[#表紙(表紙.jpg)] 西村京太郎 恨みの三保羽衣伝説 目 次  恨みの箱根仙石原  恨みの箱根芦ノ湖  恨みの浜松防風林  恨みの三保羽衣伝説 [#改ページ]   恨みの箱根仙石原      1  原口は、箱根湯本行の小田急ロマンスカー「はこね21号」の車内で、あらためて、三日前に受け取った手紙を、読み直した。 [#ここから1字下げ] 〈先生のご本は、いつも楽しく拝見させて頂いています。特に、先日、お出しになった「怪奇現象の謎を解く」は、小気味のいい分析と、冷静な判断で、社会にはびこるインチキな幽霊話や、エセ超能力を斬って捨てておられます。読みながら、思わず拍手喝采してしまいました。  私も、どちらかといえば、いわゆる怪奇現象とか、超能力といったものは、信じない方なのです。  テレビなどが競って、心霊写真だとか超能力を取りあげるのを見て、その馬鹿らしさに呆れていたので、先生のお説には痛快さを覚えておりました。  ただ私は、本物の幽霊や本物の超能力というのは、この世に存在するのではないかと思います。いえ、思っているのではなく、最近その一つにぶつかったのです。そのことをぜひ先生に聞いて頂いて、いえ、こちらへ来て、見て頂きたいと思います。  箱根の仙石原《せんごくばら》に、若い女の幽霊が出るという噂は、前からありました。もともと箱根は、関所のあった所なので、それにまつわるさまざまな伝説があるのです。例えば、お玉ヶ池に、昔関所破りをして処刑された女の幽霊が出るという話などですが、この話はもう昔話になっていて、誰も信じないし怖がりもしません。  仙石原の幽霊話は、最近なんです。仙石原で若い女のものと思われる白骨が見つかったことがあり、その時も幽霊が出るという噂がありましたが、それはいつの間にか消えてしまいました。白骨死体の身元がわかったからです。今度も、同じように、若い女性のものと思われる白骨死体が発見されているのですが、こちらは今もって身元がわかりません。  それで、彼女の魂が浮ばれず、幽霊となって仙石原をさ迷っているのだというのです。よくある話なので、私は信じませんでした。それでも間違いなく、若い女の幽霊を見たという人間がいて、その中には私の友人も入っているのです。  私も、あまりにも友人たちがいうので、一度夜の仙石原へ行ってみる気になりました。幽霊が出るのは、月の明るい夜の午前二時頃というので、私は男友だちと二人で、昨夜思い切って、仙石原へ行ってみることにしました。  仙石原は、ご存じかも知れませんが、湖尻へ行く県道の左手に広がっています。右手には湿生花園があります。  よく舗装されたこの道路は、昼間は自動車の往来が激しいのですが、深夜になるとさすがに、めったに車の姿もなく、周囲は暗くなってしまいます。  私が行った午前一時過ぎも、車の姿はなく、ぼんやりした月明りが、丈の高いススキに蔽《おお》われた仙石原を照らしていました。  十一月にしては、妙に生温かい夜でした。こんな書き方をすると、面白おかしく脚色しているのではないかと思われるかも知れませんが、本当に、前日までの寒さが嘘のように、温かかったのです。  私たちは、道端に車をとめ、柵を越えて仙石原に入って行きました。あの辺りは湿地帯で、歩きにくいんです。それに、一面のススキが生い茂っていて。  そのススキをかき分けるようにして、私たちは、白骨死体が見つかったあたりを歩いてみたんですけど、女の幽霊はいっこうに現われません。やっぱり単なる噂だったのかと、ほっとするような、がっかりしたような気持で、車の方へ戻ろうとした時、突然、私の男友だちが甲高い悲鳴をあげたんです。  びっくりして振り向くと、そこに幽霊が立っていました。  着物姿の若い女が、私たちをじっと見つめていたんです。青ざめた顔でしたけど、本当に美しい顔でした。どのくらい、その女と向い合っていたか、私の身体は金縛《かなしば》りにあったみたいに動けませんでした。ひどく長い時間だったような気がしますけど、正確な時間はわかりません。彼女の姿がふいに消え、私たちはわれに返ったんです。私たちはあわてて女を探しました。幽霊を見たと思いながら、一方で、あれは幽霊じゃなくて、ただの女性という気持があったからでしたけど、いくら探しても、見つかりませんでした。私たちは懐中電灯で、地面を調べました。湿地帯なので、あれが人間なら、足跡が残っていると思ったからですが、いくら探しても足跡は見つかりませんでした。  でも、私があれが幽霊だと思うのは、足跡のことよりも、向い合った時の感じなのです。あのぞっとする感じは、今も強く残っています。あれが人間なら、私はあんな気分にはならなかったと思います。美しく、同時に恐しいあの顔を見た瞬間、私は直感したのです。これは、この世のものではないとです。一緒に行った男友だちは、日頃威勢のいい人なのに、今も怯《おび》えています。私は繰り返しますが、今まで幽霊や超自然現象といったものを信じたことはありません。性格も冷静な方だと思っています。今、私は混乱してしまっています。一方で幽霊など存在しないと思いながら、仙石原で目撃したのは、幽霊以外の何ものでもないという思いがあるからです。その後、私も男友だちも、別に身体に異常が起きたりということもありません。頭痛も発熱もありません。ただあの時に出会った女性の顔が、時間がたつにつれて、より鮮明になってくるのです。それがとても怖いのです。あの女、いえ、あの幽霊は、私の記憶と、考えの中に棲みついてしまうのではないだろうかと思うからなのです。  仙石原に捨てられていた女の白骨死体の幽霊だという人もいますが、私にはわかりません。ただ、怖いのです。こんな恐怖は、生れて初めてです。  それで、先生に、お手紙を差しあげたのです。先生は冷静な、そして怜悧《れいり》な方です。仙石原へ足を運んで、あの幽霊を見て頂きたいのです。あれが幽霊でなくて、誰かのいたずらとわかれば、私はこの恐怖から解放されます。お願いします。  私は箱根湯本に住んでいますが、わけがあって仮名でお許し下さい。仙石原のことが先生によって解明されたら、お会いしてお礼を申しあげる所存です。 [#地付き]小島みゆき〉 [#ここで字下げ終わり]      2  原口がその手紙に興味を持ったのは、書き手が冷静だということだった。彼は本を書いたり、テレビに出演したりすることもあって、似たような手紙を貰《もら》うことがある。原口が幽霊や超能力といったものに否定的な立場をとっているせいで、挑戦的な手紙が多い。その殆どは文章が感情的で、たたりのせいで何人もの人間が死んでいる、それをあなたが否定すれば、あなたにも、たたりがあるといったものが多かった。そんな話に限って、調べてみると、たたりで死んだといわれる人は、元気で歩き廻っていたり、老衰で死んだりしているのである。噂だけがひとり歩きして、おどろおどろした物語が生れてしまうのだ。  原口はそういう話に辟易《へきえき》していた。その点、今度の手紙にははったりめいた文章は見られない。仙石原で幽霊を見たあとも、別に身体の異常はないといっているし、原口の判断に委《まか》せている。  原口が仙石原へ行ってみようと思い立ったのは、幽霊話に興味を持ったというよりも、手紙の調子にひかれたといった方がよかった。  終点の箱根湯本で降りた。  ウィークデイだったが、紅葉の季節ということもあってか、かなりの乗客が降りた。  駅を出ると、ゆるい坂道沿いに土産物店が並び、観光客がぞろぞろ歩いていて、温泉地らしさを見せていた。  箱根に何回か来ている原口は、まず川沿いにある有名なそば屋で、そばを食べてから、レンタカーを借りて予約した旅館に向った。  川沿いのKという旅館である。  夕食の時、仲居に仙石原の幽霊のことを聞いてみた。  二十年も箱根湯本で働いているという仲居は、声をひそめるようにして、 「何人も見たという人がいるんですよ。若い人の中には、幽霊が出たら捕えてやるといって出かけた人もいましたよ」 「それで、その若い人はどうなったの?」 「熱を出して寝てるそうですよ」  と、仲居は笑った。多分、その話は誇張されているだろうが、逃げ帰ったのは本当かも知れない。 「仙石原で見つかった白骨死体の幽霊だといわれているそうだね?」 「前にも白骨死体が見つかったんですよ。その時は身元がわかったので、幽霊話は立ち消えになったんですけどねぇ。今度はなかなか身元がわからないので、いらだって、幽霊になって出ているんだといわれていますわ」 「きれいな幽霊らしいね?」 「見た人は、ぞっとするほどきれいだったといってますわ」 「君は見たことがないの?」  と、原口がきくと、仲居は小さく首をすくめた。 「夜中の二時頃に出るというんでしょう。怖いし、何かたたりでもあったら大変ですもの」 「毎日、幽霊は出るのかね?」 「さあ。月の明るい夜に見たという人が多いんですけどねぇ」 「今夜は確か満月だったね」 「まさか、お客さんは夜中に幽霊を見にお出かけになるんじゃないでしょうね?」 「僕は野次馬《やじうま》根性が強いから」 「気をつけた方がいいですよ」 「たたりがあるとでも思うのかね?」 「面白半分に出かけて、頭がおかしくなった人もいるそうですよ」 「そういう噂は、僕は信じない方でね」  と、原口は、いった。  仲居は何もいわずに、退っていった。  原口は一階の大浴場にゆっくりとつかり、しばらく眠ることにした。  午前一時少し前に起きると、原口は着がえをすませてから窓の外を見た。雨になっていたら駄目だが、幸いよく晴れている。  原口は小型のカメラと、アメリカ軍用の懐中電灯、それにマイクロレコーダーをコートのポケットに押し込んで部屋を出た。  駐車場に降りて行き、レンタカーに乗り込む。  さすがに緊張する。幽霊など存在しないという確信が、原口にはある。見たという人間は、何かを見違えたか、或いはいたずら好きの人間が幽霊に扮しているに違いない。  仙石原に向って車を走らせる。  観光地だけに、夜中になると車の数はめっきり減ってしまう。  湖尻に向う県道に入ると、そんな時刻に芦ノ湖へ行く人間もいないだろうから、車は一台も見当らなかった。  道路の両側は、一面のススキの原である。特に左手は、小高い山に向って広大なススキの原が広がり、月明りの下でゆれている。  原口は、道路の端に車をとめた。柵が設けられ、立入り禁止と書いた札が下っているが、観光客が入り込むらしく、柵の何カ所かがこわされ、ススキが踏みつぶされているところがある。  原口は車から降りると、柵のこわれたところから中に入って行った。あの手紙にあったように、この辺りは湿地帯だったらしく、地面は踏むと、じとっと水がにじみ出てくる感じだった。  肩ぐらいまであるススキをかきわけるようにして進んで行くと、花束が置かれている場所にぶつかった。  多分、ここで身元不明の白骨死体が発見されたのだろう。  原口はそう思いながら、テープレコーダーのスイッチを入れ、カメラを手に持った。EEカメラだが、連写が出来るように改造してある。  だが、なかなか女の幽霊は現われない。原口は背伸びをする感じで周囲を見回した。満月に雲がかかって、青白い月明りに照らされていたススキの原が急に暗くなった。  ふいに、背後で女の呻《うめ》き声が聞こえたような気がして、振り向いた。 (出た!)  と、思った。  十メートルほど先に、白い着物姿の若い女が立って、原口の方を見つめていた。ススキの中にいる筈《はず》なのに、女の身体は浮きあがって見えた。  美しいが、能面のような顔だった。  原口はカメラを向けて、シャッターを押した。パシャッ、パシャッと、連続してシャッターが切られ、その度にフラッシュの閃光が走る。  それに怒ったのか、女は右手で懐剣を抜き放った。月明りの中で、刃がきらりと光った。 (やっぱり、人間か)  と、原口は、ニヤッとした。相手との距離は十メートルはあるから、その距離で刺せはしない。 「どうしたんだ? その短刀で、僕が刺せるのか?」  と、原口は、からかい気味に声をかけた。その瞬間、原口は、背中に激痛が走るのを感じた。呻き声をあげる。  眼の前が、暗くなっていく。  カメラを取り落とし、原口は、ススキの中に倒れて行った。      3  箱根湯本の警察が動き出したのは、翌日の午前九時過ぎである。  旅館から、宿泊客の一人が外出したまま戻っていない。どうやらその客は、仙石原へ行ったらしいという通報を受けて、パトカー一台が仙石原へ向った。  とまっているレンタカーを見つけ、二人の警官が、ススキの原に入って行った。  数分後には、血に染って死んでいる男を発見した。  男は、胸と背中を刺されている。  殺人事件ということで、県警から捜査一課の新見という警部が、部下を連れて急行した。  新見は、ススキの原に足を踏み入れながら、 「この辺りは、確か身元不明の白骨死体が見つかった場所じゃなかったかな?」  と、つぶやいた。 「そうです。幽霊さわぎのあるところです」  と、部下の林刑事が、いった。  風が強く、ススキの穂をざわめかせている。  男の死体は、仰向けに寝かされていた。  眼は大きく見開かれたままである。驚愕が、そのまま凍りついてしまったみたいだった。  持っていた運転免許証で、殺されたのは、東京に住む原口久之、三十八歳とわかった。  死体の傍に、カメラが落ちていた。コートのポケットには、テープレコーダーと軍用の懐中電灯が入っている。 「どうやら、幽霊の写真を撮りに来たらしいね」  と、新見は、いった。 「それで、幽霊に殺されたんでしょうか」  林が、冗談めかしていった。  殺しに使ったと思われる凶器も、近くで見つかった。  普通のナイフではなかった。柄《え》の部分に美しい桜の模様が描かれた短刀である。  更に、死体から十メートルほど離れた場所から、その短刀の鞘《さや》の部分が発見された。その部分にも、同じように桜の模様が描かれている。  昔、武家の娘が身につけていた懐剣だった。 「どうも、妙におどろおどろしてきたねえ」  と、新見は、いった。  原口久之について、東京の警視庁に捜査依頼をしたあと、捜査本部の設けられた箱根湯本警察署で、第一回の会議が開かれた。  この席には、いくつかの品物が持ち出された。  懐剣の刃についていた血痕は、被害者のものと同じB型の血だった。  カメラには、三十六枚撮りのフィルムが入っていて、そのうち十二|齣《こま》が写してあり、それが現像、引き伸ばされて、刑事たちに配られた。  テープレコーダーのテープも、再生されて全員で聞くことになった。  もう一つは、被害者が泊っていた旅館の部屋から見つかった手紙だった。これも、コピーされ、刑事たちに配布された。  新見警部が事件の全体について説明した。 「まず、手紙ですが、これによって被害者が何のためにここ箱根に来たかがわかります。彼は、仙石原に出るという幽霊を調べに来たんです。カメラや、テープレコーダーは、そのためのものだったと考えられます。彼はレンタカーを借り、深夜、仙石原へ出かけました。そこで何があったかは、現像した写真と録音されたテープで、解明することが可能です。カメラは連写ができるように改造されており、それによって十二齣が写されています。それを見て下さい」  と、新見はいい、並べられた写真に自分も眼をやった。 「ここに、白い着物姿の女性が写っています。能面のような顔の女です。彼女はじっと被害者を見つめていて、突然懐剣を抜き放ち、振りかぶります。そこで連写が終っているので、直後に刺されて、被害者は死んだと思われます。一方、録音されたテープには、風の音と一緒に、女に向って挑発する被害者の声が入っています。『どうしたんだ? その短刀で、僕が刺せるのか?』と、被害者は叫んでいます。その直後、テープには被害者の呻き声が録音され、その後は風の音だけになります。つまり女が懐剣を振りかぶり、それに対して被害者が挑発したとたんに、刺されているわけです」 「フィルムに写っている女だがね、まさか、幽霊だと思っているんじゃないだろうね?」  と、本部長が、きいた。 「もし幽霊だったら、われわれが捜査しても仕方がありません。現実の人間だと思いますから、捜査し、逮捕するのです」  新見は、大きな声で、いった。 「どこかの女が、幽霊に扮していたというわけだね?」 「そう思いますし、被害者も幽霊の正体を暴いてやろうと考えて、箱根にやって来たんだと思います」 「カメラとテープレコーダーを使ってか」 「そうです」 「しかし、なぜ、殺されたんだ? もともといたずらで幽霊になっていたんなら、カメラを向けられたぐらいで相手を殺したりはしないだろう」  と、本部長はいってから、あらためて写真の一枚一枚に眼をやって、 「これを見ると、十メートルぐらい離れて幽霊が現われ、それに向けてカメラで撮り始めたことになっているね。そして最後の齣が真っ白く、何か写っているが、これは?」 「幽霊の白い着物ではないかと思います」 「つまり、十メートル先にいた幽霊の女が、懐剣をかざして、突然襲いかかってきたということになるのかね?」 「そうだと思います」 「十メートルほど離れていたというのは、間違いないんだろうね?」 「あのカメラは、ズームではなく、普通の三五ミリのレンズです。それで、人物があの大きさに写っていれば、対象までの距離は十メートル前後だということです」 「それを、ひとっ飛びに飛んで、刺したというわけかね?」 「それは、よくわかりませんが」  と、新見は、語尾を濁《にご》した。まだ捜査は始まったばかりで、調べなければならないことは、いくらでもあったからである。 「他に、わかっていることはあるかね?」  と、本部長が、きいた。 「箱根の人間で、何人か同じ幽霊を見たという者がいるようなので、その時のことを聞いてみたいと思っています」 「幽霊に殺された人間は、今までにいなかったんだろう?」  と、本部長が、きく。 「いません」 「それなのに、なぜ今度に限って、殺人にまで発展してしまったかだな。カメラを向けられて、怒ったというんじゃあ、どうも納得できないがねえ」  と、本部長は、いった。 「私も、そう思います。今、警視庁が殺された原口という男について調べてくれていますので、何かわかるかも知れません」  と、新見は、いった。      4  警視庁捜査一課の亀井刑事は、若い西本刑事を連れて、東中野のマンションに出かけた。  その四〇一号室が、原口久之の部屋である。  亀井と西本は、管理人にカギを開けてもらって、2LDKの部屋に入った。  本棚には、誇らしげに、自分の書いた本が並べてあった。  〈怪奇現象の謎を解く〉  〈テレビが煽《あお》る心霊現象は全て嘘〉  〈魔の三角地帯は、存在しなかった〉  〈幽霊話の嘘と仕掛け〉  〈心霊現象で儲けるチミモウリョウたち〉  そんなタイトルが、躍っていた。 「どうやら原口は、幽霊退治に箱根仙石原に出かけたようだな」  と、亀井は、いった。 「カメさんはどうなんですか? 幽霊は信じないんですか?」  と、西本が、きいた。 「そうだなあ。私は、東北の生れ育ちでねえ。子供の頃の東北には、幽霊が沢山いたんだよ」  亀井は、なつかしそうにいった。 「子供の頃にはですか」 「そうさ。それが大人になって、東北もどんどん開発されてきて、幽霊がいなくなった。寂しい気がするねえ」 「そんなもんですかねえ」  と、西本が、ぶぜんとした顔になった。 「君はどうなんだ?」 「幽霊なんか、いてもいなくても構いませんよ」 「夢がない男だねえ」  と、亀井は、笑った。  二人は、机の引出しなどを探し、被害者に送られてきた手紙を、全て持ち帰ることにした。  幽霊に殺されたという話は、信じられない。殺したのは人間だろう。とすれば、犯人は二通りに考えられる。  純粋に個人的な恨みで殺されたか、或いは原口の考えに反対する人間に殺されたかである。  原口の本のタイトルを見れば、かなり敵を作っていただろうことが想像されるのだ。彼のところに来た手紙に、それらしいものがあるかも知れない。  次に、亀井と西本は、原口の評判を聞いて廻ることにした。  最初に、マンションの管理人から、話を聞いた。 「人づき合いの悪い人でしたよ。頭のいいのを鼻にかけているみたいでね。いつだったか、あるテレビの心霊写真の番組が面白いといったら、いかにも軽蔑した顔をして、あんな子供だましのものは見るなといいましたよ。テレビの何を見ようと勝手だと、腹が立ちました」  と、管理人はいった。  どうやら、原口は、独善的で攻撃的な性格だったらしい。 「彼は独身でしたね?」 「ええ。そのようでした」 「女性が、この部屋に来たことは?」  と、亀井が、きいた。 「原口さんは三年前からここに住んでいるんですが、女の人は何回か見かけました」 「同じ女性?」 「違っていましたね。おれはもてるんだって、自慢していましたよ」 「素人の女性だった?」 「と、思いますよ」 「そんなにもてるのに、なぜ三十代の後半まで結婚しなかったんだろう?」 「それは、わかりません。独身生活を楽しんでいたんじゃありませんか」  と、管理人は、いった。  亀井たちは、原口の本を三冊出しているT出版に廻ることにした。  ここで、原口の担当をしている出版部の丹羽という男に会った。 「原口先生の本はよく売れるので、うちのように小さな出版社では有難い人なんです」  と、丹羽は、いった。 「しかし、一冊だけ拾い読みしましたが、非常に攻撃的な内容ですねえ。いわゆる超能力者とか霊能者といった人たちを、実名をあげてインチキだとか金儲け主義と攻撃していますね。敵を沢山作ったんじゃありませんか?」  亀井がいうと、丹羽は笑って、 「だからこそ人気が出て、本が売れるんですよ」 「原口さんは、テレビにもよく出ていましたね」 「ええ。午後三時の番組に週一回出演していましたよ。テレビでもずけずけいうので人気がありましたね」 「恨まれて殺されるようなことになるとは、思っていなかったんですか?」  と、西本が、きいた。 「彼はいつも、いっていましたよ。もし本当に霊能力のある人間がいて、おれの言動をけしからんと思うんなら、呪い殺してみろって、ですよ。そんな力もないのに、偉そうなことをいうなと」 「ケンカを売ってるみたいですね」 「今は、ケンカが売り物になりますからね」  と、丹羽は、いった。 「原口さんと飲みに行ったことは?」  と、亀井は、きいた。 「そりゃあ、何回もありますよ。原口先生も酒は好きだったから」 「そんな時、どんなことが話題になっていましたか?」 「仕事の話をする時もあったし、女の話をした時もありますよ」 「彼は、女好きだったみたいですね?」 「女を嫌いな男なんて、めったにいないでしょう」 「その中に、特につき合いの深かった女性というのはいませんでしたか?」  と、亀井は、きいた。 「さあ、知りませんね。原口先生は有名人だし、収入もあったから、よくもててましたがねえ。深い仲の女というのは、知りませんでしたね」 「結婚話も、なかったんですか?」 「その気は、なかったんじゃないかな。原口先生は女好きだったけど、女を馬鹿にしていたようなところがありましたからね」 「女好きだが、馬鹿にもしていた?」 「ええ」 「なぜですかね?」 「さあ、それはわかりません。ただ、女の霊能者とか教祖とかに対しては、特に厳しかったですよ」  と、丹羽は、いった。  夜になって、亀井と西本は、原口がよく行っていた銀座のクラブへ行った。 「ミモザ」というクラブで、ここに原口は月に二、三回顔を出していたという。ひとりで来ることもあれば、出版社の人間などと、五、六人で来ることもあったらしい。 「いつだったか、ここで原口さんが、大ゲンカをしたことがあって、大変だったわ」  と、ママが、いった。 「相手は?」 「よくテレビに出ている、何とかいうお坊さん。霊能力が強いということで、有名なお坊さんよ」 「ああ、あのお坊さんね」  と、亀井は、肯《うなず》いた。彼も、名前は覚えていないが、テレビで、厄除けの祈祷をしているのを見たことがあった。 「原口さんというのは、ケンカが好きなんだな?」  と、亀井が、きいた。 「そうらしいわ。議論で負けたことがないって、自慢してたから」  と、ママが笑った。  世の中には、求めて敵を作る人間がいる。どうやら原口は、そんな人間の一人だったらしい。  亀井は、警視庁に帰ると、十津川にそのことを報告した。 「容疑者が沢山いて、困りそうですよ」  と、亀井は、いった。  十津川は、調査結果をそのまま神奈川県警に知らせたが、その直後に、世田谷区内で殺人事件が発生した。  京王線明大前駅近くの新築マンションで、起きた事件だった。  最上階の七〇一号室のバスルームで、住人の工藤あけみが、全裸で殺されているという管理人からの一一〇番で、十津川たちが、急行した。  電気のついたバスルームの洗い場に、被害者は裸で、俯《うつぶ》せに倒れていた。  後頭部に、血糊がつき、陥没しているのが、豊かな髪の上からでもわかった。  年齢は、二十七、八歳だろうか。  浴槽に満たされたお湯は、冷たくなってしまっていた。そのお湯は、淡いグリーンの色をしている。今はやりの名湯の源《もと》を、入れたらしい。  鑑識が、写真を撮り、指紋の検出をしている間に、十津川は管理人から、被害者について聞いた。 「ご入居は、先月の十五日です。何をしている方か、わかりませんね。OLではないみたいですよ。時々、外出なさっていましたが、どこかへお勤めという感じではありませんでしたから」  と、管理人はいう。  2DKの部屋は、きちんと片付いている。というより、仮住いの感じで、品物が少なかった。 「何となく、妙な感じですね。応接セットもないのに、豪華な桐のタンスがあったりします」  と、亀井は、室内を見廻しながら、いった。  その桐ダンスの引出しを開けると、着物が何着もきちんと納められていた。  三面鏡の代りに、大きな鏡台が置かれている。 「着物が好きだったみたいだな。それに、どれも、かなり高そうなものばかりだよ」  と、十津川は、いった。最近、妻の直子が着物に凝り出したので、自然に十津川も和服に関心を持ち始めてきている。  五十の着物に百の帯という言葉も、直子に教えられた。本当の着物好きは、帯に凝るらしいのだが、被害者が持っている何本もの帯は、全て、西陣織りなどの豪華なものだった。 「本格的だな」  と、十津川は、いった。 「どういうことですか?」  と、若い西本刑事が、きいた。 「今の若い女性で、こんなに着物に凝る人はいないだろうし、第一、自分で着物を着られる若い女性は少ないと思うよ。被害者は若いが、自分できちんと着物を着られたし、いいものだけを集めている。ということは、多分、着物を着ることを仕事にしているんじゃないかと思ってね」 「芸者ですか?」 「芸者か、着物のモデルかじゃないかね」  と、十津川は、いった。  芸者なら、問題は、何処で芸者をやっていたかということである。  管理人に、このマンションの持主を聞き、そこへ、日下《くさか》刑事を走らせた。  検死官は、死亡時刻は、昨夜の午後十時頃だろうと、十津川に教えた。 「被害者に、抵抗した痕《あと》はないね。背後からいきなり殴られたんだろうね」 「とすると、犯人は顔見知りで、被害者は安心して背中を向けていたということだね?」  と、十津川は、いった。 「だろうね」 「凶器は?」 「多分、スパナか、ハンマーのようなものだと思うね」  と、検死官は、いった。  近くの不動産屋へ聞き込みに行っていた日下刑事が、戻って来た。 「被害者の前の住所は、箱根湯本のマンションです」  と、日下が、報告した。 「箱根湯本?」  とっさに、十津川は、神奈川県警から協力要請のあった殺人事件のことを、思い出した。 「今度は、向うに、協力要請ということになりそうですね」  と、亀井が、いった。  松原署に捜査本部が設けられ、十津川は神奈川県警に協力を要請した。  翌日の昼前に、まず司法解剖の結果が出た。  死因は、見た通りの後頭部陥没によるもので、三回にわたって殴打されていることが、わかった。  死亡推定時刻は、前日の午後九時から十時までの間である。  午後になって、神奈川県警から電話が入った。 「県警の新見です」  と、相手は名乗ってから、 「一度、お会いしたいと思います」 「というと、そちらの事件と、関係のある女性だということですか?」  と、十津川は、きいた。 「問題の工藤あけみですが、こちらで、美雪の名前で、芸者として働いていました。三年ほど働いていたのですが、先月の十五日頃から姿を消しています。置屋の話では、やめるという電話があっただけで、姿を消してしまったので、ずいぶん無責任だと怒っています」  と、新見警部はいう。 「それで、そちらの事件との関係は、どういうことですか?」 「仙石原に出た女の幽霊ですが、何人かの人間が見ています。彼等の証言によると、どうも幽霊の顔が、芸者の美雪、つまり、そちらで殺された工藤あけみに似ているということなのです」 「なるほど」 「ただし、同一人だという確証は、ありません」 「確か、仙石原で殺された原口久之は、幽霊の写真を撮っていましたね」 「ええ。もちろん、その写真と美雪の写真と比べてみました。似てはいますが、何しろ幽霊は顔を白塗りにしていて、唇は濃く紅をさしています。歌舞伎役者のような化粧をしているわけです。それに十メートルの距離で撮っているので、似てはいますが、同一人との断定は今のところ難しいのですよ」  と、新見は、いった。 「しかし、新見さんは、仙石原の幽霊は工藤あけみだと思っておられるんでしょう?」 「何しろ、幽霊さわぎの起きた頃、彼女は芸者をやめていますからね。それに、幽霊はいつも着物姿でしたからね」  と、新見は、いった。      5  幽霊は、白装束だったというので、十津川は、それらしい着物はないかと、明大前のマンションを探したが、見つからなかった。  ただ、妻の直子の話では、芸者は出来合いの着物ということはなく、白い生地から選んで、自分の好みの模様に染めさせるのだという。 「白の生地だけで、百万はするらしいわ」  と、直子は、いった。  十津川は、その高価さよりも、芸者が白の生地から選ぶということの方に、気を引かれた。それなら白装束を作る機会はあると、思ったからである。幽霊に扮したあと、ほどいて、染めてしまえば、マンションに白の着物が無くても不思議はない。  もう一つ、工藤あけみについてわかったのは、こちらに引越してきてから、近くのN銀行明大前支店に口座を作り、今月に入って、五百万円を二度、預金していることだった。どちらの時も、彼女は、現金を持って行って、預金している。  一回目は、十一月五日、二回目は九日である。  十津川が面白いと思ったのは、その中間の十一月七日に、仙石原で原口久之が殺されていることだった。  十津川は、その入金伝票の写しを持って、亀井と箱根に出かけた。神奈川県警の新見と、今回の二つの事件について協議するためだった。  新見が、箱根湯本の駅まで迎えに来てくれていた。  三十代の若い警部である。  若いだけに、会うなり、十津川に向って、 「入金伝票を見せて下さい」  といい、捜査本部に行く車の中で、二枚の伝票の写しを熱心に見ていた。 「明らかにこれは、何かの報酬ですね」  と、新見は興奮した口調で、いった。 「幽霊になるだけの報酬としては、一千万円は高過ぎるんですよ」  と、十津川は、いった。 「殺しの報酬なら、高くはありませんよ」  と、新見は、いった。  十津川と亀井は、本部長にあいさつをすませてから、新見の案内で、仙石原の現場に出かけた。  湖尻へ行く県道は、午後一時過ぎという時刻のせいもあって、ひっきりなしに車が走っていて、賑やかだった。  新見が車を止め、十津川たちは、ススキの原に入って行った。  原口が殺された場所は、今でもススキが押し潰《つぶ》された形になっていた。  そこから十メートルほど先に新見は行き、振り返って、 「この辺りに、女の幽霊はいたと思われます。被害者の撮った写真を見ると、幽霊はススキの上に浮んでいるように見えますが、それは多分、踏み台を置き、その上に立っていたのだと思います」 「十メートルの距離を飛んで、原口を襲ったという噂を聞きましたが?」  と、亀井が、きいた。 「原口が幽霊に襲われたと考える人たちは、幽霊が十メートル飛んで、原口を刺したといっているんです。写真を見ると、そんな風にも見えなくはないんですが。幽霊と思われる芸者の美雪が殺されたところをみると、この現場には、もう一人の人間がいたと思われます。とすれば、十メートル先で、美雪が幽霊になって原口を脅し、彼がそちらに気を取られた時、背後から犯人が忍び寄って、刺したんだと思います」  と、新見が、いった。 「胸と背中の二カ所に、刺し傷があったそうですね」 「そうなんです。もし幽霊が殺したのなら、十メートル先から飛びかかって、胸を刺したことになりますが、それなら背中の刺し傷はない筈です」 「なるほど。犯人は、前からは刺せない場所にいたので、まず背後から近づいて刺し、続いて、胸を刺したというわけですね」 「そう思っています。背後から刺された時、原口はカメラを落としたんだと思います。犯人はそれを拾い、幽霊の白装束の胸元を、一齣だけ写しておいたんだと思います。だから、十メートルを飛んで、正面から刺したように見えたわけです」  新見は、小さく鼻をうごめかせた。 「それで、これから、どうするつもりですか?」  と、十津川は、きいた。 「美雪に、どんな人間が近づいていたか、それを調べたいと思っています」  と、新見は、いった。  それは一つの方法だろうと、十津川は思ったが、彼は、仙石原から捜査本部に戻ってから、 「凶器の懐剣を、しばらく貸して貰えませんか」  と、いった。 「しかし、あの懐剣からは、指紋は採れませんでしたよ」 「構いません。私が気になったのは、なぜそんな珍しいものを凶器に使ったかと思いましてね」 「それは多分、犯人を、女の幽霊らしく見せるためじゃありませんかね。白装束の幽霊なら、ただのナイフより、懐剣が似合いますから」  と、新見は、いった。 「もう一つ、原口を仙石原に誘い出した手紙がありましたね」  と、亀井が、いった。 「小島みゆきという名前の書いてあった手紙ですね」 「あれについては、何か、わかったんですか?」 「文面を読むと、確かに、原口が仙石原へ行ってみたくなるように書かれています。消印は箱根湯本の郵便局ですが、差出人を特定することは、出来そうもありません」  と、新見は、小さく肩をすくめて見せた。  十津川は、凶器に使われた懐剣を預かって、その日のうちに、帰京することにした。  小田急線のロマンスカーに乗ってから、その車内で、 「その懐剣で、犯人がわかりますかね?」  と、亀井が、きいた。 「さあ、どうかな」 「指紋は、ついてないと、新見警部はいっていましたよ」 「幽霊には、指紋はないのさ」 「それでも、役に立ちますかね?」 「今度の事件について、犯人の気持を考えていたんだよ」  と、十津川は、いった。 「そんなものは、簡単じゃありませんか。前々から原口に恨みを持っていて、幽霊に殺されたことにして、息の根を止めたんですよ。犯人はきっと、インチキ霊能者か何かで、原口にやりこめられたことがあるんだと思いますよ」 「その仇を討ったか」 「原口は、金を盗られていません。個人的な恨みの犯行ですよ」 「誘い出しの手紙を書いたり、芸者に白装束を着せて幽霊に見せたりしたのは、なぜだろう? 憎んでいる相手なら、そんな面倒なことはせず、あっさり殺したらどうなのかね?」 「今もいったように、犯人はインチキ霊能者か何かで、原口に恥をかかされたことがあるんだと思います。原口は、幽霊の存在なんか信じない男です。その男が、幽霊に殺されたとなれば、完全な復讐になる。犯人はそう考えて、面倒なシチュエーションを作ったんだと思いますね」  と、亀井は、いった。 「もし、カメさんのいう通りなら、この懐剣も、その小道具の一つということになってくるんじゃないかね」  と、十津川は、いった。 「そうでしょうが、白装束の女の幽霊には、ナイフや拳銃より、懐剣の方が似合っているということで、凶器に使ったんじゃありませんかね」 「それだけかな?」 「と、いいますと?」 「白装束の女の幽霊なら、こんな派手な懐剣より、白鞘《しらさや》の短刀の方が似合っているんじゃないかね。それに、そんな短刀なら、簡単に手に入る。だが、犯人はこの懐剣を使った。その上、現場に置いていったんだ。他には、何も置いていかないんだよ。白装束も、足袋も、櫛《くし》もね。そう考えると、犯人にとって、この懐剣が大事な意味を持っているんじゃないか。そんな風に、思えてくるんだよ」  と、十津川は、いった。 「確かに、美しい懐剣ですが、どんな意味があるんでしょうか?」  首をかしげるようにして、亀井がきいた。 「東京に戻って、それを調べたいんだ」  と、十津川は、いった。  夕方、東京に着くと、十津川はすぐ捜査本部には戻らず、神田にある刀剣店を訪ねた。  主人に会い、箱根から持ってきた懐剣を見せた。 「これが、どんなものか、知りたいのですが」  と、十津川は、いった。  小柄な主人は、手に取って、 「桜模様の象嵌《ぞうがん》は、相当な技術で、古いものですね」 「いつ頃のものですか?」 「江戸中期でしょうね」  と、いってから、主人はゆっくりと鞘を払い、じっと見てから、 「美しい」  と、呟《つぶや》いた。 「名のある刀ですか?」 「調べないとわかりませんが、気品があります。簡単に買えるものじゃありません」 「私としては、持主を知りたいんですがね」 「少し調べさせてくれませんか」  と、主人は、いった。      6  二日して、その刀剣店の主人から、電話がかかった。  十津川は亀井と、パトカーで駈けつけた。  店の主人は、懐剣を十津川に返してから、 「無銘ですが、江戸中期に作られたもので、『小波《さざなみ》』と呼ばれた刀だと思われます」 「持主は、わかりますか?」 「最初、将軍綱吉が、自分の娘に与えたものだと、いわれています」 「最後の持主は、誰ですか?」 「戦後、新興成金のK興業の社長が持っていたんですが、倒産して、この懐剣も売りに出されました。そのあと何人かの手をへて、いろいろと調べたところ、この人に渡ったことになっています」  と、主人はいい、メモを十津川に見せた。  〈福島県Y町桜通り 岸川一枝〉 「この岸川一枝というのは、どういう人ですか?」  と、十津川は、きいた。  店の主人は、小さく首を横に振って、 「全く知りません。ただ、最後はこの人が買ったことになっているだけです」  と、いった。  十津川と亀井は、懐剣を持って、店を出た。 「岸川一枝という女が、犯人なんでしょうか?」  と、亀井が、きいた。 「それなら、簡単でいいんだがね」 「そうですね。福島県と箱根では、離れていますしね」 「私は、これから、福島へ行ってみようと思う。カメさんは、どうするね?」 「もちろん、私も、行かせてください」  と、亀井は、いった。  二人は、その足で、東京駅に向った。  捜査本部には、駅の電話で連絡しておいて、十津川たちは、東北新幹線に乗った。  福島に着いたのは、一五時〇八分である。流石《さすが》に、東京から来ると、風が冷たかった。  駅前から、タクシーに乗って、Y町に向った。  福島市から西へ、タクシーで四十五、六分走った、山間《やまあい》の町だった。  冬期には、多分、雪に埋まるだろう。落ち着いた、静かな感じの町である。  町役場の前で、二人は、タクシーを降りた。  中に入り、十津川は、警察手帳を見せて、 「桜通りの岸川一枝という人に、会いたいんですが」  と、いった。  戸籍係で聞いたのだが、相手は、 「岸川一枝?」  と、おうむ返しにいってから、急に、奥へ消えてしまった。  十津川と亀井は、びっくりして、思わず顔を見合せた。  戸籍係は奥から、小太りの男を連れて戻って来た。  その男は、十津川と亀井に向って、 「助役の田辺です。どうぞ、こちらへ」  と、奥の助役室に案内した。  女事務員が、お茶を運んできた。  十津川は、それには手をつけずに、 「私たちは、岸川一枝さんの住所さえ教えて貰えれば、勝手に訪ねて行きますが──」  と、いった。  五十五、六歳に見える田辺助役は、あいまいな微笑を浮べて、 「警視庁の刑事さんが、どんなご用で、いらっしゃったんでしょうか?」  と、きく。 「それはちょっと、申しあげられませんが、桜通りの岸川一枝さんの家を、教えて貰えませんか」 「それはわかっていますが、私も一応、この町を預かっておりますので」 「岸川一枝さんは、まだ、この町に住んでいるわけでしょう?」 「もう、この町にはおりません」 「引越したんですか?」 「違います。その方は、亡くなりました」  と、田辺は、いった。 「亡くなった? それは、いつですか」 「今年の四月です」 「病死ですか? それとも、殺されたんですか?」  と、亀井が、きいた。 「事故です」  と、田辺は、いう。 「どんな事故だったんですか? 自動車事故ですか?」 「なぜ、岸川一枝のことを、調べておられるんですか?」  と、また、田辺が、きいた。  十津川は、いらいらしてきた。 「どうもわかりませんね。岸川一枝さんのことを調べると、この町にとって、何か差し障りがあるんですか?」  と、十津川が、少し、声を荒らげてきくと、田辺は、狼狽の表情になって、 「そんなことは、ありません」 「それなら、彼女の住所を教えて下さい」 「しかし、今、申しあげたように、もう、亡くなっています」 「家族が、住んでいるんじゃありませんか?」 「いえ。誰も、住んでいません」 「家は、残っているんでしょう?」 「家もありません」 「焼けたんですか?」 「とにかく、家もないし、親族もいません」  と、田辺は、いった。  どうやら、岸川一枝のことを、聞かれたり、調べられたりするのは困るらしい。  この助役と話していてもラチがあかないと思い、一応礼をいって、二人は町役場を出た。 「どうなってるんですかねえ。むかつきましたよ」  と、亀井が、大きな声を出した。  十津川は、歩きながら、 「二階から、見ているよ」 「睨《にら》み返してやりましょうか?」 「やめておくさ」 「しかしあの助役は、何をあんなにびくついているんですかね?」 「きっと、岸川一枝という女は、この町にとって困った存在だったんだろう。だから、あれこれいわれたり、調べられたら困るんだ」 「彼女のことを調べるわれわれも、招かれざる客というわけですか」 「そんなところだろうね」  と、十津川は、苦笑した。  二人は、派出所を見つけて、のぞいた。  警官が、一人いた。  十津川たちが警察手帳を見せると、痩せた中年の警官は、緊張した表情になって、 「こんな田舎町に、どんなご用でしょうか?」  と、きいた。 「楽にして欲しいね」  と、十津川は、笑顔でいってから、 「実は、この町の岸川一枝という女性を訪ねて来たんだが、亡くなったらしいね?」 「はい。亡くなりました」 「町役場で聞いたんだが、彼女について何も教えてくれなくてね」 「そうだろうと、思います」  と、警官は、肯いた。 「この町にとって、何か困ることが、あるのかね?」  と、脇から、亀井がきいた。 「この四月に亡くなったんですが、町にとってあまり楽しい思い出じゃありませんから」 「事故死だそうだが?」  と、十津川が、いった。 「事故死といえば、事故死ですが」 「それを、詳しく話して欲しいね」 「岸川一枝というのは、一九四五年に生れています。日本が負けた年です。当時はまだ、ここはY村で、農家の生れです。十五歳の時、夏に、友人と歩いていて、雷の直撃を受けて、二人の友人は死亡しましたが、岸川一枝は助かりました。その時、霊感を得たと、いっています。最初はその霊感を生かして人生相談に応じたり、失《な》くしたものを探してあげたりしていました。二十五歳の時に結婚しましたが、三年で別れ、元の姓に戻りました。離婚したあと、彼女の霊感が一層強いものになり、水の流教という新興宗教を作って、その教祖になりました。それが、一九七三年です。そのあと、彼女はいくつも奇蹟を示して、信者が急速に増えていきました。あとでご案内しますが、この町の北側に五千坪の土地を買い、巨大な祭場を造りあげました。最盛期にはこのY町や周辺で、三千人近い信者がいたようです」  と、警官は、いった。 「よく知っているね」  十津川が感心すると、 「今年の四月に、彼女が死んだとき、経歴を詳しく調べましたから」 「それが、なぜ、死んだのかね? 事故死だということだが」 「正確にいえば、私は、自殺だと思います」  と、警官は、いった。 「しかし、役場の人間は、事故死だといったし、君も最初は、事故死みたいなものだといったはずだよ」 「そう思いたいからです」 「なぜ?」 「この町の中にも信者は沢山いましたし、彼女は毎年、高額の寄附を町にしていたんです。おかげで、病院やプールなどが出来ましたからね」 「水の流教だったかな。町の人間が信者になって、不都合はなかったのかね?」  と、十津川が、きいた。  警官は、少し考えてから、 「いろいろ、いう人間もいますが、私はむしろ、この町にとって、プラスだったと思っています」 「なぜだね?」 「この辺りの人間は、東北には珍しく、気質が荒っぽいんです。酒もよく飲みますしね。自然、ケンカが多くて、われわれなんかも、その仲裁に走り廻ることがあるんです。それが、岸川一枝の水の流教が生れてから、難しい問題が起きたり、争いごとがあると、人々が彼女におうかがいを立てるようになったんですよ。それに対して、彼女が、何かいう。それは、神の声ですからね。争っている当事者同士も、従わざるを得ないわけです。罰が当るのが、怖いですからね」 「実際に、罰が当ったことがあるのかね?」  と、亀井が、きいた。  警官は、微笑して、 「罰が当って、手足が動かなくなったとか、高熱を出して、苦しんだとか、いろいろと話はありますが、こういう話は、実体がないんです。噂だけがひとり歩きするわけで、それがかえって、いいわけです」 「なるほどね。君はなかなか哲学者だねえ」  と、十津川は、賞《ほ》めた。  警官は、照れ臭そうに、頭をかいて、 「そんな風に考えたことは、ありませんでした」 「それで、なぜ、岸川一枝が死んだかだが──」 「信者が増えるにつれて、彼女は、日本の女教祖たちという週刊誌の特集で取りあげられたり、テレビに出るようになってきました」 「そういわれれば、テレビで見たような気がするね」  と、亀井が、いった。 「彼女が有名になるにつれて、このY町も有名になって、町の人々にとっては、照れ臭さと、誇らしさの入り混じった気分になっていきました。少なくとも、私はそんな気分でしたよ。何しろ、白装束で予言をしたり、病気を治したりする怪しげな人物が、この町を代表することになったからです」 「彼女は、いつも、白装束を着ていたんですか?」  と、十津川は、きいた。 「写真がありますよ」  と警官はいい、四月の事件の時の調書を奥から持って来た。それに、週刊誌のグラビアにのった岸川一枝の写真が、綴じ込んであった。  現代の女教祖シリーズと題されたグラビアだった。  白装束の中年の女が、そこに写っていた。自信にあふれ、遠くを見るような眼をしている。  帯に、懐剣をさしているのがわかった。あの懐剣だった。 「これは?」  と、十津川がきくと、 「なんでも、岸川家に代々伝わるものだということでしたが、権威づけに大金を出して、買ったものじゃないかという人もいました」 「それで、彼女が死んだ時のことを、話して欲しい」 「岸川一枝の家へご案内しながら、ご説明します」  と、警官は、いった。  歩いて行けるというので、十津川と亀井は、彼に案内されて、川沿いの道を歩いて行った。  桜並木があり、古い家並みが続く中に、公園が現われた。桜並木公園と書かれていたが、中は樹が植えられたばかりの感じで、池も造成中だった。 「前はここに岸川一枝の家がありました。家というよりも、神社ですね。水の流教の本部です」  と、警官が、いった。 「今は、公園なんだね」 「そうです。岸川一枝が死んだ時のことを、お話しします。四月のその時点で、彼女は、信者も増え、有名人になって、得意の絶頂にいたと思いますね。そんな時、テレビ局から、公開討論を申し込まれたのです。相手は、超能力や心霊といったものに反対している評論家で──」 「原口久之──かな?」  と、十津川は、きいた。 「よくご存じですね?」  警官は、眼を大きくした。 「そんな感じがしたんだが、テレビ対決はどうなったんだ?」 「テレビ中継車がやって来て、大さわぎになりました。信者以外の町民も、ここへ集って来ました。それで、原口久之との対決ということになったんですが、彼は、もし霊感があるのなら、眼の前に置いた三つの箱の中身を当てて見せろ、それが出来なければ君の霊感は信用しない、といいまして、三つの箱を並べたんです。なんでも、昔中国で、時の皇帝が、占師の力を試すのに使った方法だというのです」 「岸川一枝は、それに応じたのかね?」  と、十津川は、きいた。 「大勢の信者や町民が見守っていましたからね。それで、彼女は、当てて見せるといいました。その間、ずっと、テレビカメラが回っていたわけです」 「それで、彼女は適中させたのか?」  と、亀井が、きいた。 「三つの箱の中身は、一つも適中しませんでしたよ。それが、そのまま放送されましてね。このY町も、インチキ教祖がいる町というので、不名誉なことになってしまったんです。それだけじゃなくて、丁度、バブルがはじけて、彼女の宣託に従って不動産に投資した人たちが、大損しましてね。その人たちが押しかけてきて、彼女を吊しあげました。きっと彼女は、精神的に参ってしまったんでしょうね。まだ雪の残っていた向うの山に入って行って、あの懐剣で、のどを切って、自殺してしまいました。私も、その現場に行きましたが、雪の白さと白装束の白さの中で、真っ赤な血が飛び散って、異様な美しさでした。町役場では、遺族から本部を買い取って、縁起でもないと、建物をこわしてしまい、公園にしたというわけです」 「遺族というのは?」 「娘さんが、一人いたんですよ。東京に住んで大学へ通っていたようですが、今はどうしているか、わかりません」  と、警官は、いった。 「名前は?」 「確か、岸川麻子という名前だったと、思います」 「東京の何という大学にいっていたのか、わからないかね?」  と、十津川は、きいた。 「N大だったと思いますが、自信はありません」  と、警官は、正直にいった。      7  帰京した翌日、十津川と亀井はN大を訪ね、学生課で、岸川麻子という学生のことをきいてみた。  岸川麻子は、今年の四月、間違いなくこの大学の文学部に籍があった。  それが突然、来なくなってしまったのだという。 「学費を六カ月以上滞納して、住所に通知を出しましたが、その住所にいないということで、戻って来ました」  と、学生課の職員は、いった。 「彼女の写真がありますか?」  と、十津川がきくと、入学の時の写真を、見せてくれた。  二十歳となっているから、二浪したのかも知れない。とすると、現在二十三歳か。  二人は、その写真を借り、四月まで住んでいたという成城のマンションを訪ねてみた。  駅近くの、新しい豪華マンションである。教祖として羽ぶりの良かった母親の岸川一枝が、一人娘のために惜しみなく金を送り、ぜいたくをさせていたのだろう。  2DKの部屋は、全て分譲で、管理人の話によると、バブルの時は一億五千万円したという。 「岸川麻子さんは、二年前に越してみえたんですよ」  と、管理人は、いった。 「一億五千万円で買って?」 「そうです。きっと親御さんが、可愛い娘さんのために買ったんだと思いますよ」 「それが、急に、売ってしまったんですか?」  と、十津川は、きいた。 「そうなんですよ。今年の四月頃だったと思いますよ。突然、売りたいというんです。今はバブルがはじけたから、一億五千万じゃ売れない。半値でも、なかなか買い手がありませんよといったんです。そうしたら、いくらでもいいといいましてね。結局、三千万か四千万で、売ってしまったみたいですよ。今でも、そのくらいの値段なら、買いたい人は沢山いますからね」 「岸川麻子というのは、どういう女性でした?」 「明るくて、元気な娘さんでしたよ。旅行が好きだと、いっていましたね」 「着物を、よく着ていましたか?」  と、十津川がきくと、管理人は笑って、 「着物姿を見たことはありませんね。正月でも、セーターにジーンズみたいな恰好でしたよ」  と、いった。  管理人も、岸川麻子が今何処にいるか知らないといった。  念のために、区役所へ行って調べてみたが、岸川麻子の住所は、この成城のままだった。  捜査本部に戻ると、十津川は、四月のテレビ番組を調べてみた。  四月十七日放送の特別番組に、「インチキ超能力を暴く。徹底追及、女教祖の霊感はホンモノか?」というのがあった。  録画だろうから、実際に収録したのは四月の初めだろう。  中央テレビの午後八時からのゴールデンタイムに放送されていた。  十津川は、岸川麻子を見つけるために、西本刑事たちを聞き込みに走らせた。  そのあとで十津川は、難しい顔で窓の外を見ていた。それを心配したのか、亀井が、 「どうされたんですか?」  と、きいた。 「どうも、わからないことがあってね」 「全部、はっきりしたじゃありませんか。今年の四月に、女教祖の岸川一枝が、本当は霊感のないことがバクロされて、自殺してしまった。自殺に追いやったのは、霊感とか超能力を批判して売り出している評論家の原口久之です。岸川一枝の一人娘の麻子は、母親の仇を取ろうとして、原口を、幽霊が出るという手紙で箱根仙石原に誘い出し、芸者の美雪に協力させて、殺したんです。幽霊に殺されたように見せたのは、霊感を持っていたという母親のための復讐ということがあったからだと思います。麻子は成城のマンションを売って、三、四千万を手に入れていますから、その中から、美雪に一千万円払ったんだと思いますよ」 「うん」 「ところが美雪は、もっと金が欲しくなって、麻子をゆすった。麻子は、口を封じるために、多分、金を持っていくといって、油断させておいて、美雪のマンションに行き、油断してバスに入っていた彼女を、背後から殴り殺したんですよ」 「多分、そうだろうね」  と、十津川は肯いた。 「じゃあ、どこもわからないところは、ないじゃありませんか。犯人は、岸川麻子ですよ」 「その点は、同感だよ」 「それなら、なぜ、迷っていらっしゃるんですか?」  と、亀井が、きいた。 「迷ってはいないんだがねえ──」  と、十津川は、語尾を濁した。  西本刑事や日下刑事たちは、岸川麻子の友人たちを廻って、聞き込みを続けたが、なかなか彼女の行方はわからなかった。  ひょっとして海外へ逃亡したのではないかと思い、出入国管理局に問い合せてもみたが、出国した気配はなかった。  神奈川県警には、岸川母娘のことを話し、麻子が容疑者に違いないと、伝えておいた。  しかし、肝心の麻子が見つからないのでは、どうにもならない。  福島県から帰って四日目に、十津川は、 「カメさん」  と、呼んで、亀井の前に、小さなボール箱を三つ並べて見せた。 「何ですか? これは」  と、亀井が、変な顔をしてきいた。 「四月に岸川一枝が、霊感で中身を当ててみろと、挑戦されたやつだよ」 「なるほど」 「試しに、カメさんが、中身を当ててみてくれないか」  と、十津川がいうと、亀井は手を振って、 「無理ですよ。私には第一、霊感がありませんよ」 「しかし、刑事の勘があるじゃないか。私の身の廻りの品物を入れたんだ。箱の大きさから考えて、想像がつくんじゃないの? 一応、いってみてくれないか」 「じゃあ、いいますよ。1番は、キーホルダー。2番がボールペン。3番が、そうですね、警察手帳」  と、亀井がいう。 「残念」  と、十津川はいい、三つの箱を開けてみせた。どの箱にも、一万円札が、たたんで入れてあった。  亀井は、苦笑して、 「当りませんよ」 「実は昨日の夜、霊感があるといわれている女性のところへ行って、同じことを試してみたんだ」 「どうでした?」 「断わられたよ。私は、天下国家を考えているので、箱の中身を当てるような詰らないことはしないといってね」  と、十津川は、いった。  亀井は、笑って、 「当然、そういって、断わるんじゃありませんか。当らなかったら、困りますから」 「じゃあ、岸川一枝はなぜそういって断わらなかったんだろう?」 「それを、ずっと、考えておられたんですか?」 「そうなんだ。なぜ、断わらなかったのだろうかと考えていた」 「それは、なまじ自分に霊感があると、信じていたからなんじゃありませんか」  と、亀井は、いった。 「中身を当てられると、信じて引き受けたというのかね?」 「違いますかね?」 「私はね、あれは、やらせじゃなかったかと思うんだ」 「やらせ──ですか?」 「いや、それは正確じゃないな。少なくとも、岸川一枝は、やらせだと思っていたんじゃないかということだよ。テレビ局の人間が、打ち合せの時、三つの箱の中身を、前もって教えますから、それを当てて見せて下さいと、いったんじゃないか。それなら、岸川一枝も喜んで応じたと思うんだよ。ずばりと当てて、さすがに霊感の強い女教祖といって、拍手喝采になるはずじゃなかったのかと、考えたんだ」 「その打ち合せが、失敗してしまったというわけですか?」 「違う。テレビ局が、やらせと見せかけて、岸川一枝を安心させておいて、裏切ったんだ」 「なぜですか?」 「わからないが、いろいろ理由は考えられるよ。最近テレビでよく、霊感とか超能力とかを扱うが、どうもマンネリ化してしまっている。そこで中央テレビのプロデューサーは、考えたんじゃないかね。この辺で、霊感があると自慢している女教祖を、番組の中で、叩きのめす。これなら、面白いだろうとね。それに、原口久之の名声も高まる」 「───」 「これから、中央テレビへ行ってみよう」  と、十津川は、いった。      8  中央テレビで問題の番組を制作したのは、足立というプロデューサーだった。  四十代の足立と、二人は、局内にある喫茶ルームで、会った。  十津川も顔の知っているタレントが、コーヒーを飲みながら仕事の打ち合せをしていたりする賑やかなところだった。  足立はブルゾン姿で、煙草を吸いながら、 「四月のあの特番は、視聴率が良かったんですよ。ニールセンで三〇・五パーセントだった。真剣勝負だったから、良かったんじゃありませんかねえ」  と、いった。 「あれで、岸川一枝という女教祖が、自殺しましたね?」  と、十津川は、足立を見た。  足立は、「ええ」と、肯いた。 「残念でしたがねえ」 「自分の番組が、彼女を自殺に追いやったとは、考えませんでしたか?」  というと、足立は肩をすくめて、 「真実というのは、時には残酷な結末を迎えるものでしてね。問題は、それをどう受け止めるかでしょう」 「岸川一枝の受け止め方が、悪いということですか?」 「彼女は霊感があると称し、信者から大金を集めていたのですよ。その霊感がインチキとばれたんですから、本来なら集めた金を信者に返し、自分は謹慎すべきでしょう」  と、足立は、いった。 「三つの箱に、品物を入れておいて、それを当てさせたんでしたね?」 「そうです。あれは、中国の三国志の時代に管輅《かんろ》という占いの名人がいましてね。本当に彼の占いが当るかどうか、当時の皇帝が箱三つを並べて、中身を当てさせたというのです。管輅は、見事に適中させたといわれています。だから、同じテストを、岸川一枝にもしてくれないかと、いったんですよ。強制したわけじゃありません」 「どうも、不思議なんですがねえ」  と、十津川は、いった。 「何がですか?」 「どうして岸川一枝が、そんな危険なことを引き受けたんだろうかと思ってね」 「彼女が、自分に霊感があると思い込んでいたからじゃありませんかね」 「箱の中身を教えると、岸川一枝に嘘をついたんじゃありませんか?」  と、十津川がいうと、足立は憤然とした顔になって、 「何を馬鹿な。仕事があるので、失礼する」  と、立ち上がった。  十津川は黙って、足立を見送ってから、 「顔色が変ったねえ」  と、小声で、亀井にいった。 「もしそうだとしても、彼を逮捕はできませんよ。証拠もないし、岸川一枝は自殺ですから」 「だがね、娘の岸川麻子は、あのプロデューサーも狙うかも知れないよ」  と、十津川は、厳しい顔になっていった。  亀井の顔色も、変った。 「その危険が、ありますか?」 「あのプロデューサーが企《たくら》んだのなら、狙われるさ。自殺した岸川一枝が遺書を書いて、それを娘の麻子に伝えていたとしたら、麻子は、原口の他に、足立を狙うんじゃないかな」 「どうしますか?」 「殺したくはないよ。いや、殺させたくはないね」  と、十津川は、いった。  もう一度、足立と会おうと思ったが、なぜか帰宅してしまったと、いわれた。  自宅は四谷のマンションと聞いて、十津川と亀井は、廻ってみたが、足立は帰っていなかった。  十津川は、急に不安になってきた。  名刺の裏に、電話連絡をして欲しいと書いて、ドアの郵便受けに投げ込んで、十津川は亀井と、捜査本部に帰った。  いつ、足立が連絡してくるかわからないので、その日、捜査本部に泊り込んだが、とうとう電話もないままに、夜が明けてしまった。  昼近くに、中央テレビに電話してみた。  足立を、呼び出してくれというと、 「今日から三日間、休みを取りました」  と、いわれた。 「それで、どこへ電話したら、足立さんと連絡がとれますか?」  と、十津川は、きいた。 「多分、別荘へ行ったんだと思います。仕事に疲れたりすると、よく行くようですから」 「何処にある別荘ですか?」 「警察の方なのでお教えしますが、熱海のマンションです」  と、相手は、いった。  そのマンションの名前と場所を聞くと、十津川は、亀井と、パトカーで熱海に向った。  途中から、十津川は赤ランプをつけ、サイレンを鳴らしてスピードをあげた。不安が、急速に、高まっていったからである。  麻子に、足立まで殺させてはならないと思う。その一方で、際どい場面で捕えないと、二人とも、真相を話さないのではないかという気もしていた。  特に足立は、四月のテレビ放送について、真実を話そうとしないだろう。  熱海市内に、入った。  熱海の街は、海から山に向って広がっている。  十津川たちの車は、急な坂道を、海辺に向って降りて行った。  道の両側には商店やホテルが、ぎっしりと詰っている感じがする。  海に出た。  海沿いに、コンクリートの道路が走り、海に向ってほとんど隙間なく、ホテルが並んでいた。  夏の季節なら、海水浴客で一杯なのだろうが、今は、海に人の気配はない。その代りに、温泉客が歩いているのが見られた。  夕暮れが近づいていた。 「あれらしいですよ」  と、亀井が、スピードをゆるめて、真新しい建物を指さした。 「ニュー熱海リゾート」という字が見えた。十階建で、どの部屋も、海に向って洒落《しやれ》たベランダが設けられている。  亀井が、道路脇に、車をとめた。 「どうしますか? 入って行って、足立に注意しますか? 岸川麻子が、殺しに来ると」  と、亀井が、きいた。 「本来、そうすべきなんだろうがね。私は麻子が、足立を殺しに来たところを、捕えたいんだ」  と、十津川は、いった。 「それでは、車を降りて、見張りましょう」  と、亀井は、いった。  恐らく、麻子が現われるなら、暗くなってからだろう。  マンションの入口は海に向っており、非常口は、裏に設けられていた。  入口を見張るなら、道路にとめた車の中からがいいだろう。非常口なら、裏へ廻らなければならない。  足立の部屋は、最上階の十階にある。角部屋だった。  結局、一人が車から入口を見張り、一人が降りて、裏口を見張ることにした。連絡は、持参したトランシーバーを使う。  最初は、十津川が車に残った。  夜になり、街灯が輝きを増した。 「どうだね?」  と、十津川はトランシーバーに向って、話しかけた。 「こちら、異状なしです」 「寒くないかね?」 「大丈夫です。マンションの中に入って見張っていますから」 「こちらも、異状なしだ。沖に、コンクリートの堤防があるが、夏は、あそこで、花火をあげるそうだ」 「冬場でも、花火大会をやるらしいですよ。観光客のために」 「ちょっと、待ってくれ」 「どうしたんですか?」 「今、車が止まった。白い服を着た女が一人おりて、マンションの中に入って行った。見てくる」  十津川は車を降りると、道路を横切ってマンションの入口に走った。  走り出そうとするタクシーをつかまえて、 「今、中に入って行ったのは?」  と、きいた。 「駅前から乗せたんですよ。マッサージの人ですよ。ここの人が、呼んだんじゃありませんか」  運転手は、そっけなくいって、走り去ってしまった。  十津川はトランシーバーで、 「入ったのは、マッサージだ」 「岸川麻子ですか?」 「いや、四十歳くらいの女だったが──」 「もし、マッサージを呼んだのが足立だとすると──」 「すぐ、十階へ行くぞ!」  と、十津川は、青ざめた顔で、叫んだ。  一階の端にあるエレベーターのところへ走った。  裏口にいた亀井も、駈けつけた。だが、二基あるエレベーターは、どちらも、十階で止まっている。  十津川は、ボタンを押した。が、エレベーターは、下りて来ない。  十津川はボタンを押し続けたが、エレベーターは、動こうとしない。 「畜生! 十階で、止めてやがる」  と、十津川は舌打ちした。きっと、エレベーターのドアに、何か挟んだのだろう。  二人は、階段を駈けあがった。 (麻子は、ずっと前から、マンションの中に入ってて、隠れていたのだ。そして、じっと、足立の部屋に入るチャンスを窺《うかが》っていたに違いない)  十津川の息が、切れてくる。 (年齢《とし》かな)  ちょっと休んでは、また駈けあがる。吐く息が、荒くなってくる。  やっと、十階に、辿《たど》りついた。  廊下に、女が倒れている。さっき、入って行ったマッサージの女だった。白い上っ張りが、なくなっている。  十津川と亀井は、反対側の端にある足立の部屋に向って、また、駈けた。  突然、海の方角から、賑やかな花火の音がした。 「なんだ?」 「誰かが、花火をあげてるんですよ」  足立の部屋の前についた。  亀井が、インターホンのスイッチを押した。  花火の音が続いている。  十津川が、拳でドアを叩いた。  だが、応答がない。  体当りしても、ドアは、びくともしない。  十津川は、拳銃を取り出して、ドアの錠の部分に向って射った。  亀井も、それにならって、拳銃を射った。  花火が、まだ打ちあげられている。それが、十津川をいら立たせる。  十津川と、亀井は、射ち続けた。  錠が、こわれた。  十津川が、ノブをつかんでドアを開けた。  2DKの部屋が、海に向って続いている。  ベランダのところで、若い女が、十津川たちを睨んで立ちはだかっていた。  白い上っ張りを羽おっていたが、写真で見た岸川麻子に間違いなかった。  花火が、次々に打ちあげられ、それが瞬間的に、ベランダを明るく照らし出している。  男の悲鳴が聞こえた。  十津川と亀井が踏み込むと、麻子が、二人を阻止しようとする。  亀井が、それを、押しのけた。  十津川は、ベランダに突進した。  中年の男が、ベランダからぶら下がって悲鳴をあげていた。  十津川がその腕を掴み、力を籠めて引きずりあげた。  ベランダに引き揚げた男は、ぜいぜい、荒い息をついている。 「足立さんか?」  と、十津川が、きいた。  男は肯いたが、声が出ないらしく、肩で大きくあえいでいるだけである。  花火が、ようやく、止んだ。  亀井は、女に手錠をかけて、心配そうに十津川の方を見ている。  十津川は、大丈夫だというように、軽く手をあげて見せた。      9  足立は、キッチンへ行き、水を呑んで、やっと落ち着きを取り戻し、声も出るようになった。 「マッサージを呼んだんだ。そうしたら、その女がやって来た。中に入れたら、急に、海の方で花火があがったんだよ。ベランダに出て見とれていたら、いきなり、その女が背中を押したんだ」  足立は、麻子を睨み、かすれた声で、いった。  手すりにしがみついていて、両手が痛むのか、足立は、しきりに、手をさすっている。 「これで、わかったでしょう」  と、十津川は、足立に、いった。 「何がですか?」  と、足立が、きく。 「わかりませんか?」 「わかりませんね」 「あんたは、プロデューサーとして、その特番を作った。その時、女教祖の岸川一枝を欺《だま》したんだ。そのために、彼女は、自殺している。違いますか?」 「そんなことはしていない。私は、いつも、きちんと作っているんだ」 「嘘をついては困りますね。人間がひとり、自殺したんですよ」  と、十津川は、いった。 「あれは、勝手に死んだんだ」 「そうですか」 「そうですよ」 「カメさん」  と、十津川は、声をかけて、 「その人の手錠を外してやってくれ。動機がないんじゃ、逮捕できないよ。われわれは引きあげよう」 「待ってくれ。そいつは、私をベランダから落とそうとしたんだよ」 「しかし、彼女がなぜ、そんなことをするんですか?」  と、十津川は、きいた。 「わかりませんよ。とにかく私は、殺されかけたんだ。その女を逮捕して、連れてって下さい」  足立が、わめくようにいう。青ざめた顔にはまだ、恐怖が残っていた。 「それでは、どうしようもありませんね。何の理由もなく、人は、相手を殺そうなんてしないもんです。男と女の問題には、われわれ警察はタッチしないのが原則でしてね。せいぜいお二人で、仲良くやって下さい。カメさん、帰ろう」  と、十津川は亀井を促して、部屋を出た。  ドアを閉め、様子を窺っていると、また男の悲鳴が聞こえた。  十津川たちは、ドアを開けて、もう一度中に入った。  足立が、腕を抱えてうずくまり、麻子はナイフを持って立っていた。 「助けてくれ。そいつがナイフで、腕を刺したんだ!」 「またですか。男女の痴話ゲンカには、警察は介入できませんよ」 「放っておいたらいいんじゃありませんか」  と、亀井が、突き放したいい方をした。 「そうだな。もう変な悲鳴は、あげんで下さい」  と、十津川が足立にいって、出て行きかけると、足立は青い顔で、 「待ってくれ!」 「思い当ることが、あるんですか?」 「わかったよ。あの番組は、やらせだった。いや、違うな。どういったらいいか──」 「やらせと思わせて、岸川一枝を欺して、番組を作った。そのため、彼女は自殺した。そういうことでしょう?」  十津川は、まっすぐ足立を見すえて、きいた。 「そうです。認めるから、その女を何とかしてくれ」 「彼女は、岸川一枝の娘ですよ」  と、十津川は、いった。  足立は、血の滲《にじ》む右手を押さえたまま、 「やっぱり、そうか。そんなことだろうと、思った──」 「カメさん」  と、十津川はいい、亀井がもう一度手錠を取り出した。  麻子は、十津川に向って、 「今のこと、マスコミに発表してくれますわね?」 「ええ。発表しますよ。その代り、あなたも正直に話して下さい」  と、十津川は、麻子にいった。  亀井が彼女に手錠をかけ、部屋から連れ出した。  エレベーターには、思った通り、ドアに消火器とダンボール箱が挟んであった。それをどけて、階下へおりた。  麻子をパトカーに乗せて、走り出してから、 「話してくれますか?」  と、十津川が、麻子に声をかけた。 「何から話したら、いいんでしょうか?」 「お母さんが自殺したことから、話してくれませんか」 「母が死んで、私はY町に駈けつけました。その時、町の人たちの豹変ぶりにびっくりしました。母を生仏みたいにいっていた人たちが、母を罵倒しているのです。町役場の人たちは、前は母が多額の献金をしたことに感謝状まで出していたのに、けんもホロロで、母の家を早くどかせろと私にいうのです。私はあの家を手放し、母が自殺に使った懐剣だけを形見に貰って、東京に帰りました」  と、麻子は、いった。 「そのあとは?」 「帰京したら、母の遺書が届いていました。それに、原口久之と、テレビ局の足立プロデューサーに欺されたことが、書いてありましたわ」 「やっぱり、そうですか。それでお母さんの仇を取ろうと、考えたんですね?」 「ええ。原口は、幽霊退治を自慢していたから、幽霊に殺させてやろうと考えたんです」 「それで、芸者の美雪に協力させた?」 「一千万円払って、協力して貰いましたわ」 「誘いの手紙は、あなたが書いたんですね?」  と、十津川は、きいた。 「ええ。ああ書けば、必ず原口は仙石原に来ると思ったんです」 「協力した美雪を殺したのは、なぜなんです?」 「彼女には一千万払い、東京のマンションも世話しました。それでも彼女は満足しないで、ぜいたくしたいから、あと五千万欲しい、くれなければ警察に話すというんです。まだ私にはしなければならないことが残っていましたし、五千万というお金もありません。どうしても、殺さなければと思ったんです。それで、お金を持って行くといって安心させ、そのマンションに行き、スパナで彼女を殺しました」  と、麻子はいった。 「今日、海岸で花火があがりましたが、あれも、あなたの考えたことですか?」  と、十津川は、きいた。 「ええ。海辺にいた子供たちに、お金を渡して頼んだんです。あのマンションに母が寝たきりでいて、花火が見たいといっているので、合図をしたら花火をどんどん、打ちあげてくれとです」  そういって、麻子は、初めて、小さく笑った。 「そうすれば、足立が、ベランダに出て、見とれる。それを、背後から突き落とすという計画だったんですね?」  と、十津川は、きいた。 「ええ。刑事さんが入って来なければ、あの男を、殺せたんです」 「われわれは、あなたに殺人をさせるわけにはいかないんですよ」  と、十津川は、いった。  捜査本部に戻ると、改めて自供書を作った。  翌日、麻子は、第一の事件のあった箱根湯本署に送られた。      10  事件が全て終り、捜査本部も解散してから一週間たって、Y町の派出所の、あの警官から手紙が届けられた。 [#ここから1字下げ] 〈事件の解決、おめでとうございます。私も、ほっとしております。  こちらY町では、小さな出来事がありました。例の公園に、町が天文台を造ることが決ったのです。  迷信の町から、科学の町へというわけです。何となく滑稽な話ですが、町役場としては、汚名払拭に必死なのだと思います。  科学も結構ですが、私のような古い人間には、Y町から、人間臭さと、うるおいがなくなっていくような気がしてなりません。  最後に、十津川様、亀井様のご健康をお祈り致します〉 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]   恨みの箱根芦ノ湖      1  箱根では、朝、きれいに晴れて、富士がよく見えても、午後になると必ず雲が出て、富士が隠れるといわれる。それだけ、箱根の気候の変化が、激しいということなのだ。  五月二十日も、石田が箱根湯本の旅館で眼をさますと、雲一つない青空で、富士を撮るには絶好だと喜んだのだが、昼過ぎると、案の定、雲が出てきて、富士の頂上を隠していった。  石田は、天候のことを旅館で聞かされていたので、午前中に何枚か富士を撮っておいた。  それでも不満で、今日は芦ノ湖畔の旅館に泊り、明日もう一度、富士を撮ることにした。芦ノ湖から見た富士もいいし、十国峠から、富士の全景を撮るのもいい。そんな風に考えて、石田は湖岸のK旅館に泊った。少し風が出てきたのが不安だったが、天気予報では明日も晴れると聞き、少し早目に布団に入った。  ところが翌朝眼をさますと、雨は降っていないものの、空はどんよりと曇っている。 (参ったな)  と、思った。これでは、富士は、とても拝めないだろう。  風が雲を追い払ってくれることを期待して、朝食のあと、カメラを持って湖岸に出てみたのだが、そのうちに小雨まで降り出してきた。  煙のような細かい雨で、濡れるのは気にならないが、富士を撮れる可能性は、ますます小さくなってしまった。 (もう一日、待ってみよう)  と、石田は、覚悟を決めた。粘りが自慢の男である。前には、冬の北海道で、イヌワシを撮るため、震えながらテントで一週間を過ごしたこともある。  あっさり覚悟を決めたものの、このまま旅館に引き返すのも癪《しやく》で、小雨に煙る芦ノ湖を撮ることにした。  連休が終ったあとなのと、ウィークデイ、それにこの天気で、観光客の姿はひどく少なかった。  湖岸に沿って、道路が伸びている。石田はゆっくりとレンタカーを走らせ、時々車をとめて、カメラを構えた。  幸い、昼を過ぎる頃から、雨があがった。  陽が射すまではいかなくても、湖面は明るくなった。  箱根園近くで、木造の洒落《しやれ》たレストランを見つけて、石田は遅い昼食をとりに、中に入った。二階にあがると、窓際のテーブルに腰を下ろした。  この辺り、細長い芦ノ湖でも、一番幅が狭いところである。  連休のときは、きっとこの店も、若者や家族連れで一杯だったのだろうが、今日は、がらんとしている。  石田は、ビールとシチュー定食を頼んだ。窓の外の湖面を眺めながら、ゆっくりと食事をした。  それがすんで、煙草に火をつけた時、遊覧船が沖を通過するのが見えた。  芦ノ湖にはいろいろな船が走っている。今、眼の前に見えて来たのは、船体が赤く塗られた海賊船スタイルの遊覧船だった。  丁度、雲の切れ間から五月の陽光が射し込んで、遊覧船を浮びあがらせた。それが、石田の眼に鮮烈な印象に思え、シャッターを押していった。  このまま、雲が切れて、富士が頭をのぞかせてくれたらと願ったが、空はまた曇ってしまった。気まぐれな天気なのだ。  石田は、レストランを出ると元箱根の方向に車を走らせ、箱根神社のところで駐《と》め、杉林の下の参道を徒歩であがって行った。  ここも、観光客の姿はなく、ひっそりと静かである。石田は、別に神道を信じているわけではないが、静かで、緑の多い神社の境内の雰囲気は好きだった。  何枚か写真を撮り、おみくじを引いてみた。小吉だった。願事はかなうが争事に注意せよと書かれている。自分でも認める頑固さでよくケンカをしてきたし、五年間連れ添った妻の敬子と別れることになったのも、お互いの頑固さが原因だった。  石田が、おみくじの文句に思わず苦笑したのもそのせいである。  おみくじの商売《あきない》のところには、利あり、損はなしと書かれているので、気を良くして旅館に戻った。  それが適中したのかどうかわからないが、次の日は理想的な快晴で、くっきりと富士が浮び上がってくれた。  それでも、午後には雲が出る恐れがあるので、石田は車を飛ばして、午前中に芦ノ湖からの富士を撮り、十国峠に出て、富士の全景をカメラにおさめた。その日は、富士の向うに南アルプスまでを見ることが出来た。裾野には、青木ヶ原の樹海も遠望することが出来た。  満足できる富士の写真を撮ることが出来た石田は、二十二日中に東京に帰った。  彼が襲われたのは、その二日後だった。      2  写真の現像が出来あがり、注文した出版社に連絡したあとだった。  インターホンが鳴ったので、R出版の編集者が写真を受け取りに来たと思って、ドアを開けたとたん、サングラスをかけた大男が入って来て、いきなり、何かで殴りかかって来た。  最初の一撃は、辛うじて避けたものの、二撃目で、石田は叩きのめされた。血が吹き出し、その血が眼に入って見えなくなり、そのまま逃げようとして、また殴られ、その場にくずおれた。  どのくらい気を失っていたのか。  鎮痛剤の効き目が切れて、痛みで眼を開けた。  最初に黒っぽい人影と白い人影が見えた。焦点が合ってくる感じで、黒っぽいのはグレーの背広姿の男、白の方は、白衣の看護婦と、わかってきた。  背広の男が、顔を近づけてきて、 「気がつきましたか?」  と、きいた。  その声と顔に覚えがあった。 「ああ、R出版の小林君か」 「そうですよ。富士の写真を受け取りに来たら、石田さんが倒れているし、変な男がうろうろしているんで、びっくりしました」 「犯人が、まだ、いたのか?」  と、きいてから、石田は激痛に呻《うめ》き声をあげた。頭に手をやると、ぐるぐる包帯が巻かれていた。 「ああ、触らないで」  と、看護婦が、注意した。その代りに鎮痛剤をくれた。それを飲んでも、もちろんすぐには痛みは消えてくれない。 「大丈夫ですか?」  小林が、心配そうにのぞき込んだ。 「犯人は、どうしたんだ?」  と、石田は、眉をひそめながら、きいた。 「僕を見て、あわてて裏口から逃げて行きました。追いかけようと思ったんですが、石田さんが、血だらけで倒れているんで、とにかく救急車を呼ばなきゃと思いましてね。警察にも連絡しておきました」  と、小林は、いった。  病室のドアが開いて、四十五、六歳の男が入って来た。その男が、石田に黒い警察手帳を見せて、 「警視庁捜査一課の亀井です。襲われたことに、何か、心当りがおありですか?」 「いや、全くありません。犯人の顔も初めてみたんです」  相変らずの激痛に顔をしかめながら、石田は、いった。 「部屋は荒されていましたが、犯人が現金や預金通帳に手をつけた形跡はなく、荒したのは、暗室と、カメラのある部屋です。石田さんが、カメラマンだということを考えると、どうやらあなたが撮った写真が目的だったと思いますね」 「写真?」 「そうです。よくあるケースで、カメラマンが何気なく撮った写真が、ある人間には都合が悪いということで、自分が写っているフィルムを奪おうとするわけです。最近、何か、撮られましたか?」 「箱根へ行って、富士を撮って来ましたよ」 「それかも知れませんね」 「しかし、刑事さん。僕が撮ったのは、富士で、人間じゃありませんよ」 「それでも、偶然、ある人間が、あなたの写真の中に入ってしまったということはあるんじゃありませんかね」  と、亀井刑事は、いう。 「それはないと思うんですがねえ」 「とにかく、犯人は、盗むことが出来ずに逃げました。それで、石田さんが箱根で撮った写真を、見せて欲しいんですが」 「しかし、僕は、別に殺されたわけじゃないんだから──」 「また、狙われますよ。次には殺されるかも知れない。それを防ぎたいんです。箱根で撮って来た写真を、全部、見せて下さい」 「わかりました」  と、石田は、肯《うなず》いた。  自分では動けないので、小林に取って来て貰《もら》うことにした。  小林が、現像ずみのフィルムを病院に運んできた。 「すごい量ですね」  と、亀井刑事が、感心したような呆《あき》れたような声を出した。 「一回で、百本から二百本ぐらい撮りますからね。特に、景色を撮る場合は、一瞬、一瞬、景色が変化するので、数が必要です」  と、石田は、いった。少しずつ頭の痛みは、うすらいでくる感じだった。 「しかし、私から見ると、同じ景色が何枚もありますがねえ」 「いや、それは違いますよ。太陽は刻々位置を変えているし、雲も風も変化するんです。厳密にいえば、一つとして同じ風景は無いんですよ」 「それはわかりますが、私たちはそういうように芸術的には見ませんのでね。同じ角度で撮り、写っているものが変っていなければ、雲が出ていてもいなくても同じと見ます。その条件で整理して、大きく引き伸して調べたいのです。構いませんか?」  と、亀井は、きいた。  石田が承知して、すぐその作業が始められ、夜になって五十六枚の写真が、ハガキ大に引き伸されて、出来あがった。  ベッドの石田にも見えるように、写真は衝立にピンで止められた。 「富士を撮りに行かれたというが、神社や船も撮っているんですね」  と、亀井が、いった。 「それは、二日目に撮ったものなんです。朝から小雨が降っていて、途中で止みましたが、肝心の富士が、全く見えないんですよ。仕方なしに、湖岸を散歩していて、撮ったものです」 「なるほど。まず、神社からいきましょうか。これは確か、箱根神社でしたね?」 「そうです」 「人が、ぜんぜん写っていませんね」  と、亀井が、いう。石田は微笑して、 「誰もいませんでしたよ。今もいったように、朝は雨だったし、風が強くて、五月にしては寒かったですからね。それに、連休の後でしたから」 「湖岸の景色も同じですね。人が写っていない」 「それは、観光客がいなかったわけじゃありません。少しはいたんですが、面白い人物像が無かったんで、風景しか撮らなかったんですよ」 「船は、面白い形をしていますね」 「芦ノ湖には、何隻も観光船が走っていますが、これはビクトリア号といって中世のイギリスの戦艦がモデルになったものです。帆船の型になっていて、船体の赤が魅力的です。定員は、確か六百五十名です」 「よく、ご存じですね」 「なに、観光案内の受け売りです」 「なぜ、このビクトリア号を、撮られたんですか?」 「湖岸のレストランに入って、ぼんやり湖を見ていたら、この船がゆっくりと近づいて来たんです。丁度雲の切れ間から太陽が顔を出して、船体の赤がいやに鮮やかに映ったんで、カメラを向けたんですよ。近くに船着場があるんで、そこへ着くところだったんです」 「ずいぶん、近く見えますが」 「望遠レンズで、狙ったんです。ごらんのように、中央の上甲板にデッキチェアが並んでいましてね。船客は、そこにあがって景色を楽しむんだと思います。僕としては、そこに美しい女性が、愁いを含んだ眼で湖面を眺めていたら、面白い絵になるなと思って、ずっと望遠レンズで狙って撮ったんですが、とうとう現われませんでした」 「美人どころか、誰も写っていませんね」  と、亀井が、いった。 「何度もいいましたが、風が強くて寒かったですからねえ。船客は船室内にいて、甲板には出て来なかったんだと思います」 「なるほど」  と、亀井は肯いてから、次は、富士の写真を一つ一つ、丁寧に見ていった。 「きれいな富士ですねえ」 「ええ」 「しかし、どの富士の写真にも、人間が入っていませんね?」  亀井が、不思議そうに、きく。石田は笑って、 「富士をバックにしての記念写真じゃありませんからね。富士は、富士だけで、十分に美しいんです」 「参ったね」  と、亀井が、呟《つぶや》いた。 「何がですか?」 「てっきり、あなたが狙われたのは、写真のせいだと思っていたんですがねえ」 「僕の撮った写真の中に、偶然、人殺しの現場が写っていたとでも思っていたんですか?」  と、石田は、きいた。 「まあ、そんなところです。例えば、ビクトリア号ですが、偶然、誰かが、誰かを湖に突き落とすところを、あなたが写真に撮った。あなたは船を撮ったんだが、知らないうちに、枠の中に入っていた。そんなことを、考えていたんですがねえ」  と、亀井は、いった。 「残念でした。ご覧のように、僕の写真には、人間は写っていませんよ。富士の場合は、富士だけを撮る気でした。ビクトリア号の場合は、今もいったように、美人が甲板にでも立っていて、湖面を眺めていればと思いましたが、美人どころか、誰も出ていませんでした。箱根神社も、同様です」 「しかし、あなたは、狙われた」 「ええ」 「この前は、何処へ行って、写真を撮ったんですか?」 「今年の二月に、アフリカへ行って、写真を撮って来ましたよ。あれは、一カ月かかりましたね」 「それが、原因かな?」 「それはないと思いますよ」 「なぜですか?」 「あのアフリカの写真は、もう雑誌に発表していますからね。僕を殺しても、仕方がないでしょう」  と、石田は、いった。 「それなら、なぜ、あなたは狙われたんですか?」 「そんなこと、僕にはわかりません。誰かに、間違えられたのかも──」 「プロのカメラマンに、同姓の方がいますか?」 「ええ。先輩に、石田美津夫という人がいますよ」 「その人と、あなたを取り違えたかな?」  亀井が、眼を光らせた。が、すぐ小林が、 「石田美津夫さんは、もう八十歳近くて、ここ数年病床にあって、写真は全く撮っていませんよ」  と、いった。      3  亀井は、五十六枚の写真を預かって、警視庁に帰った。  上司の十津川警部に、それを見せた。 「すっかり、予想が外れました。てっきり何か、犯人にとって不利なことが、写っていると思っていたんですが──」 「殺人が、写っているとかか」 「そうでなくても、そこにいる筈《はず》のない人間が写っているということがある筈だと、思ったんですがねえ。ご覧のように、人間は一人も写ってないんですよ。当外れも、いいとこです」 「石田は、別の理由で襲われたということかね?」 「かも知れません」 「殺人未遂で、捜査を進めよう。写真が動機でないとすると、石田の女関係や借金、仕事上の軋轢《あつれき》などが、動機ということかな」 「とにかく、聞き込みをやってみます」  と、亀井は、いった。 「この写真は?」 「正直いって、まだ未練があるんですが、人間の写っていない写真では、何も聞こえて来ません」  と、亀井は、小さく肩をすくめて見せた。  亀井は、写真を十津川に預けて、若い刑事たちを連れて、聞き込みに出かけた。  ひとりになると、十津川はコーヒーを飲みながら、一枚ずつ丁寧に、写真を見ていった。プロが撮ったものだけに、さすがにアングルもテクニックも素晴らしい。  だが、十津川は亀井と同じで、刑事の眼で写真を見ざるを得ない。彼は、虫眼鏡を持って来て、もう一度、一枚ずつ、見ていった。  写真の何処かに、虫眼鏡でやっと見えるくらいの小さな人物が写っているのではないのか。十津川はそんなことを考えて、調べ直してみたのだが、やはり何も見つからなかった。  十津川は、特に、十国峠から富士の裾野の青木ヶ原の樹海を俯瞰《ふかん》した写真を念入りに調べてみた。ひょっとすると、樹海の中で何か犯罪が行われていて、犯人がふと峠の上からカメラを向けている石田に気付いた。自分が彼のカメラに写ってしまったのではないかと恐れ、石田を見つけ出し、彼を襲ってフィルムを奪い取ろうとした。十津川はそんな風にも考えて、特に念入りに虫眼鏡を動かしてみたのだが、無駄だった。樹海の下に、人間が隠れている形跡はない。 (考え過ぎだったか)  と、十津川は思い、疲れた眼をこすった。  どうやら、石田の撮った写真が、襲われた原因ではなかったらしい。 (それなら、何が原因だったのか?)  亀井たちが帰って来て、石田について報告した。 「石田には、これといった敵は、いませんね」  と、亀井は、それが残念みたいに、いった。 「ライバルはいるんだろう?」 「それはいますが、石田は職人|気質《かたぎ》のカメラマンで、仲間の仕事まで奪い取ってやるみたいなところは、ありません。ライバルに憎まれるタイプじゃないわけです。むしろ、あいつはいい仕事をする割に経済的に恵まれてないなと、同情されるタイプですね」 「仕事を依頼する出版社なんかの見方は、どうなんだ?」  と、十津川は、きいた。 「今もいいましたように、職人気質で、きっちりと仕事をやるので、依頼主からも好感を持たれています」 「女性関係は、どうだ?」 「奥さんとは、今、別居中です」 「原因は?」 「こればかりはよくわかりませんが、石田の頑固さが原因だという人もいます」 「他に女が出来たからということはないのか?」 「それはないみたいです」 「しかし、ひとりなら、適当に女遊びもしているんじゃないのかね?」  と、十津川がきくと、今度は西本刑事が、 「彼は、六本木のMというクラブに時々行っているというので、そこへ行って、ママやホステスに、石田のことを聞いてみました。石田は、若手のカメラマンということで、なかなかもてるようです」 「羨《うらや》ましいね」 「ただ、その店のホステスの中に、特定の女性というのはいないみたいです。彼のマンションに行って、ヌードを撮って貰ったという娘《こ》がいましたが、その時だけのつき合いという感じでした」 「女が原因で、刃傷沙汰ということは無いか?」 「はい」 「彼が撮った写真が原因で、もめているということはないのかね?」 「前に一度、あったそうです」  と、日下が、いった。 「どんなことだ?」 「CM写真を撮った時、肖像権のことでもめたらしいんですが、これは依頼主のスポンサーが金を払って、解決しています。その他に、もめたことはないようです」 「宗教関係は? 新興宗教にでも入っているというようなことは、ないのかね?」 「それも調べましたが、見つかりません。彼は仏教徒で、ナムアミダブツの方ですが、一般の日本人と同じで、あまり宗教心は強くないようです」  と、北条早苗が、報告した。 「前科は?」 「ありません」  と、清水が、答えた。 「何にも無しか」  と、十津川は呟いてから、 「しかし、石田は襲われ、殺されかけたんだ。犯人がいるわけだよ。動機は、何処かにある筈だ」      4  二日後、石田が退院することに決った。  十津川は、念のために、若い西本刑事に、病院から自宅まで送らせることにした。 「そのあと、どうしますか?」  と、西本が、きく。 「二、三日、様子をみよう。午後六時になったら、日下《くさか》刑事を交代に行かせるよ」  と、十津川は、いった。  西本はパトカーで病院へ迎えに行き、石田を乗せて、千駄ヶ谷にある住居兼スタジオまで送って行った。  敷地は、せいぜい三十坪くらいだろう。そこへ、二階建の木造のスタジオが建っている。二階は、住居なのだ。 「車の中で、しばらく監視に当ります。何かあったら、すぐ知らせて下さい」  と、西本は、石田にいった。 「まだ、僕が狙われると、思っているんですか?」 「あくまで、念のためです」  と、西本はいい、パトカーに戻って、煙草に火をつけた。  その直後だった。猛烈な爆発音と同時に、閃光が走り、眼の前の黒く塗られたスタジオが、吹き飛んだ。  その爆風で、西本の乗っていたパトカーが、ゆれた。  一瞬、西本は眼を閉じ、運転席に突っ伏した。  西本は、身体を屈めたまま、スタジオに眼をやった。木造のスタジオは崩れ落ち、何かに引火したのか、炎が吹き出していた。フィルムが燃え出したのか、煙が西本の視界をさえぎった。 「石田さん!」  と、西本は、大声で叫んだ。が、返事はない。  炎と煙は、ますます広がっていく。  西本はパトカーに戻ると、無線電話で十津川に連絡した。 「石田の家が、爆発して、燃えています。消防を、呼んで下さい」 「石田は、無事なのか?」 「わかりません」 「よし、私も行く」  と、十津川が、大声でいった。  まず、十津川と亀井がパトカーで駈けつけ、続いて消防車が、一台、二台と、やって来て、消火作業が始まった。  間もなく、火は消えた。が、爆発で崩れ、そのうえ炎に見舞われたスタジオ兼住居は、無残な姿に変っていた。  そして、焼けた建物の下から、石田の死体が発見された。  死体は、さほど焦げていなかった。 「彼が退院してくるのを知って、誰かが時限爆弾を仕掛けておいたんだと思います」  と、西本が腹立たしげに、いった。 「そうだろうね。われわれは病院をガードしていたが、こちらは、もう問題のフィルムは持ち出したので、監視していなかったからね」  と、十津川は、口惜しがった。  異臭がひどいのは、フィルムが燃えたせいだろう。  死体は司法解剖のために運ばれていき、重苦しい空気だけが残った。 「カメさん。少し歩かないか」  と、十津川が、誘った。  二人は、神宮外苑の方向に歩き出した。 「どうもわかりません。石田の周辺をいくら調べても、彼を恨んでいるような人間は、浮んで来なかったんです」  と、亀井が、いった。 「それならやはり、彼の撮った写真が、原因なんじゃないかね」 「しかし、あの写真には、人間は写っていませんでしたが」 「わかってる」 「まさか、景色が、石田を殺したとは、思えませんが」  と、亀井が、いう。  十津川は、しばらく黙って歩いていたが、 「ねえ、カメさん。二人で、富士を見に、箱根へ行ってみようか」  と、いった。  十津川は、捜査本部に戻ると、三上本部長に石田が死んだことを報告し、その日のうちに、亀井と、小田急線で箱根に向った。  新宿から、一二時三〇分発のロマンスカーに乗り、箱根湯本に着いたのは、午後二時少し前である。  梅雨の前触れなのか、どんより曇っていて、これでは富士は見えそうもない。 「レンタカーで、石田の走った通りに、走ってみよう」  と、十津川は、いった。  箱根湯本駅近くで、ホンダ・シビックを借りた。助手席に座った亀井が、ポケットから箱根地方の地図を取り出して、広げた。 「その赤い線は、何だい?」  と、十津川が、きいた。 「入院中の石田に、どう走ったか、線を引いて貰っておいたんです。×印がついているのは、彼が写真を撮ったところです」 「さすがに、カメさんだ。そつがないね」  と、微笑してから、十津川は車をスタートさせた。ナビゲイター役を、亀井がつとめる。  宮ノ下から小涌谷《こわくだに》を抜け、元箱根で芦ノ湖にぶつかる。  車を駐《と》め、歩いて箱根神社に参拝し、石田が食事をしたという湖岸のレストランに入った。  窓際に腰を下ろし、コーヒーを飲みながら、湖面に眼をやった。  しばらく眺めているうちに、石田の写真にあったビクトリア号が、現われた。近くの元箱根の桟橋に向うのだろう。  赤い船体と、帆柱と、船尾の三層のキャビンが、いかにも中世の感じで、楽しかった。 「石田は、ここから、あの船の写真を撮ったんですね」  と、亀井が、いった。 「今日は、上甲板に、観光客がいるね」  と、十津川は、いった。  五、六人が、岸に向って手を振っている。 「今日は、暖かいですから」  と、亀井が、いった。  十津川は、不思議な気持で、眼の前をゆっくり横切って行く船を見ていた。  石田が持っているカメラには、何百ミリという望遠レンズがついている。ここから狙っても、船の上甲板にいる乗客の顔は、はっきりと撮れるだろう。  だが、彼の撮った写真には、乗客は写っていない。もし、一人でも写っていれば、その人間を殺人容疑で追いかけるのだが。  十津川と亀井は、次に、十国峠に向った。  今日は、曇っていて、富士は見えなかった。それでも、十津川は車から降りて、富士があると思われる方向を眺めた。吹きつけてくる風は強く、まだ冷たい。  煙草をくわえたが、なかなか火がつけられず、諦めて車に戻った。 「これから、どうしますか?」  と、亀井が、きいた。 「箱根は、小田原署が管轄だったね?」 「そうですね。この十国峠は、静岡県ですが」 「じゃあ、小田原署へ行ってみよう」  と、十津川は、いった。  いったん、熱海へ出てから、海岸沿いに小田原へ向けて引き返した。  小田原署に着いたのは、午後六時を過ぎていた。  中村というベテランの警部が、応対してくれた。本庁の刑事が、何の用で突然やって来たのか、不審に思っている顔だった。 「最近、箱根周辺で、事件が起きていないか、それを教えて頂きたいのです」  と、十津川は、単刀直入に、いった。  中村は、壁にかかっている地図に、ちらりと眼をやってから、 「どういう事件のことを、いわれているんでしょうか?」 「多分、殺人です。それも、未解決の事件だと思うのです」 「未解決の殺人事件ですか」 「そうです。最近、起きていませんか?」 「そうした事件は、一件もありませんね」  と、中村は、いった。 「ありませんか?」 「轢《ひ》き逃げは、一件起きています。これはまだ犯人が捕まっていません」  と、中村は、いう。十津川の顔が明るくなった。 「それは、いつ、何処で起きたんですか?」 「五月五日、連休の最中に、小田原市内で起きました。轢死《れきし》したのは、五十二歳の主婦で、轢いたのは、観光に来た他県の車と思われるのです」  と、中村は、いった。  十津川の気持が、失望に変った。 (違うな)  と、思ったからだ。石田は、連休には来ていないし、小田原市内では写真を撮っていない。  石田が殺されたことと、彼が箱根に来て写真を撮ったこととは、関係がなかったのだろうか? 「未解決ではなく、解決した事件についても、念のために話してくれませんか」  と、十津川は、いった。  案の定、中村の表情が固くなった。解決済の事件に、本庁の人間が、文句をつけるのではないかと、考えたらしい。  十津川は、あわてて、 「実は、東京で、殺人事件がありましてね。どうしても犯人が、浮んで来なくて、弱っているのです。その被害者が、五月に箱根へ来ているので、ひょっとして、こちらの事件と関係しているのではないか。そう思ったので、伺うのです。協力して頂けませんか」  と、付け加えた。  中村は、まだ警戒の表情を崩さなかったが、それでも、手帳を取り出した。 「解決ずみの事件は、二件起きています。一件は、連休中に起きたもので、観光客同士のケンカです。大涌谷《おおわくだに》の駐車場で、車をぶつけたことからケンカになり、片方がナイフで相手を刺して、殺してしまったもので、犯人はその場で逮捕されています」 「もう一件は、どういう事件ですか」  と、亀井が、きいた。 「こちらは連休が明けてからで、地元の人間の起こした事件です。湖岸のレストランの屋上から突き落とされて、その店のオーナーが殺されました。丁度、その店が休みの日でした」  と、中村は、手帳を見ながらいった。 「それで、犯人は、誰だったんですか?」  と、十津川が、きいた。 「愛人です。被害者は、妻が病身なので、女を作っていましてね。三十二歳の女なんですが、最近はケンカばかりしていて、女は、別れるなら五千万払えと、いっていたらしいのです。この日も、二人は口論になり、女がかっとして、男を突き落としてしまったというわけです。浮気は怖いということですな」 「なるほど」 「どちらの事件も、犯人はすでに逮捕され、送検されています」  と、中村は、強調した。済んだ事件について、詰らない口出しは無用にしてくれということなのだろう。  十津川と亀井は、中村に礼をいい、小田原署を出た。  車に戻ると、すでに午後九時を廻っている。十津川は、今夜は箱根に泊ることにして、旅館を探した。      5  この日、二人は箱根湯本に泊り、翌日、芦ノ湖に向った。  昨日小田原署で聞いた殺人事件のことを、詳しく知りたかったからである。  大涌谷の事件は、連休中の殺人だから、無視していい。問題は、湖岸のレストランの殺人の方だった。  問題のレストランは、箱根園に近く、五階建で、行楽地のそれらしく、一階が土産物店、二階がレストラン、三階が喫茶店、四、五階が住居という造りだった。  だが、二人が着いた時は閉っていて、「都合により臨時休業致します」という札がかかっていた。主人が愛人に殺されたのでは、臨時休業も止むを得ないだろう。  十津川と亀井は、その隣りの箱根細工を売っている店で、事情を聞くことにした。  店番をしていたのは、五十歳くらいの女性で、土地の人間らしく、殺されたレストランの主人についても詳しく知っていて、よく喋《しやべ》ってくれた。 「名前は、健吾さん。入江健吾。わたしと、小学校は一緒だったのよ。だから、よく知ってますよ。働き者でね。隣りのビルも、健吾さんが建てたものよ。預金だって、かなりあるんじゃないんですか。ただ、男って、財産が出来ると、女遊びをするもんでねえ。奥さんも身体が弱いもんだから、大っぴらに遊び出したんですよ」 「三十代の女性だそうですね?」  と、十津川は、きいた。 「ええ。でも、二人が出来たのは五、六年前だから、その時はまだ二十代じゃなかったかしら」 「名前は、何というんですか?」 「浅田奈津子。健吾さんは、なっちゃんて、呼んでましたよ」 「何をしていた女性ですか?」 「それが、よくわからないんですよ。とにかくね、健吾さんが、東京から連れて来たの。東京のクラブかバーで、ホステスをしてたって噂もあるし、OLだったって噂もありますしねえ。ちょっと男好きのする顔をしていて、健吾さんは夢中になってたんですよ。経理が出来るというんで、店の金庫番をやらせて。よくあるでしょう? そうやって、入り込んでくる性悪な女が」  と、店番の女は、同意を求めるように十津川を見た。  十津川は、苦笑して、 「なるほどね。それで、どうなったんですか?」 「社長の健吾さんは、その頃は彼女に夢中だったし、奥さんは、病院に入ったり出たりでしょう。店の実権はたちまちその女に、握られちゃったんじゃありませんかね。金使いの荒い女で、健吾さんに、何かっていっちゃあ、宝石とか、ブランドものの洋服なんかを、買わせていたみたいですよ」 「彼女は、ずっと経理をやっていたんですか?」  と、亀井が、きいた。  店番の女は、首を小さく横に振って、 「宝石をちゃらちゃらさせてる女に、経理を見させるなんて、おかしいじゃありませんか。それに、従業員の人たちだって、そんな女が威張ってれば、面白くないでしょうが。健吾さんも、そんな空気を察したんじゃないのかしら。一年前に辞めさせて、この先の湖尻に出来たリゾートマンションに、住まわせるようになったんですよ」 「完全な二号生活というわけですか」  と、十津川は、いった。 「ええ。でも、健吾さんが真っ赤なスポーツ・カーを買ってやったんで、よくそれを乗り廻していましたよ。店にも、その車でやって来たりしててね」 「最近、二人の仲が悪くなっていたそうですが、原因は何だったんですか?」 「それについても、いろいろ噂が流れてるんですよ」 「どんな噂ですか?」 「健吾さんが新しい女を作ったからだとか、あの女が店の金を何百万か、黙って持ち出して使ったので、健吾さんも嫌になったんだとか、いわれてますけどねえ。私がある人に聞いたんじゃ、健吾さんがあの女を東京から連れてくるとき、そのうちに家内と別れてお前と一緒になると、いったらしいですよ。よく男の人って、女の気を引こうとして、いうセリフじゃないんですか? 刑事さん」  と、また同意を求められて、十津川は笑いながら、 「彼女は、五千万円よこせと、いっていたらしいですね。それは、約束を守ろうとしないことへの慰謝料ということなのかな」 「私は、一億円要求していると聞きましたよ」 「すごい金額ですね」 「色と欲が、くっついてた女ですからねえ」 「彼女が嫌いのようですね?」 「ヨソモノですからねえ」  と、店番の女は、眉を寄せて見せた。 「それで、事件があったのは、何日ですか? 丁度、店が休みだったそうですが」  と、十津川は、きいた。 「お隣りは、第一と、第三木曜日が休みだから、五月二十一日でしたよ」  と、相手は、いった。      6 (少しばかり、石田とつながりらしきものが見えた)  と、十津川は、思った。  石田が、箱根に、富士を撮りに来たのは、五月二十日から二十二日までの三日間だからである。 「入江健吾さんは、屋上から突き落とされたみたいですね?」  と、十津川は、きいた。 「ええ。あそこの手摺りが低いんで、あぶないなって、いってたんですよ」 「屋上で、口論をしていて、突き落としたんですね?」 「ええ」 「なぜ、屋上なんかで、二人は話をしていたんですかねえ? 休みだったのに」 「いくら休みだって、四階には病身の奥さんが寝ているんですよ。だから健吾さんが、うるさいあの女を、屋上へ連れて行ったんだと思いますよ」 「奥さんの名前は、何というんですか?」 「ひろ江さん」 「何処の人ですか?」 「ここの生れですよ。大人しくて、本当にいい人」  と、店番の女は、いった。  十津川は、話を聞いた礼に、千円の箱根細工を買って、その店を出た。  次に行ったのは、元箱根にある派出所だった。  そこにいた四十二、三歳の警官に、警察手帳を見せて、五月二十一日の事件について、詳しい話を聞きたいと、いった。 「それは、署の方で、聞いて頂きませんと──」  と、警官がいうのを、十津川は、 「小田原署へは、もう行って来たんだ。あそこの中村警部に、あなたのことを聞いたんだが、詳しい話は派出所で聞いてくれと、いわれてね」  といった。それで、警官は安心したらしく、 「私もこの土地の人間で、入江さんのことはよく知ってるんですよ。それで、びっくりしました。殺されたと知った時は」 「愛人の浅田奈津子が、犯人として逮捕されたんだったね?」 「そうです」 「自供したの?」 「いえ。否認しています」 「他の人間が突き落とした可能性もあるわけじゃないのかね。例えば、奥さんだ」 「それは、あり得ません」  と、警官は、いう。 「なぜだね?」 「あの奥さんは、心臓が悪いんです。医者の話では、とても男を突き落とす体力はないということです」 「他に、関係者はいないのかね? 奥さんの家族とか」 「弟さんがいます」 「その人は、今、何処にいるのかね?」 「この元箱根で、自分で観光案内の仕事をやっていますよ。名前は、野口英夫。年齢は、確か三十五、六です。まだ、独身です」 「じゃあ、彼が犯人の可能性もあるわけじゃないのかね? 姉に同情して、入江さんに腹を立てていただろうから」  と、十津川がいうと、警官は、 「最初は、野口英夫も、容疑者の一人でした。しかし、事件のあった時、別の場所にいたことが証明されたんです」 「アリバイか」 「そうです」 「どんなアリバイなんだ?」  と、亀井が、きいた。 「あの日、野口さんは、東京のお客さんを案内していたんですよ。その人と、一緒にいたわけです」 「どんな人間なんだ?」 「ちょっと、待って下さい」  と、警官はいい、机の引出しを調べていたが、一枚の名刺を取り出して、十津川たちに見せた。  〈風間順 風間興業代表取締役〉  と、いう名刺だった。東京の住所になっている。 「五十二、三歳の立派な方でしたよ」  と、警官が、いった。 「野口が案内していたのは、この人と、他には?」 「この人だけです」 「たった一人を、観光案内していたわけかね?」 「そういうぜいたくな観光をする人も増えたらしいですよ。その代り、その人一人のために車を用意し、最高級の旅館を予約し、もちろん観光案内をするわけです」 「なるほどね。浅田奈津子に戻るんだが、否認しているんだったね?」 「そうです」 「彼女は、どんな風に否認しているんだね?」 「最初は、二十一日には、あの店には行ってないと、主張したんです。ところが、彼女の赤いスポーツ・カーが店の前にとめてあるのを目撃した人がいましてね。それも、三人です。彼女の車は、目立ちますから」 「しかし、行ったとしても、殺したかどうかは、わからないんじゃないか?」  と、なおも十津川がきくと、警官はニッコリして、 「それが、悪いことは出来んもんで、彼女が入江さんを突き落とすところを、目撃した人間がいたんですよ。これが、決め手になりました」 「目撃者?」 「そうです」 「どんな目撃者が、いたんだ?」 「その名刺の社長さんですよ」 「この風間という人?」 「ええ」 「何処で、どうやって、目撃したのかね?」 「野口さんが、その社長を案内して、芦ノ湖の観光船に、丁度乗っていましてね。たまたま船の上から、惨劇を目撃したというわけです」 「観光船から?」 「そうです」 「少し、偶然が過ぎるんじゃないかね?」 「かも知れませんが、その社長が、嘘をつく理由がありません」 「観光船の名前は、わかるかね?」 「ビクトリア号です」 「ビクトリア号は、この元箱根に着くんだったね?」 「桃源台と元箱根の間を、往復しています。問題の船は、桃源台を一四時〇〇分に出て、途中箱根町に寄り、一四時四〇分に元箱根に着いています」 「船が、問題のレストランの沖を通った時刻は、何時頃なの?」 「一四時一五分から二〇分の間です」 「入江さんが、突き落とされたのは?」 「一四時一五、六分です。従って、目撃されてもおかしくはないのです」  と、警官は、いった。 「野口という男に、会う必要がありますね」  と、亀井が、小声で十津川にいった。      7  十津川と亀井は、ビルの二階にある「ノグチ観光」を、訪ねた。  受付の女の子と社長の野口がいるだけの小観光会社だった。  野口は背の高い感じのいい男だった。本庁の刑事が訪ねて来たことに、びっくりした様子だったが、 「あの事件の時は、風間社長と一緒で、助かりました。もしひとりでいたら、僕が、義兄殺しの犯人にされたかも知れませんから」 「風間さんとは、前からの知り合いですか?」  と、十津川は、きいた。 「いえ。二十一日が、初めてです」 「しかし、その初めての人が、どういうルートであなたのお客になったわけですか?」  と、亀井が、きいた。 「僕は無理して、アメ車のリムジンを買いましてね。隣りの駐車場に置いてありますが、キャデラックのリムジンです。それで、ご案内するというわけで、一人から四、五人までの少人数のお客を、相手にしています」 「それで?」 「僕は以前、東京のN観光で働いていたんです。独立してから、あそこの部長さんにお願いしましてね。少人数で箱根観光をしたいお客がいたら、紹介して下さいといってあるんです。風間社長も、N観光の紹介です」 「二十一日の行動を、くわしく話してくれませんか」  と、十津川は、いった。 「まず、小田急のロマンスカーでお着きになる風間社長を、リムジンで箱根湯本駅に迎えに行きました」 「あなたが、運転してですか?」 「僕は、大型の車を運転するのは苦手なので、運転手さんを傭っています。加藤さんといって、大人しい、信頼のおける運転手さんですよ。風間社長を乗せて、大涌谷や仙石原を案内してから、芦ノ湖に出ましてね。昼食のあと、桃源台から観光船に乗りました。午後二時です」 「その間、車は?」 「運転手さんに、先に行って、元箱根で待っているように、いいました」 「そして、船の上から、事件を目撃したんですね」 「そうなんです。とにかく、びっくりしました」 「風間社長も、目撃したんですか?」 「そうなんです。丁度一緒に湖岸を見ていた時でしたから」 「何処で、目撃したんですか?」 「ですから、ビクトリア号からですが──」 「船の何処からかということを、聞いているんです。船の甲板か、船室の中からか」 「船室の窓からです」  と、野口は、いった。 「そのあと、あなたは、どうしたんですか?」 「ちょっと、待って下さい。あの日のことは、全部、小田原署の刑事さんに話しましたが」  野口は、抗議する調子で、いった。 「もちろんそうでしょうが、ぜひ、われわれにも話して欲しいのですよ」  と、十津川は、頼んだ。 「とにかく、びっくりして、船が元箱根へ着くとすぐ、一一〇番しました」  と、野口は、いった。 「そのあとは?」 「姉のところに行くか、警察へ行こうかと考えたんですが、風間社長が二十一日に奥湯河原に一泊されることになっていて、僕が旅館の手配をしていたんです。それで風間社長を奥湯河原のN旅館にお届けしてから、急いで戻りました。そのため、警察に疑われましたが、風間社長と加藤運転手が、きちんと証言してくれたので、助かりました」  と、いって、野口は微笑した。      8  外に出ると、十津川は、公衆電話で東京の捜査本部に、連絡をとった。  電話に出た西本に事情を話し、風間興業の社長について、特に社長と野口英夫の関係について、調査するように、いった。  そのあと、車に戻ると、十津川は、 「もう一度、小田原署へ行くよ」  と、亀井に、いった。 「中村警部に、嫌味をいわれるかも知れませんよ。派出所の警官が、報告していたら」 「それでも、彼に、もう一度会わなきゃならないんだ」  と、十津川は、いった。  今度は、十国峠は廻らず、箱根新道を抜けて小田原に向った。  中村警部は、派出所から報告が来ていないと見えて、別に、嫌味はいわなかった。 「野口英夫と、風間社長の目撃証言があったようですね」  と、十津川は、中村にいった。 「そうです。それが、決め手になりました」 「二人の供述調書を見せて貰えませんか」  と、十津川は、頼んだ。  中村は眉をひそめたが、それでも、取り出して、見せてくれた。  野口の供述調書の問題の部分には、こう記されてあった。 [#ここから1字下げ] 〈──風間社長を案内して、桃源台から一四時出発のビクトリア号に乗船しました。中央甲板に出て湖岸を眺めていたのですが、その時、義兄が経営しているレストランの屋上から、人が突き落とされるのを目撃しました。離れているので顔はわかりませんが、体格などから、義兄の入江社長だと、直感しました。突き落としたのは、三十歳くらいで、黄色い服の女性でした。あれは、義兄の愛人の浅田奈津子に間違いありません──〉 [#ここで字下げ終わり]  風間社長の証言は、同じようなものだった。 [#ここから1字下げ] 〈──一四時に桃源台を出る観光船に乗りました。中世の船のようなビクトリア号です。私は野口君と一緒に中央甲板に出て、湖岸を見ながら、彼の説明を聞いていました。その時、ビルの屋上から、男が女に突き落とされるのを目撃したのです。私も、野口君も、思わず、あッと叫びました。私は、男も女も知りませんが、女が黄色い服を着ていたのは間違いありません。野口君は青い顔で、突き落とされたのは義兄だといっていました──〉 [#ここで字下げ終わり] 「事件の日、浅田奈津子は、黄色い服を着ていたんですか?」  と、十津川は、中村にきいた。 「そうです。買ったばかりの黄色いツーピースを着ていました」  と、中村は、答えた。  十津川は、野口と風間順の供述調書をコピーして貰い、それを持って小田原署を出た。  二人とも、興奮していた。車に戻ると、芦ノ湖の地図を広げた。  地図に、十津川がボールペンでAとBの円を描き込んだ。 「Aは、石田が二十一日に遅い昼食をとったレストランで、Bは、殺人のあったビルだ。この間は、三十メートルぐらいしか離れていない。石田は、Aで食事のあとコーヒーを飲んでいたら、沖をビクトリア号が通ったので、望遠レンズで狙って、何枚も撮ったといっていた。時間的に見て、野口と風間社長が乗っていた船と見ていいと思うね」  と、十津川は、いった。  亀井は、眼を光らせて、 「これで、石田が襲われた理由が、わかりましたね」 「そうだよ。石田の撮った写真には、人間が写っていなかった。それなのになぜ襲われたのか、わけがわからなかったが、人間が写っていないから襲われたんだな。野口と風間社長は、ビクトリア号の中央甲板で湖岸の景色を見ていて、偶然突き落とされるところを見たと、供述調書に書かれている。しかし、望遠レンズで、その時、ビクトリア号を写していた石田の写真では、中央甲板に人影は、写っていないんだ。AB間は、三十メートルしか離れていないから、野口と風間社長が、Bの屋上から入江が突き落とされるのを目撃したという時、Aから石田が、そのビクトリア号を撮っていたことになるからね」 「二人が、警察に、嘘の証言をしたことになりますね」 「ああ。警察では、その証言が通用したんだ。ところがあとになって、石田が望遠レンズで、Aからビクトリア号を撮っていたことを知って、あわてたんだろう。中央甲板で見ていたという証言が、嘘とわかってしまうからだ」 「そこで、石田を襲って、フィルムを奪おうとしたわけですね」 「誰もいない甲板《デツキ》が写っているフィルムは命取りになるからな」 「しかし、誰が、石田のことを野口に教えたんですかねえ?」  亀井が、不思議そうな顔をした。 「私はAの支配人か、従業員だと思っている」 「なぜ、そんな余計なことをしたんですかね?」  と、亀井がきく。十津川は、笑って、 「多分、郷土意識みたいなもんじゃないかね。箱根細工の店のおばさんが、いってたじゃないか。浅田奈津子が嫌いみたいですねといったら、あの女は、この土地の人間じゃなくて、ヨソモノだからだといった」 「ええ。覚えていますよ」 「私は、箱根の町が特別に排他的だとは思わない。何処でも同じだ。何十年、或いはもっと長くつき合っているその土地の人間同士が連帯して、ヨソモノを警戒したり、排除しようとするのは、無理はないと思っているんだ。それが、犯罪につながらない限りだがね」 「Aの従業員も、この土地の人間だったということですか?」 「そうだと思うよ。ここの生れだから、ヨソモノはすぐわかるし、そのヨソモノが、妙な行動をとれば、それをすぐ、噂話にするんじゃないかね」  と、十津川は、いった。 「ビクトリア号の写真を撮ったのは別に、妙な行動とは思えませんが」 「普通のカメラで撮っていればね。だが、石田は、何百ミリという大きな望遠レンズで撮ってたんだ。プロのカメラマンが、取材に来たんじゃないかと思う。噂話には恰好の話題というわけだ。それを、野口が聞いたんだ」 「しかし、そうだとしても、ビクトリア号をAから撮った人間が、東京の石田だと、なぜ、わかったんでしょうか?」  亀井が、首をかしげた。 「そんなことは簡単さ」  と、十津川は、いった。 「簡単ですか?」 「何百ミリという大きな望遠レンズを使っていれば、プロのカメラマンだと考える。それに石田はレンタカーに乗っていた。ヨソモノに敏感なAの支配人や従業員は、それを、ちゃんと見ていたんじゃないかね。そして、それも、土地者の集りで話し、野口も聞いた。野口は箱根周辺のレンタカー営業所を調べる。石田が、箱根湯本の営業所で車を借りたことはすぐわかったに違いない」 「そうなれば、住所も、当然、わかりますね」  と、亀井は、納得した顔になった。 「それで、二日後に、いや、石田は二十二日まで、富士を撮っていたんだから、正確にいえば、三日後に、石田は襲われたんだ」 「犯人は、野口ですか?」 「他に考えようがないよ」 「野口を、逮捕しますか?」  と、亀井が、きく。  十津川は、しばらく考えていたが、 「今の段階では、無理だね。神奈川県警は、入江健吾を殺したのは、愛人の浅田奈津子だとして逮捕している。その通りなら、野口は、石田を襲う必要はないわけだよ。われわれが、野口を逮捕しようとすれば、当然反対する」 「そうでしょうね」 「それに、野口は、われわれに向っては、ビクトリア号の中央甲板からではなく、船室の窓から見ていたといっている」 「嘘ですよ」 「もちろんだ。修正したんだ」 「最初の証言は上部デッキに出て、目撃したといってるんです。彼は、乗っていなかったんだと思いますよ」 「それだって、野口は、あの時は思い違いしたので、本当は、船室の窓から目撃したと訂正するだろう」 「口惜しいですね。何とかしたいですね」 「明日、浅田奈津子に会ってみよう」  と、十津川は、いった。  二人は、小田原市内の旅館に泊ることにした。旅館での夕食をすませてから、十津川は、東京の西本に電話を入れた。 「風間順について、何かわかったかね?」 「風間が社長をやっている風間興業は、都内にパチンコ店二つと、ゲームセンター三つを持っています」 「儲かっているのか?」 「前は、儲けも大きかったそうですが、最近は、それほどでもないということです。それに、風間は婿養子です」 「箱根の野口英夫との関係はどうなんだ? 前からの知り合いということはないのかね?」 「風間の知り合いに聞いて廻ったんですが、箱根に知り合いがいるとか、野口英夫という名前は、聞けませんでした。また、熱海や、伊豆にはよく行っていたが、箱根に行ったのは、今度が初めてじゃないかと、みんながいっています」 「二人は、前からの知り合いじゃないということだな」 「そう思われます」  と、西本は、いった。 (それなら、なぜ風間は、殺人事件で、嘘の証言をしたのだろうか?)  翌日、十津川と亀井は、小田原拘置所に行き、浅田奈津子に会った。  三上刑事部長から、こちらの所長に電話をかけて貰っておいたので、あっさり面会が許可された。  奈津子の印象は、あまりいいものではなかった。とげとげしい眼つきで、十津川たちを睨んだ。本庁だろうが、刑事が、自分を助けに拘置所に会いに来るとは、思いもしないからだろう。  十津川が、煙草をすすめても、手に取ろうとしない。 「君が本当のことを話してくれたら、君を助けてあげられるかも知れないんだ」  と、十津川が、いうと、 「本当のことを話してるわ。ただ、警察が、それを信じてくれないだけよ!」  と、奈津子は、怒鳴るようにいった。 「しかし、君は、五月二十一日にあの店へ行ったのに、最初、行かなかったと、嘘をついたんじゃないのか」 「行ったわ。入江社長に会いに行ったのよ。休みの日だったから、ゆっくり話が出来ると思ったのよ」 「話って、別れるなら、手切金に五千万円寄越せということかね?」 「一億円よ。社長は、あたしに、家内と別れてお前と一緒になるといってたんだから、そのくらい払って当然でしょう。知り合った頃、あたしは、小さいけど、六本木でお店をやってたんだから」 「二十一日の何時頃に、あの店へ行ったんだ?」 「お昼すぎだったから、一時頃だったと思うわ」 「それから、どうしたんだ?」 「社長を探したけど、見つからないのよ。逃げてるのよ。だから、四階で寝ている奥さんに怒鳴ってやったわ」 「何といって、怒鳴ったんだ?」 「あの奥さんが、社長さんに、あたしに会うなといってるのよ。だから、怒鳴ってやったのよ。旦那を満足させられないのに、変な小細工をするなって」  奈津子が、顔をしかめてみせた。 「それで、入江社長に、会えたのかね?」 「ビルの中を探し廻ったけど、とうとう見つからなかったわ」 「屋上も、探したのか?」 「探したわよ。奥さんが隠れろっていったに決ってるわ。お金が惜しいもんだから」 「社長に会えなくて、帰ったのか?」 「そうよ」 「何時頃だ?」 「一時間くらい探したから、二時頃だと思うわ」 「それなら、なぜ、警察に正直にいわなかったんだ?」  と、亀井が、きいた。奈津子は、顔を朱《あか》くして、 「いいこと。あそこの社長も、奥さんも、他の従業員も、みんな土地の人間なのよ。ヨソモノはあたしだけ。ただでだって、ヨソモノのあたしは、みんなから憎まれてるのよ。社長が死んだ日に、あたしがお店へ行ってたなんていったら、それだけで、犯人にされちゃうわ。怖かったから、嘘をついたのよ」 「しかし、君は奥さんを怒鳴りつけたんだろう。それなら奥さんは、君が来たことを知ってるじゃないか」  と、十津川は、いった。 「あの女は、あたしが外国にいたって、あたしが殺したって、大声でわめく女よ。あたしが憎くて憎くて仕方がないんだから」 「奥さんが、屋上から、社長を突き落としたという可能性は、どうなんだろう?」 「それはないわ。寝たきりで、屋上へ出る階段をあがれないもの」 「奥さんには野口という弟がいるね。彼を、どう思うね?」 「もちろん、あの男だって、あたしを憎んでるわ」 「社長に対しては、どうなんだろう?」 「社長を? わからないけど、奥さんとは仲のいい姉弟で通ってるし、社長は浮気してたんだから、よくは思ってなかったんじゃないの」  と、奈津子は、いった。 「もう一つ、君は、風間順という男を知っているかね?」 「カザマ? 誰なの? それ」 「東京の、風間興業という会社の社長だよ」 「東京なら、関係ないわ」 「君は、東京で、お店をやってたんだろう。そこへ風間が、客で来たことはなかったのか? パチンコ店や、娯楽センターを持ってる男だ。風間が、君に惚れてたのに、君は入江社長に走った、そういうことは、なかったかね?」  と、十津川は、きいた。もし、そういうことがあったのなら、風間が奈津子を犯人にするために、警察に偽証したということも考えられたのだが、どうやら、この推理は外れたらしい。 「もう一つ。あの店の近くに、Tという木造二階建のレストランがあるね」 「知ってるわ。コーヒーを飲みに行ったことがあるわ。あの店が、どうかしたの?」 「Tの従業員は、土地の人間かね?」 「支配人は、間違いなく、土地の人よ」 「じゃあ、君のことを、よく思ってないのかな?」 「そうね。ここでは、あたしは、悪い女で通ってるもの」  と、奈津子は、いった。  それで質問を了《お》えて、十津川と亀井が立ち上がると、奈津子が大声で、 「ねえ。あたしを助けてくれるの?」  と、きいた。 「君が嘘をついてなければ、自然に、助かるよ」 「何いってるのよ。正直に話してるのに、こんなところに入れられたじゃないの! 刑事なんて、みんな嘘つきよ。あんたらだって、そうじゃないの!」  と、奈津子は、怒鳴った。      9 「どうも、あの女は、好きになれませんね」  と、亀井は、外に出たところで、十津川にいった。 「同感だな。しかし、彼女は、シロだよ」 「助けなきゃいけないんでしょうね」 「そうしないと、東京の石田殺しが、解決しないよ」  と、十津川は、いった。 「しかし、これから、どうします? 依然として、状況証拠しか集って来ませんが」  と、亀井が、きいた。 「野口は、義兄の入江健吾を殺している。とすれば、証拠は必ず見つかる筈だ」  十津川は、自信を持っていった。 「彼が犯人なら、ビクトリア号には乗っていなかったことになります。船が沖合いを走っている時、彼は店の屋上で入江を突き落としたわけです」 「その通りだ」 「それなのに、同行した観光客の風間順は、一緒に、ビクトリア号に乗っていたと証言しています。彼は、嘘をついていることになります」 「風間の証言が、壁だよ。昔からの知り合いとか、この土地の人間なら、野口に同情して、嘘の証言をすることが考えられる。しかし、西本たちがいくら調べても、野口との関係は出て来なかった。箱根の生れでもない。二十一日に初めて観光客として箱根にやって来て、野口に会ったとしか思えない。それだけに、風間の証言は重みがある」  と、十津川は、いった。 「しかし、風間という男は、嘘を──」 「わかっているさ。野口が犯人なら、風間は嘘をついているんだし、嘘をつくには理由がある筈だ」 「いくら突ついても、今、野口も、風間も、真実を話すとは、とても思えません」 「カメさんのいう通りだよ」  と、十津川はいってから、 「私たちは、昨日野口に会って、彼の話を聞いた。彼の証言で、何かおかしいことに気がつかなかったかね?」 「おかしいことにですか」 「ああ」 「野口は、ビクトリア号から、入江が浅田奈津子に突き落とされるのを見たといいました。その時、彼女は黄色い服を着ていたといった。なぜ、服の色を知っていたのか──」 「それは、別に不思議じゃないさ。奈津子は店に押しかけて来て、入江の妻で野口の姉である入江ひろ江と、口論しているから、服の色は、ひろ江が野口に教えたんだろう」 「なるほど。野口は、船が元箱根に着くと、すぐ、一一〇番したといっていましたね」 「それは本当だと思うよ。船が元箱根に着いた時刻に、野口はそこに行き、一一〇番したんだと思う」 「そのあと、野口は、風間を車で奥湯河原の旅館に送り届けたといっていましたね」 「そこが、おかしいんだ」  と、十津川がいい、亀井も肯いて、 「確かにおかしいですね。野口は、殺人の目撃者なんだから、すぐ、警察に出頭すべきですよ。大事なお客なので奥湯河原へ送って行ったというのは、どうも、妙です」 「それに、リムジンは野口が運転していたんじゃないんだ。彼が運転していたのなら、まだ、風間を送って行ったというのはわかる。だが、ベテランの運転手を傭って運転させていたんだよ。その運転手が、箱根から奥湯河原への道を知らない筈はない。近いし、簡単だからね。運転手に送らせて、野口は、警察に出頭すればいいんだ。それなのに、野口はわざわざ、車で風間を奥湯河原の旅館へ送っている。なぜ、そんなことをしたのか?」 「説得──ですか?」 「そうだ。野口はそのために風間を、奥湯河原へ送っていったんだ。他には、考えられない」 「金ですかね。金で、偽証を頼んだのかな」 「いや、違うだろう。風間は、東京で、パチンコ店や娯楽センターをやってる。多少の金で、偽証をするとは思えない」 「じゃあ、どうやって風間に偽証させたんでしょう?」 「奥湯河原へ、行ってみよう」  と、十津川は、いった。      10  湯河原は海に近いが、奥湯河原は山の中である。  芦ノ湖の元箱根から、車で、湯河原パークウェイを抜ければ、三十分あまりで、奥湯河原に着く。  藤木川の渓流沿いに開けた、小ぢんまりした温泉だった。  湯河原温泉の方は、駅にも近く、旅館の数も百五十軒という大温泉だが、奥湯河原の方は、五軒にすぎない。それだけに静かで、静養するにはいいだろう。  Nは戦前からの古い旅館だった。  女将《おかみ》さんに会って、五月二十一日のことを聞いた。 「風間さんというお客様のことは、覚えていますよ。確か午後四時頃、リムジンでお着きになりました」  と、女将さんは、いった。 「野口という旅行業者が、一緒に来ましたね?」  と、十津川は、きいた。 「ええ。予約なさったのは野口さんでしたから」 「風間さんは、ひとりで泊っていったんですか?」 「ええ。おひとりでしたよ」  と、女将さんはいう。十津川は、宿帳を見せて貰った。確かに風間順の名前だけで、部屋は、くじゃくの間と書いてある。 「今日、私たちも、泊めて貰いたいんですが、部屋がありますか?」  と、十津川はきき、渓流の見える部屋に案内された。 「ここに泊るというのは、何か調べたいことがあるんですか?」  と、亀井が、きく。 「女将さんは嘘をついてるよ。壁に掛っていた案内図を見たら、くじゃくの間は、一番広い部屋だ。そんなところに、男がひとりで泊るかね」 「じゃあ、女と?」 「そうさ」  と、十津川は肯き、茶菓子を運んできた仲居さんに五千円渡して、 「五月二十一日に、くじゃくの間に泊った男の客のことを話して欲しいんだ。リムジンで来た風間という人だがね」  と、いった。  最初、仲居さんは困った顔だったが、十津川が粘り強く頼むと、 「私が話したなんてこと、黙ってて下さいよ」 「もちろん、いわないさ」 「大変だったんですよ。あの時」  と、仲居さんは、声をひそめていった。 「大変って、何が?」 「あのお客さんは、女の方と一緒だったんですよ。若い、きれいな人でしたわ。どう見ても、奥さんには見えませんでしたわねえ」 「しかし、宿帳には、風間という人がひとりで泊ったことになっているがね」 「女の人を帰しちゃったんですよ。だから、女の人が怒っちゃった。男の人が、それをなだめて、帰すのが大変でしたわ。ダイヤの指輪を買ってやるとか、新しい車を買うとか、一所懸命になだめても、女の人がいうことを聞かなくて、奥さんにバラしてやるとか、大声を出して。よほど、奥さんが怖いんでしょうね」  仲居さんは、クスッと笑った。 「結局、女性は帰ったんだね?」 「ええ。でも、あのお客さんは、きっと高い物を買わされたと思いますよ」  と、仲居さんは、また笑った。  彼女が部屋を出て行ったあと、亀井が、 「女だったんですね」 「ああ。奥さんに内緒の浮気旅行だったんだろう。野口は、車で箱根湯本駅に迎えに行き、芦ノ湖まで案内した。その間に、一緒の女が奥さんでないことぐらい、すぐわかったと思うよ。二人の態度や、話し方でね。それで、野口は、浮気旅行のことを黙っている代りに、風間に偽証を頼んだんだろう」 「風間は、養子だそうだから、その脅しには弱いですね」 「そんなところだろうね」 「風間が女を帰したのは、なぜですかね」 「証言すれば、それが新聞に出るかも知れない。女のことも、書かれかねない。それで、女を帰して、ひとりで旅行したことにしたんだと思うね」  と、十津川は、いった。  亀井は、ほっとした顔で、 「今度は、風間順を、われわれが脅かせますね」  と、いった。 「ああ。早速、西本刑事たちに、風間順に会って貰おう」  と、十津川はいい、部屋の電話を使って、東京の捜査本部にかけた。  西本は、十津川の話を聞くと、 「これから、風間順に会って来ます」  と、いった。  午後七時過ぎに、西本から返事があった。電話の向うで、西本は、弾んだ声を出して、 「風間に会って、警部のいわれた通り、がつんといってやりましたよ。女のことをいったら、青い顔になりましてね。野口に頼まれて偽証したことを、認めました」 「具体的に、どんな情況だったのか、話したかね?」  と、十津川は、きいた。 「問題の女の名前は、小川麻里、二十八歳だそうです。風間が金を出して、新宿二丁目に店を出してやっているらしいですが、もちろん奥さんには内緒にです。五月二十一日に、風間は、彼女を連れて、箱根に旅行に出かけました。奥さんには、パチンコ台の買入れのことで、名古屋の業者に会いに行くと、嘘をついていたようです」  と、西本がいう。十津川は笑って、 「風間は、そのことも、バレるのが怖かったんだな」 「そう思います。野口がリムジンで迎えに来て、仙石原などを案内されたあと、芦ノ湖へ出て、桃源台からビクトリア号に乗った。彼女と二人でです。野口は、元箱根で待っていると、いったそうです。風が強く、寒かったので、彼女は船室にいて、外の景色はほとんど見なかったといっています。もちろん、事件のことなど、知らなかったそうです」 「知らないままに、元箱根に着いたんだな?」 「そうです。車で奥湯河原に向う途中、野口に真剣な表情で、ちょっと降りてくれといわれ、車を止めて降りると、偽証の件を持ち出されたそうです。驚いて断わると、あなたは浮気旅行に違いないから、奥さんに話すと脅かされたと、いっています。仕方なく、偽証することを約束したが、もしそのことで、女と一緒だったとバレるとまずいので、彼女は東京に帰したそうです」  と、西本は、いった。  これで、十分だった。 「もう一度、野口に会う必要がありますね」  と、亀井が、いった。  翌日、十津川と亀井は芦ノ湖に戻り、野口の旅行社を訪ねた。  野口は、忙しげに旅行用のパンフレットを見ていたが、顔をあげて十津川を見ると、 「まだ、何か?」  と、きいた。 「もう一度、事件のことを聞きたいんですよ」  と、十津川は、いった。  野口は、受付の女の子を外に出してから、十津川と亀井にソファをすすめた。 「狭くて、申しわけありませんが」  と、野口は、いった。微笑しているのだが、その笑いがぎこちなかった。 「いろいろ調べましたよ。あなたは、客の風間さんを浮気旅行だと脅して、偽証させましたね? 風間さんが、正直に、全て、話してくれましたよ」  と、十津川は、いった。  野口は、黙っている。  亀井が、いら立って、 「どうなんだ?」 「何がですか?」  と、野口が聞き返す。 「自分で入江健吾を殺しておいて、客の風間順に、口裏を合わせるように頼んだんだろう? そうなんだろう?」  亀井の声が、大きくなった。 「違いますよ」 「どこが、違うんだ? 風間は、君に頼まれて偽証したと、白状しているんだぞ」 「そうですか。やはりまずかったな」 「どういうことなんだ?」  と、十津川が眉をひそめて、きいた。  野口は開き直った感じで、ニヤッとして、 「正直にいいましょう。芦ノ湖の桃源台で、あの二人をビクトリア号に乗せました。そのあとで、ここに住み旅行社をやっているのに、ビクトリア号に乗ってなかったことを思い出しましてね。やはり一度は乗っておかなければと思って、あわてて乗ったんですよ。ただ、あの二人は、社長と愛人だとわかってましたから、邪魔しちゃいけないと思って、離れた場所に腰を下ろして、窓から湖岸を見ていました。そして、入江社長が奈津子に突き落とされるのを、見たんですよ。あの時のショックは、まだ覚えてますよ。思い出すと、ふるえが来るんです」 「それなら、なぜ、ひとりで証言しなかったんだ?」  と、亀井が、きいた。 「僕は、関係者ですよ。その僕が証言したって、信用されない恐れがある。第三者が同じことをいってくれたら、信用してくれるだろう。そう思って、あのお客さんに頼んだんですよ。少しばかり、脅したのも事実です。僕も、興奮してましたから。事実をいって貰うんだから、偽証とも思いませんでした」 「嘘をつくな!」  亀井が、怒鳴った。が、野口は平然として、 「嘘はついていませんよ」 「往生際が悪いぞ!」 「カメさん」  と、十津川はいい、亀井を連れて外へ出た。      11 「警部。奴は、嘘をついていますよ」  亀井が、息まく。 「わかってるさ」 「殴りつけてやりたいですよ」 「ボクシングでね」 「───」 「殴られつづけて、今にも倒れそうなのに、平然とした顔のボクサーがいるじゃないか。それが、今の野口だよ。あと一つ、嘘を見つければ、あの男は倒れるさ」  と、十津川は、いった。 「しかし、他に、誰に会います? 彼の姉は彼に不利なことはいわないでしょうし、ここの人間は仲間意識が強いですからね」  と、亀井は、きいた。 「一人いるよ」 「誰ですか?」 「野口に傭われてリムジンを運転している、加藤という運転手だ」  と、十津川は、いった。 「彼が、何か知っていると、思われるんですか? 小田原署では、運転手を訊問した記録はなかったみたいですが」  と、亀井が、いう。 「それは、野口と風間順の証言を、事実と考えてしまったからだよ」  と、十津川は、いった。  二人が隣りの駐車場をのぞくと、五十代の小柄な男が、キャデラックのリムジンを洗っていた。 「加藤さんですね?」  と、十津川が、声をかけた。  相手が肯くのへ、十津川は警察手帳を示して、 「五月二十一日の事件について、あなたに聞きたいことがあるんですよ」 「私は、何も知りませんが──」 「知ってることだけで、いいんですよ」  と、十津川は優しくいい、加藤を近くの喫茶店に連れて行った。  亀井が、三人分のコーヒーとケーキを注文した。  加藤は、緊張した顔で、かしこまっている。  十津川は、わざと間を置いてから、 「五月二十一日に、あなたがリムジンを運転して、お客に箱根見物をさせ、奥湯河原のN旅館へ行ったんですね?」 「はい」 「見物する場所は、決っていたんですか?」 「野口社長から、簡単なスケジュール表を渡されていました」  と、加藤は、いう。 「それには、大涌谷などを見てから、芦ノ湖でビクトリア号に乗ることも、書いてあったんですね?」 「はい。時間も書いてありました」 「午後二時発のビクトリア号に、桃源台から乗るということも、書いてあったわけですね?」 「はい。ですから、二時までに桃源台に着くように、野口社長にいわれていました」  と、加藤は、いう。 「桃源台からビクトリア号に乗るのはお客だけで、野口社長は乗らないことになっていたんでしょう? 違いますか?」  十津川がきくと、加藤は首を小さく横に振って、 「最初はそうだったんですが、二十一日の朝になって、野口社長が、考えてみたら、自分も芦ノ湖の観光船に乗ったことがないので、お客と一緒にビクトリア号に乗るといわれて、スケジュール表を書きかえられました」 「本当ですか?」 「本当です」 「それじゃあ、野口さんも桃源台で降りて、あなただけがリムジンを運転して、元箱根へ先に行ったんですか?」 「はい。社長にそういわれたので、先に元箱根へ行って、お待ちしていました」  と、加藤がいう。嘘をついている顔ではなかった。  十津川は、青ざめた。午後二時のビクトリア号に野口が乗ったのなら、彼には入江は殺せなくなってしまうのだ。 (だが、そんな筈はない!)  と、十津川は、自分にいい聞かせた。  十津川は、気を取り直して、 「箱根湯本にお客を迎えに行ってから、二時に桃源台に着くまでに、何かありませんでしたか?」 「何かといいますと?」 「どんなことでもいいんです。車に、自動車電話がついているでしょう?」 「はい」 「野口さんは、その電話を使って、どこかへかけませんでしたか?」 「いえ。ただ──」 「ただ、何ですか?」 「野口社長に、電話がかかりました」  と、加藤は、いう。  十津川は、眼を輝かせて、 「それは、いつですか?」 「確か、仙石原から、芦ノ湖の桃源台へ行く途中でした」 「誰から、野口さんにかかったんですか?」 「私が電話を取りましたら、女の方の声で、野口を呼んで下さいといわれました。それで、受話器を社長に渡しました」 「野口さんは、どんな応答をしていましたか?」 「確か、『大丈夫だよ。何とかするから、安心して』と、いっていたと思います」  と、加藤は、いった。 「大丈夫だよ。何とかするから、安心して──と、いったんですね?」 「そう聞こえました」 「ありがとう。助かりましたよ」  と、十津川は、礼をいった。  喫茶店を出ると、十津川は車に戻り、亀井に、 「桃源台へ行こう」  と、いった。 「電話をかけて来たというのは、誰でしょうか?」 「女の声で、野口を呼んで下さい、といったんだ」 「浅田奈津子じゃありませんね。彼女は、野口を敵だと思っているでしょうから」 「ああ。残るのは、野口の姉で、殺された入江の奥さんのひろ江だけだよ。あの日、奈津子が乗り込んで来て、ひろ江とケンカになったんだ。病気のひろ江は、ひょっとして、奈津子に殺されるんじゃないかと、思ったんじゃないかな。だから、助けを呼んだ。夫は、この件では頼りにならない。だから、弟の野口に電話したんだよ」 「なるほど。それで野口は、大丈夫だよ、何とかするから、安心して──と、いったんですね」 「そして野口は、心配して、ビクトリア号には乗らず、姉のところへ駈けつけたんだよ」 「しかし、リムジンには乗りませんでした。なぜでしょうか?」 「多分、個人的な問題で仕事を放り出したと、思われたくなかったんだろう。桃源台からは、タクシーに乗ったと思うよ」  と、十津川は、いった。  桃源台に着くと、二人は車を降り、片っ端からタクシーをつかまえては、五月二十一日の午後二時頃、野口を乗せなかったかと聞いた。  三時間くらいしたろうか。  個人タクシーの運転手が、二十一日に野口らしい男を乗せたといった。 「何処まで、乗せたんだね?」  と、十津川は、その運転手にきいた。 「何とかいうレストランの前ですよ」 「殺人事件のあったレストランビル?」 「ああ、そうです。そのビルです」 「そこで、客は降りたんだね?」 「ええ。待っていてくれといわれたんで、待っていたんですよ」 「それで?」 「十五、六分したら、出て来ましたよ。ドアを開けて待ったら、あの客は他のタクシーを拾って、乗って行ってしまったんです。どうなっているのかと、思いましたよ」  運転手は、怒ったような声を出した。 「それは多分、あんたに顔を覚えられたくなかったんだよ」  と、十津川は、いった。  これで、全て、わかったと思った。  野口は、姉を助けようと思い、タクシーを拾って、桃源台から姉のいるレストランビルに急いだ。  タクシーに待っているようにいったのは、その時点では誰も殺す気はなく、姉を脅かしている奈津子を追い払い、すぐ元箱根に急ぐためだったからだろう。  ところが、奈津子は、もう帰ってしまっていた。  そこで野口は、ごたごたを作った義兄の入江をつかまえて、屋上に連れて行き、文句をいった。早く奈津子を追い出せ、手を切れとでもいったのだろう。  入江は、それに反発し、ケンカになった。カッとした野口は、思わず入江を屋上から突き落としてしまった。  これが、真相だろう。  呆然としている時、沖を、ビクトリア号が通るのが見えた。  あわてて、屋上から四階におりて、病床の姉のひろ江に、──今、入江を突き落としてしまったことを、打ちあけた。  姉は、奈津子が殺《や》ったことにすればいいという。彼女が今日黄色い服を着ていたことなどを、弟に教える。  弟の野口は、本来なら自分がビクトリア号に乗っていたことを思い出し、船の上から、黄色い服を着た奈津子が入江を突き落とすのを見たことにしようと、考えた。  野口は、姉としめし合わせてから、ビルを出た。  が、タクシーを待たせておいたことを思い出した。それに乗ったのでは、あとで証言されてしまう。そこで、通りかかった別のタクシーを拾って、元箱根へ急いだ──。      12  タクシー運転手の証言、それに加藤の証言を突きつけたとたん、野口のポーカーフェイスが、一挙に崩れた。  十津川が予想した通り、打たれ続けて、野口の気持は傷つき、疲れていたのだろう。  全てを自供したあと、野口は、 「今から考えれば、僕はずっと義兄を憎み続けていたんだと思います。二十一日に殺さなくても、いつか義兄を殺したと思っています」  と、いった。 「それだけ、姉さんが、好きだということなのかね?」  と、十津川は、きいた。  野口は、それには返事をしなかった。 「姉は、今度の事件には、無関係です。姉はきっと、自分がそそのかしたと、いうと思いますが、それは少しでも僕の刑を軽くしようという嘘です。だから、取り合わないで下さい」  と、野口は、いった。  野口は、東京での石田殺しについても、自供した。彼は起訴され、六カ月後に判決があった。  懲役十二年だった。  判決のあった夜、姉のひろ江は、車椅子に乗ってひとりで外に出て行った。  近くの桟橋の先端まで進み、そこから芦ノ湖に落ちて死んだ。  事故死か自殺かわからないと、新聞には出ていた。 [#改ページ]   恨みの浜松防風林      1  日下《くさか》刑事の前を、一人の男が歩いて行く。  身長一七三センチ、体重七二キロ。年齢三十五歳。名前は、佐伯広己。  いや、そんなことより、日下にとって大事なのは、その男が、五日前に、四谷三丁目で起きた殺人事件の容疑者の一人だということだった。  五日前の六月十六日の夜、四谷三丁目から信濃町に行く通りに面したマンションの五階で、二十八歳の女が、殺された。  新宿のクラブ「フェアレディ」のホステスで、店での名前はあいこ、本名は立木ゆう子である。  彼女の死体は、翌十七日の昼近くになって、発見された。  十六日は、店を休むことにしていた。そして、この日の午後十時から十一時の間に、彼女は殺されている。  彼女はネグリジェ姿で殺されていたし、入口のドアがこわされていないことから見て、顔見知りの犯行と考えられた。  洋ダンスの引出しに入っていた筈《はず》の現金や宝石類が盗まれていたことで、犯人の目的は個人的な怨恨か、或いは彼女の現金、宝石が狙いかのいずれかに違いなかった。  警察は、その両面から、聞き込みを開始した。  その結果、三人の容疑者が、浮んだ。  一人は、二年前に別れた前の夫、金田勇である。四十歳になっているのに定職がなく、女にたかって生きてゆくような男だった。最近、ゆう子に復縁を迫り、店にも押しかけていたといわれる。  二人目は、店の常連で、ゆう子にぞっこんだった。  名前は、渡辺哲。四十二歳の若さで、S化学の部長の地位にある。クラブ「フェアレディ」には、接待でよく来ていたのだが、ゆう子に溺《おぼ》れていった。無理をして、宝石なども買い与えたらしい。それが原因で、奥さんが離婚するといい、現在、家裁に訴えている。  渡辺はそれでも、八年連れ添った妻を捨てて、ゆう子と一緒になろうとしたが、彼女の方は最初からその気はなく、肘鉄《ひじてつ》をくらわしたらしい。その上、会社での地位も危くなって、カッとした渡辺が、ゆう子を殺したのではないか。  そして三人目が、佐伯である。佐伯は、ゆう子と同じマンションに住んでいた。元ボクサーで、引退してから用心棒のような仕事をしていたが、金に困っていたと思われる。部屋代を溜めていたからである。被害者に、金を貸してくれといって断わられ、殴りつけたということがあり、その時、一一〇番されて逮捕されている。  捜査本部は、前の二人の容疑が濃いとみて、重点的に調べていた。  佐伯を追わなかったのは、彼には、犯行時刻に友人と、三人マージャンをやっていたというアリバイがあったからである。  ただ、日下ひとりは、佐伯をマークした。友人たちの証言は、佐伯に頼まれての偽証と考えた。  なぜといわれても、日下にはうまく説明できないのだが、佐伯という男を初めて見た時から、この男が殺したに違いないと思ったのである。  だから日下は、ひとりで、佐伯を追いかけた。      2  佐伯は、ゆっくりと歩く。そのくせ、どこか、はねるような感じなのは、ボクサーだったせいだろうか。  彼が、地下鉄の階段を降りて行く。間隔を置いて、日下も階段を降りる。  入って来た電車に乗る。  佐伯が降りたのは、東京駅だった。まっすぐ、新幹線ホームに向う。 (何処へ行くのか?)  と、思いながら、日下は、佐伯の背中に視線を当てて歩く。  佐伯は、自動販売機で切符を買った。何処まで買ったのか、わからない。日下は取りあえず、新横浜まで買って、改札口を通った。  19番ホームにあがると、佐伯は腕時計に眼をやり、そのあと煙草に火をつけた。  次に19番線から出るのは、広島行のひかり87号である。どうやら、それに乗るつもりらしい。  発車まで、まだ十二、三分ある。日下はちょっと迷ってから、ホームの電話で、捜査本部に連絡した。  電話に出た亀井刑事が、怒ったような声で、 「何処にいるんだ?」 「東京駅です」 「そこで、何してる?」 「佐伯広己を、追いかけています。彼は、これから、新幹線に乗ります」 「いいか、今は捜査本部長の命令で、金田と渡辺のことを調べているんだ。勝手な行動は許されんぞ」 「しかし、私は──」 「とにかく、戻って来い!」 「すいません。今、列車が出てしまうので──」  日下は、勝手に、電話を切ってしまった。  きっと亀井が、困った奴だと、舌打ちしているだろう。そんな先輩の顔がちらっと頭をかすめたが、佐伯が列車に乗り込むのを見て、日下も急いで入口に駈け込んだ。  ひかり87号は、定刻の一二時四二分に発車した。  佐伯は、3号車自由席の中ほどに腰を下ろして、窓の外を眺めている。  外はどんよりと曇っていて、夕方には雨になるだろうという予報だった。  車内販売が廻ってくると、佐伯は缶ビールを買い、飲み始めた。  列車は、静岡に停まった。 (ああ、このひかりは、静岡に停まる列車なのか)  と、日下は思い、だから佐伯はこの列車に乗ったのだろうかと、考えた。  次は浜松、というアナウンスで、佐伯が立ち上がった。  どうやら、浜松で降りるらしい。 (佐伯は、浜松と何か関係があっただろうか?)  生れ育ったのは、確か、九州の筈である。 (競艇か?)  と、思った。佐伯は、バクチ好きだった。浜松には競艇があったから、その関係だろうか。  列車が停まり、佐伯が降りる。  午後二時を過ぎている。日下も、別のドアから、ホームに降りた。  階段を降り、改札口を出ると、佐伯はタクシー乗場に歩いて行く。  佐伯がタクシーに乗ると、日下もタクシーに乗り込み、運転手に警察手帳を見せ、 「前の車を追《つ》けてくれ」  と、頼んだ。 「何か、事件ですか?」 「まだわからん」  日下は、ぶっきらぼうに、いった。  新幹線の浜松駅は、浜名湖から離れている。佐伯の乗ったタクシーは西へ、浜名湖に向って走って行く。  やがて、湖が見えてきた。競艇の看板が眼につく。 「今日、競艇は、やっているのかな?」  と、日下は、運転手にきいた。 「今日は、やってませんよ」  と、運転手が答える。とすれば、佐伯は競艇をやりに来たわけではないのだ。  弁天島から、浜名湖にかかる橋をわたる。  浜名湖の入口に近い場所である。小さな舟が、何艘も出ている。運転手にきくと、あさりを採っているのだといった。  競艇場の先は、湖沿いに、北へ向った。 「この辺は?」  と、日下は、前を行くタクシーに眼をやりながら、きいた。 「コサイです」 「コサイ?」 「湖西と書きます」 「ああ、浜名湖の西側か」 「そうです」 「この先に、何があるんだ?」 「そうですねえ。豊田佐吉記念館とか、ヤマハマリーナとか、サニーパークとかですが」 (どれも、佐伯にふさわしくないな)  と、日下は、思った。  車は、湖岸に沿って走っている筈なのだが、道の両側には古びた家並みが続いて、湖はたまにしか顔をのぞかせない。  急に、佐伯の乗ったタクシーが、右に曲った。 「向うに、何があるんだ?」  と、日下は運転手に、きいた。 「ヤマハマリーナですよ」 「それだけか?」 「ええ。どうしますか?」 「もちろん、行ってくれ」  と、日下は、いった。  確かに、ヤマハマリーナの看板が出ている。  小高い丘の上にレストランがあり、駐車場が設けられている。佐伯のタクシーはレストランの前にとまり、佐伯は車から降りて、そのレストランの中に入って行った。 (食事に来たのか?)  と、日下は拍子抜けしたが、それでも近くに車をとめて、リアシートに身体を沈めて、待つことにした。  十五、六分して、佐伯が出て来た。そのままタクシーに乗るのかと思ったが、運転手に何かいってから、入江の方へ下って行く坂道をおりて行った。 「あの先は?」  と、日下は、運転手にきいた。 「マリーナですよ。沢山ボートが繋留《けいりゆう》されています」 「他には?」 「他には、何もありませんね。ボートの持主にしか、用がないところですよ」 「行き止まり?」 「だったと思いますね」  それでは、後を追って行けば、いやでも佐伯とぶつかってしまうだろう。 「ここで、見張っていてくれ」  と、日下は運転手に、いった。 「どうするんです?」 「あの男が戻ってきたら、警笛《ホーン》を鳴らしてくれ」  と、いっておいて、日下は車を降りると、眼の前のレストランに入って行った。  中は、レストランという感じではなかった。  客の姿は無かったが、大きなテレビで、クルーザーに乗った若い男女の航海の模様を、延々と映し出していた。  左側には、マリーン関係のグッズが売られている。  壁には、カジキマグロの大きな魚拓が、貼られている。  ここはリゾートホテルも兼ねているらしく、正面奥にはフロントがあって、制服姿の若い女性が、中年の男とこちらを見ていた。  日下は、男の方に、警察手帳を見せ、 「今、ここに、三十代の男が来た筈なんだが、彼は何しに来たんですか?」  と、きいた。  名札を胸につけた男は、ちょっと緊張した表情になって、 「ボートのことを、お聞きになりました」 「ボートの何を?」 「小笠原あたりまで行けるクルーザーが欲しいが、いくらぐらいかとか、それを買った場合、このマリーナに繋留できるのか、その権利はいくらぐらいかといったことを、お尋ねでした」 「クルーザーを買いたいと、いったんですね?」 「ええ」 「本当に、買う感じでしたか?」 「と、思います。具体的に、ベッドはいくつ、エンジンは何馬力といった数字を出されましたからね。こちらで、ご予算は? とお聞きしたら、マリーナの使用料を入れて、三千万なら出せると、おっしゃいました」 「三千万円ね」 「そのあとクルーザーを見たいとおっしゃるので、それならこの下にあるマリーナに行って、ごらんになって下さいと、申しあげました。それから、ヤマハで造っているクルーザーのカタログも、差しあげました」  と、相手は、いった。  その時、外で、警笛が鳴った。      3  佐伯は、再びタクシーに乗り、このあとはまっすぐ、ヤマハマリーナのちょうど対岸にある舘山寺《かんざんじ》温泉に向った。  舘山寺温泉は、昭和三十三年に温泉が出たという比較的新しいところだが、今はホテル、旅館が林立し、近くにはジェットコースターや大観覧車などのある遊園地や、広大なフラワーパークのある、浜名湖観光の中心地である。  佐伯は、Sホテルに入った。予約しておいたのだろう。  間をおいて、日下も同じホテルに入り、フロントに頼んで、佐伯と同じ六階の部屋のキーを貰った。  六〇二号室に入ると、日下は窓のカーテンを開けた。  遊園地から、対岸の大草山の山頂の展望台に向って、ロープウェイが伸びているのが見えた。  入江の上を、ゴンドラが、観光客を乗せてゆっくり動いている。湖上で、ゴンドラ同士がすれ違う。湖面を見下ろすと、五、六人の観光客を乗せたモーターボートが、鮮やかに波の筋を引いて疾走していた。 (佐伯は、三千万円を出してクルーザーを買いたいと、マリーナの係員にいっていたというが、その金は、立木ゆう子を殺して奪ったものではないのか?)  と、日下は、モーターボートを眼で追いながら、考えた。  そうなら、自分の勘は当っていたのだ。  日下は夕食のあと、部屋の電話で、捜査本部に連絡をとった。  東京駅で電話して叱られたのだから、あのまま浜名湖へ来ていると知ったら、怒鳴りつけられるだろうと覚悟していた。電話口に亀井が出たので、 「申しわけありません」  と、日下の方から先に謝ると、亀井は意外と優しい声で、 「今、何処にいる?」 「佐伯を追いかけて、浜名湖まで来てしまいました。今、舘山寺温泉です。佐伯と同じホテルにいます。私としては、どうしても佐伯のことが諦《あきら》め切れないのです。捜査本部の方針が、他の二人に──」 「ちょっと待てよ。実は、少し事情が変ってきたんだ」  と、亀井が日下の弁明を制して、いった。 「どう変ったんですか?」 「本命と思われた金田勇に、アリバイが見つかったんだよ。問題の時刻に、池袋で酔っ払って、地元のチンピラとケンカして殴られ、救急車で運ばれていることがわかった。金田本人は、泥酔していて覚えていないんだが、救急隊員が覚えていた」 「S化学の渡辺部長の方は、どうですか?」 「こちらはアリバイが無いが、被害者が殺される前日、渡辺と大ゲンカをしていることがわかったんだ。渡辺は、そんなことがわかれば、自分の動機が一層強くなると思って、黙っていたんだな」 「それが、事件とどう関係するわけですか?」 「被害者は、ドアを開けて犯人を入れている。前日、大ゲンカをした男を、部屋には入れないんじゃないかということだよ。もちろんそれだけで、渡辺の容疑が全く消えたわけじゃないが、シロの可能性は強くなったことに間違いないんだ」  と、亀井が、いう。日下は、ほっとして、 「じゃあ、佐伯が、容疑者の第一位になったわけですね?」 「ああ、そうだ。佐伯は、浜名湖で、何をしてるんだ? 前に、その辺に住んでいたのかな」 「三千万の予算で、ここのヤマハマリーナに、クルーザーを買いに来たようです」 「クルーザーを?」 「そうです。ここのマリーナにそれを繋留して、小笠原辺りまでのクルージングを楽しむ気らしいですよ」 「しかし、彼は無職で、金がないんだろう?」 「三千万というのは、立木ゆう子を殺して奪った金じゃないかと思うんですが」 「かも知れないな。どのくらいの金額が盗《と》られたのか、今、調べているところだが、同僚のホステスやママの話では、かなりの現金や宝石を持っていたらしい。三千万くらいはあったかも知れないな」 「それなら、なおさら、佐伯は臭いですよ」  と、日下はいった。 「佐伯は、どうしている?」 「部屋に入ったままです。もし、彼がホテルの外に出るようなら、すぐ知らせてくれと、フロントに頼んであります」 「いいか。君ひとりで勝手な行動をとるなよ。明朝、西本刑事をそちらへ行かせるから、二人で、行動するんだ。もし渡辺もシロと決まれば、私と十津川警部も、そちらへ行く」  と、亀井は、いった。  窓の外は、もう暗くなっている。どうやら、小雨が降り出したらしい。  日下は雨が嫌いだったが、亀井の話を聞いて気持が高揚していて、気にならなかった。 (佐伯が、犯人に間違いない)  と、確信し、一刻も早く、何とか証拠を見つけて、逮捕したいと思った。それも、自分ひとりでと思うのは、やはり、若いからだろう。  日下は煙草に火をつけ、腕時計を見た。  午後八時五〇分。 (佐伯の奴、今頃、何を考えているんだろう?)  考えることが、それだけになってしまった。  ふいに、部屋の電話が鳴った。受話器を取ると、「フロントです」と、相手が小声でいった。 「六〇六号室のお客様が、車を呼んでくれといわれました。外出なさるようです」 「ありがとう。私にも、一台頼む」  と、日下は緊張した声で、頼んだ。  午後九時に近い時間に、佐伯は何処へ行く気なのか?  飲むだけなら、このホテルの中にバーがあるし、コンパニオンのいるカラオケルームもある。だから、飲みに行くのではないだろう。  日下は部屋を出ると、エレベーターを使わず、階段を一階ロビーまで降りて行った。  まだタクシーは来ていないので、佐伯の姿もない。  五、六分して、車が二台着いた。日下はフロントに、二分してから佐伯を呼ぶように頼んでおいて、車の一台に乗り込み、佐伯が降りて来るのを待った。  小雨は、まだ降り続いている。一瞬、勝手な行動はとらないようにという亀井の言葉が脳裏をよぎったが、佐伯が姿を現わしたとたん、どこかへ消しとんでしまった。  運転手の肩を軽く叩いて、佐伯の乗ったタクシーを追《つ》けさせることにした。  相手の車は舘山寺有料道路に入って、浜名湖の入口の方向に向った。浜名湖大橋を渡り、弁天島を抜け、今度は遠州灘沿いに伸びる浜名バイパスに入った。  まだ小雨が止まないが、それでも左手に、黒々と遠州灘が広がっているのが見え、窓を少し開けると、波の音が聞こえた。  急に、道路の両側に、松林が現われた。多分、以前は続いていた松林だったのを、このバイパスが切り裂いたのだろう。  松林は、防風林だと、運転手がいった。  急に、前を行くタクシーが、とまった。ドアが開き、佐伯が降りるのが見えた。  そのまま車は走り去り、佐伯は道路から、松林の広がる浜辺に向って、コンクリートの階段を降りて行った。  日下もタクシーを捨てて、浜辺へ降りて行った。  いぜんとして小雨は降り続いているのだが、寒さは感じなかったし、街灯の明りで、松林の中もぼんやりと見わたせた。  佐伯は、松林の中へゆっくり入って行く。日下も、躊躇《ちゆうちよ》せずにそのあとを追った。この辺りは、松林は密生してなくて、まばらだった。ベニヤで造られた小屋が見えたが、釣り人が何かに使っているものかも知れない。  佐伯は、その小屋の傍で、立ち止まった。誰かを待つという感じで、雨滴をさけるように手で囲って、煙草に火をつけた。  日下は、松の木の一つに身体を隠して、見守った。  雨が止んだ感じで、松の枝葉を打つ音が聞こえなくなった。  佐伯は、相手がなかなか現われないことにいらだちを覚えたらしく、吸殻を踏みつけ、腕時計をライターの火で見たりしている。  我慢しきれなくなったのか、佐伯が急に歩き出した。つられて日下も、松の木から出た。  その瞬間、背後への警戒が消えて、近寄ってくる足音に気付かなかった。  いきなり、固い杖のようなものが、振りおろされた。後頭部を強打され、日下は呻《うめ》き声をあげて、濡れた地面にくずおれた。  それでも、振り向いて、相手を見極めようとしたが、その時、第二撃が襲ってきた。  激痛に続いて、日下は眼の前が暗くなっていくのを感じた。 (こんなところで──畜生!)  と、胸の中で呟《つぶや》く。そのまま、急速に意識がうすれていった。      4  めったに夢を見たことのない日下が、夢を見ていた。  日下は、海で溺れかけている。クルーザーが近づいてくる。日下は助けを求めて手を振るが、ボートは日下を無視して、走り去っていく。その甲板で、佐伯がニヤニヤ笑っているのだ。 「助けてくれ!」  と、日下は必死で、叫んだ。  自分のその声で、日下は眼をあけた。とたんに激痛が蘇《よみがえ》り、彼は思わず呻き声をあげた。  うす暗く、頭の上に松のこずえが蔽《おお》いかぶさっているのが見えた。 (そうだ。ここは、海岸の松林だったのだ)  と、思い出し、後頭部の痛みに耐えながら、立ち上がろうとした。  突いた手が、何か柔らかな弾力のあるものに、触れた。  ぎょっとして、眼をこらした。  彼の横に、人間が倒れているのだ。男の背中が視界に広がる。 (佐伯じゃないか?)  しかも、その背広が、黒く濡れているように見える。指先を触れると、ぬるっとした。 (血だ!)  と、思った。 (何があったんだ?)  と、日下が周囲を見廻した時、遠くから、一つ、二つと、懐中電灯の明りが近づいてくるのが見えた。  人声も、聞こえる。今見つかったら、佐伯を殺した犯人にされかねない。  日下は這《は》うようにして、人々が来るのと反対方向に、逃げた。  昼間でなくて、幸いだった。松林を抜け、物かげに隠れると、夜の闇が、日下を包んでくれた。  後頭部は、痛み続けている。日下は歯を食いしばって、時間がたち、人々が散って行くのを待った。  突然、松林の中が真昼のような明るさになった。投光器が、運び込まれたらしい。持ち込んだのは多分、地元の警察だろう。 「身元確認を急げ!」 「免許証を持ってます!」 「犯人は、まだ近くにいるかも知れんぞ。探してみろ!」  そんな声が、聞こえてくる。  日下は、内ポケットを探った。警察手帳があれば、何とか信用してくれるかも知れない。そう思ったのだが、 「くそ!」  と、舌打ちした。警察手帳が、無くなっているのだ。  彼を殴って、気絶させた犯人が、盗んで行ったに違いない。  懐中電灯の光が、近づいてくるのが見えた。  今見つかったら、何をいっても、聞き入れてはくれないだろう。  今は、逃げるより仕方がないと思い、日下は物かげから、這い出した。  だが、初めての場所で、どう逃げたらいいかわからない。バイパスに出ても、車がつかまらなければ、逃げられない。  それでも、必死で、バイパスに向って歩く。動くと、頭の激しい痛みが、ぶり返した。  しゃがみ込む。 (今、捕まるのは嫌だ)  ふいに、人影が近づいた。ぎょっとして、日下は身構えた。が、相手は、 「あたしに、ついて来て」  と、優しい声で、いった。  相手の顔は、暗くてはっきりしないが、香水のかおりがした。 「君は?」  と、日下がきくと、細い指先が彼の手をつかみ、 「早く」  と、女の声が、いった。  日下は、いちかばちかの感じで、手を引かれるままに、歩き出した。  バイパスにあがると、女は、そこに駐《と》めてある車のドアを開けた。 「乗って」  と、女が、いった。  日下は、助手席に身体をすべり込ませた。頭痛と同時に、吐き気もする。急に動いたからだろう。  女は、運転席に腰を下ろすと、キーを差し込み、エンジンをふかしておいて、車をスタートさせた。スピードを、どんどんあげて行く。  日下はほっとしながら、運転している女を見た。  二十五、六歳に見える女だった。美しい横顔だが、どこか冷たさを感じさせる。いや、彼女も緊張していて、それで冷たく見えるのかも知れない。 「何処へ行くんだ?」  と、日下が、きいた。 「とにかく、あそこから離れた方がいいわ。行先は、それから考えましょう」  と、女は前方を見つめたまま、いった。  日下は、黙ってシートに背をもたせかけた。  今は、黙って眠りたい。やたらに疲れている。あれこれ考えるのは、そのあとでいいだろう。  眠って、眼を覚ますと、車はまだ走り続けている。女は相変らず、怒ったような顔で、ハンドルを握っていた。 「今、何処を走っているんだ?」  と、日下は、きいた。 「間もなく静岡。国道1号線を東京に向っているわ」  と、女が、いった。 「東京に?」 「いけないの? さっき行先を聞こうと思ったけど、あなたが、起きないから」 「いいさ」  と、日下は肯《うなず》いた。東京に戻って、十津川警部や亀井に相談した方がいいかも知れない。 「なぜ、私を助けてくれたんだ?」  ときくと、女は、 「警察が嫌いだから」 「それだけ?」 「あなた、警察に追われてたんでしょう? だから、助けたのよ。あなたじゃなくたって、警察に追われてたら助けるわ」 「君の名前は?」  と、日下がきくと、女は、 「あたしは、あなたのことを何も聞かないじゃないの。ひょっとしたら、殺人犯かも知れないのに」  と、怒ったような声で、いった。 「わかった。君のことはもう、聞かないよ」  と、日下は、いった。  東京に着いた時は、夜が明けかけていた。  日下は、礼をいって、女と別れ、タクシーを拾い、捜査本部に向ったが、その前に彼女の車のナンバーを見て、頭に叩き込んだ。  捜査本部に戻ると、十津川と亀井がいて、驚いた顔で日下を迎えた。 「どうしたんだ?」  と、亀井が、きいた。  日下は、事情を話した。案の定、亀井が、 「あれだけ勝手に動くなと、注意したのに。警察手帳まで盗まれやがって」  と、怒った。 「申しわけありません」 「とにかく、無事だったんだ。カメさんも、そう怒りなさんな」  と、十津川が、いった。 「しかし、西本刑事が行くまで、下手に動くなと、注意しておいたのに」 「そうだがね。後頭部に、こぶが出来てるよ。休んで、あとで医者に診て貰《もら》うといい」 「もう大丈夫です」 「警部が休めといわれるんだ。隣りの部屋で休んでいろ」  と、亀井が、いった。      5  無理矢理の感じで、病院に行かされ、手当てを受けて、日下が戻ってくると、亀井が浜松警察署と電話をしていた。  亀井は、受話器を置くと、日下に向って、 「いろいろ、わかったぞ。佐伯広己は背中を刺されて、殺された。凶器のナイフは、近くで発見され、その柄《え》から指紋が検出された」 「私の警察手帳は?」 「その件の情報はない。何もいっていないから、少なくとも現場には落ちてなかったんだろう」 「そうですか」 「まずいことがある。現場からカルチエのライターが見つかって、君のイニシアルが彫ってあったと、いっている」 「誕生日に、ガールフレンドから貰ったものです」 「柄にもないものを持ってるから、妙なことになるんだ。県警はライターについている指紋と、ナイフの指紋を、照合するぞ」 「私は、ナイフなんか、持ちませんでした」  と、日下がいうと、亀井は舌打ちして、 「何を子供みたいなことをいってるんだ。ライターが、ひとりでにポケットから飛び出して、地面に落ちると思ってるのか? 君を殴って気絶させた奴が、ポケットを探り、イニシアル入りのライターを見つけて、死体の傍に投げ捨てておいたに決ってるじゃないか。そんな奴なら、君が気絶している間に、凶器のナイフの柄に、べっとり君の指紋をつけておくよ」 「申しわけありません。これから、浜松へ行って、県警に全て話して来ます」 「そんなことをして、向うが、よくわかりましたというか? すぐ逮捕されるよ。それより、真犯人を見つけることだ。君を車に乗せた女の素性は、わかってるのか?」 「わかりませんが、車のナンバーは覚えています」 「それなら、西本刑事が戻って来たら、二人で、彼女を見つけに行って来い」  と、亀井は、いった。 「西本は、何処へ行ってるんですか?」  と、日下は、きいた。 「例の二人を調べに行っている」 「例の?」 「佐伯のアリバイを証言した友人たちだよ。三人マージャンをやっていたといった男たちだ。佐伯が犯人なら、偽証ということになるからね」  と、亀井が、いった。  確か、前田久夫と、原口悠という名前だった。  一時間ほどして、西本が清水刑事と帰って来たが、 「前田も、原口も、行方不明です。自宅に帰っていません」  と、十津川に、報告した。 「逃げたか」 「そう思います。偽証がばれたと思って、逃げたんでしょう」 「二人の経歴は?」 「今、調べて貰っています」 「じゃあ君は、日下刑事と、妙な女のことを調べに行ってくれ」  と、十津川は、西本にいった。 「妙なって、どんな女なんですか?」 「詳しいことは、彼から聞きたまえ」  と、十津川は、いった。  日下は、西本と一緒に外に出ると、パトカーの中で、浜松で会った女のことを説明した。 「とにかく、ひどい目に遭ったよ」 「頭は、大丈夫なのか?」  と、西本は、包帯の巻かれた日下の頭に眼をやった。 「医者は、このくらいなら縫わなくても自然に傷口がくっつくと、いってくれた。そんなことより、おれは真犯人を捕えて、警察手帳を取り返したいんだ」  日下は、怒りの調子で、いった。 「その女が、佐伯を殺したと思っているのか?」 「それはわからないが、何か知ってることは間違いないんだ」  と、日下は、いった。  二人はまず東京陸運局に行き、日下の覚えているナンバーの車の持主の名前を、調べて貰うことにした。 「確か、赤のベンツ190Eです」  と、日下は、付け加えた。 「時間がちょっとかかりますよ」  と、係の人間が、いった。  二人は、待った。  しばらくして、呼ばれてカウンターのところに行くと、 「車の所有者がわかりました。名前は、立木ゆう子。住所は、新宿区四谷三丁目のマンションですね」  と、いう。 「立木ゆう子?」  と、日下はおうむ返しにいって、 「そんな筈はありませんよ」 「しかし、ちゃんと立木ゆう子の名前で、去年の十月二十三日に、登録されていますよ。ナンバーも、あなたのいった通りです」  と、係員は、むっとした顔でいった。 「しかし、四谷三丁目の立木ゆう子は、六月十六日に死んでるんだ。殺されている」 「そういうことは知りませんが、とにかく、あなたのいわれたナンバーは、この車についているんです」 「わかりました」  と、西本が代って肯き、日下を引っ張るようにして東京陸運局を出た。  パトカーに戻ってから、日下は、 「殺された女の車だって?」  と、まだ、いっていた。  西本は、運転席に、腰を下ろしてから、 「つまり、立木ゆう子の車を、別の女が動かしているということだよ」 「それじゃあ、浜松の女にたどりつけないよ」 「それは、わからんよ。立木ゆう子と親しかった女友だちなら、たどりつける」  と、西本は、励ますようにいった。 「あのマンションには、駐車場はついてなかった筈なんだが」 「近くの駐車場を借りて、車を置いてあったんだろう。まず、それを探そうじゃないか」  と、西本は、いった。  二人は、四谷三丁目のマンションに行き、その周辺の駐車場を、片っ端から、調べて廻った。  この辺り、空地の少ない場所だが、それでもバブルがはじけたせいか、ビルを建てる予定が、駐車場にしているところがあった。  その一つに、立木ゆう子が契約しているのがわかった。 「立木」の名札のついたスペースが見つかったが、肝心の車は無かった。まだ、あの女が乗り廻しているのだ。  夜になってから、日下と西本は、立木ゆう子の働いていた新宿のクラブ「フェアレディ」に行った。  ゆう子の車を黙って乗り廻しているというのは、盗んだのでなければ、ごく親しい女ということになる。  同じ店で働く同僚のホステスの一人ではないかと考えたのだ。  店には、ママの他に、十二、三人のホステスがいた。  二人は、カウンターに腰を下ろして、ホステスたちの顔を見廻した。 「いるか?」  と、西本が、日下にきいた。 「いや。この中には、いない」  と、日下はいってから、ママを呼んで、 「今日休んでいるホステスさんは何人いるの?」  と、きいた。 「確か三人だわ」 「その中に、二十七、八歳で、ちょっときつい感じの娘《こ》はいない?」  と、日下がきくと、ママは笑って、 「そんな漠然としたんじゃ、わからないわねえ」  仕方がないので、日下はメモ用紙を借り、それに、あの女の横顔を描いた。 「声は低い方で、かすれた声だ。耳に、金のピアスをしている」  と、日下は必死になって、あの女の記憶を喋《しやべ》った。  ママは、ホステスたちを集めて、日下の描いた絵を見せてくれた。 「マミちゃんに似てるわ」  と、年かさのホステスがいうと、他の何人かも、似ているといった。 「そのマミちゃんの本名と、住所を、教えてくれないか」  と、日下はママに、頼んだ。 「本名は確か、篠原エリで、マネージャー、どこに住んでたかしらね?」  と、ママは、奥にいるマネージャーに声をかけた。 「井の頭公園近くのヴィラ・サンライズというマンションの508号室です」  というマネージャーの声が、返ってきた。 「すぐ行こう」  と、日下がいうと、西本は、 「その前に、どんな女性か、聞いておこうじゃないか」  と、いった。  ママは、礼儀正しくて頭がいいといったが、集ったホステスの一人は、 「でも、ちょっと変ってるわ」  といい、もう一人が、 「ちょっとどころか、めちゃくちゃ、変ってるわ」 「どんな風に変ってるんだ?」  と、西本が、きいた。 「空手をやってるんだって。二段とかいってたわ」 「しかし、今は女だって、空手はやってるよ」 「こんな仕事をやってるのに、男が嫌いだって、いったことがあったの」  と、そのホステスは、いった。 「死んだ立木ゆう子さんとは、仲が良かった?」  と、日下が、きいた。  ホステスたちは、顔を見合せていたが、一人が、 「あの二人、レズじゃなかったのかしら?」  と、口火を切ると、急に堰《せき》を切ったように、 「そういえば、よく、一緒に帰ってたわね」 「死んだあいこちゃんに、S化学の部長さんがくっついて、パトロンみたいになったとき、ヤキモチをやいてたわよ」  などと、日下たちをそっちのけにして、お喋りを始めた。  その間に、日下と西本は外に出た。  パトカーを駐めておいた場所に戻り、乗り込むと、井の頭公園に向った。  マネージャーの教えてくれたマンションに着くと、五階にあがったが、肝心の508号室は、灯が消え、留守だった。 「どうする?」  と、西本が、きいた。 「管理人に開けて貰って、中に入る」  と、日下は、いった。 「そんなことをしたら、家宅侵入になる。女が帰ってくるまで、外で待っていよう」 「駄目だ」  と、日下は、いった。 「何が駄目なんだ?」 「おれは一刻も早く、佐伯殺しの犯人を捕えなきゃならないんだ。それに、郵便受けに新聞が溜っている。待っていても、帰って来ないよ。君は、外にいろ。おれが、開ける」 「仕方がない。管理人を連れて来てやる」  と、西本は、エレベーターで下へおりて行った。  管理人に鍵を開けて貰って、部屋に入った。1LDKの部屋だった。十一畳ほどの居間と、その奥に六畳の洋室があり、そこは寝室に使っているらしく、大きなベッドが置かれていた。  どこか、中性的な感じのする部屋だった。  寝室の三面鏡の上に、写真が飾られていたが、それは女二人が、ベッドに腰を下ろし、楽しそうに笑っているものだった。多分、セルフタイマーで撮ったのだろう。  抱き合って、ピースのサインをしているのは、殺された立木ゆう子だった。  片方は、この部屋の主の篠原エリだろう。 「この女だったか?」  と、西本が、きいた。 「ああ、間違いない」  と、日下は、肯いた。 「じゃあ、十津川警部に、連絡しておこう」  西本は、部屋の電話を使って、十津川にかけた。  十津川は、西本の報告に、 「女が見つかったか。よかったな」  と、いってから、日下に代れと、いった。      6  日下が電話に出ると、十津川は、 「よく聞くんだ。明日、静岡県警の刑事が二人、やって来る」  と、おさえた声で、いった。 「私のことでですか?」  日下は、不安に襲われながら、きいた。 「そうだ。日下刑事に会いたいと、いっている」 「なぜ、私の名前が、わかったんでしょうか?」 「君は、舘山寺温泉のSホテルで、本名をいったんだろう?」 「そうでした。警察手帳を見せて、ホテルの人に協力を頼みました」 「県警の話はこうだ。現場に落ちていたイニシアル入りのライターについていた指紋と、凶器のナイフの指紋が一致した。一方、舘山寺温泉のSホテルからは、佐伯を追って出かけた警視庁の日下という刑事が、帰って来ないといって来た。日下刑事の名前が、ライターのイニシアルと一致する。それで、明日、こちらへ来て君を訊問したいというわけだよ」 「ご迷惑をおかけして、申しわけありません」 「それはいいが、あの電話の調子だと、うむをいわせず、君を連行する気だ」  と、十津川は、いった。 「身から出たサビですから、私は、構いませんが──」  と、日下は、いった。 「しかし、君は、一刻も早く犯人を捕えたいんだろう?」 「もちろんです」 「それなら、しばらく、捜査本部から離れているんだ。西本刑事と二人で、犯人を見つけてみろ」 「全力をつくします」 「県警には、君は浜松へ行ったまま、まだ戻っていないと、いっておいた」 「ありがとうございます」 「しかし、嘘が通用するのも、せいぜい、二、三日だからな」 「何とか、その間に、犯人を見つけ出します」  と、日下は、いった。  十津川は、西本にも電話で、日下を守ってやれといってくれた。  そのあと、西本は部屋を見廻して、 「さて、これから、どうするかな? ここでじっと、篠原エリが帰ってくるのを待つかい?」 「時間がないよ」 「だが、彼女の行先は、わからないぞ」 「探すよ」 「どうやって?」 「今も彼女は、立木ゆう子の車を走らせているに違いないんだ。それに、東京に戻っている。だから、パトカーで、探すよ」 「やみくもにか?」 「仕方がないだろう。おれひとりでもやるよ」  と、日下は、いった。 「今日は、いやに、突っかかるじゃないか。いいさ。一緒に、探すよ」  と、西本は、笑った。  二人は部屋を出て、パトカーに戻った。  今度は助手席に座った西本が、無線電話で総合指令室を呼び出し、 「都内の全パトカーに、指示を出して下さい。赤のベンツ190E。ナンバーは──。見つけ次第、運転している女性の身柄を確保して下さい。殺人事件の重要参考人です。女性の名前は、篠原エリです」  と、伝えてから、日下の肩を叩いた。 「さあ、探しに行こう」  日下はスタートさせ、夜の東京の街を、走り廻った。  夜明けまで走ってみたが、問題の車は見つからなかった。他のパトカーからも、発見の報告は入らなかった。  二人は、スナックの前に車をとめ、朝食をとった。 「今日、県警の刑事がやってくる」  と、日下は、小声でいった。 「そうなると、君は、捜査本部には行かない方がいい」 「わかってる」 「それに、自宅も危険だな。県警の刑事が当然、調べるだろうからね。おれのマンションに行っていたらいい。万年床だが、そこで少し眠るんだ」  と、西本は、いった。 「君はどうする?」 「おれは捜査本部へ行って、例の二人の経歴を聞いてくる」  と、西本は、いった。  パトカーで、彼のマンションへ送って貰い、敷きっ放しの布団に横になった。考えてみると、二日間、ほとんど眠っていなかったのだ。  眼が痛い。  それでも眠れずに、朝刊を広げると、社会面に浜松の殺人事件のことが出ていて、  〈有力容疑者浮ぶ〉  と、あった。有力容疑者というのは、日下のことだろう。  昼過ぎに、西本が戻って来た。  彼は、例の二人の経歴の書かれたメモを、日下に見せてくれた。 「少しは眠れたか?」  と、西本が、きく。 「ああ、少しはね」  とだけ、日下はいった。睡眠不足だと、口の回転がうまくいかず、自然に口数が少なくなってくる。  日下は黙って、コピーされた二人の経歴に眼を通した。 ○前田久夫 [#ここから1字下げ] 三十二歳。山口県山口市の生れ。東京のW大を卒業したあと、K生命保険に入社。二十八歳で係長。出世コースを歩く。 二十九歳で、同社の営業担当重役の次女と結婚。ところがその翌年、株で二億円の借金を作ってしまい、その穴を埋めるため、K生命の名前を使ってサギを働き、警察に逮捕されてしまう。 どうにか、刑事事件にはならなくて済んだが、K生命は馘《くび》になり、離婚にもなった。 その後の前田は、社会の表面から逃げ隠れするような生活が続く。 彼自身も、地道な生活が嫌になったらしく、大学時代の同窓生の紹介で、都内の興信所に入った時、信用調査にかこつけて、調査した秘密をタネに相手を脅し、百万円をゆすり取ろうとして、馘首《かくしゆ》されている。 現在も、定職なし。 [#ここで字下げ終わり] ○原口悠 [#ここから1字下げ] 二十九歳。 高校時代、ボクシング部。二年の時、中退して、Aプロボクシングジムに入り、プロのボクサーになる。 素質に恵まれ、全日本Jミドル級九位にまでなるが、同級四位のボクサーとの試合でKOされ、ボクシングをやめる。 その後、警備保障会社のガードマン、芸能プロのマネージャー(実際には、用心棒)などとして勤めるも、いずれも長続きしていない。現在、無職。 [#ここで字下げ終わり] 「ここには書いてないが、二人に共通するのは、海が好きだということだそうだ。金がないのに、海でサーフィンをしたりしていたらしい。死んだ佐伯も、同じだったといっているよ」  と、西本が、いった。 「それが、クルーザーにつながっているのか」 「かも知れない。この三人は、彼等なりに、夢を持っていたわけだよ。白いクルーザー、青い海、爽やかな潮風──」  と、西本が、いった。 「人を殺しておいて、夢もないもんだ」  と、日下は、吐き捨てるようにいってから、 「佐伯と浜松とは、何か接点があるのか?」 「佐伯にはないが、前田にはある。そこにも書いてあるが、彼はK生命の重役の娘と結婚して、エリートコースを歩いていた。その頃、K生命の保養所が浜名湖畔にあって、マリーナに、ボートが二隻おいてあったということだ。前田がマリーナで、そのボートに乗って楽しんでいたことは、十分に考えられるんだ。佐伯を含めた三人の中で、その話が出ていたんじゃないかな」  と、西本は、いった。 「それじゃあ、逃げた二人は浜松にいる可能性があるな。前田には、少なくとも、土地勘があるんだから」  と、日下は、いった。 「君は、二人よりも、篠原エリを見つけたいんだろう?」 「ああ。ただ、パトカーがいくら探しても、赤いベンツ190Eは見つからない。もう、東京にはいないんじゃないかと思うんだ」 「浜松へ戻ったと思うのか?」 「ああ」 「理由は、前田、原口の二人が、浜松へ行った可能性があるからか?」 「そうだ」 「篠原エリが、きっと、二人を追うだろうというわけか?」 「そうだよ。おれはね、彼女が、殺された立木ゆう子の仇を取ろうとしているんだと、思ってる」  と、日下は、いった。 「レズ女の仇討ちか」 「レズだろうが、愛は愛だ」  日下は、怒ったような顔で、いった。 「どうしたんだ? 彼女に惚れたのか?」  と、西本は、からかい気味にきいた。 「彼女は多分、佐伯を殺している。おれは刑事だ、刑事が犯人に惚れるか」  と、日下は、西本を睨《にら》んだ。  西本は、話題を変えて、 「それで、これから、どうする?」 「浜松へ行く」 「浜松署は、必死になって、君を探してるんだぞ」 「わかってるさ。きっと、おれが、逃げ廻ってると思ってるだろう。まさか、そのおれが浜松へ引き返すとは、浜松署の連中も思わない」  と、日下は、鼻をうごめかせた。が、西本は眉を寄せて、 「そううまくいくかどうかわからないぞ。もし君が浜松へ引き返して、県警の連中に捕ったら、それこそ佐伯殺しの犯人と決めつけられるぞ。犯人が、現場に引き返して来たといってだ」 「それでも、構わん。何としてでも、おれは、犯人を捕えたい。同じ警察に追われて、逃げ廻るのは、嫌だ」  日下は、ひとりでに感情が激してきて、大きな声を出した。 「わかったよ」  と、西本は、苦笑した。 「君を巻添えに出来ないから、おれはひとりで、浜松に戻る」  と、日下は、いった。 「それは駄目だ。十津川警部から、日下の面倒を見てやれといわれてるんだ。君が嫌でも、おれはくっついていく」 「二人で、動き廻ったら、相手に警戒されちまう。おれは、ひとりで行く」  と、日下は、いい張った。      7  その日のうちに、日下は隙を見て、浜松に向って出発した。  こんなことになったのは、自分の過失なのだ。佐伯殺しの犯人にされたうえ、警察手帳まで、奪い取られてしまった。  その警察手帳は、まだ見つからない。奪った人間は、さらにそれを使って、何か恐しいことを計画しているのではないか。そんな危険に西本を巻き込みたくない。  東京駅から、こだまに飛び乗った。  座席に腰を下ろしてから、サングラス越しに車内を見廻した。  あの女の顔はない。前田と原口の顔写真も持って来たが、彼等もいない。  県警の刑事の顔は、知らないから、乗っていてもわからない。そこは、運を天に委せるより仕方がなかった。  浜松に着くと、少し考えてから、タクシーに乗って、ヤマハマリーナへ行ってみることにした。  死んだ佐伯は、ヤマハマリーナでクルーザーを買い、そこに繋留しようと考えていた。前田と原口も海が好きだということから、ヤマハマリーナへ行くかも知れない。いや、三人で、クルーザーを買おうとしていたのかも知れない。いざとなった時、そのクルーザーで逃げるつもりだったのではないかと、考えたのだ。  前と同じように、浜名湖の西側を、ヤマハマリーナに向う。  間もなくマリーナという時、突然、後方から、けたたましいパトカーのサイレンが追ってきた。  一瞬、日下の背筋に冷たいものが流れ、覚悟を決めた。  だが、パトカーは、左に寄ってとまったタクシーの横を、走り抜けて行った。  拍子抜けすると同時に、日下は、パトカーが何処へ行くのか、知りたくなった。 「あのパトカーの後を追《つ》けてくれ」  と、日下は、運転手にいった。 「面倒に巻き込まれるのは、ごめんですよ」  と、運転手が、いう。 「大丈夫だ」  と、日下は、いった。  運転手は、何か口の中でつぶやいていたが、それでもアクセルを踏み、パトカーの走り去った方向を追った。  ヤマハマリーナの手前に、湖面に突き出す小さな岬がある。  パトカーは、その岬の突端に向って、走って行く。  パトカーが他にも一台、前方にとまっているのが、見えた。さすがに、二台のパトカーの傍にタクシーをとめる勇気は出なくて、日下は、少し手前にとめた。  やがて、クレーン車が、重いキャタピラの音をひびかせて到着した。  何か始まるらしい。  ヤジ馬も十五、六人集っていたので、日下はその中にまぎれ込んだ。  パトカーから降りた二人の警官が、ゴムのダイバースーツに着がえている。  全体に水深の浅い浜名湖だが、この辺りはかなり深そうである。  二人のダイバーは、クレーン車から下がっているワイヤーを持って、湖に飛び込んだ。  どうやら、何かを、湖から引きあげるらしい。多分、車だ。 (あの赤いベンツ190Eじゃないのか?)  突然、そう思った。  沈んでいるものに、ワイヤーを廻すのに、時間がかかっているらしい。  日下は、少し離れた場所から、じっと作業を見守った。  日下は、沈んでいるものが、あの車でないことを祈った。もし篠原エリが、車ごとここに沈んでしまっていたら、自分の無実を証明する手掛りの一つを、失ってしまうからだった。  一時間あまりして、クレーン車が、重い唸《うな》り声をあげた。  たるんでいたワイヤーが、ぴーんと張り、激しい水音を立てて、赤いものが、持ちあがってきた。  赤い車だった。ベンツの190Eだった。  水が、開いている窓から、滝のように湖面に流れ落ちる。 「誰か乗ってるぞ!」  と、一番近くで見ていたヤジ馬の一人が、叫んだ。 (まずいな)  と、日下は、唇を噛んだ。今、篠原エリが死んでは困るのだ。  クレーンがゆっくりと回転し、ベンツ190Eの車体が、陸地に二、三度、バウンドしながら着地した。  まだ、水が少しずつ、流れ出ている。  刑事の一人が、運転席のドアを開けた。  どっと、最後の水が吐き出される。これから、車内の死体を、引き出すのだろう。 「男だあ!」  というヤジ馬の声が、聞こえた。 (男──?)  日下は、人垣の中を、ツマ先立ちでのぞき込んだ。  車の外に出され、仰向けに横たえられているのは確かに女ではなかった。 (前田久夫だ!)  間違いなく、顔写真の前田なのだ。  彼の経歴を見たとき、エリートサラリーマンの成れの果てという思いがしたのだが、今は、もう死体になってしまった。  検死官らしい男が、死体を丹念に診て、刑事に向って、 「後頭部に裂傷。死後、十五、六時間だな」  と、いうのが聞こえた。  今、午後三時五分だから、昨日の深夜ということになる。  その頃、何者かが前田を殺し、車ごと湖に沈めたことになる。  何者というより、恐らく、篠原エリだろう。  彼女は、立木ゆう子の仇を取っているのだ。 (ゆう子の愛車が、前田久夫の棺というわけか?)  日下は、水に濡れた死体を丁寧に調べている県警の刑事たちの様子を見つめた。彼らは、死体が身につけているパンツや、ブルゾンのポケットを調べ、それから、車の中に首を突っ込んだ。 (ひょっとして、おれの警察手帳が、出てくるのではあるまいか?)  その不安が、日下を、立ち去らせなかったのだ。  もし、それが車内で見つかったら、県警は、佐伯殺しだけでなく、前田殺しでも、日下を容疑者と決めつけるだろう。  前田の運転免許証が見つかった。刑事の一人が、前田久夫の名を大声でいっている。  一万円札の詰った財布も、見つかって、若い刑事が、 「五、六十万は入ってるんじゃないか」  と、驚いたようにいうのが、聞こえた。  その時、日下は、県警の刑事の一人が、野次馬にビデオカメラを向けて撮り始めたのに気がついた。 (まずいな)  と、思ったが、急に逃げ出したら、怪しまれてしまう。日下は、わざと落ちついた様子で煙草に火をつけ、少しずつ人垣から離れ、タクシーのところに戻って行った。 「何でした?」  と、運転手が、きく。 「車が沈んでいたんだ」  とだけ、日下はいった。  そのあと、危険は感じたが、ヤマハマリーナへ廻ってみた。  前に行った、レストラン兼ホテルのあるマリーナビラの建物に入り、前田が来なかったかどうか、聞くことにした。  警察手帳を示そうとして、無いことを思い出し、冷汗をかいたが、幸い、相手の係員が日下のことを覚えていてくれた。 「この男の方なら、このマリーナビラにお泊りになりました」  と、相手は、いった。 「いつ、誰と?」  と、日下はきいた。 「昨日の午後三時頃、女の方と一緒に来られました」  といい、前田が記入したという宿泊カードを見せてくれた。それには、東京世田谷の本田利夫、妻俊子と、書かれている。住所も多分でたらめだろう。 「連れはこの女でしたか?」  と、日下は、篠原エリの写真を見せると、相手は肯いた。 「それで、二人は、いつ出発したんですか?」 「それが、おかしいんですよ」 「おかしいというと?」 「今朝早く、女の方だけが、ひとりで出発されたんです。なんでも、ご主人の方は、昨夜おそく急用が出来て、東京に帰ったといわれましてね。だから、車でおいでになったのに、女の方はタクシーを呼んで、それに乗って出発されたんです」 「ここで、何処かへ電話しなかったですか?」 「男の方が、一回、市外へおかけになりました」 「それ、記録に残っていますね?」 「はい。その電話料金も、ご出発の時、女の方に払って頂きましたから」  といって、伝票の控えを見せてくれた。  そこにあったのは、東京のNホテルの電話番号だった。 「女も、男がここにかけたのを、知っていますね?」  と、日下は、きいた。 「はい。伝票をごらんになってから、ご出発になりましたから」  という答が、返ってきた。  日下は、礼をいって、タクシーに戻ったが、パトカーが坂をのぼってくるのにぶつかった。 「浜松駅へ行ってくれ」  と、日下は顔をかくすようにして、いった。  パトカーから、二人の刑事が降りて、レストランの中に入って行くのが、見えた。 「早く」  と、日下は、運転手にいった。  県警の刑事たちは、日下のことを、聞くだろう。下手をすると、浜松駅に手配されるかも知れない。 「遠出できるか?」  と、日下は、運転手にきいた。 「何処までですか?」 「東京までだ」 「いいですが、東名に入るのに、時間がかかりますよ」 「いや、高速は使わないでくれ」 「そうなると、東京まで、時間がかかりますよ」 「構わないよ」  と、日下は、いった。  JR浜松駅へ向っていたのを、Uターンさせ、浜名湖の北から、国道362号線に入って、東へ向うことにした。  その途中で、運転手が、 「追《つ》けられてるみたいですよ」 「追けられてる?」  と、日下は、背後《うしろ》を見た。 「白のソアラです。レンタカーみたいですね」  と、運転手がいった。  確かに、白のソアラが、見えた。だが、運転している人間は男のようだが、その顔は、距離があってはっきりしない。 「あの車、ずいぶん前から、追《つ》けてますよ」  と、運転手が、いう。  県警なら、追けずに、こちらを止めるだろう。原口なら、尾行するより、逃げる筈だ。結局、誰かわからなかった。 「無視していい」  と、日下は運転手に、いった。  静岡県の外に出てから、東名に入って貰った。  白いソアラは、いぜんとして追けてくるが、日下は無視して、少し眠ることにした。眠っておく必要があったからだった。  都内に入ったのは、午後八時を過ぎていた。  運転手が、都内の地理に詳しくないというので、日下は東京のタクシーに乗りかえ、Nホテルに向った。  Nホテルは、山手に最近出来たもので、大きな庭園が売り物だった。二面のテニスコートとプールも付いているといわれている。  日下は、ロビーに入った。  隅のソファに腰を下ろした。ここに多分、原口悠が泊っている筈だ。そして、篠原エリが、彼を殺すためにやって来ることも、まず間違いないだろう。  この殺人は防ぎたい、そして二人を捕えて、真相を語らせたいと思う。  だが、原口は、何号室に泊っているのだろうか?  警察手帳を持っていれば、それをフロントに示して聞き出すのは簡単だ。しかし、その警察手帳が、盗まれてしまっている。ただ捜査一課の刑事だといっても、フロントは信用しないだろう。  日下は、賭けることにした。  すでに篠原エリがここに来て、原口に会っていれば、何か騒ぎが起きていなければならないが、その気配はない。  とすれば、彼女はまだ、来ていないのだ。  そう考えて、日下は、待つことにした。  コーヒーを注文し、備え付けの新聞綴りを手にとった。  浜松で起きた事件の続報がのっていたが、事態は、悪い方に進んでいる。  〈警視庁のK刑事に疑惑か〉  の文字が、躍っていたからだ。Kというのは、もちろん日下のことだろう。  静岡県警は必死になって日下を探しているに違いないし、十津川たちが彼を匿《かくま》っていると、考えているだろう。  県警は、きっと、いらだちを深くしているに違いない。そして、日下が見つからなければ、非常手段として、日下の名をマスコミに発表するかも知れない。 (今日一杯かな)  と、日下は覚悟した。今日中に犯人を捕えて、事実をはっきりさせないと、明日の新聞には日下の名前が、はっきりと出てしまうだろう。  篠原エリは、なかなか現われない。  眠気と戦うために、日下は何杯もコーヒーを注文し、飲んだ。  ロビーに人が入ってくるたびに、日下は緊張した。それが女の場合は、特にである。  十一時を過ぎた。  フロントが、変な顔をして、日下を見るようになった。  三人の男女が、ばらばらに、ロビーに入って来た。  女は一人。彼女は、夜なのにサングラスをかけ、フロントに何か話しかけてから、人を待つ感じでロビーに腰を下ろした。  日下はじっと彼女を見つめたが、篠原エリではなかった。  その間に、男二人の方は、エレベーターの方に歩いて行く。 「刑事さん」  と、突然、フロント係が、その二人の片方に声をかけた。  よれよれのレインコートを羽織り、帽子をかぶった方が、振り向いた。  フロント係が走り寄って、何か話している。帽子の男は、小さく首を横に振り、エレベーターに乗って行った。 (刑事?)  日下は、あわてて立ち上がり、フロント係をつかまえて、 「今の男は、刑事なのか?」  と、強い声で、きいた。  中年のフロント係は、何《な》んだという表情で、日下を見た。 「今の男を、どうして、刑事と呼んだんだ?」  日下は、もう一度、強い声を出した。  フロント係は、それに押されたように、 「警察手帳をお見せになりましたから」 「写真も見せたのか?」 「写真?」 「警察手帳には、本人の写真が貼ってあるんだ。それを見せたのか?」 「いえ。ただ、表を見ただけです」 「それで、何しに来たんだ?」 「六一二号室にお泊りのお客様に、用があるといわれました」 「その客というのは、この男じゃないのか?」  と、日下は、原口悠の顔写真を、フロント係の眼の前に突きつけた。 「確かに、この方ですが」 「今の刑事に、何をいったんだ?」 「六一二号のお客に、警察の方が行くからと連絡しておきましょうかと、聞いたんです。そしたら、必要はないといわれました」 「あの刑事は、ニセモノだ」 「え?」 「それに、女だ」 「あなたは?」 「警視庁捜査一課の刑事だよ」  といっておいて、日下は、エレベーターに向って突進した。  ボタンを押した。が、二基のエレベーターが、どちらもおりて来ない。  上で、篠原エリが、細工したのか。  日下は、階段を駈けあがった。息が、はずむ。足が、遅くなってくる。  それでも、六階にあがると、廊下を見わたし、六一二号室を探した。  見つけたが、ドアが開かない。  ドアに耳を押しつけたが、部屋の中はひっそりしている。 (篠原エリが、原口を殺してしまったのか?)  日下は、廊下を見廻した。ルーム係が歩いてくるのが見えた。日下はつかまえて、 「六一二号室を開けてくれ!」  と、いった。 「あなたは?」 「そんなことはどうでもいい。部屋の中が、焦げ臭いんだ。何か燃えてるんだ」 「そんなら、スプリンクラーが──」 「故障だよ。客が、焼け死んでもいいのか!」  と、日下は、怒鳴った。  ルームサービスの男は、口の中でぶつぶついいながらも、火事ということで、マスターキーを取り出した。  鍵があくと同時に、日下は部屋の中に飛び込んだ。  ツインの部屋だった。床の上に、人が倒れていた。レインコートのニセ刑事だった。帽子が飛んでしまって、長い髪がむき出しになっている。やはり、篠原エリだった。  その傍に屈み込んでいた男が、立ち上がって日下を見た。 「原口悠だな?」  と、日下は、声をかけた。 「あんたは?」  と、男が、きき返す。 「捜査一課の日下だ。殺人の共犯容疑で逮捕する」  日下がいうと、原口は、 「わかったよ」  と、意外にあっさり肯き、両手をあげた。  日下が原口に近づいた時、倒れていたエリが、急に呻き声をあげた。  日下の眼が、反射的に、彼女に向いた。  その瞬間、いきなり、原口の拳が飛んできた。      8  日下の身体が、壁ぎわまで、吹き飛んだ。 (不覚!)  と、思った。原口が元プロボクサーだったことを、つい忘れてしまっていたのだ。  それでも、日下は、立ち上がった。  容赦のない第二撃が、襲いかかった。  眼の前が暗くなり、日下の身体が、崩れ落ちる。 「どうした? かかって来い!」  と、原口がいっているのが、聞こえる。  右眼が、よく見えない。左眼で原口を見つめ、もう一度、よろめきながら立ち上がる。 「お前を、逮捕──」  途中で、また、殴られた。  今度は、膝から、崩れた。 「だらしがねえぞ。もう終りか」  勝ち誇った原口の声が聞こえる。だが、もう身体が、動かなかった。  眼も見えない。耳だけが、聞こえている。 「おい」  と、原口がいい、ぴしゃぴしゃと叩いている音が、聞こえた。  エリが、また、呻き声をあげている。 「起きなよ。聞きたいことがあるんだよ」  今度は、手ひどく、さらに殴りつけたらしい。  エリが、また、呻く。 「そうだ。眼を開けて、おれを見るんだ。こんなナイフで、おれが殺せるとでも思ったのか? ええ、おい!」  原口が、怒鳴る感じで、喋っている。  エリが、悲鳴をあげた。ナイフで、どこかを、刺したのか。  日下は、必死で、眼を開けた。ぼんやりと、人の姿が見えてきた。  原口が、エリを、小突いているのだ。 「お前さんが、佐伯と、前田を殺したのか?」  と、原口が、きく。 「仇を討ったのよ。あんたたちに殺されたゆう子のね」  エリが、かすれた声で、いう。 「仇だって? そうか、お前さんたち二人は、レズってやつか。あの女が、お前さんの恋人か」 「あんたも殺してやる」 「ああ、殺せるんなら殺しなよ。佐伯や前田なんか、どうでもいいんだ。おれにとってはね。あいつらが持ってた金は、何処へやったんだ?」 「知らないわ」 「殺して、お前さんが奪《と》っただろう? え?」 「あれは、もともと、ゆう子のものよ」 「死人に金がいるかよ。お前さんだって、これから死んでいくんだから、金はいらない筈だ。何処に隠したんだ? いえよ!」  原口の手が動くと、エリが悲鳴をあげる。  太股か、腕でも、ナイフで刺しているのだろう。 「止めろ!」  と、日下は、叫んだ。  いや、叫んだつもりだったと、いった方がいいだろう。  かすれた声しか出なかった。  それでも、叫びながら、日下は、二人の方ににじり寄って行った。  原口が、日下を見た。その顔は、ニヤニヤ笑っていた。 「それでも、刑事か。しっかり、かかって来いよ」  原口が、からかうように、手まねきした。  日下は、片手をあげて、原口に殴りかかろうとした。  右手が、辛うじて、あがった。  とたんに、原口の右ストレートが、飛んできた。日下の鼻が、ひしゃげて、鼻血が飛び散った。もう呻き声も出ない。 「そんなに死にたいのか」  と、原口は、いい、日下の襟首をつかんで、バスルームに、ずるずる引きずって行った。抵抗したくても、もう、力が残っていなかった。  日下をバスルームの床に転がしておいて、原口は、浴槽に水を入れ始めた。水の音だけが耳に聞こえるが、眼はよく見えない。  バスルームから、何とか這い出そうとすると、原口が、また殴った。一発、一発が、重い拳だった。止まりかけた鼻血がまた吹き出し、唇も切れて、血が滲《にじ》んだ。 「大人しくしてろよ。すぐ、楽にしてやるからな」  と、原口がいうのが聞こえた。  水を出しっ放しにしておいて、原口は、部屋に戻って行く。  また、エリが、殴られる音が聞こえた。 「金は何処だ!」  と、原口が怒鳴り、殴る。  エリが呻きながら、「畜生!」とか、「人殺し!」と叫ぶ。その叫び声も、次第に小さくなっていく。  浴槽から、水があふれ出して、倒れている日下の身体をぬらし始めた。  原口が、戻って来た。 「さあ、楽になれるぞ。嬉しいだろう?」  まるで、人殺しを楽しんでるみたいに、原口はいい、日下の身体を引きずりあげ、浴槽の中に放り込んだ。  水が鼻から入ってくる。苦しみ、もがいて、日下は、浴槽の外に滑り出た。 「まだ、元気があるじゃないか」  と、原口は、笑う。  また、引きずられた。今度水に放り込まれたら、もう抵抗する力はない。多分、死ぬだろう。  そう覚悟した時、ドアの方で何か、大きな物音がした。  原口は、日下の襟首をつかんでいた手を離して、ドアの方に、眼をやった。  日下の身体は軟体動物のように、ぐにゃぐにゃと、バスルームの床に、伸びてしまった。  突然、激しい銃声がした。  男の声が、何か怒鳴っている。何をいっているのかわからないが、その声は、やけに懐かしかった。  また、銃声がした。  今度は、原口が、悲鳴をあげた。 「日下! 何処だ!」  と、懐かしい声が、呼んでいる。  日下は、返事をしようとするのだが、さっき、飲まされた水が残っていて、むせて声が出ない。 「日下!」  と、また、呼んだ。  声が出ないので、片手をあげて、合図しようとした。  ゆっくりと、のろのろと、右手をあげる。  その手を、誰かが、掴んだ。 「生きてたのか」  と、男の声が、いった。 (西本だ)  と、思ったとたん、日下は、ほっとして、意識を失っていった。      9  身体がゆれている。眼をあけると、天井がゆれ、男の顔が、のぞき込んだ。 「今、何処だ?」  と、日下は、かすれた声で、その男にきいた。 「救急車の中だよ。これから、病院へ連れて行くんだ」 「君は、西本だな? そうなんだろう?」 「ああ、そうだ」 「おれを助けてくれたんだな?」 「ああ、助けたよ」  西本がぶっきらぼうに、いった。 「次の時は、もう少し早く助けに来てくれよ」 「あの女に話をつけるといってたから、二人だけにしてやった方がいいと、気を利かせたのさ」 「そんな、柄にもないことを──」 「少し、喋るのを止めた方がいいな。あとで、いくらでも喋れるんだから」  と、西本が、いった。  日下は、黙った。喋ると、身体中が痛むみたいだった。  黙って、考えていた。  浜名湖から、東京へ戻るとき、おれの乗ったタクシーを、追っていたレンタカーには、西本が乗っていたに違いないと、思った。西本はそんなことで、おれを守ってくれたのだろう。  病院に着き、日下の身体は、担架で車からおろされ、病院内に運ばれた。  日下は、三日間、入院した。  自分ではわからないが、ひどい顔だったらしい。目尻が切れ、鼻骨が折れ、肋骨も、二本、折れていて、顔は、血だらけだったのだ。  退院の日、西本が、迎えに来た。  車に乗ってから、西本が、 「まず、これを渡しておこう」  と、日下の警察手帳を、差し出した。 「彼女が、持っていたのか?」 「ああ、そうだ」 「原口は、どうなった?」 「おれの射ったのが、やつの右脚に命中してね。今、警察病院に入っているよ」  と、西本はいった。 「それで、立木ゆう子を、共謀して殺したことは、認めたのか?」  と、日下は、きいた。 「ああ、もう、観念したんだろうな。何しろ、君と、篠原エリを、殺そうとしていたのは、厳然たる事実だからな。原口と、佐伯と、前田の三人は、金が無くて、困っていた。その時佐伯が、おれのマンションに、金を溜めているホステスがいると話した。それで、三人は、彼女を殺して、その金を奪うことを考えた。顔見知りの佐伯が、彼女に、ドアを開けさせておいて、他の二人も、どっと部屋に入り込み、殺したといっている」 「金は、どのくらいあったんだ?」 「現金や、宝石などで、一億円近くあって、それを、三人で、分けたんだと自供しているよ」 「佐伯が、その金で、浜名湖のマリーナへ、クルーザーを買いに行ったというわけか?」 「ああ、実は金を手に入れてから、佐伯に、女が出来たんだ。その女が、いい女で、クルーザーが欲しいと、佐伯にねだった。彼女に参っていた佐伯は、じゃあ、浜名湖のヤマハマリーナに行って、どのくらいのクルーザーが買えるか聞いて来ようといった」 「その女が、篠原エリだったというわけか?」 「ああ、彼女は、クルーザーが欲しいとねだって、反応を見たんだな。金の無い筈の佐伯が、高いクルーザーを買うといったので、立木ゆう子を殺して、金を奪ったと、確信したんだよ。それで、浜松の防風林に誘い出して、殺したんだ」 「前田を殺したことも、認めたのか?」  と、日下は、きいた。 「ああ、認めたよ。彼女は、佐伯のアリバイを、仲間の前田と原口の二人が証言していたと知って、共犯だと考えたんだね。だから、前田を浜名湖へ誘い出して殺し、立木ゆう子の車と一緒に、湖に沈めた。そして、最後に、原口を狙ったんだな」  と、西本は、いった。 「彼女、おれのことで、何か、いってなかったか?」  日下は、篠原エリの顔を思い出しながら、きいた。 「君には大変迷惑をかけて、申しわけなかったと、詫びていたよ。最後には、原口に殺されかけたところを、助けて頂いた。佐伯殺しの容疑をかぶせたり、警察手帳を奪ったりしたのに、怒りもせずに、助けようとして下さったといって、泣いていたよ」  と、西本は、いった。 「そうか」 「気が強いが、いい女じゃないか。君が惚れたのも、無理はないな」 「バカなことをいうな」  と、日下は、怒ったようにいった。  車は警視庁には向わず、東京拘置所の前へ来て、とまった。 「どうしたんだ? こんな所へとめて」  と、日下が、きいた。 「篠原エリは、二人の男を殺したということで、今ここに入っている。君が会いたいだろうと思って、手続きをしておいた」 「───」 「おれは先に警視庁へ戻っているから、ゆっくり彼女に会って来いよ。彼女だって、直接、君に詫びたり、お礼がいいたいと思うよ」  と、西本はいい、日下の身体を車の外へ押し出しておいて、走り去ってしまった。      10  面会室で待つ間、日下の胸を、甘いものが満していった。  二人の男を殺した犯罪者だが、純粋な女なのだ。彼女は、刑事と犯罪者という壁を越えて、おれに感謝している。  甘い感傷が、日下の心をゆさぶる。  看守に連れられて、篠原エリが、入って来た。  原口に殴られたところに白い包帯が巻かれ、髪が少し乱れている。それが凄艶《せいえん》な感じだった。 「どんな具合?」  と、日下は、声をかけた。 「大丈夫です」  と、エリは、いった。 「警察手帳は、返して貰ったよ」 「あれは、申しわけありませんでした。前田や原口を脅すのに、必要だったんです」 「もう、怒っちゃいないさ。君の気持も、よくわかったからね」 「すみません」  と、エリは、しおらしく頭を下げた。 「君は、原口に殺されるところを、助かったんだ。これから刑務所へ行くことになるだろうが、生命《いのち》を粗末に扱っちゃいけない」  と、日下は、いった。 「はい」  と、エリは、短く肯いた。 「それにしても、浜松の防風林で、いきなり背後《うしろ》から殴られた時は、参ったよ。最初は、助けてくれた君が、犯人とは思わなかった。いや、美しい君が犯人とは、思いたくなかった──」 「───」 「その後、君が犯人らしいと思ったが、君にあとの二人を殺させたくないと考えた。それで、必死になって、君を探したんだ」 「───」 「そのうちに、前田が、浜名湖で殺された。この時は、君が殺《や》ったと、すぐわかったよ。三人目の原口は、殺させたくなかった。それで、あのホテルを見張った。何とか間に合って、君も助けられたし、原口を殺させずにすんだ。おかげで僕は、三日間入院することになったがね」 「───」 「西本の話だと、君は僕に感謝しているらしいが、そんなことは考える必要はないよ。僕はただ、刑事としての仕事をしただけなんだ」  喋りながら、日下は、自分の言葉に酔っていた。  エリは、黙っている。 「警察手帳を奪われたことだって、今は怒っていないんだ。君にしてみれば、立木ゆう子の仇を討つために必要だと思って、持ち去ったんだろうからね。いい弁護士がつけば、君の場合は、情状酌量されて──」 「ちょっとオ」  と、ふいに、エリが口を挟んだ。  語調も変っているし、顔付きも変っていた。  眉が寄り、眼が、日下を睨んでいた。 「あたしは、ゆっくり眠りたいのよ。まだ、お説教が続くの?」 「僕は、そんな気持で、いってるんじゃない。西本の話だと、君が、申しわけないといっているというから、そんなに気にすることはないといいたくて──」 「西本? ああ、あの刑事ね。しつこく、あんたに感謝してるんだろう、申しわけないと思ってるだろうっていうし、返事をしなきゃあ、訊問を止めようとしないから、いいかげんに肯いてただけよ」 「しかし、浜松防風林では、いきなり僕を殴りつけた──」 「むしゃくしゃと、腹が立ったからよ」 「腹が立った?」 「そうよ。あんたが飛び込んで来なければ、簡単に佐伯を殺せたのよ。それなのに、あんたが飛び出してくるから、計画が狂っちゃったじゃないの!」  エリは、叩きつけるように、いった。  日下は、胸の中で、甘い感傷が音を立てて崩れていくのを覚えながら、辛うじて踏みとどまるように、 「しかし、僕は君を、最後に助けた。君は、原口に殺されるところだったんだ」  と、いった。  エリは、ふと、遠くを見る眼になった。 「あたしには、ゆう子が全てだったのよ。だからあたしは、ゆう子の仇を取る気だったし、仇を取ったら死ぬ気だったのよ。三人目の原口の奴を殺したら、その場で死ぬ気だったし、逆にあたしがあいつに殺されたって、あいつを死刑に出来ると思ってたわ。あいつは、仲間とゆう子を殺して金を奪ったんだし、あたしまで殺すんだから。あたしは、そう思っていたわ。それなのに、何よ!」  エリは、また、憎しみのこもった眼で、日下を見つめた。 「あんたが余計なことをするから、あたしはこうして、死ぬチャンスを逃がしてしまったわ。これからあたしは、ゆう子のいない世界で、生きていかなきゃならないのよ。それも、刑務所の中で。そんなことも、わからないの!」 「───」  日下は、声もなく、怒り狂っているエリを見つめた。 「看守さん」  と、エリは自分で呼んで、立ち上がった。  そのあと、急に立ち止まって、振り返った。今度は、彼女の眼に、皮肉な表情が、浮んでいた。 「西本という刑事さんに、いっときなさいよ。友情も、ほどほどにってね」      *  日下は、重い足を引きずるようにして、東京拘置所を出た。  面会室での出来事は、いったい何だったのだろうか? あれは、悪夢だったのか。  浜松防風林から一緒に逃げるとき、エリが日下の手を掴んだ時の感触は、何だったのか。 (まるで、おれは、道化だな)  と、思った。  ひとりで、浮きあがっていたのだ。それを、思い切り、叩きのめされてしまった。いや、もっと、嫌な気持だった。  このまま、何処かに隠れてしまいたいという恥しさと、重い悲しみが、日下の胸を占領している。  日下は、タクシーを拾うことも、忘れていた。  小雨が降り出した。  それを涙雨と、思う余裕はない。  日下は、ただ、濡れながら、当てもなく、歩き続けた。 [#改ページ]   恨みの三保羽衣伝説      1  警視庁捜査一課の西本は、独身の気安さで、帰宅の途中、時々、新宿で遊ぶことがある。  といっても、安月給だから、そんなに盛大に遊べる筈《はず》もなく、パチンコをしたり、小さなバーで飲んだり、今はやりのランジェリー・クラブで楽しむくらいのものである。  その日、九月六日も、西本は歌舞伎町で十時近くまで飲み、新宿駅の構内を、小田急線のホームに向って歩いて行った。  昔、構内で即席のコンサートが開かれたりしたことがあったが、今は禁止されてしまって、人の流れだけが残っている。  それでも、柱のかげなどで、ゲリラ的に物を売る若者の姿があったりした。  その女を見た時も、物売りの一人だろうと思った。今どき珍しい和服姿で、人の流れに逆らう恰好で、手に抱えたパンフレットを配っている。年齢は三十五、六歳といったところだろう。渡しながら、女は、一人一人に頭を下げていた。 (物売りではなく、何かの勧誘だろうか?)  宗教の勧誘なら嫌だなと、西本は思った。彼にとって一番苦手なのは、宗教なのだ。  それで西本は、わざと彼女を避けるように大廻りして、小田急線ホームに行くことにしたのだが、なぜか彼女は追いかけるように西本に近づいて、半ば強引に一枚の封筒を手渡した。 「お願いします」  と、渡しながら、彼女は小声でいい、軽く頭を下げた。  西本は、ぶすっとした顔で歩きながら、その封筒を捨てようとして、 (おやッ?)  という眼になった。  彼女が一所懸命に手渡したものを、通行人は無造作に捨てていく。  それが点々と散らばっているのだが、よく見ると、それは西本が手渡された白い封筒ではなく、二つ折りの宣伝パンフレットなのだ。  西本は首をかしげ、落ちているパンフレットを拾いあげ、歩きながら眼を通した。 [#1字下げ]〈三保の松原の美しい景色と、羽衣伝説の里へおいで下さい。お待ち申しあげます〉  という文字と、三保の松原のカラー写真が、印刷されている。  三保の松原観光協会が出しているパンフレットらしい。今年の夏は冷夏で、観光客の数も少なかったと思われる。そこで必死の巻き返し、ということかも知れない。  そのため、宣伝パンフレットを配っているというのは、よくわかるのだが、西本が渡された封筒は、いったい何の意味だろうかと、西本は考え込んでしまった。  捨てる気になれなくて、両方をポケットにねじ込んで、小田急電車に乗った。千歳船橋で降り、自宅マンションに入ってから、西本はポケットから取り出して、おもむろに机の上に置いた。  宛名も差出人の名前もない真っ白な封筒が、妙に謎めいて見える。なぜ、他の通行人には三保の松原の宣伝パンフレットを渡したのに、自分にだけはこの白い封筒をくれたのだろうか?  その疑問は、どこか甘い期待を、西本に抱かせた。特別に自分が選ばれたのではないかという甘美な満足感である。  しかし、一方では、封筒の中には「残念でした。ご期待下さって」みたいな紙が入っているのではないかといった、醒《さ》めた気持も、抱いていた。凶悪事件の捜査に当ってきた経験から、あまりうまい話などあるものではないと、知っていたからである。  西本は布団の上に寝転んで、封を切り、中身を取り出した。  便箋が一枚入っていて、それにきれいな字で、次のように書かれていた。 [#ここから1字下げ] 〈私は二十三歳で、独身の女性です。去年、ミス羽衣に選ばれました。自分では美しい方だと思っています。でもある理由で、深い男性不信に落ち込んでいます。誰か、優しい、強い男性の方が現われて、私に勇気を与えて下さることを、祈っています。  もし、そんな方がいらっしゃいましたら、03─3361─××××に、連絡して下さい。私の名前は、竹田幸美です〉 [#ここで字下げ終わり]  西本は、その短い文章を、何回も読み返した。  最初に西本が考えたのは、これは新手《あらて》のピンクのちらしではないかということだった。よく電話ボックスに貼ってある、あれである。しかし、それなら、通行人全部に配った方が、効果があるだろう。  それに、書かれてある文字は、コピーではなく、明らかにボールペンによる手書きだった。  もう一つ、あっさりした書き方が、西本の心をくすぐった。これが、くどくど書かれていたら、何か罠があり、金儲けの仕掛けだろうと用心したかも知れない。  いつもなら、ビールを二本ほど飲んで寝てしまうのだが、今夜は手紙が気になって、なかなか眠れなかった。ビールを飲んでも同じだった。  若いから、気持が動くのだ。それに、今、恋人もいない。ミス羽衣というコンテストがあるのかどうかは知らないが、美人で、若い女性なら、知り合いになるのは楽しいだろう。  ビラを配っていた女は、手紙にあった幸美の姉か何かだろうか? 彼女も和服姿が魅力的だったから、妹なら、さぞ美しいに違いない。  翌日も、事件は起きなかった。西本は新宿で飲み、昨日と同じ時間に、新宿駅の構内を歩いてみた。が、昨日の女は、いなかった。  西本は、駅の派出所に行き、警察手帳を見せ、 「昨夜、構内でビラを配っていた三十五、六の女性のことなんだが」  と、若い警官に、声をかけた。 「あの女性が、何かやりましたか?」  若い警官は、緊張した顔で、きいた。西本が、何か苦情をいうのかと、思ったらしい。 「いや。今日は出ていないので、どうしたのかと思ってね」 「もう、来ないと思います」  と、警官は、いう。 「なぜだ?」 「昨夜、厳しく、注意しました。駅構内でのビラ配りは禁止されている、といいましてね。わかりましたと、いっていましたから、もう二度とやらないと思います」 「いつ頃から、出ていたんだ?」 「昨日だけです。昨日の午後八時頃からビラを配り始めて、すぐ注意したんですが、なかなか止めないので、十時過ぎにここへ連れて来て、叱りつけてやりました」  若い警官は、得意気な顔をした。西本は内心、余計なことをしやがってと、思ったが、それはもちろん口には出さず、 「それで、始末書は取ったのかね?」  と、きいた。彼女と会って、手紙のことを聞きたかったのだ。なぜ、自分にだけ、あんな手紙をくれたかをである。  警官は急に、狼狽の色を見せて、 「あの女が、泣き出しそうな顔をしたので、つい、書かせるのをためらってしまいまして」 「じゃあ、どこの誰か、わからないのか?」 「申しわけありません」 「まあ、いい」  といって、西本は、派出所を出た。  これでかえって、電話をかけてみる気になり、電話が並んでいる場所へ歩いて行った。  手紙を取り出し、そこに書かれてある番号にかけてみた。  ベルが鳴っている間、西本の胸が、ときめいた。緊張と、甘い期待のためだった。  なかなか、相手が出ない。 (いたずらだったのか?)  と思って、切ろうとした時、受話器を取る音がして、 「もしもし」  と、若い女の声が聞こえた。  西本は、一呼吸おいてから、 「竹田幸美さん?」 「はい」 「実は、昨夜、新宿駅で貰《もら》った手紙に──」  と、西本が、いいかけると、 「よかった。電話して下さったんですね」  相手が、嬉しそうに、いった。 「ええ。電話して欲しいと、書いてありましたからね」 「昨日からずっと、お待ちしていたんです。いつか、電話が鳴るんじゃないかと思って。ありがとうございます。本当に、嬉しいわ」 「しかし、なぜ、僕を選んだんですか?」  と、西本がきくと、女はそれには答えず、 「とにかく、すぐ、来て下さい。お話ししたいし、お願いしたいことが、沢山あるんです。お願いしますわ」  と、早口で、いった。 「これからですか?」 「ええ。今、何処にいらっしゃるの?」 「新宿駅ですが──」 「それなら、ここまで、時間はかかりませんわ。私の住んでいるのは、中野のマンションなんです。地下鉄新中野駅から、歩いて五、六分のところにある七階建のマンションで、ニュー中野コーポの七〇一号室ですわ。ぜひ、来て下さい。お待ちしていますわ」      2  西本は十二分後、営団地下鉄丸ノ内線の新中野駅で、降りていた。  若い女の、ちょっと甘い声が、まだ耳に残っている。  女のいったマンションは、すぐわかった。洒落《しやれ》た新築のマンションである。エレベーターに乗って、最上階に上がりながら、ふと、これは何かの犯罪組織が、関係しているのではないかと思った。 (それなら、相手を逮捕すればいい)  と、西本は、自分にいい聞かせた。  ここまで来てしまったら、引き返せない。というより、甘い期待の誘惑に勝てなかったといった方が、いいだろう。  七〇一号室は、角部屋だった。ドアの前に立った。流石《さすが》にすぐインターホンを鳴らす気にはなれず、深呼吸を一つしてから、指を伸した。  部屋の中で、チャイムが鳴っている。 「鬼が出るか、蛇が出るか」  と、自分をリラックスさせるために、口の中で呟《つぶや》いていると、ドアが細目に開いた。  顔を出したのは、鬼でも蛇でもなく、若い美しい女だった。 「電話下さった方ですわね?」  と、女が、きいた。 「ええ」  と、西本が肯《うなず》くと、女の顔に微笑が広がり、ドアを大きく開けると、 「どうぞ。入って下さい。お待ちしていたんです」 「構いませんか?」 「ええ、もちろん。さあ、どうぞ」  と、女が促した。  西本は、促されるままに、部屋に入った。1LDKの部屋の、十二畳くらいの広さの居間に通された。  西本が奥を気にすると、女は笑顔で、 「私の他に、誰もいませんわ」  と、いった。西本はあわてて、 「そんなことは、別に気にしていませんがね」 「いいんです。何かあるんじゃないかと、お疑いになるのが、当然ですもの」  と、女はいい、コーヒーをいれてくれた。  西本は、ソファに腰を下ろして、和服姿の彼女がコーヒーをいれるのを、見守った。  女は、手を止めて、 「何を見ていらっしゃるの?」  と、西本を見た。 「ごめん。君が手を動かしているのを見ていると、楽しくてね」 「うまくいれられなくて、ごめんなさい」 「いや、構いませんよ」  と、西本はいい、カップに手を伸した。  苦味の少ない、うまいコーヒーだった。日頃から西本は、なぜコーヒーが苦くなければいけないのかと、不審に思っていたのだ。 「手紙に書いてあったことは、本当なんですか?」  と、カップを手に持ったまま、西本は女にきいた。  女──竹田幸美は、軽く眼を伏せて、 「私のまわりにいる男の人たちは、みんな、冷たくて、勇気がなくて、ずっと幻滅を味わわされて来たんです」 「君のような、きれいな人に対してですか?」 「私なんか、何の魅力もありませんわ」 「そんなことはない。君に魅力がなかったら、僕はここへ来ていない」 「嬉しいわ。今夜は、飲みましょう。一緒に、飲んで下さるわね?」 「いいね。飲もう」  と、西本も、応じた。  彼女は、ナポレオンを持ち出し、コーヒーカップを脇へどけ、西本と飲み始めた。  西本は、何を話したのか、はっきり覚えていない。ただ、楽しい会話だったことだけは間違いなかった。  その証拠に、最初は遠慮していたが、途中から、すすめられるままに飲んだ。  気がついた時、西本は、裸で、奥六畳の寝室のベッドに寝ていた。  彼の腕の中で、彼女も裸で、眠っている。着物姿の時はわからなかったのだが、裸になると、乳房の大きな女だった。西本は、その乳房の間に顔を埋めるようにして、眠ってしまっていたのだ。  眼をあけると、西本はひとりで照れて、女の腰に回していた手を解いて、そっとベッドからおりた。  彼女は、安心したように、軽い寝息をたてている。  頭が少しふらつくのは、飲み過ぎたせいだろう。とにかく、よく飲んだことだけは、覚えている。  裸のまま、居間に入ると、明りがついたままで、テーブルの上には、二本のナポレオンの瓶が空になって転がっていた。  ソファやじゅうたんの上には、彼女が脱ぎ捨てたか、西本が脱がしたのか定かではないが、紫無地の着物や、帯や、下着などが散乱している。  西本の服は、まとめて置いてある。多分、彼女がそうしておいてくれたのだろう。  西本は、裸のままソファに腰を下ろして、煙草に火をつけた。壁にかかっている時計に眼をやると、午前五時を過ぎたところだった。 (彼女が起きて来たら、何といったらいいのだろう?)  と、そんなことが、頭に浮んだりした。ありがとうというのも、おかしいし、謝るのもおかしいだろう。第一、彼女は手紙の中で、相談にのって欲しいみたいに書いているのに、昨夜は飲み続けて、相談にのった記憶がないのだ。 (やっぱり、まず、謝った方がいいかな)  と、思っていると、奥から幸美が出てきた。  裸のまま、ゆっくりと近づいてくると、黙って西本の足もとにひざまずいた。西本は、謝ろうと思っていたことも忘れて、黙って、彼女を見つめていた。  彼女は、西本の足を押し頂くように手で持ち、指先に唇を押し当ててきた。柔らかな舌が、西本の指をしゃぶる。  西本が、呆然と、なすに委《まか》せていると、幸美がふと顔をあげて、 「今夜、また、来て下さい。お願いしたいことがあるんです」  と、いった。      3  その夜、西本は花束を持って十時頃、もう一度マンションに幸美を訪ねた。  ドアの前に立って、インターホンを鳴らしたが、返事がなかった。二度、三度と、押したが、同じだった。 (もう一度来てくれといっておきながら、留守なのか)  一瞬、西本は腹を立てたが、部屋の中には明りがついているのに気付いて、たちまち不安にかられた。 (何かあったのではないか?)  と思い、今度は、ドアを激しく叩いてみた。が、相変らず、応答がない。  ドアのノブを掴《つか》んで押してみると、錠はかかっていなくて、少し開いた。  西本は、ためらわずにドアを開けて、部屋の中に飛び込んだ。  居間には、人の姿はない。奥の寝室も同じだった。バスルームも、キッチンにも、彼女の姿はない。 (何があったのだろうか?)  カギをかけ忘れて外出したとは、思えなかった。  何かが、あったのだ。  西本は、眼を大きく開けて、居間を見廻し、寝室も調べてみた。  その眼が、ベッドの脇のじゅうたんに落ちている白いレースのスリップに、注がれた。  胸のあたりが、赤黒く染っている。 (血だ)  と、直感した。  寝室の明りを強くすると、白い花模様の壁紙に、血痕らしきものが見つかった。  明らかに、この寝室で、何か、血を流すようなことが起きたのだ。 (どうしようか?)  西本の顔に、困惑の表情が浮んだ。  一一〇番しなければならないのだが、そうしたら、女との関係を説明しなければならない。  たまたま、新宿駅の構内で、妙な手紙を貰ったので、ここにやって来て幸美と知り合ったといっても、納得してくれるだろうか?  西本は、あわてて上衣のポケットを探ったが、例の手紙は見つからなかった。自宅マンションに置き忘れたのか、何処かで落としてしまったのか。あれがなければ、一層、西本の話は信用されなくなってしまうだろう。  第一、彼女をどうかしたという疑いが、自分に振りかかりかねない。  西本は、自分を落ち着かせ、 (どうしたらいいのか?)  と、考えた。  まず、竹田幸美がどうなったかを、調べなければならない。それは、彼女のためでもあるし、西本自身のためでもある。  一見したところ、居間も寝室も、荒らされていないように見える。椅子も、ソファもテーブルも、倒れていない。  しかし、仔細に見ていくと、じゅうたんの隅がめくれあがっていたり、寝室の三面鏡の上から、化粧品のいくつかが床に落ちているのがわかった。 (彼女は、どこへ消えたのだろうか?)  自分で消えたのかも知れないし、連れ去られたのかも知れない。  今度は、その行方を知ろうとして、西本は部屋の中をあらためて見廻した。  壁に掛けてあるカレンダーに、「三保観光協会」の名前が刷り込まれているのが、見つかった。  新宿駅構内で和服の女が配っていたパンフレットは、三保の松原の観光案内だったし、竹田幸美の手紙には、ミス羽衣に当選したことがあると、書かれていた。  とすれば、竹田幸美は静岡県の三保で生れ育ったと、考えていいだろう。  西本は、さらに、三面鏡の引出しや洋ダンスの中などを、調べてみた。  三面鏡の下の引出しから、西本は、妙な手紙を見つけ出した。  封書が二通である。  差出人の名前はなく、宛名は、このマンションの住所と、七〇一号室竹田幸美殿になっている。明らかに、ワープロで打たれた文字だった。  西本は、一通目の封書の中身を取り出した。消印を見ると、これは先月の八月二十五日になっていた。  便箋一枚に、ワープロで、次のように書かれていた。 [#ここから1字下げ] 〈あの事件は、もう終ったんだ。それを、あれこれいうのは、止めるんだ。これ以上、文句を口にしたら、お前を殺すぞ。不愉快な女だ。これは、脅しじゃない。覚悟しておけ〉 [#ここで字下げ終わり]  西本は急いで、二通目の封筒から、中の便箋を取り出して、眼を通した。  同じ便箋に、同じようにワープロで打たれていたが、文章はさらに危険な感じになっていた。 [#ここから1字下げ] 〈警告を無視して、まだ、さえずってるな。どうやら、命が惜しくないらしい。東京にいるから安心だと思ったら、大間違いだ。必ず、殺してやる。絶対にだ。お前が何処に逃げようと、容赦はしない。お前の首をねじ切り、小生意気な舌を引き抜いてやる。そして、後悔させてやる〉 [#ここで字下げ終わり]  西本はもう一度、封筒に押された消印に眼をやった。  こちらは、今月の三日の日付で、静岡中央局のものだった。  九月三日というと、五日前である。  この脅迫文の主が、警告どおり、彼女を襲い、負傷させ、連れ出したのだろうか? それとも、殺して、死体を運び出したのか?  負傷しているのなら、一刻も早く、助け出さなければならない。  しかし、ここから一一〇番したら、事情を説明しなければならない。下手をすれば、彼自身が疑われるだろう。そうなった時、彼女を助ける時間が、失くなってしまう。  西本は考えた末、ハンカチで自分の指紋を消し、自宅に戻ると、五十万円で去年買った車で、静岡に向った。二つの脅迫状は、背広のポケットに入れて持って来た。  その途中、西本は車から降りて、公衆電話ボックスに入って、一一〇番した。電話の送話口にハンカチをかぶせ、新中野のニュー中野コーポ七〇一号室で、若い女の悲鳴が聞こえたと告げて、電話ボックスを出た。  そのあと、西本は黙々と車を走らせた。  夜が明けて、静岡市内に入った。  今頃、パトカーがあのマンションに到着し、壁とスリップに付着している血痕を見て、騒いでいることだろう。  もし、殺人の疑いがあると判断したら、警視庁捜査一課の、西本の同僚たちが動き出す。  JR静岡駅近くの食堂で、西本は朝食をとりながら、これからどうすべきかを考えた。  脅迫状には、「あの事件は──」とあった。まず、それがどんな事件か、知る必要がある。  いつ、何処で、何があったのか。やみくもに調べても、部外者の西本には、わからないだろう。といって、一人の個人としてやって来たのだから、警察手帳を突きつけて、ということは出来ないし、やりたくもない。  食事のあと、コーヒーを頼んで、それを飲みながら西本は考えた。  手帳を取り出し、考えついたことを書きつけてみた。  脅迫者は、殺してやるといっているのだから、小さな事件ではないだろう。小さなサギ事件とか暴力事件なら、あんな激烈な脅迫で黙らせようとはしないに違いない。  それに、五年も六年も前の事件とも思えない。多分、最近の事件なのだ。  場所は、三保の松原に近いところだろう。ビラと手紙を配っていた和服の女は、三保の松原の宣伝をしていたし、竹田幸美は、ミス羽衣になったと、手紙に書いていたからだ。  それを考えると、調べる方法は二つあると、思った。一つは、図書館へ行き、静岡の新聞をここ一年間にわたって調べてみる方法である。  だがこれは、時間がかかり過ぎる。  もう一つは、一か八か、三保の松原へ行って、聞いて廻る方法である。この方が、多分、早いだろう。  西本は、静岡県内の地図を買い求め、三保の松原に向った。  日本平に向って走り、途中から、三保の松原への道に入る。  窓を開けて走っていると、海の匂いがかすかに、漂ってくる感じがした。  道の両側に、急に土産物店が多くなり、太い松の樹が並んでいる。  車をとめて聞くと、この裏側が三保の松原だと、教えられた。道路を横切り、ホテルの脇を抜けて行くと、なるほど、長く続く、松林と海岸に、出た。  西本は、土産物店の並ぶ道路に戻って、最近この辺りで、何か事件が起きていないかと聞いて廻った。  刑事だということはいわなかったし、警察手帳も見せなかったが、相手が、勝手に刑事と思ったり、新聞記者と思う分には否定しなかった。  二軒目の土産物店の主人が、 「最近といえば、三カ月前に向うの海で、天女が死んだねえ」  と、いった。 「天女ですか?」 「ああ。ここの商店会で、六月末に、羽衣伝説を宣伝して、少しでも多くの観光客に来て貰おうと思いましてね。その一つとして、ミス羽衣コンテストをやったんですよ。当選したミス一人と、準ミス二人には、期間中、天女の恰好で、宣伝に協力して貰うことになっていましてね。そのミス羽衣が、天女の恰好で、海岸で、溺死《できし》していたんですよ」  話好きらしい主人が、話してくれていると、奥から女が出てきて、 「あんた、もうすんだことなんだから、話さない方が」  と、とめた。  西本は、話してくれたお礼に、まんじゅうを一箱買った。  近くの喫茶店に入り、昼食代りに、ミルクと、トーストを注文した。  カウンターで、トーストを食べながら、三十二、三歳の若いママに、 「ここに六月に来たとき、羽衣まつりみたいなのを、やっていたんだけどね」  と、話しかけた。 「ええ。六月末にやりましたよ。でも、最近の若い人は、みんな羽衣伝説を知らないから」 「そうだろうね。僕も、よく知らないんだ」  と、西本は、微笑して、 「あの時、ミス羽衣コンテストがあって、きれいな娘さんが選ばれていたんだ」 「ええ。竹田さんの娘さんでしょう。きれいな人でしたけどねえ」  と、ママは、声を落とした。 「もう一度、会いたいと思って、やって来たんだけど、亡くなったんだってねえ。会って話を聞きたかったんだ」 「新聞社の方ですか?」 「まあね」 「美人だし、優しい娘さんだったんですよ。それが、あんな死に方をしてしまうなんてねえ」 「溺死だって?」 「ええ。六月の三十日だったかしら。あたしの母が、いつものように、朝、散歩に出て、海岸で見つけたんですよ」 「ママさんのお母さんが、発見者なの?」 「ええ。母は、毎朝、三保の海岸を散歩するのが日課なんですけどね」 「天女の恰好で、死んでいたそうだね?」 「ええ。母も、最初、本物の天女が、波打ち際に倒れているのかと、思ったそうですよ」  と、ママは、いう。 「なぜ、そんな恰好で、死んでいたんだろう?」 「わかりませんねえ。ただ、三日間のお祭りの間は、天女の恰好をすることになっていましたけどね」 「三日間というと?」 「六月二十八日から、三十日までですよ」 「じゃあ、最後の日に、死んだんだ」 「ええ」 「警察は、調べたのかな? なぜ彼女がそんなところで、天女の恰好で死んでいたのか」  と、西本は、きいた。 「もちろん、調べたみたいですよ。でも、自殺ということになったみたいですねえ。新聞にも、そう出ていたから」 「自殺? 自殺するようなことが、あったの?」 「これも、新聞に出ていたんですけどね。失恋じゃないかって。若い娘さんだから、そういうこともあったかも知れませんわねえ」  と、ママは、いった。 「竹田といいましたね。竹田何という名前?」 「竹田幸美さん」 「え?」 「サチミさん。よく、美幸さんと間違えられるんですって」  と、ママは笑った。が、西本は、笑えなかった。竹田幸美といえば、彼が会った女ではないか。  多分、あの女が、偽名を使っていたのだ。 「その竹田幸美さんだけど、姉さんか、妹さんがいるんじゃないの?」  と、西本は、きいた。 「確か、姉さんがいて、結婚して東京に住んでいると、聞いてますよ。幸美さんも、東京の大学へ行っていたのが、あの時帰って来て、ミス羽衣コンテストに出たんだと、聞いてますけどね」 「どこの娘さん?」 「この奥に、観波荘という旅館があるんです。そこの娘さんですよ」  と、ママは、教えてくれた。      4  西本は車に戻り、教えられた旅館に行ってみた。  小さな旅館だが、今、増改築中だった。  中に入って聞くと、泊めてくれるというので、西本は、二日間ここに泊ることにした。  車を駐車場に入れ、カメラを持って、旅館の反対側にある三保の松原に出てみた。  今年は冷夏で、あっという間に秋が来てしまった感じがする。  そのせいか、人の姿は、まばらだった。  犬を連れて、波打際を歩いている若い娘がいた。  西本も、彼女のあとを追うように、波打際を歩きながら、中野のマンションで会った竹田幸美のことを、考えていた。  死んだ竹田幸美には、東京に嫁いだ姉しかいないというから、彼女が姉妹とは思えない。とすると、誰が、なぜ、竹田幸美と名乗っていたのだろうか?  六月三十日に起きた事件のことを、もっと知りたいと、思った。脅迫状にあった、「あの事件」というのは、このことに違いないと思ったからである。  地元の警察がどう調べたかも知りたいのだが、それを聞くのは無理だろう。下手をすると、静岡県警と警視庁の間に、しこりを作ってしまう。 (畜生! 警察手帳を使えたらな)  と、思った。  だが、一刻も早く、自分の知っている「竹田幸美」を見つけ出したいのだ。警察手帳は使えないが、多少の嘘をつくのは構わないと、西本は自分にいい聞かせた。  大通りに戻り、小さな理髪店があったので、中に入った。すいていたので、すぐ、やってくれた。  西本は、鏡の中の店の主人に向って、 「実は、東京から、あそこの観波荘の娘さんのことで、調べに来たんだ」  と、話しかけた。 「調べるって、何をです?」  と、鋏《はさみ》を動かしながら、主人がきく。 「これは内緒なんだが、僕は私立探偵でね。東京で、あそこの娘さんを見染めた青年の親御さんに、頼まれてね」 「結婚調査って、やつですか?」 「まあ、そんなところだよ」 「でも、あそこは、姉さんの方はもうとっくに結婚しちゃってるし、妹さんはこの間、死にましたよ」 「え?」  と、西本は、わざと大げさに驚いて見せて、 「死んだって、本当ですか?」 「ええ。海でね。自殺ですよ」 「なぜ、自殺なんか?」 「失恋ということですがねえ」 「おかしいな。僕の調べた限りでは、そんなに深くつき合っている男は、いない筈なんだけどねえ」  と、西本は、いってみた。 「私もね、おかしいなとは、思ったんですがねえ」  と、主人は、のってきた。 「そうだろう? 自殺なんか、する筈はないんだよ」 「ミス羽衣に選ばれた時、とても嬉しそうにしてましたからねえ。あんなに喜んでいたのに、どうして自殺なんかしたのかと、首をかしげていたんですよ」 「ここの警察は、何を調べたのかねえ」 「ここの警察も、いろいろと調べたみたいですよ。他殺ということも、考えられますからねえ。しかし、いくら調べても、他殺の証拠がないというので、自殺になったみたいですよ」 「警察にくわしいんだね」 「私の甥《おい》が、ここの警察で働いているんですよ」  と、主人は、自慢そうにいった。 「なるほどね。その甥御さんは、何といってるの?」 「なんでも、他殺の疑いを残しながら、自殺と決めたと、いっていましたねえ」  と、主人は、いった。 「死んだ幸美さんの姉さんというのは、何歳ぐらいの人かな?」  と、西本は、きいた。 「確か、三十五、六になってるんじゃありませんか。彼女も、きれいな人ですよ」 「ちょっと小柄な、着物がよく似合う?」 「ええ。ええ」 (ビラを配っていた和服の女だろうか?)  と、西本が、考えていると、 「がっかりなさるでしょうね?」  と、主人が、いった。 「え? 誰が?」 「お客さんに、竹田の娘さんの調査を頼んだ人ですよ」 「ああ、がっかりするだろうね。報告するのが辛いよ」  と、西本は、あわてて、いった。      5  観波荘に戻ってすぐ、夕食になった。仲居さんが、部屋まで運んでくれた。 「今日は、静かだね」  と、給仕をしてくれる彼女に、西本がいった。 「お客さんが少ないんですよ」  と、仲居さんは、いってから、 「お客さん、六月の事件のことを、聞いて廻っていらっしゃるんですってね」 「え?」  と、西本は、びっくりして、仲居さんの顔を見た。 「ここは、狭いですからね」  と、仲居さんは、笑っている。 「そうか。すぐ、噂が伝わるんだ。驚いたね」  西本は、正直にいった。いったついでということにして、 「あの話は、本当なの? 幸美さんが、失恋して自殺したというのは」 「さあ、私は、何も知りませんけど」  と、五十二、三の仲居さんは、いった。 「しかしねえ。失恋ぐらいで自殺なんて、今どきの若い女らしくないなあ。そう思いませんか?」 「そうかも知れませんけど、ここの娘さんはどちらもしつけが良くて、どちらかというと、古風な人ですよ」 「でも、失恋して自殺というのは、何となく、解せないんじゃないかなあ。二日前にミス羽衣になった時は、喜んでいたんでしょう?」 「ええ。それはねえ」 「具体的に、失恋した相手の名前は、出てきたのかな?」 「それも、存じませんわ」 「新聞には、仮名でも、恋人のことが出たんですか?」 「いいえ。出ませんでしたわ」 「何か、おかしいなあ」  と、西本は、呟いてから、 「この旅館は、儲かってるの?」  と、話題を変えた。 「いいえ。なぜですか?」 「増改築をやってるからさ」 「あれは、多分、借金でやっているんだと思いますよ。おかみさんが、そういっていましたから」 「しかし、バブルがはじけた今は、銀行もなかなかお金を貸さないんじゃないの?」 「そういうことは、よくわかりませんけど」  と、仲居さんは、西本の質問をそらせてしまった。  夕食のあと、西本は外に出て、増改築の様子を眺めた。  すでに七時を廻っているのに、まだ、大工さんたちが働いている。多分、気前よく支払いが行われているからだろう。  増改築といっても、かなり大がかりだから、二、三億の金は、かかるのではないか。もし、銀行からの借金だとすると、銀行はよく貸したものだと思った。今、銀行は、貸すことより、集金に熱心だからだ。  部屋に戻ると、西本は、東京に電話をかけた。警視庁捜査一課にかけると、亀井刑事が電話口に出た。  とたんに、亀井が、 「何処にいるんだ? 無断欠勤で、心配したぞ!」  と、怒鳴った。 「申しわけありません」 「事故にあったんじゃないかとか、急病かと思ったりしたんだが、電話の様子じゃ、違うようだな」 「実は、親友が、突然、死にまして──」 「うん」 「どうしても、そいつのために何かしてやらなければならなくて、無断で休みました」 「今、何処だ?」 「静岡に来ています。申しわけないんですが、あと一日、休ませて下さい」 「手続きをしておくよ。無茶はするなよ」 「は?」 「そんな気がしただけだよ。警部も、心配してるんだ」 「十津川警部にも、事情を説明しておいて下さい」 「何か難しい事情らしいということだけは、いっておくよ」 「そちらは、どうですか? 何か事件ですか?」 「妙な事件が起きてね。死体なき殺人かも知れない」 「それを、捜査ですか?」 「ああ、われわれが、捜査することになった」 「がんばって下さい」 「何か変だな。大丈夫なのか?」 「大丈夫です」  と、いって、西本は電話を切った。それ以上話していると、自分の胸の内を見すかされてしまうような気がしたからだった。  一階へ降りて行くと、広間があって、そこの壁に、六月下旬に行われた羽衣まつりのカラー写真が、何枚か飾ってあった。  その一枚は、ミス羽衣コンテストの模様を写したもので、水着姿のミスと、準ミス二人が並んでいる。その下には、同じ三人が、天女姿で写っている写真が、掛っていた。  ミス羽衣は、本物の竹田幸美だろう。細面の日本的な美人だった。  準ミス二人のどちらかが、自分の会った竹田幸美ではないかと思ったが、写真を見ると違っていた。  西本は、部屋に戻ると、例の脅迫状を取り出して並べ、もう一度、読み返した。 「あの事件」というのが、六月三十日に起きた竹田幸美の溺死だとすると、失恋による自殺ということで解決してしまったのを、掘り返そうとするのに腹を立て、この二通の脅迫状を送りつけていたことになる。  逆に考えれば、「あの事件」は、自殺ではなくて、殺人だったということになる。西本の会った女は、殺人と確信して、この事件を調べていたのだろう。しかも、犯人にプレッシャーをかけようとして、死んだ竹田幸美の名前を名乗っていたに違いない。犯人にとって彼女の存在は、うるさくて仕方がなかったのではないか。だから、脅迫し、遂には殺した。或いは、傷つけて連れ出し、どこかへ監禁しているのか。もし後者なら、何としても、助け出さなければならない。 (死んだホンモノの竹田幸美の母親は、どう考えているのだろうか?)  西本は、部屋の電話で、コーヒーを持って来て欲しいと頼んだ。  さっきの仲居さんが、コーヒーにケーキを添えて、持って来てくれた。  西本は、礼をいってから、 「ここのおかみさんは、何という名前なの?」  ときいた。 「竹田良子さんですけど」 「ご主人は?」 「三年前に亡くなりましたよ」 「これから、おかみさんに、会えないかな?」 「これからですか?」 「ちょっと、ごあいさつしたいんだ」 「じゃあ、おかみさんに、話して来ますわ」  と、仲居さんは、いった。  五、六分して、おかみさんの竹田良子が、あいさつに来た。四十七、八歳だろうか。着物がよく似合う女性だった。  年齢から見て、姉娘の三十五、六というのは合わないが、或いは後妻に来て、姉の方は前の奥さんの子なのかも知れない。 「今日は、おいで下さいまして、ありがとうございます」  と、おかみさんらしく、丁寧に礼をいった。  西本は、覚悟を決めて、 「実は、僕は、警察の人間です。東京の警視庁捜査一課の西本といいます」  と、正直にいった。  良子の顔色が変って、 「警察の方が、何のご用でしょうか?」 「六月三十日に、娘さんが、天女の恰好で、海岸で溺死しましたね」 「はい」 「失恋のあげくの自殺ということで、片付けられてしまったが、本当は違う」 「───」 「母親のあなただって、自殺なんて信じていないんでしょう? 違いますか?」 「わたくしは──」  と、良子は、当惑した眼で、言葉を呑み込んでしまった。 「幸美さんが、ミス羽衣に選ばれた時のことを、詳しく話してくれませんか」  と、西本は、いった。 「でも、なぜ、東京の刑事さんが、あのことを──?」 「幸美さんと同じくらいの年齢の女性が、多分、仲のいい友人だと思っているんですが、彼女が必死になって、あの事件は自殺なんかじゃない、殺されたんだと、訴えていたんですよ」 「───」 「そのために、彼女は、犯人と思われる人間から、脅迫され、連れ去られたか、殺されたかしてしまったんです。東京でね。僕は、彼女のために、その犯人を見つけ出したいんですよ。まだ彼女が生きているのなら、助け出したいんです。だから、六月の事件について、詳しく話して貰いたいんですよ」  と、西本は、いった。  こういえば、相手が、堰《せき》を切ったように話してくれるだろうと、西本は思っていた。  ところが、良子は、ますます困惑の色を深くして、 「もう、あのことは忘れたいと、思っていますから」  と、いう。西本にとって、意外な反応だった。  西本の顔が、朱《あか》くなった。      6 「母親のあなたが、娘さんは、失恋して自殺したと、本当に思っているんですか?」  と、西本は、詰問する口調で、きいた。  良子は、眼をそらすようにして、 「今もいいましたように、あのことは、もう思い出したくありませんの」  と、いう。 「辛いのはわかりますが、これは自殺じゃなくて、殺人ですよ」 「───」 「それとも、娘さんの失恋の相手が、見つかったとでも、いうんですか? いったい誰が、失恋のあげくの自殺と、いったんですか?」  と、西本は、きいた。が、それにも、返事はなかった。  良子の態度は、とにかく、あの事件には触れられたくないの一点張りに見えた。  西本は、小さく、溜息をついて、 「一階の広間に、ミス羽衣コンテストの時の写真が、飾ってありますね。娘さんがミス羽衣になった写真もあった。忘れたいというのなら、なぜ、あんな写真を飾っているんです?」 「事件と、幸美のことは、別ですから」 「いや、別じゃない。二十代の若さで死んでいるんですよ。しかも、殺されたのに、自殺ということになってしまっている。口惜しくないんですか?」  と、西本がいうと、良子は青ざめた顔で、 「失礼いたします」  と、切り口上でいって、部屋を出て行った。  西本の頭の中で、失望と怒りが交錯した。やり切れない気分だった。  窓を開け、暗闇に向って、何か叫びたい衝動にかられた。 (ひょっとして、あの母親が、犯人ではないのか?)  とさえ、思った。  だが、それも、考えにくい。  翌朝、朝食の前に、西本は気分直しに散歩に出た。  三保の松原を歩いていると、背後から、 「お客さーん」  と、呼ばれた。  振り向くと、旅館の仲居さんだった。近寄るのを待って、 「何か用?」  と、きいた。 「おかみさんから、昨日は失礼しましたとお伝えして欲しいと、いわれたので」 「おかみさんは?」 「気分が悪いといって、寝ていらっしゃいます」  と、仲居さんは、いった。  西本は、手帳に描いた女の顔を見せた。JR新宿駅で、彼に、あの手紙をくれた女の似顔絵だった。 「この女性を、知らないかな?」 「上の娘さんに、似ていますよ」 「やっぱりね。年齢がおかみさんと近いけど、おかみさんは後妻なの?」 「ええ」 「死んだ幸美さんは、おかみさんが生んだ娘《こ》なのかな?」 「ええ。そうですよ」 「それなのに、おかみさんは、幸美さんの死んだことが、あまり悲しくないみたいだね?」  と、西本がきくと、仲居さんはきッとした顔になって、 「そんなことは、ありませんよ」 「しかし、本当の母親なら、娘が失恋で自殺したなんてこと、信じたくないと思うんだが」 「信じていませんよ」 「本当なの?」 「ええ。警察が自殺と発表したときなんか、警察へ乗り込んで行って、自殺の筈がないって、偉い人に食ってかかったんですよ」  と、仲居さんは、いった。 「しかし、僕が聞いたら、もう何もいいたくないみたいないい方をしていたよ」 「それはきっと、警察とか、新聞なんかが、信じられなくなっているからじゃありませんか」  と、仲居さんは、いった。  それはあるだろうが、西本には、それだけではないような気がするのだ。 「君に、聞きたいことがあるんだけどね」  と、西本は、いった。  仲居さんは、ちょっと構える表情になって、 「どんなことでしょうか?」 「幸美さんは、失恋して、自殺したと、警察は発表した。それらしい男性が、見つかったの?」  と、西本は、きいた。 「よくは知らないんですけど、警察に、男の人から、電話があったらしいですわ」  と、仲居さんは、いう。 「どんな電話だろう?」 「なんでも、東京の男の人で、幸美さんとは東京で親しくなって、つき合っていたが、彼に好きな女性が出来て、別れた。もし、そのことが自殺の原因だったら、申しわけないと、いったそうですわ」 「よく、知っているね」 「ここは狭い町だから、いろいろと伝わってくるんです」  と、仲居さんは、笑った。 「昨日行った喫茶店のママも、同じことをいっていたな」 「そうでしょう。噂が、すぐ広がるんです。だから、めったなことをいえないんですよ」  と、仲居さんは、また笑った。  もし、そういう町なら、西本が六月の事件について聞き廻っていることは、もう知れわたっているだろう。  しかし、別に困惑はしなかった。むしろ、そうなることを、期待していたといってもいい。そうなれば、犯人は、何らかの反応を見せるかも知れなかったからである。  旅館に戻り、自分の部屋に入ると、布団はすでにたたまれていた。  窓のところに、白いものが落ちているのを見つけて、近寄ると、白い封筒だった。 (来たな)  と、思った。  窓が開いているから、窓から投げ込んだのかも知れない。  立ったまま、封筒の中身を取り出した。例の脅迫状と同じく、ワープロで打ってある。 [#1字下げ]〈東京からのこのこやって来て、詰らないことに首を突っ込むな。痛い目を見ないうちに、さっさと帰れ〉  西本は、窓から外を、のぞいてみた。  増改築の現場で、男たちが働いているのが見えた。 (犯人は、あの連中の一人なのだろうか?)  と、ふと、思った。  中年の男も、若い男もいる。  あの中の一人が、六月末に、ミス羽衣に選ばれた竹田幸美をレイプしようとして、抵抗され、海に沈めて殺したのではないのか?  仲居さんが、朝食の膳を運んできた。  西本は、彼女に向って、 「増改築の工事のことだけどね」  というと、仲居さんは恐縮した様子で、 「うるさいですか? 申しわけありません。棟梁には、なるたけ静かにと、お願いしてあるんですけどねえ」 「それはいいんだけど、いつから、工事はやってるの?」  と、西本は、きいた。 「七月の末からですわ」 「じゃあ、六月の羽衣まつりの時は、工事はしてなかったの?」 「ええ」 「でも、その頃から、増改築の話があって、見積りなんかにやって来てたんじゃないのかな?」  と、西本は、きいた。 「いいえ。七月の中旬になって、急に増改築の話が持ちあがって、下旬から工事が始まったんですよ」 「じゃあ、羽衣まつりの頃には、全く、増改築の話は出てなかったの?」 「ええ」  と、仲居さんは、肯く。 (違うのか)  と、思いながら、 「七月になって、なぜ急に、増改築の話が持ちあがったんだろう?」 「それは、多分、お金の都合がついたからだと思いますよ」 「では、前は、お金がないから、やらなかったということ?」 「ええ。この旅館、古いでしょう? 改築しなければと、おかみさんも思ってらっしゃったと思うんだけど、ご主人は亡くなってしまったし、バブルがはじけて、銀行も簡単にはお金を貸してくれない。だから、あきらめていると、おかみさんはおっしゃっていたんですよ。それが急に、増築まですると、おかみさんがいい出して、みんな、びっくりしたんですよ」  と、仲居さんは、いう。 「それが、七月中旬?」 「ええ」 「銀行が、急に、お金を貸してくれることになったんだろうか?」 「その辺のところは、私には全くわかりませんけど」 「僕は、その辺を、ぜひ知りたいんだがね」  と、西本は、いった。仲居さんは、眉を寄せて、 「お客さんは、どういう方なんですか? 六月の事件のことを、いろいろと聞いて廻ったりして」 「ただの、のぞき趣味の男だよ」 「違うと思いますよ。偶然だとは思えないんですけどねえ。お客さんが、ここへ来たのは」 「この旅館が取引きしているのは、何という銀行なのかな? それとも、信用金庫?」 「まだ、いってるんですか?」  と、仲居さんは、苦笑した。 「僕は、しつこいんだよ」  と、西本がいうと、仲居さんは、根負けした顔で、 「お客さんは、悪い人じゃないんでしょうね?」 「詮索好きだが、悪人じゃないよ」 「N銀行ですよ。私が、おかみさんの代りに、行ったことがありますから」  と、仲居さんは、教えてくれた。  朝食のあと、西本は、N銀行に出かけた。が、その前まで行っても、どうしたらいいか、わからなかった。  やみくもに、観波荘への融資のことを話してくれといったところで、何も教えてくれないだろう。  西本は、N銀行の電話番号を覚えておき、公衆電話ボックスを探して、中に入った。  テレカを差し込み、覚えたナンバーを押す。 「N銀行でございますが」  と、いう声が、聞こえた。 「こちらは、T建設ですがね」  と、西本は、観波荘の増改築をしている建設会社の名前をいった。看板が出ていたのだ。 「お世話になっております」 「実は、今、観波荘の増改築を引き受けてやっているんだが。支払いに不安があるんで、電話したんですよ。内緒で、教えて頂きたいんだが、観波荘に、支払い能力はあるんですかね?」  と、西本は、きいた。 「そういうことは、お教え出来ませんが」  と、相手は、いう。 「それじゃあ、これだけは教えて下さい。おかみさんは、N銀行から融資を受けているから安心だといってるんですよ。観波荘に、融資してるんですか? この七月からの増改築に対してね」 「それは、何かのお間違いじゃありませんか」 「と、いうと?」 「確かに、観波荘さんとはお取引きがございますが、新しいご融資は、致しておりません」 「そうですか」 「観波荘のおかみさんが、本当に、そういったんですか?」 「いや、いいんだ」  西本は、電話を切ってしまった。  N銀行からの融資は、ないらしい。それは西本の考えた通りだった。  と、すると、銀行以外のスポンサーがついているのだとしか、思えない。それも、仲居さんの話では、七月中旬になって、突然、増改築の話が出て、下旬から工事が始まっている。と、いうことは、そのスポンサーは、急に金を出すといい出したことになる。  単なる改築ではなく、増築の部分もあるのだから、かなり大規模な工事である。費用も、多分、一億円を越しているだろう。  そのスポンサーの名前を、どうやって調べればいいのか? おかみさんに聞いても答えてくれないだろうし、昨夜、いろいろと質問したので、拒否反応を示すに違いない。  方法は、一つしかないなと、西本は、思った。この町は狭くて、噂が走り廻る。それを利用すれば、何とかわかるだろう。  西本は、昨日入った喫茶店に、もう一度足を運んだ。  カウンターの中のママは、西本の顔を覚えていて、笑顔で迎えてくれた。昼前ということで、他に客の姿はない。  西本は、昨日と同じ、トーストとミルクを注文してから、 「工事の音がうるさいんで、逃げ出して来たんだ」  と、いった。工事の音はするが、逃げ出すほどではない。それでもママは、 「そういえば、観波荘にお泊りでしたね」  と、きいてきた。 「この不景気な時に、よく金があるなと、感心してるんだ」  と、西本は、いった。 「そうでしょう。銀行だって、お金は貸してくれませんからねえ」 「ああ。僕も、マンションを買いたいと思ったけど、銀行が貸してくれなかった。観波荘は、いいスポンサーがついたみたいだね」  と、西本は、ママの顔を見た。 「そうなんですよ」  と、ママは、ニッと笑った。 「その口ぶりだと、スポンサーを知ってるみたいだね」 「知ってる人は、何人もいますよ」 「そうなの。僕もお金を借りたいから、教えてくれないか」  と、西本がいうと、ママは、また、ニッと笑って、 「お客さんは、駄目ですよ」 「なぜ? ちゃんと定職があるし、若いから、将来性もあるよ」 「お客さんが駄目なのは、男だから」 「ああ、なるほどね。観波荘のおかみさんは美人で、今はひとりだ」 「それに、土地もあるし──」  と、ママは、いった。 「その助平おやじは、何者なの?」 「栗林興業の社長さんですよ」 「栗林興業? その名前を、どこかで見たよ」  と、西本がいうと、ママは、 「あれでしょう」  と、壁を指さした。  そこに、少し古びているが、六月の羽衣まつりのポスターが、まだ貼ってあった。  それには、主催・三保の松原商店会となっているのだが、後援のところに、栗林興業株式会社の名前が書かれていた。昨日は、何気なく、ポスターを見たのだが、その名前が、記憶に残っていたのだろう。 「どういう会社なの?」  と、西本は、きいた。 「東京で、いろいろとやってる会社みたいですよ。パチンコ店をやったり、娯楽センターを経営したりですって」 「金は持っていそうだね」 「そうらしいですよ」 「その栗林興業が、なぜ、三保の松原にやって来たんだろう?」 「社長さんが、なんでも、三保の松原が好きで、ここに娯楽センターを作りたいらしいんですよ。それで、羽衣まつりにも、一千万円を出して、後援してくれたらしいの。ミス羽衣コンテストの審査員にもなっていましたよ」 「その栗林興業が、観波荘の増改築の金も出しているというわけか?」 「ええ。ワンマン会社だから、社長さんが自由に、お金を使えるみたいですよ。町の噂じゃあ、その社長さんが、観波荘のおかみさんに惚れて、スポンサーになったってことですよ」  と、ママは、声をひそめていった。 「社長の名前を知ってる?」 「確か、佐藤という名前ですよ。年齢は四十五、六歳くらいでしょうね。顔の大きな、押し出しのいい人。あんまり、私は好きじゃありませんけどねえ」 「なぜ、好きじゃないの?」 「眼がね」 「眼が、どうなの?」 「ちょっと、怖いんですよ。ミス羽衣コンテストの時に、会ったんですけどね。ニコニコして愛想がいいんだけど、いざとなると、怖い人じゃないかと思ったんです。ああ、これは、観波荘のおかみさんには内緒にして下さいね」 「あのおかみさんに惚れて、スポンサーになったというと、女好きみたいだね?」 「ええ。そんな噂ですよ」 「一度会ってみたいけど、何処へ行けばその社長さんに会えるのかな?」  と、西本は、きいた。 「観波荘に、時々、来ているみたいですよ。東京ナンバーの白いベンツで来るから、すぐわかると思いますよ」  と、ママは、教えてくれた。 「ここには住んでいないの?」 「ええ」 「羽衣まつりの時も、毎日、東京からベンツで通っていたの?」 「あの時は、ずっと、観波荘に、泊っていたみたいですよ」 「それなら、今も、泊っていればいいのにね。工事中でも、お客を泊めているんだから」  と、西本がいうと、ママは、 「小さい町だから、おかみさんとのことが噂になるのが、嫌なんじゃありませんかねえ」 「あのおかみさんは、佐藤社長のことを、どう思ってるのかな? 好きなんだろうか?」 「さあ」  と、ママは、あいまいに笑っただけだった。      7  観波荘に戻ると、西本は、駐車場をのぞいてみた。自分の車を入れてから、見たことがなかったのだ。 (いる!)  と、思った。  それも、西本の中古車の横に、大きな白いベンツが、駐《と》めてあるのだ。間違いなく、東京ナンバーだった。  他に、五、六台の車が駐めてあったが、静岡や、名古屋あたりのナンバーである。  二台だけが、東京ナンバーだった。  西本は、それを見ているうちに、ふと、ベンツの持主は、わざと西本の車の横に駐めたのではないかと思い始めた。  ベンツが、いつから、駐めてあるのかわからない。佐藤社長は、西本があれこれ聞き廻っているのをもう知っているのではないか。だから、わざと、威圧するように、西本の中古のカローラの横に、大きなベンツを駐めておいたのではないのか。  そう考えると、若い西本は、むかッとして、ベンツのところへ行き、車内をのぞき込んだ。  ベンツの新車である。560SELというやつだろう。リア・シートには、何が入っているのかわからないが、革の鞄が無造作に置いてある。  ふいに肩を叩かれて、振り向くと、三十歳ぐらいの男が、睨んでいた。 「何をしてるんだ?」  と、男が、咎《とが》める調子できく。 「いい車だなと、思ってね」  と、西本はいいながら、男の身体を素早く眺め廻した。  身長は、自分と同じくらいだろう。きちんと背広を着ているのだが、背広の上からでも筋肉質な身体つきだとわかる。 「何か盗もうとしてたんじゃないのか?」  と、男は、いった。 「馬鹿なことをいうな」 「じゃあ、なぜ、車の中の鞄を見つめてたんだ? 盗る気だったんだろうが」 「そんな証拠でもあるのか?」 「とにかく、一緒に、警察へ行って貰おうか」  と、男は、西本の腕をつかんだ。  明らかに、ケンカを売るつもりなのだ。 「なんだ、ゆする気か。ケチなゆすりだな」  と、西本は、笑った。  とたんに、男の拳が飛んできた。何か運動をやってるだろうとは思ったのだが、ボクシングだったらしい。  いきなりストレートをくらって、西本の身体が、ベンツのドアに叩きつけられ、そのまま、ずるずる崩れていった。  男が、西本の襟首をつかんで、引き揚げる。相手のなすがままになっておいて、思い切り、男の胯間を殴りつけた。  今度は男が、呻き声をあげて、屈み込んだ。  騒ぎを聞いて、工事をしていた男たちが飛んで来て、二人を分けた。  西本は自分の部屋に戻ったが、顎の痛みが、なかなか消えなかった。  唾を吐くと、血が混じっている。 (ひどい目にあった)  と、顔をしかめていると、廊下で、「失礼しますよ」と、男の声がして、襖《ふすま》が開き、中年の男が入ってきた。  恰幅のいい男だった。 「私は、佐藤といいます」  と、男は、名刺をくれた。  栗林興業社長、佐藤晋介と、印刷されている。 「僕は、西本です。名刺は、持っていないので」 「今、私の運転手が、失礼なことを申しあげたようで、許して下さい」  と、佐藤は丁寧にいい、頭を下げた。 「構いませんよ」 「しかし、いきなり殴ったそうで」 「僕も殴り返しましたから、お互いということでしょう」 「そういって頂くと、ありがたい」  と、佐藤は微笑してから、急に探るような眼になって、 「西本さんは、何をしている方ですか?」  と、きいた。 「ただのサラリーマンですよ」 「ここには、何をしに?」 「観光です」 「観光ですか」 「おかしいですか?」 「いや、喫茶店に行ったり、理髪店に行くのも観光かなと、ちょっと不思議な気がしましてね」  といって、佐藤は、ニヤッと笑った。お前の行動は、何でも知っているぞという眼だった。  西本は、苦笑して、 「土地の人のいう通りでしたね。ここは狭い所だから、どんなことでも、筒抜けになる」 「私はね、自分のことをあれこれいわれるのが、嫌いな性分なんですよ」  と、佐藤はいい、強い眼で西本を見た。 (これが、喫茶店のママがいっていた怖い眼か)  と、西本は思いながら、 「後暗いところがなければ、平気なんじゃありませんか? 僕も、短気だとか、傲慢だとかいわれますが、法律に触れるようなことはしていないから、平気ですよ」  と、いった。 「まるで、私が、法律に触れるようなことをしているみたいないい方だが」 「そう思いましたか?」 「本当に、ただのサラリーマンなのかね?」 「一言つけ加えれば、詮索好きの、ただのサラリーマンですよ」 「詮索好きは、命取りになるんじゃないかな」 「そうですかねえ。果たして命取りになるかどうか、詮索の結果を話しましょうか?」  と、西本は、相手の顔を見すえるようにして、いった。 「聞きたいものだが」  と、佐藤は、応じた。  西本は立ち上がり、窓を開けてから、佐藤を振り返って、 「僕が、ここで、最初の興味を持ったのは、この旅館の娘さんが、六月三十日に、天女の恰好で、三保の海岸で溺死したことなんですよ」 「あれは、失恋からの自殺ということで、もうすんでいるよ」 「ええ。天女に選ばれて喜んでいた娘さんが、突然、自殺ですか?」 「二十代の女の心は、不安定なものだよ。それに、東京で愛し合っていた男と、別れたばかりだったということだった」 「警察に、電話があったというやつでしょう? しかし、その男はとうとう姿を現わさなかった。僕はね、これは、警察を納得させるために誰かが打った芝居だと、思っているんですよ」 「芝居?」 「そうです。失恋からの自殺と、地元の警察に思わせるために、手を打ったんですよ」 「誰が何のために、そんな面倒くさいことをしたのかね?」 「娘さんを、溺死させた犯人が、自殺に見せかけるためにですよ」  と、西本は、いった。 「犯人というと、あんたはあれを、殺人だと思っているのかね?」 「もちろん、そう思っていますよ」 「詮索好きというよりも、空想好きといった方が、いいんじゃないかね」  と、佐藤は、いった。が、西本は、構わずに、 「僕がおかしいと思ったのは、ここのおかみさんの態度だった。最初、おかみさんは、娘が自殺なんかする筈がないといって警察に怒鳴り込んでいるのに、急に、止めてしまったという。母親として、不可解ですよ。なぜ、急に、変ってしまったのか?」 「それは、自殺だと、納得したからだよ。母親としては、辛かったろうがね」 「いや、違いますね。まあ、聞いて下さい。おかみさんの態度が変ったと、時を同じくして、旅館の増改築が始まっている。しかも、資金は、銀行から借りたのではなく、スポンサーがついて、出しているのだとわかりました。その上、その奇特な人物は、六月の羽衣まつりにも金を出していて、ミス羽衣コンテストの審査員もしていた」 「それが、何だというのかね?」  佐藤の眼が、険しくなった。 「僕は、こう考えたんですよ。町の人たちは、あなたがここのおかみさんに惚れて、増改築の金を出したんだといっているが、僕は違うと思ったんですよ。あなたが惚れるのは、おかみさんのような中年の女ではなくて、ぴちぴちした若い女じゃないのか。例えば、ミス羽衣になった、ここの娘さんのようなね。六月の羽衣まつりに金を出したあなたは、ここに泊っていて、娘さんを欲しくなった。そこで、天女の恰好を見たいから、部屋に来てくれないかと、声をかけた。多分、おかみさんがいない時にね。娘さんは、相手が審査員だし、まつりの大事なスポンサーということで、天女の恰好をして、あなたの部屋へ行った。多分、あなたは、今まで、欲しい女は必ず、自分のものにしてきたんだと思いますね。だから、ここの娘さん、竹田幸美さんも、自分のいうことを聞くだろうと思った。ところが、抵抗され、かっとして、その大きな手で殴りつけた。彼女は、気絶した。が、意識を取り戻したら、大変だと思った。そこで、あなた自身がやったのか、ボクシング好きの運転手にやらせたのかわからないが、気絶している彼女を、三保の海岸に運び、海に沈めて溺死させた」 「───」 「警察は、何とか、自殺に傾いて、あなたはほっとしたが、母親は、自殺の筈がないと、わめきたてた。彼女を黙らせないと、うるさいことになると、あなたは考えた。そこで、惚れたふりをして、おかみさんに近づき、増改築の金を出しましょうと申し出た」 「───」 「これは、僕の想像なんですがね。あなたは計算して、おかみさんに近づいて、スポンサーになることを申し出たが、おかみさんの方が、あなたに惚れてしまったんじゃないのかな。ご主人に死なれ、娘さんは東京へ行ってしまって、女一人で、寂しく心細かった彼女は、頼り甲斐がありそうなあなたに惚れていったんじゃないのかな。そうでなければ、金を出して貰っただけで、娘の死について、黙ってしまう筈がありませんからね」 「あんたは、何者なんだ?」 「本当は、もう、知っているんじゃありませんか? おかみさんに聞いて」 「やっぱり、刑事か」 「警視庁捜査一課の刑事ですよ。この際、宣告しておきますがね、徹底的に調べあげて、あなたを、竹田幸美殺しの犯人として、逮捕してやる。それは、約束しますよ」  と、西本はきっぱりと、いった。      8  夜になった。  西本は、服を着たまま、布団に寝転んでいた。  ふいに、襖がそっと開いた。同時に、ぷすッという小さな破裂音が聞こえ、壁に何かが命中した。 (サイレンサー!)  と、直感して、西本ははね起きると、開けておいた窓から、屋根へ飛び出した。  二階だから、地面に飛び降りる。  男二人が、西本を追って、飛び降りてくる。  また、弾丸が、耳をかすめた。 (くそ!)  と、頭の中で叫び、西本は、松林のある海岸に向って、走った。  襲われるのは覚悟していたのだが、相手がサイレンサーつきの拳銃を用意しているとは、読んでいなかったのだ。  逃げるより仕方がない。  満月が出ていた。浜辺は、妙に明るかった。 (まずいな)  と、思いながら、波打ち際に向って、追いつめられて行った。  立ち止まって、振り向く。  青白い月明りの中に、二人の男も立ち止まって、息を弾ませている。  運転手が、サイレンサーつきの拳銃を持ち、その横に佐藤が立っていた。 「彼女は、どうしたんだ? 殺したのか? それとも、どこかに、監禁しているのか?」  と、西本は、二人に向って、怒鳴った。 「彼女? 何のことだ?」  と、佐藤が、きき返した。 「おれと同じように、六月の事件を掘り返していた女のことだよ。黙らないと殺すぞと、あんたが脅迫状を送りつけ、揚句に殺したか、誘拐したかした女だ」 「何を、世迷言《よまいごと》をいってるんだ」  と、佐藤は、吐き捨てるようにいってから、 「殺せ!」  と、運転手に、いった。 「おれを殺しても、今度は、自殺には出来ないぞ」 「あんたの死体は、船で沖へ運んで、捨ててやるよ」  と、佐藤が、いった。  運転手が銃を構えた。 (ここで死ぬのか──)  と、西本は覚悟したが、二人の向うに、五、六人の人影が、こちらに向って駈けてくるのに気付いた。  その中の一人が、大声で、 「栗林興業社長、佐藤晋介! 動くな!」  と、怒鳴っているのが、聞こえた。  その声に、聞き覚えがあった。 (カメさんだ)  と、思ったとたんに、ほっとして、その場に屈み込んでしまった。  佐藤と運転手が逃げ出すのを、男たちが駈け寄って押さえつけた。  亀井の他に、十津川警部もいた。他の男たちは、ここの刑事だろう。  十津川と、亀井が、西本のところへ近寄って来た。 「大丈夫か?」  と、十津川が、きいた。 「何とか、生きてます」  と、西本はいい、立ち上がってから、 「騎兵隊が、駈けつけてくれたような気がしますよ」 「騎兵隊か」  と、十津川が笑い、亀井は、 「私としては、鞍馬天狗といって貰いたいね」  と、いった。 「その鞍馬天狗が、なぜ、来てくれたんですか?」 「君がいるとわかっていて、この三保へ来たわけじゃないよ」  と、十津川は、いった。 「じゃあ、なぜですか?」 「東京で、死体なき殺人事件を調べてみると、どうしても三保の松原が浮んできた。そこで、今日、カメさんとこちらへ来たんだ。驚いたことに、六月三十日に、あのマンションから消えた女と同じ名前の竹田幸美という女が、天女の恰好で溺死していることがわかった」  と、十津川がいい、それを引きつぐ形で、亀井が、 「それで、県警と一緒に、六月の事件を調べ直すことになって、県警も最初は、自殺でなく他殺の線で調べていたことがわかった。その時、浮んだ容疑者の一人が、栗林興業の社長、佐藤晋介だったというわけだよ。その佐藤社長が、ミス羽衣コンテストの審査員で、その上、今、観波荘のスポンサーになっていると聞いて、これは何かあると思うのが、当然だろう」  と、いった。 「もう一つ、驚いたのは、君がここに来ているのがわかったことさ。その上、君は、六月の事件について聞き廻っているらしいという。そこで、今夜、君に会って、何をしに来ているのか聞くのと、佐藤晋介の事情聴取のために、観波荘にやって来たんだ。県警の刑事と一緒にね」  と、十津川が、いった。 「それで私は、助かったというわけですね?」 「来てみたら、君は部屋にいない。佐藤社長もだ。そのうえ仲居さんが、二階で激しい足音がして、泊り客が二、三人、飛び降りて、松原の方へ駈けて行ったみたいだと、教えてくれた。それで、急いで、ここへ来てみたのさ」  と、亀井が、いった。 「それで、死体なき殺人の方だが、君は何か知らないか?」  と、十津川が、きいた。 「それは、もういいんです」  と、西本は、いった。亀井が怒って、 「何がいいんだ?」 「それは、無かったんですよ」  と、西本は、いった。      9  一カ月が、過ぎた。  秋もそれだけ深くなった。  その日、西本は、帰りに新宿で少し飲み、JR新宿駅の構内を、小田急線のホームに向って、歩いて行った。  ざわざわと、通行する人々が、流れを作っている。  その流れに逆らうように、若い女が一人、立ち止まって、西本を見つめているのに気付いた。  あの女だった。  彼女は緊張して、青白い顔になっていた。  西本は、近づいて、 「やあ」  と、声をかけた。  彼女は、一瞬、泣き笑いの表情になって、 「怒ってないんですか?」  と、きいた。 「別に、怒ってはいないよ」  と、西本は、いった。 「わけを、説明したいんです」 「いいよ。だいたい事情は、わかっているから」 「でも、私の口から、説明したいんです。一緒に、お茶を飲んで下さい」  と、彼女は、哀願するように、いった。 「君がそういうのなら、聞いてもいい」  と、西本は、いった。  二人は駅を出て、近くのスナックに入った。  彼女は、二人のために、コーヒーとサンドイッチを注文してから、 「私は、死んだ竹田幸美の友だちなんです。高校も大学も一緒でした」  と、彼女は、話し出した。  西本は、煙草に火をつけ、黙って彼女の話を聞いた。 「彼女は、三保で旅館をやっている母親に呼ばれて、六月末に帰って行きました。羽衣まつりに、参加するためですわ。そのあと彼女から電話がかかって、ミス羽衣に選ばれたと、嬉しそうにいっていました。私は、よかったじゃないの、おめでとうと、いいました。彼女は日本的な美人だから、きっと天女の姿が似合うと、思ったんです。ところが、その翌日になると、今度は、審査員の一人にいい寄られて困っていると、電話して来たんです。そんな奴は蹴飛ばして、東京に帰って来なさいと、いったんですけど、彼女は、いろいろあって逃げ出せないんだと、いっていました。そして、三十日になって、彼女が溺死したと、知ったんですわ」 「───」 「私はすぐ、三保へ飛んで行きました。きっと、彼女がいっていた審査員が、殺したに違いないと、思ったんです。でも、いつの間にか、彼女は失恋のあげく自殺したという結論になってしまったんです。口惜しいけど、私にはどうにもなりませんでしたわ。向うの警察も、向うの新聞も、自殺と決めつけてしまっているんですから」  と、彼女は、いった。  西本は、黙って聞いている。 「東京に戻った私を、幸美のお姉さんが訪ねて来ました。彼女も、もちろん、妹は自殺なんかする筈がないと、いっていました。でも、どうしたらいいのか、二人で、一所懸命考えましたわ。二人で三保に戻って、調べ廻ろうかと思いました。でも、彼女には東京に家庭があって、そんなに長く留守には出来ません。私にも、学校があります。それに、二人とも、三保では顔を知られているから、自由に動き廻れません。すぐ犯人に気付かれてしまいます。それで、もう一度二人で考えて、一つの方法を思いついたんです。その準備として、私がまず、竹田幸美の名前で、中野にマンションを借りて住み、自分あての二通の脅迫状をワープロで書いて、時間をおいて、静岡で投函しました」 「───」 「それからあの日、幸美のお姉さんが、JR新宿駅の構内に立ちました」 「僕みたいな、おっちょこちょいを、見つけるためにか?」  と、初めて、西本がきいた。 「私たちは、誰か、正義の騎士が必要だったんです。でも、私たちの周囲には、いませんでしたわ。私にもボーイフレンドが何人かいましたけど、みんな恰好は良くても、いざとなると頼りにならない男ばかりでした。それで、探すことにしたんです。私は、あなたにあげたと同じ手紙を、五通作りました。それを、幸美のお姉さんに預けたんです」 「なるほど。エサというわけだな」 「そんないい方は、しないで下さい。私たちは、今もいったように、優しく、強い、騎士を探したんです。ただ、五通の手紙だけを持っていたのでは怪しまれるので、幸美のお姉さんは三保の松原の観光パンフレットを沢山抱え、それを通行人に渡すことにしました。そうしながら、若くて、逞《たくま》しくて、信頼のおけそうな男の人が見つかったら、私の書いた手紙を渡すんです。彼女は、駅員に文句をいわれながら、必死になって、役目を果たしましたわ」  と、女は、いった。      10 「五人か」  と、西本は呟き、 「五人全部が、君に電話をかけて来たのか?」 「いいえ。三人の人は、電話して来ませんでしたわ。きっと、何が待っているかわからなくて、怖かったんだと思います。電話を下さったのは、あなたと、もう一人、三十歳の男の人でした」  と、女は、いった。 「もう一人は、なぜ合格しなかったんだ?」  と、西本は、きいた。 「会ってすぐ、この人は信用がおけないなと、わかりましたわ。彼は、ただ単に女が欲しくて、電話して来ただけなんです」  と、女は、いう。 (おれだって、同じだ)  と思ったが、それは口には出さず、西本は、 「僕は、どうして、選ばれたんだ?」  と、きいた。 「酔って、あなたが眠ってしまったとき、ポケットを調べさせて頂きました。それで、警視庁捜査一課の刑事さんだと、わかりましたわ。それに、心の優しい方だとも、わかりました。それで、あなたを選んだんですわ」 「───」 「私は明日、もう一度来てくれと、あなたにいいました。そして、指を切って血を出し、それを壁とスリップにつけ、じゅうたんをめくりあげておいたりして、あのマンションを出ました。あなたはきっと、血痕と二通の脅迫状を見つけ、三保へ行って下さるだろうと、信じてですわ」 「───」 「あなたは、私の信じた通り、三保へ行き、犯人を見つけて下さったんです」 「観波荘に、僕への脅迫状を放り込んだのも、君か?」  と、西本は、きいた。 「ええ。そうしておいた方が、あなたが疑いを深めて、犯人を追って下さると思ったからですわ」  と、女は、いった。 「なるほどね」 「幸美のお姉さんも、あなたに感謝しています。どんなことでも、いって下さい。お礼をしたいんです」  と、女は、いった。 「僕は、刑事だよ」 「ええ」 「いわば、プロなんだ。プロが殺人事件を解決したからといって、お礼をいわれることはないよ」  と、西本は、いった。 「私が嘘をついたことも、お詫びします。私の名前は、本当は──」  と、女がいいかけるのを、西本は、 「待ってくれ」  と、手で制した。  女が「え?」という顔で、西本を見つめる。それに向って、西本は、 「僕にとって、君はまだ、竹田幸美なんだ。そう思って君を抱いたし、三保へ行った」 「でも、私の本当の名前を、知って頂きたいんです」  と、女は、いう。 「今日は、このまま別れたいんだ。そのうちに、また、会うこともあるさ。東京なんて、そんなに広くもないからね。その時、君の本当の名前を知りたくなっていたら、教えてくれというよ」  と、西本はいって、立ち上がった。  単行本 平成五年十二月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成八年一月十日刊