[#表紙(表紙.jpg)] 死への招待状 西村京太郎 目 次  危険な男  危険なヌード  死への招待状  血の挑戦  ベトナムから来た兵士  罠《わな》 [#改ページ]  危険な男      1 「殺したのは、確かに私だ」  と、その男は、ゆっくりした口調でいった。年齢は四十七、八歳というところだろう。長身で、口ひげと、金縁の眼鏡が、キザに見えないのは、生活そのものが、豊かなのかも知れない。  秋葉京介《あきばきようすけ》は、黙って、男のくれた名刺に眼をやった。 〈大日本産業常務取締役・木島専太郎《きじませんたろう》〉  と、印刷され、会社の電話番号と、自宅のものが並記されている。  大日本産業といえば、レジャー産業では大手のほうで、日本全国にゴルフ場を持っていることで知られている。  秋葉は、名刺から眼をあげて、木島専太郎を見た。その切れ長の細い眼を、人によっては、才走って見えるといい、人によっては、怖《こわ》いという。本人の秋葉自身は、それは相手の出方次第だと考えていた。 「それなら、何故《なぜ》、警察に自首しないんです? 僕のようなヤクザな人間の出る幕じゃないでしょう」 「いや、殺したというのは、言葉の綾《あや》だ。本当は、彼女を、死に追いやったというべきなんだ」 「自殺ですか?」 「そうだ。だが、千賀子《ちかこ》は、私が、殺したようなものだ」 「あなたのような人間が参るというと、相当魅力的な女性なんでしょうな?」 「ああ。素晴《すば》らしい女だった」  木島は、内ポケットから一枚の写真を取り出して、秋葉の前においた。カラーで、和服姿の一人の女が写っていた。二十七、八歳で、細面《ほそおもて》の、確かに美しい女だった。微笑しているのだが、その笑いには、どこかかげりがあった。裏には、二週間前の日付が、書き込んである。 「確かに美しい人だが、自殺なら、僕には関係のない事件だ。あなたの良心が痛むのなら、遺族に金をやるか、それでなければ、教会に行ってザンゲでもしたらどうです」 「そうはいかないんだ」 「何故です? この太田《おおた》千賀子さんは、自殺したんでしょう?」 「ああ。ガス自殺で、遺書もあった」 「それなら、何故、僕のところへ来たんです? 調べることなんか何もないでしょう?」 「だが、私には、どうしても、彼女の死が信じられないんだ」 「男のセリフは、だいたい同じものですよ」 「そうかも知れんが、私には、どうしても、自殺の理由が、呑《の》み込めんのだ」 「しかし、遺書があったでしょう」 「ああ。あるにはあったんだが」  木島は、のろのろとした動作で、二つに折った白い封筒を取り出した。何も書いてない封筒である。  秋葉京介は、中身を抜き出した。便箋《びんせん》が一枚入っていて、それには、ひどく短い言葉が右端のほうに書かれてあった。 〈もう待てません〉 「これが、遺書ですか」 「そうだ。マンションの管理人が、ガスの匂《にお》いに気付いて、あわてて開けたら、彼女はもう死んでいて、死体の傍《そば》に、それが、封筒に入って置いてあったというのだ。彼女の筆跡に間違いない」 「もう待てないというのは、どういう意味です」 「結婚のことだ。彼女に最初に会ったのが、丁度《ちようど》一年前だった。私は、その瞬間、彼女に参ってしまった。今の家内との間が、上手《うま》くいっていないこともあってね」 「成程《なるほど》ね。結婚を約束してつき合っていたが、今の奥さんと、なかなか別れられなくて、待たせ続けたというわけですか?」 「そうだ。だが、私は、家内が何といおうと、別れて、千賀子と暮らす気だった。そのためなら、現在の地位を失ってもいいと思っていた。あの日も、千賀子にそういったんだ。彼女も、わかってくれたと思って、安心して別れたんだが、その日の夜、千賀子は、その遺書を残して、ガス自殺してしまったんだ。それが、私には、どうにも、納得《なつとく》できんのだ」 「そのマンションも、あなたが、彼女に買ってやったものですか?」 「ああ。そうだ。彼女は要《い》らないといったのだが、私は、自分の愛の証《あかし》を、そんなことでもして示したかったのでね」 「それで、僕に何を調べさせたいんです?」 「上手く説明できんのだが、千賀子を死に追いやったのが、本当に私なのかどうか、それを知りたい。だからそれを調べて貰《もら》いたい」 「しかし、あなたは、彼女を殺したのは、自分だと、最初にいわれたじゃないですか」 「ああ。今のところ他に考えられんからだ。だが、私の心のどこかに、他に理由があったと思いたいという気持ちが働いているからかも知れない」 「しかし、調べてみて、やはり、自殺の原因が、あなた以外になかったとわかったらどうします?」 「それならそれで、自分自身に納得がいく。今のままでは、一方で、自責の念にかられながら、一方では、ひょっとすると、自分以外のことで、死んだのではないかという疑心暗鬼が消えてくれない」 「しかし、どちらの結果が出ても、結局、あなたは苦しむことになりますよ」 「それは、覚悟している」 「それならいいでしょう。ただし、僕が、どんな男かは、ご存知でしょうね?」 「ああ。聞いた。頭の切れる、秘密を守る私立探偵だとね。だから、頼みに来たんだ」 「他にも、もう一つ、聞いている筈《はず》ですよ」 「そりゃあ、聞いたが——」 「彼は危険な男でもある。そう聞いた筈ですよ」  秋葉京介は、ニコリともしないでいった。 「そりゃあ、聞いたが——」 「それも忘れずにおいて貰いたいですな。普通の私立探偵なら、依頼された事件が、刑事事件だとわかると、すぐ手を引きます。日本の私立探偵は、拳銃《けんじゆう》の携帯を許されていないし、刑事事件に介入することも許されていないからです。そんなことをすれば、間違いなく公務執行妨害で逮捕されるでしょう。だが、僕は、たとえ、刑事事件に引っかかる事態になっても、引き受けたことは、調べます。それが、僕の信条ですからね」 「それは有難い」 「その代わり、あなたが、僕にいったことに嘘《うそ》があった時は、僕は、あなたにとって、間違いなく、危険な男に変わる。僕は、欺《だま》されるのが嫌いですからね」 「私は、嘘はつかん」  木島は、やや蒼《あお》ざめた顔で、誓うようにいった。秋葉は、初めて、微笑した。 「それなら結構です。では、もっと、くわしく話してくれませんか」      2 「何を話せばいい」 「彼女に関する全《すべ》てです。太田千賀子さんの家族は?」 「それが、よくわからないんだ。いや。冗談でいってるわけじゃない。彼女が、家族について、何もいわなかったからだ」 「しかし、今の奥さんと別れて、一緒になろうとまで思った相手でしょう?」 「そうだ。勿論《もちろん》、彼女の家族関係や、過去の男関係についてきいたこともある。当然だろう。好きな女について、いろいろと知りたいと思うのは。だが、彼女は、何故《なぜ》か、そういうことに触れたがらなかったんだ。私のほうにも、なかなか、今の家内と別れられず、彼女を待たせているという弱みがあったので、強くは、聞けなかったんだ」 「成程《なるほど》。じゃあ、どこで、この千賀子さんに会われたんです?」 「私の会社の近くに、プチ・シャトウという喫茶店があるんだが、一年前、そこで偶然、会ったんだ」 「彼女は、そこで働いていたんですか? それとも、客で来ていて?」 「客で来ていた。奥のテーブルに、ひとりで、ひっそりと腰を下ろしていたんだ。ひどく寂しげに見えた。美しくも見えた。私は、柄《がら》にもなく、その時、彼女に一目惚《ひとめぼ》れしてしまったんだ」 「そして、話しかけた?」 「そうだ。だが、彼女は、相手にならず、すっと立ち上がって、姿を消してしまった。そうなると、おかしなもので、胸の火を逆にかき立てられた恰好《かつこう》になって、彼女に会うために、コーヒーなんか好きでもないのに、その店へ通《かよ》った。一週間目に、彼女の姿を見つけたときは、胸が躍ったよ」 「この写真のように、和服を着ていたんですか?」 「そうだ。和服のよく似合う女だった。私は必死で彼女を口説《くど》いた。女に対して、自分が、あんなに、謙虚で、熱心になれるとは、自分でも信じられなかったくらいだ」 「その時、彼女は、何をして食べていたんです?」 「フラワーデザインの仕事をしているといっていた」 「いっていた?」 「私は、西洋|生花《いけばな》みたいなものに興味はなかったから、くわしくは聞かなかったんだ。ただ、フラワーデザインの何とかいう団体があって、そこに所属していると聞いたことがある。だが、私は、あのマンションに入れてから、強引に、やめさせようとした。彼女を独占したかったんだ」 「何という団体です?」 「何といったかなあ。日本フラワーデザイン協会だったかな。それとも、日本の上に、新がついていたか。確か、そのどっちかだった筈《はず》だよ」 「彼女は、あなたのいう通り、その団体をやめ、フラワーデザインの仕事もやめたんですか?」 「やめる気にはなっていた。ただ、昔からの仲間で、いろいろと、世話にもなっているから、すぐにはやめられないといった。だが、私と結婚するときには、やめると約束してくれた」 「マンションには、毎日、通っていたんですか?」 「そうしたかったが、私には、愛が消えた家庭でも、家庭がある。だから、毎日というわけにはいかなかった。家内が、ますます、意地になるのも、怖《こわ》かったからだ。だから毎週月、水、金の三日だけ、通っていた。自然に、そうなったんだ」 「他に、彼女についてわかっていることは?」 「彼女は、美しくて、優しかった。私には、それだけで十分だったんだ」 「いいでしょう。じゃあ、マンションの鍵《かぎ》をお借りしましょうか」 「ああ」  木島は、キーホルダーのついた鍵を一つよこした。 「もう一つは管理人に預けてある。あのマンションは、彼女の名義になっているのでね。もし、彼女の家族がいて、その人たちが来た時のためにと思ってね」      3  秋葉京介は、夜の町に出た。夜、それは、秋葉の好きな時間である。勿論《もちろん》、若い時の彼は、さんさんと降りそそぐ太陽が好きだった。いつから、夜のほうが好きになってしまったのか、秋葉自身にも、判然としなくなってしまった。それだけ、昔のことになってしまったということでもあった。  四谷《よつや》にあるマンションに着いたのは、夜の十時に近かった。十二階建のかなり豪華なマンションである。この辺《あた》りなら、2DKクラスでも、千五、六百万はするだろう。そんなにも、木島という男は、太田千賀子という女に参っていたのか。  時間が、時間のせいか、階下にある管理人室は閉まっていた。ずらりと並んだ郵便受の六〇三号室のところに、太田と書いてある。  秋葉は、念のために、その郵便受を開けてみたが、何も入っていなかった。別に落胆もせず、エレベーターで、六階まで上がった。  六〇三号室は、明かりのついた廊下の中ほどにあった。木島から借りた鍵《かぎ》を取り出したが、鍵穴に差し込む前に、何気なく、ノブを回してみると、ドアは、簡単に開いた。中は、暗い。部屋に入ってから、壁のスイッチを探して、明かりをつけた。  3DKの部屋である。居間は、いかにも女性の部屋らしく、柔らかい白色で統一されていた。壁も白なら、ソファも白である。秋葉が、居間のまん中に突っ立って、煙草《たばこ》をくわえ、「さて、どこから調べるか」と、呟《つぶや》いた時、突然、隣室に通じるドアがあいて、若い女が入って来た。  しかも、その女は、右手に、拳銃《けんじゆう》を構えていた。 「あんたは、誰なのよ?」  と、その女は、拳銃の銃口を、秋葉に向けていた。二十四、五歳だろうか。ミニがよく似合う、足のきれいな女だが、大きいサングラスをかけているので、顔立ちは、よくわからない。  秋葉京介は、一瞬、緊張した表情になった。相手が、ひどく緊張しているのを見てとって、和《やわ》らいだ表情に戻《もど》った。 「とにかく、座って話そうじゃないか」 「駄目よ。まず、あたしの質問に答えなさいよ。答えなきゃ、撃つわ。これは、オモチャじゃないんだからね」 「別に、オモチャだとは思っていないさ。しかし、その距離じゃあ、撃っても、まず当たらないな」 「何故《なぜ》よ」 「君は、まだ、人間を撃ったことはないだろう?」 「当たり前じゃないの。あんただってないんでしょう?」 「ところが、僕は撃ったことがある」 「じゃあ、殺し屋なの?」 「殺し屋?」  秋葉は、苦笑し、相手に構わず、ソファに腰を下ろした。どんな会話でも、会話が始まってしまったら、簡単に相手を撃ったり殺したり出来るものではないからだ。 「僕は、昔、刑事だったことがある。遠い昔だ。その時、犯人を追っていて撃った。自分では足を狙《ねら》って撃ったつもりだったが、反動が激しくて銃口が上を向いてしまい、弾丸は、腹を貫通して、即死してしまった。刑事のような専門家でも、狙ったところに、なかなか当たらないものなんだ。だから、君に、僕が撃てる筈《はず》がない。そんな物騒《ぶつそう》なものはしまって、静かに話し合おうじゃないか。どうだね?」 「じゃあ、あんたは刑事?」 「刑事だったら、君を、銃器不法所持で逮捕しているよ。今は、金で動くヤクザな人間だ」 「ふーん」  と女は、鼻を鳴らし、自分も向かい合ってソファに腰を下ろすと、形のいい足を組んだ。拳銃は、まだ手に持っていたが、銃口は、もう秋葉に向いていなかった。 「ところで、あんたは、何故、この部屋に、のこのこ入って来たの? 別に泥棒のようでもないけど」 「泥棒は恐れ入ったな。ちゃんと、この部屋の鍵《かぎ》を持っているよ」  秋葉は、キーホルダーのついた鍵を、眼の前で、振って見せた。 「あたしだって、持ってるわ」  女も、ハンドバッグから、鍵を取り出して見せた。 「すると、君は、千賀子さんの妹か、友だちかね?」 「千賀子? 誰よ。それ?」  きょとんとした顔で、女がきいた。秋葉は、肩をすくめた。 「もちろん、この部屋の持ち主で、三日前にガス自殺した女の名前だ。太田千賀子」 「何をいってるのよ。この部屋の持ち主は、カオルじゃないの。確かに、三日前に、ガスで死んじまったけどさ」 「ちょっと待ってくれよ」  秋葉は、じっと、女の顔を見つめた。別に嘘《うそ》をいっているようには、見えなかった。とすると、一体、これはどういうことなのか。 「カオルというのは、フルネームは、太田カオルかね?」 「そうよ。だから、郵便受に、太田って書いてあるんじゃないの」 「カオルの本名は、千賀子というんじゃないのかね?」 「本名かどうか知らないけどあたしたちは、カオルって、呼んでた。それだけのことよ」 「君のいうカオルというのは、この女かね」  秋葉は、木島に渡された千賀子の写真を、女に見せた。女は、サングラスを、ずらすようにして、その写真を眺めていたが、 「ああ。この女だよ。でも、どうして、和服なんか着てるのかな?」 「そりゃあ、和服が好きだったからだろう」 「そんなことないさ。カオルは、いつも、ミニかパンタロンを着てたもの」 「どうやら、双児《ふたご》の女がいたのか、それとも、別の名前を持った一人の女がいたのか、どちらかのようだな」 「何をいってるのよ。カオルは、カオルよ」  女は、怒ったような声でいった。      4 「ところで、君は、何のために、ここに来たんだね」  秋葉は、くわえていた煙草《たばこ》に火をつけた。  どうも、会話が喰《く》い違っているが、それが、彼を当惑させると同時に、楽しくさせていた。 「あたしはカオルの友だちだもの。彼女の部屋へ来て、いろいろ、思い出にひたっても構わないでしょう?」 「君は、拳銃《けんじゆう》を持たないと、思い出にひたれないのかね?」  秋葉は、苦笑してから、煙草をくわえたまま、立ち上がった。女は、反射的に立ち上がり、また、銃口を秋葉に向けた。 「何処《どこ》へ行くのよ」 「そう神経質になってると、思わず引き金を引いちまうよ。さっきもいったように、僕に当たる確率は少ないが、発射音で間違いなく君は捕まるね。刑務所に行きたくなかったら、そうかっかしないことだな」 「だから、何処へ行くのかいえば、撃ちゃしないわよ」 「君は、ここに住んでいた女が、太田カオルだという。だが、僕の依頼主は、太田千賀子だといっているんでね。どっちが本当か、調べたいんだ」 「調べるまでもないわよ。あたしの友だちのカオルだからこそ、こうして、あたしが、ここの鍵を持ってるんじゃないの」 「管理人から借りて来たんだろう?」 「冗談じゃないわ。ちゃんと、彼女に貰《もら》ってたのよ」 「そいつは、面白《おもしろ》いな」  秋葉は、女の銃口の前を横切って、隣の寝室に入った。彼女が撃たないだろうという確信があったから、別に怖さはなかった。素性《すじよう》のわからない相手だが、向こうも、こっちが、何をしに来たか知らない筈《はず》だ。それを知りたいと思う間は、無闇《むやみ》に撃ちはしないだろう。それに、撃っても、多分当たらないだろうという気もあった。拳銃というやつは、撃つほうも怖いものなのだ。  寝室には、大きな衣裳《いしよう》ダンスがあった。秋葉は、両手で、ぱッと開いてみた。木島の話が本当なら、中は、和風になっていて、着物が、何着も揃《そろ》っている筈なのだ。だが、そこには、派手《はで》な色彩の洋服ばかりが、ずらりと、並んでいた。 (おかしいな)  秋葉は、じっと、眼の前に並んでいる洋服を見つめた。木島は、確か、千賀子は、和服の好きな女で、いつも、和服を着ているといった筈である。  秋葉は、ちょっと考えてから、タンスの下にある引き出しをあけてみた。引き出しは三段になっていたが、そこには、きれいに畳んだ和服が、いく揃《そろ》いも入っていた。 「成程《なるほど》ね」 「何が、成程なのよ」  背後で、女がきいた。 「どうやら、君のいうカオルも、僕が調べている千賀子も、同じ女らしい」 「馬鹿なことをいわないでよ。カオルは、カオルよ」 「君にとっては、そうかも知れん」  秋葉は、豪華なベッドの上に腰を下ろした。 「どうだ? 取り引きをしないかね?」 「取り引き?」 「そうだ。情報の交換だ。君のいう太田カオルは、三日前に、ガス自殺したんだろう?」 「まあ、そうね」 「まあ? そうか。遺書がなかったんだな」 「何故《なぜ》、知ってるの」 「遺書を見たかったら、こっちの質問に答えて貰いたいな」 「答えろって、一体、何をよ」 「まず、君の名前だ」 「そんなの意味がないじゃないの。あたしが嘘の名前をいったって、あんたには、本名かどうかわからないじゃないの」 「確かにそうだ。君は、なかなか頭がいい」  と、秋葉は苦笑した。 「じゃあ、別のことを聞こう。君の知っている太田カオルは、どんな女だったんだ?」 「美人で、ミニがよく似合ったわ。足がきれいだったから」 「君みたいにというわけか」 「フフ」  と、女は、初めて笑った。いつの間にか、拳銃は、ハンドバッグの中にしまっていた。撃つよりも、取り引きしたほうが賢明だと思ったのかも知れないし、最初から、撃つ気などなかったのかも知れない。 「ところで、彼女は、何をやってたんだ?」 「フラワーデザイン」 「君もか?」 「あたしのことは、喋《しやべ》らないわよ」 「まあ、いいだろう。このマンションを、誰に買って貰《もら》ったか、いっていたかね?」 「自分で買ったといってたわ」 「ほう」 「早く、遺書を見せて頂戴よ」 「もう一つ質問に答えたらだ。君は、ここで何を探してたんだ?」  秋葉がきくと、急に、女の表情が嶮《けわ》しくなった。 「あんたに関係のないことよ」  と、吐きすてるようにいい、また、拳銃を取り出して、銃口を、秋葉に向けた。 「さあ、遺書を見せてよ」 「いいだろう」  秋葉は、ポケットから、木島に預かった封筒を取り出して、彼女の前に投げた。女は、それを、拾い、中身を取り出したが、 「これが、彼女の遺書?」 「短すぎるかも知れないが、管理人が、死体の傍に、それを発見したんだ。彼女の筆跡だろう?」 「そりゃあ、そうだけど」  女は、便箋《びんせん》を、部屋の明かりに、すかすようにした。秋葉は、クスクス笑って、 「スパイごっこじゃあるまいし、すかし文字なんか入っていないよ」  と、いったが、女は、生真面目《きまじめ》な表情を崩さず、ひとしきり、便箋をすかし見ていたが、やっと、諦《あきら》めたらしく、便箋を、封筒に納めた。 「これは、あたしが貰っておくわ」 「何故?」 「だって、これは、きっと、あたしに書いたに違いないんだもの」 「じゃあ、その、もう待てませんという意味ね、当然、わかるんだろうね?」 「もちろん、わかるわよ」 「じゃあ、どういう意味だね」 「あのね、大事な相談があるから、あたしに来てくれって電話して来たのよ。だけど、あたしが、別の用事があったもんだから、行けなかったのよ。きっと、そのことよ」 「君は、嘘《うそ》をつくと、口元が、ゆがむ癖があるようだね」 「嘘じゃないわよ」 「じゃあ、そうしておいてもいい」 「これで取り引きが終わったんだから、早く帰って貰いたいわね」 「嫌だといえば、ズドンかね?」 「かも知れないわ。あんたは、当たりっこないといったけど、撃ってみなきゃわからないじゃないの」 「面白い人だ」  と、秋葉は笑い、ゆっくり、ベッドから立ち上がった。 「じゃあ、今夜は、ご命令どおり退散しようかな」  彼が、あっさりいうと、女のほうが、かえって、意外そうな表情になった。 「本当に帰るの?」 「帰れといったのは、そっちの筈《はず》だよ」 「まさか、出たとたんに、あたしを、警察に売るつもりじゃないでしょうね?」 「警察に来られると都合が悪いのかね?」 「この拳銃よ」 「それなら、安心したらいい。僕は、警察が嫌いだからね」 「でも、昔、刑事だったと、いったじゃないの?」 「嫌いになったから、辞《や》めたんだ」      5  マンションを出た。が、秋葉は、勿論《もちろん》、そのまま帰るつもりはなかった。あの女が出て来たら、後をつける気だった。彼女のいいなりになって見せたのは、拳銃が怖かったからではなく、相手を油断させておきたかったからである。  秋葉が、マンションの近くにある公衆電話ボックスに、かくれようとしたとき、夜の静けさを破って、突然、銃声が聞こえた。マンションの上のほうである。  一瞬、秋葉は、迷ってから、エレベーターに向かって、突進した。六階のボタンを押してから、秋葉は、あっさり引き下がったのは、賢明だったと思っていたのだが、ひょっとすると、逆だったかも知れないと、思い始めていた。  六〇三号室の前には、パジャマ姿の男女が三人、恐る恐る、中をのぞいていた。この階の住人が、今の銃声に驚いて、飛び出して来たのだろう。  秋葉は、わざと、堂々と、「失礼」と、声をかけ、その三人を押しのけるようにして、中に入った。  居間の床に、さっきの女が、血に染って倒れていた。胸から、まだ血が流れていた。が、その顔には、もう、生気がなかった。サングラスは、すっ飛び、若い女の素顔が、むき出しになっていた。美人だが、どこか品のない顔だった。死の瞬間の苦痛のために、ゆがんでいるからかも知れない。  彼女の持っていたハンドバッグが、口を開けて転がっていた。が、拳銃と、秋葉の渡した遺書は、消え失せている。犯人が、持ち去ったのだろう。 「早く警察へ電話したほうがいいね」  と、秋葉は、パジャマ姿でのぞいている三人に、落ち着いた声でいい、ゆっくり、エレベーターに向かって歩いて行った。  明日になれば、新聞が、この事件を、大々的に報道するだろう。そうすれば、警察が、殺された女の身元を調べてくれる。  秋葉が、マンションを出て、タクシーを拾い、自分のアパートに向かって走り出したとき、反対方向から、けたたましいサイレンを鳴らして走ってくるパトカーと、すれ違った。 「何か、事件らしいな」  と、秋葉は、窶《やつ》れたような声で、運転手にいった。  翌朝、というより、正確にいえば、昼近くに、秋葉は、電話で叩《たた》き起こされた。 「私だ。木島だ」  と、男の声が聞こえた。 「あれは、一体、どういうことなんだ?」 「あれというと?」 「今朝の新聞に出ている殺人事件のことだ」 「ああ。やっぱり、出ていますか」 「まさか、君が殺《や》ったんじゃあるまいな?」 「僕は、人を殺すのは好きじゃありませんよ。特に、若い女性はね」 「何故《なぜ》、あの部屋で、若い女が殺されたんだ?」 「僕も、それを知りたいと思っているんですがね」 「もし、私が、警察に疑われたら?」 「それが、ご心配ですか?」 「勿論《もちろん》だ。私の地位というものを考えれば、心配するのが、当然だろう」 「その点は、大丈夫ですよ。あのマンションは、彼女の名義になっているんでしょう?」 「そりゃあ、そうだが」 「それなら、安心していらっしゃい。それに、警察は、年齢三十五歳。身長一七五センチ、体重七二キロ。眼つきの鋭い、灰色の背広の男を、容疑者として、追いかけるでしょうから、あなたには、眼を向けませんよ」 「その男が、犯人なのか」 「いや」 「じゃあ、何故、そんな男のことを知っているんだ? 誰なんだその男は?」 「僕ですよ」  と、秋葉は、電話に向かって笑い、片手を伸ばして、煙草《たばこ》をくわえ、ライターで火をつけた。 「わざと、あのマンションの住人に、僕の顔を見せておきましたからね。きっと、僕の人相や、服装を、刑事に話している筈《はず》です」 「何故、そんな馬鹿《ばか》なことをしたんだ?」 「さあ。何故ですかね。とにかく、あなたから頼まれたことは、調べあげますよ」 「警察に追いかけられたりして、危険なことはないかね?」 「危険は覚悟していますよ。それより、あなたは、カオルという名前を、ご存知ですか?」 「いや。知らん。誰だ? その女は? 昨夜、千賀子の部屋で殺されていた女の名前か?」 「知らなければ、結構ですよ」  秋葉は、勝手に受話器をおくと、朝刊を取って来て、ベッドに、ゴロリと横になって、社会面を広げて見た。昨夜の事件が、遅い時刻に起こったせいか、報道も簡単だった。 〈自殺した女性の部屋で、謎《なぞ》の若い女の射殺体発見さる〉  それが、見出しだった。太田千賀子さん(二七)が、三日前自殺した部屋で、銃声がしたので、同じ階の者が飛び出てみると、若い女が床に、ピストルで撃たれて死んでいた。この女の身元や、何故、そこで殺されていたのか、まだ不明である。  記事の内容は、大体、そんなものだった。秋葉のことも、少し出ていた。  三十五歳くらいの男が、出て行くのを、住人が見ているというもので、その男の特徴については、書いてなかった。  記事が間に合わなかったか、警察がわざと押さえたのか、秋葉には、わからなかった。夕刊でも、くわしく出ていなかったら、まず、警察が、押さえたと見ていいだろう。 (太田千賀子の部屋と書いてある以上、あのマンションの部屋は、千賀子という名前で、買ったものだし、管理人にも、彼女は、太田千賀子で、通していたのだろう。だが、殺された女は、カオルだと言い張っていた。何故だろう?)  冗談でいっている顔ではなかった。本当に、あの部屋で自殺した女を、太田カオルだと信じている眼だった。もし、あれが冗談だったら、殺されはしなかったろう。 (さて、これからどうするか?)  秋葉は、ベッドから起き上がり、冷蔵庫から、冷たい牛乳を取り出して、のどに流し込んだ。  殺された若い女の身元は、放っておいても、警察が調べあげるだろう。問題は、ガス自殺した太田千賀子が、どうやら、もう一つの顔を持っていたらしいということである。太田カオルという女の顔だ。今のところ、その女は、ミニやパンタロンの好きな女としかわかっていない。そして、同じ女が、木島専太郎に対しては、和服が好きな女としての顔を見せていたのだ。その辺に、自殺の本当の理由がかくされているのかも知れない。  秋葉は、大きく伸びをしてから、ポロシャツ姿で、外へ出た。木島は、千賀子が、フラワーデザイナーだったといった。殺された女も、カオルは、フラワーデザインの仕事をしていたといった。その点では、奇妙に一致しているのだ。  木島は、最初、会社の近くにある、プチ・シャトウという喫茶店で、彼女を見つけて、一目惚《ひとめぼ》れしたのだといった。  まず、そこから始めてみようと、秋葉は歩きながら考えた。  名前の通り、洒落《しやれ》てはいるが、小ぢんまりした喫茶店だった。午後二時を過ぎた時間のせいか、客は若いカップルが一組だけである。窓際《まどぎわ》に腰を下ろし、コーヒーを注文してから、大通りの向かい側にある『大日本産業』と看板のかかった八階建のビルに眼をやった。依頼主の木島は、今頃、あのビルの重役室でやきもきしていることだろう。  秋葉は、コーヒーを運んで来たウエイトレスに、太田千賀子の写真を見せて、 「ここに、時々、コーヒーを飲みに来た客なんだが、覚えていないかね?」  と、きいた。若いウエイトレスは、首をひねっていたが、その写真をマスターのところへ持って行った。四十歳ぐらいのマスターは、写真を、秋葉に返しに来てから、 「この方を、お探しなんですか?」 「いや。探してるわけじゃない。もう死んだ人間だからね」 「お亡くなりになったんですか。あの方は」 「あの方というところをみると、覚えているんだね?」 「ええ。きれいな方でしたから、覚えています。一年ほど前、五、六度、お見えになっただけですが」 「いつも、和服だったかね?」 「そうですね。一度だけ、ミニでしたかね。どちらも、よくお似合いでしたよ」 「来る時間はいつも、決まっていたかね?」 「ええ。だいたい、三時から四時の間でした。店のすいている時間で、いつも、おひとりで、ぽつんと、物思いにふけっていらっしゃるようでした」 「この近くに、フラワーデザインの学校か団体かないかね?」 「この近くにですか?」  マスターは、首をひねっていたが、 「そういえば、ここから、二十分ばかり歩いたところに、フラワーデザインの団体の事務所か何かあると聞いたことがありますよ」 「この店を出て、右へ歩いて行ったところかね?」 「ええ。今はやりの雑居ビルの中にあるような話でしたが」  マスターは、あまり自信のない顔でいった。秋葉は、礼をいい、店を出ると、大通りを教えられた方向へ歩いて行った。梅雨《つゆ》の晴れ間の暑い陽差《ひざ》しが、照りつけていた。両側に、ビルの多い通りである。雑居ビルも多い。そんなビルにぶつかると、秋葉は、入口にかかっている各階の看板を、丁寧に見ていった。  二十分ばかり歩いたところに、いくつめかの雑居ビルが、あった。そして、入口に並んだ看板の一つに、『新日本フラワーデザイン協会』と書いてある。三階だった。果たして、死んだ太田千賀子が、ここに所属していたかどうかわからない。が、可能性はありそうだ。このビルの近くにも、喫茶店はあるが、死んだ千賀子が、何か、気をまぎらわせようとして、ブラブラ、あのプチ・シャトウまで歩いたことも十分、考えられるからだ。それに、木島も、彼女が、フラワーデザインの団体に所属していたらしいといっていた。  三階に上がってみると、新日本フラワーデザイン協会は、その階全部を占領しているわけではなく、一つの部屋を使っているに過ぎなかった。新日本フラワーデザイン協会と、金文字で書かれてあるガラスのドアを開けて中に入ると、急に眼の前に色彩が、氾濫《はんらん》した錯覚に落ち込んだような気がした。部屋の壁が、さまざまな色に塗り分けられ、天井《てんじよう》から、造花の束がぶら下がっていたからだろう。本物の花が見当たらないのに、強烈な香りが漂っているのは、花の香りに似せた香水を使っているのか。  二十坪ぐらいの部屋に、てんでんばらばらの恰好《かつこう》で、数人の男女が、仕事をしていた。  二十代から三十代の男女で、着ている服も奇抜なデザインのものが多い。もちろん、和服は一人もいない。  秋葉は、天井からぶら下がっている造花、というより、モビールといったほうがいいだろう。そんなピラピラしたものを、かき分けるようにして、彼等の中で、一番年長に見える男に近づいた。三十五、六歳で、髪の長い、頬《ほお》ひげを生やした男である。キラキラ光るペンダントを胸に下げていた。 「あんた。誰だい」  と、その男は、針金を、花の形にペンチで曲げながら、秋葉を、とがめるように見た。 「秋葉京介。私立探偵だ」 「ほう。そんな仕事が、この日本にも存在したとは驚きだな」 「だから、僕がここにいる」 「そりゃあ、そうだ。それで、何の用?」 「ここに、太田千賀子という女がいた筈《はず》なんだがね?」 「太田千賀子、知らないな」 「ここでは、太田カオルといっていたかも知れん」 「ああ。カオル君なら、ここにいたよ。今はもういないが」 「この女かね?」  秋葉は、写真を見せた。男は、ペンチを置いて、それを眺めてから、 「ああ。これが、カオル君だ」 「彼女が、死んだのは、知っているかい」 「死んだ? そいつは、知らなかったな。急に、顔を見せなくなって、変だなと思っていたんだが」  男は、眼を丸くした。実感がこもっていたが、芝居かも知れなかった。 「君は、新聞を見ないのか?」 「仕事が忙しくてね。ところで、何故《なぜ》、彼女は死んだんだ? 別に病気だった様子もなかったが」 「知りたかったら、古い新聞を読むんだな。ところで、もう一つ聞きたいんだが、ここに、二十五、六の女で、身長は一六〇センチくらい、ミニのよく似合う女はいなかったかね? 昨日まで、ここにいて、今日、来ていない人間の中に」 「いや。会員は、全部、来てるよ。最近、いなくなったのは、カオル君だけだ」 「本当だろうね?」 「こんなことで、嘘《うそ》をついたって仕方がないだろう」  男は、笑って、またペンチを取り上げた。 「すると、今、いった女は、本当に知らないんだな」 「うちの会員じゃないな。だが、この間、ここに来た女に似ているね」 「ここに来た?」  思わず、秋葉の声が大きくなった。 「本当に、ここに来たのか? いつ? 何しに?」 「半月くらい前だったかな。カオル君のことを、いろいろ聞いていったよ」 「それで、住所を教えたのか」 「ああ。彼女の昔の友だちというもんだから、新しい住所を教えたんだ」 「四谷《よつや》のマンションか?」 「ああ。そうだ」 「その女は、他に、何を聞いた?」 「丁度《ちようど》、カオル君がいない時だったんでね。彼女の顔だちや、経歴なんかを、根掘り、葉掘り聞いていったよ。ああ。そうだ——」 「なんだ?」 「さっき、あんたがいったと同じことを、その女もいってたのを思い出したんだ。ええと、チズコだったっけ?」 「千賀子だ」 「ああそれだ。太田カオル君の本名は、太田千賀子じゃないかとね」      6 「ほう。そいつは、面白《おもしろ》いな」  秋葉は、傍《そば》にあった椅子《いす》に、またがるような恰好《かつこう》で腰を下ろした。あの女は、自殺した女をカオルだといい続けていたが、本名が、千賀子であることを知っていたのだ。 「それで、何と答えたんだね」 「とにかく、うちには、太田カオルの名前で会員になって、仕事をしている。それが本名かどうか知らんといってやったよ。うちは、才能が問題なんでね。履歴書を提出させて、会員にするわけじゃないからね」 「太田カオルで構わないが、彼女のことで、何か聞いてないかね? どんなことでもいいんだ」 「それがねえ。カオル君は、妙に、自分のことを、しゃべらない人だったからね」 「最近、恋愛中だったことは知ってたかね?」 「うすうすはね。だが、個人的なことだから聞かなかったよ」 「彼女の過去は、全然、わからなかったのかね? 生まれた場所も、両親や、親戚《しんせき》のことも?」 「ひとつだけ聞いたことがある」 「何だね?」 「彼女は、仕事のとき、いつも、ミニか、パンタロン姿なんだが、時々、和服に着がえて帰るときがあったんだ。それがまたよく似合うんでね。着物がよく似合うのは、京都あたりの生まれじゃないのかって、きいたことがあるんだ」 「それで?」 「そしたら、確か、京都じゃなくて、金沢の生まれだといったのを覚えている。金沢も、北陸の京都だから、似たようなものだと、その時、思ったよ」 「半月前に来た女も、当然、僕と同じことをきいたろうね?」 「いや。写真を見せて、太田カオルは、この女じゃないかと、そればかり、しつこく聞いたよ。それから、カオル君の本名は、千賀子じゃないかとね。もっとも、彼女の持って来た写真は、カオル君には違いなかったが、もっと若い頃のものだったなあ。それに——」 「それに、何だ?」 「あの写真のバックにきれいな雪景色の公園が写っていたが、あれは、金沢の兼六園《けんろくえん》かも知れないなあ」 「成程《なるほど》ね。カオル君には、その女のことを話したんだろう?」 「ああ。翌日、カオル君が来た時に、話したよ」 「それで、彼女の反応は?」 「じっと考え込んでいたみたいだったな。それだけだよ」 「考え込んだか」 「カオル君が死んだというのは、本当なのかね?」 「ああ。本当だよ」  秋葉は、立ち上がり、ぶら下がっている造花を、パチンと指で弾《はじ》いてから、その部屋を出た。  外は、まだ、むし暑かった。何かがわかって来たようでもあり、ますます、わからなくなったような気もする。秋葉は、近くにあった喫茶店に入ると、コーヒーを頼んでから、夕刊を見せて貰《もら》った。  例の事件が、朝刊より、ややくわしく出ていた。  だが、殺された女の身元は、まだわからないらしい。その代わりのように、怪《あや》しい男として、秋葉の人相や服装がくわしく出ていて、 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈当局は、目下のところ、この男が、殺人事件の鍵《かぎ》を握るものとみて、探している〉 [#ここで字下げ終わり]  と、書き加えてあった。  秋葉は、夕刊を置いてから、腕を組んだ。思った通りになったわけだが、問題は、警察よりも、犯人の動きにありそうだ。警察に対しては、依頼人の木島が、証人になってくれるだろう。だが、あの若い女を射殺した犯人は、秋葉が、何かを見たと思って、彼を狙《ねら》うかも知れない。 (狙ってくれたほうが面倒くさくなくていいかも知れないが——)  歩きながら、秋葉は、そんな不敵なことを考えた。が、標的にされるのは、彼でも、あまり、いい気持ちのものではなかった。それに、守勢に立つのは、好きではない。 (あの女は、太田千賀子のことを、いろいろとききながら、生まれ故郷のことは聞こうとしなかったし、金沢の兼六園をバックにして撮ったらしい写真を持っていたという)  ということは、千賀子の過去について、かなりの知識を持っていたということである。  木島専太郎は、死んだ千賀子の現在は知っていたが、過去は知らなかった。殺された女は、その逆だったらしい。もし、あの若い女が殺されずにいて、千賀子の過去を話してくれたら、木島や、新日本フラワーデザイン協会の会員の話とつなぎ合わせて、一つの千賀子像が出来あがったかも知れない。今は、片方の千賀子の姿しかわからないし、それも、かなりあいまいなものだ。 (金沢に行ってみるしかないか)  歩いている中《うち》に、そう考えると、秋葉京介は、すぐ、タクシーを拾い、東京駅に急行した。  金沢に行くには、さまざまな経路がある。どれが一番早いか、時刻表で調べればわかるのだろうが、そういう面倒くさいことは、秋葉は苦手である。ただわかっているのは、飛行機を使えば一番早いが、航空便は、福井までしか行っていないし、それも、午前中に一便しかないということだけである。これは、前に福井に行ったことがあったから覚えていた。鉄道なら、どう行っても、まあ、似たような時間であろう。  秋葉は、新幹線で名古屋へ行き、名古屋から、米原《まいばら》に出て、そこから北陸本線に乗りかえる方法をとった。  金沢に着いたのは、その日の深夜であった。その夜は、駅前の小さなホテルに泊まり、翌日、朝食をとってから、金沢の街に出た。  太田千賀子が、この街のどこに住んでいたのか、勿論《もちろん》、秋葉にはわからない。東京に比べれば、金沢は小さな街だが、それでも、一人の人間の家を見つけ出すには、広い街である。  戦災を受けなかっただけに、犀川《さいかわ》の両側に広がる街並みは、独特の瓦屋根が美しい。静かで、清潔感が心地良い。が、ここにも近代化の波が、容赦なく押し寄せているのが、ところどころに顔をのぞかせていた。街を走っていた市内電車は撤去され、コンクリートのビルも多くなっている。  秋葉は、まず、金沢警察署に寄ってみた。太田千賀子の名前を出してみたが、わからないという返事だった。無理もなかった。秋葉が知っているのは、彼女の名前だけだからである。これでは、警察も答えようがないだろう。  次に、秋葉は、市役所の戸籍係をたずねてみた。  金沢の人は、口数が少ない。北陸人の特徴なのかも知れない。窓口にいたのは、かなりの老人で、こちらの質問に、反応が鈍いので、秋葉は、ここも駄目かとあきらめかけたが、老人は、しばらく間を置いてから、 「あの人は、可哀《かわい》そうなお人です」  と、ぼそッとした声でいった。 「あの人?」  と、秋葉は、聞き咎《とが》めて、 「個人的に、太田千賀子さんを知っているんですか?」 「あの人のお父さんと一寸《ちよつと》した知り合いでしてな。もっとも、向こうは、金沢の旧家で、わたしのほうは、貧乏人だったから、小学校の同級生というだけのことに過ぎませんがね」 「太田というのは、ここの旧家ですか」 「はい。大変な地主さんです」 「しかし、可哀そうというのは、どういうことですか?」 「五年前でしたかね。千賀子さんは、婿《むこ》さんをお取りになりましてね」 「彼女は、ここで、結婚していたんですか?」 「ええ。ただ、その結婚が、不幸でしてな」 「ご主人が亡くなったんですか?」 「それなら、まだいいですが、お婿さんが、結婚してすぐ、交通事故にあわれましてなあ。頭を強く打ったのが、原因か、精神がおかしくなられてしまって。そんなことになったのに、千賀子さんの献身ぶりは、評判でした。よく、そんなお婿さんに尽くされたんですが、お婿さんのほうは、千賀子さんのことを覚えていなかったり、殴《なぐ》る蹴《け》るの乱暴を働いたという噂《うわさ》です」 「それに我慢《がまん》しきれなくなって、彼女は、東京に出たということですか?」 「多分、そうでしょう。ところで、さっき、あんたのいわれた、千賀子さんが、死なれたというのは、本当ですか?」 「本当ですよ。彼女が亡くなると、財産は、その精神のおかしい婿さんのものになるわけですか?」 「そうなるでしょうな。ご両親も亡くなられたし、千賀子さんは、ひとり娘でしたから」 「財産は、どのくらいです?」 「ちょっとわかりませんが、この辺も土地が高くなりましたから、億単位なことは確かでしょうな」 「億単位ねえ。それで、その婿さんは、今、どうしています?」 「それが、行方不明《ゆくえふめい》でしてね」 「行方不明?」 「ええ。実は、東京に行った千賀子さんから度々、離婚届が出されているんですよ。ところが、婿さんのほうが行方不明で、その離婚届が、宙に浮いてしまっているんです」 「婿さんの名前は」 「確か、賢次《けんじ》さんです。太田賢次。三十歳」 「行方不明になったのは、いつ頃ですか?」 「それが、妙なことに、千賀子さんが、暗い家庭に堪えられなくなって、一年半前に上京してすぐなんです。それで、婿さんの病気が治って、千賀子さんを探しに東京に行ったんじゃないかという噂《うわさ》も聞いたことがありますが」 「そいつは、面白い」  と、思わず、秋葉がいうと、老人は、何を不謹慎なという顔で、彼を睨《にら》んだ。      7  秋葉は、市役所を出ると、タクシーを拾い、老人の教えてくれた太田千賀子の邸を訪ねてみた。  犀川《さいかわ》に沿った場所に、広大な塀をめぐらした屋敷があり、いかにも旧家という感じだった。土地値上がりの激しい最近では、この邸だけでも、売れば大変な金《かね》になるだろう。塀に沿って、ひとめぐりしたが、邸の中は、ひっそりと静まりかえっていた。  秋葉は、近くの酒屋で、帰りの汽車の中で飲むためのウイスキーのポケット瓶を買ってから、邸の主のことを聞いてみた。最初、酒屋のかみさんも、口が重かったが、東京で、太田千賀子と親しかったというと、急に、口が滑《なめ》らかになった。彼女も、千賀子の死を知らなかったのは、東京のニュースには無関心なのだろう。 「千賀子さんも、ずい分、辛抱《しんぼう》なさったと思いますよ」 「婿《むこ》の賢次さんも行方不明だそうだね?」 「ええ。一年半前から、全然、見ませんねえ」 「精神障害のほうは治っていたんですか?」 「それは、あたしどもにはわかりません。病院から戻って来られてから、二、三度、お会いしたことがありますが、表面上は、全然、普通の人みたいでしたけど、千賀子さんにはずい分、ひどい仕打ちをしていたようですからねえ。あれでは、お嬢さんが、逃げ出したくなるのが、当然じゃありませんか」 「すると、今、あの邸は、どうなっているんです?」 「さあ、遠い親戚の方が、管理しているということですが」  おかみさんは、首をかしげた。  秋葉は、少しずつ、眼の前が、ひらけてくるのを感じた。それは、彼の廻《まわ》りに、危険が近づいてくることを意味している。  秋葉は、念のために、邸のある杉浦町の役所に寄って、あの邸が、今、誰の名義になっているかを聞いてみた。この係の老人も、口が重く、今でも、太田千賀子の名義になっているのを聞き出すだけで、かなりの時間がかかった。 「すると、彼女が死ねば、当然、婿の賢次さんのものになるわけですね?」 「ええ。でも、その賢次さんが、目下、行方不明ですので——」  と、係の老人は、重い口調でいった。近くの駐在所に廻って聞いてみたが、ここでも、太田賢次の行方は、わからないという返事だった。  秋葉は、駅前のホテルに戻ると、木島に貰《もら》った名刺を取り出し、時計を見てから、大日本産業のほうへ、長距離をかけてみたが、木島は、今日は、休んでいるという返事だった。  仕方なく、自宅にかけてみると、今度は、男の声で、「君は誰だね?」と、きき返された。木島の声ではなかったし、そういう訊問調に、秋葉は覚えがあった。刑事のきき方だ。どうも、何かあったらしい。 「会社の者ですが、何かあったのですか?」  と、秋葉はきいた。 「木島さんは、昨夜、強盗に襲われて、近所の病院に入院した」  相手は、ぶっきら棒にいってから、 「会社には、連絡ずみの筈《はず》だぞ。君は、一体誰だ?」  と、あわてた声になった。秋葉は、苦笑して、電話を切った。が、すぐ、難しい顔になると、東京に舞い戻るために、立ち上がっていた。  翌朝には、秋葉は、東京にいた。晴れてはいたが、北陸とでは、空気が違っている。ここの空気は、人間の欲望のように、重く澱《よど》んでいる感じがする。  秋葉は、タクシーで、木島の自宅近くまで行き、車を降りると、附近の病院を聞いて廻った。三つめの救急指定病院に、木島専太郎は、頭に包帯をぐるぐる巻いて、ベッドに横になっていた。  個室だった。木島は、意外に元気に、秋葉を迎えた。 「これは、一体、どうなっているのかね? 千賀子に買ってやったマンションで、若い女が殺されたと思ったら、今度は、私が強盗に襲われた。これは、関係があるのかね?」 「多分、あるでしょう。ところで、昨夜は、お一人だったんですか?」 「家内は、別れ話が持ち上がってから実家に帰っているから、私一人だった」 「強盗の顔は見たんですか」 「警察にも、しつこく聞かれたんだが、全然覚えていないんだ。とにかく、寝ていたら、書斎のほうで、物音がした。それで、起きて、書斎に入ったとたんに、背後《うしろ》から、殴られたんだから、相手の顔なんか見るひまはないさ」 「書斎に明かりは点《つ》いていましたか?」 「いや。しかし、何となく、明かりがチラチラしていたような気がするな」 「懐中電灯かも知れませんね。それで、盗《と》られたものは?」 「書斎には、もともと、金目《かねめ》のものは、置いてないからね。中古のカメラを盗られただけだよ。警察は、あんたが、死んだのかと思って、あわてて、近くにあった中古カメラを盗って逃げ出したんだろうといっていたがね」 「どうも、偽装工作臭いですねえ」 「というと?」 「流《なが》しの犯行に見せかけるために、何でもいいから、持って行ったとしか思えないからですよ。中古のカメラなんか、質屋に持っていっても、たいして金にならんし、ナンバーから足がつきやすいから、普通の泥棒なら手は出さない筈《はず》です」 「そうなると、相手は何故《なぜ》?」 「あなたは、死んだ太田千賀子さんから、何か預かりませんでしたか?」 「彼女の死と、今度のことは、関係あるのか?」 「恐らくね。だから、思い出して欲しいんですが。何も、彼女から預かりませんでしたか?」 「一寸《ちよつと》待ってくれ。そういえば、袋に入ったものを預かったことがある。二週間くらい前だ。何だと聞いたら、あたしの大事なものと笑っていたのを覚えている」 「中は見なかったんですか?」 「ああ。私が欲しかったのは、彼女そのものだったからね」 「それは、今、どこにあります?」 「私が、貴重品を預けてある銀行の貸金庫に入っているよ。君は、昨日の強盗が、それを狙《ねら》って忍び込んだというのかね?」 「多分、間違いないでしょう。ところで、貸金庫の鍵《かぎ》は?」 「いつも、肌身離さず持っているよ。私には、大事な貯金通帳や、株券が入れてあるんでね」 「それは良かった。彼女が預けておいたものが盗《と》られたら、大変なことになるところでした」 「君は、中身を知っているのか?」 「大体、想像はつきます。そのために、一人の女が殺されています。いや、千賀子さんも自殺でないとすれば、二人が殺されたことになる」 「何をいってるんだ。千賀子には、ちゃんと遺書が——」 「あの便箋《びんせん》に書かれた『もう待てません』の文字ですか?」 「そうだ」 「しかし、あの文字は、便箋のまん中ではなく、右端のほうに書かれてありましたよ。ということは、あの言葉は、手紙の書き出しだったのかも知れない」 「しかし、私に何故《なぜ》、手紙を書く必要があるんだ?」 「相手は、あなたではなく、別の人間だったかも知れません」 「誰だ? 千賀子には、私の他に男がいたのか?」 「それは、まだわかりません」  と、秋葉は、わざと誤魔化《ごまか》した。この中年の男の胸の中で、死んだ千賀子の美しさが、まだ生きている以上、彼女の金沢での生活を知らせることもないだろう。それに、彼女が預けたものが何であるかわかれば、自然に、木島にも、事態が呑《の》み込めてくるに違いない。 「ところで、ここに封筒はありませんか。大きめの封筒がいいんですが。なければ、風呂敷《ふろしき》でもいいですが」 「風呂敷ならあるが」 「じゃあ、それを貸して下さい」  秋葉は、紫色の風呂敷を借りると、枕元《まくらもと》にあった週刊誌二冊を丁寧に包んだ。 「何をしているんだ?」 「罠《わな》を作っているんです」 「罠?」 「あなたを襲った犯人は、僕の推理に間違いなければ、あなたが、千賀子さんから預かったものを盗もうとしたんです。とすれば、犯人は、この病院を見張っているかも知れない。そして、この風呂敷包みを、僕が大事そうにもって、病院を出れば、この中身が、それかと思うでしょう」 「本物は、もう少し、小さくて、平べったい包みだったが」 「わかっています」  と、秋葉はいった。だが、少し大き目にして、相手に目立つほうがいいだろう。  秋葉は、その風呂敷包みを、大事そうに小脇《こわき》に抱え、「じゃあ、確かに、お預かりしました」と、わざと大声でいって、病院をあとにした。      8  その夜、秋葉は、アパートの部屋のテーブルの上に、例の風呂敷包みを置き、明かりを消して、ベッドに横になった。  枕元のスタンドのコードは、手元まで長く伸ばし、いつでも明かりが点けられるようにした。  相手が、罠《わな》にかかるかどうかはわからない。が、億単位の土地がかかっているとすれば、犯人がやってくる確率のほうが強いとみていいだろう。  午前二時を過ぎた時、ふいに、廊下に足音が聞こえた。  秋葉の背筋を、一瞬、冷たいものが走った。それは、緊張感でもあったし、推理が当たったことへの快感でもあった。  やがて、ドアのノブが、ゆっくりと廻るのがわかった。鍵《かぎ》は、わざと、かけておかなかった。  黒い人影が、部屋に入って来た。その人影は、じっと息を殺し、暗い部屋の中を、すかすようにうかがっていたが、そろそろと、テーブルに近づいた。  その瞬間を待って、秋葉は、いきなり、手元のスイッチを入れた。  サッと、明かりが走り、その中に、背の高い三十五、六歳の男が浮かび上がった。 「やあ。いらっしゃい」  と、秋葉は、その男の硬直した顔に笑いかけた。 「うまく罠にはまってくれたね」 「罠?」 「そうだ。その風呂敷包みの中には、金沢の邸や土地の権利書や、太田千賀子の実印なんかは入っていないよ」 「————」 「そんな嫌な顔をすることはないだろう。もう観念して、何もかも話すんだな」 「おれの名前は、太田賢次だ。自殺した家内が持っていた土地の権利書は、当然、おれのものだ」  男は、開き直るようないい方をした。「ほう」と、秋葉は、笑った。 「すると、精神異常は、治ったわけかね?」 「ああ。おかげで治った。だから、当然、おれに、全《すべ》ての権利がある」 「嘘《うそ》をついちゃいけないなあ」 「何だと?」 「君が本物の太田賢次だったら、千賀子さんが自殺した今、堂々と、土地の権利を主張できる筈《はず》だ。彼女は、精神異常の夫との離婚手続きをしていたが、それは、まだ役所で受理されていないのだからね。それなのに、君は、権利書を手に入れるために、木島を襲い、今夜は、僕のアパートに忍び込んだ。それだけじゃない、君は、女も殺している」 「もう沢山《たくさん》だ!」  男は、急に、顔を赧《あか》くして怒鳴ると、背広の内側から、拳銃《けんじゆう》を取り出した。 「彼女の権利書を持ってるんなら、さっさと出して貰《もら》おうか。嫌だといえば、撃ち殺す」 「あの若い女みたいにかね」  と、秋葉は、平然といい返した。 「その拳銃には、見覚えがある。太田千賀子のマンションで会った若い女が持っていたものだ。あの女は、君の女だったんだろう?」 「権利書を持ってるのか?」 「さあ、どうかな。君が、太田賢次でないことだけは確かだがね。太田賢次は、妻の千賀子が上京したあとを追って、東京に出て来た。君は、彼と、どこかで会い、金沢の土地や邸のことを聞いたんだ。それで、彼を殺して自分のものにする気になった。土地の権利書と実印さえあれば、本人でなくとも、売買はできるからね。そうしておいてから、君は、自分の女を使って、千賀子さんに接触させた。だが、千賀子さんには、新しい恋人ができていた。それであわてた君は、権利書を盗みに、マンションに忍び込んだが、彼女に見つかってしまった。そこで、多分、当て身でもくわせたんだろう。ところが、その時、彼女は、手紙を書きかけていた。夫が、まだ金沢にいると信じていた彼女は、新しい恋人との結婚に入りたくて、一刻も早く、離婚を承知して貰うための手紙を書き出していたんだ。それが、『もう待てません』の文句さ。君は、それを遺書に見せかけ、ガス栓をひねって逃げたんだ。太田夫婦が死んでしまえば、金沢の土地は、完全に、権利書の持ち主のものになるからね。マンションの鍵《かぎ》は、君の女が、千賀子さんに近づいたとき、上手《うま》く盗んで、どこかで同じものを造っておいたんだろう」 「いうことは、それだけか?」 「もう一つ。千賀子さんの死が、自殺で処理されてしまったあと、君の女が、権利書を探しに、マンションに忍び込んだ。ところが、彼女は、僕を見て、びっくりしてしまった。もし、君が、本物の太田賢次なら、堂々と名乗って出ればいいんだから、その点からも、君がニセモノとわかる」 「あんな、頭のおかしな男に、何億もする土地を与えたって仕方がないからな」 「やっと、本音が出たな。ところが、君は、自分の女も信じられなくなって、射殺した。それとも、独りじめしたくて殺したのか」 「いや。口封じだ」 「成程《なるほど》ねえ。そういえば、あの女は、わりとおしゃべりだったからね」 「ところで、お前さんの口も、封じたほうが良さそうだな」  急に、男の眼が、冷たい色に変わった。秋葉は、相手の気持ちをはぐらかすように、クスクス笑った。 「何がおかしい?」 「僕が、何の用心もせずに、危険な君を、待っていたと思うのかね」 「何がいいたいんだ?」 「僕も私立探偵だよ。隣室には、助手がいて、テープレコーダーを廻している。それにさっきから、天井《てんじよう》に仕掛けたカメラが、自動的に、君の写真を撮っているのに気がつかないとは、一寸うかつじゃないかねえ」 「何だと?」  一瞬、秋葉の嘘《うそ》につられて、男が上を見た。その瞬間を狙《ねら》って、秋葉は、枕元にあった灰皿を男めがけて投げつけた。男が、身体をかわした。銃口が上を向く。秋葉の身体が、その隙《すき》を狙って、跳躍し、男に躍りかかった。  思い切り、殴りつける。  男の身体が、すっ飛んで、壁にぶつかり、激しい音を立てた。  そのあとは、ただ、殴り続けた。拳銃が床に落ち、男の顔が血だらけになって、ぐったりしたところで、秋葉は、手を止めた。 (さて、どちらに先に電話したものか)  と、一寸考えてから、秋葉は、まず、一一〇番のダイヤルを廻した。  そのあとで、ニヤッとしたのは、億単位の土地の権利書を見たとき、木島専太郎が、どんな顔をするだろうかと、考えたからである。 [#改ページ]  危険なヌード      1  秋葉京介の事務所には、看板も出ていない。  だが、人づてに彼のことを聞いた人々が、やって来て、事件の解決を頼む。それは、秋葉が、どんな危険な仕事でも引き受け、解決してくれるからだ。秋葉が、仕事を引き受けるとき、たった一つしか条件をつけない。それは、依頼者が、彼を裏切らないことである。もし、相手が裏切れば、秋葉はそれが、どんなに地位の高い人間だろうと、容赦はしない。それが、秋葉が、自分の仕事に与えた掟《おきて》でもあった。  金《かね》のために、危険な仕事を引き受けるのかと、秋葉にきいた者がいる。彼は、黙って笑って答えなかった。成功報酬として、自然に、金は入ってくる。だが、そのために、危険に飛び込むというより、秋葉は、冒険が好きなのだ。もっと具体的にいえば、危険に身をさらした時の、あの、身の引きしまる緊張感が好きなのだ。  今日も、一人の男が、秋葉の前に腰を下ろしていた。五十歳くらいで、重役タイプの男だった。 「あなたの話を聞く前に、一つだけ断わっておきたい」  と、秋葉京介は、いつものように、ゆっくりした口調でいった。 「あなたが、自分の名前をいいたくなければいわなくても結構です。ただ、嘘《うそ》だけはつかないで欲しい。僕を欺《だま》せば、その瞬間から、僕はあなたにとって危険な男になる」 「わかりました」  と、男は、かすれた声でいった。 「私の秘密は、守って頂けるのでしょうね?」 「守るといっただけで、信じますか?」  秋葉は、ニヤッと笑ってから、 「僕を信じれば話せばいい。信じられなければ、帰りなさい」 「いや。信じます」  と、男は、あわてていった。 「じゃあ、話して頂きましょうか」  秋葉は長い脚を組み、煙草《たばこ》に火をつけた。男は、一寸《ちよつと》、部屋の中を見廻《みまわ》してから、 「私を助けて頂きたいんです。それも、今月末までにです」 「今月末というと、あと、一週間ですね」 「そうです。無理でしょうか?」 「判断は、話を聞いてから、僕が下します」  と、秋葉はいい、先を促した。 「実は、私は、ある大きな商社の部長をやっています。名前は、勘弁して頂きたい。妻と、高校二年の一人娘がいます。娘と家内は、学校が夏休みなので、北海道の別荘に行っています」 「今月末に、別荘から帰ってくる——?」 「その通りです。それまでに、どうしても、何とかしたい。お願いします」 「奥さんに知られては困ることに、何か巻きこまれたわけですね」  秋葉は、ハンカチで額《ひたい》の汗を拭《ぬぐ》っている相手の顔を、じっと見すえた。一見、興味も感じてないし、冷酷な感じの視線である。 「実は、一か月間、ひとり暮らしになると思った時、柄《がら》にもなく、助平根性《すけべいこんじよう》を起こしまして」  と、相手は、また、ひとしきり、ハンカチを動かした。 「若い女に手を出したが、その女に悪いヒモがついていて、脅迫されたということですか?」 「まあ、簡単にいえば、そうなんですが——」  相手がうなずくと、秋葉の口元に、ふっと小さな笑いが浮かんだ。それは、微笑ではない。詰まらない事件だなという苦笑だった。もっとも、大会社の部長だという相手の男にとっては、一大事件だろうが。 「手口を伺いましょうか」 「会社で、久しぶりに、一か月間、のうのうと、ひとり暮らしが出来ると話したんです」 「誰にです?」 「私の部局の管理課長です。その時、一寸《ちよつと》、浮気《うわき》でもしたい心境だなともらしたら、彼が、絶対に安全に楽しめる組織があるというんです。私は酒が駄目で、バーやナイトクラブに行くというのが苦手なものですから、そういうところへ行って発散させられんのです。そんなわけで、私は、彼の話に飛びつきました。彼の話によると、自分も遊んだことがある。とにかく、電話すれば、若くてピチピチした女の子を寄越してくれるというんです。秘密も厳守してくれるといいました」 「何という名前の会です?」 「『美しき花芯《かしん》の会』というんです」 「なかなか、意味ありげな名前ですな」 「私は、電話しました。電話口に出たのは男の声で、こちらの住所と名前を聞くと、すぐ女を寄越すというんです。入会金その他は、その女に聞いてくれといいました。それに、彼女が気に入らなければ、そのまま返してくれればいい。また、別の女を寄越すというんです」 「それで?」 「正直にいって、私は、碌《ろく》な女は来ないだろうと思っていました。そんなことを、いろいろと聞いていたし、週刊誌なんかで読んでいたからです。若い美人があなたのお相手と書いてあって、実際には、四十歳過ぎの婆さんがやってくるなんて話をです」 「ところが、若い美人がやって来た?」 「何故《なぜ》、わかります?」 「だからこそ、あなたは、引っかかったんでしょう?」 「その通りです。凄《すご》い美人が、私のマンションに現われたんです」      2 「まるで、ファッション・モデルのような、若い、美人でした。年齢は二十歳。名前は、自分で、中山|麻美子《まみこ》といってましたが、勿論《もちろん》、本当かどうかわかりません。しかし、その時は、そんなことはどうでもよかったのです。とにかく、浮き浮きしました。彼女は、入会金として、『美しき花芯の会』へ五千円を払ってくれ、その他、一日一万円払ってくれれば、何日でも、こちらの希望する日数だけ、一緒に生活してくれるというのです。彼女の話では、一万円のうち、二千円は会のほうに納めるということでした。それで、食事もつくってくれるし、勿論、セックスのほうも楽しませてくれるというのです。ええ。食事代は、むろん、こちら持ちですが」 「それにしても、一寸《ちよつと》、上手《うま》すぎる話とは思いませんでしたか? 例えば、少しきれいな女の子のいるソープランドで、本番となると、たいていは一万円は、ふんだくられる。その上、入浴料もです。それで楽しめるのは、せいぜい二、三十分。そんな時代に、一日一万円で、食事の支度《したく》から、セックスの相手までしてくれる。それも、ファッション・モデルのような若い美人が。少しおかしいと思わなかったのですか?」 「今になってみると、あなたのいわれる通り少し上手《うま》すぎる話でしたが、その時は、有頂天《うちようてん》になっていたのです。初めての浮気《うわき》らしい浮気でしたからね。それに、彼女の態度も、事務的じゃなくて、献身的でした。抱き寄せて、唇を合わせると、向こうから、しがみついて、舌をからみ合わせてくるんです。そのまま下に手をやると、もう濡《ぬ》れているんです。私は、そんな彼女に夢中になりました。口やかましい癖に、少しも献身的でない家内に比べて、倍以上の若い美人が、献身的につくしてくれるんですから」 「それで?」 「一週間が、あっという間に過ぎました。古めかしい言い方ですが、バラ色の毎日でした。七日目でしたか、彼女が、私のカメラを見つけて、自分のヌードを撮ってくれないかと頼んだんです。私の趣味といえば、ゴルフと、カメラいじりぐらいですから、カメラの腕には自信はありましたし、現像も、自分で出来るので、すぐ撮ってやりました。一緒に風呂にも入っていたので、私のほうは、殆《ほとん》ど、抵抗がなかったのです。それに、一緒に並んで撮るわけじゃありませんから」 「成程《なるほど》」 「ヌードですから、外で撮るわけにはいきません。全部、マンションの中で撮りました。二十枚撮りのカラーで、三本は撮りました」 「その写真を、彼女は、くれっていったんじゃありませんか?」 「いや。いきなりそういわれたら、私も、少しは、警戒したと思います。しかし、全部、あなたが、持っていてくれというんです。ただ、一枚だけ、大胆すぎるポーズのものがあったから、それは恥ずかしいから呉《く》れないかというんです。確かに、そういう写真があったので、一枚だけ、ネガごと、彼女に渡しました。ところが、それが罠《わな》だったんです。翌日、私が、会社から帰ってくると、彼女の姿が見えません。変だなと思っていると、夜中に、男の声で、電話がかかって来ました。買って貰《もら》いたいものがあると」 「古臭い手に引っかかったものですね。それで、写真を送りつけて来たんでしょう?」 「そうです。十万円払わなければ、何枚も焼き増しして、家内と、会社に送りつけるというんです」 「その写真は?」 「これです」  相手は、内ポケットから、一枚のカラー写真を取り出して、秋葉に見せた。場所は応接室らしい。マントルピースの前に、全裸の若い女が、椅子《いす》に腰を下ろし、足を大きく左右に開き、笑いかけているポーズだった。無修整だから、黒い茂みも、はっきりと写っている。男のいう通り、若く、美人でいい身体をしていた。 「しかし、これには女しか写っていないから、会社へ送りつけられても、関係なしで通らないのですか? マントルピースのある応接室なんかいくらでもあるでしょう」 「しかし、そのマントルピースの上をよく見て下さい。大きなトロフィーが飾ってあるでしょう。それは、うちの会社でやったゴルフの大会で、私が優勝した時の記念トロフィーなんです。その写真を拡大すると、第五回社内ゴルフ大会優勝記念の字と、社の名前、それに、私の名前も、ちゃんと読めるんです」 「成程《なるほど》ね。それで、相手は、その前でヌードを撮らせたわけですね」 「ええ。そうなんです。とにかく、私は言われるままに十万円払いました。ところが、また焼き増しした写真を送って来て、今度は、二十万円を要求して来たんです」 「そして、次は、もっと多額の金額をというわけですか?」 「そうです。五日目ごとに、要求してくるんです。そして、今度は、百万です。それを、明後日《あさつて》までに寄越せというんです」 「金は、どうやって渡しているんです?」 「向こうが、電話で、置いておく場所を指定するんです。私が、いわれた通り、車で行き、そこへ包んだ札束を置いて来るわけです。見張っていたり、警察に知らせたら、自動的に、会社と、家内へ写真が送られるというので、私は、犯人の顔を見たこともありません」 「この写真が、会社に送られれば、一寸《ちよつと》した騒ぎにはなるでしょうが、上司からの叱責《しつせき》ぐらいですむんじゃありませんか。今は、ポルノ全盛だし、大商社の部長ともなれば、浮気《うわき》するぐらい、普通のことでしょう?」 「そうかも知れません。しかし、家内は、絶対に許しません。男として恥をいうようですが、私の家内は、社長の親戚《しんせき》に当たるんです。地方大学出の私が、その大商社で、部長にまでなれたのは、家内のおかげなんです。ですから、それが、私にとって致命傷だということは、おわかりでしょう?」 「まあ、わかりますね。つまり、僕への依頼というのは、誰にも知られずに、この写真のネガを取り戻して欲しいというわけですね?」 「そうです。今度、百万円払ったら、私が自由に出来る金は、あと、五、六十万しか残りません。それでも、向こうは、構わずに要求してくるに決まっています。それに、最初に話した通り、一週間後には、家内と一人娘が、帰ってくるんです。それまでに、ぜひ、お願いします」 「いいでしょう」  と、秋葉はいった。      3 「私は、どうしたらいいんです?」  男が、不安気にきいた。 「あなたは、何もしなくていい。ただ、この写真は、借りますよ」 「ええ。どうぞ」 「では、この裏に、『美しき花芯の会』の電話番号を書いて下さい。それから、その会を、あなたに紹介した管理課長の名前を教えてくれませんか?」 「何故《なぜ》、彼の名前を?」 「必要だからです」 「まさか、あなたは、彼が、犯人の一味だなんて思っていらっしゃるんじゃないでしょうね?」 「いや。そんなことは考えていませんよ」 「それならいいんです。いろいろ、噂《うわさ》のある男ですが、優秀な社員ですから。名前は、竹内君です。竹内邦治《たけうちくにはる》。年齢は三十七歳だったと思います」 「それから、金ですが、あなたは、あと、五、六十万は、自由になるといいましたね?」 「ええ。それを持って来ました。どうぞ、使って下さい」  と、男は、札束を秋葉の前に置いた。秋葉は、無造作にその金を、自分のポケットに放り込んだ。 「これは、相手を罠《わな》にかける必要経費です」 「罠といいますと?」 「それは聞かないほうがいいでしょう。とにかく、一週間以内に、あなたのご希望どおりになると約束しますよ」 「お願いします。私が要求されている百万円は、どうしたらいいでしょう?」 「払っておきなさい。そのほうが、相手は警戒しないし、どうせ、僕が、その金は、取り返して差し上げますよ。ただ、その半額の五十万円は、成功報酬として頂きますが」 「この苦しみから逃がれられたら、半額といわず、全額差しあげますよ」  男は、身を乗り出すようにしていい、何度も頭を下げてから帰って行った。  一人になると、秋葉は、五、六分の間、若い女のヌード写真を眺めた。いくらでも転がっている詰まらない事件のようにも思える。若い女をネタにして、商社の幹部をゆする。それだけの事件の感じでもある。それは、すぐわかるだろう。  秋葉は、事務所を出ると、車に乗り、まず、大手の不動産業者を訪ね、3DKぐらいで豪華な感じのする貸マンションはないかときいた。  原宿《はらじゆく》に、電話付きで3LDKの部屋が一つ空いていた。部屋代は八万円だという。秋葉は、その部屋を借りることにした。一週間しか必要のない部屋だが、それでも、保証金とか権利金とかで、四十八万円もふんだくられた。あの男の渡した六十万円は、あと十二万円しか残っていない。  その金で、家具を揃《そろ》えることにした。どうせ、すぐ要らなくなるのだから、全部、月賦にした。事件が解決し、秋葉が姿を消せば、月賦屋は、ブツブツいいながら、家具を持ちかえるだろう。  一応調度品が揃ったあと、カメラは、秋葉自身のものを持ち込み、トロフィーの代わりに、応接室には、大きな置時計をおき、それに、『第X回誕生記念に。秋子より』と、白エナメルで書き込んだ。  これで、罠《わな》は出来た。あとは、相手の出方次第である。  夜になってから、秋葉は、『美しき花芯の会』のダイヤルを回した。  男の声が出た。明らかに、含み声で、自分の声を変えようとしているのがわかって、秋葉は、受話器を握りながら、笑いを噛《か》み殺した。 「実は、家内が、一週間ばかり、ヨーロッパ旅行に出かけたんでね。鬼の居ぬ間というやつで、息抜きをしたいんだが」 「成程《なるほど》。それで、どなたに、私共のことを、おききになりました?」  相手は、相変わらず、含み声できいた。多分、送話口にハンカチでもかぶせているのだろう。 「ある商事会社の竹内という人からだが、いい女性を世話してくれると聞いたんだ」 「竹内さんですか。それならいいでしょう」 「とにかく、一週間で家内が帰ってくるんでね。それまで、楽しい日を送りたいんだ。わかるだろう?」 「ええ。よくわかります。早速、あなたのご希望に添うように致しましょう」 「本当に、こちらの希望に添ってくれるのかね? メンスのあがったような婆さんを寄越されても困るんだ。別に、家政婦が欲しいわけじゃないんだから」 「わかってます。わかってます。わたし共の名前にふさわしく、若くて、ピチピチした美人を、差し向けます。金銭的な条件は、彼女から聞いて下さい」 「期待していいんだろうね。ただ面白《おもしろ》おかしく遊ぶだけなら、バーや、ソープランドへ行けばいいんだから」 「いえ、いえ。絶対に、そちらのご期待に添う筈《はず》です。献身的なサービスがモットーですから。ところで、そちらの住所と名前をお聞かせ願えませんか?」 「原宿近くの、ニュー原宿コーポだ。そこの十階の一〇〇三号室。名前は秋葉だ。職業もいうのかね?」 「それは、結構です。わたし共に払って下さるお金さえお持ちならば——」 「その点は、大丈夫だ。義父《おやじ》が地味《じみ》だったものだからね。僕の自由になる金が二億ばかりある。今のところ、何もせずにブラブラしていても、喰《く》っていける身分さ」 「それは結構ですね」 「ただ、一週間後に、ヨーロッパから帰ってくる家内には、絶対に知られたくないんだ。何しろ、二億円の金も、もとは、家内のオヤジのものでね」 「その点は、ご心配なく、こちらを信用して頂きたいと思います」 「今夜、美人を抱いて寝られるんだろうね?」 「ええ。あと三時間もしたら、うちのナンバー・ワンを行かせます」 「現代風に、眼が大きくて、スタイルのいい若い娘《こ》がいいなあ。いわばハーフ的な魅力のあるね」  秋葉は、例の写真を見ながら、女の特徴を並べた。 「それなら、丁度《ちようど》、ピッタリのがおりますから、さっそく」 「じゃあ、楽しみに待ってるよ」  秋葉は、電話を切ると、月賦屋から運び込ませた真新しいソファの上に、ゆったりと腰を下ろし、改めて、今、回したナンバーを眺めた。三〇九局とあるから、恐らく、世田谷《せたがや》区内であろう。  秋葉は、次に、拡大鏡で、例の写真の優勝トロフィーの部分を観察した。確かに、あの男のいった通り、文字が刻み込まれていた。 〈第五回社内ゴルフ大会優勝  第一商事海洋開発部長 渡辺常一郎殿〉  と、読めた。 (第一商事か——)  秋葉は、ふと、眉《まゆ》をしかめた。確かに、第一商事なら大商社だ。依頼主の言ったことに間違いはなかったわけだが、そのことに、秋葉は、何か引っかかるものを感じた。だが、明晰《めいせき》な彼の頭脳も、すぐには、それが何なのか解答を出さなかった。秋葉は、ほんの少しの間、いらいらした表情になったが、すぐ、平静に戻り、女を待つ準備を始めた。ヌード写真はかくし、カメラは、わざと、応接室のテーブルの上にのせて置いた。  正確に、三時間後に、玄関のベルが鳴った。      4  ドアを開けると、思った通り、写真の女が立っていた。パンタロンに帽子がよく似合っている。ファッション・モデルみたいだといった渡辺常一郎の言葉を思い出した。確かに、あの男のいう通り、服装のセンスはいい。 「入ってもいい」  と、女が、首をかしげるようにしてきいた。 「ああ、どうぞ」  秋葉は、応接室に、彼女を招じ入れた。女は、ソファに腰を下ろすと、バッグから煙草《たばこ》を取り出した。  秋葉は、素早《すばや》く、ダンヒルのライターで、火をつけてやってから、 「本当に、若くて美人が来たんでびっくりしたよ」 「うちの会は、お客様に嘘《うそ》をつかないのがモットーなの」 「そいつは立派なもんだ。君を、何と呼んだらいいのかな?」 「中山麻美子」  女は、ニコッとしていい、煙草をくわえたまま、立ち上がって、応接室を、ゆっくり歩き回り始めた。 「いい名前だ」  秋葉は、腰を下ろしたまま、女の背中に声をかけた。 「ありがとう。ところであなたの名前は」 「秋葉京介」 「面白《おもしろ》い名前ね」 「面白い」 「時代劇のスターみたいだから」 「成程《なるほど》ね」 「ここにある置時計、奥さんからの贈り物?」 「ああ。そうだ。まだ、婚約中にくれたものさ。そうやって、飾っておかないと、ご機嫌が悪いんでね」 「趣味はカメラ」 「ああ。腕は、わりといいほうだよ」 「それじゃあ、あたしのヌードを撮って貰《もら》おうかしら」 「そいつは有難いね」 「肌はきれいだから、写真うつりはいいって言われるわ」 「その肌を、早く拝見したいね」 「あんまりあわてないで。一週間、あなたと一緒に居させて頂くつもりで来たんだから。ただし、ビジネスはビジネスだから、お金は頂きますけど」 「勿論《もちろん》いいとも。何か飲むかね?」 「あたし、あんまり飲めないのよ。ジンフィーズぐらいなら頂くけど」 「O・K。作って来よう」  秋葉はダイニングルームに入り、ジンフィーズと、水割を作って、応接室に戻った。  中山麻美子は、帽子をとり、豊かな髪を手で撫《な》ぜるようにしながら、ジンフィーズを受け取った。 「『美しき花芯の会』には、君みたいな美人が、沢山《たくさん》いるのかね?」  秋葉は、ウイスキーの水割を口に運びながらきいた。 「ええ。いるわよ」 「そんな会のマスターになってみたいな。君みたいな若い美人に囲まれて、ご機嫌だろう」 「あんたなら、どんな女だって、喜んで、あのドアをノックするわよ。別に、あんな会のマスターなんかにならなくたって」 「嬉《うれ》しいことをいってくれるね」 「このジンフィーズ、おいしい」  と、彼女は、微笑してから、「ねえ」と、急に甘えた声を出した。 「このカメラ、フィルム入ってるんだったら、すぐ、ヌード撮って貰《もら》いたいんだけど」 「そいつは願ったりだが、何故《なぜ》、そんなに急ぐんだ」 「だって、ベッドに入ったあとじゃあ、髪を直したり、お化粧をし直したりしなきゃならないでしょう。だから」 「ふーん」 「あたしってね。一寸《ちよつと》露出狂みたいなところがあるのかな。男の人に、裸の写真を撮って貰うのが好きなの。カメラの向こうで、じっと見られてると思うだけで、昂奮《こうふん》するといったほうがいいのかしら」 「そういう性格は、大いに歓迎だね」 「じゃあ、撮って下さる?」 「勿論《もちろん》」  秋葉は、フラッシュの用意をしながら、渡辺常一郎の時よりも、相手は、スピードを早くしているなと思った。確か、あの男の話では、一週間後に、ヌード写真を撮らせた筈《はず》である。それを、今度は、最初の日に、撮ってくれという。秋葉のいった二億円に釣られて、早く金を手に入れようとしているのか、それとも、前の成功で味をしめて来て、スピードを早めたのか。どちらかわからないが、ここは、相手の誘いにのって、動いてみるべきだろう。  麻美子は、(と、一応は呼ぶべきだろう)一度、浴室に消えたが、バスタオルを身体に巻いただけの姿で戻って来た。 「きれいに撮ってね」  彼女は、カメラの前に立ち、ゆっくりとタオルを下に落とした。きれいな身体がむき出しになった。彼女の顔が、ほんのりと、上気したように赧《あか》らんでいた。 「きれいな身体をしているね」 「どうも、ありがとう」 「どこで、撮ろうか?」 「そうねえ」  と、彼女は、一寸《ちよつと》考えていたが、秋葉の予想した通り、 「この置時計の傍なんかいいんじゃない」  と、いった。  最初は、置時計を片手で抱えるような、平凡なポーズで何枚か撮っていたが、秋葉が、「フィルムはあと一枚」というと、彼女は、今までの大人《おとな》しいポーズから、急に、両足を大きく広げ、上半身をのけぞらせるような、大胆なポーズをとった。 (計画どおりというわけか)  と、秋葉は思いながら、シャッターを押した。そのまま、彼は、カメラをソファに置くと、ポーズを崩した麻美子に近づいて、いきなり抱き寄せた。  二、三十分、裸でポーズをとっていたのに、彼女の肌は、熱く火照《ほて》っていた。唇を合わせると、彼女が眼を閉じて、彼の背中に手を回した。キッスしたまま、秋葉の右手が、乳首に触れると、彼女は、眼を閉じたまま、小さくあえぐ。秋葉が、そのまま指先を下に伸ばしていくと、女の恥部は、もう完全に濡《ぬ》れていた。指先で、軽く愛撫《あいぶ》してやると、女は眉《まゆ》を寄せて、太股《ふともも》の力を抜いていったが、 「ベッドへ連れてって——」  と、ささやいた。      5  麻美子は、感じやすい体質らしく、指での愛撫のあと、頃合《ころあい》を見はからって挿入すると、すぐ、激しくあえぎ始め、やがて、身体全体をけいれんさせ、終わったあとも、そのふるえは、なかなか止まらなかった。その間、裸の秋葉の背中に、じっと爪《つめ》を立てていた。  身体のふるえが止まると、彼女は、急に、はずかしそうに顔をそむけ、バスタオルを裸身に巻いて、浴室に駆け込んで行った。  すぐ、シャワーの音が聞こえた。  かなり長くシャワーを浴びているようだったが、さっぱりした顔で戻って来ると、裸の身体を、ベッドにもぐり込ませ、俯《うつぶ》せになると、煙草をくわえた。 「さっきの写真、すぐ現像して下さらないかしら。どんな風に撮れてるか、興味があるの」 「いいとも。どうせ毎日、ひまを持て余しているんだ。明日、起きたらすぐ、現像してみよう」 「ありがとう」  麻美子は、軽く、唇を重ねてきた。どうやら、予想どおり、事態は進行しているようだ。  翌朝、遅く、秋葉が目覚めると、ダイニングキッチンのほうで、音がしていた。彼が眼をこすりながら、ベッドから起き上がると、彼女が、寝室に顔をのぞかせた。 「朝食の仕度《したく》が出来ましたわ。ご主人さま」  彼女が、おどけていった。  ダイニングテーブルには、きれいな朝食が並んでいる。味も悪くなかった。 「料理の腕も、たいしたものだ」 「それなら、昨夜《ゆうべ》、約束した通り、写真を早く焼きつけて見せて」 「いいとも」  秋葉は、朝食をすませると、すぐ、現像と焼付けの仕事を始めた。彼の仕事|柄《がら》、お手のものである。  焼付けの終わったカラー写真を、麻美子の前に並べて見せると、案《あん》の定《じよう》、一番最後の写真を見て、 「これ、一寸《ちよつと》、はずかしいわ」  と、彼女がいった。 「他の写真は、あなたに差し上げるけど、これだけは、返して下さらない。ネガも。こんなポーズの写真を持っていられると、あなたに、いつも裸を見られているような気がして」 「まあ、いいさ。少しばかり惜しいがね」  秋葉が、ネガごと渡すと、彼女は、それを自分のハンドバッグにしまった。  夕方になると、麻美子は、 「これから、マスターに、お金を渡して来なきゃならないのよ」 「入会金五千円か」 「ええ」 「そのまま、もう来てくれないなんてことはないだろうね。僕は、君が気に入ったんだ」 「勿論《もちろん》、マスターにお金を渡したら、すぐ戻って来ます。それが、ビジネスですもの」  麻美子は、秋葉を安心させるように笑って見せると、五千円を受け取って、部屋を出て行った。  彼女の姿が消えたとたん、秋葉は、行動を開始した。相手が罠にかかったかどうか、調べてみなければならない。      6  秋葉は、カメラと、新しいフィルムを持って、部屋を出ると、エレベーターに飛び乗った。  地下の駐車場におりると、すぐ、車をスタートさせた。  麻美子は、まだ、マンションの前を歩いていた。百メートルほど歩くと、そこにあった公衆電話ボックスに入った。  秋葉は、車を止め、電話をかけている彼女を見張りながら、カメラにフィルムを入れ、望遠レンズにつけかえた。暗くなり始めたので、フィルムは、超高感度の白黒である。  麻美子の電話は、かなり長い。恐らく、会のほうへ、新しい獲物が引っかかったことを、報告しているのだろう。  十分近くたって、彼女は、電話ボックスを出てくると、さらりと、腕時計に眼をやってから、手をあげて、タクシーをとめた。 (いよいよ、尾行の始まりか)  秋葉は、カメラを助手席に放り出して、車をスタートさせた。  彼女の乗ったタクシーは、初台《はつだい》のあたりから甲州《こうしゆう》街道に出て、西に向かった。今、丁度《ちようど》、高速道路の建設中で、道路は混雑している。秋葉には、そのほうがつけやすかった。相手のタクシーが、スピードを出せないからだ。  明大前《めいだいまえ》を過ぎ、烏山《からすやま》の近くで、右に折れた。この辺《あた》りも、住宅やマンションが、続々と建っている。  タクシーは、そのマンションの一つの前で止まった。  五階建の小さなマンションである。  秋葉は、離れた場所で車を止め、タクシーからおりて、そのビルに入って行く麻美子に向かって、望遠レンズつきのカメラを向けて、シャッターを切った。  やがて、五階の角《かど》部屋の明かりがついた。五階建のビルということから考えて、エレベーターはあるまい。とすると、時間からみて、今、明かりのついた角部屋に、麻美子が入った可能性が強い。 (しかし、そうだとすると、今、明かりをつけたということは、どういうことなのか) 『美しき花芯の会』のマスターなり、他の女なりがいれば、当然、部屋の明かりがついていていい時間である。それが、ついていなかったということは、誰もいなかったということになる。  だが、原宿《はらじゆく》で、彼女は電話をかけていた。とすると、マスターは、そのあと、例の写真を焼増しする印画紙でも置いて出かけたのか。  秋葉は、しばらく、車の中で様子をみることにした。『美しき花芯の会』が、このマンションにあることは、はっきりした。彼の勘に間違いがなければ、今、明かりのついた五階の角の部屋だろう。  今、踏み込むことは簡単だ。たとえ、マスターがいたとしても、殴り倒すぐらいの自信はある。ただ問題は、あの部屋に、目的の、渡辺常一郎が撮ったネガがあるかどうかということである。もし、向こうが用心深い人間で、ネガだけは、別の場所にかくしてあることも考えられるし、他の仲間がいないとも限らない。とにかく、慎重を期す必要がある。  五、六分してタクシーが止まり、一人の男がおりた。三十五、六の男である。勿論《もちろん》、『美しき花芯の会』のマスターか、他の部屋の住人かはわからなかったが、秋葉は、その男に向かって、カメラのシャッターを押した。とにかく、マンションに入る人間は、全部、写真に撮るつもりだった。  またしばらくしてタクシーが止まり、今度は、若い女がおりた。それも、カメラに撮った。歩いて、マンションに来た人間もである。  およそ、一時間ほどして、角部屋の明かりが急に消えた。秋葉は緊張する。  やがて、入口の明かりの中に、中山麻美子と男が手を組んで現われた。さっきの三十五、六歳の男だ。ひどく親しげに話している。 (あの男が、マスターなのか)  秋葉は、二人に向かって、何度かシャッターを切った。  二人は、マンションの横にある駐車場に入ると、アイボリー・ホワイトのスポーツ・カーに乗り込んだ。運転するのは、彼女のほうらしい。男は、そんな彼女の肩に手をかけて、楽しそうに笑っている。  スポーツ・カーは、秋葉の車のほうに向かって走って来た。秋葉は、運転席で首をちぢめてやり過ごしたが、車のナンバーだけは、確認した。  明日にでも、陸運局にいる友人に調べて貰《もら》えば、持ち主は、すぐわかるだろう。 (さて、どうするか)  あのスポーツ・カーを追いかけるには、Uターンしなければならないし、すでに、アイボリー・ホワイトの車体は、夜の闇《やみ》の中に消えてしまっていた。  秋葉は、車をおりると、二人の出て来たマンションに入って行った。 『白雲コーポ』というのが、そのマンションの名前だった。  入口のところに、ずらりと郵便受が並んでいるが、『美しき花芯の会』の名前も、『中山麻美子』の名前もなかった。もっぱら、連絡は、電話でやっているらしい。  秋葉は、管理人室のガラス戸をノックした。  顔を出したのは、四十歳ぐらいの太った女である。地味《じみ》、というより、色気《いろけ》の全くない服装から見て、未亡人か何かで、管理人になっているのだろう。  秋葉は、いきなり、その女の手に千円札を握らせた。アメリカ映画なんかでは、私立探偵がドル紙幣を、相手にちらつかせて聞くシーンがあるが、日本では、先につかませてしまったほうが効果がある。日本人というやつは、義理にしばられやすいからである。千円でも義理は義理だ。 「この女の住んでいる部屋を教えてくれないか」  と、秋葉は、麻美子のヌード写真の一枚を相手に見せた。  管理人は、「へえ」と、声に出して、ヌード写真を見ていたが、 「あの人、モデルさんだったんですか?」 「まあね。確か中山という名前の筈《はず》なんだが」 「いやですよ。中山じゃなく、山中さんですよ」 「山中か」  と、秋葉は、苦笑した。ずい分単純な偽名を作ったものである。 「五階ですよ、部屋は」 「五階の角部屋か?」 「ええ。五〇一号室です」 「どうも」  秋葉は、礼をいい、狭い階段を上がって行った。  五〇一号室は、勿論《もちろん》、鍵《かぎ》がかかっていた。ドアには、何の名前も書いてない。秋葉は、それが、セミオートドアなのを確かめてから、ポケットのドライバーを取り出した。こじあけている最中に、相手が帰って来たとしても、警察は呼べない筈《はず》だという安心感があった。  セミオートドアというものは、意外に簡単にこじ開けられるものである。五、六分でドアは開き、秋葉は、部屋の中に身体を滑り込ませた。明かりをつけると、タテに細長い2DKの部屋で、窓側の六畳には、応接三点セットがおいてあるが、中間の四畳半は、押入れを作り直して、暗室になっていた。 (妙だな)  と、思ったのは、スケジュールを書いた黒板や、事務机や、帳簿類が、どこにも見当たらなかったことである。暗室の設備だけは、立派なものだったが。 (とすると、『美しき花芯の会』というのは、最初から恐喝だけを目的とした会のようだな。だから、普通のコール・ガール組織のように、スケジュール表も、事務机も、帳簿もないのだろう。そして、恐喝に使う写真を焼増ししたり、時には現像したりする暗室だけは、金をかけて立派なものを作っているのだろう)  応接室にある電話には、例のナンバーが書いてあった。ここが、『美しき花芯の会』であることは間違いない。  秋葉は、暗室に入ってみた。赤い照明の中に、現像液特有の匂《にお》いが鼻につく。彼は、暗室の中で、渡辺常一郎が撮った例の写真のネガを探した。いろいろなネガがあって、全《すべ》てが、彼女のものだったが、問題のネガだけは見つからなかった。暗室を出て、タンスの引き出しなども調べてみたが、そこにもない。最後に、応接セットのソファの下を調べてみた。背もたれを倒すと、そのままベッドになるやつである。  這《は》いつくばるような姿勢で手を入れると、木箱に触れた。引きずり出して、ふたを取ると封筒がいくつか入っていたが、郵便に使われたものではなく、表紙のところに、男の名前が書いてあるだけである。秋葉は、その中で、『渡辺常一郎の分』と書いてある封筒をあけてみた。  例の写真のネガと、焼増ししたものが三枚入っていた。  思わず、ニヤッとした。一瞬、気を許したのが失敗だった。動物的な勘があると自認している秋葉が、背後に近づいてくる人の気配に気がつかなかった。  何となく、空気の乱れのようなものを感じて、秋葉が、その封筒を内ポケットに入れて立ち上がろうとした時、最初の一撃が、彼の後頭部を襲った。  激痛が彼を襲い、気を失いながらも、秋葉は、眼の隅で、相手の黒っぽいズボンの裾《すそ》を見た。 (男か——)  そう思ったが、次の瞬間、秋葉は、気を失っていた。      7  気がついた時、秋葉は、自分が、さっきと同じところに倒れているのに気がついた。明かりもついたままだ。ズキズキする頭に手をやって、顔をしかめながら、腕時計に眼をやった。  もう深夜に近い。とすると、少なくとも二時間は、気を失っていたことになる。  秋葉は、ソファに手をかけて立ち上がると、内ポケットに手をやった。例の封筒は消え失せていた。封筒の入っていた木箱もである。その上、渡辺常一郎から預かった写真もなくなっていた。  だが、秋葉は別に、動揺の色は見せなかった。二時間も気絶していたら、犯人が、あれを持ち去っていくのは当然のことだからだ。 (問題は、道路に止めてある車のほうだ)  秋葉は、洗面所で、冷たい水で顔を洗ってから、マンションを出た。車は、わざと、離れた位置に止めておいた。相手が、それに気付かなければ、望遠レンズで撮ったフィルムは無事だろう。あれさえ無事なら、『美しき花芯の会』のマスターの顔も、バッチリつかんでいる。そうなれば、あとは、どうにかなるだろう。渡辺常一郎と約束した期日までには、あと丸五日間あるのだ。  百メートルほど離れた場所に止めてあった車に戻ると、助手席のカメラは、そのままになっていた。中のフィルムが抜き去られた様子もない。自然に、秋葉の頬《ほお》がほころんだ。これなら何とかなるだろう。  しかし、原宿《はらじゆく》のマンションに帰り、自分の部屋まで来て、秋葉の顔が険しくなった。ドアの鍵《かぎ》が開いているのだ。先の尖《とが》った鉄棒を無理にドアの隙間《すきま》にこじ入れ、強引に開けたらしく、錠の凸部分がひん曲っている。あまり鮮かなお手並みとはいえないが、誰かが、ドアを開けて中に入ったことだけは確かだった。  ゆっくりと、用心深く中に入って、スイッチを入れたが人の気配はなかった。 (しかし、借りて間もないこの部屋に、犯人は、何のために入ったのだろうか)  洋服ダンスも、一応は置いてあるが、中身は空《から》なのだ。カメラは彼が持って行ってあったし、残る調度品は、大きなものばかりで、盗めるものはない筈《はず》だ。と考えて来て、急に、あれか、と気がついた。  押入れをあけた。案《あん》の定《じよう》、彼女のヌード写真が、一枚残らず失《な》くなっていた。 『美しき花芯の会』というのが、何人で構成されているのかはわからない。だが、あのマンションに、秋葉が忍び込んだのを見て、彼等は、急に警戒を強めたのだろう。或《ある》いは、秋葉を、警察の人間と思ったのかも知れない。それで、あわてて、証拠となる写真を全部回収することにしたのか。  秋葉は、ソファにもたれて、煙草《たばこ》に火をつけた。また、殴られた後頭部が痛み出してきた。どうも、スパナか何かで殴られたらしい。  煙草を一本吸い終わると、秋葉は、冷静な表情になって、カメラからフィルムを巻きとると、現像作業に取りかかった。時間をかけて、慎重に、引き伸ばして焼きつける。やがて、若い男と、彼女の並んだ写真、男だけの写真、それに、スポーツ・カーに乗った二人の写真などが、現像液の中で、浮かび上がってきた。  銀ぶちの眼鏡をかけた若い男の顔が、はっきりとわかる写真になった。若いといっても三十五、六歳だろう。きちんと背広を着ている。白黒フィルムなので、洋服の色はわからないが、彼が見た限りでは、黒っぽい背広だった。とすると、秋葉を殴り倒したのは、やはり、この男なのか。  秋葉は、腕時計を見てから、もう一度、『美しき花芯の会』の電話番号を回してみた。すでに、午前零時をすぎていたが、相手が出る気配はなかった。用心深く、他へ逃げてしまったのか、いても、電話に出ないのかわからないが、秋葉は、受話器を置くと、ベッドに寝転んだ。まだ、あの女の匂《にお》いが残っていたが、秋葉は、眼を閉じ、すぐ、眠りに入った。とにかく、勝負は明日だ。      8  翌日、秋葉は、第一商事に電話し、海洋開発部長の渡辺常一郎を呼び出して貰《もら》った。こちらが、「秋葉です」というと、相手は、びっくりした様子で、 「何故《なぜ》、私の名前がわかりました? 会社の名前も、私の名前もいわなかった筈《はず》ですが」 「いや。あなたが教えてくれたんですよ」 「そんな覚えはないが、まあ、わかってしまったものはいいでしょう。ところで、私のお願いしたことの目算はつきましたか?」 「少しはね。それで、今日、僕の借りたマンションへ来て頂きたい。場所は原宿。名前はニュー原宿コーポの一〇〇三号室です」 「社の仕事が終わったら参りましょう」  と、渡辺は約束した。  夜の七時過ぎになって、渡辺は、気負った顔で、マンションにやって来た。 「私の欲しい例の写真のネガは、どうなりました? 取り戻せそうですか?」  渡辺は、秋葉の顔を見るなり、きいた。 「多分、間もなく取り返せる筈です。ところで『美しき花芯の会』のマスターだと思える男がわかりましたよ」 「本当ですか?」 「ええ。会のある場所もです」 「マスターというのは、どんな男です?」 「名前はわかりませんが、まあ、この写真を見てください」  秋葉は、引きのばした昨夜の写真を渡辺常一郎に見せた。  渡辺は、じっとみていたが、首をかしげて、秋葉を見た。 「一体どこに、マスターがいるんです?」 「そこに写っている男ですよ。例の彼女と一緒に」 「そんな馬鹿な!」 「何がです?」 「だって、ここに写っているのは、うちの社の竹内君だからですよ」 「何ですって!」  秋葉の眼が、キラリと光った。 「それは、間違いありませんね?」 「竹内君は、私の部下ですよ。その顔を見違える筈がないじゃありませんか」 「なかなか面白《おもしろ》い」 「何です?」 「竹内というのは、確か管理課長で、あなたに、例の会を推薦した人物でしたね?」 「そうです。まさか、あなたは、彼が、アルバイトにそんな会をやっていると——?」 「竹内課長は、今日、会社に出勤しましたか?」 「そういえば、彼の姿を、今日は見なかった。しかし、そんなアルバイトをやっていれば、会社を馘《くび》になることぐらいわかっている筈なのだ」 「彼は、まだ独身ですか?」 「ああ。独身の筈だ。私が、見合いをすすめたが、笑って受けつけなかったから、きっと、好きな女がいるんだろうと思っていたんだが」 「それが、この女ですな。恐らく」 「じゃあ、大商社のエリート社員が、コール・ガールの組織のマスターをしていたというんですか?」 「いや。それ以上に悪質です。あの組織は、最初から、恐喝を目的としたものですよ」 「しかし、まさか、竹内君が——」 「正直に申し上げると、僕は、あなたの話を聞いた時から、竹内という課長に注目していたんですよ」 「何故《なぜ》です?」 「あなたは、竹内課長の話にのって、『美しき花芯の会』に電話し、まんまと、罠《わな》にはまった。あなたの話から考えて、非常に計画的だった感じがした。とすると、同じ会で遊んだ竹内課長も、あなたと同じように、恐喝されていなければおかしいことになる。だが、あなたの話からは、そんな点は、窺《うかが》えなかった。竹内課長をあやしいと思うのが当然でしょう」 「しかし——」 「彼は、とかく噂《うわさ》のある男だと、いわれましたね? どんな噂です?」 「彼は、一流大学を出て、頭の切れる部下だった。ただ、一つだけ——」 「一つだけ、何です?」 「競馬が好きなんだ。二年ぐらい前だが、そのために、友人たちから、三十万も借金してしまい、うちの共済組合で借りて、返したことがあるのです。しかし、どうも、私には信じられないんだが——」 「信じられなくても、この写真が、何よりもはっきりと、事実を示していますよ」 「すると、私は、自分の部下に、今まで、金をゆすりとられていたことになるんですか?」 「まあ、そうですね。金を渡すとき、相手の顔を見たわけじゃないでしょう?」 「ああ。そうです。向こうが指定する場所に置いて来ただけです。そうしなければ、例の写真を、家内に送りつけると脅かされていたものですから。しかし、電話の男の声は、竹内君のようじゃなかったが」 「そんなものは、送話口にハンカチを一枚かぶせただけで、わからなく出来るものですよ」 「そんなものですか。しかし、これから、私は、どうしたらいいんですか?」 「何もしなくていいんですよ。もし、明日、竹内課長が出社して来たら、今までどおり、何気なく応対していたらよろしい。その間に、僕が、あなたの希望どおりに処理します。竹内課長の住所はわかりますか?」 「今は、わかりませんよ。何しろ、こんな意外な話を聞くとは思いませんでしたからね。明日、会社へ行って調べて、こちらに電話します」 「それで結構です」  と、秋葉はいい、「わからない、わからない」を呟《つぶや》き続けている渡辺常一郎を部屋から送り出した。      9  その夜、十時頃、ベッドに横になっていた秋葉に、女の声で電話がかかって来た。中山麻美子と名乗っていた、あの女からだった。  危くなったと知って、向こうから動き出して来たのだ。それは、秋葉の待っていたものだった。 「秋葉さんね?」  と、彼女は、硬い声で確かめるようにいった。 「そうだ。今度は、どんなポーズの写真を撮らせてくれるんだね?」 「冗談はやめて。あたし怖《こわ》いの」 「ほう」 「あんたは、警察の人? ね。そうでしょう?」 「少し違うね」 「じゃあ、私立探偵ね。あの人たちに頼まれて、あたしたちを罠《わな》にはめたのね?」 「あの人たちというと?」 「誰かわからないけど、あたしたちが、ゆすっていた人の誰かに頼まれたんでしょう? ね、そうでしょう?」 「まあ、そうだ」 「やっぱりね」 「君たちは、もう逃げられん」 「そんなことより、あたし怖いのよ」 「一体、何が怖いんだ?」 「彼が、あたしを殺すかも知れないの。あたしのせいで、全《すべ》てが、オジャンになったと思ってるのよ」 「彼というのは、第一商事の竹内という課長か?」 「何故《なぜ》、知っているの?」 「モチはモチ屋でね。それで、君は、今、どこにいるんだ?」 「烏山《からすやま》のあたしのマンションよ。ここが、あたしの部屋だもの」 「竹内は、会社を終わると、そこへ行って、『美しき花芯の会』のマスターになりすましていたわけか」 「そうよ」 「彼は、今、そこにはいないんだな?」 「勿論《もちろん》よ。いたら、あんたに電話なんかかけられないわ。とにかく、怖いの。助けて頂戴」 「ネガは、そこにあるのか?」 「あたしたちが、ゆすりに使ったネガね。車のトランクの中に入れてあるわ」 「よし。すぐ行こう」  秋葉は、電話を切ると、上衣《うわぎ》を引っかけて、部屋を飛び出した。  車に乗って、甲州街道を、昨夜のマンションに向かって飛ばした。  約一時間半で、マンションの近くまで到着した。が、そこに、五、六台のパトカーが止まっているのに気がついて、あわてて、ブレーキを踏んだ。  嫌な予感が、彼の胸を走り過ぎた。「怖い」といっていた女の声を思い出した。  秋葉は、車をおりると、ゆっくり、近づいて行った。マンションの前には、人垣が出来、警官が、野次馬《やじうま》が中に入ろうとするのを制している。 「何があったんですか?」  秋葉は、かたわらにいた中年の女にきいてみた。 「何でも、ここの五〇一号室で、若い女が、ピストルで射たれて死んだそうですよ。それに、男のほうも」 「男も?」 「ええ。男のほうは、毒を飲んで死んだらしいんですけどね」 (両方で殺し合ったのか——)  男は、女に対する怒りから、女のほうは恐怖から。  秋葉は、人垣から離れると、マンションの横にある駐車場へ足を運んだ。昨夜見たスポーツ・カーは、そこの端に駐車してあった。警官が、駐車場に注意する様子はない。  秋葉は、用意して来た針金を使って、後部トランクを開けた。彼女が、電話でいった通り、そこには、例の木箱が入っていた。中身もである。  秋葉は、それを抱えて自分の車に戻ると、ゆっくりと車をUターンさせて、今来た道を、引き返した。 (これで、全部すんだのか——)      10  翌朝の新聞には、事件のことが、デカデカと出ていた。  それによると、あのマンションの五〇一号室で、彼女は、射殺されて床に横たわり、第一商事の竹内管理課長は、青酸中毒で死んでいた。傍《そば》にウイスキーのグラスが転がっていて、それから青酸反応が出たという。また、テーブルの上には、一発発射されたピストルが置かれていたが、そのピストルからは、竹内の指紋だけが検出された。床に転がっていたウイスキーグラスから検出された指紋は、女のものと、竹内のものだけである。  警察の見解としては、理由はわからないが、この二人が、お互いを殺そうとし、女は、青酸入りのウイスキーを竹内にすすめた。ところが、男のほうが、先にピストルで、女を射殺し、そのあと、何も知らずにウイスキーを飲んで死亡したのだろうというものであった。  秋葉が、事務所で、複雑な気持ちで、その記事を読み終わった時、電話が鳴った。  渡辺常一郎からだった。 「今、会社からですが、朝刊の記事を読んで、仰天《ぎようてん》してるところなんです。あなたのいわれたとおり、竹内君は、本当に、あんなことに関係したんですな」 「まあ、そうですね」 「ところで、例の写真のネガは、取り返して貰《もら》えましたか?」 「勿論《もちろん》。僕は、約束は守る人間ですよ。ここにあります」 「それは、有難い。昼休みにでも、さっそく取りに伺います」 「いいでしょう。ところで、一つ伺いたいんですが」 「成功報酬なら、ちゃんとお持ちしますよ。確か、五十万円でしたな」 「いや。僕の聞きたいのは、一昨夜、何もあなたの周りで、なかったかということなんですがね?」 「一昨夜? 勿論《もちろん》、何もありませんよ。あなたが何もするなといわれるんで、マンションで、じっとしていましたよ」 「何事も起きなかったんですね?」 「そうです」 「それなら結構。昼休みに取りに来て下さい」  秋葉は、受話器を置くと、しばらく考えてから、他の場所に電話をかけた。  十二時三十分を少し過ぎて、渡辺常一郎は、タクシーで、秋葉の事務所に駈《か》けつけてきた。  ドアを開けて入って来るなり、 「写真のネガは?」  と、きいた。秋葉は、椅子《いす》に腰を下ろし、突っ立っている渡辺を見上げた。 「そのテーブルの上の木箱の中に入っていますよ」 「————」  渡辺は黙って、木箱をあけ、自分の名前の書いてある封筒をつかみあげ、中を見て、満足そうに、ニッコリと笑った。 「確かに、これです。やはり、あなたは、大した男だ。これは、約束の成功報酬です」  渡辺は、内ポケットから、札束の入った封筒を、秋葉の前に置いた。 「お礼の意味もこめて、十万円余計に入っていますよ」 「それは有難い。といいたいところだが、それは受け取れませんね」 「金額が不足だといいたいんですか?」 「いや」 「じゃあ、何故《なぜ》?」  渡辺がきく。秋葉は、冷たい眼で、相手を見た。 「まあ、座って下さい。僕は、最初にあなたに断わった筈《はず》だ。僕という男は、裏切れば、危険な人間に変わるとね」 「私は、別に、何も裏切ったりはしていませんよ」 「果たしてそうかな?」 「一体、何をいってるんです? わけがわからん」 「今度の事件は、最初からおかしかった。まず、あなたが持ち込んだ、ゆすりの話だ。一見、平凡なツツモタセに、大会社の部長が引っかかったように見えた。美人にデレデレしていたら、ヒモがいて、ゆすられた。よくある話だ。だが、よく考えてみると、あんたの話には、妙なところが、いろいろとあった」 「どんな?」 「第一に、あんたは、部下の竹内課長に紹介されて、引っかかったといった。それなら、僕のところに来る前に、まず、竹内課長に文句をいい、どうにかしろというべきだ。だがそうした様子はない。第二に、あんたは、自分の名前と会社名をかくしながら、例のヌード写真のトロフィーには、拡大鏡で見れば、ちゃんと出ていると僕にいった。ひどく矛盾している」 「しかし、それは、ゆすられて、気が転倒していたんですよ。だから変に思われることも」 「第三に、あの女の態度だ。竹内課長と組んで、ゆすりをやっていたとすれば、金のためなら何でもやる女の筈だ。ところが、僕が抱いた時、しばらく身体を硬くしていた。直感的に、こういうことに余りなれていないと思った。ところが、あんたの話では、ひどく積極的だったという。おかしな話だ。第四は、もっとおかしいことがある。あの二人は、僕に、会の場所と正体を見破られた。少なくとも、そう思った筈だ。だからこそ、僕を殴って気絶させたのだ。そうしておいて、僕の借りたマンションにも忍び込み、残りのヌード写真まで、盗み去った。これは当然の行為だ。犯人なら、自分の顔の写っている写真は、取り返したくなる筈だからね。写真がなくなれば、知らぬ存ぜぬで押し通せるからね。ところが、彼女のヌード写真は、あんたのところにもある筈だ。当然、それも、盗み出して燃やしてしまわなければならないのに、あんたは、一昨夜、何事も起きなかったと、僕に答えた。何故《なぜ》、彼等は、あんたの持っている写真は、そのままにしておいたんだろう?」 「それは、その中《うち》に取り戻そうと考えていたんじゃないのかな?」 「いや。違うね。追いつめられた筈の二人が、そんな悠長なことを考える筈がない」 「しかし——」 「第五に、昨夜、あの女は、相棒に殺されそうだと電話してきた。そのくせ、あのマンションにいるという。そして、わざわざ、ネガのありかまで教えてくれた。全く奇妙な話だ。殺されそうなのにあのマンションにいるというのは、まるで、殺されるのを、じっと待っているのと同じだからね。普通なら当然、車で逃げるか、警察に保護を頼む筈だ」 「一体、何をいいたいのかね?」 「実際には、『美しき花芯の会』なんてものは、実在しなかったということだ」 「そんな馬鹿な。事実その木箱の中には、私の他にも、同じような手口でヌード写真を撮り、ゆすられていた人間の名前が書かれた封筒が入っているじゃないか? 調べてみれば、実在の人物だということが、すぐわかる筈だ」 「多分、実在の人物だろうね。電話をかけてきけば、そんなことは知らないと答えるに決まっている。本当に知らないんだが、あんたは、向こうは、自分の恥になるから知らないといっているんだと主張できる。その点、彼女のヌード写真だけで、ゆすれるということを考えたあんたは頭がいい。何とでもいえるからね。ところで、僕は、あんたのことを少し調べさせて貰《もら》った。紳士録によると、あんたに妻君はいるが、子供はいない。第一商事の人事部に問い合わせたところ、その奥さんは、胸をやられて、一年間、高原の療養所で療養していたが、全快して、一週間後に退院してくるという話だった」 「それは——」 「ところで、竹内課長が、競馬好きで、共済組合で三十万円借りたことも事実とわかった。そこで、僕は、次のように、推理を組み立てた。あんたがゆすられていたのは事実だ。その相手は、竹内課長だ。だが、『美しき花芯の会』などは、全くのでたらめだ。あんたは、妻君の療養中、若い女と出来た。それが、あの女だ。一年間、あんたはいい思いをした。が、妻君が治って帰ってくる時になって、困ったことが起きた。それは、その若い女が、本気で、あんたを好きになってしまったことだ。その上、部下の竹内課長が、あんたのかくれた情事をかぎつけて、借金の穴埋めのために、ゆすり始めた。二つの困難にぶつかったあんたは、その二つを一挙に解決する方法を考えた」 「馬鹿げている——」 「それが、例の面白《おもしろ》い話だ。彼女は、可哀《かわい》そうに、君に命じられたままに芝居をした。恐らく、そうしてくれれば、結婚するとでも約束したんだろう。だから、竹内をも誘惑して、あのマンションに連れ込み、それを、わざと、僕に見させた。僕が尾行することは、あんたがよくわかっていた筈《はず》だし、あんたが、彼女に知らせていた筈だからね。あんたは、僕を、自分の無罪を証明するための証言者に仕立てあげたんだ。勿論《もちろん》、彼女を射殺したのはあんただ。手袋をはめたピストルで射ち、先に毒殺した竹内課長の手に押しつければ、彼の指紋がつくからね」 「嘘《うそ》だ!」 「大声を出しても、真実はかくせないね。あんたと彼女の関係は、警察が調べていけば、当然、浮かんでくる。僕が、今いったような疑問を話せば、警察は、あんたを調べる筈《はず》だからね」 「警察に話すのかね」 「僕は、裏切れば危険な男になると、断わっておいた筈だよ。警察は好きじゃないが、あんたを、あれほど愛していた若い女を、殺したのは許されない。それも、相手の愛情を利用して、罠《わな》にはめたことがだ。だから、警察に全部、話すつもりだ。今、あんたに話したことをね」 「話させん。警察は、あの二人が、殺し合ったと見ているんだ」 「それは無理だな」  秋葉は、電話に手を伸ばした。とたんに、渡辺は、ポケットからピストルを取り出した。 「受話器を置くんだ!」 「おや、おや。まだ、ピストルを持っていたのか」 「東南アジアに旅行したとき、買って、持ち込んだんだ。あんたを喋《しやべ》らせるわけにはいかん。ここであんたを殺したところで、あんたは仕事上、敵が多い筈だから、私を疑う者はいない筈だ」 「無理はやめるんだな。あんたは、もう終わりだ」 「私が、射てないとでも思っているのか?」 「いや。あんたは、自分を愛していた女でも、平気で殺せる男だ。僕なんか平気で殺すだろう。だが、あんたは、僕が、プロだというのを忘れている。何の用意もなく、あんたに話したと思うのかね? この事務所には、テープレコーダーがあって、二人の会話は、全部、録音しているんだ」 「そんなものは、あんたを殺してから、探すさ。見つからなければ、火をつけて、この事務所ごと燃やしてやる」 「それにもう一つ。あまり気が進まなかったが、警察にも電話しておいた」  秋葉は、相手の銃口を無視して、腕時計に眼をやった。  廊下に足音がし、ドアが開いた。二人の刑事が入って来た。  渡辺は、ピストルを持ったまま、呆然《ぼうぜん》と突っ立っている。刑事の片方が、ピストルを取り上げてから、 「この男が犯人だというのは、本当かね?」  と、秋葉にきいた。  秋葉は、机の引出しからテープレコーダーを取り出し、カセットを、その刑事に渡した。 「それを聞けば、すぐわかるよ。ただ、十五分で来るといったら、十五分で来て欲しいね。十五分三十秒かかっている。あと三十秒おそかったら、あんた方は、僕の死体を運ばなきゃならなかったんだからね」 [#改ページ]  死への招待状      1  電話が鳴ったので、松尾《まつお》は、食べかけのラーメンをわきにどけ、あわてて、受話器を取った。 「こちら、松尾探偵事務所ですが」 「電話で調査を依頼できますか?」  と、男の声がいった。 「もちろん、結構ですよ。調査費さえ払って頂ければですが」 「それは、すぐお送りします」 「で、どんな調査ですか?」 「ある男の身上調査です。特に、その男の将来性を調べて貰《もら》いたいのです」 「なるほど」  松尾は、受話器を耳に当てたまま、長い両脚を机の上に投げ出した。ありふれた身上調査では、そう高い調査料もふっかけられない。つまり、あまり上等の客とはいえないわけだ。 「とにかく、相手の名前を教えてくれませんか」  松尾は、煙草《たばこ》をくわえ、安物《やすもの》のライターで火をつけた。月末までに、少なくとも十万くらいの金が欲しいのだが、身上調査では、せいぜい一万くらいの調査費しか取れない。 「早川昭一郎《はやかわしよういちろう》という三十歳の男で、M物産で、第三営業係長をやっています。T大の経済を出ている男です」 「たいした男性ですね。T大出ならエリートだし、M物産なら大会社だ」  松尾の心を、ちらりと痛みが走った。彼は、二流の大学出で、それも、中退。大会社に入れる筈《はず》もなく、すぐ倒産するような小さな会社を転々としたあげく、探偵事務所の看板を出した。別に、探偵に向いていると思ったからではない。二年間、業界紙の記者をやって、調査の方法もわかったし、日本では、探偵事務所を開くのに、何の免許も要らなかったからである。 「この男の将来性を調べればいいわけですね?」 「そうです。実は、私の娘と、早川昭一郎との間に結婚話が持ちあがっていまして、それで、相手の将来性を調べて頂きたいのです」 「結婚調査ですか。そうだと、単なる身上調査よりお高くなりますが、構いませんか?」 「え?」 「結婚調査だと、会社での将来性だけでなく、人柄《ひとがら》とか、健康状態なども調べる必要がありますからね。仕事はバリバリ出来ても、性格が悪ければ、お嬢さんが泣くことになりますからね」  単なる身上調査なら、せいぜい一万円だが、結婚調査なら、最低、四、五万の調査費がとれるから、松尾は、一生懸命に、そちらへ持って行こうとした。  電話の男は、明らかに、迷っているようだった。 「私は、早川昭一郎の会社での将来性だけを調べて貰えればいいんですが——」 「しかし、よく考えてみて下さい。結婚問題では、人柄も重大ですよ。まあ、今の世の中は、地位や財産オンリーかも知れませんが、エリートコースの人間が、つまらない窃盗《せつとう》事件なんかで、何もかも棒にふってしまうこともありますからねえ。ぜひ、人柄の方も調査しておくことをおすすめしますよ。結婚調査で、万全を期すべきです」 「そんなにいわれるのなら、その調査で結構です。調査費は、いくらお払いすればよろしいんですか?」 「結婚調査ですから五万円。それに、一日につき八千円の実費を頂きます。三日もあれば調査は終ると思いますので、合計、七万四千円を現金書留で送って下さい。着き次第、調査を開始しますよ」 「わかりました」 「ところで、出来あがった報告書は、どこへお送りすればいいんですか?」 「中央郵便局の私書箱十四号に送って下さい。実は、私が相手のことを調査したのを知ったら、娘が怒るに決っているので、名前も住所も、申し上げるわけにはいかないのです」 「構いませんとも。そういう方は、いくらでもいらっしゃいますよ」  松尾は、如才《じよさい》なくいって、電話を切った。彼の方は、相手がどこの誰でも、金になりさえすればよかったのだ。      2  一日おいて、七万四千円の金が、現金書留で送られて来た。  差出人の名前も書いてあったが、調査依頼の電話から考えて、多分、偽名に違いない。  松尾は、七万四千円を財布《さいふ》に入れてから、調査にかかった。  折からの不況風で、大企業でも、賃金カットや、人員整理の暗い話題がささやかれていた。今度の依頼主が、娘の結婚相手について、会社での将来性をやたらに重視していた理由もわからなくはない。  まず、M物産の社員がよく行く新宿のバーで、同じ営業の人間から、それとなく早川昭一郎の噂《うわさ》を聞いた。どんなに口の堅い人間でも、アルコールが入ると、饒舌《じようぜつ》になるものである。それに、同僚の悪口というものは、話したくなるものなのだ。 「彼は、仕事はまあ、よくやりますよ」  と、早川と同期で入社したという青年は、口元を、ちょっと歪《ゆが》めて見せた。 「だが、少し神経質すぎるんだなあ。営業畑の人間なんだから、もう少し太っ腹なところがないと、上手《うま》くないような気がするんですがねえ」 「つまり、気が小さいということ?」 「そんな風にいっちゃあ、彼に可哀《かわい》そうだ」  口では、そういっても、顔は笑っていた。 「だが、気が小さいことは、事実なんだろう?」  松尾は、相手に酒をすすめながら、きいた。 「まあね、気が大きくはないね、それに、他人の評判ばかり気にしているところがあるね」 「上役の受けはどうかね?」 「いい方だと思うよ。とにかく、会社の方針には忠実だし、上役に口答えしたことがないからね。それだけ、同僚や部下の受けは良くないみたいだけどね」 「付き合いが悪いということかい?」 「まあね。一緒に飲む約束をしていても、上役に付き合えといわれれば、平気でそっちへ行っちまうってとこがあるのさ。そんな奴が多いのも事実だがね。おれは、あんまり好きになれないな」  と、いってから、その男は、急に声をひそめて、 「噂をすれば何とやらだ」  と、松尾にささやいた。  三十歳ぐらいの、どちらかといえば小柄《こがら》な男が、上役らしい五十歳ぐらいの痩《や》せた男と入って来るのが、松尾の眼に入った。  二人は、奥のテーブルに腰を下した。松尾は、煙草《たばこ》をくわえたまま、早川の様子を眺めた。  整った顔立ちだが、確かに、どこか気弱そうな眼をしている。上役が煙草をくわえると、素早くライターの火を差し出す。その手つきが、いかにも物なれて見えるのが、かえって、保身に汲《きゆう》 々《きゆう》としているサラリーマンの悲哀を見せているように、松尾には見えた。 「彼は、女にもてる方かね?」  松尾は、小声で、隣りの男にきいた。 「さあ、どうかな。三十歳で独身。それに、M物産第三営業係長の肩書きがあるんだから、結婚したいという女は、沢山《たくさん》いるでしょうね。だけど、浮いた話は、あまり聞いたことがないなあ。おれたちと一緒に、ソープランドへ行くってこともないしね」 「じゃあ、堅物《かたぶつ》ということかい?」 「まあ、堅物で通ってるけど、この道ばかりは、わからないからね。それに、三十歳にもなって、女が一人もいないというのも変だしね」 「あそこで、彼と話をしているのは、会社の上役らしいけど?」 「ああ。営業部長の加納《かのう》さんだ」 「しかし、直接の上司は、課長さんじゃないの?」 「まあね。だが、課長は定年間近だし、会社内の受けも悪いのさ。だから、彼は、部長に取り入っているんだと思うね。もっとも、部長のご機嫌をうかがってるのは、早川だけじゃない。おれだって、わが身が大事だから、課長より、部長のご機嫌をとっているよ」  男は、ふふふふと、小さく笑った。自嘲《じちよう》に聞こえる笑い方だった。 (すまじきものは宮仕えか)  と、松尾は、口の中で呟《つぶや》いたが、別に、早川昭一郎や、隣りの男に同情したわけではなかった。ただ、そんなものかと思っただけのことである。他人に対する同情は、職を転々としている間に、松尾の心から消えてしまっていた。      3  松尾は、事務所に戻ると、M物産に電話をかけた。電話口に出た交換手に、 「営業部長の加納さんを呼んでくれないか」 「どちらさまですか?」 「田代《たしろ》機械の松尾だといってくれればいい」  と、松尾はいった。田代機械というベアリングの中堅会社が、M物産と取引きがあることは、調べてある。 「加納ですが——」  という、やや甲高《かんだか》い男の声が、電話口に聞こえた。 「田代機械さんの松尾さんというのは、寡聞《かぶん》にして聞いておりませんが?」 「今度、大阪支社から廻された者です。その中《うち》に、ご挨拶《あいさつ》に参るつもりでおります」 「なるほど。それで、どんなご用件ですか?」 「おかげさまで、わが田代機械は、この不況下にも拘《かかわ》らず業績を伸ばしております。こんな時にこそ、優秀な人材を集めて、将来に備えたいと思うのです。そこで、これから先は、内密にして頂きたいのですが、おたくに、早川昭一郎という方がいますな?」 「ええ。早川なら、私の部下ですが、彼が何か?」 「なかなかいい青年ですね。それに、T大出と毛並みもいい。出来たら、うちに引き抜きたいと思っているのですが、譲って頂くわけにはいきませんか?」 「早川が、そちらへ行きたいと申してるのですか?」 「いや。彼は何も知りません。私が、勝手に眼をつけただけです。失礼ですが、M物産のように、大きな会社では、早川君のような優秀な人物もかえって腕の揮《ふる》いどころがないんじゃないかとも思いましてね」 「いや。そんなことはありません。わが社では、若い社員が、十分に腕を揮える環境を作っているつもりです。それに、早川君は、わが社にとっても必要な人材です」 「すると、彼は、M物産でも、将来を嘱望されているというわけですな?」 「その通りです。今は係長ですが、二、三年の中《うち》に、間違いなく課長になると、私は確信しております。とにかく、真面目《まじめ》で、仕事熱心な男ですから、ずっと、うちで働いて貰《もら》いたいと思っていますよ」 「少し神経質で、気が小さい性格のようにも見うけましたが?」 「現在のような低成長時代には、妙に冒険心のある社員は、かえって不向きです。早川君のように、慎重な社員の方が、会社にとって必要です」 「なるほど、よくわかりました。私どもで欲しい人材は、どこでも必要というわけですね。いさぎよく諦《あきら》めることにしましょう。このことは、早川君には内密にお願いします。彼は全然、知らんことですから」 「わかりました」 「では失礼します」  松尾は、受話器を置くと、ふうっと、大きく息を吐き、煙草をくわえた。これで、一仕事すんだ。あとは、早川昭一郎の私的な面を調査すれば、終りである。  翌日、松尾は、早川の住んでいる杉並《すぎなみ》区|高井戸《たかいど》に出かけた。  早川は、2LDKのマンションに、母親と二人だけで住んでいた。松尾が調べたところによると、彼の母親は、早川が高校二年の時に夫を失い、以後、女手《おんなで》一つで、彼を大学まであげ、現在も、保険の外交をして働いているらしい。  松尾は、まずマンションの近くにある日本そば屋に入り、そこの主人に、早川のことを聞いてみた。 「日曜日なんかには、そばの注文を頂きますが、静かないい人ですよ。なんでもT大出で、M物産に勤めているエリートだそうだけど、そんな偉ぶったところは見えませんからね。ただ、おふくろさんは、気が強いけどね」  そば屋の主人は、そういって、ニヤッと笑って見せた。  早川の住んでいるマンションの管理人にも、聞いてみた。  管理人は、小肥《こぶと》りの中年男だったが、不精《ぶしよう》ひげをなぜるようにしながら、 「息子《むすこ》さんは、いい人でね。物静かで、腰が低くてね。ちょっと、気が弱そうなところもあるけど、まあ、あのくらいがいいんじゃないかね」 「おふくろさんは、逆に、気が強いようだね?」 「女手一つで、息子さんをT大へやったんだから、どうしたって、気が強くなると思うね。だが、よく気がつく人でね。管理人のわたしにも、盆暮には、ちゃんと贈物を下さるんだから」 「息子さんの女性関係については、何か聞いてないかな?」 「そうだねえ。あの年だから、ない筈《はず》はないと思うんだが、何しろ、おふくろさんが眼を光らせているからね。ここへ、娘さんを連れて来たのを見たことはないね」 「母親が、息子を手放したくないんで、結婚に反対しているということかな?」 「そんなこともあるかも知れないね。しっかり者のおふくろさんだから、よほど、いいところの娘さんじゃなけりゃあ、気に入らないんじゃないかな。いつだったか、うちの息子には、絶対に、資産家で、名門の娘さんを貰《もら》うんだといってたからね」  管理人は微笑した。  よくある話だと、松尾は、思った。しっかり者の母親によくあるタイプだ。息子の早川昭一郎は、いくらか神経質だが、まあ、大人《おとな》しい、普通の青年らしいが、そういう母親がついていては、嫁に来た娘はさぞ苦労するだろう。  松尾は、事務所に戻ると、調査報告書の作成に取りかかった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈将来性について——現在、早川昭一郎は、M物産第三営業係長として、順調にエリートコースを歩んでおり、上司である加納営業部長も、早川に期待していて、二、三年以内に、課長に昇進することは間違いないと保証している。従って、M物産での彼の将来は、バラ色ということが出来る——〉 [#ここで字下げ終わり]  松尾が、そこまで書いた時、ドアをノックする音がした。  松尾は、椅子《いす》から立ち上がると、煙草をくわえたまま、ドアを開けた。  五十二、三歳の和服姿の女が立っていた。色白《いろじろ》だが、きつい眼をしている。 「所長さんにお会いしたいのですけれど?」  その女は、まっすぐに松尾を見た。 「私が、所長の松尾ですが」 「そうでしたの。わたくしは、早川ちかと申します。早川昭一郎の母でございます」 「なるほど」  と、松尾は、肯《うなず》いてから、彼女に椅子をすすめた。そういわれてみると、鼻筋のあたりが、早川昭一郎に似ている。 「あなたは、息子の結婚調査をなさいましたわね?」  早川ちかは、相変らず、松尾の顔をまっすぐに見つめてきいた。この女は、いつも、こんな話し方をするのだろうか。  松尾が黙っていると、早川ちかは、言葉を続けて、 「マンションの管理人さんが、教えて下さいましたのよ。おたくの息子さんのことを、いろいろと聞いていった人がいるが、あれは、きっと、結婚調査だろうって。それに、あなたが乗って来た車のナンバーも、管理人さんは、メモしてくれていましてね。わたくしには、東京陸運局に知り合いの方がいるんで、車の持ち主の名前を、調べて頂きました」  どうだ、というように、早川ちかは、ニッコリ笑った。  松尾は、苦笑した。この早川ちかが、女探偵にでもなったら、きっと繁盛するだろうと思いながら、 「それで、ご用件は、何ですか?」 「あなたに、息子のことを調べさせたのは誰か、それを教えて頂きたいんです」 「それは出来ませんね。ご覧の通りの小さな探偵事務所ですが、この商売には、この商売の掟《おきて》がありましてね。依頼人の名前は、いえないことになっているのですよ」  と、松尾は、いってから、ニヤッと笑って、 「正直にいうと、私も、依頼人の名前を知らないのですよ。電話依頼でしてね。とにかく、娘の結婚相手のことを調べてくれと、料金を送って来たのです。とくに、あなたの息子さんの将来性について、くわしく調べて欲しいといってですよ」 「きっと、あの娘の父親ですわ」 「ほう。心当りが、おありなんですか?」 「息子がよく行く喫茶店のウエイトレスです。うちの子が、M物産のエリート社員だと知って、急に、色目《いろめ》を使い始めたんですよ。うちの子は、年の割りには、女性経験がないので、ああいう、したたかな女に、弱いんです。あの女は、純情そうな顔をしてますけど、男関係が、一杯あるんです。それに、パチンコ屋をやっている父親がいるんですけど、これが、なかなか一筋縄じゃいかない男でしてねえ」 「どうやら、その娘を、誰かに調べさせたようですね?」 「ええ、興信所で頼んで、調べて貰《もら》いました。当然でしょう。大事な息子のことなんですから」 「そして、今度は、相手の父親が、あなたの息子さんを調査したというわけですか——」 「他に考えられませんわ。あの娘は、遠藤涼子《えんどうりようこ》というんですけど、一度結婚して、たった一年で別れているんです。きっと、尻《しり》が軽いんでしょうねえ。父親も母親も、そんな傷ものの娘を、早く片付けたいと思っているんですよ。うちの息子のように、T大を出ていて、M物産の社員、それに初婚となれば、これ以上の相手はいませんもの。M物産で、出世の見込みがあるとなったら、きっと、どんなことをしてでも、娘を押しつける気でいるんですわ。あの娘の両親は」 「あなたは、その遠藤涼子という娘さんと、息子さんが一緒になるのに反対なんですね?」 「当然じゃありませんか」  早川ちかは、眉《まゆ》を寄せ、怒った声でいった。 「うちの息子は、どんな立派な家柄のところからだって、嫁を貰えるんですよ。T大を五番以内で卒業して、天下のM物産で、係長の椅子《いす》についているんですものね。それを、あんな出戻り娘なんかと結婚させてたまるもんですか」 「息子さんは、どうなんですか?」 「あの子は、わたくしのいうことを聞いてくれます」 「それならいいじゃありませんか」 「でも、うちの息子は、人がよくて、気が弱いところがありますからねえ。あの娘に強引に迫られて、もし、変な関係にでもなってしまったら、取り返しがつきませんわ」  早川ちかは、本気で、そんな心配をしているようだった。松尾が返事に困って黙っていると、彼女は、ちらりと机の上の書きかけの調査報告書に視線を走らせて、 「それで、息子の調査報告書は、お書きになるんでしょうね?」 「ええ。今日中に書いて、明日、相手に送ろうと思っていますよ。あなたの息子さんは、人柄もいいし、会社でも将来を嘱望されている。そういう内容の報告書です。立派な息子さんですな」 「わたくしの一人息子ですもの当然ですよ。でも、そんな報告書を見たら、あの娘は、きっと、うちの息子を手に入れようとして、どんな卑劣な手でも使いかねません」 「しかし、そういうことは、私とは関係がないことだから」  と、松尾が苦笑すると、早川ちかは、きッとばかりに、彼を睨《にら》んだ。 「あなたは、うちの息子が、あんな性悪女《しようわるおんな》のために、一生を台無しにされても構わないとおっしゃるんですの?」 「それは、少し大げさじゃありませんか?」 「あなたは、あの女をよく知らないから、そんな呑気《のんき》なことをおっしゃるんです。あんな女と一緒になったら、息子は駄目になってしまうに決まっています。母親として、わたくしは、絶対にそうさせたくないんです」  凄《すさ》まじい母親のエゴに辟易《へきえき》して、松尾は、 「しかし、私には、どうしようもありませんな」  と、逃げると、早川ちかは、「いいえ」と強くかぶりを振った。 「あなたには、わたくしの息子を守ることが出来るんです」 「守るって、どうしろというんです?」 「報告書に、嘘《うそ》を書いて頂きたいんです」      4  早川ちかは、膝《ひざ》の上に置いたハンドバッグの中から、部厚い封筒を取り出して、松尾の前に置いた。 「この中に、二十万円入っています。これは、あなたへの謝礼です」 「これで、でたらめの報告書を書けとおっしゃるんですか」  松尾は、封筒を手に取り、その部厚い感触を楽しんだ。今、二十万の金が手に入るのは有難い。それに、もともと、松尾は、仕事上の良心など持ち合わせてはいなかった。私立探偵という仕事は、ヤクザな仕事だと考えてもいる。 「しかし、どんな報告書を書いたらいいのかな?」 「早川昭一郎は、能力に乏しく、M物産では出世の見込みがない。上司が、そう証言していると書いて下さい。うちの息子に将来性がないことを強調して下さればいいんですよ」 「それで、相手の娘や両親が諦《あきら》めると思うんですね?」 「ええ。向うさんが眼をつけたのは、うちの息子がエリート社員で、出世するに違いないと思ったからなんですよ。それが、出世の見込みがないとなれば、きっと、手を引くに決まっています。現金な人たちですからね。それで、うちの息子は、家柄のいいお嬢さんを貰えるし、あの娘だって、きっと、どこかの金持を見つけるでしょうよ。だから、嘘《うそ》の報告書を書いたって、誰も傷つきゃしないんですよ」  勝手な考え方だと思ったが、結婚調査は、そんなものかも知れないとも、松尾は思った。報告書のせいで、一つの結婚話がこわれても、必ずしも、その男女が不幸になるとは限らないのだ。もっといい相手を見つけることだって、大いにあり得る。 「わかりました。やってみましょう」  松尾は、二十万円を内ポケットにしまってから、机に向って、新しい調査報告書を書いた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈将来性について——現在、早川昭一郎は、M物産第三営業係長の地位にあるが、仕事に対して消極的なため、会社側から低い評価しか与えられていない。上司である加納営業部長も、早川に点が辛く、当分、課長に昇進する見込みはないと断言している。また、同僚間での評判も芳《かんば》しくなく、彼の小心さや、付き合いの悪さを批判する言葉を、何人もが口にした。従って、M物産での早川昭一郎の将来性は、灰色と考えるのが無難である——〉 [#ここで字下げ終わり]      5  調査報告書を、指定された中央郵便局の私書箱宛に送りつけたあと、松尾は、ふところが温かくなったので、久しぶりに、伊豆《いず》の温泉に出かけた。  温泉につかり、酒を飲み、気に入った芸者と遊んでいると、早川昭一郎についての調査報告書のことは、すっかり忘れてしまった。  五日間、のんびりと遊んでから、松尾は、東京に帰った。  渋谷《しぶや》区|宇田川《うだがわ》町にある事務所に戻ると、鍵《かぎ》をかけておいた筈《はず》のドアが開いていて、松尾がいつも腰を下ろす回転|椅子《いす》に、中年の男が腰を下ろして煙草《たばこ》を吸っていた。 「誰だ? 君は」  と、松尾が咎《とが》めると、相手は、眼鏡の奥から、細い眼で、じろりと彼を見上げ、黙って、警察手帳を出して見せた。  別に後ろ暗いところはないと思っても、何となく、どきっとして、 「警察が私に何の用ですか?」  と、突っ立ったままきいた。 「これは、君が作ったものだね?」  刑事は、二つに折った薄っぺらな書類を、机の上に投げ出した。  松尾の書いた、早川昭一郎の調査報告書だった。  松尾の顔が青くなった。嘘《うそ》を書いたのがバレたのか。 「君は、それに嘘を書いているね。否定しても駄目だ。こちらは、調べたんだからな」 「しかし、それは——」  事情があって、止むを得ずに、と、松尾が弁明しようとするのへ、刑事は、押しかぶせるように、 「君が、でたらめの報告書を作ったために、人が死んだんだ」 「死んだ? じゃあ、喫茶店のウエイトレスで、遠藤涼子とかいう娘が死んだんですか?」 「何をいっているんだね。死んだのは、早川昭一郎だ。昨日、M物産の海の家のある葉山《はやま》の海岸で死体で発見されたのだ。睡眠薬による自殺で、上着のポケットに、その報告書が入っていたんだよ」 「しかし、これを送ったのは、中央郵便局の私書箱十四号で名前は確か鈴木一郎でしたよ。鈴木一郎というのは偽名だと思いましたが——」 「そうさ。その私書箱の主は、早川昭一郎だったんだよ」 「ちょっと待って下さいよ。あなたの話だと、早川昭一郎は、自分の調査を私に頼んだというんですか?」 「その通りだよ」 「しかし、なぜ、そんな馬鹿げたことを?」 「今は不況で、大企業でも人減らしや、昇給ストップが行なわれている。M物産も例外じゃなかった。終身雇傭の再検討が行なわれ、ぜい肉落しが叫ばれていた。つまり、不必要な人間は馘《くび》にしようということだ。どちらかといえば、気が小さくて神経質だった早川昭一郎は、一応、自分がエリートコースにのっていると思いながら、不安になったんだ。果して会社が、本当に自分を必要としているかどうかを知りたくなったんだな。だから、君に、自分自身の調査を依頼したんだ。結婚調査にしたのは、カモフラージュだろう。君が、正直に、将来性ありという報告書を書いていれば、彼は死ななかった筈《はず》だ。ところが、君は、会社が、彼を必要としていないという嘘の報告書を書いた。小心な早川昭一郎は、ショックを受けて自殺してしまったんだ。大学からM物産へと、エリートコースだけを歩いて来ただけに、ショックも激しかったんだろう」  刑事は、言葉を切ってから、ゆっくりと立ち上った。 「君には、一緒に来て貰《もら》わなきゃならん。早川昭一郎の死は自殺だが、自殺への引き金を引いたのは、明らかに君だからな」 [#改ページ]  血の挑戦      1  戸があいて、その男が入ってきた時、私は写真の多い週刊誌を読んでいた。いわゆる真面目《まじめ》な週刊誌ではない。カラー・ヌードが、わんさと詰めこんである雑誌だ。こんな雑誌なら、頭を使わなくてもすむ。  男が軽くせき払いした。  私は、顔を上げて、男を見た。男は、タイミングよく、にやっと笑った。いやに、世間ずれしている男だ。若い女なら、こんな男を見ると、ころりと参っちまうんだろうが、あいにくなことに、私は、男だ。それに、神経が、あまりセンサイにも出来ていない。残念でした。  背の高い男だ。日本人には珍しく足が長い。それを殊更、強調するように、細いズボンをはいている。趣味は、いいらしい。らしいというのは、私が、服装に関しては、ぜんぜんセンスらしいものを持ち合わせていないからだ。だが、とにかく、色男だとはいえる。  年齢は三十歳くらい。私より、二、三歳は若いだろう。だが、私より世間を知っていそうだ。そんな感じの男だった。  男は、気取った手つきで、名刺を取り出すと、私の前に置いた。 〈三菱《みつびし》興業社長 山中正樹《やまなかまさき》〉  と、読めた。 「成程《なるほど》」  と、私はいった。 「社長さんですか」  別に、相手の肩書きに、驚いたわけではない。外交辞令というやつだ。相手も、感心させたくて、肩書きつきの名刺を作ったのだろうから、感心してやらなければ、悪いというものだ。いわせて頂ければ、私だって、「吉沢《よしざわ》探偵社」の社長である。もっとも、社員は私一人だが。 「おかげさまで、小さな会社を、やらせて貰《もら》っております」  と、山中正樹は(本名ならばだが)微笑して見せた。低いが、感じのいい声だった。  私は、椅子《いす》をすすめた。 「ご用件を、うかがいましょうか?」 「実は、探偵社というものに来たのは、生まれて初めてなのです」 「成程。探偵という人種に会ったのも、私が生まれて初めてというわけですね」 「まあ、そんなところです。ところが、アメリカ映画なんかで、探偵さんが、大活躍するのを見ますが、日本の場合も、同じように、たのもしい存在なんでしょうな?」 「とんでもない」  と、私は、苦笑した。 「我々は、アメリカみたいに、ピストルを持つことは許されていません。刑事事件にも介入できません。勇ましいところは、少しもありませんよ」 「すると、どんな仕事を、なさるわけですか?」  山中は、一寸《ちよつと》ばかり、軽蔑《けいべつ》したような口調になった。  私は、にやっと笑って見せた。 「子供だましみたいなことばかりでしてね。身上調査、結婚調査、素行調査——」 「行方《ゆくえ》不明の人間を探して頂くというようなことは?」 「勿論《もちろん》、引きうけますよ」 「それで助かりました」  と、山中は、いった。 「実は、人間を一人、探し出して貰いたいのです」 「ほう」 「二十三歳の娘です」  山中は、ポケットから、名刺を取り出した時と同じ優雅さで、一枚の写真を取り出して、机の上に置いた。  若い女が、水着姿で笑っている写真だった。花模様の水着だった。 「美人ですな」  と、私は、いった。これは、外交辞令ではなかった。写真の女は、確かに、美人だった。顔もだが身体も悪くない。 「去年の夏、葉山《はやま》で写したものです」  と、山中は、説明した。 「名前は、安藤冴子《あんどうさえこ》。私の妹です」 「妹?」 「似ていませんか?」 「正直にいえば、似ていませんな。それに、名前も、違うようですが」 「義理の妹です」  と、山中は、いった。私は、うなずいて見せた。が、別に、信用したわけではない。逃げだした妻君かも知れない。だが、そんなセンサクをしても始まらないだろう。要は、金になればいいのだ。 「いなくなったのは?」  私は、写真から眼を上げて、きいた。 「二か月ばかり前です」 「二か月というと、二月ですね」 「ええ。二月の十四日です。夕方、家を出て、そのまま姿を消してしまったのです」 「行く先をいわずにですか?」 「ええ」 「警察には?」 「届けませんでした」 「何故《なぜ》です? 警察に頼んだ方が、私なんかに頼むより、ずっと効果があると思いますが」 「それが——」  と、山中は、頭に手をやった。 「いろいろと事情がありまして、自分たちだけで、探していたのです。私は、社長としての仕事があります。それで、ここへ、お願いにあがったわけです」 「わかりました」 「引きうけて頂けますか?」 「勿論《もちろん》、仕事ですから。費用として一日一万円。それに交通費は、成功するしないにかかわらず頂戴します。そして、探し出せた場合には、成功報酬として、五十万円頂きます。よろしいですか?」  五十万は、少し高すぎたかなと思ったが、山中は、あっさり、承知した。さすがに、社長ともなれば、おおようなものだ。 「一応、一か月間だけ、探し歩いてみましょう」  と、私は、いった。      2 「二か月間、ご自分で探されたそうですが、手がかりは全然、なかったのですか?」  私がきくと、山中は、「一つだけありました」といった。 「およそ一か月ばかり前に、妹らしい娘が、新宿《しんじゆく》の喫茶店で働いているという噂《うわさ》を、きいて、行ってみました」 「それで?」 「一足《ひとあし》遅かったのです。妹は、もうやめていました」 「それが、妹さんだったのは、確かなんですか?」 「確かです。写真を見たウエイトレスが、間違いないと、いってましたから。もっとも名前を変えていましたが」  私は、その店の名前と、変名をきいて、手帳に書き止めた。 「そのあとは?」 「わかりません。東京にいるとは、思っているのですが」 「何故《なぜ》、東京にいると?」 「生まれてから、東京以外に、出たことのない娘ですからね」 「わかりました。とにかく、探してみましょう。見つけたら、あなたのところへ連れていけばいいのですね?」 「いや、見つけて頂くだけで、結構です。私が、連れに行きます」  私には、どうでもいいことだった。  山中正樹は、前金として、十万円だけ置くと、部屋を出て行った。後ろ姿も、なかなか、優雅であった。私には、逆立ちしても、あんなふうに、気取った歩き方は、出来そうもない。  私は、暫《しばら》くの間、椅子《いす》に坐《すわ》って、女の写真を眺めていた。こんな美人が姿をくらます理由は一体、何だろうか? いくら考えても、わからなかった。また、わかったところで、どうなるものでもない。  私は、立ちあがると、探偵社を出た。  まず、新宿の喫茶店に行ってみることにした。  新宿に限らず、盛り場には、やたらに、喫茶店が多い。東京中に、いったい、何軒の喫茶店があるんだろう。  山中正樹が教えてくれた「ネムの木」という喫茶店は、なかなか見つからなかった。何軒かの喫茶店で、ネムの木という店を知らないかと、きいてみたが、誰も、知らないという。 「ネムの木というバーなら、知ってますけど」  と、五軒目の喫茶店で、ウエイトレスの一人が、いった。 「バー?」  私は、きき返した。山中は、確か喫茶店だと、いった筈《はず》だが—— 「確かに、その名前のバーがあるんだね?」 「ええ」  と、そのウエイトレスは、うなずいた。 「この間まで、私が、そこで、働いてたんですもの。お酒の匂《にお》いがいやで、ここに移ってきたんです」  私は、その店の場所を、聞いた。西口広場の近くだという。私は、そのバーに、行ってみることにした。  時間は九時を回っている。バーの一番混む時間だ。私が「ネムの木」と書かれたドアをあけた時も、店の中は、客とホステスの嬌声《きようせい》で、一杯だった。  可成り大きな店だった。ボックスは一杯だった。私は、あいている止まり木に腰を下ろした。  太った、顔の平べったい女が、カウンターの向こう側から、私に、笑いかけた。私は、ウイスキーの水割りを注文した。 「ここに、この娘が、働いていた筈なんだがね」  私は、写真を女に見せた。  女は、かんたんに、うなずいた。 「みどりちゃんのことね」 「ああ。その名前だった」 「前にも、あんたと同じことを聞きに来た人がいたわ」 「知ってる」  と、私は、いった。 「背の高い、一寸《ちよつと》した色男だろう?」 「ええ、いい男だったわ。あんたも、いい男だけど」 「お世辞はいい」  私は苦笑した。 「顔がまずいのは、自覚してるよ」 「あんたは、みどりちゃんの何なの? 前に来た人は、兄貴だって、いってたけど」 「同じようなもんさ」  と、私は、いった。 「何処《どこ》へ行ったか、知らないかね?」 「知らないわ。黙って、消えちまったんだから」 「ここで働いていたのは、どのくらいの期間?」 「二週間くらいよ」 「どんな様子だった? 楽しそうだったかね?」 「楽しそうじゃなかったわね。何かに、おびえてたもの」 「おびえてた?」 「誰かに、追いかけられてたんじゃないかしら。これは、あたしの想像だけど」 「君の想像は、当たってるかも知れないな」  と、私は、いった。あんがい、写真の娘は、兄だという山中正樹から、逃げているのかも知れない。  私は、その女に名刺を渡し、娘のことで、思い出したことがあったら、電話してくれと頼んで、その店を出た。  そのまま、駅に向かって歩き出した時、ふいに、私の背中に、くっついて来た男がいた。 「そのまま、まっすぐ歩くんだ」  と、その男が、いった。いわゆるドスのきいた声というやつだ。 「いう通りにしないと、背中に、丸い穴があいちまうぜ」  背中に、固いものが当たった。ピストルらしい。おもちゃかも知れなかったが、試してみるほど、私は、ラフには生まれついていない。 「何処へ行けば、いいんだ?」 「前にある車に乗ればいいのさ」  と、男が、いった。成程《なるほど》、車が一台止まっていて、サングラスをかけたお兄さんが、手回しよく扉をあけて、待っていてくれた。  私が乗りこむと、車は、すぐ走り出した。私は、やっと、拳銃《けんじゆう》を突きつけていた男の顔を見ることが出来た。  私の知らない顔だった。      3  がっちりした身体《からだ》つきの男だった。顔も四角だし、身体まで角張っている。年齢のわからない顔だが、四十歳には、なっていまい。 「ゆっくり走らせろ」  と、その男は、運転している若い男に、いった。 「私に何の用だ?」  私は、腕を組んで、男にきいた。 「私を誘拐したって、金にならんぜ」 「すぐ降ろしてやるさ」  と、男は、いった。 「俺の質問に、素直《すなお》に答えればの話だがな」 「どんなことを、知りたいんだ?」 「ネムの木というバーで、お前さんは、写真を見せて安藤冴子のことをきいていたな?」 「まあね」 「何故《なぜ》、あの娘のことを、きいていたんだ?」 「仕事でね」 「何の仕事だ?」 「私は、しがない私立探偵でね。依頼があって、あの娘を探しているんだ」 「誰に頼まれた?」 「いえないね。依頼主の名前は、いわないことになっているんだ」 「いうんだ」 「駄目だね」 「そこで、車を止めろ」  と、男は、運転している若者に、どなった。  車が止まったのは、いやに、寂しい場所だった。  私は、車から降ろされた。拳銃を突きつけられていたのでは、逃げ出すわけにもいかない。 「やれッ」  と、男は、犬でもけしかけるみたいに、若者に、いった。  若者は、サングラスを外してから、にやっと笑った。指を、ぽきぽき鳴らしてから、いきなり、私の腹を殴った。すごいパンチだ。素人《しろうと》じゃない。六回戦ボーイかなんかじゃないだろうか。  私は、思わず、うめき声をあげた。続いて、フックが、顔面を襲った。私は、顔がひん曲がったかと思った。唇が切れて、血が流れた。 「待ってくれ」  と、私は、いった。こんな若者に殺されたんじゃ、割りに合わない。 「職業道徳に反するんだが、依頼主を教えることにする」 「早く話せ」  男は、まだ拳銃を突きつけたまま、いった。  私は、手の甲で、口のあたりをぬぐった。まだ血は止まらない。 「あの娘の兄貴だ」 「兄貴?」  男は、眉《まゆ》をしかめた。 「あの女に、兄貴なんかいるもんか」 「そんなことは、私は知らない。とにかく、今日、兄貴だと名乗る男が、私の事務所をたずねてきて、妹を探してくれと、いったんだ」 「どんな男だ?」 「背の高い色男だ」 「名前は?」 「自分では、山中正樹だといった。しかし、兄貴というのが嘘《うそ》なら、この名前も、本名かどうかわからん」 「————」  男は、一寸《ちよつと》考え顔になった。 「その男は、あの女を探してくれと、いったんだな?」 「ああ。探して、見つかったら、知らせることになっている」 「お前さんに、相談がある」 「拳銃で、おどかしといて、今度は、相談か?」 「命令してもいいが、お前さんの人格を、尊重してやるのさ」 「それは、どうも——」 「お前さんは、探偵だろう?」 「そう、いった筈《はず》だぜ」 「探偵なら、俺《おれ》のためにも働く筈だな?」 「金を出せばね。拳銃では、働けん」 「兄貴だという男は、いくら、払うといったんだ?」 「一日一万円。それに実費。探し出せた場合は別に、五十万」 「よし、俺は、百万出そう」 「————」  私は、男の顔を眺めた。別に、私をからかっているわけでは、ないらしい。 「あの女が見つかったら、俺の方に、先に知らせるんだ。それだけで、百万になるんだ。悪い商売じゃない筈だぜ」 「嫌だと、いったら?」 「いわせないさ」 「成程《なるほど》ね。ところで、どこに知らせたらいいんだ。まだ、名前も、きいていないんだぜ」 「女が見つかったら、ここに電話するんだ」  男は、手帳を取り出し、車の明かりで、電話番号を書き、引きちぎって、私に渡した。 「そのダイヤルを回して、石橋《いしばし》五郎という人間を呼べばいい」 「あんたが、石橋さんかね?」 「そんなことはお前さんが知らなくて、いいことだ」  男は、千円札を一枚、私に放って、よこした。 「それで、タクシーを拾うんだな」  男は、にやっと笑ってから、若者をうながして、車に乗り込んだ。  車は、私を残して走り去った。      4  翌朝、ベッドの中で、眼を覚ましたときは、まだ、殴られたところが痛かった。鏡を見ると、はれが残っている。ひどい目にあったものである。  朝食をとり、煙草に火をつけてから、昨日のことを、考えてみた。  とにかく妙なことの連続だった。  一人の男が来て、行方不明の妹を、探し出してくれと、いった。一か月前に、新宿の喫茶店にいたのが、最後だと、いった。ところが、新宿へ出かけてみたら、喫茶店ではなくて、バーだった。何故《なぜ》、あの男は、そんなつまらない嘘《うそ》を、いったのだろうか。  それだけならいいが、妙な飛び入りまでが入った。やり方から考えて、あの二人は、暴力団らしいが、失踪《しつそう》した娘と、どんな関係があるのだろうか。拳銃を持っていた男は、失踪した娘には、兄貴なんかいないと、いったが、どうやら、この言葉だけは、本当らしい。私も、最初から、山中正樹という伊達男《だておとこ》には、信用できないものを感じていたのだ。といって、二人連れの男の方も、勿論《もちろん》、信用できるつらではなかった。  私は、電話帳で、「石橋五郎」を引いてみた。そこに、紙に書かれたと同じ電話番号が、載っていた。そして、石橋五郎の下に、カッコして、(興業)とあった。  山中正樹という男の名刺にも、たしか、何とか興業社長の肩書きが、ついていた筈《はず》である。私には、何となく、両者の関係が、わかってきたような気がした。どうせ、同じ穴のムジナといったところだろう。  私は、受話器を取り上げた。山中正樹の名刺を取り出して、三菱《みつびし》興業にかけた。  電話口に出たのは、女の声だった。 「社長を呼んでくれ」  と、私は、いった。 「吉沢だといえば、わかる筈だよ」 「一寸《ちよつと》待ってよ」  と、女は、いった。ひどく、はすっぱないい方だった。OLというタイプじゃない。水商売の女みたいな感じだ。  五分ばかり待たされた。  男の声が、電話口に出た。聞きおぼえのある声だった。山中という色男だ。 「妹は、見つかったんですか?」  と、山中は、いった。 「まだです。そんなに簡単には、見つかりませんよ」 「そうでしょうな」  相手の声は、一寸、がっかりした調子になった。 「昨日、ネムの木という店に、いってみました」  と、私は、いった。 「貴方《あなた》は、嘘《うそ》をつきましたね。おかげで、ずい分無駄足をさせられましたよ。ネムの木は喫茶店でなくて、バーでしたよ」 「申しわけない」  と、山中は、恐縮した声でいった。が、本気で、恐縮しているかどうか、わかったものではない。 「清純な妹が、バーなんかで働いていると考えるのが、いやでしてね。つい、嘘をついてしまったのです。妹を思う気持から出たことですから、許して下さい」 「まあ、いいでしょう」  と、私は、いった。 「ところで、石橋五郎という男を、ごぞんじですか?」 「————」 「どうです?」 「何という男ですか? よく、聞こえなかったのですが——」  私は、相手の言葉に、思わず、苦笑してしまった。山中は、明らかに、石橋五郎という男を知っているのだ。すぐに返事をしなかったのは、気持の動揺をかくすためだろう。 「石橋五郎です」  と、私は、繰り返した。 「向こうは、どうやら、貴方《あなた》のことを、よく知っているようでしたが」 「————」  また、答がない。  私は、少し、いらいらしてきた。 「一人の人間を、探し出すということは、大変なことです。参考になることは、どんなことでも知りたい。それなのに、貴方は、何もかも、かくしておいて、私に探させようとなさる。これでは、一寸、成功しそうになくなってきましたよ」 「私が、悪かったらしい」  と、山中は、いった。 「石橋に、邪魔されたんですか?」 「私の顔を、貴方に見せたいですな。殴られて、青黒くはれている顔を」 「それは、どうも。毒蛇みたいな男のことを、申し上げなかったのは、私のミスでした」 「毒蛇というのは、石橋五郎のことですか?」 「そうです。ヤクザ者です。近づくと、手をかまれます」 「貴方は、さっき、石橋五郎を、知らないような口ぶりでしたが?」 「口にするのも、嫌な奴《やつ》でしたからね。実はあの男は、妹を狙《ねら》っているのです」 「何故《なぜ》、狙うのです?」 「妹は、美人ですからな」 「成程《なるほど》ね。わからないことも、ありませんね。ところで、石橋五郎というのは、四角い顔で、年齢は、三十七、八。やたらに、拳銃《けんじゆう》をふり回す男じゃありませんか?」 「そのとおりです。どこで、奴に、会ったのですか?」 「新宿《しんじゆく》ですよ。一寸、おどかされました」 「どんなふうに?」 「貴方と同じでしてね。安藤冴子を見つけたいらしい」 「なるほど。ありそうなことです」 「安心したようないい方ですな。石橋五郎が、まだ、見つけてないので、安心しましたか?」 「あたり前じゃありませんか。あんな男に、妹がつかまったら、大変ですからね」 「そうもいえますな」  私は、あいまいないい方をして、電話を切った。  これで、拳銃を持っていた男が、石橋五郎本人と、わかったわけだが、これから、どうしたものだろうか。山中は、石橋を、毒蛇だといったが、あの色男だって、毒蛇かも知れない。これからは、なるべく、かまれないように、気をつけることにしよう。      5  安藤冴子は、ネムの木というバーで、働いていた。恐らく、今でも、同じように、水商売に、ついているのではあるまいか。そう考えて、私は、バーやキャバレーを、片っぱしに、調べていくことにした。気の長い話だが、他に方法はないし、一か月という期間があるのだ。  一日目は、収穫なし。十時近くなって、重い足を引きずり、事務所に戻ると、待っていたように、電話が鳴った。 「何処《どこ》に行ってたのよ?」  いきなり、怒ったような女の声が、飛び込んできた。 「これで、三度目よ」 「一寸《ちよつと》、外に出てたんでね。ところで、君は誰なんだ?」 「あたしよ。電話してくれって、いったじゃないの」 「ああ」  と、私はいった。 「ネムの木で会った——?」 「そうよ。あたしよ。何か気がついたら、電話しろって、いったじゃないの」 「彼女の行方《ゆくえ》が、わかったのか?」 「それは、わからないわよ」 「じゃあ、何が、わかったんだ?」 「一寸、面白《おもしろ》いことを思い出したのよ。あのこと、ラーメンを食べながら話したことをね」 「どんな話をしたんだ?」 「————」 「おい。聞こえてるのか?」 「いくら呉れる?」 「話の内容によってだな。話してみろよ」 「駄目よ」 「何故《なぜ》?」 「喋《しやべ》ったら、それまでってこともあるじゃないの。やらず、ぶったくりは、いやだからね」 「どうすればいい?」 「お金を持って、こっちへ、いらっしゃいよ。お金と交換に、教えてあげるわ」 「いやに、電話口が、にぎやかだが、店からかけてるんだな?」 「そうよ。看板が十一時だから、それまでに来ることね。明日になると、忘れちゃうかも知れないわよ」 「オーケー」  と、私は、いった。気が進まないが、行かないわけには、いかないだろう。  時計は、十時に近いが、車を拾えば、十一時までには楽に、ネムの木に着けるだろうと思った。  十時半に、私は、店に着いた。ドアをあけて中へ入ったが、あの女の姿は、見えなかった。  マダムにきくと、あまり熱のない声で、 「お客を、送って行ったんじゃありません」  と、いった。他のホステス達も、あの女のことをよく知らなかった。マダムと同じ言葉しか出て来ないのだ。どの女も、自分のことしか考えていないらしい。  看板の十一時まで待ったが、あの女は姿を現わさなかった。 「お気の毒ね」  と、マダムは、私に、いった。 「あの子、浮気《うわき》っぽいのよ。送ってって、そのまま、ホテルにでも行っちゃったんじゃないかしら。明日、出て来たら、よくいっとくわ。色男を、すっぽかしちゃいけないって——」 「まあいいさ」  と、私は、いった。 「すっぽかされるのには、なれているんでね」  私は、店を出た。むやみに腹が立った。まるで、狐《きつね》に化かされたような気持だった。どうも、女というやつは、信用がならない。  私は、屋台を見つけて、気がすむまで、酒を飲んだ。事務所へ帰った時は、ベロベロだった。      6  私は、誰かに、肩をゆすられて、眼をさました。  すでに、陽《ひ》が高くなっている。まぶしさに、私は眉《まゆ》をしかめた。 「起きたら、どうだね?」  と、男がいった。  私は、眼をこすり、ベッドから起き上がった。  二人の男が、傍《そば》に立っていた。私は、石橋五郎とあの若者かと思って、一瞬、身構えたが、よく見ると、彼等ではなかった。  見たことのない男たちである。  一人が、黒い警察手帳を見せた。 「あなたに、一寸《ちよつと》、聞きたいことがあってね」  と、一人が、いった。 「その前に、顔を洗わせてくれませんか」  と、私は、いった。 「二日酔いで、頭が、ぐらぐらするんでね」  私は、一人が、うなずくのを見て、洗面所へ行った。冷たい水で、何度も顔を洗うと、どうやら、眼が、はっきりあいてきた。 「鍵《かぎ》は掛けた筈《はず》なんだが、どうやって、入って来たんです?」  タオルで、顔をふきながら、きくと、刑事の一人が、 「鍵は、かかっていなかった」  と、いった。 「酔っぱらって、忘れたんじゃないのかね?」 「そんな筈はないんだが——」 「私達が、鍵をこわして、入って来たというのかね?」 「いや、とんでもない。私が忘れたんでしょう。ところで、用件は、何です?」  私は、椅子《いす》に腰を下ろし、煙草《たばこ》に火をつけてから、二人の刑事の顔を見た。 「ネムの木というバーで働いている、早川文子《はやかわふみこ》という女を、知っているね?」 「まあ、知っています。昨日、会う筈でしたからね。結局、待ち呆《ぼう》けをくわされましたが」 「あなたに、会いたいと、店から電話したそうだね?」 「ええ」 「その時間は?」 「十時頃でしたが、それが、どうかしたんですか?」 「それであなたは、会いに出かけたんだね?」 「ええ」 「それで——?」 「店に行ったら、彼女はいなかった。完全にすっぽかされたわけです。看板の十一時まで待ったが現われやしない。それで、やけ酒を飲んで帰ったというわけです」 「早川文子が、あなたを、電話で呼んだ理由というのは、一体、何だったんだね?」 「知りません」 「知らん?」  刑事の眼が、とがった。 「用件も知らずに、夜の十時に、出かけて行ったというのかね?」 「その通りです。電話でいえといったんですが、会ってからじゃなければ、いえないと、勿体《もつたい》をつけられましてね。大の男が、のこのこ、出かけてったというわけです」 「本当に、知らなかったのかね? どんなことか、想像ぐらいはついてたんじゃないのかね?」 「いいえ」 「あなたは、早川文子に、女の写真を見せて、何か、きいていたそうだね?」  刑事が、質問を変えた。私は、あいまいに笑った。 「誰が、そんなことを、いったんです? 早川文子本人ですか?」 「本人に聞ければ、あなたのところまで来やしない」  やせた刑事が、苦虫を、かみつぶした顔でいった。 「死体に訊問は、出来ないんでね」 「死体? あの女は、死んだんですか?」 「殺されたんだ。それで、事情を調べている。さっきの質問に答えて欲しいね。マダムは、君が、早川文子に、女の写真を見せていたと、証言しているんだ」 「昔、ほれてた女がいましてね。その女が、あの店で働いているらしいって噂《うわさ》を聞いて、行ってみたんです。それだけのことですよ」 「それで返事は?」 「おぼえていないって、ことでした」 「本当だろうね?」 「本当ですよ」 「何という名前だね?」 「え?」 「あなたのほれてた女の名前さ」 「それと、早川文子の殺されたのと、関係でもあるんですか?」 「わからん。わからんから、調べるのさ」 「山田京子」  と、私は、でたらめの名前を、いった。 「もっとも水商売の女ですから、本名じゃないでしょうがね」 「写真を見せて貰《もら》いたいが」 「あの写真は、なくしちゃいました。酔っ払って、歩いているうちに」 「なくした?」  太った方が、にやっと笑った。 「なくしたかどうか、調べさせて貰《もら》うよ」  刑事は、壁にかかっている上衣《うわぎ》に手をかけた。私は、肩をすくめるより仕方がなかった。上衣の内ポケットに、安藤冴子の写真が入っている。見つかるのは、眼に見えている。見つかったら、警察は、安藤冴子のことを、調べ始めるだろう。私の依頼主は、山中正樹にしても、石橋五郎にしても、警察の嫌いな連中のようだから、これで、成功報酬は、パアになったことになる。  刑事は、やっぱり、内ポケットから、写真を見つけ出してしまった。 「なくしてなかったよ」  と、太った刑事は、皮肉な笑い方をした。 「二、三日、借りて行くよ」 「それは——」  私は、あわてて、いった。 「一枚しかない写真ですから」 「すぐ返すさ。預かり証も書いていくよ」  刑事は、写真をテーブルの上に置き、手帳を取り出した。  私は、ぼんやりと、写真を見た。五十万か百万になる写真だったのだ。それも、駄目になった。と、私は、がっかりしていたのだが、テーブルの上の写真を見て、がくぜんとした。  写真が違うのだ。それは、安藤冴子とは、似ても似つかない女の写真であった。      7  刑事たちが引きあげたあとも、私は、暫《しばら》くの間、ぼんやりとしていた。  私が寝ている間に、誰かが、事務所に入り、壁にかかっている私の上衣を調べ、写真をすりかえていったのだ。  私は、鍵《かぎ》はあいていたという刑事の言葉を、思い出した。  私は、入口へ飛んで行った。思った通りだった。私は、昨夜、ちゃんと、鍵をかけたのだ。それが、ヤスリか何かで、巧みに、こじあけられた形跡があった。  私は、事務所も、調べてみた。机や、戸棚には異常ないように見えたが、仔細《しさい》に調べてみると、あけられた跡があった。 (やられた)  と、思った。泥酔したのが不覚だった。これでは、殺されても、気がつかなかったろう。  写真を入れかえた理由は、簡単に、想像がついた。  早川文子を殺した犯人は、死体が発見されれば、警察が、私のところへ行くことを知っていたのだ。そうなれば、安藤冴子の写真が、警察に入手される危険がある。犯人は、安藤冴子のことで、警察に動いて貰《もら》いたくなかった。だから、写真を、すり替えた。他に考えようはない。  早川文子が殺されたのも、恐らく、安藤冴子に、関係した理由でだろう。彼女が、店から電話しているのを、犯人が、聞いたのだ。そして、彼女を殺した。  私は、新聞を拡げて見た。が、朝刊には、まだ、早川文子のことは、載っていなかった。  私は、テレビのスイッチを入れた。暫《しばら》く、詰まらない劇映画が続いてから、ニュースになった。  いきなり、平《ひら》べったい彼女の顔が映った。笑っている顔だった。その下に、早川文子さんと、文字が出た。私は、音を大きくした。  アナウンサーの語るところによると、彼女の死体が発見されたのは、今朝の午前五時だという。新聞配達の少年が、発見者だった。  場所は、明大前《めいだいまえ》近くにある神社の境内《けいだい》。新宿の店からは、甲州街道を、車で、十二、三分の距離だ。警察も、車で、運ばれたのだろうと、語っている。  死因は、絞殺。目下、犯人の手がかりはないと、アナウンサーは、いった。  私は、テレビを消した。ムゴイことをする奴等《やつら》だ。あの女は、何かを思い出したために殺されたのだろう。とすれば、私が、殺したことにもなる。私が頼んでいなければ、電話をかけて来なかったに違いないからである。  早川文子は、何かに気付いたと、電話してきた。安藤冴子の行方《ゆくえ》に関することではないと、彼女は、いっていた。本当だろうと、私は思う。また、安藤冴子の行方が、わかったのなら、殺されることもなかったに違いないのだ。何か、暗い秘密のようなものを、彼女は、思い出したのだ。だからこそ、彼女は、それが、金になると、確信したに違いない。ただ、彼女は、それが、同時に、自分の命取りになることに、気付かなかったのだ。  早川文子の死は、行方不明の安藤冴子に、暗い秘密があることを、示している。と、いうより、彼女が、何かの秘密を、にぎっているのかも知れない。だから、山中正樹も、石橋五郎も、必死になって、安藤冴子の行方を追っているのだろう。 (その秘密が何かは、安藤冴子を見つけ出せば、わかることだ)  だが、写真がない。顔立ちは、おぼえているが、聞き回るには、写真があった方がいい。  私が、そこまで考えた時、表に、人の気配がした。気が立っていた私は、急いで、扉をあけた。裏で、車の走り去る音がした。が、そこへ、私が駈《か》けつけた時には、車の姿は、もう見えなかった。  私は、事務所に戻った。その時になって、小さな封筒が、投げ込まれていることに、気付いた。今、車で走り去った人間が、投げ込んでいったに違いない。  ありふれた封筒だった。表にも裏にも、何も書いていない。  私は、封をあけた。出てきたのは、一枚の写真だった。安藤冴子の、水着姿のあの写真だった。      8  夕方になると、私は、事務所を出た。ポケットには、安藤冴子の写真が入っている。  写真を返してよこしたのは、まだ、私に探させる気が、相手にあることを示しているらしい。山中正樹が、その相手なのか、石橋五郎なのか、私には、わからない。山中らしいが、石橋も、私が、安藤冴子の写真を持っていることは、知っている筈《はず》だから、奴《やつ》を、除外するわけには、いかなかった。  私は、渋谷《しぶや》に出た。ここに、彼女がいるかどうか、わからない。だが、一応、調べてみる必要があるだろう。  私は、一軒のバーに入った。ウイスキーを注文してから、マダムに写真を見せる。マダムは、首を横にふった。  二軒目も同じ。三軒目、四軒目と歩くうちに、アルコールが身体に回ってきて、足がふらついてきた。  五軒目のバーも、収穫がなくて、外へ出たときである。  いきなり、私にぶつかった男がいる。もみ上げの長い、一見して、ぐれん隊とわかる男だった。いつもの私なら、触らぬ神というやつで、さけて通るのだが、今日の私は、早川文子の死で、頭に来ていた。  口論になった。どうやら向うさんは、最初から、いんねんをつける気だったらしい。私は、上手《うま》く、引っかかったというところだろう。  男は、いきなり殴ってきた。多少、私を甘く見たらしい。この間のように、拳銃《けんじゆう》を突きつけられているのでなければ、私にも、自信はある。  殴らしておいて、私は、思い切り殴り返した。こぶしに、鈍い手応《てごた》えを残して、男は、引っくり返った。起き上がったところを、もう一度、殴った。男の顔から、鼻血が流れた。  男は、這《は》いつくばったままだ。一瞬、私は勝ち誇った気持になったが、あとが、悪かった。  奴には、仲間がいたのだ。こんな男が、一人で歩いている筈がない。そんなことは、わかっていた筈なのに、酔っていて、頭のめぐりが鈍かったのだ。  五人ばかり若い男たちが、私を取り巻いた。あとは、散々だった。二、三人、殴り倒したが、最後は、ボロキレみたいに、殴り倒されて、気を失ってしまった。  気がついたのは、雨が顔に当たったからだ。  誰かが、傘をさしかけてくれた。 「大丈夫?」  女の声がした。 「ああ」  と、私は、いった。いや、いったつもりだったが、声にならなかった。立ち上がり、女が腕を支えてくれたところまでは覚えているのだが、そこで、また、気を失ってしまった。  二度目に気がついたのは、ベッドの中だった。私の事務所かと思ったが、そうではなかった。柔らかい香水の匂《にお》いがした。枕にも、可愛らしい模様がついている。若い女の部屋なのだ。  私は、とっさに、上衣《うわぎ》の内ポケットに手をやった。安藤冴子の写真は、盗まれていなかった。ほっとした時、女が顔を出した。手にコーヒーの載った盆を持っていた。 「気がついたのね」  と、女が、いった。 「コーヒーでも飲むと、気持が、しっかりするわ」 「————」  私は、返事が出来なかった。あまりにも、意外だったからだ。 「どうなさったの?」 「いや、何でもない」  と、私は、あわてて、いった。どういったらいいのか、わからなかったからだ。貴女《あなた》が、私の探している女だと、いったら、この女は、逃げ出すかも知れない。いや、確実に逃げ出すだろう。 「コーヒーを貰《もら》おうか」  と、私は、いった。努めて何気なくいったつもりだったが、やはり声がふるえた。しかし、女は——というより安藤冴子は、と、いった方がいいだろう——私が、ひどく殴られたせいだと思ったようだ。  コーヒーは、うまかった。 「助かったよ」  と、私は、いった。 「君に助けて貰っていなかったら、今頃は、まだ、雨にうたれながら、うんうん唸《うな》っていたかも知れない」 「丁度《ちようど》、通りかかっただけよ」  冴子は、微笑して見せた。その顔を、私は今更のように、美しいと思った。写真よりも一層、この女は、男を引きつけるものを持っている。こんな美人が、どうして、山中正樹や、石橋五郎のような悪党と、関係があるのだろうか。  いや、こんなふうに考えるのは、間違っているかも知れない。この女が美しく、魅力があるからこそ、あの悪党どもが、放って置かなかったのだ。こう考えた方が、まともかも知れない。  会話がとぎれると、冴子は、煙草《たばこ》を取り出して、私にすすめた。自分でも、一本を口にくわえて、火をつける。そんな態度の中に、一寸《ちよつと》、崩れた様子が見えた。 「もう何時だろう?」  私は、腕時計を見るつもりで、腕に眼をやったが、なくなっていた。あいつらが、盗んでいったのだ。 「もうじき、十二時よ」  と、冴子が、いった。 「今夜は、そこで寝て、明日になって、帰ったらいいわ。まだ、動くのは無理だもの」 「有難いが、君は、どこに寝るんだ?」  私は、部屋の中を見回した。六畳ほどの狭い部屋だった。台所と、トイレがついているが、そんな所に、寝られるもんじゃない。 「私のことは、心配しないでいいのよ」  と、冴子は、いった。 「隣りに、同じ店で働いている娘がいるの。そこで寝かせて貰うわ」 「悪いな」 「いいのよ。明日、起きられたら、勝手に帰って頂戴。私は、たいてい、お昼近くならないと、起きないから」  冴子は、それだけいうと、ネグリジェを持って、部屋を出て行った。      9  私一人が、部屋に残った。  私は、気持の高ぶりを、おさえつけることが出来なかった。  私は、安藤冴子を見つけたのだ。写真の女を見つけたのだ。  今、この部屋を出て、山中正樹に電話で知らせれば、五十万という金が、手に入るのだ。石橋五郎に知らせれば、百万だ。  私は、金が欲しい。のどから手が出るほど欲しい金だ。五十万の金は悪くないし、百万なら、なお悪くない。  このアパートにも、管理人室には電話がある筈《はず》だ。身体は、まだ痛くてかなわないが、電話のある場所まで、行けないことはない。いつもの私なら、這《は》ってでも、この部屋を出て、電話のあるところまで、行っただろう。  だが、今の私には、何となく、彼等に知らせるのを渋る気持になっていた。彼等のやり口が、気にくわないせいか、安藤冴子が、あまりに美しいせいか、私自身にもわからない。  今、私が知りたいのは、何故《なぜ》、彼女が、奴等に追われているかということだった。それを知ってから、自分の態度を決めても、おそくはない。  私は、ベッドから、起き上がった。身体中が痛かったが、幸い、どの骨も折れていないらしい。  私は、部屋の中を、調べてみることにした。彼女の持っている秘密が、わかるかも知れない。  まず、衣裳《いしよう》ダンスを開けてみた。タンスそのものは安物だったが、中に吊《つる》してあった衣裳は、かなり高価なものだった。私は、その一つ一つのポケットを調べてみたが、何も発見できなかった。  次は、鏡台の引き出しだった。しかし、何もない。押し入れも開けてみたが、無駄であった。  何も見つからないのだ。私は、壁にかかっていた安物の額まで、その裏側を調べてみたが、手がつかれただけであった。  私は、がっかりして、ベッドに転がった。その瞬間、大事なところを、探し忘れていたことに、気付いたのだ。  ベッドだった。  エア・マットの部厚いベッドだった。一寸《ちよつと》した本ぐらいなら、この下に、楽にかくせる筈だ。それに、ギャング映画などで、ベッドの下に、ピストルなどを、かくすのを、私は何回も見たことがある。  私は、もう一度起き上がって、ベッドを、めくりあげてみた。  思った通りだった。丁度《ちようど》、B6判の単行本ぐらいのボール箱が、出てきた。麻ひもで、何重にも、厳重に、縛ってある。  手で、結び目を解こうとしたが、なかなか解けない。いらいらしている間に、私は、いつか警戒心を忘れていた。 「何をしているの?」  と、いう強い女の声に、私は、ぎょっとして、ふり向いた。  ドアが開いていて、ネグリジェ姿の安藤冴子が、燃えるような眼で、私を睨《にら》みつけていた。      10  ごまかしようがなかった。  仕方なしに、私は、にやっと、笑って見せた。何かいえば、自分の立場を、悪くするばかりと、思ったからである。  冴子は、後ろ手にドアを閉めると、固い声で、 「その箱を、かえして頂戴」  と、いった。  私は、だまって、箱を、ベッドの上に置いた。彼女は、警戒しながら近寄ってきて、引ったくるように、その箱を、拾い上げた。  私は、だまって、見ていただけだ。ポンコツみたいな身体では、彼女ととっ組み合いもできないし、そんな気も起きて来ない。  冴子は、箱を胸に抱くようにして、壁ぎわに、立っている。 「あなたは、一体、誰なの?」  と、冴子は、いった。声が、ふるえている。怒りのためなのか、それとも、私の正体がわからないことへの不安のためなのか、私には、わからなかった。 「私の名前は、吉沢だ」  と、私は、いった。 「私立探偵をやっている」 「頼まれて、私を、探していたのね?」 「その通りだ」  と、私は、うなずいて見せた。 「山中正樹という色男から、君を見つけたら五十万出すといわれている」 「やっぱり——」 「それだけじゃない、石橋五郎という、おっかない男からは、百万で、同じことを頼まれた」 「————」  冴子の顔が、青ざめてきた。おびえているのだ。 「君の顔を見たとたん、探している女だとわかった。君が、部屋を出ていった時、山中か石橋に電話することを考えた。金は欲しいからね」 「何故《なぜ》、そうしなかったの? 時間は、あった筈《はず》だわ」 「自分にもわからん。今日、君に助けられた。その借りがあるせいかも知れないし、何となく奴等《やつら》が、気にくわないせいかも知れん」 「私を、どうするつもり?」 「さあね。君が逃げれば、僕には、追いかけられない。まだ足が痛むし、君を捕まえる気にもなれないからね。だが、そんなかっこうじゃ、君も、逃げるわけにも、いかないだろう」 「————」  冴子は、改めて、自分のネグリジェ姿に気付いたように、肩をすぼめた。 「何か、その上から、羽織ったらどうだね。そして、僕に話してくれないか?」 「何を?」 「君が、奴等から、逃げ回っている理由だ。その箱を開けてみようとしたのも、その理由を知りたかったからだ。事情によっては、君を助けてあげたい」 「金は、欲しくないの?」 「欲しいさ。だが、悪者にもなりたくないんでね。君が悪い女なら、話は別だ。君を奴等に突き出して、金を貰うのに、何の苦痛も感じない。どうだね。話してみないか?」 「————」 「君には、助けが必要だ。一人っきりじゃ、いつまでも、奴等から、逃げ回ってもいられないぜ。早川文子みたいに、殺されるのがオチだ」 「早川文子って?」 「新聞を読まないのか?」 「ええ」 「君が、前に働いていたネムの木のホステスだ。太った、顔の平べったい」 「知ってるわ。あの人のアパートに、暫《しばら》く泊めて貰ったことがあったわ」 「彼女が、殺されたんだ」 「誰に?」 「わからん。だが、山中正樹か石橋五郎のどちらかが犯人に決まっている。彼女は、君のことで、何か重要なことを思い出して、僕に教えてくれようとした。奴等は、彼女の口をふさぐために、殺したんだ」 「————」 「どうだね。僕に話してみないか?」 「いいわ」  と、冴子は、低い声で、いった。  私は、彼女の気持を、落ち着かせるために、煙草《たばこ》に火をつけた。部屋を飛び出して、電話をかけに行くような気持は、全くないことを示すことが、必要だった。  冴子は、衣裳ダンスから、藤色のコートを取り出して、ネグリジェの上から着て、小さな椅子《いす》に腰を下ろした。すそが割れて、形の良い脚がのぞいた。私は、自然に、眼をぱちぱちさせた。 「山中も石橋も、芸能ブローカーなのよ」  と、冴子は、いった。 「それは、知ってる」  と、私は、いった。 「山中には、社長の肩書きのついた名刺を貰ったよ」 「最近まで、山中は、石橋の下で働いていたの」 「親分、子分だったわけだな」 「そんなところね。二人が、まだ一緒だったころ、私は、石橋のやっている石橋プロと、契約してたのよ」 「歌手?」 「私には、歌は唄えないわ。踊り子としてよ。ストリップじゃないわ。セミ・ヌード」 「君が踊るのを一度、見てみたいね」 「冗談は止めて」  冴子は、硬い声で、いった。 「踊りには、自信があるつもりだったんだけど、あまり受けなかったわ。ナイトクラブなんかじゃ、やっぱり、裸にならなければ駄目なのね。そのうちに、石橋が、私に、自分の秘書にならないかって、誘ったのよ」 「それで——?」 「給料が、良かったんで、引きうけたわ。でも、石橋の秘書になってみて、初めて、芸能ブローカーが、表向きの看板だってことに気付いたの」 「そんなところだと思ったよ。本職は、何だったんだね? ボクサー崩れみたいな用心棒をつれているところを見れば、まともな商売じゃないことはわかるが、麻薬か?」 「ええ」  冴子は、小さな吐息をついた。 「気がついても、どうしようもなかったの。逃げ出せば、殺されてしまうわ」 「女一人ぐらい殺すのは、何とも思ってないだろうからね」 「秘書というのも、本当は、薬《やく》の取引きの連絡役みたいなものだったわ。女の方が、警戒されないから、らしいのよ、でも、お金だけは、約束通りくれたわ」 「それから?」 「そのうちに、石橋が自動車事故で、入院したの。私は、逃げるチャンスだと思ったわ。でも、子分たちが、見張ってて駄目。口じゃ、私のことを、姐《ねえ》さん姐さんて、おだてても、逃げたら殺しかねない顔付きをしていたわ。そんな時に、幹部の一人だった山中が、私を、誘ったのよ」 「何といって?」 「自分も、独立して、芸能社をやるつもりだ。だから、一緒に来ないかって。あの通り、いい男だし、当たりも柔らかいから、つい信用しちゃったのね。それに、ちゃんとした芸能社をやると、約束したものだから」 「ところが——というわけだね?」 「ええ。山中は、三菱《みつびし》興業という看板をあげたけど、石橋と同じだったわ。一度味わった甘い味を、忘れられるもんじゃないのね。私を連れ出したんだって、私が、麻薬のルートに顔が利くもんだから、それを利用するためだったのよ」 「あの色男も、なかなか野心家なんだな」 「石橋の掴《つか》んでいたルートを、そっくり頂くつもりだったのね。それに、石橋が自動車事故を起こしたんだって、山中が、やったのかも知れないわ。証拠はないけど」 「山中は、上手《うま》く独立できたのか?」 「薬《やく》の売り手は、相手が、信用できる人間で、金があれば、石橋だって、誰だって、構わないのよ。彼等は、山中じゃなくて、私を信用したわ」 「成程《なるほど》ね。奴は、君を誘って、うまくいったわけだな」 「だけど、そのうちに、石橋が退院したわ。私は、石橋に殺される。山中は、平気な顔してたけど、私は死にたくなかった。それに、あんな仕事から足を洗いたかったの」 「それで、逃げ出したのか?」 「ええ」 「この箱の中には、何が入っているんだ?」 「日記よ」 「日記?」 「日記というより、メモといった方がいいかしら。石橋のところにいた時から、取り引きの度に、メモをつけていたの。山中と一緒の時もよ。メモをつけることで、自分のしていることに、抵抗していたのかも知れないわ」 「奴等は、メモのことを知っているのか?」 「知っているわ。逃げる時、わざと、メモを持っていることを、教えて来たのよ。その方が安全だと思ったからよ。メモがあることを知れば、むやみに、私を殺せない筈《はず》だから」 「そうかも知れないが、君に対する憎しみも倍になるだろうね」 「わかってるわ」 「何故《なぜ》、警察に行かないんだ?」 「脅迫されてやったといっても、私だって、片棒かついだんだし——」 「情状酌量はされるよ」 「それに、怖かったのよ。警察に行けば、必ず、あいつたちに殺されるわ」 「このままでも、殺されるよ」 「————」 「早川文子に、何を喋《しやべ》ったんだ?」 「たいしたことじゃないわ。あの人、自分に歌の才能があると思ってたの。それで、何処《どこ》かの芸能社に、頼んでみようかなんて、いってたから、とめたのよ。私の経験を、一寸《ちよつと》話して——」 「それでわかったよ。彼女は、それを思い出したんだ。だから殺されたんだ」 「私のせいで、殺されたのね?」 「彼女のことは、もう考えない方がいい。それより君のことだ」 「もう、逃げるのに疲れたわ」 「馬鹿なことを、いっちゃいけない。とにかく、東京を離れることだ。僕の親戚《しんせき》が、秋田で旅館をやってるから、一時、そこに行っているといい。それから、ゆっくり、善後策を考えようじゃないか?」 「秋田?」 「たまには、東京を離れてみるのも、いいものだよ」  と、私は、いった。      11  翌朝、どうにか納得《なつとく》してくれた冴子をつれて、彼女の部屋を出た。  階段を降りて、アパートの出口まで来たときだった。  ふいに、眼の前に止まった車が、あった。運転しているのは、ボクサー崩れらしいあの若者だったし、後ろに乗っているのは、石橋五郎だった。あまりにも、とっさのことで、逃げる場所も、時間も、見つからない。  私は、手に持っていた箱を、そばにあった屑入れに投げ込むと、いきなり、冴子の手を後ろ手に、ねじあげた。  冴子が、悲鳴をあげた。が、私には、他に方法がなかった。  私は、彼女の腕を、ねじあげたまま、車から降りてきた石橋に、笑いかけた。 「これから、あんたのところに、連れて行こうと思ってたんですよ」  と、私は、いった。 「電話しようと思ったんだが、逃げようとするんでね」 「よくやったな」  と、石橋は、いった。冴子は、青ざめた顔で、私を睨《にら》んだ。私は、眼をそらせた。 「暫《しばら》くだったな」  と、石橋は、冴子に、笑って見せてから、 「乗れよ」  と、いった。  冴子は、覚悟を決めたみたいに、車に乗った。 「じゃあ、僕は、これで——」  と、私は、いった。だが、石橋は、私の腕を掴《つか》んで、離さなかった。 「お前さんにも、一緒に来て貰《もら》わなきゃ、ならねえ」 「何故《なぜ》? この女を見つけたんだから、もう用は済んだ筈《はず》ですがね」 「金はいらないのか?」  石橋は、にやっと笑った。 「それに、お前さんにも、ききたいことがあるんでね」 「————」  私は、石橋の顔と、運転席にいる若者の顔を見比べた。若者が手にしているのは、どうやらピストルらしい。石橋も、持っているだろう。どうやら、一緒に行くより仕方がなさそうだった。 「行きましょう」  と、私は、せいぜい、から元気をつけて、いった。 「百万は、大金ですからね」 「そうさ。金を忘れるなんて、どうかしているぜ」  石橋が、また、にやっと笑った。よく笑う男だ。  車は、猛烈なスピードで走った。白バイにでも捕まれば、逃げるチャンスもあると思ったが、朝が早いせいか、白バイの姿は、見えなかった。  車が止まったのは、郊外の大きな家の前だった。若い男が、二人ばかり迎えに出た。私と冴子は、奥の部屋に、連れ込まれた。 「まず、お前からだ」  と、石橋は、冴子に、いった。 「メモを出して貰おうか」 「持ってないわ」  と、冴子は、低い声で、いった。 「私が死んだら、あのメモが、警察に届くようになってるのよ」 「ふん」  と、石橋は、鼻先で笑った。 「聞いたふうなセリフを、いうじゃねえか。そんなことを、俺《おれ》が信じると思うのか。大人《おとな》しく出さねえっていうんなら、調べさせて貰うぜ」 「持ってないわ」 「どうかな。裸になって貰わなきゃ、本当に持っていねえかどうか、わからねえからな」 「何するのよ」  冴子が、立ち上がって、逃げようとするのを、石橋が、突き飛ばした。 「脱がせてやれ」  と、石橋は、若者にいった。ボクサーあがりの若者が、にやにや笑いながら近づいてくるのを見て、冴子は、 「待って頂戴」  と、強い声で、いった。 「大人しくメモを出す気になったのか?」 「違うわよ。あんた達が、裸が見たいというから、自分で脱いで見せてあげたいと思っただけよ」  ふてぶてしい言い方が、私にはかえって痛々しく聞こえた。 「面白《おもしろ》いな」  と、石橋は、いった。 「安藤冴子嬢の全ストを、ゆっくり拝見しようじゃねえか」  冴子は、黙って、スカートのジッパーを外す、私は、ぼんやりと、彼女の動作を眺めていた。私は、出来ればとめたかった。だが、素手では、彼等を相手に闘えない。  スカートが、畳の上に落ち、シュミーズも身体から外れた。ブラジャーを取るときには、さすがに、冴子は、後ろを向いてしまった。  最後に、パンティが引き下ろされた時、私は、若者がうめくように、のどを鳴らすのを耳にした。  冴子の裸身は、美しかった。それが、私にとって、救いであった。痩《やせ》ぎすの身体だが、踊り子だっただけに、肉がしまり、胸と腰は、豊かだった。 「メモは、どこにもありませんぜ」  と、若者が、いった。石橋は、笑いを消した顔になった。 「少し痛めつけたら、かくし所を思い出すかも知れねえな」  と、石橋はいい、その言葉を実行した。彼は、容赦がなかった。  冴子は、両手を縛られ、部屋の鴨居《かもい》に、吊《つる》し上げられた。私は、思わず眼を閉じた。が、ギリギリと、鴨居をこする縄の音と、冴子のうめき声は、容赦なく、耳に飛びこんでくる。  若者が、ズボンのベルトを外して、石橋に渡した。ベルトが空を切る音に、私は、眼を開いた。鈍い、肉を打つ音がして、黒いベルトが蛇のように、冴子の身体に巻きついた。 「うッ」  と、冴子は叫び、白い裸身が、大きくふるえた。  石橋は、続けざまに、ベルトを、打ち下ろした。その度に、悲鳴が出た。私は、ものにつかれたような石橋の眼に、冴子に対する憎しみを見るような気がした。自分の手から逃げて行った女に対する男の憎しみ、といったようなものを。  悲鳴が、聞こえなくなった。冴子は、気を失ってしまったのだ。色白な身体に、幾筋にも、みみずばれが生じ、血が流れていた。  鴨居から下ろされても、冴子は、動こうとしなかった。  石橋は、思い出したように、ベルトを投げすてると、 「こいつのいたアパートを調べて来い」  と、若者に、いった。 「部屋に、メモが隠してあるかも知れん」  若者が、飛び出していくと、石橋は、私に眼を向けた。 「まさか、お前さんが、持っているんじゃないだろうな?」 「僕が?」私は、肩をすくめて見せた。 「メモなんて言葉を聞いたのさえ初めてですよ。何だったら、裸になってもいいが、男のストリップなんて、さまにならないんじゃありませんか」 「そうかも知れん。それより、お前さんに、やって貰いたいことがある」 「何です?」 「たしか、お前さんは、山中からも、この女を探し出してくれと、頼まれていた筈《はず》だな。これから奴のところへ電話して、女が見つかったというんだ」 「それで?」 「それだけだ。ここへ来るように、いえば、それでいい」 「ここへ、のこのこ出かけてくると思っているんですか?」 「来るさ」と、石橋は笑った。 「この家は、この間まで、福田屋という旅館だったんだ。旅館の看板も、まだある。お前さんは、女が、福田屋という旅館に泊っているといえば、いいんだ。一番、奥の部屋にな」      12  山中は、すぐ行くと、電話でいった。  石橋は、二人の子分に、旅館の看板を取り出して、玄関にかけさせたり、スリッパを、入口に並べさせたりしていた。私は、そうして、罠《わな》が仕かけられていくのを、黙って見ていた。  山中正樹が、可哀《かわい》そうだという気は、少しも起きて来なかった。どちらも、同じ穴のムジナなのだ。勝手に、殺し合えばいい。  私の気にかかるのは、冴子のことだけだった。彼女は、相変らず、うつぶせに、倒れたまま動かなかった。だが、肩のあたりが、大きく動いているのが、生きているしるしだった。 (何としてでも、彼女を助け出さなければならない)  三十分ほどして、車の止まる音がした。山中が来たらしい。  石橋と、子分の一人が、ピストルを取り出して、身構えた。  玄関で、山中の声がした。石橋のもう一人の子分が、番頭のふりをして、何か話している。  やがて、足音が近づいて来た。石橋の顔が、硬く、こわばってくるのを、私は、見た。子分の方は、しきりにのどが渇くらしく、何度も、口を手の甲で、こすっている。  足音が止まり、ふすまが開いた。  背の高い山中が、にやにや笑いながら、部屋に入ってきた。驚く冴子の顔を想像しての笑いだったのだろうが、その笑いは、すぐ、凍《こお》りついてしまった。  山中は、馬鹿みたいに、ぽかんとした顔で、自分に向けられている銃口と、裸で倒れている冴子を、眺めていた。 「どうしたね。社長さん」  石橋は、皮肉な、いい方をした。 「俺《おれ》たちの歓迎ぶりが、気にくわないのかね?」 「————」 「どうしたんだ? 口がきけなく、なっちまったのか?」 「俺は、何も——」 「何も——どうした?」 「ボスを裏切る気持なんか、なかったんだ。俺は、あの女に、だまされたんだ。あの女のいいなりになって——」 「色男が、情けないことをいうじゃないか。お前さんが、女に引きずり回される玉か。ええ?」 「まさか、俺を殺すつもりじゃないだろうな。俺を殺したって、一銭の得にもならないぜ」 「損得を考えずに、人間を殺したくなることだってある。そんな気持が、お前さんにわかるか? 飼い犬に手をかまれた、くやしさって奴《やつ》がだよ」 「————」  山中の顔が、次第に、歪《ゆが》んできた。急に、彼が、背を向けて、逃げ出そうとした時、石橋が、射った。  凄《すさ》まじい音が、私の耳をうった。  山中の身体が、がくんとゆれた。石橋は、冷たい眼で、山中を見つめながら、引き金をひき続けた。  山中の身体が、コマのように一回転した。  救いを求めるように、山中は、手を宙に伸ばしたまま、私に向かって、倒れかかってきた。流れる血が、私に、ふりかかってきた。  私は、血だるまの山中の身体を、押しのけようとした。山中の眼は、もう、うつろだった。既に、死んでいるのかも知れない。死人に抱きつかれるのは、かなわなかった。私の手が血に濡《ぬ》れた山中のコートに触れた。そのまま、押しのけようとして何か固いものが、指先に触れた。ピストルだった。  私は、わざと、押しつぶされたような形になりながら、山中のポケットから、ピストルを抜き出し、自分のポケットに、落としこんだ。 「助けてくれ」  と、私は、大袈裟《おおげさ》に、悲鳴をあげて見せてから、思い切り、山中の身体を突き飛ばした。  山中の身体は、部屋の真ん中に、転がった。が、もう、ぴくりとも動かなかった。死んだのだ。  石橋が、へんに甲高《かんだか》い声で笑った。 「片づけますか?」  と、子分が、乾いた声で、きいた。 「このままでいい」と、石橋は、いった。 「全部片づけてから、この家に火をつけろ。灰にしちまえば、何もかも片づいちまう」  全部と、石橋は、いった。私や、冴子を始末することも、その中に入っているのだろう。  私は、頭の中で、時間を考えていた。ボクサーあがりの若者は、まだ、戻ってきていない。ここから、アパートまで車で、二十分。入念に探すだろうから、探す時間は、二十分か三十分は、かかるだろう。とすれば、少なくとも、あと二十分は、戻って来ない筈だ。  その間に、何とかしなければならない。この部屋にいるのは、石橋と、子分の二人だけだ。もう一人の子分は、玄関にいる。上手《うま》くやれば、脱出できそうだった。  石橋は、射ちつくしたピストルに、ゆっくり弾丸を詰めている。新しい弾丸で、今度は、私と、冴子を殺すつもりかも知れない。  私は、ポケットの中で、ピストルの安全装置を外した。  私は、ゆっくりと、立ち上がった。 「そろそろ帰らせて貰《もら》いますよ」と、私は、いった。 「血の匂《にお》いが、嫌いなんでね」 「帰れると思ってるのか?」  石橋が、冷たい声を出した。 「帰るさ」と、私は、いった。 「足があるからね」 「帰さんよ」  石橋が、ゆっくりピストルを構える。私は、ポケットの中で、引き金をひいた。  鈍い音がした。  石橋の身体が、よろめいた。一瞬、射たれたことが信じられないような眼で、私を見てから、いやに、ゆっくり、畳の上に、崩れ折れていった。  私は、子分に眼を移した。  この男も、あっけにとられた顔で、倒れている石橋を見ていた。私が、射ったことが、信じられない様子だった。  彼は、私に眼を移すと、あわてて、ピストルの引き金をひいた。碌《ろく》に狙《ねら》いもせずに射った弾丸は、私から、一メートルばかり離れた壁に、めりこんだだけだった。  私は、ゆっくり狙ってから、引き金をひいた。  また新しい血の匂いがした。一発目が胸にあたり、二発目は、腹にあたった。彼は、血の中に膝《ひざ》をつき、それから、ゆっくり前に倒れた。  廊下に、足音がした。玄関にいた子分が駈《か》けつけてきたらしい。  私は、ふすまのかげにかくれ、その男が顔を出したところを、ピストルの台尻《だいじり》で、殴りつけた。男は、つんのめるように、倒れてしまった。  私は、ピストルについている指紋を拭き消してから、血の海の中へ、放り投げた。このあとは、警察が解決してくれるだろう。  ふいに、背後で、「うッ」と、小さな、うめき声がした。気を失っていた冴子が、正気を取り戻したのだ。  私は、抱き起こしてから、手にからんだ縄を解いてやった。 「どうしたの?」  と、冴子は、裸の乳房をかくすようにしてきいた。私は、彼女に、血の海を見せないように、立ちはだかった。 「見ない方がいい」と、私は、いった。 「それより、早く、何か着た方がいいな。風邪《かぜ》をひいちまうぞ」  冴子は、私に背を向けて、服をつけ始めた。  ベルトで打たれた傷が、まだ、痛そうであった。私は、着終わった冴子の身体を抱くようにして、部屋を出た。 「石橋は?」と、彼女が、きいた。 「死んだよ」と、私。 「一緒にいた男は?」 「一人は死んだ。一人は気絶している。もう一人は、君のアパートへ行っている。しかし戻ってきたら、腰を抜かすだろうな。それから、山中も死んだよ。君が気絶している間に、ここへ来たんだ」 「あんたが、殺したの?」 「さあね。僕も、正直にいって、気絶していたんだ。気がついたら、皆、枕《まくら》を並べて死んでいたというわけさ。そんなことより、君のことだ。石橋も山中も死んだんだから、もう怖がることはない。君は、警察に行くべきだよ」 「————」 「行った方がいい、僕も一緒に行ってあげる」  私は、そういい、彼女がうなずくのを見てから、タクシーを止めるために、手を上げた。 [#改ページ]  ベトナムから来た兵士      1  私立探偵の仕事をしていると、さまざまな客が訪ねてきて、さまざまな調査を依頼される。  そのアメリカ人も、変わった客の一人だったということができるだろう。  通訳の中年の日本人と一緒に事務所に入って来たとき、私は、相手が背広を着ていたが、兵士に違いないと確信した。  兵隊というのは、どこの国の人間でも独特の匂《にお》いを身につけているものだ。硝煙の匂い、陽焼《ひや》けの匂い、汗の匂い、そんなものが入り混じって、独特の匂いを発散させるのだ。私自身も、二十歳のとき、あの敗戦の空気の中で、兵士だった一時期がある。わずか六か月で戦争は終わってしまったが、それでも、私の身体にしみついた匂いは、しばらくの間とれなかった。だから、そのアメリカ人を見、想像どおりベトナム帰休兵だとわかったとき、私は、自分の二十歳のときのことを思い浮かべた。  名前は、ゴードン。ゴードン二等兵で年齢は二十歳ということだった。私には、外人の年齢というのはよくわからない。二十歳という年齢より老《ふ》けても見えたし、幼くも見えた。おそらく、ユニホーム姿になったら、もっと若々しく、幼く見えたに違いないと思う。 「あと三日で、彼はベトナムへ戻らなきゃならんのです」  と、通訳が私にいった。通訳は、いい終わってから気の毒そうに眼をしばたたいたが、口元は笑っていた。この男にとって、ベトナム戦争もアメリカ兵も、単なるビジネスの対象でしかないのかも知れない。 「それで?」  私は先を促した。ゴードン二等兵は、落ち着きのない表情で事務所の中を見回している。  通訳が、また、彼に代わってしゃべった。 「彼には、日本に好きな女がいるんですよ。今度も、その女に会えるのを楽しみに休暇をもらって来たんだが、二日前に横田《よこた》に着いて、東京に出て来てみると行方《ゆくえ》がわからんというわけです」 「その女を、探してほしいというわけですか?」 「そうです。さっきもいったように、彼の休暇はあと三日しかない。その間に、どうしても彼女に会いたいといって、私に泣きついて来たわけですよ。よっぽど、惚《ほ》れてるんですなあ」  通訳は、ニヤニヤ笑った。ゴードンは、まだ事務所の中を見回していた。まわりを気にするのは、戦場で作られた癖なのだろうか。 「どんな女です?」  私は、まだ、引き受けるかどうかの決心がつかないままに、通訳にきいた。 「小さなバーのホステスですよ」  通訳は、ひどくそっけないいい方をした。 「名前は、倉橋恵子《くらはしけいこ》。年齢は確か二十二、三のはずです」 「イエス。ケイコ」  横からゴードンが急に叫ぶようにいった。彼は、上衣《うわぎ》の内ポケットから一枚の写真を取り出して私の前に置いた。  ゴードンと、背の低い女が写っていた。丸く平べったい顔をした女だった。さして美人でもないが、悪い女ではなさそうに見える。  どこかの神社の境内で写したのだろう。バックに鳥居が見える。きっと、街頭写真屋が写したのだろうと私は思った。  ゴードンは、女の顔のあたりを、太い指で叩《たた》きながら、何か早口でいった。通訳は、子供でもなだめるように、「オーケイ、オーケイ」と、いってから、私に向かって、 「三日間の内に探し出せますかねえ?」  と、きいた。私は、ゴードンと通訳の顔を見比べるようにしてから、 「確約はできませんが、規定の料金さえ払ってもらえば全力はつくしますよ」 「いくらですか?」  通訳が、ちょっと声を低くしてきいた。 「兵隊ですから、あまり金は持っていませんがねえ」 「一日五千円。三日間だから一万五千円いただきたいですね」 「それだけでいいんですか?」 「それだけで結構です。ただし、この女性を発見できたときには、成功報酬をもらいますよ。まあ、十万円が妥当な線でしょう。もちろん、三日間かかっても見つからなければ、一万五千円以外はいただきませんが」  私の言葉を、通訳がゴードンに英訳して聞かせている間、私は、写真を眺めていた。背のひょろりと高いGIと、背の低い日本の女とのカップルをいくつ見たことだろう。ほんとうの愛情で結ばれているときもあれば、セックスと金だけのこともある。この二人はそのどちらだろうか。女が行方をくらましたとすると、もっと金になる男を見つけたのかも知れない。 「彼は、その条件でオーケイといっています」  と、通訳がいった。  ゴードンは、無造作に一万円札と五千円札をつかみ出してテーブルに置くと、大きな手で、私と握手をした。  妙に温い手だった。      2  私は、まず、倉橋恵子が働いていたという浅草《あさくさ》のバーへ行ってみることにした。  八月の初めで、夜に入っても、うだるような暑さが街一杯にみなぎっていた。不快な暑さだった。  私は、歩きながら、ゴードンというあの若いGIが、三日後にベトナムに行くのだということを思い出していた。私はベトナムに行ったことはない。ベトナムは、もっと、暑苦しいところなのだろうか。二十歳のアメリカ兵にとって。 「シャノアール」という通訳が教えてくれたバーは、すぐ見つかった。確かに小さなバーで、ドアに黒猫の顔が描いてあった。  私は、ゆっくりドアを押して中へ入った。クーラーが利きすぎていて少し寒いくらいだった。客は二人しかいなかった。私はカウンターに腰を下ろして、水割りを頼んだ。  煙草《たばこ》をくわえ、火をつけてくれた若いホステスに、 「ここに、倉橋恵子という女の子がいたはずなんだが?」  と、きいてみた。 「いるわよ」 「いる? 今でもいるのかね?」 「やめたって聞かないからいるはずよ。ここ三日ばかり休んでるけど」  少しおかしいなと私は思った。あの通訳の話では、だいぶ前にこの店をやめて行方をくらましたような感じだったからである。  私は預かった写真を相手に見せた。 「僕のいってるのは、この女なんだがね」  私が念を押すと、相手は、そうよと、あっさりうなずいてから、 「ああ。このアメちゃんに頼まれて来たのね?」 「まあそうだ」 「昨日なんか大変だったのよ。このアメちゃん、酔っ払って入って来て、ケイコを出せって大暴れ」 「ほう」 「あたしたちがかくしたんだと思ってんのよきっと」 「実際はどうなんだね?」 「実際? あたしたちは何も知らないわ。なんでここ三日間休んでるのか知らないんだから」 「このGIが来たのは昨日だけかね?」 「一昨日《おととい》も来たわ。そのときは酔っ払ってなかったわ。おケイちゃんが休んでたから、アパートを教えてやったら、そっちに行ったみたいだったんだけど」 「彼女から、この兵隊のことを聞いたことはなかった?」 「二、三度あるわ。ラブ・レターを一杯くれるんだって満更《まんざら》でもない顔をしてたけど」 「なるほどね」  私は、グラスを口に運んだ。また少しわからなくなったと思った。満更でもなかったのが、なぜ急に姿をくらましてしまったのだろうか。  とにかく、倉橋恵子のアパートへ回ってみることにした。  両国《りようごく》に近い高級アパートだった。六階建で、入口には、「××レジデンス」と書いてある。五階にある倉橋恵子の部屋のベルを押してみたが応答はなかった。  ドアには鍵《かぎ》がかかっていたし、ドアについているレターボックスには、三日分ぐらいの新聞が突っ込んであった。  私は一階へおりて、管理人に彼女のことをきいてみた。管理人は中年の女で話し好きだった。私立探偵の私にはありがたい人間だ。彼女は、ベラベラと倉橋恵子のことをしゃべってくれた。  部屋代を溜《た》めたことはないし、きれい好きで部屋を汚さないのでいい間借り人だ。ただ、スリップ一枚で廊下を歩くのは困る。ここ二、三日姿を見ないが、どこへ行ったかは知らない。このレジデンスでは、プライベートなことには干渉しないことにしているから。 「ゴードンというアメリカ兵のことを聞いたことはないかね?」  と、私はきいた。管理人は、「ゴードン?」と、口の中で呟《つぶや》いてから、 「名前は知らないけど、ベトナムにいるアメリカの兵隊に知り合いがいると話していたことはありますよ。倉橋さんによっぽど惚《ほ》れてるらしくて、時どきお金を送ってくるんだっていってましたけどね。そのアメリカ兵がどうかしたんですか?」 「二日前の夜、アメリカ兵が彼女を訪ねて来たと思うんだが?」  私は、ゴードンと倉橋恵子の写真を見せたが、管理人は、気がつかなかったといった。 「ただ、二日前の夜、倉橋さんが嬉《うれ》しそうに出かけるのを見ましたよ。いい人から電話がかかって来たって」 「電話の相手は?」 「それは知りませんよ。ただ、いい人からっていっただけですから」 「夜の何時ごろ?」 「九時ごろでしたよ。確か」 「その後、彼女の姿を見ないんだね?」 「ええ。だから、そのいい人と箱根か熱海《あたみ》へでも行ったと思ってたんですけどねえ」  そのいい人がゴードンだろうかと考えたが、もしそうなら、彼が、倉橋恵子を出せと「シャノアール」で暴れるはずがないし、私に探してくれと頼みにくるはずもない。とすると、別の男とどこかへ出かけたことになる。 (まずいな)  と、私は思った。管理人のいうように、その男と温泉にでも出かけたのだろう。そうなると、ゴードンが日本を発《た》つ前に彼女を見つけるのは難しいことになりそうだ。それに、もし、旅行から戻って来たとしても、ゴードンに会いたくないというかも知れない。      3  翌日の午後、私は、もう一度彼女のアパートを訪ねてみた。相変わらず暑い日で、五階までの長い階段をうんざりしながらのぼって行くと、倉橋恵子の部屋は、ドアが半開きになっていた。 (帰ったらしい)  と、ほっとして、私が中をのぞき込み、「倉橋さん」と声をかけると、いきなり横から、強い力で腕をつかまれた。  三十歳くらいのがっしりした体格の男で、私の腕をつかんだまま、 「彼女に何の用だね?」  と、きいた。私は、むっとした。 「君は誰だ?」 「警察の者だ」 「警察?」  私は、厭《いや》な予感に襲われた。アメリカでは私立探偵は免許制で刑事事件にまでタッチできるが、日本の私立探偵には、そんな特権は与えられていない。刑事事件は敬遠した方が賢明なのだ。 「倉橋恵子に何かあったんですか?」 「多摩《たま》川の川原で殺されていたんだ」 「殺された?」 「くびを絞められてね。ところで、君はまだこちらの質問に答えていないがね」 「私は私立探偵で、頼まれて彼女を探していたのです」 「すると、君が、管理人の話していた男だね」  刑事は、やっと私の腕をはなしてくれた。 「昨日も、彼女のことを尋ねて来たそうだね?」 「ええ。管理人の話では、誰かと温泉へ行ったらしいというので、今日は戻っているかともう一度来てみたんです」 「君に彼女を探してくれと頼んだのは誰だね?」 「依頼人の名前はいえないことになっているんですが」 「これは殺人事件だよ」  刑事は脅すようにいった。私は、「わかりましたよ」と苦笑した。 「ベトナム帰休兵で、ゴードンという二等兵です。しかし犯人は彼じゃありませんよ」 「なぜ、そういえるんだね?」 「彼が犯人なら、わざわざ私のところへ探してくれなどといっては来ないはずです」 「芝居かも知れん。殺しておいて、わざと調査を依頼するというのは、よくある手だからね」 「それは同じ日本人同士の場合でしょう。彼の場合は、下手《へた》な芝居をするよりも、黙っていた方が得のはずです。警察は、まず容疑者を同じ日本人にしぼるでしょうからね。それに、芝居をしているようには見えませんでしたよ。必死で彼女に会いたがっていましたからねえ」  私は、事務所で会ったゴードン二等兵の顔を思い出していた。嘘《うそ》をついている顔だったとは、どうしても思えない。それに、彼は、あと二日でベトナムの戦場に戻るのだ。もし彼が倉橋恵子を殺したのだとしたら、日本の私立探偵に捜査を依頼するというようなつまらない誤魔化《ごまか》しをするよりも、基地の中にじっとしているだろう。あと二日して、軍用機が彼をベトナムに運んでしまえば、日本の警察はどうすることもできないのだから。 「犯人がアメリカの兵隊らしいという証拠みたいなものでも見つかったんですか?」  私がきくと、刑事はくびをすくめた。 「そんなものは何も見つかっていないよ。見つかっていれば、今すぐにでも、そのゴードンというGIに、捜査本部に来てもらうんだがね」      4  翌日の朝刊に、倉橋恵子のことが出ていた。小さな写真入りだった。 〈多摩川の川原でホステス殺さる〉  それが見出しだった。記事によると、死亡推定時刻は四日前だという。アパートを出たすぐ後で殺されたらしい。情交のあとで殺されたらしく、精液から相手の血液型はAB型とも書いてあった。  私は、どう報告書を書いたらよいのか迷った。倉橋恵子の死で、私の仕事は終わってしまったからである。  昼近くになって、いつかの通訳が一人で事務所にやってきた。 「新聞を見ましたよ」  と、通訳は、私の顔を見るなり暗い顔でいった。 「ゴードンには知らせたくありません。がっかりするでしょうからね」 「彼は、まだ知らないんですか?」 「あの男は日本語が読めないし、日本の新聞を見たこともありません」 「しかし、調べた結果を報告するのが私の仕事ですがね」 「それで、相談に来たんですよ」  通訳は、額の汗をハンカチで拭いた。私は煙草に火をつけた。 「相談というと?」 「ゴードンには、探したが見つからなかったといってほしいんです。明日《あす》の午後四時に、彼は横田からベトナムに飛びます。死ぬかも知れない。そんな男に、女が殺されたなんて知らせるのは可哀《かわい》そうですからねえ」 「なるほど」 「協力して下さい。あなただって、その方が気が楽じゃありませんか」 「まあ、そうかも知れませんね」  私は苦笑した。確かに、倉橋恵子の死を告げるのは厭だった。  ゴードンが短い休暇を終わってベトナムに出発する日、私は通訳に連れられて横田基地に行った。  広い滑走路には、迷彩をほどこした巨大な四発の輸送機が並び、完全武装の兵士やジープをその腹にのみ込む作業を始めていた。  そんなざわついた空気の中で、私はゴードン二等兵に会った。彼も完全武装をしていた。私が予想したとおり、兵隊姿に戻った彼は逞《たくま》しくは見えたが、同時にひどく幼くも見えた。その幼さがどこか痛々しかった。  私は嘘《うそ》の報告をし、通訳がそれを英語に直してしゃべった。  ゴードンは、悲しそうに肩をすくめた。それから、ポケットを探して小さな封筒を取り出して私によこした。中には、一万円札が十枚近く入っていた。 「彼女が見つかったら、それを渡してくれといっています」  と、通訳が私にいった。 「戦場ではどうせ金はいらないからと」 「オーケイ」  と、私は、ゴードンに向かってうなずいて見せた。  私は彼と握手をした。そのとき、彼の産毛《うぶげ》の光る手に、銀色に光るバンドがはめられているのに気がついた。戦場で負傷したときのために、血液型を彫り込んだバンドをGIがしているという話を聞いたことがあった。これがそれらしい。私は、新聞の記事を思い出し、ふと、彼の血液型を知りたくなったが、そのとき、誰かが大声でゴードンを呼んだ。  ゴードンは、私の肩を軽く叩《たた》き、何か短くいってから、輸送機に向かって駈《か》け出した。  やがて、彼の姿は輸送機に呑《の》み込まれ、兵士たちで腹一杯になった輸送機は、轟音《ごうおん》をひびかせながら、次々に飛び立って行った。 「アメリカの兵隊というのはあまり好きじゃありませんが、あの男だけは別でしたね。あなたはどう思います?」  通訳が、ぼそぼそした声でいった。私は返事をせずに、二つのことを考えていた。  一つは、ゴードンに渡された金のことだった。倉橋恵子が死んでしまった今では、遺族にでも渡して、葬儀に使ってもらうのが一番いいかも知れない。  もう一つは、見損ったゴードンの血液型のことだった。  もし、彼の血液型が、新聞にあったAB型だとしたら、どういうことになるのだろうか。      5  警察病院での司法解剖があったために、倉橋恵子の葬式は、三日たってから、アパートの彼女の部屋で行なわれた。  寂しい葬式だった。出席したのは、管理人と、「シャノアール」のホステスが一人と、私と、それに、長野県から駆けつけた彼女の母親の四人だけだった。私は、その席でゴードンから預かった金を母親に渡した。  私が、途中で廊下に出ると、いつかの刑事にばったりと顔を合わせた。 「あなたの事務所へ行ったら、こちらだと聞いたものですからね」  と、刑事は、この間とは違った丁寧な口調で私にいった。  私は、近くの喫茶店へ刑事を案内した。 「犯人の目ボシはついたんですか?」  私は、テーブルに腰を下ろしてから、刑事にきいた。刑事はくびを横にふった。 「いろいろと調べているんですが、これはという人間が浮かんで来ません。それで、あなたに会いに来たんですよ」 「まさか、ゴードンが怪しいというんじゃないでしょうね?」 「そのアメリカ兵はどうしました?」 「三日前にベトナムに戻りましたよ。今ごろはジャングルで戦っているでしょう」 「そうですか——」  刑事は、ぼそッとした声でいい、ちょっと天井《てんじよう》に眼をやった。 「どんな兵隊でした?」  視線を私に戻して刑事がきく。私は、「いい奴《やつ》ですよ」といった。 「日本を出発する瞬間まで、彼女が死んだことを知りませんでしたよ。それで私に、彼女が見つかったら渡してくれと九万円の金を置いて行きました。戦場ではいらないからといって」 「なるほど、いい青年らしいですね」 「だから、犯人はあの兵隊じゃありませんよ」 「しかし、彼女と関係があった以上、オミットするわけにはいきませんからね」 「彼女には、他にも男がいたんじゃありませんか?」 「もちろん、バーのホステスという職業柄、何人かの男とはつき合っていたようです。美人じゃないが、気だてがいいので、なかなか人気があったようですからねえ」 「犯人は、その男たちの中にいるんじゃないんですか」 「少しでも関係があったと思われる男は、全部調べてみましたよ。ところが、アリバイのある者ばかりなのです。となると、残るのは、ゴードンというGIだけということになるのです」 「しかし——」  私は、まだ、あのアメリカ兵が殺人犯だとは信じられなかった。私に対する態度が芝居だったのだとしたら、世界一の名優だろう。そんなことがあり得るだろうか。  刑事は、私の言葉を途中でさえぎって、 「それに、新しい目撃者が昨日になって出て来たのですよ」  と、いった。 「事件当日、現場近くの土手に外車が停《と》まっていて、中に、外国人と被害者に似た若い女が乗っていたのを目撃したアベックが見つかったのです」 「しかし、それが、ゴードンと倉橋恵子の二人と決まったわけじゃないでしょう?」  私は、自然にゴードンを弁護するような口調になっていた。私の頭には、どこか痛々しくさえ見えた彼の幼い顔が残っている。あの男が殺人犯であるはずがない。 「それはまあそうですがね」  刑事は、あいまいな表情になった。 「だが、事件当日、外国人と日本の女のアベックがいたという事実は、どうしても気になるのですよ」 「だからといって、私にどうしろというんです?」 「ゴードン二等兵の写真は持っていますか?」 「いや。彼に返しましたよ。彼は、倉橋恵子がまだ生きていると信じている。そんな彼にとって、彼女と二人で並んでいる写真は貴重なものですからね」 「写真がないとすると、明日は、私と一緒に歩き回っていただかなければなりませんな」 「一緒に? 歩き回る?」  私は驚いて刑事の顔を見た。刑事は、ニコリともしないで、「そうです」とうなずいた。 「警察としては、車に乗っていた外人がゴードン二等兵かどうか確かめたい。写真がなければ、あなただけが頼りということになりますからね」  私は、断わりかけたが、その言葉を途中で呑《の》み込んだ。警察が怖かったからではない。私には、ゴードンが事件に無関係だという確信がある。刑事と歩き回ることで、それを確かめたかったのである。 「協力しますよ」  と、私は、刑事に向かってうなずいて見せた。      6  翌日、警察の車が私を迎えに来た。 「これから、外車専門のレンタカー会社を一緒に回ってもらいます」  と、同行の刑事がいった。 「車の外人がゴードン二等兵だとしたら、自分の車ではなくレンタカーの可能性が強いですからね」  都内にレンタカー会社は多いが、外車専門となると、そうたくさんはなかった。二軒目の横田基地近くの会社で、事件当日、J・E・ゴードンというアメリカ人に、フォード・ムスタングを貸したという係員が見つかった。やっぱりといいたげな刑事の顔に、私は、 「ゴードンというアメリカ人は、何人もいるんじゃないですかね。きっと同名異人ですよ」  と、いった。刑事は、別にさからわず、係員に、そのアメリカ人の人相をいってくれと頼んだ。 「背広は着ていたが、あれは、GIですよ、匂いでわかりますよ。背広も身体にぴったりしていなかったし」  係員は、私と刑事の顔を見比べるようにした。 「年齢は二十歳くらい。身長一メートル八〇センチ。ひょろりとしていて、髪の色は茶褐色でした。それから、背広の色は淡いブルーです」 「————」  私は、声を呑《の》んで、思わず刑事の顔を見てしまった。間違いなく、あのゴードン二等兵だった。 「どうやら、ゴードンというGIが、車の借り主のようですね」  刑事が満足そうに私に向かっていい、それから係員に視線を戻した。 「それで、J・E・ゴードンは、いつ車を返しに来たのかね?」 「それが返しに来ないんですよ」 「それはどういうことだね?」 「一応四十八時間ということで、前金で払ってもらいました。ところが、二日たっても返しに来ない。三日目になって、多摩川の近くに乗り捨ててあるのが見つかったので、あわてて引き取りに行ったというわけです。どうも、兵隊というのは、ああいうことをするんで困りますよ」 「乗り捨ててあった場所は?」 「浅川との合流点の近くです」 「現場と、目と鼻の先だ」  刑事が、私の耳もとで呟《つぶや》いた。眼が光っていた。  刑事が何を考えているか明らかだった。ゴードン二等兵は、ベトナムから横田基地に着くと、レンタカーを借り、倉橋恵子を乗せて多摩川の川原に連れ出した。そして、情交のあと絞殺し、車を乗り捨てて逃げた。そう確信しているに違いなかった。 「そのフォード・ムスタングを見せてもらえないかね」  刑事が弾んだ声で係員にいった。私と刑事は、一台の車の前に連れて行かれた。アイボリー・ホワイトの車体が、キラキラと夏の陽光をはね返していた。 「目撃者も白い車だったといっていた」  刑事が、車体を撫《な》ぜながら呟く。刑事の確信はますます強まっていくようだった。  刑事が、ドアをあけて運転席をのぞき込んだ。私も、彼の背後からバケットシートや計器を眺め回した。私の眼には、惨劇の匂《にお》いは感じられなかった。 「この車が見つかったとき、車の中に何か落ちていなかったかね」  刑事が、係員を振り向いてきいた。係員は、すぐ、 「帽子が落ちてましたよ」  と、いった。 「帽子?」 「女の帽子です。持って来ましょう」  係員は、事務室に走って行くと、白いクーリーハットを手にして戻って来た。 「これが、今年の夏は流行《はや》ってるそうじゃありませんか」  係員が笑いながら、クーリーハットを刑事に渡した。確かに、今年の夏は、若い女性でクーリーハットをかぶる者が多いし、デパートなどでも売っている。 「だが、これは違うぞ」  刑事が、大きな声でいった。 「日本国内で売っているものじゃない」 「というと?」 「裏をよく見てごらんなさい」  刑事が、クーリーハットを私に渡してよこした。裏に白い小さな布がぬいつけてあって、それに、「Made in SAIGON」の文字を読むことができた。 「それは、サイゴンで、土産《みやげ》品として売られているクーリーハットですよ」  刑事が、ゆっくりと私にいった。 「ゴードン二等兵が、倉橋恵子への土産にサイゴンで買って来たものだということは、間違いないと思いますね」 「まるで、もう、彼が犯人だと決まったようないい方ですね?」 「他に考えようがありますか? ゴードン二等兵は、サイゴンで買ったクーリーハットを持って横田に着いた。ここで車を借り、浅草のバーへ行ったが、倉橋恵子が休んでいたので、アパートへ電話し、多摩川へ連れ出した。だが、そこで何かのことでもめてしまった。私の考えでは、おそらく情交のあと、彼女が法外な金をゴードンに要求したんだと思う。ホステスのやりそうなことですからね。カッとしたゴードンは、彼女の首をしめて殺し、車を近くに乗り捨てて逃げた。こんなところでしょう」  刑事のいい方は、自信たっぷりだった、が、私には、まだ納得《なつとく》できなかった。 「そうすると、次の日に、バーで倉橋恵子を出せと暴れたり、私に彼女を探してくれと頼んだのは、犯行をくらますための芝居だったというわけですか?」 「そう考えるより仕方がありませんね」 「私は反対ですね」 「なぜです? これだけ証拠が揃《そろ》っているんですよ」 「だが、あなたはゴードン二等兵に会っていない」  私は、彼の幼い顔を思い出しながらいった。 「私は、私立探偵という仕事のおかげで、人を見る目は普通の人よりあるつもりです。ゴードン二等兵は、そんな芝居をやっているようにはとうてい思えませんでしたよ。本気で、彼女に会いたくて仕方がないとしか見えませんでした」 「だが、彼は、多摩川で彼女に会っている。これは間違いない事実ですよ」  刑事は強い声でいった。確かに、刑事のいう通り、レンタカーやクーリーハットや目撃者のことを考えれば、ゴードンは倉橋恵子に会ったと考えざるを得ない。ということは、私に向かって、嘘《うそ》をついたということでもある。理屈ではそうなるとわかっていながら、私は、ゴードン二等兵が私に嘘をついたとはどうしても思えなかった。  事務所でのゴードン。横田基地で、私に倉橋恵子へ金を渡してくれといったゴードン。あの顔は嘘をついている顔ではなかったと思う。 「これで、ゴードン二等兵の血液型がAB型となれば、容疑は動かないものになりますよ」  刑事が、はっきりした声で私にいった。      7  それから十日たって、ゴードン二等兵から、私の事務所|宛《あて》に手紙が届いた。  私は、いつかの通訳に翻訳を頼もうかとも考えたが、思い直して、自分で訳してみることにした。  辞書をめくりながらのしんどい仕事だった。ところどころに俗語が飛び出して来て、そのたびに頭をかかえてしまったが、その方にくわしい友人の助けを借りたりして、どうにか日本語に直すことができた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈ミス恵子は見つかりましたか?  彼女から手紙をもらえないので寂しくて仕方がない。どんなことをしてでも探し出して、僕に手紙を書くようにいって下さい。そのために金がいるようだったら、送ります。  こちらは、文字通り地獄のようなところで、毎日、バタバタと人が死んでいく。まるで虫ケラみたいに。やり切れません。平和な日本に住んでいるあなたにはわからないでしょうね。  ミス恵子のことは、くれぐれも頼みます〉 [#ここで字下げ終わり]  その手紙を、私は、あの刑事のところに持って行った。捜査に協力するためというより、ゴードンが犯人と決め込んでいる刑事への反駁《はんばく》のつもりだった。 「いいですか」  と、私は、手紙を渡してから刑事にいった。 「彼は今、ベトナムという安全地帯にいるんです。日本の警察がいくら歯がみをしても、彼がベトナムの戦場にいる限りどうすることもできない。つまり、もう芝居をする必要はないわけでしょう。それなのに、こうしてまだ倉橋恵子のことを書いてくるのは、彼が無実の証拠じゃありませんか? そう思いませんか?」 「しかし、彼はいつまでもベトナムにいるわけじゃありませんからね」  刑事は、苦笑しながらいった。私は、眉《まゆ》をしかめて、 「あなたは兵隊の経験がありますか?」 「これでも二年間、南方で戦いましたよ」 「それならわかるはずです」 「何がです?」  刑事が、けげんそうにきくので、私は押しかぶせるように、 「戦場で、死ととなり合わせの生活をしていると、芝居をするような気持なんか消し飛んでしまうものだということです」  と、声を強めていった。刑事は、ちょっと考える表情になった。が、私の言葉には直接答えずに、 「ところで、この手紙に返事を出されるつもりですか?」  と、話題を変えた。 「出したくても、出しようがありませんよ。今さら、倉橋恵子は殺されたと事実を知らせるのは残酷すぎますからね」 「それを試してくれませんか?」  刑事は、まっすぐに私を見ていった。 「もし、ゴードンが無実なら残酷な返事になるでしょう。しかし、彼が犯人なら、残酷でも何でもない。どちらなのか試してもらいたいのです。倉橋恵子が多摩川で殺されたことを書いてから、彼の血液型を知らせるように書き加えて下さい。彼があなたのいう通り無実なら、おそらく悲しみの返事がくるでしょうし、血液型をきかれる理由がわからないと思う。だが、彼が犯人なら、芝居が成功しなかったと悟って返事は来ないはずです」 「つまり、罠《わな》をかけるというわけですね?」 「そういういい方も出来るかも知れませんね」  刑事は微笑した。  私は迷った。刑事には、協力するともしないとも約束せずに事務所に戻ったが、そのことが頭にあって、一日中落ち着かなかった。  私は、あのアメリカ兵を罠にかけるような手紙は書きたくなかった。だが、手紙を出さなければ、いろいろと落ち着けないこともわかっていた。  二日間、あれこれと悩んだ揚句《あげく》、私は、倉橋恵子の殺されたことを知らせる手紙を書き、何の説明もなしに、血液型を知らせてほしいと追《つ》け加えた。  返事はなかなか来なかった。  ゴードンの属している部隊が転戦していて、そのために返事を書けずにいるのだと考えようとした。  一か月が過ぎた。が、依然として返事は来なかった。刑事は、それが当然のような顔をしたが、私は、それでも、ゴードンが犯人とは考えられなかった。 (彼は戦死したのかも知れない)  私はそう考えた。  二か月、三か月が過ぎ、初冬の季節になった。  そして、私は、突然返事を受け取ったのである。いや、これは正確ないい方ではない。  ゴードン二等兵からの直接の返事ではなく、ある朝配られた新聞に、返事と同じものを発見したからである。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈ワシントンAP=ベトナム戦争では、死傷者の増加と同時に、精神錯乱者の増加もまた憂慮されている。最近では、J・E・ゴードン二等兵の場合もその一つの例といえよう。彼は勇敢な兵士だが一年前、農婦姿の若いベトコンに気を許したすきに親友を殺されてから、時どき、精神錯乱に落ち込むようになった。二か月前、突然、近くにいたベトナムの若い女性を絞殺し、軍法会議にかけられていたが、このほど、精神異常ということで、陸軍病院に収容されたものである〉 [#ここで字下げ終わり]  読み終わったとき、私は、胸の中を冷たい風が吹き抜けていくのを感じた。  倉橋恵子を殺したのはゴードン二等兵だ。  彼は、恵子にサイゴン土産のクーリーハットを贈り、多摩川の川原で抱いたのだろう。だが、その時、一時的な錯乱が彼を襲ったに違いない。  アメリカ人の彼には、日本人とベトナム人の区別はつくまい。しかも、倉橋恵子は、ベトナム人のようにクーリーハットをかぶっていた。それに、夏草の茂った川原は、ベトナムの地形に似ていたのかも知れない。錯乱状態に落ち込んだゴードンの眼には、クーリーハットをかぶった倉橋恵子は、一年前に親友を殺したベトコンの若い女に見えたのだろう。  正気に戻った彼は、自分の行為を覚えていなかった。だからこそ、いなくなった倉橋恵子を必死で探し、捜索を頼みに来た彼の態度に、芝居がなかったのだ。 (ゴードン二等兵が、自分で倉橋恵子を殺したことを知らなかったのが、唯一の救いだな)  と、私は自分にいい聞かせた。そうでも考えなければやり切れなかった。 [#改ページ]  罠《わな》      1  私が、その探偵社に入ったのは、去年の夏である。  探偵員が五十六名いたから、探偵社としては、大きい方である。私は、最初から、探偵の仕事をやりたかったのだが、仕事が理解できてからということで、事務に廻された。  私は、面白くなかった。自分には、探偵員の素質が、あると、自惚《うぬぼ》れていたからである。自然に、事務の仕事に身が入らず、探偵員の仕事にばかり、眼《め》が走ってしまった。  探偵社が引き受ける仕事には、いろいろある。  一番簡単なのが、身上《しんじよう》調査と呼ばれるもので、或《あ》る人間の経歴や、家庭の状況が調査される。料金は、四千円から五千円だった。  素行《そこう》調査、結婚調査となると、難《むずか》しくなり、料金も、一万円から、二万円になる。特に結婚調査の場合、血縁まで調べてほしいという依頼があれば、本籍地の北海道や、九州にも、飛んでいかなければ、ならなかった。  家出人を、警察に知られずに、探してほしいという依頼もある。所在調査と呼ばれるもので、基本料金一万円の他《ほか》に、一日につき二千円から三千円の割増料を取った。所在がつきとめられれば、更に、成功報酬が、請求される。  探偵員は、絶えず出歩き、社に戻ってくると、報告書を書く。私は、そうした探偵員達の行動を見ていたが、二階の隅《すみ》にある小部屋のことが、気になって来た。  その部屋の扉《とびら》には、「特別調査」と、金文字で書いてあった。私が、変に思ったのは、その部屋に、大きな机が、置かれてあるのに、机の主《ぬし》の姿を見たことが、ないからである。  無人の部屋というわけではなかった。二十五、六の色白《いろじろ》の女が、脇机《わきづくえ》に坐《すわ》っていた。が、彼女が、この部屋の主《あるじ》である筈《はず》がなかった。恐らく、秘書なのだろうが、肝心《かんじん》の人間がいないので、不審でならなかった。  私は、古参《こさん》の探偵員に、訊《き》いてみた。 「俺《おれ》も、詳しくは、知らん」  と、探偵員は、いった。 「あの部屋のことを詳しく知っているのは、社長だけじゃないかな」 「特別調査というのは、何のことです?」 「産業スパイというのを、知っているかね?」 「ええ。本で読んだことが、あります」 「うちへも、或《あ》る自動車会社が開発中の新車の性能と、発売時期を調べて欲しいというような依頼が、来ることがある。我々には、手に余る仕事だ。普通の探偵員では、歯が立たない」 「それを、あの部屋の主《ぬし》が——?」 「そうだ。彼がやる」 「彼というと、男ですね?」 「男ということは判《わか》っているが、顔を見た者はいない。山田五郎《やまだごろう》となっているが、これは明らかに、偽名《ぎめい》だよ」 「しかし、連絡は、どうやってしているんですか?」 「あの部屋にいる女が、彼の電話番号を知っていて、依頼があると、電話するらしい。何日かすると、彼から報告書が送られてくる。それを、依頼主に渡すのだ」 「何故《なぜ》、顔を見せないんですか?」 「仕事の性質が性質だからだろう。例えば、或る会社に入り込まなければならないことがあるとして、顔が知られていたら、まずいだろうからね」 「産業スパイというのは、儲《もう》かるんですか?」 「成功すれば、成功報酬が手に入る。だいたい百万単位のね」 「百万単位——」  私は、その金額に、感動した。私の貰《もら》っている月給が、二万円に満たなかったからである。      2  私の関心は、「特別調査」室に集中した。部屋に、というより、姿を見せない、部屋の主《ぬし》に対してである。  私は、まず、秘書役をやっている女に近づくことにした。幸い、彼女の帰宅の方向が、私と同じであった。接触は、電車の中から始まった。  彼女の名前は、朝井玲子《あさいれいこ》。年齢は、二十三歳ということだったが、これは、当てにならなかった。私にはもう少し老《ふ》けて見えたからだ。 「私も、あの人のことは、よく知らないのよ」  と、玲子は、いった。彼女は、「山田五郎」という名前をいわずに、「あの人」といういい方をした。このことからも、山田五郎は仮名のようだった。 「しかし、貴女《あなた》は、電話を掛けている筈《はず》だ」 「ええ。でも、知っているのは、声だけ」 「電話番号は?」 「それは、誰《だれ》にも、喋《しやべ》っては、いけないことになっているの。もし喋ったら、私は、馘《くび》になってしまうわ」 「どうしても、会いたいんだけど」 「会って、どうするの?」 「僕も、あんな仕事をしてみたい。一件の仕事をしとげただけで、百万単位の金が転がり込んでくる仕事がね」 「————」  玲子は、妙な笑い方をした。 「僕には、無理な仕事だと思っているんだね?」 「まあ、そうね。あの人の仕事には、鋭い頭脳と、冷酷な心が必要なのよ」 「僕には、両方ないと思う?」 「あると思ってるの?」 「やってみなければ、判《わか》らない。だから、助手にでも使ってみてくれないかな。あの人に、僕を紹介してくれないか」 「無理ね」 「何故《なぜ》?」 「あの人が、そんな話を受けつける筈《はず》がないからよ。あの人には、あまり興味を持たないことね。貴方《あなた》が傷つくわよ」 「何故、僕が傷つく?」 「あの人が、冷酷な人間だから。万一、貴方を近づけたとしても、それは、貴方を利用するためよ」 「利用されてみたいね」 「馬鹿《ばか》なことを、いうもんじゃないわ」  玲子は、怒ったような声を出した。彼女は、山田五郎のことを、可成《かな》り知っているのかも知れない。私は、そんな気がして来た。 「とにかく、今度、連絡の電話を入れる時には、僕のことを話してみてくれないか。助手志望の男がいることをね」  返事はなかった。  私は、彼女に会う度に、同じ言葉を繰り返した。  その効果が、あったのかも知れない。 「あの人から、これを見せろと、いって来たわ」  と、玲子は、一枚の紙片を、私に渡した。 「貴方《あなた》をテストするつもりよ」  私は、紙片に眼《め》を通した。タイプされた文字が並んでいた。一人の男の履歴書になっていた。 「タイプだ」 「あの人は、筆跡も、他人に知られたくないのよ」 「何をテストするんだ?」 「電話で、こういって来たわ。タイプされた履歴書を見せて、問題を出せって。問題は一つだけ。貴方《あなた》が、中小企業の人事課長だとする。履歴書を持った男が、就職を頼みに来た」 「この履歴書が、その男のものというわけだね」 「ええ。今のような時代には、職員の採用にも用心が肝要《かんよう》だわ」 「山田五郎のような産業スパイが、いるから?」 「まあ、そうね。それで、この履歴書を見ただけで、何処《どこ》か訝《おか》しいところが、発見できる筈《はず》だというのよ。それを指摘してみろと、いったわ」 「指摘できたら、助手に使ってくれるのかな?」 「それは、知らない。あの人は、ただ、テストしてみたいと、いって来ただけ、やってみる」 「勿論《もちろん》」  私は、タイプされた履歴書を、睨《にら》んだ。 [#ここからゴシック体]  本 籍 栃木《とちぎ》県|佐野《さの》市二六五番地  現住所 東京都|新宿区四谷左門町《しんじゆくくよつやさもんちよう》二六番地 [#地付き]栗《くり》 原《はら》 一《いち》 郎《ろう》  昭和十年二月一日生   昭和二八年三月 明大《めいだい》理学部卒  同 三三年四月 科学技術庁に就職  同 三六年二月 同庁を退職  同 三六年五月 NEC研究所に就職  同 三八年六月 同社を退職  同 三八年九月 三菱《みつびし》電機に入社、現在に至る  右相違ありません [#地付き]栗 原 一 郎 ※[#○印、unicode329e] [#ここでゴシック体終わり] 「簡単だ」  と、私は、笑った。 「子供|欺《だま》しだな。昭和二十八年明大卒が訝《おか》しいよ。昭和十年生れなら、二十八年には、まだ十八歳の筈《はず》だ。だから、大学を卒業できる筈がない」 「他《ほか》には?」 「その他は、まともな履歴書だと思う。現住所の左門町二六番地に、本当に、栗原一郎という男が住んでいるかどうかは、判《わか》らないがね」 「貴方《あなた》のいった通りを、電話するわ」  と、玲子は、いった。      3  私は、返事を待った。三日後に、玲子と顔を合わせた時、 「残念ね」  と、彼女が、いった。 「あの人は、笑ってたわ」 「笑ってた? 僕がテストに合格しなかったということ?」 「そうね」 「しかし、十八歳で大学を卒業する筈《はず》がないんだから、僕の指摘は、正しかった筈だ」 「あれは、罠《わな》だったと、あの人は、いってたわ」 「罠?」 「子供にでもわかるようなミスを書き込んでおいて、肝心な点をカモフラージュしたと、いっていたわ。貴方《あなた》は、それに、引っ掛かったらしいのよ」 「じゃあ、何処《どこ》が肝心な点なんだ?」 「知らないわ。あの人は、もう一度、あの履歴書をよく見るように、いえといっていたわ。それでも、訝《おか》しな点が指摘できなければ、貴方は、余程《よほど》、どうかしているんだと」 「くそッ」 「あの人が、いっていたのよ」 「わかってる」 「貴方《あなた》は、テストに合格しなくて、かえって良かったのかも知れないわ」 「何故《なぜ》?」 「あの人に近づけば、貴方が傷つくだけだからよ」 「そんなことは、君の知ったことじゃない」  私は、素《そ》っ気《け》なく、いった。  私は、タイプされた履歴書を、もう一度取り出して、見直した。しかし、大学卒業の年次を除いては、何処《どこ》にも、訝《おか》しな点は見つからなかった。まともな履歴書なのだ。  私は、次第に、腹が立って来た。肝心な点が、隠されているなどというのは、出鱈目《でたらめ》なのではないだろうか。最初から、私を揶揄《からか》うだけの目的で、この履歴書を見せたのではないか。  私には、次第に、そう思えて来た。 (馬鹿《ばか》にしていやがる)  と、思い、相手の鼻をあかしてやりたいと思った。 (俺《おれ》にだって、産業スパイの真似《まね》ごとぐらいは出来る筈《はず》だ)  山田五郎に対する嫉妬《しつと》でもあり、敵愾心《てきがいしん》でもあったかも知れない。  それから、二日後のことである。  私は、「特別調査」室の前まで来た時、ドアが、開いているのに気付いた。覗《のぞ》いてみると、朝井玲子の姿もない。  私は、中へ入ってみた。特別調査室に普通の人間が(というのは、朝井玲子以外はということだが)入ることは、禁じられていた。勿論《もちろん》、私も、入るのは初めてだった。  何《なん》の変哲もない、がらんとした部屋である。電話が一つ、奥の机の上に載っている。彼女が、山田五郎と連絡に使う電話だ。私は、相手の電話番号を知りたいと思ったが、電話番号らしいものは、何処《どこ》にも書いてなかった。  私は、玲子の机に、視線を移した。硝子《ガラス》の大きな下敷の隅《すみ》から、タイプされた書類が、のぞいていた。  私は、外の気配を窺《うかが》った。玲子の戻ってくる様子はない。  私は、書類を、引き出した。指先が一寸《ちよつと》、ふるえた。  書類の表紙には、「調査依頼」と書かれ、「秘」の印が押してあった。  私は、中を読んだ。 [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ] ○調査事項[#「調査事項」はゴシック体]=日東工業が研究中と伝えられる小型スポーツ・カーの性能と、予想される市場価格 ○成功報酬[#「成功報酬」はゴシック体]=百五十万円。青写真が入手できた場合は、更に百万を追加。 ○期限[#「期限」はゴシック体]=出来得れば、九月二十日までに入手されたい。 [#ここで字下げ終わり]  依頼主の項には、ただ、「K・T」とだけ記してあった。恐らく、これは、何所《どこ》かの自動車会社を示す記号なのだろう。  九月二十日といえば、まだ、一か月以上の期限がある。恐らく、奴《やつ》も、これから動き出すのだろう。 (百五十万は、悪くないな)  と、私は、思った。それに、日東工業には確か、叔父《おじ》が、いた筈《はず》だった。あの叔父から、何か情報が取れるかも知れない。もし、取れれば、依頼者から金《かね》を貰《もら》えるだろうし、何よりも、奴の鼻をあかしてやることが出来るではないか。  私は、その書類を、元に戻すと、足音を殺して、特別調査室を出た。      4  叔父の名前は、根岸徳太郎《ねぎしとくたろう》といった。日東工業の営業部長である。営業部長の椅子《いす》が、会社で、どれほど重要なものか、勿論《もちろん》、私には、わからない。しかし、部長というからには、多少は、社内の秘密にタッチしているに違いなかった。  私は、叔父に会ってみることにした。何気《なにげ》なく、新車のことを、訊《き》き出せるかも知れない。  まず、電話をかけた。 「何《なん》の用だ?」  と、叔父が、いった。 「金《かね》の無心《むしん》なら、断わるぞ」 「金なら、持っています」  と、私は、いった。 「一身上のことで、相談したいことがあるんです。一度、会って貰《もら》えませんか?」 「あいにく、今、忙しい」 「昼休みは?」 「そうだな、三十分くらいならいいだろう。銀座へ出てくるかね?」 「ええ。行きます」  私は、会う場所を約束してから、電話を切った。  私は、自分が、緊張しているのを感じた。上手《うま》くいけば、特別調査室の主《ぬし》に勝てるのだ。私を鼻で笑った奴をである。金も入るだろうし、腕のいい産業スパイのレッテルがつけば、上手く売り出せるかも知れない。いかにも甘い考えだが、この時には、興奮ばかりを矢鱈《やたら》に感じていた。  昼休みに、私は、銀座の喫茶店で、叔父《おじ》に会った。  叔父に会うのは、二か月ぶりである。肥満した叔父は、日東工業営業部長の貫禄があった。 「用は何《なん》だね?」  椅子《いす》に腰を下ろすなり、叔父は、せっかちな調子で、訊《き》いた。 「忙しそうですね?」 「ああ。だから、手短かに頼むよ」 「忙しいのは、秋に売り出すスポーツ・カーのことでですか?」 「なに?」  叔父が、眼を剥《む》いた。  私は、一寸《ちよつと》、愉快になった。職を転々とする私は、親類の間で、あまり評判のよい方ではなかった。特に、明治生れの生真面目《きまじめ》な、この叔父には、不評だった。その私の言葉に、叔父が眼を剥いたのだ。 「何のことかわからん」  叔父がいったが、顔に動揺の色が走っていた。 「とぼけないで下さいよ」  と、私は笑った。 「誰《だれ》にも、いいやしませんから、正直に、いって下さいよ」 「誰《だれ》に、聞いたのだ?」 「あるところからね」 「お前の用というのは、そのことと、何か関係があるのか?」 「いや、ありません」  私は、周章《あわ》てて、いった。叔父を余り警戒させてはならない。 「僕は、車に興味があるんです。まあ、若い男なら、誰だって、車に興味を持っていますがね」 「用件を早く、いい給え」 「叔父さんは、営業部長でしょう?」 「そうだ」 「車が売れれば、成績が上がるわけですね?」 「まあね」 「僕の友人で、スポーツ・カーを買いたいというのが、三人ばかりいるんですがね」 「お前の友人?」 「大学時代の友人です。僕は、スッカラカンの方ですが、友人には、金持の息子《むすこ》が何人もいますからね」 「それで?」 「その三人ですが、この間、集まった時に、どんなスポーツ・カーが良《い》いかという話になったんです。国産がいいか、外車がいいかの話も出ました。三人とも、案外、国産愛用でしてね。日本の会社が、いいスポーツ・カーを作れば、それを買いたいと、いっていました」 「早く要点に入り給え」 「その時、叔父さんのことが、話に出たんです。自動車会社の幹部ということで。日東工業は、スポーツ・カーを作らないのかと、一人が、訊《き》きました。僕は、作るかも知れないといったんです」 「それで?」 「もし、性能のいい、安いスポーツ・カーを出すのなら、三人とも、日東工業のを買いたいというんです。叔父さんの会社は、独創性があるというので、案外人気がありますからね」 「それで、お前が、頼まれたと、いうわけか」 「ええ。誰にもいいませんから、教えて貰《もら》えませんか? 性能と、値段を」 「馬鹿《ばか》!」  叔父が、怒鳴《どな》った。 「わしが知っていたとしても、そんな秘密を、お前に話せると思っているのか」 「叔父さんは、知っているんですね?」 「そんなことは、お前の知ったことじゃない」 「叔父さん」  と、私が、いった時、微《かす》かな金属音のようなものを耳にした。  私は、横のテーブルに、眼をやった。  若い、素晴《すば》らしい身体《からだ》つきの女が、冷たい横顔を見せて、コーヒーを飲んでいた。他《ほか》に、人の姿はない。 「わしは、帰るぞ」  と、叔父がいった。私は、周章《あわ》てて、視線を、元に戻した。 「叔父さんの家へ遊びに行きますよ」  と、私は、いった。 「それは、構わないでしょう?」      5  喫茶店での話が、成功だったか失敗だったか、私には、わからなかった。スポーツ・カーを欲しがっている友人の話は、勿論《もちろん》、でまかせだったが、叔父が、でまかせと気付いたかどうかも、わからない。恐らく、うさん臭《くさ》い話だとは、思ったろう。しかしウスノロの(叔父は、時々、ウスノロの健一郎《けんいちろう》と、私のことを呼ぶことがあった)私が、大それた考えを抱いているとは、気付いていない筈《はず》だった。  それに、叔父が、会社の秘密に、或《あ》る程度タッチしていることがわかったのも、一つの収穫であった。叔父と接触を保っている間に、何か聞き出せるかも知れないという期待が、私には、あった。叔父は、私が、探偵社に勤めていることは、知ってはいない。まさか、私を、警戒することもないだろう。奴《やつ》に勝つチャンスはあると、私は、思った。  次の日曜日に、私は、田園調布《でんえんちようふ》の叔父の家を訪ねた。  叔母《おば》と、高校生の娘は、私を歓待してくれたが、叔父は、何《なん》となく、煙たそうな眼で、私を見た。急に、私が、叔父に関心を持ち出したので、気味悪く感じているのかも知れなかった。  叔父は、碁《ご》が好きだった。典型的なザル碁で、いつもなら、相手になるのが面倒《めんどう》で嫌《いや》だったが、この日は、私の方から、碁の話を、持ち出した。  碁盤《ごばん》を囲み、私は、わざと、続けて、三番ばかり負けてやった。これも、奴を負かすためと、百五十万の金のためである。 「今日《きよう》は、調子が、いいじゃありませんか」  と、私は、柄《がら》にもなく、お世辞を、いった。 「会社の仕事が、順調なせいですね」 「会社の仕事?」 「スポーツ・カーのことですよ」  私は、笑いながら、いった。 「世界的水準のスポーツ・カーが生まれるんじゃありませんか?」 「そんなことは、わしは、知らん」 「僕を警戒しているんですか?」 「お前など、警戒はせん」 「そうでしょう。僕なんか警戒したって仕方がありませんからね」  私は、にやにや笑った。 「何を笑う?」 「スポーツ・カーのことを話しだすと、叔父さんの顔色が変るからですよ。それじゃあ、まるで、日東工業が、スポーツ・カーの開発をすすめていることを、白状しているようなものじゃありませんか」 「————」 「早く、国産の、素晴らしいスポーツ・カーが生まれて欲しいもんです。日東工業には、スポーツ・カーを作るぐらいの技術は、あるんでしょう?」 「勿論だ」 「作るとすれば、いくら位《ぐらい》で、作れるんです?」 「そんなことを訊《き》いて、どうするんだ?」 「例の三人の友達に教えてやりたいんですよ。日東工業が、スポーツ・カーを発売するまで、買うのを待てと」 「友達の話というのは、本当なのか?」 「勿論《もちろん》、本当ですよ。叔父さんだって、営業部長として、スポーツ・カーの潜在需要が、どの位のものか知りたいでしょう? 僕が、協力して調べてあげますよ」 「そんなことは、わしの部下が、調べている」 「それで、売れる確信が持てたので、日東工業は、スポーツ・カーの開発に、着手したわけですね?」 「そんなことは、知らん」 「駄目《だめ》ですよ。清盛《きよもり》の鎧《よろい》と同じで、チラチラ覗《のぞ》いている。どんな車が出来るんです? 何馬力《なんばりき》ぐらいの車ですか?」 「何《なん》で、そんなことを訊《き》くのだ?」 「僕も、友人達も、自動車好きですからね。特に、スポーツ・カーは」 「わしは、知らん」 「M・Gの性能は、無理ですか? 国産では」 「M・G。あんな車は、問題にしてやせん」  叔父は、胸を張って、いった。 「それは、頼もしいですね」  私は、せいぜい、叔父を、あおり立てた。 「しかし、M・G以上の性能があっても、百万以上の価格では、日本じゃ、売れないんじゃありませんか。N社のスポーツ・カーは、九十万を割ってますよ」 「むろん、百万以下だ。N社には負けん」  と、いってから、叔父は、周章《あわ》てて、口を押さえた。 「もう、お前と、車の話はせん」 「碁《ご》の話にしますか?」  私は、笑いながら、いった。      6  上手《うま》くいきそうな予感がして来た。叔父は、ほんの少しだが、口を滑らせたではないか。M・Gに近い性能と、N社が、現在発売しているスポーツ・カー以下の値段。恐らく、日東工業は、その線を目標に、新しいスポーツ・カーの開発を進めているに違いないのだ。叔父に、上手く取り入れば、もっと、はっきりした数字が、入手できるかも知れない。  可成《かな》りの収穫があったことに、満足して、私は、叔父の家を出た。  外は、まだ、明るかった。私が、駅に向って歩き出した時、私の傍《そば》を走りぬけて行った車があった。 「おやッ」  と、思ったのは、運転していた若い女の顔に、見憶《みおぼ》えがあったからである。 (あの女だ)  と、思った。私と叔父が、銀座の喫茶店で話し合っていた時、隣のテーブルに、腰を下ろしていた若い女だ。 (偶然だろうか?)  私は、考え込んでしまった。普段なら、そんな疑問を持つ筈《はず》がないのだが、産業スパイを気取っていた時だけに、疑い深くなっていたのだ。  しかし、彼女が何者なのか、私にわかる筈もなかった。  次の日曜日に、私は、再び、叔父の家を訪《たず》ねた。 「珍しいこともあるものね」  と、叔母《おば》は、笑った。 「続けて、貴方《あなた》が見えるなんて」 「叔父さんと、碁《ご》がしたくて、来たんですよ」 「それなら、生憎《あいにく》だったわ」  人のいい叔母は、済まなそうにいった。叔父は、朝早く家を出たのだという。 「会社ですか?」 「そうらしいわ。最近、とても忙しいらしいのよ」  いよいよ、スポーツ・カーの生産が軌道に乗り始めたのでは、あるまいか。私には、そうとしか考えられなかった。  叔父が不在では仕方がない。私は、家に戻り、翌日、会社へ電話をかけた。  電話に出たのは、営業部長付きの女の子だった。私は、自分の名前をいい、叔父を呼んでくれるように、いった。  五分ばかり待たされてから、女の子が、また電話口に、戻って来た。 「部長は、話すことはないと、おっしゃっています」  と、彼女は、ひどく冷たい声で、いった。 「話すことはないって、僕の名前を、いってくれたのかね?」 「はい。申し上げました。それでも、話すことはないと、おっしゃっています」 「しかし——」 「忙しいので、電話を切らせて頂きます」 「もしもし——」  ぷつんと、電話が切れてしまった。 (変だな)  と、私は、思った。暗い予感のようなものが、私を襲った。  翌日、再び電話してみたが、結果は、同じだった。叔父は、電話口に出て来なかった。ただ、忙しいからとは、思えなかった。何かがあったのだ。明らかに、叔父は、私を避けている。  叔父は、私が、何を企《たくら》んでいるか、知ったのだろうか? それなら、警戒する理由もわかるが、どうして、叔父に、わかったのだろうか? (私が、スポーツ・カーのことばかり、訊《き》いたからだろうか?)  しかし、それだけで、私が、その秘密を掴《つか》んで、産業スパイを働く気でいると、思う筈《はず》がなかった。私を軽蔑《けいべつ》している叔父なのだ。 (誰《だれ》かが、叔父に、告げ口をしたのか?)  しかし、私は、自分勝手に始めたのだ。私の考えを、知っている人間があるとも、考えられなかった。  結局、叔父に会ってみるより仕方がなかった。  私は、銀座にある日東工業本社の前で、叔父が出てくるのを待った。  二時間近く、私は待った。七時過ぎになって、やっと、帰り仕度《じたく》をした叔父が、姿を現わした。 「叔父さん」  と、私は、背後から、声をかけた。叔父が、立ち止まって振り向く。その顔に、暗い表情を見て、私は、一寸《ちよつと》、ひるんだ。 「何の用だ?」  と、叔父は、押し殺したような声で、いった。眉《まゆ》が、嶮《けわ》しく寄っていた。私を見る眼《め》に、憎しみさえ浮かんでいるようだった。 (一体、これは、どうしたことなのだ?)  私は、笑って見せた。が、叔父の顔は、ぴくりとも動かなかった。 「叔父さんは、何を怒っているんです?」 「お前の胸に訊《き》いてみろ」 「わけがわかりませんが——」 「いいわけは、いい。とにかく、わしの前に姿を見せんでくれ」  それだけいうと、叔父は、さっさと、歩き出してしまった。  私は、周章《あわ》てて、追いかけると叔父の腕を掴《つか》んだ。 「待って下さい。叔父さん」 「うるさいッ」  怒号《どごう》と一緒に、叔父は、私を突き飛ばした。不意だったし、姿勢が崩れていたので、私は、もろに、歩道に転倒した。  私が、起き上がった時、タクシーでも拾ったのか、叔父の姿は、既に消えていた。  私は、腕に眼をやった。転んだ時、すりむいたとみえて、血が滲《にじ》んでいた。しかし、私は、その痛みを感じるよりも、叔父の変化に、気を取られていた。  何があったのか、それを知りたいが、あの調子では、叔父にきくわけにもいかない。  私は急に、自分が、無力に思われて来た。昨日《きのう》まで、一人前の産業スパイを気取っていたのに、それが、がたがたと、崩れてしまった感じだった。叔父の線が切れてしまったら、私には、逆立ちしても、日東工業の秘密を探り出す手段も、自信もない。  私は、ぼんやりと、夜の銀座を歩き、一軒のバーに入った。ひどく、酒が飲みたかったからだ。  薄暗い店だった。テーブルに腰を下ろして、ウイスキーの水割りを注文してから、何気なく前に眼を向けて、おやッと思った。  前のテーブルに、あの女がいるのだ。間違いなく、あの女だった。冷たく、取りすました顔と、グラマラスな身体に、見憶《みおぼ》えがあった。  私は、何の理由もなく、この女が、私のことを知っているに違いないと感じた。  私は、彼女のテーブルに移った。 「君は、僕を知っているね?」  と、私は、いった。返事はなかった。しかし、眼の色が、動いたような気がした。 「君の名前は?」 「————」 「何故《なぜ》、僕を知っている? 君は誰だ?」 「私を抱きたいの?」  女は、小さく笑って見せた。 「抱きたいと、いったら?」 「一度だけなら、抱かせてあげるわ」 「その前に、名前を聞かせてくれ」 「名前? そんなものは、どうでもいいことだわ」 「僕を知っているんだろう?」 「さあ」  女は、陰のある微笑を浮かべて、立ち上がった。私も、周章《あわ》てて、立ち上がって、女のあとを追った。      7  女の身体《からだ》は、美しかった。しかし、彼女は自分の名前を、最後まで、いわなかったし、私を知っているかどうかにも、沈黙して、答えてくれなかった。  焦燥《しようそう》を抱《いだ》いたまま、私は、翌朝《よくあさ》、ホテルの前で、その女と、別れた。別れて、探偵社に出社してから、上衣《うわぎ》のポケットに、紙片が入っているのに気付いた。  取り出して、拡《ひろ》げて見た。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈貴方《あなた》は、敗北したのです。日東工業のことは、諦《あきら》めなさい。諦めないと、貴方が、傷つくことになります〉 [#ここで字下げ終わり]  女文字で、それだけ書いてあった。あの女が、投げ入れたのだ。  あの女は、矢張り、私のことを知っていたのだ。それだけではない。  日東工業のことも、何もかも、知っているのだ。 (何故《なぜ》、あの女が?)  わからなかった。  暗い敗北感だけが、私を包んだ。何か、大きな力に、ほんろうされているような気がしてならなかった。  私は、夜になってから、昨夜《さくや》のバーに行ってみた。しかし、あの女の姿は、なかった。  バーテンや、マダムにきいても、知らないというばかりである。  翌日も同じであった。夜の銀座を歩き廻《まわ》ったが、あの女の姿は発見できなかった。  その状態のまま、日が経《た》ち、九月二十日が来た。  調査依頼書にあった、期限の日である。私は見事《みごと》に失敗したが、あの男は、どうだったのだろうか。  特別調査室の主《ぬし》は、成功して、百五十万円の成功報酬を手に入れたのだろうか。  私は、それを知りたくなって、二階の、特別調査室を覗《のぞ》いてみた。  相変らず、部屋の主の姿はなく、朝井玲子だけが、ぽつんと、腰を下ろしていた。  私は、ドアを開けた。玲子は、私を見ると立ち上がって、来た。 「貴方《あなた》に、渡すものがあるわ」  と、彼女は、いった。 「何《なん》だ?」 「あの人からの手紙よ」  玲子は、手に持っていた部厚い封書を、私に差し出した。 「何故、僕に手紙を?」 「知らないわ」  玲子は、素っ気なくいうと、自分の机に戻ってしまった。  私は、自分の部屋に戻ると、封を切った。  タイプされた文字が、眼に飛び込んで来た。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈君は、敗北した。それを認めて、二度と、危険な火遊びはしないことだ。忠告する。  君には、向いていない仕事だ。それは、はっきり、わかったと思うがね。  何故《なぜ》、私が、何もかも知っているか、君は不思議に思うかも知れない。その理由は、簡単だ。全《すべ》ての筋書《すじが》きを、私が書いたからだ。  最初から、書こう。朝井玲子から、君のことを聞いた時、私は、黙殺するつもりだった。  しかし、念のために君のことを調べたら、親類に、日東工業の営業部長がいることがわかった。根岸徳太郎だ。  私は、君に、利用価値があると考えた。君の才能にではなく、日東工業の営業部長を叔父《おじ》に持っている君の立場にだ。その頃、私は、日東工業が開発しているというスポーツ・カーの調査を依頼されていた。私は、様々《さまざま》な会社にコネを持ち、その会社の社員を、平常から買収している。しかし、日東工業にだけは、引っかかりがなかった。困っていたところへ、君が現われたのだ。  私は、君を軸にして、一つの作戦を立てた。ここまで書けば、その後に起こったことが、全て、私の書いた筋書きと、君にもわかる筈だ。  私は、まず、君にタイプした履歴書を見せて、テストめいたことをやった。あれは、君をくやしがらせるのが目的だった。案《あん》の定《じよう》、君は、馬鹿《ばか》にされたと思い、私に対抗意識を燃やし始めた。産業スパイぐらい、自分にも出来ると、思い始めた。  次に、私は、朝井玲子に命じて、特別調査室に、君を入れさせた。机の上には、あの調査依頼の書類を載せて置き、君が見るように、しむけた。玲子は、仲々《なかなか》、上手《うま》くやったらしい。  君は、マンマと、引っかかった。日東工業には、君の叔父がいる。彼から上手く聞《き》き出せれば、大金が手に入るし、私の鼻をあかせると、君は考えた。  私の作った罠《わな》に、君は、はまり込んだのだ。  君は、電話して、叔父の根岸徳太郎と、銀座の喫茶店で会った。あの時、君に尾行《びこう》がついていたのを知っていたかね? 例の女だよ。君が抱いた女だ。  彼女は、君が、根岸徳太郎と、会っているところを、写真にとった。シャッターの音が聞こえなかったかね。それから、小型テープレコーダーで、君達の会話も、録音した。スポーツ・カーのことを喋《しやべ》っている会話をね。  彼女は、君が、叔父の家に入って行く姿も写真にとった。全て、私が命じたことだ。これだけの資料が揃《そろ》えば、あとは、簡単だ。私は、根岸徳太郎を脅迫した。日東工業の営業部長が、探偵社員と、何度も会っている。しかも、会話は、問題になっている小型スポーツ・カーに関することだ。写真とテープを、会社の幹部に送ったら、どうなるか。間違いなく、根岸徳太郎は、馘《くび》だ。  彼は、私の脅迫に屈した。つまり、新車の性能と、発売予定価格を、私に教えてくれたというわけだ。私は、それを、N社に売り百五十万の金を手に入れた。取引きは、もう終わっている。誰が、秘密を洩《も》らしたかは根岸徳太郎が、口を閉ざしている限り、わかりはしない。定年まで、営業部長で、いられるということだ。  君は敗北した。それも、闘って敗れたのではない。君は、ただ、私に踊らされただけだ。もう、危険な火遊びは、止めることだ。  私は、最初に、君に警告した筈《はず》だ。朝井玲子の口を通じて、私に近づくと、傷つくとね。それなのに、君は、私に近づこうとした。だから、敗北したのだ。  この世界は、非情だ。冷酷だ。だから、私のように、冷酷な人間でなければ、成功はしない。君には、無理だ。君は、感情的でありすぎるからね。  最後に、君に見せた、履歴書のことに触れよう。  あの履歴書は、前に書いたように、君をテストするためでなく、君を私の罠《わな》に引っかけるためのものだった。君に、敵愾心《てきがいしん》を起こさせるために、見せたものだし、君は、見事《みごと》に、引っかかった。  しかし、あの履歴書は、出鱈目《でたらめ》ではない。君が、肝心の点を、見落としたと、指摘したのも、本当だ。君には、それが、とうとうわからなかったようだが、そういう散漫な注意力だから、私の罠に、はまってしまうのだよ。  君は、昭和十年生れの男が、昭和二十八年に、大学を卒業する筈がないと、いった。朝井玲子の話では、君は、得意気《とくいげ》に、それを指摘したらしいが、そんな誤りは、小学生でも、気付くことだ。あれは、肝心な点をかくすトリックなのだ。一つの誤りに気付くと、人間という奴《やつ》は、得意になり、肝心な点を見落としてしまうものだ。  いいかね。あの履歴書を見せた時、朝井玲子は、君に、問題を伝えた筈だ。「貴方が、中小企業の人事課長だとする。履歴書を持った男が、就職を頼みに来た。その男の履歴書だが、何処《どこ》か訝《おか》しい点はないか」これが、問題だった筈《はず》だよ。  ここまで書けば、もうわかった筈だ。わからないかね?  問題は、職歴の最後の項だ。あの履歴書には、次のように書いてあった筈だ。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]   同 三八年九月 三菱《みつびし》電機に入社、現在に至る[#「同 三八年九月 三菱《みつびし》電機に入社、現在に至る」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  いいかね。三菱電機といえば、大会社だ。しかも、履歴書には、退職したと書いてないのだから、現在も、三菱電機の社員の筈だ。そして、君は、中小企業の人事課長なのだから、三菱電機の社員が、中小企業へ就職試験を頼みに来たことになる。人事課長としては、当然、疑問を抱《いだ》く点だ。技術を盗みに来たか、三菱電機で、何か事件を起こして、辞《や》める気になっているのか、そんな疑問を持つべきところだ。  これが正解だ。  妄言多謝《もうげんたしや》〉 [#ここで字下げ終わり]  私は、長い手紙を読み終わった時、正直にいって、怒りよりも、恐怖に近いものを感じた。姿を見せぬ相手に対する恐怖である。  私は、一週間後に探偵社を辞めた。 角川文庫『死への招待状』平成元年4月10日初版発行