西村京太郎 極楽行最終列車 目 次  死への旅「奥羽本線」  18時24分東京発の女  お座敷列車殺人事件  極楽行最終列車  死への旅「奥羽本線」     1  高見の会社は、土、日と週休二日制である。同じ課の矢野みどりと親しくなったのは、今年の秋に、若い社員だけで東京近郊の山にハイキングに出かけてからだった。この時、二人は仲間とはぐれてしまい、二人だけで山の中をさまよった。あとで、二人がしめし合せてかくれたのだろうと、仲間からひやかされたが、実際には、足のおそい二人が取り残されたのである。  しかし、おかげで高見とみどりは急速に親しくなり、結婚を約束するまでになった。  みどりは郷里が秋田である。両親もまだそこにいる。 「今度の休みに、久しぶりに秋田に帰って、あなたのことを両親に話してくるわ」  とみどりがいった。 「僕も行った方がいいかな?」  高見がきくと、みどりは首を振って、 「今度は、私だけがひとりで行って話したいの。両親の承諾が得られたら、お正月に一緒に来て」 「いいよ」  と高見がいった。  みどりは金曜日、会社が終ってから上野駅に行き、その日の夜行列車に乗るといった。 「送りに行きたいんだが、金曜日は残業しなければならないんだ」  高見は申しわけなさそうにいった。  みどりは笑って、 「構わないわよ。おみやげ買ってくるわ」 「ひとりで大丈夫かな?」 「私はもう二十四歳よ。子供じゃありません」  とみどりはおかしそうに笑った。  高見は、金曜日は夜の十時近くまで、会社に残って仕事をした。係長になったので、仕事を放り出して、上野駅へみどりを見送りには行けなかった。  みどりは夜九時頃の夜行に乗り、秋田へ着くのは明日の朝だといっていた。  高見は何となく心配で、明日、秋田へ着いたら、必ず電話をくれと、みどりにいっておいた。  好きな相手が出来たということは確かに楽しいが、同時に苦しいことでもある。デイトのあと、彼女をタクシーに乗せると、そのタクシーが事故でも起こさないだろうかとか、運転手が途中で妙な気でも起こしはしないかと心配してしまう。  残業が終って自分のマンションに帰ってからも、高見はみどりのことが気がかりだった。  乗った列車が事故でも起こさないかと、心配になる。  金曜日の夜、残業を終って自宅マンションに帰るとすぐテレビをつけたのは、そんな心配があったからである。  別にニュースでなくてもいい。国鉄で事故があったのなら、スライドで画面に入ってくるだろう。  三十分ほど同じ番組を見ていたが、鉄道事故のニュースはなかった。  ほっとして、高見はベッドに寝転んだ。  とにかく、国鉄に事故がないとすれば、みどりの乗った列車は無事に走り続けているのだ。  今度は、彼女が秋田の実家に着いてからのことが、心配になって来た。  彼女は両親を説得する自信があるといっていたが、果してうまくいくだろうか?  田舎の両親だから頑固だろう。特に父親は、娘の結婚話を嫌がるものだと聞いたことがある。  それに、みどりには地元の大学にいっている妹がいるが、女二人の姉妹で兄や弟はいないから、両親としては地元の青年と結婚させたいと思っているに違いない。それも、婿を貰いたいだろう。 (どう考えても、おれはあまり有利じゃないな)  と高見は思った。  翌土曜日は、いつもならゆっくりと寝坊するのだが、みどりのことがあるので早く起きてしまった。  列車の名前を聞くのを忘れてしまったが、午後九時頃に上野を出る夜行列車で、秋田には翌朝着くといっていた。  高見はめったに見たことのない時刻表を取り出して、秋田行の夜行列車を調べてみた。  午後九時前後に上野を出て、秋田へ行く列車は何本かある。   特急「あけぼの1号」   上野発20:50→秋田着6:00(青森行)   〃 「あけぼの3号」   上野発22:00→秋田着7:05(青森行)   急行「おが」   上野発21:20→秋田着8:26(男鹿行)  この三本のどれに乗ったにしろ、今朝の八時二十六分には秋田に着いている筈である。  彼女の実家は秋田市内だから、おそくとも九時半には家に着くだろう。  パンと牛乳だけの朝食をすませた高見は、テレビを見ながらみどりからの電話を待った。  朝のニュースでも、国鉄の事故のことは一度もいわなかったから、全線、正常に動いているということだろう。  しかし九時を過ぎ、十時になっても、電話は鳴らなかった。 (おかしいな)  と思いながらも高見は、家に着いてすぐは彼女も、こちらに電話するわけにはいかないのだろうと考えた。  それにまた、両親を説得してイエスの知らせをしたいのだろうとも思った。  だが昼近くなっても、みどりからの電話はかかって来なかった。     2  電話が鳴ったのは午後六時過ぎである。  窓の外はもう暗くなっている。高見は電灯をつけるのを忘れていた。  明りをつけてから受話器を取った。 「そちら、高見さんですか?」  若い女の声がきいた。  一瞬、みどりと思い、 「おそいんで心配したよ」  というと、相手は当惑したように、 「あの──」 「みどりさんじゃないの?」 「はい。妹のかおるです」  と相手はいった。そういわれれば、声がよく似ているが、どこか違っていた。 「みどりさんは、そちらで病気にでもなってしまったんですか?」  それ以外に妹が電話してくる理由がわからなくてきくと、妹のかおるは、 「いいえ。姉はまだ、こちらに着いていないんです。それで、高見さんにきけば何かわかるかと思って」 「よく僕の電話番号が、わかりましたね? 姉さんから聞いていたんですか?」 「高見さんの名前は、時々、聞いていました。それで、東京の電話局で調べてみたんです」 「なるほど。しかし、みどりさんがそちらへ着いていないというのは、おかしいですね。昨日の夜行に乗ったんですから、今日の朝には着いていなければいけないんですよ」 「ええ。姉も昨日電話してきたときは、明日の朝、着くといっていたんです」 「どうしたのかな。急用が出来て、昨夜、乗れなかったんだろうか?」 「それならそれで、電話してくると思うんです」 「確かにそうですね」 「それに、姉のアパートに電話してみたんですけど、いませんでしたわ。両親も心配しているんです。どうしたらいいでしょうか?」 「ひょっとすると、何か理由があって、昨日の列車に乗れなくなったのかも知れません。調べてみますから、そちらの電話番号を教えて下さい」  高見は秋田の家の電話番号をメモしてから、マンションを飛び出した。  とにかく、四谷三丁目の彼女のアパートに行ってみることにした。  国鉄では事故は起きていないのだから、上野で乗っていれば、秋田に着いている筈なのだ。  とすれば、何か乗れない理由があったに違いない。それも、電話連絡できないようなことがである。  急病で、救急車で運ばれたということも考えられる。  高見は自分の車で四谷三丁目に行き、彼女のアパートに着くと、お互いに交換して持っていたカギで部屋に入った。  八畳一間だが、若い女性らしいきれいに整理された部屋である。  彼女の匂いがする。が、人の気配は全くなかった。  部屋全体が冷え冷えとしているところをみると、昨日、列車に乗らずにこの部屋に戻ってきて過ごしたということは、なさそうである。  管理人室に行ってきいてみたが、昨夜から今朝にかけて、救急車が来たこともないという返事だった。  高見は彼女の部屋へ戻って、考え込んでしまった。  金曜日、みどりは五時に会社を出た筈である。  いったんここへ帰ってから上野駅へ向ったのか、それは面倒なので、東京駅前の会社から直接、上野へ行ったのかも、高見は知らなかった。  とにかく、みどりは秋田に着いていないのだ。  どこで行方不明になったか、調べなければならない。 (昨日、仕事なんか放り出して、彼女を上野駅へ送って行けばよかった)  と思ったが、今更どうしようもなかった。  まず、上野まで行ったのかどうか、調べなければと思った。  みどりには親しくしていた女友だちがいる。会社の同僚である。  高見は自宅に戻ると、会社の職員録を取り出した。彼女たちに、片っ端から電話をかけてみた。  連休なので、どこかへ旅行に出かけてしまっている者もいたりして、三人目にかけた井上冴子がやっと電話口に出てくれた。 「矢野君のことで聞きたいんだがね。昨日、彼女は、上野から実家のある秋田へ出かけた筈なんだが、そのことで何か知らないかな?」 「彼女、どうかしたんですか?」 「いや、何でもないんだが、昨日、見送りに来てくれといわれていたのに、残業で行かれなかったものだからね」  高見はあいまいないい方をしたが、冴子は別にきき直したりせずに、 「昨日、私は彼女と上野ヘ一緒に行きましたわ」 「それ、本当かい?」 「ええ、私も不忍池の近くの親戚に行く用があったんで、一緒に上野まで行ったんです」 「何時に会社を出たの?」 「五時に終ってからですわ」 「上野に着いたのは、何時頃?」 「確か、六時頃じゃなかったかな。彼女が時間があるというので、上野の駅前の喫茶店で、ケーキを食べながらおしゃべりをしたんです。係長さんのことも、彼女から聞きましたわ。結婚なさるんですってね。おめでとうございます」 「どうも。それでその喫茶店には、何時頃までいたの?」 「ずいぶん、おしゃべりしてましたわ。八時半になって、彼女がそろそろ駅へ行くというので、店を出たんです。だから二時間半もいたんだわ」  冴子は自分でびっくりしている。 「八時半に店を出たのは、間違いないんだね?」 「ええ。彼女が腕時計を見ていったんだから、間違いありませんわ」 「それからすぐ上野駅へ、彼女は行ったんだね?」 「ええ。横断歩道を渡って、彼女は駅に入って行き、私は不忍池の親戚の家に行きましたわ」 「くどいようだけど、矢野君は駅の構内へ入って行ったんだね?」 「ええ。駅の入口のところで、手を振って別れたんですわ」 「彼女は何時の列車に乗ったかわからないかね?」 「寝台車でゆっくり眠って行くんだといってましたけど、何時の列車かはききませんでしたわ。彼女、どうかしたんですか?」 「いや、何でもないんだ。どうもありがとう」  高見は電話を切った。  井上冴子が嘘をついていなければ、みどりは昨日、間違いなく上野へ行ったのだし、冴子が嘘をつくとは思えなかった。冴子は人の好い女だし、みどりとは仲よしだったからである。  上野駅前の喫茶店で、八時半まで冴子とおしゃべりをして、時間をつぶした。ということは、もう何時発かの列車の切符を買って、持っていたということだろう。  そして冴子と別れて、駅に入って行った。  となると、駅の構内に入ったのは八時三十五、六分の筈である。  それから夜行列車へ乗ったとすると、まず二〇時五〇分発の特急「あけぼの1号」が考えられる。  それに乗ったのだろうか?  高見が考えていると、電話が鳴った。  受話器を取ると、秋田の矢野かおるだった。 「姉のこと、何かわかりましたか?」  とかおるは緊張した声できいた。  秋田にはまだ帰っていないらしい。 「いろいろと調べているんですが、上野駅へ行ったことははっきりしました。会社の友だちと上野へ行き、八時半にその娘《こ》と別れて、駅に入ったそうです」 「じゃあ、列車に乗ったことは間違いありませんのね?」 「と思いますが、確証はありません。みどりさんは、そちらへ何時に着くと、あなたにいったんですか?」 「それが、わからないんです」 「何時に着く列車なのか、きかなかったんですか?」 「電話できいたんですけど、教えてくれませんでしたわ」 「それはおかしいな」  と高見は呟いてから、 「実はね、僕も今になって、何時の列車か聞いておけばよかったと思っているんです。しかし一緒に上野まで行った友だちにも、みどりさんは何時の列車かいわなかったし、妹のあなたにもいわなかったというのは、何か理由があったんじゃないだろうか?」 「私にいわなかった理由は、はっきりしていますわ」 「何です?」 「姉は気持が優しいんです。だから、列車が朝早く着くとわかって、私が駅に迎えに行くのを気の毒がって、教えなかったんだと思いますわ」 「なるほどね。僕は上野を二〇時五〇分に出発する特急『あけぼの1号』に乗ったと見ているんですが、確かに、この列車が秋田に着くのは午前六時と早いですね」 「姉が私にいわなかった理由は、他には考えられませんわ」 「そうですね」 「私、今日待っていても、姉が帰って来なかったら、東京へ行く積りなんです。その時は、一緒に姉を探して下さいません?」 「いいですよ」 「では、明日、上野駅に着いたらお電話しますわ」     3  電話が切れると、高見は考え込んでしまった。  妹のかおるには気を使って、どの列車で行くか知らせなかったのかも知れない。しかし高見や冴子には、なぜいわなかったのだろうか。  高見の場合は、どうせ見送りに行けないのできかなかったのだが、いつものみどりなら、そんな時でも自分の乗る列車のことを喋った筈である。 (わからないな)  高見は行き詰って、首を振った。  彼女がいわなかったことが、彼女が消えてしまったことと関係があるのだろうか? 蒸発ということも考えてみた。  しかしみどりに、身を隠さなければならない理由があったとは思えない。  誘拐《ゆうかい》されたのだろうか?  しかし、それなら犯人からの要求が、秋田の実家か高見のところに来ていなければならないが、それがない。  すでに夜の十時を回っている。  深夜のテレビのニュースを見たが、列車事故のニュースも、矢野みどりの名前もなかった。  明日の日曜日は、みどりの顔写真を持って上野駅へ行き、駅員に、彼女を見なかったかきいてみようかと思ったりもした。みどりはかなり派手な顔立ちだから、ひょっとして、彼女が列車に乗るのを見た駅員がいるかも知れない。  翌日の日曜日の午前九時を回った頃、電話がかかった。 「私です。今、上野駅に着きました」  と矢野かおるの声がいった。  昨夜の二三時二六分秋田発の特急「あけぼの6号」に乗ったのだという。 「夜の十一時まで待ったんですけど、姉が帰って来ないので、来てしまいました」 「すぐ迎えに行きます」  と高見はいった。  目印を決めておいて、高見は上野駅へ行ったが、目印を決める必要もなかったほど、かおるは姉によく似ていた。  ただ違っていることといえば、姉のみどりの方が、東京での生活で服装が洗練され、派手な感じだったことくらいである。 「食事はまだですか?」  高見は、彼女のスーツケースを持ってやりながらきいた。 「ええ」 「それなら丁度いい。僕もまだなので、一緒に食べましょう。そのあとで、お姉さんのアパートに案内しますよ」  上野駅を出て、公園方面に少し歩いたところにあるレストランで、高見はかおると遅い朝食をとった。 「姉はどこへ行ってしまったんでしょう?」  かおるは大きな眼で高見を見た。  みどりも同じように大きな眼だが、年齢のせいか、もっと色気を感じさせる。 「僕にも全くわからないんですよ。最後に会った時は、別におかしいところは何もありませんでしたからね。上野駅まで一緒に行った友だちも、何も変なところはなかったといっているんです。強いて彼女らしくないところといえば、僕やその友だちに、乗る列車の時刻をいわなかったことぐらいです」 「何か事件に巻き込まれたんでしょうか?」 「それも考えてみましたがね、金曜日の夜、上野駅で何か事件があったというニュースはなかったし、あの日、午後八時半以後に上野駅を出て秋田に行く列車は何本もありますが、どの列車も事故を起こしていないんです」 「それでは、姉は自分の意志で、姿を消したんでしょうか?」 「わかりませんが、そんなことはないと思っています。彼女は僕との結婚の許可を貰うために、秋田へ行こうとしていたんですからね。他へ行く筈がないんです」  高見はそういったあとで、ふと小さな疑惑が胸をかすめるのを覚えた。  高見は何度もみどりにプロポーズしていた。  美しく魅力的な彼女が好きだったこともあるが、他の男に彼女をとられるのが嫌だったからでもある。彼女は否定していたが、高見の他に何人か、ボーイフレンドがいるという噂《うわさ》を聞いていた。  みどりは高見が結婚してくれというたびに、そんなに急がなくてもとはぐらかすようないい方をしていたのだが、今度は彼女の方から、突然、結婚するといい、両親の許可を得るために秋田へ行って来るといったのである。  高見は嬉しくて、突然の彼女の申し出を疑ってもみなかったのだが、こうなってみると、なぜだろうかという疑問もわいてくる。 「そろそろ行きましょうか」  高見は疑惑を打ち消すように、かおるに声をかけた。  がかおるは、その声が聞こえなかったみたいに、一点を凝視している。 「どうしたんですか?」 「あれッ」  とかおるは、店の隅におかれたテレビを指さした。  高見はあわてて振り向いた。  ボリュームを小さくしてあるので、アナウンサーの声が聞こえなかったのだ。  画面に川が映っている。 〈二十四、五歳の女性の死体〉  という字が出ていた。  高見はテレビのところへ行って、音を大きくした。  とたんにアナウンサーの声が耳を打った。  ──今朝早く、鬼怒川の土手をジョギングしていた宇都宮市のサラリーマン吉川晋市さん四十九歳が、柳田大橋の上流約二キロのところで、川岸に流れついている若い女性の死体を発見し、警察に届け出ました。警察の調べによると、この女性は死後二十四時間以上経過しており、年齢二十四、五歳、身長百六十三センチ、体重は五十キロ。ピンクのワンピースの上に白いコートを羽おっています。警察は、他殺、事故死の両面から調査する模様です。 「彼女だ!」  と高見は叫んだ。  みどりはピンクのワンピースに、白いコートを羽おっていたからである。     4 「宇都宮へ行ってみましょう」  高見は蒼《あお》ざめた顔で、かおるにいった。 「やっぱり姉さんなんですか?」  かおるも蒼い顔できいた。 「彼女は金曜日に、ピンクのワンピースの上に白のコートを羽おっていたんです。別人ならいいんですが、とにかく行ってみましょう」 「ええ」  二人はレストランを出た。 「新幹線の方が早く着くと思いますよ」  高見は東北新幹線の宇都宮までの切符を買い、新幹線リレー号に乗った。  二人とも、車内では黙り込んでいた。  高見は、テレビの女がみどりでないことを祈りながらも、心のどこかで彼女に違いないという気持も持っていた。  大宮からは、一二時発の「やまびこ21号」に乗った。  宇都宮に着いたのは一二時三一分である。  列車の中で押し黙っていたかおるが、ホームに降りてから初めて、 「どこへ行けばいいんでしょうか?」  といった。 「テレビでは警察が調べているといっていましたからね。まず警察へ行ってみましょう」  高見は一緒に新幹線の改札口を出ると、タクシーを拾って栃木県警察本部へ行って貰った。  県警察本部は市内の八幡山公園の傍にあった。県庁の隣りである。  受付けで、高見は自分とかおるの名前をいい、鬼怒川で見つかった女性の死体のことで来たといった。 「私の姉かも知れないんです」  とかおるもいった。  受付けの警官はじっとかおるの顔を見て、 「矢野かおるさんでしたね?」 「はい」 「矢野みどりさんは、あなたのお姉さんですか?」 「はい、そうですけど」  と肯《うなず》いてから、かおるは顔色を変えて、 「やっぱり姉だったんですか?」 「とにかく、こちらへ来て下さい」  受付けの警官は、高見とかおるを奥へ連れて行った。  そこで、大西という四十五、六歳の部長刑事に紹介された。  大西は「まあ、お座り下さい」と、高見たちに椅子をすすめてから、 「鬼怒川で見つかった女性の遺体を知っているということでしたね?」  と改めてきいた。 「矢野みどりという名前ということですが?」  高見はきき返した。 「そうです。現場近くを探してみたら、ハンドバッグが川の中から見つかりましてね。中を調べたところ、運転免許証が入っていましてね。写真から、本人のものに間違いないとわかったわけです」  大西は机の引き出しから一枚の運転免許証を取り出して、高見とかおるの前に置いた。  かおるはそれをひと目見て、急に泣き出した。 「間違いありませんか?」  と大西がきく。 「ええ。彼女のものです」  高見が答えた。  みどりはペイパードライバーだった。が時々、友人の車を借りて運転していた。 「そうですか。お気の毒です」  大西は軽く頭を下げた。  かおるが嗚咽《おえつ》しているので、高見が、 「それで、遺体はどこにありますか?」 「病院に運んであります」 「何のためにですか?」 「他殺の疑いが強いので、解剖の必要があるからです」 「すると彼女は、誰かに殺されたというわけですか?」  高見がきき、その言葉でかおるが顔をあげた。 「その可能性があるということです。身体に外傷がありましてね。それが殴打されてついたものか、或いは橋から転落したときについたものかわからないのです。前者なら殺人ですし、後者なら事故死ということになります」 「姉の遺体に会わせて下さい」  かおるが泣きはらした顔で大西部長刑事を見た。     5  パトカーで病院へ行き、高見とかおるは変り果てたみどりの遺体と再会した。  二十四時間以上、水に浸《つか》っていたようだということで、皮膚は変色してしまい、指先はふやけた感じになっていた。  顔にも打撲傷があった。 「鬼怒川は増水していましてね。それでかなり流されたものと思っています。解剖すれば、死因や死亡時刻などもわかると思うのです」  と大西はいった。  かおるが解剖に同意してから、今度は死体の発見された場所へ案内された。  大西がいった通り、鬼怒川は増水していて、濁りながら流れていた。  土手の上に立って、大西が説明した。 「あそこに杭《くい》を打ってあるところが見えるでしょう。あの辺りが澱《よど》みになっていましてね。遺体が杭に引っかかっているのを発見したんです。ハンドバッグは、五、六十メートル下流で見つかりました」 「上流から流されたといいましたね?」  高見が川面に眼をやってきいた。 「そうです。ここから三キロほど上流に、国道四号線にかかる鬼怒川橋があります。そこから誤って落ちたのか、或いは突き落とされたかのいずれかだと思っています」 「三キロも上流からですか」 「他に近い橋はありませんから」  と大西部長刑事は冷淡な口調でいってから、 「お二人にききますが、みどりさんは金曜日の夜、上野から秋田行の夜行列車に乗られたんじゃありませんか?」 「ええ」  と高見はびっくりして、 「なぜそう思われたんですか?」 「ではもう一度、県警本部に戻って下さい」  大西がいい、二人はまたパトカーに乗り、県警本部に戻った。  大西は二人の前に、濡れたハンドバッグや中身を並べて見せた。 「これもハンドバッグの中に入っていたんですが、濡れてちぎれかけていましてね。そっと乾かしたわけです」  大西は一枚の切符を見せた。 「金曜日の二〇時五〇分上野発の『あけぼの1号』の寝台乗車券です。行先は秋田までで、5号車の下段の寝台になっています。これに乗ることになっていたんですか?」 「確かに、金曜日の夜行列車で秋田に行くことになっていました。間違いありません」  と高見がいった。  午後八時半に上野駅に入ったとすれば、八時五十分の「あけぼの1号」にはゆっくりと間に合う。 「でもそれなら、なぜ姉はあんなところで死んでいたんでしょうか?」  かおるが当然の疑問を口にした。 「私にもわかりませんが、何かの理由で途中下車して、鬼怒川まで行き、自分で落ちたか、或いは突き落とされたかだと思いますね」 「『あけぼの1号』の宇都宮着は、何時ですか?」  高見がきくと、大西は手帳を開いて、 「私もそれを調べてみましたよ。『あけぼの1号』の宇都宮着は二二時一六分で、二分停車ですね」 「午後十時十六分ですか」  その時間なら、まだ宇都宮駅で乗り降りする人間は何人もいるだろう。  だが秋田まで行くつもりの人間が、なぜ宇都宮で途中下車したのだろうか?  高見にはわからないし、かおるにも見当がつかないという。  明日になれば解剖結果がわかるというので、二人は宇都宮市内のホテルに泊ることにした。シングルルームに入った高見は、なかなか眠れなかった。  みどりは死んでしまったのだ。胸に風が吹き抜けていく寂しさと同時に、なぜ彼女が、宇都宮で途中下車したのだろうかという疑問が、高見を眠らせないのだ。  確かに乗ったのだろうか? そうだとしたら、途中下車しなければならないほど大事な用事だったのか。  夜が明け、九時を過ぎて階下の食堂におりて行くと、かおるも朱《あか》い眼をしてやって来た。 「まだ、姉が死んだなんて信じられないんです」  とかおるがいう。 「僕もです」  食事をすませたあと、二人はもう一度、県警本部に大西部長刑事を訪ねた。 「解剖結果がわかりましたよ」  大西は眼を輝かせて二人にいった。 「それで、どうなったんですか?」 「やはり、他殺です。肺に水が入っていませんから、水に落ちる前にすでに死亡していたんです」 「そうですか。殺されたんですか」 「死亡推定時刻は、午後十時から十一時までの間です。『あけぼの1号』の宇都宮着が、昨日いいましたように午後十時十六分ですから、ぴったり一致することになります。宇都宮へ途中下車して鬼怒川まで行き、殺されたことになります。増水していなければすぐ発見されたでしょうが、増水のため水に巻き込まれ、下流へ流されたんだと思いますね。犯人は恐らく同じ列車に乗っていて、何か理由をつけてみどりさんを宇都宮でおろし、鬼怒川のほとりまで連れて行って殴り殺したうえ、川に突き落としたんです」 「誰が、誰が姉を殺したんでしょうか?」  かおるがきいた。 「そのことで、お二人に協力して頂きたいのですよ」  大西は高見とかおるを、見比べるように見た。  二人が黙っていると大西は、 「みどりさんが、誰かに命を狙《ねら》われているといったようなことを、口にしたことはありませんか?」 「いいえ」 「僕も聞いていませんよ」  とかおると高見がいった。 「では、みどりさんを恨んでいる人間に、心当りはありませんか?」 「姉は他人《ひと》に恨まれるような人間じゃありませんわ」  かおるが言下に否定した。 「あなたはどうですか」  と大西が高見にきいた。 「心当りはありませんが、僕は彼女の全部を知っているわけじゃありませんから」 「あなたは、みどりさんと結婚することになっていたんでしたね?」 「ええ。彼女はその許しを両親から貰うために、秋田の実家へ帰るところだったんです」 「なるほど。そんな大事な旅だったわけですか。しかし、そうだとすると、もし彼女に惚れていた男がいれば、その男としては、どうしても妨害したいと考えるでしょうね」 (そんな男がいたのだろうか?)  高見は暗い眼付きになった。 「みどりさんは、東京にお住いでしたね?」 「ええ」 「その部屋を拝見したいですね。何か犯人につながるものが、見つかるかも知れません」  と大西がいった。  大西ともう一人、三沢という若い刑事が、高見たちと一緒に東京にやって来て、みどりのアパートを調べることになった。  二人の刑事が、八畳一間の部屋を隅から隅まで、入念に調べている間、高見とかおるは廊下で眺めていた。  高見は、自分の知らないみどりの姿が見つかるのが怖かったし、同時に見つかってくれなければ困るとも思った。見つからなければ、彼女を殺した犯人も見つからないからである。 「ちょっと来て下さい」  大西が呼んだ。  高見とかおるが入って行くと、大西は一通の封書を二人に見せた。  東京の上北沢の住所と、藤沢卓也という名前の書かれた封書だった。 「この名前に心当りはありませんか?」  と大西がきいた。 「僕はありませんね」  高見がいい、かおるも首を横に振った。 「手紙を読んでみましょう」  大西は中身の便箋《びんせん》を取り出して、低い声で読んだ。 〈お前はおれのものだ。おれを捨てて他の男のところに行くことは、絶対に許さん。そんな真似をしたら、お前を殺してやる〉 「これは、明らかに脅迫状だな」  と大西は呟いてから、 「この藤沢卓也という名前に心当りはありませんか?」  と高見にきいた。 「いや。知りません」 「では、あなたに隠してつき合っていたということですかね」 「そんなことはないと思うんですが──」  高見は急に、自信がなくなってくるのを感じた。  高見が親しくなる前、みどりに何人ものボーイフレンドがいたことは知っていた。彼等のことをなるべく考えないようにしていたのも事実だし、みどりも自分と親しくなってからは、他の男とのつき合いはなかったと信じていたのである。  彼等の一人が、みどりのことを諦《あきら》め切れずに、執拗につきまとっていたということなのだろうか? (困っていたのなら、なぜ相談してくれなかったのか)  と高見は、それが口惜しかった。  まだこの男がみどりを殺したと決ったわけではないが、今度の秋田行にそんな無理があったのなら、どんなことをしてでも一緒に行くのだったと、それが悔まれてならない。 「この男に会いに行きましょう」  と大西がいった。 「ええ。行きましょう」  高見が勢込んでいうと、大西は釘を刺すように、 「どんな話になっても、カッとして相手に乱暴はしないで下さいよ。話をきくのはわれわれがしますからね」     6  東京の地理にあまりくわしくないという二人の刑事を、高見は上北沢へ案内した。  京王線の上北沢駅から二十分近く歩いたところにある小さな家に、藤沢という男はひとりで住んでいた。  三十歳ぐらいの、眼つきの鋭い男だった。  グラフィックデザインの仕事をしているといい、部屋には自分が描いたという何枚ものデザイン画が飾ってあった。  大西がまず、例の手紙を藤沢に見せた。  藤沢はちらりと見てから、すぐ高見やかおるに眼を向けて、 「この人たちも警察の方ですか?」 「いや、この人たちは亡くなった矢野みどりさんの関係者です。それより、その手紙はあなたが書いたものですね?」  大西が鋭い声でいった。 「まあ、僕が書いたものですよ。それがどうしました? 私信を勝手に読んでいいんですかね?」 「殺人事件ですから許して下さい。そこには殺してやると書いてありますね。本気でそう思って、書いたんですか?」 「もちろん、冗談ですよ。冗談に決っているじゃありませんか」  藤沢は笑って手を振った。 「しかし、それにしてはきつい言葉が並んでいますね。それに、消印は一週間前だ。その脅迫状が届いてすぐ、矢野みどりさんは殺された。金曜日の夜はどこでどうしていたか、教えて下さい」  大西がいうと、藤沢はニヤッと笑った。 「アリバイというわけですか」 「まあ、そんなところです」 「金曜日ね。確か仲間と、浅草田原町の天ぷら屋で一緒に食事をしましたよ。仲間の一人がデザインコンクールで優勝したので、ささやかなお祝いをやったわけです。店の名前は『丸天』です。夕方の六時から始めましたよ」 「何時までその店にいたんですか?」 「九時までです。九時でその店が閉まるんですよ。それでまあ、僕たちは追い出されたわけです」 「そのあとは?」 「僕は徹夜でやらなきゃならない仕事があったので、家に帰りましたよ。他の連中は新宿辺りへ行って、飲み直したみたいですがね」 「コンクールに受賞した人の名前は?」 「青木徹。二十九歳の将来有望なデザイナーですよ」 「上野から、特急『あけぼの1号』に乗ったことはありませんか?」 「いや、全くありませんよ」 「彼女とはどんな関係なんだ?」  高見が激しい口調でいった。  藤沢はじろりと高見を睨み返した。 「六本木で飲んでいたら、彼女が来たんだ。退屈そうにしてたから、つき合ってやったのさ。会社の男は型にはまっていて、退屈だっていっていたよ。僕みたいな自由人と付き合うのが楽しいってね。ところがどんな心境の変化か知らないが、その退屈な会社の男と結婚するんだといい出した」 「それで、手紙で脅したのか?」 「まあ、からかったという方が合ってるさ。殺したりはしないよ。僕には他にも女はいるからね」     7  高見が藤沢といい合いになりかけるのを大西が止めて、四人は外へ出た。 「あいつがみどりを殺したに決っていますよ」  まだ興奮さめやらぬ顔で、高見が大西にいった。 「それはわれわれが調べますから、あなたと矢野さんはその結果を待って下さい」 「調べるって、どうやるんです?」 「藤沢のアリバイを調べるんです。彼は金曜日の夜、仲間と午後九時まで浅草にいたといっている。それが本当かどうかをね」 「一緒に行っちゃいけませんか?」 「こういう調査は、われわれに委せて下さい」 「しかし、浅草を知ってますか?」  高見がいうと、大西は笑って、 「浅草ぐらい知ってますよ。それに、東京警視庁の協力も仰ぐつもりでいます」  といった。  高見は仕方なく、かおるをみどりのアパートまで送って行った。 「ごめんなさい」  とその途中でかおるがいった。 「何がですか?」 「姉が、あなたの望んでいたような人じゃなかったみたいで──」 「いや、それだけ彼女が魅力的だったということでしょう」  と高見はいった。  半分は嘘だった。藤沢のような男と付き合っていたことがわかったのは、決して快くはない。それは多分、しばらくの間、高見の心にわだかまりとなって残るだろう。  かおると別れて自分のマンションに帰ってから、高見はじっと考え込んだ。明日も仕事をする気になれないから、休暇願を出しておこう。  高見には、あの藤沢という男がみどりを殺したとしか思えない。  自分の女だと思っていたみどりが、急に会社の人間と結婚するといったので、脅迫状を出した。が、それでもいうことをきかないので、殺したのだ。  大西部長刑事から連絡があったのは、翌日になってからだった。 「どうも、藤沢という男はシロですね」  と大西は電話でいった。 「なぜ彼がシロなんですか?」 「アリバイがあるからですよ。金曜日の夜、浅草の『丸天』という天ぷら屋で仲間五人と、午後九時まで食事をして飲んでいたことが、はっきりしたからです。店の主人も、九時になったので、申しわけなかったが帰って貰ったと証言しているんです」 「その時まで彼がいたんですか?」 「いましたよ。藤沢が店の料金を払っているんです。いいですか、矢野みどりさんは、二〇時五〇分上野発の『あけぼの1号』に乗っている。そしてなぜか宇都宮で途中下車して、鬼怒川の河原へ行き、殺されたうえ、川の中に投げ込まれたんです。午後九時というと二十一時です。二十一時に浅草にいた藤沢は、『あけぼの1号』には乗れないんです」 「東北新幹線で追いかければ、追いつけるんじゃありませんか? 宇都宮へ先廻り出来るんじゃありませんか?」  高見がきくと、大西は笑って、 「そのくらいのことは調べましたよ。東京警視庁の亀井という刑事も一緒に調べてくれましたが、駄目なんです。東北新幹線の最終列車は二一時五〇分大宮発で、これに乗ると、宇都宮に二二時〇四分に着きます。『あけぼの1号』の宇都宮着は二二時一六分だから、先廻り出来ます。しかしこの列車に乗るためには、上野を二〇時四七分発の新幹線リレー号に乗って、大宮へ行かなければならないんですよ。二十一時に浅草にいた藤沢は、このリレー号には乗れないんですよ」 「それなら、浅草から直接、大宮へ車を飛ばしたらどうですか?」 「それも調べましたよ。週休二日制が増えて、金曜日の夜は東京の町は交通渋滞がひどい。四、五十分で浅草から大宮までタクシーで行くことは、とうてい無理ですよ。藤沢はシロです」 「しかし──」 「われわれも残念ですが、アリバイがあってはどうしようもありません。私と三沢刑事は宇都宮へ戻って、もう一度、現場附近の聞き込みをやってみます。そうだ、何か気付いたことがあったら、東京警視庁の亀井という刑事に連絡して下さい。今日一緒に調べてくれた人です」  それだけいうと、大西は電話を切ってしまった。  高見は新宿でかおるに会って、大西からの電話の内容を伝えた。 「それじゃあ、誰が姉を殺したんでしょうか?」  かおるは朱い眼で高見を見上げた。昨夜はよく眠れなかったのだろう。 「僕は今でも、藤沢という男が犯人だと思っているんです。他には考えられない」 「でも、アリバイがあるんでしょう?」 「大西刑事はそういっていましたが、浅草で宴会をやったというのが、引っかかるんです」 「なぜですか?」 「そうだ、あなたは東京のことにくわしくなかったんだな。浅草と上野とは目と鼻の近さなんです。地下鉄で五、六分の距離ですよ。金曜日にそんなところで宴会をやったというのが、どうしても引っかかるんですよ。第一、彼の家は上北沢だ。新宿や渋谷の方が近いんです。わざわざ浅草まで行ったというのが、おかしい」 「でも、九時に店を出たとすると、『あけぼの1号』には乗れないんでしょう?」 「そうです。絶対に乗れない」 「それでは、アリバイは完璧じゃありませんか。私もあの人が怪しいとは思いますけど」 「ちょっと待って下さい」  高見は急に腕を組んで考え込んでしまった。  かおるはじっと高見を見ている。 「僕たちは、最初から欺《だま》されていたのかも知れない」  と高見はいった。 「欺されたって、どんなことですの?」 「みどりさんは、本当は『あけぼの1号』には乗っていなかったんじゃないだろうか?」 「でも、列車の切符が──」 「それで欺されたのかも知れませんよ。『あけぼの1号』の切符を持っていたから、それに乗っていたと思い込んでしまった。しかしみどりさんは、殺されてから鬼怒川に投げ込まれたんです。犯人は前もって『あけぼの1号』の切符を買っておいて、それをハンドバッグの中に入れておいたということだって、考えられるんです。実際には、もっとあとの列車に乗っていたんじゃないか。それなら午後九時に浅草にいても乗れますからね」 「ええ」 「時刻表を持って来ます」  高見はレジのところに行き、時刻表を借りて戻ると、かおると二人でページを繰ってみた。  秋田方面行の奥羽本線のページを見た。 「あけぼの1号」のあとにも、何本か夜行列車が出ている。   ○急行「おが」上野発二一時二〇分 宇都宮着二二時五八分   ○特急「あけぼの3号」上野発二二時〇〇分 宇都宮着二三時二六分   ○特急「あけぼの5号」上野発二二時二四分 宇都宮着二三時五四分  これ以後にも列車はあるが、遅すぎる。 「この列車になら、その男は浅草に九時にいても乗れますよ。本当はみどりさんも、このどれかに乗っていたのかも知れない。そして藤沢は、何か理由をつけてみどりさんを宇都宮で降ろし、車で鬼怒川まで行き、殺して川に投げ込んだんですよ。列車の切符をすりかえてです」 「でも、それをどうやって証明したらいいんでしょうか?」 「警視庁の亀井という刑事に相談しましょう。大西さんがそういっていましたからね」  高見はかおると二人で、地下鉄で桜田門の警視庁へ行った。  受付けで話をすると、すぐ亀井という刑事を呼んでくれた。  四十五、六歳の平凡な男で、一瞬、この刑事が頼りになるだろうかと、高見は疑問に思ったくらいだった。  亀井は如才なく二人を応接室へ案内してから、 「君たちのことは、向うの大西さんから聞いている。大変なことだったね」 「藤沢という男のことは聞きましたか?」 「ああ、脅迫状の主だろう。しかし大西さんの話では、その男には完全なアリバイがあるということだったが」 「それは、みどりさんが『あけぼの1号』に乗っていたとしてなんです。別の列車に乗っていたら、アリバイは崩れるんです」  高見はかおると二人で考えたことを、亀井に説明した。  亀井は、「なるほどねえ。なかなか面白いよ」と、小さく言葉にして肯きながら聞いていたが、話が終ると急に、 「ちょっと失礼する」  といって応接室を出て行った。 「どうしたのかしら?」  かおるは怪訝《けげん》そうに高見を見た。 「わからないな。僕の話が馬鹿げていたのかな?」  高見はちょっと心配になって来た。  何しろ相手はプロである。高見の推理が馬鹿げて見えたのだろうか。  十二、三分して、亀井は地図を持って戻って来た。  テーブルの上に広げると、宇都宮周辺の地図である。  北から南へ流れる鬼怒川に赤い×印が二つついていて、1、2のナンバーが振ってあった。 「1は矢野みどりさんの死体が発見された場所、2はハンドバッグが見つかった場所だ。大西さんが印をつけていってくれたんだが、君たちの推理には問題がある」  と亀井が二人にいった。 「どんなことですか?」 「死亡時刻だよ。解剖の結果、死亡推定時刻は午後十時から十一時までの一時間だ。犯人は宇都宮でみどりさんをおろし、車で鬼怒川へ運んだことは間違いない。その点は同意するだろう?」 「はい」 「宇都宮の駅でおろした時は、彼女はまだ生きていた。死体を列車からおろして、担いで駅を出たとは思えないからね」 「それはわかります」 「ところでと──」  と亀井は時刻表のページを繰っていたが、 「いいかね。『あけぼの1号』のあとの列車というと、次は急行の『おが』で、その次が特急の『あけぼの3号』だ。それぞれ宇都宮へ着く時刻は、二二時五八分と二三時二六分だ。十時五十八分と十一時二十六分ということだ」 「あッ」  と高見は声をあげた。  自分の推理に酔ってしまい、肝心のことを無視してしまっていたのだ。  亀井は微笑した。 「どうやら、君にもわかったらしいね。『あけぼの3号』の場合は、宇都宮に着いたとき、すでに死亡推定時刻を二十六分間も過ぎてしまっている。『おが』は辛うじて二分前に着くが、ホームにおり、改札口を通って車に乗せるまでに、十二、三分はかかってしまうだろう。死亡推定時刻をオーバーしてしまう」 「じゃあ、僕の推理は間違っていたんでしょうか?」 「必ずしも間違っているとはいい切れないよ。犯人が車を運転できれば、違ってくる」 「といいますと?」 「宇都宮でおりたのでは、今いったように死亡推定時刻をオーバーしてしまう。そこで、その前の大宮でおろして車に乗せる。或いは上野から乗ったと見せかけて、車に乗せて鬼怒川まで運んでもいい。自分の車でもレンタカーでも、或いは盗んだ車でもいい。タクシー以外ならね。例えば大宮は、『おが』で二一時四七分、『あけぼの3号』が二二時二五分だから大丈夫だ。車に乗せてすぐ殺してしまう。死体は鬼怒川まで運ぶ。これなら死亡推定時刻の範囲だ」 「じゃあ、それですよ。そうに決っています」 「問題は今もいったように、藤沢が車を運転できるかどうかだ。タクシーの中で、まさか殺人は出来ないからね」  と亀井はいってから、 「すぐ、藤沢という男が車を運転できるかどうか、調べよう」     8  結果は芳《かんば》しくなかった。  藤沢は免許を取っていなかったし、車も持っていないことがわかった。  友人たちの話では、車を動かしたこともないということだった。 「まずいことになった」  亀井は、応接室に待たせておいた高見とかおるにいった。 「じゃあ、あの男は犯人じゃないんですか?」  高見が無念そうに亀井を見た。 「藤沢はタクシーを利用するしかないんだ。そうなると、時間的に間に合わないんです」 「彼女は午後八時三十分に、上野駅にいたことは間違いないんです。藤沢が駅に待っていて、脅してその場からタクシーに乗せ、鬼怒川までぶっ飛ばしたらどうですか? 八時半から十一時まで二時間半ありますから、何とか鬼怒川まで行けるんじゃありませんか?」 「鬼怒川の下流なら、ひょっとすると可能かも知れないが、1の地点より上流でなければいけないんだよ。上野駅から車で三時間はかかるといっているよ。しかも当日は金曜日で、交通が渋滞していたんだ」 「共犯がいて、その人が車の運転が出来ればいいんでしょう?」  かおるが、そういって亀井を見た。  亀井は首をすくめて、 「殺人の共犯がいたら、犯人はそんな面倒くさい殺し方はしませんよ」 「じゃあ、どうしても駄目なんですか?」 「藤沢という男が犯人だとすると、上野発二〇時五〇分の『あけぼの1号』に被害者と一緒に乗り、宇都宮でおろしてタクシーに乗せたとしか考えられない。鬼怒川に着いたところでタクシーからおろして殺し、川に投げ込んだ。『あけぼの1号』の宇都宮着が二二時一六分、十時十六分だから、ゆっくり間に合うんだよ。大西さんの話では、宇都宮から現場まで三十分あれば車で行けるし、その上流でも四十分あれば大丈夫ということだ」 「しかし亀井さん、藤沢はその『あけぼの1号』に、乗ることが出来ないんですよ。九時まで浅草にいましたからね」  高見は口惜しそうにいった。 「それでは、藤沢以外に犯人がいるということになるね」  亀井は冷静にいった。  高見とかおるは、がっかりして警視庁を出た。 「少し歩きたいんですけど」  とかおるがいった。  二人は皇居のお堀のところにある並木道を歩いた。  時々、ジョギングをしている人が、二人の横を追い越して行く。 「藤沢を捕えられたと思ったんですがねえ」  高見は吐息をついた。  かおるは黙って歩いていたが、急に立ち止まった。 「列車から突き落としたのかも知れないわ」 「え?」 「亀井刑事さんが見せてくれた地図なんですけど、国鉄の線路が、宇都宮駅を出てから鬼怒川を渡っていましたわ。しかも、姉の死体が見つかったところより上流で、ですね。だから列車が鉄橋を通過中に、ドアを開けて突き落としたとは考えられません? それなら宇都宮でわざわざおろして、タクシーに乗せる必要はありませんわ」 「実は僕も同じことを考えてみたんですがね」 「駄目なんですか?」 「残念ながら駄目です。昔の列車のドアは手で開けられましたが、今は自動です。手で開けられないんですよ。そうでしょう? 無理に開けようとすれば非常ブレーキが効いて、列車は鉄橋の上で停車してしまいます。金曜日に鬼怒川の鉄橋で停ってしまった列車は、ないんです」 「駄目なんですか──」  かおるは声を落としてしまった。  亀井は藤沢以外に犯人がいるだろうといったが、高見とかおるはみどりの部屋を調べて、そんな人間の存在は感じられなかったのである。  みどりを殺したいと思っていた人間は、藤沢以外には考えられないのだ。 (あのヘボ刑事!)  と高見は腹が立った。  彼の推理の欠陥を指摘したのはやはりプロだと感心したが、藤沢が駄目なら他に犯人がいるだろうと、無責任なことをいっていた。  こちらは、藤沢以外に犯人が考えられないから苦しんでいるのにである。 「あのヘボ刑事!」  と今度は、声に出していった。  かおるはもう一日、東京にいてみるというので、彼女をみどりのアパートに送っていった。  そのあと口惜しさをまぎらわせようと、新宿で飲んだ。  したたかに酔ってマンションに帰り、ベッドに転がった。すでに午前二時に近かった。  服を着たままベッドで眠ってしまった。  電話のベルで、高見は眼を開けた。二日酔いで頭が痛い。  手を伸ばして受話器を取った。顔をしかめながら、「もしもし」と呼んだ。 「高見さんだね?」 「あんたは誰です?」 「警視庁の亀井だ」 「ああ。藤沢以外に容疑者が見つかったんですか?」 「いや」 「それならもう少し寝かせて下さいよ。二日酔いで頭ががんがんするんだ」 「もう昼すぎだよ」 「そんなことどうでもいいでしょう。僕がすぐ起きたからって、犯人が捕まるわけでもないんだから」 「ご機嫌ななめだねえ」  と亀井は笑ってから、 「今日の午後八時半に上野駅へ来たまえ。被害者の妹さんも連れて来るといい。八時半だ。おくれないようにね」 「そうするとどうなるんですか?」 「多分、今度の事件が解決する」 「どうやってですか?」 「とにかく八時半に来たまえ」  亀井は電話を切ってしまった。     9  どうなるのかわからないままに高見はかおるを誘い、一緒に夕食をすませてから、八時半少し前に上野駅に着いた。  亀井は先に来ていた。 「やあ、来たね」  亀井はニコニコ笑いながら二人を迎えた。 「本当に、事件は解決するんですか?」  半信半疑で高見がきいた。 「ああ、解決する」 「犯人は誰だったんですか?」  とかおるがきいた。 「犯人は藤沢だ」 「でも、昨日は──?」 「あれからいろいろと考えたのさ。藤沢は午後六時に、浅草の天ぷら屋で仲間と集った。彼はその前に上野に寄って、『あけぼの1号』の秋田までの切符を買っておいた。みどりさんに持たせるためです。もちろん、一応、改札口を通ってハサミを入れておくか、形をまねて鋏《はさみ》で切っておいたと思う。九時に別れてから上野へ来て、待っていたみどりさんと列車に乗った」 「どの列車ですか?」 「二一時二〇分発の急行『おが』だ」 「なぜその列車だとわかるんですか?」  不思議に思って高見がきくと、 「この列車でなければ駄目なんだよ」 「時間がですか? しかし『おが』も、宇都宮には二二時五八分着で、タクシーで運んだんでは間に合わなかったんじゃなかったですか?」 「いや。時間は問題ではなく、この『おが』という列車の構造にあるんだ。それを国鉄に問い合せて確かめた。今日、実際に乗ってみて、推理しようと思っているんだよ」 「どんな特殊な構造ですか?」 「それは乗ってみればわかるさ。急行『おが』の切符を三枚、買っておいた」  亀井は秋田までの寝台券を取り出して、高見とかおるに渡した。  午後九時を過ぎてから、三人は改札口を入った。  十五番線に、急行『おが』はすでに入っていた。  ブルーの車体は普通のブルートレインである。違うところといえば、寝台車五両と自由席三両の編成で、全てが寝台ではないということだが、それが亀井のいう構造上の特殊性とは思えなかった。  三人は六両目のB寝台に乗り込んだ。  寝台はもうセットしてあったが、高見もかおるも横になる気にはなれず、ベッドに腰を下している。  亀井は二人に向い合って腰を下すと、煙草に火をつけた。  定刻の二一時二〇分に、EF65型電気機関車に牽引されて、急行「おが」は上野を出発した。  窓の外は、上野のネオンや灯が流れ去って行く。 「どこといって、変ったところのない列車だと思いますがね」  高見はわからないという顔で亀井にいった。 「宇都宮まで行ったらわかってくるよ。ところでそこへ行くまでに、今度の事件をおさらいしておこう」  亀井は落着いて煙草の灰を落とした。 「犯人は藤沢だ。午後九時に浅草の天ぷら屋を出た藤沢は、地下鉄で上野に向った。五、六分で着くから、二一時二〇分発のこの列車に乗ることが可能だ」 「それはわかります」 「多分、藤沢はみどりさんを脅して、この列車に乗せたんだと思うね。彼女は高見君、君と結婚する気になって、秋田の両親に会いに行くことにした。それを知った藤沢はみどりさんを脅迫した。あの手紙がそれを示している。だが彼女の気持は変らなかった。そこで藤沢は、急行『おが』でどこそこまで行くから、一緒に乗ってそこまで行って欲しい。そうしたらいさぎよく別れるといったんだと思う。それでみどりさんは、この列車で秋田へ行くことにしたんだろう。君に乗る列車をいわなかったのは、藤沢が一緒に乗るからだろう」 「そのあと、奴はどうしたんですか?」 「藤沢は、みどりさんを殺しても自分は疑われない方法を考えた。そのカギがこの急行『おが』だったんだよ。この列車がなかったら、絶対にうまくいかなかったですね」 「そこを説明して下さい」 「藤沢は、鬼怒川でみどりさんの死体が発見されるようにしたかった。しかも、ハンドバッグの中に特急『あけぼの1号』の切符が入っている形でだよ。だから前もって、その切符を買っておいたんだ。そうしておいて、急行『おが』に乗ったのさ」 「そこまではわかります。しかし、ひょっとすると、実際には次か次の次の列車に乗ったんじゃないかと考えますよ。そうなれば、折角、九時まで浅草にいたアリバイ工作がふいになってしまうでしょう? そのくらいのことは藤沢も考えたと思いますが」 「そうだ。だからそのために、死体は鬼怒川で発見されなければならないんだ。事実、みどりさんの死体は、二十四時間も水に浸っていて発見された。しかし、その時間はどうでもいいんだ。鬼怒川で発見されることが大事だったんだよ。突き落としたところから、少しでも下流ならいいんだ」 「それとこの列車は、どういう関係があるんですか? この列車の宇都宮着が二二時五八分。おりてタクシーで、鬼怒川に行ったら、間に合いませんよ。車で三十分近くかかると思いますからね」 「そうさ。藤沢は車を使ったんじゃないんだ」 「じゃあ、どうやって?」     10 「急行『おが』は、宇都宮を出て、七、八分すると、鬼怒川にかかる鉄橋をわたる。鬼怒川橋梁だ。列車がわたっている時、藤沢はみどりさんを鬼怒川に突き落としたんだ。その前にすでに殺しておいてね。死体を投げ落としたといってもいい。死体は鉄橋にぶつかってから川に落ちたから、外傷が多かったんだ。一緒に『あけぼの1号』の切符を入れたハンドバッグも投げ捨てておく。もちろん、『おが』の切符は抜き取ってだ。川は水量が豊かだったから、藤沢の目算どおり下流に流れてから発見された」 「ちょっと待って下さいよ」 「なんだ?」 「鉄橋から落とすというのは、昨日、かおるさんが考えました」 「それで?」 「しかし、すぐ駄目だと気がつきましたよ。今の列車は自動ドアだから、手では開けられませんよ。無理に開けようとすれば、急ブレーキがかかってしまいますよ」 「果してそうかな?」 「どういうことですか?」 「まあ、宇都宮を出てから試してみよう」  と亀井はいった。  宇都宮着が二二時五八分。五分停車で、急行「おが」は発車した。 「デッキに行ってみよう」  と亀井はいった。  三人はデッキに出た。 「少し下っていたまえ」  と亀井はいい、自分はドアの方へ行った。  列車が鉄橋をわたり始めた時、亀井はドアに手をかけて引っ張った。  ドアが開き、冷たい風が吹き込んできた。 「開くんですか?」  と高見が大声を出した。  亀井は、また手でぴしゃりとドアを閉めてから、 「ドアのところを見てみたまえ」  という。  高見が見ると、ドアの中央に「手であけて下さい」と書かれていて、その下に更に、 「このとってを引いてドアをあけて下さい」  と説明してあった。 「手で開くんですか」 「この列車の20系に限って、ドアは手で開けられるんだ」 「でも、それでは走行中に、誰かがいたずらして開けたりして、危険だと思いますけど」  かおるがきいた。  亀井は微笑した。 「その点は大丈夫ですよ。車掌室に鎖錠スイッチというのがあって、それを動かさなければドアは開かないんです。駅に着くと、車掌室で鎖錠スイッチを切る。そうすると、乗客がドアを手で開けておりるわけです。自動ドアになれた人がこの列車に乗ると、駅に着いてもドアが開くのをじっと待っているそうですよ。発車する時は、車掌が全部のドアが閉まっているのを確認してから、車掌室の鎖錠スイッチを入れる、そうすればもう手で開けられない。だから走行中は安全というわけです」 「でも、今、亀井さんは手で開けたわ」 「実は車掌さんに頼んで、一分間だけ鎖錠スイッチを外して貰ったんです。だからもう開きませんよ」  亀井はドアを引っ張って見せた。確かに今度はびくともしない。 「でも、あの日、藤沢は手でドアを開けたんでしょう? どうやって鉄橋を通過中に開けたんですか?」  かおるがきいた。 「それについて、今日の午前中、上野車掌区に電話してきいてみたんです。面白い話を聞きました。事件当日、列車が宇都宮を出てすぐ、車掌室にサングラスをかけた若い男が顔を出して、隣りの車両で子供が苦しんでいるから、すぐ来てくれといったそうです。車掌はあわてて隣りの車両に見に行った。サングラスの男は、もちろん藤沢だった筈です。からになった車掌室に入って、鎖錠スイッチを外したんです。そうしておいて、ドアを一つ、手で開けて、みどりさんの死体を鬼怒川に投げたんです。自動ドアじゃないから、鎖錠スイッチを外しても、他のドアは閉まったままだから危険はない。藤沢は素早くドアを元通りに閉め、車掌室の鎖錠スイッチを入れておいた。その間、二、三分しかかからなかったと思いますね」 「しかし、子供の病気は嘘だったんでしょうから、すぐおかしいと気付かれてしまうんじゃないんですか?」  高見は首をかしげた。 「いや、隣りの車両で、子供が本当に腹痛を起こして、苦しんでいたんだよ」 「そんなに都合よく腹痛の子供が出ますかね?」 「もちろん藤沢がやったのさ。方法は簡単だよ。子供の好きそうなジュースかミルクに、少量の劇薬を混ぜておいて、それをあげたんだと思う。喜んで飲んだ子供はたちまち腹痛を起こすが、実は少量だから、間もなく治ってしまう。だから問題にならなかったんだよ」 「そうですか」 「これで藤沢は、犯人と決ったな」  亀井は満足そうにいった。  亀井は腕時計を見た。 「次は西那須野か。私はその次の黒磯でおりて、東京へ引き返す。すぐ藤沢を、殺人罪で逮捕したいからね」 「もう十一時過ぎですよ。そんな時間に上野に引き返す列車があるんですか?」  心配して高見がきくと、亀井は笑って、 「そこはちゃんと調べておいたよ。この列車は二三時四七分に黒磯に着く。上野へ行く上り列車は、一番早いのが急行『ざおう62号』で、これは午前二時〇四分に黒磯に着くんだ。これに乗れば四時五二分に上野へ着くよ」 「しかし、二時間以上、黒磯駅で待たなければなりませんよ。大変ですよ」  高見が心配していうと、亀井が手を振って、 「殺人事件が一つ片付いたんだ。二時間くらいは喜んで待つよ」 「私はどうしたらいいんですか?」  かおるがきいた。 「あなたはまっすぐ、この列車で秋田へ帰って、お姉さんの霊前に犯人が逮捕されたと報告なさい。この列車が秋田に着くのが午前八時二六分だから、それまでには間違いなく、藤沢は逮捕されていますからね」 「僕はどうしたらいいですか? 亀井さんと一緒に黒磯でおりて、東京に戻りましょうか?」 「馬鹿なことをいいなさんな」  と亀井は笑った。 「どうしてですか?」 「姉を失ったばかりで心細くて仕方がないかおるさんを、ひとりで秋田まで帰すつもりなのかね? 私は君が当然、送って行くものと思ったから二枚、秋田までの切符を買って、君と彼女に渡したんだよ」 「しかし──」 「会社もあと一日ぐらい休んでもいいんだろう?」 「それはそうですが──」 「そうだ。秋田の地酒を買って来てくれないか」  亀井はそういい、列車が西那須野を通り、黒磯駅に着くと、二人に向って軽く手をあげただけで、人の気配のないホームにさっさとおりて行った。  18時24分東京発の女     1  毎週金曜日になると、午後六時以後に東京駅を発車する「ひかり」が異常な混み方をするといわれる。  週休二日制をとる会社が多くなったため、単身、東京に赴任して来ているサラリーマンが、金曜日の夕方、新幹線を利用して妻子のもとに帰るからである。  一八時〇〇分発の広島行「ひかり31号」も、それらしい中年のサラリーマンたちで混雑するが、一番混むのは一八時二四分発の「ひかり165号」である。  この列車は岡山までしか行かないが、新大阪から先、岡山まで、各駅に停車するから利用客が多いのだろう。  専務車掌の池田は、時々、この一八時二四分発の「ひかり165号」に乗務することがある。  四月初めの金曜日にも、池田はこの列車の乗務になった。  乗務員室は7号車と12号車にある。  12号車に入った池田は、列車が東京駅を出るとすぐ、検札にかかった。  まず12号車、11号車のグリーン車から始める。  二両のグリーン車とも満席だった。  若いカップルや家族連れの客もいないではなかったが、大半が中年のサラリーマンらしい客である。どの顔も疲れているように見える。  背もたれを倒して、眠ってしまっている乗客もいる。  今日、午後五時まできっちり働いて、妻子の待つ家へ帰るのだろう。  土、日と、家庭で過ごして月曜日の朝早く、単身赴任の土地である東京に舞い戻って来るに違いない。  池田も四十五歳。子供も二人いて、上の娘はもう高校二年生である。  池田自身は別に単身赴任というわけではなかったが、同じサラリーマンとして、検札をしながら「ご苦労さん」と、胸の中でいっていた。  一生懸命に働き、そして週末には家族孝行のために新幹線で帰って行く。単身赴任して、東京での自由を楽しんでいるサラリーマンもいるだろうが、大半は今日の乗客のようにけなげなのだろう。  丁度、子供の誕生日に当るのか、リボンで結んだ大きな土産を網棚にのせている乗客もいる。  グリーン車で帰るのだから、一応、会社では管理職になっているに違いないと思う。  12号車をすませて11号グリーン車に入ったところで、池田は「おやッ?」という眼になった。  真ん中あたりの席に、前に見た顔があったからである。  紺系統の背広を着た四十五、六歳の男である。  大会社の課長といったタイプだった。うすいサングラスがよく似合う整った顔立ちである。  前に池田が、金曜日の同じ「ひかり165号」に乗った時も、この男はグリーン車に乗っていた。  だが池田が、この男のことを鮮明に覚えていたのは、同伴者のせいだった。  二十七、八歳の美しい女が一緒だった。  小柄だが、遠くからでも、その華やかさが匂ってくるような感じの女だった。  一瞬、連れの男に、反感さえ感じたくらいだった。  いかにも生《き》まじめなエリートサラリーマンといった男の顔と、モデルかタレントのように見える女とは、どう見ても不釣合いのカップルだった。  驚いたことに、今日もこの男は、若い女と一緒だった。しかも前の時とは別の女である。  池田が検札に廻ってゆくと、女の方が二枚の切符を見せた。  彼女も華やかな顔立ちをしている。タレントのようにサングラスをかけているが、整った美人だった。  前の時には、男を羨ましいと思った。今度も同じ気持を持ったが、同時に、この男は何者なのだろうという疑問も持った。  どう見てもサラリーマンタイプである。水商売とか芸能界の人間には見えない。  彼がひとりで座っていたら、週休二日を利用して、妻子のもとに帰る単身赴任のサラリーマンとしか思わなかったろう。  検札のとき、池田はじっと見てみたのだが、男の背広には会社のバッジがついていた。桜をデザインしたバッジらしい。  だからやはり、どこかの会社のサラリーマンなのだ。  それが金曜日ごとに、少くとも池田が乗務した二度の金曜日は、違った美人と同じ一八時二四分発の「ひかり165号」に乗っているのは、どういうことなのだろうか?  この前会った時は、男はどこまで乗って行ったのか覚えていない。  今日、切符を見ると、男も女も姫路までになっていた。  もし男一人だったら、姫路に家があって、男一人が東京に単身赴任していると思っただろう。  金曜日ごとに新幹線を利用して、妻子の待つ姫路に帰るという、実直なサラリーマンを思い描いた筈である。  だがあんな美人と一緒だと、わからなくなって来る。  羨ましさも手伝って、あれこれ妄想を逞しくした。  自分一人の胸にしまっておくことが出来ず、車掌長の木下に、 「11号車の8Aと8Bの乗客ですが」  と話しかけた。 「若い美人と、課長タイプの中年の取り合せが不思議だというのかい?」  木下が笑いながらいった。 「木下さんも気になってたんですか」 「ああ、目立つカップルだから、嫌でも気になるさ」 「実は前にも、その男の方を見たことがあるんです。同じ金曜日の一八時二四分発の『ひかり165号』だった」 「その時もその美人を連れていたのかい?」 「それが別の女性だったんです。その時もすごい美人でしたよ」 「ふーん」  と車掌長の木下は鼻を鳴らした。 「どういう関係なんですかねえ」 「うむ」 「男の方は背広の襟に、バッジをつけていましたよ。桜をデザインした丸いバッジです」 「それなら、桜建物だよ」 「貸ビル会社の?」 「ああ。社長がやたらに週刊誌に出てくる会社さ。年商何百億とかいうやつだよ。自分のビルには、全て桜のマークをつけているんで有名だ」 「それなら知っています」 「しかしあの乗客は、社長じゃないね。課長といったところだろうな」 「奥さんには見えませんね。第一、奥さんが二人もいる筈はないですよ。とにかく羨ましいです」  池田は羨ましいを連発した。  別に現在の生活に、さしたる不満があるわけではなかったし、妻が嫌いでもない。今の妻以外の女と結婚している自分は、考えにくい。すでに二十年近い結婚生活だからである。  ただ時には、あんな美人とふらりと旅に出たいと思うことがある。  東京駅で偶然、美人と知り合い、旅に出る。その旅行の間だけの関係。旅行から帰ったら、何も聞かずに別れてしまう。  そんな夢を時々見る。  休暇を貰って、ひとりで旅に出ることもあるのだが、そんな夢が実現したことは一度もない。これからだって、絶対に実現しないに違いない。  11号車の男は、池田のそんな夢を実現しているように見える。しかも二回もである。  二二時一八分。定刻どおり、「ひかり165号」は姫路に着いた。  11号車の男と女は降りて行った。  女は男と腕をからめ、何か笑顔で話しかけながらホームに降りた。 (何を話しているのだろうか?)  と池田が考えている間に列車は動き出し、二人の姿もあっという間に池田の視界から消えてしまった。     2  一週間もすると、池田は仕事に追われて、男のことも女のことも忘れてしまった。  昼間の「ひかり」に乗っているときは、完全に忘れていたが、夜の列車に乗務したとき、グリーン車の検札に廻ってふと思い出すことがあった。 (その男は、毎週金曜日の一八時二四分の列車に乗っているのだろうか?)  と考えたりもしたが、休日になって家族と日帰りの旅行に出かけたときには、忘れてしまっていた。  郊外の深大寺に車で行き、帰りに茶店で深大寺そばを食べた。 「たまには外で食事をするのも、いいものだな」  と池田は妻の京子にいった。  子供たちも喜んでいる。このところ子供たちに、ぜんぜんどこにも連れて行ってくれないと、文句をいわれていたのである。  そばを食べ終って池田は煙草に火をつけ、つけっ放しになっている店のテレビに眼をやった。  子供たちはまだ食べている。  テレビはニュースをやっている。 (今日は昼間のプロ野球中継があったんじゃないか)  と思った。  池田は大洋ホエールズのファンである。  今日は大洋─巨人戦があったのではなかろうか。  腕時計を見て、他のチャンネルに廻してくれるように店の人に頼もうかと思い、池田は声に出しかけてやめてしまった。  ニュース番組の中に、見覚えのある女の顔が、急に映し出されたからである。 〈河野由紀さん(28歳)〉  と写真の中に名前が出た。  池田はその名前に記憶はない。顔に記憶があった。  いつかの一八時二四分発の「ひかり165号」で見た女である。  グリーン車で、桜建物のバッジをつけた中年の男と一緒に座っていた女に間違いない。  池田はアナウンサーの声に耳をすませた。 〈──河野由紀さんは四月五日の午後から行方不明になり、妹のみどりさんが警察に捜索願を出しています。  由紀さんは銀座のクラブ「パピヨン」のママで、警察は何かの事件に巻き込まれた恐れもあると考えています。由紀さんは身長──〉 (あの女に間違いない)  と池田は思った。  池田が「ひかり165号」のグリーン車で彼女を見たのは、四月六日である。  アナウンサーは、その前日の午後から行方不明になっているという。  池田は立ち上るとレジの所へ行き、 「電話を貸してくれませんか」  といった。     3  警視庁では、この事件を単なる失踪事件とは見なかった。  その証拠に、捜査一課が担当した。  一カ月前にも同じ銀座のクラブのママが失踪し、死体はまだ発見されないが、さまざまな状況から考えて、殺された可能性が強くなっていた。  その事件につながっているのではないかと見られたからである。  一カ月前に消えたのは「カトリ」のママ、鹿取ゆう子だった。  前日の夜も、いつもと同じように元気に店に出ていた。  常連客に聞いても、全く変ったところはなかったという。それが突然、消えてしまったのである。親戚、知人も、友だちも、どこへ行ったか知らないといった。  そして今度は、同じ銀座のママの失踪である。  誰でも犯罪の匂いを感じるだろう。 (面倒な事件になりそうだな)  と事件を担当した十津川警部が観念していたところへ、新幹線の専務車掌の電話だった。  十津川はすぐ部下の亀井刑事を連れて、中野にある相手の自宅に会いに行った。  建売を買ったという可愛らしい住宅だった。  深大寺へ家族連れで行って来たということで、池田という電話の主も疲れた顔をしている。  池田は、捜査一課の刑事が来たことに驚いているようだった。 「テレビのニュースでは、単なる失踪事件のようでしたが」  とちょっと当惑したような顔付きになった。実直な人柄なのだろうし、普通の市民なら、面倒な事件には巻き込まれたくない筈だ。  十津川はそんなことを考えながら、 「河野由紀さんを、新幹線の中でご覧になったそうですね?」  ときいた。 「ええ。私が乗務していた『ひかり165号』に乗っていた女性に、そっくりなんです」 「これが彼女の写真ですが、もう一度、見て下さい。間違いありませんか?」  亀井が用意してきた五枚の写真を池田の前に並べた。  失踪した河野由紀をさまざまな角度から撮った写真である。  店にいるときの写真。店の経営者とハワイヘ行った時の写真。そうしたものが五枚である。  池田は一枚、一枚、丁寧に見てから、 「間違いありません。この人です」 「その時の状況を、くわしく話してくれませんか」  と十津川はきいた。  このあとで池田が話してくれたことは、十津川と亀井にとって意外なものだった。  もっと犯罪の匂いがする話ではないかと思っていたからである。  十津川は何となく拍子抜けした顔で、 「すると、桜建物のサラリーマンタイプの男と彼女は、姫路まで行ったということですね?」 「そうです。姫路着は二二時一八分です。定刻通りです」 「列車の中での二人の様子は、どんな具合でしたか?」 「ずっと見ていたわけではありませんが、和気|藹々《あいあい》という感じでしたね。姫路に着いた時も、二人は腕を組んで降りて行かれましたよ。男の方は、何となく照れ臭そうな顔をしていましたがね」 「その男の方ですが、桜建物のバッジは間違いありませんか?」 「車掌長の木下さんが、それは桜建物のバッジだと教えてくれたんです」  池田はノートを持ってくると、そこに、ボールペンでそのバッジの図柄を描いて見せた。  十津川は、桜建物という会社の名前は知っていたが、バッジまでは知らなかった。  だが亀井は知っていた。 「これは桜建物のマークですよ。この会社の所有するビルには、みんなこのマークがついています」  と亀井はいった。 「その男の顔を覚えていますか?」  十津川は池田にきいた。 「ええ、覚えています。羨ましいと思ったから覚えていますよ」  池田はやっと微笑した。 「それでは明日、私たちと一緒に桜建物へ行って頂けませんか?」  と十津川はいった。     4  刑事部長から国鉄へ話して貰い、十津川と亀井は池田に桜建物へ行って貰うことにした。  桜建物の本社は銀座にあった。  七階建のビルの最上階のワンフロアが桜建物本社だが、このビル自体、桜建物の所有である。  亀井のいうように、このビルに近づくと、桜を図案化した大きなマークが見えた。  エレベーターで七階まであがって行く。  昨夜、十津川は桜建物のことを調べてみた。  社長の大木敏夫は五十歳で、立志伝中の人物といわれている。  不動産会社の社員だったのが独立して、現在、都内に四十近いビルを所有し、億万長者の一人になっていた。  自然、この会社は大木のワンマン会社だといわれている。  七階に着くと、「桜建物株式会社」と金文字で書かれたガラスのドアが見えた。  そのドアを開けて中に入る。  二十五、六人の社員がいた。  一番奥が社長室である。  十津川は受付けで池田の記憶から作ったモンタージュを見せた。 「こういう顔の社員の方がいますか?」 「さあ」  と二人の受付け嬢は顔を見合せていたが、 「名前はわかりませんか?」  ときき返してきた。 「わかりません。姫路に家がある人だと思うんですがね。社長さんは、おいでですか?」 「社長は商用で、留守でございますが」 「じゃあ、各部屋を見せて貰えませんか」 「さあ、それは──」 「駄目なら令状をとって来ますよ」  亀井が脅かすようにいうと、受付けの女はあわてて奥へ走って行ったが、すぐ三十七、八歳の男を連れて来た。 「社長秘書の沢木です」  とその男はいった。背が高く、いかにも頭の切れそうな男だった。  十津川がちらりと池田を見た。池田は、この男ではないというように小さく首を横に振った。 「只今、社長は出かけておりますので、ご用は秘書の私がうけたまわりますが」  と相手はいった。  十津川たちは社長室に案内された。  大きな豪華な部屋である。壁も布張りで、高そうな絵が何枚もかかっている。  棚に飾られた青磁の壺も、多分、高価なものだろう。  社長の机と離れて客用のソファが並び、十津川たちはそこに腰を下した。  若い女子社員が無表情にコーヒーを運んで来た。 「社長さんはどちらへ行かれたんですか?」  十津川はまず、そんな質問から始めた。  秘書の沢木は自分の手帳にちらりと眼を通してから、 「当社では関西方面にも進出を考えていますので、社長は大阪へ行っております」 「ここに社員は何人いらっしゃるんですか?」 「三十二名ですが、それが何か?」 「その中にこの方はいませんか?」  十津川はもう一度、モンタージュを見せてきいた。 「よく似た人はいますが、何か事件でも起こしたんですか?」  沢木は眉を寄せて十津川を見た。 「いや、ただおききしたいことがあるだけです。会わせて頂けませんか?」 「多分、営業第一課長の黒川だと思いますが、呼んで来ましょう」  と沢木はいい、立ち上って社長室を出て行った。  五、六分して、沢木は四十五、六歳の男を連れて戻って来た。 「営業第一課長の黒川です」  と十津川たちに紹介した。  十津川は池田を見た。  池田は緊張した顔で小さく肯《うなず》いた。  黒川は十津川たちに、肩書きつきの名刺をくれた。 「黒川武さんですね」  と十津川は、名刺を見ながら念を押した。 「はい」  相手は肯いた。実直なサラリーマンの感じだった。 「四月六日の金曜日ですが、一八時二四分東京発の『ひかり165号』に乗って、姫路まで行きませんでしたか?」  と十津川がきいた。  ひょっとすると否定してくるのではないかと思ったが、黒川は、 「はい。私は単身赴任して来ていますので、金曜日の夜には姫路の家族のもとに帰ることにしています。姫路には家内と子供がいますから」 「では、四月六日も行かれたんですね?」 「行ったと思います。何時何分という列車の正確な時間は覚えていませんが」 「その時、女の人と一緒でしたね?」 「女の人?」  黒川はびっくりしたように、眼を丸くして十津川を見返した。 「そうです。この人です」  十津川は河野由紀の写真を相手に見せた。  黒川は手に取って見ていたが、 「覚えがありませんねえ」 「黒川さん」 「はい」 「世間体を考えて否定されているのかも知れませんが、これは殺人事件に発展するかも知れないんです。そこを考えて答えて下さいよ」 「しかし四月六日に姫路に帰ったことは間違いありませんが、女性と一緒だったなんてことはありません。嘘だと思うのなら、家内にでも子供にでも、確かめて下さい」 「家に連れて行ったというのじゃありませんよ。新幹線の中で一緒だったんじゃないかといってるんです」 「いや、覚えがありませんね」 「黒川さん。ここにいるのは、その時、同じ新幹線に乗車していた専務車掌の池田さんです」  と十津川は紹介してから、 「池田さんは、四月六日に『ひかり165号』の11号グリーン車に乗っていたと証言しているんです。しかも隣りには河野由紀さんがいて、仲良さそうに話していたともね」 「間違いありません。その写真の方はご一緒にいて、一緒に姫路でお降りになりました。腕を組んで降りたのを覚えています」  池田もはっきりした口調でいった。  だが黒川は平然とした顔で、 「何かの間違いじゃありませんか。私は四月六日に、新幹線で姫路に帰ったことは間違いありません。ただ、女性と一緒だったなんてことはありません」 「私は見てるんですよ。一緒に乗車した車掌長も見ています。なぜ嘘をつくんですか?」  池田はカッとして、顔を赤くしている。  自分が嘘をついていると思われるのが、腹立たしいのだろう。  十津川は興奮している池田を手で制してから、黒川に向って、 「なぜ正直に答えてくれないんですか? 別にあなたが、この女性をどうしたといっているわけじゃありません。ただ、四月六日の『ひかり165号』で、一緒に姫路へ行ったことを認めてくれればいいんです。彼女がこの日に姫路へ行ったことだけは、確認できますからね。どうですか? 黒川さん」 「心外ですな。なぜ私が嘘をつかなければいけないんですか?」  黒川は険しい眼で十津川を睨《にら》んだ。 「この河野由紀さんはご存知でしょう?」  と突然に亀井がきいた。 「なぜですか?」 「この人は銀座のクラブ『パピヨン」のママです。あなたは営業課長だから、お客の接待なんかによく行かれたんじゃないかと思いましてね」 「それなら時々、行きましたよ。うちの持っているビルに、クラブが入っていることもありますから」 「じゃあ、河野由紀さんはご存知なんですね?」 「顔も知っていますよ。もちろん私の方はただの客ですが」 「でも新幹線の中で会えば、顔見知りだから、あいさつはなさるんじゃありませんか?」 「そうですね。するかも知れませんね」 「四月六日の新幹線の中でも、そういうことがあったんじゃありませんか?」 「いえ。あのママに新幹線の中で会ったことはありません」  黒川はかたくなにいった。     5  押問答が続いたが、黒川は最後まで河野由紀と一緒だったことはないといい通した。  十津川は一時間ほどして、桜建物の本社を出た。  外に出ると、池田は口惜しそうに、 「あの人は嘘をついていますよ。車掌長の木下さんだって見ているんです」  と十津川にいった。 「わかっています。向うが嘘をついているんだと思います」  十津川は微笑した。 「それならいいんですが、私が嘘をついていると思われると嫌ですから」 「そんなことは全く思っていませんよ」 「あの人は前にも、同じようにお似合いな美人を連れて、新幹線に乗っていたことがあるんです」 「何ですって?」  亀井が思わず大きな声を出し、池田の方がかえってびっくりした顔で、 「どうしたんですか?」 「お茶でも飲みましょう」  と十津川は近くにあった喫茶店に三人で入って行った。  コーヒーを頼んでから、十津川は改まった口調で、 「今の話は本当ですか?」 「ええ。本当ですよ」 「あの黒川という男に間違いないんですね?」 「同じ男が、違った美人と仲良さそうにしていたから、余計に羨ましかったんです」 「それはいつ頃ですか?」 「だいぶ前でしたね。1カ月くらい前かもしれません。乗務日誌を見ればはっきりすると思いますが、金曜日の同じ『ひかり165号』だったことは確かです。同じ時間の列車に乗っているなと思いましたからね。ただその時は、どこで降りたのか覚えていないんです」 「その女性ですが、この写真を見て下さい」  十津川は内ポケットから、一カ月前に失踪した鹿取ゆう子の写真を取り出して、池田に見せた。  池田はじっと写真を見つめていたが、 「確かにこの女の人ですよ」 「間違いありませんね?」  亀井の声も弾《はず》んでいる。 「ええ、間違いありません。きれいな人だから覚えています」  池田はきっぱりといった。 「同じ金曜日の一八時二四分発の『ひかり』だったんですね?」 「そうです。単身赴任者が、週休二日を利用して家に帰る列車というので有名なんですよ。だから乗客のほとんどが、中年のサラリーマンでしてね。そんな中にすごい美人がいたんで、とにかく目立ちましたよ」 「どこで降りたかわからないといわれましたね?」 「ええ、覚えていません」 「しかし同じ列車だとすると、岡山行ですね?」 「そうです」 「新大阪からは各駅停車でしたね?」 「そうです」 「二人の様子はどんなでしたか?」 「仲が良さそうだったと思いますね。二人連れだなと思ったのは、覚えていますから」 「お帰りになったら、乗務日誌を見て正確な月日を教えて下さい」  と十津川は頼んだ。 「黒川にもう一度、訊問しますか?」  亀井がきいた。 「答えは同じだろう。池田さんがあれだけいっても、河野由紀と一緒に乗っていたことはないと否定したんだ。鹿取ゆう子の方は、なおさら否定するだろう。黒川の周辺を調べて、鹿取ゆう子との関係を洗い出すことが先決だな」  と十津川はいった。     6  十津川と亀井は池田に礼をいって別れ、警視庁に帰ったが、すぐ池田から電話が入った。 「今、乗務日誌を見たんですが、三月九日でした。三月九日の金曜日は『ひかり165号』に乗務しています。この時に見たんだと思います」  と池田はいった。  十津川たちは、三月九日の月日に注目した。河野由紀の場合と同じなのだ。  鹿取ゆう子は、三月八日の夜は自分の店「カトリ」に出ていた。  常連の客に聞いてもホステスたちの証言でも、別に変った様子はなかったという。むしろ、いつもよりはしゃいでいるようだったという声も聞いた。  しかし、それっきり鹿取ゆう子は消えてしまったのである。 「全く同じですね」  と亀井もいった。 「すぐ兵庫県警に頼んで、姫路の黒川の家族のことを調べて貰おう」  と十津川はいった。  一方、夜になると十津川は、亀井と一緒に河野由紀がママをやっていた「パピヨン」に行ってみた。  ひょっとすると店は閉まっているのではないかと思ったが、八時半頃に行ってみると、賑やかにやっていた。  十津川と亀井は、カウンターで矢木というマネージャーに話を聞いた。  四十歳くらいで小柄な男である。色が白く、どこか中性的な感じがした。クラブにはなぜか、こんな感じのマネージャーが多い。 「閉まっていると思ったんだが、やってるんだね」  十津川は店内を見廻しながらいった。  中年から初老にかけての客が多い。若い男では、ちょっと来られない店なのだ。 「閉める必要もありませんからね」  マネージャーの矢木は、やや甲高《かんだか》い声でいった。 「ママから連絡はないの?」  と亀井がきいた。 「まだありません」 「金曜日の夜からいないんだろう? もう一週間だが、前にもこういうことがあったのかね?」 「そうですねえ。ママさんは気まぐれなところもありますから」 「ママの親戚か何かが姫路にあったかな?」 「姫路ですか? 聞いたことがありませんが」 「桜建物の営業第一課長の黒川武を知っているかね」 「ええ、知っていますが」 「よく来るのかね?」 「時々、いらっしゃいます」 「ママとも親しかった様子かね?」 「そういうことはないと思いますよ」 「ママには親しくしていた男がいたのかね?」 「さあ、個人的なことには立ち入らないようにしていますから、よく知りません」 「しかし捜案願が出ているんだよ」 「知っています。あれはママさんの妹さんが出したものですから」 「確かにそうだが、マネージャーとして心配じゃないのかね?」  多少いらいらして亀井がきいた。  マネージャーがあまりにも平気な顔をしていたからである。 「もちろん心配していますよ。しかしマネージャーの私としては、この店をちゃんとやっていくのが仕事ですから。私がうろうろしてしまったら、店の娘《こ》が浮き足だってしまいます」 「いい心がけだな」  亀井は皮肉をこめていった。  十津川は煙草に火をつけてから、 「同じ銀座で『カトリ』という店を知っているかね?」  と矢木にきいた。 「ええ、名前は知っています。いいお店ですよ。お客もいいし、美人のホステスが揃っています」 「その店のママも行方不明なんだ、一カ月以上前からね。もちろんとっくに知っていると思うが」 「そういう話は聞いております。しかしこういう水商売では、繁盛しているように見えたお店が突然、つぶれたり、ママさんが消えたりすることがよくありますから」 「ここのママの家は、月島のマンションだったね?」 「はい」 「行ったことは?」 「ございません」  矢木は肩をすくめるようにしていった。     7  十津川たちはそこから、月島に新しく建ったマンションに廻ってみた。  姉の捜素願を出した河野みどりが、そこにいる筈だった。  十五階建の豪華なマンションの最上階に、河野由紀の部屋がある。  みどりがドアを開けて、居間に通してくれた。  窓から東京湾の夜景が見える。 「姉のことで、何かわかりました?」  と女子大生のみどりが、十津川にきいた。 「四月六日の夜に、姫路へ行ったことだけはわかりました」  十津川がいうと、コーヒーを出していたみどりは「え?」と声を出した。 「姫路って、なぜ?」 「姫路に親戚か知人はいませんか?」 「いいえ」 「前にお姉さんと、姫路へ行ったことはありませんか?」 「いいえ、一度もありませんわ」 「黒川武という名前を、お姉さんから聞いたことはありませんか?」 「その人が姉を連れて行ったんでしょうか?」 「この男と四月六日の夜に、新幹線で姫路へ行ったことは、まず間違いないと思っています」 「でも、黒川という名前を姉から聞いたことはありませんけど」 「そうですか」 「姉は姫路に何をしに行ったんでしょうか?」 「それをこれから調べるところです。鹿取ゆう子という名前はどうですか?」 「その方の名前は、新聞で見たことがありますわ」 「お姉さんと同じように銀座のクラブのママで、同じように突然、行方不明になってしまっているんです」 「その方も姫路に?」 「そこはわかっていません。お姉さんからは、いぜんとして何の連絡もありませんか?」 「はい」 「手紙や写真を調べてみたいんですが、よろしいですか?」  と十津川は聞き、妹のみどりにも手伝って貰って、河野由紀が最近受け取った手紙を調べてみることにした。  由紀は几帳面な性格だったとみえて、手紙や受取りなどを、きちんと箱にしまってあった。  三人で手紙を一通ずつ見ていった。  失踪を暗示するような手紙は、いっこうに見つからなかった。  前に鹿取ゆう子の身辺を調べたときも同じだった。  ゆう子は四ツ谷駅近くの高級マンションに住んでいたのだが、そこを家宅捜索した時も、これという手掛りは見つからなかった。  誰かとトラブルを起こしていたとか、脅迫されていたという手紙は一通もなかった。  鹿取ゆう子の両親はすでに死亡し、唯一人の肉親である妹はアメリカ人と結婚して、現在、ニューヨークに住んでいる。  結婚歴は一度あった。が別れた夫はすでに再婚しており、念のためにこの男を調べてみたが、ゆう子の失踪に関係している証拠はなかった。  それと河野由紀の場合が、よく似ているのだ。  部屋には高価な毛皮のコートや宝石類も、そのまま置かれている。  なぜ由紀は、妹にも店のマネージャーにも何もいわずに、姿を消してしまったのだろうか?  桜建物の黒川武から手紙でも来ていたらと思ったのだが、それもなかった。  アルバムは二冊あった。だがそこにも黒川の写真はなかった。  有名なタレントや歌手と肩を並べて写っている写真は、何枚も見つかった。  だが黒川のはない。 「どういうことなんですかね?」  亀井が小さく首を振った。 「黒川武は、恋人でも何でもなかったということだろう。まともに考えれば、そういう結論しか出ないね」  と十津川はいった。 「すると、四月六日の『ひかり165号』の車内で一緒だったというのは、偶然なんですかねえ」 「カメさんは、偶然とは思っていないんだろう?」 「河野由紀だけなら偶然と思いますが、鹿取ゆう子も黒川と一緒にいたとなると、偶然とは思えなくなりますね」 「だが、黒川と二人の女性を結びつける糸はない。銀座で顔見知りだったぐらいのことだからね」  十津川は黒川の顔を思い出していた。  いかにも中堅の管理職という感じの男だった。  黒川は明らかに河野由紀のことで嘘をついているが、といって彼女を姫路まで連れて行って殺したとは思えない。第一、動機がわからない。  十津川と亀井はみどりに礼をいい、いったん警視庁に引き返した。  翌日、兵庫県警から報告が届いた。  姫路に住む黒川の家族についての報告だった。 〈黒川武は大阪の大学を卒業したのち、姫路にあるN建設に入社した。  三十二歳の時、同じN建設の女子社員だった現在の妻、恵子(二十六歳)と結婚。現在、小学二年生の女の子が一人いる。名前はまゆみ。  四十三歳の時、課長に昇進したが、去年の七月、桜建物の大木社長に乞われて桜建物の営業第一課長になった。  現在、家族を姫路に残しての単身赴任である。  N建設時代の友人の話によると、黒川はきまじめな男で、夫婦仲は非常によいということである。  近所の人たちも、黒川は家庭では良きパパだという。四十八万円の月給の中、三十万円を家に送金しており、ほとんど毎週金曜日には、会社を了えたあと新幹線で姫路へ帰って来ている。  妻の恵子は、性格は穏和で、近所の評判はいい。  問題の四月六日は、黒川は市内の自宅に間違いなく帰っており、翌日の土曜日朝、子供を学校まで送って行く黒川を、近所の人が目撃している。  日曜日は家族三人でサファリパークに遊び、夕方、帰宅。  黒川は月曜日の朝早く、新幹線で東京へ向った。  四月六日、黒川が帰宅した正確な時刻はわからない。  姫路駅から黒川の家までは、歩いて十五、六分であるから、二二時一八分に着いた『ひかり165号』で降りたとすると、午後十時三十分から四十分頃までには帰っていなければならない。しかし、この時間は確認できていない。妻の恵子は、十時四十分頃には夫は帰って来たと証言しているが、第三者の証明はない。  河野由紀について現在も捜査中だが、見つからない。  姫路市内及び周辺にあるホテル、旅館をしらみつぶしに当っているが、河野由紀と思われる女性が四月六日に宿泊した形跡はない。  姫路駅前のタクシー全部に河野由紀の顔写真を見せて当ってみたが、四月六日の夜、彼女を乗せたという運転手は見つからなかった。  四月六日の「ひかり165号」で姫路に降りたとすれば、彼女はそこで消え失せたことになってしまう。  今後も河野由紀については捜査をつづける〉     8 「池田専務車掌が嘘をついたとは思えませんから、四月六日に『ひかり165号』で彼女と姫路に着いたんだと思いますね」  亀井は首をかしげながらいった。 「しかも、駅からどこへ消えたかわからない。タクシーに乗った形跡もないし、姫路周辺のホテルや旅館に泊ってもいないというんだから」 「誰かが車で迎えに来ていたんじゃないでしょうか?」 「或いは黒川が、前もって車を用意しておいたのかも知れない。彼が河野由紀をどうかしたのだとすると、車は必要だろうからね」 「どうもすっきりいきませんね。どこに、なぜ二人が消えたのかもわからないし、殺されたとしたら動機がわからない。黒川が何をしたのかもわかりません」  亀井はいらだちを見せて、十津川にいった。  十津川も同様だった。  黒川は殺人犯にしては平凡で、家庭的な人間すぎる。第一、二人の女を殺す動機が見つからなかった。 (死体でも見つかれば——)  と不穏当なことまで、十津川は考えてしまう。  殺されているとは考えたくはない。だがいくら調べても、二人が自ら姿を消さなければならない理由が見つからないのである。 「パピヨン」と「カトリ」の二つの店は常連の客が多く、うまくいっていたし、個人的な悩みがあったという話は聞こえて来なかった。  翌日の午後になって、事件は一つの展開を見せた。  午後三時頃、東京湾で若い女性の死体が見つかったのである。  東京湾は海が汚れて、一時、漁民が仕事を休んでいたのだが、最近、きれいになって来たというので、漁民が戻って来た。  船を新しく造り、漁に出るようになったのである。  漁獲は少いが、それでも東京湾でとれた魚は新鮮で、江戸前の魚ということで高く売れる。  その漁師の一人が、網に女の死体を引っかけたのである。  その死体は「カトリ」のママ、鹿取ゆう子だった。  失踪してから四十六日目に、死体で発見されたのである。  十津川は亀井と浦安に急行した。そこの漁師が、鹿取ゆう子の死体を拾いあげていたからである。  鹿取ゆう子の死体は長く海に浸っていたせいか、大きくふくらんでいた。ただ冷たい海水に浸ったことで、腐敗はあまり進んでいない。  藤色のワンピースのドレスを身につけている。だが、失踪時に着ていたと思われるミンクのコートや、カルティエのハンドバッグは見つからない。  左腕にはめているピアジェの腕時計の裏側に、「KATORI」と彫ってあり、それが身元を確認する一つの力になったのである。 「死因はわかりませんか?」  と十津川は検死官にきいた。 「解剖してみないと、正確なことはわかりませんね。死亡推定時刻もです」 「しかし、かなり長い間、海水に浸っていたんじゃありませんか?」 「そうですね、かなりの時間でしょう」  と検死官もいった。 「池田専務車掌は、鹿取ゆう子も三月九日の『ひかり165号』に、黒川と一緒に乗っていたといった筈です」  亀井が死体を見ながら十津川にいった。 「ああ、覚えているよ。常識的に考えれば、彼女も姫路まで行ったということになるね」 「それがなぜ、東京湾に浮んでいたんでしょうか。東京に戻って来ていたのなら、誰かが彼女を見ている筈だと思いますが──」 「そうだよ、カメさん。だが三月九日以来、誰も彼女を見ていないんだ」     9  二十四時間後に、解剖結果が十津川のもとに報告されて来た。  思った通り、死因は溺死ではなかった。  肺の中に、ほとんど水は入っていなかったからである。  絞殺と、報告書には出ていた。  ただ長く海水に浸っていたために、正確な死亡推定時刻を計算することは不可能ということだった。  三月十日前後というのは、大学病院の判断である。  十津川にはそれだけで十分だった。  鹿取ゆう子は三月八日の夜、「カトリ」で常連客やホステスに見られている。翌九日の一八時二四分東京発の「ひかり165号」に黒川武と一緒に乗っていたと、池田専務車掌は証言している。  十津川は池田の証言を信じていた。  三月九日の夜、鹿取ゆう子は新幹線で西に向い、その直後に何者かに殺されたと見ていいだろう。  そうしておいて犯人は、死体を東京湾へ運んで投棄したのだ。 (なぜだろう?)  犯人が黒川だとすれば、三月九日に姫路へ連れて行って殺したのを隠すために、わざわざ死体を東京に運んだということが考えられる。 「奴をもう一度、訊問してみますか?」  亀井がきらりと眼を光らせていった。 「しかし、一緒に新幹線に乗ったのは絶対に認めないだろうよ」  と十津川はいった。 「そうでしょうが、目下、一番の容疑者ですよ」 「その通りだが、動機がわからない。彼と鹿取ゆう子との結び付きは、時たま彼女の店で会うことだけなんだからね」 「それに黒川という男は、調べれば調べるほど犯人らしくないんです」  と若い日下刑事がいった。 「何かで借金を作っているということはないのか?」  十津川がきいた。 「全くありません。バクチはやりませんし、飲むのもほどほどです。模範的なサラリーマンですよ。社長からも部下からも、信頼されていますね」 「社長の大木がN建設の課長だった黒川を引き抜いたというんだが、その時の事情を調べてくれないか。兵庫県警と協力して調べて欲しい」  と十津川はいった。  その結果わかったのは、ただ単に乞われて桜建物に移ったのではないということだった。  N建設は姫路が本社で、A建設の子会社である。  A建設は東京に本社があり、桜建物の所有しているビルのいくつかを建設している。  いわば桜建物は、A建設のお得意なのだ。  A建設の社長が、大木を兵庫の有馬温泉に招待したことがあった。  その時、子会社のN建設で課長をやっていた黒川が、旅館その他の手配をした。  だが黒川は旅館の予約で日付を間違えて、大木を立往生させてしまった。十月の観光シーズンの上、日曜日だったので、他の旅館をすぐには予約できなかったのだ。  N建設の幹部は真っ青になってしまうし、黒川は責任をとって辞表を提出した。  それを大木は、なぜか黒川が気に入ったといって、高給で引き抜いたのである。 「黒川はその時の恩義を、今でも感じているようです。古いところのある男ですから」  と日下は報告した。 「大木か」  と十津川は呟いた。  黒川が二人の女を新幹線に乗せて行ったのは、社長の大木の命令だったのではないだろうか? 「大木と鹿取ゆう子の関係は、何だろう?」  十津川は亀井に話しかけた。 「桜建物は銀座の雑居ビルも沢山持っていますから、家主と店子《たなこ》の関係かも知れません」  と亀井はいう。 「それを調べてくれ。それから、三月九日から十日にかけての大木のアリバイだ。四月六日に河野由紀が姫路へ行ったとき、大木は関西へ行っていた。同じようなことを、三月九日にもしているかも知れないからね」  十津川は難しい顔でいった。  結果はすぐわかった。  鹿取ゆう子の店「カトリ」が入っているビルも、河野由紀の店「パピヨン」が入っているビルも、桜建物の所有物だった。 「個人的な関係はどうなんだい?」  と十津川はきいた。 「桜建物は大木のワンマン会社です。一千万円以下の商売は、部課長クラスで決裁しますが、一千万以上は大木が全部やることになっています。銀座でビルの中でクラブをやろうというときには、三、四千万の金が動きますからね。大木が鹿取ゆう子や河野由紀と直接、契約しているんです。部下には全く知らされていません」 「すると、大木と二人の女の間に個人的なつながりが出来ていたとしても、おかしくないね」 「そう思います」 「三月九日の大木の動きはどうだ」 「警部の考えられた通りです。関西へ出張しています。しかも面白いことに、彼は自分のベンツを運転して関西へ行っているんです。車で高速をぶっ飛ばすのが彼の趣味だそうですから」 「どうも引っかかるね」  十津川は関西の地図を持ち出した。  東京にいるとわからないのだが、地図で見ると大阪と姫路は意外に近いのだ。 「新幹線なら新大阪から姫路まで、四十分しかかからないんだ」  十津川は声に出していった。 「車だと二時間ぐらいでしょう」  と亀井がいう。 「大木に会ってみよう」     10  二人は再び銀座の桜建物本社を訪ねた。  今日は社長の大木がいた。  五十代だが、四十代の若さに見える。スマートで、口調は滑らかで、独身だから、女性にはもてるだろうと、十津川は思った。 「鹿取ゆう子さんのことは、本当に驚いています」  と大木は十津川の質問に答えた。 「彼女のことはよくご存じですね?」 「ええ。大切なお得意様ですからね」 「個人的な関係はなかったんですか?」  亀井がきくと、大木は肩をすくめて、 「それはどういう意味ですか?」 「文字通り男と女の関係ということですが」 「それはありませんよ」 「しかしあなたは、なかなか魅力のある男性だから、特に鹿取ゆう子さんのような水商売の女性は、参ってしまうんじゃないかと思いましてね」 「そんなことはありませんよ。第一、彼女には、有名な財界人がパトロンになっています」 「本当ですか?」 「Kさんですよ。嘘だと思うのなら調べてごらんなさい」  大木はニコニコ笑った。 「河野由紀さんとはどうですか?」  と十津川はきいた。 「あのママさんも大切なお客様ですよ」 「行方不明となっていますね?」 「ええ。私も心配しているんです」 「あなたの部下の黒川さんが、四月六日に新幹線で彼女と一緒に姫路まで行っているんですが、ご存じですか?」 「いや、知りません。黒川君がそういっているんですか?」 「彼は否定していますが、新幹線の車掌が目撃しています」 「そうですか。しかし私は、社員のプライバシーにはタッチしない方針ですからね。それに退社後のことでしょう?」 「そうです」 「それなら私の関知しないことです」 「あなたは四月六日に関西へ行っておられますが、三月九日にも関西へ行っておられますね?」 「ええ。関西にも進出しようと思いましてね。三月十七日にも二十三日にも行っていますよ」 「ビジネスは上手くいっているんですか?」 「上手くいっていますよ。なぜですか?」 「いや、あなたという人はいろいろと噂のある人ですからね。金儲けが上手いという声もあるし、最近は上手くいっていないという声も聞きますからね」 「ほとんど私に対するやっかみですよ。今だって一億や二億の金なら、右から左に動かして見せますよ」  大木は昂然とした表情でいった。 「すごいものですね」  亀井が感心したようにいった。 「大阪の繁華街にあるビルを、三十億円くらいで手に入れることを考えているんです」  大木は自慢げにいった。  三十億という大金でも、右から左へ用意できるといいたかったのだろう。 「あなたが鹿取ゆう子さんを殺したんじゃありませんか?」  亀井が突然のように、大木に向って浴びせかけた。大木の反応を見たかったのだ。  大木は怒るかと思ったが、逆に笑い出した。 「刑事さん、なぜそんなおかしなことを考えるんですか?」 「あなたなら殺せたと思うからですよ」 「しかし刑事さん、私が彼女を殺して、何の利益があるんですか? 彼女は私にとって、大事なお客様ですよ。お客様を殺してしまったら大損じゃないですか」 「鹿取ゆう子のクラブが入っているビルは、桜建物のビルですね?」 「そうです」 「いくらで、彼女は借りてたんですか?」 「権利金三千万。毎月の賃貸料は百五十万円です。あのビルであの床面積なら、安い方だと思っていますよ」  と大木はいってから、急に笑って、 「私が三千万円のために、彼女を殺したと考えていらっしゃるんじゃないでしょうね。権利金は、彼女が死んでも私のものにはなりませんよ。それに今もいったように、今の私は一億、二億の金ぐらい、簡単に作れるんです。三千万や四千万の金で人を殺しませんよ。刑事さんが必要なら、私が用立てますよ」  最後は、亀井をからかう調子になっていた。  確かに、問題は動機だった。  黒川武という課長に二人の女を殺す動機が見つからないように、この大木にも見つからないのだ。  亀井が黙ってしまうと、大木は胸をそらせて、 「私の会社は現在、四十近いビルを、東京とその周辺に持っています。一番小さいビルでも五、六億円の価値があるんですよ。そして桜建物は私の会社です。そんな私がなぜ、彼女たちを殺さなきゃならないんですか?」     11  十津川と亀井は、ひとまず退散することにした。  確かに大木のいう通りで、今の段階では反論のしようがない。  殺された鹿取ゆう子は、一億円の生命保険に入っていた。が、受取人は大木でも黒川でもなく、親戚に預けられていた七歳の娘だった。  ついでに、河野由紀のことも調べてみた。  こちらも五千万円の生命保険に入っているが、受取人は妹となっている。  残るのは、男と女の関係で殺したのではないかということである。  十津川たちはその線を調べてみた。 「カトリ」のホステスや、他の店のママたちにも当ってみた。 「大木さんはいい男だし、独身だし、実業家だから、『カトリ』のママと関係があってもおかしくはないわね」  と他の店のママは十津川にいった。 「それで、二人の間に問題が起きてるということはなかったかね?」  十津川がきくと、今度は彼女はクスクス笑い出した。 「二人とも大人だから、それでごたごたにはならないわよ。特に鹿取ゆう子って人は、男よりお金の方が大事なんだから。大木さんと関係が出来たって、死ぬの生きるのってことにはならないわね」  他のママやホステスも、同じ意見だった。男女の愛憎から殺すなんて、全く考えられないというのである。  黒川の方は問題にならなかった。 「カトリ」のママや「パピヨン」のママが、世帯持ちで桜建物の課長でしかない黒川と、問題を起こす筈がないと、誰もがいった。  一つ一つ手掛りが消されていく感じだった。 「弱ったね」  と十津川は溜息をついた。  動機なしに人は、殺人は行わないものである。やればそれは精神異常だ。  大木はそんなタイプからは、一番遠い人間だろう。  もし彼が人を殺したとすれば、殺すだけの理由があったのである。  四月二十九日の日曜日。  犬を連れて東京近郊の高尾山に遊びに来ていた家族連れが、雑木林の中で犬がやたらに吠えるので入って行ったところ、犬が死体を掘り出そうとしているのを発見した。最初に見えたのは足だった。若い女の足である。  すぐ警察に連絡がとられ、警官がスコップを持って来て、掘り出しにかかった。  地面から五、六十センチの深さに埋められていたのは、二十五、六歳の女の死体だった。それが河野由紀だった。  知らせを受けた十津川は舌打ちをして、亀井と現場に急行した。 「やはり殺されていたんだね」  亀井は走るパトカーの中で顔をしかめた。 「そうだな」 「東京湾じゃなく、今度は高尾山ですか」 「いずれにしろ東京の近くだ」  十津川も不機嫌になっていた。二人の死が予見されていたのに、それを防げなかったいらだちが、彼を不機嫌にしていたのである。  死体は当然のことながら、土にまみれていた。  腐敗はまだ始まったばかりだった。それがせめてもの救いのような気がした。  ハンドバッグは失くなっていたが、高価な腕時計やルビーの指輪などは、盗《と》られていなかった。当然、怨恨からの殺人が考えられるところだが、十津川はその線を無視することにした。  怨恨説をとると、大木も黒川も容疑圏外に去ってしまうからである。  大木は恨みつらみで人を殺すような人間ではない。あの男は、計算ずくで殺すタイプだ。黒川は自分の感情でより、上からの命令で殺すだろう。  死体はすぐ解剖に廻された。  死因は鹿取ゆう子の場合と同じく、絞殺であった。死亡推定時刻は四月六日から七日の間ということだった。  河野由紀もまた、一八時二四分発の「ひかり165号」で黒川と一緒のところを目撃された直後に、殺されたのだ。 「犯人はどう考えても大木だよ」  と十津川はいった。 「黒川の線はありませんか?」  亀井がきいた。 「彼が犯人なら、わざわざ他人《ひと》に見られるような恰好で、二人の女を連れて行ったりはしないだろう。まるで疑われるために、そうしているみたいだからね。それに黒川と二人の女の間に、殺すような緊張関係があったとは思えない。片方だけとなら、考えられないことはないがね。大木なら可能性はあるし、部下の黒川を使って姫路へ連れ出させたことも期待できる。大木は金曜日の昼間、大阪へ行き、車で姫路へ。そこで鹿取ゆう子や河野由紀が来るのを待ったんだ」 「実直な黒川となら、二人の女も安心して姫路へ来ると考えたんですね?」 「そうだろうね。それに疑いの目を黒川に向けさせることも出来る。多分、女には、『私は姫路で待っているから、それまでは黒川に送って貰いなさい』とでもいったんだろう。黒川は毎週のように金曜日に姫路へ帰るんだから、二人の女は何の疑いも持たなかったろうと思うね」 「姫路で殺して、東京へ運んで捨てたんでしょうか?」 「そうだと思うよ」 「なぜそんな面倒なことをしたんでしょうか?」 「自分への疑いをそらすためさ。大木はベンツで、東京と大阪の間を何回も往復している。高速を利用しているだろう。とすれば料金徴収所の係員に見られている。だがベンツの車内には、行きも帰りも大木ひとりで、連れはいない。当り前だ。行きは、女は黒川と一緒に新幹線に乗っているし、帰りは死体で、トランクの中だからだ。従って大木は、二人の女の死とは関係がないと思われる」 「奴の車のトランクを調べてみましょうか?」 「無駄だろう。もうきれいに掃除してしまっているよ」 「動機は何でしょうか? それがわからないと、捜査が前進しませんが」 「私はね、大木という男は、愛だの恋だので女を殺したりはしないと思っている。なんでも損得で考える男だよ」 「それは私にもわかりますが、奴は四十いくつものビルを持っている財産家です。殺しても、宝石なんかは盗ってはいません」 「わかってる」  と十津川は肯いたが、 「だが、動機は金だよ」  と確信を持っていった。  大木は愛憎では人を殺さないが、金のためなら殺人もいとわない人間に思えるのだ。     12  十津川は週刊誌にのった大木の経歴を、もう一度、読み直してみた。  大木は最初、平凡なサラリーマンだったと書いてある。  独立してビルのリース業を始めたのは、中年になってからである。別に資産家の息子に生れたわけではないと書いてある。  それがあっという間に、四十近いビルを持つ桜建物の社長になってしまった。それもお飾りの社長ではない。文字通りのワンマンなのだ。  ビルを三十としても、一つのビルが十億円の値打ちがあるとすれば、三百億の資産があることになる。  週刊誌によれば、最初、大木は、一つのビルを手に入れた。小さな三階建のビルだったという。それが十年の間に急成長を遂げ、三十を越すビルの所有者になった。 〈急成長の秘密をきくと、大木氏は「運が良かっただけですよ」と、謙虚に語った〉  週刊誌にはそう書いてある。  しかし、運が良いだけでこうはならないだろう。  十津川は新聞社にいる大学時代の友人を訪ねた。犯罪についてなら自分でいくらでも考えられるが、経済問題はどうも苦手である。 「貸ビル業をやっている『桜建物』の社長のことを聞きたいんだ」  と十津川は友人にいった。  社会部記者の田原というその友人は、 「まさか警視庁を辞めて、桜建物へ入るわけじゃないだろうな?」 「まさかね」 「それを聞いて安心したよ」  と田原はいった。 「この会社は危いのか?」 「そうはいってないよ。ただ普通の会社とは違うんだ」 「そこを君に聞きたいんだ。大木という社長は、なぜ短時日のうちに、三十を越すビルの持主になれたんだ? そこがよくわからないんだよ」 「じゃあ、銀座あたりに小さなビルを建てるというケースで、説明しようか。五、六階建の小さなビルでも、二十億くらいはかかるだろうね。土地代も含めてね」 「二十億円の現金を揃えるのか? 大木社長にあったら、そのくらいの現金はいつでも用意できると、豪語していたよ」  十津川がいうと、田原は笑って、 「それは嘘だな」 「しかし、今度は関西にビルを買うんだといっていたぜ」 「相当、無理してるというのが、世間の眼だよ」 「どういう風に無理してるんだ?」 「貸ビルというのは、健全な経営というと、自分でビルを持っていて、毎月の賃貸料で商売をしていく。これだろうね」 「それはわかるよ」 「権利金とか保証金というのは、解約するとき返さなければならないから、利益には計上しない。これが健全な経営だよ」 「大木の場合は違うわけか?」 「そうだ。今いったように、銀座に二十億円のビルを建てるとする。大木は一円もなしに建ててしまうんだ」 「どうやって?」 「まず設計図が出来るだろう。その段階で店子を募集する」 「集らなかったら、どうするんだ?」 「だから集るようにするのさ。桜建物の場合は、他の会社より安いんだ。例えば銀座のビルで、六十六平方メートルで五千万の保証金が常識だとすると、大木は四千万にする。月々の賃貸料もね、出血サービスみたいなものだよ。これなら店子が集る。五階建のビルで、ワンフロアを二つに分けて、それぞれ四千万円の保証金で貸す契約を結ぶ。そうすれば、ビルが建つ前に四億円の現金が、大木の下に集るわけだよ。大木はその四億円を銀行に預け、次に出来あがるビルを担保にするということで、銀行からあと十六億円を借金する。合計二十億円でビルを建ててしまうんだ。つまり一円もなくて、ビルが建つわけだよ」 「なるほどねえ」 「だがこれは、健全なやり方とはいえない。桜建物のビルは全部、銀行の担保に入っている。それだけじゃない。店子からも借金している形になってるんだ。だから店子が出て行ったり、銀行が手を引いたりしたら、桜建物は、ということは大木はというわけだが、たちまち破産してしまうのさ」 「綱渡りだな」 「だから、所有するビルが増えれば増えるほど、赤字も大きくなるわけだし、破産の危険も増えるわけだよ」 「確かにそうだな」 「それで大木社長も、いろいろと考えたらしい。大木のビルを借りているのは、銀座のクラブのママが多いんだ。彼女たちはたいてい金を持ってる。二億や三億の金ぐらい持っているのが普通だ。大木はその金に眼をつけたんだ。ビルのリース業は、これからも高度成長をしていく。だから、手持ちの金を私に預けなさい。高い利益をあげてみせると、大木は彼女たちにいって廻ったんだよ」 「それに応じたママさんもいるのかい?」 「現実に桜建物は四十近いビルを所有しているし、彼女たちはたいてい桜建物の所有するビルに店を持っているからね。貸ビル業というのは儲かると思って、溜めていた金を大木に預けるらしい。現金が集ってくれば、銀行に対してだって強くなれる。銀行に抵当に入っていたビルも次々に取り戻して、完全に桜建物のものに出来る。もちろん、銀行のものから出資者のものにかわっただけなんだが、大木は銀行は思うようにならないが、出資者たちならどうにでもなると思っているんじゃないかな」 「しかし、クラブのママたちが桜建物に出資しているという話は、あまり聞いたことがないな」 「当り前さ。彼女たちに、税務署が眼を光らせている。特別製のロールスロイスを得意気に乗り廻していたママが、国税局に調べ直されて、多額の追徴金を取られたことがある。億単位の金を桜建物に出資しているとわかったら、税務署が眼をつける。だから彼女たちは、口にチャックしてるんだ。大木にしてみれば、そこがまた付け目でもあるのさ。たとえの話だが、彼が預った金を使い込んだとしても、相手は大っぴらに抗議できないからね」 「億単位の金か」 「彼女たちはみんな、大変な金持ちだよ。しかも、すぐ動かせる金を持ってるんだ。どこかいい金儲けの口があれば、そちらに投資しようと身構えている」 「なるほどね」  少しずつ十津川には、事件の形が見えて来たような気がした。  殺された鹿取ゆう子と河野由紀は、桜建物に(ということは、ワンマン会社だから大木にということになる)多額の金を預けていたに違いない。  いい儲け口だと思って出資したのだろう。  他の店のママやホステスたちも、出資しているに違いない。だが何か事情があって、鹿取ゆう子と河野由紀は出資していた金を、返してくれといったのだ。  二人の出資していた額は、億単位だったのかも知れない。  また、二人が引き揚げたという噂が立って、他の出資者たちが動揺して、出資金を返せといい出すのを恐れたのかも知れない。  だから殺したのか──?     13  殺された鹿取ゆう子と河野由紀の金銭面のことを、徹底的に調べることにした。  まず鹿取ゆう子だが、定期その他で一億五千万円の預金があったのが、去年の六月に突然、引き出されている。 「ええ。突然、全部おろしたいといわれました」  と取引きしていた銀行の支店長が、十津川に向っていった。 「それをどうするといいましたか?」 「いえ。一応、おききしたんですが、教えて頂けませんでした。銀行に預金しておくよりも有利な投資先があるようなことは、いわれていましたが」 「一億五千万、全部、現金だったんですか?」 「はい。うちの行員が鹿取様のマンションヘお運びしました」 「そのことで彼女から、何かいって来たことはありませんか?」 「今年、お会いしたとき、また預金をお願いしますといったんですよ」 「そうしたら彼女は、何といっていました?」 「また定期に入れるといっておられましたよ。どうも投資の方は、あまりうまくいっていないようでした」 「それはいつのことですか?」 「確か二月の初め頃だったと思います」 「だが、一億五千万円は戻さなかったんですね?」 「はい。三月に入ってすぐ、担当の者がお電話したところ、ごたついていたがやっとそちらへ、また預金できるようになったといわれたので、お待ちしていたんです。それがこんなことになって——」  と支店長はいった。  河野由紀の場合も同様だった。  彼女は一億円を銀行からおろしていた。  それも、同じように現金にして、どこかに投資しているのだ。  ただ彼女の場合、マネージャーが面白い証言をした。 「ママがこんなことをいっていましたよ。毎月百五十万円支払っていたのが、今月から五十万円ですむのよって」 「それはこの店の賃貸料のことかな?」  十津川がきくと、マネージャーは肯いて、 「ええ、そうです」 「いつから百五十万円が五十万円になったのかな?」 「確か、去年の七月からだったと思いますよ。夏頃、ママが喜んでいましたから」  とマネージャーがいった。  銀行は、六月に河野由紀が一億円引き出したといっていた。ぴったり符合するのだ。  大木は店の賃貸料を安くすることで、利子代りにしていたのだろう。  だが貸ビル業の場合、それが利益なのだから、金はいくら集っても、自分の首を絞めているのと同じではないのか。  いつか破綻《はたん》するのではないか。  大木の事業が猛烈な勢いで発展していれば、こうした作業も破綻は起きないだろうが、この低成長時代には無理だろう。  だが、大木は負けるのが嫌いな男だ。  そう思って調べている中に、十津川の友人の田原から電話がかかって来た。 「君にいわれて、もう一度、桜建物を調べてみたんだがね。大手の銀行が手を引くらしい」  と田原がいった。 「しかし大木は、自分のビルが銀行の抵当に入っているのが嫌で、銀座のママたちに出資させたんだろう?」 「それは、相互銀行とか信用金庫なんかと手を切ろうとしたんで、大銀行とじゃないよ。いくら出資者を集めたって、全部を出資者だけではまかなえない。メインバンクの融資もやはり必要だし、メインバンクがついているというので、安心して出資者も集るわけだよ。大木は出資者を、全部、桜建物の株主にしてしまった。だからビルは桜建物のものに、名目上はなったわけだよ。それは、大銀行からの融資ということになると、表面的には健全財政ということになるんだ」 「だが出資者には、高い利息を払っているよ」 「そこが問題なのさ。表面上、健全財政にして、大銀行からもっと金を出させて、大木は新しい事業を始めようとしていたらしい。貸ビルも、作ればすぐ借り手がつくという時代じゃなくなって来たからね。ところが大木のやり方に大銀行が疑問を持ち出して、新しい融資を押さえるだけじゃなく、資金を引きあげる動きを見せ始めたんだ。そういう点、大銀行というのは非情だからね」 「その噂で出資者が動揺したわけか?」 「クラブのママさんというのは、われわれ新聞記者よりそういう方の情報には早耳だからね」  電話の向うで田原が笑った。 「それで、二人の女が殺された理由がわかったよ」 「何だって?」 「また電話する」  とだけ十津川はいった。  鹿取ゆう子と河野由紀は、ただ単に一億五千万円と一億円だけのことではなかったのだ。大木にとって、蟻の一穴だったのだろう。  だから大木は、二人を殺してでもドミノ現象が起こるのを防ごうとしたのだ。  大木は二人に対して、すぐ返すと約束したのだろう。  関西で事業を始めるので、向うで会いたいといったのかも知れない。大阪で小切手で返すから、借用証を持って来てくれとでもいったのだろう。  まさか桜建物の社長が、自分を殺すとは考えもしなかったに違いない。 「逮捕状をとろう」  と十津川は決断した。 「今日は日曜日ですが、大木はどこにいるんでしょう?」 「それを調べてくれ。それから黒川の逮捕状もだ。容疑は殺人|幇助《ほうじよ》だな」  亀井が電話をかけてみたが、大木は自宅にいなかった。  どうやら、日曜だが銀座の本社に出ているらしい。それだけ彼にとって、危うい情勢になってしまっているのだろう。  警察が彼の周辺を洗っているという噂だって、メインバンクには聞こえているに違いない。  午後三時に令状が出た。日下と西本の両刑事を黒川の逮捕に向わせ、十津川は亀井と銀座の桜建物本社に向った。  銀座の表通りは賑っているが、クラブやバーの林立する裏通りはほとんどの店が閉まっていて、静かである。  桜建物のあるビルも、そんな閑散とした空気のところに建っている。ビルに着いたが、エレベーターが停っていた。 「最上階まで、てくてくと歩いて行かなきゃならないんですかね」  亀井がぼやいたとき、突然「どかーん」と、何かが爆発する音が上の方で聞こえた。十津川はあわてて通りへ飛び出し、上を見た。  桜建物のある最上階から、猛烈な勢いで火が吹き出している。ばらばらとガラスの破片が降って来た。  火焔はどんどん激しくなってくる。 「大木が火をつけたんだ」  十津川が見上げて呟いた。  自尊心が強く、奇跡の成功者といわれた大木は、自分が警察に逮捕されることに、我慢がならなかったのだろう。  消防車が駆けつけたときには、もう手がつけられなくなっていた。  一時間近く燃え続け、最上階を完全に焼きつくして、やっと鎮火した。  焼け跡から、死体が一つ見つかった。黒焦げになった男の死体である。背恰好や歯形から、社長の大木に間違いないことが証明された。 「手錠をかけることが出来ませんでしたね」  亀井が憮然とした顔で、十津川にいった。 「ああ。しかし彼は、死んだことで、これからあることないこと書かれるんだ」  と十津川はいった。  逮捕された黒川の方は、最初は黙秘権を行使して一言も喋らなかったが、社長の大木が死んだことを十津川が告げると、やっと喋るようになった。  黒川は、鹿取ゆう子も三月九日に、姫路まで一緒だったことを認めた。 「私は大木社長に恩義がありますから、どんなことでもしたいと思っていました」  と黒川はいった。昔気質の実直なサラリーマンなのだ。  十津川は痛々しいものを見るように、黒川を見た。  だが、必要な訊問はしなければならない。 「君は社長の大木が、鹿取ゆう子と河野由紀を殺すかも知れないとわかっていながら、新幹線で姫路まで連れて行ったのかね?」  と十津川はきいた。  全く知らなかったと黒川がいえば、それを調書に書いておこうと思った。  だが黒川は、きっぱりと首を縦に振った。 「その可能性があると思っていました。でも社長のためなら、私は何でもやりましたよ。共犯といわれるのなら、それでも結構です。私にとって大木社長は、立派で心の温かな人でした」 「冷静に考えてから、答えてくれればいいんだよ」 「いえ、私の気持は変りません」  黒川は頑固にいった。 「わかった」  と十津川はいった。  お座敷列車殺人事件     1  国鉄に初めてお座敷列車(和風客車)が登場したのは、昭和三十五年である。  盛岡鉄道管理局で二両が登場した。この時は専用列車ではなく、他の列車に併結して運用されていた。  昭和四十年代になると、長野と名古屋局にそれぞれお座敷客車だけの六両編成の列車が誕生した。  それが好評だったため、現在各鉄道管理局に合計七十八両のお座敷客車がある。全て六両編成だから、十三編成ということになる。  最初からお座敷客車として製造されたものはなく、全て12系客車や81系客車の改造である。  四月六日に東京駅を出発し、伊豆下田へ行く「いこいの旅号」もそうしたお座敷列車の一つだった。  関東一円に十五のチェーン店を持つスーパー「マルイチ」がお客サービスに企画したものである。買物を五百円するごとに抽選券が一枚出て、当選すれば伊豆下田の二泊旅行に招待というものだった。  十津川警部の妻の直子も、近くにスーパー「マルイチ」の店があり、せっせと抽選券をためていた。二枚当れば、夫の十津川にも何とか休暇をとって貰って、久しぶりに夫婦で旅行に行ってみたいなと思ったのである。十津川は仕事が仕事なので、北海道への新婚旅行以来、ほとんど一緒に旅行したことがなかった。  しかし、残念ながら一枚しか当らなかった。  行き帰りともお座敷列車で、下田には温泉旅館に二泊する。  渡されたパンフレットには、東京駅の集合時間や、車内ではカラオケ大会も行われるといったことが書いてあった。 「君は声がいいんだから、出てみたらどうだい」  と十津川がすすめた。  もともと外向的な性格の直子だから、その気になって出発までの間せっせとラヴ・イズ・オーバーの練習をした。  十津川夫婦はマンション住いだが、同じ階に住む原田夫妻の奥さん、原田めぐみも当選して、一緒に下田へ行くことになっていた。  明るく華やかな女性だから、楽しいだろう。  東京駅の集合は、午前十時三十分である。  直子は丸二日間留守にするので、二日分のおかずを作り、それを冷凍庫に入れておき、「温めて、食べて下さい」と十津川に手紙を書いてから、原田めぐみと一緒に出かけた。  東京駅には十時少し過ぎに着いてしまった。  二人で構内の喫茶店で時間を潰した。 「一度聞いてみたいと思ったことがあるの」  と原田めぐみは直子の顔をのぞき込むように見た。 「何を聞きたいのかだったら、想像がつくわよ」  直子は笑った。同じような質問を何人もの人間にいわれていたからである。 「本当にわかるの?」 「刑事を旦那に持った奥さんてどんな気持なのか、それが聞きたいんでしょう?」 「そうなの」 「原田さんのご主人は商社マンでしょう?」 「ええ」 「私は、エリート商社マンの奥さんてどんなものか知りたいわ」  直子がいうと、めぐみは笑って、 「そんなものかしら」 「そんなものよ」 「退屈なものよ。毎日午前二時、三時になって疲れ切って帰って来て、夫婦生活もままならずよ。まあ将来性はあると思って我慢してるんだけど」 「じゃあ、刑事の奥さんも同じようなものよ」  と直子はいった。  直子は二度目の結婚だったし、三十歳を過ぎているから、現在の十津川との生活に満足しているが、めぐみはまだ二十八歳の筈だから、いろいろと不満も出てくるに違いない。  十時半になったので、二人は待ち合せの場所に行った。  もう何人もの人間が集って、わいわいやっている。  二百人が当選したことになっているが、スーパーの客ということで、圧倒的に家庭の主婦が多かった。  中には夫婦、恋人同士という組み合せもいたし、子供連れもいた。 「では、これから改札口に入ります。9番線ホームですから、間違えないように続いて入って下さい」  スーパー「マルイチ」の責任者の一人がメガホンでいった。  みんなにこにこしていた。     2  一〇時五七分に、お座敷列車「いこいの旅号」が9番線に入って来た。  六両連結のブルーの客車である。ブルーの車体に白い線が一本入っていた。  12系と呼ばれる客車だが、内部は和室に改造されている。  直子とめぐみは4号車だった。  中に入ると、誰もが一様に「へえ」という顔になった。なかなか素敵な作りである。  通路に面して畳が敷きつめられ、天井には和風の照明があり、欄間まで設けられている。  畳の上にはテーブルが置かれ、その両側に座椅子が白いカバーをかけて並べてある。  乗り込んだ人々は思い思いに畳の上に腰を下し、キオスクで買ったみかんや、家から持って来たお寿司などをテーブルの上に並べ始めた。 「よく出来てるわ」  とめぐみは珍しそうに車内を見廻した。  端には大型のテレビスクリーンがあり、反対側の端には小さいながら床の間も設けてある。  窓はガラスの内側に障子がはめ込まれてある。  じゅうたんの敷かれた通路にもはねあげ式の畳がついていて、それを戻すと通路も畳敷きになるようになっていた。  直子は配られた「いこいの旅号」の時刻表を見てみた。  東京発は一一時二七分である。  途中熱海と伊東に停車して、終着の伊豆急下田に着く。   東京発 11:27   熱海着 12:59    〃発 13:00   伊東発 13:24    〃着 13:25   伊豆急下田着 14:26  六両の座席の一両に一人ずつ、スーパー「マルイチ」の人間が添乗して世話することになっていた。  3号車は中央にカーテンがひかれ、半分が座敷、半分がカラオケ用の舞台になっていた。  若い新人歌手の山根さとみと、作曲家の服部互一が審査員として乗り込んでいる。  賞品も積み込まれて、一一時二七分にお座敷列車「いこいの旅号」は東京駅を発車した。  横浜を通過した頃、車内放送で、 「これから3号車でカラオケ大会を始めますので、出場者の方は3号車へお移り下さい。その様子は各車両の大型テレビスクリーンに映し出されます」  といった。  めぐみは4号車のテレビで見ているというので、直子だけが隣りの3号車へ移って行った。  前もってカラオケ大会に出る人数は十人と決めてあった。  3号車の舞台にはソファが並べてあり、直子たち出場者十名が、それに腰を下して順番を待つのである。  男が三人に女が七人である。みんな緊張した顔付きだった。  新人歌手の山根さとみが、まず自分の持ち歌を一曲唄ってから、カラオケ大会が始まった。  どの人も一応のど自慢なのだろうが、列車がゆれるので、どうも勝手が違うらしい。 「こんな筈じゃないんだがなあ」  と唄い終ってから首を振る男の人もいたし、歌詞を間違える女性もいた。  それでも審査員の作曲家・服部は、笑顔で一人一人を賞めあげた。  その間も「いこいの旅号」は走り続けている。  直子の番になった。  立ってマイクを持つと、やはり車両のゆれが気になった。  畳の上に立って唄うというのは、妙なものだった。  それに、立っていると列車のゆれがそのまま身体に伝わって来て、足元に注意がいくと唄う方がおろそかになってしまう。  家で練習したときはかなり上手く唄えたと思ったのに、列車の中では途中から曲に合わなくなってあわててしまった。  それでも作曲家の服部は、 「堂々とした唄い方がいいですねえ。この人は実力のある人だと思いますよ」  と賞めてくれたうえ、敢闘賞として彼の作曲した歌が入っているLPレコードを贈られた。  何のことはない、十人の出場者全員に、さまざまな賞が用意されていたのだ。  カラオケ大会が終ったのは、伊東を出たあとである。 「間もなく終着の伊豆急下田ですから、そろそろ降りる準備をして下さい」  という車内放送があった。  直子は貰ったLPレコードを大事に抱えて、4号車の自分の席に戻った。  近くにいた人たちが、にこにこ顔で直子を迎えた。 「よかったわ」 「お上手なんで、びっくりしたわ」  と声をかけてくれた。  だが、肝心のめぐみの姿がなかった。  テーブルの上にはめぐみの持って来たお菓子やみかんが、食べかけのまま置いてあった。  窓の外には、海が青く広がっている。  伊豆に入ったのだ。  久しぶりに見る海の景色に、直子は見とれながらも、めぐみのことが気になった。  トイレにでも行っているのかと思ったのだが、それにしては時間がかかり過ぎる。 (他の車両に行っているのだろうか?)  とも思った。  めぐみは話好きである。他の車両へ遠征して行って、誰か知り合いがいたので、呑気に話し込んでいるのかも知れない。  終着の伊豆急下田に着いたのは、パンフレットにあった通りの一四時二六分である。  ホームには、ミス下田が一行の出迎えに来ていた。  ホームに降りた直子は、めぐみの姿を探したが見つからない。  4号車の添乗員に、直子はめぐみがいないことを告げた。  背広の襟に、スーパー「マルイチ」のバッジをつけた三十歳くらいの添乗員は、 「困るなあ、勝手に動き廻っちゃあ」  と文句をいってから、 「原田さーん、原田めぐみさんはいませんかァ」  と大声で呼んだ。  直子もホームを見廻したが、めぐみは出て来ない。  他の車両の乗客はどんどん改札を通って出て行く。  添乗員は「弱ったな」を繰り返すだけである。  直子は他の乗客に悪くなって、添乗員に、 「先にホテルヘ行っていて下さい。私がここに残って、彼女を探しますわ。見つかったら連れて行きますから」 「ホテルは知っていますね?」 「ええ。Kホテルでしょう。大丈夫ですわ」  と直子は微笑した。  添乗員は他の乗客を案内して、改札口を出て行った。  直子はもう一度、ホームを見廻した。  ホームの向うに小さなビルが並び、そのうしろに山が迫っている。緑が一杯の山である。  そしてこちら側には、空っぽになったお座敷列車がひっそりと停まっている。 (もう一度、車内を調べてみよう)  と思い、開いたままになっている4号車のドアから中へ入ろうとした時、突然中からふらふらっと、泳ぐように当の原田めぐみが出て来た。  そのまま直子にしがみついて来た。 「原田さん」  とびっくりして呼んだが返事はなく、めぐみの身体は、ずるずるとホームのコンクリートの上に崩れていった。  思わず直子は悲鳴をあげた。  改札口のところにいた駅員が、こちらに向って駆けて来るのが見えた。     3  直子はくずおれたまま動かないめぐみの傍に、屈み込んだ。  彼女の後頭部が真っ赤に染っている。血が流れ出しているのだ。  誰かに後頭部を強打されたのだ。  二名の駅員が駆け寄って、 「どうなさったんですか?」  ときく。 「すぐこの人を病院へ運んで下さい。お願いします」 「頭をぶつけたんですか?」 「わからないわ。とにかく一刻も早く病院へ運んで下さい」 「すぐ救急車を呼びます」  一人が駅舎の方へ飛んで行った。  直子は残ったもう一人の駅員に向って、 「車内を見て来て下さいな」 「車内を? なぜです?」 「この人は後頭部を殴られているんです。殴った人間はまだ車内にいるかも知れないわ。だから見て来て貰いたいの」 「見て来ましょう」  若い駅員は、車内に飛び込んで行った。  一人になった直子は、もう一度めぐみに向って名前を呼んでみた。だが、返事はない。  抱くようにしていたので、手が血に染ってしまった。  五、六分して、車内を見て廻っていた駅員が戻って来た。 「誰もいませんでしたよ」 「そう」 「本当に車内に犯人がいたんですか?」  駅員が疑わしげにきいた時、救急車のサイレンが聞こえた。いや、パトカーのサイレンも聞こえる。駅員が様子がおかしいので警察にも知らせたのだろう。  担架を持った救急隊員と刑事とが、一緒にホームに入って来た。  ぐったりと動かないめぐみは担架にのせられ、直子は二人の刑事につかまってしまった。 「事情を聞かせて下さい」  と、刑事の一人がいった。  直子は、知っていることを話してから、 「心配だから病院へ行きたいんですけど」 「すぐ案内しますよ」  と刑事はいってから、 「傷口から見て、誰かに後頭部を強打されたようですね?」 「ええ。私もそう思いますわ」 「あなたは犯人が車内にいるといいましたが、調べた駅員はいないといったわけでしょう?」 「トイレにかくれているかも知れませんわ」 「トイレも調べました」  と駅員がいった。 「われわれでもう一度調べてみよう」  二人の刑事は、そういって車内に入って行った。  降りて来たのは、三十分ほどたってからである。  片方の刑事は、手袋をはめた手にスパナを持っていた。 「あなたと被害者の原田めぐみさんですが、二人が乗っていたのは4号車だったんですね?」 「ええ」 「4号車の添乗員室にこれが落ちていました。それに血痕もありました。このスパナにも血痕が附着しています。見覚えがありますか?」  と刑事がきいた。 「いいえ。旅行に来るのにスパナなんて、持って来る筈がありませんわ」 「添乗員は何人いたんですか?」 「各車両に一人ずつ、スーパー『マルイチ』の方が添乗員として乗って下さったんです。でも、ずっと私たちと一緒にいて、ジュースを配ってくれたり、お茶を用意して下さったりしていたみたいですわ。私は途中からカラオケ大会に出てしまったから、わかりませんけど」 「すると、添乗員室は空っぽだったわけですね?」 「と思いますけど、添乗員の方に聞いてみて下さいな」  と直子はいった。 「あなたは一応署まで来てくれませんか」  刑事の一人がいった。 「事情は今お話しした通りですわ。他につけたすことはありませんけど」 「そうでしょうが、とにかく同道ねがいます」  刑事は頑固にいった。 (どうも様子が変だわ)  と思いながらも、直子は刑事たちと一緒にパトカーに乗り、下田警察署へ連れて行かれた。  そこで指紋をとられた。  なぜそんなことをしたか、直子にはすぐわかった。  明らかに彼女を疑っているのだ。  凶器と思われるスパナからも指紋を探し出し、照合するつもりなのに違いない。 「早く病院へ行って、原田さんの様子を聞きたいんですけど」  直子がいうと、安木という刑事は肩をすくめて、 「その必要はなくなりましたよ」 「というと、原田さんは?」 「今K病院から連絡があって、彼女は亡くなったそうです。従ってこれは、殺人事件になりましたよ。だからもう一度、最初から話してくれませんか」  安木刑事はいった。 「もう、全て話しましたわ」 「それは列車に乗ってからの話でしょう。日頃、被害者と仲が良かったのか悪かったのかということも聞きたいですね」 「やっぱり、私を疑っていらっしゃるのね?」  直子がいうと、安木刑事も別に否定もせず、 「あなたには殺すチャンスがあったし、列車には他に誰も乗っていませんでしたからね」 「犯人はもうとっくに降りて、逃げてしまったと思いますわ」 「しかし、あなたが車内に犯人がいるに違いないといったんですよ」  安木はニヤッと笑った。  一時間すると、更に事態が悪くなった。  もう一人の島田という刑事が眼を血走らせて入って来るなり、同僚の安木に向って、 「指紋が一致したよ」  と大声でいったのである。 「やっぱり一致したか」  と安木はいい、じろりと直子を見た。 「一致したって、何と一致したんですか?」  直子がきいた。 「もちろん、凶器のスパナについていた指紋と、君の指紋とが一致したんだ」  と島田刑事がいった。言葉使いまでついさっきとは違っていた。 「私は彼女を殺したりはしていませんわ」  直子は大きな声でいった。  腹が立って来たのだ。 「じゃあ、なぜ凶器に君の指紋がついているんだ?」 「知りませんわ、そんなこと」 「知らないじゃあ、通らないんだよ」  安木が険しい眼付きで睨んだ。 「動機がありませんわ」 「果してそうかね。同じマンションに住んでいて、表向き仲良くしていたが本当は憎み合っていたんじゃないのかね?」 「とんでもありませんわ」 「正直に何もかも喋ったらどうだね?」 「もう話しましたわ」 「そうは思えないがね。スパナの指紋のこともまだ聞いていないよ」 「連絡したいことがあるんですけど、電話をかけさせて貰えません?」 「弁護士にかけるのかね?」 「いいえ。警視庁の捜査一課ですわ」 「捜査一課?」  二人の刑事はびっくりした顔で、眼を見合せた。 「捜査一課の誰に連絡したいんだ?」 「主人にですわ」     4  十津川は最初直子のいっていることが、よく呑み込めなかった。  いつも落着き払っている直子が、妙に早口になっていたからである。 「落着いて話してくれないか」  と十津川はいった。 「お座敷列車の中で殺人事件があったの。殺されたのは、同じマンションに住む原田さんの奥さんだわ」 「本当かね?」 「本当なの。おまけに私が容疑者第一号で、今下田警察署に捕まってしまってるのよ。ちょっと待って、安木という刑事さんに代るわ」  直子がいい、「静岡県警の安木です」という男の声に代った。  ひどく気負い込んだ声である。 「十津川警部さんの奥さんとは、知りませんでした」 「家内が犯人だと思っているわけですか?」  十津川は丁寧にきいた。  事情がまだはっきりしなかったからである。 「残念ながら、奥さんの容疑は濃いんです。被害者は車内の添乗員室で、後頭部をスパナで強打されて殺されたと思われる状況ですが、このスパナに奥さんの指紋が付いていました。それに、奥さんが被害者の死体と一緒にいるのを発見された時、車内には他に誰もいなかったのです」 「そのスパナが凶器だということは、間違いありませんか?」  十津川は念を押した。 「まず間違いありません。スパナには血が附着しておりまして、その血は被害者のものに間違いないからです。被害者の傷口も、検死官によるとスパナのようなもので強打されたものだということですから」 「しかし、私も原田めぐみさんと同じマンションの住人なので知っていますがね。家内とは仲が良かった筈ですよ」 「動機についてはまだわかりませんが、表面上は仲が良くても、裏では憎み合っているという人も多いですからね。特に女同士の場合は、陰湿になりがちです」  安木という刑事は、相変らず気負い込んだ調子でいった。  十津川は苦笑しながら、 「家内もそれを認めたんですか?」 「いや、奥さんは否定しています。しかし状況は奥さんが犯人であることを示しています」 「家内は怒ることもありますがね、他人《ひと》を殺すようなことはありませんよ」 「お気持はわかりますが」 「家内には、すぐ行くと伝えて下さい」  と十津川はいった。  電話を切ると、亀井や日下刑事たちが心配そうに十津川の周囲に集って来た。  そんな部下たちに向って、十津川は「大丈夫だよ」といった。 「とにかく、私は下田へ行ってくる。電話ではどうもはっきりしたことがわからないのでね」 「私たちが何かお手伝いできることはありませんか?」 「今のところ何もない。あとで手伝って貰うことになるかも知れないがね。ありがとう」  十津川は部下に礼をいい、本多捜査一課長に事情を話してから、東京駅に向った。  一五時五一分発の「こだま」に飛び乗った。  一八時四五分に熱海に着いた。  すぐ一六時五三分発の伊東線に乗りかえる。  あと一時間半ほどで下田である。  窓の外には伊豆東海岸の海の景色が広がっていくが、十津川は考え込んでいた。  妻の直子が殺人を犯す筈はない。直子だって人を憎むことはあるだろうが、激情にかられて何かするというタイプではない。  一八時二八分に伊豆急下田駅に着いた。  途中から曇ってきたのだが、春らしい雨が降り始めた。  まっすぐ下田警察署に向った。  十津川が下田署に着くと、署内の空気が重苦しいことに気がついた。 〈伊豆急下田駅殺人事件捜査本部〉の看板のためだけではないようだった。  容疑者として連行した女性が、警視庁捜査一課の警部の妻だとわかったことにもあることは明らかだった。  十津川は順序として、署長にまずあいさつした。が、その時にも重苦しい空気を感じた。  署長は一応、十津川に対して、 「こんなことになって、こちらとしてもびっくりしているんだ。出来れば君の奥さんが無実であってくれればいいと思っているんだがねえ」  といってくれはしたが、その堅い表情には、いくら警視庁刑事の妻でも、だからといって手ごころは加えないぞという気持がにじみ出ていた。  下手をすると依怙地になって向ってくるだろう。 「よろしくお願いします」  とだけ十津川はいった。  署長の紹介で、事件を担当した安木、島田の二人の刑事に会った。  二人とも、やはり堅い表情をしていた。 「電話でお話しした安木です」  と一人がいい、つけ加えて、 「あのあとで、Kホテルに行って調べてきましたが、被害者の原田めぐみさんと親しくしていた人間はいないことがわかりました。つまり、お座敷列車の乗客の中で、被害者と利害関係のあった人間は奥さんだけだというわけです」 「つまり、家内にとって状況は一層悪くなったということですね」 「お気の毒ですが、その通りです」  安木は相変らず厳しい顔でいった。  絶対に妥協しないぞという眼付きだった。 「家内に会わせて貰えないかね?」  と十津川はいった。  拒絶されるかも知れないと思ったのだが、安木は署長と相談してから「どうぞ」といってくれた。 「お会いになっても無駄だと思いますがね」 「それでも構いませんよ」  十津川は取調室で直子に会った。  意気消沈しているかと思ったが意外に元気なので、十津川はほっとした。 「大変なことになったね」  と十津川は優しく声をかけた。 「今はひたすら面くらっているだけなの」  直子は肩をすくめて見せた。 「確かに面くらったろうね。凶器のスパナに君の指紋がついていたといって、ここの刑事が鬼の首でも取ったようにいっていたよ」 「あれは私もびっくりしたの。絶対に私の指紋なんかついてないと思っていたからだわ」 「君の指紋がついていたところをみると、あのスパナはいつも君が使っていたスパナだと思うね」  と十津川はいった。  十津川と直子はマンション住いで、小さな英国製のミニ・クーパー1000を持っているが、道路に面した駐車場に置いてある。  工具類だって車のトランクに放り込んであるし、二人とも呑気で、トランクのカギを掛け忘れることが多いから、盗もうと思えば誰だって盗めた筈である。  それに駐車場といっても、屋根もなく、白い線で仕切られているだけである。  ただ、その区画の一つ一つに白いペンキで名前が書いてあるから、赤いミニ・クーパー1000が、十津川夫婦の車であることは誰にだってわかるだろう。 「君は原田めぐみさんと一緒に、二人で今度の旅行に参加したんだったね?」 「ええ」 「彼女の様子に変ったところはなかった?」 「それを私も考えていたの。怖がっていなかったろうか? 今度の旅行を嫌がっていなかったかといったことをね。でも、彼女は怖がっても嫌がってもいなかったわ。むしろとても嬉しがっていたわ」 「旅行好きだったのかな? 君はカラオケ大会に出たんだろう?」 「ええ。賞品にLPレコードを貰ったわ。今は警察に保管されてるわ。釈放されたらすぐに返して貰わないと」  直子は彼女らしく呑気ないい方をした。 「彼女はカラオケ大会に出なかったの?」 「ええ、出なかったわ」 「なぜかな。一度彼女が車を洗いながら唄っているのを聞いたことがあるけど、上手かったよ」  と十津川はいってから急いで、 「もちろん、君よりは下手だがね」  と付け加えた。  直子はクスッと笑った。 「確かに彼女は、声はいいし唄も上手いわ。それに騒ぐのも好きだったわ。なぜ出なかったのかしら?」 「申し込んだが、人数の制限があって出られなかったんじゃないのかな?」 「違うわ。私が彼女に一緒に申し込みましょうと誘ったら、彼女はいやだっていったの。今から考えると賑やかなことの好きな彼女らしくないんだけど」 「君が唄っている時、彼女は君を応援していたんだろうね?」 「応援してくれたと思うけど」 「それはどういう意味だ? 思うというのは」 「私たちの車両は4号車だったの。カラオケ大会は隣りの3号車で開かれたわ、一両を半分に区切って舞台を作って。彼女は、4号車に五十インチのテレビがあってそこに映るから、それを見ているといったのよ。だから、応援してくれていたと思うといったの」 「カラオケ大会が終ったあとで、彼女は君の唄をどういってたの?」 「それが会えなかったのよ」 「なぜ?」 「なぜだかわからないわ。カラオケ大会がずいぶん時間がかかって終ったときは、もう伊東を過ぎてたのよ。間もなく下田だというので、急いで4号車に戻ったんだけど、彼女の姿が見えなかったのよ」 「なるほどね。それで下田駅に着いてから君一人がホームに残っていたら、彼女がふらふらと車内から出て来て、君にしがみついて来たわけだね?」 「びっくりしたわ。彼女ったらそのままずるずる崩れてしまって、動かなくなってしまったのよ」 「その直後に、誰かが列車から降りて来るのを見たというようなことはなかった?」 「なかったわ。私も彼女を襲った犯人が、続けて降りて来るんじゃないかと思ってじっと見ていたんだけど、誰も降りて来なかったわ」 「反対側から降りて逃げたかな。反対側のホームには、列車は入っていなかったの?」 「ええ」 「それなら、線路に飛び降りてから向うのホームに這いあがって逃げることは出来た筈だ」 「出来たかしら? 反対側のドアは、閉まっていた筈だし──」 「お座敷列車の窓は開くんじゃないのか?」 「そうね。半分まで押しあげて開けるような窓だったわ」 「それなら窓から逃げる可能性は残っていることになるよ」  と十津川はいった。     5  十津川は直子を励まして警察署を出ると、Kホテルに泊ることにした。  お座敷列車でやって来た他の連中は、事件のことなど知らない顔でホテルのホールで開かれているダンス大会に出たり、温泉に入ったりしていた。  十津川は、4号車に添乗していたスーパー「マルイチ」の社員に会った。  鈴木という三十歳くらいの男である。 「事件のことを夕食のあとで聞きました。びっくりしているんです」  と鈴木はいった。 「私の家内が疑われて、下田署に捕まっているんですよ」 「それはお気の毒ですが、何かお力になれることがありますか?」 「死んだ原田めぐみさんの家族には、知らせたんですか?」 「はい、電話でお知らせしました。四時頃に電話した時は、まだご主人が帰宅されていなかったんですが、八時にもう一度おかけしたらお出になりました。すぐこちらへ来るとおっしゃっていました」  と鈴木はいう。  十津川は、原田めぐみの夫とは三度ほどしか顔を合せたことがなかった。向うは商社員で忙しいし、こちらもいつ帰宅出来るのかわからない仕事をしていたからである。  T大を出ているとかで、いかにも頭の切れる感じの男である。  ここで顔を合せたら何といったものかと、十津川は気が重かった。向うの奥さんが殺され、十津川の妻が容疑者になっているからだ。 「各車両には添乗員室がついていましたね」  十津川がいうと、鈴木は肯いたが、 「うちの会社ではそんなところでのんびりしていたら、たちまち馘《くび》になってしまいます。お客様へのサービスが第一ですからね。私もずっとお客様と一緒にいて、お茶を出したり気分が悪くなった方には薬を差しあげたりしていて、添乗員室には一度も入りませんでしたよ」 「3号車でカラオケ大会が始まったときのことを話してくれませんか」 「その、何をですか?」 「各車両に大型のテレビスクリーンがあって、カラオケ大会の様子はそれに映し出されていたんですね?」 「そうです」 「4号車でも?」 「ええ、もちろん」 「他の乗客はそれをじっと見ていましたか? それとも全然見ていなかった?」 「見ている人も何人かいましたが、お酒が入って、立ち上って勝手に唄い出す人もいたし、お喋りをしている人もいたし、持って来たゲームをやっている人もいるしで大変でしたよ。日本人って、旅に出ると急に開放的になりますからね」 「死んだ原田めぐみさんを覚えていますか?」 「ええ、顔は覚えています。なかなかきれいな方でしたから」 「カラオケ大会の間、彼女がどうしていたか覚えていますか?」 「それが駄目なんですよ。今もいったように、車内が賑やかでしたからね。五、六人で立ち上って、民謡を踊り出す人たちもいましたからね。覚えていないんです。下田駅に着いて、警部さんの奥さんにいわれて、やっと原田めぐみさんがいないことに気がついたくらいなんですよ」 「招待客以外の人間が乗っていた、ということはありませんか?」 「ないと思いますね。東京駅では一応、点呼をとってから乗りましたから」 「しかし、途中、熱海と伊東には停車するわけですね?」 「ええ」 「そのどちらかで乗って来たかも知れませんよ」 「しかし、下田ではちゃんと招待した人数しか乗っていませんでしたよ。死んだ原田さんを入れてですが」  と鈴木はいった。  十津川は自分の部屋に入ると、東京の亀井刑事に電話をかけた。 「カメさんに頼みたいことがあるんだよ」 「今、事件がありませんから、何でもいいつけて下さい。奥さんは大丈夫ですか?」  亀井の声がびんびん伝わってくる。  十津川は亀井の顔を思い浮べながら、 「家内は元気だよ。私のマンションに行って、私の車を調べて貰いたいんだ。赤いミニ・クーパーだ。トランクをあけると工具を入れた箱が入っている。その中にスパナが何本あるか調べてきて欲しいんだ。三本ある筈なんだが、その通りあるかどうかね」 「それだけでいいんですか?」 「今はそれだけでいいよ」  と十津川はいった。  一時間半ほどたって、亀井の方から電話がかかった。 「見て来ました。工具箱の中にスパナは二本しかありませんでしたよ」 「やっぱりね」 「これで奥さんは助かるんですか?」 「一時的には立場はまずくなるが、事実を知りたかったんだ」 「日下刑事たちも、何かお役にたちたいといっていますから、どんなことでもいいつけて下さい」  と亀井がいった。 「それでは、明日になってからでいいんだが、原田という商社員のことを調べてみてくれないか。私と同じマンションに住んでいる男だ。M商事に勤めている。今日の行動が知りたい」 「家族なんですか?」 「殺された原田めぐみの夫だ。夫婦仲がどうだったか私は知らないが、悪かったとすれば動機はあるわけだからね」 「わかりました。その男のアリバイをしっかり調べておきますよ」  と亀井はいった。  電話を切ってから、十津川は眠れなかった。  留置場で一夜をおくる辛さは、十津川にはよくわかっている。まだ寒いし、電灯はつけっ放しになっている。眠れないだろう。  十津川はベッドにつけないまま、ホテルを出た。  足は自然に下田警察署に向ってしまう。雨は止んでいたが、地面は黒く濡れている。  十津川はこうこうと明りのついている警察署に入って行くと、安木刑事が二階から降りて来るのにぶつかった。 「原田めぐみさんのご主人がもう来たんじゃないかと思って、来てみたんですよ」  と十津川は安木に声をかけた。 「ええ。見えましたよ」  安木は肯き、十津川にお茶をいれてくれた。 「原田さんはどういっていました?」  十津川はきいてみた。 「遺体に取りすがって泣いていましたね。不吉な予感みたいなものがあって、今度の旅行には行かせたくなかったといっていましたよ」 「私の家内のことは、どういっていました?」 「ショックが大きいだろうと思って、最初は十津川さんの奥さんのことは、黙っていようと思ったんです。それが原田さんの方から、家内は十津川さんの奥さんと一緒だった筈だが、どうしていますかときかれましてね。仕方なく全て話してしまいました」 「原田さんの反応はどうでした?」 「よほどショックだったんでしょうね、しばらく黙っていましたね。それからぽつりと、十津川さんの奥さんとは仲がいいと思っていたんだが、と呟いていたのが印象的でした」  と安木はいう。  この刑事は直子を犯人と決めてしまっているのだから、仕方がないといえばいえるが、原田をまったく疑っていない感じだった。 「彼が妻を殺したとは考えられませんか?」  十津川はきいてみた。  安木はびっくりした顔になった。 「原田さんがですか?」 「妻が殺された場合、夫が第一容疑者だというのは捜査の常識じゃありませんか?」 「それは一般の事件の場合でしょう。今度の事件では夫の原田さんが問題の列車に乗ってはいなかったわけですし、十津川さんには申しわけありませんが、一緒に乗っていた奥さんの容疑があまりにも濃いですからね。それでも被害者の夫を疑えというのは、あまりにも現実離れしていると思われますね」  安木は一歩も譲らぬ口調でいった。 「原田さんが問題の列車に乗らなかったという証拠はないんでしょう?」  と十津川はいった。 「乗ったという証拠はありませんよ。東京駅を発車する時、点呼をとったが招待客以外の人間は乗らなかったことは確認したと、スーパー『マルイチ』の添乗員は証言しています」 「原田さんに、今日一日どこで何をしていたか聞きましたか?」 「一応は聞きましたよ」 「それで返事は?」 「一日中、会社で仕事をしていたという返事でしたね」 「それが事実かどうか確認しましたか?」 「まだ確認はとっていませんが、他に容疑の濃い人間がいるんですよ。いなければ確認をとりますが」 「それは私が調べましょう」  と十津川はいった。  安木刑事の顔がこわばったのは、十津川の言葉を明らかな挑戦と感じたのだろう。 「それは十津川さんのご自由ですが」  安木は甲高い声でいった。     6  十津川は眠れぬままに、ホテルで朝を迎えた。  妻の直子もきっと眠れなかったろう。  直子は犯人ではあり得ない。甘いかも知れないが、十津川にとってそれは全ての前提なのだ。  直子が犯人でなければ、一番疑われるのは夫の原田である。  原田が犯人とすれば、どこでどうやって妻のめぐみを殺したのだろうか?  問題のお座敷列車「いこいの旅号」が東京駅を出発するとき、原田は乗らなかった。  これは間違いないだろう。東京駅では点呼をとったといっているし、最初から乗っていたのでは、見つかる恐れがあるからだ。  とすれば、途中から乗って来たに違いない。「いこいの旅号」は熱海と伊東で停まる。乗ったとすればこのどちらかであろう。  問題は、この二駅で「いこいの旅号」に追いつけるかである。  十津川は時刻表を広げて、「いこいの旅号」の時刻表を重ね合せてみた。 「いこいの旅号」は一一時二七分に東京駅を出発する。  熱海着一二時五九分、発一三時〇〇分。  伊東着一三時二四分、発一三時二五分である。  これに熱海か伊東で追いつく列車があるかどうかである。  新幹線で調べてみた。  新幹線は伊東には駅がないから、追いつくとすれば熱海であろう。 「いこいの旅号」のあとに発車する「こだま」を調べてみた。  一分後の一一時二八分に東京を発車する「こだま303号」ならゆっくり追いつくが、これは三月十五日までしか運転されていない。  一一時四〇分の「こだま239号」ならどうだろうか?  この列車は熱海に一二時三三分に着く。 「いこいの旅号」は一三時〇〇分熱海発だから、ゆっくり間に合うのだ。 (原田はこれに乗って追いつき、「いこいの旅号」に熱海から乗り込んで、妻のめぐみを殺したのか? それとも先廻りしていたのか?)  十津川は亀井の報告に期待した。  その報告によって、原田が犯人かどうかわかって来るだろう。  亀井からKホテルの十津川に電話が入ったのは、夕方五時を過ぎてからだった。 「報告がおくれて申しわけありません」  と亀井らしくまず詫びをいった。 「そんなことはいいよ」 「まず、事件当日の原田のアリバイからいきます。九時に大手町の商事会社に出社しています」 「大手町だったんだ。東京駅に近いな」 「そうですね。十一時に社を出て、午後三時に戻っています」 「その間、何をしていたんだ?」 「商談に廻っていたといっています。銀座や新宿などにある外国系の会社の日本支社を廻ったということです。ただ、本人はそちらへ行っているので、本人ではなく、彼の上司から聞いたものです」 「本当に相手に会っているかどうか、わからんな」 「会っていません」 「会っていない?」 「上司に出した報告では、十一時から三時までの間に、アメリカ系三社とドイツ系一社に行ったが、いずれも向うの担当者が不在で、会えなかったといっているからです」 「四社とも相手担当者が不在だって?」 「そうです」 「事実なのか?」 「それが事実なんです。英語の上手い清水刑事に問い合せて貰ったところ、四社とも担当者が不在でした」 「しかし、そういう場合は、前もって電話でアポイントメントをとっておいてから会いに行くんだろう。商社員の原田が、いきなり相手の会社に出かけて行ったというのはおかしいな」 「確かにそうですが、相手が不在だったことだけは間違いありませんから、原田が犯人とすると、そこに逃げるんじゃないでしょうか? 行かなかったということもいえないわけですから」 「しかし、原田が行ったかどうか、相手の会社の受付けが覚えているんじゃないのか?」 「それが、親しくなっているので原田はいきなりドアを開けて、のぞく感じで訪ねるのだそうです。アポイントメントをとらずに出かけたのも、そのせいだろうと上司はいっています」 「十一時に大手町の会社を出たのなら、東京駅へ行って、新幹線で『いこいの旅号』を追いかけられるからね」 「それは出来ません」  と亀井がいった。 「出来ないって、一一時四〇分東京発の『こだま』に乗れば、熱海で『いこいの旅号』に追いつけるんだよ」 「警部はご存知なかったんですか?」 「何をだ?」 「あの日、午前中は東京—名古屋間の下りの新幹線を止めて、線路の点検、整備を実施しています」 「本当かい」 「本当です」 「そうか。私は夕方の新幹線に乗ったので、気が付かなかったんだ。原田は新幹線で『いこいの旅号』を追いかけられなかったのか?」 「そうです。従って、もし追いかけたとすれば在来線を使ったに違いありません」 「同じ東海道本線を使っている列車で、追いつけるのかな」 「それから、原田の会社の社員から面白い噂を聞きました。彼が社内の若い女性と出来ているという噂です」 「ほう」 「これはどうも本当らしいです。相手の女性の名前もわかっていますから。田辺ゆう子という、大学を出て入社一年のOLです。美人ですよ」 「これで動機はあったことになるね。ありがとう」 「早く奥さんを自由にしてあげて下さい」  と亀井がいった。     7  新幹線は使えなかったことがわかった。  従って原田が犯人だとしても、十一時に会社を出たあと新幹線で追いかけたわけではないのだ。  原田も車を持っているが、足の早いスポーツ・カーではないから、東名高速を飛ばして「いこいの旅号」を追いかけることは出来ない。  タクシーでも、まず無理だろう。  何よりも、車は道路の状況によって出せるスピードが違ってくる。不安定な乗り物だから、殺人計画、それも時間をきっちり計って行うような殺人計画には不向きである。  原田だってそれは知っているだろうから、使ったとすれば時刻表通りに動く列車の筈である。  十津川は時刻表を調べてみた。  同じ東海道本線のレールを使うしかないが、片方は臨時列車である。  その点で、後から出て、追いつく列車があるかも知れない。  お座敷列車のようなイベント列車は、細かい国鉄のダイヤをぬってはめ込む。臨時列車より普段どおりの列車が優先するから、「いこいの旅号」が途中で後続の列車に先をゆずることも、十分に考えられた。  そのつもりで時刻表を見ていくと、ぴったりする列車が見つかった。   いこいの旅号(カッコは踊り子55号)   東京発 11:27(11:30)   熱海着 12:59(12:57)   熱海発 13:00(12:58)   伊東着 13:24(13:22)   伊東発 13:25(13:25)   下田着 14:26(14:25) 「いこいの旅号」より三分おくれて一一時三〇分に東京を発車する、伊豆急下田行のL特急「踊り子55号」である。 「いこいの旅号」の時刻表と比べてみた。  原田は多分、この時刻表に従って殺人を行ったのだ。  彼は一一時三〇分発の「踊り子55号」に乗って、熱海で先行する「いこいの旅号」に追い着いた。  ここで「いこいの旅号」に乗り込み、車内で妻のめぐみを殺したに違いない。  そして伊東で降り、東京へ引き返したのだ。  原田は、妻のめぐみがこの日、十津川の妻の直子とスーパー「マルイチ」の招待で、お座敷列車に乗って下田へ行くのを知っていた。「いこいの旅号」の時刻表も前もって渡されていたから、原田も見ていたことは十分に考えられる。  車内で殺して、同行している直子の犯行に見せかけようとしたのだ。  だから前もって、直子が運転するミニ・クーパー1000のトランクからスパナを盗み出しておき、それを凶器に使ったのだろう。手袋をはめれば、自分の指紋はつかない。  めぐみの方も、熱海から夫が乗ってくることは知っていたのではあるまいか。  そんな気がするのだ。  妻の直子がこんな風に話していたからである。  直子と原田めぐみは、楽しく今度のお座敷列車に乗った。少くとも直子にはそう思えた。  めぐみは彼女自身、歌が上手いしカラオケが嫌いでもない。  それなのに、直子が3号車でカラオケ大会に出場する際、一緒に3号車に行って応援はせず、4号車のテレビ画面を見ているといったという。  普通なら、当然3号車へ行って応援するところである。  しかも4号車に残り、めぐみはカラオケ大会が始まってから、備え付けの大型テレビの画面を見ていなかったようだ。  なぜそんな行動に出たのか?  考えられるのは、カラオケ大会の最中に、めぐみが他に何かすることになっていたのではないかということである。  原田とめぐみは、彼が会社内に作った女のことでもめていたとする。  めぐみがお座敷列車に乗ることにしたのも、そんないざこざが面白くなかったからだろう。  別れ話が持ち上っていたことも、考えられる。  だが、それが暗礁にのりあげていたのではないか。  原田が離婚をのぞんだが、めぐみの方は承知しなかった。このままでは三角関係が会社で問題になり、原田は会社を馘になるかも知れない。  だが原田は、若い女を諦められなかった。どちらかの女を消さなければならなくなって、妻のめぐみの方にしたのではないか。  妻のめぐみが、十津川の妻の直子と一緒にお座敷列車に乗ることに決った時、原田はチャンスだと思った。  お座敷列車の中でめぐみが殺されていれば、まず一緒に旅行に参加した直子が疑われる。凶器がスパナで、それに直子の指紋がついていれば完全だろう。  あとで警察に聞かれたら、同じマンションに住んでいて、一見仲が良さそうだったが、本当は犬猿の仲だったと証言すればいいのだ。  問題は列車の中で、めぐみがひとりでいるかどうかである。実際には仲のいいめぐみと直子だから、いつも一緒にいる可能性がある。それでは途中で「いこいの旅号」に乗り込んでも、めぐみを殺すことは出来ない。  そこで原田は、カラオケ大会を利用することにした。  最初めぐみは、直子の応援に3号車に行くつもりにしていたのだと思う。  原田はそこで、前日に妻のめぐみにこんな風にいったのだろう。明日、会社へ出たら、女にはきっぱりと話をつけて別れる。別れたその足で「いこいの旅号」を追いかけて、熱海から乗り込むから、二人だけでゆっくりと話をしよう。君が許してくれるのなら僕も下田に一緒に行く。そんなことをいったのではないだろうか。  原田にまだ未練があっためぐみは、その提案を受け入れた。  だから彼女は直子の応援に3号車へ行かず、列車が熱海に着いた時には、4号車のデッキにいたのだろう。  原田は熱海から乗り込むと、女とはきっぱりと別れて来たと嘘をつき、空いている添乗員室に入って話し始める。口から出まかせをいったろう。そしてすきを見て、持って来たスパナでめぐみの後頭部を強打した。  めぐみは倒れて動かなくなる。死んだと思った原田は、直子の指紋のついたスパナをその場に投げ捨て、次の伊東で降りた。  だがめぐみは、完全に死に切れてはいなかった。  列車が終着の下田駅に着いたあとめぐみは気がつき、ふらふらっと列車の外へ出た。  ホームにいた直子に抱きついた。が、そこで本当にこときれてしまったのだ。     8  伊東で降りた原田はどうしたか? 「いこいの旅号」の伊東着が一三時二四分である。  すぐ引き返して、午後三時(十五時)までに大手町の会社に帰らなければならない。  一三時三〇分伊東発、熱海行の普通電車がある。これに乗ると、熱海には一三時五五分に着く。  熱海からは当然、新幹線を利用しただろう。  午後だし、上りだから、新幹線は正常に動いていたとみていい。  時刻表を見ると、一四時〇〇分に熱海を出る「こだま422号」がある。これに乗れば、東京には一四時五五分に着く。  午後三時を五、六分過ぎてはしまうだろうが、大手町の会社には戻れるのだ。  多分、それがこの日の原田の行動の全てだろう。  だがそれを証明するのは難しいし、証明できない限り、妻の直子を救い出すことは出来ない。  十津川は翌日、東京に帰ると、同じマンション内の原田の部屋をノックした。  ドァが開いたが、原田は十津川が立っているのを見て、さすがにぎょっとした顔になったが、それでも中へ入れてくれたのは、自分に弱味があるからだろう。 「奥さんはお気の毒でした」  と十津川はまずお悔みをいった。  それで原田は、少し警戒を解いたようだった。 「十津川さんの奥さんも、とんだことになってしまって──」  と原田がいう。 「向うの警察が家内を犯人と思うのも、もっともだと思うのですよ」 「——」 「もし、本当に家内がやったのだとしたら、何とお詫びしていいかわかりません」 「いや、奥さんも魔がさしたんだと思いますよ」  と原田がいったとき、奥で電話が鳴った。  原田が腰を浮した。きっと、女からの電話と思ったのだろう。 「ちょっと失礼します」  と原田は立ち上って、居間を出て行った。  が戻ってくると、眉をひそめて、 「いたずら電話でした。最近はああいうのが多くて困ります」 「そうですね。実は明日、現場検証があるんです。問題のお座敷客車は、今、品川客車区に回送されて、現場保存されています。その車内で現場検証があるんです」  と十津川はいった。 「そうですか──」 「家内も辛いと思います。腰縄を打たれて、犯行を再現させられるんですから」 「お気の毒に思いますが、僕には何とも──」 「いや、原田さんに何かしてくれとはいいません。ただ私は、どうしても家内が犯人とは信じられない」 「わかりますよ、お気持は」 「それで明日、私は現場検証に立ち合うつもりなんです。そしてあの4号車や、添乗員室を徹底的に調べ直してみようと思っているのです。家内が犯人でなければ、真犯人の遺留品が何か落ちていると思っているのです。どんな冷静な犯人でも、人を殺したときは、落着きを失っているものです。何か落としても気がつかない。万年筆とかキーとか、ボタンとかです。そうした遺留品から犯人を突き止めたことが何度もあるので、今度もそれを期待しているのですがね。何とか見つけたいと思っています」  十津川はそれだけ話すと、腰を上げた。     9  その夜おそく、品川客車区に小雨が降り出した。  事件のあった六両のお座敷客車は一番外の線路に置かれ、4号車にはロープが張られていた。 〈現場保存〉  と書かれた札がぶら下っている。  スニーカーに皮ジャンパーという恰好の人影が近づいた。ロープをくぐり、4号車に乗り込んだ。  黒っぽいスキー帽を、まぶかにかぶっている。  その人影は添乗員室に入ると、ペンシル型の懐中電灯を取り出し、一生懸命に何かを探し始めた。  やっと添乗員室の隅に、ライターを見つけて拾いあげた。  眼をこらすと「社内ゴルフ大会三位」と彫ってある。  ほっとしてそれをジャンパーのポケットに入れようとした瞬間、閃光が走った。  続いてもう一度。 「それでいいだろう」  と十津川の声がいった。  明りがついた。  呆然と立ちすくんでいる男のスキー帽を、十津川がむしり取った。  原田の顔が明りの中に浮び上った。 「やっぱり君か」  と十津川はいった。 「写真はばっちり撮れている筈です。これは法廷でも物をいうと思いますね」  カメラを持った亀井が大きな声でいった。  十津川が原田の手からライターをもぎ取った。 「これは君のライターに間違いないね?」  十津川がいった。原田は急にがっくりと肩を落とした。 「あいつが妊娠したんで──」  と原田は俯いてぼそっといった。 「会社の女か?」 「ああ、めぐみの奴が大人しく別れてくれればよかったのに──」 「それは虫が良すぎるよ」  十津川は憮然とした顔で、外にいた下田警察署の二人の刑事に、 「君たちが手錠をかけてくれ」  といった。  原田を彼等に引き渡すと、十津川は客車から飛び降りた。  亀井と二人、小雨の中を品川客車区の外にとめてある車のところへ歩いて行った。 「うまくいきましたね」  と亀井が嬉しそうにいった。 「しかし、汚い手を使ってしまったよ」  十津川がいった。  今日の夕方、十津川は原田の部屋を訪ねた。  時間を示し合せてむりに、亀井に原田の番号に電話をかけて貰ったのだ。  女のことがあるから、原田は必ず電話に出るだろう。  その隙に、十津川は居間にあったライターを盗んだ。  ライターでなくても、原田が身につけているものなら何でもよかったのだ。万年筆でも、バッジでも。  そのあと、十津川は明日、品川客車区にとめてあるお座敷客車で現場検証があるといった。  もちろん嘘である。  その時、自分は真犯人の遺留品がないか必死に探すつもりだとも付け加えた。そういえば、原田が不安になるのを見越してである。  犯人ならいつだって、現場に何か落として来なかったかと、不安でいるものなのだ。  案の定、原田は不安になった。  いつも使っているライターがなくなっている。  普段なら居間に置いてあった筈だと思う。だが自分が殺人をやった直後だから、ひょっとすると現場に落として来たのではないかと、不安になってくるのだ。万一、現場に落としてしまっていれば命取りになる。明日、現場検証をやるとすると、今夜中に見つけて始末しなければならないと思うだろう。  罠《わな》を張っていたところへ、原田の方から飛び込んで来たというわけである。 「しかし警部、原田という男の方がずっと汚い手を使ったわけですよ」  亀井がなぐさめるようにいってくれた。 「ありがとう」  と十津川はいった。  車に乗り込むと、深夜の国道を下田に向った。今夜のうちに何としても下田に着いて、一刻も早く直子を自由にしてやりたかった。 (おれは汚い手を使った)  と十津川は思う。が、それを今回は後悔はしていなかった。  妻を助けるためなら、もっと汚い手でも使ったに違いなかったからである。  極楽行最終列車     1  一生に一度、お参りしないと極楽に行けないといわれるのが、長野の善光寺である。  それだけ善光寺の人気が高いということだろう。宗教は宗派性の強いものだが、善光寺は何派にも属さず、善男善女が集って来る。  別にそんな善光寺に憧れたわけではなかったが、写真家の小田は、新宿で飲んでいる中に、急に善光寺へ行ってみたくなった。  小田は、気まぐれな男と自認している。だからいつでもカメラを持ち歩いている。ふらっと出かけて行ってそこで撮った写真に、意外にいい作品があったりするからである。 「これから善光寺へ行ってくる」  と小田がいうと、顔馴染みのママは呆れ顔で、 「これからって、もうじき十一時よ」 「まだまだ列車はあるんだ。最終列車で極楽へ行って来るぞ!」  グラスに残っていたウイスキーをいっきに呑み干してから、小田はその店を飛び出した。  確か夜の十二時近くに、善光寺のある長野行の列車があったと思っていたが、思い違いかも知れない。  わからないが、とにかく小田は、新宿駅から山手線に乗って上野に向った。  まだ梅雨に入ったばかりで、今夜もどんよりと曇っている。  上野に着いたのが十一時半である。  すぐ中央改札口に行ってみると、予想した通り長野へ行く列車がまだあった。  二三時五八分発の急行「妙高」である。  そのあとに季節列車として、〇時二二分発の急行「信州51号」というのがあるが、この列車は七月二十六日以降しか出ないから、今日七月八日は「妙高」が最終列車である。  小田は切符を買って、改札口を通った。  8番線から出発する急行「妙高」は、すでに入線していた。  ウイークデイのせいか、ホームに人の姿はまばらだった。  急行「妙高」は九両編成の電車急行である。グリーン車はついていない。  1号車から6号車までは、日本海側の直江津まで行く。7号車から9号車までは、長野止まりである。この中、1号車から3号車までが指定席で、あとの六両は自由席になっている。  この列車に乗るのは初めてだが、前に、あれが長野行の急行「妙高」かと思って見たことがあるのだが、その時は確か、電気機関車に牽引された寝台急行だった。ブルーの寝台車が夢を誘ったものである。  それが味もそっけもない、ツートンカラーの電車になってしまっている。「急行」の表示はあるが、もちろんヘッドマークはついていない。  最初はホームを歩いていて、何気なく6号車に乗り込んだのだが、座席に腰を下してから禁煙車両であることに気がついて、あわてて隣りの5号車に移った。  どうも最近は、禁煙車だとか禁煙コーナーだとか、ヘヴィスモーカーの小田にとっては嫌な時代になりつつある。  車内はがらがらだった。観光シーズンになれば、長野方面行の最終列車だから一杯の乗客になるのだろう。  出発近くになって、急に5号車に五、六人の集団が乗り込んで来た。  小田は煙草をくゆらしながら、彼等を見ていた。  眼で数えると、男が四人に女が二人の六人である。  年齢はまちまちだったが、小田が彼等に注目したのは、何となく妙なグループに見えたからである。  その六人は明らかに同じ仲間なのに、腰を下してからお互いに黙りこくっている。  普通は旅に出る時は、気持がはずんでお喋《しやべ》りになるものだろう。それなのに彼等は、いい合せたように静まり返っている。 (妙な連中だな)  と小田は思った。  能面みたいに無表情な顔つきだった。  ヤジ馬根性の強い小田は、こうなるといやでも彼等を写真に撮りたくなってくる。  自分の身体でカメラをかくすようにして、速写で五枚ばかり撮った。  彼等の一人が気がついて、じっと小田を見つめた。  列車が上野を発車した。     2  急行のいいところは、窓が開くことである。  小田は窓を小さく開けた。湿っぽいが、それでも夜の風が入って来て、気持がいい。  上野を出ると、大宮(〇時二六分)、上尾(〇時三六分)、桶川(〇時四一分)と停車していく。 (失敗《しま》ったな)  と思ったのは、腹がへったのを感じたからである。  この急行「妙高」には食堂車がついていないし、車内販売が来そうにもない。その上、長野に着くのは午前五時前である。 (参ったな)  と思った。  要領よく駅弁や菓子パンなどを買い込んで来ていて、座席でぱくついている乗客もいる。  腹がすくと眠れなくなる。  小田は自然に、車内を見廻すことが多くなった。  例の妙な連中が、いやでも視野に入ってくる。  相変らず無表情である。眠る気配もない。  男はだいたい背広を着ているが、一人、ブルゾン姿の若者もいる。女も含めてだが、全体に地味な感じだった。 (どういうグループなのだろう?)  と小田は考えた。  何かの宗教グループなのかと思ったが、それにしても、黙りこくっている理由がわからないし、不気味にも見える。  どの顔も変に緊張しているようだ。なぜ、旅に出ているのに、あんなに面白くないような顔つきをしているのだろう。  横川では碓氷峠を登るので、EF63型電気機関車二両が連結される。  次の軽井沢で外されるのだが、軽井沢では九分と停車時間があるので、小田は深夜のホームに降りて、EF63型機関車を写真に撮ったりした。  座席がかたいので、乗客の中には眠れなく、ホームに降りて来て深呼吸をしたり、伸びをしたりしている者もいたが、あの連中は誰もホームに出て来なかった。  窓ガラス越しに5号車の車内をのぞくと、彼等は一人も眠っていなかった。相変らずお喋りもしていない。 (おかしな連中だな)  と思った。  旅に出ているという感じではない。 (まるで、葬式に参列してるみたいな顔をしてるじゃないか)  ひとりでいるのなら、失恋の痛みを旅で癒《い》やそうとしているのかと、ロマンチックに考えるのだが、六人も一緒だと、そんな風には考えにくい。  ホームから窓ガラス越しにシャッターを切ったとたん、一番近くにいた彼等の一人が、きっとした眼で睨み返した。  三十歳ぐらいのがっちりした身体つきの男だったが、怖い眼だった。  絡まれたら、相手は六人である。あわてて小田は視線をそらせ、構内の写真を何枚か写した。  九分間の停車のあと、「妙高」は軽井沢を出発した。  三時〇五分である。  小田はもう眠れなかった。長野まであと一時間四十分足らずだし、今、小田のいる5号車は長野が終点ではなく、直江津行だから、眠っていたら直江津まで連れていかれてしまうかも知れなかったからである。  小諸、上田と停車して、長野に着いたのは午前四時四四分である。  ホームは蛍光灯で明るいが、まだ空は暗い。  小田がホームに降りると、例のグループもぞろぞろ降りて来た。 (連中も長野に来たのか)  と小田は思いながら、改札口を通り、まだ暗い町に出た。  連中もぞろぞろと改札口を出て、町の中に姿を消して行った。  その頃になって、やっと陽が昇り始めた。  駅前からは善光寺行のバスも出ているし、長野電鉄という私鉄も走っているが、午前五時という時間では、まだ始発も動き出していなかった。  駅前の食堂も閉まっている。  小田は空腹でたまらない。駅前を探して、やっと二十四時間営業のスナックを見つけて入ると、驚いたことにあの連中が先に来ていた。  考えてみれば、彼等も車中で食事をしている様子がなかったから、空腹に耐えかねてこのスナックを探したのだろう。 (能面みたいな顔をしていたが、こいつらも人並みに腹が減るのか)  と思うと、小田は何となくおかしくなって、テーブルに着いてから笑ってしまった。  大盛りのライスカレーを注文した。それを食べて店を出る時も、彼等はまだ店の奥にかたまっていた。  まだ六時になっていなかった。  朝日が、善光寺を模《も》して造られた長野駅に当っていた。  駅前の広場はひっそりと静かである。バスも動いていない。わずかにタクシーだけが動き廻っているだけである。  六時一五分に長野電鉄の始発が出る。  小田はそれに乗る気になって、長野電鉄の地下駅へ降りて行った。  長野電鉄は長野駅から温泉で有名な湯田中へ行くが、善光寺下までは地下鉄になっている。昭和五十六年に地下に移したばかりだから、駅は真新しい。  小田が地下ホームの写真を撮っていると、そのファインダーの中に、あの連中の姿が入って来た。 (またか)  と思いながら、小田はシャッターを押した。興味のある被写体ではないが、こうなると意地みたいなものである。  向うもきっと小田を見つけて、またかと思っているに違いない。  長野から三つ目の善光寺下で降りた。  あの連中も同じところで降りた。  時間が早いので、参道の両側に軒を並べている土産物店はまだ閉まっている。参詣の人の姿も少い。  そんな中を歩くのも、気持のいいものである。  例の六人組も、相変らず黙って、ひとかたまりになって参道を歩いていた。  小田は時々立ち止まって写真を撮っているので、六人グループの方が先に行ってしまった。  善光寺には有名な戒壇めぐりがある。  ご本尊を安置してある本堂の地下に、板敷きの回廊がある。灯がないので真っ暗である。その回廊を手探りで歩いて巡り、極楽へ行けるという鍵に触ると、極楽往生がとげられるというのである。  小田も地下の回廊へ階段をおりてみた。  本当に真っ暗である。ふうっと小さく息を吐いてから、そろそろ歩いて行った。  突然、誰かにぶつかった。 「失礼」  と反射的にいった瞬間、後頭部を殴られた。  強烈な一撃だった。  頭がくらくらして、思わずその場にうずくまり、手で頭をおさえた。  第二撃がきた。  頭をおさえた右手がしびれて、持っていたカメラを落としてしまった。  近くにいる人間の気配が消えた。が同時にカメラも消えていた。両手でいくら床をまさぐっても、カメラが見つからないのだ。  小田は頭を抱えて、地下から上に出た。  急に明るくなったのと頭が痛いのとで、小田はめまいを覚えた。 「どうなさったんですか?」  と寺の人が心配そうにきいた。  気がつくと、頭から血が流れていた。右手の掌にべったりと血がついている。 「今、どんな人が出て来たか、教えて下さい」  小田は頭の痛いのをこらえながら、相手にきいた。 「何があったんです?」 「下で殴られて、カメラを盗まれたんですよ」 「本当ですか?」 「だから、今どんな人間が出て来たか、教えて貰いたいんですよ。そいつが僕を殴って、カメラを奪ったんです」 「申しわけないんですが、見ていなかったんですよ」 「そうですか──」 「手当てをしますから、こっちへ来て下さい」  と相手はいった。     3  小田は寺務所で傷の手当てを受けたが、その途中でカメラが届けられた。  参道の途中に落ちていたのを参詣人が見つけて、寺務所に届けたのである。 「あなたのカメラですか?」  と寺の人がきいた。 「そうです。僕のカメラです」  小田は受け取ってから、中のフィルムを調べてみたが、見事になくなっていた。  彼を殴った人間が、フィルムを盗んだのだ。 「警察に知らせた方がいいですか?」  寺の人がきいた。 (どうしようか?)  と小田は迷った。  警察に知らせたら、多分警官がやって来て、あれこれ質問されるだろう。小田は警察に友人もいるが、質問されるのは苦手である。  それに地下の回廊は真っ暗で、相手の顔も身体つきもわからなかった。きかれても答えられないのだ。  カメラの中のフィルムは抜き取られてしまったが、その前に撮った二本のフィルムは、ポケットの中に入れておいて無事だった。 「カメラも戻って来ましたから、警察にはいわないでおいて下さい」  と小田はいった。  一時間ほど寺務所で休ませて貰ってから、小田は帰ることにした。血はすぐ止まったし、傷も浅いものだった。  参道沿いの店はもう開いていた。その中にそば店があるのを見つけて、小田は入って行き、ざるそばを注文した。  そばが来るまでの間、小田は煙草に火をつけて、犯人について考えてみた。  一番先に頭に浮んだのは、あの六人のグループだった。  小田がカメラを向けた時、きっと睨むように見た顔を思い出した。  彼等が写真に撮られたのを怒って、本堂下の暗い回廊で小田を襲ったのだろうか?  真っ暗だったが、あの闇《やみ》の中にしばらくじっとしていて、眼をなれさせていたのではないか。  そばを食べてから、小田は湯田中温泉へ行ってみることにした。  長野電鉄で湯田中で降りる。若い観光客はここからバスで志賀高原へ向うが、小田は駅近くの温泉旅館に泊ることにした。  温泉に入り、夕食をとりながら夕刊を広げた。  旅行先でその地方の新聞を読むのが、小田は好きだった。東京の新聞にはのらないような、特色のある記事が出ているからである。  だが今日は、他の事件の記事の方に、小田は引きつけられた。 〈急行「妙高」の車内で殺人〉  の見出しにぶつかったからである。  小田の乗った列車ではないか。  小田は食事を途中でやめてしまって、その記事を読んだ。  急行「妙高」は終着の直江津に、七時三八分に着く。  長野で三両が切り離されるので、直江津に着くのは六両である。  乗客が降りてしまってから、車掌が各車両を廻って歩いた。  5号車まで来た時、女の乗客が一人、座席で眠っているのを見つけた。夜行なので、疲れて眠っているのだと思い、車掌は身体をゆすって起こそうとした。  その時になって初めて、車掌はその乗客が死んでいるのに気が付いた。あわてて警察に連絡がとられた。  医者も呼ばれた。が駆けつけた医者は、その乗客の死を確認しただけだった。  死因はのどを圧迫されたための窒息死である。  警察は殺人事件として、身元の確認と犯人の捜査に全力をつくすと発表している。  被害者の女性については、次のように書いている。  年齢二十七、八歳。身長一六五センチ、細面で美人、服装は白のワンピース、白の帽子をかぶり、うすいサングラスをかけていた。  小田は彼女を記憶していた。  急行「妙高」の乗客の中では目立つ女だったし、同じ5号車だったからである。  昨日の夜中、小田が上野駅のホームに入って行った時、彼女はホームに立っていた。  スタイルのいいこともあったが、白い庇《ひさし》の深い帽子をかぶっていたので、小田はよく覚えているのだ。  最近、帽子をかぶる人が増えたといっても、帽子をかぶっていれば目立つ。いい被写体だと思って何枚か撮った。  5号車に入ってからは、得体の知れない六人のグループの方に気をとられてしまったし、問題の女は彼等の向う側に腰を下していたので、見えなくなっていた。  長野で降りる時は、彼女がホームに降りていたのを覚えている。  小田が改札を出て振り返ると、彼女がまた電車に乗り込もうとしていた。それも覚えている。 (ああ、彼女はもっと先に行くんだな)  とちょっと残念な気がしたものだった。  あの女が殺されてしまった。  ひょっとして、六人の妙なグループが犯人ではないかとも思ったが、彼女がホームに降りていた時、六人は小田と一緒に改札口を出て、町に消えたのである。  小田は食卓を隅に押しやって、ごろりと畳の上に寝転んだ。  天井を見つめて考え込んだ。カメラを片手に旅行に出るのはしょっちゅうだが、そこで殺人事件にぶつかったのは、生れて初めてである。  その上、善光寺でもひどい目にあった。  おかげであの時、鍵に触るのも忘れてしまった。 (極楽往生できなくなったな)  と自然に苦笑いが浮んでくる。  それでも、バーのママに頼まれた善光寺のお札だけは買って来てある。  夜の十一時にはテレビをつけて、ニュースを見た。  事件のその後を知りたかったからである。  身元がわかったとアナウンサーがいったが、どうしてわかったかはいわなかった。運転免許証でも見つかったのかも知れない。  東京都世田谷区経堂が住所で、名前は野中ひろ子。年齢二十八歳、銀座のクラブ「よしの」のホステスをしていた女ということだった。  実家は新潟県高田だという。  高田は信越本線で直江津の二つ手前の駅である。  あのまま急行「妙高」に乗って、高田へ行く積りだったのだろうと小田は思った。  ところが何者かに車内で絞殺され、降りるべき高田駅を通り過ぎ、終点の直江津で死体で発見されたということになる。  テレビの画面には野中ひろ子の顔写真が出た。  笑顔の写真である。実家は高田というから、駆けつけた家族が持参した写真ででもあるのだろう。  こういう時、よく笑顔の写真が出るが、ひどく痛ましく思えるものだ。特に、死者が若い時は猶更《なおさら》である。  上野から急行「妙高」に乗った時には、四、五日、気ままな旅行をして来ようと思ったのだが、今は早く東京に帰って、フィルムの現像をしたくなった。  翌日、朝食をすませるとすぐ、小田は旅館を発った。  その日の中に東京の自宅に帰った小田は、さっそく撮って来たフィルムの現像にとりかかった。  途中で電話の鳴る音が何回か聞こえたが、小田は放っておいた。  思った通り、殺された野中ひろ子の写真も五枚、撮っている。  現像が終って現像室を出ると、リビングルームで煙草を吸った。また電話が鳴った。  手を伸ばして受話器を取り、 「もしもし」  と大声を出した。  だが応答がない。といって切れてもいなかった。 (この忙しいのに)  と小田は腹が立った。 「いたずら電話なら、警察にいうぞ!」 「——」  相手はいぜんとして押し黙っている。小田はわざと乱暴に電話を切った。  一休みしてから、写真の引き伸ばしにかかった。  全部のフィルムを八ツ切に引き伸ばした。  それを机の上に並べた。  また電話が鳴った。舌打ちをしながらも、相手が誰かわからないので受話器を取ると、前と同じ無言だった。  現像中に鳴っていたのも、同じいたずら電話だったのかも知れない。  いたずら電話は初めてではないが、こんなにしつこいのは経験がなかった。  腹が立って、小田は受話器を外して写真の方に注意を向けることにした。  急行「妙高」が長野に着いてからの写真は、フィルムを抜き取られてしまったので、残っていない。  だが、上野駅のホームで撮り始めてから長野に着くまでのものは、無事だった。  上野駅のホームで、野中ひろ子を撮ったものから見ていった。  この女性がもうこの世にいないということが、不思議な気がして仕方がなかった。  上野のホームでは、彼女の写真を三枚、撮っていた。  三枚目の写真をよく見ると、例の六人グループの中の二人が、背後《バツク》になっていることに気がついた。  男と女のカップルである。  二人の視線は、じっと野中ひろ子に向けられているのがわかる。  5号車の中で撮った写真には、グループの男女と野中ひろ子が一緒に写っていた。  彼女は窓際に腰を下し、窓の外の闇に眼をやっている。  六人の男たちの方は、険しい眼でカメラを向けた小田を睨み返している者もいれば、無表情な顔もある。  その中に、野中ひろ子を見つめている男もいるのがわかった。美人なので見とれているという顔ではなかった。何か、彼女を盗視しているという眼に見える。  軽井沢のホームに降りて、車内の六人を写したものにも、野中ひろ子が入っていた。  彼女は相変らず物思いにふける顔で、窓の外を見ている。それをじっと見つめている男も、写真には撮れていた。やはりあのグループの一人である。 (野中ひろ子と六人のグループとは、何か関係があったのだろうか?)  小田が5号車に行ったのは、6号車が禁煙車だったからである。  野中ひろ子が5号車にいたのは、5号車が直江津行だったからだろう。  だが、あの六人の連中は長野で降りている。  それなのに5号車に乗っていたのは、そこに野中ひろ子がいたからなのか? (しかし、連中は長野ですぐ列車をおりて、駅の外に出てしまっている)  と思った。  その時、まだ野中ひろ子は殺されていなかったのだ。     4  小田はどうしても野中ひろ子のことが気になって、その夜、彼女が働いていたという銀座のクラブヘ足を運んだ。  普段、小田は殆ど新宿で飲んでいて、銀座にはめったに行ったことがない。 「よしの」という店は電通に近い雑居ビルの三階にあった。  中に入り、彼のテーブルに来た二十五、六のホステスに水割りを注文してから、 「ここにいたホステスが昨日、急行列車の中で殺されたのを知ってる?」  ときいてみた。  こんな事件にはママやマネージャーが箝口令《かんこうれい》を敷いたりすることがあるが、この店ではそれがないらしく、 「知ってるわ。みんなびっくりしてるの」  とホステスは眼を大きくしていった。 「それ、この娘《こ》だね?」  小田は持って来た写真を、三枚ばかり相手に見せた。 「そうよ。この写真、どこで撮ったの?」 「ちょっと拝見」  急にホステスの背後から手が伸びて、彼女の手にしていた写真をつまみあげた。 「何をするんだ!」  小田は思わず大声をあげた。が、そこに立っている男を見て、 「何だ、君か」  と声を和らげた。  学生時代の友人で、警視庁捜査一課の刑事になっている西本だったからである。 「こっちへ来てくれないか」  西本は小声で小田にいった。  小田が立ち上ると、カウンターのところへ連れて行かれた。  そこで四十五、六歳の刑事がマネージャーと話しこんでいたが、西本はその小太りの刑事を、 「おれの先輩の亀井刑事だ」  と小田に紹介した。  柔和な表情をしていたが、ちらっと小田を見た眼は鋭かった。  亀井は問題の写真を見てから、小田に向って、 「話を聞きたいですね」 「偶然なんですよ」  小田は新宿で飲んでから、急に急行「妙高」に乗って善光寺へ行ったことから話した。  乗客の中に目立つ美人がいて、写真に撮ったら、それが殺された野中ひろ子だったこと、妙な六人の男女のグループがいたこと、善光寺の「戒壇めぐり」で殴られて、カメラの中のフィルムを抜き取られたことなどを、思い出しながら話していった。  亀井は黙って聞いていた。 「すると、その六人の写真を撮ったわけですね。ぜひ見せて頂きたいですね」  と亀井はいった。 「家に帰ればありますが、殺人とは関係ありませんよ。妙な連中でしたが、ぼくと一緒に駅を出てしまって、その時は彼女は、ホームで元気だったんですから」 「とにかくあなたの家へ行きましょう」  亀井はせかせるようにいった。  小田は車に乗せられた。覆面パトカーというやつらしい。 「この事件は新潟県警で捜査するんじゃないのか?」  走り出した車の中で、小田は西本に聞いてみた。 「もちろん向うで捜査しているが、被害者が東京の人間なので、こっちで捜査に協力する形になっているんだ」 「容疑者は見つかりそうなのか?」 「いや、まだまださ」 「しかし、被害者の身元は簡単に割れたじゃないか」 「最初はわからなかったらしい。ハンドバッグも見つからなかったし、身元を証明するようなものが何もなかったと、新潟県警ではいっていたからね」 「じゃあ、どうしてわかったんだ?」 「被害者の指紋からだよ」 「指紋? じゃあ、前科があったのか?」 「まあね」  といったが、西本はどんな前科かを教えてくれなかった。  マンションに着いて、二人の刑事を中へ招じ入れてから、 「そこのテーブルの上にのっているから見て下さい。今、コーヒーをいれます」  と小田はキッチンに足を運んだ。自分でも飲みたかったのだ。 「コーヒーはいいから、こっちへ来てくれ」  とリビングルームで西本が大きな声を出した。 「すぐいれるよ」 「君のいった写真なんか一枚もないぞ!」 「何いってるんだ。五、六枚ある筈だ」  小田は、笑いながらリビングルームに入って行った。  だが、その笑いが途中で消えてしまった。  テーブルの上には写真が並んでいる。が、それは小田の写して来たものではなかった。第一、大きさも違う。ただ善光寺の景色を撮っただけの写真であった。 「違うよ、これは」  と小田は顔色を変えていった。 「違うって、どういうことなんだ?」  と西本がきく。 「おれの撮った写真じゃないんだ。こんな写真は撮ってないよ」  小田はあわててバスルームを改造した現像室に飛び込んだ。 (畜生!)  と思った。ネガまできれいに無くなっているのだ。     5  亀井という刑事は意外に冷静だった。 「こりゃあ、あなたの留守の間にすりかえられたんですよ」  と笑いながらいった。 「しかし、ちゃんとカギをかけておいたんですよ。それに、帰ったときもカギはかかっていた」 「特別な鍵じゃないでしょう? それなら、簡単にあける人間がいますよ」  と亀井はいってから、 「それにしても律義な泥棒ですね。代りの写真を置いていくというのは」 「下手くそな写真ですよ」 「妙な六人の男女が長野で降りたというのは、本当なんですね?」 「本当ですよ。駅前のスナックでも善光寺行の長野電鉄の電車の中でも、一緒だったんです」 「その六人は、野中ひろ子が殺されたことには関係ないんですか?」  亀井は生まじめな表情に戻って、小田にきいた。 「それはありませんよ。僕と一緒に、連中も長野駅を出たんです。その時振りかえったら、彼女はホームにいて電車に入ろうとしていましたからね」 「六人の中、一人か二人が残っていたということは考えられませんか」 「それもないですね。六人ぐらいはちゃんと僕の視界の中に入っています」 「しかし、この部屋に忍び込んで写真をすりかえたり、善光寺の地下であなたを殴ってカメラからフィルムを抜き取ったのは、その六人のように思えますがねえ」 「僕もそう思いますよ。カメラを向けたら僕を睨んでいましたからね。何か後暗いところのある連中じゃないかと思います。しかし、野中ひろ子という女性を殺したとは思えませんね。理由は今いった通りです」 「彼等の写真は、一枚もなくなってしまったわけですか?」 「いや、一枚だけあります」  小田は、クラブヘ持って行った写真の一枚を亀井に見せた。 「これは上野のホームで野中ひろ子を撮ったものなんですが、彼女の背後に二人写っているでしょう、男と女が。それが六人の中に入っていました」 「この二十五、六歳のカップルですね?」 「そうです」 「間違いありませんね?」 「間違いありませんよ」 「とにかく、この二人を調べてみましょう」  と亀井はいった。 「しかし、彼等は殺人には関係ありませんよ。うさん臭い連中ではありましたがね」  と小田はいった。     6  亀井と西本は、その写真を借りて警視庁に戻った。  待っていた上司の十津川警部が、 「今も新潟県警から電話が入ったよ。何かわかったら、至急知らせてくれということでね」  と亀井と西本にいった。 「七月八日のことですが、野中ひろ子は午後九時頃に銀座の店に顔を出し、ママに辞めるといっています。十時半頃まで店にいてから帰ったということです。その時の服装は白いワンピースに白い帽子、サングラスをかけ、白いスーツケースを持っていて、夜行で実家に帰るといっていたそうです」 「十時半に店を出て上野に行き、長野、直江津行の急行『妙高』に乗ったのか?」 「そう思います。時間は十分にあるので、その間に食事ぐらいしたかも知れません」 「新潟県警の話では、所持品はなかったといっていたね」 「この写真を見て下さい」  西本は、小田から借りてきた写真を十津川の前に置いた。 「これは上野駅のホームですが、彼女は足元に白いスーツケースを置いています。ですから、持っていたことは間違いないと思いますね」 「彼女を殺した犯人が、そのスーツケースを盗んだということかな?」 「そう思います」 「クラブにあいさつに来たときの様子はどうだったんだろう?」  十津川が、亀井にきいた。 「ママの話では、何となく怯えていたように見えたということです」 「どんな女性だったのかね?」 「美人なのでお客はよくついたが、どこか暗いところがあった。それによく休んだそうです。もっと明るく振る舞って、休まなかったら、あれだけきれいでスタイルもいいから店のナンバー・ワンになれたのにと、ママはいっていました」 「店を辞める理由については、彼女は何といっていたのかね?」 「疲れたので故郷《くに》に帰るとだけいっていたようです」  と亀井はいった。  西本が、友人の小田のことを十津川に話した。妙な六人の男女のことや、写真が留守の間にすりかえられたこともである。 「それで、私はこの六人のグループが気になるんですが」 「しかし君の友人は、犯行には関係ないといっているんだろう?」 「そうなんですが、どうも引っかかります」 「この写真の男女が、その六人の中の二人というわけか」 「一応、念のために調べてみたいと思うんですが」  と西本はいった。 「そうだね。調べてみたまえ」  と十津川は西本にいってから、亀井には、 「被害者の前科だがね」 「OL時代に横領罪で逮捕されたんでしたね」 「それが、今度の事件と関係があるかな?」 「そうですねえ」  亀井は考え込んだ。  野中ひろ子は二年前、「光の兆《きざし》」という新興宗教団体で経理の仕事をしていたが、その時二億四千万円の金を横領して逮捕されている。  その二億四千万円を彼女が何に使ったのかわからないままに、有罪判決を受け、一年間、刑務所暮らしをした。 「あの金が、今度の事件の引き金になっているのかも知れません」 「消えた白いスーツケースの中身か」 「そうです。二億四千万円。スーツケースには入りませんが、もし彼女が二年前に、誰かと組んで横領したとして、その分け前として三千万なり四千万なりを貰ったとすれば、スーツケースに十分入ります」 「二年前には、彼女の単独犯ということになったんじゃなかったのかね?」 「あの時は、背後に男がいるんじゃないかといわれながら、結局、彼女は自分一人でやったことだといって刑に服したんです」 「横領された方の『光の兆教団』の方は、今どうなっているのかね?」 「調べてみます」  と亀井はいった。  亀井が調べた結果、次のことがわかった。  二年前、横領事件が起きた時の教祖、白井瑞光は心臓病ですでに死亡し、現在は、彼の甥で三十六歳の白井秀明が、二代目の教祖に納っている。 「信者は二万とも三万ともいわれていますが、正確な人数はわかりません。もともと怪しげな団体で、インチキな薬を信者に一万円から二万円で売りつけ、薬事法違反で事務長が逮捕されたことがあります」 「野中ひろ子は、民事でも告訴されていたんじゃなかったかね? 教団から横領した金を返せといって」 「それが、当初は告訴するといっていたんですが、教祖が代ったとたんに訴えないことになってしまいました。理由は不明です」 「すると現在は、野中ひろ子から二億四千万円を取り戻そうという気は、教団にはないのかね?」 「表向きはそういうことですね」 「現在、教団の運営はうまくいっているのかね?」 「よくわかりませんが、信者の教は少くなって来ているようです。新しい事務長は、なかなかのやり手だといわれていますが」 「教祖だけでなく、事務長も代ったのか?」 「そうです。横領事件が起こった時の事務長は、すでに辞めています」 「すると、新しい事務長が告訴しないといっているわけかね?」 「そうなりますね」 「その男は、今度の野中ひろ子の死をどう見ているんだろう?」 「尾高勇という男で、会ってきいてみました。三十五、六の若い男です」 「何といっていたね?」 「昔の話はもう、どうでもいいといっていましたね」 「二億四千万円も横領されてもかね?」 「表面上は平気な顔をしていましたね。ただ、尾高は事件のときの事務長じゃありませんから、責任は感じていないんでしょうが」 「どうも気になるね」 「尾高の動きがですか?」 「いや、西本刑事の友人がいっていた六人のグループのことさ」 「しかし小田さんは、彼等は殺人には関係ないといっていましたが」 「かも知れないが、彼等は長野で降りている」 「そうです」 「急行『妙高』は、1号車から6号車までが直江津行で、7号車から9号車が長野行になっている。もちろん直江津まで行く車両に乗っていて、途中の長野で降りてもいいわけだし、小田さんはその積りで5号車に乗っていたんだと思う。殺された野中ひろ子は高田へ行く気だったろうから、5号車でいい。ところが六人のグループはおかしいよ。というのは、小田さんは彼等に興味を感じて、時々、カメラを向けて写真を撮ったといっている。軽井沢ではホームに降りて、窓の外からも撮っている。その度に彼等は、険しい眼付きで睨んだといっている」  十津川がいうと、亀井は肯《うなず》いた。 「確かにおかしいですね。そんなに不快なら、他の車両に移ればいい」 「そうだよ。特別に5号車が乗り心地が良かったとか、他の車両が混んでいたとは思われない。この急行にはグリーン車もないんだ。隣りの6号車は禁煙車だが、反対側の4号車は違うしね」 「5号車に野中ひろ子が乗っていたから、彼等も他へ行かなかったということですか」 「私はそうじゃないかと思うんだよ。それに連中は何か異様だったと、小田さんはいっている。『光の兆教団』というのは、怪しげなところのある新興宗教なんだろう。その信者の一団だとすれば、異様な感じを受けたとしても、別におかしくはないんじゃないかね」  と十津川はいった。     7  新潟県警から野中ひろ子の司法解剖の結果などが、十津川のところへ報告されてきた。  死因は絞殺。これは前からわかっていたことである。  死亡推定時刻は、午前五時から六時までの間となっている。  急行「妙高」の長野着が四時四四分だから、明らかに長野へ着いた時は生きていたのだし、小田のいう通りなのである。  白いスーツケースは、いぜんとして見つからないということだった。  十津川は事件を担当する新潟県警の松木警部に電話で、「光の兆教団」のことや、二年前の事件のことを話した。 「すると、その六人が怪しいということになりますね」  と松木がいった。 「殺しには無関係という気もしますが、どうしても引っかかるんですよ。ですから、彼等が長野で降りてから、何処へ行ったか調べる必要があると思うんですがね」 「さっそく調べてみましょう」  と松木はいった。  翌日になって、松木から電話が入った。 「例の六人組ですが、消えてしまいましたよ」  と松木はいった。 「消えたというのはどういうことですか?」 「まず、長野駅の駅員に問い合せました。確かに七月九日の早朝、急行『妙高』が着いてから、六人の男女のグループが改札口を通ったことを覚えていました。次は駅前のスナックですが、ここでも従業員が彼等を覚えていました。しかし、長野市内や周辺の温泉地のホテル、旅館に片っ端から電話を入れてみたんですが、六人組はどこにも泊っていないんですよ」 「じゃあ、その日の中に彼等は東京に帰ったのかも知れませんね」 「そう思ったんで、もう一度、駅なんかを調べてみたんですが、六人組を見た目撃者は見つかりませんでした」 「別れたのかも知れませんね」 「えっ?」 「長野までは六人がかたまって行動していたが、そのあとは一人ずつ、ばらばらになったんじゃないですか。そうすれば一人ずつはこれといった特徴のない男女のようですから、消えた感じがしても不思議はないと思いますね」 「しかし、なぜそんなことをしたんですかね?」  松木がきいた。 「一つだけ考えられるのは、六人でかたまって行って、長野で目的を達した。そのあとは目立つといけないので、ばらばらに別れて東京に帰ったということですね」 「なるほど」  と松木は肯いた。が、 「しかし十津川さん。それなら長野へ来る時も、ばらばらで来れば余計目立たなかったんじゃありませんかね?」  といった。  当然の疑問だった。  確かに松木警部のいう通りだった。最初から六人がかたまっていなければ、カメラマンの小田が注目することもなかったのである。  十津川は六人の中の二人の写真を、すぐ新潟県警に電送する約束をして、受話器を置いた。 「カメさん。一緒に『光の兆教団』へ行ってみないか」  と十津川は亀井に声をかけた。  小田にも電話して、来て貰うことにした。  六人のグループの顔を覚えているのは、小田だけだったからである。 「光の兆教団」の本部は、等々力《とどろき》の高級住宅地の一画にあった。  亀井は二度目である。  事務長の尾高は露骨に眉をひそめ、 「もう全てお話しした筈ですがね」  といった。 「しかし、これは殺人事件ですからね」  十津川はわざと怖い顔をして見せた。  十津川と亀井が事務長に会っている間、小田は本部の中を歩き廻ることにした。 「殺人事件だろうが、私たちの教団とは関係ありませんよ」  と尾高がいう。 「しかし、殺されたのは、二年前に教団の金を二億四千万円も横領した女性ですよ。全く関係ないとはいえんでしょう?」 「ありませんね。二億四千万円というと、あなた方にとっては大金かも知れませんが、私たちの教団にとってはたいした額じゃありません。現に当教団では今度、山梨県に二万坪の土地を買い、そこに大きな聖堂を建設することになっています」  尾高は土地の権利書や、聖堂の青写真を十津川に見せた。二億四千万円ぐらい端た金だといいたいのだろう。 「教団の職員は、今何人いらっしゃるんですか?」  と十津川はきいた。 「現在、三十七名です。信者の教は何万人とおりますがね」 「その三十七名の中にこの方はいますか? 野中ひろ子さんの背後《バツク》に写っている男女ですが」  十津川は小田の撮った写真を尾高に見せた。  それには六人の中の二人が写っている。  尾高はじっとすかすように見ていたが、 「知らない顔ですね。この二人がどうかしたんですか?」 「いや、ご存知なければいいんです」 「繰り返しますが、野中ひろ子さんが殺されたことと、私たちの教団とは何の関係もありませんよ」 「二年前、横領事件が起きた時、尾高さんは何をされていたんですか?」 「前の事務長の鈴木さんの下で働いていましたよ」 「前の事務長はあの横領事件のあと、民事で野中ひろ子を告訴して、二億四千万円を返せといっていましたね」 「ええ。そうです」 「しかし、事務長があなたになってから、それを取り下げてしまった。その理由は何ですか?」 「考えてもみて下さい。彼女に二億四千万円も返せますか? それにまあ、刑務所に入って贖罪したわけですから、これ以上、咎めることもないと考えたわけです」 「ずいぶん物判りがいいんですな」  亀井が皮肉ないい方をした。  一瞬、尾高は眼を光らせ、亀井を睨んだが、すぐ元の穏やかな表情に戻った。 「私たちは過去を振り返らず、前進がモットーですからね」 「前の事務長さんは今、どこにおられるんですか?」  と十津川がきいた。 「わかりませんね」 「しかし、前の事務長ですよ」 「すでに当教団を離れた人ですからね」  尾高はそっけなくいった。 「辞める前の住所はご存知でしょう? 教えてくれますか」 「いいですよ。しかしあくまでももう当教団とは無関係の人だということは、覚えておいて下さい」  と尾高は念を押した。     8  小田とは教団本部の外で合流した。 「どうでした? 例の六人はいましたか?」  車に乗ってから十津川がきくと、小田は首を横に振った。 「いませんでしたね。いろんな部屋に首を突っ込んでみたんですが」  といった。  十津川はさほど失望しなかった。  六人が教団本部にいなかったことは、二つの解釈が可能だからである。  全く事件に関係ないか、逆に関係があるので隠れてしまったかの二つである。 「調布の深大寺に行ってみよう」  と十津川は亀井にいった。  途中で小田を降ろし、十津川たちは前の事務長の家があるという深大寺に向った。  前の事務長の名前は、鈴木晋一郎である。  年齢は六十二歳。尾高は病気がちなので自分から辞めたというが、本当かどうかわからない。  深大寺近くの建売住宅の一軒に、「鈴木」の表札がかかっていた。  車から降りてベルを押すと、二十五、六歳の若い女が顔を出した。  十津川が警察手帳を見せて、鈴木晋一郎さんに会いたいと告げると、彼女は、 「父は散歩に出かけています」  といった。  娘のみどりだという。彼女は十津川と亀井を居間へ招き入れた。 「お父さんが『光の兆教団』の事務長を辞められた時の事情を、ご存知ですか?」  と十津川はきいてみた。  みどりはお茶をいれながら、 「もう疲れたと申しておりましたわ」 「しかし、教団から離れてしまうことはなかったんじゃないですか? 事務長だけ辞めればよかったようにも思いますがね」  十津川が重ねていうと、みどりは眉をひそめて、 「いろいろとあったと父はいっておりましたけど」 「いろいろというのは、どういうことですか?」 「あの教団のことは、私はよく知らないんですけど、派閥みたいなものがあったようですし、父は足を引っ張られるようなこともあったらしいんです」 「派閥というのは、新しい教祖と新しい事務長のことかな?」 「ええ、そう思いますわ。前の教祖さんが死んだのも、何かあったみたいですし──」 「心臓病で亡くなったといわれてますがね」 「ええ。でも、父は心労が重なったんだといっていましたわ」 「二年前の横領事件も、その心労の一つだったんですかね?」 「と思いますわ」 「野中ひろ子さんは、知っていますか?」  十津川がきくと、 「一度、遊びにいらっしゃったことがありますわ」  という返事が戻ってきた。 「ここへ遊びに来たんですか?」 「ええ。父は野中さんを信頼して、経理を委せていたんです」 「それじゃあ、あの横領事件の時は、お父さんはさぞびっくりしたでしょうね?」 「裏切られたといって、かんかんでしたわ」 「それで告訴したんですね?」 「ええ」 「彼女には黒幕がいたと思うんですが、お父さんは知っていましたかね?」 「さあ」  とみどりは首をかしげた。  十津川は腕時計に眼をやって、 「お父さんはいつ頃、散歩に出かけられたんですか?」 「一時頃ですけど」 「今、五時ですから、少し帰りがおそいということはありませんか?」 「さあ、父は気まぐれですから、すぐ戻って来ることもありますし、おそばを食べてゆっくり帰ることもありますから」 「散歩のコースは決っているんですか?」 「ええ。だいたいは決めているようですわ」 「そのコースを教えてくれませんか」 「父が何か?」 「いや、何もないとは思いますが──」 「じゃあ、私がご案内しますわ」  とみどりがいった。  家を出て、まず深大寺へ向って歩く。 「このあと、おそば屋さんに寄ることがあるんです」  歩きながらみどりがいった。  深大寺にはまだ緑が多い。散歩に最適な場所が多かった。  途中で、ジョギングしている若者にもぶつかった。  一時間ほど歩いて家に戻ったが、鈴木晋一郎はまだ帰っていなかった。  みどりもさすがに不安になったとみえて、しきりに時計を見ている。  少しずつうす暗くなってきた。 「もう一度、あのコースを歩いて来ますよ」  といって十津川は立ち上った。  一緒に行くというみどりを家に残して、十津川は亀井と、さっきと同じ道を歩いてみることにした。  鈴木がよく寄るというそば屋できいてみた。が、今日は来なかったと店主はいった。  十津川の不安が濃くなった。そば屋に寄っていなければ、もっと早く家に帰っている筈だったからである。  雑木林の近くまで来たとき、五、六人の人垣が出来ているのが見えた。  その中に制服姿の警官の姿もあった。  二人は思わずその人垣に駆け寄って、のぞき込んだ。  老人が地面に横たえられているのが見えた。  小柄な老人だった。 「鈴木さんですよ、この人」  人垣の中の一人が小声でいうのが聞こえた。 「そういえば、これは鈴木さんだ」  中年の警官も肯いている。  十津川は人垣の中に入って行って、その警官に警察手帳を見せた。 「鈴木さんて、深大寺横の鈴木晋一郎さんかね?」 「そうです。鈴木さんちのお爺さんです」 「死んでいるのか?」 「くびを絞められています。雑木林の中に引きずり込まれて絞殺されたんだと思いますね」  警官が喋っている間に、亀井が屈み込んで調べていた。 「後頭部を殴られていますね」  と立ち上って亀井がいった。 「殴ってから絞めたのか?」 「多分、殴って気絶させてから、雑木林の中に引きずり込み、絞殺したんだと思います」 「野中ひろ子が殺されたことと関係があると思うかね?」 「ないという方がおかしいですよ」 「われわれが動いたので、この老人は殺されてしまったのかな」  十津川はみどりの顔を思い出していた。  彼女に父親の死を伝えるのが辛い。 「多分、そうでしょう。鈴木前事務長がいろいろと喋るのが、怖かったんだと思います」 「そうだとすると、犯人は口を封じた積りで、自分たちが何を怖がってるか明らかにしてしまったことになる」 「犯人は複数だと思われますか?」 「野中ひろ子を殺したのは例の六人のグループだと、私は思っているんだよ」 「しかし、小田カメラマンの話では、彼等には野中ひろ子を殺せなかったことになりますが」 「まあ、そうだがね。私はその辺に何かあると思っているんだよ」  と十津川はいった。 「リーダー格は新しく事務長になった尾高ですか?」 「あの男以外に考えられないね。われわれが鈴木晋一郎を訪ねるのを知っていたのも、あの男だからね」     9  十津川は最近「光の兆教団」を辞めた元職員に会ってみることを考えた。  現在の職員はいろいろと制約があって、本当のことは話してくれないだろうと思ったからである。  三人の男女が見つかった。  三人とも教団本部で働いていたことがあり、特に井上悟という四十五歳の男は、十年近く教団本部で働いていたという。  鈴木晋一郎のことがあるので、十津川と亀井は現在横浜で本屋をやっている井上に警視庁へ来て貰った。その方が安全だと思ったからである。  井上は度の強い眼鏡をかけた、柔和な感じの男だった。 「鈴木晋一郎さんが殺されたことは、知っていますね?」  と十津川がきくと、井上は眼をしばたたいた。 「テレビのニュースで見ましたよ。私はあの事務長さんは尊敬していたんですよ」 「しかし、薬事法違反で逮捕されたことがありましたね」 「あれは鈴木さんが罪をかぶったんですよ」 「教祖がやったことだからですか?」 「いや、教祖の甥の白井さんが、尾高と計画してやったことですよ。次に教祖になるだろうといわれている白井さんを逮捕させるわけにはいかない。それで鈴木さんが罪を背負ったというわけです」 「尾高さんは、なぜ逮捕されなかったんですか?」 「彼は白井さんのお気に入りでしたからね」 「そして、今は白井、尾高のコンビになったというわけですか?」 「そうですが、あのコンビでは、『光の兆教団』も長くないと思いますね。前の教祖は純粋でしたし、鈴木さんはまじめでしたからね。今度の新しい教祖と事務長は教団を食いものにしようとしています」 「二年前に起きた二億四千万円の横領事件のことを話してくれませんか。表向きは経理を担当していた野中ひろ子が、一人で横領したことになっていますが」  十津川がいうと、井上は皮肉な笑いを浮べて、 「一人で二億四千万もですか?」 「違うんですか?」 「彼女は知っていますが、そんな悪い女性じゃありませんよ。美人で男の噂はいろいろありましたがね」 「その噂の中に、誰か特定の男の名前が入っていたんですか?」 「これは私の個人的な考えですがね。尾高と彼女が、関係があったんじゃないかと思っているんです」 「それ、間違いありませんか?」 「証拠はありませんよ。尾高という男は女好きなんですよ。信者の中にちょっときれいな女の子がいると、よく手を出して、鈴木さんに注意されてました。ところが美人の野中ひろ子には、全く関心を示さなかったんです。彼女の方も尾高に対して、よそよそしく振る舞っていましてね。みんな不思議がっていましたが、私は逆に考えていましたよ」 「逆に深い関係があったので、それを隠そうとしたんじゃないかとですか?」 「そうですよ」 「すると、二億四千万円の大部分は、尾高のふところに入ってしまったということですか?」  十津川がきくと、井上はすぐには返事をせず、ちょっと考えていた。 「二億四千万円は大金ですが、教団にとっては致命傷になるような金額じゃない。私が不思議だったのは、あの事件が起きてから急に教祖の元気がなくなって、甥の白井さんの力が強くなりましてね。同時に鈴木さんが遠慮がちになって、尾高が威張り出したんですよ。そして教祖は病気がちになって、とうとう病死してしまったんです」 「横領事件がマスコミに報道されたのを、気に病んでですかね?」 「いや、それはないと思いますよ。今いったように、教団の財政を圧迫するほどの金額じゃないし、教祖や鈴木事務長にしてみれば、飼犬に手を噛まれたわけですから、二人の責任じゃありませんからね」 「じゃあ、何が原因なんですか?」 「あくまでも私の想像ですがね。野中ひろ子はただ単に教団の金を盗み出しただけじゃないんじゃないか。彼女は事務長にも教祖にも信頼されていて、大金庫の開け方も知っていましたからね。何か秘密書類みたいなものも、盗み出したんじゃないかと思うんですよ。そんなことは新聞には出ませんでしたが」 「つまり、それが尾高さんの手に入っているのではないかということですね?」 「そう考えてるんです。亡くなった教祖は立派な方でしたがね。経歴は秘密になっているんですよ。その経歴がわかるようなものだったかも知れませんね」 「それで、少しずつ納得が出来るようになって来ましたよ。尾高さんには親衛隊みたいな人たちがいますか?」 「親衛隊ですか?」 「そうです。五、六人の親衛隊を使って、何かやるということはないですかね?」 「そうですねえ。あの男ならやりそうですね。自分がワルだから、他人《ひと》を信用しない。子分を使ってあれこれやりそうなタイプですね。事務長になってから、そんな子分を作ったかも知れません」  と井上は言った。  他の二人にも話を開いたが、新事務長の尾高が子分を使って何かやりそうだという点では、一致していた。     10  十津川は尾高に狙いをつけることにした。  小田が写真に撮った六人の男女は尾高の子分で、彼等が野中ひろ子を殺し、鈴木晋一郎を殺したに違いない。  しかし証拠はなかった。  それに折角小田が撮った六人の写真は盗まれてしまった。  ただ、その中の二人の男女の写真は、盗まれずに残っている。  平凡な感じの男女である。  小田は六人の顔を覚えているが、教団本部にはいなかったといっている。 「小田が狙われる心配があります」  と友人の西本刑事が、十津川にいった。 「その心配はあるね。君が清水刑事と小田さんの護衛に当ってくれ」 「わかりました」  西本は嬉しそうにいった。 「ただ守るだけじゃ、事件の解決にはならない」 「はい」 「問題の六人だが、教団本部には顔を見せないだろう。しかし尾高の家には現われるかも知れない」 「わかりました。小田を連れて尾高の家に張り込みます。彼は専門のカメラマンですから、六人が現われたら写真を撮って貰いますよ」  と西本は張り切っていた。  西本と清水の二人の若い刑事が出かけて行ったあと、十津川は亀井と事件を振り返ってみた。  東京でも殺人事件が発生したので、正式に新潟県警との合同捜査ということになった。それだけにより慎重にならざるを得なかった。 「尾高は結婚していましたっけ?」  亀井がきいた。 「いや、独身だよ。私には、今は信仰のことで頭が一杯で結婚どころじゃないといっていたが、それはお笑いだね」 「独身なら、野中ひろ子は結婚をエサにして、利用されたということも考えられますね」 「誰に聞いてもあの横領事件は、彼女一人でやったとは思われないという。それなのに彼女は、共犯者の名前はいわなかったし、二億四千万円の行方もいわなかった。黙って刑務所に入っている。出所したら結婚するという約束をしていたとすれば、彼女がじっと口を閉ざしていた理由にはなるね」 「彼女が七月八日の夜の、急行『妙高』で実家に帰ったというのは、どういうことなんでしょう」 「彼女は出所後、銀座のクラブで働いている。そうしながら、結婚できるのを待っていたんじゃないかね。尾高の方は、最初からそんな気はなかった。女の方はじれてくる。結婚してくれなければ共犯の名前をいうと、脅したのかも知れない。そこで尾高は、彼女を消すことを考えた。結婚するからいったん実家に帰って、両親に話をして来なさい。自分もあとから行くとでもいったんじゃないのかな」 「彼女はその言葉を信じて、七月八日の夜、店のママや同僚にあいさつしてから、急行『妙高』に乗った。それを尾高の子分というか部下というか、六人が追っかけて、車内で殺したということになりますか?」 「そうだよ」 「しかしカメラマンの小田の言葉では、六人には野中ひろ子は殺せないことになりますが——」 「それはあとで考えるとして、私はこの推理は間違っていないと思っているんだ」  と十津川はいった。  新潟県警の松木警部から、連絡が入った。  解剖の終った野中ひろ子の遺体は両親に渡され、葬儀もすんだという。 「その両親に会って話を聞いたんですが、彼女は近く結婚するといっていたそうです」 「相手の名前も、両親にいっていたんですか?」 「いや、いっていません。どうも相手の男に口止めされていた感じです。ただ母親が、前科のあるお前を貰ってくれるなんて、変な人なんじゃないかといったら、彼女は、前科のこともちゃんと知っていて、とても偉い人なんだといっていたそうです」 「偉い人ですか」 「それで母親が、なぜそんな偉い人がお前をときいたら、野中ひろ子は笑って、その偉い人も私には頭が上らないのっていったそうですよ」 「それは面白いですね」  と十津川はいい、自分の考えた推理を松木に話した。 「問題は六人のグループの男女が何者なのかということと、彼等は野中ひろ子が殺せたかどうかということになって来ますがね」  と十津川はつけ加えた。  西本刑事たちの張り込みは、なかなか効果を示さなかった。  尾高の家は田園調布にある。有名なタレントが持っていたのを、三億円で買ったのだという。そんなところにも、尾高の性格が現われている感じだった。  尾高は有名人好きらしく、よくタレントなどが、彼の家に出入りするのがわかった。  だが例の六人の姿は、いっこうに西本たちの前に現われなかった。  二日、三日と空しく過ぎた。  尾高は毎日、自分で車を運転して教団本部に出かけ、帰って来るとパーティを開く。それには新しい教祖の白井も出席することがある。  尾高のパーティは豪華で楽しいと評判だった。多分金にあかせてのパーティなのだろう。  四日目の夜もパーティになって、尾高の部屋には明るく灯がつき、近くに住むタレントが遊びに来ていた。  そのパーティが終ったのは、十二時過ぎである。  いつもは部屋の灯りが消えてしまうのだが、今夜に限って明るいままである。  午前二時近くなって、裏口から一人、二人と人影が邸に入って行くのを、西本たちは目撃した。 「全部で六人だよ」  と清水が興奮した口調でいった。 「しかし、この暗さじゃ顔がわからないね」  一緒に張り込んでいる小田が、西本にいった。 「カメラは持って来ているんだろう?」 「ああ、いつも持ってるよ」 「フラッシュは?」 「あるよ」 「それじゃあ、彼等が出てきたところを、いきなりフラッシュを使って写真を撮ってくれ」 「捕まっちまうよ」 「撮ったらすぐ逃げればいい。あとはおれたちが何とかする」  と西本はいった。  夜明け近くなって、やっと人影が裏口から出て来た。  小田が彼等の前に出て、いきなりフラッシュを焚いた。  六人の中の女が悲鳴をあげ、男は怒鳴り声をあげた。  小田が逃げ出す。追いかけようとする六人の前に、西本と清水が出て行って両手を広げた。 「何だ? お前たちは」  と六人の中の年輩の男が二人に食ってかかった。 「捜査一課の者です。あなた方におききしたいことがありましてね」  西本はわざと丁寧にいった。  その間に、小田が逃げてしまうのを計算に入れてである。  六人は捜査一課といわれてぎょっとしたようだったが、それでも、 「刑事なんかに用はない!」  とリーダー格の男が怒鳴った。 「こちらに用があるんですよ。二つのことをおききしたいんです。今、尾高さんの家から出て来ましたが、皆さんは『光の兆教団』の人ですね?」 「教団には関係ない」 「すると、尾高さんとは個人的な知り合いですか?」 「そんな質問には答える必要はない」 「七月八日に急行『妙高』に乗って、長野に行きましたね?」 「答える必要は認めない!」 「皆さんの名前と住所を教えて貰えませんか」 「もう二つの質問は終ってる筈だぞ!」  と相手は怒鳴った。     11  小田の撮った写真は大急ぎで現像され、大きく引き伸ばされた。  突然フラッシュを焚かれて、どの顔もびっくりしている。  瞬間的に眼をつぶってしまっている女もいた。 「この六人ですか?」  と十津川は小田にきいた。 「間違いなくこの六人ですよ。僕の撮った写真にもこの中の六人が写っていましたからね」  と小田が自信を持っていった。 「尾高にこの写真を突きつけてやりますか?」  清水が十津川を見た。  十津川は笑って、 「それは駄目だよ。警察が撮ったとわかったら、逆に告訴してくるだろう。無断で暴力的に撮られたといってね」 「しかし、この六人は野中ひろ子と鈴木晋一郎を殺したかも知れません。彼等が尾高と結びついているとなれば──」 「証拠がないよ」  と十津川はいった。 「それに彼等は、長野で野中ひろ子を殺してはいませんからね」  小田がいった。  十津川はその小田に向って、 「今度一緒に急行『妙高』に乗って、長野に行ってくれませんか」 「行ってどうするんです?」 「この六人は野中ひろ子を殺せなかったかどうか、調べてみたいんですよ」 「しかし、十津川さん。彼等は僕と一緒に長野駅の改札口を出たんです。その時にはまだ彼女は生きていたんですよ」 「わかっています。駅前のスナックでも一緒になったんでしょう。しかし、この眼で確かめたいんですよ」  と十津川はいった。  その日の夜、十津川は亀井と小田を連れて上野駅から急行「妙高」に乗ってみることにした。  小雨が降っていた。梅雨はまだ盛りなのである。  二三時五八分に発車する急行「妙高」の5号車に、三人は乗り込んだ。 「この間と同じように空いていますね」  と小田は車内を見廻しながらいった。ただ今日はお腹がすいたときの用心にと、亀井がほかほか弁当や果物などを買い込んで持って来ている。  8番線から定刻に発車した。まばらな乗客の中には、もう眠ってしまっている人もいた。  十津川たちは、当然なことながら緊張で眠れなかった。  窓ガラスは雨でぬれている。  熊谷、高崎と過ぎたところで亀井が、 「そろそろ食事をしませんか」  といった。  ほかほか弁当を広げて夜食になった。食事のあとは亀井の買ってきたサクランボを食べた。 「これだけでも、極楽へ行けそうですよ」  小田は満足した顔でいった。  十津川と亀井は眠れなかったが、小田は眼を閉じていびきをかきはじめた。  篠ノ井を過ぎたところで、十津川が眠っている小田を起こした。  まだ外は暗く、雨は降り続いている。  四時四四分に長野に着いた。定刻である。  三人は電車からホームに降りた。 「すぐ改札口を出たんですか?」  ホームで確認するように、十津川が小田にきいた。 「そうです。例の六人組もほとんど一緒でしたよ」 「じゃあ、その通りにしましょう」  十津川が先に立って、改札口に向って歩き出した。  改札口を出る。 「このあと二十四時間営業のスナックに行ったんです」  と小田がいう。 「われわれもその店へ行ってみましょう」  十津川がいった。  雨の中を小田の案内で駅前のスナックに入った。  テーブルに腰を下してから、小田は店の中を見廻して、 「この店です。間違いありません」  と変に力んだ声でいった。 「例のグループも、この店に来たんですね?」  亀井がきいた。 「ええ。僕より先に来てましたね。彼等は駅からまっすぐここへ来たんだと思います。僕は探しながら来ましたから」 「向うは六人全部いましたか?」 「ええ、ちゃんと六人いましたよ。数えたんです」  と小田はいい、ニヤッと笑った。 「それで、食事をした?」 「ええ」 「じゃあ、われわれも食事しましょう」  と十津川がいった。  三人がそれぞれライスカレーや焼そばなどを注文した。 「こんなことをして、何か意味があるんですか?」  小田は運ばれて来た焼そばを食べながら、十津川にきいた。 「六人のグループは野中ひろ子を殺せたかどうか、実験してるんですよ」 「それなら殺せませんでしたよ。彼等はだいたい僕と同じように動いていたんですから」  食事がすむと、三人は店を出た。 「それからあなたはどこへ行きました?」  十津川が雨空を見上げながらきいた。 「地下にある長野電鉄の駅へ行きました」 「すると、そのあと例の六人のグループがどんな行動をしたか、わからないわけですね?」 「それはそうですが、もうとっくに野中ひろ子の乗った急行『妙高』は出発してしまっていますよ。僕たちが降りてから四十分近くたっていますからね」  小田が肩をすくめるようにしていった。 「とにかく、六人のグループになって行動してみようじゃありませんか。彼等はあなたがスナックを出たあと、ばらばらになって長野駅へ急いだと思います。彼等が犯人ならそうした筈ですよ」 「それはそうでしょうが──」 「急ぎましょう」  と十津川がいって、小走りに長野駅に向った。  亀井と小田がそのあとに続いた。  駅に着くと十津川は入場券を三枚買い、二人にも渡した。  改札口を通る。 「無駄ですよ、こんなことやったって──」  と小田は呟いた。がその言葉が途中で消えてしまった。  ホームには奇跡みたいに「妙高」が停車していたからである。     12 「今、五時三十分です」  十津川が満足した顔でいった。 「五十分近くも、あの電車がここに停まっているんですか?」  小田が呆れたという顔でいった。  だが同じ電車がじっとそこに停車しているのは、まぎれもない事実なのだ。 「十津川さんは知っていたんですか?」  と小田は十津川にきいた。 「もし六人が犯人なら、スナックで食事のあと、駅に戻って野中ひろ子を殺したに違いないと思ったんです。しかしどんなに簡単な食事でも、三十分はかかるだろう。その間、電車がずっと停車しているだろうか? 何しろ急行列車ですからね。しかし調べてみたら、急行『妙高』は長野から先は各駅停車の普通電車になってしまうんですよ。それなら長い停車時間もあり得ると思ったんです」  十津川は笑っていった。 「この電車は、長野に何分停車してるんですか?」 「発車は五時四〇分となっていますからね。着いたのが四時四四分だから、五十六分もここで停車してるんです」 「参ったな」  小田は首をすくませた。 「だから六人は、スナックから急いで電車に戻り、野中ひろ子を絞殺したあと、白いスーツケースを奪って、長野電鉄の地下駅へ駆けつけたんですよ」  と十津川はいった。 「しかしなぜ、あの地下駅へ彼等はわざわざ来たんですかね?」  小田がきく。十津川は笑った。 「それはあなたのせいですよ。彼等はあなたに車内で写真を撮られている。それを取り返そうと思ったからですよ。多分、彼等はあなたが地下駅に向って歩いて行ったのを見ていたんですよ」 「しかし彼等が地下駅に入って来た時、白いスーツケースは誰も持っていませんでしたが」 「それは当然でしょう。目立ちますからね。コインロッカーに入れてしまったのかも知れないし、中身だけ六人で分けて持ってスーツケースは捨ててしまったのかも知れません」  と十津川は事もなげにいった。  三人が話している間に九両から六両になった電車は、直江津に向って出発して行った。  五時四〇分である。  解剖の結果、野中ひろ子の死亡推定時刻は、午前五時から六時の間だった。  長野着が四時四四分なので、何となく直江津に向って出発したあとで死んだように思ってしまったのだが、五十六分も停車していたとすれば、長野駅に停車中にすでに殺されていたと考えてもおかしくはないのである。 「やりましたね」  亀井がニヤッと笑って十津川を見た。 「これであの六人に野中ひろ子が殺せたことは、はっきりしたね」  と十津川は満足そうにいってから小田を見て、 「われわれはすぐ東京に戻りますが、あなたはどうします?」  ときいた。 「僕はもう一度、善光寺へ行って来ますよ。この前は折角行ったのに、極楽往生できる戒壇めぐりを途中でやめてしまいましたからね。今度は鍵に触って来ますよ」  と小田はいった。     13  小田を長野に残して、十津川と亀井は東京に戻った。  例の六人グループが野中ひろ子を殺せたことは証明できたが、これだけで彼等を逮捕は出来ないし、その上にいる尾高はなおさらである。  尾高の指導で、六人の男女が野中ひろ子を殺し、更に鈴木晋一郎を殺したことを証明しなければならない。  東京に戻った十津川は、すぐその作業に取りかかった。  まず深大寺周辺の聞き込みを強化した。  聞き込みに当る刑事には、小田が撮った写真を持たせた。  いきなりフラッシュを焚いて、例の六人組を撮った写真である。  次は尾高に圧力をかけることだった。  十津川は亀井と同じ写真を持って、教団本部に尾高に会いに行った。  事務長室で会うと、十津川はいきなり大きく引き伸ばした写真を尾高の前に置いた。 「ここに写っている六人は、ご存知ですね?」  と十津川はきいた。  彼等から、邸の外で写真を撮られたことは、尾高に報告されているのだろう。尾高は眉をひそめながら、 「知っていますよ」  といった。 「教団の職員ですか?」 「いや、違います」 「しかし、夜半にあなたの家を訪ねていますね」 「勝手に集って来るんですよ。私は来る者は拒まずの主義で、いつでも家は開放していますからね」 「この六人の名前と住所を教えてくれませんか」 「残念ですが知りませんね」 「本当に知らないんですか?」 「勝手にわが家に集って来る連中ですからね。それに名前を知らなくても、話は出来ますから」 「すると、彼等が何か犯罪を犯しても、自分は関係ないというわけですか?」 「何か彼等がやったんですか?」 「名前も知らない連中なら、心配することもないんじゃありませんか?」  十津川は皮肉な表情できいた。  尾高は明らかに当惑した表情になっていた。 「まあ、そうですが──」 「どうもはっきりしませんね。彼等の行動に、あなたが責任を取られるんですか?」 「とんでもない。関係のない人間の行動には、責任はとれませんよ」 「すると、彼等がどうなろうと、おれは知らんということと考えていいですね?」  十津川は意地悪く念を押した。 「くどいですね」  尾高は舌打ちした。  十津川は笑って、 「こういうことは、はっきりしておきたかったんです」  とだけいった。  教団を出ると、十津川は同行した亀井に、 「録音、とったかね?」 「きっちりとりましたよ」  亀井はポケットから小型のテープレコーダーを出して、十津川に見せた。  歩きながら巻き戻して再生ボタンを押すと、尾高の困惑した声がはっきりと聞こえてきた。 「これが、果して役に立ちますかね?」  亀井が半信半疑の顔で十津川にきいた。 「六人が、どれだけ尾高に心酔しているかによるだろうね」  と十津川はいった。  深大寺周辺の聞き込みでも収穫があった。  鈴木晋一郎が殺されるところを目撃した証人はいなかったが、あの日、不審な男女を見たという証人は、何人か見つかったのである。 「よし。彼等を逮捕しよう」  と十津川は決断した。  隠れている六人を見つけるのは難しかった。がその中の一人を逮捕すると、あとは楽だった。  それだけ、彼等の団結が強かったということである。  彼等は男も女も、訊問に対して最初は口をかたく閉ざして、何も話そうとしなかった。 (まるで殉教者みたいな顔をしてやがる)  と十津川は思った。  彼等が忠誠を傾けているのは、尾高なのだろうか。  十津川は、六人の中で一番若い二十歳の男を取調室に入れ、録音した尾高の声を聞かせた。  青年は顔色を変えて、「嘘だ!」と叫んだ。  次には両手で耳をふさいでしまった。 「君がいくら尾高を信頼し、命がけで彼のために働いても、彼の方では君のことなんか、虫けらとしか思っていないんだ。君も君の仲間も、下手をすれば殺人罪で有罪になる。尾高はニヤニヤ笑ってそれを見ているだけだよ」  十津川は青年に向っていった。  二回目になって、青年は泣き出した。親に見捨てられた子羊みたいに、頼りない顔で泣き出したのだ。  そのあと、彼は堰《せき》を切ったように喋ってくれた。  尾高の指示で、長野で野中ひろ子を殺したこと、深大寺でも鈴木晋一郎を殺したことの二つをである。  彼が自供したことで、他の五人も次々に口を開いた。 「尾高を逮捕するぞ」  と十津川は亀井たちにいったあと、すぐ新潟県警に電話をいれた。  尾高と六人の正式な訊問は、第一の事件の所轄である新潟県警から始められるからだった。 単行本 昭和六十二年十一月文藝春秋刊 底 本 文春文庫 平成三年一月十日刊