[#表紙(表紙.jpg)] 寝台特急《ブルートレイン》八分停車 西村京太郎 目 次  第一章 緊急入院  第二章 七月十四日  第三章 七月十五日  第四章 第一の殺人  第五章 疑惑の周辺  第六章 新たな殺人  第七章 共犯者  第八章 野望の行方 [#改ページ]  第一章 緊急入院      1  医者の世話になったことがないのが自慢だった亀井《かめい》刑事が、突然、激痛に襲われた。  十津川《とつがわ》警部と、世田谷《せたがや》の事件現場を、歩いている時だった。  殺人事件の捜査中である。  しばらくは、痛みを我慢していたが、そのうちに、抑え切れなくなって、横腹を押さえて、その場にしゃがみ込んでしまった。  十津川は、びっくりして、亀井をのぞき込んだ。  顔色が、真っ青だし、額に、あぶら汗が浮んでいる。 「どうしたんだ? カメさん」 「申しわけありません。横腹が、痛くて」 「すぐ、救急車を呼んでくる」 「いえ。しばらく我慢していれば、治《なお》ってくると思います」 「馬鹿《ばか》をいっちゃいかん。待ってろよ」  十津川は、五十メートルほど先にある公衆電話まで走り、一一九番をかけた。  戻ってくると、亀井は、ぶるぶる小きざみにふるえる手で、煙草《たばこ》を取り出して、口にくわえた。  あまりにも、痛みが激しいので、何とか、気をまぎらわせようと思ったのだが、思うように火がつかず、放り投げてしまった。  左の脇腹《わきばら》が痛かったのだが、背中まで、痛くなってきた。 「ひょっとして、盲腸じゃないかね」  十津川が、おろおろしながら、いう。 「いえ。盲腸じゃないと思いますが——」 「何か、私に出来ることはないかね——」  といっても、十津川は、医学知識があるわけではないから、どうしていいのか、わからないのだ。  やっと、救急車が、やって来た。 「私も、一緒に行くよ」  と、十津川は、いった。  亀井は、しきりに、大丈夫ですよというが、十津川は、構わずに、救急車に乗り込んだ。  救急車の中でも、亀井は、あぶら汗を流し続けていた。痛みというのは、他人にはわからないから、十津川は、ひたすら凝視《ぎようし》しているだけである。  第一中央病院に運ばれると、すぐ、内科の診察室に、通された。  内科の医者は、三十五、六歳の女医だった。なかなかの美人だった。  亀井が、風邪か、軽い腹痛ぐらいだったら、 「羨《うらやま》しいね、カメさん」  と、肩の一つも叩《たた》くところだが、今日の亀井は、ここへ来ても、横腹を押さえて、うんうん、いっている。 「中根《なかね》」という名札を胸につけた女医は、 「どんな具合なんですか?」  と、医者特有の冷静さで、きいた。 「急に、横腹が痛くなりまして——」  亀井は、女医に、いった。  女医は、亀井に、上衣《うわぎ》を脱がせ、手で、痛い箇所を、触ってみたりしていたが、 「痛みどめの注射をしましょう」 「なぜ、こんなに、痛いんですかね?」  亀井が、蒼《あお》い顔で、きいた。  中根という女医は、注射の用意をしながら、いともあっさりと、 「腎臓結石《じんぞうけつせき》ですよ」 「それ、こんなに痛むんですか?」  亀井は、眉《まゆ》を寄せて、女医にきいた。 「腎臓結石は、初めてなんですか?」 「ええ」 「石が動くと、それが、皮膚を傷つけて、痛むんですよ。尿道《にようどう》を通って、おしっこで、外へ出るまで、時々、痛みますよ」 「いつも、こんなにですか?」 「気絶する人もいますねえ」  女医は、脅《おど》かすようにいってから、亀井の左腕に、注射をした。 「少し強いのをしましたから、ちょっと、気分が悪くなるかも知れませんよ」 「ベッドに、寝かして貰《もら》った方が、いいんじゃないか」  と、十津川が、小声でいった。 「いや、大丈夫です」  亀井が、いうのだが、気分が悪くなってきたらしく、頭を、しきりに振っている。 「看護婦さん!」  と、女医は、大声で呼んでから、 「三〇二号室のベッド、一つ空いてたわね?」 「はい」  と、二十二、三の小柄な看護婦が、いった。 「じゃあ、この人を、しばらく寝かせておいてあげて」  と、女医が、いった。      2  亀井は、三階の三〇二号室に運ばれ、あいているベッドに寝かされた。  三人部屋の一番端のベッドだった。  亀井は、薬のせいか、気分が悪いといっていたが、そのうちに、眠ってしまった。  十津川は、一階におり、さっきの中根という女医に、亀井のことを、問うてみた。 「いつまで、入院したらいいんですか?」  と、十津川がきくと、女医は、笑って、 「別に、入院の必要はありませんよ。痛みが消えたら、すぐ、帰って構いませんわ」 「しかし、石が、身体《からだ》の外に出ない限り、痛みは、続くんでしょう?」 「ええ。でも、石が動かない時は、痛みがない筈《はず》ですよ」 「しかし、動くんでしょう?」 「それが、いつ動くか、わからないんですよ。だから、むしろ、大きな石だと、腎臓《じんぞう》にとどまって、動かないんですけど、小さいと、尿道《にようどう》を通って、外に出ることになるんです。でも、尿道は、細いですから、大変な痛みになるんです」 「突然、痛み出すのは、困りますね。犯人を追っかけている時にだって、石が動けば、痛み出すんでしょう?」 「ええ、どうしても耐えられなければ、その都度、痛みどめの注射をするより、仕方がありませんわね」 「あれは、モルヒネですか?」 「ええ」 「手術で、石を取り去ることは、出来ないんですか?」 「出来ますけど、小さな石なら、自然に出てくるのを待った方がいいと思いますけどね」 「石を溶かす薬があると、聞いたことがあるんですが」 「ありますわ。でも、あまり強いものは、内臓を傷《いた》めてしまうから、使えませんわ。だから、ごく弱いものしか差しあげられません」 「それでも、石は、溶けるんでしょう?」 「多少はね。でも、その薬で、石を消滅させることは、無理ですわね」 「じゃあ、手術をしないと、爆弾を抱えて、仕事をしなければならないんですか?」 「ええ」 「彼は、私の片腕なんですよ。殺人犯を追いかけていて、急に、石が動き出したら、どうするんですか?」  十津川がいうと、女医は、小さく肩をすくめるようにして、 「そういわれても、困りますわ」 「石は、どのくらいで、体の外に出るんですか?」 「それは、人によって違いますわね。すぐ、排泄《はいせつ》されてしまう人もいるし、何か月もかかって、やっと出る人もいますわ」 「痛みどめの薬は、貰《もら》えるんでしょうね? 痛み出した時、飲む薬ですが」 「もちろん、差しあげますわ。でも、モルヒネを注射するようには、いきませんわ。今日みたいに、痛み出した時は、ほとんど、役に立たないと思いますね」 「じゃあ、気休めの薬ですか?」 「ええ。まあね」  女医は、美しい顔で、意地悪く微笑した。      3  亀井が、ベッドの上で眼を覚ました時、窓の外は、すでに暗く、病室の中でも、常夜灯だけになっていた。  あれほどの激痛が、嘘《うそ》のように、おさまってしまっていた。  腎臓《じんぞう》の中の石が、動かずに、とまっているのだろう。  亀井は、そろりそろりと、ベッドから降りた。身体を激しく動かして、また、石が尿道《にようどう》に引っかかったら、大変だと思ったからである。  病室を出て、明るい廊下で、亀井は、腕時計を見た。  午後十一時を過ぎていた。 (とにかく、捜査本部に戻ろう)  と、亀井は思った。世田谷の殺人事件は、まだ解決していないだろう。そうなら、痛みの消えた今、すぐにでも捜査に戻らなければならない。  几帳面《きちようめん》な亀井は、たとえ腎臓結石のせいだろうと、捜査中の事件から、逃げた形になってしまったことを、申しわけなく感じていたのである。  足音を忍ばせて、階段を一階までおりた。  病院全体が、ひっそりと、静まり返っている。それを、かき乱したくない気持もあったし、自分の身体のことも、考えてのことだった。  一階に降りてから、亀井は、リノリュームの敷かれた廊下を、入口に向って、そっと歩いて行った。  あの女医からは、痛みがなくなったら、勝手に、帰っていいといわれていたし、痛みどめの薬は、枕元《まくらもと》に置いてあった。その薬は、上衣《うわぎ》のポケットに入れた。  ふいに、人声が、聞こえた。  亀井は、廊下の片側を、足音を忍ばせて歩いていたのだが、そちら側の「レントゲン」と書かれた部屋からだった。  男と女の声だった。  亀井が、立ち止まったのは、聞き耳を立てるためではなかった。自分の足音を、気にしたのである。 「ブルトレは、八分間|停《と》まるんだ。八分あれば、たいていのことが出来るよ。人殺しだって出来る」  と、男の声が、いった。  女の方は、小声なので、よく聞こえなかった。が、小さく笑ったような気配があった。 「大丈夫だよ。今度の日曜日には、必ず、奴《やつ》を殺してやる。八分間もあるんだ。おれに、委《まか》せておけよ」  男は、気負い込んだ調子で、いっている。  亀井は、自然に、ドアに、耳を押しつけるような姿勢になっていた。  だが、レントゲン室内の男女も、外に人がいる気配を感じたのか、急に、黙り込んでしまった。  亀井は、緊張した。  男は、確かに、「奴を殺してやる」といったのだ。それに、今度の日曜日に、と、具体的な日付けまで口にした。  冗談《じようだん》をいっている口調《くちよう》ではなかった。  亀井は、警察の人間である。彼は、そっと手を伸ばして、ドアについているノブをつかんだ。  ゆっくりと回して、押してみた。が、ドアは、動かなかった。内側から、錠《じよう》がおろしてあるのだ。      4  亀井は、迷った。  ドアを蹴破《けやぶ》って、中に入ってみようかとも、一瞬、思った。しかし、中に、男女がいて、二人を捕えたところで、彼らは、そんな会話はしていなかったというだろう。  そうなれば、水掛論で、病院の人間は、亀井の言葉より、身内の人間の言葉の方を、信じるに違いない。 (どうしたらいいのだろうか?)  入口の近くの受付は、もう閉っている。  この時間で、起きているのは、三階以上にあるナースセンターである。  亀井は、しばらく迷っていたが、三階に戻ると、ナースセンターを、ノックした。  当直の看護婦が、三人いた。 「もう、いいんですか?」  と、その中の一人が、亀井に、きいた。 「おかげで、痛みが消えました」  と、亀井は、礼をいってから、 「一階のレントゲン室で、人声がしたんだけど、誰《だれ》がいるのか、知っていますか?」 「なぜ、そんなことを、気になさるの?」  看護婦は、変な顔をした。  当然だろうと、亀井自身も、思う。患者、それも、一日しかいなかった患者が、病院のことに、文句をつけていると、受け取られても、仕方がなかったからである。  亀井は、会話の内容はいわずに、 「あの部屋の前を通ったら、中から、女の悲鳴が聞こえたんですよ。ドアを開けようと思ったが、閉っていた。それで、ここへ来たんです」 「それ、本当なの?」 「本当ですよ。仕事柄、見逃がせなくてね」  亀井は、警察手帳を見せた。  三人の看護婦は、顔を見合せた。 「レントゲン室の鍵《かぎ》は、事務室だったわね」 「ええ。でも、事務室は、もう全部、帰ってしまったんじゃないの」 「あんな部屋で、何してるのかしら?」  そんなことを、小声で喋《しやべ》っていたが、一番年かさの看護婦が、亀井と一緒に、行ってくれることになった。  時刻は、すでに、十二時を過ぎていた。 「当直の先生は、何人いるの?」  階段を降りながら、亀井は、鈴木《すずき》という看護婦に、きいてみた。 「先生が一人と、インターンが一人の二人で、いつも、当直していますよ」 「今日は、何ていう人?」 「確か、内科の斉藤《さいとう》先生の日だと思いましたけど」  と、鈴木看護婦は、いった。 「レントゲン技師が、宿直することはないの?」 「それは、ありませんわ」  と、看護婦は、いった。  一階に着くと、二人は、レントゲン室の前に行った。  看護婦が、事務室から、鍵《かぎ》を持って来て、開けてくれた。  中は、真っ暗で、人の気配はなかった。  亀井が、三階のナースセンターへ行っている間に、中にいた男女は、素早く、姿を消してしまったのだろう。      5  亀井が、世田谷署に設けられた捜査本部に顔を出したのは、午前一時近い。  十津川は、心配そうに、「大丈夫かい? カメさん」と、きいた。 「しばらく、入院していた方が、良かったんじゃないのかね」 「そうもいきません。石が動かないと、全く痛みがないんですから」 「しかし、いつ、痛くなるかわからんぞ」 「カメさん。早く、おしっこと一緒に出すには、ビールをじゃんじゃん飲んで、身体《からだ》を上下にゆするといいそうですよ」  若い日下《くさか》刑事が、無責任なことを、いった。  亀井は、苦笑しただけで、十津川に、 「捜査の方は、どうなんですか?」 「容疑が、絞られてきたのでね。明日には、逮捕できると、思うよ」 「やはり、被害者の叔父《おじ》ですか?」 「ああ、あのインチキ青年社長だよ」  十津川の声は、自信にあふれていた。 「じゃあ、もう、解決したも同じですね」 「そうだよ。だから、カメさんも、二、三日入院してくれたって、良かったんだ。あの病院は、なかなか設備が整っていて、居心地もいいと思ったんだがね」 「その病院のことなんですが——」  亀井は、レントゲン室のドア越しに聞いた男女の話を、十津川に、伝えた。 「あの話が、気になって、仕方がないんです」 「ふーん」  と、十津川は、腕を組んで考え込んだ。 「次の日曜日というと、七月十四日です」 「明後日か」 「そうです」 「本当に、男は、奴《やつ》を殺してやると、いったんだね?」 「そうです。ブルトレが、八分間停車する。その間に、奴を殺してやると、いったんです。ブルトレというのは、寝台特急《ブルートレイン》のことだと思います」 「そうだろうね。だが、カメさん。それだけじゃあ、情報が、少なすぎるね。ブルートレインといっても、どの列車かわからないし、レントゲン室で、話をしていた男女の名前も、わからんのだろう?」 「ええ。何も、わかっていません。あの部屋にいたのは、多分、当直の医者と、看護婦じゃないかと、思うんですが」 「医者も、看護婦も、よくある組合せだね」 「よくあり過ぎるんで、ちょっと自信がないんですが」  と、亀井が、いった。  それ以上、二人の間で、話が進まなかったのは、眼の前の殺人事件が、大詰めを迎えていたからである。  十津川も、亀井も、捜査本部で、仮眠をとった。亀井の痛みは、まだ、ぶり返さなかった。  翌日、午後になって、逮捕令状が出て、被害者の叔父《おじ》が逮捕され、犯行を、自供した。  一つの事件が解決したわけである。  捜査本部は、解散され、十津川たちは、警視庁に戻って、次の事件に備える。  その間、どうしても、亀井は、第一中央病院での男女の話を、思い出した。  それに、今日は、七月十三日の土曜日である。  あの男の声が、殺人を予告した日曜日は、明日に、迫っている。  十津川も、同じように、気になっているとみえて、時刻表のページをめくりながら、 「カメさん。ブルートレインで、どこかの駅に、八分停車というのがあるのかね?」 「少しばかり、長すぎる停車だとは、思うんですが」 「多分、牽引《けんいん》する機関車の交換か、分割、或《ある》いは、併合されるために、その駅の停車時間が、長いんだと思うね」 「私も、そう思います」 「例えば、一番早く東京駅を出る『さくら』についていえば、東京——下関が、EF66。下関——門司の間、関門トンネルの中だけにEF30。そして、門司から先は、ED76になる。その交換時は、当然、時間がかかる筈《はず》だ」 「そうですね。『さくら』は、下関で五分停車です。門司では、やはり五分停車で、機関車の交換が行われますね」  亀井が、時刻表を見ながら、いった。 「八分停車じゃないか」 「ええ」 「『さくら』は、肥前山口《ひぜんやまぐち》で、長崎行と、佐世保《させぼ》行に、分割される。その時にも、時間がかかると思うがね」 「ええと、長崎行の方が、先に発車します。これは、肥前山口に、五分停車です。あとから発車する佐世保行ですが、これは、肥前山口で十三分停車です」 「八分を越してしまうのか」 「そうですね」 「レントゲン室で、カメさんが聞いた声だが、八分以上停車するから、その間に、といったんじゃないのかね?」  確かめるように、十津川が、きいた。  もし、誰《だれ》かが、長い停車時間を利用して、人殺しを計画しているとすると、十津川のいうように、八分きっかりでなくても、とにかく長ければいい筈《はず》なのだ。  だが、あの時聞いた男の声は、「八分」だった。 「いえ。八分と、いいました」 「そうか、八分きっかりか」 「そうなんです。『ブルトレは、八分間|停《と》まるんだ。八分あれば、たいていのことが出来るよ。人殺しだって出来る』と、いったんです」 「ということは、ブルートレインの中に、どこかの駅で、きっちり八分停車する列車があることになるね」 「そうです」 「じゃあ、片っ端から、調べてみよう」  と、十津川は、いった。  新幹線が整備され、飛行機の便が多くなるにつれて、夜行列車の本数は、減って来ている。  それでも、ブルートレインの人気は、まだ高く、東京、上野などから、何本も出ている。 「北海道を走っている列車は、どうするね?」  十津川は、時刻表を見ながら、亀井に、きいた。 「そうですね。北海道だって、飛行機で行けば、羽田《はねだ》から札幌《さつぽろ》まで、一時間半足らずですからね。可能性がないことはないと思います」 「じゃあ、全部のブルートレインを、対象にしてみよう」  と、十津川は、いった。  寝台特急と書いて、ブルートレインとルビをふるが、特急でなく、急行もある。レントゲン室の男が、どちらの意味で、ブルトレといったのかわからないので、急行も含めて、検討してみることにした。  時刻表で見ると、次の列車が、該当するだろう。  さくら    東京——長崎・佐世保  はやぶさ    東京——西鹿児島  みずほ    東京——熊本・長崎  富士    東京——宮崎  あさかぜ    東京——博多《はかた》  瀬戸《せと》    東京——宇野《うの》  出雲《いずも》    東京——浜田《はまだ》・出雲市  銀河(急行)    東京——大阪  なは    新大阪——西鹿児島  あかつき    新大阪——長崎・西鹿児島  彗星《すいせい》    新大阪——都《みやこの》 城《じよう》  日本海    大阪——青森  つるぎ    大阪——新潟  きたぐに(急行)    大阪——新潟  ちくま(急行)    大阪——長野  北陸    上野——金沢  出羽《でわ》    上野——秋田  能登《のと》(急行)    上野——金沢  はくつる    上野——青森(東北本線経由)  ゆうづる    上野——青森(常磐《じようばん》線経由)  あけぼの    上野——青森(奥羽《おうう》本線経由)  利尻《りしり》(急行)    札幌——稚内《わつかない》  まりも(急行)    札幌——釧路《くしろ》  大雪《たいせつ》(急行)    札幌——網走《あばしり》 「ずいぶん、走っているものですね」  亀井は、感心したように、いった。もっと少なくなってしまっているのではないかと、思っていたのである。      6  次は、ここに書き出した列車の停車時間である。  八分ぴったりという停車時間が見つかれば、それを、マークしなければならない。  十津川と、亀井は、時刻表を睨《にら》みながら、一列車ごとに、書き出していった。 「さくら」にしても、「はやぶさ」にしても、上りと、下りがあるので大変である。  一分や、二分の停車は、問題にせず、八分前後のものも、一応、書き出してみた。  時刻表の小さな数字を睨《にら》みながらの作業なので、中年の二人にとっては、しんどい仕事だった。  五分停車というのは、意外に多かった。 「さくら」や、「はやぶさ」といった九州行のブルートレインが、下関と、門司で、電気機関車の交換をする場合、だいたい、その所要時間として、五分停車をしている。  だが、八分ぴったりという停車時間は、なかなか見つからなかった。  逆に、十分以上の停車というのも、かなり多かった。  さくら(下り)肥前山口    十三分(佐世保行)  さくら(上り)肥前山口    十一分  みずほ(下り)鳥栖《とす》   十四分(長崎行)  みずほ(上り)鳥栖   十七分(長崎から)  みずほ(上り)鳥栖   十三分(熊本から)  この二つの列車は、行先別の客車を併列して走るので、その分割と、併合の時に、十分以上の時間が、かかるのである。  下りと、上りで、停車時間が、大きく違う列車もある。  あさかぜ1号    広島(四分停車)  あさかぜ2号    広島(十二分停車)  どうして、同じ列車で、下りと上りで、そんなに、停車時間が違うのか、十津川にも、亀井にも、わからなかった。だが、いずれにしろ、八分停車ではない。 「なかなか、八分ジャストというのは、ありませんね」  亀井が、吐息《といき》をついた。 「それでいいんだよ。やたらにあったら、その列車全部を、マークしなければならないよ」  と、十津川は笑った。  また、根気のいる作業が、続いた。 「ありましたよ!」  亀井が、急に、大声を出した。  出雲3号    京都着  三時三八分      発  三時四六分  出雲2号    京都着 二三時四〇分      発 二三時四八分  出雲4号    京都着  〇時一六分      発  〇時二四分  見つかり出すと、急に、次々と、八分停車が、出て来た。  それを、十津川と亀井は、メモしていった。  日本海2号    秋田着 一九時二二分      発 一九時三〇分  あけぼの1号    秋田着  六時〇〇分      発  六時〇八分  大雪3号(急行)    滝川《たきかわ》着 二三時五八分      発  〇時〇六分    上川《かみかわ》着  二時一二分      発  二時二〇分 「六本の列車ということか」 「六本でも、多過ぎますよ」  と、亀井は、いった。 「もう一つ、問題は、日時のことだね。夜行列車は、当然、二日間に亘って走るわけだ。レントゲン室の男が口にした日曜日は、どちらの日を指すのか問題じゃないかね。たとえば、『出雲3号』を考えてみると、東京発が、二一時〇〇分で、八分停車の京都に着くのは、翌日の午前三時三八分になる。男のいった七月十四日というのは、東京を出発する日のことだろうか? それとも、京都に着く翌朝のことだろうか?」 「そうですね。それが、一つの問題ですね」  亀井も、考え込んでしまった。 「これは、『出雲4号』でも、同じだよ。『あけぼの1号』でも、北海道の『大雪1号』でも、同じ問題がある」 「どうしたら、いいですか?」  亀井が、困惑した顔で、十津川を見た。 「方法は、二つあるよ。『出雲3号』についていえば、七月十四日に、東京駅を出る『出雲3号』と、十四日の午前三時三八分に京都に着く『出雲3号』の二つの列車を、監視することが、一つの方法だ。つまり、十三日と十四日の二日、東京駅を出る『出雲3号』を監視するわけだ」 「他《ほか》の列車も、そうなりますね」 「ああ、そうだ」 「それが、許されるでしょうか? 私は、間違いなく、あの病院のレントゲン室の前で、ブルトレの八分停車の間に、人を殺すという男の声を聞いたんですが、それを、証明できません。それに、あの男は、ふざけていったのかも知れません。これだけのことで、刑事たちを動員して、六本の列車、それも、二日間にわたって、監視する許可が出るとは思えません」 「まあ、そうだね。国鉄に通知するだけでいいと、いわれるに決っている」 「もう一つの方法というのは、どういうことですか?」 「常識に従うということさ。カメさんは、七月十四日の『出雲3号』といったら、どう解釈するね?」 「当然、十四日に、東京駅を出発する『出雲3号』と、思います」 「私も、同じだよ。実際には、十四日から十五日にかけて走るわけだし、走っている時間は、十五日の方が、はるかに長いが、十四日の『出雲3号』といえば、十四日に、出発する列車と考える。犯人も、そのつもりで、喋《しやべ》っていたと思うのが、自然じゃないかな」 「では、六本とも、そう考えますか?」 「それで、まず、間違いないと思うね」 「しかし、それでも、六本の列車を、全部監視するのは、大変です。『出雲3号』一本でも、上の方は、許可してくれないんじゃありませんか?」 「それは、私が、課長に、話してみるよ。ただ、信じさせるものが、必要だね」 「しかし、警部。あの会話を聞いたのは、当人たちを除くと、私一人です」 「カメさんは、昨日当直だった医者と、看護婦じゃなかったかと、思うんだろう?」 「そうです。もう、真夜中に近かったですからね。男といえば、当直の医者と、インターンしか、いなかったと思います」 「じゃあ、その医者と、インターンに、当ってみようじゃないか。いや、カメさんは、爆弾を抱えているから、私が一人で、行って来よう」 「私は、大丈夫です」 「しかし、石が動き出したら、また、痛み出すよ」 「行くのは、病院ですから、痛み始めたら、また、注射をして貰《もら》います」  と、亀井は、いった。      7  一度いい出したら、あとには引かない亀井である。それに、彼のいう通り、行先が病院なら、万一の場合、入院してしまえばいい。  第一中央病院に着くと、十津川が、十一日の当直だった斉藤医師に、会わせて欲しいと、いった。  小柄な事務長が、応対してくれた。 「斉藤先生は、今日は、午後から出ていらっしゃいます。待って頂けますか?」 「同じ日に、インターンの人も、一緒に、当直されたようですね?」 「ええ。野口《のぐち》君です。彼も、間もなく、出て来ます」 「斉藤先生というのは、どういう方ですか?」 「何か、斉藤先生が、事件でも、起こしましたか?」 「いや。そんなことは、ありません」 「それならいいんですが……」 「おいくつの方ですか?」 「ええと、確か、三十二歳だと思いますよ」 「結婚は、されているんですか?」 「いや、まだだと思います」 「インターンの野口さんのことを教えて下さい」 「年齢は、二十五歳です。お父さんも、国立病院の医者でしてね。まじめな、インターンですよ」 「恋人はいますか?」 「さあ、そういうプライベートなことは、よくわかりませんね。そこまで干渉するのは、事務局の仕事じゃありませんから」  と、事務長は、いった。  四十分ほど待って、斉藤医師と、野口インターンが、顔を出した。  十津川と、亀井は、まず、斉藤医師に、話を聞いた。  背の高い、色白な、いかにも女性にもてそうな若い内科医である。 「昨日の当直されましたね?」  と、亀井が、きいた。 「ええ。しましたよ」 「どこにおられたわけですか?」 「内科診察室です」 「野口さんも、一緒でしたか?」 「ええ」 「夜から朝にかけて、ずっと、一緒にいらっしゃったんですか?」  亀井がきくと、斉藤は、苦笑して、 「男同士で、鼻を突き合せていても、退屈ですからね。隣りの外科の部屋で、寝転んでいたりはしましたよ。救急患者が来たら、すぐ、起こしてくれと、彼に頼みましてね」 「レントゲン室で、休んだことは、ありませんか?」 「なぜ、レントゲン室で、休まなければならないんですか?」  斉藤は、眉《まゆ》をひそめた。 「いや、あの部屋の方が、静かじゃないかと思いましてね」 「レントゲン室は、寝にくいですよ」 「野口さんのことを、どう思われますか?」 「彼のこと?」 「そうです。忌憚《きたん》のないところを、話して欲しいんですがね」 「そうですねえ」と、斉藤は、考えていたが、 「なかなか、まじめな青年ですよ。顔もいいしね」 「信頼が、おけますか?」 「もちろん。ただ、何といっても、まだ、インターンですからね。医者は、経験が、ものをいう職業です。それを考えれば、まだ、子供ですよ」 「彼に、彼女はいませんか? 例えば、この病院の看護婦の中に、彼の恋人は、いませんか?」 「うーん。野口君は、看護婦たちの間で、人気がありますからね。彼女たちの中に、いい仲になっている娘《こ》がいても、不思議は、ないと思いますよ」 「あなたは、どうですか?」 「僕?」 「そうです。あなたは、ハンサムだし、独身だと聞きました。若い看護婦の憧《あこが》れの的なんじゃないかな? 違いますか?」 「そんなことは、ありませんよ」  斉藤医師は、肩をすくめて見せた。      8  次に、十津川たちは、インターンの野口に話を聞いた。  平凡な顔立ちだが、大学時代、ラグビーをやっていたというだけに、がっしりした身体《からだ》つきをしていた。  ただ、喋《しやべ》っていて、時々、急に顔をしかめることがあった。どうやら、気が短かそうだった。 「斉藤医師のことを、どう思います?」  と、十津川が、きいた。 「どうって、まあ、いい先生じゃないですか」  そのいい方に、ちょっと、毒があった。 「斉藤医師を、嫌いなのかな?」 「そんなことは、ありませんよ」 「でも、批判的に見ているみたいですねえ」 「そりゃあ、どんな人にだって、欠点がありますからね」  また、毒の感じられるいい方だった。  十津川は、自然に、笑っていた。  野口は、眉《まゆ》を寄せて、 「何か、おかしいですか?」 「斉藤さんのことを、話してくれませんかね。われわれは、絶対に、秘密を守りますから、正直なところを話してくれませんか?」 「斉藤さんが、何かやったんですか?」  野口は、眼を光らせて、きき返した。 「いや、そうじゃありませんが、斉藤さんは独身だから、若い看護婦にもてるんじゃないかと聞いたら、野口君の方がもてるということなのでね。その点、どうなんですか?」 「僕は、もてませんよ。もてるのは、斉藤さんです。ただ、あの先生は、看護婦たちを、本心じゃ、馬鹿にしているんですよ。斉藤さんは、病院長の娘が、狙《ねら》いなんです」 「ほう。院長さんには、娘さんがいるんですか?」 「ええ。年頃《としごろ》の娘が一人いるんです」 「何という名前です?」 「鳥羽《とば》ゆう子さんです。斉藤さんは、彼女を狙っているんですよ。そのくせ、若くて、ちょっといい看護婦が入ってくると、それにも、ちょっかいを出すんです」 「あなたも、鳥羽ゆう子さんが、好きなんですね?」  十津川がきくと、野口は、急に、むっとした表情になって、 「僕のことは、どうでもいいでしょう。斉藤さんのことを、話してるんだから」 「じゃあ、もう少し、斉藤医師のことを聞きましょうか。彼は、感情の激しやすい性格ですか? 一見したところ、冷静で、理知的な感じを受けましたがね」  十津川がいうと、野口は、鼻にしわを寄せて、 「一見するとでしょう? 激しやすいかどうかわからないけど、冷たい人ですよ」 「具体的に、斉藤さんの冷たさを示すようなことが、ありましたか?」 「前に、看護婦が一人、馘《くび》になったことがあるんです」 「それが、斉藤さんと、何か関係があるんですか?」 「彼と関係があったんですよ。斉藤さんは、その彼女が、邪魔になったものだから、理由をつけて、馘になるように仕向けたんです」 「どんなふうにですか?」 「その娘《こ》に、変な噂《うわさ》が立ったんです。チンピラと付き合っていて、病院に保管されているモルヒネを盗み出したって噂ですよ。それで、馘になってしまったんです。ひどいもんですよ」 「いつ頃《ごろ》のことですか?」 「三か月ばかり、前です」 「本当に、病院のモルヒネが、なくなったんですか?」 「ええ。それで、看護婦の久保田保子《くぼたやすこ》が、疑われたんだけど、その噂を流したのは、斉藤さんだと、僕は思っているんです」 「彼女と、斉藤医師が関係があって、彼は、彼女にあきてきた。だから、モルヒネを盗んだという噂《うわさ》を流したということですか?」 「そうですよ」  野口は、むっとした顔のままである。 「昨日、斉藤さんと、当直をされたでしょう? その時、ずっと一緒に、いたんですか?」 「ほとんど、別室にいましたよ。向うだって、僕が好きとは思えないし、僕も、斉藤さんと一緒にいて、楽しくはありませんからね」 「あなたは、どこにいたんですか?」 「斉藤さんが、内科診察室にいるときに、僕は、別の部屋にいるようにしましたよ。その逆も、ありましたけどね」 「レントゲン室に行きましたか?」 「いや。行きませんよ」 「旅行は好きですか?」  横から、亀井が、きいた。 「ええ、好きですが——」 「どんな旅行が好きですか? 列車、それとも飛行機?」 「どっちでもいいでしょう?」  野口は、じろりと、亀井を睨《にら》んだ。      9  十津川と亀井は、院長の鳥羽|信介《しんすけ》に会ってみることにした。それに、一人娘の鳥羽ゆう子にもである。  院長は、久我山《くがやま》の自宅にいるということなので、二人は、タクシーを拾って、久我山に向った。  十津川は、運転手に向って、 「なるべく、静かに走らせてくれ」  と、頼んだ。乱暴な運転をされて、その振動で、亀井の石が動き出したら、困ると思ったからである。 「大丈夫です。腎臓結石《じんぞうけつせき》なんか、病気じゃありませんから」  亀井が、むきになっていうと、運転手は、バックミラーの十津川たちに向って、 「お客さん、腎臓結石ですか?」 「それが、どうしたんだ?」  亀井が、きき返した。 「実は、私も、あれで、苦しみましてね」  タクシーの運転手は、嬉《うれ》しそうにいい、それから、急に饒舌《じようぜつ》になって、自分が、いかに苦しんだかを、延々と喋《しやべ》り、次は、石を早く出すにはどうしたらいいかを、亀井に向って、教え始めた。  善意で教えてくれているだけに、亀井は、難しい顔で、黙って聞いている。  十津川は、笑いながら見ていたが、だんだん、亀井が可哀《かわい》そうになってきて、 「カメさんに聞きたいんだが」  と、口を挟んだ。  亀井は、ほっとした顔になって、 「何ですか?」 「今、斉藤医師と、インターンの野口の二人の声を聞いたわけだが、カメさんが、レントゲン室で聞いた声は、どっちだったね?」 「それなんですが——」  と、亀井は、当惑した顔になって、 「どちらも、似ているような気がするんです。それに、レントゲン室から聞こえた声は、狭い部屋の中で、こもっていましたからね。申しわけありませんが、どちらと、断定できません」 「そういえば、あの二人の声は、よく似ていたね」  十津川も、肯《うなず》いた。  久我山に着いた。  総合病院の院長宅だけに、白を基調とした洒落《しやれ》た邸《やしき》だった。  広い庭の青い芝生が、印象的である。  二階の、三十畳ぐらいはある応接室に通された。  大きな曲面ガラスの窓からの景色を眺めながら、十津川と亀井は、出された紅茶を飲んだ。院長の鳥羽は、うすく色のついた眼鏡をかけていた。  パイプをくわえた恰好《かつこう》が、板に着いているのは、長く、アメリカにいたからだろう。 「警察の方が、訪ねて来られたのは、初めてですよ」  と、鳥羽は、いった。 「無粋《ぶすい》な人間が訪ねて来て、申しわけありません」 「いや、楽しいですよ。普段、おつき合いのない職業の方と、話をするのは」  鳥羽は、にこにこ笑っている。 「病院に、医師の方は、何人いらっしゃるんですか?」  十津川は、そんなことから、質問を始めた。 「三十二人だったと思いますよ」 「斉藤医師は、もちろん、ご存知ですね?」 「ええ、若いが、よくやってくれていると思いますね」 「鳥羽さんには、お嬢さんが一人、いらっしゃいますね?」 「ええ。おりますよ」 「どんな方ですか?」  十津川がきくと、鳥羽は、 「呼びましょう」  と、あっさり、いった。  呼ばれて、入って来た娘を見て、十津川が、おやッと思ったのは、顔立ちが、欧米人の感じだったからである。  そんな十津川の気持を、鳥羽は、素早く察したとみえて、 「娘の母親は、アメリカの女性でしてね。私が、向うにいる時、結婚して、これが生れたんです。母親の方は、もう亡くなりましたが」  と、いった。  多分、娘のゆう子は、母親に似ているのだろう。 「お嬢さんに、伺いますが」  と、十津川は、眩《まぶ》しそうに、彼女を見て、 「斉藤医師を、ご存知ですか?」 「ええ、知っていますわ。一度、ゴルフに、一緒に行ったことがありますから」  と、ゆう子は、いう。 「インターンの野口さんも、ご存知ですか?」 「父は、毎年二回、病院で働く方を、全員、家に呼んでパーティを開くんです。ですから、野口さんにも、その時、お会いしたと思いますわ」  ゆう子は、落ち着いた声で、いった。      10  彼女が、部屋を出て行ったあと、十津川は、鳥羽に、 「お嬢さんの結婚については、どう、考えておられるんですか?」  と、きいてみた。 「一人娘ですからねえ。まあ、婿《むこ》を迎えることになると思っていますよ」 「病院の中の独身の職員も、候補の一人というわけですか?」 「そうですねえ。私としては、気心が知れていますからね。しかし、これは、全《すべ》て、娘の気持次第ですから」  と、鳥羽は、笑いながらいったが、急に真顔になって、 「斉藤君に、何か問題があるんですか?」 「いや、そんなことは、ありません。私も、立派な医師だと思いますよ」 「しかし、十津川さんは、捜査一課の刑事さんでしょう?」 「そうです」 「扱うのは、殺人事件のような凶悪事件だと聞いていますが」 「その通りです」 「その刑事さんが、斉藤君について、いろいろいわれると、いやでも、気になりますよ」 「心配をおかけしたら、謝ります」  と、十津川は、いった。 「これは、内密にして頂きたいのですが、斉藤医師が、何かの事件に、巻き込まれるのではないかという心配があるんです。それで、斉藤さんの周囲を調べているんです」 「どんな事件に、巻き込まれそうだというのですか?」 「それが、わからないのですよ」  十津川がいうと、鳥羽は、呆《あき》れた顔で、 「どうも、あいまいな話ですねえ」 「今は、それ以上のことは、いえないのですよ。ただ、何度も申しあげますが、斉藤医師が、事件の容疑者だとか、何かやりそうだとかいうことでは、全くありません。むしろ、何かの事件に、巻き込まれる恐れがあるので、心配しているわけです」 「なるほど」 「斉藤医師が、お嬢さんに、プロポーズしたことは、ありますか?」  亀井が、きいた。 「それは、ありませんね。しかし、うちでパーティをしたとき、斉藤君は、娘に、つき合って欲しいといったそうですよ」 「それで、お嬢さんは?」 「一度だけ、ゴルフにつき合ったようですが、そのあとは、私も、知りませんね」 「お嬢さんに、ボーイフレンドは、いるでしょうね? 魅力的な方だから」 「あれは、アメリカの大学を出ているものですからね。ボーイフレンドは、何人もいるようです。あまり、フランクに男性とつき合うと、日本では、誤解されるぞと、注意しているんですが」  鳥羽は、嬉《うれ》しそうな、それでいて、少しは当惑しているような表情をした。  その時、庭の方で、ばしッと、ボールを打つ音がした。  白いゴルフ・ウエアに着がえたゆう子が、練習用のボールを、打っているのだった。  長身が、むちのようにしない、白いスカートが、ひるがえる。 (見事だな)  と、十津川は、思った。  見とれる美しさだった。  これでは、あの斉藤医師が、夢中になるだろうと、思った。  十津川の視界に、急に、若い男が、入って来た。  彼は、打ち終ったゆう子に向って、拍手している。 「あの青年は?」  と、十津川は、鳥羽に、きいた。  鳥羽は、窓の外に、眼をやって、 「ああ、あれは、小野《おの》君といいましてね。この近くのスーパーマーケットの一人息子です。娘のボーイフレンドの一人ですよ」 「そうですか」  と、十津川は肯《うなず》いてから、 「お嬢さんは、明日、明後日のうちに、どこかへ旅行されるということは、ありませんか?」 「いや、そんなことは、聞いていませんね」  鳥羽は、娘と、小野というボーイフレンドの方を見ながら、いった。 [#改ページ]  第二章 七月十四日      1  鳥羽邸をあとにして、二人は警視庁に帰ったが、これでは、上司を説得するのは難しいなと、十津川は思っていた。  鳥羽の一人娘のゆう子は、ハーフ特有の美しさで、魅力的な娘である。  斉藤医師が、夢中になっていたとしても、不思議はない。  美しい上に、大病院の一人娘なのだ。結婚すれば、当然、その病院も、引きつぐことになるだろう。  だが、ゆう子には、ボーイフレンドが、沢山いる。やっと、ゴルフに一度、一緒に行っただけである。  斉藤医師とすれば、焦りが起きてくるに違いない。  わかるのは、ここまでである。  亀井の聞いた、「八分停車のときに、殺してやる」という男の言葉と、どこで結びついてくるのか、わからないのだ。  斉藤は、ゆう子を取り巻く男たちに、嫉妬《しつと》したのか。だから、その男を、殺そうとしているのか。  無理に、殺人の動機を考えれば、そんなところだろう。  しかし、亀井は、女の声も、聞いているのだ。  女は、笑っていたようだという。その男と女の関係は、わからない。だが、男が、他《ほか》に好きな女がいて、彼女を好きなあまり、ライバルの男を殺そうと考えることに、楽しそうに笑う女がいるだろうか? 「あれだけの美人なら、男にとって、殺人の動機になるんじゃありませんか?」  亀井が、十津川に、いった。 「それが、どう、殺人に絡《から》んでくるかだねえ。ふられた腹いせに、彼女を殺そうと考えているのか、それともライバルを消そうと思っているのか」 「いずれにしろ、漠然としすぎていますか?」 「そうだが、時間が、ない。とにかく、課長に、話してくるよ」  十津川は、腰をあげると、本多《ほんだ》捜査一課長に、会った。  温厚で、物わかりのいい本多だが、十津川の話を聞くと、さすがに、当惑した顔で、「うーん」と、唸《うな》ってしまった。 「そいつは、難しいねえ」 「亀井刑事の話は、信用がおけると思うんですが」 「私だって、カメさんが、本当のことをいっていると思うよ。優秀な刑事だし、彼が、聞いたというのなら、本当だろう。だが、いかにも、漠然としている。これだけの材料で、部長を説得するのは難しいねえ」 「八分停車する列車も、洗いあげましたし、レントゲン室の男は、恐らく、斉藤医師だと思うんです」 「彼が殺そうとしている相手は、鳥羽ゆう子を囲むライバルの男というわけかい?」 「と、思います」 「列車が、限定されたといっても、六本もあるんだろう。それに、斉藤医師が、犯人になると、決ってもいない」 「それはそうですが、問題は、切迫しています。われわれ警察は、事件が起きてから動き出しますが、犯人を逮捕しても、被害者の家族が、『犯人は捕まっても、死んだ人間は、戻らない』というのを、いつも辛《つら》く聞いています。今度は、犯行を事前に防いで、家族の悲しみの声を聞かずにすませられないものかと、思うんですが」 「その気持は、よくわかるがね。君は、その犯罪を防ぐために、六本の列車に、刑事を乗せたいと、思っているんだろう?」 「そうです」 「北海道を走っている寝台急行『大雪3号』にもかね?」 「札幌発の列車ですから、明日、羽田を飛び立っても、間に合います」 「それはそうだが、一列車に、一人の刑事というわけにはいかんだろう?」 「出来れば、二人乗せたいと思っていますが」 「すると、六列車で、十二人か。カメさんの予想が当って、事件が起きたとしても、六本の列車全部で、事件が起きるわけじゃない。あとの五本は、無駄になってしまうわけだよ」 「そうです。しかし、殺人を防げることを考えれば、無駄とはいえないと思います」 「十二人の刑事をねえ」  と、本多は、考え込んでしまった。      2  それでも、本多は、十津川と一緒に、三上《みかみ》刑事部長に、会いに行ってくれた。  三上は、十津川の話の途中で、もう、手を振っていた。 「そりゃあ、駄目だ。凶悪事件が、頻発《ひんぱつ》している時に、十二人もの刑事を、起きるかどうかわからんことに、差し向けられると思っているのかね」 「殺人は、必ず行われます」  と、十津川は、いった。 「それは、君一人の判断だろう?」 「亀井刑事も、同じように、確信しています。一人の人間が、殺されようとしています。それを防ぐためなら、十二人どころか、二十人、五十人の刑事を動員しても、惜しくはないと思います」 「そりゃあ、青くさい理屈だよ。現実を見たまえ。都内だけでも、一日に一件は、殺人事件が発生しているんだ。これが、現実だよ。起きるかどうかわからんことに、十二人もの刑事を割《さ》いてしまったら、どんなに非難されるかわからんよ」 「駄目ですか?」 「駄目に、決ってるじゃないか」 「しかし、部長。殺人は、必ず起きます」 「絶対とはいえんだろう? 無理だよ。どうしても、君が、必要だというのなら、国鉄に連絡したらいいだろう。国鉄だって、まじめには取り合わんだろうがね」  三上は、肩をすくめるようにして、いった。  本多が、後から、いろいろいってくれたのだが、三上は、駄目だの一点張りだった。  十津川と本多は、仕方なく、諦《あきら》めて、部長室を出た。 「気の毒をしたね」  と、廊下に出てから、本多が、いった。 「いや、予想どおりでしたから、それほど、失望していません」  と、十津川は、いった。 「どうするね?」 「一応、国鉄側に、連絡します。向うが、どう対応するか、わかりませんが」 「君は、本当に、殺人事件が起きると、信じているのかね?」  本多は、立ち止まって、十津川を見た。 「もちろん、信じています」 「ふーん」  と、本多は、鼻を鳴らしていたが、 「その確信が、どこから出てくるのか知りたいねえ。刑事としての勘かね?」 「その方なら、私より、亀井刑事の方が、何倍か、秀《すぐ》れています。その亀井刑事が、確信しています。だから、私も、事件は起きると確信しているんです」  十津川は、きっぱりと、いった。  十津川は、自分の部屋に戻ると、すぐ、国鉄総裁秘書の北野《きたの》に電話をかけた。  十津川は、これまでのことを、そのまま、伝えた。 「殺人ですか——」  と、いう北野の声には、明らかに、半信半疑の調子があった。  無理もなかった。いきなり、六本の列車のどれかで、殺人があるといわれても、すぐには、そうですかとは、肯《うなず》けないだろう。 「そうです。殺人です。この六本の列車の乗務員に、注意しておいてくれませんか」 「わかりましたが、本当に、事件が起きるんですか?」 「起きると思って、注意しろと、いって下さい。これは、冗談《じようだん》ではないんです。間違いなく起きると、思っています。それを、防いで下さい」 「すぐ、連絡しておきます」  と、北野は、いった。  十津川は、受話器を置いてから、亀井を見て、小さく溜息《ためいき》をついた。 「どうでした?」  と、心配そうに、亀井が、きく。 「一応、各列車の乗務員に、連絡すると、いったがね」 「期待できませんか?」 「いきなり、その列車で、人殺しがあるといわれて、カメさんは、信じるかね?」  十津川がきくと、亀井は、「そうですねえ」と、考えてから、 「半信半疑でしょうね」 「私だって、同じさ。それに、警戒してくれといわれても、どうしていいかわからないんじゃないかね。殺される人間が、わからないんだからね」 「そうですね」 「このまま、じっと、成り行きを見守っていなければならないというのは、歯がゆいねえ」 「一番、可能性のあるのは、どの列車でしょうか?」  亀井は、じっと、黒板を見すえた。  あまりに、真剣な眼つきなので、十津川が驚いて、 「カメさん。まさか、自分で、その列車に、乗ろうというんじゃないだろうね?」 「そんな気はありません」 「君は、身体に、時限爆弾を、抱えているんだからね」 「冷静に考えてみると、北海道は、違うような気がしますね。犯人は、東京の人間ですから、東京を出発するブルートレインのような気がします」  亀井は、ひとりごとのように、いった。  十津川も、つられて、黒板に眼をやった。  亀井は、言葉を続けて、 「その考えでいくと、『日本海』も、大阪と青森間を走っていて、東京は、通りませんから、除外できるのではないかと思います」 「残るのは、『出雲』と、『あけぼの』ということになるね」 「そうです。『出雲』は、東京——出雲・浜田間ですから、可能性は強いと、思います。『あけぼの』は、上野——青森間ですから、やはり、無視できません」 「そうだな」 「どうしても、この中、一列車だけにしぼるとしたら、警部は、どれが一番、無難《ぶなん》だと思われますか?」 「そうだねえ」  十津川は、考え込んだ。 「私は、『出雲3号』だと思いますね」  と、亀井が、いった。 「なぜだい? カメさん」 「犯人は、東京の人間です。とすると、狙《ねら》われる人間も、東京の人間と考えるべきだと思うのです」 「それで?」 「普通、東京の人間が、列車に乗って、その列車の停車時間に殺すというと、東京を出る下り列車と考えるんじゃないでしょうか。東京へ来る上り列車の場合は、十四日の、というより、十四日に着く列車というようないい方をすると思うのです」  と、亀井が、いった。  十津川は、亀井の推理に、次第につられてきて、 「同感だね。東京の人間が、十四日の列車というと、だいたい、東京を十四日に出る下り列車のことになるね」 「そう考えると、『出雲2号』と、『出雲4号』は、上り列車ですから、除外していいと思います」 「あと、二本だね。両方とも、下り列車だよ」 「私は、この中、どちらを除外するかといえば、『あけぼの1号』を、除外します」 「それは、東京発ではなく、上野発だからかね?」  十津川がきくと、亀井は、首を横に振って、 「八分停車の時刻です」 「と、いうと?」 「上野発の『あけぼの1号』は、秋田に、午前六時丁度に着き、八分間停車します。七月現在、六時というと、もう、充分に明るくなっています。それに、秋田は、大きな駅ですから、かなりの乗客が、降りると思うのです。そんなところで、わざわざ、殺人はしないと思うのです。それに比べると、『出雲3号』の場合は、問題の京都着が、午前三時三八分という理屈です。乗客のほとんどは、眠っている筈《はず》です。殺人には、絶好の時間帯だと思うのですよ」  亀井は、熱っぽく、いった。  十津川は、その言葉に、かなりの説得力を感じた。 「カメさんのいう通りだ。私も、どれか一本といわれれば、『出雲3号』を、マークするね」  と、十津川は、いった。      3  その日の夕方、十津川が、ふと、部屋の中を見廻《みまわ》すと、亀井の姿が、なかった。 「カメさんは、どこへ行ったんだ?」  と、十津川がきくと、日下刑事が、 「カメさんは、帰りました」 「帰った?」 「はい。石が動き出したらしいので、痛みが激しくならないうちに、医者へ行ってくるので、警部には、よろしくいっておいてくれと、いっていました」  と、日下は、呑気《のんき》にいった。  十津川の顔が、峻《けわ》しくなった。 「君は、それを、信じたのか?」 「はい。カメさんは、腎臓結石《じんぞうけつせき》ですから」 「馬鹿!」  と、十津川は、怒鳴《どな》った。 「少しばかり、痛み出したくらいで、あわてて医者へ行くカメさんじゃないよ。きっと、『出雲3号』に、乗りに行ったんだ」 「本当ですか?」 「間違いない」  十津川は、腕時計を見た。  午後七時半を過ぎている。  出雲3号は、二一時〇〇分に、東京を出発する。  今から行けば、間に合うが、三上部長と約束しているから、十津川が行くわけにはいかなかった。 「日下君。君は、すぐ、東京駅へ行け。『出雲3号』に、乗るんだ。普段なら、カメさん一人でもいいが、いつ倒れるかわからない身体だ。君が一緒に行って、倒れたら、すぐ、病院へ運ぶんだ」 「わかりました」 「カメさんが、暴れても、かまわずに、最寄《もよ》りの病院に連れていくんだ。わかったな?」  十津川は、念を押した。 「わかりました。絶対に、病院に入れます」 「よし。すぐ行け」 「カメさんが、大丈夫だったら、どうしますか?」 「君も一緒になって、殺人事件が起きるのを、防ぐんだ」  と、十津川は、いった。  日下は、すぐ、飛び出して行った。  それを見送ってから、十津川は、ふうっと、吐息《といき》をついた。 (カメさん。身体《からだ》を大事にしてくれないと、困るよ)  と、思う。  三十分ほどして、日下から、電話がかかった。 「東京駅に着きました。ホームを見て来ましたが、カメさんは、見つかりません。列車もまだ、入線していません」 「カメさんは、必ず、『出雲3号』に乗るよ。君も、切符を買って、乗り込むんだ」 「カメさんを見つけたら、どうしますか?」 「そうだな」  十津川は、ちょっと考えた。  亀井は、自尊心が強い。負けず嫌いでもある。  十津川が、心配して、日下を行かせたと知ったら、内心感謝しても、眉《まゆ》をひそめるだろう。 「しばらくは、見守っていてくれ。カメさんが、倒れそうになったら、私がいったように、車掌に頼んで、列車を停《と》めて貰《もら》い、救急車を呼ぶんだ。そうでなければ、いざという時まで、かくれていた方がいいね」 「その通りにします」  と、日下は、いった。  十津川は、本多捜査一課長にだけは、話しておくことにした。  本多は、話を聞くと、苦笑して、 「カメさんらしいが、大丈夫かね? カメさんは、得がたい人材だからねえ」 「日下君がついているから、大丈夫だと思います」 「それで、君も、『出雲3号』が、本命だと思うのかね?」 「カメさんの推理には、説得力があります。私も、犯人が狙《ねら》うとすれば、この列車でだと思います」 「夜中の三時か」 「殺人には、絶好の時刻です」 「しかし、狙われる人間が誰《だれ》かは、わからないんだろう?」 「残念ながら、わかっていません」 「じゃあ、どうやって、守るんだね?」 「それは、カメさんに委《まか》せます。乗客の中に、斉藤医師がいれば、彼をマークすればいいと思うのです。彼が、容疑者第一号ですから」  と、十津川は、いった。      4  日下は、改めて、寝台特急「出雲3号」の終点出雲市までの切符を買って、ホームに戻った。 「出雲3号」は、八両連結である。日下は、中央の5号車の寝台にして貰《もら》った。万一、車内で事件が起きた時、どちらの端にも、行きやすいようにである。  午後六時前後は、東京駅が、ブルートレインのラッシュになる。  一六時四五分(四時四十五分)に、最初のブルートレイン「さくら」が、長崎・佐世保に向って出発したあと、「はやぶさ」「富士」と、次々に、東京駅を出て行く。  日下が、ホームに入った午後八時過ぎになると、ブルートレインは、あらかた出発してしまっていて、「出雲3号」のあとは、二二時四五分に出る大阪行の寝台急行「銀河」だけになっていた。  八時三十分になると、10番線に、日下の乗る「出雲3号」が、ゆっくり、入線してきた。  日下は若いが、それでも、夜行列車を見ると、なつかしさを感じて、嬉《うれ》しくなってくる。子供の時の憧《あこが》れが、よみがえってくるからだろう。  小学生の頃《ころ》、青い車体と、闇《やみ》の中に消えていく赤いテールライトを見る度に、一度、あれに乗りたいと、思っていた。  子供の時は、その列車が、現実の駅に連れて行ってくれるというよりも、どこか、お伽《とぎ》の世界へ連れて行ってくれるような気がしたものだった。  大人になった今は、もちろん、眼の前のブルートレインが、お伽の国へ行くわけではなく、京都を通って、山陰へ行くことは、わかっている。  だが、日下の頭の中には、まだ、子供の頃の夢の部分が残っていて、それが、「出雲3号」に、夢を抱かせるのだ。  日下は、すぐには乗り込まず、ホームを歩きながら、一両ずつ、のぞいていった。  出雲3号は、個室A寝台一両で、あとの七両は二段式B寝台である。  ホームには、この時間でも、まだ、カメラを構えた子供たちがいて、彼|等《ら》の人気は、やはり、個室寝台に集っていた。  通路にそって、十四の個室が並んでいる。  誰《だれ》でも一度は、乗ってみたい車両だろうし、子供には、洗面台まである個室が、楽しいのだろう。  通路にまで入って行って、写真を撮っている子供もいた。  まだ、発車までに、二十分はあるせいか、乗客は、一人、二人と、ホームにあがって来て、列車に、乗り込んでいく。  日下は、その中に、亀井刑事の姿を探したが、なかなか、見つからなかった。  十津川にいわれているので、もちろん、見つけても、声はかけないつもりだったが。  日下は、第一中央病院の斉藤という医師に会っていないから、顔は、わからなかった。  十津川と亀井から、どんな顔か、背の高さなどを聞いてはいたが、すぐわかるかどうか、自信がなかった。  発車時刻が近づくにつれて、まとまって、乗客が、ホームに現われるようになった。  二一時発のため、この列車には、食堂車はついていない。  そのせいか、駅弁とお茶を下げて、乗り込む乗客もいた。  日下も、急に飛び出して来たので、東京駅に着いてから、幕の内弁当とお茶を買った。  日下は、亀井刑事が、見つからないままに、5号車に、乗り込んだ。  今日は、日曜日なのだが、乗客の数は少なかった。せいぜい、三十パーセントくらいの乗車率だろう。  一番端の17の下段の寝台だった。  上段の方は、空《あ》いている。  日下は、寝台に腰を下すと、買って来た弁当を、食べ始めた。  列車が、動き出した。  だんだん、スピードが、あがっていく。 (本当に、この列車の中で、殺人が行われるのだろうか?)  日下は、窓の外を流れる夜景を見ながら、考えてみた。  どうしても、そんな緊迫感は、感じられない。 「ブルトレの中で、八分停車を利用して、殺してやる」という男の言葉を聞いたのが、日下自身だったら、きっと今|頃《ごろ》、緊張しきっているだろう。  残念ながら、聞いたのは、亀井刑事である。だから、どうしても、切迫した感じになれない。  車内も、すいているせいか、静かだった。  まだ、寝られずに、仲間と話をしている乗客もいる。  日下は、食事がすむと、これも、東京駅に着いてから買った時刻表を、広げてみた。  寝台特急「出雲3号」は、横浜、熱海《あたみ》、沼津《ぬまづ》、静岡と停車したあと、京都に、午前三時三八分に着く。そして、八分停車。 (この前に、「出雲1号」が、出ているが、こちらは、京都で、八分停車しないのだろうか?)  同じ山陰行のブルートレインである。  それに、上りの「出雲2号」も「出雲4号」も、京都で、八分停車することになっている。  黒板にも、対象のブルートレインとして、「出雲2号」と「出雲4号」も、書いてあったのを、日下は見ている。  そして、「出雲3号」もである。書いてなかったのは、「出雲1号」だけだった。 (十津川警部と、カメさんが、見落としたのではないのか?)  と、日下は、思った。  あわてて、日下は、時刻表を見直した。  寝台特急「出雲1号」は、一八時一五分に東京駅を出ている。 「出雲3号」より、二時間四十五分前である。  現在、静岡と、浜松の間を走っている筈《はず》だった。  時刻表を見たが、「出雲1号」は、肝心の京都を、通過することになっている。 (おかしいな)  と、思った。 「出雲1号」も、「出雲3号」も、東海道本線を走り、京都で、山陰本線に入る。  山陰本線は、非電化なので、京都まで、電気機関車で牽引《けんいん》して来たが、ここで、ディーゼル機関車に、交換しなければならない。  そのための八分停車である。  それなら、「出雲1号」も、京都で、ディーゼル機関車への交換が必要の筈《はず》だった。 (時刻表に書いてなくても、停《と》まるんだ)  と、思い、どうしたらいいかと、考え込んだ時、車内改札が、始まった。  車掌長と、もう一人、専務車掌がコンビでやって来たのだが、車掌長の改札を見守っている専務車掌を見て、日下は、「あれ?」と、思った。  車掌の制服を着ているが、帽子の下の顔は、明らかに、亀井刑事だったからである。      5  二人は、6号車へ移って行った。が、しばらくすると、亀井だけが、戻って来た。 (ちょっと来い)  と、眼で、日下に合図して、デッキに誘った。  日下が、デッキに出て行くと、 「どうしたんだ? なぜ、来たんだ?」  と、叱《しか》られた。 「警部の命令ですよ。それより、なぜ、『出雲1号』を、マークしなかったんですか?」 「あれは、京都には、停まらないからだ」 「いえ、停《と》まりますよ。停まらなければ、非電化区間に入るのに、ディーゼル機関車と、つけかえられないじゃありませんか」 「運転停車だ!」  と、亀井が、叫んだ。  顔色が、変っている。  亀井は、あわてて、さっきの車掌長を連れて来た。山下《やました》という五十五歳になる車掌長である。 「この列車の前に出た『出雲1号』ですが、京都に停車しますか?」  と、亀井が、きいた。  山下は、「ええ」と、肯《うなず》いた。 「ただし、運転停車ですから、乗客の乗り降りは、ありませんが」 「停車時間は、何分ですか?」 「この『出雲3号』と同じ八分停車です」 「畜生!」  と、亀井が、舌打ちした。 「何時に、『出雲1号』は、京都に着くんですか?」  と、亀井が、きいた。 「午前一時前後だったと思います。一時〇二分じゃなかったかな」 「八分停車の間、間違いなく、乗客の乗り降りは、ありませんか?」  亀井が、念を押した。 「ありません。第一、客車のドアは、開けませんから」 「京都の次の停車駅は、福知山《ふくちやま》でしたね?」 「そうです」 「福知山に着くのは、時刻表によれば、二時三六分になっていますが、この間、どこにも停《と》まりませんね?」 「ええ。停車しません」 「それならば、たとえ、京都駅の八分間の運転停車中に、車内で、殺人を犯しても、犯人は、福知山まで、逃げられないことになる」  亀井は、少しばかり、ほっとした表情になっていた。 「斉藤という医者は、この『出雲3号』に、乗っていたんですか?」  と、日下は、亀井にきいた。 「いや、見つからなかった。だから、余計に、『出雲1号』のことが、心配になってきたんだがね」 「しかし、この列車に乗っていないとは、いい切れないんじゃありませんか? 全部の寝台を、確かめられたわけじゃないんでしょう?」 「まだ、事件が起きているわけじゃないからね。乗客の中には、もう寝台にもぐって、カーテンを閉めてしまっている者もいる。カーテンの間から、切符だけ見せるんだ。それを、カーテンを押し開けて、乗客の顔を見るわけにはいかないからね」 「そういう乗客が、何人かいたわけですか?」 「五、六人はいた」 「じゃあ、その中に、斉藤医師がいる可能性があるわけでしょう?」 「可能性はある」 「大丈夫ですよ。『出雲1号』では、何も起きませんよ。考えてみれば、運転停車では、車内で殺人を犯しても、犯人自身、逃げられないわけですからね。そんな冒険を、犯人がやるわけはありませんよ」  日下は、なぐさめるように、亀井にいった。 「君が、『出雲1号』をマークしろと、いったんだぞ」 「そうなんですが、犯人も逃げられないのを忘れていました」 「本当に、逃げられないかな?」  亀井は、まだ、不安気だった。 「出雲1号」は、マークする六本の列車に入れてなかったのだ。国鉄側にも、連絡していないのである。  そのことも、亀井を、不安にさせていた。 「この列車から、『出雲1号』に、連絡は出来ませんか?」  と、亀井は、山下車掌長にきいた。 「直接には、出来ませんが、まだ、午前一時になっていませんからね。何とか、連絡は出来ます」  山下は、時計に眼をやった。 「この列車が、間もなく、沼津に着きます。あと七分です。それまでに、どんなことに注意したらいいのか、メモして下さい。沼津駅から、『出雲1号』の車掌長に連絡して貰《もら》います」 「上手《うま》くいきますか?」 「この列車の沼津着が、二二時四四分です。二分停車しますから、その間に、あなたの書いたメモを、助役に渡します。沼津から、名古屋へ、助役から、そのメモ通りに、連絡してくれます。先行している『出雲1号』の名古屋着は、二三時〇二分ですから、間に合います。名古屋の駅員が、『出雲1号』の車掌に伝えますよ」 「すぐ、書きます」  亀井は、手帳を取り出すと、ボールペンで、連絡事項を、書いていった。  京都駅での八分間の運転停車を利用して、殺人を考えている人間がいるから、注意して欲しい。  どんな方法をとるのか、誰《だれ》が殺されるのかも不明だが、列車内の全《すべ》てに、気を配って、未然に防いで貰いたい。  出来れば、名古屋駅から、公安官に同乗して欲しい。  犯人の可能性のある人間として、第一中央病院の斉藤医師がいる。もし、乗客の中に、その人物がいるのがわかったら、マークされたい。  斉藤医師の顔容や、スタイルも、書いておいた。  書いたページを破いて、亀井は、山下車掌長に、渡した。  沼津駅に着くと、山下は、ホームに降り、助役を探して、メモを渡し、名古屋駅への連絡を頼んだ。 「これで、確実に、『出雲1号』に、伝わります」  と、山下は、いった。      6 「結果は、いつわかりますか?」  と、亀井は、きいた。 「出雲1号」の京都駅運転停車で、何も起きなかったとなれば、こちらの列車が、一層危険になってくるのだ。  こちらの「出雲3号」が、京都駅に着くまでに、それを知りたい。  山下車掌長は、冷静に、 「それは、大丈夫だと思います。『出雲1号』が、京都駅に運転停車している間に、何か事件が起きたか、起きなかったかは、全部駅でわかる筈《はず》です。午前一時十分|頃《ごろ》までには、わかるということです」 「しかし、その時点で、京都駅から、走っているこの列車に、連絡が、とれますか?」 「それは出来ませんが、簡単な方法で、事件が、あったかなかったかだけなら、連絡の方法があります。今『出雲3号』が、だいたいどの駅を、何時頃に、通過するかは、わかっています。例えば、豊橋《とよはし》駅を通過するのは、午前一時四十分頃です。京都駅から、豊橋駅へ連絡して貰《もら》い、合図を決めておいて、この列車に、ホームで、その合図を送って貰えばいいのです」 「わかりました」  亀井は、肯《うなず》いた。  次の静岡駅で、連絡しなければならない。 「出雲3号」の静岡着は、二三時二七分である。  亀井と、日下、それに山下車掌長に加わって貰って、合図の方法を考えた。  一番最初に考えたのは、ホームで、カンテラを振って貰う方法だった。「出雲1号」の車内で、殺人が発生したら、カンテラは赤い色をつけて振って貰い、何事もなければ、青と考えたのだが、これでは、運転士が、本物の信号と間違える心配があった。間違えないまでも、まぎらわしいことは、確かだった。  といって、駅員の一人が、ホームで手を振るだけでは、見過ごしてしまう心配があった。  寝台特急「出雲3号」の平均速度は、六十四、五キロだろう。豊橋で合図して貰うとして、深夜だから、列車はあまりスピードを落とさずに、駅の構内を通過していくに違いない。  駅員の一人が、手を振ってくれていても、見逃す恐れがあった。  そこで、手間だが、駅員五、六人に、ホームに並んでいて貰うことにした。  午前一時四十分頃といえば、近郊線の終電車も出てしまっているだろうから、ホームには、乗客はいないだろう。 「出雲3号」が、通過したあと、豊橋駅に停《と》まる電車は、午前四時五四分着の大垣《おおがき》行の普通電車になってしまうのである。  だから、ホームに、乗客のいる筈がなく、駅員が、五、六人並んでいても、乗客とまぎれることはない筈である。  もし、「出雲1号」が、京都で運転停車している時、車内で殺人が起きたら、豊橋駅のホームに並んだ駅員たちに、面倒でも、白い紙を眼の前に広げて、持っていて貰う。等間隔に並んだ五、六人の駅員が、白い紙を持っていれば、まず、見落とさないだろう。  何も京都駅で起きなかったら、駅員には、何も持たずに、ホームに並んでいて貰うことにしたい。  人の気配のないホームに、制服姿の駅員が、五、六人並んでいれば、目立つだろう。 「この方法にして下さい。事件が起きた時には、白い紙というのを、強調しておいて下さい。逆になってしまうと、大変ですから」  と、亀井は、山下車掌長に、いった。  静岡に着いたのは、定刻の二三時二七分だった。  二分間停車の間に、山下車掌長が、また、駅員に、伝言を書いたメモを、渡してくれた。 「少し横になられたらどうですか?」  と、日下が、亀井に、いった。 「何をいってるんだ? これからが、正念場だぞ」  亀井は、車掌の制服のまま、日下に、文句をいった。 「それは、わかりますが、石が動いたら大変ですから」 「忘れてるのに、思い出させないでくれよ」  と、亀井は、また文句をいった。 「申しわけありません。しかし、十津川警部が、カメさんの身体のことを、くれぐれも、注意しろといわれていましたから」 「今は、それより、『出雲1号』の車内で、殺人事件が起きるかどうかの方が、心配なんだ。私の腎臓《じんぞう》結石のことなんか、どうでもいい」 「この列車でなくて、『出雲1号』の方で、事件が起きると、お考えですか?」 「それはわからんよ。だが、こっちの列車の中でなら、私も、君も乗ってるんだ。何とか防ぐ手段があるじゃないか。『出雲1号』の方では、手も足も出ん。だから、いらいらしてるんだ」  亀井は、腕時計に眼をやった。もう、何回、時計を見たかわからない。 「出雲3号」に、乗ってしまっているのだから、いくら時間を気にしても、どうしようもないことは、亀井自身よくわかっていた。 「出雲1号」が、京都駅に、運転停車する時には、亀井も、日下も、「出雲3号」に乗っている。時間は同じでも、場所が違っていては、どうにもならないのだ。      7  十津川も、同じように、警視庁の捜査一課で、腕時計を見ていた。  新しい事件は、起きていなかったが、十津川は、家に帰らなかった。亀井のことが、心配だからである。  亀井からも、日下からも、連絡がなくなっていたが、十津川は、亀井が「出雲3号」に乗ったことを、確認していた。  亀井は、家に帰っていない。奥さんには、一言、「ちょっと京都へ行ってくる」とだけ、いったという。「ちょっと」というのが、いかにも亀井らしかった。  亀井の仕事に、十津川は、不安を持ったことはない。だが、今回は、彼の身体《からだ》のことが心配だった。仕事に熱心なあまり、無理をして欲しくなかった。  といって、今から、「出雲3号」に乗っている亀井に連絡し、すぐ、帰って来いといっても、彼が、仕事を途中で放棄して、戻ってくる筈がなかった。  それなら、こちらでも、新しい事件が起きていないのを幸い、亀井に対して、側面援助をしてやろうと、十津川は、決めた。  今度の事件、いや、まだ、何も起きてはいないのだから、事件とは呼べないだろう。今度のことは、第一中央病院で、亀井が、殺人を予告する男の声を聞いたことに、始まっている。  男が、誰《だれ》かは、わからない。  だが、一番、怪しいのは、斉藤医師である。  彼が、ブルートレインの八分停車を利用して、誰かを殺そうとしているとすれば、現在、東京にはいない筈《はず》である。  十津川は、清水《しみず》刑事に、それを調べさせた。  斉藤医師は、四谷《よつや》のマンション住いだった。新築マンションの最上階、十一階の一一〇三が、斉藤の住居の筈である。  清水が、十四日の夜の十二時近くに、訪ねてみたが、いくらベルを鳴らしても、応答はなかった。  電話番号を調べて、外からかけてみたが、同じだった。  今夜は、彼は、当直ではない。まだ、銀座あたりで飲んでいるのかも知れないが、ブルートレインに乗り込んでいる可能性だってある。  斉藤医師が、もし、犯人だとしたら、被害者は、誰なのだろう?  狙《ねら》われる可能性があるのは、第一に、鳥羽院長か、一人娘の鳥羽ゆう子である。だが、その父娘の所在について、久我山の自宅に電話しても、お手伝いが出るだけで、「もうお休みになっていらっしゃいます」の一点張りだった。  まだ、何の事件も起きていないのでは、それが事実かどうか、鳥羽邸に踏み込んで、確認のしようがない。  もう一人、インターンの野口がいる。  彼は、中野《なかの》の1LDKのマンション住いだったが、深夜の十二時過ぎに、電話を入れても、応答はなかった。  清水刑事に、野口のマンションも訪ねさせたが、応答がないのは、同じだった。 (斉藤医師も、インターンの野口も、夜の十二時になっても、独身の気安さで、飲み歩いているのだろうか? それとも、二人とも、ブルートレインに乗っているのだろうか?)  十津川は、後者のような気がした。もし、後者なら、亀井の考えの正しさが証明される。      8 「あと五、六分で、豊橋駅を通過します」  と、山下車掌長が、亀井と日下に、教えてくれた。  すでに、午前一時三十五分になっている。 (京都駅で、八分間の運転停車をすませた「出雲1号」は、とっくに、山陰に向って、発車してしまっているな)  と、亀井は、自分にいい聞かせた。  果たして、その八分間の間に、殺人事件が起きたのだろうか?  走り続けている列車の中にいる亀井には、それを確認しようがない。 (しかし、八分停車を利用して殺すというのは、どういうことなのだろうか?)  と、亀井は、考えてしまう。  走行中の列車の中で殺すのなら、別に、停車時間を利用することはないのではないか。  走行中に、殺してしまえばいいのだ。  八分間停車を利用してということで、まず考えられるのは、その間に、殺して、逃げるということである。  二分や、三分の停車では、車内で殺してから、逃げるのは、難しいだろう。相手に抵抗でもされたら、五分あっても、難しいに違いない。  といって、停車時間が長ければいいというわけでもない。  犯人の身になって考えてみれば、それがよくわかる。  犯人は、多分、こう考えているのだろう。狙《ねら》う相手と一緒に、ブルートレインに乗る。  目標の駅の直前で、犯人は、相手を殺し、列車が、その駅に着くと、素早く、ホームに飛び降りる。  一刻も早く、駅から逃げ出すことを、考えるだろう。  その間に、列車は、車内で人が殺されているのも知らずに、発車してしまった方がいい。列車が走り出してしまえば、たとえ、死体が見つかっても、警察への連絡が、おくれるからである。  もし、停車時間が、十五分も、二十分もあったら、列車が停車している間に、死体が発見されてしまう心配がある。そうなったら、素早く、警察への手配が行われ、非常線が張られてしまうだろう。  とすると、犯人にとって、八分間という時間が、一番、適切だと、思われたのだろうか。 (列車内で殺して、停車と共にホームに逃げることを考えているとすると、運転停車では、逃げられない筈《はず》だ)  と、亀井は、思った。  それなら、「出雲1号」に、犯人も、狙《ねら》われている人間もいないだろう。  亀井は、そう考えて、少しは、気持が落ち着くのを覚えた。  こうしている間にも、「出雲1号」の車内で、すでに殺された死体が、横たわっているのでは、刑事として我慢できないからである。  日下が、亀井の方を見ている。  彼が、何を考えているのか、亀井には、わかっている。亀井の身体《からだ》のことを、心配しているのだ。  さっきは、「カメさんは、寝台で、横になっていて下さい。『出雲1号』で、事件が起きるとしたら、われわれには、どうすることも出来ないし、こちらの『出雲3号』ということになれば、まだ、十分に、時間がありますから」と、日下は、いった。  それに対して、亀井が、この切迫している時に、寝てなどいられるかと、叱《しか》り飛ばしたので、今は、何かいいたそうにしながら、黙っているのだ。  その表情が、何ともおかしくて、亀井は、つい、吹き出してしまった。が、その瞬間、左|脇腹《わきばら》に、ちくっと、小さな痛みを感じた。 (来たかな?)  と、亀井が、顔をしかめた。 「刑事さん。乗務員室からの方が、見やすいですよ」  山下車掌長が、いってくれた。  亀井は、礼をいって、乗務員室に入れて貰《もら》った。  ブルートレインは、客車の窓が開かないが、乗務員室の窓だけは、開くようになっている。確かに、窓を開けて見た方が、確認しやすいだろう。 「運転士にも、車内電話で、豊橋駅のホームのことは、知らせてありますから、確認してくれる筈《はず》です」  と、山下車掌長が、いった。 (腹が痛まないでくれよ)  亀井は、そっと、左脇腹をおさえながら、祈った。 「間もなく、豊橋駅に入ります」  と、山下車掌長が、うしろで、いった。  亀井は、乗務員室の窓を開けた。  とたんに、ひんやりとした夜の空気が、飛び込んで来た。  亀井は、顔を突き出すようにして、前方を見つめた。  前方に、豊橋駅の明りが見える。  鉄柱や、架線や、信号が、後方に飛び去って行く。  ほんの少し、列車のスピードが、落ちたような気がした。豊橋のホームが、近づいて来たからだろうか。  亀井は、眼をこらした。 [#改ページ]  第三章 七月十五日      1  駅員が、並んで立っているのが見えた。  一人、二人、三人、——五人いた。  亀井の乗った「出雲3号」は、あっという間に、豊橋駅のホームを通過した。 「何も持っていませんでしたね」  山下車掌長が、亀井を振り向いて、緊張した声で、いった。 「そうです。手に、何も持っていませんでした。『出雲1号』では、京都で、何も起きなかったんですよ」  亀井も、緊張した声を出した。 「すると、この『出雲3号』で?」  と、きいた山下車掌長の顔が、蒼《あお》かった。 「その可能性が、強くなって来ましたね」 「どうしたらいいんですか?」  山下が、きく。 「殺人が行われるとしても、この列車が、京都へ着いてからの八分間です。それを防ぐのは、われわれがやりますから、委《まか》せて下さい」  亀井は、日下刑事を、呼んだ。  日下の顔も、緊張している。 「どうやら、舞台は、この『出雲3号』らしい」  と、亀井は、日下にささやいた。 「そうらしいですね」 「京都着は、三時三八分だから、あと二時間半ある。あわてる必要はない」  亀井は、自分にいい聞かせる調子で、いった。 「今から、京都まで、乗客の乗り降りはないわけでしょう?」 「ないよ」 「とすると、今、この列車に、犯人と、狙《ねら》われている人間がいることになりますね」 「必ずしも、そうとばかりはいえないよ」 「なぜですか?」 「京都で、八分停車するからだ。この時は、乗客の乗り降りは、自由だからね。犯人も、被害者も、京都から乗ってくるかも知れないんだ。それに、一応、車掌長と一緒に、車内を廻《まわ》ってみたが、斉藤医師も、インターンの野口も、鳥羽ゆう子もいなかったが、乗客全部に、会ったわけじゃないんだよ。寝台に入って、カーテンを閉めていた乗客もいたからね。まだ、事件が起きていないのに、いちいち、カーテンを開けて、のぞき込むわけにはいかないからね」 「カメさんは、さっきも、そういっていましたね」 「だから、この列車に、彼等が乗っているかも知れないんだ」 「これから、どうしますか?」 「山下さん」  と、亀井は、車掌長に、声をかけた。 「この列車は、京都まで、停車しませんね?」 「ええ。ただし、名古屋に、運転停車します」 「名古屋に? まさか、停車時間は、八分間じゃないでしょうね?」 「午前一時四二分から四四分まで、二分間です」 「よかった」  と、亀井は、ほっとした。  もし、名古屋の運転停車が、八分間だったら、大事な一点を見過ごしていたことになるからである。 「名古屋で、公安官に、乗って貰《もら》いますか?」  と、山下車掌長が、きいた。  すでに、この「出雲3号」には、東京駅から、二名の鉄道公安官が、乗り込んで来ている。  その人数を増やした方が、いいだろうか? 「名古屋から、公安官が、乗って来ることが出来るんですか?」  と、亀井は、逆にきき返した。 「二、三名なら、大丈夫と思います」 「それでは、あと二名、この列車に、乗るように伝えて下さい」  と、亀井は、いった。      2  一時四二分。 「出雲3号」は、名古屋駅のホームに滑り込み、停車した。  亀井は、山下車掌長と一緒に、乗務員室から、ホームに降りた。  ホームには、駅員がいるだけで、乗客の姿はない。  客車の窓には、カーテンがおりていて、ほとんどの乗客は、ベッドで、眠っていることだろう。  山下車掌長が、駅員に、公安官の乗車を頼んでいる。  もう一人の駅員が、亀井に近寄って来て、 「東京警視庁の亀井さんですか?」  と、声をかけて来た。 「そうですが」 「十津川警部からの伝言が届いています」  と、駅員は、メモを渡した。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈亀井刑事へ   こちらで調べたところ、午前零時現在、斉藤医師も、インターンの野口も、自宅にいない。飲み歩いているのかも知れないが、ブルートレインに乗ったのかも知れない。鳥羽院長は、在宅だが、娘のゆう子は、不明だ。以上。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]十津川〉  十津川も、国鉄本社に、この「出雲3号」が、名古屋に運転停車すると聞いて、連絡を頼んだのだろう。  亀井は、そのメモを、日下にも見せた。 「問題の二人が、自宅にいないんですか」  と、日下は、眼を光らせた。  二名の公安官が、駆け足で、ホームにあがって来た。  二分間は、あっという間に過ぎてしまった。  新しい二名の公安官には、車内に入って貰《もら》ってから、事情を説明した。  そうしている間にも、「出雲3号」は、名古屋駅を離れ、再び、夜の闇《やみ》の中を、走り始めている。  車内は、ひっそりと静まり返り、レールの音だけが、ものうく聞こえてくる。 (あと、一時間四十分か)  亀井は、ちらっと、腕時計を見た。  あと一時間四十分して、この「出雲3号」が、京都駅に着いたら、本当に、殺人事件が起きるのだろうか?  それとも、何も起きないのか。  何も起きなければ、大さわぎしたことで、亀井は、批判されるだろう。  亀井だけではない。上司の十津川も、批判の的になることは、さけられまい。亀井が、あの病院で聞いた話も、信憑性《しんぴようせい》が疑われてくるに、決っている。  それでも、何も起こらないことに、越したことはない。  窓の外が、明るくなって、どこかの駅を通過した。  そして、再び、闇の中を走る。  それが、繰り返されながら、「出雲3号」は、京都へ近づいて行く。  亀井は、日下と一緒に、1号車から、最後尾の8号車まで、足音を殺して、歩いてみた。  通路には、人の気配はなく、ベッドにもぐった乗客は、みな、カーテンを閉め、寝息を立てている。  戻る時に、トイレに立ったらしい四十五、六歳の男の乗客と、通路ですれ違っただけである。  午前三時を過ぎた。 「いよいよですね」  若い日下は、何ということもなく、両手で、しきりに顔をこするようにしている。  東山トンネルを抜けると、窓の外に、京都の町の灯が、見えて来た。  列車が、スピードを落とした。ゆっくりと、京都駅に入って行く。  定時の午前三時三八分に、「出雲3号」は、京都駅に着いた。2番線である。  ホームには、そんな時刻でも、十二、三人の乗客が、待っていた。  客車のドアが、開いた。 (これから、八分間が、勝負だな)  と、亀井は思いながら、ホームに降りた。  日下は、まん中の4号車の通路にいた。  四人の公安官は、二人ずつ、2号車と、6号車にいて貰った。  突然、最後尾8号車から、パジャマ姿の四十歳ぐらいの男が、よろめくように、ホームに降りて来た。 「助けてくれ!」  と、その乗客が、腹を押さえて、叫んだ。      3  亀井は、その乗客に向って、ホームを走った。  日下や、公安官たちも、列車から飛び降りて来た。  男は、近寄った亀井に向って、 「助けて——」  と、また、いった。  男の押さえた腹のあたりが、朱《あけ》に染っている。 「やられたのか?」  亀井が、きいた。 「助けてくれよ、助けて下さい。刺されたんだ」  男の声が、だんだん、か細くなってきた。 「殺《や》られたんですか?」  うしろから、日下が、きいた。 「すぐ、救急車を呼んでくれ」  と、亀井が、大声でいった。  日下が、すぐ、ホームの事務室に向って、駆けて行った。  亀井は、呻《うめ》き声をあげている男の傍《そば》に、しゃがみ込んだ。  その押さえている手を、どけてみた。  パジャマが、朱《あか》く染っている。が、その血は、もう乾き始めていた。 「大丈夫だよ」  と、亀井は、励ますようにいった。  男が、黙っているので、亀井は、言葉を続けた。 「傷は浅いから、命に別状はない」 「本当ですか?」  男は、蒼《あお》い顔で、きいた。 「本当だよ。このくらいの傷なら、すぐ治るさ」 「でも、私は、刺されたんだ」 「誰《だれ》に?」 「わかるものか。寝台で眠ってたら、いきなり刺されたんだ。相手の顔なんか、見てませんよ。見られるわけが、ないじゃないか」 「そんなにわめくと、また、出血するぞ」 「おい、本当に大丈夫なのか?」 「すぐ、救急車が来る。あんたの名前は?」 「なぜ、そんなことが、必要なんだ?」 「あんたを刺した犯人を、見つけたいからだ」 「あんたは、警察の人間かい?」 「ああ、そうだ」 「私の名前は、原田一夫《はらだかずお》だ。本当に、助かるのか?」 「助かるよ。座席のナンバーは?」 「8号車の9の下段だ。それが、どうかしたんですか?」 「あんたの持ち物を、持って来てやろうと思ってね。あんたは、この近くの病院で、手当てを受けることになるからだ」  と、亀井がいった時、二人の救急隊員が、担架を持って駆けてくるのが、見えた。 「ほら、もう大丈夫だ」  亀井は、励ますように、いった。 「荷物を、私が、持って来ましょう」  と、日下がいい、8号車に、飛び込んで行った。  救急隊員は、ホームにうずくまっている男の傷口を調べ、応急手当てをしてから、担架にのせた。  山下車掌長が、亀井の傍に来て、 「間もなく、発車しますが、どうされますか?」  と、きいた。  もう、八分間の停車時間が、たってしまっているのだ。 「京都で、誰か、降りましたか?」 「いや、ここから乗って来た乗客はいますが、ここで降りた乗客は、一人もいません」 「では、乗って行きます」  と、亀井は、いった。  男の所持品や、背広、靴などを抱えて、日下が、8号車から降りて来た。  その日下に向って、亀井が、 「君は、一緒に病院へ行ってやれ。それを、十津川警部に、知らせるんだ」 「カメさんは、どうするんです?」 「私は、『出雲3号』に乗って行くよ。犯人は、ここで降りなかったからね」 「大丈夫ですか?」  日下が、心配そうに、きいた。 「何がだ?」  亀井は、怒ったようにいい、列車に乗り込んだ。 「出雲3号」は、山陰《さんいん》に向って、ホームを離れた。      4  京都からは、非電化区間を走るので、電気機関車の代りに、ディーゼル機関車が、列車を、牽引《けんいん》する。 「これから、どうしますか?」  山下車掌長が、亀井に、きいた。 「乗客が、一人も、京都で降りなかったことは、間違いありませんね?」  と、亀井は、念を押した。 「それは、間違いありません」 「それなら、京都駅で、原田一夫という男を刺した犯人は、まだ、この列車内にいる筈《はず》です」 「しかし、どうやって、探しますか?」 「次の停車駅は?」 「綾部《あやべ》に、五時〇七分に着きます。停車時間は、一分です」 「あと、一時間は、ありますね」 「ええ。一時間二十分ありますよ」 「綾部で降りる予定の乗客は?」 「二人です」 (それが、犯人だろうか?)  と、亀井は、考えた。  犯人は、一刻も早く、この列車から降りて、逃げたい筈である。  それなら、殺人未遂の現場だった京都で、逃げたかったろう。  だが、逃げなかった。亀井たちや、公安官の眼があったので、逃げなかったのか。  それとも、すぐ降りて逃げては、犯人だと、自白しているようなものだからか。  とすると、次の綾部で、逃げるような気がする。  五時〇七分といえば、もう、夜が明けている。降りても、誰《だれ》も、怪しまないだろう。 「ちょっと、時刻表を見せてくれませんか」  と、亀井は、いった。  山下車掌長の貸してくれた時刻表の、山陰本線のページを開いた。  この「出雲3号」は、五時〇七分に、綾部に着く。  その時刻の近くに、京都へ戻る列車があるかどうかを、調べるためだった。 (上り山陰本線)  綾部発五時三〇分→京都着七時三〇分  綾部発五時五四分→京都着八時〇六分  綾部発六時二七分→京都着八時二七分  と、普通列車が、走っている。  二十三分待てば、五時三〇分の列車に乗れるのだ。  七時三〇分に、京都に着けば、もう、新幹線は動いている。  七時四八分京都発の「ひかり370号」に乗れば、東京に、一〇時四六分に着くことが出来る。 「綾部で降りる二人の乗客というのは、どんな人たちですか?」  と、亀井は、きいた。  山下は、メモを見ていたが、 「綾部までの切符の方は、二人とも6号車に乗っていますね。四十代の女性と、十二、三歳の女の子です。多分、母娘《おやこ》だと思いますが」 「母娘ですか」  それでは、斉藤医師とも、インターンの野口とも違う。 「とにかく、その母娘の席に行ってみたいですね?」 「犯人なんですか?」 「いや、多分、違うと思いますが」  亀井は、通路に出た。  山下車掌長と一緒に、歩き出した時だった。  突然、激痛が、亀井を襲った。      5  思わず、通路に、屈《かが》み込んでしまった。あぶら汗《あせ》が、亀井の顔に、浮んでいる。  歯をくいしばっても、呻《うめ》き声をあげてしまう。 (こんな時に——)  と、思ったが、横腹の痛みは、ますます、激しくなった。痛みは、どんどん、広がっていく。  歯の痛みと同じなのだ。 「どうされました? 大丈夫ですか?」  山下車掌長が、驚いて、のぞき込んだ。 「腎臓結石《じんぞうけつせき》です」 「困りましたね。列車を、停《と》めましょうか?」 「そんなことは、しないで下さい」  と、いったが、亀井の痛みは、ますます強くなっていった。  ひとりでに、身体が、エビのように曲ってしまう。  二人の公安官がやって来たが、彼等もびっくりして、声をかけて来た。 「私が、何とかします」  と、山下車掌長がいい、乗務員室に駆け戻って行った。  亀井は、歯を喰《く》いしばっていた。  だが、激しい、突き刺さるような痛みは、いっこうに消えてくれなかった。  二人の公安官が、何かいっている。亀井を励ましてくれているのだが、彼等の言葉が、はっきりとは聞きとれなかった。  耳まで、じーんと、鳴っているような感じだった。  何か、車内放送しているのが聞こえた。が、それも、何をいっているのか、わからない。聞き取ろうとすると、痛みが、激しくなるような気がするのだ。  次第に、意識が、もうろうとしてくる。 (これしきのことで、おれとしたことが——)  と、思うのだが、亀井自身にも、どうしようもなかった。  山下車掌長が、誰か、乗客の一人を連れて、戻って来るのが、ぼんやりとわかった。  山下が、何かいっている。  医者を、どうとかというのがわかった。 (医者が、どこにいるんだ?)  と、思ったとき、山下車掌長と一緒に来た乗客が、何か、取り出すのが、見えた。 (注射?)  と、思ったとき、亀井の右腕が、まくりあげられ、注射が、射《う》たれた。 「もう大丈夫ですよ」  山下車掌長が、耳元で、いっている。  急速に、痛みが消えていた。いや、全身麻酔にかかったような状態になっていく。  強いモルヒネのせいだ。  二人の公安官が、亀井の身体《からだ》を抱えた。空《あ》いている寝台に、寝かせた。  それは、亀井も、かすかに覚えている。が、そのあとは、覚えていなかった。  意識が、次第に、うすれていき、亀井は、眼を閉じた。      6 「出雲3号」の8号車で刺された原田一夫は、京都駅から、車で七分の坂井《さかい》総合病院に、運ばれた。  所持品や、衣服などを持って、日下は、救急車で、坂井病院に同行した。  当直の医師は、簡単に、診察してから、 「これなら、縫うまでもないでしょう」  と、いった。  原田は、まだ、蒼《あお》い顔で、 「本当に、大丈夫なんですか?」 「傷も浅いし、もう、出血が、止まっていますからね。まあ、しばらくは、身体を動かさずにいれば、大丈夫です」  と、医者はいう。傷口を洗浄し、看護婦に包帯をさせた。  それでも、原田一夫が痛がるので、医者は、鎮静剤の注射をした。  原田は、すぐ、眠ってしまった。  日下は、警察手帳を、医者に見せた。 「列車内で、刺されたんですが、傷は、どの程度のものですか?」  と、きいた。 「傷の深さは、五、六センチですね。あの患者は、腹部の脂肪が厚いので、それで、これだけの傷ですんだのだと思いますね」  と、医者は、笑った。 「どんな刃物を使ったか、わかりますか?」 「出刃包丁のような、幅の広いものじゃありませんね。細身のナイフでしょう」 「今、眠っていますが、眼を覚ましたら、質問できますか?」 「出来ると思いますよ」  と、医者は、いった。  日下は、がらんとした待合室で、抱えて来た衣服と、靴を床に置き、原田一夫のものと思われるボストンバッグを開けてみた。  洗面具や、下着類、それに、カメラ、といったものが、入っていた。  次に、背広の上着のポケットを調べてみた。  十四万円ばかり入っている財布が、まず、見つかった。DCカードも一緒だった。DCカードの名前も、原田一夫である。  名刺入れが、あった。  原田一夫と刷られた名刺が、十六枚入っている。  K工業企画部推進課の係長の肩書きのついている名刺である。  自宅は、石神井《しやくじい》になっていた。  K工業なら、大会社である。運転免許証も見つかった。それによれば、年齢は、三十九歳だった。  日下は、待合室の隅にある公衆電話に百円玉を入れて、東京の十津川警部に、連絡を取った。 「やはり、京都駅で、事件がありました。刺されたのは、原田一夫という東京のサラリーマンです」  日下は、原田の勤務先と、自宅の番地、電話番号を、伝えた。 「死んだのか?」  と、十津川が、きく。 「いえ、命は助かります。医者は、皮下脂肪のせいで、ナイフが、深く刺さらなかったのではないかと、いっています」 「原田一夫? 初めて聞く名前だね」  十津川の声は、明らかに、困惑していた。 「鳥羽院長の娘さんがいましたね。彼女のボーイフレンドの一人じゃありませんか?」 「小野というボーイフレンドには、会ったがね。原田一夫という名前は、聞かなかったな」 「今、眠っていますので、眼を覚ましたら、鳥羽院長や、娘さんのこと、それに、斉藤医師や、野口というインターンのことを、質問してみるつもりです」 「カメさんは、そこにいないのか?」 「犯人が、『出雲3号』に、乗ったままらしいというので、乗って行きました」 「大丈夫なのかね? 石が動いたら、どうするのかね?」 「私も、心配だったんですが、止めて、止まる人じゃありませんから」  日下は、受話器を持ったまま、苦笑した。 「こっちでも、夜が明け次第、その原田一夫という男のことを調べてみよう。君は、そこにいて、彼の訊問《じんもん》と、カメさんが、大丈夫かどうか、調べてくれ」  と、十津川が、いった。      7  亀井は、眼を覚ました。  まだ、横腹には、鈍い痛みが残っているが、耐えられないことはなかった。  すでに、夜が明けて、窓の外は、明るかった。  反射的に、腕時計に眼をやった。  午前七時四十分を回っている。 (しまった)  と、思い、亀井は、ベッドの上に、起き上った。  綾部も、その次の福知山も、とうに過ぎてしまっている。  山下車掌長が、顔をのぞかせて、 「気がつかれましたか?」 「今、どの辺りですか?」 「あと二十二分で、鳥取です」 「というと、もう、綾部、福知山、豊岡《とよおか》と、停《と》まったんですね?」 「それに、城崎《きのさき》、香住《かすみ》、浜坂《はまさか》と、停車しました」 「何人の乗客が降りましたか?」 「全部で、四十八人が、降りています」 「四十八人もですか? なぜ、起こしてくれなかったんですか?」  亀井は、文句を、いった。  山下車掌長は、困惑した顔で、 「そういわれましても、亀井さんは、昏睡《こんすい》状態でしたから」 「すいません。私が悪いんです」  と、亀井は、謝った。とにかく、いざというとき、腎臓結石《じんぞうけつせき》が痛み出した亀井自身が悪いのである。 (ここまでに降りた四十八人の中に、犯人がいたのだろうか?)  それが、亀井の気を重くしてしまう。  だが、それを確認のしようがないのである。 「この四十八人の名前は、わからないでしょうね?」  と、亀井が、きいた。 「いや、わかりますよ」 「本当ですか?」  信じられないという顔で、亀井は、山下車掌長を見た。 「亀井さんが、倒れてしまったあと、私と、四人の公安官が、手分けして、全乗客の名前と、住所を、聞いて廻ったんです。乗客の一人が、殺されかけたというので、みなさん、大人しく協力してくれました。綾部に着くまでに、全乗客の名前と、住所を、書き留《と》めました」 「それは、素晴らしい」 「しかし、偽名と、ニセの住所を申告した人がいたかも知れないのです。運転免許証などを見せて貰《もら》ったりして、確かめはしたんですが、そうしたものを、持っていない人もいましたから」 「それは、仕方がありませんよ」 「ところで、亀井さんに、注射をしたお医者さんですが、会われますか?」 「そうですね。お礼を、いいたいですね」 「それなら、ここへお連れしましょう」  山下車掌長は、気軽にいって、他《ほか》の車両へ歩いて行った。  五、六分して、その医者を、連れて来た。  亀井は、礼をいおうと、彼の方からも、歩み寄って行った。 「あッ」  と、声をあげた。  あの斉藤医師だったからである。  間違いなく、彼だった。  斉藤医師の方は、笑顔で、亀井を見て、 「どうやら、痛みは、とれたようですね」 「あなたは、第一中央病院の——」 「ええ。斉藤です。僕の方は、すぐ、わかりましたよ。僕を訊問《じんもん》した刑事さんだとね」 「斉藤さんは、どこへ行かれるんですか?」 「松江です」 「一人で?」 「ええ」 「何をしに、行かれるんですか?」 「ただの旅行ですよ。三日ほど、休みがとれたものですからね」 「一人旅が、好きなんですか?」 「大勢で、ぞろぞろ行くのより、いいですね。刑事さんは、何の旅行ですか?」 「旅行を楽しみにと、いっておきますよ。その旅行中に、腎臓結石《じんぞうけつせき》になったなんて、間の抜けた話です」 「病気は、仕方がありません。ああ、あなたと一緒に僕に会いに来た警部さんは、何といわれましたかね?」 「十津川警部です」 「ああ、そうでした。彼も、この列車に、乗っているんですか?」 「いや、警部は、東京です」 「そうですか。あの警部さんにも、よろしくいっておいて下さい」 「斉藤さんは、原田一夫という男を、知っていますか?」  亀井が、いきなりきくと、斉藤は、「え?」という顔になった。 「誰《だれ》ですか? 私が診《み》たことのある患者ですか?」 「この名前に、何か、記憶がありませんか?」 「いや、全くありませんね」 「それなら、いいんです」  と、亀井は、いった。  斉藤は、「お大事に」といって、自分の席へ、戻って行った。 「彼は、どの車両に、いるんですか?」  亀井は、山下車掌長に、きいた。 「2号車です」 「というと、A寝台ですね」 「そうです」 「松江へ行くといっていましたが、本当ですか?」 「ええ。松江までの切符をお持ちです」 「山下さんが、車内放送で、医者を、探して下さったんですね?」 「そうです。綾部までは、まだ、一時間以上の時間がありましたし、素人の私には、どうしていいか、わかりませんでしたのでね」 「彼は、すぐ、来ましたか?」 「四、五分して、乗務員室に、来てくれました」 「その時の様子は、どうでした?」 「どうといいますと?」 「仕方ないという顔だったか、それとも、すぐ診《み》ましょうという積極的な態度だったか、というようなことですがね」 「積極的だったと思いますね。あのお医者さんが、何か、怪しいんですか?」 「いや、そうじゃありませんが——」  亀井は、あいまいないい方をした。 (何ということだ)  と、唇《くちびる》を噛《か》んだ。  京都駅の八分停車で、事件が起きるとすれば、犯人の第一候補は、斉藤医師だったのである。  その斉藤医師が、「出雲3号」に乗っているのを見過ごしたばかりでなく、彼に助けられてしまったのである。  見過ごしたのは、仕方がない。多分、斉藤は、東京駅で乗車するとすぐ、寝台にもぐり込み、カーテンを閉めてしまっていたに違いないからである。車内改札の時も、カーテンのすき間から、切符だけ出したのだろう。  しかし、よりによって、捜査中に、腎臓結石《じんぞうけつせき》になり、斉藤から、介抱されるというのは、面目|丸潰《まるつぶ》れといわなければならない。 (こりゃあ、まずいぞ)  と、亀井は、何度も、くり返した。  とにかく、面目《めんぼく》ないという意識が、強烈に亀井を捕えて、はなさない。そんなところが、昔|気質《かたぎ》なのかも知れなかった。  山下車掌長が、公安官と協力して作ってくれた乗客の名簿を、持って来てくれた。  東京から乗車した乗客は、京都まで、一人も降りなかったから、結果的に、「出雲3号」に乗った全乗客の名簿ということになる。  全員で、二〇八名である。  名前と、年齢、それに、住所、電話番号まで、聞き取って、書き込まれている。  本当は、二〇九名である。京都駅に停車中に刺された原田一夫という乗客は、この名簿の中に載っていないからだった。  斉藤医師の名前は、もちろん、載っている。  住所も、正確だった。 「お役に立ちますか?」  山下車掌長が、きいた。  斉藤医師に、手当てをして貰《もら》う前だったら、亀井は、素直に喜び、礼をいったろう。  だが、彼に助けられてしまった今となっては、素直に、喜べなかった。  この二〇八名の乗客の中に、インターンの野口の名前はない。偽名を使ったのかも知れないが、もし、彼がいなければ、二〇八名の中で、怪しいのは、斉藤一人なのだ。  その斉藤に助けられてしまった。一方、斉藤の方は、刑事を助けたということで、自信満々でいるだろう。  それがわかるから、一層、亀井は、困惑してしまうのである。 (あの斉藤が、8号車の原田一夫という乗客を、殺そうとしたのだろうか?)  亀井は、通路から、車窓に流れる山陰の景色を見ながら、考えた。  まだ、梅雨が明けていないので、山陰の空は、どんよりと曇っている。  その雲の切れ目から、時々、強烈な太陽の光が、射《さ》し込んでくる。その陽光は、すでに夏のものだった。  原田一夫という名前も、その顔も、亀井が、初めて接したものである。  二人の間には、どんな関係があるのか、どんな愛憎関係があるのか。  今の段階では、答えようのない疑問だった。 「出雲3号」は、松江に着いた。 「私も、ここで降ります」  と、突然、亀井は、いった。      8  斉藤は、ショルダーバッグを下げ、黒い鞄《かばん》を下げて、ゆっくりと、改札口に向って、歩いて行く。  黒い鞄の方は、医療器具などが入っているのだろう。それにしても、なぜ、斉藤は、モルヒネなど持って旅行していたのだろうか?  松江で、「出雲3号」から、十七、八人の乗客が降りた。  その乗客たちに混って、亀井も、改札口を抜けた。  斉藤は、タクシー乗り場に並び、タクシーに乗り込んだ。  幸い、タクシー乗り場は、すいている。亀井も、駆け寄って、タクシーを拾った。 「前へ行くタクシーをつけてくれ」  と、亀井は、運転手にいった。  斉藤の乗ったタクシーは、商店街を抜けると、宍道《しんじ》湖の入口にかかる有料橋を渡った。  湖の近くにあるホテルで、前のタクシーは、とまった。  斉藤は、今日は、ここに泊るらしい。  大きな、モダンなホテルだった。  亀井は、ここまで来たらと思い、自分も、タクシーをおりて、ロビーへ入って行った。  フロントで、宿泊カードを書き終った斉藤が、振り向いて、 「あッ、刑事さん」  と、声をかけて来た。 「刑事さんも、ここへ、お泊りですか?」 「あなたに、一つ、お聞きしたいことがあって、追いかけて来たんですよ」 「ほう。どんなことですか?」 「こっちへ来てくれませんか」  亀井は、斉藤を、ロビーの隅に連れて行った。  ソファに向い合って、腰を下してから、 「車内では、ありがとうございました」  と、まず、礼をいった。  斉藤は、笑って、 「いや、医者としてのつとめを果しただけですよ」 「それで、疑問を一つ持ったんですがね。あなたは、私に、モルヒネを射《う》ったんでしょう?」 「そうです。あの痛みには、モルヒネを射つしかありませんからね」 「それで、なぜ、旅行に出たあなたが、モルヒネを持っていたのか、不思議で仕方がなかったんですよ」 「ああ、そのことですか」  と、斉藤は、微笑して、 「実は、この先の小さな町に、叔父《おじ》夫婦が住んでるんですが、七十歳を過ぎた叔父は、リューマチで寝たきりなんですが、あの病気は、時々、耐えられない激痛に襲われるんですよ」 「それは、知っています。私の父も、リューマチで入院していたことがありますから」 「そうですか。それで?」 「肺炎を併発して、亡くなりました。もう、何年も前ですがね」 「その叔父《おじ》ですが、近くに、適当な医者がいないので、激痛に襲われた時、叔母は、どうしていいかわからないと、いっているんです。それで、今日、遊びに行ったとき、もし、そんな症状が出たら、モルヒネを注射してやろうと思い、院長の許可を得て、持って来たんです」 「それでは、私が、使ってしまって、申しわけなかったですね」 「いや、アンプルは、何本か持って来ているから大丈夫ですよ」  斉藤は、今日、夕方になったら、その叔父夫婦の家に行ってみることにしているのだといった。      9  亀井も、同じホテルに泊ることにした。  梅雨時のせいか、部屋は、空いていた。  湖に面した部屋に入ると、亀井は、すぐ、東京の十津川に、電話をかけた。 「どうした? 大丈夫かね? カメさん。心配してたんだよ」  と、十津川は、いきなり、早口で、いった。 「それが、大丈夫でもありません」 「石が動いたのか?」 「それは、あとでお話するとして、日下刑事から、原田一夫という男のことで、報告がいきませんでしたか?」  と、亀井は、きいた。 「ああ、来たよ。朝早くだ。京都の病院からね。『出雲3号』が、京都駅に着いた直後に、刺されたと、いっていた」 「そうなんです。致命傷ではなかったようですが」 「ああ。皮下脂肪が厚かったので、ナイフが深く刺さらなかったんだろうと、医者は、笑っていたらしい」 「原田一夫のことは、調べて頂けましたか?」 「調べたよ。原田一夫は、K工業の企画部の係長だ。年齢は、三十九歳。住所は、石神井だ。妻と、五歳になる娘がいる。家族にも知らせたので、もう、京都に向って、発《た》ったんじゃないかね」 「妻子ありですか」  亀井は、ちょっと、すかされたような気がした。  もし、独身なら、鳥羽ゆう子のボーイフレンドの一人ということも、考えられたからである。 「六年前に、結婚している。職場結婚だ」  と、十津川が、いう。 「第一中央病院との関係は、何か出て来ましたか?」 「それが、今までのところ何も、出て来ないんだよ。原田家では、石神井に、行きつけの病院があって、何かあれば、そこへ行くといっている。それは、奥さんの話だがね」 「奥さんが、昔、看護婦だったということも、ありませんか?」 「ないね。奥さんは、K工業で、部長秘書をやっていたんだ。日下刑事も、原田一夫が目を覚ましてから、いろいろと、質問してみたらしいが、鳥羽院長のことも、娘のゆう子のことも、斉藤医師や、インターンの野口のことも、全く、知らないと、いっているらしい」 「インターンの野口ですが、昨夜から、今朝にかけて、どこにいたか、わかりますか?」 「今日は、第一中央病院にいる。今朝の九時から出勤しているから、昨夜も、東京にいたとみていいんじゃないかね」 「九時に出勤していれば、京都で、乗客は刺せません。京都では、一人も降りませんでしたし、次の綾部で降りて、京都から新幹線で引き返しても、九時には、出勤できませんから」 「すると、残るのは、斉藤医師ということになるが、彼は、今日、休暇をとっている」 「知っています。松江のこのホテルに、彼はいます」 「そいつは、面白いね」 「それが、あまり面白くないんですよ」  亀井は、「出雲3号」の中で、斉藤に助けられたこと、松江まで、彼を追って来たことを話した。  十津川は、電話の向う側で、愉快そうに、笑い声を立てた。 「笑いごとじゃありませんよ」  と、亀井は、いった。 「しかし、面白いじゃないか。君を助けたことで、斉藤医師は、『出雲3号』に乗っていたことが、証明されてしまったわけだからね」 「奴《やつ》の方は、刑事を助けたというので、得意満面ですよ」 「そうだろうね。下手《へた》をすると、君は、斉藤のために、証言しなければならなくなるかも知れんよ。彼が、どんなに立派で、献身的な医者であるかの証言をね」 「ぞっとしませんな」  と、亀井は、肩をすくめてから、 「他《ほか》の列車で、何か事件があったということは、ありませんか?」 「国鉄本社の北野|和夫《かずお》に聞いたんだがね。今のところ、昨夜から今朝にかけて、ブルートレインの中で、事件が起きたのは、カメさんがぶつかった『出雲3号』だけだということだ。他のブルートレインでは、何の事件も、起きていない」 「そうですか」 「不審なのかね?」 「どうも、私が、大さわぎしてしまって、申しわけありません」 「そんなことはないさ。現に、『出雲3号』の車内で、殺人未遂事件が起きているじゃないか。しかも、京都駅での八分停車を利用してだ」 「そういえば、そうなんですが、私は、もっと劇的な形で、殺人事件が、起きるような気がしていたんです」 「劇的な形というと、どんな形だね?」 「それが、上手《うま》く表現できないんですが——」  亀井は、語尾を濁した。  どういっていいか、自分自身にも、よくわからないのだが、亀井は、もっと違った形の事件の発生を予感していたのだろう。 「京都駅では、他には、何の事件も起きなかったんだね?」  十津川が、念を押した。 「八分停車の間にも、起きていません」  と、いってから、亀井は、自分が、何を不満に思っているのか、その片鱗《へんりん》が、わかったような気がした。 「八分停車が、不審なんですよ」 「それのどこがだね?」 「私が、第一中央病院のレントゲン室で聞いた男の声は、『ブルートレインの八分間の停車を利用して』と、いったんです」 「それは、何度も、聞いたよ」 「八分間という時間を利用して、人殺しをやるということです」 「まあ、そうだろうね」 「ところが、『出雲3号』が、京都駅へ着いてすぐ、最後尾の8号車から、原田一夫が、刺された腹を押さえて、転がり出て来たんです。着いてすぐ、刺されたものと思います」 「つまり、別に、八分停車は、必要なかったんじゃないかというわけだね?」 「そうなんです。二分停車でも、可能な犯罪です。なぜ、八分停車でなければいけないのか、わかりません」 「前に、カメさんと二人で、なぜ、犯人は、八分停車を口にしたのか、考えてみたことがあったね」 「覚えています。一分、二分の停車時間では、刺して、逃げるだけの余裕はない。といって、十分以上では、その間、列車が停《と》まっているので、その間に、殺人がばれてしまい、非常線を張られてしまう。犯人にとって、一番、理想的なのは、刺殺して、ホームに降り、改札を抜けて、外へ出てしまう。列車は、死体をのせたまま、走り出してしまう。それだと思うのです。そのためには、八分間ぐらいの停車が、一番いいと、犯人は、考えたのじゃないか。そう考えたんでしたね」 「その通りだよ」 「ところが、今日、京都駅で起きた事件は、そんな、スカッとしたものじゃないんです。むしろ、間が抜けたものでした。犯人は、『出雲3号』が、京都駅に着いてから、8号車の原田一夫を、刺しました。眠っているところをです。ところが、原田の腹のあたりが、皮下脂肪が厚かったために、ナイフが深く刺さらず、彼は、悲鳴をあげて、ホームへ逃げ出して来たんですよ。一方、犯人は、八分停車を利用して、逃げ出すこともせず、列車に乗ったままだったんです」 「なぜ、犯人は、逃げなかったんだろうか? 八分あれば、列車から降りて、改札口の外へ出ることは可能だったわけだろう? 京都駅では、確か、『出雲3号』は、烏丸《からすま》口に近いホームに停《と》まるんだろう?」 「そうです。2番線に停まります。中央口の改札口まで、階段を昇り降りしても四、五分で歩いて行けます」 「それなら、刺しておいて、列車から降り、改札口を抜けて、駅前でタクシーを拾う。午前三時三八分という時刻でも、京都駅ぐらいの大きな駅なら、タクシーは、客待ちしている筈《はず》だよ。八分あれば、ゆっくりタクシーに乗れると思うがね」 「そうなんです。しかし、犯人は、そうしませんでした。京都駅で、『出雲3号』から降りた乗客は、一人もいないんです」 「なぜかな?」 「わかりません。刺された原田一夫が、死なずに、ホームへ出てしまって、大さわぎになってしまったので、チャンスを失ってしまったのかも知れません。あのさわぎの中で、列車から降りれば、犯人視されると、思ったのじゃないかと思うのですが」 「京都から、『出雲3号』に乗った客もいるんだろう?」 「あの時刻でも、十二、三人いましたね。山陰の町へ行くには、あの列車が、便利だからでしょうね。例えば、米子《よなご》着九時四一分、松江着一〇時一五分、終着の出雲市が一〇時四九分と、丁度いい時刻に着くんです」 「その中に、犯人がいたということは、考えられないかな?」 「え?」 [#改ページ]  第四章 第一の殺人      1 「東京から来た列車内で、乗客の一人が殺される。いや、今度の場合は、殺されかけたか。たいていの人間が、一緒に乗って来た乗客の中に、犯人がいると考える。しかし、京都駅に停車してから刺されたことを考えると、京都駅で乗って来た乗客の中に、犯人がいても、おかしくはないんじゃないかね。その犯人が前もって、刺す相手が何号車のどの寝台にいるかを知っていれば、ホームに待ちかまえていて、『出雲3号』が、停車すると同時に、まっすぐ、その席へ突進して、刺してしまえばいいんだ」 「そうですね。その辺が、案外、盲点かも知れません。私も、日下も、犯人は東京駅から乗って来ていると、思い込んでしまっていましたから」 「京都駅から乗った乗客の名前は、わかるのかね?」 「それは、大丈夫です。車掌長と、公安官が、乗客全員の名前、住所、電話番号などを、調べてくれていますから」 「それは、よかった」  と、十津川は、いってから、 「カメさん、ちょっと待ってくれ」  二、三分、亀井は、受話器を持ったまま、待った。  十津川の声が、電話口に戻った。 「今、京都府警から連絡があったよ。凶器が、見つかったそうだ。刃渡り十五センチ、柄《つか》の長さ十センチのナイフだそうだよ。刃についていた血痕《けつこん》の血液型と、原田一夫の血液型が一致した」 「どこにあったんですか?」 「どこだと思うね?」 「ホームの屑籠《くずかご》の中あたりですか?」 「いや、違う。2番線の線路に、落ちていたそうだ」 「線路上ですか」 「レールとレールの間に、落ちていたといっている。今まで見つからなかったのは、次々に、列車が入ってしまうので、そのかげになってしまっていたということらしい」 「レールとレールの間ですか?」 「そうだよ」 「それは、線路の真ん中ということですね」 「ああ」 「それは、おかしいですね」 「なぜだね?」 「線路の真ん中というと、列車が停車していると、車体で、完全にかくれてしまうでしょう」 「そうなるだろうね。だから、なかなか、見つからなかったんだ。丁度、『出雲3号』の8号車が停《と》まっていたあたりらしい」 「そこへ、犯人は、どうやって、捨てられたのか、不思議ですよ。ホームに降りて、ホームと車両の隙間《すきま》に捨てたとすると、線路の真ん中には、落ちません。トイレの小さな窓から捨てても同じです。線路の真ん中に、捨てるためには、『出雲3号』が発車してしまってから、投げ捨てるより仕方がないんですよ。だが、京都で降りた人間は、一人もいないんですから、不可能です」 「そういわれれば、そうだな」 「本当に、そのナイフは、今度の犯行に使われたナイフなんでしょうか?」 「京都府警は、そう断定しているよ」 「指紋は出たんですか?」 「いや、柄《つか》の部分から、指紋は検出できなかったと、いっている。だから、余計に、凶器と考えているんだろうがね」 「しかし、警部。犯人は、列車が、京都駅の2番線に停車している間に、凶器を捨てたんです。これは、間違いありません。なぜなら、犯人は、列車に乗って、京都を出発しているからです。犯人は、列車の脇《わき》に、凶器を捨てることは出来ますが、列車の真下には、捨てられないんじゃありませんか?」 「そういえば、そうだね」 「どうも、今度の事件は、よくわからない点が、多過ぎるんです」 「カメさんが、そんなでは、困るね。これは、君が、第一中央病院で、殺人を予告する男の声を聞いたことから始まっているんだよ」 「それは、そうなんですが」 「それに、予告どおり、八分停車のブルートレインの中で、事件が、起きたじゃないか。殺人じゃなかったが、殺人未遂だから、犯人は、殺そうとして、失敗したと見ていいんじゃないかね」 「ええ」 「だから、カメさんが、何か起きると予想したのは、正しかったんだよ。それに、問題の列車には、君がマークしていた斉藤医師が、乗っていたんだろう?」 「そうなんですが、どうも、私には、彼が、原田一夫という乗客を刺したとは、思えないんですが」 「なぜだい? まだ、原田一夫と、斉藤医師との関係は、完全にはわかっていないんだよ。今のところは、二人の関係について、何も出て来ないがね」 「もし、二人の中に、何の関係もないと決ったらどういうことになるでしょうか?」 「犯人が、別にいるということになるんじゃないのかね」 「そうでしょうね」 「がっかりしなさんな。まだ、無関係と決ったわけじゃないんだ」  十津川は、なぐさめるように、いった。      2  昼食のあと、斉藤医師は、タクシーで、ホテルを出て行った。  亀井は、部屋の窓から、そのタクシーが、走り出し、視界から消えて行くのを、見ていた。  斉藤は、叔父《おじ》夫婦のところへ行くのだと、いっていた。これは、本当なのだろうか。  亀井は、ロビーに降り、フロントに、警察手帳を見せると、さっき、窓から見たタクシーの会社名と、プレートナンバーをいった。 「このタクシーが、戻って来たら、教えてくれませんか。運転手に話を聞きたいんだ」  と、亀井は、いっておいた。  一時間ほどして、フロントから、連絡があった。  このホテルに、戻って来ているという。  亀井は、すぐ、下へおりて行き、そのタクシーに乗った。  五十歳ぐらいの運転手である。 「さっき、三十五、六歳の男を、乗せたね。その男の行った所へ、連れて行って欲しいんだ」  と、亀井は、いった。 「お客さんは、警察の人かね?」  運転手が、きく。どうせ、斉藤医師には、こちらの身分は、わかってしまっているのだと考え、 「ああ、そうだよ」 「さっきの人は、悪い人とは見えなかったがねえ」 「別に、悪人だと思ってるわけじゃないよ」  と、亀井は、いった。  それならいいという顔で、運転手は、スピードをあげた。  宍道湖の北側の湖岸を、タクシーは、走った。  一畑《いちはた》電鉄の線路が、道路に沿って、続いている。  三十分も、走ったろうか。  タクシーは、大きな邸《やしき》の前で、とまった。 「ここですよ」  と、運転手が、いった。 「彼は、この家へ入ったのかね?」  亀井は、ちょっと、はぐらかされたような気分で、眼の前の家を見つめた。  建ってから、恐らく、二百年近くはたっているだろう。古びてはいるが、がっしりした造りの邸《やしき》である。  亀井は、斉藤の話から、何か、小さな、わびしい家を、想像していたのだが、これは、堂々とした構えである。 (おれ自身に合せて、考えてしまったらしい)  と、亀井は、料金を払って、タクシーをおりながら、苦笑した。  亀井の家は、貧しかったから、斉藤の話を聞いていて、同じように、考えてしまったのである。 「遠藤《えんどう》」という大きな表札を、確かめてから、亀井は、近所で、様子を聞いてみることにした。  と、いっても、この辺りは、人家がまばらで、隣りの家まで、二百メートルくらいは、歩かなければならなかった。  道路沿いに、公民館があるのを見つけて、亀井は、入って行った。  何かの講習でもあるのか、中年の女性が、十五、六人、集っていた。  亀井は、館長に断ってから、その女性たちに、「遠藤」家のことを、聞いてみた。  最初は、他所者《よそもの》の亀井に対して、警戒気味で、口が重かったが、一人が喋《しやべ》り出すと、あとは、亀井が黙っていても、勝手に、喋ってくれた。  その結果、いくつか、わかったことがある。  遠藤家は、この地区では、一番の資産家である。  ただ、子供はなく、六十歳を過ぎた老夫婦だけの二人住いである。  夫の遠藤の方が、ここ数年、リューマチで苦しんでいる。松江の病院へ入院するようにすすめているのだが、自分の生れ育った家で死にたいといい張って、動こうとしない。 「それで、奥さんも大変ですよ。ずっと、看病のしつづけだしねえ」 「病人は、わがままだからね」 「あの遠藤さんは、人一倍、わがままだから」 「でも、今日は、いいんじゃないの。甥《おい》ごさんが、東京の立派なお医者さんで、その人が、来るっていうことだから」 「じゃあ、奥さんは、今日一日は、ほっと出来るわけね」  そんな話を、聞くことが出来た。  斉藤がいったことは、嘘《うそ》ではなかったのだ。 (斉藤は、ただ、叔父《おじ》夫婦に会いに、松江に来ただけなのだろうか?)  亀井は、わからなくなってしまった。  斉藤が乗っていた「出雲3号」は、京都駅で、八分停車した。  その停車中に、8号車の原田一夫という乗客が、寝台で、寝ているところを、何者かに、ナイフで刺された。  命に別状はないが、殺人未遂である。しかし、原田一夫と、斉藤との間に、今のところ、何の関係も見出すことは出来ないという。  もう一つ、原田一夫が刺された以外、京都駅では、何も起きていない。  停車している「出雲3号」の車内でも、事件は起きていないし、ホームでも、である。  従って、原田一夫と、斉藤が無関係ならば、斉藤は、全くのシロということになってしまうのである。 (とすると、第一中央病院で聞いた男と女の会話は、何だったのだろうか? あれは、二人が、ふざけていたのだろうか?)  亀井は、絶対に、あれが、本気の会話だと思っていたのだが、ここまで来て、だんだん、自信がなくなって来た。  芝居のセリフを練習しているのを、横で聞いていて、本当に、殺しをやるのかと、間違えたという話があるが、そんなものだったのだろうか? (だが——)  と、思う。  亀井の長年の勘からいえば、深夜に聞いたあの男の声は、真剣だった。冗談《じようだん》をいっているのでも、芝居のセリフをいっているのでもなかった。だからこそ、亀井は、十津川の心配を無視して、「出雲3号」に乗ったのだが。      3  管理人は、「ちょっと待って下さい」といって、受話器を机の上に置いて、部屋を出た。  九階の小野純《おのじゆん》に、いくら電話をかけても出ないので、見て来て欲しいという電話だった。  これで、三人目だった。  一人目と二人目は、管理人が、外出しているんじゃないですかというと、それで、納得《なつとく》してくれたのだが、三人目の男は、引き退《さが》らなかった。  電話に出ないのは、おかしいから、見て来てくれというのである。  仕方がないので、管理人は、九階へあがって行った。  九階の端の九〇八号室の前に行き、ベルを押してみた。  鳴っているが、応答はない。 (やっぱり、留守なんだ)  と思い、管理人は、引っ返しかけてから、おやっと、首をかしげた。  電気のメーターが、ものすごい勢いで、回転していたからである。  電灯がついているぐらいでは、こんなに早くは回らない筈《はず》だった。恐らく、クーラーもついているのではないだろうか。  昨夜は、むし暑くて、管理人も、今年になって、初めて、クーラーをつけた。 (病気にでもなっていたら、困るな)  と、管理人は、思った。  小野は、スーパーのチェーンを持っている社長の一人息子である。  このマンションも、その父親が、六千万円近く出して、買い与えたものである。地下の駐車場には、これも、甘い父親が金を出して買った白いポルシェが駐《と》めてある。  その父親が、管理人に、息子を頼みますといい、二万円を、くれたのである。  管理人は、ドアをノックしながら、 「小野さん!」  と、呼んでみた。  しかし、応答は、いぜんとしてなかった。  管理人は、マスター・キーを持っていない。  仕方がないので、管理人は、近くにあるキー・ショップに、電話をかけて、来て貰《もら》うことにした。  キー・ショップのおやじは、手なれた感じで、ドアの前にしゃがみ込み、鍵《かぎ》全体を、分解し始めた。  十二、三分もすると、鍵そのものが、ドアから外れてしまった。 「さあ、開きましたよ」  と、キー・ショップのおやじは、管理人にいった。  管理人は、ドアを開けて、中に入った。  2LDKだが、リビングルームが広い。たった一人で住むには、ぜいたくな広さである。  リビングルームの隅が、ホームバーになっていた。  そこに、小野が、ナイトガウン姿で倒れていた。  床に、身体《からだ》を、エビのように折り曲げている。 「小野さん。小野さん。大丈夫ですか?」  管理人は、あわてて、声をかけた。  てっきり、病気で、倒れていると、思ったのである。 「すぐ、救急車を呼びますからね」  と、いい、部屋にある電話を使って、一一九番した。 (死んでいるのではないか?)  と、管理人が思ったのは、その後である。  いくら名前を呼んでも、ぴくりとも、動かなかったからだが、それでも、管理人は、怖いので、小野の身体に、触らなかった。  七、八分して、救急車が、やって来た。  二人の救急隊員が、九階まで来てくれたが、その一人は、動かない小野の身体を調べてから、管理人に向って、 「一一〇番した方がいいね」  と、いった。 「死んでるんですか?」  管理人は、蒼《あお》い顔で、きいた。 「死んでから、かなり時間がたってる。死後硬直が、起きてるよ。それに、どうやら、毒物死のようだからね」  と、救急隊員は、いった。      4  十津川は、小野が死んだという知らせを受けて、下高井戸《しもたかいど》にあるマンションに、急行した。京都から戻った日下も一緒である。  驚きというより、当惑が、十津川を支配していた。  小野が、「出雲3号」の車内で、それも、京都駅に停車中に殺されたのなら、ああ、やはりと、思うのだが、東京で死んだというのでは、当惑の方が、先に立ってしまう。  京王《けいおう》線の下高井戸駅から、歩いて十五、六分のところ、甲州《こうしゆう》街道からちょっと入ったところに建つマンションだった。  メゾン「下高井戸」とある。  最近は、いろいろな名前がついている。コーポ、シャトウ、モラーダ、そして、メゾンだ。  九階の部屋にあがる。  現場は、保存されていた。  死体は、床の上に横たわり、その傍《そば》に、グラスが、転がっている。  ホームバーのカウンターの上には、レミーマルタンのボトルと、空《から》のグラスと、氷のとけてしまったアイスボックスが、並んでいた。  検死官は、死体をしばらくみていたが、腰を伸ばすような恰好《かつこう》で、立ち上った。 「やっぱり、青酸死だね」  と、十津川に、いう。 「かなり、時間が、たっているでしょう?」 「ああ。十二時間以上、たっているね。正確な死亡時刻は、解剖してみないと、わからないがね」 「青酸は、レミーマルタンと一緒に、飲まされたんですかね?」 「多分、そうだろうね」  検死官は、そういってから、腰を、こぶしで、叩《たた》いた。彼は、間もなく、定年になる。  死体は、解剖のために、運ばれていった。 「他殺と思われますか?」  日下が、きいた。 「その通りさ。スーパーを三つ持っている社長の一人息子で、こんな豪華なマンションを、買って貰《もら》って、素晴らしい美人のガールフレンドがいるんだ。そんな環境で、自殺するかい?」  十津川は、鳥羽ゆう子の彫りの深い顔を思い出していた。 「しかし、その素晴らしいガールフレンドに、ふられたのかも知れませんよ」 「カウンターの上を見ろよ。もう一つ、グラスが、置いてある。被害者は、誰《だれ》かと一緒に、飲むつもりだったんだ」 「それが、犯人ということですか?」 「多分ね」 「すると、その犯人が、毒入りのレミーマルタンを持って来て、被害者に、飲ませたということでしょうか?」 「そんなことかも知れないね。犯人は、レミーマルタン持参で、訪ねて来た。被害者は、何も知らずに、グラスを二つ、持ってくる。犯人は、相手に疑われないように、両方のグラスに、注《つ》いだんだろう。或《ある》いは、被害者が注いだか。そして、被害者が、先に飲むのを待った。そのあと、相手が、死んだのを見届けてから、自分のグラスを洗い、指紋を消してから、逃げたんだ。ドアにも、カギをかけてね。そうすれば、自殺に見せかけられるからね」  と、十津川は、いった。  よくあるトリックである。よく使われる手だが、犯人の指紋が残っていないから、犯人を限定するのが難しい。  鑑識が、室内の写真を撮《と》ったあと、問題のグラスと、ボトルの指紋を、採っている。 「空のグラスにも、指紋がついていますよ」  と、鑑識課員が、十津川に、いった。 「本当か?」 「ええ。検出できますよ。まだ、誰の指紋かわかりませんがね」 「そいつは、意外だね」  十津川は、正直に、いった。  てっきり、誰の指紋も、検出されないと、思ったのである。  小野の両親が、駆けつけて来た。 「息子は、どこにいるんだ!」  と、大男の父親は、噛《か》みつくような顔で、十津川に向って、怒鳴《どな》った。  小柄な母親の方は、ただ、おろおろしている。 「警察医務院に、運びました」  と、十津川は、いった。 「なぜ、そんなところへ運ぶんだ?」 「解剖のためです。死因に、不審な点が、ありますからね」  と、十津川はいってから、日下に、両親を、車で、案内するように、いった。 (やはり、殺人が行われた)  と、十津川は、思っていた。当惑を、覚えながら。      5  杉並《すぎなみ》署に、捜査本部が、置かれた。  夜になると、松江にいる亀井から、電話が入った。 「ニュースで見て、びっくりしています」  と、亀井は、いった。 「私も、びっくりしたよ」  十津川も、同じことを、いった。 「毒死だそうですね?」 「ああ。青酸死だ。まだ、解剖が終っていないので、はっきりしたことは出ないが、殺人であることは、はっきりしている。小野には、自殺する理由は、考えられないからね」 「東京でというのは、意外でした。あの病院に、何らかの関係がある人間が死ぬとすれば、京都駅のホームか、京都駅に停車している列車の中でと、思ったんですが」 「だから、私も、当惑しているんだ」 「斉藤が、犯人ということも、あり得ますね」 「彼が、青酸入りのレミーマルタンを、小野にプレゼントしておいて、『出雲3号』に、乗ったということかい?」 「そうです。斉藤が、松江にいる間に、彼のプレゼントした毒入りのレミーマルタンを飲んで、小野が死ねば、斉藤は、無関係に見えますからね」 「確かに、そうだが、上手《うま》くいく確率は、少ないんだよ」 「なぜですか?」 「小野は、自宅マンションに、ホームバーを作っていたんだが、その棚を見て、びっくりしたんだ。ずらりと、高価な酒が、並んでいる。シーバスリーガルも、カミュも、問題のレミーもね。レミーマルタンは、五本も並べてあった。だから、斉藤が、彼に、青酸入りのレミーを贈っても、すぐ飲むとは、限らないんだ。だから、贈っておいて、アリバイ作りに、『出雲3号』に乗っても、意味がないのさ」 「レミーが、五本もですか」 「そうさ。それに、グラスが、二つ用意されていた。だから、誰《だれ》か、客が来ることになっていたんじゃないかね」  と、十津川はいってから、 「斉藤医師は、どうしている?」 「叔父《おじ》夫婦の家に、今夜は、泊るようです。まだ、ホテルに、帰っていません」 「じゃあ、そっちにいても、仕方がないだろう。早く、帰って来ないか。カメさんの身体《からだ》が、心配なんだよ」 「明日、出雲から、飛行機で帰ります。九時五〇分の便に乗りますから、十二時には、そちらへ帰れると思いますね」  と、亀井は、いった。  翌、十六日の朝になって、小野純の解剖結果が、報告されて来た。  死因は、青酸中毒死。正確にいえば、青酸によって、呼吸器が麻痺《まひ》したことによる窒息死である。  これは、わかっていたことが、確認されたに過ぎない。  十津川が、重視したのは、死亡推定時刻だった。  七月十五日午前三時から四時の間というのが、報告にあった死亡推定時刻である。 (参ったな)  と、十津川は、思った。 「出雲3号」は、十五日の午前三時三八分に、京都駅に着いている。  そして、八分停車して、三時四六分に、山陰に向って、発車した。  見事に、死亡推定時刻の中に、入っているのだ。 (これは、偶然の一致なのだろうか?)  他《ほか》にも、報告されて来たことがある。  マンションのカウンターに置かれたレミーマルタンのボトルから、青酸が、検出された。  床に転がっていたグラスに、わずかに残っていたレミーからもである。  レミーのボトル、転がっていたグラス、それに、カウンターの上の空のグラスの三つから、被害者小野純の指紋だけが、検出された。  これは、何を意味しているのだろうか?  そのまま受け取れば、次のような光景が浮んでくる。  小野は、ナイトガウン姿だったし、リビングルームで、倒れていた。  それに、グラスが二つ。  多分、彼は、誰《だれ》かを待っていたのだ。客のために、グラスを、用意してである。その客も、酒が好きな人間だったのだろう。  この先は、二つのストーリイに分れる。  一つは、待っていた客が、レミーマルタンを持参で、現われたというストーリイである。青酸入りのレミーを持って来た犯人の指紋が、なぜ、ボトルになかったのか。  それは、多分、こうだろう。犯人は、レミーの中に、青酸を混入する。そのあと、きれいに拭《ふ》いて、指紋を消し、そのまま、箱に詰めて、持って行ったのだ。受け取った小野が、箱から取り出せば、ボトルには、小野の指紋しかつかない。  二つのグラスに、小野が、レミーを注《つ》ぐ。犯人は、小野が飲むのを見ている。小野が、先に飲み、転げ回って死んだ。  それを確かめてから、犯人は、自分のために注がれたレミーを捨てる。その時、犯人は、グラスの底と、上の縁《ふち》に、指をかけた恰好《かつこう》で、キッチンに持って行き、中身のレミーを捨てたに違いない。その恰好で、内側を、水洗いして、もとのカウンターに置いておいたのだ。  もう一つのストーリイは、待っていた客が来なかったということである。  その客は、前に、青酸入りのレミーを、小野にプレゼントしておいた。ボトルの指紋の消し方は、前と同じである。  犯人は、そうしておいて、七月十五日の早朝、そちらに行くと、連絡して来た。  そこで、小野は、グラスを二つ用意し、ナイトガウンをはおって、待っていた。  ところが、犯人は、なかなか現われない。しびれを切らせた小野は、ひとりで、飲み始め、死んだ。  この場合、犯人は、来なかったのだから、ドアが、閉っていたことについて、問題はない。  前者の場合は、ドアのキーが、問題になる。  あの室内を、探したところ、キーホルダーが、見つかった。それには、二つのキーがついていた。部屋のキーと、ポルシェのキーである。  マンションのキーは、二つか三つ、同じものがある筈《はず》だった。  だから、犯人は、その予備の方のキーを盗《と》って、それで、ドアを閉めて、逃げ去ったのだろう。      6  十二時少し過ぎに、亀井が、松江から帰って来た。  亀井は、十津川に会うなり、 「よりによって、斉藤医師に助けられるなんて、恥ずかしい限りです」  と、いって、頭をかいた。 「そんなことは、別に、カメさんの失敗でも、何でもないさ。問題は、小野が、殺されたことにある。しかも、小野が、十五日の午前三時から四時の間に、死んでいるんだ」 「ブルートレインの『出雲3号』が、京都駅に、停車している頃《ころ》ですね」 「カメさんは、どう思う? 偶然の一致と、思うかね?」 「いいえ」 「しかし、肝心の斉藤は、京都駅では、何もやらんのだろう?」 「原田一夫殺しが、斉藤でないとすればですが。他に、京都に停車中には、何も起きていませんから」 「問題は、二つあるね」 「そうです。事件は、二つですからね。原田一夫を刺したのは、誰か? もう一つは、小野を毒殺したのは、誰かということになりますね」 「従って、われわれは、原田一夫のことを、引き続いて、調べることもしなければなるまいと、思っているんだ。どこで、第一中央病院や、斉藤医師と、関係があるかわからないからね」  と、十津川はいってから、日下刑事に、眼をやった。 「君は、どう思う。京都の病院で、原田一夫の傍《そば》にいたし、奥さんにも、病院で、会ったんだろう?」 「会いました」 「君の感触では、原田一夫と、斉藤医師が、関係があると思うかね?」 「原田一夫の怪我《けが》が軽かったので、私は、何度も、彼に、質問してみました。第一中央病院、鳥羽院長、娘の鳥羽ゆう子、それに、斉藤医師や、インターンの野口のことです。何度きいても、原田は、知らないというのです。彼の奥さんも同じでした。嘘《うそ》をついているようには、見えませんでしたね」 「もし、斉藤医師が、やったんじゃないとすると、他《ほか》の乗客の中に、犯人がいることになるんだが」 「斉藤をのぞくと、二〇七人ですが、東京の人間だけではないので、各府県の県警にも、努力して貰《もら》って、一人、一人、当ってみようと思っているんですが」  と、亀井が、乗客名簿を見せて、十津川にいった。 「それも、必要だが、その名簿をコピーして、日下刑事に、渡してくれないか」 「どうするんですか?」 「原田一夫は、まだ、京都の病院にいるんだろう?」  と、十津川は、日下に、言った。 「あと二日は、様子を見ると、いっていました」 「じゃあ、君は、この名簿を持って、もう一度、原田一夫に会って来て欲しい。この二〇七名の中に、彼が知っている人間がいるかどうか、知りたいんだ」 「わかりました」  日下は、すぐ、名簿のコピーをとり、それを持って、出かけて行った。  その後で、亀井が、難しい顔で、 「警部は、どう思われますか?」  と、十津川に、きいた。 「何のことだい? あの二〇七名の中に、原田一夫の知り合いがいるかどうかということかね?」 「そうです」 「いるかも知れないね」 「もし、そうなったら、どうなるんですか?」 「その人間を、調べてみるさ」 「しかし、斉藤医師は、完全に、容疑圏外になってしまいますよ」 「だろうね。今だって、二人の間には、何の関係も見つからないんだ」 「原田一夫を刺したのは、別人で、斉藤は、ただ、休暇を貰って、松江の叔父《おじ》のところへ行ったということになっては、私が聞いた、ブルートレインの八分停車という言葉は、何の意味も、持たなくなってしまいます」 「そうでもないさ。現に、小野純が、毒殺されているじゃないか」 「しかし、ブルートレインの八分停車と、関係があるとは、思えませんね」 「死んだ時刻は、丁度、『出雲3号』が、京都駅に、八分停車した頃《ころ》なんだ」 「それは、そうなんですが、それが偶然なのか、何か意味があるのか、全くわかりません」  亀井は、元気のない声で、いった。  どうも、事件が、亀井の予測した方向とは違う方向に、動いてしまっているからだった。 「出雲3号」の車内で刺されたのが、小野だったら、亀井の予測に、一致していたのだ。二人は、美しい鳥羽ゆう子をめぐるライバルだった。斉藤医師は、そのライバルを、ブルートレイン「出雲3号」が、八分停車するのを利用して刺したということである。 「もう一度、小野の部屋を調べてみようじゃないか」  と、十津川が、亀井を、誘った。      7  死体の消えてしまった2LDKの室内は、ほとんど、事件の匂《にお》いを、残していなかった。  自然に、十津川と亀井の足は、リビングルームの隅に設けられたホームバーに向った。  カウンターの奥の棚には、酒飲みなら、よだれのたれそうな世界の名酒が、並んでいる。 「この中から、小野は、なぜ、青酸入りのレミーマルタンを飲んだんですかね?」  亀井は、棚を見つめながら、首をかしげた。 「二つ考えられるよ。一つは、問題のレミーが、鳥羽ゆう子からの贈り物だった場合だ。彼女よりも、小野の方が惚《ほ》れている感じだったからね。他《ほか》にいくらいい酒があっても、そのレミーを飲むだろう」 「そうですね。もう一つは、何ですか?」 「この棚にあるボトル全部に、青酸が、入っている場合だよ。それなら、どのボトルを飲もうと、小野は死んだわけだ」 「まさか」  亀井は、びっくりして、十津川を見た。 「私だって、まさかと思うがね。今度の事件には、そのまさかが、ついて廻《まわ》っているような気がするんだよ。とにかく、調べてみよう」  と、十津川はいい、すぐ、若い刑事を呼び、棚にあるボトル全《すべ》てを、科研《かけん》に持っていくように、いった。  そのあと、二人は、他の部屋にも、入ってみた。  十津川は、二度目だが、亀井は、初めてである。ホームバーや高価なボトルにも、驚いたが、他の部屋のぜいたくな調度品にも、亀井は、呆《あき》れていた。 「子供に、こんなに、ぜいたくさせて、いいんでしょうかね」 「父親は、苦労して、三つのスーパーを持つようになった男だ。そういう父親は、息子に厳しくなる場合と、ぜいたくをさせ甘やかす場合と、二つに分れるようだ。小野の場合は、後者だったんだね」  寝室の壁には、鳥羽ゆう子の写真が、大きなパネルにして、飾ってある。 「警部のいわれる通り、惚《ほ》れていたようですね」  と、亀井が、写真を見ながら、いった。 「彼女の方は、どうだったのかな?」 「会いに、行ってみますか?」 「行ってみよう」  十津川は、肯《うなず》き、亀井と、今度は、久我山の鳥羽院長の自宅に廻《まわ》った。  鳥羽ゆう子は、幸い、家にいてくれた。  彼女は、十津川たちが、何かいうより先に、 「小野さんのことで、いらっしゃったんでしょう?」  と、いった。 「そうです」 「お話することは、何もありませんわ」 「それは、ショックが大きいので、今は、何も話す気になれないということですか? それとも、小野さんの生死には、全く関心がないということですか?」  十津川が、そんなきき方をすると、ゆう子は、眉《まゆ》をひそめて、 「意地の悪い質問をなさるのね」 「事実を知りたいからですよ。小野さんは、あなたが好きだった。彼の寝室の壁には、あなたの大きな写真が飾ってありましたからね。あなたの方は、どうだったんですか?」 「ボーイフレンドの一人でしたわ」 「恋人ではなかったということですか?」 「ええ」 「小野さんが、あなたに、結婚してくれといったことは、ありませんか?」 「いわれたことは、ありますわ」 「それで、返事は?」 「まだ、結婚を考えたことは、ありませんと、いいましたけど」 「それで、彼は、諦《あきら》めたんですか?」 「さあ」  と、ゆう子がいったところをみると、小野の方は、諦めなかったのだろう。 「もう一つ、二つ、質問させて下さい」 「手短かにして頂きたいんですけど。これから、行かなければならないところがあるんです」 「別のボーイフレンドとのデイトですか?」  十津川が、きいた。ゆう子は、軽蔑《けいべつ》したような眼になった。 「——のピアノコンサートですわ」  外国人の名前をいったのだが、十津川の知らない名前だった。  十津川は、構わずに、自分の知りたいことを質問することにした。 「小野さんに、ウイスキーや、ブランデーを贈ったことがありますか?」 「いいえ」 「小野さんは、自宅マンションに、ホームバーを作っていますが、あちらへ行ったことは?」 「一度、お邪魔したことがありますわ。もちろん、私一人でじゃなく、何人かと、一緒でしたけど」 「例えば、斉藤医師も一緒に?」 「そうだったかも知れませんわ」 「小野さんは、何が一番好きだったんですかね? ナポレオンとか、レミーマルタンとか、ブランド名ですが」 「レミーが、好きだというのは、聞いたことがありますわ」  と、いってから、ゆう子は、ちらりと、腕時計に、眼をやった。 「もう、出かけなければ、なりませんから」  ゆう子は、王女のように、立ち上ると、さっさと、奥へ入ってしまった。      8  京都へ向った日下から、電話が入ったのは、翌日になってからである。 「原田一夫に、二〇七人の名前を、全部、見て貰《もら》いました」  と、日下が、いった。 「それで、どうなんだ? 彼の知っている人間が、二〇七人の中に、いたのかね?」  十津川が、きく。 「繰り返し、見て貰ったんですが、原田は、二〇七名の中に、知っている名前は、ないということです」 「一人もなしか?」 「そうです。奥さんも同じです。全部、知らない名前だと、いっています」 「仕方がないな。すぐ、帰って来たまえ」  と、十津川は、いった。  読みが外れたということでもなかった。  二〇七名の中に、原田一夫の友人か知人がいたら、むしろ当惑しただろうと思う。  その人間を、容疑者と考えなければならないなら、斉藤医師が、容疑圏外へ去ってしまうからである。  二〇七名の乗客が、原田一夫と無関係になれば、また、斉藤医師が犯人の可能性が、出て来たのだ。ごくわずかではあるが。  そのあと、十津川は、科研に、電話を入れてみた。  昨日持って行った、二十八本のボトルの検査結果を、聞くためだった。  検査に当った塩谷《しおたに》技官は、十津川と、同じ年で、親しかった。自然に、言葉遣いも、乱暴になる。 「お前さんは、こんな危い酒を集めて、どうしようというんだ?」  と、塩谷が、いきなり、いった。 「じゃあ、全部のボトルに、青酸が、入っていたのか?」 「いや、レミーマルタンのボトルだけだ。それでも、五本全部にだよ。どういうことなんだい? これは」 「私にだって、わからないよ。どのボトルの青酸の量も、致死量だったかね?」 「ああ、もちろんだ」 「レミーマルタンは、どのボトルを飲んでも、死ぬようになっていたということか」  十津川は、ぶぜんとした表情になり、礼をいって、電話を切った。  青酸を混入したのは、むろん小野ではない。  万一、小野が、何かの理由で、自殺したいと考えていたとしても、そんな面倒な方法は、とらないだろう。  わざわざ、棚にあるレミーのボトル全部に青酸を入れなくても、グラス一杯の中に、青酸を入れれば、死ぬことは可能なのだから。  誰《だれ》かが、入れたのだ。  その人間は、マンションのキーを手に入れて、ひそかに、忍び込み、ホームバーの棚に近づき、レミーマルタンのボトル全部に、青酸を混入しておいたのか、或《ある》いは、小野に呼ばれて、訪ねて行ったとき、隙《すき》を見て、混入したのか。 「私は、前者だと思いますね」  と、亀井は、いった。 「たまたま、遊びに行ったとき、隙を見つけて、五本全部、小野が飲んだものを含めると、六本もですから、全部に、青酸を入れるのは、難しいと思います。だから、マンションのキーを盗んでおき、小野の留守に忍び込んでの仕業《しわざ》と思います」 「犯人は、そうしておいて、小野が、いつか死ぬのを、じっと待っていたことになるのかな?」 「いや、そうではないと思います。被害者が常用していた薬とか、好きだった酒に、前もって、毒を入れておいて、飲むのを待つというのは、よくある手ですが、たまたま、犯人が近くにいる時に死なれると、真っ先に、疑われます。その危険が、絶えずあるわけです」 「すると、犯人にしてみると、自分が、遠くにいる時に、死んで貰《もら》いたいわけだね。例えば、今度の場合の斉藤医師のように」 「そうです。ですから、これで、かえって、斉藤医師が、余計、怪しくなって来たんじゃないかと思いますね」 「もし、毒を入れたのが、彼だとする。彼は、そうしておいて、『出雲3号』で、松江に向った。彼は、小野が、いつ、青酸入りのレミーを飲むか、知っていたことになるね。斉藤は、自分が、『出雲3号』に乗っている間に、小野が死ぬことを、予期していたんだ」 「それも、もっと限定して、『出雲3号』が、京都駅に停車している八分間に、死ぬと決めて、あの列車に乗ったんじゃないかと思うんです」 「そして、彼の計算通り、午前三時から四時の間に、小野は、青酸入りのレミーを飲んで死んだか」 「その通りです」 「前もって、酒に毒を入れておくという方法での殺人では、被害者が死んだとき、遠くにいても、それは、アリバイにはならないんだが」 「しかし、心理的なアリバイには、なりますよ」 「心理的なアリバイか」 「そうです。われわれは、逆に、遠くにいる人間を疑いますが、一般的には、その時、遠くにいたことが、無実の証明のようになるんじゃありませんか。斉藤医師が、旅行に出ている間に、小野が、飲むということは、計算できないわけですから」 「もう一度、確認したいんだが、カメさんが聞いた男の声は、ブルートレインの八分停車を利用して、人を殺すと、いったんだね?」 「そうです」 「それが斉藤医師だったとすると、彼は、京都駅の八分停車を利用して、東京にいる小野に、青酸入りのレミーを飲ませたということになるね」 「そうです」 「しかし、斉藤は、何もしなかったんだろう?」 「そうです。彼に限らず、京都駅では、誰《だれ》も何も、しなかったと思います。いや、そうじゃありませんね。8号車で、原田一夫が、刺されています。それだけだったと思いますが」 「どうも、あの事件が、気になるね。なぜ、原田一夫という乗客が、刺されたのか?」 「斉藤が、同じ8号車に乗っていたのなら、何かを見られたので、口封じに刺したと思うんですが、彼が、乗っていたのは、2号車なんです」 「それに、凶器のこともあるだろう」 「そうです。凶器のナイフが、なぜ、列車の真下に落ちていたのか、それがわかりません。車両の床には、ナイフを捨てられるような隙間《すきま》はありませんし、犯人が、車内か、ホームにいる限り、線路の真ん中に、ナイフは捨てられないんです」 「列車が、発車したあとなら、あの場所に、捨てられるわけだね」 「そう思います」 「どうも、今度の事件は、はっきりしているようで、核心に迫れないような、いらだたしさを感じるね」 「同感です。わけのわからないことが、多過ぎます」 「死んだ小野と、斉藤医師の間を、調べてみたいね。仲がよければキーを盗んで、小野が留守の間に、部屋に忍び込める」 「調べてみましょう」 「それから、カメさんの身体《からだ》の中の石がなくなったら、一緒に、京都駅に行ってみようじゃないか。どうも、事件の解決のヒントは、京都駅の八分停車にあるような気がしてならないからね」 「今からでも、構いませんよ。私は、大丈夫です」  亀井は、腹のあたりを、手で、叩《たた》いて見せた。  十津川は、笑って、 「無理しなさんな。こちらで、調べることは、全《すべ》て調べてから、京都駅へ行ってもいいんだ」 「そうかも知れませんが——」  亀井は、残念そうに、いった。  夕刊が、配られて来た。  今度の事件は、どう報道されているのかという興味と、不安で、亀井は、新聞を手に取って見ていたが、急に、おやっという眼になった。 〈松江で、老妻が後追い心中〉  という記事が、眼に止まったからだった。  松江という地名に引かれて、その記事を読んだ。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈遠藤|真吉《しんきち》さん(七五)は、ここ三年間、リューマチで、寝たきりの生活を続けていたが、十五日の深夜、肺炎を併発して死亡した。妻のトクさん(六九)は、三年間、献身的に、夫の看病をしていたが、今朝になって、農薬を飲んで、死んでいるのが発見された。亡くなった夫の後を追ったものと見られている〉 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  第五章 疑惑の周辺      1 (殺《や》ったのか?)  一瞬、亀井は、そう思った。  一つの図式が、考えられたからである。  寝たきり老人がいた。そこに、甥《おい》が、会いに行く。その男は、医者である。  彼がいる間に、老人は、急死した。その後を追うようにして、老妻も自殺し、莫大《ばくだい》な遺産は、医者である甥の手に入ることになった。  この男が、もし、叔父《おじ》夫婦を殺す目的で、松江に行ったのだとしたら、老妻の後追い心中も、不審に、思えてくる。 「どう思われますか?」  と、亀井は、その新聞記事を、十津川に見せた。  十津川は、黙って、記事を読んでいたが、 「妙な具合になってきたね」 「そうなんです。斉藤は、京都駅の八分停車で、何かやると思っていたんですが、肝心のそちらの方では、彼と関係のない乗客が、刺されただけでした。それなのに、彼の叔父夫婦が死んで、遺産が、転がり込んで来たというと、ひょっとすると、こちらの方が、本命だったのではないかと、思ってしまいます」 「どのくらいの遺産が、斉藤の手に入るんだろう?」 「調べてみます」  と、亀井は、いった。  彼は、すぐ、島根県警に、電話をかけた。  県警では、遠藤真吉の死については、全く、疑っていなかったらしく、びっくりした様子で、すぐ、調べてみましょうと、約束してくれた。  翌日の昼過ぎになって、県警本部の本間《ほんま》という刑事が、亀井に、連絡してきた。 「問題の老夫婦の葬儀が、今日の午後二時から、行われることになっています。葬儀の責任者は、甥《おい》の斉藤医師ということになっていますね。他《ほか》に、身寄りがないんでしょう」 「彼が引きつぐことになる遺産は、どのくらいですか?」 「そうですね。土地その他で、五、六億といったところでしょう。あの辺では、大変な遺産ですね」 「遠藤真吉さんの死については、何の疑問もなかったわけですか?」 「松江署の管轄ですがね。今のところ、何の疑問も、持っていません。ここ三年間、寝たきりの老人でしたしね。肺炎で死ぬというのは、よくある例です。近所の人たちも、よく三年間もったといっているくらいでしてね」 「死亡診断書は、誰《だれ》が書いたんですか?」 「それは、丁度、最後に診《み》た甥の斉藤さんが、書きました。医師ですし、最後に診た人ですから、問題はないと、思いますが」 「他の医師は、確認していないんですね?」 「確認といいましてもね。医者が診断したんですし。別に、不審な点は、ありませんでしたからね」 「遠藤真吉さんの遺体は、どうなっているんですか?」 「すでに、焼かれていますよ」 「では、肺炎で死んだかどうか、もう、確認のしようは、ありませんね?」 「ええ。ありませんが、別に、問題はないんじゃありませんか?」 「かも知れませんが。妻のトクさんの遺体は、調べられたんでしょう? 中毒死ですからね」 「松江署で調べました。農薬中毒です。よく使われている農薬です」 「遺書は、あったんですか?」 「そんなものは、ありませんよ。あの婆さんは、遺書なんか、書くタイプじゃありませんからね。昔|気質《かたぎ》で、黙って、夫の後を追って行くタイプです。夫を、大変、愛していたことは、誰《だれ》でも知っていましたからね。これは、間違いなく、亡くなった夫の後を追ったんだと思いますよ」 「甥の斉藤が、遺産を狙《ねら》って、二人を殺したとは、考えられませんか?」  亀井が、きくと、本間は、 「斉藤という甥は、そんな男なんですか?」  と、逆にきき返した。 「いや、そんな男かどうかは、わかりませんが、現実に、彼は、何億という遺産を引きつぐことになるわけでしょう?」 「それは、そうですが、だからといって、殺したとは、いえませんよ。三年も、寝たきりで、いつ死んでもおかしくなかった病人でしたからね」 「しかし、続いて、奥さんも、死んでしまうというのは、普通じゃないでしょう?」 「これは、美談に近いんです。地元の新聞も、その線で書いているし、近所の人たちも、トクさんなら、後を追って、死にかねないと、いっているんです。疑問を持っている人は、誰もいませんよ」      2  亀井は、電話を切った。  彼は、苦笑しながら、十津川を見て、 「向うは、全く、疑っていませんね。むしろ、素晴らしい夫婦愛ということで、美談になっているみたいですよ」 「日本人は、死を美化して考えるからね」 「遠藤真吉の遺体は、すでに、荼毘《だび》に付されてしまっているので、殺されたのかどうかの確認の仕方は、ありませんね」 「すると、斉藤は、遺産を、手にするわけか」 「そうなりますね。五、六億の遺産だそうです。税金をとられても、億単位の金が、手に入ることは、間違いありません」 「松江の事件でも、斉藤には、何も出ずかね」 「そうですね。叔父《おじ》夫婦を殺したという証拠は、何もないようですし、向うの警察は、全く、調べる気はないみたいです」 「特急『出雲3号』の車内で刺された原田と、斉藤との関係も、出て来ないようだしね。どうも、八方ふさがりだな」 「残るのは、毒死した小野と、斉藤との関係だけです。とにかく、この二人の関係は、調べときます」  亀井は、そういって、若い日下刑事を連れて、出て行った。  十津川は、もう一度、新聞記事に、眼をやった。  もし、斉藤医師が、何者か知らなかったら、注目していなかったら、簡単に、見すごしてしまう記事である。  どう思いますかと、きかれても、怪しまないだろう。  島根県警では、むしろ、美談とみているというが、十津川だって、無関係に見れば、美談と、思ったかも知れない。  死んだのが、老夫婦だから、余計に、美談のように、思うのかも知れない。  孤独な老夫婦だ。老妻の方は、三年間、寝たきりの夫を、看病してきた。その夫が、死んだ時、老妻の方も、生きるハリを失って、自殺してしまった。  泣かせるストーリイだ。だから、美談視しているのだろう。  しかし、別のストーリイだって、考えられる。  老妻は、夫の看病に疲れ切っていた。そこで、やっと、夫が死んでくれて、ほっとし、これからは、自由に、好き勝手に生きられると、喜んでいたということだって、あり得るのだ。  死んだ遠藤トクは、六十九歳である。現代では、まだ、若い部類に入る。遺産もあるわけだから、世界旅行でも、何でも、出来るだろう。  こちらのストーリイなら、遠藤トクは、自殺する筈《はず》がない。当然、その死亡には、疑いが、持たれてくる。  しかし、所轄の島根県警が、何の疑いも持っていないのでは、警視庁としては、動きがとれない。  夕方になって、亀井が、日下と、帰って来た。  さすがに、疲れた顔をしていた。 「小野と、斉藤の関係は、何か出たかね?」  十津川が、きくと、亀井は、肩をすくめるようにして、 「それが、よくわからんのです」 「わからない?」 「小野は、例の病院の一人娘の鳥羽ゆう子のボーイフレンドです。ボーイフレンドは、何人もいますが、その中では、彼は、最有力だといわれていたそうです。ボーイフレンドというより、恋人に近い存在だったようですね。資産家の息子だし、ハンサムでもありますからね」 「斉藤も、鳥羽ゆう子を、狙《ねら》っていたんだろう?」 「そうなんです。従って、二人は、ライバルになるわけです」 「だろうね。そうなると、斉藤が、小野のマンションに、出入りしていたとは、考えられなくなるね」 「そうなんですが——」 「違うのかね?」 「小野が、斉藤と、一緒に飲んでいるのを見たという人間がいるんです」 「ほう」 「同じ医者の仲間でしてね。もちろん、あの病院の医者です。銀座のクラブで飲んでいたら、斉藤と、小野が、一緒に入って来たというんです」 「その医者は、二人を知っているわけだね?」 「そうです。すでに、妻子のある医者なんですが、それでも、院長の一人娘の結婚については、関心があると、いっていました。それで、小野のことも、知っていたわけです」 「なるほどね」 「ライバルの二人が、一緒に飲んでいるのを見て、おやっと、思ったというんです」 「その時、斉藤と小野は、仲がいいように見えたのかね?」 「仲よく飲んでいたと、いっています」 「ふーん」 「ところが、二人が、犬猿の仲だったという証言もあるんです。むしろ、その方が、多いんですよ。私が、診《み》て貰《もら》った女医さんなんですが」 「ああ、覚えているよ。なかなか、美人だったじゃないか」  十津川は、微笑した。 「あの女医さんの証言なんですが、お互いを、ライバル視して、悪口を、いい合っていたというんですよ」  と、亀井は、いった。 「そっちの方が、信じられる感じだねえ」 「そうなんです。事実、二人から、お互いの悪口を聞かされたという看護婦が、何人かいるんです」 「となると、動機は、あるわけだ。斉藤には」 「そうです」 「しかし、犬猿の仲だったとなると、斉藤が、小野のマンションに入り込んで、レミーマルタンに、毒を入れるのは、難しくなってくるね」 「そうなんです。こっちがよくなると、向うが、まずくなるという感じで、どうも、すっきりしません」 「鳥羽ゆう子をめぐって、今、結婚のレースが、始まっているわけだろう。小野も、斉藤も、候補者の一人ということになる」 「そうです」 「鳥羽ゆう子に会った時、彼女は、小野が、ボーイフレンドの一人に過ぎなかったといったが、あれは、事件に巻き込まれるのが嫌で、嘘《うそ》をついたんじゃないかと、私は思っているんだよ」 「そうですね。今もいいましたように、最有力だったという声がありますし、恋人の一人だったことは、間違いありません」 「その恋人レースに出走している正確な人数と、名前が欲しいんだが」 「それは、調べてきました」  亀井は、手帳を取り出すと、黒板に、男の名前を、書きつけていった。 「ボーイフレンドは、沢山いますし、自称、彼女の恋人というのもいますが、そういうのは、除外しました」  斉藤医師  江島泰《えじまやすし》  杉本幸夫《すぎもとゆきお》  と、彼は、三人の名前を、そこに、書きつけた。 「この他《ほか》に、小野がいたわけです」 「江島と、杉本は、どんな男なんだ?」 「江島は、二十八歳。江島宝石の息子です。年商三百億円、資産二十億円といわれる江島宝石の一人息子だし、ハーバードを出た秀才ですから、申し分は、ありません」 「杉本は?」 「彼は、音楽家です。三十歳で、ピアニストとしては、日本で、五本の指に入るといわれています。両親も、音楽家です」 「斉藤医師は、そんな二人が相手では、旗色が悪いんじゃないかね?」 「そうですね。同じ病院勤務という点は、有利ですが、資産もないですからね」  と、いってから、亀井は、 「ああ、今度、資産が、手に入ったんでしたね」 「インターンの野口は、どうなんだ? 彼も、鳥羽ゆう子に、関心を持っているんじゃないのかね?」 「関心があると思います。しかし、まだ、インターンですからね。レースには、参加できないと思います。彼女の父親が、一人前の男とは、認めていないようですから」 「すると、この三人だけか。この中に、小野を殺した犯人がいると見ていいのかね?」  十津川は、じっと、黒板に書かれた名前を、見つめた。      3 「そうですね。ライバルが一人減れば、それだけ、有利になりますからね。動機があるといえば、この三人には、全《すべ》て、動機があるわけです」 「この三人の中で、小野と、一見、親しかった男が、怪しいことになるねえ」 「そうですね」 「斉藤以外の二人は、どうなんだ……」 「仲がよかったという噂《うわさ》も聞きませんでしたが、逆に、悪かったという話もないんです」 「毒殺だと、アリバイも、問題にならないからね」 「そうなんです。小野が、毒死したときの三人のいた場所を調べてみたんですが、斉藤は、ご存じのように、京都駅です。江島は、東京の自宅にいたといっていますし、杉本は、札幌に、演奏旅行中でした。しかし、だからといって、東京にいた江島が、一番怪しいとはいえません」  亀井は、溜息《ためいき》をついた。 「しかし、一番怪しいのは、斉藤だろう?」  と、十津川が、いった。 「そうです。何しろ、斉藤が、京都にいたときに、小野は、死んでいますからね」 「八分停車の間にだろう?」 「そうなんです。私が耳にした男の声が、斉藤だと断定できれば、問題はないんですが、それが、確定できません。しかし、私は、あの声は、斉藤だと、思っているんです」 「女は、誰《だれ》だったんだろう?」 「相手の女ですか?」 「そうだよ。レントゲン室で、女の声も、聞こえたんだろう?」 「そうです。女の方は、ただ、聞いているだけの感じでしたが」 「その女を見つけられれば、男が、誰だったか、わかるだろう?」 「そう思って、いろいろと、当ってみたんですが、まだ、見つかりません。あの病院の看護婦じゃないかと思っているんですが、外の女を、連れ込んでいたのかも知れません」 「斉藤は、今、松江か?」 「そうです。明日まで、病院には、休暇届を出しています」 「君は、あくまでも、斉藤が、犯人と思っているわけだろう?」 「他《ほか》に、考えられません」 「じゃあ、今日、ブルートレインの『出雲3号』に乗って、もう一度、山陰へ行ってみないかね? 私と一緒にだ」 「警部も、行かれますか?」  亀井が、眼を輝かせた。 「一度、京都駅の八分停車というのを、味わってみたいんだ。そうすれば、何か、わかるかも知れないからね」  十津川が、いった。 「行きましょう!」  亀井は、急に、元気になった。  壁にぶつかった捜査が、京都へ行くことで、突破口が、開けるかも知れないと、期待したからだろう。  電話で、切符の予約をしておいてから、十津川と亀井は、午後八時に、警察を出た。  東京駅に着いたのは、八時半である。  10番線ホームにあがると、丁度、「出雲3号」が、入線してくるところだった。  そのブルーの車体に、眼をやりながら、亀井は、 「京都の病院にいる原田ですが、とうとう、斉藤との関係は、出て来ませんでした」 「そうらしいね」  と、十津川は、肯《うなず》いてから、 「それだけじゃなくて、同じ列車に乗っていた二〇七名の乗客との関係も、調べたじゃないか。その結果、誰《だれ》一人、原田と関係がなかった。つまり、原田を刺すだけの動機の持主は、斉藤を含めて、一人もいなかったことになるんだ」 「わけが、わかりませんね」 「フェイントかな。原田に、注目を集めるためのね。それなら、刺すのに、乗客なら、誰でも、よかったことになる」  と、十津川は、いう。 「それも考えてみましたが、斉藤は、何もやっていないんです。フェイントとしても、意味がなくなります」 「確かに、そうだね」 「行き詰って、バカバカしいことまで考えました」 「どんなことだい?」 「レントゲン室で、女に、八分停車中に、何かやる、人殺しをやってみせると、いってしまったので、やみくもに、乗客の一人を刺したのではないか、みたいなことです」  いってから、亀井は、頭をかいた。  十津川も、笑って、 「確かに、バカバカしいねえ」 「そうなんです。そんなことで、もし、捕まったら、これ以上、つまらないことは、ありませんからね。斉藤は、絶対に、やらんでしょう」  二人は、8号車に乗り込んだ。刺された原田が、乗っていた車両である。  京都駅まで、眠る気はないから、寝台に、向い合って、腰を下ろした。  十津川は、煙草《たばこ》に火をつけた。 「原田を刺したナイフのことがあったね」 「そうです。発見された場所が、奇妙です」 「この床下の線路上に、落ちていたわけだね」 「そうなんです。停車中の列車の下に、どうやって、凶器を捨てることが出来たのか、わからないんです」 「京都へ行けば、解明できるかな」 「そうなってくれることを、期待しているんですが」  亀井が、いった。  ホームで、ベルが鳴った。  二人を乗せた「出雲3号」が、ゆっくりと動き出した。  亀井は、いやでも、前に、日下と乗ったときのことを、思い出した。  京都駅で、何かあるに違いないと、思って、乗っていたのである。京都まで、緊張のしつづけだった。  京都駅に停《と》まって、8号車から、腹を刺され、血だらけになった乗客が、ホームに、転がるようにして、降りて来たとき、これが、予告された事件と、直感したものだった。  あの瞬間の、背筋に冷たいものが走るような緊張感は、今でも、はっきり覚えている。 (やっぱり、事件が起きた)  と、思ったものだった。  刺された乗客が、助かるとわかったとき、これで、犯人も、簡単に、割れると思ったし、その犯人は、斉藤医師だろうと、考えたのである。  ところが、今、壁にぶつかって、しまっている。 「斉藤は、野心家なんだろう?」  十津川が、いった。 「そう思いますね。野心満々な感じがします」 「名声も欲しいし、金も欲しいというやつか」 「そうですね」 「すると、最初から、叔父《おじ》夫婦の財産を狙《ねら》っていたということが、考えられるね」 「斉藤は、頭も切れるし、野心もある男です。しかし、今は、金も、名声もない。だから、狙っていたことは、十分に考えられますね」 「まず、斉藤は、身近な叔父夫婦の財産を狙ったということかね。松江には、ブルートレインの『出雲3号』で、あの日に、行くことが、決っていた。多分、その時には、狙いは、叔父夫婦だけだったんじゃないかね。そのあとで、小野を殺したいと思うようになった。松江に行く途中、『出雲3号』は、京都駅に、八分停車する。その時に、殺してやれと、思ったんじゃないだろうか。方法などは、わからないが、そう考えると、表面的には、辻褄《つじつま》が合ってくるような気がするがね」 「そうですね。表面的には、一貫しますね。他の人間が、八分停車といったのなら、不自然ですが、斉藤なら、おかしくありませんね。彼が、時々、『出雲3号』で、松江に行っていたとすれば、この列車が、京都駅に、八分停車することは、知っていたでしょうからね。八分停車という言葉を、口にしても、おかしくは、ありませんね」 「だが、それ以上は、わからない」  と、十津川は、苦笑した。  犯人が、斉藤だったとして、なぜ、八分停車でなければならなかったのか、なぜ、無関係な乗客が刺されたのか、それが、わからない。  車内で、しばらく話し声が聞こえていたが、それも、次第に聞こえなくなった。乗客のほとんどが、寝台に入って、眠ってしまったらしい。  列車は、いつの間にか、静岡を過ぎていた。 「あの日は、大変でした」  と、亀井が、声をひそめて、いった。 「そうだろうね。まだ、京都駅で、何が起きるか、わからなかった時点だからね」 「ひょっとすると、『出雲1号』で、起きるのかも知れないという不安も、ありましたから」  と、亀井は、思い出しながら、いった。  それに比べれば、京都で、調べればいいというだけ、今日は、楽だと思う。ただし、京都に着いて、何もわからなければ十津川と二人、わざわざ、行ったことが、無意味になってしまう。 「くり返しになってしまうが、私は、レントゲン室にいた女のことが、気になるね」  十津川は、何本目かの煙草《たばこ》に、火をつけてから、亀井に、いった。 「そうですね。男が、殺人を打ち明けたわけですから、相当深い関係のある女ということになります」 「斉藤に、そういう女がいるのかね?」 「それなんですが」  と、亀井は、言葉を切って、ちょっと、考えていたが、 「医者と看護婦というのは、昔から、仲がいいといわれています。それで、問題の女は、あの病院の看護婦に違いないと思っているんですが」 「調べては、みたんだろう?」 「ええ。婦長や、看護婦に会って、話を聞きましたが、特定の女性は、認めることが、出来ませんでした。斉藤と関係のある看護婦が、見つからないんです」 「いないのかも知れないな」 「は?」 「斉藤は、院長の一人娘の鳥羽ゆう子との結婚を、望んでいるわけだろう?」 「そう思います」 「それなら、看護婦には、手を出さないんじゃないかね。同じ病院の看護婦と出来たりすれば、すぐ、噂《うわさ》になって、院長の耳に入る。そうなれば、結婚なんて、望めなくなってしまう。斉藤が、そんな危険を冒すだろうか?」 「そういえば、そうですね」 「女の声だったことは、間違いないんだね?」 「それは、間違いありません」 「看護婦ではないとするとだね。いったい、どんな女なんだろう?」 「クラブや、バーのホステスと、つき合っていたことは、確かなようです。若くて、ハンサムですから、そういう女がいても、不思議はないんですが、同棲《どうせい》しているとか、結婚を約束したような女は、いなかったみたいです」 「ホステスを、病院のレントゲン室に、連れ込むだろうか?」 「看護婦でないとすると、ホステスではないかと思ったんですが、冷静に考えると、それも、おかしいですね」 「そうだよ。見つかったら、大変だからね。自分のマンションへ、連れ込んだというのなら、弁明できるが、病院へ連れ込んで、見つかったら、院長が、追い出してしまうだろうし、信用も、失ってしまうだろうからね」 「そうなんです。斉藤にとって、今は、院長の一人娘と、結婚できるかどうか、大事な時ですからね。ホステスや、看護婦と、妙なことはしないでしょうね」 「しかし、女と、レントゲン室にいて、殺人の話をしていたんだ」 「そうなんです」 「カメさんを診《み》た女医さんということは、考えられないかね? 病院にいる女性ということで」  十津川がいうと、亀井は、「え?」と、びっくりした顔になった。  彼女のことは、全く考えていなかったのだ。 「あの女医さんが、斉藤と関係があるとは思えませんね。そんな話は、全く、聞けませんでしたから」 「しかし、男と女の仲というのは、わからんよ」 「しかし、斉藤は、何度もいいますが、鳥羽ゆう子との結婚を、望んでいるわけです。だから、看護婦には、手をつけない。すぐ、院長の耳に入ってしまうというのは、あの女医さんも、同じじゃないかと思うんです」 「彼女は、まだ、結婚してないんだろう?」 「私が調べたところでは、一度、結婚していますが、すぐ別れて、現在は、独りです」 「それに、美人だよ。頭もいい」 「ええ」 「レントゲン室から聞こえた女の声だとしても、おかしくはないんだ」 「それはそうですが、私には、どうも、信じられませんね。殺人を打ち明けられるほど、親しければ、斉藤との間が、少しは、噂《うわさ》になっていると思うんですが、それが、ありません」 「そうか。あの女医でも、看護婦でも、ホステスでもないとすると、いったい、どんな女だったのかね? まさか、鳥羽ゆう子だったということは、ないだろうが」 「それは、ないと思います」  と、亀井は、いった。  十津川は、院長の自宅で会った鳥羽ゆう子の顔を、思い出した。  一見して、ハーフとわかる現代的な顔だった。  彼女が、病院のレントゲン室にかくれて、斉藤と一緒にいる姿は、想像しにくい。      4  定刻の午前三時三八分に、京都に着いた。  2番線ホームである。  十津川と、亀井は、深夜のホームに降りた。 「ここは、東海道本線のホームなんだね」  と、十津川は、ホームの掲示板を、見上げて、いった。 「あの時は、夢中だったので、そんなところまで、気が廻《まわ》りませんでした」 「山陰本線の発着は、1番線なんだ。そう書いてある」 「そうみたいですね」 「1番線ホームなら、改札口につながっているから、一、二分で、駅の外に、逃げ出せるが、この2番線では、階段をのぼって、跨線橋《こせんきよう》を渡り、1番線ホームに降りてから、改札口を出なければ、逃げ出せないね」 「それでも、この間、実験したら、三分か、四分で、改札口から、飛び出せます」 「しかし、斉藤は、逃げなかったんだ」 「そうなんです」  と、亀井は、肯《うなず》いた。  山陰本線は、単線なので、1番線から、発着する。普通列車は、全《すべ》て、1番線からである。  しかし、東京から、東海道本線を走って来て、京都から、山陰本線に入る寝台特急「出雲1号、3号」は、東海道本線の2番線ホームに、停車してから、山陰本線に、入って行くらしい。 「ホームを、歩いてみようじゃないか」  と、十津川は、亀井に、いった。  あの日、斉藤が、ここで何かしたとすれば、車内か、ホームのどちらかしか、考えられないのだ。  ここまで列車を牽引《けんいん》して来た電気機関車と、ディーゼル機関車との交換が、行われている。  列車から降りて、その様子を撮《と》っている子供がいる。  大半の乗客は、眠っているのだろうが、中には、ホームに降りて、軽い体操をしている人もいる。  あの日と同じような光景だが、今日は、刺された乗客が、転がり出て来るようなことは、なかった。  二人は、2番線ホームを、端から、端まで歩いて行った。  跨線橋《こせんきよう》にあがって行く階段が、中央近くにある。  地下道におりて行く階段は、ホームの端である。  キオスクがある。が、午前三時過ぎという時刻なので、閉まっている。  洗面台が、あった。  昔の駅のホームに、よくあったものである。  列車から降りた乗客が、顔を洗ったり、髪をなでつけたりする洗面台である。昔は、大きな駅には、たいてい、ずらりと並んでいて、乗客が、ホームで、顔を洗っていたものである。  今は、ホームのトイレか、車内で、洗面をすませるので、新しい駅のホームには、洗面台は、無くなっている。  この京都駅の2番線ホームに、それがあるのは、それだけ、古いということなのだろう。  キオスクの裏側には、電話機が、並んでいた。  ホームを、端から端まで歩いても、これ以外に眼につくものは、なかった。 「あの時は、ホームに何があるかなんて、落ち着いて、見ませんでしたね」  亀井は、ホームを見廻《みまわ》しながら、十津川にいった。 「電話だね」  十津川が、ぼそッと、いった。 「電話といいますと?」 「このホームで、斉藤が、何かに使えるものといったら、電話しかないと思うんだよ。キオスクは、閉まってしまっているし、まさか、八分停車を利用して、洗面台で、顔を洗ったわけでもないだろう」 「確かに、そうですね」 「二、三分の停車では、ゆっくり、電話は、掛けられない。八分あれば、かなり長い電話だって、掛けられる筈《はず》だよ」 「電話は、東京の小野純にですか?」 「そうだよ。斉藤は、このホームから、電話したんだ」 「しかし、警部。小野の部屋には、グラスが二つ用意されていましたよ。だから、誰《だれ》かが、来ることになっていたんだと思いますが」 「斉藤が、行くことになっていたんだと思うね」 「しかし、彼は、京都にいたんです」 「そうさ。電話で、彼は、東京にいるといい、これから、そちらに行くと、小野にいったんだろう」  ベルが、鳴った。  八分、経《た》ってしまったのだ。 「どうしますか? 松江まで、行きますか?」  亀井が、きいた。 「いや。ここで、降りよう。もう少し、見たいものがあるからね」  十津川が、いった。  二人を乗せて来た「出雲3号」が、ゆっくりと、走り出した。  何ということもなく、二人は、しばらく、列車を、見送っていた。 「まあ、座ろうじゃないか」  十津川は、亀井を促して、ホームの椅子《いす》に腰を下ろした。 「出雲3号」が、消えたホームは、ひっそりと、静まり返っている。  列車が、停《と》まっていた時には、さえぎられて見えなかった向いの1番線ホームが、はっきりと、見えた。  烏丸《からすま》口出口への改札口が、そこだけ、いやに明るくなっている。  こちらの2番線ホームとの間には、レールが、二本横たわっているだけである。  十津川は、改札口の方に、眼をやりながら、 「このホームで、電話があるのは、中央部のキオスクの背後だけだよ、電話が並んで置かれている。斉藤は、『出雲3号』に乗って来て、ここに着いてから、ホームの電話を、東京の小野に掛ける気だったんだ」 「ええ」 「電話があるところは、ホームで、一か所しかない。となると、電話をかけているところを、他人《ひと》に見られる心配がある。それで、斉藤は、フェイントをかけたんじゃないかな」 「8号車の乗客、原田一夫を刺したことですか?」 「そうだよ。8号車は、一番端の車両だ。このホームの電話は、中央にあるから、8号車は、そこから、一番離れたところに、停車していることになる。斉藤は、京都に近づく列車の中で、2号車から、8号車まで歩いて行き、原田一夫を刺したんだ。8号車の乗客なら、誰でも、よかったんだと思うよ。もちろん、殺す気はないから、軽く刺した。列車が、ホームに着くと同時に、刺された乗客は、血だらけで、ホームに、転がり出る。駅員も、カメさんたちも、びっくりして、駆け寄る。ホームの注意が、全《すべ》て、8号車の方に集った隙《すき》に、斉藤は、ホームの中央部にある電話から、東京に、かけたんだよ」 「それだけで、相手を、殺すことが出来るでしょうか?」  半信半疑の顔で、亀井が、きいた。 「斉藤が狙《ねら》ったのは、プロバビリティの犯罪というやつだろうね。斉藤は、小野のマンションに忍び込み、彼のホームバーにあったレミーマルタン全てに、青酸を、混入しておく。いつか、小野は、それを飲んで死ぬだろう。しかし、丁度、死んだときに、東京にいたら、疑われやすいし、じっと、飲むのを待っているのも、気が気ではない。そこで、自分が、『出雲3号』に乗って、京都に来ている時に、殺そうと、思ったんだろう」 「電話で、飲めと、指示したとは、思えませんが」 「もちろん、そんなことは、いわないよ。多分、これから行くから、一緒に飲もうとでも持ちかけたんだ。その上、先に、飲んでいてくれともいったんだろう。だから、小野は、来客用のグラスも用意しておいて、レミーマルタンを、飲んだんだ。そして、斉藤の企《たくら》んだ通り、毒死してしまったんだ」 「しかし、午前三時三八分ですよ」 「だから、そんな夜中でも、斉藤が、出かけて行ってもおかしくない話を、持ちかけたんだ」 「どんなですか?」 「わからん。二人で、考えてみようじゃないか」  と、いってから、十津川は、椅子《いす》から立ち上り、ホームの際《きわ》まで進んで、下の線路に、眼をやった。 「凶器のナイフは、この線路の真ん中に、落ちていたんだったね?」 「そうです。『出雲3号』が、出て行ったあと、線路の上から、発見されたそうです。付着していた血痕《けつこん》の血液型から考えて、原田一夫を刺したナイフであることは、まず、間違いないと、思われます」 「斉藤が犯人だとすると、どうやって、捨てたかが、問題になるわけだね」 「そうなんです。ホームから、投げ捨てるのは、難しいと思いますね。人の眼があると、線路の真ん中まで、投げるのは、難しいです。車内からとすれば、なおさらです」 「だが、斉藤は、原田一夫を刺してすぐ、ナイフを、捨てたんだと思うよ」  と、十津川は、自信を持って、いった。  血まみれのナイフを持って、ホームに降りて行き、それを、また、ホームから、線路上に投げ込むなどということが、考えられるだろうか?  誰かに見られる危険が、多すぎるのだ。  従って、刺したあと、すぐ、捨てたと見るべきなのだ。 「すると、車内から、捨てたことになりますが、窓からだと、線路の真ん中には、絶対に、落ちません。第一、寝台特急の窓は、開きません」 「だが、すぐ、捨てたんだよ」 「しかし、どこから、どうやって、捨てたというんですか?」 「車両の床に、穴をあけて、そこから捨てたんじゃないかね?」  十津川が、いうと、亀井は、真顔で、 「冗談《じようだん》は、やめて下さい」  と、怒ったような声を出した。 「別に、冗談で、いってるんじゃないんだ」 「しかし、警部、車両の床に穴をあけるなんて、無理ですよ」 「わかってるさ。しかし、問題の凶器は、拳銃《けんじゆう》でも、トンカチのような鈍器でもなく、ナイフなんだ。そのことは、意味があるんじゃないかな。捨てることにもね」 「ナイフだから、車両の床を、削れるというわけですか?」 「拳銃や、鈍器では、出来ないよ」 「しかし、警部、ナイフで、削って、うまくいくと思われますか?」 「カメさん。それが、うまくいくんだよ」  十津川が、微笑した。 「本当ですか? ナイフで床を削ったりは出来ませんよ。車両の床は、かたい木ですから、簡単には、削れないし、ナイフの刃がこぼれてしまうでしょう。発見されたナイフは、刃こぼれしてなかったんです」  亀井は、あくまで、きまじめに、いった。 「別に、床を削ったとは、いってないよ。列車には、ナイフで、切れるものがあるんじゃないか」 「ナイフで切れると、いいますと——?」  と、亀井は、いいかけてから、急に、「ああ」と、肯《うなず》いた。 「連結の部分の幌《ほろ》ですか?」 「そうだよ。あの幌になら、ナイフで、穴を開《あ》けることが、出来るんじゃないかと思ったんだ。犯人は、前もって、何両目かの連結部分の幌に、ナイフで、穴を開けて、おく。8号車で、乗客の一人を刺したあと、その穴から、凶器のナイフを捨てたんだ。列車の幌というのは、ジャバラ式で、普通の時は、折りたたまれた形になっているから、小さな穴が開けられているなどとは、気がつかない。幌は、車両の中央部にあるから、捨てられたナイフは、線路の真ん中に落ちるし、列車が、停車している間は、なかなか、見つからない。列車が、出て行ったあとで、線路上で見つかったから、おやっと思うんだ」 「調べて貰《もら》いましょう。警部の推理が当っていれば、あの日の『出雲3号』の車両の幌の下に、ナイフで、穴が開けられているわけです」 「調べるのは、夜が明けてからでいいさ。われわれは、松江に行ってみようじゃないか」 「それなら、『出雲3号』に、乗って行くんでしたね」 「まあ、いいさ。ゆっくりと、この2番線ホームを見たかったんだ」  と、十津川は、いった。  しかし、「出雲3号」を、外してしまうと、単線で、非電化の山陰本線では、なかなか、適当な列車が、無くなってしまう。  二人は、跨線橋《こせんきよう》を渡って、山陰本線の発着する1番線へ歩いていった。  ボードを見ると、次の列車は、午前五時二四分発の福知山行である。  この普通列車で、福知山まで行き、そこから、大阪発の福知山線経由で、米子へ行く、特急「まつかぜ1号」に乗るのが、一番早そうだった。  これでも、米子着は、一三時四五分。米子から松江へは、タクシーでも、四十分くらいで着くだろう。  二時間近く待ってから、二人は、福知山行の列車に、乗った。  気動車に乗って、走っていると、山陰本線は、ローカル線だなという気がしてくる。裏日本、という言葉は、おかしいという議論もあるが、鉄道だけを見ても、山陽と比べて、山陰は、はるかに、冷遇されているような気がする。  七時四三分。福知山着。  ここで、また、長い時間、待たなければならない。八時〇三分発の普通列車があるが、これは、浜坂までである。  九時三〇分発の出雲市行の普通列車もあるが、この各駅停車に乗ったのでは、松江に着くのは、一八時一五分に、なってしまうのだ。  従って、一番早く着けるのは、九時五八分発の特急「まつかぜ1号」になってしまうのである。  二人は、福知山駅を出て、駅前の食堂で、朝食を、とった。      5  特急「まつかぜ1号」で、米子まで行き、米子からは、タクシーで、松江に向った。  松江の市内に着いたのは、午後三時近かった。  十津川と、亀井は、まず、松江警察署に、足を運んだ。  遠藤夫婦と、斉藤のことで、いろいろと調べて貰《もら》ったことへのお礼と、その後のことを、きくためだった。  亀井が、電話で話をした本間刑事が、いてくれた。  小柄な本間刑事は、細い眼で、十津川たちを迎えてから、 「今も、遠藤家へ行って来たところです」  と、いった。 「もう、葬儀は、終っている筈《はず》ですね?」  亀井が、きく。 「終っています。斉藤は、今日一杯、松江にいて、明日、東京に帰ると、いっていました。飛行機でです。それから遠藤家の土地ですが、これは、売却するそうです」 「もう、そんなことを、いってるんですか?」 「まあ、彼は、松江に住むわけじゃないんですから、処分は、仕方がないでしょう」 「土地などを処分すると、彼の利益は、どのくらいですか?」 「税金がありますからね。しかし、少なくとも、二億円近い額にはなると、思います。私も、ああいう叔父《おじ》がいればと、思いますね」  本間は、小さく笑った。 「後追い心中については、近所の人たちは、どう言っているんですか?」 「みんな感心していますね。古い気質の人たちが多いし、老人が多いですからね。心中したとなると、無条件に、感動してしまうんですよ」 「そういう人たちなら、すぐ、遺産を処分しようとする斉藤に対しては、反感を持つんじゃないですか?」 「いや、彼は、その金で、遠藤夫婦の立派な墓と、記念碑を建てると、いっています。それで、反感は、ないんじゃないですかね」 「記念碑?」 「そうです。奥さんが、夫の後を追って心中ということで、新聞にも出たので、斉藤は、記念碑を建てると、いっているんです。夫婦愛を記念する、ということでですよ」 「ふーん」  亀井は、鼻を鳴らした。もし、老夫婦を二人とも、斉藤が殺したのだとしたら、記念碑というのは、その犯行を隠そうとするものだ。とんだ茶番ということになる。 「誰《だれ》も、斉藤を、疑っていませんか?」  と、亀井が、きいた。 「いませんね。みんな、純朴な人たちということかも知れませんが、甥《おい》の医者が怪しいなどという話は、一言も、聞けません。お医者が甥で、最期《さいご》を看《み》とられて、二人とも、幸福だったと、いっていますよ」 「そうですか」 「他《ほか》に、親戚《しんせき》がいれば、少しは、疑いを持つかも知れませんが、利害関係のある人が、いませんからね」 「本間さんは、斉藤に、会われたんですね?」 「ええ。会って来ました」 「印象は、どうですか?」  亀井は、興味を持って、きいた。 「そうですね。殺人を犯すような人間には見えませんでした。ただ、田舎者の私なんかから見ると、少し、喋《しやべ》り過ぎるなとは、思いましたが」 「そんなに、喋りましたか?」 「遠藤夫婦が、いかに、愛し合っていたか、教えてくれましたよ」  と、本間は、いった。  斉藤は、だから、老妻が、後追い心中をしたのだと、いいたいのだろうか。 「会ってみるかね?」  と、十津川が、亀井に、きいた。      6  十津川と、亀井は、松江署の車で、斉藤に会いに行った。 「忌中」の札の掲《かか》った家の中で、十津川と亀井は、斉藤に、会った。  さすがに、斉藤は、疲れた顔をしていた。  広い庭の池の傍《そば》で、斉藤は、 「わざわざ、警部さんまで、いらっしゃったんですか」  と、皮肉な眼つきをした。 「小野さんが、東京で亡くなりましたのでね。関係者に、話を聞いて廻《まわ》っているんですよ」  十津川が、いった。 「小野さんが、亡くなったのは、知っていますよ。しかし、僕には関係ない」  斉藤は、小さく、肩をすくめた。 「しかし、あなたも、鳥羽ゆう子さんとの結婚を望んでいるわけでしょう?」  亀井が、強い眼で、斉藤を見た。 「そりゃあ、彼女は、魅力がありますからね。結婚したいとは、思っていますよ。しかし、それは、僕だけじゃない」 「わかっています。亡くなった小野さん、それに、あなた、あと二人、江島さんと、杉本さんが、候補者だと、見ていますがね」 「それなら、あとの二人にも、小野さんを殺す動機があるわけでしょうに、なぜ、僕だけ、追っかけるんですか?」  と、斉藤は、文句を、いった。  十津川は、笑った。 「いや、あとの二人の方も、調べていますよ。江島さんは、問題の時間に、東京にいたが、ピアニストの杉本さんは、北海道に、演奏旅行に、行っていたことが、わかりました」 「それなら、江島さんが、犯人だと思いますよ。彼には、悪いが」 「なぜですか?」 「僕も、小野さんが亡くなった時には、『出雲3号』に乗って、東京を離れていましたからね。東京にいたのは、江島さんだけなんでしょう。それなら、彼が、一番、怪しいことになってくる」 「ナイフで刺したり、首を絞めて殺したのなら、そうなりますがね。毒殺の場合は、かえって、遠くに離れていた人物の方が、怪しくなるんですよ」 「妙な意見ですね」 「それに、あなたは、『出雲3号』で、松江に行った。奇妙なのは、その列車が、京都で停車している頃《ころ》、小野さんが、東京で、中毒死しているということなんですよ」 「ちょっと待って下さい」  と、斉藤は、手を振った。 「何ですか?」 「妙なことは、いわないで下さい。小野さんが、何時に死のうが、僕には、関係ありませんよ。たまたま、僕の乗った『出雲3号』が、京都駅に停車している間に、死んだからといって、なぜ、僕が、疑われるんですか? 全く、おかしいじゃありませんか……」 「それが、おかしくないんですよ」  亀井が、口をはさんだ。 「おかしくない?」 「実は、私が、第一中央病院に、入院したことがありましてね」 「知っていますよ」 「夜、一階の廊下を歩いていたら、レントゲン室から、男と女の声が、聞こえて来たんです」  亀井は、自分が聞いた男の声、ブルートレインの八分停車を利用して、人を殺すという言葉のことを話した。  十津川は、その間、斉藤の顔を見ていた。  斉藤の顔色が、一瞬、変ったように見えた。が、ふうッと、息を吐くと、 「その男の声が、僕だというんですか?」  と、亀井に、きいた。 「あなたの声だとわかっていれば、有無《うむ》をいわさずに、逮捕していますよ」  亀井は、脅《おど》かすように、いった。 「僕じゃありませんよ」 「しかし、ぴったり一致しているんですよ」 「何がですか?」 「小野さんの死んだ時刻ですよ。あなたの乗ったブルートレイン『出雲3号』が、京都で八分停車している時に、小野さんは、毒入りのレミーマルタンを飲んで、死亡したと思われるんです。あの男の言葉と、完全に、一致しているんですよ」 「それは、偶然の一致ですよ」 「かも知れませんがね。レントゲン室の男が、殺《や》ったのかも知れない」 「まるで、僕が、犯人みたいないい方じゃありませんか?」 「違いますか?」 「むろん、違いますよ」 「では、あの日、京都駅で、あなたは、何をされていたんですか?」  亀井が、きくと、斉藤は、当惑した顔になって、 「寝ていましたよ。まだ、真夜中ですからね」 「京都駅では、8号車の乗客が刺されて、大変だったんですよ」 「それは、あとになって、知りました。もし、起きていたら、僕も医者ですから、手当てのお手伝いを、させて貰《もら》っていましたよ。現に、亀井さんが、結石で、苦しまれていた時には、手当てをして、差しあげましたよ」 「あの件については、お礼を、申しあげます」 「そんなことはいいですが、殺人の容疑は、困りますね。第一、京都にいて、どうやって、小野さんに、毒を飲ますことが、出来るんですか?」 「電話ですよ」  と、十津川が、いった。 「電話? 『出雲3号』には、電話はついていませんよ」 「いや、京都駅の2番線ホームにある電話です。列車が、八分間停車している間に、東京の小野さんに、電話をかけたんじゃありませんか?」      7  斉藤は、むっとした顔で、 「よして下さいよ。2号車で、寝ていたんです。それに、電話して、小野さんにどういったというんですか? 毒入りのレミーを飲めと、指示したとでもいうんですか? 僕は、催眠術師じゃありませんからね。電話で、毒を飲ませることなんて、出来ませんよ」 「では、誰《だれ》が、小野さんを、殺したと、思うんですか?」  亀井が、きいた。 「さっきも、いったように、江島さんが、一番、怪しいんじゃないんですか。あの二人は、お互いに、ライバル視していましたからね」 「レントゲン室の声ですが、あなたは、誰だと思いますか?」  と、十津川は、きいてみた。  斉藤は、考える様子をしていたが、 「わかりませんね。インターンの野口君あたりじゃないかな」 「彼は、よく、レントゲン室に入っているんですか?」 「若い看護婦と、よろしくやっていることがありますからね」  斉藤は、ニヤッと、笑った。 「叔父《おじ》さん夫婦の記念碑を建てられるそうですね?」  話題を変えて、亀井が、きいた。  斉藤は、ほっとした顔で、 「そうなんです。そうすることが、叔父夫婦への供養《くよう》になると、思いましてね」 「奥さんの方が、後追い心中ということですね?」 「ええ。僕は、自分自身の新しい人生を考えなさいと、いったんですがねえ。やはり、死んだ叔父のことを、愛していたんだと思いますね。僕にとっても、ショックでしたね。あそこまで、思いつめているとは、思っていなかったんです」 「遺産が、大変なものだと聞きましたが」 「刑事さん」 「何です?」 「まさか、妙な疑いを、僕に対して、持っているんじゃないでしょうね?」  斉藤は、眉《まゆ》を寄せて、亀井を、睨《にら》んだ。 「別に、疑いは、持っていませんよ。ただ、あなたが、莫大《ばくだい》な遺産を手に入れたなと思っているだけのことです」  亀井は、軽く、肩をすくめて見せた。 「遺産は、結果ですよ。それに、相続税を取られれば、僅《わず》かの額でしかありません」 「そうですか」 「僕を犯人扱いするんなら、弁護士に頼んで、告訴しますよ」 「まあ、そう、カッカしないで下さい。刑事というのは、因果な商売でしてね。すぐ、相手を疑ってしまうんです」  十津川は、相手を、なだめるように、いった。 「もういいでしょう。これから、記念碑のことで、相談しなければならないことも、ありますから」  斉藤は、そういうと、十津川たちを庭に残して、母屋の中に、入って行った。  十津川は、煙草《たばこ》に、火をつけた。 「カメさんの感想は、どうだい?」  と、きいた。 「レントゲン室で聞いた言葉を、私が、いった時には、顔色が、変りましたね」 「私にも、顔色の変ったのは、わかったよ」 「彼は、クロだと思います」 「ああ。だが、証明は、難しいね。叔父《おじ》夫婦を殺したかどうかの証拠はない。所轄の島根県警は、殺しとは、見ていないし、もう、夫婦の遺体は、焼かれてしまっている。東京の小野の毒死にしても、斉藤が、飲ませたという証拠はないんだ」 「催眠術師でもあるまいしと、笑っていましたね」 「電話で、どうやったら、毒入りのレミーを飲ますことが出来るかだな。それが、わからない限り、その男を、犯人と断定は、出来ないね」 「動機は、十分ですよ」 「しかし、動機なら、他《ほか》の二人のライバルにもあるんだ」 「そうでしたね」 「レントゲン室で、話をしていた女の身元がわかるといいんだがね。その女が、証言してくれて、問題の男が、斉藤となれば、逮捕できる」 「考えているんですが、全く、見当がつきません。女の方は、ほとんど、喋《しやべ》りませんでしたから」  亀井は、申しわけなさそうに、いった。  十津川は、そんな亀井を、なぐさめるように、 「まあ、いいさ。斉藤が、怖がって、ボロを出してくるかも知れない」 「ボロを出すでしょうか?」 「斉藤の最終目的は、多分、鳥羽ゆう子と結婚して、あの大病院の院長になることだと思う。叔父夫婦の遺産を手に入れたのは、彼にとっては、その大目的への第一歩なんだ。鳥羽ゆう子と結婚するためには、ライバルがいる。その一人、小野純を殺したのは、その第二歩だろう。とすると、ライバルは、あと二人いる。その二人を、何とかして、鳥羽ゆう子と、結婚するには、まだ、時間がかかる。その間に、斉藤は、ボロを出すさ」 「そうでしたね。叔父夫婦の遺産は、それそのものが、目的じゃなかったわけですね」 「鳥羽ゆう子を狙《ねら》う男たちの一人として、斉藤の弱味は、金のないことだったと思う。他の男たちは、資産家に生れているようだからね。斉藤は、その弱点を消すために、まず、叔父夫婦を殺して、大金を、手に入れたんだ。これで、一応、金の面では、他のライバルと、対等になったと、思っているんじゃないかな」  と、十津川は、いった。 [#改ページ]  第六章 新たな殺人      1  東京に戻った十津川は、国鉄本社に電話して、寝台特急「出雲3号」の幌《ほろ》のことを、調べて貰《もら》った。  二時間後に、回答があった。  十津川の予想は、適中した。  問題の「出雲3号」が、車両基地で、整備、点検を受けた時、7号車と8号車の連結部分の幌に、長さ四・五センチの切り裂いた箇所が発見されたという。  ナイフで、切り裂いたと思われ、その縁のところに、血痕《けつこん》らしきものが附着していたが、まさか、血痕とは思わず、警察には、届けずに、修理したということだった。 「やっぱり、幌に、穴が開けられていたよ」  と、十津川は、満足した顔で、亀井に、いった。 「先に、穴を開けておいてから、犯人は、8号車で、原田一夫を刺し、すぐ、その穴から、凶器のナイフを、捨てたわけですか」 「そうだね。だが、その犯人が、斉藤だという証拠はない」 「彼だと、思いますがね」 「原田一夫と、斉藤との間には、何の関係もない。われわれが、フェイントで、刺したんだといっても、検察は、信じてくれないし、今の段階で、斉藤を、殺人未遂で、逮捕は、出来ないさ」 「弱気ですね」  と、亀井が、いうのへ、十津川は、苦笑を返して、 「正直なところを、いったんだよ。小野の死についても、斉藤が、犯人だという証拠がない」 「今のところ、上手《うま》く、立ち廻《まわ》っているということになりますね」 「運が、良かっただけかも知れないさ」  と、十津川は、いった。  原田一夫も、京都の病院を退院して、職場に、復帰し、斉藤は、東京へ戻って来た。  何事もなかったように、斉藤は、再び、第一中央病院で、働いている。  十津川たちは、斉藤が、犯人だと、考えながら、いぜんとして、手を出せない日が、続いた。  もちろん、何もせずに、過ごしたわけではない。小野純殺しについていえば、彼のマンションにあったレミーマルタンが、どこから来たのかを、地道に、調べていた。  しかし、それも、とうとう、斉藤とは、結びつかなかった。  レミーのボトル六本全部に、青酸が入っていた。  その六本のうち、三本は、小野自身が、買ったものだとわかった。  他《ほか》の三本は、どうやら、プレゼントされたものらしいのだが、贈り主を、特定することは、どうしても、出来なかった。  デパートを通して、贈られたものなら、何とか、わかるのだが、直接、持参したとなると、これは、調べようがない。  鳥羽ゆう子と、死んだ小野との関係については、少しずつ、はっきりしてきた。  ゆう子が、本当のことを、話してくれるようになったからである。  最初に、十津川が、きいた時、ゆう子は、小野のことを、単なるボーイフレンドの一人で、彼との結婚など、考えたこともないと、いったのだが、改めて、話を聞くと、これは、嘘《うそ》だと、わかった。 「小野さんが死んだ直後で、動転していたので、あんな返事になってしまいました。申しわけありません」  と、ゆう子は、素直に、十津川に、謝った。  どうやら、父親の忠告もあったらしい。殺人事件に、巻き込まれるのが、怖かったのだろう。 「結婚は、考えていらっしゃるんでしょう?」  と、十津川は、きいた。 「ええ」  と、ゆう子は、肯《うなず》く。 「お父さんも、それを、望んでいらっしゃるわけですか?」 「父の方が、熱心なんです。早く、自分の跡取が欲しいんだと思いますわ」  ゆう子は、微笑した。 「跡取というと、医者の方が、いいわけですか?」  十津川は、斉藤の顔を、思い出しながら、きいた。 「それが、私さえ良ければ、医者でなくてもいいと、いっていますわ」 「死んだ小野さんですが、婿《むこ》とりレースでは、本命だったんですか? ちょっと、不謹慎な質問ですが」  一緒に行った亀井が、きいた。  ゆう子は、別に、気にした様子もなく、 「いい方でしたから、小野さんとの結婚を、考えたこともありましたわ」 「こちらで、勝手に調べたところでは、亡くなった小野さん、宝石商の江島さん、ピアニストの杉本さん、それに、斉藤医師を含めて四人が、候補者だという気がするんですが、間違いありませんか?」  亀井が、きいた。 「父は、その四人の方に、しぼって、考えているようですわ」 「あなたは、どうなんですか?」 「私も」 「すると、残るのは、三人ですが、三人の中で、一番有力なのは、誰《だれ》なんですか?」 「そんなことは、お答えできませんわ。失礼なことになりますもの」 「亡くなった小野さんですが、われわれは、殺しだと思っているのです。ゆう子さんに、何か心当りのようなものは、ありませんか?」 「いいえ。ありませんわ」  本当に、心当りがないという感じだった。  十津川が、質問の形を変えた。 「最近、あなたと、小野さんとの間は、どうだったんですか? 食事をする約束があったとか、或《ある》いはケンカをしていたとか」 「正直に、いわなければ、いけませんの?」 「ええ。正直に、話して頂きたいですね」 「私とは、何もなかったんですけど、父と、軽い、ケンカがあったんです」 「どんなケンカですか?」 「小野さんが亡くなる二日前なんですけど、私の家に、遊びに来ていたんです。父と、お酒を飲んでいるうちに、急に、父が、怒り出して、父は、カッとすると、すぐ怒鳴《どな》るんです。小野さんは、父に怒鳴られて、苦い顔をして、帰ってしまったんです。あとで、父にきいたら、病院の経営のことで、父に、あれこれ、忠告したんだそうですわ。それで、父が、怒ってしまって」 「そのあと、小野さんは、どうしていましたか?」 「私に電話して来て、父に謝っておいてくれと、いっていましたわ。私は、そんなこと、気にするなと、いったんです。でも、小野さんは、意外に、気の弱いところがあるので、死んだと聞いた時、ひょっとして、それを苦にして、自殺したんじゃないだろうかと、思ったくらいでしたわ」 「自殺は、ありえません。レミーマルタンのボトルに、青酸を入れておいて、夜中に、それを飲んで自殺する。そんな自殺の仕方はありません。しかも、六本あったレミーのボトルの全てに、青酸が入っていたんです」 「じゃあ、小野さんは、飲めば、必ず、死ぬことになっていたんですか?」 「そうです。いつか、死ぬようになっていたわけです」  十津川が、いうと、ゆう子は、蒼《あお》ざめた顔で、 「誰《だれ》が、そんな恐ろしいことを?」 「それを、見つけたいと、思っているんです。江島さん、杉本さん、それに、斉藤医師の三人の中で、一番、小野さんと親しかったのは、誰ですか?」 「わかりませんわ」 「四人が、顔を合せたことはあるんでしょう?」 「ええ。うちで、パーティを開く時には、一緒に、お呼びしていますから、顔見知りの筈《はず》ですわ」 「斉藤医師が、小野さんと、特に親しかったということは、ありませんか?」 「さあ、私には、わかりませんわ。小野さんからも、斉藤さんからも、それらしいことは、聞いていませんから」 「斉藤医師のことは、どう思われますか?」  十津川が、きいた。  ゆう子は、ちょっと考えてから、 「父は、医者としての腕は、立派なものだと、いっておりますわ」 「微妙ないい方ですね」  と、十津川は、笑った。  医者としての技術は立派だが、人間的には好きになれない、ということなのか。  だが、ゆう子は、それだけで、黙ってしまった。 「あなた自身は、斉藤医師を、どう思われているんですか?」  亀井が、最後に、きいた。が、ゆう子は、 「今は、申しあげられませんわ」  と、だけ、いった。      2  これといった進展のないままに、二日、三日と、たっていった。  捜査本部に、焦りの色が、見えてきた。  斉藤が、新しい動きを見せてくれればとも、思ったのだが、彼も、神妙に、病院で、仕事をしているだけだった。  いいことといえば、亀井の腎臓《じんぞう》結石が、その後、再発しないことだけである。 「知らないうちに、石が、体外へ出たのかも知れません」  と、亀井は、呑気《のんき》なことを、いっていた。  十日目の夜である。  四谷三丁目のマンションの一室で、一人の女性が、殺されているのが、発見された。  最初、この事件は、十津川の扱っている毒殺事件とは、無関係と、思われていたから、出動したのは、他《ほか》の班の刑事たちだった。  午前一時を過ぎてから、突然、十津川は、本多捜査一課長に、呼ばれた。  車で、捜査本部から、警視庁に出向くと、 「四谷三丁目で、殺人事件が起きたのは、知っているかね?」  と、きかれた。 「知っていますが、何か関係がありますか?」 「会田《あいだ》君が、行ってくれたんだが、調べていくうちに、君の方で、担当した方がいいと考えるようになってね」 「殺されたのは、女だと聞きましたが、何か、こちらの事件と、関係がある人物ですか?」 「名前は、小島《こじま》ひとみ。年齢三十六歳。銀座のクラブのママだ」 「それが、どんな関係が?」 「彼女のマンションで殺されていたんだが、部屋を調べたら、第一中央病院の、鳥羽院長と一緒に写した写真が、見つかった」 「ほう。しかし、ただの客かも知れませんよ。あの大病院の院長なら、銀座の高級クラブの常連でも、別に、不思議は、ありませんが」 「そうなんだがね。彼女の友人の証言によると、被害者は、鳥羽院長と、結婚するつもりだと、いっていたというんだ」 「結婚? そうか。あの院長は、奥さんと死別していたんですね」 「男やもめだったんだよ。だから、クラブのママが、結婚を考えても、不思議は、ないんだ。それに、もう一つある」 「何ですか?」 「青酸死なんだよ」 「まさか、レミーマルタンを飲んで、死んだんじゃないんでしょうね?」 「レミーじゃない。が、シーバスリーガルという外国の酒だ」 「名前は、知っています。飲んだことは、ありませんが」 「死に方が、そちらで調べている小野純と、そっくりなんだよ。犯人も、同一人と考えられないか?」 「そうですね。考えられますね」 「すぐ、四谷三丁目の現場へ行って、会田君から、捜査を引きついでくれ」 「わかりました」  と、十津川は、いった。  彼は、亀井に、電話をかけ、四谷三丁目のマンションで、落ち合うことにした。  女性の好みそうな洒落《しやれ》たマンションである。  その七階にあがると、同僚の会田警部が、待っていた。 「遺体は、もう、病院に運んでしまったよ」  と、会田が、いった。  豪華な内装の居間の床、じゅうたんの上に、チョークで、人の形が、描かれている。 「飲んだのは、寝室で、ここまで、這《は》って来て、亡くなったと、思われるんだ。電話の傍《そば》で、死んでいたから、電話で、助けを、呼ぼうとしたんだろう」 「毒入りのシーバスリーガルを飲んだそうだね?」 「ああ。そうだ」 「鳥羽院長の写真というのは?」 「こっちへ来てくれ」  会田は、十津川を、寝室に案内した。  ブルーの色で、統一された寝室である。窓のカーテンも、ダブルベッドも、じゅうたんも、ブルーである。  ベッドの横のテーブルに、シーバスリーガルのボトルが、置かれている。  それに、床に転がっているグラス。  枕元《まくらもと》には、写真が飾ってあった。手に取ると、被害者と、鳥羽院長が、並んでいる写真だった。  女は、にこやかに笑い、鳥羽は、何となく、照れ臭そうな顔をしている。 「もう、鑑識が、写真も撮《と》り、指紋の検出もすませているよ」  と、会田が、いった。 「ボトルの中身から、青酸|反応《はんのう》が出たんだね?」 「ああ。出ている。グラスからもだ」 「友人の証言というのは?」 「六階の六〇三号室に、同じ銀座に店を持っている女性がいてね。名前は、林君枝《はやしきみえ》だ。発見も、彼女なんだ。今日、いや、もう昨日になったが、一緒に飲みながら、話をしようと思って、やって来て、死んでいるのを発見したと、いっている。今夜は、クラブは、休みだそうだよ」 「その林君枝さんは?」 「いろいろと、訊問《じんもん》したので、疲れたといって、自分の部屋に戻っている。それでは、あとを頼むよ」  と、会田は、いい、部屋を出て行った。      3  入れ代りに、亀井が、顔を見せた。 「妙な具合になりましたね」  と、亀井が、十津川を見るなり、いった。 「ああ、てっきり、次に狙《ねら》われるのは、江島泰か、杉本幸夫のどちらかだと、思っていたんだがねえ」 「今夜、殺されたのは、この女性ですか」  亀井は、鳥羽と写っている女の写真に、眼をやった。 「年齢三十六歳。クラブのママだ」 「なかなか、美人ですね。男好きのする顔をしていますよ」 「鳥羽と、結婚しても、おかしくはないと、思うかね?」 「いいんじゃありませんか」 「しかし、それを、快く思わない人間が、いたんだな。そいつが、青酸入りのシーバスリーガルを、彼女に、贈ったんだ」 「よく似ていますね」 「似過ぎているよ」 「犯人は、やはり、斉藤でしょうか?」 「彼かも知れない」 「動機は?」 「斉藤は、第一中央病院の財産を狙《ねら》っている。鳥羽ゆう子の美しさにも、魅《ひ》かれているだろうがね。婿《むこ》になっても、鳥羽院長に、後妻が来てしまっては、財産が、思うようにならないと考えて、先手を打ったということも、考えられる」 「なるほど」 「銀座のクラブのママといえば、凄腕《すごうで》と思われる。それが、後妻として乗り込んで来て、財産を押さえてしまったら、折角、婿入りしても、何にもならないと、斉藤は、不安になっていたんじゃないかね」 「考えられますね」 「しかし、今度も、それを証明するのは、難しいぞ。この被害者と、斉藤とは、直接、関係はないだろうし、斉藤が、ここに来て、直接、毒入りの酒を、飲ませたわけでもないだろうからね」 「斉藤が、シーバスリーガルを買って、ここへ持って来たことが証明出来れば、いいんですが」  と、亀井が、いった。 「とにかく、夜が明けたら、鳥羽院長に会って、この女性のことを、きいてみようじゃないか」  十津川は、寝室を見廻《みまわ》した。鳥羽は、ここへ来て、泊ったことがあるのだろうか。  十津川は、亀井に、六〇三号室の林君枝を呼んで来て貰《もら》った。  ナイトガウン姿の君枝は、妙に、生き生きした表情で、 「早く、犯人を見つけて下さいね。ひとみさんは、あんなに、鳥羽さんと結婚できると、喜んでいたんだから」  と、十津川に、いった。 「鳥羽さんの方は、どうだったんだろう? 彼女と、結婚することを、承知していたんだろうか?」 「それは、してたと思うわ」 「鳥羽さんの口から、聞いていたの?」 「ひとみさんが、そういっていたわ。鳥羽さんが、プロポーズしてくれたって。だから、本当に、喜んでいたのよ」 「あなたは、鳥羽さんに、会ったことは、あるんですか?」  亀井が、きいた。 「ええ。あるわ。私のお店に、ひとみさんと一緒に、いらっしゃったことがあるから。私は、似合いのカップルだと思っていたの」 「斉藤という医者を、知っていますか?」  亀井が、きくと、君枝は、首をかしげてしまった。 「斉藤さん?」 「そうです。鳥羽さんがやっている病院の医者です。三十代の若さで、ちょっとハンサムな男です。鳥羽さんと一緒に、このマンションに来たことは、ありませんか?」  亀井は、斉藤の人相を、くわしく話して聞かせたが、相手は、覚えていないと、いった。      4  翌日、十津川は、亀井と、第一中央病院に、鳥羽を訪ねた。  広い院長室である。  有名な画家の描いた風景画が、無造作に掲《かか》っていたが、それは、その画家が、鳥羽の執刀で手術を受けたお礼に、わざわざ、描いて贈ってくれたものだという。 「昨夜、四谷三丁目のマンションで、小島ひとみという女性が、毒死しました。殺されたと、思っています。その女性は、ご存じですね?」  十津川は、単刀直入に、きいた。  鳥羽は眼を、しばたたいた。一瞬、知らないと、いおうとしたのかも知れない。 「私との関係は、調べてから来られたんでしょう?」  と、鳥羽は、いった。 「彼女のマンションに、あなたと一緒に撮《と》った写真が、飾ってありました」 「つき合っていたことは、認めますよ」  鳥羽は、仕方がないという顔で、肯《うなず》いた。 「彼女と、再婚されるつもりだったんですか?」 「彼女と? いや、そんなことは、決めていませんでしたよ」 「しかし、あなたは、目下、独身でしょう。再婚する意志は、おありなんじゃありませんか?」 「そりゃあ、ないことはありませんよ」 「死んだ小島ひとみさんは、あなたと結婚できるものと思って、友だちにも、話していたようですがね」 「それは、彼女の勝手だと思いますよ。しかし、私の方は、彼女との結婚を考えては、いませんでしたね。まあ、美人で、話をしていて楽しい女性であることは、認めますがね」 「彼女が、ここに来たことは、ありますか?」 「ええ。何度か来ていますよ。彼女は、胃が弱いので、その診察にね」 「あなたに会いに、来ていたんじゃありませんか?」 「診察の時、ここへ寄ることもありましたね。私としては、銀座の店でだけ、会うようにしていたんですが」 「その銀座の店ですが、斉藤医師と一緒に行かれたことは、ありませんか?」 「斉藤君とですか。何回か、連れて行った筈《はず》ですよ」  と、鳥羽は、あっさり認めた。 「あのマンションへは、どうですか? 斉藤医師と一緒に、行かれたことは、ありませんか?」 「それは、ありませんよ。私が、ひとりで、行ったことも、二、三度しか、ないんです。ああ、これは、娘には、黙っていて下さい」 「わかっています。彼女も、小野純さんと同じように、青酸入りの酒、今度は、シーバスリーガルですが、を飲んで、死んでいるんです。鳥羽さんが、彼女に、シーバスリーガルをプレゼントされたことは、ありませんか?」 「ありませんね」 「何かプレゼントをされたことは、ありますか?」 「彼女が、私の誕生日を覚えていて、カルチェのライターをプレゼントしてくれたので、私も、花束と、ヴィトンのハンドバッグを贈りました」 「それは、あのマンションに、持って行かれたんですか?」 「ええ」  と、鳥羽は、肯いてから、 「私を、疑っているんですか?」 「いや、そんなことはありません。われわれは、あなたと、小島ひとみさんの関係を知っている人間が、犯人ではないかと、考えているんです」 「それで、斉藤君のことを、きかれたんですか?」 「少なくとも、彼は、知っていたわけですね?」 「しかし、彼が、なぜ、彼女を殺すんですか? 動機がないでしょう?」  鳥羽は、肩をすくめるようにして、十津川を見た。  十津川は、それに対しては、返事をしなかった。鳥羽の一人娘のことにまで触れることになれば、鳥羽だって、いい気がしないだろうと、思ったからである。  その代りに、十津川は、話を変えて、別の質問をした。 「鳥羽さんの再婚については、いろいろと、世話をしようという方が、あるんでしょうね?」 「まあ、世話好きの人が、多いですからね。この絵を描いてくれた画家の方も、話を持って来てくれましたよ」  と、鳥羽は、笑った。 「その中で、してもいいと、思われたことがありましたか?」 「立派な女性の方もいましたよ。ただ、私の場合は、結婚適齢期の娘がいますからね。簡単には、オーケイ出来ないんですよ」 「斉藤医師には、再婚の話があることを、話されましたか?」  亀井が、きくと、鳥羽は、やれやれという顔で、 「また、斉藤君ですか?」 「どうなんですか? 話されましたか?」 「そうですね。話したかも知れませんよ。私の方から、話したのではなくて、銀座のクラブに一緒に行った時、ママが、それらしい話をしたのが、きっかけじゃなかったかな。それで、斉藤君が、本当ですかときくから、再婚の話はあるよと、いったんだと思いますね」 「それは、いつ頃《ごろ》ですか?」 「よく覚えていませんが、二、三か月前だったんじゃないかな」 「亡くなった小島ひとみさんが、斉藤医師のいるところで、あなたに、再婚の話を、持ち出したんですね?」 「ええ」 「正確に、ママさんは、どういったんですか?」 「どうだったかな。彼女が、院長さんと、私は、結婚するつもりだと、いったんじゃなかったかな。それで、斉藤君が、何かいったんだ。私は、照れながら、再婚の話は、時々あるといった。そんなことだったと、思いますよ」 「お嬢さんは、賛成なんですか? お父さんの再婚に」 「さあ。改まって、きいてみたことはないから、わかりませんね。しかし、そんなに理解のない娘だとは、思っていませんよ」  と、鳥羽は、いった。  どうやら、鳥羽自身は、再婚したいという気もあるようだった。  斉藤にしてみれば、面白くないだろう。一人娘のゆう子を手に入れても、肝心の財産が、自由にならなくなるからだ。  十津川は、礼をいい、病院を出た。 「斉藤は、死んだ小島ひとみを、知っていたんですね」  亀井は、満足そうに、十津川に、いった。 「予想どおりだったよ。彼女の方では、だから、斉藤を、信用していたと思う。もし、斉藤が、院長から頼まれたといって、シーバスリーガルを渡せば、何の疑いも持たずに受け取るんじゃないかね」 「そうですね」 「もし、彼女が、わざわざ、鳥羽院長に電話して、礼をいったら、わかってしまうだろうが、そこは、斉藤が、うまく、いったんだと思うね。院長は、風邪で寝ているから、電話しない方がいいとか、旅行に出ているとか、いったんじゃないかね。そこは、何とでも、いったと思うよ」 「斉藤のことを、もう一度、調べてみましょう。彼が、小野純に、レミーマルタンを贈り、小島ひとみに、シーバスリーガルを贈ったとすれば、どこかで買ったに違いありませんからね。それに、青酸の入手経路も、調べてみます」  と、亀井は、いった。  小島ひとみの部屋も、入念に調べられた。  もし、斉藤が訪ねて来ていれば、その痕跡《こんせき》が残っている筈だと、思ったからだった。  部屋にあった指紋は、全《すべ》て検出して貰った。問題のシーバスリーガルのボトルは、もちろんである。  斉藤の指紋も、第一中央病院の内科診察室から採取することが出来た。  しかし、斉藤の指紋は、小島ひとみの部屋からは、検出されなかった。  問題のボトルから検出できたのは、被害者小島ひとみのものだけである。  レミーマルタンと、シーバスリーガルの入手経路も、なかなか、解明できなかった。  刑事たちは、斉藤の写真を持って、都内の小売店や、デパートの聞き込みを行ったが、斉藤が買ったという証人は、見つからなかった。  青酸の入手経路も同じだった。  十津川と、亀井は、直接、斉藤に、ぶつかってみることにした。  病院で、斉藤に会った。  斉藤は、うんざりした顔で、待合室で、十津川たちを迎えた。 「またですか」  と、斉藤は、いった。 「事件が、解決しませんからね」  十津川がいった。 「僕は、小野さんが死んだことには、関係ありませんよ」 「今日は、小島ひとみさんのことで、来たんです。銀座のクラブのママです。ご存じですね?」 「いや、知りません」 「その店には、鳥羽院長と、時々、行ってたんじゃありませんか? 院長は、そういっていましたがね」  亀井が、睨《にら》むようにしていうと、斉藤は、やっと、「ああ」と、肯《うなず》いて、 「あの店のママなら知っていますよ。僕は、別に、個人的なつき合いがあるわけじゃないから、ママの名前をいわれても、わからないんです。刑事さんだって、同じでしょう?」 「とにかく、知っているんですね?」  亀井が、相手の言葉を、さえぎるようにした。 「知っていることは、知っていますよ。院長に連れられて、何回かお店へ行きましたから。ただし、それだけです。あのママさんが、どうかしたんですか?」 「昨夜おそく、死にました」  と、十津川が、いった。 「へえー」  斉藤は、びっくりした顔になった。だが、本当に驚いているのかどうか、わからなかった。  この男が犯人とすれば、この上なく、しらじらしいのだ。 「シーバスリーガルを飲んで、死んだんですよ。誰《だれ》かが、中に、青酸を入れて、彼女にプレゼントしたんです」 「馬鹿《ばか》な人間がいるもんですね」 「犯人のことを、いってるんですか? それとも、死んだ小島ひとみさんのことですか?」 「もちろん、犯人のことですよ」 「しかし、犯人は、なかなか、頭がいいと思いますよ。小野さんの時も、犯人がわからなかったし、今度も、犯人を特定できない。決して、頭の悪い人間じゃありません」 「そうですかねえ。青酸の入手経路を調べれば、すぐ、犯人が見つかるんじゃありませんか?」  斉藤は、笑いながら、いった。  絶対に、突き止められないという自信が、斉藤には、あるのだろうか? 「もし、あなたが、犯人なら、青酸は、どこから、手に入れますか?」  十津川は、意地悪く、きいてみた。  斉藤は、外人のように、大きく肩をすくめて、 「僕は犯人じゃないから、わかりませんよ」 「彼女が、鳥羽院長の後妻に入りたがっていたのは、知っていますか?」  十津川が、きくと、斉藤は、 「店で、ママさんが、それらしいことを、いっていたのは、覚えていますよ」 「どう思いました?」 「どうして?」 「ママさんが、鳥羽院長の後妻になることですよ。いいことだと思いましたか?」 「なぜ、そんなことを、僕にきくんですか?」 「あなたは、院長の娘さんと、結婚する気なんでしょう? それなら、無関係じゃないと思いますがね」 「それは、関係ないと思いますがね。ただ、水商売の女性は、院長の後妻にふさわしくありませんよ」 「どうしてですか?」 「この大病院を経営していく人の奥さんでしょう。それらしい知性が必要とされるんじゃありませんか。クラブのママさんは、美人だし、男の扱いは上手いかも知れないが、それだけじゃあ、大病院は、切り廻《まわ》していけませんからね」 「だから、自殺に見せかけて、殺したんですか?」  亀井が、いうと、斉藤は、眉《まゆ》をひそめて、 「僕は、そんなことはしませんよ。第一、院長だって、あのママさんと結婚する気はなかったんです。僕は、それを知っていましたからね。殺す必要はないじゃありませんか」 「結婚する気はないと、鳥羽さんが、いったんですか?」 「そうですよ」 「間違いありませんか?」 「ええ。あのママさんは、つき合うぶんには楽しいが、この病院や、家を委《まか》せることは出来ないと、院長は、飲んだあとで、僕に、いったんです」 「じゃあ、どんな人なら、あなたは、院長夫人にふさわしいと、思いますか?」 「そうですねえ。まず、頭が切れることが、必要ですね。輝くような知性が欲しいですよ。それに、美しくあって欲しい。院長夫人ともなれば、パーティへも出席しなければならないし、外人との交際もありますからね。英語ぐらい話せないと、困るんじゃありませんか」 「なるほどね。難しいものですね」  十津川は、感心したように、いった。  十津川たちが、病院を出ると、亀井は、吐《は》き捨てるように、 「奴《やつ》には、むかつきますね」 「どこがだね?」 「院長の後妻の件ですよ。まるで、自分が、決めるみたいな言い方だったじゃありませんか」 「いろいろと、条件を、いっていたね」 「きっと、自分にとって、都合のいい女が、院長の後妻に納まってくれることを、望んでいるんですよ」 「違う女は、殺してしまうということか」 「そう思いますね。奴《やつ》は、あの病院を、乗っ取る気ですよ」  亀井の憤懣《ふんまん》は、捜査本部へ戻ってからも、続いた。よほど、斉藤の態度が、腹にすえかねたのだろう。  そのせいだったのかどうかは、わからないが、夜に入ってから、亀井は、急に、苦しみ始めた。  腎臓結石《じんぞうけつせき》の石が、また、動き始めたのだ。  十津川は、すぐ、救急車を呼び、もう一度、第一中央病院に、運んで貰《もら》った。  十津川も、同行した。  診《み》てくれたのは、最初の時と同じ女医だった。  その時も、美しい人だと思ったが、その印象は、変らなかった。  亀井は、前と同じように、照れた顔になっている。彼は、いつも、女、特に美人が、苦手なのだ。 「痛み止めの、注射をしておきましょう。しばらく、横になって、休んでいらっしゃい」  と、女医は、例によって、冷静な口調《くちよう》で、いった。 「いや、痛みがなくなれば、捜査本部に戻りたいんですがね」  額に、あぶら汗《あせ》を浮べながら、亀井は、いった。 「戻っても結構ですけど、これは、強い注射だから、気分が悪くなりますよ」 「軽い注射というのは、ないんですか?」 「それじゃあ、痛みは消えてくれませんよ」  彼女は、微笑しながら、さっさと、注射の準備をしている。  あきらめて、亀井は、腕をまくった。  皮下注射の針が、亀井の左腕に、刺し込まれた。 「先生。いつになったら、石は、身体《からだ》の外に出るんですか?」  顔をしかめながら、亀井が、きいた。 「もう、最初に痛みがあってから、半月近くたっていますわね」 「そうですよ。痛んだのは、これで、三度目なんです。痛むというのは、石が動いているということでしょう。それなら、もう、そろそろ、外へ出ても、いいと思うんですがねえ」 「何回痛んだら、排出されるということは、ありませんけど、もう、そろそろ、排出されても、いいですわね」 「何とか、早く、出す方法は、ないんですか? 排出を促進する薬とかは、ないんですか?」 「残念ながら、ありませんわ」  と、彼女は、笑いながら、いった。  そんな彼女を見ていて、十津川は、ふと、頭に閃《ひらめ》いたことがあった。 (この女医は、鳥羽院長の後妻に、ふさわしいだろうか?) [#改ページ]  第七章 共犯者      1  十津川は、何か、新しい発見でもしたみたいな気分で、女医の顔を見つめていた。  中根という名札が、胸についているが、十津川の思考の外にあった人物なので、中根何という名前なのかも知らなかった。  亀井が、強いモルヒネの注射をうたれて、ベッドに休んでいる間に、十津川は、三階のナースセンターへ、あがって行った。  すでに、夜の十一時を回っていて、病室は明りを消して、静かである。  当直の看護婦は、三人いた。  十津川は、その一人に笑顔で、話しかけた。 「今夜は、中根先生が、当直なんだね」 「ええ。きれいな先生でしょう?」  二十歳そこそこに見える看護婦は、ニッと笑った。 「彼女は、独身なのかね?」 「刑事さんは、中根先生に気があるんですか?」 「いや。独身だったら、さぞ、もてるだろうと思ってね」  十津川がいった。こんな話題には、興味があるとみえて、他《ほか》の二人の看護婦も、身体《からだ》を乗り出してきた。 「あの女医さんの名前を教えてくれないか。中根何というんだね?」  と、十津川は、三人にきいた。 「中根|恭子《きようこ》先生」  一番、年かさに見える看護婦が、教えてくれた。 「三十五、六歳かな?」 「三十六歳だった筈《はず》だわ。若く見えるけど」  ちょっと、意地悪な感じで、年長の看護婦が、いった。 「ひとり? それとも、旦那《だんな》さんがいるのかね?」 「五年前に、離婚したと聞いたわ」 「よく知ってるんだね?」 「このナースセンターにいれば、この病院内のことは、何でも、わかってくるわ」 「じゃあ、もう少し、中根さんのことを、教えてくれないか。ここの院長は、やもめ暮しだってね?」 「ええ」 「院長と、中根さんが結婚するなんて話はないのかね?」  十津川が、きくと、三人の看護婦は、一層、好奇心に溢《あふ》れた表情になって、勝手に、喋《しやべ》り始めた。 「中根先生が、あの年齢《とし》で、結婚しないのは、望みが、高すぎるって、聞いたわ」 「その条件というのが、紳士で、お金持ちで、しかも、社会的な名声のある人なんですって」 「じゃあ、うちの院長先生が、ぴったりじゃないの」 「だから、中根先生は、院長先生の後妻の座を狙《ねら》ってるらしいって、聞いたことが、あるわ」 「じゃあ、肝心の院長先生の方は、どうなの?」 「院長先生は、あれで、なかなかのプレイボーイだって、聞いたわ」 「この間亡くなったクラブのママも、院長先生に、熱をあげてたってことだわ」 「それじゃあ、中根先生も、ライバルが多くて、大変ねえ」 「ちょっと、待ってくれないか」  十津川は、いくらでも続きそうな、彼女たちのお喋りを、途中で、止めて貰《もら》った。 「中根さんが、院長と結婚したがっているのは、本当なのかね?」  と、十津川は、改めて、きいた。 「直接、聞いたわけじゃないけど、噂《うわさ》はあるわ。それに、彼女が、いつもいってる理想の相手に、院長先生が、ぴったりなんだから、どう考えても、院長先生と、結婚したいと思っているのは、間違いないわ」  年かさの看護婦が、したり顔で、いった。 「じゃあ、君たちは、中根先生と、院長が、仲良く歩いているところを、見たことでもあるのかな?」  十津川は、三人の顔を見廻《みまわ》した。 「それは、ないけど——」  眼が、少しばかり、変に光って見える看護婦が、いった。夜勤なので、覚醒剤《かくせいざい》を打っているのかと、思ったが、十津川は、それを、聞かなかった。証拠はないし、今は中根医師のことを、聞きたかったからである。 「中根先生が、院長との結婚を望んでいるとしてだがね。病院の人たちは、それを祝福する空気なのかね?」  と、十津川は、きいてみた。 「さあ。積極的に、祝福する人は少ないんじゃないかしら」 「なぜだね? あの先生は、美人だし、腕だって、いいと思うんだがね。院長とは、似合いじゃないかね」 「そう思う人もいるみたい」 「違うのかね?」 「確かに、美人だし、頭もいいし、内科の医師としての腕も立派だけど、お高く止まっているって評判だし、中根先生が、院長夫人になったら、きっと、あれこれ、口を出すに違いないから、困ったことになるって、いっている人も多いわ」  年上の看護婦は、声をひそめて、いったが、急に、後ずさりするようなジェスチュアになった。  他《ほか》の二人の看護婦も、黙ってしまった。  十津川が、振り向くと、そこに、問題の中根女医が、立っていた。  三人の看護婦は、横を向いてしまっている。  十津川は、今の会話を聞かれたかなと、思いながら、中根恭子に向って、黙礼した。  恭子は、じっと、十津川を見、三人の看護婦を見つめていたが、くるりと、背を向けて、階段の方へ歩いて行った。  十津川は、あとから、彼女に追いついて、 「亀井刑事の様子は、どうですか?」  と、声をかけた。 「もう、気分も治ったので、帰宅すると、いっていますよ。それで、警部さんを、探しに来たんですけど、ナースとお話に夢中なようなので、ご遠慮したんですわ」  中根恭子は、皮肉ないい方をした。 「どうも、申しわけありません。私も、中年なので、看護婦の方に、成人病について、いろいろと、聞いていたのですよ」 「でも、私の名前が、出ていたようですわね」 「あなたが、美人なので、気になりましてね」 「どうしてですの?」 「まだ独身だと伺ったので、なぜ、あなたのような、美しくて、聡明《そうめい》な方が、ひとりでいるのか、気になりましてね」 「なぜ、警察の方が?」  中根恭子は、眉《まゆ》をひそめて、十津川を見つめた。 「いや、刑事としての関心じゃありませんよ。ただの男性としての興味からです。どうも、申しわけありません」 「ナースは、何と、警部さんに、いっていました?」 「中根先生は、条件が厳しいんじゃないかと、いっていましたね」 「条件って?」 「相手の男性に対する条件ということだと思いますよ。まあ、当然だと思いましたがね」 「そんなことは、ありませんわ。私は、平凡な生活を、希望しているんですけど」  恭子は、微笑して、いった。  十津川は、一階におりて行き、亀井に会った。 「大丈夫かね?」  と、声をかけると、亀井は、頭を小さく振ってから、 「大丈夫です。まだ、ちょっと、気分が悪いですが」 「お腹の痛みの方は?」 「もう、消えました」  二人は、病院を出た。 「あの中根という女医なんだがね」  十津川は、街灯の下を歩きながら、亀井に、いった。 「いい人ですよ。腕も、確かだし——」  亀井が、ほめた。  美人の女医だし、激痛で、のたうち廻《まわ》っているところを、手当てして貰《もら》ったのだから、ほめるのが、当然だろう。 「それは、認めるがね」 「彼女に、何かあるんですか?」  亀井が、眉《まゆ》をひそめて、十津川を、見た。 「今度の事件は、カメさんが、深夜の病院のレントゲン室で、男の声を聞いたことに始まっていると、いっていい」 「未《いま》だに、あの男の声を、確定できなくて、申しわけありません。あれは、斉藤医師だと思うんですが、証拠が、ありません」 「斉藤医師だよ」  と、十津川は、断定的に、いってから、 「問題は、女の方だと、カメさんに、いったことがあったろう?」 「ええ。覚えています。当然、共犯の位置にある女ですから、わかれば、逮捕して、主犯である男のことを、証言させられます」 「あの女医さんじゃないかと、思うんだよ」  十津川が、いうと、亀井は、びっくりした表情で、 「まさか——」 「本当に、まさかと、思うのかね?」  十津川が、続けて、きくと、亀井は、今度は、当惑した顔になった。 「まあ、あの人も、病院の人間ですから、可能性は、あるわけですが」 「そうだよ。もっとシビアにいえば、彼女も、容疑者の一人なんだ」 「しかし、彼女が、斉藤と、共犯とは、とても、信じられません。別に、斉藤を頼らなくても、ひとりで、生きていけるんですし、斉藤のことを、好きにも、見えませんよ」 「二人の間に、そんな感情はないだろうと、私も、思うね」 「じゃあ、警部は、なぜ、レントゲン室にいたのが、中根女医だと、思われるんですか?」 「斉藤医師と、中根女医は、利害関係が、一致しているんだ。斉藤は、あの病院の一人娘の鳥羽ゆう子と、結婚したがっている。一方、中根女医の方は、あわよくば、鳥羽院長の後妻に、おさまる気でいる」 「それ、本当ですか?」 「カメさんが、休んでいる間、ナースセンターで、看護婦たちに、聞いてみたんだよ。どうやら、私の推測は、当っていたらしいね。彼女の狙《ねら》いは、院長夫人の椅子《いす》だ」 「そうなんですか——」 「あれだけの美人で、頭が良ければ、院長夫人になりたいと思っても、不思議はないよ。別に、そのことが、悪いわけじゃない。ただ、あれだけの大病院の院長夫人の椅子だからね。ライバルが、多くなってくるのは、当然だ」 「その一人が、先日、毒死したクラブのママというわけですか?」 「他《ほか》にも、何人もいると思うね。一方、斉藤の方にも、ライバルがいる。それも、強力なライバルだ。つまり、その点で、斉藤と、中根恭子は、利害が一致しているんだよ。二人とも、あの病院を手に入れたいという点でね」 「しかし、最後には、二人の利害が、ぶつかるんじゃありませんか?」  と、亀井が、きく。 「それは、そうだ。彼女が、院長夫人になり、斉藤が、婿《むこ》になったら、当然、足の引っ張り合いをするだろうと、思うね。もちろん、財産と、病院運営の実権をめぐってだよ。だが、今は、二人は、共同戦線を張っているんじゃないかね。お互いに、強力なライバルを、蹴落《けお》とす必要があるからね」 「そういえば、一人ずつ、死んでいますね。斉藤のライバルである小野と、院長の夫人の椅子《いす》を狙っていたクラブのママとがです」 「ひょっとすると、斉藤と、中根女医は、二つの殺人事件について、お互いに、助け合ったのかも知れないな」 「しかし、斉藤が、ブルートレイン『出雲3号』で、山陰に向った時には、彼は、ひとりで、行っているんです。それを、この女医さんが、助けたという事実は、ありませんよ」 「それはないさ。だが、クラブのママ小島ひとみが、毒殺された件を、考えてみようじゃないか。彼女は、院長夫人になりたがっていた。これは、間違いない。彼女の友だちが、そう証言しているからね。その彼女が、毒入りのシーバスリーガルを飲んで、死んだ。自殺とは考えられないから、誰《だれ》かが、彼女に、プレゼントしたんだと思う」 「私も、そう思います」 「真っ先に、考えられるのは、彼女と関係があったと思われる鳥羽院長だ。だが、二人の間が、抜きさしならないところまで行っていたとは、思われないから、院長には、彼女を、殺さなければならない理由がない。となると、小島ひとみと同じように、院長夫人の座を狙っていた女ということになってくる」 「しかし、そんな女からのプレゼントでは、小島ひとみは、用心して、飲まないんじゃありませんか?」  と、亀井が、首をかしげた。  十津川は、ニヤッとして、 「そこさ。われわれ男と違って、女の直観力は、鋭いんだ。もし、中根女医が、シーバスリーガルを持って行ってるとしても、小島ひとみは、直観的に、中根女医が、自分のライバルと感じるだろう。だから、カメさんのいう通り、受け取らないだろうし、受け取っても、飲みはしない。そこで、共犯の斉藤が、浮びあがってくるんだよ」 「彼が、シーバスリーガルを、持って行ったということですか?」 「斉藤は、時々、鳥羽院長と一緒に、小島ひとみの店に、飲みに行っていたから、彼女とは、顔なじみだ。それに、男だから、院長夫人の椅子《いす》を狙《ねら》うライバルでもない。まさか、中根女医から頼まれたとは思わないし、斉藤が、このシーバスリーガルは、院長から頼まれたといえば、小島ひとみは、喜んで、受け取るだろうし、何の疑いもなく、飲むと思うんだがね」  十津川が、いっても、まだ、亀井は、半信半疑の表情で、 「あの優しい女医さんが、人殺しをするとは、とても、考えられませんがねえ」 「カメさんは、女性に弱いのかな」 「そんなことは、ありませんが——」      2  十津川は、小島ひとみを、毒殺したのは、中根恭子と、確信した。  小野純を殺したのは、斉藤だ。そして、この二人は、将来は、憎み合うことになるかも知れないが、現在は組んでいる。いわゆる共犯関係にあると、十津川は、考えていた。  だが、それを証明するのは、難しかった。  お互いに、お互いのアリバイを、証言し合っているのなら、共犯であることは、間違いないと、断言できるし、片方の犯行が、証明できれば、自動的に、もう一人の犯行も、証明できることになる。  しかし、今回の二人の場合は、そこが、違っていた。  小野純殺しについて、斉藤のアリバイを、中根恭子が、証言しているわけでは、なかったし、小島ひとみの件について、恭子のアリバイを、斉藤が、証言しても、いなかった。  普通の意味の共犯者には、見えない。  小島ひとみ殺しについて、中根恭子に代って、斉藤が、毒入りの酒を持って行っただけである。それも、彼が持って行ったという証拠はないのだ。  肝心のボトルに、斉藤の指紋はなかったし、斉藤が、シーバスリーガルを、小島ひとみにプレゼントしているのを、見た者も、今のところ、出て来ていない。  十津川は、斉藤が、中根恭子に代って、小島ひとみのところに行ったと確信したが、確信だけで、斉藤を逮捕することは出来なかった。中根恭子となれば、なおさらである。  十津川の推理が当っているとすると、中根恭子の方は、斉藤のために、何をしてやったのだろうか? まだ、やっていなくて、これから、やるつもりなのか。  利害関係が一致しているからといって、片方が、もう一人のために、一方的に、サービスするとは限らない。むしろ、ギブ・アンド・テイクが、強調される筈《はず》である。 (小野純は、毒入りのレミーマルタンを飲んで、死んだ。あのレミーに、毒を入れたのは、ひょっとすると、中根恭子だったのだろうか?)  小野のところにあったレミーのボトルは、六本で、その六本、全部に、青酸が入っていた。  あの日の、あの時刻に、小野が、レミーを飲んで死ぬためには、棚の六本のボトルのうち、どれを飲むかわからないから、犯人とすれば、六本全部に、青酸を入れておく必要があった。  十津川は、今まで、青酸を入れたのは、斉藤だと、考えていた。  しかし、斉藤と中根恭子が、組んでいて、ギブ・アンド・テイクの関係だとすれば、小野純の家のレミーのボトル六本に青酸を入れたのは、中根恭子だったのかも知れない。  小野だって、まさか、中根恭子が、自分を殺すとは思わないから、簡単に、マンションに入れたのではないか。 「その件ですが」  と、亀井が、十津川に、いった。 「カメさんは、どうしても、中根恭子を、疑う気にはなれないかね?」 「いや、そのことではなく、小野純が、タイミングよく、あの時刻に、毒入りのレミーを飲んだのが、わからないのです」 「丁度、斉藤の乗ったブルートレイン『出雲3号』が、京都に停車している頃《ころ》に、ということだろう?」 「そうです」 「それは、この間考えたように、斉藤が、京都駅ホームから、小野に、電話をかけたのさ。何と、その時に話したかわからないが、小野は、それを聞いて、飲んだんだと思うね」 「それは、そうなんですが」 「斉藤が、電話で、何といったかは、まだ私にも、わからないよ」 「斉藤が、六本のボトルに、青酸を入れたとします。彼のマンションに、忍び込んだにしろ、小野がいる時に、隙《すき》を見て、青酸を入れたにしろ、斉藤は、前日の二一時〇〇分発の『出雲3号』に乗ったわけですから、彼が、青酸を注入したのは、それより前だったことになります」 「そうだね」 「二一時(午後九時)から、翌日の午前三時三八分に、京都に着くまでに、六時間三十八分あります。小野が、その間に、レミーを飲んでしまえば、その瞬間に、死んでしまいます。そうは、思われませんか?」 「カメさんのいう通りだよ。午前三時三八分より前に、小野が、青酸入りのレミーを飲んでしまう可能性は、大いにあったんだ」 「そこが、わからないんです。レントゲン室の中で、男の声は、間違いなく、ブルートレインの八分停車を利用して、殺してやると、いったんです。男は、確信しているようでした。その時刻に、相手が、必ず死ぬとです。いや、殺せるとです。しかし、今も、いったように、男が斉藤で、彼が、六本のレミーに、青酸を入れたのなら、三時三八分より前に、死んでしまう可能性は、大いに、あったんです。常識で考えても、その心配は、大きかった筈ですよ。小野に限らず酒好きというのは、気まぐれですからね。昼間だって、急に飲みたくなることもあるし、夕食のあとに飲むことだって、あると思います。斉藤が、小野の家に忍び込み、棚の六本のボトルに、毒を入れて逃げた直後に、それを飲んでしまったかも知れないんです。実際には、小野は、夜中の午前三時三八分頃に、飲んだわけですが、なぜ犯人は、その間に、小野が、レミーを飲まないという確信があったのか、それが、不思議で、仕方がないんです」  亀井は、いっきに喋《しやべ》った。 「その疑問は、当然だね」  と、十津川が、いった。 「斉藤には、三時三八分より前に、小野が、レミーを飲まないと、わかっていたんでしょうか? それとも、小野が、三時三八分まで、毒入りのレミーを飲まなかったのは、偶然だったんでしょうか?」 「偶然じゃないね。人殺しをやろうというのに、偶然に頼る奴《やつ》はいない。まして、斉藤は、医者だ。医者というのは、現実主義者だよ。斉藤は、ブルートレインの『出雲3号』に乗って、山陰の松江に向った。そして、午前三時三八分に、列車が、京都駅に着いたとき、ホームに降りて、小野に電話をかけた。内容はわからないが、多分、その時刻に、小野は、毒入りのレミーを飲んで死んだ。全《すべ》て、計算づくだと思うね。従って、偶然なんかには、頼っていない筈だよ」 「三時三八分まで、どうやって、小野に、レミーを飲まなくさせたんでしょうか?」      3 「斉藤は、小野の弱点を、利用したんだと思うね」  と、十津川が、いった。 「小野の弱点というと、何でしょうか?」 「彼は、資産家の一人息子で、わがまま一杯に、育ったとみていい。これを、思うがままに、あやつるというのは難しいよ。多分、両親のいうことだって、なかなか、聞かなかったと思うね。そんな小野の唯一の弱点といえば、鳥羽ゆう子に、惚《ほ》れていたことだと思うのだよ」 「斉藤が、それを、利用したというわけですか?」 「要するに、斉藤は、小野に暗示をかけて殺したんだと思う。一番、暗示にかけやすいのは、相手の弱点を突つくことだと思う。病気を苦にしている相手なら、その病気を、利用すればいい。何とかして、持病を治したいと思っている人間に、こうすれば治るといえば、他人から見て馬鹿げたことでも、必死になって、やるものだ。それと、同じことだったんじゃないかね」 「そういえば、小野は、鳥羽院長と、うまくいっていなかったみたいですね」 「口論をしているんだ。死ぬ直前にね。鳥羽ゆう子は、一人娘だから、父親の言葉が、大きな意味を持っていると思う。娘の結婚となれば、なおさらだろう。だから院長と口論してしまった小野は、意気消沈していたと思う」 「つまり、暗示に、かかり易い状態だったわけですね?」 「その通りだよ。斉藤は、これを、利用したんだ」 「具体的にいうと、どんなことを、斉藤は、小野に、いったと思われますか?」 「カメさんが、斉藤だったら、どういう言葉で、暗示をかけるね?」  十津川は、逆に、きいてみた。  亀井は、「そうですねえ」と、考えていたが、 「斉藤は、この病院の医者で、院長と、一緒に、飲みに行ったりしていたわけですから、彼が、院長は、君のことを、こういっていたと小野にいえば、相手は、信用しますね」 「うん」 「例えば、意気消沈している小野に向って、院長は、君が飲み過ぎるのを嫌がっていた。そんなに飲む奴《やつ》のところに、娘は、心配で、やれないと、伝えれば、小野は、しばらくは、レミーを、口にしなくなるということは、想像できますね」 「なかなか、いいよ。私も、斉藤が、それに近いことを、小野に、いったんだと思うね」 「しかし、その次に、今度は毒入りのレミーを、飲ませなければならないわけですよ。それも、午前三時三八分にです。前に、飲まない方がいいと、暗示にかけたわけですから、急に飲ませるのは、難しいんじゃありませんか」  亀井は、首をかしげてしまった。 「いや、そうでもないよ。私はね、逆に、易しいと、思っているんだ」  と、十津川は、いった。 「そうでしょうか?」 「持ち上げておいて、落とすのは易しいのと同じだよ。効果を、倍加するからね」 「理屈は、そうでしょうが、相手は、生身の人間です。逆になってしまう場合もあると思います。それを、斉藤はどうやって、うまく、小野をはめたのか、それが、わからないのです」 「今、いったように、斉藤は、まず、院長の意向だといって、小野に、酒をやめさせる」 「それは、わかります。鳥羽ゆう子に夢中だった小野ですから、やめたと思います」 「斉藤は、その時に、小野に向って、こうもいったんじゃないかな。君は、立派な人だから、僕が、鳥羽院長に、取りなしてあげよう。うまくいったら、電話するから、それまでに、謹慎の意味で、酒を、口にしないでいてくれとね。そうしておいてから、斉藤は、『出雲3号』に乗って松江に出かけた。京都駅に着いた後、ホームの電話で、小野に連絡して、うまくいった。院長も、君の良さを再確認して、娘との結婚を、許可しそうだと告げる。おめでとうと、いったかも知れない」 「小野は、ほっとして、自分で、祝杯をあげたということですか?」 「と、思うんだがね」 「しかし、来客用のグラスも置かれていましたが?」 「それは、簡単だよ。斉藤は、自分が、今、京都にいるなどとはいわずに、これから、君のマンションへお祝いに行くが、先に、祝杯をあげてくれたまえと、いったんだと思う。だから、小野は、斉藤のグラスも、用意しておいて、先に、祝杯をあげたんだ」 「それで、死んだんですか」 「来客用のグラスがあったことが、斉藤には、プラスだったと思うね。何かに、毒物を入れておいて殺すやり方は、アリバイ作りが難しい。いつ、相手が、毒入りのものを飲むか、食べるか、わからないからね。それに、相手が死んだ時、遠く離れていても、完全なアリバイには、なり得ない。ただ、今度のように、被害者が、来客用のグラスまで用意して死んでいると、犯人は、その時刻に、訪ねて来られる場所にいたのではないかと考えられて、京都駅にいた斉藤は、除外されるかも知れない。そんなプラス面があった筈《はず》だよ。少なくとも、斉藤は、その効果を狙《ねら》ったんじゃないかね」 「わかります。斉藤の狙いは」 「しかし、まだ、納得《なつとく》できないことが、カメさんには、ありそうだね?」 「そうなんです。警部は、ライバルの中根恭子が、毒入りのシーバスリーガルを、小島ひとみに届けたら、彼女は、不審に思って、飲まなかったろうと、いわれました。だから、その役を、斉藤が、代ってやったに違いないと」 「それに、疑問があるのかね?」  十津川が、きくと、亀井は、手を振って、 「そこは、私も、同感なんです。問題は、小野の事件です。小島ひとみの場合と同じように考えると、小野は、斉藤が、鳥羽ゆう子に関して、ライバルと、わかっていたんじゃないかと思うんですよ。とすると、斉藤の言葉を、なぜ、小野が、信じたのか、そこが不思議なんです。斉藤が、鳥羽院長を説得してやるといっても、私が小野なら信じませんね。それに、午前三時過ぎに電話して来たとなると、なおさらです。それならその役を、中根女医が、代ってやったかというと、午前三時三八分に、京都駅から電話したのは、斉藤としか、考えられません」 「なるほどね」  と、十津川は、肯《うなず》いて、難しい顔になった。  十津川は、多少とも、自分の推理に酔った感じだったのだが、亀井の疑問は、もっともなのだ。  小野と、斉藤は、鳥羽ゆう子をめぐるライバルである。  そのライバルの言葉を、簡単に信じるのは、亀井のいうように、おかしい。  しかも、斉藤は、午前三時三八分に、「出雲3号」が、京都駅に着いてすぐ、小野に電話したと思われる。  ライバルの男が、しかも、夜中の三時半過ぎに電話して来たら、果して、その言葉を信じるだろうか?  十津川が、小野でも、信じないだろう。  だが、小野は、斉藤の狙った通りに、その時刻に、毒入りのレミーを飲んで死んだ。 (なぜだろう?)  斉藤を疑っていたが、ひょっとして、その役目を、中根女医が、やったのだろうか?  そして、ギブ・アンド・テイクで、次の小島ひとみ殺しを、斉藤が、引き受けたのだろうか?  いわゆる交換殺人である。  理屈としては、肯ける。  だが、実際に、ブルートレイン「出雲3号」に乗ったのは、斉藤である。乗客の中に、中根恭子は、いなかった。これは、はっきりしている。  斉藤が、京都駅のホームから、午前三時三八分に、小野に電話をかけたと、十津川は、推理したが、ひょっとすると、その時刻に合せて、中根恭子が、小野に、電話したのだろうか?  しかし、そうだとすると、斉藤は、なぜ、車内で、乗客の一人を刺したのだろうか?  あれも、斉藤以外の人間の犯行だったのか?  それに、亀井刑事が、深夜の病院で耳にしたレントゲン室の男の声のことがある。  男が、「ブルートレインの八分停車を利用して、奴《やつ》を殺してやる」といったと、亀井は、いう。亀井が、聞き違えたとは、十津川は、思っていない。  とすると、小野を殺したのは、やはり、斉藤ということになるのだ。  日曜日に、ブルートレインに乗ったのは、病院関係者では、斉藤だけである。どこかの駅で、八分停車するブルートレインにである。  もし、斉藤が、犯人でないとすると、亀井刑事が聞いたレントゲン室の男女の会話は、いったい、何だったのだろうか?  まさか、刑事の亀井が、レントゲン室の前を通りかかったのを知って、わざと、あんな会話を、聞かせたわけでもないだろう。 (また、わからなくなったな)  と、十津川は、苦い表情になった。  これでは、斉藤を、追いつめるのは、難しくなってしまう。      4 「壁にぶつかりましたね」  亀井が、重い口調《くちよう》で、十津川に、いった。 「そうだね。今のままでは、斉藤も、中根恭子も、逮捕は、出来ない。斉藤の方は、情況証拠だけだし、女医の方は、その情況証拠すらないんだからね」 「どうしますか?」  と、亀井が、きき、他《ほか》の刑事たちも、十津川を、見つめた。 「カメさんのいう通り、壁にぶつかった感じだが、斉藤にしても、中根恭子にしても、まだ、自分たちの目的を達成したわけじゃない。そこに、つけ込む余地があると思うのだ」  と、十津川は、亀井たちを見て、いった。 「そうですね。斉藤は、鳥羽ゆう子と結婚できなければ、小野を殺した甲斐《かい》がないし、中根恭子にすれば、院長夫人にならなければ、小島ひとみを毒殺したことが、無駄になってしまうわけですからね」  亀井が、いった。 「その通りさ。だから、斉藤は、次に、残りのライバルである宝石商の江島泰か、ピアニストの杉本幸夫を狙《ねら》うとみていい。同様に、中根恭子の方も、自分のライバルを、始末しようとするだろう」 「順序からすると、今度は、斉藤のライバルの方ですね」 「江島泰と、杉本幸夫の二人を、すぐ、ガードに行ってくれ。わからないように、二人の周辺を警戒して、斉藤か、中根恭子が、何かするようだったら、逮捕するんだ」  十津川は、西本刑事たち四人を、二人のところに行かせた。  次は、中根恭子の方である。  残念ながら、こちらの方は、彼女の他に、誰《だれ》が、鳥羽院長の後妻の座を狙っているのか、わからなかった。  まず、その女性を、見つけなければならない。  十津川は、清水と田中《たなか》の二人の刑事に、それを、命令した。  捜査本部には、十津川と、亀井の二人だけが、残った。 「カメさんは、さっき、順序からいうと、今度は、斉藤のライバルの方だといったが、本当に、そうなるだろうか?」  十津川は、コーヒーを口に運んでから、亀井に、きいた。インスタントコーヒーである。  亀井も、砂糖を入れずに、一口飲んだ。 「二人が、共謀して、ギブ・アンド・テイクで動いているとすると、今度は、間違いなく、江島泰か、杉本幸夫が、狙われると思いますね。斉藤と中根恭子は、別に、愛情で結ばれているわけではなく、利害関係だけで、結ばれています。こんな二人ですから、厳密に、ギブ・アンド・テイクをしていかないと、お互いに不信感を覚えると思うのです」 「だから、今度は、斉藤のライバルを消す番ということか」 「そう思っているんですが」  と、亀井は、いった。      5  N製薬の社長秘書、及川貴子《おいかわたかこ》は、マンションの地下駐車場に、真っ赤なポルシェを入れると、大きなストライドで、エレベーターに向って、歩いて行った。  彫りの深い顔にうっすらと、疲労の色が見えるのは、ハードな仕事のせいなのか、それとも、三十二歳という年齢のせいなのか、貴子自身は、もちろん、仕事のせいだと思っている。  深夜のコンクリートのマンションは、ひっそりと、静まり返っていた。  彼女のハイヒールの音だけが、甲高く、ひびく。  エレベーターのボタンを押した。  五階で止まっていたエレベーターが、ゆっくりと、地下におりてくる。  数字が、点滅していくのを、ぼんやりと見ていた貴子は、いきなり、背後から、後頭部を、強打されて、その場に、頽《くずお》れた。  血が、文字通り、噴出した。  その血が、どんどん、コンクリートを、赤く染めていく。  誰《だれ》も来ないままに、血が、流れ続けた。  四十分近くたって、白いセリカが、駐車場に入って来た。  最上階の七階に住む若夫婦の車だった。二人とも、少し酔っていた。  正確に、二分後、若妻の方が、甲高《かんだか》い悲鳴を、あげた。  救急車が、駆けつけた。が、二人の救急隊員は、彼女が、すでに死亡しているのを確認することしか出来なかった。  代りに、今度は、パトカーが、やって来た。初動捜査班のパトカー二台である。  発見者である若夫婦の証言で、死体は、同じ七階に住む及川貴子と、わかった。  ハンドバッグの中の身分証明書と、運転免許証でも、それは、確認された。  初動捜査班の渡部《わたなべ》警部は、七階の被害者の部屋に、あがってみた。  洒落《しやれ》た感じの2LDKの部屋である。 「広くて、羨《うらやま》しいですよ」  と、部下の富田《とみた》刑事が、いった。  若い富田は、まだ、警察の寮に入っている。 「給料が、いいんだろう」  と、渡部は、いい、机や、タンスの引出しを、調べにかかった。  ハンドバッグの中の財布や、金のブレスレットなどが、全く盗まれていなかったので、怨恨《えんこん》からの殺人と、みたのである。 (おや?)  と、渡部は、机の引出しを調べていた手をとめた。  明らかに、見合い写真とわかるものが、出て来たからである。  開くと、中年の男性の写真だった。  手紙が、はさんであった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈貴子さんも、もう、いいかげんに、結婚を考えた方が、よろしいわ。  この写真の方など、貴子さんに、ぴったりと思うの。名前は、鳥羽信介様。五十八歳という年齢だけど、お若く見えるし、第一中央病院の院長をなさっている立派な方です。奥さんとは、死別なさって、娘さんが一人いらっしゃるけど、間もなく、結婚する予定。もし、あなたに異存がなければ、私が、お見合いのお膳立《ぜんだ》てをします。すぐ、返事をして頂戴《ちようだい》。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]青木 浩子〉  手紙の日付を見ると、半月近く前である。 (とすると、もう、見合いは、すんでしまっているだろう)  と、渡部は、思ってから、鳥羽信介という名前に、すでに起きている殺人事件のことを思い出した。 (確か、あの事件は、十津川班が、捜査していた筈《はず》だが) [#改ページ]  第八章 野望の行方      1  十津川は、唇《くちびる》を噛《か》んでいた。  次に狙《ねら》われるのは、江島泰か、杉本幸夫だろうと見ていたのだが、小島ひとみに続いて、また、鳥羽院長の後妻候補が、殺された。  及川貴子の存在を知らなかったとしても、みすみす、殺させてしまったのは、警察の失敗といわれても、仕方がない。  すでに、午前一時に近かった。 「やったのは、中根恭子ですかね? それとも、斉藤でしょうか?」  亀井は、小声で、十津川に、きいた。 「女でも、鈍器で、殴ることは出来る。二人のアリバイを調べる必要があるね」  と、十津川は、いった。  その捜査は、西本たちに委《まか》せて、十津川と、亀井は、鳥羽院長に、会いに、久我山に、向った。  深夜の訪問に、最初、鳥羽は、不機嫌だったが、十津川が、及川貴子の死んだことを告げると、鳥羽も、顔色を変えた。 「見合いをされたことは、間違いありませんか?」  と、十津川は、きいた。  鳥羽は、深い溜息《ためいき》をついてから、 「先週の月曜日だったと思います。友人の代議士の紹介で、彼女に、帝国ホテルで、会いました」 「印象は、どうでした?」 「いい人だと思いました。美人だし、頭もいい。強《し》いていえば、欠点のないのが、欠点みたいな女性でしたね」 「それで、交際は、始まっていたんですか?」 「ええ。そのあと、一度、私が、彼女を、夕食に誘いましたよ」 「彼女なら、再婚してもいいと、思われたんですか?」 「まだ、そこまでは、いっていませんでした。見合いして、まだ、一週間ですから」 「他《ほか》に、候補は、いるんですか?」  亀井が、きくと、鳥羽は、頭を振って、 「それなら、見合いは、しませんよ」 「しかし、前に殺されたクラブのママの小島ひとみさんも、候補の一人だったんじゃありませんか?」 「彼女の場合は、向うが、勝手に、そんな噂《うわさ》をばらまいていたんですよ。明るくて、社交的で、話していると楽しい女性でしたがね。再婚の相手と考えたことは、ありませんでしたね」 「中根さんは、いかがですか? 女医の中根恭子さんですが」  今度は、十津川が、きいた。  鳥羽は、「え?」と、十津川を見た。 「中根クン?」 「そうです。美人で、頭も切れるし、それに独身ですよ」 「まあ、それは、そうですがねえ」 「病院の看護婦たちは、中根さんが、院長夫人になるのではないかと、噂していますよ」 「中根クンねえ」  鳥羽は、宙に、視線を走らせた。 「では、彼女のことは、置いておいてですが、他には、結婚を考えた女性は、いませんか?」  と、十津川は、念を押した。 「いませんよ」  鳥羽は、即座に、答えた。 「小島ひとみさん、及川貴子さんと、続けて、二人が殺されています。小島さんは、あなたとの結婚を希望していたし、及川さんは、あなたと、見合いをした女性です。そのことについて、どう思われますか?」  亀井が、きくと、鳥羽は、むっとした表情になって、 「まるで、二人が殺された原因は、私みたいないい方ですね」 「そんなことは、いっていませんよ。ただ、誰《だれ》が考えても、他に、あなたとの結婚を望んでいる女がいて、彼女が、自分のライバル二人を、次々に、殺していったと思えるんです。当然、あなたに、心当りがあるんじゃないかと考えたんですがね」 「それが、中根クンのことだというんですか?」  今度は、逆に、鳥羽が、きき返してきた。 「そうです。彼女は、明らかに、あなたとの結婚を、期待して、いますね」 「そうかね」  鳥羽は、首をかしげた。 「彼女を、どう思います?」  亀井が、続いて、きいた。 「腕のいい医者だと思っていますよ。その点で、信頼していますがね」  鳥羽のいい方は、どことなく、あいまいだった。 「彼女と、酒を飲んだことは、ありますか?」  と、十津川は、きいてみた。 「何かの時に、飲んだ覚えがありますね」 「二人だけでですか?」 「いや、他《ほか》にも、何人かいたんじゃないかな。よく覚えていないのですよ。中根クンが、疑われているんですか?」 「彼女に、結婚してもいいといった感じのことを、おっしゃったことは、ありませんか? 期待させるようなことを、ですが」 「とんでもない。私は、そんな、公私を混同するようなことは、しませんよ」 「結婚ということは、別に、公私混同とは、関係ないと、思いますがね」 「しかし、中根クンは、うちの病院の職員ですよ」 「しかし、あなたの結婚の相手として、おかしいことはないと思いますよ。美しく、聡明《そうめい》で、院長夫人になっても、おかしくはない。他の職員も、祝福するんじゃありませんか?」 「警部さんは、中根クンと私が、結婚するといいと、思うんですか?」 「私は、彼女が、男から見て、とても魅力のある女性だと思うんですよ。あなたが、彼女に対して、恋愛感情を持ったことがあっても、不思議はない。むしろ、当り前のことだと思いますがね」 「警部さんは、何が、いいたいんですか?」 「失礼を顧みずに、申しあげると、あなたと、中根恭子さんとの間に、関係があったのではないか、その際、彼女に対して、結婚を匂《にお》わせるようなことを、いわれたのではないかと、私は、思っているんです。下衆《げす》の勘ぐりかも知れませんが、もし、そうだとすると、それが、今度の殺人事件の根にあるのではないかと——」 「帰ってくれませんか!」  ふいに、鳥羽は、大声を出した。 「こんな時間に叩《たた》き起こされて、しかも、無礼極まる質問をされて、まともに答える気になれん。帰って頂こう」      2  二人は、車に戻った。 「これは、明らかに、関係がありますね」  と、座席《シート》に腰を下ろしてから亀井が、いった。 「そうだね。多分、鳥羽院長の方から手を出したんだろう。それで、中根恭子は、自分は、院長夫人になれるものと、思い込んだ。クラブのママの小島ひとみや、代議士の紹介で、鳥羽院長が見合いをした及川貴子という強敵はいるが、二人が、いなければ、院長は、自分と結婚する筈《はず》だと、考えたんだと思うね」 「それで、斉藤と、共同戦線を張ったというわけですね」 「間違いないと、思うがね」  十津川は、そういったが、その言葉ほど、元気はなかった。  今の段階で、利害の一致している斉藤と、中根恭子が、協力して、お互いのライバルを殺していったという推理は、間違っていないと、十津川は、思っている。  だが、すっきりしないものが残るのも、事実なのだ。  亀井が、小野の殺害について、口にした疑問もある。  小野が、なぜ、ライバルの斉藤の言葉を信じたのか。しかも、午前三時過ぎの電話を、である。普通なら、当然、不信感を持つだろう。  今度の及川貴子殺しについても、同じような疑問が残る。  殺人は、斉藤と中根恭子のどちらかに、決っている。  だが、なぜ、小島ひとみ、及川貴子と、中根恭子の、ライバルが、続けて、殺されたのだろうか?  しかも、この二人が死んで、院長夫人の椅子《いす》を狙《ねら》うライバルは、もう、いなくなってしまったようである。  それに反して、斉藤の方は、まだ、強力なライバルが、二人も、残っている。斉藤と、中根恭子が、ギブ・アンド・テイクで、結ばれているとしたら、あまりにも、不公平ではないか。 (斉藤が、よく我慢しているものだな)  と、十津川は、それが、不可解だった。  捜査本部に戻ると、二人のアリバイを調べに行っていた西本たちも、帰っていた。 「斉藤も、中根恭子も、夜中に叩《たた》き起こされたといって、文句を、いっていましたよ」  と、西本が、十津川に報告した。 「二人とも、今日は、当直じゃなかったんだな?」 「二人とも、ずっと、自宅のマンションにいたと、いっています」 「ひとりでか?」 「そうです。中根恭子は、夕食のあと、テレビを見たり、本を読んで時間をつぶし、十一時には、寝たといっています。外出はしなかったそうです」 「斉藤は?」 「似たようなものです。テレビで、野球中継を見てから、寝たというのです」 「野球があったのか?」 「七時から、巨人—大洋戦の中継がありました」 「とすると、二人とも、確実なアリバイは、ないということか」 「そうなります」  と、西本がいった。 「夜が明けたら、斉藤に、会いに、行ってみようじゃないか」  十津川は、亀井に、いった。      3  十津川は、亀井と二人、わざと、朝早く、斉藤のマンションを訪ねた。  彼は、まだ、パジャマ姿で、朝食をとっていた。 「何です? こんなに早く」  と、斉藤は、不機嫌な顔で、十津川たちを、居間に通した。 「及川貴子という女性が、亡くなったことは、もう、ご存知ですね?」  と、十津川が、いった。 「知っていますよ。夜中に、若い刑事の方がみえて、そのことで、僕のアリバイを、根掘り葉掘り、聞いていきましたからね」  斉藤は、眠そうに、眼をこすった。 「彼女のことは、前から、知っていたんでしょう?」 「いや、知りませんよ」 「しかし、鳥羽院長が、見合いをした相手ですがね」 「だからといって、僕が、知っているとは限らんでしょう?」 「鳥羽院長か、ゆう子さんから、話を聞いていなかったんですか?」 「聞いていませんよ」 「おかしいな。あなたは、院長とも、時々、飲みに行っていたようだし、お嬢さんのゆう子さんとの結婚を、望んでいるわけでしょう? としたら、当然、院長と見合いをした女性のことは、耳に入っていた筈《はず》だと思いますがねえ」 「あなたが、どう思おうと、知らなかったものは、知らないんですよ」  と、斉藤は、面倒くさそうに、いった。 「そうですか」  と、十津川は、一応、肯《うなず》いてから、 「ところで女医の中根さんが、鳥羽院長との結婚を望んでいることは、ご存知ですか?」  と、きいた。  斉藤の顔に、何か、表情が浮ぶと思ったが、案に相違して、彼は、平然とした顔で、 「知りませんが、他人《ひと》のことは、どうでも、いいですよ。中根さんが、誰《だれ》と結婚しようと、僕には、関係ない」 「果して、そうでしょうか?」 「え?」 「あなたは、ゆう子さんとの結婚を望んでいる。もし、中根さんが、鳥羽院長の後妻におさまったら、あなたの義母になるわけですよ」 「ああ、そういうことですか」 「それに、中根さんのライバルは、二人とも死んでしまった。もう、彼女の希望を妨害するものはなくなりました。ライバルが、いなくなったわけですからね。それに反して、あなたは、大変ですね。ライバルは、一人減った。小野さんが、死にましたからね。だが、まだ、二人残っている。宝石店をやっている江島さんと、ピアニストの杉本さんだ。二人とも、ハンサムだし、資産家の息子と、芸術家ですからね。そう思いませんか? もし、これが、レースだとしたら、中根さんの方が、絶対に、先に、テープを切りますね」 「警部さんのいわれる意味が、よくわかりませんね。何をいおうとしているのか」 「そうですか。あなたには、よくわかっていると、思っているんですがね」 「ぜんぜん」 「恋する男は、敏感だということだが、あれは、違うのかな」 「ますます、わかりませんね」 「私は、あなたと、中根さんのレースのことを、いっているんですよ。同時に、ゴール・インしたら、本当に、めでたい。だが、あなたの方は、ゴール前に、まだ、二つの障害が残っているのに、彼女の方は、もう一つも、障害は、ないんです。誰か、親切な人間がいて、二つあった障害物を、取り除いてしまいましたのでね。当然、彼女の方が、先に、ゴールに入る筈です。そうなると、どうなりますかね?」  十津川は、意地悪く、きいた。  斉藤は、眉《まゆ》を寄せて、 「私には、わかりませんよ」 「いいですか。中根さんは、鳥羽院長の後妻におさまってしまう。ところが、あなたの方は、なかなか、ゆう子さんと結婚できない。その結果、どうなるか、わかりますか?」 「わかりませんね」 「われわれは、中根さんのことを、いろいろと、調べました」 「なぜですか?」 「鳥羽院長と結婚を望んでいた女性が、二人も、続けて死んだからですよ。動機のある者を疑えというのが、捜査の鉄則ですからね。当然、同じように、院長の後妻の椅子《いす》を狙《ねら》っている中根さんを、疑うことになるんですよ。それで、いろいろと、彼女のことを、調べたわけです」 「それが、どうかしたんですか? 彼女は、立派な人ですよ。医者としての腕も素晴らしいし、頭もいい人です」 「その通りですよ。もう一ついえば、なかなかの美人です。ただ、彼女は、貧しい家に生れている。彼女が、高校を卒業した時、父親が亡くなったのでね。医大を、アルバイトしながら、彼女は、卒業しています」 「だから、どうだというんですか? 僕だって、金持ちの家に、生れたわけじゃありませんよ」 「しかし、今は、松江の叔父《おじ》さん夫婦が亡くなって、億単位の遺産を、相続された筈ですよ。税金が、大変でしょうがね。中根さんの方は、そういうこともなかった。彼女は、鳥羽院長と結婚したら、今までの貧しさを、いっぺんに取り戻そうと、するんじゃないかと、思うのですよ。鳥羽家の財産を、全《すべ》て、自分のものにしたいと、思うんじゃないかな。あとから、鳥羽家に入ってくる人間なんかには、一円たりとも、やるまいと、思うんじゃないかな」 「それが、どうかしたんですか?」 「あなたが、ちょっと可哀《かわい》そうになって来たんですよ」 「どうしてです?」 「あなたが、二人のライバルを蹴落《けお》として、やっと、ゆう子さんと、結婚したとします。それより早く、鳥羽院長の後妻に入った中根さんは、財産も、病院の経営も、全て、自分のものにしてしまうと、思いますね。あなたは、多分、鳥羽家の財産にも、病院の経営にも、タッチできないように、されると思いますね。だから、あなたに、同情するんですよ」  十津川が、いうと、斉藤は、肩をすくませて、 「そんな心配はしてくれなくて、結構ですよ。僕は、純粋に、ゆう子さんが好きなんですよ。別に、鳥羽家の財産が、欲しいわけじゃない。金なら、今、警部さんがいわれたように、入って来ましたから、不自由は、してないんですよ。もう、病院に、行かなければならないので、失礼します」  斉藤は、そういって、立ち上った。      4  十津川と、亀井は、マンションを出た。 「警部は、思い切ったことを、いわれましたね」  亀井が、感心したように、いった。  二人は、車に戻った。が、すぐ、発進させずに、十津川は、煙草《たばこ》をくわえて、火をつけた。  斉藤が、着がえをすませて、マンションから出て来た。隣りの駐車場に置いてあった白いBMWに乗り込むと、病院に向って、走り去って行った。 「BMWか。たいしたものだな」  十津川は、見送りながら、呟《つぶや》いた。 「叔父《おじ》さんの遺産で、買ったんでしょう。今までは、国産のカローラで、二人のライバルに、差をつけられていましたからね」  亀井が、笑った。 「金持ちの娘との恋愛だと、小道具の車も、ベンツや、BMWじゃないと駄目か」 「面倒なことです。ところで、斉藤は、あまり、動揺を見せませんでしたね。中根恭子のことで」 「そうなんだ」  十津川は、大きく、肯いた。 「私は、てっきり、大きな反応《はんのう》を見せると思いましたがねえ。もし、中根恭子と、ギブ・アンド・テイクで、結びついているのなら、現状は、彼の方が、明らかに、損していますからね」 「だが、斉藤は、そんなことは、気に留めてないように見えた」 「そうでしたね。私も、意外でした」 「それで、私は、あわてて、しまったんだよ。だから、あそこまで、いったんだ。とにかく、斉藤を、追い込んでやろうと思ってね」 「なるほど。しかし、どうにも、私には、斉藤の態度が、不可解なんです」 「捜査本部へ戻りながら、話そう」  と、十津川が、いい、亀井は、エンジンをスタートさせた。 「どこが、不可解なんだね?」  走り出した車の中で、十津川が、きく。 「私は、マンションの駐車場で、及川貴子を殴り殺したのは、斉藤だと思っています」  と、亀井が、いった。 「中根恭子が、やったのでは、動機がありますから、逮捕されます。それで、ギブ・アンド・テイクで、斉藤が、やったと思うのですよ。しかし、前にもいいましたが、これでは、二対一で、斉藤の方が、損しています。斉藤のライバルは、一人しか死んでいませんが、中根恭子の方は、二人死んで、あと、ライバルは、一人もいませんからね。それだけじゃありません。小島ひとみと、及川貴子を殺したのは、恐らく、斉藤ですが、小野純を殺したのも、斉藤だと、思われるんです」 「多分、そうだろうね」 「とすると、斉藤にとって、これは、ギブ・アンド・テイクではなく、ギブだけじゃないでしょうか。しかも、斉藤は、この結果について、別に、不満そうでもない。どうも、そこが、不可解で、仕方がないんですが」 「その疑問は、当然だよ」 「では、警部も、同じ疑問を、持たれたんですか?」 「そうだよ、それで、その理由を、考えてみたんだ。斉藤と、話しながらね」 「答が、見つかりましたか?」 「見つかったと、思うよ」  と、十津川は、いった。 「どんな答ですか?」  運転しながら、亀井が、きいた。 「斉藤と中根恭子は、最初は、ギブ・アンド・テイクで、共同戦線を張ることにしたんだと思う」  と、十津川が、いった。 「それが、なぜ、ギブ・アンド・ギブになってしまったんでしょうか?」 「それは、スピードが、原因だと思うね」 「スピードと、いいますと?」 「斉藤の場合を、考えてみたんだ。今でも、二人の強力なライバルがいる。それに、鳥羽ゆう子は、美人で、結婚適齢期だから、これからだって、自薦他薦の候補が、出現する可能性がある。江島と、杉本の二人を、たとえ殺したとしても、他《ほか》のライバルが、現われるのではないか。第一、たて続けに、婿《むこ》さんの候補者が、三人も死んだら、マスコミも、センセイショナルに書き立てるし、斉藤としても、鳥羽ゆう子と、結婚しにくくなる。疑われるに、決っているからね」 「それで、方向転換したというわけですか?」 「もっと、安全な方法をとることにしたんだと思う。安全といっても、殺人という手段に訴えることには、変りはないんだがね」 「中根恭子の方に、力を入れることにしたわけですね?」 「鳥羽院長の後妻の方は、ライバルも少ないし、後から後から、候補者が出てくるということもない。第一、事件になっても、さほど、マスコミの注目の的にはならないよ。とにかく、後妻の話だからね。そこで、斉藤と、中根恭子は、相談したんじゃないかな。二人同時に、鳥羽家に入るのは、難しい。だから、入りやすい中根恭子が、鳥羽院長と結婚する。彼女が鳥羽ゆう子の義母になるわけだよ。そうしておいてから、鳥羽院長や、娘のゆう子に対して、斉藤との結婚を、強力に、すすめる。中根恭子は、頭がいいから、鳥羽家の家庭に入り込めば、家庭の実権を手に入れることは、簡単だと思うのだ。万一、ゆう子が、斉藤以外の男、例えば、江島や、杉本と、結婚したとしても、彼|等《ら》は、医者じゃない。そこで、あの病院を継ぐ人間として、斉藤を推薦することも出来る筈《はず》だよ。二人は、その方法をとることにしたんだと思うね」      5 「それで、一見すると、斉藤のギブ・アンド・ギブに、見える状況になっているわけですか」  と、亀井は、いった。 「私は、そう思ったんだ。だから、斉藤が、平気な顔をしているんだとね」 「そこで、警部は、斉藤を、脅《おど》かされたんですか?」 「斉藤は、自分と、中根恭子の立てた計画が、着々と、進行していると考えて、落ち着き払っていた。しかも、彼が、三人の男女を殺したという証拠はない。毒殺の場合は、特に、そうだ。アリバイが、どうしても、あいまいになってしまうし、あいまいでも、崩しようがないんだ。使われた毒だって、斉藤も、中根恭子も医者だから、入手しやすかったろう。病院にあるものを、使ったのかも知れない。だから、そちらから、追い詰めていくのも、難しいんだ。われわれの推理だって、前に、カメさんが、疑問を出したように、不完全だよ。とうてい、あの二人を、逮捕できるものじゃない。今、われわれに出来るのは、斉藤なら斉藤を、精神的に、追い込むことぐらいだと思ったんだよ」  十津川は、苦笑して見せた。 「成功したと、思われますか?」 「さあ、どうかな。斉藤は、自信満々でいる。中根恭子と、共謀して、すでに、三人の男女を殺しながら、警察は、二人を逮捕できずにいるわけだからね。自信満々でいるのも、無理はないと思うね。これで、中根恭子が、鳥羽院長と結婚し、その推薦で、斉藤と、鳥羽ゆう子が、結婚したりということになれば、斉藤の計画は、完全に、成功したことになってしまう」 「その可能性があると、思われますか?」 「あると思ったから、斉藤を、脅かしてやったんだよ」  と、十津川は、いった。 「つまり、彼の計画通りにいっても、中根恭子が、裏切るかも知れないと、思わせたわけですね?」 「成功したかどうかは、わからないがね。斉藤も、中根恭子も、頭がいいと、自分で、思っている筈だ。われわれに対する応対でも、わかる。そういう二人が、本当に、お互いを信頼し合っているとは、思えない。二人が、愛し合っているのなら別だが、斉藤の方は、鳥羽ゆう子と結婚し、あの大病院の実権を握ることを、夢みている。一方の中根恭子の狙いは、院長夫人の椅子《いす》と、鳥羽家の財産だろう。もちろん、その財産の中には、あの病院も入っている。となると、現在は、二人の利害は一致していても、最後には、衝突するんだ。それは、頭のいい斉藤のことだから、わかっているに違いない。そこのところを、ちょっと、突ついて、やっただけさ」  と、十津川は、いった。  自分でも気付いている弱点を、突つかれると、どうなるか。  突つかれた人間の性格や、立場によって、反応《はんのう》も、違ってくるだろう。  自信のある人間なら、平気でいるかといえば、そうでもないと、十津川は、思う。逆に、自信満々な人間ほど、考え込んでしまい、つまずくのではないか。 「これから、どうしますか? 結果を見ますか?」  亀井が、きいた。 「いや、三人の人間が殺されているんだ。そんな悠長なことは、していられない。斉藤と、中根恭子に、今まで以上に、圧力をかけてやろうじゃないか」  と、十津川は、いった。  殺人の証拠がつかめれば、正式に逮捕令状をとりたいが、それが、出来ない以上、姑息《こそく》とは、わかっていても、圧力をかけて、相手をゆさぶり、相手が、ボロを出すのを、期待するより仕方がなかった。      6  何の動きもないままに、二日、三日と、過ぎた。  十津川は、辛抱強く、斉藤と、中根恭子の監視を、続けた。わざと、尾行している刑事を、斉藤に、見せつけたりもした。圧力をかけるためである。  もちろん、二人の周辺の聞き込みという地道な捜査も、続けた。  しかし、斉藤も、中根恭子も、いつもの通りの生活を続け、十津川たちが期待するような、あわてた素振りは、見せなかった。  四日目のことである。  中根恭子の監視に当っていた清水刑事が、 「彼女が、箱根《はこね》に出かけます」  と、連絡して来た。 「箱根のどこだ?」 「強羅《ごうら》温泉です。問題は、一緒に行く人間です。どうやら、鳥羽院長と二人で行くようなんです」  若い清水刑事は、興奮した口調《くちよう》で、いった。 「それは、間違いないのかね?」 「間違いありません。どうやら、誘ったのは、中根恭子の方ですが、耳の早い婦長なんかは、これで、院長夫人は、決ったということで、中根女医に、ごますりを始めています」 「なるほどね」 「どうしますか? 二人が、箱根へ行くのは自由ですから、止《と》めるわけにも、いきません」 「それは、そうだ。君は、一応、箱根へ、行ってみてくれ。但し、尾行に気付かれないようにやってくれよ。下手《へた》をすると、鳥羽院長に、告訴されかねないからね」  と、十津川は、いった。  亀井は、眉《まゆ》をひそめて、 「彼等は、既定方針どおり、計画を進めているようですね」 「そうなんだ。中根恭子にしてみれば、ライバルがいなくなった今、鳥羽院長との間に、関係を作ってしまう気なんだろう」 「そのまま、二人は、結婚すると、思われますか?」 「カメさんの眼から見ても、彼女は、魅力のある女性だろう?」 「ええ。魅力がありますね。今でも、こんなに美しい女《ひと》が、犯人だというのが、信じられません」 「それなら、鳥羽院長だって、彼女には、魅力を感じている筈《はず》だよ。何日間かを、箱根の温泉で、二人だけで過ごせば、情だって、生れるだろう。そのまま、結婚に行く可能性が、強いねえ」 「彼女が、鳥羽院長の夫人になって、斉藤と、鳥羽ゆう子が、一緒になることにでもなったら、犯罪は引き合うことになってしまいますよ」 「それに、彼女が、鳥羽夫人になってしまうと、今よりは、やりにくくなるだろうね。鳥羽院長には、有力者の知人が多いし、いざとなった時、金にあかせて、優秀な弁護士を用意するだろうからね」 「どうしたらいいんですか?」  亀井が、深刻な顔で、きいた。  十津川は、しばらく、考えていた。が、急に立ち上ると、 「鳥羽院長が、箱根に行く前に、会ってくる」 「私も、行きましょうか?」 「いや。私が、一人で、会って来る」 「中根恭子の誘いに乗るなと、鳥羽院長に、忠告されるんですか?」  亀井がきくと、十津川は手を振って、 「個人の行動だ。われわれ警察が、規制することは出来ないよ」 「では、何をしに行かれるんですか?」 「ちょっと、鳥羽院長と、話をしてくるだけだよ」  と、十津川は、いった。  亀井には、十津川が、何をしに行ったのか、結局、わからなかった。  十津川が、戻って来たのは、三時間ほどしてからだった。  彼は、戻って来ると、すぐ、清水刑事を呼び、明日、箱根に行く必要はないと、いった。  鳥羽院長の、というより、中根恭子の尾行、監視を、中止してしまったのである。 「いいんですか?」  清水は、不審そうに、十津川に、確かめた。 「構わないさ。あの二人を、尾行していっても、内緒話を聞けるわけじゃない。それに、斉藤だって、二人の仲が進むのを、さまたげてはいけないと思うから、箱根には、行かんだろう」 「行きませんか?」  と、亀井が、きいた。 「心配して、斉藤が、行くようなら、罠《わな》をはる余地もあるが、彼は、行かないと思うね。奴《やつ》は、東京に動かずにいると思うよ」  十津川が、答えた。      7  十津川の予想は、適中した。  翌日、中根恭子は、三日間の休みをとって、旅行に出かけた。行先は、もちろん、箱根である。  だが、斉藤は、朝から、病院に勤務して、いつもの通り、患者の診察と、治療に当った。 「このまま、黙って、手をこまねいているんですか?」  亀井が、正直に、いらだちをみせて、十津川に、きいた。  十津川は、笑って、 「何かしたいとは思うが、何が出来るというのかね? いくら警察でも、鳥羽院長と、中根恭子のプライバシイには、立ち入ることは出来ないよ。かといって、斉藤と、中根恭子の二人を、逮捕するには、証拠がない。じっと、待つより仕方がないじゃないか」 「待つって、何を待つんですか?」  亀井が、じっと、十津川を見た。清水刑事も、十津川を、見ている。 「それは、鳥羽院長が、箱根から帰って来たら、説明するよ」  と、十津川は、秘密めかして、いった。 「昨日、鳥羽院長に、何か頼まれたんですか?」  亀井が、きいた。 「いろいろと、話をしたあと、彼に、あることを、頼んだ。しかし、それを実行してくれるかどうかは、相手の意志に委《まか》せたんだよ。強制できることではなかったのでね」 「中根恭子と、結婚しないように、いわれたんじゃないんですか?」 「いや、そんなことは、いわないよ。もし、そんなことをいえば、かえって、鳥羽院長は、意地になって、中根恭子との結婚に、走ってしまうかも知れないからね」 「となると、わかりませんね」  亀井は、肩をすくめた。  十津川は、何も、説明しなかった。  三日間、捜査本部は、重苦しい空気に、支配された。  箱根に、一人の刑事も行かせなかったので、鳥羽院長と、中根恭子が、どんな様子なのか、全く、つかめなかったからである。  それに、十津川は、斉藤についての捜査も、中止させていた。  当然、刑事たちの間から、不満が、生れた。刑事というのは、捜査が、壁にぶつかっていても、本能的に、動き廻《まわ》っていたいものなのに、それを、止められたからだった。それに、それでは、警察が今度の一連の事件に、お手あげだということを、認めたようなものだった。  新聞は、「迷宮入りか? 壁にぶつかって、当惑している捜査本部」と、書き立てた。  本多捜査一課長からも、なぜ、捜査をやめているのかと、十津川は、いわれた。  それに対して、十津川は、ただ、三日間、待ってくださいとだけ、本多に、いった。  それは、十津川の自信の表われというより、自信のなさの表われだった。彼が頼んだことを、鳥羽院長が、やってくれたかどうか、わからなかったのである。  三日して、鳥羽院長と、中根恭子は、箱根から、帰って来た。  夜になってから、捜査本部にいた十津川に、電話がかかった。 「鳥羽院長からです」  と、清水にいわれて、十津川は、眼を輝かせた。  奪い取るように、受話器をつかむと、 「やって頂けましたか?」  と、きいた。 「一応、あなたのいう通りにしましたがね。これが、何かの役に立つんですか?」  鳥羽院長がいうのへ、十津川は、押しかぶせるように、 「とにかく、これから、頂きにあがります」  と、いって、電話を切った。 「カメさん、一緒に、来てくれ」  十津川は、亀井を、促した。 「何を取りに行くんですか? 今、電話で、頂きにあがると、おっしゃっていましたが」  亀井が、一緒に捜査本部を出ながら、きいた。急に、十津川が元気になったことに、亀井は、戸惑いを感じていた。  二人は、パトカーに乗り、鳥羽邸に向った。 「もう、鳥羽院長に、何を頼まれたか、教えて下さっても、いいんじゃありませんか」  と、亀井が、運転しながら、いった。 「あの日、鳥羽院長に会ってね。一つのことだけを頼んだんだ。それはね、三日間、出来れば、中根恭子の話すことを、テープにとっておいて欲しいとね」 「鳥羽院長は、何と、いいました?」 「最初は、にべもなく、断られたよ。今のところ、中根恭子は、殺人事件の容疑者でもないんだからね。そればかりか、鳥羽院長の恋人なんだ。折角、二人だけで、三日間を楽しもうとしているのに、そんな無粋《ぶすい》なことが出来るかというんだよ」 「それで、彼女が、一連の殺人事件に関係していることを、話されたんですか?」 「いや。そんなことをいっても、鳥羽院長が信じるとは思えなかったからね。代りに、私は、こういったんだ。中根さんと、斉藤さんが、恋人同士だという噂《うわさ》を聞いていますとね」  十津川が、いうと、亀井は、びっくりして、 「それこそ、鳥羽院長は、信じないんじゃありませんか」 「なぜだい?」 「中根恭子は、院長の後妻の椅子《いす》を狙《ねら》っているんだし、斉藤の方は、鳥羽ゆう子と結婚したがっている。二人が、恋人同士の筈《はず》がないじゃありませんか」  亀井が、苦笑しながら、いった。  十津川は、そんな亀井に、 「しかし、二人とも、独身だし、美男子と、美人だよ」 「でも、今いいましたように、二人の狙いは違っています」 「それは、われわれが、二人の目的を知っているからだよ。私も、カメさんも、斉藤が、鳥羽ゆう子との結婚を願い、中根恭子の方は、院長夫人に納まりたがっているのを知っている。だが、他人《はた》から見たら、どうかな。ひょっとすると、あの二人は、できているかも知れないと、思うんじゃないかね」 「鳥羽院長は、警部の言葉を信じたようでしたか?」 「それは、わからない。だが、疑いの芽は、生れたんじゃないかね」 「しかし、彼は、中根恭子が好きだから、箱根に、三日間の旅行に、行ったわけでしょう。それなのに、警部がいわれて、すぐ、疑い出したというのは、どういうことなんですかね?」 「それは、こういうことだと思うんだよ。カメさんは、前に、小野純が毒殺された時、一つの疑問を、持ち出したじゃないか」 「覚えています。小野を殺したのが、斉藤だとすると、小野は、斉藤を、信じ切って、彼のいうままに、レミーを飲んだことになります。しかし、ライバルの言葉を、頭から信じるなんてことがあるだろうかという疑問です。その答は、まだ、見つかっていませんが」 「その答だがね。小野を、斉藤と、中根恭子の二人が、欺《あざむ》いたんじゃないかと、思うんだよ」  と、十津川が、いった。 「と、いいますと?」 「小野の前で、二人が、芝居をしたんじゃないかということさ。斉藤は、自分は、鳥羽ゆう子が好きなんじゃなくて、本当は、中根恭子に、憧《あこが》れているといい、彼女も、それに、肯《うなず》いて見せたんじゃないかとね。それで小野は、斉藤を、信じるようになったんじゃないかね」 「なるほど」 「小野は、ほっとして、そのことを、誰《だれ》かに喋《しやべ》ったのかも知れない。鳥羽院長が、私のいったことを、言下に否定しなかったのは、彼も、その噂《うわさ》を聞いたことがあったんじゃないかと、思うんだよ。それで、ひょっとすると、と考えたんじゃないかね」 「小野を殺すについて、中根恭子は、そういう形で、斉藤に、協力したわけですか」 「もう一つ、わかったことがあるよ」 「小野が殺された事件についてですか?」 「そうだ。例の午前三時三八分のことだよ。こんな深夜に、斉藤が電話したのに、なぜ、小野は、不審に思わなかったのかという疑問の答だ」 「それも、見つかりましたか?」 「四日前に、録音のことを、頼みに、鳥羽院長に会いに行ったとき、偶然、知ったんだが、院長は、今でも、時たま、病院に、当直するというんだ。朝までね。院長は、自分の手で、あそこまで大きくした病院が、いとおしいからだといっていた。斉藤は、このことを利用したんだと思うね。斉藤は、院長とケンカして、意気消沈している小野に向って、こういったんだろう。今日は、院長が、当直することになった。僕も当直だから、折りを見て、院長に、君のことを話して、取りなしてあげる。夜明け近くになってしまうかも知れないが、期待して、待っていてくれとね」 「それで、小野は、ずっと、起きて、斉藤からの電話を待っていたわけですか」 「斉藤は、当直どころか、『出雲3号』に乗って、松江に向ってたんだ。そんなことは、小野は知らないから、じっと、マンションで、斉藤からの連絡を待っていた。院長とはケンカしているから、院長が、病院にいるかどうか、電話して確かめられなかったんだ。午前三時三八分に、『出雲3号』が、京都駅に着くと、斉藤は、ホームの公衆電話を使い、あたかも、病院からかけているように思わせて、こういったんだ。今まで、鳥羽院長と話をしていたが、君に対する誤解は解けたと、院長は、いってくれたよ。これから、君のところへお祝いに行くが、先に、飲んでいてくれたまえとね」 「それで、小野は、毒入りのレミーを飲んで、死んだというわけですか」  車は、久我山の鳥羽邸に着いた。      8  鳥羽は、和服姿で、待っていた。パイプをくゆらせながら、 「テープは、何本かとりましたがね。私には、警部さんの狙《ねら》いが、わかりませんね」  と、いきなり、いった。 「中根恭子さんに、斉藤医師のことを、聞かれましたか?」  十津川が、きいた。  鳥羽は、パイプの吸い殻を、灰皿に、叩《たた》いて落としてから、 「警部さんが、あんなことをいわれたんで、どうしても、気になりましてね。彼女に、きいてみましたよ」 「彼女は、認めましたか?」 「頭から、否定しましたよ。斉藤みたいな男は、大嫌いだとね。あんな男のために、お茶一杯いれてやる気にはなれない、ともね。だから、警部さんのいわれたことは、完全にデマですよ。彼女が、あんなに、斉藤君を嫌っているとは、意外でしたがね」 「彼女は、そういいましたか」 「あんまり、彼女が、斉藤君のことを、悪くいうんで、彼が可哀《かわい》そうになってしまいましてね。彼は、ひょっとすると、娘と結婚するかも知れないんだ。もし、君が、私と結ばれていれば、義理の息子ということになるんだから、あまり、やっつけなさんなと、いったくらいです」 「そうしたら、彼女は、何といいましたか?」 「大嫌いだといった手前ですかね。そんな男と、お嬢さんとは、絶対に、結婚させません。お嬢さんが、可哀そうだからと、いいましたよ」 「その言葉は、録音されていますか?」 「ええ。とれている筈《はず》ですよ」 「彼女が、そんなことを、いいましたか」  十津川は、ニッコリした。  亀井にも、十津川の意図していることが、少しずつ、わかってきた。 「テープを、お借りしてかまいませんか?」  と、十津川は、鳥羽に、きいた。 「別に、かまいませんが、公《おおやけ》にしたりはしないで下さいよ。私と、中根君のプライバシイのテープですからね」 「わかっています」  と、十津川は、いった。  カセットテープ三本を貰《もら》うと、十津川と、亀井は、パトカーに、戻った。  十津川は、すぐ、車の無線電話で、捜査本部に、連絡をとった。 「西本君と、日下君は、すぐ、斉藤に、会いに行ってくれ。清水君と、田中君は、中根恭子のところだ」 「何を、聞いてくるんですか?」  と、西本が、きいた。 「何でもいい。とにかく、あの二人が、お互いに、連絡がとれないようにしてくれればいいんだ」  と、十津川は、大きな声で、いった。  十津川と亀井が、捜査本部に戻ると、西本たち四人は、もちろん、もう、出かけていた。  十津川と、亀井は、借りて来たテープを、聞いてみた。  鳥羽のいったように、中根恭子が、しきりに、斉藤を、罵倒《ばとう》している言葉も、入っている。鳥羽ゆう子と、斉藤の結婚には、断乎《だんこ》、反対するという声もである。 「斉藤に、これを聞かせてやろうじゃないか」  と、十津川は、いった。  西本と、日下に、斉藤を、連れて来るように、連絡した。  三十分ほどして、斉藤が、捜査本部に、現われた。  斉藤は、顔を見せるなり、十津川に、文句を、いった。 「あの若い刑事二人に、注意してくれませんか」 「何をです?」 「突然、僕のマンションに押しかけて来て、愚にもつかぬ質問を、だらだらと、続けるんですよ。僕にも、僕自身の生活があるんです。いくら、出かけるんだからといっても、放してくれないんです。告訴しますよ」  と、斉藤は、息まいた。 「まあ、そう怒らないで下さい。彼|等《ら》も、仕事熱心のあまりなんです」 「あんな質問が、仕事とは、思えませんがね」 「そんなに、詰らない質問をしましたか?」 「僕の大学時代、一番得意だった科目は、何だったかとか、煙草《たばこ》は、何が好きかとかですよ。どこが、事件と関係しているんですか?」 「口直しといってはおかしいかも知れませんが、面白いテープがあるので、一緒に、聞きませんか」  と、十津川は、いった。 「テープ? 今度の事件に、関係があるんですか?」 「大きく考えれば、関係がありますね」  十津川は、小型のテープレコーダーを、斉藤の前に置き、まず、最初のテープをかけた。  十津川は、何の説明もせずに、再生スイッチを入れた。  いきなり、鳥羽と、中根恭子の会話になった。恭子の方は、普段とは違って、甘えた声になっている。  十津川は、黙って、斉藤の顔を見ていた。  最初のうち、斉藤は、笑って、聞いていた。  それが、次第に険しくなってきたのは、恭子が、彼の悪口を、いい始めてからである。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ——私が、先生の家庭に入ったら、あんな男と、お嬢さんは、絶対に、結婚させませんわ。 [#ここで字下げ終わり]  テープの中で、中根恭子が、そういったとき、明らかに、斉藤の顔色が、変るのが、わかった。  ここが、捜査本部でなかったら、斉藤は、大声をあげたかも知れない。それほど、険しい表情になっていたのである。  それでも、じっと、我慢して、テープを聞いていたが、二番目のテープが終ったとき、急に、立ち上って、 「帰らせて下さい!」  と、斉藤は、叫んだ。 「あと一巻、あるんですよ。それも、聞いて貰《もら》いたいですね」  十津川が、そのテープを、セットしながらいった。  斉藤は、蒼《あお》い顔で、 「猛烈に、頭痛がするんです。帰らせて下さい。お願いします」 「もし、中根さんに会いに行くんなら、おめでとうと、いった方がいいですよ。鳥羽院長は、どうやら、彼女と、再婚の意志をかためたようですからね」  と、十津川は、追い打ちをかけた。  斉藤は、黙って、部屋を出て行った。  十津川は、わざと、止めなかった。斉藤が、どこへ行くか、わかっていたからである。 「清水君たちは、まだ、中根恭子に、くっついているんだったね?」  十津川は、その場にいる刑事たちに、きいた。 「彼女が、今日、当直なので、二人も、病院に、行っています」  という返事が、はね返ってきた。 「すぐ、二人に連絡してくれ。彼女の傍《そば》から離れろというんだ」 「捜査本部に、戻ってくるように、いいますか?」 「いや、病院の近くにいて、様子を見ろというんだ。斉藤が、そちらへ行くから、中根恭子と、どんなことになるか、見守るように、いってくれ。ただし、斉藤に、顔を見せては駄目だ。斉藤が、彼女に、何をいうか、知りたいんだ」 「そう連絡します」  と、刑事の一人が、いった。  十津川は、腕時計に眼をやった。午後七時を回っているから、もう、病院は、静かだろう。何があっても、患者に、迷惑をかけることは、ないだろう。 「警部は、何を期待していらっしゃるんですか?」  と、亀井が、きいた。 「カメさんが、期待しているのと、同じことさ」  ニヤッと笑って、十津川が、いった。 「われわれが、期待している通りに、斉藤が動いてくれるでしょうか?」  亀井は、不安げな顔で、十津川を見た。 「それは、斉藤が、どれだけ、中根恭子を信用しているかに、かかっているよ。本当に、信用していれば、われわれの期待は、無駄に終るだろうね。しかし、私は、そんなに信用しているとは、思えないんだよ。結局は、二人の利害は、衝突することになっているんだからね」 「私も、そうは、思うんですが——」 「今度、失敗しても、また、チャンスがあるさ」  十津川は、励ますように、いった。  二人は、じっと、待った。  十津川の期待したようなことになれば、清水と、田中の二人の刑事が、連絡してくるだろう。 「もう、斉藤は、病院に着いている時間です」  と、西本刑事が、いった。  だが、何の連絡もない。 「遅いな」  十津川が、呟《つぶや》いた。 「どこかへ、寄っているんじゃありませんか」 「寄る?」  急に、十津川が、険しい表情になったとき、待っていた電話が入った。  清水だった。それも、狼狽《ろうばい》した声で、 「奴《やつ》が、女医さんを刺しました!」  と、叫んだ。  十津川の顔色が、変った。そこまでやるとは、思っていなかったのだ。  十津川と、亀井は、パトカーのサイレンを鳴らして、第一中央病院へ駈《か》けつけた。  清水刑事が、病院の前にいた。  十津川は、車を飛び降りるなり、 「どうなんだ?」  と、清水に、きいた。 「中根恭子は、手当てを受けていますが、命に、別状は、ないようです」 「ナイフか?」  十津川は、大股《おおまた》で、病院内に入って行った。清水が、一緒に歩きながら、 「自分のマンションに寄って、ナイフを持って来たんです。登山ナイフです」 「斉藤は?」 「呆然《ぼうぜん》としているところを逮捕しました。今は、いくらか落ち着きましたが、何をきいても、返事をしません」 「刺された中根恭子は、何か、いっているか?」 「同じ言葉を、呟いています。あの時だって、芝居で恋人やったのに、なぜ、今度は、信用してくれなかったのか、とです。何のことか、警部は、わかりますか?」 「ああ、わかるよ」  と、十津川は、いった。  芝居で恋人というのは、小野純を欺《だま》すときに、彼女と斉藤が、恋人同士と思わせて、小野を安心させたことを、いっているのだろう。 「斉藤に、会ってみよう」  と、十津川は、いった。      9  二、三時間して、だいぶ落ち着いたところで、斉藤は、全《すべ》てを自供した。  ブルートレイン「出雲3号」で、松江に行った時、京都駅に着く直前に、乗客の一人を刺し、注意が、そちらにいっている間に、ホームの公衆電話で、小野に、連絡したことも、その電話の内容も、十津川が、想像した通りだった。  松江の叔父《おじ》夫婦を、殺したことも、認めた。 「しかし、その叔父夫婦が死ねば、黙っていても、財産は、君のものになったわけだろう。それに、高齢で、病気がちだったんだから、なぜ、待っていられなかったんだ?」  と、十津川は、きいた。  待ち切れなかったのだという返事を、予想したのだが、違っていた。 「あの夫婦が、信じられなかったんですよ」  と、斉藤は、いった。 「どう信じられなかったのかね?」 「人間なんて、いつ、気が変るかわからんですよ。叔父や叔母《おば》だって、急に僕が煙たくなって、他の人間に、財産を残すように、遺言を作る心配があった。だから、気が変らないうちに、殺したんですよ」  と、斉藤は、いった。  この男の根底に、人間不信があるのだろう。それが、最後に来て、中根恭子を、刺すことになってしまったに違いない。  訊問《じんもん》をおえて、十津川と、亀井は、病院を出た。 「なにか、後味《あとあじ》の悪い事件でしたね」  亀井が、ぼそっと、いった。 「そうだね」  十津川も、肯いた。十津川は、自分のやり方も、後味が、悪かったと思っていた。斉藤を、罠《わな》にかけるようなやり方を、とったからである。  そのまま、黙って、何メートルか歩いた。  ふいに、亀井が、ポケットから、小さな紙包みを取り出した。 「これ、何かわかりますか?」 「何だい? 薬包紙かい?」 「開けてみて下さい」  と、亀井が、いった。  十津川は、立ち止まって、紙包みを開けてみた。小さな石が、入っていた。直径〇・三センチぐらいの小さな石である。 「何かの原石かね?」 「今朝、トイレで、おしっこをしたら、それが、飛び出したんです」  亀井が、嬉《うれ》しそうに、いった。 「そうか。カメさんの身体《からだ》の中にあった石か」 「やっと、出てくれましたよ」 「なかなか、きれいな石だねえ」  十津川も、ちょっと、気分が晴れてきた。 「大事に、持っていようと、思っています」  亀井は、また、嬉しそうに、いった。 本書は昭和六十一年四月にカドカワノベルズとして出版されたものを文庫化したものです。 なお、本作品はフィクションであり、実在の個人・団体等とは一切関係ありません。 [#地付き]——編集部 角川文庫『寝台特急八分停車』昭和62年5月30日初版発行               平成14年12月20日47版発行