほど遠い。  それだけに、重い任務を委されて、顔色が変ったのだろう。 「本当に、犯人は、私を指定して来たんですか?」  と、田島は、確認するように、青木にきいた。 「そうだ。君をだよ。スポーツ新聞で君の顔を見て、信用できるといっている。大変な仕事だが、やってくれたまえ」 「わかりました」  と、田島が、肯いた時、電話が鳴った。  藤木警部と、青木に促されて、今度は、田島が受話器を取った。  電話のやりとりは、テープに録音される一方、マイクで、同じ会議室にいる人間にも聞こえるようにセットされていた。 「だれだ?」  と、犯人が、いきなりきいた。  田島は、緊張した声で 「京神ハンターズの広報課長の田島だ」 「よろしい。その声には、聞き覚えがある。前のハンターズの監督が解任された時、あんたが、記者たちに事情を説明しているのを、テレビで見たことがあるよ」 「余計なことはどうでもいい。どうすれば人質を返して貰えるんだ?」 「N社の白いスーツケースは、用意したか?」 「今、今西が買いに行っている。あと、五、六分で、買って、帰ってくる筈だ」 「よし、一億円を、その白いスーツケースに詰めたら、あんたが持って、新大阪駅へ行くんだ。新大阪を十二時三十六分に出る�ひかり�広島行には、ゆっくり間に合う筈だ」 「それに乗るのか?」 「そうだ。乗ったら、十二号車へ行け。グリーン車だ。十二号車の9Aの席に腰を下すんだ」 「その席が買われていたらどうする?」  と、田島がきくと、犯人は、クスッと、電話の向うで、忍び笑いをした。 「大丈夫だよ。9Aと、隣りの9Bの席は、東京から終点の広島まで買ってあるから、誰も座ったりはしない。あんたは、一応、終点広島までのグリーン車の切符を買うんだ。車掌が来て、席が違うといったら、この席の人が来たら代るといえば大丈夫だ。そのためにも、グリーン車の切符は持っていた方がいい」 「そのあとは、どうすればいいんだ?」 「私からの指示を待てばいい」 「新幹線の中へ、次の指示があるんだな?」 「そうだ。いいか、念のためにいっておくが、あんた一人で乗るんだ。それに、もう一つ、いっておくことがある」 「どんなことだ?」 「私の仲間が同じ新幹線の中で、あんたを、じっと監視しているということだよ。今もいったように、十二号車の9Aと9Bという隣り合せた席は、私が買ってある。もし、あんたの隣りに、誰かが腰を下したら、それは、刑事と考えて、この取引きは中止する。この二つの席のまわりの席が、急にざわついてきたときも同じだ。わかったな?」 「わかった」 「それでは、指示どおり行動するんだ」 「そちらのいう通りにしたら、人質は返してくれるんだな?」 「くどいぞ。そちらが約束を守れば、こちらも、約束は守る」 「もう一度、何時のひかりに乗ればいいのか教えてくれ」  と、田島がいうと、犯人は、笑って 「下手《へた》な引き伸しはやめろ。確認したかったら、テープを回して、聞くんだな」  と、いって、電話を切ってしまった。  田島は、青い顔で 「何とか、引き伸そうと思ったんですが、申しわけありません」  と、社長の青木に、頭を下げた。 「仕方がないよ。向うの方が、一枚、上手なんだ」  と、社長は、田島をなぐさめてから、傍で聞いていた府警本部の藤木警部に 「これから、どうしますか?」  と、きいた。  藤木は、柔道で鍛えた、もりあがった肩をゆするようにしてから 「誘拐事件で、犯人を逮捕できるチャンスは、身代金の受け渡しの時です。このチャンスを逃がしたら、次のチャンスは、まず、無いとみていいでしょう。ですから、われわれ警察としては、全力をこのチャンスに賭《か》けるつもりです」 「しかし、警部さん。犯人は、電話でもいっていたが、警察がいるとわかったら、すぐさま、この取引きは中止するといっています。私としては、球団のために、何としてでも、江島君を取り返したい。もちろん、生きてですよ。それも、至急にです。ここは、大人しく、相手のいうがままに、一億円を、渡した方がいいんじゃないですかね?」 「あなたの気持は、よくわかります。ごもっともだと思います。しかし、わかって頂きたいのは、誘拐事件で、犯人のいう通りに身代金を払ったとき、人質が無事に返されたという例は、皆無に近いのですよ。人質が、大人の場合は、なおさらです。自分の顔を見られている犯人が、大人しく、人質を返すと思いますか?」 「しかし——」 「何度もいいますが、犯人が、身代金を取りに現われた時が、唯一のチャンスなのです。われわれは、その時に、どんなことをしても、犯人を逮捕するつもりです」 「しかし、警部さん。犯人は、電話でも、仲間がいるといっている。もし、身代金を受け取りに来た人間を捕えたとして、共犯者の方が、怒って、江島君を殺してしまうことだって、考えられるでしょう? 違いますか?」  青木は、心配そうにいった。  藤木警部は、あっさり肯いて 「そのご心配は、ごもっともです。われわれも、やみくもに動くわけではありません。もし、身代金を受け取りに来た男がいたら、すぐには逮捕せず、慎重に尾行して、人質の監禁されている場所を見つけ出すつもりではいます。しかし、相手が逃げようとしたときは、断固、その場で逮捕に踏み切ります」 「犯人の指定してきた列車に乗り込むつもりですか?」 「そうです」 「しかし、犯人は、隣りの席も、切符を買ってあるから、そこに誰かが座ったら、警察の人間と見なして、取引きを中止するといっている」 「田島さんの近くに座るようなバカな真似《まね》はしませんから、安心して下さい」  と、藤木は、微笑して 「われわれも、プロですから、犯人にわからないように監視します」  と、いったとき、今西が、指定されたスーツケースを買って、汗を拭きながら帰ってきた。  さっそく、一万円札の詰め代えが行われた。  今西は、犯人からの電話の内容を聞かされて 「私も、行かせて下さい」  と、青木社長と、藤木警部にいった。 「逮捕の時の邪魔になるような真似だけはしないで下さい」  と、藤木がいった。 「絶対に、そんな行動は取りません」  今西は、約束した。  田島が、一億円の入ったスーツケースを下げて、球団事務所を出たのは、十一時五十分である。  事務所の前で、タクシーを拾って、新大阪駅に向った。  藤木警部たちも、他の車で、新大阪駅へ向った。  今西は、球団事務所で、カメラを借りて行くことにした。  彼だけは、国鉄を利用した。 (十二時三十六分新大阪発か)  今西は、小型の時刻表を広げて、電車にゆられながら、その列車を探した。  東京駅発は、九時二十四分になっている。犯人が、球団事務所に電話してきたとき、すでに、この列車は、走り出していたのである。  今西には、そのことが、何となく、奇妙な気がした。  今西が、新大阪駅に着いたのは、十二時二十分少し前だった。  広島までの切符を買った。  日曜日だが、昼の十二時という時間のせいか、新幹線ホームは、閑散としている。  田島は、広島までのグリーン車の切符を買い、重いスーツケースを下げて、下り線のホームにあがった。  窓口で頼んで、十二号車の切符にして貰ったのだが、9A席の近くではなくて、離れた16Aであった。  今西は、わざと、ホームの端に立っていた。藤木警部たちも、乗り込むのだろうが、ホームのどの辺にいるのか、わからなかった。 (松尾はどうしているのだろうか?)  と、ふと、思った。  あの巨漢の私立探偵は、芦屋の白井泰造に会いに行くといっていたが、どうしているのだろうか?  今度の事件は、わからないことが多すぎると思う。  最初、誘拐の匂いはなかったような気がする。  むしろ、江島は、なじみのホステスが殺されたので、犯人扱いされるのを恐れて、姿を消したのだろうと、今西は、思っていたくらいである。  ひょっとすると、ホステスの沢木由美を殺したのは、江島ではないかとさえ、思ったくらいだった。この時点で、彼が、何かの事件の被害者という感じはなかったのだ。  新谷敏江という女が現われてから、事件は、複雑怪奇になって、わけがわからなくなって来たのである。  敏江は、江島のライターを見せて、彼に連絡するといい、今西から百万円を受け取った。  だが、その新谷敏江も、姿を消してしまって、どこへ行ったのかわからない。更に、彼女が、白井泰造という製薬会社の社長の身辺を調査させていた私立探偵が、何者かに殺されてしまった。  そして、今度は、何者かが、江島を誘拐したから、一億円の身代金を払えと要求してきた。  片岡は、これでむしろ、すっきりしたというが、今西には、わからないことが多過ぎるのだ。  犯人が最初から、球団に身代金を要求してくることをしなかったのは、なぜなのだろうか? それは、なぜ急に、身代金を要求してきたかという疑問でもある。 (どうもよくわからない事件だな)  と、思ったとき、ひかり133号が、ホームに滑り込んで来た。  今西は、十四号車のドアから乗り込んだ。  二分停車で、定刻の十二時三十六分に、ひかり133号は、広島に向って、発車した。  新大阪から先は、広島まで、各駅に停車する。  今西は、車内に入らず、煙草に火をつけて、流れ去って行く景色に眼をやった。  藤木警部は、ボストンバッグを下げて、十二号車に乗り込んだ。  五、六冊の週刊誌を放り込んだだけのボストンバッグである。旅行者に見えればという苦肉の策だが、犯人が出て来れば、こんなボストンバッグは、放り出してしまうつもりである。  十二号車の一番うしろの席に腰を下した。部下の刑事二人が、逆の端の席に腰を下したのが見えた。  十二号車には、二十五、六人の乗客が乗っていた。満席で六十八人だから、三分の一強の乗車率である。  あちらこちらに空席がある感じだった。  田島は、スーツケースを下げて、中央通路を歩いていたが、まん中あたりの窓ぎわの席に、腰を下した。  犯人のいった通り、その隣りは、空《あ》いている。  藤木は、ボストンバッグから週刊誌を一冊取り出し、それを読んでいるふりをして、頭だけ見えている田島を監視した。  犯人は、車中の田島に、次の指示を与えるといった。  犯人も、この列車に乗っていて、何気なく近づいて、次の指示を与えるつもりなのだろうか? それとも、外から、このひかり133号に電話をかけて来る気なのだろうか?  多分、後者だろうと、藤木は、考えていた。  だが、どんな指示を与えるつもりだろうか?  まず考えられるのは、一億円を詰めたスーツケースを、走行中の列車から、投げ落とせといった指示であろう。  しかし、新幹線の列車の窓は、全く開かないようになっている。 (トイレの窓?)  何かの映画で、列車のトイレの窓が、わずかに開くので、そこから投げ落とせと、犯人が、電話で指示するのを見たことがあった。  今度も、その手を使うつもりなのだろうか?  藤木は、急に、不安になって、座席から立ち上ると、トイレへ行ってみた。ドアを開けて、中に入ってみた。  とたんに、苦笑してしまった。新幹線のトイレには、窓がないのだ。換気は、天井の換気扇でやるようになっていた。  トイレも駄目だとすると、走行中のひかりから、身代金を投げ落とす方法は、全くないだろう。ということは、列車が走っている間は、まずは安心だということである。  藤木は座席に戻った。  新神戸に、十二時五十二分に到着。  グリーン車の十二号車からは、二人の客が降りた。乗ってきたのは一人だけである。  二十四、五歳の若い女である。犯人には思えなかった。  ひかり133号は、また走り出した。  十二分後に、西《にし》明石《あかし》着。  その西明石を出てすぐ、車内アナウンスがあった。 〈京神ハンターズの田島さま、おいでになりましたら、電話がかかっておりますので、九号車までおいで下さい〉  それが、二回くり返された。 (いよいよ、来たな)  と、藤木は、緊張した。  田島が、立ち上った。  スーツケースを持って、九号車の方へ歩いて行く。  それより先、車内アナウンスがあったとたんに、刑事の一人が、素早く立ち上って、十二号車から姿を消した。電話のある九号車に先回りしたのだ。  田島が、十二号車を出て行ったあと、藤木は、すぐには、座を立たず、他の乗客の動きを、しばらく見守っていた。  この車内に、共犯者がいるかも知れないと思ったからだが、田島の後を追いかける乗客は、見あたらなかった。  藤木は、間を置いて、立ち上り、通路を歩いて、九号車の方へ歩いて行った。  九号車には、電話室が二つ並んでいる。先回りした刑事の一人が、電話のあくのを待つような顔をして、通路で、腕組みをしていた。  電話室のドアは、中が見えるように、上下に、大きく隙間《すきま》が出来ている。  下の隙間から、床に置かれた白いスーツケースが見えた。  隣りの電話では、若い女が、大声で、多分友だちだろう、たわいない話をしている。  藤木は、通路の反対側にある洗面所に入り、手を洗うふりをしながら、田島の様子をうかがった。  若い女の話し声は、甲高いので、聞こえてくるが、田島の声は、聞こえて来ない。  七、八分して、田島が、電話室を出て来た。  しかし、どんな電話だったかと、きくわけにはいかなかった。どこに、犯人の眼が光っているかわからないからである。  電話室を出た田島は、なぜか、十二号車には戻ろうとせず、スーツケースを持ったまま、九号車のドアのところに立っていた。 (どこかで、降りろと指示されたのだな)  と、藤木は、思った。  ボストンバッグは、十二号車に置いて来ているが、どうせ、中身は、週刊誌である。藤木も、戻らずに、田島を見張った。  午後一時十八分に、姫路駅に到着。  ドアが開くと同時に、田島は、スーツケースを下げて、ホームに降りた。  藤木も、続いて降りる。  田島は、ちょっと、周囲を見回してから、改札口に向って、ホームを歩き出した。  田島は、スーツケースを重そうに下げて、改札口を出た。  駅前の広場の先に、メインストリートが伸び、その前方に、美しい姫路城が姿を見せていた。  白鷺城《しらさぎじよう》と呼ばれているだけに、白壁が、初秋の陽差しを受けて、輝いて見える。  田島は、駅前のタクシー乗場に向って、歩いていった。多分、姫路駅で降りて、タクシーを拾えという指示が、犯人からあったのだろう。  田島が、タクシーに乗り込むのを見てから、藤木は、近くにいたタクシーを強引にとめて、乗り込んだ。  中年の運転手が、当惑した顔で 「タクシー乗場で乗ってくれないと、警察がうるさいんですけどねえ」  と、文句をいった。藤木は、その顔の前に、警察手帳を突きつけた。 「前にいるKタクシーをつけてくれ」 「何かの犯人ですか?」 「まあ、そんなものだ」 「警察の旦那《だんな》がついているんなら、安心だ」  急に、運転手は元気になって、アクセルを踏んだ。  田島の乗ったタクシーは、大通りを、まっすぐ姫路城に向って走って行く。  姫路城の真向いに、新築のホテルがあった。  ホテル姫路という名前が出ている十階建の大きなホテルである。田島の乗ったタクシーは、そのホテルの前でとまった。  田島は、スーツケースを持って、タクシーから降りると、ホテルへ入って行った。 (このホテルで、犯人は、一億円を受け取るつもりなのだろうか?)  と、藤木は思いながら、彼も、タクシーを降りて、ホテルの中へ入って行った。  広いロビーがある。 (あれ?)  藤木は、ロビーに立ち止って、あわてて、周囲を見廻《みまわ》した。  田島の姿が、消えてしまっていたからである。  藤木に続いて、部下の刑事一人が、飛び込んできた。が、彼も、田島の姿が見えないことに、当惑した顔になった。  藤木は、もう一度、ロビーを見廻した。  ロビーの隅に、エレベーターがあり、その隣りが洗面所である。  田島は、ホテルに入るや、エレベーターに飛び込んだか、洗面所に行ったのだろう。他に、姿を消す理由は考えられない。  藤木は、部下の刑事に、すれ違いざま 「トイレを見てくれ」  と、小声でいってから、自分は、エレベーターのところに行った。  エレベーターは、四基並んでいる。  十階までのどこに行ったかわからない。そのどの階かわからなかった。  トイレを調べた部下が、藤木の傍へやって来て 「トイレには、誰もいません」  と、小声でいった。 「じゃあ、エレベーターに乗ったんだ」 「しかし、何階に行ったのか、わかりませんね」 「そうだな。やみくもに探しても仕方がない。ロビーで待っていよう」  と、藤木は、いった。  二人は、わざと、離れて、ロビーのソファに腰を下し、エレベーターの方を注視した。  ホテルのロビーは、街の通りと同じである。何人もの人間が入って来て、また出て行く。  ほとんどの人が、当然のことながら、ボストンバッグや、スーツケースを持っている。田島が持っていた例のスーツケースと同じものを持って、このホテルをチェック・アウトして行く泊り客もいる。 (犯人は、うまい場所に、田島を来させたものだ)  と、藤木は、思った。  普通の場所なら、あの大きなスーツケースを下げていれば、嫌でも目立つ。しかし、ホテルは別だ。むしろ、手ぶらでいる人間の方が、不自然に映る。  田島は、このホテルに入り、何階かのフロアに、一億円の入ったスーツケースを置けと、犯人から指示されたのかも知れない。犯人は、それを持って、何くわぬ顔をして、出て行く。誰も、疑いはしないだろう。  七、八分して、一台のエレベーターから、田島が、降りて来た。案の定、スーツケースは、もう、持っていなかった。  藤木は、何気ない様子で、田島に近づくと 「スーツケースは、どうしました?」  と、押し殺した声できいた。 「十階のトイレです」 「十階?」 「そうです。そういわれたんです」 「わかりました」  藤木は丁度、ドアの開いたエレベーターに飛び込んで、十階のボタンを押した。  エレベーター内の案内板によると、最上階の十階には、展望台をかねたレストランや、バーなどがあることになっている。客室は、二階から九階までである。  十階に着くと、藤木は、エレベーターから飛び出した。  バーは、まだ閉っているし、夕食時間には、まだ間があるので、レストランも、閑散としている。  トイレは、一階と同じく、エレベーターの傍にあった。  藤木は、紳士用と書かれた方に入ってみた。  一番奥の「洋式」と書かれたドアが、小さく開いていて、スーツケースの端が見えた。  白い、大きなスーツケースである。  藤木は、胸をおどらせながら、その「洋式」と書かれたドアを開けた。  見覚えのあるスーツケースが、隅に置いてあった。が、そのふたは、開けられていた。  中をのぞいてみる。  やはり、一億円の札束は、影も形もなくなっている。  藤木は、一瞬、呆然として、狭いトイレの中に、立ちつくした。 (やられた)  と、思った。  見事に、してやられたのだ。  犯人は、田島に、一億円入りのスーツケースを、ここに置かせたあと、多分、目立たない、地味なボストンバッグにでも、詰めかえたのだ。  ドアを閉め、カギをかけてしまえば、完全な密室だから、誰にも邪魔されず、悠々と、一億円を詰めかえられた筈である。  そうしておいてから、悠然と、ホテルを出て行ったに違いなかった。ロビーにいた藤木たちの前を、犯人は、堂々と通り過ぎて行ったのかも知れないのだ。白いスーツケースばかりを注意していて、その裏をかかれたとしか、いいようがない。  藤木は、手袋をはめ、指紋に注意しながら、からのスーツケースを持って、トイレを出た。  エレベーターのところまで来たとき、部下が、あがって来た。 「やられたよ」  と、藤木は、顔をしかめていった。 「スーツケースはあったが、中身は、からっぽだ」 「田島さんは、何をしていたんですか? 犯人を見ているんでしょうか?」 「田島さんは、下のロビーにいる筈だ。何があったか、聞いてみようじゃないか」  二人は、エレベーターで、ロビーへ降りて行った。  田島は、ロビーの隅に、疲れ切った表情で座っていた。  藤木は、彼の傍に腰を下すと 「くわしく、説明して貰えませんか」  と、声をかけた。 「新幹線の中で、電話が、かかって来まして」  田島は、ぼそぼそとした声で話した。記者団に対して、雄弁を発揮している広報課長の田島とは、別人のようだった。 「電話がかかって来たのは、知っています。犯人は、どんなことを、指示してきたか、話して下さい」 「最初に、黙って聞けといいました。こちらの指示どおりに動かなければ、人質を殺すというんです。わかったといいますと、姫路駅で降りろといいました。降りたら、駅前でタクシーを拾い、ホテル姫路へ行けということでした」 「それから?」 「ホテルに着いたら、すぐ、エレベーターに乗り、十階へ行け。十階には、エレベーターの傍にトイレがある。紳士用トイレの一番奥に、洋式と書かれたものがあるから、そこにスーツケースを置き、ドアを閉めて、すぐ、エレベーターで降りろ。振り返ったり、トイレを見張ったりしたら、人質は殺すと、脅しました。私は、その通り行動せざるを得なかったんです」  田島は、吐息をついた。 「じゃあ、誰が、スーツケースの中身を抜き取ったか、見ていないんですか?」  藤木は、失望した表情になった。 「ええ、トイレを見張ったりすれば、人質を殺すといわれたので、スーツケースを置いてから、見張る勇気が出ませんでした。それに、あそこは、隠れる場所がないのです」 「では、トイレに、スーツケースを置いてから、すぐ、エレベーターに乗って、おりて来たんですね?」 「そうです」 「田島さんが、トイレに入って行ったとき、誰か、中にいましたか?」 「いや、誰もいませんでしたね」 「すると、田島さんが、トイレにスーツケースを置いて、エレベーターでロビーに降りて来て、代りに、私が十階にあがって行く間に、犯人は、一億円を、他のスーツケースか、ボストンバッグなりに入れかえて、トイレを出たことになりますね?」 「ええ」 「時間にして、せいぜい五、六分だが——」 「犯人は、まだ、このホテルの中にいるんじゃありませんか?」  と、横から、部下の刑事が、小声でいった。 「じゃあ、君は、ここに残って、怪しい人物がいるかどうか見ていてくれ。私と田島さんは、ひとまず、球団事務所の方に帰る。犯人から、何か連絡してくるかも知れんからね」  藤木は、そういい残し、田島を促して、ホテルを出た。  タクシーを待っていると、一台のタクシーが近づいて来て、二人の前でとまった。客が乗っている。その客が 「乗ってください」  と、二人にいった。  よく見ると、乗客は、今西だった。  田島が、助手席に乗り込み、藤木は、今西の横に腰を下した。 「今西さんは、何をしていたんですか?」  と、藤木がきいた。 「あなた方が、あのホテルに入るのを見て、車を大通りの反対側にとめて貰い、ホテルに出入りする人間を、片っ端から、望遠レンズつきのカメラで撮りまくっていたんです」  今西は、膝《ひざ》の上にのせていたカメラを、藤木に見せた。その写真の中に、犯人が、写っているだろうか? [#改ページ]   第二戦  甲子園球場には、まだ、人の姿はない。  今日は、日曜日である。昨日の対巨人四連戦の初戦は、見るも無残に、惨敗してしまったが、今日も、この大鉄傘が、超満員にふくれあがることだけは、間違いなかった。  片岡は、他の選手たちより一時間早く車で、甲子園へやって来た。  選手たちの集合は、午後四時と決めてあった。  片岡は、ひとり、ぽつんと、ホームプレートのところに立って、人の気配の全くないスタンドを見回した。  ハンターズのファンは、十八年ぶりの優勝のチャンスに、狂喜している。しかし、それだけに、昨日のような無残な負け方をしたときは、くそみそである。  スポーツ紙も、手厳しく叩《たた》いてくる。  この間まで「有能だった」筈の監督の片岡が、今日のスポーツ紙では「無能で、役立たず」にされてしまうのだ。  今夜のゲームは、どんな展開になるだろうか?  片岡は、その展開を、推理してみた。  巨人の絶対的なエースである江川は、昨日、完投した。  今日は、誰が先発してくるだろうか? 監督の藤田は、三球団がせり合っているような時に、意表をつくような作戦を、とらない男だ。手がたく来るだろう。  とすると、恐らく、定岡あたりできて角のリリーフということになるのではあるまいか。  或《ある》いは、中二日で、西本でくるか。  いずれにしろ、江川のような強さはないから、ハンターズにとっても、チャンスなのだ。  西本と定岡の、対ハンターズ戦の防御率は三点台である。単純に計算すれば、ハンターズの投手が、巨人を三点以内に抑えれば、勝てることになる。 「監督!」  と、呼ばれて、ダッグアウトを振り向くと、ヘッドコーチの大山が、こちらに顔を向けていた。  片岡は、ゆっくり、ダッグアウトまで歩いて行った。 「君も、家に落着いていられなくて、来てしまったのかね?」 「江島君がどうなったのか、気になりましてね。彼がいるといないのとでは作戦も、がらりと変ってくるでしょう?」  大山は、小声でいった。この男は、痩《や》せた身体に似合ったか細い声を出す。  大山は、ピッチングコーチが専門だから、やはり、江島のことが、一番気になるのだろう。  片岡は、大山に、誘拐の話を打ち明けようかどうかと、迷った。 「今日も、江島がいないものと思って投手起用を考えてくれないか」 「まだ、江島君の行方は、わからんのですか?」  大山が、顔をくもらせた。大山にだって、江島がいなければ、京神ハンターズに優勝のチャンスのないことは、よくわかっているのだ。  去年の巨人だって、江川や原がいても、リリーフ・エースの角がいなかったら、優勝は出来なかったろう。今年のハンターズは、その巨人以上に、リリーフ・エースの江島の比重が大きいのだ。 「全くわからないんだ」  と、片岡は、いった。やはり、誘拐のことは、最小限の範囲で抑えておいた方がいいと考えたからである。 「ところで、うちの久藤の調子は、どうだい?」 「まあ、まあといったところです。彼は、どちらかというと、気力で投げる方ですから、今度の四連戦には燃えています」 「その代り、味方が、つまらないミスをすると、がっくりして、投げやりになる欠点があるねえ」 「その通りです」  と、大山は、笑って 「うちのピッチャーは、総じて、気分屋ですね。粘りがない。私は、素質としては、巨人の投手陣より、いいものを持っているような気がしますね。ただ、不足しているのは、粘りです。これは、性格的なものもあるでしょうが、十八年間も優勝から遠ざかっていたことも、影響していると思いますね。江川のように投げろといっても無理でしょうが、西本の粘り強い投球を見習って欲しいと思っているのです」 「うちの久藤は、どうも、淡泊だねえ」 「五回までは、押えてくれると思っています。このところ、立ち上りの乱調もかげをひそめていますから、五回までは、悪くて、二点以内に押えてくれるでしょう。問題は、その間に、味方が、何点、点を取ってくれるかということですね。一点も取れずにいたら、六回あたりから、突然、崩れるかも知れません。こちらが、点を取ってくれるまで、辛抱強く、ゼロで押えていくというのは、どうも苦手のようですから」 「私も、先取点がとれるかどうかが、今日のゲームのカギだと思っているよ」  と、片岡は、いった。  大山は、ハンターズの投手陣に粘りがないといったが、それは打撃陣にもそのまま当てはまる言葉だった。  一人一人の選手は、いい素質を持っているし、ほどほどに打っているのだが、チームとしてみたとき、打線につながりがなかった。  そういう打線は、いくら三割バッターが並んでいても、相手のピッチャーを怖がらせることは難しい。 「ちょっと失礼して、電話してくる」  と、片岡は、いった。  片岡は、球団事務所に電話をしてみた。  今西も、田島もいなくて、社長の青木が、電話口に出た。 「身代金の方は、どうなりました?」  と、片岡は、きいた。 「さっき、電話があって、一億円の身代金は、まんまと、犯人に奪われてしまったということだよ。姫路のホテルでだ」 「しかし、それで、結果的に良かったのかも知れませんね。このあと、犯人が、江島君を、今夜のゲームに間に合うように返してくれれば、いうことはないんですが」 「私は、返してくれるものと、思っているがね」  青木は、落着いた声でいった。  だが、それが難しいことは、誰《だれ》にだってわかる。  犯人は、恐らく、江島に顔を見られているだろう。人質の江島に、見られていて、それでも、身代金を手に入れた今、江島を、返してよこすだろうか?  片岡としては、もちろん、すぐに、江島を返して貰《もら》いたい。が、犯人が、そう素直に動いてくれるかどうか。 「犯人から、身代金を手にした、江島君を返すという連絡は、まだ、ないんですか?」  と、片岡は、きいた。 「ないね。しかし、犯人が、身代金を持ち去ったことは、間違いないだろう」 「警察は、どう見ているんですか?」 「警察のコメントは、まだ、出ていないよ。しかし、警察は、どちらかといえば、身代金を、犯人に渡してしまったら、あとは、犯人の思い通りになってしまうという考え方だからね」 「犯人の心当りも、江島君が、どこに監禁されているかの推測もついていないんでしょうか?」 「警察は、何もいっていないが、今のところ、何もつかんでいないようだよ。だから、警察が、人質の江島君を見つけ出して、救い出してくれる可能性というのは、あまり期待できんね。それより、私は、犯人も、京神ハンターズのファンじゃないかと思っているんだよ。うちのリリーフ・エースを誘拐したのも、ファン意識の表われだと見ている。とすればだ、江島君を殺したりは、絶対にせんだろう。私が、楽観しているのは、そのせいだよ」  青木は、いかにも、彼らしいいい方をした。  自信家であり、同時に、楽天家である青木は、関西の人間なら誰でも、ハンターズのファンだと思い込むところがある。  片岡は、電話を切ってから、自然に、苦笑していた。  リアリストの片岡は、青木ほど、楽天的にはなれない。江島を誘拐した人間は、ハンターズ嫌いで、或いは、江島個人を憎んでいるのかも知れないからである。  今西は、球団本部に戻り、藤木たちは大阪府警本部に帰った。  藤木は、直ちに、持ちかえったスーツケースについて、指紋の検出を急がせた。  しかし、はっきりと検出できる指紋は一つもなかった。  藤木は、ホテルのトイレで、スーツケースに触れる時、手袋をはめたから彼の指紋がついていないのは、当然として、他の人間の指紋も、検出できなかった。  スーツケースを、新幹線の中から、タクシー、そして、姫路のホテルへと持ち歩いた田島の指紋もである。  明らかに、ホテルのトイレで、犯人が、他のスーツケースなりボストンバッグに、一億円の札束を移しかえるとき、用心深く、手袋をはめていたに違いない。だから、田島の指紋も消えてしまったのだ。  犯人も、そのくらいの用心はするだろうと思っていたから、藤木は、さほど落胆はしなかったが、それでも、まんまと身代金を奪われて、犯人の顔さえ見られなかったという口惜《くや》しさはかくせなかった。  藤木自身がいったように、誘拐事件のポイントは、身代金の受け渡しである。犯人は、いやでも、身代金を取りに、姿を現わさなければならないからである。  これで、そのチャンスが、失われてしまったのだ。  残る希望は、今西が撮った写真だった。  彼からゆずり受けたフィルムは、すぐ、現像され、大きく引き伸された。  三十六枚撮りのフィルム中、二十四コマが、写されていた。  ホテルに田島が入り、藤木と一緒に出てくるまでの時間は、せいぜい十五、六分だろう。その時間内は、ホテルに出入りした人間は、すべて、写されていた。 「ピントが合っているから、顔がよくわかるね」  捜査一課長の古川が、引き伸された写真を一枚ずつ見ていきながら、感心したようにいった。 「今西さんが、カメラを持っていてくれて助かりました」  と、藤木がいった。 「しかし、藤木君。犯人が、すぐホテルを出たとは限らんだろう。あらかじめ、そのホテルに泊っていて、トイレで、一億円を自分のスーツケースなり、ボストンバッグに詰めかえてから、じっと、自分の部屋に、閉じ籠《こも》っているかも知れん。そして、ほとぼりがさめてから、悠々と、チェック・アウトする気かも知れないよ」 「それも考えたので、西田刑事を残して来ました。兵庫県警にも協力を依頼しましたので、今頃《いまごろ》は、徹底的に、泊り客を調べている筈《はず》です。もし、犯人が、泊り客の中にいたとしても、すぐわかりますから、逮捕できると確信しています」  甲子園の前には、すでに五百人を越す長い行列が出来ていた。  前売り券は、すでに売り切れていて、当日売りを目当ての人々だった。その行列は、どんどん長くなっていく。  球場側は、開門を一時間早めて、観客を入れることにした。  片岡は、自軍の打撃練習を見ながら、刻々と埋っていく観客席にも、時々眼をやった。  鳥カゴの中に入って、打ち始める選手に向って、早くも、応援の声が飛ぶ。  今夜も、超満員の観客で埋るだろう。歓声が、大鉄傘をゆるがすに違いない。しかし、もし、今日も負けることになったら、大歓声が、罵声《ばせい》に変ることも片岡は、知っていた。  ヘッドコーチの大山が、片岡の傍《そば》に寄ってきた。 「あまり、いい当りがしていませんね」  と、大山が、小声でいった。 「昨日、江川に、手も足も出ずに完封された後遺症が出ているんだろう」  と、片岡は、答えてから 「おい! ボールを、もっとよく見るんだ! それでもプロか!」  突然、打撃練習中の選手を怒鳴りつけたりした。  気が立っているのが、片岡自身にも、よくわかっていた。  江島が、ここにいて、昨日、先勝していれば、ゆったりした気持でいられたのだ。  巨人との戦いは、選手同士の戦いでもあるが、監督と監督との戦いでもある。  片岡は、京神ハンターズの監督を引き受けてから、他の五球団の監督の性格を、徹底的に分析した。  特に、巨人の藤田と、広島の古葉の二人についてである。  接戦になったとき、第一に問題になるのは、エースピッチャーの存在であり、第二は監督ということになるだろうと思っていたからである。  藤田も、古葉も、どちらかといえば、守りの野球をする。これは、性格的なもので、片岡自身も、二人に似ていると思っている。  だから、古葉の広島は、江夏という守りの切り札を持っていた時、二年連続日本一になり、藤田も、江川というエースを持って、優勝している。  今年、幸い、京神ハンターズでは、江島というリリーフ・エースを持った。守りの片岡にとって、優勝の駒《こま》を得たわけである。  だが、その切り札が、欠けてしまった今、監督としての片岡の腕が、一層、試されることになる。  藤田は、今、どんな気持でいるだろうか?  先勝して、いい気になるような男ではない。勝てば勝ったで、一層、慎重になる性格だと、思っている。  前の長島監督だったら、先勝の余勢をかって、たたみかけてくるだろう。  こちらに、江島というエースがいない今は、そうした攻撃の方が痛い。防ぎようがないからである。  しかし、藤田は、そうしないだろう。去年もそうだった。藤田巨人軍が、思い切った手を打って来たのは、二位以下を十ゲーム近く引き離してからである。  今年も、それは変っていない。  今日も、先勝の余勢をかってという方法はとらず、慎重にかかって来るだろう。精神的には、対等なのだ。  そこに、つけ目があると、片岡は考えていた。 「今日の巨人は冒険して、加藤あたりを先発してくるんじゃありませんか」  と、大山がいった。 「いや」  と、片岡は、自信を持って、首を振った。 「すると、やはり、西本か定岡ですか?」 「定岡だろうと思っていたが、今日は、恐らく、西本だな」 「しかし、西本は、中二日しか休んでいないんじゃないですか?」 「藤田は、前の九十番みたいに、お祭り野球はやらない男だよ。今年の加藤は、調子がよくない。四連戦の初戦には勝ったが、次に、加藤を出して負けてしまったら、何もならないと考えている筈だ。だから、先勝を生かそうとして、安定感のある西本を先発させてくると思うね。そうして、今日も、正攻法でくる筈だ。そこが付け目だ。うちの久藤は、確か、中四日あけてあるんだろう?」 「そうです」 「向うが、西本先発となったら、久藤に、ハッパをかけてやってくれ。中二日の西本に負けたら、男の恥だとね」 「わかりました」  大山は、ニッコリした。  向うが、用心深くやってくれば、こちらが大敗することはない。接戦になるだろう。接戦なら、ちょっとしたツキで、勝負は、どう転ぶかわからないのだ。  それからしばらくして、メンバー表を交換してきた大山が、片岡を見て、ニヤッと笑った。 「監督の考えられた通り、西本の先発ですよ」 「やっぱり、そうか」  片岡も、ニコッとした。  今日、加藤か、或いは新浦あたりでやってきて、強引に打撃戦に持ち込まれて、もし、京神ハンターズが負けたら、向うは、第三戦に西本、第四戦に定岡を先発してきて、ハンターズは四連敗の可能性だってあったのである。 (これで、四連敗だけは、まずないだろう)  と、片岡は思った。  しかし、江島は、まだ見つかっていない。  ホテル姫路には、兵庫県警の刑事七人が駆けつけ、大阪府警の西田刑事に協力して、宿泊者を、一人ずつ、調べていった。  第一にやったことは、各自の所持品の検査だった。  今日の宿泊者は、六十九人。その全《すべ》ての所持品を調べさせて貰った。が、一億円は見つからなかった。  次は、今西が撮った写真である。二十四枚の写真には、男女合せて、三十人の人間が写っている。  このうち、ホテルへチェック・インした十二人については、所持品まで調べたので、事件に関係がないことがわかった。  問題は、残りの十八人である。  この十八人は、田島がホテルに入ったあと、出て来ているから、もっとも怪しいと思われる人間である。  写真は、コピーされ、それが、すぐ、姫路のホテルにいる西田刑事たちに運ばれた。  西田が、その写真を、ホテルのフロントに見せた。  さすがに、ホテルマンで、今日チェック・アウトした客の名前は、全て覚えていた。  その名前から、宿泊カードを調べて、住所と名前を引き出した。  東京の客もいれば、九州方面の客もいる。その名前と住所をメモし、東京の警視庁や、各県警の協力を求めて、一人一人、調べて貰うことにした。もし、これで容疑者が浮んで来なければ、犯人は、魔法でも使って、一億円を奪い去ってしまったことになる。  十八人について、一人ずつ、大阪府警本部に、報告が入って来た。  犯人ならば、恐らく、偽名を使い、偽の住所を使っているだろうと、藤木は見ていた。  逆にいえば、それが、容疑者ということになる。  東京警視庁や、各県警で、住所と氏名を確認された人間は、そのあとも追跡調査を依頼はするが、ひとまず、除外することにした。  こうして、一人ずつ除外していくと、残るのは、二人だけになった。  写真で見ると、三十歳前後に見える男女のカップルが、偽名を使ってホテルに泊っていたことがわかった。東京都世田谷区の住所も、警視庁が調べてくれたところ、でたらめとわかった。 (このカップルが犯人なのだろうか?)  藤木は、二人の写真を、黒板に、ピンで止めて、眺めた。  丁度、ホテルを出て来て、タクシーにでも乗ろうとしているのか、通りに面して、立ち止っているところを写真に撮られている。  男がボストンバッグを持ち、女が、スーツケースを下げている。分けて入れれば、一億円は入るだろう。 (男は、どこかで見た顔だな)  と、藤木は、ふと思った。  いったい誰だったろうか?  藤木は、必死になって、思い出そうとした。 「どうしたんだい? 変な顔をして」  と、古川捜査一課長が、藤木に声をかけた。 「実は、このカップルの男の方ですが、どこかで見たような気がするものですから」 「君も、そう思うのかね」 「じゃあ、課長もですか」 「ああ、私も、さっきから、どこかでお眼にかかってるような気がしているんだよ。われわれが、前に会っているとなると、あまりよくない相手ということになるんだがねえ。この、のっぺりした二枚目タイプの男の顔は、どこかで見ているんだ」 「あッ」  と、突然、藤木が、大きな声をあげた。 「どうした? 思い出したかね?」 「あいつですよ。結婚サギの永井宏じゃありませんか」 「そうだ。こいつは、永井だ」  古川も、眼を光らせた。  東京と、大阪で、それぞれ、数人の女を欺《だま》して、合計、五千万円近い金を巻きあげて、二度逮捕された結婚サギの常習犯である。  確か二か月前に出所したばかりの筈だが、女と一緒のところをみると、また、結婚サギを働いているのだろうか。  そういえば、一緒に写っている小柄な女は、ハイミスの感じがないでもない。  永井宏に関する資料が取り寄せられた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈年齢三十一歳。  東京生れ。身長一七五センチ、体重六五キロ。  結婚サギの前科二犯。タレントのKによく似た甘いマスクと、巧みな話術を使って、主に、ハイミスを欺して、金を詐取。  熱烈な巨人ファン〉 [#ここで字下げ終わり] 「巨人ファンですか」  と、藤木は、苦笑した。だから、今度は、結婚サギをやめて、京神ハンターズのエースを誘拐したのだろうか? 「とにかく、この永井宏を、指名手配しよう」  と、古川は、決断した。  誘拐犯人と決ったわけではないが、一億円の身代金を奪い取るチャンスがあったことだけは、確かだったからである。  全国への指名手配が行われたのが、午後六時丁度だった。 「間もなく、巨人との第二戦が開始されるね」  ふと腕時計に眼をやって、古川がいった。 「ハンターズは、久藤の先発でしょうが、今日も、江島抜きで戦うことになりそうですね」  と、藤木がいった。  今西は、球団事務所にいた。  事件のその後について、大阪府警からは、何の連絡もない。彼が撮った写真が、役に立っているのかどうかも、わからなかった。  何の連絡もないところをみると、まだ、容疑者が浮んでいないのだろうと、今西は考えていた。 (今夜も、間に合いそうにないな)  と、今西は、暗い顔で、思っていた。  青木社長は、一億円の身代金を支払ったのだから、犯人は、人質の江島を返してくれるのではないかと、楽観しているようだが、犯人が、そんなに甘いとは思えなかった。  犯人にとって、江島は、身代金を手に入れるための切り札だった。身代金を手に入れた今となっては、今度は、逃亡のための切り札に使うかも知れない。犯人が、江島を押えている限り、警察は、うかつなことが出来ないからだ。 (それに——)  と、今西は、思う。  この事件は、最初から妙な事件だった。普通の誘拐事件のように、すっきりしていないのだ。  最初は、江島が、殺人事件に巻き込まれて、警察に捕るのが嫌で、自ら姿を消したのだと考えていた。  それが、新谷敏江という妙な女が出て来て、わけがわからなくなった。彼女も、今西から百万円を受け取って姿を消してしまった。  彼女に関連して、白井という製薬会社の会長の名前が浮び、私立探偵が殺された。そして、江島を誘拐したという電話が、飛び込んで来たのである。  新谷敏江も、誘拐に関係しているのだろうか?  私立探偵が殺されたことは、無関係なのだろうか?  それに、白井の立場はどうなのかと、考えてくると、わけがわからなくなってくる。 (松尾は、どうしたのだろう?)  それも、気になった。  松尾は、白井に会ってくるつもりだといっていたが、その後、何の連絡もして来ないのである。  もちろん、今西にとって、最大の関心は、江島の安否だった。  江島が無事に帰って来て、戦列に復帰してくれたら、あとのことは、どうでもよいとさえ思っている。  京神ハンターズを十八年ぶりに優勝させることが、今西の願いであり、マネージャーとしての彼の仕事でもあった。 (そのためには、今夜の第二戦は、石にかじりついてでも、勝たなければならないのだ)  両軍の先発は、久藤と西本と、すでに発表されている。  久藤が、巨人の打線を三点以内に押えてくれれば、勝つチャンスがある。  甲子園のグラウンドでは、ビジターチームである巨人の守備練習も終り、整備が行われていた。  両軍の先発メンバーは、すでに発表されている。  巨人は、今日は、松本の代りに、一番にホワイトを入れてきた。  片岡は、頑固に、メンバーを崩さなかった。打順もいじらない。逆にいえば、それだけ、ハンターズの選手層が薄いということでもあった。  六時三十分。  第二戦が開始され、大歓声の中で、久藤が大きな身体をマウンドへ運んで行った。  丁度、同じ時刻。大阪府警本部では、神戸市内で起きた一つの事件に、ショックを受けていた。  国鉄、神戸駅近くのレストランで、夕食中の男女が、突然、ケンカを始め、女の方が、いきなり、テーブルの上にあった果物ナイフで、男を刺したのである。  レストランの主人が、すぐ一一〇番して、警察が駆けつけ、女性は逮捕され胸を刺された男は、病院へ運ばれた。  この男が、指名手配の永井宏だったのである。  藤木は、すぐ、神戸に急行した。  刺した女の方は、神戸署に収容されていた。  女の名前は、谷田礼子。三十歳である。  逮捕されたときは、ひどく興奮していたということだったが、藤木が着いたときには、もう、かなり落着いていた。  二人が持っていたスーツケースと、ボストンバッグは、警察に保管されていたが、その中身は、着がえなどで、一億円どころか、十万円も入っていなかった。  藤木は、谷田礼子にあった。  礼子は、蒼《あお》ざめた顔をしていたが、藤木に対して 「みんな、私が馬鹿《ばか》だったんです」 「彼と、姫路のホテルに泊りましたね?」 「ええ」 「いつから、泊っていたんですか?」 「一日だけですわ。昨日の午後一時にチェック・インして、今日の午後、チェック・アウトしたんです」 「一緒の部屋に入ったわけですね?」 「ええ」  と、肯《うなず》いてから、礼子は、俯《うつむ》いてしまった。 「彼に電話がかかってきたり、誰かが訪ねてきたりしたことは、ありませんでしたか?」 「いいえ。ぜんぜん。姫路には、友人が沢山いるといったのに、誰も訪ねて来ないし、外出もしないので、おかしいなと思ったんです」  と、礼子は、いった。 [#改ページ]   アクシデント  甲子園球場は、文字どおり立錐《りつすい》の余地のない大観衆で、埋っている。  巨人の一番は、ホワイトである。左バッターボックスに入ったホワイトに対する久藤の第一球は、とてつもなく高いボールだった。  もともと、出足のいいピッチャーではない。  徐々にリズムにのっていく投手だった。それが、第一戦に大敗しての第二戦の先発だけに、緊張し、肩に力が入り過ぎているのだ。  普段でさえ、白い久藤の顔が、マウンド上、カクテル光線を浴びて、一層、青白く見える。  二球目は、今度は低すぎて、ワンバウンドしそうなボールになった。  甲子園は、ほとんどが、京神ハンターズファンだが、それでも、巨人ファンがいて、久藤が、ボールを連発するたびに歓声を上げる。  キャッチャーの若木が、何度も、両手を大きく広げるジェスチャーをする。マウンド上の久藤に、間をとれといっているのだ。  久藤は、マウンド上で、大きく息を吸い込んだ。  何度も、ロージンに手をやる。すでにハンターズでは中堅の投手なのに、自分が、緊張し、唇が乾いているのがわかった。  第三球も、ボールになった。  巨人のダッグアウトのヤジが、久藤の耳に聞こえてくる。でかい声を出しているのは、中畑あたりだろう。  ホワイトは、バントの構えをして、久藤を牽制《けんせい》している。ノーストライク・スリーボールだから、待てのサインが出ていることは、明らかだった。  ここで、ハーフスピードの直球で、ストライクをとるのは、簡単だった。十中八九、いや、百パーセント、ホワイトは、打って来ないだろう。  だが、それでも、ワン・スリーだ。もう一球、半速球を投げるわけにはいかないし、こんな試合では、弱気になれば、つけ込まれる。  久藤は、四球を覚悟で、速球を投げ込んだ。  彼の細い身体が、大きくしなって、外角一杯に、快速球が、小気味よく決った。  アンパイアが、派手なアクションで 「ストライク!」と、叫んだ。  とたんに「うおッ」という大歓声が、球場を押し包み、それが、マウンド上の久藤のところまで、押し寄せてきた。  ワン・スリーだが、思い切って投げたボールで、ストライクをとっただけに、気持に余裕が出来た。  第五球も、直球でストライク。  ツー・スリーになってから、ホワイトは、粘った。  ファウルが続く。白球が、バックネットに飛ぶたびに、歓声があがる。  久藤は、直球で押しまくった。何球目かに、若木が、フォークボールのサインを出したが、久藤は、首を横に振った。  第一打者は、直球で打ち取ってやろうと、最初から決めていたからである。フォークを混ぜれば、ホワイトを、簡単に打ちとれたかも知れないが、それでは、今夜の自分の直球の威力がわからない。  それに、野球は、集団のゲームだが、投手と打者は、一対一の勝負である。粘られて、変化球でかわしたら、甘く見られるという気があった。  七球、八球と、まるで、意地になったみたいに、久藤は、直球を投げ込んだ。  投げているうちに、少しずつ、かたさがとれて、球に伸びが出てくるのがわかった。  九球目、内角高めに投げ込んだ速球にホワイトは、振りおくれて、弱々しいキャッチャーフライを打ちあげた。  はじめて、久藤の口もとに、微笑が浮んだ。老練なホワイトが、振りおくれたからである。  今日の巨人は、二番に、河埜を入れている。  ホワイトが、その河埜に、何かささやきながら、ダッグアウトに帰って行くのを、久藤は、眼の隅で見ていた。 (今日の久藤は、球に伸びがあるぞ)  とでもいったのだろう。  相手の打者が、そういう先入観を持ってくれた方が投げやすい。振りおくれまいとするところへ、ゆるい変化球を投げれば、ボテボテのゴロになる確率が高いからだ。  久藤は、二番の河埜を、予定どおり、変化球で、サードへのゴロに打ちとると、三番に入っている篠塚を、フォークで三振に切ってとった。  片岡が、ほっとした顔で、久藤をむかえた。巨人に勝つためには、どうしても、投手陣の踏ん張りが必要だったからである。  かわって、巨人のマウンドに、中二日の西本があがった。  キャッチャーを相手に、一球、二球と投げる。 (スピードはないが)  と、片岡は、思った。  遠くから見ていると、平凡な二流の投手に見える。だが、そこが曲者《くせもの》なのだ。  ボールが、絶対に、高目に来ない。直球も、変化球も、全て、低目に集る。  それに、この投手は、冷静だ。  江川と張り合う激しさを持っているのに、マウンド上で、なぜ、あれだけ冷静なのか、片岡は、ときどき不思議に思うことがある。 (三回ぐらいまでは、点が入らないかも知れないな)  大阪府警本部で、藤木は、当惑していた。  関係者の言葉は、全部、聞いた。が、容疑者が、全く、浮んで来ないのだ。  問題の時間に、姫路のホテルにいたと思われる泊り客の中に、一人も、容疑者がいないことになってしまった。 「こんなことは、あり得ない」  と、思う。  一億円の詰ったスーツケースを持って、田島は、ホテルに入った。犯人の指示に従って、エレベーターで十階に入り、トイレに置いた。これは、間違いない事実である。  田島を尾行していた藤木も、続いてホテルに入った。  田島が、エレベーターでおりて来て、かわりに、藤木があがって行った。藤木が、十階のトイレに行ったときは、すでに、スーツケースのふたが開けられ、一万円の札束は、消え失せていた。  犯人は、田島が、ホテルに入ったときに、多分、十階で待ち受けていたに違いない。田島を尾行していた藤木が、怪しい人物を見ていないからである。  だが、犯人が、十階で待ち受けていたのなら、そのまま、何くわぬ顔をして、ホテルに残っているか、一億円を詰めたスーツケースなり、ボストンバッグを下げて、あわただしく、ホテルを出て行った筈である。  しかし、ホテルに残っていた泊り客の中に、一億円を持った人間はいなかったし、といって、今西のカメラに写った人間の中にも、犯人がいない。  これは、どういうことだろうか?  犯人は、どこへ消えてしまったのだろうか? 「少し休んだら、どうだね」  と、古川一課長が、声をかけた。 「はあ」 「私の部屋へ来たまえ」  と、古川が、いった。  捜査一課長室に入ると、古川が、自分で、コーヒーをいれてくれた。気さくな課長である。 「恐れ入ります」  と、藤木は、恐縮した。  古川は、煙草《たばこ》に火をつけ、窓の外に眼をやった。  ついさっきまでは、まだ、ぼんやりと明るさが残っていたが、今は、完全に、暗くなっている。 「君は、ハンターズファンかね?」  古川は、夜の闇《やみ》に、眼を向けたまま、きいた。 「もちろん、ハンターズファンです。うちの五歳になる息子《むすこ》も、おやじの私以上に、熱狂的なハンターズファンです」  藤木は、一人息子の顔を思い出して、微笑した。 「私もだよ」と、古川がいった。 「ところで、犯人はどうだろうか?」  え? という顔で、藤木は、課長を見た。  古川は、くるりと、振り向いた。 「何となく、そのことが気になってね。犯人は、どんな人間だろうかと考えているうちに、果して、京神ハンターズのことを、どう思っているのだろうかと考えたんだ」 「ハンターズのファンなら、こんな真似《まね》はしませんよ」  と、藤木は、吐き捨てるようにいった。  京神ハンターズは、今、十八年ぶりの優勝をかけて、巨人、広島と、せり合っている。ハンターズファンなら、こんな時に、足を引っ張るようなことは、絶対にしない筈だと思う。 「じゃあ、アンチ・ハンターズかな?」 「ある意味では、そうかも知れませんね。しかし、スポーツは、嫌いな奴じゃありませんか。本当のベースボールファンなら、いくら巨人や、広島を優勝させたくても、こんな卑劣な方法はとりませんよ。それに、たとえ、ハンターズを負けさせようとして、リリーフ・エースの江島を誘拐したとしても、それはそれで、なおさら、一億円なんかは、要求して来ないでしょう」 「しかし、野球の知識は、あるんじゃないかね? 少なくとも、野球について、無知じゃない。今、京神ハンターズから、江島選手を奪い取れば、ハンターズが、窮地に立つことは知っている人間ということになる」 「その通りです。それに、江島を誘拐すれば、京神ハンターズ球団が、一億円支払うことも、計算していたと思います。そうした知識は、持っているわけです。犯人にしてみれば、もっともいい時期に、江島を誘拐したと思いますね。京神ハンターズは、十八年ぶりに優勝できるかどうかは、今度の巨人との四連戦にかかっています。この時期に誘拐すれば、もっとも高く、江島に値がつくと計算したんだと思いますね」 「その点は、同感だね。しかし、今までの誘拐事件と、少し感じが違うとは思わないかね?」  と、古川が、いった。 「どんなところですか?」 「誘拐というのは、金が欲しいからやるもんだよ」 「はい」 「今度の事件だが、江島選手が行方不明になったという噂《うわさ》が出たのは、犯人から身代金の要求がある大分前だったんじゃないかね?」 「そうです。確か、丸一日前だったと思います」 「その間、犯人は、いったい何をしていたんだろう?」  古川は、また、窓の外に眼を向けた。まるで、夜の闇の中に、答があるような眼だ。 「じっと、様子をうかがっていたんじゃないでしょうか?」  と、藤木が、いった。 「何のだい?」 「何のといわれると、困るんですが——」  藤木は、いい澱《よど》んだ。 「金が欲しくて、誘拐したのに、丸一日も、身代金を要求せずにいたのは、考えてみれば、不自然だよ。様子をうかがうといっても、一日待てば、それだけ安全になるというものでもないからね」 「その通りです」 「私は、こんな風に考えたんだ。あくまでも、私の勝手な想像だがね」  と、古川は、断ってから 「最初は、誘拐じゃなかったんじゃないだろうかとね。それが、成り行きで誘拐事件に発展してしまったとは、考えられないかね?」 「すると、最初は、何だったと思われるわけですか?」 「それを、考えているんだよ。江島選手と関係のあったホステスが、京都で殺されたんじゃなかったかな?」 「はい、京都のクラブのホステスが、自宅のマンションで殺された事件があります。京都府警では、それに関連して、江島が姿を消したと考えていたようです」 「問題は、その時、すでに、江島選手が誘拐されていたのかどうかということなんだ。結局、誘拐事件になって、身代金を要求して来たんだから、同じだと思うかも知れないが、私は、犯人を推理する上で、微妙に違ってくると思うんだよ」 「それは、わかります」 「妙な誘拐だなという印象が、どうしても、ぬぐい切れなくてね」  古川は、呟《つぶや》くようにいってから、急に自分の机に腰を下すと、引出しから、トランジスタラジオを取り出した。  スイッチを入れると、甲子園球場からの中継が、飛び込んできた。  二回表の巨人の攻撃だが、まだ、両軍とも、点が入っていない。  久藤の一投ごとに、わあ、わあと、歓声があがっている。アナウンサーの声が聞こえなくなるほどの大歓声である。 「いいんですか? 課長」  と、藤木が、心配して、古川を見た。 「ラジオを聞くのがかい?」  古川が、笑った。 「まだ、犯人の目星もついていませんから」 「気になるなら、消すよ」  と、古川は、ラジオのスイッチを消してから 「犯人は、どこにいるんだろうか? 甲子園で、ゲームを見ているだろうか? それとも、手に入れた一億円を前に置いてテレビ中継を見ているだろうか? それとも、ゲームどころではなく、身代金を手に入れたんで、車か飛行機で、逃亡の最中だろうか?」  と、藤木に、きいた。 「ひょっとすると、甲子園で、ゲームを見ているかも知れませんね」  と、藤木が、いった。 「なぜ、そう思うんだね?」 「電話で聞いた犯人の声は、自信にあふれていました。ああいう犯人は、自分の行動の結果を見たがるものじゃないでしょうか。それに、今度の誘拐は、五、六歳の幼児がさらわれたわけじゃありません。江島という人気者が、さらわれたのです。しかも、江島は、ただ単に、人気者というだけでなく、プロ野球を面白《おもしろ》くするかどうかのカギを握っている人物でもあります。そんな人間を誘拐した犯人は、恐らく、その結果を、自分の眼で見ようとするんじゃないでしょうか? 私が犯人なら、そうしますね」 「つまり、甲子園へ来て、今夜のゲームを見ているんじゃないかというんだね?」  古川は、じっと、藤木を見た。 「そうです。どうも、そんな気がして仕方がないんです。昨日のゲームで、京神ハンターズは、巨人に大敗しました。まあ、江川に完全に抑えられてしまったわけですが、もし、江島がいたら、投手戦に持ち込んで、ひょっとすると、勝てたかも知れないのです。犯人は、昨日も、甲子園へ来て、ハンターズが負けるのを、楽しみながら見ているんじゃないでしょうか」 「その犯人の心理は、わかるような気がするね」  と、古川は、いった。  古川は、部屋の隅にあるテレビのスイッチを入れた。  巨人戦のテレビ放送は、はじまったばかりのところだった。丁度、七時である。  すでに、二回の裏も、ツー・アウトだった。  テンポの早い投手戦になっている。  ファウルが飛ぶたびに、超満員の観客席が、ブラウン管に映る。 「犯人は、多分、自分の力によって、試合が左右されると思って、得意になっているに違いありません」  と、藤木がいった。 「すると、この観客の中にいる可能性があるということになるねえ」 「どこかで、見ていると思いますね」 「五万人を越す大観衆の中の一人とすると、どこにいるか、見当もつかんね。第一われわれは、犯人が、どんな顔をしているのかもわからないんだからね。脅迫電話の声で、男だろうということだけは、わかっているが」 「外野席には、いないと思いますね」  藤木は、テレビに眼をやったまま、古川にいった。  二回の裏も、ハンターズは、西本の低目に変化する球に抑えられて得点できず、両チームとも、ゼロが続いている。  CMになった。 「なぜ、犯人が、外野席にはいないと思うのかね?」  古川が、きいた。 「外野席では、犯人の楽しみが少ないからです」 「楽しみが少ないか」 「犯人は、自分が江島を誘拐した結果を、知りたい筈です。外野席にいても、京神ハンターズが負けるのはわかりますが、それだけなら、プロ野球ニュースを見てもわかります。江島がいなくなったことによって、京神ハンターズ球団や、監督や、選手たちが、どんなに困惑し、どんなしかめ面をするかを見たくなるんじゃないでしょうか。といって、ハンターズの球団事務所をのぞくわけにはいかない。捕る危険がありますからね。となると、一番いいのは、甲子園のハンターズのダッグアウトです」 「なるほどね」 「しかも、観客席にいる観客の中にもぐり込んでいれば安心です」 「すると、サード側の内野席に居れば、ハンターズのダッグアウトがよく見えるというわけだね」 「その通りです。双眼鏡を使えば、一層よく見えます。もし、犯人が、私の推理どおりの心理を持ち、今夜、甲子園へ行っているとすれば、多分、今、課長のいわれたように、サード側の内野スタンドにいると思います。しかも、その男は、試合を見るよりも、ハンターズのダッグアウトをのぞき込んでいるでしょう。双眼鏡で」 「よし、それを調べてみよう」  と、古川は、決断した。 「しかし、課長」  と、今度は、いい出した藤木の方が、あわてて 「今のは、あくまで、推理でしかありません。本物の犯人は、一億円を手にしたわけですから、甲子園になど行かず、国外逃亡を図っているかも知れません。その方が、確率は高いと思います」 「恐らくね。しかし、われわれは、犯人について、何一つわかっていないんだよ。こんな状態では、推理に頼るのも一つの方法じゃないか。もし、それで犯人が捕れば、こんなもうけものはないんじゃないかね。すぐ、手配してくれたまえ」  と、古川は、いった。  藤木は、甲子園球場内の警官詰所に、連絡をとった。  天下分け目の対巨人四連戦を迎え、連日、甲子園球場の警備に当る警官は、普通のゲームの時の倍の人数が、配置されている。  藤木が、彼等に頼んだのは、サード側のスタンドを監視し、ゲームよりも、ハンターズのダッグアウトに注目している人間がいたら、マークせよということだった。  警官たちには、江島が誘拐されたことは告げなかったから、ひどく奇妙な命令に思えたことだろう。  ゲームは、三回の裏に入っていた。  まだ、両軍とも、点が入っていない。そろそろ、打者が一巡する。  去年、西本は、中盤で、中二日で投げて、藤田巨人の優勝に貢献した。  今年も、それを狙《ねら》っての西本の今日の登板だろうが、去年のように、うまくはいくまいと、片岡は見ていた。  去年ほどの球の威力がないからである。相変らず、根気よく、球を低目に集めているから、大けがはしないが、一発長打を浴びることが、去年より多くなっていることでも、それがわかる。  今日、片岡は、三番に、外人のジョンストン外野手を入れていた。  ここまで、ホームランは二十一本打っているが、打率は、二三〇と悪い。特に西本の低目の変化球が苦手なのだが、今日、西本の登板を予想しながら、あえてジョンストンを三番に入れたのは、西本の疲れを考えたからである。  西本の球には、江川のような凄《すご》みはない。高目に来れば、平凡な投手の球でしかない。ジョンストンの腕力をもってすれば、苦もなく、外野席まで、はじき飛ばせるだろう。彼には、その一発を期待した。  四回表も、久藤は、中畑にシングルヒットを許したが、ゼロにおさえた。  四回の裏である。  問題のジョンストンが、ワン・アウトで、打席に立った。  第一打席で、ジョンストンは、シュートを打たされて、ショートゴロに倒れている。  片岡は、じっと、西本を見つめた。この回から、少しずつだが、西本の球は、高目に浮いて来ているのを、片岡は見ている。  西本も、捕手の山倉も、間合いを長くしてとるのは、それに気付いているからだろう。  第一球は、低く流れて、ボールになった。  第二球のカーブは、低目に落とすつもりだったのだろうが、高目にゆるく入って来た。  気負い込んだジョンストンのバットが一閃《いつせん》した。  キーンという金属音がした。  だが、バットの振りが早過ぎた。  白球は、外野スタンドに飛ぶかわりにサード側の内野スタンドに、猛烈な勢いで、飛び込んでいった。  超満員の観客は、よけるのも、ままならず、わあッという歓声と、キャッという悲鳴とが、内野スタンドで起きた。  その光景を、今西は、球団事務所のテレビで見ていた。  テレビのカメラは、すぐ、マウンドの西本に切りかわった。  今西は、ほっとした。今のライナーで怪我人《けがにん》でも出ていたら大変だと思ったからである。カメラが、ゲームに戻されたところをみると、何ごともなかったらしい。  山倉が、マウンドの西本のところへ、駆け寄った。何かいっている。今の猛烈な当りについて、注意しているのだろう。  しかし、その二人の視線が、ふと、内野スタンドに向いた。  カメラもそれにつられて、再びサード側の内野スタンドに向けられた。  グラウンドに散っている巨人の選手たちも、何ごとだろうという顔で、それぞれの場所から、内野スタンドに眼をやっている。  ジョンストンの打球が突き刺さったあたりで、五、六人の観客が立ち上って、何か騒いでいる。  テレビの画面に、警備の警官が二人、あわてて、問題の場所に駆け寄ろうとしているのが映っている。  —何が起きたんでしょうね?  —多分、怪我人が出たんだと思いますがね  —さっきの打球でですね?  —すごいライナーでしたからね。ひどい怪我でなければいいんだが  アナウンサーと、解説者が、そんな会話を交している。  ゲームは、一時、中断されてしまった。  担架《たんか》が運ばれていくのが映った。  —今、知らせが入りましたが、男の人が、怪我をして、どうやら、病院へ運ばれるようです  アナウンサーが、甲高い声でいった。  満員の観客の間をぬうようにして、担架にのせられた男が、外に運び出されていくのを、今西は、テレビの画面で見ていた。  望遠カメラが、ぐうッと、近寄っていく。担架の上に横たわっている男の顔が、テレビ画面に、大写しになった。  角張った顔である。その顔に血の気がなく、片手が、だらりと、担架の外に垂れ下っている。  それを見ている今西の顔色が、少しずつ変っていった。 (おや?)  という疑問が (あいつだ!)  という驚きに変っていく。  担架の上にのせられているのは、間違いなく、あの松尾だった。  顔も、大きな身体も、間違いなく、松尾だった。  江島を探しましょうといっていたのに、その後、どこへ行ったのか、全く、連絡をして来なかったのだが、その松尾が、担架にのせられている。  担架が、外に運び出されると、ゲームが再開された。  だが、今西は、立ち上ると、球団事務所を出た。  松尾の容態が、心配になったからである。  エレベーターで、階下におりると、玄関のところで、タクシーをつかまえた。 「甲子園へやってくれ」  と、運転手にいった。  車のラジオは、声高に、実況放送をしている。  ジョンストンが打った。  ライナーの中前打である。  この回まで、四球の走者や、当り損ないのヒットは出ていたが、ヒットらしいヒットは、これが初めてだった。  観客の気勢も上ったらしく、わあわあという歓声で、アナウンサーの声が、聞きにくくなっている。 「旦那《だんな》さんは、ハンターズの関係者ですか?」  運転手が、きいた。 「なぜだい? 甲子園へ行ってくれって、いったからかい?」 「ええ」 「さっき、ライナーが当って、怪我人が出たっていってたが、その後、どうなったかわからないかね?」 「さあ、もう、何ともいってませんから、わかりませんね。畜生!」  ふいに、運転手が、怒鳴った。次打者の当りが良すぎて、たちまち、併殺になってしまったのだ。  だが、鋭い当りが出はじめたことは確かである。多分、今頃は、監督の片岡は、西本攻略の手応《てごた》えを感じ始めているだろう。  甲子園へ着くと、今西は、すぐ、球場の警備係へ、事故のことをきいてみた。 「あの人なら、救急車が来て、近くの病院に運びましたよ」  という返事が返ってきた。  そうしている間も、球場の方からは、時おり、大歓声が聞こえてくる。 「負傷の程度は、どんなだったんだね」 「とにかく、ぐったりしていて、呼びかけても返事をしませんでした。ただ、どの程度の怪我なのかは、わかってませんが——」  係員は、今西に答えながら、やはり、ゲームの方が気になるとみえて、警備室においてあるテレビの方に、時々、眼をやっている。 「怪我した人間の名前は、わかっているのかい?」 「名刺からわかりました。同じ名刺を何枚も持っていたんで、ええと、松尾という探偵事務所をやっている人ですね」 (やっぱり、彼だったんだ)  と、思いながら 「運ばれたのは、どこの病院だね?」 「確か、前田外科です」 「そこから、連絡はあったかね?」 「いや、まだ、ありません」 「前田外科の電話番号は、わかっているかい?」 「そこに書いてあります」  係員は、壁に貼《は》られたメモを指さした。  万一に備えて、近くの救急病院の名前と、電話番号が、書いてある。  今西は、警備室の電話をかりて、その病院に電話をかけた。 「甲子園から運ばれた怪我人のことですが」 「残念ですが、亡くなりました」  相手の言葉が、今西には、信じられなかった。  松尾の名前で、まず思い浮ぶのは、その巨躯《きよく》である。プロ野球選手としては大成しなかったが、身体だけは、頑丈で、使いべりがしなかった。  主として、二軍の生活だったが投手で入り、すぐ野手に転向したが、腕力は、ハンターズ一だった。ダンプといわれて、相手チームの選手に恐れられたものである。  野球の技術が優れていたからではない。ぶつかると、彼に体当りされた方が、こわれてしまったからだった。  そんな男が、突然、死亡するなどということが、今西には、信じられないのだ。  電話では、よくわからないので、今西は、前田外科病院へ行ってみた。  松尾は、救急車で運ばれたあと、中年の中島という外科医が、診察している。今西は、その中島医師に会った。  中島は、痩《や》せて、いかにも神経質そうな男だった。 「患者は、ここに運ばれて来たときに、すでに、絶命していましたよ」  と、中島は、冷静な口調でいった。  だから、手術は、死因を調べるためのものになってしまったという。 「それで、死因は、何だったんですか?」  と、今西は、きいた。 「脳挫傷《のうざしよう》です。何か固いものが、前頭部を直撃したようですね。前頭部が、大きくへこんでいましたからね」 「野球のボールが、激しい勢いでぶつかったら、そういう形で死亡すると思われますか?」 「さあ、私は、野球は知りませんからね」 「本当にご存知ないんですか?」  今西は、思わず、相手の顔を、見直してしまった。  今西のこれまでの人生は、プロ野球と共にあった。  若くして、プロ野球の世界に飛び込んだから、今西は、他の世界で、生活した経験がない。  それだけに、世の中の人間は、全て、プロ野球を知っていると考えてしまう。そんな考えを、時には、反省することもあるのだが。  今西は、病院の近くに、運動具店があったのを思い出し、そこで、硬式ボールを買い求めて病院に戻ると、それを、中島医師に見せた。 「これと同じボールが、頭に命中したと思われるんですが、どう思われますか?」  と、今西は、きいた。  中島は、硬式ボールを、手の中で、もむようにしていたが 「かなり、固いものですね」 「それが、百キロを越すスピードで頭に命中したら、即死するものですか?」 「そうですねえ。当りどころが悪ければ、即死の可能性はあるでしょう」 [#改ページ]   不審な死  プロ野球選手の打球のスピードは、楽に、一五〇キロは越えるといわれる。  昔、西鉄ライオンズで活躍した中西太の打球は、ボールの焦げる匂《にお》いがしたとさえいわれている。  そんな打球を、まともに頭部に受けたら、死亡することも、十分に考えられる。  ピッチャーライナーを、避け切れずに頭部に受け、一シーズン、寝込んでしまった投手がいたことも、今西は知っている。  だが、松尾は、ダイヤモンドの中にいたわけではなかった。  内野スタンドで、観戦していたのだ。ジョンストンが打った瞬間は、一五〇キロのスピードがあったとしても、打球がスタンドに飛び込んできたときは、一二〇キロぐらいになっていたと、今西は思う。  内野スタンドで見ていた観客が、ファウルボールに当って負傷したことは、何回かあった。  特に、子供は、ファウルボールを手で取ろうとするので、負傷することが多い。  だが、死んだ者はいなかった。少なくとも、今西は、内野スタンドの観客が、ファウルボールが命中して、そのために死亡したというのを聞いたことはなかった。  第一、松尾は、プロ野球に身を置いた男である。彼は、確か中学二年のときから、野球をやっていた筈である。それに、プロ野球から足を洗って、そう年月はたっていない。  肉体だって、まだ、若々しいのだ。  身につけた反射神経というものは、そう簡単に消えるものではない。知識として覚えたものではなく、身体が覚えたものだからだ。  広岡とか長島といった現役を引退したスターが、アトラクションなどで、フィールディングを見せると、いとも、軽快なのは、それが身についたものだったからである。  今西自身、四十歳を過ぎた今でも、ピッチャーマウンドに立って、十球中七球は、ストライクコースに投げる自信がある。もう、スピードは出ないが。  松尾だって、同じことだと思う。  ライナーが飛んでくれば、反射的によけた筈である。それが、身体が覚えた反射神経というものである。 「両手に、傷はありませんでしたか?」  と、今西はきいた。 「両手?」 「そうです。両手の掌に、引っかいたような傷はついていませんでしたか?」  今西が、そうきいたのは、超満員の内野スタンドで、身体をかわせなかったとしても、松尾は、飛んでくるライナーを、両手で取ろうとした筈だと思ったからである。  松尾の手は、グローブのように大きい。ただ、素手でライナーを受けると、掌が切れることもある。傷がつく。 「掌には、全く傷はありませんよ」  と、中島医師はいった。 「それは、間違いありませんか?」  今西は、念を押した。 「間違いありませんよ。どうしても、お疑いなら、ご自分で、ごらんになりませんか?」  中島は、ちょっと、眉《まゆ》をひそめて、今西を見た。 「いや、先生の言葉を信用しましょう。ところが、彼の所持品は、こちらにありますか……」 「手術をするときに、裸にしたのでね。衣服や所持品は、別にしてありますよ」 「見せて頂けませんか」 「いいでしょう。ただし、持っていかないで下さいよ。あとで、家族に渡さなければなりませんからね」  と中島はいってから、看護婦に、大きな風呂敷包《ふろしきづつ》みを持って来させた。  中には、服や靴、それに、財布などが入っていた。  大きな靴である。それを見たときに、今西は、松尾は死んだのだという実感がわきあがってくるのを覚えた。  名刺入れには、彼の名刺が十五、六枚入っている。が、他人の名刺は、入っていなかった。  白井泰造に会いに行った筈だが、彼の名刺はない。多分、白井が、名刺をよこさなかったのだろう。  その代り、財布を調べてみると、一千万円の小切手が出てきて、今西を、驚かせた。  振出人は、白井泰造である。  今西の顔が、ゆがんだ。  松尾には、江島の行方を探してくれと頼んであった。彼は、今西さんの頼みならと、勢い込んでいた筈である。  そして、白井泰造に会いに行くと、いったのである。多分、白井泰造が、江島の行方を知っているとでも思ったのだろう。  ところが、松尾は、白井の振り出した一千万円の小切手を持っていた。これは、明らかに、買収されたのだ。 (お世話になった今西さんのためなら、どんなことでもすると、いっていたのだが——)  裏切られたという思いが、苦く、胸をよぎる一方で、一千万円もの小切手をちらつかされたら仕方がなかったろうと、死んだ松尾に同情する気持も起きた。松尾も、金に困っていたに違いないからである。  もう一つ、今西の興味をひいたのは、小型の双眼鏡だった。掌にのるぐらいの小型双眼鏡で、上衣《うわぎ》のポケットに入っていた。  松尾は、今日、甲子園の内野スタンドに座り、この双眼鏡で、いったい、何を見ていたのだろうか?  今西が、首をかしげたとき、どやどやと足音がした。  今西が、廊下をのぞいてみると、府警本部捜査一課の藤木警部が、部下の刑事を連れて、大股《おおまた》に歩いて来るのが見えた。 「どうしたんですか?」 「今西さんですか」  と、藤木は、びっくりしたように、見てから 「なぜ、こんなところにいるんですか?」  と、きいた。 「私は、ハンターズのマネージャーです。そのハンターズが、今、本拠地の甲子園でゲームをしているわけですが、その主催のゲームで、観客の中から死者が出ましてね。それで、あわてて、この病院に来てみたというわけです。まさか、藤木さんも、同じ用で、ここへ来られたんじゃないでしょうね?」 「実は、私も、その観客に会いに来たんですよ。しかし、死んだとは思わなかったな」  藤木は、口惜しそうに、舌打ちした。  今西は、わけがわからなくて 「どうして、警察が、用があるんですか? ただ単に、サード側の内野スタンドにいて、たまたま、ファウルボールを頭に当てただけのことでしょう?」 「ボールが当ったことは、知っていますが、われわれは、そのことには、あまり関心がないのですよ。松尾という名前だそうですが、彼個人に関心があるんです」 「松尾に?」  と、今西が、思わずいうと、藤木は、きらりと、眼を光らせて 「今西さんは、その男を、知っているんですか?」  と、きいた。  今西は、今更、知らないともいえず 「ええ、知っていますよ。元、京神ハンターズの選手だった男です。身体が大きいので、期待されて入団したんですが、とうとう、ものにならずに退団し、今は、自分で探偵事務所をやっています。しかし、藤木さんは、なぜ、松尾に、眼をつけたんですか?」 「元ハンターズの選手ですか」  と、藤木は、呟いてから 「実は、われわれは、今夜のゲームで、サード側の内野スタンドを監視していたんです。江島選手を誘拐して、一億円の身代金を奪った犯人の心理を考えてみたからなんですがね。江島という切り札を誘拐した犯人は、その結果、ハンターズのゲームが、どうなるかを知りたいんじゃないか。ハンターズが困るのを見て、快哉《かいさい》を叫ぶつもりじゃないかとですよ」 「なるほど」 「サード側の内野スタンドに座れば、ハンターズのダッグアウトがよく見えます。犯人は、そこに座り、双眼鏡で、ハンターズのダッグアウトをのぞき込むんじゃないか。もし、打球が外野に飛んで、みんなが、そちらを見ているのに、ハンターズのダッグアウトを見ている人間がいたら、それは、今度の犯人かも知れない」 「松尾が、そうしていたんですか?」 「監視していたところ、内野スタンドで、双眼鏡を握り、ダッグアウトを見ていたんです」 「そういえば、松尾の所持品の中に、小型の双眼鏡がありましたが……」  今西がいうと、藤木は、わが意を得たというように、大きく肯いて 「そうでしょう。そうでしょう」 「しかし、藤木さん。松尾は、誘拐をやるような男じゃありませんがねえ」 「それなら、なぜ、内野スタンドに座って、ゲームをそっちのけにして、ハンターズのダッグアウトを、双眼鏡でのぞいたりしていたんでしょうかね?」 「ハンターズOBとして、心配だったからじゃありませんか」 「心配なら、堂々と、ハンターズを応援したらいいじゃないですか。それも、ファースト側の内野スタンドでね。ハンターズのダッグアウトを、スパイするみたいに、双眼鏡でのぞくのが、応援とは思えませんがねえ」  藤木は、皮肉ないい方をした。  今西だって、松尾の行動が、不自然なくらいは、わかっている。しかし、どうしても、彼が、江島の誘拐に関係しているとは思えないし、思いたくもなかった。 「正直にいいましょう」  と、今西は、いった。 「何ですか?」 「江島が、失踪《しつそう》して、まだ誘拐とわからない時に、私が、松尾を呼んで、彼を探してくれるように頼んだんです。探偵事務所をやっていましたからね。彼は、あちらこちら、探し回ってくれていたんです。だから、彼が、誘拐犯とは思えませんがねえ」 「とにかく、彼の所持品を見せて貰《もら》うことにしますよ」  と、藤木はいった。  藤木たちが、松尾の所持品を調べるのを、今西は、黙って見ていた。  廊下を、入院患者が、トランジスタラジオを鳴らしながら、通り過ぎて行った。  —ついに、ハンターズが、この四連戦で、はじめて先制しました。五回の裏、一点先取です。しかも、まだ、ワン・アウト、一塁、三塁です!  —ここで、ハンターズとしては、最低、あと一点欲しいですねえ  そんな興奮したアナウンサーの声が、今西の耳に聞こえた。思わず、今西の顔が、ほころんだ。  やはり、中二日で登板した西本は、中盤でつかまったらしい。それは、明らかに、巨人側の作戦ミスだろう。三点とれば、今日の久藤の出来から見て、勝つチャンスは十分にある。  江島なしで、今日、勝てれば—— 「今西さん」  と、藤木に呼ばれて、今西は、また、辛い現実に引き戻された。 「この白井泰造というのは、どういう男なんですか?」  藤木の手に、一千万円の小切手が、ひらひらしていた。  今西は、一時《いつとき》、迷った。  どこまで、警察に話していいかわからなかったからである。 「よく知りませんね」  と、今西はいった。白井泰造という男を、よく知らないのは事実だった。 「今西さん。あなたね、今、この松尾という男に、江島選手を探してくれと頼んだといったじゃありませんか。協力して下さらんと、江島選手を取り返せませんよ」  藤木は、いらだちを見せて、今西を睨《にら》んだ。 「じゃあ、話しましょう。しかし、江島の誘拐に果して関係があるかどうかわかりませんよ」 「それは、こちらで、判断しますから、話して下さい」 「江島が失踪《しつそう》したのは、京都のクラブのホステスが、自宅マンションで殺された直後でしょう。このホステスは江島と親しくしていたので、一時は彼が、彼女を殺して逃げているのではないかと思ったくらいです。われわれが、江島の行方を探していると、どこで知ったのか、大阪のクラブのママが、声をかけて来ましてね。新谷敏江という女です。百万円くれれば、江島に連絡がとれるというので、渡しましたが、この女は、消えてしまいました」 「————」 「ところで、この新谷敏江という女を調べていると、彼女が、白井泰造という男のことで、京都の私立探偵に調べさせていたことがわかったんです」 「なるほど。そこで白井泰造が出てくるわけですか。その京都の私立探偵が、松尾じゃないんでしょうね」 「違います。京都の私立探偵の名前は、日下です。私は、新谷敏江が、白井泰造の何を調べさせたのか知りたくて、それを、松尾に頼んだんです。同業の探偵同士で、教えてくれるんじゃないかと思いましてね。ところが、京都の私立探偵は、教えてくれなかった。そこで、松尾は、白井泰造本人にぶつかったんじゃないですか」  京都の私立探偵が殺されたことについては、今西は、何もいわなかった。松尾が疑われるかも知れないと思ったからだった。  藤木は、腕を組んで考え込みながら 「松尾は、何か、つかんで、白井泰造を脅迫して、この一千万円の小切手を手に入れたのかも知れませんね」 「私は、その小切手については、何も松尾から聞いていないのですよ。そのうちに、江島が消えたのは、誘拐されたのだとわかって来て、自然に、松尾のことは、忘れてしまったんです」 「脅迫して、一千万円をせしめた男なら、今度は、江島選手を誘拐して、一億円を手に入れようとしても不思議はありませんね」 「そう短絡的に結びつけられては困りますね」  今西は、松尾のために、異議を唱えた。 「しかし、今西さん。ハンターズのOBなら、ハンターズの選手である江島選手を誘拐するのは、やさしいんじゃありませんか。相手は油断するし、こちらにも腕力があるから、簡単に誘拐できたのと違いますか?」 「私には、彼が、犯人とは、とうてい思えませんね」 「じゃあ、なぜ今日、サード側の内野スタンドで、そんな真似《まね》をしていたんですかね?」  藤木は、また、皮肉な眼つきをした。彼は、明らかに、松尾を疑っているのだ。  今西にも、なぜ、松尾が、内野スタンドで、そんなことをしていたのか、わからなかった。  いや、それだけではない。松尾が、白井泰造と、どんな話をしたのか、何のために、一千万円の小切手が、松尾に支払われたのかもわからない。 「私にもわかりませんよ」  と、今西は、いった。 「彼は、江島選手と面識があったんですか?」  と、藤木が、きいた。 「松尾君が、ハンターズを辞めたときと、江島選手が入団したときが、少しですが、重なっている筈《はず》ですから、全く面識がないとはいえないでしょうが、親しくしてはいませんでしたよ」 「松尾というのは、どんな男だったんですか?」 「一言でいえば、気は優しくて、力持ちということでしょうね。いかつい顔をしているし、見上げるような大男ですからね。一見すると、怖そうに見えますが、あんな気のいい男は、ありませんでしたよ。プロ野球選手として、大成しなかった理由の一つは、あの優しさにあったんじゃありませんかね。プロ選手というのは、もっと、がめつく、闘争的じゃないと駄目ですから」 「そんな気の優しい男が、一千万円の小切手を、脅し取ったんですかねえ」 「その一千万円の小切手については、私は何も知りませんよ。白井泰造さんに、きいてみたら、どうですか?」 「もちろん、きいてみますよ」  と、藤木は、いってから、押収した松尾の名刺に眼をやり、部下の刑事に向って 「この事務所に行って、徹底的に調べて来い」  と、命令した。  部下の刑事二人が、松尾の名刺を持って、前田外科を、飛び出して行った。 「今西さん、あなたは、飼犬に手を噛《か》まれたんじゃありませんか?」  と、藤木が、いった。 「何のことです?」 「あなたは、松尾という男を、信用されて、江島選手を探してくれと頼んだわけでしょう。その時には、すでに、彼は、江島選手を誘拐していたんじゃないんですかね?」  と、藤木は、いった。 「そんなことは、信じられませんよ」 「しかし、身代金の受け渡しなんかについて、われわれが、出し抜かれたのは、われわれの近くに犯人がいたからじゃありませんか。あなたが信用していた男が犯人だとしたら、納得がいきますよ。あなたが、松尾を信頼していて、何気なく、喋《しやべ》ってしまっていたかも知れませんからね」 「そんなことはありませんね」  今西は、きっぱりといった。 「間違いありませんか?」 「江島の失踪が、誘拐となってからは、松尾に会っていないし、電話で話したこともないんです。どこへ消えてしまったのか、探していたくらいなんですよ。今日だって、ファウルボールが当ったのが、この松尾だったと知って、びっくりしているんです」 「今西さんを、信用しましょう」  と、藤木は、いったが 「しかし、なぜ、彼は、双眼鏡を持って、内野スタンドなんかにいたんでしょうね?」  と、同じ疑問を口にした。 「そのことで、今、考えついたんですが——」 「何ですか?」 「ひょっとすると、松尾も、藤木警部と同じことを考えたのかも知れませんよ」 「同じこと——ですか?」 「そうです。江島を誘拐した犯人が、サード側の内野スタンドに現われるかも知れないと考えて、見張っていたのかも知れません」 「しかし、あなたは、今、誘拐と決ってからは、松尾とは会っていないといわれた筈ですよ。それなら、なぜ、誘拐されたことを、彼は、知っていたんでしょうね?」  藤木が切り込んできた。 「松尾には、失踪した江島を探してくれと頼んであったんです」 「それは、聞きましたよ」 「その時、すでに、新谷敏江に、百万円とられていたんです。身代金の要求は、まだ来ていませんでしたが、誘拐されたのではないかという疑いは、十分にあったわけです。松尾は、その後、一億円もの身代金の要求があったことは知りませんから、犯人は、京神ハンターズを困らせようとして、リリーフ・エースの江島を誘拐したのではないかと考えたんじゃないでしょうか? そう考えた松尾が、あなたと同じことを思ったとしても不思議はないでしょう? 犯人が、甲子園球場へ来て、ハンターズのダッグアウトをのぞき込んでいると」 「しかし、それなら、なぜ、ファースト側の内野スタンドで、犯人を見つけようとしなかったんでしょうかね? 犯人と同じ観客席にいたんじゃ、犯人を見つけにくいですよ」 「松尾は、腕力に自信があるし、私立探偵をやっていたから、自分の手で、犯人を捕えようとしていたんじゃないかと思うんです。そのためには、反対側のスタンドにいったのでは、捕えられない。それで、犯人が現われる可能性のあるサード側の内野スタンドに、もぐり込んでいたんじゃないかと思うんです」  と、今西は、いった。 「それは、あなたに、江島選手を探してくれと頼まれていたからですかね?」 「それもあるでしょうが、松尾は、探偵事務所を開いたものの、調査依頼がないと、なげいていたんです。ああいう仕事は、信用が物をいいますからね。もし、江島を誘拐した犯人を、自分の手で逮捕し、彼を助け出せば、大変な信用がつくと計算していたかも知れません。それに、京神ハンターズ球団から、お礼の出ることも」 「すると、張り切って、犯人を逮捕できるかも知れないと思っていたところへ不運にも、ファウルボールが飛んで来て、死んでしまったというわけですか?」  藤木がいうと、今西は、じっと考え込んで 「どうも、松尾の死には、うなずけないところが、多すぎるんですよ」 「しかし、ファウルのライナーが命中して死んだんでしょう?」 「松尾は、いやしくも、プロ野球選手だった男ですよ。それに、身体を悪くして、やめたわけでもありませんし、年齢《とし》も、まだ若いんです。ファウルボールをよけそこねて、頭に当てて死ぬなんて、どうしても考えられないんです」 「何かに、気をとられていたら別でしょう。今西さんも、松尾が、犯人を捕えようとして、サード側の内野スタンドにいたといわれたじゃありませんか。犯人らしき人物を見つけて、そちらに気を取られていたとき、ライナーが飛んで来たら、いくら、元プロ野球選手でも、よけ切れないと思いますがねえ」 「そうかもしれません。しかし、たとえ、そうでも、おかしいのですよ。さっき、遺体を見せてもらいましたが、額のあたりが、小さく陥没して、血がにじんでいました。医者は、脳挫傷《のうざしよう》といっていましたがね」 「それが、どこかおかしいんですか?」 「ボールの痕《あと》がついていないんですよ。普通、猛烈な勢いで、野球のボールが当ると、はっきりと、ボールの痕が、皮膚につくものなんです。ボールの縫い目が、そのまま、ついてしまうとかですよ」 「しかし、頭部は、堅いから、痕がつかないことだって、あり得るでしょう?」 「考えられないことはありませんが——」  今西は、首をかしげていた。  どうしても、元プロ選手の松尾が、ファウルボールで死ぬなんてことが、今西には、考えられないのである。これは、理屈ではなく、勘であり、信念に近いものだった。  藤木は、語調を改めて、今西にきいた。 「ボールが当って死んだんじゃないとすると、今西さんは、どう思うんですか?」 「誰《だれ》かに、殺されたんじゃないかと思うんですよ。丁度、ライナーのファウルボールが、彼の座席の近くに飛んできた。犯人は、それを利用して、何か堅いもので、松尾の額を一撃したんじゃないかとね。そうすれば、ライナーが命中して、死んだと思わせられると計算してです」 「すると、その犯人というのは、江島選手を誘拐した犯人の可能性もあるわけですね」  藤木が、きらりと眼を光らせた。 「あり得ますね。ライナーが命中して死んだなんてことは、全く信じませんが、警部が、今いった、誘拐犯人を、内野スタンドに見つけ、逆に、その犯人に殺されたという可能性は、十分にあると思っていますよ。今もいったように、松尾は、腕力に自信があったから、犯人を見つけても、つい、油断してしまったんじゃないかと思うんです」 「あなたの話だと、犯人は、まだ、甲子園の内野スタンドに残っているかも知れませんね」  藤木は、急に、顔色を変えて、電話の方に走り出そうとした。  今西は、それを呼び止めて 「ファウルボールは、返すことになっています。サード側の内野スタンドから、グラウンドに返されたボールの中に、血痕《けつこん》が付着していたものがあったかどうかきいてみてくれませんか」 「わかった。聞いてみましょう。それがなければ、あなたのいう通り、殺された可能性が出てくるわけですからね」  藤木は、病院の外に停めてあるパトカーのところに行き、車に付いている無線電話で、府警本部に連絡した。  府警本部から、更に、甲子園球場の派出所に、連絡される筈だった。  その間、今西は、廊下の端にある看護婦詰所をのぞいてみた。  窓ガラス越しにのぞくと、三人の看護婦と、若い医者が、お菓子を食べながら、テレビを見ていた。  巨人戦は、すでに、八回の裏まできている。投手戦が続いているのだ。  巨人側は、西本から角へと、リレーし、八回の表に、代打を出した関係で、この回のハンターズの攻撃には、加藤を、三人目のピッチャーとして、登板させてきた。  ハンターズ側は、いぜんとして、久藤が、マウンドを死守している。  スコアは、1—0のままである。  久藤は、よくがんばっているが、ハンターズの打撃は、相変らず、淡泊である。一点とって、それで満足してしまったのか、八回裏も、さして、調子のよくない加藤に対して、簡単に、三者凡退に終ってしまった。  いよいよ、九回表である。 [#改ページ]   裏切り  一点を追う巨人の最終回の攻撃は、簡単に二死となって、バッターボックスには、去年新人王をとった原が入った。  ホームランは、すでに三十本を越しているが、打率は、二割五分を上下している。  二死をとられているから、当然、原は、ホームランを狙《ねら》ってくるだろう。巨人の作戦というより、原の性格である。目立つことが好きなのだ。何としてでも、塁に出るということより、ここで、ホームランを打って同点にするのを考えるのが、原という男に違いない。  —すでに、ツー・アウト。あと一人打ちとればこの四連戦を、一勝一敗のタイに持ち込むことが出来るのです  アナウンサーが、興奮した調子で、喋っている。  カメラが、マウンド上の久藤をとらえ、また、バッターボックスの原の表情をとらえた。  久藤は、ここまで、巨人を無失点におさえているといっても、七安打を打たれ、四球も四個出している。決して、絶好調ではないのだ。  もし、江島がいたら、当然、七回あたりから、彼に投げさせていただろう。  久藤は、絶好調の時でも、球が高目に浮いて、一発を食う確率の高い投手である。今日は、絶好調といえないし、気力で投げているところがあった。  あと一人と考え、投げ急ぎをする時が一番危い。それに、相手は、甘いところがあるが、意外性の強い原である。  今日の原は、手もなく、久藤にひねられている。それだけに、一か八かで、振り回してくるだろう。凡退する可能性も強いが、一発、ホームランの確率も高くなっているのだ。  監督の片岡も、それが気になったのだろう。  ツー・アウトをとったところで、ダッグアウトに出かかった。が、途中で、また、奥へ引っ込んでしまった。  二死を簡単にとった。そのリズムを崩したくないと思い返したのかも知れない。久藤は、多分に気分屋なところがある。あと一人というところへ、監督が出て行けば、気分を害して、かえって、投げやりになるかも知れない。  片岡は、そんなことも、考えたのかも知れない。 (まずいな)  と、ふと、テレビを見ていて、今西は思った。  たとえ、あと一死をとれば勝利というときでも、注意したかったら、した方がいい。中途半端が一番いけないのだ。理屈ではなく、今西が、今まで戦って来ての経験だった。  第一球。原が見事に空振りした。  バッターボックスで、原が、照れ笑いをしている。  明らかに、ボールとわかる低目の球を、強振したのだ。  それなのに、空振りさせた久藤の方が、ひきつったような表情になっている。テレビのブラウン管に、大写しになった久藤の顔に、余裕がないのだ。  巨人との差は、現在、二・五ゲームである。負ければ、三・五差になってしまう。九月に入っての三・五差は辛い。巨人の方は、負けても、まだ一・五差ある。そうした余裕と、切迫感が、原の笑いと、久藤の緊張に現われたのかも知れなかった。  第二球も、第一球と同じく、外角低目にきた。  今度は、原は見送ってワンストライク・ワンボールになった。  テレビを見ている今西の顔が、次第に、ゆがんできた。  今西は、現役の頃《ころ》、バッターに対して、何球目のどんな球で打ち取るかを考えたものである。  内角に強い打者がいるとすると、そのときは、内角高目のボールを打たせて、打ちとることを考える。たいていの打者は、得意のツボの傍《そば》に、弱点を持っているからである。  まず、第一球は、外角ぎりぎりのストライクを投げる。これは、絶対といっていいほど手を出して来ない。接戦のゲームほど、向うは、慎重になっているから、投げやすい。  次も、外角へ投げる。が、これは、ボールにする。  ワンストライク・ワンボールの平行カウントにしておいて、第三球目が勝負である。  打者は、そろそろ、内角球がくる頃だと、身構えている。今西は、そこへ、内角高目の球を投げる。しかし、この球は、絶対に、ストライクであってはならないのだ。といって、簡単に相手が見送るようなボール球であってもいけない。  相手が得意とするコースより、ほんのわずか、内角に食い込むボールでなければならない。  相手は、得たりと思って強振する。が、彼のツボより、わずかに内角に食い込んでくるために、キャッチャーフライか、サードフライに打ち取ることが出来る。  久藤の原に対する一、二球には、そうした計算が感じられないのだ。  ただ、長打を警戒して、低目に投げているに過ぎない。何球目のどんな球で、原を打ち取るのかという計算がない。全く計算なしに投げているのは、やはり、対巨人戦という重圧のためなのだろうか。  第三球目も低目に外れた。  次打者の淡口は久藤に強い。歩かせてはいけないと思ったのか、第四球は、ストライクを取りに行った甘い球だった。  久藤の手を離れた球が、何の変化もせずに、すうっと、原の内角に入っていった。  今西は、思わず、眼をつぶってしまった。 (バカヤロウ!)  と、胸の中で叫んだ。  大歓声があがって、アナウンサーの声が聞きとれない。が、今西には、何が起きたか、鮮やかに、頭の中に思い描くことが出来た。  眼を開ける。  万歳《ばんざい》をしながら、一塁、二塁を駆け抜けている原の姿が、ブラウン管に写っていた。  久藤は、マウンド上に、しゃがみ込んでしまっている。  今度は、片岡がダッグアウトを出て、マウンドまで歩いて行った。  口をへの字にしている。ホームランを打たれた久藤に対してよりも、途中で、注意しにいくのをやめた自分に対して、腹を立てている顔だ。  小柄な片岡は、久藤を見上げるようにして、二言三言、話しただけで、ダッグアウトに引きあげた。  交代せずに、久藤の続投である。  リリーフに切り札のいない苦悩が、こんなところにも現われていた。  池田、小町と、リリーフ投手がいないわけではなかった。だが、この二人に、絶対的な信頼がおけないのは、何よりも、スピードのないことだった。  二人とも、丁寧《ていねい》にコーナーをついて打ちとるタイプである。  リリーフ投手の第一条件は、スピードボールが投げられることだ。巨人の角、広島の大野、中日の牛島、南海の金城、みな、一流のスピードボールが投げられる。技巧派の日本ハムの江夏にしても、ここぞという時に投げる球は、一四〇キロ台を出す。  池田と小町は、残念ながら、精一杯投げて、一三七、八キロだろう。それも、巨人の角のようなクセ球ではない。  今日先発した久藤より打ちやすい。  片岡が、久藤を続投させたのも、仕方がなかった。 (これで、久藤が打ちこまれて逆転されたら、江島を誘拐した犯人は、大喜びだろうな)  と、今西は、思った。  去年の巨人なら、続投する久藤に襲いかかって、簡単に逆転している筈だった。  逆にいえば、去年のハンターズなら、ずるずると、逆転されてしまった筈だといってもいい。  しかし、次打者の淡口は、久藤の第一球を簡単に打って出た。  当った瞬間「わあッ」と、歓声があがったが、飛距離のない平凡なセンターフライだった。  波にのりかかったのを、巨人自ら、消してしまったのである。  片岡も、敏感にそれを感じ取ったのだろう。九回裏、勝負に出た。  投手戦だったので、時間は、まだ、十分にある。  九回裏に点が入らなければ、延長戦だった。  加藤の前に、簡単にツー・アウトにとられて次は、投手の久藤の打順になった。  信頼できるリリーフのいないことを考えれば、久藤に、そのまま打たせるのが、妥当なところだろう。たとえ、久藤が凡退しても、次の十回裏は、一番からの打順になるからである。  だが、片岡は、バットに手をかけていた久藤をおさえて、ピンチヒッターに、新人の平井を起用した。  去年、ドラフト2位で、ハンターズに入った内野手である。大学野球の花形選手も、プロの壁は厚く、一時、二軍に落とされていたが、最近、一軍に戻ったばかりだった。  一軍での成績は、三十二打数で七安打。打点も、ホームランもない。  大柄な選手の多いプロ野球の世界では、小柄で、ひ弱く見える。  平井の代打が告げられると、五万を越す大観衆が、拍手した。しかし、何かを期待する拍手という感じではなかった。大学野球の花形だったことへの拍手だろう。  巨人は加藤が投げ続けている。球速は、衰えていないし、カーブも、よく切れている。  平井は、たちまち、ツーナッシングと追い込まれた。  カーブのストライクを見逃し、第二球を振ったものの、上手からのシュートボールに、バットが、かすりもしなかった。そのたびに、大きな溜息《ためいき》が、場内に流れた。 (三振だな)  と、今西も思った。  これで、平井がアウトになり、十回の表に、池田か小町をリリーフに出して打ち込まれたら、片岡の采配《さいはい》に、非難が集中することは、眼に見えている。  加藤は、逃げずに、三球目も、外角にストライクを投げてきた。  快速球である。  平井は、及び腰で、バットを出した。  辛うじて、ボールに当ったがライナーが飛ぶ筈がない。  弱々しいゴロが、ころころと、一塁手の中畑の前に転がって行った。  誰もが、これで、チェンジになり、延長戦に入ると思ったに違いない。  だが、この平凡なゴロを、中畑が、トンネルしてしまったのである。  ゆるいゴロだったために、間があり過ぎたからかも知れない。慎重に腰を落として捕ろうとした中畑の股間《こかん》を抜けて、外野へ転がって行く。  俊足を利して、平井は、セカンドまで走り込んだ。  球場を支配した溜息が、たちまち、歓声に変った。  いつの間にか、テレビを見ている今西の横に、藤木警部が戻って来ていた。 「サヨナラのチャンスですね」  と、藤木が、いった。  今西は、びっくりした顔で、藤木を見た。 「どうでした?」  と、今西がきいた。 「血のついたボールは、なかったそうです」 「やっぱり、そうですか。松尾は、ファウルボールが当って死んだんじゃないんです。誰かが、鈍器で、殴って殺したんです。ハンターズのジョンストンの打ったライナーのファウルが、松尾の近くに飛び込んだ瞬間を利用してですよ」 「すると、犯人は、被害者の近くに座っていたことになりますね」 「そうです」 「私も、そう思ったので、刑事を甲子園にやって、被害者の座席《シート》の近くにいる観客を、片っ端から調べるようにいっておきましたよ」 「それが、江島の誘拐犯人と同一人なら、二つの事件が、同時に解決するんですがねえ」  今西は、テレビの画面に眼をやりながら、いった。  今度は、巨人のピッチングコーチが、マウンドに飛んで行った。加藤と話をしている。  角以上のリリーフ・エースが巨人にはいない以上、交代は、考えられない。だから、交代よりも、次の打者を、どうするかを、話しに行ったのだろう。  次は一番の真岡である。一番でいながら、打点が多いのは、好機に強いということに他ならない。  ツー・アウトで、ランナーは、セカンドにいる。  巨人の外野は、九回裏の守りから、ライトのホワイトが退いて、中井に代っていた。  センターが松本、レフトが淡口である。三人とも弱肩ではないが、といって強肩というわけでもない。 「真岡は、歩かせるでしょうな」  と、藤木がいった。 「多分、そうするでしょうね」 「そうしてくれないと、私も困る」 「え?」 「刑事たちは、やっと今頃、甲子園へ着いた頃だからですよ。それから、サード側の内野スタンドに入って、松尾さんのいた座席を中心に、周囲の観客のことを調べるんです。もし、ここで、真岡が打って、サヨナラになったら、すぐに、観衆が帰り始めて、調査など出来なくなりますからね。ハンターズファンの私としては、このゲームは、勝って欲しいですが」  だが、捕手の山倉は、座ったままだった。  ベンチも、敬遠の指示は出していない。  第一球は、何のけれんもなく、真岡の内角に、速球を投げ込んできた。 「ストライク」と、アンパイアが叫んだ。  藤木の命令を受けた五人の刑事は、やっと甲子園球場に到着した。  ハンターズのサヨナラのチャンスで、加藤の一球ごとに、大喚声が、起きている。  真岡コールが、耳をつんざく。  超満員の内野スタンドは、誰一人、帰ろうとする者がいなかった。  死んだ松尾が、どこに座っていたかは、彼の上衣《うわぎ》のポケットに入っていた入場券の半券で、わかっている。  しかし、通路にも、階段のところにも、観客が腰を下してしまっているので、そこへ辿《たど》りつくのが、大変だった。  その上、真岡が、ファウルを打って、その度《たび》に、全員が、わあっと立ち上って、球の行方を見つめるのだ。  五人の中の一人が、やっと、人をかき分けて、松尾のいた座席《シート》に辿りついた。  真岡のカウントは、ツー・ワンになっていた。  ツー・ストライクをとられてから、ファウルで粘っている。  加藤も、意地になって、どんどん、ストライクを投げてくる。  八球目の外角球も、ストライクだった。  三球続けて、内角を攻められ、ファウルに逃げていた真岡は、次に、外角にくると読んでいたのかも知れない。  ただ当てるだけでなく、鋭く振った。 「カーン」  という乾いた音がひびき、低いライナーが、ライトに向って飛んだ。  一塁の中畑が、必死に、ジャンプした。  高く差し出したファーストミットの先をかすめて、ボールは、ライト線一杯に飛び、塀に直撃した。  中井が、クッションボールを捕って、歯をくいしばって、ホームへ投げる。  だが、そのボールは、大きくそれて、巨人軍のダッグアウトに飛び込んでしまった。  セカンドにいた平井は、その間に、悠々と生還した。  ホームプレートの付近は、もう、大混乱だった。  ダッグアウトを飛びだしたハンターズの選手たちが、生還した平井を取り囲み頭を叩《たた》き、肩をどやしつけ、わけのわからぬ叫び声をあげていた。  興奮したファンが、二人、三人と、グラウンドに飛びおりて来て、平井に、真岡に、握手を求めて、駆け寄って行く。  スタンドでは、観客が立ち上って、やたらに「万歳、万歳」を、くり返している。  打たれた加藤は、ちらりと、ボールの飛んでいったライトの方に眼をやってから、ゆっくり、ダッグアウトに引き揚げて行った。  内野スタンドに入り込んだ五人の刑事たちは、立ち上った観客の中で、身動きできなくなってしまった。  勝利監督の片岡が、テレビのアナウンサーに、マイクを突きつけられていた。 「平井と真岡が、どたん場で、よく打ってくれました。それに、久藤が、辛抱強く投げてくれたと、感謝しています」  片岡の喋る言葉が、マイクを通して、場内に、ひびいていく。  刑事たちが、観客をつかまえて 「この近くの座席で、挙動のおかしい人物を見ませんでしたか?」  と、きいても、勝利の余韻を楽しもうとしている観客は、不機嫌に 「そんな人間は、知りませんね」  と、いうばかりだった。  その上、熱狂的なハンターズファンを除いて、観客の大部分は、一斉に、出口に向って動き始めた。  五人の刑事たちは、たちまち、その巨大な波に呑《の》み込まれてしまった。態勢を立て直したときには、観客たちは、出口の方へ消えてしまっている。  インタビューから解放された片岡は、じっと、勝利の喜びをかみしめていた。  今日、もし、負けていたら、三《み》つ巴《どもえ》の優勝戦線から、ハンターズは、脱落したに等しいと思っていた。  首位巨人との差が三・五に広がるところを、逆に、一・五に縮めたのである。しかも、リリーフ・エースの江島抜きで勝ったことが、何よりも、嬉《うれ》しかった。  選手全員の自信につながるからである。  江島が、たとえ、今日中に帰されたとしても、誘拐され、どこかに監禁されていたであろう江島を、明日のゲームで使える可能性は少ない。明日も、江島抜きで戦わなければならないと考えると、一層今日の勝利が、価値があると思えてくるのだ。  風呂《ふろ》に入り、着がえをすませているところへ、今西が、飛び込んできた。 「おめでとうございます」  と、今西は、片岡の顔を見るなりいった。 「ありがとう。これで、どうにか、この四連戦で、ファンを失望させなくてすみそうだ。君の方は、犯人が見つかりそうかね?」 「誘拐犯人の見当は、まだつきません」  といってから、内野席で死んだ男のことを、片岡に話した。 「驚いたことに、松尾だったんですよ」 「松尾って、ハンターズにいた大男の松尾かね?」 「そうなんです。しかも、彼は、誰かに殺されたと考えられるのですよ。多分江島を誘拐した犯人だと、私は、思っています」 「本当かね?」  片岡も、きらりと眼を光らせた。 「警察も、そう考えているようです」 「しかし、そんな風に、簡単に人を殺す犯人だとすると、江島も、危いんじゃないかね? 一億円の身代金を払っても、江島に顔を見られている犯人が、口封じに、彼を殺すことが十分に考えられるんじゃないかね?」  片岡は眉《まゆ》を寄せた。 「ところで、田島さんの顔を見ないが、君は知らないかね?」  と、片岡がきいた。 「広報課長の田島さんですか?」  今西が、きき返した。 「いつも、うちが勝った時には、まっ先に、おめでとうをいってくれるんだがねえ。今夜は、球場に来ていなかったんだろうか?」  片岡は、不満そうにいった。  文字通り、天下分け目の戦いである。しかも、昨夜は、江川の前に完封されて、手痛い一敗を喫している。  今日、もし巨人に負けたら、今季の優勝は絶望である。それだけ大事なゲームなのに、なぜ、田島は、見に来なかったのだろうかという不満だった。  江島が、誘拐され、一億円の身代金は、田島が運んだが、その役目は、もう終って、今は、全《すべ》て警察に委されている。田島は、来ようと思えば、甲子園へ来られた筈なのだ。 「そういえば、青木社長も、顔を見せていないんじゃないか?」  と、今西がいった。 「ああ、見なかったね。巨人の正力さんは、見えていたよ」  片岡は、暗い眼つきをした。  青木社長は、今度の四連戦は、よほどのことがない限り、甲子園へ日参すると、片岡にいっていたのである。  昨日は、一方的な負けゲームだったが、それでも、青木は、最後まで見てくれていた。  それなのに、今日は、一度も、青木の顔を見ていない。  選手たちは、こういう勝ちゲームのときに、社長をはじめとするフロントから、賞《ほ》めて貰いたいのである。折角、巨人戦で貴重な一勝をあげたのに、フロントが無関心では、選手が、がっかりしてしまうだろう。 「どうも、うちのフロントはねえ」  と、片岡が、苦い笑い方をした。 「社長は、何か急用があって、来られなかったんだと思いますが」  と、今西は、いった。  この大事な時に、少しでも、監督と、フロントの間にすきま風が出ては困ると、今西は思ったからである。 「社長は、用があったとしても、広報課長は、別に用はないだろうね」  と、片岡は、また、いった。 (困ったことになりそうだな)  と、今西が、当惑したとき、球場の係員が 「片岡さん」  と、呼んだ。 「何だよ?」 「片岡さんに電話が入っています」 「誰からだ?」 「青木社長さんからです」  と、係員がいった。片岡は、今西を見て 「待っていてくれよ」  片岡は、五、六分して戻って来ると、待っていた今西に向って 「これから、社長の家へ行くから、君も一緒に来てくれ」 「しかし、呼ばれたのは、監督だけなんでしょう?」 「社長は、江島の件で、至急、家に来てくれといっている。江島のことなら、君にも関係があるから、一緒に行って貰いたいんだよ」 「江島が釈放されたんでしょうか?」  今西が、期待してきくと、片岡は、首を横に振って 「それなら、電話でもいってくれた筈だよ。めでたい話だからね。今の電話の様子では、あまりいいことじゃないみたいなんだ。誰にもいわずに、すぐ来てくれということだからね」 「そうですか——」  今西は、ふと、江島が殺されて、死体で見つかったのではあるまいかと思った。  誘拐犯は、自分の顔を見られている人質を殺してしまうことが多い。名古屋の女子大生の場合もそうだったし、吉展ちゃん事件のときもそうだった。  まして、今度誘拐されたのは、屈強な青年の江島である。釈放すれば、すぐ、自分の人相が、警察に通報されてしまう。それを恐れて、殺してしまったのではないだろうか?  しかし、今西は、片岡には、何もいわなかった。彼自身だって、江島は、無事に、帰って来て欲しいのだ。  二人は、片岡の車で、青木社長宅に向った。  車内でも、いったい、何の用だろうかと、今西は考えていたが、わからなかった。江島に関することというが、一億円の身代金をせしめた犯人が、味をしめて、また金を要求して来たのだろうか?  青木邸に着くと、すぐ、二人は、奥へ通された。  青木は、和服姿で二人を迎え、片岡に 「テレビを見ていたよ。いい勝ち方だったね」  と、笑顔でいった。 「ありがとうございます」 「実は、五回あたりから、甲子園へ行こうと思っていたんだよ。何となく、今日は、勝ちそうな予感がしたんでね。私の予感は、よく当るんだ。それで、出かける支度《したく》をしているところへ、田島君が、やって来てね」 「田島さんは、ここに来ていたんですか。いつも球場へ来る田島さんの顔が見えないんで、どうしたのかなと、思っていたんです」  と、片岡がいった。 「田島君は、真っ青な顔をしてやって来てね。いきなり私の前に両手をつくと、申しわけありませんというんだよ」 「江島君の身に何かあったんですか?」 「いや。そうじゃないんだ。聞いてみると、田島君は、犯人を手伝ったというんだよ」 「えッ?」  と、片岡は、思わず声をあげて、今西と、顔を見合せてしまった。 「まさか——信じられませんね」  と、今西がいった。  青木も、肯《うなず》いた。 「私だって、信じられなかったよ。田島君は、信頼のおける人間だったからねえ。だが、彼は、申しわけありませんというだけなんだ。それで、理由をきいてみた」 「田島さんは、どういっているんですか?」 「実は、彼の七歳になる息子《むすこ》が、同じ犯人に誘拐されていたというんだ」 「田島さんの息子さんは、確か、眼が見えなかったんじゃありませんか?」  片岡がきいた。 「そうだよ。近くの盲学校に通っている。健一君という名前だ。その息子が、誘拐されたというんだ。そして、田島君に電話がかかってきた。江島の身代金は、お前が持って、新幹線に乗れ、そのあと、こちらの指示どおりに動かない時は、息子を殺すと、脅かしてきたというんだよ」 「そうだったんですか」  今西は、大きく肯いた。  それなら、一億円の身代金が、犯人もろとも、煙のように消え失せてしまったことが、納得できるのだ。  犯人は、一億円を、わざわざ、特別のスーツケースに詰めかえさせ、それを広報課長の田島に持たせろといってきた。すべて、田島が、犯人に脅かされて、共犯の立場にいると考えれば、納得できる。  多分、こういう筋書きだったのだ。  犯人は、一億円の入ったスーツケースを下げて、新幹線に乗れと、指示してきた。しかも、列車と座席まで指定した。  犯人は、その座席に、前もって、全く同じスーツケースを置いておいたのだ。  田島は、そこに腰をおろす。  やがて、車内放送が、田島を呼び出す。  田島は、スーツケースを持って、座席を立ち、電話のかかっている9号車へ歩いて行った。が、その時、スーツケースは、すりかえられていたのだ。彼の息子を誘拐した犯人が、あらかじめ、そう行動するように、田島に指示していたのだろう。  犯人は、田島に、電話で、姫路でおり、タクシーで姫路城近くのホテルへ行けと命令する。そこの十階のトイレに入り、スーツケースのふたを開けて、ホテルを出て行った。  田島は、命令されるままに、スーツケースを下げて、姫路でおりた。  刑事も、今西も、そのあとを追って、列車をおりた。が、田島の持っているスーツケースの中には、一億円は、もう入っていなかったのだ。  だから、ホテル姫路を、今西や刑事たちが、必死になって監視していたのは、全く、無意味だったのだ。 [#改ページ]   記憶を追う 「君のいう通りなんだよ」  と、青木社長が、ぶぜんとした顔でいった。 「すると、一億円入りのスーツケースは、列車の中に残っていて、姫路を過ぎてから、犯人が、悠々と持ち去ったわけですね?」  今西が、溜息まじりにいった。 「そうだ。他に考えようがなくなったよ」 「そういえば、田島さんの様子が、不自然でした」  と、今西がいうと、青木は 「そうだったかねえ。私は、全く気がつかなかったが」 「みんな緊張し、興奮していましたから、私も、田島さんの顔色は、読めませんでした。ただ、犯人から電話が入って、田島さんが出たわけですが、その会話が、今から思うと、おかしいところがあったと思うんです」 「私は、気がつかなかったが、不自然なところがあったかねえ?」 「田島さんは、しきりに、一億円の身代金を渡したら、人質は、返してくれるんだろうねと、念を押していました」 「別に、おかしくはないんじゃないかね。身代金と引きかえに、人質を返してくれというのは——」  青木が、不審そうに、今西を見た。 「確かにそうですが、人質に取られているのは、球団の選手である江島投手です。だから、広報課長の田島さんなら、人質といわずに、江島選手を返してくれというんじゃないでしょうか? それなのに、田島さんは、人質という言葉は、何回もいいましたが、江島投手とか、江島選手という名前は、一度も、口にしませんでした」 「そうだったかね」 「あの時、田島さんは、江島君のことではなく、自分の息子のことを、人質という言葉で、いっていたんです」 「なるほどな」 「犯人は、ダブル誘拐で、まんまと、一億円の身代金をかすめとって行ったんです」 「ダブル誘拐か」 「社長。それで、田島さんの息子さんは、どうなったんですか?」  と、片岡がきいた。 「今日の昼頃、健一君は、田島君の家の近くの商店街を、ぼんやり歩いているところを、保護されたんだよ」 「それは、よかったですね」 「田島君は、息子さんの無事を見て、あわてて、私のところへ、全てを打ちあけに来たんだよ」 「今、田島さんは、どうしていますか?」 「藤木警部も呼んだんだ。それで、今二階で、警部の訊問《じんもん》を受けているよ。息子さんの健一君も一緒だ」 「健一君は、江島君と一緒に、監禁されていたんでしょうか? そうだとすると、何かわかるかも知れませんが」  二階では、藤木警部が、辛抱強く、田島健一に、話しかけていた。  まだ七歳の子供である。しかも、眼が見えない。  だからこそ、犯人は、一億円を手に入れたあと、この子供だけは、あっさりと、帰してよこしたのだろう。 「まず、君が、さらわれたところから、話してくれないかね」  と、藤木は、いった。  子供の傍で、堅くなって座っている田島が 「思い出すんだ」  と、強い調子でいった。  健一少年は、じっと考え込んでいたが 「男の人に、車に乗せられたんだ」  と、いった。 「車にね。それは、いつだね?」 「一昨日《おととい》の夕方だよ」 「その日の夜おそくなって、初めて、犯人から、電話が入ったんです」  と、田島が、横からいった。 「その電話で、犯人は、どういったんですか?」  藤木が、田島に視線を向けた。 「息子を預っているといいました。最初は、嘘《うそ》だと思いましたよ。江島投手が誘拐されて、大騒ぎになっているのに、人さわがせな奴だと思って、怒鳴りつけてやりました。しかし、すぐ、男のいっていることが、本当だとわかりました。電話口に、健一が出て、泣き出したからです」 「その時、犯人は、何をあなたにいったんですか?」 「私は、てっきり、息子の身代金を要求して来たんだと思いましたから、いくら欲しいんだといいました」 「それで?」 「そしたら、電話の向うで、くすくす笑って、あんたから、身代金を貰う気はないといいました。じゃあ、何のために、息子を誘拐したんだとききました。そしたら、明日、江島選手の身代金を、ハンターズ球団に要求する。そのとき、あんたを、指定する。あんたは、一億円の入ったスーツケースを持って、下りの新幹線に乗るんだ。こちらの指定した座席に着けば、そこに、同じスーツケースが置いてある。大きさも、色も同じスーツケースだ。続いて、車内に電話をかけて、あんたを呼び出すから、その時、一億円入りのスーツケースのかわりに、こちらが置いておいたスーツケースを持って、座席を立つこと。犯人は、そういいました。私は、その時になって、初めて、江島選手を誘拐した犯人と、同じヤツだと気がついたんです」 「あなたが、姫路でおりた時も、すりかえられたスーツケースを持っていたわけですね?」 「そうです。犯人のいう通り行動しなければ、息子は殺すと、脅かされたんです」  田島は、ペコリと、頭を下げた。 「ずいぶん、悩んだんです。すぐ、警察に届けるべきだというのは、理屈としては、わかっていたんですが、どうしても、出来ませんでした。この健一は、眼が見えません。それだけに、犯人に、どうかされやしないかと、心配で仕方がなかったからです」  田島は、明るい男だった。明るくて、頭の切れる男である。人当りも良い。球団の広報係としては、最適な男である。  その男が、今は、完全に参ってしまっている。打ちのめされて、ただの哀れな中年男になってしまっているのだ。 「わかりますよ」  藤木は、田島を、なぐさめるようにいった。  藤木は、今までに、今度の事件を入れて、四回、誘拐事件を扱った。誘拐事件が、他の事件と違うのは、人質になった人間以上に、その家族が、精神的に参ってしまうことである。どんなにタフに見える父親でも、息子なり娘が誘拐されると、心労のために、寝込んでしまうことが多いのだ。  しかも、この田島の息子の場合は、眼が見えない。それだけに、心配は、一層だったろう。息子のために、犯人の命ずるままに動いたとしても、誰が、それを非難できるだろう。  一方、七歳の健一が、帰されたのも、少年の眼が見えなかったためだろう。それは、不幸中の幸いだったというべきだ。  現在、犯人を知っているのは、この少年だけである。  少年の証言が、犯人を見つけ出す唯一のカギなのだ。 「もう一度、話してくれないか」  と、藤木は、健一に声をかけた。  眼は見えないが、利口そうな少年である。  それに、有難いことに、怯《おび》えた表情がない。 「車に乗せられたとき、どうなっていたのかね? 縛られていたの? それとも、傍に誰かがいて、腕を押えたりしていたのかな?」 「変な匂《にお》いのするハンカチを当てられて、気を失ってしまったんだ」  と、健一がいった。  それは、多分、クロロホルムだろう。 「それから、どこかの家へ、連れて行かれたんだね?」 「うん」 「気を失っている中に、車で運ばれたわけだね?」 「うん。気がついたら、ベッドに寝ていたんだ」 「君がいた部屋は、どんな部屋だったかわかるかな?」 「ずいぶん、広かったよ」  と、健一は、いった。 「床には、じゅうたんが敷いてあった」 「広いとわかったのは、歩き回ったからかね?」 「壁をつたって、歩いてみたんだ。ベッドのところへ戻ってくるまで、ずいぶん、かかったから、ずいぶん広いと思った」 「君を監視していたのは、どんな人間かね? 男? それとも女?」 「男の人だった。でも、たいていは、ドアにカギをかけて、出て行ったんだ」 「食事は?」 「その男の人が、ベッドの傍のテーブルに置いて行った。たいてい、サンドイッチと牛乳だけだったよ」 「トイレは、どうしたの?」 「トイレへ行きたいときは、大声を出すと、ドアを開けて、その男の人が来てくれた。トイレは、部屋を出て、廊下があって、その突き当りだった」 「君は、江島投手を知っているかい? 京神ハンターズの」 「うん。知ってる。いつも、ラジオで、巨人とのゲームを聞いてるから。ああ、そうだ。あの男の人も、トランジスタラジオで、野球を聞いてたことがあった」 「その家に、江島投手がいるような様子は、なかったかな?」  藤木がきくと、健一は、びっくりした様子で 「江島投手が? ぜんぜん、考えてなかったけど——」  と、いった。  江島は、別の場所に、監禁されているのだろうか? それとも、同じ家の別の部屋に監禁されているのだろうか? 「君は、その男と二人だけで、その家にいたのかね? 話し声なんかが、聞こえたことはなかった?」 「聞こえなかった。でも、ボクと、その男の人の他に、女の人がいたよ」 「女が? 女の声が聞こえたの?」 「違う。だけど、ボクが、トイレに行ったとき、ぷーんと、いい匂いがして、誰かが、すれ違って、階段をおりて行ったんだ。それは、女の人のつける香水だったよ。ママも、ときどきつけることがある。それと、よく似た匂いだった」 「田島さんの奥さんは、どんな香水をお使いですか?」  と、藤木が、田島にきいた。 「めったに使いませんが、私が、選手たちと一緒に、アメリカキャンプに行ったとき買ったシャネルを、時たま、つけているようです」  と、田島は、いった。  すると、犯人と一緒にいる女も、シャネルをつけているのだろうか。 「その女の人は、階段をおりて行ったといったね? すると、二階建の家かな?」 「うん、ボクがいた部屋は、二階にあったんだ」 「じゃあ、君の耳に聞こえた音を聞こうか。車の音なんか、やたらに聞こえたかね?」 「聞こえなかった。ただ、車で、出て行く音や、帰ってくる音は、聞こえたよ」  と、健一は、いった。  それは、少年を誘拐した男か、一緒にいた女が、車で、出かけて行ったのだろう。 「その他に、車の音は聞こえなかったんだね?」 「うん」 「オートバイの音も?」 「うん」  と、健一は、肯いた。  父親の田島は、少年の耳は、眼が見えないためもあって、人一倍、鋭敏だといった。  と、すると、少年が、監禁されていた家は、大阪市内ではなく、郊外にあるものと考えていいようである。  藤木は、大阪府内の地図を、頭の中に思い浮べていた。 「すると、静かな家だったわけだねえ?」  と、藤木は、確認するように、健一にきいた。 「うん。とても、静かだったよ」 「車の音が聞こえなかったとしても、何か他の音は聞こえなかったかな? 飛行機の音とか、電車の音とかだが」 「どっちも聞こえなかったよ。でも、一度、救急車と、パトカーのサイレンが聞こえたよ。一緒になって聞こえたんだ」 「一緒になって聞こえた? パトカーと、救急車とが一緒に走って来たというわけだね?」 「うん」 「間違いないね?」 「ボクがいた家の近くでとまったんだ。パトカーは、あとから、また一台来たよ」 「すると、パトカーが二台に、救急車が一台だね?」 「うん」 「それは、いつの何時頃か、わかるかね?」 「昨日だよ。夕食を食べてから、眠って、急に、サイレンの音が聞こえたんだから、夜おそくだと思う」 「君を監視していた男は、あわてていたかね?」 「階下《した》の方で、声が聞こえたけど、何をいっているのか、わからなかったよ」 「その救急車とパトカーだが、近くでとまったといったね?」 「うん」 「どのくらいの時間、とまっていたか覚えているかい?」 「十五、六分したら、帰って行ったみたいだった」 「間違いないね?」 「うん。間違いないよ」 「次は、君が、その家から、外へ出されるときのことを話して貰いたいんだよ」  と、藤木は、いった。 「今日の何時頃、釈放されたのかな?」 「時間は、わからないけど、最初のときと同じように、また、変な匂いをかがされて、気を失っちゃったんだ。気がついたら、公園の植木の中に寝ていた。起きて、商店街の方へ歩いて行ったら、手をかけられたんだ」  その時、保護されたということだろう。  保護された時刻は、今日の午後七時頃で、周囲が、暗くなりかけていたという。  犯人は、クロロホルムをかがせ、車で運んで、少年を監禁したように、釈放するときも、やはり、車で運んで来て、公園に放置したのだろう。  犯人は、一方で、一億円の身代金を奪っている。  田島広報課長を脅迫して、一芝居打たせてから、犯人は、姫路で降りず、そのまま、次の駅まで乗って行き、一億円入りのスーツケースを手に入れたに違いない。  犯人は、二人なのだろうか? どこか、郊外の家で、健一少年を監禁していた男と、新幹線で、一億円の身代金を奪った人間は、共犯者かも知れない。  しかし、一人でも、不可能ではないと、藤木は、思った。  健一少年は、何といっても、眼が見えない。二階の一室に監禁して、ドアに施錠してしまえば、いちいち、見張る必要はないだろう。  新幹線の車内で、一億円をせしめ、引き返してから、少年を釈放したとしても、時間的には、間に合うのである。 「その他に、何か覚えていることはないかな? どんなことでもいいんだ。どうだね?」  と、藤木が、きいた。  少年は、黙って、考えていた。  何といっても、子供である。その上、眼が見えないのだから、監禁されたことが、どんなに辛かったか、察することが出来る。  車の音、それに、パトカーや救急車のことを覚えていただけでも、賞めてやらなければならない。 「無理しなくていいんだ。今日は、もう、家に帰って、眠りなさい」  と、藤木がいうと、健一は、ズボンの尻《しり》ポケットから、何かつかみ出して、黙って、藤木の前に差し出した。 「何だい?」 「あの部屋で、拾ったんだ」  と、少年は、いった。 「何だかわからないけど、持って来ちゃった」 「何だろう?」  藤木は、手に取った。  布地の切れ端である。何か、模様が、ししゅうしてある。 「これは、京神ハンターズのワッペンですよ」  と、田島が、横から叫んだ。 「その切れ端です」  京神ハンターズの選手が着ているジャンパーには、ハンターズの円いワッペンが、縫いつけてある。  弓を持ったハンターを図案化したワッペンで、ししゅうである。  それが、小さく引きちぎられているのだ。弓の部分が見えるから間違いないだろう。 「江島君のじゃないかな」  と、後からきた今西が、片岡を見て、呟《つぶや》いた。  江島が、京都駅でおりた時、きちんと、ネクタイをしめ、スーツを着ていた。しかし、手に下げたボストンバッグの中には、ユニフォームや、ジャンパー、スパイク、それに、グローブが入っていた筈である。 「しかし、これが、彼のジャンパーから引き剥《は》がされたものかどうかの断定は、難しいね」  と、片岡がいった。  最近、ハンターズの選手のものと全く同じジャンパーが売りに出されていて、なかなかの人気だったからである。もちろん、ワッペンも、ついている。  犯人が、京神ハンターズのファンで、日頃、そんなジャンパーを着ていて、縫いつけてあるワッペンが剥がれ、ちぎれて、部屋に落ちていたということも、考えられなくはない。  藤木は、いったん、健一少年を、父親の田島と、家に帰した。 「さて、あなた方のご意見も伺いたいですね」  と、藤木は、今西と、片岡の二人にいった。 「私は、犯人の抜け目なさに感心しましたよ」  片岡が、首をすくめるようにしていった。 「どんなところですか?」 「普通、誘拐というと、身代金をとる人質だけを考える。それを、今度の犯人は、もう一人、身代金受け取りのために、人質を誘拐しているからですよ。しかも、田島広報課長の一人息子が、眼が見えないのを知って、人質にしたんだと思いますね」 「しかし、あの子は、見えない眼で、よく、見てくれていましたよ」  と、藤木は、いった。 「あれだけで、どこにある家と、わかりますか?」  今西がきいた。 「昨夜おそく、救急車一台と、パトカー二台が、駆けつけたところの近くということで、何とか限定できると、思っているんですがね」 「救急車とパトカーが駆けつけたというのは、どういうことですか?」 「考えられるのは、最初、人が倒れているので、あわてて、救急車を呼んだ。しかし、それが、単なる怪我《けが》ではなく、傷害の可能性が出て来た。事件の匂いがしたので、パトカーも来たということでしょうね」 「しかも、パトカーが二台も駆けつけています」と、藤木が、いった。 「単なる傷害事件なら、一台のパトカーで処理できます。それを考えると、救急車が着いたときには、すでに死亡していて、それが、殺人の可能性が出て来たというケースじゃないですかね。それなら、パトカーが、二台やって来ても、おかしくはありませんからね」 「しかし、十五、六分したら、帰って行ったとも、健一君は、いってたんじゃないですか?」 「それは、多分、救急車だけが、帰って行ったんだと思いますね」  と、藤木は、落着いて、いった。  救急車や、パトカーの出動は、一日、千回を越すことがある。  少ない日でも、大阪のような大都会では、何百回という数だろう。だから、救急車と、パトカーが、来たというだけでは、その場所を限定するのは、難しいが、救急車とパトカーが、同時に来て、しかも、パトカーの方は、続いて、二台目も到着したとなれば、そうはない筈だから、かなり、場所が限定されてくるだろう。 「一緒に、車のところへ来てくれませんか」  と、藤木は、今西を、外にとめてあるパトカーのところへ連れて行った。  すぐ、車に備えつけてある無線電話を使って、大阪府警本部の綜合司令室《そうごうしれいしつ》へ、連絡を取った。  昨夜、二台のパトカーが、それも、救急車からの連絡で出向いたところは、一か所だった。  天満橋近くのマンションで、住人の一人が意識不明で倒れているのが発見され、すぐ、救急車を呼んだ。  しかし、すでに死亡していて、それも、激しく殴打された形跡があるので、すぐ、パトカー二台が駆けつけ、殺人事件としての捜査が始まったというものだった。 「行ってみましょう」  と、藤木はいい、今西と一緒に、パトカーで、そのマンションに向った。  繁華街の真ん中にあるマンションだった。  二人は、車からおりると、周囲を見回した。健一少年は、昨夜、二階に監禁されていて、近くで、救急車と、パトカー二台がとまるのを聞いたと証言した。  とすると、この近くの家に、監禁されていたことになるのだが。 「おかしいな」  と、藤木は、首をかしげた。  すでに、今夜も、十二時に近いのだが、車が、絶えることなく走り回っている。  それなのに、健一少年は、車の音は聞こえなかったと証言しているのだ。だから、郊外の家に、監禁されていたのだろうと、思ったのだが、ここは全く逆の繁華街の真ん中だった。 「違うな」  と、藤木は、呟いた。 「違うようですね」  と、今西もいった。  もし、この近くに監禁されていたのなら、車の音がしなかったとはいわないだろう。この辺りは、深夜になっても、やかましい筈である。 「しかし、昨夜、救急車と、パトカー二台が出動したところは、ここしかないんですがね?」  と、藤木は、いった。  パトカーだけだったのだろうか? それとも、救急車だけが、やって来たのに、パトカーも来たと、健一少年が間違えて、証言したのだろうか?  しかし、健一という子供は、頭のいい少年である。それに、車のことにくわしい子供だった。それに、証言してくれたとき、少年の顔は、自信にあふれていた。間違えたとは思えなかった。 「どこが間違っているのかな?」  自問するように、藤木が呟いた。  今西は、もう一度、周囲を見回しながら 「大阪じゃないんじゃありませんか」  と、藤木にいった。 「大阪じゃない?」 「ええ、われわれは、大阪に住んでいるので、頭から、大阪と決め込んでしまいましたが、今度の事件は、最初は、京都だったんです。だから、大阪以外の場所も、考えられるんじゃありませんか?」  と、今西は、いった。 「京都のどこかということですか?」 「いや、監禁されていたのは、京都とは思えません」  今西は、あっさりと、いった。  藤木は、不審そうに 「なぜ、京都じゃないとわかるんですか? 今、事件は京都から始まったと、おっしゃったばかりじゃありませんか」 「犯人の行動から、京都とは思えないのですよ。私には、単独犯か、共犯かわかりませんが、犯人は、健一少年を解放したあと、甲子園へ来たと思うのです。そして、甲子園の内野スタンドで、松尾を殺したに違いありません。そう考えると、京都では、甲子園に遠すぎます。もっと、甲子園に近いところに、少年を監禁していたんだと、私は思いますね」 「大阪以外で、甲子園に近いというと、兵庫県ですが——」 「兵庫県を、調べてみたらどうですか?」  と、今西は、いった。  藤木は、府警本部に連絡を取り、隣りの兵庫県に、照会して貰《もら》った。  その結果、兵庫県警内でも、昨夜、救急車と、パトカー二台が、続いて出動した場所があることがわかった。  神戸の六甲山近くだという。  藤木たちは、そこへ行ってみることにした。  神戸は、海と山にはさまれた街である。  海水浴と、山登りが、同時に楽しめる所だという人もいる。  海の方は、最近、汚れてしまったが、山は、いまでも、美しい。  冬になれば、神戸の街から、一時間足らずの六甲山で、スキーが出来る。  その六甲山には、有名人の別荘が多い。  兵庫県警の話によれば、昨夜の十二時頃、この別荘地の一角で、傷害事件が起き、すぐ救急車とパトカー一台が駆けつけたが、すでに、死亡していた。傷害事件は、殺人事件に改められ、もう一台のパトカーが、派遣されたという。  この殺人事件は、すでに、犯人が逮捕されて、解決していた。殺されたのは、社宅に住むサラリーマンで、犯人は、その同僚だった。  兵庫県警に、場所を教えられたが、すでに午前一時を回ってしまっている。  仕方なく、藤木は、翌朝早く、神戸へ向った。  今西も、同行した。  神戸駅前に、兵庫県警の刑事が、待っていてくれた。  三十五、六歳の赤間という部長刑事である。 「いったい、どんな事件を、お調べなんですか?」  と、赤間部長刑事が、藤木にきいた。  藤木は、今後も、兵庫県警の協力を仰がなければならないと思い、江島が誘拐されたことから、現在までの経過を、相手に説明した。  赤間は、じっと、聞いていたが 「私も、京神ハンターズのファンなので、江島選手が、どうなっているのか、心配していたんですよ。新聞には、いろいろと、書かれていましたからね。やはり、誘拐されていたわけですか」  と、小さく、溜息《ためいき》をついた。 「どうも、ご心配をおかけしまして、申しわけありません」  今西は、自然に、京神ハンターズを代表する形になって、赤間にいった。  赤間は、手を振って 「とんでもない。われわれファンは、十八年ぶりのハンターズの優勝を、期待して、毎日毎日、一喜一憂しているだけでしてね。昨日は、あざやかなサヨナラ勝ちをしてくれたんで、みんな、浮き浮きしていますよ。江島選手がいないと、辛いでしょうが、がんばって頂きたいと思いますね」 「その江島選手を見つけるために、協力して頂きたいのですよ」  と、藤木が、いった。 「とにかく、事件のあった場所に、ご案内しましょう」  赤間は、待たせてあった覆面パトカーに、藤木と、今西を案内した。 [#改ページ]   別 荘  二人を乗せた車は、赤間の運転で、表六甲ドライブウエイに入った。  車が登るにつれて、窓の外の展望が広がってくる。  横に広がる神戸の街が、眼下に見え、その街の向うに、瀬戸内の海が、朝日を受けて、きらきら光っている。 「私は、神戸の生れですが、いつか、六甲に別荘を持ちたいと思っているんですよ。まず、警官の給料じゃあ、無理だとわかっているんですが」  と、赤間が、笑いながらいった。  それだけ、神戸の市民にとって、六甲という山が、親しみやすいということなのだろう。  六甲山周辺は、何本かのドライブウエイや、ケーブルカー、或《ある》いは、ロープウエイが走っている。  表六甲ドライブウエイから、サンセットドライブウエイに入った。  六甲山ホテルや、六甲ゴルフ場などがあるドライブウエイである。  ゴルフ場と、六甲ロープウエイの真ん中あたりに、別荘が、点々と、建っている。緑の木立ちの中に、さまざまな色彩の別荘の屋根が見える。  赤間は、その一軒の前で、車をとめた。  別荘の建物を、神戸市内のある会社が買いとって、社宅に使っているのである。 「ここですか」  と、藤木は、車からおりて、周囲を見回した。  深い木立ちにさえぎられて、近くを走るドライブウエイの騒音も、全く聞こえてこない。 「この近くに、別荘は、何軒あるんですか?」  藤木がきいた。  赤間は、自分の警察手帳を取り出してページをくっていたが 「全部で、八軒あります。一つ一つ、見られますか?」 「いや、少年は、救急車とパトカーが近くにとまるのを聞いているから、ここから離れた別荘じゃない筈《はず》です。だからここに車のとまるのがわかる距離にある別荘ということになる」 「すると、両隣りの別荘ということになりますね」 「その二つの別荘の持主は、わかりませんか?」 「ええと、片方は、神戸市内で、宝石店を開いている北村省一という四十九歳の人の別荘です」 「宝石商ね。もう一つの方は?」 「こちらは、藤木さんも、名前をご存知と思いますが、白井泰造という資産家の別荘でして——」 「白井泰造?」  藤木より先に、今西が、声をあげた。  赤間部長刑事は、びっくりして、今西を見た。 「お知り合いですか?」 「そうじゃありませんが、ちょっと、引っかかることがありましてね」  と、今西は、いった。  甲子園球場で、昨日亡くなった松尾は、一千万円の小切手を持っていた。その小切手の振出人が、白井泰造なのだ。  その小切手のことを知っている藤木も、眼を光らせて 「白井さんは、今、芦屋にお住みなんでしょう?」 「そうです。奥さんと一緒に、住んでおいでの筈です」  と、赤間がいった。 「すると、この別荘の方には、誰《だれ》が住んでいるんですか?」 「さあ、白井さんは、六甲が好きで、毎日、家の近くを散歩しながら、六甲山を見るのが習慣になっているということを、何かの雑誌に書かれているのを読んだことがありますがねえ。だから、時々、ご自分で、別荘にも、お住みになっているんじゃないかと思いますが」 「白井さんは、今、何歳ですか?」  と、今西がきいた。 「六十歳は過ぎていると思いますが、お元気ですよ。生はんかな若者なんか、足もとにも寄れない馬力の持主だということも、聞いたことがありますね。まあ、そのくらいのエネルギーがなければ、いまだに、第一線で活躍するということは、難しいでしょうが」  と、赤間がいった。  その通りだろうと、今西も、思った。財界人というのは、みんな、老人でも、元気がいい。八十歳を過ぎても、かくしゃくとして、第一線で活躍している財界人を、今西は、何人か知っている。  京神ハンターズ社長の青木にしても、もう七十歳近い筈だが、エネルギッシュだ。今年の一月、ハンターズが、グアムにキャンプを張ったとき、視察にやって来たが、三十度近いグラウンドで、三時間も立ちつくして見ていて、いっこうに平気だった。一緒に来た若い新聞記者のほうが、ひっくり返ってしまったくらいである。  第一線で働いているから、老人になっても、かくしゃくとしているのか、それとも、元気だから、いつまでも、第一線で活躍しているのか、どちらとも言えないが、問題は、事件になると、話は、違ってくるのではないかと、今西は思う。  それも、誘拐事件である。殺人もからんでいる。  いくら、若者をしのぐ体力の持主だとしても、老人が、凶悪事件に関係していることは少ない。年齢《とし》をとると、分別が生れるから、若者のように、無茶な行動には、出られなくなるからである。  白井泰造は、果して、今度の江島誘拐に関係しているのだろうか?  今西が、江島を探してくれと頼んだ松尾に、白井は、一千万円もの小切手を渡している。大金である。口止料とすれば、何か、後暗いことがあるに違いない。 (それが、江島の誘拐だったのだろうか?)  だが、今西には、どうも、ぴんと来なかった。  白井は、巨万の富の持主だと聞いている。  それが、江島を誘拐などするだろうか。分別の十分にある老人がである。 「とにかく、その別荘に案内してくれませんか」  と、藤木が、赤間にいった。 「それなら、車で行くより、歩いて行きましょう。その方が、ここからの位置関係が、よくわかりますから」  赤間がいった。  三人は、雑木林の中を歩いて行った。  初秋というよりも、まだ、夏の盛りを思わせるような強い陽差しが、樹々の枝のすき間から、射し込んでくる。  しかし、秋は、確実に近づいているらしく、三人の歩く足元に、落葉が多く、靴の下で、かさかさと鳴った。  それは、神戸の町の中とは違って、ここまでくると、陽かげは、ひんやりと涼しい。ここに、別荘を持つ人たちの気持も、わかるような気がする。  だらだら坂を、百メートルも進むと、雑木林の中に、別の建物が見えた。  こちらは、完全な和風の造りの二階家で、よく見れば、金がかかっている感じがした。  周囲の景色の中に、溶け込んでいる。  門は、閉っていた。 「白井」と書かれた表札を認めてから、藤木が、門柱についている呼鈴を押した。  しかし、いくら押しても、応答はなかった。  周囲は、竹垣になっているが、それが低いので、中をのぞき込める。  今西は、竹垣に沿って歩きながら、時々、立ち止って、のぞき込んでみた。  車庫には、車はなかったし、人の気配もない。 「留守のようですね」  と、藤木がいった。 「どうしますか?」  赤間がきいた。 「令状なしだから、無断で、押し入るわけにもいかんでしょう。第一、健一少年に来て貰わないと、この家に監禁されていたかどうかわかりません。私は、彼を連れて来ますから、赤間さんは、白井泰造さんに、この家に入る許可を貰ってくれませんか」  と、藤木がいった。  赤間が、肯《うなず》いた。 「私は、しばらく、ここに残っていますよ」  と、今西は、いった。  二人の刑事が、車に戻ったあと、今西は、ひとりで、その場に残った。  やがて、パトカーが、走り出る音が聞こえた。それほど、ひっそりと、静かだということである。  監禁されていた少年が、近くに停る救急車と、パトカーの音が聞こえたというが、この静けさなら、当然だろう。  今西は、眼の前の白井の別荘に眼をやりながら、煙草《たばこ》に火をつけた。  今西も、現役の頃は、高給取りだった。三年連続二十勝を重ねたときは、毎年八十パーセント近く、アップしていたものである。  その時、別荘を建てようかと考えたこともあった。無理をすれば、建てられただろう。が、とうとう、建てずに終ってしまった。  今のマネージャーの給料では、絶対に、無理である。 (おれは、一生、別荘というものを、持てずに終るんだろうな)  今西は、ふと、そんなことを考えた。別に、それを悲しいとも、癪《しやく》にさわるとも思うわけではない。  ただ、もう持てないと、思っただけである。それに、静かな別荘なら、誘拐した人質を監禁しておくのに、絶好の場所だとは、思った。  一時間ほどして、まず、赤間部長刑事が戻って来た。  続いて、藤木が、田島広報課長と、健一少年を連れて、やって来た。 「何かありましたか?」  と、藤木が、今西の傍《そば》にやって来てきいた。 「いや、何の変化もありませんね。誰も、来ませんでした。静かなものです」 「やはり、誰もいないのかも知れませんな」 「これから、中へ入りましょう」  と、赤間が、芦屋の白井邸から借りてきたという別荘のカギを見せながら、今西たちにいった。  まず、門を開ける。 「白井さんは、何かいっていませんでしたか?」  と、敷石づたいに、玄関に向って歩きながら、藤木が、赤間にきいた。 「私は、この別荘に、少年が監禁されていた可能性があるので調べたいと、白井さんに、いいました。江島選手が誘拐されて、一億円の身代金が奪い取られたこともです」 「そうしたら、白井泰造は、何といいました?」 「ただ、そうか、それなら、納得するまで、別荘の中を調べてくれといって、このカギを渡しましたよ。顔色一つ変えませんでしたよ。もし、あの老人が、事件に関係しているとしたら、大した狸爺《たぬきじじい》ですな」  と、赤間は、笑った。 「一千万円の小切手については?」  と、今西がきいた。 「ああ、松尾という人が、受け取ったという小切手のことでしょう。藤木警部から聞いていたので、白井泰造に、ぶつけてみましたよ」 「それで、返事は、どうでした」  藤木が、眼を光らせて、きいた。 「自分は、全く知らないといっていました」 「知らない?」 「秘書が、勝手に渡したのではないかというのです。もちろん、それでも、自分に責任があるのだから、不渡りにはしないと、つけ加えていましたが」 「呆《あき》れたものだな」と、藤木が、舌打ちした。 「何かの口封じに渡したに違いないんだ。松尾が死んだことは、知っていましたか?」 「私が、それをいったら、白井は、びっくりした顔をしていましたね。それが、演技なら、大した役者です」  と、赤間は、笑った。  玄関を開けて、三人と、田島父子は、中に入った。  庇《ひさし》の深い日本式の建物なので、廊下は、暗い。  それに、カーテンも、閉ったままだった。  今西が、スイッチを探して、家の中の明りをつけた。  急に、眼の前が、明るくなった。  人の気配はなく、ひっそりと、静まりかえっている。  外観は、完全な和風だが、中は、現在の生活に合せて、洋間も、あった。 「君は、二階に監禁されていたといったね?」  と、藤木が、健一少年にきいた。 「うん」 「その二階には、洋間があって、そこに監禁されていたんだね?」 「うん」 「その洋間で、男の犯人は、ドアにカギをかけていったね?」 「うん、だから、逃げられなかったんだ」 「それから、二階にトイレがあったんじゃないの?」  と、父親の田島が、確認するように、息子《むすこ》にきいた。  少年が、緊張した顔で、肯いた。  五人は、階段を、二階にあがって行った。  もし、二階に洋室やトイレがなかったら、少年が監禁されていたのは、ここではないのだ。 「トイレは、どこにあったの?」  と、二階にあがったところで、藤木がきいた。 「廊下の突き当り」  と、少年がいう。  今西は、廊下の端まで行ってみた。 「ありましたよ」  と、今西は、振り向いて、藤木にいった。  次は、洋間だった。  二階には、部屋が、四つあった。  その中、和室が三つあり、最後の部屋が、十畳ほどの洋間だった。  ただ、外から、カギがかかるようにはなっていなかった。  そこが少し違っていた。が、ドアに細工すれば、外からカギをおろせるようになるだろうし、ドアは、取りかえてしまったのかも知れない。  ドアを開けて、中に入った。  客室用として、使っているのか、部屋の隅に、ダブルベッドが置かれ、実際には、小さな机と、背の高い電気スタンドが並んでいた。 「部屋に何があったのか、もう一度、いってくれないか?」  藤木は、少年にいった。  眼の見えない少年は、じっと、考え込んでいたが 「部屋の隅にベッドがあって、そこで、寝かされたんだ」 「そのベッドは、どんなだったかな? 大きかった? それとも、子供用の小さなベッドだった?」  藤木がきいた。  田島は、息子の答えが、この部屋に一致してくれればいいなという顔で、見守っていた。違っていたら、捜査は、振り出しに戻ってしまうのだ。 「大きなベッドだったよ。ずいぶん大きかった」  と、少年がいった。  見守っていた大人たちは、一斉に、安堵《あんど》の吐息をついた。 「ベッドの他には、部屋に、何かあったかな?」  と、藤木が、次の質問をする。 「机があったよ」  健一少年が、一生懸命に考えながら答えた。 「その他には?」 「電気スタンドにぶつかって、倒しちゃったことがあったよ」  と、少年がいった。  全部、一致している。  いよいよ、この家に、健一少年が監禁されていた可能性が強くなってきた。  だが、藤木は、慎重だった。 「十中八九、この別荘のこの部屋だと思いますがね。何か断定できる決定的な証拠が欲しいですね」  と、藤木は、いった。  別荘の持主が、社会的に地位の高い白井泰造だということも、彼を慎重にさせている理由の一つだった。 「でも、警部さん。これだけ、一致しているんだから、うちの息子が監禁されていたのは、この部屋と考えていいんじゃありませんか?」  田島が、むきになって、藤木に、食ってかかった。  今西は、田島の気持も、よくわかった。彼のせいで、一億円の身代金は、まんまと、犯人に奪われてしまったようなものである。  田島は、その責任を感じ、一刻も早く、犯人を逮捕したいと願い、それが、気持の焦りになっているのだろう。 「よくわかりますよ。田島さん」  と、藤木は、肯いてから 「しかし、このくらいの別荘になれば、二階にトイレがあっても、おかしくはないし、トイレというのは、たいてい、廊下の突き当りにあるものです。それに、このくらいの広さの洋間は、ごくありふれたものです。洋間に、ベッドと机、それに、電気スタンドがあるのも、普通です。それが、息子さんのいうことと一致していても、だから、この部屋だという証拠にはなりませんよ。可能性は高いですがねえ」 「他に一致点があるかどうか、調べてみようじゃありませんか」  今西が、いった。  少年は、トイレは、和風で、小さな窓があったといった。  廊下の突き当りのトイレを調べてみると、健一少年のいう通りだった。が、これも、決定的な証拠というには、ほど遠かった。日本建築なら、和風のトイレは、当然だし、トイレには、たいてい、小さな窓が開いているものだからである。  むしろ、洋間のドアの方が、問題だった。  少年は、犯人が、外から、カギをかけたという。  だが、ドアには、ノブがついているだけで、カギ穴がないのだ。  外からかかるような錠を取りつけた跡もない。  ドア全体を取りかえたのかも知れないと考え、ドアと柱との接合点を、丁寧《ていねい》に調べてみたが、きっちりとしていて、外した形跡はなかった。 「本当に、犯人は、ドアに、外から、カギをかけたんだね?」  と、今西は、少年に、改めて、きいてみた。 「うん。外から、カギをかけたよ」  と、少年は、いった。  今度は、ひょっとすると、この別荘ではなかったのではないかという疑問が、今西たちの胸にわいてきた。  もし、違っていたら、捜査のスタートが、間違ってしまうことになる。 「弱ったな」  と、藤木が、腕をこまねいてしまった。 「他の別荘も、調べてみましょうか?」  赤間が、いい出した。 「ちょっと、待って下さい」  と、今西が、いい、少年に向って 「犯人が、ドアにカギをかけたと、どうしてわかったの?」  と、きいた。  健一少年は、びっくりした顔で 「だって、カギをかけたんだもの」 「それは、カギをかける音が聞こえたのかな?」  今西は、辛抱強く、きいた。 「うん。がちゃがちゃ、カギをかける音が聞こえたよ」 「その音が聞こえたとき、君は、ドアの傍にいたの?」 「違う。ベッドに寝ていた」 「なぜ?」 「犯人が、ドアの傍に近づいたら、殺すって、脅かしたんだ。だから、怖いから、近寄らなかった」 「でも、部屋の中は、歩いてみたんだろう?」 「うん、でも、ドアのところには行かなかったよ。本当に、殺されるかも知れないと思ったし、外からカギがかかってるんなら、開けられないなと思ったから」  と、少年は、いった。  今西は、肯いた。 「ドアのカギは、嘘《うそ》だったんじゃないですかね」  と、今西は、藤木や、赤間たちに、いった。 「嘘というのは?」 「犯人は、健一君が、眼が不自由なのにつけ込んで、錠がついていないのに、ついていると、嘘をいっていたんじゃありませんかね。多分、ドアの外で、買って来た錠前を、がちゃがちゃいわせたんでしょう。健一君は、ドアに近づくと殺されると思っていたから、本当に、カギがかかっているかどうか、確認していないわけですからね」 「なるほど、そう考えれば、ドアに、錠がついていない理由もわかりますね」  藤木が、ほっとした顔で、肯いた。  これで、まだ、この家だという可能性は、残ったわけである。  しかし、これも、積極的な証拠にはならなかった。 「何か、これだという証拠が欲しいんだがねえ」  藤木は、難しい顔でいった。  赤間は、階下も見て来ましょうといって、階段をおりて行った。  田島は、少しでも、息子に、思い出させようと、健一少年を廊下に引っ張りだし、階段をおりたりのぼったりしている。  藤木と、今西が、洋間に残った。 「ここに、あの少年が、監禁されていたとしてですが——」  と、藤木は、ベッドに腰を下して、今西に話しかけた。 「白井泰造が、江島選手の誘拐に関係していると思いますか?」 「そうですねえ」  今西は、歩きながら考えていたが、ふいに、足底に、ちくりと痛みが走った。  今西は、眉《まゆ》をひそめて、右足の足底に眼をやった。  黒い靴下の底が、ぴかりと、光っている。  指先で、そっと、その光るものを引きはがしてみた。  うすいガラスの破片である。透明ではなく白っぽい。そして、曲面を作っていた。 (いったい、何の破片だろうか?)  コップや、びんの破片なら、もっと厚いだろう。それに、透明の筈である。  今西は、部屋の中を、改めて、見回した。この薄く小さなガラスの破片に該当するものがないかと探したが、急に、眼を光らせて (ひょっとすると——)  と、考えた。 「健一君!」  と今西は、大声で叫んだ。その声で、散らばっていたのが、二階の洋間に集ってきた。 「どうしたんです?」  と、藤木がきいた。  今西は、その質問には答えず、父親と一緒に入って来た健一少年に向って 「君は、さっき、この部屋で歩いていて、電気スタンドにぶつかって、倒してしまったといったね?」 「うん」 「その時、電気スタンドは、ただ倒れただけだったのかい?」  今西がきくと、少年は、ちょっと考えていたが 「ぱんッと音がして、電球が割れたんだ」 「それから?」 「電気掃除機を持って来て、ガラ、ガラ、やってた」 「割れた破片を、集めていたんだよ、掃除機でね」  今西は、そういって、背の高い電気スタンドを、調べてみた。  百ワットの電球がついていた。 「わかりましたよ」  と、今西は、床から拾いあげたガラスの破片を藤木に見せた。 「それは、電球の破片です。健一君が、電気スタンドを倒したとき、電球が割れて、破片が、じゅうたんの上に、散らばったんです。犯人は、電気掃除機で吸い取ったが、残っていたその破片が、私の足の裏に刺さったんです」 「これで、健一君が、ここにいたことが、証明されたようなものですよ」  藤木は、嬉《うれ》しそうにいった。  健一少年が、誘拐されて、ここに監禁されていたことは、まず、間違いないだろうと、今西は、思った。  問題は、犯人が、江島選手を、どこへ監禁しているかということだった。  ここにいて、どこかへ移されたのか、それとも、最初から別の所に監禁されているのか。  藤木は、すぐ、鑑識を呼んで、この別荘を、徹底的に調べることにした。  もし、この邸のどこかから、江島選手の指紋が検出されれば、ここに監禁されていたことになるからである。  更に、前科者カードにある指紋が見つかったら、それが、犯人という可能性もある。  赤間を通じて、兵庫県警の鑑識が呼ばれた。  鑑識が、写真を撮り、指紋の検出を始めると、藤木と、今西は、別荘の外に出た。 「私は、これから、芦屋に行って、白井泰造に会って来るつもりですが、あなたは、どうします?」  と、藤木が、今西にいった。 「私も、一緒に、白井泰造に会ってみたいですね。どうせ、大阪に帰るには、神戸に出なければなりませんから」  と、今西は、いった。  別荘の中の調査は、兵庫県警に委せて藤木と今西は、田島親子を車に乗せて、六甲山をおりた。  芦屋の駅で、田島親子をおろしてから、二人は、白井の邸に向った。  白井泰造は、家にいた。  白井は、落着き払った顔で、藤木と今西を、奥の応接室に案内した。 「六甲山の別荘ですが、あそこに、田島健一少年が監禁されていたことは、まず間違いありません」  藤木は、白井の反応を見ながらいった。  白井は「ほう」と、声を出した。 「それは、驚いたな」 「何もご存知ありませんでしたか?」 「今年は、仕事に追われていてね。まだ一度も、あの別荘を使っていないのでね。ただ、いつでも行けるように、電気、ガス、それに電話などは、使用できる状態にしてある。それが、悪い人間に利用されたのかも知れんな」 「と、いいますと?」 「一週間ほど前だったかね。私の別荘じゃないが、近くの家が、泥棒に荒らされてね。いや、荒らされたというのは、正確じゃないな。持主が使わないのをいいことに、浮浪者が住みついて、そこから、泥棒に歩き回っていたというんだ。私の別荘も、そんなことに使われたら困るなと思っていたんだが、その危惧《きぐ》が現実になってしまったわけだよ。多分、合カギを作って、その家を、自由に利用していたんじゃないかねえ」  白井は、藤木たちに向って、大きく肩をすくめて見せた。 「本当に、ご存知なかったんですか?」  藤木が、念を押すと、白井は、むっとした顔になって 「君は、まさか、この私が、その田島とかいう少年を誘拐して、別荘に監禁したとでもいうんじゃあるまいね? そんなことをいうのなら、君を告訴するよ」 [#改ページ]   ラスベガス 「そうはいっていません」  藤木は、あわてていった。  白井の別荘に、少年が監禁されていたことは、まず間違いないが、白井が関係していたという証拠は、どこにもなかったからである。 「じゃあ、なんだね?」 「白井さんが、あちらに別荘を持っているのを知っている人間が、金に困って、誘拐を計画した。その人間は、京神ハンターズの江島選手を誘拐し、一億円の身代金を要求しました。そして、その受け取りをうまくやるために、田島広報課長の息子も、誘拐したのです。誰か、それらしい人間を、ご存知じゃないかと思いましてね。その別荘のカギはこわされていませんし、ドアを壊して入った形跡もありません。明らかに、カギを持っていて、それを使って、出入りしたと思われます」 「だから、合カギを作ったんだろうといっているんだよ。今は、簡単に、カギを作ってくれるからね」 「確かにそうですが、元のカギが必要です。誰かに、あの別荘のカギをお貸しになったことはありませんか? 犯人は、その時、町のカギ屋へ行って、合カギを作っておき、今度、別荘を悪用したんじゃないかと思うのです。そういう人間の心当りは、ありませんか?」 「ないねえ」  と、白井は、そっけなくいった。 「そうですか」 「とにかく、私は、誘拐事件なんかには、無関係だ。第一、もし、私が、誘拐でもしたのなら、なぜ疑われるような自分の別荘を使うかね? そうだろう? 何のやましいところもないから、君たちに、別荘のカギも預けたんだ」  白井が、いった。  藤木は、黙ってしまった。それに代って、今西が 「白井さんには、息子さんがいらっしゃいましたね?」 「ああ、いる。それが、どうかしたのかね?」 「おいくつですか?」 「確か、三十九歳だと思うが——」 「今、何をなさっていらっしゃるんですか?」 「シライ企画という私の子会社を委せているよ。まあ、よくやっていると思っているがね」 「今、どこにいらっしゃるんですか? 大阪ですか?」  と、今西がきいた。  白井は、さりげなく、テーブルの上の煙草を取って、火をつけた。 「今、あれは、アメリカに行っている」 「アメリカですか。仕事で、行っていらっしゃるんですか?」 「シライ企画というのは、娯楽関係の仕事をやっている会社なのでね。本場のラスベガスに視察に行っているんだ」 「ラスベガスですか」  今西は、微笑した。  一度、現役時代のオフに、遊びに行ったことがあったからである。あれは、新婚間もない頃だった。 「まあ、ラスベガスは、一度は、視察すべきところだからねえ」  と、白井は、いった。 「いつから、ベガスへ行っていらっしゃるんですか?」  今西が、重ねてきくと、白井は、じろりと睨《にら》んで 「なぜ、そんなことをきくのかね? 息子のプライベイトなことだろう?」 「実は、私も、若い時にラスベガスへ行ったことがあるんです。新婚旅行みたいなものでした。それで、なつかしくなりましてね。息子さんがお帰りになったら、最近の向うの様子を、聞かせて頂こうかと思ったんです」 「それならいいが、息子は、九月一日から、向うに行っているよ。帰って来るのは、来週になってからだ」 「ずいぶん長いご滞在ですね?」 「遊びに行ってるわけじゃないからな。本当なら、一年間ぐらい向うにいて、みっちり、勉強してくる方がいいんだが、息子にも、仕事があるからねえ」 「息子さんのお名前は?」 「徹郎だ。もういいだろう」  と、白井は、立ち上った。  藤木と、今西は、追い出されるような恰好《かつこう》で、外へ出た。 「今西さんは、本当に、ラスベガスへ行かれたことがあるんですか?」  と、藤木が、歩きながら、きいた。 「ずいぶん、昔ですよ」  と、今西は、笑った。  二人は、道路にとめてあった車に乗り込んだ。 「これから、どうします?」  藤木が、ハンドルに手をやって、助手席の今西にきいた。 「白井泰造の息子のことが、気になりますね」  と、今西は、いった。 「白井徹郎、三十九歳ですか。どうして気になるんですか?」 「白井は、シライ企画という子会社を、委せているといったでしょう」 「ええ」 「江島君が、京都のクラブのホステス殺しに巻き込まれた形で、失踪《しつそう》したのが、今度の事件の始まりでした」 「そうでしたね。最初は、ひょっとすると、そのホステスを、江島選手が殺して、逃げているのではないかと考えたこともあったんじゃなかったですか。それが、誘拐事件だった」 「そうです。このクラブが、シライ企画の店なんですよ」 「それは、初耳ですよ」  藤木は、強い眼で、今西を見た。なぜそんな大事なことを、今までに、話してくれなかったのかという顔でもあった。 「京都のことですからね」  と、今西は、いった。 「他にも、シライ企画は、クラブを持っているんでしょう?」 「大阪にも持っています。今度の事件で、新谷敏江という女が出て来ましたが、彼女がママをやっている大阪の店も、シライ企画の店です」 「ふーん」 「しかし、私は、白井泰造が、持主で、息子は、ただの飾りではないかと思っていたのです」 「なぜです?」 「新谷敏江ですが、京都の私立探偵に、白井泰造のことを調べさせていました。息子の白井徹郎のことではなく、泰造の方をです」 「なぜ、彼女は、そんなことをしていたんでしょうか?」 「わかりません。何か、白井泰造の秘密を握って、ゆすろうと思っていたのかも知れません。そのくらいのことは、しかねない女ですからね」  と、今西は、笑った。  江島の失踪とからんで、今西も、百万円を、彼女に欺《だま》し取られている。  その新谷敏江も、姿を消してしまった。  藤木は、黙って、聞いている。  今西は、言葉を続けた。 「そのあと、京都の探偵は、何者かに殺されました。松尾は、その事務所に行って、死体を発見したわけです。その時、死体が、名刺の切れ端を握りしめていましてね。その名刺が——」 「白井泰造の名刺だったわけですね?」 「白井というところで、ちぎれていたそうです」 「今西さんは、見ていないんですか?」 「見ていません。松尾は、それを持って、白井泰造に会いに行くといっていました」 「じゃあ、その名刺の切れ端で、白井泰造から一千万円を脅し取ったんですか?」  藤木は、声を大きくした。  恐喝という言葉が、彼の頭をよぎったのかも知れない。  今西は、松尾が死んでしまった今は、何を喋《しやべ》ってもいい気がしていた。松尾も、怒りはしないだろう。  今西としては、彼の仇《あだ》も討ってやりたかった。 「そうかも知れませんが、その場に立ち合ったわけではないので、何ともいえません」  と、今西は、いってから 「今になると、その名刺は、白井泰造のものではなく、息子の白井徹郎のものではないかと思えてくるんですよ」 「なるほど、同じ白井ですからね。その可能性はありますね」  と、藤木は、肯いた。が、すぐ、首を振って 「しかし、白井徹郎は、九月一日からラスベガスに行っていて、まだ、帰国していないんじゃないですか?」 「父親の泰造が、そういっているだけです」 「彼が、嘘をついていると思うんですか?」 「わかりませんがね。徹郎というのは一人っ子だと思うんです。もし、白井が彼を溺愛《できあい》しているとすれば、彼を守るために、平気で嘘をつくでしょう。松尾に対して、一千万円もの小切手を渡したのも、息子を愛すればこそだと思うのです」 「すると、今西さんは、白井徹郎が、江島選手を誘拐して、一億円の身代金を奪い取ったというのですか?」  藤木は、じっと、今西を見つめた。 「正直にいって、確証はありませんよ。第一、私は、白井徹郎に会ったことがないんですからね。しかし、江島君が、失踪する直前、行った京都のクラブ『かえで』が、シライ企画のものだということが、引っかかって来るんですよ」 「わかりました。白井徹郎が果して、アメリカにいるのかどうか、それを調べてみましょう。もし、白井泰造が嘘をついているとしたら、泰造自身か息子の徹郎が犯罪に関係している可能性がありますからね」  と、藤木は、約束した。  二人は、大阪で別れた。  今西は、球団事務所に顔を出した。  昨日《きのう》のゲームの快勝のせいか事務所には活気があった。江島が誘拐されて以来、重苦しい空気に包まれていたのだが、それがやっと、明るくなった感じだった。  事務所の入口には、ファンが贈ってくれた花束や、プレゼントが、積んであった。 (これで、江島が帰ってくれば、いうことはないんだが……)  と、今西は、思った。  今夜も、雨が降らない限り、六時半から、甲子園球場で、巨人戦が行われる。  今日勝てば、一位巨人との差が、〇・五まで縮まり、優勝のチャンスが、ふくらんでくるのだ。  もし、今、江島が、笑顔で帰って来たら、昨日の勝利と合せて、選手たちの士気は、一層、盛りあがるだろう。  しかし、犯人は、一億円の身代金を手に入れたにも拘らず、何の連絡もして来ていなかった。  監督の片岡が、顔を見せた。 「まだ、江島の消息はつかめないみたいだね?」  と、片岡は、今西に声をかけてきた。 「江島君を誘拐したと思われる容疑者の一人が、やっと、浮んで来ました」  と、今西がいった。  だが、まだ、犯人とは断定はできない。 「もうじき、球場へ行かなければならないんだが、その容疑者は、犯人の可能性が強いのかね?」  片岡がきいた。 「今、藤木警部が調べてくれています」 「今日中に、逮捕できて、江島を解放するというのは、無理かな?」 「全力をつくしてくれると思いますが——」  今西は、自分でも、確信できないのが、歯がゆかった。  片岡は、黙って、肯いただけである。 「今夜のゲームはどうなります?」  と、今度は、今西がきいた。 「監督の私としては、昨日の勢いで、一気に行きたいんだがねえ」  片岡が、難しい顔でいった。  第一戦、第二戦を見た限りでは、両軍とも、打力は、活発とは、いいかねる。となれば、勝負は、投手力と、守備力、それに一発の力ということになるだろう。 「巨人は、定岡先発ですかね?」  と、今西が、いった。  巨人は、江川で快勝し、昨日は、西本が崩れて、サヨナラ負けしている。  と、すれば、今日は、定岡の先発だろう。  江川や、西本のような安定感は、定岡にはない。完投が少ないことが、それを示している。  江川と西本は完投勝利が多いが、定岡の勝利は、角に助けられたものが多い。  しかし、だからといって、こちらの投手陣が大きく崩れてしまったら、気分屋の定岡を完投させてしまうだろう。完投させないでも、七、八回に、角が出てくるまでに崩すのが難しくなる。 「うちは、誰ですか?」 「山元と久藤が投げてしまったからね。まあ、伊東に投げて貰うことになるだろうね」  相変らず、片岡は、難しい顔でいった。  今年の京神ハンターズの一つの課題として、大林、山元、久藤に続く、第四の投手の育成があった。  候補者は、何人もいたが、いずれも、不安定で、安心して、一試合を委せられる投手が出て来ていなかった。  その欠点を、リリーフ・エース江島の出現で救ってくれたのだが、その江島が誘拐されてしまった。  だから、一層、若手投手の奮起が望まれるのだ。 「今日、明日が、一番、江島を必要としているんだがね」  ちらりと、片岡が、本音をもらした。 「六時半までに、江島君を見つけ出したとしても、今日のゲームには、間に合いませんね」  と、今西がいうと、片岡は 「間に合わなくてもいいんだ。彼が、復帰してくるぞという気持だけでいいのさ」  一方、府警本部に戻った藤木は、部下の刑事を総動員して、白井徹郎の行方を追った。  シライ企画は、大阪梅田のビルの一角にあった。  花井と、瀬川の二人の刑事が、出かけて行った。  ガラス戸に、金文字で、「シライ企画」と、書かれていたが、中に入ると、さして広くない部屋に、五人の男女が働いているだけだった。 「責任者に会いたいんだがね」  花井が、警察手帳を見せて、近くにいた女事務員にいうと、二十五、六歳の女は 「浦辺さん。警察の人が、何か用だって」  と、奥に向って、いった。  三十歳ぐらいの細面《ほそおもて》の男が、花井たちを見て、「こちらへ、おいで下さい」といった。  部屋の隅を、小さく、衝立《ついたて》で区切って、そこを、応接室のように使っている。  二人の刑事は、そこへ通された。  浦辺と呼ばれた男が、副社長の肩書のはいった名刺を差し出した。 「浦辺三男さんですか」  花井が、名刺を見ながらいった。 「三男に生れたので、単純に、三男とつけたらしいんです」  と、浦辺が、笑った。 「ここの社長さんは、白井徹郎さんでしたね?」 「さようです」 「今、どこにおられますか?」 「九月一日から、アメリカのラスベガスに、視察に行っております。向うの娯楽施設の視察です」 「お帰りになるのは?」 「来週に入ってからです」 「本当に、ラスベガスに、行っていらっしゃるんですか?」  瀬川がきくと、浦辺は、けげんそうに 「なぜです。私どもは、いわば、水商売なので、本場のラスベガスに、視察に行っているわけで、本当も何もありませんよ」 「途中で、一時、帰国したということはありませんか?」 「帰国したとすれば、当然、ここへ顔を出している筈ですが」 「ラスベガスに行っているという証拠でもありますか? 二、三日前に、白井徹郎さんを、大阪で見たという人がいるものですからね」  と、瀬川は、嘘をついた。  浦辺は、まともに受け取ったとみえて首をかしげながら 「それは、おかしいですね。証明といっても困るんですが。ええ、社長から、ハガキが来ていましたよ」  浦辺は、自分の机の引出しから、向うの絵ハガキを持って来て、二人の刑事に見せた。  ラスベガスの絵ハガキだった。 〈九月三日、ラスベガスにて、白井〉  と、書いてある。  今日、Mというカジノに行ってみたが、さすがに、客を楽しませることにかけては、素晴しいものだといったことが、書いてあった。 「これは、白井徹郎さんの筆跡に間違いありませんか?」  花井がきくと、浦辺は、大げさに、肩をすくめた。 「間違いありませんよ。ニセの絵ハガキなんか、どうするんです?」 「このあと、ハガキは、来ないんですか?」 「来ていませんが、留守の間の指示は、渡米する前に、きちんと、決めていかれたので、われわれとしては、その指示どおりに動いていますので、別に困りません」 「電話は、どうです? かかって来ないんですか?」 「いや、三度ほど、かかって来ましたよ」 「いつの何時頃にか、正確な時間がわかりませんか?」 「さあ、そこまでは、わかりません」 「どんな電話だったんですか?」 「仕事は、うまくいっているかと、社長は、きかれました。ええ、そういった電話ですよ」 「この会社は、京都と大阪にクラブを持っていますね?」 「はい。他にも、小さいですが、三軒ほど持っています。それに、遊戯センターを一軒」 「京都の『かえで』で、最近、若いホステスが殺されましたね?」  と、花井がいうと、浦辺は、眉をひそめて 「正確にいいますと、クラブで殺されたわけではなくそのホステスのマンションでです」 「違いますか?」 「大いに違いますね。しかも、店を終ってからですから、完全に、彼女のプライベイトな時間に、プライベイトな場所で、多分、個人的な理由で殺されたんだと思いますね」 「つまり、この会社とは、何の関係もないというわけですか?」 「その通りです」  浦辺は、そっけなくいった。 「社長は、この事件を、知っていますか?」 「いや、知らないと思いますね」 「電話で、報告しなかったんですか?」  花井がきくと、浦辺は、首を横に振って 「今も、いいましたように、あくまでも、プライベイトな話で、うちの仕事とは関係ありませんからね。そういうことで、折角、ラスベガスの視察に行っている社長の仕事の邪魔をしてはいけないと思いましてね」 「では、社長さんの泊っているホテルの電話番号を教えて貰えませんか?」 「それが、わからないのですよ」  と、浦辺が、いった。 「わからない?」  と、瀬川が、眉を寄せた。 「どういうことですか? それは」 「うちの社長は、気ままな人でしてね。ラスベガスでも、同じホテルに泊っていなくて、向うで、知り合ったアメリカ人の家に泊ったりしているので、電話番号といわれても困るのです」 「じゃあ、こちらから、どうやって、連絡するんですか? 連絡する時、困るでしょう?」 「社長の方から、連絡してくるので、その時に、話しますが、さっきもいいましたように、今のところ、社長に報告しなければならないようなことは、ありませんので」  浦辺は、事もなげにいった。 「大阪の北に、大きなクラブを持っていましたね?」  と、花井が、きいた。 「ええ。うちのクラブがありますが、それが何かしましたか?」 「そのクラブのママは、確か、新谷敏江という名前じゃありませんか?」 「いえ。違います」 「違う?」  花井が、変な顔をした。 「違います。あの店のママは、吉川君枝という女性の筈です」 「おかしいな。ある事件で、調べたとき、新谷敏江という名前になっていたがな? 新谷敏江という女性は、いなかったというわけですか?」  花井が、重ねてきくと、浦辺は、手を振って 「それは、前のママでしょう」 「前の?」 「そうです。二日前に、新谷敏江は、辞めまして、吉川君枝を、新しいママにして、やって貰っています」 「やめたんですか? やめた理由は、何ですか?」 「理由といいましてもね。こういう水商売の世界では、簡単にやめていきますのでね。他の店へ移ったのかも知れないし、結婚したのかも知れないし、いいスポンサーを見つけて、商売がえしたのかもわかりませんしね」 「しかし、会社へ連絡して来て、それで、やめたわけでしょう?」 「電話で連絡して来ましたね。とにかく、店をやめたいというのですよ。ええ。一応は、慰留しましたよ。美人だし、頭の切れる女性ですからね。しかし、どうしても、やめたいというので、承知しました。駄目だといっても、この世界の女性は、さっさと、やめてしまいますからね」 「その時、理由は、きかなかったんですか?」 「きいたって、本当のことなんか、絶対にいいませんよ」  と、浦辺は、笑った。  大阪の出入国管理事務所で調べて貰った結果、白井徹郎は、九月一日に、出国していることがわかった。行先は、アメリカである。  また、大阪空港のパンナムの事務所にある記録によると、九月一日のサンフランシスコ行のパンナム機に搭乗していることがわかった。午前十時三十分の便である。  九月一日に、アメリカへ向ったことだけは、間違いないことがわかった。  そのまま、アメリカに滞在しているのであれば、白井徹郎は、今度の事件と無関係である。  しかし、ひそかに、帰国していたら、江島の誘拐事件に関係している可能性が出てくるのだ。  それを調べなければならない。  藤木は、自ら、出入国管理事務所に出かけて行った。  九月一日以降に、白井徹郎が、帰国していないかどうかを、名簿によって、調べるためだった。  日本人の海外旅行は、毎年、増え続けている。去年は、不景気を反映して、初めて、減ったといわれるが、今年は、また、増加の傾向にあるという。  アメリカへの旅行者も多い。ハワイが、一番多いのだが、それでも、アメリカ本土へ足を伸す者も、結構、多いのだ。  藤木は、連れて行った部下の刑事と一緒に、帰国者の名簿を、調べさせて貰った。  九月一日以降、今日までの日本人の入国者の名簿である。  白井という姓は、意外に多かった。その姓が出てくるたびに、はっとした。見直したが、白井徹郎ではなかった。  全部、見終ったが、白井徹郎の名前は、とうとう見つからなかった。  念のために、二回、三回と、調べ直してみた。  おかげで、眼が痛くなった。が、やはり、白井徹郎の名前は、発見できなかった。  藤木は、礼をいって、出入国管理事務所を出た。  同行した西田刑事が、眼をこすりながら 「白井徹郎は、ラスベガスに行って、帰国していないということになりましたね」  と、いった。  藤木は、ぶぜんとした顔で、若い西田を見た。 「じゃあ、六甲の別荘を使って、田島健一という少年を監禁し、まんまと、一億円をせしめた奴は、いったい、誰なんだ?」 「それは、わかりませんが、事実問題として、白井徹郎が、九月一日以降、日本に帰っている事実はないわけですから」 「それはわかっているが、本当に、ラスベガスにいるという証拠はないんだからな。第一、本当に、アメリカにいるのなら、なぜ、父親の白井泰造が、あんなに、かばったりするんだろう?」  白井泰造は、死んだ松尾に対して、一千万円の小切手を渡していた。  今西の話によれば、松尾は「白井」と書かれた名刺の切れ端を、京都の殺人現場で拾いあげ、それを、白井泰造の名刺と思い込んで、彼をゆすったらしい。  白井泰造は、一千万円の小切手を切って渡したが、その名刺は、ひょっとすると、息子の白井徹郎のものではなかったのかという疑惑が出てきた。  もし、白井徹郎の名刺だったら、どうなるのか?  白井泰造ではなく、息子の徹郎が、殺人現場にいた可能性が出てくるのだ。そして、白井泰造は、息子をかばうために、一千万円の口止料を払ったことになる。  京神ハンターズが、対巨人戦四連戦のために、帰阪するより一足先に、江島は、マネージャーの今西と新幹線に乗った。  そして、京都で降りて、女に会いに行った。  この女が、マンションで殺されているのを発見されたのは、翌日の九月十四日である。  同時に、江島も、行方不明になり、当初は、江島が、彼女を殺して、失踪したのではないかと思われていた。  松尾が、今西に頼まれて、江島を探す途中、京都の私立探偵が、殺されているのを発見したのは、十五日の夜だったと思われる。  もし、この犯行が、白井徹郎によって行われたものなら、彼は、ラスベガスから、一時帰国して、京都に来ていたことになる。 「しかし、警部。白井徹郎は、九月一日に、出国したまま帰国していないことは、はっきりしているんじゃありませんか?」  と、西田がいった。 「確かに、出入国管理事務所の記録にはなかったが、別の人間のパスポートを使って、帰国したことだって考えられる。年齢や、顔立ちが似た男のパスポートを使えば、可能だからね。指紋の照合をするわけじゃないし、要注意人物じゃなければ、簡単に通過できる。むしろ、税関では、手荷物の方に、注意するからね」 「他人のパスポートでですか」 「これが、白井徹郎の顔写真だ」  藤木は、一枚のカラー写真を、机の上に置いた。  花井と、瀬川の二人の刑事が、シライ企画から借りてきたものだった。 「年齢三十九歳。身長一七三センチ、体重六五キロ。これは、今の日本人の成年男子の平均サイズだ。それに、顔立ちにも、さして特徴はない。こういうタイプの男は、いくらでもいるんじゃないかな。だから、他人のパスポートで、怪しまれずに一時帰国していたかも知れないんだ」 「しかし、それを証明するのは、難しいんじゃありませんか?」 「確かに、難しいが、やらなければならん」 [#改ページ]   第三戦  今西は、腕時計に眼をやった。  四時三十分、あと、二時間で、巨人との第三戦が、開始される。  今のままでは、今夜も、ハンターズは、リリーフ・エースの江島を欠いて、巨人と戦わなければならない。 (今夜は、接戦で勝つか、大敗かのどちらかだな)  と、思ったとき、藤木が、球団事務所に入って来た。 「今夜は、苦しい試合になりそうですね」  と藤木は、今西にいってから 「ハンターズが、アメリカから、外人選手を入れるとき、向うで、エージェントの仕事をしてくれるのは、どんな人なんですか?」 「府警本部でも、外国の警官を採用することになったんですか?」  と、今西は、笑ってから 「サンフランシスコに事務所を持っているエドガーという男ですが、それが、どうかしましたか?」 「信頼のおける男ですか?」 「法律事務所を持っていて、信頼のおける男ですよ」 「実は、白井徹郎が、果して、ラスベガスにいるかどうか、調べて貰いたいんですよ。誰かを派遣してもいいんですが、時間が、かかり過ぎるし、国際刑事機構に依頼するためには、白井徹郎が犯人だという断定が必要ですが、まだ、その段階じゃありませんからね」 「それで、エドガーにですか」  と、今西は、いった。 「何とか、頼めませんか? こちらで事件があった日に、白井徹郎が、ラスベガスにいたかどうか、調べて貰いたいんです」 「わかりました。エドガーは、大きな法律事務所をやっていますから、彼の手足となって働く人間も何人かいる筈です。私立探偵を傭《やと》って、やって貰ってもいい。向うの人間は、ビジネスは、ビジネスと割り切って、きちんと、やってくれますからね」 「問題は、その費用ですが、府警本部として、どんな名目で出せるか、目下、検討させているところです」藤木がいうのを、今西は、手を振って 「とんでもない。これも、うちの江島君を見つけて、助け出すためですから、全《すべ》て、うちで出しますよ。社長も、オーケイしてくれると思います。向うのエドガーだって、うちのおかげで、毎年、儲《もう》けているんだから、サービスで、安くやってくれると思いますよ」  と、いった。  今西は、すぐ、電話を、青木社長にかけた。  その了解をとると、今度は、サンフランシスコのエドガーに、国際電話をかけた。  こちらの話し合いは、簡単だった。今西が思った通り、ビジネスと割り切っている。 「費用さえ出して貰えれば、優秀な探偵を、揃《そろ》えて、すぐ探し出しますよ」  今西は、すぐ、藤木の持ってきた白井徹郎の顔写真を、エドガーの法律事務所に電送し、彼の身長、体重なども、電話で伝えた。  アメリカの私立探偵は、日本と違って、免許制である。拳銃《けんじゆう》も所持している。それだけに、優秀だと、今西は、聞いたことがあった。  白人の中で、日本人は目立つから、すぐ、白井徹郎が見つかるかも知れないし、或いは逆に、日本人の顔は、みんな同じように見えて、なかなか、白井徹郎を見つけ出せないかも知れない。京神ハンターズにやって来た外人選手たちも、最初は、日本選手の顔が、みんな同じに見えて困っていたからである。  このどちらにしろ、エドガーに頼んだ以上、向うに委せておくより仕方がない。やり手の弁護士だから、てきぱきと手配はしてくれるだろう。  五時になると、今西は、やはり、ゲームのことが心配になって、甲子園球場に出かけていった。  球場についたのは、五時半を過ぎていた。月曜日だが、昨夜の鮮やかなサヨナラ勝ちがきいたのか、まだ、試合開始まで一時間近くあるのに、すでに、内外野とも、満員である。  それでも、まだ、切符売場には、行列が残っていた。  グラウンドでは、巨人軍の打撃練習が行われていた。  原や、中畑が、昨日の貧打を振り払うように、がんがん、打球を飛ばしている。それを見守っている藤田監督の顔に、さほど、追いつめられた表情がないのは、昨日、サヨナラ負けを喫したとはいえ、まだ、京神ハンターズには、一・五差がついていること。それに、二位の広島カープも、昨日、仲良く、一敗を喫しているからである。 (今日、ハンターズが勝てば、あの冷静な藤田も、あわてるだろう)  と、今西は、思った。あわてさせてやりたいと思う。向うの指揮官が狼狽《ろうばい》すれば、ハンターズが、第四戦にも勝って、首位に踊り出るチャンスもあるのだ。  先発投手は、すでに、巨人が定岡、ハンターズが、伊東と、発表されていた。  伊東は、好不調の波が激しい投手である。だから、投げてみなければわからない。 「先発は、伊東ですか」  突然、今西の隣りで、男がいった。  いつの間にか、藤木警部が、隣りに来ていた。 「今日も、ひょっとして、犯人が、このゲームを見に来てるんじゃないかと思いましてね」  と、藤木がいった。 「見つかりましたか?」 「いや、内野席に、白井徹郎は、いないようです」  今西も、サード側の内野スタンドに、眼をやった。  今、犯人は、恐らく、白井徹郎だろうということになって、今西も、彼の顔写真のコピーを警察で貰った。  その顔を、内野スタンドに探したのだが、すでに、満員で、人の海である。顔々で、そのひとりひとりを見分けるのも大変だった。  今西は、球場管理課へ行き、双眼鏡を借りて来た。  それを眼に当てて、内野スタンドの端から、ゆっくり見ていった。  昨日《きのう》の第二戦の最中に、サード側の内野スタンドで、松尾が殺された。  これは、推理するより仕方がないのだが、松尾も、犯人は、サード側の内野席に来ると考えて、同じスタンドに待ち受けていたのだろう。  そして、犯人を見つけた。その時、警察なり、今西なりに連絡すればいいのに、腕力に自信のある松尾は、一人で捕えようとした。  だが、犯人は、ハンターズのジョンストン選手のライナーが、スタンドへ飛び込んで、観客が、総立ちになった時を狙《ねら》って、松尾を殴り殺したのだ。  ということは、昨日、犯人の白井徹郎は、あのスタンドに来て、ゲームを見ていたことになる。  もし、白井徹郎が、京神ハンターズを憎んでいて、そのために、リリーフ・エースの江島を誘拐したのだとしたら、昨日のゲームそのものは、面白《おもしろ》くなかったろう。京神ハンターズは、サヨナラ勝ちで、第一戦敗北のうっぷんを晴したからである。  しかし、犯人も、ハンターズのダッグアウトを見て、リリーフ・エースのいない苦しさに苦慮するスタッフを見て、きっと、楽しんだに違いない。  そうだとしたら、今日も、来ている可能性がある。  今西は、一回、二回と、サード側の内野スタンドを、双眼鏡で、右から左へと見ていった。  グラウンドでは、巨人軍に代って、京神ハンターズの選手の打撃練習が始まった。大きい当りが飛ぶたびに「わあッ」という歓声があがり、内野スタンドの人波がゆれる。見にくい。  今西は、そのたびに、舌打ちをして、双眼鏡を向け直した。  眼が疲れたので、ひと休みし、いよいよ、試合開始が近づいた時、もう一度、双眼鏡を手に取った。  京神ハンターズのナインが、グラウンドに散っている。 「あッ」  と、ふいに、今西が、声をあげた。  双眼鏡のレンズが、一瞬、内野スタンドに、白井徹郎の顔を捕えたと思ったからだ。  だが、次の瞬間、その男の顔は、双眼鏡の視野から外れてしまった。  今西は、あわてて、双眼鏡を構え直した。  だが、なかなか、視野の中に入って来ない。 「どうしたんです? 見つけたんですか?」  と、横にいた藤木がきいた。 「今、白井徹郎らしい男を見つけたんですよ」 「本当ですか? どの辺です?」  藤木も、双眼鏡を引き寄せて、きいた。 「内野席の右から三つ目のゲートが見えるでしょう、その五、六メートル下の席で白井徹郎らしい男の顔を見つけたんですよ」 「黄色い服を着て、白い帽子をかぶった女性がいますね? あの近くですか?」 「そうです。そうです」 「もし、白井徹郎なら、彼は、ひそかに、帰国していたんだし、容疑が一層、深くなりますよ」  藤木も、双眼鏡で、必死に、探した。  まだ、明るかったが、ライトが点灯され、いよいよ、第三戦の火ぶたが切って落とされた。  球場は、五万人を越す大観衆で埋っている。  一瞬、見つけたと思った白井徹郎の顔だったのに、今度は、なかなか、見つからない。  伊東が、第一球を投げた。  ボールだが、大観衆から、わあッと歓声があがる。 「見つからんな」  と、藤木が、いまいましげに呟《つぶや》いた。  今西も、眼をしばたたいた。眼が、痛くなってくる。 「本当に、白井徹郎を見たんですか?」 「正確にいえば、白井徹郎によく似た顔をです」 「正確な場所がわかれば、これから、サード側の内野スタンドに入って行って、取っ捕えてやるんですがねえ」 「もう少し、すいていると、見つけやすいんですが」  今西は、いらいらしながら、前と同じ場所に、眼をやった。  伊東が、一回の表の巨人の攻撃を、篠塚のシングルヒット一本で抑えて、マウンドをおりて来ると、サード側内野スタンドの観客も、大きな拍手をした。  甲子園球場では、サード側にも、ハンターズファンが多い。  今西が、じっと見ていると、拍手しているファンの中に、ひとりだけ、そっぽを向くように、手を動かさない客がいた。  いやでも、その客は、目立つ。 (白井徹郎ではないか?)  と、また、思った。 「いた!」  と、思わず、叫んだ。 「場所は、同じですか?」 「さっき、警部がいった女の人の五人ほど右です」 「まだ見えていますか?」 「ええ」 「よし、行ってみましょう」 「私も行きますよ」  二人は、立ち上り、サード側内野スタンドに向って、突進した。  コンクリートの通路を走り、スタンドへの階段を駆けあがった。 「わあッ」  と、また、歓声があがった。  スタンドへ出たところで、自然に、今西の眼は、グラウンドへ走った。  先頭打者の真岡が、一塁へ出ている。  きれいな打球の音が聞こえなかったから、四球で出たのだろう。  今日の定岡は、コントロールが、よくないのかも知れない。  スタンドへ出たものの、通路まで、びっしりと、観客で、埋っていた。  今西と、藤木は、その人の壁を無理にこじあけるようにして、階段を一歩ずつおりて行った。  二番打者が、型通り、バントで送った。  ハンターズとしては、この第三戦ではいつも以上に、先取点が欲しいのだ。  また、「わあッ」と歓声があがり、立ち上って、拍手する観客もいる。  今西たちは、いやでも、壁にぶつかったように、動けなくなってしまい、立ち止った。  ワン・アウト、走者、セカンド。  ヒット一本で、一点が入るケースである。  それだけに、ハンターズの先取点を期待して、わあわあと、声をあげて、応援する。ハンターズの歌の合唱が始まる。  三番に、今日は、ジョンストンが入っている。即席のジョンストンコールが始まる。 「かっとばせ、かっとばせ、ジョンストン」  ジョンストンに、その意味がわかっているかどうか。とにかく、自分に対する応援だということはわかるだろう。  定岡も、必死になって、ボールを低目で変化させている。  ジョンストンの打球は、いずれも、引っかけたようなゴロのファウルになって、グラウンドを這《は》った。ボールの上を叩《たた》いてしまっているのだ。  今西たちは、やっと、目標にした黄色い服の女性席のところまで、辿《たど》りついた。  白井徹郎によく似た男の席は、そこから、横に、五つか六つ、右の方だった筈《はず》である。  だが、そちらへ眼をやった今西は、ぽっかりと空いた座席に、ぶつかった。 (いない!)  とたんに、ジョンストンの猛烈なライナーが二遊間に飛んだ。  大歓声があがった。  誰《だれ》もが、ヒットと思ったかも知れない。  しかし、次の瞬間、細い篠塚の身体が鋭く、ダイビングした。  篠塚自身、捕れると思っていなかった。ただ、止めれば、ランナー一、三塁にはなっても、一点は入らないだろうととっさに思ったという。  それが、一杯に伸したグラブの先に、ジョンストンの打球が、奇蹟的《きせきてき》に引っかかったのだ。  センター前に抜けたと思った二塁の真岡は、篠塚が捕球したとき、サードベースを回っていて、たちまち、併殺になってしまった。  一点になる筈が、スリー・アウトになってしまった。どうも、幸先《さいさき》が悪いぞと考え込んでしまう監督もいるだろうし、不運だったが、いい当りをしているのだから、今日の相手投手は、打ち崩せると、積極的に考える監督もいるだろう。  今西は、ちらりと、ハンターズのダッグアウトに眼を走らせた。  江島を誘拐し、また、松尾たちを殺した犯人を捕えたいと、今西は思っている。が、同時に、京神ハンターズの一員として、今日の試合が気になるのだ。  監督の片岡が、笑いながら、帰ってくる選手を迎えているのが見えた。  恐らく「ドンマイ(気にするな)」とでもいっているのだろう。 「どうしました?」  藤木が、不審そうにきいた。 「いや、ゲームの方も気になりましてね。申しわけありません」 「この席にいたんですか?」  藤木が、ぽつんと、一つだけ空いている座席を、指さした。 「そうです。彼が、あの席で、見てたんです」 「われわれが来るのを見て、あわてて逃げ出したのかな。それとも、トイレにでも立ったんでしょうか?」 「わかりませんね。私も、見たのが、白井徹郎だとは断定できないんです。何しろ実際に会ったことがないんですから」 「とにかく、しばらく、待ってみましょう」  と、藤木がいった。  二人は、階段のところに、しゃがんでグラウンドを見、五、六メートル離れた空席を見つめた。  二回の表も、伊東は、先頭打者をサードフライに打ち取った。 「なかなか、調子がいいようじゃありませんか」  と、藤木が嬉《うれ》しそうに、いった。彼も大阪人だから、やはり、捜査のことと同時に、京神ハンターズの試合も、気になるのだろう。 「ただ、伊東は、突然、崩れることがありますからね」  今西が、小声でいったとき、ふいに、藤木が 「来ましたよ」  今西も、息を殺して、問題の座席《シート》に眼をやった。  背のひょろりと高い、二十二、三歳の男が、腰を下したところだった。Gパンに、Tシャツ姿である。 「違う!」  と、今西は、思わず、叫んだ。  近くにいた観客の一人が、とがめる眼で、今西を見た。 「違いますか?」 「違いますよ。あんな男じゃありませんでした。三十代後半の男で、白井徹郎の顔写真によく似ていたんです。おかしいな」 「あの男に、きいてみましょう」  藤木は、身体をかがめるようにして、そのまま座席まで歩いて行った。  巨人の六番、ライトとして出ている山本が、伊東の外角球を、うまくレフトに流し打ち「わあッ」と、歓声があがった。  青年は、巨人ファンらしく、立ち上って、手を叩いている。 「おい、君」  と、藤木が、その青年の肩を叩いた。 「何だい?」 「そこは、君の席かね——」 「何いってるんだ? おれの席だよ」 「じゃあ、半券を見せてくれまいか」 「あんた、誰だい? 球場の係員でもないみたいだけど」 「とにかく、半券を見せて欲しいね。私は、警察の人間だ」 「ちゃんと、持っているよ」  青年は、尻《しり》ポケットから、二つに折った入場券の半分を取り出して、藤木に見せた。  間違いなく、この座席《シート》の券だった。 「間違いないだろう?」  青年は、どうだという顔をして、藤木を見た。  山本を一塁に置いて、次の淡口が、強引に、伊東の球を引っ張った。  球の上っ面を叩いたために、奇妙な回転をしながら、ゆるいゴロが、一塁手と、投手の間に、転がっていった。  伊東が、マウンドを駆けおりて、グラブを伸した。  だが、ボールが、グラブの先をはじいた。  若い女性ファンが悲鳴に似た声をあげた。  伊東が、尻もちをついた。  山本が、二塁を回って、三塁に滑り込んでいく。  一回裏のハンターズの攻撃が、一、三塁になる筈が、チェンジになってしまったのに、二回表の巨人の攻撃は、当り損ねが、ヒットになって、たちまち、ワン・アウト、一、三塁のチャンスを迎えてしまった。 「ちょっと、来て貰いたいんだがね」  と、藤木がいった。 「冗談じゃないよ、せっかく、いいとこなのに」  京神ハンターズにとっては、ピンチである。  特に、この第三戦には、信頼できる投手がいないだけに、先取点をやるわけにはいかなかった。  コーチの大山が、すぐ、マウンドに近づいて、伊東の調子をきいている。他の野手も、マウンドに集ってきた。  その光景を横眼で見ながら、藤木は、青年に向って、警察手帳を示した。  青年も、ちょっと、びっくりした眼になっている。本物の刑事とは、思っていなかったのかも知れない。 「この座席《シート》の人間が、殺人事件に関係している疑いがあるんだよ。さっきまでは、君じゃない男が腰かけていた筈だ。それとも、君が、殺人事件に関係しているのかな?」  藤木がいうと、青年は、蒼《あお》い顔になって 「とんでもない。おれは、この券を、貰ったんだ」 「くわしく聞こうじゃないか」  藤木は、青年を促して、狭い通路を出て、今西と合流し、球場管理課の方へ、歩いて行った。  内野スタンドの裏側に出ると、急に、人の姿がなくなって、時々、歓声が聞こえてくるだけである。 「あの座席を貰ったといったね?」  と、藤木が確認した。 「ああ。貰ったんだ」 「じゃあ、君は、どこの座席《シート》にいたんだね?」 「外野だよ。だけど、座れやしない。仕方なく、この辺りまで歩いて来たら、中年の男が近づいて来て、内野席の半券をくれたんだ」 「ただでくれたのかい?」 「急用が出来て、家に帰らなきゃならないんで、君にあげようといったんだ」 「この男じゃなかったかね?」  藤木は、白井徹郎と、若い刑事の写真を取り出して、青年に見せた。 「二人じゃなく、ひとりだよ」 「どっちの男だね?」 「こっちさ」  と、青年は、迷うことなく、白井徹郎の写真を指さした。  藤木が、ほっとして、今西と顔を見合せていると、青年は 「今日は儲《もう》けたと思っていたのに、こんなことになるんなら、この男に、貰うんじゃなかったよ」  と、舌打ちをした。 「その男は、手に何か持っていなかったかね?」 「そういえば、小型の双眼鏡を持っていたなあ。よっぽど熱心なファンだと思ったよ」 「他に、その男のことで、気がついたことはなかったかね? どんな小さなことでもいいんだが」  と、藤木が、いった。 「別に、なかったけど——」 「じゃあ、その半券は、貰っておく。ちょっと、調べたいことがあるんでね」 「おれは、どうしたらいいんです?」 「あの座席《シート》に座っていればいい」 「いいんですか?」 「いいとも」  藤木がいうと、青年は、急に、ニヤッとして、駆け出して行った。  藤木は、半券を、ポケットにしまった。 「念のために、指紋の検出をしてみるつもりです」 「やはり、白井徹郎ですかね?」  今西は、まだ、半信半疑の顔で、きいた。 「あの青年も、顔写真で、確認しましたから、十中八九、間違いないと思いますね。白井徹郎は、ひそかに、帰国していたんです」 「江島選手を誘拐するためにですか?」 「彼は、シライ企画の経営を、父親から頼まれていました。白井泰造の方は、やり手ですが、息子《むすこ》の徹郎の方は、どうやら、不肖の何とかだったようですね。遊ぶ方は好きだが、仕事は、嫌いという男のようです。それでも、白井泰造の方は、息子が可愛くて、わざわざ、シライ企画という会社を作り、経営を委せたわけです」 「うまくいってなかったんですか?」 「いや、京都の『かえで』にしても、大阪の『シャルム』という店にしても、営業成績は、悪くなかったようです。ただ、白井徹郎が、使い込みをしたらしいのですよ」 「なるほどね」 「一億円近い金を使い込んだようなのです。ところが、日頃《ひごろ》、父親に頭があがらないので、それを、父親にいうことが出来ない。それで、相当、あせっていたというのです」 「その金欲しさに、江島選手を誘拐したというわけですか?」 「シライ企画の持ちものである京都の『かえで』は、江島選手の彼女が、ホステスをやっていた。社長の白井徹郎は、当然、知っていたと思うんです」 「なるほど」 「プロ野球の日程は、あらかじめ、決められている。京神ハンターズが、東京遠征から、帰って、巨人との四連戦を迎えることは、前もって、わかります。その時には、江島選手は、ひまを見て、京都へ、彼女に会いに来るだろう。その時に、誘拐してしまおう。白井徹郎は、そう考えたに違いありません。そこで、商用で、アメリカのラスベガスへ出かけた。もちろん、アリバイ作りが、目的です。そうしておいてから、ひそかに、他人のパスポートを使って、帰国したわけです。案の定、江島選手は、京都の彼女のところへ、会いに来た。そして、誘拐事件が起きたわけですよ」 「なるほど」  と、今西は、肯《うなず》いた。  また、グラウンドの方で、大歓声があがるのが聞こえてきた。  巨人のチャンス、京神ハンターズのピンチの時に、ここへ来てしまったのである。あれから、どうなったのだろうか?  一死一、三塁で、バッターは、確か、八番、捕手の山倉の筈である。打率は相変らず低いが、一発長打もある。もし、伊東が長打を喫したら、二点の先取点を取られてしまう。  江島のいない、現在のハンターズの投手陣を考えると、相手に先取点をやると、あとが苦しくなる。  山元と久藤は使えないし、大林は、明日の先発である。となれば、今日のゲームで、先発伊東のあとに出てくる投手は、正直にいって、信頼がおけないのだ。  ひょっとして、意外な好投をしてくれる投手が出てくるかも知れないが、そんな偶然を期待して、試合は出来ない。  監督の片岡は、冷静な男だから、当然偶然を頼みのゲームなどはやるまい。  今日のゲームは、投手を小きざみにリレーして、最少失点に、相手をおさえていく方針を取るだろう。  それなのに、二回の表に、二点、三点と奪われてしまったら、あとの継投が、難しくなってしまう。 「私は、これからすぐ、捜査本部に帰ります」  藤木にいわれて、今西は、ゲームの心配から、事件のことに、意識を戻した。 「半券の指紋の検出ですか?」 「それもありますが、白井徹郎が帰国しているとすれば、また、アメリカに向うでしょう。これから、空港や、港を、おさえるつもりです。うまくいけば、逮捕できるかも知れませんからね。白井徹郎を、逮捕できれば、江島選手が、どこに監禁されているか、わかると思いますよ」  それだけいって、藤木は、帰って行った。  今西は、もう一度、グラウンドを、のぞいてみた。  チェンジになって、ハンターズの選手たちがダッグアウトに引きあげてくるところだった。  だが、スコアボードに眼をやると、二点が入ってしまっている。やはり、山倉が、長打を打って、二点が入ったのだろう。そして、次の定岡が、併殺打を打ったということなのかも知れない。  まだ二回の表とはいいながら、二点の先取点は、今の京神ハンターズには、重すぎるようだった。  二回の裏、先取点を貰って気をよくした定岡の前に、ハンターズは、三者凡退に終ってしまった。  三回から、片岡は、伊東に代えて、小町をマウンドに送った。  その小町が、巨人の先頭打者、河埜に、ストレートの四球を与えてしまった。 [#改ページ]   対 決  スタンドから、罵声《ばせい》が飛んだ。  非難の口笛が鳴る。もともと、気の小さい小町は、一層、萎縮《いしゆく》してしまったようだった。  次の篠塚には、初球ストライクをとったものの、次のカーブを、あわやホームランという大ファウルをされると、たちまち、ボールが散ってしまって、四球を出してしまった。 「代れ! 代れ!」  の大合唱が始まった。  片岡は、肩を小さく振りながら、ゆっくりと、マウンドへ歩いて行った。  平静な表情に見えるが、腹の中は、不甲斐《ふがい》ない若手の投手陣に対して、煮えくりかえっているに違いないと、今西は、思った。  今西は、見ているのが辛くなって、球場の外に出た。  小町をかえるとすれば、福井か、池田しかないが、福井は小町以上に不安定だし、池田は、昔ほどの球威がない。明日の先発に予定されている大林は、リリーフには使えない。 (今夜は負けゲームかな)  と、思う一方で、それだけに、なおさら、今西は、一刻も早く、江島を見つけ出さなければならないという思いにかられていた。  若手投手陣の崩壊は、江島がいれば防げるのだ。  自分たちが、最後の砦《とりで》だという意識で投げるのと、とにかく、最少得点におさえていれば、あとには、リリーフ・エースの江島がいるというのでは、重圧感が違う。  今西は、球場の外で、タクシーを拾った。 「芦屋へ、やってくれ」  と、今西はぶっきらぼうにいった。  タクシーは、動き出した。ラジオが、巨人戦を、甲高いボリュームで伝えている。  三人目の投手として、片岡は、やはり、池田を、マウンドに送った。  その池田も、あまり、ぱっとしないようだった。  四番の中畑を、ライトフライに打ち取ったかと思うと、次の原に、死球を与えて、ワン・アウト、満塁にしてしまった。 「何をやってるのかね、ハンターズのピッチャーは」  と、若い運転手が、大きく、舌打ちした。  今西は、黙っていた。 「江島は、どうしちゃったのかねえ?」  また、運転手が、舌打ちした。  タクシーが、芦屋に着いた。  今西は、白井泰造に、会うことを考えていた。  白井徹郎が犯人だという可能性は強くなってきた。もし、そうだとすれば、父親の白井泰造が、彼の居所を知っているのではないかと、思ったからである。  白井泰造は、最初、会うのを拒絶した。が、今西が「ご子息のことで、どうしても、お話したいことがある」  と、いうと、渋々、門を開けてくれた。  すでに、八時に近かった。  白井泰造は、応接室で、今西と会ってくれたものの、不機嫌そのものだった。 「息子は、今、アメリカにいる。用があるなら、アメリカへ行きたまえ」  と、泰造は、今西にいった。 「ラスベガスにいることは、藤木警部に聞きました」  と、今西は、いった。 「それなら、私に会うこともないだろう。来週になれば、息子は、帰国する。そのとき直接、会ったらどうなんだ?」 「それでは、間に合わないのです」 「間に合わんというのは、どういうことだね?」 「実は、今夜、甲子園球場のスタンドで、息子さんを見かけたのです」 「今夜? それは、何かの間違いだろう。他人の空似というやつだよ。そんなつまらんことをいうために、私と会いに来たのかね?」 「それは、間違いなく、ご子息の徹郎さんでした」 「息子に、前に会ったことがあるのかね?」 「ありません」  と、今西がいうと、泰造は、それ見ろという顔で 「それじゃあ、話にならんじゃないか。息子に一度も会ったことのない人間が、今夜、甲子園で息子を見たといっても誰が信用するものかね」 「しかし、私は、ご子息の顔写真を見ています。間違いなく、ご子息の白井徹郎さんでしたよ。他にも一人、ご子息を見た人間がいるのです」 「その人間も、君同様、前に、息子に会ったことはないんだろう?」 「そうです」 「ばかばかしくて、話にならんね」 「これだけではありません」 「何か、他にあるのかね?」 「ご子息には、京神ハンターズの江島投手を誘拐したという容疑がかかっています。江島投手を誘拐し、一億円の身代金を奪い取った容疑です。ラスベガスに出かけたご子息は、ひそかに、帰国し、誘拐をやったというわけです」 「そんな馬鹿《ばか》げた話は、信じられんね」 「ひょっとすると、白井さんは、ご子息のそうした行為を知っておられるのではないかと思っているんですが」 「馬鹿なことをいうもんじゃない」 「白井さんは、松尾という男に、一千万円もの大金を、ぽんと渡された。小切手ですが、すぐ、現金化できるわけだし、それをおさえるように、銀行に連絡もしていない。とすれば、現金を渡したのと同じですよ。それは、ご子息のことで、何か知っていて、それを口止めするつもりで、松尾に、一千万円もの大金を渡されたんじゃないんですか?」 「いったい、君は、この私に向って、何がいいたいのかね?」  今西は、小さく息を吸った。  もし、白井泰造が、全《すべ》てを知っているのなら、何とか説得して、息子や、江島の居場所を、喋《しやべ》らせなければならない。 「白井さんは、プロ野球に興味がおありですか?」  と、今西は、語調を変えて、いった。 「たいして、興味はないね」 「しかし、京神電鉄の株は、お持ちでしょう?」 「多少は、持っているが、それがどうかしたのかね?」 「京神電鉄は、京神ハンターズというプロ球団を持っています」 「そのくらいのことは、知っている」 「その京神ハンターズが、今、十八年ぶりの優勝をかけて、戦っているのです。たかが、プロ野球と思われるかも知れません。しかし京神ハンターズの背後には、何百万というファンがいて、彼等も、十八年ぶりの優勝を待っているのです。これは、今まで、広島や、東京に優勝をさらわれてきた関西人の悲願でもあるのです」 「それが、私と何の関係があるのかね?」 「白井さんにも、関西人として、ハンターズの優勝に、力を貸して頂きたいのです」 「力を?」 「そうです。京神ハンターズの優勝は、リリーフ・エースの江島の活躍にかかっていたのに、その江島投手が、誘拐されてしまったのです。十八年ぶりの悲願に燃える球団は、犯人のいうがままに、一億円の身代金を支払いました。しかし、それにも拘らず、犯人は、江島投手を、返そうとしないのです。彼がいなくては、ハンターズの優勝は、おぼつかないのです。また、東京の巨人軍に優勝をさらわれてしまうでしょう」 「私には、関係のないことだ」 「江島投手を誘拐したのは、ご子息の徹郎さんだと思われるのです。もし、ご子息が、今どこにおられるのか知っているのなら、教えて下さい」 「息子が誘拐犯などと、なぜ、私が、信じなきゃならんのかね。不愉快だ。帰りたまえ」  白井は、声を荒らげた。 「では、信じなくて、結構です。ご子息の居場所だけでも、教えて下さい」 「くどいな。息子は、今、アメリカのラスベガスだ」 「では、そこの何というホテルに泊っているのか教えて下さい。納得したいのです」 「それなら、息子が社長をやっているシライ企画にいきたまえ」 「シライ企画でも、わからないといっているんです」 「それじゃあ、なおさら、私には、わからんよ。帰りたまえ」 「待って下さい」  と、今西は言い、ポケットから、トランジスタラジオを取り出して、テーブルの上に置いた。 「これを聞いて下さい」  と、今西は、ラジオのスイッチを入れた。  すでに、試合は、八回の表まで来ていた。  あれから、池田も打たれて、巨人に六点を献上したが、ハンターズも、七回の裏、必死に定岡に食いさがり、四点を返し、なおも、一死二、三塁と、同点のチャンスだったのだが、リリーフした角にかわされてしまったらしい。  八回の表の巨人の攻撃を、どうかわすのか。  片岡は、とうとう、新人の福屋を、五人目の投手として、マウンドにあげた。  —福屋ですねえ  と、アナウンサーが、溜息《ためいき》まじりにいった。  —もう、他に、ピッチャーがいないんじゃないかな  ゲストの評論家が、いった。  —ええと、福屋の成績は、中継ぎとして、八試合に登板していますが、勝敗に関係なし。防御率は、四・二三です  —新人としては、可もなし、不可もなしだが、この場面での登板は、しんどいねえ。ハンターズとしたら、もう、一点もやれん。とにかく、この二点差で、何とかおさえて、八、九回に、角を打ち込むより仕方がないんだからね  —ここで、江島がいたらと、監督は、思っているでしょうねえ  —きっと、歯がみをしているだろうね。いや、この甲子園を埋めたファンの誰もが、江島がいたらと思っているさ  そう話している間に、新人の福屋は、この回先頭の松本に、二塁打を打たれて、たちまち、ピンチになってしまった。  とうとう、我慢しきれなくなったとみえて、スタンドを埋めた大観衆から、期せずして大合唱が起きた。 「江島を出せ! 江島を出せ!」  すごい声だった。波のように、ゆれて聞こえてくる。 「聞いて下さい」  と、今西は、ラジオのボリュームをあげた。 「私に、何の関係があるんだ? 私は、江島という選手のことなど、知らんぞ」  白井泰造が、眉《まゆ》をひそめていった。 「私も、警察も、あなたのご子息が、江島投手を誘拐したと確信しているんです。あなただって、うすうす、感付いていらっしゃるんじゃないですか?」 「いいかね。君、それ以上、いったら、君を告訴するぞ。第一、江島というのは、野球選手で、体力もある筈だ。私の息子は、痩《や》せていて、体力がない。そんな息子が、どうして野球選手を、誘拐して、監禁しておけるのかね?」  と、白井が、きき返した。 「それは、わかりませんが」 「何もわからずに、私の息子を、犯人呼ばわりしているのかね?」 「それでは、私の考えを申し上げましょう。シライ企画がやっている『かえで』という京都のクラブをご存知の筈です。あの店は、あなたが、ご子息に買ってやったようなものですからね。江島投手は、その店のホステスの一人と親しくしていました。東京遠征から帰った江島投手は、京都でおり、そのホステスに会いに行ったのです。ところが、翌朝、彼女が、マンションで殺されているのが見つかり、江島は、失踪《しつそう》してしまいました」 「それなら、彼が、彼女を殺して逃げたんだろうが」 「われわれも、最初は、そう思いました。早く、自首してくれればいいのにとです。しかし、日時がたつうちに、これは、誘拐事件なのだとわかって来ました。犯人は、それを利用したのです。江島投手は、好きなホステスのマンションに泊り、翌朝、気がつくと、そのホステスが、部屋の中で殺されていた。江島投手は、あわてたに違いありません。今、京神ハンターズは、巨人、広島と、連日優勝をかけて戦っている最中です。そんな時に、女のところに泊っただけでも、批判の対象になるところなのに、その女が、殺されたとなると、もう、いい逃がれは出来ない。自分が殺したんじゃなくても、マスコミの攻撃にさらされることは、眼に見えています。逃げても、店の者が、彼のことを覚えていて、新聞は、書き立てるでしょうし、警察は、彼を犯人と見て、追いかけて来るに決まっています」 「江島という選手が、本当に、そのホステスを殺したんじゃないのかね?」 「もし、そうなら、誘拐事件は起りません。殺人事件だけです。ところが、江島投手を誘拐したという犯人が現われ、一億円の身代金を要求し、まんまと、強奪しました。時間的に、ホステスが先に殺され、そのあとで誘拐事件が起きていますが、私は、犯人は同一人で、先に、江島投手の誘拐を計画し、その計画の一部として、ホステスを殺したのだと思います」 「なぜ、そんなことをする必要があるのかね?」 「それは、今、あなたが、おっしゃった理由からですよ。若くて、腕力のある江島投手を、腕力のない息子が、誘拐できる筈がないといわれた。その通りです。だから、犯人は、まず、江島投手の彼女であるホステスを殺したのです。そうしておいてから、窮地に立たされた江島投手を、恩に着せて、どこかに、かくまったに違いありません。腕力で、監禁したのではない。怯《おび》えさせて、かくまった形になっているに違いありません。そうしておいてから、犯人は、ハンターズ球団をゆすったんだと思いますね。ひょっとすると、今でも、江島投手は、誘拐のことを知らず、かくれているのかも知れません」 「その犯人が、私の息子だというのかね?」  白井泰造は、厳しい眼で、今西を見すえた。老人の眼とは思えないような、強い眼だった。  今西も、負けずに見返した。 「その通りです。私は、あなたのご子息だと思っています」 「私は有力な弁護士を知っている。彼に相談すれば、君の言い方は、明らかに、告訴に値するというだろう」 「告訴したければ、して下さい。構いませんよ」  と、今西はいい返した。  多分、今日のゲームに、京神ハンターズは負けるだろう。負ければ、一位の巨人との間に、二・五ゲームの差が出来てしまう。  今日負けてしまえば、明日も負ける可能性が強い。連敗をストップさせるストッパーの江島がいないからだ。  せり合っている時はいいが、敗北が続くと、自分から崩れていくのが、京神ハンターズのチーム・カラーである。今日のゲームの負けより、その方が、今西には、怖かった。  だから、身体を張ってでも、今日中に、江島を見つけ出したかった。そのために、白井泰造に告訴されるぐらいは、何でもなかった。  そんな、今西の気迫に押れたのか、白井は、黙ってしまった。  今西は、構わずに、言葉を続けた。 「ご子息は、金に困っていました。警察の調べによれば、一億円近い借金を背負っていたといいます。ところが、それを、父親であるあなたに、いうことが出来なかったんだと思いますね。そんなことをいっては悪いが、白井徹郎さんは、あなたから見て、出来の悪い不肖の息子だったんじゃありませんか。ご子息も、それを自覚していて、あなたには、頭があがらなかった。シライ企画の社長とはいっても、あなたが、お膳立《ぜんだ》てしてやって、社長にすえただけのことですからね。だから、莫大《ばくだい》な借金が出来ても、あなたに、いえなかったし、あなたに、返済を頼むことも出来なかった。それで、考えたのが、江島投手の誘拐です。今のハンターズは、十八年ぶりの優勝を勝ちとるために、江島投手は、絶対の切り札です。一億円ぐらいは、身代金として、簡単に払うと、読んだんでしょう。ご子息は、京都のクラブの持主だから、店のホステスのところに、江島投手が、時々、来ていることを知っていた筈です。だから、計画を立てやすかった」 「私には、信じられんね。息子は、アメリカにいるんだ」 「違います。日本に、帰っているんです。あなたも、それを知っているんじゃありませんか?」 「私が知っている筈はないだろう。私が知っているのは、息子が、アメリカにいるということだけだ」  白井泰造は、あくまでも、いいつのった。だが、もう、今西を告訴するとはいわなかった。それに、すぐ帰れという言葉も、止めてしまった。  そこに、白井が、弱気になっているのを、今西は、感じ取ることが出来た。  最初に、この老人を見たときは、尊大で、傲慢《ごうまん》な男だと思ったのだが、今は、何となく、気弱な、平凡な老人に見えてきた。  泰造が、誘拐現場を見たとは思わない。だが、ひょっとすると、息子が犯人ではないかと、疑心暗鬼にとらわれているのではないだろうか?  或《ある》いは、アメリカに行っている筈の息子が、日本に帰って来ているのを、どこかで見たのかも知れない。  今西は、腕時計に眼をやった。九時に近い。  彼がさっき、テーブルの上にのせたトランジスタラジオは、白井が、スイッチを切ってしまっていた。  今西は、手を伸して、もう一度、スイッチを入れた。  重苦しい沈黙が支配していた部屋の中に、突然、甲子園球場の騒音が、飛び込んできた。  まだ、ゲームは、終っていなかったのだ。  八回の表の巨人の攻撃。六人目の投手、佐野が、めった打ちにあっていた。  佐野は、今年、トレードでハンターズに来た投手である。  長身だが、そのわりにスピードはなく、変化球でかわすピッチャーだった。今年は、これまで、一勝二敗の成績で、その一勝も、リードされていたゲームを、九回の表一回だけ投げ、その裏、味方の打撃陣が、引っくり返してくれて、転がり込んできた勝利だった。  防御率も、五点台と悪い。  いわば、二線級の投手を、こんな大事なゲームに、リリーフとして、登板させなければならないところに、リリーフ・エースの江島を欠くハンターズの苦しみが表われていた。  一死はとっているが、一、三塁、一、三塁と攻められる最悪のパターンになっている。  —片岡監督の苦虫をかみつぶしたような顔が、眼に見えるようですねえ  —これじゃあ、もう、ゲームにならんね  —マウンド上で、佐野は、さらし者ですねえ。ああ、また、四球ですか  —だが、もう、代えるピッチャーがおらんだろう  —大林が、ベンチに入っていますが  —明日のゲームを考えたら、エースは、リリーフに使えんよ  アナウンサーと解説者の会話の背後で、球場は、大観衆の怒号に蔽《おお》われていた。 「ラジオを消したまえ!」  と、白井泰造が、怒鳴った。  球場の怒号や、罵声は、ますます、激しくなっていた。  マウンド上の佐野投手に対する罵声だけでなく、監督の片岡に対する悪罵《あくば》の声も、容赦なく、マイクに入ってくる。 「いや、聞いて下さい」  と、今西は、いった。 「いったい、私に、何を聞かせたいんだ?——」 「さっきもいったように、京神ハンターズのファンの声を、聞いて貰いたいんです。今夜も、五万人を超えるファンが甲子園球場に詰めかけています。その殆《ほとん》どが、ハンターズのファンです。彼等は、十八年ぶりのハンターズの優勝を願って、球場に押しかけたのです。テレビや、ラジオに一喜一憂しているハンターズファンは、その十倍、百倍といる筈です。ねえ、白井さん、その怒号や、罵声は、ハンターズファンの悲鳴なんです。どうにかしてくれという悲鳴なんですよ。あなたが、プロ野球のファンかどうか知りませんが、ファンというのは、切ないものです。ひいきのチームが勝てば、その一日、いや、次の日一日が楽しい。負ければ、逆になるんです。私は、選手をやめてから、ファンの気持というのが、よくわかるようになりましたよ。ハンターズのファンは、切ないほど、ハンターズが勝つこと、優勝してくれることを願っているんです。今日、負ければ明日も、負けてしまうかも知れない。そうなれば、ハンターズの優勝は、絶望です。この怒声や罵声は、それを知っている人たちの悲鳴ですよ」 「そうだとしても、私には、どうすることも出来んよ」 「私は、あなたのご子息が、江島投手を誘拐したと信じているから、こうして、お願いしているんです」 「もし、違っていたら、君は、どうするつもりだね?」 「どんな責めでも負う覚悟は出来ていますよ。死んでもいい。一応、投手として、満足のできる何年間かを送らせて貰いましたからね。二百勝はしていませんが、別に、名球会などに入りたくもない。私が、投げたことで、ファンが喜んでくれた、それが、私の誇りなんです。今は、京神ハンターズの職員の一人として、ファンの人たちに、優勝の喜びを、持たせてあげたいのですよ。だから、こうしてあなたにお願いしているんです」 「今から、江島選手が出てくれば、京神ハンターズは、優勝できるのかね?」  と、白井泰造が、きいた。  今西は、自分で、ラジオを消した。彼自身が、聞いているのが、辛くなってしまったからである。投手だっただけに、今、マウンド上で、めった打ちにあっている佐野の気持が、よくわかってしまうのだ。 「それはわかりませんが、ファンは、納得してくれると思うのです」 「どう納得してくれるというのかね? 負けは負けだろうが」  白井は、暗い眼つきでいった。 「それは、違いますよ」  と、今西が、いった。 「もし、このまま、江島投手が出て来なくて、京神ハンターズが、十八年ぶりの優勝を逃がしたら、何百万というファンは、いつまでも、あの時、江島がいたらなと、思い続けますよ。もし、あなたのご子息が、誘拐犯人だったら、嘘《うそ》でなく、あなたの名前も、ハンターズの優勝を邪魔した人間として、永久に記憶されていくでしょうね」 「私を、脅かすのかね?」 「いやそんな気はありません。私は、事実をいっているだけです。もし、ご子息に連絡がとれるなら、電話して、確かめて下さい。お願いします。そして、彼が、もし、江島投手を監禁しているなら、すぐ、釈放して、明日の第四戦に、投げられるようにして下さい」  今西は、急に、立ちあがると、白井泰造に向って、深々と、頭を下げた。  その行為は、意外だったらしく、白井は、一瞬、めんくらったように、眼をしばたたいた。 「妙な真似《まね》は、止めたまえ」 「あなたが父親として、ご子息をかばわれる気持は、わかりますよ。私個人のことなら、こんなに、くどくどと、お願いしたりはしません。京神ハンターズという球団のためでも同じです。ただ、問題は、何百万というハンターズのファンの喜びと、悲しみにつながっているのです。だから、こうして、お願いしているのです」 「もう帰ってくれ」  白井は、低い声でいった。 「駄目ですか?」 「とにかく、今日は、帰って貰いたいんだ。帰ってくれ」  と、白井は、くり返した。最初の叱《しか》りつけるような威勢のよさは、すっかり、消えてしまっていた。  むしろ、哀願するような調子だった。 「わかりました」  と、今西はいい、テーブルの上にのっているトランジスタラジオを、ポケットにしまった。  今西は、部屋を出た。  白井は送って来なかった。背後で、白井が、老人らしい、咳払《せきばら》いをするのを聞きながら、今西は、白井邸をあとにした。  白井泰造が、今西の頼みを聞いて、息子の徹郎に連絡をとり、江島投手を釈放するように、いってくれるかどうかわからない。  或いは、白井は、息子の無実を信じて何もしないかもしれない。  邸の周囲は、暗く、タクシーを拾う方法がない。今西は、駅に向って歩きながら、ラジオのスイッチを入れてみた。  巨人は大量十三点を入れていた。  九回裏、ハンターズ最後の攻撃である。  13—4。勝敗は、すでに、決してしまっている。  定岡をリリーフして、角が投げていたのに、九回の裏は、新鋭の西尾を、マウンドにあげて来た。  西尾は、今年、二軍からあがって来た巨人の若手である。  —まだ、四万を越す観衆が、最後のハンターズの攻撃を応援しています  と、アナウンサーがいった。  そのことに、今西は、感動した。ハンターズの投手陣が、めった打ちにあっているとき、あれほど、怒声や、罵声を浴びせかけていたのに、まだ、四万人の観客が残っているのだ。  奇跡の逆転を、期待してではあるまい。九回裏の一回だけの攻撃で、九点差を追いつくのは、まず、不可能である。年に一回か二回、大量得点差をはね返すゲームがあるが、それも、せいぜい一イニングに、七点か八点が限度である。  だから、スタンドに残った四万人は、純粋に、ハンターズを愛して、応援してくれているのだ。  京神ハンターズのファンは、不思議な人たちだと、今西は、思うことがある。十八年間も、優勝に遠ざかっていれば、たいていは、愛想をつかして、球団離れを起こしてしまうものである。事実、他の球団では、二年、三年と、低迷が続くと、ファンが、がくんと減ってしまう。  ところが、京神ハンターズのファンは、十八年も、優勝しないのに、いっこうに、減らないのである。毎年、今年こそ優勝してくれるだろうと、期待しながら、その期待をはぐらかされているのに、辛抱強く、また、翌年に期待する。  ハンターズのファンは、マゾだと書いた評論家もいる。が、それは、間違いだろう。むしろ、初恋を大事にする純情家と、いうべきだろう。  そんなファンのためにも、一刻も早く、江島を見つけ出さなければと、今西は、改めて、自分にいい聞かせた。  今年一勝しかあげていない西尾にも、たちまち、二死まで、あっさりとられてしまった。選手が、あきらめやすいのも、ハンターズの特徴でもあり、欠点でもある。  最後のバッターは掛井だった。  西尾は、掛井に対しても、ツー・ストライクをとって、気をよくしたのかも知れない。  二—二から、絶好球を投げてしまった。 「かーん」  という鋭い打撃音を聞いたとき、今西は、ホームランボールを投げたなと感じた。  右翼席へ飛び込むホームラン。  そのとき突然「万歳《ばんざい》! 万歳!」を叫ぶ観客の合唱が、ラジオから流れて来、今西の胸を打った。 [#改ページ]   追いつめて  その夜おそく、球団事務所で、今西は、監督の片岡と、二人だけで、ビールを飲んだ。 「あの万歳には、胸を打たれましたよ」  と、今西は、缶ビールをあけながら、片岡にいった。 「私もだ。掛井のホームランは、形の上ではただの一点で、焼け石に水だったが、ファンの人たちが、あれだけ喜んでくれたのが嬉しかった。あのファンのためにも、今年は、優勝しなければ、と思うんだがねえ」 「しかし、これで、巨人とは、二・五差ですか」 「この時期の二・五差は辛いがねえ」 「明日の第四戦は、どうですか?」 「うちはエースの大林でいくより仕方がないよ。彼が崩れたら、それで、終りという戦いになる」 「巨人はどう思いますか?」 「藤田が、必勝を期すつもりなら、中二日で、江川を立ててくるだろう。そうなって、大林—江川の対決になる」 「そうなったとき、勝てますか?」  今西がきくと、片岡は、ふと、いたずらっぽい眼になった。 「正直な答が欲しいのかい?」 「ええ」 「正直にいって、負けるだろうね。気力では、大林は、江川に勝っている。しかし、若さと、体力では、冷静に見て、江川の方が上だよ。だから、投手戦になっても、先に、大林の方が崩れる可能性が強いんだ。そのとき、ストッパーの江島がいてくれたらと思うんだがね」  片岡は、小さな溜息をついた。 「その江島君ですが」 「何か、わかったのかね?」 「誘拐した犯人は、白井徹郎にまず、間違いないと思います」 「間違いないのなら、なぜ、警察が逮捕して、江島を助け出してくれないんだ?」 「証拠がありません」 「それだけか?」 「それに、形の上では、アメリカに行っていて、現在、日本に帰国しているかどうか、わからんのです」 「うーん」  と、片岡は、小さく、唸《うな》った。彼が、どんなにいらだっているか、今西には、よくわかっていた。 「ところで、犯人と思われる白井徹郎ですが、京神ハンターズを憎んでいるふしがあるんです。いや、憎んでいるのは、監督のあなたかも知れない。何か心当りは、ありませんか?」 「全く、心当りがないねえ。第一、父親の白井泰造さんは、名前を知っているが、息子の方は、名前も、初めて聞くくらいだからね」 「彼は、京都の『かえで』というクラブと、大阪の『シャルム』というクラブを持っています。行かれたことは、ありませんか?」 「京都の店は、江島が行ってたところだろう?」 「そうです」 「私は、行ったことがない。大阪の『シャルム』は、有名だから、何回か行ったことがある。といっても、今年は、監督一年生だから、野球オンリーでね。最後に行ったのは、去年の暮じゃなかったかな」 「それは、ハンターズの監督に決ってからですか?」 「そうだよ。十二月の初め頃《ごろ》じゃなかったかな。後援者の人たちに連れられて、行ったのを覚えている。コーチも一緒に行ったと思うよ」 「その時、白井徹郎に、店で会いませんでしたか?」 「いや、会ってないね」 「そうですか」 「うん。紹介された覚えはないよ」  と、片岡は、いってから、急に、何かを思い出したように 「ちょっと待ってくれよ」 「何かありましたか?」 「そうだ、思い出したよ。ホステスがやって来て、うちの社長が、向うで呼んでいるから、来てくれないかといったね」 「それが、白井徹郎だったわけですよ」 「その時、そんなことはわからなかった。見ず知らずの人間が、こちらを呼びつけるなんて、礼儀知らずな奴だなと思ってね。断ったよ。一緒に行った後援者の人たちも、怒っていたしね」 「それでわかりました。あなたが断ったんで、白井徹郎は、かちんときたんでしょう」 「しかし、礼儀知らずは、向うの方だよ。あいさつに来いというわけだからね」 「その通りですが、白井徹郎というのは、どうやら、わがまま一杯に育った男のようですから、自分が馬鹿にされたと思って、ずっと、あなたと、京神ハンターズを、怨《うら》んでいたんだと思いますね」 「それで、江島を誘拐したというのかね?」 「いや、直接の動機は、金だと思います」 「二軒も、大きなクラブを持っているのに、金に困っていたのかい?」 「どうも、バクチに手を出して、大きな借金を作ってしまっていたらしいんです。ところが、父親に頭の上らない徹郎は、それを、父親にいうことが出来ず、江島選手を誘拐して、身代金を取ることを考えたんだと思います。それで、去年の暮には、あなたに馬鹿にされて、それを、根に持っていた。両方の気持が重なり合って、江島選手の誘拐を計画して、実行したんでしょう」 「なるほどね」 「だから、誘拐したあと、球場へ来て、困っているあなたを見て、喜んでいたんです」 「しかし、今、どこにいるのかわからんというのは、困ったね」 「父親は、知っていると思っています」 「白井泰造は、知っているのか?」 「私は、知っていると思っています」  今西は、芦屋の白井の邸でのことを、片岡に話した。  片岡は、肯きながら聞いていたが 「それで、白井泰造は、息子がどこにいるか、打ち明けてくれると思うかね?」 「期待は、半々ですね。だから、警察と協力して、私も、白井徹郎の行方を追ってみるつもりです」 「白井徹郎が犯人としてだが、わからないことが、いろいろとあるんだがね」 「どんなことですか?」 「京都のクラブのホステスが殺されたのは、君がいうように、江島を心理的に追い込むために、犯人の白井徹郎が殺《や》ったんだと思うが、他にも、京都の私立探偵が、何者かに殺されていたろう?」 「ええ、日下という探偵で、松尾が、死体を見つけたんです」 「それも、白井徹郎が、殺ったと思うのかね?」 「一連の事件を見れば、同一犯人と思います」 「しかし、なぜ、殺したんだろうか?」 「残念ながら、まだ、わかりません」 「次は、新谷敏江という『シャルム』のママだ。彼女は、君に、江島と連絡をとってやるといって、百万円を、払わせたんだろう?」 「その通りです。まんまと、せしめられました」  と、今西は、苦笑した。 「彼女は、なぜ、そんなことをしたんだろう?」 「私は、彼女は、白井徹郎の女で、今は、一緒に行動しているんだと思います」 「百万円で、江島と連絡してやるといったのは、本気だったのかね?」 「あの時、すでに、白井徹郎が、江島投手を誘拐していたわけです。それを考えると、新谷敏江は、ハンターズ球団が、いったいいくらくらい払うだろうかと、それを測りにやって来たんじゃないかと思いますね。小当りに、百万円と、吹きかけてみた。連絡をとるだけで、百万円払うのならと考えて、一億円の身代金を、要求して来たんだと思っているんです」 「共犯か」 「田島健一君が監禁されていた家にも、女がいたといいます。あれも、新谷敏江だったと思っています。私は、女が一緒にいてくれた方がいいと思っているんです」 「なぜだい?」 「白井徹郎一人では、人質の江島選手を、殺してしまう可能性があります。しかし、新谷敏江が一緒なら、殺さないのではないかという気がするからです」 「君のその推理が、当ってくれるといいがねえ」  と、片岡は、いった。  夜半近くなって、片岡は、明日もゲームがあるからといって、帰って行った。  ひとりになった今西は、タクシーを大阪府警本部に飛ばし、藤木警部に会った。  今西は、白井泰造に会ったこと、そして、彼の反応などについて、藤木に話した。 「さっき、片岡監督ともいったんですが、私は、白井が、息子のことを、ある程度、知っているような気がするんです。アメリカへ行っている筈の徹郎が、一時帰国していることを知っていると思いますし、江島投手を誘拐したのは、息子じゃないかという疑いは、持ってるんじゃないかともです」 「同感ですね。だからこそ、白井泰造は、松尾さんに、一千万円もの小切手を切ったんでしょう。問題は、彼が、息子のために、どう行動するかですね」  と、藤木は、考えながらいった。  若い刑事が、不器用な手付きで、二人のために、インスタントコーヒーをいれてくれた。 「そうですね」  と、今西も肯いた。 「われわれの調べでは、白井は、一人息子の徹郎を溺愛《できあい》しています。ああいう、頑固で、傲慢で、やり手の人間には、二つのタイプがあります。自分の子供に対しても厳しいタイプと、逆に、だらしないほど、溺愛してしまうタイプとです。白井は、後者ですね。息子の徹郎が、出来が悪いだけに、余計、自分がかばってやりたいのかも知れませんがね。白井泰造を知る人間が、口を揃《そろ》えて、こういっています。あの強い白井の唯一のアキレス腱《けん》は、息子の白井徹郎だと。三十九歳になっても、完全に自立できない息子を、白井は、突き放すことが出来ないでいるようです」 「そうすると、白井は、息子を、あくまでも、かばい通すかも知れませんね」  と、今西は、小さく、肩をすくませてから 「それを考えると、今日、私が、白井と対決したことは、かえって、マイナスだったかも知れない。息子が、危険だと知って、いよいよ、彼を助けようとするかもわかりませんからね」 「それは、二つ考えられますよ。あなたが危惧《きぐ》するように、白井が、自分の権力や、財力を使って、息子を、どこかへ逃してしまうかも知れません。彼の知人には、政治家も沢山いるし、金で動く人間も多いですからね。しかし、その反面、白井が、そうした小細工をすれば、われわれは、白井徹郎が犯人だという確信を強く出来るし、彼を逮捕するきっかけを、つかむことが出来るかも知れません」 「白井徹郎は、日本に帰国していると思いますか?」  今西がきくと、藤木は、コーヒーを、ブラックで飲み干してから 「彼が犯人なら、日本に帰っていると考えざるを得ないわけでしょう」 「そうです」  と、今西は、いった。彼も、白井徹郎が、日本に帰っていると信じている。白井徹郎は、他人のパスポートで帰国し、江島を誘拐し、三つの殺人を犯しているのだ。 「もう、彼を逃がしはしませんよ」  と、藤木は、自信満々にいった。 「全国の空港と、港湾は、押えましたからね。白井徹郎の顔写真は、全国の警察に、電送しました。別人の名前を使っても、似た男がいたら、職務質問することになっていますから、この日本から、外へ出ることは、絶対にありませんよ」 「今夜から、明日にかけて、何らかの動きがあると思いますか?」  と、今西はきいた。  藤木が、肯いた。 「犯人も、自分が、次第に追いつめられているのを知っている筈です。今日の甲子園球場でも、逮捕寸前までいったわけですからね。一番考えられることは、海外へ逃亡をはかることです。だから、空港、港湾を押えたわけですが、今から二十四時間が、勝負だと思っていますよ」  と、藤木は、きっぱりと、いってから 「おーい。コーヒーを、もう一杯くれ。濃いやつをな」  と、怒鳴った。 「私も、これから二十四時間が、勝負だと思っています」  と、今西が、いった。 「もっとも、私がいう意味は、犯人を逮捕できるかどうかということより、人質の江島投手のことなんですが」 「そうですね。江島投手が、どんな監禁状態にあるかわかりませんが、すでに、丸三日を過ぎていますから、もう限界に来ているかも知れませんね。その点は、われわれ警察も心配しているんですが」 「私は、京神ハンターズの人間として、チームのことも心配なんです。十八年ぶりの優勝を狙える大切な時なのに、江島というリリーフの切り札がいないばかりに、天王山といわれる巨人との四連戦に、早くも、一勝二敗と負け越してしまいました。このままでは、明日のゲームも危いでしょう」 「危いですか?」 「江島投手がいないために、先発投手が、自分が、最後まで抑えなければと、力んで、自滅してしまうのです」 「明日は、大林の先発ですか?」  藤木は、急に、一人のファンの眼になって、きいた。 「他にいませんからね。ただ、彼は、人一倍責任感の強い男です。それが、いい方に作用してくれればいいんですが、逆に作用すると、実力を出し切れぬうちに、自滅する恐れもあります。二・五差と開いて、もう、あとがありませんからね。それに、大林が崩れたとき、江島がいないから、リリーフできる投手がいません」 「京神ハンターズのためにも、明日の試合開始までに、犯人を逮捕し、江島選手を解放する必要がありますね」  と、藤木はいい、部下のいれた新しいコーヒーを口に運んだ。  今西は、腕時計に眼をやった。  間もなく、十二時になる。 「これで、失礼します」  と、今西は、いった。 「そうですか。明日のゲームに備えて、もうお休みになった方がいいでしょうね」 「いや、こんな時に、寝たりは出来ません」 「じゃあ、どうされるんですか?」 「警察が、日本全国の空港や、港湾を押えたとなると、犯人には、逃げる方法がなくなったことになります」  と、今西がいった。 「そうです。空港や、港湾だけじゃありません。大きな駅や、高速道路の入口にも、刑事を張り込ませてあります。もう、白井徹郎は逃げられませんよ」 「そうなると、もともと、甘やかされて育った男のことです。父親に助けてくれと、頼んでくることが、十分に考えられます。だから、これから、芦屋へ行って、白井泰造の邸を見張ろうと思うのです」 「それなら、うちの刑事を同行させましょう。われわれも、白井邸を監視する必要を感じていたところですから」  藤木は、二人の刑事を呼んだ。  西田と、小川という、どちらも、中年のベテラン刑事だった。 「二人とも、熱烈なハンターズファンですよ」  と、藤木が、いった。  今西は、その刑事と一緒に、覆面パトカーで、芦屋に向った。  藤木は、二人の刑事を、今西に協力させるのだといった。が、多分、今西が、勝手な行動をとって、捜査の邪魔をされないように、監視させる意味もあるのだろう。  そう思っても、今西は、別に、腹は立たなかった。相手は、捜査のプロだからである。今西だって、素人《しろうと》が、プロ野球のことで口を入れてくれば、あるところで、押えてしまう。  芦屋の白井邸は、眠っているように見えた。  二人の刑事は、邸がよく見える場所に、車を停めた。 「あそこにかかってくる電話を、全部、盗聴できるといいんですがね」  と、丸顔の西田刑事が、いった。 「できないんですか?」  今西がきくと、西田は、苦笑して 「アメリカなんかじゃ、やたらにやっているそうですが、日本では、なかなか、許可がおりません。それに、白井泰造は、犯人というわけじゃありませんからね」  と、いった。  時間がたっていくが、眼の前の白井邸は、ひっそりと、静まり返ったままである。  江島が誘拐されてから、今西は、何度、ただ空しく時間がたつ経験をしたろうか。  身代金一億円が支払われたあと、江島が返されるかどうかを、ただ待ったこともあるし、百万円の手数料を払ったあと、新谷敏江からの連絡を、空しく待ったこともあった。  しかし、今度は、違うような気がした。  二十年近く、ピッチャーとしてマウンドに立った今西は、予感というものがあることを信じている。ある打者と対したとき、こちらが絶好調なのに、ふっと、打たれそうな予感に襲われることがあった。そんな時には、必ず、打たれた。  今度は、必ず、犯人の白井徹郎なり、父親の白井泰造が動くという予感がするのだ。 「少し眠ったらどうですか? 監視は、われわれがしますよ」  と、小川刑事が、いってくれたが、今西は、断った。何かあれば、自分の眼で、確認したかったからである。  夜が明けた。  雨でも降ってくれて、対巨人の四戦目が、順延してくれたらと思ったりしたのだが、今日も、快晴のようだった。  午前九時を少し回った頃《ころ》、大型のハイヤーがやって来て、白井邸の前で停った。  二人の刑事が、緊張した顔で、見つめた。 「電話で、ハイヤーを呼んだらしい」 「自分の車で動くと、眼につくと思ったんだろう」  そんな会話を、刑事たちがしている間に、白井泰造が出て来た。  制服姿のハイヤーの運転手が、最敬礼で、泰造を迎えている。  泰造を乗せたハイヤーが走り出した。 「どこへ行くのかな?」  と、呟《つぶや》きながら、西田が、車をスタートさせた。  ハイヤーは、まっすぐ、神戸市内へ向った。  市内へ入ると、港への道を走り、一つのビルの前で停った。  白井泰造は、ハイヤーをおりると、すたすたと、そのビルの中に入って行った。  今西は、車の窓から、ビルの入口にかかっている看板の字を読んだ。 〈中央石油株式会社〉  の文字が読めた。  助手席にいた小川が、車をおりて、ビルに入って行った。が、すぐ戻って来た。 「白井泰造は、ここの社長の原口一平に会いに来たらしい」  と、小川がいった。 「こんな朝っぱらから何の用で、石油会社の社長に会いに来たんだろう?」  西田が、首をかしげた。 「大株主なのかも知れないが、朝の九時半に来るのは、おかしいな」  ビルの中に入った白井泰造は、なかなか、出て来ない。  二人の刑事は、それをどう考えていいかわからないという顔で、じっと、ビルを見つめている。  今西は、ふと、あることを考えて 「ちょっと、おろして下さい」  と、二人の刑事にいった。 「どうするんです?」  西田が振り向いて、きいた。 「あのビルに入って、調べてみたいことがあるんです」 「そうしているうちに、白井が出て来てしまったら、どうします?」 「その時は、私を置いて、彼を尾行して下さい」  今西は、それだけいい残して、車をおりると、中央石油の中に入って行った。  受付の女事務員が、こちらを向いている。  今西は、彼女に向って 「雑誌社の者ですが、おたくのタンカーで、今日、中東へ向けて、出発する船はありませんか?」 「あると思いますけど」 「その船の名前と、何時に出航するのか知りたいんです。私は、K社の者ですが」  と、今西は、実在の出版社の名前をいった。  受付の女性は、電話で問い合せていたが 「今日の午後三時に、当社の第一中央丸が、九州の喜入基地から出航いたします」  と、いった。 「行先は、中東ですか?」 「はい」 「マンモスタンカー?」 「はい。二十万トンのマンモスタンカーです」 「乗組員は、何人ですか?」 「確か、三十五名だったと思いますけど」  と、受付の女性がいったとき、奥のエレベーターから、白井泰造が、おりて来るのが見えた。  今西は、とっさに、顔をそむけた。  白井は、何か考えているという感じで、今西には気付かず、せかせかと、外へ出て行った。  今西は、小さく息を吐いてから、受付の女性に礼をいって、外へ出た。  白井泰造を乗せたハイヤーも、すでに消え、それを追って行ったのだろう覆面パトカーも、消えていた。  今西は、神戸市内に歩いて引き返し、本屋で、九州の案内図を買い求めた。  巨大な石油基地になった喜入は、鹿児島県の鹿児島湾に面している。  大阪から行くには、飛行機で行くのが、もっとも早いだろう。  今西は、藤木警部に電話をかけた。 「犯人の白井徹郎は、鹿児島の喜入に行くかも知れませんよ」 「きいれ?」  と、藤木が、電話の向うで、きき返した。 「鹿児島の喜入石油基地です。そこから、今日の午後三時に、中央石油のマンモスタンカーが、中東に向けて、出発します」 「それが、どうかしたんですか?」 「白井泰造は、今朝、あわただしく、中央石油の社長に会いに出かけました。仕事上の用件が、石油会社にあるとは思えません。恐らく、逃げ場のなくなった息子《むすこ》を、中央石油の社長に頼んで、中東行のマンモスタンカーに乗せるつもりではないかと思うんです。警察も、喜入には、手を回していないんじゃありませんか?」 「その通りですが——」  と、藤木は、いってから 「今日の午後三時出港のタンカーだといいましたね?」 「そうです。それ一隻が、今日、中東に向けて出港します」 「われわれは、まだ、白井徹郎が、大阪にいると思っています」 「その点は、同感ですね。彼は、甲子園球場に、三日間、通っていたと思われますから、大阪周辺のどこかに、隠れ家があり、そこに江島投手を監禁し、新谷敏江と一緒にいたと思います」 「それなら、彼は、鹿児島の喜入には行かれませんよ」 「なぜです?」 「今、午前十時を回ったところでしょう?」 「十時二十三分ですね」 「今から、白井徹郎が、喜入に向うとします。午後三時の出港までに、四時間四十分しかありませんよ。すぐに、大阪を出発するとしても、五時間です。新幹線で博多まで行き、その先は、L特急を利用する方法では、とうてい間に合わない。博多まででも、三時間半かかる。あと一時間半では、とうてい、鹿児島までは行けませんよ。とすると、飛行機しかない。大阪空港から鹿児島空港まで一時間十分しかかかりません。あとは、一時間あれば、喜入に着くんじゃないかな。とすれば、白井徹郎は、大阪から、飛行機で行くより仕方がないことになります。昨日《きのう》もお話したように、全国の空港には、刑事が、白井徹郎の顔写真のコピーを持って、張り込んでいます。空港に顔を出したとたんに、彼は逮捕されるでしょう。車ではなおさら間に合わない。なら、白井徹郎は、絶対に、鹿児島の喜入には行けないということですよ。われわれは、行こうとして、空港に現われてくれた方が、逮捕のきっかけがつかめて、有難いですがね」 「白井泰造も、警察が、空港に張り込んでいることは、承知しているんじゃないでしょうか?」 「というと?」 「それにも拘らず、中央石油に頼んだということは、息子を、午後三時までに、喜入に行かせる自信があったからじゃありませんか?」 「しかし、どんな方法で?」 「もちろん飛行機です。ただ、日本の空を飛んでいるのは、日航と全日空の飛行機だけじゃない。新聞社の飛行機も飛んでいるし、航空写真を撮るのを専門にしている飛行機会社もあります。白井泰造は、そういう会社の株も持っているかも知れません」 「そうだ。むしろ、そういう会社の飛行機を利用する可能性の方が強いんだ。すぐ、手配しましょう」  藤木は、あわてていい、電話を切った。  今西は、いったん、球団事務所に足を向けた。アメリカから、向うでの調査の報告が届いているかも知れないと思ったからである。  事務所で、昼食をとっている時、テレタイプが、アメリカから、送られて来た。頼んでおいた調査の報告だった。  丁度、球団専属の通訳をしている山下が来たので、彼に、翻訳して貰《もら》った。  かなり、長いものだった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  〈親愛なる今西様   おたずねの件につき、左記の如くご報告致します。   白井徹郎氏は、九月二日、ラスベガスに着き、ヒルトンホテルにチェック・インされました。これは、宿泊カードによって、明らかであります。その後、なぜか、白井徹郎氏は、同一ホテルに宿泊されることがなく、点々と、ホテルを変えておられます。   さて、問題は、現在ですが、十四日現在、ラスベガス内のホテル、モーテルを、一軒ずつ、しらみつぶしに調査いたしました。その結果、ベガス郊外のモーテルに、テツロー・シライなる人物が、宿泊しているとの報告を得ました。そこで、直接、会いに出かけたところ、問題の人物は、われわれを、入国管理官と間違えたのか、すぐ、パスポートを提示してきました。そのパスポートは、日本国発行の本物であり、白井徹郎本人のものであることを確認しました。ところが、顔写真と、本人の顔が、微妙に違うので、その点を、追及したところ、最初は、言を左右にしていましたが、指紋をとって、日本に照合するぞと脅したところ、遂に、宮田伍郎という名前であることを告白致しました。年齢二十九歳。アメリカに、グラフィックデザインの勉強に来ている男です。彼の告白によると九月五日の夜ベガスのバーで知り合った男から、しばらく、パスポートを交換してくれないかと顔まれ、その謝礼として、千ドル貰ったということです。   以後、今日まで、この男、宮田伍郎は、白井徹郎と名乗って、ホテルに宿泊し、宮田伍郎のパスポートを持った白井徹郎は、いずこかに、姿を消したわけで、日本に帰国していることは、十分に考えられます。宮田伍郎は、相手が、なぜ、そんなことをしたのか全く知らないと主張しております [#ここで字下げ終わり] [#地付き]S・エドガー〉 [#改ページ]   優勝に向って 「ずいぶん叩《たた》かれているじゃありませんか」  と、親しくしている新聞記者の一人に片岡は、からかわれた。  片岡は、苦笑して 「今日出た週刊誌には、もっとひどいことが書いてあるよ。巨人との差が二・五になって、優勝が絶望的になったとたん、監督の片岡は�告げ口片岡�の本領を発揮して、今度の巨人戦に勝てなかったのは、選手の誰《だれ》それが、自分の指示通り動いてくれなかったからだと、オーナーにいいつけたらしいとね。おれが、監督の椅子《いす》にしがみつきたくて、早くも、予防線を張り出したというのさ」 「本当に、そんなことをやったんですか?」 「バカなことをいうなよ。今日も、巨人と戦うんだ。オーナーに、選手の悪口をいっているヒマなんかないよ」  片岡は唇を噛《か》むようにして、まだ、がらんとしている甲子園球場の観客席に眼をやった。  監督は、結果でしか評価されない。勝てば官軍なのだ。 「ところで、江島はどうなっているんですか?」  と、記者がきいた。 「帰ってくるよ」 「いつですか? 誘拐されたという噂《うわさ》は本当なんですか? 警察も、球団も、その点について、あいまいなことしかいわないんだが」 「おれだって、知らんよ。しかし、江島は、京神ハンターズの選手なんだ。必ず、帰って来て、また、マウンドに立つさ。それだけは間違いないよ」  と、片岡は、いった。  近代野球は、チームワークだという。しかし、同時に、スターも必要なのだ。江川がいなければ、去年の巨人の優勝はなかったろうし、日本ハムと江夏の関係にも、それがいえる。  今度の対巨人との連戦で、どんなに「今、ここに江島がいてくれたら——」と思ったことだろう。だが、それを口に出してはいけないのだ。  片岡は、腕時計に眼をやり、その記者に 「そろそろ、十二時だな。一緒に、メシでも食わないか」  と、わざと、明るくいった。  その頃、今西は、大阪空港にいた。  藤木がいったように、ロビーには、制服警官の姿が多い。私服の刑事も、沢山、張り込んでいるのだろう。 (これでは、白井徹郎が現われたら、たちまち、逮捕されてしまうに違いない)  と、今西は、思った。  しかし、午後三時に、鹿児島県の喜入基地から出港するマンモスタンカーに乗り込むつもりなら、飛行機を利用するより仕方がないのだ。  また一機、ジェット旅客機が、轟音《ごうおん》を立てて、離陸していった。 「今西さん」  と、背後から肩を叩かれて振り向くと、藤木が、眼を光らせて、立っていた。 「何かわかりましたか?」 「鹿児島の喜入基地の方は、鹿児島県警に連絡して、張り込んで貰いましたよ。今日の三時に出航する中央石油のタンカーには、白井徹郎は、絶対に乗せませんよ」  と、藤木は、いってから 「父親の泰造の行動ですが、尾行している刑事から、面白《おもしろ》い報告がありましてね。ナンバ航空という会社に入って、しばらく、出て来なかったというんですよ」 「ナンバ航空ですか?」 「双発のビーチクラフト二機を持って、遊覧や、航空写真の依頼などに当っている会社です。われわれが調べたところでは、この会社の社長は、白井泰造とは、古くからの知り合いです」 「では、そこの飛行機で?」 「そうでしょうね。行ってみましょう」 「どこへ?」 「ナンバ航空の格納庫が、この空港の外れにあるんです」  藤木が先に立ち、警察手帳を見せて、滑走路に出ていった。  滑走路の端に向って歩いて行く。  大型のジェット旅客機が、ひんぱんに、轟音を立てて、着陸し、また、離陸していく。 「あれだ!」  と、藤木が指さした。  滑走路の外れに、小さな格納庫があり、左右に「ナンバ航空」の文字が、書いてあった。  双発のビーチクラフト機が一機、格納庫から引き出されて、給油を受けている。 「プロペラ機だというので、たいした性能じゃないと思っていたんですが、念のために、調べてみたら、戦争中のゼロ戦より早いんですよ」  と、藤木が、いった。  キーンと、金属音を立てて、ジェット機が上昇していく。  滑走路は、絶えず、すさまじい轟音で覆われている。自然に、二人の会話も、大声になってくる。 「二時間あれば、鹿児島まで行けるんです」 「責任者に会って、今日、白井徹郎が乗ることになっているかどうか、きいてみますか?」  今西がきくと、藤木は、首を横に振った。 「いや、白井徹郎が現われるのを待ちましょう。時間的に見て、間もなく、現われる筈《はず》です」  そういってから、藤木は、携帯無線機で、部下の刑事を呼び寄せ、ナンバ航空を、包囲させた。  今西は、じっと、物かげから、ビーチクラフト機を見つめた。  白井徹郎は、果して、現われるのか?  ビーチクラフト機の白い翼が、陽の光を反射して、光っている。  じっと、見つめていると、眼が痛くなってくる。思わず、今西が、眼をしばたたいたとき、隣りにいた藤木が 「来た!」  と、鋭い声で叫んだ。  ツナギの白い服を着て、飛行帽を目深くかぶり、サングラスをかけている。もし、何気なく見たら、整備士の一人だと思ったろう。  白井徹郎が、ここに来ると予想していなかったら、見逃してしまっていたに違いない。 「逮捕しろ!」  と、藤木がトランシーバーに向って、怒鳴った。  気配を察したのか、白井徹郎が、ぎょっとして立ち止り、周囲を見回した。  わあッと、数人の刑事が、彼に向って、殺到した。  逃げようとする徹郎に、若い刑事の一人が飛びついた。二人が、もつれ合って倒れるところへ、他の刑事たちが折り重なって、押えつけた。  一人が、手錠をかける。  藤木と、今西が、駆け寄った。 「白井徹郎だな」  と、藤木が、確認するようにいった。 「違う。人違いだ!」  相手が、甲高い声で、いい返した。が、その顔は、間違いなく、白井徹郎だった。  今西は、相手の胸ぐらをつかんだ。 「江島は、どこにいるんだ!」  今西が、相手を小突きながら、大声で怒鳴った。 「おい! 江島を、どこへやったんだ!」  今西が、叫ぶにつれて、蒼白《あおじろ》い白井徹郎の顔に、赤味がさしてきた。 「おれを釈放した方がいいな」  と、徹郎は、開き直った顔でいった。 「何だと?」  藤木が眉《まゆ》を寄せて、徹郎を睨《にら》みつけた。 「おれを逮捕したら、江島選手は死ぬってことだよ。おれの仲間が、おれから連絡がなければ、殺すことになっているんだ。江島は、助けたいんだろう? それだったら、おれをすぐ釈放するんだ」  徹郎が、甲高い声で、喋《しやべ》りまくった。 (本当だろうか?)  と、今西の顔が、蒼《あお》ざめた。  白井徹郎という男は、どうしようもなく、下らない男だ。だが、この男のために、江島を死なせたくはない。  藤木が、いきなり、徹郎の顔を、平手で殴った。 「警察を甘く見るなよ」  と、藤木が、ドスを利かせた声でいった。  もともと、気の小さい男らしく、藤木のその一言で、白井徹郎の顔が、蒼くなった。 「江島は、どこにいるんだ?」 「勝手に探してみろ」  と、徹郎は、ふてくされた態度でいった。 「殺したのか?」  今西が、きいた。 「殺しゃしないさ」 「じゃあ、どこにいるんだ?」 「ゴーストタウンさ」  徹郎は、うそぶくようにいった。 「ゴーストタウンだって?」 「ああ」 「ゴーストタウンというのは、何のことだ?」 「あとは、自分で考えてみるんだな。取引きをしてもいいというのなら、教えてやる」 「取引き?」 「おれを、このまま、逃がしてくれるなら、ゴーストタウンが、どこにあるか教えてやる」 「取引きは出来ん」  と、藤木がいった。 「それなら、これ以上は、喋らないぞ。弁護士を呼んでくれ」 「くそッ」  と、藤木は、舌打ちしてから 「お前は、江島投手を誘拐しただけじゃない。京都で、ホステスを殺し、日下という私立探偵も殺した。もう一人、お前を追いかけていた松尾史郎を、甲子園球場のスタンドで殺した。これ以上、罪を重ねることはないだろう。江島投手を、どこに隠したんだ?」 「そちらが、取引きに応じないんなら、何も教えられないね」 「誘拐、殺人犯と取引きは出来ん」 「それなら、おれも、教えられないね。どうせ、死刑になるんなら、おれを馬鹿《ばか》にした京神ハンターズを困らしてやるさ。今日、巨人に負けたら、三・五差になる。そうなれば、十八年ぶりの優勝も夢だ。そうだろう?」  徹郎は、じろりと、今西を見た。 「連れて行け!」  と、藤木は、部下の刑事たちにいった。  白井徹郎が、連行されて行ったあと、藤木と、今西は、顔を見合せた。 「ゴーストタウンというのは、出まかせだと思いますか?」  藤木が、今西にきいた。 「いや、簡単に、嘘《うそ》だとはいえませんね。いやしくも、大の男一人を隠したんです。それに、江島は、有名人です。テレビで、たいていの人が、顔を知っています。彼がいなくなって、そのために、ハンターズが苦戦を強いられていることは、マスコミも報じていますから、江島のことには、関心が高まっています」 「すると、ホテルや旅館には隠せませんね」 「といって、白井泰造の別荘は、もう、警察に調べられていますからね。となると、ゴーストタウンというのも、あながち嘘《うそ》っ八《ぱち》とは思えません」 「しかし、どこにあるんですかね?」 「ゴーストタウンというと、すぐ思い浮ぶのは、山奥の廃村ですが、これは、違いますね」  と、今西がいった。 「なぜですか? 私は、すぐ、過疎村のことを思い浮べたんだが」 「白井徹郎は、毎日、甲子園球場に来ていました。車で来たんでしょうが、そんな山奥の過疎村からは通えないでしょう。それに江島選手は、京都市内から運ばれたと思われます。だから、京都に近い場所だと思われます。それなら、車で、甲子園球場に来られます。名神高速が、利用できますから」 「しかし、京都の近くに、そんなゴーストタウンがありましたか? 最近は、京都の郊外も、マンションや、建売住宅が、次々に建っているようですが」 「今、思いついた場所が一か所あるんですが、一緒に行ってくれますか?」 「そこに、江島選手が監禁されていると?」 「わかりませんが、ひょっとするとと思うのです」 「よし。行ってみましょう」  と、藤木がいった。  空港を出ると、覆面パトカーに乗り込み、藤木が、自ら運転した。 「まず、京都へ行って下さい」  と、今西がいった。  空港から名神に入り、百キロのスピードで京都へ向った。  京都で、名神高速を出て、今度は、国道八号線を北上した。  八号線は、琵琶湖《びわこ》の東岸を名神にほぼ平行して走っている。 「どこまで行くんです?」  と、藤木は、運転しながらきいた。 「もうすぐです」 「この辺は、近江八幡《おうみはちまん》じゃなかったかな?」 「そうです。間もなくです」  と、今西がいった。  車は、近江盆地を走る。安土《あずち》町の次は、五個荘《ごかのしよう》町である。 「この辺で、とめて下さい」  と今西がいった。  二人は、車からおりた。周囲は、古い家並みが広がっている。  城下町の感じだが、異様なほど、静かだった。 「静かですね」  と、藤木が周囲を見回しながらいった。  木造の大きな家が多い。だが、道路は汚れている。 「この辺りは、近江商人発祥の地で、彼等はここを出て、大阪や名古屋へ行き、大会社を作ったんです。だが、自分の生れ故郷は大事にしているわけです」 「それにしては、道路が汚いですね。きれいに掃除すればいいのに」 「誰も住んでいないからですよ」 「住んでいない?」 「私も、人に聞いたんですが、成功した近江商人たちは、大阪や名古屋に本拠を移して住むようになった。それで、この辺の家が、軒並み、空家になってしまったというのです。それでも、近江商人は、売ろうとはしないので、こうして、人の住まない家が並んでいるというわけです」 「なるほど」 「私が、ここに注目したのは、白井泰造が、近江商人の出だと、どこかで聞いたことがあるからなんです」 「それなら、可能性はありますね。しかし、どこの家に、江島選手が監禁されているのかわからないですね。家が多すぎる」 「白井徹郎と、新谷敏江が、一緒にいたとすれば、二人は、ここの住人に姿を見られている筈です。特に、徹郎の方は車を置いていた筈だから、目立っていたんじゃありませんか?」 「そうだ。この町の警察に協力して貰いましょう」  今西と藤木は、近くの派出所に行き、そこにいた警官二人に、協力を求めた。 「空家の前に、大阪ナンバーの車が停っていたところですか?」  警官の一人が、町の地図を見ながらいった。 「そうだ。美人の若い女も一緒に住んでいたと思うんだがね」  と、藤木がいうと、二人の警官は、顔を見合せながら 「井戸口さんの家らしいな」 「そこに、案内してくれたまえ」  藤木がいい、今西と一緒に、警官に案内されて、その家の前に立った。  大きな邸だった。門はかたく閉ざされ、ひっそりと静まりかえっている。 「この前で、問題の男女を見たんですが、井戸口さんの親戚《しんせき》の者だというので、別に、疑いを持たなかったんです。井戸口さんは、大阪で成功されていますからね」 「入ってみよう」  と、藤木が先頭で、家の中に入って行った。  玄関は、薄暗い。なげしには、槍《やり》が飾られ、古びた提灯《ちようちん》が、並べてかけてあった。  四人は、座敷にあがる。長い廊下が奥に伸び、小さい中庭があった。  その中庭に、和服姿の女が、死体で転がっていた。新谷敏江だった。海外に逃亡しようとした白井徹郎が、邪魔になった彼女を、殺したのだろう。 (江島も殺されてしまったのか?)  と、今西は、顔色を変え、奥に向って 「江島君! どこにいるんだ!」  すぐには返事がない。が、一拍置いて 「おーい」  と、奥から、返事があった。  江島の声だった。  江島は、手錠をかけられ、太い鎖で、柱につながれていた。  それでも、いかにも江島らしく、今西の顔を見ると、礼をいう代りに 「助けに来るのがおそいじゃないか」と、文句をいった。 「大丈夫か?」 「黄金の腕に傷がつくといけないんで、暴れずに大人しくしていたんだ。だから、いつでも投げられるよ」  だが、手錠のカギが見つからない。カッターを取りに、警官の一人が、飛び出して行った。 「どうしたんだ?」  と、その間に、今西がきいた。 「ひどい目にあったよ。君と別れてから、京都のクラブのホステスのマンションに泊ったんだが、朝起きてみたら隣りで死んでるんだ」 「やっぱりね」 「どうしたらいいのかわからずに困っているところへ、あいつがやって来た」 「白井徹郎がか?」 「そうだ。クラブのオーナーだから、顔は知っていた。あいつが、こんなところを人に見つかったら大変だ。とにかく、お逃げなさいというんだ。そして、女を案内につけてくれて、ここへ来たんだ。だから最初のうち、自分が誘拐されたなんて、全く思わなかった。彼女を殺した犯人があがるまで、ここに、かくれているつもりだったんだ」 「そんなことだろうと思ったよ。その間に、新谷敏江が、私から百万円を欺《だま》し取った。君の居場所を知っているから、連絡をとってやるといってね」 「そいつは、多分、ハンターズが、おれの身代金としていくらぐらい払うか、女に当らせてみたんだろう。連絡するだけで百万円なら身代金として、一億円は払うと読んだんだろう」 「日下という私立探偵が殺されたんだが、君は、理由を知らないか?」 「いや」 「日下は、新谷敏江に頼まれて、白井泰造のことを調べていたんだがね」 「そういえば、白井徹郎の奴、おれを誘拐する前に自分の父親の弱味をつかんで、脅して、金をとることも考えたらしい。それらしいことを、女は喋っていたからね」 「それで、新谷敏江の名前で、日下に調べさせたのか。松尾が動き出して、それがわかるのを恐れて、日下を殺したんだ」  今西がいったとき、警官が、大きなカッターを持って戻って来た。  カッターで手錠を切り離した。江島は、輪のはまったままの両手を、ぐるぐると振り回してから、今西に 「すぐ監督に連絡してくれないか。おれはいつでも投げられるってね。おれがいなくて、巨人戦に負け越したんだろう」  今西は、江島を車に乗せ、甲子園球場に急いだ。  監督の片岡は、全選手を集めて、江島を待っていた。江島を迎えると、片岡は 「おめでとう。よかったな」 「今日は、ベンチに入れて下さい。投げますよ。いくらでも」 「君が、ベンチに入ってくれれば、こんな心強いことはない」  片岡がいうと、選手たちの間から、拍手が起きた。 「だが、聞いてくれ」  と、片岡は、選手たちに向っていった。 「私は、今度、ハンターズの監督を引き受けた時、君たちに約束した。信賞必罰これだけは、はっきりさせる、とだ。江島が帰って来たことは嬉《うれ》しいが、元はといえば、彼が、勝手に京都のクラブのホステスのマンションに泊ったことにある。それを不問にするわけにはいかない。どうだね? 大山コーチ」 「私も、ペナルティを科すのが当然だと思います。それがチームというものでしょう。例外を認めたら、チームは成り立ちません」  と、大山コーチがいった。 「よし。君は、五万円払いたまえ」  と、片岡が、江島にいった。 「君は、結果的に、チームに迷惑をかけたんだ。いやなら、君をベンチには入れん。苦戦するだろうが、仕方がない」 「————」  江島は、黙って、じっと唇をかんでいる。  今西は、はらはらした。ここで、江島が、つむじを曲げてしまったら、どうなるのだろうと思ったからである。  しかし、片岡は、一歩も引かなかった。江島が、まだ、黙っていると 「よし。江島抜きで、今日は戦うぞ」 「待って下さい」  と、江島が、急にいった。 「ペナルティを、甘んじて受けるから、今夜のゲームは、ベンチに入れて下さい」 「ありがとう。わかってくれると思ったよ」  片岡は、ニッコリと笑った。  今西は、改めて、片岡という男の芯《しん》の強さに驚いた。小柄な優男《やさおとこ》なのに、絶対に、妥協しない男なのだ。  その夜の巨人戦は、凄絶《せいぜつ》な死闘になった。  先発した大林は、三回につかまり、中畑の3ランを浴びて降板した。が、ハンターズも五回まで抑えられていた江川を、六回に、打ち崩した。  あとは、打撃戦だった。  八回にリリーフした江島までが、打ち込まれた。  しかし、ハンターズも粘りに粘った。サードランナーとなった江島が、真岡の犠飛で、ホームにヘッドスライディングして、生還した。今までの江島には考えられないことだった。  八対七で、サヨナラ勝ちした時、今西は、十八年ぶりの優勝を確信した。 角川文庫『消えたエース』昭和60年5月25日初版発行             平成10年2月28日24版発行