西村京太郎 愛と憎しみの高山本線 目 次  愛と裏切りの石北本線  愛と孤独の宗谷本線  愛と憎しみの高山本線  愛と絶望の奥羽本線  愛と裏切りの石北本線     1  首都高速は、今日も午前八時を過ぎると、渋滞が始まった。  羽田に急ぐ井上も、いらだって、何度もクラクションを鳴らした。そんなことをしても、何にもならないとわかっているのだが、何もしないでいると、余計にいらいらしてくるのだ。  福岡行き一〇時三〇分発の飛行機に、乗らなければならないのである。  眼の前の白いカローラの男も、しきりに腕時計に眼をやっている。多分、井上と同じように、羽田発の飛行機に予約してあるのだろう。  やっと、流れが、少しばかりスムーズになった。今までの遅れを取り戻そうと、いっせいに、全部の車がスピードをあげる。  だが、大井競馬場の近くで、また、車が、たまってしまった。 「これでも、高速かよ!」  と、思わず、井上が大声を出した時だった。  突然、眼の前が、真っ赤になった。  すさまじい爆発音。そして、爆風。フロントガラスが粉々になって、無数の破片が、井上に襲いかかった。  反射的に、顔を伏せた。  車が走っている時だったら、間違いなく、井上は運転を誤り、車は横転していたろう。  眼を開ける。  眼の前の、あの白いカローラが、炎に包まれていた。ガソリンに引火したのか、新たな爆発音と共に、炎が、いっそう、広がった。  井上は、必死でドアを開けて、道路に飛び出した。  カローラの前の車に引火して、燃えあがっている。猛烈な熱風が、井上に襲いかかってきた。  悲鳴をあげて、周囲の車から、人々が逃げ出してくる。  井上も逃げ出そうとして、ふと、炎上するカローラから、火だるまの男が這《は》い出してくるのを見た。  カローラを運転していた男だった。  服が燃え、顔が血だらけになっている。  男は、けもののように、呻《うめ》き声をあげていた。  男は、井上に向って、のろのろと右手を差し出した。  その手に、写真が、握られていた。  井上は、反射的に、その写真を受け取った。ポラロイドで撮った写真である。  その写真も、一部が、焦げていた。  井上の乗ってきた車も、突然、轟音と共に炎を噴きあげた。  井上は、思わず悲鳴をあげて、逃げ出した。  熱風が、どこまでも追いかけてきた。間を置いて、爆発音が空気をふるわせた。ほかの車に、次々に引火しているのだ。  井上は、気がつくと、駈けつけた救急車に収容されていた。フロントガラスが割れたとき、頭にガラスの破片が命中し、血が流れていたのである。  手当てを受けてから、急に激しい痛みを感じた。  井上は、近くの病院へ運ばれた。  彼のほかにも、何人かが、同じ病院に収容された。 (福岡に連絡しなければ──)  と、思い、井上は、包帯を巻いた顔で、病院の待合室に降りて行った。  経営コンサルタントの井上は、今日、午後二時から、福岡市内で講演をすることになっていたのである。  井上は、公衆電話の前に立ち、今度の講演を設定した会社の名刺を取り出した。  次に、ポケットから百円玉を出そうとして、指で、探した。その指先に、四角いものが触れた。 (何だろう?)  と、首をかしげながら取り出して見て、あの写真かと、思い出した。  火だるまになったカローラの男が、必死の形相で、差し出したものだった。 (あれだけの思いで、おれに渡したものだから、何かとてつもないものが、写っているのではないか)  井上は、そんな気持ちで、電話のことを忘れて、写真を見つめた。  とたんに、井上は、眉をひそめて、 「なんだ、こりゃあ」  と、声を出していた。  雑草の生えた野原が、写っているだけだったからである。  いくら眼を凝らしても、ただの野原である。人間も、動物も、写ってはいない。  こんな写真を、なぜあの男は必死になって、井上に渡そうとしたのだろうか?  急に、馬鹿らしくなった。が、それでも、捨てるのははばかられて、ポケットに投げ込むと、福岡へ電話をかけることに専念した。     2  羽田方面行きの首都高速で起きた爆発事故で、五台の車が炎上し、一人が死亡、五人が負傷した。  死亡したのは、白のカローラに乗っていたルポ・ライターの片桐収、三十五歳である。  その後の調べで、カローラには、時限爆弾が仕掛けられていたことがわかり、事故は、殺人事件になった。  大森警察署に捜査本部が置かれ、捜査一課の十津川警部が、実質的な指揮を取ることになった。  片桐は、目下、独身なので、家族から事情を聞くことができない。それで、友人たちの聞き込みを、進めることにした。  その日の夕方になって、捜査本部に、包帯姿の男が訪ねてきた。  男は、井上と名乗り、瀕死《ひんし》の片桐から、渡されたものがあると、いった。  十津川が、井上に会った。 「それが、妙なものなので、僕も驚いているんですよ」  と、井上はいい、ポラロイドの写真を、十津川に見せた。 「焦げていますね」  と、呟《つぶや》きながら、十津川は写真を見た。 「ね、妙な写真でしょう?」  井上は、いった。 「ただの野原の写真ですね」 「そうなんですよ」 「これを、本当に、被害者があなたに渡したんですか?」  十津川は、半信半疑の顔で、きいた。 「間違いありませんよ。だから、呆《あき》れているんです。よほど大事な写真だと、思っていたもんですからねえ」  井上は、肩をすくめるようにして、いった。 「何か意味があるのかな?」  と、十津川は呟いてから、その写真を脇に置いて、 「被害者の車は、あなたの前を走っていたんですね?」  と、井上にきいた。 「そうなんです。僕も、危うく、巻き添えで死ぬところでしたよ」 「彼の様子を、よく見てましたか?」 「渋滞してましたからね。彼も、羽田から、どこかへ飛ぶことになっていたと思いますよ。しきりに、腕時計を見ていましたからね」 「そのほかに、気がついたことはありませんか?」  と、十津川は、きいた。 「別にありません。あんなことになると、わかっていたら、よく見ておくんでしたが」  と、井上はいい、明日、福岡へ行くと話して、帰って行った。  十津川は、ポラロイドの写真を、亀井刑事に見せた。 「感想をいって欲しいんだよ」 「このつまらない写真のですか?」  と、亀井は苦笑している。 「つまらない写真に見えるかね?」 「何の変哲もない野原ですよ。雑草が生えているだけの──」 「だが、被害者の片桐が、必死の思いで、渡した写真だそうだよ」 「これがですか?」 「井上という男は、そういっている」 「間違えたんじゃありませんか?」  と、亀井が、きいた。 「間違えた?」 「そうですよ」 「井上という男がかい?」 「いえ。死んだ片桐収がです。突然の爆発で死んだわけです。大事な写真を渡そうとして、間違えて、これを渡してしまったのかも知れません。血まみれで、炎に包まれていたそうですから、写真だって、よく見てなかったんじゃないかと思うんです」 「間違えた写真か」  十津川は、改めて、写真を見た。亀井のいうことが、当っているかも知れない。だがそうだとしても、本当に見せたかった写真は焼けてしまっているのだ。  十津川は、写真を、黒板にピンで止めた。  これ以外の写真を見せたかったのかも知れないが、この写真を、被害者が持っていたことも事実なのだ。  被害者は、ルポ・ライターである。趣味で写真を撮っていたとは、思われない。仕事で撮った写真としたら、この野原の写真は、何の意味があるのだろう? 「二つ、至急、調べてくれ。一つは、片桐が、今日、九月一日に、羽田から、どこへ行くつもりだったかということだ。もう一つは、彼が、最近、どんな仕事をしていたかだ」  と、十津川は、刑事たちに、指示した。  西本刑事たちが、聞き込みに出かけたあと、十津川は、もう一度、黒板の写真に眼をやった。  縁が焦げているだけに、余計、つまらない写真に見える。 「この写真が、本当に、被害者の渡したかったものだったとすると、どんなケースが考えられるかね?」  と、十津川は、亀井にきいた。 「これが、本当にですか?」 「カメさんの考えは、間違えたと、いうことだが」 「そうですねえ。土地問題ぐらいしか、考えつきませんね」  亀井は、あまり熱のない声で、いった。 「土地問題ね」 「片桐は、例えば、土地の絡んだサギ事件を追っていたのかも知れません。売れないような原野を売りつけた人間を、追いかけて、その問題の土地の写真を撮った。これが、その土地の写真というのは、考えられませんか?」 「都会のお年寄りが、買わされた原野か」 「違いますね。これは──」  と、亀井が、自分から、取り消してしまった。 「なぜだい? カメさん」 「もう、原野商法は、古いですよ。若いルポ・ライターが、追いかけるネタとは、思えません。それに、原野商法なら、ここに、どこどこ不動産といった看板が、立っているはずでしょう? そうでなければ、原野商法を告発する証拠には、なりませんよ」  と、亀井は、いった。 「そういえば、そうだな」  と、十津川も、肯《うなず》いた。確かに、この写真には立札は見えないし、造成地でもない。雑草の生い茂った、ただの原野なのだ。近くには、林もある。  夜になって、羽田へ行った西本刑事から、まず電話が入った。 「今日、九月一日に、羽田からの便のうち、切符を買っていて乗らなかった乗客は、三人です。名前は、わかりません。千歳が一人、福岡一人、そして、沖縄が一人です」 「片桐は、その中のどれに乗るつもりだったか、わからないかね?」  と、十津川は、きいた。 「まだ、わかりませんが、三人の中、二人が切符の払い戻しをしていれば、残りの一人ということになります。今、それを、調べて貰っています」  と、西本は、いった。  中野にある片桐のマンションを、調べに行った日下と清水の二人の刑事が、戻って来て、報告した。  二人は、写真や手紙などを、ダンボールに入れて、持ち帰ったが、 「必要なものは、この中に、ないような気がします」  と、日下が、いった。 「なぜだい?」  十津川が、首をかしげて、きいた。 「われわれが行った時、部屋が荒されていました。犯人は、駐車場の片桐の車に時限爆弾を仕掛けておき、彼が出発したあと、部屋に忍び込んで、家探しをしたんだと思いますね」 「ドアは、開いていたのか?」 「開いていました」 「犯人は、何を持って行ったのか?」 「それがわかれば、いいんですが」  と、清水が、いった。 「とにかく、君たちが持って来たものを、見てみよう」  と、十津川は、いった。  ダンボールの中から、手紙の束や、アルバム、バラの写真などを取り出し、亀井と、一つずつ、見ていった。 「ポラロイドの写真はないね」  と、亀井が、不審そうに、いった。問題の写真はポラロイドなのに、ダンボールに入っていた写真は、すべて、現像、引伸ばした、普通の写真だった。 「ポラロイドの写真も、カメラもありませんでした」  と、日下が、いう。 「犯人は、それを持ち去ったかな?」 「しかし、カメラまで、持ち去らんでしょう」  と、清水が、いった。  問題の写真に似た写真は、一枚もなかった。 「同じ女性の写真が、何枚もあるね」  十津川は、その写真を机の上に並べた。女性だった。二十五、六歳。細面で、眼の大きな女性である。 「片桐の恋人の仁科ゆり子だと思います」  と、日下が、いった。 「なぜ、名前が、わかるんだ?」 「手紙を見て下さい。仁科ゆり子という女性からのラブ・レターが、何通もあります」 「なるほどね」 「住所は、阿佐谷です」 「同じ中央線の沿線か」 「しかし、この女性は、今日、顔を見せなかったね」  と、十津川が、いった。 「そういえば、来ませんでしたね。テレビのニュースは、昼には報道していて、夕刊にも出ましたからね。外国にでも、行っているんでしょうか?」  と、日下も、首をかしげた。 「まさか──」  と、十津川は、呟いた。まさか、犯人は、片桐というルポ・ライターだけでなく、その恋人まで、殺してしまったのではないだろうが。 「カメさん。行ってみよう」  と、十津川は、急に、立ち上った。     3  二人は、パトカーで、手紙にあった阿佐谷の住所に急いだ。  すでに、午後十一時を廻っている。開けた窓から入ってくる風は、まだ、暑い。今年は、残暑が長引きそうである。  阿佐ヶ谷駅から、車で、五、六分のところにあるマンションだった。  仁科ゆり子の部屋は、五〇三号室だった。  エレベーターであがって行く。その部屋の前へ行き、インターホンを鳴らしたが、返事はなかった。  だが、ドアのノブに手をかけた亀井が、 「開いていますよ!」  と、声をあげた。  二人は、部屋に飛び込んで、明りをつけた。  死体は、なかった。  だが、1DKの部屋は、見るも無残に引っかき廻されていた。 「ここもか」  と、十津川は、部屋の中を見廻して、溜息《ためいき》をついた。片桐を殺し、彼の部屋を家探ししたと同じ人間が、やったのだろう。  十津川と亀井は、管理人がもう帰ってしまっているので、両隣の部屋の住人に当ってみることにした。  五〇二号室のOLが、部屋にいてくれた。 「仁科さんは、旅行へ行っていますよ」  と、そのOLは、十津川に、いった。 「どこへ行ったのか、わかりませんか?」 「確か、フィリッピンのセブ島と、いっていましたわ。明日、帰ってくるはずですけど」 「明日の何時かは、わかりませんか?」 「そこまでは、知りませんわ」 「仁科さんは、何をしている人でしょう?」 「私と同じOLですわ」  と、相手は、いった。  十津川と、亀井は、捜査本部に戻ると、明朝、仁科ゆり子のマンションに行くように、日下と清水に、いった。 「彼女が、帰って来たら、すぐ、ここへ連れて来て欲しい」 「彼女も、危ないんですか?」 「そう思っていた方が、いい」  と、十津川は、いった。  羽田空港へ行っていた西本と、田中の二人の刑事も、戻って来た。 「片桐が、乗るはずだった飛行機がわかりました」  と、西本が、笑顔で、報告した。 「どこへ行くはずだったんだ?」 「千歳です。福岡行きと、沖縄行きは、切符を買った人が、払い戻しに来ていました。それがなかったのは、千歳行きのJAL509便だけです」 「北海道か」  と、十津川は、呟き、また、問題の写真に眼をやった。 「北海道の原野かも知れませんね」  と、亀井が、いった。そういわれれば、北海道のどこかかも知れない気がした。  しかし、北海道は広いし、もし北海道のどこかだとしても、それが、どんな意味を持っているのだろうか? 「ここに、死体でも、埋められているんじゃありませんか?」  と、日下が、半ば、冗談口調で、十津川にいった。 「死体ね」  十津川が、まじめな顔でいうと、日下が、かえって狼狽《ろうばい》して、 「冗談です。死体は、ちょっと飛躍しすぎでした」 「いや、あり得ないことじゃないぞ」  と、亀井が、口を挟んだ。 「カメさんまで、まともに取らないで下さいよ。もし、死体が埋められているんなら、この写真を撮った人間が,掘り出すなり、警察に届けてますよ」 「埋めた奴が、撮ったのかも知れない」 「犯人がですか?」 「そうだよ」 「犯人が、そんなことをしますかねえ」  日下は、自分でいい出したことに、自分で疑問を、持ち出していた。  翌朝早く、日下と、清水の二人が、阿佐谷のマンションに出かけて行き、昼すぎになって、仁科ゆり子を連れて、戻って来た。  セブ島に行っていたというだけに、ゆり子はきれいに陽焼けしていたが、その顔は、重く沈んでいた。 「片桐さんが、死んだって、本当なんですか?」  と、ゆり子は、十津川に向って、きいた。  新聞は、今日も、あの事件を大きく報道しているし、日下と清水の二人も、彼女に話したはずである。それでも、なお、恋人の死は、信じ難いのだろう。 「本当です。それで、われわれは、犯人を捕まえたいのです。そのためには、あなたの協力が、必要です」  と、十津川は、いった。  ゆり子は、十津川の声が聞こえなかったみたいに、じっと、床を見つめている。  十津川は、構わずに、黒板にピンで止めておいたポラロイドの写真を外して、ゆり子の前においた。 「瀕死の片桐さんは、この写真を、渡しました。これで、何を示したかったのか、片桐さんが死んでしまった今、われわれには、わかりません。それで、ぜひ、あなたに協力して貰いたいのですよ」 「───」  ゆり子は、黙って、写真を見つめていた。 「片桐さんは、羽田から北海道へ行くところだったことが、わかっています。そう考えると、この写真は、北海道の原野ではないかと思えるんですが、心当りはありませんか?」  と、十津川は、きいた。  ゆり子は、顔をあげたが、彼女の返事は、 「ありませんわ。この写真を見たのも、初めてですし──」  と、いうものだった。 「片桐さんは、ルポ・ライターとして、最近、何を追いかけていたんですか? それを知りたいんですが、犯人は、彼の部屋を荒して、肝心な資料を持ち去ってしまったようでしてね。あなたには、片桐さんは、何か話していたんじゃありませんか?」  と、亀井が、きいた。 「いいえ。何も知りませんわ」  ゆり子は、ほとんど表情を変えずに、いった。 「本当に、知りませんか? 片桐さんが、何を調べていたか、何をしに北海道へ行こうとしていたか」  と、十津川が、重ねて、きいた。 「申しわけありませんけど、本当に、知らないんです」 「セブから、東京の片桐さんに、電話はされなかったんですか?」 「彼が忙しいと思ったので、電話はしませんでした」  と、ゆり子は、いう。 (妙に冷たいな)  と、十津川は、思った。最初、彼女は、恋人の死で、打ちのめされているように見えた。それなのに、途中から、妙に、冷静に、というより、無関心に返事をしているように見えたのだ。 (これは、芝居なのだろうか?) 「あなたの部屋も、荒されていましたね」  と、亀井が、横から、いった。 「ええ」 「と、いうことは、あなたが、今度の事件について、何か知っているんじゃないかと思うのですよ。何か、思い出すことはありませんか?」 「何も思い当りませんわ。疲れたので、ひとりになりたいんですけれど」  と、ゆり子は、本当に疲れ切ったという声で、いった。 「もう、お帰りになって、結構です」  と、十津川は、いった。     4  ゆり子が捜査本部を出て行ったあとで、亀井が、十津川に向って、 「彼女、何か知っていて、隠していますよ」 「カメさんも、そう思うかね?」 「なぜだかわかりませんが、彼女は、隠していると思います」 「この写真にも、見覚えがあったのかな?」 「わかりませんが、少くとも、片桐が、最近、どんな仕事をしていたか、知っていたんじゃないかと思いますよ」  と、亀井は、いった。  十津川は、日下と、清水の二人の刑事を呼んで、 「仁科ゆり子を、尾行してみてくれ。ひょっとすると、北海道へ行くかも知れん」  と、命令した。  日下と、清水が、飛び出して行った。  一時間近くたって、日下から、電話が入った。 「今、羽田です。彼女は、一五時二〇分の千歳行きの切符を買いました。私と、清水刑事も、同じ便に乗って行ってみます」 「やはり、北海道へ行くのか」 「警察を出て、まっすぐ、ここへ来ています。最初から、北海道へ行くと、決めていたようです」  と、日下は、いった。  十津川は、受話器を置くと、亀井を見て、 「仁科ゆり子は、カメさんのいうように、何か、知っていたらしい。北海道へ行くよ」 「死んだ片桐の代りに、自分がというつもりなんでしょうか?」 「このポラロイド写真が、北海道の原野だとすると、彼女は、そこへ行く気かも知れないな」 「すると、この写真は、意味があることになりますね」  亀井は、まだ半信半疑の顔で、写真を見ていた。 「北海道のどこかわかればなあ」  と、十津川は、口惜しげに、呟いた。 「北海道にくわしい人間に見て貰いますか?」 「そんな人間がいるかね?」 「捜査二課に、北海道の小樽生れで、よく北海道へ行って、景色を撮っている男がいます。それに、見せてみたいんですが」 「そうしてくれ」  と、十津川は、いった。  亀井は、写真を持って、警視庁へ出かけて行った。が、二時間ほどして戻ってくると、 「駄目でした。北海道のどこかだろうとはいっていましたが、これだけでは、特定できないそうです。申しわけありません」 「カメさんが、謝ることはないさ」 「仁科ゆり子は、もう出発しましたか?」 「三十分ほど前に、羽田を飛び立ったはずだよ」  と、十津川は、いった。  それから一時間ほどして、日下から、連絡が、入った。 「今、千歳に着きました。彼女は、タクシー乗り場の方に歩いて行きますから、多分、札幌へ出ると思います」  と、日下は、いった。  日下の予想どおり、ゆり子は、札幌に向い、駅近くのホテルにチェック・インした。     5  翌日、仁科ゆり子は、ホテルで朝食をすませると、午前九時には、チェック・アウトした。  日下と、清水の、二人の刑事も、ホテルを出て、彼女のあとをつけた。  ゆり子は、刑事の尾行に気付いているのか、いないのかわからないが、まっすぐに、JR札幌駅に向った。  駅に着くと、彼女は、午前九時四〇分発、網走行きの特急「オホーツク3号」の切符を買った。  日下が、同じ列車の切符を買っている間に、清水が、十津川に、連絡を取った。 「彼女は、終着の網走までの切符を買っています」 「では、網走まで行く気かな?」 「と、思いますが──」  と、清水はいい、ゆり子が改札口に向って歩き出したので、あわてて電話を切り、日下と二人、彼女のあとを追った。  ゆり子は、9番線ホームに入って行った。  六両編成の「オホーツク3号」は、すでに入線していた。  ゆり子は、ホームの売店で新聞をいくつか買って、列車に乗り込んだ。  彼女の席は、2号車の指定席だった。同じ車両ではまずいと思い、日下と清水は、車掌に頼んで、1号車に切りかえて貰った。  列車は、定刻の九時四〇分に、札幌を発車した。 「どうやら、彼女、われわれの尾行に気付いていないようだね」  と、日下は、ほっとした顔で、いった。 「それは、わからないぞ」  と、清水が、眉を寄せて、いった。 「なぜだ?」  日下が、きいた。 「彼女は、終着の網走までの切符を買っている」 「網走まで行くからだろう?」 「網走へなら、東京から、網走行きの飛行機の便に乗ってるはずじゃないか」 「バカだな。網走には空港はないよ」  と、日下は、笑った。 「いや、近くに空港があったはずだ。そうだ。女満別《めまんべつ》だよ。前に一度、飛行機で行ったことがあるんだ。女満別空港だ。網走市内まで、車で三十分しか、かからない」  と、清水は、少し、声を大きくしていった。  日下の顔も、急に、厳しくなった。 「そうだとすると、確かに、おかしいな」 「ひょっとすると、われわれの尾行に気付いていて、わざと終点まで切符を買ったのかも知れないんだ。われわれを安心させておいて、突然、途中で降りるのかも知れない」 「それは、ありそうだな」  と、日下も、いった。  列車は、岩見沢、滝川、深川と、停車し、一一時一四分に、旭川に着いた。ここから先は、石北本線である。  正確にいうと、旭川の次の新旭川までは、宗谷本線なので、石北本線は、新旭川からということになる。  旭川に出ると、ポプラに牧場という北海道的な景色が消えて、窓の外に水田が広がる。  天気が良いので、十勝岳が見えた。かすかに噴煙があがっている。その周辺の高い山脈は、大雪山系である。  日下が、ふと、そんな景色に見とれていると、2号車をのぞいていた清水が、 「妙だぞ」  と、小声で、いった。 「何があったんだ?」 「彼女、この列車の中で、男と、落ち合ったのかも知れない」 「男と?」  と、日下も、ドアの小窓から、2号車をのぞき込んだが、 「彼女の隣の席は、空いたままじゃないか」 「彼女の右斜め前の席に、若い男が座っているだろう?」 「ああ」 「あの男は、旭川から乗って来たんだが、通路を歩きながら、彼女に合図した」 「そう見えただけじゃないのか?」 「いや、彼女の肩を、軽く叩いてから、あの席に座ったんだよ」  と、清水は、いった。 「偶然、肩にふれたというんじゃないのか?」 「いや、あれは、意識して、肩に触ったんだ」 「彼女の方は?」 「ちらりと、男を見たよ」 「それだけか?」 「ああ」 「それじゃあ、わからないじゃないか。もし、この列車で、落ち合うことになっていたのなら、なぜ、彼女の隣に座らないんだ。ずっと、空いてるんだから」 「われわれが、尾行しているのを、彼女が知っているからだよ」  と、清水は、いった。  それでも、日下は、半信半疑の顔をしていた。  ゆり子は、じっと窓の外を眺めているし、問題の男は、新聞を読んでいたからだった。  一一時三九分、上川《かみかわ》着。だが、ゆり子も、男も、まったく、動かない。  上川では、かなりの乗客が降りた。ここが、層雲峡への出発点だからだろう。  上川を出ると、周囲の景色が、変ってくる。人家が少くなり、山間《やまあい》に入って行く感じになるからである。  急に、問題の男が立ち上って、通路を、デッキの方へ歩いて行った。  五、六分して、今度は、ゆり子が席を立った。 「行ってみるか?」  と、日下が、清水を見た。 「デッキで、顔を合せたら、まずいよ」 「しかし、二人が、しめし合せて、降りてしまうかも知れないぞ」  日下が、いうと、清水は、札幌で買った時刻表を見て、 「大丈夫だよ。次の丸瀬布《まるせつぷ》に着くまでに四十分はある。それまで、彼女たちも降りられないよ」  と、いった。  だが、十分、二十分とたっても、ゆり子は戻って来なかった。問題の男もである。 「ちょっと、おかしいぞ」  と、日下が、いったとき、急に、2号車の方で、女の悲鳴が聞こえた。  日下と、清水は、2号車に飛び込み、通路を走った。  反対側のデッキに出る。  若い女が、そこに、呆然として突っ立ち、足元に、ゆり子と、問題の男が、重なるようにして倒れているのが、見えた。  俯せになっている男の背広の背中から、血が、流れ出ていた。     6  一瞬、日下と、清水は、息を呑んで立ちすくんだが、 「おい! しっかりしろ!」  と、日下が、倒れている二人に向って、叫び、清水が屈《かが》み込んで、まず、ゆり子を抱き起こした。  後頭部が、べったりと、血で濡れていた。明らかに、後頭部を強打されたのだ。  男の方は、背中を、刺されている。いくら声をかけても、反応はなかった。  車掌がやって来たが、真っ青な顔で、日下たちに、 「どうなってるんですか?」 「次の駅に、連絡して、救急車を用意しておくように伝えて下さい」  と、日下が、怒鳴るように、いった。  車掌は、電話のある3号車に、飛んで行った。 「死んでいるのか?」  と、日下が、清水にきいた。 「女は、気絶しているだけだが、男は危ないな」  と、清水は、いった。  丸瀬布に着いた。小さな駅だが、車掌が連絡しておいたので、救急車が待ってくれていた。  日下と、清水も、ここで降りて、救急車に、ついて行くことにした。  救急車は、遠軽《えんがる》の病院に向って、走った。  遠軽駅近くの病院で、すぐ、男の手術が行われたが、その途中で、男は、死んだ。出血死だった。  ゆり子の方は、手術をしなくても、治るだろうと、医者はいった。  遠軽警察署から、道警の刑事が、二人、病院に駈けつけた。  日下と、清水は、彼らに向って、事情を説明した。  道警の皆川という刑事が、 「それなら、一緒に、この男の身元確認から始めましょう」  と、いってくれた。  男の所持品が、調べられた。運転免許証が見つかり、それによると、男は、白石哲雄、二十五歳で、住所は、旭川市内になっている。 「北海道の人間ですか」  日下は、意外そうに、いった。漠然と、東京の人間と、思っていたのである。  名刺入に、白石本人の名刺が、十六枚入っていたが、その名刺には、旭川市内にある電気メーカーの名前が刷ってあった。大企業の旭川支社の総務部管理課が、この男の職場らしい。  あとは、財布、キーホルダーなどで、財布には、四万一千円が、入っていた。 「この男と、仁科ゆり子が、知り合いというのは、間違いありませんか?」  と、皆川刑事が、きいた。 「間違いないと思っています」  と、清水が、いった。 「しかし、さっきのお話だと、彼女は、爆死した片桐というルポ・ライターの恋人だったんじゃありませんか?」 「そうですが、車内で、男が、彼女に合図したのは、間違いないんです。それに、一緒に、やられていましたからね」  と、清水は、いった。  日下が、割り込む恰好で、 「犯人があの列車に乗っていたことは、間違いないんです。何とか、できませんか?」 「手配は、すみました。この遠軽から、刑事が、乗り込みますし、北見でも、道警の刑事が乗車して、車内を調べます」  と、皆川は、答えた。  清水は、病院内の電話で、東京の十津川に、連絡を取った。 「意外な展開で、戸惑っています」  と、清水は、正直に、いった。 「仁科ゆり子の方は、助かるんだな?」  と、十津川が、きいた。 「医者は、手術をしなくても、治るといっています。意識が戻ったら、男のことを、聞こうと思っているんですが」 「二人は、本当に、関係があるのかね?」 「白石哲雄が、列車に乗って来て、彼女に合図したのは、間違いありません」 「しかし、白石という男は、旭川に住んでいるサラリーマンなんだろう? そんな男が、仁科ゆり子と、どんな知り合いなのかな?」 「その点は、まだ、不明です。すべて、彼女が気がついてからということです」  と、清水は、いった。 「男の切符は、どこまでになっていたんだ?」 「同じ網走までの切符を持っていました」 「それでは、どこで降りる予定だったのか、わからんね」 「そうです。われわれの尾行をまく気だったのなら、どこで降りる気だったか、わかりません」  と、清水は、いった。 「白石は、写真は持ってなかったのか?」 「写真──ですか?」 「例のポラロイドの写真だよ。もし、白石が、同じような写真を持っていたら、ゆり子と、列車で落ち合ったと断定できるじゃないか」 「そうでした。しかし、彼は、写真も、カメラも、持っていませんでした。もちろん、彼を殺した犯人が、持ち去ったことも、考えられますが」 「とにかく、彼女の回復待ちか」  と、十津川は、いった。  仁科ゆり子の意識が戻ったのは、午後四時過ぎだった。  医師の立ち会いの下に、道警の皆川刑事と日下、清水が、病室で、彼女から話を聞くことにした。 「あなたは、2号車のデッキで、白石哲雄という男と、一緒に倒れていたんですよ。男の人は死亡しました。どういう関係ですか? 白石とは」  と、まず、皆川刑事が、きいた。  ゆり子は、残っている後頭部の痛みに、顔をしかめながら、 「別に、関係は、ありませんわ」  と、いった。 「関係がない?」  と、日下は、思わず声を大きくした。 「じゃあ、列車の中で、何があったんだ?」 「私が、トイレに立って、デッキに出たら、男の人が、血を流して、倒れていたんです。どうしたのかと思って、屈み込んだら、誰かに、いきなり、頭を殴られて、気を失ってしまったんです。そのあとは、まったく、覚えていませんわ」 「知らない男だというんですか?」 「ええ。ぜんぜん」 「あなたは、あの列車に乗って、どこへ行くつもりだったんですか?」  と、清水が、きいた。 「網走ですわ」 「網走に、何しに行くんですか?」 「観光ですわ。いけません?」  ゆり子は、眼をとがらせて、きき返した。 「観光って、恋人の片桐さんが、あんな死に方をした直後にですか?」 「気分を変えたいんです。警察の質問責めで、うんざりしていましたもの」  と、ゆり子は、いった。 「北海道は、なぜ、選んだんですか? 片桐さんが、北海道へ行く寸前に、殺されたからじゃないんですか? あなたは、片桐さんが、北海道のどこへ行くつもりだったか、知ってるんじゃありませんか?」  と、日下は、食いさがった。  ゆり子は、首を小さく横に振ってから、急に、頭が痛い、休ませて欲しいと、叫んだ。 「もういいでしょう」  と、医者がいい、刑事たちは病室から追い出された。     7  日下と、清水の二人は、遠軽市内のホテルに泊ることにした。  道警は、遠軽警察署に、捜査本部を置いた。当然、警視庁との合同捜査ということになるだろう。  仁科ゆり子は、白石を知らないと主張したが、日下たちも、十津川も、知っていると判断したし、ゆり子の負傷だけでも、片桐殺しに関係ありと、考えたからである。  道警は、特急「オホーツク3号」の乗客について調べたが、犯人と思われる人間は見つからなかったし、車内から凶器も発見できなかった。  恐らく、犯人は、丸瀬布で降りてしまったのだろう。  日下たちは、翌朝早く、電話で、叩き起こされた。日下が、受話器を取ると、道警の皆川刑事の声が、 「大変です。仁科ゆり子が、消えました!」  と、叫ぶように、いった。 「消えたって、どういうことです?」 「脱け出したんですよ。医者も、看護婦も、知らないうちにです」 「しかし、頭に怪我をしていますよ」 「ええ。それで、油断していたんです」 「いつ脱け出したか、わからないんですか?」 「病院の話では、午前四時頃ではないかということです」 「そんな時間では、遠くには、行けないでしょう?」 「それが、救急病院なので、夜中でも、タクシーで、急病人が、やってくるんです。そのタクシーに乗って、脱け出したらしいのです。今、タクシー会社に、片っ端から当っているんですが」  と、皆川は、いった。  日下は、すぐ、東京の十津川に、連絡をとった。 「早く見つけないと、危険です」  と、日下は、十津川に、いった。 「傷は、大きいのか?」 「それもありますが、相手は、何しろ、二人の男を殺していますから」 「そうだな」 「これから、清水刑事と、遠軽署へ行って、様子を見て来ます」 「何かわかったら、すぐ、また、電話をくれ」  と、十津川は、いった。  日下と清水は、ホテルを飛び出して、遠軽署に向った。  ここも、あわただしい空気に包まれていた。  日下と、清水は、皆川刑事に会った。 「連絡のとれないタクシーが、一台見つかりました。午前三時に病人を、あの病院へ運んだあと、営業所には、病院で、新しい客を乗せたと連絡して来たそうです。そのあと、連絡がつかなくなっています」  と、皆川は、いった。 「無線で呼び出しても、駄目なんですか?」  と、清水が、きいた。 「応答がないそうです」 「なぜですか?」 「無線の届かない遠方まで行ってしまったか、運転手が無線の受けられない状況に置かれているかのどちらかでしょう」 「運転手が、殺されて──?」 「そうです。しかし、頭に負傷している女性が乗ったんですから、運転手が殺されているということは、ないと思いますよ」  と、皆川は、いった。  日下と、清水は、壁に貼られた北海道の地図に、眼をやった。  遠軽から伸びている主要道路に、眼が行く。国道242号線を北へ行けば、湧別《ゆうべつ》で、オホーツク海に出る。南に下がれば、留辺蘂《るべしべ》である。ここから、交叉する国道39号線に出て、東へ走れば、北見から、網走に出られるし、西へ行けば、旭川へ戻る。 「広いな」  と、清水は、思わず、呟いた。  ゆり子は、どこに、何をしに、出かけてしまったのか? 「犯人も、彼女を探しているかも知れないぞ」  と、背後《うしろ》から、日下が、いった。 「犯人?」 「白石哲雄を、刺し殺した犯人だよ。仁科ゆり子も、殺す気だったとすれば、生きている彼女を、また、狙《ねら》うんじゃないかな」 「しかし、犯人だって、ゆり子がどこへ向っているか、知らないんじゃないか?」 「それならいいんだが」  と、日下は、いった。  遠軽署から、パトカーが、一台、二台と、サイレンを鳴らして、出発して行った。とにかく、国道で、仁科ゆり子の乗ったタクシーを、見つけ出そうというのだろう。 「われわれは、旭川に行ってみようじゃないか。白石哲雄のことを、調べてみるんだ」  と、日下は、清水に、いった。  清水も、肯き、皆川を通して、署長に断って、JR遠軽駅に、急いだ。  駅で、十津川に、連絡しておいて、二人は、遠軽一一時一三分の「オホーツク4号」に、乗った。     8  東京では、十津川が、改めて、例のポラロイドの写真を見つめていた。 (この写真で、事件が、始まったのだ)  と、十津川は、自分に、いい聞かせた。何の変哲もない原野の写真だが、見る人が見れば、意味があるのだ。だからこそ、片桐は、これを、必死になって、渡したのだ。 「カメさん、出かけよう!」  と、急に、十津川は、大声で、いった。 「どこへですか?」  と、亀井が、きく。 「これは、北海道のどこかだ」 「そう思います」 「それなら、北海道のことに、一番くわしい人に、見て貰った方がいい」 「誰ですか? それは」 「もちろん、北海道の人たちだよ」  と、十津川は、笑顔を見せた。  二人は、車で羽田に急ぎ、一三時三〇分発千歳行きの全日空63便に、飛び乗った。  千歳着一四時五五分。タクシーで、札幌に出ると、十津川たちは、北海道庁を訪ねて、ポラロイド写真を、見て貰った。  最初は、広報課で、見て貰ったのだが、確かに、北海道らしい景色だが、どこかは、わからないと、いわれた。  だが、課員は、それでは、十津川に気の毒と思ったのか、 「ほかの部局でも、見て貰いましょう。何かわかるかも知れません」  と、いってくれた。  十津川と、亀井は、待つことにして、写真を渡しておいて、道庁の近くの喫茶店に入った。  そこから、十津川は、東京の捜査本部に残っている西本刑事に、電話をかけた。 「日下君たちから、連絡はないかね?」  と、きくと、西本は、 「まだありませんが、ついさっき、片桐のことで、新しい発見がありました」 「事件に関係のあることかね?」 「それはわかりませんが、片桐は、殺される前日、銀行から、百万円おろしています」 「百万円ね」 「片桐は、銀行に電話をかけて、明日、百万円いるので、持って来て欲しいと、いっているんです。外廻りの銀行員が、午後二時に届けると、片桐は、ニコニコして、明日、どうしても要《い》るお金だったんで、助かりましたと、いったそうです」 「すると、燃えた車に、百万円が、のせてあったのかな?」 「多分、スーツケースにでも入れてあったんでしょうが、燃えてしまったんだと思います」  と、西本は、いった。  十津川は、テーブルに戻ると、亀井に、百万円の話をした。 「すると、片桐は、百万円を持って、北海道へ行くところだったんですね」  亀井は、興味を持ったという顔になっていた。 「そうなんだ」 「何のための百万円だったんでしょう?」 「これは、想像だがね。ルポ・ライターの片桐は、何か、事件を追っていたんじゃないか。だが、彼は、ポラロイドカメラを持っていないから、あの写真は、ほかの人間が撮ったものだ。とすると、誰かが、片桐に送ったものじゃないか。われわれが見ると、ただの原野の写真だが、ある事件を追っていた片桐にとっては、貴重なものだった。北海道へ行って、確かめて、本当のものなら、相手に、百万円払うつもりだったんじゃないかな」  と、十津川は、いった。 「あの写真に百万円もの価値があるんですかねえ」  亀井は、わからないというように、首を小さく振った。 「見る者が見れば、価値はあるんだろう。それに、別の写真があって、それが、組写真になっていたのかも知れない」  と、十津川は、いった。 「なるほど。写真を送った人間は、もっと大事なことを知りたければ、百万円持って来いと、いったのかも知れませんね」 「その大事なものが何なのか、わかればな」  十津川は、コーヒーを飲み終ると、亀井と、もう一度、道庁に向った。  広報課に顔を出すと、課長が、待っていたように、 「環境保存課に行ってみて下さい」  と、十津川に、いった。 「そこに行けば、何かわかるんですか?」 「そこの職員で、見覚えがあるという者がいたんですよ。とにかく、三階ですから、行って下さい」  と、課長は、いった。  十津川と、亀井は、階段を、駈け上った。  環境保存課の札が見え、「北海道の美しい自然を守りましょう」という標語が、貼ってあった。  十津川が、カウンターで、声をかけると、すぐ奥へ案内された。  三十代の本田という職員が、緊張した顔で、十津川と、亀井に、あの写真を見せながら、 「これは、ハナバの写真じゃないかと思うんですよ」  と、いった。 「ハナバ?」 「花場です」  と、本田は、メモ用紙に、その字を書いて見せた。 「別に、花は、見えませんがね」  亀井が、首をかしげた。 「多分、花は全部抜いてしまったあとだと思いますね。よく見ると、雑草が茂っているが、何となく、まばらになっています。つまり、雑草を抜いた跡が、かすかですが、見えるんです」 「しかし、ここは、山の中ですよ」 「そうです」 「何も、こんな所に、花を植えなくてもいいんじゃありませんか。北海道は、広いんだから、平地で、いくらでも花を栽培する場所は、あるんじゃないですか?」  と、十津川は、きいた。  花というと、十津川には、陽光の降り注ぐ南向きの土地で、ビニールハウスといったものが、思い浮ぶのである。 「それが、山間の、こうした場所じゃないといけないんですよ。秘密の場所であることが必要で、その上、高地の山間であることも、必要なんです」  と、いって、本田は、微笑した。 「高地の、山間ですか?」 「そうです」 「ひょっとすると、高山植物──?」  と、十津川が、きくと、本田は、肯いた。 「そうです。高山植物です」 「しかし、なぜ、こんな場所に、わざわざ、植えるんですか?」  と、亀井が、きいた。 「盗んだものだからです」  本田は、断定するように、いった。 「盗んだもの──ですか」 「礼文島は、花の宝庫ですが、中でも、レブンアツモリソウといって、島の北端のスコトン岬に自生する高山植物がありましてね。これは、礼文島だけに咲く花なんです。もちろん、採ってはいけないことになっています。ところがこの花は、蘭《らん》の一種で、今の蘭ブームで、一株が、何万もする値段で売られているのです。ひどい時は、十万、二十万の値もつくようです」 「だから、盗まれる?」 「そうです。監視員がいるんですが、人数が足りません」 「業者も、入って来ているんじゃありませんか? そんなに儲《もう》かるんなら」  と、亀井が、いった。 「そうなんです。それが、一番の悩みです」 「それと、花場と、どんな関係があるんですか?」 「何しろ、高価に取引きされますからね。業者は、集めたレブンアツモリソウを、一時、どこかに、植えておく必要があるんです。そうしておいて、客の注文をとるんですよ」 「なるほど」 「そのためには、北海道内で、秘密の場所で、山間の、高山植物に適したところであることが、必要なわけです」 「それが、この写真のような場所ということですね?」 「前に、二カ所、見つけることができましたが、これと同じ感じの場所でした。見つけた時は、すでに、レブンアツモリソウは、一株も、なくなっていましたが」 「その花は、何月頃に咲くんですか?」 「夏に咲きます」 「すると、今は、盗まれたものが、売られている最中ですね?」 「そうでしょうね。何とかして、業者を見つけて、告発したいんですが、今もいったように、相手も巧妙ですし、こちらの職員が、足りません」  と、本田は、口惜しそうに、いった。 「それで、この写真の場所が、北海道のどこか、わかりますか?」  と、十津川は、きいた。 「それなんですが、大雪山系の麓《ふもと》あたりと思いますがねえ。断定は、できません」 「大雪山系の麓ですか」 「麓といっても、山間ということですが」  と、本田は、いった。 「石北本線の沿線の山間ということは、どうですか?」 「あり得ますね。大雪山系の近くですから」  と、本田は、いった。     9  やっと、一つの疑問が、解けたと、十津川は、思った。  広報課へ戻って、礼をいうと、広報課長が、 「今、旭川から、十津川さんに電話が入っています。日下という刑事さんからです」 「どうも。ここへ来ていると、いっておいたもんですから」  と、十津川は、いい、受話器を受け取った。 「列車の中で殺された白石哲雄のことで、わかったことがあります。彼のマンションの中を、地元の警察と一緒に調べました。ポラロイドカメラがありました。それから、彼は、旅行好きで、花が好きだったようです。特に、高山植物が」 「そうだろうと、思ったよ」 「なぜ、そう思われていたんですか?」 「それは、あとで、会った時に話すよ。ほかに、わかったことは?」 「机の引出しに、新聞の切り抜きが、入っていました。北海道の新聞で、個人の広告なんですが、その広告主が、なんと──」 「爆死した片桐だろう?」 「え?」 「とにかく、その広告の文句を、読んでくれないか」 「読みます。『レブンアツモリソウの不法採取について、ご存知の方、連絡して下さい。もし、その事実について、証拠になるようなものをお持ちの方には、十分にお礼を差しあげます。 片桐』で、東京の電話番号が、書いてありますね」 「それを、持っていてくれ」  と、十津川は、いった。  これで、二つ目の疑問が解けたと、思った。  片桐は、レブンアツモリソウの盗採問題を追いかけていたのだろう。何人かの業者に、目星をつけていたのかも知れない。  片桐は、その証拠が欲しかった。  そこで、北海道の新聞に、広告を出した。  サラリーマンで、旅好き、花好きの白石は、たまたま山歩きをしていて、例の花場を、見つけたのだ。  ひょっとすると、業者が、そこに仮に植えておいたレブンアツモリソウを、トラックに積んで出荷しに行くのを、目撃したのかも知れない。業者の顔も見たろうし、トラックのナンバーも、見たろう。花好きの青年だから、レブンアツモリソウだとわかったはずである。  そのあとで、白石は、新聞の広告を見た。そこで、ポラロイドカメラを持って行って、花場を写し、それを片桐に送った。百万円くれれば、業者の名前も教えると、伝えたのではないか。  そこで、片桐は、百万円を持って、北海道へ急行しようとして、殺された。 「しかし、警部。天然記念物の高山植物を盗んだとしても、罰金ですむんじゃありませんか? それなのに、なぜ、人殺しまでしたんでしょうか?」  と、亀井が、きいた。 「わからないことは、ほかにもあるよ。片桐の恋人の仁科ゆり子の態度だ。彼女は、片桐が、何を追いかけていたのか、知っていたと思うのに、警察には、知らないと、いい張り、勝手に動き廻っている」 「もう一つ、わからないことがありますよ」 「特急『オホーツク3号』の車内のことだろう? 白石哲雄が殺されたのに、なぜ彼女は、頭を殴られただけで、助かったのかということだろう?」 「そうです。犯人が、フェミニストとは、思えないんですが」  と、亀井が、いう。  十津川は、笑って、 「そんなところにも、今度の事件の複雑なところがあるんじゃないかな」  と、いった。  十津川は、自分の方から、旭川に行くことにした。  亀井と、JR札幌駅に行き、旭川行きの列車に、乗った。自分の眼で、白石哲雄のマンションの部屋を、調べてみたかったのだ。  旭川駅に、日下と清水が、迎えに来ていた。 「すぐ、白石のマンションへ、案内してくれ」  と、十津川は、いった。 「これが、新聞広告です」  と、車の中で、清水が、切り抜きを、十津川に渡した。 「白石のマンションは、誰か、ガードしているのか?」 「旭川署の刑事が、いてくれています」  と、日下が、いった。  問題のマンションに着くと、十津川は、三階にあるという白石の部屋まで、駈け上って行った。 「何を探すんですか?」  と、日下が、十津川の後を追いかけるようにしながら、きいた。  十津川は、振り返って、日下や、清水、それに亀井を見た。 「高山植物のレブンアツモリソウを密売している業者の名前、業者が使っていた車のナンバー、あるいは、業者に辿《たど》りつける何かだよ。それがあったからこそ、片桐が百万円を払う気になったんだろうし、殺人も、起きたんだ」  と、いった。  1DKの狭い部屋を四人の刑事が、調べ始めた。  すぐ、清水刑事が、壁に掛っているカレンダーを外した。 「これを見て下さい」  と、十津川に見せた。  今月のカレンダーの余白の部分に、明らかに、自動車のナンバーと思われる数字が、書き込んであるのだ。  札幌ナンバーだった。 「このナンバーが、誰の車か、調べて貰おう」  と、十津川は、いった。  四人は、なおも、部屋の中を、調べ廻った。その結果、亀井が、高山植物図鑑のページの間に、一枚のメモが入っているのを見つけた。  丁度、レブンアツモリソウのページである。  小さなメモに、電話番号が、殴り書きしてあったのだが、最初に〇一一の番号があった。これは、明らかに、札幌である。  十津川は、この電話番号の持主も、調べることにした。  十津川たちは、四人で、札幌に引き返した。  道警本部に行って、協力を要請した。車のナンバーと、電話番号のことを、調べて貰うためだった。  車は、すぐわかったが、すでに、廃車手続きが取られていたし、問題の電話も、持主が、代っていた。  しかし、どちらも、元の持主は、同じだった。 〈中央物商札幌支店〉  である。  しかし、その会社も、行ってみると、ドアが閉まり、「都合により、休みます」の札が、かかっていた。  支店といっても、雑居ビルの一室で、社員も一人、それに、電話と、軽トラックが一台あるだけだったという。 「これといった仕事はしてなかったみたいだね」  と、同じビルに入っているラーメン店の主人が、十津川に、話した。 「しかし、軽トラックを一台持っていたわけでしょう? それで、何を運んでいたんですか?」  と、十津川は、きいた。 「それが、出かける時は、いつも、車に幌をかぶせて、荷物を見せないようにしていましたよ。妙なことに、時々、いろんな男が、ダンボールとか、ふろしきに包んだものを、あの店に持って来ていたね。それも、いつも、夜だった。こそこそと、やって来るんだ。おれは、ひょっとして、覚醒剤の密売でもやってるんじゃないかと、思ったんだ。やっぱり、そうだったのかね?」  ラーメン店の主人は、大きな眼で、十津川を見て、きいた。 「いや、少し違うようですよ」  と、十津川は、苦笑して、いった。  十津川は、日下と清水を、札幌に残し、行方不明の仁科ゆり子を探すようにいっておいて、亀井と、いったん、東京に帰ることにした。中央物商本社を、調べるためだった。     10  中央物商の本社は、新宿にあった。ここも、雑居ビルの一室を借りているだけの小さな会社だった。  しかも、同じように、ドアが閉まり、社員のいる気配はない。  中央物商の社長の名前は、仁科東一郎、五十二歳とわかって、十津川は、二つの意味で、関心を持った。  一つは、仁科ゆり子と、何か関係があるのではないかということだった。  二つめは、仁科東一郎という名前に、十津川は、記憶があったからである。  確か、N大の教授で、テレビにも何回も出演し、日本の環境問題で、発言していたはずだった。  十津川も、仁科教授の意見に、賛成だったので、好感を持って、聞いていた記憶があるのだ。  このままでいくと、日本の自然は、破壊されてしまう。特に、日本にだけあるという植物や、日本にだけ棲《す》む動物は、今すぐ保護しなければ、絶滅してしまうだろう。日本がいかに豊かになっても、彼らが絶滅したら、日本は、本当の豊かさを失ったといってもいい。  そんな趣旨の意見だった。  その時、仁科は、いくつかの例をあげていた。その中に、レブンアツモリソウも、入っていたのだろうか?  その仁科が、わざわざ会社を作り、レブンアツモリソウを集めていたのか?  十津川は、仁科東一郎のことを、亀井と、調べた。  妻の京子は、三年前に病死しており、子供はいない。  仁科の弟、仁科京次郎は結婚し、娘が一人いた。その娘の名前が、ゆり子だった。 「どうなってるんですか? これは──」  と、亀井が、肩をすくめるようにした。 「ミイラ取りが、ミイラになったんだろうね」  と、十津川は、いった。 「どんな風にですか?」 「仁科東一郎は、日本の自然保護に熱心だった。特に、日本独特の動物や、植物にね。礼文島にも、レブンアツモリソウを、見に行ったと思うね。もちろん、その保護につくそうと思ってだよ。ところが、その花の美しさに魅《ひ》かれて、自分だけのものにしたくなったんじゃないかな」 「すると、密売が、目的じゃなくですか?」 「それは、わからないが、最初に、自分が、欲しかったんだろう。そのために、会社まで作ったんだ」 「北海道に、支店のある会社をですね」 「それが、すべて、レブンアツモリソウを、手に入れたいための会社だったんだよ」 「そんなに魅力のある花なんですかね?」  亀井は、不思議そうに、いった。  十津川は、ポケットから一枚の写真を取り出して、亀井に見せた。 「それが、レブンアツモリソウだよ」 「これですか」  亀井は、淡いクリーム色の花を、じっと見つめた。 「可愛らしい花だろう?」 「これが、一株十万も、二十万でも、売れるんですかね」 「欲しい人にはね。マニアの熱狂は、われわれには、わからないよ」  と、十津川は、いった。 「今、仁科東一郎は、どこにいるんですかね?」 「カメさんは、どう思う?」 「逃げ廻ってるんじゃありませんか?」 「私は、そうは思わないんだ」 「なぜですか?」 「この男は、レブンアツモリソウを手に入れるために会社まで作ったんだ。北海道の中に、花場も作った。そんな男が、レブンアツモリソウを捨てて、逃げ廻るとは、思えないんだよ」 「しかし、行方が、わかりませんが」 「レブンアツモリソウを手に入れるために、会社を作る。その次には、何をすると思うね?」  と、十津川は、きいた。 「そうですねえ」  と、亀井は、考えていたが、 「そのためには、礼文島に引っ越したらどうですかね。レブンアツモリソウと、一緒に、暮らせますよ」 「いい考えだ。しかし、礼文島には、監視員がいるから、自分の物には、できないよ」 「それなら、北海道に別荘を建てて、広い庭に、集めたレブンアツモリソウを、一杯、植えますよ」 「それだよ!」  と、十津川は、大声を出した。  亀井は、びっくりした顔だ。 「別荘ですか?」 「そうさ。仁科は、問題の花場の近くに、別荘を建てたんだと思うね。カメさんのいう通り、広い庭に、集めたレブンアツモリソウを一面に植えて、それを見て、暮らそうと、考えたんだと思うね」 「すると、今は、その別荘に?」 「恐らくね。そして、仁科ゆり子も、そこに行っているはずだ」  と、十津川は、断定した。  問題は、その別荘の場所だった。 「多分、石北本線の沿線にあると思うね」  と、十津川は、いった。  ゆり子は、伯父の別荘が、どこにあるか知っていたろう。だからこそ、石北本線に乗ったのではないのか? 「石北本線に、乗ってみよう」  と、十津川は、亀井に、いった。     11  翌日、二人は、札幌に飛び、ゆり子が、そうしたように特急「オホーツク3号」に、乗った。 「どこで、降りたらいいんでしょうか?」  と、亀井は、窓の外に流れる景色を見ながら、きいた。 「ゆり子は、上川を出てから、席を立った。ということは、次の丸瀬布より先で、降りるつもりだったことになる。しかも、そんなに先ではない」  と、十津川は、いった。 「同感です」 「では、まず、丸瀬布で降りて、仁科の別荘のことをきいてみよう」  と、十津川は、いった。  二人は、丸瀬布で列車を降り、派出所や商店で、仁科東一郎の別荘について、聞いて廻った。用意してきた彼の顔写真も見せた。が、別荘の話は、聞けなかった。 「次は、遠軽ですね」  と、亀井が、いう。  次の列車を待つのが面倒で、二人は、タクシーを拾って、遠軽まで走った。  遠軽では、JR駅近くの不動産店に、聞くことにした。  一軒目では、わからなかったが、二軒目で、反応があった。 「山間に、立派な家を建てた人がいるという話を、聞きましたよ。なんでも、東京の人だそうですが、別荘ばやりで、あんな場所で、どうするんだろうと、みんな首をひねってますがね」  と、遠軽生れだという店の主人は、笑いながらいった。 「どこかわかりますか?」  と、十津川は、きいた。 「確か、この先の太田建設が、建てたんじゃないかな」  と、いわれて、十津川たちは、その太田建設に、廻った。  小さなビルの一階におさまっている会社だった。景気がいいのか、木材を積んだトラックが、威勢よく出て行く。  社長の太田は、十津川の質問に対して、あっさりと、 「ああ、あの先生の家ね」  と、肯き、 「うちで建てましたよ。あんな山の中に、東京の人が、よく住めるなと思いましたがねえ」 「そこへ、案内してくれますか」 「あの先生、何かやらかしたんですか?」 「あるいはね」  と、だけ、十津川は、いった。  太田社長が四輪駆動車で、自ら、案内してくれることになった。 「あの辺は、まだ土地が安いから、小さな山を一つ買ったみたいなものですよ」  太田は、自分で運転しながら、十津川に、いった。  車は、遠軽から、石北本線を、旭川の方向へ戻る恰好で、走った。丸瀬布より、さらに戻って行くと、次第に道路は、山間に入って行く。  このあたりは、石北本線の駅も、標高が高くなって、中越《なかこし》という小さな駅の傍を通ったが、この駅のあたりは、標高は六百メートルを越え、北海道の鉄道で、一番高い場所だという。  太田はそんな説明をしながら、乱暴に車を走らせる。山道には慣れているのだろうが、十津川は、はらはらしどおしだった。 「まだ、走るんですか?」  と、亀井が、きくと、太田は、 「だから、あんな山の中に建てて、どうする気かなと、いったでしょう。仁科さんは、学者だということだが、学者には、変り者が多いんですかねえ。いくら土地ブームでも、あんな場所では、値段は、あがらんですよ」  と、大声で、わめくように、いった。  周囲は、山脈が続き、眼の下に渓流が流れているが、家らしいものは、見当らない。蝉の声だけが、やかましかった。 「あの山を越えたところですよ」  と、太田は、前方の小さな山を指さした。  確かに、どうして、こんな山奥にと首をかしげるような周囲の風景だった。     12  峠を、また一つ越えると、突然、山間に、真新しい家が現われた。  二階建の木造りの家で、新しい瓦が、陽光を受けて、光っている。  家の前には、ジープが一台、とまっていた。  太田は、玄関の前に、車をとめると、先に立って、インターホンを鳴らそうとする。十津川が、その手を押さえた。 「あなたは、車で、待っていて下さい」 「しかし、私は、あの先生と、顔見知りですよ」 「いいから、待っていて下さい!」  十津川は、強い語調でいった。太田は、その激しい声に、びっくりした表情になって、黙ってしまった。  十津川が、インターホンを、押した。  返事はない。  十津川は、亀井と、顔を見合せてから、玄関のガラス戸に手をかけた。  錠が下りていて、開かない。十津川は、内ポケットから、拳銃を取り出すと、それで、ガラス戸を叩き割った。  静まり返っていた周囲の空気を、ガラスの砕け散る音が、かき乱した。  それでも、家の中は、静かなままである。  亀井が、割れた穴から手を差し込んで、錠を開けた。  二人は、ガラス戸を開けて、家の中に飛び込んだ。  広い家だった。今どきの家には珍しく、長い廊下がついている。  二人は、その廊下を走って、障子、襖《ふすま》を、次々に、開けていった。  一階には、誰もいない。  二階に駈けあがった。  奥の和室を開けると、そこに布団が敷かれ、仁科ゆり子が、横になっていた。  じっと、動かないので、一瞬、十津川は、死んでいるのかと思った。が、彼女は、眼を開けて、十津川と、亀井を、見上げた。  うつろな眼だった。  何の感動もない眼で、黙って、二人を見上げている。 「仁科さんは、どこにいるんだ?」  と、十津川が、大声で、きいた。  その声が、聞こえないような顔なので、十津川は、もう一度、大声を出した。  ゆり子は、のろのろと、手をあげて、窓を指さした。  十津川と、亀井は、窓に近寄って、窓ガラスを、開けてみた。  さわやかな、というより、むっとするような、青葉の匂いのする風が、吹き込んできた。  そこに、裏庭が、あった。裏庭というよりも、広い、花畠である。ポラロイド写真の花場と、どこか似た地勢のところに、一面、淡いクリーム色の花を開いたレブンアツモリソウが、群生しているのだ。いや、もちろん、ここに、群生しているはずはないのだから、礼文島から、持ち出したのだ。あの花場に集め、その間に、この土地を整えておき、一挙に、運び込んだのだろうか?  その花畠の真ん中に、人が一人、寝ているのが見えた。  ナイトガウン姿で、レブンアツモリソウに埋まるように、寝ているのだ。  十津川と、亀井は、一階に降り、裏庭に出た。レブンアツモリソウを、踏まないように、仁科東一郎に、近づいて行った。 「仁科さん」  と、十津川が、声をかけた。  仁科は、寝たまま、返事をしなかった。  その時になって、十津川は、何か匂うのを感じた。それを花の匂いと思っていたのだが、違うことに、気がついた。  ちょっと甘いような匂いである。亀井も、気付いたとみえて、 「青酸じゃありませんか?」  と、いった。  十津川は、花の中に屈み込んだ。仁科は、すでに死亡し、かすかに、青酸の甘い香りがしているのだ。  着ているワインレッドのナイトガウンのポケットに、分厚い封筒が、顔をのぞかせている。  十津川は、それを、抜き出した。  白い封筒の表に、「警察の方へ」と、達筆で書かれ、裏側には、「仁科東一郎」とだけ、したためてあった。  十津川は、花畠の中に、立ったまま、その封書を、開けてみた。     13 〈警察の方へ [#ここから2字下げ]  これから書くことは、すべて、事実であります。  隣室で、姪《めい》のゆり子が寝ています。私が、睡眠薬入りのコーヒーを飲ませたからで、あと二時間は、眠っているでしょう。私は、その間に、この手紙を書き、自分の最後を飾らなければ、なりません。  私は、二人の男を殺しました。それを、最初に、告白しておきます。その方が、落ちついて、自分の気持ちを、文章にできるからです。  私は、大学で、自然保護について、講義をしてきました。自然、特に、日本の自然を愛する気持ちは、誰にも負けないと、思ってきました。自然の花々や、動物を傷つける無神経な人間を見ると、無性に、腹を立てたものです。  その私が、礼文島で、レブンアツモリソウを見たのは、二年前の夏でした。もともと、蘭の花が好きだった私は、ひと目で、蘭科のこの高山植物に、魅せられてしまいました。  それでも、最初は、礼文島だけに自生するこの花を守らなければならないという思いが、強かったのです。  レブンアツモリソウを、盗採し、高価に売り捌《さば》く業者がいることに腹を立て、週刊誌に、その思いを、ぶつけたこともあります。  しかし、いっこうに、盗採は、止《や》まず、業者は金にまかせて買い集め、それを、一株何万円かで売っては、ボロ儲けを、続けているのです。  そうしたことを見聞きしている中に、私は、奇妙な思いに、とらわれていきました。このままでは、レブンアツモリソウは、亡びてしまう。それなら、誰よりも、この花を愛している自分が集めて、保護してやるべきだという思いでした。  私は、レブンアツモリソウを集めるために、小さな会社を作り、その支店を北海道に作りました。  金さえ払えば、いくらでも、レブンアツモリソウは、集まりました。日本人は、公徳心などないのです。それに、監視員は少いのですから、盗採が絶えないのは、当然です。私は、ますます、自分が守るのがいいのだという思いに、かたまってきました。  この別荘の近くに、いわゆる花場を作り、集めたレブンアツモリソウを、一時、植えておき、私は、別荘の完成を、急ぎました。  別荘ができ、裏に広い花場を作り、そこにレブンアツモリソウの群落を作る。そうして、私は、大学を辞め、一生、この美しい高山植物を守っていく。そう思っていたのです。  ところが、一人の男が、私にとって、危険な存在になってきました。片桐というルポ・ライターです。彼は、レブンアツモリソウの盗採について、取材を始めたのです。困ったことに、彼は、私の姪の恋人でした。  片桐は、私がやっている中央物商が、レブンアツモリソウを集めていることに、気付いてしまいました。これには、旭川に住む白石という男が、力を貸しました。サラリーマンで、花好きのこの男は、偶然、私の会社が、花場から、車で、レブンアツモリソウを運び出すのを、見てしまったのです。  この若い男は、純粋に花と旅が好きだといっていましたが、金が欲しいだけなのです。だから、この情報を、片桐に売りつけました。  姪のゆり子は、うすうす、私がやっていることを知っていて、悩んだようです。片桐に話して、レブンアツモリソウについての取材を、やめるように頼んだらしいのです。彼女は、そのあと、私に電話をかけてきて、彼がやめて、ほかの問題を追いかけることになったと、嬉しそうにいいました。私も、ほっとしました。  ゆり子は、安心して、前から行きたかったフィリッピンのセブ島に出かけて行きました。  ところが、片桐は、やめてなんかいなかったのです。彼は、ゆり子がセブに出かけた隙《すき》に、本格的に取材するために、北海道に乗り込んでくるというのです。  私は、怯《おび》えました。この男がいる限り、私は、告発され、大学にもいられなくなる。それはいいとして、レブンアツモリソウを、誰が守るのか。そうした不安が、嵩《こう》じていき、ついに、片桐がいる限り、レブンアツモリソウは亡びてしまうと、思うようになったのです。  私は、決心して、片桐が、出かけるという朝早く、彼の車に、時限爆弾を仕掛けました。  そうしておいて、彼のマンションに忍び込み、レブンアツモリソウに結びつくものや、私に結びつくものは、一切、持ち去ったのです。  ただ、白石が撮ったポラロイド写真を、片桐が持っていたことは、知りませんでしたし、彼が死ぬ間際に、それを、他人に渡すことは、予期できませんでした。  爆発は、上手くいき、片桐は、死にました。私は、別に、自責の念を感じませんでした。レブンアツモリソウを守るために、使命を果したのだという思いだけでした。  私が恐かったのは、ゆり子です。彼女が、すべてを、警察に話してしまうのではないかということでした。  しかし、セブ島から帰国したゆり子は、警察には、何も、喋《しやべ》りませんでした。私を守ってくれたというより、戸惑っていたんだと思います。  その証拠に、初めは、激しい口調で、私に電話して来ました。なぜ、片桐を、殺したかと、きくのです。  私は、殺していないといいました。しかし、彼女は、もちろん信じませんでした。白石哲雄を連れて、北海道に行くから、向うで会ってくれというのです。  さらに、札幌からも、電話が入りました。明日、特急「オホーツク3号」で、白石と一緒に行くから、丸瀬布に迎えに来て欲しい。私の別荘で、話し合いたいというのです。  私は、追いつめられた気分になりました。それに、すでに、一人、殺してしまっています。  私は、特急「オホーツク3号」に、乗り込み、デッキに出て来た白石を、刺し殺しました。そのあと、ゆり子が出て来たのですが、彼女は、さすがに、殺せませんでした。それで、ナイフの柄で殴りつけて、気絶させたのです。私の持っていたナイフは、サバイバルナイフで、柄の部分が重く、ハンマーとしても、使えるようになっているのです。  私は、丸瀬布で降りて、逃げました。  私は、もう駄目だと思いました。二人の男を、殺してしまったのです。気がつけば、ゆり子は、すべてを話すに違いない。そうなれば、間違いなく、警察に逮捕されるだろう。そう思ったのです。  私は、別荘に閉じ籠《こも》って、じっと、警察が来るのを、待ちました。  ところが、警察の代りに、頭に包帯を巻いたゆり子が、やって来たのです。  彼女は、大学教授としての私を尊敬していて、どうしても、私が、片桐や、白石を殺したと、信じたくなかったというのです。そういわれると、私は、かえって、ゆり子に、何もかも話したくなりました。  私は、彼女に、レブンアツモリソウに初めて出会った時のことから、話していきました。  彼女が、私の話を理解してくれたかどうかわかりません。だが、最後まで、じっと、聞いてくれました。  片桐が、約束を破ったから、私が殺したと話したとき、ゆり子は、泣き出しました。なぜ、泣いたのか、私には、わかりません。悲しくて泣いたのか、悔しくて泣いたのか、もう、わからなくても、いいと思いました。私は、もう、すべてを失ったのですから。  私は、警察に自首して、すべてを話すと、ゆり子にいいました。すべてを話すというのは本心でしたが、自首する気はありませんでした。  その代りに、今日一日、レブンアツモリソウを見ていたいと、私は、ゆり子に、いいました。これは、本心です。  彼女が、肯いてくれたので、私は、裏庭に出て、一日中、自分の集めたレブンアツモリソウを眺めていました。  改めて、何と美しく、可憐な花だろうかと思いました。そうだ、こうして集めたのは、別に悪いことではなかったのだと、自分にいい聞かせました。  私に、いくらかの財産があって、その力で、こうして、この美しい花を集めさせたのは、神さまのおぼしめしだと、自分に、いい聞かせました。  ゆり子は、家の中から、黙ってレブンアツモリソウの群を見ていましたが、ぽつりと「きれいな花ね」と、いいました。その一言で、私は、救われたような気がしました。私は、二人の人間を殺しましたが、この美しい花のためなのだと、納得できるからです。  夕食の前に、私は自分でコーヒーをいれ、ゆり子にすすめました。これから自首するから、一緒に行ってくれと、喋りながらです。彼女のコーヒーの中には、強い睡眠薬を入れておきました。  彼女は、なかなか、コーヒーを飲みませんでした。用心しているからではなく、私に対して、いいたいこと、聞きたいことが、沢山《たくさん》あるからのようでした。 「この花をどうするの?」とも、ゆり子は、聞きました。私は、君に委《まか》せると、いいました。私が死んだあと、このレブンアツモリソウを、ゆり子が、どうするか、私には、わかりません。多分、警察を通じて、礼文島へ返すでしょうが、彼女も、この花の魅力にとりつかれて、そっと、自分で、育てたくなるのではないか。そうなったら、楽しいと、悪魔的なことも、考えました。  彼女が、コーヒーを飲んだのは、いれてから、二十分ほどもたってからでした。彼女は眠り、私は、彼女が起きるまでの間に、この手紙を書こうとしているのです。  ゆり子には、まったく、罪はありません。警察に事実を話さなかったり、病院を無断で抜け出したりしたのは、すべて、伯父である私を、警察に密告するのが、嫌だったからです。彼女の優しさだったと、理解してやって下さい。  まだ、彼女は、可愛い顔で、眠っています。これでもう、書くことは、なくなりました。  あとは、せめて、警察が来るまでの間、レブンアツモリソウの花園の中に、眠っていたいと思っています。最後のこの願いは、かなえさせて下さい。 [#ここで字下げ終わり] 仁科東一郎〉     14  ここで、仁科の長い手紙は、終っている。  十津川は、手紙を亀井に渡し、もう一度、死体の横たわっているレブンアツモリソウの花畠を見廻した。  確かに、魅力的な花園だった。ただ、十津川には、それを自分だけのものにしたいという気持ちは、起きて来ない。多分、それは、自分が、マニアではないからだろう。  二人は、家の中に戻った。  ゆり子は、まだ、横たわっていた。気力を失い、起き上るのも、辛《つら》いという感じだった。 「仁科東一郎さんの遺体を見て来ましたよ」  と、十津川は、いった。 「彼が書いた遺書もです。あなたは、読んだんですか?」  と、亀井が、きいた。  ゆり子は、やっと起き上って、小さく、首を横に振った。 「なぜ、読まないんですか?」  と、十津川が、きいた。  ゆり子は、答えない。十津川が、もう一度きくと、 「読まなくても、書いていることは、想像がつきますわ」  と、ゆり子は、小さな声で、いった。 「これから、警察に連絡しなければならないが、構いませんね?」  十津川は、彼女に断った。相手が、黙っているので、家の中の電話で、一一〇番してから、 「道警が来るまでの間に、何かいいたいことがあるのなら、話しておいて下さい」  と、いった。 「あなたたちだって、警察なんでしょう?」 「そうですが、この事件を、ずっと、追って来ましたからね。それだけ、少しは、事情がわかっているつもりでいます」  と、十津川は、いった。 「何も、いうことはないわ」  と、ゆり子は、いい、ゆっくりと、裏庭へ出て行った。  亀井が、追いかけて行こうとするのを、十津川は、止めた。 「尊敬していた伯父と、恋人を、同時に失ったんだ。ひとりにしてやろうじゃないか。道警が、来るまでね」  と、十津川は、いった。     15  道警のパトカーが、駈けつけたのは、三十分後だった。  仁科の遺体が、運ばれ、ゆり子も、パトカーに乗せられて行った。  十津川は、仁科東一郎の遺書を渡し、 「これを読めば、すべて、わかります」  と、いって、道警の刑事とは、一緒に、行かなかった。  十津川と、亀井は、別荘に残り、道警の刑事が、レブンアツモリソウの花畠に、ロープを張っているのを、眺めていた。 「あの花は、やはり、没収されるそうだよ」  と、十津川は、亀井に、いった。 「礼文島に戻して、来年の夏、また、花が咲くものでしょうか?」  亀井が、不安そうに、きいた。 「仁科が、大事に育てていたから、咲くんじゃないかね。そう考えた方が、救われるよ」  と、十津川は、いった。  亀井は、煙草をくわえて、少しずつ暗くなっていく花畠を見ていたが、急に、 「そうだ!」  と、大きな声を出した。 「何だい? カメさん。大きな声を出して」 「どうですか。来年の夏、休みが取れたら、礼文島へ、レブンアツモリソウを、見に行きませんか。戻されたここの花が、もう一度根付いたかどうか、見られますよ」  と、亀井は、いった。  愛と孤独の宗谷本線     1  その男は、五十五、六歳で、札幌のホテル「K」では、宿泊カードに、辻村康と、名前を書いた。  中肉中背で、どこといって特徴のない男だが、暗い眼付きが、妙に印象に残る感じだった。ホテルに着いた日に、夜、五階にあるバーで飲んでいたが、カウンターの隅でじっと何かを考えているようだった。  バーテンが声をかけても、男は返事をしなかった。人嫌いというより、自分の考えにふけっていて、バーテンの声が聞こえないようだった。  翌朝、ルームサービスで朝食をすませたあと、男は、煙草をくわえてしばらく考えていたが、ホテルの便箋を取りあげて、手紙を書き始めた。 〈十津川警部様 [#ここから2字下げ]  あなたは、私にいわれました。事件は、もう終ったのだ。辛《つら》いだろうが、忘れなさい。忘れた方がいいと。確かに、警察の事件としては解決したと思います。しかし、私にとって、事件は終らない。いや、永久に終りはしないのです。  亡くなった理佐は、妻のいない私にとって、ただ単に一人の娘というだけでなく、私のすべてでした。今、私がこうして自殺もせずに生きているのは、娘の理佐を殺した男への憎しみが支えになっているからです。理佐が死んだのに、あの男が、生きている。そのことが、私には許せないのです。  私は、理佐が、あの男に殺されたのだと思っています。だから、居所がわかった今、仇を討ちたい。それだけです。業務上過失致死で、執行猶予。笑わせないで下さい。あの男の運転するトラックから、巨大な鉄骨がひとりでに落下したとでもいうのでしょうか? その傍を車で走っていて、その鉄骨に押し潰《つぶ》されて理佐が死んだのは、ただ運が悪かったとでもいうのでしょうか?  私にとって、事は簡単なのです。あの男がいなかったら、理佐は死ななかったのです。それだけです。だから、理佐が死んだ今、あの男も死ぬべきです。  あなたにはいろいろとお世話になりました。励ましても頂きました。しかし、私の気持ちは変りません。  この手紙が届く頃、私はあの男を殺し、私自身も死んでいるはずです。勝手な男だと思われても、愚かな父親と思われても、仕方がありません〉 [#ここで字下げ終わり]  男は、書き終った二枚の便箋を丁寧に折りたたみ、封筒に入れた。表には警視庁捜査一課十津川様と書いてから、上衣を着、部屋の中を見廻してから、廊下に出た。  フロントで、会計をすませてから、手にしていた封筒を、投函してくれるように頼んだ。  ホテルを出ると、JR札幌駅に向った。  十一月下旬で、東京はまだ晩秋の感じだったが、さすがに北海道は風が冷たく、初冬といった感じがする。  一一時三二分発の急行「宗谷1号」の切符を買った。終着の稚内《わつかない》までである。  四両編成で、シルバーとダークブラウンのツートンカラーの洒落《しやれ》た気動車が、すでにホームに入っていた。男は、丸いヘッドマークに宗谷と書かれているのを確かめるように見てから、自由席2号車に乗り込んだ。  定刻に発車すると、男はじっと窓の外に眼をやった。札幌の街が、流れて行く。恐らく、もうこの街に戻って来ることはないだろう。男の眼は、そんな眼だった。  秋の観光シーズンが終り、といって、冬のスキー・シーズンにはまだ間があるので、車内はすいていた。  乗客の中には地元の人もいたが、いかにも都会育ちといった若い男女もいた。男の眼は、自然に、若い女にいってしまう。  どうしても亡くなった娘と同じ年頃の女性を見つめてしまうのである。見られた女の方は、たいてい気味悪そうに席を変えたり、睨《にら》み返したりする。  その中で一人だけ、じっと男を見返してから、つかつかと通路を歩いて来ると、 「何か、ご用でしょうか?」  と声をかけてきた。別に咎《とが》めている感じの調子ではなかったが、男は一瞬言葉に詰って、 「何かというと──?」  と意味のないことを、もごもごと呟いた。 「私を見ていらっしゃったので、何かご用かと思って」  と、女ははっきりした口調でいい、男が黙っていると、 「何でもないのなら、私の勝手な気持ちだったかも知れませんわ」 「ああ、ちょっと待って下さい」  男は、自分の席に戻ろうとする女を、あわてて呼び止めた。 「何でしょうか?」 「まあ、座りませんか」  と男はいい、続けて、 「実は、一人娘を亡くしましてね。それで、同じ年頃の娘さんを見ると、つい眼が行ってしまうのですよ。気を悪くされたと思うが、許して下さい」 「いえ。私の方を見ていらっしゃったので、何か困ったことがおありになるのかと思ったんです。心細そうな顔もなさっていましたし──」 「そんな顔をしていましたか」  男は、苦笑した。男は一人娘を亡くしたが、その前に妻も病気で亡くしている。その孤独感が顔に表われたのだろうかと思って、苦笑したのだ。 「失礼だが、おいくつですか?」  と男は、自分の前に腰を下ろした女に眼をやって、きいた。 「二十五ですけど」 「私の娘と同じ年齢《とし》だ」 「きっと、きれいな方だったんでしょうね」  と、女は微笑した。 「あなたに似ていましたよ。いや、本当です。最初はわからなかったんだが、本当によく似ている。どこまで、行かれるんですか?」 「終点までですわ」 「私もです」  男は、改めて彼女を見直した。似ているといったのは嘘《うそ》ではなかった。白いワンピースの上に赤いコートを羽織った恰好も、娘と同じだと思った。娘も、白とか、赤の無地の服が好きだった。  少しずつ、男の気持ちがなごんでくる。 「名前を聞いてもいいかな」  と、男は笑顔でいった。 「北川リサです」  と、女はいった。 「リサ?」 「どうなさったんですか? 平凡な名前ですけど」 「どんな字を書くんですか?」 「片カナで、リサですわ」 「そこが違うが、亡くなった私の娘の名前も、理佐でしてね」  男がいうと、今度は女の方が眼を大きくして、 「本当ですの?」 「ええ。だから、びっくりしたんですよ」 「そうですの」 「私は、辻村といいます。よろしく」 「稚内へ、何しにいらっしゃるんですか? 私は、純粋な観光ですけど」  と、今度は女──北川リサがきいた。 「私は、仕事です」 「どんなお仕事なんですか? ごめんなさい、私って詮索《せんさく》好きなんです。よく、人にいわれます」 「仕事は、平凡なサラリーマンです。向うに支社ができたので、業務連絡に行くんですよ。あなたは──OLさんかな?」 「ええ。休暇を貰っての旅行なんです」 「稚内が好きなんですか?」  と、男はきいた。 「日本の一番北って、どんな所かなと思って。頭は悪いんですけど、好奇心だけは旺盛なんです」  リサは、微笑して、いった。 「お父さんは、どんな人ですか?」 「口やかましい父です。時々、逃げ出したくなりますわ」 「それは、あなたを愛しているからですよ。お父さんを、大切にしてあげて下さい」 「そのお荷物、網棚にあげましょうか?」  リサは急に、男が膝《ひざ》の上にのせてしっかりと手で押さえているショルダーバッグに、手を伸ばしてきた。  男は、あわてて、 「いや、いいんだ」  と、思わず声が大きくなった。ショルダーバッグの中には、やっと手に入れた拳銃が隠してあったからである。  復讐《ふくしゆう》のために、苦労して手に入れた拳銃だった。そのため、男は暴力団の人間に二百万円の金を支払っていた。 「でも、重そうだし──」 「いいんです。いいんだ」  と、男はつい怒鳴ってしまい、それを取りつくろうように、 「何となく、こうやって手に持っている方が、安心なんですよ」 「辻村さんは、東京の方ですか?」  と、リサはきいた。 「そうです。私も、亡くなった娘も、この北海道が好きでしてね」 「広いからですか?」 「ええ。娘もそういっていましたよ」  男は窓の外に眼をやった。列車は岩見沢《いわみざわ》に着いたところだった。 「もう十二時過ぎだわ」  リサは腕時計を見て、びっくりしたようにいった。 「お腹がすいたのかな?」 「ええ。太るのを心配しながら、食べてるんです」 「あなたは別に、太ってなんかいませんよ」 「ありがとう」 「駅弁でも、買えるといいんだがね」 「長く停車する駅があるかしら?」  リサは自分のショルダーバッグを網棚から下ろし、中から時刻表を取り出して、ページを繰っていた。  その間に列車は、岩見沢を離れた。 「ずっと一分停車だわ。旭川は二分停車だから、ここで買って来よう」  と、リサはひとりごとみたいにいってから、顔をあげて、 「辻村さんでしたっけ?」 「そうですよ」 「旭川に着いたら駅弁を買いに行ってきますけど、辻村さんも要《い》ります?」 「二分停車で、買って来られるの?」 「私、足には自信があるんです。学校では、短距離の選手でしたから」  リサは、ニッコリ笑って、いった。 (短距離の選手か)  男は、死んだ娘のことを、また思い出した。彼女も、高校、大学と、短距離の選手だった。だから車に乗っていて死んだとき、もし歩いていたのなら、反射神経がいいから助かったかも知れないと、そんなことまで考えたものだった。 「じゃあ、旭川に着いたら、私も買って来て貰おうかな」  と、男はいった。 「何がいいですか? 旭岳べんとう、えぞ鴨めし、鮭ちらし──」 「よく知っているね」 「ここに、書いてあるんです」  リサは、時刻表の余白の部分を男に示した。男は、眼鏡をかけて、そこにある小さな文字を読んだ。 「なるほどね。私は、鮭ちらしがいいな。若い頃、鮭弁当が好きでね。ごはんの上に鮭の切身が、一切れだけのっている弁当でね。まずしい弁当だけど、今から思うと、ひどくなつかしいんだよ」  と、男はいった。 「私の父も、なぜか、鮭弁当が好きだっていってましたわ。若い頃、それがすごいご馳走だったんですって。塩からい鮭だと、ご飯がたくさん食べられたんですってね?」 「あなたのお父さんは、私と同じくらいの年齢《とし》なのかな?」 「確か五十五歳ですけど」 「じゃあ、同じ年齢だ」  男は、嬉しそうにいった。眼の前の娘と鮭弁当が好きだという父親との関係が、自分と、亡くなった理佐との二人に、ダブって来たからだった。 「あなたは、お父さんのことをどう思っているのかね?」 「父のことですか?」 「ああ。優しいとか、うるさいとか、何かあるんじゃないかと思ってね」  男は、自分の言葉に、照れたような顔になった。  亡くなった理佐に向って、一度は聞いてみたいと思っていたことだった。それなのに聞くのが怖くて、ついに聞けないままに彼女は死んでしまった。  理佐は、未婚のまま死んだ。葬式の時に、恋人らしい青年も現われなかったが、そうしたことの責任が自分にあったのではないかという不安が、男にはある。その怯えみたいな気持ちは、理佐が生きている時からあって、いつも彼女の本当の気持ちを聞きたかったのだが、聞くことも、また、怖かったのだ。 「うーん」  と、リサは大きな眼をくるくる動かして考えていたが、 「優しいし、うるさいし、好きだけど、時々、嫌いになるし──」 「嫌いというのは、誰でもたいてい、父親をそんな風に思うものかね?」 「そうだと思いますわ。父というのは一方で優しくあって欲しいけど、一方では頼もしい存在であって欲しいんだから、父親も大変だと思っているんです」 「あなたは、まだ結婚していないの?」 「ええ」 「恋人は?」 「男の友だちはいるけど、恋人という人はいません」 「それは、お父さんがうるさくいうからなの? まだ結婚は早いとか、つき合っている男友だちについて、あれこれ批判するから?」 「辻村さんは、そんなにうるさくいってたんですか?」  リサにきき返されて、男は狼狽《ろうばい》した。自分は理佐に対して、うるさいだけの存在だったのだろうか? それに返事をしてくれる娘は、もういないのである。 「私は、うるさくいったつもりはなかったんだがね」 「私が結婚しないのは、仕事が面白いからなんです。父は関係ありませんわ。最近は、仕事が面白いから、当分結婚したくないという女性が、増えているんですよ」 「そうか。仕事が面白いからか」  男は、ほっとした顔になった。理佐はグラフィック・デザインの仕事をしていたのだが、仕事が面白いといっていたことがあったと思う。そうなのだ。結婚しなかったのは、仕事が面白かったせいなのだ。  旭川に着くと、リサはホームに飛び降りて、ホームで売っている駅弁を買いに走って行く。 (元気だな)  と男は微笑して見ていたが、ふと座席に眼をやった。彼女のショルダーバッグが、置いてある。 (ルイ・ヴィトンか)  理佐もヴィトンが好きだったなと思いながら、男は手に取った。  男は、あの事故の時、病院から電話を受けて駈けつけたのだが、すでに理佐はこと切れていた。顔には白布がかけられていて、その枕元に、ぽつんと、彼女が愛用していたヴィトンのバッグが、置かれていた。去年の彼女の誕生日に、男が買ってやったものだった。  そんな光景が、一瞬男の脳裏をよぎったのだが、彼の眼が「おや?」という感じで、大きくなった。  リサのショルダーバッグにぬいつけた感じで、「S・H」と、あったからである。  彼女は、北川リサと名乗った。それならイニシャルは、R・Kか、K・Rのはずだった。 (変だな)  と、思ったとき、彼女が息を切らせて戻って来た。男はあわてて、ショルダーバッグを彼女の座席に、戻した。  列車が、動き出した。 「ああ、間に合ったッ」  と、リサは大声でいい、 「はい。辻村さんの分」  と、駅弁を一つとお茶を、男の膝の上にのせた。 「ありがとう」 「ホームは寒かったから、雪になるかも知れないわ」  リサは、楽しそうにいった。  男はイニシャルのことをききたかったが、何となくききそびれて、鮭ちらしのふたを開けた。彼が若い頃に親しんだ鮭弁当とは違っているが、それでも鮭の匂いはなつかしかった。 「あッ、イクラも入っている」  リサは無邪気に声をあげている。 「うん。いろいろ入っているんだ」  と、男はいいながら、眼はやはり彼女のバッグに走ってしまう。  リサは敏感にそれに気付いたらしく、 「ああ、このイニシャルなら、お友だちのを借りて来たんです。佐藤弘子さんって人なの。だから、S・Hになっているんです」 「なるほど」  と、男は肯いた。が、なぜか、かえって疑問は大きくなった。  彼女は、自分の名前をリサだといった。片カナだというが、亡くなった男の娘と同じ名前なのだ。偶然だろうが、その偶然に男は、ほんの少しだが、疑いを持つようになっていた。 (しかし、この娘には、初めて会ったのだ。そんな娘が、わざと、リサと嘘の名前をいうだろうか?)  男は駅弁を食べながら、じっと相手の顔を見つめた。 「前に、あなたに会ったかな?」 「いいえ。でも、辻村さんは、東京からどうやって、北海道にいらっしゃったんですか?」  と、リサはきいた。 「昨日、千歳まで飛行機で来て、札幌のホテルに泊って、今日、この列車に乗ったんだけどね」 「それなら、飛行機の中で、会ってるかも知れませんわ。私も、昨日、飛行機で来たんですから」 「何時の飛行機?」 「確か、午後四時頃の便でしたわ」 「それなら、一緒だったかも知れないね。私は午後四時のJALだったから」 「私も、JALだった」 「その前にも、会ったことがあったかな?」 「あッ。雪!」  リサは突然、空を見て叫んだ。  反射的に、男も窓に眼をやった。何か白いものがチラついている。雪だった。今年初めて見る雪である。  だが男は雪に感動するよりも、リサにはぐらかされたような気分になった。それが気持ちに引っ掛って、逆に彼女に対する疑いが深くなってしまった。 (この女は、おれのことを、前から知っている)  と、男は思った。  亡くなった娘の名前が、理佐であることも知っているのではないのか。だからこの女は、リサと名乗ったのではないのか?  もしそうだとして、なぜこの女は、そんな芝居までして、近づいて来たのだろうか? それが男にはわからない。  男はじっと窓の外に眼をやった。降り出した粉雪を見ているのではなく、考えているのだった。 「ちょっと失礼。トイレに行って来ます」  といって、男は立ち上った。  通路を歩いて行きデッキに出たが、トイレには入らず、振り向いて、じっと、様子を窺《うかが》った。  リサはちらちら、男が座席に置いていったバッグを見ていたが、急に手を伸ばすと、ひょいと自分の膝の上にのせファスナーを開けた。片手で中身を探っている。 (やはりか)  と、思った。  わざと足音を立てて、通路を戻って行くと、リサは弾かれたように、バッグを男の座席に戻した。だがファスナーは外れたままになっている。  男は怒るよりも悲しくなった。女の目的はわからないが、亡くなった娘と同じ名前と聞いて、二時間余りの間、甘く感傷的な気分にひたっていたのである。 「ごめんなさい」  と、リサは狼狽した顔で男にいった。 「男の人のバッグって、何が入っているのかと思って──」 「───」  男は黙ってショルダーバッグを持って立ち上り、隣の車両に歩いて行った。     2  空いている座席を探して腰を下ろしてから、男は自分を叱《しか》りつけた。 (これから稚内に行き、娘を殺したあの男に復讐するのだ。それなのに感傷なんかにふけるから、バカな目にあうのだ)  男は、きつい眼になり、煙草に火をつけた。  窓の外の粉雪は止みそうにない。ただ、気まぐれな天気で、時々ぱあッと陽が射したりするのだ。  ひょっとしてあの女は、この車両まで追って来るかも知れないと思ったが、その気配はなかった。  一四時〇六分に士別《しべつ》に着く頃になると、少しずつ、気持ちも落ちついてきた。  稚内までは、あと三時間もある。車販で缶ビールを買って、少しずつ飲んだ。 (それにしてもあの女は、何者だったんだろう?)  そんな疑問が、またわきあがってきた。  今は北川リサという名前も、嘘だと思っている。彼女のバッグには、S・Hのイニシャルがついていた。多分、あれが本名なのだ。 (それにしてもなぜ、娘の理佐の名前を知っていたのだろうか?)  何とかこじつけた答はある。  娘の理佐が亡くなった時、新聞にも出たし、不運な悲劇ということで、テレビも取りあげた。  リサと名乗った女は、それを覚えていたのではないだろうか?  亡くなった理佐と同じ名前だといえば、男がなつかしさから油断する。  油断させておいて、金を狙《ねら》ったのか? あんなきれいな顔をしているが、列車内で乗客の金を狙う女だったということも考えられる。 (おれがよほど間抜けに見えたのか。それとも金を持っているように見えたのか)  と、男は考えた。  男は、復讐だけを考えていた。それが傍目《はため》には虚脱したように見えていたのかも知れない。  また男は稚内で相手を殺したら、自分も死ぬ気だったから、東京ではすべてを清算して来た。貯金は全額を下ろし、借金は払い、娘が葬られている寺に行き永代供養を頼み、お金を置いて来ている。  そのあとの残った金は、百万余りだった。それをショルダーバッグに入れて持って来た。あの女はそれを狙ったのだろうか?  男は本当にトイレに行きたくなり、煙草の吸殻を灰皿に捨て、ショルダーバッグを持って、立ち上った。  リサには会いたくないので、反対側に歩いて行った。  トイレに入り、用を足して、出て来たときだった。いきなり、横から殴られた。文字通り、眼の前で火花が散り、その場に倒れ込んだ。  誰かが、物すごい力で、ショルダーバッグを奪い取ろうとする。  男は意識を失いかけながら、必死で、ショルダーバッグを押さえた。だが、相手の力は強かった。  引きちぎるようにショルダーバッグを奪い取って、相手は車内に逃げ込んだ。  男は、かすむ眼で相手を見つめた。大きな男の背中が一瞬、眼に入った。 「待て!」  と叫んだつもりだったが、声にならなかった。  猛烈な頭の痛みで、思わず唸《うな》り声を上げていると、通りかかった車掌が、車掌室に運んで、頭を冷やしてくれた。 「次の駅で、警察に連絡して貰いますか?」  と、車掌がきいた。 「いや、それは止めて下さい」  と、男はいった。 「しかし、コブができていますよ。殴った犯人は見たんですか?」 「いや、もう大丈夫ですよ。それに、誰に殴られたか、わからないんです。別に被害はないから、大丈夫です」 「しかし──」 「早く、稚内に行きたいんです。だから、もう構わないで下さい」  と、男はいった。  車掌はわけがわからないという表情をしたが、乗客の言葉には反撥《はんぱつ》はできないという感じで、 「お客さんが、そういわれるのなら──」  と、いった。  男は車掌室を出ると、洗面所で顔を洗って、座席に戻った。 「あれ!」  と思ったのは、座席に無造作に彼のショルダーバッグが、放り出してあったからである。  男は、腰を下ろして、バッグを調べてみた。  ファスナーは開いたままである。下着などは残っていたが、封筒に入れた百万円は、見事に消えていた。  やはり、金を狙ったのか。と男は苦笑した。稚内で一泊するぐらいの金は、上衣のポケットにある財布に入っている。切符もポケットの中だから、別に困りはしない。 (二度も金を狙われたか)  と男は思い、呆《あき》れた顔になって煙草をくわえた。  復讐に使う拳銃は、リサが旭川で駅弁を買いに走ったとき、ショルダーバッグから出して、上衣の内ポケットに隠している。 (百万円ぐらい、くれといえば、あげたかも知れないのに)  と男は思い、手でそっと上衣の上から拳銃を押さえた。これさえあれば、復讐はできる。 (しかし──)  男は、急にまた、難しい顔になった。  自分のショルダーバッグを見直した。ブランド物ではないし、長く使っていて、くたびれている。  とても、中に百万円の現金が入っているとは、思えないだろう。  それなのになぜ、二人の人間が、このショルダーバッグを狙ったのかという疑問が、わいて来たからである。  それも、リサは笑顔で近づいてきて、男を油断させておいて盗《と》ろうとしたし、大男の方は、彼がトイレから出て来るのを待ち伏せして、殴りつけたのだ。  このショルダーバッグに、百万円が入っているのを知っていたとは、思えなかった。男は、家を出る前に百万円入りの封筒をバッグに入れたし、その後、中から取り出したことがなかったからである。 (わからなくなった)  男は、小さく首を横に振った。  男は立ち上り、車内を見廻した。やたらに背中が大きく見えた犯人がいないかどうか、知りたかったのだ。  確か、グレーっぽい背広を着ていた。だが、グレーの上衣を着た男は四、五人いる。  それに、上衣を脱いで、ワイシャツ姿になっている男も、二人いるのだ。  他の車両に、逃げてしまったのかも知れない。  男は、百万円を盗られたことよりも、相手の正体がわからないことに、腹を立て、いらだった。  男は、眼を閉じて、復讐以外の余分なことは考えまいと、自分にいい聞かせた。  殴られたところが、痛む。手で触れると、大きなコブができているのが、わかった。  男は、もう一度、洗面所に行き、ハンカチを水にひたして、それで冷やした。  ついでに顔も洗いかけた時、ふいに背後から、頭を押さえつけられた。すごい力で、水の中に頭を突っ込まれた。 「よく聞け!」  と、男の声がいった。 「水の中でも、耳は聞こえるだろう。ピストルは、どこだ? 拳銃は、どこにあるんだ?」 「───」  男はもがいた。もがきながら、片手を内ポケットに入れ、拳銃をつかもうとした。 「動くんじゃない!」  と、いっそう頭を水に突っ込まれた。  男は、苦しさでもがいた。ぶくぶくと水の中であぶくが出る。 (このまま窒息して死んでしまうのだろうか?)  と、男が覚悟した時、ふいに彼を押さえつけていた力が消えた。 「ぶわッ」  と男は声をあげ、続いて、激しく咳込《せきこ》んだ。 「大丈夫ですか?」  と、中年の女が、声をかけてきた。傍に五、六歳の女の子がいて、じっと男を見つめている。 (この母娘が来たので、犯人は逃げ出したのか)  と、思いながら、男はハンカチで顔を拭き、母娘に場所をゆずった。 「本当に、なんでもないんですか? 車掌さんを呼んで来ましょうか?」  と、女は心配そうにきいた。 「何でもありません」  と、男はいって、洗面所を離れた。が、すぐには座席に戻る気になれず、しばらく、デッキに立っていた。  ふるえる手で、煙草を取り出し、火をつけた。 (拳銃のことを知っていやがった)  そのことが、ショックだった。さっきの男は多分、頭を殴ってショルダーバッグを奪ったのと同一人だろう。  拳銃はどこだと聞いたところをみると、ショルダーバッグを奪った時も、犯人の目的は、百万円の金ではなく、拳銃だったに違いない。 (リサという女の目当ても、百万円ではなく、拳銃だったのだろうか?)  男は、だんだん怖くなってきた。  死ぬことが、ただ怖いのではない。娘の仇を討つ前に殺されることが、怖いのだ。理佐の仇を討ったあとなら、もう何も怖いものはない。  男は、ドアの小さな窓から、外を見た。しばらく見ている中に、名寄《なよろ》に着いた。  男はホームに降りた。  雪はいつの間にか止んでいたが、ホームにはうっすらと雪が積り、風が冷たかった。  四両編成で、ここまでやって来た「宗谷1号」は、この名寄で一両だけ切り離され、この先は三両で行く。  その切り離し作業が、始まっていた。  男は、どうすべきか迷った。列車内では、まだリサもいるし、大男もいる。特に大男の方は、また拳銃を奪《と》ろうと、襲ってくるだろう。  向うはこちらの顔を知っているのに、こちらは犯人の顔を知らないのだ。  三両と、短くなってしまった列車内では、今まで以上に逃げ場がない。  男は、もう五十歳を過ぎている。力では、あの若い大男にとてもかなわないと思った。拳銃を使えば勝てるだろうが、射ったとたんに逮捕されてしまうだろう。そうなったら、娘の仇はとれなくなる。  三分停車で、「宗谷1号」が名寄を出発する時、男は待合室に隠れた。  リサと大男が降りて来ないかと、男はじっと離れて行く列車を見つめた。  二人は降りて来ず、「宗谷1号」は視界から消えた。  ショルダーバッグは列車に置いて来てしまったが、百万円は盗られてしまっているし、価値はない。  急に自由になったような気がして、男は待合室の中を見廻した。隅のキオスクでは、丁度、夕刊が届いたところで、中年の売り子が、二人で束を解いて、新聞を売りやすいように並べている。  気温は、0度くらいだろうか。石油ストーブが燃え、その周囲《まわり》で地元の人たちらしい男や女が、列車を待っておしゃべりをしていた。  男は、時刻表のパネルを見に行った。とにかく、稚内には行かなければならないのだ。  宗谷本線は、一応、本線という名前はついているが、この名寄以北になると、極端に列車の本数が少くなる。 「宗谷1号」が出てしまったあと、稚内まで行く列車は、名寄一九時三〇分発の「宗谷3号」しかなかった。  今、午後二時半を過ぎたばかりだから、あと五時間も待たなければならないのだ。急に、ぽっかりと隙間があいてしまった形で、男はどうしてその五時間を過ごしたらいいのか、迷ってしまった。  しばらくは待合室のガラス窓越しに、ホームを見たり、駅前の商店街を見たりしていた。  その間も、内ポケットに隠している拳銃のことが、気になった。制服姿の警官が入って来たりすると、自然に顔をそむけてしまう。自分がまわりの人間に、見られ、探られているような気がしてしまうのだ。  また、粉雪が舞い始めた。陽がかげってうす暗くなると、粉雪の白さが一層はっきりしてくる。  ドアを開けて駅の外に出ると、強い風と一緒に、細かい雪が男の顔に当った。  男は、小走りに駅近くの喫茶店まで行き、中に入った。  店の中はがらんとして、ほかに客はいなかった。  男は、隅のテーブルに腰を下ろし、コーヒーを注文した。  財布を取り出し、その中に入れている娘の写真を眺めた。学生時代の理佐の写真である。なぜか男は、その頃の娘が一番好きだった。まだ自立していなくて、父親の彼を頼っていた頃の理佐である。 (間もなくだよ)  と、男は写真に向って語りかけた。  理佐を殺した男は、裁判では、本当に申しわけなかったと、殊勝に涙を流して見せた。しかし、執行猶予つきの判決が出たあと、まるで無罪をかちとったみたいに、友だちと飲んで騒いだのを、男は知っているのだ。裁判の時の涙は、同情を引くための空涙だったのだ。  そして、姿を隠してしまった。見つけ出すのに、男は家を売り、その金で何人もの私立探偵を傭《やと》った。復讐のために、拳銃も手に入れた。理佐の無念を晴らすためなら、いくら金を使っても惜しくはなかった。  あの男、理佐を殺した男、小坂井貢が、北海道の北端、稚内で、友人と喫茶店をやっているとわかったのは、一週間前である。  それから男は、車で東京近郊の山へ行き、拳銃を何回か射ってみた。生れて初めて射ってみたのだが、不思議に銃口がぶれることもなく、樹にピンで止めた人型に命中した。もちろん、実際に生身の人間を相手に、引金がひけるかどうかはわからない。しかし理佐の顔を思い浮べれば、何のためらいもなく射てると、男は思っていた。  コーヒーを飲みながら、男は、店の壁に貼ってある時刻表に、眼をやった。  一九時三〇分名寄発の「宗谷3号」に乗ると、稚内に着くのは二二時一六分である。  午後十時過ぎだが、そのくらいの時間の方がいいかも知れない。復讐は、夜の方がふさわしいからだ。  男は、また、北川リサと大男のことを、思い出した。  今頃、彼が「宗谷1号」から降りたことに気がついているだろう。そして、どうするだろうか?  あの二人が、二人とも彼の拳銃を奪《と》ろうとしているのだとすると、辛抱強く、稚内で、待っているかも知れない。  自称リサは、彼が終点の稚内まで行くのを知っている。大男の方は、なぜか彼が拳銃を持っているのを知っていた。とすると、稚内へ行くことだって、知っている可能性があるのだ。 (とすると、このまま、「宗谷3号」で稚内へ行くのは、危険かも知れないな)  と、男は考えた。  男は、もう一杯コーヒーを頼み、それを前に置いて、時刻表を見直した。   宗谷3号   名  寄  19:30    ↓   美  深  19:50    ↓   音威子府  20:16   ───         20:17    ↓   天塩中川  20:47    ↓   幌  延  21:20   ───         21:20    ↓   豊  富  21:35    ↓   南稚内   22:12    ↓   稚  内  22:16  危険だからといって、名寄から稚内まで、タクシーで行くのもどうかと思った。  雪は降り続いているから、夜になると、道路は凍結してしまうかも知れない。道路が、不通にでもなったら、復讐の時間がおくれてしまう。  男は、札幌のホテルで、警視庁の十津川警部に手紙を出してしまった。あれは、これから自分のする行為を誰かにわかって貰いたかったのと、十津川警部に宣言することで、自分自身に弾みをつけようと思ったのだ。もう後戻りはできないのだと、自分にいい聞かせるためである。  あの手紙は、明日の午後には、東京の十津川のところに着くだろう。  それまでにすべてを終えているつもりなのだ。  しかし道路が不通にでもなって、明日になってしまうと、事情を知って、十津川が稚内の警察に連絡して、復讐を止めようとするに違いない。  だから何としてでも、明日の朝までに、できれば今夜中に、あの男を殺したいのだ。 (タクシーの区間は、短くした方がいいだろう)  と、男は、思った。  一九時三〇分まで何とか時間を潰して、男は「宗谷3号」に乗った。  すでに周囲は暗い。雪は相変らず軽い粉雪で、大雪になる気配はない。  地図では、天塩川に沿って列車は走っているはずなのだが、粉雪が舞う夜では何も見えなかった。  ヒーターは利き過ぎているくらいで、車内は暑かったが、男は拳銃が内ポケットに入っているので、上衣を脱ぐわけにはいかなかった。  美深《びふか》、音威子府《おといねつぷ》と、停まるたびに、男は注意深くホームに眼をやった。  リサと大男は、多分終点の稚内で、待ち伏せていると思うのだが、あるいは男が名寄で降りたと知って、稚内までの途中で降りて待っていることも、考えられたからだった。 「宗谷1号」の次は、「宗谷3号」しかないし、その列車が稚内行きの最終なのである。とすれば、途中の駅で待っていて、この「宗谷3号」に乗れば、またつかまえられると考えるだろう。  何としてでも拳銃を奪いたければ、この列車に、乗り込んでくるに違いない。  幌延《ほろのべ》に着いたとき、男はホームに北川リサがいるのに気がついた。 (やはり、いた)  と、男は思った。  男は最後尾まで通路を走って行き、列車が停まると同時にホームに飛びおりた。  ここは三十秒の停車時間である。男が降りるとすぐ、「宗谷3号」は動き出した。  ホームから、北川リサの姿が消えているところをみると、乗り込んだのだ。 (うまくいった)  と、思わず、男がニヤッとする。動く列車の窓から必死にこちらを見ているリサの顔が見えた。  男は軽く手をあげて見せてから、改札口に向って歩き出した。  駅を出てすぐ、男はタクシーに乗り込んだ。 「稚内に行ってくれ」  と、男はいった。  タクシーは国道40号線、通称、稚内国道を、北へ向って走り出した。  タクシーがスピードをあげると、粉雪が舞いあがる。 「稚内まで、どのくらいかかるね?」  と、男は、運転手にきいた。 「一時間半くらいですよ」  とタクシーの運転手はいった。それだと「宗谷3号」より三十分ほどおくれて、稚内に着くだろう。 「道は、大丈夫かね?」 「このくらいの雪なら、何ということもありませんよ」 「じゃあ、安心だ」  男は、背中をシートにもたせかけて、眼を閉じた。  北川リサはうまく撒《ま》いてやったが、大男の方はどこにいるのだろうか? 「宗谷1号」に乗って、稚内まで行ったのか。 (それに、あいつはなぜ、拳銃を欲しがっているのだろうか? おれから百万円を取り上げたのだから、それで満足すればいいのに)  眼をつむって、考え続けた。どうもうす気味悪いのだ。  小坂井を殺すのを、あの大男が邪魔するような気がして仕方がなかった。 (どうしても拳銃が欲しいのなら、その百万円で買えばいいだろうに)  とも、思う。  男だって、金を積み、いろいろと手をつくして、暴力団から拳銃を手に入れたのである。S&Wの三八口径リボルバーである。六連発で、二発試射したので、あと四発しか残っていないが、小坂井一人を殺すのに十分だろう。 「お客さんは、どこからいらっしゃったんですか?」  と、運転手が話しかけてくる。  男は眼を開けた。 「東京からだよ」 「やっぱりね。東京の方だろうって思いましたよ」 「なぜだい?」 「わたしも昔、東京に住んでたことがあるから、何となくわかるんですよ」 「そう──」  男は、前方の闇に、眼をやった。  東京の道路のように、街灯は多くない。というよりほとんどないから、道路は暗い。車のライトの届く範囲だけが明るくなり、そこに粉雪が舞っている。  道路の両側は、雑木林や畠や山脈《やまなみ》などなのだろうが、暗い闇に溶け込んでしまっていた。  それより、左手には利尻富士があるはずなのだが、それも見えない。     3  運転手のいった通り、一時間半ほどで、タクシーは稚内に着いた。 「どの辺へ、着ければいいんですか?」  と、運転手がきく。 「税務署の近くだというんだがね」 「私は、幌延の人間で、よくわからないから、聞いて来ますよ」  と、運転手はいい、JR稚内駅前で車を停めると、降りて、派出所に聞きに行ってくれた。  男は、また眼を閉じて、シートに身体を埋めた。  突然、ドアが強引に開けられたので、はっとして眼を開けると、大男が乗り込んできた。  同時に、運転席にも若い男が乗り込み、いきなり、タクシーを発進させた。 「何をするんだ?」  と、男が叫ぶと、彼の隣に入って来た大男は、ナイフを脇腹に突きつけた。 「拳銃は、どこだ?」  と、いった。  その声は、まぎれもなく「宗谷1号」の車内で脅迫してきた男の声だった。 「君たちは、何者なんだ?」  と、男は青ざめた顔で、きいた。 「そんなことは、どうでもいいから、早く拳銃を出せよ」 「そんなものは、持ってない」 「あんたは辻村さんだろう? それなら拳銃を持っているはずだ。出せよ」  と、大男はいい、ナイフの先で脇腹を突ついた。  その間も運転席の若い男はアクセルを踏みつけ、むちゃくちゃに車を飛ばして行く。 「上衣のポケットか?」  と、大男は、彼の上衣の内側に、手を突っ込んできた。  その時、対向車が、スピードをあげて迫ってきた。一一トントラックだった。  若い男が、反射的にハンドルを切る。  大男の不安定な身体が、ドアに叩きつけられた。  彼の脇腹に突きつけられていたナイフが、宙に泳ぐ。  男は、必死で、内ポケットから拳銃を抜き出して、大男に向けた。 「降りろ!」  と、叫んだ。  だが、大男はせせら笑って、殴りかかってきた。  彼は、反射的に、引金をひいた。  狭い車内に銃声がひびきわたり、大男が悲鳴をあげた。右|肱《ひじ》に弾丸が命中したのだ。  血が噴き出し、ナイフが床に落ちた。 「おい、何してるんだ!」  と、運転していた若い男が、ブレーキを踏んだ。  車が、急停車する。男は、ドアを蹴飛ばして開け、道路に飛びおりた。 「逃げるのか! この野郎!」  という怒鳴り声を聞きながら、彼は走った。  稚内のどこを走っているのか、わからなかった。とにかく、暗がりに逃げ込んで、やっと一息つき、手に持っていた拳銃を、内ポケットにしまった。  ぜいぜい息を切らしていた。それが少し落ちついてきた時、突然、 「おい! 辻村、逃げられるもんじゃないぞ! 素人がそんな危ないもの持ってたら、怪我するぞ! すぐ出て来て、それを渡したらどうなんだ!」  と頭の上で、大きな声が、ひびきわたった。  マイクを使って、あの二人が、がなり立てているのだ。  男は、怯えた。彼らがなぜ、これほど執拗に、拳銃を欲しがるのか、その理由がわからないことへの怯えだった。  男は、彼らのわめき立てるような声に追われるように、暗がりへ、暗がりへと、身体を移動させて行った。  しかし、彼らは、しつこく追いかけてきた。 「いいかげんに出て来ないか! どこまでも、追いかけるぞ! 早く渡さないと、捕まえて、首を締めあげてやるぞ!」  マイクの声が、移動する。  まるで、その声に包囲されてしまったような感じだった。  今度は、もう一人の声が、暗闇を引き裂いた。 「辻村さんよォ。そんなもん、あんたは要《い》らんだろうが。おれたちに、大人しく渡したらどないなんや。それとも、死にたいんか!」  新しい声は、関西弁で怒鳴った。からかっている感じで、余計に、恐ろしかった。 (どうしたらいいだろう?)  彼は、動くことができなくなった。一刻も早く、小坂井のやっている喫茶店へ行きたいのだが、明るい場所へ出て行けば、たちまち連中に捕まってしまうだろう。  このままでは、理佐の仇が討てない。  その時、遠くで、パトカーのサイレンが聞こえた。  それが、次第に近づいてくる。がなり立てていた連中の声が、急に止んでしまった。  男は、ほっとした。多分この近くに住む人たちが、マイクの声がうるさくて、一一〇番したのだろう。それとも、タクシーを盗まれた運転手が、一一〇番したのだろうか。  いずれにしろ、男は、ほっとして暗がりから出た。明るい場所へ歩いて行った。パトカーが、男の傍を走り抜けて行った。  男は、通りがかったタクシーをとめた。 「税務署のあるところまで、行ってくれないか」  と、男がいうと、中年の運転手は、ミラーの中をちらちら見ながら、 「この時間じゃあ、税務署はもう閉まっていますよ」 「わかってるよ。税務署に用があるんじゃないんだ。その近くに用があるんだよ。とにかく、早く行ってくれ」  と、男はいった。  運転手は、わかったというように肯いて、車を出した。 「お客さんは、どこからいらっしゃったんですか?」  と、運転手がきく。 「東京からだよ」 「東京の人ですか。夜おそく着かれたんですねえ」 「疲れてるんだ。少し、黙っててくれないかね」  と、男はいった。 「わかりました。すいません」  運転手は肯いた。が、急にきょろきょろしだした。車のスピードも、おそくなった。  男は、眉を寄せた。 「何をしてるんだ?」 「お客さんのいわれた税務署を探しているんですよ。確か、この辺にあったはずなんですがねえ」 「───」  男も、窓の外に、眼をやった。その顔が急にゆがんだ。  男は、東京を出発する時、稚内の地図を見ている。  目標とする稚内税務署が、街のどのあたりにあるかだけは、知っているのだ。  今、窓の外に、暗い海が見えた。ここは稚内港の近くではないのか? 税務署は、地図で見た時、海の傍ではなかった。  北川リサと名乗る女に欺されたり、大男たちに襲われたりして、男の神経は萎《しぼ》んでいた。  男は、拳銃を取り出して、運転手の後頭部に突きつけた。直前に大男に向って発射しているので、度胸がすわってきていた。 「どこへ行くつもりなんだ?」  と、男は、押し殺した声を出した。  運転手の肩が、ぴくんと、ふるえた。 「助けて下さい」  と、ふるえる声を出した。 「おれは税務署へ行けと、いってるんだ。海を見たいとは、いってないぞ」 「だから、探しているんですよ。助けて下さいよ」 「それなら、早く行ってくれ」  と、男が拳銃を相手から離した瞬間、運転手は突然、ドアを蹴破るようにして外へ飛び出した。  男は、射つわけにもいかず、苦笑して見送っていたが、運転手の逃げて行く先に、交番の赤い明りがあるのに気付いて、あわてた。 (あの野郎!)  と、舌打ちして車から外へ出た。  運転手は、警察を探していたのだ。車を乗り逃げされた幌延のタクシー運転手が、駅前の派出所に訴えたのだろう。運転手は、大男たちのことは知らないだろうから、幌延から乗った男が乗り逃げしたと思い込み、彼の顔立ちを警察に知らせたに違いない。  たちまち、そのことがこの稚内のタクシー運転手たちの間に、口コミで広がった。今の運転手もそれを知っていて、だから、バックミラーでじっと男の顔を見、探るような質問をしていたのだ。そして乗り逃げ犯人と見て、警察に引き渡そうとしたのだろう。 (どうして、こんなことになるんだ?)  と、男は、腹を立てながら、深夜の稚内の街を歩いた。 (おれは、たった一人の男を殺したいだけなんだ。ほかの人間に迷惑をかける気なんか、ぜんぜんないんだ。それなのに──)  と、思う。  警察の明りが見えると、あわてて路地に逃げ込む。今、職務質問されて拳銃が見つかったら、たちまち留置場にぶち込まれてしまうはずだ。  ふと、駅の前に、稚内の観光案内地図が立っているのを見て、男が立ち止まった。  現在位置が描いてある。男は、そこから税務署の場所まで眼で追ってみた。  どうやら、ここから北東の方向に、五、六キロの所のようだ。歩いて行くと、一時間半はかかってしまうだろう。といってタクシーに乗れば、また警察に駈け込まれる心配がある。  男は、仕方がないので、考えながら、税務署の方向に向って、歩き出した。  途中で自転車置場があり、あふれた自転車が放置されているのを見て、男はそれを無断で借りることにした。  乗って、走り出した。  観光地図にあった道路を頭に描きながら、ペダルをこぐ。  車の往来は少くて走りやすい。寒さも気にならなかった。これなら十五、六分で着けるだろう。  自転車の横を通過した車が、進路をふさぐように斜めに急停車した。  ドアが開いて、男が二人、降りて来た。  あの大男と、パンチパーマの若い男だった。 (またか)  と思い、あわてて自転車の方向を変えて逃げ出した。 「待て!」  と、二人のどちらかが、大声で叫ぶのが聞こえた。  彼らは車に戻って、今度は車が追いかけてくる。たちまち、追いつかれる。  彼は、細い路地に、逃げ込んだ。男たちは車から降りると、駈け足で、追いかけて来た。 (どうしてなんだ? なぜ、こんなにしつこいんだ?)  と、呟きながら、彼は、必死でペダルをこいだ。  連中は多分、ヤクザかチンピラだろう。拳銃を欲しいのはわかるが、百万円を奪ったんだから、それで買えばいいじゃないか。なぜ、そんなに追いかけ廻して、おれの拳銃を奪《と》ろうとするんだ?  足が、だんだん疲れてくる。ふと足をとめると、聞こえていた連中の足音が聞こえなくなっていた。  ほっとして、自転車から降りた。が、また道がわからなくなってしまった。この深夜では、道を聞く相手も見つからない。  男は、もう一度、さっきの観光地図を思い浮べ、自転車で逃げ廻ったルートを必死で考えた。それを重ね合せて、今の自分の位置を知りたかったのだ。  幸い雪が止み、月が出ている。前方に小高い丘が見えた。それが市民スキー場のある稚内公園だろう。有名な氷雪の門のある場所だ。  とすると、反対方向は海岸になる。  税務署は、海岸から稚内公園に向って進み、右に折れた方向のはずだった。  男は、自転車にまたがり、公園に向って走り出した。  通りに出たら、右に折れればいい。  周囲は、やたらに静かだった。大男たちもどこかへ行ってしまったらしい。  通りへ出た。  右に折れて、まっすぐ走る。  突然、とまっていた灰色の車が、眠りをさました獣のように、エンジンの唸り声をあげた。男の自転車に襲いかかってきた。  男の自転車は、はね飛ばされ、彼は歩道に叩きつけられた。  それでも、男は、夢中で起き上った。まだ参るわけにはいかないのだ。  よろけながら、逃げる。  自転車をはね飛ばした車は、急ブレーキをかけてとまり、猛スピードでバックして来た。 「捕まえろ!」  と、例の大男が、叫んでいるのが、聞こえた。 「殺しちまえよ」  と、若い方が、面白そうにいっている。  二人が、車から降りてくる。 (もう、逃げられない)  と、男は思った。右足がやたらに重い。はね飛ばされた時、どうにかなったらしい。  すぐ、捕まってしまうだろう。そして、連中は、おれを脅して拳銃を取りあげるに違いない。  男は、拳銃を取り出した。近づいたら、射ち殺してやる。殺せるかどうか、わからなかったが──  だが、連中は、どうしたのか、あわてた感じで、車に駈け戻り、乗り込むと同時に、逃げるように発進させた。  男は、呆然と見送っていたが、パトカーがゆっくり近づいてくるのを見て、そうかと思った。  男はほっとしながらも、自分も警察に捕まってはならないのだと思い、暗がりに身を伏せた。  パトカーがとまり、警官が一人おりて来た。はね飛ばされたスポークや、タイヤのひん曲った自転車を調べている。  だが、パトカーに残っていた警官に呼ばれて、自転車を放り出して、戻って行った。そのまま、警官は無線電話で報告を始めた。ドアを開けたままなので、その声が聞こえてくる。 ──例の男ですが、まだ見つかりません。はねられたと思われる自転車が転がっており、車が逃げ去るのを見ましたから、例の男は、自転車に乗って来て、はねられたと考えられます。場所は、×丁目で、問題の税務署までは、二百メートルほどです。周辺に、血痕といったものは見つかりません。 (おれのことを、いってるんだ)  と、男は、思った。税務署といったのは、彼がタクシーの運転手に、税務署の近くに行ってくれといったからだろう。 (すっかり、タクシー強盗に間違えられてしまったらしい)  と、男は、思った。状況から見て、それも仕方がない。とにかく、娘の仇を討ったあとは、もう、この世に未練はなくなるのだ。  無線での連絡をすませると、パトカーはゆっくり走り去って行った。  男は立ち上り、歩き出した。税務署まで二百メートルといった警官の言葉が、彼を力づけた。  右足を引きずりながら、必死で、歩き続けた。  やがて前方に、それらしい建物が見えてきた。 〈稚内税務署〉  の看板が、見えた。  多分、あの建物の周辺には、タクシー強盗を逮捕しようとして、刑事たちが張り込んでいるだろう。  だが、こちらは、小坂井のやっている喫茶店に、用があるのだ。 (お生憎《あいにく》だな)  と、男は、小さく笑った。  暗がりを選んで歩きながら、男は、喫茶店を探した。  見つけた。ガラスドアに、金色で、探していた名前が書いてあるのを見つけた。  二階建で、階下の店の部分は真っ暗だが、二階には明りがついている。二階が住居になっているらしい。  男は、裏口に廻った。  緊張し、右足の痛さを忘れていた。店の入口の方はきれいだが、裏口は汚れて、安っぽい。  拳銃を抜き出し、男はその台尻で、ガラスを叩き割った。周囲が静かなせいか、大きな音に聞こえた。  男は、耳をすませた。が、これといった反応はない。男は割れたところから手を差し入れ、カギを外した。  裏口のドアを開けて、中に入る。  人のいない店だった。男は、そのまま二階へ上ろうか迷ったが、店のテーブルの一つに腰を下ろし、わざと、椅子の一つを床に倒した。  大きな音がした。  二階で、人の動く気配があった。  男は、じっと、待った。階段を降りてくる足音が聞こえた。  パジャマの上にカーディガンを羽織った男が、降りて来て、スイッチを入れた。  ふいに店の中が明るくなった。店の主人は、じっと店の中を見廻していたが、その視線が止まった。 「誰だ?」 「小坂井だな。私の顔を覚えていないか?」  と、男は、拳銃を持ったまま、声をかけた。  店の主人の小坂井は、眼を細めて、じっと見ていたが、 「あんたは──」 「あんたに殺された理佐の父親だよ」 「辻村さん──」 「そうだよ、辻村だよ。あんたを殺しに来たんだ。娘の仇を討ちに来たんだ」  男は、喋りながら、じっと拳銃の狙いをつけた。  小坂井の顔が、恐怖のためにゆがんだ。 「あれは、事故だったんだ」 「私はそう思ってないんだよ。あんたが、殺したんだ。だから、親として、娘の仇を討つんだ」 「僕を殺せば、あんたも刑務所入りだぞ」 「わかってるさ」  と、男は、いった。 「助けてくれ」  と、小坂井は甲高い声でいい、床にしゃがみ込んだ。這いつくばるようにして、男に向って頭を下げた。 「みっともない真似は、やめるんだ。立てよ。立つんだ!」  と、男は、怒鳴った。  その時、突然、若い女の声が、走った。 「辻村さん、止めなさい!」     4  いつの間にか若い女が裏口から入って来て、男に向って拳銃を構えていた。  男は、はっとして眼を向けたが、その顔に驚きの色が広がった。 「宗谷1号」の車内で出会った女だったからである。北川リサと嘘をつき、ショルダーバッグの中を調べていた女である。 「あんたは、誰なんだ?」  と、男は、きいた。 「北条早苗。警視庁捜査一課の刑事です」 「刑事?」 「十津川警部の下で、働いています。あなたが理佐さんの仇を討つ気持ちを捨てないので、警部が心配して、私を尾行させたのです」 「やっぱり、私を、尾行していたのか」 「そうです。こんなことをさせないためです」 「私の娘の名前を名乗ったのは、なぜなんだ? 私を、欺しやがって」  と、男は、なじるようにいった。 「何とかして、あなたの気持ちを、なごませたかったからです。娘さんのことを思い出して下されば、仇討ちみたいなことは諦めて下さると思ったんです」  北条刑事は、喋りながらも、油断なく拳銃を構えていた。 「そいつは、私の娘を殺したんだ!」  と、男は、怒鳴るように、いった。 「でも、殺すつもりで、ああなったんじゃありませんわ」 「父親の私には、同じことだ」 「その拳銃を、渡しなさい」 「ほんのちょっと、眼をつむってくれればいいんだ。そのあとは、私を捕まえてくれていい。射殺してくれてもいいんだ」  男は、泣くような声で、いった。  だが、北条刑事の表情は、かたいままだった。 「駄目です。もし、あなたが射とうとすれば、私があなたを射ちます」  と、彼女はいい、拳銃を構えたまま、一歩、二歩と、近づいてきた。そのまま、小坂井をかばう恰好になった。  もう、男には、小坂井は、射てなくなった。射つためには、その前に立ちはだかっている女刑事を、まず射たなければならない。 「そんな詰らない奴を、君は、かばうのか?」  と、男は、北条刑事をなじった。 「どんな人間の命も、奪ってはいけませんわ」 「だが、そいつは、私の娘を殺したんだ」 「わかっていますわ」 「わかっているんなら、どいてくれ!」  と、男は叫んだ。  次第に興奮してきて、男が引金をひこうとした瞬間、北条刑事が射った。  銃声と同時に、男は右腕に激痛を受け、拳銃を取り落とした。  北条刑事は、冷静に、怯えている小坂井に、 「すぐ、救急車を呼びなさい」  と、指示を与えた。  小坂井は、弾かれたように、電話のところへ飛んで行った。  北条刑事は、射たれた右腕をおさえている男の傍に寄って行った。 「ごめんなさい。腕をかすめるように射とうとしたんですが、当ってしまって。まだ、腕が未熟なんです」 「ちょっと、かすっただけだよ。私は、また、奴を狙うよ。これで、諦めたりはしないぞ」  と、男は、青白い顔でいった。 「私が、また、邪魔します。十津川警部から、そう命令されていますから」  と、北条刑事はいい、男が取り落とした拳銃を拾いあげて、自分のハンドバッグにしまった。  救急車が、やって来て、応急処置をしてから、男を救急病院に運んで行った。それには北条刑事が同行した。  彼女の射ったベレッタ22の小さな弾丸は、男の右腕の上膊《じようはく》部を貫通していた。骨には当っていないので、手当ては意外に簡単だった。  傷口を縫い合せ、包帯を巻く間も、局部麻酔だったので、男はじっと見ていることができた。  病室で、ベッドに寝かされた。  一人用の個室で、枕元の椅子に、北条刑事が腰を下ろした。 「あんたは、もう、帰ってくれ」  と、男は、彼女に向っていった。 「夜が明けるまで、ここにいます」  と、北条刑事は、男の眼を見返すようにして、いった。 「なぜだ? 私がまた、小坂井を殺すと思っているのかね? いつかまたやってやると思ってるが、今日は、この腕じゃあ、奴の首を絞めるわけにもいかないよ」 「小坂井さんのためじゃありません。あなたのために、ここにいるんです」  と、北条刑事はいった。 「私のため?」 「あなたが手術を受けている間、十津川警部に電話で報告して、今後の指示を仰ぎました。警部は、あなたが心配だから傍にいるようにといわれたんです」 「小坂井が、私を襲うとでもいうのかね?」 「彼にはそんな元気はありませんわ」 「じゃあ、誰が私を?」 「二人の男がいます。百八十センチを超す大男と、その連れの男ですわ」  と、北条刑事はいった。  男は、また、びっくりして、 「連中のことを知ってるの?」 「あなたが狙われたことは、知っていますわ」 「連中は、何者なんだ? なぜ、私をしつこく狙うのかね?」 「それがまだ、わかりません。大男の方は、東京からあなたを尾行して来たと思われるので、似顔絵を東京に送って、調べて貰っています」 「連中は、必死で、私の拳銃を取りあげようとしたんだ」 「拳銃を?」 「そうだよ。連中には百万円の入った封筒もだ。今度会ったら、その百万円で買えばいいじゃないかといってやりたいね」 「寝て下さい」 「え?」 「あなたは、疲れています。それに、私が腕を射った。だから早くお休みになった方がいいと思いますよ」  と、北条刑事はいった。 「他人がいると、眠れないんだ。悪いが、もう帰ってくれないか。それとも、私を拳銃不法所持で逮捕するかね?」 「私には、それを決める権限はありませんわ」  と、北条刑事はいった。が、それでも、病室を出て行ってくれた。  ひとりだけになると、男は急に、ベッドに寝たまま、涙が出てくるのを感じた。娘の仇を討ってやれないこと、緊張が解けないことなど、様々な感情が急に襲ってきたためかも知れなかった。  その激しい感情が、通り過ぎると、今度は、十津川警部に宛てて出した手紙のことを思い出して、恥しさが男を支配した。 〈この手紙が届く頃は、私はすでに死んで──〉  などと、キザなことを書いたのに、十津川が手紙を見る時になっても、おれは、娘の仇も討てず、死にもせずにいるのだという恥しさだった。 (なんというだらしのない男なのだろうか)  今度は、口惜し涙が出てきた。  若い頃は、すばしっこさでは誰にも負けなかった。手も早かった。たいていのケンカには、負けなかったものだ。  それが、なんだろう。ヤクザとチンピラみたいな二人連れから逃げ廻り、あげくの果てに、亡くなった娘と同じ年頃の女刑事に拳銃を取りあげられ、お説教までされる始末だ。 (年齢《とし》には、勝てないということか)  情けなかった。  痛む腕を抱えるようにして、彼はベッドから起き上り、窓の所まで歩いて行った。カーテンを開けると、遠くの空が明るくなってくるのがわかった。  挫折からまた深い疲労が、彼に襲いかかってくる。  ベッドに戻り、仰向けに寝転んだ。 (おれは、どうなるんだろう?)  おれは──と、呟いているうちに、男はいつか眠ってしまった。  疲れると怖い夢を見るというが、本当だった。夢の中では、娘の理佐はまだ生きていて、彼女が若い男にナイフで刺されて、殺されるのだ。  犯人を追いかけようとするのだが、足が鉛のように重くて、走ることができない。犯人が嘲笑するように振り向いて、おいでおいでをする。その顔が、小坂井から、あの大男に変り、そして、パンチパーマの若い男に、変っていく。  こちらが、拳銃を構えて射とうとすると、三人も、いっせいに拳銃を構える。あわてて、引金を引くのだが、弾丸が出ない。  嘲笑しながら、三人が拳銃を射つ。激しい銃声がした──  銃声、いや、何だかわからないが、激しい爆発音に、男は眼を開けた。  病室に、白煙が入り込んでいた。  事態がよくわからないままに、男はベッドから転がるようにして降りた。  患者や看護婦の騒ぐ声が、聞こえてくる。 「火事だ!」  という叫び声も、聞こえる。  男は、左手で病室のドアを開けて、廊下に出ようとした。が、次の時、強い力で、逆に押し返され突き飛ばされた。  床に仰向けに、転がった。  大きな男が、倒れた彼を見おろすように、突っ立っている。あいつだった。  パンチパーマの男も、続いて入って来た。二人とも、拳銃を手に持っている。 「手こずらしやがって」  と、大男は、いまいましげに舌打ちし、 「拳銃は、どこなんだ? さっさと出せよ!」  と、怒鳴った。  パンチパーマの男は、拳銃を向けたまま、トランシーバーに向って喋っている。二人の仲間が、ほかにもいるのだろう。 「早くしろ!」  と、大男は大声をあげ、拳銃を一発、二発と射った。倒れている彼の頭の近くに、弾丸が突き刺さった。 「私は、持ってない」  と、彼はいった。 「嘘をつくんじゃない!」 「本当だ。私は、もう、持ってないんだ」 「じゃあ、どこにあるんだ?」 「警視庁の──」  刑事が──と、いいかけたとき、だだッと廊下を鳴らして、四、五人の男女が飛び込んで来た。  その一人は、北条刑事だった。 「拳銃を捨てなさい!」  と、彼女が叫んだ。  刑事たちだった。  パンチパーマが、拳銃を射った。  刑事たちが、射ち返す。パンチパーマの身体が、宙にはねあがり、床に叩きつけられた。  大男は、窓に向って突進し、外に向って飛びおりた。刑事たちが、窓に駈け寄り、外を見た。  男は、のろのろと起き上った。傍には、パンチパーマの男が、血まみれで倒れている。ぴくりとも動かないのは、死んでいるのだろうか。  刑事たちは、窓を閉め、北条刑事だけを残して病室を出て行った。 「逃げられたわ」  と、北条刑事は拳銃をしまいながらいった。 「火事は、大丈夫なんですか?」  と、男がきくと、北条刑事は、微笑した。 「火事じゃありません。連中が、発煙筒を爆発させて、病院中を混乱させたんです」 「なぜそんなことをしたんですか?」 「辻村さんを殺すためか、拳銃を欲しいかでしょうね」 「それなんですが──」 「え?」 「ここに死んでる男は、拳銃を持っていますよ。それに、窓から飛び降りて逃げた大男も、拳銃を持っていました。みんな持ってるのに、なぜ、私の持っていた拳銃を欲しがるのか、わからなくなったんですよ」  と、男はいった。 「そういえば、そうですね」  と、北条刑事はいい、死んでいる男と、その傍に放り出されている拳銃を見つめた。 「ねえ。辻村さん」  と、北条刑事は、男の傍に腰を下ろして、 「私が預かった拳銃は、どうやって、手に入れたんですか?」  と、きいた。 「あれ、特別な拳銃なんですか?」 「いいえ。ありふれたS&Wの三八口径ですわ」 「それなのに、なぜ、あんなに欲しがるんだろうか?」 「だから、不思議なんです。いくらで、誰から、買ったんですか?」  北条刑事は、まっすぐに、男を見つめた。 「どうしても拳銃が欲しかったので、必死で売ってくれる人間を探しましたよ。そうしているうちに、K組の人間が、二百万出せば何とか手に入れてやるといって来たんです。少し高いと思いましたが、二百万で買いました」 「その男の名前は?」 「絶対に秘密にしてくれと、いわれているんですよ」  と、男は、いった。 「でも、いって下さい。これは、只事《ただごと》じゃありませんから」  と、北条刑事は、いう。 「水野信一という男です。三十五、六歳の男でしてね。K組では中堅クラスの男のような気がしましたよ」  男のいうことを、北条刑事は手帳にメモしていった。  昼過ぎになって、男は意外な人の訪問を受けた。  十津川警部が、突然東京からやって来たのである。札幌のホテルから出した手紙のことで来たのかと思ったが、それにしては早過ぎた。  男は、十津川と何回か会っている。娘の理佐のことでは警察と裁判所に対して、不信感を持っているのだが、その中では唯一、信用できる人間だった。  十津川は、病室で男と二人だけになると、 「あなたにいろいろとお聞きしたいことがあるんですよ」  と、丁寧にいった。 「小坂井を殺そうとしたことは、悪いとは思っていませんよ」  と、男は機先を制する恰好でいったが、十津川は軽く肯いただけで、 「今、北条君に聞いたんですが、あなたは拳銃を水野信一というK組の人間から買ったそうですね?」 「ええ」 「実はその男の死体が昨日見つかったのです。死後五日たっていました。拷問された形跡がありました」  と、十津川はいった。 「それが私と関係があるんですか?」  男は、十津川の話が何をいいたいのか把握しかねて、首をかしげた。 「水野が、誰に、なぜ、あんな残酷な殺し方をされたのかわからなかったんですが、あなたの拳銃を奪おうとしている大男のことから解けてきました」 「あの大男の身元が割れたんですか?」 「割れました。彼もK組の人間で、組長のボディガードを務めている男です」 「そんな男がなぜ?」 「一つだけ推理が可能でした」  と、十津川はいった。 「教えて下さい」  と、男はいった。 「去年の十月末に、香月実という保守党の代議士が自宅で射殺されました。犯人は未だにあがっていませんが、香月代議士はK組の組長との交友関係が噂されていた人物なのです」 「なぜ、そんなことまで、私に話してくれるんですか?」 「あなたに関係があるからです。香月実を殺したのは、K組の組長ではないかと思われました。その晩、土地取引きのことで香月実とK組の組長朝岡との間に、イザコザがあったといわれているからです。しかし、肝心の凶器が見つからなくては朝岡を逮捕できません」 「───」 「そんな時、朝岡のボディガード、大男の林が必死になってあなたの拳銃を奪おうとしていることを知ったのです。しかも、K組と関係のある北海道のN組の人間まで協力している」 「パンチパーマの若い男のことですか?」 「ほかにも何人か協力していることがわかったんです。おかしいとは思いませんか? 特別な拳銃ではない。普通のS&Wの三八口径リボルバーを、まるで組をあげて奪おうとしている。なぜだろうかという疑問が、当然わいて来ますよ」 「確かにそうですね」 「その上、あなたにその拳銃を売った組員が拷問の上、惨殺されている。それを結びつけて考え、一つの結論に達したわけです」 「話して下さい」 「もし朝岡組長が香月代議士を射殺した拳銃を、あなたが持っていたらどうだろうかと考えたんですよ。あなたは何とかして拳銃が欲しくてK組の水野に頼んだ。バクチで借金の溜っていた水野は、組長の拳銃を盗み出してあなたに売った。弾道検査をすれば、その拳銃が香月代議士殺しに使われたものとわかってしまう。K組の朝岡組長としたら、大変な事態になったわけですよ」  と、十津川はいった。  男は肯いて、 「それで組長はボディガードの林に命令して、私から拳銃を奪おうとしたんですね?」 「そうです。絶対に取り返して来いと命令されたんだと思いますよ」  と、十津川はいった。 「私にあの拳銃を売った水野が殺されたのも、そのせいですね?」 「ほかに考えられません。あなたの名前を聞き出すために拷問されたんです。そのあげく、組長のものを盗み出したということと口封じで殺されたんですよ」 「あなたのところの北条刑事も、私のショルダーバッグを調べていましたよ。列車の中でね。それも私から拳銃を取りあげようということだったんだろうか?」  と、男がきいた。  十津川は首を横に振った。 「あの時は、まだあなたが拳銃を持っているとは知らなかったんです。ただあなたはいつも、娘さんの仇を討つんだ、小坂井を殺してやるんだと宣言していた。その気持ちはわかりますが、私としてはそんなことをさせるわけにはいかない。それで北条刑事に尾行させたのです。急に動き出したからですよ。北条刑事があなたのショルダーバッグを探したのは、何か凶器を持っていたら、取りあげようと思ったからです。あなたを殺人犯にしたくないんです」 「しかし、私をタクシー強盗として手配したじゃありませんか? あれも私に小坂井を殺させないためですか?」  と、男は、きいた。  十津川は、苦笑して、病室のドアを開け、北条刑事を呼んだ。 「君が、説明してくれ」  と、十津川は、彼女にいった。  北条刑事は、生真面目な顔で、 「私は何とかして辻村さんに復讐を止めさせようと、思いました。それで、あなたのショルダーバッグまで、のぞくようなことをしたんですが、それは申しわけなかったと思います。あの『宗谷1号』の車内で、あなたが大男に狙われたのを、まだ知りませんでしたから、あなたが姿を消した時に、私から逃げたとしか考えませんでした」  と、いった。 「名寄で、降りたんですよ」 「そう思いました。しかしあなたが稚内へ行くことは知っていましたから、困りはしませんでした。必ず、次の『宗谷3号』で来ると思って、幌延で待っていました」 「知っていましたよ。あなたがホームにいたので。あの駅でこちらは降りてしまったんです」  と、男は、いった。  北条刑事は、笑った。 「確かに、肩すかしを食わされました。『宗谷3号』に乗り込んで、列車が出てから、あなたがホームに降りたのに気がついたんです。私の完全な失敗でしたわ」 「あれから私は、タクシーで稚内に向ったんです」  と、男は、いった。 「私は『宗谷3号』で、稚内に行きました。そして稚内警察署に行き、協力を求めました。あなたの顔写真をコピーして貰い、見つけたら私に知らせてくれるようにですわ」  と、北条刑事は、いった。 「私を見つけたら、逮捕しろといったんですか?」 「いえ、あなたはその時点では何もしていなかったし、拳銃を持っていることも知りませんから、逮捕はできませんわ。私としては、あなたは小坂井を殺しに稚内へ来るのだとは思いましたが、彼がどこにいるのか、わからなかったんです。稚内のどこへ行くか、それを知りたかったんですわ」 「しかし、やたらにパトカーが走っていましたよ」  と、男は、いった。 「その通りですわ。私は今いったようにあなたを見つけ、あなたがどこへ行くか、それを知りたかったんです。あなたが小坂井を殺すのを、何とかして防ぎたかったからですわ。その中に稚内署の刑事たちから、妙な話を聞いたんです。地元の暴力団N組の人間が、必死になってあなたを探しているという噂です。理由はわかりませんでしたが、私はあなたが危険だと思いました。それで、パトカーを出して貰い、もしN組の連中があなたを殺そうとしていたら逮捕するように頼んだんです。タクシー強盗ということとは違います」  と、北条刑事はいった。 「私を守ってくれたというわけですか?」 「結果的に、そうなりましたね」  と、北条刑事は笑ってから、 「そのうちに、どうやらN組の連中は、あなたの拳銃を奪おうとしているらしいことがわかって来ました。それにもう一つ、あなたはタクシーに乗り、税務署へ行くようにいっていたことです。あなたが稚内の税務署に用があるはずがないから、多分その近くに小坂井の家があるに違いないと考えました。それで私は、その近くに張り込んで、あなたが現われるのを待ったんです」  といった。     5  北条刑事は言葉を続けた。 「幸い私が張り込んでいる場所に、あなたが現われました。それで、間一髪のところで、あなたが小坂井を殺すのを止めることができたんですわ」 「もし私が彼を射ち殺していたら、どういうことになったんですか? 殺人犯として逮捕されるのは覚悟していたし、彼を殺したらすぐ、私も死ぬ気でしたがね」  と、男は、いった。 「それだけではすまなかったと、思いますよ」  と、十津川がいった。 「どういうことですか? それは──」 「あの拳銃で、去年、香月代議士が射殺されていることを忘れたんですか? この拳銃であなたが新しい事件を起こせば、香月代議士殺しの疑いまでかぶってしまいますよ」  と、十津川はいった。 「そんなバカな──」 「でも、そうなったと思いますよ。同一拳銃ということが判明すれば、警察としては当然、同一犯人と思いますからね」 「───」 「K組の朝岡組長は、喜んだかも知れませんね」  十津川は、からかうように、いった。 「これから、どうなるんですか?」 「問題の拳銃は、もう東京に送られました。同一の拳銃とわかれば、直ちにK組の組長を逮捕します」 「あの大男は、どこにいるんですか? まだ見つからないんですか?」  と、男は、きいた。 「今、稚内市内に、手配をして、道警が追ってくれています」 「また、私を襲って来ますか?」 「いや、それはもうないと思っていますよ。彼は失敗したし、問題の拳銃が警察の手に渡ったことを知ったと思うからですよ。恐らく、もう東京の朝岡組長に、連絡したと思いますね」  と、十津川は、いった。 「私は、これから、どうなるんですか?」  と、男が、きいた。 「あなたのやったことは、小坂井に対する殺人未遂、拳銃不法所持の二つだけですね」 「それでも、逮捕されるわけでしょう?」  と、男は、きいた。  十津川は、その質問には直接答えずに、 「私は、取引きというのは、好きじゃないんですがね。あなたとは、それをしたいと思っているんですよ」 「取引きですか?」 「朝岡組長を起訴した場合、あなたの証言が必要になって来ます。K組の水野から、あの拳銃を買ったという証言です」 「証言すれば、私を、逮捕しないというわけですか?」 「そうです。あなたはまだ誰も殺してないのだし、朝岡組長の逮捕に協力してくれるわけですからね」  と、十津川は、いった。 「証言はしますよ」  と、男は、いった。 「ありがとう」 「しかし断っておきますが、私は小坂井を殺すことを諦めませんよ。誰が何といおうと、あの男が理佐を殺したんです」  男は、きっぱりと、いった。  十津川は、しばらく考えていたが、 「外出できますか?」  と、突然きいた。 「外出? どこへ行くんですか?」 「一緒に来てくれれば、わかりますよ」  と、十津川は、いった。  男は、十津川について病室を出た。外にとまっている道警のパトカーに乗り込むと、十津川が運転席の若い警官に、 「T病院に、行って下さい」  と、いった。 「何しに行くんですか?」  と、男が、きいた。 「行けば、わかりますよ」  としか、十津川はいわなかった。  T病院に着いても、十津川は黙って入って行くだけで、説明をしてくれない。仕方なく、男は彼のあとについて歩いて行った。  十津川が連れて行ったのは、三階の集中治療室だった。  普通、家族以外は入れないのだが、十津川は医者に頼んで、入れてもらった。  白衣を羽織って中に入ると、三つ並んだベッドの一つに、男が一人、横たわっていた。男の顔には酸素マスクがつけられ、医者と看護婦が、見守っている。  その患者が、小坂井とわかって、男はびっくりした。 「どうしたんですか?」  と、男は小声で十津川にきいた。 「あなたが北条刑事に腕を射たれて病院に運ばれたあとで、大男とパンチパーマの二人が小坂井の店へ押しかけたんですよ。大男は、ここに辻村が来たはずだ。どこへ行ったか、教えろといったようです。小坂井が黙っていると大男は殴った。小坂井が教えるまで殴り続けたんです」 「───」 「小坂井は最後まで教えなかった。それでこうなっているんです。今のところ助かるかどうか五分五分だと、医者はいっています」 「なぜ彼は私のことをいわなかったんですか?」  と、男はきいた。 「わかりませんが、多分、あなたに対して申しわけないことをしたという反省のためでしょう。私はそう思いたいんですよ」 「───」 「小坂井が大男たちに黙っていてくれたおかげで時間が稼げました。もし教えていたら、あなたを病院へ運ぶ途中で、連中に襲われていたと思いますね」 「───」 「そうなっていたら、北条刑事ひとりでは防ぎ切れず、あなたは殺されていたんじゃないかと思います」  と十津川はいった。 「私に、あの男に感謝しろということですか?」 「そんなことはいってませんよ。ただ、小坂井だって、悪いだけの男ではないんだと、あなたにわかって貰いたいだけのことです」  と十津川はいった。  男は、じっと、治療を受けている小坂井を見た。 「誰も、家族は来てないんですか?」 「小坂井に家族はいませんよ」 「一緒に喫茶店をやっている友だちがいたはずですよ」 「いたかも知れませんが、来ていませんね。そんな仲間なのかも知れません」  と、十津川はいった。  二人は、病院の外に出た。 「私にどうしろというんですか?」  と、男は、眉を寄せて十津川にきいた。 「私は何もいっていませんよ」 「あの男に見舞いの花束でも贈れというんですか?」  と、男は、十津川にきいた。  十津川が、男を見た。 「そうしたら彼は喜ぶでしょうね。稚内で彼は孤独だったようですから」  愛と憎しみの高山本線     1  月曜日ごとに爆発物が仕掛けられる事件が起きたのは、一カ月前からである。  しかも、それは、警察や新聞社に予告状が送られてくることから始まった。 〈次の月曜日に、Aを爆破する  K〉  第一回のこの予告状は、ほとんど無視された。Aがいったい何を指すのかわからなかったし、警察にしろ、新聞社にしろ、似たような悪戯《いたずら》がよくあるからだった。  三月十一日、月曜日の午後、成田空港の送迎ロビー内にある男子用トイレで、爆発が起きた。  午後二時四十分で、爆発の規模は小さかったが、それでも、その時、トイレにいた二人の日本人が負傷し、救急車で運ばれた。  事件を担当した千葉県警は、最初、世界情勢から見て、テロの可能性を考えた。だが、テロにしては、爆発が小規模だったし、そのあと犯行声明が出ない。  そこで注目されたのが、三月九日に警視庁と各新聞社に送られていた、署名Kの予告状だった。  Aを Airport と考えれば、この予告通りに爆発物が仕掛けられたのである。千葉で事件を起こすなら、警視庁ではなく、千葉県警か警察庁へ、予告状なり挑戦状を出すのが普通なのだろうが、それは犯人が警察の機構をよく知らないからか、あるいは犯人が東京都内に住んでいるためだろうと思われた。  二通目の予告状が同じく警視庁と各新聞社に届いたのは、三月十六日の土曜日である。 〈次の月曜日に、Bを爆破する  K〉  同じ白い封筒と便箋に、ワープロで打たれていた。投函されたのは、第一回と同じく、東京中央郵便局である。  犯人から名指しをされたことで、警視庁捜査一課が千葉県警と合同で捜査に当ることになった。  Aが空港なら、Bは何だろう? まず、それから検討することにした。第一の事件と同じく、Bを英語の頭文字とすれば、考えられることは、いくつか思い浮ぶ。  Bank(銀行)  Broadcasting station(放送局)  Building(ビル)  Bus stop(バス停留場)  Bar(バー)  Bus(バス)  このほか、最近は東京湾《ベイ》サイドにあるレストランやディスコに行くのが流行だから、BはBayかも知れない。いずれにしろ、曖昧《あいまい》で、張り込むにしても範囲が広すぎた。  結局、警察が全部をガードすることができず、多くの銀行やビルは行員なりガードマンに警戒が委《まか》されることになった。  警視庁捜査一課としてこの事件を担当した十津川には、正直にいって、第二の爆発を防ぐ自信はなかった。あまりにも警戒すべき範囲が広すぎたからである。  不安は適中して、三月十八日の月曜日の午後三時五分。私鉄バスの新宿─調布ルートのバスの中で、爆発が起きた。  その時、問題のワンマンバスは、甲州街道の下高井戸附近を走っていた。午後三時という時間なので、乗客はたった四人。その中の不運な一人が最後部の座席に腰を下ろしていたために、近くに仕掛けられた爆発物のためはね飛ばされ、六カ月の重傷を負った。  犯人は爆発物を座席の下に押し込み、途中でバスを降りていたのだ。  犯人は逃げてしまったが、このバスの乗客が少かったために、運転手が怪しい男を覚えていた。  初台から乗ってきた三十二、三歳の男で、黒いコートを羽織り、大事そうにショルダーバッグを抱えていたというのである。ショルダーバッグを肩に下げず、抱えていたので、運転手は覚えていたのだった。  運転手の証言をもとにして、その男の似顔絵《モンタージユ》が作られた。ただ、十津川は千葉県警と話し合って、わざと、そのモンタージュは公表しなかった。犯人を油断させるためである。  捜査会議の席でその件が了承されたが、犯人像については、激しい議論があった。  人生に挫折して、社会に対して不満を持っている男という説と、根っからの犯罪者で、面白がって爆弾をいじっているという説との対立だった。A、Bと、順番に標的を選んでいるのが、犯罪を楽しんでいる証拠だというのである。 「このモンタージュでは、犯罪を楽しんでいる男には見えないがね」  と、捜査本部長になった三上刑事部長がいった。確かに描かれた男の顔は、眉を寄せ、難しい表情になっている。 「爆弾を抱えてバスに乗り込むところを見られているんですから、享楽派の犯人でもニコニコはしていられなかったと思いますが」  と、いったのは、ベテラン刑事の亀井だった。 「この男がはたして本当に、月曜日の爆破犯人なのかね?」  三上部長が、きく。その質問には、十津川が科研からの報告を示した。それによれば、爆発したダイナマイトは、茶色の革のバッグに入っていたと思われるとあり、バスの運転手は、問題の男が茶色い革のショルダーバッグを抱えていたと証言している。 「したがって、この男が犯人に間違いないと思います」  と、十津川は、いった。  なぜ、月曜日に犯行に走るのか、予告状のKという署名は何の意味なのかという疑問も、当然、捜査会議の席で提出された。  月曜日については、犯人が、一週間の中、その日が自由になるのではないか。サラリーマンだとすれば、月曜日が休みの会社ということが考えられる。  Kは、常識的に考えれば、犯人の名前のイニシャルではないか。  三月十一日と十八日の二日とも、ダイナマイト三本に、起爆装置、タイマーが使われていた。比較的簡単な時限装置つきの爆弾ではあっても、まったくの素人とは考えられない。  過去、あるいは現在、ダイナマイトを使ったことのある人間であろうということになった。  ダイナマイトを使用する仕事というと、まず考えられるのは、建設会社の人間である。ダム工事やトンネル造りには、当然、ダイナマイトが使われるからだった。  十津川は、東京とその周辺にある建設会社を調べることにした。これには千葉県警も協力した。  都内に住み、三十二、三歳で、ダイナマイトを扱ったことのある社員、恐らくダム建設やトンネル工事で働いたことのある人間ということで、各建設会社に当っていった。その時にはもちろんモンタージュも使用した。  容疑者が浮んで来ない中に、第三の予告状が届いた。 〈次の月曜日に、Cを爆破する  K〉     2  予想した通りの手紙だった。次の月曜日は、三月二十五日である。  だが、Cは、何だろう?  Cで始まる建物や乗り物が考えられた。 「まるで、英語の勉強ですね」  と、若い西本刑事が苦笑した。  Cable car(ケーブル・カー)  Cafeteria(カフェテリア)  Campus(キャンパス)  Car(車)  Castle(城)  Cemetery(共同墓地)  Church(教会)  Circus(サーカス)  City hall(市役所)  Clinic(診療所)  College(大学)  Consert hall(コンサート・ホール)  Control tower(管制塔)  Culture center(カルチャー・センター)  Customs(税関)  (コーヒー店)  まさに西本のいうように、英語の勉強になってしまった。 「参ったな。数が多すぎるよ」  十津川は、うんざりした顔になった。Bの時以上に、これをすべてガードすることなどできるはずがない。もし爆破直後に逮捕できたとしても、それは偶然の結果だろう。偶然をつかむより、地道に犯人を追うべきだと考え、十津川は建設会社の捜査に力を入れた。  その結果、ようやく何人かの容疑者が浮んできた。  その一人が、T建設を今年の二月に辞めた片山功、三十二歳だった。  辞めたというより、実際には馘《くび》になったのである。酒に酔い、上司を殴りつけて重傷を負わせた。会社としては信用問題になると考えて、事件は公けにしなかったが、片山は馘首《かくしゆ》された。  片山は大学を卒業後、T建設に入社。技師として日本各地のダム工事、トンネル工事などで働いた。口数は少い男だが技術は確かで、現場の信頼も厚かったという。二十九歳で係長になり、三十歳の時、結婚した。  ここまでは順風にのった感じで、T建設のエリートコースを歩んでいたといっていい。  その片山に不幸が襲ったのは、三十一歳の時である。妻のかおりとの間に女の児が生れ、ローンでマンションも買った。片山が仕事で飛騨高山に行っている時、そのマンションで火災が起き、妻も子供も死んでしまった。  それだけでなく、妻のかおりに高額の保険金がかけられていたことから、片山に殺人、放火の疑いまでかけられたのである。この疑いは晴れたが、この事件から、彼の生活ぶりが一変してしまった。  工事現場からダイナマイトを盗み出すようなこともしたらしい。その後、上司を殴ることもあって、馘首されたのだが、その後、片山の消息は、会社の同僚も大学時代の友人も、知らないというのである。 「在職中、盗んだダイナマイトで、上司を脅かしたりしたこともあるそうです」  と、西本が十津川に報告した。 「彼が何本もダイナマイトを持っている可能性があるわけだね?」 「T建設で、ここ一年間に工事現場から失くなったダイナマイトと信管は、三十二本だということです。その全部を片山が盗み出したとはいえませんが、かなりの数のダイナマイトと信管を持っているとみていいんじゃないでしょうか」  と、日下刑事が、いった。 「月曜日のKは、この男と見ていいようだね」  十津川は、亀井刑事を見て、いった。  千葉県警も、同じ意見だった。問題は一刻も早く片山功を見つけ出して、彼が犯人である証拠をつかむことだった。  しかし、予告された三月二十五日の午後の爆発は、防げなかった。  東京発、那智勝浦経由で、高知まで行く長距離フェリーの船内で、爆発が起きたのである。  Car ferry と考えれば、Cに違いないのだ。  この船は日本沿海フェリー所属の「さんふらわあ」号で、時刻表は次の通りだった。     3月24日     18:20  (東京港)    ↓     3月25日     8:00  (那智勝浦)    ↓     3月25日     15:40  (高知)  爆発が起きたのは、二十五日の午後二時(一四:〇〇)で、高知に向って航行中である。  爆弾は、二等船室の男性用トイレの中に仕掛けられており、乗客一名が重傷を負った。  犯人は、恐らく、那智勝浦で下船しているだろう。  A、B、Cと、犯行が続くと、いやでもマスコミが騒ぎ立て、素人探偵が犯人の動機についてあれこれ意見を述べ始めた。  十津川たちが恐れるのは、真似をする人間が出てくることだったが、早くも、新聞社に今度の事件を真似た予告状が配られ始めた。  中には、「月曜日のK」と名乗ってデパートを脅迫し、金を手に入れようとする人間も現われた。この男はすぐ逮捕されたが、本部長は一刻も早く真犯人を逮捕しろと、十津川たちを督励した。  十津川たちは、片山功を求めて、都内を探し廻った。  ただいたずらに走り廻ったわけではない。月曜日が休日になっている会社を調べては、聞き込みに行き、路線バスの爆破の時に使われたショルダーバッグの線からも、追って行った。  二十七日になって、やっと片山が働いている会社が見つかった。杉並区下高井戸にある水道工事の会社である。月曜日が休みで、従業員二十九人のその会社で、片山は働いていた。  十津川たちが駈けつけた時、片山はすでに辞めていたが、彼が住んでいたマンションはすぐわかった。  そこも引き払っていたが、ここまで来れば捕まえたも同じだと、十津川は自信を持った。  運送会社から、次の引越先を、八王子郊外の一軒家と聞き、十津川たちはそこへ急行した。  三月二十八日の早朝だった。まだ農地が点在するような地区で、その小さな家は雑木林の近くに建っていた。十津川は、七人の部下に家を包囲させておいて、亀井刑事と二人、玄関から入って行ったのだが、片山功はすでに死亡していた。  居間の鴨居に首を吊って、死んでいたのである。  部屋の中から、ダイナマイト九本と、信管、それに予告状を打ったのに使われたと思われるワープロが発見された。  死体は、大学病院で解剖された。自殺に間違いないと思ったが、念のためである。  死因は、窒息死。外傷などはまったくなく、自殺に違いないということになった。  ワープロの文字も、予告状のものと一致した。屑籠《くずかご》の中からは、第三の事件の予告状と同じ文字が打たれた便箋が見つかった。多分、失敗して捨てたものだろう。  二十九日の午後には記者会見が行われ、本部長の三上が、正式に、犯人が死亡し、事件が解決したことを発表した。  片山功の写真が記者たちに配られ、彼の経歴が説明され、鬱屈《うつくつ》したものが、今度の事件の引金になっているに違いないと、三上はいった。 「犯人がA、B、Cと、順番に爆破していったのは、何か理由があったんですか?」  と、記者の一人が、きいた。 「わかりませんが、犯人の片山は社会に対して憎しみを持ち、何とか世間を騒がせようとしていたと思われます。その後、ただ連続的に爆破するよりも、予告状を警察や新聞社に送りつけ、しかも、ABC順に爆破すれば、世間もより注目する。それを狙ったのだと思っています。その証拠に、ABCに、これといった意味は感じられないからです」  それが、本部長の答だった。十津川としても、それ以上の解釈はしていなかった。とにかく事件はもう終ったのだという気持ちの方が強かったのである。  その日の夜、捜査本部の解散式が行われた。  刑事たちの表情が何となく冴えないのは、犯人の逮捕で終ったのではなく、自殺によって終ったからである。どんな事件でも同じだが、刑事は犯人を逮捕し、相手の口から、犯人であることを確認しないと安心できないのだ。 「結局、片山の動機は何だったんですかねえ」  と、亀井が首をかしげて、十津川にきいた。 「自分の不幸は社会のせいだと考え、ダイナマイトを使って、社会に復讐したということなんじゃないかね」 「それは、本部長の説明でしょう?」 「ああ、だがほかに何があったと、カメさんは思うんだ?」 「それがわからなくて、どうもすっきりしないんですよ」  と、亀井がいった時、階下から若い警官が、駈け上ってきた。  彼は三上本部長に、黙って手紙を渡した。部長は、刑事たちに向って今度の事件の感想を喋っていたところだったので、面倒くさそうに封筒の中身を取り出したが、その顔が急に難しいものに変った。 「十津川君」  と、三上は呼び、手に持った手紙を、十津川に渡した。 「何ですか?」  と、十津川がきくと、三上は、 「とにかく、読んでみたまえ」  と、だけいった。  十津川は、便箋に打たれたワープロの文字に眼をやった。 〈次の月曜日に、Dを爆破する  愛と憎しみを継ぐ者〉     3  最初、十津川が感じたのは、当惑だった。  この手紙を、どう解釈したらいいのか、わからなかったからである。もし署名が前の三通と同じ「K」だったら、多分、性質《たち》の悪い悪戯だと考えただろう。  しかし、この手紙の主は、別人だとはっきり名乗っている。そして、愛と憎しみを継ぐと、付け加えている。この言葉の意味は何だろうと、十津川は考え込んでしまったのだ。  もし、警察を挑発するのなら、「K」と署名したろう。だが、この手紙の主は、それをしていない。  もう一つ、十津川を当惑させたのは、封筒の消印だった。中央郵便局の消印だが、昨日、二十八日の午前八時─十時になっているのだ。  月曜日の男、片山功の自殺が、マスコミに流れたのは、テレビでは二十八日の昼のニュースが最初で、新聞は夕刊である。「愛と憎しみを継ぐ」という書き方は、片山の死を知っていたとしか考えられない。  二十八日の早朝、正確にいえば、午前六時二十八分に警察は片山の家に突入し、彼が自殺しているのを発見した。解剖の結果、死亡推定時刻は、同日の午前零時から一時の間とわかった。  警察は、午前六時二十八分に突入してから現在まで、片山の家は、証拠の保全ということで、誰にも踏み入れさせていない。  つまりこの手紙の主は、その前に、片山が自殺したことを知っていたと考えざるを得ないのである。  片山が自殺したと知って、彼の「愛と憎しみ」を引き継いで、Dを爆破するという予告状を書き、朝早く中央郵便局のポストに投函したのではないか。 「十津川君。その手紙は、悪戯だと思うかね?」  と、三上部長が、きいた。 「申しわけありませんが、簡単には答えられません」  と、十津川は、いった。 「それは、単なる悪戯とは考えられないということかね?」 「そうです。気になる点が、多すぎます」  十津川は、自分が戸惑った点をあげていった。  彼は、部屋の黒板に、封筒と、中身の手紙を、ピンでとめて、刑事たちに見せた。  事件が解決したことで、ほっとした空気になっていたのが、急に緊張したものに変った。 「月曜日の男に、後継ぎがいたというわけですか」  亀井が、舌打ちをした。 「それも、愛と憎しみを引き継ぐと書いている」  と、十津川は、亀井にいった。 「捜査会議を開いて、この新しい手紙を検討しよう」  三上部長が厳しい表情で全員にいった。その席で、十津川は、改めて自分の意見を述べた。 「この手紙の主は、われわれが片山の家に着く以前に、彼の自殺を知っていたと思われます。したがって、何らかの意味で、片山と関係のあった人間に違いないのです。つまり、片山が、なぜ、連続爆破事件を起こしたか、その動機も知っていて、その動機を引き継ぐと宣言しているわけです」  と、十津川は、いった。 「新しい犯人は、次の月曜日にDを爆破すると書いているが、それも片山の意志に従っていると、思うのかね?」  と、三上が、きいた。 「多分、そうでしょう」 「すると、片山は、自殺しなければ、この新しい予告状を警察に送りつけて来たと思うかね?」 「それも、多分です」 「どうしたらいいと思うね?」 「ABCまで、われわれは爆破を食い止められませんでした。次のDは、何とか、防ぎたいと思います。今まで負傷者は出ても、死者が出なかったのは、幸運でしかありませんから」 「次のDは、何だと思うね?」 「それを考える前に、私はもう一度八王子の片山の家へ行って来たいと思います。ひょっとすると、片山がDについてまだ計画していて、どこかに書き残しているかも知れません。それに、後継者のことを知らせる何かが見つかるかも知れませんので」  と、十津川は、いった。  三上部長がOKを出し、十津川は亀井と八王子に急いだ。  その車の中で、亀井が遠慮がちに、 「どうもわからないことが一つあるんですが」  と、十津川に、いった。 「新しい月曜日の人間は、何者かということかね?」 「もちろんそれは根本的な疑問ですが、その前に、わからないことがあるんです」  と、亀井は、いう。  亀井は運転しながら、助手席の十津川に話しかけるのだが、時々夢中になってハンドルから手を放しかけることがある。  十津川は、少しばかりそれを心配しながら、 「片山のことかね?」 「そうです。彼は、なぜ、自殺したんですかね?」 「われわれに追い詰められて、自ら命を絶ったと考えられているよ」 「本当にそうでしょうか? われわれは聞き込みで、片山という男をあぶり出していきましたが、片山を追いつめたという形にはなっていませんでしたよ。いきなり八王子の片山の家を急襲したんじゃなかったですか? それなのに、勝手に推し測って、自殺したんですからねえ」  亀井は、しきりに首を小さく振っている。  十津川は、車がその度に小さくゆれるのを心配しながら、 「カメさんは、片山は自殺じゃなくて、殺されたと思うのかね?」 「いえ。あれは自殺だと思います。だから、なおさら、わからないんですよ。そんなに気の弱い男だったのかなと思いましてね」  と、亀井は、いった。  彼の疑問に答が見つからないままに、八王子郊外の片山の家に着いた。  張られたロープをくぐって、二人は家の中に入って行った。ここで片山の死体を発見した時も、家の中はくまなく調べたつもりだったが、彼の自殺で事件が終ったという気持ちの弛《ゆる》みがあった。だから何か、大事なものを見落としていたかも知れないのだ。  二階の六畳が工作室になっていて、そこにダイナマイトや信管も置かれてあった。  そうしたものは、すでに捜査本部に運ばれてしまっている。  今、六畳の部屋に残っているのは、畳を汚さないように敷いていた古新聞や、ダンボールの空箱などである。 「古新聞を敷いて、その上で作業をしていたなんて、考えてみると、神経の細かい爆弾魔だったんですねえ」  と、亀井が感心したように、いった。 「確かに、そんな感じだね」  と、十津川も相槌を打ったが、急に難しい表情になって、 「片山は、本当は心優しき爆弾魔だったのかも知れないね」 「心優しき、ですか?」 「そうだ。もしそうだとすると──」 「何ですか?」 「捜査会議の時、私は、ABCと、死者が出なかったのは幸運だったといった」 「私もそう思いますね。これは明らかに僥倖《ぎようこう》ですよ。本来なら何人死人が出ていてもおかしくはなかったと思います」  と、亀井が、いった。 「はたして、そうだろうか?」 「と、いいますと?」 「それなんだよ。私もついさっきまで僥倖だったと思っていた。だが片山はABCと爆弾を仕掛けるとき、なるべく人を殺さないように注意を払っているんじゃないか。だから、死者が出なかったんじゃないかと思い始めたんだよ」  と、十津川は、いった。 「しかし、爆弾犯人がそんな気使いをするでしょうか? 相手は世間を騒がせて面白がっているわけですから」 「いいかい。まず、第一の事件だ。片山は成田空港へ爆弾を仕掛けたが、トイレの中だった。それも、一番端の個室トイレの中に仕掛けている。もし世間をあっといわせたければ、ロビーのどこかに仕掛けたんじゃないかね。次のBではバスに仕掛けたが、午後三時で、乗客の少い時間だった。Cは、カー・フェリーだが、この時もトイレに仕掛けている。トイレが満員ということはめったにないから、被害者は当然、少い。一人も入っていなければ、負傷者も出ないはずだよ」 「しかし、警部。それは犯人の都合なんじゃありませんか。トイレなら誰にも見られずに仕掛けられるし、バスの場合も、乗客が少い時間帯になったのは、たまたまじゃないかと思いますがねえ。片山が被害をなるべく抑えようとしていたとは、考えられませんよ」  と、亀井は、いった。 「そういう考え方もあるか」  十津川は、逆らわずに肯いてみせた。  だが、十津川は、自分の考えを捨て切れなかった。亀井には甘いといわれるかも知れないが、死んだ片山が気弱な男で、神経を使いながら、三度の爆破をやったのではないかと、考えてしまう。  自殺したのも、そうした気弱さからではなかったのか?  十津川と亀井は、家の中を探し廻った。次のDが、いったい何を示すのか、その答を見つけたくてである。 「家具が、あまりない家ですね」  と、亀井が、いった。 「自宅マンションで妻と子供を火事で失っている。家具だって、その時、焼失してしまっているだろう。そのあと、家具を揃《そろ》えるなんて気はなくなっていたと思うよ」  と、十津川は、いった。 「ひたすら、世間に対する復讐を考えていたわけですかね?」 「その前に、彼は荒れた生活を送っているんだ。酒を飲み、ケンカをし、上役を殴りつけている。世間に対して──というのは、そのあとだよ」 「自分が不幸になったことを、世間のせいにするというのは無責任だと、私は思いますがねえ。奥さんと可愛い子供を同時に失った悲しみは、よくわかりますが」  と、亀井は、いった。 「カメさんなら、絶対に、片山のようにはならないかな」 「家内と子供が死んだら、どうなるか自信はありませんが」  と、亀井は、いった。 「自信はないというが、カメさんなら、絶対に、第三者を殺傷させるような真似はしないだろうね」 「ええ。そこが、私には、片山の気持ちのわからないところです」  と、亀井は、いった。 「何も見つからないね」  十津川は、がっかりして、溜息をついた。 「しかし、警部。何も見つからないというのも、おかしいですね。ダイナマイトや信管は、平気で置いてあったんですから。別に、犯行を隠そうという意識はなかったんだと思います。それから、これまでの犯行メモみたいなものが残っていても、おかしくないんですが」 「例の、愛と憎しみを継ぐ者が、持ち去ったのかも知れないよ」  と、十津川は、いった。     4  次の月曜日は、四月一日である。  何とかして、犯人のいうDを特定しなければならない。  例によって、Dで始まる言葉を探す作業から始められた。  Dam(ダム)  Dance hall(ダンスホール)  Department store(デパート)  Dining car(食堂車)  Discoth(ディスコ)  Dock(ドック)  Dome(ドーム)  Dormitory(寄宿舎)  (現像所)  Drive-in(ドライブ・イン)  Drugstore(薬局) 「意外にないものですね」  若い西本が、不満気に、いった。  十津川は、首をすくめた。 「そんなことはないさ。ダム一つとっても、日本中で、いくつあると思っているんだ」 「そういえば、デパートだってたくさんあるし、ドライブ・インも、全国のものをガードするのは大変ですね」  と、西本も眉をひそめた。  三上部長は、黒板に書き出された英語の単語に眼をやりながら、 「それ全部を見張るのは、とても無理だろう。何とか絞れないのかね?」  と、いった。 「しかし、犯人の考えがわからないと絞れないんじゃありませんか?」  日下刑事が、逆にきき返した。 「犯人というのは、自殺した片山のかね? それとも新しい犯人のかね?」  と、三上が、さらにきいた。  亀井が、それに対して、 「第二の犯人が、愛と憎しみを継ぐといっているんですから、同じ意志で貫かれていると思いますが」  と、いった。 「それなら、何とか目標を限定できるんじゃないのか?」  三上は、亀井を見、十津川を見た。 「一つの推理は、可能だと思います」  と、いったのは、十津川だった。 「どんな推理だね?」 「今までにどんな場所に爆発物が仕掛けられたかを考えてみました。空港、バス、そしてカー・フェリーです。空港を航空機に関係した場所と考えると、三つとも乗り物がキーになっているといっていいと思います」  と、十津川は、いった。 「すると、今度のDも、乗り物だと思うのかね?」  と、三上が、きく。 「断定はできませんが、何パーセントかの可能性は、あると思います」 「しかし、空港と飛行機とは違うと思いますが」  と、いったのは、西本刑事だった。  三上も、肯いた。 「Aが飛行機だったら、ABCすべて、乗り物になって、Dもまた、乗り物ではないかと思えるのだがね」 「Aですが、片山は、本当は飛行機《エアプレイン》を爆破したかったのではないかと思うのです」  と、十津川は、いった。 「それなら、なぜ飛行機に、仕掛けなかったのかね?」 「これは、亀井刑事とも話したんですが、片山は、意外に気の弱い男だったのではないか。だから、飛行機にダイナマイトは仕掛けられなかった。もし、そんなことをすれば、何十人という乗客、いや、何百人という乗客が、死ぬことになりますからね。それは、気の弱い片山には、できなかったのではないか。それで、飛行機の代りに、空港のトイレに爆弾を仕掛けたと、私は考えてみたのです。もし、これが当っていれば、ABCともすべて、乗り物ということになります」  と、十津川は、いった。 「君のいう通りだと、今度のDも、乗り物になるということかね?」 「そうです」 「Dが乗り物だというと、何になるんだ?」  と、三上はいい、黒板に眼をやった。  黒板に書かれてある十一の名前の中、乗り物といえば食堂車である。あとは、車に関係があるということで、ドライブ・インぐらいだろう。 「この二つかね?」  と、三上が、十津川にきいた。 「ドライブ・インは、消していいと思います」 「なぜだね? 片山は、Aのとき、飛行機の代りに空港を使ったはずだよ」 「そうですが、それは、飛行機を爆破したのでは、死者が多数出るからです。ドライブ・インの場合は違います。片山は、Bで、バスを爆破していますから、車の代りにドライブ・インにする必要はないわけです」  と、十津川は、いった。 「では食堂車だけか。しかし、食堂車を連結している列車は多いぞ。新幹線の『ひかり』はほとんど食堂車がついているし、東京から出るブルートレインにも、食堂車がついている」 「しかし、数は限られています」 「よし。四月一日に動く『ひかり』と、ブルートレインを警戒しよう。鉄道警察隊にも協力して貰えば、何とかなるだろう。それに食堂車だけ警戒すればいいんだから、難しくはないはずだ」  三上は、それで決まりという感じで、部下の刑事たちにいった。  今日は、三月三十日である。  あと二日しかない。すぐ、三上は鉄道警察隊に協力を求め、JR各社にも連絡をとった。     5  捜査会議のあと、亀井と十津川は、庁内の喫茶室に残った。  亀井は、二人分のコーヒーを注文してから、 「どうされたんですか?」  と、十津川にきいた。 「何がだい?」 「列車の食堂車ということで、捜査方針が決まったのに、浮かない顔をされているからですよ」 「そう見えるかね?」  と、十津川が、きくと、 「見えますよ。少くとも、嬉しそうな顔じゃありませんね」  と、亀井が、笑った。 「やはり、そう見えるか」 「何が、ご心配なんですか?」 「食堂車というのに、自信が持てないんだよ。違うのではないかという不安の方が強い」  と、十津川はいい、コーヒーには手をつけず、煙草に火をつけた。 「捜査会議の時、なぜ、それをおっしゃらなかったんですか?」 「では、何がDなんだと聞かれると、何も思い浮ばなかったものでね。それに、食堂車がDということだって、あり得ると思ったんだ」 「しかし、釈然としないわけですか?」 「そうだ」 「なぜですか? Dining car なら、食堂車だし、乗り物ですよ」 「Bのバスも、それ自体一つの独立した乗り物だし、カー・フェリーも、そうだ。しかし、食堂車は、違う。『ひかり』の場合は、連結されている車両の一つにしか過ぎない。『ひかり』の場合、まさか、食堂車とは、いわないだろう?」 「それは、そうですが──」 「次の月曜日は、バスを爆破する。カー・フェリーを爆破するというのは、文章になっている。しかし、次の月曜日に食堂車を、というのは、正しくないんじゃないかな。正確には、ひかりの食堂車、寝台特急『さくら』の食堂車を爆破すると書くべきじゃないかね?」 「理屈は、そうですが」 「理屈でいえば、Dにはならない。だからどうも、しっくりしなかったんだ」  と、十津川は、いった。 「部長が聞いたら、憮然としますよ」 「だろうね。それに対案がなければ、部長は怒るよ」 「私は飛行機、バス、船ときて、今度は列車というので、これは正しい答だと、確信していたんですがねえ」  亀井は、残念そうに、いった。 「今のカメさんの考え方は、いいと思うね」 「何がですか?」 「飛行機、バス、船、そして今度は列車というやつだよ」 「犯人も、せっかく、ABC──と、違う乗り物にして来たわけですから、ダブらずに今度は列車というのは、正しいと思っているんです」 「賛成だね」  と、十津川は、いった。  亀井は、コーヒーを半分ほど飲んでから、 「列車で、Dということになると、どうなりますかね。特急列車の名前の頭文字でしょうか?」 「列車の名前ねえ」 「Dで始まる列車名というのは、少いと思いますが、例えば、上越線を走る特急『出羽』なら、Dになります」  と、亀井は、いった。  彼は、レジのところに行き、備付けの時刻表を借りてくると、それをめくっていたが、 「Dの特急名というのは、ないものですねえ。今いった『出羽』しかありませんよ」  と、驚いた顔になった。  十津川は、「ちょっと見せてくれ」といって、しばらく黙って時刻表を見ていた。  亀井は、そんな十津川の顔を見ていたが、 「Dのつく特急か急行がほかにありますか?」 「いや、なさそうだ」  と、十津川は肯いてから、 「カメさんは、鉄道でDは何を意味するか知っているかね?」 「さあ、わかりませんが」 「時刻表の列車番号の欄を見てみたまえ」  と、いって、十津川は中ほどのページを開いた。 「例えばここに、下りの『雷鳥11号』の時刻表が出ている。その列車番号は、4011Mだ。このMは、電車を意味している。次は、釜石へ行く急行『陸中3号』だ。この列車番号は、603Dだ。このDは、気動車、ディーゼル・カーを意味している」 「すると、予告状にあったDは、気動車《デイーゼル・カー》のことですか?」  亀井が、眼を光らせてきいた。  十津川は、指でテーブルに Diesel car と書いてから、 「もし、気動車としても、非電化の線は、みんなディーゼル・カーが走っているからね」  と、いった。  北海道も非電化区間があるから、特急「オホーツク」「北斗」などが気動車《デイーゼル・カー》だし、四国を走る列車は、全部、気動車である。  山陰本線を走る列車も気動車だし、ブルートレインの「出雲」などは、東京を出発するときは電気機関車が牽引《けんいん》するが、山陰本線に入ればディーゼルが牽引するから、Dに該当してしまう。 「意外にまだ、非電化の区間というのがあるんですね」  と、亀井は時刻表を見ながら、感心したようにいった。どこが非電化とは書いてないが、列車番号にDがついているのが、いろいろとあるからだ。 「南紀もそうだし、高山本線もそうだ」  と、十津川も、時刻表を見ながら、いった。 「東京に近いものとは限らないから、厄介ですね」  と、亀井がいう。  バスは、甲州街道の下高井戸附近で爆破されたが、カー・フェリーの船内で爆発があったのは、四国の高知へ向って那智勝浦を出たあとである。  どの列車と、特定できなければ、Dがディーゼルだったとしても、張り込むのは難しい。  すでに、JRの食堂車を連結した列車をガードすることが、捜査会議で決定している。この上、日本全国の気動車をガードすることになったら、人手がいくらあっても足りなくなってしまう。 「北海道から、四国まで、それに、南紀、中部、山陰までを守るというのは、とても不可能ですよ」  と、亀井が溜息をついた。 「わかっている」 「何とか、特定できませんか?」 「そうだなあ」  と、十津川は、コーヒーを前に置いて、しばらく考えていたが、 「強引にやれば、特定できないことはないよ」 「できるんですか?」 「ただ、正しいかどうか、わからない」 「どの列車ですか?」  亀井が、勢い込んで、きいた。 「こじつけみたいになるんだが、今度の事件の発端は、片山の妻子が焼死したことだ。その時、片山は、保険金欲しさに妻子を殺したのではないかと疑われている」 「そうです」 「その時、片山は、確か、飛騨高山へ行っていたんじゃなかったかね?」 「その通りです」 「これは、こじつけかも知れないが、日本全国にいくつかある非電化区間で、片山に関係がありそうなのは、飛騨高山へ行く高山本線ということになってくるんじゃないかね」  と、十津川は、いった。 「なるほど、確かに高山本線は片山に関係がありますね」 「強引なのは、わかっている。ただ、今は、それしか特定できないんだよ。もう一度、片山の妻子の焼死事件を調べ直す必要がありそうだな」  と、十津川は、いった。  考えてみれば、犯人の予告状への対応に追われて、肝心の火事のことはまったく調べていなかったのだ。 「あれは確か、殺人の疑いもあるということで、近藤警部が捜査されたはずですよ」  と、亀井がいう。 「ああ。彼にその時の話を聞いてみよう」  と、十津川は、いった。  近藤警部は、十津川と同期で警視庁に入っている。そのため、戦友でもあるが、同時にライバルともいえた。 「正直にいうと、あの事件は、今でも納得がいかずにいるんだよ」  と、近藤は、いった。 「それは、単なる火災じゃないということかい?」 「そうだ。放火の疑いもあるし、焼死した女性の方に高額の保険金がかけられていたからね」  と、近藤は、いってから、 「あの時、おれが、容疑者と考えた片山が今度、連続爆破事件の犯人だったわけだろう。おれの考えは間違っていなかったんだなと、思っているよ」 「放火だという証拠は、あったのかね?」 「消防と協力して調べたんだが、確証はなかった。結論は、漏電ということになってしまってね」 「漏電か」 「それも、おかしいんだ。居間におかれたテレビが故障していて、過電流が流れ、そのために発火したことになっている。だが、過電流が流れるように細工はできるはずなんだ。特に、そういうことにくわしい人間ならね」 「つまり、片山のことか?」 「そうだよ」 「彼の奥さん、片山かおりは、なぜ焼死したんだろう? テレビからの発火なら、逃げる時間があったんじゃないかね?」  と、十津川は、きいた。  近藤は、肩をすくめて、 「睡眠薬だよ。睡眠薬を飲んでいたから、火事になっても、逃げられなかったんだ」 「本当に、飲んでいたのかね?」 「ああ、解剖の結果、睡眠薬を飲んでいたことがわかった」 「しかし、それは、おかしいんじゃないか。生後三カ月の子供がいたんだろう? それなのに、母親が睡眠薬を飲んで寝てしまうというのは」  と、十津川は、首をかしげた。  近藤は、肯いて、 「だからなおさら、おれは、夫の片山を怪しいと思ったんだよ」 「それに対して、片山は、どういっていたんだ?」 「妻のかおりは、育児ノイローゼ気味で、不眠症気味だったから、睡眠薬を飲んでみたらと、すすめていたといっていたよ」 「育児ノイローゼか」 「おれは、信用しなかったよ。片山はテレビの配線に細工をし、奥さんに睡眠薬を飲ませておいて、家を出たんだと思っていた」 「火災が起きた時刻は?」 「三月十五日の午後六時四十分頃だ。片山はその時、高山本線の車中にいたといっているんだが、信用しなかったね」 「なぜ?」 「証人がいないからだよ。それにこの日、片山は同じT建設の仲間二人と高山へ行くことになっていたんだが、その二人は、乗るはずだった『ひだ13号』に、片山は乗ってなかったというんだ。東京駅で待ち合せたが、来なかったといっている」 「なるほどね」 「だが、片山が犯人だという確証がつかめずに、逮捕できなかった。あの時、何とかして逮捕、送検していたら、連続爆破事件は起きなかったんだ」  近藤は、残念そうに、いった。 「睡眠薬のことだが、片山かおりが薬局で買っていたのかね? 睡眠薬は、医者の診断書がないと買えないんじゃないのか?」  と、十津川がきくと、近藤は「それさ」と、肯いて、 「片山かおりは、医者の診断を受けてないんだ」 「じゃあ、どうやって手に入れて、飲んでいたんだ?」 「夫の片山さ。彼はもともと不眠症の気があって、医者の処方箋を貰って、睡眠薬を買っていたんだ」 「片山の睡眠薬なのか」 「彼は、自分の睡眠薬を、奥さんに飲ませたといっていた」 「それは、怪しいな」 「そうだろう。だから片山が犯人に間違いなかったんだ」 「それで、片山は保険金を手に入れたのか?」 「ああ。三千万円を手に入れている。他殺の証拠が見つからなかったのでね」 「もし、彼が犯人だったとすれば、保険金殺人は見事に成功したことになるね」  と、十津川は、いった。 「そうさ。奴は、犯人だよ。おれは今でも、そう確信しているよ」 「しかしねえ。片山は、そのあと再婚もせず、荒れた生活をして、あげくの果てに上司をぶん殴って、T建設を馘になっているんだ。それだけでなく、ABC連続爆破事件を起こし、追いつめられたと思って、自殺している。少し、おかしくないか?」  と、十津川は、きいた。 「別に、おかしくはないさ。奴は、もともと、気の小さい男なんだ。だから、保険金殺人に成功したものの、世間の眼が怖くて仕方がなかったんだと思うよ、会社の中でだって、疑惑の眼で見られていたのかも知れん。度胸がすわっていれば、平気だったんだろうが、今いったみたいに小心だから、逆に、上司をぶん殴ったりしたのさ。きっと、上司の眼が、自分を疑っているように見えたんだろう。おれは、その上司に、偶然会ったことがあるんだ。彼がいっていたが、あの時、何気なく片山を見たのに、彼は、『おれが、家族を殺したと思ってるのか!』と叫んで、殴りかかって来たんだそうだよ」 「そのあと、爆弾魔になったのは?」 「自分が悪いのに、すべて、世間が悪いと思い込んだからじゃないのか。悪人によくあるタイプだよ」  と、近藤は、事もなげに、いった。 「そして、小心だから、自殺したというわけか?」 「そうだ」 「それは、おれも同意見だがねえ」  と、十津川は、いった。     6  十津川は、亀井を連れて、片山の妻子が焼死したという中野のマンションに行ってみた。  五階の片山の部屋は、きれいに修復されている。  火災の時も、今も、隣の部屋に住んでいるという夏木夫婦に会った。 「あの時は、びっくりしましたよ。テレビを見ていたら、突然、隣が火事になってしまって。気がついた時は、もう、煙で、廊下も階段も前が見えなくなっていましたよ。まさか、あの火の中に、片山さんの奥さんとお子さんがいるとは思いませんでした」  と、サラリーマンの夏木がいい、彼の妻も、肯いた。 「保険金殺人という噂があったのは、知っていますか?」  と、十津川が、きいた。 「ええ。警察の人が、片山さんは夫婦仲が良かったかとか、片山さんのご主人が、金に困ってなかったかと、聞きに来ましたからね」  と、夏木の奥さんが、いった。 「それで、片山夫婦の仲は、どうでした?」 「仲は良かったですよ。片山さんは、美人の奥さんを自慢していましたからね。ただ、仕事の都合で長期間家をあけることで、奥さんが文句をいうことはあったみたいですけどね」  と、夏木は、いった。 「火事のあとの彼の態度は、どうでした?」  と、亀井が、きいた。 「ちゃんと私のところにも、損害に見合うお金を出してくれましたしね。立派だったと思いますよ」  と、夏木はいう。 「片山が連続爆弾魔だったというのは、ご存知ですね?」  十津川が、夫婦に、きいた。 「ええ」 「びっくりしましたわ」  と、夫婦が、肯いた。 「どう思いました?」 「きっと、警察に保険金殺人の犯人扱いされたんで、怒ったんじゃないですか? それが変な方向に走ったんだと思いますけどねえ」  と、夏木はいった。 「同情的ですね」 「ご夫婦とも、悪い人じゃありませんでしたからねえ」 「片山さんに、親しくしていたお友だちはいませんでしたか? あるいは、きょうだいが」  と、十津川は、きいてみた。 「あの人は、きょうだいはいないと、いってましたよ。僕は家族の縁がうすいんだって」  と、夏木がいうと、奥さんの方が、 「かおりさんの妹さんには、お会いしたことがありますわ」  と、いった。 「片山の奥さんには、妹がいたんですか?」 「ええ。お姉さんによく似た、美しい女性ですよ。若いだけに、お姉さんより活溌だったかしらね」 「名前は、覚えていませんか?」  と、十津川が、きいた。 「確か、みゆきさんって、おっしゃったと思いますけど」 「何みゆきですか?」 「さあ、それは──」  と、夏木夫婦は、顔を見合せてしまった。  まあ、これは調べればすぐわかることだろうと、十津川は思い、礼をいって、夏木夫婦と別れた。  片山かおりの旧姓は、簡単にわかった。日比野である。妹のみゆきが結婚していなければ、今も日比野みゆきのはずだった。  二人は、捜査本部に戻った。 〈月曜日の爆弾魔捜査本部〉  の看板が、掛っていた。片山の自殺で、この看板を下ろしかけたのだが、後継者が現われたので、「第二の」と書きかえて、また同じ看板をかかげたのである。  三上本部長は、十津川の顔を見ると、 「いよいよ明日に迫ったのに、どこへ行っていたのかね?」 「片山功の妻子が、火事で亡くなった時のことを、調べていました」 「それもいいが、何しろ、明日の爆破を防ぐのが第一じゃないかね」  三上は、咎《とが》めるように、いった。 「わかっています」 「私の方は、だいたい、配備をすませたよ。食堂車のついている列車には、すべて、鉄道警察隊が乗り込むことに決まった。食堂車だけを見張ればいいんだから、難しくはない。もし、犯人が食堂車に爆発物を仕掛けようとすれば、必ず逮捕できると確信しているよ。うちの刑事たちも東京駅にいて、随時、食堂車のついている列車に乗り込んで貰う」 「はい」 「君と亀井刑事にも、明日は早朝から東京駅に詰めて貰うよ。東京発の最初の『ひかり1号』は、午前六時〇〇分に発車するからね」  と、三上は、いう。 「その件なんですが──」 「何だね?」 「私と亀井刑事は、別行動を取らせて頂きたいんですが」 「別行動?」  三上は、眉を寄せて、十津川を睨《にら》んだ。 「許可してくれませんか」 「別行動って、何をするつもりなのかね?」 「実は、食堂車のほかに、Dが意味するものが見つかったものですから、万一に備えて、そちらの方を、監視してみようと思いまして」  十津川は、Dが気動車《デイーゼル・カー》のことかも知れないと、三上にいった。 「それは、何か、確固とした裏付けがあるのかね?」  と、三上が、難しい顔で、きいた。 「今のところは、ありません」  十津川は、正直に、いった。 「それじゃあ、話にならんじゃないか。第一、すでに捜査本部で決まった方針を、君が乱しては困る」  と、三上は、険しい表情で、いった。     7  十津川は、亀井を廊下に連れ出した。 「私は、今日中に、名古屋へ行く」  と、十津川がいうと、亀井は、 「私も、お供しますよ」 「いや、君は残って三上本部長の指示に従ってくれ」 「しかし、警部。警部は高山本線が危ないと思われているわけでしょう?」 「そうだが、本部長は、ディーゼル・カーという考えには反対なんだ。全員で、食堂車を警戒しろと、いっている」 「でも警部は、高山本線に行かれるんでしょう?」 「そうだ。しかし、捜査方針に逆らうことになる。カメさんまで、巻き添えにしたくはない」 「構いませんよ」 「しかし、下手をすると、処罰されるよ」 「覚悟はできてます」  と、いって、亀井は笑った。 「そういってもねえ」 「警部一人じゃ、大変ですよ」 「そりゃあ、カメさんが一緒なら、心強いがね」 「それなら、決まりです。明日、名古屋に行ったんでは間に合わんのでしょう。これから、すぐ、名古屋へ行きましょうよ」 「明日の午前六時〇〇分の『ひかり1号』に乗れば間に合うが、明日になると、早朝から東京駅に刑事たちが集まるからね」 「三上本部長の眼が、光っているというわけですか」 「そうだ。だから、今日中に名古屋へ行く」  と、十津川は、いった。  二人は、捜査本部を抜け出すと、東京駅に向った。  二〇時三二分発の「ひかり267号」に乗った。  十津川は、座席に腰を下ろしてから、亀井に、 「正直に打ち明けるとね、カメさんは、最初から、一緒に来てくれると、思っていたんだ」 「ありがとうございます」 「お礼をいうのは、私の方さ。コーヒーでも飲みに行くか」  と、十津川は、笑顔で、いった。  二人は、ビュッフェに行き、コーヒーを飲みながら、明日のことを話した。 「名古屋から、高山と富山へ行く特急『ひだ』ですが、何本も出ているし、富山、高山から戻る上りの列車もあります。そのすべてを監視することは、できませんが」  と、亀井は、持って来た時刻表を見ながら、十津川に、いった。 「その通りだよ」  と、十津川は、肯いた。  下りだけで、1号から15号まで八本ある。上りも八本だから、十六本である。それに、私鉄の特急「北アルプス」が、新名古屋─高山間を往復している。  もっといえば、ディーゼルは、特急だけでなく、普通車も、高山本線を走っている。そのすべてを、たった二人で、カバーすることはできない。 「向うに着いたら、県警か鉄道警察隊に、協力を要請しますか?」  亀井が、コーヒーカップを手に持ったままで、十津川に、きいた。 「残念だが、それはできないよ。私とカメさんは、捜査本部の方針と違うことを、やっているんだからね」 「そういえば、そうですね。やはり、二人だけで、やるより仕方ありませんか」  亀井は、少しばかり悲愴な表情になった。 「何とかなるさ」  と、十津川は、元気づけるように、亀井を見た。 「しかし、特急だけで、往復十六本ですよ。名古屋鉄道の特急まで入れれば、十八本です」  と、亀井が、いう。 「これは、賭けだよ。第一、犯人が、高山本線を爆破するかどうかも、百パーセント、信頼できるわけじゃないんだ」 「少しばかり背筋が寒くなってきましたよ」  と、亀井は、笑った。  十津川は、煙草に火をつけた。窓の外は、暗く、家の灯が、ゆっくりと、流れて行く。 「これで、何回目かね」 「何がですか?」 「お互いに、背筋が寒くなるのがさ」 「さあ。とにかく、今日まで、悪運強く、警視庁に残って来ましたが──」 「今後も、悪運が強いことを祈ろうじゃないか」  と、十津川は、笑ってから、 「賭けだから、こちらで列車を限定していこうじゃないか。普通車じゃなく、特急にする。犯人が、東京の人間とすれば、高山本線に乗る場合、普通車には乗ろうとはしないだろうからね」 「上りと、下りは、どうですか?」 「それも、東京を中心に考えてみようじゃないか。カー・フェリーの時、東京へ戻ってくる船にではなく、東京から高知へ行く船に、爆弾は、仕掛けられたんだ」  と、十津川は、いった。 「それでは、特急『ひだ』の下りということですか?」 「ああ。下りの特急『ひだ』と、決めよう」  と、十津川は、断定した。 「しかし、警部。そこまで絞っても、下りの『ひだ』だけで、八本ありますよ。1号の名古屋発が、午前八時四〇分で、最終の15号は、午後七時四〇分です。それ全部に乗れませんよ」 「わかっている」 「今までのABCが、すべて、午後ですから、午後に名古屋を出る『ひだ』にしますか? それでも、五本ありますよ」  亀井は、時刻表に書かれた『ひだ』の名前を、指で、数えていった。 「いや、午前、午後に分けるのは危険だ」  と、十津川は、いった。 「そうなるなら、八本です。どうしたら、いいんですか?」  亀井が、困惑した顔で、十津川を見た。  十津川は、ふと、上衣のポケットから、二枚の写真を取り出して、亀井の前に置いた。  二枚とも、男の写真だった。 「何ですか? これ」  と、亀井が、不思議そうにきく。 「この男たちが、明日、名古屋から、特急『ひだ』に、乗るかも知れないんだよ。ただ、どの列車に乗るかは、わからない。東京から来ることを考えると、午後の『ひだ』だと思うが、限定はできないと思う。だから、午前中から見張っている必要があるんだよ」 「というと、この二人の男が、容疑者ですか?」  亀井が、緊張した顔で、きいた。 「まあ、容疑者は、容疑者だよ。その顔を、よく覚えておいて貰いたいんだ」  と、十津川は、いった。 「一見サラリーマンのように、見えますね」  亀井は、じっと二枚の写真を見つめて、いった。 「サラリーマンだよ」 「名前も、わかっているんですか?」  亀井が、びっくりした顔で、十津川を見た。 「わかっているが、今のところ、名前は意味がないんだ」 「もし、よければ、説明して頂けませんか?」  と、亀井が、いった。 「名古屋に着いたら、ゆっくり説明するよ」  と、十津川は、いった。     8  名古屋では、駅近くのホテルに、チェック・インした。  十一階の窓から、夜の名古屋駅が、よく見える。ぼうっとかすんで見えるのは、夜になっても、気温が下がらないからだろうか。 「これから話すことは、すべて仮定の話なんだ。だから、賭けであることに変りはないんだよ」  と、十津川は、話し出した。 「そのつもりで、聞きます」  と、亀井が、いった。 「今度の事件は、片山功が突然狂気にかられて、ABC順に爆弾を仕掛けていっているんじゃないと思った。もし、狂気にかられていたのなら、自殺などはしなかったろうと思うし、なるべく死傷者を出さないような配慮などはしないと思ったからだよ」 「それは、同感です。狂気なら、満員の東京ドームを吹き飛ばして快哉《かいさい》を叫ぶと思います」  と、亀井も、いった。  十津川は、微笑して、肯いた。 「狂気でないとすると、何か理由があるはずだと思った。そこで考えたのが、火事で彼の妻子が焼死した一件だよ。私は近藤警部に、当時のことを聞いたりして、検討してみた」 「あの事件では、片山は保険金殺人の容疑者にされていますね」 「近藤警部は、今でも、彼が犯人だと信じているよ」 「そうですか」 「どうもこの火事は、テレビに細工して、漏電に見せて発火させたらしい。放火なんだ。それに、奥さんは睡眠薬を飲んで熟睡していたから、逃げられなかった。三カ月の子供も、死んだ。睡眠薬は、片山が飲んでいたものだった」 「それでは、近藤警部が彼を犯人と考えたのも、無理はありませんね」  と、亀井は、いった。 「そうなんだ。その上、アリバイもなかった。片山は火事のあった時、高山本線の『ひだ13号』に乗っていたといったが、同行したはずの友人は、乗っていないと証言している」 「なるほど」 「だが、片山が罠《わな》にはめられたのかも知れないと、私は思った」 「片山は、それに腹を立てて、ABCと、爆弾を仕掛けて廻ったというわけですか? 自分を保険金殺人の容疑者にした世間に腹を立てて」  と、亀井が、いう。 「そう考えたこともある。筋は、通るからね。だが、それなら、片山は真っ先に自分を犯人扱いした警視庁に、ダイナマイトを仕掛けるんじゃないかね? 抗議という意味でね」 「それもそうですね。近藤警部なんか、真っ先に狙われているでしょうね」  と、亀井が、いった。十津川は笑って、 「その通りさ。だが、近藤警部には、脅迫状も来ていないと、いっていたよ」 「すると、ABC事件は、何だったんですかね?」  亀井が、首をかしげた。 「私も、それを、ずっと考え続けたよ。片山は、何のために、あんなことをしたのだろうかとね。今もいったように、世間に対する抗議というには、自制心が利き過ぎている。それに、自殺するような気弱な人間には、ふさわしくない行動にも思えるんだ。もう一つ、謎だったのは、第二の犯人の『愛と憎しみを継ぐ』という言葉だった。これは、何の意味だろうかと考えた」 「何だと思われました?」  と、亀井が、きく。  十津川は、窓から、夜の名古屋駅に眼をやった。列車が、光の帯を作って、ホームを離れて行くのが見える。 「焼死事件は、どう考えても、放火だ。テレビに細工して、時間がたって、漏電するようになっていたと、私は思っている。奥さんが睡眠薬を飲んだというのも、おかしいと思っているんだ」  十津川は、駅の灯を見ながら、ゆっくりといった。 「しかし、片山功は無罪になったんでしょう?」 「ああ。彼はシロだった。とすれば、ほかの誰かが、彼のマンションに放火し、彼の妻子を焼死させたことになる」 「そうなりますね」 「片山は、きっと、誰が妻子を焼死させたか、考えたと思う」 「当然でしょうね。私だって、家内と子供が殺されたら、犯人を見つけて復讐したいと思いますよ」  亀井は、強い調子で、いった。 「片山には、犯人はすぐわかったはずだよ」  と、十津川は、いった。 「なぜですか? 警察も、片山自身が放火したと思っていたわけでしょう?」  亀井が、不思議そうに、きいた。  十津川は、亀井の方に振り向いて、微笑した。 「片山だから、わかったのさ。彼がシロなら、彼にとって不利な証言をした人間が怪しいことになってくるからね」 「なるほど」 「マンションで火事が起きた時刻、片山は高山本線の『ひだ13号』に乗っていたと、警察に証言している。テレビが漏電して発火するまで、三十分から一時間ということだから、彼の証言が信用されれば、アリバイになるはずなんだが、警察は信用しなかった。この日、片山と一緒に高山へ行くことになっていた同僚二人が、この列車に彼は乗っていなかったと証言したからだよ。待ち合せて乗ることになっていたが、彼は来なかったと証言したんだ」  十津川がいうと、亀井は「え?」という顔になり、 「もしかして、あの写真の二人が、その同僚じゃないんですか?」  と、きいた。 「そうだよ。名前は、小島修と、望月隆一だ」 「二人は、なぜ、そんな嘘の証言をしたんでしょうか?」 「今のところ、理由はわからない。いぜんとして、あの日、片山は約束の場所に来なかったし、一緒に乗るはずだった『ひだ13号』に乗っていなかったと、主張しているんだ」 「警部は、片山の主張の方を、信じておられるんですか?」  と、亀井がきくと、十津川は当惑した顔になって、 「正直にいえば、五分五分なんだ。ただ、今は、片山がこの焼死事件についてシロだったと考えて行動しないと、明日の予告爆破を防げないとは、思っているよ。何しろ、新しい犯人は、愛と憎しみを引き継いだと、いっているからね」 「愛というのは、焼死した片山の奥さんと子供への愛ということですね?」 「そうだ」 「憎しみは、片山に不利な証言をした同僚の二人に対するものですか?」 「必然的に、そうなってくる」  と、十津川は、いった。  亀井は、眼を光らせて、 「とすると、明日、その二人が高山本線に乗って来るということですか?」  と、きいた。 「高山に、T建設の事務所がある。そこに、本社の人間が、交代で出向して行くことになっているんだが、四月一日にも本社の二人の技師が、新しく出かけて行く。それが、問題の二人とわかった。いつも、T建設の社員は、名古屋から特急『ひだ』に乗って行く」 「それは、ずっと前から、決まっていたわけですか?」 「決まったのは、今年の二月一日だということだよ。毎年、二カ月前に、出向する社員の氏名が、公表されることになっているらしい」 「『ひだ』何号かは、わからないんですか?」 「わからない。とにかく、四月一日中に、高山に着けばいいということだからね」 「片山は、四月一日に、問題の二人が高山へ行くことを、知っていたと思われますか?」 「もちろん、知っていたはずだよ。だからこそ、今度の事件を、計画したんだと思う」 「ABC連続爆破をですか?」 「ああ、そうだ」 「しかし、なぜ、そんな面倒くさいことを考えたんでしょうか?」  亀井が、当然の疑問を、口にした。     9  十津川は、椅子に座り直した。考え事をする時の癖で、煙草に火をつけてから、 「逆算したんだと思うね」 「逆算──ですか?」 「そうだよ。いきなり特急『ひだ』の中で、昔の同僚二人を殺したら、必ず、疑いが自分にくる。そこで、連続爆破事件を起こし、動機を隠そうと、考えたんだよ。四月一日は、月曜日になる。そこで、月曜日ごとに爆破事件を起こしていけば、世間は、月曜日の爆弾魔がたまたま特急『ひだ』を爆破したと思うだろう。その上、ABCとやっていって、四回目にDを予告しておいて、ディーゼル・カーの『ひだ』を爆破すれば、いっそう本来の動機は隠されてしまうだろう。片山は、そう考えたんだと思うね」 「片山は、月曜日が休みの水道修理会社で働いていましたが、その会社も、わざわざ、今度の計画に合せて、入社したんですか?」  と、亀井が、きいた。 「片山は、去年の暮れに入社しているから、これは偶然だったと思うね。あるいは、会社が月曜日が休みなので、逆算計画を立てたのかも知れない」  と、十津川は、いった。  亀井は、緊張して、のどが渇くのか、備付けの冷蔵庫を開け、缶コーヒーを二つ取り出し、十津川にも、その一つを渡した。 「たまたま、会社が月曜日が休みだったということは、片山にとって、プラスだったんでしょうか? それとも、マイナスだったんでしょうか?」  亀井は、冷えたコーヒーを一口飲んでから、十津川に、きいた。 「両刃の剣だったと思うよ。月曜日が休みだから、会社の人間に疑われずに、計画を、実行することができたが、同時に、われわれにもマークされてしまったからね」  と、十津川は、いった。 「しかし、片山は自殺してしまいましたね」 「そうだ。彼は、こういう計画を実行するには、気が弱過ぎたんだと思うよ。片山の目的は、四月一日に、高山に転任する二人を殺すことだった。だから、ほかの人間に危害は加えたくなかったはずだ。しかし、爆破すれば、必然的に巻き添えになる人間が出る。といって、人のいないところでダイナマイトを爆発させていたら、かえって怪しまれる。世間に対する復讐という隠れ簑《みの》が生きて来ない」 「それで片山は、なるべく被害のないようにしたわけですね」 「そうだよ。トイレに仕掛けたり、動いているバスを狙ったりしてね。それでもやはり、負傷者が出た。ABCいずれのケースでもだ。気の弱い片山は、そのことに耐えられなくなってしまったんだと思うよ。神経が参ってしまったんだ」  と、十津川は、いった。 「そんな男に保険金殺人はできないだろうということも、いえそうですね」  亀井はいい、またコーヒーを口に運んだ。  十津川は、微笑した。 「カメさんは優しいから、そう考えるか」 「別に、私が優しいからじゃありません。他人を怪我させても心が痛む人間に、奥さんや子供は殺せないだろうと、思っただけです」  と、亀井は、照れた顔でいった。 「片山は自殺したが、彼の計画を引き継ぐ者がいたんだ」  と、十津川は、いった。 「共犯者ですか?」 「おそらく、ABC計画は、その人間と二人で、考えたんじゃないかと思うね」 「その人間の方が、片山よりも、強い精神力を持っていた、ということになりますか?」  と、亀井が、きく。 「そうかも知れないし、片山が挫折してしまったので、仕方なく自分が、最後のDに挑戦することになったのかも知れない」  と、十津川は、いった。 「警部は、その人間をご存知なんですか?」  と、亀井が、きいた。 「正確にわかっているとはいえないんだ。ただ、死んだ片山の奥さんには妹がいる」 「その妹が?」 「多分ね」 「どんな女ですか?」 「亡くなった姉に、顔がよく似ているそうだ。しかし、女は化粧すると変るからね。先入感を持つと危険だから、彼女の写真はわざと見ないことに決めたんだよ」  と、十津川は、いった。  いつの間にか、煙草が消えている。  十津川は、新しい煙草に火をつけた。 「片山は、三月二十八日の午前零時から一時の間に自殺していますが、共犯者はそれをいつ知ったんだと思いますか?」  しばらく間を置いて、亀井がきいた。自分が疑問に思うことを考えていて、口に出した感じだった。  十津川は、「そうねえ」と、眼を宙に遊ばせながら、 「これはもちろん想像でしかないんだが、片山は夜半に電話をかけたんだと思うよ。もう、これ以上は続けられない。神経が参ってしまったといってね。自殺を匂わせる言葉も、口にしたんじゃないかな。共犯者は、あわてて、八王子の彼の家に駈けつけたが、片山はすでに自殺してしまっていた」 「───」 「共犯者はどう思ったか、それは、わからない。悲しんだか、それとも片山の気弱さに腹を立てたか、その両方だったのかも知れない」 「───」 「共犯者は、自分がやらなければいけないと思ったんだね。片山が使っていたワープロを使い、『次の月曜日に、Dを爆破する』と、打った。だが、片山が死んでしまったので、Kとは署名できない。そこで、『愛と憎しみを継ぐ者』と、署名した。動機がわかってしまうかも知れないが、次が最後だから、構わないと考えたんだろうね。そしてすぐ、中央郵便局管内で、投函した」  と、十津川は、いった。  そのあと、十津川は、また窓のところに行き、外を見た。  雨になりそうだった。     10  翌朝、眼をさますと、小雨が降っていた。  二人は朝食をすませると、名古屋駅へ行き、特急「ひだ」の出発するホームへ足を運んだ。  このあとは根気比べだった。ホームのかげから見張り、問題の二人の男を見つけ出さなければならないのである。  幸い、月曜日なので、ホームはすいていて、見張るのは楽だった。   八時四〇分  ひだ1号   九時四〇分  ひだ3号   一〇時四〇分 ひだ5号   一二時四〇分 ひだ7号  と、出発して行く。が、問題の二人は現われない。 「なかなか、来ませんね」  と、亀井がいらだった。 「ああ」 「見逃したのかも知れません」 「大丈夫だよ。今日東京を出たとすれば、午後の列車の方が、可能性は高いんだ」  と、十津川は、いった。  一三時四〇分  ひだ9号  これにも、問題の二人は乗らなかった。  十津川と亀井は、昼食にホームで駅弁を食べてすませた。  キオスクに、夕刊が配られてきた。  亀井が、突然顔色を変えて、「警部!」と叫んだ。 「あれを見て下さい」 「何をだ?」 「夕刊ですよ」  と、亀井はいい、その一部を買ってきて、見出しを指で叩いた。 〈ひかり71号の食堂車に、時限爆弾!〉 〈月曜日の爆弾魔の仕業か!〉  大きな活字が、躍っている。  思わず、十津川の顔も青くなった。十津川は、その記事に食い入るように、眼を走らせた。 〈今日、午前六時〇六分東京発広島行きの「ひかり71号」に時限爆弾が、仕掛けられていた。場所は食堂車の隅で、発見が早く、怪我人はない模様〉  それだけだった。時間がたっていないので、くわしいことはわからないらしい。 「Dは Dining car だったんじゃありませんか?」  と、亀井が、険しい表情できいた。十津川を咎める感じの眼だった。 「『ひかり71号』の名古屋着は、何時だ?」  と、十津川が、きいた。 「なぜ、そんなことを?」 「いいから、調べてくれ!」  と、十津川も、大声になっていた。  亀井は、小型の時刻表を取り出し、ページを繰ってから、 「名古屋着は、八時〇六分です」 「それなら、陽動作戦だ!」 「なぜ、そういえるんですか?」 「新しい犯人も、問題の二人が何時の特急『ひだ』に乗るかわかっていないと思う。だから、八時四〇分発の『ひだ1号』から見張らなければならないんだ。『ひかり71号』なら、それに間に合うとすれば、犯人がそれに乗って、名古屋に来た可能性がある。そして『ひかり71号』の中で陽動作戦をやったんだよ。警察の眼を、そらすためにね」 「しかし、向うが本命の可能性だってありますよ!」  と、亀井が、いう。 「もし、そうだとしても、もう間に合わないじゃないか!」  十津川は、珍しく、部下を叱りつけた。 「しかし──」  と、いいかけた亀井が、「あッ」と、小さく叫び、 「来ました!」  と、いった。  ホームに、問題の男二人が姿を現わしたのだ。  一四時四〇分発の「ひだ11号」が、ホームに入っている。  四両編成で、2号車の半分が、グリーンになっていた。二人は、そのグリーン車に、乗り込んだ。  十津川と亀井は、別の車両から乗り込むことにした。 「始まるぞ」  と、十津川は、自分にいい聞かせる調子で、いった。   名古屋   14:40   尾張一宮  14:51   岐 阜   14:59   鵜 沼   15:19   美濃太田  15:27   白川口   15:51   飛騨金山  16:04   下 呂   16:23    ↓   高 山   17:09   飛騨古川  17:25   猪 谷   18:08   越中八尾  18:27   速 星   18:37   富 山   18:46  これが、「ひだ11号」の時刻表である。このどこで、犯人は、爆弾を仕掛けるのか?  問題の二人は、高山で降りるのだから、それまでに仕掛けることだけは、間違いなかった。  2号車の半分が、グリーンではなく、指定席になっている。十津川と亀井は、そこに腰を下ろして様子をうかがった。  グリーンは、がらがらだった。  問題の二人は、中ほどの席に並んで、腰を下ろしている。 「怪しいのは、片山の死んだ奥さんの妹だといわれましたね?」  亀井が、グリーンをうかがいながら、声をひそめていう。 「そうだ」 「それらしい女がいます。あの二人の斜めうしろの席です」 「ああ、いるね」  だが、サングラスをかけ、俯いて何かを読んでいるようなので、顔はわからない。  列車は、尾張一宮、岐阜、鵜沼と過ぎていく。  美濃太田を過ぎたとき、突然、亀井のマークしていた女が、大声で叫び声を立てた。  立ち上って、何か叫んでいる。  車掌が飛んできた。 「ゴキブリがいるのよ。何とかして!」  と、女が大声で怒鳴った。グリーンのほかの乗客も面白がって、立ち上って見に集まった。  車掌は何か口の中で呟きながら、女の座席をのぞき込んでいたが、小さな虫をつまみあげて、 「これ、おもちゃですよ」  と、笑った。 「じゃあ、誰がこんな悪戯をしたの!」  女はまだ怒っている。  ほかの乗客は、笑いながら自分の席に戻って行く。  問題の二人も立って見に来ていたが、彼らもニヤニヤ笑いながら戻った。 「カメさん、仕掛けられたぞ!」  突然、十津川が叫んだ。 「え?」 「今の騒ぎの最中に、仕掛けやがったんだ。あいつを捕まえるんだ!」 「あいつって誰ですか?」 「グリーンから、向うへ出て行こうとしている奴だ」 「あれは男ですが」 「いいから、捕まえてくれ!」  と、十津川は叫んだ。  亀井が、コートの襟を立て、帽子をかぶった男に飛びかかって行った。  帽子が飛び、その下から長い髪が現われた。  羽織っていたコートが脱げて、ブルーのワンピース姿が見えた。女なのだ。  亀井がその女を押さえつけた。  十津川は、問題の二人の男の前に立った。  警察手帳を突きつけ、 「立ちなさい!」  と、怒鳴った。  二人は、面くらって、ぽかんとしている。  十津川は、そんな二人に向って、 「立て! 死ぬぞ!」  と、怒鳴り、一人を、腕をつかんで引っ張り上げた。もう一人も、のろのろと立ち上った。  十津川は、二人の座席の下をのぞき込み、そこから、女物のショルダーバッグを引きずり出した。  車掌は、事の成り行きに、呆然としている。  十津川は、亀井の捕まえた女に、 「いつ爆発するんだ?」  と、きいた。  女は、キッとした眼を向けて、 「そんなこと、知るもんですか!」 「くそ!」  十津川は、舌打ちした。客車の窓は開かないし、開いたとしても、外に投げて安全かどうか、わからない。  十津川は、必死で頭を働かせた。  次は、白川口だが、駅では、もっと処分に困るだろう。  それに、いつ爆発するかわからない。 「車掌室へ連れて行け!」  と、十津川は、車掌に向って叫んだ。  車掌室に行くと、ショルダーバッグを投げ込み、ドアを閉めた。 「運転手に停車させて、乗客を避難させるんだ!」  と、十津川は、怒鳴る。声がかすれた。 「何が、どうなってるんですか?」  車掌が、まだ事態が呑み込めなくて、きいた。 「爆弾だよ。すぐにも爆発するぞ!」  と、十津川は、いった。初めて、車掌の顔色が変った。  列車が急停車し、乗客が逃げる。  その途中で、爆発した。  車掌室のドアが吹き飛び、すさまじい爆発音と、爆風が、襲いかかった。  2号車が、横倒しになった。  まだ2号車に残って、ほかの乗客を追い出していた十津川は、はじき飛ばされ、座席にぶつかった。  一時、意識を失った。  気付いた時、十津川は亀井によって横倒しになった客車から、外に運び出されていた。 「大丈夫ですか?」  と、亀井が、きいた。 「そう思うがね──」 「すぐ、救急車が、来ますよ」  と、亀井が、いった。     11  皮肉なことに、問題の男二人は逃げて、かすり傷一つ負わなかったが、逃げおくれたほかの乗客一人と、車掌、それに十津川が負傷した。  逮捕された日比野みゆきは、岐阜警察署に連行された。  彼女は、計画が失敗したことで、すべてを諦めたらしく、訊問に対して、すらすら自供した。  彼女が喋ったことは、だいたいにおいて、十津川が推理したことと同じだった。  片山は小心のせいか、保険金殺人の疑いをかけられたあと、生活が乱れ、あげくに上司を殴ったりして、T建設を馘になった。  義妹のみゆきは、そんな片山を励ました。  彼女が情けなかったのは、彼が姉を殺した犯人を捕まえようとはせず、ただやけになっていることだった。  そこで、片山を励まし、真犯人を見つけ、仇を討たせようと思った。彼女自身、姉の仇を討ちたかったのだ。  片山も、次第に、その気になって、二人で誰が真犯人か考えることにした。  そこで浮び上ってきたのが、片山に不利な証言をした二人の友人だった。  調べていくと、二人とも、結婚前の片山の妻、日比野かおりに夢中だったことがある。特に小島修の方は、強引に口説いて、手ひどく振られたことがあった。  かおりが結婚したあとも、彼女を口説いていた形跡があった。  証拠はないが、三人で高山の事務所に出向く機会に、二人はマンションに行き、言葉巧みに、かおりに睡眠薬のコーヒーか、ジュースでもすすめ、眠らせておいて、テレビに細工をしたのではないか。  そうしておいて、片山のアリバイを消す証言をした。  確証はないが、みゆきと片山は、二人を犯人と考え、復讐計画を立てた。幸い、片山はT建設時代、やけになったとき、何本かダイナマイトと信管を盗み出していたから、それを使うことにした。 「ABC計画は、二人で作りました」  と、みゆきは、いった。 「四月一日に、あの二人が高山に出向すると聞いたからです。動機がわからなければ、警察に捕まることはないだろうと思ったんです。でも、片山さんは、優し過ぎました。ABCと、実行していくうちに、彼の神経が参ってしまったんです。二十八日に電話があって、死にたいといいました。あわてて飛んで行ったら、片山さんは首を吊って死んでいたんです。もともと、復讐なんかできない人だったんです」 「それで、君が後を引き継いだんだね?」  と、亀井がきいた。 「ええ。失敗しましたけど、あの二人が、姉と子供を殺した犯人に間違いありませんわ」  みゆきは、きっぱりと、いった。     *  その小島修と望月隆一は、頑として、片山の妻子を殺したことを否認した。しかし、警察はあの事件を、もう一度捜査しなおすことになった。その点では、片山とみゆきのやったことは、成功したのだ。 「ひかり71号」の食堂車に爆弾を仕掛けたのも、日比野みゆきだったが、そのあと電話をかけていたので、被害は出ていない。  しかし、食堂車にもダイナマイトが仕掛けられたことで、三上本部長も、面目を失わずにすんだ。  Dが Dining car(食堂車)という推理も、間違いではなかったからである。  そのせいか、命令違反をした十津川と亀井に対して、三上部長は寛大だった。  愛と絶望の奥羽本線     1 「おかしいわ」  妻の祐子が、井上の背中に向って、ふいに、いった。  井上の肩のあたりが、小さく動いた。が、ボストンバッグに、着がえを詰める手を休めずに、 「何がおかしいんだ?」 「福島に、会社の支店ができたなんて、聞いてないわ」  祐子の声が、もう、とがっている。眼も吊りあがっているに違いない。井上は、彼女に背を向けたまま、 「一カ月前に、開店したんだよ。おれは、人事の責任者として、仕事の連絡に行ってくるんだ」 「嘘だわ」 「疑うのなら、会社に電話して、聞いてみたらいいだろう」 「この時間は、まだ、会社に誰も来てないわ。それを知ってて、聞いてみろなんていうんでしょう?」 「とにかく、おれは仕事で福島へ行くんだ。おれのいうことが、信用できないのか?」 「できないわ。最近のあなたは、おかしいわ。出張は嫌いだっていってたくせに、やたらに行くようになったし、言葉使いも乱暴になったわ。まだ、あの女とつき合っているのね。そうでしょう?」 「あの女?」 「私には、わかるのよ。言葉使いが乱暴になってくると、必ず、あの女とつき合ってるんだから。今度の出張で、あの女と会うことになってるんでしょう!」 「あの女って、誰のことだ?」  井上は、またかという顔で、きき返した。彼が家をあける時は、まるで一つの儀式のように、祐子の嫉妬《しつと》が始まる。  いつから、こんなになってしまったのだろうかと思う。七年前に結婚した時は、周囲から羨《うらや》ましがられたものだった。彼女は副社長の娘で、当時、逆玉といわれた。友人の中には、尻に敷かれて大変だぞと、ひやかすものもいたが、結婚してみると、祐子は大らかに育って来たせいか、可愛らしくのびのびとしていて、井上は結婚してよかったと満足した。そのうえ、義父の力はやはり大きくて、同族会社の色彩の強い今の会社で、井上は現在四十歳で、人事部長に就くことができた。  その義父が二年前に亡くなったのだが、考えてみるとその頃から、祐子が急に嫉妬深くなったようだ。  副社長の父がいれば、井上は自分のいう通りになると思い込んでいたのが、その支えが、失《な》くなってしまったからだろう。彼女がのびのびとしているように見えたのも、父親が会社で睨みを利かしているからと、安心しきっていたせいなのだ。  井上自身も、頭上の重石《おもし》が除《と》れた感じで、つい浮気に走り始めたから、祐子の嫉妬は、いっそう強くなったのだと思う。 「勝手にしろ!」  と、井上は、今日も怒鳴って、立ち上った。いつもは、祐子はぶつぶつ文句をいいながらだが、どこかに、つかみかかったり物を投げたりするのははしたないという気持ちがあるのか、井上が出かけるのを止めたりはしなかった。  だが、今日は違っていた。突然、 「行かせるものか! あの女に、会わせるものか!」  と叫んで、テーブルにあった果物ナイフを、井上に突きつけてきた。  井上は、ナイフよりも、祐子の眼にふるえあがった。今までは、どんなに激しい夫婦喧嘩をしても、祐子の眼にも態度にも、甘えみたいなものがあって、井上は、タカをくくっていたのだが、今、妻の眼に見えるのは憎しみだけだった。 (殺される!)  と、思った。  それに、今回の出張では本当に女を連れて行くことにしていた。東北の温泉で待ち合せることにしていたのだ。その後ろめたさが、恐怖を倍加させたのかも知れない。 「何をするんだ!」  と、叫びながら、手で眼の前のナイフを払った。  どうなったのかわからなかったが、祐子が悲鳴をあげた。自分の持った果物ナイフで自分の手を切ってしまったのだ。  血がしたたり落ちると、祐子の眼がいっそう狂気じみてきた。 「人殺し!」  と、叫ぶというよりわめきながら、また切りつけてきた。  それをどう防いでいたか、井上は覚えていない。無我夢中だったのだ。  気がつくと、部屋の中が、妙にしーんと静まり返ってしまっていた。妻のわめき声も消えている。  突然、左腕に痛みを感じた。見ると、二の腕のあたりから、血が出ているのだ。あわててハンカチでおさえて、あらためて室内を見廻した。  妻が、仰向けに倒れている。  口を小さく開け、眼が宙を睨んだままだった。左手からは、まだ血が流れ出ている。血のついたナイフは、部屋の隅に飛んでいる。 「祐子!」  と、呼んだが、返事がない。  井上の顔から、血の気が引いていった。 「おい。どうしたんだ!」  と、妻の身体をゆすってみたが、だらりと、力を失ってしまっている。息をしていない。 (死んでいる)  井上の身体が、小きざみにふるえ出した。     2  妻が好きで作った大理石の暖炉の角に、血がついているのに気付いた。  殺されると思い、突き飛ばした時、妻の後頭部がぶつかったのだろう。 (これで、何もかも、おしまいだ)  と、井上は、思った。  絨緞《じゆうたん》の上に、座り込んでしまった。 (妻殺し)  そんな文字が、井上の頭を横切った。やたらに、のどが渇く。妻の死体を見ないようにして、キッチンに行き、水道の蛇口に口をつけて、水を飲んだ。  少しずつ冷静さを取り戻してきた。絶望が消えていき、 (刑務所行きなんか、真っ平だ)  と、考えるようになった。  刑務所行きも嫌だし、現在の地位を失うのも嫌だった。  井上は、必死になって、善後策を考えた。  今日、福島支店に行くことは、会社の人間が知っている。新幹線の切符も手配ずみだし、九時半には秘書の岡林が車で迎えに来る。  井上は、腕時計を見た。九時半まで、あと十分しかない。  こんなところを岡林に見られたら、それで終りだ。  ワイシャツの左袖がナイフで切り裂かれ、血が滲《にじ》んでいる。あわてて、それを脱ぎ、傷口を包帯で巻く。  血で汚れたワイシャツは、丸めてボストンバッグに突っ込み、新しいワイシャツを着て、上衣を身につけた。  自分が出張中に、泥棒が入り、妻の祐子に見つかって、居直った。妻が果物ナイフで必死に抵抗したが、泥棒に突き飛ばされて死亡。そうしたいと、思った。  泥棒が入ったように見せなければと考え、井上は、応接室、寝室などをちらかし、引出しをぶちまけ、妻の持っている貴金属を取り出して、ボストンバッグに入れた。  その途中で、インターホンが鳴った。  岡林が迎えに来たのだ。 「岡林です。お迎えに来ました」  と、ちょっと甲高い声が、いった。 「ご苦労さん。すぐ行く」  と、井上は応《こた》えておいて、もう一度、室内を見廻した。  ミスをしたかも知れないが、もう時間がなかった。  ボストンバッグをさげて、玄関に出る。  外に待っていた岡林が、うやうやしく、ボストンバッグを受け取った。  井上は、家の中に向って、 「不用心だから、ちゃんとカギをかけておけよ! 福島に着いたら、電話するからな」  と、わざと大声でいった。  迎えの車に乗り込むと、井上は、運転席の岡林の背中に向って、 「家内は、私が出張だというと、ご機嫌が悪くてね。送りに出て来ないんだよ。この年齢《とし》で、やきもちもないと思うんだがねえ」  と、いった。いってしまってから、芝居が過ぎたかなと、心配になって黙ってしまった。  岡林は、上役のプライバシーには関心がないのか、「はあ」といっただけである。  上野駅に着くと、「行っていらっしゃいませ」と、馬鹿丁寧に頭を下げた。  井上は苦笑をしながら、改札口を通り、新幹線ホームにあがって行った。  一〇時五〇分発の盛岡行きで、個室の切符が用意されていた。  すぐ車内検札があり、それがすむと列車は出発した。  井上は個室のドアを閉め、ほっとして椅子に身体を沈めた。  ここまで、緊張のしつづけだったのだが、それが解けると、また、不安がよみがえってきた。 (おれはうまく部屋の細工をして来ただろうか?)  という不安だった。  妻の祐子にすまないことをしたという気持ちは、なかった。それだけ、二人の間は、冷え切っていたということかも知れない。  部屋を荒しておいて、現金と貴金属を持ち出してきた。  泥棒が盗《と》って行ったという設定にしたのだ。 (預金通帳は、持って来なかった──)  それを、警察はどう考えるだろうか?  印鑑が見つからず、通帳を盗んでも仕方がないので、放り出して逃げたと、思ってくれるだろうか?  それに、岡林の奴も、こちらの必死の芝居を覚えてくれていて、警察で証言してくれるだろうか? (血──!)  急に、井上の顔が、青ざめた。  妻の振り廻したナイフで、彼の左腕が切られ、血が絨緞の上にしたたり落ちたのを、思い出したのだ。  警察は当然、血液型を調べるだろう。妻の祐子はB型だが、井上はAB型だ。  AB型の人間は、少い。 (まずいな)  と、思った。  物盗りの犯行と信じ切ってくれればいいが、少しでも、夫の井上が疑われたら、当然彼の血液型が調べられる。 (まずいな。本当に、まずいな)  井上は、背筋に冷たいものが流れるのを感じた。  井上は、上衣を脱いだ。ワイシャツをまくりあげる。  あわてて巻いた包帯に血が滲んで、赤くなっている。  傷口が、急に、跡かたもなく消えるなんてことは、あり得ない。すぐ、警察に見つけられてしまう。そうなったら、もう終りだ。 (朝、ちょっとした痴話ゲンカで、その時、家内の振り廻したナイフが、当ってしまったんですよ、といったら、どうだろう?)  と、井上は、必死で考えた。  だが、岡林相手に、下手な芝居をしたのが、命取りになってしまうかも知れない。腕を切るようなケンカのすぐあとで、福島に着いたら電話するなどと、声をかけたりしたことになるからである。 (まずいな)  と、思った。が、その一方で、警察は、絨緞の血を、すべて、妻の傷から出たものと思うかも知れないと、自分に都合のいいように考えたりもした。  何といっても、妻の死体が、転がっているのだ。そして、彼女の左腕に切傷があれば、絨緞の血は、すべて、そこから流れたものと思い込むのではないか。  それなら、別に、心配することはないのだ。  一時間半足らずで、福島に着いた。  駅には、支店長の田浦が、迎えに来ていた。井上より十歳以上年長だが、井上に向って、丁寧に頭を下げた。 「お待ち申しあげておりました」  と、いう。  井上は、わざと、鷹揚《おうよう》に構えて、 「お世話になりますよ」  と、いってから、 「家内に、電話したいんですがね。出張のときは、心配するので、必ず、着いたら電話するんですよ」 「それは、仲のおよろしいことで、お羨ましい。私の家内など、まったく心配しませんよ」  田浦は、下手なお世辞をいい、井上を、公衆電話ボックスに案内した。  井上は、テレホンカードを差し込んで、自宅のナンバーを押した。  呼んでいるが、誰も出ない。まだ、祐子が死んだことは、見つかっていないらしい。  井上は、通じたふりをして、 「ああ、僕だ。今、福島に着いたところでね。支店長さんが迎えに来てくれたよ」  と、いい、近くで待っている田浦に向って、笑って見せた。 「ああ、三日したら、帰る。お土産を持って帰るよ。楽しみにしていてくれ」  井上は、それだけいって、受話器を置いた。硬貨だと、ジャラジャラ戻って来て、通じなかったのがわかってしまうが、テレホンカードではそれがないので、井上は素知らぬ顔で抜きとると、田浦のところに戻った。  田浦が車に案内し、井上は、乗り込んだ。 「副社長がお元気の頃は、いろいろとお世話になりました」  と、田浦は、お世辞をいった。それに続いて、 「今夜は、どこへお泊りになりますか? 温泉がよければ、手配しますが」 「いや、友人が、天童で旅館をやっていましてね。ぜひ、来てくれといっているので、今夜は、そこへ泊ることにしているんですよ。約束してしまったので、私の勝手にさせて下さい」  と、井上は、いった。  そこで、工藤ひろみと、待ち合せることになっていた。  田浦は、残念そうに、 「それなら、仕方がありませんが」 「ここから、天童まで、特急で二時間あれば行きますね?」 「一時間半です」  と、運転手がいう。 「この車で、お送りしますよ」  と、田浦がいうのへ、井上は、 「いや、列車に乗るのを、楽しみにして来ましたから」  と、断った。  この日は簡単な打ち合せをしただけで、早目の夕食が、井上の歓迎会になった。  その間、東京から、妻が死んだという電話が入るのではないか、その時には、どんな表情をしたらいいのかと、考えたりしていたが、いっこうに電話は、入らなかった。  夕食の途中で、井上は料亭の廊下にある公衆電話から、自宅にかけてみた。  呼出しのベルは鳴るのだが、誰も出ない。 (死体を、まだ、誰も見つけていないのか?)  そのことに、ほっとしながら、同時に、焦燥《しようそう》も覚えた。いつまでも、不安でいるのが、たまらないのだ。  次に、天童温泉の「かつら旅館」に、電話を入れた。待ちかねていたように、工藤ひろみが、電話口に出た。 「いつ、こっちへ来られるの?」 「八時までは、つき合わなきゃならないから、そちらに着くのは十時頃になるな」 「奥さん、何ともいってなかった? あたしとのことを、疑ってるんじゃない? 女って、敏感だから」 「大丈夫だよ。君はいつ頃、天童に着いたんだ?」 「午後三時頃だったと思うわ。だから、もう四時間も待ってるのよ。なるべく、早く来て」  と、ひろみが甘えた声を出した。 「わかってるから、温泉にでも入って、待っていなさい」  小声でいって、井上は電話を切り、席に戻った。  結局、八時過ぎまで引き止められ、井上は危うく、二〇時二〇分福島発の特急「つばさ13号」に乗りおくれるところだった。このあと二二時〇一分の「つばさ15号」があるのだが、これは山形までしか行かないのである。  座席に腰を下ろすと、ホームの売店で買った夕刊を広げた。  どこにも、東京で殺人事件があったというニュースは、出ていなかった。妻の名前など、一行ものっていないのだ。  夕刊の締切りが、午後二時とすると、それまでに妻の死体は発見されなかったということだろうか? (どうしたらいいのか?)  と、井上は、迷った。  家に電話したのだが、妻が出ない。心配だから、調べてくれと、警察か会社にいおうか?  しかし、何時間か、電話に出ないだけで、騒いだら、かえって怪しまれるかも知れない。普通なら、もっとのんびりしているに違いないからである。 (まさか──?)  ふと、奇妙な疑心暗鬼に襲われた。  すでに妻の死体は、警察が発見しているのではないだろうか? 井上は、必死で細工したが、警察は、夫の井上が怪しいと考え、わざと事件を伏せて、彼がボロを出すのを待っているのではないかという疑心暗鬼だった。  もし、そうなら、下手に動くと、みすみす警察の罠にはまってしまうことになる。  井上は、その答を見つけようとするように、窓の外に眼をやった。  窓の外は、すっかり暗くなっている。列車の灯りが届くところは、三月末なのに、真っ白な雪に蔽《おお》われていた。東京はすでに春の気配だったが、ここ奥羽本線の沿線には、冬と雪が、まだ腰をすえている。  列車は、米沢、赤湯、上ノ山、山形と停車し、二二時〇二分に、天童に着いた。  天童は、将棋の駒の産地と、温泉で有名な町である。  今朝までは、ひろみと浮気旅行を楽しむことにしていた温泉なのだ。しかし、今は違ってしまった。といって、ひろみを追い帰したりしたら、疑われてしまうだろう。  妻が殺された時、別の女と東北にいたというのは、不謹慎と非難されるだろうが、殺人で、逮捕されるよりはいい。ひろみが、アリバイを証明してくれる一人になってくれるだろうからでもある。  天童の町は、普通、温泉町といった時に、思い浮べる町の景色とは、かなり違っている。  一般に、温泉町というと、山間の渓流に沿って、川岸に並ぶホテルや旅館が思い浮ぶのだが、天童の場合は、普通の町の中に、温泉旅館やホテルが点在している感じがする。  スーパーの隣に、ホテルがあって、そのホテルに大浴場があったりするのだ。  井上が、予約した「かつら旅館」も、そんな一軒で、日本料理店の隣にあり、交叉点の傍だった。  ひろみは、他人行儀に出迎えたが、部屋に入り、女中が消えてしまうと、喘《あえ》ぐ感じで抱きついてきた。  その熱っぽさに、井上の方が圧倒されてしまい、押し倒されるように、布団に、抱き合ったまま、転がった。 「奥さん、あたしのことを気付いてるんじゃないかしら?」  唇を離して、ひろみが、じっと井上の顔をのぞき込んだ。  井上は思わず、怒ったような声になって、 「そんなこと、心配することはないさ」 「でも、奥さんは、あたしたちのこと、感付いてるらしいって、いってたじゃないの」 「大丈夫だよ」 「何かあったの?」 「え?」 「そうなのね。何かあったんだわ。いつもの井上さんと、違ってるわ」  ひろみは、眉をひそめて、井上を見た。  井上は、狼狽《ろうばい》した。自分では、平然としているつもりなのだが、やはり、不安や怯えが顔色や態度に、表われてしまっているのかも知れない。 「何でもないさ」  と、井上は強い調子でいったが、ひろみは急にさめた眼になって、 「ねえ。別れる気になってるんなら、ちゃんと、いってよ。あたしは、誤魔化されるのが嫌なの」  と、切口上で、いった。 「違うよ。そんなことはないよ」  と、井上は、いった。 「でも、いつもと違ってる。何か、怖がってるわ。何が怖いの? 奥さん? それとも、あたしとつき合ってるのが会社にわかってしまって、それが出世の邪魔になりそうなの?」  堰《せき》を切ったように、ひろみが、井上に、言葉を浴びせかけてきた。井上がそれにうまく応《こた》えられずに黙ってしまうと、彼女は布団から降りてしまい、口の中で、何か、ぶつぶつ呟《つぶや》いていた。 「困ったな。君と別れる気はないよ」  と、井上は、彼女の背中に向って、いった。が、ひろみは、それには応えず、手を伸ばして、テレビをつけた。  別に、テレビを見たいわけでもないらしく、つけたものの、窓の方に眼をやっている。 〈──今日、東京都世田谷区で、N興業人事部長井上剛さんの妻、祐子さんが、殺されているのが発見され──〉     3  ひろみが、青ざめた顔で、井上を振り返った。 「あなたが、殺したの?」 「違うよ。僕じゃない!」 「でも──」 「ちょっと、黙っててくれ!」  井上は、怒鳴るようにいい、テレビに眼を走らせた。  画面には、妻の祐子と井上が、笑顔で並んでいる写真が、出ていた。多分、部屋の中から、見つけたのだろう。 〈──今日、午後十二時二十分頃、N興業の管理部長、青木勇さんに、井上さんから、ひどく興奮した様子で、家内を殺してしまったということで電話がかかり、青木さんは、半信半疑で、会社が終ったあと、世田谷区駒沢の井上さんの家に寄ったところ、玄関の錠はかかっておらず、洋室で、井上さんの妻、祐子さんが死んでいるのを発見し、あわてて、警察に届けたということです。警察が調べたところ、祐子さんは、ナイフで腕を切られ、後頭部を強打されて、殺されていました。夫の井上さんは、会社の仕事で、東北に出張しており、警察は重要参考人として、探しています〉  井上の顔から、血の気が引いてしまった。居直り強盗に見せかけようと、細工をしたのだが、警察は欺されなかったのだ。  ただ、彼は、友人の青木に、電話した覚えがない。 「やっぱり、奥さんを殺したのね? あたしが、原因なの?」  ひろみが、光るような眼で、井上を見つめた。 「仕方なかったんだ。家内が、果物ナイフで切りつけてきたんで、それを防ごうとしていたら、暖炉に、彼女が、頭をぶつけて──」 「そんないいわけなんか、警察は、聞いてくれないわ。警察は、怖いわよ」  ひろみが、いう。彼女は、銀座のクラブのホステスだが、前に、ホステス仲間と喧嘩をして、傷害で、警察に捕まったことがあると、話したことがあった。  井上が、どうしていいかわからず、黙っていると、ひろみは、急に、座り直して、 「逃げましょう」 「逃げるったって、どこへ?」 「ここに泊ってることは、支店の人は知ってるんでしょう?」 「天童に泊るとはいったが、この旅館の名前は教えてないし、井上という名前も使ってないよ」 「でも、そんなの、すぐわかってしまうわよ。すぐ逃げないと、捕まってしまうわ」 「しかし、どこへ逃げるんだ? 列車だって、もうないよ」 「朝まで、警察が呑気《のんき》に待ってくれると思うの? タクシーに乗ったって、歩いたって、何とか逃げられるわ。お金は、持ってる?」 「ああ、二百万ほど、持って来てる」  と、井上は、いった。 「それなら、当座は、何とかなるわ。さあ、支度して!」  と、ひろみが、いった。  井上は、引きずられる感じで、布団の上に立ち上った。  身支度をして、二人は部屋を出た。もう、夜の十一時を回っている。  入口のドアは、まだ開いていた。足音を忍ばせ、そっとドアを開け、二人は外へ出た。冷たい風が、いきなり、井上たちの身体を押し包んだ。  国道の残雪が、冷気で、凍りついている。井上は、足をとられて、危うく、転びかけた。それをひろみが、支えて、 「しっかりして!」  と、叱りつけるようないい方をした。 「列車がないから、タクシーを、拾おう。あのタクシーが、空車だよ」 「あれは、駄目」 「なぜだ?」 「山形ナンバーだからよ。警察は、必ず、タクシーを調べるわ」  ひろみは、冷静な口調でいい、じっと通りを見ていたが、宮城ナンバーのタクシーを見つけて、手を上げた。井上は、完全に、ひろみに主導権を握られた感じだったが、その方が少しは気が楽だった。  タクシーに乗ると、ひろみは、考えてから、 「鳴子へ行って」 「鳴子ですか?」 「あんた、宮城のタクシーなんだから、道を知ってるでしょう?」 「知ってますが、遠いですよ」 「かまわないわ」  と、ひろみはいい、タクシーは走り出した。  天童の町が、消え去って行く。 (これで、完全に、警察に追われることになってしまったな)  と、井上は、思った。  シートに、頭をもたせて、眼を閉じた。まだ、刑事の姿を見たわけでもないのに、ひどく怯えた気持ちになっている。わずかな気休めは、今、乗っているタクシーが、走っているということだった。これが、走っている限り、捕まらないような気がするからだ。 「大丈夫よ」  と、ひろみが、井上の耳元で囁《ささや》いた。 「何が、大丈夫なんだ?」 「あたしが、絶対に、あなたを捕まえさせないわ。逃げて、逃げまくるのよ」 「いつまで、逃げるんだ?」 「時効になるまでよ」 「───」 「大丈夫、あたしが、守ってあげるわ」  ひろみは、むしろ嬉しそうに、いった。     4  すでに、午前零時を回っている。  捜査本部になった世田谷署で、十津川は、山形県警天童署からの電話を受けていた。  まず、福島県警に電話をし、そこから、井上が泊ったと思われる天童へ、連絡して貰っておいたのである。 「ようやく、井上と思われる男が泊った旅館がわかりました。『かつら旅館』で、井上は、津田守という偽名で、二十五、六歳の女と泊っていましたが、うちの刑事が駈けつけた時は、もう、逃げ出していました」  と、林という刑事が、訛《なま》りのある声で、いった。 「何時頃に、いなくなったんですか?」  と、十津川は、奥羽本線沿線の地図を見ながら、きいた。 「男がその旅館に入ったのは、十時半頃でしたから、そのあとであることは、間違いありません」 「行先は、わからないでしょうね?」 「もう、列車は動いていませんから、タクシーを拾ったと思います。今、タクシーの運転手に当っているんですが、二人を乗せた人間は、見つかっていません」 「女は、どんな感じだったんですかね?」 「今、いいましたように、二十五、六歳で、旅館の従業員たちの話では、身長は、百七十センチほどで、なかなかの美人だったそうです。派手な感じで、水商売の女らしいという証言もあります。旅館には、井上より先に、午後三時すぎに、入っています。その時、山中みどりと名乗っていますが、これも偽名だと思います」  と、林刑事は、いった。  十津川は、電話を切り、煙草に火をつけた。  テレビのニュースは、今度の事件を、「エリートの殺人か?」と、報道した。クエスチョンマークつきなのは、まだ、井上が、重要参考人の段階だからだろうが、アナウンサーの調子は、すでに犯人と、決めつけている感じだった。  十津川は、今までにわかったことを、思い返してみた。  井上は、一〇時五〇分上野発の「やまびこ」で、N興業福島支店に、出張で出かけている。  この列車の福島着は、一二時一八分である。  友人の青木管理部長に、「家内を殺した」と電話してきたのが、十二時二十分頃というから、駅に着いてすぐ、電話したのだろう。  そのあと、井上は、福島支店で仕事をし、夜、天童に向った。とすると、彼が、妻の祐子を殺したのは、家を出る前ということになる。  N興業では、井上の秘書が、九時三十分に車で迎えに行き、上野駅へ送ったというから、九時半前なのだ。  午前二時近くに、大学病院から、死体の解剖結果が報告されてきた。  やはり、死亡推定時刻は、午前九時から十時の間だという。  死因は、後頭部を強打されたことによる頭蓋骨陥没だということだった。 「そろそろ、井上剛の逮捕状を請求していいんじゃありませんか」  と、亀井刑事が、十津川に催促した。 「そうだな」 「物盗りの犯行に見せかけようとするなんて、いかにも、エリートらしい往生際の悪さじゃありませんか。腹が立ちますよ」  と、亀井は、いう。 「確かに、小細工が過ぎたという感じだねえ。ずいぶん、下手くそな細工だよ」 「時間がなかったからでしょう。自分でも、あれでは、すぐ、ばれてしまうと思ったはずですよ。警察は、欺されませんからね」 「それで、一時は観念して、友人に電話して、奥さんを殺したと、告白したというわけかな?」 「そう思います。しかし、天童に待たせておいた女に会ったら、また、捕まるのが嫌になって、逃げ出したんだと思いますね」 「殺人の動機も、女性関係だろうね」 「出張先に女を待たせておく。それに、奥さんが気付いて、激しい夫婦ゲンカがあったんじゃありませんか。奥さんが、果物ナイフを振り廻した形跡がありますからね」 「エリートの落し穴は、女だったというわけか」  十津川は、小さく、溜息をついた。  何となく、やり切れない感じがしたからである。 「問題は、凶器ですね。家の中にあるのではないかと思ったんですが、見つかりません。ひょっとすると、犯人の井上が、旅行の途中で処分する気で、持ち去ったということも、考えられます」  と、亀井が、いった。 「凶器は、何だと思うね」  と、十津川が、きいた。 「わかりませんが、一つだけ、気になったことがあります」 「何だね?」 「井上は、煙草を吸うようで、居間にも、寝室にも、煙草がありました。それなのに、現場の居間には、灰皿がありませんでした」 「それは、私も、気になっていたんだよ。凶器は、灰皿かな」 「そうだと思います。かなりの重さのある灰皿なら、十分に、凶器になりますから」  と、亀井は、いった。  寝室にあった灰皿は、南部鉄の重いものだった。居間にも、同じものが置かれていたとすれば、十分に、凶器になり得るのだ。  朝になると、十津川たちは、井上夫婦についての情報を集めにかかった。  九時を過ぎ、N興業本社が、仕事を始めると、十津川は、亀井と二人で出かけて行き、井上の上司にも会って、話を聞いた。  社長一族の一人である佐伯局長は、当惑した顔で、十津川を迎えた。 「とんだことをしてくれたと、社長とも、話をしているんですよ。わが社の恥ですからね」  と、佐伯は、いった。 「亡くなった井上祐子さんは、ここの前の副社長の娘さんだそうですね」  と、十津川が、きく。 「そうです。それだけに、将来を約束されていたのに、何ということをしてくれたのかと、腹立たしくて、ならんのですよ」 「今、井上さんは、女と逃げていると思われるんですが、この女性について、心当りはありませんか?」 「多分、銀座のクラブのホステスだと思いますね」 「ホステスですか?」 「ええ。噂に聞いたことがあるんですよ。確か、『ミッドナイト』というクラブの、ひろみというホステスです。私は、気になったので、井上君に問いただしたことがあるんですよ。その時にはもう切れたといっていたんですが」 「二十五、六歳で、長身の女性のようですが」  亀井がいうと、佐伯は、肯いて、 「それなら、まず、ひろみというホステスに間違いないと思います。私も二、三度会っていますが、そんな感じでしたから」  と、いう。 「福島支店から、何か連絡は、入っていませんか?」 「今のところ、何も。この上は、一刻も早く井上君が自首してくれればと、思っているんですが」  と、佐伯は、いった。  事件を警察に伝えた、管理部長の青木にも、もう一度、会った。  青木は、疲れた表情で、 「彼から電話があったら、自首をすすめようと思って、じっと、連絡を待っているんですが──」  と、十津川に、いった。 「昨日は、十二時二十分頃に、電話があったんでしたね?」 「そうです。あの時は、ただびっくりしてしまって、きっと、冗談なんだと思おうとしていたんです」 「井上さんとは、仲が良いようですね。あなたにだけ、連絡して来たというのは」 「特に良かったわけじゃありません。ただ、同期で、この会社に入っていますから」  と、青木は、いった。 「銀座のクラブ『ミッドナイト』のひろみというホステスを、知っていますか? どうやら、その女性と、逃げているようなんですが」  と、十津川は、いった。 「やっぱりそうですか。彼女は女優のK子に似ていて、井上君が、熱をあげていたんです。奥さんとの間が、あまり、うまくいっていないようなので、自重しろといっていたんですがねえ」 「美人だそうですね?」 「ええ。魅力がありますよ。しかし、気の強いところがあって、今度の一件にしても、井上君の方が、彼女に、引きずられているんじゃないかと思いますがね」  と、青木は、いった。 「井上さんの郷里は、東北ですか?」 「いや、東京の生れです。ひろみの方が、確か、東北じゃなかったですかね。自分で、自分のことを、秋田美人の代表みたいといっていましたからね」 「すると、秋田の地理にくわしいわけですね?」  亀井が、きいた。 「かも知れませんね。秋田のどこの生れかは、知りませんが」  と、青木は、いう。 「あなたも、ひろみさんとは、親しかったんですか?」  十津川がきくと、青木は、首を横に振って、 「僕は、井上君に、クラブ『ミッドナイト』に連れて行かれて、彼女に紹介されたんですよ」 「井上さんは、煙草を吸っていましたね?」 「ええ。お互いに中年だから、身体に気をつけようといったんですが、彼は、煙草だけはやめられないと、いっています」 「あの家の居間にあった灰皿が、どんなものか、知りませんか?」 「灰皿? さあ、あまり彼の家へ行っていませんからね」  と、青木はいう。 「失礼ですが、青木さんも結婚していらっしゃいますか?」 「ええ。子供もひとりいます」 「もう一つ、失礼なことを聞きますが、奥さんは社長一族とつながりのある方ですか?」  十津川がきくと、青木はむっとした顔になって、 「関係ありませんよ。普通のOLでした」 「すると同族会社のN興業で出世していくのは大変ですね」 「それこそ失礼な質問じゃありませんか。うちの会社は仕事ができれば出世できます。現に僕が部長になっているじゃありませんか」  と青木は十津川を睨んだ。 「なるほど」  十津川は肯いた。が、青木の言葉を鵜呑《うの》みにしたわけではなかった。N興業のことを調べてみて、いろいろな噂を耳にしていたからである。例えば、社長一族につながりがないと、いくら仕事ができても、部長止まりといった噂である。 「井上さんとは、同期でN興業に入社したと聞きましたが、ほかにも一緒に入社した人はいたわけでしょう?」 「ええ。確か、六十人近くいましたね」 「その中で部長になったのは何人ですか?」 「僕と井上君の二人だけですね」  青木はちらりと得意気な表情を見せた。 「すると、出世頭というわけですね」 「そうかも知れませんが、四十歳で部長ですからね。ほかの会社では別に出世頭とはいわないんじゃありませんか」  と、青木はいった。  十津川は礼をいって、青木と別れた。  捜査本部に戻ると、福島県警からファクシミリが送られてきていた。 〈井上容疑者のこちらにおける行動について、報告いたします。井上は、一二時一八分福島着の「やまびこ」で到着しています。駅には、福島支店長の田浦が迎えましたが、駅のコンコースで、井上は自宅に電話をかけました。田浦が見ていると、井上はそのあと、家内がお土産を頼むといっていたと、笑顔でいったそうです。しかしその時刻には、すでに井上の妻祐子は死亡していたわけですから、電話で話したというのは明らかに嘘で、十二時過ぎに、まだ妻の祐子が生きていたと思わせるための芝居だったと考えられます。電話した時刻は、十二時二十分から二十五分の間と思われます。そのあと井上は支店に行き、田浦と仕事の打ち合せをしたあと、五時からは夕食兼彼の歓迎会が市内の料亭で開かれています。この間、田浦の言によると、今から考えると井上の態度は落ち着きがなく、時々うわの空で返事をしていることがあったそうです。午後八時に井上は、天童に予約した旅館へ行くといって、料亭を出ました〉  これが、ファクシミリの内容だった。  十津川は、亀井と眼を通してから、 「どう思うね? カメさんの感想を聞きたいな」 「これで完全に井上が犯人と決まりましたね。福島駅で井上がかけた電話は、自宅にではなく、友人の青木にだったと思いますね。時間はぴったり一致しています」  と、亀井はいう。 「井上が青木に電話をかけて、妻を殺してしまったといったわけかね?」 「そうです」 「しかし、そのあと井上は受話器を置いて、支店長に家内がお土産を頼むといっていたと告げている」 「ええ」 「ずいぶん気持ちに落差があるような気がするがね」 「それは奥さんを殺して、気が動転していたからだと思いますよ。友人の青木に対しては、本当に大変なことをしてしまったと思って、家内を殺してしまったと、告白したんでしょう。しかし、受話器を置いたとたんに、まだ何とかなると思ったんだと思います。それに物盗りの犯行に見せかける細工をしてきたことを思い出したのかも知れません。それでまだ妻が生きていたように芝居をしたんだと思いますね」 「なるほどね」  と、十津川は肯いたが、完全には納得し切れない顔で、 「ちょっと出かけてくる」  と、いった。     5  鳴子も雪に蔽われている。  天童からタクシーで逃げて、鳴子に着いた時は朝になっていた。  天童は平らな盆地に、ホテル、旅館が点在している感じなのに比べて、鳴子は傾斜地にひしめいている感じがする。やたらに坂がある。  まだ観光シーズンに間があるのが幸いして、二人はすぐ、ホテルに部屋をとることができた。  それから、丸一日たっている。  部屋のドアがノックされる度に、井上はふるえあがった。外にいるのがルーム係とわかっても、怯えた。そのうしろに、刑事が隠れているのではないかと、疑ってである。  食事も外には行かず、ルームサービスか、ひろみが買いに出かけた。  ドアにはしっかりと錠をかけ、テレビのニュースを見ていた。警察は天童まで井上を追いかけて、そのあとがわからなくなっているようだった。  だが、ひろみのこともわかってしまったし、新聞には二人の写真がのった。重要参考人が、容疑者になっている。  ただ、井上にわからないのは、青木の証言だった。彼に電話してはいないのだ。なぜあんな嘘をついたのだろうか?  ひろみが買物に出ているとき、井上は我慢できなくなって、会社にいる青木に電話をかけた。  電話中ということで、待たされてから、青木が出た。 「青木ですが?」 「おれだよ。井上だ」 「今、どこにいるんだ? 心配してたんだぞ」  青木は、怒ったような声を出した。 「それより、なぜ、あんな嘘をついたんだ?」  と、井上はきいた。 「ああ、あれか。あれは君のためを思って、警察に嘘をついたんだ」 「おれのためを思って?」 「ああ。君は小細工をしたらしいが、日本の警察はそんなことで欺されはしないよ。心証が悪くなるだけだ。一刻も早く自首した方がいい」 「おれのためという説明が、まだないじゃないか」 「君は、逃げ切れやしない。捕まった時、君に大変なことをしたという意識があったのとなかったのとでは、裁判の時違ってくる。だから、僕は、奥さんを殺したあと電話して来て、大変なことをしてしまったとふるえ声でいったと、警察に証言しておいたんだ。少しでも君の立場がよくなればと思ってね。黙って逃げていれば、心証は悪くなるばかりだよ。早く、自首してくれ」  と、青木はいった。  井上は自首する気にもなれず、電話を切ってしまった。  ひろみがほかほか弁当を買って、戻って来た。もう、昼に近い。 「外は寒くて、粉雪が舞ってるわ」  と、ひろみは青白い顔でいった。  井上は弁当を食べる気になれず、傍に置いたまま、 「逃げ切れるんだろうか?」  と、ひろみにいった。 「弱気になったら駄目よ」  ひろみは、叱りつけるようにいった。 「しかし、僕と君の写真が新聞に出てる。テレビも放送した。そのうちにこのホテルの従業員だって気付いてしまうさ。いや、もう気付いて一一〇番してるかも知れない」 「大丈夫だわ。今、フロントの前を通って来たけど、何でもなかったもの」  と、ひろみはいったが、すぐ続けて、 「でも、長くいたら駄目だわ。今日中にここを引き払うのよ」 「今度は、どこへ行くんだ?」 「秋田へ行きましょう」  と、ひろみはいった。 「秋田? そのあとはどうするんだ? 日本中を逃げ廻るのか?」 「怒らないでよ。奥さんを殺したのは、あたしじゃなくて、あんたなのよ」  ひろみは、井上を睨んだ。 「わかってるよ。だから、怖くて仕方がないんだ」 「とにかく、逃げるのよ。一カ月も逃げてれば、人間なんて忘れっぽいから、今度の事件のことなんか、誰も覚えてないわ。そうなれば、平気で暮らしていけるわ。だから、一カ月。とにかく、一カ月逃げ切ればいいのよ」  ひろみは、大きな声でいって、励ました。  彼女は弁当に箸をつけ、その途中で、テレビのスイッチを入れた。  昼のニュースが、始まった。  いきなり、井上とひろみの顔がブラウン管に出た。写真の下に井上剛容疑者と名前がついている。井上は青ざめたが、ひろみはじっとみつめている。 〈東京で、妻の祐子さんを殺した犯人として、指名手配されている夫の井上容疑者と、同行しているとみられている工藤ひろみの二人は、天童のかつら旅館から姿を消したあと、行方がつかめずにいましたが、警察では、タクシーを拾って逃げたとみて、タクシーの運転手に当っています。また、警察では、二人は遠くまでは逃げておらず、周辺の温泉地帯に姿を隠しているものとみて、岩手県内はもちろん、秋田、宮城などの温泉のホテル、旅館に当っています〉  アナウンサーが、そういっている。 「逃げましょう」  と、ひろみが、すぐ、いった。 「今から?」 「そうよ。このホテルにだって、すぐ、警察から問い合せがあるわ」  ひろみは、テレビを消して、立ち上っていた。  彼女が、会計をすませ、二人はホテルを出た。 「また、タクシーに乗るのか?」  と、粉雪の舞う空を見上げて、井上が、きいた。 「もうタクシーは、使えないわ。さっきのニュースを聞いたでしょう? 警察は、タクシー会社に、あたしたちのことを知らせて、協力しろといってるに決まってるわ」 「じゃあ、どうするんだ?」 「こんな時、一番安全なのは、列車だわ。列車なら、まぎれ込めるし、危なくなったら降りられるもの」  と、ひろみは、声を強めて、いう。井上は、彼女に引きずられる恰好で、雪の積り始めた坂道を、JRの鳴子駅に向って下りて行った。  雪道の両側に作られた排水口は、温泉のお湯が流れ出ているのか、湯気があがっている。  鳴子駅に着くと、二人は秋田までの切符を買った。  陸羽東線を、新庄まで行き、そこから、奥羽本線に戻って、秋田へ行く積りだった。秋田へ行けばどうなるのか、わからない。ただ、秋田市近くに生れたひろみが、秋田へ逃げようといったからである。  一二時五四分鳴子発の普通列車に乗った。  気動車の中は、がらがらだった。二人は、かたい座席に、向い合って腰を下ろした。  井上は、押し黙って、窓の外に眼をやった。雪は激しくなる気配で、そのことが、井上を、いくらかほっとさせてくれた。降りしきる雪が、自分を隠してくれるような錯覚を、覚えたからだった。     6  十津川が帰って来ると、亀井が、 「鑑識からですが、新しい発見があったと、いって来ました」  と、いった。 「新しい発見?」 「そうです。現場の居間に、暖炉があったでしょう?」 「大理石のマントルピースか」 「あの角のところから、かすかですが、血液反応があったそうです」 「血液型は?」 「被害者の井上祐子と同じB型です」 「それは、面白いね」 「もう一つ、絨緞に、飛び散っていた血痕ですが、これまで、すべて被害者のものと考えられていたんですが、その中に別の血痕もあるのがわかったそうです」 「別の血かね?」 「そうです。AB型の血痕だそうです」 「誰の血なんだ?」 「逃げている井上の血液型は、ABです」 「とすると、井上も、傷を受けているということだね?」 「こういうことだと思います。事件の朝、出張に行こうとしている井上と妻の祐子の間で、夫婦ゲンカが始まった。原因は、井上の浮気でしょう。カッとした祐子は、傍にあった果物ナイフを振り廻した。それで、彼女自身も左腕を切ってしまい、井上も、どこかを切った。井上は、だんだん腹を立ててしまい、鉄製の灰皿で、祐子の後頭部を殴って、殺してしまった」 「暖炉の角の血痕は?」 「多分、井上が、ナイフを持った祐子を突き飛ばした時、彼女が暖炉の角で後頭部を強打したんだと思います」  と、亀井が、いった。十津川はそれを、「ちょっと待ってくれよ」と遮って、 「それなら、なぜ、今まで鑑識は気付かなかったんだ?」 「それは、何者かが暖炉の角の部分を拭いてしまっていて、血痕がついているようには見えなかったからだと、鑑識は、いっています。われわれも現場に着いた時、あの大理石に、血痕が附着しているとは思いませんでしたよ」 「確かに、そうだった。だからわれわれは、まず凶器を探したんだ」  と、十津川もいった。 「妙なことになってきましたね」  亀井がいう。 「いや、面白いことになってきたというべきだよ」  と、十津川は、いいかえた。 「面白いですか?」 「そうだよ。面白いじゃないか。井上は、出張直前、妻の祐子を殺した。だが、どうやって殺したのか? 南部鉄でできている灰皿で井上が殴りつけて殺したと思っていた。ところが暖炉の角にも後頭部を強く打ちつけていた。つまり、井上は、まず妻を突き飛ばして暖炉の角で気絶させ、その後に灰皿で止《とど》めを刺したことになる」 「そうです」 「それなら、なぜ暖炉の角の血痕を拭き取ったりしたんだろう?」 「物盗りの犯行に見せかけるための細工──では、おかしいですね」 「そうだよ。その場合だって拭き取っておく必要はないんだ。自分の指紋のついた凶器の灰皿は隠す必要があるがね」  と、十津川がいうと、亀井は肯いて、 「むしろ、暖炉に突き飛ばしたことにしておいた方が、物盗りの犯行らしく見えますね」 「そうだよ」 「となると、理由がわかりませんね」 「カメさんは、息の止まった人間が、どのくらい後に、息を吹き返す可能性があると思うね?」  と十津川はきいた。 「そうですね。この間、医者に聞いた話だと、息が止まって三十分後に、電気ショックなどで息を吹き返したことがあるそうです」 「それかも知れないな」  と、十津川がいった。 「と、いいますと?」 「井上は医者じゃない」 「ええ」 「それに、妻の祐子が果物ナイフを振り回して、血が流れたりして、カッとしていた」 「そうです」 「井上は妻を突き飛ばし、彼女が後頭部を暖炉に打ちつけて気絶したとき、動転してしまい、本当は、死んでいないのに殺してしまったと思い込んだのかも知れない」 「なるほど」 「そのうえ、九時半には秘書の岡林が車で迎えに来ることになっていた。井上は、あわてて物盗りに見せかける細工をして、家を出たんだと思う。その彼に、暖炉の血痕を拭き取る余裕もなかったろうし、必要もなかったはずだと思うがね」 「そうだとすると、井上が家を出たあと、何かがあったことになりますね」 「ああ。多分、そのあと井上の妻は息を吹き返したんだよ」  と、十津川はいった。 「それを、何者かが、殺したわけですね?」 「そうだ。井上ではあり得ない。彼は秘書の運転する車で上野に行っているからだよ」 「そうですね」 「井上祐子を殺した人間は、なぜか暖炉の角の血痕を拭き取り、凶器の灰皿を隠してしまった」 「その人間は、なぜ、そんなややっこしいことをしたんでしょうか?」  亀井が、眉を寄せてきいた。 「それはじっくり考えるとして、一つ早急にやらなければならないことがあるよ」  十津川は、真剣な表情でいった。 「井上のことですね」 「そうだ。われわれの推理が正しければ、井上は妻の祐子を殺していないことになる。傷害を犯しているが、殺人はやってないんだ。ところが、井上本人は殺したと思い込んでいる。まずくすると自殺しかねない」 「女が一緒ですから、心中もしかねません」  と亀井がいう。 「それは、何としてでも防がなきゃならないよ。井上にはどうしても聞かなければならないことがあるんだ」 「実際に、何があったかをですね?」 「そうだよ。今、私がいったことは、あくまでも、推測だからね。井上に、その裏付けをしてもらいたいんだ」  と、十津川はいった。 「しかし、逃げ廻っている井上に、どうやってわれわれの意志を伝えますか?」  亀井がきく。 「それが、難しいな。井上は殺してないと発表して、テレビ、新聞が取り上げてくれても、はたして井上が素直に受け取ってくれるかどうかだな。警察の罠と思うかも知れない」  と、十津川はいった。 「そうですね。しかし、ほかに方法はありませんよ。井上たちの行方がわかれば、私が引っ捕まえて真相を聞くようにしますがね」  亀井がいう。 「よし。本部長に話して、われわれの推理を記者会見で発表するようにしよう」  と、十津川はいった。 「本部長が賛成しますかね? 慎重|居士《こじ》だから、推測だけで、大事なことを勝手に決めるなと必ずいいますよ」 「何とか、説得する」  と、十津川はいった。  二人で捜査本部長である三上刑事部長に会いに出かけた。  十津川が事情を説明すると三上は手を振って、 「そんな推測を記者会見で発表できるはずがないだろう。それに今度の事件では夫の井上を犯人と決めつけて捜査をしているんだし、記者会見でもそう発表している。それを訂正するのに、推測では困るんだよ」 「暖炉の血痕が拭き取られていたことが推測の裏付けです」  と、十津川はいった。 「井上が、拭き取ったかも知れんじゃないか」 「彼は、拭き取る必要がなかったんです」 「じゃあ、誰が、必要があったというのかね?」 「息を吹き返した井上祐子を、殺した人間です」 「それも、推測でしかないんだろう?」 「今のところは、そうです」  と、十津川は肯いたが、すぐ言葉を続けて、 「今のままでは、井上は女と逃げ続け、最後には追いつめられて自殺か、心中をしかねません。そのあとで真犯人がわかったとなると、警察は本当は殺してない人間を追い込んでしまったことになります」 「今度は、私を脅迫するのかね?」  三上が、苦笑する。 「とんでもありません。ただ、少しでも犠牲を出したくないと考えているだけのことです。日本のマスコミは、死人が出ることに著しく反応して来ますから」 「警察が井上を自殺に追い込んだといわれるのは困るな」 「その通りです」 「しかし、警察が前に犯人と断定した人間を、殺してはいないから出頭しろというのは、まずいと思うがね」 「しかし──」 「だから、こうしたらどうかね。警察の見方は、あくまでも、井上が犯人であることは変りない。ただ、自殺は防がなければならないので、マスコミに協力して貰って罠にかけることにする。どうだね?」  三上は、微笑していった。 「罠ですか?」 「そうだ。お前は殺してないと嘘を発表して、井上に呼びかけて出頭させるんだ。これが、罠だよ。新聞には、君が考えたのと同じことがのるが、マスコミには、これは罠だといっておく。これなら、捜査方針が変ったことにはならない。どうだね?」  と、三上は鼻をうごめかせた。 「いいでしょう」  と、十津川はいった。今はまず、井上と女の自殺を防がなければならないと思っていたからである。  一時間後に、記者会見が開かれ、三上本部長が、罠を張って、井上を出頭させることに、協力して欲しいと訴えた。  十津川が、それに付け加えて、 「これが、罠だとは、一行も書かないで下さい。また、喋らないで欲しいのです。もし、井上が罠と思ったら、今よりももっと、絶望的な気持ちになる恐れがあります。お願いします」  と、いった。  翌日の新聞が、いっせいに井上への呼びかけをのせた。 〈君は奥さんを殺していないのだ。すぐ出頭して、事情を説明しなさい〉 〈井上さん。君は奥さんを殺したと思っているが、そのあと、一度息を吹き返している。したがって君は殺人犯ではない。警察は、君が一刻も早く出頭して、何があったか説明することを希望している〉  こんな呼びかけの言葉を並べた新聞もあったし、冷静な書き方で、次のような記事をのせた新聞もある。 〈捜査本部は、今回の事件を再検討した結果、被害者である井上祐子さんは、暖炉の角に後頭部を打ちつけて気絶したが、そのあと息を吹き返したと思われ、結果的に夫の井上さんは祐子さんを殺してない可能性が出て来ている。その間の事情を井上さん自身に話して貰いたいと当局は希望している〉 「井上からの連絡に備えて、電話に、テープレコーダーを接続しておいてくれ」  と、十津川は、部下の刑事に指示しておいた。  新聞記者の中には、犯人を罠にかけるというやり方に疑問を持って、改めて、十津川に、電話してくる者も多かった。そんな時、十津川は、構わずに、 「あれは、罠というより、井上の犯人説に疑問を持つようになったので、彼に会い、話を聞きたいというのが本音です。とにかく、真相を知りたいのです」  と、話した。井上の耳に、ほんのかすかにでも、罠だという言葉が、聞こえるのを防ぎたかったし、十津川自身の本当の考えを隠す気になれなかったのだ。  新聞に出た日に、井上からの連絡はなかった。  翌日の早朝、電話が鳴った。  十津川が、受話器を取る。自動的に、テープレコーダーのスイッチが入る。 「責任者を出してくれ」  と、緊張した男の声が、いった。 「私は、十津川警部で、捜査の責任者です」  と、十津川は、いった。  相手は、電話の向うで、一息ついてから、 「卑怯《ひきよう》な真似はやめろ!」  と、突然、甲高い声で叫んだ。 「何のことですか? われわれは、卑怯なことはしていない積りですが」 「何をいってるんだ。おれが捕まらないものだから、マスコミに協力させて、おれをおびき出そうとしてるじゃないか」 「井上さんですね」 「ああ、そうだ」 「とにかく、あなたに会って、話を聞きたいんですよ。新聞に出ているように、あなたが奥さんを殺してない可能性が出て来ているんです。だから逃げないで、出頭して、すべてを話して下さい」 「そういって、おれをおびき出す気なんだろう? 欺されないぞ!」 「誰が、罠だといったんですか?」 「やっぱり、罠なんだ。わかったぞ!」 「興奮しないで、聞いて下さい。われわれは、罠にかける気など、まったくありませんよ。あなたは、奥さんと夫婦ゲンカをして、果物ナイフを持った彼女を突き飛ばした。そして、奥さんは暖炉の角に頭をぶつけて、意識不明になった。あわてたあなたは、奥さんが、死んだものと思い込んでしまった。しかし、その時、奥さんは死んでいなかったんですよ」 「どうして急に、それがわかったんだ? おかしいじゃないか? なぜ、おれを犯人扱いして、逮捕しようとしたんだ?」 「それを説明するから、まず、出頭して下さい。どこにいるかわかれば、迎えに行きますよ。今、どこにいるんですか? 東北のどこですか?」 「畜生! こうやって喋らせて、逆探知する気だろう。その手にのるものか!」  井上は、大声でいい、がちゃんと電話を切ってしまった。     7 「誰が、罠だと、井上にいったんですかね?」  亀井が、腹立たしげに、叫んだ。 「記者さんたちじゃないよ。記者会見のあと、本当に罠なのか聞いて来たから、部長には黙って、違うといっておいたからね」 「じゃあ、誰が?」 「それより、井上は、いっそう追いつめられた気分になってしまったかも知れない。何とかして、助けなければ──」  と、十津川は、いった。 「しかし、どうやって、井上を見つけますか? 電話の逆探知は、うまくいきませんでしたし──」  と、亀井が、いった。 「今のテープを聞いてみよう」  と、十津川は、いった。  テープレコーダーに録音された電話の内容を、もう一度、聞き直した。  井上が、大声で喋っている。  だが、耳をすますと、小さくだが、別の男の声が、聞こえてくる。 「テレビのニュースですよ」  と、亀井が、いった。 「ああ、そうらしい。アナウンサーが、ニュースを喋ってるんだ。おそらく井上は、ホテルか旅館から電話して来たんだ。部屋のテレビがニュースをやってるんだ」  十津川は、眼を輝かせて、いった。 「しかし、それだけじゃあ、どこかわかりませんよ」 「いや、そうでもないよ」  十津川は、もう一度、その部分を聞き直し、かすかに聞こえるアナウンスを書き取っていった。 〈秋田市大町三丁目のKビルのエレベーターが、昨日の午後五時から約一時間にわたって動かなくなり、ビルで働く人たちは大あわてでした。特に、最上階にあるレストランでは、お客が──〉 「東京のテレビは、秋田のこんな事故は放送しないはずだ」 「ええ。ただのエレベーターの故障ですからね」 「それを、わざわざ朝七時のニュースでやったということは──」 「秋田のテレビ?」 「そうだよ。すぐ、秋田へ行こう」  と、十津川は、亀井に、いった。  二人は羽田へ急行し、一〇時三〇分発、秋田行きの全日空機に乗った。  機が水平飛行に移ると、亀井は、ベルトを外してから、十津川に、 「お聞きしたいことがあるんですが」 「何だい?」 「青木に会ったあと、警部が出かけられたことがありましたね」 「ああ、福島県警からの報告があったあとだろう?」 「そうです。どこへ行かれたのか、教えて頂けますか? どうも気になっていて──」 「黙っていて申しわけない。N興業に、井上や青木と同期で入社して、その後、辞めた人間を探して、会いに行ったんだよ」 「見つかりましたか?」 「ああ、N興業本社で聞いて、二人の元社員に会ったよ」 「それで、何か収穫が?」 「それは、井上が見つかってから話すよ。見つからなければ、何の役にも立たないんだ」  と、十津川はいった。  二人の乗ったボーイング767は、予定より七、八分おくれて、秋田空港に着いた。  空港の滑走路には、うっすらと雪が積っていた。  二人は、タクシーを拾い、秋田県警本部に行き、協力を頼んだ。  森という警部が、十津川たちを助けてくれることになった。  彼に案内して貰って秋田テレビに行き、今日の午前七時のニュースを担当したアナウンサーに、テープを聞いて貰った。想像どおり、自分の声だという。  十津川は、秋田テレビの電波のとどくエリアを描いて貰った。 「この中のホテルか、旅館に、井上と女が、泊っているはずです」  と、十津川はいった。 「では、秋田市内のホテル、旅館から始めましょう」  森警部がいうのを、十津川は遮って、 「温泉からやって下さい。井上たちは、天童、鳴子と温泉地を選んで逃げています。今も、秋田県内の温泉地にいるはずです」 「秋田県内の温泉地は、沢山ありますよ」  と、森はいった。  十和田、湯瀬、志張《しばり》、玉川、後生掛《ごしよがけ》、大滝、日景《ひかげ》、森岳、男鹿、湯沢、小安、秋の宮と、確かに温泉が多い。 「お手数ですが、それを全部調べて下さい」  と、十津川は頼んだ。  三人は、県警本部に戻り、森は、各温泉地の警察署や派出所に電話をかけ、井上と女が泊っているホテル、旅館を見つけ出すように命令した。  十津川と亀井は、その結果をじっと待った。  森が昼食にラーメンとチャーハンを用意してくれた。それを、十津川と亀井は、急いで食べた。  温泉地からの報告は、なかなか入って来ない。  二時間以上たって、最初に、志張温泉から、連絡がきた。ここの二つのホテルに、井上と思われる男は、泊っていないという報告だった。  さらに一時間して、男鹿温泉のIホテルに、井上とひろみらしい二人が泊っているという報告が入った。 「連れて行ってくれませんか」  と、十津川は、森に頼んだ。  森が、パトカーを用意してくれた。それに十津川と亀井が乗り込み、森も同乗して県警本部を出発した。  除雪した道路を、パトカーは、スピードをあげて男鹿半島に向った。 「男鹿まで、四十キロです」  と、森がいう。  海沿いの道路を走る。有名な八郎潟干拓地の南端を抜け、男鹿半島に入った。  海沿いの道を右に折れて、半島の内部に入ると、道路は、急に起伏の激しい山道に変った。  反対側の海岸に出ると、そこが、男鹿温泉だった。  真新しい大きなホテルが、林立している。  海岸に近いせいか積雪は少かった。パトカーは、Iホテルを見つけて、入口にとまった。  十津川たちは、パトカーを飛び出して、ホテルに入って行った。  森警部が、フロントに警察手帳を示して、井上と女のことを聞いた。 「その方たちなら、もう、お発《た》ちになりました」  と、フロントがいう。  十津川は、顔を突き出すようにして、 「どこへ行ったか、わかりませんか?」 「行先は、おっしゃいませんでしたので」 「チェック・アウトした時刻は?」 「午前九時です」 「タクシーを呼んだんですか?」 「ええ」 「そのタクシーの運転手に、話を聞きたいんだが」 「呼びましょうか」 「呼べるんですか?」 「ええ。ここの男鹿タクシーですから」  と、フロント係はいい、電話で、その運転手を呼んでくれた。  中年の運転手だった。 「奥羽本線の東能代駅まで乗せました」  と、運転手は、いった。 「そこから二人は、列車に乗ったんですか?」  と、亀井が、きいた。 「いえ。駅前のレンタカーの営業所で、女の人が車を借りていましたよ」  と、運転手は、いった。     8  十津川たちは、パトカーのサイレンを鳴らし、八郎潟干拓地の真ん中を走る道路を突っ走って、東能代に向った。  一時間ほどで、東能代駅に着いた。  駅前のレンタカーの営業所で聞くと、タクシーの運転手がいった通り、ひろみの名前で、車を借りている。  白いトヨタのソアラだった。ナンバーを聞いて、十津川たちは、手帳に書き留めた。  森警部が、パトカーの無線電話を通して、この車の手配をした。 「彼らはなぜ、レンタカーを借りたんですかね? 列車を使った方が、捕まりにくいのに」  と、森が、十津川にきいた。 「死ぬ気かも知れません」 「死ぬ気?」 「井上は前よりもいっそう追いつめられた気持ちでいるかも知れませんから」  と、十津川がいったとき、レンタカーの営業所の人間が走って来て、 「あの──」  と、声をかけた。 「ソアラを借りた女性ですが、男の人を乗せました」 「わかっています。二人で、車に乗って行ったんでしょう。カップルでね」 「いえ。男の人を二人、乗せたんですよ」 「男を二人?」 「ええ。最初に一人乗せて、そのあと、駅から出て来た男の人を乗せたんですよ。奥羽本線で来たんじゃありませんかね」 「それから、どちらへ、車は行きましたか?」  と、森がきいた。 「北へ向ったと思います。能代市の方向です」  と、営業所の人間がいった。 「とにかく能代まで行ってみましょう」  森が十津川にいい、パトカーは、また走り出した。 「もう一人の男というのは、何者ですかね?」  リア・シートで亀井が小声で十津川にきいた。 「多分、あの男だ」 「あの男と、いいますと?」 「井上の同僚の青木だよ」  と、十津川はいった。 「なぜ青木が、ここに来ているんですか?」 「友人の井上を何とか助けたくてかな」 「助けたくてですか?」 「表向きはそういって東京から飛んで来たはずだ」 「本当は何をしに?」 「私の想像が正しければ、井上と女が追いつめられて、自殺するのを演出するためだよ」 「演出ですか?」 「ああ、そうだ」 「青木が、なぜ、そんなことを?」  と、亀井が半信半疑の顔できいた。 「秋田へ来る飛行機の中で、カメさんが聞いたことに答えるよ。私は井上、青木と同期でN興業に入り、その後、辞めた人間二人に会った。青木のことを聞くためだ。なかなか面白いことを聞いたよ。青木は功名心が強くて、昔、副社長の娘を狙っていたというんだ」 「井上の奥さんをですか?」 「そうだよ。出世したいためさ。ずいぶんアタックしたらしいが、彼女は井上と結婚してしまった」 「しかし、青木もあの会社で井上と同じように、四十歳で部長になれたわけでしょう? 副社長の娘と結婚しなくても、そこまで行けたんだから、大したものじゃありませんか」 「だがね、青木はコネがうまくいかないとなってから、必死になって努力したらしい。私の会った元の友人は、青木がいかに努力したか、いろいろと話してくれたよ。青木は、恥しくて普通の人間にはとてもできないようなゴマスリを、上役にやっていたらしい。自分の恋人を上役に抱かせるような真似もしたといっていたね。井上の方は、これといった努力もせずに三十五歳で部長になったのに、青木の方は、三十九歳の去年、やっと部長になれた。だが、青木は部長止まりで、それ以上の出世はあの会社ではできない。井上の方は社長とつながりがあるというので、二、三年後には重役の椅子が約束されているということだよ」 「なるほど。同族会社の怖いところですね」 「人間というのは、勝者は寛大になるが、敗者は他人に厳しくなる。だから、井上はいつまでも青木を仲のいい友人と思っていたが、青木の方は井上を、コネで出世した奴と軽蔑し、嫉《ねた》み、憎んでいたんじゃないかね」 「でも、警部。あの会社で部長になったんですから、青木は敗者とはいえないでしょう?」 「形としてはね。同族会社のN興業では、社長一族にどこかで連なっていなければ、出世はできない。二人の友人の大半は、さっさとあの会社を辞めてしまうか、残っていても、早くから出世を諦め、仕事は余りせず、楽しくやっている。彼らにとって、井上は、まあ、うまくやっているなというだけのことだ」 「青木は違っていたというわけですね?」 「そうだ。N興業で、しゃにむに、出世しようとして来たんだ。形としては出世したんだが、社長一族にコネがないから、部長止まりとわかっている。つまり、井上に対して、敗者なんだよ」 「それでも青木は、井上に勝ちたいと思っているんでしょう?」 「ああ、そうだ。ある意味で彼は、蟻地獄に落ちたようなものだよ。何としてでも、井上を負かしたいという気持ちが強かったと思うね」 「井上の奥さんを、まだ諦め切れぬということも、あったんでしょうか?」  と、亀井が、きく。 「ああ、社長一族に連なる手段としてだろうがね。井上の方は女を作って、妻の祐子との仲がぎくしゃくしてきていた。青木はそれを知って、また彼女に近づこうとしていたんじゃないかな」 「しかし、青木には妻子があるんでしょう?」 「そうだが、友人の話では、夫婦仲は最近冷え切って、別居同然だそうだよ。もし祐子が、井上と別れてくれたら、青木はすぐ離婚して、祐子と一緒になる気でいたんだと思うね」 「あの会社で、重役になるためにですか?」 「そうすれば井上に勝てるからね」  と、十津川は、いった。 「問題の日ですが、正確には、何があったんでしょうか?」 「朝、井上が妻の祐子とケンカをしたことは間違いないね。彼女が果物ナイフを振り廻し、腕を切ったりした。井上は彼女を突き飛ばし、その勢いで彼女は、後頭部を大理石の暖炉の角にぶつけて気絶してしまった。あわてた井上は、妻を殺してしまったと思い、下手な細工をした。物盗りの犯行に見せかける小細工さ。そうしておいて、九時半に迎えに来た車で、出張に出かけた。この先は推理になるんだが、青木が、寄ったんだと思うね」 「青木がですか?」 「そうさ。青木は当然、井上が福島に出張することを知っていた。九時半に出かけることもね。そこで、九時半過ぎに訪ねて行ったんじゃないかね。もちろん、祐子を口説くためだよ」 「社長一族に連なるためですね」 「ああ。そうだ。その時、気絶していた祐子は、息を吹き返したところだった。彼女はちょうど訪ねて来た青木に、夫婦ゲンカのことを話す。青木はチャンスとばかり、井上なんかと別れてしまえ、自分はずっと君のことを愛しているんだといって、口説いたんじゃないかな。夫の井上に殺されかけたんだから、今度こそ自分に傾いてくると、青木は思ったと思うね。ところが祐子は、けんもほろろに、青木のプロポーズを断った。青木はカッとして、テーブルにあった南部鉄の灰皿で、彼女の後頭部を殴りつけた。今度こそ、祐子は死んでしまったんだ」 「そのあと青木は、大理石の暖炉についていた血痕を拭き取ったんですね?」 「そうだよ」 「なぜ、そんなことをしたんでしょうか?」 「決まってる。井上を刑務所送りにしたいからだよ。井上が妻殺しで逮捕されても、祐子がナイフを振り廻したので、思わず、突き飛ばしたら、大理石の暖炉に頭をぶつけて死んでしまったとなる。それではものの弾みで殺してしまったわけだから、逮捕されても多分、執行猶予だろう。青木は、それでは我慢がならなかったんだ。入社以来ずっと、井上は眼の上のタンコブだったからね。灰皿で殴りつけて殺したということなら、殺意があったことになり、間違いなく刑務所行きだ。だから、井上が血痕を拭き取ることはなくても、青木ならあり得るんだ」  と、十津川は、いった。 「しかし、かすかに残っていた血痕が検出されてしまったことは、計算外だったでしょうね」 「今は、眼に見えない微量な血痕でも検出できるからね。青木はうまくやったつもりだろうが、おかげでわれわれは、井上が妻の祐子を本当は殺してないのではないかと、思い始めたんだ」  と、十津川は、いった。     9  能代に着いた。  このあたりは木材の集積地だけに、駅名も大きな板に書かれているし、木材を積み込んだトラックを見かけるようになった。  能代警察署に入って行くと、問題のレンタカーについての情報が次々に飛び込んでいるところだった。  国道101号線を、北に向って走っているという。  地図によれば、日本海沿いの道路で、秋田を抜け、青森に入っている。 「車を一台、貸して下さい」  と、十津川は、頼み、亀井と乗り込んで、国道101号線を走り出した。  五能線の線路が、平行して延びている。  左側に日本海が広がる。道路はよく舗装されていた。走るには絶好だった。対向車もほとんどないからだ。  亀井は、どんどんスピードをあげていった。  問題のレンタカーは、なかなか見つからない。 「青森県」の標識が、前方に見えてきた。秋田県警のパトカーはここで引き返すのかも知れないが、十津川たちはフルスピードで青森県に突入して行った。  急に、海岸の景色が寒々しくなった。岩礁にぶつかる波頭が白く見え、道路もアップ・ダウンが激しくなった。  いぜんとして、井上たちの乗っているはずのレンタカーが見つからない。  周囲が少しずつうす暗くなってきた。 「どこに行ったんだ?」  十津川の表情が次第に険しくなって来た。夜になったら、見つけるのは難しくなってしまう。  前方から、青森県警のパトカーが、一台、二台と、走ってくるのが見えた。  十津川は、急ブレーキをかけて、手を振った。  向うのパトカーも、ブレーキをきしませて、停車する。十津川は窓を開け、警察手帳を見せた。 「警視庁の十津川です。殺人事件の容疑者の乗ったレンタカーを追いかけて来たんですが」 「われわれも、秋田県警の要請で、今いわれたレンタカーを探しているところです」  と、青森県警の刑事が、大声でいった。 「途中で出会いませんでしたか?」  と、十津川が、きいた。 「いや、出会いませんでしたね」 「間違いありませんか?」  十津川が念を押すと、相手の刑事はむっとした顔になって、 「出会ってたら、今頃、サイレンを鳴らして追いかけてますよ」 「どこへ消えてしまったのかな?」  十津川は、運転席の亀井と顔を見合せた。 「追い越してしまったのかも知れませんよ」  と、亀井が小声でいった。 「戻ろう!」  と、十津川が大声でいった。  十津川と亀井はUターンすると、今度は南に向って走り出した。青森県警のパトカー二台がそのあとに続いた。  十津川たちはスピードをゆるめ、注意深く周囲を見廻して行った。二台のパトカーはしばらくこちらに合せてゆっくり走っていたが、我慢しきれなくなったとみえて、スピードを上げて、追い越して行った。  道路のところどころに、レストランや別荘風の建物が建っている。どちらもまだ観光シーズンに遠いので、戸を閉め、窓も雨戸が閉まっている。 「あのレストランのかげ!」  と、突然、亀井が叫んだ。  道路沿いに広場があり、そこに二階建のレストランが見えた。この店も閉まっているのだが、建物のかげに白い車が見えたのだ。  車種は、問題のレンタカーと同じだった。  ナンバープレートは、よく見えない。 「止めてくれ」  と、十津川はいい、亀井が車から降りて確認しに行こうとしかけた時だった。  突然、その車が動き出した。  ゆっくりとだったが、次第にスピードがあがってくる。  運転席に、人間が見えない。  このまま、まっすぐに走って行けば、国道を突っ切って日本海へ飛び込んでしまうだろう。  十津川は、運転席に身体を滑り込ませると、アクセルを踏みつけた。  車が、急発進する。ハンドルを握りしめ、国道へ突っ込んで行く白いソアラを追いかけた。  十津川は、向うの車に、斜めにぶつけていった。衝撃が、身体に伝わってくる。  そのまま、ソアラの車体をぐいぐい押して行った。  二台の車は、ずるずると国道に突っ込んで行く。その先は、断崖が日本海に落ち込んでいる。 「くそ!」  と、十津川は叫びながら、ハンドルを切った。だが、なかなか、ソアラが右に曲ってくれない。  まるでスローモーションの感じで、崖に近づいて行くのだ。  十津川は、いったん車体を離しておいて、エンジンをふかし、ソアラの横腹に、こちらのフロントをぶつけて行った。  ソアラの車体が、見事に横転した。それでも、引っくり返り、腹を見せたまま、ずるずると動いて行ったが、ガードレールにぶつかって、やっと、止まってくれた。  十津川は、車から飛び降りて、引っくり返っているソアラに駈け寄った。  地面に膝をつき、ゆがんだ窓から車内をのぞき込んだ。  井上と女がぐったりと重なっているのが見えた。亀井も、駈け寄ってきた。二人でソアラのドアに手を掛け、思いきり引っ張った。  変形してしまったドアは、きしむだけで、動かない。亀井が、足で蹴りつけた。割れたガラスが、ばらばらと飛び散る。もう一度、ドアを引っ張る。やっと、少し動いた。 「もう少しだ!」  と、十津川が、自分を励ました。  ぎいぎい音を立てて、少しずつドアが開いてくる。  まず、ひろみを引き出し、続いて、井上の身体を引きずり出した。 「息がありますよ」  亀井が、嬉しそうにいった。  青森県警のパトカーが、引き返して来た。十津川は手をあげて止め、救急車を呼んでくれるように頼んだ。 「どうなってるんですか?」  と、県警の刑事が、十津川にきいた。 「上手くいけば、追いつめられて、自動車もろとも心中をしたということになっていたんでしょうね。この断崖から落下すれば、二人の身体は傷だらけになって、殴られた痕も隠されてしまうでしょうからね」 「上手くいけば──ですか?」 「そうです。犯人にとってですがね」 「その犯人は、どこにいるんですか?」  と、県警の刑事は、周囲を見廻した。 「向うの建物のかげにいて、今は、必死で逃げているでしょう」  十津川は、小さく笑った。  県警の刑事の方が、あわてた顔になって、 「間もなく暗くなりますよ。早く見つけないと、逃げられてしまいますよ」 「大丈夫です。今まで出世だけを考えて必死に働いて来た男ですからね。逞《たくま》しく逃げ廻れる人間じゃありません」  十津川は、自信を持って、いった。  救急車が駈けつけ、井上とひろみは病院に運ばれて行った。     10  青木の指名手配が、青森・秋田両県にまたがって行われた。  夜に入り、逮捕は困難と思われたが、十津川の見込み通り、深夜近くになって、青木は疲れ切った顔で能代警察署に出頭してきた。  それでも青木は、井上とひろみが助けられたことを知っていて、 「よかったと思ってるんです。僕も、二人が絶望して死にやしないかと思い、思い止まらせるつもりで探し廻っていたんですよ」  と、しらっとした顔で、いった。  もちろん、そんな言葉が信じられるはずはなく、すぐ、東京での殺人容疑と、青森での殺人未遂容疑で逮捕された。  井上とひろみは、弘前の病院で意識を取り戻した。  井上の証言によれば、新聞に出頭するように出たとき、半信半疑で、青木に電話をした。あの記事が警察の罠かも知れないと思ったからである。そうしたら、青木は、やはり君を捕まえるための罠だといい、いい隠れ場所を知っていると話し、東能代で会う約束をした。  ひろみがレンタカーを借り、三人で青森方向へ向った。  途中、パトカーに出会ったので、道路の傍にあるレストランの建物の裏に隠れた。その時、いきなり背後から青木に殴られ、そのあとは覚えていないということだった。彼女の証言も、井上と同じだった。  青木は、殺人及び殺人未遂で起訴された。  井上の方は、妻祐子に対する傷害容疑で逮捕、起訴されたが、裁判では、妻が果物ナイフを振り廻したため、それを振り払おうとして突き飛ばしたという主張が通って、無罪の判決が出た。  しかし、同族会社のN興業で、副社長の娘と結婚しながら、ほかに女を作り、事件を起こして、会社の名誉を傷つけたことは許されなかった。  井上は馘首され、また、家を追い出された。  たまたま、一カ月後に十津川が会った時、井上はさばさばしたような、同時にどこか頼りなげな表情で、 「少しは家内の実家から慰謝料めいた金をくれたので、それで、今はひとりで商売をやっています」  と、いった。  十津川は、彼と一緒に逃げ廻ったひろみのことを思い出して、 「彼女とは、どうしているんですか?」  と、きいてみた。  井上は、「え?」という顔になって、 「彼女って、誰のことですか?」  と、いった。 単行本 平成三年七月文藝春秋刊 底 本 文春文庫 平成五年八月十日刊