西村京太郎 寝台急行「銀河」殺人事件 目 次  第一章 夜 行 列 車  第二章 東京警視庁  第三章 合 同 捜 査  第四章 一枚の切符  第五章 尾 行 の 男  第六章 A 寝 台  第七章 一つの仮説  第一章 夜 行 列 車     1  井崎勉《いざきつとむ》の勤める中央交易の本社は、大阪にある。  そのため、東京支社販売課長の井崎は、月に二度、大阪本社の営業会議に出席しなければならない。  第一火曜日と、第三火曜日である。  会議は、朝九時から開かれる。  その日に東京を出るとすると、新幹線では、六時〇〇分の始発に乗っても、新大阪着が九時一〇分で間に合わない。  飛行機だと、七時〇〇分羽田発のJALに乗れば、大阪には八時〇〇分に着くから間に合うのだが、石神井《しやくじい》の自宅から羽田までが、時間がかかる。  それで、井崎は、前日の月曜日に、退社後新幹線で大阪へ行き、ホテルに一泊することにした。  会社にも、家族にも、そういってあった。  会社からは、新幹線のグリーン料金とホテルの宿泊代が支給されていたが、実は、井崎は、大阪へ行く時、新幹線にも乗らなかったし、ホテルにも泊らなかった。  井崎は、夜行列車で大阪に行っていたのである。  二二時四五分東京発の寝台急行「銀河」が、井崎の愛用している列車だった。  この列車は、翌朝の午前八時〇〇分に大阪に着く。  ゆっくりと、大阪本社の会議に間に合うということである。  東京から大阪までの料金が、急行料金を入れて八千四百円。それに、寝台料金が、B寝台五千円、A寝台が、上段一万円、下段一万一千円である。  一番高い下段のA寝台に乗っても、一万九千四百円だった。  これに対して、新幹線のグリーン車で大阪まで行くと、一万七千六百円かかり、ホテルに一泊するので一万円かかる。合計二万七千六百円が、会社から支給される。  井崎は、その差額を、小遣いの足しにしていた。  もう一つ、井崎が会社や家族に内緒で、「銀河」を利用している理由があった。  それは、太田|由美子《ゆみこ》のことだった。  井崎は、現在四十歳。妻の治子《はるこ》とは、二十五歳の時に結婚して、中学に行く娘が一人いる。  上司にすすめられての見合結婚だったが、特にそのせいというわけではないが、いつの頃からか、会話のない、冷え切った夫婦になってしまっている。  もともと口数の少い井崎だが、最近は、ほとんど妻とも娘とも、口を利いていない。アメリカなどでは、こういうのをスピーキング・ストライキといって、離婚の理由になるらしいが、治子は、離婚する代りに、井崎を無視する態度をとっている。娘の方も、母親の味方である。  だからというわけではないが、井崎は女を作った。それが、太田由美子である。  彼の部下で、二十八歳のいわばハイミスだった。平凡な顔立ちで、いかにも男運のなさそうな女だった。  こんな女なら、口説くのも簡単だろうという気持もあった。元来、小心な井崎らしい計算だった。  思惑どおり、井崎と由美子に関係ができた。  最初のうち、井崎は彼女に夢中だった。見栄《みば》えのしない女だが、二号を持ったような得意な気持だったのである。  同じ会社の、特に自分の部下に手をつけたということは、公けになれば問題化することは明らかだから、表だって口には出来ないが、ひそかに井崎は得意がっていたのである。  由美子に時々プレゼントするためにも、月二回の大阪行で、経費を浮かすことが必要だった。  それに、月曜日の夜、退社の時刻から「銀河」に乗るまでの時間を、由美子との情事にふけることに、スリルを感じてもいた。  それが、最近になって、少しばかりおかしくなってきた。  井崎は、相手が由美子のようなハイミスなら、男に可愛がられることだけで満足し、高望みはしないだろうと、自分の都合のいいように考えていたのだ。  ところが、それは女のことをよく知らない井崎の勝手な独りよがりだということが、わかって来た。  由美子のような女ほど、逆に、しゃにむに結婚を求めてくるものだと知らされて、井崎はあわてたのである。  最初の中《うち》は、「私みたいな魅力のない女が……」と、しおらしく振る舞い、結婚なんか望まないといった感じで井崎を喜ばせていたが、関係が続く中に、何かにつけて、結婚してくれと要求するようになった。  それが奥さんと別れて一緒になってくれなければ、今の関係を会社にばらすと脅かすまで、エスカレートしてきた。  井崎の会社は、社内結婚を禁止はしていないが、妻帯者が、女子社員、特に部下の女性に手をつけて、それがスキャンダルになると、処分は厳しかった。  馘《くび》にならないまでも、地方に飛ばされて、出世の道が閉ざされることは覚悟しておかなければならない。  第一、由美子は、離婚してまで一緒になりたいほどの魅力を持っていなかった。 (ひょっとすると、おれの方が、由美子に引っかけられたのかもしれない)  井崎は、そう思うようになり、そうなると、いよいよ由美子がうとましくなってきた。     2  十一月五日、月曜日の夜も、由美子のアパートで口論があってうんざりしたが、その日は、なぜか最後には彼女の方で、妙にしおらしく、「ごめんなさい」といった。 「あなたのことが好きで仕方がないのよ」  そういわれても、一度嫌気がさした井崎の気持が変るわけもなく、タクシーで東京駅に向いながら、これからどうしたものだろうかと、考えていた。 (ぽっくりと、死んでくれればいいが)  とさえ思うのだが、筋張った丈夫そうな身体つきを考えると、簡単に死にそうもなかった。  東京駅に着いたのは、午後十時二十分になっていた。  10番線には、ちょうど寝台急行「銀河」が入線したところだった。  国鉄では、寝台特急(客車式)を、その車体の色から、ブルートレインと呼んでいる。  同じようなブルーの寝台車を使っているのだから、当然その「銀河」も、ブルートレインと呼ばれるべきなのに、特急でないせいで、ブルートレインと呼ばれていない。  だが、夜の十時を過ぎた頃、東京駅のホームに、ひっそりと十三両編成の青い車体を横たえている「銀河」ほど、ブルートレインという名前にふさわしい列車はないように思える。 「銀河」の前身は、戦前、東京─神戸間を走っていた夜行列車で、三等まであったその時代は、一、二等だけの寝台急行で、上流階級の人だけが乗る「名士列車」だったといわれる。  新幹線が走り、ほとんどの幹線列車が、特急に格上げされてしまった今、急行のままの「銀河」は、何となく肩身のせまい感じだが、夜の十時過ぎに東京を出て、翌日の午前八時という丁度よい時刻に大阪に着く寝台列車は、「銀河」だけである。  東京─大阪間を、九時間かけて走る。  新幹線が三時間余りで走る今日、いかにもおそいが、逆にいえば、あまり早く走り過ぎてしまっては、大阪に未明に着いてしまうので、それ以上早く走れない宿命みたいなものがあるともいえる。  特急にしたくても出来ないから、寝台急行になっているということだろう。  大阪着が午前八時という出勤タイムなので、井崎のような出張のときに便利で、そのため、ビジネス急行とも呼ばれている。  新幹線が走る時代に、この列車がなくならないのも、そのためである。  今夜もホームには、一般客に混って、井崎のように背広にネクタイをしめ、アタッシェケースや男物のショルダーバッグを下げた、一見してビジネスマンといった男たちが、ホームを足早やに歩き、列車に乗りこんで行く。 「銀河」は急行だが、特急なみに、銀河の文字と星の群れをあしらった美しいテールマークがついている。  井崎は、見なれたテールマークにちらりと眼をやってから、先頭車に向って、ホームを歩いて行った。 「銀河」の編成は、一番先頭が電源車、次がA寝台の1号車、2号車から最後の11号車までは、B寝台になっている。  電源車を入れれば十二両編成の列車を、EF65形の電気機関車が牽引《けんいん》する。  井崎は、少しでも余分な旅費を浮かそうとして、三段式のB寝台、五千円で、大阪へ行ったことがある。 「銀河」の客車は、20系と呼ばれる古い型式のもので、三段式のB寝台は、ベッドの幅が五十二センチしかない。  一番新しい583系の電車寝台だと、三段式のB寝台でも、上、中で七十センチ、下段では一メートル六センチの幅がある。  五十二センチではいかにも狭く、四十歳になってやや太り気味の井崎は、一度でこりて、二度目からはA寝台に変えた。  A寝台は、たった一両だけで、上下二段ベッドで、定員は二十八人である。  上段で一万円、下段で一万一千円と、B寝台と比べて、二倍から二倍以上だが、ベッドの幅が一メートル一センチと広い。それに、ベッドが進行方向と並行にセットされているので、横ゆれがなくて、寝やすいのだ。  B寝台車の方では、ベッドが狭くて寝にくいせいか、乗客はベッドに腰を下して、酒を飲んだり、お喋りをしたり、ゲームをしたりしている。  A寝台の方に乗り込むと、さっさとベッドにもぐり込んで、発車前からカーテンを閉めている乗客が多い。  井崎も、切符で、A8上段の寝台を確かめ、上にあがると、上着やワイシャツを脱いで、寝支度にかかった。  明朝の会議に出席しなければならないので、サラリーマンらしくズボンもきちんとたたみ、上着とワイシャツを備付けのハンガーにかけて、壁にかけた。  車内改札が来たので、切符を見せる。これで大阪に着くまで、誰にも邪魔されずに眠れるわけである。  井崎は、カーテンを閉めて、寝転んだ。  ベッドの幅が一メートル一センチあるから、落ちる心配もない。  小さな窓が、丁度眼の位置にあいている。  寝転んだ姿勢で、その窓からホームを眺めている中にベルが鳴り、寝台急行「銀河」は、定刻の二二時四五分に東京駅を発車した。  由美子のことが頭にあって、なかなか眠れなかった。 (彼女を、どうにかしないと──)  と、思う。  最初の中は、ただで妾《めかけ》でも囲っているような気持で得意だったのだが、今は、下手をすると、あの女が命取りになりかねない。  預金でも沢山あれば金で片をつけることも出来るが、そんな余裕は井崎にはなかった。課長といっても、給料はたかが知れているし、わずかな預金も、妻の同意なしでは下すことが出来ない。  眠れないので、アタッシェケースから、ウイスキーのポケットびんを取り出し、少し飲んでみた。  酔いが廻ってくる。  そのまま眼を閉じた。  それでもすぐ眠れず、品川、横浜、大船と、小きざみに停車したのは覚えている。  小田原あたりから、眠ってしまったらしい。  夢を見た。  嫌な夢だった。ヒステリックにわめき立てる由美子のくびを締めて、殺してしまう夢だった。殺してから、どこかわからない暗い部屋に逃げ込んで、息をはずませながらドアを閉めた。そのドアを、誰かがノックして呼ぶ。 「もし、もし──」 「失礼ですが、起きてくれませんか」  という現実の声で、井崎は眼をさました。  あわてて周囲を見廻し、由美子を殺したのが夢と知って、ほっとした。  しかし、呼ばれているのは現実だった。  起きあがって、眼をこすりながら、カーテンを開けると、車掌長と鉄道公安官が、並んで立っていた。  東京駅では、公安官が乗った様子はなかったから、途中で乗って来たのだろう。 「何か用ですか?」  井崎が突っけんどんにいったのは、公安官が、無遠慮にじろじろ見つめていたからである。 「お客さんは、大阪まで行かれるんでしたね?」  車掌長が、きいた。 「ええ」  と肯《うなず》いてから、井崎は腕時計に眼をやった。  朝の七時九分過ぎである。  間もなく京都に着く。車内が何となくざわめいているのは、京都で降りる乗客が、支度をしているからだろう。 「実は、この1号車で事件がありましてね。皆さんから、名前と住所を聞いているわけです。会社の身分証明書か、運転免許証を見せて貰えませんか」  背の高い公安官がいった。  井崎は、どちらも持っていたが、上着から運転免許証の方を取り出して公安官に見せた。  会社には、昨日の中に新幹線で大阪に着き、ホテルに泊っていることになっていたからである。  公安官は、免許証の名前と住所を、手帳に書き写している。 「大阪へは、何のご用で行かれるんですか?」  公安官は、メモしながら言った。 「社用です。大阪本社の会議に出席します」 「よろしければ、会社の名前を教えて頂けませんか? 名刺を頂けると、有難いですがね」 「あいにく、名刺は切らしてしまっています。会社の名前は勘弁してくれませんか」  井崎が頼むと、公安官は、意外にあっさりと、 「まあ、いいでしょう。連絡先は、この住所でいいんですか?」 「ええ」  と、井崎は肯き、自宅の電話番号を教えた。 「夜中に、何か怪しい物音がしませんでしたか?」  と、公安官がきく。 「ウイスキーを少し飲んで寝たので、何も聞きませんでした。ぐっすり眠ってしまったんだと思いますね」  そんなやり取りをしている間に、「銀河」は京都に着いた。  このA寝台の1号車からも、五、六人の乗客が降りて行く。 「彼等からも、住所や名前を聞いたんですか?」  と、井崎は公安官にきいた。  どんな事件が起きたのかも教えてくれずに、いきなり質問してきたことへの反発だった。だが、公安官は、別にこれといった表情も見せず、あっさりと、 「もちろん、職質していますよ。あなたが最後です。よく寝ていらっしゃったし、終点の大阪までいらっしゃるということなのでね」 「どんな事件なのか、教えて下さいよ」  井崎がいうと、公安官と車掌長は、顔を見合せていたが、 「どうせ、ニュースでやるでしょうから教えましょう。このA寝台で、乗客の一人が死んでいるのが見つかりました。他殺の疑いがあるので、一応、皆さんの身元と所持品を調べさせて頂いているわけです」 「僕は関係ありませんよ。ずっと眠っていて、そんな事件のあったことさえ知らなかったんですから」 「どなたも、そうおっしゃっていますよ」  公安官は、ちょっと皮肉ないい方をした。 「銀河」は、二分停車で京都駅を発車した。  あと四十分で、大阪に着く。 「降りる支度をしても、構いませんか?」  と、井崎は公安官にきいた。 「いいですよ。どうぞ」 「僕の名前が、新聞やテレビに出ることはないでしょうね?」 「それは大丈夫です。あなたが、事件に関係ない限り、名前が公けになることはありません」  と、公安官は約束してくれた。     3  井崎は、ズボンだけはいて、通路を洗面所の方へ歩いて行った。  いつも洗面所のまわりは、大阪で降りる客があふれているのだが、今日は、事件があったせいか閑散としている。  井崎が、顔を洗い歯を磨いていると、近くで、若い男と女の会話が聞こえてきた。 「ついてないわ。変な事件に巻き込まれたら、大変だわ」 「大丈夫だよ。おれたちと、関係ないんだから」 「でも、あたしたちのことが新聞に出ると、大変だわ。あなたのことが、主人にばれてしまうもの」  小声で話しているのだが、嫌でも井崎の耳に聞こえてくる。  洗面所に近い寝台で、話しているらしい。  井崎が、わざと水音を立てると、二人の話は急に止《や》んでしまった。  井崎は苦笑しながら自分の寝台に戻ると、ワイシャツを着てネクタイを締めた。  櫛《くし》を取り出して、髪を直す。  どんな乗客が殺されたのかに興味はあったが、それ以上に、関り合いになりたくないという気持の方が強かった。  午前八時。  定刻に大阪に着くと、井崎はアタッシェケースを下げ、出口に急いだ。  出口のところで、若いカップルと一緒になった。  男は、二十五、六歳、女も同じ年齢ぐらいだろうか。  女の方は井崎と視線が合うと、顔をそむけるようにして、男とホームに降りて行った。  どうやら、さっきのカップルらしい。  色白の、眼の大きな女だった。 (夫に内緒の浮気の旅か)  と、井崎はホームに立って、そのカップルの後姿を見送っていたが、彼もすぐ、改札口に向って歩き出した。  途中、キオスクで朝刊を買ったが、まだ事件は出ていない。  いつものように、駅前のタクシー乗り場から、タクシーに乗って中央交易本社に向った。  九時から始まる営業会議に出席したときには、井崎はもう、「銀河」の車内で起こった事件のことは忘れていた。  昼近くに会議は終り、井崎は、社内の食堂で昼食をとった。これも、いつもの通りだった。  帰りは、上りの「銀河」でというわけにはいかない。今日中に東京に帰って、上司に報告しなければならないからである。  新大阪までタクシーで行き、新幹線に乗る。  井崎がそのつもりで、コーヒーを飲んでいると、  ──東京支社販売課長の井崎さま。おいででしたら、すぐ、一階の第一応接室までおいで下さい。  という社内放送があった。 (何だろう?)  首をひねりながら、井崎はテーブルから立ち上り、一階の第一応接室へ歩いて行った。  応接室には、本社の山田人事課長と二人の男がいた。 「ああ、井崎さん」  と、山田は妙にこわばった顔で声をかけてきた。 「こちらは大阪府警の刑事さんで、あなたに用があるそうですよ」  山田がいい、二人の男の片方が井崎に向って警察手帳を見せた。 「井崎勉さんですね?」  と、その刑事が確認するようにきいた。 「そうです。井崎勉ですが」  と答えたが、井崎はまだ、二人の刑事が何しに来たのか、見当がつかなかった。  相手が手帳を広げ、東京の石神井にお住みですかときいたとき、やっと、「銀河」の車内で起きた事件のことらしいと気がついた。公安官に名前と住所、それに電話番号を聞かれたのを思い出したのである。  特に、人事課長がいるので、まずいことになったなと思いながら、 「何のご用ですか?」  と刑事にきいた。 「今朝、八時に大阪に着いた寝台急行『銀河』の車内で起きた殺人事件のことで、同行して頂きたいのですよ」  刑事のいい方は丁寧だったが、有無《うむ》をいわせないような威圧感があった。  井崎はあわてて、 「公安官にもいったんですが、僕はずっと寝ていて、事件があったことも知らなかったんですよ」 「被害者と、無関係だといわれるんですか?」 「そうです。僕はどこの誰が死んだのかも知らないんです」 「じゃあ、教えましょう。東京に住む太田由美子さんです」  その名前に、井崎は呆然とした。 「まさか──?」 「あなたと同じ中央交易東京支社に勤める太田由美子さんですよ。あなたの部下の筈ですね」 「彼女が? そんな馬鹿な!」  井崎は、顔色が変っていた。 「A寝台の乗客の中で被害者と関係があるのは、あなただけなのですよ。いろいろおききしたいことがあるので、これから一緒に来て頂きたいですね」  刑事が厳しい声でいった。 「これは何かの間違いですよ」  井崎は、蒼《あお》ざめた顔で、刑事にとも、山田人事課長にともなくいった。  昨夜、由美子のマンションで別れたのだ。その彼女がなぜ「銀河」に乗っていたのか? しかも殺されていたということが、井崎にはどうしても、信じられない。  それでも、二人の刑事は、井崎を大阪城近くにある府警本部に連れて行った。手錠こそかけられなかったが、連行に近かった。少くとも、井崎は、そう感じた。  刑事は、井崎を取調室に入れると、 「上着を脱いでくれませんか」  と、いった。 「なぜ、上着を脱ぐんですか? 別に暑くはありませんよ」 「とにかく、脱いで下さい」  刑事は、まっすぐに井崎を見つめて、同じ言葉をくり返した。  井崎は、仕方なく上着を脱いだ。  刑事は手を伸ばして、ワイシャツの右袖をつかんだ。 「ここのボタンがとれていますね」 「え?」  井崎ははじめて、ボタンがとれているのに気がついた。 「どこで、とれたんですか?」  と、刑事がきく。 「そんなこと、知りませんよ」 「本当に知らないんですか?」 「ええ」 「A寝台の車内で殺された太田由美子さんですが、右手で、小さなボタンをしっかりと握りしめていたんですよ。これが、それです」  刑事は、ハンカチに包んだ小さなボタンをテーブルの上に置いた。 「ねずみ色のボタンです。あなたのワイシャツのボタンにぴったりと一致する。被害者の太田由美子さんは、寝ているところを、いきなり犯人にくびを絞められた。そのとき、必死になって、犯人のワイシャツの袖のボタンを引きちぎった。それがこのボタンだと、われわれは、考えているんですよ」  第二章 東京警視庁     1  東京警視庁の捜査一課で、十津川《とつがわ》は、上司の本多一課長から、 「大阪府警から、協力要請があった。誰かにやらせてくれ」  と、いわれた。 「殺人事件ですか?」 「寝台急行『銀河』の車内で起きた事件だよ」 「ええ。知っています。殺されたのは、確か東京のOLでしたね?」 「中央交易東京支社の太田由美子というOLだよ」 「彼女のことを調べてくれという依頼ですか?」 「いや、容疑者として同じ列車に乗っていた男が見つかった。その男のことを調べて欲しいといって来ているんだ。名前は井崎勉。被害者の上司で、中央交易東京支社の販売課長をしているらしい」 「井崎勉──ですか」 「知っているのか?」 「いくつですか? 私と同じ年じゃありませんか?」 「そうだ。四十歳と書いてある」 「私と大学が同窓の井崎に間違いないと思います」 「そうか。君の同窓か」 「府警は、疑っているんですか?」 「絞殺された被害者が、井崎のワイシャツのボタンを引きちぎって、握りしめていたといっている」 「そうですか」 「彼は、被害者とはただの上司と部下で、なぜ同じ列車に乗っていたのかわからないといっているが、二人の間に特別の関係があったのではないか、それも調べてくれといって来ている」 「私が、調べます」  と、十津川はいった。     2  十津川は、部下の亀井《かめい》を連れて警視庁を出ると、地下鉄の階段をおりながら、簡単に事情を説明した。 「課長になったのは聞いていたが、しばらく会っていなかったんだ」 「どんな人なんですか?」  亀井がきいた。 「学生時代は、勉強家だったね。どちらかというと、内向的な男だったよ」 「中央交易というと中堅の商事会社ですね」 「そうらしい」 「奥さんは、いるんですか」 「いるよ。結婚式に呼ばれたんだ。十年以上前じゃないかな。確か、女の子が一人いる筈だ」 「その課長さんが、部下のOLと、関係を持ったということですか?」 「そうでないかと、大阪府警はいっているが、事実かどうか、まだわかっていないんだ」 「これから、どこへ行きます?」 「大手町にある中央交易東京支社へ行ってみよう」  と、十津川はいった。  地下鉄を大手町でおりた。ここから歩いて数分のところに、中央交易の東京支社がある。  十津川と亀井は、まず支社長に会った。彼はすでに大阪府警から連絡を受けていたが、販売課長の井崎の名前は知っていても、太田由美子の名前は知らなかった。  そこで支社長は、管理課長と販売課長補佐を呼んでくれた。  井上という管理課長は、渋面を作って、 「遺憾《いかん》なことです」  と、いってから、 「井崎さんが大阪出張について、前日の夕方新幹線のグリーンで出かけ、大阪のホテルに一泊すると申告していたので、寝台急行の『銀河』に乗っていたというのは意外でした」 「それは以前からですか?」  十津川がきいた。 「四年前に井崎さんが課長に昇進してからですから、四年になります」 「困った男だな」  と、支社長が吐き出すように呟《つぶや》いた。 「太田由美子さんは、どういう女性ですか?」  亀井が、田沢課長補佐にきいた。  いかにもノン・キャリアという感じの田沢は、ポケットからメモを取り出した。 「入社が昭和──年四月、当社にはすでに七年ほど務めております。住所は、井《い》の頭《かしら》線明大前駅近くの『コーポ明大前』の三〇五号室で、独身。身長は──」 「ちょっと待って下さい」  と、亀井は苦笑しながら相手の言葉をさえぎった。 「私が知りたいのは、彼女が課長の井崎本人と関係があったかどうかということです」 「その件については、私は全く知りませんでしたが、課員に聞きましたところ、課長と太田由美子君が親しげに歩いているのを見たという者が、二、三人おりました。しかし、それをもって男と女の関係があったと速断することは、危険だと思いますが──」 「大阪からの連絡では、東京から大阪までの切符を持っていたそうですが、彼女が社用で大阪へ行く理由があったんですか?」 「いえ。何もありません」 「休暇届はどうですか?」 「いや、それも出ていません。なぜ無断で大阪行の列車に乗ったかわからずに、困惑しております」  田沢は、小さな溜息をついた。が、本当に困惑している顔ではなかった。明らかに彼は、太田由美子が無断で井崎に同行したと考えているに違いないのである。また誰でもそう考えるだろう。 「井崎課長が、太田由美子さんを殺したのではないかといわれていますが、それをどう思われますか?」  亀井は、管理課長の井上と課長補佐の田沢の二人の顔を、交互に見た。  二人は一様に、 「信じられませんね。井崎さんは、人は殺せませんよ」  といった。  亀井は、詰らないことをきいてしまったと、内心舌打ちしながら、 「中央交易としては、今度の事件にどう対処されるつもりですか?」  と、支社長にきいた。  この質問にも、優等生的な返事が戻って来た。 「何分にも突然のことですのでね。本社と相談して、慎重に対処したいと思っています」  確かにその通りだろう。だが、刑事としては、これといった収穫もないままに、東京支社を出た。  十津川は、暗い眼になっていた。  私情をはさむなといっても、十津川には、それは出来ない。  彼は四年間、大学で井崎と一緒だった。格別親しかったわけではない。だが、井崎を助けてやりたいと思う。  管理課長と課長補佐は、井崎が人殺しなど出来ないといったが、そんな言葉は何のプラスにもならない。  それより、井崎と被害者とがどんな関係だったか、その方が大事だった。 「彼女のマンションヘ行ってみよう」  と、十津川はいった。 「しかし、井崎という人にとって不利になるようなものが見つかるかも知れませんよ」  並んで歩きながら、亀井がいった。 「私は事実が知りたいんだ」 「それなら、構いませんが」 「カメさん。あまり、気を使わないでくれよ」  と、十津川は、笑って見せた。  地下鉄で新宿へ出て、新宿から京王線で、明大前へ向った。  駅からも、コーポ明大前が見えた。  中古の、壁にひびが入ったマンションである。各ベランダには、おむつや、布団が干してあったりして、いかにも世帯じみた感じがする。 (このマンションに、三十歳に近い太田由美子は、ひとりで住んでいたのか?)  真新しい、純白のマンションだったら、独身貴族の優雅な住居ということになるのだろうが、眼の前のマンションは、逆に独身のハイミスのわびしい住居という感じだった。  十津川たちは管理人に、三階の彼女の部屋を開けて貰った。  1DKの部屋だった。  さすがに、女性の部屋らしく、きちんと片付いている。  六畳に、三畳ほどのダイニングキッチン、それにバストイレの狭さだから、調べるのは楽だった。  まず、男物のパジャマが見つかった。  そして、井崎と一緒に撮った写真を、何枚も貼りつけたアルバムも出て来た。その写真の中には、二人が裸で絡み合っているものもあった。少しぼけているのは、セルフタイマーで撮ったからだろう。  井崎がかたい表情をしているのに、彼女の方が図太く笑っているのが、印象的だった。 「これで、井崎が太田由美子と関係していたことは、間違いないようだな」  十津川は、溜息をついた。  亀井は、なぐさめるように、 「だからといって、殺すとは限りませんよ」 「それはそうだがね。このアルバムを見たまえ。他に沢山、写真が貼ってあるが、井崎以外の男と二人だけで笑っている写真は、一枚もないんだ。あとは、会社の同僚たちと旅行に行った時とか、旅行の景色の写真だよ。はっきりいえば、異性にもてなかった為なんだろう。井崎の方は、手近かな女で浮気をしようとしたんだろうが、彼女の方は、必死になってしまった。多分、そんなところだったと思うね。井崎にとって、いい状況とはいえないね」 「井崎さんは、奥さんと上手《うま》くいってなかったんですか?」 「私は結婚式のときと、あと二、三回奥さんに会っているが、いい奥さんで、井崎も幸福そうだったんだがねえ」  最後に井崎の家を訪ねたのは、子供が生れて、何カ月かしたときである。  おくれたが、お祝いを持って行ったのを覚えている。  赤ちゃんが、可愛い盛りで、井崎が抱きかかえて、だらしなくニヤニヤしていた。  それをにこにこしながら、奥さんが見ていた。家族の団欒《だんらん》を、絵に描いたような光景だった。 「十津川。お前も早くいい人を見つけて、結婚しろよ。いいもんだぞ、結婚は」  と、井崎が、得意げに十津川にいったものだった。  あの家庭は、崩壊してしまったのだろうか?     3  最後に、十津川は、一番気の重い訪問をしなければならない。 「私は、遠慮しましょうか?」  と、亀井がいった。 「いや、一緒に行ってくれた方がいい。カメさんの冷静な眼で、見ていて貰いたいんだ」  十津川は、そういった。  石神井公園から、歩いて七、八分のところに、ひとかたまりの建売住宅があって、その一軒が、井崎の家だった。  建売といっても、小さいながらも庭もあり、車庫には車が入っていた。  子供が生れた頃、井崎夫婦は、2DKの公団住宅に住んでいた。きっと、ローンで借りたりしてこの家を買ったのだろう。  可愛らしい門、白い壁、二階のテラス。全てに「家族」の匂いが感じられる。いや、この一戸建の家を買った時は、井崎も、彼の奥さんも、これこそ理想の家と思ったに違いない。  だが、それが毀《こわ》れてしまったのだろうか?  インターホンを鳴らし、じっと待った。 「どなた様ですか?」  という女の声が聞こえた。  堅い声である。身構えている声といった方がいいかも知れない。  大阪府警から、ここにも連絡があったに違いないから、そのためだろうか。 「十津川です。ご主人の大学時代の友人の」 「まあ──。十津川さん」  と、相手は肯いて、玄関を開けてくれた。  何年ぶりかに、井崎の妻に会った。  その時に比べると、彼女の顔から何かが失われていた。若さはもちろん、十津川の顔からだって、失われているだろう。  井崎治子の顔から失われているのは、豊かな表情なのだ。  初めて結婚式の時に会った時も、子供が生れたことで遊びに行った時も、何と表情の豊かな女性だろうと、そのときは感心したものだった。  大きな眼をくりくり動かしながら、ゼスチュア豊かにお喋りをするのを、十津川は、どちらかといえば、口数が少くて、ネクラな井崎には、丁度いいと思っていたのである。  相変らず、眼は大きい。が、その大きな眼は表情を失っていた。  十津川と亀井は、居間に招じ入れられた。 「今日は、井崎の友人であると同時に、捜査一課の人間として、来ました」  と、十津川はいい、亀井を治子に紹介した。  治子は、黙って肯いただけで、二人にお茶をいれた。 「ご主人のことで、何か連絡がありましたか?」  と、十津川がきいた。 「ええ。大阪府警から、さっき電話を頂きましたわ」 「どんな内容ですか?」 「寝台急行の『銀河』の中で、女の人が殺され、井崎が重要参考人になっているということでした」 「それで、あなたは、どうなさるんですか? もちろん、すぐ大阪へ行かれるんでしょう?」 「行かなければいけないと思っていますけど──」  そのいい方が、ひどく冷たかった。 「殺された女性は、井崎と同じ中央交易東京支社の人間です。名前は、太田由美子。ご存知でしたか?」 「ええ。大阪府警の方が、教えて下さいましたわ」 「井崎が、彼女と親しかったことを、前からご存知でしたか?」  思い切って、十津川がきいた。  すぐには、返事がかえって来なかった。一瞬の間を置いてから、 「いいえ」  と、治子は首を振った。 (知っていたのか──)  十津川が、重い気分になりながら、 「井崎は、人を殺せるような人間じゃないと私は思っているんですが、あなたは、どう思われますか?」 「私には、わかりませんわ」 「しかし、夫婦でしょう?」  十津川は、思わず咎《とが》めるようないい方をしてしまった。 「でも私は、井崎が外で何をしていたのか、全然知りませんでしたもの。月に二回、井崎は大阪へ出張していましたけど、夜行列車で行っていたことも、初めて知ったんです。前日に新幹線で行って、大阪のホテルに泊っているものとばかり思っていましたもの」 「寝台急行『銀河』で行くことは、あなたにも内緒にしていたんですか? 井崎は」 「ええ」 「どうしたんですか?」 「何がですの?」 「井崎とあなたとの仲ですよ。前に来たのは、公団住宅に住んでいた頃で、お嬢さんも生れて間もなくでした。あの時は、私が羨《うらや》むほど、仲の良い家庭でしたよ。それが、どうして、こう冷えてしまったんですか?」 「私は、別に変ったとは、思ってませんけど」  治子は、そっけない調子で、いった。 (いや、変っていますよ……)  と、いおうとして、十津川は、やめてしまった。  俗ないい方をすると、のれんに腕押しの感じがしたからである。治子が、夫の浮気を怒っていて、夫の味方である十津川に突っかかって来てくれたら、むしろ話しやすいのだが、治子の態度は、冷え切っていて、投げやりなのだ。 「あのお嬢さんは、どうしています? もうずいぶん、大きくなったでしょうね?」  十津川は、気を取り直して、いった。  子供のことなら、治子が心を開いてくれ、それがきっかけで、いろいろと話してくれるのではないかと思ったのである。  しかし、治子は、にこりともしないで、 「ゆかりは、二階で勉強をしておりますわ。来年は、高校受験ですから」 「受験?」 「ええ」 「しかし──」  父親が殺人犯にされるかも知れない時に、娘に受験勉強をさせているのは、どういう神経なのかと、十津川は思ったが、それを口にするのも、やめてしまった。     4  十津川は、一層暗い気分になって、井崎の家を出た。  亀井は、しばらく黙って並んで歩いていたが、我慢し切れなくなったみたいに、 「ひどいもんですな」  と、溜息をついた。 「昔は、仲のいい、お互いにかばい合う夫婦だったんだがねえ」  十津川は、わからないというように、首を振った。 「彼女は、旦那が浮気しているのを、知っていましたね」 「カメさんも、そう思うかい?」 「あれじゃあ、奥さんが、大阪へ行って何か証言しても、旦那は、かえって不利になるんじゃありませんか」 「井崎の浮気だけであんなに冷えきってしまうとは、思えないんだがねえ」 「これから、どうされますか?」 「大阪府警には、事実を、そのまま報告せざるを得ないよ。井崎は、被害者の太田由美子とは、関係があったとね」 「大阪へ行かれたらどうですか?」 「私がかい?」 「そうです。警部のお友だちなら、人殺しはしないと思います。行って、助けてあげて下さい。あとのことは大丈夫ですよ。今のところ、これといった事件も起きていませんから」 「カメさんが、そういってくれるのはありがたいがね。捜査に私情は禁物だ。それに井崎は、まだ犯人と決ったわけじゃない。無実なら、釈放されるさ」  と、十津川はいった。  警視庁に戻ると、十津川は、大阪府警捜査一課の三浦警部に、電話をかけた。  何度か、会議などで顔を合せている。 「そちらから依頼のあった、寝台急行『銀河』の殺人事件ですが」  と、十津川はいった。 「井崎勉と、被害者の太田由美子との関係ですが、こちらで調べたところ、二人の間に肉体関係があったことは、まず間違いないと思いますね」 「井崎の家庭は、どうですか?」 「あまり上手くいっていないようですね。だから、自分の部下のOLに手を出したのか、それとも、女が出来たので家の中が上手くいかなくなったのか、今のところわかりませんが」 「どうも、ご苦労さんです」 「引き続いて井崎について調べますが、何かわかり次第、お知らせしますよ」 「あなたの友人のことで、申しわけないと思っていますよ。彼とは、十津川さんは、友人なんでしょう?」 「なぜ、ご存知ですか?」  十津川が、驚いてきくと、 「私が訊問した時、井崎が、あなたの名前をいいましてね。あなたとは大学時代の同級で、自分のことをよく知っているから、あなたに聞いてくれれば、自分が人殺しなんか出来ない人間だということを証言してくれる筈だといっていました」 「そうですか──」  十津川は、重い気分になった。井崎が、自分の名前を口にしたことを責める気にはなれない。ただ、弁護士と違って、今のところ、彼を助けてやることは出来ないのだ。あくまでも、大阪府警に捜査権がある。 「何か、私に出来ることがありますか?」  三浦が、そういってくれた。 「お言葉に甘えて、二、三、質問させて貰えますか?」 「どうぞ。わかっていることは、何でもお話をしますよ」 「問題の寝台急行『銀河』ですが──」 「ええ」 「混み具合はどんなだったんですか?」 「これは、国鉄の方に聞いたんですが、乗車率は七〇パーセントということでした」 「かなりいいですね」 「そうですね。この列車は、東京から関西へ出張するビジネスマンが利用するので、季節によって利用率が変化することはないそうで、いつも利用者が多いということでした」  三浦は丁寧に教えてくれた。 「井崎が乗ったA寝台は、どうだったんですか?」 「A寝台は一両だけ連結されていて、寝台の数は上下二段で、二十八あります。当日は始発の東京で二十二人が乗り、横浜で四人、大船で一人、合計二十七人が乗りました。大阪まで空いていたのは、一つだけでした」 「太田由美子は、東京から乗ったんですね?」 「そうです。終点の大阪までの切符を買っています」 「彼女が殺されているのが見つかったのは、どの辺りでですか?」 「これは専務車掌の証言ですが、岐阜を出てしばらくして、一番端のA14の下段のベッドの乗客が、カーテンの間からだらりと片腕を出しているのを見つけ、気になってのぞいてみたところ、死んでいるのに気付いたというのです。そこで、次の米原で、公安官二人に乗車して貰った。その公安官が調べたところ、首をしめられて殺されたと思われるので、A寝台の乗客の名前と住所を調べたわけです」 「岐阜までは、降りた乗客はなかったんですか?」 「われわれも、それを聞いてみました。しかし、A寝台の二十七人の乗客は、京都までが六人、新大阪五人、残りの十六人が、終点の大阪までの客なのです」 「実際に、その通りに降りたわけですか?」  十津川は、当然の質問をした。 「これは間違いありません。全員の名前と住所がわかってもいます」 「その中で、井崎だけが、被害者に関係があったということですか?」 「そうです。今のところ、関係があるのは井崎勉だけです」 「そちらの心証は、かなり悪そうですね?」 「同じ中央交易の社員とわかってからも、関係を否定していましたから」 「そうですか──」  と、肯いてから、十津川は、 「井崎は、どの辺りの寝台に寝ていたわけですか?」 「A8の上段の切符を買っていました」 「彼は今、太田由美子が殺されたことについて、何といっているんですか?」 「乗ってすぐ、ポケットびんのウイスキーを飲み、ぐっすり眠っていたので何も知らなかった、もちろん、彼女が乗っていることも知らなかったと主張しています。どうも信じられないですがね」 「最後に、もう一つ教えて下さい。二十八の寝台の中、一つだけ空いていたそうですが、それはどの辺の寝台ですか?」 「ええと、A14の上段ですね」 「というと、殺された太田由美子が寝ていた丁度上ということになりますね」 「そうです」     5  十津川は、電話を切ると、書棚から大判の時刻表を取り出し、寝台の席番表を見てみた。  これで見ると、被害者太田由美子の寝ていた席は一番端で、井崎のA8の上というのは丁度、中央にある。  しかし、だからといって、井崎が太田由美子が乗っているのを知らなかった証拠にはなりそうもない。  彼女のような存在の女と一緒に旅行する場合、特に仕事で行く時は、わざと、離れた席を取るだろうからである。  亀井がひとりで、井崎と太田由美子の関係を調べに行ってくれたが、その結果は、井崎にとって一層不利になるものだった。 「正直にわかったことを話して欲しい」  と、十津川は、亀井にいった。 「井崎さんと太田由美子の関係が出来たのは、一年半ほど前からと思われます。彼女のマンションの管理人や、隣室の女性などに聞いて廻ったんですが、その頃から、井崎さんと思われる男性が、顔を見せるようになったといっています」 「最近二人の仲は、どうだったんだろうか?」 「それですが、二人が、時々激しく怒鳴り合っているのを聞いたと証言する者がいます。隣りに住むホステスは、由美子が、井崎さんは結婚するといっていたのに、その約束をぜんぜん守ってくれないと、泣いていたといっています。もちろん、井崎さんが、結婚を約束していたかどうかはわかりません」 「最近は、二人の仲は、険悪だったわけか」  十津川の当惑が、濃くなった。  これでは、ますます、井崎は不利な立場に追い込まれていく。 「十一月五日は、どうだったんだろう?」  と、十津川はきいた。 「昨日の二人の間に、何があったかということですか?」 「ああ」 「これも、隣りのホステスの証言ですが、昨日、彼女は頭が痛くて、店を休んだそうです。そして、夜の十時ごろに廊下へ出たら、丁度、太田由美子が小さなスーツケースを下げ、嬉しそうに、これから夜行列車で、彼と一緒に大阪へ行くのだといったというんです」 「その時、井崎は一緒にいたのかな?」 「いえ。由美子一人で、彼は先に東京駅へ行っていると、いったそうです」 「最近は、口論が絶えなかったのに、昨日の夜は夜行列車に乗るといって、嬉しそうに出かけて行ったのか」 「そうです」 「彼女を寝台急行『銀河』に乗せ、深夜、走行中の列車の中で絞殺した。誰も、そう思うだろうね」  十津川は、溜息をついた。  二号を作ったが、結婚を迫られたので殺してしまったなどというのは、通俗ドラマのストーリイではないか。  井崎は、そんなドラマの主役を演じたのか。 「これも、大阪府警に、報告されるんですか? ますます、井崎さんは窮地に立たされますよ」  と、亀井がいった。 「しかし、カメさんのいったことは、全て事実なんだろう?」 「そうです」 「それなら、大阪へ報告しないわけにはいかんさ。それがわれわれの仕事だからね」  十津川は、そういわざるを得なかった。     6  井崎が、ますます不利になるとわかっていたが、十津川は、警察官の義務として、大阪府警の三浦警部に、こちらでわかったことを、全て報告した。 「これで、井崎の動機がわかりましたよ」  三浦は、嬉しそうに電話口でいった。 「被害者の解剖は、終ったんですか?」  と、十津川はきいた。 「終りました。やはり絞殺でした」 「死亡推定時刻はどうですか?」 「六日、つまり、今日の午前四時から五時の間です」 「ちょっと待って下さい」  十津川は、受話器を持ったまま片手を伸ばして、机の上の時刻表を広げた。  寝台急行「銀河」の時刻表に、眼をやった。「銀河」は、二二時四五分に東京を出発したあと、品川、横浜、大船、小田原、熱海、静岡と、小きざみに停車していくが、午前一時四一分に静岡に停車(二分停車)し、あとは五時二〇分に、岐阜に停まるまで、どこにも停車しない。 「六時〇五分に米原に停車したとき、鉄道公安官が乗って来たんでしたね?」 「そうです。岐阜を出て十五、六分したあと、専務車掌が、太田由美子の死んでいるのを発見したんです。それで、米原で公安官を呼んだわけです」 「死亡したのは、午前四時から五時というと、米原の手前の岐阜で停車したときには、すでに死亡していたわけになりますね」 「犯人は、岐阜で降りて逃げたのではないかと考えられたと思いますが、前にもいいましたように、同じA寝台の乗客で、岐阜で降りた客は、一人もいないんです」 「それは聞きました。しかし、他の車両の乗客が、午前四時から五時の間に、A寝台にやって来て、太田由美子を殺したということも考えられるでしょうし、A寝台の他にB寝台の車両が十両あるわけですから、その全部に、乗客が乗っている筈ですよ」 「わかっています」  と、三浦は肯いた。 「私も、そのことを考えました。確かに、十津川さんのいわれるように、他の車両の乗客が、犯人の可能性もあります。行き来は出来ますからね。しかし、こちらで調べたところ、その可能性は、ないことがわかりました」 「なぜですか?」 「問題のA寝台は1号車で、そのあとは、十両のB寝台が連結されています。つまり、他の車両の乗客は、一方向からしか1号車には入れないということになるんですが、1号車の2号車寄りに、乗務員室と喫煙室が、向い合ってあります。その間を通って行かなければなりません。ところで、青木という専務車掌と、浜田という車掌長が、午前三時半ごろからこの喫煙室にいて、仕事の打ち合せをしていたというのです。岐阜に着くまでです。喫煙室は、ドアがなくてオープンになっていますから、その前を乗客が通れば、二人は気付く筈です。ところが、二人とも、その間、乗客は一人も通らなかったと証言しているのです。つまり、犯人は、A寝台の乗客の中にいるということです」  三浦の話は、明快だった。  十津川は、井崎が、ますます追いつめられていくのを感じた。  太田由美子を殺したのは、同じA寝台の1号車に乗っていた、二十六人の乗客中にいることは間違いない。  そして、その二十六人の中で由美子と関係があったのは、井崎勉一人である。  しかも、由美子と井崎の間には、最近、口論が絶えなかった。  犯人である条件が、揃《そろ》い過ぎているのだ。 (起訴はまぬがれないかな?)  と、十津川も思った。  ただ、井崎は、いぜんとして犯行を否認しているし、全て、状況証拠だということがあった。  唯一の物的証拠といえるのは、ワイシャツの袖のボタンである。  井崎のワイシャツのボタンを、殺された由美子が握りしめていたという。  だが、井崎は、標準的な体格をしていて、ワイシャツは、全て既製のものを着ていた。  十津川はそれを治子から聞いた。サイズは、三九─七八。よくあるサイズである。ということは、井崎のワイシャツの袖からとれたボタンが、果して、由美子の握りしめていたボタンかどうかわからないということである。  他は、状況証拠だ。  大阪府警が、更に十二時間の拘置延長を裁判所に求めたのは、やはり井崎の自供を、得たかったからだろう。  裁判所は、それを認めた。その十二時間、井崎が今までのように否認しつづけたとしても、多分起訴されるだろうと、十津川は思った。  状況証拠でも、起訴は可能だからだ。  七日の午前中、十津川が警視庁に顔を出すと、待っていたように、電話がかかった。  大阪府警の三浦警部だった。 「十津川さんに、いい知らせがあります」  と、三浦はいきなりいった。 「どんなことですか?」 「井崎勉を釈放します」 「え?」 「あなたの友人を、釈放するということですよ」  と、三浦は繰り返した。  かえって、十津川の方がびっくりしてしまって、 「しかし、まだ十二時間の延長が──」 「そうです。だが、彼の無実を説明するものが出て来たのです」 「どんなことですか?」 「今朝、速達が届きましてね。宛名は、大阪府警捜査一課長殿で、差出人の名前は、ありません。最初はたんなるいたずらの手紙と思いましたが、違っていました」  三浦のいうところでは、次のようなものだった。  文章は、ワープロで書かれていた。 おれが、銀河のA寝台で、女を殺した。 その証拠に、おれは、新聞に出ていないことを知っている。 女ののどから胸にかけて、細いみみずばれがあった筈だ。それは、おれが、むりやり女のネックレスを引きちぎろうとしてついた傷だ。 その時、引きちぎって奪ったネックレスは、おれが殺したことの証として、同封しておく。  確かに、封筒の中には、鎖《くさり》状のネックレスが入っていた。  かたい14金が使われていた。  星形のペンダントがついている。  のどから胸にかけて、何かかたいものをこすりつけたような、みみずばれがついていた。  三浦たちが、それを公表しなかったのは、犯人を追いつめる切り札にしようとしたからである。彼女を殺した犯人以外、その傷を知らない筈だった。 「鎖状のネックレスについて、うちで調べてみました。彼女の友人の話だと、彼女はいつも、そのネックレスが気に入っていて、肌身はなさずに身につけていたということでしてね。犯人は、それを引きちぎったとき、彼女の肌にみみずばれを作ってしまったのだと思いますね」 「すると、大阪府警では、手紙の主が真犯人だと思うわけですか?」  と、十津川はきいた。 「今もいいましたように、のどから胸にかけてのみみずばれは、最初わからず、マスコミにも発表していないわけです。それを知っているということは、犯人か、或いは犯人と親しい人間ということになります。実は、ぶちまけていうと、そのみみずばれがなぜ出来たかわからずに、困っていたのですよ。ひょっとすると、犯人は女で、爪で引っかいたのではないかと考えたりしていたんですが、鎖状のネックレスを引きちぎったときについたというので、納得したわけです。そのネックレスに、多分|尖《とが》ったペンダントがついていて、それで傷つけたと思いますのでね」 「彼女は、よくそれらしいネックレスをつけていたんですか?」 「この手紙のことを隠して、井崎勉にきいたところ、彼は星形のペンダントをつけたネックレスをしていたといいました。だから、間違いないと思いますね」 「井崎は、みみずばれのことを知っていたんですか?」 「それがわからないのですよ。しかし、井崎は、車内で所持品検査を受けたわけですが、ポケットにもアタッシェケースにも、ネックレスは入っていませんでした。A寝台の彼のベッドにもです」 「A寝台の車両も調べたわけですか?」 「公安官と車掌が調べたといっています。しかし、ネックレスがあったという報告はありません」 「すると、犯人が持ち去ったということですか?」 「恐らくね。このことも、井崎勉を釈放する理由の一つなのです」 「しかし、井崎を完全な無実と断定したわけではなさそうですね?」  と、十津川はきいてみた。 「その通りです。ネックレスにしても、井崎が引きちぎったあと、トイレの小さな窓から外へ捨てたのかも知れませんからね。ただ、彼の他に犯人と考えてもおかしくない人物が現われたことも、まぎれもない事実です」 「井崎は、いつ釈放されるんですか?」 「今日の昼ごろに釈放します」 「東京に着いたら、私に連絡するようにいってくれませんか」  と、十津川は頼んだ。 「わかりました。伝えます」 「わざわざ知らせて下さってありがとうございます」  十津川は、心から礼をいった。     7  その日の午後三時過ぎに、東京駅に着いたと、井崎から電話があった。  十津川は、本多一課長に事情を話して、東京駅に迎えに行った。  八重洲口を出たところにある大きな喫茶店で会った井崎は、完全に憔悴《しようすい》していた。 「こんなに参ったことはないよ」  と、井崎は、何度も溜息をついてから、 「釈放されたのは、君が手を廻してくれたからなのか?」 「大阪府警は、何も理由をいわなかったのかい?」 「ただ突然、釈放するといわれただけさ」  と、井崎はいう。  十津川は、三浦警部に聞いた話を、井崎に伝えた。 「ふーん」  と、井崎は、鼻を鳴らして聞いていたが、 「すると、僕以外に犯人らしい人間が現われたからということで、僕の嫌疑は、完全に晴れたわけじゃないのか?」 「そうだ。依然として、君には動機があるし、アリバイもないからね」 「同じ1号車に乗っていたんだ。アリバイのないのが当然じゃないか」 「そんなに怒りなさんな」  と、十津川は苦笑してから、 「君は、本当に太田由美子を殺してないのか?」 「ああ、殺してないよ。彼女が乗っていたことさえ、知らなかったんだ」 「問題のネックレスだが、君が買ってやったものかい?」 「そうだ。彼女との仲がうまくいっていた時にね」 「今は、死んだ彼女のことをどう思っているんだ?」 「浮気の代償は高くついたと、後悔してるよ」  井崎は、肩をすくめて見せた。 「会社は、馘《くび》になるようなことはないんだろう?」 「それはそうだろうが、彼女とのことが明るみに出てしまったからね。居づらくなるだろうし、昇進は当分、駄目だろうと思うよ」 「厳しい会社なんだな」 「まあね。だが、重役の中には妾《めかけ》を囲っているのもいて、うまくやってるのも知ってるよ」  井崎は、苦い笑い方をした。  彼が、結婚したすぐあとの幸福なときには、こんな表情は見せなかったものだった。 「これから、家へ帰るんだろう?」  十津川がきくと、井崎は、小さく首を振って、 「いや。帰らないつもりだ」 「なぜ?」 「君は知らないだろうが、ずっと、家内とうまくいってなくてね」  井崎は、声を落していった。  十津川は、知っているというのが、辛くなって、 「そうか」 「その上、今度は、僕が浮気をしていたのが、ばれてしまった。しかも、会社で僕の部下の女だ。家内が怒って大阪へ来なかったのも、よくわかるんだ。これで家に帰ったら、針のむしろだよ」 「帰らずにどうする気だ?」 「これから会社へ行って、共済組合からまとまった金を借りて、電話つきの1DKの小さなマンションを借りようと思っているんだ。家内とのことは、大学時代、テニス愛好会で一緒だった竹田の奴が、今度、法律事務所を開いたというから、彼に頼んでみようと思っているんだ」     8  八日になって、井崎が四谷三丁目近くに、1Kの小さなマンションを借りたと連絡して来た。明日にでも寄って、元気づけてやろうと思ったが、その夜おそく、事件が発生した。  午後十一時過ぎに、新宿二丁目附近の路上で、若い男が殺されているのが発見された。  十津川は、部下の亀井刑事たちを連れて、現場に急行した。  新宿歌舞伎町や三丁目あたりは、深夜になっても人通りが絶えず、ネオンがきらめき、賑やかだが、二丁目あたりになると、ところどころにバーや怪しげなクラブのネオンが見えても、細い路地などはひどく暗い。  その路地の一つに、死体が転がっていたのだ。  十津川たちが着いた時、初動捜査班が、すでに捜査を開始していた。  投光器の光の中に、死体が浮びあがって見える。  グレーのハーフコートを着たサラリーマン風の男である。  年齢は三十二、三といったところだろう。  十津川は、亀井と、死体を見つめた。  背中を、ナイフで何度も刺されたらしく、ハーフコートのその部分が、赤く染っている。  初動捜査班の米谷警部が、被害者のポケットに入っていたものを、見せてくれた。  五万六千円入りのカルチエの財布。  名刺五枚。  運転免許証。  キーホルダー。二つのカギがついている。  万年筆。  定期券、地下鉄の中野から大手町。  運転免許証には、中野の住所と、山田|祐一郎《ゆういちろう》という名前が書かれている。五枚の名刺も、全て山田祐一郎のものだった。  名刺の肩書きには、「東西電気総務部企画課」とあった。  東西電気なら、一流の電気機器のメーカーであり、大手町に本社がある。 「発見者は、この路地の先にあるスナックの従業員だ。というより、犬といった方がいいかな。犬がやたらに吠えるので、あけてみたら、この仏さんにぶつかったというわけだよ」  米谷が、説明してくれた。  米谷は、十津川と一緒に、警視庁へ入っている。 「運転免許証によると、この仏さんの身元は、名刺にあった山田祐一郎と考えていいだろう?」 「ああ、免許証が偽造じゃない限りね」 「犯人は、いきなり背中を刺している。めった刺しにして、殺したみたいだね?」 「それに、金品が盗まれていないところをみると、殺人の動機は、怨恨かも知れんね」  と、米谷はいった。 「金を盗ろうとしたら、犬が吠えたので、あわてて逃げたということも考えられるんじゃないか?」  十津川がいうと、米谷はあっさりと、 「その可能性もあるね。両方の可能性があるということか」 「頼りない人だな」  と、十津川が笑うと、米谷は、ニヤッと笑って、 「おれは、他人の意見を尊重する方でね」  といった。同期で警察に入ったという気安さからだろう。  十津川は、初動捜査班から捜査を引き継ぎ、まず、運転免許証にあった住所を、亀井と訪ねた。  国鉄中野駅から北へ、歩いて十五、六分のところにある、七階建のマンションである。  管理人室はもう閉っていて、ノックしても応答がなかった。通いの管理人なのだろう。  五〇二号室が、被害者、山田祐一郎の部屋だった。  ドアの横についているベルを押してみたが、ここも返事がない。 「家族はいないんですかね?」 「優雅な独身貴族というやつかも知れないね」  そんな会話のあと、十津川は、被害者の所持品の中にあったキーで、ドアを開けた。  2DKの部屋である。  灯りをつけたときに、十津川は、これは独身だと思った。  奥の六畳は万年床になっているし、居間には応接三点セットがあるのだが、テーブルの上の灰皿が、吸殻で一杯だったからである。  その居間には、外国製のゴルフクラブが置かれ、社内のコンペで優勝したカップが、飾られている。  寝室には、ビデオやステレオプレーヤーが雑然と置いてある。確かに、優雅な独身貴族という感じだった。  壁には、大型のオートバイにまたがった被害者自身の写真が、パネルにして飾ってあった。何かのレースに出た時のものらしい。 「羨ましい生活ですな」  と、亀井がいった。 「しかし、死んでしまっては、どうしようもないよ」  十津川は、小さな溜息をついた。  若者の死にぶつかると、十津川は、いつも可哀そうにと思う。どんな素晴らしい可能性があったかわからないからである。 「初動捜査班の米谷警部は、怨恨らしいといい、警部は、物盗りかも知れないといわれましたが、いったい、どちらでしょうか?」  亀井が、室内を見廻しながら、十津川にきいた。 「さあ、どちらかな。私だって怨恨もあり得ると思っているよ。あそこで米谷に反対したのは、独断は危険と思ったからさ」  と、十津川はいった。  机の引出しを開けてみると、アルバムと、手紙の束が出て来た。  そのアルバムを見ていた亀井が、感心したように、 「被害者は、なかなか、女性にもてたようですね」  と、いった。  若い女と一緒に撮った写真が多かったからだろう。  五、六人の違った女性と写っているが、どれも、かなりの美人である。  手紙の束の中にも、女性からのものが、何通かあった。ラブ・レターもある。 (青春を謳歌《おうか》していた感じだな)  と、十津川は思った。  七五〇ccのオートバイを乗り廻し、何人ものガールフレンドを持ち、大会社のエリートコースを歩む。少しばかり、典型的すぎる感じはあるが、楽しい毎日だったろう。  それが、今夜突然、無慈悲にも停止してしまったのだ。 「怨恨なら、この手紙の主たちに、いろいろと聞かなければならなくなるだろう」  十津川は、亀井と、手紙の束とアルバムを持ってマンションを出た。  すでに、深夜の十二時に近く、初冬の寒さで、二人の吐く息が白くなっていた。     9  翌九日から、本格的な捜査が始まった。  死体は、解剖に廻され、十津川と亀井は、被害者、山田祐一郎の勤めていた東西電気本社を、大手町に訪ねた。  上司の企画課長に会った。  本田という四十五歳の小柄な課長は、蒼い顔で、 「山田君が殺されたと聞いて、本当に驚いています」  と、いった。 「山田さんは、どんな社員だったんですか?」 「前途洋々としたエリート社員でしたよ。実は、来年四月には係長になり、同時に、部長のお嬢さんと結婚することになっていたんです」 「ほう」 「きっと、部長のお嬢さんも、お悲しみだと思います」 「この中に、その方がいますか?」  十津川は、アルバムから剥《はが》して持って来た五人の女性の写真を、本田に見せた。 「この方です」  と、本田が指さしたのは、水着姿で山田と写っている女性だった。  大柄な美人である。 「名前を教えて貰えませんか」 「服部江美《はつとりえみ》さんです。今、部長秘書をやっていますよ」 「つまり、お父さんの秘書をやっているということですか?」 「そうです」 「お会いしたいですね」  と、十津川はいった。  十津川は、亀井に、山田祐一郎の同僚の話を聞いて貰っている間に、屋上で服部江美に会った。  ハイヒールをはいているので、十津川より背が高い。  改めて、最近の若い娘は背が高くなったなと感心しながら、 「山田さんが亡くなったことは、ご存知ですね?」 「ええ。知っていますわ」  と、江美はいった。が、その顔から、悲しみの色はうかがえなかった。  悲しみを抑えているのかも知れないが、声も変えてはいない。 「来年の春に結婚なさる筈だったと聞いたんですが、本当ですか?」  と、きいた。それならもう少し、悲しみが表に出ていてもいいのではないかと、思ったからである。 「それは、父が勝手に決めているだけですわ」 「ほう」 「私は、まだ二十四なんです」 「──?」 「もっと青春を楽しみたいんですわ」 「なるほど」 「刑事さんだって、おわかりになるでしょう? 若い時がおありになったんだから」 「確かに、若い時はありましたがね」  四十歳の十津川は、苦笑した。 「犯人は捕《つかま》りそうなんですの?」 「そうしたいと思っています。それには、皆さんに協力して頂かないと。なぜ昨夜、山田さんが新宿二丁目を歩いていたのか、心当りがありますか?」  十津川がきくと、江美は、あっさりと首を横に振った。 「お互いに干渉しないと約束をしていたから、わかりませんわ。私は、やたらにあれこれいうボーイフレンドは嫌いだし、私もいわないことにしているんです」 「すると、彼はあなたにとって、ただのボーイフレンドの一人だったということですか?」 「ええ。父は、特別に考えていたようですけど」  江美は、肩をすくめて見せた。  どうも、男女間のごたごたから殺されたとは、考えられなくなった。とすると、流しの犯行なのだろうか?  屋上からおりて、亀井と落ち合うと、 「ちょっと、妙なことを聞きました」  と、亀井がいった。 「どんなことだい? カメさん」 「同僚の一人がいっているんですが、昨日、被害者の山田祐一郎が、変な電話があって、気味が悪いといっていたそうです」 「変な電話?」 「なんでも、昨日の朝、出勤しようとしていると、男の声で電話がかかって来て『見たことは忘れろ。さもないと殺すぞ』といったそうです」 「それで、山田祐一郎は、何か心当りがあったんだろうか?」 「それなんですが、同僚にはわけがわからない、誰かと、人違いしているんだと思うと、いっていたそうです」 「見たことは忘れろ。さもないと殺すぞ──か」 「被害者が生きていたら、何か心当りがないか、聞いてみるんですが──」  亀井が、残念そうにいった。 「気が付かずに、何かを見てしまっていたということかな」 「かも知れませんが、そうなると、範囲が広がってしまいますね。或いは、見ていなかったのに、相手が、勝手に見られたと思い込んでしまっているということも考えられます。先週の事件もそうだったじゃありませんか」  と、亀井がいった。  先週の事件というのは、チンピラが大学生を殺した事件である。  新宿の雑沓《ざつとう》の中で、大学生が自分に眼《がん》をつけたと、チンピラが勘違いして喧嘩《けんか》になり、持っていたナイフで刺殺してしまった。実は、大学生は、チンピラの背後にあった電光時計を見つめていただけなのである。  もし、それと似たようケースだったとすると、脅迫の主を見つけるのは難しいだろう。  四谷署に、捜査本部が設けられた。  十津川と亀井がそこに戻ると、待っていたように電話が入った。  大阪府警の三浦警部から、十津川にだった。 「本多一課長さんが、そちらだと教えて下さったものですから」  と、三浦はいってから、 「東京で、山田祐一郎という男が殺されたそうですね?」 「昨夜、新宿二丁目の路上で、刺殺されたんですが、それが何か?」 「その山田祐一郎ですが、東西電気の企画課の人間ですか?」 「そうです」 「住所は、中野ですか?」 「中野のマンションですが、何か、そちらの事件と関係があるんですか?」 「実は、例の寝台急行『銀河』で起きた殺人事件ですが、井崎勉を釈放したあと、改めて、A寝台車の他の乗客について、一人一人調べ直そうと考えているんです。二十五人についてですが、その一人が、実は山田祐一郎なんですよ」  第三章 合 同 捜 査     1  事件が、違った様相を見せて来たのを、十津川は感じた。  改めて、東西電気の企画課に問い合せると、山田祐一郎は、十一月六日と七日の二日間、休暇をとっていることがわかった。  大阪に両親が健在なので、五日夜の寝台急行「銀河」に乗って、大阪へ行ったらしい。  夕方になって、大阪府警の三浦警部が、新幹線でやって来た。合同捜査になる可能性が出て来たためである。  三浦は、「銀河」のA寝台車の乗客名簿を持って来た。  車内で殺された太田由美子を入れて、二十七人全部の名前と住所、勤務先、電話番号などが書かれている。  亀井が、黒板にその名前を書き並べ、死んだ太田由美子と、山田祐一郎の名前の上には、赤で×印をつけた。  残りの二十五名の中《うち》、男二十名、女五名である。  この中には、家族連れが一組あった。母親と、中学生、三歳の兄妹である。  休暇をとって、京都見物に行くというOLの二人連れがいた。  男は、ほとんどビジネスマンだった。  女の中には、大阪のホステスがいた。以前東京のクラブで働いて、世話になったママにあいさつに行っての帰りだという。  亀井は、二十七名の名前の下に、席番号を書き加えていった。  新宿二丁目で殺された山田祐一郎の席は、A13上段だった。  太田由美子の席は、A14下段である。  上段と下段の違いはあっても、通路をへだてて、向い合った位置の寝台である。  犯人が、太田由美子を絞殺した時、向いの寝台にいた山田が、何かを見ている可能性はある。  三浦警部は、大阪府警本部に送られて来たという手紙を、十津川に見せた。  ワープロで、書かれた手紙である。  電話で三浦がいったように、被害者のネックレスや、のどから胸にかけてのみみずばれのことが書いてあった。 「新宿で殺された山田祐一郎にかかって来たという電話の主と、同一人かも知れませんね」  と、十津川はいった。 「男の声の脅迫電話だったそうですね?」  三浦がきいた。 「そうです」 「すると、井崎勉の可能性もあるわけですね。お嫌かも知れませんが」  と、三浦がいった。 「いや。そんなことはありませんが、この手紙は、おかしくありませんか? このワープロの手紙は、井崎が拘置されている時に届いたわけでしょう。そうなると、井崎には、出せなかった。違いますか?」 「もちろん、井崎には出せません。ただ、私は、こう考えたんです。井崎が太田由美子を殺すつもりで、同じA寝台に乗せたとします。彼女が死ねば、自分が疑われることはわかっていますから、一つ計画を立てたということです。共犯者を作っておくわけです。『銀河』に乗る前に、その共犯者と打ち合せをしておく。例えば、絞殺するが、その時ネックレスを引きちぎり、のどから胸にかけて傷をつけておくんです。つまり、犯人しか知らないことを、共犯者が知っているわけです。案の定、井崎は重要容疑者として逮捕される。そこで共犯者は、このワープロの手紙を投函したわけです」 「あのネックレスは、どうなりますか? 大阪で逮捕された井崎は、共犯者には、渡せないんじゃありませんか?」 「かも知れませんが、あのネックレスは、よくあるものです。前もってもう一つ、同じものを買っておいて共犯者に持たせておいたということも考えられます」 「手紙は、東京から投函されたんですか?」 「そうです。ですから、共犯者は、東京の人間でしょうね」     2  三浦警部の推理には、かなり説得力があった。  十津川は、亀井と、井崎に会いに出かけた。  四谷三丁目に、彼が借りたという1Kのマンションである。  夜の九時過ぎに行ったのだが、井崎はまだ帰っていなくて、二時間近く待たされた。  十一時を廻って帰って来た井崎は、かなり酔っていた。  十津川と亀井を中に入れてから、井崎は、台所で水を飲み、顔を洗っている。 「ご機嫌だね」  と、十津川がいうと、井崎はふうっと、大きく息をついた。 「酒も飲みたくなるさ。会社では冷たい眼で見られるし、家内は、離婚したい、慰謝料は三千万くれといって来てるんだ。そんな大金が、どこにあるっていうんだ」 「昨日も、飲んだのか?」 「昨日? ああ、飲んだよ」 「帰宅したのは、何時頃だ?」 「何だい? 訊問か?」  井崎は、眉《まゆ》を寄せて、十津川を睨《にら》んだ。 「何時に帰ったんだ?」  十津川は、重ねてきいた。 「昨日なら遅かったよ。十二時過ぎだったな」 「どこで飲んだんだ?」 「新宿だよ」 「店の名前は覚えてるか?」 「何だい? こりゃあ。何をききたいんだ?」 「いいから、答えろよ。新宿の何という店で飲んだんだ?」 「覚えてないよ。最初は、歌舞伎町の小さな店だった。そのあとは覚えてないんだ」 「梯子《はしご》したのか?」 「ああ、そうだ」 「店の名前を、全部思い出すんだ」 「なぜだ? どこで飲もうと勝手じゃないか。警察にいちいち断わらなきゃ、飲んじゃいけないのか?」  井崎が絡《から》んできた。 「昨夜、新宿二丁目の路地で、山田祐一郎という男が背中を刺されて殺された」 「まさか、その男を殺した容疑まで、僕にかかっているんじゃないだろうね?」 「実は、君が殺したんじゃないかと思われているんだよ」 「冗談じゃないぜ。そんな男は、僕は知らないよ。名前を聞いたこともない。どこの誰かも知らないんだ。そんな人間をどうして殺すんだ?」 「その男は、君と一緒に寝台急行『銀河』のA寝台に乗っていたんだ」  十津川がいうと、井崎は「へえ」と眼を大きくした。 「だが、僕には関係ないよ」 「彼は電話で脅かされていた。相手は男で、『見たことは忘れろ。さもないと殺すぞ』とね。それが、『銀河』の中での殺人のことと考えられている。つまり、太田由美子が絞殺された時、山田祐一郎が何かを見たんじゃないか。彼はA13上の席で、太田由美子の席とは向い合っているんだ。だから、犯人に都合の悪いことを見た可能性がある。いや、犯人が見られたと思ったのかも知れない。そこで、口を封じようと、刺殺したのではないか。そう考えると──」 「ちょっと待ってくれよ」  と、井崎は、あわてて十津川の言葉をさえぎった。 「僕が口封じに、山田とかいう男を殺したとでもいうのか?」 「昨夜のアリバイがはっきりしないと、君は、また逮捕されかねない。しかも、二人の人間を殺した容疑でだ」 「冗談じゃないよ」 「だから、昨夜、飲んだ店の名前を思い出せといってるんだ。さもないと、アリバイは成立しないぞ」 「店の名前といっても──」  井崎は、頭をかきむしった。酔いはすっかり醒めてしまったらしい。 「最初の店の名前も駄目か?」 「地下にある小さな店で、ポパイとかポニイとかいったと思うんだが──」 「それは調べてみる。その店には、何時頃までいたんだ?」 「七時頃に入って、二時間近くいたと思うんだ」 「次の店は?」 「それが思い出せないんだ」 「どっちの方へ歩いて行ったかも思い出せないのか?」 「何しろ、酔っ払っていたからね。家が四谷三丁目にあるから、多分、そっちの方に向って歩いたと思うんだが」 「それはまずいな」 「なぜだ?」 「今もいったように、山田祐一郎は新宿二丁目で殺されていたからだよ。四谷三丁目への途中だ」 「そんなことは偶然だよ。僕は、太田由美子も山田とかいう男も、殺してないんだ。信じてくれないのか?」 「もちろん、君の言葉を信じたいさ。助けてやりたい。しかし、そのためには、昨夜のアリバイが必要なんだ。必死になって、何という店を梯子したか思い出すんだ」     3  十津川は、重苦しい気分で井崎のマンションを出た。  このままでは、依然として、井崎が一番の容疑者である。  太田由美子殺しについて、井崎には動機があるし、今度の山田祐一郎殺しについては、アリバイがないのだ。  二人は、四谷署へ戻った。明日から、他の乗客について調べることが決った。  三浦警部は、それがすむまで東京に残るという。  乗客のほとんどが、東京の住所だったからである。  十津川は椅子を並べ、毛布を敷いて眠ることにした。 「気晴らしに、新聞でもご覧になりませんか」  と、亀井が、今日の朝刊を差し出した。  事件が起きてからというより、友人の井崎が殺人容疑者となってから、十津川は、新聞を見ていなかった。 「ありがとう」  礼をいって、十津川は、寝たまま新聞を広げた。  朝刊にはまだ新宿二丁目の事件はのっていない。夕刊の方に眼を通してみようと思い、流し読みをしているうちに、十津川は急に、 (おや?)  と、いう顔になった。  起き上って、熱心に読み始めた。  新聞の「読者の声」という欄である。 ○寝台急行「銀河」に望む。 20歳 匿名希望 先日、大阪へ寝台急行「銀河」で行こうと思い、A寝台の切符を買おうとしたが、売り切れていた。 このところ、「銀河」のA寝台は人気があって、いつも売り切れだと聞く。それも当然で、「銀河」のB寝台は、幅が五十二センチしかなく、いかにも窮屈だからだ。料金は二倍でも、ゆったりしたA寝台で行きたいのは人情だろう。 一両しか連結されていないA寝台をもっと増やすか、B寝台を、新しい幅七十センチの車両と交換してくれることを望む。折角、いい時間帯に走っているのに惜しいと思う。 (おかしいな)  と、十津川は思った。  この投書の主は、五日の「銀河」とは書いていないが、「このところ……」と書いている。  事件のとき、A寝台は、一つ空《あ》いていたという。本当なのだろうか?  人気があっていつも売り切れなら、なぜこの日だけ、一つ空いていたのか?  夜が明けると、十津川は、時間を見はからって、東京駅に電話をかけてみた。  寝台急行「銀河」のことを聞くと、やはり、十津川の予想した返事がかえってきた。  十一月五日二二時四五分発の「銀河」のA寝台の切符は、全部売れているというのである。 「しかし、A14上は大阪まで空いていたということですよ」  と、十津川はいった。 「それでは、都合が出来て、乗られなかったんでしょう」  と、係がいった。 「払い戻しはされていますか?」 「いや、していません」 「どんな人間がその切符を買ったか、わかりますか?」 「いや、わかりません。ただ、A14上の切符は、東京駅で売っていますね。それ以上のことはわかりません」  と、係はいった。  買った人間は、どうしたのだろうか?  A寝台の上段の料金は、東京から大阪までいくらか、十津川は計算してみた。  大阪までの急行、乗車券共で、八千四百円。それに、A寝台は上段が丁度、一万円である。  合計一万八千四百円になる。  それを、安いと見るか、高いと見るかは、当人の懐具合によるだろうが、急に行かれなくなれば当然払い戻しをするのではないだろうか?  病気にでもなってしまって、払い戻しに来られなかったということも考えられる。極端なことをいえば、買った人間が急死してしまったのかも知れない。  だが、十津川は、どうしても引っかかった。  二十八の寝台の中、一つだけ空いていたのだが、実際には空いていなかったということが、引っかかる。  十一月五日二二時四五分東京発の「銀河」の車内で太田由美子が殺されたのが、計画的な殺人だとすると、料金を払っておいて誰も乗って来なかったA14上の席が、その計画にからんでくるのではないだろうか?  十津川がそれをいうと、亀井は、首をひねって、 「それは、太田由美子の寝台の丁度真上に、問題のA14上があるからですか?」 「もちろんだよ。だから、気になるんだ。被害者の真上の席が、東京から終着の大阪まで買い占められていた。それを知ってるのは、買った人間だけだ。もしそれが犯人だったら、そいつは夜半になってからA14上に入り込み、じっとチャンスを狙えるわけだよ。殺しておいて、もう一つの寝台に逃げ込めばいい」 「しかし、警部。寝台急行『銀河』のA寝台は、人気があってすぐ売り切れるわけでしょう。狙う人間の丁度真上の席を買うというのは、難しいんじゃありませんか?」 「ちょっと待ってくれ」  十津川は、亀井を制して受話器を取ると、もう一度東京駅に電話をかけた。  十一月五日の寝台急行「銀河」のA14上と、A14下の二つの席が、いつ売れたかきくためだった。  殺された太田由美子は、A14下の切符を、二日に東京駅で買っていた。  A14上の方は、同じ東京駅の窓口で買われたが、四日に売れているということだった。  十津川は、電話を切ると、亀井に向って首をすくめて見せた。 「カメさんのいう通りらしい」 「一緒に買ってないんですね?」 「そうだ。別の日に買われている。A14上は、太田由美子が、A14下を買った日より、二日あとで買っているんだ」 「その間に、A14上が、他の人間に買われてしまう可能性があるわけですね」 「そうなんだ」 「すると、被害者の上の席が空いていたのは、それを買った人間が、偶然何かの理由で乗れなくなったということになりますか? 事件とは、全く関係がないことになってしまいますね」 「カメさん」  と、十津川は笑った。 「最初に、関係がないといったのは、カメさんだよ」 「そうなんですが、何となく、関係がありそうな気がしてしまったんです。どうも、空いた寝台が他にいくつもあれば気にならないんですが、たった一つだったというのが、どうも、気になるのかも知れません」 「私もさ。だが、カメさんのいう通り、犯人は狙って、計画的に、A14上の切符を買うわけにはいかなかったことになる。もし、犯人が買ったのだとしても、A14上になったのは、偶然だったことになる」 「やはり、A14上が空いていたのは、偶然、買った人間が、乗らなかったというだけのことになりますね」     4  捜査は、地道に、乗客の一人一人に当ることになった。  太田由美子と、井崎勉、それに、山田祐一郎をのぞく二十四人の中、東京都内に住んでいる者が十六人、横浜市内が四人、大船一人、残りの三人は、大阪だった。  この大阪の三人は、東京で用事をすませ、当日の下り「銀河」で、帰阪するつもりだったのだろう。  この三人は、もちろん、大阪府警に捜査を頼み、横浜と大船の五人は、神奈川県警に依頼された。  十津川は、部下の七人と、東京の十六人について、捜査することになった。  調べることは、二つあった。  一つは、山田祐一郎が殺された八日夜のアリバイである。  山田祐一郎の死亡推定時刻は、八日の午後十時から十一時までの一時間である。この間のアリバイということになる。  もう一つは、太田由美子が殺されたと思われる六日の午前四時から五時頃に、車内で、何か妙な物音なり、声を聞かなかったか、通路を歩く人間を見なかったかを聞くことだった。  すでに、十日になっていた。  土曜日で、休みのサラリーマンもいる。その場合は、自宅に行って会い、週休二日制をとらない会社の場合は、会社へ会いに出かけることにした。  八日夜十時から十一時にかけてのアリバイは、大半の乗客があいまいだった。  独身の男性の場合は、たいてい飲みに出かけていたり、映画を見ていたりしているからである。  自宅に帰って、ひとりでテレビを見ていたという者もいた。五日の「銀河」で、京都で降りたOL二人も、八日は早く帰って、アパートでそれぞれテレビを見ていたと証言した。彼等のアリバイは、不明ということになる。 「銀河」の車内で何か気付いたことはないかという質問に、彼等の返事は、芳しいものではなかった。  これが、夏だったら、午前四時から五時にかけてというと、もう明るくなって来ているから、起き出す乗客もいて何かを見ている可能性もあるのだが、十一月である。まだ暗い。乗客たちも、その時刻には、眠っていたという者がほとんどだった。  そんな中で、京都へ行ったOLの一人、小林みどりが、問題の時刻に起きていたと証言した。  小林みどりは、新宿のMデパートに勤めている二十四歳のOLである。  同じデパートで働く同僚の真田久仁子《さなだくにこ》と、京都見物に出かけたのだと、いった。 「火曜日が定休日なので、水曜日に休暇をとると、二日続けて休めるんです。それで、五日の夜の『銀河』に乗って出かけました。六日と七日の二日間、京都見物をして、七日の夜、今度は、上りの『銀河』で帰って来たんです」  と、小林みどりは、十津川にいった。 「問題は、下りの『銀河』ですが、午前四時頃、起きていたんですね?」  亀井が、確認するようにきいた。 「ええ。今もいいましたけど、私って神経質で、なかなか寝つかれないんです。十二時過ぎてからやっと眠ったんですけど、また起きてしまって。その時が、午前四時頃でした」  と、みどりがいった。 「時計を見て、確かめたんですか?」 「ええ」 「それで、何か、変な物音や悲鳴といったものは、聞きませんでしたか?」 「そうですねえ」  みどりは、首をかしげて考えていたが、 「そういえば、四時半頃だったかしら。通路を歩く足音がしましたわ」  その言葉で、十津川と亀井は、緊張した。四時半なら、犯人の可能性があるからだった。  十津川は、乗客名簿を見た。それに、席番号も書き込んである。 「あなたは、A9下でしたね?」  と、十津川はきいた。 「ええ。友だちの久仁子と一緒がいいと思って、東京駅で頼んだので、彼女は、A9上になったんです」  A9上、下というと、太田由美子のA14下にかなり近い。 「問題の足音は、どっちからどっちへ歩いて行ったか、覚えてますか?」  亀井が、きいた。 「車掌室の方から、逆の方へですわ」 「そして、あなたの席の前を通って行った?」 「ええ」  と、みどりが肯《うなず》いた。  十津川は、軽く眉をひそめた。  その足音が、犯人としてのことだが、もしみどりの席の前を通り過ぎなければ、井崎の容疑は消えるかも知れないからである。  井崎は、A8上だった。  みどりより、先の席である。  彼女の席の前を通り過ぎたとなると、それは、井崎かも知れないのだ。 「どんな足音でした?」  と、十津川がきいた。 「どんなって?」 「靴の音か、スリッパの音か、靴でもハイヒールか、それとも、スニーカーみたいな音だったか?」 「わからないわ。ただ、革底だったと思いますわ。どんな靴かはわかりません」 「そのあとは?」 「あとは、どこかで歯ぎしりが聞こえましたわ」 「その他にはありませんか?」 「いつの間にか眠ってしまいましたわ」  と、みどりはいった。  もう一人の真田久仁子の方は、ぐっすり眠ってしまって、足音など全く気付いていなかった。  次に、十津川は、八日の夜に殺された、山田祐一郎の顔写真を、みどりに見せた。 「この男に見覚えは、ありませんか? あなた方と同じ『銀河』のA寝台に乗っていたんですがね」 「八日の夜に殺された人でしょう?」 「そうですが。何か、印象に残っていますか?」  十津川がきくと、みどりは、クスッと笑って、 「その人、私と久仁子に、名刺をくれたんです」 「名刺?」 「ええ。私たち、五日の夜は、少し早く東京駅に着いたんです。まだ、列車が入っていなくて、A寝台が停まるあたりにいたら、山田さんがやって来て、名刺をくれたんですわ。自宅の電話番号まで書いてある名刺。この人、名刺をあげるのが、好きみたいですわ」 「今、その名刺を、持っていますか?」 「それが、どこかへ落してしまったらしくて、見つからないんです。私も、久仁子も、あんまり、自分たちのタイプじゃない男の人だったからかも知れませんけど」  と、みどりは、笑った。  彼女の言葉で、十津川は、一つ、納得できたことがあった。  山田祐一郎が、同僚に、妙な電話が掛ったと、話していたことについてである。 「見たことは、忘れろ。さもないと殺すぞ」という、男の声の電話だというと、間違いなく、太田由美子を、車内で殺した犯人に違いない。  問題は、犯人が、どうして、山田祐一郎の電話番号を知っていたのかということだった。  いいかえれば、犯人に、知るチャンスがあったかどうかということである。犯人と、山田祐一郎の間に、前から交渉があれば、問題はないが、ただ、五日に、同じ「銀河」に乗っていただけでも、知ることが出来たかである。  それが、十津川には、疑問だったのだが、みどりの話が、その答になっていたような気がした。犯人も、山田祐一郎から名刺を貰ったのかも知れないし、或いは、みどりたちの失くした名刺を、車内で拾ったのかも知れないのである。  十日午後の捜査会議でも、この足音のことが議題になった。  大阪府警の三浦警部も同席した。 「A9下で、小林みどりが聞いた足音は、その時刻から考えて、犯人のものだという可能性は強いと思います」  と、十津川はいった。  彼は黒板に、A寝台の車両の図を描いた。 「彼女は、四時頃に眼をさました。それから、足音を聞いた。その足音は、車掌室の方から聞こえて来たといっています。この図でわかるように、殺された太田由美子のA14下の方向からということです。その足音は、小林みどりの席の前を通り過ぎたと、証言しています。もし、この足音の主が、太田由美子を殺した犯人だとなれば、犯人は、A9より先の席にいた乗客ということになります。この図でいえば、A1からA8までの上下十六の席の乗客ということです」 「しかし、足音の主が犯人と断定することは出来ないんだろう?」  本多捜査一課長が口を挟んだ。 「そうです。犯人の可能性は強いんですが、断定は出来ません。というのは、A寝台の車両の場合、トイレ、洗面台は前部にあります。つまり、A1の席の方にです。ですから、小林みどりの聞いた足音は、トイレに行く乗客だった可能性もあり、もしそうだったとすると、犯人はどこの席の人間と断定は出来なくなります」  と、十津川はいった。  その時、大阪府警の三浦警部が、特に発言を求めた。 「さっき、大阪から私に連絡があったのですが、例のワープロの機械がわかりました。ハンディタイプで人気のあるキャノワードミニCM─5という機種で書かれたものということです」  三浦は、そのワープロの写真を、みんなに見せた。  十津川は、亀井と、顔を見合せた。  本多一課長が目ざとく気付いて、 「どうしたんだね? 十津川君」  と、きいた。  十津川は、仕方なく、 「それと同じものを見たのを思い出しました」 「どこでだね?」 「それが井崎勉の家なのです。彼の奥さんに話を聞きに行った時、ちらりと見たのが、確かそのワープロでした。その時は、何気なく見過ごしてしまったんですが」  十津川がいうと、すかさず、大阪府警の三浦警部が、 「これで、井崎勉が犯人である可能性が、ますます強くなって来たんじゃありませんか」  と、いった。 「なぜだね?」  本多がきく。  三浦は、立ち上った。 「大阪府警では、井崎が殺すつもりで、太田由美子を同じ寝台急行『銀河』に乗せたんだと考えています。他の乗客が寝しずまってから、彼女を殺す。当然、疑いは彼にかかって来ます。それを見越して、井崎は前もって、ワープロで手紙を書いておいたのです。真犯人でなければ、わからないことをです。その通りに太田由美子を殺せばいいわけですから、井崎にとっては楽なことだったと思います。封筒に入れ、これも、前もって買っておいたネックレスを添えて、六日に中央郵便局で出してくれと、誰かに頼んでおいたんじゃないですか」 「考えられないことじゃないね」 「第一──」  と、三浦は、語気を強めて、 「井崎以外に犯人がいたとします。その人間は、井崎が捕ったわけですから、ほっとした筈です。しめたと思ったと思いますね。放っておけば、井崎が起訴され、自分は安全なわけです。それなのに、わざわざ犯人は別にいるみたいな手紙を警察に出すようなことをするでしょうか? 絶対にしませんよ。あの手紙で助かるのは、井崎ひとりですからね」 「山田祐一郎殺しについては、どう考えるんだね?」  と、続いて本多がきいた。 「私は、もちろん井崎がやったと思っています。井崎は、前もって用意しておいた手紙で、まんまと釈放されました。しかし、太田由美子を殺したとき、丁度、向い側のA13上の乗客に、姿を見られた。いや、見られたと思ったんでしょう。それで、八日の夜、新宿二丁目で殺して口を封じたんだと考えています」 「しかし、A13上の乗客が山田祐一郎と、なぜ井崎はわかったのかね? 乗客の名前は、マスコミには発表されていなかった筈だからね」 「そうですね。私は、こう考えました。寝台急行『銀河』は、ビジネス急行といわれるように、ビジネスマンの利用が多い列車です。井崎も山田祐一郎も、東京の大手の会社に勤めるビジネスマンです。列車に乗った直後、そんなことで、話をしたんじゃないかと思うんです。山田祐一郎の方は、まさか井崎が殺人を計画しているとは思わず、名前や勤め先をいったんじゃないでしょうか。それに、山田は、やたらに名刺を配っていたようです。そう考えれば、井崎が山田祐一郎を知っていた理由も、納得できると思います」     5  十津川と亀井は、会議のあと捜査本部を出て、近くの喫茶店で、コーヒーを飲んだ。 「今日は三浦警部の独演会でしたね」  と、亀井は十津川にいった。 「ああ、やられたね」  十津川が苦笑した。  運ばれて来たコーヒーに、亀井はブラックのまま口をつけてから、 「警部は、どう思われます? 友人の井崎勉さんが犯人だと思いますか?」  と、きいた。 「そうだねえ」  十津川は、しばらく考えていた。  捜査会議で三浦が喋《しやべ》ったことには、かなりの説得力がある。  前もってこれから行われる殺人について、ワープロで書いておく。そしてその通りに殺人を行ったというのは、面白い考えだと思う。  井崎は、三浦の推理のとおりに動いたのかも知れない。  そうすれば、上手くいったに違いないからである。  井崎は釈放されたが、前よりも事情は悪くなっているのではないだろうか。 「しかしねえ、カメさん。これは、私が井崎の友人だからいうんじゃなくて、どう考えても、井崎とは思えないんだ。理屈じゃなくて、これは勘なんだがね」 「井崎さんじゃないとすると、他の乗客の中に、犯人がいることになりますが」 「そうなるね」 「しかし、今までのところ、これはという人間は、見つかりませんね」 「そうだね」  と、十津川が肯いたとき、若い日下《くさか》刑事が、店のドアを開けて入って来た。  十津川が手をあげると、日下は近寄って来て、 「今、警部に電話がありました。『銀河』の乗客だったOLの小林みどりからです」 「用件は?」 「それを聞いたんですが、警部に直接話したいといっています。自宅からのようです」 「何か思い出してくれたのかも知れないな。電話はまだ、つながっているんだろう?」 「はい。警部を呼んでくるからといって、待って貰っています」 「すぐ行く」  十津川は立ち上り、亀井と一緒に店を出ると、駈け出した。  捜査本部に飛び込むと、机の上に横にしてある受話器をつかんだ。 「もし、もし。十津川ですが」  と、大声で呼んだが、応答はなかった。  切れてしまっているのだ。 「切れている」  と、亀井にいってから、 「彼女に、会ってくるよ」 「私も、一緒に行きます」  と、亀井もいい、二人は捜査本部を飛び出した。  わざわざ警察に電話してくるということは、きっと大事なことを思い出したに違いない。  それとも山田祐一郎のように、犯人から警告でも受けたのだろうか?  そう考えた時、十津川の胸を不安がよぎった。  小林みどりは、渋谷区|神泉《しんせん》のマンションに住んでいる。  十津川と亀井は、パトカーで駈けつけた。  エレベーターで、三階にあがる。  三階の端が、小林みどりの部屋の筈だった。  十津川が「小林」の表札──といっても、紙にサインペンで書いたものだが──を確認してから、インターホンを鳴らした。  返事がない。ないのが、当然かも知れなかった。十津川が、いくら電話をかけても、応答がなかったからだ。  ドアのノブに手をかけて廻してみたが、カギがかかっていて開かなかった。 「どこかに、出かけたんでしょうか?」  亀井がきいた。 「それにしては、メーターが廻り過ぎてるんじゃないかな」  十津川は、円筒形の電気メーターを指さした。  円筒は、勢いよく廻っている。暖房でも使っていなければ、こんなに早くは、廻らないだろう。 「つけ忘れたまま、外出してしまったんじゃありませんか?」 「そうならいいんだが──」 「何かあったと、お考えですか?」 「彼女は、何か大事なことを私に告げようとして、電話をかけてきた。それを受けて、日下君がすぐ喫茶店に呼びに来た。あの店は、四谷署の隣りだから五分とかからなかったろう。私と君が駈け戻った。十分とたっていなかった筈なのに、電話は、もう切れてしまっていた。大事な用があったのに、そのくらい待っただけで切ってしまうものだろうか?」 「そうですね。いったん切ったとしても、またかけてくると思いますね」 「管理人に、開けて貰おう」  十津川は、決断した。  ただ外出しただけのことなら、十津川が、彼女に謝罪すればいい。  亀井が、階下《した》へおりて行って、管理人を連れて来た。  眼鏡をかけた、気の良さそうな管理人はしきりに、 「無断で入り込んでいいんですか? いくら警察でも、まずいんじゃありませんか?」  と、くり返している。 「私が責任を持つよ」  十津川は、いった。 「本当に、大丈夫ですか?」 「構わないから、開けて下さい」  と、十津川は、管理人を促した。  管理人は、マスターキーを取り出して、ドアを開けた。  むっとする暖かさが、流れ出してきた。  ヒーターが、ずっとつけっ放しになっていたのだ。  明りもついている。  六畳に、バス、トイレ、キッチンがついた部屋だった。  しかし、最初に眼に入ったのは、そんな間取りではなく、畳の上に俯伏《うつぶ》せに倒れている女の姿だった。  テーブルの上には、電話が置いてある。  四角い花びんが、テーブルの上に横倒しになり、紅いバラの花が散乱している。流れ出た水は、まだ完全に乾き切ってはいなかった。  十津川は、倒れている女を抱き起こし、そっと仰向けにした。  やはり、小林みどりである。瞳孔が開き、鼻から細く血が流れ出ていた。  数時間前に会った時は、眼の大きな美しい顔をしていたのに、今は醜くゆがんでしまっている。  心臓も鼓動を止めてしまっている。 「絞殺ですね」  と、横から亀井がいった。 「多分、背後《うしろ》からくびを絞めたんだろう。指の痕《あと》がついている」 「あまり抵抗の跡がありませんね」  亀井は、部屋の中を見廻した。  花びんが倒れていることぐらいで、彼女の着ているワンピースも、さして乱れていない。  不意を襲われたのか、それとも顔見知りで無警戒でいるところを、いきなり絞殺されたのか。 「とにかく、鑑識を呼んでくれ」  と、十津川はいい、亀井が白手袋をはめた手で受話器をつまみあげるようにして連絡している間、キッチンやバスを見て廻った。  二十四歳の若い娘の部屋らしく、キッチンもきれいに片付いている。  赤で統一された小さな冷蔵庫、電気釜、オーブン、魔法びん。彼女が生きていた時は、きっと、生々と輝いていたに違いない。それが、今は、使う人を失って、ただ並んでいる。 (いったい、誰が?)  と、十津川は思う。  それは、一連の事件と関係があるのだろうか?  彼女は、その「銀河」のA寝台で、午前四時過ぎに足音を聞いた。  太田由美子を殺した犯人のかも知れない足音である。  だから、殺されたのか?  それとも、犯人にとって致命傷になるような何かを、彼女が思い出したので、殺されたのだろうか? (電話で何を話そうとしたのだろうか?)  それを知りたい。  鑑識がやって来た。  写真が撮られ、指紋の検出が行われる。  少しおくれて、大阪府警の三浦警部も駈けつけた。 「また、殺人ですか」  と、三浦は、うんざりした顔でいった。 「そうです。三人目の犠牲者です」 「絞殺というと、犯人は男ですかね?」 「恐らく、そうだろうね。腕力の強い女性かも知れませんが、小林みどりは、ごらんのようにかなり大柄ですからね。犯人は、男と考えた方がいいと思いますよ」 「犯人は、やはり『銀河』の乗客の一人ということでしょうね?」 「そう思いますね。彼女は、私に電話で何か話そうとしていて、殺されたんです」 「何をですかね?」 「わかりません。犯人にとって、まずいことだったかも知れませんね。彼女は『銀河』の車内で、犯人と思われる人間の足音を聞いているんです」 「それは、聞きましたよ」 「ひょっとすると、彼女は足音だけじゃなくて、カーテンの隙間から犯人を見たのかも知れません。それをいおうとしたんじゃないか」 「なぜ見たと思うんですか?」 「若い女は、みんな好奇心が強いものです。足音を聞けば、きっと、誰か見たくなったに違いありません。カーテンの隙間から、見えますからね」 「しかし、十津川さん。もし、彼女がカーテンの隙間からでも犯人を見ていたのなら、なぜ最初に会った時に話さなかったんでしょうか?」 「いろいろ考えられますね。ちらりと見ただけで、顔も背恰好もわからなかった。だから、いわなかったのかも知れません。しかし、今日になって、何か特徴みたいなものを思い出した。それで、私に電話して来たのかも知れません。或いは、見た相手が彼女の知っている人間だったということも考えられます。だから、私には、足音しか聞かなかったと嘘をついた。しかし今日になって、自分が殺されるかも知れないと、不安になって来て電話した──」 「しかし、肝心の本人が殺されてしまっては、いったい何を話したかったのか、知りようもありませんね」  三浦警部は、溜息をついた。 「何とかして、それを調べようじゃありませんか」  と、十津川はいった。     6  十津川は、被害者の友人の真田久仁子に、電話をかけた。  いきなり小林みどりの死を告げては、ショックが大き過ぎて、何も話が聞けない恐れがあった。  事件のことで、聞きたいことがあると、四谷署に来て貰ってから、小林みどりの殺されたことを告げた。  小柄な真田久仁子は、一瞬、ぽかんとした表情になり、そのあといやいやをするように首を振った。 「嘘なんでしょう? 彼女が死んだなんて──」 「残念ながら、本当です。みどりさんは、何かを警察に告げようとして殺されたんです。犯人を捕えるために、彼女が何を話したかったのか知りたいんです。協力して下さい。あなただって、みどりさんを殺した犯人を、捕えたいでしょう?」 「でも、彼女は、足音しか聞いていないんでしょう? そのことは、もう警察に話しているし──」 「今日は、Mデパートは休みではありませんね?」  と、十津川は、話を変えた。 「ええ。夕方の六時までやっていますわ」 「みどりさんは、今日は早退したんだろうか? 午前中にお会いして、電話をかけてきたのは、四時前でしたからね」 「今日、実は、みどりと仕事がすんでから、六本木のディスコヘ行くつもりだったんです。パッと気分を発散させようと思って。そしたら、急に午後から早退けしちゃったんです」 「理由をあなたにいいましたか?」 「売り場が違うんで、早退けしたのは、あとで知ったんですわ。それで心配になって、彼女の自宅に電話したんです。病気かも知れないと思って」 「それは何時頃ですか?」 「午後の三時の休憩の時ですわ」 「みどりさんはいましたか?」 「ええ。大丈夫かって、きいたら、別に身体が悪くて早退けしたんじゃなくて、これから人が来るんだといっていましたわ」 「人が来るといったんですか?」 「ええ」 「誰ですか?」 「私もきいたんですけど、明日出勤してから話すといって、電話を切ってしまったんです」 「あなたは、心当りはありませんか?」 「私は恋人かなと、思ったんですけど」 「みどりさんには、特定の恋人がいたんですか?」 「もう彼女がいないんだから、いっても構わないと思いますけど、奥さんのいる男性と愛し合っていたんですわ」 「ほう」 「私は、自分が傷つくだけだから、やめなさいといったんですけど、彼女は、夢中になっていたみたいですわ」 「どこの誰か、知っていますか?」 「ええ。通商省の課長さん」 「公務員ですか?」 「ええ。国立大学を出て、三十五歳で課長になったエリートですって。名前は星野貞祐《ほしのさだすけ》。奥さんは有名な代議士の娘さんなんですって。そんな男が、奥さんと別れて結婚してくれる筈がないでしょう? だから、もてあそばれるだけだからって、みどりに何度も注意したんです」 「しかし、彼女はいうことを聞かなかった?」 「ええ。でも最近、彼が冷たくなったって、憎んでいたんです。私は、むしろいい按配だと思っていたんですけど、彼女は、どうしても彼と別れられないといっていたんです。みどりとのことが噂になり出したものだから、彼が怖くなったんだと思いますわ。勝手な男ですもの」 「なるほど」 「そんなみどりの気持を、少しでも晴らしてあげようと思って、二人で京都へ行ったんですけど、彼女の気持は変らないみたいだし、その上、あんな事件に巻き込まれてしまって──」 「みどりさんは、その男に会うといっていたんですね?」 「名前はいいませんでしたけど、私は、彼のことをいっているんだと思いましたわ」  と、久仁子はいった。 (星野貞祐か)  十津川は、口の中で呟いてみた。  問題のA寝台の二十七名の乗客の中に、その名前はない。 (小林みどり殺しは、前の二件と全く関係がないのだろうか? しかし、彼女は、あの事件のことで、何か警察に知らせようとして殺されたのだが──)     7  翌日の十一日、日曜日。  十津川と亀井は、星野貞祐に会いに出かけた。  世田谷区|等々力《とどろき》にある宏壮な邸宅である。  課長の給料では、とうてい買えないから、妻の両親が、娘婿のために購入したものだろう。  前もって、電話でアポイントメントをとっておいたので、十津川たちは、すぐ応接室へ通された。  星野は、三十六歳になったところで、背の高い、なかなかの美男子だった。頭もいいに違いない。  妻の悠子《ゆうこ》が、お茶を出してから、ちらりと十津川を見た。 「私に、警察が、何のご用ですか?」  と、星野は、落着いた声できいた。 「実は、小林みどりさんが、昨日亡くなりましてね」  十津川がいうと、星野は、ほとんど無表情に、 「それが、私とどういう関係があるんですか?」 「彼女を知っていらっしゃると、聞いたものですからね。犯人逮捕に、協力して頂きたいのですよ」 「市民の義務として、協力は惜しみませんが、私は、たいした知り合いじゃありません。知ってはいますが、そんなに深いつき合いじゃありません。時たま、相談にのるくらいのものですよ」 「昨日の午後は、どこにいらっしゃいました? 午後四時から五時頃にかけてですが」 「つまり、私のアリバイということですか?」  星野は、皮肉な眼付きになった。 「まあ、そういうことです。昨日は、土曜日で、勤務は午前中ですから、すぐ帰宅されたわけですか?」 「いや、三時頃まで役所にいましたよ。いろいろと、やらなければならない仕事がありますからね。これは、上司の局長が証言してくれる筈です。そのあと、家に帰りました。帰宅したのは、四時半頃でしたね。この時刻は、家内に聞いて貰えば、確認されると思いますよ」 「そのあとは、どこにも出かけられなかったんですか?」 「ええ。出かけていません」 「小林みどりさんと親しくしていたと聞きましたが、事実ですか?」 「知っていることは認めますが、そんなに親しいというわけじゃありませんよ」  星野は、眉をひそめていった。 「最初に会われたのはいつ頃ですか?」 「そんなことまで、話さなければならんのですか?」 「一応、話して頂きたいですね」 「彼女は、Mデパートに勤めていましてね」 「それは知っています」 「あのデパートの創業百年記念のパーティが去年ありましてね。私も社長と親しくしているので、招待されました。その会場で、接待役をしていた彼女と知り合ったんですよ。それ以来です」 「男女の関係まで、行っていたわけですか?」 「それについては、ノーコメントです。とにかく、今はもう醒めてしまった仲だし、その相手が亡くなったからといって、あれこれいわれるのは迷惑ですな」 「しかし、彼女の友だちは、今でもあなたとの仲が続いていた筈だといっていますがね」 「それは、勝手にそう思っているだけでしょう」  星野は、小さく笑った。 「みどりさんは、五日の寝台急行『銀河』に乗って、事件にぶつかっています。そのことはご存知ですか?」 「事件のことは新聞で見ましたから、知っていますよ」 「みどりさんが乗っていたことはどうですか?」 「そういえば、昨日、役所に電話がかかって来ましたね」 「何時頃ですか?」 「私が帰りかけていたから、三時近くだったと思いますね」 「どんな内容の電話だったんですか?」 「その時初めて、その列車に乗っていたことをいいましてね。殺人を犯した犯人について、思い出したことがある。それを、警察に連絡した方がいいかどうかを相談して来たんです。事件に巻き込まれるのは嫌だし、警察には協力したいし、ということでしたね」 「それで、何と返事をされたんですか?」 「よく考えて行動しなさいと、いってやりましたよ。多分、警察に連絡するだろうと思っていましたがね。連絡しなかったんですか?」 「連絡しかけて殺されてしまったんですよ」 「すると、私の忠告がまずかったことになりますかね。そうだとすると、彼女に申しわけないことをしたことになるんだが──」 「その頃、彼女の友だちもみどりさんに電話しているんですが、みどりさんは、これから人が来るといっていたそうなんです。それは、失礼ですが、あなたじゃなかったんですか?」 「とんでもない。私は、そんな電話はしませんよ。今いったように、よく考えてみなさいといっただけです。少し冷たいいい方だとは思いましたが、局長と大事な話合いの途中でしたのでね」 「絶対に、彼女のマンションには行っていないということですか?」 「そうです」 「もう一つ伺いますが、寝台急行『銀河』に乗られたことがありますか?」 「いや、私は夜行列車というのが嫌いですからね。新幹線か飛行機を使います」 「十一月五日の夜、東京を発《た》った『銀河』にはお乗りにならなかった?」 「事件のあった列車ですね」 「そうです」 「もちろん乗りませんよ」  星野は、小さく首をすくめて見せた。  十津川と亀井は、礼をいって立ち上った。  廊下に出ると、待っていたように星野の妻が送りに出て来た。 「お帰りでございますか」  と、静かな口調でいった。 (立ち聞きしていたのではないか?)  十津川は、ふとそう思った。 「お邪魔しました」  と、十津川はいい、亀井と、彼女に向って頭を下げた。  道路にとめておいた車に戻った。 「ああいう男は、どうも苦手ですね」  亀井は、運転席に腰を下してから、十津川に向ってぼやいた。 「どうしてだい?」 「何を考えているのかわかりませんからね。それに、あの奥さんは、星野が浮気していたのを知ってたんですかね?」 「少くとも、今は知ってるだろう。われわれが、事情を聞きに、旦那に会いに来たからね。ただ、ああいう女性は、旦那の浮気を知っても、騒ぎ立てたりはしないんじゃないかね」 「じっと黙っていて、浮気の相手を殺しますか?」 「かも知れないね」 「すると、われわれは、星野ばかりマークしましたが、奥さんの方もマークする必要があるかも知れませんね」 「女で首を絞められるかな?」 「嫉妬に狂えば火事場の馬鹿力で、女でも絞殺は可能なんじゃありませんか。それに、被害者にしても、男の奥さんがやって来たら、部屋にあげて話を聞かざるを得ないんじゃありませんか?」  亀井は、車を発進させた。 「どうも、容疑者が多くなり過ぎたね」  と、十津川は、助手席で煙草に火をつけた。禁煙しようと思うのだが、事件が起き、難しい局面になってくると、どうしても、気分を落着けるために、煙草に手が伸びてしまう。  車にゆられながら、十津川は、頭の中で今までのことを反芻《はんすう》してみた。  十一月五日の二二時四五分、東京発の寝台急行「銀河」のA寝台で太田由美子が殺された。  容疑者第一号は、彼女と関係のあった、十津川の友人の井崎勉だった。  井崎が起訴されかけたとき、大阪府警本部に、犯人しか知らない事実を書いたワープロの手紙と、ネックレスが届き、井崎は釈放された。  だが、大阪府警は、その手紙も井崎が計画したものではないかと疑っている。  現に、山田祐一郎が殺された。彼は、太田由美子の向いの席、A13上にいた乗客で、何かを見たと思われて犯人に殺された。  そして、今度は同じ「銀河」の乗客だった小林みどりである。彼女は、犯人のものと思われる足音を聞いていて、更に何かを十津川に話そうとしていた。  この殺しについては、彼女がつき合っていた星野貞祐とその妻の悠子が、容疑者として浮んできた。  だが、星野夫婦は、あのA寝台の乗客リストには入っていない。  もし、星野夫婦が犯人なら、この事件は、前の一連の事件とは無関係ということになってしまう。果してそうなのだろうか?  違う、十津川は思う。  小林みどりは、「銀河」で起きた事件について何か話そうとして、殺されたのだ。とすれば、太田由美子と山田祐一郎を殺した犯人が、小林みどりをも殺したと考えるのが自然ではないか。  しかし、そうなってくると、星野夫婦は、無実になる。何しろ、「銀河」のA寝台には乗っていなかったからである。 「わからん」  と、十津川は、声に出して呟いた。  捜査本部に戻ると、真田久仁子が待っていた。  若い日下刑事とお喋りをしていた久仁子は、十津川を見ると、 「どうでした?」  と、真剣な表情できいた。  十津川は、椅子に腰を下してから、 「今日は、ただ星野さんに会って、話を聞いただけのことですからね」  と、久仁子にいった。それでも、 「彼が、みどりを殺したんですか?」  と、久仁子は、せっかちなきき方をした。 「それは、まだわかりませんね。ただ、みどりさんは、『銀河』で太田由美子さんを殺した犯人について、何かを私に連絡しようとして殺されたと思われるのです。そうすると、問題のA寝台の乗客リストにない星野さんは、シロということになるんですよ」 「そうなんですか──」 「あなたは、本当にみどりさんから、何も聞いていないんですか? 彼女が私に何をいいたかったのか?」  十津川が、逆にきいた。 「ええ。でも──」 「でも、何です?」 「五日に乗った『銀河』のことで、いろいろと考えていたことは確かですわ。もう一度乗ってみたら、何かわかるかも知れないっていってましたもの」 「乗らないでも、何かわかったから、私に連絡しようとしたのかな?」 「ええ。そうかも知れませんわ」 「京都は楽しかったですか?」  急に十津川が話題を変えたので、久仁子は、「え?」という顔になった。 「京都ですか?」 「京都で、二日間、見物して廻ったんでしょう? みどりさんのために」 「ええ。そうですわ」 「どんなところを見物したんですか?」 「出発するときから、見て廻るところは、決めていたんです。二日間といっても、七日の夜に、上りの『銀河』に乗らなければならないからですわ」 「なるほど」 「それで観光案内なんかを見て、六日はこことここ、七日はどの辺と決めてたんですけど──」 「上手くいかなかったんですか?」 「京都へ着いたら、みどりが、急に予定になかったところへ行きたいといい出したんですわ」 「京都のどこへですか?」 「野宮《ののみや》神社。知っています?」 「いや。私も二回ほど京都へ行っていますが、知りませんね」 「嵯峨野《さがの》にある小さな神社ですわ。紅葉が素敵だったし、観光客も少くて静かでしたけど、みどりがどうしても最初にそこへ行きたいというものだから、折角組んだ予定が、すっかり狂ってしまったんです」 「みどりさんが、なぜその野宮神社へ行くといい張ったのか、その理由をいいましたか?」 「いいえ。きいたんですけど、いいませんでしたわ」 「京都へ着くまでは、二人で立てた計画どおりに見物することになっていたんでしょう?」 「ええ」 「その中に、野宮神社は入っていなかったんですね?」 「ええ。もちろん。二日間しかないんですもの。金閣寺とか、清水寺とか、御所とか、有名なところを廻るだけで精一杯なんです」 「そうでしょうね」  十津川が肯くと、久仁子は、京都見物の話など、どうでもいいという様子で、 「みどりは、東京で殺されたんです。早く犯人を捕えて下さい」  と、いった。     8  翌、十二日、月曜日。  十津川たちは、通商省へ出かけ、星野貞祐の上司である局長に会った。  星野の証言が本当かどうか、確認したかったからである。  青木という局長に、局長室で会った。  十津川の質問に対して、青木は、 「一昨日の土曜日は、星野君に三時まで残って貰いましてね。仕事の打ち合せをやりました」 「その途中で、星野さんに、外から電話がかかって来ませんでしたか?」 「ああ、電話がありましたね」 「女性からの電話でしたか?」  十津川がきくと、青木は笑って、 「私が出たわけじゃないのでね」  といってから、インターホンで、 「笠田君」  と、局長付きの女性を呼んだ。  隣りの部屋に通じるドアが開いて、眼鏡をかけた二十七、八歳の女性が入って来た。 「土曜日は、君にも残って貰ったんだが、三時頃、星野課長に電話があったろう?」  青木がきくと、笠田という女性は、ちらりと、十津川と亀井に眼をやってから、 「はい。ございました」 「女性だったかね?」 「はい」 「名前はわかりますか?」  と、亀井がきいた。 「確か、小林みどりというお名前でした。星野課長は、局長とお話中ですといったんですけど、大事なことだから、どうしても呼んで欲しいといわれるものですから、課長をお呼び致しました」 「電話の内容は、わかりませんか?」  亀井がきくと、相手はぴしゃりと、 「わかりませんわ。本人の星野課長にお聞きになったらいかがでしょう?」  と、いわれてしまった。かなり気の強い女性らしい。 「その電話があってから、すぐ帰られたんですね?」  十津川が、青木にきいた。 「そうです。私も、星野君も帰りました。仕事がすみましたからね」 「電話のあと、星野さんの様子に、何か変った様子はありませんでしたか? 何となく落着きを失っていたとか、顔色が蒼かったとかですが」 「いや、別に変った様子はなかったですよ」 「どこまでか、星野さんと一緒に帰られたんですか?」 「いや、私は車があるし、彼は地下鉄で帰りましたね」 「もう一つ、おききしますが、十一月五日と六日は、星野さんは、いつも通り出勤していたでしょうか?」 「していた筈ですよ。このところ、彼は、ずっと休まずに来ていましたからね」  と、青木局長はいった。  十津川と亀井は、ただ星野の証言を確認しただけで、捜査本部に帰ることになった。  三十分ほどして、大阪府警の三浦警部も、外から帰って来た。 「井崎勉の会社へ行って、彼に会って来ましたよ」  と、十津川にいった。 「小林みどりが殺された件でのアリバイ調べですか?」 「そうです。私にはどうしても、『銀河』のA寝台で始まった三つの事件は、同じ犯人によるものとしか思えないのです。そうなると、十津川さんには悪いんですが、やはり、井崎勉をマークせざるを得ないんですよ」 「わかりますよ」  と、十津川はいった。  彼自身だって、井崎に対する疑惑を捨ててはいないのだ。 「それで、井崎のアリバイはどうでした?」 「彼の会社は週休二日で、土曜日は休みです。彼の証言によると、ずっと自分のマンションにいた。昼頃、食事をするために外へ出て、近所のそば屋で食事をし、そのあと、気晴らしにパチンコをやった。マンションに戻ったのは、二時半頃で、そのあとは、ずっとテレビを見ていたというのです。これでは、アリバイは成立しません」 「そうですか」 「大阪府警としては、どうしても、井崎勉を三つの殺人について、第一の容疑者と考えざるを得ません」  と、三浦はいった。     9  何の進展もないままに十三日が過ぎ、十四日になった。  十一月十四日、水曜日である。  寝台急行「銀河」のA寝台で太田由美子が殺されてから、すでに一週間がたってしまったことになる。  新聞やテレビなどが派手に書き立てたが、十津川たちも、まだ、犯人の目星がつけられずにいた。  大阪府警の三浦警部は、大阪へ帰った。  三浦をはじめとして、大阪府警は、いぜんとして、井崎勉を三つの事件の犯人と考えているようだが、決定的な証拠がつかめないせいで、逮捕に踏み切ってはいない。  十津川たちは、星野貞祐を容疑者の一人と考えた。  しかし、彼は五日、六日とも、通商省にきちんと出勤していた。ということは、彼は五日夜に東京駅を出た「銀河」には、乗らなかったことになるだろう。  そうなると、小林みどり殺しについては容疑が濃いが、他の二件については、シロになってしまうのだ。  三つの殺人事件について同一犯人説をとる限り、星野貞祐を逮捕は出来ない。  捜査は壁にぶつかってしまったのである。  午後から雨が降り出した。  捜査本部の二階で、十津川は、窓の外に降りしきる雨足を見ていた。 「カメさんは、雨はどうだい?」 「あまり好きじゃありませんね。むしろ、雪やみぞれの方が好きだな」  亀井も、じっと窓の外を見つめている。 「そういえば、カメさんの故郷の青森は、もう雪が降ったんじゃないのか?」 「四、五日前に降ったそうです」  と、亀井はいった。  十津川は東京に生れ育ったが、それでも雨は嫌いである。  これといった、はっきりした理由はない。ただ、嫌なのだ。  幸い、夕方近くに雨はあがり、雲が切れてきた。しかし、気温が下って、寒くなった。  午後十一時を廻ったとき、事件発生の知らせが入った。 「銀河」で始まった事件を追う十津川たちとは関係がないと思っていたのだが、発見された死体が、真田久仁子とわかって緊張した。  すぐ、十津川と亀井が、パトカーで、現場である新宿西口の中央公園へ駈けつけた。  新宿署のすぐ近くである。  夏の間、夜はアベックで一杯の公園だが、十一月中旬の今の季節では、ほとんど人影がなかった。  真田久仁子は、枯れた草むらに、仰向けに倒れた形で死んでいた。  投光器のまばゆい明りの中で、小柄な彼女の身体が浮きあがって見える。 「また、絞殺ですね」  亀井が、十津川にいった。 「これで四人目か。男の山田祐一郎はナイフで刺されたが、あとの女性たちは、全部絞殺だな」と、十津川もいった。  発見者はサラリーマンで、近道をしようとして公園を横切っていて、発見したのだという。 「やはり、これも一連の事件の一つでしょうか?」  亀井がきいた。 「恐らくね。しかし、そうだとすると、犯人は、なぜこの真田久仁子を殺《や》ったんだろうか?」  第四章 一枚の切符     1  真田久仁子は、新宿中央公園で誰かに会い、その相手に殺されたに違いない。  誰に、何のために会ったのだろうか?  それが問題だった。  遺体は、解剖のために、K大病院に運ばれた。  十津川と亀井は、現場に立って、周囲を見廻していた。  すでに十二時を過ぎ、冷気が痛いくらいである。吐く息が白くなる。 「新聞やテレビが、騒ぎ立てるでしょうな」  亀井が、溜息をついた。  どんな見出しになるか、十津川にも想像がつく。 〈寝台急行「銀河」の乗客から、また犠牲者!〉 〈呪《のろ》われた乗客たち。これで四人目!〉  そんな見出しになるだろう。  そして、警察の無能が、叩かれるのだ。  新聞や週刊誌の中には、どうして調べたのか、A寝台の乗客の名前を調べあげ、談話を取ってのせているものもあった。  明日の夕刊には、そんな乗客の談話ものるだろう。早く警察が犯人を捕えてくれないと、不安で仕方がないというコメントが。  二人は、他の刑事たちと、真田久仁子が持っていたに違いないハンドバッグを探した。  全員が、懐中電灯をつけ、這うようにして公園内を探し廻った。  見つかったのは、二十分近くたってからである。  彼女が倒れていた場所から、十五、六メートル離れた樹の根の傍に転がっていたのである。  なぜ離れた場所に落ちていたのか、いろいろと理由が考えられた。  犯人に最初に襲われたとき、彼女はハンドバッグを振り回して抵抗した。そのあと逃げたが、十五、六メートルしか逃げられず、つかまって絞殺されたとも考えられる。  或いは、犯人が殺したあと、浮浪者がハンドバッグを盗んだが、人が来たので、あわてて放り投げて逃げたということも、考えられる。  十津川は、そのハンドバッグの中身を懐中電灯で照らしながら、亀井と調べてみた。  財布、運転免許証、口紅、ハンカチ、仁丹などが入っている。  運転免許証は、間違いなく、真田久仁子のものだった。  財布には、三万二千円ほど入っていたが、その他に、折りたたんだ紙が見つかった。  十津川は、それを抜き出して広げてみた。 (ほう)  という顔になったのは、それが、寝台急行「銀河」のA寝台の切符だったからである。  ひょっとすると、十一月五日のA寝台、A14上の切符ではないかと思ったのだが、違っていた。  一昨日、十二日、月曜日の「銀河」の切符である。 「銀河」のA寝台A6上の、大阪までの切符だった。  ハサミが入っていないところをみると、買ったが、使わなかったのだろう。  真田久仁子の財布に、折って入っていたところを見ると、彼女が買ったということになる。  ただ、買っただけなのか?  それとも、火曜日が休みなので、一昨日の二二時四五分発の寝台急行「銀河」に、彼女は乗ったのだろうか?  十津川は、捜査本部に帰ってから、亀井に切符を見せた。 「カメさんは、これをどう思うね?」 「そうですねえ。まず、この切符を真田久仁子が買ったことは、間違いないと思います」 「問題はその先だよ。カメさん」 「彼女は、きっと、もう一度『銀河』に乗ってみようと思ったんでしょう。事件のあったA寝台にです。乗ってみれば、何か思い出すって考えたんじゃないでしょうか。何かわかれば、親友の小林みどりが、なぜ、誰に殺されたかわかると、思ったのかも知れません。そこで、この切符を買った。ところが、実際には乗らなかったのか」 「うん」 「それとも、もう一枚切符を買って、実際に一昨日、『銀河』に乗ったのか」 「私は、実際に、一昨日『銀河』に乗ったと思うんだよ。だから、殺されたんじゃないかとね」 「すると、このA6上の切符は、余分に買ったと?」 「ああ。五日の『銀河』は、A14上の席だけが空いていた。しかも、その席の切符は、誰かが、買っていたんだ。そのことはテレビのニュースで流したから、真田久仁子も知っていたはずだ。多分彼女は、事件のあった日と同じ状況を作ってみたいと思ったんだろう。だから、出来ればA14上の切符を買って、その席を空けておきたかったと思うね。だが多分、この席は、もう売れてしまっていたのだろう。だから、A6上の切符になった」 「そうしておいて、彼女は、A寝台の切符をもう一枚買って、一昨日『銀河』に乗ったということですか?」 「その結果、彼女は、何かをつかんだとも考えられる。小林みどりが、私に何をいいたかったのか気付いたのかも知れない。わかって、新幹線で帰京して、犯人に口を封じられたのか」 「何か気付いたのなら、なぜ、すぐわれわれに話してくれなかったんでしょうか?」 「話そうとしたのかも知れないよ。真田久仁子は、ここへ来ようとしていて、途中で犯人に捕まり、中央公園へ連れ込まれてしまったとも考えられるからね」 「そうですね」 「問題は、彼女が、何かに気付いたとして、それが何かということだな」 「彼女が、もう一度、『銀河』のA寝台に乗って何かに気付いたとすると、犯人はやはり、事件の日のA寝台の乗客の中にいるということになりますね」  亀井は、黒板に書いてある二十七人の名前に眼をやった。  その中、すでに、太田由美子、山田祐一郎、小林みどり、そして、真田久仁子の四人の名前には、×印がつけられている。  残りの二十三名の中に、犯人がいるのだろうか? 「大阪府警は、そろそろ、井崎が怪しいというだろうね」  と、十津川は、いった。 「星野貞祐は、消えますね。残念ですが」  亀井が、いった。 「明日、出来れば、十二日発の『銀河』の車掌に会ってみようじゃないか。真田久仁子が、われわれの想像するように、十二日に、もう一度『銀河』に乗ったかどうか、確認するんだ。彼女が、何に気付いたかを考えるのは、そのあとでいいだろう」  十津川が、そういった。     2  十一月十二日東京発の『銀河』に乗務した車掌長や専務車掌は、東京に引き返していて、東京駅で会うことが出来た。  十津川と亀井が会ったのは、A寝台の車内改札をした西尾専務車掌と、もう一人、後藤車掌長である。 「まず、十二日の『銀河』について、お聞きしたいんですが、A寝台は、どのくらいの混みようだったんですか?」  と、十津川がきいた。 「満席でした」  と、答えたのは、車掌長の後藤である。 「車内改札は、どの辺りでやるんですか?」  亀井がきくと、今度は、西尾専務車掌が、 「二二時四五分という遅い発車ですので、東京駅で、乗ってくるとすぐ寝台に横になって、カーテンを閉められる客がいるんです。それで、発車前から車内改札をやっています」 「A6上の席は、ずっと空いていたんじゃありませんか?」 「A6上の席は、大阪まで、東京で切符が売れているんですが、乗って来ませんでしたね。払戻しもされていません」 「A寝台に、この女性が乗っていませんでしたか?」  十津川は、用意してきた真田久仁子の写真を、二人に見せた。  いろいろな角度から撮ったものを五枚、彼女のアルバムから剥がして、持ってきたのである。  西尾と後藤は、五枚の写真を、丁寧に見ていたが、 「いや、見ませんでしたよ」  と、西尾がいい、後藤も肯いた。  十津川と亀井は、当てが外れて、顔を見合せてしまった。 「間違いありませんか?」  十津川が、念を押した。 「間違いありません。この人は見ませんでしたね」 「乗ったとすれば、東京からの筈なんですが、いませんでしたか?」 「A寝台の女性の乗客は、五人だけでしたが、その中に、この方はいませんでした」  西尾専務車掌は、きっぱりといった。  西尾も、車掌長の後藤も、二十年以上のベテランだというから、その言葉に間違いはないだろう。  十津川は、二人に礼をいって別れると、今度は、真田久仁子が、A6上の切符を、いつ、どこで買ったかを、調べることにした。  久仁子は、この切符を、東京駅の窓口で、十一日に買っていることがわかった。  しかし、だからといって、何か新しいことがわかったわけではなかった。窓口でも、久仁子が買ったという確証が得られたわけでもない。  ただ、A6上の切符が、十一日に、東京駅の窓口で売られた事実が、わかっただけのことである。  十津川と亀井は、失望して、捜査本部へ戻った。  真田久仁子が、十一日、つまり、前日にA6上の切符を買ったことは、まず間違いない。  十津川たちは、彼女が、もう一枚A寝台の切符を買って、十二日発の「銀河」に乗ったと考えたのである。  この推理は、間違いないという自信があったのだが、それが違っていたらしい。  当日の二人の車掌の証言の通りなら、久仁子は、十二日の「銀河」のA寝台に乗っていなかったのだ。 「わからんな」  と、十津川は、声に出していった。  亀井は、二つのカップを並べ、それにインスタントコーヒーを注ぎながら、 「真田久仁子の行動がですか?」 「そうだよ。私には、彼女が、事件のあった『銀河』のA寝台と、同じ状況を作ろうと考えたんだと思ったんだよ。だから、わざわざ二枚切符を買って、一つ空けておいたんじゃないかと思ったんだ」 「しかし、彼女は乗らなかった──」 「なぜかな?」 「切符が、二枚買えなかったんじゃありませんか」 「もう一度、問い合せてみよう」  十津川は、東京駅の窓口に電話をして、十一日にA6上の切符が売られたとき、他の席は、全て売り切れていたのかどうか聞いてみた。  答は、違っていた。  あと一つ、A12上が、売れ残っていたというのである。  だが、A6上の切符を買った人は、その切符一枚しか買っていないという。  十津川は、失望が重なるのを感じた。  真田久仁子は、五日と同じ状況を作ろうと考えたのではなかったらしい。  しかも、折角一枚買ったA6上は、使わなかったらしい。 「十二日の『銀河』に乗る筈で、A6上の席を買ったが、当日になって用が出来て、乗れなかったんじゃありませんか」  亀井は、コーヒーをかき廻しながら、十津川にいった。 「そう考えるより仕方がないんだが、もしそうだとすると、彼女は、なぜ殺されたんだろうねえ」  と、十津川が、首をひねった。  久仁子が、一連の事件とは無関係に殺されたとは、考えにくい。 「彼女は、再び『銀河』に乗ることなしに、事件の真相に気付いたということは考えられませんか。それで、怖くなった犯人が、殺してしまったと──」 「しかしねえ。カメさん」  十津川は、難しい顔で、コーヒーを口に運んだ。 「先に殺された小林みどりは、事件のあった『銀河』のA寝台で、犯人のものと思われる足音を聞いたんだ。しかも、犯行が起きたと思われる時刻にだよ。だから、他にも、犯人にとって都合の悪いことを、見たり、聞いたりした可能性がある。事実、私に何か連絡しようとしていて、殺された。それに反して、真田久仁子の方は、事件のあった頃、ぐっすり眠っていたといっていた。親友のみどりが死んだときも、何かを思い出したという気配はなかったから、犯人にとって不利になるようなことは、見も、聞きも、していなかったと思うね」 「そうなると、彼女が、口封じに殺されたとは、考えにくいですね」  と、亀井もいう。 「彼女が、もう一度『銀河』に乗ったとしたら、そうすることで何かに気付いたかも知れないと思うよ。しかし、実際に乗らなかったとなるとねえ」 「すると、二つのことしか考えられませんね」  と、亀井がいった。 「どんなことだい? カメさん」 「一つは、過去の三つの殺人事件とは、全く関係なく、別の人間が彼女を殺したということです。動機は、わかりませんが」 「その可能性は、まずないね」 「もう一つは、一連の事件と同一犯人だが、久仁子が、何かに気付いたから殺したのではなく、犯人の方が、勝手に思い込んで殺してしまったんじゃないかということなんですが」 「なるほどね」 「久仁子は、事件のあった『銀河』の中では、何も見なかった。しかし、親友のみどりが殺された時、犯人を見たとでもいって、犯人にはったりをかませたんじゃないでしょうかね? それを犯人は、真に受けて、口を封じようと首をしめた──」 「ちょっと待ってくれよ。カメさん」  と、十津川は、コーヒーカップを置いて亀井を見た。 「君のいう通りだとすると、久仁子は、みどりを殺したのは誰と決めつけていて、その人間に対して、はったりをかませたことになるよ」 「そうですね」 「すると犯人は、通商省の星野貞祐になってしまうんじゃないか。久仁子は、彼がみどりを殺したと思っていたようだからね」 「そうなりますね」 「しかし、カメさん。星野は、事件のあった『銀河』のA寝台には、乗っていないんだ。乗客二十七人については、全員について追跡調査をしているから、星野が、他人の名前をかたってA寝台に乗っていたことは、あり得ないからね。しかも、五日、六日とも、彼は、ちゃんと通商省に出勤している」 「駄目ですか──」  亀井は、肩をすくめた。     3  十五日の午後になって、真田久仁子の解剖結果が出た。  やはり絞殺で、死亡推定時刻は、十四日の午後九時から十時までの間ということだった。  井崎勉と星野貞祐のアリバイが調べられたが、どちらも、その時刻には、会社と役所から家に帰っていたと証言した。  星野の場合は、妻の悠子も、その時刻には夫が帰宅していたといった。  井崎は、ひとりでマンションに帰っていたから、彼のアリバイの証言者はいない。  午後六時から四谷署で開かれた何回目かの捜査会議では、二人の不確かなアリバイが報告された。星野の場合でも、妻の証言は、信用できないからである。 「犯人は、この二人にしぼられているのかね?」  本多捜査一課長が、十津川にきいた。 「いえ、そうもいえません。特に星野の場合は、五日の『銀河』のA寝台には乗っていませんから、一連の事件の犯人とは、考えにくいのです。ですから、他の乗客も、犯人の可能性があるわけです」  と、十津川は、いった。 「切符を買ったのに、空いたままにされていた席のことは、どう考えているのかね?」  本多がきくと、十津川は、 「実は、今一番、頭を悩ましているのが、そのことなんです」 「どう難しいのかね?」 「さっき、国鉄側に問い合せてみたのです。下りの寝台急行『銀河』だけに限定してですが、A寝台の席を買っておいて客は乗って来なくて、しかも、払い戻しをしなかったことがあるのかとです」 「その返事は?」 「今年は、すでに十一月ですから、一月から今日まで、『銀河』は、三百回以上走っているわけです。しかし、A寝台に関していえば、切符を買って、乗らず、しかも、払い戻しも受けなかったのは、たった二件しかなかったというのです。その二件というのが、五日のA14上と、十二日のA6上だけなのですよ」 「つまり、それは偶然ではなく、何か作為が感じられるということだね?」 「その通りです。もし五日の分が、犯人によって買われたとすると、犯人は、そのA14上を、殺人に、何かの意味で利用したのではないかと思いますね。十二日の分は、真田久仁子が五日と同じ状況を作り、そうやってあの夜のことを思い出そうとしたんだと、私は、考えたわけです。ところが彼女は、十二日に乗っていないんです。参りました」  と、十津川は、正直にいった。  捜査本部長の四谷署長が、特に発言を求めた。 「連日のように、新聞記者から、犯人の目星はついたのかと責められている。今日も、このあと記者会見をしなければならないんだ。何しろ、すでに四人もの人間が、殺されていて、同一犯人によるものと思われているのに、犯人の目星もつかないというのでは、警察の信用にもかかわる。国鉄からも、一刻も早く、犯人を逮捕してくれという要請が来ているんだ。諸君が、全力をつくしてくれていることはわかっているが、更に努力をつくして欲しい」  と、署長はいった。  十津川にも、マスコミの攻勢が激しいことは、わかっている。  五日に東京駅を出発した「銀河」のA寝台の乗客が、一人、二人と殺されていき、すでに四人になった。  テレビや、新聞が、犯人を見つけるのは、簡単だろうというのも肯けなくはない。警察は、何をもたもたしているのだと文句をいうのも、わかるのだ。  事件の日、A寝台には、二十七人の乗客があった。  その中、四人が殺された。テレビや新聞は、二十七人から四人を引いた二十三人の中に犯人がいるのだから、簡単に犯人を見つけられると思っている。 「大阪府警は、いぜんとして、五日に同じA寝台に乗っていた井崎勉を、犯人と考えているようだね」  と、署長がいった。 「十津川君は、それをどう思うね?」 「容疑者の一人だとは、思っています」  十津川は、即座にいった。 「大阪府警は、かなり自信を持っているようだがね」 「状況証拠は、いくつかあります。しかし、決定的な証拠はありません。それで、大阪府警も、逮捕に踏み切れないんだと思っています」 「星野貞祐にも、決定的な証拠は、ないんだろう?」 「そうです」 「すると、捜査は、壁にぶつかってしまったということか。しかし、四人も犠牲者が出ているのに、記者会見で、壁にぶつかってしまったとはいえんなあ」  署長が、溜息をついた。 「犯人の逮捕は、時間の問題だといって下さって結構です」  と、十津川がいった。  署長は、びっくりした顔で、 「しかし、壁にぶつかっているんだろう? 警察は、はったりはいえないがね」 「わかっています。確かに、壁にもぶつかっています。ただ、今度の事件は、何かきっかけさえあれば、簡単に解決してしまうことも考えられるんです」     4  翌日の朝刊に、十津川の発言が、そのままのった。 〈強気の捜査本部「犯人逮捕は、時間の問題」と強調〉 「大丈夫ですか? 警部」  と、朝刊を見ながら、亀井が心配そうにきいた。 「昨日もいったように、今度の事件は、ある瞬間、簡単に解決してしまうような気がするんだよ。だから、時間の問題なのかも知れないし、逆に、ひどく長引くかも知れない。私は、ただ、時間の問題の方に賭けただけさ」 「まだこれからも、A寝台の乗客が殺されると思われますか?」 「それを防ぐのも、私たちの仕事だよ」  と、十津川はいった。 「これから、どうしますか?」 「われわれも一度、寝台急行『銀河』に乗ってみたいね。何か気がつくかも知れない」 「すぐ切符の手配をしましょう。今夜の列車の切符が、手に入るかどうかわかりませんが」 「明日以後でもいいから、私とカメさんの切符と、余分にもう一枚、とって貰いたいんだ」 「事件のときの『銀河』のようにですね。わかりました。すぐ東京駅へ行って、手配して来ます」  亀井は、自分で出かけて行った。  十津川は、ひとりになると、改めて、黒板に書いてある名前に眼をやった。  二十七名の中、四名が死亡した。  残りの二十三名について、十津川たちは、ひとりひとりに会って来た。  大阪が住所の乗客については、大阪府警が調べてくれたし、横浜や大船の乗客は、神奈川県警がやってくれた。  犯人らしい人間の足音を聞いたのは、小林みどりだったが、他の乗客は、問題の時刻にはほとんど眠っていて、事件の参考になるような証言は得られなかった。  乗客の中には、まだ話を聞いていない人が三人いた。  三十五歳の母親と、三歳の女の子、それに中一の男の子の、三人の親子だった。  この三人に、訊問出来なかったのは、母親が七日に帰宅してから発熱して、寝込んでしまったことがあったし、どう考えても、この親子が太田由美子を殺したとは、思えなかったからでもある。  太田由美子は、同じA寝台だから殺すチャンスがあったろうが、そのあと殺された山田祐一郎や、小林みどりなどについては、この母親は、その時高熱で寝ていたことは、医者が証言してくれている。  彼女が全快したと聞いて、十津川は、若い日下刑事を連れて、会いに出かけた。  家は、京王線の芦花公園駅から、歩いて十五、六分ほどのところにあった。  まだどこか、武蔵野の面影が少しは残っている場所である。  同じような、こぢんまりした二階建の住宅が並んでいる。その一軒に、「新見《にいみ》」の表札がかかっているのを確かめてから、十津川は、ベルを押した。  彼女の名前は、新見かな子。夫はサラリーマンだということだった。  かな子が、玄関を開け、十津川と日下を、居間に通してくれた。 「もう、お身体は、いいんですか?」  心配して十津川がきくと、かな子は、お茶をいれながら、 「ありがとうございます。もう大丈夫ですわ」  と、いった。  可愛らしい女の子が入って来て、かな子の後に立って、じっと十津川を見ている。 「一緒に、『銀河』に乗ったお嬢さんですか?」  十津川がきくと、かな子は、その子を抱きあげて、 「ええ。奈美です」 「もう一人、息子さんも一緒だったと聞きましたが」 「中一の慎一郎ですわ。今日は、まだ学校から帰って来ておりませんけど」 「確か、大阪へ行かれたんでしたね?」 「はい。大阪に、私の両親が住んでいるんです。母が病気で寝てしまったものですから、子供を連れて見舞いに行ったんですわ。そうしたら却って、今度は私が熱を出してしまって──」 「お母さんの病気は、どうだったんですか?」  日下が、きいた。 「それが、重病だと思ったら、たいしたことなかったんです」  と、かな子は笑った。 「なぜ、『銀河』を利用されたんですか? 飛行機か新幹線を使わずに」 「私、飛行機が怖いんです。それに息子が、寝台列車に乗りたいというものですから」 「なるほど。それで、これからが本題ですが、五日発の『銀河』に乗られてから、午前四時から五時にかけて、A寝台で、何か気付かれたことは、ありませんか?」  十津川がきくと、かな子は、眉を寄せて、 「女の方が、殺された件ですわね」 「そうです。A14下の席で、太田由美子というOLが絞殺されました。死亡時刻が午前四時から五時にかけてなので、その頃に、何か、話し声とか、物音を聞いたり、なさらなかったかと思いましてね。これは、全員の方に聞いているんです」 「私たちは、A5上と下を、使っていたんです」 「それは、知っています」 「下の寝台で、私とこの娘《こ》が一緒に寝て、上に息子の慎一郎が、寝たんです。女の方が殺されたのは、一番端の席でしょう。ずいぶん離れていたし、午前四時頃は、ぐっすり寝てしまっていましたわ。申しわけないんですけど」 「そうですか」 「上に寝ていた息子は、何か気がついたかも知れませんけど」 「いつ頃、学校から帰りますか?」 「間もなく、帰ると思いますわ」  と、かな子がいった。  二十分ほど話をしている中に、中学一年の慎一郎が帰って来た。  今の子供にしては小柄だが、その代り、眼が大きく、はしっこい感じの少年である。  十津川は、少年にも、五日の「銀河」のことをきいてみた。 「午前四時頃?」  と、慎一郎は、おうむ返しにいってから、 「その頃、寝ちゃってたよ」 「そうだろうね」 「でも、午前二時頃は、起きてたよ」  慎一郎は、大きな眼をくるくるさせた。 (午前二時では、仕方がないな)  と、十津川は、思いながら、 「どうして起きてたの?」 「何となく、眠れなくてさ。それで、ちょっと冒険してみたんだけど、車掌って嘘をつくんだよ」 「車掌が嘘をつくって、どういうことかな?」  十津川は、興味を持ってきいた。 「だってね。僕は、寝台列車って好きだから、乗ってから、車掌にいろいろときいたんだ。『銀河』が、将来どうなるのかとか、新幹線は、寝台が出来るのかとかね。そのとき、このA寝台は、満員かってきいたら、全部切符は売れたけど、端のA14上のお客が乗って来ないので、空いているといったんだよ」 「それは事実だよ。一番端のA14上は、切符は売れているが、本人は、『銀河』に乗らなかったんだ」 「それ、嘘だよ」  少年は、まっすぐに十津川を見て、きっぱりといった。 「なぜ、嘘だと思うのかね?」 「車掌が、A14上が空いているといったからさ。午前二時に眼をさましたとき、そっと行ってみたんだ。そのベッドにもぐり込んでいて、朝になったら、ママをびっくりさせてやろうと思ってさ。そしたら、A14上には、誰か寝てたんだ」 「本当かね?」  十津川は急に緊張した顔になって、少年にきいた。 「本当だよ。梯子にのぼって行ったら、人が寝ていたんで、びっくりしちゃったよ」 「カーテンが、閉っていたのかな?」 「うん。そっと開けてみたら、人がいたんだ」 「相手は、君を見たかね?」 「わからない。あわてて逃げちゃったから」 「寝ていたのは、男だったかね? それとも、女だった?」 「わからないよ。白いものが、ちらっと見えただけだから」 「白いものが──」  それでは、確かに、男か女かわからないだろう。 「君がのぞいた席だが、A14上に間違いないのかね? 反対側のA13上じゃなかったのかな?」  十津川が念を押すと、慎一郎は、 「間違いないよ。2号車に向って、通路を歩いて行って、右側の上の段だもの」 「それなら、間違いない」 「だから、車掌は、嘘つきだっていうんだよ」 「確かにね。それは、午前二時頃に間違いないんだね?」 「眼をさました時腕時計を見たんだから、間違いないよ。午前二時五、六分前だった」  少年は、しきりに、車掌に腹を立てている。自分が口にしたことの重大さにも、気付いていないようだった。 「君は、今のことを誰かにいったかね?」  十津川は、きいてみた。  少年は、首を横に振った。 「誰にもいってないよ。国鉄に、手紙で文句をいおうとは思ってるけどね」 「君が今いったことは、当分の間、誰にもいわないでいて貰いたいんだ。その方がいいと思うんでね」  と、十津川はいった。  犯人は、すでに四人の人間を殺している。相手が、中学一年の少年でも、容赦《ようしや》しないだろう。  もうこれ以上、犠牲者は、出したくなかった。     5  十津川が捜査本部に戻ると、亀井が、切符を買って戻って来ていた。 「今日明日のは、やはり無理でしたので、明後日の切符を、三枚買って来ました」  と、亀井は、その三枚を机の上に並べた。  二枚は、A5上、下で、もう一枚は、A14上である。 「このA14上は、どうしても欲しかったので、その旨をよく話して、世話して貰いました」  と、亀井はいった。 「よかった。特に、この席は、欲しかったんだ」  十津川はいい、中一の少年の言葉を伝えた。  今度は、亀井の方が、眼を輝かせる番だった。 「午前二時にA14上にいたのは、犯人だと、お考えですか?」  と、亀井がきいた。 「その可能性が強いね。犯人は、A寝台の席を二つ買っておいたんだと思っている。一つは被害者、太田由美子の真上のA14上と、多分少し遠い席とね。そして、遠い席に、車内改札の時にはいたんだと思う。つまり、そこの席の乗客だと車掌に印象づけておき、みんなが眠った深夜になってから、被害者の上の席に、そっと移った。そうしておいてから、隙を見て、下のA14下で寝ている太田由美子を殺したんだ。そのあとで、また自分の席に戻って、何くわぬ顔をしていたんじゃないのかな」 「そのために、犯人は、被害者の真上の席を、余分に確保していたわけですか?」 「少年の証言があったからね。彼が見たのは、間違いなく太田由美子を殺《や》った犯人だよ」 「そういえば、小林みどりは、午前四時頃に、A14の席の方から戻ってくる足音しか聞いていないといっていましたね。犯人が、午前二時頃、すでにA14上にもぐり込んでいたとすれば、戻ってくる足音しか聞いていないのは、当然だと思えてきますね」 「その通りさ」  と、十津川は肯いた。  新見慎一郎という中学生の証言によって、明らかに、捜査は、一歩前進したと十津川は思い、亀井も感じていた。  少くとも、十一月五日の寝台急行「銀河」のA寝台で、A14上の席は、犯人が買っていたことは、これではっきりした。  そして犯人は、もう一枚A寝台の席を買って、そこに寝ていたのだ。  だが、残念ながら、そこで十津川たちの推理は、再び壁にぶつかってしまう。  切符を買っておきながら、大阪まで空いていたA14上の席は、犯人が買ったものだとわかった。  だが、その犯人が誰なのかは、いぜんとして不明なのだ。  A寝台の、残りの二十三名の中にいるということはわかる。が、それは、前から、既定の事実として、わかっていたことである。  それに、いぜんとして井崎は、容疑者の一人だった。 「一つだけ、考えたことがあるんですが」  亀井が、間を置いて、十津川にいった。 「何だい? カメさん」 「二番目に殺された山田祐一郎のことです」 「東西電気の社員だったね」 「そうです。友人の話によると、山田は、電話で脅かされていたといわれています。『銀河』の中で見たことを、警察にいうな、いえば殺すとです」 「しかし、山田本人は、何のことかわからなかったらしい。わかっていれば、それを犯人に話すなり、警察に話していたろうと思うからね。犯人は、警告だけでは不安になって殺してしまったんだろうが、山田祐一郎が死んでしまった今となっては、彼がいったい何を見たのか、見当がつかないがね」 「それが、わかったような気がするんです」  と、亀井がいった。 「本当かい? カメさん」 「もちろん、想像するより仕方がありませんが、山田祐一郎は、自分がどんなに大事なものを見たのか、わからなかったんだと思いますね」 「そこまでは、私にも想像がつくさ」 「しかし、犯人は、致命傷になるようなことを見られてしまったと思い込んでいた」 「うん」 「それが問題のA14上の席のことじゃないか、と考えたんです」 「山田祐一郎とそれがどうつながっていくのかね?」 「山田の席は、A13上でした。通路をへだてて第一の被害者、太田由美子の席、A14下と、向い合っています」 「それで、上段と下段の違いはあっても、何かを見たんじゃないかと、われわれは考えたんだよ」 「そうです。しかし、今から考えると、山田のA13上は、問題の空席、A14上と完全に向い合っている。そのことが重要だったんじゃないでしょうか」  亀井が、力をこめていった。 「なるほどねえ」  と、十津川も肯いた。  確かに、いわれればその通りなのだ。  通路の幅は、狭いといっても上段と下段では見にくい。ベッドに寝てしまい、カーテンを閉めていると、ほとんど、A13上から、太田由美子のA14下は、見えないだろう。  それに比べて、A13上からA14上は、同じ高さだから、寝た姿勢でも、カーテンの隙間から、よく相手が見えた筈である。 「山田は、きっと、寝つかれないままに、カーテンの隙間から、通路をへだてて向い合っているA14上の寝台を見ていたんじゃないかと思うんです。ひょっとすると、若い女性のひとり旅かも知れないと、思うなりしてです。私なんかも旅に出ると、隣りの席に、若くて、美しい女が来てくれれば、旅が楽しくなるかなと思いますよ。たいていは裏切られて、いびきや歯ぎしりをする男が来ますがね」  と、亀井は笑った。 「私もだよ」 「山田は、向い側のA14上に、乗客がいるのを見たに違いありません。しかし、別に不審とは思わなかった。車掌は、乗客の一人一人に、わざわざ、あの席は切符は買われているのに誰も乗って来ないと、いって歩きませんからね。だから、山田は、自分の見たことを当然のことと思って、警察にもいって来なかったんです。しかし、犯人にとっては違います。A14上にもぐり込んでいるのを見られては、まずいわけです。だから、山田に脅迫の電話をかけた。だが、山田にしたら、相手が何をいっているのかわからなかったんだと思いますね。それで生返事しかしなかった。犯人は、それをまた、悪く解釈したんじゃないでしょうか。脅迫が通じない相手だと思って、殺してしまった──」 「カメさんのいう通りだと思うよ。これで、山田祐一郎が殺された理由が、わかったじゃないか。彼にとって不運だったのは、A13上にいたことなんだ」  十津川がいった時、電話が鳴った。  受話器を取った日下刑事が、 「警部へです。井崎さんから」  と、いった。  十津川は、受話器を受け取った。 「君に会って、話したいことがあるんだ。ぜひ会ってくれ」  と、井崎が重い口調でいった。     6  十津川は、新宿駅ビルの最上階にある喫茶店へ出かけた。  井崎が、そこを指定したからである。  七時の約束だったが、十津川は、十二、三分も早く着いた。  駅ビルの最上階にあるので、窓際に腰を下すと、新宿東口の繁華街が一望できる。  ネオンが輝き、車や人の波である。  いつもなら、そんな景色をあかずに眺めるのだが、今日は気が重くて、十津川は、すぐ視線をそらせ、煙草に火をつけた。  ひょっとして、井崎が、「実は、自分が殺した」と告白するのではないか。そんな不安があったからである。  大学時代からの友人として、井崎の無実を信じたい。  だが、彼が犯人でも、おかしくない状況なのだ。  十一月五日の「銀河」のA寝台の乗客の中で、今のところ、太田由美子と関係があるのは、井崎だけと考えられている。いやそれどころか、井崎には、彼女を殺すだけの動機がある。  井崎が太田由美子を旅行に誘い、車内で殺したと、大阪府警は考えているし、その可能性が強いのだ。  七時少し前に、井崎が現われた。  まっすぐにこちらに向って歩いて来る井崎の顔を、十津川は、じっと見つめた。  井崎は、疲れ切った顔をしていた。  眼の下に、黒いくまが出来ている。それが、妻との離婚問題の悩みのためならいいが、何人もの人間を殺したことへの自責の念のためだとしたら大変だなと、十津川は思う。  井崎は、黙って十津川の前に座ると、しばらく黙っていたが、 「なぜ、あんなことするんだ?」  と怒りの調子でいった。  十津川は、とっさに何のことかわからなくて、 「あんなこと?」 「しらばくれるなよ。おれを犯人だと思っているのなら、そういえばいいじゃないか。表向きは友人面をして、こそこそと尾行をつけたりするなよ!」  と、井崎は、甲高《かんだか》い声でいった。  第五章 尾 行 の 男     1 「尾行?」  と、十津川はおうむ返しにいってから、思わずくすくす笑ってしまった。 「何がおかしいんだ? おれは、真剣なんだぞ!」  井崎は、眼を吊りあげて十津川を睨《にら》んだ。客がまばらだったからよかったが、混んでいたなら、きっと近くの客が、驚いて振り向いただろう。  十津川は、手を振って、 「いや、悪かった。別に、君のいったことがおかしかったんじゃないんだ。むしろ、ほっとしたんだよ」 「何が、ほっとしたんだ?」 「さっき君から、どうしても話したいことがあるという電話があった時、ひょっとして君が真犯人で、私に告白するんじゃないかと思ったんだ。そうにでもなったら、今まで君を信じていたのが、裏切られることになる。それを心配してここへ来たんだ。そうしたら、君がいきなり尾行のことなど持ち出したから、驚くより、かえってほっとしたんだ。悪く思わないでくれよ」 「おれは、殺してない」 「ああ、君を信じてるさ」 「しかし、疑ってはいるんだろう?」 「状況は、君に不利だ。大阪府警は、今でも君が犯人だと思ってるよ」 「正直にいってくれよ」 「何をだ?」 「君だって、疑ってるんだろう? だからこそ、尾行をつけているんだろう? 違うのか?」  井崎の眼は、真剣だった。  十津川は、運ばれて来たコーヒーを、井崎にも飲めといった。 「まず、落着いてくれよ。君の気のせいじゃないのか? 尾行というのは」 「いや、違うよ。間違いなく尾行されてるんだ」 「おかしいな。君には、尾行はつけてないよ。他にも容疑者がいるが、誰にも尾行をつけてない」 「じゃあ、誰なんだ?」 「君は相手を見たのか?」 「ああ、見たよ」 「どんな人間だ?」 「それが、よくわからないんだ」 「今、相手を見たといったじゃないか」 「そうなんだが、いろいろと変装するから素顔がわからないんだよ。サングラスをかけて、一見ヤクザ風だったり、そうかと思うとアタッシェケースを下げて、ビジネスマン風だったりだが、あれは同じ男だ。背の高さも歩き方も同じだからね」 「そりゃあ、刑事じゃないね。多分、私立探偵だ」 「私立探偵が、何だって尾行するんだ?」 「一つ考えられるのは、奥さんの線だな」 「家内が?」 「今、奥さんと離婚の話になっているんだろう?」 「ああ、家内は、家の他に、慰謝料を三千万要求しているよ。お互いの弁護士が話合いをしているがね」 「君は、払う気があるのか?」 「いや。家は家内にやるつもりで出てしまったんだ。それは、二、三百万なら、何とか慰謝料も払える。だが、三千万なんてむちゃだよ。確かに、おれが浮気をしたのは悪い。でもな、おれが浮気に走るような冷たい家庭にした責任の半分は、家内にあるんだ」 「奥さんか、奥さん側の弁護士が、私立探偵をやとって、君を尾行させているのかも知れんな」  十津川がいうと、井崎は、何ともいえない悲しそうな表情をして、 「なぜ、家内が?」 「もちろん、裁判の時に、自分たちに有利な材料を揃えるためさ。君に、太田由美子以外にも女がいたり、どこかに隠し預金でも持っているのがわかれば、向うは有利になるからね」 「今のおれは、逆さに振っても、何にも出ないよ。何よりもおれは悲しいよ」  井崎は、深い溜息をついた。 「尾行している男をつかまえて、きいてみたことはないのか? なぜ、尾行なんかするんだと」  十津川がきくと、井崎は首を振って、 「おれはてっきり刑事だと思っていたし、それに素早い男で、おれが追いかけようとすると、すっと姿を消してしまうんだ」 「奥さんに、きいてみたらどうだ?」 「よせよ。家内とおれは、今、別れ話の最中なんだ。おれがきいても、本当のことをいう筈がないじゃないか」  と、井崎は、顔をしかめていった。     2  十津川は、ひとりで、もう一度、石神井に、井崎の妻を訪ねることにした。  これは、刑事としてではなかった。井崎の友人として、彼が、あまりにも落ち込んでいるので、見かねてのことだった。  事件の方も、壁にぶつかっている。明後日、亀井と二人で寝台急行「銀河」に乗ってみれば、何か解決へのヒントを見つけられるかも知れないが、今のところ、ヒントらしきものは見つからないのである。  十津川は、新宿で井崎と別れると、亀井に連絡しておいて、石神井に向った。  石神井公園近くの井崎の家に着いた時は、夜の十時を廻っていた。  井崎の妻、治子に会うと、十津川はまず、こんなにおそく訪ねたことを詫びた。 「どうしても、お聞きしたいことがありましてね」  と、十津川はいった。 「井崎のことでしたら、弁護士さんに委せてありますけど」  治子は、用心深くいった。 「ご主人に関係したことですが、私立探偵に尾行させるのは、止めた方がいいと思いますね。ご主人との仲を、これ以上こじらせることはないと思うんですが」  十津川がいうと、治子は、きょとんとした顔で、 「私立探偵って、何のことですの?」 「心当りは、ないんですか?」 「ええ。ぜんぜん」 「じゃあ、あなたの弁護士が、勝手にやっていることなのかな」 「なぜ、私立探偵をやとわなければなりませんの? 私が」 「あなたは、三千万円の慰謝料を、ご主人に要求していらっしゃるでしょう。ご主人は、払わないといっている。それで、あなたか弁護士が、裁判で勝つために有利な証拠を集めようとして、私立探偵を使っているんじゃないかと思ったんですがね。ご主人は、尾行されていると、私にいったんです。ご主人は、警察だと思っていたようなんですが、われわれは尾行はしていない。となると、私立探偵だろうということなんですがね」 「私も弁護士さんも、関係ありませんわ」 「なぜ、そういえるんですか? あなたの弁護士は、やっているかも知れませんよ」 「いいえ」 「しかし、弁護士は、三千万の慰謝料を取るために、私立探偵ぐらいやとったかも知れない」 「三千万円というのは、私が、腹立ちまぎれにいったことなんですわ。私だって、そんな大きな金額が、井崎に払えるとは思っていないんです。それに、この家は、くれるといっていますしね。あと、二、三百万円も貰えれば満足なんです。このことは、弁護士さんにもいってありますわ」  と、治子がいった。  その言葉に、嘘があるようには、十津川には思えなかった。  それに、二、三百万の慰謝料なら、井崎が浮気をしての離婚だから、今のままでも、妻の治子は取れるだろう。別に、私立探偵を使って、井崎の新しいマイナス点を探す必要はないのだ。 (となると、井崎を尾行している男は、いったい何者なのだろうか?)     3  十津川は、捜査本部に戻ると、考え込んでしまった。  心配して、亀井が、声をかけてきた。十津川は、井崎の話を、亀井に聞かせた。 「妙な話ですね」  と、亀井がいった。 「そうだろう。奥さんでないとすると、誰がやとった私立探偵なのかということになってくるんだ」 「井崎さんの錯覚ということはないんですか? 誰かに尾行されていると、勝手に思い込んでいるということは、ありませんか?」 「その可能性もゼロじゃないが、井崎は、意外に冷静なところがあってね。何もないのに騒ぎ立てたりはしない筈なんだ」 「となると、その私立探偵に、会ってみたいですね」  と、亀井はいった。 「カメさんは、私立探偵の世界に、くわしいんじゃなかったかね?」 「くわしいというほどじゃありませんが、何人かの私立探偵を知っています。井崎さんを尾行しているのは、どんな奴ですか?」 「身長は百七十センチくらいで、変装が得意らしい。ヤクザ風になったり、アタッシェケースを下げて、ビジネスマン風になったりするといっている。今のところ、わかっているのは、これだけなんだ」 「当ってみましょう」  と、亀井はいった。  翌日になると、亀井は、都内の私立探偵などに電話したり、自分で足を運んだりしていたが、 「それらしい男が、浮んで来ましたよ」  と、ニコニコしながら、十津川にいった。 「やはり、私立探偵だったのかね?」 「前に大手の探偵社にいて、二年前に独立して、自分で探偵事務所を開いた、藤沼貢《ふじぬまみつぐ》という男のようです。年齢は三十五歳で、身長百七十センチ。変装が得意だといわれています」 「どこで仕事をしている男なんだ?」 「渋谷|道玄坂《どうげんざか》の上に、事務所があります。これが、藤沼貢です」  亀井は、一枚の顔写真を、十津川の前に置いた。  丸顔で、平凡な感じの男である。ただ、眼だけは鋭くみえるのは、職業柄だろう。 「今、事務所にいるかね?」 「さっき電話してみましたが、誰も出ませんでしたね。行ってみますか?」 「そうだな。もう一度、電話してみてくれないか。いたら、会いに行くと伝えてくれ」  十津川がいい、亀井が受話器を取った。 「誰も、出ませんね」  と、亀井が十津川を見た。 「藤沼が仕事で出ている間は、受付の女の子ぐらいいるんじゃないのか?」 「それが、彼がひとりで、やっているみたいですね。あまり流行《はや》っていないので、経費節約のためでしょう」 「それじゃあ、行ってみないと、どんな事務所かわからないな」  十津川は、立ち上り、亀井と一緒に捜査本部を出た。  覆面パトカーで、渋谷道玄坂へ向った。  ビルの一角にでもあるのかと思っていたが、ビルはビルでも、中古マンションの一室に「藤沼探偵事務所」の看板がかかっていた。 「こぢんまりと、やっているわけか」  十津川は、小声でいってから、インターホンのボタンを押した。  中でベルが鳴っているのが聞こえたが、返事はなかった。  代りに、猫の鳴き声がして、内側から、ドアをがりがり引っかいているのが聞こえた。  ドアについている郵便物入れに、今日の朝刊が、突っ込まれたままになっている。 「これは、何かありますよ」  亀井は、十津川にいい、ドアのノブを廻してみた。  ドアに、カギは、かかっていなかった。  亀井が、先に、部屋の中に飛び込んだ。  1LDKの部屋で、十一畳ほどの居間が、来客用に模様がえされている。  靴のまま、居間に入れるようになっているのだ。  その床の上に、男が一人、俯伏せに倒れているのが見えた。  居間の中が暖かいのは、ヒーターがついているからだろう。  男は、パジャマの上に、ナイトガウンを羽織った恰好だった。  後頭部が血まみれになっているのは、鈍器で、したたかに殴られたのだろう。  その上、首には、電気のコードが巻きついている。殴った上に、コードで首を絞めたのか。  殴った鈍器は、横に転がっていた。金属製のカップである。その金属部分にも、血がこびりついている。 「藤沼貢に、間違いありませんね」  と屈み込んで死体を見ていた亀井が、十津川を見上げていった。 「これで、五人目か」  十津川は、舌打ちをした。 「警部は、一連の事件の続きと思われますか? この藤沼貢は、十一月五日の『銀河』のA寝台には、乗っていませんが」 「だが、乗客の一人だった井崎を尾行していたことは、間違いないんだよ」  と、十津川がいった。  猫は、しきりに鳴いている。 「餌《えさ》がないんでしょう」  と、亀井はいい、台所に行って、キャットフードを捜して来ると、空になっていた餌入れに、たっぷり投げ入れた。  猫は、よほど腹がすいていたとみえて、十津川たちの方は見向きもせずに、むさぼり食っている。 「この猫は、きっと、藤沼が殺されるところを見ていたでしょうね」  と亀井はいった。 「そうだな」  十津川は、白手袋を出してはめ、居間の隅にある電話で、連絡した。  鑑識が来るまでの間に、改めて室内を見廻した。  凶器のカップには、ゴルフ大会準優勝と刻み込んである。  テーブルの上の灰皿には、吸殻が溜っていた。だが、同じマイルドセブンの吸殻で、その箱が百円ライターと一緒に傍に置いてあるところをみると、殺された藤沼が吸ったものだろう。  相手は、煙草を吸わないか、或いは、用心深く吸わずにいたらしい。  部屋の壁に押しつけるように、キャビネットが二つ並べてある。  十津川は、その引出しを開けてみた。  調査報告書の控えが、アイウエオ順に並べてしまってあった。 「イ」のところを見てみたが、井崎の調査報告書は見つからなかった。まだ調査の途中だったのか、それとも、犯人が持ち去ったのかは、わからない。  奥の六畳の和室には、布団が敷いたままになっていた。  洋ダンスを開けてみると、いろいろな服が入っていた。  紺系統の地味な服もあれば、やたらと派手な服もある。帽子も、いくつか置いてあった。それに、引出しには十個以上のサングラス。変装用なのだろう。  鑑識と検死官が、到着した。 「何時頃に殺されたのか、わかりますか?」  十津川は、検死官に声をかけた。  検死官は、慎重に死体を調べていたが、 「断定は出来ないが、昨夜の中に殺されたんだとは思うね」  と、いった。  十津川は、鑑識が指紋の採出を了えたカップを、持ってみた。  二キロはあるだろう。かなりの重さである。これで強打されたら、気絶はまぬがれない。そうしておいて、コードを首に巻いたのか。  藤沼が相手を居間に通していることや、いきなり後頭部を殴られていることなどを考えると、顔見知りの犯行としか思えない。  十津川は、もう一度キャビネットを開き、そこにあった調査報告の控えを、全部取り出して、机の上に置いた。  一つずつ、眼を通してみた。  結婚調査とか、素行調査などがほとんどである。  素行調査の場合は、もちろん尾行して、写真を撮ることになる。何枚か、写真を挟んであるものもあった。  亀井にも、眼を通させた。あまり流行っていなかったとみえて、件数は少い。 「その中に、命をとられるような危険な調査があるとは思えないんだがね」  と、十津川がいうと、亀井は、 「そうですね。殴られるぐらいのことは、されるかも知れませんが」 「とすると、藤沼が殺られたのは、井崎を尾行していたからということになるのかな」 「その場合、理由が問題ですね。尾行したくらいで、殺されるということは、あり得ないでしょう。もし、殺されるんだったら、私立探偵も刑事も、みんな殺されてしまいますよ」  と、亀井が笑った。 「私は、井崎に会って、この男が尾行していたのかどうか、確認してくる。カメさんはマンションの住人に会って、最近、どんな人間が藤沼に会いに来ていたのか、調べてくれ」  十津川は、亀井にいっておいて、井崎のマンションに向った。  午後九時を過ぎていたが、井崎は、帰っていなかった。  仕方がなく、一時間ほど時間を潰してから、もう一度足を運んだが、まだ帰っていない。  井崎が、酔って帰って来たのは、十一時を過ぎてからだった。  十津川は、舌打ちしながら、井崎を担ぐようにして布団の上に寝かせ、水を飲ませてやった。  しばらくすると、酔いがさめてきたらしく、布団の上に起きあがった。  青白い顔で、十津川を見すえて、 「今日は、何の用だ? また、アリバイをききに来たのか? 今夜だって、おれは、飲んだ店の名前を覚えてない。それが、いけないのか?」 「君を助けたいんだ」 「だが、おれを信じてないんだろう? おれが、犯人かも知れないと思っているんだろう?」 「それなら、むしろ気楽さ」  と、十津川は、肩をすくめてから、藤沼の写真を井崎に見せた。 「よく見てくれ。君を尾行していたのは、この男か?」 「何か事件に関係があるのか?」 「いいから、よく見るんだ。この男だったか?」  十津川は、いらだちを押さえて、井崎にきいた。  やっと井崎は、写真を手に取った。 「やつが、どうかしたのか?」 「殺されたよ」 「まさか、また、おれが殺したなんていうんじゃないだろうな?」  井崎が狼狽《ろうばい》して、十津川にきく。 「いいから、こっちの質問に答えてくれ。その男だったか?」 「ああ、こいつだよ。なぜ殺されたんだ?」 「多分、君を尾行していたからだろうと思っている」 「よしてくれよ。なぜ、おれを尾行したくらいで、殺されなければならないんだ?」 「それは、まだわからないよ。しかし、殺される直前まで、君を尾行していたことは、間違いない」 「家内が、頼んだのか?」 「最初は、そう思ったが、違うね。奥さんじゃない」 「じゃあ、誰が、おれを尾行させたんだ? おかしいじゃないか。おれは、この事件のおかげで、もう会社じゃ出世の見込みはない。家も出て、こんな狭い部屋を借りて住んでる男だ。人生の落伍者《らくごしや》みたいなものさ。そんなおれを、どこの誰が、私立探偵をやとって尾行させるんだ?」 「恐らく、君が、十一月五日の『銀河』のA寝台に乗っていたからだろうと思うね」  十津川がいうと、井崎は、手を振った。 「それなら、A寝台の乗客全員が尾行されてるのか? 違うだろう? なぜ、おれだけ尾行されるんだ?」  と、いった。  もっともな質問だが、十津川にも、その答は見つかっていない。  十津川は、黙って、部屋の隅にある小さなガスストーブに点火した。  少しずつ、部屋が暖かくなってくる。 「確かに、君のいう通りなんだ」  と、十津川は、落着いた声で井崎にいった。  井崎は、「そうだろう」といい、のろのろと、コーヒーをわかしにかかった。 「気を使うなよ」  と、十津川がいうと、 「おれが、飲みたいんだ」  といい、男にしては器用な手付きで、コーヒーを、十津川にもいれてくれた。  十津川は、ブラックで一口飲んでから、 「いろいろと考えてみた。さっきもいったように、最初は、君の奥さんが頼んだんだろうと思ったが、違った。第一、奥さんが、裁判を有利にしようとして、君を尾行させていたのなら、私立探偵を殺す必要はない」 「そうだよ」  と、井崎は肯いた。  彼は、砂糖を沢山入れて、飲んでいる。 「次に考えたのは、五日の『銀河』の中で太田由美子を殺した真犯人が、君を尾行させていたのじゃないか、ということだ」 「真犯人がなぜ、おれを、私立探偵に尾行させるんだ?」 「問題は、そこさ。理由がないんだ。君は、状況証拠から見ると、不利をまぬがれない。大阪府警は、今でも君を犯人と思っている。だから、真犯人は、君を監視する必要なんかないんだ」 「それじゃあ、ますますわからなくなるじゃないか」 「いつ頃から、尾行されていたか、わかるか?」 「いや、わからないよ。それが、大事なのか?」 「いつから尾行されていたかわかれば、何のためか、わかるかも知れないと思ってね」 「私立探偵なら、事務所に何か書類があるんじゃないか。誰かがやとっていたとすれば、報告書を出すわけだろう? その控えがあれば、誰が、何のためにやとったか、わかるんじゃないのか?」 「もちろん、わかるさ。そう思って彼の事務所を調べてみた。客への報告書の控えは、いくつもあった。しかし、君についてのものはなかった。君についてのメモも、見つからなかったよ。報告書は、調査の途中で、まだ書いてなかったのかも知れないが、それでも、君の尾行を頼まれたのなら、君の写真とか、特徴や住所、勤務先などを書いたメモなり、手帳なりがある筈だ。それがわからないと、尾行が出来ないからね。しかし、いくら探しても、見つからなかったね」 「その私立探偵を殺した犯人が、持ち去ったということか? しかし、それもおかしいじゃないか。なぜ、持ち去らなきゃならないんだ? むしろそういうものがあった方が、疑いがおれにかかって、犯人は、得をするんじゃないのか? 尾行されて、腹を立てたおれが殺したということになってさ」 「そうなんだが、犯人は持ち去ったらしい。君は、本当に、尾行される心当りはないのか?」 「ないよ。だから、てっきり警察だと思ったんだ。おれを泳がせておいて、おれが太田由美子を殺したという証拠を、つかもうとしてたんじゃないかとだよ。家内とは思わなかった。家内は、私立探偵をやとって何かするというタイプじゃない」 「そうだね」 「おれが殺したんじゃないということは、信じてくれるのか?」 「君が太田由美子を殺してなければ、私立探偵も殺してない。しかし今度も、アリバイは、調べられるぞ。昨日の夜は、どうしていたんだ?」  十津川がきくと、井崎は、眉を寄せて、 「飲んでたよ。飲む以外に、うさの晴らしようがないじゃないか。殺人容疑をかけられて、いっこうに晴れる気配はないし、家内は別れるというし、慰謝料を請求されてるしだ。昨日も、梯子をして帰ったよ」 「そして、飲んだ店の名前は、覚えていないか──?」 「ああ、覚えてないよ。何もかも忘れたいために飲んでるんだからな」 「困った男だな」  十津川は、小さく呟いた。     4  布団の上に寝てしまった井崎を残して、十津川は、捜査本部に帰った。  あのままでは、井崎は、酒に溺《おぼ》れ、会社も馘になってしまうかも知れない。彼を立ち直らせるためにも、一刻も早く真犯人を見つけ出さなければならない。  亀井を待つ間、十津川は、井崎の妻に電話をかけた。 「今、井崎に会って来ました」  と、十津川はいった。  治子は、黙っている。 「今夜も、酔っ払っていました。このところ連日です。あのままでは、遠からず参ってしまいます。身体が駄目になるだろうし、会社も馘になるでしょう」 「───」 「私は、彼の無実を証明してやりたいと思っています。だが、彼をなぐさめたり、励ましたりは出来ません。酒を止めさせる力もない。あなたなら、それが出来ると思うんですが。彼が、今住んでいるのは──」 「知っていますわ。弁護士さんから、聞きましたから」  治子は、切り口上でいった。熱のないいい方といった方がいいかも知れない。 「一度、井崎を、訪ねてやってくれませんか。ただ、行ってくれるだけでいいんです。弁護士を入れずに、二人だけで話してくれれば、どんな話でも、井崎は、少しは元気が出ると思うんですがね」  十津川は、頼んだ。  だが、治子は、すぐには返事をしなかった。 「無理ですわ」  と、間を置いて、治子が短くいった。 「しかし、このままでは──」 「十津川さんのお気持はわかりますわ。でも私と井崎の間には、今度のこと以外に、もう大きな溝が出来てしまっていますわ。十津川さんには、おわかりにならないでしょうけど」 「そういわれてしまうと、私には、何ともいえなくなってしまいますが──」 「失礼しますわ」  電話は切れてしまった。  十津川は、溜息をついた。これ以上、治子に頼むことは、出来そうもない。  亀井が帰って来た。 「何か、わかったかね?」  と、十津川がきいた。 「昨夜、あの事務所に訪ねて来た人間のことは、目撃者が見つかりませんでした。あのマンションは、水商売の人間が多くて、午前一時、二時にならなければ、帰って来ないんです」 「藤沼の評判は?」 「調査報告書にあった人間に、一人だけ会えたんですが、四十歳の男で、素行調査をされていました。中小企業の社長です。奥さんが、旦那が浮気していると感じて、藤沼に調査を頼んだわけです」 「よくあるケースだね」 「そうなんですが、その旦那によると、ある日突然、藤沼が、声をかけて来たというんです。あんたの浮気を調べている。百万円出せば、浮気はしていないという報告書を書いて、奥さんに渡すといったそうです」 「ゆすりか?」 「時々、こういう悪徳探偵がいますが、藤沼もその一人だったわけです。面白いことに、藤沼は、ゆする前に、わざと尾行していることを見せつけたというんです」 「そいつは、面白いね」  と、十津川は肯いた。  昔、大手の探偵社にいた男である。その男が、簡単に井崎に尾行を見破られたというのが、前から不思議だった。  ゆする前に、わざと尾行していることを見せつけるというのなら、その謎が解ける。 「それで、藤沼が殺された理由が、少しはわかったような気がするね」 「誰かが、藤沼に、井崎さんの調査を頼んだ。ところが、藤沼は悪い癖を出して、井崎さん本人をゆすり、取引きしようとした。犯人は、それを感じて、殺してしまったということでしょうか?」 「そんなところだろうと思うんだが、いぜんとして、誰が、何のために井崎の尾行を頼んだかという謎は、残るね。それに、たとえ、藤沼が井崎と直接取引きしようとしたとしても、なにも殺すことはなかったと思うんだがね」 「そうですね。藤沼も、まさか自分が殺されるとは思っていなかったので、油断していたんだと思います。調査の依頼主にしてみれば腹が立つでしょうが、警部のいわれるように、だからといって、殺すというのは異常ですね」 「唯一つ考えられるのは、依頼主が一連の事件の真犯人の場合だな。自分の名前がばれてしまうのを恐れて、藤沼を殺ったということは、考えられるね」 「しかし、警部。その場合には、真犯人が何のために井崎さんを尾行する必要があったのか、わからなくなります。井崎さんは今でも、容疑者ナンバー・ワンですからね。放っておけば、真犯人は、安全だった筈です。それなのに、妙に動き廻るというのが解せません」 「同感だね」  と、十津川は肯いてから、急に大きな声になって、 「どうも、今度の事件は、すっきりしないなあ」 「全体にですか?」 「そうだよ。犯人の動きが、どうもよくわからないんだ」  十津川は、もっと凶悪な事件を扱ったこともある。今度の事件では、私立探偵の藤沼を含めて、これで五人の男女が殺されたが、もっと大量の殺人事件にも、ぶつかっている。  しかし、犯人の行動には、納得できるパターンのようなものがあった。今度の事件には、それがない感じなのだ。  翌日になって、藤沼の解剖結果が出た。  ゴルフの準優勝カップでの殴打は、致命傷ではなく、そのあと、コードで首を絞められたことで、窒息死したということだった。  死亡推定時刻は、一昨日の夜の十時から十一時までの一時間である。 (井崎が、飲んで、酔っ払っている時刻だな)  と、十津川は思った。  つまり、アリバイが不確かだということである。  今のところ状況証拠だけだし、東京側の捜査を指揮している十津川が、真犯人は別にいるという判断なので、井崎は、逮捕されずにいるが、このまま真犯人が見つからないと、井崎を逮捕しろという声が、当然強くなってくるに決っている。  大阪府警は、じっとこちらの出方を見ているが、今の状態が続けば、井崎に逮捕状を出すかも知れない。寝台急行「銀河」のA寝台での殺人事件については、大阪府警に権限があるからである。  それは、単なる十津川の杞憂《きゆう》ではなかった。  上司の三上刑事部長が、電話をかけて来たのである。 「大阪府警から、今、連絡があった。なぜ、井崎勉を逮捕しないのかという抗議だ。他に有力な容疑者がいるのなら、その名前を教えてくれともいっている」  三上の声は、いつも甲高い。それが今日は、一層きんきんしている感じだった。 「今のところ、他に有力な容疑者は、おりません」  と、十津川はいった。 「いないのに、なぜ井崎の逮捕に同意しない? 大阪府警のいいぶんを聞いたが、もっともだ。少くとも、『銀河』の車内での殺人については、どう考えても、井崎勉が犯人だと、私も思う。動機も十分だし、殺すことも可能だったわけだよ。それなのに、なぜ君は、反対するんだ? まさか、個人的な感情が入っているんじゃないだろうね? 聞くところでは、井崎は、君の大学時代の友人だそうじゃないか。もし君が、私情にかられて井崎勉をかばっているんだとしたら、今度の事件から、君は、おろさざるを得ないぞ」 「あと二日待って下さい」 「二日?」 「そうです。今夜の『銀河』に、亀井刑事と乗ることになっています。二二時四五分の発車ですから、今日中に、何かわかるということはないかも知れませんが、明日『銀河』が、大阪に着くまでには、何か得るものがあるだろうと、期待しているのです」 「何もわからないときは、どうするんだね?」 「その時は、井崎勉の逮捕に同意します」  と、十津川はいった。  第六章 A 寝 台     1  その日の夜、十津川は、亀井と東京駅に出かけた。  少し早く着いてしまい、大阪行の寝台急行「銀河」は、まだ入線していなかった。  ホームに立っていると、吹きあげてくる風が、痛いように冷たい。秋というより、もう冬なのだ。  10番ホームには、「銀河」の乗客が何人か待っていたが、さすがに、ビジネスマンタイプの男が多い。  東京駅には、銀座の東京温泉の支店があるので、一風呂浴びてから、乗車するビジネスマンもいるらしい。 「何かわかるといいですな」  と、亀井がコートの襟を立てながら、十津川にいった。 「そうだね」  十津川は、短くいった。  期待と不安が、十津川の胸の中で、交錯している。  真田久仁子は、もう一度「銀河」に乗ろうとして、A寝台の切符を買った。実際に乗ったか乗らなかったかは、わからないが、彼女が殺されたところを見ると、何か彼女が、気がついたために違いない。  だから、実際に乗ってみれば、十津川たちにも、何かヒントがつかめる可能性があると思う。  ただ、ハンデも考えざるを得ない。真田久仁子は、親友の小林みどりと、実際に、最初の事件にぶつかっているが、十津川と亀井は、その時の「銀河」には、乗っていない。  二二時二〇分に、「銀河」の青い車体が、10番線にゆっくり入って来た。  いつもの通り、電源車に、十一両の客車が連結されている。  A寝台は、1号車である。  十津川は、寝台特急にも、何度か乗ったことがある。  それは、事件のためであったり、時には私用ででもあったが、寝台急行に乗るのは、初めてだった。  うかつな話だが、十津川は、寝台列車といえば、現在は、全て特急列車だと思っていたのである。寝台列車に、急行もあったのかという感じだった。 「急行列車ですか。なつかしいですなあ」  亀井は、ホームを歩きながら、「銀河」の車体を、軽く手で叩いている。 「なつかしいかね?」 「私が青森から上京して来たときは、まだ蒸気機関車が、走り廻っていましてね。普通列車にしか乗れなくて、急行列車に乗るのが夢だったんですよ。だから今でも、特急といわれてもあまり有難くなくて、急行列車というと、とても嬉しいんです」  電源車が、低いモーターの唸《うな》り声をあげている。走る前に、一生懸命準備運動をしている感じがする。  ブルーの車体は、特急に比べると少しくたびれて見えるのは、古い型式の車両だからだろうか。  夜の十時を過ぎているので、ホームは寒い。  そのせいか、それとも乗客の中に、明朝、関西での仕事に行くビジネスマンが多いせいか、普通の夜行列車の出発のような別れの風景はほとんどなく、黙々と乗り込んで行く感じだった。  十津川と亀井は、寒いホームを、1号車のところまで歩いて行き、乗り込んだ。  車内に入ると、ヒーターがきいていて、暖かい。  乗務員室の前を通り、ドアを開けると、通路に向い合って、寝台が並んでいる。上下二十八の寝台である。  二人は、自分たちの席、A5上、下の寝台を確認してから、通路を反対側の端まで歩いて行った。  突き当ったドアを開けると、片側にトイレが二つ、逆の側は、洗面台が二つ並んでいる。明朝になると、さぞ混むことだろう。 「このトイレに、隠れることは出来ますね」  と、亀井がいった。 「しかし、ホームに降りるドアは、反対側の端にしかないんだ。隠れることは出来ても、逃げられはしないよ」  十津川がいった。  電源車に通じるドアは、カギがかかっていた。これでは、電源車に乗り移ることは出来ない。  それに、太田由美子が殺された時は、車掌と公安官が、当然、A寝台のトイレも調べたに決っている。  だから、このトイレに隠れていて、皆が降りてから逃げ出すことは、出来なかった筈である。発車時刻が迫ってくるにつれて、乗客がどんどん乗って来て、賑やかになってきた。  専務車掌が、早くも車内改札を始めた。  乗るとすぐ寝台に入って、カーテンを閉めてしまう人がいるからだろう。  午後十一時近い発車なのだから、無理もない。  東京駅から九州方面に向う寝台特急《ブルートレイン》は、午後四時から七時にかけての出発が多い。 さくら 一六時三〇分 はやぶさ 一六時四五分 みずほ 一七時〇〇分 富士 一八時〇〇分 あさかぜ1号 一八時四五分 あさかぜ3号 一八時五五分 瀬戸 一九時〇五分  と、いった具合である。  十津川は、この中、「さくら」「はやぶさ」それに「富士」に乗ったことがあるが、乗客は、発車しても、すぐ寝ることはない。  しばらくはお喋りをしたり、外の景色を見たり、食堂車で夕食をとったり、中には、グループで乗って来て酒盛りを始めたりで、十一時の消灯まで、車内は賑やかである。  それに比べると、二二時四五分発車の「銀河」では、乗ってくると、そそくさと寝台にもぐり込んでしまう乗客もいたりで、雰囲気がずいぶん違う。ビジネス列車と呼ばれる理由かも知れない。  十津川と亀井は、上衣《うわぎ》を脱いで、A5上と下に分れて横になったが、カーテンは、開けたままにしておいた。  二二時四五分。定刻に、「銀河」は、大阪に向けて出発した。  赤ん坊の泣き声が聞こえるのは、赤ちゃんを連れた母親が乗っているのだろう。  その泣き声も、横浜、大船と過ぎる中に、聞こえなくなった。 「カメさん。他の車両も、念のために見て来ようじゃないか」  と、下段にいた十津川が、上段の亀井に声をかけた。  二人は、1号車を出て、2号車へ入って行った。  2号車から11号車までは、三段式のB寝台車である。  こちらの方は、空席があちこちにあり、真夜中近いのに、まだ週刊誌を読んだり、酒を飲んだりしている乗客が多かった。  五、六人のグループも、何組かいた。たいていは、若者のグループで、何に乾杯しているのか、しきりに缶ビールを空けている者もいた。  十津川と亀井は、最後尾の11号車まで見てから、A寝台へ戻った。  入ってすぐ通路の左側が、乗務員室、反対の右側が、喫煙室である。 「これが、問題の喫煙室ですね」  と、亀井がいった。  亀井が問題のといったのは、事件のあった「銀河」では、午前三時半ごろから事件の発生まで、車掌長と専務車掌の二人が、喫煙室で仕事をしていたと、証言しているからである。  二人も、試しに入ってみた。  向い合って、座席がある。詰めれば、四人は座れるだろう。  ドアがないので、むき出しの部屋という感じである。 「これでは、いやでも眼の前を通る人間に、気が付きますね」  と、亀井が笑った。  だから、午前三時以降、他の車両の人間が、A寝台には入って来られないし、逃げられもしなかった筈だということになっている。  喫煙室の隣りは、更衣室だった。  頭のつかえる寝台の中で、着がえるのは大変なので、小さな更衣室がついているのかも知れないが、見ていると、たいてい、狭い寝台の上で器用に着がえている。  ドアを開けて、客室に入った。  ほとんどの席のカーテンがおりていて、かすかな寝息やいびきが、聞こえている。  二人は、通路で立ち止まって、A14上の席を見上げた。  カーテンがおりているが、亀井が切符を買っているので、誰もいないことは、確かである。 「二時近くなったら、私が、あの席へ移ります」  と、亀井が、小声でいった。  一時四一分、静岡着。  ここで二分停車したあと、岐阜まで、「銀河」は停車しない。  A5上にいた亀井は、静岡を発車して五、六分してから起きあがり、梯子《はしご》をおりて、通路に立った。  常夜灯だけがついていて、通路は、ぼんやりした明るさである。  乗客は、寝静まっている。  亀井は足音を忍ばせて端の席まで歩いて行き、梯子をのぼり、A14上の寝台にもぐり込んだ。  誰にも咎《とが》められなかったし、起き上って来る乗客の気配もない。  A5上で、起きあがってから、四分しかかからなかった。 (事件のあった「銀河」でも、犯人は、こうして自分の席から、このA14上にもぐり込んで、チャンスを待っていたに違いない)  と、亀井は思った。  枕元の明りをつけ、腕時計を、もう一度見た。  間もなく、午前二時である。  列車は、闇の中を走り続けている。  事件の日は、中学一年の少年が、このA14上をのぞきに来て、そこに乗客がいるのに気付き、びっくりして、自分の寝台に戻っている。  今日は、誰も来ない。 (静かだな)  と、思った。  この時間に、A寝台で起きているのは、亀井と十津川だけだろう。ドアの向うの乗務員室では、車掌が起きているだろうが、その気配は、こちらには伝わって来ない。  カーテンを少し開け、じっと耳をすますと、下の席で寝ている乗客の寝息が聞こえてくる。  多分、犯人もこうして、下の寝台に寝ていた太田由美子の寝息を窺《うかが》っていたのだろう。そして、チャンスを見て下におり、首を絞めて殺したのだ。  殺すことは、意外に簡単だったのではないかと、亀井は思う。相手は、ぐっすりと眠っているからだ。  犯人が、ペンダントのついたネックレスを引きちぎったのは、行きがけの駄賃のつもりだったのか。それとも、他に理由があったのか。  いずれにしろ、とがったペンダントで、被害者の首筋から胸にかけて、傷がついた。  もしそれがなかったら、今頃井崎勉は、殺人容疑で起訴されていたのではないか。  仰向きに寝てそんなことを考えている中に、亀井は、いつの間にか眠ってしまった。緊張はしていたのだが、心地よい振動のせいかも知れない。それとも、連日の捜査の疲れが出たのだろうか。  誰かに肩をゆすられて、亀井は、眼をさました。  十津川かと思ったが、違っていた。  専務車掌の顔が、こちらをのぞいている。 「何ですか?」  と、亀井がきくと、逆に専務車掌が、 「そちらこそ、何をしてるんですか?」  と、咎めるように、亀井を睨んだ。 「何をって、寝ているんですよ」 「しかし、あなたの席は、A5上段じゃなかったですか?」  と、専務車掌にいわれて、亀井は、やっとA14上に来ていたことを思い出した。  あわてて梯子をおりると、相手をドアの外に連れ出した。  ポケットから、警察手帳を取り出して見せた。  それでも専務車掌は、まだ難しい顔をして、 「警察の方が、何をしていたんですか?」 「十一月五日発の『銀河』で、殺人事件があったことを、ご存知でしょう?」 「もちろん、知っていますよ。われわれも、早く犯人が捕まればいいと思っているんです」 「捜査の参考にするために、今日、十津川警部と、この『銀河』に乗ったんです」  亀井は、三枚の切符を買ったことを、相手に説明した。  専務車掌は、やっと納得した顔で、 「それは、ご苦労さまです」 「今は──と」  亀井は、腕時計に眼をやった。  午前四時を廻ったところだった。 「いつも、今頃車内を見て廻るんですか?」  と、亀井はきいてみた。 「ええ。だいたい、今頃見て廻りますね。心配ですから」  と、相手はいう。  事件のあった「銀河」でも、確か車掌が車内を見て廻っていて、A14下で太田由美子が殺されているのを、発見したのである。  十津川が心配して、ドアの外へ出て来た。  亀井は、頭をかきながら、十津川に事情を説明した。 「うかつでした。つい眠ってしまって──」 「仕方がないさ。疲れているからね。正直いうと、私も眠っていたんだ」  十津川が、笑った。  二人は、喫煙室に腰を下した。十津川が、煙草に火をつけた。 「五時二〇分に、岐阜に着きます」  専務車掌が、教えてくれた。あと一時間ほどである。  窓の外は、いぜんとして、夜の闇である。  五時二〇分。岐阜着。  夏ならとっくに明るくなっているだろうが、今は、十一月である。  ホームの明りだけがこうこうと輝き、その外は、いぜんとして暗い。 「あの日は、次の米原から、公安官が乗り込んで来たんだね」  十津川は、人の気配のないホームに眼をやった。  あの日、「銀河」のA寝台の乗客は、この岐阜で一人も降りなかったが、今日も、降りる客はいなかった。  再び、列車は動き出した。  少しずつ、夜が明けてくる。 「A14上段にいれば、下の乗客を殺すのは簡単ですね。熟睡しているのを見はからって、おりて行けばいいんですから」  と、亀井は、十津川にいった。 「四時近くというのは、人間が、一番熟睡している頃らしいからね」 「寝ている人間の首を絞めるのは、わけないと思いますが、どうしてもわからないのは、犯人が、ネックレスを引きちぎって持ち去った理由です」 「殺したあとで、急に欲しくなったのかね」 「私もそう考えたんですが、すっきりしません。寝台《ベツド》には、彼女のハンドバッグもあって、その中には財布も入っていたんです。普通の犯人なら、すぐ足がつくネックレスなんかより、現金の方を狙うと思いますがねえ」  亀井は、しきりに首をひねっていた。 「犯人の狙いが、金ではなく、何かの怨恨だからかな」 「しかし、警部。恨みで殺しておいて、わざわざネックレスを、引きちぎって行きますかね?」 「そのネックレスに恨みが籠っていたら、別だろう? カメさん」 「それはそうですが、犯人が井崎さんなら、何とか説明できますよ。確かそのネックレスは、井崎さんのプレゼントということでした。だから井崎さんは、殺したあと、ネックレスを引きちぎったんだと思いますよ」  と、亀井がいった。 (やはり犯人は、井崎なのだろうか?)  十津川は、また憂鬱になってきた。     2  夜が明けて、冬の陽差しが、窓から射し込んでくる。  A寝台の洗面所が、賑やかになった。  一目でビジネスマンとわかる男たちは、この列車が、京都、大阪に着くとすぐ、鞄を持って出勤して行くのだろう。だから、顔の洗い方も髪の手入れも、丁寧である。  洗面所から寝台に戻ると、ワイシャツを着て、きちんとネクタイをしめている。 「京都で降りてみないか? カメさん」  と、十津川が急にいった。  切符は、一応終着の大阪まで、買ってある。 「京都で、何を探されるんですか?」 「探すんじゃないんだ。真田久仁子が、いってたじゃないか。親友の小林みどりが、京都に着くと、観光の予定になかった野宮《ののみや》神社に行きたがったと。あの言葉が、頭に引っかかっていたんだよ」 「なるほど。行ってみましょう」  と、亀井もいった。  京都には、七時一七分に着いた。  十津川と亀井は、「銀河」を降りた。ホームは、風が冷たかった。  二人は、白い息を吐きながら、改札口に向って歩いて行った。  久仁子は、みどりが、急に野宮神社へ行きたいといい出したので、びっくりしたといっていた。 (なぜなのだろうか?)  それに答えてくれる当人は、殺されてしまったし、友人の久仁子もまた、絞殺されてしまった。  それだけに、十津川は、余計に引っかかってくるのである。  改札口を出ると、駅前にタクシー乗り場がある。  京都のタクシーは、大部分が小型である。  二人は、小型タクシーに乗り、亀井が「野宮神社へ行ってくれないか」と、運転手にいった。  タクシーは、北へ向って走り出した。 「野宮神社というのは、人があまり行かないんじゃないかね?」  亀井が、運転手の背中に向って、話しかけた。 「そうですねえ。観光客は、あまり行かないんじゃないですか」 「若い女が、行きたくなるような神社かね?」 「場所は嵯峨野ですが、若い娘さんは、野宮神社なんかよりも、嵯峨野なら、直指庵《じきしあん》へ行きますねえ、あそこは、若い娘さんばかり押しかけますがね」 「野宮神社へは、行かないか」 「私は、一回だけ行きましたがね。由緒ある神社らしいんですが、ちょっとうらぶれた感じがしましたよ」  と、運転手はいい、 「嵯峨野なら、他にもっと、有名なところがありますがね」 「われわれは、野宮神社へ行きたいんだ」  亀井がぴしゃりというと、運転手は黙ってしまった。  一時間近くかかって、やっとタクシーは、嵯峨野の野宮神社に着いた。  まだ時間が早いせいか、参拝する人の姿は見えない。  ひっそりとしたたたずまいの中で、黒い色の木の鳥居が、異様な感じだった。  紅葉は、もう終りに近づいていた。  二人は、鳥居をくぐり、本殿の方へ歩いて行った。  ひどく寒かった。  京都でもこの辺りにくると、中心より二、三度は、気温が低いのだろう。  しばらく、深い木立ちの中の境内を歩いてみたが、いっこうに参拝する人の姿がない。 「静かですね」  亀井が、感心したようにいった。 「小林みどりは、なぜ急に、ここへ来たがったんだろう? どう見ても、若い娘の気を引くようなものはないがねえ」 「さっきのタクシーの運転手がいったように、直指庵に、若い娘たちは、行ってしまうんじゃありませんか。向うは『忘れな草』という記帳ノートが、娘たちの人気の的だそうですから」 「だが、殺された小林みどりは、この野宮神社に来たがって、実際に来たんだ。なぜかねえ?」 「事件に関係があると、思われますか?」 「わからん。わからないが、何か気になるんだよ」  十津川は、自分でも答になっていないなと思いながら、そんないい方しか出来なかった。  急に本殿の裏手から、人の声が聞こえて若いカップルが現われた。  どちらも、二十五、六歳といったところだろうか。女の方が二、三歳は若いかも知れない。  二人は、十津川たちを見ると、驚いたという表情ではなく、いる筈のないものがそこにいるといった戸惑いの表情を見せた。  若い二人は、この野宮神社には、めったに人が来ないと思い、自分たちの世界を楽しんでいたに違いなかった。  めったに来る筈のないところに十津川と亀井が現われたので、彼等は戸惑い、腹を立てているように見えた。  二人は、そそくさと十津川たちの脇をすり抜け、姿を消してしまった。 「今の二人には、悪いことをしてしまいましたね」  亀井は苦笑した。 「そういえば、この野宮神社は静かで、景色は美しくて、人の気配はなくて、アベックにはいい所かも知れないね」  十津川は、改めて周囲を見返しながらいった。 「そういえば、そうですね」 「だから、小林みどりは、ここに来たがったのかな?」 「しかし、警部。小林みどりは、真田久仁子と一緒だったんですよ。まあ、女同士でもアベックかも知れませんが」 「わかってるさ」  と、十津川は笑った。  小林みどりも真田久仁子も死んでしまった今、彼女たちの口から、十一月六日に、なぜこの野宮神社へ来たのか、その疑問をきくことは出来ない。  想像するより仕方がないのである。  真田久仁子の証言によれば、小林みどりは、突然この野宮神社へ行こうといい出したことになっている。  ということは、小林みどりが、少くとも、野宮神社の名前を知っていたということである。  十津川にしても亀井にしても、前に京都へ来たことがあったが、野宮神社の名前は知らなかった。  たいていの観光客が、野宮神社を知らないのではないか。簡単な観光地図には、のっていないからである。  それを小林みどりが知っていたということは、前に一度、ここへ来たことがあるに違いない。  しかし、それが悪い印象だったら、十一月六日にやって来たりはしないだろう。  従って結論は、小林みどりは、前にこの野宮神社に来たことがあり、しかも、その印象が素晴らしいものだったということである。 (恋人の星野と来たことがあったのではないか?)  ふと、そう思った。  それなら納得がいく。当然それは、みどりにとって、素晴らしい思い出だったのではないか。  だが、そこで、十津川の推理は壁にぶつかってしまう。  小林みどりにとって、この野宮神社が思い出の場所だったとしても、なぜ、親友の真田久仁子と二人だけの旅行のとき行こうと主張したのか、わからない。  しかも、みどりは最初から野宮神社へ行きたいといっていたのではないらしい。久仁子が、「急にいい出した」と証言していたからである。 「そろそろ帰りますか?」  と、亀井がきいた。  陽が深い木立ちにさえぎられてしまい、ひどく寒い。 「そうだな。引き揚げよう」  と、十津川も同意した。  時間がまだ早いせいか、それとも野宮神社のせいか、タクシーはつかまらない。  二人は、人に道を聞き、国鉄の嵯峨駅まで歩いて行くことにした。 「警部は、小林みどりが野宮神社へ来たがったことと一連の事件の間に、何か関係があると思われますか?」  亀井は、初冬の陽差しの中を線路沿いに歩きながら、十津川にきいた。  陽が高くなったので、さっきまでのような寒さは感じないが、それでも、陽がかげるとぐっと寒くなる。 「それをずっと考えていたんだがね。結局わからないんだ。小林みどりは、『銀河』のA寝台で、犯人のものと思われる足音を聞いた。もちろんこれは、断定は出来ない。トイレヘ行く乗客の足音だったかも知れないからね。だが、彼女は犯人を見たか、何かに気付いたので殺されたと思う。となると、事件直後に、彼女が、急に野宮神社へ行ったことは、引っかかるんだよ」 「しかし、彼女が、野宮神社に行ったことで殺されたとは、思えませんが」 「確かにそうなんだ。もし、そのために殺されたのなら、真田久仁子も一緒に殺されていなければならない。二人で野宮神社へ行ってるんだからね」  十津川は、何か堂々めぐりの議論をしているような気がしてならなかった。  今度の事件に関係している人間たちの行動は、少しずつおかしいような気がする。それが、十津川の胸に引っかかるのだ。  小林みどりがそのいい例だし、友人の真田久仁子にしても、いまだに、もう一度「銀河」に乗ったかどうか不明なのだ。彼女が、何を掴んだために殺されたのか、なおさらわからない。  気になりながら突きつめて行くと、不明になってしまうことが多いのだ。なぜなのだろう? 肝心の人間が、何も話さずに死んでしまったからか?  それもあるが、それだけではないと、十津川は感じるのだ。推理の出発点が間違っているから、辻褄《つじつま》が合わなくなるのではないだろうか?  ただ、推理の出発点が、どう違っているのか、今のところ見当がつかない。  国鉄の嵯峨駅から、普通列車に乗って京都に向った。  この際、嵯峨野の空気を味わって来ようなどという余裕は、今の十津川や亀井にはなかった。  三上刑事部長には、あと二日時間を欲しいといったが、その二日目が今日なのである。  席は空《す》いていたが、二人はドアの傍に立って、流れて行く外の景色を眺めていた。  国鉄の幹線には、新しい車両が使われているが、この山陰本線の普通列車となると古びた車両で、ドアも手動式である。何日か前に、ドアが開いてしまって落ちて怪我をした乗客がいたと、新聞に出ていた。  その乗客は、ドアが手で押すと開くなどとは、思っていなかったのだろう。  東京に住み列車に乗るといっても、新幹線か、さもなければ、幹線の特急に乗ることの多い十津川は、国鉄の列車は、全て自動になっていると思っていた。  この普通列車のドアも、自動だと思い込んでいて、ドアにもたれていて落ちることだって考えられるのだ。  先入主というものは恐ろしい。 (われわれも今度の事件について、誤った先入主を持ってしまっているのではないだろうか?)     3  京都で新幹線に乗りかえて、まっすぐ東京に向った。  昼食は食堂車でとることにして、二人は座席を立って、8号車の方へ歩いて行った。  午後二時を廻っているせいか、食堂車は空いている。  二人が入って行くと、奥のテーブルにいた男が手をあげて、 「十津川さん」  と、呼んだ。  大阪府警の三浦警部が、もう一人の男と一緒にいた。  三浦は、その男を部下の沼田刑事と紹介した。  十津川と亀井は、同じテーブルに腰を下し、シチュー定食を注文した。 「京都から乗られたようですね?」  と、三浦がきいた。 「そうです。ちょっと調べたいことがありましてね」 「今度の事件に関係してですか?」  すでに食事をすませている三浦は、コーヒーを一口飲んでからきいた。 「ええ。殺された小林みどりと真田久仁子という二人のOLは、問題の『銀河』で京都まで行っていますのでね」 「何か収穫がありましたか?」 「あったような、ないような──」  十津川は、あいまいにいった。  別に大阪府警に、意地悪をしようという気ではなかった。十津川自身にも、よくわからないからだった。  疑問が増えたのが収穫なら、それは収穫があったことになるが、逆なら、京都へ「銀河」で行ったことは無駄だったのである。  三浦は「そうですか」といってから、急に改まった顔になって、 「実は今日、井崎勉について逮捕状が出ました。もちろん『銀河』のA寝台内において、太田由美子を絞殺した件だけについてですが」 「そうですか」  と、十津川はいった。  大阪府警が、向うの所轄の事件について、逮捕状を出すことを妨げる権限は、十津川にはない。むしろ今まで待ってくれていたのが異常なのだ。 「これから東京に行って、警視庁の三上刑事部長に協力をお願いするつもりです。十津川さんには申しわけないのですが、了承して下さい」 「申しわけないことはありませんよ。今まで待って頂いたことを、感謝しているくらいです」 「一つだけお伝えしておきますと、この逮捕状は、今夜の十二時に発効ということになっています。あと十時間あります。その間に井崎勉の無実が証明されれば、いさぎよくこの逮捕状は撤回します」  と三浦はいい、 「じゃあ、失礼します」  と、部下の沼田刑事を促して、立ち上った。  料理が運ばれて来た。 「あと十時間ですか」  と、亀井が溜息をついた。十津川は、笑顔でなぐさめて、 「とにかく、食事をしようじゃないか。溜息は腹の足しにならんよ」 「しかし、京都行があまり効果がありませんでしたから」 「本当になかったかどうか、東京へ帰って再検討してみようじゃないか。ひょっとするとわれわれは、事件解決へのヒントを掴んでいるのかも知れないからね」  十津川は、元気に食べ始めた。  つられて亀井も箸を運び始めた。  二人は、食事をすませると、自分の席に戻った。  座席に腰を下すと、十津川は眼を閉じた。  昨夜、「銀河」で東京駅を出発した時のことから、ゆっくりと反芻《はんすう》してみようと思った。  亀井も黙っている。  十津川の頭の中で、一つ一つの光景が出て来ては消えていく。  A寝台の喫煙室、乗務員室、更衣室、トイレ、洗面台、そしてタテ二列に通路を挟んで並ぶ寝台。  京都駅、野宮神社、当惑した顔のアベック。  まだそうした光景は、ただばらばらに、十津川の脳裏に浮んでくるに過ぎない。  名古屋に着く頃から、小雨が降り出した。  新幹線のガラス窓に、雨滴がつき始めた。  列車がスピードをあげると、その雨滴が、斜めから横に走る。  東京駅着が一六時五六分。  東京は、完全な雨になっていた。  タクシーを拾い、三浦たちと一緒に乗って行こうかと思ったが、見つからなかった。  井崎のことがあるので、一緒では気まずいだろうと姿を消してしまったのだろう。  十津川は、丸の内側のタクシー乗り場のところへ来てから、急に亀井に向って、 「ちょっと用を思い出したから、ここで待っていてくれないか?」 「一緒に行きましょうか?」 「いや。すぐ済む用だから」  とだけいって、十津川は切符売場の方へ戻って行った。  仕方なく、亀井は煙草に火をつけ、雨の降り続く丸の内の景色を眺めていた。  十五、六分して、十津川が戻って来た。  前よりも難しい顔になっていた。  タクシーに乗って捜査本部に向う間も、十津川は黙ったままだった。  四谷署に着いてから、十津川はやっと口を開いて、 「十一月五日のA寝台の切符のことを、もう一度聞いて来たんだよ」  と、亀井にいった。 「A寝台のどの席の切符のことを聞かれたんですか?」 「問題のA14上の切符を買った人間が誰かわかればいいと思ったが、やはり、無理だったよ」 「そうでしょう。列車の切符は、相手の名前を聞いてから売りませんからね」 「カメさんのいう通りで、駅員が笑っていたよ。しかし、私が確認したかったのは、もう一つの方だったんだ」 「どういうことですか?」 「太田由美子がいたA14下と、犯人が買っておいたと思われるA14上の二枚の切符が、同じ人間に売られているかどうかということなんだ」 「それ、窓口でわかりますか?」 「いや、これも、残念ながらわからなかった。わかっているのはA14下の太田由美子の切符が、A14上より二日前に買われているということだよ。同じ人間が買ったか、それとも、別人が買ったかは不明だが、上下二つの席が、別の日に買われたことは、確かだよ」 「しかし、警部──」 「わかってるよ。それが、何か意味があるかといいたいんだろう?」 「そうです。残念ながら、井崎さんの無実を証明するものには、ならないと思いますが」  亀井は、遠慮がちにいった。 「ああ、カメさんのいう通りだ。むしろ井崎にとって、不利になりかねない。見方によってはね」 「不利といいますと?」 「こうも解釈できるからさ。井崎は、第一と第三の火曜日に、大阪本社の会議に出るので、その前日の夜東京駅を出発する『銀河』に乗ることにしていた。A寝台で行くことも決っていたから、自分の切符は早く買っていたろうと思う。太田由美子も、もちろんそのことは、知っていたろう。最近二人の仲は、上手くいかなくなっていたが、前には熱くなっていた時期もあった筈だからね。その頃には、『銀河』のことは、彼女に喋っていたに違いないんだ。そこで彼女は、ひそかに東京駅に行き、『銀河』のA寝台の切符を買った。それが、A14下だった」 「なるほど」 「由美子は、井崎に惚れていたから、その切符を見せて、大阪までついて行くといったのかも知れない」 「井崎さんは、困ったんじゃありませんか?」 「困ったと思う。もう彼女に、嫌気がさしていたからね。その上、大阪までついて来られたんでは、会社にもわかってしまう。そこで、殺意が生れた。彼は東京駅へ行き、彼女の席の上、A14上の切符を買った。余分にね。こう考えると、私が確認して来たことは、井崎が犯人だという状況証拠にもなってしまうんだよ」     4  本多捜査一課長が心配して、捜査本部にやって来た。 「大阪府警の三浦警部とは、新幹線の中で会ったそうだね」  と、本多は、十津川にいった。 「会いました。だから、井崎勉に対する逮捕状のことは、知っています」 「どうだね? 君は、井崎が無実だという確信があるのかね?」 「確信はありません」  十津川は、正直にいった。  本多は、苦笑した。 「そいつは困ったね」 「状況証拠は、井崎にとって不利です。だから、大阪府警が彼の逮捕状を取ったのは、当然だと思っています」 「しかし君は、彼が無実だと思っているんだろう?」 「どうも今度の一連の事件は、引っかかることが、多過ぎるんです。太田由美子に始まって、私立探偵まで殺されていますが、その人物たちが、奇妙な行動をしています。井崎が犯人だとすると、そうした奇妙な行動の説明がつかないんです」 「君のいわんとするところは、だいたいわかるが、井崎勉をシロとするには、いかにも説得力がないねえ」 「わかっています」 「あと七時間だよ」  と、本多は、腕時計を見ていった。  十津川は、窓の外に眼をやった。  いぜんとして、雨が降り続いている。氷雨《ひさめ》というのか、いかにも寒い感じの雨である。  十津川は、黒板に眼を移した。 「銀河」のA寝台の乗客二十七名の名前と、その中の四人には、×印がついている。  そして、別のところに、「私立探偵、藤沼貢」と書かれ、その上にも、×印がついていた。  残りの乗客は、二十三名である。  この中に、犯人がいる筈なのだが──  十津川は、チョークで余白のところへ、 〈疑問点〉  と、書いた。  そのいくつかを、書き出してみようと思った。順不同で書いてみようと考え、 〈一、小林みどりは、六日に、なぜ野宮神社へ行ったのか?〉  と書いたとき、傍の電話が鳴った。  十津川が、手を伸ばして受話器を取った。 「四谷三丁目の派出所の秋本といいます」  と、若い警官の声がした。 「それで、何の用だ?」 「そちらの十津川警部に連絡した方がいいと、いわれたものですから」 「私が十津川だ。早くいいたまえ」 「実は、この近くのマンションに住む井崎勉という男が──」 「井崎がどうしたんだ?」 「自殺を図って、今、救急車で病院へ運ばれたところです」 「自殺を図った?」  十津川の背筋を、冷たいものが、走り抜けた。 「どこの病院だ?」 「国鉄信濃町近くのK病院です」 「具合はどうなんだ?」 「そこまでは、わかりません。電話で問い合せますか?」 「いや。いい。私がきく」  十津川は、電話を切った。  亀井が、心配そうにこちらを見ている。  本多一課長が、「どうしたんだ?」ときいた。 「井崎が、自殺を図って、病院へ運ばれました」  と、十津川は本多にいった。 「それで?」 「わかりません。電話で聞いてみます」  十津川は、もう一度受話器を取ると、K病院へ問い合せてみた。  電話口に出てくれた医者は落着いた声で、 「今は絶対安静ですが、命に別状はありませんから、ご安心下さい」  と、いった。 「井崎は、何をしたんですか?」 「手首を切りましてね。発見がおくれたら、出血多量で、亡くなっていたかも知れません」 「もし輸血が必要なら、私が行きますよ。確か、彼と同じO型だと思いますから」 「いや、もう、輸血はすみました」 「誰か、適当な人がいてくれたわけですか?」 「奥さんの血が、丁度O型でしたのでね。助かりましたよ」  医者は、電話の向うで、微笑しているようだった。 「しかし、奥さんとは、別居している筈なんですが──」  まさか、また他の女がと思ってきくと、 「そういうことは私にはわかりませんが、聞いたところでは、奥さんのところに電話があって、その電話がただならぬ感じだったので、行ってみると、井崎さんが血まみれで倒れていたということは、聞きました」 「そうですか」  十津川は、医者に礼をいい、電話を切った。 「助かるそうです」  と、十津川は、本多一課長にいった。 「大阪府警に、追いつめられて自殺を図ったと、考えられるだろうね」 「逮捕をまぬがれるためにと、思うかも知れません。マスコミは、必ずそう考えます。今夜の十二時になったら、井崎に逮捕状が出たことは公けになるでしょうから」 「君は、追いつめられてとは思っていないんだろう?」 「井崎は、『銀河』で起きた殺人事件のために、愛人の太田由美子のことが、会社にも家族にも、ばれてしまいました。前から夫婦仲がよくなかったんですが、これでそれが決定的になって、今、離婚の話が進んでいます。また、会社では、一応、エリートだったんですが、それも難しくなりました。自分の部下に手をつけて、彼女を殺したのではないかと、疑われているんですからね。毎日面白くなくて、飲んで、泥酔していましたから、自棄《やけ》を起こして自殺を図ったんだと思います」 「心配だろう? 行って来たまえ」  と、本多がいってくれた。  第七章 一つの仮説     1  少し小降りになった雨の中を、十津川は、ひとりで信濃町のK病院へ向った。  絶対安静なら会うことは出来ないだろうが、十津川はむしろ、輸血したという治子に会いたかったのだ。  自殺を図るほど、井崎が苦しんでいたことは、暗いニュースだったが、これを機会に、彼と妻の治子の間に愛が戻ればという気持が、十津川にはあった。  K病院に着くと、十津川は、婦長に聞いて、二階の病室をのぞいてみた。  二人部屋で片方のベッドは空いているので、井崎一人が、ベッドに横たえられていた。  ベッドの傍のかたい椅子に、疲れた顔で治子が腰をかけていた。  十津川が入って行くと、あわてて立ち上ろうとするのを、押し止めて、 「井崎は、どんな具合ですか?」  と、きいた。 「眠っていますわ。医者は、もう大丈夫だといっています」 「よく来てくれましたね。それに、輸血もしてくれたと聞きましたよ」 「たまたま同じ血液型でしたから」  とだけ、治子はいった。 「井崎から電話があったそうですが?」 「ええ。変な電話でしたわ。もう会うこともないみたいなことを酔った口調でいっているので、心配になって行ってみたんです。そうしたら、その部屋のドアにカギがかかってなくて、井崎が、血まみれで倒れていたんです。それで、救急車を呼んで──」 「それなら、あなたが井崎を助けたんだ」 「───」 「とにかく、井崎に代って、お礼をいいますよ」  と、十津川は、期待を込めていった。  しかし、治子は、蒼い顔で立ち上ると、 「娘が心配しているので、もう、帰らないと──」 「せめて、井崎が気がつくまで、ここにいてくれませんか。彼が気がついた時、言葉をかけて、力づけてやって欲しいんです」  十津川は熱っぽくいったが、治子は、 「井崎が気がついた時は、ここにいたくありませんわ」 「しかし、輸血までされたじゃありませんか?」 「それは、たまたまその必要があったからですわ。この病院にO型の鮮度のいい保存用血液がなかったからですわ。それだけのことで、彼と別れる気持に変りはないんです」  治子は、それだけいうと、病室を出て行った。  十津川は、一瞬追いかけようとして、止めてしまった。無理に引き止めても、それで彼等の仲が戻るとも思えなかったからである。  二十分ほどして、大阪府警の三浦警部が駈け込んで来た。  息をはずませながら、 「井崎は、大丈夫ですか?」 「大丈夫です。今は眠っていますがね」  と、十津川はいい、三浦を促して廊下へ出た。 「ほっとしましたよ」  と、三浦がいった。 「どちらになるにしろ、井崎が助かってよかったです」 「どちらになるにしろというのは?」  十津川は、わかっていたが、わざと三浦にきいた。 「あと五時間足らずで十二時になる。もしそれまでに、井崎の無実が証明されたら、大阪府警は、無実の人間を、自殺に追いやったといわれる。彼が有罪で逮捕が決っても、死人は逮捕できない。だからほっとしたんですよ」 「雨はまだ降っていますか?」 「もう止んでいますよ。なぜです?」 「あと五時間、有効に使いたいのでね。四谷署に行きます」 「井崎が眼ざめるまで、いてあげないんですか?」 「いても、彼の無実を証明できなければ、彼は喜ばないでしょう」  十津川は、微笑していい、出口に向って歩き出した。  病院を出る。  三浦のいった通り、雨は止んでいた。  黒く濡れた歩道を、十津川は、四谷三丁目の方向に歩き出した。  歩きながら、しばらく考えたかったのである。  午後七時を過ぎていた。  わざとゆっくりと歩く。考えなければならないことが多過ぎるが、四谷署まで、その中の一つだけを考えてみようと自分にいい聞かせた。  今日、東京駅の切符売場で聞いたことを考えてみよう。  問題のA14上と下の二枚が、別の日に買われたことをである。  太田由美子のA14下は、恐らく彼女自身が買ったのだろう。  二日後、その上のA14上の切符を買ったのは、明らかに彼女を殺した犯人である。  犯人が井崎勉でないとして推理をすすめてみようと、十津川は考えた。  二つの疑問が生れてくる。  一つは、犯人が、どうして太田由美子が十一月五日東京発の「銀河」に乗ることを、それも、A寝台のA14下に乗ることを知ったのだろうか?  犯人は、その上のA14上を買ったからである。  もう一つの疑問は、A14上の切符が売り切れてしまっていたら、どうする気だったのかという疑問である。どの席でもよかったのだろうか?  第一の疑問については、犯人が、どの程度太田由美子のことを知っていたかがわからないと、答が出て来ない。  事件のあと、太田由美子の男女関係を調べてみたのだが、井崎しか浮んで来なかった。三十歳近いハイミスだし、あまり魅力的な女性ではなかったらしい。井崎にしても、身近かにいたので手をつけたのだろう。  第二の疑問の方が、答を見つけやすい。  寝台急行「銀河」は、その時間から、人気がある。  2号車から11号車までの三段式B寝台は、幅が五十二センチと狭いのと数が多いので、いつ行っても席はあるが、A寝台の方はゆったりとしている。二十八の数しかないので、満席のことが多い。  十一月五日の「銀河」のA寝台も、満席だった。一つだけ空いていたと思ったのに、犯人が買っていたからである。  従って犯人は、東京駅に行ったが、A14上を買えないこともあり得たわけなのだ。  それでも犯人は、あの「銀河」の中で、殺人を強行したろうか? (それよりも、犯人は、指定してA14上の切符を買ったのだろうか?)  当然指定して買った筈だと、今まで思い込んでいたのである。  四谷署に着いていた。  十津川は、東京駅の切符の窓口に電話をかけた。  何度も行っているので、そこの責任者とは、親しくなっている。 「今度は、どんなことですか?」  と、向うからきいた。 「例の『銀河』のA寝台のことですが、切符を買いに来る人たちは、どこの席を欲しいと指定してくるものですか?」 「いや、そんなに指定をされませんね。どの席でも同じですから。ただ、アベックの方とか、家族連れの方とかは、離れた席ではお気の毒なので、こちらで近い席の切符を用意することにしています」 「十一月五日のA14上は、どうだったんですか? 買いに来た人間は、どうしてもその席が欲しいといって、買っていったんでしょうか?」 「今日も十津川さんが、こちらへ来られたでしょう。それで、そのA14上という席のことを、思い出していたんですよ。今どの席でも同じだといいましたが、両端の席は傍にドアがあって、人が通る度にドアの開閉が行われますからね。嫌がる人が多いんです。その席をわざわざ指定して買うお客さんがあれば、印象が強いわけですから、当然覚えていると思うんです。最近では、亀井刑事さんだけです。だから、十一月五日のA14上も、別に指定されてお売りしたんじゃないと思いますよ。新幹線の切符でも、寝台列車の切符でもそうですが、真ん中から売っていくわけで、十一月五日の分も、A14上は、端なのであとまで残っていたんだと思いますね」 「A14上と同じ日に、いくつ売れているわけですか?」 「A寝台は五枚で、それぞれ全部売れたことになりました。満席です」 「どこの席の切符か、わかりますか?」 「わかりますよ。同じ日に売れたのは、A1上、A2上・下、A13上、A14上の五枚です」 「全部、端ですね?」 「そうです。今も申しあげたように、真ん中から売れて行きますから、最後は両端が残るわけです。同じ日に売りきれたから、A14上の方はA1かA2の切符という可能性もあったわけです」  と、窓口の職員はいった。 (もしそうなっていたら、太田由美子からもっとも離れた席になっていたのだ)  それでも、犯人は買ったろうか?     2  K病院から考えながら歩いたせいだろうか、身体が冷え切ってしまっている。  ストーブで身体を暖めながら、亀井のいれてくれたお茶を飲んだ。 「私はね、カメさん。一つの仮説を立ててみたんだよ」  と、十津川は、亀井に話しかけた。 「どんな仮説ですか?」  亀井が、じっと十津川を見た。 「井崎が犯人だとすると、今度の一連の事件は簡単に説明がついてしまう。十一月五日の『銀河』の中で、井崎は太田由美子を殺した。彼女が邪魔になったからということで、動機もはっきりしている。その後、山田祐一郎、小林みどり、真田久仁子と同じA寝台の乗客が三人も殺されたのは、その三人が井崎の犯行を見ていたか、或いは井崎が勝手に見られたと思い込んでの殺しだった。これで説明がつくんだ」 「藤沼という私立探偵の件は、説明できませんね。彼は乗客じゃなかったわけですから」 「そうだよ。今、井崎犯人説で説明がつくといったが、細かく見ていくと、説明のつかないことも出てくる。私立探偵をなぜ殺さなければならなかったのかわからないし、細かいことでも、辻褄が合わないことがあるんだよ」 「小林みどりが、なぜ京都で突然、野宮神社へ行ったのかということもありますね。井崎さんが犯人とすると、これは説明できませんね」 「大阪府警へ届いたワープロの手紙も、わからない一つだよ。井崎が前もってあの手紙を作って投函しておいてから、車内で手紙のとおり金のネックレスを引きちぎり、とがったペンダントで太田由美子の首すじから胸にかけて傷をつけたという説明しかないんだが、彼女が、金のネックレスをつけて来なかったら完全に失敗してしまうわけだよ。もしそれで殺しを中止しても、大阪府警には、手紙は届いてしまうんだ」 「そうですね」 「それで、井崎が犯人ではないと考えると、今の疑問に答えられるかどうか、考えてみることにしたんだ」 「それが、仮説というわけですね。ぜひ聞きたいですね」  と、亀井が膝をのり出してきた。 「カメさんは、冷静に聞いて、おかしいところを遠慮なくいって貰いたいんだ」 「わかりました」  亀井は、緊張した顔でいった。  十津川は笑って、 「もっとリラックスして聞いてくれた方がいいんだ」  といい、ちらりと壁の時計に眼をやった。  午後八時になっている。  あと四時間ある。いや、四時間しかないといった方がいいのか。 「井崎以外の人間が犯人だとして、推理をすすめてみた」  と、十津川はいった。 「犯人は、十一月五日のA14上の切符を買った。これは間違いない。犯人以外に、二つも席をとっておく必要はないからだ。もう一つ、午前二時頃A寝台の少年が、A14上が空いていると思ってのぞきに行ったら、誰かが中にいて驚いて逃げ帰っているが、この時、中にいたのも犯人に間違いないと私は思っている。ここまでは、カメさんにも異存はないだろう?」 「ありません」  と、亀井はいった。 「ところで、東京駅に聞くと、犯人がA14上の席を手に入れたのは、偶然なんだ。また買った人間も特にA14上の席が欲しいといわなかった。たまたま犯人は、この席が手に入ったわけなんだよ。となると、奇妙な結論になってしまうんだ。犯人はどの席でもよかったんじゃないかとね。A寝台の席ならば。どうだね? この結論は」  と、十津川はきいた。  亀井は、すぐには返事をしなかった。  いい加減に相槌は打たない男である。その点も、十津川は、信用しているのだ。 「しかし、警部。犯人は、A寝台に、もう一つ自分の席を持っていたわけでしょう。そして、被害者、太田由美子の真上の席をもう一つ買っておいたというのが、われわれの考えでした。もしどこでもいいのなら、すでに自分の席は、切符が買ってあるんですから、余分の切符は必要ないんじゃありませんか?」  と、亀井はいった。 「カメさんのいう通りだよ」  十津川が肯くと、亀井は変な顔をして、 「それでは、以前と同じで、推理は一歩も進まないんじゃありませんか?」 「その通りだよ。だから、ここで推理は、飛躍が必要になってくるんだ」 「どんな飛躍ですか?」 「今、私は、井崎が犯人でないとしたらという前提に立って考えている。ところで、われわれは、A寝台の乗客全員の身辺調査を行った。その中で、被害者、太田由美子と関係があるのが、井崎一人とわかった」 「そうです。それで、井崎さんの容疑が一層強くなったわけです。二十六人の乗客の中で、太田由美子を殺す動機の持主は、井崎さんだけでしたからね。少くとも、今までのところ、他の二十五人には太田由美子さんを殺さなければならない理由がありませんから」 「そうなんだ。それでも、井崎以外の人間が犯人として考えてみると、どういうことになるだろう?」 「その犯人は、殺す理由もなしに、太田由美子を殺したことになってしまいますよ」  と、亀井はいってから、苦笑して、 「まさか警部は、今度の一連の事件が、動機なき殺人などとおっしゃるんじゃないでしょうね?」 「いや、そんなことは考えていないよ。第一、A寝台には、二十八の席しかない。十一月五日は、その中の二十七に乗客がいた。二十七人の中の一人が殺されたわけだから、無差別殺人とか、動機なき殺人とはいえない。犯人は、少くともA寝台の乗客の一人を殺す気でいたことは、間違いないんだ」 「しかし、警部。犯人と太田由美子の間に何の関係もなければ、やはり、動機なき殺人ということになるんじゃありませんか?」 「関係はないが、犯人は、一つの目的を持って太田由美子を殺したとすれば、それは、動機ある殺人ということになるよ。それに、二十七人の中の一人を殺すわけだから、無差別でもない」 「どうも、よく私にはわかりませんが──」  亀井は、当惑した表情になっている。 「井崎以外の人間が犯人とすれば、今私がいったようになってくるわけだよ。犯人は、太田由美子とは、直接何の関係もないとね。逆にいえば、犯人は、A寝台の乗客なら、誰でもよかったんじゃないか」 「ちょっと待って下さい。そんなことってあるんでしょうか?」 「確かに馬鹿げている。だがね、犯人と被害者との間に、何の関係もない。しかも犯人は、どこの席が欲しいともいわずに切符を買っている。こう並べてくると、どうしても結論は、A寝台の乗客なら誰でもよかったんじゃないかということになってしまうんだよ」 「すると犯人は、東京駅へA寝台の切符を買いに行って、それは一枚余分にですが、その切符が、たまたまA14上だったので、真下にいた太田由美子を殺したわけですか?」 「私はそう考えたんだがね」 「では、もしその切符がA7上だったら、A7下の乗客が、殺されたことになりますね」 「そうだよ。下段の席の切符だったら、逆に真上の乗客を殺したかも知れないね」  十津川がいうと、亀井は、肩をすくめて、 「どうも、めちゃくちゃですね。犯人は、何のために、そんな出たらめな殺人をやるわけですか?」 「問題は、それだよ。一つだけ、答がある」 「何ですか?」 「別の殺人を、隠すためだよ」  と、十津川はいった。     3 「別の殺人──ですか?」  亀井は、まだわからないという顔だった。 「そうだよ。そう考えないと、説明がつかないんだ。ここに、はっきりした動機を持つ殺人がある。すぐ犯人の想像がついてしまう殺人だ。だが、犯人は、どうしても相手を殺さなければならない。そんな時、カメさんならどうするね?」 「方法は、二つあると思いますね。一つは、何とかして動機を隠すこと。もう一つは、どうしても動機は隠せないから、アリバイ工作をするか、誰かに頼んで殺して貰うかですね」 「今度の事件で、犯人は、動機を隠すことを考えたんじゃないかと、私は考えたんだよ。そのために、全く関係のない人間を殺す」  十津川がいうと、亀井は、やっと十津川のいいたいことがわかったという顔で、 「なるほど。わかりました。犯人は、A寝台の乗客の誰かを殺したかった。だが、いきなりその誰かを殺したのでは、すぐ自分が疑われてしまう。そこで、全く関係のない人間を殺して、その方に注意を引きつけておく。警部は、そうお考えなんですね」 「カメさんのいう通りだ。この黒板に書かれた乗客の中に、犯人が殺したい人間が、いたんだと思ったんだよ。だがカメさんのいうように、すぐ殺したのでは、簡単に自分が疑われてしまう。そこでまず、自分とは関係のない人間を殺す。それは、一人の人間をのぞいて、他の誰でもよかったわけだよ。従って、どこの席の切符が手に入ってもいいわけになる。隙を見て、近くにいる乗客を殺してしまえばいいわけだからね」 「だんだんわかって来ました。二十七人の乗客の中のAという人間を、犯人は殺したかった。だが、Aを殺してはすぐ疑われるので、まずA以外の人間を殺す。それが、たまたま太田由美子だったわけですね。彼女が殺されると、彼女の身辺調査が行われます。犯人は、全く安全です。次に犯人は、Aを殺す。それも、Aが第一の事件で、犯人が太田由美子を殺すところを目撃したということにしてです。そうなればAは、犯行の目撃者だったから殺されたことになって、動機のある犯人は、容疑の外に出てしまう。犯人は、それを狙ったというわけですね」 「犯人は、そうするつもりだった。きっと上手くいくと思ったんだ。それで犯人は、A14上の席を買い、その真下に寝ていた太田由美子を絞殺した。そうしておいてから、カメさんのいうように、本命のAを事件の目撃者に仕立てて、殺すことを考えた。ところが、犯人の考えていない事態が、起きてしまった」 「それは、何ですか?」 「大阪府警が、太田由美子殺しの容疑者として、同じA寝台に乗っていた井崎を逮捕してしまったことだよ。犯人としては、それでは困るんだ。第一の殺人があって、犯人はわからない。そんな状況の中で、第二の殺人が起きなければならないんだ。そうすれば、犯人が、第一の殺人を見られたと思って、第二の殺人に走ったと、警察は考えるからだよ」 「そうですね。犯人が出ては、いけないんですね」 「奴は、でたらめに殺した事件で、犯人がすぐ見つかるとは、思わなかったんだ。まさか、その被害者を殺す動機を持っている人間が、同じA寝台に乗っているとは思っていなかったんだと思うね。ところが、犯人にとって都合の悪いことに、大阪府警は、同じA寝台に乗っていた井崎を逮捕してしまった。井崎が逮捕されている限り、犯人は、第二の殺人を起こせないんだ。第一の殺人を目撃したので、殺されたということには、出来なくなる。それでもなお、犯人が第二の殺人をやれば、第一の殺人とは切り離された独立した事件として、警察は取り組むだろう。そうなると、第二の被害者と関係のある人間が疑われて、何のために第一の殺人を犯したか、わからなくなってしまう」 「それで犯人は、大阪府警に手紙を出し、ネックレスを送りつけて、井崎さんを釈放させたわけですね?」 「その通りだよ」 「しかし、疑問が一つあります」 「ネックレスのことだろう? カメさん」 「そうです。犯人は、A寝台の客の一人を、無作為で殺した。その時、同じ車内に、まさか殺す動機のある人間が、乗っているとは思わなかったろうと、いわれましたね?」 「ああ、そう思っている。私が犯人だとしても、思わないだろうね。犯人が殺した太田由美子は、A14下にいた。もし、同じ車内に深い仲の男がいれば、たいてい真上のA14上の席をとっているものだからさ。井崎は、離れた席にいた。これは恐らく、太田由美子が井崎に内緒で『銀河』に乗ったからだと思うよ」 「犯人が、まさか同じ車内に、でたらめに殺した女の関係者がいるとは思っていなかったとしてですが、なぜ、ネックレスを引きちぎって、持ち去ったんでしょう? そんな必要は、なかったわけでしょう?」 「それについては、こう考えたんだ。犯人としては、第二の殺人が、第一の殺人と関係があり、同一犯人の仕業と思わせなければならない。そこで、第一の殺人をやったあと、被害者の身廻品を持ち去っておいて、それを第二の殺人の現場に落しておくとか、或いは、犯人に仕立てあげたい人間の家に置いておくつもりだったんだと思う。そうすれば、誰だって、連続した事件と考えるからね。ところが、犯人の意に反して、逮捕された井崎を釈放させるために使わざるを得なくなってしまったんだ。犯人にしてみれば、さぞ残念だったろうと思うね」  と、十津川は笑った。  亀井が、不器用な手付きで、コーヒーをいれてくれた。  亀井は、自分も、それをブラックで飲んでから、 「犯人の苦心が実って、井崎さんが釈放されましたね。それで、いよいよ目的通りに、犯人は動き出したと考えていいですか?」 「だから、第二、第三の殺人事件が起こったんだよ。あの『銀河』のA寝台の乗客が、続けて殺されていったんだ」 「すると、犯人が本当に殺したかったのは、二番目の犠牲者である東西電気の山田祐一郎ということになりますか? 犯人は、前もって山田に電話をかけ、『銀河』の車内で見たことは警察に喋るなと脅してから、殺しました。明らかにこれは、第二の殺人が、第一の殺人の続きだと思わせるための芝居だと思いますね」 「山田祐一郎が、本当の標的だったかどうかは、犯人の性格によると思う」 「といいますと──?」 「それは、こういうことさ」  と、十津川はいったん言葉を切って、コーヒーを口に運んでから、 「短気な犯人なら、二番目にいきなり目的の人間を殺すだろう。だが用心深い人間なら、ワン・クッションおこうとするだろうと思うね。そうした方が、連続殺人と思わせやすいからだよ。東西電気の山田祐一郎の他に、同じA寝台の乗客の中、小林みどりと真田久仁子も殺されている。この二人のどちらかが、犯人の本当の標的だったということも考えられるんだ」 「しかし、三人の中の誰と決めるのは、難しいんじゃありませんか?」 「いや、一つだけ、見わける方法があるんだよ」  と、十津川はいった。     4  時計は、午後九時四十分を指している。  あと二時間二十分。  亀井は、けげんな顔をして、十津川を見た。 「しかし、警部は今、二番目か、三番目か、或いは四番目にするかは、犯人の性格によるといわれた筈ですよ。われわれは、犯人が誰なのか知らないんですから、性格はわかりませんよ」 「ああ、そうさ」  と、十津川は肯いた。  コーヒーを飲み、煙草に火をつける。禁煙しようとしていたことなど、十津川は、忘れてしまっていた。 「私は、殺された私立探偵のことを、考えたんだ」 「井崎さんを尾行していた藤沼という私立探偵ですね」 「井崎の奥さんは、頼んでいない。それは、信用していいと思う。すると、他の誰かが、あの探偵に井崎の尾行を頼んでいたことになるんだよ。まず考えられるのは、職場のライバルが、彼を落し込もうとして素行調査をやるケースだが、井崎は殺人事件と太田由美子のことがばれて、出世の望みはなくなっていたんだから、会社のライバルが彼のことを調べる必要はないんだよ」 「とすると、犯人ですか?」 「そうさ」 「しかし、犯人がなぜ?」 「井崎は、釈放されたあとも、第一の容疑者であることに変りはなかった。そこで犯人は、井崎を犯人に仕立てあげることにしたのさ。だが、今度はA寝台という一つの車両の中で殺人を犯すわけじゃない。その時に、井崎に完全なアリバイがあったら失敗する。そこで私立探偵を雇い、井崎の行動を調べさせたんだ。絶えず、探偵に連絡をとるようにいっておけば、井崎が泥酔してアリバイの不確かな時に、次の殺人を犯せるからね」 「それはわかりますが、犯人の本当の狙いが誰だったのか、どうやって見分けるんですか?」  亀井が、当然の疑問を口にした。 「井崎が尾行されているのに気付いたのはいつだったか、それを考えてみればいいんだよ」 「確か、真田久仁子が殺された頃だったと覚えていますが、尾行云々のことは、警部が井崎さんと話し合われたので──」 「カメさんのいう通り、真田久仁子が殺されたあとだ」  と、十津川はいってから、 「もし、犯人の標的が二番目の山田祐一郎だったら、彼が殺された時点で私立探偵の尾行は中止している筈だよ。もう必要ないし、逆に怪しまれる危険があるからね。だが、その後も犯人が尾行をやらせていたということは、三番目の小林みどりか、四番目の真田久仁子が真の標的だったということになる」 「そのどちらでしょうか?」  と、亀井がきいた。  十津川は、またコーヒーに手を伸ばした。 「真田久仁子のときまで、尾行していたのだから、彼女がと考えられるが、この頃になると私立探偵の藤沼は、わざと井崎に尾行を気付かせようとしていた節がある。そうやっておいて、井崎から金を貰おうと思っていたんじゃないかな。犯人は、本当の理由をいって尾行を頼んだとは思えない。多分、女性問題とかいって尾行を頼んでいたんだと思う。だから藤沼は、それをタネに井崎から金を貰えると考えたんじゃないかな。そんなことをされては、何もかも駄目になってしまう。それで犯人は、あわてて藤沼を殺してしまったんだ」 「すると、犯人の本当の標的は、三番目の小林みどりということになりますか?」 「私は彼女だと、思っている」 「犯人は通商省の課長の星野貞祐ですね。あの野郎!」 「あの男さ」 「すぐ、逮捕しましょう」  亀井は気負い込んでいったが、急に沈んだ表情になって、 「駄目ですよ、警部。あの男が犯人の筈がありません」 「なぜ?」 「あの黒板を見て下さい。十一月五日の『銀河』のA寝台の乗客の中に、あいつはいないんです」     5  十津川も黒板に眼をやった。  そこに、二十七名の乗客の名前が書いてある。その中に星野貞祐の名前はない。 「忘れていたよ」  と、十津川は深い溜息をついた。  第一の殺人では、犯人もA寝台にいなければならないのだ。そう考えていた筈である。  やっと、井崎以外の犯人を見つけ出したと思ったのだが、違っていたのか。  十津川は、椅子から立ち上り、ゆっくりと部屋の中を歩き廻った。  時刻はすでに、午後十時を廻ってしまった。 (犯人が井崎の他にいるとすれば、犯人が本当に殺したかったのは、太田由美子ではない)  歩きながら、十津川は、自分の推理をもう一度頭の中で反芻《はんすう》していた。  あの推理に間違いがあるとは思えない。自信がある。  その帰結として、真犯人は星野貞祐ということになった。  だが、それが違っている──。 (どこが間違っていたのだろうか?)  十津川は考え込んだ。  A寝台にいなかったからといって、あの日の「銀河」に乗っていなかったということにはならない。  A寝台は一両だけで、あと十両が、B寝台として連結されているからだ。  だから星野は、B寝台に乗っていた可能性もあるのだ。  だが、A寝台以外の乗客に、太田由美子は殺せない。車掌長と専務車掌がA寝台の喫煙室にいて、他の車両からA寝台へ入るのも、出て行くのも見ていたから、不可能だということになっている。  十津川は、またちらりと腕時計に眼をやった。  あと、一時間三十分。  もちろん、井崎が大阪府警に逮捕されてからでも、彼のために真犯人を見つけてやるつもりでいるが、彼の名前がまた新聞に出てしまうだろう。  十津川が、ふいに立ち止まった。 「カメさん、ネックレスだ!」  と、十津川は、亀井に向っていった。 「ネックレスがどうかしたんですか?」 「犯人が引きちぎって持ち去った、太田由美子のネックレスだよ!」  十津川が、嬉しそうに大きな声でいう。  亀井は、首をかしげた。 「それはわかっています。犯人が、大阪府警に送りつけてきたものでしょう。それがどうかしましたか? ネックレスのことは、十分に検討した筈ですが」 「いや、一つだけ検討しなかったことがあるよ」 「何ですか?」 「A寝台の乗客は、事件の直後に名前と住所を聞かれ、所持品も調べられている。全員が容疑者だからね。それなのに、肝心のネックレスは見つからなかった。そのことを忘れていたんだよ」 「それはつまり、犯人がA寝台にいなかったということですか?」 「そうだ」 「しかし警部。われわれは、犯人がA寝台の二十六名の乗客の中にいることを、確認した筈ですよ」 「わかってる。だが、違っていたんだ。犯人は、2号車から11号車までの三段式B寝台のどこかにいたんだよ」  十津川は、きっぱりと、いった。 「しかし、車掌長と専務車掌二人の眼を、どうやってかいくぐったんでしょうかね」 「それを、これから説明するよ」  と、十津川はきっぱりといった。  十津川は、A寝台の喫煙室のあたりを、黒板に拡大して描いた。 「車掌長と専務車掌が喫煙室にいたのは、午前三時半からあとだ。そして岐阜を過ぎてから、専務車掌が見廻りに出た。A14下で、太田由美子が死んでいるのを発見した。米原に着くと、公安官が乗り込んできて、A寝台の乗客全員を調べた。その時には、A14上には誰もいなかった。いたら、二十八名になっている筈だからね。ここまでは、問題ないだろう?」 「ええ、ありません」 「犯人は、B寝台にいた。そして、A寝台のA14上の切符を持っていたんだ。犯人は、午前二時までの間にA寝台へ行き、A14上のベッドにもぐり込んで、チャンスを窺っていた。少年が午前二時に起きて、A14上へ行ったら、誰かいたと証言しているから、間違いない。午前三時半になると、車掌長と専務車掌が喫煙室へ入ったから、そのあと、2号車の方からA寝台へは入れない。犯人は、ずっとチャンスを狙っていたが、午前四時を過ぎてから、下のA14下に寝ていた太田由美子を絞殺し、ネックレスを奪った。彼女の死亡推定時刻が、四時から五時の間だからね」 「殺したあと、犯人は、どうしたんでしょうか?」 「問題は、そこさ。犯人は、四時から五時の間に太田由美子を殺すと、そっとドアを開けた。客室を出ると、更衣室にもぐり込んだんだ。そこはドアがついていて、他人がのぞき込むこともないから、一時的に隠れるには絶好だ。『銀河』は、岐阜に午前五時二〇分に着く。ここは一分停車で、岐阜を出て、十五、六分してから、専務車掌は客室を見に行って、A14下で太田由美子が死んでいるのを発見した。驚いた専務車掌は、どうしたと思うね?」 「当然、車掌長を呼びに行ったと思いますね」 「それさ。専務車掌は、きっとカメさんのいう通り、車掌長を呼びに来た筈だ。そして二人で、A14下へ行った。その隙に犯人は更衣室を出ると、2号車の方へ逃げてしまったんだよ。だから、星野貞祐は、A寝台の二十七名の中にいなかったんだ」 「すると犯人は、次の米原で降りたことになりますね?」 「ああ、米原で降りたと思っている。公安官と入れ違いに、米原で降りてしまったんだ」 「納得しましたが、まだ疑問なところがいくつかあるんですが」 「どんなことだね?」  十津川がきくと、亀井は几帳面に、メモに一つずつ書き込んでから、 「小林みどりは京都で、なぜ急に嵯峨の野宮神社へ行ったんでしょうか?」  と、きいた。 「ああ、あの神社ね」  十津川は、静かな野宮神社のたたずまいを思い出して、微笑した。 「何か、答が見つかりましたか?」 「ああ、犯人、つまり星野貞祐が『銀河』のB寝台に乗っていたと考えると、簡単にわかるんだよ」  と、十津川はいった。 「どんな具合にですか?」 「小林みどりが、東京駅で星野貞祐を見かけたとしたら、どうだろう? 星野は、A寝台には乗っていなかったが、東京駅のホームにはいた。となると、この『銀河』に乗っていると小林みどりは思う。そういう時、恋をしている人間は、女でも男でも自分の都合のいいように考えるものだ。人殺しのために星野が乗ったなどとは、絶対に考えない。きっと自分のことが心配になって、ひそかに、乗っているんだと思ったに違いないよ。友人の真田久仁子と京都へ行くことは、星野に伝えてあったろう。星野は黙っていたが、ひそかに『銀河』に乗っているのを知って、みどりは喜んでしまった。やはり自分を愛してくれているんだと思ったんじゃないかな。それで急に、野宮神社に行く気になったんだ」 「すると、野宮神社は、彼女にとって、星野との思い出の場所だったわけですね?」 「そうだと思う。それでみどりは、野宮神社へ行けば、ひょっとすると、星野も来ているんじゃないかと考えたんだ」 「星野は、野宮神社に来ていたんでしょうか?」 「いや、来てはいなかったと思うね」 「断定できますか?」 「できるよ。星野は、十一月六日の火曜日にも、ちゃんと通商省へ出勤しているからだ。京都でおりて野宮神社へ行っていたのでは、とうてい間に合わないよ」 「しかし、『銀河』に乗っていて、A寝台で殺人を犯していて、東京での出勤が出来ますか?」 「それも、計算してみたよ」  と、十津川は、自分のメモに眼をやった。 「時刻表を調べた。星野は、米原で『銀河』を降りたと考えられる。本当は岐阜で降りたかったろうが、それは車掌と専務車掌が、A寝台の喫煙室に頑張っていたので不可能だった。米原着が午前六時〇五分になる」 「新幹線で、引き返すわけですね?」 「まずそれを考えたが、それでは間に合わないんだ。午前六時台では、米原から東京へ行く丁度いい新幹線は走っていない」 「ありませんか」  亀井も時刻表を広げてみた。  午前六時〇〇分新大阪発、東京行の「ひかり」があるが、それは、米原に停車しない。  次の「こだま」に乗るとすると、米原六時五九分発の「こだま200号」だが、この列車の東京着は、一〇時二八分である。官庁の始まりは午前九時だから、とうてい間に合わない。  名古屋で「ひかり」に乗りかえても、東京着は九時五六分である。 「確かに、間に合いませんね。すると、飛行機ですか?」 「そうだ」 「名古屋から、羽田ですか?」 「いや、名古屋─東京間は、成田へしか行っていないし、それも、名古屋を午後出発する便だけだ」 「すると、大阪ですか?」 「そうだ。大阪へ行って、大阪発の飛行機に乗ったんだと思う。それが一番早く東京に戻れる方法だからね。米原に六時〇五分に降りたあと、星野は、タクシーを拾って大阪空港へ向ったんだと思う。名神高速を利用してね」 「間に合いますか?」 「私は、京都駅から大阪空港ヘタクシーで行ったことがあるが、五十分足らずで着いた。米原─京都は、約七十キロだ。朝の高速を飛ばせば、一時間で着くだろう。両方で一時間五十分だが、高速で走り抜ければ、もっと短縮できる。私が、京都駅からタクシーに乗ったときは、高速に入るまでに、時間がかかったからね。一時間半で大阪空港へ着けば、七時五五分大阪発のANAの十六便に乗れる。羽田着は八時五五分だ。羽田から、霞が関の通商省まで五分では無理だが、九時三十分には、着けるだろう。本庁というのは、かなり時間にルーズだから、三十分ぐらい遅れても、問題とはならないんじゃないかね。とにかく、九時半には出勤できるんだ」 「他に三つばかり疑問が残っていますが」 「何だい?」 「小林みどりは、午前四時頃、犯人のものと思われる足音を聞いたといっていましたが、あれは本当だったんでしょうか?」 「多分、事実だろうね。しかし、旅に出ると寝つきが悪いというのは、明らかに嘘だよ。彼女が眠れなかったのは、東京駅のホームで星野の姿を見たからだと思うね。それで、自分と星野とのことを考えて、眠れなかったんだよ。そして足音を聞いた。あれは、犯人のものだと思う。だが、そのあと嘘をついた。足音の方向についてだよ。彼女が聞いた足音が、犯人、つまり星野のものなら、乗務員室の方向へ消えた筈なんだ。ところが、彼女は逆にいった。2号車の方向に星野が乗っているのを思い出して、嘘をついたんだ。この時点で星野が犯人とは思わなかったろうが、もし彼が夜中に、自分に会いに来ようとしていたとすると、疑われては大変と思い、足音が逆の方向へ消えたと証言したんだと思うね」 「なるほど」 「星野の方では、小林みどりの感情などには関係なく、着々と計画を実行に移していった。慎重な男だから、すぐに小林みどりを殺さず、間に山田祐一郎を入れた。この被害者は、まことに気の毒だと思うね。星野にとって、太田由美子と同じく何の恨みもない人間だったんだ。ただ疑いの眼を外《そ》らすために殺したにすぎないからね」 「小林みどりは、何か警部に話したいことがあるといったあとで殺されたんですね。いったい何をいいたかったんでしょうか?」 「それはわからないが、警察に電話して来た時、傍に星野がいたことは間違いないと私は思っている」 「と、いいますと?」 「星野は、小林みどりが第一の事件について何か気がついたために殺されたことにしたかった。そんな彼にとって、みどりが午前四時頃足音を聞いたと証言しているのは、もっけの幸いだった。そのために殺されたんだと思わせられるからね。しかし、それだけではまだ弱い。足音だけでは、犯人のことを知っているとはいえないからね。犯人は、まだ殺す必要がない筈だから、疑われるかも知れない」 「そうですね。足音を聞いただけでは、犯人は殺す必要を感じないかも知れませんね」 「そこで、星野はもう一押しすることを考えたんじゃないかな。彼はみどりに会って、実は自分もあの日『銀河』に乗ったと打ちあける。みどりの方は、知っていたというだろう。そこで星野は、こんな風にいったんだと思う。実は午前四時頃、君に会いたくて、A寝台の方へ行ってみた。その時、B寝台の方へ逃げてくる男を見たとね。みどりは、自分が聞いたのは、きっとその男の足音だといったろう。そこで星野は、提案する。自分はあの日『銀河』に乗ったのは、家内に内緒なので、警察に証言できない。君が警察に電話して、今、僕がいった分も証言してくれないかとね。みどりは、星野に惚れていたし、やはり彼が犯人じゃなかったと思ってほっとして、すぐ警察に連絡するといったと思うね」 「彼女は、自分のマンションから電話したんですね?」 「そうだよ。その時横には、星野がいたんだ」 「警部が出たら、星野はどうするつもりだったんでしょうか?」 「みどりが話をしている途中で殺したかも知れん。そうすればいやでも警察は、彼女が第一の事件で何か重大なことを見て、そのために殺されたと思い込むだろうからね」 「われわれは、ずっとそう思い込まされていましたよ」 「これで、何とか一連の事件が解明できたわけだ」  十津川は、ほっとした表情で腕時計に眼をやった。  すでに十一時に近い。ずいぶん長い検討だったが、どうやら間に合ったらしい。     6  十津川は、大阪府警の三浦警部と会い、亀井に話した通りのことを説明した。  三浦は、亀井ほど簡単に納得したりはしなかった。それは無理もないことだった。 「わかりました」  と、三浦はいった。 「一応、井崎勉に対する逮捕状の執行は中止します。大阪にも連絡します」 「どうもありがとう」 「しかし、今、十津川さんの話されたことは、全て状況証拠のような気がしますね。それで星野貞祐が逮捕できなければ、私はやはり井崎勉が犯人なのだと考えます。それは承知しておいて下さい」  と、三浦はいった。  十津川は、それを了承した。  翌日になると、十津川は滋賀県警に協力を求め、十一月六日、火曜日の早朝、米原駅前で星野がタクシーを拾い、大阪空港まで行かなかったかどうか調べて貰うことにした。  星野の人相、特徴も教えた。  その返事は、昼を少し過ぎて届けられた。  思った通り、六日の午前六時過ぎに、米原駅前で客待ちをしていたタクシーが、星野と思われる男を乗せ大阪空港へ行ったというのである。  これでほぼ、星野があの時の「銀河」に乗っていたことは明らかになった。  だが、彼が犯人だという証拠はない。  十津川は、星野に圧力をかけることを考えた。  少しばかり卑怯だと思ったが、ワープロを使い、次のような脅迫文を作って、星野の家に送りつけることにした。 〈おれは、あんたが「銀河」のA寝台で、太田由美子を殺したのを知っている。あんたは、彼女を殺したあと更衣室に逃げ込んで隠れ、車掌たちがあわてて死体を見に行った隙に、B寝台の方へ逃げ込んだのだ。おれはちゃんと見ていたぞ。お前は人殺しだ。  警察にいわれたくなかったら、すぐ一億円用意しておけ。 乗客の一人より〉  この手紙が星野家に届いたと思われる日から、星野は休暇願を出して通商省を休んでしまった。  はっきりした反応が現われたのである。必死になって、星野は金策に走り廻るだろう。  だが手紙の主からは、次の連絡がない。となると、星野はますます追いつめられた気持になっていくに違いない。いつ、手紙の主が警察に駈け込むかという不安で。  星野が精神的に参ったところで、十津川は会うつもりだった。  十津川がワープロの手紙を出して、五日目である。 「カメさん、そろそろ星野に会いに行こうか」  と、十津川がいった。 「星野はずっと役所を休んでいるそうです」  亀井が微笑したとき、電話が入った。  受話器を取ってすぐ、亀井の顔色が変った。  呆然とした顔で十津川を見ると、 「星野が死にました」 「死んだ?」  十津川も、呆然として亀井を見た。  亀井は、まだ受話器を持ったままの恰好で、 「そうです。星野が死んだそうです」 「自殺か?」 「いえ、殺されたそうです」 「どこで、誰に?」 「場所は、神宮外苑の中です」 「よし。行ってみよう」  と、十津川はいった。  二人はパトカーに乗り、現場に急行した。その車の中で、十津川は当惑していた。  星野が殺されたとすると、他に一連の事件の真犯人がいるのだろうか? (おれの推理は、間違っていたのか?)     7  時刻は、午後十一時を過ぎていた。  神宮球場や国立競技場が、夜の闇の中で巨大な遺跡のように見える。  外苑の中を通る道路の一つが現場だった。  星野は、その道路の端に叩きつけられた恰好で横たわっていた。  血がまだ少しずつ流れている。 「轢《ひ》き逃げですね」  と、先に駈けつけていた近くの派出所の警官が、十津川にいった。  検死官が慎重に調べていたが、十津川に向って、 「多分、即死だったろう。頭をやられている」 「ひどいな」  と、十津川は呟いた。  タイヤの跡が、歩道すれすれにくっきりとついている。  歩道に立っていた星野を、明らかにわざと引っかけたのだ。 「目撃者はいないのか?」  十津川は、派出所の警官にきいた。 「轢かれるところを見た者はいませんが、白っぽい車が逃げて行くのを見た人がいます」 「車のナンバーも、見たのかな?」 「いえ。見ていないといっています」  その目撃者はこの近くに車を停めていたアベックだった。  警官のいう通り、走り去る白い車は見たが、ナンバーは見ていないといった。 「明らかに殺しですね」  と、亀井がいまいましげにいった。 「口封じに、殺されたのかね」 「すると、一連の事件の犯人は、星野じゃないということになってしまいますね」 「いや、そんな筈はないんだ」  十津川は、じっと考え込んでしまった。  彼は、自分の推理にも、星野が一連の事件の犯人だという結論にも、自信があった。  だが現実は、その星野が何者かに殺されてしまっている。 (井崎が真犯人だったのか?)  しかし井崎はまだこの近くのK病院に入院している筈だったし、彼は車を持っていない。  星野の遺体が運ばれて行ったあとも、十津川はしばらくの間、現場にじっと立っていた。  血の痕が、まだ生々しく道路についている。 「そうか──」  と、急に十津川が、小さく肯いた。  くるりと亀井を振り返った顔は、もういつもの十津川の表情だった。 「星野を轢いた犯人を逮捕しに行こう」 「犯人がわかったんですか?」  驚いて亀井がきいた。 「ああ、わかったよ」 「しかし、あの日のA寝台の乗客の一人だとすると──」 「いいから、車に戻ろうじゃないか」  十津川は、亀井を促してパトカーに戻った。 「私が運転する」  と、十津川はいい、亀井を助手席にのせて走り出した。 「どこへ行かれるんですか?」  亀井がきく。 「もちろん犯人のところさ」  十津川は、はっきりといった。  亀井は、まだ半信半疑の顔だった。  車は都心を抜けた。 「このまま行くと、ひょっとして等々力に行くんじゃありませんか?」  周囲を見廻しながら、十津川にきいた。 「そうだよ、カメさん」  運転しながら、十津川が笑った。 「等々力には星野の家がありましたね」 「そうだよ」 「家族に、星野が死んだことを知らせるわけですか?」 「いや」  と、十津川は首を横に振った。  前に一度来た星野の邸の前に着いた。  改めて大きな邸だと思う。  十津川は車をとめると、亀井に向って、口に指を当てて見せる。  門をそっと開けて中に入ると、十津川は車庫の方へ歩いて行った。  車が二台並んでいる。  一台は大型乗用車、もう一台は白いスポーツカーだった。  十津川は、そのスポーツカーの前部に廻ってみた。  亀井も一緒にのぞき込んでから、「あっ」と声をあげた。  車の左のフロントライトが、粉々にこわれていたからである。  フェンダーもひん曲っている。 「この車が、星野を殺したんですか?」  亀井が、十津川を見た。 「しかし、この車は?」 「多分、星野の妻が運転していたんだろう」 「じゃあ、彼女が夫を轢き殺したんですか?」 「われわれは星野を追いつめたが、同時に妻の悠子も、追いつめてしまったんだ。彼女は政治家の娘だ。人一倍、自尊心が強い女だと思う。そんな彼女にとって、自分の夫が殺人罪で逮捕されるのは、絶対に我慢がならなかったんだろう」 「しかし、夫婦の愛情というものが──」 「それより彼女は、自分の家の名誉を守る方が、大切だったんだと思うね。最初にこの家に来て彼女に会った時、その冷たい感じの眼に驚いたのを思い出した。彼女は夫が警察に疑われていることよりも、夫が自分以外の女に手を出したことに腹を立てていた。頭がよくて教養もあるのだが、ひどく冷たい女だなと思ったよ」 「彼女は、星野が殺人を犯したのを、知っていたんでしょうか?」 「恐らく気付いていたと思うよ。だがそれが警察に知られない限り、自分も知らん顔をしている気だったと思うね。夫を愛しているためじゃない。夫が逮捕されたら、自分の家に傷がつくと思ったからだろう。だからいよいよ夫が追いつめられたとき、彼女は夫を殺してしまおうと決意したんだ」 「夫が浮気したと知ったときから、彼女はずっと夫を憎んでいたんでしょうか?」 「それもあるだろうね。そういうことには、我慢が出来ない女のようだからね」  十津川はもう一度、こわれた車のフロントライトに眼をやった。  その激しいこわれ方が、車に乗っていた人間の感情の激しさを示しているように見えた。 「では彼女に会って、話を聞こうか」  と、十津川はいった。   (了) 初出誌 「オール讀物」昭和六十年一月号 単行本 昭和六十年三月文藝春秋刊 寝台急行「銀河」殺人事件 二〇〇二年七月二十日 第一版 著 者 西村京太郎 発行人 笹本弘一 発行所 株式会社文藝春秋 東京都千代田区紀尾井町三─二三 郵便番号 一〇二─八〇〇八 電話 03─3265─1211 http://www.bunshunplaza.com (C) Kyoutarou Nishimura 2002 bb020705