[#表紙(表紙.jpg)] 西村京太郎 浅草偏奇館の殺人 目 次  プロローグ  第一章 暗い時代のロマネスク  第二章 エロ・グロ・ナンセンス  第三章 舞台  第四章 回転木馬《メリーゴーランド》  第五章 花束の男  第六章 罠  第七章 一瞬の勝利  エピローグ [#改ページ]   プロローグ      1  私は今日、戦後になってはじめて、浅草を訪ねる気になった。  五十年ぶりの浅草である。  私は昭和七年から八年にかけて、六区にあった浅草偏奇館の文芸部に籍を置いていた。といっても、当時大学の英文科の三年生だった私は六区に通ううち、新しく出来た偏奇館の踊り子に惚れて、大学の先輩がその劇場《こや》の文芸部にいたのを幸い、毎日のように入り込んでいるうちに、いつの間にかコントの台本などを書くようになっていたのである。  前年の昭和六年九月に起きた満州事変が導火線になって、軍部の中国侵略は果てしない戦争の泥沼に日本を導こうとしていたし、国内ではいぜんとして不況の嵐が吹き荒れていた頃だった。  私も友人たちも、近づいて来る戦争の足音に怯えていた。そのくせ、自分たちの力ではとうていそれを阻止できないという無力感にも支配されていた。その二つから逃れる絶好の場所が、浅草だった。  六区の興行街のエロ・グロ・ナンセンスに酔い、吉原や玉ノ井で女を抱き、酒を飲んでは当時はやっていた奇妙な歌を唄う毎日が続いた。  私が好きだった歌は、昭和三年に出た「アラビアの唄」だった。   砂漠に日は落ちて   夜となるころ   恋人よなつかしの   歌をうたおうよ  確かこんな歌詞だった。意味不明の奇妙な歌である。現在のような海外旅行ブームなどはなかった頃、なぜこんな歌がはやったのだろうか?  アラビアの砂漠など、日本人のほとんどが見たこともなかったのに、なぜかこの歌がもてはやされたのである。  戦争の足音というより、戦争は現実のものとなっていたし、三・一五の共産党弾圧に始まる思想統制、それに不景気と、重苦しい時代だったからこそ、意味不明のナンセンスな歌の中にせめてもの解放感を味わおうとしたのかも知れない。  そういえば当時の浅草六区の劇場街には、ナンセンスな言葉が氾濫していた。  和製レビューの誕生といわれたカジノ・フォーリーにしても、パリのカジノ・ド・パリとフォリー・ベルジュールの二つをくっつけた奇妙なものだったし、玉木座のプペ・ダンサント、オペラ座のピエール・ブリアント、公園劇場のアバン・ギャルドはまだ意味がわかるとしても、観音劇場のグランテッカール、オペラ館のヤパンモカルとなると、観客はもとより、その劇場に出ている芸人にも意味がわからなかったのではあるまいか?  この奔放さというかでたらめさが、当時の浅草のエネルギーでもあったのだと思う。カジノ・フォーリーで踊り子が金曜日になるとズロースを落とすという神話が生れたり、皇道とか臣道といった儒学的な空気の濃かった時代に『センチメンタル・キッス』と題したレビューを堂々と上演し、踊り子に大きなキスマークのついたパンツをはかせて警察をあわてさせたり、『阿呆疑士迷々伝』と題して忠臣蔵を茶化して、頭のかたい道徳家を激怒させたりもしたのである。  私が特に『阿呆疑士迷々伝』の方をはっきり覚えているのは、まだ大学に入ったばかりの頃で、カジノ・フォーリーで見てその大胆な新鮮さにびっくりして、二年後に偏奇館に入るきっかけの一つにもなったからである。  浅野内匠頭と吉良上野介が松の廊下でメンコをしていて大ゲンカになり、内匠頭が安全カミソリで切腹。城の明け渡しのところでは城門に貸家の札を貼りつけ、主人が阿呆だから宿なしのルンペンになってしまったと、家臣が泣きわめくといった一つ一つの場面を、私は五十年以上たった今でもはっきりと覚えている。  当時は、一方でプロレタリア演劇が盛んで、私は観に行きもしたが、カジノ・フォーリーの『阿呆疑士迷々伝』や『センチメンタル・キッス』には、公式的なプロレタリア演劇にはない野放図な明るさや勢いがあって、私を魅了したのである。  観客はもちろん大拍手だったが、若い菊田一夫は、「忠臣の鑑《かがみ》であり、武士道の精華たる義士を阿呆扱いにして日本精神を冒涜した」として警察に出頭させられた。  あの頃の浅草六区にあったエネルギーのもとは何だったのかと、今でも私は考えることがある。  第一は若さだろう。  当時、浅草で活躍していた連中はみんな若かった。私が偏奇館に入った頃には、エノケンはカジノ・フォーリーから玉木座を経て松竹に移っていたが、まだ二十八歳だったし、ロッパも中村是好も柳田貞一も、エノケンとコンビを組んでいた二村《ふたむら》定一も若かった。踊り子たちは、ほとんど十代だった。  彼等に自由奔放な脚本《ほん》を提供した作家たちも、同じように若かった。サトウ・ハチロー、菊田一夫、エノケンの脚本を主に書いた菊谷《きくや》栄、或るいは斎藤豊吉、山下三郎といった連中もである。  私がいた偏奇館の文芸部には三人の作家がいたが、全員が二十代だった。  もう一つは、浅草という町の雰囲気のせいだったと思う。  浅草は奇妙な町である。  東京でもっとも古い町であり、ほおずき市やお酉《とり》さまの町である一方、当時、もっとも新しかった西洋のオペラを受け入れた町でもあった。  最初、オペラは、イタリア人ローシィが帝国劇場で育てようとしたが上手くいかず、彼が失意のうちに帰国したあと、浅草で爆発的な隆盛を見たのである。一見、西洋オペラとは無縁に見える町が、日本のオペラを育てたのだ。  軽演劇でも同じである。線香の煙りや大道芸人と、軽演劇やオペラを同時に育てる寛容さを持った町だった。  だからまた、当時のインテリたちも浅草に集って来たのだろう。町も寛容だったが、六区の劇場《こや》も寛容だった。  ただ芝居が好きでなった芸人もいればアナーキストもいたし、左翼崩れももぐり込んで来ていた。 「新築地」で、山本安英や細川ちか子と左翼劇団をやっていた細川の夫、丸山定夫も、生活費に困ってエノケン一座で働いていたし、同じ左翼劇団の薄田研二が刑事に追われて逃げ込みかくまわれたのも、エノケンの出ていた常盤座だった。  あの頃の六区の観客は、舞台の芸人が素晴らしい芸を見せてくれれば、その人間の思想などには関係なく拍手をした。反権力というのではなかったが、芸人を愛していた。だからこそ、エノケンを逮捕した刑事を瓢箪池に放り込んだりもしたし、天照大神を禿頭にして不敬罪に問われた脚本家の中山春海にも、拍手を惜しまなかった。  そんな浅草が好きで浅草に住みついた作家のことも、私は忘れられない。 『浅草紅団』を書いた川端康成は、浅草ではなく上野桜木町に住んでいたが、そこから浅草のカジノ・フォーリーに通っていたし、『日本三文オペラ』を書いた武田麟太郎は浅草小島町で彼女と同居していた。その他、新田潤や浜本浩も浅草にいたし、みな若かった。私は会ったことはなかったが、『聖家族』を書いた堀辰雄も、向島小梅町の家から言問橋を渡って浅草へ遊びに来ていたことがあったらしい。  彼等は何を求めて浅草にやってきて、何を得たのだろうか?  浅草は何のわけへだてもなく芸人を受け入れるように、作家たちも受け入れた。当時の若い学生の間にナロードニキ(人民の中へ)という言葉が流行っていて、私もその頃、仲間と『フロント』という左翼的な同人誌をやっていた。その同人誌の主張にもナロードニキという言葉は謳《うた》われていたが、私は同人たちの実りなき議論になじめなくて、浅草六区に入りびたり、揚句には偏奇館の文芸部に入ってしまったのである。  舞台での観客の拍手や声援、それに可愛らしい踊り子たちから「お兄さん」と呼ばれることの心地よさ。それが人民の中に入ったことと、錯覚していたのかも知れない。エロ・グロ・ナンセンスに何の思想があるのか、時代への反抗があるのかという批判も受けたことがある。  大学の先輩の安井が、偏奇館の楽屋を訪ねて来て、私を堕落したといった。 「今どんな時代か、君にもよくわかっている筈だ。資本家は戦争を願望し、軍部は戦争を拡大していくだろう。それに反対する者への弾圧は、ますます激しく露骨になるに決っている。コップ(日本プロレタリア文化連盟)の中野重治たちも検挙された。嵐がやってくる。おれたちは真正面からそれを見すえて、戦わなきゃならない。それなのに君は浅草という租界に逃げ込んでしまった。これは明らかに逃避だよ。戻って来て、一緒に戦おうじゃないか」  安井が語気を強めたとき、私は黙って聞いているだけで、反論しなかった。  安井のいう通りだという後めたさが私を黙らせていたこともあったが、同時に、彼とはもう生き方が違ってしまったのだという気持になっていたからでもあった。  安井は、彼自身の思想を更に先鋭化していき、特高に逮捕され、昭和十五年に獄死した。私はその時、知らなかったが、安井は共産党に入党していたのである。  彼の鮮烈な生き方に比べれば、私の生き方は確かに生ぬるかったかも知れない。時の権力を舞台で茶化しはしたが、戦いはしなかったし、偏奇館で踊り子が続いて殺されるという猟奇的な事件が起きてからは、それを脚本にして上演することさえしたのである。  だが、それが私の青春の一ページであり、浅草六区の青春であったことも事実である。      2  ここでどうしても、偏奇館で起きた事件のことに触れておかなければならない。あのいまわしい戦争が終ってから、私が今日まで一度も浅草に足を向けなかった理由の一つだったからである。  昭和七年に、浅草偏奇館は軽演劇の劇場《こや》として発足したのだが、三人の踊り子が次々に殺されるという事件が起きた。  踊り子の乳房や臀部が切り取られていたという(実際にはそんなことはなかったのだが)噂がまことしやかに流されて、新聞もエロ・グロ・ナンセンス時代を象徴する猟奇事件と書き立てたおかげで、それまで閑古鳥が鳴いていたのが連日の大入り満員になった。  私たち文芸部は、事件を脚色して舞台にのせ、景気をあおり立てた。「踊り子はなぜ殺されたか? その真相をえぐる」といった立て看板をかけて、客を呼んだりもした。不謹慎だという声もあったが、私たちが演《や》らなければ他の劇場が演ったに違いなかった。  犯人はなかなか捕まらず、事件が続き、客はますます好奇心をつのらせて押しかけて来たが、象潟《きさがた》署の刑事たちは面目にかけても犯人を捕えようと、必死になっていた。その結果、偏奇館の楽士の一人が容疑者にされ、逮捕されてしまった。彼が元無産党員で、アナーキーな思想の持主だというので狙われたのである。彼は顔が変形するほどの拷問を受けた。彼に踊り子を殺すような残酷なことが出来る筈がないと信じた私は、真犯人を見つけ出した。  事件が解決すると、おかしなもので、客足も偏奇館から遠のいていった。  昭和八年の夏になると、とうとう偏奇館は映画の上映館に替ってしまった。  その後、中国との本格的な戦争に突入し、それが太平洋戦争になると、文弱な私も兵隊にとられ南方に送られた。  何度か死線をさ迷ったが、その時、思い出すのは、昭和七年から八年にかけてのたった二年間の浅草偏奇館での生活だった。まるでその二年間に、自分自身の青春の全てが凝縮してしまっているみたいに、他のことは思い出さなかった。  エノケンの脚本《ほん》を書いた菊谷栄が、中国戦線でも浅草のレビューのことばかりを考えていると友人に書き送り、戦死したというが、私にはその気持がよくわかる。あの頃の浅草は、それだけのものを持っていたのである。  無謀な戦争の中でどうにかそれに耐えて、生きながらえて敗戦を迎えることが出来たのは、私の胸に浅草の思い出があったからだということも出来る。  偏奇館で苦労を共にした文芸部の連中や芸人たちの一人一人の顔を思い出すたびに、生きる勇気がわいた。踊り子三人が殺されたあの殺人事件さえ、私には素晴らしい思い出になっていた。  それなのに、平和が来て復員した私は、浅草に行くことをためらった。  日本全体が大きく変ってしまって、浅草も昔のなつかしい浅草ではなくなってしまっているのではないかという不安、それにもう一つ、殺人事件のことがあった。  友だちの楽士を助けるために、夢中になって真犯人を見つけ出したのだが、あの男は果して本当に犯人だったのだろうかという疑問が生れてきた。権力を笠に着た嫌な奴だった。虫が好かなかった。あの時、私の判断にそんな個人的な感情が入っていて、しゃにむに犯人にしてしまったのではないかという反省である。  再び浅草を訪ねて、私の誤りが証明されてしまうのではないかという不安が、二の足を踏ませる理由の一つになった。  私は静岡で平凡なサラリーマン生活に入ったが、今日まで浅草のニュースが私の耳に入って来なかったわけではなかった。エノケンの戦後の活躍も知っているし、菊田一夫が戦後、シリアスな脚本を書いて有名になったことも知っていた。  あの頃、偏奇館にいて、テレビの脇役として活躍している男もいる。彼と会って昔話をしたい気持もあったが、私はじっとその気持を押さえ込んだ。  今、私はすでに七十歳を過ぎている。妻とはとうに別れ、生来、さほど頑健でない私は、多分、あと二、三年でこの世とおさらばするだろう。いや、明日にも心臓発作か脳溢血でぽっくりいくかも知れない。  そう思った時、私は五十年ぶりに浅草を訪ねてみたいと思ったのである。      3  私は地下鉄を田原町駅で降り、昔どおりの急な階段をのぼりながら、オスカー・ワイルドの書いた『ドリアン・グレイの肖像』のストーリィを思い出していた。確か、現実のドリアン・グレイはいつまでも若い美貌を保っていて、その身代りのように、彼の肖像画が醜く老いていくというストーリィだったと思うが、私の場合はその逆で、私自身は七十二歳と年老いてしまったが、私の記憶の中に描かれた浅草の町や六区の興行街や偏奇館の舞台の思い出は、昭和七年から八年のままだった。偏奇館の踊り子たちも芸人たちも、エノケンやロッパも、みな若いままに私の胸の中で生き続けている。それが、五十年ぶりに現実の浅草に触れたとたん、思い出までが年老いて色褪せてしまうのではあるまいか。  地下鉄から地上に出ると、十月末の柔らかい陽差しの中に、五十年ぶりの浅草の町が広がっていた。  最初、あの浅草とは別の町のように見えた。  当時の浅草は、夕方になるとウイークデイでも、田原町から六区への道は興行街へ流れて行く人々で溢れていたのに、今は閑散として寂しい町になってしまっている。  市電も消えてしまった。  私は人通りのまばらな国際通りを浅草広小路へ折れ、雷門の方へ歩いて行った。  田原町駅の長く急な階段をのぼっただけで、私は軽い息切れを感じていた。私の肉体ははっきりと五十年間、年老いていたのである。 (この町も五十歳ほど年老いてしまったろうか?)  六区がさびれてしまったことや、瓢箪池が埋め立てられてしまったことは、私も知っていた。  だが、現実に瓢箪池が無くなってそこにビルが建ち、のぼりが林立し観客で埋っていた六区の通りは、閑散として風が舞っているのを見ると、いやでも浅草が変ってしまったことを実感せざるを得なかった。  エノケンやロッパたちの活躍していた劇場も私のいた偏奇館も、建物そのものは残っていたが、その前に立ってもあの頃の熱気は伝わって来なかった。二本立、三本立の映画の看板がかかっているが、その映画さえ見に来る客は少いとみえて、切符売《テケツ》場の小母さんも退屈そうにしている。  そういえばエノケンもロッパももう亡くなってしまったのだと、私は思った。  芸人たちだけではない。浅草に集っていた川端康成、浜本浩、武田麟太郎といった作家たちも次々に亡くなっている。私が浅草を去ったあとに来た高見順も、もうこの世の人ではない。  同じ偏奇館で一緒にあの二年間を過ごした仲間たちのことでも、人伝えに何人かの訃報を聞いている。私たちがおやじさんと呼んでいた偏奇館の館主で、永井荷風が好きなことから、自分が経営する劇場《こや》に荷風の家と同じ偏奇館の名前をつけた永井のおやじさんも、当時五十歳を過ぎていたから、もう亡くなっているに違いない。  彼等の死と一緒に、私の中の浅草も死んでしまったのだろうか? (来ない方が良かったろうか?)  そう思いながらも私は、変らないものはないかと探し歩いた。  浅草寺や仲見世は変っていないように見えた。六区の芸人やファンがよく集った峰という喫茶店も残っていた。ハトヤも昔の場所にあった。  私は海辺の砂の中から珠玉でも探し出すように、昔のままの店を見つけて歩いた。電気ブランで有名な神谷バーも残っていた。洋食のブラジルもあった。  私は少しずつ嬉しくなり、その一軒のハトヤに入ってみた。  偏奇館に近かったせいで、私はよくこの店にコーヒーを飲みに来たものだった。私だけではない。六区の金竜館の傍にあるこの喫茶店には峰と同じく、六区の芸人たちがよく集っていた。脚本書きがコーヒーを飲みながら激論を交わしていたり、踊り子が幕間《まくあい》にやって来て、あわただしくトーストや焼きそばを食べていたものである。  当時も同じような小ぎれいな店だったが、今は私の他に老人が一人、ぽつんと奥に腰を下ろして新聞を読んでいるだけだった。  私はコーヒーを頼み、壁にかかっている色紙に眼をやった。  サトウ・ハチローやロッパの色紙である。黄ばんでしみが出ているのは、戦前からここにかかっているからだろう。  私は煙草に火をつけて、物思いにふけった。偏奇館の仲間たちはどうしているだろう? 文芸部の先輩で、何かというと私を助けてくれた中原さん、芸達者で偏奇館のエノケンといわれ、そのことを自慢にしながら同時に腹を立てていた鉄ちゃん、それに十代の踊り子たち。当然、彼等も私同様、年老いている筈なのに、私の思い出の中ではいつまでも若々しく、今にもこのハトヤのドアを威勢よく開けて、昔のままの姿で飛び込んで来そうな気がした。  中原さんの口癖は「客をびっくりさせるようなことをやらなきゃあな」だった。この店でも、一緒にコーヒーを飲みながら、彼の口癖を何度、聞かされたことか。  鉄ちゃんはいつも仁丹をかじっていた。二日酔いでも頭痛でも仁丹で治るとかたく信じていて、仁丹をぽりぽりかじりながらコーヒーを飲んで、私を驚かせたものだったが──。  眼の前のドアが勢いよく開いた。入って来たのはもちろん中原さんや鉄ちゃんではなく、十七、八歳の少女だった。  その少女は店の主人に向って「チャーハン作ってよッ」と元気のいい声でいってからふうッと息をつき、私の向いに横向きに腰を下ろした。 「忙しそうだね、クミちゃん」  店の主人が、手を動かしながら少女に声をかけた。 「うん。三十分しか時間がないんだ。いやんなっちゃうワ」  少女は別に辛そうでもなくいってから、ひょいと私を見た。そして眼が合うと照れたようにクスッと笑い、ペコリと頭を下げた。そんな仕草がいかにも下町の娘の感じだった。  私は眼の前の少女の顔に、偏奇館の踊り子だった野上京子のそれを重ねていた。  その時、京子は十八歳だった。  ある日、京子は、相談したいことがあるといい、舞台化粧のままこのハトヤに来て、今、少女の腰かけているあたりで私を待っていたことがある。  それがあの連続殺人事件の始まりであり、京子が最初の犠牲者であった。  あの時、京子は私に何を話したかったのだろうか? [#改ページ]   第一章 暗い時代のロマネスク      1  約束した時間にハトヤに行ってみると、京子は先に来て待っていた。テーブルで本を読んでいたのが、私の顔を見てあわててその本をテーブルの下に隠した。そんな仕草が舞台では大人っぽい色気を発散させて大学生のファンも多いのに、やはりまだ十八歳の少女なのだという気がして、私はほっとすると同時に、何かはぐらかされたような気がした。  私はコーヒーを頼んでから、 「何を読んでいたんだ?」  と京子の手元をのぞき込んだ。 「いえ。いいんです」  京子はとんちんかんな返事をして、顔を赧《あか》くした。 「いいんですは、おかしいね」  テーブルの下から手を伸ばして彼女が隠した本を取りあげてみると、室生犀星の『性に眼覚める頃』だった。「ふーん」と私が鼻を鳴らすと、京子はいよいよ顔を赧くした。 「サキソフォンのお兄さんが、読めって貸してくれたんです」 「サキソフォンのね」  私は背のひょろりと高い、無口で何となく陰気な感じのするサキソフォン吹きの楽士の顔を思い出した。寺田という名前で、アナーキストだという噂を聞いたことがある。  左翼や自由主義者に対する弾圧が厳しくなってから、いろいろな思想の持主が浅草にもぐり込んできた。寺田もその一人かも知れないが、六区の劇場《こや》ではそんなことは誰も問題にしなかった。客を喜ばせる芸人なら、それでいいのだ。  ただ劇場主の永井のおやじさんは少々、神経質になっていて、私に寺田のことを聞いたことがあった。  私は、別に危険思想なんか持っていないようだと答えておいたが、おやじさんの心配ももっともなところがあった。  去年の秋に満州事変が起きて、検閲が一層、厳しくなっていたからである。私なんかも、何やら暗い時代に向って日本全体がのめり込んでいくような予感に襲われていた。五年前の昭和二年七月に自殺した芥川龍之介は遺書の中で、将来に対するぼんやりとした不安と書いているが、今、それははっきりした不安になりつつあった。戦争はどこまでも広がろうとしていたし、今年の五月十五日には陸海軍の若手の軍人たちが、昭和維新を断行すると称して犬養首相を射殺した。この時、犬養は話せばわかるといったが、話してもわからない時代になっていたのである。  警察も神経質になって、私が書いた『阿房大臣と五人の女』という他愛のないバラエティまで人心を惑わすということで、作者の私と劇場主のおやじさんを呼びつけた。エノケンも呼ばれた象潟署で始末書をとられた。  永井のおやじさんは、もとは浅草で有名な天ぷら屋「はるのや」の一人息子だった。  若い時、当時全盛だった浅草オペラに熱中し、まだ健在だった父親の眼を盗んでは金竜館に通いつめ、有名なボッカチオの一節、   ベアトリねえちゃん   まだねんねかい   鼻から提灯《ちようちん》出して  田谷力三をまねて唄っていたりしていたらしい。当時、オペラへ通う不良少年たちをペラゴロと呼んでいたが、永井のおやじさんはそれに近かったらしく、父親に勘当されたことも一度や二度ではなかったと、当人から聞いたことがある。  その後、あの関東大震災が起き、いったん廃墟と化した東京は意外に早く復興したが、オペラは大正時代の隆盛は戻らず、レビュー時代になった。カジノ・フォーリーがその先駆である。  永井のおやじさんはまた演芸好きが眼をさまし、口うるさい父親が亡くなったのを幸い「はるのや」を売って小さな劇場を買って、その館主におさまったというわけである。偏奇館の名前は、おやじさんが永井荷風のファンだったことからつけたものだった。  今、私の前にいる京子は六人いる偏奇館の踊り子の中で、久美子や早苗と同じで、幼い時から日舞をやっていたので舞台度胸もあり、入るとすぐ花形になった。  浅草の踊り子は十代が多く、年齢《とし》のわりに早熟で、明るく開けっぴろげだといわれているが、京子はちょっと違っていて、性格はどちらかといえば暗い方で無口だったから、京子ちゃんは何を考えているのかわからないので気味が悪いと、他の踊り子たちが陰口を叩いたりしていた。  しかし眼の大きな色白の細面の京子の顔は人気画家の竹久夢二の美人画を思わせて、その薄幸な感じが男心をくすぐるのか、学生やサラリーマンのファンが多く、うちの劇場ではファンレターが一番くる踊り子である。  その京子が昨日、舞台が終ったあと、思いつめた顔で、 「秋月のお兄さんに、相談にのって貰いたいことがあるんです」  と私にいったのである。  踊り子は私たちのことをお兄さんと呼ぶ。先生と他人行儀で呼ばれるよりはいいが、最初のうちはなじめない時期があった。何度も呼ばれているうちになれてきたし、なかなか便利な呼び方だと思うようになった。  踊り子たちは、私たちに限らず劇場に出入りする年長の男性はみんなお兄さんと呼んだし、先輩の女性はお姉さんである。だからトランペットを吹く楽士はトランペットのお兄さんだし、時々、楽屋をのぞきに来る作家の武田麟太郎は武田のお兄さんになる。昭和五年頃、カジノ・フォーリーに通って『浅草紅団』を書いた川端康成も、川端のお兄さんである。  京子は自分の方から相談にのって貰いたいといっておきながら、なかなか話を切り出して来ない。こちらから催促するのも変な気がして、私は煙草をくわえて、何となく店の中を見廻した。  さっきから店の奥で大声で話し、大声で笑っている大男がいると思っていたが、浅草の名物男で、ひげを生やしたサトウ・ハチローだった。玉木座の文芸部のボスである。玉木座はエノケンがいなくなっていたが、浅草オペラ生残りのシミキンこと清水金太郎、杉寛、木村時子などに、淡谷のり子、和田肇、川崎実たちが加わって、軽演劇で一つの大きな勢力を作っていた。私のいる偏奇館にとって玉木座は、エノケン一座の松竹座とともに憧れであり、目標であり、同時に憎むべきライバルでもあった。  そのサトウ・ハチローが私を見て、いよっと手をあげた。あいさつされて私は、かえってどぎまぎしてしまった。私の方は前から彼を知っていたが、向うが私のような新米の顔を知っている筈がないと思っていたからである。私は反射的にぺこりと頭を下げてしまってから、そんな自分の卑屈さに腹を立ててしまった。  その腹立たしさが、つい眼の前の京子に向けられてしまって、 「人を呼び出しておいて、なぜ黙っているんだ?」  と自分でもわかるほど不機嫌な声を出していた。 「ごめんなさい」 「謝らなくてもいいから、話してごらん」 「あの──」 「うん」 「あたし、今、困ってるんです。それで、秋月のお兄さんに相談したくて」  語尾を濁して、京子は眼を伏せた。そうすると、睫毛の長さがことさら目立つ感じで、彼女の舞台を見なれた私でさえはっとするような可憐さだった。 「男のことかい?」  と私がきくと、京子は「え?」という感じで眼をあげた。  彼女の背後《うしろ》の壁に、この店の主人が集めた竹久夢二の絵がかかっていて、その可憐さと銀座の匂いとが同居しているような美人画に、京子の細面の顔が重なり合う感じがした。 「君にいい寄っている男が、何人かいることは聞いているよ」 「そんな何人もなんて──」  京子の顔がまた赧くなった。 「サキソフォンの寺田君も、その一人なんだろう?」 「寺田のお兄さんはあたしに本を貸してくれて、これからは踊り子だって勉強しなきゃいけないって。それだけです」 「ふうん」  人生勉強に『性に眼覚める頃』を読ませるというのは、寺田はどういう気なのだろう?  寺田を連れて来たのはヴァイオリンの竹下だが、彼にいつか聞いたところでは、寺田とは同じアパートにいるだけのことで、よく知らないのだといっていた。寺田自身も、自分の過去を話したがらない。いや、竹下のことだってよくわからないのだ。ずいぶんいい加減だが、偏奇館に限らず浅草の劇場はどこでも同じようなルーズさがあって、そこがまた浅草の良さだった。私が左翼運動から離れて偏奇館の文芸部にもぐり込んだのも、そういう浅草のいい加減さというか、気楽さというか、が気に入ったからである。  寺田はアナーキストらしいという噂だって、彼が陰気な顔をしているとか、楽屋でレーニンを読んでいたからといったあやふやなもので、別に確かめたわけではない。  寺田は、確かまだ二十四歳で独り者の筈だったから、京子に恋したとしても不思議ではなかった。室生犀星の『性に眼覚める頃』を人生勉強にといって京子に貸したのだって、下手くそな愛情表現かも知れない。 「寺田君は君のことを好きなんだと思うよ」  と私がいうと、京子は、 「そんな──」  とまたいった。 「ああいう男は嫌いかい?」 「寺田のお兄さんはいい人です」 「いい人ねぇ」  はぐらかすには都合のいい言葉だなといいかけて、私がその言葉を呑み込んでしまったのは、京子にはそんな器用さはないと気付いたからである。  同じ踊り子でも、早苗はずいぶん違う。京子はお姉さんと早苗のことをいうが、一歳しか違っていない。それでも早苗は、偏奇館に来たときには最初の男の小説家と別れたばかりだったし、ここでも二枚目男優のゴロちゃんこと北村五郎と、よろしくやっているらしい。  先輩の中原さんは二人を比べて、「早苗は気軽に抱ける感じだが、京子はそれが出来ない感じだな」といったことがある。  気軽にというのは、関係してもお互いが傷つかないということだろう。京子の場合は男に、彼女を傷つけてしまうのではないかとためらわせるものがあった。  早苗なら「いい人よ」といいながら、きっとニッと笑って、それが体のいい拒絶なのだとわからせるだろうが、京子にはそんな大人びた表現は出来そうもない。 「いい人ねぇ」  と私は呟いてから、 「じゃあ、他に好きな人がいて、その男のことで悩んでいるのかい?」 「───」  京子は黙って、また眼を伏せてしまった。 「話してごらん。力になってあげられるかも知れないから」 「ええ」  京子は迷っているようで、胸元で細い指先を絡ませたり解いたりしていたが、眼をあげて店の時計を見ると、 「いけない。時間になっちゃった」  ぴょこんと椅子から立ち上った。      2  私が二人分のコーヒー代、十銭を払っていると、京子は、 「すいません。お兄さん」 「相談というのはいいのかい?」 「またにします。あたし、先に帰ります」 「いいじゃないか。一緒に帰ろうよ」  私がいうと、京子は当惑した表情になって、 「加代ちゃんに悪いから」 「加代に?」 「ええ。秋月のお兄さんは知らなかったんですか?」 「何をだ?」 「加代ちゃんはお兄さんのこと、好きなんです」 「よせよ。彼女はまだ子供だよ」  私は苦笑した。  加代は早苗の妹で、姉に会いに楽屋へ来ているうちに踊り子になったのだが、まだ十六だった。脚がきれいだからというので採用したが、姉や京子のように踊りの下地があるわけではないから、ソロやデュエットで踊れる筈もなく、今のところフィナーレにだけ出ていて、足をあげたり下げたりしている。 「まだ子供だぜ」  私はもう一度いった。 「でも、加代ちゃんだって女です」 「そりゃあ女には違いないが、子供は子供だよ。あんな子供のことは気にすることはないだろう?」 「すいません」  京子はぺこりと私に向ってお辞儀をすると、くるりと私に背を向け、スカートの裾をひるがえして走り去ってしまった。  私はハトヤの前に立ち止まったまま、二本目のエア・シップに火をつけた。京子がすいませんといったのは、どの意味だったのだろうか? わざわざ呼び出しておきながら、肝心の相談をしなかったことを詫びたのか、それとも加代のことを口にしたことを詫びたのか、私にはわからなかった。  私は煙草をくわえた恰好で、わざと瓢箪池を廻って偏奇館へ戻ることにした。  瓢箪池の噴水が、きらきらと陽をうけてきらめいている。藤棚の下には、相変らず数人の浮浪者が思い思いの恰好でのんきに寝そべっていた。  木馬館の前へ来ると、今日も「軍艦マーチ」や「美しき天然」の曲に合せて、がたがたと木馬が回っている。  偏奇館に戻ると、もう舞台で早苗、京子、久美子の三人がトリオで踊っていた。  私は客席に入って、しばらく彼女たちの踊りを眺めていた。客席は今日も五、六分の入りである。努力はしているのだが、エノケン一座やロッパの笑いの王国や玉木座の連中にはどうしてもかなわなくて、まだ満員になったことがなかった。  それでも踊り子たちは、一生懸命に踊っている。ライトを受けて、彼女たちの汗がきらきら光っている。女のなまめかしさと同時にけなげな感じがして、わたしは客席から踊り子の舞台を見るのが好きだった。  京子は悩んでいたことなど忘れてしまったみたいに、「いち、にッ」と掛声をかけて踊っている。客席から「京子ちゃん!」とファンの声が飛ぶと、汗の光る顔を向けてニッコリと笑う。彼女が浅草の踊り子に戻っているのを見て、私はほっとして楽屋へあがった。  楽屋というのはどの劇場《こや》でも同じだが、一種独特の匂いがする。脂粉《しふん》の香りといった上等なものではなく、白粉《おしろい》やポマアドの匂い、それに出前のシナそばの匂いなどが入り混って、得体の知れない、それでいて変になつかしい匂いになっている。  部屋の中には、斜めに張った紐に踊り子たちの衣裳がぶら下がり、その奥では、足だけ見えている芸人が芝居のセリフを一生懸命に覚えていたりする。足の踏み場もないところへ私は無理に身体を入れて、 「鉄ちゃん」  とひとりで座布団の上で花札をやっている鉄ちゃんに声をかけた。  鉄ちゃんの本名は浜田鉄次で、偏奇館のエノケンといわれて人気があった。  その横では、二枚目のゴロちゃんがアメリカ映画のジョージ・ラフトの真似をして、一銭銅貨をはねあげては片手でつかむ練習をしている。  鉄ちゃんは花札を止めて、 「何です?」 「中原さんがね、今日は台本どおり頼むって」 「でも、昨日のおれのギャグは大受けでしたよ」  鉄ちゃんは不満そうにいった。  昨日のギャグというのは、仇討ちの仇役になった鉄ちゃんが、酔っ払って刀を忘れて舞台に出てしまった。それで「誰か安全カミソリでもいいから、持っていませんかね?」と客席におりて行ったのが受けて、それに悪のりした鉄ちゃんは客の一人が差し出した安全カミソリで、「討たれる前の身だしなみ」と顔をあたる真似をしたのがまた大受けだった。  鉄ちゃんは、当意即妙のアドリブに一種天才的なものを持っていて、それが私たちのやっているアチャラカの基本でもあるのだが、何しろ検閲がうるさかった。興行の十日前に警視庁保安課検閲係に脚本《ほん》を二部提出し、それと少しでも違うセリフを口にすると、臨検席の巡査が楽屋へ怒鳴り込んでくるのである。下手をするとその芝居が出来なくなってしまう。 「わかってるけど、中原さんは中止に追い込まれるのを心配してるんだ。わかってあげてくれないか」 「───」  鉄ちゃんは返事をせずに、また花札を始めた。明らかに不満なのだ。  今度は仁丹をぼりぼり噛み始めた。  ゴロちゃんは知らん顔をして、相変らず銅貨をなげあげている。  楽屋に気まずい空気が流れたとき、 「秋月さん、ちょっと」  と弁ちゃんが私を楽屋の外へ呼び出した。私はほっとした。  弁ちゃんというのは綽名《あだな》で、本名は島崎徳之助という侍みたいな名前である。無声映画の弁士をしていたことがあるので、みんな弁ちゃんと呼んでいる。  弁士といっても徳川夢声、松井翠声、牧野周一、大辻司郎といった大物は、トーキー時代の到来で失業すると、「大東京カーニバル」という一座を結成して新橋演舞場あたりへ進出したりしたが、弁ちゃんはいわば弁士の助手みたいなものだったから、「大東京カーニバル」には加われず、偏奇館に転がり込んで来たのである。  顔もいいし声にも張りがあるのだが、芝居はからきし下手で、通行人や人物A、Bぐらいしか使えなかった。  狭い階段にタテに並んで腰を下ろすと、弁ちゃんは必死の顔を私に少し向けて、 「漫才をやってみようかと思ってるんです」 「へえ」 「芝居は全然、駄目ですが、漫才なら何とか出来そうな気がするんですよ」  どかどかと舞台を終った京子たちが駈けあがって来たのを、立ち上って壁に身体を押しつけるようにして通してやりながら、 「漫才だって難しいと思うよ」 「でも、漫才の方が芝居より弁士に近いですから」  そんな考え方もあるのかと私は思いながら、 「コンビを組む相手に心当りはあるの?」 「一人いるんです。今度連れて来ますから会って下さい」 「会うだけならいつでもいいよ」  会うだけならとわざと断ったのは、客の不入りが続いて新しい芸人を入れる余裕がなくなっているのを、中原さんから聞いていたからである。  それでも弁ちゃんは急に元気になって、とんとんとリズミカルに楽屋へあがって行った。  私はもう一度、階段に腰を下ろし、一本残っていたエア・シップを口にくわえた。そのまま火をつけずに、ぼんやりと京子のことを考えた。いったい彼女は、何を私に相談したかったのだろうか?  ふいに背後から肩に手が置かれて、 「肩もんであげる」  加代の声がした。  いつもなら気楽に頼むのだが、ハトヤで京子から妙なことを聞かされた直後だけに、変に意識してしまった。 「いいよ」  とやや邪険に肩を振ると、加代は黙ってしまった。  加代が黙ってしまったので心配になって振り向くと、彼女は白粉をつけた顔で涙をポロポロ流している。  悪いことに鉄ちゃんが楽屋から出て来て、 「お安くないねえ」  とさっきの仕返しのようにニヤニヤ笑った。  加代は泣きじゃくりながら楽屋へ駈け込んでしまい、私は仕方なしに、また客席へおりて行った。  丁度、幕間で、その間、客をあきさせないように、楽士たちが今はやりの「影を慕いて」や去年の「侍ニッポン」を演奏している。私は京子のことがあるので、サキソフォンの寺田を見た。楽士たちはたいてい無表情に演奏するものだが、寺田は殊更に表情を殺した顔でサキソフォンを吹いている。  あの寺田が、京子に向って犀星の本を、いったいどんな顔で手渡したのだろうかと考えると、おかしいような心配なような気になってくる。寺田みたいな男は、多分きまじめな恋をするだろうし、京子の方は気がない、というより、どうも他の男が好きらしい。だから私に相談したかったのではあるまいか。  二人のどちらかが傷つかなければいいがと、私は思った。もちろん、第一に心配なのは京子の方だが、寺田だって傷ついて欲しくはない。  浅草の踊り子は押しなべて純情で、傷つきやすい。発展家みたいに見える早苗だって、好きなゴロちゃんが浮気をしてもじっと我慢しているみたいだ。  踊り子たちはほとんどが十代だから、純情なのが当然かも知れないが、それに浅草の踊り子気質がプラスされて、口では勝ち気なことをいっていても、よく男に騙されるのだ。  私が偏奇館に来ることになった理由の一つに、当時、人気第一だった美代子という踊り子がいたのだが、彼女はブルジョワの大学生に恋をして、騙されて、その揚句に薬を飲んで自殺してしまった。  そんなもろさが浅草の踊り子にはある。だから京子のことも心配なのだが。      3  私は千束町の、冬は焼き芋を売り夏はかき氷を売る店の二階に下宿していた。六畳一間で家賃は六円五十銭。七円というのをまけさせたのである。  その日、劇場《こや》がはねてから、同じ文芸部の連中(といっても先輩の中原さんと私、それに私と同じ歳の高田と三人しかいないのだが)と一杯引っかけて、自分でも気恥しくなるような気勢をあげて下宿に戻ってみると、客が来ていた。  大学の同窓で、プロレタリア同盟の機関誌『フロント』にいる島崎公男だった。 「何となく君に会いたくなってね」  島崎は微笑したが、胸でも悪いのか顔色がよくなかった。薄汚れた背広のポケットに手を入れ、ゴールデンバットを取り出したが、一本も残っていないと気がついて「ちえッ」と舌打ちした。どことなく荒《すさ》んだ感じの動作だった。  私は新しく買ったエア・シップを島崎にすすめてから、 「今、何をしてるんだ?」 「いろいろとね」 「いろいろか──」 「うん」 「三カ月前だったかな、大学の先輩の安井さんが突然やって来て叱られたよ。お前は浅草に逃げ込んで、時代を直視してないといってね」 「安井さんは正式に共産党に入党して、地下に潜ってしまったよ」 「そうか。安井さんは入党したのか。君は?」 「僕は入っていないが──」  といい、島崎はうまそうに煙草を吸ってから、 「この間、東北へ行って来たよ」  と話題を変えた。 「向うの生活はひどいらしいね」  東北の農民たちの惨状については、毎日のように新聞に報じられていたから、私も知識としてはわかっていた。世界的な不況が農村にまで波及したうえ、東北地方は凶作が続いて、娘の身売り話や欠食児童のことが、暗いニュースとして現れてきている。 「ひどいもんだよ。言葉では表現できないほど悲惨だね。向うへ行ってはじめて知ったんだが、凶作だから飢えているんじゃないんだ」 「というと?」 「平年作でも農民は腹一杯食べられないんだ。僕が行ったのは岩手県の北部だが、全農家の九十九パーセントが小作農だ。わずか一パーセントの地主が、土地の所有者として君臨している。小作農はわずかな田畠に粟や稗を作り、米を作っているんだが、収穫の六割は小作料として地主に取られてしまうんだ。だからたとえ豊作でも、飢え死にはしないだけで、白い米の飯は食べられない。僕が行った村では、乳児の死亡率が九十パーセントに達していた。医者がいないこともあるが、栄養失調が主な原因なんだ。平年作でもそれだから、凶作が続いたらもうどうしようもない。くどいようだが、東北の農民は凶作だから飢えているんじゃないんだ。平年作でも飢えている。じわじわと少しずつ飢えるか、いっぺんに飢えるかの違いしかないんだ。農地解放が行われない限り、救いはないよ」 「汽車の食堂車から投げるパンを、農家の子供たちが争って拾っているというのは本当なのかい?」 「本当だ。県の役人は不名誉なんで否定しているがね。僕の乗った汽車が急勾配に差しかかってスピードが落ちたら、食堂のボーイがナプキンに包んだ食パンを窓から投げるんだ。多分あのボーイも、東北の生れじゃないかな。僕が窓から見ていると、十二、三人の子供たちが争って拾っていたよ。汽車の来る時間に合せて待ってるんだ。しかも、子供たちはその場で食べずに、家族に食べさせるために家へ持って行くらしい。政府も軍部も満州に王道楽土を建設するといってるが、そんな遠いところにではなく、足元の日本に王道楽土を建設して貰いたいよ」  島崎は興奮した口調でいい、激しく咳込んだ。私は自分の生きざまを叱責されているような気がして、鼻白んだ。東北で農民が飢え、娘が身売りしている時、私はといえばアチャラカ芝居の脚本《ほん》を書き、踊り子とのロマンスを夢見ている。だが弁解するつもりはないが、私には私の生き方しかない。浅草にのめり込んでしまった私には、浅草を離れた生活も踊り子たちのいない生活も考えられなくなっている。私には東北の農民たちをどうすることも出来ない。心は痛むが、どうしようもないのだ。  いや、そんなきれいごとはいうまい。私は六区の雑踏の中にいる時、劇場で鉄ちゃんやゴロちゃんや踊り子たちといる時、仲間と神谷バーで電気ブランを飲んでいる時、東北の農民のことなど考えたことはなかったし、これからだって多分、同じだろう。それどころか、東北出身の娘が多いという吉原の女を買いに、これからだって出かけて行くだろう。他に私に何が出来るというのか。 「六区を歩きたいな」  ふと島崎がいった。      4  もう夜の十一時を過ぎている。  この時間になると、昼間あれほど人を集めた六区の興行街もひっそりと静まり返り、夜鳴きそばの屋台だけが、ぽつんぽつんとアセチレンガスの青白い明りをつけている。  その屋台でそばを急いで食べている男は、これから吉原に駈け込むのだろう。 「久しぶりだよ。六区を歩くのは」  島崎は私に向って微笑したが、歩きながら時々、うしろを振り返った。 「追われているのか?」  気になってきくと、島崎はうすい肩をすぼめるようにして、 「何となく気になるだけさ。もし捕まって刑務所に送られたら、多分、僕は助からないだろうね」 「そんなに悪いのか?」 「医者は僕の胸に小さな穴があいてるといったよ」  ふ、ふッと島崎は小さく笑った。その笑い声は六区の夜空に吸い込まれていった。まるで夜空には彼の胸と同じような穴があいていて、彼の笑い声がその穴に吸い込まれてしまったような頼りなさだった。 「吉沢がね」  と私は大学の友人の名前をあげて、 「あいつの親父が、伊豆で旅館をやってるのは知ってるだろう。この間、奴に会ったら、ただで泊めてやるといってたよ。君もしばらく、伊豆の温泉へ行って来たらどうだ? 吉沢に連絡してやるよ」 「温泉か。そいつは滑稽だよ」 「自分を大事にすることが滑稽だとは思えないがね」 「僕はね、労働者や農民のために働こうと決意しているんだ。その僕が温泉にかくれていたらどうなるんだ?」  島崎は腹立たしげにいった。 「しかし、君がいくら努力しても、肝心の国民がついて来る可能性はあるのか?」 「目覚めて貰いたいが、今のところロスのオリンピックで勝ったといっては喜び、満州へ行けば何とかなると思ってる。だが考えてみてくれよ。満州の広大な土地が待っているというが、そこにはその土地の人々がいるんだ。日本人が行くことは、彼等の土地を取りあげるということさ。地主に搾取されている日本の農民が、今度は満州へ行って、向うの農民を搾取することになるんだ。こんな滑稽なことがあるかい?」 「じゃあ、君は失望しているのか?」 「時々ね。僕が一番好きな言葉を教えようか。ヴィクトル・ユーゴーの『レ・ミゼラブル』の中にあるんだ。あの小説の中でフランス革命が書かれているんだが、そのとき革命党員の一人が叫ぶ言葉だ。『たとえ人民がわれわれを見捨てても、われわれは人民を見捨てないぞ』とね」  島崎はそういってから、自分の言葉に照れたみたいに、 「そばでも食べようか」  と近くの屋台に自分から首を突っ込んで、シナそばを注文した。  そのくせ半分近く残してしまっている。一杯のそばを持て余している島崎の顔は、アセチレンガスの青白い炎で見るせいか、一層、病人のように見えて、私の気持を暗いものにした。  島崎は神経の鋭い男だから、心配する私の気持を敏感に感じ取ったのか急に冗舌になり、大学時代の仲間の名前を次々にあげて、思い出を喋り始めた。  彼は大学に入ってすぐ『フロント』の同人になったのだが、その頃はまだ満州事変は起きていなくて、今よりは少しは自由だったような気がする。  カフェがはやり、カジノ・フォーリーが旗揚げした頃である。浜口首相が東京駅で暗殺されるというような事件があったが、戦争の足音はまだ聞こえていなかった。  私と島崎は屋台でコップ酒を飲み、延々と思い出の中をさまよった。胸に小さな穴があいている島崎に酒がいい筈はなかったが、私はとめる気にはなれなかった。アルコールの入った彼の青白い顔に赤味がさし、学生時代にかえったように若々しく見えたからである。  どのくらい屋台にいたろうか。ふらりと島崎が立ち上り、二人で肩を組んで屋台を出て大学の寮歌を唄う、というより怒鳴りながら、人気《ひとけ》のない浅草寺の境内の方へ歩いて行った。  いつの間にか東の空が白みはじめている。境内の高い銀杏《いちよう》の梢だけが明るく光り出し、その明るさが少しずつ下の方へ広がって来る。  ごとごとと始発の市電の走る音が雷門の方から聞こえて来て、朝の参詣に来た老人が雪駄《せつた》の音をさせて歩いて来るのにぶつかった。 「ふうッ」  と島崎は大きく息を吐いてから急に、 「夜通しつき合ってくれて有難う」  と改まった口調でいった。 「何か変だな」 「実は、『フロント』をやめたんだ」  と島崎はいった。 「なぜ?」 「意見が合なくなった。それに、活字の無力を知らされてね」  と島崎はいった。私はその言葉に、引っかかるものを覚えて、 「二、三日、僕の下宿へ泊って行けよ」 「有難いが、そうもしていられないんだ」 「何処かへ行くのか?」 「ああ」  何処へ行くともいわず、島崎は唐突に「さようなら」と私にいい、仲見世通りを雷門の市電の停留所に向って大股に歩き出した。  私は追いかけようとして、やめてしまった。島崎の痩せた後姿は、長身だけに余計に痩せて見えた。そのくせ、私が追いかけるのを鋭く拒否しているように見える。  島崎は私との思い出の中の彷徨をおえて、彼の世界に戻って行ったのだ。その世界に、私は入って行くことは出来そうもない。  私も自分の世界に帰ることにした。浅草六区の、偏奇館の、エロ・グロ・ナンセンスの世界にである。 [#改ページ]   第二章 エロ・グロ・ナンセンス      1  芸人や踊り子が顔を見せると、楽屋はいつもの通りの賑やかさになり、のぞいた私は、自分がいつもの世界に戻った気がしてほっとした。  鉄ちゃんは、アドリブに昨日文句をつけられたことにまだぶつぶついっていたし、二枚目のゴロちゃんは、相変らずポマアドの匂いをぷんぷんさせながら、コインを投げる練習をしている。早苗はそんなゴロちゃんの傍で、持参した草加せんべいをぽりぽり食べている。 「また太るわよ」  同じ踊り子の久美子がひやかすと、 「これ、朝ごはんの代り」 「へえ。ではおれもごはんにありつくかな」  とあとから楽屋へ来た連中が手を伸ばして、かた焼きのおせんべいを失敬していった。  早苗はゴロちゃんに食べて貰いたくてしきりにすすめるのだが、体面を気にするゴロちゃんは手を振っている。  早苗の妹の加代は隅の方から、妙に意識した眼でちらちら私を見ている。どうも困ったなと思った。  京子は相変らず無口だった。  私は階段のところで彼女と二人だけになった時、 「昨日の相談事はどうなったの?」  ときくと、 「もういいんです」 「それ、解決したってことかい?」 「ええ」  京子はこくんと肯いたが、眼の方はまだ迷っている感じで、私はやはり心配になった。 「本当に大丈夫なのかい? 何か困っているなら、話してくれないか」 「大丈夫です」  京子はそういって、黙っている。私は口数の少い女が好きだが、こういう時には困惑してしまう。 「秋月さん」  と階下《した》から弁ちゃんに呼ばれて、私はまだ京子のことが気になっていたが、階下へ降りて行った。 「連れて来たんです」  と弁ちゃんがいった。 「ああ、漫才の相手ね」 「ええ。おい、定さん!」  弁ちゃんが呼ぶと、横幅の大きい柔道家のような男が、のっそりと入って来た。 「杉田定次です」  その男が太い声であいさつした。 「今まで何をやっていたの?」 「浪花節です」 「広沢虎造の弟子だったんです」  弁ちゃんが傍からいった。 「それが、どうして?」 「浪花節じゃあものになりそうもないですから」  定さんと呼ばれた男はひどく正直ないい方をした。いかつい顔をしているが、人はいいのだろう。 「弁士と浪花節ねえ」 「それぞれ持ち味を生かせば、面白い漫才になると思うんです」  弁ちゃんは必死な顔でいった。 「そう上手くいくかな」  私は首をかしげてしまった。弁ちゃんは弁士として落第だった男だし、この男は浪花節でものにならなかった男である。それが二人組んでもうまくいくものだろうか。それにここのところ不入りが続いて、私たちの給料も危くなっている。 「私たち、エンタツ・アチャコの線を狙っているんです」  弁ちゃんがいう。  エンタツ・アチャコといえば、二年ほど前から大阪で大人気の漫才コンビである。私はその舞台を見たことはないが、ラジオでは聞いたことがある。絶妙な話術で、これは受ける筈だと思った。  あのエンタツ・アチャコを目標とするのは意気は壮としても、この二人ではまず無理だろう。 「そうねえ」  私が首をかしげていると、定さんはその場にぺたりと座り込んで、 「田舎には帰れねえから、六区でやっていきたいんです。お願いします」 「定さんの田舎は岩手県で、帰っても食べていけないんですよ。秋月さん、何とかおやじさんに話してくれませんか」  弁ちゃんも私にぺこりと頭を下げた。 「岩手県なの?」 「ええ」  私は昨夜別れた島崎のこと、彼と話したことを思い出した。  定さんを助けてやれば、昨夜、島崎に感じた負い目が少しは消えるのではないか。そんな気がして、 「おやじさんが何というかわからないけどね」  と断ってから、二人を社長室へ連れて行った。  社長室といっても楽屋風呂と隣り合せに作った二坪ばかりの小さな部屋で、中に入ると机が一つと電話があるだけで、壁にはうちの芸人や踊り子の写真がべたべたと貼ってある。  蝶ネクタイをしめた永井のおやじさんは、不入り続きなので、案の定、不機嫌だった。 「漫才なんて、ありゃあ大阪のものだろう? 東京で客にうけるとは思えんな」 「僕は何とかいけそうな気がするんですがね。エンタツ・アチャコは向うじゃ大変なものだそうですよ。この二人もその線を狙っていきたいそうです。うちもいろいろとあった方が、賑やかでいいと思います」  私は弁ちゃんと定さんのために、おやじさんにいった。 「しかしねえ。このところ客の入りもよくないし──」 「給料は当分、一人分で結構ですから、やらせて下さい」  弁ちゃんはおやじさんに向って深々と頭を下げた。傍から定さんもペコリと頭を下げている。 「給料は一人分、本当にそれでいいのかね?」  おやじさんは急にニッコリした。今までの難しい顔が嘘みたいに、 「確かに賑やかな方がいいかも知れないな」  こんなおやじさんが、私は好きだった。  別に軽演劇に一家言があるわけでもなく、ただただオペラやレビューが好きで、家業の天ぷら屋を投げ出して劇場主になってしまい、弁ちゃんが一人分の給料でいいというとすぐ喜んでしまう単純さが、私は好きなのだ。  おやじさんはオーケイしてくれたが、そうすると逆に私は、弁ちゃんたち二人のことが心配になって来た。 「一人分の給料で食べていけるの?」  私が弁ちゃんにきくと、定さんが、 「私は根が器用ですから」 「器用って、内職でもするつもり?」  私が下宿している焼芋屋のおかみさんも時々、内職をしているが、封筒貼りとか綿選りといった単調で疲れる仕事で、一日に五銭ぐらいにしかならないとこぼしている。そんな内職をやる気なのかと思ってきいたのだが、定さんは四角い顔でニコニコ笑い、 「まあ、そんなところです」  翌日、偏奇館の一員になった定さんは楽屋に大きな風呂敷包みを持ち込み、彼のいう内職を始めた。  中から出て来たのはおにぎり、ゆで玉子といった食料品から、ちり紙や糸と針といった日用品、更に胃薬までで、それをみんなに売りつけるのが定さんの内職だった。  舞台というのはお腹がすく。公園の屋台だとゆで玉子が三つで十二銭だが、定さんはそれを十銭で売る。おにぎりの方は、男が、それも武骨な定さんがにぎったと見えないほど、たらこが入っていたり鰹節が入っていたりして美味かった。胃薬やちり紙も、ばら売りをしてくれるので便利だった。  風呂敷の中身は少しずつ増えて、豪華になっていった。早苗がおせんべいが欲しいというと、翌日、どこで仕入れてくるのか、定さんの風呂敷の中には安くて美味いおせんべいが入っていた。  定さんの内職の方はこんな具合でうまくいっていたが、肝心の漫才の方は前途多難だった。  中原さんが脚本《ほん》を書いてくれて、二日ほど練習してから幕間にやらせてみたのだが、全く客にうけないのである。  袖のところで見ていた鉄ちゃんは、 「あれじゃあ笑えないや」  といった。身もふたもないいい方だったが、その通りに違いなかった。  中原さんの脚本は面白いのに、二人がやると面白くない。うけようと二人が一生懸命やればやるほど、客がしらけてしまうのである。 「まあ、初めてだから仕方がないや、気を落とさずに、稽古してみようや」  中原さんはそういって二人を励ましたが、弁ちゃんは泣きそうな顔をしていた。  その日、劇場《こや》がはねたあとで早苗が私の傍に来て、「話があるの」と小声でいった。  彼女の妹のことがあるのでどきりとしたが、逃げるわけにもいかず、例のハトヤへ早苗を連れて行った。  コーヒーとケーキを注文してから、私は機先を制するつもりで、 「君の妹の加代ちゃんのことなら、僕は何とも思ってないんだからね。まだ子供だよ」 「ふふふ」  と早苗が笑った。私は拍子抜けして、 「違うのか」 「馬鹿ね。加代が子供なことはあたしが一番よく知ってるわ。あたしの話は京子ちゃんのこと」 「ふうん」 「秋月のお兄さんは、京子ちゃんが好きなんじゃないの?」 「なぜだい?」 「この頃、そんな眼で京子ちゃんを見てることがあるもの」 「そんな眼って、どんな眼だい?」 「そんな眼はそんな眼よ」  早苗はじろりと私を睨んだ。こんな時には、私より年下の早苗がずっと年上に思えてしまう。私は狼狽した。京子に惹かれるものがないといえば嘘になるからだ。 「ここのコーヒーは美味いよ。さめないうちに飲んだら」  私は話題を変えようとしたが、早苗は追い討ちをかけるように、 「この間、京子ちゃんと二人で、ここでコーヒーを飲んでたでしょう?」 「どうして知ってるんだ?」 「天網かいかい何とかよ」 「あれは、別に意味ないんだ」 「へえ」  早苗は皮肉な眼つきで鼻を鳴らした。 「わかったよ」と私はいった。 「個人的な相談があるというので、ここで聞こうと思ったんだ」 「どんな相談だったの? 男のこと?」 「僕もそう思ったんだけど、話してくれないのさ。そのうち、解決したみたいなことをいっててね」 「ふうん」 「僕はサキソフォンの寺田君が、彼女に熱をあげていると思ってるんだがね」 「サキソフォンのお兄さん?」 「うん」 「そうね。でも京子ちゃんの好みじゃないわ」 「どんな男が彼女の好みなんだ?」 「やっぱり気になるのね?」 「よせよ」 「よせよのお兄さん」 「え?」 「京子ちゃんの好みは、よせよのお兄さん」  と早苗は私をからかってから、急に生まじめな眼になって、 「京子ちゃんのことを、玉木座が引き抜こうとしてるみたいよ。知ってる?」 「いや、初耳だよ」 「彼女が玉木座の人と会ってるのを見た娘《こ》がいるのよ」 「ふうん」  京子が玉木座の連中に会ったとしても、同じ六区の仲間なのだから、殊更、目くじら立てることもないがと思ってから、私は「エッ」と小さく声をあげてしまった。ここで京子に会った時のことを思い出したからである。  あの時、玉木座のサトウ・ハチローがいて、私が振り向くと、向うから手をあげてあいさつしてきた。あの時は、くすぐったいような得意なような妙な気分だったが、あれは私にあいさつしたのではなくて、京子にあいさつしたのではなかったのか。玉木座が彼女を引き抜こうとしているのなら、そう考える方が自然なのだ。 「なるほどねえ」  私は内心ぶぜんたる気分になっていた。 「心当りでもあるの?」 「まあね。それで、肝心の彼女はどうなんだろう?」 「あたしだったら一も二もなく移っちゃうわ。うちと玉木座じゃあ──」 「格が違う──かい?」 「うん」 「君じゃなく、彼女はどうなんだろう?」 「京子ちゃんは冷たく取りすましてるみたいだけど、人情もろくて、恩義だとか何だとかに縛られて、みすみす損をするタイプだから──」 「なるほどね」 「それで悩んでいるんじゃないかと思うな。あたしだったら──」 「わかってるよ。渡りに舟とばかりに、玉木座に移るっていうんだろう?」 「まあね」  早苗はニヤッと笑ったが、彼女だって情にもろいことを私は知っている。玉木座から声がかかったら飛んでいくみたいなことをいっているが、いざそうなったら、好きなゴロちゃんと別れられないに決っているのだ。 「玉木座か」  京子だって向うへ移った方が大成するだろうし、名前だって売れるに決っている。しかし彼女は、偏奇館にとっても必要な踊り子だった。 「ひょっとすると、玉木座からお金が出てるかも知れないわ。支度金みたいな──」 「本当かい?」 「この間、京子ちゃんがね、お金をくれるという人がいて困るっていったのよ。その時は、遠慮なく貰っときなさいよって無責任にいったんだけど、あれは玉木座から出る支度金のことかも知れないわ」  偏奇館は給料が安い。客の不入りが続いているのだから仕方がないが、鉄ちゃんたちや踊り子たちに不満があるのは知っている。私自身だって、正直にいえばもう少し欲しいのだ。 「明日は日曜日だから入りはいいだろう。おやじさんも機嫌がよくなると思うから、中原さんに頼んで、少しでも給料をあげてくれるように交渉して貰うよ」      2  翌日の日曜日はどんよりした曇り空だった。快晴の行楽日和よりはこういう天気の方が、興行街に人が集って来る。  六区には文字通り人があふれて、映画館にもレビュー劇場《ごや》の前にも、切符を買う行列が出来た。  偏奇館もその余得で客席が満員になった。  レビューと芝居の五本立で入場料はわずか三十銭。安すぎるのはわかっていたが、人気のある玉木座や松竹座に対抗するためにも、値上げは出来なかった。  客席が一杯になると、楽屋の空気も自然に違ってくる。ゴロちゃんも緊張している。女たらしとか何とかいわれても、やはり芸人なのだ。鉄ちゃんも仁丹を噛む回数が多くなってくる。  定さんはいつもの風呂敷包みを広げたが、 「今日は皆さんに張り切って貰おうと思って、特別に朝鮮人参のエキスを持って来ましたよ」  と怪しげな色をした液体を取り出した。なるほど液体の中に、朝鮮人参らしき白っぽい根っ子が浮んでいた。 「本当にきくの?」  早苗が大きな眼でのぞき込むとゴロちゃんが、 「きくもんか。インチキさ」 「ききますよ。万病にきくのがこの朝鮮人参です。一に疲労回復、二に肺病、三に婦人病──」  定さんが虎造の口調で喋っているのを、私は「ちょっと待ってくれ」と手で制して、 「京子君の姿が見えないけど、まだ来てないのかい?」 「そういえば、まだ来てないわ」  と早苗が楽屋を見廻した。  あと二、三分で開演である。  偏奇館では最初に短いコント風の芝居があって、次が京子たちの踊り、三番目がメインの芝居、四番がまた短い芝居、そして最後がバラエティ・ショーになっていた。 「弁ちゃん」  と私は呼んで、 「悪いけど京子君の家へ行ってみてくれないか。病気で寝てるのかも知れない。家は知っているだろう?」 「確か馬道でしたね」 「そうだ。下に置いてある自転車を使ってくれ」  弁ちゃんが肯いて、階段を駈けおりて行った。  序幕の芝居に出る鉄ちゃんと女優の小月秀子、それにゴロちゃんの三人が舞台へ飛び出して行った。  観客が「わあッ」とわいたのは、身の軽い鉄ちゃんが舞台へ出る瞬間、ひょいと空中で一回転してポーズをとったからに違いない。ストーリィには関係ないのだが、何気なくやって客にうけてから、鉄ちゃんは必ずやるようになっていた。  中原さんが楽屋に顔を出して、 「京子君がまだ来てないんだって?」  と私にきいた。 「ええ。弁ちゃんが彼女の家へ迎えに行ってますが、もし間に合わないと、次の踊りがトリオでなくなっちゃうんです」 「二人じゃあ見栄えがしないよ」  と中原さんは考えていたが、 「加代ちゃん、京子君が来なかったら、君にトリオに加わって踊って貰うよ」 「あたしが?」  加代がびっくりした顔で中原さんを見た。 「君以外にいないからね」 「でも、あたしは自信がないわ」 「大丈夫だよ。毎日、練習しているじゃないか」 「でも怖いわ」 「怖くたって踊って貰うよ」  中原さんは励ますように、加代の肩を軽く叩いた。 「大丈夫よ」  と姉の早苗が加代に笑いかけた。 「いつもより化粧を少し濃くした方がいいな。大人っぽく見えるからね」  中原さんがいった。  十五分の短い芝居が終って、鉄ちゃんたち三人が顔に汗をかきながら楽屋に戻って来た。  京子はまだ来ない。 「頼むよ、加代ちゃん」  中原さんがいった。 「行くわよ!」  と早苗が元気よく叫んで妹の肩を叩き、久美子を入れた三人は音楽に合せて、「ラン、ラン、ラン」と拍子をとりながら舞台へ出て行った。  ほっとしているところへ、弁ちゃんが息をはずませて帰って来た。 「京子ちゃんは家にはいませんでしたよ」 「おかしいな」  私は文芸部に戻っていた中原さんに、 「玉木座へ行って来ます」 「何しに?」 「京子君は、もう玉木座へ移ってしまったのかも知れません。黙って移ったのは、僕たちに話せば引き止められると思ったからじゃないですかね」 「そんな娘《こ》ではないと思うが──」 「とにかく見て来ます」 「もし彼女が向うにいても、玉木座の連中と喧嘩はするなよ」 「わかってます。喧嘩はしませんが、彼女がいたら無理にでも連れて来ますよ」  私は劇場を出て、玉木座に向った。  六区の通りは人で埋っている。出し物を書いたのぼりが威勢よく風にはためき、呼び込みの声も張り切っていて、甲高い。  玉木座は最初、劇団プペ・ダンサント(踊る人形)として、浅草オペラの残党の清水金太郎や柳田貞一、二村定一、木村時子たちにエノケン一座、それに淡谷のり子、和田肇などが加わり、文芸部にはサトウ・ハチロー、菊田一夫、山田三郎などがいた。  それがエノケン一座が松竹に引き抜かれて、松竹座と同じ松竹系の常盤座の両方に出るようになっていた。  玉木座はエノケンや、二村定一、それに柳田貞一などが抜けてしまって一時ほどの勢いはなくなっていたが、サトウ・ハチローが文芸部長で、青年部に菊田一夫や山田三郎がいて人気を保っていた。  日曜日なので、玉木座は立見まで一杯だった。  一階が三十銭、二階が五十銭になっていたが、その二階まで満員である。今日は偏奇館も、一応、満員になっているが、立見までは一杯になっていない。  私は羨ましいと思うと同時に、京子のことがあるので腹も立ち、文芸部と書かれた部屋のドアを黙って押し開けた。  乱雑な部屋に三人の男がいた。  文芸部長のサトウ・ハチローは、ずぼらでめったに顔を出さないという評判だったが、今日は大きな身体で寝そべるように椅子に腰をかけていた。  そのハチローが私を見て、 「おう。何だい?」  と大きな声を出した。眼がしょぼしょぼしているところをみると、二日酔いでもあるのだろうか? 「僕は偏奇館の文芸部にいる秋月です」  私が緊張して名乗ると、ハチローは「知ってるよ」といった。 「この間、ハトヤで会ったじゃないか」 「そうでしたね。実は、うちの野上京子のことで話があるんです。踊り子です」 「ああ、知ってる。あの娘はいい。色気がある。あの娘は芝居にも使えるよ」 「うちでも、彼女の素質は認めているんです。うちにとっても大事な踊り子なんです。それを断りなしに、勝手に引き抜いて欲しくないんですよ」 「おい、おい。ちょっと待てよ」  サトウ・ハチローは太い腕を振り回すようにして、 「うちは彼女を引き抜いたりはしないぜ。いい娘だから、うちへ来ないかと打診したことはある。だが彼女は、やはり偏奇館に残るといって断ったんだよ」 「しかし、支度金まで渡そうとしたんじゃないんですか?」 「支度金? そんなものは知らんぞ。なあ、菊田君」  ハチローは傍にいる青年に声をかけた。ぼさぼさ頭で、いやに眼の大きな青年だった。ああ、これが最近、次々に面白い脚本《ほん》を書いている菊田一夫かと、私は思った。  彼は原稿から眼をあげて、「ええ」と短く肯いた。小柄だが、気の強そうな感じがした。 「しかし、彼女は姿を消してしまって、見つからないんです」  私がいうと、ハチローは「ふうん」と唸ってから、 「少くとも、ここには来ていないよ、疑うのなら、楽屋でもどこでも見たらいい」  その言葉に嘘は感じられなかった。  それでも私は、楽屋をのぞき、ラインダンスの始まっている舞台を見せて貰った。  京子はどこにもいなかった。      3 (好きな男と駈け落ちでもしたのだろうか?)  純情な踊り子ほど、男に騙されやすい。前にも踊り子が一人、ヤクザの男に騙されて、九州へ駈け落ちしたことがあった。その娘がどうなってしまったかわからない。  そんなことを考えていると、私はぶぜんとした気持になってきた。  こちらが親身になって心配してやっているのに、詰らない男に騙されて、ふっといなくなってしまう。そんなことがあると、馬鹿馬鹿しくなってしまうのだ。  瓢箪池のあたりを廻って偏奇館に戻ると、何か様子がおかしかった。  楽屋口に鳥打帽をかぶった眼つきの鋭い男が二人いて、おやじさんが蒼い顔で応対している。 「どうしたんだ?」  と弁ちゃんにきくと、弁ちゃんは私を物かげに引っ張って行った。泣きそうな顔で、 「京子ちゃんが死んでしまったんです」 「え?」  私も一瞬、絶句してしまった。 「隅田川に浮んでいたそうです。首を絞められて」  弁ちゃんは声をふるわせた。 「本当かい? それ。誰がそんなことをしたんだ?」  思わず私が大声を出すと、鳥打帽の二人がじろりと鋭い眼で私を睨んだ。  どうやら彼等は事件を調べに来た刑事らしいとわかったが、それでもまだ、京子が死んだ、それも殺されたということが信じられなかった。  それで私は、刑事たちのところへ行って、 「京子君が殺されたというのは、本当ですか?」 「本当なんだ」  と答えたのは傍にいたおやじさんで、刑事の一人は、 「君の名前は?」 「文芸部の秋月です」 「ふん。脚本《ほん》書きか」  とその刑事は鼻で笑って、 「ここに寺田三郎という男はいるか?」 「一人、サキソフォンを吹いているのがおりますが──」  おやじさんは恐る恐るという調子で刑事に答えた。 「そいつを、すぐここへ呼んで来るんだ」  片方の刑事が、頭ごなしにおやじさんに命令した。 「ちょっと待って下さい!」  と私は思わず割って入って、 「今、舞台が始まっているんです。それを考えて下さい」 「それがどうしたんだ?」 「今日は日曜日で、満員の客が詰めかけているんです。せめて一回目の公演が終ってからにして下さい」 「こっちは殺人事《ころし》件を命がけで追っているんだ」 「こっちだって、命がけで舞台をつとめてるんです」  売り言葉に買い言葉の感じだった。二人の刑事の顔が、怒りで赧くなるのがわかった。  おやじさんはおろおろしてしまって、 「秋月クン。これは殺人事件なんだから」  と刑事と同じことをいった。それに力を得たように、刑事の一人が私に向ってぐいっと顔を突き出した。 「寺田が逃げたら、てめえを代りに逮捕するぞ!」 「なぜ寺田君を捕えるんです? 彼が犯人だという証拠でもあるんですか?」 「そいつは、寺田に手錠《わつぱ》をかけてから説明してやるよ」 「めちゃくちゃだ」 「構わん、踏み込め!」  もう一人の刑事が怒鳴った。  おやじさんが突き飛ばされた。刑事たちが舞台の方へ突進しようとしたとき、その前に弁ちゃんが立ちふさがった。 「待って下さいよ、刑事さん。今、サキソフォンを連れて行かれたら、舞台がめちゃくちゃになってしまいます」  私は、おとなしい弁ちゃんにこんな強いところがあったのかと眼を見張ったが、刑事の方はカッとしたらしく、 「この野郎! てめえも邪魔するのか」  いきなり一人の刑事が弁ちゃんを殴った。ばしーんと弁ちゃんの頬が鳴って、彼の細い身体が引っくり返った。起きあがろうとするのを、もう一人が足払いをかけた。また倒れる。床についた手から血が流れている。倒れたままでいると、今度は刑事が蹴飛ばした。  弁ちゃんは腹を押さえて、苦しげに呻き声をあげた。 「止めろ!」  と私は、なおも弁ちゃんを蹴りあげようとする刑事に向って怒鳴った。 「僕が寺田君を連れてくる」 「逃がすんじゃあるまいな?」  刑事がじろっと私を睨んだ。 「逃がしたら、僕を代りに逮捕したらいいだろう」  私は暗い客席の方から、舞台の横手にある楽士たちのボックスに近づいた。丁度、舞台はメインの芝居が始まったところで、楽士たちは手を休めていた。 「ちょっと、一緒に来てくれないか」  私は声を低くして寺田を呼んだつもりだったが、それでも近くの客席から「シーッ」と声が起きた。 「何です?」  と寺田がサキソフォンを抱えたまま私を見た。 「いいから一緒に来てくれ。大事な話があるんだ」 「シーッ」  また客席から叱声が飛んできた。  寺田が首をかしげながらボックスを出て来た。彼を楽屋に連れて行きながら、 「京子君が殺されたんだ」 「まさか──」 「本当だ。それで刑事が来て、君に会いたいといってる」 「なぜ僕に?」 「わからない。君が殺したのか?」 「とんでもない。僕は知らないよ」 「それならいいんだ」  刑事の待っているところへ寺田を連れて行くと、相手はいきなり手錠を取り出した。  私は刑事と寺田の間に自分の身体を入れるようにして、 「連れて来たんだから、逮捕理由を教えてくれませんか」 「殺された女の袂に、この本が入ってたんだ」  刑事の一人がポケットから、水に濡れてふやけた本を取り出して、かざして見せた。 「この本に偏奇館、寺田三郎と書いてある。お前の本だろう?」 「僕の本だが、それはこの間、彼女に貸してやったものです」 「最近の楽士はこんな本で女を釣るのかい?」  と刑事はニヤッと笑ってから、 「それがうまくいかなかったんで、カッとして絞め殺し、隅田川へ投げ込んだ。海へでも流れてくれればと思ったんだろうが、あいにくだったな」  ねちねちした感じで刑事の一人が喋り、もう一人の若い方が容赦なく寺田の両手に手錠をかけた。  寺田は蒼白な顔で、 「僕は無実だ。彼女を殺してなんかいない」 「そんなご託は署で聞いてやるよ」 「さあ、行くんだ」  二人の刑事は、手錠をかけた寺田を両脇から抱えて歩き出した。 「僕の本があっただけで、犯人扱いですか?」  引きずられながら、寺田が抗議した。 「お前は政府転覆を企む危険分子だ。アナーキストだ。殺しぐらい平気でやる人間だ」  刑事の一人が寺田の腰を蹴った。  もう一人がよろめく寺田を引きずって行く。 「帰って来るまで、サキソフォンを預かっといて下さい」  寺田が叫んだ。 「僕は君を信じてるよ」  私は連行されて行く寺田の背中に向って叫んだ。が私の声は、二人の刑事のがっしりした背中にはね返された。彼等の武骨な肉体は、私の感傷など簡単にはね返す非情さを持っていた。  私は寺田が京子を殺したとは思っていないし、一冊の本だけで犯人と断定できるものでもないだろう。  だが刑事が、「お前は危険分子のアナーキストだ」と寺田を決めつけたことが心配だった。  思想への締めつけは年々厳しくなっていた。  昭和三年三月十五日に、内務省と司法省が全国一斉に約千六百人の左翼活動家を逮捕した。いわゆる三・一五事件である。  この事件のことを、小林多喜二が『一九二八年三月十五日』という小説に書いていて、私はそれを高等学校の時に読んでいる。そこには警察による苛烈な拷問が描かれていて、私を慄然とさせた。  その後、六月に治安維持法が改正され、特高警察が生れた。  今、特高はどこにもいるらしい。私が大学に入った頃には、大学の思想も統制されてきた。  左翼的と目される大学教授は、京大の河上肇を始めとして次々に大学を追われている。  寺田を連行して行った二人の刑事は特高ではないが、だからといって彼が苛酷に扱われないという保証はどこにもなかった。 [#改ページ]   第三章 舞台      1  京子は馬道にある豆腐屋の娘だった。姉が一人いたが、すでに大阪の男と結婚していた。  私はおやじさんや中原さんに頼まれて、京子の父親と一緒に彼女の遺体を引き取りに行った。  いかにも昔気質の職人といった五十四歳の父親は、悲しみを押しかくし、私に対しても警官に対しても、「娘のことで、お世話をおかけします」と律儀に頭を下げ続けた。  京子の遺体はまだ象潟署に置かれていた。  彼女の遺体を実際に見て、私の胸に改めて痛ましさがわきあがってきた。舞台で時に妖しい色気を感じさせた顔が、今は青白い死色に変り、かもしかのようにスレンダーで弾力のあった四肢は、生気を失ってかたく硬直してしまっている。  そして、細い首に残っている無惨な犯人の指の痕。どこの狂人が、この優しい少女を絞殺したのだろうか?  ここまで自分を押し殺してきた父親も、さすがに眼頭をおさえ、小刻みに身体をふるわせている。 「隅田川に浮んでいたようですね?」  と私は、案内してくれた警官に訊ねた。小柄で年齢《とし》をとったその警官は、寺田を連行した刑事たちのように威張ることもなく、「そうだ」と肯いた。 「言問橋の下につないであった舟に、引っかかっていたのを発見された。あそこに舟がなかったら、もっと下流まで流されていたかも知れんね」 「暴行された形跡はありましたか?」 「さっき警察医が調べたが、暴行はされていないようだ」 「じゃあ、何のために犯人は彼女を殺したんですか?」 「そこまではまだわからんよ」 「お金は盗られていましたか?」 「いや、袂に三円六十銭入った蟇口があったよ。それに、何とかいう本もな」  それを聞いて私は、少しは救われたような気がした。  だがそれなら、犯人は何が目的で京子を殺したのだろうか?  日本の女の平均寿命は四十七歳だと聞いたことがある。十八歳で殺されてしまった京子は、その半分も生きていなかったのだ。  遺体は解剖に回されるということで、すぐには引き取らせて貰えなかった。  象潟署からの帰り道で、私は京子の父親から、昨夜の彼女がどんな様子だったかきいてみた。 「劇場《こや》から帰って来たのが、夜の十時頃でしたよ。いつもは疲れたといってすぐ寝ちゃうんだが、昨夜《ゆんべ》は、これからどうしても友だちのところへ行ってくるんだといって、出かけて行きました。夜中になっても帰って来ない。前に踊り子仲間のところへ泊ったことがあるんで、てっきり今度もと思ってたんですよ」  父親は小声で話した。その友だちというのが寺田だったら、彼が怪しくなる。違うとしたら、京子は誰に会いに行ったのだろうか? 「最近、娘さんの素振りで、何かおかしいと思うことはなかったですか?」 「私はね、豆腐を作ることしか能のない男でしてね。あの娘は悩みごとがあったのかも知れないが、気がつかなかった。父親としたら落第ですよ」 「そんなことはありませんよ」  と私はいった。  この父親も、娘の京子に似て人が好いのだろう。小説や映画では善人は必ず幸福になるが、実際の人生ではなぜか不幸になることの方が多い。  いつか見たフランス映画の中に、「|これが人生だ《セ・ラ・ヴイ》」という言葉があった。しかし十八歳の京子にとって、これが人生だでは、あまりにも可哀そうだ。      2  この日、京子の死を悼んで偏奇館は、一日、休館ということになったが、夕方になって、文芸部の中原さんが全員を舞台に集めた。 「折入ってみんなに相談したいことがある」  と中原さんは、いつになく厳しい表情でみんなの顔を見廻した。  いつもジョージ・ラフトの真似をやめないゴロちゃんも、そんな中原さんの態度に気圧されたのか、手を止めて聞いている。  私も中原さんが何をいい出すのかわからなくて、じっと彼の顔を見ていた。 「うちの客の入りが芳しくないのは、みんなもわかっている筈だ」  中原さんは肩をすくめるようなゼスチュアをした。事実だから、みんな黙って聞いている。 「その上、京子が死んでしまった。明日からは、前よりももっと苦しくなることを覚悟しなきゃなるまい。このままでいけばじり貧で、劇場《こや》が潰れるかも知れん。別に脅かしているわけじゃなくて、僕は事実をいってるんだ。そこで、どうしたらこの事態を打破できるかということになる」 「みんなでがんばるより、仕方がないんじゃないの?」  早苗がいった。 「もちろんそれも必要だが、それだけじゃあ客は呼べないよ。玉木座や松竹座に対抗するためには、何か売りものが必要だ」 「それを考えるのが、文芸部じゃないの?」  鉄ちゃんが口をとがらせた。  中原さんは肯いて、 「そこで一つ、考えたことがある。前にカジノ・フォーリーで、踊り子がズロースを落とすという噂が立って、客席が満員になったことがある。今度の事件だが、明日の新聞が大きく扱うだろう。偏奇館の名前も出る。とにかく踊り子が殺されたということで、煽情的に書くだろう。殺された踊り子がいた劇場はどんなものかと、見に来る人間もいると思う。だが、それに期待しているだけじゃ駄目だ。京子クンには申しわけないが、この事件をチャンスにして客をとり込まなきゃならない。幸い彼女はうちの劇場の踊り子だ。みんなの中には死者に対する冒涜と怒る者もいるかも知れないが、今度の事件を脚本《ほん》にして、舞台にのせるんだ。うけることは間違いない。秋月君はどう思う?」  いきなりきかれて私は、とっさにどう答えていいかわからず、 「それは、どんな風に扱うかによりますけど」  とあいまいにいった。  中原さんは、「決っているじゃないか」と決めつけるようにいった。 「今はエロ・グロ・ナンセンスの時代だよ。カジノ・フォーリーだって、踊り子の踊りが上手いから客が来たんじゃない。ズロースを落とすという噂で客が来たんだ。つまり、踊り子とエロなんだ。少くとも世間はそう見ている。そして、殺人はグロだ。意味なく殺したとすれば、ナンセンスになる。どうだい? 三拍子揃ってるじゃないか。当然、この線で行くんだ」 「あのう、あたしは──」  早苗が遠慮がちに口を挟んだ。 「わかってるよ。殺された京子クンをだしに使うのは、気が進まないというんだろう?」 「ええ」 「だがね。明日の新聞が事件を伝えたら、うちが演《や》らなくたって、きっとどこかの劇場が脚本にして演るに決っているんだ。玉木座、松竹座、金竜館、どこかが演る。踊り子|殺人事《ごろし》件なんて大きな看板を他の劇場がぽんと立てたら、そっちへ客が乗るのは眼に見えてる。そうだろう? 秋月君」 「そうですね。他の劇場で演るでしょうね」  と私は肯いた。  玉木座の文芸部には、ボスのサトウ・ハチローの下に若手で才能のある菊田一夫がいる。エノケン一座が移った松竹座には、エノケンのために数々の傑作を書いた菊谷栄がいる。  満州事変で馬賊が有名になれば、『馬方の見た夢』でエノケンが馬賊になったりする浅草なのだ。  中原さんのいうように、今度の事件を必ず脚本にするだろう。そんなことになったら、今よりもっと客を取られてしまう。 「やりましょう」  と私はいった。 「よし。高田君も今日は徹夜だ。何とかして朝までに脚本を作りあげる。それからみんなは、明日の朝七時に集合だ。それまでに脚本は作っておく。七時から稽古をする。殺される踊り子の役をやる娘も出るが、それは覚悟しておいて欲しい」      3  私と高田はその日、中原さんの下宿で脚本《ほん》を書くことになった。 「二人でまずあらすじを作ってみてくれ」  と中原さんはいい、ふらりと出て行った。  私と高田は原稿用紙に向って書きすすめた。階下《した》が食堂なので、夕方になるとおかみさんが焼きそばとお茶を運んで来てくれた。  中原さんはなかなか帰って来ない。  午後七時頃になって、やっと帰って来た。 「どこへ行って来たんですか?」  私がきくと、中原さんは机の前にあぐらをかき、階下から運んできた焼きそばにだぶだぶとソースをかけながら、 「玉木座や松竹座を廻って来たんだ。今日の事件はうちで芝居にするといって来た。こうしておけば、向うも遠慮するだろうと思ってね」 「つまり、仁義を通して来たわけですか」  高田がニヤニヤ笑いながらいった。 「仁義ねえ」  中原さんは焼きそばを食べ始めた。痩身なのに中原さんはよく食べる。まるで、食べていないと死んでしまうと信じているような食べ方だった。  中原さんはいつも何かに追われているような顔をしている。 「それで、出来たのか?」  と中原さんは箸を置いて、私と高田を見た。 「何とかあらすじは出来ました」  高田がいい、私と二人で作りあげた原稿用紙五枚のものを中原さんに見せた。  中原さんは、エア・シップに火をつけ、灰を畳に落としながら眼を通していたが、 「駄目だ! これじゃあ」  吐き捨てるようにいって投げ出した。 「どこが駄目なんですか?」  と高田がきいた。 「君たちは僕のいったことがわかってないんだ。僕はエロ・グロ・ナンセンスに徹してくれといった筈だよ。それが、何だい? 貧しいプロレタリア出身の踊り子が、着物姿で隅田川に浮ぶまでの十八歳の短い生涯だって。何だよ。これは?」  中原さんは激しく机を叩いた。 「僕はこの事件を通して、社会の矛盾といったものを書きたかったんですが」  と私はいった。 「ここは浅草だよ。築地小劇場じゃないんだ」 「どうすればいいんですか?」 「まず観客を満足させるエロが必要だ。確かに彼女は着物姿で殺《や》られていた。だがそれじゃあ、普通の娘が殺られているのと同じだ。たまたま職業が踊り子だったというに過ぎないじゃないか」 「リアリティがなくなりますよ」 「リアリティなんかくそくらえだ。いいか、ヒロインは胸当てとズロースという踊り子の恰好で殺されなきゃならないんだ」 「しかし、中原さん。そんな恰好で、なぜ川に浮んでいるんですか?」  高田が文句をいった。 「どうにでもなるじゃないか。彼女は劇場《こや》にひとり残って、鏡の前で踊りのレッスンをしている。エロチックな恰好でだ。夜だ。そこへ犯人が音もなく忍び寄って、絞め殺す。犯人は死体を担ぎ、深夜の路地を歩いて川まで運び、投げ込むのさ。逆さにかつがれた彼女は、だらりと若々しい肉体をさらす。半開きの唇がエロチックだ」 「───」 「次に犯人だ。君たちの考えてる犯人は、いったい何だ? 失業プロレタリアートだって?」 「僕も高田も、犯人を貧しい失業プロレタリアートにすることで、社会的矛盾を描けると思ったんです」 「駄目だな。浅草の客は、教育されたくて劇場に来るんじゃないんだ。彼等が金を払うのは、笑いや刺戟で人生のうさを忘れ、楽しみたいからだ。失業者が、愛と憎しみから好きな踊り子を殺して、自分も死ぬ? これで客が喜ぶかい?」 「しかし、他にどんな犯人が考えられますか?」 「殺人鬼だよ」 「え?」 「若く美しい女を殺すことに、異常な快感を覚える男が犯人だ。性格異常者さ」 「それじゃあ、まるで泥絵具で描いた紙芝居の世界じゃありませんか」  高田が文句をいった。私と同じく文学青年の気分が抜けない高田には、殺人鬼などという発想はあまりにも子供っぽく思えたのだろう。 「君もそう思うのか?」  中原さんが私を見た。 「ええ。殺人鬼なんて、リアリティがありませんよ」 「それが浅草なんだよ。そのナンセンスさが浅草なんだ。この線で、朝までに脚本を書いてくれ」 「わかりました」  と私はいったものの、高田と顔を見合せていた。まだ納得できないものを感じていたからである。そんな私や高田の気持を中原さんは素早く察したらしく、 「まだ不満そうだな?」 「そうはいいませんが」 「君たちはこの浅草が好きなんだろう?」 「ええ。好きですよ。だから僕も秋月も、住所を浅草に移したんです」  高田がいうと、中原さんは肩をすくめて、 「だが、頭は浅草の人間になってない。意識は浅草に批判的なんだ」 「そんなことないと思います。僕はこの浅草が好きなんです。どこかインチキ臭くて、そのくせひどく人間的なところが。それに、六区の芸人たちが好きなんですよ。高田も同じです」 「別に君たちが浅草を嫌っているとは思っていないよ。だが君たちの考えたあらすじを見ると、浅草や六区や芸人たちは好きだが、あくまでも旅人の眼で見ているとしか思えないね」 「旅人の眼というのは、どういうことですか?」 「川端康成という作家がいる」 「知っています。僕は彼の『浅草紅団』に描かれた世界に憧れて、ここに来たんです」  高田はそういった。 「僕もあの作品は好きさ」と中原さんはいった。 「彼は才能のある作家だ。だが彼は、所詮は浅草という土地を通り過ぎる旅人に過ぎない。若い時、伊豆へ旅行して『伊豆の踊子』を書いたように、彼は浅草へ旅したんだ。もちろん彼は、意識してそうしたんだと思う。彼は、そうして文芸作品を完成させればよかったからだ。僕は前に、カジノ・フォーリーで川端康成に会ったことがある。ある踊り子は、川端のお兄さんの眼は怖いといっていた。いつも冷静な眼をしていたからだろう。彼は『浅草紅団』の中で、添田蝉坊の言葉を引用して、『大衆の浅草は、常々一切のものの古い壁を溶かしては新しい型に変える鋳物場だ』と書いているが、彼自身は自分を変えようとはしなかった。浅草を冷静に見て浅草を書いたが、浅草の人間になろうとはしなかったのさ」 「僕や高田も、同じだというんですか?」 「ああ、今の君たちはね。このあらすじを見る限り、冷静な旅人としか思えない。六区に来る客、うちへ来る客はアチャラカが見たいんだ。エロ・グロ・ナンセンスが欲しいんだ。君たちが本当に浅草と六区が好きなら、アチャラカに徹すべきなんだよ。旅人みたいに批判的に見ちゃいけないんだ。社会の矛盾だとかリアリティなんていってたら、玉木座の菊田や松竹座の菊谷には勝てんぞ」  中原さんは新しいエア・シップに火をつけ、 「まあ、その気になって、客が入ってくるような脚本を書いてくれ。浅草の客が入ってくるようなだ」  私たちは中原さんの考えに従って、脚本作りに取りかかった。  ひたすら面白く書いたつもりでも、中原さんは気に入らなくて、書き直しになった。  三つの灰皿は、私と中原さんのエア・シップ、それに高田のゴールデンバットの吸殻で、たちまち一杯になってしまった。  第三稿までいく頃には、三人ともナーバスになっていて、怒りっぽくなっていた。  中原さんは最初から怒鳴っていたが、私や高田も怒鳴り返すようになってきた。  午前三時を過ぎて、中原さんは「少し休もう」といい、階下《した》からビールを持って来た。  中原さんはあまり酒が強くない。コップに二杯も飲むと赤くなり、 「少し風に吹かれて来るから、その間にもう一度、書き直しておいてくれ」  といって部屋を出て行った。  窓から見ていると、痩身を屈めるようにして、中原さんが暗い路地を歩いて行くのが見えた。  街灯の中に、痩せてとがった肩のあたりが浮んだかと思うと、すぐ暗がりの中へ消えてしまった。 「最近の中原さんは、ちょっとおかしいんじゃないか」  高田が疲れた顔で私にいった。 「どんなところがだい?」 「最近、やたらに怒りっぽいじゃないか。何をいったい焦っているんだろう?」 「僕にもわからないよ。とにかく彼が戻って来るまでに、書き直しておこう」  私は赤鉛筆を取りあげて、直しにかかった。 「この脚本だってそうさ。直すのは別に苦にはならないけど、なぜ妙なお説教なんかするのかね」 「多分、中原さん自身が、浅草の人間になりたくてなり切れずにいるからじゃないのか」  そういえば私は、中原さんの過去をほとんど知らなかった。 「僕は、自分が浅草の人間になり切れるとも思っていないし、なり切りたいとも思っていないよ」  と高田はいった。  高田には、アチャラカの脚本書きだけでは終りたくないという気持があるのだろう。  だが中原さんは、浅草の人間になりたがっている。  私にはおぼろげだが、中原さんの気持がわかる気がした。  芥川龍之介が将来に対するぼんやりした不安を口にして自殺したのは、五年前である。  あの時から、事態は一層悪くなっている。芥川がぼんやりした不安といったものは、今やはっきりした形をとって私たちに迫って来ている。戦争は否応なく拡大し、私たちを呑み込んでしまうだろう。それだけではない。私たち若者は、銃を持って戦争に行くことになるだろう。同じアジア人を殺す羽目になるに違いない。  それは避けようもない運命に見えるのだ。  逃げようがないのなら、せめて忘れたい。浅草六区の人たちは、迫り来る戦争のことなど知らぬ顔で、笑い、泣き、生活を楽しんでいるように見える。六区の芸人たちも観客もである。  中原さんはきっと、彼等のように不安を忘れたいと思っているのではないだろうか。アチャラカに徹した脚本を書き、エロ・グロ・ナンセンスに徹することで、六区の人間になろうとしているのだろう。  私にも同じ気持がある。  劇場へ出て、鉄ちゃんやゴロちゃん、それに踊り子たちと一緒にいると、何もかも忘れることが出来る。エノケンを越えることだけを考えている鉄ちゃん、女のことだけを考え、どうしたら自分をカッコよく見せられるかに全力をかたむけているゴロちゃん。踊り子たちは、踊ることと食べることと、恋することに夢中だ。  戦争は彼等だって容赦なく呑み込んでしまうだろう。だが私みたいにびくびくしながら生きていても、呑み込まれることは同じなのだ。不安であることが良心の証のように思うのは、明らかに詭弁である。ただの意味のない自虐に過ぎない。  中原さんだって同じことを考えているのだろう。今度の事件をいいチャンスに、自らエロ・グロ・ナンセンスの世界にのめり込みたいと、念じているのかも知れない。  中原さんは一時間ほどして戻って来た。大島の肩のあたりが濡れていた。 「雨ですか?」  私がきくと、中原さんは濡れたあたりを指先でなでるようにしながら、 「少し降って来たよ。脚本は出来たかい?」 「何とか直しましたが、これが精一杯です」 「もう四時か」  中原さんは置時計を見て呟き、 「ご苦労さん」  と私と高田にいった。  夜明けまでもう一度、脚本の検討が行われた。  疲れて、畳の上に引っくり返って私と高田が寝てしまっても、中原さんはひとりで脚本に書き加えている。  窓の外に明るい陽が射して、人々の足音が聞こえ、豆腐屋や納豆屋の声が聞こえる頃になると、階下の主人が朝刊を持って来てくれた。  京子の死がどう扱われているかが気になって、私たちは眠い眼をこすりながら新聞に眼を通した。  一面は相変らず、威勢のいい政府声明がのっていた。  三月に建国した満州国では五族協和の実があがり、理想的な王道楽土が出来つつあるという。  九月八日に第一陣の移民が出発したが、昨日も二百人近くが渡満して行ったと書かれている。  満州へ行けば何とかなる、という空気が作られている。不況の長びく本土に見切りをつけて、これからも満州への移民が増えていくだろう。  左翼の連中の中にも、新天地を求めて満州へ渡った者がいるらしい。 「王道楽土」の文字の隣りには、無礼な中国に対して膺懲《ようちよう》の軍を進めようといった、勇ましく物騒な見出しが見える。  北支では、日本軍と中国軍の間で小ぜり合いが続いているらしい。 「戦争が広がりそうだな」  中原さんはぶぜんとした顔でいった。 「でも満州が承認されれば、陸軍だって満足して、もう戦争はやらないんじゃありませんかね」  高田が呑気にいった。 「それは一般の常識だよ。軍人の常識じゃない」 「どう違うんです?」 「軍人には生命線論というのがある。これは雑誌に石橋湛山が書いていたんだが、最初、日本の生命線は朝鮮だといって朝鮮を併合した。次に満州が生命線だといって、満州を占領した。次には中国が生命線になってくる。日本を守るためには朝鮮が必要で、その朝鮮を守るためには満州が必要で、その満州を守るためには蒙古や中国が必要になってくる。際限《きり》がない。これが軍人の論理だ。政治の論理が働けば途中でやめるが、今の日本じゃあ軍人の論理の方が強いから、戦争はどこまでも続くさ」  と中原さんはいってから、自分の言葉を掃き捨てるように、 「この話は止めよう。不愉快になるだけだ。事件がどう扱われているか、その方を見てみよう」  社会面を見ると、やはり出ていた。それも私たちが予想した通りの扱い方だった。 〈美貌の踊り子殺害さる。   前代未聞の猟奇殺人!〉  大きな活字が躍っている。  第一面の居丈高な調子がどこか冷たいのに比べて、こちらの記事には記者の弾んだ気持が、そのまま伝わってくるようだった。 「記者さんも張り切って書いてるねえ」  高田が笑ったが、張り切り過ぎて勝手にでっちあげた部分もあった。 〈──被害者の踊り子は着物の下にズロースを着用しておらず、或いはそれが犯人の劣情を刺戟したやも知れぬ〉  これは明らかにでたらめだった。私が見た遺体は、ちゃんとズロースをはいていた。 〈──前々から偏奇館の踊り子たちに対して、変質者と思われる男から、お前たちを殺してやるという脅迫状が来ていたという噂もあり──〉 「そんな噂があったなんて、知らなかったな」  高田が首をかしげた。が中原さんは事もなげに、 「これを脚本の中に入れようじゃないか」  といった。      4  朝の八時から劇場にみんなが集まって、稽古が始まった。  殺される踊り子には芸達者な早苗がなり、殺人鬼には最初、鉄ちゃんということだったが、二枚目がやった方が凄味が出るという中原さんの考えで、ゴロちゃんに決った。  稽古が始まってから、中原さんが私に、 「悪いが、象潟署に行って寺田君の様子を見て来てくれないか」  といった。  寺田のことが心配ということもあるが、現実問題として、彼が長く留置されているようなら、サキソフォンの出来る楽士を連れて来なければならなかったからである。  私はおやじさんから渡された差し入れの品を持って、象潟署に足を運んだ。  昨日、寺田を連行していった山路という刑事に会った。 「寺田君は、いつになったら帰して貰えるんですか?」  私がきくと、山路は無愛想な顔で、 「当分、帰れんよ」 「なぜです? 彼が犯人だという証拠でもあるんですか?」 「奴はアナーキストだ。お前さんも劇場《こや》主も、奴が危険なアナーキストと知ってたんじゃないのか?」  山路は、だから犯人に違いないといういい方だった。 「いいえ。知りませんでした。しかし──」 「しかしも何もあるか。アナーキストという奴はな、平気で人殺しをする危険な連中なんだ」  山路は居丈高に怒鳴った。  私は、寺田がこの象潟署で、どんな扱いを受けているかが心配になってきた。  二年前だったか、千束町の小さな飲み屋で、窃盗と傷害の前科がある男と知り合ったことがある。その男は、警察の取調べがどんなに陰湿で暴力的かを、くわしく話してくれた。竹刀で殴るのは序の口で、後手錠にして蹴倒す。冬の寒い時には水をかぶせる。時には吊しておいて殴る。 「奴等はおれたちを人間と思ってやしねえんだ」  あの男は陰気な笑い方をしたものだが、彼のような小物でもそんな拷問を加えるのだから、殺人事件の容疑者で、その上アナーキストとなれば、寺田にどんな苛酷な拷問が加えられるか、およそ想像がつくというものである。アナーキストやコミュニストは、国家の敵という気があるから、何をしても許されるという気持が警察にはあるのだろう。 「寺田君に会わせて貰えませんか」 「死んでやしねえよ。安心しな」 「会わせて貰えないんですか? 劇場の者全員が心配してるんですよ」 「お前さん、弁護士かい? 違うんじゃ、会わせられないな」 「じゃあ、弁護士になら面会させて貰えるんですね?」 「まあ、そうだ」 「確かですね」  と私は念を押しておいてから、外に出て、大学時代の友人で若手弁護士の日下部に電話をした。  日下部はタクシーで駈けつけてくれたが、私の話を聞くと、 「アナーキストか」 「難しいのか?」 「面会はさせてくれると思うが、釈放の方はね。今は左翼やアナーキストより、普通の前科持ちの方が警察の心証はいいんだ。普通の犯罪者は社会の敵だが、左翼やアナーキストは国家の敵だからねえ」 「しかし、別に国家の転覆を図ったとかいうんじゃないんだ。それに踊り子殺しだって、僕は関係ないと思っている」 「とにかく、その寺田という人に会ってみよう」  私たちは象潟署に行き、日下部が面会を申し入れた。彼の父親が検事だったことも力があったらしく、私たちは薄暗い取調室で寺田に会うことが出来た。窓の鉄格子が冷たく威圧してくる。手錠をかけられた寺田が連れて来られ、刑事はそのまま部屋の隅に残って、鋭い眼で私たちを監視している。  寺田はたった一日で別人のようになってしまっていることに、私は驚いた。もともと青白く陰気な顔をしていたが、眼が落ち窪み、頬がそげたようになっている。手錠をかけられた両手で、しきりに下腹のあたりをおさえている。苦しそうに息を吐く。 「大丈夫か?」  と私がのぞき込むと、寺田が答えるより先に、監視していた刑事が、 「留置場の飯がお気に召さないとみえて、腹痛を起こしたのさ。偏奇館の楽士はよっぽどいいものを食っているんだな」  と大きな声でいった。 「そうなんです。下痢をしてしまって──」  寺田はかすれた声でいう。私は信じなかった。下腹部を殴られたか、蹴られたかしたに違いない。警察の拷問は、外から見えない部分に加えられると聞いたことがあったからである。 「頑張れるかね?」  日下部は冷静な口調で寺田にきいた。  寺田は相変らず腹をおさえながら「え?」ときき返してから、必死な眼で、 「僕は無実です。殺人なんかやっていない」 「無実でも、自白したらそれで終りだ。証拠がなくても自白で有罪になるんだからね。それで頑張れるかときいたんだよ」 「大丈夫です」 「何か僕に出来ることがあったら、いってくれ」  私がいうと、寺田はやっと両手を机の上にのせて、 「劇場はどうなっています?」 「ちゃんとやってるよ。加代が立派に京子の代役を勤めているし、他の連中も元気だ。みんなで君のことを心配しているんだ」 「そうですか──」  はじめて寺田の顔に微笑が浮んだ。 「早く帰って来られるといいんだがね」 「僕は偏奇館が好きなんですよ。面白くなさそうな顔をしてるっていわれるんですが、本当は今の仕事が気に入ってるんです」 「僕たちだって君が好きさ。あのサキソフォンも、ちゃんと僕が預かってるよ」 「時間だ」  刑事が椅子から立ち上って、冷たくいった。  私と日下部は、追い出されるように取調室を出た。  象潟署の外へ出たが、暗く重い空気がまとわりついて来るような気がした。 「寺田は、明らかに拷問されてるよ」  と私は日下部にいった。 「わかってる。食当りは嘘だ。多分、腹を竹刀か木刀で殴られたんだろう。あれは応えるらしいからな。下手をすると命にかかわる」 「抗議は出来ないのか?」 「無駄だな。他の事件で抗議したことがあるが、全く取り合って貰えなかった。身体の打撲傷を見せても、取調中に勝手に転んで机にぶつけたんだといわれると、反論の手段がないんだ。何しろ密室の中での取調べだからね」 「しかしあのままじゃあ、遅かれ早かれ寺田は参ってしまうよ」 「だから頑張れるかきいたんだ。精神的には強そうだから、しばらくは頑張れると思うがね」 「何とか釈放に持っていけないかい?」 「今度の事件は新聞が派手に扱ったからね。いやでも警察は張り切らざるを得ない。そこへ、飛んで火に入るみたいに容疑者が現れたんだ。自供に持っていけば、象潟署にとって大手柄だ。ちょっとやそっとで釈放する筈がないよ」 「真犯人が見つかったら、大丈夫だろう?」 「見つかりそうなのか?」 「いや。わからん。ただ犯人が変質者なら、また同じことをするかも知れない」 「また踊り子を襲うというのか?」 「僕はその可能性があると思っているんだ。恋の恨みか何かで殺したのなら、これで終りだが、変質者なら同じことを繰り返す」 「もちろんそうなれば、寺田は釈放されるさ。ただそれまで、彼が頑張れるかどうかだ」 「一般の警官と特高との仲はいいのか?」 「いいとは思えないね。特高はエリートだという誇りを持っている。予算も潤沢だ。花の特高だよ。当然、一般の警官は面白くないだろうな」 「それを利用できないかな」 「というと?」 「寺田は殺人事件の容疑者であると同時にアナーキストということで、特高も関心を持つんじゃないかな。両方で取り合いになるかも知れない。そうなれば、少しは大事にされるんじゃないかな?」 「なるほどなあ」と日下部は微笑した。 「さっきの刑事は、自分たちの捕えた寺田がアナーキストだということは、特高には知らせないと思う。そんなことをしたら油揚げをさらわれかねないからね。そのあたりを突ついて牽制すれば、釈放は無理としても、拷問はやめさせられるかも知れない」  さっそく署長に会ってくるという日下部と別れて、私は偏奇館に帰ることにした。  浅草寺の境内を抜ける途中で、私は異様な光景を見た。  いや、異様ななどといってはいけないだろう。やっている婦人たちは、今はやりの言葉でいえば戦争協力、滅私奉公の精神に燃えているに違いないからである。  愛国婦人会のたすきをかけた婦人が、通りすがりの女学生やおかみさんに、千人針を頼んでいるのだ。  出征する兵士に持たせるためだ。白い布に赤糸で、いくつも小さな結び目を作っていく。中には四銭(死線)を越えるという意味で、五銭の白銅貨を縫いつける人もいる。千人の人に縫い目を作って貰い、それを身体につけていれば敵の弾丸《たま》が当らないという。いつ誰が始めたのかもわからないが、今年の一月、上海に戦火が飛び火してから急に流行り出したのだ。  千人針がいったい何の役に立つのかという疑問よりも、こんな光景が次第に多くなってくることが不安だった。  私にとって浅草は花園なのだ。ジンタの音がひびき、レヴューの踊り子が華やかに笑い、やたらに陽気で賑やかな花園なのだ。この浅草寺の境内だって、夜店のおでん屋や焼鳥屋やシナそば屋や、さもなければ手拭で眼かくしをして本を読んで見せ、その虎の巻を二十銭で売りつける香《や》具|師《し》こそ似合う場所である。  ここには戦争の匂いは入り込んで欲しくない。      5  劇場《こや》に戻ると稽古の最中だった。どの顔も、これで客を呼ぼうと真剣だった。  踊り子の中には、京子が殺されたことを脚本《ほん》にしたので嫌がる者もいるのではないかと思ったが、いざとなればさすがにみんな芸人で、必死で役と取り組んでいる。  予定どおり、殺される踊り子が早苗。  彼女のことが好きな青年に鉄ちゃん。  殺人鬼のゴロちゃん。  この三人が芝居の軸で、下手な漫才で踊り子仲間や客に笑われるのを、早苗になぐさめられる二人として、定ちゃんと弁ちゃんが起用された。今度は下手な漫才師という設定だから、彼等も楽にやっている。これが案外、二人の芸のプラスになるかも知れない。  みんな一生懸命にやっていて、その熱気が私にもひしひしと伝わってくるくらいだが、中原さんは気に入らないらしく、いらいらしていた。 「ちょっと止めて!」  と中原さんはいい、私に向って、 「どうも、もう一つぴんと来ないな」 「みんな一生懸命やってますよ」 「これは学芸会じゃないんだ。一生懸命だからって、いいことにはならない。客を呼べるかどうかが問題なんだ」 「それはわかってます」 「そうかな」  と中原さんは難しい顔でちょっと考えていたが、 「そうだ。ゴロちゃんが殺しをやるところを工夫してみようじゃないか。彼女に馬乗りになってくびを絞めるというのはそのままでいいが、問題は舞台のどこでやるかだ。くびを絞められて死んだ瞬間、早苗君の顔ががくんとなる。その物凄い顔が、前の方に座っている客の眼の前にのけぞってくるようにしたいんだ。客を驚かして、怖がらせるんだ。だから彼女は、舞台の前縁まで逃げて行き、ゴロちゃんは追いかけて行って殺す。早苗君は殺されて顔をがくんと落とすとき、眼の前の客の顔を下から睨むんだ。恨みをこめてね。眼の前の客をふるえあがらせなきゃ駄目だ。何か、これはという工夫はないかな? これはという案を出した者には、タバコ一箱出すよ。朝日でもエア・シップでも」  中原さんがみんなの顔を見廻した。  女優や踊り子たちが、煙草じゃつまらないといった。中原さんは笑って、 「煙草を吸わない人には、酒かおしるこをおごるよ」 「あたしが血を吐いたらどうかしら?」  早苗がいった。 「血か。普通首を絞められると鼻血が出るといわれているが、それじゃあ艶消しだな」 「あたしだってそんなのいやだわ。だから口から血を出すのよ。血のりを口に含んでおいて、お客の顔を見ながら吐いてみるわ。それで驚くんじゃないかしら」 「女の客がいいな。派手な悲鳴をあげさせたいんだ」 「女の客がいなかったらどうするんです?」  とゴロちゃんがきいた。 「女はたいてい後の方で見てますよ」 「最初が大事だから、今日は二、三人の女性客を最前列に座らせておこう。君たちの中に彼女がいたら、今日はただでいいから、入れてやってくれ」 「早苗ちゃんが倒れたら悲鳴をあげるように頼んどくの?」  鉄ちゃんがきく。  中原さんは手を振って、 「そんなことしちゃあ駄目だ。生きのいい悲鳴が欲しいんだよ。だから、いい芝居だといって最前列に座らせておいてくれ」  といってから、次にゴロちゃんと早苗に、 「君たち二人には賞金を出そう」 「どんな賞金です?」 「計画どおり客が悲鳴をあげたら、二人に一円。一人五十銭ずつだ」 「一日三回だとすると三円か。悪くないね」  ゴロちゃんはニヤッと笑った。 「三回とも悲鳴があがったらだよ」 「必ず出るとわかってれば、おれと早苗ちゃんで頑張りますよ」 「おやじさんに僕が話して、絶対に出させる。それは約束するよ」 「じゃあ頂き」  ゴロちゃんは自信満々にいった。      6  何とか脚本《ほん》が検閲を通って、 〈猟奇! 踊り子殺人! 全三景〉  と書いたのぼりが劇場《こや》の前にはためいて、いよいよ偏奇館の運命を懸けた第一回の芝居が始まった。  みんな緊張と不安の入り混った顔をしている。 「頂き!」と威勢のよかったゴロちゃんだって、内心はどきどきしているのだ。その証拠に、さっきからしきりに乾いた唇をなめている。  中原さんは永井のおやじさんに小声でいっている。 「客席で悲鳴があがったら二人に一円、お願いしますよ」 「一日三回で三円、十日で三十円か」 「それで大入りになれば、安いもんですよ」 「大入りか。私は道楽でこの劇場をやってるものの、大入りにするのが夢なんだ。潰す前に一度でいいから、大入りの客席を見たくてねえ」 「大入りが続けば、劇場は潰さなくてすみますよ」  そんな二人の会話を聞きながら、私は舞台の袖から客席をのぞいていた。  最前列に十七、八の娘が二人座っている。鉄ちゃんが連れて来た女たちらしい。  客席はほぼ埋っている。私はほっとした。幸先はいい。だが問題は、明日からもっと客が増えるか、もとのもくあみのがらがらの客席になるかである。  幕が開くと、私は見ているのが怖くて、じっと眼をつぶっていた。  眼をつぶっていても自分の書いた脚本だから、今、どの辺りかは想像がつく。  踊り子を殺してやるという殺人鬼からの脅迫状が届く。少しずつ恐怖が高まっていって── 「きゃあッ」  という派手な悲鳴が聞こえた。 (成功だ)  と私は思った。  中原さんの見込みどおりになった。  偏奇館であまりの怖さに客の中の若い娘が悲鳴をあげたという噂は、たちまち六区に広がっていった。  泣き出した、失神したと、噂は自然にエスカレートしていき、その数も二人が三人になり、ついには十人の娘が気を失って病院へ運ばれたという話になってしまった。  都新聞は「真に劇界の珍とするに足れり」と、賞賛とも皮肉ともつかぬ言葉で偏奇館の芝居を紹介した。  皮肉でも構わない。とにかく話題になって客が来ればいい。今までの偏奇館は、話題になることが全くといっていいほどなかったのである。  有難いことに連日、物見高い客が押し寄せてくるようになった。  日曜日でも満員にならなかったのに、平日でも立見まで客があふれ、場内は熱気に包まれた。  ひょっとして女性客が来なくなるのではないかと心配したが、それは杞憂だった。逆に女の客の方が多くなった。怖がりながら、それを楽しんでいるのである。  連日の満員でみんなの演技にも熱が入り、その熱気がまた客席にはね返っていく。  噂でなく、本当に気を失う女の客が増えた。偏奇館ではそのために、楽屋に医者と看護婦が詰めているという話になった。これはオーバーだったが、多少、その方の心得のある女優が楽屋で、失神したお客の手当てをしたのは本当だった。  都新聞はもう一度、私たちの芝居を取りあげて、「珍なれど物凄いばかりの人気にて、東都の人気を独占す」と書いてくれた。  玉木座や松竹座でも同じ企画を持っていたが、中原さんが仁義を通したのと、後塵を拝する恰好になるのが嫌で、中止したという話が伝わってきた。やはり偏奇館でやってよかったのだ。  連日の大入りを一番喜んだのは、おやじさんだったろう。五日目の夜、劇場がはねてから、おやじさんは全員を駒形のどぜう屋に招待してくれた。 「今日はうんと栄養をつけて、明日から頑張ってくれ」  とおやじさんは大声でいい、一人一人に酒を注いで廻った。  上手くいき出すと、全てが上手くいくようだった。  京子が殺されて踊り子が不足していたのだが、偏奇館が有名になったおかげで、二人の新人が入って来た。  新人といっても、他の劇場で踊っていた娘である。十八歳と十九歳で、顔もいいし根性もありそうだった。さっそくその日からラインダンスに加わって貰った。  連日の満員が続いた一週間目だったと思う。  早苗が幕間にちょっと照れたような顔をして、 「あたしね、ある人に結婚してくれないかっていわれたの」  と私にいった。 「ああ。ゴロちゃんといよいよ結婚するのか?」  私が笑いながらきくと、早苗は急に声をひそめて、 「それが違うの」 「へえ。てっきりゴロちゃんだと思ったんだが」 「ゴロちゃんは結婚をしない主義よ」 「すると、君に結婚を申し込んだのは誰なんだい?」 「うふふふ」  と早苗は思わせぶりに含み笑いしてから、 「このことはゴロちゃんには内緒にしておいてね」 「わかってるよ」  と私はいった。 (しかし、誰だろう?)  ゴロちゃん以外に、早苗に結びつくような男の顔が浮んで来ない。  ゴロちゃんと早苗のことはみんな知っているからだ。  それとも早苗は姐御肌の女だから、自分より若い男が出来たのだろうか。 「そのうちに、秋月のお兄さんに相談するかも知れないわ」  早苗が真剣な顔でいった。 「いいとも、いつでも相談にのるよ」  と私がいったとき、急に楽屋が騒がしくなった。 「どうしたんだ?」  私がきくと、鉄ちゃんがすっとん狂な声で、 「エノケンが見に来てるってさ!」  といった。 「エノケンが?」 「そうなんだ。来てるんだよ」  鉄ちゃんは興奮している。  ゴロちゃんや定さんなんかもぞろぞろと出て来て、幕の隙間から客席をのぞいては、 「来てる、来てる」  とささやいた。  私もみんなの肩越しに客席を見た。  丁度、幕間《まくあい》で、客席はがやがやしている。今日も満員だ。  前から三列目の右端の席に、あの特徴のある顔があった。 (エノケンが見に来た!)  私はぞくッとした。  エノケンは浅草の英雄である。六区の芸人にとっては神様に近い存在だ。  今、松竹座に出ているエノケンは、千五百円の月給を貰っているという評判だった。私の月給が六十円だから、実に二十五倍である。  文字通り千両役者だ。いつも数人の取り巻きを従え、アメリカの高級車を乗り廻し、賑やかに飲み歩く彼の姿を、私は遠くから羨望の眼で眺めていたものである。  そのエノケンがうちの芝居を見に来たのだ。  私はエノケンにまつわる逸話をいくつも聞いている。それはまるで神話のように六区に広まっていた。  舞台の上で酔っ払って寝てしまったとか、侍の恰好で出て来て、差していた芝居用の刀を客席の子供にくれてやってしまったとか、或いは、汽車に乗ると狭い汽車の便所を使うのが嫌で、弟子に見張らせておいて、走っている汽車のドアを開けて外へ向って小便をするとか、身が軽くて、垂直な塀を二十メートルも身体を横にして走り抜けるとか、エノケンの場合は全てが観客に愛されるのだ。  エノケンより上手い芸人は何人もいただろうが、彼ほど大衆の人気をかち得た芸人はいない。  端役で『猿かに合戦』の舞台に出たとき、ただ舞台をうろちょろするだけの猿Aだったが、自分で工夫して落とした御飯粒を拾うゼスチュアをして認められたというように、エノケンの芸熱心さも有名である。それを考えると、幕間に抜け出して敵情偵察に来たのかも知れない。  客席もエノケンに気付いたらしく、何となくざわついて来た。 「エノケンが見に来てるんだって?」  中原さんも興奮した口調でいい、幕の隙間から客席をのぞいている。  今度の芝居で客は殺到したが、六区の中でこの芝居が、どう評価されているかわからないという不安が、私にも中原さんにもあった。エノケンが見に来たということは、その点でも嬉しかったのである。  ただエノケンがどんな評価を下すか、怖くもあった。エノケンは優秀な芸人であると同時に、『最後の伝令』のような傑作の原作者でもある。だからこそ偏奇館の大入りの芝居がどんなものなのか、大いに関心を持ったのだろう。  エノケンが見ているのを意識したせいか、鉄ちゃんが張り切り過ぎて舞台で転んでしまった。右足首捻挫である。それでもおれは偏奇館のエノケンだとばかり、脂汗を流して芝居をした。これがメロドラマとか、逆にコメディだったら見られたものではなかったろうが、幸い恐怖劇《ホラー》(と私たちは宣伝していた)だったから、右足を引きずった芝居は、かえって不気味さを強調する結果になったのは儲けものだった。捻挫してるのを知らない仲間の中には、鉄ちゃんの新しい工夫と思った者もいたくらいで、芝居が終った時の拍手はいつもより大きかったくらいである。  幕が下りるとエノケンはさっと立ち上り、舞台で見せるあのひょいっ、ひょいっと軽く調子をとるような歩き方で、劇場を出て行った。  そのあと楽屋に、花束と差し入れのにぎり鮨がどっと運ばれて来た。それはまるで、洪水のようだった。  楽屋はたちまち花束で埋ってしまった。  近くの「寿司栄」の職人は呆れたような顔で、 「ついさっき、エノケンさんがふらりと店にやって来てね。偏奇館の楽屋へ鮨を届けてくれと、百円置いていったんですよ」  といった。  花屋のおやじも同じことをいった。  私も中原さんも、驚くより呆れてしまった。百円といえばサラリーマンの一カ月の月給である。まぐろのとろが一個二銭。百円あれば五千個だ。私たちの劇場は全員で三十人ちょっと、とうてい食べきれるものではなかったし、花束も楽屋に入れ切れなくなって、廊下にまであふれてしまった。 「こっちもお返ししなきゃあ、浅草の芸人の名折れだぜ」  とゴロちゃんが息巻いた。 「しかし、どうするんだい? ゴロちゃん。おれたちはエノケンみたいに、千五百円も月給を貰ってないぜ」  嵐乱三郎が首をすくめた。  偏奇館一の高給とりは鉄ちゃんだが、それだって九十円だから、エノケンの真似などとうてい出来るわけがない。 「みんなで一円でも二円でも出し合って、お返しをしようじゃないか。それなら出来るだろう」  ゴロちゃんがいった。  しかし、今は一円も持っていないという者もあって、集ったのは五円足らずだった。 「じゃあ、私がそれに足して、洋酒でもお礼に贈ることにしたらどうだ」  おやじさんがいった。  酒好きのエノケンにナポレオンをプレゼントすることに決って、持って行く役は早苗と決った。問題の芝居の主役だったからである。  最後の芝居が終ったあと早苗は、リボンをつけ、「榎本健一様 偏奇館一同」と書いたナポレオンを抱えて出かけて行った。 「エノケンさんと握手してくるわ」  早苗は私にそんなことをいって、微笑した。  あとコントが二つあって、最後のフィナーレになる。それまでには戻って来られるだろう。 「それにしても、すごい花束だねえ」  中原さんは甘い香りに包まれた楽屋を見廻して、私にいった。  どれもこれも、高そうな花ばかりである。 「これじゃあ、花屋が出来るね」 「鮨屋も出来るよ。まだにぎり鮨がだいぶ残っています」 「秋月君、それもエノケンが贈ってくれた花束かい?」  中原さんが変な顔をして、楽屋の隅に置かれた花束を指さした。  それだけがやけに貧弱に見えたからである。 「違うでしょう」  と私はいった。 「じゃあ、ファンが置いていったのかな」 「そうでしょう。時々、ファンが楽屋まで押しかけて来て、花束やお菓子を置いてきますから」 「何か手紙がついてるよ。誰かへのファンレターじゃないのか」 「そうですね」  私はその紙片をつまみあげて、広げてみた。 〈ソドムの呪いはまだ生きている。また一人死ぬぞ〉 「何だい、こりゃあ。芝居の中の脅迫状を、誰がこんなところへ置いたんだ?」  私は思わず文句をいった。  丁度、楽屋に戻って来たゴロちゃんが、 「違うよ。小道具の手紙ならおれが持ってるよ」  とポケットから手紙を取り出して、ひらひら振って見せた。 「じゃあ、これは何なんだい? 悪いいたずらじゃないか」  私はいいながら、ぞくっと寒気がするのを覚えていた。      7  全員が舞台に並んで大入りに感謝するフィナーレになっても、早苗は戻って来なかった。  ゴロちゃんが心配して、 「どうしたんだ? 遅いじゃないか」  と誰にともなくいった。 「松竹座に引き抜かれちゃったんじゃないのかね。向うさんの方が給料がいいからなあ」  鉄ちゃが冗談めかしていうと、ゴロちゃんはいやに真剣な眼で鉄ちゃんを睨んだ。 「よしてくれ!」  その語気の鋭さに、鼻っ柱の強い鉄ちゃんもびっくりした顔で黙ってしまった。 (やっぱりゴロちゃんは早苗が好きなんだな)  と私がひとりで肯いていると、ゴロちゃんは「秋月さん」と私に近寄って来て、 「一緒に松竹座に行ってくれないか」 「どうするんだ?」 「早苗が心配だから、松竹座へ行って聞いてみたいんだ。だから一緒に行ってくれよ。エノケンは苦手なんだ」 「いいよ。行ってみよう」  と私はいった。  午後十一時に近かったが、六区の通りは劇場《こや》がはねて帰る客や、これから吉原へ行こうという客やらで、まだ混雑していた。  松竹座も丁度、はねたところで、満足した顔の客たちがどっと溢れ出てくるのにぶつかった。うちは際もので客を入れているが、こちらは相変らず、エノケンの人気はたいしたものだと思った。  私はゴロちゃんと楽屋へ廻ってみた。  ダブルの背広に鳥打帽という恰好で、沢山の取り巻きと一緒に出てくるエノケンと出会った。  私たちの視線が合うと彼の方から、 「君たち、確か偏奇館の人だったね」  と声をかけてくれた。 「文芸部の秋月です。こちらはゴロちゃん」 「どお? 僕たちと一緒に飲みに行かないか」 「ありがとうございます。が、僕たちは早苗ちゃんを探しに来たんです」 「ああ、あの娘はいいねえ。ナポレオンをありがとう」 「彼女はすぐ帰りましたか?」 「少し僕の楽屋で喋ってたな。お礼に、はねてから一緒に飲みに行こうといったんだが、用があるといって帰ったよ。なかなか色気があっていい娘だよ。いい娘だ」  うん、うんとひとりで肯いてから、エノケンはもう一度、私とゴロちゃんを誘った。エノケンの一党が、これからどっと繰り出すのだろう。  私とゴロちゃんが断ると、別に気を悪くした様子もなく、外に待たせてあったパッカードの車に取り巻きと一緒に乗り込んだ。  私とゴロちゃんは、人の気配の少くなった六区の通りを歩いて行った。 「おれ、彼女のアパートへ寄ってくよ」  急にゴロちゃんが立ち止まって、私にいった。 「心配なのか?」 「ああ。どうも気になるんだ」 「松竹座からまっすぐ、アパートに帰ったんだよ」 「しかし早苗は義理がたい女だから、松竹座を出たらフィナーレに出るために、偏奇館に戻って来る筈なんだ」 「エノケンが誘ったら、用があると彼女は断ったといってたじゃないか。それだろう」  と私がいうと、ゴロちゃんは黙って雷門の方へ歩いて行った。  私は一人で、田原町の方へ歩いて行った。  人影もまばらだった。 (早苗は本当に自分のアパートに帰ったんだろうか?)  急に不安になって来たとき、遠く雷鳴がとどろいた。  と思ったとたん、強い雨脚が襲いかかって来た。 [#改ページ]   第四章 回転木馬《メリーゴーランド》      1  翌日、劇場《こや》に出ると、早苗の姿が見えなかった。  ゴロちゃんが来たので私が、 「あれからどうしたんだ?」  ときくと、 「彼女のアパートに行ったんだが、彼女、いなかったんだ」 「今日はまだ来てないみたいだね」 「それで心配してるんだ。芝居の主役を貰ってから、いつも他人《ひと》より早く来てたからね」  ゴロちゃんはそわそわと落ち着かなかった。  開幕の時間が迫って来ても、早苗は現れなかった。  中原さんは不機嫌だった。彼は他の芸人たちに向って、 「今のところ、連日、大入りが続いているけど、それに甘えちゃ駄目だ。今こそみんなの頑張りが必要なんだよ。ちょっとでも油断したら、またがらがらの観客席になっちまうんだ。この大事な時に遅れてくるなんてのは、もっての外だ」 「中原さん。早苗はきっと、風邪でもひいたんだと思うよ。なまけて遅れて来るような娘じゃないよ」  ゴロちゃんが必死で弁明した。 「病気なら病気だと、連絡してくればいいじゃないか」 「彼女のアパートには電話がないんですよ。それに、ひとりで住んでるんだから連絡できませんよ」 「ねえ。ゴロちゃん」  と中原さんは眉をひそめて、 「君が早苗君を好きかどうかは、問題じゃないんだ。大事な時に、こんなことじゃ困るといってるんだ」 「おれは、そんな個人的な感情でいってるんじゃないんですよ」 「加代君」  と中原さんは、姉のことなので辛くて顔をかくしている加代に声をかけた。  加代は仕方なしに、 「何でしょうか?」  と恐る恐るきいた。 「君は姉さんと一緒に住んでないのか?」 「私は母さんと一緒です。姉さんは、ひとりでアパートに住んでるんです」 「じゃあ、なぜ遅れてるのか、わからないな?」 「ええ。私、姉さんを迎えに行って来ます」  加代が楽屋を飛び出そうとすると、中原さんは、「君が行くことはない」と止めた。 「君だってちゃんとした役がついてるんだから、居なくちゃ困る」 「でも、姉がいないと困るんでしょう?」 「芸人根性のない人間は、必要ないんだ」  中原さんは厳しい顔でいい、蒼い顔でいる私たちに向って、 「もう早苗君はどうでもいい。今日の公演を取り止めてお客に帰って貰うしかないな」 「そりゃあ困る」  あわてて口をはさんだのは、おやじさんだった。 「僕だって困ってるんです」 「中原さん。今日も客席は満員なんだよ。立見も出てるんだ。今もまだ、チケット売場には客が並んでいる。この客を帰せっていうのかね。殺生だよ、それは──」 「僕だって残念ですが、仕方がないでしょう。中途半端な芝居は見せられませんよ」 「開幕を少し遅らせて、早苗君が来るのを待ったらどうかね? あと五、六分もしたら彼女も蒼くなって駈けつけてくるさ」 「他の連中は全員集っているんです。彼女にだけ特権を与えたら、しめしがつかなくなりますよ。昨夜だって松竹座へ行ったあと、フィナーレには戻って来るべきでしょう。それさえしなかったんですよ。たまたま主役の椅子について、天狗になっているんです」 「中原さん、それは違うよ」  ゴロちゃんがすごい勢いで中原さんに食ってかかった。 「彼女は何か急用が出来て、ここへ戻らなかったんですよ。彼女がいなくても、フィナーレは、別に支障はなかったし、あんただって昨夜は、そのことでは何もいわず、さっさとみんなを帰らせたじゃないか。今になってそんなことをいうのは卑怯だよ」 「みんな、ちょっと待ってくれ」  おやじさんはおろおろして、二人の間に割って入った。 「私としてはどうしても、今日の公演を中止させたくないんだ。みんなだって同じだろう。早苗君がいなくても、何とか代役でやれないのかね」 「代役ですか?」  中原さんは最初、全く興味のないという感じでおやじさんを見た。 「何とかならんかね。踊り子だって他に何人もいるし、女優だっているじゃないか。その中から、あの役をやれる人間が一人ぐらいいそうだと思うがねえ」 「そう簡単にはいきませんよ。あの役は、芝居が出来て踊りも出来て、しかも魅力的な身体つきをしてなきゃいけないんです。確かに踊り子は他にもいますが、芝居が下手だ。女優は踊りが出来なくて、観客をうっとりさせるような素晴らしい身体を持っていない。これじゃあ代役は無理ですよ」 「私にやらせて下さい」  突然、女優の木下節子が中原さんに向っていった。      2  偏奇館には四人の女優がいたが、木下節子は若いのに、あまり目立たない方だった。  二十七歳と最年長の小月秀子は他の劇団にいたことがあり、コメディも出来るベテランだが、それだけに新鮮さに欠けていた。  井上君代と若木通子は、いわば偏奇館の看板女優である。といっても、うちのような劇場《こや》では、どうしても鉄ちゃんやゴロちゃんのような男の芸人か、エロで売る踊り子たちの方が人気が出てしまう。  木下節子は、四人の中では一番若い十八歳で、私の印象としてはやたらに眼の大きさだけが目立つ娘だった。  稽古でも熱心だが、スターに必要なぱっと目立つところが感じられないので、いい役が与えられずに来たのである。  中原さんも節子を見て、ちょっと意外そうな顔になって、 「君が?」 「はい。私にやらせて下さい。早苗さんのセリフは全部覚えています」  節子は特徴のある大きな眼で、中原さんをしっかり見つめた。興奮して頬が朱《あか》く染っている。私は、節子がこんな目の輝きをしていたのかと、びっくりした。 「君がね」  中原さんは、半信半疑の顔で節子を見ている。 「はい。覚えてます。どこからでもいえます。聞いて下されば、今、やってみますけど」 「ちょっと待って。セリフを全部覚えていても、この役は出来るとは限らないんだよ。踊り子だからね。踊れて、それに色気もなくちゃいけない。イットというやつだよ。君にそれがあるかな? 踊れるかね?」 「踊れます」 「しかし、僕は君が踊るのを見たことがないよ」 「あの役をやりたくて稽古したんです。早苗さんみたいには踊れないかも知れません。でも何とか出来ると思います。だから、やらせて下さい」 「中原さん。試してみたらどうですか?」  私は見かねていった。節子があまりにも真剣だったからだ。よく見れば、節子の身体が小きざみに震えてさえいる。  中原さんは考えていたが、 「じゃあ、他の者はしばらく外へ出ていてくれないか。ああ、秋月君は残ってくれ」  といった。  楽屋に、中原さんと私と、節子だけが残った。  節子は緊張で蒼い顔をしている。 「大丈夫だよ」  と私が彼女の肩に触れると、かすかに震えているのがわかった。 「セリフをいって貰う前に、まず踊り子の恰好をして貰うよ。満員の観客は今度の芝居に、エロ・グロを求めて来ているんだからね」  中原さんは突き放すようにいった。  踊り子の衣裳が、楽屋の隅に吊されている。  節子はそれを手に取ったものの、どこで着替えたらいいのかおろおろしている。胸当てと短めのズロースという衣裳だから、無理もない。  中原さんはそんな節子の様子を冷たく見すえて、 「ここで着替えなさい」 「それは無理ですよ、中原さん。僕たちが楽屋を出ていようじゃありませんか」  私が見かねていうと、中原さんは嶮《けわ》しい顔で私を睨んだ。 「舞台に出たら、何百人という視線にさらされるんだ。他の踊り子は、他人《ひと》が見ていても平気で着替えをするよ。そのくらいのことが出来なくて、舞台でこの役はやれないな」 「しかし、節ちゃんだってこんな恰好になるのは初めてだろうし、二人の男が見ていたんじゃ、着替えをしにくいのが当り前ですよ」  私は中原さんにいった。中原さんのいい方は、若い節子に対して残酷な気がしたからである。それに踊り子たちだって、他人が見ていても平気で着替えをしてはいない。そんなことは中原さんだって、知っている筈だった。 「君は黙っていてくれ」  と中原さんは私にいった。 「普段なら、眼の前で着替えしろなどとはいわないよ。だがこの娘《こ》は、これからすぐ早苗君の代役をやらなきゃならないんだ。失敗は許されないんだ。それに、正直にいって節子君は、今まで引っ込み思案の方で、それが役者として欠点になっていた。それは秋月君にだって、わかっていた筈だよ。だから彼女が、やらせてくれといったときには驚いたし、無理だと思った。私はね、この脚本《ほん》を書いた人間として、舞台の上でおたおたされるんなら、この芝居は止めた方がいいと思っている」 「わかりましたわ」  節子は思いつめた顔で、中原さんに向って小さく肯いた。  私や中原さんに対して横を向き、服を脱ぎ始めた。  私がそれを制止《とめ》ようとすると、中原さんが黙って手で制した。  節子は半裸になってその場に屈み込み、胸をかくすようにしながら踊り子の衣裳を身につけている。  むき出しになった肩の辺りが桃色に染っているのは、やはり恥しいのだろう。  踊り子の恰好になって、節子がこちらを向いた時には、私の方がほっとして、小さな溜息をついた。  いつも見なれた踊り子たちと違った、新鮮な感じだった。 「なかなかいいじゃありませんか」  と私は中原さんにいった。  全体に細身で胸のうすいのが気になるが、新鮮な色気がある。  中原さんはニコリともしないで、 「セリフは全部、覚えているといったね?」  と節子にいった。 「はい。覚えています」 「それを試してる時間はないんだ。だから僕は君を信用する。僕の信用を裏切ったら、君を殺すぞ」  中原さんは本当に殺しかねない眼つきをした。節子が蒼い顔で肯くのを待って、 「みんな入ってくれ!」  と中原さんは怒鳴った。      3  十五分おくれて幕が開いた。  これが危険な賭けだということは、私にもわかっていた。節子はセリフを全部覚えているといったが、それが本当かどうかわからなかったし、覚えていたから出来るというものではないし、何よりも客の反応が心配だった。  早苗の奔放な演技と豊かな肉体が発散するエロチシズムが、踊り子が惨殺されるというスリルを伴って客にうけたのである。  節子が果して客の眼に魅力的に映るかどうか、私にもわからなかった。  それに何よりも、ゴロちゃんの出方が心配だった。  ゴロちゃんと早苗の関係はみんなが知っている。早苗が無断で休んでいることを中原さんが非難した時、かみついたのはゴロちゃんだ。  早苗の代役に立った節子を、ゴロちゃんは快く思っていないのではないか。舞台の上で意地悪をするのではないか、それが私は心配だった。  だがゴロちゃんについての私の心配は、杞憂だった。さすがにゴロちゃんも芸人だった。幕が開くと、いつも以上に熱演してくれた。  肝心の節子は確かにセリフを覚えていたが、やはり舞台の上であがってしまい、やたらにセリフをとちった。  私は客が怒り出すのを覚悟した。浅草の客は、芸人に対して厳しいからだ。  私は眼を閉じた。  客が怒り出し、ゴロちゃんや鉄ちゃん、それに節子たちが、舞台の上で立往生するのを見ていられなかったからである。  だが私の耳に聞こえてきたのは拍手だった。いつもの拍手とは違った拍手である。  眼を開けると、満員の客が拍手しながら口々に何かいっている。 「がんばれよ!」 「応援してるぞ!」 「とちっても、気にするな!」  そんな声が聞こえてきた。全て代役の節子に向けられた、励ましの言葉と拍手なのだ。  私は感動した。  浅草の客は眼が肥えていて芸人に厳しいが、初めて大役を貰った若い芸人に対しては、温かく優しい。だからこそ、芸人という芸人が浅草に集って来るのだろう。  幕がおりると、節子が涙で顔をくしゃくしゃにして、私と中原さんのところへ駈け寄って来た。 「よかった。よかった」  と私は彼女の肩を叩いたが、中原さんは、 「客に甘えちゃ駄目だ。浅草の客は、最初は温かく見守ってくれるが、二度目も三度目もセリフをとちるようだと、間違いなく見放すからね」 「はい」  と節子が大きく肯いた時、廊下で、 「誰か来てくれませんか。警察の人が来てるんです」  と呼ぶ声がした。 「僕が行って来ます」  私は中原さんにいって、階下《した》へおりて行った。  象潟署の山路という刑事が、むっとした顔で外に立っていた。 (サキソフォンの寺田が、まだ捕まったままなんだ)  と改めて思いながら、 「今日はなんですか?」  と私はいった。  山路は鳥打帽の庇《ひさし》にちょっと手をやった。 「一緒に来てくれ」 「どこへ、何をしにですか?」 「来ればわかる」 「いいでしょう。行きますよ」  私は山路刑事と一緒に通りへ出た。  通りには、もう一人の刑事が待っていた。  二人の刑事は黙って浅草寺の境内を抜け、隅田公園の方へ歩いて行く。 「どこへ行くんですか?」  と私はもう一度きいてみた。 「君の劇場《こや》に、河村早苗という踊り子がいるね?」  山路刑事がきき返した。 「ええ、いますよ。彼女がどうかしたんですか?」 「今朝、隅田公園で死体で見つかったんだ。君に確認して貰いたいんだ」 「それ、本当ですか?」  私の頭にとっさに浮んだのは、花束についていた脅迫状のことだった。 「本当だよ」 「なぜ死んだんですか? まさか殺されたんじゃないでしょうね?」 「首を絞められて、殺されてるんだ」  もう一人の刑事が怒ったような声でいった。  春には桜が咲き乱れ、花見客で賑わう隅田公園だが、今はひっそりと静まり返っている。  その一角で早苗が殺されていた。  かぶせてあるござをめくると、何ひとつ身につけてない早苗の白い裸身が私の眼に飛び込んで来た。  私を驚かせたのはそれだけではなかった。豊かにふくらんだ乳房が切り裂かれて、真っ赤な血で染っていたことだった。  血はもう乾いていたが、そのため傷口がぱっくりと口をあけて見え、一層、無惨な感じだった。 「河村早苗に間違いないね?」  山路刑事がまたござをかぶせてから、私にきいた。 「ええ、間違いありません」  私は早苗の昨夜の笑顔を思い出した。あんなに明るく元気だったのに、なぜこんなむごたらしい姿になってしまったのだろうか? 「犯人は首を絞めて殺したうえ、裸にしてナイフで乳房を切っている」  と山路がいった。 「誰がこんなひどいことを?」  私がきいたが、それには答えようとせず、 「君が最後に彼女を見たのは、いつだね?」 「昨夜、エノケンさんがうちの芝居を見に来てくれたんで、彼女がそのお礼に、松竹座の楽屋にブランデーを届けたんです。それが最後ですね」 「何時頃だ?」 「十時を過ぎていたことは確かです」 「そのあとはわからないのか?」 「劇場に戻って来る筈が来ないので、昨夜、劇場がはねてから松竹座へ行ったら、もう帰ったといわれました。そこでゴロちゃんが彼女のアパートへ行ったら、帰ってなかった。心配していたんです」 「ゴロちゃん?」 「うちで二枚目をやっている俳優です」 「ああ、あのにやけた男か」  もう一人の刑事が口をゆがめた。 「君たちの劇場で人心を刺戟するような芝居をやっているから、こんな事件が起こるんだ。そうは思わないかね?」  山路刑事は私を睨んでいった。 「思いませんね。最初に京子が殺された時、今度の芝居はやっていなかったんです。だから関係ありませんよ」 「あんなエロ・グロ・ナンセンスな芝居が、国民のためになると思っているのかね? 戦火は今や中国に飛び火している。皇軍は生死をかけて戦っている。この時、銃後の人間があんな芝居にうつつをぬかしていていいと思うのかね?」 「私たちは人々を楽しませたいだけですよ」 「じゃあ、今後もあの芝居を続けるつもりなのか?」 「ええ。続けるつもりでいますよ」  と私はいった。      4  私は戻って、早苗が殺されたことをみんなに話した。  彼女の妹の加代に伝えるのは辛かったが、いわないわけにはいかなかった。私が話さなくても、新聞がこの事件を放っておく筈がなかったからである。  きっと京子が殺された時以上にセンセーショナルに書き立てるに決っていた。そんな新聞記事で知るよりも私が知らせた方が、少しは衝撃が軽くてすむだろうと思ったのだ。  しかし、何といっても相手は十六歳の少女である。私の前では黙ってじっと話を聞いていたが、私が話し終ると、ふいに楽屋から廊下に向って駈け去った。  私は追いかけようとして、やめてしまった。きっと劇場《こや》の裏へ行き、そこでわあわあ声を出して泣くのだろう。それに、制止しても何にもなりはしない。 「警察はどういってるんだ?」  中原さんが私にきいた。 「はっきりとはいわなかったが、犯人は、京子君を殺したのと同じ人間だと見ているみたいですね」 「それじゃあ、寺田君の無実が証明されたようなものだな」  中原さんにいわれて、私もそのことに気がついた。早苗の無惨な死体を見たことで沈みきっていた私の気持が、少しは救われた。 「そうでしたね。早速、友人の弁護士に、警察と交渉して貰いますよ」  と私はいった。  中原さんは、また幕間に全員を楽屋に集めると、 「秋月君が話してくれたように、早苗君が殺されてしまった。これで僕たちの仲間が二人も殺されたことになる。君たちはきっと動揺しているだろう。特に女の人たちはそうだと思う。怖がって当然だ。そこで、いまの芝居をこれからもやっていくかということだ」  と話しかけた。  みんな黙っていた。中原さんは言葉を続けて、 「もうやめようという人だっていると思う。当然だ。早苗君の死を悼んで、休もうという人だっているだろう」  といってから、急に声を大きくして、 「だが僕は続ける。絶対に止めない。それどころか、僕はもっとエロ・グロ・ナンセンスに徹した脚本《ほん》に書きかえるつもりだ。現実に脚本を合せるんだ。早苗君には気の毒だが、新聞がまた猟奇事件と書き立てるだろうから、僕たちの芝居を見に、今まで以上に客が殺到してくる筈だ。うまくいけば、松竹座のエノケン人気にだって勝てるかも知れない。こんなチャンスを、僕は逃がすのは嫌だ。君たちだってそうだと思う。こんなチャンスを見逃すような奴は、芸人じゃない」 「おれはやるよ」  鉄ちゃんが無造作にいった。 「あの──」  と節子が伏せていた眼をあげて、 「中原のお兄さんさえよかったら、私にずっとあの役をやらせて下さい。お願いします」 「ひょっとすると、次は君が犯人に狙われるかも知れないよ。それでもやるかね?」 「はい。怖くなんかありません。このチャンスをどうしても掴みたいんです」 「わかった。ずっとあの役は君にやって貰うよ」  と中原さんは満足そうにいってから、 「ゴロちゃんと加代君は簡単には吹っきれないだろうから、ひとまず帰りたまえ」  と二人を見た。  加代は素直に楽屋を出て行ったが、ゴロちゃんは、 「おれが帰っちゃったら、犯人の役は誰がやるんだ?」  と中原さんに食ってかかった。 「誰かを代役に立てるよ。鉄ちゃんに犯人をやって貰ってもいい」 「おれ以上にうまくやれると思ってるのかい?」 「いや。ゴロちゃんの味を出せる芸人はいやしない。しかし君と早苗君の関係を考えれば、続けてやってくれとはいえないからね」 「おれはやるよ。彼女にはでっかい墓を立ててやる。おれだって浅草の芸人なんだ。自分の女が死んだからって、舞台は放り出せないよ」  ゴロちゃんはきっぱりといった。  私は中原さんがうまくゴロちゃんをのせたなと思ったが、黙っていた。私だって今度の芝居は続けたかったからである。 「ありがとう、ゴロちゃん」  と中原さんは頭を下げてから、 「これで決った。みんな今まで以上に頑張ってくれ。早苗君の弔い合戦だと思ってだ。それに犯人は、きっと僕たちの芝居を見に来る筈だ。気になるだろうからね。うまくいけば犯人を捕えられるんだ」      5  その夜おそく、私の下宿に日下部から連絡があり、明朝早く寺田が釈放されることになったと知らせてくれた。  翌朝、私は偏奇館の連中には知らせずに、日下部と二人で象潟署へ出かけた。  連中が知ったら大挙して象潟署に押しかけ、その前で万歳でも叫びかねなかったからである。  朝から細かい雨が降って、秋になったばかりだというのに寒かった。  私が象潟署の前で待っていると、寺田が日下部に身体を抱えられるようにして出て来た。意外に元気そうなので、私はほっとした。  日下部は笑顔で、「君に渡すぞ」と私にいい、帰って行った。  私は寺田に傘をさしかけた。 「円タクを拾おうか?」 「いや、劇場《こや》まで歩きたいんですよ。半月ぶりに見る浅草ですからね。この眼で確かめながら歩きたいんです」 「じゃあ、歩こう」  私と寺田は、雨の中を歩き出した。 「刑事が早苗ちゃんが殺されたといってましたが、本当ですか?」  寺田がきいた。 「ああ、本当だ。それで君が犯人じゃないと、警察も気がついたんだ。だから急に君を釈放したんだと思うね」 「しかし、山路という刑事は口惜しそうな顔で、シロだから釈放するんじゃないぞといってましたよ」 「そりゃあ、警察にも面子《メンツ》があるからだろう」  と私はいった。  寺田はしばらく黙って歩いていたが、 「浅草は全然、変らないなあ」  と眼を輝かせていった。  それから、ここにそば屋があったのか、あそこに呉服屋があったんだと、見馴れている浅草の町なのに新しい発見でもするみたいに、寺田はいちいち声に出して確認している。  私はおかしくなって、 「半月ぐらいで変る筈がないじゃないか」 「そりゃあそうですが、あの暗い留置場にいて外のことがわからないと、変なことを考えてしまうんですよ。釈放されて外に出ると、浅草がすっかり変ってしまっているんじゃないかと」  それだけ半月間の留置場生活が辛かったということだろうか。 「変っていないんで、安心したかい?」 「ええ。改めて浅草って素晴らしい町だとわかりましたよ。あそこの留置場には、いろんな連中が入って来るんです。いかにも浅草らしく、くりからもんもんのお兄さんとか、すりとかかっぱらいとかね。いわば反社会的な連中ですよ。だが話をしてみると、みんな人なつこくていい男たちなんです。警察は僕のことを危険なアカで、その上、人殺しだと、連中にいって聞かせてましたよ。汚い黴菌だから近寄るなみたいにね。それでも連中は平気で僕に話しかけて来たし、どうすれば留置場でうまく寝られるかも教えてくれたし、今日、僕が出ると決ったら、おめでとうをいってくれましたよ。ああ、それからくりからもんもんのお兄さんから、彼女への伝言も頼まれましたよ。サクランボというカフェの女給だそうです。あとで会って来なきゃいけない」  寺田は嬉しそうにいった。  私は黙っていた。私にも同じような経験がある。私は浅草に来てから、芸人以外に様々な人間と知り合った。この辺りでは、銭湯に行くと一人や二人は、必ず背中に刺青をした怖いお兄さんが入っている。私なんかは仕事の関係で、銭湯に行くのが朝早くか夜おそくになってしまうので、そういう連中に会うことが多いのかも知れない。その他、すりとも親しくなったことがある。とびの親分とか植木職人とかとも。連中はみんな人が好くて親切である。だから寺田が感動したのもわかるのだが、連中は同時に勇ましくて戦争が好きで、今度の戦争に私たちが反対でもしたら怒り出す連中でもある。  寺田はなお続けて、いかに浅草が好きかということを喋り続けた。 「初めてこの町へ来たときは、正直にいって嫌いだったんですよ。インチキを売り物にしている香《や》具|師《し》なんかを見ると、腹が立ちましたよ。短い反物をごまかして売りつけたりするでしょう。よくお上りさんなんかが引っかかっているやつですよ」 「ああ、知ってる。あれは芸術だね。ごまかされまいとしてじっと見てても、物差しで計って見せてるときは、ちゃんと一着分あるように思えるんだ。ところが買って帰って調べると寸足らずでね。僕も一度、やられたことがあるよ」 「町全体も、何となく穢《きたな》いでしょう。穢くて乱雑なんだ。ところが留置場では、嫌いだった筈の浅草がめちゃくちゃになつかしかったんですよ。僕は他の町にもいたことがあるんですが、他の町のことは全然、思い出しませんでしたね」  私たちは偏奇館に着いた。  まだ誰も来ていない。寺田は舞台に立って、なつかしげに客席を見廻している。 「辰ちゃんというすりが捕まって来て教えてくれたんですが、京子ちゃんが殺されたことを芝居にして、すごい人気だそうですね」  と寺田がいった。 「ああ。連日、大入りが続いているよ。おかげで給料も、ちゃんと払って貰えそうだ。それから、君から預かっていたサキソフォンを返すよ」  私は楽屋の棚にのせておいたサキソフォンを取って来て、寺田に渡した。 「ちょっと吹いていいですか?」  寺田がきく。 「いいとも。君のサキソフォンだ」  と私はいった。  寺田が吹き始めると、私は客席におりて聞いた。  寺田は眼を閉じて吹いている。テンポの早いジャズだった。解放された嬉しさを示すように、音が躍っている。  ふいに表で音がして、寺田が演奏をやめてしまった。 「新聞が来たんだ。きっと早苗ちゃんが殺されたことが大きくのってるぞ」  と私は寺田にいった。      6  私は複雑な気持で朝刊を取って来て、寺田と楽屋で広げた。  早苗の死をそっとしておいて欲しいという気持もあったが、同時に、派手にセンセーショナルに扱われていることを期待する気持もあった。いや、もっと正直にいえば、期待の方が大きかったのだ。  やはり早苗のことは、一面の大見出しになっていた。  今年、昭和七年はテロの年だった。  二月九日には「一人一殺」を唱える血盟団が井上準之助前蔵相を暗殺し、三月五日には財閥三井の理事長である団琢磨を殺した。  五月十五日には五・一五事件が発生した。血気にはやる若手将校たちが、犬養首相を白昼、総理大臣官邸で暗殺した。  八月十三日には神武会が斎藤実首相の暗殺未遂事件を起こし、八月三十一日には若槻礼次郎民政党総裁が狙われた。  そんな重苦しい時代だからこそ新聞は、今度の殺人事件を大々的にセンセーショナルに取りあげたのだろう。  戦争と不況とテロの、出口のない時代に、殺人事件が救いになるのだろうか。 〈猟奇殺人! またも偏奇館の踊り子殺さる! 全裸にされ乳房を刺されて。何者が何故?〉  そんな大文字が紙面に躍っている。  どこから手に入れたのか、早苗が色っぽく笑っている大きな写真ものっていた。  人々はこの記事を見て驚き、興奮し、しばしの間、不況、テロ、戦争という重苦しい現実を忘れることが出来るだろう。 「これで、ますますうちの劇場《こや》が満員になるよ」  と私は寺田にいった。 「危険はありませんか?」  寺田は心配そうにきいた。 「危険って、何だい?」 「また踊り子の誰かが殺されるんじゃないかと、それが心配ですが」 「実は警察にはいわなかったんだが、早苗ちゃんが殺される前に、うちの楽屋に脅迫状が来ていたんだ。また誰かが殺されるというね。いたずらかどうかわからなかったが、その予告どおり、早苗ちゃんが殺されてしまったんだ。その犯人は捕まっていないから、危険はまだ残っていると思う。しかしそんなものに尻込みしていたんでは、大入りは続けられないよ。みんなこれからも、同じ芝居をやって行く気でいる。中原さんなんかは、もっと刺戟的な脚本《ほん》に書きかえたいといってるんだ」 「加代ちゃんはどうですか?」 「彼女だけは、早苗ちゃんの妹だからね。昨日一応、家に帰したんだ。しばらく休むか、それとも踊りが踊りたくて出てくるかはわからない」 「大入りが続きますか?」 「これだけ新聞が大きく扱ってくれれば、大入り間違いなしさ。こちらが頼まないのに、宣伝してくれてるわけだからね」  私と寺田がそんなことを喋っている間に、一人、二人と芸人たちがやって来た。  みんな寺田を見ると、顔をにこにこさせて、「おめでとう」といった。 「今夜、終ったら歓迎会をやろう」 「ありがとう」  と寺田は嬉しそうに頭を下げていたが、急にまた新聞に眼を落とした。 「どうしたんだ?」  私がきくと寺田は、「ここを見て下さい」と指さした。 〈エロ女給逮捕さる〉  という見出しが見えた。 「これがどうしたんだい?」 「記事を読んでみて下さい」  寺田がいうので、私も眼を通してみた。  千束町のカフェ「サクランボ」で、三人の女給が客と身体を密着させて踊り、客の劣情をかき立てたとして逮捕されたという記事だった。 「エロ女給」という大げさな見出しにしては、内容はたいしたことはなかった。 「そういえば、君が伝言を頼まれた相手はこの店の女給だったね?」 「そうです。それで急に心配になって来たんですが」 「この事件はやはり象潟署だろう。もしその女が捕まっていれば、昨日、象潟署へ連行されて、留置されている彼女の男と会っているよ。だから君が頼まれた女給は、捕まっていないんじゃないかな」  私がいうと寺田はほっとした顔で、「そうですね」と肯いた。  鉄ちゃんやゴロちゃんが、新聞を持って現れた。  楽屋では、朝日とか読売とか東京日日新聞をずらりと並べて、 「ひょっとすると、おれたちの芝居よりエロなんじゃねえか。この書き方はさ」  と鉄ちゃんが笑ったり、 「これでますます、お客が集って来るぜ」 「来てくれなきゃ困るよ」  そんな会話が飛びかった。  どの新聞も事件を喜んでいるように見えた。  記事をよく見れば、「この非常時下、なげかわしい事件である」とか、「一日も早く、犯人が逮捕されることを祈る」ともっともらしい言葉が並んではいるのだが、煽情的な見出しを見る限りは、新聞記者もこんどの事件を内心、歓迎しているとしか思えなかった。  彼等だって毎日、毎日、テロの記事とか、満蒙は生命線だとか、非常時下といった記事ばかり書くのにあきあきしているに決っている。その欲求不満を解消してくれたのが、今度の事件だったに違いない。だから事件を書く言葉の生き生きとしていること。  おやじさんも、おかげで大入り間違いなしという顔でにこにこしている。私はおやじさんが格別、冷たい人間とは思わない。好人物のおやじさんは、早苗の死にショックを受けながら、同時にそれが大入りにつながることを喜んでいるだけなのだ。  私だって同じである。殺された京子や早苗は可哀そうだと思う。そう思う一方で、これで当分、客足は途絶えないだろうと、安心してもいるのである。  中原さんは少しおくれてやって来た。 「新しい脚本を書いて来たから、みんなで読んでみてくれ」  中原さんは、自分でガリ版に切り、謄写版で刷って来た脚本を五、六冊、みんなに投げてから、一冊を私に渡して、 「すぐ警視庁保安課に渡して来てくれないか。早く許可を得て、芝居をもっとリアルに持って行きたいんだ」  といった。  私がぱらぱらめくっていると、中原さんはみんなに向って、 「僕はね、もっとお客を喜ばせたいんだ。ゴロちゃん、犯人は今まで踊り子の首を絞めて殺すだけだったが、今度は新しい事件を参考にして、殺しておいてから女を裸にして、乳房をナイフで刺す。どうやってリアルさを出すか研究してくれ。それから節子君」  と視線を移して、 「早苗君は全裸にされて、乳房をナイフで切り裂かれていた。文字通り猟奇殺人だよ。とはいっても、君に裸になって貰うわけにはいかない。だから肉じゅばんを着てくれ」 「はい」  節子が緊張した顔で肯いているのを見てから、脚本を二部持って、私は警視庁へ急いだ。  保安課の検閲係の金田という検閲官が応対した。  珍しく、度の強い眼鏡をかけたインテリ風の男だった。  金田は私の持っていった脚本を、いらいらするような遅いスピードで読んでいたが、脚本を置いて煙草に火をつけた。 「感心しないねえ」  金田は私の顔に向けて、煙草の煙を吐き出した。 「どこがですか?」 「この書きかえで、あの芝居は客の劣情を更に刺戟するだけで、何の教訓も与えないじゃないか」 「どういうのがいいわけですか?」  私が癪に触ってきき返すと、金田は、 「古いものといえば、『忠臣蔵』なんかいいな。新しいものなら、『肉弾三勇士』を演《や》ってみたらどうなんだ?」 「それもいいのですが、この芝居もお役に立つと信じています」 「どこが、何の役に立つんだ?」 「早苗が殺される前に、犯人からと思われる脅迫状が楽屋に届いていたんです」  私は例の手紙を金田に渡した。  金田はじっと睨むような眼で読み下していたが、 「これが犯人からのものと断定していいのかな?」 「他に考えられません。花束と一緒に、いつの間にか楽屋へ置かれていたんです。金田さん、それを見てもわかるように、犯人はうちの芝居に対して、異常な関心を持っています。そこでもっとリアルに舞台で事件を再現して見せれば、犯人は必ず見にやって来ますから、逮捕するのも簡単だと思います。どうですか?」  私は相手の顔色をうかがった。  踊り子が続けて二人も殺され、新聞がセンセーショナルに扱った。浅草だけではない。日本中がこの事件を見守り、話題にしているだろう。美しい踊り子が二人も、それも猟奇的に殺されたのだから絶好の話題だ。この事件を話題にしている間だけは、誰も彼も、頭の上に重くのしかかっている戦争の足音も、不況の呻きも忘れられるのだ。  警察には面子《メンツ》がある。  騒ぎが大きくなればなるほど、警察は犯人逮捕に必死になるだろう。  だからうまく持ち込めば、検閲は通るだろうという確信があった。 「ちょっと待ってくれ」  金田は急に立ち上ると、奥へ消えた。  彼がどこへ行ったか、私にはすぐわかった。事件を担当している象潟署に、連絡しに行ったのだろう。  一時間近くも待たされた。  やっと戻って来た金田は妙に機嫌よく、 「どうも待たせて悪かったな」  と珍しく私に頭を下げた。  私が黙っていると金田は、 「さっきの君の言葉は、信用していいんだろうね?」 「何のことですか?」 「犯人が、必ず君たちの芝居を見に来るということだよ」 「それは間違いありません」 「犯人に気がついたら、すぐ警察に知らせてくれるね?」 「もちろんです」 「よし。その約束を守るという条件で、この脚本は許可することにしよう」 「ありがとうございます」  私は予想どおりになったことにほっとしながら、礼をいった。      7  私は円タクを飛ばして戻ることにした。一刻も早く、中原さんに知らせたかったからである。車の中で私は、「やったぞ!」と小さく叫んでいた。検閲は意地悪く何日も待たされるのが常識だったからである。それをたった二時間で許可をとったのだ。  私が偏奇館に戻ったとき、第一回目の公演が終ろうとしていた。  中原さんが私を待っていた。 「どうだった?」  と中原さんがきいた。 「何日も待たされそうか?」 「一カ月。いや、冗談ですよ。許可がおりました」 「本当かね?」  中原さんは信じられないという顔で私を見ている。 「中原さんはなるべく早く許可をとりたかったんでしょう?」 「ああ。だがすぐには無理だと思っていた。だから勝手に練習して公演するつもりでいたんだよ。よく頭のかたい係官が許可をくれたね?」 「事実を取り入れた芝居をすれば必ず犯人が見に来るから、捕えやすいといったんです。警察も面子をかけて今度の事件を解決したがっていますからね」 「なるほどね」  と中原さんは肯いてから、 「君は本当に、犯人が芝居を見に来ると思っているのかね?」 「思っています。現に脅迫状を楽屋に置いて行きましたからね」 「とにかくよかったよ。さっそく新しい脚本《ほん》で練習だ。客はもっと押しかけて来るぞ」  この日、最終回が終ったあと、新しい脚本によっての稽古が行われた。  売り物は何といっても、犯人が首を絞めて踊り子を殺したあと裸にして、乳房をナイフで突き刺すところだった。  もちろん舞台で裸を見せることなど許されないから、節子は肉じゅばんを着ている。  稚《わか》い節子の身体が、肉じゅばんを着たためにかえってエロチックに見えた。  見守っている楽隊の連中や、漫才のコンビとして何となく様になって来た弁ちゃん、定さんたちが、ふうッと溜息をついたほどだった。  私は成功を確信した。 「これ、前よりうけますよ」  と中原さんにいった。 「うけてくれなきゃ困るんだ。僕はね、連日、この劇場《こや》を満員にして、エノケンの出ている松竹座や常盤座を抜いてやりたいんだよ」  中原さんは眼をきらきらさせていった。その異常ともいえる気迫に押されて私が黙っていると、中原さんは私の肩をつかんで、 「君だってそう思うだろう、え?」  と同意を求めてきた。 「ええ。そう思います」  私が肯くと、中原さんはなぜかほっとした顔になって、 「やるぞ。もっともっと、エロ・グロ・ナンセンスに徹してやるぞ」  中原さんのその気迫に押されながら、私は心のどこかで、中原さんは無理矢理、自分にそういい聞かせているのではないかという気がしていた。少しばかり、中原さんの張り切りぶりが異常だったからである。  考えてみれば今の日本では、誰も彼もが異常なのかも知れなかった。  戦争が異常だというのに、軍部はひたすら戦争をやりたがっている。テロが異常なのに、今年はテロばかりだ。しかも、不況に押しひしがれた民衆は拍手を送りがちだ。  先日、突然現れた友人の島崎は、民衆に革命を与えたいと念じている。中原さんはエロ・グロ・ナンセンスを与えたいと思っている。軍部は戦争か。  今の民衆は、いったい何を望んでいるのだろうか?  私にはよくわからない。うちの劇場が満員になったことを考えれば、中原さんのいうように、エロと刺戟を欲しがっているのかも知れない。  戦争なんか真っ平だと思っていると思い込みたい。だがその同じ人たちが、シナ兵を何人殺したといった新聞記事に拍手喝采しているのだ。 「秋月君」  急に中原さんに呼ばれて、私はわれに返った。 「どうしたんだ?」  と中原さんが不審気に、私の顔をのぞき込んでいる。 「いや、何でもありません。今度の筋書きは当りますよ。客はいつも、より強い刺戟を求めていますからね」  私はあわてていった。 「そうなんだ、秋月君。人間はいつだって現状じゃ満足しないんだ。だから僕は脚本を書き直した。それで、稽古をやってみたんだが、稽古の途中で欠点があることに気がついた。君だって気付いただろう?」 「節子ちゃんは、体当りでよくやっていると思いますが?」 「彼女はよくやってくれてるよ。節子君については客は満足すると思うよ」 「どこが駄目なんですか?」 「客は本当の踊り子殺人事件とダブらせて、芝居を見にくるんだ。現実の事件では二人殺されている。客の中から、もう一人はどうしたんだという不平が出る心配がある」 「それはわかりますが、節子ちゃん以外にもう一人、ああいう恰好で殺される女優がいませんよ」 「だが二人、必要なんだ。それにもう一人の方は、別に芝居は必要ない。踊り子だということがわかればいい。ただ節子君と同じように、猟奇的に殺される必要があるがね」 「同じように肉じゅばんを着せるんですか?」 「そうだ。もう一人の踊り子は、自分の下宿に帰って服を脱いでいるところを殺される。セリフは要らない。犯人は首を絞めて殺したあと、その踊り子を裸にして、担いで川に捨てに行く。それがメインの節子君殺しの序曲になるんだ。これなら客は本当に満足するし、現実の事件とダブらせて見てくれる筈だ」 「その役をやる娘がいますか?」 「加代君はどうだろうか?」 「彼女はまだ子供ですよ」 「しかし根性がある。姉さんが死んだのに出て来たし、もう大人だ」 「でも十六ですよ」 「君は彼女の裸を見たんじゃないのか? 大人の身体の線をしていたかね?」 「僕はそんな関係じゃありませんよ」 「しかし、彼女は君に惚れているようじゃないか」 「そんなことはありません」 「君も加代君が好きなのかと思ったんだが?」 「違います。可愛い娘だとは思いますが、まだ子供だと思っていますから」 「それならいいんだ。殺される役だから、君の了解を得た方がいいと思ってね」 「僕は関係ありませんよ。しかし彼女はまだ子供ですから──」  そういう役は痛々しいといいかけて、私はその言葉を呑み込んでしまった。  加代がじっと私を睨んでいたからである。彼女はやる気なのだ。 「じゃあ加代君、君も肉じゅばんを着てみてくれないか」  中原さんが加代にいった。      8  新しい脚本《ほん》は前にも増して客を呼んだ。  舞台を薄暗くしてクライマックスの殺人へ持っていくので、客は一瞬、節子や加代が本当の裸になったと錯覚して息を呑む。  次の瞬間、犯人役のゴロちゃんが、節子の胸にナイフを突き刺して切りさいなむ。仕掛けておいた血のりが噴き出して、若い女の客は予想どおり甲高い悲鳴をあげるのだ。  雨が降るとどうしても六区に来る客の数は減るのだが、偏奇館だけは別だった。 〈雨にも勝ったエロ・グロ・ナンセンス!〉  と書いた新聞もあった。  漫才の弁ちゃんが「秋月さん」と、小声で呼んだ。  客席からは満員の客のどよめきが聞こえている。 「またこんなものが見つかったんです」  弁ちゃんは私に封筒を見せた。 「弁ちゃんへのラブレターかい?」 「よして下さいよ。例の脅迫状です」 「また来たのか」  私は引ったくるようにして、中の便箋を抜き出した。安物の便箋には、一通目とおなじ下手くそな字が並んでいる。 〈前の警告はまだ生きているぞ。みだらを売り物にする踊り子は、殺してやる〉  私はすぐそれを中原さんに見せた。  中原さんはひと眼見て、 「またか」 「どうしますか? みんなに見せたら、怖がる者も出て来ますよ。特に、殺され役になっている節子ちゃんと加代ちゃんがびくつきますよ」 「そうだな。彼女たちには、これは見せない方がいいな。本当は公けにした方が宣伝になるんだが」 「警察にはどうしますか?」 「警察になんか、知らせる必要はないだろう」 「そうもいかないんです。警察はこの芝居を不快だと見ていますが、僕が、犯人を捕えるには役に立つ筈だといって、説得した経過があるんです。ですからこの手紙をかくしていると、あとで警察に嫌がらせをされると思いますよ。それでなくても警察は、犯人を逮捕できずにいらだっていますからね」 「取引きというわけか?」 「まあ、取引きといえば取引きです。肉じゅばんの演技を見逃してくれているのも、それだと思いますね」 「じゃあ、君がそれを象潟署へ持って行ってくれ」 「わかりました」  と私は肯いてから、 「鉄ちゃんやゴロちゃんには、この手紙のことを話しておいた方がいいんじゃないですか。守って貰わなきゃいけませんからね」 「それは僕が話しておくよ」  中原さんがいった。  私は自転車で象潟署へ行き、山路刑事に脅迫状を見せた。 「また脅迫状が来たので、持って来ましたよ」  と私がいうと、山路は受け取った手紙をじっと眺めていた。 「実は、偏奇館の芝居はひど過ぎる、わが国古来の醇風美俗に反するのですぐさま取締れ、という手紙が象潟署に来てるんだ」  山路が脅すようにいった。 「それは何通ですか?」  と私はきいた。 「数通だ」  山路がむっとした顔でいった。そんな手紙はせいぜい一通だろう。いや、一通も来ていないのかも知れない。 「うちの劇場《こや》には毎日、数百人の客が来て、あの芝居を楽しんでくれています」 「何をいいたいんだ?」 「いえ。ただ数字を比べてみただけです」  私がいうと、山路は一瞬、すごい眼で睨んだが、すぐ気を取り直した顔で、 「今度、殺されるヒロインをやっているのは木下節子だったな?」 「そうです」 「住所は?」 「千束町の駄菓子屋の二階に下宿しています」  私はその家への道順を描いた。 「男はいるのか?」 「まだいないと思いますね」 「本当か。芸人の女という奴は、すぐ男と寝るという話だからな」  山路はニヤニヤ笑った。何でもわかっているぞという顔付きだが、何もわかってはいないのだ。 「どこの世界だって、そういう女はいるでしょう」  と私はいった。 「おれに説教しようってのか?」  山路がすごんだ。私はあわてて、 「そんな気はありませんよ。ただあの娘《こ》には、特別の男はいないということをいいたいだけのことです」 「ふうん」  と山路は鼻を鳴らしてから、 「詰らないことを隠したりしてると、捜査の邪魔になるぞ」 「どんなことですか?」 「まさかお前さんが、木下節子に惚れてるなんてことはないだろうな?」  山路にきかれて私は、「そんなことは──」と首を振ったが、ありませんという言葉を呑み込んでしまった。  節子に惚れているという明確な意識はない。だが今、突然、山路にいわれてはっとしたのだ。  山路は私の表情に気がつかなかったのか、それともわざと無視したのか、 「まあいい。寺田はどうしている?」  と話を変えた。 「元気ですよ。もう楽士として働いています」 「いっておくが、おれたちはまだ、あいつを無実とは思っていないからな」 「しかし刑事さん、彼が留置されている間に、第二の殺人が起きたんですよ」 「犯人が二人だということだって、十分に考えられる」 「無茶ですよ」 「無茶かどうかはすぐわかるよ。劇場へ帰っているんだ」  山路は突き放すようにいった。  浅草寺の境内を抜けて行く。  いつも浮浪者が何人かいるのだが、ここに来てその数が増えている。隅田公園でも、大きな土管の中にむしろを敷いて住みついている。  浅草に何人くらいの浮浪者がいるのだろうか? 警察はいつも少なめに発表しているが、その二、三倍はいるだろう。何百人という数だ。  帝都の恥だというので、警察は時々、浮浪者狩りをやって養育院に放り込むが、すぐ逃げ出して浅草へ戻ってしまうという。  食物の心配もなく寝床も用意されている養育院をなぜ逃げ出すのか、警察や政府のお偉方にはわからないらしいが、浮浪者たちは自由が欲しいのだ。  それに、ここにいる浮浪者たちは浅草が好きなのだ。私が浅草を好きなように、彼等も浅草が好きである。それに浅草の人たちも、彼等に優しい。飲食店の人たちは残り物をごみ箱に捨てずに、食べやすいようにとっておいて彼等に渡し、彼等もその恩返しに店の前を掃除していく。  浅草では、浮浪者たちも自由で元気だ。瓢箪池近くの藤棚の下では、中年の浮浪者が演説をしていた。よく見る顔だった。名前は誰も知らないが、なぜかスタ公と呼ばれる男である。 「大臣だって乞食だって、やることは同じだよ。食って寝て、女とあれするだけの話だ。その点、おれと総理大臣は似たようなもんだ。だから諸君、偉そうなことをいう奴に感心しちゃいかん。最近、アインシュタインの相対性理論なるものを有難がっているやからが多いが、あんなものはおれは子供の時から知っておる。めしを食わないと腹がへる。つまりこれが相対性理論である」 「ひやひや!」  見物人の間から拍手が起きた。  私が通りかかると、スタ公がふいに、 「そこのお兄さん」  と声をかけて来た。私が立ち止まると、 「煙草を持ってないかね? この見物人たちはみな哀れなプロレタリアで、煙草を持っておらんのだ」 「持ってるよ」  私はポケットからエア・シップを取り出して、スタ公に向って投げてやった。  スタ公はひょいとそれを受け取って、一本口にくわえて火をつけた。 「兄さんの名前は何というのかね?」 「偏奇館の秋月だ。その煙草は全部、君にやるよ」 「有難う。いつかこのお礼をさせて貰うよ」 「いいよ、そんなこと」 「いや、君、おれは信義を重んじる人間だ」  とスタ公は胸を張っていい、また見物人に向って、 「さて諸君、人間は何のために生きるか。諸君も飲んだり食ったりばかりせず、時々はかかる問題を抱えて、瞑想にふけらなくちゃいかん」 「おれは女を抱えてる時が一番楽しいよ」  見物人が茶化す。  どちらも楽しそうだ。浅草の浮浪者たちは芸人が多い。このスタ公の他に、三味線弾きもいればアコーデオン弾きもいる。わけのわからない歌を一日中唄っている奴もいる。  私はスタ公に別れて、偏奇館に戻った。  浅草の人間はみんないい奴ばかりだ。京子と早苗を殺した犯人を除いては。      9  翌日から山路刑事たちが、偏奇館の内と外をうろうろしはじめた。  ルパシカを着てベレー帽をかぶり芸術家に変装したり、首に汚れたタオルを巻きつけ、地下足袋をはいた人夫風になったりしてはいるのだが、眼つきはどう見ても刑事のそれだった。  あれでうまく犯人を逮捕できるのだろうか? 簡単に犯人に見破られてしまうのではないか。  私はだから、鉄ちゃんやゴロちゃんたちが守ってくれることに期待しようと思った。  特に鉄ちゃんは身軽だし度胸もある。ヤクザと張り合って、一歩も引かなかったという武勇伝の持主でもある。二枚目のゴロちゃんは「おれは女に強いが男に弱い」と、日頃、冗談めかしていっていて腕力もなさそうだが、それでも、仲間が危いとなれば夢中になって守るだろう。  鉄ちゃんやゴロちゃんが、必ずしも楽士連中と仲が良くないことは、私も知っている。  だが刑事が踏み込んでくれば、同じ浅草の芸人同士として味方になって戦うのだ。  そんなところが、私を浅草から離れさせずにいる原因の一つでもあった。  だからみんな、節子を守ろうと必死になっている。その気持が、痛いほど私に伝わってくるのである。  狭い浅草の興行街である。また踊り子役の娘が犯人に狙われているらしいという噂は広まっていき、それはまた六区に押しかけて来る観客にも伝わっていった。  おかげで私たちの心配とは逆に、劇場《こや》は前にも増して大入りになった。連日、立見が出て、他の劇場を口惜しがらせた。  二日、三日と、何事もなく過ぎた。  山路刑事は私を劇場の外に呼び出すと、疑い深そうな眼で、 「あの手紙は、君たちが書いたんじゃあるまいね?」  ときいた。私はびっくりして、 「あの脅迫状は、犯人が置いて行ったものですよ」 「君たち文芸部の連中が、創ったものじゃないのか?」 「なぜそんなことをする必要があるんですか?」 「そりゃあ、宣伝のためさ」 「それ、どういうことですか?」 「眼をむきなさんな。六区に噂が流れているのは、君だって知ってるだろう。殺人犯がまた偏奇館の踊り子役の娘を狙っているという噂だよ。おかげで連日、大入り満員じゃないか」 「こういうことはいくら隠しても、ひとりでに噂として広まってしまうんじゃありませんか?」  私がいうと、山路は眉をひそめて、 「偏奇館の人間が、わざと噂を流しているという話も聞いたがね」 「そんなのは嘘に決っていますよ」 「芸人は信用が置けんからな」  と山路刑事は馬鹿にしたようないい方をした。  劇場がはねると、誰かが節子を家まで送って行った。  節子の家は小さな駄菓子屋の二階である。階下の駄菓子屋は、六十過ぎの婆さんがひとりでやっている。正確にいえば猫が一匹いるが、飼主同様にもう年寄りの猫で、いざとなったら何の役にも立ちそうにない。  山路刑事たちは最初の一日こそ、夜になると近くに若い刑事を見張りに立ててくれていたが、二日目からやめてしまった。  そのことについて、私は中原さんに山路刑事の言葉を伝えておいた。  中原さんはただ苦笑しただけだった。  ゴロちゃんなどは、「警察なんか最初から当てにしちゃいないよ。おれたちで守ってやろうじゃないか」と胸を張った。  しかし実際問題となると、いつも節子にくっついているわけにはいかなかった。一日か二日なら交替で彼女の下宿を徹夜で見張ることも出来たが、三日、四日となると全員が疲れて来た。彼等も、舞台を勤めてからの仕事になるからである。  脅迫状が見つかってから一週間がたった。  張り切っていたゴロちゃんたちも、少しずつだれて来るのが私にはわかった。疲れてもきたのだ。  あの脅迫状は、今度に限っていえば単なる脅しではないかと、みんなが思い始めた。  節子自身、さして不安を感じていないように見えた。  抜擢され、自分が主役の舞台に夢中で、他のことは考えられないのかも知れない。  その日も客席は満員だった。ただ、入り切れない観客が外にあふれて群がっているといった、一週間前のようなことはなくなっていた。  観客はあきやすい。また、絶えずより強い刺戟を求めているということだろう。  現実の二度の殺人事件がオーバーラップして、私たちの舞台は成功した。中原さんの考えで、節子と加代に肉じゅばんを着せ、裸の乳房に犯人がナイフを突き立てるように見せたことも、成功の原因だったと思う。  観客にとって刺戟の強い舞台だった筈だし、だからこそ客が殺到したのだろうが、その刺戟も一週間たつとうすれてくるのだろうか?  私たちもぜいたくになっていた。長い行列こそ出来なくなったといっても、連日、満員が続いている。いつもがらがらの客席をのぞいて溜息をついていた頃のことを思えば、天国みたいなものなのだが、鉄ちゃんにしてもゴロちゃんにしても、チケット売場の前に長い行列が出来なくなったといっては、文句をいうのである。 「こうなると、もう一度、殺人事件でも起きてくれると、わあっと客が集るんじゃないかねえ」  と不謹慎な言葉を口にしたりしている。  もちろんそれは、言葉だけとわかっているが、私は不吉なものを感じないわけにはいかなかった。  観客は、より強い刺戟を求めて六区にやってくる。観客は何かに酔いたいのだ。誰だって、今の世の中に重苦しいものを感じている筈である。個人の力ではどうにもならない。世の中の流れみたいなものである。  硝煙の匂いには、誰だって気付いている。しかも、不景気と失業が実生活を圧迫している。景気回復や失業対策に予算を回すべきなのに、増えるのは軍事予算だけである。  軍人たちは、軍隊を強大にして戦争を起こせば、全てが解決すると思っている。その点は、軍の長老だって若手の将校たちだって同じなのだ。五・一五で蹶起《けつき》した若手の将校たちを賛美する人たちがいるが、私は反対だ。  彼等は疲弊した農民や国民を救い、軍閥と財閥を倒すために立ち上ったという。だが国民を疲弊させているのは膨大な軍事費である。今や陸海軍の軍事費は全予算の五十パーセントに近い。  これでは国民は疲弊する筈だ。農家の娘たちが売られても、それを助けることは出来ない。  若手の将校たちには、その理屈がわかっていないのだ。子供にだってわかる理屈が。  彼等はむしろ、彼等が倒そうとした老人たち以上に、強大な軍隊を要求している。  こんなくりごとをいっても仕方がないのだ。いずれにしろ、軍隊はますます肥大化し、それだけ国民は疲弊し、不景気は続くだろう。  戦艦一隻造るのをやめてその金を回せば、売られる娘たちを助けることが出来る筈だが、政治家も軍人も、売られる娘が二倍になっても、軍艦はどんどん建造していくだろう。  そして、戦争だ。  誰だって、その予感は感じているのだ。  だからその不安から逃れようとして、刺戟を求めて六区にやってくる。 (それなら、みんなが求める刺戟を与えてやるのが、六区で働くわれわれの仕事ではないのか?)      10  その夜、劇場《こや》がはねてから節子を家まで送るのは、私の番になっていた。  化粧を落とした節子の素顔はひどく幼く見えて、改めて私は、彼女を守ってやらなければと思った。  劇場を出てから、合羽橋通りを西に向って歩いて行く。  どぜうの飯田屋やふぐの中屋のある通りだが、もうどちらも店を閉めてしまっている。  その代りのように、屋台の夜鳴きそばが出ていた。 「どう? 食べていかないか」  私がいうと、節子は「うん」と肯いた。  私たちはシナそばを食べた。  これから吉原へ繰り込むらしい男の二人連れが、酔いの廻った声でよくわからない歌を唄いながら、私たちの背後《うしろ》を通り過ぎて行った。 「秋月のお兄さんに、一度、相談したいことがあるの」  ふいに箸を止めて、節子がいった。  私が「え?」と、思わず声をあげてしまったのは、前に京子に同じことをいわれたのを、とっさに思い出したからである。  彼女の相談したかったことがいったい何だったのか、わからないうちに京子は殺されてしまった。  私は不吉な思いが胸をよぎるのを感じながら、 「何だい? 僕で相談にのれることなら、何でも聞いてあげるよ」  といった。  節子は多分、私が「え?」と、大きな声で聞き返してしまったせいだろう、 「いつか相談にのって貰いますわ」  といった。 「何か気になるな。どんなことかだけでも、いってごらん」  私は節子の顔をのぞき込んだ。  彼女の顔が赧くなったようだった。 (ハトヤで京子と話をした時も、彼女は顔を赧くしたっけ)  と私は思い、 「節ちゃんは、誰かに恋をしてるのかな?」 「そうじゃありません」  節子は妙に甲高い声を出した。 「じゃあ、誰かに好きだといわれて、困ってるのかな?」  と私はきき直した。  相手は偏奇館の芸人かも知れないし、お客の一人かも知れない。  偏奇館の舞台が客を呼ぶようになってから、女優も踊り子も、客から花束や小さなプレゼントを貰うことが多くなった。中には恋文を貰うことだってあるだろうと思う。  よほどまじめな恋文でもない限り無視してしまうものだが、節子が相談したいといっている以上、かなり心を動かされているのだろうか?  節子が黙っているので私は、 「ファンというのは、君の歓心を得ようとして君の喜びそうなことを書いてくるものだから、用心した方がいいね」  と注意した。 「そんなんじゃありません」  節子は激しく首を振った。その勢いに私は驚いて、それ以上きくことが出来なかった。  シナそばを食べたあと、彼女が住んでいる駄菓子屋まで送って別れた。  路地に立って二階の彼女の部屋に明りがつくのを見届けてから、私は引き返した。  別れる時に私は、夜中に外に出たりするなと注意した。 「誰が呼びに来ても、外に出るんじゃないよ」  と私がいうと、節子は急にいたずらっぽい眼をして、 「秋月のお兄さんでも、駄目なんですか?」 「僕は、夜おそく君を誘い出したりはしないさ」  と私はいった。  節子の笑顔に安心して、私は自分の家に帰り、残っていたウイスキーを飲んで眠ってしまった。  翌日、私は鉄ちゃんの声で叩き起こされた。  鉄ちゃんが下から怒鳴っているのだ。  私は眠い眼をこすりながら窓を開けて、路地を見下ろした。  鉄ちゃんが何か大声で叫んでいるのだが、よく聞こえない。 「何だい? 戦争でも始まったのか?」  と私は下に向って怒鳴り返したが、こちらの声もよく聞こえないらしく、相変らず大げさに手を振って、何かわめいている。 「わかったよ。すぐおりて行く」  と私はいった。  着替えて外へ出ると、鉄ちゃんは蒼い顔で、 「大変だよ。節子が殺されたんだ」  と声をふるわせた。 「どこで?」  多分、私の顔色も変っていただろう。 「今朝早く、上野公園の茂みの中で見つかったそうだ。警察が知らせて来て、今、おやじさんと中原さんが行ってるよ」 「なぜ上野公園なんかで──」  私にはわけがわからなかった。昨夜、節子を送って行って、誰が来ても外に出るなと注意しておいたのに、なぜ上野公園なんかに行ったのか。 「そんなことはおれにもわからないよ」  鉄ちゃんは声を荒らげて見せた。  とにかく劇場に行くことにした。 「警察はどういってるの?」  歩きながら私は鉄ちゃんにきいた。 「犯人を逮捕したといってるよ」 「犯人?」 「それが、サキソフォンの寺田を捕えたんだ」 「まさか──」  私は絶句してしまった。  なぜ寺田がまた逮捕されたのか、私にはわからなかった。 「そいつはおかしいじゃないか。早苗が殺された時、彼は警察に留置されていたんだよ」 「おれもそう思うんだが、あの山路刑事は今朝早く、下宿先で寺田を逮捕したらしいよ」 「彼は無実だよ」 「そうだといいんだがね」 「鉄ちゃん、しっかりしてくれよ。寺田は犯人じゃないよ。彼は節子を殺したって、何のトクもないじゃないか。それに彼は、どちらかといえば暗い性格だが、人を殺したりはしないよ」 「だが警察は、自信満々らしいぜ」  劇場に着くと、まだ八時を過ぎたばかりだったが、ほとんど全員が集っていた。  節子が殺されたことと、その犯人としてサキソフォンの寺田が捕まったことはわかっても、くわしいことは全くわからなかった。  九時半頃になって、おやじさんと中原さんが帰って来た。  疲れ切った顔のおやじさんは、とにかく今日は休館にしたいといい、その札を表に出させた。 「寺田君が捕まったというのは、本当なんですか?」  私は中原さんにきいた。 「ああ、そうだ。彼は捕まったよ」  中原さんが意外に冷淡な口調でいったのに私は驚いて、 「しかし彼は第二の事件の時、留置場にいたんですよ」 「わかってるよ」 「それならなぜ、警察は逮捕したんです?」 「山路刑事たちは、寺田を監視してたんだ」 「何ですって?」 「山路刑事が自慢げにいってたよ。今度また踊り子が殺されるとすれば、犯人は寺田だと思って監視していたというのさ。そうしたら寺田は、昨夜おそく下宿を出て、上野公園へ行ったというんだ。公園の暗がりで見失ったが、そのあとで節子を殺したんだろうといっている」 「寺田が本当に昨夜おそく、上野公園へ行ったんですか?」 「どうも本当らしい」 「なぜ行ったんですかね?」 「本人は、急に考えごとがしたくなって、上野公園まで歩いてみたといってるらしいが、警察がそんな話を信用すると思うかい?」 「しかし、警察もひどいですね。本来なら節子の身辺を護衛すべきなのに、寺田の監視をしていたなんてね」  私が文句をいうと中原さんは、 「ちょっとこっちへ来てくれ」  と私を楽屋の外に連れ出した。  二人だけになると、中原さんは声をひそめて、 「昨夜、彼女を家まで送ったのは君だったな?」 「ええ」 「きちんと家まで送ったのか?」 「ええ。家に入るのを確かめてから帰りましたよ」 「彼女は何かいってなかったかい? 誰かと外で会う約束があるとか」 「いえ。ぜんぜん聞いていませんよ。僕は最後に、誰が誘いに来ても、夜おそく外に出るなといったんですよ」 「彼女はわかったといってたかい?」 「ええ」 「それなのに、なぜ上野公園なんかに出かけたんだろう?」 「ひょっとすると、家の近くで殺されて、犯人が死体を上野公園まで運んで捨てたのかも知れませんよ」  私がいうと、中原さんは「そうだな」と肯いてから、 「しかし担いで上野公園まで運ぶのは、大変だよ。いくら夜おそいといっても、誰かに見られるかも知れないからな」 「車で運んだのかも知れません」 「車か。しかし、まさか円タクに乗せるわけにはいかないだろう。運転手に怪しまれるからね。となると自家用車だが、車を持ってる人間なんかめったにいないからねえ」 「そうですね」  肯きながら私は、エノケンの顔を思い出していた。  もちろん、エノケンが犯人だと思ったわけではない。浅草の芸人の中で車を持っているのは、エノケンぐらいのものだろうと思ったのである。  私は車についての知識が皆無だった。エノケンなら何か教えてくれるかも知れない。  私は中原さんに黙って、松竹座に出かけた。  エノケンが私を覚えていてくれるかどうかわからなかったし、相談にのってくれるかもわからなかった。  私は松竹座の楽屋でエノケンを待った。偏奇館より大きな楽屋だし、芸人も多い。うちが必死になって背伸びしているのがわかって、悲しくなってくる。  今日の舞台は、エノケンの当り役の『最後の伝令』だった。  エノケンはその扮装のまま楽屋に戻って来ると、私が声を出すより先に私に気付いて、「ええと、君は確か偏奇館の──」  と独特のかすれ声でいった。 「秋月です」  私はかたくなっていった。 「そうだ、秋月君だ。うちへ来たいのかい?」 「そうじゃありませんが、今日はお願いがあって来たんです」 「いってごらん」  エノケンは私の前でさっさと上半身裸になりながら、気軽くいった。  小柄だが、筋肉質の身体をしている。 「またうちの劇場で、人殺しがありました」 「ああ、知ってるよ。大変だねぇ、君のところも」 「警察はサキソフォン吹きの寺田を犯人だといって、捕えて行きました」 「君は違うと思ってるんだろう? 顔にそう書いてあるよ」 「僕だけじゃありません。みんな寺田が犯人だなんて思っていません」 「うん。それでボクに何の用だい? そのサキソフォン吹きを貰い下げて来てくれっていうのなら、何とかしてあげたいが、ボクも警察にはエロケンなんていわれて、睨まれているからねえ」 「そんなことじゃありません。寺田はアナーキストだったことがあるんで、榎本さんが行かれても駄目だと思います」 「アナーキストかい」  とエノケンは呟き、 「それじゃあ、警察でいじめられてるよ」 「だから早く出してやりたいんです。そのためには、真犯人を見つけるのが一番の早道だと思うんです」  私がいうと、エノケンは早呑み込みで、 「それなら、うちの連中にも手伝わせるよ。何人ぐらい行かせたらいいんだ?」 「それはいいんです。あなたの智慧を拝借したいんです」  と私はいった。 「智慧ね」  エノケンが大きな眼をくりくりさせた時、菊谷栄がひょいと顔をのぞかせた。背の高いやせた若い男と一緒だった。  肩をすぼめるようにしているその男は、 「おれ帰るよ」  と菊谷に小声でいい、エノケンに向って軽く頭を下げて姿を消した。 「キクさん。入ってくれる?」  エノケンがいい、菊谷は楽屋に入って来た。 「こっちは、偏奇館で脚本《ほん》を書いてる秋月クンだ」  とエノケンが私を紹介してくれた。  私はかたくなって、菊谷に頭を下げた。  六区で脚本を書いている人間にとって、菊田一夫と菊谷栄は強力なライバルだった。  最初は菊田が飛び出していたが、菊谷はエノケンとコンビを組んでから、めきめきと頭角を現して来ていた。  菊谷は画家志望で、最初は劇場の美術をやっていたということを、私は聞いている。  私は憧れと競争意識の両方を感じながら、「秋月です」と菊谷にあいさつした。  エノケンは菊谷に向って、 「今の青年は、前にも来ていたね」 「同郷の男です」 「じゃあ津軽の?」 「そうです」 「苦学生かい?」  エノケンがきくと菊谷は、 「小説を書いています。まだ無名ですが、素晴らしい才能を持っています」 「名前は何ていうの? 僕がひいきにしてやってもいいよ」 「名前は津島修治です。太宰治のペンネームで、小説を書いています」  と菊谷はいってから、改めて私を見て、 「秋月君は、何の用ですか?」  とエノケンにきいた。  エノケンは、私が話したことを簡単に菊谷に話した。 「僕に智慧を借りたいっていうんだが、智慧なら僕よりキクさんだからね」 「僕だって、殺人事件を解決するような智慧は出ませんよ。警察に委せた方がいいんじゃありませんか」 「その警察を、出し抜かなきゃならないんですよ」  と私はいった。  サキソフォンの寺田を助けるためには、自分たちで真犯人を見つけ出さなければならないことを、私はエノケンと菊谷に説明した。 「それで、真犯人を見つけ出す自信はあるんですか?」  菊谷が丁寧な口調できいた。 「今度の節子は、上野公園で殺されていました。自宅からどうやって連れて行かれたのかを考えてみたんです。夜おそく、ひとりで浅草から上野公園まで歩いて行ったとは思えません。犯人と二人で歩いて行ったとすれば、誰かが目撃していると思うんですよ」 「円タクに乗ったかな」  エノケンが大きな眼で私を見た。 「そう思ったんですが、この辺を流している円タクの運ちゃんから、それらしい情報は入って来ないんです。だから円タクに乗ったということは、ちょっと考えられないんです」 「すると、自家用車ということですかね」  菊谷がいった。  私はその言葉に肯いた。 「犯人は車を持っていて、それに節子を乗せたんじゃないかと思っているんです」 「しかし、車を持っている人間は少いんじゃないかな」  菊谷が首をかしげた。 「そうなんです。うちの劇場じゃ誰も持っていません。それで榎本さんに力を貸して貰いたいんです。僕なんかは最初から車に縁がありませんから、車の知識がないんです。僕の周囲にも、車のことを知っている人間はいません。榎本さんはご自分で車を持っていらっしゃるし、車についてくわしく知っていらっしゃると思うんです。最近、六区の周辺で、怪しい車をご覧になりませんでしたか?」  私がきくと、エノケンは菊谷と顔を見合せていたが、 「キクさん。あの車じゃないか」 「あの車って、ああ、いつかの夜、競走した車ですか?」 「そうだよ。四、五日前だったかな」  とエノケンは私の方に眼を向けて、 「田原町近くに、すげえ車が停まってたんだ。そいつと夜中の道路を競走したんだ。負けるのが癪だから、運転手に飛ばせ、飛ばせって怒鳴りつけてやった」  エノケンは楽しそうに笑った。 「それで、勝ったんですか?」  私がきくとエノケンは、 「負けやがった」  と口惜しそうにいった。 「あれは、向うの車の方が性能が良かったんですよ」  菊谷が笑いながらいった。 「だから余計に腹が立ったんだ。おれよりいい車に乗ってやがるからな」  エノケンはいまいましげにいった。  口調も乱暴になって、僕がいつの間にかおれになっている。 「それ、どんな車なんですか?」  と私はきいた。 「キクさん、調べてくれたかね? あの車のこと」  エノケンが菊谷にいう。 「ええ。一応、調べてみました。あれはイスパノシーザーという車だそうです。日本にも数台しか入っていないそうですよ」 「おれの車より高いのか?」  エノケンがきくと、菊谷は困ったような顔をして、 「ええ、高いです」 「どのくらい高いんだ? おれのパッカードは一万五千円もしたんだ。それより高いのか?」 「イスパノシーザーは三万五千円します」 「くそっ、おれの車より高いのか。おれはフォードやシボレーは円タクに使われてるから、それが嫌で高いパッカードを買ったんだ。そのイスパノ何とかより高い車はないのか?」 「あとはロールスロイスだけでしょう」 「それはいくらするんだ?」 「新車の店頭渡しで十万円だそうです」  二人の話を聞いていて、私はその金額にびっくりしてしまった。  私の現在の月給が六十円である。  菊谷が二百五十円の月給を貰っていると聞いて、羨ましく思ったものである。エノケンだけが例外で千五百円の高給取りだった。  ケタ違いの高給だが、劇団員百五十名、専属楽士二十五名というピエール・ブリアントの座長であり、一カ月に五万円から七万円の興行収入をあげているエノケンだから、当然の高給だろう。  しかし、そのエノケンでも持てないような車を持っている人間というのは、どういう人種なのだろうか。 「どんな人間が乗っていたか、覚えていますか?」  私はエノケンにきいてみた。 「おれが競走した時は、三十歳ぐらいの男が運転してたね。顔はよくわからなかったな。キクさんは何か知らないか?」  エノケンが菊谷を見た。 「あの車の持主のことは調べました」 「じゃあ、誰の車かわかったのか。そいつからあの車を、ゆずって貰えないかね」  エノケンが勢い込んでいうと、菊谷は笑って、 「それは無理ですよ」 「なぜだい? 金さえ出せばいいんだろう?」 「持主は貴族院議員で、元陸軍大将の小野寺達也という方です」 「へえ。貴族院議員? しかし、それなら相当な爺さんだろう? この間、運転していたのは若い男だったよ」 「小野寺さんには娘と息子がいます。姉は細川子爵に嫁いでいて、弟はまだ独身です」 「その弟の方が運転していたのかい」 「僕が聞いたところでは二十六、七ですが不肖の息子で、父親に買って貰った車を乗り廻したり、女遊びをしたりしているそうです」 「名前はわかりますか?」  と私がきいた。 「確か光彦でしたね。ああ、あの車を昨夜も雷門近くで見たというのが、うちにいますよ」  菊谷がいった。 「何か参考になったかね?」  エノケンが私にきいた。  私は、わからないといった。  イスパノシーザーという外国の高級車を乗り廻している男が、殺人犯であって欲しいと思う。  だが証拠はないし、見つけるのは大変だろう。  私が礼をいってエノケンの楽屋を出ると、菊谷が追いかけて来た。 「これは参考になるかどうかわからないが、うちの踊り子の一人が大きな花束を貰いましてね」  菊谷は、劇場の外へ送ってくれながら私に話した。 「ファンからですか?」 「そうです。それで誰からだろうと思って外へ出てみたら、外国の高級車に乗った男が声をかけてきたというんですよ」 「その踊り子は、どうしたんですか?」 「彼女には同じ芸人仲間に恋人がいたし、高級車にびっくりしてしまって楽屋に逃げ込んでしまいましてね。それだけです」 「そうですか」 「真犯人が捕まるといいですね」  と最後に菊谷はいってくれた。      11  京子、早苗、節子と三人も続けて殺されてみると、いかに当っている芝居とはいえ、すぐ続演というわけにもいかなくなった。  第一、節子に代る女優がいない。加代はよくやってくれたがまだ幼く、主役にはなれない。節子の代りをやりたいという女優はいるのだが、この役は踊りも出来なければならないのである。  そこで古い芝居と、新しく中原さんが脚本《ほん》を書いた喜劇をやることになったのだが、それでは全く客が来ないことがわかって、私たちはあわててしまった。 「やっぱり、あの芝居じゃなくちゃ駄目だよ」  鉄ちゃんは、がらがらの客席を見てそういった。  他の芸人や踊り子も同じことをいった。芸人にとって、客の入りが少いくらい辛いことはない。  劇場主のおやじさんも、私や中原さんに向って、 「どうだね? あの芝居をもう一度、やろうじゃないか。このままじゃあ、みんなの給料も払えなくなるよ」 「僕だって続けたいと思っていますよ」  中原さんはぶぜんとした顔でいった。 「じゃあ、やろうじゃないか。警察だってサキソフォンの寺田君を逮捕して満足してるだろうから、あの芝居を再演しても文句はいわんだろう」 「肝心の女優がいないんです。主役らしい色気があって、踊りも出来る女優がですよ」  中原さんが肩をすくめながらいった。 「僕が適当な女優を連れて来たら、彼女を主役にしてあの芝居を再演してくれますか?」  ゴロちゃんが中原さんにきいた。  中原さんはじろりとゴロちゃんを見て、 「いいかげんな女じゃ困るよ。踊りが出来て、客にアッピールする色気がある女じゃなくちゃ困るんだ。それに、無理な引き抜きをやるなよ。ごたごたは嫌だからね」 「わかってますよ。いい女がいるんです」  ゴロちゃんはニヤッと笑った。  だが私も中原さんも、たいした期待は持っていなかった。  ゴロちゃんのことだから、どうせそこらのカフェの女給と仲良くなって、そんな女を連れて来るのではないかと思ったのだ。  だから翌日の幕間《まくあい》に、ゴロちゃんが私と中原さんに、 「昨日話した彼女を連れて来てるんで、会って下さいよ」  といった時も、「ああ」と生返事をしたくらいだった。  しかしゴロちゃんが楽屋に連れて来た娘を見て、私は意外な気がした。  年齢は十八、九といったところだろう。  すらりとした姿態にも、私は眼を見張ったが、それ以上に私が気に入ったのは、彼女の持っている上品な雰囲気だった。  中原さんも意外そうな顔で娘を見ていた。 「どうです? いい娘でしょう?」  ゴロちゃんが鼻をうごめかせた。  中原さんはそんなゴロちゃんを無視して、 「君の名前は?」  と娘に声をかけた。  彼女は三人の男に囲まれても別に臆した様子もなく、といってふてくされた感じでもなく、 「南条圭子です」  とはっきりといった。  断髪の髪型が可愛らしい。 「いくつ?」 「十八ですわ」 「踊りをやったことはあるの?」 「子供の時からクラシックバレエを習っています」 「芝居の経験は?」 「学校で少しやったくらいですわ」  中原さんと彼女が、そんな会話を交わしている。  私はゴロちゃんを廊下に連れ出した。 「どこで彼女を見つけて来たの?」 「ねえ、飛び切りのシャンだろう?」 「ああ、美人だ。それに上品だ。どこの娘なんだ?」 「一昨日《おととい》さ。僕が千束町のあたりを歩いてたら、カフェの『少女入用』という貼紙を見てる娘がいたんだ。その横顔を見たらあの通りの美人でさ。女給になるなんてもったいないと思って、声をかけたんだ。カフェなんかで働くんなら、うちの劇場へ来ないかって誘ったってわけ」 「君は彼女がどこの誰か知ってるのか?」 「それがさ、名前は教えてくれたが、その他のことはぜんぜんなんだよ。どこの誰でも、あれだけの美人で踊りも出来るっていうんだからいいじゃないか。とにかくあの女は掘り出しものだよ」 「それはわかってるよ。だが着ているものを見たろう。錦紗の着物だ。帯も高価な友禅だよ。普通の娘が着るものじゃない。かなりいいところのお嬢さんだと僕は思う」 「まあね」 「あとで問題になるようなことはないだろうね?」 「なぜだい? 本人がうちの劇場《こや》で働きたいっていってるんだぜ」 「どこかの良家の一人娘なんてことはないかね? 家が面白くないんで飛び出したみたいな具合だと、いざ舞台という時に連れ戻されてしまったら困るよ」 「僕が引き止めるよ。それにもし良家の娘だったら、すごい宣伝になるじゃないか。良家の令嬢、浅草の舞台に立つ、それだけだって客が集るんじゃないか」  とゴロちゃんはいってから、急にニヤッと笑って、 「もしあれが金持ちの娘なら、うまくやれば金持ちの婿になれるかも知れないな」 「ゴロちゃん、まず芝居が第一だよ」  私がいったとき、「秋月君」と中原さんに呼ばれた。 「今日、舞台が終ってからこの娘の試験をするよ」 「お願いします」  圭子は私に向って、上気した顔でぴょこんとお辞儀をした。  舞台が終るまで、彼女は客席で見ていることになった。 「ものになりそうですか?」  と私は中原さんにきいてみた。 「美人だし、物のいい方もはきはきしているからね。問題は芝居より、踊りの方だな」 「クラシックバレエを、子供の時から習っているといっていましたよ」 「僕も聞いたが、浅草の踊りには色気が必要だよ。変に上品だと、客がそっぽを向いてしまうからね」  と中原さんはいってから、急に声をひそめて、 「彼女は、ゴロちゃんの女じゃないみたいだね?」 「ええ。一昨日、カフェの女給に応募しようとしているのをゴロちゃんが引き止めて、こちらへ引っ張って来たみたいですね」 「今、ゴロちゃんの所にいるのかい?」 「下宿を世話してやって、そこに寝泊りしているらしいですが」 「そうかい」 「何かまずいんですか?」 「早苗ちゃんが殺されてから、妹の加代ちゃんとゴロちゃんが、同棲しているらしい」  早苗とゴロちゃんは夫婦同然に暮していた。その早苗が死んだあと、妹の加代は背伸びしてあの芝居に取り組んでいた。  私が子供扱いすると、むきになってもう大人だといっていたが、それを証明するためにゴロちゃんと暮すようになったのだろうか? それともゴロちゃんの方から手を出したのか。 「本当ですか?」 「鉄ちゃんがそういってたよ」 「それなら本当でしょう」 「僕は芸人同士がどうしようと、芝居や踊りに穴をあけない限り構わないと思っている。だが舞台にひびくようなごたごたは困るんだ。僕のいいたいことはわかるだろう?」 「わかります。僕は加代ちゃんに、悲しい思いをさせたくありませんからね」 「じゃあ、あの新人を使うことになったら、君が新しい下宿を探してやってくれないか」  と中原さんはいった。  今日一日の舞台が終ると、南条圭子の採用試験ということになった。  永井のおやじさんも見に来た。  他の芸人たちも全員が残って見守ることになった。  舞台の中央に圭子が立っている。 (いいな)  と私は改めて思った。  浅草の踊り子たちは陽気で明るくて人が好くて、私は好きだ。殺されてしまった京子も早苗も、節子も好きだったし、加代だって好きだ。  ただ彼女たちには気品が欠けている。  今、舞台に立っている南条圭子には、その気品があった。  きっと人気が出るだろう。若い男のファンが、彼女に夢中になるに違いない。 (それに舞台度胸もありそうだ)  舞台の中央に立たされても、圭子は別におずおずしている気配はなかった。といって傲慢というのでもない。  多分、おっとりと育てられたからだろうし、注目されることになれているに違いなかった。 「圭子君」  と中原さんが客席の最前列に腰を下ろして、舞台に立っている南条圭子に呼びかけた。 「はい」  圭子が微笑して中原さんを見た。 「この劇場では三人の女優と踊り子が殺されている。新聞に大きく出たから、君も知っているだろう?」 「はい。知っていますわ」 「それを芝居にしたものに、君に出て貰いたいんだ。縁起が悪いと思うかも知れないし、前の主演者みたいに狙われることだってあるかも知れない。嫌だったら、今いってくれないか」  中原さんはそういって、じっと圭子を見つめた。  圭子はちょっと考えているようだったが、すぐニッコリして、 「平気です」  明るい声でいった。 「それなら試験を始めよう。まず踊りを見せて貰うが、うちの劇場の踊りは、何よりも色気がなくちゃ客が満足しないんだ。君が子供の時から勉強したというクラシックバレエとはだいぶ違う。出来るかな?」 「うまく出来るかどうかわかりませんが、一生懸命やってみます」 「加代ちゃん」  と舞台の袖にいる加代を、中原さんが呼んだ。 「この娘《こ》に踊り子の衣裳を着せてやってくれないか。それから、君が一度、踊ってみせてやってくれ」 「こっちへ来て」  と加代は、舞台のうしろに圭子を連れて行った。  五、六分して加代と一緒に、圭子が着替えをすませて戻って来た。  とたんに他の芸人たちの口から、小さな歓声が洩れた。  それは圭子のスタイルの良さに対する歓声だった。  踊り子に要求されるのは、もちろん踊りの上手さもあるが、それと共にイットと脚線美である。  イットはアメリカ映画の『イット』から来たもので、主演したクララ・ボーの魅力から、性的魅力と同意語みたいに使われ、はやっている。  もう一つの脚線美の方は、今の若い娘たちのあこがれそのものといっていいだろう。誰も彼もが脚線美を口にする。もっと足が長くなりたいという。  踊り子たちはなおさらだった。早苗にしても、京子や節子にしても、若くてなかなか魅力的な身体つきをしていたが、私たちから見ると、やはりもっと足の長さが欲しい。もっとすらりとした脚線美であって欲しかった。  友人の島崎にいわせれば、日本は富国強兵政策をとって国は肥大化したが、国民は小さくなってしまったことになる。  それは畳に正座して暮す生活のせいか、スタイルのいい加代でも膝小僧がかたく大きくて、気になるのだ。  私たちが憧れる、アメリカ映画に出てくる踊り子の脚線美には、とても及ばない。  日本の踊り子がああなるには、食生活と生活環境そのものを変えなければどうしようもないと私は思っていたのだが、圭子の踊り子姿を見てはっとしてしまった。日本人離れした足の美しさを見せていたからである。  何の苦労もなく、すくすく育ったという感じの身体つきだった。 「いいねえ」  ゴロちゃんが口笛でも吹きたそうな声を出した。  圭子は上気した顔をしている。半裸の恰好が恥しいのだろう。 「加代ちゃん、君が踊って見せてやってくれ。ラインダンスの時のでいい」  中原さんが加代に声をかけた。  加代は、自分より明らかにスタイルのいい圭子の方をちらちら見ながら、 「唄いながらですか?」 「ああ、そうしてくれ」  楽士が音を出すと、それに合せて加代が唄いながら踊って見せる。   今日もこれでフィナーレ   明日もまた来て頂戴ね   六区に花咲く偏奇館   チョイ チョイ チョイ  他愛のない歌である。どの劇場にもそれぞれテーマソングみたいなものがあって、いずれも他愛のない歌詞になっている。  カジノ・フォーリーでフィナーレに踊り子たちが唄ったのも、次のような歌詞だった。   ア、ピョイ   指をもちゃげて   チョ チョ チョ チョ   ちっともためらわないで   チョ チョ シィ シィ   さあさあ おいでおいで  といったものである。簡単な歌だからこそ、客がすぐ口ずさめてはやるのだろう。  加代は「チョイ チョイ チョイ」というところで、片足を高く蹴あげて見せる。      12  圭子の番になった。  緊張しているのが私にもよくわかった。  それでも懸命に唄い、踊った。 「歌がよく聞こえないな、それに、もっと色気を出して踊らなきゃ駄目だ!」  中原さんが大声で怒鳴った。 「はい」 「もう一度、やり直しだ!」 「はい。すみません」 「笑顔を忘れちゃ駄目だ。また来てねと唄いながら、能面みたいな顔はしなさんな。それじゃあ客が来るどころか、逃げちまうぞ」 「はい」  二度、三度と繰り返される。  圭子の顔に汗が吹き出てくる。 「駄目だなあ。笑顔だよ、笑顔を忘れちゃ駄目だ!」  中原さんはまた怒鳴った。  だが私は、中原さんがもう採用を決めていることがわかった。  とにかくバレエをやっていただけに、きれいな足がよくあがる。それだけでも素晴らしい踊り子になれる筈だった。中原さんもそれはわかっていて、あれこれ注文をつけているのだ。  一時間近い試験、というより練習といった方がいいだろう、それが終って中原さんは私に、 「彼女を送ってやってくれ。それから、明日の午前中に新しい下宿を見つけた方がいいな」  といった。  ゴロちゃんが文句をいうのではないかと私は心配したが、加代が彼の腕を取って先に帰ってしまったので、私はほっとした。  私は圭子と肩を並べ、夜の六区を千束町の方に歩いて行った。 「私、駄目だったんですか?」  圭子は歩きながら、心配そうにきいた。 「駄目なら中原さんは、僕に送って行けなんていわないさ」 「でも、あの人は怒ってばかりいたわ」 「二、三日中にこの芝居を再演したいから、あんな調子になってるんだ。明日からの練習が大変だよ」 「私に出来るかしら?」 「大丈夫、出来るさ。それより、僕も中原さんも、君自身のことが心配なんだ」 「私のこと?」 「君の素姓については聞かないことにするけど、ゴロちゃんのことはどう思ってるの?」  私は圭子の顔をのぞき込んだ。  彼女は笑顔になって、 「いい人だと思ってますわ」 「それだけかね?」 「ええ。まだよく知らないから──」 「彼は二枚目だが、ちょっと女ぐせが悪くてね。それを、僕も中原さんも心配しているんだよ」  私がいうと、圭子は下を向いてクスクス笑った。 「何がおかしいの?」 「私、ゴロちゃんみたいな人、あんまり好きじゃないんです」 「なるほどねえ」  私は変な肯き方をした。それでも、ほっとすると同時に、なぜか急に愛しくなってきた。 「お腹すいてないかね?」  私がきくと、圭子は急に子供っぽい表情になって、 「本当のこというと、ペコペコなんです」 「僕もだよ」  私は彼女と、屋台のシナそばを食べることにした。  ふと節子と二人で屋台で食べたことを思い出したが、すぐ彼女のことは忘れてしまった。それだけ圭子が魅力があったということだろう。 「君のお父さんは何してるのかな?」  素姓については質問しないといっておきながら、私はやはり彼女のことをいろいろと知りたくて、シナそばを食べながらきいていた。 「たいしたことはしてません」  圭子はそんな答え方をした。 「君を見てると、いいところのお嬢さんの感じなんだが、違うかな?」  私はきいてみたが、圭子は微笑しただけで黙っている。  酔っ払いが、去年から流行っている「女給の唄」を唄いながら通り過ぎて行った。   女給商売さらりとやめて   可愛い坊やと二人のくらし   抱いて寝かせて母さんらしく   せめて一夜を子守唄 「私、女給になろうと思ったんです」  圭子が、酔っ払いの後姿を見送りながらいった。 「ゴロちゃんに聞いたよ」 「私、女給になれたでしょうか?」 「さあねえ」  私は改めて圭子の横顔に眼をやった。  ノーブルな顔立ちに長いまつげ。女給になっても、きっと人気が出たろうと思う。彼女目当てに通う若い客が増えるに違いない。 「でも君は、女給にならなくて良かったよ」  と私はいった。  彼女を下宿まで送って行き、当座の小遣いとして五円渡しておいた。      13  翌日、私は中原さんにいわれた通り、圭子のために新しい下宿を探した。  なかなか適当なところがなくて、最後に、劇場《こや》の連中がよく行くお好焼屋の二階を借りることにした。  ここのおかみさんはお仙さんという名前で、芸人仲間ではよく知られている名物おかみで、私が頼むと「いいとも」と、あっさり引き受けてくれた。  私はほっとした。気丈なおかみさんだから、ゴロちゃんでも、変なことをすれば叱り飛ばしてくれるに違いないからである。 「いつでも連れておいで」  というお仙さんの声に送られてその店を出ると、友人の弁護士、日下部と出会った。  日下部は私を見つけると、 「君を探してたんだ」  といった。 「象潟署へ連れて行かれた寺田のことかい?」 「そうだ」 「これから劇場へ出なけりゃならないから、歩きながら話してくれ」  と私は頼んだ。  日下部の暗い顔付きから見て、あまりいい知らせではなさそうだった。 「今朝、象潟署に寄って来た」 「それで、寺田は元気だったかい?」 「いないんだよ」 「いないって、どうして?」 「身柄を他へ移されているんだよ」 「しかし、象潟署の山路という刑事が、殺人容疑で連れて行ったんだぜ。それがどうして他へ移されたんだ? 起訴されたという意味かい?」  私がきくと、日下部は小さく首を振って、 「それならまだいいんだが、どうやら特高に身柄を移されたらしい」 「特高? どうして?」 「寺田君は夜おそく、上野公園にいた。その理由について彼は口を割らなかったんだが、僕が調べたところ、どうもコミュニストやアナーキストとひそかに会っていたらしい」 「本当かい?」 「だから特高が連れて行ったんだよ。そうでなけりゃ、殺人容疑で捕まった男を特高が連れて行く筈はないよ」 「特高か──」 「拷問は覚悟しなきゃならないな」 「何とかならないのか?」 「相手が特高じゃあ、手も足も出ないよ。もし彼があの夜、上野公園で誰と会っていたか喋ってしまえば、何とか助けようもあるんだがね」 「参ったな」  私は思わず溜息をついた。  寺田が昔アナーキストだったことは私も聞いていたが、今もそういう連中と付き合っていたのだろうか。  それとも昔の仲間が会いたいといって来て、仕方なく会ったのだろうか? いずれにしろ寺田は生真面目な男だから、特高に責められても友人の名前や住所はいわないだろう。 「象潟署の山路刑事はどう思っているんだろう?」 「今でも寺田君が踊り子殺しのホシだと思っていて、口惜しがっているよ」 「すると、寺田の方は静観しているより仕方がないのか?」 「そうだな」  と日下部は肯いてから、 「下手をすると特高は、君の劇場にも眼をつけるかも知れないぞ。向うは、劇場はコミュニストやアナーキストの恰好の隠れ家だと思っているからね」 「注意するよ」 「今後は娯楽に対するしめつけが、きつくなってくると思うよ。政府や軍部は国民の精神を統一しておいて、中国との本格的な戦争に突入する気でいると、僕は見ているんだ」 「満州だけで満足しないでかい?」 「ああ。軍人の欲望は果てしないからね。特に若手の将校連中は、シナ膺懲《ようちよう》でこりかたまっているみたいだ」 「膺懲か」  私は、近頃やたらに眼につくこの言葉が嫌いだった。  相手を見下しているいい方だからだ。それに冷静に見て、日本が中国に攻め込んで行って、満州事変を起こしたのである。中国が文句をいうのは当然だろう。文句をいうのはけしからんといって、だから膺懲するのだという。心ある人なら誰だって日本の言い分の方が乱暴だとわかる筈なのに、大勢になると膺懲の声に呑まれてしまう。  恐らく近いうちに軍部は、膺懲のためと称して中国と戦争を始めるだろう。そうなれば私だって戦争にかり立てられて、膺懲のために戦わなければならなくなる。  私が嫌だといくら頭を振り続けても、悪い方向へ事態は動いて行くような気がして仕方がない。 「官憲に注意すると同時に、これは矛盾するんだが、今のうちに好きなことをやっておいた方がいいね。そのうちに何も出来なくなる時代が来そうだからね」  と日下部はいった。      14  偏奇館ではそうした危惧など関係なしに、二日、三日と南条圭子に対する特訓が続けられた。  いや、関係なしにというのは正確ではないだろう。サキソフォンの寺田はまだ捕まったままだし、時代が動き出したら、偏奇館など一挙に押し流されてしまうに決っている。  私だって誰だって、暗い足音は敏感に感じ取っていた。逆に、だからこそ舞台に熱中して、外を見ないようにしていたのかも知れない。  戦争が始まれば、嫌でも外を見なければならなくなるのだ。  若い圭子は驚くほどの順応性を見せて、芝居にも踊りにも馴れていった。  まだぎごちなさはあるものの、圭子は曲に合せて、色っぽい眼線を客席に送る仕草が出来るようになった。  何よりも私や中原さんを喜ばせたのは、彼女の度胸の良さだった。これは多分、彼女の育ちの良さからくるものだろう。  華族の娘は風呂に入る時、前をかくさないものだと、私は誰かに聞いたことがあるが、圭子の大胆さにはそれに似たところがある。  肉じゅばんも圭子は平気で身につけ、それを珍しがって楽しんでいた。 「明日から新しいメンバーで、『踊り子殺人事件』をもう一度、舞台にかけるよ」  中原さんは三日目の夜の稽古のあとで、全員にいった。  このところ連日、客の不入りが続いて、劇場《こや》全体が沈んでいただけに、中原さんの言葉に思わず拍手がわいた。 「やっぱり、客の入りが悪いと力が入らないよ」  鉄ちゃんがいうと、中原さんは厳しい顔で、 「前のように客が入ってくれるかどうかはわからないよ、鉄ちゃん」 「でも、あれだけ押しかけて来ていたじゃないですか。あの客はきっと、またうちの劇場で同じ芝居が始まるのを待ってるんですよ。だから、またわッと押しかけて来てくれると思うけどなあ」 「僕もそうあって欲しいと思ってるが、一度離れた客がなかなか戻って来ないのがこの世界だということも、鉄ちゃんだってよく知ってる筈だよ」 「とにかく結果を見てみようじゃないか」  とおやじさんがいった。  新しいのぼりも立てた。  看板には、「新人、南条圭子」の名前も大きく書き込んだ。  大入りと、今度は主役の踊り子が危害にあわないよう、全員で浅草寺にお参りもした。  地下鉄浅草雷門、田原町の駅などで、全員でちらしを配ったりもした。  もし、この芝居を再開しても客の不入りが続くようだったら、多分、偏奇館は閉館に追い込まれてしまうだろう。その危機感が全員を必死にさせた。私もちらしの文面を考え、手を絵具だらけにして看板書きを手伝い、通行人にちらしを配った。  私にとって偏奇館は、時代の嵐から自分を守ってくれる防波堤だった。だから必死になっていたのだと思う。中原さんも多分、私と同じ気持だったろう。  当日の第一回は客の入りがよくなかった。空席の目立つ客席を見て、私は中原さんの危惧が的中したのを知った。浅草の客は優しく温かいが、同時に、新しがり屋で気まぐれなのだ。  中原さんは渋い顔でじっと舞台の袖に立っていたが、一回目の舞台が終ると、圭子を呼びつけて、 「何をやってるんだ」  と叱りつけた。  圭子はわけがわからないという顔で、きょとんとしている。私にも、中原さんがなぜ彼女を怒鳴りつけたのかわからなかった。  特訓の甲斐があって、圭子は新人としてはなかなかよくやったし、何よりも伸び伸びした肢体が魅力的だったからである。 「どこがいけなかったんでしょうか? いけないところがあったら直します」  と圭子は、中原さんに向っていった。 「いいか、君は浅草の踊り子なんだよ。この浅草六区の踊り子なんだ。それが何だい? まるで女子大の学芸会だ。大人の色気がないんだよ」  中原さんは大きな声を出した。  鉄ちゃんたちが見守っている中で大声で叱られたのだし、まだ素人同然の圭子だから、青ざめた顔になると急にポロポロと大粒の涙を流しはじめた。  フェミニストを自認している鉄ちゃんが、 「客の入りの悪いのは圭子ちゃんのせいじゃないぜ」  と中原さんに食ってかかった。 「僕はそんなことをいってるんじゃない。彼女の踊り子がなっちゃいないから、文句をいってるだけだよ」 「彼女はなかなかいいよ。確かに清純すぎるかも知れないが、それはそれで人気が出ると思うぜ」 「僕も、彼女はいいと思います」  と私も中原さんにいった。私は中原さんを尊敬しているが、今日の中原さんは客の入りの悪いのに腹を立てて、その不満を新人の圭子にぶつけているような気がしたのである。  中原さんがじろりと私を睨んだ。私が首をすくめていると、 「君だって浅草の踊り子がどんなものか知ってるだろう? 今日は彼女を君が送って行って、踊り子のことをよく教えてやってくれないか。明日からもこれじゃあ、困るんだよ」  と中原さんはいった。  その日、公演が終ると私は中原さんにいわれた通り、圭子を田島町の下宿まで送って行った。  これで二度目である。 「中原さんのことは、気にしない方がいいよ」  と私は歩きながら圭子にいった。  圭子は意外に明るい声で、「ええ」と肯いた。  私はそんな彼女に感心して、 「君はすぐ泣くけど、すぐ元気になるんだねえ」 「ええ。お友だちにもよくいわれました」  といって圭子はにっこりした。 「その調子なら大丈夫だ」 「でも、浅草の踊り子のお色気ってどんなものかわかりません。教えて下さい」 「教えてくれっていわれてもねえ」 「すぐ男の人と寝ることですか?」  圭子はあっけらかんとした感じで私にきいた。  私は、子供に答えにくい質問をされた大人みたいな気分になって、 「そんなことは考えなくていいんだよ」 「でも、前に私の役をやっていた人は、もっとお色気があったんでしょう?」 「どうだったかなあ」  私は早苗や節子の顔を思い出した。確かにあの二人には、浅草の娘という匂いがあった。体臭といってもいい。  圭子にはそれはない。浅草の匂いではない、もっと上品な、貴族的な匂いを私は感じる。 「君の家族のことを知りたいね」  と私がいうと、圭子はすぐには返事をせずにしばらく黙って歩いていたが、 「お父さまは偉くて、怖い人です」 「偉い人か」 「煙草が吸いたい」  と突然、圭子がいった。 「煙草?」 「ええ」 「なぜ煙草なんか吸いたがるの?」  と私がきくと、圭子は一瞬、恥しそうな眼をしたが、 「いろんなことがしてみたいんです」  という。ひどく真剣ないい方だった。 (まるで勉強でもするみたいに、煙草を吸ってみようとしているみたいだな)  と私は苦笑しながら、近くの煙草屋で、最近、売り出したばかりの「うらら」という婦人用の煙草を買った。  私がそれを渡すと、圭子は嬉しそうに帯の間に入れた。 「君の家では、女が煙草を吸うなんてけしからんという主義なんだろうね?」  私はどうしても彼女のことがよく知りたくて、質問した。 「とんでもないって、叱られます」 「きっと君のお母さんは、婦人矯風会の会長かなんかじゃないのかな」  私は、「うらら」の発売に婦人矯風会が絶対反対の決議をしたという新聞記事を思い出して、いってみた。  圭子がくすくす笑い出したところをみると、婦人矯風会かどうかはわからないが、彼女の母親がそうした怖い役職についていることは間違いないような気がした。  そんな母親に反撥して、彼女は家出をして来たのだろうかと考えたが、それ以上、質問する前に、彼女の下宿の前へ来てしまった。  翌日も客の入りはよくなかった。切符売《テケツ》場の前に客が列を作ったのが、嘘みたいである。  相変らず中原さんは、それが圭子の責任みたいに彼女を叱りつけている。どこか異常だった。 「何かおかしいぜ」  とゴロちゃんも鉄ちゃんもいう。裏読みして、中原さんは圭子に気があるのではないかという者もいた。  私にはわからなかった。そんな気もするのだが、ただ中原さんがいらだっているだけにも見えたからである。  ただ、人気が出ないので、例の犯人からの脅迫状も来なかった。それはそれでほっとするのだが、やはり客は来て欲しかった。  このままだと、またおやじさんは劇場を閉めるといい出すに違いないし、ゴロちゃんたちは他の劇団へ移れるだろうが、文芸部の中でも新米の私などはどこからもお呼びはかからず、花園の六区から出て行かなければならなくなるかも知れなかったからである。 「あんたの脚本《ほん》なんだから、何とかしてくれよ」  と鉄ちゃんが中原さんにいった。  三日目の最終回が終ってからのことだった。  連日がらがらの客席では、気勢があがらないことおびただしい。『踊り子殺人事件』の芝居に出ていない者も、何とかして貰いたいという顔で中原さんを見ていた。  中原さんは女優や踊り子たちに眼をやってから、 「圭子がいなけりゃあ、何とかなるかも知れないんだが」  と思わせぶりにいった。  私はまたかと思いながら、 「中原さんのいっている意味がわかりませんよ。彼女は一生懸命にやってるじゃありませんか? 最初はしっかりやってくれといって特訓しておきながら、今になって邪魔者扱いにするなんてひどいですよ」 「彼女に惚れたのか」  中原さんはみんなの前で平気で私をからかった。中原さんは皮肉屋だが、同時に繊細な神経の持主だったから、こんなことは珍しかった。 「あんたはどうかしてるよ。おれだって、あんたがなぜ今になって圭子ちゃんに邪険にするか、わからないな」  とゴロちゃんがいった。  鉄ちゃんがゴロちゃんをおさえるように、 「それより、彼女がいなけりゃあ、本当に何とかなるのかい?」  と中原さんを見た。 「ああ、なるかも知れない」  中原さんは難しい顔でいった。 「じゃあ、それを話してくれ。おれたちが協力できるんなら、しようじゃないか」  ゴロちゃんは挑戦的ないい方をした。 「これは芝居の中の踊り子役の三人が、やってくれるかどうかにかかっているんだ」  と中原さんはいった。  加代がすぐ中原さんに向って、 「先生、あたしは何でもやります」 「君は大丈夫だと思っていたよ。問題は圭子だ。彼女には出来っこないことだ」 「何をするのか教えて下さい。私に出来ることならやらせて貰います」  圭子は中原さんをまっすぐに見つめて、強い調子でいった。  私はそんな二人のやりとりを、はらはらしながら見ていた。中原さんが何をさせようとしているのかわからなかったし、圭子の気持もわからなかったからだった。 「君はきっと逃げ出すよ」  中原さんは相変らず冷たい口調で圭子にいった。 「逃げたりはしませんわ」 「そうかな。君は本物の六区の踊り子じゃないからねえ」 「私は踊り子になりたいんです」 「無理だよ」 「やらせて下さい。どんなことでもやって見せます」  圭子の顔が次第に紅潮してくる。それを見ているうちに、私はおだやかではいられなくなってきた。もっと正直にいえば、私は嫉妬し始めたのだ。  中原さんは圭子を叱りつけ、冷たく突き放し、圭子が必死になってそれに縋ろうとする。一見すると二人は口論しているようだが、私にはまるで愛を確認し合っているように思えたのである。 「とにかく、あんたの案というやつを聞かせてくれないか。彼女がやるというか、びっくりして逃げ出すかは、それからのことじゃないか」  とゴロちゃんが口を挟んだ。  中原さんはわかったというように肯き、ポケットから数枚のチラシを取り出してみんなに配った。  私は鉄ちゃんと一緒にそのチラシを見たのだが、最初の文字を見て驚いてしまった。そこに「貞操帯」という刺戟的な文字を見つけたからである。 〈おもくろ貞操帯のおすすめ  この貞操帯は新思想解釈による、あらゆる女体の生存権擁護用具である。少しも肉体に汚点をつけず、異性に肌を触れさせず、完全に身を守りつつ、しかも満足できる不思議な作用のある近代文化の産物である〉  これがチラシにあった宣伝文句で、一ヶ八円とある。絵ものっていた。 「これをどうしようというんだね?」  とおやじさんがチラシをひらひらさせながら、中原さんにきいた。 「踊り子役の三人に、この貞操帯をして貰います」  と中原さんは平然という。 「してどうするのかね?」 「それを新聞に取り上げて貰います。宣伝に利用するんですよ。閑古鳥が鳴いていたカジノ・フォーリーが息を吹き返したのは、川端康成の小説『浅草紅団』と、金曜日にカジノ・フォーリーの踊り子が、ズロースを落とすという噂のせいです。同じような噂を流そうと考えているんですよ」 「偏奇館の踊り子が貞操帯をはめているという噂を流すのかね?」  おやじさんはどんな顔をしていいかわからないといいたげに、眉をひそめて中原さんを見ている。  私にしても同じだった。  貞操帯というのは、いかにも刺戟が強い。話題にはなるだろうが、圭子を含めた踊り子役の女の子たちは納得するだろうか? それに最近、何かというと口出ししてくる警察が黙っているだろうか?  そんなさまざまな心配や戸惑いが私を襲った。  私が圭子を見ると、さすがに彼女はじっと俯いてしまっている。耳のあたりが朱く染っているのが、私にもわかった。 「警察は問題ありませんよ」  中原さんは自信にあふれたいい方をした。 「本当に大丈夫かね?」 「うちの娘はもう三人も殺されているんです。犯人は変質者と思われています。そんな犯人から彼女たちの貞操を守るためにこれを使用しているんだといえば、警察も反対できませんよ。その方の説得は僕がやります。だから問題は、彼女たちがやってくれるかどうかにかかっているんです」  中原さんは改めて踊り子たちの顔を見渡した。その眼が圭子のところで止まって、 「君は無理だから、今日限りでこの役からおりて貰う。君にはこの六区は似合わなかったんだ。君の世界に帰った方がいい」  といった。  相手のことを思っての温かい言葉のような、見方によっては冷たく突き放すような感じのいい方だった。  いずれにしろ当の圭子にしてみれば、自分だけが最初から除《の》け者にされているような気持になったに違いなかった。青ざめた顔で中原さんに向って何かいいかけるのを、中原さんは完全に無視して、 「頼りは他の人たちだ。恥しいなんて気持を持っていたら、今の危機は乗り越えられないよ。貞操帯なんかおぞましくて嫌だという顔をしているが、それじゃあ六区の役者じゃない。六区の踊り子じゃない。お客の見たいものを見せるのが、われわれの仕事なんだ。どうしても嫌だというのなら、僕は今度の芝居からおりる。多分、この劇場だって閉めることになると思うね。それだけの覚悟で返事をして貰いたいんだ」  といい、一人一人、加代ちゃんはどうだ、──はどうだと聞いたが、圭子にはもう声をかけなかった。  無視された圭子は泣きそうな顔になって、じっと中原さんを見ている。  私はそんな彼女の気持が可哀そうになって、 「中原さん」  と思わず声を出した。  中原さんはほとんど私のことなど気にもかけない感じで、 「男の意見はあとで聞くよ」 「今、いわせて下さい」 「何がいいたいんだ? 君が説得するというのかね?」 「そうじゃありません。貞操帯は別につけなくてもいいんでしょう? カジノ・フォーリーの例の噂だって、噂があっただけで、踊り子が金曜日にズロースを落とすわけじゃない。ただの噂だけで物見高い観客が押しかけて来たんですよ。貞操帯っていう中原さんの案がいいかどうかわかりませんが、噂が立てばそれで客が来るんじゃないですか?」  私は必死でいった。中原さんの意見に私が正面切って反対したのは、これが初めてだった。  中原さんはじっと私を見た。怖い眼だった。 「君は圭子に惚れているのか?」  と中原さんは鋭い口調でいった。  私は反射的に「とんでもないです!」といったが、顔は火照ってしまった。  中原さんはそんな私を意地悪く見つめて、 「この大事な時に、個人的な感情で発言されては困るんだよ」  と追い打ちをかけるようないい方をした。  私は違うといおうとしたが、中原さんの眼をみると口がうまく動かなかった。確かに、私には圭子が気になる存在になっていたからである。いじめられているのが彼女でなかったら、むきになって中原さんに食ってかかれたかどうかわからない。  しかし中原さんに見すかされてしまうと、かえってそのことで気恥しくなり、自然に口が重くなってしまった。  私はその場から逃げ出したくなったが、それも出来ずに眼を伏せていると、ゴロちゃんが助け舟を出すように、 「おれは秋月君の意見に賛成だね。貞操帯ってのは、確かにエロチックで宣伝効果はあるよ。若い女が貞操帯をしてる姿ってのは、男はのぞいて見たいさ。このおれだってね。しかし、芝居の前にスカートをまくって見せるわけにもいかないだろう? そんなことをしたら、いくら理由をつけたって警察が許すものか。始末書ですめばいいが、下手をすりゃあこの劇場を閉めなきゃならなくなるよ。だから噂を流すだけにしておいた方が賢明だと、おれも思うね。カジノ・フォーリーの例もあるしね」 「またカジノ・フォーリーか。君たちは浅草の客が同じことに二度も引っかかるほど甘いと本当に信じてるのか? 絶対に上手くいかないよ。噂を立てることは必要だ。しかし今度は、うちの踊り子や女優が本当に貞操帯をしてなきゃいけないんだ。それにだよ、ゴロちゃんのいうような馬鹿なことはしない。芝居の中でちらりと見せるんだ。もちろん筋もそれに合せて変える」 「おれは反対だよ」  それまで黙っていた鉄ちゃんが、中原さんに向って低い声でいった。 「君の理由も前の二人と同じなのか?」  中原さんは眉をひそめて鉄ちゃんを見た。 「貞操帯はおれにはエロとは思えないよ。グロだよ。そこまでいくのは行き過ぎだよ」 「エロ、グロ、結構じゃないか。君にはグロに見えたって、お客には色っぽく見えるかも知れないんだ。際どいところで勝負しなきゃ勝てやしない。それはみんなだってよくわかっている筈なのに、なぜ反対するのか理解できないね。まさか君まで反対じゃないだろう?」  中原さんは急に高田にきいた。  若い高田はいきなりいわれてへどもどしてしまい、 「僕は、あまり──」 「あまり、何だい?」  中原さんの眉間に二筋、しわが寄っていた。  高田はなおさらあわててしまったみたいだった。それでもかすれた声で、 「あんまり無理しない方が──」  と辛うじていった。  それに合せるように弁ちゃんまでが、 「私も無理しない方がいいと思いますよ。中原さんは少し無理し過ぎているから」 「何をやっても客を笑わせられない癖に、いっぱしなことをいいなさんな」  中原さんが弁ちゃんを叱りつけるようないい方をした。私は、これは少しいい過ぎだと思ったら、案の定、弁ちゃんは真っ青な顔になっている。弁ちゃんは定さんと二人、一生懸命にやっているのだが、どうしても客席がわかないのだ。きっと毎日が苦しいに違いないのに、中原さんがそんな痛い傷口を広げるような言い方をしたから、弁ちゃんが蒼白になるのも当り前だった。 「中原さん、そりゃあ、いい過ぎだよ」  日頃、物静かな、弁ちゃんの相棒の定さんがじろりと中原さんを睨んだ。  昔、浪花節を唸っていたというだけに、声が太く、ドスがきいていた。これは弁ちゃんから聞いたのだが、定さんは見かけは優しいが、二十歳になる前、ちょっとぐれていたことがあって、包丁で他人を刺したという。 「君の意見なんか聞いてない」  中原さんは吐き捨てるようにいった。  定さんは冷静な口調で、 「おかしいじゃないか。みんなの意見を聞きたいといったのは、あんただよ。それにカジノ・フォーリーの譬《たと》えを最初にいったのも、あんたじゃなかったかね」  といった。  ゴロちゃんはその尻馬にのっかるみたいに、 「これでみんなの意見は出たんじゃないか。加代ちゃんだって、本心は嫌に決ってる。とにかくこんなものはやめようじゃないか。第一、これをつけてる女優と芝居したって気分が出ないよ」 「そうか、みんな反対なのか?」  中原さんは変に冷たい口調でいったあと、 「それなら勝手にするがいい。この劇場が潰れても知らんぞ」  急にそんな捨て台詞を残して、出て行ってしまった。      15  私があわてて後を追おうとすると、ゴロちゃんが、 「放っとけよ」 「でも、中原さんに匙《さじ》を投げられたら困るからね」 「大丈夫だよ。彼は浅草やこの劇場《こや》が好きなんだし、他に行き場所がない男だよ。明日になればけろりとした顔で出てくるよ」  ゴロちゃんは平気な顔でいった。  しかし次の日の昼になっても、中原さんは出て来なかった。  私たちはがらんとした客席に向って同じ芝居と踊りを演《や》ったものの、全く意気があがらなかった。  やはり中原さんがいないとこの劇場は駄目なのだと、私は思った。  貞操帯は止めるとして、それなら何をしたらいいか、わからないのだ。  最後の回が力なく終った時には、みんなお通夜のような顔になってしまっていた。  圭子は、「私が勇気がないからいけないんです」といって泣き出すし、久美子と加代は青い顔で黙り込んでしまっている。  ゴロちゃんが劇場を出て行ったと思うと、エア・シップを五つ買って来て私に押しつけた。 「何なの? これ」  と私がきくと、ゴロちゃんは、 「それを持って中原さんのところへ行ってくれないかな。君は彼のお気に入りなんだから」 「別にお気に入りじゃあないよ。いつも叱られてばかりいるよ」  私は尻込みした。  中原さんのことは尊敬しているが、同時に怖い存在でもある。それに、私が行ったぐらいで中原さんが機嫌を直してくれるとは思えなかった。  私が迷っていると、圭子が泣いたあとの腫れぼったい眼で、 「私も行きます。私も一緒に行って、中原のお兄さんに謝りたいんです」 「そうだ。二人で行って、何とか明日は彼を連れて来てくれよ」  ゴロちゃんは私の肩を叩いていった。ダンディで口の達者なゴロちゃんだが、難しい事になると他人に押しつけて、するりと逃げてしまう。 「秋月のお兄さん、行きましょう」  と圭子にいわれて、私もやっと中原さんに会いに行く勇気がわいてきた。叱りつけられるのは覚悟の上である。  浅草の芸人はたいてい芸人横丁といわれる田島町に住んでいるのだが、中原さんはなぜか地下鉄横丁にある食堂の二階に一人で住んでいた。  六畳の部屋は本で一杯だった。  中原さんは高く積まれた本の間に布団を敷いて寝ていたが、私たちを見ると黙って布団を片づけて、座り直した。 「これ、ゴロちゃんからです」  といって私は、預かって来た五個のエア・シップを中原さんの前に置いた。  それでも中原さんは黙っている。 「私がいけなかったんです。何でもやりますから、帰って来て下さい」  と圭子が畳に手をついて、中原さんに謝った。  中原さんがなおも押し黙っているので、私はそれ以上、何をいったらいいのかわからなくなって、積みあげてある本を見ていた。  背表紙を眼で追うと、演劇の本に混って中央公論が何冊もあったり、野呂栄太郎の『日本資本主義発達史』や小林多喜二の本があったりする。  こんな本を読んでいたら、共産党の同調者と思われて危いのではないかと、私は心配になったりした。サキソフォンの寺田のことがあったからである。 (それにしても、寺田はどうしているだろうか?)  と考えたとき、中原さんがふいに、 「君はもう帰ってくれ」  と私にいった。  それに続けて、圭子に向って、 「君にはちょっと話したいことがある」 「彼女をあまりいじめないで下さい」 「そんなことはしないよ」  と中原さんがいったので、私は階段をおりて外へ出た。  自分の下宿に向って歩き出しながら、中原さんはやはり圭子のことを好きなのではないかと考えた。それでも残して来た彼女のことが心配になったり、中原さんに対して嫉妬の感情は起きて来なかった。  その夜、中原さんと圭子の間に何があったのか、私は知らない。翌日、私が劇場へ出ると、中原さんはもう来ていた。  だが圭子の方は、昼になっても出て来なかった。  ゴロちゃんたちは中原さんが出て来たのでほっとしていたが、私は圭子が休んだことが気になった。 「彼女、大丈夫ですか?」  と私がきくと、中原さんは、 「昨夜、送って行ったら、ニコニコしていたよ。急用が出来たんじゃないかね」 「中原さんが家に帰らせたんじゃないんですか? 君は浅草に向かないといって」 「彼女にとってはそれが一番いいと僕は思っているが、昨日はそんなことは何もいわなかったよ」 (それなら彼女だけ残して、何を話したんだろう?)  と私は聞きたかったが、やきもちを焼いていると思われるのが嫌で、その言葉を呑み込んでしまった。  二回目の終り頃になっておやじさんが、夕刊を片手に楽屋に飛び込んで来た。 「大変だ!」  と大声で叫び、何事だろうと集った私たちの前に、手に持っていた夕刊をどさりと置いた。 「圭子のことが新聞にのってるんだ」  とおやじさんがいったので、私はぎょっとした。四人目の犠牲者に圭子がなってしまったのかと思ったからだが、 「今、彼女は警察にいるそうだ」  というおやじさんの言葉で、私もゴロちゃんたちと一緒に新聞に眼を落とした。 〈偏奇館の踊り子、また襲われたが、今度は無事。前代未聞、貞操帯が彼女を守る。襲った痴漢もギャフン〉  そんな大見出しで、笑顔の圭子の写真ものっているのだ。 「本当に圭子ちゃんだわ」  と久美子たちがいい、 「こいつはすげえや」  とゴロちゃんや鉄ちゃんが声をあげた。  高田が声を出して記事を読んだ。 「昨夜十時頃、千束町の空き家で女の悲鳴が聞こえた。折から通りかかった象潟署の巡査が中に踏み込んだところ、若い女に馬のりになった男がけしからぬ所為に及ぼうとするところだった。巡査はその男を逮捕し、連行して取調べたところ、通称エンコの秀というスリであった。危く助かった女性は六区の劇場、偏奇館の踊り子圭子さん、十八歳とわかった。圭子さんが話したところによると、この日、劇場がはねて、自分の下宿に帰ろうと歩いていたところ、いきなり背後より襲われ、空き家に引きずり込まれたのだという。幸いにも彼女は貞操帯をしていたおかげで、乙女の操を暴漢から守ることが出来たのである。  同嬢の語るところによると、偏奇館では度重なる殺人事件から身を守り、操を守るため、女優と踊り子たちはすすんで貞操帯をつけており、それが図らずも役に立ったわけである。こうしたもので自分を守らなければならないとすると、世の退廃も極まれりというべきか」 「偏奇館の女優と踊り子はみんなつけてるなんて、嘘もいいところだわ」 「圭子ちゃんがなぜそんな嘘をついたのかしら」  加代や久美子たちが眉を寄せて文句をいい始めた時、ベルが鳴って最終回の幕が開いた。  ゴロちゃんたちはガヤガヤと新聞のことを喋りながら、楽屋を出て行った。  私は楽屋の小さな窓から外を見ている中原さんの背中に向って、 「これは、あなたが彼女にやらせたことでしょう?」  といった。  中原さんは私に背を向けたまま、 「何のことだ?」 「昨日、僕が帰ったあと、彼女を説き伏せてやらせたんでしょう? 例の貞操帯をつけさせ、エンコの秀ちゃんにも金をやって、芝居を打ったんでしょう?」 「芝居?」 「そうです。僕は秀ちゃんによくハトヤで会いますが、彼は他人のものを掏《す》るけど、女を襲ったりはしない男ですよ。気のいい奴です。彼が突然、圭子を襲うなんて信じられませんよ。彼女だって夜おそく、貞操帯をつけて歩いていたというのはおかしいです」  私は相変らず窓の外を見ている中原さんに向って勢い込んでいった。 「エンコの秀ちゃんだって若い男だ。ひとりで歩いている圭子を見て、むらむらっとしたのかもしれん」 「信じられませんね。第一、昨夜は中原さんが圭子を下宿へ送って行った筈でしょう? それなのに、彼女がなぜ十時過ぎに外を歩いていたんですか?」  私がなおもきくと、中原さんはくるりと振り向いて、怖い眼で睨んだ。 「君は何をごたごたいってるんだ? これで結果的にはすごい宣伝になったじゃないか。そうだろう? 君みたいにきれいごといってて、この劇場が満員になるのか?」 「しかし、圭子の気持が──」  と私がいいかけたとき、高田が興奮した顔で楽屋に飛び込んできて、 「外を見て下さいよ。テケツの前に行列が出来てますよ!」  と叫んだ。  私と中原さんは窓の外を見下ろした。  高田のいう通り、さっきまで閑古鳥が鳴いていた切符売《テケツ》場の前に長い列が出来ているのだ。  夕刊の記事のせいに違いなかった。それに、間もなく午後八時になる。六区では午後八時から各館とも一斉に割引料金になるのだが、それを考えても行列など出来たことはなかったのである。 「おやじさんは、もう有頂天ですよ」  高田がやたらに喜んでいる。 「これでいいんだよ」  と中原さんは私にいったが、私はまだ納得出来なくて、 「劇場に客が入れば、彼女の気持なんかどうでもいいんですか?」 「彼女のところに行ってやれよ」 「話をそらさないで下さい」 「圭子は事情聴取がすんで、もう自分の下宿に帰っている筈だ。君が行って、連れて来てくれ。久しぶりに満員になったお祝いをやろうといってね」  中原さんはそういって私を楽屋の外に無理矢理押し出した。      16  私は裏口から出て、圭子の下宿に急いだ。  どう考えてもこれは、中原さんの創った芝居だと思う。  スリの秀さんのことは私だけでなく、ハトヤの常連たちみんなが知っている男である。小柄ですばしっこくて、スリだとわかっていても、ハトヤのおかみさんもあの店へ行く芸人たちも平気でつき合っていた。人の好いところがあって、女に手を出したり、貧乏人の懐を狙ったりはしなかったからである。  偏奇館にも時々、木戸銭をちゃんと払って見に来ていた。そんな時、秀さんは私たちに迷惑をかけては悪いと思って、劇場《こや》の中では絶対に自慢の指を働かせなかった。  そんな秀さんが圭子を襲う筈がなく、中原さんに頼まれて一芝居打ったに違いないのである。  圭子はまだ下宿に帰ってなかった。  私は急に心配になって来て、夜の通りを走って象潟署に向った。  芝居だということが警察にわかってしまって、油をしぼられているのではないかと思ったのである。  象潟署に着いて圭子のことを聞くと、受付の巡査は黙って私を二階に連れて行った。私が階段を一緒にあがりながら、 「彼女はどうかしたのですか? まだここにいるんですか?」  ときいても、大男の巡査は妙に緊張した顔で押し黙ったままである。  私は暗い方へと想像を走らせて、ますます心配になってきた。  その巡査は私を二階の廊下に待たせておいて、今度は山路刑事を連れて来た。  山路が私たち偏奇館の人間をこころよく思っていないのはわかっていたから、これで不安が的中したと思った。  しかし今日の山路はいつもと違ってにこにこ笑っていて、その上、身構えている私に向って、 「ご苦労さん」といったのである。  私はまごつきながら、 「彼女はまだここにいるんですか? 連れて帰りたいんですが」 「いや、ここにはいない。家に帰ったよ。迎えが来てね」 「僕以外に迎えが来たんですか?」 「そうだよ。君たちは彼女の素姓を知っていたんだろう?」  急に山路は探るような眼つきになった。私は相手が何をいおうとしているのか測りかねたが、ここはあいまいに答えておいた方がいいだろうと考えた。 「まあ、うすうすとはね」 「やっぱりそうか」  山路は小さな溜息をついた。この山犬のような刑事にしたら珍しいことだった。私が黙っていると、山路は「やっぱり知っていたか」と繰り返してから、 「実はあの夕刊を見て、屋敷の人間がびっくりして駈けつけたんだ」 「屋敷のですか?」 「そうさ。署の前に車が停まって、厳めしい顔の老人がおりて来た。あとでわかったんだが、あの屋敷の執事だったんだよ」 「執事ですか?」  私はまだ事態が呑み込めなくて、馬鹿みたいに山路の言葉をおうむ返しに繰り返していた。 「北条閣下のお嬢さんだったんだよ、彼女は。君たちはうすうす知っていたんだろう? 知っていてあんな舞台を勤めさせたということになると、これは大変だぞ」  山路は脅かすように私を睨んだ。 (北条閣下?)  私が知っているのは、先頃、退役した北条陸軍大将という人である。日露戦争に武勲をたてた人で、よく雑誌のグラビア頁に写真と座右の言葉がのっていた。  あの北条元大将なのだろうか?  私がぽかんとしていると、山路はじれったそうに、 「事態が呑み込めているのかね?」 「わかっています」  と私はいった。そう答えるのが一番無難だと思ったからである。  山路は何度も咳払いしてから、 「本来なら君たちを逮捕しなければならないんだが、北条家の意向として、全てを穏便におさめたいということなので、君たちが閣下のお嬢さんを舞台に立たせたこと、それも退廃的な舞台に立たせたことは不問にする」  といった。  いかにも恩を売るようないい方だったが、私にとっては驚きの連続だったし、ここで山路を怒らせても仕方がないので、 「ありがとうございます」  と頭を下げた。  山路は更にポケットからのし袋を取り出して、もったいぶった手つきで私に渡した。 「何ですか? これ」  と私がきくと山路は、 「とにかく娘が世話になったといわれて、北条閣下が君たち偏奇館の連中に賜ったものだ。執事が君たちに渡してくれと、私に預けていかれたんだよ。ありがたく頂戴しておきたまえ」 「いいんですか?」 「ああ。ただし、そのお礼に籠められている北条閣下の気持も、しっかりと汲み取って貰いたい」 「よくわかりませんが」  と私がいうと山路は、そんなこともわからないのかといった顔になって、 「一人娘が六区の劇場に出ていたなんてことは、北条家にとってこの上ない不名誉なことだ。だから君たちに口外しないでくれといっているんだよ。それを判って差しあげなきゃいかん。わかったかね?」  と山路は強い調子でいった。      17  私は半ば呆然とした気持のまま偏奇館に帰り、みんなにその話をし、貰って来たのし袋を見せた。  漫才の二人は顔を見合せて、そういえばあの娘は品があったといい、踊り子たちは眼を丸くしていた。 「いくら入っているか見てみろよ」  と現実的なことをいったのはゴロちゃんだった。  私が封を切ってみると、中に一円札が五十枚入っていた。分厚い筈である。それを見てゴロちゃんが歓声をあげた。 「まあ、ありがたく貰っておいて、豪遊しようじゃないか」  鉄ちゃんがいった。  等分に分配しろという者もいた。 「中原さん、どうしますか?」  と私は助けを求めた。 「そんなこと、相談することもないだろう。貰ったものなら使ってしまおうじゃないか」  ゴロちゃんがせっかちにいった。 「でも、この五十円にはいろいろな意味があるんです」 「要するに、家出したあの娘を助けてやった。そのお礼なんだろう?」 「それだけじゃないんです。娘のことは黙っていてくれという、北条家の依頼も籠められているんです。象潟署に来た北条家の執事がそういっていたそうです」 「それなら黙っててやろうじゃないか」  とゴロちゃんはやたらと簡単にいう。それでも私は不安だった。ゴロちゃんにしても鉄ちゃんにしても、いや、他の座員にしても、口が軽かったからである。 「中原さん、どうしますか?」  と私はもう一度、彼の助言を仰いだ。が、中原さんもあっさりと、 「折角、貰ったんだから、きれいに使ってしまおうじゃないか。圭子のことは黙っていればいいんだろう」  といった。  だが、黙ってなんかいられなくなった。  その日のうちに、どこで嗅ぎつけたのか、新聞記者たちがどっと押しかけて来たからである。  誰に聞いたのか記者たちは口々に、 「この劇場《こや》に北条元大将の令嬢が働いていたそうだね」 「貞操帯をつけていたっていう娘が、その令嬢なんだってねえ」 「彼女の印象を聞きたいな。それと、あんた方の感想もね。北条元大将の令嬢と一緒に芝居をやっていた感想でも」  と私たちに質問を浴びせかけてきた。  私が困ったことになったなと思っていると、中原さんが、 「僕が代表して答えるから、こっちに来て下さい」  と記者たちを楽屋の処へ引っ張っていった。  中原さんなら大丈夫だろうと、私は彼が記者たちを上手く捌いてくれるのを期待したのだが、翌日の朝刊を見てびっくりしてしまった。  圭子のことを秘密にするどころか、彼女が私たちの偏奇館へやって来た事情から舞台に立ったいきさつや、貞操帯のことまで事細かに書かれていたからである。  おかげで偏奇館も芝居も一躍有名になって、観客が詰めかけた。おやじさんは今回は抜け目なく圭子の舞台写真を貼り出して、この娘が北条閣下のご令嬢と、説明文まで自分で書いて写真の横に貼りつけた。  一回目、二回目と観客が劇場にあふれて、みんなを有頂天にさせた。が、私は喜べなかった。  中原さんが新聞記者たちに圭子のことを抑えるどころか、逆に喋りまくり、それが朝刊の記事になったと思ったからである。  私は貞操帯のことで中原さんに裏切られ、今度のことでまた裏切られたような気がした。  この日、劇場がはねたあと、私はいったん下宿に帰り、夜おそくなってから中原さんのところへ出かけた。  楽屋で中原さんと喧嘩はしたくなかったからである。  中原さんは布団の上に寝転んでいたが、私が二階にあがって行くとむっくりと起き上った。 「中原さんに聞きたいことがあるんです」  と私が切り口上でいうと中原さんは、 「わかってる」  といった。  子供でも相手にするようないい方に、私はむっとした。 「何がわかってるんですか?」 「君がここに来た理由さ。僕が新聞記者の連中に彼女のことを洗いざらい喋ったと思って、それを詰問しに来たんだろう?」 「それだけじゃありません」 「他に何があるのかな」 「記者の人たちが劇場に押しかけて来たのも、中原さんが電話を掛けて呼んだんじゃないんですか? 北条家の執事は象潟署で令嬢を引き取っていったんですが、その時点で記者の人たちは何も知らない筈なんです。警察が新聞にいう筈がありません。こう考えると、記者の人たちが突然、楽屋へ押しかけて来たのは、僕たちの誰かが通報したに違いありません」 「それが僕だというのか?」 「ええ。中原さんがやったと、僕は思っています」  と私はいった。  中原さんはふいにクスクス笑い出した。 「そんなにむきになっていうことでもないだろう」 「でも北条家では、娘のことは内緒にして貰いたがっていたんです」 「それは家族としたら当然だろうと思うよ。しかしそんな声をいちいち気にしていたら、浅草で芝居なんか出来ないよ。とにかく当てなきゃならないんだ。われわれの劇場みたいな、小さな金のないところじゃあ、これが絶好のチャンスなんだよ。圭子が貞操帯をつけていて暴漢から身を守ることが出来たというニュースが新聞にのった。ここでそれを決定的なものにしなきゃあ、客は来ないんだ。半端な正義感とかきれいごとじゃあ、芝居をやって飯を食っていけないんだよ。そのくらいは君にだってよくわかっている筈だ」  中原さんは笑いを消してじっと私を見つめ、喋りまくった。  中原さんがこんなに熱っぽく私に話したことはなかった。 「芝居さえ当れば何をやってもいいんですか?」 「今の僕たちには、何でも許されているんだよ」  と中原さんはいった。 「わかりませんね。なぜ許されていると思うんですか?」 「間もなく何もかも終りになってしまうからさ」 「終りになるなんて僕は思いませんよ」  と私がいうと、中原さんはひどく乾いた眼になって私を見た。 「本当にそんなに楽観的なのか? まだまだ大丈夫だと思い込んでるだけなんじゃないのか?」 「昨日も今日も、別に変ってないじゃありませんか? 六区を歩けばいつものように人が集ってるし、割引の午後八時になればテケツの前に人が並んでますよ。浅草寺の境内で鳩にやる豆を売ってる婆さんだって、ずっと出てるじゃありませんか。ハトヤに行くといつも六区の芸人がいて、馬鹿話をしてますよ。うちの偏奇館だって同じです。ゴロちゃんは相変らず女の子にコナをかけてるし、鉄ちゃんは宙返りの練習をやってます。定さんは楽屋で内職をしながら、漫才の練習をやってるし──」 「この浅草六区の中は変らないように見えるけど、外はすごい勢いで変っていってるんだ。それも悪い方向にね。軍部は中国との戦争にどんどん深入りしていくに違いない。思想統制だってもっと厳しくなってくる。その中に浅草六区だって容赦なく新体制の風が吹き荒れてくるさ。それも間もなくだよ。それまでの僅かな時間、僕は六区のあの劇場で楽しく過ごしたいんだよ。君だって同じだろう? ゴロちゃんだって鉄ちゃんだって、女の子たちだって同じ筈だ。それには芝居が当って客が入って来なきゃいけないんだよ」  中原さんは私を見すえるようにしていった。それは私を説得しているというより、自分にいい聞かせている調子だった。  私にだって、中原さんのいわんとしていることの半分は理解できていた。  今年の五月十五日に陸軍の青年将校たちが犬養首相を射殺してから、ますます暗い時代に入って来ている。その前にも血盟団員が、団琢磨三井合名会社理事長を射殺している。テロの時代になってしまったのだ。そんな血腥い風と一緒に、日本はどんどん戦争へ向っているような気がして仕方がない。東北では農民が飢え、娘の身売りが行われ、非常時、非常時とやかましい。  嫌な時代だということは、私にもよくわかっている。  だが頭の中ではわかっていても、毎日の生活の場では実感として私に迫っては来ないのだ。浅草で芸人たちに囲まれて生きている限り、私は不安を忘れることが出来るからだろう。時々、新聞できな臭い戦争のニュースに接したり、象潟署の刑事が押しかけて来たりした時に、中原さんのいう冷たい風に触れたような気もするのだが。  私が黙っていると、中原さんは突然、 「怖いんだよ」  とぽつりといった。  まるでその怖さを忘れるために、より一層めちゃくちゃな世界にのめり込んでいくんだといっているようにみえた。  だがその時の私には中原さんの怖いというのが、どの程度のものかわからなかった。      18  圭子がいなくなってしまったので、偏奇館では彼女の代りに踊り子の一人、妙子を抜擢することにしたが、中原さんはこの際、殺される女優を新しく募集したいと提案した。  そうすることが、またこの芝居の宣伝になるというのである。 「北条家の令嬢のことや貞操帯のことがあって、連日、客が押しかけているが、油断は出来ないよ。絶えず何か刺戟的なことをやっていなければ、この偏奇館は潰れてしまうんだ。確かに鉄ちゃんやゴロちゃんはいい俳優だ。でも、こういうと怒るかも知れないが、エノケンのように出ているだけで客が来るという俳優じゃない。だからわれわれがこの六区の興行街で生き残っていくには、常に目立つことをしていなければならないんだ。それがチンドン屋みたいなことだって構わない。新人女優募集もその一つなんだよ。今なら応募してくる女の子もいると思うけど、芝居の人気が落ち目になれば誰も来やしないんだ。やる時は今しかないんだよ。今なら上手くいくし、宣伝にもなる」 「本当に応募者がいるかね? 映画会社が新人女優を募集した時も、あまり集らなかったんじゃないのか?」  ゴロちゃんはそういって、疑わしげに中原さんを見た。  都新聞に出ていたので、ゴロちゃんのいったことは私も知っていた。蒲田の撮影所が、銀座の女給の中からスターの卵を見つけようとしてやった採用試験である。審査員は久米正雄とか古賀政男といった賑やかな顔ぶれで、銀座パレスで行われたらしい。七十人の女給さんが集ったらしいが、その後のことはわからない。  映画会社が主催したものでさえ七十人しか集らなかったのだから、われわれの劇場《こや》が募集しても、とゴロちゃんはいいたかったに違いない。  だが中原さんは逆に眼を輝かせて、 「そうだ。素人を募集するよりも女給を募集した方が面白いし、度胸があるだろうからすぐ舞台にあげられる。自分のひいきの女給が舞台に出るとなれば彼女の客も見に来るというもので、一石二鳥どころか三鳥になる。すぐ実行しようじゃないか」 「一人か二人しか来ないかも知れないぜ。それに売れっ子の女給は月に百円や二百円は稼いでいるんだ。それ以上、ここで給料を払えるのかね?」  とゴロちゃんが皮肉をいった。  おやじさんがあわてて、「そりゃあ無理だよ。うちで払えるのはせいぜい二十円だ」といった。  しかし中原さんはますます意気軒昂で、 「一人でも二人でも、応募者がいればいいんだ。月二十円でも、すぐ舞台に立てるという魅力は相当な力になる筈だよ。とにかく実行だ。すぐポスターを作って、浅草から上野のネオン街に貼り出そう」  といった。  ゴロちゃんもどうなるか見てみようということで折れ、私たち文芸部でポスターの文句を考えた。といっても中原さんがさっとメモしたものを、私と高田が苦心して絵入りのポスターに仕上げたのである。 〈美しい夜の蝶の皆さん  当劇場で「踊り子殺人事件」の主演をやってみませんか? ぜひこの役を魅力的な貴女にやって貰いたいのです。  来る十八日に当劇場で採用試験を行いますので、奮って応募して下さい。時代は貴女を待っています。 [#地付き]浅草偏奇館 文芸部〉   中原さんが描いた絵に私は感動した。  半裸の踊り子が胸にナイフを突き刺してのけぞっているのを、線だけで描いている。唇と胸の血だけを赤く塗った絵はエロチックで退廃の匂いがした。 「素敵ですね。中原さんがこんなに絵が上手いなんて、知りませんでしたね」  と私が正直にいうと、中原さんは照れた顔で、 「これはエゴン・シーレの真似なんだ」 「エゴン・シーレって、どんな画家なんですか?」  私は知らなかったので聞いてみた。 「オーストリアの画家で、一九一八年に二十八歳で死んだ。それも不遇のうちにね。僕は彼の絵の持っている奇妙なエロチシズムが好きなんだ」  と中原さんはいった。  弁ちゃんが謄写版が上手かったので、中原さんの描いたポスターを原紙に切り、五十枚ほど印刷した。  私はひそかに中原さんの描いた原画の方を手に入れた。どうしても彼の描いた退廃的な踊り子の絵に魅かれたからだし、謄写版で弁ちゃんがなぞったものは、その味がなかったからである。  出来あがった五十枚のポスターを、私たちは劇場がはねてから、六区周辺や上野界隈のダンスホールやカフェに配って廻った。  店にいた客も女給も一斉に私たちが持ち込んだポスターをのぞき込み、女たちはきゃあきゃあ騒ぎ、男たちは彼女たちに向って、出てみろよ、応援に行ってやるぜとけしかけた。  どの店でも反応は同じようだったから、私たちは大いに期待していたのだが、十八日に集ったのは七人だけだった。  私やゴロちゃんたちは大いに失望したのだが、企画者の中原さんはかえって平気で、こんなものだろうという顔をしていた。  七人の中からみんなの投票でカフェ「トンボ」の井之内信子という十九歳の娘を採用することにした。といっても、七人を見た瞬間から彼女に決っていたようなものだった。他の六人に比べて、誰の眼にも彼女が一番、若々しく魅力的に見えていたからである。  中原さんが信子に向って採用するというと、彼女は眼を輝かせて、 「東京に出て来た時から、女優になりたかったんです」  といった。 「故郷はどこ?」  中原さんが優しくきいた。 「福島県の会津若松です」  そういえば信子の喋り方には東北の訛りがあった。 「東北はいいねえ。温泉があるし──」  と横から鉄ちゃんがいうと、信子は、 「生活は大変です」 「君は家に仕送りはしなくていいの?」  私は心配になってきいてみた。もし彼女の仕送りで一家が支えられているんだとすると、それに見合うような給料は払えないからである。 「兄ちゃんがいますから」  と信子がいった。私はほっとした。 「君は殺される踊り子の役をやるんだが、怖くはないかい?」  ゴロちゃんがきいた。 「本当に殺されるわけじゃないから、怖くありません」 「でも、うちの女優がもう三人も殺されてるんだ。それでも怖くないか?」  ゴロちゃんが脅かした。 「ゴロちゃん」  と加代がたしなめた。が当の信子は平気な顔で、 「怖がってたら女優にはなれないんでしょう?」 「その覚悟があれば大丈夫だ」  中原さんは笑顔で信子にいった。 「ただ、あたしって演技の勉強をしたことがないんです。それでも大丈夫でしょうか?」  信子はちょっと不安気な眼になって中原さんにきいた。 「君の役は踊り子の一人だから、セリフはあまりない。踊りもそう難しいものじゃないから、三日もあれば覚えられると思うよ。一つだけ必要なのは大胆さだ。恥しがっていたんじゃ、舞台は勤まらないからね」 「大丈夫です。何でもやります」  信子は顔を赧《あか》くして中原さんにいった。 「それじゃあ、試しにあれをつけて貰おうか」  と中原さんがいった。  私は困ったなと思った。相手がいくらカフェの女給だったといっても、いきなり貞操帯をつけて見せろというのは酷だと思ったのだ。 「弁ちゃん、持って来てよ」  と中原さんが構わずにいった。  人のいい弁ちゃんは貞操帯を持って来たものの、当惑した顔で、 「中原さん、いくら何でも初めからこんなものをつけろといっても無理だよ。それに実際につける必要はないんだろう?」 「偏奇館の女優や踊り子は、貞操帯をつけているということになっているんだよ」  中原さんは怖い顔でいった。  信子はどんな反応を示すだろうと、心配と興味の半々で私が見ていると、彼女はしばらく迷っていたが急に手を伸ばし、弁ちゃんの手から貞操帯を奪うように取って楽屋を出て行った。  五、六分して信子が楽屋に戻って来た。その姿を見てゴロちゃんが口笛を吹いた。  信子はスカートを手に持っていた。白い木綿のズロースの上から茶色い皮の貞操帯を締めたのが、素裸よりもかえってエロチックに見えた。  私はそれを見ながら、ふと圭子もこんな風に貞操帯をつけていたのだろうかと思った。  信子は怒ったような顔で、じっと中原さんを見ている。中原さんが黙っていると、彼女はいつまでもその恰好で立っていたかも知れない。遂に中原さんの方があわてた様子で、 「もういいよ」  といった。その瞬間、信子は急に泣きそうな顔になって出て行った。      19  加代が信子に踊りを教えることになった。  カフェやバーの女給の中から女優を採用したということは、都新聞が取り上げてくれた。 〈二百人の中から選ばれた元女給の井之内信子 いよいよ明日から舞台に登場!〉  というポスターを中原さんが作り、六区の電柱や塀に貼って歩いた。 「二百人なんて、すげぇハッタリだねえ」  とゴロちゃんが呆れた顔でいった。 「中原さんは、何としてでもこの芝居を成功させたいんだよ」  私がいうとゴロちゃんは首をすくめて、 「その気持はわかるけど、このところちょっと異常だぜ。好きな女にふられでもしたんじゃないのか?」 「ゴロちゃんは中原さんの女を知ってるの?」 「いや、彼はそういうことは秘密主義だからね。インテリの悪いところさ」  とゴロちゃんはしたり顔でいった。  劇場の方は中原さんの企画が成功して、引き続き満員を続けた。  おやじさんは連日、満員の客席を見てにこにこしていた。  信子は初日こそぎごちなかったが、日を追って踊りも上手くなり、セリフもきっちりしてきた。何よりもいいのは、彼女の持っている色っぽさだった。まだ十九歳だが、大人の色気があって人気が出た。  ゴロちゃんや鉄ちゃんは客の入りの良さに気の悪い筈がなく、張り切っている。弁ちゃんと定さんの漫才は相変らず客受けはしなかったが、大入りが続いていれば馘にはならないだろう。  カフェ「トンボ」時代に信子目当てに通っていたという客が五、六人集って、連日やって来て大声で声援していたが、そのうちに彼女のファンクラブを作り、楽屋に差し入れをしてくれるようになった。  偏奇館近くの寿司栄からのことが多かったが、いつも金がなくてぴいぴいしていた私たちには有難かった。 「信子は福の神だよ」  弁ちゃんが実感を籠めていった。  私も肯きながら、このまま何も無ければと願っていた。あの執拗な犯人がまた信子まで殺そうとするのではないかという不安が、絶えず私にはあったからである。 (それにしても警察は、いったい犯人を捕える気があるのだろうか?)  私はそれが腹立たしかった。  最初、象潟署の山路刑事たちは、サキソフォンの寺田を犯人だといって逮捕した。彼が犯人ではないとわかった今でも、釈放しようとはしない。  エノケンが教えてくれた白いイスパノシーザーに乗っている小野寺議員の息子のことも、私たちは山路刑事に話したのだが、全く取り合ってはくれなかった。  その時、特高の手に渡ったという寺田のその後の様子も聞いてみたのだが、山路は知らないというばかりだった。  日下部に聞いてみようかと思っているところへ、彼から偏奇館に電話が掛ってきた。 「寺田が死んだよ」  と日下部は何の前置きもなく、唐突にいった。 「え?」 「今、警察から連絡があってね。寺田が留置場で病死したから、遺体を引き取りに来いというのだ」 「信じられないよ、死ぬなんて」  と私はいった。 「僕だって同じだ。すぐ行くつもりだが、君の方からも誰か来て欲しい」 「僕が行くよ」  午後七時を回っていたが舞台はまだ続いていたから、私が中原さんに断って、一人で行くことにした。  秋の深まりを肌に感じさせるようなひんやりした夜気の中を、私は象潟署に急いだ。  警察には日下部が先に来ていた。山路刑事が無表情に、白木の柩に納められた寺田の遺体のところへ私たちを連れて行った。 「一昨日、特高課の方から戻されて来たんだが、昨夜になって急に苦しみ出してね。すぐ医者に診せたんだが、心臓発作で間に合わなかった」  山路はそういって医者の書いた死亡診断書を見せた。確かに心不全の文字があった。が、私には信じられなかった。  柩の中をのぞくと、もともと痩せていた寺田だったが、眼が落ち窪み頬骨がとがって、まるで骸骨のようだった。だが顔にところどころ火傷の痕のようなものがあるのに気がついて、私は日下部と顔を見合わせた。それが焼け火箸でも押しつけた痕のように見えたからである。 「寺田は拷問されて死んだんじゃないんですか?」  と日下部が蒼ざめた顔できいた。 「特高課の取調べは、うちと違って厳しいからね。だがこれは病死だよ」  と山路はいった。  うちと違ってとはよくいったものだと、私は腹が立った。こちらの取調べだって、寺田の腹を殴ったりしていたではないか。その山路が特高の取調べは厳しいというのだから、寺田がどんなひどい目にあったかだいたいの想像はついた。 「特高はなぜ寺田をまたこちらへ引き渡したんですか?」  と私はきいてみた。 「うちでも例の連続殺人で、もっと寺田を調べたかったからね」 「しかし寺田はシロですよ。二人目の早苗が殺された時、彼はこの象潟署に留置されていたんですからね」  私がいうと山路は、 「こっちはほかの二件について取調べたんだよ。二人目はどこかの馬鹿が真似してやったんだろう。寺田は二人の女を殺したことはちゃんと自供したよ」 「そんな筈はありませんよ」 「自供書もあるんだ。昨日、全てを自供したあと、心臓発作を起こして死んだんだよ。だからこの男は、病死で救われたんじゃないかね。死刑はまぬがれなかったんだから」  山路は寺田の署名した自供書を私たちに見せた。確かに寺田の署名があったが、その字はふるえていた。  私は京子と節子の二人の踊り子姿に欲情し、関係を迫ったが冷たく拒否されたので、それを根に持ち、劇場《こや》がはねたあと暗がりに誘い込み絞殺、隅田川と上野公園に投げ捨てました──そんな文章のあとに寺田の署名がある。拷問によって自供させたものにしろ、この自供書がある限り裁判所は死んだ寺田に有罪の宣告をするだろう。  私は一層、暗澹とした気持になりながら、日下部と二人で寺田の遺体を引き取った。  家族のいない寺田である。せめて通夜くらいは偏奇館の仲間で営んでやりたいと私は思い、彼の遺体を劇場へ運んだ。  劇場がはねてから全員で楽屋を片付け、柩を置いた。丁度、信子への花束があったので、それで柩を飾った。  楽士仲間の一人が遺体の服が汚れていて可哀そうだからと、自分の下宿から新しい浴衣を持って来た。もう一人の楽士と二人で遺体の服を脱がせ始めたが、そのうちに突然、「こりゃあひどい!」と叫び声をあげた。  裸にされた寺田の遺体は、見るも無惨だった。胸があばら骨が見えるほど痩せているのに、腹部が赤黒く腫れている。恐らく、殴られるか靴で蹴られたのだろう。睾丸も同じように腫れていた。両腕や太股に顔と同じように火傷の痕が点々とあるのは、煙草の火だ。押しつけられたのか。その他、木刀で殴られたと思われる傷もある。  私は怒るより先に息苦しくなってしまった。踊り子や女優の中には、のぞき込んで泣き出す者も出た。 「やったのは特高だろう。これだけ痛めつけても党員だという証拠も出て来ないし、アナーキストだという証拠も見つからない。そこで仕方なく刑事の方に戻したんだと思うね。山路刑事が弱り切っている寺田に無理矢理、自供書に署名させたんだ」  と日下部がいった。 「どっちにしろ彼を殺したのは警察でしょう? 弁護士さん、こんな目にあわされても文句はいえないんですか?」  高田が引きつったような顔で日下部に詰め寄った。 「無理だね」  日下部は吐き捨てるようにいった。 「なぜなんです? これが病死に見えますか? 特高か刑事課か、どっちがやったのかわからないが、殺したのは警察ですよ。象潟署の刑事を殺人で告発できないんですか?」 「そんなことをしても無駄だよ。そんな告訴が受理されたことがないんだ。警察にとって拷問は日常的に行われているし、病死の診断書も作ってあるからね」 「じゃあ泣き寝入りですか?」 「それが現実なんだよ。僕だって腹が立って仕方がないがね」  日下部は小さく肩をすくめた。  彼の言葉は多分、本当だろう。警官が容疑者を拷問したということで告発されたとか、免職になったといった話を、私は聞いたことがなかったからである。 「畜生! 口惜しいじゃねぇか」  突然、鉄ちゃんが自分の拳で机を叩いた。みんなの眼が鉄ちゃんに向けられると、彼はじろりと見廻して、 「このまま黙ってるなんて、おれには出来ないぜ。おれは正直いって、このサキソフォン吹きが好きじゃなかったよ。陰気で、何を考えてるのかわからない奴だったからね。だがさ、おれたちの仲間の一人には違いないんだ。つまり友だちだよ。そいつがこんな目にあったんだ。おれは何とかいう刑事を袋叩きにして、瓢箪池に放り込んでやる」  と息巻いた。 「おれも手伝うぜ」  ゴロちゃんがいう。  二人ならやりかねなかった。以前、この近くで嫌われていた刑事が夜おそく、酔って瓢箪池の傍を歩いていて、何者かに放り込まれたことがある。警察が必死になって犯人を探しても見つからなかったが、偏奇館の仲間たちは、鉄ちゃんかゴロちゃんがやったのだろうと噂し合っていたのである。 「私も手伝わして貰いたいな。これでもドサ廻りの時、土地のヤクザとやり合ったことがあるんだ。ケンカの仕方は知ってるよ」  弁ちゃんまでがいい出して私はあわてた。  このまま放っておくと、全員で山路刑事を袋叩きにしかねない。 「気持はわかるが、馬鹿なことはやめてくれ」  と私はいった。  山路刑事は偏執狂的なところがあるから、こちらが怒りにまかせて瓢箪池に投げ込んだら、仕返しに何をやるかわからなかった。殴り合いですめばいいが、山路のことだから必ず偏奇館そのものを潰しにかかってくるだろう。 「中原さん、あんたはどうする気なんだ? このまま泣き寝入りする気じゃないだろうね?」  鉄ちゃんは矛先を中原さんに向けた。私は中原さんがどんな答え方をするかと、じっと見つめた。中原さんも気性の激しい方だが、同時に現在、当っている芝居の作者でもあるからだ。  中原さんは落ち着いた様子で、 「これからも今の芝居を続けていきたいから、協力して欲しい」  といった。ゴロちゃんが眼をむいて、 「そんなことを聞いてるんじゃないよ。サキソフォンの仕返しの方法を相談してるんだ」 「だから答えている。山路刑事は拷問で、寺田に二つの事件の犯人だという自供書に署名させたんだろう。そいつを殴ったり池に放り込んだりしたって、寺田は浮ばれないよ。一番いいのは真犯人を見つけ出して警察の鼻を明かしてやることだ。そうは思わないかね? 今まで犯人はうちの劇場を見に来ている。あの芝居を続けていれば、犯人は必ずやってくる。そこを捕えてやろうじゃないか? もしあの芝居をやめてしまったら、犯人は二度と現れなくなるよ。僕はそのことをいってるんだ」 「犯人はまたやるかね?」 「やる筈だよ。今までの事件を見ていると、犯人の行動は一種の病気だからね」  と中原さんはいった。 「ちょっと」  日下部が小声で私にいい、楽屋の外へ連れ出した。 「無駄かも知れないが、やってみるよ」  と日下部は紅潮した顔でいった。 「やってみるって、何を?」 「遺体を知り合いの医者にみせて、本当の死因を調べてみる。死因が拷問によるものとなったら、死亡診断書を書いて貰い、彼を取調べた刑事たちを告発してみるよ。結果はわかっているが、君の仲間のあの怒りを見ていると、何かやらなければという気になってね」 「ありがたいが、君が憎まれるということはないのか?」 「国家権力にたてつくわけだからね。大いにあり得るが、まさか弁護士の僕を殺しはしないだろう」  と日下部は笑ってから、 「ただ、今もいったように、期待しないで欲しい」 「やってくれるだけでいいさ。君が告訴してくれるだけで、鉄ちゃんやゴロちゃんたちの気持もおさまるだろうからね。僕もやってみようと思っていることがあるんだ」 「どんなことだね?」 「中原さんがいっていたことさ。僕も中原さんに同感なんだ。寺田が犯人じゃないとすれば、真犯人はいぜんとして大手を振って歩き廻っていることになるし、そいつは必ずうちの舞台を見に来る筈だ。だからあの舞台は何としても続けていく。警察が妨害してもね」 「真犯人の見当はついているのかね?」 「いや」 「君が話していた、豪勢な自動車を乗り廻している偉い人の息子というのはどうなんだ?」 「小野寺貴族院議員の息子のことか?」 「ああ。そうだよ」 「名前は光彦、二十八歳というのはわかっている。なぜか踊り子や女優に興味を持っていて、花なんか贈ってくるんだが、それだけで犯人とは断定できないからね」  と私はいった。 [#改ページ]   第五章 花束の男      1  上海事変の方は停戦協定が出来たが、戦争の匂いはいっこうに消えそうになかった。  関東軍が満州を守るために、華北に集結している中国軍と戦火を交えそうだという噂が絶えない。  石橋湛山が書いているように、これは際限がないのだ。日本を守るために朝鮮を手に入れ、その朝鮮を守るために満州国を作り、そして次は満州を守るために中国と戦っている。  私たちは漠然とだが、戦争が更に広がるのだろうという予感を持っていた。そうなれば私たちは否応なしに戦場にかり出されるのだろう。  それまでの束の間の時間、私は精一杯、青春を楽しみたかったし、その支えが浅草六区であり、偏奇館だった。 『踊り子殺人事件』は相変らず客の入りがいいのだが、それでもやはり少しずつ空席が多くなっていくようだった。売り物がこれしかない偏奇館としては、もしこの芝居が駄目になったら、多分、劇場《こや》を閉めるより仕方がないだろう。  だから、昨日より今日が五人、客が減っても、私たちはぴりぴりと神経質になった。私も他の連中もこの浅草六区が好きで好きでたまらないのだし、一日でも長くここにいたいのである。そのためには、この「偏奇館」という梁山泊を失ってはならない。  おやじさんも元の天ぷら屋には戻りたくないとみえて、中原さんの顔を見ると、 「何かまたカンフル注射みたいなものを考えつかないかね?」  と頼んだ。  中原さんだって、そんな手品みたいな真似は出来ないだろう。その証拠に、客の入りはじりじり悪くなっていった。  何となく息苦しい時代だからこそ、浅草にやってくる客は笑いと刺戟を求めるのだし、それもより強いものをとエスカレートしてくる。  その要求に応えられなくなれば、その劇場は潰れてしまうのだ。 「ちょっと不謹慎かも知れないが、またこの劇場で殺人でも起きてくれれば、前のようにどっと客が押しかけてくるだろうがね」  ゴロちゃんは、もちろん女の子たちのいない時にだが、そんなことをいったりした。  中原さんは苦笑して、 「犯人がどこの誰かわからないのに、あと一人殺してくれともいえないだろう」 「しかしこのままじゃあ、そのうちにこの劇場は潰れちまうぜ」  ゴロちゃんは例によって一銭銅貨を投げながらいった。その通りなのだ。このままではじり貧は間違いないし、客の足はびっくりするほど早く遠のくものである。それは経験でみんなが知っていることだった。 「みんなが協力してくれれば、何とかなるかも知れない」  と中原さんがいった。 「どうするんだ?」  鉄ちゃんが首を突き出すようにして中原さんを見た。 「僕たちで事件をでっちあげる」  中原さんはあっさりといった。あまりにも簡単にいったので、私は一瞬、中原さんが何をいったのかわからなかったくらいである。 「でっちあげるって、具体的にどうするんですか?」  と間を置いて私がきいた。 「犯人に代って僕たちで脅迫の手紙を書くんだ。そしてそれを新聞記者に見せる。警察にもいう。いつ殺されるかわからない状況で芝居が行われていると、観客には思わせるんだよ。客が見ている目の前で第四の殺人が起きるかもしれない。そうなればまた怖いもの見たさで、客も押しかけてくると思うんだ」  中原さんはみんなの顔を見廻した。 「そいつは面白いや。新聞記者と警察を騙すのは面白いじゃないか。やってみようや」  ゴロちゃんがすぐ賛成した。 「大丈夫かね? そんなことをして。今でも警察に睨まれているのにだよ」  心配気におやじさんがいった。 「警察には貸しがあるから平気ですよ。何かあったら僕が交渉します」  と中原さんはきっぱりといった。貸しというのは、もちろんサキソフォンの寺田が殺されたことをいっているのだと、私にもすぐわかった。直接、寺田を殺したのは特高だが、象潟署の山路刑事たちが寺田を特高に引き渡したのだ。殺されるかもしれないのを承知で。だから貸しがあると中原さんはいうのだろう。だが向うは多分、そんな義理人情は持ち合せていないだろうと、私は思った。  中原さんはポケットから紙切れを取り出して、 「実はもう例の脅迫状を作ってみたんだ。読むから聞いてくれ」  と私たちにいった。 〈いい加減に下品な芝居はやめろ。お前たちは腐った豚だ。日本の恥だ。尻を振るメス豚を殺してやる〉  中原さんが読んだのは、そんな脅迫状だった。 「メス豚はひどいわ」  加代が口をとがらせた。中原さんはニコリともしないで、 「そのくらい激しい手紙じゃないと、新聞記者は喜ばないよ。それにあくまでもニセの脅迫状だよ。客寄せなんだ」 「そして客がメス豚の尻振りに、どっと押しかけてくるって寸法かい」  鉄ちゃんがまぜっ返すようにいった。 「そう願ってるんだが、他にいい方法でもあるか?」  中原さんはじろりと私たちの顔を見廻した。  みんな黙ってしまった。ゴロちゃんにしろ鉄ちゃんにしろ、いい芸人だが、正直いって彼等だけで客を呼ぶほどの人気はなかったし、他の連中も同じだった。  私だって中原さん以上の刺戟的な芝居は書けないのだ。私に書けるのはせいぜい時局に便乗した芝居ぐらいだが、そんなものはやりたくない。菊田一夫のような奇想天外な芝居を書きたいが、その才能がないことは私自身がよく知っていた。 「それでは僕に賛成してくれるんだな」  中原さんが念を押すように、改めて私たちの顔を見廻した時、突然、誰かが、 「僕は──」  といった。  小さな遠慮がちな声だったが、中原さんは敏感に聞き咎めた。 「何かいいたいことがある者は、遠慮なくいってくれ」 「僕は反対です」  同じ声がまたいった。  いつも中原さんの腰巾着みたいで、中原さんに心酔しているように見えた高田が、蒼ざめてはいるが、はっきりと、「僕は反対です」といったのだ。  私もゴロちゃんも、いや、他の連中もびっくりして高田を見た。  中原さんは高田の言葉が聞こえなかったみたいな顔で彼を見て、 「何だい?」 「僕は反対です」 「どう反対なんだ?」 「今、どんな時代か考えてみて下さい」  高田は妙に気負った調子でいった。 「どんな時代かくらいはわかってるよ。息がつまりそうな時代だからこそ、強い刺戟のある芝居が必要なんだ」 「方向が間違っています」 「どんな方向が正しいと思うんだ?」 「われわれ若い演劇人は、民衆のために戦うべきです。僕たちは労働者や農民のことを忘れていますよ。エロ・グロ・ナンセンスを追っていたら、必ず民衆から見はなされてしまいます。いまこそ民衆のための演劇を考えるべき時です」  高田は気負い込んで早口にいった。  ゴロちゃんは口を開けて高田を見ている。  私も高田の口からそんな言葉が出てくるとは思ってもいなかったので、ただ驚いていた。まるで左翼劇団の若者の口ぶりではないか。 「それで君は、どんな芝居をやりたいんだ?」  と中原さんがきいた。 「そうですね、レマルクの『西部戦線異状なし』とか、藤森成吉の『何が彼女をそうさせたか』といった芝居をやってみたいんです」 「僕が駄目だといったらどうするつもりだね?」  中原さんがきくと高田は蒼い顔で、 「お世話になりましたが、やめさせて貰います」 「僕は引き止めないよ」  と中原さんはいい、高田は蒼い緊張した顔で一礼すると楽屋を出て行ってしまった。  私があわてて追いかけようとすると、中原さんが「無駄だよ」といった。 「しかし、今日まで一緒にやって来た仲間ですから」  と私はいった。 「彼は今度、浅草S座で旗揚げする左翼劇団に参加する気でいるんだ。そこに友だちがいるらしい」  中原さんはそんなことをいった。 「なぜ知ってるんですか?」 「同じ劇団が前に『西部戦線異状なし』などやってるからさ。『何が彼女をそうさせたか』もね」  と中原さんはいってから、 「他に反対意見のある者は遠慮なくいってくれ」  と改めてみんなの顔を見廻した。 「すいませんが──」  と誰かが恐る恐るという様子でいった。  定さんが大きな身体をすくませるようにして、 「あたしも漫才ではどうしてもものになりそうもありませんし、といって俳優という柄でもないし──」 「まだコンビで始めたばかりじゃないか」  弁ちゃんが励ますようにいった。が定さんはもう決心がついているという感じで、 「こんな時に申しわけないんですが、あたしもやめさせて頂けませんか」 「やめて当てがあるのかい? 岩手に帰っても仕方がないといってたじゃないか」  弁ちゃんがきいた。 「故郷には帰りません」 「じゃあ、どうするんだ?」 「昨日、偶然、昔の浪曲仲間に会ったんです。そしたら満州へ行かないかって誘われたんです。向うにいる兵隊さんや開拓団の人に浪花節が大もてだっていうんで、もう一度、浪花節をやってみようかと思うんですよ。『壮烈肉弾三勇士』みたいな時局物をやってみようと思っています」 「あんたも満州へ行くのか」  弁ちゃんは小さな溜息をついている。 「一緒に行かないか。君だって一人漫談をやれるんだから」  と定さんはいったが、弁ちゃんは首を横に振って、 「おれは浅草が好きなんだ」  といった。  定さんは律儀な男らしく、すぐやめるとはいわず、日本を出発するのは二週間後だから、それまで偏奇館にいますといった。 「もう反対の者はいないか?」  と中原さんがきいた。  もういなかった。  私はなぜか今度の興行が、偏奇館の最後になるような気がして仕方がなかった。      2  中原さんの作戦は見事に成功した。  新聞記者たちを集めて例の脅迫文を紹介すると、これまでのことがあるので、どの記者も少しも疑わず、大きく取り上げてくれた。 〈脅迫にめげず、この芝居を続けます〉  と新聞に作者である中原さんの決意表明がのり、 〈女優さんも、脅迫なにするものぞと赤い気炎〉  といった記事も出て、にっこり笑っている加代の写真がのったりした。  もちろん象潟署の山路刑事たちもやって来た。  しかし彼等は犯人を逮捕するという気持よりも、私たちに対する反感の方が強かったから、 「この際、非常時にふさわしくない芝居はやめたらどうだね?」  とお説教をして帰って行っただけである。  客の方は中原さんの予想した通り、どっと押しかけて来た。  中原さんがおやじさんに金を出させ、新聞記者に渡して、 〈これがこの芝居の見納めになるかも知れない〉 〈毎日の舞台の上で本当の殺人が起きる可能性も〉  と書き立てて貰ったからでもあった。  ともかく再び大入りが続いて、私たちはほっとした。  そんな中で、浅草S座で「新人民座」という左翼劇団が公演することになったというニュースを聞いた。中原さんのいった通り、看板の中に演出助手として高田の名前も出ていた。  出し物は、高田がやりたいといっていたレマルクの『西部戦線異状なし』と、ゴーリキィの『どん底』になっていた。  その看板を見た次の日だったと思う。中原さんが「秋月君」と蒼い顔で私を呼んだ。 「何ですか?」 「困ったことが起きた」  と中原さんがいった。  客の大入りは続いていて、全員が張り切っているのにと思いながら、 「どうしたんですか?」  ときくと、中原さんは白い封筒を私に見せた。 「今日、これが花束と一緒に届いたんだ。本物の脅迫状だよ」 「じゃあ犯人が?」 「そうだ。犯人が僕たちのやったことに刺戟されて、また犯行に走るのではないかという危惧は持っていたんだがね。こんなに早く反応を見せるとは思っていなかったんだ」  と中原さんが小さな溜息をついた。  私は渡された手紙に眼を通してみた。見覚えのある下手な字で、次のように書いてあった。 〈でたらめな脅迫状に腹が立った。おれはニセモノじゃない。いつまでもやめないお前たちの息の根を止めてやる。覚悟しておけ〉 「他の連中にも見せたんですか?」 「いや、君が最初だ。私はこのまま芝居をやっていきたいんだよ。みんなのってるし、客が入っているからね」 「知らせたら、みんながやめるといい出すと思っているんですか?」  と私は中原さんにきいた。 「もう三人も死んでいるからね。びくつくのが当然だよ」  中原さんは珍しく弱気なことをいった。私はそんな中原さんを励ますように、 「大丈夫ですよ。逃げ出す奴はいないと思うし、みんなで結束して守れば犯人なんか怖くありませんよ。捕えて象潟署の鼻をあかしてやろうじゃないですか。サキソフォンの寺田さんを犯人扱いして殺した警察なんですよ」 「君も強くなったねえ」  中原さんに感心されて、私は照れてしまった。  その日の興行が終ったあとで、中原さんがみんなを集めてホンモノの犯人から届いた脅迫状を見せた。 「僕はこんな脅しに屈する気はないよ。それに秋月君がいいことをいってくれたんだ。みんなで協力して、犯人が現れたら逮捕して、サキソフォンの寺田君を犯人扱いした警察の鼻をあかしてやろうじゃないかとね。みんなもそのつもりになってくれないか」  中原さんがいうとすぐゴロちゃんが、 「ぜひ犯人を捕えたいねえ。捕えて象潟署の刑事に引き渡すとき、向うさんの顔をぶん殴ってやりたいよ」  といった。 「問題は踊り子役の女優さんの気持だが、正直なところを聞かせてくれないか」  中原さんは女優たちの顔を見た。 「私たちは狙われることがないから安心ね」  といったのは二十七歳の小月秀子だった。  君代と通子の二人のベテラン女優も、そうねという顔で肯いていた。  秀子は踊り子役をやっていないが、君代と通子の二人は交替で踊り子役をやっている。考えてみるとこの二人は、一度も犯人に狙われなかったのだ。 「犯人だって若い方がいいからね」  鉄ちゃんは仁丹を噛みながら憎まれ口を叩いた。 「君たちはどうなの? 怖かったらいってくれないか?」  中原さんは加代と信子に眼を向けた。今のところ狙われそうなのは、この二人だった。あの圭子が残っていたら、多分、彼女が真っ先に狙われるだろう。 「あたしは平気。犯人は男なんでしょう? 男なら慣れているわ」  と信子が本当に動揺のない顔で笑って見せた。 「私だって別に怖くはないわ」  舞台では先輩の加代が負けずにいった。  ゴロちゃんがそんな二人を励ますように、 「大丈夫だよ。おれたちがきっと守ってやるよ。それに犯人も捕えてやる」 「そうだ。今度は犯人を捕えるチャンスなんだよ。腕が鳴るね」  鉄ちゃんも張り切っていた。  私はみんなが明るいのにほっとしたが、同時にそれが不安にもなった。犯人を甘く見るのは危険だと思ったからである。  今度の事件では、警察はあまり頼りにはならないと私は思っていた。新聞が事件のことを書き立てているから象潟署にも面子《メンツ》はあるだろうが、それ以上に偏奇館そのものを眼の仇にしているところがあったからである。  だから、いざとなれば自分たちだけが頼りなのだ。  しかし中原さんは、みんなが怖がっていないことに満足した様子だった。 「新聞と警察には嘘をついて、すでに脅迫状が来ているといってあるから、新しい脅迫状のことは話さないよ。ゴロちゃんもいったように、犯人が現れれば捕えるチャンスでもあるんだ。もし捕えられれば、今もいったように寺田君の仇討ちにもなる。そう思って張り切ろうじゃないか」  中原さんは強い眼で私たちの顔を見廻した。  確かに、中原さんのいう通りなのだが、これまでに三人の踊り子が殺されてしまっている。私たちは、彼女たちを守ってやれなかったし、警察は犯人でもないサキソフォンの寺田を逮捕して、揚句、殺してしまった。いや、象潟署の山路だって、寺田が犯人でないことはわかっていた筈なのだと私は思っている。連中は、前々からアナーキストの寺田に眼をつけていて、踊り子殺しにかこつけて逮捕《ぱく》ったのだろう。  だから、警察は当てに出来ないし、私たちだって、中原さんは捕えてやると勇ましいことをいっているが、正直にいうと、自信はない。  その上、本物の脅迫状が、舞い込んだとなると、掛声だけは勇ましいが、頼りになりそうな男はいそうもないのだ。  文芸部の連中は私だって中原さんだって、もともと腕力に自信のない者の集りだし、芸人の中で一番強そうに見えるのは、ジョージ・ラフト気取りのゴロちゃんだが、昔、惚れた女がいて、ゆう子命と刺青しようとしたのはいいのだが、ゆう子まで彫ったところで、痛さが我慢できなくなって、やめてしまった。これではみっともないというので、医者に行って手術で全部消して貰ったので、ゴロちゃんの左腕には、ケロイドみたいな痕があるのは、みんなが知っている。  それでも、二日、三日と、何事もなく過ぎて、四日目になったとき、 「ちょっと、話がある」  と、私は中原さんにいわれた。私は、また新しい脅迫状が届いたのかと思って緊張して、 「何ですか?」 「今日、劇場《こや》がはねてから、信子の話を聞いてやってくれ」  と中原さんはいう。 「彼女に、何かあったんですか?」 「とかにく、話を聞いてやってくれればいいんだ」 「そういうことなら、中原さんの方が適任でしょう」 「僕は今夜、会わなきゃならない人がいるんだ。高田が新人民座に行っちゃって、文芸部が手薄になった。それで、新しい部員を探してたんだが、一人、候補が見つかったんだ。それで、今夜会って、物になるかどうか、判断する」 「それは良かったですね」 「まだ、決めたわけじゃないよ」  と中原さんはいった。  それで、私はその日、劇場がはねてから、井之内信子をハトヤに連れて行って、ライスカレーを食べることにした。  東北から出て来た時、ライスカレーを食べ、こんな美味いものがあるのかと感動したといったからである。  そのライスカレーを食べながら、私は、 「何か話したいことがあるんだって?」  と信子にきいた。 「ええ」 「困ったこと?」 「ええ。ちょっと」 「まさか、君宛に、脅迫状が届いたんじゃないだろうね?」 「違います。昨日、劇場がはねてから、アパートへ帰るつもりで、雷門の方へ歩いてたら、若い男の人に声をかけられたんです。君の芝居を見ていて好きになった。だから、結婚してくれって」 「結婚?」 「いきなりだから、びっくりしちゃって」 「そりゃあ、そうだろう。どんな男だったんだ?」  と私はきいた。 「最初は、頭がおかしいんじゃないかと思ったんだけど、言葉遣いは丁寧だし、車だって持ってるんです」 「車だって?」 「ええ。それも、凄く立派なんです」  と信子はいう。 「見たの?」 「ええ」 「ちょっと待って」  私は、店で鉛筆と紙を借りて、席に戻ると、それを信子に渡した。 「君の見た車の絵を描いてくれ」 「あたし、絵が下手だから──」 「特徴さえわかればいいんだ」  と私はいった。  信子は、考え考え紙の上に絵を描いていった。確かに、下手な絵だが、車の特徴はわかった。ひょっとして、あの車ではないかと思い、そんな眼で見ていたから、わかったのかも知れない。 「イスパノシーザーだよ」 「イス──?」 「その車の名前さ。高い車だ。それで、君は乗せて貰ったの?」 「その車で送ってあげるといったけど、気味が悪かったから断りました」 「どんな男だった?」 「年齢《とし》は秋月のお兄さんと同じくらいかな。お兄さんは二十四か五でしょう?」 「そんなところだ。君は、結婚話も断ったんだろう?」 「ええ。いきなりだったし」 「断られて、そいつはどうした?」 「顔色の悪い人なんだけど、それが一層蒼くなっちゃって──」 「怒ったんだな?」 「と思うけど、そのあと急に、ニヤニヤ笑い出したんです」 「気持の悪い男だな」 「ええ。気味が悪かった。そのくせ、いいところのお坊ちゃんみたいに、変に言葉遣いが丁寧なんです」 「君が断ったんで、そいつは君のこと諦めたのかな?」 「それが、わからないんです。今いったみたいに、ニヤニヤ笑ってて、またお会いしたいですねって、いってたから」 「鈍いのかな」 「多分、あたしに断られたことに、びっくりしたんじゃないかと思うんです。お金持ちで、お父さんが偉い人だっていってたから、きっと今まで、断られたことがなかったんじゃないかしら」  と信子はいう。 「おやじが偉い人?」 「ええ。貴族院の議員さんですって」 「そのおやじの名前は、小野寺達也で、君が会ったのは、その息子だ」  私がいうと、信子はびっくりした顔になって、 「秋月のお兄さんは、あの人、知ってるんですか?」  ときいた。  私は、エノケンが話してくれた、イスパノシーザーに乗っていた男のことを思い出しながら、 「会ったことはないが、名前だけは知ってるんだ」  といった。      3  ハトヤを出たあと、私は信子を彼女の下宿まで送って行くことにした。  また、イスパノシーザーの男が現れたら困ると思ったからだった。  夜になると、流石《さすが》に寒くなった。 「秋月のお兄さんは、どうしてまだ、結婚しないんですか?」  並んで歩いていると、信子が突然、そんなことをきいた。 「食べさせてはいけないよ」 「本当は、亡くなった京子さんが好きだったからじゃないかって」 「誰がそんなことをいってるんだ?」 「加代さんです」  と信子はいった。 「あいつ、そんなこといってるか」  と、私は苦笑したものの、姉をあんな殺され方をした加代の気持を考えると、自然に顔の表情がこわばってくるのを覚えた。  加代はけなげにがんばっていると思う。  それにしても、加代は私と京子のことを、そんな風に見ていたのだろうか。私は私で、京子は中原さんが好きだとばかり思っていたのだ。  市電が、ごとごとと音を立てて、通り過ぎて行く。  急に信子が、足を止めた。 「どうしたの?」  私がきくと、信子は市電通りの反対側を指さして、 「あの車」  という。  そこに車が一台、ぽつんととまっているのが見えた。特徴のある型から、私にはそれがすぐ、イスパノシーザーだとわかった。  私は、じっと見すえた。車の中は、明りを消していてよく見えないが、運転席に一人だけ人影が座っているのはわかった。  イスパノシーザーのような車が、東京市内に何台も走っているとは思えないから、恐らく小野寺光彦の車だろう。  いつから向いにとまっていたのか、私は信子と話をしていて、見ていなかった。だから、あの車がずっと私たち、というより、信子の後を追《つ》けて来たことだってあり得るのだ。彼女がひとりだったら、先日のように声をかけて、車で送ろうと、誘っていたかも知れない。  また歩き出してから、 「君は、結婚は考えたことがないの?」  と私は信子にきいてみた。 「あたしも、女ですから」  と信子は小声でいってから、 「でも、今はお芝居がうまくなりたくて、それしか考えていません。本当です」 「いいよ。そんなにしゃかりきにならなくても」  と私は笑った。 「いいえ。本当ですよ。秋月のお兄さんに、誉めて貰いたいから」 「君が一生懸命やってるのは、僕も中原さんも認めてるよ。人気も出て来たしね」  私は話しながら、眼の隅で、道路の向う側を、時々見ていた。  間違いなかった。白のイスパノシーザーは、ゆっくりと、私たちを追って動いている。別に、怖いとか、うるさいとかは思わなかった。それより、あんないい車を、あんなにのろのろと走らせて、もったいないと思ったりした。  街灯の下で見るイスパノシーザーは、白い車体が、優雅な白馬のように見える。そんなことを思っていて、私は急に、最初に殺された京子の顔を思い浮べた。  京子は殺される前に、私を呼び出して相談したいことがあるといっておきながら、結局、何もいわないうちに、殺されてしまった。  あれは、結婚の相談をしたかったのではないだろうか?  京子はもともと、結婚願望があって、それも何処からか白馬の騎士が現れるみたいな、いかにも乙女らしいことを口にしていた。  彼女はあの時、小野寺光彦に声をかけられたのではないのだろうか? しかも、彼の車は、白の優雅なイスパノシーザーである。京子には、それが夢の白馬に見えたのかも知れない。  だが、京子は結局、白馬の騎士とは結婚せず、殺されている。  信子と同じで、その騎士が気味が悪かったのか、それとも、好きな男が他にいたのか、どちらかわからないが、京子は小野寺光彦を断ったに違いない。  信子の言葉でもわかるように、光彦という男は、他人《ひと》に拒絶されることに馴れていないらしいから、呆気にとられたのではないか。それだけならいいが、それが怒りに変ったとすれば、光彦がカッとして京子を殺したことだって考えられるのだ。 「秋月のお兄さん」  と信子に呼ばれて、気がつくと、彼女が立ち止まっている。 「どうしたんだ?」 「ここを曲がるんです」 「そうか。ごめん」  と、私は、照れかくしに笑い、信子に引っ張られるように、大通りから路地に曲がった。  信子が下宿しているのは、せんべい屋の二階だった。店はとっくに閉っていて、内側のカーテンが引かれている。 「僕は、ここで失礼するよ」  と私はいった。 「店の人は、もう寝てると思います。朝が早いから」 「次に来たとき、あげて貰うよ」  と私はいい、手をあげて信子に背を向けた。別に、聖人君子を気取ったからではなくて、イスパノシーザーのことが、気になったからだった。  市電通りに出ると、案の定、あの車は向う側にとまっている。私たちが路地を曲がるところまで、追《つ》けて来たのだろう。  私は、腹が立ったので、通りを渡って、車に近づいて行った。  とたんに、イスパノシーザーは、急にエンジンをひびかせて、上野の方向に走り去ってしまった。      4  翌日、私は中原さんから、高田の代りの男を紹介された。 「清川です」  と、ぼそっと名乗ったのは、二十五歳にしては老けて見える、青白い顔の青年だった。  K大文学部を中退したという清川は、私には何となく、うさん臭く見えた。 「どこで知り合ったんですか?」  と私がきくと、中原さんは、 「おとといだったかな。田原町の更科《さらしな》の二階で飲んでたら、隅の方にいた彼が近づいて来て、何か仕事はありませんかと、声をかけて来たんだ」 「中原さんのことを、知ってたんですか?」 「僕が、酒を飲みながら脚本《ほん》を見てたんで、六区で芝居を書いてると思ったというんだ。それで、何が出来るかって聞いたら、K大文学部の中退で、遊びで脚本を書いたことがあるというし、どんなことでもやるというのでね。丁度、高田君がいなくなったんで、昨夜、もう一度会って、いろいろと話をしてみた。字を書かせたら、きれいで読み易いしね。それで、来てみろといったんだ」 「ちょっと、暗い感じがしますね」  と私は自分の感想をいった。 「そうかな」 「まあ、働いてくれればいいですが」  と私はいった。  その日、二回目と三回目の芝居の合間に、楽屋に大きな花束が届けられた。  真っ赤なバラの花束で、「信子様」と書かれた封筒がはさんであった。その封筒に、贈り主の名前は無かったが、下がり藤の家紋が印刷されていた。  封筒の中身はカードが一枚。それにはフランス語で、「ジュ・テ・エーム(君を愛している)」とだけ書いてあった。 「気障《きざ》な奴だな」  とゴロちゃんが、舌打ちした。  気障が売りもののゴロちゃんがいうと、何となくおかしくて、鉄ちゃんが笑った。 「自分の使う封筒に家紋を印刷するなんて、ぜいたくだな」  中原さんは、封筒の家紋を見ながらいった。 「それに、そんな大きな花束なんて、初めてですよ」  と定さんはいう。確かに、その通りだった。  驚いたことに、翌日も二回目と三回目の幕間に、同じ大きさの真紅の花束が、信子宛に贈られて来たのである。添えられている封筒も、中身のカードに書かれたフランス語も、同じだった。  花束を持ってきたのは、馬道通りの花屋の店員だった。  四日間、それが続いたあと、私は中原さんにいわれて、幕間の時間に、その花屋に行ってみた。  花屋の若主人は、私の質問に、 「五日前の夜だったかな。店を閉めようとしてたら、大きな車に乗ったお客さんが見えましてね。赤いバラの花を百本ずつ、浅草偏奇館の信子さんに、毎日、届けてくれといわれたんです。その時、前金で百円渡されました。それで、そのお客さんが置いていった封筒をはさんで、お届けしていたわけです」 「若い男?」 「ええ。二十五、六ってとこかなあ。仕立てのいい背広に蝶ネクタイで、いいとこのお坊っちゃんという感じでしたよ。名前ですか? 名前はいいたくないといわれましてね」 「眼つきがおかしいということはなかった?」  と私は聞いてみた。 「眼つきねえ。気がつきませんでしたね。声がね、ちょっと甲高くて、女みたいだったのを覚えてますよ。あのお客さんが、どうかしたんですか?」 「その男が乗ってた車だけどね」  と私は口でイスパノシーザーの型を説明した。  若主人はニッコリして、 「その車ですよ。いい車だったなあ。花束は持って行っちゃいけませんか?」 「いや、構わないよ」  と私はいった。  そのまま店を出て、浅草に向って歩き出した時、背後《うしろ》で、けたたましい鈴の音と共に、「号外! 号外!」という少年の声が聞こえた。  私が振り向くと、駈け出して来た少年を取り囲んで、通行人が奪い合うようにして、号外を貰っているところだった。  私は、号外の鈴の音が嫌いだった。特に今年になってからは、元大蔵大臣の井上準之助が血盟団員に射殺されたり、若手将校が重臣を殺害したりと、暗いニュースの号外が多かったから余計だった。  それでも、私は一枚貰った。 〈帝都にピストル強盗現わる N銀行から、二万円強奪、一味の一人は逮捕さる〉  そんな大きな見出しが、眼に入った。  私は立ち止まって、本文の方を読んだ。 「本日午後四時頃、市内田園調布××番地のN銀行田園調布支店へ、退け際を狙って、同銀行の裏口から、洋服姿に覆面姿の強盗二人が、ピストルを擁して押し入り、当日収入金計算中の行員たちを脅迫、机上に積みあげてあった紙幣約二万円を強奪し、裏口から逃走したが、折から散歩中の貴族院議員の小野寺達也氏(六五歳)が、フォード二五年型に乗ろうとしている犯人の一人を、背後よりステッキで殴りつけ、ひるんだところを他の通行人と共に取りおさえた。警察で取調べたところ、この犯人は、住所不定島崎公男(二四歳)とわかったが、車で逃走した共犯の男については、黙秘している。警察では、背後関係があるものと考え、厳しく追及中である」  私は島崎の名前を見て、いきなりがぁーんと頭を殴られたような気がした。  あの島崎に間違いない。東北の農村の惨状を悲憤慷慨して、私に話してくれた島崎に間違いないのだ。よほど思いつめてのことだろうと思いながらも、私はなぜこんな馬鹿なことをと、腹立たしくもあった。  私がその号外を持って偏奇館に戻ると、ピストル強盗ということで、楽屋は大さわぎになった。ピストルということが珍しくて、同時にハイカラに聞こえたのだ。一番、嬉しそうな顔をしたのは、ジョージ・ラフトの真似が得意なゴロちゃんだった。みんな銀行というものに反感を持っていたから、二万円も奪ったというのが、痛快だったのだろう。  しかし、翌日の新聞には、なぜか「アカの銀行ギャング」の文字が使われていた。 「──逮捕された島崎公男を厳しく追及したところ、I大の学生だった頃から左翼運動をしており、プロレタリア同盟の機関誌『フロント』にいたことが判明した。この事実は、アカは怖いという世情の噂を、端なくも裏書きしたことになった。島崎は飢えている農民を救うためにやったとうそぶいているが、農民がこんな卑劣な手段で得た金銭を喜ぶ筈もなく、アカの青年のとんだ自己欺瞞といえよう。なお、まだ共犯の男は逃亡中で、警視庁特高課も捜査に乗り出している」  犯人逮捕の主役をつとめた貴族院議員小野寺達也閣下の談話ものっていた。 「丁度、散策中に、強盗ッという叫び声がして、覆面をした怪漢二人が、N銀行から飛び出して来るのが見えた。わしは、二人が車に乗って逃走しようとするのを追いかけて行き、手にしたステッキで、その一人を思い切り打ちすえてやった。こう見えても、わしは剣道五段の腕前じゃ。犯人はだらしのない奴で、わしが肩を一撃すると、へなへなとその場に座り込んで、助けてくれと泣き出したよ。あの男は、やはりアカか。そんな連中は、全員撲滅せねばいかん」  その他、「ギャング時代の到来」と書いたり、市内の銀行では、泥縄式に、行員たちに柔剣道の訓練を始めたと書いたりしていた。  そんな時、日下部が私を訪ねて来た。  私は、きっと島崎のことで来たのだろうと思い、上着をはおって外へ出た。 「コーヒーでも飲みながら、話したいんだが」  と、日下部は、六区を歩きながら私にいった。 「じゃあ、ハトヤはどうだ?」 「あそこは、いつも混んでるからな。落ち着いたところで話したいんだ」  と日下部はいう。  確かに、ハトヤは安くて美味いので、いつも混んでいる。コーヒー、紅茶、ソーダ水、何でも五銭である。だから、うちの踊り子たちや他の芸人も、よくハトヤに行く。  最近、浅草に喫茶店が増えた。一杯のコーヒーで気安くお喋りが出来るからだろう。 「白十字なら近いが、あそこもうるさいな」  私は、六区の周辺の店のいくつかを思い出しながらいった。  六区のまわりで一番有名な喫茶店は白十字だが、最近は若い二人連れと不良少年が集ることが多くて、うるさい。  私と日下部は、広小路まで歩き、「南米」という店に入った。  ここは、一階と二階でコーヒーの値段が違う。一階が十銭、二階は十五銭である。私はどちらでもよかったが、日下部はどんどん二階へあがって行った。  さすがに二階は、客がまばらだった。可愛らしい、まだ十七、八に見える女給にコーヒーを注文してから、日下部は声をひそめて、 「島崎のことなんだが」  と、いった。私は、やっぱりと思いながら、 「僕もびっくりしてるんだ。島崎の奴も、思い切ったことをすると思ってね」 「思いつめたんだよ。いくら走り廻っても、個人の力では農村の疲弊は助けられない。だから、ピストル強盗になった。自分のための金じゃなくて、農民を助けるための金だったと思う」  と日下部はいった。 「君は島崎の弁護を引き受けるのか?」  と私はきいた。 「頼んできたら引き受けるよ。その時のことを考えて事件のあった田園調布に行って、いろいろ調べて来た」  日下部はいくらか蒼ざめた顔でいった。 「それでどうだった?」 「新聞の記事とは、相当違っているのがわかったよ」 「どんなところが違っているんだ?」 「殊勲の貴族院議員の談話だよ。あの閣下はステッキで打ちすえて島崎を捕えたみたいにいっているが、目撃者の話では違っている。島崎は車のところまで逃げて来たが、そこで激しく吐血してうずくまってしまったらしい。閣下のステッキは空を切って、その勢いで自分ですってんころりと転がってしまったそうだ」 「島崎は吐血したのか?」 「ああ、胸をやられていたようだからな」  と日下部はいってから、一層、声を低くして、 「警察はアカの青年が銀行強盗をやったというので、張り切って仲間を捕える気だ」 「共犯が一人いたんだろう」 「ああ。だが、警察はもう一人を捕えるだけで満足はしないよ。アカはこの通り危険だと宣伝し、共産党員もアナーキストも自由主義者も逮捕してしまおうと動く筈だ。それで君に忠告しに来たんだ。僕も君も、島崎とは大学の同期だ。君は彼に最近会ってる。警察に聞かれたら、絶対に否定するんだ。わかったな?」 「ああ、わかったよ」 「それだけだ」  日下部はコーヒーを飲み干して立ち上った。      5  小雨が降り出した中を、私は重い荷物を背負った思いで偏奇館へ戻った。  いやでも先日会った島崎の顔がちらついてしまう。胸を病んでいた島崎は、死を覚悟して銀行を襲ったのだろう。その行動の是非よりも、私は自分を賭けるものを持っている島崎が羨ましく思えた。  私にも、浅草六区やインチキレビューや偏奇館の仲間という生甲斐があるし、島崎とは考え方も生き方も違う。  だが、そう思いながら、なお島崎の激しい生き方と自分のなまぬるい生き方を比べて、恥しい思いにかられてしまう。 (激しい生き方をしたいな)  柄にもなくそんな気分になって楽屋に戻ると、中原さんがいきなり、 「銀行強盗をアチャラカにして、舞台にかけるぞ」  といった。  私は一瞬、止めて下さいといいかけて、その言葉を呑み込んだ。  島崎が犯人の事件を芝居にするなんてと思ったのだが、気が変った。どんな事件でもアチャラカにしてしまうのが浅草の持つヴァイタリティなのだし、このままでは今度の事件が警察当局によっていいようにねじ曲げられ、新しい思想弾圧に利用されることは眼に見えている。それならば、徹底的に茶化して上演してやるのも面白いだろう。 「やりましょう」  と私は中原さんにいった。 「玉木座や松竹座に負けたくないんだ」  と中原さんはいう。 「向うさんもやる気なんですか?」 「事件ののった新聞を集めているそうだからね。誰だって、今度の事件には食指が動く筈だ。ギャングといえばアメリカが本場だし、そのアメリカから、僕たちのアチャラカはいろいろと頂いているんだ。だから、ギャングはアチャラカにぴったりの材料だよ」 「ギャングに娼婦をからめれば、レビューにもなりますよ」  と私はいった。 「いいねえ。君も一人前の脚本《ほん》書きになったじゃないか」  中原さんが笑顔になった。 「よして下さい」  と私は照れた。 「これで決ったが、実はもう一つ、考えなきゃならないことがあるんだ。信子のことなんだが」 「小野寺光彦という貴族院議員の息子のことでしょう?」 「そうなんだ。イスパノシーザーを乗り廻している男が、まともに信子を愛しているとは思えない」  と中原さんはいった。 「僕もそう思います。ひょっとすると、京子や節子、それに早苗を殺したのは光彦という男かも知れないと思っているんです」  私は思い切っていった。  中原さんは強い眼で私を見返して、 「証拠はあるのか?」 「ありません」 「それじゃあ、どうしようもないな」  と中原さんは小さく肩をすくめたが、一息おいて、 「君は田園調布へ行って、小野寺光彦に会って来てくれないか? 会えば少しはこの男のことがわかるだろうから」 「僕がですか?」 「嫌か?」 「会ってくれますかね?」 「偏奇館の人間だといえば、必ず会うさ。うちの信子にご執心なんだから」  と中原さんはいった。  それでも私が愚図っていると、中原さんは、 「ひとりで行くのが嫌なら、誰か連れて行ったらいい」  といった。  役者や踊り子は舞台がある。それで、文芸部に新しく入った清川を誘ったのだが、逃げられてしまった。  仕方なく、半月後に満州に行くという定さんに一緒に行って貰うことにした。  電車を乗り継いで、私と定さんは田園調布に向った。  定さんは目蒲線に乗り、洗足、大岡山と窓から外を見ていて、懐しそうに、 「多摩川園に行ったのを思い出すねえ」  といった。  大岡山を過ぎて、窓の外に犬猫病院の看板が見えると、「あれだよ」と定さんは指さした。 「犬猫病院のこと?」 「あれを見てびっくりしてね。東京には犬や猫が行く病院があるんだなと思ってね。私の田舎には、人間の病院だって無いのにさ」  と定さんはいった。  私たちは田園調布で降りた。  ひっそりと静まり返った銀杏並木の間を、私と定さんは、小野寺邸を探して歩いた。浅草の喧騒の中にいる私にとって、この高級住宅地は、冷たく、よそよそしい。  十五、六分歩いて、私たちはやっと「小野寺」の表札を見つけ出した。  大きな邸だった。門の鉄柵の奥に、白のイスパノシーザーが駐《と》めてある。光彦も家にいるのだろう。  呼鈴を探して鳴らすと、中年の女中が出て来て、私と定さんをじろじろ眺めた。多分、二人が、この邸を訪ねる客としてはふさわしくない服装《なり》をしていたからに違いない。  それでも、言葉遣いは丁寧に、 「どなた様でございますか?」  ときく。 「光彦さんにお会いしたいんですが」  と私はいった。 「お名前は?」 「浅草の偏奇館から来たと伝えて下さい」  と定さんがいった。  女中はいったん奥へ引っ込んで行き、二、三分して戻って来て、門を開けてくれた。 「どうぞ」  と短くいう。  玄関に向って歩いて行くと、鎖につながれたブルドッグが、私たちに向って吠え立てた。最近、金持ちの邸は、たいていブルドッグを飼っている。一種の流行なのだ。  木造洋館の玄関に入り、私たちは二階に案内された。  シャンデリアの輝く部屋のソファに、絹のガウンを着た若い男が座っていて、なぜかニヤニヤ笑いながら私たちを迎えた。  信子は気味が悪いといっていたが、確かにこの青年には、うす気味の悪さがあった。 「浅草偏奇館の人だそうだね」  と光彦は私たちに声をかけた。 「僕は文芸部の秋月、こちらは役者の定さんです」  と私はいった。光彦は「ふうん」と鼻を鳴らして、 「それで、僕に何の用?」  ときいた。ちょっと甲高い声だった。 「毎日、うちの踊り子に花束を送って下さるお礼に伺ったんです」  と私がいった時、庭の方で突然、何かが空気を引き裂くような音がした。  とたんに光彦は眉をひそめて、開けてあった窓をぴしゃりと閉めてしまった。 「パパが庭で、弓の稽古をしてるんだ」  と光彦は吐き捨てるようにいった。 「弓の稽古ですか」 「野蛮だよ」  光彦の声が甲高くなった。この男は、元陸軍大将で貴族院議員の父親が嫌いらしい。が、ただ嫌っているのではなく、嫌いながら恐れているように見える。窓を閉め、弓の音は聞こえなくなっているのに、時々、神経質に窓の方を気にしている。  さっきの女中が、茶褐色の飲み物を運んで来て、私と定さんの前にも置いた。  私はそれが何なのかわからなくて、手をだしかねていると、光彦は笑って、 「それはアメリカの口可口楽《コカコーラ》というものだよ。ちょっと癖があるが、美味いよ」  といい、自分で飲んで見せた。  私と定さんも仕方なく口に運んだが、苦くてうまいとは思わなかった。私は一口だけで止めて、 「偏奇館にはよく来られるんですか?」  と光彦にきいた。 「舞台の下品さが気に入ってるよ」  と光彦はいった。  私は苦笑した。相手が冗談口調ではなく、真顔でいっていたからだ。父親の弓音に神経質になっている光彦は気弱さがのぞいていたのだが、偏奇館の舞台を下品だといった時には、見下したような傲慢さが顔をのぞかせている。 「うちの信子がお気に召しているようですね」  と私がいうと、光彦は、 「あれはいい娘だ。だから僕は彼女を救い出してやりたいと思っている」  と光彦はいった。 「救う──ですか?」 「そうだよ。浅草という汚濁の街から救い出してやりたい。だから、僕は彼女と結婚してもいいと思っている」 「お父さんは当然、反対なさるんじゃありませんか? 何しろ、信子は汚濁の巷の踊り子だし、あなたは貴族院議員のご子息ですから」  と定さんがいうと、光彦は、 「パパのことはいうなッ」  とまた甲高い声をあげた。  彼にとって、父親の小野寺元陸軍大将は、憎しみの対象でありながら、その存在が大きくて、否定も出来ないというところなのかも知れない。それが、また彼をいらだたせるのだろう。 「偏奇館では三人の踊り子が殺されています。ご存じですか?」  と私は思い切ってきいてみた。  光彦の反応を見たかったのだ。 「知っているよ。犯人は寺田というサキソフォン吹きだろう。警察で自供したそうじゃないか」  光彦はソファに深く身体を沈め、眼を細めて私を見た。 「警察はそう見ていますが、私は寺田が犯人とは思っていないんです」  と私はいった。 「仲間としてはそう思いたいのはわかるがね。だが、犯人はそのサキソフォン吹きだよ。三人も仲間の踊り子を殺したんだ。恐ろしい奴じゃないか。警察の留置場で死んだそうだが、当然の報いだろう」  と光彦はいった。  私はむっとしながら、 「警察は三人の中の一人について、犯人が車で彼女の死体を不忍池まで運んだと思っているようなのです」 「だから?」 「ところが、寺田は車を持っていないんです」 「誰かに車を借りたんだろう」 「車を借りられたにしても、寺田は運転できないんですよ」 「僕には関係ないよ」  光彦はそっけなくいった。 「今、どんな仕事をなさっているんですか?」  と定さんがきいた。 「誰のこと?」 「お父さんの後をついで、軍人にはおなりにならないんですか?」  定さんがきくと、光彦は急に嶮しい表情になって、 「僕は軍人が嫌いだ」  と無理に押さえた声を出した。見ると、彼のうすい唇がふるえている。  定さんの質問は、この男の最も傷つく部分に触れてしまったらしい。  青白い、神経質そうな顔。背は高いが痩せていて、厳しい訓練にはとても耐えられそうにない身体。とても職業軍人向きとはいえない。  それなのに、元陸軍大将の息子に生れてしまった。そのことが彼の心に、父親への劣等感と、その裏返しの憎悪を植えつけてしまったのか。  だが、だからといって、それがすぐ三人の踊り子を殺したという証拠にはなりそうもない。 「また偏奇館へおいで下さい。信子もお会いしたいといっていますから」  私は笑顔で餌を投げてみた。  光彦が微笑した。喜怒哀楽が激しい男なのだ。 「明日にでも行ってみよう」  光彦は嬉しそうにいった。  彼は私と定さんを、門のところまで送ってくれた。よほど機嫌が良かったのだろう。  中庭では諸肌脱ぎになった老人が、裂帛の気合と共に、十数メートル先の的に向って矢を射続けている。  光彦はそれを見ようとしなかった。 [#改ページ]   第六章 罠      1  私たちが戻ると、文芸部の狭い部屋の壁に中原さんの字で、  日本ギャング時代《エイジ》  と大きく書いて、貼り出してあった。 「題はこれで決った。あとは面白い脚本《ほん》が出来れば、絶対に当る」  と中原さんは私にいった。 「そうなれば、『踊り子殺人事件』と二本立で客を呼べますね」  私も勇んでいった。 「それで、小野寺光彦の方はどうだった?」  と中原さんがきいた。  私はありのままを話してから、 「僕も定さんも、光彦が京子たち三人を殺したんじゃないかと疑っているんです」 「しかし、なぜ殺したんだ? それに、光彦が犯人だという証拠は?」  と中原さんがきく。 「彼は可愛い、純な踊り子を、ソドムの市の浅草六区から救い出したいという、妙な使命感に燃えています。踊り子にしてみればいい迷惑ですが、光彦は本気なんですよ。当然、踊り子たちは救われることを拒否します。みんなこの六区が好きなんだから。光彦の方は自分の崇高な精神を拒否されて、かっとして京子たちを殺してしまったのではないかと、私も定さんも考えているんです」  と私はいった。 「それは、光彦の心がゆがんでいるということになるのかな」 「確かに、彼は情緒不安定ですよ」  と私がいうと、中原さんは、 「実は、小野寺家について嫌な話を聞いたんだよ」  といった。 「どんなことですか?」 「私に大学の同窓で新聞記者をやっている三浦という男がいるんだが、今日、突然訪ねて来てね。小野寺光彦が偏奇館の踊り子に夢中だという噂を聞いたんだが、本当かと聞かれた」 「それで、何といわれたんですか?」 「時々、見かけるとはいっておいた。そうしたら、これは紙面にのせられないんだがといって、小野寺家のことを話してくれた。光彦には姉が一人いて、現在、細川子爵家に嫁いでいるんだが、実は兄も一人いたというんだ」 「それは知りませんでした」 「光彦より十歳年上で、名前は父の名の一字を貰って、達司と名づけられた。達司は父と同じく陸軍幼年学校、予科、そして士官学校と、陸軍将校への大通りを歩いた。将校になると、栄光の近衛師団に配属された。小野寺にしてみれば、自慢の息子だったわけだが、この達司は五年前、演習中に事故で突然、亡くなってしまった。小野寺はがっかりしたと思うよ。当然、弟の光彦に期待をかけたと思うんだが、われわれの知っているように、軍人には全く不向きの男だ。それにね、三浦の話だと、光彦は元芸者の妾の子供なんだ」 「妾のですか?」 「ああいう名家には、よくある例なんじゃないかな」 「それで、光彦の本当の母親は、今どうしているんですか?」 「死んだそうだ。非常に繊細な女性で、最後は妾という立場に耐え切れなくなって、神経が参ってしまったんじゃないかと三浦はいっていたよ」 「その母親の繊細さを、光彦は受けついでいるんですかね?」 「女に対する見方も、母親が妾だったことや、異常な死に方なんかが影響しているんじゃないかな」  と中原さんは心配そうにいった。  もし光彦の中に歪んだ女性観があるとすれば、信子のことが心配になってくるからだろう。  だが、私は一歩進んで、光彦が犯人と思い、何とかしてそれを証明してやりたいと思っている。踊り子殺しの容疑をかけられて警察に逮捕され、その揚句アナーキストだということで拷問死を遂げさせられた、サキソフォン吹きの寺田の仇を討ちたいのだ。 「何とか彼に罠をかけて、これまでの三人の殺しを白状させてやりたいと思っているんです」  と私は中原さんにいった。 「そのために信子が危険になるということはないの?」 「少しはあるかも知れませんが──」 「僕も力を貸したいが、『日本ギャング時代《エイジ》』の脚本を早く書かなければならないんでね」  と中原さんはいう。 「わかってます。僕もいい脚本を書きますよ。新人はどうですか?」 「清川か。無口な男だが、才能はありそうだよ。彼にも、脚本を書いてみろといってある」  と中原さんはいった。 「今日は来てませんね」 「カゼをひいて寝てるらしい」  と中原さんはいった。  翌日、最終回が始まる前の客席に、光彦の姿を見かけた。英国製らしい三つ揃いの背広に蝶ネクタイ、それに中折帽という恰好は、銀座では珍しくなくても、この浅草では目立つ。  光彦は客席が空《あ》いているのに、一番うしろの立見のところで壁に寄りかかっていた。 「彼が来てるよ」  と私は信子に教えた。 「彼って?」 「白馬に乗った王子様だよ。それとも、真紅のバラの王子様かな」 「嫌だわ」 「向うは君が気に入ってるんだ。汚濁の世界に落ちた可哀そうな君を助けに来ている」 「何なんですか? それって」  信子はきょとんとした顔になった。 「彼はここを、愚劣で下品なところだと思ってるんだよ。どうしようもない世界だとね。そこから君を助け出したいといっていた」 「変な人。あたしはこの劇場《こや》が大好きなんです」  信子は怒ったようにいう。踊り子の扮装で眉をひき、目ばりを入れているので、余計に大きく見える眼で、 「下品な世界だなんて、失礼だわ」 「そう思おうとしているのかも知れないな」 「どういうことですか?」 「あの青年は、本当はこの六区の芝居|劇場《ごや》が好きなんだ。ところが彼はそれを認めたくないものだから、自分がここへ来るのは汚れた泥沼から可哀そうな君たちを救うためなんだと、自分に信じ込ませようとしているのかも知れない」 「よくわかりません」  と信子は首をかしげた。 「今日も劇場がはねてから、彼が車で送るといって待っているんじゃないかな」 「困ります。あたし──」 「といっても大事なファンの一人だし、何しろあんなに沢山のバラを毎日贈ってくれているんだ。何かお礼をしなきゃね」  と私はいった。 「あたしが何かするんですか?」 「君のファンなんだから」 「でも、お金持ちでしょう。何をしていいかわかりません」 「僕が一緒に行ってあげるから、屋台の焼鳥でも食べさせてあげたらいいんじゃないか。ああいう金持ちの坊ちゃんは、そんなものの方を珍しがって喜ぶと思うよ」  と私はいった。 「秋月のお兄さんが一緒なら──」 「安心か?」 「ええ」 「よし、彼にいっておこう」  と私は勝手に決めてしまった。信子を危険にさらすことになるかも知れないが、何とかして光彦を罠にかけ、三人の踊り子殺しを白状させたかった。  屋台の焼鳥屋とはいったが、さすが本当に屋台ともいかず、私は田原町近くの鰻屋へ光彦を招待することにした。  この店は、八つ目鰻を食べさせるので有名な店だった。普通の鰻より五倍も栄養があり、特に精力倍増の謳《うた》い文句に釣られてか、浅草の芸人がよく行く店である。うちのゴロちゃんたちも、時々顔を見せているのを、私は知っていた。おかげで一日五回は軽いとゴロちゃんは自慢していたが、あの方の男の自慢話ほど当てにならないものはないだろう。  光彦をそこへ誘ったとき、信子の他に私が一緒に行ったことに、明らかに不機嫌だった。  料理が運ばれてくる間に、私は光彦に酒をすすめた。  光彦はいくら飲んでも、顔が朱くならない体質だった。顔色は、ますます青白くなり、眼も据ってくる。そして冗舌になった。 「何とかいう小説家がいっていたな。女は諸悪の根源だって」  光彦は私に向っていった。本気でいっているのか、冗談なのか、わからなかった。 「芥川龍之介でしょう」  と私はいった。 「ああ、そうだ。自殺した奴だ。勇気のない奴だ」 「自殺は勇気のない証拠ですか?」  私は運ばれてきた料理に箸をつけながら、光彦にきいた。信子は二人の会話に入れないので、黙って箸を運んでいる。 「ああ、勇気のない証拠だ。だいたい小説家などという連中は、人間の屑だ。強い国家には不必要な人種だ」  光彦は吐き捨てるようにいう。私は、彼の細面の、いかにも神経質そうな顔と、勇ましいその言葉が、どうにも不似合いな感じがして仕方がなかった。諸肌脱ぎで弓を射ていた彼の父親の方が、ふさわしく思える。あの老人がいったのなら、なるほどと私は納得しただろう。  逆の印象を受ける光彦が、まるで父親の変化《へんげ》のような言葉を口にするのは、父親を憎みながら、同時に父親のようになりたいと願っているのだろうか? 「あなたは、自殺するくらいなら相手を殺す方がいいと思っているんですか?」  私はわざと光彦を怒らせるようないい方をした。  一瞬、光彦の顔に暗いかげが走ったが、 「女は魔物だよ」  と、はずしたような答え方をした。 「光彦さんは女が怖いんですか?」  信子がいたずらっぽい眼で光彦を見た。 「怖くなんかない。第一、君は別だ」  と光彦は信子にいった。 「なぜあたしだけ別なんですか?」 「君はまだ、世の中の汚れに染っていない。ただ染りかけている。君の置かれている環境が悪いんだ。今のままだと、君も堕落して魔物になる」 「光彦さんの周囲《まわり》に、そういう怖い女の人がいるみたい」  と信子が笑った。  光彦の頬がぴくりと震えたが、黙って手洗いに立ってしまった。 「怒ったのかしら?」  信子は急に心配になったらしく、腰を浮かす恰好で廊下の方へ眼をやった。 「大丈夫だよ」  と私はいった。光彦は女は諸悪の根源だといったり魔物だといった時、自分を産んだ母親のことを意識していたのではないのか。父親の妾になり、自分を産み、そして神経を病んで死んだ母親のことである。 「秋月のお兄さん」  と信子が私を見て、 「あの人の手を見ました?」 「何だい?」 「あたしの手より細い指をしてるの」 「細かいところを見てるんだねえ」 「あたし、男の人で細い指をしてるのってあんまり──」  好きじゃないといいかけて、信子は光彦が戻って来たのを見てその言葉を呑み込み、その代りのように、ぺろりと可愛らしく舌を出した。      2 『日本ギャング時代《エイジ》』の脚本《ほん》が、少しずつ出来あがっていく。  新入りの清川にはアチャラカの脚本は無理だろうと思っていたのだが、意外にうまく書いてきた。それを叩き台にして私が書き直し、更に中原さんが手を加えて出来あがる。  最後の検討をするということで、中原さんが私を駒形のどぜう屋に呼んでくれた。  いつも脚本の仕上げの時は、どぜう屋の二階で鍋を突つきながらが恒例になっていた。 「清川は呼ばなかったんですか?」  と私は中原さんにきいた。 「呼んだんだが用があるといってね。まあ、彼がいなくたって、僕たち二人だけで出来るだろう」 「大丈夫なんですか?」 「何がだ?」 「清川ですよ。この間も大事な時に、カゼだといって顔を見せなかったですからね」  と私はいった。 「しかし、なかなか上手く脚本を書いて来たじゃないか。まだ固いが、それは仕方がないだろう」 「その固い部分が気になってるんです。彼の書いた脚本で、主人公のギャングが最後に演説するでしょう。しいたげられた農民や労働者のために、銀行から金を奪ったんだって。あれは完全なプロパガンダですよ」 「あの部分は、僕と君でカットしたじゃないか」 「ええ。ただ、あそこが清川のいいたいことじゃないかと思ったんです。わかるでしょう? 僕が何を心配しているか」  私がいうと、中原さんは「そうか」と肯いて、 「君は彼が銀行強盗の片割れじゃないかと疑っているのか」 「あの直前に、うちに来ましたしね」 「それだけだろう」 「それに、脚本の生硬な部分が──」 「彼は犯人じゃないよ」  中原さんは怒ったようにいった。中原さんにそういわれてしまうと、私は何もいえなくなってしまう。  中原さんは黙ってしまった私に酒をすすめてから、 「小野寺光彦のことだがねえ」  と話題を変えた。 「彼の母親のことは、この間、話したね」 「ええ。元芸者の妾で、病死したということでしたが」 「それが、実は死んでいないことがわかったんだ。これも友人の新聞記者が教えてくれたんだが」 「どういうことなんですか?」 「彼女は今、松沢の精神病院にいるんだそうだ」  と中原さんはいった。 「精神病院にですか」 「もちろん、名前は変えてだ」 「光彦はそれを知っているんですか?」  と私はきいた。 「父親は死んだといっていると思うが、新聞記者が嗅ぎつけたくらいだから、彼も知っていると思うよ」 「辛いですね」 「そうだろうな。芥川龍之介は身内に精神病者がいて、自分もいつか発狂するのではないかという不安に怯えていたといわれているが、光彦も同じ不安に怯えているかも知れないな」  と中原さんはいった。  私は光彦を鰻屋に招待した時、彼がいきなり芥川を罵倒したのを思い出した。  あの時は、小説家としての芥川が嫌いなのだろうと思ったのだが、もっと深いものがあったのかも知れない。  とにかく、『日本ギャング時代《エイジ》』の脚本が出来あがり、脚本二部を警視庁保安課検閲係に送ってから、許可がおり次第に上演するため、ゴロちゃんを主役に稽古を始めた。      3  その脚本《ほん》について聞きたいことがあるから出頭するようにと通知があったのは、二日後だった。  私と中原さんが警視庁へ出かけて行った。 「どこが引っかかったのかな」  と中原さんは首をかしげていた。私にもわからなかった。確かに現実のピストル強盗が下敷になっているが、私たちが作った脚本は完全なアチャラカで、国籍不明の芝居になっていたからである。主人公の銀行ギャングはジョージ・ラフトそっくりの扮装にしてあるし、美しい姉妹との恋物語にしてある。セリフはずいぶん考えて中原さんと書いたのだし、清川の生硬な政府批判はカットしてしまっている。当局を怒らせるようなセリフは一行も無かった筈である。  検閲官の金田は穏やかな調子で、私と中原さんに椅子をすすめてくれた。  しかし、肝心の『日本ギャング時代《エイジ》』の脚本については触れず、 「君のところでやっている『踊り子殺人事件』は、なかなか評判じゃないか」  と話しかけてきた。 「おかげさまで続演です」  と中原さんは答えた。が、その顔に当惑の色が浮んでいた。今日、呼びつけられたのは、新しい脚本のことではないらしいと、中原さんも気付いたのだろうし、私もそんな気がしていた。  案の定、金田は軽く椅子をきしませてから、 「あの芝居の筋を変えるわけにはいかないかね?」  と笑顔できいてきた。 「しかし、あれはちゃんと検閲に通っていますよ」  と中原さんはいった。 「だが、その時と事情が変ったことは、君たちにだってわかっている筈だ。犯人は逮捕され、事件は解決しているんだよ。君のところにいた、寺田というサキソフォン吹きだ。ところが君たちの演《や》っている芝居では、事件は未解決で、犯人がまだうろつき廻っているようになっている」 「現実の事件と芝居は違いますよ」  と私はいった。 「そうかねえ。見に来る客は、あの事件が芝居になっていると思って見るんだし、君たちだってそれが狙いの筈だ。大衆は愚かだから、現実と芝居を混同して、犯人が捕まっているのに、捕まっていないみたいに思い込む恐れがある。また、象潟署の刑事たちは、あの芝居を警察に対する明らかな挑戦と受け取って、憤慨しているんだよ」 「───」 「どうだね。私としては、一度、上演許可したものだから、出来ればずっとやらせてあげたいんだよ。君の方から、犯人は同じ劇場《こや》のサキソフォン吹きだったという筋にして、新しい脚本を出さないかね? その方が面白いし、アナーキストが犯人なら、客も納得するだろう。事件解決に努力した刑事たちだって、喜ぶと思うがねえ」 「『日本ギャング時代《エイジ》』の方は、どうなるんですか?」  と中原さんがきいた。 「これかね」  と金田は私たちが提出した脚本を、仔細らしくペラペラめくってから、 「その前に現在公演中の芝居の問題を解決したいものだね」 「今のままで上演して行きたいといったら、どうなるんですか?」  と中原さんがきく。  金田は小さく溜息をついて、 「気の毒だが、上演中止の命令を出さざるを得ないだろうね」 「理由は何ですか?」 「徒らに人心を不安に落とし入れ、警察の権威を失墜させた。それで十分だろう」  金田は冷静な口調でいった。冷静なだけに、彼の言葉には絶対的なものが感じられる。私や中原さんがここで反対したところで、相手はどんな理屈をつけてでも、上演中止を命令してくるだろう。  しかし、だからといってここで相手の命令どおりに脚本を書きかえたら、地下で寺田がどんなに口惜しがるかわからない。無実なのに、彼は拷問され死亡した。そんな寺田を、私たちの芝居の中で、踊り子殺しの犯人には絶対に出来ない。私の脳裏にはまだ、拷問によってあざだらけになった寺田の遺体が焼きついているのだ。  私は中原さんがどう返事するだろうかと見守った。  中原さんはじっと考え込んでいたが、 「一週間、待ってくれませんか?」  と金田にいった。 「一週間というのは?」 「書きかえるにも時間はかかります。それに、新しい筋になれば、稽古もやり直す必要があります。新しい役も出来るわけですから、それに似合う役者も見つけて来なければならないんですよ」  と中原さんはいった。 「一週間あれば、こちらの要望する芝居に直すと約束できるんだね?」 「ええ。約束します」 「犯人はサキソフォン吹き。警察の奮闘によって犯人が捕まるという筋に変るんだね?」  と金田は念を押した。 「大丈夫です。ただ、それまで今まで通りであの芝居をやらせて下さい。あの芝居が無くなってしまうと、うちの劇場は潰れてしまいます」 「いいだろう」  と金田は肯いた。 「『日本ギャング時代《エイジ》』の脚本はどうなりますか?」  と私はきいた。 「これか」  と金田はニヤッとして、 「これはあと一週間、私の手元に置いておくことにする。もう一度、読み直してみたいからね」  一種の人質ではないか。  これが『日本ギャング時代《エイジ》』の脚本でなくても、金田は押さえる気だったのだ。  その証拠に、玉木座から出された『ギャング狂一代記』という脚本は、すんなりと検閲を通っている。  玉木座だけではなかった。カジノ・フォーリーでも『日本強盗物語』の稽古がもう始まっていると、私は聞いていた。こちらは時代劇だが、明らかにあのピストル強盗をヒントにした芝居で、由井正雪の一味が、ピストル片手に軍資金かせぎに、両替商を襲撃する話になっている。  私と中原さんは、重い気分で劇場に戻った。  中原さんがみんなを集めて、金田検閲官とのやりとりを報告した。 「私は一週間待ってくれといって来たが、みんなの意見を聞きたいんだ。向うのいう通りに、サキソフォン吹きの寺田を犯人にして、『踊り子殺人事件』の筋を変えるかどうかについてだよ」  と中原さんはいった。 「おれは嫌だ」  ゴロちゃんがまずいった。 「筋を変えるのに反対ということだね?」  中原さんがゴロちゃんを見る。 「当り前だろう? 寺田は変な男だったが、おれたちの仲間だぜ。奴を真犯人にした芝居なんか出来るわけがないだろう」  ゴロちゃんは吐き捨てるようにいった。 「私は警察を敵に廻したくないよ」  と永井のおやじさんは、渋面を作っていった。 「向うのいう通りにするんですか?」  と鉄ちゃんがおやじさんを睨んだ。 「警察に睨まれたら劇場はやっていけないよ。向うはいくらでも難癖をつけて、芝居を中止させることが出来るんだ。下手をすれば、全員逮捕されるかも知れん」  とおやじさんは怯えたようにいった。 「じゃあおやじさんは、サキソフォンの寺田が犯人で逮捕されて、刑事《でか》連中が英雄になって万歳の芝居をやるつもりなんですか?」  と弁ちゃんまでが食ってかかった。 「そんな芝居にするくらいなら、あの芝居は止めた方がいい」  ゴロちゃんが恰好よくいった。 「しかしあの芝居は、うちのドル箱なんだよ。他の芝居やレビューで、客を呼べると思っているのかね?」  おやじさんは肩をすくませるようにして、みんなの顔を見廻した。 「あと一週間は今のままでやれるんだよ」  と私はいった。 「そのあとはどうするのかね?」  おやじさんは私を見、中原さんを見た。 「心配しないで下さい。一週間あれば解決します。偏奇館を潰すような真似はしませんよ」  と中原さんはいった。 「君は一週間以内に脚本を書き直すと約束して来たんだろう? それも何かおかしいじゃないか」  おやじさんは中原さんを見ていった。 「どこがおかしいんですか?」 「君だったら二日もあれば、相手の気に入るように脚本を直せるだろう? それなのに、一週間もかかるといったのは、どうしてなんだ? まさか変なことを考えているんじゃあるまいね?」 「変なことって、どんなことです?」  中原さんが聞き返す。人の好いおやじさんは、それ以上いえなくなって、 「君を信じないわけじゃないんだよ」 「安心して下さい。おやじさんを悲しませるようなことはしませんよ」  と中原さんは微笑した。 「おれは安心できないよ」  ゴロちゃんが大きな声を出した。 「どうしてだ?」  と中原さんがきく。 「あんたは連中と取引きしてきたんだろう? あと一週間、あの芝居を出来る代りに一週間したらサキソフォン吹きの寺田を犯人にした芝居に直すと、連中に約束してきたんだろう?」 「その通りだよ」 「何だい? それでおれたちに安心しろっていうのか? みんなそんな芝居は嫌だっていってるんだぜ」  ゴロちゃんは息巻いた。  私も中原さんが検閲官の金田に対して、なぜ一週間待ってくれといったのか、わからずにいた。一週間たとうが二週間先だろうが、中原さんがあの芝居の筋について妥協するとは思えない。それなのに、一週間したら検閲官のいう通りに改めると約束したのはどういうことなのか、私もずっとわからずにいたのである。 「みんな秘密を守れるか?」  と中原さんは厳粛な表情で、まわりにいる人間を見渡した。  みんなが黙って肯く。 「僕は一週間たったって、あの芝居を、犯人がサキソフォン吹きの寺田みたいな筋に書きかえる気はない。僕はね、一週間あれば、真犯人を捕えられると考えたから、検閲官に一週間待ってくれといったんだよ」  と中原さんはいった。 「しかし、犯人をどうやって捕えるんだ?」  とゴロちゃんがきいた。 「秋月君も同じ意見だと思うが、犯人は小野寺光彦だと、僕は思っている。だからあいつを捕えて、僕たちの力で自白させる。そうなれば、検閲官だって文句がいえなくなる筈だ」 「どうやって自白させるんです? 大人しくペラペラ喋るようなタマじゃないでしょう?」  鉄ちゃんが半信半疑の表情で中原さんを見た。 「ただ会って、うちの三人の踊り子を殺しただろうって聞いたって、殺しましたというものか。だから罠にかける」  と中原さんはいった。 「でもどうやるんです? 僕も罠をかけるつもりで彼を鰻屋へ招待したりしたんですが、ここ三日ほど、全然姿を見せていませんよ」  私は自信なくいった。 「それは多分、あのおやじが大事な息子を足止めしてるんだろう。息子の光彦が浅草へ出かけているのに気付いたんだと思っている」 「それならなおさら、光彦を罠にかけるのは難しいんじゃありませんか?」  と私はきいた。 「僕の友人の新聞記者に聞いたところ、明日、貴族院議員が非公式に集って、非常時の今、国家はいかにあるべきかについて話し合いが行われるそうだ。今はやりの国家改造計画の向うを張る気なんだろう。光彦の父親は、必ずその会議に出席する。その隙に、光彦をおびき出す」 「どうやってだ?」  とゴロちゃん。 「君に手紙を書いて貰う」  と中原さんは信子を見た。 「私に手紙って、どんな手紙を書けばいいんですか?」  信子は青い顔で中原さんを見た。  中原さんはポケットからメモを取り出して、信子に見せた。 「この通りに書いて貰えばいい」  と中原さんはいい、便箋と封筒、それに鉛筆を信子に渡した。 〈光彦さま あなたのおっしゃった通り、この六区は汚れ切っています。このままここにいたら、私は駄目な女になってしまいます。でも、いろいろあって、ひとりでは逃げ出せません。ですから、あなたのお力で、私をこの泥沼から助け出して下さいませ。今日、劇場がはねてから、私が下宿へ帰る道で、私をさらって下さい。お願いします。 [#地付き]信子〉   信子はいわれるままに、途中まで書き写していったが、 「こんな心にもないことは書けません。私は浅草が好きだし、この劇場が好きなんです」  と中原さんに抗議するようにいった。 「わかってるさ。だが、こう書かなければ、光彦はこっちの罠にかかって来ないんだよ」 「でも嘘を書くのは辛いわ」 「偏奇館を助けるためだよ」  中原さんは信子の肩に手を置いていった。 「そのあとどうするんですか?」  と私はきいた。 「光彦は例の車に信子を乗せる。騎士気取りで、彼女を汚濁の巷から助け出す気でだよ。そのあと信子は光彦に向って、手紙に書いたのは嘘で、本当は浅草の六区が好きなんだといってくれればいい。あなたをからかってみたんだといってくれれば一番いい。それで間違いなく光彦はかっとする。信子を殺そうとするだろう。京子たちを殺したようにね」 「中原さん。ちょっと待ってくれよ」  とゴロちゃんが、あわてて口を挟んだ。 「何だい? ゴロちゃん」 「そんなことをしたら、本当に信子は殺されちゃうぜ」 「間一髪で僕たちが信子を助け、光彦を現行犯として吊しあげる。そうすれば、必ず光彦は今までの踊り子殺しを白状するさ。ああいう奴は、いざとなれば耐《こら》え方を知らないからな」  と中原さんはいった。 「間一髪、間に合なかったらどうするの?」  と加代が睨むように中原さんを見た。 「間に合せるんだよ」 「誰が?」 「決ってるだろう。僕たちがだ」  中原さんは声を大きくした。  永井のおやじさんは、そんなやりとりにおろおろしてしまって、 「中原君。相手はいやしくも、貴族院議員の息子さんだよ。そんなことをしてただですむと思っているのかね? それに私が聞いたところでは、小野寺元陸軍大将は今でも軍部に大きな影響力を持っているそうじゃないか。今、世間で一番怖いのは軍部だ。そんな大きな相手に喧嘩を売るというのかね?」  と声をふるわせた。 「おやじさんは何も聞かなかったことにして下さい」  中原さんはおやじさんを外へ押し出した。      4 「みんなで信子を守る。絶対に守る。いや、だからといってみんなでだらだらと彼女のまわりを歩いていたら、肝心の光彦が罠にかからなくなってしまう」  中原さんは考えながら話していた。自分で自分の計画を変えていくといった話し方だった。 「第一、ゴロちゃんや鉄ちゃんみたいな、顔のよく知られている人間がうろうろしていたら、うまくはいかない。ここは君にやって貰いたい」  と中原さんは私を見つめた。 「僕がひとりでですか?」  私はあわててきいた。 「光彦の方だって、ひとりだよ」 「でも彼はイスパノシーザーというすごい車に乗ってるんです。その車で信子をさらっていったら、僕は追いつけませんよ」 「君も車に乗ればいい」  と中原さんは事もなげにいった。 「車なんか持ってませんよ」 「円タクだよ。円タクを時間借りしておいて、いざとなった時、それで光彦を追いかけるんだ」 「中原さんはどうするんですか?」  と私はきいた。この計画を立てた中原さんが、何もしないのではおかしいじゃないかという気がしたからだった。 「僕も円タクに乗って、万一に備える。ただ、明日はあくまでも、君が主役になって働いて貰うよ」  と中原さんはいった。 「なぜ僕が主役なんですか?」 「君が信子に惚れてるからだ」  中原さんはいきなりいった。私は狼狽してしまい、「そんな──」と呻くより仕方がなかった。  信子の方は、ただクスリと笑っただけである。女は強いなと、私は思った。 「問題は信子の覚悟次第だ。僕としては、この劇場《こや》を守るために、やって貰いたいと思ってるが、万一のことを考えれば、強制は出来ない」  と中原さんはいった。 「私、やります」  間髪を入れず、信子がいった。私は改めて、女は度胸があると感心した。 「決った!」  と中原さんは大きな声を出した。  翌日、決行の日だった。  定さんが信子の書いた手紙を持って田園調布に行き、小野寺達也が外出するのを見送ってから、門についた郵便箱に投げ入れた。  あとは光彦の動きを待つだけだった。  私はまだ、光彦がこちらの罠にかかるかどうか自信を持てなかったが、中原さんは自信にあふれていた。  劇場がはねる少し前に、私は外に出ると、雷門近くで流しの円タクをとめて乗り込んだ。 「旦那、何処まで?」  と中年の運転手が聞くのへ、私は、 「この車を借り切るとしたら、いくらだ?」  といった。 「借り切るって、何のことです?」 「間もなく白の高級車が現れる。それを追《つ》けて貰いたいんだ。行先はわからないし、いつ現れるかわからないんでね」 「今、何時です?」 「九時半になるところだが」 「二時間三円でどうです?」 「それでいい」  私は一円札三枚を、運転手に渡した。私の財布には、もう五十銭銀貨一枚と、一銭銅貨が五枚しか残っていなかった。  私は気持を落ち着かせようと、エア・シップを取り出し、運転手にも一本渡し、自分も口にくわえて火をつけた。 「旦那、雨が降り出しましたよ」  運転手がいった。細かい雨が降り出している。  やがて信子が現れるだろう。そして生死を賭けた芝居が始まるのだ。それを考えると、自然にのどが渇いてきた。 「旦那。顔色が悪いけど、病気じゃないんですか?」  運転手がバックミラーをのぞき込んできいた。私が黙って首を横に振ったとき、信子と加代の二人が現れた。信子の傘に一緒に入って来た加代が、雷門のところで立ち止まり、何かいってから傘を抜け出し、言問橋の方向へ駈け出した。  今はやりの赤いスカートの裾がひるがえり、斜めにかぶった白い帽子を片手で押さえている恰好に、十六歳の若さがあふれている。加代の実家は言問橋の近くで、小さな食堂をやっている。今日はそちらに帰るのだろう。  信子は傘をさして、稲荷町の方向へ歩いて行く。それを見送っていると、私の乗ったタクシーの横を白のイスパノシーザーが通って行った。 「あれだ。あの車を追けてくれ」  と私はあわてていった。 「ほいきた」  と運転手はいい、車を発進させた。  その間に、イスパノシーザーは、たちまち信子に追いつき、彼女の横にとまって、光彦が彼女を助手席に乗せてしまった。 「旦那。向うは女を乗せましたぜ」  運転手が大声でいう。 「わかってる。とにかく追けてくれ」  と私はいった。  間もなく、イスパノシーザーの中で、信子が光彦を怒らせるセリフを口にする筈なのだ。  光彦が怒り、かっとして信子を殺そうとした時、果して間に合えるかどうか、私には自信がない。  私は必死で中原さんを探した。が、彼が今、何処にいるのかわからない。  光彦は車のスピードをあげて行った。田原町を過ぎ、稲荷町を抜け、上野に向って走る。  私は否応なしに、上野公園で殺されていた節子のことを思い出していた。信子がそうなってしまったら──。 「旦那、前の車が変ですぜ」  ふいに運転手がいった。私は身体を乗り出し、運転手の背中越しに十二、三メートル先のイスパノシーザーを見すえた。  だが、雨のためによく見えない。 「見えないぞ!」  と思わず私は怒鳴った。 「今、運転してた若い奴が、さっき乗った女と争ってるみたいだったんですよ。そしたら急に、女が見えなくなった。殴ったのかも知れませんぜ。あの野郎」  運転手のその言葉に、私は動転してしまった。 (殺されてしまったのではないか?)  と思い、 「前の車をとめてくれ!」  と叫んだ。 「とめるって、どうやって?」 「前に廻りこめばいいだろうが。早くやれ!」 「ぶつかっちまいますよ」 「いいからやってくれ! 人の命がかかってるんだ」  と私はいった。  私の顔はその時、信子が殺されてしまったのではないかという恐れと、光彦に対する怒りで、引きつっていたに違いない。バックミラーの中にそれを見て、運転手は怯えた眼つきになり、やけくそのようにアクセルを踏みつけ、スピードをあげた。  たちまちイスパノシーザーを追い越し、前に廻り込むなり、運転手はブレーキを踏んだ。  タイヤは雨にぬれた舗道上で悲鳴をあげ、車は激しく横すべりしながら止まった。そこへ、光彦のイスパノシーザーがぶつかってきた。その衝撃で、私はタクシーのドアに身体をぶつけて思わず悲鳴をあげた。一瞬、息がつけなくなる。  それでも私は蹴飛ばすようにしてタクシーのドアを開け、小雨の中に飛び出した。  イスパノシーザーに近づいて、のぞき込んだ。  運転席で光彦は、痴呆のように私を見上げた。私はドアを開け、彼を車の外に引きずり出した。  彼は全く抵抗しない。私は彼を殴りつけた。光彦は私に殴られて、舗道にうずくまった。私がもう一度、殴りつけようとすると、急に肩をふるわせて泣き始めた。 [#改ページ]   第七章 一瞬の勝利      1  私は助手席に眼を移した。  信子は座席に横倒しになった恰好で、気を失っていた。松屋で買ったという帽子は、脱げて床に落ちている。  私は運転席にもぐり込み、信子を抱き起こしてゆすった。  急に信子が、ぽっかりと眼を開けて、私を見た。 「秋月のお兄さん」  と信子は嬉しそうに私を見た。 「大丈夫か?」 「ええ。彼は?」 「そこにいるよ」  私は振り返った。まだ光彦は、雨の舗道にうずくまったまま動かない。  信子は彼を見て、急に身体をふるわせた。 「あたしが降ろしてくれっていったら、いきなりぶたれて首を絞められて──」 「君を殺そうとしたんだよ」  と私はいった。 「じゃあ、他のおねえさんたちを殺したのも、あの人なんですか?」 「多分そうだ」  と私はいった。  円タクの運転手が車から降りて来て、 「こんなにしちまって、どうしてくれるんです?」  と私に食ってかかった。 「修理代は払ってやるよ。その代り、証人になってくれ」  と私はいった。 「何の証人?」 「そこにいる男が、彼女を殺そうとしたんだ。それを警察で、しっかり証言して貰いたいんだ」 「ひでえ奴だ。それが本当なら、喜んで証人になりますよ」  と運転手がいう。  私は舗道に座り込んでいる光彦の襟をつかんで引き起こした。  彼の、焦点を失った眼から、まだ涙がにじんでいる。この青年は、本当の悪人ではなく病人なのだと、私は思った。心を病んでいるのだ。だから、こうして捕まってしまうと、抵抗する代りに、呆然自失してしまうのだろう。 「信子を車の中で殺そうとしたな?」  私が光彦を見すえてきくと、彼は雨と涙でぐしょぐしょになった顔で、小さく肯いた。 「前に踊り子を殺したことがあるだろう? 君が殺したんだな?」 「ぼ、ぼくだ。ぼくがやった──」 「ぼくって柄かよォ。この野郎!」  運転手が横から怒鳴り、手をあげかけるのを、私は止めておいて、光彦に、 「なぜ殺したんだ?」  ときいた。 「僕を馬鹿にしたからだ。パパは、男というのは、もし侮辱されたら、相手を殺してでも自分の名誉を守らなければいけないっていってた。だから殺したんだ。あんただってそうするだろう?」 「彼女たちがどんな風に、君を侮辱したというんだ?」 「僕は貴族院議員、小野寺元陸軍大将の息子だ。その僕が彼女を助けようというのに、それを拒否したんだよ。拒否だ。侮辱だ。大変な侮辱だ。だから殺したんだ!」  光彦は急に激した口調になった。 「それで殺すのが楽しかったのか?」 「楽しい? 楽しいって何のことだ?」 「君はその両手で首を絞めたんだろう? 今日だって同じことをしたじゃないか。彼女たちの悲鳴を聞くのが、楽しかったんじゃないのか? ぞくぞくしたんじゃないのか?」 「楽しいより、僕は怖かったよ。殺しても、大きな眼で僕を見つめているんだ」  まるで子供が駄々でもこねるみたいに、光彦は怖かったを繰り返し、そのうちに両手で顔を覆い、また泣きじゃくり始めた。  やっと中原さんが駈けつけてきた。  中原さんは私に向って、「よくやった」といい、 「光彦は警察へ連れて行こう」 「そうですね。君も一緒に行ってくれるか。証人が必要なんだ」  私は円タクの運転手に頼んだ。 「いいですよ。本当にとんでもない野郎だ」  と運転手はまた、光彦を睨みつけた。      2  象潟署は、それこそ上を下への大さわぎになった。  何しろ光彦が貴族院議員、元陸軍大将小野寺達也の息子で、あろうことかその息子が自分で踊り子たちを殺し、今夜も信子を殺そうとしたと自白したのだから、無理もなかった。  光彦は象潟署に着いても、自供を変えなかった。  円タクの運転手もきちんと証言した。  山路刑事も狼狽しながら、 「とにかく今日は帰ってくれ」  と中原さんや私たちにいった。 「妙な真似をして誤魔化さないで下さいよ。警察の面子《メンツ》もあるでしょうが、これでサキソフォン吹きの寺田は犯人じゃないことがわかったんですからね」  中原さんは山路に向って、釘を刺すようにいった。 「わかった。わかった。これから小野寺光彦をじっくり訊問して、真実を明らかにするつもりだ」  山路は私たちに、今まで見せたことのない卑屈な眼つきをして見せた。  私たちは象潟署を出ると、円タクの運転手に礼をいって別れ、三人で中原さんの部屋へ行き、祝杯をあげた。  次の日、偏奇館は私と中原さんの報告で歓声に包まれた。 「こいつは何が何でも、祝い酒といかねばなるまいて」  歌舞伎あがりの嵐乱三郎が左団次の声色でいい、弁ちゃんが近くの酒屋で、一番安いオラガビールをしこたま買って来た。楽屋はたちまち宴会場に変ってしまった。  中原さんも私もそれを止めなかった。二人とも昨夜の酒が残っていて、二日酔いだったのだ。  鉄ちゃんなどはしたたかに酔ってしまい、幕が開いて舞台に出たものの、足がふらついてぺたりと座り込んでしまった。  そのまま客席に向って、 「今日は嬉しいことがあったもんだから、ビールを五本も六本も飲んじまってねえ。勘弁して下さいよ。お客さん」  とぺこりと頭を下げた。  ふらつく足どりで楽屋へ戻ってくると、今度はビール瓶とコップを持って舞台へ戻って行き、客に向って注ぎ始めた。 「本当に嬉しいんだ。だからお客さんも一緒に喜んでくれよ」 「いいとも。鉄ちゃん」 「乾杯だ。鉄ちゃん」 「万歳」  わけがわからないままに、舞台も客席も浅草らしく楽しい雰囲気になってきた。  加代や信子たちも客席におりて行って、客にビールや酒のサービスを始めた。  中原さんは舞台の中央に立って、 「皆さん。昨日、踊り子たちを殺した真犯人が見つかりました。警察に犯人扱いされたサキソフォン吹きの寺田の無実が証明されました。ありがとうございました!」  と声を張りあげた。  客席から一斉に拍手が起きた。私は不覚にも涙があふれて止まらなくなってしまった。客の全部が本当にわかって拍手しているのかどうか不明だったが、それでもよかったのだ。  次の日、中原さんと私は金田検閲官に呼ばれて警視庁に出かけて行った。  常に冷静な眼つきの金田も、今日は彼の方から笑いかけて来て、 「おくれて申しわけない。この『日本ギャング時代《エイジ》』は面白かったよ。傑作だ」  といい、上演許可の判を押して、私たちの脚本《ほん》を返してくれた。  中原さんがすさかず、 「『踊り子殺人事件』の方はどうなるんですか? 結末を変えて犯人を出せということでしたが、直した方がいいですか? 私たちも名家の一人息子が犯人という結末にした方が、客が喜ぶとは思っているんですがねえ」  といった。  金田はとぼけて、 「あの芝居については、私は何も君たちにいってない筈だよ。現に君たちの偏奇館では、今まで通りの筋であの芝居をやってるじゃないか」  といった。 「じゃあ今のままで文句はないんですね?」  と中原さんは念を押した。 「文句のある筈はない。君たちだって犯人がわからないという方が、芝居はやり易いんじゃないかね」  金田はニヤッと笑った。  私と中原さんは勝利感に酔いながら引き揚げると、早速『日本ギャング時代《エイジ》』の稽古に取りかかった。  永井のおやじさんもご機嫌で、銀行から借金をして、舞台に金を注ぎ込む約束をしてくれた。  新しい踊り子も五人、採用することになったし、私にとって一番嬉しかったのは、『日本ギャング時代《エイジ》』の娼婦役に、S座の人気女優の土田君枝を引き抜けたことだった。  信子や加代では大人の色気が出せないということで、中原さんは頭を痛めていたのである。  土田君枝は二十六歳でスタイルは抜群。眼に色気があって、娼婦役をやらせたらピカイチといわれていた女優だった。永井のおやじさんが金を出してくれたおかげで、来て貰うことが出来た。 「これでゴロちゃんとのコンビは出来た。芝居の成功は、もう約束されたようなものだよ」  中原さんは自信満々にいった。  中原さんのいう通り、『日本ギャング時代《エイジ》』は成功し、初日から客席がわいた。  主役のゴロちゃんは張り切って、例のコイン投げを舞台で演じて見せた。私たちは玉木座やカジノ・フォーリーに後れをとっていることが心配だったのだが、ゴロちゃんのジョージ・ラフトばりの演技と、土田君枝の娼婦がスカートをまくりあげて、太股のガーターにはさんだマッチで、ギャングのゴロちゃんの煙草に火をつけるところ(これもアメリカ映画の真似なのだが)が客に受けた。  浅草周辺のカフェの女給たちが、土田君枝を真似てガーターにマッチをはさんでおき、客の煙草に火をつけるのが流行り、それが噂になって客席を満員にした。  これで偏奇館は、受ける芝居が二本出来たことになった。  全て順調だったが、そんな空気の中で、定さんと弁ちゃんが満州に新天地を求めて出発して行った。  弁ちゃんは最初、定さんには同行しないことになっていたが、急に満州へ行くことになったのである。 「定さんに強くすすめられたもんで──」  と弁ちゃんは照れ臭そうにいった。  定さんは、 「一人じゃ寂しいんで、無理矢理、一緒に行って貰うことにしたんですよ」  といった。  だがそれだけではないことは、私も知っていた。  二人とも偏奇館で出番がなくなってきたのだ。  東京駅から出発する二人を、私がひとりで送りに行った。  東京駅の構内では、愛国婦人会のたすきをかけた女性たちが、千人針の奉仕活動をやっていた。  非常時の文字も眼についた。軍部後援の「時局講演会」の大きな看板もあった。  浅草という池の中にいると、気付かずにすむのだが、外に出ると時代が嫌な方向へと動いているのがわかって、私は暗い気分になってくる。  今年の夏、ロスアンゼルスのオリンピックで、日本選手は七つの金メダルを獲得した。そのことさえも戦意発揚に利用されていく。  私は嫌でも、石橋湛山が書いた論文の言葉を思い出さずにはいられなかった。 「日本は、日本を守るために、朝鮮半島を手に入れた。次に、その朝鮮半島を守るために、満州国を建国した。そして、今、その満州国を守るためと称して、外蒙《モンゴル》に兵を進めようとしている。外蒙を支配したあとは、どうなるのか。これは果しない戦いになってしまう」  石橋湛山は、日本は逆に、全ての植民地を放棄し、貿易立国を選ぶべきで、日本の繁栄の道はそれ以外にないと書いているのだが、多分この声には誰も耳を傾けないだろう。  軍部はもちろんだが、国民ももっと勇ましい、景気のいい言葉に耳を傾けるものだからだ。  今、人気があるのは、満州建国に動いた関東軍参謀の石原莞爾の次の言葉なのだ。 「満州は日本の生命線である。満州の豊かな資源は、日本にとって必要不可欠なものだ」  その満州に、今、定さんと弁ちゃんが行くという。  神戸まで列車で行き、神戸から大連行きの船に乗ることになっていた。  発車間際になって定さんが私に、 「警察には気をつけた方がいいね」  といった。 「大丈夫だよ。真犯人が捕まったんだから、何も出来やしないさ」 「そんなに簡単に考えていいのかな。心配だよ」 「心配って、どこが?」 「何といっても強大な権力だからね。私たちなんかには手に負えない相手だよ」  と定さんはいう。  私は笑って、 「強大だろうが、真実を覆いかくすことは出来っこないよ」  といった。それに対しては、定さんはもう何もいわず、 「みんなによろしくいって下さい」  といい、手を差し出した。  私は定さんと弁ちゃんに握手をした。  列車が動き出し、見えなくなり、私は歩き出した。が、急に定さんの言葉が気になり始めた。  そういえば、なぜか踊り子殺しについて、真犯人逮捕の記事は、まだ新聞にのらずにいる。警察の面子と、貴族院議員の息子ということもあって、発表の仕方に苦慮しているのだろうとは思っても、すでに三日もたっているのだ。  私は不安になって、弁護士の日下部に会いに出かけた。  日下部は私の話を聞くと首をかしげて、 「そいつはおかしいな。警察にしたら完全に黒星だから、新聞発表を渋るのはわかるが、いつまでも沈黙しているわけにはいかないだろうからね。それに、小野寺光彦が逮捕されたことは、警察《さつ》廻りの新聞記者が嗅ぎつける筈だと思うが、そんな噂は聞いてない。おかしいよ」  といった。 「調べてくれないか。どうなっているか」  と私はいった。 「わかった」  と日下部は約束してくれた。  翌日、約束しておいた田原町の喫茶店で会うと、日下部はいきなり、 「小野寺光彦は象潟署にいないよ。留置されていないんだ」  といった。 「じゃあもう起訴されたということか?」  その方面に詳しくない私がいうと、日下部は苦笑して、 「それなら警察は、新聞発表に踏み切るよ。小野寺光彦を犯人と認めたわけだからね」 「じゃあ、光彦は何処にいるんだ?」 「それがわからないんだ。その上、僕は話を聞こうと、象潟署へ行って山路刑事に会ってみた。そしたら彼は、小野寺光彦なんて男の顔を見たこともないといった」 「馬鹿な! 僕は光彦を捕えて、山路刑事に引き渡したんだよ。中原さんも一緒だったし、証人の運ちゃんと一緒だった」 「ところが、山路刑事は何も知らないといっている。山路刑事だけじゃない。他の刑事たちも、小野寺光彦に会ったこともないといっているよ」 「嘘だよ」 「わかってるよ。君は嘘はついていないとわかってる。だが肝心の光彦が見つからなくては、警察が嘘をついていると実証できないんだ」 「証人がいる。円タクの運ちゃんだ」  私は名前と住所を聞いていたので、日下部と一緒に北千住に行ってみることにした。  荒川近くの、天気のいい日でもじめじめしている路地を入ったところにある四軒長屋だった。  その一軒が山口徳治という、あの運転手の家だったが、その家の玄関には、貸家の紙が斜めに貼ってあった。  共同井戸で洗濯していたおかみさんに聞いてみると、二日前に妻子を連れて引っ越したという。 「行先はわからない?」  と私がきくと、小太りのおかみさんは濡れた手をこすり合せながら、 「満州で一旗あげるんだっていってましたよ」 「満州?」 「ええ」 「本当に満州へ行ったの?」 「ええ。そうですよ。満州はいいとこなんですってねえ」  とおかみさんは憧れるような眼つきをした。  今、誰もが満州を口にする。日本の失業人口は四十二万人。不作続きで、農村の欠食児童は二十万人といわれている。新天地満州に行けば何とかなると、人々は海を渡って行くのだ。 「山口さんは満州に知人がいるんですか?」  と日下部がおかみさんにきいた。 「なんでも軍人に顔の利く偉い人に、紹介状を貰ったといってましたよ。満州じゃあ、軍人さんに顔が利かないと、いい仕事が見つからないんですってねえ」  と彼女はいう。  満州国は関東軍が作りあげた国だといわれている。それなら当然、軍部に顔が利けば、うまい汁にありつけるだろう。ただ、円タクの運転手が、軍部の偉い人に知り合いがあるとは考えにくかった。  私が首をひねっていると日下部が、 「ひょっとすると小野寺じゃないかな」  と小声でいった。  私は「あッ」と思った。貴族院議員で元陸軍大将の小野寺なら、満州国の実権を握る軍部に顔が利くだろう。あの老人が手を回して、証人の運転手を海の向うに追いやってしまったのか。  私は小野寺が反撃してきたのを感じた。当然、警察もひと役買っている筈だった。  私の話を聞くと、中原さんは腕を組んで考え込んでいたが、 「光彦も満州に逃げたのかも知れないな」  といった。  更に一週間して、私たちの悪い予感が当っているのを知らされた。「満州帝国特集」と題された雑誌のグラビアに、見覚えのある顔がのっていたからである。  満州開拓の第一線に   小野寺閣下の御令息も  大きな活字が躍っているその写真には、まぎれもなくあの光彦が写っていた。  防寒服に身を包み、得意然とした顔で満州の原野に立っている写真だった。  消えてしまった犯人は、ひそかに満州に運ばれていたのだ。時間から考えて、船で行ったのではないだろう。多分、飛行機、それも軍の輸送機が使われたに違いない。軍部はそんなことを平気でやれるほど、大きな力を持って来ているのだ。  北満開拓公司副理事  それが光彦に与えられた肩書である。右手にモーゼル自動拳銃を持ち、誇らしげだ。心を病んでいた青年は、今、満州の原野で、父親と同じ男らしい人間になったと、錯覚しているのだろうか。  もちろん、光彦を満州に渡らせ、北満開拓公司副理事にしたのは、父親の小野寺だろう。円タクの運転手に、満州での安定した生活を約束し、家族と一緒に渡満させたのも小野寺に違いない。  犯人も証人も、私たちの手の届かぬ所へ行ってしまったのだ。  私は定さんの言葉を思い出した。連中は巨大な国家権力だから、私たちには手に負える相手ではないよといった定さんの言葉である。定さんの言葉は正しかったのだ。 「どうしたらいいんですか?」  私は中原さんにきいた。  日頃、負けん気の中原さんも、ぶぜんとした顔になって、 「どうしようもないな。肝心の証人もいないし、犯人もいない。まさか僕たちが満州へ行って二人を見つけ出し、連れ戻ることも出来ないだろう。光彦だって円タクの運ちゃんだって、軍部が守っているだろうからね」 「しかし癪ですね。象潟署へ行って、抗議は出来ませんか?」 「無理だよ。どうせ向うは、そんなことがあったかと、白ばくれるに決っている。そうなれば、こっちには決め手がないんだ」  と中原さんはいった。 「じゃあ、このまま泣き寝入りですか?」 「他に何が出来る? 今のところ芝居の筋を変えろという指示は来ていない。こちらが何の抗議もしなければ、向うも僕たちを放っておいてくれるかも知れない。それなら『踊り子殺人事件』を、今まで通りに演じていける。少くとも、この偏奇館は続けていけるよ。どうするね?」  今度は中原さんが私にきいた。  僕たちが警察に抗議したらどうなるかと考えた。子供っぽい正義感は、満足させられるだろう。  だが、何も解決はされない筈だ。警察が事件そのものを否定してきた場合、僕たちにはどうすることも出来ないからだ。  そして警察は、強烈なしっぺ返しをしてくるだろう。 「何もしない方がいいかも知れませんね」  と私は妥協した。 「それでいい」  と中原さんもいった。      3  私たちはいつ警察が攻撃してくるかと怯えながら、芝居を続けた。  幸い『踊り子殺人事件』も、『日本ギャング時代《エイジ》』も、引き続き好調だった。客が入り、永井のおやじさんも機嫌が良かった。  だが、嫌なことも私の耳に入ってきた。  ピストル強盗の犯人として逮捕された島崎が、拘置所で喀血死した。  それを知らせてくれた日下部は、 「彼は最後まで、共犯者の名前も自分と繋がりのある人間の名前も、喋らなかったそうだよ」  と私にいった。  ただその直後、清川が突然、文芸部から姿を消してしまった。  私は彼が島崎と一緒にピストルを持ってN銀行を襲ったのではないかと疑っているのだが、それが当っているかどうかわからない。  十一月に入ってすぐ、とうとう連中が牙をむいてきた。  検閲官の金田が電話を掛けてきて、電話に出た中原さんに向って、例の冷たい口調でこういったのだ。 「君は確か、一週間たったら『踊り子殺人事件』の改訂脚本を提出すると約束した筈だ。あれから何日たったと思っているのかね?」 「わかっています」 「とすると君たちは私を愚弄しているのかね? それとも現在の検閲制度に挑戦しているつもりなのかね?」 「そんなことは考えていません。ただ、あなたが前に会った時、あの芝居は訂正せずに続けて構わないといわれたので──」 「そんなことをいった覚えはないよ。私は一週間以内に訂正せよと命じ、君は訂正を約束している」 「どう訂正したらいいんですか?」 「それについて文書を送る。それに細かく訂正すべき箇所と訂正の指針を書いておいたから、それに従いたまえ」 「もし訂正しなかったら、どうなりますか?」 「当然、あの芝居は上演禁止だ。しかしそれだけには止まらんだろうね。脚本《ほん》を書いた君たち文芸部員も演じた役者も劇場《こや》主も、全員逮捕することになる」 「理由は何ですか?」 「公安、風俗、又は保健上の障害のある映画、演劇の上映、上演は禁じられている。いいかね。こちらの指示通りに訂正されずに引き続き上演されている場合は、責任者をただちに逮捕し、劇場も閉鎖する」  これが金田と中原さんとの間に交わされた電話の全てだった。  そして文書が送られてきた。  それに眼を通した中原さんは、「馬鹿らしい」と一言吐き捨てるようにいった。  私もその文書を読んだ。確かに馬鹿らしいものだった。  脚本の訂正すべき箇所が、事細かく指示されている。  主人公は踊り子ではなくなっていた。アナーキストの犯人が劇団にもぐり込み、自分の欲望のままに踊り子を殺していく。役者も踊り子も、アナーキストの犯人に全く疑いを持たない。一人、正義感に燃えた刑事が、サキソフォン吹きのアナーキストに疑いを持ち、執拗に追いかけ、最後に彼を逮捕する。全員が刑事に感謝し、劇場主は「刑事さんのおかげでうちの劇団が救われました」という。  これでは警察の宣伝芝居ではないか。 「僕にはこんな脚本は作れないよ」  と中原さんはいった。  それでも勝手に決めるわけにはいかず、全員で話し合うことになった。  劇場がはねてから、劇場主の永井のおやじさんにも顔を出して貰い、まず中原さんが送られてきた命令書を読みあげてから、 「もしこの通りにあの芝居を直してしまったら、恐らく六区中の笑い者になるだろうね。ほとんど原形をとどめず、ひたすら警察におもねた芝居になってしまうからだ。僕個人としては、従って明日でこの芝居は終止符を打ちたい。ただ、私ひとりがそう決めるわけにはいかない。何といっても、この芝居は偏奇館のドル箱だからだ。上演を打ち切れば、損失は眼に見えている。従って当局の要求を入れて、芝居を続けたいという意見も尊重しなければならないと思っている。遠慮なく、めいめい意見をいって欲しい」  とみんなの顔を見廻した。  すぐには返事が返って来なかった。が、ゴロちゃんが立ち上って、 「僕は残念だが打ち切りも仕方がないと思う。あそこまで、警察に膝を屈してまで、あの芝居を続けたくないよ。第一、お客を裏切ることになるじゃないか。エロ・グロ・ナンセンスを期待して来たお客に、刑事物語を見せてどうするんだ」  と強い声でいった。 「あたしも中原のお兄さんやゴロちゃんに賛成です」  と信子もいった。  あの芝居のために抜擢した信子までが、芝居の打ち切りに同意したので、反対する者は出なかった。  中原さんは最後に、永井のおやじさんに向って、 「おやじさんは劇場主だから、決めて下さい」  といった。 「あの芝居を打ち切っても、どうにかやっていけるのかい? それなら私は君たちに賛成するよ」  人の好い永井のおやじさんはそういった。 「僕たちががんばって、いい脚本を書くから、安心していて下さい」  と中原さんはいった。  だが私は、中原さんが楽観していないのを、その表情から感じ取った。 『踊り子殺人事件』を中止すれば、今までの大入りを維持できないのは眼に見えていたからだった。 『日本ギャング時代《エイジ》』が好評で、引き抜いた土田君枝の娼婦は人気を得ていたが、ギャングストーリィは他の劇場もやっているし、舞台の立派さも、役者や踊り子の数も、私たちの偏奇館は玉木座やオペラ館に劣り、浅草一の松竹座に比べれば、それこそ月とスッポンなのだ。客足が減ることは眼に見えていた。      4  翌日の十一月六日は、『踊り子殺人事件』の最後の日になった。  私は途中から舞台を見ているのが辛くなって、劇場《こや》の外に出た。  どんよりと曇っていて初冬の感じの寒さだった。  六区の興行街を歩いた。ここは寒さに関係のない、いつもの通りの賑わいを見せている。両側の劇場や映画館は華やかなネオンをきらめかせ、のぼりが林立してはためき、人々が群れを作って歩いている。  靴や下駄の音、呼び込みの声、話し声、そんなものが入り混って、この六区を作っているのだ。  私は少し温かな気持になってくる。この賑わいが続いてくれれば、偏奇館は潰れないのではないか。  私は六区の外れにあるシナそば屋に入った。喧騒はここまで聞こえてくる。それを耳に心地よく聞きながらシナそばを食べ、ゆっくりと劇場に戻った。  楽屋にはなぜかひとりもいなかった。私はがらんとした楽屋の真ん中に腰を下ろし、灰皿を引き寄せてエア・シップに火をつけた。  丁度、『踊り子殺人事件』をやっている時間ではあるのだが、あの芝居に出ていない連中は、どこへ消えてしまったのだろう。  とんとんと階段をあがってくる足音がして、加代が丸い顔をのぞかせた。 「みんなどこへ行ってるんだ?」  私がきくと、加代は眼をくるりと動かして、 「みんな客席で見てるんです。秋月のお兄さんも来て下さい」 「そうか」  と私は肯いた。自分がひどく感傷的になっていくのを覚えながら、加代について客席へおりて行った。  その夜、劇場がはねてから、私たちは広養軒で飲むことにした。永井のおやじさんがポケットマネーを十円出してくれたのだ。  最初は陽気に始まったのだが、信子が急に泣き出してから、他の踊り子たちが貰い泣きして、感傷的な空気に変ってしまった。  最初に泣き出した信子は、無理に飲んだせいで酔い潰れてしまい、そうなるとゴロちゃんは当然のように彼女の介抱を私に押しつけた。私は隠していたつもりだったが、女心にくわしいゴロちゃんは、とっくにお見通しだったのだろう。  正体のなくなった信子を、彼女の下宿より近いので、自分の下宿へタクシーで運んで行った。いや、こんな下手ないいわけは止めておこう。私にもたれかかってくる信子の身体の丸みや、眼を閉じた可憐な顔を見ている中に、このまま帰したくなくなったのだ。  その夜、私の六畳の下宿で、信子と結ばれた。  翌日から信子は、私の下宿に転がり込んできた。階下の焼芋屋の主人夫婦は眉をひそめるでもなく、かといって大歓迎という様子もなく、商売物の焼き芋をくれたり、鍋を貸してくれたりした。  楽しい二人の生活の始まりといいたいところだが、それどころではなかった。  心配した通り、『踊り子殺人事件』を打ち切りにしたあと、がくんと客足が落ちた。それを私たちは、浅草の客の厳しさと受け止めた。浅草の客は面白ければ黙っていても見に来てくれるが、詰らなければ見向きもしない。  だから面白い脚本《ほん》さえ書けば客は戻ってくると中原さんも私も思い、脚本作りに熱中した。  天国に結ぶ恋と呼ばれた坂田山心中以来、心中が相ついでいるので、人まね心中を風刺した『心中、心中また心中』を書いたり、ロスアンゼルスオリンピックを題材にして『青春オリンピック』を書いたり、アメリカ映画『ジキル博士とハイド氏』を真似て『灰土氏の殺人』という脚本を作ったりした。  小さく当った芝居はあったが、『踊り子殺人事件』のような大当りは生れなかった。  それでも何とか偏奇館を潰さずに年を越し、昭和八年を迎えた。  年明け早々の一月一日、満州で関東軍が中国軍と武力衝突を起こした。  場所は万里長城の東の端、山海関である。暗い年になりそうな予感がした。  関東軍は更に、華北の熱河省は満州国の一部であると主張して、進撃を開始した。  新聞には万里長城にはためく日章旗の写真が連日のようにのったが、この頃、売り出された「討匪行」で藤原義江は次のように唄った。   どこまでつづくぬかるみぞ   三日二夜を食もなく   雨ふりしぶく鉄兜  藤原義江が熱唱すればするほど、切なくなってくる歌詞だった。  こうした日本軍の行動を国際連盟が非難し、日本は三月二十七日に国際連盟を脱退した。  非常時、愛国、国防といった重く物騒な言葉がやたらに眼につき、耳に聞こえるようになった。  ただ、浅草六区には、相変らず人が押しかけてきた。多分、暗い重苦しい時代の空気から逃げようと、六区のエロ・グロ・ナンセンスに集ってくるのだろう。  その六区には、新しいライバルが次々に生れて私たちの偏奇館を一層、窮地に追い込んでいった。  四月一日に、浅草常盤座に「笑いの王国」が誕生した。これには古川ロッパ、徳川夢声、大辻司郎、島耕二、小杉勇、三益愛子、滝花久子たちと、昭和七年に公園劇場で旗揚げしてすぐ潰れてしまった「喜劇爆笑隊」の面々、渡辺篤、古谷久雄、関時男などが名前をつらねていた。中でも古川ロッパは、自分でも脚本を書き、『凸凹放送局』『凸凹ロマンス』などの笑える芝居で私たちを苦しめた。  オペラ館では、新しく「ヤパンモカル」が旗揚げした。サトウ・ハチローが「|日本儲かる《ヤパンモカル》」から名前をつけたという人を食ったもので、田谷力三や岩間百合子といった、オペラ出身者が多かった。私は最初、この一座をさして心配しなかった。昔のオペレッタ時代の古い連中という頭があったからである。  事実、ヤパンモカルには、エノケンの軽快さはなく、レビューともオペレッタともつかない妙な出し物を舞台にかけた。しかし、この一座が意外に客を呼んで、私たちをあわてさせた。やはり田谷力三の人気は、まだ衰えていなかったということかも知れない。  トーキーの本格化も、私たちにとって強敵となった。フランス映画『巴里祭』が封切られた時は、映画館の前に長蛇の列が出来て、永井のおやじさんがつい、「映画館の方が儲かるかも知れん」と愚痴ったりして、私たちをあわてさせた。  私たち文芸部員も必死だったし、ゴロちゃんたちも信子たちも一生懸命だったが、結果的には偏奇館はじり貧状態になっていった。  それを打開しようとして努力するあまり、ゴロちゃんが一つの事件を起こしてしまった。  その方法がいかにもゴロちゃんらしいところに、問題があったのだ。  昭和四年にカジノ・フォーリーが誕生した頃、客の入らぬ日が続いた。それが金曜日には踊り子がズロースを落とすという妙な噂が流れ、それが人気になり、急に客が増えた。実際には、ブラジャーの代りに胸に巻いていたサラシが落ちかけ、その踊り子があわてて胸をおさえて退場しただけのことだったのである。  ゴロちゃんはひとりで、この手を客寄せに使おうと考えたのだ。『南の国の王様と踊り子』という国籍不明の芝居の中で、王様に扮したゴロちゃんが、踊り子の一人の希代子に足をふまれてよろけるシーンがある。その時、彼はよろけて希代子に倒れかかる拍子に、自然にそうなってしまったというふりで、右手で彼女の乳当てを外してしまったのである。  二十歳の豊満な乳房がぽろりとむき出しになって、一瞬、六分の入りの客席はどよめきがもれた。  希代子はあわてて胸をおさえて舞台の袖に逃げ込んだが、彼女はゴロちゃんに惚れていたから、合意の上だったかも知れない。  客席はわいたが、警察が見逃してくれる筈がなく、劇場主の永井のおやじさんをはじめ、脚本を書いた中原さん、ゴロちゃん、希代子の四人が捕まり、偏奇館は三日間の営業停止処分を受けた。  三日後に釈放されたゴロちゃんと希代子は意外にけろりとしていたし、中原さんは元気だった。ただ、五十歳過ぎの永井のおやじさんには、たった三日間でもこたえたらしく、劇場が再開されても前ほど熱意を見せなくなってしまった。  ゴロちゃんは焦ってやり過ぎたのだ。一時的に客は増えたが、偏奇館は一層、警察に睨まれるようになってしまった。そのこと自体は私は平気だったが、何よりのマイナスは永井のおやじさんが弱気になってしまったことだった。  元天ぷら屋の主人のおやじさんは、浅草と芝居とレビューは好きでも、権力に対する反抗などということには無縁な人間だったから、当然の成行きだった。  五月に入って土田君枝が映画に行き、鉄ちゃんが新宿のムーラン・ルージュに引き抜かれて、偏奇館を去って行った。      5 「他人の劇場《こや》へ行くのは許せるが、浅草を逃げ出すのは許せねえ」  とゴロちゃんは息巻いたが、私には鉄ちゃんが同じ浅草の玉木座や松竹座ではなく、新宿のムーランに移った気持がわかるような気がした。  同じ浅草にいて、私たちと顔を合せるのが辛かったのだろう。それにムーランは、浅草の劇団にはない感覚の新しさがあって、鉄ちゃんはそれに魅かれたのかも知れない。  私は二度だけだが、ムーランの舞台を見ている。昭和六年の暮れに、赤い風車をシンボルに新宿座で生れたムーランは、最初のうち、客の入りも悪く青息吐息だったが、今年になって爆発的に人気が出た。そのきっかけは、一座の歌手高輪芳子が青年作家とアパートの一室でガス自殺したことが、新聞に大きく取り上げられたことである。ただ、その人気が持続できたのは、やはり若いインテリ層にうける芝居を心がけて来たからに違いない。それが鉄ちゃんを呼んだのだろう。  私にとって、鉄ちゃんがムーランに移った以上にショックだったのは、あのカジノ・フォーリーが解散したことだった。私の青春そのものだったカジノ・フォーリー。私をこの世界に引き込んだカジノ・フォーリー。エノケンを生んだカジノ・フォーリー。偏奇館に入った私が、一つの目標にしていたカジノ・フォーリー。それが幕を閉じたのだ。それは一時代を作ったエロ・グロ・ナンセンスの終りを示しているようにも、私には思えてならなかった。  梅雨に入って、満州にいる弁ちゃんから、私は手紙を受け取った。 拝啓  いかがお暮しですか。偏奇館の仲間は全員元気ですか。  こちらは五月末になっても、時々雪が舞う寒さで、夜になるとストーブが必要です。日本とはずいぶん違います。それでも、ようやく木の芽がほころび、馬路《マーロ》を行くソリに代って、馬車が走り始めています。  東京駅でお別れしてから、まっすぐ満州国の首都新京(長春)にやって来ましたが、聞くと見るとでは大違いです。日本にいる時は、満州景気というのをさんざん聞かされたものですが、着いてみると全くの空宣伝でした。働き口などほとんど無いのに、満州へ行けば何とかなるだろうという一攫千金組が後から後から押しかけて来るのですから、たまったものではありません。新京には、寒い冬の間にも、一カ月に千人の割りで日本人がやって来ます。ここ一年で日本人だけでも、七千人が増えたそうです。碌に仕事が無いのですから、この街だけで二千人以上の失業者があふれ、市営の無料宿泊所は、そうした人たちを収容するのに大忙しです。  日本でちゃんとした仕事があったのに、新京へ来てルンペンになってしまった人を沢山見ています。  こんな満州で確実に儲けているのは、鉄道関係者と医者と芸者だといわれています。新京にも芸者が七百人もおります。驚いたものです。  物価高にも閉口しています。どんどん人口が増えるので、一番値上りしているのが住む所です。六畳と二畳二間のボロ屋でも権利金百円、敷金百二十円、その上毎月の家賃が四十円というのですから呆れたものです。こんなべらぼうな家でも、借り手はいくらでもいるのですから嫌になります。人間が急に増えたので衛生状態も悪く、今年の夏にはチフスが流行するのではないかと、みんな戦々恐々としています。  私たちは定さんの才覚で、最初ブローカーめいた仕事をしていましたが、やはりこの満州では、軍部にコネがないといい仕事にはありつけません。それで何とか軍部に取り入ろうということになり、満州にいる関東軍の無料慰問を始めました。私の映画説明と定さんの浪曲を持って、駐屯地めぐりです。浅草ではものにならなかった私たちの芸ですが、ここでは意外に受けまして、いい仕事を貰えるようになりました。東京の芸人が皇軍慰問ということでやって来ることがありますが、ほんのたまにだからでしょう。  最後にとっておきのニュースを書いておきます。  小野寺光彦が死にました。まだ新聞に出ていませんが、関東軍の将校の話ですから間違いないと思います。満鉄の北の終点、竜城子から更に北に百キロいった開拓村で、馬賊に射殺されたそうです。私に話してくれた将校は、「素人のくせしやがって、イキがって拳銃なんか振り廻すから殺されるんだ」と罵倒しておりました。どうも満州では評判が悪かったようです。  私たちは何とかやっておりますので、ご安心下さい。  秋月先生をはじめ偏奇館の皆さまの健康をお祈りしております。    新京にて [#地付き]敬具       6 (光彦が死んだのか──)  これまでのことを考えれば喜ぶべきことなのに、私の胸ははずまなかった。  あの青年も被害者だったのかも知れない。そんな思いがよぎったせいだろうか。  光彦は父親を憎みながら、一方で父親のように逞しく生きたいと願っていたと、私は思う。弁ちゃんの手紙では、馬賊に射殺されたということだが、彼の身体を馬賊の弾丸が貫通した時、光彦はきっと、これで父に期待される人間になれたと思ったのではないだろうか。モーゼル自動拳銃を片手に持ってである。  そんな風に考えると、踊り子殺しの犯人だが、可哀そうな気もしてくるのだ。  芝居が終り、どやどやとみんなが楽屋に戻って来る。いつものように加代が、 「シナそばを注文してくるけど、いる人は手をあげて」  といい、一、二、三、四と数えてから、楽屋を飛び出して行った。彼女も十七歳になって、腰のあたりが女らしくふくらんできている。  私は弁ちゃんの手紙を中原さんに渡してから、信子を促して劇場《こや》を出た。  梅雨特有のじめじめした雨がやっとあがって、瓢箪池の周辺は、夜の中で、もやっている感じだった。  池のまわりには、さざえの壺焼きや味噌おでんなどの露店が並んでいる。私と信子は、焼鳥屋の床几に腰を下ろした。 「昨日、劇場がはねたあと、永井のおやじさんに中清で天ぷらをご馳走になったんだ」  私がいうと、 「珍しいわ」  クスッと信子が笑った。  私はハンカチで手を拭き、エア・シップをくわえてから、 「その時おやじさんは、今週一杯で劇場を閉めるといっていた」 「そうなの」 「あまり驚かないね」 「みんな何となく感じているもの。もう長くないなって」 「それなら気が楽だ。他の連中に僕から伝えてくれと、おやじさんにいわれたんでね。中原さんに頼まなかったのは、多分、怖いんじゃないかな。あのおやじさん」  と私は笑った。 「あと三日しかないのね」 「ああ、あと三日間で、偏奇館が消えるんだ」  と私はいった。無念の思いよりも、よく今日まで続いて来たという感慨の方が強かった。 「偏奇館が無くなったら、みんなはどうするのかしら?」  と信子がいう。 「そうだなあ。他の劇場へ行くか、弁ちゃんたちのように満州へ行くか。僕が満州へ行くといったら、君も一緒に行くか?」  と私はきいた。ええと肯くのを期待してきいたのだが、信子は即座に、 「いいえ」  いやにきっぱりと拒否した。 「満州は嫌いなの?」 「満州のことはよく知らないけど、あたしはこの浅草が好きなの。だから離れたくない。浅草以外は何処もいや。大阪だって京都だって、九州だって四国だって──」 「ずいぶん並べたね」 「加代ちゃんだって希代子ちゃんだって、同じだと思うわ」 「そうかも知れないね」  考えてみればみんな偏奇館だから集ったのではなく、浅草偏奇館だから集ったのだ。とすれば、彼等は浅草を離れることは考えにくい。一時的に離れても、またきっと浅草に戻って来るだろう。それに、偏奇館が消えても浅草は消えはしない。そう思うと気が楽になった。 「六区を廻って帰ろうか」  と私は信子にいった。  交番の横を折れて六区に入ると、ここは今夜もいつもの通りの賑わいで、ちかちかとネオンがまたたき、「エリッサ・ランディ、ライオネル・バリモアの貞操切符」とか、「入江たか子・中野英治共演、満蒙建国の黎明」といった映画の宣伝や、「実演が五本立五十銭」という、笑いの王国の大きなのぼりがはためいていて、その下を、縞の着物に角帯、ハンチングという店員風の若い男や、中折帽に三つ揃いのサラリーマンや、人絹の長い袂をひるがえしている娘たちがぞろぞろと歩いていく。その切れ目のない雑沓に身を委せていると、いつものことながらほっとした気分になってくるのだ。これが浅草だと思う。信子も同じ気持らしく、私の腕にぶら下がるようにして、身体をもたせかけてくる。 「正直にいうとね」  私は歩きながらいった。 「何? お兄さん」 「僕も浅草を離れる気はないんだ」 「ふふ」 「浅草はいい」 「ええ」 「インチキ臭くてさ」 「ふふ」 「本当にインチキなところもあってさ」 「うん」 「猥雑で、汚くて、安っぽくって、お涙頂戴でさ」 「ええ。ええ」 「自分でも、どうしてこんなに浅草が好きなのかわからない」 「ふふ」 「それでも、どうしようもなく浅草が好きなんだ」 「お兄さん」 「何だい?」 「あたしね」 「うん」 「お兄さんの子供が出来たみたい」 「え?」  私が驚いて信子を見た時、雨がざあッと音を立てて降り出した。 [#改ページ]   エピローグ      1  私は信子と生れてくる子供とで、浅草で生きていきたいと願っていたし、その願いはかなうものと信じていた。  浅草にはそれだけの優しさと、包容力があると思ったからだった。  偏奇館は映画館に替った。  私はN劇場の文芸部にもぐり込んだ。中原さんは松竹座から来るようにいわれたが、これからは小説を書きたいといって断ったと、私は聞いた。  翌九年四月に、信子によく似た女の子が生れ、私は恵子と名付けた。恵まれた人生を送って欲しいと思ったからである。  だが、全ての願いを戦争がぶちこわしてしまった。  昭和十七年、まず中原さんが召集され、翌十八年には続いて私にも赤紙が来て、南方に送られた。各地を転戦、といえば聞こえはいいが、実際は攻勢のアメリカ軍に追われて、逃げ廻っていたのである。  日本が敗れた時、私は小さな島の守備隊の一員だった。助かったのは、アメリカ軍がその小さな島を無視して前進して行ったからである。  それでも守備隊四百五十人のうち、飢えと病気で百人近くが亡くなった。  戦争が終った時、私が最初に思ったのは、これで浅草に帰れるということだった。  だが焼け野原の東京に戻った時、私は妻の信子と十二歳の恵子が、二人とも東京大空襲で無惨に焼死したことを知らされた。私は浅草で働く意欲を失い、親戚のすすめるままに、静岡で平凡なサラリーマン生活に入った。  その後、再婚したが、二年で別れた。多分、信子のことが忘れられなかったのだと思う。  そして五十年ぶりに訪れた浅草。懐かしさと反撥とを、私はエッセーに書いてある雑誌に発表した。  その雑誌が出てから一週間後に、私は一通の手紙を受け取った。その手紙には、懐かしい中原さんの名前があった。  君のエッセーを読んで昔のことを思い出した、とあり、次の言葉で結ばれていた。  ──今月の十二日に上京するので、ぜひ会いたい。私は午後、六区のハトヤに寄る。午後三時から四時までいるつもりなので、都合がつけば来て欲しい。      2  私は迷った。  中原さんには会いたいのだが、どんな話になってしまうか、私にもわからなかったからだ。  一つだけ、私は中原さんに聞きたいことがあり、会えばそのことを口にしてしまうのではないか。そして多分、それが中原さんを傷つけることになるだろう。  だから十二日の朝になっても、行こうか行くまいか、私は迷っていた。 (だが、結局行くことになるだろう)  とも私は思っていた。  私は時計に眼をやり、もう出かけなければ間に合ないとなって、家を出た。  新幹線で東京に出て、浅草までは地下鉄を使った。雷門近くの出口で降り、歩く。  小雨が降り出していて、そのことが私を感傷的にした。雨のせいなのか、私が年齢《とし》を取ったからなのか。多分、その両方のせいだろう。  ハトヤに着いたのは、中原さんが指定したよりも、三十分近く早かった。私はあの頃から、待ち合せをすると、いつも早く行ってしまう。中原さんにいわせれば、私が小心なのだということだった。  コーヒーを注文して、それをゆっくり飲んでいると、三時丁度にドアが開いて、一人の老人が入ってきた。 (中原さん──)  とわかりはした。が、相手が年を取っていることに、私は愕然とした。それが当然なのに、いやでも五十年の歳月の長さを感じないわけにはいかなかった。中原さんも多分、同じ思いに駈られたのだろう。私をじっと見つめて、 「秋月君──?」  といった。 「そうです」 「お互いに年を取ったね」  と中原さんはいい、私の前に腰を下ろした。  中原さんもコーヒーを頼んだ。  最初のうち、自分のことは喋る気になれず、あの頃の仲間のことを話題にして、思い出にふけった。お互いに消息を知っている人間のことを話し合ったのだが、そのほとんどが中原さんの知識で、仲間の何人もがすでに亡くなっているのを、私は知らされた。  その話が一通り終ってしまうと、私も中原さんも、妙に黙り込んでしまった。もちろん懐かしくはあるのだが、あれから五十年という歳月が、否応なく二人の間に出来てしまい、その間にお互いの知らない人生が入り込んでしまっているからだろう。それを説明するのも面倒くさいし、強いて知りたいとは思わなかった。  一時的に懐かしさにひたれても、やはり五十年の歳月が気まずくしてしまうのだ。  中原さんは急に腕時計に眼をやり、 「用があるのでまた会いたいね」  と私にいった。  しかし正直にいって、またという機会があるとは私には思えなかったし、中原さんだって思っていない筈だった。だから、 「中原さん」  と私は呼び止めて、 「一つだけ聞きたいことがあるんです。出来たら答えてくれませんか」 「───」  中原さんは浮かしかけた腰を下ろして、黙って私を見た。      3 「偏奇館をやめたあとで、一つだけ疑問がわいて来たんです。それがずっと、心の隅に引っかかっていました」  と私はいった。  中原さんは眼を閉じている。私が何をいいたいのか、それを考えている感じではなかった。それはもうわかっている。ただ、それに答えたものかどうか迷っている感じだった。  だから眼を開けた時、中原さんはあっさりと、 「あの殺人のことか?」  といった。 「ええ。信子を殺そうとしたのは、確かに小野寺光彦です。その時、京子たち三人を殺したのも、彼に間違いないと思いました。警察も光彦の父親もそう思い、だからあわてて彼を新天地の満州に追いやったのだと思います」  私は五十年前を思い出しながら喋った。  中原さんはほとんど表情を変えずに、 「それではいけないのかね?」  と私は見た。 「僕は光彦という男は嫌いですし、小野寺一家も嫌いです。だから構わないのですが、気になることは気になって仕方がなくて、出来れば中原さんから本当の話を聞きたいと思ったんです。光彦は嫌な奴でしたが、三人もの踊り子を殺せたとは思えないのです」 「しかし、車の中で信子の首を絞めて殺そうとしたのは間違いないんだ。君も円タクの運転手も見た筈だよ」 「その通りです」 「それでも文句があるのか?」 「あの時、三人の踊り子が殺され、四人目の信子が殺されかけました。みんな同じように見えましたが、冷静に考えると、微妙な違いがあるんですよ。最初の京子の時はまだ何も起きていなくて、僕たち偏奇館は当り芝居が無くて四苦八苦していました。そんな状況の時に京子が殺され、新聞が書き立て、僕たちは中原さんのすすめでこの事件を芝居にして、客を呼ぶことが出来ました。続いて早苗が殺されて、一層あの芝居は人気が出ました。京子と早苗は隅田川と隅田公園で死体で発見され、三人目の節子は上野公園です」 「だから?」 「京子と早苗の場合は、三人目の節子とは違うということをいいたいんです。今いったように、死体の発見された場所がまず違います。隅田川や隅田公園なら、いわば浅草の領域内です。でも、上野公園は違います。距離以外に、遠いという感覚があります。もう一つ、早苗が殺されるまで、小野寺光彦の名前なんか、僕たちは知らなかったんです。三人目の節子の場合はかなり違います。今もいったように、上野公園で殺されていたし、彼女が殺されたあとで、小野寺光彦の車、白のイスパノシーザーが雷門あたりを走っていたことがわかって来たんです。節子が殺された時は、前の二人の場合とは状況も違っていたんです」 「しかし、光彦を捕えた時、彼は京子たち三人を殺したと自供したんだよ。それは君も聞いた筈だ」 「聞きました」 「それなら問題ないじゃないか」 「しかし、それは正確ではありません。あの時、僕たちは光彦に向って、彼女たちを殺したのはお前だなと問い詰めました。それに対して光彦は、彼女を殺したといいました。彼女をとはいいましたが、彼女たちとはいわなかったんです」 「五十年も前のことを、君は正確に覚えているというのかね?」  と中原さんは眉を寄せてきいた。 「覚えています。記憶というのはおかしなもので、昨日のことでもあっさり忘れてしまったこともあれば、五十年前のことでも細かいことまで鮮明に覚えていることがあるんです。こんなことは中原さんもよくわかっていらっしゃるでしょう。光彦を捕えた時のことは後者の方で、彼の悲しげな表情まで含めて、私の眼と耳にはっきりと刻み込まれているのです。彼は間違いなく彼女を殺したとはいいましたが、彼女たちとはいわなかったんです。あの時、光彦の頭にあったのは、自分が前に殺した節子のことしかなかったんだと思います」 「それは君が勝手に、そう思い込んでいるだけじゃないのかね?」  中原さんはきいた。私に反論しているという強さは、感じられなかった。そのことに私は、戸惑いと悲しみに似たものを感じながらも、騎虎の勢いの感じで、 「最初に京子が殺された時には、僕たちの周囲に小野寺光彦は全く現れていませんでした。だから、彼が犯人だということは考えられないのです。二人目の早苗の時も同じです。それに、早苗は中原さんもよく知っているように、気の強い女でした。光彦が車に乗せようとしても、相手を殴りつけて逃げ出したと思います。だから、早苗を隅田公園に連れ出して殺すことが出来たのは、彼女が信頼していた人間でなければなりません。京子も早苗も、信頼の出来る相手だったからこそ、誰にもいわずに隅田公園へ行き、犯人に会ったのだと思います」 「京子と早苗を殺したのは、小野寺光彦ではないというのか?」 「そうです」 「しかし、光彦は精神的に病んでいたんだよ。それは君も知っていた筈だ。彼の母親は小野寺の妾で、しかも精神病院に入っていた。彼はその血を受けついでいた」 「そうです。しかし精神病は遺伝しませんし、今いったように、京子と早苗はもっと信頼している人間に殺されたと思うのです」  私は中原さんを見つめていった。  中原さんは眼をそらせるようにして、 「君の結論を早く話してくれないか。今もいったように、これから行く所があるんだ」 「考えた末に僕が得た結論は、二人を殺したのは中原さんに違いないということでした」 「僕が──?」 「そうです。残念ですが」 「まさか、僕が客集めに京子と早苗を殺したなんていうんじゃあるまいね?」 「実は最初、そう考えました。あの頃、何としてでも客を呼べる芝居が必要でした。だから踊り子の京子を殺して、『踊り子殺人事件』という当り芝居を作った。更に、二人目に早苗を殺し、その時は乳房をナイフでえぐるような殺し方をし、エロ・グロの度合いを一層強くして、客集めを狙ったのではないかと思いました。しかし、あなたはそこまで出来る人じゃない」 「当り前だよ」 「だが、犯人はあなたです。その確信は変りませんでした。ただ、動機がわかりませんでした」 「僕が、彼女たちに惚れたのに、肘鉄をくらったので、かっとして殺したとでもいうのかね?」  中原さんは笑いながらきいた。 「それはありません。彼女たちは中原さんを尊敬していたし、あなたが好きでした」 「それなら僕には、動機がないじゃないか。動機もなしに、人間は殺したりしないものだよ」  と中原さんは、皮肉な眼つきをして私を見た。  それが私には有難かった。中原さんが挑戦的な眼になってくれた方が、少しは気が楽になれたからである。 「もちろんです。僕はずっと、動機を考え続けました。その揚句、一つのことを考えつきました。というより、思い出したといった方がいいかも知れません。僕は小学校の頃、内向的で気が小さくて、決断力に乏しい少年でした。運動会が何よりも嫌いで、秋になってそれが近づいてくると、どうしていいかわからなくなってしまうのです。それは恐怖に近いものでした。徒競走でビリになって、みんなに笑われる自分を想像して、恐怖で一杯になってしまうのです。運動会が来なくてすむためなら、どんなことでもしたいと思いました。学校に火をつけて全焼してしまえば、運動会はなくなる。本気で放火することも考えましたよ。もちろん、気の小さい僕には、その勇気はありませんでしたが」 「君は何をいいたいんだ?」  と中原さんは、険しい眼で私を見た。      4 「中原さんは僕によくいいましたね。怖いんだ。とにかく怖いんだ。時代がどんどん、悪い方向に流れて行く。いつか、それが何もかも押し流してしまうのではないか。それを自分で、どうすることも出来ないのが怖いんだといわれていた」  と私はいった。 「そんなことをいったかな」  中原さんはまた私から眼をそらせた。 「いわれましたよ。僕も同じ気持だったから、よく覚えているんです。いや、心ある人間なら、みんな暗い予感に怯えていた筈です。芥川龍之介は人一倍繊細な神経で受け止めたために、耐えられずに自殺してしまったんだと思います。僕は芥川のように自殺するだけの勇気もなく、といって時代の流れを止めるだけの力もなく、ただ浅草という精神の租界に逃げ込んで、現実を忘れようとしていたんです。僕みたいな人間が大部分だったと思いますが、中原さんは別の方法で、あの暗い時代に立ち向おうとしたのではないかと考えたんです」 「別の方法?」 「僕が子供の頃に考えたと同じ方法です。運動会をやりたくなくて、学校に火をつけようと考えたことです」 「僕がそれだというのか?」 「そうです。あなたは自分の力でエロ・グロ・ナンセンスの世界を作って、その中に身をゆだねようとしたんです。非常時、愛国、戦争といった、あの時代を支配し始めていた世界とは、正反対の世界にです。そんなことをしたって時代の流れを止められないことだって、エロ・グロ・ナンセンスの世界だって容赦なく押し流してしまうだろうことは、中原さんにはもちろんよくわかっていたと思います。しかし中原さんは、それを見ているのが怖かったんだ。怖い、本当に怖いといつもいっていたじゃありませんか。あなたは自分が犯罪を犯し、エロ・グロ・ナンセンスの世界に溺れることで、その恐怖から逃げようとしたんじゃありませんか?」 「───」 「こんな僕の考え方は、間違っていますか?」 「───」 「正直いって、あれからもう五十年たちました。中原さんが京子たちを殺したとしても、もう罰せられることはありません。だから、僕は意味のないことを言っているのかも知れない。それはわかっているんですが──」 「君の言う通りだよ」  中原さんはいい、私が続けて弁解じみたことをいおうとするのを手で制して、 「京子たちは肝心のことに気付いていなかったんだ。何も考えようとしなかったんだ。彼女たちは確かに、可愛らしくて優しかった。人が好くて、よく男に騙された。素敵なことだよ。だから僕も、彼女たちが好きだった。しかし、時代がどんどん暗い方向に動いていくのを理解できなかった。それが、いつか自分たちの首を絞めてしまうことを、僕がいくら話しても理解しようとしなかった。可愛らしいが、頭はからっぽだった。僕がどんなに暗い時代の予感について話しても、僕の期待する反応は示さず、愛だとか恋だとか、そんなことばかりいっていた。彼女たちの呑気さと無関心さが、暗い時代を加速させているんだと思った。僕は腹が立ち、憎んだ」 「それでわかりました」 「何がだ?」 「彼女たちは死ぬ直前、いい合せたように、僕に相談したいことがあるといったんです。彼女たちはその鋭い直感で、中原さんが何か恐しいことを考えているとわかっていたんですよ。だが、彼女たちは中原さんを尊敬していたし、好きだったんです。だから結局、僕には何もいわなかった。京子と早苗は不安に怯えながら、あなたに呼び出されるままに隅田公園に行き、殺されたんです。三人目の節子は、多分、信子の場合と同じように、小野寺光彦に対して芝居をしてからかってやれと、あなたにいわれたんだと思います。あなたを尊敬していた節子は、いわれるままに動いたんだと思う。ただ、信子の場合と違って、僕たちには何もあなたは話さず、彼女を助けることもしなかった」 「どうせ時代は破滅に向っていたんだ。戦争は浅草六区にも押し寄せてきて、みんな死ぬことになるだろうと、僕は予測した。今死んでも何年かあとに死んでも同じことだと僕は考えたし、その通りになったんだ」  と中原さんはいった。 「それは自己弁護ですよ」  と私はいった。  中原さんはきつい眼になって、 「君たちだって、僕が作ったエロ・グロ・ナンセンスの世界を喜んでいたじゃないか。一時的にしろあの芝居に熱中し、暗い時代を忘れることが出来た筈だ」  といった。  確かに中原さんのいうことは当っている。次々に若い踊り子たちが殺されていく猟奇的な事件に、僕たちは酔っていた。客もあの芝居に興奮し、テロとか軍部の暴走とか非常時といった暗い現実を忘れることが出来たのだ。いわば僕たちは共犯なのかも知れない。 「でも、だからといって、彼女たちを殺してもいいことにはなりませんよ」  と私は暗い気分になりながらいった。 「どうせ、みんな死ぬことになっていたんだ。死ぬことが約束されていた時代だったんだよ」  と中原さんはいった。 「でも、僕も中原さんも、こうして生きていますよ。彼女たちだって、今も生きていて、それぞれに幸福でいるかも知れないんです」  と私はいった。  中原さんは腕時計に眼をやった。 「時間だから失礼する。もう君に会うことはないと思う」  中原さんはぼそぼそとそれだけいい、立ち上って店を出て行った。  私は黙って、それを見送った。  代りに若者のグループが入って来た。彼等の妙に明るい声に追われるように、私もハトヤを出た。  あの頃の浅草はもう存在しない。ただ、私の思い出の中では生きていた。  その思い出の中の浅草も死んでしまったような気分で、私は歩き出した。  単行本 一九九六年三月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十二年一月十日刊