[#表紙(表紙.jpg)] 西村京太郎 愛と悲しみの墓標 目 次  第一章 逃げる  第二章 自殺行  第三章 再 会  第四章 女弁護士  第五章 手 品  第六章 誘 拐  第七章 追 跡  第八章 疑 問  第九章 殺人の構図  第十章 終局へ [#改ページ]   第一章 逃げる      1  藤原さつき。二十六歳。  身長一七五センチ、体重五十七キロ。スリーサイズは、83・56・83。  血液型A。趣味は旅行、貯金。  性格は、外向的で明朗だが、思い込むと、突っ走る危険がある。  これが、今、十津川の前を行く女の簡単な知識である。  身長や、スリーサイズなどは、別に、十津川が、計ったわけではなく、彼女が所属しているモデルクラブの宣伝パンフレットにのっていた数字である。血液型や、性格も、同じだった。  最近の若い女の体格が良くなったといっても、一七五センチの身長は高い方だし、ハイヒールをはいているので、目立って、尾行はしやすかった。  いや、藤原さつき自身、全く、尾行されることなんか考えていない感じで、歩いているのだ。 「ひょっとすると、彼女は、事件と無関係なんじゃありませんかね」  と、一緒に尾行に当っている亀井刑事が、歩きながら、小声で、いった。 「それなら、なぜ、今、突然、彼女は、旅行に出たんだ? 彼女の所属するモデルクラブの話では、彼女にとって、おいしい仕事が舞い込んでいたのに、それを振って、突然、旅行に出かけようとしているんだ。その仕事は、成功すれば、モデルとしての格があがるといわれていて、彼女自身、前から望んでいたものなんだよ。それを知っていて、クラブのマネージャーが、努力して、やっと取ってきた仕事なのに、彼女は、それを放り出して、いわば、逃げ出しているんだ。よほどの理由がなければ、ならないじゃないか」  十津川も、小声で、いう。 「やはり、あの事件に関係しているので、逃げ出したということですか?」 「他には、考えようがないよ」  と、十津川は、いった。  問題の事件は、一週間前の三月十日に、起きていた。  赤坂の高級マンションの一室で、四十二歳の独身の実業家、五十嵐恭が、死体で発見された。  五十嵐は、いわゆる青年実業家といわれる男だが、単なる金貸しではないかと酷評する人もいた。父が遺してくれた莫大な財産を元手にして、ASKという金融会社を作り、その社長に納っていた男である。  もう一つ、五十嵐についていわれていたのは、女好きということだった。八年前に、美人の歌手と結婚した時は、テレビや、週刊誌にも、取りあげられたのだが、一年もすると、二億円の慰謝料を払って、さっさと、離婚してしまった。その後は、独身の気安さと、金にまかせて、女を作り、変えていった。  その五十嵐が殺された時、警察は、犯人は、女だろうと推測した。  理由は、いくつかあった。殺人の方法が、毒殺だったこと、五十嵐は、自宅マンションには、つき合っている女しか入れないこと、殺人現場の部屋に、かすかに香水の匂いが残っていたことなどである。  当時、彼が親しくつき合っていた女は、三人いた。最初、彼が惚れたのは、モデルの藤原さつきである。五十嵐は、彼女を自分の会社の宣伝ポスターのモデルに使い、六本木にマンションを借りてやり、ヨーロッパ旅行にも連れて行った。だが、気まぐれで、あき易い五十嵐である。さつきから、心うつりした女が、三十歳で、和服のよく似合う銀座のクラブのママの早見友美であり、もう一人が、十九歳と若い、テレビタレントの木下知恵である。  三人とも、アリバイは、あいまいだった。死亡推定時刻が、三月十日の午前二時から三時と遅いために、彼女たちは、いずれも、その時間には、自宅マンションで、ひとりで寝ていたと証言しているからだった。  現場に残っていた香水は、専門家の鑑定で、フランスで人気のあるFとわかったが、だからといって、これだけで、犯人を判定は出来なかった。ちょっと頭のいい犯人なら、いつもと違った香水をつけて、殺人に及ぶだろうからである。  ただ、動機の点でいえば、何といっても、五十嵐との間が冷たくなったさつきが、一番、容疑が濃いといえるだろう。五十嵐に、捨てられたという思いがあり、自尊心の強いさつきには、我慢がならなかったに違いないからである。  そう考えている時に、そのさつきが、仕事を放り出して、突然、旅行に出かけたのである。      2  さつきは、東京駅の改札口を通り、東北・上越新幹線の13番ホームに、あがって行く。  東京駅で、彼女は、切符を買っていないから、前もって、用意しておいたのだろう。  事件が起きてから、今日まで、十津川は、さつきを、監視し、尾行させていたのだが、彼女自身が、JRの切符を買いに行ったことはない。  と、すれば、切符は、事件の前から用意されていたか、事件のあと、何者かが、手渡したか、郵送して来たことになる。  そのどちらか、判断がつかない中《うち》に、さつきは、13番線に入っていた東北・山形新幹線のやまびこの車両の方に、乗り込んだ。5号車グリーンである。  一二時二八分発の東北・山形新幹線は、定刻に、発車した。  十津川と、亀井は、5号車の中には入らず、車掌に、警察手帳を示して、車内改札のあと、さつきが、何処《どこ》までの切符を持っているか、見てくれるように頼んだ。  車掌は、車内改札のあと、デッキで待っていた十津川に、 「郡山までの切符をお持ちでした」  と、教えてくれた。 「郡山着は、何時ですか?」 「一三時五一分ですが、あの女の方は、郡山から、会津若松行のビバあいづ3号に、お乗りになるようです」 「そういったんですか?」 「郡山から、その列車に乗るんだが、郡山での待ち時間は、どのくらいあるのかしらと、おききになりましたから」 「実際には、どのくらいあるんですか?」 「二十分足らずです」  と、車掌は、いった。 「郡山で、誰かに会うんでしょうか?」  亀井は、車掌がいなくなってから、十津川に、きいた。 「彼女を調べていて、五十嵐以外に、特定の男が、浮んでいたかな?」 「モデルクラブの四十歳の社長と怪しいとか、ロック歌手の一人と関係があるらしいという話は聞きましたが、いずれも、噂の域を出ていません。他に、特定の男がいるのかも知れませんが、西本刑事たちの今までの聞き込みでは、まだ、名前は、浮んできていません」  と、亀井は、いった。  列車は、上野、大宮、宇都宮と、停車したあと、郡山に着いた。  さつきが降りる。  間をおいて、十津川と、亀井も降りて、再び、尾行に移った。 「どうも、あの白いスーツケースが、気になるんだがね」  と、十津川は、歩きながら、小声で、いった。  さつきは、白と黒のコンビのシャネルのハンドバッグを肩から下げ、右手で、白いスーツケースを持っている。  モデルらしく、背筋を伸し、早足で歩いて行くのだが、それでも、時々、スーツケースを、持ちかえている。  さして大きなスーツケースではない。 「ちょっと、重そうですね」  と、亀井が、いう。 「着がえなどしか入っていないのなら、もっと軽々と、持っているんじゃないかね」 「そういえば、新幹線の車内でも、網棚にはのせず、しっかりと、膝の上に置いていましたね」 「一万円札で、いくらぐらい、入ると思うね?」 「あのスーツケースの中は、札束だと、お考えですか?」 「四、五千万は、入るんじゃないかな」  と、十津川が、いったのは、五十嵐が殺されていたマンションの部屋を調べたとき、現金が、殆《ほとん》ど、見つからなかったのを、思い出したからだった。  五十嵐は、自宅マンションに、常に、四、五千万円の現金を置いておき、それを女に見せながら口説くという噂をきいている。  駅のコンコース内の電話の前で、さつきは立ち止まり、空いている電話に近づき、用心深く、例のスーツケースを、電話機の傍に置いた。ハンドバッグから、小さな手帳を取り出し、それを見ながら、百円玉を入れ、番号ボタンを押していく。  しかし、並んだ他の電話は、生憎《あいにく》、全て、ふさがっていた。この状態で、十津川と亀井が、近づいたら、さつきに、警戒されてしまうだろう。参考人として、事情聴取をした時、二人とも、彼女と、顔を合せているからである。  隣りの電話が空いた。亀井が、コートの襟を立て、彼女に背を向ける恰好で、空いた電話に近づき、受話器を取った。  が、さつきは、電話をすませて、もう、歩き出てしまった。  亀井が、舌打ちしながら、十津川のところに、戻って来た。 「何かきけたかね?」  と、十津川が、きくと、亀井は、 「一言だけです。『わかったわ』といって、彼女は、電話を切ってしまいました」  と、申しわけなさそうに、いった。  その間にも、さつきは、足早やに、磐越西線のホームに降りて行く。二人も、階段を降りて行った。  ホームは、がらんとして、寒かった。東京は、一昨日あたりから、暖かさが増しているのだが、ここは、まだ、風が冷たい。  最近、運行するようになった会津若松行の特急ビバあいづは、六両編成で、3号車が、インビテーションカーと名付けられ、会津の画家の絵が展示され、物産の紹介が行われているという新聞記事を、十津川は思い出していた。  だが、まだ寒く、観光シーズンに遠いせいか、ブルーの車体に赤いラインの入った洒落た列車に乗り込む乗客の数は、少かった。  さつきは、先頭6号車のグリーンに、乗り込んだ。  十津川と、亀井は、隣りの5号車に乗り込み、ここでも、車掌に、車内改札の時、さつきの切符を調べて貰うように、頼んだ。その結果、終点の会津若松行の切符と、わかった。  それで、十津川は少し、気楽になった。ずっと彼女を監視していなくてもいいと、わかったからである。  5号車は、指定席だが、十二、三人の客しか乗っていない。十津川は亀井と並んで腰を下してから、煙草を取り出した。が、この列車が、全車両禁煙だったのを思い出した。また、ポケットに押し込んだ。どうも、次第に煙草を吸える場所が少くなってきて、十津川のように、禁煙の出来ない人間には、暮しにくくなってくる。  特急ビバあいづは、途中、磐梯《ばんだい》熱海と、猪苗代《いなわしろ》の二駅に停車する。さつきは、終点会津若松までの切符を持っていても、途中下車することも考えられるので、この二駅に近づくと、二人は、彼女の動きを注視したが、どちらでも、降りなかった。  一四時四三分に、猪苗代を出ると、十津川が、「終点まで、あと二十六分ある。3号車をのぞいてみないか?」  と、亀井を、誘った。 「しかし──」  と、亀井が、ためらうのを、 「動いている列車から逃げやしないよ」  と、十津川は笑って、立ち上った。  窓の外には、残雪が広がっている。水を抜いた水田は、眩しい雪で蔽《おお》われていた。  3号車に向って歩きながら、十津川は、 「藤原さつきの郷里は、確か、北海道だったよね?」 「そうです。小樽の生れです」 「じゃあ、郷里へ帰るわけでもないんだな」  と、十津川が、いった時、3号車から出て来た若い男と、ぶつかった。  ぶつかって来たのは、明らかに、相手の方なので、十津川は、思わず、 「君!」  と、呼び止めた。  男が、振り返った。背は、ひょろっと高いが、まだ十代に見える稚《おさな》い顔だった。 「ぶつかったら、挨拶ぐらいしたまえ」  と、十津川が、いったが、男は、無表情に、見返しているだけで、黙っている。  亀井も、腹が立ったとみえて、男を叱りつけようとすると、なぜか、十津川が、急に止《と》めて、 「カメさん、もういいよ」  と、いって、3号車に入ってしまった。それを、亀井が追いかけて来て、 「どうされたんですか? ああいう礼儀知らずの若い奴は、手厳しく叱った方がいいですよ」 「今の男、ひどく暗い顔をしていたよ」 「そうでしたか?」 「眼がだよ。だから、急に、叱るのが可哀そうになったんだ」      3  5号車に戻ってからも、十津川は、インビテーションカーで出会った青年の顔が、気になっていた。  ただ単に、暗かったからではない。暗い表情だけなら、十津川は、何人も見ている。犯罪者は、たいてい、暗い眼、暗い顔をしているからだ。だが、彼等は、暗さの中に、怒りがのぞいていたり、憎悪が渦巻いていたり、時には、恐怖がみなぎっていたりする。だから、わかり易いのだ。怒りや、憎悪や、恐怖が失《な》くなれば、暗さも消えるだろう。  インビテーションカーで、ぶつかった青年の暗さは、違っていたような気がする。出会った時、十津川は、彼の顔に、怒りも、憎しみも、恐怖も見なかった。悲しみもである。ただ、暗かった。  十津川は、前に一度、同じ顔と眼に、出会っているのを、思い出した。もう六年前になる。  友人の一人息子が、ある日、突然、自殺したのだが、大学二年生のその息子が、丁度、同じ眼をしていたのだ。遺書もなく、なぜ、自殺したのかも不明だったが、彼が自殺する二日前に会った時、十津川は、ひどく暗い彼の眼にぶつかった。何に対しても無感動に見える、ただ、暗いとしか、形容のしようのない眼だった。今から考えれば、あの時、彼は、周囲との心の接触を絶って、ひたすら、死を求めていたのかも知れない。 (とすると、さっきの青年も、自殺を考えているのかも知れないな)  と、十津川は、思った。もし、そうなら、何とかしてやらなければと、考えた時、亀井が、 「間もなく、会津若松です」  と、声をかけてきて、十津川は、今の自分の立場に、引き戻された。 (そうだ。おれは、殺人事件の容疑者を追いかけていたんだ) 「大丈夫ですか?」  と、亀井が、心配そうに、十津川の顔を、のぞき込んだ。  特急ビバあいづ3号が、すでに、会津若松駅のホームに、進入している。 「もちろん、大丈夫だよ」  と、十津川は、あわてていい、座席から、立ち上った。  列車が、停車し、先頭のグリーン車から、さつきが降りる。相変らず、白いスーツケースを下げている。  十津川と、亀井も、彼女を追って、列車から降りた。  改札口を出る。陽は射しているのだが、風が冷たかった。さつきは、まっすぐ、タクシーのりばに歩いて行く。  駅前広場には、会津若松らしく、二人の白虎隊士の銅像が立っているのだが、彼女は、見向きもしなかった。  タクシーのりばには、行列も出来ていないので、さつきは、すぐ乗り込んだ。十津川と、亀井も、そのあとのタクシーに乗り、 「前の車を追ってくれ」  と、亀井が、運転手に、いった。  二人の乗ったタクシーが、走り出した時、十津川は、丁度、白虎隊士の銅像の前に立っているあの青年に、眼を止めた。  ショルダーバッグを下げ、銅像を、見上げているのだ。  白虎隊に、興味があるのだろうか?  それなら、自殺する気はないのかも知れない。と、十津川は、思ったりしたのだが、青年の姿は、たちまち、視界から消えてしまった。  さつきの乗ったタクシーは、鶴ヶ城の近くを通り、市内の東西を流れる湯川沿いを、上流に向って走る。  東山温泉の標識が、見えてきた。  どうやら、東山温泉に、泊るつもりらしい。  湯川の渓谷ぞいに、ホテル、旅館が立ち並んでいる。山肌に緑が、眼に鮮やかに、迫ってくる。  さつきのタクシーが、とまったのは、Kホテルだった。八階建の大きなホテルで、横の駐車場には、大型バスが、二台|駐《と》まっていた。  さつきは、ロビーに入り、フロントで、手続きをすませてから、仲居さんに案内されて、エレベーターの方へ、歩いて行った。  彼女の姿が、エレベーターに消えるのを確認してから、十津川と亀井は、フロントに行き、警察手帳を見せて、さつきのことをきいた。 「今のお客様なら、七一二号室に、ご案内しましたが」  と、中年のフロント係は、戸惑いの表情で、教えてくれた。 「何日の予定で、入ったんですか?」  と、十津川が、きいた。 「今日三月十七日から、二十日までのご予定になっております」 「三泊四日ですね?」 「はい」 「予約は、いつしたんですか?」 「一昨日の三月十五日の午後です」 「本人が、電話してきたんですか?」 「はい。女の方の声で、藤原さつきだと、おっしゃいました。」 「偽名は、使ってないのか」  と、十津川は、呟やいた。ちょっと、意外な気がした。 「部屋は、どんな? 一人用ですか? それとも、二人用?」  と、亀井が、横から、きいた。 「電話では、お一人で泊られると、おっしゃっていました。二間続きの部屋ですが」  と、フロント係は、いう。  二人は、同じ七階の、向い合った部屋に入れて貰うことにした。さつきから、発見されてしまう危険はあるが、ドアについたスコープから、七一二号室を、監視できるからだった。  もし、さつきが、外出したり、外から、彼女に会いに来た人間がいたら、フロントに、すぐ連絡してくれるように、十津川は、頼んでおいた。 「長期戦になるかも知れないな」  と、十津川は、窓のカーテンを開けながら、亀井に、いった。      4  十津川は、東京の捜査本部に残っている西本刑事に、電話をかけた。  こちらの様子を、伝えてから、 「例の二人について、何かあったかね?」  と、きいた。  さつきを、一番の容疑者と考えているからこそ、亀井と、こうして、尾行して来たのだが、それでも、他の二人の容疑者のことも、無視できない。 「クラブのママの早見友美も、タレントの木下知恵も、これといった動きは、見せていません。早見友美の監視に当っている北条刑事が、五分前に、報告してきましたが、早見友美は、午後三時に、いつもの美容院へ行き、現在も、店へ出る用意をしているところだということです。昨日と、同じ行動です。木下知恵には、清水刑事がついていますが、現在、彼女は、Nテレビのドラマの録画中で、今夜の九時近くまで、かかるだろうということです」 「二人とも、いつもの通りのことをしているということだな」 「そうです」 「五十嵐家の莫大な財産の行方は、どうなっている? まだ、もめているのか?」  と、十津川は、きいた。 「そうです。いぜんとして、殺された五十嵐の遺言状が見つからずに、てんやわんやが、続いています。弁護士は、ある筈だが、自分は、預っていないと、主張しています。犯人が、五十嵐を殺したうえ、部屋にあった遺言状を、盗んで行ったのではないかという者もいます」  と、西本は、いった。 「犯人がね」 「そうです」 「遺言状が見つからなければ、遺産は、全て、弟夫婦に行くんだったね?」 「弁護士は、そういっています」 「弟夫婦の様子は、どうだ?」  と、十津川は、きいた。 「これといった動きは見せていません」  と、西本は、いった。  五十嵐の弟、嗣男は、兄とは仲が悪く、彼が生活に困って、援助を頼んだ時、五十嵐は、冷たく、突き放している。  嗣男は、そのことで、兄を恨んでいたことは、間違いない。女を作っては、大金を与えているのに、兄弟の自分には、一円の援助もしてくれないと、文句を、いっていたからである。  従って、五十嵐が殺された時、三人の女と同時に、弟の嗣男も、当然、容疑者になった。  だが、嗣男は、兄が殺された三月十日には、夫婦で、グアムに旅行に行っていたから、容疑者のリストから外されたのである。  彼等は、翌十一日に、五十嵐の死を知って、急いで、帰国したことが、確認されていた。  十津川は、電話を切った。  ドアのスコープで、七一二号室を見守っていた亀井が、小さく、合図してきたからだった。 「さつきが、ゆかたを着て、部屋を出ました」  と、亀井が、小声で、いった。 「ゆかたでか?」 「手に、洗面具を持っていましたから、温泉に入りに行ったんだと思います」 「じゃあ、われわれも、温泉に入りに行こうじゃないか」  と、十津川は、いった。  ゆかたに着がえ、洗面具入りのビニール袋を持って、二人は、部屋を出た。  大浴場は、一階にあった。  廊下には、もう、さつきの姿はない。二人は、エレベーターで、一階ロビーに、降りて行った。  フロントに聞くと、やはり、さつきは、大浴場の方へ、歩いて行ったという。  二人も、売店の脇を抜けて、大浴場に向って、歩きかけたが、十津川が、考えて、一人は、ロビーに残ることにした。  亀井が、まず、残ることにして、十津川が、ひとりで、男性用の大浴場に入った。  広い浴場には、三人の先客しかいなかった。大きなガラス窓の向うには、湯川の渓谷が、流れている。  十津川は、ゆっくりと、湯に漬った。 (さつきは、ここに、何しに来たのだろうか?)  と、考える。  郡山駅で、誰かに、電話していたことを考えると、その人物と、この会津若松で、落ち合うつもりなのかも知れない。  そんなことを考えていると、十津川の意識の中に、ふと、列車で出会った青年のことが、浮んできた。 (彼は、今頃、何処にいるのだろうか?)  と、十津川は、考え、あわてて、おれは、今、殺人事件の解決のために、ここへ来ているのだと、自分に、いい聞かせた。  温泉から出て、ロビーに戻ると、亀井が、黙って、手を小さくあげた。  傍に行くと、亀井が、 「彼女、向うの喫茶室に入っています」  と、小声で、いった。  ロビーの隅に設けられた喫茶室は、ガラス張りなので、中にいる客が、よく見える。  その中に、ゆかた姿のさつきが、いた。 「われわれに、気付いた様子があるかね?」  と、十津川が、きいた。 「いや、全くありません。と、いうより、尾行されることなんか、考えていないように、見えます」  亀井が、不思議だという表情で、いった。  喫茶室の中で、さつきが、急に立ち上った。が、こちらに、出ては来ないで喫茶室の入口のところに置かれた公衆電話から、何処かへ、かけ始めた。 「また、電話ですね」  と、亀井が、いった。 「そうだな」 「なぜ、自分の部屋から、電話しないんですかね?」 「部屋からすると、それが、記録に残ってしまうからじゃないか」  と、十津川は、いった。 「なるほど。電話の相手は、郡山駅でかけた相手と、同じでしょうか?」 「多分ね」  と、十津川は、いった。 「相手は、男でしょうか?」 「かも知れないが、私は、あの白いスーツケースが、どうしても、気になるね。中身が、札束だとしたら、ここで、それを、相手に渡すんじゃないかという気がしてね」 「ちょっと、待っていて下さい」  と、急に、亀井が、いって、ロビーを出て行った。  電話をすませたさつきは、また、元のテーブルに戻ってしまった。  亀井は、十二、三分して、戻って来た。そっと、十津川の向いに腰を下すと、 「あのスーツケースの中身は、札束じゃありません」  と、小声で、いった。 「カメさん、見て来たのか?」 「ルーム係に頼んで、七一二号室を開けて貰って、調べました」      5 「カメさん。それは、違法行為だよ」 「わかっていますが、私は、何としてでも、彼女が、犯人かどうか、確認したかったんです。もし、彼女が、シロでしたら、私は、謝りますし、責任をとるつもりです」 「私も、もちろん、一緒に、責任をとるよ。私が、あのスーツケースの中身に拘わり過ぎたのが、いけなかったんだ」  と、十津川は、謝った。  亀井は、生真面目に、 「私も、あのスーツケースの中身は、どうしても知りたかったんです。しかし、中身が、着がえの下着や、EEカメラだけだったというのは、意外でした」 「金を、他に隠したということは、ないのかな?」 「彼女の部屋は、調べましたが、見つかりませんでした。部屋には、小型の金庫が備付けてありますが、彼女は、使っていませんし、フロントに預けた形跡もありません」 「おかしいな。下着と、EEカメラしか入ってないスーツケースを、なぜ、あんなに後生大事に、彼女は抱いていたのかね?」 「そうなんですよ。それに、手に持ってみましたが、軽いものでした」  と、亀井は、いった。 「すりかえられたかな?」  と、十津川は、呟やいた。 「しかし、そんな時間は、なかったんじゃありませんか? このホテルに来てから、彼女は、誰にも、会っていません」 「確かに、そうなんだが──」  十津川は、喫茶室にいる藤原さつきに、眼をやった。  さつきは、相変らず、頬杖をついて、ぼんやりと、窓の外を眺めている。  ウェイトレスが、カウンターの外に出て来て、何かいっている。十津川のいるところからは、声は聞こえないが、さつきが、立ち上って、彼女に何かいい、カウンターの電話を取ったところを見ると、電話の呼び出しを告げたのだろう。  さつきは、電話をすませると、喫茶室を出て行った。  彼女が、エレベーターに消えるのを待って、十津川と、亀井は、喫茶室へ、歩いて行った。  さっきのウェイトレスに、警察手帳を示して、十津川は、藤原さつきに、どんな電話が掛ってきたのかと、きいてみた。 「男の方でした。そちらに、藤原さつきという女性がいる筈だから、呼んで欲しいと、いわれたんです」  と、ウェイトレスは、緊張した表情で、答える。 「その時、男は、自分の名前を、いいましたか?」 「いいえ」 「女が、電話に出た時、どんな会話があったか、わからないかね?」  と、亀井が、きいた。  ウェイトレスは、当惑の表情になって、 「お客様のお電話を、盗み聞きするということは──」 「わかってる。だが、彼女が、どんなことを口にしたか、自然に、聞こえてきたことがあったら、教えて欲しいんだよ」 「ごく短かい、お電話のようでしたから」 「それも、わかってるよ」 「確か、『そお、すんだのね』と、おっしゃったのは、聞こえましたけど」  と、ウェイトレスは、いったが、すぐ、つけ加えて、 「私が、いったことは、黙っていて頂きたいんです。叱られますから」 「わかってるよ。その他には?」 「それだけですわ」 「話してる時、彼女の様子は、どうでした? 嬉しそうでしたか?」  と、十津川が、きいた。 「ほっとしているように見えましたけど、わかりませんわ」  と、ウェイトレスは、いった。 「コーヒーを、貰おうかな」  と、十津川は、いった。  十津川と、亀井は、店の奥のテーブルに腰を下して、コーヒーを、飲むことにした。 「さつきが、電話で、『そお、すんだのね』と、いったというのは、気になりますね」  と、亀井が、いった。 「ああ」  と、十津川は、肯いたが、眼は、宙に浮いていた。亀井が、変な顔をして、 「どうされたんですか?」 「藤原さつきだがね」 「はい」 「ゆかたを着て、洗面具入りのビニールの袋を下げていた──」 「はい」 「彼女、ルーム・キーを、持っていたかな?」 「キーですか?」 「ああ、持ってなかったような気がするんだよ」 「ビニールの袋に入れてたんじゃありませんか? 部屋に備えつけのこの袋に」  と、亀井は、いい、ホテルの名前の入ったビニール袋を、十津川に示した。 「それに、キーは入るかい?」 「入るんじゃありませんか」  と、亀井は、いい、テーブルの上に置いてあったキーを、取り上げて、ビニール袋に入れようとしたが、 「入りませんね」 「そうだろう。キーは小さいが、キーホルダーの方が、合成樹脂製の長い棒になっているから、はみ出してしまうんだ」 「と、すると、さつきは、キーを持たずに、部屋を出たということでしょうか?」 「いや、カギをかけて、部屋を出たあと、キーを、打ち合せたところに隠しておいたんだろう。例えば、七階のエレベーターの横に、大きな植物が、置いてあったじゃないか。そこに、隠しておいたのかも知れない」 「それを、電話の相手が使って、七一二号室を開け、スーツケースの中身を、持ち去ったということですか?」 「そうじゃないかと、思ったんだがね」  と、十津川は、いった。      6  それで、喫茶室のさつきに電話してきた相手に対して、彼女は、「そお、すんだのね」と、いったのではないのか。 「これから、どうしますか?」  亀井が、声を落として、十津川に、きいた。  十津川は、コーヒーを、口に運んでから、 「どうするって?」 「彼女が、ここにやって来た目的が、確かに、金を渡すことだったとしたら、それは、もう、すんでしまったわけです。とすると、これ以上、彼女を監視していても、仕方がないんじゃないかと、思うんですが」  と、亀井は、元気のない声を出した。  十津川は、笑って、 「カメさん。元気を出してくれよ」 「出したいんですがねえ」 「私は、考えようだと思うんだ」 「どんな風にですか?」 「電話の相手に、金を渡したのは、まず、間違いないと、私は、思っている」  と、十津川は、いった。 「私も、そう思います」 「しかも、われわれの眼をかすめてだ」 「それが、癪《しやく》に触りますよ。もっと早く、私が、七一二号室に行っていれば、電話の主と、出会えたかも知れないんです」  と、亀井は、舌打ちした。 「彼女が、そんなことまでして、何者かに金を渡したとすれば、それは、彼女に後暗いところがあるからだし、また、共犯がいるということになるんじゃないのかね。彼女をマークしているわれわれの考えは、正しいことになる」  と、十津川は、いった。  亀井も、やっと、いつもの明るさに戻って、 「男の共犯ですね」 「そうだ」 「しかし、警部。今回の事件は、女が犯人です。殺された五十嵐のマンションに入れるのは、女、それも、彼と親しい女だけです。だから、われわれは、藤原さつきを、マークしているわけです」 「その通りだ」 「と、すれば、さつきが、男に依頼して、五十嵐に毒を飲ませたということは、ちょっと、考えられません」  と、亀井は、いった。 「カメさんのいいたいことは、わかるよ。さつきが、犯人なら、彼女は、自分で、五十嵐のマンションに行き、毒を飲ませた筈だ。それなのに、なぜ、共犯がいたのか、なぜ、その共犯の男に、大金を払う必要があるのかという疑問だろう?」 「そうです」 「答は、二つあると思うよ。一つは、彼女が、五十嵐を毒殺したことを、何者かに知られて、ゆすられていたんじゃないか」 「なるほど。もう一つは、何ですか?」  と、亀井が、きいた。 「これは、少し、とっぴなんだが、前渡金かも知れないとも思っているんだ」  と、十津川は、いった。 「前渡金──ですか?」  びっくりした顔で、亀井が、十津川を見た。 「ああ、そうだ。藤原さつきは、他に、誰か殺したい人間がいて、それを、電話の人間に、頼んだんじゃないかね」 「自分がマークされているので、誰かに、頼んだというわけですか?」 「その通りさ。或いは、殺人以外に、何か、大事なことを、頼んだのかも知れない」 「それは、何でしょうか?」  と、亀井が、きく。  十津川は、笑って、 「それがわかれば、ここで、コーヒーを飲んでなんかいないさ。わからないから、彼女を引き続き、監視しようと、思っているんだよ」  と、いった。 「どちらにしろ、さつきには、頼りになる男がいるということになりますね」 「彼女が、その男にゆすられていたのだとすると、話は別だがね。その可能性だって、あるんだ」  十津川は、慎重に、いった。  コーヒーを飲み終ると、二人は、七階の自分の部屋に戻った。  十津川は、東京の捜査本部に、電話をかけ、西本刑事に、こちらでの藤原さつきの動きを、話した。 「さつきが、ゆすられて、金を払ったのなら、さし当って、心配することはない。問題は、彼女が、金を渡して、電話の相手に、何かを頼んだケースだ」 「殺人依頼だとすると、問題ですね」  と、西本が、緊張した声で、いった。 「そちらでも、それを考えて、警戒して欲しい」  と、十津川は、いった。 「しかし、場所や、日時、それに、相手がわからないと、警戒のしようがありませんが」 「相手は、わからないが、場所と、日時の想像はつく」  と、十津川は、いった。 「いって下さい」 「さつきは、この東山に、今日から、三月二十日まで、泊ることにしている。電話の相手に、金を渡すのなら、その間に渡せばいいのに、着いてすぐ、渡している。とすると、二十日までというのは、別の目的で、四日間も、とっているんだと思っている」  と、十津川は、いった。 「アリバイ作りですか?」  と、西本が、いう。 「その可能性がある。つまり、二十日までに、殺してくれと頼み、彼女は、その間のアリバイ作りを、この東山温泉で、やるつもりじゃないかな」  と、十津川は、いった。 「わかりました。それで、日時は、納得しましたが、場所は、何処でしょうか?」  と、西本が、きいた。 「彼女の関係者は、ほとんど、東京にいる。多分、東京で、殺人を起こすだろうと、私は、思っている。だから、わざわざ、東北の東山温泉に来て、ここで、アリバイ作りをするつもりだと、私は、考えているんだよ」  と、十津川は、いった。 「わかりました。今日から、二十日まで、十分に、警戒します」  と、西本は、いった。  電話を切ると、十津川は、煙草に、火をつけた。  これから、何が起きるのか、十津川にも、わからなかった。全てが、彼の推測にしか過ぎなかったからである。 (だが、何か起こる筈だ)  と、十津川は、思っていた。 [#改ページ]   第二章 自殺行      1  飯盛山の周辺の土産物店は、近づく観光シーズンに備えて、その多くが、改造中で、落ち着きを失っていた。  飯盛山ヘ登る長い石段の脇には、ベルトを使った簡単なエスカレーターがあるのだが、これも、修理中である。  この時期は、観光地としての飯盛山は、ひと休みしている感じがする。  それでも、観光バスが、時たま到着する。降りて来るのは、ほとんど、老人のグループである。  飯盛山も、白虎隊も、今は、老人の観光目的になっているのかも知れない。  若いバスガイドが、旗を持ち、老人たちを、石段の上に、連れて行く。  山上の、白虎隊士の墓の並ぶ広場では、観光客のグループが着いたとわかると、ベンチを並べ、記念撮影の準備に取りかかる。  老人のグループが、息をはずませながら、石段を登り切ると、 「こっちへ来て並んで下さい。記念写真をとりますから」  と、声をかける。  老人たちは、有無をいわせずの感じで、ひな段形に並ばされ、写真をとられる。 「君、悪いけど、どいてくれないかな」  と、カメラマンの助手が、近くにいた若い男に、声をかけた。  その男が、カメラのフレームの中に入ってしまうからだった。 「え?」  と、いう顔で、若者は、振り向いた。 「ちょっと、どいてくれないか。これから、記念写真をとるんでね」 「──」  若い男は、無表情で、カメラマンの助手を見、黙って歩き出した。  彼の耳には、相手の声は、聞こえていなかった。  彼──佐々木功は、十八歳になったところだった。今、彼の頭の中にあるのは、死ということだった。  佐々木は、十四歳の時、自殺未遂をおかしている。その傷痕は、今も、左手首に残っていた。  死への誘惑というのか、それとも、生への絶望というのかわからない。ふいに、そうした感情が、襲いかかってくるのだ。多分、自分は、二十歳になるまでに死ぬだろうと、彼は、思い続けてきた。  今年は、大学受験だった。両親が心配するので、佐々木は、二つの大学の受験手続をし、受験場まで行ったが、試験を受けなかった。どうせ二十歳までに死んでしまうのに、受験するのは、無意味だと、思ったのだ。  当然、合格するわけがない。  優しい両親は、叱るよりも、彼が自棄になるのを恐れ、気分転換にと、旅行をすすめた。  そして、佐々木は、今、会津若松に、来ている。  飯盛山に登ったのは、別に、白虎隊に、詳しい知識があるわけでも、憧《あこが》れがあったわけでもなかった。  ただ、彼等が、十代の若さで死んだことに、佐々木は、関心を持ったのだ。  隊士の墓が、並んでいる。佐々木は、それを一つ、一つ、見ていく。墓石に刻まれた名前には、興味はない。佐々木は、そこに刻まれている年齢を見ていた。死んだ時の年齢である。十六歳、十七歳。今の佐々木と同じ年齢もいる。 (どんな気持で死んだのだろうか?)  と、思う。  説明文によれば、鶴ヶ城の方向が燃えているのを見て、落城したと思い、自刃したとある。  と、すると、絶望からの死だったのか。それとも、死の誘惑にかられたのか? (今の自分をとらえているのは、何なのだろうか?)  絶望ともいえない。この世の中に絶望するほど、彼は、長くは生きていないからだ。  だが、これから、生き続けていく情熱が持てない。ただ、だらだら生きていけばいいのかも知れないが、そうした生き方は、佐々木には、出来ないのだ。  時々、自分には、生きていく価値がないのではないかと思うことが、佐々木にはある。生きる価値とは何だろうかと考えると、わからなくなってしまうからだ。  今度の旅行で、それが見つかれば、自殺せずに、帰宅できるだろうが、見つからなければ、旅のどこかで、自殺するだろうと、佐々木は、思っている。と、いって、何としても、生きる価値を見つけたいとは、思っていない。見つからなければ、見つからないでいいと思っているし、多分、見つからないだろうとも、思っていた。  白虎隊士の墓は、いくつも並んでいる。十代で死んだ少年たちの墓だ。その数に、佐々木は、圧倒される。佐々木は、疲れてベンチに腰を下した。      2  白虎隊の少年たちは、多分、死ぬことが、怖くなかったろうと、佐々木は思う。彼自身も、怖くないからだ。ただ、死ぬ理由がある人間は、幸せだという気はする。  白虎隊の少年たちは、とにかく、死ぬ理由があって、自刃した。 (自分は、多分、他人から見たら、意味もなく、自殺することになるだろう)  と、佐々木は、思う。  彼は、会津若松のあとは、日光ヘ行くつもりでいた。  別に、日光東照宮を見たいからではなかった。  何かの本で、戦前、日光の華厳滝《けごんのたき》で、藤村操という、同じ十八歳の男が、自殺したと、知ったからだった。  彼が、書き残した言葉も、読んだ。文語体で、佐々木には、親しめなかったが、戦前は、哲学的な死と、騒がれたらしい。  簡単にいえば、何のために生きるのか、その答が見つからなかったのではないかと、佐々木は、思った。  その滝を見てみたい。藤村という青年のように、自分も、華厳滝を見つめたいと、思っていた。  佐々木は、ベンチから立ち上り、もう一度、白虎隊士たちの墓を見て歩いた。  十五歳、十六歳、十七歳──と、墓石に刻まれた年齢を、改めて、確認していった時、 「すいません」  と、ふいに、声をかけられた。  顔をあげると、三十歳くらいの和服姿の女が、立っていた。 「──」  佐々木は、黙って、女を見た。 「ちょっと、トイレに行って来たいので、これを預っていてくれません」  と、その女は、いい、手に持っていた白いスーツケースを、佐々木に渡そうとする。  佐々木が、何もいわないと、女は、彼の足元に、スーツケースを置いて、小走りに、姿を消してしまった。  佐々木は、当惑した顔で、スーツケースを眺めた。今は、他人《ひと》のことなんか、考える気持ではない。が、もともと、生真面目な性格の佐々木は、放り出して動くわけにもいかず、女が、戻って来るのを待った。  だが、和服姿の女は、なかなか、戻って来ない。  十分、二十分とたったが、彼女は、姿を現わさない。  近くに、土産物店があったので、そこに行き、佐々木は、店番をしている五十歳くらいの女に、 「これを、預ってくれませんか」  と、声をかけた。  相手は、気味悪そうに、佐々木を見、スーツケースを見て、 「何ですか? それ」 「今、知らない女の人から預ったんですよ。すぐ戻るからといわれたんだけど、戻って来ないんだ。三十歳くらいの和服の女の人です。預っておいて、現われたら、渡してくれませんか」  と、佐々木は、いった。  店番の女は、小さく手を振って、 「そんなの困りますよ。あんたが預ったんだから、あんたが、返した方がいいですよ」 「でも、僕も、行くところがあるから──」 「下へ降りて行くと、交番があるから、そこへ預けたらどうかしら。うちは、困りますよ」  と、相手は、いった。  仕方がないので、佐々木は、白いスーツケースを下げて、石段を降りて行った。  なるほど、警察の派出所があったが、生憎、警官の姿はなかった。  じっと、警官が戻るのを待っていると、通行人が、じろじろと、佐々木を見ていく。なぜ、派出所の傍に立っているのかと怪んでいるのかも知れないし、佐々木の暗い表情を、怪んでいるのかも知れなかった。  佐々木は、次第に、通行人の眼が嫌になって、派出所の傍を離れ、スーツケースを持って歩き出した。  いっそのこと、鶴ヶ城の濠の中に、放り込んでしまおうかとも思ったが、それが出来る性格なら、自殺を考えることもなかったろう。  佐々木は、市内の小さな旅館を見つけて、泊ることにした。  帳場で、明日、日光へ行きたいことを話し、行く方法を聞いた。  会津若松から、東武鉄道で下今市まで行き、そこで、日光行に乗りかえたらいいと、教えられた。時刻表を借りて、部屋に入り、明日、会津若松で乗る列車を選んだあと、佐々木は、ここまで持って来てしまったスーツケースに、眼をやった。  明日、駅前の交番に預けようと、思っている。  別に、中身も知りたくない。 (面倒なものを預ってしまった)  と、思うだけである。  スーツケースの白い底の端に、小さく、名前が書かれていた。 「T・HAYAMI」と、タイプされたテープが、貼りつけてある。それが、このスーツケースの持主であろう。 (HAYAMIは、多分、早見だろうが、Tは何だろう?)  と、ちょっと考えたが、すぐ、止めてしまった。  自分には、関係ないことだと、思ったからだった。  翌日、佐々木は、タクシーを呼んで貰って、会津若松駅に向った。  一一時二三分発の快速「アルペンライナー3号」に乗れば、一四時〇三分に、下今市に着く。  駅に着いてすぐ、切符を買ってから、派出所をのぞいてみたが、ここも、警官の姿が、見当らなかった。きっと、警邏《けいら》に出ているのだろう。  待ってみたが、なかなか、戻って来ない。アルペンライナー3号の発車時刻が、迫ってくる。次のアルペンライナー5号は、一時間三十分後の発車なのだ。 (困ったな)  と、思っている時、昨日、彼にスーツケースを預けた女が、改札口を入って行くのが見えた。 (あッ)  と、思い、佐々木は、あわてて、追いかけた。  下今市経由で、東武浅草行のアルペンライナー3号の出るホームに向って、女は、歩いて行く。  佐々木は、追いついて、女に、声をかけた。  女が、振り向いて、 「何の用?」  と、きいた。とがった声だった。  佐々木は、自信がなくなった。昨日の女のような気もするし、別人のような気もしてきたのだ。 「昨日、飯盛山で、僕に、このスーツケースを預けませんでしたか?」  と、佐々木は、きいた。  女は、眉を寄せて、 「あたしは、飯盛山になんか行ってないわよ。変ないいがかりをつけないで頂戴。警官を呼ぶわよ」  と、大きな声を出した。 (違うな)  と、佐々木は、思った。着物は、同じに見えたのだが、化粧も濃いし、喋り方も、荒っぽい。  ホームにいた人たちが、何事だという顔で、二人を見ている。 「冗談じゃないわ!」  と、女は、吐き捨てるようにいって、さっさと、列車に、乗り込んでしまった。  佐々木も、一瞬、呆然として、彼女を見送っていたが、発車のアナウンスにせきたてられる感じで、佐々木も、アルペンライナー3号に、乗った。      3  快速アルペンライナーは、普通列車と、車体も変らないし、会津若松から、浅草まで、停車しない駅も、そう多くはない。  特に、佐々木の乗った3号は、下今市まで、普通列車より、二分しか早くなかった。  もちろん、今の佐々木にとって、そんなことは、どうでもいいことだった。  日光の華厳滝を見て、藤村操の言葉を、自分なりに、考えてみたいとだけ、考えていた。  飯盛山で、女から預ったスーツケースのことは予想外のことで、馬鹿馬鹿しいが、もし、日光で死ぬことになれば、そのまま、放置しておけばいいだろう。誰かが、スーツケースの中身から、持主を探してくれるだろうし、名前も、ついているのだ。  それに、死後のことまで、心配は、出来ない。  列車の中で、佐々木は、車窓に流れる景色は見ず、手帳に書き写してきた藤村操の遺言を、見直していた。  華厳滝に飛び込んで自殺する前に、十八歳の彼が、白樺に書き残したといわれる言葉である。  悠々たるかな天地 寥々たるかな古今  五尺の 小躯を持って この大を計らんとす  ホレイショの哲学  あた何等のオーソリティにあらずや  すでに巌頭に立つに及んで、胸中何等の不安あるなし  初めて知る大なる悲観は、大なる楽観に一致するを  十八歳になったばかりの佐々木には、わかるところもあるし、わからないところもある。  この宇宙というのは、広く大きなものだ。それを、小さな人間が、どうしようかなどというのは、間違っている。そんな意味ではないのかと、勝手に、佐々木は、考えた。  自分の、というか、人間のというか、その小ささに、絶望して、死を選んだのだろうか?  ホレイショの哲学というのが、わからない。そういう名前の哲学者がいるのだろうか?  佐々木は、自分でも、本をよく読む方だと思っていたが、ホレイショという哲学者の名前は、思い出せなかった。 (どっかで、聞いた感じはするんだが──)  と、佐々木は、考えていた。  自殺する決意で、旅行に来たのだ。ホレイショぐらいわからなくても、どうでもいいじゃないか、と、思いながらも、一度、考え込んでしまうと、その思いから、抜けられなくなってしまう。  間もなく、下今市というところで、佐々木は、ふと、 (ホレイショって、ハムレットに出てくる親友じゃなかったかな?)  と、思った。  ハムレットは、佐々木の好きな人物だった。悩まない人間は、佐々木は、好きになれない。だから、人生に悩み、自殺に近い死に方をしたハムレットが、好きなのだ。  ホレイショは、確か、常識的な男で、彼なりに、ハムレットに忠告をしたりしたが、結局、ハムレットを、本当に理解できなかった。  藤村操は、そういう常識では、宇宙の真相は、計れないといいたかったのか?  そう考えると、佐々木は、藤村操という、何十年も前に自殺した同じ年齢《とし》の男が、好きになってきた。  いつの間にか、時間が過ぎ、列車は、下今市に着いた。日光には、ここで、乗りかえである。  佐々木は、例のスーツケースを持って、列車を降りた。車内に放っておいてもいいのだが、それが出来ない性格なのだ。もう少しルーズな性格なら、自殺など、考えないだろう。  東武日光行の列車に乗りかえ、日光駅に着く。  駅前は、工事中だった。  警察を探して、スーツケースを預けようと思ったが、見つからない。仕方がないので、コインロッカーに、スーツケースを預けた。  バスを待ちたかったが、もし、華厳滝に飛び込んでしまえば、金を残していても仕方がないと思い、タクシーに乗ることにした。 「今から行っても、東照宮の中は見られませんよ。今は確か、三時半で、門を閉めてしまうから」  と、運転手が、いう。 「いいんだ。見たいのは、華厳滝の方なんだから」  と、佐々木は、いった。  運転手は、何か、口の中で、ぶつぶついっていたが、タクシーは、走り出した。  東照宮は、見なくていいから、華厳滝だけというのを、珍しい観光客だなと、思ったのかも知れない。  車は、狭い駅前の商店街を抜けて、有名な松並木に沿って走る道に出た。      4  東照宮の入口近くに、赤い朱塗りの神橋が、かかっている。  そこを、タクシーは、中禅寺湖方向へ抜ける。道路は、中禅寺湖から流れ出る大谷川沿いに、続いている。 「最近は、中禅寺湖から、流れる水の量が少くなってね」  と、タクシーの運転手は、いう。なるほど、大谷川は、川底の石が、ところどころ、むき出しになって、細々としか流れていない。  佐々木は、興味がないので、黙っていると、タクシーの運転手も、張り合いがなくなったとみえて、景色の説明をしなくなった。  中禅寺湖に登る有名ないろは坂は、今は、下り専用になってしまっていて、新しく作られた第二いろは坂を、タクシーは、登って行く。  尾根伝いの道路だから、景色は素晴らしい。明智平を廻り、トンネルを抜けたところに、駐車場があり、土産物店が並び、華厳滝を見るためのエレベーターが出ている。 「ここで、待っていましょうか?」  と、運転手が、きく。 (もし、おれが、ここで、滝に飛び込んで死んだら、この運転手は、どう思うだろうな? きっと、自殺しそうな顔をしてたと、警察や、新聞記者に、話すだろう)  そんなことを考えて、思わず苦笑すると、運転手は、薄気味悪くなったと見えて、小さく手を振って、引き返して行った。  切符を買って、佐々木は、エレベーターに、乗ることにした。  大きなエレベーターで、滝の下まで降りて行く。  エレベーターから出たところは、トンネルの入口で、かなり長いトンネルを歩かなければならなかった。  トンネルの途中に、小さな祭壇が作られているのは、華厳滝で自殺した人々の霊を、とむらうものかも知れない。 (おれが死んだら、この小さな祭壇に、一緒に祭られるのか?)  と、思い、佐々木は、立ち止って、しばらく眺めていたが、他の観光客は、何の興味も示さずに、さっさと通り過ぎて行く。  滝の音がしてきて、トンネルを出ると、眼の前が、瀑布《ばくふ》になっていた。  滝の底というより、中途という感じの場所に、鉄筋コンクリートで造られた、展望台が、張り出している。  二階造りの展望台の上にあがると、周囲から、滝の飛沫が、音を立てて、落下してくる感じだった。  小さな売店があって、そこに、定番のキーホルダーや、提灯などに混って、藤村操の写真を売っていた。  だが、誰も、それを買う観光客は、いない。藤村操の名前を知る人間など、いないのだろうし、自殺そのものが、バカらしいと思うのだろう。  佐々木は、忘れられている藤村操の、古びた写真を見ているのが、辛くなって、一枚買って、売店の傍を離れた。  セピア色の古色蒼然とした写真を、ハガキ大にしたものだった。あの巌頭の辞も、のっている。  佐々木は、手すりにもたれて、谷底に向って落下して行く壮大な滝を眺めた。頂上からだけではなく、途中からも、滝が吹き出している。  一緒のエレベーターで降りて来た観光客も、記念写真を撮ったあと、あのトンネルに戻って行き、彼のまわりには、人影が少くなった。  藤村操も、何十年か前、この滝を見ながら、死を考えたのだろう。それとも、死を考えてから、死場所として、この日光へやって来たのだろうか? (彼に比べたら、おれなんか、中途半端な人間だな)  と、佐々木は、自分が情けなくなってきた。  自殺を考えながら、ここに来ても、まだ、決心がつかずにいる。たとえ、死んだとしても、藤村操のように、立派な辞世は、残せそうもない。  友人たちは、きっと、なぜ、佐々木が、自殺したかわからない。ただ、変な奴だったということだろう。  両親は、何というだろう? ホレイショと同じで、常識的な両親だから、自殺するなんて、思わなかった、わかっていれば、旅行になど、出さなかったというだろう。母は、彼が、大学受験に失敗したのを悲観して、自殺したのだと、いうかも知れない。  また、展望台の観光客の数が増えてきた。新しく、エレベーターで、やって来た人たちだろう。彼等は、同じように、身近かに、水しぶきをあげる大瀑布に、歓声をあげ、記念写真を撮り、お土産を買って、エレベーターに戻って行く。  気がつくと、土産物店の女が、じっと、佐々木を見ている。佐々木の挙動が、おかしいと思ったのだろう。  佐々木は、彼女の視線の外に、移って行った。  他人《ひと》に見られるのは嫌だった。死ぬ時まで、監視されるのは、耐えられない。自殺を考えるようになってから、佐々木は、人間嫌いになっていたからだ。  陽が、かげってきた。少し、寒くなった。  突然、佐々木の身体が、宙に浮いた。誰かが、背後に忍び寄って、ふいに、彼の両足を持って、持ちあげたのだ。  悲鳴をあげて、手すりに、しがみつこうとしたが、両手が宙を泳ぎ、展望台から、落下して行った。  彼の身体は、飛沫で濡れた岩に、叩きつけられた。  息がつまり、意識がうすれていく。多勢の人が、何か叫んでいるのが聞こえ、それが聞こえなくなると同時に、佐々木も、意識を失ってしまった。  何分過ぎたか、何時間たったのか、もちろん、佐々木は、覚えていない。  身体全体に襲いかかってくる激痛に、佐々木は、意識を取り戻した。  眼を開く。  白い病室の天井。のぞき込む顔、顔。 「気がついたようだね」  と、その顔の一つが、声をかけてくる。  それに答えようとしたが、息がつまって、声が出ない。 「何もいわなくていい」  と、男の声が、いった。 「──」 「鎮痛剤を、射っておこう」  と、男が、いう。  女が、注射器を持って来る。どうやら、看護婦らしい。とすると、男は医者か。  腕に、皮下注射が、行われる。急に、吐き気がしてくる。痛みは、柔らいだが、吐き気が続く。  意識が、また、うすれてくる。  今度は、夢を見た。藤村操が、彼の前に立っている。軽蔑したような眼で、彼を見ている。 (死にぞこないだ。お前は)  と、藤村操が、いう。 (自殺じゃないんだ。誰かに、落とされたんだ) (そんなのは、いいわけにはならんよ。自殺する覚悟もなしに、華厳滝なんか見に来るのが、間違っているんだよ)  と、藤村操が、いう。 (自殺を考えていたんだ! 覚悟の出来ない中に、突き落とされたんだ!)  佐々木が、夢の中で怒鳴る。  また、眼が、開く。  のぞき込む顔が、前より、増えていた。 「佐々木だな?」  と、その顔の一つが、きいた。      5 「佐々木功だね?」  今度は、フルネームで、声をかけられた。 (なぜ、おれの名前を、知ってるんだろう?)  佐々木は、相手の男を、ぼんやりと、見上げた。  大学受験に失敗しているし、高校の学生証は、机の引出しに放り込んで、旅行に出てしまっている。  男は、小さな手帳を広げて、見ている。 (おれの手帳だ)  と、佐々木は、思う。あれに、住所と名前を書いてあったかな?  身体中が痛くて、考えるのが、面倒くさくなってくる。 「東京都世田谷区上用賀×丁目の佐々木功に間違いないね?」  男は、念を押すように、きく。  佐々木は、黙って、肯いた。 (おれが誰だって、いいじゃないか)  男は、今度は、横の医者らしき男に、小声で、何かきいている。医者が、答える。肋骨が二本とか、左足とかいっている。肋骨が二本、折れているということだろうか。  男が、また、佐々木に眼を向け、今度は、自分の内ポケットから、黒っぽい手帳を取り出した。 「私は、県警の三浦というものだ」 「警察?」 「私が、なぜ、ここに来たか、わかるね?」  と、その三浦という刑事が、佐々木の顔を、のぞき込むようにして、きいた。 「警察が?」 「そうだ。わかっている筈だ」 「ああ。わかってる」  と、佐々木は、いった。 「わかっていればいい」 「でも、いいんだ」 「いいというのは、どういうことなんだ?」  三浦刑事が、眉をひそめるのが、佐々木にも、わかった。 「怒ったんですか?」  と、佐々木は、きいた。 「当り前だ。いいというのは、どういうことなんだ?」 「僕は、どうでもいいんですよ。誰かに突き落とされたんだけど、あの時、僕は、華厳滝を見てて、このまま、死んでもいいなって、思ったことも事実なんです。だから、どうでもいいんです」  と、佐々木は、いった。  正直な気持だった。あの時、突然、誰かが、彼の足をつかんで、滝に放り込んだのだが、その相手を、憎む気持は、不思議に生れてこない。自殺を考えていた佐々木の気持を、見すかした誰かが、力を貸したのかも知れない。そんな気持になっていたからである。 「何をいってるんだ?」  三浦刑事は、ますます、不機嫌な顔付きになってくる。 「犯人を探してくれるのは、ありがたいんですが、僕は、どうでもいいんです。見つけたいとも思いませんしね」  と、佐々木は、いった。 「警察に、眼をつぶれというのか?」 「僕は、こうして、生きてるし、刑事さんには、わからないかも知れないけど、僕は、あの時、死にたい気持もあったんです。だから──」 「これは、殺人事件なんだ!」  と、三浦は、怒鳴るように、いった。 「僕は、死んじゃいませんよ。せいぜい、殺人未遂ですよ」  と、佐々木は、いった。  三浦刑事の顔が、一層、険しくなった。  彼は、病室の入口に向って、何か大声で叫び、それに応えて、制服姿の警官が、白いスーツケースを持って、入って来た。  三浦刑事は、それを受け取ると、佐々木に見せて、 「このスーツケースに、見覚えがあるね?」  と、きいた。  佐々木は、眼をこらした。確かに、見たことのあるスーツケースだった。 「見覚えがある筈だ」  と、三浦刑事が、いう。 「ああ」 「思い出したか?」 「ええ。それ、持主に返そうと思ってたんですよ」  と、佐々木は、いった。 「返そうと思ってた?」 「日光駅のコインロッカーに、僕が入れておいたスーツケースでしょう?」 「そうだ。君のポケットにあったコインロッカーのキーで、取り出したスーツケースだよ」 「そうだと思った。あとで、返そうと思ってたんです。飯盛山で、預ったんだけど、僕に預けた女の人が、姿を消してしまったんで、探してたんです」 「彼女なら、何処にいるか、わかってる」  と、三浦刑事は、いった。  佐々木は、ほっとして、 「じゃあ、それを、返しといて下さい。お願いします。僕は、中のものには、何も手をつけていませんから」 「自分で、返したら、どうなんだ?」  三浦刑事が、皮肉な顔付きをした。 「僕も、自分で返したいんですが、こんな身体ですから、すぐには、動けません」 「都合がいいことにか──?」 「何をいってるんですか? 僕は、死にかけたんですよ」  佐々木は、だんだん、腹が立ってきた。自分を突き落とした犯人を、見つけなくてもいいと、いってやってるのに、やたらに、怒っている。何が、気に入らないのだろう? 「女は、死にかけたんじゃない。死んだんだ。お前が、殺したんだろうが!」  と、三浦刑事が、大声で、いった。      6  佐々木は、一瞬、相手が何をいっているのか、わからなかった。  きょとんとしていると、三浦刑事は、ぐっと、顔を近づけてきた。 「お前は、今日、会津若松から、快速アルペンライナー3号に乗ったな?」  と、きいた。  佐々木は、黙って、肯く。 「その列車の中で、お前は、女を殺したんだ。列車のトイレの中でだ」  と、三浦刑事が、いう。 「何のことか、わかりませんが──」 「とぼけるんじゃない。お前は、飯盛山で、女から、スーツケースを強奪した。そして、アルペン3号に乗って、逃げた。ところが、列車の中に、彼女がいたので、びっくりした。警察にいわれたら大変だ。そこで、列車のトイレの中で、彼女を絞め殺し、日光に逃げた」 「知りませんよ。そんなこと──」 「スーツケースを持っていると、疑われるので、日光駅のコインロッカーに隠し、何くわぬ顔で、華厳滝を見に行った。だが、お前は、生れて初めて人殺しをしたので、さすがに動揺したんだな。気分が悪くなって、手すりから滝に落ちたのか、それとも、人殺しをしたことへの怯えから、自殺を考えたのかは知らん。だがお前は、人殺しをしたんだな。だから、お前を逮捕する」 「何をいってるんですか? 僕は、そのスーツケースを預っただけですよ。人殺しなんかしていませんよ」 「預ったんなら、なぜ、返さなかったんだ。スーツケースを持って、なぜ、日光まで、逃げたんだ?」 「逃げたんじゃありませんよ。返したくても、女の人が、見つからないんで、仕方なく、日光まで、持って来てしまったんです」 「嘘をつくんなら、もっと、うまい嘘をついたらどうなんだ!」  三浦刑事は、また、怒鳴った。 「そんなに、怒鳴らないで下さい。僕は、滝に落ちて、身体中が痛いんだ」  と、佐々木は、相手を、睨んだ。  医者が、三浦刑事に向って、 「彼は、本当のことをいっていますよ。鎮痛剤が切れてきたんだと思います」  と、いってくれた。 「じゃあ、今日は、このスーツケースの中を、確認しておこう。この中に、何が入っているか、お前は、当然、知っているな?」  と、三浦刑事は、いった。 「知りませんよ。中は見なかったと、いってるじゃありませんか」  と、佐々木は、いった。  三浦刑事は、そんな佐々木の声を無視して、スーツケースの中から、札束を取り出して、佐々木の眼の前に、突きつけた。 「二百万だ。これに眼がくらんで、飯盛山で彼女から強奪したんだろうが。その彼女が、追いかけて来たんで、お前は、列車の中で、彼女を殺してしまったんだ。それは、認めるんだろう? 認めれば、今日の訊問は、これだけにしてやる」 「何のことか、さっぱり、わかりませんよ」 「何だと?」 「刑事さん。もう、今日は、これだけにして、寝かせてやってくれませんか。手当てもしなければなりませんから」  と、医者が、いった。  三浦刑事は、不承不承という感じで、 「逃げても、無駄だぞ。われわれは、下にいるからな」  と、いって、病室を出て行った。  三浦刑事の顔が消えると、緊張が崩れて、急に、痛みがぶり返した。顔が、自然にゆがんでくる。  看護婦が、医者の指示で、鎮痛剤の注射を射ってくれた。  また、痛みの代りに、吐き気がしてきた。モルヒネの不快感だ。  だが、眠くはならない。 「どういうことなんですか?」  と、佐々木は、吐き気をこらえながら、看護婦に、きいた。 「私には、わかりませんよ」  と、看護婦は、いった。 「今の刑事は、僕のことを、人殺しだって、いってたけど、僕が、誰を殺したというんですか?」  と、佐々木は、看護婦と、医者を見た。 「何も、覚えていないのかね?」  と、初老の医者が、きいた。 「滝に落ちたのは、覚えていますよ」  と、佐々木は、いった。 「そうじゃなくて、女を殺した時のことをだよ」 「女なんか、殺していませんよ」 「しかし、警察は、君が、快速アルペンライナーの車内で、女を殺したと、いっているんだ」 「ああ、いってましたね。でも、誰を殺したというんですか?」 「殺された女の人は、何という名前だったかね?」  と、医者は、看護婦に、きいている。 「確か、早見友美という名前の人だったと思いますけど」  と、看護婦が、答える。 「ハヤミトモミ?」  と、佐々木は、口の中で、呟やいた。 「知っているかね?」  と、医者が、佐々木に、きいた。  佐々木は、寝たまま、首を横に振った。とたんに、胸が引きつったように痛んで、思わず、小さな呻き声をあげた。 「少し休みなさい」  と、医者が、いった。  佐々木は、眼を閉じた。が、眠れはしない。 (ハヤミトモミだって?)  もちろん、そんな名前に、記憶はなかった。あの白いスーツケースを、飯盛山で、預けた女の名前だろうか?  三浦という刑事は、彼女が、快速アルペンライナーのトイレで、殺されたといっていた。それなら、彼女の名前だろう。  そういえば、会津若松の駅で、彼女を見かけて、声をかけたのだが、無視されてしまった。  彼女も、同じ列車に乗ったのだが、下今市駅でも、日光でも、見かけなかった。だから、仕方なく、日光駅のコインロッカーに、入れておいたのだ。  いや、車内では、ずっと、藤村操の自殺のことを考えていて、彼女のことを、忘れてしまっていた。  興奮して、忘れてしまっていた。それは、事実だった。  華厳滝を見て、自分の気持が、どう動くか。自殺の衝動にかられるか、そればかりを考えていた。 (もし、アルペンライナーの車内で、彼女を探していたら、彼女は、殺されなかったのだろうか?) [#改ページ]   第三章 再 会      1  早見友美が、快速アルペンライナーの車内で殺されたという知らせに、十津川は、衝撃を受け、同時に、怒りを覚えた。  怒りの方は、早見友美は、北条早苗刑事が、東京で、監視している筈だったからである。  十津川は、すぐ、東京に電話を入れた。彼が何かいうより先に、早苗が、 「申しわけありません。私の不注意です」 「謝るのは、後にして、事情を説明してみろ!」  と、十津川は、大声で、いった。 「私が、早見友美と思い込んでいたのは、彼女の店で働くホステスでした。名前は、田崎美代。前々から、ママの友美によく似ているといわれていた女だったようで、それに気付かなかったのが、私の失敗でした」 「確かに、それに気付かなかった君のミスだな。美容院に行ったり、店に出たりした時に、わからなかったのかね?」  と、十津川は、きいた。 「昨夜、彼女は、店には行きませんでした。友美の声色で、休むと、マネージャーに電話したんです。友美のマンションから、かけてきたので、店のマネージャーも、てっきり、ママの友美だと思っていたようですわ」  と、早苗は、いった。 「美容院の方は?」 「小さな美容院で、店の女の子たちが、買収されて、嘘をついていたことが、わかりました」 「それで、身代りの田崎美代は、どういってるんだ?」 「日下刑事が、彼女を、訊問していますので、代ります」  と、早苗がいい、日下の声に、代った。 「訊問の結果を、報告します。美代は、三日前の夜、身代りを、頼まれたと、いっています。その時、友美は、美代に、こういったそうです。どうしても、警察に知られずに、行かなければならない所がある。だから、しばらく、私の身代りになって、警察の眼を、欺《くらま》していてくれとです。私が、姿を消したあと、警察に見破られたら、それは、それでも構わないともいわれたので、気安く芝居が出来たと、いっています」 「友美は、そのホステスに、行先や、何の用があるのか、話していたのかね?」  と、十津川は、きいた。 「それは、何も教えられていなかったみたいです。ただ、身代りの礼として、十万円、友美に、貰ったといっています」 「友美が、東京から姿を消した時間は、わかるか?」 「三日前の夜、美代と入れ代っていることだけは、間違いないと思います。三日前の夜、美代は、友美になりすまして、友美のマンションに帰っていますから」  と、日下は、いった。 「わかった。北条刑事を、慰めておいてやってくれ。もう、すんだことだといってね」  と、十津川は、いって、電話を切った。  十津川はそのあと、亀井に、今のことを、話した。 「してやられましたね」  と、亀井は、いう。 「早見友美を、容疑者の一人としか見ていなかったのが、間違いだったんだよ。彼女も、狙われていると思えば、われわれの対処の仕方も、違っていたのにな」  十津川は、口惜しそうに、いった。 「日光へ行かれますか?」  と、亀井が、きいた。 「ああ。早見友美を殺した容疑者が、捕っているということだからね。向うへ行って、詳しく、話を聞いてみたい」  と、十津川は、いった。      2  二人は、早見友美が乗ったのと同じ快速アルペンライナー3号で、日光へ向った。  日光警察署で、青木という警部に会った。青木は、今回の事件で、容疑者の訊問に当った三浦刑事を紹介し、彼から、詳しい話をきくことが、出来た。  三浦は、亀井と同年輩の四十五歳で、いかにも、叩きあげの刑事という感じだった。 「今回の事件のそもそもの発端は、福島県警からの連絡によるものです。一昨日の午後五時頃、女の声で、一一〇番があり、飯盛山で、若い男に、二百万円入りの白いスーツケースを強奪されたというわけです。自分の名前は、早見友美で、東京で、クラブをやっているといい、東京の住所も教え、更に、スーツケースを強奪した男は、十八、九歳で、身長は一八〇センチくらい。痩《や》せていて、兇暴な眼をしていたと、いったそうです。県警としては、その女性に、詳しい話をききたいといったんだが、今、忙しいので、犯人が見つかり、スーツケースが、あったら、東京の住所に連絡してくれといって、電話を切ってしまったそうです。もちろん、一一〇番した場所は、向うが切っても、電話はつながったままなので、女がかけた場所は、飯盛山の近くの公衆電話ボックスとわかりましたが、女は、見つかりませんでした。このことは、福島県警から、うちにも、知らせがありました。犯人が、こちらに向っていることも、考えられたからだと思います」  三浦は、しっかりした口調で、説明する。十津川と亀井は、肯きながら、きいていた。 「翌日になって、快速アルペンライナー3号のトイレで、女の絞殺死体が発見され、発見されたのが、下今市駅を発車してすぐだったので、電車を停め、われわれが、捜査することになりました。被害者は、三十代の女性で、ハンドバッグの中にあった運転免許証から、前日に、福島県警から連絡のあった早見友美という女らしいと、わかりました。そのあと、二時間ほどして、日光市内の救急病院から、華厳滝で転落した若い男が、運ばれて来て、今、手当てをしているという連絡が入りました。滝の途中から転落したので、一命は取り止めたが、全身打撲だというのです。最初、病院の話では、自殺かも知れないが、突き落とされた可能性もあるので、調べて貰いたいということでした」 「つまり、最初は、事件の被害者ではないかということだったわけですね?」  と、十津川は、きいた。 「その通りです。それで、私は、同僚の刑事と、その男から話をきくために、病院に出かけました。彼は、強い鎮痛剤の注射のために、眠っていましたが、その顔を見たとき、私は、福島県警からの連絡のことを思い出しました。顔もですが、十八、九の年齢、それに痩せて、長身ということがあったからです。しかし、彼が転落した地点から、男物のショルダーバッグは、見つかっていますが、白いスーツケースは、見つかっていなかったので、別人かも知れないと、思いました。念のために、ショルダーバッグを開けてみると、中から、手帳とキーが、見つかりました。手帳にあった名前などから、彼が、東京の人間で、年齢は十八歳、佐々木功とわかりました。更に、キーですが、調べたところ、日光駅のコインロッカーのものとわかり、早速、開けてみたところ、そこに、白いスーツケースが、入っていたわけです」 「中に、二百万円が、入っていたんですね?」 「その通りです。女の下着などと一緒に、パリパリの一万円札で、百万円の束が、二つです」 「それで、問題の男は、被害者から、加害者になったわけですね?」 「そうです。多分、こういうことだったのだろうと、思います。十八歳の佐々木功は、飯盛山で、出会った早見友美のスーツケースを強奪して、逃げた。翌日、アルペンライナー3号で、日光へ向う。何食わぬ顔で、です。ところが、偶然、同じ車内に、スーツケースを強奪された早見友美が、乗っていた。彼女の方は、当然、警察に突き出してやるという。佐々木は、そんなことをされては万事休すと思い、車内のトイレに押し込んで、絞殺した。下今市で、日光行に乗りかえ、日光へ華厳滝を見に行った」 「そして、転落ですか?」  と、亀井が、小さく首をかしげて、きいた。 「そうです。彼は、まだ十八歳ですし、前科もありません。これは、警察庁に問い合せて、わかりました。日光へ逃げましたが、人を殺してしまったという重圧に、精神的に参ってしまい、展望台から、華厳滝を見ている中に、めまいを起こして、転落してしまったのではないか。或いは、発作的に、自殺する気になったのではないか。この二通りが、考えられると、思っています」  と、三浦は、いった。 「佐々木という十八歳の男は、訊問されたんですか?」  と、十津川は、きいた。 「病院で、話を聞きました」 「彼は、何といっているんですか? 飯盛山で、スーツケースを強奪し、アルペンライナー3号の中で、相手の女、早見友美を殺したことを、認めているんですか?」 「いや、否定しています」 「どんな風にですか?」 「飯盛山に行ったのは、事実だが、スーツケースは、強奪などしていない。たまたま、中年の和服姿の女性から、すぐ戻るので、預ってくれと、白いスーツケースを渡された。ところが、いつまでたっても、その女性が、戻って来ない。仕方なく、持ったまま、日光まで来てしまった。アルペンライナーの車内で、女を殺してもいないというわけです」  と、三浦は、いった。 「滝に転落したことについては、どういっているんですか?」  と、亀井が、きく。 「それが、とぼけたことをいっているんですよ。展望台で、滝を見ていたとき、いきなり突き落とされた。しかし、自分は、自殺してもいいと思って、滝を見ていたので、あれは神さまが、自分を、突き落としたのかも知れない。だから、その相手を、恨む気はないとです。そんな人間なんかいないので、こんな、とぼけたことをいっているんだと思いますよ」  三浦は、眉をひそめて、いった。 「彼の家族も、呼ばれたんですか?」  と、十津川は、きいてみた。 「手帳に、住所と電話番号が書いてあったので、すぐ連絡し、三時間ほど前に、両親が駈けつけて来て、会いました」  と、三浦は、いった。 「それで、両親は、何といっていました」 「そりゃあ、子供は可愛いですからね。息子が、そんなことをする筈がない。何かの間違いではと、言い張っていましたがねえ。その両親の話から、一つ、わかったことがあります。佐々木は、今年、三つの大学を受験して、全て、落ちているんです。頭がいい子供だったそうですから、本人にとって、大変なショックだったと、思いますよ。彼は、両親には気をまぎらわせるために旅行したいといって、出かけたようです。が、この受験戦争の激しい時ですから、すごく落ち込み、同時に、兇暴にも、なっていたと、思うのです。金も、あまりない。そんな時、飯盛山で、派手な感じの、金を持っていそうな早見友美に出会い、彼は、スーツケースを強奪したというわけです」  と、三浦は、自信にあふれた口調で、十津川と亀井に、いった。 「それで、佐々木という少年は、今、何処にいるんですか?」  と、十津川は、きいた。 「まだ、病院です。医者の話では、華厳滝の岩場に転落した時、肋骨を折り、背骨を痛め、更に、両脚も、複雑骨折しているので、動かしてはいけないということなので、今は、二人の刑事に、見張らせています。怪我が治り次第、起訴するつもりです」  と、これは、青木警部が、答えた。 「その少年に、会いたいのですが、構いませんか?」  と、十津川は、きいた。 「それなら、三浦君に、案内させましょう」  と、青木は、いった。  十津川と亀井は、三浦の運転するパトカーで、問題の病院に向った。  三階の病室の前には、二人の刑事が、立っていた。  十津川と亀井は、二人に、会釈をしてから、三浦と一緒に、病室に入った。  佐々木は、眼を閉じて、痛むとみえて、低い呻き声をあげた。  その顔を見たとたん、十津川は、 (あの少年だ)  と思った。      3  藤原さつきを尾行している時だった。郡山から、会津若松行の特急ビバあいづの車内で会った少年である。  3号車のインビテーションカーで、危うく、ぶつかりそうになったのが、この少年との出会いだった。  あの時の眼を、十津川は、ずっと忘れられずにいた。単なる絶望とも違う。何かにいらだち、その答が見つからずに、自殺しかねない感情が、彼の眼に見えたのだ。  誰かが、何かしてやらなければ、確実に、自殺するのではないか。そんな思いが、十津川を、捕らえて、離さなかった。  だが、殺人事件の容疑者を追っていた十津川は、少年にかかわっているわけには、いかなかった。  会津若松駅前で、少年が、白虎隊の像を眺めているのを見たあと、十津川は、彼と別れてしまっている。  それが、また、再会したのだ。  医者が、訊問は、あとにして欲しいというので、十津川は病室を出て、まず、三浦刑事から、話をきくことにした。 「彼が、早見友美殺しの犯人であることは、間違いないと、確信しています」  と、三浦は、自信満々ないい方をした。 「彼が、自供したんですか?」  と、亀井が、きいた。 「はっきりと、殺したとは、いっていませんが、まあ、自供したのと同じことです」  三浦は、ニヤッと、笑って見せた。 「それは、どういうことですか?」  と、十津川は、きいた。  三浦は、病室の方に、ちらりと眼をやってから、 「最初は、否定していましたがねえ。その中《うち》に、どうでもいいような口調になりましたよ。観念したんじゃありませんか」 「どうでもいいような口調ですか?」  よくわからなくて、十津川は、おうむ返しの感じで、きいた。 「そうなんですよ。日光まで逃げて来て、罪の意識に耐えられなくなって、華厳滝に飛び込んだんですが、それも最初は、誰かに突き落とされたみたいに、いってたんですよ。それについても、自殺未遂でもいいと、いうわけです」 「諦めているということですか?」  と、亀井が、きいた。 「そうもいえますね。本当の悪党じゃないということじゃありませんか。その点では、未成年でもあるし、同情しているんですよ」  三浦は、声を落として、いった。 「動機については、話したんですか?」  と、十津川は、きいた。 「何も話しませんが、こちらは、わかったような気がしています。調べたところ、彼は、今年の大学受験に、失敗しているんです。私の親戚にも、同じ年頃の奴がいて、大学受験が、どんなに大変なものか、よくわかるんですよ。受験生の中には、受験の失敗が、まるで、人生そのものに、失敗したみたいに、深刻に受け止めてしまう人間もいるようです。彼も、そうだったんじゃないですかね。傷ついた気持をいやすために、ひとりで旅行に出たが、遊ぶための金が不足して、つい、被害者のスーツケースを強奪してしまったんですね。そのスーツケースの中には、二百万の現金が入っていましたから、それに、眼をつけたんだと思いますよ。彼は、そのあと、スーツケースを持って、アルペンライナーで、日光へ逃げようとしたが、車内で、被害者と、ばったり会ってしまった。多分、被害者に、難詰されたんでしょう。若いから、かっとして、車内のトイレで、殺した。スーツケースの強奪だけなら、自殺を図ったりはしなかったでしょうが、殺人までしてしまったので、もう、逃げられないと思い、自殺しようと、滝に飛び込んだんでしょうね」  三浦は、いっきに、まくしたてた。 「華厳滝に飛び込んで、よく助かりましたね?」  と、亀井が、感心したようにいうと、三浦は、笑って、 「滝の上から飛び込んだら、間違いなく、死にますよ。彼が、飛び込んだのは、滝の下の方の展望台からです。それに、落ちたところが、石の上ですからね。ひょっとすると、本当は、死ぬ気なんかなかったんじゃないかと、私は、疑っているんです」 「でも、何のために、飛び込んだと?」  と、十津川は、きいた。 「警察や、検察の心証をよくするためですよ」 「つまり、自殺しようとするほど、後悔していることを示すための狂言だったと?」 「そうですよ」 「あまり、好意は、持たれていないようですね」  と、十津川が、いうと、三浦は、眉を寄せて、 「あの年頃の少年は、反省もなしに、強盗をしたり、人を殺したりしますからねえ」  と、いった。      4  二時間ほどして、医者の許可が下り、十津川と、亀井は、もう一度、病室に入った。  少年は、眼を開けて、二人を迎えた。が、その眼は、相変らず、生気がなかった。何を考えているのかわからない眼でもあった。  十津川は、少年に、警察手帳を見せた。亀井も、続いて、同じように、警察手帳を見せた。が、少年の表情は、変らなかった。全く、関心がないようだった。  十津川は、椅子を引き寄せて、少年の枕元に、腰を下した。 「君の名前は、佐々木功で、いいんだね?」  と、十津川は、努めて優しく、声をかけた。  相手は、黙っている。 「君とは、確か三日前に、郡山から会津若松へ行く電車の中で、会っているんだ。特急ビバあいづの中でだよ。覚えているかね?」  と、十津川は、いった。一瞬、少年の表情が、動いた。  だが、すぐ、無表情に戻ってしまった。どうやら、覚えていないらしい。  十津川は、構わずに、言葉を続けて、 「だから、君のことは、気になっていたんだよ。その君が、強盗と、殺人をしたという。本当に、やったのかね?」 「何かいいたいことがあるんなら、正直に、いいたまえ」  と、亀井が、立ったまま、声をかける。  佐々木は、天井を見上げた恰好で、 「どうでも、いいんです」 「どうでもいいというのは、よくわからないんだがね。君は、アルペンライナーの中で、早見友美という女を、殺したのかね?」 「警察は、そう思っているんでしょう。それなら、それで、いいですよ」  と、佐々木は、面倒くさそうに、いった。 「自責の念から、華厳滝に、飛び込んだのかね?」  と、十津川が、きくと、佐々木は、黙って笑った。  その笑い方が、自嘲のようにも見えたし、十津川たちを、笑っているようにも、見えた。  十津川は、当惑した表情になって、佐々木を見たが、亀井は、眉をひそめて、 「何かいいたいことがあるんなら、黙っていないで、いいたまえ」 「刑事さん」 「なんだ?」 「ホレイショの哲学って、知っていますか?」 「知らんな。何なんだ?」 「知らなければ、いいんです」  と、佐々木は、いい、眼を閉じてしまった。  亀井は、むっとした顔になっている。十津川は、彼の袖を引っ張るようにして、廊下に出た。 「ああいう、変に頭のいい子供は、好きになれませんね。暴走族の少年の方が、親しみが持てます」  と、亀井は、吐き捨てるように、いった。 「ホレイショの哲学で、頭に来ているのかね?」  と、十津川は、笑った。 「大人を試すようないい方が、癪に触ったんですよ」 「なるほどね」 「警部は、ホレイショの哲学を、ご存知ですか?」 「確か、藤村操の辞世の中にあったんじゃないかな。戦前、華厳滝に飛び込んで自殺した男だ。確か、今の少年と同じ十八歳だったと思うよ」 「しかし、その男は、自殺したんでしょう?」 「ああ、滝の上から、飛び込んだからね」 「それは、それで、立派じゃありませんか。その点、佐々木は、滝の底に近い展望台から飛び込んで助かっている。だらしないこと、おびただしいですよ」  と、亀井は、怒ったように、いった。 「カメさんは、彼が、早見友美を殺したと思うかね?」  と、十津川は、きいた。 「わかりません。彼が犯人としたら、少しばかり、都合よく死んだと思いますが」  と、亀井は、いう。 「カメさんは、東京に連絡して、佐々木と、早見友美の間に、何か、関係があるかどうか、調べるように、いってくれ」  と、十津川は、いった。  二人は、一階の待合室まで降り、亀井が、公衆電話を使って、東京に、連絡をとった。その間に、十津川は、別の電話を使って、東山温泉のKホテルにかけ、藤原さつきが、まだ泊っているかどうか、きいてみた。 「一時間前に、チェック・アウトなさいました」  と、フロント係は、いった。 「行先は、わかりませんか?」 「わかりませんが──」 「その時、彼女は、白いスーツケースを、持っていましたか?」 「はい。お持ちになっていました」  と、フロント係が、いった。  電話をすませ、ベンチに腰を下していると、亀井が、戻って来て、 「西本刑事に、調べるように、いっておきました」 「タレントの木下知恵のことは、どうなっているか、わかったかね?」 「相変らず、忙しく、テレビ局を、飛び廻っているそうです」 「まさか、彼女まで、替玉というんじゃないだろうね?」 「その点は、大丈夫でしょう。テレビ局が、替玉に、欺《だま》されるとは、思えませんから」  と、亀井は、いった。 「五十嵐恭の遺言状は、まだ、見つからないのか?」 「まだ、見つかっていないようです」 「ひょっとすると、五十嵐は、作ってなかったのかも知れないな。突然、殺されるとは、思ってもいなかったろうからね」  と、十津川は、いった。 「そうですね。もし、作っていれば、顧問弁護士が、預っていたでしょうから」  と、亀井も、肯いた。 「ちょっと、外に出て、お茶でも飲もうじゃないか」  と、十津川は、いった。  病院を出ると、日光駅近くの喫茶店に、入った。  駅前も、昔は、古めかしい門前町のようだったのかも知れないが、今は、若者向きの洒落た構えの店が、多くなっている。車でやって来る若者たちに備えて、広い駐車場も、設けられている。  二人が入った喫茶店も、三角屋根の明るい店だった。 「警部は、早見友美を殺したのは、あの少年ではなく、藤原さつきだと、思っておられるんですか?」  と、亀井は、コーヒーを前において、十津川にきいた。 「その方が、納得がいくからね。誰かを使って、殺したんだと思っている。自分は、東山温泉のKホテルに泊っているというアリバイを、作っておいてね」  と、十津川は、いった。 「しかし、動機は、何でしょう? 彼女は、五十嵐恭と、正式に結婚はしていません。彼女が、早見友美や、木下知恵を殺しても、五十嵐の遺産が、入ってくるわけでもありません。となると、ただ単に、五十嵐を取られたという憎しみだけで、殺すんでしょうか?」  と、亀井は、きいた。 「いや、一つだけ、動機と思われるものがあるよ」  と、十津川は、いった。      5 「それは、何ですか?」  と、亀井が、きいた。 「カメさんにも、わかっている筈だよ」  と、十津川は、いった。 「子供──ですか?」 「そうだよ。藤原さつきのお腹に、五十嵐恭の子供が入っていたら、彼女には、遺産は入らなくても、その子は、立派な相続人になる」  と、十津川は、いった。 「それは、わかりますが、なぜ、早見友美を、殺す必要があるんですかね? もし、五十嵐の子供を宿しているんなら、デンと構えていたらいいんじゃありませんか?」  亀井が、きく。 「だからだよ」 「だからといいますと──?」 「さつきが、五十嵐恭の子供を宿しているとしよう。彼女は、この子が、五十嵐の莫大な遺産の相続人だと思う。当然、五十嵐と関係のあった他の女のことも、考える筈だよ。早見友美と、タレントの木下知恵のお腹にも、五十嵐恭の子供が入っているのではないかとね。そうだとすれば、当然、遺産の分け前は、少くなってくる。今の中《うち》に、殺しておけば、自分の子供だけが、遺産を手に入れることが出来る。そう考えたとしても、おかしくはないんだ」 「なるほど」 「だから、藤原さつきには、早見友美を、殺す動機があることになる」  と、十津川は、いった。 「それに、五十嵐を取られたという憎しみも、プラスされるわけですね」 「そうだな」 「となると、藤原さつきが、妊娠しているかどうか知りたいですね。それに、殺された早見友美が、妊娠していたかどうかもです」  と、亀井は、いった。 「ああ、私も、ぜひ、知りたいね」 「ところで、早見友美殺しの犯人ですが、真犯人は、藤原さつきと思っても、肝心の少年が、非協力的では、先が、思いやられますね」  亀井が、腹立たしげに、いった。 「藤原さつきの犯行であることを証明するには、どうしても、あの少年の協力が、必要だからね」  と、十津川も、いった。 「わかりませんね。県警は、あの少年が犯人だと、決めつけているわけでしょう。われわれは、それを助けてやろうとしているのに、なぜ、非協力的なんですかね?」 「多分、絶望──」  と、十津川は、いった。 「何への絶望ですか?」 「それが、わかれば、彼を協力させられるんだがね」  と、十津川は、いった。 「あの若さで、人生に絶望するなんて、生意気ですよ。私が、あの年齢《とし》には、必死になって生きていて、絶望するどころじゃありませんでしたからね」  亀井は、顔をしかめるようにして、いった。 「彼の場合は、その絶望に、ここの警察が、頭から、彼を犯人と決めつけたことへの不信感が、プラスされているのかも知れない。もし、彼の絶望の原因が、人間不信だったら、それが、倍加されたことになるからね。その気持を解きほぐすのは、容易じゃないよ」  と、十津川は、いった。 「あの少年もですが、県警とケンカするのも、気が重いですね」  と、亀井は、いった。 「同感だが、逃げ出すわけにも、いかないよ」  十津川は、自分に、いい聞かせる調子で、いった。  その県警の三浦刑事が、心配そうに、近づいてきて、 「十津川さんも、あの少年には、手古《てこ》ずられたでしょう? 一筋縄じゃいきません」  と、いった。  十津川たちは、県警とは、逆の意味で困惑しているのだが、それはいわず、 「殺された早見友美ですが、妊娠していたんですか?」  と、きいてみた。 「司法解剖した医者は、何もいっていませんから、妊娠はしていなかったと思いますね。そのことが、何か意味が、あるんですか?」  三浦が、逆に、きいた。 「いや、妊娠していなければ、いいんです」 「今度の事件は、佐々木という少年が、金欲しさに、初めて会った早見友美を殺したわけですから、彼女が、妊娠しているかどうかは、関係ないと思いますよ」  と、三浦は、微笑した。      6 「佐々木の両親も、来ているんでしたね?」  と、亀井が、きいた。 「来ています。この病院の近くのホテルに、泊っています。お会いになりますか?」  と、三浦は、きき、そのホテルまで、案内してくれた。  十津川と、亀井は、フロントに頼んで、両親にロビーまで、降りて来て貰った。  三浦が、二人を紹介して、病院に戻ったあと、十津川は、両親と、ロビーで話をした。  父親の佐々木は、十津川より二歳年上の四十二歳。母親の夕子の方は、三十八歳ということだった。  二人とも、疲れ切ったような顔だった。突然、息子が、殺人容疑者にされてしまったことに狼狽し、怒り、どうしていいかわからずにいるのだろう。 「あの子は、人を殺せません。それだけは、確かなんですよ」  と、父親の佐々木が、いい、母親の夕子は、 「いくら、それをいっても、ここの警察は、信じて下さいません」 「息子さんは、いつから、ああなったんですか?」  と、十津川は、二人に、きいた。  佐々木は、当惑の表情になって、 「ああなったというと──?」 「息子さんは、なぜか、人生に絶望しているように見えて仕方がないんですよ。いつから、ああなったのか、理由は何だろうかと、思いましてね」  十津川が、いうと、夫妻は、顔を見合せていたが、 「以前は、あんなじゃなかったんですよ」  と、夕子が、いった。 「では、最近ですか?」 「いつからか、はっきりしないんですけど、急に、考え込んでしまったり、お友だちとのつき合いをやめてしまったりするようになったんです。心配して、どうしたのかと聞いても、返事をしてくれませんし──」 「大学受験は、したんですね?」 「それだって、あとでわかったんですけど、受験の手続きはしたけど、実際には、受けていなかったんですよ」  と、佐々木が、いう。 「何か、思い当ることは、ありませんか?」 「家内と、いろいろと、話し合ったんですが、これという原因は、思い当らないのです。一人息子なので、大事に育てて来たつもりだし、買いたいという物は、買い与えた筈なんですが」  佐々木は、吐息をついた。 「旅行に出たのは、息子さんが、希望したわけですか?」  と、十津川が、きくと、夕子は、 「ひとりで、旅行して来たいと、いったんです。受験に失敗して、沈んでいるだろうから、旅行も、気が晴れていいのじゃないかと、主人と話して、行かせることにしたんですけれど、こんなことになるなんて──」 「受験に失敗して、旅行ということでは、なかったわけですね。もともと、受験をしていなかったんだから」 「ええ。でも、それは、後でわかったことですから」 「息子さんは、前に、自殺を図ったことが、ありますか?」  と、十津川は、きいた。 「ええ。その時、驚いて、担任の先生に相談しましたら、思春期の子供によくある発作的なものだから、自然に治ると、いわれたんです」  と、夕子が、いう。 「それが、治っていなかったのかも、知れませんね」  と、十津川は、いった。 「どういうことですか? 刑事さん」  佐々木が、十津川を睨むように見て、きいた。 「自殺するために、旅行に出たのかも知れません」 「なぜ、あの子が、自殺しなければいけないんですか?」 「しかし、ひょっとして、自殺するんじゃないかと、思っておられたんじゃありませんか?」  と、十津川は、きいた。  一瞬、佐々木は、何かいいかけて、黙ってしまった。代って、母親の夕子が、 「あの子のことが、理解できなくて、いつも、不安でしたわ」  と、声を落として、いった。 「今度の旅行に、いくらの小遣いを、持たせてあげたんですか?」  と、亀井が、きいた。 「どこへ行くのと聞いたら、東北というので、少し余分にと思って、二十万円、持たせました。だから、お金欲しさに、女の人を襲ったなんて、信じられないんです」  と、夕子は、いった。 「十津川さんも、あの子が、人殺しをしたと、思われているんですか?」  佐々木が、また、十津川を、睨むように見た。彼にとって、県警の刑事も十津川も、同じ刑事なのだろう。 「何ともいえません」  と、十津川は、正直に、いった。 「あの子は、人殺しなんかじゃありません!」  夕子が、激しい口調で、いった。 「それなら、息子さんに、いって下さい。無実を証明したいのなら、投げやりな態度は捨てて、真剣になれと」  と、十津川は、いった。  十津川と亀井は、佐々木の両親と別れると、日光警察署に戻り、彼が、早見友美から奪った白いスーツケースを、もう一度、見せて貰った。  何度見ても、藤原さつきが持っていたスーツケースと、そっくりである。有名なフランスのメーカーのマークが、入っている。 「ひょっとすると、東山温泉で、中の札束だけを渡したのではなく、スーツケースごとすりかえて、さつきは、渡したのかも知れないな」  と、十津川は、亀井に、いった。 「その可能性が、ありますね」 「スーツケースの中には、かなりの札束が、入っていたんだと思う。さつきの共犯者は、その中から、五百万なり、一千万なりを、殺しの報酬として受け取り、残りの二百万をエサにして、佐々木功を、犯人に、仕立てあげたんじゃないだろうか?」 「もし、そうだとして、佐々木を、なぜ、犯人にしようとして、選んだんでしょうか? それとも、前から、彼のことを、犯人は知っていたんでしょうか?」  と、亀井が、きく。 「多分、初対面だったと思うよ」  と、十津川は、いった。 「それなら、どんな基準で、佐々木を選んだのか」 「恐らく、眼だよ」  と、十津川は、いった。 「あの絶望的な眼ですか?」 「それを、犯人は、兇暴な眼付きだと、誤解したんだろう。そんな風に、見えないこともないからね。ワルで、当然、非行歴もある少年。犯人に仕立てあげるには、恰好の相手と、思ったんじゃないかな」 「──」 「どうしたんだ? カメさん」 「ちょっと、変なことを、考えてしまいましてね」 「どんなことをだい?」 「佐々木功は、自殺する場所を探しに、会津若松から、日光へと、旅行していた。何もなければ、華厳滝で、自殺していたかも知れません」 「かも知れないな」 「だとすると、殺人犯人に仕立てあげられたために、自殺せずにすんだということだって、考えられます」 「だが、今、彼は、殺人容疑者になってしまっているよ」  と、十津川は、いった。 「死ぬよりは、よかったんじゃありませんか。容疑は、晴らせるんですから」 「彼は、どっちでもいいという、投げやりな気分になっている。だから、困るんだよ」  と、十津川は、いった。 [#改ページ]   第四章 女弁護士      1  藤原さつきが、東京に戻ったというので、十津川は、亀井を東京に帰したが、自分は、日光に残った。  どうしても、佐々木のことが、気になったからである。  県警は、いぜんとして、佐々木犯人説を変えていない。新聞も、佐々木が未成年なので、仮名にしているが、彼を犯人として、記事を書いている。  県警の青木警部が、旅館に泊っている十津川に電話してきて、佐々木の弁護士が、会いに来たと告げた。 「それが、気の強そうな女弁護士でしてね」  と、青木は、いった。 「女ですか?」 「十津川さんも、お会いになりますか?」 「そうですね。今、何処にいるんですか?」 「日光署に来ています。早速、抗議に来たんですよ」 「何の抗議ですか?」  と、十津川は、きいた 「重傷の佐々木を、われわれが、精神的に、拷問しているのではないかというわけですよ」  と、青木は、いった。電話の向うで、青木が渋面を作っているのが、見える感じだった。 「すぐ行きます」  と、十津川は、いった。その女弁護士に、会ってみたくなったのだ。  日光署に出向くと、青木が、十津川を迎えて、 「手強いですよ」  と、苦笑して見せた。  十津川も、苦笑しながら、彼女に会った。  美人だが、眼鏡のせいで冷たく見えた。年齢は三十五、六歳だろう。  十津川が、名乗ると、彼女は、強い眼を向けて、 「私も、自己紹介させて頂きますわ」  と、いい、名刺をくれた。 〈中央弁護士会 結城 彩子〉  と、名刺にあった。 「ここには、抗議に来られたそうですね」  と、十津川が、いうと、結城彩子は、また、強い眼で見つめて、 「ええ。警察のやり方は、めちゃくちゃですから」 「そうですかね」 「佐々木功は、未成年の上に、重傷を負っているんです。医者も、しばらくは、安静にしなければいけないといっているのに、警察は、頭から彼を殺人犯人と決めつけ、激痛に責められている彼に、自供を強要していますわ。これを、拷問と呼ばずに、何というべきでしょうか?」 「私も、彼と話しましたが、普通に話していましたがね」  と、十津川は、いった。  彩子は、ハンドバッグから、医者の書いた佐々木の診断書を取り出して、十津川の前に置いた。 「それを、よく、お読みになって下さい」 「症状については、私も、医者や看護婦から、詳しく聞いていますよ」 「医者は、こんな状態では、本人が、正常な判断が出来ないと、いっているんです。刑事が、彼の枕元に座って、大声で責めつければ、肉体的、精神的な苦痛から逃れるために、刑事のいわれるままに、肯いてしまうのです」 「だから、佐々木は、無実だというわけですか?」 「もちろんですわ」 「彼は、あなたに、自分は早見友美を殺してないと、いっているんですか?」  と、十津川は、念を押した。 「ええ。その通りですわ」 「それを、あなたが信用した理由は、何なんですか? ただ、単に、彼の弁護人だからですか?」 「経験から来た確信ですわ」 「経験──ですか」 「私は、これまで七年間、刑事事件の弁護を引き受けてきました。その間に、少くとも、三件の事件は、無実の被告人が、警察の拷問によって、嘘の自白をしたものでしたわ」 「つまり、佐々木功が、四人目に違いないというわけですか?」  と、十津川は、きいた。 「それも、悪質な、精神的な拷問だと、私は思っています」  と、彩子は、いう。  十津川は、首をかしげて、 「県警は、確かに、佐々木が犯人と、確信していますがね。彼が、自白させられたとは、私は、思っていませんよ」 「では、本庁の十津川さんは、彼が、無実と思っていらっしゃるんですか? それなら、話は別ですけど」  彩子は、窺うような眼になって、十津川を見た。  十津川は、手を振って、 「そんなことは、いっていませんよ。第一、今回の事件は、ここの県警の管轄内で起きたことです」 「それなら、なぜ、本庁の十津川さんが、今回の事件に、関係なさっているんでしょう?」  と、彩子が、食いさがってくる。  十津川は、どう返事していいか、迷った。  早見友美殺しの犯人がわからなければ、当然、栃木県警と、警視庁の合同捜査ということになる。  だが、栃木県警は、佐々木功を、すでに、犯人と決めている。今は、佐々木は入院しているが、病状がよくなり次第、彼を起訴すると、言明しているのだ。  つまり、県警は、この事件は解決したと、考えているのである。  この段階で、十津川が、事件についてあれこれ口を挟めば、県警の捜査に、異議を唱えることになる。  眼の前にいる女弁護士は、そうなれば、喜び勇んで、県警と警視庁の食い違いを、問題にしてくるだろう。      2  十津川は、彩子の質問に答える代りに、 「あなたは、佐々木が、犯人でないとすると、誰が、早見友美を殺したと思うんですか?」  と、逆に、きいた。  彩子は、小さく、肩をすくめて、 「この事件の真犯人を見つけるのは、あくまでも警察の仕事ですわ。私は、ただ、あの少年が、絶対に犯人ではないと確信しているだけです。弁護人としては、それで十分じゃありませんの?」 「佐々木功に、もう、病院で会って、話をされたんでしょう?」 「ええ。ご両親の依頼がありましたから」 「それで、佐々木は、あなたに、何といったんですか?」  と、十津川は、きいた。 「もちろん、自分は無実だ、警察の訊問は拷問だと、怒っていましたわ」  と、彩子は、いった。 (本当だろうか?)  十津川は、ふと、弁護士の言葉に、疑問を覚えた。  十津川が、佐々木に会って話したとき、一番強く感じたのは、彼の、どうなってもいいといった、投げやりな態度だった。何かに絶望していて、その絶望の前には、事件の犯人にされるかどうかということは、あまり関心がないという態度である。  あの態度が、弁護士を前にして、突然がらりと変り、必死になって、無実を訴えたとは、とうてい思えなかったのだ。  もちろん、弁護士としては、佐々木が、自分に対して、必死に無実を訴えたということにしておきたいのだろうが。  彩子は、眉を寄せて、 「未成年の無実の訴えなど、馬鹿らしいとお考えなんですか? 十津川さんは」 「そんなことは、いっていませんよ」 「でも、そんな顔付きに見えましたわ」 「それは、誤解ですよ」 「いいえ」  と、彩子は、眼鏡の奥の眼を光らせて、 「本庁の十津川さんは、佐々木少年が、無実を叫ぶことを、冷笑しているとしか思えませんし、どうやら、本庁と、栃木県警の間に、今回の事件について、考え方の相違があるのが、わかりました。これは、大いに興味があるし、もし、佐々木功が起訴され、公判になった場合は、その相違点を、徹底的に突いていくつもりですわ」 「それは、あなたの誤解──」  と、十津川が、いいかけると、彩子は、急に立ち上って、 「これから、佐々木功のご両親に会って、今までにわかったことを報告しなければなりませんので、失礼しますわ」  と、いい、さっさと、日光署を出て行った。  十津川が、呆然と、彼女を見送っていると、県警の青木警部が、ニヤニヤ笑いながら、近づいてきて、 「どうです? 手強い相手でしょう?」 「そのようですね」 「まあ、県警としては、佐々木功の犯行であるという確信は、ますます強まっていますから、間もなく、あの病院から、栃木拘置所に身柄を移すつもりでいます」  と、青木は、いった。 「そうですか」 「どうですか、お茶でも飲みに行きませんか」  と、青木は余裕を見せて、誘った。 「ありがたいですが、東京に連絡しなければならないことがありますので」  と、十津川は、断った。  別に、東京に連絡することが、あったわけではない。  十津川は、日光署を出ると、もう一度、佐々木の入院している病院に、足を運んだ。  佐々木本人に会う前に、治療に当っている医者に会った。  医者は、十津川が、佐々木の回復具合をききたいのだと、思ったらしく、 「若いだけに、めきめき回復していますが、だからといって、すぐ、拘置所に移すというのは、反対ですね」  と、いった。 「私が知りたいのは、彼の精神状態なんです。彼は、自殺願望みたいなものがあるような気がして、仕方がないんですが」  と、十津川は、いった。 「私は、精神科医ではなくて、外科医ですからね」 「しかし、ずっと、治療に当って来られたのなら、彼の精神状態は、自然に、おわかりになるんじゃありませんか?」  と、十津川は、いった。  医者は、「そうですねえ」と、ちょっと、考えてから、 「自殺願望があるかどうかはわかりませんが、彼が、積極的に、怪我を治そうとしているとは、とても思えませんね。治れば、拘置所送りになるので、一種のストライキかなとも思いましたが、どうも、それとも違うらしい」 「治療に対して、投げやりということですか?」 「どんな病気でも、患者の、治りたいという気力が、大事なんですがねえ。あの少年には、それが、全くありませんね。ただ、今もいいましたように、若いから、治っていくスピードは早いし、看護婦の手当てを拒否するようなことはしませんが──」  と、医者は、いった。 「彼に、これから、会って構いませんか?」  と、十津川は、きき、三階の病室にあがって行った。  カーテンがおりているので、病室は、うす暗かった。  看護婦は、いない。  眠っているようだったが、十津川が、丸椅子を持って来て傍に腰を下すと、うす眼を開けて、彼を見た。 「どうだね?」  と、十津川は、声をかけた。が、佐々木は、返事をしない。彼を拒否しているというよりも、他のことを考えていて、十津川の声が、聞こえなかったみたいに思えた。 「正直にいって貰いたいんだが、君が、早見友美を殺したのか?」  と、十津川は、きいた。 「警察が、僕を犯人にしたいんなら、勝手にして下さい」  と、佐々木は、面倒くさそうに、いった。 「私は、真実が、知りたいんだ。それに、君みたいな若者が、投げやりないい方をしてはいけないな」 「警察は、僕を犯人にすることだけしか、関心がないんでしょう? その上、お説教までするんですか?」  と、佐々木は、寝たまま、十津川を睨んだ。      3 (この少年は、何を考えているのだろうか?)  と、十津川は、思う。  県警の話では、少年は、売店で買ったと思われる巌頭の辞のカードを、持っていたという。  青木警部や、三浦刑事は、このカードを、さほど重視していないようだった。  県警の考えは、あくまでも、佐々木が、早見友美のスーツケースを強奪し、その揚句、殺したということだからである。  何といっても、佐々木は、十八歳で、前科はない。人を一人殺したという自責の念と、警察に追い詰められる恐怖感から、ふっと、絶望感に襲われ、自殺を図った。これが、県警の考えなのだ。  その前に、佐々木が、展望台の売店で、たまたま買ったのが、藤村操の巌頭の辞と、彼の写真の載ったカードだったと、青木たちは考えている。  だが、十津川は、そうは、考えなかった。  初めて会った時に、十津川は、少年の眼に、絶望を見た。もちろん、四十歳の十津川に、十八歳の絶望がどんなものか、わかろう筈がないのだが、あれは、まさしく絶望の眼だと思った。  その佐々木は、会津若松から、日光へと、廻っている。  一見したところ、ありふれた観光コースである。名所見物といってもいいし、歴史探訪コースといってもいい。  だが、別の見方も出来る。会津若松は、十代の少年たちが、何人も自刃した場所であり、飯盛山に登れば、彼らの墓が、ずらりと並んでいる。  また、日光の華厳滝では、戦前、十代の一高生、藤村操が、白樺の幹に、有名な巌頭の辞を書き残して、自殺している。今の若者は、藤村操の名前など知らないだろうが、当時は、哲学的な死として、若者たちに、衝撃を与えたものなのだ。  佐々木の今度の旅は、景色を楽しむためではなく、自分と同じ十代で、無念の自刃をした白虎隊士の墓を見、また、十代で自殺した藤村操のことを考える旅だったのではないのか。  佐々木は、人生に絶望しながら、自殺するまでの覚悟は出来ず、迷いながら、何らかの答を見つけたくて、会津若松を訪ね、日光に廻ったのではないのだろうか?  この推理が当っていれば、佐々木が、金欲しさに、女性のスーツケースを奪ったり、その相手を殺したりはしないだろう。  と、すれば、早見友美を殺したのは別の人間で、佐々木は、罠にはめられたことになる。  十津川は、もう一度、佐々木を見つめて、 「君が、早見友美を殺したのか?」  と、改めて、きいてみた。  佐々木は、うるさそうに、首を振って、 「なぜ、そんなことを聞くんですか?」 「真実を知りたいからだよ」 「それは、警察にとっての真実でしょう?」 「いや、今度の事件の真実だよ」 「警察は、もう、決めているんだから、勝手に、やったらいいじゃありませんか」 「無実なのに、犯人にされても、構わないのかね?」  と、十津川は、きいた。 「無実だと思っているのなら、もう、警察は来ないで下さい。静かに考えたいんです」  と、佐々木は、いう。 「別に、無実だと思っているわけじゃない。もし、無実なら、全て正直に話してくれといってるんだよ」  十津川は、次第に、いらいらしてきた。こちらは何とか、少年の気持を、理解しようと努めているのに、肝心の少年の方は、全く非協力な態度しか取ろうとしない。 「いいかね。県警は、君を、殺人容疑で起訴する筈だ。それでもいいのなら、勝手にしたらいい。だが、もし助かりたいのなら、本当のことを話すんだ」  十津川は、つい、大きな声を出してしまった。佐々木は、それでも、熱のない眼で、十津川を見上げて、 「僕が、あなたに、助けて下さいと、頼めばいいんですか?」 「ばかなことをいうな。私は、そんなことはいってないだろう」 「でも、同じことでしょう。僕は、今、誰の助けも必要としていないんです。ただ、ひとりにして、そっとしておいてくれればいいんです」 「しかし、弁護士をつけたじゃないか。女の弁護士だ」 「あれは、両親が、勝手に寄越したんですよ。僕が、頼んだわけじゃない」  と、佐々木がいった時、問題の弁護士が病室のドアを開けて、入って来た。 「また、大声を出して、彼を脅しているんですね。それを、精神的な拷問というんです」  と、結城彩子は、十津川を見すえるようにして、いった。 「私はね、彼を脅したりはしていない」 「でも、廊下にまで、十津川さんの怒鳴り声が、聞こえていましたわ」 「私は、ただ、真実を知りたいだけです。それには、彼の協力が、必要なんですよ。彼のためにと思っているのに、彼が、協力してくれないので、つい、大声を出してしまったことは確かですが、脅すつもりなんか、全くありませんよ」  と、十津川は、いった。 「わかりませんわね」 「何がですか?」 「県警は、彼を犯人と決めつけている。十津川さんは、彼が、無実だと思っていらっしゃるんですか? それなら、弁護士としては、大いに、歓迎致しますけど──」  彩子は、皮肉な眼付きで、十津川を見た。 「無実だと、断定はしていない。また、県警が、間違っているとも、思っていませんよ。ただ、警視庁は、別の事件で、被害者早見友美を調べていたので、今度の事件との関係を、知りたいと思っているわけです」  十津川は、正直にいった。  彩子は、首をかしげて、 「十津川さんのおっしゃる意味が、よくわかりませんけど、詳しく、説明して頂きたいわ」  と、いった。      4 「東京で起きた事件ですから、別に、あなたに説明する必要はないでしょう」  と、十津川は、いった。 「そんなことは、ありませんわ。殺された早見友美が、東京の事件の関係者なら、その関係で殺された可能性が、大いにありますもの。私は、彼が、無実だと信じています。他に犯人がいる筈です。それなら、東京の事件の関係者が、犯人の可能性が強いわけですから」  彩子は、膝をのり出すようにして、十津川に、いった。  十津川は、当惑した。もし、彼が、東京の事件についてこれ以上喋れば、彩子は、県警と本庁の考えが違うと主張し、それを、佐々木の弁護に、利用するだろう。そうなっては、困るのだ。  だから、十津川は、彩子の質問に答える代りに、 「失礼だが、弁護士のあなたも、彼には、あまり信用されていないみたいですね」  と、いった。  一瞬、彩子の表情が変った。が、すぐ冷静な顔色に戻って、 「確かに、そんなところはありますわ。でも、それは警察のせいですよ。警察が、端《はな》から、彼を犯人と決めつけ、彼のいうことを、全く、信じようとしないので、彼は、まず警察不信になり、それが嵩じて、人間不信にまでいってしまったんですよ。責任は全て、警察にありますわ」  と、主張した。 「私には、それだけとは、思えませんがねえ」  と、十津川は、いった。 「じゃあ、他に、何がありますの?」  彩子は、咎めるような眼で、十津川を見つめた。 「それは、あなたが、自分で、考えて下さい」 「お逃げになるの?」 「別に、逃げる気はありませんよ。ただ、私も、彼を大事にしてやりたい。あなたも、そうして下さい」 「警察のあなたに、そんなことまで心配して貰う必要は、ありませんわ。第一、私は弁護士です。それに、彼の無実を確信していますわ。そんな私が、彼を大事に扱わない筈がないじゃありませんか」  と、彩子は笑い、ベッドの傍に腰を下すと、佐々木に向って、 「全て、私に委《まか》せなさい。私は、あなたの無実を勝ち取って、自由にさせてあげます。それに、警察の拷問も、絶対に許しません。それも、約束しますよ」  と、話しかけた。  十津川は、それを機会《しお》に、病室を出た。  彼は、軽い疲労を覚えた。県警は、佐々木の有罪を確信し、弁護士の結城彩子は、無実を確信し、そして、肝心の本人は、無感動だ。  十津川としては、自分の位置を、確立したいのだ。  県警の方針が、間違っているとはいえないし、といって、彩子のように、無条件で佐々木をシロとも、いい切れない。  十津川は、いったん、東京に帰ることに決めた。  東武の特急を利用して、帰京することにして、日光駅に向った。  夕方、浅草に着くと、先に帰っていた亀井が、ホームに迎えに来てくれていた。  すぐ、捜査本部には戻らず、浅草で、夕食をとることにした。  十津川は、その場で、亀井に、日光での状況を話した。 「その女弁護士は、手強そうな相手ですか?」  と、亀井が、箸を動かしながら、きいた。 「正直にいって、手腕の方はわからない。ただ、頭は切れそうだよ」  と、十津川は、結城彩子の顔を思い出しながら、いった。 「しかし、妙な具合ですね」 「何が?」 「警部は、結局、早見友美を殺したのは、あの佐々木という少年ではないと、思っておられるんでしょう?」  と、亀井が、きいた。 「ああ、確かにね」 「そうなると、その女弁護士と、考えは、一致していることになってしまいますよ。もちろん、表立っていえませんが」 「まあ、それは、そうだが──」  と、十津川は、苦笑した。 「私も、早見友美を殺したのは、いや、殺させたのは、藤原さつきだと、確信しています」  と、亀井は、改めて、いった。 「佐々木功が、浮んでこなければ、われわれも、捜査がしやすいんだがね」  と、十津川は、いった。  警視庁が、早見友美殺人犯として、佐々木以外の人間を追っていることがわかったら、マスコミが、必ず、県警との意見の違いを、書き立てるに違いないからである。 「藤原さつきは、帰京してから、どうしているね?」  と、十津川は、きいた。 「落ち着き払っていますよ。確か明日から、京都で開かれるファッションショーに、モデルとして出演する予定です」  と、亀井は、いった。 「今度は、京都か。タレントの木下知恵の方は、どうだ?」 「ここ二週間は、東京で、仕事をする予定ときいています」  と、亀井は、いってから、 「藤原さつきは、次に、木下知恵を、狙うと思われますか? それも、間を置かずに」  と、きいた。 「藤原さつきが、遺産狙いで、早見友美を殺したとすれば、木下知恵も、早く消してしまいたいんじゃないかね。もし、木下知恵が、妊娠していたら、猶更だ。その点は、わからないかね?」 「彼女の所属するプロダクションに聞いてみたんですが、そんなことは、ありませんという返事でした。ただ、だからといって、妊娠していないと、断定はできません。女性タレントは、突然、実は妊娠何カ月でしたと、発表したりしますからね」  と、亀井は、いった。 「藤原さつきは、わからないか?」      5  二人は、捜査本部に戻った。 「さつきの件ですが、女性の方がいいと思いまして、北条刑事に調べさせておきました」  と、亀井がいい、北条早苗を、呼んだ。  早苗は、十津川に向って、 「まず、彼女に、直接、聞いてみました」 「それで、さつきは君に、何と答えたんだ?」 「ニヤニヤ笑って、答えませんでしたわ」 「どういう意味だろう?」  と、十津川は、きいた。 「彼女は、今、自分が、微妙な立場にいることを、十分、自覚しているからこそ、はっきりしたことをいわないんだと思いますわ。妊娠しているといえば、自分が、疑われるし、といって、していないといえば、遺産の相続権を放棄することになりかねませんから」  と、早苗は、いった。 「女性の君から見て、どちらに、思えるかね?」  と、亀井が、きいた。 「私にも、わかりませんわ。ただ、彼女が、友だちの一人に、自分は、社長の子供を身籠っているんだと、話したことがあるそうです」 「その時期は?」 「社長の五十嵐が、殺される少し前だったと、その女友だちは、いっています」 「証言は、とれたんだな?」 「はい。とれました」 「しかし、カメさん。だからといって、彼女が、五十嵐の子供を宿しているという証拠にはならないよ。五十嵐に冷たくされていたので、反撃する気で、彼の子供をと、いいふらしていたのかも知れないからね」  と、十津川は、いった。  この件は、更に、調べることに決めた。藤原さつきが、犯人の場合、重要な動機になり得る筈だからだった。  翌日、新聞に、次の記事がのった。  〈女性弁護士、栃木県警を、容疑者に対する暴行で告発〉  そんな見出しだった。 (とうとうマスコミにも、あの弁護士は、公表したのか)  と、十津川は、思いながら、記事の内容に、眼を通した。 [#ここから1字下げ] 〈クラブのママ早見友美さんに対する殺人容疑で、栃木県警が逮捕した十八歳の少年Sは、今も、日光の病院に入院中だが、今度、彼の弁護を引き受けた結城彩子弁護士が、入院中のSに対し、県警の刑事が、自供を引き出そうとして、胸を押さえつけたり、骨折している脚を叩いたりしたとして、告発することにしたと発表した〉 [#ここで字下げ終わり]  十津川は、この記事を読み終ったあと、念のために、栃木県警の青木警部に、電話してみた。  十津川が、新聞の記事のことを口にすると、青木は、電話の向うで、 「参りましたよ。佐々木に、全く暴行なんかしておらんのに、あの女弁護士は、ヒステリックに、騒ぎ立てるんですよ。多分、何とか、無罪を勝ち取って、名前をあげたいと、思っているんでしょうがねえ」  と、いって、小さな溜息をついた。 「名前を売りたいんですかね?」 「それ以外には、考えられませんよ。今度の事件は、証拠もあって、有罪は間違いないんです。それで、彼女は、こちら側を、悪人に仕立てあげようとしているんです」 「なるほど」 「ただ、困るのは、彼女は若いし、なかなか美人なんでね。マスコミが、われわれ警察を、悪人に書くんですわ。これには、参っています」  と、青木は、いった。  十津川は、西本たちに、結城彩子のことを、調べさせることにした。  丸一日かかって、西本と、日下の二人が、結城彩子の経歴や、性格などを、調べあげてきて、十津川に報告した。  彩子は、東京のサラリーマンの家庭に生れている。  兄が一人いるが、この兄は、すでに結婚し、子供もいる。  彩子は、N大法科を卒業していて、在学中に、司法試験に合格。 「才媛です」  と、西本は、いった。 「それなら、彼女は、順風満帆で、法曹界を突進か?」 「その予定だったようですが」 「何かあったのか?」 「彼女は、榊原法律事務所に所属し、新進の女性弁護士として、活躍を始めました」 「榊原法律事務所なら、立派なものだ。あそこで、働いていたのなら、将来は約束されたようなものだろう」  と、十津川は、いった。 「そうかも知れませんが、結城彩子は、二年前に、その榊原事務所を、突然、辞めて、現在、ひとりで弁護士活動を続けているのです」  と、日下が、いった。 「榊原事務所と、ケンカをしたのか?」  と、亀井が、きいた。 「いえ。追放されたんです。二年前に、彼女、弁護を引き受けた被告人と、問題を起こしましてね。それで、追放されたわけです」 「どんな問題なんだ?」 「その時の被告人は、いわゆる青年実業家といった三十七歳の男で、奥さんを殺した容疑で、起訴されていたわけです。結城彩子は、被告人を、何とか無罪にしようとして、やり過ぎたわけです」  と、西本がいう。 「アリバイを、でっちあげたか?」 「金を払って、嘘の証言をさせたのが、バレましてね」 「思い出したよ。確かに、二年前に、そんな事件があったな」 「榊原さんが、いろいろと奔走して、彼女は、弁護士資格の剥奪だけは、まぬかれましたが、榊原事務所には、当然、残れなかったし、六カ月間、弁護士としての仕事は、出来なかったわけです」  と、日下は、いった。 「そんなことがあったんで、何としてでも、裁判で勝ちたい。勝って、信用を回復したい。それで、今度の事件で、県警を、暴行罪で告発したりしているのか」  と、十津川は、いった。      6 「十八歳の未成年というのも、彼女から見れば、恰好の弁護対象なんじゃありませんか。中年男を弁護して勝っても、マスコミは、取りあげないが、未成年の無実を勝ち取ったとなれば、検察、警察を悪者にして、マスコミが、書き立てますからね」  と、西本が、いい、日下は、 「彼女は、今度の弁護を、佐々木の両親から依頼されたようにいっているみたいですが、本当は、彼女の方から、売り込んだようです」  と、いった。 「彼女の方からねえ」 「それだけ、二年前の事件で、弁護士として一番必要な信用を失ってしまい、彼女に、弁護依頼をする人が、少くなっているんじゃないかと思います」  と、西本は、いった。  そんな話を聞くと、十津川は、結城彩子という女弁護士が、急に、可哀そうになってきた。  日光で会って、話をしたときは、自分の頭の良さと、美しさを、誇っているみたいに思えて、反感を持ったのだが、二年前のミスから、必死になって、立ち直ろうとしているのだとしたら、むしろ、可哀そうに思えてくる。  亀井には、そんな気持の変化を、あっさり、読み取られてしまって、 「警部は、あの女弁護士に、同情されていますね?」  と、声をかけられた。 「同情というほどのものじゃないよ。ただ、二年前に、彼女が、自分の被告人を助けようとして、アリバイを作ったというのは、何となく、他人事《ひとごと》ではなくてね」  と、十津川は、いいわけがましいいい方をした。 「しかし、栃木県警が、拷問もしていないのに、暴行していると告発するのは、やり過ぎですよ。裁判になったとき、かえって、マイナスに働くと思いますね」  と、亀井は、いった。 「私は、裁判までは、いかないと、思っているよ」  と、十津川は、いった。 「佐々木が、犯人ではないことが、それまでに、証明されるというわけですか?」 「ああ、カメさんだって、早見友美を殺したのは、藤原さつきだと思っているんだろう? 彼女が、直接、手を下していなくてもね」  と、十津川は、いった。 「そうです。しかし、藤原さつきが、自供する筈はありませんし、栃木県警は、自信を持って、起訴するでしょうから、われわれが、佐々木が犯人でない証拠を早くつかまないと、裁判までいってしまうと、思いますがね」  亀井は、悲観的なことを、口にした。 「それなら、早く、真犯人を見つけるか、佐々木が、犯人でない証拠をつかむさ」  と、十津川は、いった。 「それには、佐々木当人の協力が必要ですが、警部は、手を焼かれたんでしょう?」 「ああ。あの少年自身、何を考えているか、つかめなくてね。助かる意志のない人間を、助けるのは、難しいよ」  と、十津川は、佐々木の顔を思い出しながら、いった。  それに、佐々木は、今、栃木県警の管轄下に置かれている。十津川でも、自由に会えはしない。  今、佐々木に、自由に会い、影響力を与えられるのは、県警の刑事と、結城彩子である。 (佐々木は、あの女弁護士に対して、どんな態度を見せているのだろうか?)  十津川は、それに、興味を感じる。  彩子に対しても、佐々木は、投げやりな態度を見せているのだろうか? それとも、佐々木は、初めて、信頼できる人間を見つけたと、思っているのだろうか?  だが、十津川は、佐々木のことだけを、考えているわけには、いかなかった。  早見友美の次に狙われるとすれば、タレントの木下知恵に違いないからである。  明日、いや、今日から、藤原さつきは京都で、ファッションショーに、出演することになっている。  一方、木下知恵は、東京で、ドラマの撮影だという。  離れていれば、安心なのだが、さつきは、京都行を、アリバイ代りに利用する可能性が、あった。  十津川は、一応、日下と三田村の二人の刑事を京都に派遣し、さつきの京都での行動を、監視させることにした。  もちろん、東京にいる木下知恵のガードも、する必要があった。  午後、京都に着いた日下から、電話が入った。 「藤原さつきは、他のモデルたちと一緒に、京都の中心街、三条河原町にあるRホテルに入りました」 「ショーは、何時からだ?」  と、十津川は、きいた。 「午後六時からです」 「彼女は、モデルとしては、年齢《とし》をとり過ぎているんじゃないのかね?」 「今、熟年ブームですし、メーカーも、三十代の女性を標的にしているので、彼女が、起用されたようです」  と、日下は、いう。 「いいか。そちらで、彼女が接触する人間を、徹底的にマークしてくれ。東京で、木下知恵を狙うとしても、彼女は、金で誰かを傭《やと》うと思うからだ」 「わかりました」 「新幹線の中で、彼女が、誰かと、接触しなかったかね?」  と、十津川は、きいた。 「私と、三田村刑事で、ずっと監視していましたが、今度のショーの関係者以外には、接触していません。ただ、座席で、携帯電話をかけているのを目撃しました」  と、日下は、いった。 「相手や、話の内容は、わからないか?」 「残念ながら、わかりません」  と、日下は、いった。 (また、電話か)  と、十津川は、思った。  東北に行ったときも、彼女は、郡山の駅で、どこかへ電話したのだ。 (今度も、何か企んでいるのだろうか?) [#改ページ]   第五章 手 品      1  今回、十津川が、京都に行かなかったのは、福島で、まんまと、裏をかかれたからだった。  捜査本部としては、五十嵐殺しの本命と考えたので、藤原さつきを、十津川みずから、亀井と二人で、尾行したのである。だが、十津川たちが、彼女を尾行し、監視している間に、三人の女の中の一人、早見友美が殺されてしまった。  その上、佐々木という、精神不安定な十八歳の少年が、その犯人にされてしまったのである。  もし、十津川と亀井が、藤原さつきをマークせず、早見友美をマークしていたら、彼女を殺させずに、すんだかも知れない。それだけではなく、彼女の方を、尾行していれば、アルペンライナーの車内で、彼女を襲った犯人を逮捕できていた可能性があったのである。  だから、今回は、藤原さつきの監視は、部下の日下と三田村の二人に委せて、十津川自身は、木下知恵のいる東京に残ったのだ。 「藤原さつきのやり方は、手品みたいなものだよ」  と、十津川は、亀井に、いった。 「手品──ですか?」 「そうさ。マジシャンが、右手を、ひらひらさせる。その右手には何のタネも、隠していないんだ。ただ、客の注意を引くために、右手をひらひらさせるのさ。客は、右手に何かあると思って、一斉に右手を見る。その間に、マジシャンは、反対の左手で、細工をするんだ。手品の手法《テクニツク》というのは、大ざっぱにいえば、それに尽《つ》きるんじゃないかね」  と、十津川は、いった。 「今回は、藤原さつきは、京都に行き、われわれの注意を、京都に引きつけておいて、別の場所で、何かやろうとしているわけですね」  と、亀井が、いった。 「何かじゃなくて、もう一人の木下知恵を、殺す気だろう。金で傭った人殺しを、使ってだよ」  と、十津川は、確信を籠めて、いった。 「そして、早見友美のケースと同じように、無実の人間を、犯人に、仕立てあげる気でしょうかね?」  と、亀井が、きく。 「それは、必ず、やる筈だよ。いくら、京都のファッションショーに出ているというアリバイを作っておいても、木下知恵が殺されれば、警察は、藤原さつきを疑うことは、彼女にだって、わかっているからだよ。金で人殺しを傭ったと、警察は考え、その殺人者を探す。自分が直接、手を下さなくても、それが証明されれば、彼女は、主犯として重罪だ。だから、早見友美のケースと同じように、犯人を、でっちあげる筈だよ」  と、十津川は、いった。 「どんな風に、犯人を、でっちあげるつもりでいるんでしょうね?」  と、亀井が、きいた。 「木下知恵のケースは、比較的楽だと思うよ」  と、十津川は、いった。 「どうしてですか?」 「木下知恵は、アイドルとして出発しているから、今でも、熱烈なファンが、沢山いる筈だ。それも、十代の男の子にだ。そんな熱狂的なファンの少年が、可愛さ余って、木下知恵を、刺し殺してしまった。こんなストーリイだって、描けるんだ。このストーリイなら、世間も納得し、テレビのリポーターは、ファンは、ありがたいものだが、怖いものでもあると、コメントして、終りになる」  と、十津川は、いった。 「警部は、早見友美のケースと同じように、未成年を、犯人に仕立てあげると、想像しておられるんですか?」 「その可能性が、強いことを、危惧しているよ」  と、十津川は、いった。 「理由は、何ですか?」 「いくつか考えられるが、まず、第一に、未成年なら、世間が、何となく、納得してしまうということがある。大人を、犯人に仕立てあげるのは、なかなか難しい。が、未成年の場合なら、世間に、今の若者は、何をするかわからない、かっとすると、簡単に人を殺してしまうという先入観があるからね」 「なるほど」 「もう一つは、犯人に仕立てる場合、相手が未成年だと、藤原さつきは、あまり、良心が咎めなくても、すむんじゃないかね。妻子のある大人だったら、あれこれ考えてしまうかも知れないが、未成年なら、それが、少くてすむ」  と、十津川は、いった。 「そうですね。それに、未成年なら、絶対に、死刑にはなりませんからね」  と、亀井は、いった。      2  木下知恵のスケジュール表は、彼女のマネージャーから、貰ってあった。  かなり、退屈なスケジュールである。  テレビドラマの録画撮り、クイズ番組への出演、スポーツ選手との対談、CM出演と、続いているのだが、ありがたいことに、全て、東京での仕事なので、十津川たちは、守り易かった。  ただ、彼女の所属するプロダクションからは、仕事の最中は、周囲を、刑事たちが歩き廻ったのでは、人気に差し障るので、見えないように、ガードして欲しいと、いわれた。  十津川は、了解し、木下知恵の近くには、女の北条早苗刑事だけを置き、十津川たちは、少し離れた場所で、ガードすることにした。  早苗は、プロダクションの人間という感じで、派手なブルゾンに、スニーカーをはき、もっともらしく、テレビ局を動き廻った。  知恵のマネージャーに頼まれて、彼女の弁当を、電話で、注文したりもした。知恵の傍にいても、おかしく思われない実績作りである。  何事も起きずに、時間が、経過していった。  京都にいる日下からの電話連絡によれば、向うのファッションショーも、スケジュール通りに、午後六時から、進行しているということだった。 「それで、藤原さつきの様子は、どんな具合だ?」  と、十津川は、きいた。 「彼女も、さっき、パンツルックで出ましたが、さすがに、貫禄があって、堂々としたものでしたよ」  と、日下が、いった。 「感心していたら、困るよ。おかしな動きはないのか?」 「私と、三田村刑事は、楽屋には入れないので、一緒に出ているモデルの一人に聞いたんですが、藤原さつきは、楽屋でも、時々、携帯電話を使って、何処かに、かけているようです」 「相手は誰で、どんなことを話しているのかは、わからないのか?」 「残念ながら、わかりません。彼女も、他人《ひと》に聞かれないように、小声で、かけているそうですから」  と、日下は、いった。  午後十時を過ぎて、京都では、一日目のファッションショーが終り、さつきたちモデルは、ホテルの各自の部屋に引き揚げたと、三田村が、知らせてきた。  東京では、十一時を過ぎても、Kテレビの第一スタジオで、毎週火曜日の午後八時に放映されるクイズ番組の録画撮りが、続いていた。  木下知恵も、お笑いタレントたちと、その録画撮りに、出演している。 「これで、今日は、終りです」  と、男のマネージャーが小声で、早苗に、いった。 「いつも、こんなに遅いんですか?」  と、早苗が、きくと、マネージャーは、笑って、 「これでも、今日は、早い方です」  と、いった。  十二時を五分ほど回ったところで、仕事が終り、木下知恵は、マネージャーと一緒に、テレビ局の傍のホテルに、引き揚げて行った。  よく使うホテルだという。  早苗も、このホテルの同じ階に部屋をとり、十津川たちは、ホテルの前の道路の車の中で、監視に当ることになった。  翌日。  京都では、前日と同じ午後六時から、二日目のファッションショーが、行われることになっていて、昼食のあと、モデルたちは、記念撮影のために、清水寺に出かけると、日下が、報告してきた。 「その中に、藤原さつきも、入っているのか?」  と、十津川は、きいた。 「入っています。全員が着物姿で、これから、車に乗り込むところです。記念撮影というより、デモンストレーションの感じですね。私たちも、清水寺に向います」  と、三田村が、いった。  同じ頃、東京では、知恵のマネージャーが、早苗に、 「これから、国立《くにたち》に行くことになりました」  と、いった。  早苗は、眉を寄せて、 「私たちの貰ったスケジュール表には、書いてありませんよ」 「急に、国立の仁平先生が、今からおいでと、電話を下さいましてね。幸い、二時間、時間があるので、ごあいさつと、思っているんです」  と、マネージャーは、いう。 「仁平先生って、誰ですか?」 「作曲家の仁平雅志先生ですよ。知恵は、歌の世界でも、ビッグになりたいというわけで、仁平先生に、前々から、ご指導をお願いしていたんです。ところが、仁平先生はお忙しいし、気難しい方でしてね。なかなか、会って下さらなかったんですが、さっき、先生のお弟子さんから電話があったんです。今、すぐ来い。会うというわけです。ですから、これから伺って、ごあいさつだけでも、して来ようと、思いましてね」  と、マネージャーは、いった。 「その話は、間違いないんですか?」  と、早苗は、きいた。 「間違いないって、どういうことですか?」 「本当に、仁平さんからの電話だったかどうかということです」  早苗が、生真面目にきくと、マネージャーは、 「誰が、仁平先生の名前で、こちらを、欺すんですか?」 「とにかく、もう一度、確認して下さい」 「そんなことは、出来ませんよ」 「なぜ、出来ないんですか?」 「今もいったように、仁平先生は、お忙しくて、気難しい方なんですよ。本当に、今日、会って下さるんですかなんて電話で聞いたら、そんなら、会わなくていいって、いわれてしまいますよ」  と、マネージャーは、青い顔で、いう。 「それなら、私が、電話します」 「困りますよ」 「木下知恵さんの命が、かかっているんですよ。私が勝手に電話するんなら、構わないでしょう?」  と、早苗は、強い調子でいい、無理矢理、仁平雅志の電話番号を聞き出すと、すぐ、かけてみた。  電話口に出た女性のマネージャーに、今日の話について聞くと、 「おかしいわ。今日、先生が、木下知恵さんに会うなんて話は、ぜんぜん聞いていませんよ。誰が、そんな話を、そちらに電話したんですか?」 「なんでも、仁平さんのお弟子さんという人だそうですけど」 「弟子? 弟子という若い女性が、今、一人いますけど、昨日から、カゼをひいて、寝ていますわ」 「そのお弟子さんが、先生に頼まれて、電話してくるということは、ありませんか?」 「そんなこと、あり得ませんわ。三十九度も熱があって、うんうん唸っているんですよ。仕事のことなら、先生は、私に連絡させます」  と、相手は、いった。 (やはり、嘘だったんだ)  と、早苗は、思った。 「失礼ですけど、そちらの家は、どんな場所に建っているんですか?」  と、早苗は、きいてみた。 「静かな所ですよ。まだ、武蔵野の面影が残っていると、よくいわれますわ。近くに、深い神社の森が広がっているし、雑木林もあるし──」  と、相手は、いった。 (犯人は、仁平邸の近くに待ち伏せしていて、木下知恵を、襲うつもりだったのかも知れない)  と、早苗は思い、すぐ十津川に、ニセ電話のことを、報告した。      3  十津川は、いよいよ、始まったなと、思った。  藤原さつきは、自分を、安全な京都に置き、アリバイを作っておいて、東京で、木下知恵を殺させる気なのだろう。 「いろいろ、やりますね」  と、亀井が、苦笑まじりに、いった。 「木下知恵を殺したくても、テレビ局の人間たちと一緒にいる場所では、殺しにくいから、彼女と、マネージャーだけを、引き離そうとしたんだろう。国立の近くなら、まだ、武蔵野の面影を残している静かな場所もあるだろうからね。そんな場所で、襲うつもりだったのかも知れない。或いは、交通事故に見せかけて殺す気だったのかも知れない」  と、十津川は、いった。 「まだ、いろいろと、やってくるんじゃありませんか?」 「だろうね。京都で、藤原さつきの出るファッションショーは、三日間にわたって、開かれるということだから、今日を入れると二日間、チャンスがあるということだよ」  と、十津川は、いった。 「警部は、早見友美の事件と同じように、木下知恵の場合も、犯人は、容疑者をでっちあげるだろうと、おっしゃっていましたね?」 「ああ。木下知恵が殺されれば、誰でも、犯人は、藤原さつきと考えるからね。アリバイを作っておいても、金を使って、殺し屋を傭ったと思うさ。だから、アリバイを作っておき、その上、犯人も作っておかなければならないんだよ」  と、十津川は、いった。 「今度は、どんな犠牲者を、選ぶつもりですかね? 警部は、また、未成年者を選ぶんじゃないかと、いわれていましたが」 「今、それを、調べさせているんだ」  と、十津川は、いった。 「調べさせているといいますと──?」 「木下知恵のマネージャーに、調べて貰っているんだよ」  と、十津川は、いった。  そのマネージャーが、抜け出して、十津川のところに、やって来た。 「うちのプロダクションで調べさせましたが、こんなことが、役に立つんでしょうか?」  と、マネージャーは、半信半疑の顔で、十津川に、きく。 「調べてくれたんでしょう?」 「ええ。今、持って来てくれました」 「それを、見せて下さい」  と、十津川は、いった。  マネージャーは、ポケットから、数通の封書を取り出して、十津川の前に置いて、 「ファンレターの大部分は、賞め言葉なんですが、中には、まれに、脅迫まがいの手紙も来ます。可愛さ余って憎さが百倍のたぐいなんですが、これが、それなんです」 「拝見します」  と、十津川は、亀井と二人で、一通ずつ、中身に眼を通していった。 [#ここから1字下げ] 〈僕は、あなたのファンでした。あなたのために、死んでもいいと思っていたんです。それなのに、いくら手紙を書いても、返事をくれなかった。僕が嫌いなんですか? それでも、僕は、先日のリサイタルに花束を持って出かけたのに、それも受け取ってくれなかった。口惜しさで、身体が震えました。今度は、ナイフを持って出かけます。そのナイフが、あなたの胸に突き刺さったら、僕が、どんなに、あなたが好きだったか、わかって貰えると思うからです。 [#地付き]高二生〉 〈死ね!  A・Tを好きになるなんて、裏切りだぞ。 [#地付き]K・T〉 〈おれと一緒に死んでくれ。いろんなことがあって、もう、生きていく自信がなくなった。もう、君だけしかいない。だから、一緒に死んでくれ。お願いだ。 [#地付き]全てに絶望した男〉 〈僕は、岡本アキの熱烈なファンだ。週刊Sを読んでいたら、お前が、彼女のことを、バカ呼ばわりしていると知った。お前のようなブスに、天使のような岡本アキを非難する資格はないんだ。優しい彼女は黙っていても、僕は、許さない。今度、カミソリを持って上京するから、覚悟しておけ。 [#地付き]名古屋のK〉 〈オマエヲ、コロシテヤル  オマエハ、シヌンダ [#地付き]鬼の三郎〉 [#ここで字下げ終わり] 「こういうのは、脅すだけで、実行力はないんですよ。今まで、無視して来て、大丈夫でした」  と、マネージャーは、いった。 「木下知恵さんには、見せたんですか?」  と、亀井が、きいた。 「いや、見せません。心配させることは、ありませんからね。刑事さんたちは、こんなことを、実行すると、思っているんですか?」 「書いてくるのは、たいてい、十代ですか?」  と、十津川は、きいた。 「そうですね。木下知恵のファンは、十代が多いですから」 「この手紙を、しばらく、貸しておいて下さい」  と、十津川は、マネージャーに、いった。      4 「本当に、殺そうとしなくても、木下知恵さんに、面会を強要したり、待ち伏せしたりするファンは、いるんでしょうね?」  と、十津川は、きいてみた。  マネージャーは、肯いて、 「たまに、いますよ」 「どんなファンですか?」 「共通しているのは、ネクラだということですね。思い込んでしまうんですよ。その手紙にもありますが、自分一人の木下知恵だと思ってしまうんですね。だから、なぜ、ファンレターに、返事をくれないんだとか、なぜ、会場で、じっと見つめていたのに、自分の方を、見てくれなかったんだと、怒るわけですよ。最近も、押しかけて来て、どうしても会わせろと、帰ろうとしない若い男がいましたね。ナイフを持っていたんで、僕が捕えて、警察に突き出したことがありましたね」  と、マネージャーは、いった。 「そのナイフで、木下知恵さんを、刺そうと思ったんですかね?」  と、亀井が、きいた。 「警察で、調べたら、彼女が会ってくれなかったら、自分の胸を刺して、死ぬ気だったと、いったそうです。警察では、相手が未成年なので、ナイフを取りあげ、説諭して、帰宅させたといっていました」 「それは、いつ頃のことですか?」  と、十津川が、きいた。 「確か、去年の暮でした。池袋のN劇場に出ていた時です」  と、マネージャーは、いった。 「すると、池袋警察署が、扱ったんですね?」 「ええ。あそこの荒井という刑事さんが、いろいろと、やって下さいました」 「その件は、マスコミに取りあげられましたか?」 「うちとしては、内緒にしておきたかったんですが、スポーツ新聞が、芸能欄に、取りあげましてね。しばらく、大変でした」  と、マネージャーは、いった。  彼が、木下知恵のところに戻ってしまうと、十津川は、池袋警察署に電話をかけ、荒井という刑事を、呼んで貰った。  十津川が、木下知恵の名前を出すと、荒井は、電話口で、 「あの件なら、よく、覚えております。ナイフを持っているというので、心配したんですが、よく話を聞いてみると、自分を刺すために、買っていたんです」 「名前は、わかるかね?」  と、十津川は、きいた。 「ちょっと、お待ち下さい。ええと、崎田誠。十七歳です。いや、あの時、十七歳と、十カ月ですから、今は、十八歳になっていると、思います」  と、荒井がいう。 「どこの少年なんだ?」 「千葉県の八日市場の人間です」 「スポーツ新聞に、書かれてしまったそうだね?」 「あれには、弱りました。木下知恵のプロダクションも、未成年の少年だから、穏便にといっていましたしね。それを、書かれてしまって」 「しかし、本名は出なかったんだろう?」 「はい。ただ、千葉県八日市場の十七歳の少年M・Sと、書かれてしまいました。そのことが、あの少年の心を、傷つけなければいいと、思いましたが」 「その後、その少年の消息は、何か、わかっているのかね?」  と、十津川は、きいた。 「わかりませんが、あの少年が、何か、仕出かしましたか?」 「いや、いいんだ。どうもありがとう」  と、いって、十津川は、電話を切った。  亀井が、心配そうに、 「犯人が、それを利用すると、お考えですか?」  と、きいた。 「藤原さつきは、問題のスポーツ新聞の記事を読んでいるかも知れない。彼女に頼まれた人間が、木下知恵をナイフで刺し殺し、そこにあるような手紙を、死体の傍に置いておけば、犯人は熱狂的なファンの少年と、思うかも知れない。いや、そう思うだろうと、犯人は、考えるんじゃないか」  と、十津川は、いった。 「ファンもいいが、度を越したファンは、怖いということで、一件落着ですか?」 「そして、千葉の崎田誠という少年が、どこかで自殺していたら、正に、去年のあの事件が尾を引いていて、今度はとうとう、木下知恵を殺してしまったかと、マスコミは、納得するだろうね」 「もちろん、崎田誠は、自殺に見せかけて、殺すわけですね?」 「そうだ」 「藤原さつきは、そんなことを、やりますかね?」  と、亀井が、きいた。 「早見友美のケースでは、たまたま出会った、十八歳の佐々木功を、犯人に仕立てあげたんだ。木下知恵を殺すときも、平気で、犯人を作りあげるだろう」  と、十津川は、いった。 「どうやって、それを防ぎますか?」  と、亀井が、真剣な眼つきで、十津川を見た。 「困るのは、藤原さつきが傭った犯人が、どんな人間なのか、わからないことだよ。少しでも、手掛りがあれば、追及していくことも出来るんだが」  と、十津川は、いった。 「私は少くとも、二人いると、思います」  と、亀井が、いった。 「なぜ、二人だと思うんだね?」 「列車の中で、早見友美を殺したのは、男だと、私は、思っているんです。狭い列車のトイレの中で、首を絞めて殺すには、かなりの力がいるからです。だから、男が一人、それに、飯盛山で、早見友美に化けて、佐々木功に、金の入った白いスーツケースを渡した女がいます。ですから、男一人と、女一人です」  と、亀井が、いった。 「女の方は、早見友美に、よく似た女ということになるのかな?」 「いや、そんなに似ている必要はないと思います」  と、亀井が、いう。 「なぜだね?」 「感じが似ていればいいんです。あとで、佐々木が、あれは、別人だと主張しても、それは、罪を逃れたいために、嘘をついていると、思われるだけですから」  と、亀井は、いった。 「なるほどな」  と、十津川も、肯いた。 「今日、明日ですか」  と、亀井が、呟やいた。 「カメさんのいう二人は、もう、この近くに来ているかも知れないな」  と、十津川は、いった。      5  犯人は、ボクシングでいうジャブのように、まず、作曲家の名前を使って、木下知恵を、呼び出そうとした。  これは、失敗したが、犯人は、別に落胆はしていないだろう。こんなことは、まず、小手調べと思っているに違いないからである。要は、藤原さつきが京都にいる間に、木下知恵を、殺せばいいからである。  殺して、犯人を、作ればいいのだ。 「どうも、いろいろしますね」  と、亀井が、呟やいた。 「まあ、いろいろするね」  と、十津川も、肯いた。 「藤原さつきを逮捕して、何とか、吐かせるというわけには、いきませんかね」  と、亀井が、いう。 「今の段階で、逮捕なんかしたら、彼女を喜ばせるだけだよ」  と、十津川は、いった。 「そうでしょうか?」 「第一に、彼女は、自信満々で、容疑を否認する。早見友美殺しについていえば、彼女には、アリバイがあるし、犯人も、作られているからだよ。いくら、われわれが責めても、彼女が自供する可能性は、まあ、ゼロだ。第二に、彼女を留置していたら、絶好のアリバイを、提供してしまうことになってしまうよ。その間に、頼まれた奴が、木下知恵を殺してしまえばいいんだから」  と、十津川は、いった。 「罠にかけてやったら、どうでしょうか?」  亀井が、いう。 「罠って、どういうことだね?」  十津川は、興味を持って、きいた。 「藤原さつきを、殺人容疑で逮捕して、東京に連れて来て、留置します。もちろん、彼女は自供せんでしょう。それどころか、今、警部がいわれたように、これを絶好のアリバイとして、彼女が留置されている間に、木下知恵を、殺してしまおうとすると思います」 「それで、どう罠にかけるんだ?」 「わざと、留置場のカギを、かけずにおきます。カケ忘れです」 「なるほどね。アリバイを成立しなくするわけか」 「そうです。そうやって、彼女を追い込んだらどうでしょうか?」 「なるほどねぇ」 「駄目でしょうね」 「無理だな」  と、十津川は、笑った。 「そうだと、思いました」  と、亀井も、笑った。  ひたすら、守りに徹するというのは、辛いし、いらいらしてくる。亀井が、彼らしくもない、バカなことを考えるのも、このいらいらのせいだろう。  京都にいる藤原さつきの様子を見守りながら、東京で、木下知恵を、守り続けていかなければならない。  十津川も亀井も、攻めるのは得意だが、守るのは、不得手ということもあった。  午後五時過ぎになって、京都にいる日下刑事と、三田村刑事から、電話が入った。それも、狼狽気味にである。 「藤原さつきが、消えました!」  と、日下が、電話口で、大声でいったのだ。  十津川は、一瞬、耳が痛くなり、顔をしかめながら、 「落ち着いて、話せ」  と、いった。 「彼女が、姿を消してしまいました」 「それは、聞いたよ」 「午後六時から、ショーが始まるので、ホテルでは、その準備が、始まっていました。藤原さつきも、モデルの一人として、控室に入っていたんですが、姿が見えなくなってしまったのです」 「君と、三田村刑事とで、見張っていたんだろう?」 「そうなんですが、どうやら、ホテルの裏口から、抜け出したと、思われます。申しわけありません。ショーの主催者も、あわてて、彼女を探していますが、見つかっていません」  と、日下は、いった。 「消える直前に、誰かに、会ったりしていなかったのかね?」 「それはなかったようですが、直前に、彼女の携帯電話に、電話がかかっていたのは、わかりました」  と、日下は、いった。 「電話か」 「同じ控室にいた別のモデルの証言なんですが、藤原さつきの携帯電話が鳴って、彼女は、部屋の外に出て行って、その電話を受けていたが、いつの間にか、いなくなってしまったというんです」 「それは、何時頃のことなんだ?」 「午後四時五十分頃です。そのあと、彼女がいなくなったことに気がついて、大さわぎになったんです」 「もう、ホテルには、いないのか?」  と、十津川は、きいた。 「全部、調べましたが、もう、ホテル内には、いないようです」 「そのホテルから、京都駅までは、遠いのか?」 「歩いて、二十分くらいです」 「じゃあ、歩いても、駅へ行けるんだな?」 「そうです」 「もう、京都から、離れているかも知れないぞ」  と、十津川は、怒ったような声で、いった。      6  藤原さつきは、なぜ、突然、姿を消してしまったのだろうか?  それが、十津川には、不思議だった。折角、京都のファッションショーに出演しているという、強固なアリバイを、なぜ、自分から、捨ててしまったのかという疑問だった。 「携帯電話のせいだと、思いますよ」  と、亀井は、いった。 「それは、わかるんだが、果して、どんな電話だったのか、わからないんだよ」 「彼女が、頼んでいた殺し屋からの電話だったんじゃありませんかね。そいつが、急に、仕事をしないとか、いったんじゃありませんか。それで、藤原さつきは怒って、それなら、自分で殺《や》ると考え、ホテルを抜け出したんじゃないでしょうか?」  と、亀井は、いった。 「可能性は、あるね」  と、いった十津川の表情は、厳しくなっていた。  午後五時頃に、さつきが、京都から、新幹線に、飛び乗ったとすれば、八時前には、東京に、着いてしまうのだ。  十津川は、腕時計に、眼をやった。午後六時少し前である。あと二時間で、藤原さつきは、東京に着く。  もちろん、彼女が、東京に向っているかどうかは、わからない。だが、十津川は、彼女が、東京に向っているような気がして、ならなかった。  十津川は、西本と、北条早苗の二人を、東京駅に行かせることにした。 「彼女が、見つかったら、どうしますか? ここに、連れて来ますか?」  と、出かける前に、西本が、きいた。  十津川は、苦笑して、 「連れて来て、どうするんだ?」 「なぜ、突然、東京に戻って来たか、聞いてみたいですからね」 「気まぐれとでもいわれたら、それ以上、突っ込みようがないだろう? 彼女は、早見友美殺しについては、アリバイがあって、どうしようもないんだし、木下知恵については、まだ、何もしていないんだ」 「じゃあ、どうしますか?」 「彼女を見つけたら、面倒だが、尾行して欲しい。彼女が、何をするか、知りたいんだ。誰かに、会ったりする場合は、その人間を、知りたい。その中に、早見友美殺しの犯人がいれば、儲けものだからね」  と、十津川は、いった。  午後七時に、十津川は、西本と、早苗を、東京駅に向わせた。  そのあと、亀井が、不安気に、 「二人だけで、藤原さつきを見つけられるでしょうか?」  と、十津川に、きいた。 「大丈夫だよ。彼女は、女としては、背が高い。一八〇センチ近くはあるんだ。あれだけ目立てば、すぐ見つかるさ。われわれだって、尾行が楽だったじゃないか」  と、十津川は、楽観的に、いった。  木下知恵の方は、西本と早苗を、東京駅に行かせたので、田中と矢村の二人の刑事に、見張らせることにした。  午後八時を過ぎた。  が、東京駅の西本からは、まだ、藤原さつきが現われないという知らせしか、届かなかった。  京都の日下に連絡して、彼女が、そちらに戻ったのではないかと、聞いてみたが、 「いや、戻っていません。ショーの方は、彼女抜きで、開かれています」  と、いう。  午後九時を過ぎたが、西本と早苗は、藤原さつきを見つけられずに、東京駅でうろうろしていた。 「見失ったことは、ないのか?」  と、十津川は、いらだちを押さえて、西本に、きいた。 「それは、ないと思います。彼女は、目立ちますからね。それは、駅員にも、彼女の写真を見せて、協力を頼んでおきましたから、彼女が、新幹線から降りてくれば、必ず、見つかる筈です。彼女は、東京駅には、来ないんじゃありませんか?」  と、西本が、電話口で、いった。  十津川は、次第に、不安になってきた。 「新横浜で、降りたんじゃありませんか?」  と、電話を切った十津川に、亀井が、いった。 「新横浜か」 「そうです。新幹線のひかりは、新横浜に停車するものが、何本かありますから」 「彼女も、東京に戻れば、われわれが、監視しているのが、わかっているだろうから、途中の新横浜で降りたか」 「新横浜から、東京に入る方法は、いくらでもあります。電車でも、タクシーでも自由です」  と、亀井は、いった。 「そうなると、こちらとしては、木下知恵をマークしているより、仕方がないな」  と、十津川は、いった。  東京駅にいる西本と、早苗も、呼び戻すことにした。  亀井のいうように、さつきが、新横浜で降りたとすれば、すでに、東京に戻って来ているかも知れないと、思ったからだった。  十津川が、ひとりで、苦笑していると、亀井が、首をかしげて、 「どうされたんですか?」  と、きいた。 「前に、藤原さつきが、下手な手品《マジツク》を使うと、思っていたんだがね。どうやら、助手が反抗して、彼女は、手品をやめてしまったらしい。そうなると、おかしなもので、こっちもあわててしまってね」  と、十津川は、いった。 「それでも、藤原さつきが、自分の手で、木下知恵を狙ってくれれば、逮捕できるから、ありがたいですよ」  と、亀井は、いった。  木下知恵は、午前一時近くまで、Sテレビで、仕事をしていることが、わかっている。  十津川と、亀井も、Sテレビに行くことにした。  藤原さつきが、今夜、木下知恵を襲うような予感がしていたからである。  赤坂近くのSテレビ局は、相変らず、人の出入りが激しかった。十津川も、顔を知っている有名タレントもいれば、何をしているのかわからないような人間も、出入りする。  入口には、受付があるのだが、出入りは、かなりルーズのように思えた。仕事中のタレントや、スタッフが注文したのだろう、出前のラーメンや、コーヒーが、運ばれて来たりする。それを、いちいち止めて、確認したりはしていなかった。 「不用心ですね」  と、亀井が、眉をひそめた。 「確かに、不用心だが、藤原さつきなら、すぐ、わかるだろう」  と、十津川は、いった。  田中と矢村の二人の刑事は、今、木下知恵が、ドラマの録画撮りをしている第一スタジオに、張りついていた。  西本と早苗の二人も、東京駅から、戻って来た。 (これなら、藤原さつきは、木下知恵に、近づけないだろう)  と、十津川は、少しばかり、安心した。 [#改ページ]   第六章 誘 拐      1  その日の午前二時になって、木下知恵は、Sテレビ近くのホテルに、マネージャーと一緒に、引き揚げた。  午前九時から、また、同じSテレビでの仕事が、待ちかまえているからである。  十津川の部下たちも、このDホテルに、詰めることになった。  京都で、藤原さつきが、突然、姿を消した以上、木下知恵の身が、心配だったからである。さつきが、ただの気まぐれで、姿を消したとは、思えなかったのだ。  いつもなら、マネージャーは、いったん帰宅し、夜が明けてから、迎えに来るのだが、今夜は、隣りの部屋に泊り込むことになった。  十津川と亀井は、捜査本部にいて、Dホテルの状況と、京都の動きを見ていることにした。  京都で、姿を消した藤原さつきは、いぜんとして、行方がつかめないでいる。まだ、京都市内にいるのか、それとも、東京に戻っているのかも、不明だった。 「私は、東京に戻っていると、思いますね」  と、亀井は、いった。 「しかし、カメさん。折角、京都でアリバイが出来あがるのに、なぜ、東京に、舞い戻る必要があるのかね?」  と、十津川は、きいた。 「ですから、それは、金で傭った殺し屋との間がうまくいかず、彼女は、あわてて、京都から、東京に戻ったのではないかと思うのです。多分、支払う金のことで、意見が合わなかったんでしょう。殺し屋も、早見友美殺しでの金額では、満足できなくなって、もっと寄越せといい、それで、うまく、話し合いがつかないんじゃありませんかね。だから、さつきは、あわてて、説得のために、東京に戻ったか、或いは、金策に走ったのか」  と、亀井が、いった。 「十分に、あり得るね」  十津川も、肯いた。 「私は、さつきと、殺し屋の話し合いが、もっと、もつれることを期待しています」 「理由は?」 「仕方なしに、さつき本人が、木下知恵を殺しにやって来るかも知れないからです。そうなれば、有無をいわせず、彼女を、逮捕できますからね」  と、亀井は、いった。 「そうだな。そうなれば、私も、ありがたいと思うがね」  と、十津川が、いった時、電話が鳴った。  十津川が、受話器を取った。 「西本です」  という声が、ふるえていた。 「何かあったのか?」  と、十津川は、きいた。 「木下知恵が、いません!」  と、西本が、電話口で、叫ぶ。 「いない? どういうことだ?」 「今、彼女のマネージャーが、青い顔で、飛んで来まして、彼女が、部屋にいないというんです。見に行きましたら、いなくなっていました」 「だから、何があったか、きいているんだ!」  思わず、十津川が、怒鳴った。 「わかりません。部屋には、抵抗した痕があるので、連れ去られたものと思いますが」 「連れ去られた? 君たちが、見張っていたのに、犯人は、どうやって、連れ去ったというんだ?」 「非常口から、連れ出したんだと思いますが」 「非常口というのは、外からは、開かないように出来てるんだよ」 「しかし、非常口から、連れ出されたとしか考えられません」 「それなら、ホテルの中に、共犯者がいたことになる。とにかく、私も、すぐホテルに行く」  と、十津川は、いった。  彼は亀井と、パトカーを飛ばして、Dホテルに、急行した。  箝口令が、敷かれているので、表面上、ホテルは、夜の闇の中に、ひっそりと静まり返っていたが、十津川を迎えた刑事たちの顔は、青ざめている。  十津川と亀井は、木下知恵の泊っていた十階に、エレベーターであがって行った。  十階では、西本と、彼女のマネージャーが、待っていた。  マネージャーは、おろおろと、 「彼女を助けて下さい。お願いします」  と、十津川に、いった。 「とにかく、彼女の泊っていた部屋を見たい」  と、十津川は、いった。  一〇一二号室が、その部屋だった。ダブルベッドが置かれてはいるが、普通のワンルームの広さである。非常口に一番近い部屋ということが、十津川の気になった。マネージャーは、安全面を考えて、この部屋をとったのだろうが、誘拐するには、恰好のところといえなくもない。  部屋の床には、彼女が着ていたネグリジェが、投げ捨てられていた。  ハンドバッグも、床に落ちている。口が開き、口紅や、キーホルダーが、飛び出している。 「服は?」  と、十津川は、マネージャーに、きいた。 「彼女の好きなシャネルの服や、靴がなくなっています。犯人は、強制的に、着がえさせて、連れ出したんだと思います」  と、マネージャーは、かすれた声で、いった。  十津川は、鑑識を呼んで、部屋の中の指紋を、採取するように命じてから、この十階の泊り客について、調べることを、指示した。  フロント係と、ルームサービスの係が、呼ばれた。  この二人の話から、様子のおかしい一人の泊り客が、浮んできた。  宿泊カードに書かれた名前は、近藤誠。  二十一、二歳の、背の高い男だと、いう。一〇〇五号室に泊ったのだが、ルームサービスの係の女性の話では、やたらに、今夜、木下知恵が、ここに泊るのではないかと、聞いたという。 「私は、何も知らないといったんですけど、しつこいんですよ」  と、中年のルームサービス係の女は、眉をひそめた。  十津川たちは、すぐ、一〇〇五号室を、ノックしてみた。何度、ノックしても、応答はない。  十津川たちは、開けて貰って、中に入った。  誰もいなかった。      2  ここも、ダブルベッドだが、ベッドはきちんとしていて、寝た気配はなかった。  所持品も、残っていない。ルームサービス係の話では、茶色いショルダーバッグを持っていたというのだが、それも無い。  その代りに、洋ダンスの床に、小さな紙片が落ちていて、それを広げてみると、何かの雑誌から切り抜いたらしい、木下知恵の写真だった。  廊下で、激しい足音がして、彼女の所属している社長が、飛び込んできた。  大声で、マネージャーを怒鳴りつけ、 「木下知恵は、見つかったのか?」  と、きいた。  マネージャーは、十津川たちに気がねして、小声で、事情を説明している。 「連れ出されたァ? 何をやってるんだ!」  と、社長が、また怒鳴る。  十津川は、彼に向って、 「大声を出しても、彼女は、見つかりませんよ」  と、声をかけた。  社長は、やっと、十津川に向ってあいさつし、名刺を差し出した。そこにあった名前は、前島重信だった。年齢は、五十二、三歳だろう。 「刑事さん。すぐ、彼女を見つけて下さい。うちにとっては、大事なタレントなんです」  と、前島は、十津川に、いった。 「もちろん、全力をあげて、見つけますよ」  と、十津川は、いった。 「見つけて下さったら、お礼は、いくらでも、差し上げますよ」  と、前島は、大きな顔を突き出すようにして、いった。  十津川は、苦笑しながら、 「これは、仕事ですから」  と、いった。  フロント係と、ルームサービス係に聞き、一〇〇五号室に泊った男の似顔絵を作ることから、十津川は、始めた。  その間にも、前島社長は、十津川の傍に、くっついて、 「もし誘拐で、身代金が要求されたら、私は、いくらでも払うつもりです。何しろ、彼女は、うちの大事な宝ですから」  と、喋る。  十津川は、前島に向き直って、 「誘拐なら、身代金は、プロダクションに、要求すると思いますよ。だから、あなたはプロダクションにいて下さい」  と、いった。  前島は、それを聞いて、あたふたと、帰って行った。  鑑識が、やって来て、一〇一二号室の写真をとり、指紋の採取を始めた。  十津川は、念のために、一〇〇五号室の近藤誠について、調べさせた。  西本と矢村の二人が、宿泊カードにあった、杉並のマンションに、パトカーを飛ばして行った。が、案の定、そんな名前のマンションは、実在しなかった。  どうやら、近藤誠と名乗っていた男が、木下知恵を、連れ出したとみていいようだった。 「彼女の熱狂的なファンの一人が、無理矢理、連れ出したということですね?」  と、マネージャーは、十津川に、いった。 「なぜ、そう思うんです?」  と、十津川は、きき返した。 「近藤とかいう若い男は、彼女の写真を、大事に持っていたようですし、わざわざ彼女と同じホテルに泊っています。普通なら、東京の人間が、東京のホテルには、泊りませんよ」  と、マネージャーは、力を籠めて、いった。 「なるほど」  と、十津川は、肯いていたが、マネージャーが、下のロビーに降りて行ったあとは、 「あの写真は、わざとらしいな」  と、亀井に、いった。 「私も、同感です。わざと、あの写真を捨てていって、自分が、熱狂的な木下知恵のファンだと、われわれに、思わせたがっているように見えます」  と、亀井は、いった。 「すると、これは、誘拐なんでしょうか? それとも、殺すために、連れ出したんでしょうか?」  と、北条早苗が、きいた。 「藤原さつきの指令だとすれば、殺すために、連れ出したんだろう」  と、十津川は、厳しい表情で、いった。 「でも、それなら、なぜ、ホテルの部屋で、殺さなかったんでしょうか? わざわざ、外へ連れ出す必要はないと思いますけど」  と、早苗が、きく。 「確かに、その通りだがね。さつきは、熱狂的な若いファンが、可愛さ余って、木下知恵を殺したことにしたいんじゃないかな。そうだとすると、一応、連れ出して、そのあと、彼女が、そのファンから逃げようとして、殺されたことにしたいんだと思う」 「それなら、まだ、私たちに、彼女を助け出すチャンスは、あるわけですね?」  と、早苗が、きいた。 「わずかのチャンスだがね」  と、十津川は、いった。  問題の男、近藤誠は、偽名だろうが、十津川は、一応、近藤と呼ぶことにした。  十津川は、木下知恵の写真をとり、東京一円に、非常手配を敷いた。  近藤の似顔絵が出来ると、それを大量にコピーして、配った。  夜が、明けた。  だが、木下知恵は、なかなか、見つからなかった。  Dホテルを出たあと、近藤は、何処へ、どうやって、逃げたのだろうか?  近藤は、Dホテルには、車で来ていない。  だが、車はなかったとは、断定できない。最初から、木下知恵を誘拐する気で、Dホテルの裏口に、車をとめておいたかも知れないからである。  また、午前三時頃でも、東京の真ん中にあるDホテル周辺である。タクシーは、すぐ、つかまっただろう。  十津川は、タクシーの面も、調べさせることにした。      3  刑事たちが動員され、昨夜、Dホテルあたりを流していたタクシーを探した。が、木下知恵と思われる女性を乗せたタクシーは、見つからなかった。  十津川と亀井は、誘拐犯からの連絡があるかも知れないというので、木下知恵の所属プロダクションに、詰めることにした。  六本木にあるプロダクションの事務所には、十津川、亀井の他に、三人の刑事が入り、テープレコーダーを電話に接続して、待った。  だが、いっこうに、犯人からの電話は、かからなかった。 「やはり、犯人は、藤原さつきですかね? だから身代金を、要求してこないんじゃありませんか」  と、亀井が、小声で、いった。 「かも知れないな。近藤という若い男は、多分ダミーだ」  と、十津川も、小声で、応じる。 「藤原さつきが、背後《うしろ》で糸を引いているとなると、身代金を要求せず、木下知恵を殺してしまうかも知れませんね」 「だが、儀式は、するんじゃないかな」 「儀式って、何です?」  と、亀井が、きく。 「すぐ、木下知恵を殺してしまったら、動機が、簡単にバレてしまう。だから、形式だけでも身代金を要求し、それがこじれて、仕方なく、人質を殺してしまったという形にしたいんじゃないかと、思っているんだ」  十津川は、相変らず、小声で話す。プロダクションの人間に、余分な心配をさせたくなかったからである。 「なるほど。そして、犯人は、近藤という男になるわけですね」  と、亀井も、相変らず、声が小さい。 「犯人が、今いった儀式をやってくれれば、何とか、木下知恵を助け出すチャンスは、出てくると、思っているんだがね」  と、十津川は、いった。 「こちらは、儀式に気付かぬふりをして、応対する必要がありますね」 「そうだ。だから、普通の誘拐より、応対が、一層難しい」  と、十津川がいった時、電話が鳴った。  テープレコーダーのスイッチを入れておいてから、プロダクションの社長に、受話器を取らせる。 ──木下知恵の所属プロか?  と、男の声が、いった。 「そうだ」 ──社長を出せ 「私が、社長の前島だ」 ──おたくの木下知恵を預っている 「彼女は、無事か?」 ──ああ、無事だ 「声を聞かせて欲しい。無事かどうか、確認したいんだ」 ──駄目だ。おれを信じるんだ 「それで、どうすれば、返してくれるのかね?」 ──払うものを払ってくれれば、彼女は、返してやるよ 「いくら払えばいいんだ?」 ──五千万。すぐ、用意しておけ 「五千万?」 ──そのくらいの値打ちはあるタレントなんだろう? 「ああ。そうだ」 ──なら、これから用意しておけ。また、三時間後に電話する 「五千万は、一万円札でかね。それとも、他の札も混ぜるかね?」 ──下手な引き伸しはするんじゃない  それで、電話が、切れた。  逆探知を頼んでおいたのだが、携帯電話であることが、わかっただけだった。  十津川は、まだ、午後三時になってないのを確かめてから、社長の前島に、 「とにかく、五千万を、用意して下さい」  と、頼んだ。  そのあと、亀井と二人で、録音された犯人とのやりとりを、聞いてみることにした。  若い男の声だった。  その男と、社長のやりとりを、十津川たちは、何回も、繰り返して聞いた。  三回目に聞いた時、テープの途中でふっと、十津川と、亀井が、同時に「おやッ?」という顔になった。  十津川は、四回目を、スタートさせ、ボリュームを最大にあげた。  そして、途中で、テープを止めて、亀井を見た。 「聞こえたね?」 「聞こえました」  と、亀井が、肯いた。 「女の声だ」 「早く切れ──といっているように、聞こえますね」 「ああ。電話している男に向って、指示しているんだろう。逆探知されるから、早く切れとね」 「藤原さつきでしょうか?」 「かも知れないが、声が小さ過ぎて、わからんな」  十津川は、口惜しそうに、いった。 「もし、彼女なら、京都から、東京に来ていることになりますね」  亀井は、小声だが、興奮した口調で、いった。 「彼女自身が、乗り出して来たのなら、うまくやれば、彼女を逮捕できる」  と、十津川は、いった。  プロダクションの前島社長は、銀行に、五千万円の現金を持ってくるように、頼んだ。  一時間後に、ジュラルミンケースに、五千万円が入って、運ばれてきた。 「これを、犯人にやってもいいから、木下知恵を助けて下さい」  と、前島は、十津川に、いう。 「全力をつくして、助けますよ」  と、十津川は、前島に、いった。  助けると、約束は出来ない。何しろ、この誘拐は、金が目的でなく、誘拐に見せかけて、人質の木下知恵を殺すことが、目的だという気がするからだった。  ただ、一つだけ、期待を持てることがあるとすれば、相手が、五千万という大金を、要求したことだった。  もし、これが、一千万くらいの要求だったら、十津川は絶望を感じたろう。明らかに、相手の狙いが、身代金ではなく、誘拐に見せかけて、人質の木下知恵を殺すことに決ったからである。  五千万を要求しても、もちろん、相手の狙いは、木下知恵殺しかも知れないが、五千万は、大金である。犯人が、その金も、欲しくなってくれれば、こちらが犯人を逮捕するチャンスが出てくるからだ。  しかし、そのチャンスも、多分、一回しかないだろうと、十津川は、覚悟していた。  普通の誘拐なら、一回、身代金の授受に失敗しても、犯人は、再度、身代金を要求してくることがある。  だが、今回は、違う。五千万という大金欲しさに、犯人は、身代金を受け取ろうとするだろうが、それに、失敗したら、二度と要求せず、本来の目的である、木下知恵殺しに、専念するに違いないのだ。  誘拐したが、身代金の受け取りに失敗して、人質を殺して逃亡──これが、犯人の描く図式だろうからである。 「犯人が、携帯電話を使っているとすると、逆探知は、難しいですね。移動しながら、かけてくるかも知れませんから」  と、亀井が、いった。 「第一回の時は、移動しながらじゃなかったよ。相手の声に、強弱がなかったからね」 「それに、早く切れという女の声も、聞こえましたから、どこかの部屋だと思います」 「しかし、今度は、車で移動しながら、かけてくるかも知れないな」  と、十津川は、いった。 「どうしますか?」 「都内を走っている全てのパトカーに、連絡しておこう。いつでも、追いかけられるようにだ」 「わかりました」  と、亀井は、いい、司令センターに、連絡をとった。  十津川は、刑事たちを集めて、 「犯人逮捕と、人質の救出のチャンスは、身代金受け渡しの時一回しかないと、覚悟しておいてくれ。誘拐事件は、そういうものだが、今度の場合は、特にそうだからな」  と、改めて、いい渡した。      4  午後五時丁度に、電話が、鳴った。  社長の前島が、受話器を取る。あの若い男の声が、聞こえた。 ──社長か? 「そうだ。私だ」 ──金は出来たか? 「ここにある。どうすればいい?」 ──まず、それを、ボストンバッグに入れるんだ 「どんなボストンバッグだね?」 ──そこのビルの屋上、給水塔の下に置いてある。それを使え 「どこだって?」 ──おたくのビルの屋上だ。三十分後に、また電話する。それまでに、五千万円を、詰めておくんだ  それで、電話は切れた。  プロダクションは、七階建の雑居ビルの三階フロア全部を、占領している。  社員の一人が、あわてて、ビルの屋上に走って行き、白い革のボストンバッグを持って、戻って来た。  ブランドものではないが、かなり、大きなボストンバッグだった。  社員二人で、ジュラルミンケースから、そのボストンバッグに、札束を詰めかえていく。 「なぜ、犯人は、前もって、ボストンバッグを指定しておかずに、急に指示してきたんでしょうか?」  と、亀井が、きいた。 「われわれに、あのボストンバッグを、調べさせないためだろう」  と、十津川は、いった。 「では、何か仕掛けがしてあると、いうことですか?」 「あったとしても、それを調べている時間はないよ」  と、十津川は、いった。  確かに、その通りだった。  社員が、ビルの屋上から、問題のボストンバッグを取って来て、それに、五千万円の札束を入れかえただけで、すでに、二十分以上が、過ぎている。  三十分きっかりして、電話が鳴った。 「前島だ」 ──ボストンバッグに、詰めかえたか? 「ああ、詰めかえた。木下知恵は、無事に返してくれるんだろうね?」 ──こちらの指示に従って動けば、無事に返してやるよ。そちらの出方次第だ 「言う通りにするから、指示してくれ」 ──白いベンツに乗ってるな? 「ああ、使っている」 ──これから、それに乗れ 「わかったが、私は運転は出来ない。運転手に運転させるが、構わないか?」 ──いいだろう 「乗ってから、どうする?」 ──あとは、乗ってから、指示する。自動車電話がついている筈だ 「ついてる。電話番号は──」 ──それは、もう調べてある。すぐ、乗れ。警察に尾行させたりしたら、木下知恵を殺すぞ 「警察なんか、呼んでない」 ──下手な冗談はよせ  小さく笑って、男は、電話を切った。  前島社長は、ボストンバッグを下げて、立ち上ると、十津川に向って、 「お願いですから、尾行はしないで下さい。何としてでも、木下知恵を助けたいんです」  と、いった。 「わかりましたが、これを、持って行って下さい」  と、十津川は、自分の使っている携帯電話を、渡した。 「これを、どうするんですか? 犯人は、自動車電話にかけて来ると、いってるんですよ」 「だから、運転手さんに、持たせておいて下さい。どこを走っているか、知りたいんです。運転手さんが、時々、どこにいるか、話してくれるだけで、いいんです」  と、十津川は、いった。 「上手くやれるかどうかわかりませんが、運転手に渡しておきますよ」  とだけ、前島はいい、部屋を出て行った。      5  前島社長を乗せたベンツが、六本木のプロダクションを出発した。  運転手の持った携帯電話から、十津川たちのいるプロダクションの社長室に、連絡が、入ってくる。 ──皇居の周辺を、ゆっくり廻れと指示がありました 「今、何処です?」 ──三宅坂への途中です。このあと、日比谷方向に向います 「了解」  十津川は、すぐ、指令センターに電話し、覆面パトカーに、三宅坂に急行し、問題のベンツを、監視するように、頼んだ。  そのあと、亀井に、対応を委せておいて、自分は、さっきの、犯人と前島社長のテープを、きくことにした。  あの電話のやりとりの中に、気になる音が、入っていたのを、思い出したからである。  十津川は、テープを再生してみた。  気になったのは、声だった。 ──こちらは、渋谷区役所の広報車です。今夜午後九時から、明朝午前七時まで、断水いたします。こちらは──  その声が、近づいてきて、遠ざかっていくのだ。 「カメさん」  と、十津川は、大声で呼び、亀井に、このテープをきかせた。  亀井の眼が、光る。そんな亀井に向って、 「すぐ、渋谷区役所へ行ってくれ。五時を過ぎたが、まだ、誰か残ってるだろう。この時間に、広報車が、どこを走っていたかがわかれば、犯人の居場所も、だいたい、限定できるからね」 「行ってきます」 「私も行きたいが、ここを留守には出来ないんだ」  と、十津川は、いった。  亀井は、西本刑事を連れ、テープを持って、飛び出して行った。  社長車からは、断続的に、連絡が入ってくる。 ──ただ今、竹橋附近を、通過中です 「犯人からの二度目の指示は?」 ──まだ、ありません 「様子を見ているんだと思うので、そのまま、走って下さい」  覆面パトカーからも、指令センターを通して、十津川のもとに、連絡が入ってくる。 ──こちら警視102号。問題のベンツを見つけました。105号と、尾行します  十津川は、机の上に、東京都の地図を広げ、社長のベンツの動きに、印をつけていった。  皇居周辺を、ひと廻りすると、犯人は、もう一周しろと、指示してきたという。明らかに、警察の尾行がついているかどうかを、調べているのだ。  十津川は、尾行中の二台の覆面パトカーに、他の覆面パトカーと、交代するように、指示を与えた。 (犯人は、何処で、身代金を、受け取る気だろう?)      6  亀井と西本は、渋谷区役所で、渋谷区の地図を見ていた。 「うちには、広報車が、三台あるので、そのどれかわからないと、その時刻に、何処を走っていたか、わかりませんが」  と、広報担当の係長が、いう。 「じゃあ、これを聞いて下さい」  亀井は、持参したテープを、係長に聞かせた。  係長は、それを聞くなり、ニッコリして、 「これは、今井君の声だ。それなら、2号車です」  と、いう。 「2号車が、午後五時三分頃、何処を走っていたか、教えて下さい」  亀井は、勢い込んで、いった。 「今、調べます」  と、係長はいい、問題の今井という職員を、呼んでくれた。  まだ、二十七、八歳の若い男だった。彼は、話を聞くと、地図に眼をやって、 「この辺りを走っていた時だと思います」  と、指さした。  場所は、甲州街道と平行に走る水道道路の幡ヶ谷辺りだった。 「ここを、笹塚方向に走っていた時刻だと思います」 「そこへ、案内して下さい」  と、亀井は、いった。  覆面パトカーに、今井を乗せて、その場所に急行した。  今井が、この辺りといったところで、亀井と西本は、車を降りた。  亀井は、周囲を見廻しながら、携帯電話を使って、十津川に報告した。 「近くに、幡ヶ谷商店街があり、水道道路に沿って、マンションが、点在しています。このマンションの一室に、犯人がいるものと、思います」 ──すぐ、日下刑事たちも、そこへ行かせる。犯人に気付かれぬように、探してくれ 「わかりました。そちらの動きは、どうですか?」 ──犯人は、用心深く、社長車に、皇居の周囲を、ぐるぐる回らせているよ。その中《うち》に、身代金の受け渡し場所を、指示してくると、思っているんだがね 「それまでに、木下知恵が監禁されている場所が見つかると、いいんですが」 ──そうだな。五千万の受け渡しに、成功しても失敗しても、犯人は、人質を殺すだろうからな 「同感です」  と、亀井は、いった。  日下たち八人の刑事が駆けつけたのは、二十分後である。  総勢十人で、周辺のマンションを、しらみつぶしに、調べる作業が始められた。  それも、相手に気付かれずに、調べていかなければならない。  自然に、遠慮がちな、聞き込みになった。区役所の職員である今井が一緒のグループは、区役所からの調査を装って、聞き込みを行った。  幸いだったのは、捜査する範囲が、狭かったことだった。  その中《うち》に、十津川からの連絡で、犯人が、社長車に、新しい指示を与えたことがわかった。  皇居の周辺を、廻らせていたのが、それを中止させたのだ。 ──新宿西口へ向えと、指示してきた 「すると、犯人は、五千万円を、新宿周辺で、受け取るつもりでしょうか?」 ──新宿西口なら、今、カメさんのいる場所から近いだろう? 「車で十二、三分です」 ──それなら、新宿と、そちらの間くらいで、身代金を受け取るつもりかも知れない。人質の監禁されている場所は、まだ、わからないか? 「まだです。何とか、身代金の受け渡しの始まるまでの間に、見つけるつもりです」  と、亀井は、いった。  多分、犯人は、男一人と女一人。女は、藤原さつきの可能性がある。男は、近藤と名乗っていた人間だろう。  そして、一人が、この近くのマンションの一室に木下知恵を監禁し、もう一人が、車で、身代金を受け取りに行くに違いない。  犯人二人は、携帯電話で連絡し合っているだろう。  身代金の受け渡しに失敗しても、犯人の一人は、マンションに連絡する手筈だろうから、そうなれば、木下知恵が殺されてしまう。  また、十津川からの連絡が入った。 ──犯人が、やはり、新宿西口の中央公園を、指定してきたよ。中央公園に着いたら、社長ひとりで、ボストンバッグを持って車を降り、公園内の時計の下で待てといっている 「今、社長の車は、どこを走っているんですか?」 ──四谷見附を、新宿に向って走っている。わざと、ゆっくり走るように指示しているが、あまり時間をかけると、怪しまれてしまうからね 「西口の中央公園まで、あと十二、三分は、かかりますね?」 ──その間に、人質を見つけてくれ      7  前島社長のベンツは、新宿中央公園に着き、前島は、五千万円入りのボストンバッグを手に下げて、車を降りた。  ひとりで、公園の中に入って行き、時計塔の下に立った。周囲は、すでに暗さを増して、公園の中には、ところどころに、街灯があるのだが、それでも、前島の姿は、ぼんやりとしか見えない。  覆面パトカーで、尾行して来た刑事たちも、車を捨てて、公園内に入って行った。犯人が、すでに、公園内にいるということが、十分に考えられるので、刑事たちは、ばらばらに動き、犯人に気付かれないように、恋人を待つポーズを作ったり、わざと、公園を通り抜けたりした。  前島社長は、ボストンバッグを持ったまま、周囲を見廻している。  肌寒い夜なのだが、それでも、若いカップルが、何組も歩いている。  ベンチに腰を下して、抱き合って、キスをしているカップルもいる。  ただ、腕を組んで、公園内を、歩いているカップルもいる。  時間がたっていくが、犯人は、なかなか現われない。  水道道路では、亀井たちが、手掛りらしきものをつかみかけていた。  マンションの一つで、管理人が、最上階の七〇一号室の様子が、おかしいというのである。  半月前に、若い男が借りたのだが、いっこうに住む気配がなく、調度品が、運び込まれてもいない。それが、昨夜おそくから、急に、人の気配がしているというのである。 「人が入ったのかと思って、ノックしてみたんですが、返事がなくて──」  と、管理人は、いう。 「借りた若い男の名前は?」 「確か、仲田さんとおっしゃった筈ですが」 (違うな)  と、思いながらも、亀井が、近藤の似顔絵を見せると、管理人は、よく似ているといった。 「七〇一号室を調べてみよう」  と、亀井は、いった。  万一に備えて、亀井たちは、拳銃を抜いて、七階にあがり、七〇一号室のインターホンを鳴らした。  だが、応答はない。  西本刑事が、ドアのノブに手をかけた。ドアにカギは、かかっていない。  ドアを開けると同時に、刑事たちが、一斉になだれ込んだ。  2DKの部屋の一番奥に、若い女が、倒れているのが見えた。 (木下知恵──)  と、思ったとたんに、亀井の顔が引きつった。殺されていると思ったからだが、駆け寄った西本が、大声で、 「生きてます! 睡眠薬で、眠らされているようです!」  と、叫んだ。 「救急車の手配!」  と、亀井も、大声で、叫んでいた。  同じ時刻。  新宿西口の中央公園では、前島社長が、手がしびれてきたので、足下に、五千万円入りのボストンバッグを置いた。  とたんに、ボストンバッグから、猛烈な勢いで、白煙が、吹き出した。  バッグの底が裂けて、そこから、白煙が、噴出したのだ。その白煙は、たちまち、立っている前島社長を、押し包んだ。  見守っていた刑事たちが、一人、二人と、あわてて飛び出して行ったが、激しく咳込んで、その場に、しゃがみ込んでしまった。 「催涙ガスだ!」  と、その中の一人が、怒鳴った。  白煙は、ますます、広がっていき、近くにいたカップルが、突き刺すような眼の痛みに、悲鳴をあげて、逃げ走る。  前島社長は、倒れたまま動かない。催涙ガスは、いぜんとして、噴出し続けている。 「救急車を呼べ!」  と、刑事の一人が叫んだ。が、その声も、催涙ガスのためかすれて、はっきり聞こえない。  その時、一つの人影が、催涙ガスの中に、飛び込んで行くのが見えた。ガスマスクをつけた男だった。ちらりと見えた男の姿は、たちまち、催涙ガスの白煙に隠れてしまったが、次に飛び出した時は、手に、五千万円入りのボストンバッグを、しっかりとつかんでいた。 [#改ページ]   第七章 追 跡      1  男が走ると、彼の持ったボストンバッグから、催涙ガスが、白い尾を引いて流れていく。  男は途中で、顔につけたガスマスクを、かなぐり捨てた。  中央公園を、飛び出す。  刑事たちは、痛む眼をこすりながら、態勢を立て直して、男を追いかけた。  公園の出口まで、駈けて来た時、道路にとまっていた車が、突然、走り出すのが見えた。  ニッサンブルーバード。夜なので、黒っぽい色としかわからなかったが、助手席の窓が開いていて、そこから、白い煙が、流れ出ているのが見えた。 「あの車だ!」  と、刑事の一人が、叫ぶ。  刑事たちは、自分たちのパトカーに走り、急発進して、ブルーバードを追いかけた。  ブルーバードは、甲州街道を、西に向って、突っ走る。  追う刑事たちのパトカーとの間は、かなり離れている。刑事は、無線電話で、指令センターに、形勢を説明する。  それが、幡ヶ谷のマンションにいる亀井に、伝えられた。  亀井は、西本と、日下を呼んで、 「車で、甲州街道へ行き、犯人の車を止めるんだ。ブルーバードで、色は、はっきりしないが、助手席の窓から、白い煙を吐き出しているから、わかる筈だ。すぐ行け!」  と、いった。  二人が、部屋を飛び出して行く。  西本が、覆面パトカーを運転して、商店街を抜け、水道道路から、甲州街道へ出る。途中で、赤い点滅灯をつけ、サイレンを鳴らした。商店街が狭くて、抜けるのが、骨だったからだ。  甲州街道に出ると、赤色灯をつけたまま端にとめて、二人は、車の外に出た。  続いて、もう二台のパトカーも、やって来た。亀井が、西本たち二人だけでは、心もとないと思ったのだろう。  三台で、下り車線を閉鎖し、刑事たちが一台ずつ止めて、車内を調べていく。  西本は、少し離れた場所に立って、次々にやって来る車を、見つめていた。  時々、手で、内ポケットの拳銃を触った。犯人の車を止めるために、人間は射たないが、車は射っても構わないと、思っていた。  車の洪水の中で、白い煙のようなものが、見えた。  西本は、緊張して、眼をこらした。走る車の窓から、白い煙が流れ出ている。 (あの車だ!)  と、思い、日下を、手招きした。  検問を始めたので、車の渋滞が、起きている。  これを見て、犯人が、車をUターンさせ、逃げる恐れがある。  だから、西本と日下は、車が来る方向に向って、走った。  問題のブルーバードも、スピードをゆるめている。運転している若い男の顔が見えた。西本と日下は、必死に走る。その車が、逃げる前に、捕えなければならなかったからである。  運転席の若い男は、窓から、顔を突き出して、渋滞の原因を、確かめようとしている。  二人は、泳ぐように、ブルーバードに近づくと、西本が、窓から手を突っ込んで、男の腕をつかみ、 「降りろ!」  と、怒鳴った。  若い男は、顔色を変えて、 「何をするんだ?」  と、怒鳴り返した。  日下が、警察手帳を、突きつけて、 「いいから、降りろ!」 「おれは、何もしてないぞ!」  と、男が、また怒鳴る。  その間も、助手席に置かれたボストンバッグからは、白い煙が、流れ出ていた。  西本と日下は、力ずくで、男を車の外に引きずり出した。 「警察が、こんなことをやっていいのか!」  と、男がわめく。  西本が、構わずに、男に手錠をかけた。  日下が、合図を送って、検問を中止させた。  車が、再びスムーズに流れ始め、西新宿から追って来たパトカーも、一台、二台と、到着した。  日下が、まだ、煙の出ているボストンバッグを、車から持ち出した。  追いついたパトカーから、降りて来た刑事たちが、嬉しそうに、 「身代金も、取り返したな」  と、いった。  だが、その中の一人が、急に、眉を寄せて、 「平気なのか?」  と、日下に、きいた。 「何が?」 「バッグから洩れているのは、催涙ガスだぞ」 「バカな。何ともないぞ」 「おれに、貸せ!」  急に、その刑事は、日下の手から、ボストンバッグを、もぎ取った。 「これは、催涙ガスじゃないぞ」 「そういってるだろうが」 「畜生!」  と、叫びながら、その刑事は、ボストンバッグのチャックを、引き開けた。  中に入っていたのは、古雑誌の束だった。 「五千万は、何処だ!」  と、刑事は、男に向って、怒鳴った。 「何のことだ?」  若い男は、手錠をかけられたまま、聞き返す。 「お前が、中央公園で奪った五千万の身代金だよ」 「そんなもの、おれが知るわけがないだろう。第一、おれが、なぜこんな目に遭《あ》わなきゃならないんだ? 不当逮捕で、訴えるぞ!」 「黙れ!」  と、西本は、男を、殴りつけた。  彼も、少しおかしいぞと、思い始めていた。      2  西本は、男のポケットから、運転免許証を、抜き取った。  〈木暮研一  東京都──〉  写真も、本人のものに、間違いなかった。 「あの車も、おれのだよ。盗んだものじゃないぜ」  と、木暮研一は、いう。 「誰に頼まれたんだ?」  と、西本は、きいた。 「何を?」 「ボストンバッグから、煙を出して、車を走らせるのが趣味じゃあるまい」 「ああ、そのことか。それなら、今日、西口の中央公園の傍に車をとめてたら、変な男が来て、頼まれたんだよ」 「何といって、頼まれたんだ?」 「そのボストンバッグを助手席にのせて、合図をしたら、甲州街道を、笹塚の方向に、走ってくれってさ」 「誰だ? 頼んだ奴は?」 「若い男だよ」 「この男か?」  日下が、近藤という男の似顔絵を、相手に見せた。 「ああ、こいつだ」 「なぜ、承知したんだ?」 「なぜって──」 「金か?」 「ああ、金をくれたんだ」 「いくら?」 「五万──いや、十万だ。それだけ貰えば、喜んでいわれた通りに走るさ」 「そして、合図を、送ってきたんだな?」  と、西本は、きいた。 「突然、公園から、飛び出して来やがって、車の屋根を叩いたんだ。ところが、おれが、走り出したら、突然、助手席のボストンバッグから、白い煙が、吹き出したんだ。金を貰ってるから、窓から投げ出すわけにもいかず、そのまま走ったんだよ。あいつは、人殺しでもやったの?」 「もっと悪いことさ」  と、日下が、いった。  木暮研一は、青い顔で、 「おれは、関係ないよ。何もしてないんだ。早く、手錠を外してくれよ」 「だが、参考人として、来て貰う」  と、西本が、ぶぜんとした顔で、いった。      3  亀井は、救急車で、木下知恵を、近くの病院に運んだ。  知恵は、多量に、睡眠薬を飲まされたか、注射されたか、昏々と眠り続けている。  病院には、亀井が、知らせたので、プロダクションの前島社長や、彼女のマネージャーなどが、駈けつけて来た。  一緒にやって来た十津川に、亀井は、 「とにかく、人質が、無事に救出できて、ほっとしています」  と、いった。 「社長と、マネージャーは、喜んでいるよ」 「そうでしょうね。ただ、身代金の方は、まんまと奪われてしまいましたし、犯人にも、逃げられてしまいました」 「そのようだね。マンションの方は、どうなっているんだ?」  と、十津川は、きいた。 「今、鑑識が、調べています。部屋の中には、犯人が飲んだと思われる缶ビールの空缶がありましたから、それから、指紋が検出されればと、思っているんですが」 「藤原さつきの指紋がと、カメさんは、思っているんだろう?」  と、十津川が、きいた。 「そうです」  と、亀井は、微笑した。  亀井は、藤原さつきの指紋が出るものと、確信している感じだった。もちろん、そうなれば、藤原さつきを、木下知恵誘拐容疑で、逮捕できるだろう。  十津川は、電話で、三上刑事部長に、経過を説明した。 「藤原さつきの件は、確証がありませんので、今の段階では、どうしようもありませんが、男の方は、似顔絵で、全国指名手配したいと思います」 「近藤というのは、偽名だろう?」 「そう思います」 「彼が、中央公園から、何処へ消えたか、見当もつかんのか?」 「残念ながら、つきません。とにかく、外国へ高飛びされるのは、防がなければなりませんので、各空港に、FAXで、似顔絵を送るつもりです」  と、十津川は、いった。  彼は、亀井と、捜査本部に戻ると、すぐ、その手配をすませた。  木下知恵の入院した病院から、前島社長が、電話してきて、 「彼女は、何とか助かりそうです。ありがとうございます」  と、礼を、いった。 「五千万円は、取り戻すよう、全力をつくします」  と、十津川は、いった。  身代金を取り戻し、犯人を逮捕しなければ、人質は助かっても、警察としては敗北なのだ。  午後十一時近くなって、鑑識が、マンションにあった五つのビールの空缶から、二種類の指紋が検出されたと、連絡してきた。  これから、それを、照合しなければならない。  木下知恵が、意識を取り戻したというので、十津川と亀井が、病院に急行した。  知恵は、睡眠薬の力から、まだ、完全には抜け切れてない感じで、 「なかなか、思い出せないんです」  と、十津川に、いった。 「犯人は、見ましたか?」  と、十津川が、きいた。 「男の人は、見ましたけど──」  と、知恵は、いう。  亀井が、身体を乗り出すようにして、 「じゃあ、女もいたんですね?」 「ええ。でも、顔は見てないんです」 「ホテルから、あなたを誘拐したのは、男ですね?」  と、十津川が、きいた。 「ええ。ドアがノックされたので、てっきり、マネージャーか刑事さんだと思って、ドアを開けたら、知らない男が立っていて、いきなり、顔にハンカチを押しつけられたんです。変な、強い匂いがして、意識がなくなってしまって──」 「クロロフォルムだ」  と、亀井が、いった。 「気がついたら、あのマンションの部屋に連れて行かれていたんですね?」 「ええ。でも、意識がもうろうとしていて。女の人が、気がついたみたいだよと、いったのは覚えているんです。そのあと、また、変な匂いを嗅がされて、意識を失ってしまいました」  と、知恵は、いった。      4 「その女の声に、聞き覚えは、ありませんでしたか?」  と、十津川は、知恵に、きいてみた。 「何しろ、もうろうとしている時に聞いたんですから、わかりません。女の人の声だったのは、間違いありませんけど」  それが、知恵の返事だった。  だが、今、考えられる女性は、藤原さつきだけである。  その藤原さつきは、京都のファッションショーの会場から、姿を消したままなのだ。  知恵は、少くとも、一週間の入院が必要だということになった。精神的にも参っているということである。  十津川は、しばらく、この事件を伏せたまま、捜査を進めたいと思っていたが、上層部は、人質が解放されたということで、翌日、記者会見を開き、マスコミに発表した。  犯人を、藤原さつきとは、断定しなかったが、記者たちは、この誘拐事件を、大々的に報道し、人質の木下知恵が、無事に解放されたこと、警察は、重要参考人として、一人の女性をマークしているとも、書いた。  もっと具体的に、モデルのS・Fさんと、書いた新聞もある。  知恵の談話をとろうとして、彼女が入院している病院に、記者たちが押しかけていることも、十津川は、知った。  もちろん、記者に会う会わないは、彼女と、マネージャーの勝手だが、十津川は、そんなことに、かかわってはいられなかった。  とにかく、木下知恵を誘拐した男と、藤原さつきを、見つけ出さなければならなかったからである。  それに、奪われた五千万円の身代金の奪回という仕事も、十津川には、課せられている。  知恵を誘拐した男の似顔絵は、すでに、配布してあったが、今度はそれを、新聞、テレビで発表した。  もちろん、この男も、逮捕したかったが、十津川が見つけたかったのは、藤原さつきの方だった。  十津川が、さつきに拘わるのは、快速アルペンライナーの車内で殺された早見友美の件にも、彼女が関係していると思うからだった。  半日たって、幡ヶ谷のマンションの部屋から見つかった缶ビールの空缶の二つから、藤原さつきの指紋が検出されたという報告が、もたらされた。  他の空缶からは、別の人間の指紋ということだったが、こちらは多分、知恵を連れ出した男のものだろう。  部屋の柱や、ドアのノブなどからは、指紋は検出されず、拭き取った可能性があるという。  犯人は、知恵の監禁に使ったあの部屋から逃げる時、部屋の指紋は拭き取ったが、自分たちの飲んだ缶ビールの指紋は、拭き忘れたということだろうか?  京都府警にも協力して貰って、京都でのさつきの行動や、姿を消してからの足取りを調べて貰ったが、いっこうに、つかめそうもない。 「当然かも知れないな。さつきが、ひそかに、京都のホテルを抜け出して、東京に戻って来たのなら、足取りをつかまれるような真似はしないだろうからね」  と、十津川は、いった。 「すでに、男と、五千万円を山分けして、逃亡したんじゃありませんか? 身代金は、手に入れたが、誘拐は失敗し、自分が追われると思ってです」  と、亀井が、いう。 「多分ね。だが、何処へ逃げたんだ?」 「そこまでは、わかりませんが──」 「しかし、なぜ、彼女は、逃げているんだろうか?」 「それは、警部。彼女が犯人で、警察に、自分が追われていることを知っているからでしょう? それに決ってるじゃありませんか」  と、亀井は、何を今更という顔をした。 「しかし、カメさん。彼女が、犯人だという確証はないんだよ。彼女が、直接、誘拐したわけじゃないし、知恵は、監禁された部屋で、女の声を聞いたといっているが、誰の声かわからないと、証言している」 「われわれも、聞いていますよ。男が、脅迫してきた電話の中に、女の声が入っていたじゃありませんか。あれは、警部が、気付かれたんですよ」 「ああ、そうだが、小さな声で、あれを、さつきの声かどうか、判断するのは難しいよ」  と、十津川は、いった。 「缶ビールの空缶に、彼女の指紋がありましたよ」 「それだって、自分が飲んだビールの空缶を、誰かが、勝手に持ち出して、あの部屋に置いたと主張すればいい」 「警部は、藤原さつきは、犯人じゃないと思っているんですか?」  亀井が、怒ったような声を出した。  十津川は、笑って、 「そうじゃないさ。彼女が、犯人だと、思っているよ」 「それなら、なぜ、水をさすようなことを、いわれるんですか?」 「藤原さつきの性格さ。彼女は、頭も切れるし、自信家だ。今の段階で、なぜ、さっさと逃げ出したのか、不思議なんだ。今いったように、彼女が犯人だという決め手がないのだよ」 「男がいるじゃありませんか。彼女の手先になって、木下知恵を誘拐し、身代金を奪った男です」 「それだ!」  と、急に、十津川は、大声を出した。 「何がですか?」 「男のことさ。男がつかまって、藤原さつきに頼まれたと証言すれば、それが、致命傷になる」 「警部。今日は、変ですよ。そんなこと、当り前じゃないですか」 「怒りなさんなよ。いいか、カメさん。共犯の男の証言以外は、何とか、弁明できるんだ。だから、彼が、消えてしまうか、消してしまえば、彼女は、安心して出て来られる。だから、彼女は、一時的に姿を消していて、共犯の男が消えたとわかったら、出て来る気でいるんじゃないだろうか? 五千万の身代金を奪ったのだって、今のところ、男の方だからね」  と、十津川は、いった。      5 「じゃあ、さつきは、共犯の男を殺す気ですか?」  と、亀井は、強い眼で、十津川を見た。 「殺すか、或いは、われわれ警察の手の届かぬところへ逃がしてしまうかだろう」 「海外逃亡──ですか?」 「そうだ。われわれは、男の本名を知らない。だから、昨日、五千万円を奪って、その足で、成田へ走り、飛行機に乗ってしまったとすれば、われわれは、防げなかった筈だよ」  と、十津川は、いった。 「調べましょう」  と、亀井はいい、西本を連れて、すぐ、出かけて行った。  十津川は、椅子にもたれるようにして、煙草をくわえた。が、火をつけようとした時、電話が鳴った。 (亀井からにしては、早過ぎるな)  と、思いながら、十津川は、受話器を取った。 「栃木県警の三浦です」  と、男の声が、いった。 (ああ、早見友美の事件か)  と、思い、十津川は、同時に、佐々木という暗い少年の顔を思い出した。 「十津川ですが、何かありましたか?」 「佐々木功が、自殺を図りました」 「それで、助かったんですか?」  と、十津川は、くわえていた煙草を吐き捨てて、きいた。 「わかりません。意識のない状態が、何時間か続いていますから」  と、三浦は、いった。 「彼は、今、拘置所にいたんですか?」 「そうです。起訴して、拘置されていました。そこで、自殺を図ったのです。地検から、さっき連絡があって、病院へ行って来たんですが、面会謝絶でした」 「自殺を図ったって、どんな方法ですか?」  と、十津川は、きいた。 「シーツを裂いて、ロープを作り、それで首を吊ったんです」 「それまでにも、彼は、自殺を図るようなところがあったんですか?」  と、十津川は、きいた。 「すでに、起訴してしまっていたので、拘置中の様子は、わかりません」  と、三浦は、いう。 「あの女弁護士は、どうしていますか?」 「病院で、会いましたよ。東京から、駈けつけたと、いっていました。例によって、警察と検察が、佐々木を犯人扱いし続けたから、彼が、抗議の自殺を図ったのだと、抗議されましたよ」 「三浦さんは、そうは、思っていないんでしょう? 抗議の自殺とは」  と、十津川は、きいた。 「もちろんです。県警も地検も、佐々木が、早見友美を殺した犯人だと、確信していますよ。従って、絶望から、自殺を図ったと思っています。もともと、彼は、精神的にもろい性格ですから。それに、人を殺してしまったという強い罪の意識が重なって、自殺を図ったんだと思っていますよ」  と、三浦は、いった。  佐々木を、犯人として逮捕し、起訴したのだから、そういうのが当然だろう。  十津川は、知らせてくれた礼をいって、電話を切った。が、佐々木の顔を思い出して、自然に、重い気分になっていた。  佐々木の暗い眼が、忘れられないのだ。  若い時は、簡単に、人生に絶望する。それは、多分、大人のように、ずるく、自分の気持を誤魔化せないからだろうし、死が、さほど恐しくないからだろう。  佐々木が、ひとりで旅に出たのは、その絶望を確認したかったのか、それとも、絶望から逃がれる道を見つけたかったのか、十津川にも、わからない。  ただ、日光で、殺人容疑者として逮捕され、起訴されてしまった。  もし、彼が無実だったら、彼の絶望が、より深くなっただろうことは、十分に考えられるのだ。  佐々木は、会津若松に行き、日光の華厳滝を訪れている。  そこで、彼が、自殺の誘惑から解放されたかどうかわからないが、飯盛山で自殺したかったことだけは、確かなのだし、華厳滝に、飛び込まなかったことも、事実なのだ。  それが、今、自殺を図って、危篤状態になっているのは、殺人容疑で逮捕され、起訴されたからだろう。 (もし、佐々木が無実で、誤って逮捕、起訴され、そして、このまま死亡してしまったら、死なせた責任は、警察が持たなければならないのだ)  と、十津川は、思った。  成田空港に行った亀井から、電話連絡が入った。  いつも、沈着な亀井が、興奮した口調で、 「ありましたよ!」  と、いった。 「詳しく話してくれ」 「昨日、バンコク行の最終便に、犯人と思われる男が、乗っているのが、わかりましたよ。二一時三〇分発のオリンピック航空478便です。この男の名前は、矢吹浩、二十三歳で、住所は、世田谷区深沢×丁目、新深沢マンション二〇三号です」 「この男に、間違いないのか?」  と、十津川は、きいた。 「オリンピック航空のカウンターで聞いたところ、係員が、例の似顔絵の男に、そっくりだといっています。バンコク行の便は、沢山ありますが、このオリンピック航空は、最終便の一便しか出していないので、はっきり覚えていると、いっていました」 「この便は、いつ、バンコクに着くんだ?」 「今日の午前一時四五分の予定です」 「じゃあ、とっくに、着いていることになるな」 「その通りです。男は、更に、バンコクの先まで、行ってしまっているかも知れません」  と、亀井は、いった。 「とにかく、この矢吹という男のことを、調べてみよう。それから、カメさん。佐々木が、自殺を図って、重態だ」  と、十津川は、いった。 「あの少年がですか──」 「そうだ。助かってくれるといいと、思っているんだがね」 「私もです」  と、亀井が、いった。      6 「警部に電話です」  と、西本にいわれて、十津川が、受話器を取ると、 「結城です。結城彩子です」  と、女の声が、いった。 「ああ、女弁護士さん」  と、十津川がいうと、彩子は、 「十津川さんまで、そんな差別発言をなさるんですか?」 「差別ですか?」 「男の人に、ああ、男弁護士ですねとは、いわないでしょう?」 「そりゃあ、まあ、そうですが、申しわけありません」 「それは別にして、佐々木功が、拘置所で自殺を図って、重態です」 「ええ。知っています。残念です」 「それだけですの?」 「あなたは、警察の責任だと、いうわけでしょう?」 「当然ですわ。彼を、初めから、犯人と決めつけて、逮捕し、送検してしまったんです。あれでは、彼が絶望的になり、自殺を考えるのは、当然ですわ」  彩子は、決めつけるように、いった。 「しかし、佐々木は、もともと、自殺願望を持っていたんです」  と、十津川は、いった。 「それは、知っていますわ。それだけ、彼の神経が、デリケートということなんじゃありません?」 「確かに、そうかも知れませんがね」 「そんなデリケートな神経の持主を、頭から、殺人犯人と決めつけたら、彼の神経は、ズタズタに引き裂かれて、それこそ、死を考えてしまいますわ。自殺を図るのは、当然じゃありませんか。たとえ、犯人かも知れないと思っても、彼のような、繊細な人間に対しては、優しく接し、まず、自殺しかねない彼の心をやわらげることに、力をつくすべきじゃないんですか? 違いますか?」  と、彩子は、怒ったような口調で、いう。 「彼と接しているのは、栃木県警と、宇都宮地検ですから、私に抗議されても、困りますが──」  と、十津川は、いった。 「でも、同じ警察じゃありませんか」 「それは、そうですが──」  十津川は、相手の勢いに押されて、つい、あいまいな口調になってしまう。 「私は、弁護士として、もちろん、栃木県警や、地検に抗議しますが、十津川さんも、本庁の刑事として、注意してくれません? もし、あのまま、佐々木功が死亡し、そのあとで、彼の無実が証明されたら、警察は、どんな責任の取り方をするんでしょうか?」 「無実は、証明できるんですか?」  と、十津川は、きいた。 「しますわ。十津川さんだって、彼が、無実だと、思っていらっしゃるんでしょう?」 「それについては、意見は、差し控えたいですね。あくまでも、栃木県警の事件ですから」  と、十津川が逃げると、彩子は、 「それは、卑怯ですわ。十津川さんは、きっと、犯人は藤原さつきだと、思っていらっしゃるんでしょう? 違いますか?」  と、切り込んできた。 「藤原さつきって、どういうことですか?」 「この事件を、冷静に見れば、誰だって同じことを考えますわ。私は、もし公判になったら、藤原さつきを、真犯人として、告発するつもりでいるんです」  と、彩子は、いった。 「よくわかりませんが──」 「佐々木功は、無実です。でも、今のところ、彼が、無実だと証明するものが、見つからない。だから、真犯人を、見つけ出すより仕方がないと思っているんです」 「弁護士が、そんなことをしていいんですかね?」 「仕方がありませんわ。警察が、真犯人をあげてくれないんだから、弁護士の私が、見つけるより仕方がありませんもの。十津川さん」 「ええ」 「ひょっとして、早見友美を殺した真犯人は、藤原さつきだという確信を、お持ちなんじゃありませんの?」 「そんなことは、ありませんがね」 「今、私、日光に来ているんですけど、その中《うち》に、東京に戻って、十津川さんとお会いして、この件について、じっくりと、お話したいと思っているんです。その時は、本音を話して頂きたいですわ」  彩子は、そういって、さっさと電話を切ってしまった。 「参ったな」  と、十津川は、受話器を置いて、呟いた。  亀井が、寄って来て、 「何を困っていらっしゃるんですか?」 「佐々木功の弁護士からの電話でね」 「ああ、女弁護士の。確か、結城彩子という名前でしたね」 「彼女は、佐々木功を助けるために、藤原さつきを、真犯人として、告発するかも知れないと、いっているんだ」  と、十津川は、いった。 「彼女は、藤原さつきが犯人だという証拠を、つかんでいるんでしょうか?」 「それは、どうかな。だが、彼女は、佐々木を無実と、固く信じている。佐々木が死ねば、間違いなく、警察を告発するね」 「われわれが、藤原さつきを、追っていると知ったら、喜ぶでしょうね」  と、亀井は、いう。 「だろうね。きっと、彼女も、藤原さつきのことを、調べていると思うよ」  と、いった。  その日の夕方になって、橋本豊から、十津川に、電話が、かかった。橋本は、元、捜査一課の刑事だった男で、今は、私立探偵をやっていた。十津川の下で、働いていたこともある。 「結城彩子という弁護士を、ご存知ですか?」  と、橋本が、きいた。 「知っているが、彼女が、どうしたんだ?」 「さっき、電話がありまして、藤原さつきという女について、調べて欲しいと、依頼されたんです」 「ほう」 「その時、結城弁護士が、話したんですが、列車内で殺された早見友美という女の事件で、栃木県警は、佐々木功という少年を、逮捕し、起訴している。しかし、動機はない。動機があるのは、藤原さつきというモデルだ。この女が、真犯人に間違いない。だから、私に、彼女が犯人だという証拠を、見つけて欲しいというのです」  と、橋本は、いった。      7 「なるほどね。あの弁護士は、君に、頼んだのか」 「この依頼は、受けない方がいいですか? 十津川さんに、迷惑になることなら、断りますが」  と、橋本は、いった。 「いや、引き受けてくれ。別に、私は迷惑はしないよ。君の自由だ」  と、十津川は、いった。 「警察も、藤原さつきを調べているんですか?」  と、橋本は、きいた。 「それについては、いくら君でも、いえないよ」 「わかりました」 「君は、君の立場で、彼女のことを、調べたらいい。一つだけ、教えてあげよう。五十嵐という資産家が亡くなって、三人の女が、その遺産を狙っていると、思われている。彼女たちには、資格はないんだが、何といっても、関係のあった女たちだからね。それに、死んだ五十嵐には、妻も子供もいない」  と、十津川は、いった。 「なるほど。女たちが、五十嵐という男の子供を生めば、その子が、遺産の相続をする権利があるということになりますね」  と、橋本は、いう。 「そこまでだ。それ以上は、話せないよ」  と、十津川は、いった。 「ありがとうございます」  と、いって、橋本は、電話を切った。  十津川は、煙草をくわえた。火をつける。  結城彩子は、橋本が元刑事で、十津川の下で働いていたことを知っていて、彼に、藤原さつきについて調べてくれと、頼んだのだろうか? (知っているな)  と、十津川は、思った。  知っていて、十津川に、圧力をかける気なのではないか。十津川を通して、警察に、圧力をかける気なのではないか。  佐々木功を、犯人扱いするのは、間違っているという圧力をである。  自然に、十津川の顔に、苦笑が浮ぶ。 (なかなか、やるものだ)  と、思う。 「何を笑っていらっしゃるんですか?」  と、亀井が、きいた。  十津川は、橋本のことを、話した。 「女弁護士も、なかなか、やるもんですね」  と、亀井は、笑った。 「カメさんも、そう思うかね」 「橋本君を通して、警察に、クサビを打ち込もうとしているんじゃないですか」 「多分ね」 「橋本君が、早見友美殺しは、藤原さつきだという証拠をつかんでしまったら、対応に困りますね」  と、亀井は、いった。 「それでも、佐々木という少年が、助かればいいと思っているよ」  と、十津川は、いった。 「警部は、よほど、佐々木功のことが、心配なんですね」 「ああ。ああいう、神経の細かい少年は、どうしても、気になるんだよ」  と、十津川は、いった。 「とにかく、助かってくれれば、いいんですが」 「そうだ。助かって欲しい」  と、十津川は、強い調子で、いった。  もちろん、今の十津川には、佐々木のことだけを、心配している余裕はなかった。  眼の前の誘拐事件を、解決しなければならないのだ。  共犯者の男は、すでに、海外へ逃亡してしまっている。  と、すると、何としてでも、主犯を、逮捕しなければならないのだ。 「藤原さつきを逮捕して、彼女が、日光での殺人も自供してくれれば、自動的に、佐々木功は助かりますがね」  と、亀井は、いった。 「そう上手くいけばいいんだがね」  と、十津川は、いった。  矢吹浩について、調べていた刑事たちが、帰って来た。 「深沢の矢吹のマンションを、調べて来ました。木下知恵の写真が、壁にべたべた貼ってありました」  と、西本が、報告した。 「やはり、彼女のファンか」 「もう一つ、面白いことが、わかりました。自分で組立てたと思われるロボットが、三体も、見つかりました」 「ロボット?」 「そうです。東京都のロボットコンテストで、準優勝しています。高校三年の時です」 「確かに、それは、興味があるね」  と、十津川は、いった。 「管理人の話では、最近も、新しいロボットを作ったといって、見せてくれたことがあったそうです」  と、日下が、いった。 「どんなロボットなんだ?」  と、亀井が、きいた。 「なんでも、無線で動くロボットで、腕を使って、ピンポン玉を拾ったら、それを小さな穴へ入れるもので、ひどく精巧なものだったといっています。そのロボットは、部屋にありました」 「それだけの精巧なロボットが作れるんなら、二重底のボストンバッグの底に、催涙ガスの発生装置を仕組んでおいて、無線でそれを発生させるぐらい簡単だな」  と、十津川は、いった。 「その通りです。簡単だと思います」  と、西本が、肯いた。 「問題は、そんな矢吹と、藤原さつきのつながりだな」 「そうです」 「矢吹は、金に困っていたのかね?」 「どうも、彼は、人づき合いが悪くて、会社を、転々としていたようですから、金には困っていたと思います」 「それに、藤原さつきがつけ込んで、金で矢吹を、共犯に引きずり込んだかな」  と、十津川は、いった。 [#改ページ]   第八章 疑 問      1  十津川は、藤原さつきの逮捕に、全力をあげることにした。  共犯と見られる矢吹浩は、すでに、東南アジアに逃亡してしまっている。もちろん、居所がわかれば、国際刑事警察機構を通して、引き渡しを求めるつもりだが、差し当っては、主犯の藤原さつきを、見つけ出さなければならない。  十津川は、矢吹が、海外逃亡を果したことを確認したら、さつきは、ひょっとして、平然として、姿を現わすのではないかとも考えていた。  さつきが、主犯だと確信はしているのだが、誘拐された木下知恵は、彼女を見てはいない。女の声は聞いているが、それが、さつきだという確証はない。監禁場所に捨てられていた缶ビールの空缶から、さつきの指紋が検出されてはいるが、それは、自分を罪におとしいれるために、自分が飲んだ空缶を、盗んで持ち込んだもので、監禁場所のマンションで飲んだという証拠にはならないと、強弁するのではないか。  共犯の矢吹さえ捕まらなければ、どうにでも強弁できると思ってである。  しかし、藤原さつきは、逃亡したままだった。  念のために、国内の国際空港全てに、問い合わせてみたが、事件の日以後、藤原さつきが、海外に逃亡した形跡はなかった。  まだ、国内にいることだけは、間違いないのだ。 「カメさんは、彼女が、何処へ逃げたと思うかね?」  と、十津川は、亀井にきいた。 「そうですねえ。案外、東京にいるのかも知れないとも思いますが」  亀井は、難しい顔で、いう。 「都民千二百万人の中に、埋没するか」 「そうです。しかし、新聞が、あれだけ、書き立てましたからね。犯人と書かないまでも、重要参考人として、書いていますから、もう、東京にいないことも、考えられます」 「東京から逃げたとすると、何処だろう?」 「すぐ、頭に浮ぶのは、東山温泉ですね。早見友美を殺し、佐々木功を罠にはめた時、彼女は、アリバイ作りに、東山温泉に泊っていますから」  と、亀井は、いった。 「私も、真っ先に浮んだのは、東山温泉なんだよ」  と、十津川も、いった。 「それでは、福島県警に連絡して──」  と、亀井がいうのへ、十津川は、微笑して、 「もう、連絡したよ」  と、いった。  その福島県警から、電話が入ったのは、翌日の昼少し前だった。 「藤原さつきが、見つかりました」 「では、すぐ引き取りに行きます」  と、十津川が、いうと、相手は、 「その前に、こちらで、司法解剖に廻します。その結果も、報告します」 「ちょっと待って下さい。彼女、死んだんですか?」  十津川は、あわてて、きいた。 「そうです。JR会津若松駅近くで、レンタ・カーを借り、それを運転して、転落事故を起こしたわけです」 「即死ですか?」 「それは、わかりませんが、今朝、発見された時は、すでに死亡していました」 「場所は、何処ですか?」 「柳津《やないづ》町の近くです。道路から、只見川に転落したわけです」 「只見川? 東山温泉の近くではないんですか?」 「違います。会津若松から、只見川沿いに、車で一時間ほど、走ったところです」 「なぜ、そんなところに?」 「わかりません」 「東山温泉周辺には、検問所を、設けてあったんですか?」  と、十津川は、きいた。 「検問所は設けませんでしたが、そちらから、藤原さつきが、東山温泉に逃げ込む可能性が強いといわれていたので、パトカーを配置はしてありましたが」 (それで、只見川の方に、逃げたのか?)  と、十津川は、思った。 「どんな状況で、死んでいたんですか?」 「道路から、高低差は、さしてないのですが、丁度、大きな石の上に、落下しまして、車の前部が潰れ、そのため、運転席の藤原さつきは、胸部を強打したものと、思われます」 「その車が、レンタ・カーだというのは、間違いないんですか?」 「会津若松の営業所で借りた、白のトヨタのマークIIであることは、営業所で確認しました。午後六時十五分に借りています」 「わかりました。解剖の結果がわかったら、教えて下さい」  と、十津川はいって、電話を切った。      2 「藤原さつきが、死んだんですか?」  亀井が、信じられないという顔で、十津川にきいた。 「ああ、死んだ」  と、十津川は、肯き、会津若松周辺の地図を広げた。 「カメさんのいったように、藤原さつきは、東山温泉に、隠れようとしたのかも知れないな。会津若松駅近くで、レンタ・カーを借りたが、県警が、東山温泉の周辺をかためていたので、あわてて、只見川沿いの国道252号線に逃げ込んだ。これを走れば、田子倉湖を抜けて、新潟県に逃げ込めるからね」 「しかし、あっけない死に方でしたね」  亀井が、拍子抜けの顔で、いう。  十津川にも、こんな筈ではなかったという思いが、あった。  翌日になって、福島県警から、藤原さつきの解剖結果が、電話で報告された。 「死因は、頭蓋骨陥没によるものでした」 「胸部圧迫じゃなかったんですか?」 「肋骨も、二本折れていましたが、直接の死因は、頭蓋骨陥没ということです。シートベルトをしていなかったので、車が転落したとき、身体が前に投げ出され、その時、頭部を、強く打ちつけたのだろうと、医者はいっています」 「他に、何かわかりましたか?」 「彼女は、かなり、酒に酔っていたようです」 「なるほど」 「他に、彼女が、妊娠していたことがわかりました。妊娠三カ月です」 「やはり、そうですか」 「予想されていたんですか?」 「可能性はあると、思っていました」  と、十津川は、いった。 「次に、死亡推定時刻ですが、一昨日の午後十時から、十一時の間ということです」 「レンタ・カーを、会津若松駅近くの営業所で借りたのが、午後六時十五分でしたね?」 「そうです」 「現場まで、会津若松駅から、車で一時間ぐらいということでしたが?」 「その通りです」 「とすると、彼女は、現場まで約四時間かけて行ったことになりますが、なぜ、そんなにかかったんですかね?」  と、十津川は、きいた。 「われわれも、それが、不思議でしたが、車を借りて、まっすぐ、現場へ行ったとは限りませんからね。走行距離を示すメーターも、会津若松と、現場の柳津町までの距離の約二倍を走ったことを示しているのです。ですから、彼女は、会津若松周辺を走り廻った揚句、国道252号線に入り、新潟に抜けようとしたのではないかと思っています。それに、これはあくまでも事故死ですから」  と、相手は、いった。  電話のあと、十津川は、亀井に向って、 「私は、これから、会津若松へ行って来ようと思う。カメさんは、どうだ?」 「もちろん、私も行きます。藤原さつきの死は、納得できませんから」  と、亀井も、いった。  二人は、午前一〇時一一分東京発の「やまびこ117号」に、乗った。  郡山着一一時五三分。ここから、快速「ばんだい5号」に乗りかえ、会津若松に着いたのは、一三時一二分である。  ホームに、県警の二人の刑事が、迎えに来てくれていた。年輩の吉田という刑事が、 「これから、すぐ、事故現場にご案内しましょうか?」  と、十津川にきいた。 「その前に、藤原さつきが、車を借りた営業所を見たいですね」  と、十津川は、いった。  改札口を出ると、駅前広場の白虎隊の銅像が、いやでも眼に入ってくる。  広場の左側に、問題の営業所があった。十津川と亀井は、そこの係員に、まず貸出ノートを見せて貰った。  なるほど、一昨日の午後六時十五分に、白のトヨタのマークIIを、藤原さつきにレンタルしたことが記入され、彼女の運転免許証を複写したものが、貼りつけてあった。 「あなたが、この藤原さつきに、会ったんですね?」  と、十津川は、きいた。 「そうです」  と、三十二、三歳の係の男は、緊張した顔で、肯いた。 「顔を見ましたか?」 「ええ」 「間違いなく、免許証の写真の女でしたか?」 「と、思います」 「確信はないんですか?」 「何しろ、大きな帽子をかぶっていたし、サングラスをかけていましたからね。女の人の顔を、じろじろのぞくわけにもいきませんし──」 「帽子と、サングラスは、車の中に落ちていました」  と、吉田刑事が、いう。  十津川は、更に、営業所の係に向って、 「あなたの身長は、何センチですか?」 「一七〇センチですが、それが何か──?」 「藤原さつきは、一七五センチあるんです。それに、ハイヒールをはいていれば、一八五センチ近くなります。あなたより、十五センチ近く高い勘定です。それを感じましたか?」 「そんなに高い人だったんですか?」  相手は、びっくりした顔になった。 「カメさん、ちょっと、そのくらいの女性を、見つけてくれないか」  と、十津川は、いった。  亀井はすぐ、飛び出して行った。が、十二、三分して、一人の若い女を連れて戻って来た。  すらりと背が高く、帽子をかぶっている。彼女を、係員の前に立たせて、 「この女性は、背が高く見えるでしょう?」  と、亀井が、きいた。 「ええ、ずいぶん、大きいですねえ」 「背は、どのくらいだっけ?」  と、亀井が、女にきく。 「一七〇センチ」  と、二十歳前後の女は、ぶっきら棒に答える。  亀井は、彼女に礼をいって、帰らせてから、 「藤原さつきは、今の女より、五センチも高かったんですよ」  と、いった。係員は、戸惑いの表情で、 「そんなに大きくは、見えませんでしたけどねえ」 「どのくらいに見えたんです? あなたも、立って、応対した時間があったんでしょう?」 「ええ。駐車場の車のところに、案内する時にね。その時は、僕と同じくらいか、少し低いなと思いましたよ。それでも、女性としては、大きい方ですが」 「ありがとう」  と、十津川は、礼をいい、営業所を出た。 「どういうことなんですか? あそこで、車を借りたのは、藤原さつきじゃなかったということですか? しかし、レンタ・カーで死んでいたのは、間違いなく、藤原さつきですよ」  と、吉田がいった。 「もちろん、そんなことは、全く疑ってなどいませんよ」  と、十津川は、いった。 「しかし、わざわざ背の高い女を探して来て、あそこの男に、見せていたのは──?」 「私なんかは、背の高い女にぶつかると、まず、わあ大きいなと、びっくりします。それなのに、あそこの係の男は、全く、驚かなかったといっています。私の経験からすると、奇妙なんですよ。一七五センチの女が、ハイヒールをはき、大きな帽子をかぶっているんです。大女に見えた筈なんです。顔は覚えてなくても、とにかく、大きな女だったという記憶が残っていなければ、おかしいんですよ」 「それなのに、それを、覚えていなかった──」 「ええ、だから、疑問を、持ったんです」  と、十津川は、いった。 「しかし、十津川さん、車を借りたのが、別人だったとなると、どうなると思われているんですか?」  と、吉田が、きいた。 「藤原さつきの事故死に、自然に、疑問がわいてきますよ」  と、十津川は、いった。      3 「解釈は、二つ可能だな」  と、十津川は、亀井に、いった。  藤原さつきが、自分が、レンタ・カーを借りに行くと、張り込んでいる警察に捕まるかも知れないと思い、女Aに頼んで、借りて貰ったという解釈である。  さつきは、借りて貰ったレンタ・カー、トヨタのマークIIに乗り、最初は、東山温泉に逃げ込もうとしたが、それが出来ず、只見川沿いに、新潟県に逃げようとして、途中で転落事故を起こして、死亡したことになる。  この場合、女Aは、車を借りて貰っただけで別れたことになる。  もう一つは、藤原さつきが、交通事故に見せかけて、殺されたという解釈である。この場合、当然、犯人は女Aになってくる。  女Aは、多分、藤原さつきを、何処かに監禁しておいて、彼女の運転免許証を使って、レンタ・カーを借りたのだろう。ツバの大きな帽子をかぶり、サングラスをかければ、顔は何とか誤魔化せる。ただ、背の高さだけは、誤魔化せなかった。  マークIIを借りた女Aは、さつきの監禁場所に戻り、そこで、さつきを殺してから、車に積み込み、只見川沿いの柳津町まで走り、そこで、死体を運転席に座らせ、車ごと転落させた。  さつきの死亡推定時刻は、午後十時から十一時の間になっている。が、殺人なら、現場の柳津町で死んだ時刻ではない。つまり、現場で、死体ごと車を転落させた時は、少くとも、午後十時を回っていた筈である。  ところで、只見線の時刻表を見ると、会津柳津を出る最終は、次のようになっている。  下りの会津川口行が、二二時一〇分。  上りの会津若松行が、一九時〇九分。  上りは、とても間に合わないし、下りも、間に合わなかったと考えるのが、自然だろう。  と、すれば、女Aは、多分、車に積み込んでおいた小型バイクでも使って、逃げたに違いない。 「私は、藤原さつきが殺されたのだと思いますから、犯人は、女Aですね」  と、亀井は、いった。 「問題は、それが、誰かということだな」  と、十津川は、いった。 「警部。私は、今、木下知恵のことを考えていたんです」 「彼女は、女Aじゃないよ。木下知恵は、今もまだ、東京の病院に入っている。間もなく、退院だろうがね」 「私がいいたいのは、死んだ五十嵐社長をめぐる三人の女がいて、その中から、まず、早見友美が死に、続いて、今度は、藤原さつきが、死にました。結局、残ったのは、木下知恵だけです。もし、彼女のお腹の中に、五十嵐の子供が宿っていれば、その子が、莫大な財産を、手にすることになります。具体的にいえば、その子の母親の木下知恵がです」  と、亀井は、いった。 「恐らく、木下知恵は、妊娠していると思うよ」  と、十津川は、いった。 「おかしなものですね。彼女が、一番、犯罪に遠い感じだったんですがねえ。ひょっとすると、三人の中で、彼女が、一番の悪だったのかも知れません」 「人間は、というより、男はといった方がいいのかな。簡単に、女の外見に欺されるんだ。美人を見れば、その心まで美しいと、思い込んでしまう。私だって、てっきり、藤原さつきが、全てを企んでいると思い込んでいたんだからね」 「それにしても、彼女は、今回も、早見友美が殺された時も、いかにも怪しげな行動を取りましたよ。彼女が、犯人でないとしたら、なぜ、怪しまれるような行動を取ったのか、それが謎になってきます」  と、亀井は、首をかしげた。 「誰かに、踊らされたのさ」 「それが、女Aですか?」 「ああ、そうだ」 「とすると、藤原さつきは、女Aを、信用していたことになりますね」 「信用していたというより、藤原さつきという女も、野心満々だったんだと思うよ。五十嵐社長の莫大な財産を、手に入れたかったんだ。女Aのいう通りに動けば、それが、手に入ると信じ込んで、まず、福島の東山温泉に、出かけたんじゃないかな」  と、十津川は、いった。 「すると、今回は、どういうことになりますか?」  と、亀井が、きいた。 「木下知恵に、五十嵐社長の財産が行くように仕組んだんだとしたら、今までの推理を、根本から考える必要があるね。われわれは、誘拐に見せかけて、木下知恵を殺そうと、藤原さつきが、計画し、実行したと思っていたんだが、今になると、逆だったと思わざるを得ない」 「そうですよ。誘拐の主犯の藤原さつきが逃亡し、その途中で、事故死したと見せかけるための、芝居だったことになりますからね」  と、亀井は、いった。 「そう思って考え直すと、あの誘拐劇にも、いくつか、おかしいところが出てくるね」  と、十津川は、いった。  木下知恵は、あの時、ホテルの七階にいた。マネージャーは、隣りの部屋にいたし、警察も、警戒に当っていたのだ。  犯人の矢吹浩は、熱狂的な木下知恵のファンだった。だが、たった一人で、彼女をホテルから連れ出すことは、至難の業だったろう。第一、部屋から外に出すのだって、難しかった筈である。  ただ、本人の木下知恵が、あの誘拐劇の主犯だったら、話は別だ。  知恵が、矢吹としめし合せて、そっと、ホテルを抜け出すのは、それほど難しくはなかったに違いない。  今から考えて、おかしいことは、他にもある。  身代金要求の電話に、女の声が入っていたのだって、不自然なのだ。  藤原さつきが、主犯だとすれば、自分が黒幕だということは、絶対に知られたくない筈である。矢吹に、身代金要求の電話をかけさせている時、声を出すというのは、不注意すぎる。口出ししたい時は、メモに書いて、電話中の矢吹に見せるのが、自然なのだ。 「われわれが、木下知恵の監禁場所を突き止めたのも、今から考えると、うまくいきすぎましたね」  と、亀井が、いった。 「あれは、脅迫電話のテープの中に、断水お知らせの区役所の広報車のアナウンスが、入っていたんだったね」 「そうです。あの時、われわれは、鬼の首でもとった気になって、渋谷区役所に問い合せ、広報車の走るルートを調べ、あのマンションを、突き止めたんです」 「確かに、上手く行き過ぎたね」 「そうですよ。あの部屋にいた犯人にも、当然、広報車のアナウンスは、聞こえた筈です。これはまずいな。ここを突き止められるなという危機感は持った筈です。持たなければ、おかしいんです。それなのに、犯人は、われわれが近づいてから、あわてて逃げています。あわてて逃げたように、見せかけています」  と、亀井は、いった。 「そうだな。木下知恵を殺す余裕がなく逃げたように、思わせているね」 「われわれは、まんまと、してやられたことになりますね」      4 「あの時、犯人はわれわれを、あのマンションに導き、クスリで眠っている木下知恵と、藤原さつきの指紋のついた缶ビールの空缶を発見させようとして、まんまと、それに成功したわけだよ。われわれが、さぞお目出たく見えたろうね」  と、十津川は、いまいましげに、いった。 「すると、あの誘拐劇を演出したのも、女Aということになって来ますか?」  と、亀井が、きく。 「当然だよ。そうでなければ、おかしいんだ。それに、女Aなら、藤原さつきが飲んだ缶ビールの空缶が、簡単に、手に入った筈だよ。彼女に、信用されていただろうからね」 「そうなると、わからないことが、出てくるんですが」  と、亀井が、いった。 「どんなことだね?」 「藤原さつきと、木下知恵は、五十嵐の遺産をめぐって、表面上はどうであれ、本当は、犬猿の仲だったわけですよね。その女二人から、女Aは、信頼されていたことになります。そんなことが、あり得ますかね?」 「あり得たから、こんな事態になったんだよ。われわれが、まんまと欺される事態にね」 「そうですね」 「今のところ、女Aの計画は、成功している。藤原さつきは、邪魔な木下知恵を、誘拐に見せかけて殺そうとして失敗し、逃げる途中で、事故死した。実行犯の矢吹は、東南アジアに消えてしまい、真相を確かめようはない」 「早見友美殺しにしても、同じですね。殺したのは、自殺志願の佐々木功で、彼は、拘置所で自殺を図り、いぜんとして意識不明です。このまま、佐々木が、死んでしまえば、彼が犯人ということで、一件落着です」 「カメさん。佐々木の様子を見に行こう」  と、十津川は、いった。  佐々木は、拘置所から、日光の病院に移されていた。  七階の特別室に収容され、病室の前には刑事が二人、椅子に腰を下して、ガードしている。  十津川と、亀井は、まず、佐々木の治療に当っている中川という医者に会って、現在の状況を聞いた。 「生命《いのち》は、取り止めました」  と、中川は、十津川に、いった。 「死ぬ心配はないということですか?」 「そうです」 「それなら、なぜ、意識のない状態が、続いているんですか? このまま、植物状態になってしまうんですか?」 「それは、ありません。一番恐れたのは、首を吊った時、一時的に、血液が脳にいかなくなって、今、刑事さんのいわれたように、植物状態になってしまうのではないかということでした。しかし、若いんでしょうね。その恐れはなくなりました。当然、もう、意識を取り戻していなければ、いけない筈なのですがね」  中川は、眉をひそめて、いった。 「それなら、なぜ?」 「あの患者には、意識を取り戻そうという意志がないのかも知れません。生きようとする気力といってもいいですがね」  と、中川は、いった。 「生きる気力ですか」  十津川は、自然に、暗たんとした気分になった。 「しかし、先生。身体が回復していけば、気力がなくても、自然に、意識を取り戻すんじゃありませんか?」  と、亀井が、口を挟んだ。 「それを願って、全力をつくしていますよ」  と、中川は、いった。  十津川と亀井は、待合室に移った。外来診察の時間が過ぎているので、待合室に、患者の姿はなかった。  十津川は、そこにあった公衆電話を使って、東京の捜査本部に、かけた。  電話口に、西本刑事を呼び出し、こちらでわかったことを伝えたあと、 「木下知恵のことを、徹底的に調べてくれ。生れてから、現在までだ。それから、彼女が、妊娠しているかどうかも。もう一つ、矢吹浩についても同じように、子供の時からの経歴を、調べて欲しい。ひょっとして二人は、どこかで、つながっているかも知れないんだ」 「わかりました」 「カメさんは、今日中に帰京させるが、私は、佐々木が意識を取り戻すまで、ここに残るつもりだ」  と、十津川は、いった。  電話をすませたあと、十津川は亀井に、東京に戻って、西本たちの捜査に協力してくれと、頼んだ。 「木下知恵のこれまでの人生を調べていけば、自然に、例の女Aが、浮びあがってくると、お考えなんですね?」  と、亀井は、きいた。 「そうあってくれたらと、願っているんだがね」  と、十津川がいった時、待合室に、弁護士の結城彩子が、入って来るのが見えた。  亀井が、彼女に、軽くあいさつして、待合室を出て行った。  彩子は、十津川の傍に来ると、皮肉な眼つきになって、 「十津川さんでも、佐々木功のことが、心配になって、いらっしゃったんですか?」  と、いった。 「何とか助かって欲しいと、思いますからね。医者の話では、あとは、本人の生きる気力だけだといっていましたがね」  十津川が、いうと、彩子は、一層、皮肉を含めて、 「彼から、生きる気力を奪っているのは、彼を犯人扱いしている、十津川さんたち警察じゃないんですか?」  と、いった。      5 「しかし、弁護士のあなたが、彼を、励ましていたんじゃないんですか?」  と、十津川は、軽い皮肉を籠めて、いった。  彩子は、むっとした表情になって、 「確かに、私は、何とかして、彼を立ち直らせようと、努力しましたわ。でも、警察や検察の圧倒的な力の前には、私の説得力など、タカが知れていますわ。ですから、猶更、口惜しいんです」 「あなたにしては、珍しく、気弱な言葉ですね」 「とにかく、もし彼が、このまま死んでしまったら、私は、強く抗議しますわ」  と、彩子は、いった。  その夜、十津川は、日光市内の旅館に泊った。どうしても、佐々木功のことが、心配だったからである。  翌日、旅館で朝食をとっているところへ、電話がかかってきた。  相手は亀井で、いきなり、 「木下知恵のことですが、面白いことがわかりました。今でこそ、タレントとして、活躍していますが、芸能界に入る前、十代の頃は、相当なワルだったというのです」 「不良少女だったというわけか」 「警部も、古いですねえ」  と、亀井は、電話口で笑ってから、 「未成年の男も混えて、グループを作り、カツアゲや、覚醒剤などもやっていたらしいんです。ある日、アベックを痛めつけて金を奪ったんですが、女性の方が、重傷を負って、木下知恵は、仲間と一緒に逮捕されました。その時、知恵たちの弁護に当ったのが、誰だかわかりますか?」 「ひょっとして、結城彩子──か?」 「そうなんですよ。彼女も、弁護士になって、間もなくだったようです。その結果、木下知恵は、何とか、少年鑑別所行をまぬかれた。両親は心配して、彼女を知り合いのプロデューサーに頼んで、芸能界に押し込んだんです」 「カメさん。その時のグループに、今回の事件の矢吹浩も、いたんじゃないかな?」  と、十津川は、きいた。 「それは、まだ調べていません。すぐ、調べてみましょう」 「木下知恵が、妊娠しているかどうかは、わかったかね?」 「それは、まだはっきりしませんが、彼女が、産婦人科の病院から出て来るところを見たといっているリポーターもいるらしいんです。そのリポーターに、今日中に会って、詳しいことを聞こうと思っています」 「カメさん。少しばかり、面白くなって来たような気がするよ」  と、十津川は、いった。  その電話のあと、十津川は再び、佐々木の入院している病院に、足を運んだ。  七階にあがって行くと、中川という医者の、大きな声が聞こえた。  県警の刑事と、何か、いい争っているのだ。 (佐々木に、何かあったのか?)  と、十津川は青ざめ、佐々木の入っている特別室に向って、駈け出した。  中川医師と、県警の刑事が、いい争っている間に、分け入るようにして、 「何があったんですか?」  と、十津川は、きいた。 「佐々木功が、やっと意識を取り戻したんですよ」  と、県警の刑事がいう。十津川は、ほっとして、 「それは、良かったじゃありませんか」 「ところが、中川医師は、今は、動かしたら困ると、いい張っているんですよ。こちらとしては、すぐにでも、拘置所に連れ戻したいのにですよ」 「動かしたら、危険だからですよ」  中川医師が、腹立たしげに、いった。 「まだ、危険なんですか?」  と、十津川は、中川に、きいた。 「危険ですよ。また、いつ、自殺を図るかも知れないんですからね」 「だから、すぐ、拘置したいんですよ」  と、県警の刑事が、口を挟む。中川は、きっとした眼になって、 「その拘置所で自殺を図ったのを、忘れたんですか?」 「まあ、まあ」  と、十津川は、二人をなだめて、 「とにかく、今日、明日は、病院に置いて、様子を見ようじゃありませんか」 「そうして下さい」  と、中川医師も、いった。  そのあと、十津川は、中川を、廊下の隅まで連れて行って、 「本当のところ、佐々木の状態は、どうなんですか?」 「意識は、取り戻しましたがね。なぜ、ここにいるのか、わからない様子です」 「記憶喪失?」 「そう断定も出来ません。だから、しばらくここで、様子を見たいのですよ」  と、中川は、いった。 「わかります」 「わかって下さるとありがたいんですがね」  と、中川は、いってから、 「あの弁護士さんは、どうしたんだろうか、あの人にも、患者を動かさないように、警察に頼んで貰おうと、思っているのに」 「結城弁護士にも、知らせたんですか?」 「意識が戻ったら、すぐ知らせて下さいといわれていたんですよ。それで、すぐ、泊っている旅館に電話したんですが、もう、チェック・アウトしたといわれましてね」  と、中川は、ぶぜんとした顔で、いった。      6  十津川は、すぐにでも佐々木に会って、励ましたかったのだが、面会謝絶といわれ、いったん旅館に戻った。  夕方になって、亀井から電話が入り、矢吹浩が、やはり十代の頃、木下知恵と同じ非行グループにいて、同じ傷害事件で、捕っていることがわかった。  十津川にとって、それは、嬉しい知らせだったが、次の日になっても、病院から、佐々木に対する面会許可は出なかった。  仕方なく、十津川は、旅館のロビーで、コーヒーを飲みながら、待つことにした。  ロビーには、今日の朝刊が、置かれている。十津川は、時間つなぎに、それに眼を通していった。  スポーツ新聞も、読んだ。  その芸能欄に、ちょっと変った記事が出ていた。いつもなら、読まないのだが、時間があるままに、十津川は、読んでいった。  〈華やかな芸能界の裏で〉  と、いう見出しだった。  芸能記事にしては、ありふれたものだといえる。  有名タレントが、活躍して、CM一本が、何千万といわれているが、売れている芸能人は極くわずかで、ほとんどが、年収四百万以下である。その人たちは、いつか、スターになることを夢みて、必死に励んでいるのだが、その多くが、挫折して、去っていく。昨日も、その一人が、寂しく自殺したという。  自殺したのは、山根典子という三十歳の女優である。十九歳の時に、準ミス・岡山に選ばれたことがあり、スターを夢見て、上京した。それから、十一年。疲れ切って、1DKのマンションの一室で、昨日自殺したという記事だった。  悲しい話だが、よくある話でもある。  小さいが、顔写真ものっていた。なかなかの美人に見える。  十津川は、しばらく考え込んでいたが、急に立ち上ると、すぐ、チェック・アウトの手続きを取った。  日光駅へ行き、そこから、亀井に電話をかけておいて、十津川は、浅草行の列車に乗った。  東武浅草駅には、亀井が、迎えに来てくれていた。 「カメさんに、一緒に行って貰いたいところがある」  と、会うなり、十津川は、いった。 「何処ですか?」 「池袋の近くのマンションだよ」  と、十津川は、いった。  亀井の乗って来たパトカーで、JR池袋駅から、車で二十分ほどのところにある、古びたマンションに着く。 「確か、ここの筈なんだが」  と、十津川は、呟やきながら、そのマンションに入って行った。  管理人を、捕えて、 「確か昨日、ここで、山根典子という女優さんが、死んだね?」  と、きいた。  管理人は、刑事二人を迎えて、戸惑いの色を見せながら、 「ええ。可哀そうにねえ。きれいな人なのに、芸能界って、きれいなだけじゃあ駄目なんですね」 「彼女の部屋を見せて欲しい」  と、十津川は、いった。  管理人は、合カギで、三〇二号室を、開けてくれた。  1DKの狭苦しい部屋である。女優の部屋らしいものといえば、洋ダンスに入っている数多いドレスと、三面鏡の前に並んだ化粧品の多さぐらいだろう。 「自殺したんだったね?」  と、十津川は、部屋の中を見廻しながら、管理人にきいた。 「ええ。なんでも、青酸カリを飲んで、自殺したんです。遺書もあったといいますしね」 「どんな遺書だったの?」 「それは、警察の方が、持って行きましたよ」  と、管理人は、いった。  ここなら、豊島署の刑事が来て、調べたのだろう。十津川は、部屋の電話を使って豊島署にかけ、担当した刑事に、遺書を持って来てくれるように頼んだ。  それを待っている間、亀井は、十津川に向って、 「そろそろ、話してくれませんか? 警部は、なぜこの女性に、興味を持ったのか」  と、いった。  十津川は、すぐには返事をせず、スクラップブックを見つけ出して、それを広げて見ていた。  この部屋の主、山根典子が出演した映画や、テレビドラマのスクラップである。と、いっても、小さな役しか貰えなかった彼女だから、そこに貼られた新聞や、芸能誌の切り抜きでも、有名女優が大きく写っていて、その奥に、ちらりと写っていたり、何人もの看護婦の中の一人だったりする切り抜きだった。 「どう思う?」  と、十津川は、そのスクラップブックを、亀井に渡して、きいた。 「どうといいますと?」 「彼女の写真さ。脇役として、いろいろな人物に扮している。彼女の顔が、誰かに似ていると思わないかね?」 「誰かに──ですか?」  と、呟やいて、亀井は、見ていたが、急に「あッ」と、小さく声をあげて、 「早見友美に似ていますね。そうなんですね?」 「ああ、そうだ。早見友美に似ているんだ。顔も、身体つきも、年齢もね」  と、十津川は、いった。  豊島署の若い刑事が、問題の遺書を持って、駈けつけてきた。 「便箋に、ボールペンで書いて、三面鏡の上に広げてあったんですが」  と、いいながら、若い林という刑事は、十津川と亀井に見せた。 [#ここから1字下げ] 〈生きる気力が、わいてきません。ですから、自殺するより仕方がないのです〉 [#ここで字下げ終わり] 「署名がないね」  と、十津川が、いうと、林刑事は、 「はい。しかし、筆跡は、本人のものに間違いないんです」 「それで、自殺と考えたのか?」 「それに、彼女を殺そうと思う人もいないと思いますね。有名でもありませんし、財産もなかったようですから」  と、林は、いった。 「毒死だったんだね?」 「青酸カリを飲んでいます」 「死亡時刻は?」 「昨日の午後三時から五時の間と思います」 「理由は?」 「三時に、管理人が会っていて、午後五時に、死んでいるのがわかったからです」 「司法解剖は、したのかね?」 「まだです。これは、自殺ですから」  と、林刑事は、いう。 「自殺じゃないかも知れないよ」  と、十津川は、いった。 [#改ページ]   第九章 殺人の構図      1  十津川は、司法解剖をすべきだと主張しておいて、亀井と、捜査本部に帰った。  十津川は、なぜか機嫌が良かった。その理由を、亀井に聞かれると、 「今度の事件で、一つだけ、わからないことがあったんだよ。いや、そのいい方は、正確じゃないな。ジグソーパズルをやっていて、どうしても一ケ所だけ、そこに詰めるピースが、見つからずに困っていたというべきだろうね。そのピースが見つかって、これで、ジグソーパズルが完成したような気がするんだ」  と、いった。 「やっと見つかったピースというのは、山根典子のことですね?」 「そうだよ。彼女のような女がいなければならない筈だと思いながら、それが、なかなか見つからなくてね」  と、十津川は、いった。 「それで、どう完成したんですか?」  と、西本が、きいた。 「一人の男と、三人の女がいた。資産家の五十嵐と、彼と関係のあった早見友美、藤原さつき、木下知恵の三人だ。五十嵐が死に、彼に妻子がなかったから、三人の女が、その財産を争う構図になった。最初に狙われたのが、早見友美だ。彼女が殺された経過を見ていると、三人の人間を、必要としていたことがわかる。一人は、犯人にする人間だ。これは、自殺を考えている佐々木がいた。列車の中で、彼女を殺したのは、多分、男だな。この男は、恐らく、木下知恵誘拐さわぎで、犯人を演じた矢吹浩だろう。とすると、もう一人、早見友美になりすまして、佐々木に、バッグを預ける女がいなければならない。その女は、顔や身体つきが、早見友美に似ていて、ある程度の芝居が出来なければいけないわけだよ。どこかに、その条件を備えた女がいる筈だと信じていたんだ。いなければ、早見友美殺しは、成立しないからだよ」  と、十津川は、いった。 「それが、山根典子だったわけですね」 「そうだ。まず、彼女に間違いないと思っている。それほど、ぴったりの条件を備えた女は、そう沢山は、いないだろうからね」 「そして、全ての事件の犯人は、木下知恵であり、結城弁護士だと、思われるんですか?」  と、亀井が、きいた。 「証拠はないが、他に考えようはないんだ。結城彩子が計画したのだとすれば、説明がつくからね」  と、十津川は、いった。 「説明がつきますか?」 「理論的にということよりも、直感的になんだ。彼女は美人で、頭も切れる。それに、社会的に信用のある弁護士でもある。みんなに、信頼される存在なんだ。その上、弁が立つから、説得力もあるだろう。例えば、藤原さつきのような、気の強い女でも、今から考えると、誰かの指示通りに、動かされてしまって、最後は、誘拐の主犯のように見られ、自殺したと見られかけた。普通の人間の指示だったら、彼女は、簡単には動かされなかった筈だよ。相手が、頭の切れる弁護士だったから、いわれるままに、動いたんだ」  と、十津川は、いった。 「しかし、結城弁護士は、佐々木の弁護を引き受け、自殺しないように、説得しているんじゃありませんか?」  と、北条早苗が、きいた。 「その通りだよ。だから、私も最初は、結城彩子を信用していたんだ。弱者に対する優しさは、本物だと思ったからだ。その熱心な弁護士がつけば、佐々木も、安心だと思ったのも本当だ。だが、少しずつ、おかしいなと、思い始めた。それは、会う度に、彼女が、警察を、非難することだ。もちろん、弁護士は、被告の側に立つわけだから、佐々木を逮捕した警察を、非難するのは当然だ。しかし、彼女の非難の仕方は、いつも、警察が佐々木を自殺に追いやるみたいないい方だった。考えてみると、おかしないい方なんだよ。佐々木は、もともと自殺願望があって、会津若松から、日光にかけての旅行も、自分の心を見つめる旅だったと思われるんだ。別に、警察が追いつめたわけじゃない。むしろ、皮肉な見方をすれば、警察が逮捕し、留置したことで、佐々木は、自殺しなかったかも知れないんだ」  と、十津川は、いった。 「しかし、彼は、自殺を図りましたわ」  と、早苗が、いう。 「そうだ。佐々木は、自殺を図った。結城彩子は、これを予想して、自分に、非難がくるのを回避しようと、警察が、佐々木を自殺に追い込むのだという非難を繰り返していたんだと、私は思っているよ」  と、十津川は、いった。 「では、今度、拘置所の中で、佐々木が自殺を図ったのは、あの弁護士が、仕向けたということですか?」  と、早苗が、続けて、きいた。 「そうだよ。佐々木が、死んでくれないと、結城彩子は困るんだ。それも、自殺してくれるのが、最高だ。社会的には、佐々木は、列車の中で、早見友美を殺し、その自責の念から、拘置所内で、自殺ということになる。また、彩子としては、公判で、佐々木を弁護しなくてすむわけだからね」 「しかし、結城彩子が、早見友美殺しを計画したとして、なぜ、佐々木の弁護を、引き受けたんでしょうか? 佐々木の両親から頼まれてというのは、どうやら、嘘のようですが、引き受ければ、佐々木の無罪を勝ち取るように、動かなければならないわけでしょう? なぜ、そんな危険なことをしたんでしょうか? その辺の彼女の気持が、わかりませんわ」  と、早苗が、いう。 「彩子は、心配だったんだよ。旅行先で、たまたま見つけた佐々木を、犯人に仕立てることにした。それは、一応、うまくいったんだが、やはり、佐々木という少年が、何を考えているか、警察の取調べに対して何をいい出すか、不安だったと思うね。それで、わざわざ、弁護人になり、佐々木を監視することにしたんだと思うね」  と、十津川は、いった。      2 「すると、今度、拘置所で、佐々木が、自殺を図りましたが、あれは、弁護士の結城彩子が、そう仕向けたんでしょうか?」  と、日下が、改めてきいた。 「間違いなく、彼女がやったんだと、思っているよ」  と、十津川は、いった。 「しかし、彼女は、弁護士ですから、接見の間、露骨に、自殺しろとはいえない筈です。むしろ、励ます言葉をかける必要があるわけでしょう。励ましながら、自殺に誘うというのは、難しいと思いますが」  と、日下が、きく。 「難しいかも知れないが、易しくもあるんじゃないかな。彼女は、弁護士として、佐々木と二人だけで会える。それに、何といっても、佐々木は十代で、彼女の方は大人だし、弁が立つ。佐々木に同情するような言葉を重ねながら、彼を、自殺に持っていくのは、さして難しいことではなかったと思うよ。もともと、佐々木は、自殺願望があったわけだしね」  と、十津川は、いったあと、 「実は私も、結城彩子が、どんな言葉で、佐々木を自殺に導いていったか、知りたいと思っているんだよ」  と、付け加えた。 「全てが、木下知恵が企んで、結城彩子が計画を立て、矢吹浩や、山根典子を使ってやったことだとしても、それを証明するのは、難しいですね」  と、亀井は、いった。 「その通りだよ。特に、早見友美殺しのケースが難しい。県警は、佐々木を犯人だと断定しているし、私たちだって、最初は、藤原さつきが企んだことだと、思い込んでいたからね」  と、十津川は、いった。 「われわれは、藤原さつきが、五十嵐を殺したと考え、彼女を、尾行していたんですが、彼女の行動は、いかにも、怪しかったですよ。あれは彼女が、わざとあんな行動をとったんでしょうか?」  と、三田村が、きく。 「今から考えると、全て、結城彩子が計画し、それに、藤原さつきも、踊らされていたんだと思うね」  と、十津川は、いった。 「では、藤原さつきが、会津若松に行く途中で、電話をかけたり、白いスーツケースが盗まれたりしたことも、全て、結城彩子が計画し、藤原さつきが、その通りに動いたということでしょうか?」 「多分、藤原さつきは、最後まで、彩子が自分のために考えてくれていると、思っていたと思うよ。彩子は、最初は、藤原さつきの味方のふりをして、まず、早見友美を殺し、次に、木下知恵を誘拐した。藤原さつきは、これで、彼女が死んでしまえば、五十嵐家の莫大な遺産を、全て、自分のもの、というより、自分のお腹の中の子供のものになると、喜んでいたと思うよ。だから、彩子のいう通りに、京都から、姿を消してみせたりしていたんじゃないかな。ところが、全て、木下知恵に、全財産をつがせるための計画だったというわけだよ」  と、十津川は、いった。 「なぜ、結城弁護士は、木下知恵と、組んだんでしょうか?」  と、三田村は、一番、根本的な質問をした。 「そうだな。五十嵐社長が、殺された瞬間、三人の女が、注目を浴びることになった。お腹に、五十嵐の子がいれば、三人の中の誰でも、莫大な財産が、手に入るんだ。ライバルの二人を蹴落とせば、独占できる。ものすごい誘惑だったと思うね。また、それを、脇から見ていた結城弁護士にしてみれば、これ以上、面白いことはなかったんじゃないかね。角《つの》突き合せている三匹のメス犬がいる。この三匹を、うまく操れば、勝った犬が、全財産を握り、当然、自分も、莫大な金を貰うことが出来るだろうと思ってね。彩子は、冷静に、三人の女を見て、考えたんじゃないかな。早見友美は、三人の中では、多分、一番、野心がないように見えたんじゃないかね。野心のない女とは組めない。藤原さつきは、三人の中では、一番、野心満々だった。他の二人に、五十嵐の愛がいって、いらだっている。手を差し伸べれば、簡単にのってくるに違いない。彩子は、そう計算したと思うよ」  と、十津川は、いった。 「それなら、なぜ、結城彩子は、藤原さつきを裏切ったんでしょうか? 木下知恵と、組んだんでしょうか?」  と、三田村が、続けて、きいた。 「私が、彩子だとしても、木下知恵と組むね。藤原さつきは、あまりにも、目立ちすぎるんだ。野心を隠そうとしないし、動き廻る。どうしたって、警察が眼をつける。そこへいくと、木下知恵は、内心は、どうであれ、外見は、可愛らしい女に見える。人間というのは、外見にまどわされるものでね。藤原さつきと、木下知恵を並べると、どうしても、藤原さつきが加害者で、木下知恵が被害者という図式で、見てしまうんだよ。彩子は、それを冷静に計算して、木下知恵と組んだ方が、トクだと、考えたんだと思うね」  と、十津川は、いった。 「今までのところ、その通りになったわけですね。早見友美と、藤原さつきが死に、残ったのは、木下知恵ひとりです。しかも、危うく殺されかけたと、同情されています。そこまで、結城弁護士は、計算していたんですかねえ」  と、亀井が、いった。 「多分ね。彼女は、頭が切れるからね」  と、十津川は、いった。  北条早苗が、小さく、手をあげて、 「五十嵐が殺された事件ですけど──」 「うん」 「犯人は、結城弁護士だとは、考えられませんか?」  と、早苗は、きいた。  十津川は、ちょっと、虚を突《つ》かれた感じで、 「動機は?」  と、きいた。 「動機は、三人の女の間に、緊張感を作ることですわ。そうなれば、間違いなく、彩子の出番が、生れてくるわけですから」  と、早苗は、いった。 「カメさん。どう思うね? 北条刑事の推理は」  十津川は、亀井を、見た。 「面白い考えだと思いますね。私は、今まで、藤原さつきが、自分に冷たくなった五十嵐を殺したんだと思っていました。しかし、なかなか、証拠が見つからない。もし、結城彩子が犯人なら、証拠が見つからないのは、当然だったんです」  と、亀井は、いった。      3  亀井は、面白い推理だといったが、東京の捜査本部で開かれた会議では、異論が続出した。 「相手は、何といっても、弁護士だよ。君のいうような殺人計画を立てたり、それを、人を使って、実行したりするだろうか?」  と、いったのは、三上本部長だった。 「警察官の中にも、悪い奴もいます。同じことです」  十津川は、そっけなく、いった。 「一番、引っかかるのは、五十嵐社長殺しも、結城弁護士が計画し、実行したのではないかという点だな。彼女は、五十嵐に対して、何の恨みもなかったわけだろう。それに、差し迫った利害関係があったわけでもない。それなのに、ただ、自分の望ましい状況を作るために殺したというのは、どうかねえ。証明は出来ないだろう?」  と、三上は、いう。 「確かに、証明は困難です。動機がないといわれれば、それに反論するのは、難しいと思います。しかし、五十嵐社長が死んだ結果、結城彩子の期待する状況になったことは、事実なのです」  と、十津川は、いった。 「五十嵐社長の弟にだって、動機はあったわけだろう? 五十嵐社長が殺された時点で、動機が、はっきりしているのは、弟夫婦と、社長との関係が冷たくなってきていた藤原さつきだと、君もいっていた筈だよ」  と、三上本部長は、十津川に、いった。 「確かに、その通りです。そのため、弟夫婦について調べ、藤原さつきの尾行もしました。しかし、その後の経過を見てきますと、まず、弟夫婦の線は、消えたと考えました。もちろん、法律的には、弟夫婦にも、遺産はわたりますが、社長の子供が出てくれば、その取り分には、大きな違いが出て来てしまいます。それに、いくら、弟夫婦の周辺を調べても、彼等が犯人だという証拠は、出て来ませんでした。弟は、どちらかというと、小心で、社長の椅子を狙って、兄を殺すほどの度胸があるとは、考えられないのです」 「しかし、君はずっと、藤原さつきの線を、追っていたんだろう?」 「そうです。彼女が死ぬまでは、確かに、藤原さつきを、今回の一連の事件の容疑者と考えていました。だからこそ、彼女を、徹底的にマークしてきたわけですが、その彼女が、あんな死に方をしてしまうと、考えを変えざるを得ません」  と、十津川は、いった。三上は、皮肉な眼付きになって、 「どうも、君は、考えをころころ変えているじゃないか。次に、また変化があったら、結城弁護士犯人説も、変えるんじゃないのかね?」  と、いった。 「確かに、今までのところ、犯人に翻弄されている感じは、否定できません。私たちが、藤原さつきにだけ注目していたのは、ミスだと、反省しています。しかし、今は、彼女が犯人だったとは、思っていません。今度の事件の裏で、殺人の計画を立て、その計画通りに、藤原さつきを殺したのは、間違いなく結城彩子だと、確信しています」 「証拠はないんだろう?」 「これから、探します」 「しかしねえ。いやしくも、相手は弁護士だよ。下手をすれば、逆に、告訴され、君だけじゃなく、私も、責任を問われることになる。いや、総監だって、責任問題になってくる。それは、君にも、わかっているんだろうね?」  と、三上は、いう。 「もちろん、わかっています」  と、十津川は、いった。  結局、十津川の主張と、三上本部長の意見を、折衷したような結論になった。組織というのは、だいたい、こんな時、妥協するものである。  十津川は、これから、捜査の重点を、結城彩子と木下知恵に絞りたいといい、それは了承されたが、同時に、表立っての捜査は、禁止された。  今の段階で、結城弁護士と、木下知恵を、容疑者とするだけの確証はないのだから、反撃された時に困るという、三上本部長の心配を考慮してのことだった。特に、結城彩子が弁護士だということも、もちろん、考えてのことだった。  他にも、三上本部長の心配はあった。それは、県警に対するものだった。  特に、栃木県警は、早見友美殺しの犯人を、佐々木功と考え、その方針は、変っていない。十津川の推理は、それに真向から対立するものなのだ。  従って、今の段階で、栃木県警の捜査を批判するような言動は慎むようにと、三上本部長は、釘を刺した。  また、福島県警は、今のところ、藤原さつきの死を、事故死と見ている。それにも、配慮する必要がある。  こうした配慮をした上での捜査ということになった。      4  結城彩子と木下知恵が、以前から顔見知りだったことは、すでにわかっている。知恵が非行に走っていた十代の頃、彼女の弁護を、結城彩子が、引き受けていたからだった。  だが、それだけでは、今回の事件で、二人が結びついているという証拠にはならない。  十津川は、部下の刑事たちに、何としてでも調べる必要のあることとして、黒板に、次の項目を書きつけた。 [#ここから1字下げ] 〇結城彩子が、五十嵐社長を殺したという証拠。 〇結城彩子と、木下知恵の二人が、今回の件で、つながりを持っている証拠。 〇売れない女優の山根典子を、結城彩子が金で傭って、早見友美殺しに利用したことの証明。二人の間に、どんなつながりがあるのか、また、なぜ急に、山根典子の口を封じたか。 〇結城彩子が弁護士なのに、なぜ、こんな犯罪に走ったのか、その理由。 [#ここで字下げ終わり]  ここまで、書いてきて、十津川は、急に、北条早苗刑事に声をかけ、 「すぐ、日光へ行ってくれ」  と、いった。 「佐々木のことですね」 「そうだ。彼は、また、自殺を図りかねないからね」 「それを、させるのは、結城弁護士だと、思われるんですね?」 「そうだ。彼女が、どんな言葉で、暗示をかけるのかわからないが、この前、佐々木が自殺を図ったのは、彼女の暗示にかかったからだと、思っているんだよ」 「でも、いやしくも弁護士ですから、露骨に、死んだ方がいいなどとは、いえないんじゃないでしょうか?」  と、早苗が、いう。 「もちろん、その点は、彼女だって心得ているさ。だから、佐々木を励ますようなふりをして、自殺の衝動を起こさせたんだと、思っている。君は女だから、結城彩子の考えがわかるんじゃないかと思って、君に行って貰うんだ。何としてでも、佐々木を死なせたくないんだよ」 「わかりましたわ。すぐ、行きます」  と、早苗は、いい、部屋を飛び出して行った。  そのあと、十津川は、改めて、みんなの顔を見廻した。 「三上本部長との約束を守って、全て、内密に調べて貰いたい」  と、十津川は、いった。  西本たちが、それぞれに、仕事を分担して、聞き込みに出かけ、あとには、十津川と亀井の二人だけが、残った。 「難しいことになりましたね」  と、亀井が、いった。 「ああ。わかってるよ。結城彩子は、頭が切れるし、敏感だ。少しでも、こちらが、疑っていると気付いたら、どんな行動に出てくるかわからない。だから、彼女のことを調べる場合は、特に、慎重に動いて貰いたいと思っているんだ」  と、十津川も、いった。 「しかし、今のところ、彼女が気付いている気配はありませんよ」 「多分、今、彩子は自分に酔っているんだと、私は思っている。警察は、誰も自分のことを疑っていない。まんまと、警察を出し抜いて、五十嵐社長を殺し、早見友美と、藤原さつきを消して、木下知恵一人を残した。このあと、彼女が、五十嵐の子供を生み、莫大な遺産を引き継ぐだけだ。しかも、早見友美殺しの犯人として、佐々木功が逮捕され、藤原さつきは、木下知恵を殺すことに失敗して、自殺した。或いは、逃げる途中で、転落死したことになった。きっと、今は、勝利に酔っているんじゃないかね」  十津川は、苦笑まじりに、いった。 「逆にいえば、それが、こちらのつけ目ということになりますね。目下のところ、向うは、油断しているということで」  と、亀井が、いう。 「だが、結城彩子が、主犯だという証拠をつかむのは難しいよ。形の上では、彼女には、五十嵐社長を殺す動機はないし、早見友美殺しの犯人は、佐々木功だし、藤原さつきは、木下知恵を殺そうとして失敗して、自滅したことになっているからね」 「その結城彩子が、なぜ、佐々木の弁護を引き受けたんですかね? 栃木県警は、佐々木を、早見友美殺しの犯人として逮捕したんですから、彩子の計画は、成功したわけなのに」  と、亀井が、いった。 「理由は、いろいろ、あったと思うね。一つは、佐々木を、監視したかったんだろう。まんまと、佐々木を、早見友美殺しの犯人に、仕立てあげることに成功はしたが、ひょっとして、佐々木に、とんでもないアリバイがあるかも知れない。そんな心配もあったので、自分から、佐々木の両親に売り込んで、弁護を引き受けたんだと思うね」  と、十津川は、いった。 「それにしても、このまま公判に入ったら、どうする気なんですかね? 弁護士として、当然、佐々木の無罪を勝ち取る方向に、持っていかなければならないわけだから、ジレンマに落ち込むんじゃありませんか?」 「だから、その前に、自殺させたいのさ。自分は弁護士として、佐々木のために、全力をつくしたが、彼は、警察の無理解に抗議して、自殺してしまったことになれば、一層いいわけだからね」 「そうでしょうね」 「もう一つ、彼女が、佐々木の弁護を引き受けた理由として考えられるのは、自分を、より安全な場所に置きたかったんじゃないかということが、あったと思うよ」  と、十津川が、いうと、亀井は、肯いて、 「まさか、佐々木の弁護を引き受けた彼女が、彼を罠にかけた張本人だとは、誰も、思いませんからね」 「それに、佐々木の弁護士として動き廻っていれば、自然に、警察の動きも、わかってくる。それも、理由の一つだったと、私は、思っているんだがね」  と、十津川は、いった。 「確かに、そうですね」 「栃木県警は、佐々木が犯人と確信しているが、私やカメさんは、どうやら、彼は犯人ではないと思っているらしいと、彩子は気付いている筈だよ。それもあって、彼女は、佐々木を、自殺に追い込んだんだと、私は思っているんだ」 「それなら彩子は、また、佐々木を、自殺に追い込もうとするでしょうね」  と、亀井が、いう。 「北条刑事が、何とか、それを防いでくれると、いいんだがね」  と、十津川は、いった。 「それにしても、佐々木は、いったい、何を考えているんですかね。われわれが、こんなに心配しているのに」  亀井が、腹立たしげに、舌打ちした。 「それだけ、佐々木が、純粋ともいえるし、自分の周囲《まわり》を、見られなくなっているんだと思うよ」  と、十津川は、いった。 「純粋ですか──」 「そうさ」 「時には、純粋というのも、困りものですね」  と、亀井は、いった。 「だから、ちょっとしたことで、傷ついてしまう。弁護士の彩子にとって、そんな佐々木を自殺に追い込むことぐらい、簡単かも知れないな」  十津川は、暗い眼になって、いった。      5  少しずつ、聞き込みの成果が出てきた。  最初に、わかってきたのは、結城彩子自身のことだった。  彼女が、一度、挫折したことはわかっていたが、それが、もっと具体的にわかってきたのである。  若手の弁護士の頃、彼女は、理想に燃え、民事よりも金にならない刑事事件の方を、より多く、自分から希望して、手がけている。刑事の方は、国選弁護人としての仕事がほとんどだから、当然、金にはならない。 「その頃、彼女には、恋人がいました」  と、西本は、メモを見ながら、十津川に、報告した。 「名前は、大高信也というエンジニアです。大高は、K大工学部を首席で卒業し、N電機に入り、前途を嘱望されていた男です。彼女より、二歳年上でした。彼女との結婚を、一年後に控えていた時に、突然、体調を崩し、検査の結果、直腸ガンとわかりました。この方面の手術では、W医大の小林教授が、最高の権威といわれていたんですが、小林教授に手術を頼むには、それ相応の金と、コネが必要でした。結城彩子にも、大高にも、そんな金もコネも、ありませんでした。それに、大高という男には、一種の正義感があって、自分だけが、特別の手当てを受けることへの抵抗もあったようです。彼は、国立病院に入院し、そこの若い外科医によって手術を受けたんですが、その外科医が、未熟で──」 「亡くなったか?」 「そうです。もちろん、病院もその医師も、手術の失敗は、認めていませんが」 「なるほどね」 「その時、彩子にとって、もう一つ、大きなショックが、起きているんです」 「どんなことだ?」 「当時、彼女が働いていた法律事務所で、T建設の社長、戸田要助の弁護を引き受けていました。政治家への贈賄容疑の裁判です。この戸田の弟で、副社長をしていた戸田信男が、大高と同じ直腸ガンになりまして、金とコネを使って、W医大の小林教授の手術を受け、助かったのです」 「つまり、金とコネがあれば、生命《いのち》も助かるのだという現実に、彩子は、ぶつかったというわけだな」 「そうですね。少くとも、彩子は、人の生命も、金とコネ次第と、受け取ったんじゃありませんか。そのことについて、彩子は、他人《ひと》に話したりはしていませんが、そのことがあってから、彩子の生き方が、違って来たという人も多いのです」 「金に、執着するようになったか?」 「そうです。金にならない刑事は、やらなくなり、金になる民事、特に、社会的に地位のある人間と、コネを作れるような事件を、選ぶようになっていったみたいです」  と、西本は、いう。 「と、すると、佐々木功の弁護を引き受けたというのは、異例だったんだな?」 「そうです。最近の彼女を知ってる人たちには、異例と映ったみたいです。昔の彼女なら、自然だっただろうがとも、いっています」  と、西本は、いった。 「やはり、佐々木の弁護には、いわくがあったということでしょうね」  と、亀井が、いう。 「それだけでもないような気もしたがね」  と、十津川は、いった。  亀井が、変な顔をして、 「警部は、結城彩子に、同情されてるんですか?」 「同情はしていないさ。彩子が、佐々木の弁護を引き受けた目的は、彼の監視だろう。そして、公判の前に、彼を自殺させてしまうことだと思っているよ。ただね、彩子が、私に向って、佐々木の無実を主張したり、警察の態度を非難したりする表情を見ているとね」 「それは、芝居ですよ」  と、亀井は、言下に、批判した。 「もちろん、芝居さ。正義感に燃えて、警察の不当な扱いに抗議する弁護士を、演じているわけだ。ただね、彼女は、一瞬、芝居でなく、本気の表情をする時があるんだよ。多分、その瞬間、彼女は、昔の、本当に正義感に燃えていた頃の気持になっているんじゃないかと思ってね」  と、十津川は、いった。 「甘いですよ、警部は」 「甘いかね」 「警部は、よく、私に向って、カメさんは甘いというじゃありませんか。今度に限って、警部の方が、私より甘いですよ」  と、亀井は、いった。  確かに、その通りだと思った。  彩子は、五十嵐社長を殺した時から、もう、引き返せないところに、立ってしまっていたのだ。  その後、彼女は、自分の立てた計画どおりに、動いていたことだろう。佐々木に対しても、藤原さつきに対してもである。  佐々木の弁護を引き受けた、というより、自分から、買って出たのは、明らかに、彼を監視し、出来れば、彼を自殺に追い込むのが、目的だったろう。  そう考えても、なお、十津川は、彼に向って抗議するように、警察の対応を非難している時の彩子の言葉に、芝居だけでないものを感じたのだ。 (それは、何だったのだろうか?)  と、十津川は、思う。  彩子は、俗な言葉でいえば、金で正義を売り渡した弁護士ということになるだろう。  だから彼女は、平気で殺人計画を立て、それを実行した。佐々木も、自殺未遂に追い込み、これからも、再び、何とかして、佐々木を自殺に追い込もうとするに違いない。  だが、それにも拘らず、今でも、彩子は、若い時の正義感や、弁護士としての誇りを、引きずっているのではないかというような気が、十津川はするのだ。  それはすでに、実体のない形骸にしか過ぎないのだが。  だからこそ、逆に、彩子は、それに必死にしがみつき、警察の不法を攻撃する時、妙に生き生きとしていたのではないのか。  たいていの悪人は、悪だけでは、生きていけなくて、正義を欲しがると、十津川は、思っている。その正義は、カッコつきでもいいのだ。ある殺人犯は、自分の犯行を、社会に対する復讐だと主張したし、あるサギ師は、欺される人間の方が悪いのだといった。  そして、多くの犯罪者は、なまじ正義を持ちたがるために、自滅していった。 (結城彩子も、多分、同じことになるだろう)  と、十津川は、思ってもいた。      6 「結城彩子と、木下知恵の関係ですが、今回の事件が起きてから、二人が会っていた形跡はありませんでした。ただ、木下知恵のマネージャーが問題です」  と、日下刑事が、報告した。 「確か、名前は、井口だったね」 「そうです。その井口が、結城彩子と会っているところを、目撃されているんです」  と、日下は、いう。 「その目撃者は?」 「同じプロダクションの人間です」 「なぜ、目撃したんだろう? 二人は、きっと、内密に会っていた筈だと思うんだが」  と、十津川は、きいた。 「それが、面白い話なんです。プロダクションでは、井口が、所属タレントの何人か、その中には、当然、木下知恵も入るわけですが、それを連れて、独立しようと画策しているのではないかと、疑っていたんですよ。それで、内密に、井口を監視していたわけです。その結果、たまたま、井口が、結城彩子と会っているところを、目撃されたんです」 「それで、井口は、本当に、タレントの何人かを連れて、独立しようとしていたのかね?」  と、亀井が、きいた。 「井口というマネージャーは、なかなかの野心家だそうですが、独立するには、金が要ります。それで、プロダクションは、スポンサーが、背後で糸を引いているんじゃないかと考えていたようです」 「スポンサーというのは、他のプロダクションのことかね?」 「大手のプロダクションがです。しかし、井口が会っていたのが、女の弁護士で、彼女の背後に、大手のプロダクションのかげがなかったのでほっとしていたと、いっていました」 「しかし、金があれば独立できるとすると、その金欲しさに、あのマネージャーが、木下知恵と、結城彩子の連絡役を引き受けていたのかも知れないな」  と、十津川は、いった。 「プロダクションが、それを目撃してくれていたのは、怪我の功名でしたね」  と、亀井が、嬉しそうに、いった。 「すぐ、井口マネージャーを連行してきて、結城彩子と、何を相談していたのか、問い詰めましょう」  と、日下が、息巻いたが、十津川は、それを止めて、 「まだ、早い。今は、われわれが、結城彩子を疑っていることを、知られたくないんだよ」  と、いった。  だが、結城彩子の犯行を決定づけるような証拠は、なかなか、つかめなかった。  刑事たちの間に、焦りの色が見えた。が、十津川は、それほど、いらだちは見せなかった。  何しろ、相手は、現職の弁護士である。刑事裁判を担当したこともある人間なのだ。今回の犯行については、計算しつくしているだろうし、何よりも、警察は、最初、結城彩子を、容疑圏外に置いていたことがある。  それだけに、なかなか、結城彩子が、犯人だとする証拠がつかめなくても、仕方がないと、十津川は思うからだった。  彩子についての聞き込みは、はかどらなかったが、佐々木功のことを調べに出かけた北条早苗から、十津川に連絡が入った。 「彼は、まだ、日光の病院に入っています。それで、私、ちょっと、違法な真似をしてしまいました。何とかして、結城彩子と、佐々木の会話を知りたかったからなんです」  と、早苗は、いった。 「結城弁護士も、病院に、よく来るのか?」  と、十津川は、きいた。 「来ています。それで、内密に、病院の関係者に頼み、病室にテープレコーダーを仕掛けました」 「確かに、それは、違法だな。結城弁護士が知ったら、警察非難の恰好の材料にされる」 「わかっていますが、私は、何とかして、あの少年を助けたいんです。そのためには、結城彩子が、どうやって、彼を説得して、自殺に追い込むのか、何とかして、知りたいと、思ったんです。結城彩子は、担当弁護士ですから、佐々木に面会するのを拒否は出来ませんし、彼も二人だけで面会することが出来ます。ですから、二人が、どんな話をしているのかを知るには、違法行為をするしか方法がなかったんですわ」  と、早苗は、いった。 「それで、何か、わかったのか?」  と、十津川は、きいた。 「はい。彩子は、弁護士なのに、公判で、どう戦うかなどについては、全く話をしていません。彼女が、佐々木に話すのは、哲学や宗教のことばかりですわ」 「なるほどね」 「昨日、面会に来て、彩子が話していったのは、こんなことですわ。この世界は、本来、完全で、美しさと優しさにあふれているものなのだ」 「完全な──ねえ」 「それを、人間の汚い欲望や野心や嫉妬心が、こわしてきた。汚れた社会に変えてしまった。純粋な若者が、それに絶望するのは、当然なのだ。そして、もっとも純粋な形の抗議は、自殺だ。これまでにも、若者たちの抗議の自殺が、社会に衝撃を与え、汚れた社会を浄化してきたと」 「やはり、自殺のすすめか。それで、佐々木は、結城彩子を、信頼しているのかね?」 「ええ。信頼していますわ。それどころか、佐々木は、彼女に、愛を感じ始めているのではないかと思います」 「愛をね」 「ええ。自分では、気付いていないかも知れませんけど、テープの会話を聞いていると、私には、それが、感じられるんです。もちろん、彩子にも、わかっている筈ですわ。だから、人生経験の豊かな彼女なら意のままに、佐々木を操れると思います」 「君のいうことは、聞かないのか?」 「駄目ですわ。私も、警察の人間ですから」  と、早苗は、いった。 「わかった。もう、盗聴は止めなさい」  と、十津川は、いった。 [#改ページ]   第十章 終局へ      1  突然、スポーツ紙の芸能欄に、木下知恵の名前が大きくのった。  〈木下知恵さん告白、私は、今、妊娠四カ月。    父親は、億万長者の故五十嵐恭氏〉  それが、記事の見出しだった。それも、びっくりするような、大きな活字が踊っている。  十津川は、スポーツ紙の芸能欄など、めったに見ないのだが、その記事だけは、見逃さなかった。  記事の内容にも、もちろん、眼を通した。 [#ここから1字下げ] 〈木下知恵さんが、話してくれたところによると、自分を後援してくれる五十嵐氏を、最初は、父親のように思っていたという。それは、彼女が、幼くして父親を失ったことによるものだろう。その愛情が、いつしか、男と女の愛に変り、彼女は妊娠した。五十嵐氏が、不遇な最期をとげた時、彼女は、まるで、自分の生命《いのち》が絶たれたような気がしたという。それは、明らかに、五十嵐氏の生命が、自分の身体の中に入っているという思いから来たものだろう。  お腹の中の子が、三カ月、四カ月と、大きくなるにつれて、その思いは、より強くなってきたと、彼女はいう。今、告白する気になったのは、どうしても、生れてくる子供を、五十嵐氏の子供として育てたかったからだという。「お金なんか欲しくはありません。生れてくる子供の父親が欲しいんです」と、彼女はいっている〉 [#ここで字下げ終わり]  また、その記事のあとには、木下知恵の弁護士として、結城彩子の談話が、のっていた。 [#ここから1字下げ] 〈木下知恵さんは、純粋に、子供のためといっていますが、弁護士としては、彼女の生活ということも、考えざるを得ません。仕事も出来なくなりますし、子供が生れたあとは、当然育てなければなりません。私は、弁護士として、当然の要求をすべきだと思っています〉 [#ここで字下げ終わり] 「とうとう、敵は、正体を現わし、本音を、喋り始めましたね」  と、亀井が、いった。 「ああ、木下知恵も、結城彩子もだ」  と、十津川も、いった。  きっと、今が、告白のチャンスと、思ったのだろうし、その判断を下したのは、結城彩子に違いない。  当然のことのように、テレビが、この告白に飛びついた。  全部のテレビのワイドショーや芸能タイムが、木下知恵の告白で埋められた。何しろ、五十嵐恭が残した財産は、何百億で、妻子がいないから、全て木下知恵の生む子供のものになるからだ。 「本当に、お腹の中の子供は、死んだ五十嵐の子供ですか?」  と、意地悪くきくリポーターもいた。それに対して、知恵は、涙ぐみながら、 「私は、どんな検査でも受けて、お腹の子が、五十嵐さんの子供であることを、証明したいと思っています」  と、テレビの中で、喋っていた。  結城彩子は、そんな彼女に付き添って現われ、 「疑われているのはいけないから、私からも、彼女に、血液検査でも何でも、受けるようにすすめているんです」  と、笑顔で、いっていた。  自信満々の顔だった。 「彼女に会いたくなったね」  と、十津川は、いった。  十津川と亀井はその夜、四谷のホテルのロビーで、結城彩子に会った。彼女の方で、そこを指定してきたのだ。 「ご活躍ですね」  と、十津川は、皮肉をこめて、いった。 「木下知恵の方から、ぜひ頼むといわれて、テレビの前に、引きずり出されることになったんですわ」  と、彩子は、いった。 「彼女が十代でぐれていた頃、あなたが、その弁護をしていますね。あなたがまだ若くて、正義感にあふれていた頃だ」 「それも、お調べになったんですか?」 「調べましたよ」 「私は、忘れていましたわ。彼女の方では覚えていて、今回のことで、力になってくれと頼まれたんですわ。それで、断り切れなくて」  と、彩子は、いった。 「それだけですか?」  と、十津川は、きいた。 「それだけって、何のことでしょう?」 「佐々木のことがあるでしょう」 「彼は必ず、私が無罪にして見せますわ。十津川さんには、申しわけありませんけど、警察と検察の横暴をあばいてやるつもりです」 「それは、まずいんじゃありませんか」  と、十津川は、いった。 「何が、まずいんです? そりゃあ、警察や、検察は、困るでしょうけど」  と、彩子は、いう。 「いや、あなたが、困るんじゃないかと、いってるんです」 「なぜ、私が、困るんです?」 「佐々木が無実ということになれば、早見友美を殺した真犯人がいることになる。警察としては、面目にかけて、探し出さなければならない。少くとも、私は、探しますよ」 「どうぞ」 「私の予感では、真犯人を探していけば、あなたに辿りつく」 「バカな。私は、弁護士ですよ」 「弁護士だって、犯罪をおかしますよ。刑事だって、犯罪に走るようにね」 「なぜ、私が、そんなことをしなければなりませんの?」 「金のためか、野心か。私にもわかりません。だが、あなたが、早見友美殺し、藤原さつき殺し、いや、その前の五十嵐社長殺しに関係していることは、間違いないと、私は、確信しているんですよ」  と、十津川は、いった。 「事件のことは、知っていますけど、私は、関係ありませんわ」 「あなたは、少しばかり、やりすぎたんですよ。そのいい例が、佐々木の弁護だ。いや、佐々木を犯人に選んだことが、間違いだったんだ。あなたは、きっと、ひとりで旅行している佐々木を見て、犯人に仕立てるには、絶好の少年だと思ったんでしょうね。眼は何となく、うつろだし、金もない感じがする。金のためなら、殺しだってやりそうな、現代の無軌道な少年に見えたんだと思う。ひょっとすると、クスリをやってるかも知れない。だから、佐々木を、殺人犯に仕立てあげた。仕立てあげるのは成功したが、佐々木は、よく考えれば、一番、不適格な少年だったんですよ。自殺願望の少年だった。そんな少年が、金のために人殺しをする筈がないからですよ。あわてたあなたは、佐々木の弁護を引き受けた」 「それは、彼のご両親から依頼されたからですわ」 「両親は、あなたの方から、申し出があったといっていますがね」      2 「あなたは、何とかして、佐々木を、自殺させてしまおうとした。あなたは、少年が、警察に抗議して自殺したと発表し、警察は、彼が犯人だと断定し、事件は終了する。これが、あなたにとって、一番、望ましい結末だったんじゃありませんか」  と、十津川は、いった。 「十津川さんのいっている意味が、よくわかりませんけど」  と、彩子は、笑いを浮べて、いった。十津川は、彼女の言葉には構わず、 「あなたの思惑どおり、佐々木は、自殺を図ったが、助かってしまった。なぜ、自殺に失敗したか、わかりますか?」 「きっと、運が良かったからだと思いますわ」 「本当に、そう思っているんですか?」 「ええ。違うんですか?」 「あなたは、美しい」 「え?」 「それに、佐々木には、あなたが優しく見えた」 「──」 「佐々木のような、自殺を考えるような純粋な少年は、女には、おくてなものですよ。そんな佐々木の前に、年上で、美しく、優しいあなたが現われたんです。彼は、生れて初めて、恋をしたんですよ」 「何をバカなことを、おっしゃってるんですか?」 「そうか。さすがのあなたも、気付かなかったのか。つまり、佐々木は、初めて恋をして、生きる希望を見つけてしまったんですよ。あなたが必死になって、自殺に追い込んだから、自殺を図りはしたが、うまくいく筈はなかったんです。これから、佐々木が、どうすると思いますか? 必死になって、あなたに気に入られようとしますね。恋する男は、そうするものです。あなたは弁護士で、表面上は、佐々木の無罪を主張している。だから、彼も、自分の無罪だという証拠を見つけようとしますよ。もともと、頭のいい子だから、自分が、早見友美だと思っていた女が、実は、山根典子という別の女だったことに気がつきますよ。あの年頃は、まだ記憶力がいいですからね。われわれとしては、山根典子と、あなたとの関係を調べていく」 「そんな女優さんなんか、私は、知りませんわ」 「ほう。面白いな。なぜ、女優だと、知っているんですか?」  と、十津川は、微笑した。  彩子は、一瞬、狼狽したが、すぐ立ち直って、 「確か、それらしい新聞記事を、見ましたから」 「あなたは、やり過ぎたんですよ。自分の能力を過信したんだ。その失敗の第一歩が、佐々木の弁護を引き受けたことですよ。藤原さつき殺しでも、木下知恵の誘拐劇でも、あなたは、やり過ぎて、どんどんホコロビが出てくる。あなたは、弁護士としては、プロかも知れないが、殺しでは、可哀そうにアマチュアなんだ」  十津川は、語気を強めて、いった。  少しずつ、彩子の顔が、青ざめていった。 「明日の仕事がありますから、失礼しますわ。よく、寝ておかなければなりませんの」  と、彩子は、いった。 「どうぞ。よく、寝て下さい。眠れればね」  と、十津川は、いった。  彩子は、立ち上り、ロビーを出て行った。  亀井は、じっと、それを、見送ってから、 「彼女、かなり、参ったようですね」  と、十津川に、いった。 「彼女は、しょせんは、殺しのアマチュアなのさ。今頃、どこでミスを犯しただろうかと、不安で仕方がない筈だよ」  と、十津川は、いった。 「さっそく、山根典子と、結城彩子の関係を調べましょう。どこかに、接点がある筈です」 「もう、調べさせているよ、カメさん」 「さすが」 「おだてないでくれ」  と、十津川は、笑った。  二人も、立ち上って、ロビーを出ると、パトカーに戻った。 「佐々木は、もう、自殺しないと、思いますか?」  と、亀井が、車をスタートさせてから、十津川にきいた。 「佐々木が、どうやら、結城彩子に恋をしているようだと、北条刑事がいってきたときから、もう大丈夫だと思ったよ。初恋なら、なおさらだ」  と、十津川は、いった。 「彩子にしてみれば、複雑な気持でしょうね。自殺させようと思っている少年が、自分に恋をしたというのは──」  と、亀井。 「前にもいったけど、彩子にだって、純粋に正義感に燃えていた時があった。悲しいことに、その尻っ尾が、まだ、彼女にはくっついているんだ。だから、完全な悪人になり切れなかった。特に、佐々木の前ではね。悪人になり切っていたら、佐々木の息の根を止めているさ」  と、十津川は、いった。 「恋する少年ですか──」  急に、亀井が、子供のような眼になった。 「どうしたんだ? カメさん」 「自分の初恋の頃を、思い出しましてね」 「カメさんの初恋は、早かったんだろうね」 「いや、遅かったです。何しろ、東北の田舎の生れですから。覚えているのは、やたらにどきどきして、破れた時はやたらに、痛かったですよ」  と、亀井は、いった。 (佐々木は、破綻の決っている初恋をしているんだ)  と、十津川は、思った。      3  十津川は、最初の五十嵐社長殺しに、焦点を絞ることにした。  早見友美殺しや、藤原さつき殺しについては、結城彩子も、用心しているだろう。だが、五十嵐社長殺しについては、自分が、容疑圏外に置かれている筈だと思い、油断していると、思ったからだった。  確かに、五十嵐社長が殺された時点で、彩子は、容疑者になっていない。いや、それどころか、結城彩子という名前すら、捜査員の頭に浮んでいなかったのだ。  彩子の名前が、初めて、浮んで来たのは、早見友美が、アルペンライナーの中で殺され、犯人として、佐々木功が、逮捕されたあとである。それも、佐々木の弁護士としてである。  と、なれば、彩子は、自分が、五十嵐社長殺しで疑われるとは、夢にも思っていないだろう。  油断もしているだろうし、殺した時に油断し、甘く見て、ついうっかり、証拠を残しているかも知れない。  十津川は、亀井と、五十嵐社長が殺されていたマンションを、もう一度、調べてみることにした。  改めて、室内の指紋を採取し直し、室内を調べた。 「五十嵐は、犯人を、室内に入れています。だから、親しい女性だろうと、思っていたんですが、犯人が結城彩子だったら、簡単に中に入れたでしょうか?」  と、亀井が、きいた。 「ただ、弁護士ですといっただけでは、もちろんこの部屋には入れないだろう。しかし、五十嵐と関係のあった三人の女の依頼を受けた弁護士といえば、部屋に入れるんじゃないかね。早見友美でも、藤原さつきでも、木下知恵でもいいんだ。お腹の中の子供のことでとでもいえば、五十嵐は、内密に会いたいというんじゃないかね」 「そうだとすれば、五十嵐は、結城彩子が、アポイントを取った時のことを、どこかにメモしている可能性がありますね」 「そうだな」 「この部屋にはないでしょうね。結城彩子が、ここで、五十嵐を殺したとすれば、自分が来たことを証明するものは、全部探して捨てたでしょうからね」 「と、すると、社長室か」 「あとで、寄ってみます」  と、亀井は、いった。  結局、マンションの部屋からは、結城彩子に結びつくものは、何も見つからず、鑑識に、指紋採取だけを頼んでおいて、二人は外に出た。  亀井が、その足で、五十嵐恭がやっていたASK金融に廻った。  十津川が、ひとり、捜査本部に戻ったのは、やはり、佐々木のことが気になったからだった。彼が、結城彩子に恋して、そのために、自殺の誘惑からまぬかれているとしても、彩子が、それに気付けば、わざと冷たくして、また佐々木を自殺に追い込むことだって、可能なのだ。  日光にいる早苗に、そのことを、注意してから、 「結城彩子は、姿を見せているのか?」  と、きいた。 「ここのところ、全く、姿を見せていませんわ。そのことで佐々木は、明らかにいらいらしています」 「彩子は、今、木下知恵のお腹の中の子に、五十嵐恭の遺産をつがせる手続きで、一生懸命なんだ」 「それなら、当分、こちらに、来ませんか?」 「いや、彩子は、邪魔になる人間は、必ず、きちんと消しておく女だとみた方がいい。それに、今が、彼女にとって一番大事な時だから、あとで障害になりそうな佐々木は、自殺に追い込んで殺すさ」 「そういえば、佐々木は、今、看護婦から、メモ用紙とボールペンを借りて、必死になって、福島でのことや、列車内でのことを思い出して、メモしているそうです。それを、弁護士の結城彩子に見て貰うんだといって」  と、早苗が、電話で、いう。 「可哀そうにな。彩子が、自分を助けようとしている美しい女弁護士で、佐々木は、彼女に気に入られようとしているんだろう。一層、彩子が危険視するのを知らずにね」 「何とか、彩子を、逮捕できませんか? 彼女がやって来たら、弁護士としての権利で、佐々木と自由に会いますわ」  と、早苗は、不安気にいう。 「努力はしているさ」  と、十津川は、いった。  ASK金融から、亀井が、戻って来た。  亀井は、十津川に向って、ニヤッと笑ってから、 「見つけましたよ」  と、いって、手帳を差し出した。 「五十嵐の手帳か?」 「そうです。社長室の机の引出しに入っていました。その三月九日のページを見て下さい」  と、亀井が、いう。  十津川は、そのページを開けた。  予定のところに、次の文字が見えた。   PM 10.00 弁護士 Saiko, U      4 「五十嵐が毒殺されたのは、三月十日の午前二時から、三時の間だったな」  と、十津川が、いう。 「九日の午後十時に、彩子が、あのマンションに五十嵐を訪ねたとして、死ぬまでに、四時間から五時間、かかっています」 「少し長いな」 「それを、こう考えてみたんです。初対面ですから、簡単には、毒を飲ますことは、出来なかったんだと思います。一方、五十嵐は女好きです。それに、結城彩子は、今までに、五十嵐がつき合っていたモデルや、タレントや、クラブのママとは違って、女弁護士というインテリ女性です。だから、触手が動いて、三月九日の夜、わざわざマンションで会うことにしたんだと思います」 「そうか、五十嵐は、彼女と寝る気だったんだ」 「実際に、寝たのではないかと思います。そうしなければ、五十嵐に、油断させて青酸を飲ませるチャンスがなかったんじゃありませんか。そう考えれば、四時間から五時間かかったのも、納得がいくんです」  と、亀井が、いう。 「ベッドに結城彩子の髪の毛が、落ちているかも知れないな」 「事件の直後に、鑑識がベッドの髪の毛を採取して、調べていますよ」 「そうだった。しかし、何人もの女の髪の毛があって、誰か一人が一緒だったという決め手にはならないと、困っていたんだ」 「そうです」 「今度は、採取した髪の毛の中に、結城彩子のものが、一本でもあればいいんだ。鑑識は、あの髪の毛をとってある筈だな」 「事件が終っていませんから、保存してある筈です。ただ、結城彩子の髪の毛を、どこからか、持って来なければなりませんが」  と、亀井が、いう。 「彼女だって、美容院へ行くだろう。北条刑事は日光だから、誰か、婦人警官に、彩子を尾行させて、彼女が美容院に入ったら、彼女の髪の毛を拾ってくるように、指示しておいてくれ」  と、十津川は、亀井に、いった。  弁護士でも、彩子は、外で働く若い女である。一週間に一度は、美容院に行くだろうと、十津川は、考えた。  十津川の計算が当って、三日後、彩子を尾行していた婦人警官が、彼女の行きつけの美容院で、髪の毛を手に入れることに成功した。  すぐ、それを鑑識に持って行き、五十嵐恭のベッドから採取した女の髪の毛の一本一本と、比較して貰った。  三時間後に、結果が出た。  間違いなく同じものが、五十嵐恭のベッドにあったという報告が、十津川のもとに届いた。 「これで、結城彩子を追及する武器が、手に入りましたね」  と、亀井が、嬉しそうに、いった。 「カメさんさっそく、彼女に会いに行こう。五十嵐殺しで、攻撃されるとは思っていないだろうから、驚くぞ」  十津川が、嬉しそうに、いった。  西本と日下に、重要参考人として、連れて来るように命じたのだが、西本が、 「東京の事務所に、彼女はいません」  と、電話してきた。  十津川は、舌打ちした。 「佐々木を始末しに、日光へ行ったんだ。われわれも、すぐ行こう」  と、十津川は、亀井に、いった。  二人は、東武の特急列車で、日光に向った。  日光に着くと、タクシーで、佐々木の収容されている病院に向う。  病院の前には、北条早苗が、待っていて、 「結城彩子が来て、今、佐々木に会っていますわ」  と、いった。 「わかってるよ」  と、十津川は、いった。  十津川たちが、三階にあがって行くと、病室から、彩子が、上気した顔で出て来たところにぶつかった。 「ああ、十津川さん」  と、彩子の方から、声をかけてきた。 「佐々木に会いに来たんですね」 「弁護士としては、当然の権利ですわ。十津川さんも、佐々木に会いに来られたんでしょう?」 「いや、あなたに会いに来たんです」  と、十津川は、いった。 「私に? ケンカをするためにですの? 私は、佐々木功の無実を確信していますよ」  と、彩子は、笑顔で、いう。 「佐々木のことではなく、あなた自身のことで、話があるんです」  と、十津川は、いった。 「私自身のこと?」 「そうです。静かな場所で、話したい」  と、十津川は、いった。  病院の屋上へ行くことにして、十津川は小声で、早苗に、 「佐々木の様子を、見ててくれ」  と、いった。  早苗が、病室に行くのを見届けてから、十津川は、亀井と彩子を、屋上に連れて行った。  春の陽光が、降り注いでいた。十津川たちの他に、人の気配はない。 「五十嵐恭という男を、知っていますか?」  と、十津川は、きいた。 「ええ。知っていますよ。今、木下知恵の弁護を、引き受けていますから。彼女のお腹の中の子に、五十嵐家の財産を引きつがせるために、働いていますから」  と、彩子は、いう。 「生前の五十嵐社長に、会ったことは、ありますか?」 「ぜんぜん。木下知恵の弁護士として、働くようになったのは最近ですから。初めて、五十嵐社長という人を知ったんです。生前の五十嵐社長を知っている筈がありませんわ」  と、彩子は、いった。 「五十嵐社長が、毒殺されたことは、知っていますか?」 「ええ。それも、木下知恵の弁護を引き受けてから、初めて知ったんです。でも、なぜ五十嵐社長のことばかり?」 「実は、あなたが、五十嵐社長を、殺したのではないかという疑問を、持っているんですよ」  と、十津川は、いった。 「なぜ、そんなバカなことを? 生前の五十嵐社長に、私は、会ったことも、話をしたこともないんですよ」 「彼のマンションに行ったことも、ありませんか?」 「もちろん、ありませんわ」 「おかしいな。あなたが、五十嵐恭のマンションに行ったという証人がいるんですがね」  と、十津川は、いった。 「そんな人がいるのなら、連れて来て下さい。嘘をいっているのに、決まっていますから」 「実は、私なんですよ」 「十津川さんが?」  彩子の顔に、初めて、かすかな不安の色が、浮んだ。 「そう。私が、証人なんです」 「見たんですか?」 「ええ。しかも、五十嵐社長が、殺された時にね」 「そんなバカなことがある筈がないわ」 「私も、わけがわかりませんでしたね。あなたには、五十嵐社長を殺す動機が、ありませんからね」 「当然ですわ」 「ところが、やっと、動機を見つけたんですよ。あなたは、あなたの活躍する状況を作りたくて、五十嵐社長を、殺したんです。意外な動機でしたが、わかれば、複雑でも何でもなかったんですよ」  と、十津川は、いった。      5  彩子の顔が、少しずつ、歪んできた。 (やはり、五十嵐社長殺しが、この女弁護士にとって、アキレス腱だったのだ)  と、十津川は、思いながら、 「五十嵐が死んで、莫大な遺産が残された。彼と関係のあった女が三人いて、もし彼女たちが、彼の子供を身籠っていれば、その子は、莫大な遺産の受取人になる。三人とも欲張りで、お互いに、疑心暗鬼の眼で見ている。そうなれば、あなたの活躍の場が生れる。そういう状況を作るのが、あなたの動機だったんですよ。面白い動機だ」 「刑事が、そんな、でたらめをいっていいんですか?」 「証拠があるんですよ」  十津川は、持って来た五十嵐の手帳を、取り出し、三月九日のページを広げて見せた。 「ここに、あなたの名前が、記入してあるんですよ。三月九日の夜十時に会うという記入ですよ。彼が毒殺されたのは、十日の午前二時から三時です。あなたは、九日の夜十時に、五十嵐の自宅マンションに、彼に会いに行き、午前二時から三時までの間に、青酸を飲ませて殺したんだ」  と、十津川は、いった。 「でたらめだわ」 「それなら、なぜ、五十嵐社長の手帳に、あなたの名前が、書かれているんですかね?」 「何かの間違いだわ」 「多分、あなたは、内密に会いたいと、五十嵐社長に申し入れたんだと思う。彼と関係のあった三人の女の誰かに依頼されて、手切金のことで話したいとでもいってね。社長にしてみれば、名誉なことじゃないから、全て内密にするだろうと、読んだんでしょうね。ところが、五十嵐という男は女好きでね。あなたが、女弁護士で、しかも、美人と聞いて、女として興味を持ってしまったんだな。だから、手帳にも、ちゃんと書き込んだし、夜おそく、マンションで会うことにしたんですよ」  と、十津川は、いった。  彩子は、黙って、必死に考えている。何とか、この苦境を乗り切ろうと、考えているのだろうと、十津川は推測しながら、 「そして、三月九日の夜、あなたは、五十嵐社長のマンションに、出かけた」 「行っていません!」  と、彩子は、叫んだ。 「おかしいな。行った証拠があるんですよ」 「そんなもの、ある筈がないわ」 「あのマンションの寝室に、ちょっと、趣味の悪い大きなベッドがあるんですよ。ルイ何世風とかいうやつです。そのベッドで、五十嵐は何人もの女と寝た。あなたも、あのベッドで、五十嵐と寝たんじゃありませんか?」 「告訴しますよ」 「告訴する?」 「そんな失礼なことをいえば、本庁の刑事だって、名誉毀損で告訴します」 「事実をいっても、告訴されるんですかね?」 「事実? 何が事実なんですか!」  と、彩子は、声をあげた。 「結城さん。あなたも、刑事事件の弁護をやったことがあるから、わかると思うんだが」 「何でしょうか?」 「刑事は、証拠もなしに、相手を犯人扱いしたりはしませんよ。まあ、中には、そうでない刑事もいるかも知れませんが、私は違う。証拠もなしに、あなたにこんなことはいいません」  と、十津川は、まっすぐに彩子を見つめて、いった。  彩子の顔が、青ざめてくるのが、わかる。 「われわれは、三月十日に、五十嵐社長の死体を発見した時、あのベッドから、何本かの毛髪を、採取しているんですよ。つまり、あのベッドで、寝た人間の髪の毛です。その時、その中に、あなたの毛髪があるなどとは、考えてもみなかった。事件の中に、あなたの名前など、全く、浮んできていませんでしたからね。あなたは、五十嵐社長とも、全く無関係の人だった。そんな人が、殺人をやるとは、思っていませんでしたからね。だが、あなたも小さなミスをした。五十嵐社長に簡単に、毒を飲ますことが出来ると思っていたんだろうが、そうは、いかなかった。多分、例の三人の女のことで、弁護士として、話があるといったのだろうが、五十嵐は女好きだ。インテリで、美人のあなた自身に、興味を持った。だから、わざわざ、夜の十時に、自分のマンションに呼び寄せた。五十嵐は、あなたの身体が目的だから、ベッドに誘った。当然のこととしてね。あなたは、何とかして、青酸を飲ませたいから、仕方なく、五十嵐とベッドを共にした。そのあとでは、五十嵐は、簡単に、青酸を飲んだと思いますね。彼は、自信家だから、まさか、あなたが、自分を殺しに来たとは、思っていなかったでしょうからね」 「──」 「同時に、あなたにも油断があった。普通なら、犯罪現場に、髪の毛を残すような人じゃないと思う。だが、自分が絶対に容疑者にならないという自信があったので、あなたは、指紋だけは拭き取ったものの、ベッドに落ちた髪の毛は、拾って帰らなかった。だから、あなたの髪の毛が残っていて、今になって、五十嵐社長殺しの証拠になってしまったんですよ」 「それが、なぜ、五十嵐社長殺しの証拠になるんですか?」  彩子は、青ざめた顔でいい返した。が、その声には、勢いがなかった。  彩子は、頭のいい女だ。自分が、今、追い詰められて、身動きならなくなっていることに、気付いている筈だった。声に力がないのは、その証拠だろう。 「あなたは、生前の五十嵐社長には、会ったこともないと、いっているんですよ」 「それなら、生きている五十嵐社長に会ったことは認めますわ。あのマンションで、彼と寝たことも。でも、殺してはいません。偽証罪で逮捕したければしてもいいわ。でも、殺人容疑で、逮捕なんか出来ないわ」  と、彩子は、いった。  十津川は、そんな彩子を、あわれむように見て、 「あなただって、法律を学んだんだ。しかも、頭が切れる。偽証罪なんかですむ筈のないことは、よくわかっている筈ですよ。われわれだって、あなたを、五十嵐社長殺害の容疑で逮捕し、起訴するつもりです。そうなれば、木下知恵や、彼女のマネージャーは、きっと、全ての罪をあなたにおいかぶせて、自分たちは、何も知らなかった、あなたのいわれるままに動いただけだと主張するに決っている。眼に見えるようですよ。あなたは、計画を立て、自分の思うままに、欲に眼がくらんだ女たちや、男たちを動かしたと自覚しているかも知れないが、そんなものは、いざとなれば、音を立てて崩れてしまうんですよ」  と、十津川は、いった。      6  十津川は、彩子を、五十嵐社長殺しの容疑で、正式に逮捕し、起訴した。  そのあとは、十津川の予想どおりに、進展した。木下知恵と、マネージャーは、たちまち怯えて、自分たちは、五十嵐恭の遺産など欲しくなかったのに、彩子に欺されて、いうがままに動いてしまった。早見友美を殺したのも、藤原さつきを殺したのも、山根典子を殺したのも、全て、彩子がひとりでやったことで、自分たちは共犯なのだと脅かされて、仕方なく追《つ》いていったのだと、主張した。  留置されている彩子に、十津川が、そうした動きを伝えると、 「十津川さんの予想した通り、みんな、私を裏切っていくんですね」  と、自嘲するように、いった。 「いや、一人だけ、今でも、君を信じている人間がいる。佐々木功だよ」 「彼が? 私が、罠に落として、その上、自殺に追いやろうとしたのに?」 「彼は、君に恋をしたんだ」 「私に?」 「やはり、まだ気がつかなかったのか。彼にとって、多分、女の人を好きになったのは、生れて初めてだと思うね。彼は、君に恋をし、おかげで、生きたいと思うようになった」 「皮肉ね」 「ああ、そうだな」 「私の本当の姿を、教えるんでしょう? あの女弁護士は、本当は、お前を罠に落とし、その上、殺そうともしたんだと」  と、彩子が、きく。  十津川は、小さく、首を横に振った。 「自然に、わかるまでは、そのままにしておくつもりだ」 「でも、あの子は、頭のいい子だから、すぐ、真実を知ってしまうわ」 「多分ね」  と、十津川は、いった。  佐々木が、釈放されたのは、五日後だった。  彩子が、いった通り、佐々木には、その時には、全てがわかったらしく、釈放されても嬉しそうな表情を見せず、かえって悲しげだった。  十津川は、日光警察署の前で、佐々木を迎えた。 「君は、両親に、迎えに来ないでくれと、いったそうだね」 「今は、誰にも会いたくないんです。あなたにもです」 「そうか。だが、私と一緒に見に行って欲しいところがある」 「それは、義務ですか?」 「そう考えてもいい」  と、十津川は、いった。  十津川は、佐々木を車に乗せて、日光東照宮の前まで、連れて行った。  車を降り、十津川は、佐々木と、陽明門の前まで歩いて行った。 「君に見せたいのは、あそこに並んでいる十二本の柱だ。あの中の一本だけ、わざと、模様が逆になっている。なぜ、そんなことをしたのか、わかるかね? この世の中に、完全な美しさとか、完全な正義なんかないことを、あれを、作った人は、知っていたからだ。だからわざと、完全には作らなかった。社会も、人間もだよ。善人もいれば、悪人もいる。欺される人間もいれば、欺す奴もいる。殺される人間もいれば、殺す奴もいる。それが、この世の中さ。私が生き、君が生きている社会だ。個人だって同じだ。完全な善人など、いやしない。いい人だと思っていた友人が、ある日、突然、悪人になる。君を欺す。私はね、そんな人間を、何人も見てきている。殺人があって、犯人を捕えると、みんな、あんないい人がどうしてという。生れつきの悪人なんて、めったにいるものじゃない。普通の人間が、ある日、突然、人殺しに変るんだよ。君だって、私だってだ。それが人間だし、この社会だ」  と、十津川は、いった。  佐々木は、何もいわなかった。 「私のいいたかったことは、これだけだ。あとは、君の好きなようにすればいい。日光駅には、君の両親がいる。私が、呼んでおいた。まっすぐ、日光駅へ行って、両親に会うのもいいし、会いたくなければ、このまま姿を消せばいい。君も、今度のことで、大人になったと思うからね」  と、十津川は、いって、佐々木の傍を離れて、歩き出した。  途中で、亀井に、会った。 「佐々木は、どうしました?」  と、亀井が、心配そうに、きく。 「陽明門のところに、置いて来たよ」  と、十津川は、いった。 「大丈夫ですか?」  と、亀井が、陽明門の方に、眼をやった。 「どうかな。私にも、わからないよ」 「駅には、彼の両親が、迎えに来ているんでしょう?」 「ああ」 「あいつの首に縄をつけて、両親のところへ、引きずって、行ったらどうでしょうか? 両親は、あんなに、心配しているのに」  と、亀井は、いまいましげに、いった。 「カメさんなら、そうしたろうね」 「ええ。そうしますよ」 「私はね、迷ったんだ。何が、佐々木にとって、いいことか、わからなくてね」  と、十津川は、いった。 「奴はまだ、子供ですよ。図体ばかり、でかくても」 「いや、私は、今度のことで、佐々木が何歳も年をとり、立派な大人になったと思っているんだ」 「そうでしょうか?」 「だから、私は、彼の好きなようにさせるのが、一番いいと思ったんだ」  と、十津川は、いった。  自信はない。多分、首に縄をつけてといっている亀井にだって、自信はないだろう。  迎えに来た両親にも、いや、佐々木本人にもである。  自信がなくても、生きなければならないのだと、十津川は自分にいい聞かせて、歩き出した。  単行本 平成七年三月 読売新聞社刊 〈底 本〉文春文庫 平成九年四月十日刊