[#表紙(表紙.jpg)] 失踪計画 西村京太郎 目 次  失踪計画  くたばれ草加次郎  裏切りの果て  うらなり出世譚  夜にうごめく  第六太平丸の殺人  死刑囚 [#改ページ]    失踪計画      一  おれは、頭がいい。自分でいっていれば、世話のない話だが、おれには、自信がある。  だが、誰も、それを認めようとしない。学校の教師も、今の職場の上役もだ。殊に、今の上役には、腹が立ってならない。 いや、腹が立つのは、直接の上役一人に限ったことではない。このおれに、毎日毎日、給料の計算ばかりさせている会社にも、おれは、腹が立ってならない。  そろばんを入れ、数字を紙に書き込む。こんな仕事は、女子供のやることだ。大の男がやる仕事じゃない。特に、おれのように、頭の切れる男のやることじゃない。  だから、おれは、それとなく、今の仕事が自分に向いていないこと、もっと程度の高い仕事をさせなければ、会社にとっても損失であることを、上役である会計課長に、話したのだが、停年まぢかいこの男は、鼻の先で、せせら笑っただけだった。  おれは、自分が、ぶじょくされたのを感じた。こうなったからには、おれ自身の力で、課長と、会社の幹部連中を、あっといわせてやらなければ気がすまない。  おれの才能を認めなかった奴《やつ》らに、認めなかったことを、後悔させてやるのだ。  だから、おれは、この「失踪《しつそう》計画」を立てることにしたのだ。      二  おれの働いている会社は、あまり大きくはない。だが、給料日の前日には、二千万円くらいの金が、会計課の金庫に入っている。一夜だけ、そこに大金が眠っているというわけだ。  その金が、盗まれたら、どうなるだろうか? 会計課長は、責任をとらされて、忽《たちま》ちクビになるに違いない。これは、間違いないところだ。会社の幹部連中は、びっくりして腰を抜かすだろう。  おれの才能を認めなかった連中は、それくらいの罰をうけてもいいのだ。  だから、おれは、その金を失敬することにした。  金庫のあけ方は、課長だけが知っている。しかし、三年も、会計にいる間に、おれは、そのあけ方を、ひそかにおぼえてしまった。  だが、これだけでは、二千万円の金は盗めない。  盗むことは出来るだろうが、警察は、必ず、内部の者の犯行と考える。そして、一人一人、会計課員を調べていって、おれの手に、がちゃんと手錠が、はまってしまうことになる。  外部から侵入したように見せかけても、最近の警察は、そんなことくらいでは、ごまかされないだろう。多くの犯罪者が、あっけなく捕まってしまうのは、警察を甘く見すぎるか、金に眼がくらんで、用心深い計画を立てようとしないからだ。  おれは、そんな馬鹿なことは、しない積《つも》りだ。  警察の弱点は、何だろうか。おれは、そのことから考えた。すぐわかった。それは、彼等が、威信ということに、ひどくこだわるということだ。  昔の警察は、非人間的な拷問までして、容疑者に自白させようとした。昔の警官が、サディストぞろいだったわけではあるまい。犯人を捕まえなければ、警察の威信に傷がつくという気持が強すぎたから、あんなことをしてまで、犯人を作りあげたのだとおれは思う。つまり、そこに、彼等の弱点があるというわけだ。  彼等の前に、犯人を、差し出してやることにしよう。それで、彼等は満足するだろう。彼等は、猟犬だ。だから、肉を投げてやれば、満足するに決っている。その肉が、美味《うま》ければだが。  だから、おれは、警官にあたえる肉を作ることから、始めることにした。      三  おれと机を並べている奴に、木村という男がいる。年齢は、二十六歳。  この男こそ、馬鹿の見本だ。二十六歳の青年のくせに、何の野心も持っていない。こんな馬鹿が、どこにいるだろう。  早く、いい娘を見つけて、家庭を持ちたいというのが、この男の夢だ。あきれたものだ。おれの眼から見れば、こんな男は、何の価値もない、いてもいなくてもいい人間だ。つまり、警官にあたえる肉にしても、かまわない男だというわけだ。  会計課の金庫から、二千万円の金が紛失し、会計課員の木村が、失踪したらどうなるだろうか。  警察は、木村が、金を持ち逃げしたと考えるだろうか。いや、それほど、甘くはないだろう。  警察は、最初、姿を消した木村を犯人と見て、追いかけるに違いない。これは、間違いない。だが、木村という人間を調べていけば、この男が、大金を持ち逃げできるような胆《きも》っ玉の太い人間でないことが、わかってしまう。会計課の連中全員が、「木村には、大金を持ち逃げするような、だいそれたことの出来る筈《はず》がない」ことを、証言するに決っている。  そうなったら、おれの計画は、忽ち、破滅してしまうのだ。  警官という猟犬に、ただ、肉を与えただけではだめなのだ。その肉が、くさっていたり、安物だったりしたら、一度は、鼻を近づけても、すぐ、そっぽを向いてしまう。こんなことは、わかり切ったことだ。  木村という男は、今のままでは、警官を釣る肉には、なり得ないということである。安物で、どこか、くさっているのだ。と、いって、いかにも何かやりそうな男では、おれにだまされもしないだろう。  木村でいいのだ。問題は、何とかして、この男を、大金を持ち逃げするような人間に、見せかけることだ。おれのような頭のいい男に、それが出来ない筈がない。  おれは、まず、十万円の軍資金を、作り出すことから始めた。まだるっこしいが、二千万円の大金を、この手につかめることを考えれば、我慢するより仕方がない。  おれは、だいたい、こつこつ金を貯めることのきらいな性格だ。だが、それをしなければ、十万円の金は貯まらない。計画を立てた日から、おれは、少しずつ貯金を始めた。  一年間で、十万円貯まった。その間に、なるべく木村と親しくし、彼のことを、くわしく調べたことは勿論《もちろん》だ。  木村は、東北の貧乏百姓の家に生れた。今でも、月々、何千円か親元に、仕送りしているらしい。従って貯金もあまりないし、きたない四畳半のアパートで、暮らしている。そんなところも、おれにとって、好都合に出来ている。  十万円の金が貯まったところで、おれは、まず、木村をパチンコにさそった。  最初にパチンコにしたところがおれの芸の細かいところだ。いきなり女遊びにさそえば、一番いいのだが、木村みたいなデクの棒は、尻《しり》ごみしてしまうに決っている。だから、少しずつ慣らしていこうというわけだ。手始めには、パチンコぐらいが、一番いい。      四  驚いたことに、木村は、パチンコにさえ、最初は尻ごみした。余程、この男は、貧乏性に生れついているらしい。 「少しは、人生を楽しむもんだぜ」  と、おれは、いってやった。 「それに、パチンコなら、せいぜい損したって、五、六百円のものだよ」 「五、六百円だって、ボクには大金だよ」  と、木村は、渋い顔で、いった。いやな男だ。それに、自分のことを、ボクだなんて、いうやつは、虫ずが走ってくる。余程、横面を、はり飛ばしてやろうとしたが、二千万円のことを考えて、やっと我慢をした。 「とにかく、やってみろよ」  おれは、辛抱強くいった。 「面白いぜ。それに、おれが、損をさせないよ」 「そういってくれるのは、有難いんだが——」 「とにかく、やってみることさ。人生が豊かになるぜ」  おれは、木村の腕をつかんで、引っぱるようにパチンコ屋へ連れて行った。こんな男に限って、最初は、ぐずぐずしているが、強引にさそうと、へなへなとついて来てしまうのだ。  おれは、パチンコは、もう卒業していたが、一週間ばかり、彼につき合ってやった。おれは、遊びごとには自信がある。勿論、パチンコにもだ。だから、入りやすい機械を見つけては、木村に渡してやった。手取り足取りで、玉のはじき方も教えてやった。勿論、玉も、景気よく分けてやった。  これでパチンコが面白くならなければ、人間じゃない。案の定、木村は、パチンコに熱中するようになった。こうなれば、もう、おれのペースだ。遊びに対して無菌《むきん》の人間ほど、誘惑に弱いものだ。  おれは、一カ月待った。  クリスマスの夜、おれと木村は、いつものように、パチンコを、じゃらじゃらやっていた。こんな夜に、パチンコをやってるなんていうのは、芸のない話だ。チョンガーの男たちは、みんなバーやキャバレーで、女を抱いて遊んでいる頃だ。 「今日は、いやに空いてるんだな」  木村は、玉をはじきながら、不思議そうにいう。おれは、腹の中で、笑ってしまった。誰が、こんな夜に、パチンコなんかするものか。 「今日は、クリスマス・イヴだよ」  と、おれは、いった。 「みんな、もう一寸《ちよつと》面白いところに行ってるんだ」 「パチンコより面白いものが、あるのかね?」 「あるさ」 「麻雀《マージヤン》とか、ボーリングかね?」 「女だよ」 「女——?」  木村の手が止った。おれは、にやッと笑った。関心大いにありと見たからだ。 「どうだい?」 「何が?」 「とぼけるなよ」  おれは、木村の肩を突ついてやった。 「これから行こうじゃないか?」 「しかし——」 「サービスのいい所を知ってるんだ。それに、今日は、おれがさそうんだから、おれが、おごるよ。こんな日に、女を抱かないなんて、馬鹿げてるじゃないか」  丁度、うまく、玉が無くなったところだった。女という言葉を聞いて、木村は、気もそぞろになり、玉が出なくなったのかも知れない。とにかく、タイミングが上手《うま》く合った。  木村をパチンコ屋から連れ出すと、夜の歩道は、人の波だった。おれたちは、忽《たちま》ち、その中に、巻きこまれてしまった。このことも、おれの計算していたことだった。こうなれば、もう、この気の小さい男も、後には引きかえせない筈《はず》だ。それに、パチンコを一カ月やらせて、遊びの面白さを植えつけてある。おれは、その一カ月の辛抱が、無駄でなかったことを感じた。この男は、女を抱くことに息をはずませている。並んで歩きながら、おれは、ほくそ笑んだ。 「トスカ」というバーに、おれは、木村を連れて行った。あまり大きな店ではないが、この店には、|みどり《ヽヽヽ》という女がいた。まだ、二十三、四だが、年に似合わぬ凄腕《すごうで》で、おれも、ひどい目にあったことがある。男から、金をしぼり取ることに、天才的な才能を持っている女だ。おまけに、顔だけ見ると、どこかに幼さが残っていて、可愛《かわい》らしく見えるから、たいていの男が、ころりとやられてしまう。  この女に、木村を紹介してやろうというわけだ。恐らく、結果は、おれの予期したとおりになるだろう。  みどりは、店にいた。おれは、テーブルに着くと、彼女を呼んで貰《もら》った。彼女は、傍《そば》に来るなり、 「あら、いらっしゃい」  と、あでやかに笑った。おれは、この笑顔に、だまされたのだが、今度は、木村が、だまされる番というわけだ。  おれは、テーブルの下で、みどりの手に千円札を握らせた。 「この男はね——」  と、おれは、みどりの耳元で、ささやいた。 「女ぎらいで有名な男なんだ。君の力で、教育してくれよ」 「O・K」  と、みどりは、片眼をつぶって見せた。この女は、相手が固い男だとみると、異常な闘志をもやすところがある。焚《た》きつけたことは上手くいったようだった。  みどりが、木村に、しなだれかかって、甘い声を出しているのを、おれは、にやにや笑いながら見ていた。木村みたいな男は、この女にかかったら、忽ち、骨抜きになってしまうだろう。  おれは、第二段階が、どうやら上手くいったらしいと思った。      五  一週間ほどして、おれは、課長室に呼ばれた。 「一寸、君にききたいことがあるんだが」  と、頭の禿《は》げかかった課長は、声をひそめて、いった。 「木村君の様子が、最近、少し変だとは思わないかね?」 「さあ」  おれは、とぼけてやった。 「別に、変だとは思いませんが」 「そうかね」 「何か気になることが、あるんですか?」 「時々、計算を、間違えるんだ。あの男にはなかったことなんで、心配しとるんだがね」  課長は、難しい顔で、いった。勿論、心配なのは、木村のことではなくて、自分のことだろう。この課長が、部下のことを、親身になって、心配する筈《はず》がないのだ。 「女でも、出来たんじゃないのかね?」 「女ですか?」 「うむ。木村君が、何とかいうバーから出てくるのを、見たという人間がいるんだよ」 「彼が、バーに行くとは、珍しいですね」 「だから、心配しているのだ」  課長は、怒ったような声で、いった。 「ああいう糞《くそ》まじめな人間ほど、女に溺《おぼ》れると、危いものだ。下手をすると、会社の金を使いこむかも知れん」 「そうなると、上役の責任問題にも、なりかねませんね」  おれがいうと、課長は、渋い顔になって、おれを睨《にら》んだ。その顔を、むりに崩して、 「そこで、君に頼みたいことがある」  と、おれの機嫌をとるように、いった。 「君は、木村君とは、仲が良かったな?」 「それほど良くはありませんが、椅子《いす》を並べていますから、いろいろと話をすることは、あります」 「それとなく、木村君に、注意してくれんかね?」 「何をです?」 「わかっているじゃないか。女には、深入りせんようにだ。そんなことをすると、身を持ち崩すだけだと」 「わかりました」  と、おれは、いった。どうやらこれで、計画が成功するメドが、ついて来たようだ。      六  木村の腕から、腕時計が消えた。とうとう来るべきところまで、来たらしい。 「腕時計を、どうしたんだ?」  と、おれは、とぼけて、きいてやった。 「修理に出したのか? たしか、買ったばかりだった筈だが」 「売ったんだ」  木村は、苦しそうに、いった。 「売った? どうして、そんなことをしたんだ?」 「苦しいんだ。ボクは——」 「何が?」 「彼女が、好きになってしまったんだ」 「いいじゃないか。男だから、女に惚《ほ》れるのは、当り前だよ。相手は誰なんだ?」 「それが、君と行ったバーの女なんだ。みどりという——」 「ふーん」 「彼女は、いい娘だよ。あんな所で働いているが、純情な娘なんだ。一寸も、汚れていないんだ」 「水商売の女にだって、いろいろあるからね」 「そうなんだ。いい娘なんだ。彼女の方でも、すっかり、ボクに参ってしまったらしいんだ」 「それは、おめでとう」 「だが、彼女は、病気の母親や、幼い弟たちを、あの細腕で養っているんだ」 「ふーん」  おれは、笑いをこらえるのに苦しんだ。あの女には、ヒモがいるだけだ。 「だから、店もやめられないし、金もいるんだ。それで——」 「君も、金がいるということに、なるわけだな」 「そうなんだ。君にお願いがある。少しばかり金を貸してくれないか? 勿論《もちろん》、すぐ返すよ」 「いくら?」 「二、三万でいいんだ」 「おれたちにとっては、大金だな」 「だめか?」 「いや、貸してやるよ」 「有難う。助かったよ」 「だが、条件がある」 「条件?」 「実は、二、三日前に課長に呼ばれた。最近、君の様子がおかしいから、それとなく注意してくれと、いうんだ」 「彼女のことを、課長に、いいつけるつもりか?」 「馬鹿なことをいうなよ」  おれは、笑って見せた。 「そんなヤボなことをするもんか。ただ、おれが、君に金を貸したことがバレると困るんだ。君を焚《た》きつけたみたいな恰好《かつこう》になるからな。課長に、いいわけがきかなくなるからね」 「どうすればいいんだ?」 「バレた時、おれのいいわけが立つようなものを、一筆書いてくれないかね。つまり、おれが、君に忠告したんだという証拠みたいなものが欲しいんだ。勿論、バレることなんかないがね。気持の問題だからね」 「どんなことを書けばいいんだ?」 「そうだな」  おれは、もっともらしい顔をして、腕を組んで見せた。 「こんな風にでも、書いて貰《もら》おうか。『社員の体面を傷つけるようなことをして、申しわけありません。しかし、どうにも仕様がなかったのです。お許し下さい』こう書いてくれないかね。つまり、おれが君に忠告して、君が聞き入れたという証拠になるからね。勿論、誰にも見せやしないよ。まあ、いってみれば借用書の代りみたいなもんだよ」  おれは、出来るだけ、さりげない調子で、いった。が、そんな気使いは、どうやら必要がなかったらしい。木村は、あの女のことで頭が一杯なのだ。ひょっとすると、この男は、遺書を書けといえば、書いたかも知れない。  木村は、便箋《びんせん》に、ペンを走らせた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈社員の体面を傷つけるようなことをして、申しわけありません。しかし、どうにも仕様がなかったのです。  お許し下さい。 [#地付き]木村 一彦〉 [#ここで字下げ終わり] 「宛名は、君にしたらいいのか?」 「いや、要らないよ」  おれは、あわてていった。そんなものを書かれたら、今までの苦労が、水の泡になってしまう。  インクが乾くのを待って、おれは、その便箋を、丁寧にたたんだ。 「金は、いつ貸してくれるんだ?」 「今夜、君のアパートへ持って行ってやるよ」  と、おれは、いった。  今夜、会計課の金庫に、二千万円の金が、眠っているのだ。      七  いよいよ決行することになった。準備は、整っている筈《はず》だった。あとは、実行だけだ。  おれの計画には、どうしても、車が必要だった。ドライブ・クラブから借りようと思ったが、それは、止めることにした。ドライブ・クラブから、足がつくことが多いからだ。  おれは、路上に駐車中の車を、一夜だけ、無断借用することにした。  夜、十時に、おれは、アパートを出た。胸のポケットには、木村の書いた便箋が、大事にしまってある。  暗い裏通りに入ると、車が、何台も止めてある。今から失敬しても、持主が盗難に気づくのは、明日の朝だ。それまでには、おれの仕事は、終っている。  黒っぽい乗用車の三角窓を、おれは、ドライバーで、こじあけた。そこから、手を突込んで、ドアをあける。  座席は、冷え切っていた。おれは、腰を下すと、今度は、用意してきた銅線で、スターターと、電源とを結んだ。  それで、エンジンが掛かった。  おれは、パトカーにぶつかるのを恐れて、裏通りをえらんで、車を走らせた。木村のアパートに着いたのは、十時半だった。  おれは、裏に車を止め、非常口から、アパートに入った。アパートの住人に、おれが来たことを見られては、ならないのだ。幸い、誰にも見られずに、木村の部屋まで、行くことが出来た。  ノックすると、すぐ、ドアが開いて、木村が顔を出した。 「金は?」  と、木村は、せっかちに、いった。待ちかねていたらしい。 「勿論、持って来たさ」  と、おれは、いった。 「とにかく、上らせてくれないか」 「ああ、入ってくれ」  木村は、おれに背中を見せた。馬鹿な男だ。おれは、後手にドアをしめてから、かくし持っていたスパナで、いきなり、木村の後頭部を殴りつけた。  鈍い、いやな音がして、木村の身体《からだ》は、俯伏《うつぶ》せに、畳の上に倒れた。おれは、その上に馬乗りになると、もう一度、そばにあった手拭《てぬぐ》いで、彼の首をしめた。  それで、彼は、完全に死んだ。  おれは、腕時計を見た。十時四十分。予定通りのようだった。今のところは、上手く進んでいる。  次は、木村が、失踪《しつそう》したように見せることだ。  押入れから、小さなボストンバッグを取り出すと、それに、下着をつめこんだ。木村は、このバッグと共に、姿を消すのだ。  おれは、死体をかつぎ上げた。痩《や》せた男なのに、死ぬと、意外に重かった。おれは、何度もよろけながら、それでも、どうにか死体を車のところまで運び下すことに成功した。  トランクをあけて、死体を放り込んだ。その時、白いものが、ちらッと眼にふれたが、おれは、かまわずにふたを閉めた。  もう一度、木村の部屋に入る。胸のポケットから、例の便箋を取り出して、机の上に置いた。「一、二四」と、日づけを入れた。これで、手抜かりはない筈だ。  おれは、ボストンバッグを持って、部屋を出た。  車に乗りこむと同時に、アクセルをふんだ。  甲州街道を西に飛ばした。深夜の街道は、車の数が少なかった。おれは、思いきりスピードを出した。  一時間で、相模湖に着いた。が、ここに、死体をかくすのは危険だった。あまりにも行楽地になりすぎているし、今頃は、ワカサギ釣りの人間が、押しかけてくるからだ。  おれは、相模湖を素通りして、更に、奥まで車を走らせた。  東京や神奈川の人間でも、相模湖の奥に、もう一つ湖があるのを、あまり知らないようだ。相模湖までは来るが、そこで、たいていの人間が、引き返してしまうのだ。  道が悪く、車は、がたがたゆれた。おれは、歯をくいしばってハンドルを握った。二千万円の賭《か》けなのだ。それに、おれは、もう、人間を一人殺してしまっている。後には引けない。  でこぼこ道を二十分ほど行くと、森に囲まれた奥相模湖が見えてきた。案の定人の気配は、どこにもなく、夜の暗さの中に、ひっそりと、静まりかえっていた。物音一つしない。  おれは、後のトランクをあけ、木村の死体を引き出した。可哀《かわい》そうなことをしたという気持は起きなかった。馬鹿な男は、こうなるのが当然なのだと思っただけだ。  ボストンバッグに、石をつめこんでから、それを、死体に、くくりつけた。重しの代りだ。その後で、そっと、湖に、木村の死体を突き落した。  静まりかえった空気のせいか、意外に大きな水音がした。おれは、あわてて耳をすませたが、人の気配は、相変らず、起きなかった。  死体は、すぐ沈んだ。淡い月の光に照らされた湖面は、何ごともなかったように、冷たく、とりすましている。おれは、ほっと、胸をなで下した。が、のんびりしてはいられなかった。  これから、一番難しい仕事を、始めなければならないのだ。      八  おれは、東京に引き返した。  会社の近くに、車を止めたのが、二時三十分。まずまず予定通りだった。  会社には、守衛が二人いる筈だった。だが、交代で見回ることになっているから、一人は、仮眠をとっている筈だ。  おれは、スパナをジャンパーに忍ばせて、車を降りた。  何処《どこ》から会社に忍び込んだらいいかは、長い間かかって、研究してあった。うちの会社には、社長だけが、特別に出入りできる特別の通用門がある。ワンマンの社長が、わざわざ作らせたものだが、おれは、一年間かかって、この門の合鍵《あいかぎ》を作っていた。  特別通用門は、予想したとおり、簡単に開いた。  会社の中へ入る。念のために、運動靴をはいてきたから、足音を殺すことができた。  おれは、真直《まつす》ぐ、会計課の部屋に向った。前までくると、暗い部屋の中で、懐中電灯の光が動くのが見えた。守衛が、見回っているのだ。  心臓が、どきどきする。まず、あの守衛を片づけなければならない。  おれは、指先で、軽く窓ガラスを叩《たた》いた。動いていた懐中電灯の光が、急に止まった。  おれは、スパナを握りしめて、柱のかげに身体をかくした。  また、光が動いた。守衛は、今の物音を調べる気になったらしい。 (早く、部屋から出てこい)  おれは、口が、かさかさに乾くのを感じながら、胸の中で呟《つぶや》いた。スパナを持った手が、次第に、汗ばんできた。  会計課のドアが開いた。ずんぐりむっくりした守衛の姿があらわれた。懐中電灯をちらちらさせながら、へっぴり腰で、廊下を見回している。  おれは、柱のかげから飛び出すと、守衛の後頭部に、スパナを振り下した。昔、刑事をやっていたというこの老人は、だらしなく、床に這《は》いつくばってしまった。別に、この男を殺す必要はない。  おれは、金庫のそばに突進した。  ダイヤルの順序は、完全に、宙《そら》でおぼえている。しかし、あわてていたとみえて、最初は、失敗してしまった。  二度目は、成功だった。  重い金庫の扉は、ゆっくりと開いた。二千万円の札束が、そこに眠っていた。手袋をはめた手で、それをつかみ出すとき、流石《さすが》に、手がふるえた。  おれは、用意してきた袋に、二千万円の札束を放り込むと、金庫を元通りに閉めた。  廊下に出ると、守衛は、まだ、伸びたままだった。あと一時間もしたら、この男が気がついて、大騒ぎになるだろう。  おれは、急いで、会社の外に出て、車に飛び乗った。  二千万円の金を、自分のアパートに置いておくのは、当分の間、止めた方が良さそうだった。  おれは、計画通りに、近くの神社へ行き、その拝殿の床下に、袋を埋めた。危険が去ってから、掘り出せばいい。  車は、わざと反対の方向に走らせてから、乗りすてた。これで、盗難車と、今夜の事件を結びつけて考える者は、一人もいないだろう。  アパートに帰ったのは、五時に近かった。おれは、酒をのどに流し込んでから、蒲団《ふとん》にもぐり込んだ。      九  翌日、おれは、何くわぬ顔で、会社へ出かけた。  おれが着いた時、会計課の部屋は、てんやわんやの騒ぎになっていた。課長は、真青な顔で、金庫のまわりを、うろうろしていた。  誰かが、電話したとみえて、五分ほどして刑事が、どかどかと部屋に入ってきた。刑事たちは、無表情に、課長から話を聞くと、強い眼で、空になった金庫を睨《にら》んだ。 「この金庫のあけ方を知っているのは、誰ですか?」  と、刑事の一人が、課長に向って、きいた。おれは、耳をすませた。 「この課では、私、だけですが——」  課長は、白茶けた顔で、いった。この男の頭には、「クビ」のことが、ちらついているに違いない。いい気味だ。 「しかし、貴方が、開けるところを、誰かが見ていたかも知れませんね?」 「それは——」 「部屋に、人間のいる時に、金庫を開けたことは、ありませんか?」 「仕事が忙しいもんですから、つい——」 「それでは、誰かに、見られたのかも知れませんよ」  刑事は、低い声で、いってから、 「この部屋の方は、全部見えていますか?」  と、おれたちの顔を見回した。おれたちは顔を見合わせた。いないのは、木村一人だった。が、おれは、それに、課長が気づくのを待った。その方が、効果的だと思ったからだ。  案の定、課長は、甲高《かんだか》い声で、おれを呼んだ。 「木村君は、どうしたんだ?」 「まだ、来ていないようです」  と、おれは、いった。刑事の眼が光った。 「その木村という人の住所は?」  刑事が、おれに、きいた。おれが、アパートの名前と場所をいうと、若い刑事が、部屋を飛び出して行った。  おれの計画通りに、運んでいるようだ。木村のアパートに飛んで行った刑事は、主のいないがらんとした部屋に、あの便箋《びんせん》を発見するだろう。そうなれば、木村が、大金を盗んだ犯人ということになる。 「鑑識」と書いた腕章を、腕に巻いた男たちが、金庫についた指紋の採取を始めた。  そんなことをしても、何にもなりはしないのだ。おれは、手袋をして金庫を開けたのだから。  その日は、誰も仕事どころではなかった。ただ、机に向って、座っているだけだった。  一時間ほどして、おれは、課長室に呼ばれた。入って行くと、課長の他に、太った刑事がいた。そして、刑事の前に、例の便箋が置いてあった。木村のアパートから、持って来たのだ。 「刑事さんが、木村君のことで、ききたいそうだ」  と、課長が、いった。おれは、 「何でしょうか?」  と、刑事を見た。刑事は、小さな咳《せき》ばらいをした。 「貴方は、木村さんと、親しくしていたそうですね?」 「まあ、隣に座っていましたから。木村君がどうかしたんですか?」 「失踪《しつそう》したんだ」  と、課長が、吐きすてるように、いった。 「二千万円の金を盗んだのは、あの男らしいんだ」 「まさか——」  おれは、努めて、驚いた顔をして見せた。 「まさか、木村君が——」 「木村さんが、女のことで、ごたごたしていたようですが」  と、刑事が、おれに、いった。 「そのことで知っていたら、話してくれませんか?」 「実は、課長に忠告するようにいわれたんで、木村君に、それとなく、いったんですが」 「それで?」 「口では、わかったようなことを、いっていましたが、女には、完全に参ってしまっていたようでした」 「何という女か、知っていますか?」 「さあ、水商売の女らしいぐらいしか、私にはわかりませんが」 「女か——」  刑事は、小さな声で、呟《つぶや》いた。 「女と金か——」      十  木村一彦が、二千万円の金を盗んで、失踪したという噂《うわさ》は、あっという間に、会計課の中に、広がった。会計課の中だけではない。会社中にと、いっても良かった。 「あの人がねえ」  と、首をひねる者もいたし、一方では、 「最初から、あの男は、何かやらかすに違いないと睨んでいたんだ」  と、したり顔に、いう奴《やつ》もいた。  おれだけが、内心で、にやにや笑っていた。いい気持だった。計画が、まんまと図に当ったという喜びと、真相を知っているのは、おれ一人なのだという優越感が、重なり合っていた。  新聞も、容疑者木村一彦と、名指しで、書くようになった。そろそろ大丈夫だなと、おれは、思った。  一週間後の日曜日に、刑事が、アパートに訪ねてきた。課長室で会った、太った刑事だった。 「貴方には、お気の毒なことになりました」  と、刑事は、おれに向って、いった。 「金を盗んだのは、木村一彦に、間違いないと思われてきました。お友達である貴方には、信じられないかも知れませんが——」 「やはり、女が原因ですか?」 「そうです。トスカという店の、みどりというホステスに参っていたようです。調べたところ、この女が、なかなかの強《したた》か者でしてね。木村が、引っかかったと、見た方がいいでしょうな」 「女は、どうしているんですか?」 「店に出ています。しかし、そのうちに、木村の方から、連絡してくるに違いありません。刑事が、女を見張っていますから、遠からず、木村は、逮捕されると思いますね」 「そうですか——」 「今度の事件では、貴方の証言が、とても役に立ちましたよ。今日は、そのお礼に伺ったのです」  刑事は、にこにこ笑いながらそれだけいうと、帰って行った。  犯人が逮捕されないうちに、わざわざ刑事が礼に来るのも、妙な話だと思ったが、それでも、おれは、安心した。とにかく、おれを疑っている者は、一人もいないのだ。警察の眼も、新聞記者の眼も、失踪《しつそう》したことになっている木村一彦に、向けられているのだ。 (もう、埋めた二千万円を、掘り出して、いい頃かも知れない)  おれは、その夜、懐中電灯を持って、アパートを出た。神社に着いたのは、真夜中だった。おれは、床下にもぐり込むと、懐中電灯を、そばに置いて、目印のところを掘った。袋は、すぐ出て来た。腹這《はらば》いになったまま、おれは、袋の中を開いてみた。二千万円の札束が、あの時と同じように、ぎっしりと詰っている。自然に、笑いが、こみあげてきた。  おれは、袋を引きずって、床下から這い出した。手についた泥をはたきながら、立ち上った時、眼の前に、太った男の立っていることに、気がついた。 「ここに、かくしておいたのかね?」  と、その男がいった。刑事だった。今日、アパートに訪ねて来た刑事だ。  おれは、顔から、血の気が引いて行くのがわかった。一体、これは、どうしたことなのか。  おれは、自分の手に、冷たい手錠がはめられるのを、ぼんやり眺めていた。抵抗する気は起きなかった。あまりにも突然、敗北に、ぶつかってしまったからだろう。 「どうして、おれだと、わかったんだ?」  捜査本部に連行されてから、おれは、刑事にきいた。刑事は、にやッと笑った。 「君だと、はっきり、わかっていたわけではない。だが、失踪した木村一彦が、犯人でないことは、わかっていたんだよ」 「何故?」 「これだよ」  刑事は、机の引出しから、紙片を取り出して、おれの前に置いた。あの便箋《びんせん》だった。おれには、わけがわからなかった。苦心して、木村に書かせたのだ。どうして、これが、おれにとって不利に働いたのか。 「これを最初に見たとき、木村一彦が犯人であることを証明するものだと、私は思った」  と、刑事は、おれの顔を見ながら、いった。 「筆跡も、木村一彦のものだし、事件当日の日づけも入っているからね。だが、調べていくうちに、あの日、木村が、これを書ける筈《はず》がなかったことがわかったのだ」 「わかった——?」 「あの日、木村は、会社から帰ってから、自炊の仕度をしていて、右手の指を切ってしまったのだ。隣に住む女性が、手当てをしたと証言した。その証言によると、傷は、かなり深かったらしい。つまり、あの夜の木村は、スパナで守衛を殴ったり、こんなものを書き残すことは、出来なかったというわけだよ」 「————」  おれは、木村の死体を、車のトランクルームに入れる時、ちらっと、白いものが見えたことを思い出した。あれは、指に巻いた包帯だったのか。 「木村一彦が犯人でないとしたら、彼と一番親しかった君が、怪しくなる。だから、今日、わざわざアパートに出かけて、君を安心させてみたのだ。その罠《わな》に引っかかったところをみると私の芝居も、そう捨てたものではないようだね」  刑事は、得意気に、にやッと笑って見せた。  おれは、だまって、眼の前に置かれた便箋を、眺めていた。 [#改ページ]    くたばれ草加次郎      一  吉田は、理髪店を出ると、駅まで歩いて、そこで新聞を買った。喫茶店に入って、コーヒーを頼んでから、その新聞を開く。娑婆《しやば》に出て来て、初めて読む、新聞であった。刑務所《むしよ》の中でも、昔と違って、新聞が、読めないというのではない。テレビも、見ることは、できる。しかし、自由に読むという楽しさはなかった。映画欄を読むにしても、絶対に、見られないと判っていて、読むのは、何とも味気ないものだ。それに、囚人に、刺戟《しげき》を与えるような記事は、ちゃんと、切り抜いてある。穴のあいた新聞を読むのは、馬鹿馬鹿しいし、吉田に、いわせれば、切り抜かれた記事ほど、読みたかった代物なのである。  吉田は、ゆっくり、社会面を開いた。穴のあいていない新聞というものは、いいものだと思う。 (ふん)  と、吉田は、笑いながら、鼻を鳴らした。相変らず、強盗事件があり、スリ、窃盗、仲々、華やかである。吉田が、刑務所《むしよ》に送られた五年前と、少しも、変っていない。 (浜の真砂《まさご》って奴《やつ》だナ)  吉田は、苦笑したが、その眼が、ふと、光った。ありきたりの記事とは、違ったものを、片隅に、発見したからである。 〈草加次郎《くさかじろう》、再び活動を始める。警察当局緊張——〉  そんな文字が並んでいる。吉田は、草加次郎が、どんな人物か、知らなかった。警察当局を、緊張させるというのだから、余程、有名な、したたか者なのだろう。ふと吉田の胸に、軽い嫉妬《しつと》に似た感情が、走り過ぎた。新聞をたたんで、煙草に火を点《つ》けたとき、店に、小太りの男が、入って来た。立止って、店内を見廻《みまわ》していたが、吉田の姿を見つけると、一寸《ちよつと》、手を上げて見せてから、近づいて来た。 「久しぶりだな」  と、男は、いい、にやッと、笑って見せた。金子という昔馴染《むかしなじ》みである。 「六年じゃなかったのか?」 「一年、早く出た。模範囚だったんでね」 「お前さんが、模範囚ねえ——?」  金子は、今度は、甲高《かんだか》い笑い声を立てた。 「娑婆へ出たい、一心って奴は、恐ろしいもんだな」 「茶化すんじゃない」  吉田は、苦笑して見せたが、急に、厳しい表情になって、 「手は、空いてるか?」  と、訊《き》いた。金子が、また、にやッと笑った。 「五年も、喰《く》らい込んでいて、まだ懲りないのか?」 「懲りる?」  吉田は、大きな眼を剥《む》いた。 「冗談じゃない。五年間、俺《おれ》が、何を考えていたと思うんだ? この手に、大金を握ることだけを考えて、退屈な刑務所《むしよ》の生活を、我慢して来たんだぜ。今更、カタギの生活を送れるものか。第一、俺には、カタギの仕事をする技術がない。せいぜい出来ることといったら、土方仕事くらいだ。そんなことが、俺に出来るかい?」 「出来ないだろうな」 「出来ないさ。俺には、イチかバチかの仕事しか出来ないんだ」 「しかし、今度は、十年は覚悟しなきゃ、ならないぞ」 「捕らなきゃ、十年も二十年も同じことさ。手を貸して呉《く》れるんだろうな?」 「一体、何をする積《つも》りなんだ?」 「その前に、協力を約束して呉れ。どうしても、お前さんの力が要るんだ」 「そうだな——」 「気乗りのしない返事じゃないか?」 「俺も年だ。あまり危い橋は、渡りたくないんでね」 「金が、欲しくないのか?」 「欲しいさ。年の暮だ。それでなくても、いろいろと、金のかかることが多いからね」 「あの女とは、まだ一緒に、いるのか?」 「ああ」  金子は、四十歳という年齢に、ふさわしくないような、子供っぽい狼狽《ろうばい》ぶりを見せた。顔が赧《あか》くなっている。吉田は、苦笑した。この男は、腕力もあるし、頭も切れる方だが、女に甘いところが、欠点だと思う。 「ありゃあ、金が、かかる女だ」  と、吉田は、いった。金子の女は、昔、ステージダンサーをしていて、美人だが、派手好きだった。吉田の眼から見れば、何処《どこ》にでもいる、ありふれた女だと思うのだが、金子には、天使に見えるらしい。しかし、五年も、続いているところを見ると、案外、二人の仲は、上手《うま》くいっているのかも知れなかった。 「今、何をして、養っているんだ?」 「小さな不動産屋をやっている」 「儲《もう》かるのか?」 「二年ほど前までは、あぶく銭も入って来たがね。今は、やっと、喰えるってとこだ。だから、金が欲しい」 「それなら、問題はない。力を貸してくれ」 「————」 「どうだ?」 「いいだろう」  暫《しばら》く間を置いてから、金子は、ぼそッとした声でいい、煙草《たばこ》を取り出して、火を点けた。 「何時《いつ》、何をやるんだ?」 「今日は、十二月二十八日だったな?」 「ああ。あと三日で、大《おお》晦日《みそか》だ」 「仕事は、正月にやる」 「正月?」 「騒がしいときの方が、やり易いからね。正月三日までの間にやる積りだ」 「それじゃあ、あと、五、六日しかない。出来るのか?」 「出来るさ。五年間、考えて、来たんだ。簡単な仕事だよ」 「二人だけで?」 「出来れば、もう一人欲しい。特に、金庫の構造に詳しい人間がね」 「狙《ねら》うのは、銀行か?」  金子は、ぎょっとした顔で、訊いた。 「銀行は、やらん」  吉田は、落着いた声で、いった。 「三人ばかりの人間で、銀行破りは、出来っこないからね。第一、銀行は、正月三が日は休みだよ」 「じゃあ、何をやるんだ?」 「正月三が日は、だいたいのところが休みだ。官庁も休むし、民間会社も、休むところが多い。しかし、正月が稼ぎ時だと考えているところもある」 「何だ?」 「歓楽街だ。S区に、太陽楽天地というのがある。俺が刑務所《むしよ》に入る頃にも、景気が良かったが、今、新聞の株式欄を見ても上昇株になっている。正月には、沢山の金が、落ちる筈《はず》だ。あそこには、映画館四軒、アイススケート場、ボーリング場、トルコ風呂《ぶろ》、それに、キャバレーが二軒ある。全部が、太陽興業の経営だ。ざっと計算してみたんだが、正月の三日間で、ざっと、三千万円くらいの金が落ちる筈だ。その金は、楽天地の中にある、太陽興業の事務所に集まる。三千万なら、悪くない仕事だと思うがね」 「しかし、ああいう金は、毎日、銀行へ預けてしまうんじゃないのか? 事務所には、たいした現金は、置いておかないと、いう事だぜ」 「普通の日なら、そうさ。しかし、正月は、銀行も休む。だから、三日間だけは、現金が、事務所の金庫の中で眠っている筈だ。どうだね?」 「三千万は、悪くないが、金が、手に入ったとしても、上手く逃げられるのか? どんな仕事でも、仕事そのものは簡単だが逃走に失敗することが多いんだ。そこまで、がっちりと、計画してあるなら、手を貸してもいいが」 「勿論《もちろん》、考えてある」  吉田は、胸を叩いて見せたが、店に、客が、増え始めたのを見て、金子を促して、席を立った。      二  デパートの屋上は、風が強かった。そのせいか、客の姿はない。吉田と金子には、都合のよい相談場所だった。 「さっきの続きだが——」  と、吉田は、いった。 「刑務所《むしよ》で、太陽興業で、会計係をやっていた男と一緒になった。使いこみがバレて、馘《くび》になり、自棄《やけ》を起こして、傷害事件をやった男だ。その男の話では、金庫は、事務所の二階にある。NS36型という金庫だ。夜の警備は、楽天地全体で五名。事務所は、二名だといっていた。たいした警備じゃない」 「金を手に入れてからの逃走方法は?」 「先《ま》ず、警備員二名を、金庫の中に、閉じ込める。あの楽天地で、一番早く開く、スケート場でも、朝の十時にならなければ開館にならない。事務所の職員も、九時に出勤だ。つまり、朝の九時にならなければ、異変に、気付かないということだ。その間に、俺達は、高飛びする」 「何処《どこ》へ?」 「別府《べつぷ》さ」 「別府?」 「朝の七時に、羽田から、福岡行の飛行機が出る。俺達は、それに乗る。東京で、大騒ぎが始まった頃には、雲の上を飛んでるって寸法だ。別府の温泉で、正月を送るのも、悪くないもんだぜ」 「温泉か——」  金子は、にやッと笑った。 「悪くないな。あいつも喜ぶ」 「女は、一日前に、別府に、やっとくことだ。一緒に行動するのは、危険だからな」 「そうしておく」 「問題は、NS36型の金庫に詳しい男を見つけることだ。心当りはないか?」 「探してみよう。何とか見つかると、思うね。三千万の話なら飛びついてくるやつが、いると思うんだ。師走で、金が欲しい奴は、ごろごろしているからね」 「それじゃあ、その方は、お前さんに、委《まか》すことにする」 「ところで、宿は、どうする?」 「太陽楽天地の傍に、藤乃屋という旅館がある。そこに、泊る積りだ。問題の男が見付かったら、連絡に来て呉れ。それまでの間に、楽天地の様子を、調べておく」 「判った。ところで、前祝いに、一杯、やらないか?」 「飲みたいところだが、止めて置くよ」  吉田は、慎重に、いった。 「今度の仕事は、是が非でも、成功させたいんでね」  二人は、握手して、屋上で、別れた。  吉田は、その足で、太陽楽天地に向った。バスを、楽天地前で降りた時には、夕闇《ゆうやみ》が、立ちこめていた。気の早いネオンサインが、薄暗い街の中に、赤青の色彩を、漂わせ始めている。 『太陽楽天地』のネオンが、馬鹿でかく、横に拡がっている。吉田は、ゆっくりした足取りで、その下を、くぐった。入ってすぐ右が、四階建の、太陽興業の事務所に、なっている。吉田は、ちらッと、その二階あたりに、眼をやったが、すぐ、視線を、そらせてしまった。  左側に、体育館のような、アイス・スケート場があり、若い喚声が、外まで、流れて来る。スケート場の地下が、ボーリング場であった。吉田は、切符売場の前まで行って営業時間を調べてみた。アイス・スケート場の方は、午後九時までになっている。ボーリング場の方は、十一時までであった。問題はなさそうだった。  アイス・スケート場を離れて、左へ廻ると、映画街になる。邦画系三館と、洋画の封切館が一館である。どの映画館の前にも、もう門松が、立ててあって、正月気分を、あおっていた。客足は、余り良いようには、見えなかったが、正月になれば、どの館も、満員になるに違いなかった。そうなってくれなくては、困るのである。  映画館の前に、三階建のビルがある。ネオンを読むと、一階が、パリームードのキャバレー。二階は、京都情緒のキャバレーで、三階がトルコになっていた。一番営業時間の遅いのが、トルコで、午後二時から、午前二時までに、なっていた。あれが、問題だなと、吉田は、三階の灯《ひ》を見上げていた。  吉田は、いったん、楽天地を出て、旅館に入った。旅館の女中は、彼の姿を見て、妙な顔をした。流行遅れの服装をしていたからだろう。千円を、握らせると、現金なもので、笑顔に変って、部屋に、案内してくれた。吉田は、苦笑せざるを得なかった。 (何ごとも、金か)  と、思い、改めて、執念のようなものが、吉田の頭を占領した。      三  金子が、土屋徳助《つちやとくすけ》という老人を連れて、旅館に訪ねて来たのは、大《おお》晦日《みそか》の午後だった。  吉田は、二カ月前に、刑務所《むしよ》を出て来たという、その老人を、不遠慮に眺め廻した。信用できるようでもあり、できないようでもあった。 「NS36型の金庫を開けられるかね?」  と、吉田が訊《き》くと、 「NS36型に限らないよ」  と、土屋は、妙に、低い声で、いった。 「金庫と名のつくものなら、たいがいのものは、開けられる。もっとも、市販されているものに限るがね」 「前科《まえ》は?」 「忘れた。思い出すのが、面倒臭いんでね」 「そんなに、あるのか?」 「爺《じい》さんは、刑務所《むしよ》生活の方が、長いんだ」  金子が、横から、いった。吉田は、頷《うなず》いた。信用できるかどうか判らないが、この老人を使うより、仕方が、ないようだった。時間がなかった。 「では、詳しい打合せをしよう」  吉田は、テーブルの周囲に二人を呼んだ。 「あれから、太陽楽天地を、色々と、調べてみた。俺が、刑務所《むしよ》で会った、会計係の話は、信用していいと思う。金庫は事務所の二階だ」 「やるのは、何時《いつ》だ?」  金子が、訊く。吉田は、一寸《ちよつと》考えてから、 「一月四日の午前二時から、三時の間だ」 「どうやって、事務所に入る? その時間には、事務所は、もう、閉まっている筈《はず》だ。硝子窓《がらすまど》でも、叩《たた》き破って、侵入するのかね?」 「いや。そんな馬鹿な真似《まね》はしない。楽天地で、一番遅くまで営業しているのは、トルコ風呂《ぶろ》だ。これが、午前二時まで受付けている。俺は、昨日、午前二時に、トルコへ、行ってみた。マッサージされながら、窓から下を見ていたら、黒い鞄《かばん》をぶら下げた男が、トルコを出て、事務所の方へ歩いて行った。その日の売り上げを、事務所の金庫へ納めに、行ったんだ」 「その男について、事務所に、入り込むわけか?」 「そうだ。トルコの金が最後だからね。最初の計画では、事務所の警備員二名が、問題だったが、三人になったわけだ」 「しかし、その男が、トルコに戻らないと、騒ぎになるんじゃないのか?」 「いや、その点は、大丈夫だ。いつも、事務所の金庫に、金を納めると、そのまま、帰るそうだ」 「三人か」 「こっちも三人いる。それに、万一の時の用心に、これも、用意した」  吉田は、外套《がいとう》のポケットから、鈍い光沢を見せている、ブローニング拳銃《けんじゆう》を、取り出して来て、二人の前に置いた。 「昔馴染《むかしなじ》みに、貰《もら》ったものだ。勿論《もちろん》、脅しに使うだけで、撃ちゃしない」 「事務所から、金を奪ったとして、それから、どうする? 飛行機に乗る七時までの間だ。まさか、この旅館に戻って来て、夜が明けるのを、待つわけじゃないだろう? 第一、事務所から、此処《ここ》まで、のこのこ歩いてくるのは、危険だ」 「車を使うさ」 「車?」 「お前さんは、不動産屋をやってるんなら、車ぐらい持っているだろ?」 「ああ。月賦《げつぷ》は、まだ、払い終ってないがね」 「その車を使う」 「事務所の前に、横づけにでも、しておく積《つも》りかね? 午前二時頃、そんな場所に、見馴れない車が、置いてあれば、すぐ怪しまれるぜ」 「車は、トルコの前に置いておく。昨夜も見て来たが、トルコの廻りには、車が、何台も駐車している。車で来る客が多いし、そんな客の方が、金があるらしいというので、モテるそうだ。そこで、こうしたいと思う。先ず三人で、午前二時少し前に、トルコの前に、車を乗りつける。一人が、トルコに入る。他の二人は、車の中で鞄を持った男が現われるのを待つ。その男が現われたら、後を尾《つ》けて、事務所に侵入。トルコに入った一人は、マッサージを済ませたら、車に戻り、運転して、ゆっくり事務所の前まで走らせてくる。そこで、クラクションを一回鳴らす。金を奪った二人が、車に乗り込む」 「時間の割りふりは?」 「そうだな。どの位、あれば、金庫は、開けられる?」  吉田は、土屋徳助を見やった。 「三十分あれば、充分だよ」  老人は、相変らず、ぼそぼそした声で、いった。 「丁度いい。トルコは、一時間サービスだというが、実際は、三、四十分だ。だから、三時ジャストに、車を、事務所の前へ持ってくるようにしてくれ」 「俺が、その役か?」  金子が訊く。吉田は、頷いて見せた。 「いい役だぜ。ただし、スペシャルは、断れ。いい気持になって、肝心なことを忘れると、困るからな」  吉田は、にやッと、笑って見せてから、今度は、金子と、土屋徳助の二人に、 「三人分の飛行機の予約は、とって置いた。手に持っていける荷物一人、一キロまでに制限されている。千円札以上なら、一キロ以内で、一千万円になる。札の入り易い鞄を、三つ用意することだ。丈夫な鞄がいい。途中で、チャックが外れて、中身が、バラまかれたなんていうんじゃ困るからね」 「鞄と車の件は、俺が、引き受けたよ」  金子が、頷いて見せた。 「それから、もう一つ、提案がある」  と、吉田は、いった。 「草加次郎のことだ」 「草加次郎?」  金子は、驚いた眼で、吉田を見た。話が、急に飛躍したので驚いたらしい。 「草加次郎が、どうしたんだ?」 「新聞で、奴《やつ》のことを、いろいろと、読んだ。面白い奴だ。こいつを、一寸利用してやろうと、思うんだ」 「どんな風に、利用する?」 「新聞に、奴の署名が、出ている。この署名を真似て、脅迫状を書く」 「太陽楽天地にか?」 「馬鹿をいうな。そんなことをしたら、警戒が厳重になって、お手あげだ。太陽楽天地から、一番遠い、歓楽街に、手紙を出す。正月中に、爆破すると、書いてだ。二つの効果があると思うんだ。  第一は、警察の、警戒が、そこに集中すること。万一俺達の仕事が失敗した時でも、逃げ易くなる。  第二は、これが新聞に出れば、客が、そこを敬遠して、太陽楽天地に集まるだろうということだ。つまり俺達が掴《つか》む金が、多くなるということだよ。三千万が、四千万に増えるかも知れないということだ」 「一千万増えれば、一人当り三百万か。悪くないね」  金子は、笑った。土屋徳助も、賛成のようであった。      四  その日のうちに、草加次郎の署名を使って、脅迫状が、投函された。  新聞に、その手紙が載ったのは、一月三日であった。新聞の論調は、厳しいものだったが、それは、吉田が、望んでいたものである。  警察は、向う一週間、脅迫状に指定されている、T歓楽街を二百名以上の警官で、警備する積りだと、発表していた。またT歓楽街の、興業主達は、これで、客足が、激減するだろうと渋い顔をしているとも、伝えていた。どちらも、吉田の期待していた通りになった感じだった。  その日。吉田は、金子と、楽天地を歩いて見た。予想以上の人の波で、二人は、歩くのに、難渋するくらいだった。映画館も満員なら、スケート場も、ボーリング場も、満員だった。映画館の中には、『爆発の心配のない太陽楽天地』と書いた紙を、ぶら下げているところもあって、吉田の苦笑を買った。 「計画した通りに、なっている」  と、吉田は、楽天地を出てから、金子にいった。 「あの分なら、四千万は、固いな」 「あの満員の客が払った金が、明日は、俺達のものになるのかと思うと、何だか、妙な気がするね」 「金は、天下の、まわり物ってわけさ。頭のいい奴《やつ》が、金を握る。これが、人生って奴さ」 「予定より、一千万も増えたとなったら、草加次郎に、感謝しなけりゃ、ならないな」 「別府に着いたら、礼状でも書くさ」  吉田は、笑ってから、腕時計を、見た。午後四時を、針が指している。 「あと、十時間か」  と、ひとり言のように、いってから、 「俺は、夕食を済ませてから、あの旅館を、引き払う。あとあとの事も考えて、女中には、北海道へ行くようなことを、匂《にお》わせて置く積りだ。お前さんは、例の爺《じい》さんを、車に乗せて、十二時に、四谷《よつや》駅前に来てくれ。そこで、待ち合わせることにしよう」 「十二時だな」  と、金子は、念を押してから、一寸《ちよつと》手をあげて、消えて、いった。  吉田は、ひとりで、旅館に戻ると、夕食までの間を、ぼんやりと、炬燵《こたつ》に当って、過ごした。失敗するのでは、あるまいかという不安は、あまりなかった。自分の計画に、自信を持っていたせいもあるし、刑務所《むしよ》生活の間に、身についた、糞度胸《くそどきよう》でもあった。  夕食は、腹一杯食べた。食欲もあった。俺は、あがっていないと思い、自信が、倍加した感じであった。  吉田は、料金を払って、旅館を出た。番頭や女中が、彼のことを、怪しんでいる様子は、何処にも、見られなかった。チップを、はずんだせいか、誰もが、愛想が良かったし、女中は、北海道に帰るという、彼の言葉を、そのまま信じた様子で、今度、東京に来たときには、北海道の土産でも、持って来て頂戴と、甘えた声で、いったくらいである。 (万事、順調だ)  と、吉田は、思った。  吉田は、新宿へ出て、映画館に入って、時間を潰《つぶ》した。皮肉なことに、そこで、やっていたのが、アメリカの、銀行強盗の映画だった。計画を立て、隣の家から、地下道を掘って、まんまと、金庫から、金を盗み出すことに、成功する映画である。もっとも、映倫に気がねしたとみえて、ラストは、お定まりの勧善懲悪になっていた。金の配分のことで、仲間割れが起きて、全てが、おジャンになるのである。見終って、吉田は、苦笑した。彼は、きっちり、三等分してやる積りでいる。金の配分のことから、自滅するような事は、絶対に、ないという自信があった。  映画の終ったのが、十一時だった。三が日が過ぎたといっても、街は、まだ正月気分が残っていた、普段より、人通りも多い。吉田は、ぶらぶらと、新宿御苑の前あたりまで歩き、そこからタクシーを拾った。  四谷には、金子の車が待っていた。吉田が、タクシーを降りて、近寄っていくと、運転席にいた金子が、蒼《あお》い顔で、頷《うなず》いて見せた。緊張しているらしい。後の座席には、土屋徳助が、ちょこんと、腰を下していた。この方は、普通の表情だった。刑務所《むしよ》生活の方が、長いというだけあって、度胸は、坐《すわ》っているらしい。  吉田は、金子の隣に、腰を下した。 「落着いて、行こうぜ」 「ああ」  と、金子は、頷いて、アクセルを踏んだ。車を走らせている間に、金子も、幾分か、落着いて来たように見えた。蒼かった顔に、赧《あか》みがさしてきた。 「その調子だ」  と、吉田は、笑いかけた。一番恐ろしいのは、緊張しすぎてへまをやることだった。  途中で車を止め、もう一度、打ち合せを、やり直した。時間も合せた。  車を、楽天地に乗り入れたのは、二時十分前だった。流石《さすが》にスケート場も、映画館も灯が消えていた。まだ、灯が点《つ》いているのは、事務所の二階と、トルコだけである。  金子は、車を、トルコの横へ止めた。自家用のナンバーをつけた車が、四台ばかり並んでいた。予期した通りだった。  ライトを消してから、金子だけが降りて、三階の、トルコ風呂《ぶろ》へ、上って行った。吉田と、土屋徳助は、ルームライトの消えた車内で、息を殺して、待った。  緊張しているせいか、寒さは感じなかった。時間だけが、嫌に、長かった。時間が、止ってしまったのではあるまいかと、腕時計を、耳に押し当てて、みたほどである。  十分ばかりして、薄明りの洩《も》れている、ビルの入口から、黒い影が、出て来た。黒っぽい外套《がいとう》を着て、手に鞄《かばん》を下げている。  吉田は、土屋徳助の肩を叩《たた》いた。 「あいつだ」  先ず、吉田が、車から出た。ゆっくり、男のあとを尾ける。周章《あわ》てては、ならないのだと、歩きながら、自分に、いい聞かせた。今、トルコから出て来た客のような顔をしていることだ。  男は、せかせかした足取りで、事務所の建物に向って歩いて行く。早く済ませて、帰りたい様子が足取りに、現われているようだった。吉田が、後を尾けていることに、気付いた様子は少しもなかった。  男は、事務所の前で、立止った。扉は、既に閉っている。男は、横の通用門の、呼鈴を押した。そこまで見届けてから、吉田は、男に近づくと、いきなり、拳銃《けんじゆう》の台尻《だいじり》で、殴りつけた。鈍い音が、ひびけて、男は、悲鳴もあげずに、その場に、倒れた。  吉田は、風呂敷《ふろしき》で、顔を包んで、門の開くのを待った。  通用門が内から開いて、五十歳くらいの男が、顔を覗《のぞ》かせた。右手に、鍵《かぎ》をぶら下げているところを見ると、警備員の一人らしい。  吉田は、その男の鼻先に、拳銃を突きつけた。 「声を出すんじゃない」  と、彼は、低い声でいった。 「俺も殺したくないし、お前さんだって、死にたくないだろうからね」 「————」  相手は、真青な顔で、震えている。吉田は、その男を押すようにして、中へ入った。土屋徳助も、倒れた男を、引き摺《ず》って建物の中へ入った。  吉田は、警備員に、内側から、鍵をかけさせた。 「もう一人、警備員がいる筈《はず》だ」  吉田は、男の背中を、拳銃で、小突いた。 「二階か?」 「————」  男は、黙って、頷いている。吉田は、一寸《ちよつと》考えてから、警備員の頭も、拳銃で、殴りつけた。倒れた二人を、吉田は、土屋徳助と、用意して来た縄で縛り上げ、猿ぐつわを、かませた。  足音を忍ばせて、二階に、上る。ドアは、開いていた。その隙間《すきま》から覗くと、三十歳前後の男が、退屈そうに、雑誌を、読んでいた。その向うに、黒光りのする金庫が、置かれてあった。  吉田は、ゆっくりと、ドアの隙間から、身体を、滑り込ませた。男は、まだ、気付かずに雑誌を眺めている。吉田は、その後《うしろ》に廻《まわ》った。人の気配に気付いたように、男が、顔を上げた。その鼻先に、吉田は、拳銃を突きつけた。 「声を立てるな」  吉田は、ゆっくりした声で、いった。 「金庫の開け方を知ってるか?」 「————」  男は、青い顔で、首を横に振った。 「爺《じい》さん」  と、吉田は、男に、拳銃を、突きつけたまま、土屋徳助を呼んだ。 「爺さんの活躍する番だぜ」 「委《まか》せてくれ」  老人が、金庫の前に、屈み込むのを見てから、吉田は、男を縛り上げて、猿ぐつわをかませた。  腕時計の針は、二時二十分を、指していた。 「あと四十分だ。頼むぜ」 「黙っててくれ。気が散る」 「判ったよ」  吉田は、にやッと、笑って見せた。 「芸術家は、うるさいもんだ」  と、これは、ひとり言のようにいって、足元に倒れている男を見下した。最初の予定では、金庫に押し込める積りだったが、どうやら、金庫には、人間が、入りそうにない。吉田は、足の縄だけを解いて、男を立たせた。 「地下室は、あるか?」  と、訊《き》くと、猿ぐつわをかませた顔を、縦に小さく振って見せた。 「じゃあ、そこへ、案内して貰《もら》おうか」  吉田は、男の身体《からだ》を、押した。  地下室は、変電室になっていた。黴臭《かびくさ》く、冷たかった。吉田は、改めて、男の足を縛り直すと、暗い部屋に、押し込めた。気絶している二人も、引き摺って来て、同じ部屋に入れ、外側から、鍵をかけた。腕力には、自信のある吉田だったが、骨の折れる仕事だった。鍵をかけ終ると、顔を蔽《おお》っていた風呂敷をとって、小さな溜息《ためいき》を吐いた。  二階に上ってみると、土屋徳助は、まだ、金庫に、しがみついている。小柄なせいで、虫が、止まっている感じだった。吉田は、傍《そば》にあった椅子《いす》に腰を下した。  腕時計を覗いてみる。二時三十分。あと三十分しかない。 「大丈夫か?」  と、小声で、いったが、聞こえなかったとみえて、土屋徳助は、返事をしなかった。金庫を、開けることに、全霊を集中しているようだった。こんな時には、声を掛けないのが、一番いいと、判っているのだが、腕時計の針が、動く度に、焦燥《しようそう》が、吉田を捕えた。 「大丈夫か?」  と、今度は、前より大きな声を出すと、土屋徳助は、ダイヤルを睨《にら》んだまま、 「静かに——」  と、低い声で、いった。吉田は、口を閉ざした。が、不安が消えたわけではない。本当に、この老人は、金庫を開けることが、出来るのだろうか。もし、駄目なら、何もかも、おじゃんになるのだ。三千万も、四千万も、取らぬ狸《たぬき》の皮算用ということになる。  吉田は、椅子から、立ち上がると、その場を、歩き廻った。その間にも、時間は、容赦なく、過ぎて行く。腕時計を、また覗いて見る。  二時四十分。あと、二十分しかない。 「まだか?」  と、吉田が、荒い声でいったとき、土屋徳助は、立ち上って吉田を見た。 「開いたよ」  と、老人は、いった。      五  金庫の中には、札束が、ぎっしり詰っていた。ざっと見て、四千万は、固いと、吉田は、ふんだ。百円硬貨も、袋に入っていたが、それは、敬遠した。二、三百万は、あるようだが、飛行機に、乗れなくなる。  吉田は、土屋徳助と、用意してきた袋に、札束を、詰めた。自然に、顔が、弛《ゆる》んでくる。五年間、夢に見つづけて来た札束である。土屋徳助も、夢中になっているようだった。  詰め終って、腕時計を見ると、三時五分前になっていた。金庫を閉め、部屋の明りを消して、通用門のところまで、歩いて行った。  三時。  外で、クラクションが、一回鳴った。予定通りである。二人は、鍵《かぎ》を開けて、通用門を出た。車が待っていた。札束を詰めた袋を、後の座席に放り込むと、吉田は、金子の隣に身体を滑り込ませた。 「上手《うま》くいった」  と、吉田は、乾いた声で、いった。金子は頷《うなず》いて、アクセルを踏んだ。 「ゆっくりやった方がいい」  スピードを上げようとする金子に、吉田が、注意した。 「スピード違反で、白バイにでも捕ったら、元も子もなくなるからね」 「判った」 「調子良く、いった。四千万は固いよ」 「四千万か——」  ハンドルを握っている金子の、緊張していた顔が、思わず、ほころんだ。 「真直《まつす》ぐ、羽田へ、やるかい?」 「その前に、金を詰めかえなきゃならん。何処《どこ》か、人目に立たない所で、一度、止めてくれ」 「OK」  金子は、車を、六郷《ろくごう》に走らせ、河原で止めた。 「ここなら、誰も来ない」  金子が、ライトを消してから、いった。三人は、後のトランクから、用意して来た三つの鞄《かばん》を取り出すと、札束の、詰め換えに、かかった。  誰も、黙って、作業に熱中していたが、時々、笑いが洩《も》れた。一番早く、詰め終った吉田は、車から出ると、川っぷちまで歩いて行って、拳銃《けんじゆう》を、川に投げ棄てた。此処《ここ》まで来れば、拳銃は、邪魔なだけだった。  吉田が、車に戻ると、他の二人も、詰め終って、脹《ふく》らんだ鞄を手で、撫《な》でていた。 「成功だな」  と、吉田は、二人に、笑って見せてから、飛行機の切符を取り出して、二人に、渡した。 「七時になったら、ばらばらに、飛行機に乗る。最後まで、慎重にやることが必要だ。飛行機の中では、絶対に、口をきかないこと。安心感から、詰《つま》らないことを、口走らないとも、限らないからね」  二人は、黙って、頷いた。 「これは、用心の上にも用心をということで、ここまで来ればもう大丈夫と、思っている」  吉田は、笑って見せてから、煙草《たばこ》に、火を点《つ》けた。金子も、煙草を咥《くわ》えた。  五時になると、金子が、自動車ラジオのスイッチを入れた。ニュースが始まったが、太陽楽天地については、一言も、言及しなかった。改めて、安堵感《あんどかん》が、吉田を捕えた。  六時のニュースも、同じだった。草加次郎は、遂に、現われなかったと、アナウンサーは、喋《しやべ》っている。 〈しかし、警察当局は、引き続き、T歓楽街の警備を、続ける積りだと、発表しています。この、いまわしい爆破狂は、次にいかなる挑戦を——〉 「ご苦労なことさ」  吉田は、大きな声で、いって、スイッチを切った。 「そろそろ、別府に向って、出発しようか」 「OK」  と、金子は、威勢のいい声を出した。  三人を乗せた車は、羽田空港に向って、走り出した。陽が昇り、真冬特有の、高く澄んだ、空が、吉田達を祝福してくれるようにさえ思えた。  空港にも、何の異状も、感じられなかった。外国人の乗客は陽気に、大声で、喋っていたし、日本人の乗客も、晴着姿が、多かっただけである。  やがて、マイクが、大阪、福岡行の、三〇一号機の出発を伝えた。 「三〇一号機、シティ・オブ・キョウトに、お乗りの方は、送迎デッキの下を通って——」  吉田は、鞄を、しっかりと握りしめて、立ち上った。最後の関門を、間もなく突破するのだ。飛行機に乗ってしまえば、全てが、終ったと同じだと、思った。あとは、一千三百万円と、別府での楽しい生活が、待っているのだ。  金子と、土屋徳助の二人が、改札口を、通り抜けるのを確かめてから、吉田は、一番最後に、ロビーを出た。  頭上のスピーカーは、滑らかな英語で、同じことを、伝えている。 (シティ・オブ・キョウト——か)  歩きながら、吉田は、ぼんやり考えていた。 (今日は、富士山が、綺麗《きれい》に、見えるだろうな)  吉田達を乗せる、シティ・オブ・キョウト号は、銀色に輝く翼を、滑走路に横たえていた。あの飛行機が、俺を、福岡へ、運んでくれる。いや、福岡でなく、一千三百万と、自由の天地へ、運んでくれるのだ。  送迎デッキの上では、早朝というのに、可成《かな》り人垣が出来ていて、今、飛行機に乗り込もうとする乗客に、大声で、「いっていらっしゃい」と、呼びかけていた。吉田は、その人達にも手を上げて、応《こた》えたいような、気持になっていた。  吉田は、一歩ごとに、不安が消え、愉快な気持になっていくのを感じた。何もかも、予定通りなのだ。もう、誰も、俺を止めることは出来ない。誰もだ—— 「————」  ふいに、吉田の足が、止まった。シティ・オブ・キョウト号に向って、歩いていた、乗客の列が、止まって、しまったのだ。 (一体、何が起きたんだ?)  吉田は、ぼんやりと、周囲を、見廻《みまわ》した。その眼に、今、吉田達が出て来た、建物から、何か大声で叫びながら、駈《か》けてくる男の姿が映った。ユニホーム姿のところから見ると、空港の勤務員らしい。金子が、いつの間にか、吉田の傍《そば》に、来ていた。彼の顔は、青ざめていた。 「バレたんじゃないか?」  金子は、小声で、いった。その声が、震えていた。 「馬鹿な」吉田は、強い声で、いった。 「まだ七時だ。あの事務所が開くのは、九時だ。それまで、バレる筈《はず》がない」 「しかし——」  金子は、口ごもった。駈けて来た、空港勤務員は、乗客を、自分の周囲に、半円形に、並ばせた。その顔が、ひどく緊張していた。吉田にとっては、あまり、良い徴候とは、いえなかった。 「申しわけありませんが——」  と、その男は、甲高《かんだか》い声でいった。 「皆様の所持品を、検査させて頂きます」  その言葉で、金子が、小さな、呻《うめ》き声を、あげた。吉田も、顔から、血の気が引いていくのを感じた。鞄を開けられたら、それで終りだ。 (しかし——)  何故《なぜ》、事件が、バレたのだろうか。 「どうして、所持品の検査をするのかね?」  乗客の一人が、抗議するように、いった。 「我々は、外国へ行くわけじゃない。国内旅行だ。何故検査するのかね?」 「只今、草加次郎と名乗る男から、日航の事務所に、電話が、掛って来たのです」と、空港勤務員が、いった。 「福岡行の一番機を、爆破するというのです。単なる脅しかも知れませんが、我々としては、安全のために、全力を尽さねば、ならないのです。皆様にも、是非、協力して頂きたいと思います」  乗客は、草加次郎の名前を聞いて、不満を消した。吉田は、ゆっくりと、絶望が、襲いかかってくるのを感じた。その絶望感は、何となく滑稽《こつけい》でもあった。 (くたばれ。草加次郎め)  吉田は、歪《ゆが》んだ顔で、空を見上げた。鞄《かばん》が、彼の手から落ちて、地面に転がった。 [#改ページ]    裏切りの果て      一  退屈だった。  仕事がないわけではない。仕事は、いくらでもある。机の上に積まれた書類を取り、ソロバンを入れ、数字を書き込む。その繰り返しである。  昨日も、一昨日も、同じことだった。今日も同じだし、明日も、同じことだろう。下手をすると、おれは、一生、同じことを繰り返していなければならないのではないか。吉田は、生あくびをしながら、そんなことを考える。  吉田は、この会社に入って三年になる。三年間、彼のやって来た仕事は、会計課で、職員の給料を計算することだった。女子供でもできる仕事だ。二十八歳の男がやる仕事じゃないとは思っても、格別の学歴もなく、コネもない吉田には、この仕事をやめるだけの決断もつかなかった。  あと五年もしたら、係長になれるだろうか? どうも、それもあぶなかった。係長もあぶないのだから、一生この会社にいても、課長には、とうていなれそうにない。  吉田は、ゆううつになってくる。このままでは、やり切れないと思う。せめて、係長になりたい。できれば、課長になりたい。そうなれば、結婚もできるし、一寸《ちよつと》したバーにも行けるようになるだろう。  五時に会社が終る。吉田は、帰り仕度をして会社を出る。だが、彼を待っているのは、安アパートの、冷え切ったせんべい蒲団《ぶとん》だけである。やり切れなかった。だから、屋台で酒を飲む。だが、そんな安酒も、現在の給料では、毎日というわけにはいかなかった。  金が欲しかった。出世したかった。ここ一、二年、いや、もっと前から、吉田は、そのことだけを考え続けて来た。  だが、その願いが、実現性のない願いであることを、吉田は、知っていた。世の中というやつは、そんなに甘くはできていないのだ。貧乏人は、宝くじにでも当らなければ、大金が転がりこんでくることがないのだし、学歴もコネもない人間には、いくらあがいてみたところで、出世のチャンスは、やってこない。それが、世の中の仕組みというやつだと、吉田は思っていた。 (だが、出世したい——)  吉田は、もし、それが可能なら、どんな悪どいことでも、やってみたい気持だった。      二  その日も、吉田は、パチンコで時間をつぶしてから、アパートに帰った。パチンコは、もうかる時もあったし、損することもあった。もうかっても、せいぜい千円くらいだが。これでは、吉田の夢は、かなえられない。ただ、時間をつぶす役にしか立たなかったが、だからといって、他に、することもなかった。  吉田は、がたぴしする階段をのぼって、二階の自分の部屋に入った。四畳半のうすぎたない部屋だ。これで、一月五千円の部屋代なのだから、腹が立ってくる。何もかも面白くない。  敷きっぱなしの蒲団に、転がった。そのままの姿勢で煙草《たばこ》に火をつけたが、郵便受けに、白いものが入っているのに気づいて、起き上った。  白い封筒だった。表には、彼の名前が書いてあったが、裏には、差出人の名前がなかった。何となく秘密めいた匂《にお》いがした。  吉田は、煙草をくわえたまま、封を切った。  中から、便箋《びんせん》が一枚出てきた。吉田は、広げて眼を通した。が、読んでいくうちに、彼の眼が光ってきた。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈来る七月十日午後七時、赤坂の料亭『菊春』に来られたし。相談したきことあり。君にとって、利益になることであると保証する。 [#地付き]中沢〉 [#ここで字下げ終わり]  中沢というのが誰なのか、暫《しばら》くの間、吉田にはわからなかった。 (中沢——?)  と、その名前を、何度か口の中で、くりかえしてから、吉田は、やっと、思い当った。会社の人事部長が、たしか、中沢という名前だった。社長の甥《おい》ということで、三十代で、部長の椅子《いす》についている男だった。女ぐせが悪いという評判で、かげ口を叩《たた》く者も多かったが、恐れられてもいた。社長のワンマン会社だったから、社長の甥である中沢の機嫌を損じることは、命取りになりかねなかったからだ。  人事部長が、何故、平社員の吉田に、妙な手紙をよこしたのか、わからない。気味が悪くもあった。 (だが——)  と、吉田は、手紙の文字を見ながら、思った。  上手くいけば、人事部長との間に、コネが作れるかも知れない。その期待も、吉田にはあった。 (どんな用件で、呼びつけたのかわからないが、思い切り、ご機嫌を取ってやろう。腰巾着《こしぎんちやく》になれというのなら、喜んでなってやろう)  吉田は、自分に、いい聞かせてから、二本目の煙草に火をつけた。      三  指定された日、会社が終ると、吉田は、赤坂に廻《まわ》った。 『菊春』という料亭は、テレビ局の裏にあった。玉石を敷きつめた庭には、ぴかぴかの高級車が何台も並んでいた。  吉田は、薄よごれた靴と、くたびれた背広に、ひけ目を感じた。安サラリーマンが来るところではないのだ。  吉田が、玄関に立つと、案の定、若い女中は、うさんくさそうな眼つきで、彼を見た。  吉田が、 「中沢さんが、来ているはずだが——」  というと、女中の態度が、一寸《ちよつと》変った。 「どうぞ」  と、女中は、いった。 「中沢さんなら、奥で、お待ちかねですよ」  吉田は、女中に案内されて、奥の部屋へ通った。  庭に泉水のある小ぎれいな部屋だった。そこに、人事部長の中沢が、いつもの通りの傲慢《ごうまん》な顔を見せて、座っていた。  吉田は会社で、何度か、中沢の顔を見ていたが、言葉を交したことはない。 「まあ、座りたまえ」  と、中沢は、笑顔をみせて、吉田にいった。膳《ぜん》の上には、すでに、酒、肴《さかな》が並べられていた。吉田を案内して来た女中が、そのまま傍《そば》に座って、酌をしようとするのを、 「内密な話があるから——」  と、中沢は、追いはらった。 「ところで、君は、私を知っているだろうね?」  二人だけになると、中沢が、吉田の顔を見て、きいた。 「勿論《もちろん》、知っています」 「よろしい」  と、中沢は、うなずいてから、傍に置いてあった封筒を取り上げた。中から出したものは、履歴書のようだった。 「これは、君の履歴書だ」  と、中沢は、いった。 「高校を出ただけだね」 「そうです」 「身につけた特殊技能もない。そうだね?」 「そうです」  答えながら、吉田は、次第に、こわばった顔になっていった。こんなことを確かめるために、おれを呼んだのか。 「君には気の毒だが、これでは、会社の幹部になれないな」 「————」 「うちの会社へ来て何年になる?」 「三年です」 「あと五年しても、係長になれるかどうかわからないな」 「————」 「出世したくないかね?」 「出世したくない人間が、いるでしょうか?」  吉田が、きき返すと、中沢は、声を立てて笑った。 「そりゃあ、そうだ」  と、彼は、いった。 「君は正直でいい。気に入った」 「有難うございます」 「だが、君は、出世できない。うちの会社にいる限りはね。学歴も、特殊技能もなくてはね」 「————」 「ただ、うちの会社は、叔父《おじ》のワンマン会社みたいなものだ。上手くすれば、君でも出世ができる」 「————」 「どうだね? 私のために、一働きしてみる気はないかね?」  中沢は、吉田の顔を、のぞき込むようにして、いった。      四 「どんなことをすれば、いいんですか?」  吉田は、固い眼で、中沢を見て、いった。彼が、ここへ来る前に考えていたことが、実際になったのだ。上手く相手に取り入れば、これが出世の糸口になるかも知れない。だが、何をさせる気なのか。その不安があった。  中沢は、すぐには返事をしないで、煙草を取り出して、火をつけた。まるで、じらすのを楽しんでいるみたいな顔付きだった。 「何だと思うね?」 「わかりません」 「私が、人を殺してくれといったら、君はやってくれるかね?」 「————」  一瞬、吉田の顔が青ざめた。中沢は、そんな吉田を見て、にやにや笑い出した。 「冗談だよ」  と、中沢はいった。 「いくら何でも、そんなことは頼めんし、考えもしない」 「————」 「ほっとしたかね?」 「はあ」 「君にやって貰《もら》いたいのは、もっと簡単なことだ」 「どんなことでしょうか?」 「或る男を、うちの会社から追い払いたいのだ。それを、君にやって貰いたい」 「追い払う——ですか?」 「そうだ。くびにするのを、君に手伝って貰いたいのだ」 「社員をくびにするのは、人事部長である貴方の権限じゃありませんか? 私には、何の力もありませんよ」 「確かに、私は人事部長だ。だが、理由もなく、社員は、くびにはできん。組合もあるからね」 「貴方にできないことを、どうして、平社員の私に、できるんですか?」 「君だから、できるのさ」  中沢は、口元に、笑いを浮べて、いった。 「平社員の君だから、できるんだ」 「おっしゃることが、よくわかりませんが?」 「会社には、就業規則というのがある。知っているね?」 「あるのは、知っています」 「読んだことは」 「申しわけないんですが、ありません」 「じゃあ、読んで見給え」  中沢は、上衣《うわぎ》のポケットから、小さなパンフレットを取り出して、吉田の前に、投げてよこした。  表紙には、「——会社就業規則」の文字が並んでいた。 「全部読む必要はない」  と、中沢が、いった。 「第十二条だけでいい。三頁だ」  いわれるままに、吉田は、三頁をひらいてみた。 〈第十二条 左の各号の一に該当する場合は懲戒解雇に処す〉  その一行の文字が、吉田の眼に飛び込んできた。 「そこに、会社が社員を、くびにできる場合が、いくつか、あげてある」  と、中沢は、いった。 「ある男を、そのどれかに該当する状態にするのが、君の仕事だ。例えば、その第四項には、こう書いてある筈《はず》だ。会社の物品を、無断で持ち出した時には、くびにすることができるとね。君が、その男のポケットに、会社の品物を放り込んでおく、出口で守衛が、それを発見する。そうなれば、その男は、くびだ」 「————」 「簡単なことだ。そうは思わないかね?」 「————」 「勿論、君の今後については、悪いようにはしない。秋には人事異動がある。その時には、君を係長の椅子《いす》につけてあげることも、私にはできる」 「それで——」  吉田は、かわいた声でいった。 「その相手というのは、一体、誰なんですか?」 「君の知ってる男だ。君と同じ会計課にいる、進藤という若い男だ」      五  吉田は、勿論《もちろん》、その男を知っていた。大学を出たばかりの青年だった。  なかなか頭もきれるし、背の高い好男子でもあった。将来を約束されている男だ。吉田とは、何もかも反対の男だった。 「進藤——」  その名前を、吉田は、複雑な思いで、呟《つぶや》いた。ねたましい気持で、彼を見たことがなかったとは、いい切れなかったからである。 「何故、進藤を、くびにしたいと、思われるんですか?」 「そんなことは、君が知らなくていいことだ」  中沢は、冷たい口調で、いった。 「君は、ただ、私に頼まれたことをすれば、それでいい。どうするね? この仕事を引き受けるかね?」 「もし、私が、お断りしたら?」 「かまわんさ。それは、君の自由だ。だが、うちの会社にいる限り、一生、平社員でいることを覚悟することだね」 「————」  吉田は、だまって、自分の手元を見つめた。確かに、中沢のいう通りだった。この男には、それだけの力がある。おれは一生、平社員でいなければ、ならないだろう。あの退屈な、息のつまりそうな仕事を、続けていかなければならないのだ。  そんなことは、真平だった。陽のあたる場所に出たいのだ。 「何時《いつ》までに、やれば、いいんでしょうか?」  吉田は、のどにからんだような声で、中沢にきいた。 「五日以内だ」  と、中沢は、いった。 「それまでに、あの男を、くびにしたいのだ」 「————」 「平社員で終るか、役付の椅子に座るか、君の決心次第なんだよ。簡単な仕事を一つすることで、君は、秋には係長の椅子につけるのだ。考えることはないと思うがね」 「————」 「よく考えてみることだ」  中沢は、じっと、吉田を見ながら、いった。 「その就業規則は、持って帰って、よく読んでおき給え」      六  吉田は、ぼんやりした足取りで、料亭を出た。  願っていたチャンスが、向うから、転がりこんできたと、いえないこともない。このチャンスを逃がさずに、上手《うま》く立ち廻《まわ》れば、係長にもなれるだろうし、課長の椅子《いす》につくことも、不可能ではないかも知れない。  だが、そのためには、一人の人間を、卑劣な罠《わな》に、落さなければならないのだ。  吉田は、ネオンの町を歩きながら、何年か前に見た映画の一つのシーンを思い出していた。  さして評判になった映画ではなかった。吉田も、題名をおぼえていないくらいだから、それほど、感動を受けはしなかったのだろう。出演した俳優の名も忘れてしまった。  だが一つのシーンだけは、はっきりと、おぼえていた。  冬の寒い日に、公園で、押しくらまんじゅうをしている子供たちのシーンだった。会社をくびになった老人が、それを見て、一つのことを考えるシーンだった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈人生は、この押しくらまんじゅうみたいなものだ。誰かを押し出さなければ、自分が押し出されてしまうのだ〉 [#ここで字下げ終わり]  映画の中で、老人は、そう考える。確かに、その通りなのだと、吉田も思う。他人を傷つけることを恐れていたら、自分が敗残者になってしまう世の中なのだ。  そして、敗残者には、誰もかまってはくれない。  吉田は、進藤という男に、何の恨《うら》みもない。ねたましいと思ったことはあるが、その感情は、さほど強いものではなかった。その男に、罠をかけるのは、卑劣だと、自分でも思う。  だが、この世の中は、押しくらまんじゅうなのだ。誰かを、円の中から押し出さなければ、出世はできないのだ。世の中の仕組みが、そうなっているのなら、これに従うより仕方がないではないか。金にならない正義を守っていたところで、誰も、ほめてくれない。 (人事部長の中沢に、睨《にら》まれる理由をつくった進藤が、馬鹿なのだ)  吉田は、そう自分に、いい聞かせた。彼は、中沢の命令に従う気になっていた。      七  吉田は、翌日、いつもの通り出勤した。入口を入り、タイムカードを取り上げた時、背後から、 「お早ようございます」  と、声をかけられた。ふり向くと、進藤が、笑っていた。吉田は、何となく、どきっとした気持になった。 「どうかしましたか?」  と、進藤は、眼を大きくした。 「僕の顔に、何かついていますか?」 「いや」  吉田は、あわてて、いい、眼をそらして、がちゃんと、タイムカードを押した。  会計課の部屋には、まだ、二、三人の社員しか来ていなかった。吉田が、自分の席に腰を下すと、女子社員の橋本京子が、茶を入れてくれた。にきびが、二つ三つ、おでこに吹き出ている十八歳の娘で、すぐ、進藤の傍に行くと、大きな声で、しゃべり始めた。どうやら、彼女は進藤が好きらしい。  吉田は、橋本京子としゃべっている進藤の横顔を、眺めていた。  若いという言葉だけで、何もかも、いい表わされてしまいそうな感じだった。それは、未来にみちているということでもあった。 (この青年は、どうして、中沢に睨まれたのだろうか?)  吉田は、それを知りたくなって来た。中沢は、そんなことは知らなくていいと、いった。しかし、そういわれれば、余計に知りたくなるのが、人情というものである。 (中沢の気持を傷つけるようなことを、いったりしたのだろうか?)  しかし、そうは思えなかった。進藤という青年には、なかなか抜け目のないところがあるからである。組合には入っているが、役員をやってくれといわれたのも、断っている。そんな力がないからと、いってはいたが、本心は、会社側に睨まれるのがいやだからに、違いなかった。  上役に対しては、適当に、ゴマをすっている。そんな進藤が、どうして、中沢に睨まれたのだろうか。吉田は、いろいろと考えてみたが、わからなかった。  頭の回転の早い進藤が、この会社における中沢の力というものを、知らない筈《はず》がなかった。それなのに、どうして、中沢に睨まれるようなヘマをしたのだろうか。しかも、進藤自身は、自分が睨まれていることに、気がつかないらしい。  その日の仕事が終ったとき、吉田は、自分の方から、進藤を、近くのバーにさそった。罠をかけるには、相手のことを、よく知っておく必要があると、思ったからだ。  進藤は、別に、警戒する様子も見せずに、吉田についてきた。  吉田が、時々行く安っぽい店だった。吉田はビールを注文し、進藤も、それでいいと、いった。  進藤の酒は強かった。 「橋本京子は、君にほれてるようだね」  吉田は、アルコールが、いくらか廻ってから、相手の機嫌をとるような調子で、いった。 「あの娘は、だめです」  進藤は、ぶっきら棒に、いった。 「だめ——?」 「何の足しにもなりません」 「ほう」 「いかにも貧乏人の娘といった顔をしているじゃありませんか?」 「貧乏は、きらいかね?」 「好きな人間が、いますか?」  進藤は、白い歯を見せて、にやっと笑った。 「日本に、当分革命はありませんよ。ということは、これからも、金が物をいう時代が続くということでしょう。金持ちは嫌いだなんていう人間がいたら、それは、嘘《うそ》つきか、あほうですよ」 「成程《なるほど》ね」 「人生は、競争ですよ」 「それは、わかるがね」 「この世の中には、利用される人間と、利用する人間の二つしかありません。弱い人間と強い人間です。僕は、強い人間でありたいですね」 「————」  吉田は、だまって、進藤を見た。この男は、今、眼の前にいる人間が、同じことを考えていると、気づいているのだろうか。彼を利用して、係長の椅子《いす》につこうと考えていることを。 「場所を変えて、飲み直しませんか?」  暫《しばら》くして、進藤が、いった。 「一寸《ちよつと》、いい店を知ってるんですよ」  吉田もうなずいて、腰を上げた。進藤は、外に出ると、手を上げて、タクシーを止めた。  案内されたのは、銀座だった。タクシーから降りると、進藤は、高級な店といわれている、「N」というバーに入って行こうとするのだ。吉田は、あわてた。 「ここに入るのか?」  と、吉田は、進藤にいった。 「ここは、我々みたいな安サラリーマンの来る所じゃ、ないんじゃないのか?」 「そんなに、びくびくしないで下さいよ」  進藤は、にやにや笑い出した。 「安酒ばかり飲んでるようじゃ、出世しませんよ」 「しかし——」 「いいから、僕に委《まか》せて下さい」  進藤は、先に立って、ドアをあけた。吉田の足の下で、厚い絨毯《じゆうたん》が、やわらかな音を立てた。彼は、気おくれを感じ、自然に、まわりを気にする眼になっていた。  客は、どれも、相当の地位にありそうな人間ばかりだった。ホステスの方も、ファッションモデルのように美しく、そして、気取ってもいた。  二人がテーブルにつくと、和服姿の女が、近づいて来た。年齢は、三十歳くらいだろうか。とにかく、美人であった。彼女が、この店のマダムのようであった。 「いらっしゃい」  と、女は、進藤に向って、いった。口元に、はなやかな笑いが浮んでいた。 「何を召しあがる?」 「僕は、水割りがいいな」  進藤は、ひどく甘えた声を出した。吉田は、驚いた、彼の顔を見たくらいだった。 「吉田さんは、何にします?」 「僕も同じものでいい」 「じゃあ、水割り二つ」  進藤は、また、甘えた声で、いった。女は、進藤の頬《ほお》のあたりに、軽く指先をふれてから、立って行った。 (成程——)  と、吉田は思った。 「君は、女に好かれるように、出来ているんだな」 「ああいう女は、甘えれば、簡単ですよ」  進藤は、得意気に、いった。 「男に可愛《かわい》がられてばかりいるから、逆に、可愛がる対象に、飢えているというわけです」 「橋本京子は、だめだが、ここのマダムは、利用価値があるということかね?」 「この店に来るのは、或る程度、地位のある人間ばかりです」  進藤は、まわりを見廻《みまわ》しながら、吉田に、いった。 「ここに来ていれば、そうした人達と、親しくなれるチャンスがあります。それに、美味《うま》い酒も、飲めます。そうじゃありませんか?」 「そりゃあ、そうだが——」 「うちの会社の得意先に、S商事があるのを、ご存じでしょう?」 「知ってる」  と、吉田は、いった。 「一番大きな得意先だよ」 「そのS商事の重役連中も、時々、ここに現われるんですよ」 「ほう」 「僕は、マダムに頼んで、その中《うち》に、紹介して貰《もら》うつもりです」 「S商事へ行くつもりなのかね?」 「いや。僕が、S商事の重役にコネがあるとなれば、うちの会社では、僕を重用せざるを得なくなる。僕の狙《ねら》いは、それです」  進藤は、笑って見せた。自信に満ちた笑い方だった。      八  その夜の進藤は、一人で、得意気に、しゃべり続けた。自分が、この人世で、勝利者になることを確信しているようであった。  何故、自分に向って、あけすけな話し方をするのだろうかと、吉田は、途中で、何度も考えてみた。進藤は、自分を傍観しているのだろうか。気を許しているから、べらべらとしゃべって見たのだろうか。最初は、そう思った。ふと、相手を罠《わな》にかけることを、ためらう気持が、生れたくらいだった。自分を信頼している人間を、罠に落すのは、やはり辛いことだからである。  しかし、吉田は、自分の考えが間違っていることに、すぐ気づいた。進藤は、吉田を信用しているから、あけすけな話し方をしたのではなかったのだ。その反対だった。 (この男は、おれを軽蔑《けいべつ》している)  吉田は、相手の眼の色から、そう判断した。軽蔑しているからこそ、安心して、しゃべれるのだ。どう転んでも、自分のライバルにはなりっこない人間とふんだからこそ、べらべらとしゃべったに違いない。  利口な人間は、自慢話のできる馬鹿な人間を、欲しがるものだという。相手が同じように利口では、安心して自慢話ができないからだ。  今夜の進藤は、それと同じ気持で、吉田を銀座に連れて来たのだ。酒をおごるためではなく、自慢話の聞き手にするために。  十一時すぎに、吉田は、有楽町で進藤と別れた。一人になった時、彼の気持は決っていた。 (進藤は、おれを、馬鹿な人間だと決めてしまっている。その馬鹿な人間が、どんなに恐しいか、見せてやる)  だが、何時、どんな方法で、彼を罠に落すか、それが問題だった。      九  アパートに帰ったのは、十二時すぎだった。酔った身体《からだ》を持て余すようにして、階段をのぼろうとした時、管理人室の電話が鳴った。  管理人の姿は見えなかった。吉田は、そのまま、階段をのぼろうとしたが、電話が鳴り続けているので、仕方なしに、引き返して受話器を取った。 「もしもし」 「平和荘アパートだね?」 「そうです」 「吉田という男を、呼んでくれないかね?」 「吉田は私です」 「中沢だ」  と、電話の声が、いった。相変らず、傲慢《ごうまん》な感じの声であった。 「何時やるつもりかね?」 「まだ一日しかたっていませんが——」 「もう二日目になっている」 「————」  吉田は、酔った眼を、腕時計に向けた。確かに、十二時をすぎていた。二日目になっていた。 「私は、急いでいるのだ」  中沢は、腹立たしげにいった。 「それなのに、君は、あの男と一緒に、銀座を呑《の》み歩いている。一体、どういう気なんだ?」 「————」 「————」  吉田は、酔いがさめていくのを感じた。何故、中沢は、知っているのだろうか? 「明日中に、やり給え」  中沢は、命令口調で、いった。 「さもなければ、君との契約は反古《ほご》にする。もたもたしているのは、私は、好かないのだ」  吉田が、何か答えようとした時、相手は、荒い音を立てて、電話を切ってしまった。ひどく腹を立てているらしい。 (くそ、面白くもない)  吉田は、口の中で、ぶつぶつ文句をいいながら、自分の部屋に入った。蒲団《ふとん》の上に、ごろりと横になった時、吉田は、「ひょっとすると——」と、あることに気づいた。  何故、銀座のバーで、進藤と呑んだことを知っているのか。その疑問の答が、見つかったような気がしたのである。  進藤が、中沢に話したとは、勿論《もちろん》考えられない。とすれば、中沢自身が、銀座で、二人が呑んでいるのを見たのだ。少くとも、あの店に入るのを見たに違いない。 (ひょっとすると——)  と、吉田は思う。 (あの店のマダムは、中沢の女なのではあるまいか?)  中沢の女好きは有名だ。銀座で、女にバーをやらせていると、聞いたことがあるような気もする。あの女が、そうなのではないのか。  中沢は、自分の女が、社員の一人に、ほれてしまったのを知った。うぬぼれの強い中沢には、我慢がならないことだったに違いない。だから、陰険な方法で、復讐《ふくしゆう》することを考えたに違いない。今夜も、女に会いに行って、吉田と進藤が来ているのを見た。しかも、進藤は、女の色男気取りだった。中沢は、頭に来たのだろう。だから、わざわざ電話をかけて来て、明日中に、やれと、吉田をせき立てたのだ。 (中沢も詰《つま》らない男だが、進藤も馬鹿な男だ)  吉田は、得意然としていた進藤が、ひどく滑稽《こつけい》な男に見えてきた。利用価値のある女だから、ものにしたのだと、自慢げにしゃべっていたが、その女が、人事部長の女であることに気づかなかったのは、滑稽というより仕方がない。  進藤は、会計課の橋本京子とでも、いちゃついていれば、安全だったのだ。利口ぶったのが、結局、命とりというわけである。 (馬鹿な男だ——)  吉田は、起き上がると、中沢から渡された就業規則を取り出した。      十  第十二条の項目は、次の十一だった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] (1)正当な理由なく無断欠勤六日以上に及んだとき (2)重要な経歴をいつわり、その他詐術を用いて雇用されたとき (3)故意又は重大な過失により、業務上重要な秘密を社外にもらし、又は、もらそうとしたとき (4)事業所内の物品を無断で持出し、又は、持出そうとしたとき (5)他人の物を窃取し、又は、窃取しようとしたとき (6)業務命令に不当に反抗したとき (7)喧嘩《けんか》口論し、職場の秩序を乱したとき (8)他人に暴行脅迫を加えたとき (9)業務に関し、不正不当の金品を受けとったとき (10)会社の承認なく、他に就職し又は、自己の業務を営むに至ったとき (11)刑事上の罰により、会社の名誉信用を失ったとき [#ここで字下げ終わり]  この中の一つに該当すると、会社は、容赦なく、社員をくびにできるというわけである。そして、吉田の役目は、進藤を、この項目のどれかに該当させることだ。  吉田は、何度か読み返しているうちに、中沢の怒りの深さが、わかったような気がした。彼は、やたらにくびにできないから、君に頼むのだといった。しかし、今になって考えてみると、それが、中沢の本心とは、思えなくなってきた。  中沢は、ただ単に、進藤をやめさせるだけでは、腹の虫がおさまらないのだ。だから、罠《わな》にかけようというのだ。この十二条に引っかかれば、懲戒免職ということになる。依願免職か、懲戒免職かは、サラリーマンにとって、大きな違いだ。退職金を貰《もら》えるか、貰えないかというそれだけの違いではない。懲戒免職ということになれば、サラリーマンとして、落第の印《しるし》をつけられたことになるのだ。新しい仕事につくことが、ひどく難しくなる。  中沢は、それを狙《ねら》っているに違いなかった。彼は、進藤を、サラリーマンとして、働けなくしてしまう気なのだ。そして、吉田は、中沢の命令で、彼の復讐《ふくしゆう》を、手伝おうとしている。中沢を恐しい男だと思う。だが、不思議に、進藤に対する同情の気持は、わかなかった。  進藤もいった筈《はず》である。この世の中には、利用する人間と、利用される人間しかいないのだ。敗北する人間は、彼自身が、間抜けなのだ。      十一  翌日、吉田は、覚悟をして、出勤した。進藤も、幾らか眠そうな顔をして、出社して来た。 「昨日は、どうも」  と、吉田が声をかけると、進藤は、にやっと笑ってから、 「今朝は、女のアパートから、出勤して来たんです」  と、声をひそめていった。照れたような顔をして見せたが、内心は、得意満面であることが、はっきりとわかった。この男は、銀座のバーのマダムに愛されていることが、得意で仕方がないのだ。 「中年の女は、しつこくて、参りますよ」 「それは、ごちそうさま」 「いやあ、からかわんで下さい」  進藤は、頭に手をやって見せる。そのポーズも、吉田には、しゃらくさかった。同時に、何も知らずにいる進藤が、馬鹿に見えてならなかった。 「ギリシャの天文学者の話を、知っているかね?」  吉田が、いった。進藤は、はぐらかされたような眼になって、 「何のことですか、それは——」  と、吉田を見た。もっと、情事の自慢話をしたかったのだろう。 「空の星ばかり見つめていたんで、眼の前にある大きな穴に気づかずに、落っこちてしまった、馬鹿な天文学者の話だよ」 「その話なら知っていますが、僕と、何か関係があるんですか?」  進藤が、眉《まゆ》をしかめて、吉田を見た。吉田は、 「いや、別に——」  と、いった。 「何の気なしに、思い出したんだ。理由は別にないんだ」 「その天文学者みたいな、浮世ばなれした人間は、今の時代には、いませんよ」 「まあ、そうだろうね」 「それに、そんな馬鹿な人間は、今の世の中じゃあ、すぐ落伍者《らくごしや》の仲間に入ってしまいます。絶対に、出世できない人間ですよ。そう思いませんか?」 「確かに、そうだね」  吉田は、奇妙な気持で、うなずいた。この男は、自分が、その馬鹿な天文学者であることに気づいていない。  昼休みに、吉田は、会社を出ると、外の公衆電話から、人事部長室に電話をかけた。中沢は、部屋にいた。 「吉田です」 「うむ」 「今日、やります」 「うむ」 「この間、部長がいわれた方法を、とりたいと思います」 「うむ」 「上手《うま》くいくと思います。ただし、守衛が協力してくれないとだめなのです」 「守衛には、私の方から、命令しておく」 「それなら安心です。進藤は、必ず、引っかかります」 「————」 「上手くいった時には、約束は、実行して貰えますね? 私を、秋の人事異動の時に、係長の椅子《いす》につけてくれるという約束は、守って貰えますね?」 「それは、あの男が、会社から消えてからのことだ」 「わかりました」  吉田は、うなずくより仕方がなかった。電話は、中沢の方から、先に切った。      十二  吉田の会社では、時計と貴金属を扱っている。来客用の応接室には、その見本が、ガラスのケースの中に入れて、かざってある。勿論《もちろん》、ダイヤの方は、本物と同じ形のイミテーションである。せいぜい、五、六千円のものだが、それでも、盗めば、罪になる。  吉田は、トイレに立ったふりをして、応接室に入った。部屋には、誰もいなかった。ケースから、イミテーションの宝石の一つを盗み出すと、ポケットに投げ込んだ。さすがに、どうきが速くなっていた。会計課に戻ってから、気を落着けるために、煙草を取り出した。  進藤は、何も知らずに、せっせと仕事をしている。暑いので、脱いだ上衣を、椅子の背中に掛けていた。  三時に十五分の休みがある。ベルが鳴り、部屋の中が、ざわついた時、吉田は、立ち上がると、進藤に近づいた。何気ない様子で、イミテーションのダイヤを、進藤の上衣のポケットに、落した。  自分の席に戻ったとき、吉田は、わきの下に、汗をかいているのを感じた。口が、からからに渇いていた。だが、ともかく、罠《わな》を仕かけることには成功したのだ。あとは、守衛に委《まか》せればいい。  進藤は、橋本京子と、おしゃべりをしている。気づいていない。自分の足下に、大きな穴があけられたことに気づいていない。  五時になった。吉田は、わざと、ゆっくり帰り仕度をした。  進藤の姿が消えたのを見て、吉田も、会計課の部屋を出た。  玄関の近くまで来た時、進藤が、守衛につかまっているのが見えた。 「どうして、急に、身体検査なんか、するんだ?」  進藤は、怒ったような声で、守衛にいっていた。 「上からの命令なんですよ。たまには、やれってね」 「調べたって、何も出て来やしないよ。第一、会社の中に、盗むようなものは、ないじゃないか」 「でも、命令ですから」 「まあ、調べたけりゃ、調べ給え。時間が、もったいないがね」 「こっちもやりたくありませんが、命令なんでね」  中年の守衛は、ぼそぼそした声でいいながら、進藤の上衣のポケットを調べ始めた。その手が急に止まった。見ていた吉田も、息を止めた。 「これは、どうしたんですか?」  守衛の眼が、残忍な光にあふれた。彼の、ごつごつした指先には、あのイミテーションのダイヤが、光っている。  進藤の顔が、青くなった。 「私は、知らん。そんなものは——」 「しかし、貴方のポケットに入っていたんですよ。たしか、これは、応接室のガラスケースの中に入っていたものですね」 「それが、どうしたというんだ? 私は、盗んだりはしない。第一、そんなイミテーションを盗んだところで、仕方がないじゃないか」 「イミテーションでも、五、六千円にはなりますからね。とにかく、上の人に来て貰《もら》わなきゃなりません」 「しかし、君——」  進藤は、真青な顔で、呼び止めたが、守衛は、かまわずに、電話のダイヤルを廻《まわ》した。  吉田は、建物のかげから、罠にかかった獲物でも見るような眼で、進藤を見ていた。まさに、罠にかかったけものだった。進藤は、どうしてよいかわからずに、青ざめた顔で、うろうろしていた。もう、あの男は、サラリーマンとしては、終りなのだ。  やがて、電話を受けた中沢が、ゆっくりした足取りで近づいてくるのが、見えた。      十三  次の日から、進藤は、会社へ来なくなった。二日後に、会社の廊下に、次のような掲示が出た。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈懲戒免職 会計課 進藤哲也   右の者は、会社の物品を窃取しようとしたので、就業規則第十二条によって、懲戒免職に付した。 [#地付き]人事部長 中沢清一〉 [#ここで字下げ終わり]  掲示板の前では、驚いた表情の職員たちが、いろいろな噂《うわさ》を、ささやきあっていた。吉田だけは、だまって、掲示板の文字を眺めた。  秋に入って、中沢がいったように、大幅な人事異動があった。吉田は、係長の椅子《いす》についた。事情を知らない同僚たちは、吉田が、係長の椅子についたことを、何となく、奇異な眼で見ていたが、それも、時間がたつにつれて、なくなっていった。吉田は、満足だった。相変らず、ソロバンからは、はなれられなかったが、部下を三名持つことが出来たし、給料も多くなった。そうなると、おかしなもので、彼のことを、問題にしなかった橋本京子までが、色っぽい眼で、吉田を見るように、なった。 「やっぱり、三十近い男の人の方が、信頼できそうな気がするわ」  橋本京子は、そんな、思わせぶりなことを、吉田に向って、いうことがあった。  係長になる前だったら、彼女の言葉は、吉田にとって、甘美にひびいたに違いなかった。結婚してもよいと思ったかも知れない。だが、係長の椅子についてみると、さして美人でもない橋本京子の相手をするのが、馬鹿らしくなった。 (ひょっとすると、おれは、課長にも、なれるかも知れないのだ)  吉田は、次第に、そう考えるようになっていった。自分は、この会社では、権力者である人事部長と、個人的なつながりを持っているのだ。課長になるのも、夢ではない。おれは、出世するのだ。それなら、結婚の相手にも、それにふさわしい女を選ぶ必要がある。  橋本京子はだめだ。この女には、美しさも教養もない。自分にふさわしい女は、もっと美しく、教養も豊かでなければならないのだ。  一年後に、吉田は、主任になった。彼の自信は、ますます強いものになっていった。この分でいけば、確実に、課長になれる。  吉田は、自分が、進藤哲也という青年を、罠にかけることで、主任になったということを、いつの間にか忘れてしまっていた。危険だったが、その危険に、吉田は、気づいていなかった。      十四  主任になった年の秋である。主任の椅子にもなれた吉田は、その日も、終業のベルを聞くと、ゆっくりと椅子から立ち上った。会計課長は、もう老人だった。間もなく、定年退職することになる。上手くいけば、その後釜《あとがま》に座れるかも知れない。その期待が、吉田の心を、うきうきさせていた。  コートを羽織り、煙草に火をつけてから、部屋を出た。歩き方まで、何となく、ゆったりしたものになっていた。  玄関を出ようとした時、 「一寸《ちよつと》、待って下さい」  と、呼び止められた。ふり向くと、守衛が、固い眼で、吉田を見つめていた。 「一寸、持物を調べさせて頂きたいんですが?」 「何故、今日に限って?」 「上からの命令なんです。たまには、守衛の仕事をしろという——」 「上からの——?」  ふと、吉田の背筋を、冷たいものが走った。顔から、血の気が引いていくのが、自分でもわかった。 「すぐ、すませますよ」  守衛の手が、吉田の身体にさわる。ごつごつした指だ。その指が、吉田のコートのポケットの中で、止まった。 「これは、どうしたんです?」  守衛のとがった声が、吉田の耳を打った。守衛の太い指の間で、イミテーションのダイヤが光っていた。 「————」  吉田は、ぼんやりと、それを見た。 「これは、上の人に来て貰うより仕方がありませんな」  守衛がいい、電話にしがみついた。あの時と同じだった。まるっきり同じだった。あの時、進藤は、何故自分が、罠《わな》にかけられたか、わからなかったに違いない。同じように、今の吉田にも、何故、自分が、こんな目にあうのかわからなかった。  いい気になりすぎたのが、中沢の怒りを買ったのだろうか。それとも、吉田が、結婚の相手として、社長秘書に眼をつけたのが、気に入らなかったのか。ひょっとすると、女子大出だというあの社長秘書は、中沢の新しい女だったのかも知れない。  だが、そんなことは、もう、どうでもよいことだった。吉田は、見事に罠にかけられたのだ。もう逃がれることは出来ない。何故、こうなることがわからなかったのか。そのことが、吉田には、腹が立った。進藤を罠にかけたとき、いつか自分も、同じ目にあうことを、予見できたはずなのだ。  暫《しばら》くして、人事部長の中沢が、ゆっくり近づいてくるのが見えた。 [#改ページ]    うらなり出世譚      一  小さい時から、あわて者で、損ばかりしている——というのは、夏目漱石の小説に出てくる「坊ちゃん」のことだが、田賀根晋吉《たがねしんきち》は、子供のときから気が弱くて、損ばかりしていた。  生れたときに、標準の三分の二くらいの体重しかなく、医者は、無事に育つかどうか判りませんよと、母親のキクを脅した。  三歳のときには、風邪から肺炎になり、危く命を落とすところであった。  五歳のときには、原因不明の熱病にかかり、治っても、馬鹿になるかも知れないと、医者が、匙《さじ》を投げかけた。  十歳のときには——いや、もう止めておこう。こんなことを書いていったら、際限がないのである。身体《からだ》が弱い上に、気も弱かった。子供の頃につけられた綽名《あだな》が、「青びょうたん」で、大人になってからは、「うらなり」になった。どっちにしても、余り名誉な綽名ではない。  田賀根晋吉は、大正八年九月三日、日暮里《につぽり》に生れた。雨の降る、じめじめした日であった。ひょっとすると、日が悪かったのかも知れない。  家は、小さな菓子屋であった。父親の名前は、田賀根|徳太郎《とくたろう》。古い職人気質の人間だった。それに、気性の荒い人間の多い下町である。気の弱い少年にとっては、あまり楽しい時代でも、生活でもなかった。  年号が昭和に変った年の四月、晋吉は、日暮里第一小学校に入校した。  小学生の頃、同級生から、泣かされた記憶だけが、やたらに多い。同級生だけではない。五年のときには、近所の三年生に殴られて、めそめそ泣いたことさえある。さすがに恥ずかしくて、ないしょにしていたが、いつの間にか、みんなに知れ渡ってしまい、「いくじなし」という評価は、決定的なものになってしまった。  子供にとって、「いくじなし」といわれるくらい、辛い、情けないことはない。晋吉にとって、子供の頃の記憶は、屈辱の歴史だった。  泣かされたことはあっても、相手を泣かした記憶がない。 「向うさんから苦情を申し込まれることがなくて、いいや」  と、徳太郎は、苦笑したが、職人気質の父親が、晋吉のことを、持て余していたことは確かである。  学校で、体操の時間が、一番苦手であった。腕立てふせは、一回がやっとであったし、鉄棒には、ぶら下ったまま、どうすることもできなかった。  運動会では、常に、ビリであった。徳太郎は、「張り合いがない」といって、一度も、運動会に、顔を見せなかった。  雷が鳴り出すと、押入れにもぐって、震え出すし、お化けの話を聞いた日は、ひとりで便所へ行けなかった。これは、大人になってからも、たいして変らない。情けない話である。 「こんなことじゃあ、先が思いやられるよ」  と、徳太郎は、晋吉の顔を見る度にいった。  悪いことに、晋吉には、出来のいい兄貴がいた。愚弟には賢兄がいるものと、どの家庭でも相場が決っているものらしい。兄の徳一《とくいち》は、四つ年上で、晋吉とは逆に、頭も良かったし、身体も頑健であった。気性も強い。  身に憶えのある方もいるだろうが、何が情けないといって、身内の誰かを引き合いにして、説教されることぐらい情けないことはない。なにしろ、お手本が、年がら年中、傍《そば》にいて、そいつの顔を見ていなければ、ならないからである。  徳一は、中等学校に進んだ。下町の職人の息子で、中等学校へ進むというのは、珍しい時代であった。それだけ、徳太郎やキクが、徳一に期待をかけていたのが、判るのである。  晋吉は、昭和八年、高等小学校を卒業した。勿論《もちろん》、兄のように、中等学校へ進ませてはくれなかった。 「お前のような、いくじのない人間が、学問を身につけても、邪魔になるだけだ。それより、何とか、職を身につけた方がいい、そうしないと、ひとりじゃ、生きて行けんようになるぞ」  と、父親の徳太郎が、いった。  晋吉自身も、上の学校へ行きたいという気持は、なかった。勉強は苦手だし、同級生にいじめられるのも、もう嫌である。  高等小学校を卒業した年に、晋吉は、親戚《しんせき》の菓子職人の手にあずけられた。数え年で十六歳。満で十四歳と五か月の時である。      二 「日の出屋」という、日本橋にある菓子屋だった。  母親のキクは、晋吉を、あずけることに、反対だった。 「気の弱いあの子に、つとまる筈《はず》がありませんよ」  と、キクは、いったが、徳太郎は、他人の飯を喰えば、少しは、根性がつくだろうと、考えたらしい。しかし、キクの不安の方が、当っていた。  一か月もしないうちに、晋吉は、菓子職人の叔父につれられて、家に戻ってきた。 「こんな不器用な人間は、いねえよ」  と、叔父は、徳太郎に、いった。 「飯を炊《た》かせりゃあ、焦《こ》がしちまうし、雑巾《ぞうきん》がけさせりゃあ、板の間が、びしゃびしゃだ。弄《あめ》を作らせりゃあ、何度いっても、砂糖の入れ具合を間違える。そりゃあ、これから修業していけば、少しは、良くなるかも知れねえが、肝心《かんじん》の根性がねえ。この子には、何くそって根性が、丸っきりねえんだ。これじゃあ、どうしようもねえよ」  徳太郎は、情けなさそうな顔で、だまって、聞いていたが、叔父が帰ると、 「情けねえよ」  と、ぽつんと、いった。  晋吉は、そんな父親の顔を、恐しいものでも見るように、盗み見ていた。自分でも、自分が情けなかった。  徳太郎は、あきらめずに、知人に頼んでは、晋吉を、奉公に出した。が、どこでも、二月と続かなかった。断わられる時の口上は、どこでも同じであった。 「こんな不器用な人間は見たことないね。それに、根性がねえ。これじゃあ、いい職人になれる道理がねえ」  そういうのである。  そうこうしているうちに、晋吉は、胸をやられてしまった。  晋吉は入院した。昭和十年の夏のことである。蒼《あお》い顔で、ベッドに寝ている晋吉の姿は、ますます「うらなり」めいてきた。  まだ、結核の特効薬のなかった時代である。静養だけが、薬であった。晋吉は、丸二年間、古ぼけた病院で、過ごした。昭和十年から十二年までである。  晋吉が入院している間、世の中は、急激に動いていた。  昭和十年十月には、イタリアが、エチオピアと戦争を始めた。  昭和十一年二月には、血生臭い二・二六事件が発生した。  昭和十二年七月六日。晋吉は、退院して、家に帰った。晋吉は、十七歳になっていた。  そして、翌日、日本と中国の間で、戦争が始った。  晋吉には、日本が、どうなって行くのか、丸っきり見当がつかなかった。ただ、判っていたのは、自分のような、身体の弱い、気の弱い人間には、益々住みにくい世の中になって行きそうだということだけだった。      三  晋吉は、家で、ぶらぶらしていた。  徳太郎は、諦《あきら》めたとみえて、他人の飯を喰《く》ってこいとは、いわなかった。  二十歳の時に、徴兵検査を受けた。丙種で不合格であった。  いかめしい軍服姿の係官は、晋吉に向って、 「貴様にとっては、誠に残念であろうが、御国に御奉公する道は、他にもあるのだから、がっかりせんように」  と、いった。晋吉は、「はい」と、いったが、別に残念とも思わなかった。むしろ、兵隊にとられないと判って、ほっとしたくらいだった。  軍隊生活が、どんなに厳しく辛いものであるかは、晋吉も、いろいろと聞かされていた。あんなところへ入れられたら、忽《たちま》ち、死んでしまうと、晋吉は、恐怖に襲われていたのである。  丙種不合格といわれたとき、晋吉は、これで助かったと、思ったくらいである。  家に帰って、検査の報告をすると、徳太郎は、 「情けねえ」  と、いい、母親のキクは、黙って、眼をしばたいた。  晋吉の情けない生活に比べて、兄の徳一は、快適な、生活を続けていた。  徳一は、中等学校を卒業すると、光学機械を作っている会社で働くようになった。背広を着た月給取りである。 「奴《やつ》は、ハイカラさんの仲間入りをした」  と、徳太郎は、近所の人達に、触れて歩いた。  徳一は、言葉つきまで、変ってきたようだった。晋吉は、兄と自分の間に、大きな差が出来てしまったのを感じた。前から頭の上らない兄だったが、背広姿の兄を見ると、ますます、頭が上らなくなってしまった。  徳一は、二十六歳の時、結婚した。花嫁は、同じ会社の部長の娘だった。 「たいした出世だ」  と、徳太郎は、大喜びだった。 「あいつは、見込まれたんだ。たいしたもんだ」  それに比べて、むだめしばかり喰っているお前は——というように、徳太郎に見られると、晋吉は、穴があったら、入りたい恥ずかしさを感じないわけには、いかなかった。  昭和十五年の秋に、徳一の結婚式が行われた。六月には、フランスがドイツに敗け、八月には、国民精神総動員本部という厳《いか》めしい所から、冠婚葬祭は、なるべく質素にやるようにという指示が出ていたが、裏には裏があるらしく、金のかかった贅沢《ぜいたく》な結婚式であった。  金を出したのは、勿論《もちろん》、花嫁の家の方である。  会社が、軍用双眼鏡や、探照灯などを作っていたせいで、式には、軍人の顔も見えた。  晋吉も、兄から貰《もら》った背広を着て出席した。身体《からだ》の頑健な兄の背広なので、晋吉には、だぶだぶであった。そんな恰好《かつこう》を見て、式場の受付けをやっていた男が、にやにや笑った。  父と母は、ただ感激していた。立派な家につながりが出来たと、喜んでいるのである。  晋吉は、ただ、花嫁の美しさに、感動した。  働きのない晋吉に、進んで接触してくるような女はいない。彼が知っている女といえば、たまに、金のある時に、洲崎《すざき》で遊んだ女だけである。それも、たった一度しか遊んでいない。  兄と一緒に並んでいる女性を見たとき、晋吉は、「世の中に、こんな美しい女がいるのか」と、驚いた。  兄が羨《うらや》ましかった。嫉妬《しつと》した。 (俺《おれ》も、あんな女と、結婚したい)  と、思ったが、出来そうもないとも思った。 (このままじゃあ、どんなオカチメンコも、嫁に来てくれやしねえ)  とも、思う。  出世したい。出世して、あんな綺麗《きれい》な女を嫁に貰いたいと、晋吉は、思った。本気で、出世したいと、考えたのは、この時が最初だった。 (だが、俺みたいな、うらなりに、出世できるだろうか?)  自信はない。全然、なかった。  結婚式の帰り、浅草に出た晋吉は、八卦見《はつけみ》に、占って貰う気になった。  あまり、当たりそうもない、ひねこびた老人の易者だった。 「俺が出世できるかどうか、見て貰いたいんだ」  と、晋吉は、いった。  易者は、狐みたいに細い眼で、晋吉の顔を、ジロジロ見廻《みまわ》した。 「どうかねえ」 「何の才があるかな?」 「サイ——?」 「何か特技を持っているかということだ」 「そんなものは、何も持ってない」 「金は? 資産にめぐまれておるかな?」 「金なんか、ありゃあしない」 「気概は?」 「キガイ?」 「千万人といえども、吾《われ》行かんの気概だ。心意気のことだよ」 「俺は、誰からも、いくじなしといわれてる。自分でも、そう思ってる」 「才なく金なく、気概なく、それでも出世したいか。難しい望みだな」 「駄目かね?」 「いちがいに、駄目とはいえん。人には、それぞれ運命というものがある。立派な才能があり、金にもめぐまれ、強い気性の持主であっても、運命には逆らえん。逆に、凡人でも、時には、位人臣を極めることがある。これが運命というものだ」 「じゃあ、俺の運命を、占ってみてくれ」 「よろしい。だが高いぞ」 「当たるんなら高くたって構わない」 「当たる」易者は、細い眼で、晋吉を見た。 「お前さんはいい時に来た。今なら当たる」 「当たる時と、当たらない時があるのかね?」 「当たり前だ。心の澄んでいる時に占えば必ず当たるが、雑念のある時には、どんな名人でも失敗する。これを占機というのだ」 「それじゃあ、今は、いい時だってことだね」 「うむ。自分でいうのも可笑《おか》しいが、気が澄んでいる。お前さんは果報者だ」 「へえ」 「それでは、占ってあげよう」  易者は、勿体《もつたい》ぶった様子で、筮竹《ぜいちく》を、手に取った。  晋吉は、だまって、易者の手もとを眺めていた。易者は、筮竹を動かしてから、今度は算木《さんぎ》を卓に並べて、暫《しばら》くの間、じっと、眺めていた。 「どうですか?」 「お前さんの運は強くはない。人間として欠点がありすぎるようだね」 「知ってるよ」  晋吉は、うそ寒い顔で、いった。 「それでも、お前さんは、出世したいと思ってる?」 「ああ。出来るんならね」 「卦は、天雷|无妄《むぼう》と出ている。成り行きに委《まか》せれば、いつかは、道が開けるということだ。いいかね。お前さんには、力がない。欠点だらけの人間だ。それが、下手に盲進すれば、忽ち破滅してしまう。どんな苦しいことがあっても、じっと我慢して、成り行きのままに生きて行くことだ。そうすれば、お前さんの欠点が、逆に、お前さんを助けることになる」 「俺の欠点が、助けになるって、一体、何のことだね?」 「その時になれば判る」 「その時って、いつのことだね?」 「そこまでは判らん」  易者は、怖い顔で、いった。 「その時になれば、合点がいくことだ。だが、そう遠くはない」 「俺は出世できるのかね?」 「その時の、お前さんの考え方次第だ。その時に、お前さんが悟ることが出来れば、出世できるだろう」 「悟れなかったら?」 「一生、無駄飯喰らいで終る」  易者は、素気なくいって、「見料」と汚い手を差し出した。      四  晋吉は、欺《だま》されたような気がした。  何やら、出世できるようなことをいったが、それが、いつのことか、はっきり判らない。それに、欠点が助けになるというのも、よく判らなかった。 (そんなことが、あるだろうか?)  ある筈《はず》がないと、思うのだ。今日まで、晋吉は、自分の不器用さや、気の弱さや、身体の弱さのせいで、損ばかりしてきた。不器用で、得をしたことなど、一度もない。気が弱くて、得をしたこともないし、身体が弱くて得をしたこともない。これからだって、同じことだと、晋吉は、思った。 (あの易者め。いい加減なことばかりいいやがる)  晋吉は腹が立ってきた。勿体ぶった顔で、「いい時に来た。お前さんは果報者だ」などと、いわれただけに、余計に、腹が立ってくるのである。  時代も、易者の予言とは、反対の方向に、動いて行くようだった。  兄の徳一が、家庭を持った翌年、昭和十六年の末に、太平洋戦争が始った。  景気のよいニュースが、毎日のように、新聞に載った。子供たちは、みんながみんな、「強い兵隊さん」になりたがる時代だった。  強い人間が、もてはやされた。晋吉にとっては、ますます肩身がせまい世の中になってきた。  肩身がせまいだけではない。家で、何もせずに、ぶらぶらしていると、怪しまれて、警察に、引っぱられる時代だった。  父親の徳太郎は、晋吉を、菓子職人ということにして、自分の店で働かせていた。が、とうてい、一人前の働きはできない。ぶらぶらしているのと大差はなかった。  そのうちに、菓子の原料も、入らなくなってきた。主食の米さえ、以前から配給制になっていたし、生活必需物資統制令という厳《いか》めしい法律も、できていた。  小さな菓子屋は、やっていけない時代が、来ていた。  昭和十七年の初めは、二月十五日に、シンガポール占領などがあって、まだ景気が良かったが、夏を過ぎるあたりから、何となく、暗い空気が見え始めた。  新聞に、初めて、「転進」という言葉が、現われた。言葉は、転進だが、敗北が始ったのである。  その年の末のことである。  母のキクが、蒼《あお》い顔で、徳太郎に、いった。 「徳一に、とうとう赤紙が来たそうですよ。今、電話で、知らせて来ました」 「来たか——」  と、徳太郎は、複雑な顔でいい、何となく、傍《そば》にいる晋吉を見た。  晋吉は、顔を赧《あか》くした。父親の眼が、「お前のような奴には、赤紙が来ることもあるまい」と、いっているように見えたからである。  兵隊に行けない人間は、肩身のせまい時代だった。  徳一の出征祝は、会社の人達も集って、盛大に行われた。  晋吉も、出席した。そこで、晋吉は、また、義姉の美しさに打たれた。  義姉の美津子は、流石《さすが》に、蒼白い顔をしていたが、言葉使いも、応待も、きりッとしていた。 (立派な女だ)  と、晋吉は、軍服姿の兄よりも、美津子の姿に眼がいってしまった。改めて、兄の徳一が、羨ましくなった。  宴が、少し乱れかけた頃、徳一が、晋吉を呼んで、廊下に連れ出した。 「あとのことは、頼むぞ」  と、徳一は、改まった声で、いった。 「お前なら、応召されることも、あるまいからな」 「兄さんは、俺《おれ》を軽蔑《けいべつ》してるんだろ?」 「いや。こんな時代では、お前のような弱々しい人間の方が、長生きするような気がするんだ。だから、お前に頼むのだ」 「俺みたいな男には、何も出来やしないよ」 「そうかも知れん」  徳一は、微笑したが、その笑いは、温いものだった。 「だから、お前は、生きのびることが出来ると、俺は、思うんだ。俺は、美津子と結婚して、会社のお偉方と、つきあいが出来るようになった。そのおかげで、いろいろと、戦争の裏話も聞くんだが、今度の戦争は、お前が考えている以上に、大変なものだそうだ」 「大変って?」 「銃を持てる男は、全部、戦線へ行くことになるかも知れん。そして、どんどん死んで行くだろう。だから、お前のような男しか、生き残れないだろうと思うんだ。これは、お前を、軽蔑して、いってるんじゃない。ただ、そんな時代になってしまったということなんだ。だから、お前に、あとのことを頼みたい」 「判ったよ」  と、晋吉は、頷《うなず》いて見せたが、兄のいう、「あとのこと」というのが、一体、何のことを指しているのか、はっきりしなかった。両親のことだろうか、それとも、美しい美津子のことだろうか——と考えてきて、晋吉はひとりで、顔を赧くした。  それは、恋の感情であったかも、知れなかった。      五  昭和十九年になると、誰の眼にも、戦局が暗く映り始めた。  七月には、サイパンが陥落し、東条内閣が辞職した。十一月になると、B29が、大挙して東京を襲い始めた。  晋吉のところにも、横須賀の軍需工場で働くべしという徴用令状が、届いた。いわゆる白紙である。 「大変なことになった」  と、父親の徳太郎はいった。 「お前みたいな人間が、工場で働けるだろうか」  晋吉にも自信がなかった。しかし、命令通りにしなければ、警察に引っぱられてしまう。その方が怖かった。 「お前には、とことんまで、心配しなけりゃならねえんだな」  徳太郎は、情けなさそうに、いった。母親のキクは、ただ、オロオロして、「怪我《けが》でもしなければいいが——」と、そんなことばかり繰り返していた。 「大丈夫だ。心配するな」  と、胸を叩《たた》きたいところだが、そんな自信は、晋吉には、ない。工場へ行って、一体、どんなことをやらされるのか、不安でならなかった。  次の日、晋吉は、国防服に、ゲートルを巻き、さつまいもが半分ぐらいまざった弁当を持って、横須賀の工場へ、出かけて行った。  発電機を作る工場である。 「一億一心、火の玉だ」とか、「米英撃滅」といったポスターが、べたべた貼《は》りつけられた入口を入ると、晋吉と同じように、白紙を受け取った男達が、二十名ばかり、集っていた。  吹きさらしの中庭である。集った男達の多くは、四十歳以上の中年者のようであった。  若いのは、晋吉だけである。  晋吉は、一番後に並んだ。話の様子では、どうやら、商店の人間が、ここへ、集められたらしい。恐らく、呉服屋の主人とか、昨日まで、下駄屋で、鼻緒をすげていた職人なのだろう。  どの顔にも、未知の仕事への不安のようなものが、現われていた。それを見て、晋吉は、何となく、ほっとした。不安なのは、自分ひとりでは、ないのだ。  指定の時間より三十分近く遅れて、陸軍の将校と、工場長が、並んで、姿を現わした。  演説したのは、将校の方だった。  最初に、時局講演があった。非常に難しい時局になったが、大日本帝国は必ず勝つと、いったことを、長々と、将校は、喋《しやべ》った。聞いている二十何人かの男達は、寒さに、がたがたと、震えていた。水っぱなを、すすっている者もいた。  将校の演説が終ると、初老に近い工場長が壇に上った。  彼は、何となく、情けなさそうな顔をしていた。こんな素人ばかり集めて貰《もら》っても、何の足しにもならないと、思っているのかも知れなかった。  それでも、「しっかりやって下さい」と、いってから、晋吉達をつれて、工場を案内してくれた。  薄暗い工場に入ると、機械の轟音《ごうおん》が、晋吉を、おびやかした。天井には、クレーンが動き、機械は、物凄《ものすご》い勢で、鉄を削り取っていた。  晋吉は、気持が悪くなった。こんな所で、俺は、勤まるのだろうかという不安が、晋吉の顔を蒼《あお》くした。  一応、見学が終ると、工場長が、「機械をいじった経験のある人は?」と、晋吉達の顔を見廻《みまわ》した。  手をあげたのは、たった一人だった。工場長の顔が、ますます情けなさそうになった。 「じゃあ、他の方には、当分の間、製品の運搬でも、やって貰いましょう」  と、工場長は、いった。  晋吉は、滝田《たきだ》という旋盤工のところに、割当てられた。その工員の手助けをしろというのである。出来上った製品を、所定の場所に運ぶのも、晋吉の仕事らしかった。  滝田というのは、三十五、六の、色の黒い男だった。晋吉が、挨拶《あいさつ》すると、 「若いのもいたんだな」  と、不遠慮な眼で、ジロジロ、晋吉の身体《からだ》を、眺め廻した。 「ふむ」  と、滝田は、鼻を鳴らした。 「その身体つきじゃあ、丙種不合格ってところだな。兵隊には出来ねえんで、こっちへ廻して来たか」  晋吉は、黙っていた。腹が立つよりも、滝田という男が、怖かった。この工場の中では、この男が主人で、自分は、この男に使われているのだという意識が、晋吉を捕えてしまったからである。  滝田は、確かに、主人みたいに、晋吉を顎《あご》で、使った。滝田のような熟練工の眼から見ると、徴用されて来た晋吉達は、クズみたいな存在なのかも知れなかった。 「おい。一寸《ちよつと》、見ててくれよ」  と、昼近くなって、滝田が、ふいに、いった。 「え?」  と、訊《き》きかえすと、 「見ててくれと、いってるんだ」  滝田が、怒鳴った。  機械が、動いている。鋭く尖《とが》った刃が、発電機の心棒になる鉄を、丸く削っている。削り取られた鉄片が、ねじれては、弾け飛んだ。 「どうしたらいいか、俺には、判りませんよ」  晋吉は、悲鳴に近い声をあげた。 「バイトが焼けないように、油をやっててくれればいいんだ」 「バイトって?」 「鉄を削ってる刃のことだ。削り終ったら、機械を止めといてくれ」  それだけいうと、滝田は、便所へ行ってくるといって、姿を消してしまった。  晋吉は、蒼い顔で、機械を眺めた。どうしていいのか判らなかった。  とにかく、油を、刃先に、たらし続けた。  早く、滝田に帰って来て欲しいのに、彼は仲々、戻って来なかった。便所に行ったついでに、何処《どこ》かで、サボっているに違いなかった。  機械の止め方を教えて貰ったのに、思い出せない。削り終えたら、どうしようかと、その不安が、手元の注意を、おろそかにした。 「あッ」  と、晋吉が、悲鳴をあげたのは、その直後であった。バイトの先で、ぱあッと、血が飛び散り、晋吉は、失心して、その場に倒れてしまった。      六  右手の小指が、根元から、もぎ取られてしまったのである。  貧血を起こした晋吉は、近くの丘の上にある病院に運ばれて、手当てをうけた。  工場長が、来てくれたが、見舞いの言葉どころか、 「困ったことをしてくれたね」  と、怒ったような声で、いった。 「お前さんが、くだらないことをしてくれたおかげで、大事な機械が破損してしまった。監督の将校は、かんかんだよ」  工場長の話を聞いていると、どうやら、滝田が、自分の責任をのがれるために、晋吉が、無理矢理、機械をいじらせてくれと頼んだことにしてしまったようだった。  晋吉は、事情を説明したが、工場長は、取り合ってくれなかった。 「申しわけないと思ったら、明日から、ちゃんと働くことだ」  工場長は、苦い顔でいうと、工場へ、戻って行った。  晋吉は、ますます、怖くなってきた。この調子では、しまいには、命を落としかねないと思った。手当てをすませて、工場へ戻れば、あの監督将校から、ぶん殴られることだけは、確かだと思った。 (ああ、嫌だ)  と、思った時である。  陰気な空襲警報のサイレンが、聞こえた。  看護婦が、重病の病人を担架に乗せて、避難させ始めた。が、晋吉には、「歩ける人は各自、避難して下さい」と、いうだけだった。  傷の痛さに、唸《うな》ってもいられなくなった。  晋吉は、ベッドから飛び降りたが、初めての病院では、何処に防空壕があるのか判らない。  まごまごしているうちに、重い、腹にしみこむような爆音が聞こえてきた。高射砲も、どかんどかんと撃ち始めた。  晋吉は、あわててベッドの下にもぐり込んで、眼をつむった。  敵機は、横須賀の工場地帯を目標にしているようだった。  猛烈な爆音と同時に、病院全体が地鳴りのように、揺れた。壁土が、ばらばらと落ちてくる。  晋吉は、耳を塞《ふさ》ぎ、眼を閉じて「助かりますように、助かりますように——」と、同じ言葉ばかり、心の中で、繰り返していた。  B29の爆撃は、およそ、二時間にわたって執拗《しつよう》に、繰り返された。  解除のサイレンが鳴り、ベッドの下から這《は》い出した晋吉は、のろのろと、窓際まで、歩いていった。  紙テープを貼《は》った窓ガラスは爆風で、砕け散っている。  晋吉はぽっかりと開いた窓から、工場地帯に眼を向けた。 「あッ」  と、悲鳴に近い声が、晋吉の口から洩《も》れた。  今朝、監督将校の訓示を聞き、小指を機械にもぎ取られたあの工場は、消滅してしまっていたからである。黒く塗られた建物も、巨大な何本かの煙突も消え、そこには、無惨な瓦礫《がれき》の山が、見えるだけだった。  病院の庭に掘られた防空壕から顔を出した患者や、看護婦達も、呆然《ぼうぜん》として、廃墟《はいきよ》と化した工場地帯を眺めていた。      七  この日の空襲で、二千人近い人が死んだということだった。  晋吉と一緒に徴用された二十何人かの人も死に、滝田という工員も、死んだ。  晋吉だけが、小指一本と引きかえに、助かったのである。  妙な気持であった。晋吉が、しっかりした性格で、器用だったら、滝田が、機械を離れても、何とか上手《うま》くやれたに違いない。小指を、もぎ取られるような、へまなことは、しなかったろう。だが、爆撃で死んでいた筈《はず》だ。  晋吉は、浅草で見てもらった易者の言葉を思い出した。 (あの易者は俺の欠点が俺を助けるといったが、当たったらしい。その時になれば判るといったが、今が、その時だろうか?)  答は見つからなかったが、何となく、生きて行けそうな気がしてきた。  ばくぜんとした自信のようなものである。  今まで、晋吉が、持ったことのないものだった。  家に戻った晋吉は、呼び出しの来ないままに、だらだらと、日を過ごした。工場が消えてしまったのでは、行くべき場所がないからである。二度目の命令も、仲々、来なかった。来なかったのが当然で、晋吉は、他の徴用工と一緒に、爆撃で死んだことにされていたのである。  配給が、急に来なくなったので、父親の徳太郎が、文句を、いいに行って、初めて知ったのだった。 「お前は、死んだことになってるぞ」  と、徳太郎は、いった。晋吉が、どうしたらいいと、訊《き》くと、 「このまま、死んだことにしとけ」  と、徳太郎は、いった。 「お前みたいな人間が生きて行くには、大変な時代だ。今度徴用されたら、指一本じゃすまねえような気がするんだ。それに、お前じゃあ、何の役にも立つめえ、お国のためには、申しわけねえが、死んだことになってるのを幸いに、信州の叔父のところへ疎開していろ」  母親のキクも、そうした方がいいと、いった。  晋吉は、父親の言葉に従うことにした。成り行きのままに委《まか》せて生きろという易者の言葉を思い出したからである。  二日後に、晋吉は、父親の買ってくれた切符で、信州に向かった。  その日の夜、日暮里周辺が、B29の夜間爆撃を受けた。  火の海が生まれ、その火の海の中で、晋吉の父親の徳太郎も、母親のキクも、死んだ。  晋吉は、また、死ぬべき命を助かったのである。  信州での生活は、快適ではなかった。死んだことになっている晋吉は、かくれて、すごさなければならなかった。叔父が、好人物でなかったら、難しかったに違いない。  そして、昭和二十年八月十五日が来た。      八  昭和二十二年に入ってから、晋吉は、東京に出てみた。  東京は、瓦礫の町と化していた。ただ、空だけが、無闇《むやみ》に、明るかった。  あちこちに、バラックが建ち、痩《や》せ細った女達や、汚れた顔の子供や、復員姿の男達が、闇市に、ひしめきあっていた。  晋吉は、出征したまま、消息を聞いていない兄のことを考えた。もしかすると、兄の徳一は、復員してきているかも知れない。あの気丈な兄なら、こんな時に、力になってくれるかも知れないと、思った。  晋吉は、目黒にあった兄の家を訪ねてみることにした。  目黒の高台のあたりも、同じように、空襲に遭っていた。  焼け残ったコンクリートの塀だけが、物々しく、昔の名残りをとどめていた。そして、その塀の中に、小さなバラック小屋が建っていた。 「田賀根」と、大きな字で書かれた表札が、毀《こわ》れた塀に、打ちつけてあった。  中を覗《のぞ》くと、前に来た時には、季節の花が咲き誇っていた庭には、野菜が植えてあった。  晋吉は、庭に入った。バラックには、人の気配があった。  晋吉は、戸を叩《たた》いてみた。が、返事はない。  隙間《すきま》だらけのガラス戸から、中を覗いてみた。人の足のようなものが見えた。何か異様な気配に気付いて、晋吉は、あわてて、がたびしする戸を開けてみた。  四畳半ぐらいの部屋に、もんぺ姿の女が、俯伏《うつぶ》せに倒れていた。 「う、うッ」  と、その女が苦し気な呻《うめ》き声をあげた。土間には、女が吐いた跡があった。  晋吉には、何が何だか判らなかった。女が、また、苦しそうに呻くので、晋吉は、女を抱き起こした。女が、義姉の美津子だと判ったのは、その時である。「田賀根」と表札にあったのだから、当り前の話なのに、晋吉は、迂濶《うかつ》にも、美津子と気付かなかったのである。それほど、美津子の姿は、変って見えた。  美津子の顔は、真青だった。口紅の赤さだけが、異様だった。晋吉が、名前を呼んでも、聞こえないように、呻き続けた。  晋吉は、狼狽《ろうばい》した。どうしたらよいのか、判らなかった。  とにかく医者だと思い、美津子を寝かせると、表に飛び出した。  二百米ほど先に、病院の看板が見えた。が、その家も、バラックであった。飛び込んで、「お願いします」と、いうと、風《ふう》の上らない中年の男が顔を出して、 「何だ?」  と、いった。 「死にそうなんです」 「栄養失調なら、俺《おれ》には助けられんよ」 「じゃないと思います。吐いてるんです」 「吐いてる?」  医者は薄汚れた白衣に手を通しながら、玄関口に出て来た。 「毒でも飲んだか?」 「判りません。とにかく来てください」 「よし」  医者は、掛け声をかけるみたいにいうと、下駄を突っかけて降りて来た。  医者は、美津子を診ると、 「やったな」  と、いった。 「青酸カリだ。どうせ、生活苦からの自殺だろうがね。下手くそな死に方だ」 「助からないんですか?」 「だから、下手くそだと、いったろうが。死ぬ気で飲んだくせに、すぐ、吐き出しちまってる。これじゃあ、死にたくても死ねやせん」 「助かるんですね?」 「暫《しばら》くの間は、咽喉《のど》が痛いだろうがね。寝かしておけばいい」  晋吉は、がっくりと、力が抜けて行くような気がした。 「診察料は?」  と、晋吉が訊くと、医者は、不遠慮に、部屋の中を見廻《みまわ》してから、 「無理せんでもいい」  と、いった。 「じゃあ、米を貰ってくれませんか。今日、田舎から出て来たんで、米があるんです」 「ほう」  医者は、眼を大きくした。  晋吉は、雑嚢《ざつのう》を、開けて見せた。 「真白い米か」  医者は、にやッと笑い、白衣のポケットに一合ほど入れさせると、「大事にな」と、いって、帰って行った。  美津子は、夜になって、やっと、気がついた。黄色い裸電球の下で、眼をあけると、ぼんやりと、晋吉を見上げた。 「俺です。晋吉ですよ」  と、いうと、やっと、晋吉と判ったらしく、眼を動かした。 「何故、私を死なせて下さらなかったんです?」  と、美津子は、低い、小さな声で、いった。 「どうして、死ぬ気になったんです?」 「あの人が、死んでしまったからです」 「あの人って、兄さんが?」 「ええ。今日、復員局へ行って、確めたんです。あの人は、もう、帰って来やしません。だから——」      九  晋吉は、庭に出た。  月が出ていた。  兄の徳一が死んだという。晋吉は、呆然《ぼうぜん》と、同時に、冷たい戦慄《せんりつ》のようなものが、身内を走るのを感じた。 (俺のような人間は死んで、お前のような人間が生きのびるのだ。こんな世の中では——)  と、いった徳一の言葉が、思い出された。  兄の言葉は、当たった。  晋吉は、易者のことも考えた。あの易者の言葉も、また当たったのだ。晋吉の身体《からだ》が、兄と同じように頑健だったら、召集されて、今頃は、兄と同じく、戦死者の中に、数えられていただろう。身体が弱いことが、晋吉を救ったのだ。  不思議に、兄の死を悲しむ気持は、起きなかった。兄が、出征の時、死を覚悟していたのを、知っていたせいでもあるし、易者の言葉が、当たっていたことへの感動のせいもあった。 (俺は、今、二十八だ)  と、晋吉は、改めて、自分の年齢を考えた。 (俺は、出世できるだろうか?)  今までだったら、自信のある答は、浮んで来なかったに違いない。不器用で、弱虫で、その上、すぐ病気になるような脆《もろ》い身体しか持っていない。どうみても、出世できる筈《はず》がないと、最初から諦《あきら》めていたのだ。兄の徳一は、出世できるタイプだが、自分は反対だと、信じていた。  だが、今は、少し違ってきた。相変らず、雷が鳴れば怖いし、不器用な「うらなり」であることに、変りはない。しかし、苛烈《かれつ》な戦争の時期を、どうにか生きのびて来られたという自信が、今は、ある。  易者は、自然に委《まか》せていれば、お前さんだって、出世できようといった。今まで、あの易者の言葉が当たっているのだから、これからも、当たるかも知れない。 (出世できるかも知れないぞ)  と、晋吉は、思った。  一面に廃墟《はいきよ》と化した東京。多くの人達が、生きる自信を失っている時に、晋吉は、逆に、生きる希望のようなものを掴《つか》んでいたのである。うらなりは、うらなりなりにだが——  家の中に引返してみると、美津子は、まだ、呆然とした表情で、天井を眺めていた。 「もう、私には、生きて行く力がありません」  と、美津子は、眼を動かさずに、いった。 「私には、もう何もなくなってしまいました。あの人を失ってしまった。いつか、きっと帰って来て下さると思って、今日まで、頑張っていたのも、無駄になってしまいました」 「何もなくなってしまったなんて、そんなことをいっちゃいけないなあ」 「あなたは、愛というものが、お判りにならないんです」 「愛——?」  晋吉は、ぼそッとした声でいい、急に、暗い眼つきになって、美津子を見た。 「そうよ。あなたは、判らない」  美津子は、繰り返して、いった。晋吉は、どういってよいのか、判らなかった。 「とにかく」  と、晋吉は、いった。何が、とにかくなのか、晋吉自身にも判らない。 「とにかく、もう自殺なんかしないで下さい。俺が困る」 「帰って下さい。私のしたいようにします」 「困ったな。俺が帰ったら、また自殺する積《つも》りでしょう。そう判ってて、帰れやしない」 「————」  美津子は、黙って、眼を閉じてしまった。  夕方になって、先刻の医者が、見舞いに寄ってくれた。 「どうだね病人は」 「今、眠ったところです」 「眠れれば、もう大丈夫だ。ところで、あんたは、ご主人かね?」 「違いますよ」  晋吉は、事情を話した。 「それで、また、自殺しやしないかと、それが、心配なんですが」 「一度、自殺に失敗した人間は、仲々死ねんというが、事情が事情だし、今は、普通の人間でも、自殺したくなるような世相だからな。あんたが、ついていてやった方が、いいな」 「そうでしょうか」 「当たり前だ」  と、医者はいってから、急に、探ぐるような眼になって、 「どうやら、あんたは、あの女性に好意を持っているようだな」 「とんでもない」  と、晋吉は、あわてていったが、自然に、顔が、火照《ほて》った。  医者は、笑った。 「構うものか。好きなら、好きになったらいい。未亡人を好きになっていけない法律はないからな。孤独な女性を助けるのは、むしろ立派なことだ。それで、これから、どうするね?」 「働きます」 「何か技術を持っているかね?」 「いえ。俺《おれ》は、不器用で、駄目な男です。こりゃあ、謙遜《けんそん》でも何でもありません。子供んときからです。自分でも、駄目な、うらなりだと思ってきました」 「うらなりねえ」  医者は、晋吉の顔を、見廻してから、 「確かに、うらなり的なところがある」  と、妙な感心の仕方をした。 「しかし、今は、一寸《ちよつと》、違うんです。めちゃめちゃになった東京を見ているうちに、生きる自信みたいなものが、生れて来たんです」 「ほう」  医者は、眼を大きくした。 「東京の廃墟を見て、逆に、生きる自信を持ったなどという人間には、初めて会った。妙な人間だ。あんたは」 「そうでしょうか?」 「そうさ。案外、あんたみたいな男が、出世するかも知れんな」  医者は、真面目とも、揶揄《やゆ》ともつかぬ顔で、いった。      十  小林というその医者が、仕事を世話してくれた。銀メシの効果だったか、晋吉を、面白い人間と見て、世話してくれたのか、晋吉には、判らなかった。どちらにしろ、小林という医者に知りあえたことは、晋吉にとっては、好運であった。  小林が、見つけてくれたのは、目黒近くにキャンプしている進駐軍の、雑役の仕事だった。 「なるたけ、簡単で、楽な仕事をと思って、頼んできたよ」  と、医者は、いった。どんな仕事だろうかと思って、出かけてみると、将校宿舎の掃除であった。  二十八歳の青年のやる仕事ではない。が、晋吉は、別に不平はなかった。仕事の見つけにくい時代だったこともあるが、成り行きに委せていけば、そのうちに、上手《うま》いことがあるに違いないという確信のようなものが、あったからである。  日給は、十五円だった。僅《わず》かだが、生きていけないことはない。それに、進駐軍キャンプでは、彼等の残飯が、手に入った。それだけでも、乏しい食事の足しにはなる。  問題は、美津子だった。働きに出ているうちに、自殺されては、かなわない。 「二度と自殺はやらないで下さい」  と、いって頼んだが、美津子は、蒼《あお》い顔で黙っているだけだった。  晋吉は、医者に頼んで、働きに行くことにした。美津子を見張っていたいが、そんなことをしていたら、二人とも干乾しになってしまう。  小林は、「時間があったら、見に行ってやるよ」と、約束してくれたが、最初の日、仕事から帰ってみると、美津子の姿が、見えなかった。  晋吉は、周章《あわ》てて、小林医院へ、飛んで行った。 「そりゃあ、姿をかくしたのかも知れんな」 「姿をかくす?」 「ひとりになりたかったんだ」 「また、自殺するでしょうか?」 「何ともいえないな。弱い人間なら、自殺するだろう。また、逆に、強い人間になるかも知れん。とにかく、帰って来ないことは、確かだ」 「そうですか——」 「ひどく、がっかりしたようだな。やっぱり惚《ほ》れていたのか」 「俺には、判らない」 「逃げたな?」 「本当に、俺には、判らないんです」  晋吉は、同じ言葉を繰り返した。好きでも、どうにもならないという気持もあるのだ。 「探さん方がいいな」  と、小林は、真面目な顔に戻って、いった。 「探す暇もないだろうが」  確かに、小林のいう通りだった。美津子のことは心配だが、何処《どこ》を探していいのか判らないし、時間も、金もない。  次の日、キャンプから帰って来て、美津子の姿を探したが、戻っていなかった。医者のいった通り、ひとりになって、考えたかったのかも知れない。それなら、俺が、何処かへ行けば良かったのだと思ったが、後の祭りであった。  晋吉は、このバラックの家に住むことにした。心苦しさがないわけではないが、同時に、身寄りのない東京に出てきた途端に、住む家を得たことは、幸運だと、思った。 (俺は、ついているのだ)  と、晋吉は、思った。  しかし、進駐軍キャンプの仕事は、退屈なものだった。大金でも拾うだろうかと、詰らない期待を抱いてみたが、空頼みに終って、大金どころか、一円も拾えなかった。  晋吉は、毎日の日給の中から、少しずつ貯金することにした。インフレの激しい頃で、貯金するだけ損だという風潮が、あったが、晋吉は、構わずに、貯めることにした。  晋吉には、他に、金儲《かねもう》けの方法が、見つからなかったからである。ちびちびでも、貯めるより仕方がない。  それに、進駐軍の残飯が貰《もら》えて、食費に余り金がかからなかったのと、家が、あったせいで、たとえ少しでも、貯められたのである。  一年たつと、その貯金が、三千円になった。 「あんた、小金を貯めてるそうじゃないか」  と、探るような眼で、晋吉の顔を見たのは、一緒に働いている掃除婦の婆《ばあ》さんだった。この婆さん自身も、外国煙草の闇《やみ》売りなどをして、金を貯めているという噂《うわさ》であった。  晋吉が黙っていると、 「あたしが、いい金儲けの口を知ってるんだけど、投資してみないかね?」  と、誘った。 「一か月で、元金が倍になるんだよ」 「上手い話だな」  晋吉も、つい誘われて、眼を輝やかした。 「本当なのかい?」 「本当だとも。ところで、いくら貯ってるんだね」 「三千円だ」 「ふーん」  婆さんは、一寸《ちよつと》、鼻を鳴らした。もっと、あると、思っていたのかも知れない。 「それでもいいや。あたしに渡して、ご覧よ。確実に、倍にしてあげるから」  婆さんは、いかに、その金儲けの口が、確実で、安全なものであるかを、くどくどと説明した。  晋吉は、心が動いた。晋吉自身には、持金を倍にするような才覚はない。とすれば、この婆さんに、頼んだ方が、いいのではないか。 「頼むよ」  と、晋吉は、いった。  翌日、晋吉は、三千円の金を、婆さんに渡した。婆さんは、にこにこ笑いながら、受け取ってから、 「あんたも心配だろうから、明日、担保になるものを持って来てあげるよ」  と、いった。  ところが、翌日、婆さんの姿は、進駐軍キャンプに見えなかった。翌々日もである。 (欺《だま》された)  と、覚ったのは、三日目である。晋吉は、それでも、希望をつないで、婆さんが、住んでいる安アパートを訪ねてみた。アパートなどという代物ではなかった。建物全体が、倒れかかっているのである。  管理人は中年の女だったが、晋吉が、婆さんのことを、話すと、 「あんたも、欺された口なんですね」  と、いった。 「あたしもなんですよ。部屋代を三か月も、ふみ倒された揚句、絶対に儲かるなんていわれて、虎の子の五千円を、ぶったくられちまったんですよ」 「それで、婆さんは?」 「夜逃げしちまいましたよ」  晋吉は、がっくりと力が抜けていくようだった。仕方なく帰ろうとすると、 「あんたが、田賀根さんなら、渡すものが、ありますよ」  と、女が、いった。そうだというと、女は、粗末な封筒を渡して寄越した。  表を見ると、「たがねさまへ」と、ひどい金釘流《かなくぎりゆう》で、書いてあった。中には、便箋《びんせん》が一枚入っていて、これにも、金釘流で、 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈ほんとうに、もうしわけありませぬ。ゆるしてくださりませ。おわびに、宝くじを一まいさしあげます。一とうがあたれば、十万えんでございます。これこそ、あなたのかねが、二ばい三ばいにも、なるのでございます〉 [#ここで字下げ終わり]  と、あった。確かに、一枚十円の宝くじが封筒の中に入っていた。 「婆さんの部屋にあったんですよ。あたしあてのもありましたけどね、十円の宝くじ一枚で誤魔化《ごまか》すなんて、何て悪党だろう」  管理人の女は、口もとを歪《ゆが》めて、いった。  晋吉は、家へ戻った。どう悔やんだところで、三千円は、もどって来ない。  一週間ばかり、ぼんやりと過ごしたが、気を取り直して、また、少しずつ貯めることにした。  昭和二十三年も、押しつまってきていた。  キャンプから、家へ帰って、所在なさに、ごろ寝をしていると、女が、案内も乞《こ》わずに飛び込んで来た。驚いて起き上がると、先日の、安アパートの管理人であった。 「あんた、この間の宝くじは?」  と、咳《せ》き込んだ調子でいう。 「そこら辺にある筈《はず》だけど——」 「見てご覧なさいよ。当たってるかも知れませんよ」 「当たってる?」 「今日の発表を聞いたら、あたしの宝くじが一番違いなんですよ。もし、あの婆さんが、続き番号で、買ってたら、あんたのが、当たってるかも知れないじゃありませんか」 「一等の当せん番号は?」 「当たってたら、あたしに一割くれます?」 「え?」 「拾得物だって、一割か二割のお礼をするじゃありませんか。あたしが来てあげなけりゃ、隅に放り出したままの筈でしょ。一割が駄目なら、五分で手を打ちましょうよ」 「五分あげる。どうせ当たってないだろうがね」  女が番号をいった。途端に、晋吉の顔が、真青になった。 「当たってる——」  晋吉は、かすれた声で、いった。      十一  五分の五千円を、約束通り女にやっても、九万五千円の金が、晋吉の手もとに、残った。 (俺《おれ》は、ついてる)  と、思った。どうやら、俺のような人間にも、出世が、出来そうだぞと、思った。  医者に話すと、 「大金が入ったんだから、これからは、慎重に、することだな」  と、いった。 「金儲《かねもう》けの口を持ってくる者がいるだろうがね」 「いるでしょうか?」 「いる。金の匂《にお》いを嗅《か》ぎつけるのに、特別の才能を持ってる人間が、いるもんだからね」  一週間もすると、りゅうとした背広姿の紳士が、バラックを訪ねてきた。 「今度は、宝くじの当選、おめでとうございます」  と、紳士は、丁重に、いった。晋吉は、医者の言葉を思い出して、ふーむと唸《うな》った。 「あんたは、鼻が、いいんだな」 「これは、ご冗談を。ところで、もう何かの事業に、投資なさいましたか?」 「いや」 「そりゃあ、いけません」 「いけないかな?」 「いけませんとも、このインフレの時に、金を死蔵していたら、忽《たちま》ち、半分、いや三分の一の価値しかなくなってしまいます」 「しかし——」 「私にお委《まか》せなさい」  紳士は、名刺を出した。それには、「日本株価研究所所長・鳥羽隆生《とばたかお》」と、あった。晋吉には、所長の肩書が、印象に残っただけだった。株の知識は、晋吉にはない。 「所長さんですか?」 「所長です。株をお買いなさい。これが、もっとも、確実有利な投資です」 「俺は、株のことは、よく知らんのだが」 「株を持つということは、その会社の重役になるということです」 「俺が重役に?」  晋吉は、眼を輝した。死んだ兄が、部長の娘の美津子と結婚した時、両親は、たいした出世と、喜んだものだった。 「重役と部長と、どっちが偉い人だろうか」 「勿論《もちろん》重役です。比較にならんです」 「ふーむ」 「ここに、丸星鉄鋼という会社の株券があります。日本でも、一、二を争う大会社ですぞ。額面五十円で、二千株。丁度、十万円です。重役におなりなさい」 「だが、今、九万五千円しかないんだ」 「よろしい。特別にサービス致しましょう」 「まさかニセ物じゃあるまいね」 「お疑いでしたら、丸星鉄鋼に、電話で、お問合わせになって結構です」 「いや、別に疑ってるわけじゃない」  晋吉は、あわてていった。  晋吉は、その紳士から、二千株を、買ってしまった。  晋吉が、それを医者に話すと、 「まんまと、欺《だま》されたな」  と、笑われた。 「ニセ物ですか?」 「いや、本物だ、名義人の書きかえもしてあるが、額面五十円といったって、今は、十円の値打ちもない。どこの会社も、製品が売れなくて、青息吐息だからね。株なんか、反故《ほご》同様の時代なんだ」 「重役には、なれないですか?」 「馬鹿者。二千株くらいで、重役になれるものか。第一、そのうちに、会社が、潰《つぶ》れちまう」 「潰れるんですか?」 「今は、どんな大きな会社だって危いんだ。そうしたら、株券は、焚《た》きつけにしかならん」  晋吉は、呆然《ぼうぜん》とした。貰った名刺を頼りに、日本株価研究所に電話してみたが、そんな研究所はないという。完全なサギであった。  晋吉は、株を売ってしまおうと思った。ところが、丸星鉄鋼の株の売買は、停止されているという。会社が、潰れかけているのだ。  晋吉は、完全に、身体《からだ》から、力が抜けていくのを感じた。  次の日から晋吉は、寝込んでしまった。  医者が励ましてくれなかったら、そのまま、がっくりと、行ってしまったかも知れない。  一週間近く、寝込んでから、晋吉は、やっと、起き出した。また、キャンプで、働き出したが、今度は、貯金する気になれなかった。  そのまま、昭和二十五年になった。  六月に朝鮮戦争が起きると、キャンプにいた兵隊達は、続々と、朝鮮に出かけ、仕事のなくなった晋吉は、馘《くび》になってしまった。 「泣きっ面に蜂です」  と、晋吉は、医者の小林に、泣き言を並べた。 「そうでもない」  と、医者はいう。 「どうしてです。九万五千円をすっちまった揚句、今度は、馘ですよ」 「あの株券は、持ってるかね?」 「売れないんだから、持ってるより仕方がないでしょう。焚きつけに要るんなら、あげますよ」 「そりゃあ良かった。戦争が始って以来、株が、上り続けているんだ」 「本当ですか?」 「本当だ。戦争は悲しいが、そのおかげで、日本の工業全体が、息を吹き返したんだ。丸星鉄鋼も立直った。しっかり持ってれば、すごい値打ちになるぞ」 「————」 「どうしたんだ?」 「安心したら、がっくりしちまったんです」 「よく、がっくりする男だな」  医者は、にやにや笑った。  医者の話は、嘘《うそ》ではなかった。  特需景気が来た。鉄鋼関係の会社は、朝鮮戦争が始ってから、二十四時間操業を始めた。それまでは、工場に、蜘蛛《くも》の巣が、張っていたのである。  一か月の特需約三千万ドル(百億円)が、カンフル注射になった。日本の工業にとって。そして、株価にとってもである。  丸星鉄鋼についていえば、利益率は、朝鮮戦争が始って一年間に、三百倍になった。これでも、化繊関係の会社に比べれば、低い方だった。或る大手の化繊会社は、実に、一千倍の利益をあげたのである。  いわゆる糸ヘン、金ヘン景気が来た。  晋吉の持っている額面五十円の株が、二十七年の初めには、千六百円になっていた。 (三百二十万円——)  晋吉は、その金額に、思わず、顔がゆるんだ。 「そろそろ、売って、その金で、家を建て直したら、どうだね?」  と、医者が、いった。 「いつまで、あんなバラックに住んでるんだ?」 「売ります」 「いやに素直なんだな」 「今まで、人のいう通りにして、儲《もう》かったんですから、そうします」  晋吉は、株を売り、そのうちの百万で、家を建て直した。 「まだ、二百万ばかり余ってるんですが、先生に貸して上げましょうか」 「わしにか?」 「先生の病院だって、建て直さなきゃ、客が来ないでしょう」 「そりゃあそうかも知れんが、借りても、返すあてがない」 「いいですよ」 「それじゃあ、わしの土地を買ってくれ。この近くに、百五十坪ばかり土地がある。それを買ってくれ。坪一万で百五十万。その方が、わしも、すっきりする」 「先生は、義理がたいんですね」 「わしも、助かったよ」  と、医者は、いった。  晋吉の手に、百五十坪の土地と、五十万の金が残った。 (一年だけ、遊んでくらしてみよう)  と、思った。つつましく遊べば、五十万で、一年遊べるだろうと、晋吉は思った。  出世した気分を、一寸《ちよつと》だけ、味ってみたかったのだ。  晋吉は、浅草に、いつかの易者を探した。礼がしたかったのだが、見つからなかった。空襲で、死んでしまったらしいと、いうことであった。  その帰りに、晋吉は、キャバレーに、足を運んだ。こんなところで遊ぶのは、初めてのことだった。懐中の金が、そんな気持にさせたのだ。  テーブルにつくと、綺麗《きれい》な顔をした女が来た。お白粉《しろい》の匂《にお》いを嗅《か》ぐと、晋吉は、依然として消息のない美津子のことを思い出した。 (今頃、何処《どこ》にいるのか?)  と、思った時、まばらな拍手が、晋吉の周囲で起こった。  フロアに、スポットライトが当たって、純白のドレスを着た女が、マイクを持って、現われた。  歌は、下手だった。が、その顔を見ている中に、晋吉は、「あッ」と、小さな叫び声をあげた。  厚化粧をしていたが、美津子であった。 「あの人——」  と、傍《そば》のホステスに、指さして見せて、呼んで貰えないかと訊《き》くと、 「止した方がいいわよ」  と、痩《や》せたホステスは、いった。 「支配人のこれなんだから」 「これって、恋人かね」 「恋人——?」  ホステスは、けらけら笑った。 「そんなお上品なもんじゃないわよ。まあ、情婦ってとこね。気に入ったの?」 「あの人を、連れて帰りたいところがあるんだ」 「一寸《ちよつと》無理ね。うちの支配人は、ヤクザだから、連れ出したら、ぐっさりよ」  ホステスは、短刀で、晋吉の脇腹《わきばら》を、突き刺す恰好《かつこう》をして見せた。 「金で、解決できないだろうか?」 「持ってるの?」 「五十万くらいなら、何とか」 「へえ」  ホステスは、頓狂《とんきよう》な声を出した。 「駄目だろうか?」 「そうねえ。支配人は、欲ばりだから、案外ウンというかも知れないわ」 「じゃ、頼む」 「頼むって、話すのは、あんたでしょ。あたしは、支配人に、会わせてあげるだけよ。怖いの?」 「ああ、ヤクザなんだろう?」 「しっかりしなさいよ。男なんでしょ」  ホステスは、晋吉の肩を、どんと叩《たた》いてから、 「うまく行ったら、あたしにも、お礼を頂戴よ」  と、抜け目なく、いった。      十二  支配人だという頬《ほお》に傷のある男は、蛇のような眼で、晋吉を見た。  晋吉は、がたがた震えていた。  逃げ出したかった。  それが出来ないのは、美津子の問題だからだった。 (俺《おれ》は、美津子に、惚《ほ》れてるんだ)  晋吉は、震えながら、それを自覚した。 「五十万ねえ」  支配人は、ゆっくりした声で、いった。 「駄目でしょうか?」 「いや、手を打ちましょう。あんたの気持にほだされた」 「どうも——」  晋吉が、テーブルに手をついて、頭を下げた途端、急に、相手の語気が荒くなった。 「止めた」  と、支配人は、いった。 「てめえが、素人だと思うから、五十万で、手を打ってやる気になったんだが、同じヤクザじゃねえか。指を詰めてるのが、その証拠だ」 「指——?」  晋吉は、あわてて自分の手に眼をやった。確かに、右手の小指はない。 「これは、工場で——」 「俺を欺《だま》そうってのか」  支配人が、妙に、すわったような眼で、晋吉を見た。晋吉は、真青になって、弁解した。  が、相手は、聞こうとしない。 「よくも、俺を欺してくれたな」  支配人は、いきなり、背広のポケットから、拳銃《けんじゆう》を取り出した。 「左手の小指も、これで、吹っ飛ばしてやろうじゃねえか」 「助けて下さいッ」  晋吉は、悲鳴をあげて立ち上がると、夢中で、拳銃を持っている相手の手に、しがみついた。  弱虫で、非力を自認している晋吉の何処に、あんな力があったのか、彼自身にも判らない。  銃声がして、倒れたのは、支配人の方であった。  晋吉は、呆然《ぼうぜん》として、拳銃を持って、立ちつくしていた。  晋吉は、すぐ逮捕された。  公判で、弁護士は、正当防衛を主張したが、証拠なしということで、五年の実刑が下った。  晋吉は、刑務所に、送られた。  薄暗い壁に閉じこめられて、晋吉は、 (これが、俺の出世か)  と、溜息《ためいき》をついた。 (前には、小指を失くしたおかげで、命を助かったが、今度は、そのおかげで、刑務所に放り込まれた。結局、俺は、駄目なのかも知れない)  易者の言葉も、こうなると、信じられなくなった。  うらなりは、やっぱり、うらなりで終るのだろうか。晋吉にとって、僅《わず》かの慰めは、美津子が、医者の小林と一緒に、面会に来てくれることだけだった。  五年は、ひどく長かった。  刑務所の中で、晋吉は、三十九歳になった。  昭和三十三年十月。  刑期満了。  刑務所の外には、医者が迎えに来ていた。 「うらなりが、ますます、うらなりらしくなったな」  と、医者は笑った。 「止して下さい。これから、どうやって生きて行こうか思案してるんですから」 「思案することはないさ。ついてる男が、何を思案するんだ?」 「俺が、ついてる? からかわんで下さい」 「からかってるものか。あんたが、刑務所に入ってる間に、土地が、鰻上《うなぎのぼ》りだ」 「それが、どうかしたんですか?」 「わしから買った百五十坪の土地を忘れたのか。あれが、今は、坪十五万だ。全部で、いくらになると思う。二千二百五十万円だ」 「————」 「刑務所に入ってなかったら、とうに、売っちまってる筈《はず》だ。ついてるぞ。あんたは」 「二千万——」 「金が出来たんだから、何か堅実な事業を始めて、結婚するんだな。美津子さんも、その気になってるぞ」 「本当ですか?」 「鈍い男だな。その気だからこそ、今日、わしと一緒に来なかったのが、判らんのか。女のデリケートな気持が」  医者が、肩を叩くと、晋吉の身体《からだ》は、うらなりのナスビみたいに、よろよろと動いた。 [#改ページ]    夜にうごめく      一  その一角は、都心の盛り場にありながら、低く押しつぶされたようなバラックが立ち並び、ドブは、異臭を放って澱《よど》んでいた。  ここは、終戦直後に、国有地に勝手に建てられたマーケットで、その後、何度か立ち退きを迫られながら、爬虫類《はちゆうるい》の粘っこさで居すわり続けて来たのである。 「あそこの連中は、カビだ」  と、役所の係員は、吐き捨てるようにいったものである。カビのように、地面にくっついて離れないという意味もあるし、カビのように増えるという意味もあった。マーケットの周囲《まわり》に、いつの間にか、長屋風の小さな家が、それこそ、細胞が増えるように増えていった。  それは、ある時期、果てしなく広がっていくように見えたのだが、南側と東側の土地を買い占めたデパート資本と、建設会社が、それぞれ、九階建のデパートと、十一階建のマンションを建ててしまったことで、止まってしまった。北と西は、国道である。  南と東に、高層ビルが建ったことで、この一角は、完全に太陽を奪われてしまった。住民は、一応、日照権騒動を起こしたのだが、もともと、彼等が、国有地を不法に占拠しているということがあって、裁判所は受けつけなかった。  結局、そこに住む人々は、昼も夜も、ほとんど太陽の恩恵を受けることがなくなったのである。夏は暑く、冬は寒かったし、年中、じめついていた。雨が降ればドブは汚水で溢《あふ》れ、じっとりと重くなった布団は、一日干しておいても乾かなかった。  役所では、こうなれば、遠からず音《ね》をあげて逃げ出すだろうと考えた。役人たちから見て、人間の住める環境とは思えなかったのである。役所では、それを期待して、一戸五十万円の引越料を出すと発表した。本来、国有地なのだから、一円たりとも出す必要はないのだが、民主主義的な役所の恩情を示す必要があると考えたのだ。住民の半数は、すぐ、飛びついて来るであろう。そうすれば、半分の土地に、六階建の会館を建てる。そうなれば、もう半分の土地は、いよいよ暗く、じめついて、住みにくくなり、全員が逃げ出すに違いない。  そう読んだのだが、驚いたことに、一人として、この一角から立ち退こうとする者はいなかった。役人たちが考えた以上に、住民たちは、ここが気に入っており、粘り強く、頑健だったのである。  ここに、いったい何人の人間が住んでいるのか、区役所でも正確には把握できていなかった。登録されているのは、二百六十七戸、七百九十八人だが、いつの間にか、もぐり込んで住んでいる者もあり、また一方、ひそかにここから越して行った者もいたからだった。二百六十七戸の大部分は、間口一間半ぐらいの小さな飲み屋や、食べ物屋や、古着屋や、いんちき骨董《こつとう》屋などで、それが、細い、曲りくねった路地の両側にひしめいている。一見、仕舞屋《しもたや》と見える家は、たいてい売春専門で、二階には、女たちが客を待っているのである。  病院こそなかったが、怪しげな漢方医がいて、不思議に効《き》く薬を売っていたりもする。この一角は、十分ではないとはいえ、一つの町の機能を持って、生き続けているのである。役所は、カスバと呼び、住人自身は、いくぶんかの自虐をこめて、「どぶ鼠《ねずみ》横丁」とか「もぐらの町」とか呼んだ。      二  サラリーマンの青木が、この得体の知れぬ町のことを友人に教えられたのは、「とにかく、安く、遊べるところ」としてだった。  大学を出て、就職したばかりの青木は、バーやトルコで年中遊ぶほどのサラリーは、まだ貰《もら》っていなかった。恋人はいたが、時には、水商売の女とも遊びたい。 「時間なら三千円で遊べるし、意外に若い娘《こ》もいるぜ」  と、友人はいったのである。  初冬のある夜、青木は、会社の帰りに、この「どぶ鼠横丁」に寄ってみることにした。残業の後だったので、横丁の入口に着いたのは九時を廻《まわ》っていた。  青木の財布には、九千円入っていた。それだけの金で、飲み食いして、その上遊べるところとなれば、この一角しかなさそうだった。  青木は、横丁の入口で、五、六分立ち止っていた。眼の前の低く、夜の中にうずくまるような家並みが、何となく不気味に見えたからである。友人の言葉に従えば、ちょっとばかりスリルがあり、ちょっとばかり面白いところだというが、初めての青木には、やはり怖い場所のように見えた。  横丁の路地からは、酒や、焼そばや、中華料理の匂《にお》いが漂ってくる。「いらっしゃいッ。いらっしゃいッ」という威勢のいい呼び声が聞こえてくる。  二人、三人と連れ立って、路地へ入って行くサラリーマン風の男たちもいるし、路地をのぞき込んだだけで、行き過ぎてしまう通行人もいる。  青木は、煙草に火をつけ、くわえ煙草で、路地を入って行った。そうしたスタイルが、この横丁にふさわしいと思ったからである。  路地を入ってすぐの焼そば屋で、まず腹ごしらえをすることにした。  何年も使い込んだらしい、真ん中がへこんでしまった鉄板の上で、ラードが匂い、焼そばに、キャベツと、何の肉かわからない肉が、じゅうじゅうと音を立てていた。六十歳ぐらいの親爺《おやじ》が、ねじり鉢巻で、汗をしたたらせながら、焼そばをかき回している。  一皿二百円の焼そばを食べてから、青木は、路地の奥へ入って行った。  赤提灯《あかちようちん》のともった一杯飲み屋には、たいてい二人か三人の女がいて、明らかに、ただ飲むだけの店でないことを示していた。厚化粧をした中年女もいるし、友人がいったように、意外に若い女もいた。  青木は、嬌声《きようせい》をあげて誘う女たちの間を、ニヤニヤ笑いながら歩いて行った。品定めするのが楽しかった。男に生れて良かったと思うのは、こんな時である。今夜、有り金を使ってしまったら、給料日まで三日間、小遣いゼロで過ごさなければならない。だから、遊ぶなら、出来るだけ若い、出来るだけ美人と遊びたかった。  路地はどこまでも続いているように思えた。女の嬌声や、アルコールの匂いや、焼そばやシチューの匂いは、どこまでもくっついてくる。この横丁全体が、それらの匂いの中に埋没している感じだった。  何軒目かの飲み屋に、気に入った女がいた。二十歳ぐらいで、背の高い女だった。顔が蒼《あお》いのは、陽の当らないこの横丁にばかり住んでいるせいだろうか。  青木は店に入った。土間は、じめじめしていて、ゴキブリが這《は》い廻《まわ》っていた。青木は、三千円出して、目当ての女の前に置いた。 「これで、遊ばしてくれるかい?」  女は、黙って、三枚の千円札を胸の中に落し込んでから、 「あと千円持ってない?」 「ああ、持ってるけど」 「じゃあ、出して」  女は、命令するようにいった。青木は、男の見栄《みえ》が働いて、値切ることもせず、大人しく、あと千円を女に差し出した。  女は、初めて、ニッと笑い、 「二階へ行きましょうよ」  安普請《やすぶしん》の、がたぴしと音のする階段を、女が先に立って、二階へあがった。  二階は、四畳半一間の狭苦しい部屋だった。鏡台や、衣裳《いしよう》ダンスが置いてあるので、部屋は一層狭く見える。女は、申しわけに、ビールを一本だけ持って来たが、別にすすめるでもなく、青木の前に、栓をしたまま置き、さっさと布団を敷き出した。  青木は、ちらりとビールに眼をやったが、こんな場合に飲むのは、ヤボなのだろうと考えて、手を出さずにいた。多分、飲み屋の看板を出している手前、形式的に出したので、次の客にも、同じビールを、栓をしたまま出すのだろう。  女は、布団を敷き終ると、着物を着たまま、ごろりと仰向けに寝て、 「いいわよ」  と、いった。  そのいい方が、やけに即物的で、色気も何もあったものではなかった。四千円では、こんなものだろうかと思ったが、女に、「いいわよ」といわれて、すぐ、着物の裾《すそ》をまくりあげる気になれず、青木は、小さな窓から、外を見下《みおろ》した。 「何をしてるの? 早くしてよ」  女は、叱《しか》りつけるようないい方をする。時間をくっていたら、儲《もう》けにならないというようないい方だった。 (味もそっけもありゃしない)  と、青木は、眉《まゆ》をしかめながら、それでも、若いせいで、勝手に勃起《ぼつき》してしまい、金を払った以上、ともかく、やらなければ損だなと考えたが、その時、青木の眼に、何か妙なものが見えた。  窓の下は、幅が二メートルもない薄暗い路地裏で、その暗がりから、ひょっと黒い猫が飛び出したが、その後に、横たわっている人間の姿が見えた。  若い女の死体だった。      三  その女は、白っぽいセーターを着て、顔をドブに突っ込む姿勢で死んでいた。血は出ていなかったが、青木には、死んでいるとすぐわかった。あんな姿勢で寝ている筈《はず》がなかったし、ドブの汚水が、女の耳のあたりまで来ていたからである。どこかの店で、汚水を流すのか、ときどき、ドブの水が急に増え、その度に、どす黒く汚れた水が、女の細い首のあたりを洗っている。 「死んでるッ」  と、青木は、叫んだ。  布団の上に寝ていた女が、のろのろと身体《からだ》を起こして、 「どうしたのよ?」 「あそこに、若い女が死んでるんだ」  青木は、蒼《あお》い顔で、窓の下を指さした。  女は、起き上って来て、青木の横に立って、路地裏を見下した。 「あッ」  と、小さな声をあげた。が、それなり黙っている。 「警察に電話をしなきゃあ。ここに電話はないのかい?」 「ないわ。この横丁には、電話がないのよ。電電公社が、付けてくれないのよ」  女は、じっと、死体を見下したまま、他人事《ひとごと》みたいないい方をした。  青木は、舌打ちをしてから、「僕が一一〇番してくる」と、女にいい残して、階段を駈《か》け下りた。  横丁を走り抜け、大通りを渡って、そこにあった赤電話で一一〇番した。  パトカーが到着したのは、五、六分後だった。車から降りて来た二人の警官が、横丁の入口で待っていた青木の傍《そば》に寄って来て、 「あの中かね?」  と眉を寄せて、横丁を指さした。警察にとって、この一角は、あまり楽しい場所ではないらしかった。  青木は、先に立って、二人の警官を案内した。  ひしめき合う店の中から、冷たい視線が注がれるのを青木は意識した。それが、青木自身に向けられているのか、二人の警官に向けられているのか、それとも、警官を案内している青木に向けられているのか、わからなかった。  さっきの一杯飲み屋に着き、路地裏に案内する。白いセーターの若い女は、当然のことだが、まだ、そこに倒れていた。 「これが死体かね?」  警官の一人が、屈み込んで、女の肩に手をかけ、強くゆすった。 (死んでいるのに、無駄なことをするものだ)  と、青木は、思ったが、その時、驚いたことに、死体と思っていた女の身体が、もぞもぞと動き出した。地面に片手をつき、ゆっくり身体を起こすと、細く眼を開けて、青木を見、二人の警官を見た。 「あんたたち、誰?」  舌っ足らずみたいな口調でいった。  警官は、明らかに、非難する眼で、じろりと青木を見てから、 「君が死んでいると、一一〇番して来たんだよ」  と、女にいった。 「死んでる? 冗談じゃないわ。ただ、ちょっと酔っ払って、ここで寝てただけじゃないの」  二十五、六歳に見える女は、けたたましい笑い声を立てた。  眼の釣り上った、狐のような顔をした女だった。 「おかしい。おかしいですよ」  と、青木はいった。あの時には、確かに死んでいたのだ。 「この人も一緒に見た筈だ」  青木は、飲み屋の裏口から顔を突き出していた、さっきの娼婦《しようふ》を、警官に、指さして、見せた。 「そうかね?」  警官が、彼女に話しかけた。女は、無表情に、「ええ」と、肯《うなず》いた。 「でも、そのお客さんが、勝手に人殺しだって大騒ぎして、一一〇番しちゃったんですよ。早とちりなんですよ。そのお客さんの」 「違う。違いますよ。さっきは、死んでいたんだ」  青木は大きな声を出した。 「しかし、現実に、ちゃんと生きていて、酔っ払って寝ていたといってるじゃないか」  二人の警官は、肩をすくめて見せた。 「僕だって、酒はよく飲みますよ。だから、酔っ払って寝てるのか、死んでるのか、その区別ぐらいはつきます」 「しかし、君。現実に、この人は生きてるじゃないか」 「だから、おかしいんです」  青木は、頭をふり、眼の前でニヤニヤ笑っている白いセーターの女を眺めていたが、帰りかける警官に向って、 「ちょっと待って下さい」  と、大きな声でいった。 「何だね?」 「この女は、さっきの死体の女と別人ですよ」 「何だって?」  二人の警官はぐるりと振り返り、青木と、白いセーターの女を等分に見た。 「なぜ違うと思うんだね? 服装が違うのかね?」 「いや。白いセーターに、赤いスカート、それに、サンダルの恰好《かつこう》は同じですよ」 「じゃあ、どこが違うのかね? 顔が違うのかね?」 「死体は倒れていたから、顔は見えませんでした」 「それじゃあ、別人とはわからんだろうが」 「でも、別人ですよ」 「証明できるのかね?」 「出来ます。さっき僕が見た時、顔をドブに突っ込んでいたんです。ドブには水が溢《あふ》れかけていて、耳のあたりまで、どっぷり浸かっていた」 「苦しいから、無意識に、顔を出したんだろう」 「それなら、顔に、跡がついている筈《はず》ですよ」  青木は、ドブに手を突っ込んだ。手を出すと、黒い汚水が、彼の手に、うす墨のような跡をつけていた。 「ごらんなさい。水が汚れているから、ちゃんと跡がつきます。ところが、彼女の顔には何の跡もついていない。だから、別人ですよ」 「そうかね?」  警官は、白いセーターの女と、青木の相手をした飲み屋の女の二人を見た。  白いセーターの女は、とんでもないというように、肩をすくめ、飲み屋の女は、 「あたしも、そのお客さんと下を見たんだけど、愛ちゃんは、顔をドブなんかに突っ込んでなかったわ。だからこそ、こうして、ちゃんと生きてるんじゃないの」 「君の名前は愛ちゃんというのかね?」  警官が、白いセーターの女にきいた。 「白石愛子」  と、女は、無愛想に答えた。青木は、その女の顔を、じっと見すえた。この女は、さっきここで倒れていた女とは違う。それは、はっきりしている。だが、なぜ、入れ替ったのか。 「念のために、君の名前も聞いておこうかね」  警官は、飲み屋の女にも声をかけた。 「あたしは、中西ゆみ子。でも、何もなかったんだから、関係ないでしょう?」  相手は、怒ったような顔でいった。青木は、改めて、自分が抱こうとした娼婦を見直した。いかにも、気の強そうな女だった。ショートカットのせいか、少年のように見える瞬間がある。 (この女も、嘘《うそ》をついている)  と、青木は、思った。  だが、警官は、そうは考えなかったらしい。 「人騒がせな男だな」  と、舌打ちをして、青木を睨《にら》んだ。青木は、顔を赧《あか》くして、 「ここで、本当に若い女が死んでいたんですよ。ドブに頭を突っ込んで」 「それを、あの二階で見たというんだろう?」 「ええ」 「ここへ降りて来て、死んでいるかどうか確かめたのかね?」 「いえ。死んでいるとわかったから、すぐ一一〇番しに行きました」 「われわれだって、死んだかどうかの確認は難しいものなんだ。それなのに、君は、二階から見て、俯伏《うつぶ》せに倒れている女が、酔い潰《つぶ》れて寝ているのか、死んでいるのか、わかったというのかね?」 「確認しなかったのは悪かったと思いますが、死んでいるのがわかったんです。上手《うま》く説明できませんが、僕には、わかったんですよ。死んでいるとね」 「だが、酔って寝ていただけなんだ。君は、あの二階で、女と一緒にいたんだろう?」 「ええ」 「寝るところだったんだろう? え?」 「それと、事件とどんな関係があるんですか?」  青木も、いくらか喧嘩腰《けんかごし》になっていた。四千円出して、女と寝るところだったのに、わざわざ一一〇番してやったのに、この警官たちは、いかにも、青木が、いい加減なことをいっているみたいに受け取っている。  二人の警官は、馬鹿にしたように笑い、 「女と寝ようとしてたんじゃ、そっちに気を取られて、しっかり見られんやな」  と、顔を見合せた。二人の女も、同じように笑っている。  青木の顔が、屈辱でゆがんだ。      四  いったん自分のアパートに戻ったものの、青木の怒りは、いっこうに納まらなかった。  あの横丁で人が死んでいたことは確かなのだ。殺されたのか、それとも、事故死か、病死かわからないが、あの路地裏に倒れていた若い女は、間違いなく死んでいたのだ。  それなのに、白石愛子とかいう女が、入れ替っていて、中西ゆみ子という飲み屋の女が、口裏を合せて、何もなかったといい、警官も、彼女たちの言葉を信用して、青木を間抜け扱いした。  我慢がならないと思った。あの騒ぎの最後のほうでは、新聞記者らしい男も顔をのぞかせていたから、明日あたり、「若いサラリーマンのとんだ勘違い」といった記事が出るのではないだろうか。そんなことにでもなったら、大恥をかくことにはなる。それも、自分が勘違いしたのなら仕方がないが、あの若い女は、本当に死んでいたのだ。それを証明して、それを警察に突きつけてやらなければ気がすまない。  午前三時に近かったが、青木は、タクシーを拾って、もう一度、「どぶ鼠横丁」に出かけた。  死体は、まだ、その一角のどこかにある筈《はず》である。それを見つけ出せたら、自分の正しさが証明できるし、あの二人の女の嘘をばらしてやれるのだ。  横丁は、眠りについていた。ぽつん、ぽつんと、黄色っぽい電灯が、ところどころに点《つ》いてはいたが、さっきまで、喧騒《けんそう》と、酒や、焼そばや、中華料理の匂《にお》いをまき散らしていた店々は、戸を閉めてしまっていた。  酔っ払いが歩いていた路地にも、人の姿は見えない。  東と南に、屏風《びようぶ》のようにそそり立つ二つの高層ビルの中に、ひれ伏すように、横丁は、黒い姿をかがめている。  それは、まるで、巨大な一匹の爬虫類《はちゆうるい》が、用心深く、地面にうずくまっている姿に似ていた。  青木は、気負いたってここにやって来たのだが、いざ、横丁に着いてみると、巨大な爬虫類が、大きな口をあけて、自分を呑《の》み込もうと待ち受けているように見え、一瞬、足がすくんでしまった。 (帰ろう)  と、思った。この中で、誰が死んだところで、それがたとえ殺人であったとしても、自分には関係のないことではないか。  しかし、そう言い聞かせても、彼の若い自尊心が許さなかった。あの二人の警官の鼻をあかしてやらなければ気がすまない。それに、冒険をしてみたい気持もあった。  青木は、思い切って、車の途絶えた大通りを渡り、横丁の入口を入った。  青木の姿は、たちまち、路地の暗がりに呑み込まれてしまった。  さっきは気がつかなかったのだが、この路地は、どうしてこう、じめじめと湿っぽいのだろうか。ところどころに点灯してある裸電球の明りまで、にじんで見える。  誰の姿もない。ここの住人たちも、眠りについてしまったのだろうか。だが、なぜか、青木には、彼等が、家の中で、じっと息をひそめているような気がしてならなかった。これは、青木の疑心暗鬼だろうか。  何メートルか路地に入ったところで、青木は、入口の方向を振り返った。  たいして、まだ歩かなかった筈なのに、横丁の入口は、はるか遠くに見えた。まるで、双眼鏡を反対からのぞいたみたいに、やけに遠く、小さく見えるのだ。あそこまで戻るのは大変だ。  ふいに、お白粉《しろい》の匂《にお》いがした。  青木は、ぎょっとして、振り返った。路地の隅に、みかん箱を置いて、それに、あの中西ゆみ子が、着物姿で、暗がりの中に、ぽつんと腰を下していた。  暗いので、化粧をしたゆみ子の顔が、白く浮き出て、薄気味が悪かった。 「なんだ。君か」  と青木は、虚勢を張って、笑って見せた。が、その声が、少し震えているのは、自分でも気がついた。 「やっぱり来たわね」  ゆみ子は、みかん箱に腰を下したまま、無表情にいった。 「ああ、来たとも」  青木は、わざと強い声でいい返した。馬鹿にされてたまるかという気持だった。  ゆみ子は、袂《たもと》から煙草を取り出して火をつけた。青木の感情など、頭から無視した態度だった。 「でも、すぐ帰ったほうがいいわね」  ぷうっと、青木に向って、煙草の煙を吐き出した。 「帰れないね。ここで、一人の女が死んだ筈だ。それを確かめるまでは、帰れないよ」 「馬鹿な人ね。そんなことを確かめて、何になるのよ。あんたには、何の関係もないじゃないの」 「意地だよ」 「何ですって?」 「男の意地だよ。警官に馬鹿呼ばわれして黙っていられるか。僕は、絶対に、死体を見たんだ。君も嘘をついた」 「ふふふ——」  ゆみ子は、暗がりの中で、嫌な笑い声を立てた。馬鹿にしたような、無関心なような笑い声だった。 「何がおかしいんだ?」  青木の声がとがった。 「男の意地なんていうからよ。自分に関係のないことに、いちいち腹を立てたって仕方がないじゃないの」 「人が死んだ。いや、殺されたのかも知れない。それを、はっきりさせるのは、市民の義務じゃないか」 「あら、あら。今度は、市民の義務。だんだん、大変なことになってくるじゃないのよ」  ゆみ子は、また、ニヤニヤ笑い出した。  青木は、こみあげてくる怒りを、抑えつけて、 「ここで、一人の女が死んだ。君と、もう一人の白石愛子とかいう女が、芝居を仕組んで、警官を欺《だま》したが、僕は、あんな手には引っかからんぞ。まだ、この横丁のどこかに、死体がかくしてある筈だ。この近くに、死体を埋めるような場所はないからね。だから、きっと見つけ出して、警察に突き出してやる」 「じゃあ、探してご覧なさいな」 「探すとも」 「でも、どうやって探す積《つも》りなの?」  ゆみ子は、からかうように、青木を見た。  青木は、詰ってしまった。勢込んで、横丁に入って来たのだが、警察官ではないので、一軒一軒、調べていくことも出来ない。ただ、曲りくねった路地を歩き廻《まわ》ったところで、どこかの家の中に死体がかくされていたら、見つかりはしないだろう。 「何とかするさ」  と、青木が、強がりをいうと、ゆみ子が、また、笑って、 「そんなことだろうと思ったから、あたしが、こうして待っていたのよ。あたしが、力を貸してあげるわよ」 「さっきは、ごまかしたじゃないか」 「ごまかしはしないわよ。あんたに疑われたままじゃあ、この横丁の名誉に拘《かか》わるから、探すのを手伝ってあげようっていうのよ。そして、納得したら、さっさと帰って貰《もら》いたいわ」 「どう手伝ってくれるんだ?」 「一軒一軒、調べてみたいんでしょう?」 「そりゃあ、そうだが」 「じゃあ、調べなさいな。鍵《かぎ》は、かかってないわよ」  そんな相手のいい方に、青木は、戸惑って、 「しかし、家の中には、人がいるんだろう?」 「あけてみればわかるわよ」  ゆみ子は、立ち上ると、近くの一杯飲み屋のガラス戸を、無造作に、がらがらと開けた。 「さあ、どうぞ。お入りなさいな」 「入ってやるさ」  度胸を決めて、青木は、店に入り、明りをつけた。狭い店の中には、無人のカウンターと、止り木が三つばかり並んでいて、急な階段が、二階に通じていた。  人のいる気配はない。どの一杯飲み屋にも、ゆみ子みたいな女が、二人か三人はいた筈だが、あの女たちは、どこへ消えてしまったのだろうか。 「二階にいるのか?」  と、青木は、あごでしゃくって見せたが、ゆみ子は、戸口に寄りかかり、煙草をくわえて、ニヤニヤ笑っているだけだった。  青木は、靴を脱ぎ、階段をあがってみた。  四畳半の部屋と、三面鏡や、衣裳《いしよう》ダンス。だが、誰の姿もなかった。      五  みんな、通いの従業員だったのだろうか。  だが、この横丁の人たちは、役所の立ち退き命令に反抗して、動かずにいると聞いた。二つの高層ビルに太陽を奪われ、逃げ場はなくなっても、がんばり続けているとも聞いたことがある。  それなのに、店を閉めると、横丁から出て行くというのは、解《げ》せなかった。  階下《した》へおりると、ゆみ子に向って、 「ここの人間は、どこへ行ったんだ?」 「さあ、知らないわ。でも、誰もいないから調べるのに、楽だったんじゃないの?」 「そりゃあ、そうだが——」 「死体は見つかった?」 「いや。だが、この横丁のどこかにかくしてあることだけは確かなんだ。外へ持ち出せた筈《はず》はないんだからな」 「じゃあ、他の店も探してご覧なさいな」  ゆみ子は、相変らず、笑いながらいった。  青木は、隣りの焼そば屋の戸を開けた。ここも、鍵はかかっていなかった。  電気をつける。ラードの匂いが残っている鉄片が、油で光っていた。棚には、調味料が並び、床のザルの中には、大きなキャベツが、五、六個入っていた。  冷蔵庫を開けてみると、ビールや、肉が入っている。このまま、すぐ、店が開ける感じだった。  住居は二階である。また、急な階段をあがって行った。ここも、狭い四畳半に、テレビや、机や、タンスが、所狭しとばかり並べてある。押入れには、布団が詰っている。人の姿は、どこにもなかった。 (いったい、どこへ消えちまったんだろうか?)  青木が調べに来るのを予想して、ここの住人が、中西ゆみ子をのぞいて、全員、近くのホテルか旅館へ泊っているのだろうか。  そうも考えてみたが、どうも、違うようだ。警察権のない、しがない安サラリーマンの青木が調べに来たところで、拒絶して家にあげなければ、それですむことだからである。夜逃げなどする必要は、どこにもないのだ。 「おい。君いッ」  と、青木は、二階から、階下《した》にいるゆみ子を呼んだ。彼女は、事情を知っている筈だ。それなら、あの女に、なぜ、この家の住人が消えてしまったのか、問いたださなければならない。 (ぶん殴ってでも、吐かせてやるぞ)  と、思い、もう一度、 「おいッ」  と、叫んだが、返事もなく、あがって来る気配がなかった。  店のビールでも飲んでいるに違いないと、舌打ちをして、青木は、がたつく階段をおりて行った。  がらんとした店。あの女まで、いなくなってしまっていた。  青木は、靴をはき、あわてて、店の外へ出てみた。  くわえ煙草で、青木が探し廻るのを、ニヤニヤ笑って眺めていた中西ゆみ子は、どこかへ消えてしまったのだ。  ふと、青木は、背筋に冷たい戦慄《せんりつ》が走るのを覚えた。もちろん、あの女が、幽霊みたいに消えたと思ったわけではない。この近くの、どこかの家へかくれたのだろう。それでも、なお、青木は、ぽつんと、ひとりだけ取り残されてしまったという恐怖に襲われたのだ。  青木は、次の焼き鳥屋の戸を開けた。明りをつけ、二階にあがる。だが、この店にも、誰もいなかった。  青木は、次から次へと、立ち並ぶ店を一つ一つ調べていった。どの店も、鍵はかかっていなかった。カウンターの上に、酒が入った徳利が並んでいる飲み屋もあった。おでんが鍋《なべ》に半分くらい残って、冷えてしまっている。後片付けもしないで、どこかに消えてしまったらしい。  後は、もう意地だった。青木は、息を切らせながら、軒並みに調べていった。だが、どの店も、がらんとして、人の姿はなかった。わずかに、薄暗い路地を、のら猫が走り去っただけだった。  中西ゆみ子も、どこへ消えてしまったのか、見つからなかった。  青木は、探し疲れて、彼女がさっき腰を下していたみかん箱の上に、腰かけた。煙草に火をつける。  いやに静かだった。まるで、墓場のように静かだと思ったとき、青木は、鋭い恐怖に襲われた。  自分が、この暗さと静けさの中に、呑《の》み込まれてしまいそうな不安だった。周囲の家が、自分の上に、のしかかってくる感じなのだ。  青木は、見栄《みえ》も外聞もなく、ここから逃げ出すことにした。  彼は、出口に向って走った。自分の足音だけが、がんがん夜の闇《やみ》にひびくのが、よけい不気味だった。まるで、自分の足音に、自分が追いかけられているような気分になってくる。  どのくらい走ったろうか。足がもつれて、危うく倒れそうになったが、いつまでたっても、横丁の入口に到着しない。両側は、いぜんとして、戸を閉めた一杯飲み屋や、焼き鳥屋や、中華そば屋や、ガセネタ専門の洋服屋などが立ち並んでいて、出口らしいものはどこにも見当らないのだ。  狭い路地が、どこまでも続いている。いったい、何処《どこ》がどうなってしまったのだろうか。  青木は、立ち止って、周囲を見廻した。じっとりと、腋《わき》の下に汗をかいていた。明らかに冷汗だった。  横丁の出口は、何処へ消えてしまったのだろうか。これでは、まるで、「どぶ鼠横丁」という巨大な生き物に呑み込まれてしまった感じだ。  一休みしてから、一つの店の二階から屋根に登ってみた。屋根の上に立ち上ったが、いつの間にか、濃い霧が出ていて、どちらが南か北かもわからなかった。車の音も聞こえて来ないので、車道の方向も見当がつかない。  諦《あきら》めて、地面におりた。また、これはと思う方向へ歩いてみる。だが、いつまでたっても、狭い路地が続くだけだった。横丁の出口は、文字通り消えてしまったのだ。  このまま、じっと、夜が明けるのを待つべきなのだろうか。明るくなれば、出口はわかるだろう。出口がわからないまでも、自動車が走り出せば、その音で、通りの方向がわかる筈だ。 (だが——)  この不気味な静けさは、いったい何だろう。夜明けまで、このまま無事でいられるだろうか。ここの住人たちは、どこかにかくれて、じっと青木を狙《ねら》っているのかも知れない。  早くここから逃げなければと思った。死んだ若い女のことなど、どうでもよくなっていた。下手をすれば、こっちが、あの女のように、あの横丁のどこかで、死んで倒れているかも知れないのだ。  疲れた身体《からだ》に鞭打《むちう》って、中西ゆみ子と出会った場所へ歩いて行った。彼女の姿はなかったが、彼女が腰を下していたみかん箱は、まだ、そこにあった。  青木は、みかん箱が置いてある一杯飲み屋を、改めて見直した。考えてみれば、ここは、さっき、中西ゆみ子と一緒に二階にあがり、四千円払った店なのだ。  ガラス戸は、他と同じように、すぐ開いた。  人の姿はない。土足のまま、二階にあがってみた。見覚えのある部屋だ。安物の鏡台に、衣裳ダンス。それにカラーテレビ。布団は押入れに入っていた。  別に、布団のうしろに、誰かがかくれているとは思わなかったのだが、青木は、派手な模様の布団を、押入れから引っ張り出した。派手だが、安物の、男と女の情事の匂《にお》いのしみついた布団だった。  布団を出したあとで押入れに、ぽっかりと穴があいた。 「あッ」  と、青木が声をあげたのは、それが、文字どおりの穴だったからだ。  押入れの奥の壁に、ぽっかり穴があいている。  この店だけではない。きっと、この横丁のどの店の押入れにも、これと同じ穴があいているに違いない。  穴は、真っ暗だった。多分、中西ゆみ子も、この穴の中に消えたのだろう。死体も、ここにかくしたのか。  ポケットを探り、ライターを取り出して火をつけ、それをかざすようにしたが、下から風が吹きあげてきて、すぐ消えてしまった。  ここは二階なのだから、一階へおりる穴かと思ったが、そうではなさそうだった。もっと深い穴のような気がするのだ。  そろそろと、手を差し入れてみた。梯子《はしご》のようなものが、手に触った。確かに梯子だ。これを伝わっておりて行くと、いったい何処《どこ》へ行くのだろうか。  戦争中の防空壕のようなものがあるのだろうか。  何が待ち構えているかわからないという不安が、青木をためらわせた。しかし、考えてみれば、この横丁の出口がわからないのだし、路地にいたら安心だという保証もないのだ。  青木は、覚悟を決めて、暗い穴にもぐり込み、梯子を、ゆっくり、ゆっくりおりて行った。  冷たい風が、足元から吹きあげてくるだけで、物音も、人の話声も聞こえて来ない。穴は、真っ暗で、なにか、奈落へ落ちて行くような気がしてしかたがなかった。 「一段、二段、三段——」  と、青木は、口の中で、小声で数えながら、梯子をおりて行った。いぜんとして、穴の深さがわからない。梯子がかかっているところをみると、そう深くはないと思うのだが、意外に深いのだろうか。 「四段、五段——」  ふいに、足が宙に流れた。そこにあるべき梯子の横木がなかったのだ。穴の下から、押入れに向って立てかけてある梯子だと、勝手に考えていたのだが、上から下へぶら下げた梯子だったのだ。 「あッ」  という悲鳴を残して、青木の身体は、真っ暗な穴の中へ落下して行った。      六  死ぬ夢を見ると、その時には、現実にも、その瞬間に死んでいるものだと、青木は、聞かされたことがある。  青木は、危く殺されかけたところで、夢からさめた。  正確にいえば、気がついたのだ。  眼を開けた。が、暗くて何も見えない。もう一度眼を閉じ、しばらくして開けてみる。少しは、ぼんやりと、何かが見えるようになった。  どこか、地底のように見えるが、よくわからない。床は土だった。風通しが悪いのか、空気が、じめじめと湿っているように感じられた。 (ここは、あの横丁の地底だ)  とだけは、わかった。  何か、暗闇《くらやみ》の中で、うごめいている。人間だった。一人や二人ではない。十人、二十人、いや、もっと沢山の人間だ。まるで、巣の中の蟻《あり》のように、ぞろぞろと動き廻《まわ》っているのだ。  何をしているのか知りたくて、青木は、身体の節々の痛みに顔をゆがめながら立ち上がり、天井の低さに気をつけながら、のろのろと、彼等に近づいて行った。  傍に寄るにつれて、彼等の動きが、ますます蟻に似ているのに気がついた。  餌《えさ》を見つけた蟻が、巣から餌までの間を、二列になって、往復する。あれと同じだった。  男と女、老人と子供たちが、二列で、ぞろぞろと、往復している。暗いので、顔の表情はわからないが、全員が、黙々と歩いている。背中に、各自が、麻のずた袋を背負っている。中に何が入っているのか、すぐにはわからなかった。  土だった。  袋の中に、土が一杯詰め込んであるのだ。どこかで詰め込んで来て、こちらの端に捨てているのである。  彼等は、空になった麻袋を持って、また、反対側に向って、一列になって歩いて行く。  どこから、その土を持って来るのか、青木は、眼をこらしたが、その方向は、本当の暗闇で、青木には見えなかった。  だが、ここで列を作って働いている人間たちには、よくわかるらしい。この暗がりで、物がよく見えるのだろう。まるで、もぐらのような人間たちだ。  その中に、中西ゆみ子の姿を発見して、青木は、その腕をつかんで、自分のほうに引っ張って来た。 「ここは、どこなんだ?」  暗いので、顔を突きつけるようにして、青木がきいた。  ゆみ子は、土砂で汚れた手を、軽く叩《たた》いてから、 「地の底よ」 「そんなことはわかっている。ここは、横丁の下なんだろう?」 「ええ。そうね」  ゆみ子の顔は、さっき見た時とは、別人のように見えた。化粧がなく、暗闇の中で、眼だけが、異様にキラキラ光っている。土で汚れた顔や手足。Gパンとセーターも土泥で汚れている。まるで、もぐらだ。 「ここで、何をしているんだ?」  青木は、眼をこらした。相変らず、人々は、黙々と土砂を麻袋で運んでいる。暗闇で、青木には、ぼんやりとしか周囲が見えないのだが、彼等は、暗闇の中でも、物が見えるのか。 「土を掘って、運んでいるのよ」  ゆみ子が、答えた時、ふいに、「どどッ」という地鳴りのような音が聞えた。天井の一角から、大量の土砂が落下して来た。  青木は、あわてて、その場に突伏した。  忘れていた土の匂《にお》いが鼻をついた。土の匂いというのは、こんな匂いだったのか。  ばらッばらッと、青木の身体に、土塊が降り注いで来た。伏せている彼の耳に、悲鳴が聞こえた。  青木は、伏せたまま、眼を開けて、悲鳴のしたほうを見た。が、舞いあがる土煙りと暗さのために、何も見えなかった。 「二人、怪我《けが》したみたいだわ」  隣りで、ゆみ子が、悲しそうな声で呟《つぶや》いた。 「君には見えるのか?」 「見えるわ」 「なぜ、ここにいる人たちは、こんな暗がりで物が見えるんだ? 特殊な訓練でもしたのかい?」 「ふふ」  と、ゆみ子は、小さく笑って、 「いや応なしに、馴《な》らされてしまったのよ。東も南も、あんな馬鹿でかいビルを建てられて、朝から真っ暗な生活をさせられれば、自然に、暗がりでも、眼がきくようになるわ」  人々が、土砂の崩れた場所に集まり、埋もれた仲間を助け、補修作業を開始した。といっても、青木は、気配でそう感じるだけで、はっきりと見えないのだ。 「もう一度聞くが、君たちは、ここで何をしているんだ?」 「さっき答えたじゃないの。土を掘って、運んでいるだけよ」 「何のために?」 「あたしたちの横丁を守るためよ」 「しかし、立ち退きを迫られているというじゃないか?」 「そうよ」 「こんな、もぐらの真似《まね》をするのが、守ることになるのかねえ」  青木には、ここの人間のやっていることが理解できなかった。 「怨念《おんねん》よ」  と、ゆみ子はいった。 「怨念?」 「東と南を大きなビルでふさいで、太陽を奪って、いや応なしに、あたしたちを追い出そうとする人たちへの怨念なのよ。あたしたちは、ここから立ち退かないし、彼等に、きっと後悔させてやるわ」 「わからないね」 「何がよ?」 「第一に、こんな穴掘りが何の役に立つんだ? こんな馬鹿なことをするくらいなら、さっさと、横丁から逃げ出して、他で生活したほうがいいんじゃないか」 「あたしたちは、ここが好きなのよ。それに、はした金で追い出されてたまるもんか。あたしは、まだ若いけど、あたしの両親は、ここに、三十年近くも住んでいたんだから」 「僕だったら、こんなじめじめした、暗い横丁は、ごめん蒙《こうむ》るね。すぐ逃げ出すね。金なんか要らないよ」 「あんたには、わからないのよ」 「何がだい?」 「この横丁が、どんなに汚なくたって、あたしたちには、大事な故郷《ふるさと》なのよ。ここ以外に、あたしは、故郷がないの。だから、故郷を守るのよ。もぐらの真似をしたって、どぶ鼠《ねずみ》みたいな生き方をしたってね」  ゆみ子の声が、だんだん大きくなり、その声は、地底に、鈍くひびいた。  土砂が崩れた場所は、やっと修復が終ったらしく、人々は、また、土運びを開始した。こんなに土を掘って、地下都市でも作りあげる気なのだろうか。 「君たちの中には、ここから他所《よそ》へ逃げ出そうとする人だっているだろう?」  と、青木は、きいた。 「————」  ゆみ子は、黙っている。答えたくない質問だったに違いない。突然、青木の頭に閃《ひら》めいたことがあった。 「わかったぞ」  と、青木は、叫んだ。 「路地裏で死んでいた娘は、横丁から逃げようとしたんじゃないのか。他の者から見れば、故郷を捨てる裏切者だ。だから、のどを絞めたか、ドブに顔を突っ込んで窒息死させたか、どちらかわからないが、殺したんだ」      七  ゆみ子は、そうだとも違うともいわなかった。  その代りのように、立ち上ると、 「もうすんだことを、とやかくいったって仕方がないわよ」 「何がすんだことだ? 君たちが殺したのなら、殺人じゃないか。人殺しじゃないか。それがどうして、もうすんだことだといえるんだ」 「前にもいったでしょう。たとえ、人殺しがあったって、死体は、永久に見つからないわよ」 「そうか。こうやって、地面の下で、死体を埋めているのか。そうなんだろう?」 「そんな馬鹿なことはしないわ。いいこと。あの女は、死んだほうがいい人間だったのよ。きっと、死んで良かったと思ってるわよ。それに、あたしたちの町を守るためには、時には、犠牲が必要なのよ」  それだけいって、土砂運びをしている隊列の中に戻って行こうとするゆみ子を、青木は、腕をつかんで引き止めて、 「僕を、ここへ閉じ込めて置く積《つも》りか? 僕は、君たちと違って、暗いところじゃ、物が見えないんだ」 「あんたは、勝手に入り込んで来たのよ。あたしたちが、呼んだわけじゃないわ」 「そりゃあ、わかってるよ。だが、どうやったら出られるのかわからないんだ」 「夜が明けるまで待つことね」  それなり、ゆみ子は、単調な作業の列に加わってしまった。  青木は、仕方なく、地面にぺたりと腰を下してしまった。上手《うま》く地上に這《は》い上ったところで、横丁の出口がわからないのでは、逃げようがないと思ったからである。  覚悟を決めてしまうと、彼等のしていることを知りたくなった。  多分、あの若い女の死体を地下に埋めているのだろうと思ったが、それにしては、作業は、延々と続いている。死体を埋めるだけなら、いくら深く埋めるにしても、麻袋十杯分ぐらいの土砂で十分だろうし、第一、こんな地下街を掘る必要はないだろう。  一時間たっても、二時間たっても、彼等の作業は、黙々と続けられている。前屈みになり、一歩一歩ふみしめるようにして、土砂を運んでいる人々の姿は、まるで、何かの怨念にとりつかれている感じだった。ゆみ子も、怨念といったではないか。  東と南側に、巨大なビルを建てて、彼等から太陽を奪い、暗がりの世界に追い込んだ大資本への怨念なのか、それとも、自分たちに立ち退きを迫っている役所に対する怨念なのか。  集められた土砂は、今度は、少しずつ、むき出しになった下水溝に捨てていた。集団蟻のようなこの単純な作業は、昨日、今日始められたようには思えなかった。きっと、一週間も二週間も前から、いや、或は、何カ月も前から行われているに違いなかった。  太い木の柱が、ところどころに立ててあったが、それだけでは、青木には、心もとなく見えた。さっきのような土砂崩れが起こるのも当然だろう。  これでは、命がけだ。そんな危険を冒してまで、彼等は、いったい何をしているのだろう。  地上の横丁から追われている今、地下に、彼等の新しい町を作りあげようとしているのだろうか。それとも、この辺りには、昔の財宝でも埋蔵されているという言い伝えがあり、その財宝を掘り当てようというのだろうか。が、どちらも、当たっていないように思えた。  彼等の作業は、小休止した。ゆみ子が、青木にもお茶を持って来てくれて、のどの渇いていた彼は、喜んで口にしたが、しばらくして、急に睡魔に襲われた。  青木のところに運んで来たお茶だけに、睡眠薬が入っていたのだ。  青木は、黒い頭巾《ずきん》で顔をかくした人々によって、自分が、深く掘られた穴に埋蔵される夢を見た。殺されかける夢は、今日はこれで二度目である。  ばらばらと、自分に降りかかってくる土砂に、思わず悲鳴をあげ、自分の悲鳴で、青木は、眼をさました。  頭上に太陽があがっていた。青木は、「どぶ鼠横丁」の外の歩道に、転がっていたのである。  通行人が、不思議そうな顔で見つめている中で、青木は、ふらふらと立ち上り、大通りの向うにある横丁を見つめた。  あの地中の作業が、夢だったみたいに、横丁の路地では、住人たちが、ニコニコ笑いながら、掃除をしている。夕方になったら、いつものように、赤提灯《あかちようちん》に灯がともり、嬌声《きようせい》がひびくことだろう。中西ゆみ子は、また、何千円かで、客に身を抱かれるに違いない。 (あれは、本当に、夢だったのではないだろうか?)  ふと、そんな思いにとらえられた。が、じっと、自分の両手を見つめると、爪《つめ》の間に、土が溜っていた。やはり、あれは、夢ではなかったのだ。  しかし、青木は、警察に行く気にはなれなかった。目撃した地下の話をしたところで、警察が信用する筈《はず》がなかったし、改めて、死体を捜索してくれることもないと思ったからである。  翌々日、青木は、こんな噂《うわさ》を聞いた。  何度目かの立ち退き交渉に行った役人たちが、横丁で、肉の沢山入ったシチューをご馳走《ちそう》になったが、その肉が、奇妙な味がしたという噂である。犬の肉を使ったのではないかという話も聞いたが、ひょっとすると、もっと別の肉だったのではないかと、青木は考えた。  そして、半月後のことだった。  人の気配の消えた午前二時頃である。暗い夜空に、傲然《ごうぜん》とそびえ立っていた九階建のデパートと、十一階建のマンションが、突然、轟音《ごうおん》を立てて、横倒しになった。  それは、巨大な古生物が、死ぬ姿にどこか似ていた。  まるで、巨大地震に襲われたような惨状だった。地盤が弱いところに、高層ビルを建てたのが悪かったのだといった議論がやかましかった。  誰にも、本当の理由はわからないようだった。  ただわかっているのは、「どぶ鼠横丁」が太陽を取り戻し、この大事件で、しばらくの間は、役所も、立ち退きを要求しなくなったということだった。 [#改ページ]    第六太平丸の殺人      一  最近は、漁船に乗ろうという若者が少くなって来た。  特に、数カ月から時には、一年近い遠洋漁業に従事している漁業会社や、船長にとっては、それが、一番の悩みのタネである。大都会に行けば、もっと、面白い仕事がいくらでもあるのに、何を好んで、海ばかり眺めての力仕事と、現代の若者らしく計算するのだろう。何しろ、辛い仕事だし、何カ月も、女の顔を見られない仕事なのだ。  従って、自然に、出漁の度に、足りない人数を、止むなく臨時に傭《やと》うことになる。とにかく、身体《からだ》が丈夫で、網を引く力がある若い男なら、多少、うさん臭い人物でも乗せていかなければ、仕事にならないからである。  S港から、六月十日、印度洋に向って出港した第六太平丸には、常連の漁師七人の他に四人の臨時傭いが乗っていた。他の船も同様である。  いずれも、二十五、六歳で、力だけは、ありそうである。船長の藤原晋吉は、一目みて、四人とも、漁師の仕事は初めてだと思ったが、案の定、船が外海に出ると、一斉に、ゲイゲイやり出した。遠洋漁船といっても、二百トン足らずだから、猛烈にゆれる。しかし、不思議なもので、三日も、放っておくと、自然に、船酔いにもなれて、また、普通に食べられるようになるのである。  船が、台湾沖を通過する頃には、四人とも、何とか、ゆれる甲板を歩けるようになり、漁師らしい恰好《かつこう》もついてきた。 (この分なら、何とかなるだろう)  と、船長の藤原晋吉は、ほっとしたが、印度洋に入った時、無線士の小川が、あわただしくブリッジに飛び込んで来た。 「今、本社から大変な知らせが入りました」  と、小川は、通信文を書いたメモを渡した。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈警察カラノ通報ニヨレバ、第六太平丸ニ乗船シタ臨時船員ノ中ニ、前科二犯ノ殺人犯木下五郎(二十六歳)ガイルコトガワカッタ。年齢以外、犯行後、顔ヲ整形シタタメ、容貌モ不明デアル。兇暴《きようぼう》性ガアルノデ注意セラレタシ〉 [#ここで字下げ終わり]  読み終って、船長の藤原も蒼《あお》くなった。それでなくてさえ、最近、漁場が遠くなった割に、給料が増えないので、乗組員たちの間にも、不穏な空気が絶えないところだった。そこへ、殺人犯がまぎれ込んだとなれば、どんな物騒なことが起きるかわからない。 「今のところ、君以外は、このことを知っている者はいないんだな?」 「すぐ、船長に知らせに来ましたから。もっとも、犯人の木下五郎自身は別ですが」 「よし。他の乗組員には、当分、この電文は内緒だ。下手に混乱が起きると困るからな」 「すぐ、日本へ引き返しますか?」 「いや。それは出来ん。考えても見たまえ。船は、もう印度洋へ入って、あと二日で漁場に到着するんだ。それに、今、急に引き返したら、犯人が怪しんで、どんな兇暴な行動に出ないとも限らん。日本へ着くまでにも一カ月はかかるんだからな。ここは、そっと、あの新入りの四人の様子を見て、誰が、犯人の木下五郎か見定める必要がある」      二  無線士の小川が、無線室へ戻ったあと、船長の藤原は、四人の名簿を見た。  篠崎 誠(二十五歳)  田口計二(二十六歳)  坂下 健(二十四歳)  高橋 悟(二十七歳)  と、なっていて、その下に、簡単な学歴と職歴が書いてあるが、当てにはならない。二十六歳とあるのは、田口計二という青年だけだが、だからといって、この若者が、犯人の木下五郎だとは限らない。むしろ、犯人だったら、年齢も詐称するに違いないからである。  日本から、ここ印度洋まで、四人の中、誰が一番犯人らしく見えただろうかと考え直してみた。高橋が、一番、性格が荒っぽく思える。すでに、古い乗組員と三度も、取っ組み合いの喧嘩《けんか》をしているのは、彼だけだ。他の三人は、別に、これといった目立ったことは起こしていない。中でも、坂下が、一番無口で大人しいが、だからといって、喧嘩早い高橋が殺人犯とは限らない。むしろ、一番大人しくしている坂下かも知れないのだ。  船長の藤原晋吉にとって、救いなのは、もぐり込んだ犯人が、まだ、自分のことを知られていないと思い込んでいるだろうということだった。兇暴犯らしいが、自分がバレたと気付かない限り、自分から正体を示すような兇暴な行動には出て来ないだろう。船長としては、あくまで知らぬ顔で通し、無事、漁を了《お》えたら、日本に帰って、あの四人を警察へ引き渡し、木下五郎の割り出しは、警察にやって貰《もら》えばいい。船長としての藤原は、そう心に決めていた。印度洋まで来てしまった以上、漁をせずに帰ることは出来ないのである。自分たちの給料にひびいてくるからだ。 (とにかく、何事もなく、無事、漁を了えてS港に帰りたい)  というのが、藤原の願いだった。それに、相手が一人だという気もあった。こちらは、漁で鍛えられた男が七人、それに、あと三人の若者がいるのだ。万一の事態が起きても、木下五郎一人を、押さえつけることは可能だろう。勿論《もちろん》、そんな場面は起きて欲しくないが。  だが、そんな船長藤原の願いとは逆の事件が、翌日、起きてしまったのである。  明日は、漁場に着くという日の夜のことだった。  明日に備えて、乗組員たちは、早くから眠ったが、甲板の当直には、四十五歳の古沼徳太郎が当っていた。  古沼は、仲間から本名で呼ばれたことがなく、「ケチ沼悪太郎」が、彼の通り名である。酒は少し飲むが、四十五歳の今も独身で、というより妻君に逃げられたのだが、煙草も、バクチもやらない。それが、ケチ沼の由来だが、悪太郎の方は、そうして貯めた金を仲間に高利で貸すからである。この会社の漁師たちは、歩合制で、一航海終って帰ってくると、一人、五、六十万以上貰う。自然に、金使いも荒いし、酒、女、バクチ好きも多い。次の航海までに、金がなくなった仲間に、金を貸すのである。勿論、証文も取るし、利子もとる。船長の藤原以外、全員が、彼から、金額の多少はあっても、金は借りているだろう。「おれは、ケチ沼のために働いてるようなもんだ」と、ボヤく乗組員もいるくらいである。  古沼は、いつも、貯めた金と、仲間に貸した金の証文を身につけている。銀行を信用しないから、三百万近い金を、胴巻きに入れて、漁のときも腹に巻きつけていた。一万円札の、ずっしりした厚味と重みを感じていないと、生き甲斐を感じないというのだから、根っから、金が好きなのだろう。従って、甲板で、夜の見張りに立っている古沼徳太郎の腹巻の中には、一万円札三百枚と、仲間たちの借用証文が、ちゃんと納まっている筈《はず》だった。  風のない、波も静かな夜である。船がゆれず、みな眠りこけている。  午前三時が、当直の交代の時間である。交代員の鈴木は、十分ばかり寝すごしてから、ゴソゴソと起きあがり、生あくびをしながら甲板に上って行った。  月がきれいな夜である。青白い印度洋の月である。  舳先《へさき》に近いマストの根元に、古沼が寄りかかって、眠っているのが見えた。少くとも、最初は、座り込んで、眠っているとしか見えなかったのである。 (しようがねえな)  と、舌打ちしながら、鈴木は、近づいて、 「おい。交代だ」  と、相手の肩を叩《たた》いた。  そのとたんに、古沼の太った身体が、グラリと揺れ、そのまま、声もなく、ゆっくり、甲板に横倒しになってしまったのである。 「あッ」  と、鈴木が、顔色を変えたのは、月の淡い光の中でも、古沼の背中に突き刺さっているジャックナイフの柄と、どす黒い血が、はっきりとわかったからである。      三  全員が、起き出してしまった。  漁のとき以外は点けられない甲板の照明が一斉に点けられ、真昼のような明るさになった。  古沼徳太郎は、完全に、息絶えていた。その死体を取り囲んだ乗組員も、突然のことに、ただ、黙りこくって、眺めているだけである。  船長の藤原は、死体の傍《そば》に屈み込んで、腹巻の中を調べた。みんなの視線が、一斉に船長の手元に集中した。 「ない」  と、藤原は、立ち上って、みんなにいった。 「金も、借用証文も失くなっている」 「————」  乗組員たちは、複雑な表情で顔を見合わせた。その中に、例の臨時|傭《やと》いの四人の若者もいるのを見て、 「誰か、この四人に、古沼がいつも金を持ってると話したか」  と、船長の藤原は、乗組員に聞いた。 「食事のときに話したよ」  と、乗組員の一人が答えた。 「おれも話したよ。何故、ケチ沼かって聞かれたからな」  と、別の乗組員がいった。  藤原は、ちらりと無線士の小川に眼をやってから、覚悟を決めるべき時が来たと思った。 「実は、みんなに話しておかなければならないことがある」  と、藤原は、話しながら、右手で、サメが網にかかった時に、殴り殺す棍棒《こんぼう》を握りしめた。いきなり、木下五郎が暴れ出したら、それで、頭をかち割ってやるつもりだった。 「みんなに黙っていたが、昨日、本社から極秘の電報が入ったんだ。びっくりしないで落着いて聞いて貰いたい。それによると、ここにいる四人の臨時傭いの中に、前科二犯で殺人犯の木下五郎という二十六歳の男が、まぎれ込んでいるというのだ」  船長は、ジロリと、四人を見た。が、あわてて逃げ出す者もいなかったし、いきなり立って、飛びかかって来る者もいなかった。相当なしたたか者に違いないと、藤原は思った。 「さわがないで、みんな、聞いて貰いたい。その男は、顔を整形したとかで、この四人の中の誰だかわからない。それで無用の混乱を避けるために、黙っているつもりだったんだが、古沼が、殺された上、金が盗られたとなると話は別だ」 「金の他に、おれたちの借用証文もなくなっていたんだろう?」  と、発見者の鈴木がいった。 「ああ、その通りだ。こうなったら、電報のことを、黙っているわけにはいかん」 「じゃあ、この四人の中に、木下という殺人犯がいて、そいつが、ケチ沼を殺したのか?」  酒の強い内田がきいた。 「多分そうだろう。木下五郎は、みんなから古沼が、いつも、腹巻の中に三百万近い現金を入れていることを聞いた。それで、殺して、盗ることを考えついたんだと思う」 「しかし、この四人の中の誰が、木下五郎かわからないんじゃ、どうしようもないじゃないか。船長」  副船長格の大島が、首をひねった。その声に合わせるように、四人の若者は、一斉に、「おれじゃねえ」「おれなもんか」と、わめき出した。 「確かに、誰が、木下五郎という殺人犯かわからん」  と、船長の藤原はうなずいた。 「だが、古沼を殺して、金を奪ったことで、誰が犯人かわかったんだ。古沼はいつも、一万円札を三百枚ばかり、束にして持っていたことは、みんなが知っている。つまり、この四人の中で、三百万円を持っている者が、古沼を殺した奴《やつ》だし、殺人犯の木下五郎ということになるからだ」 「成程《なるほど》」  と、大島がうなずいた。 「それで、まず、四人の身体検査をさせて貰う。逃げ出したり、反抗したりする者がいたら、そいつが、殺人犯の木下五郎だと決めつけるからな。その積《つも》りでいろよ」  船長の藤原は、四人に向って、決めつけるようにいい、棍棒を、乗組員の中で、一番力の強い日下部《くさかべ》大作に渡し、 「反抗する奴がいたら、これで、容赦なく殴り倒せ。相手は殺人犯だ。手加減はしなくていい」 「委《まか》せとけ」  と、日下部大作は、太い腕に、棍棒を握りしめた。  藤原と、大島が、四人の若者の身体検査を始めた。  誰も、三百万円の札束は身につけていなかった。ただ、篠崎、田口、坂下が、Gパンのポケットに、それぞれ、ジャックナイフを忍ばせていたのに、一番|喧嘩《けんか》早い高橋だけが、持ってなかったことだった。 「お前だけ、何故、持ってないんだ?」  船長の藤原が、訊問《じんもん》調できいた。 「持ってたけど、落しちまったんだ。落したのはいつか覚えてないね」  高橋は、不貞腐《ふてくさ》れた顔でいった。 「落したんじゃなくて、古沼を刺したんじゃないのか? 肉というやつは、刺されたとたんに収縮するから、それで、抜けなくなっちまったのと違うのか?」 「冗談じゃねえや。喧嘩は嫌いじゃねえが、人殺しはやらねえよ」  と、高橋はいった。 「どうします」  と、大島が、小声で藤原にきいた。 「次は、各自の持物の検査だ。公平を期すために、この四人だけではなく、乗組員全部の持物を調べる。文句はないだろうな?」  船長の藤原が、みんなの顔を見渡すと、乗組員は、みんな、うなずいた。四人の若者の方は、黙っているだけだ。 「お前さんが一緒に来てくれ」  と、藤原は、大島を連れて、船室の中に入っていった。  船室といっても、二百トンのこの船では、全部、カイコ棚のベッドである。それでも、その狭いところに、各自、袋《ザツク》が置いてあり、自分の持物が入っている。家族持ちは、子供の写真を入れたり、若いのは、トランジスタラジオや、テープレコーダーを持っている。殺された古沼みたいに、殆《ほとん》ど何も持たず、腹巻の中に、三百万円と借用証文を入れて常に持ち歩いているのは、例外である。  二人は、まず、仲間の漁師の袋《ザツク》から調べて行った。船長を除いた全員が、古沼から金を借りている以上、乗組員たちにも、動機はあるからである。  だが、誰の袋《ザツク》からも、三百万も、借用証文も出て来なかった。船長の藤原は、ほっとして、臨時傭いの四人の持物に移って行った。  若いだけに、袋《ザツク》も派手である。ヘアトニックを三本も入れているのもいた。苦笑しながら、三人目の袋《ザツク》の口をあけ、下着や、トランジスタラジオを出して調べていく中に、藤原は、 「あったぞ」  と、思わず、怒鳴った。その袋《ザツク》の奥に、三百万の札束が、見つかったからである。      四 「高橋の袋《ザツク》だ」 「あの野郎!」  と、大島が、舌打ちした。 「借用証文の方はどうです?」 「そっちはない。ないのが当然だろう。あいつにとっちゃ、ただの紙切れだからな。殺人犯が、まさか、借金の取り立ては出来んだろう」 「そりゃあそうだ」  と、大島は、うなずいてから、 「これからどうする?」 「高橋が、古沼を殺して三百万奪ったことはわかった。恐らく、奴が、木下五郎という殺人犯だろう。だが、殺すわけにもいかん。捕えて、日本へ連れかえって、警察へ引き渡すんだ」 「面倒だな」 「仕方がないさ。いいか。何気ない顔で甲板にあがって、いきなり、高橋を取り押さえてロープで縛りあげるんだ」 「わかった」  大島が、いくらか青ざめた顔でうなずき、二人は、甲板にあがると、「わからなかったよ」と、わざと、藤原がいってから、いきなり、大島と二人で、高橋悟に飛びかかった。 「こいつが犯人だ! 縛りあげろ!」  と、相手の腕を押さえながら、叫んだ。その声で、みんなが、はじかれたように、高橋に、飛びかかった。  高橋は、猛烈に抵抗した。が、何しろ、一対九である。数分後には、ロープで、がんじがらめに縛りあげられてしまった。口が切れて、血が、吹き出ている。 「船倉へぶち込んでおけ」  と、藤原は、部下に命令した。大声でわめく高橋を、数人でかつぎあげ、縛ったまま、船倉に放り込んだ。 「あいつの袋《ザツク》に、三百万入っていた。あいつが、ジャックナイフで、古沼を殺したんだ」  と、改めて、藤原は、みんなに説明し、高橋の袋《ザツク》を持って来させ、入っている三百万の札束を見せた。 「問題は、これからだ。あいつを、警察に引き渡すためなら、これからすぐ、日本へ引き返したい。だが、おれたちは、もう、漁場へ来ているし、魚をとるのが、おれたちの仕事だ。だから、魚をとってから、日本へ帰りたい。あいつは、兇暴犯らしいが、あれだけ厳重に縛っておけば、逃げられはしないだろう。それに、ここは、印度洋のどまん中だから逃げられもせん。どうだ?」  みんなも、その言葉に異存はなかった。三百万の札束はあっても、所詮《しよせん》は、他人のものである。それに歩合制だから、魚をとって帰らないことには、日本へ帰っても、一円にもならない。殺人犯逮捕で、警視庁から表彰されたところで、金にはならない。  すでに、夜明けが近づいていた。  早速、網入れが始まった。  それからは、戦場のような騒ぎである。幸い、魚の大群にぶつかった。そうなれば、その群が散らない中に、とれるだけとる必要がある。  網を引きあげ、また、すぐ、網を入れる。一方では、甲板に山になった魚を、用意して来た箱に詰め、冷凍庫に入れる。一瞬も休むヒマがない。  休みが来るのは、魚の大群が、消えてからである。  その夜は、みんな、ベテランも、三人の臨時傭いも、泥のように眠りこけてしまった。カイコ棚へ戻って眠る者もいたし、甲板で、眠ってしまった者もいる。  船長の藤原だけは、こんな時、眠るわけにいかないのだ。ブリッジで、船の方向を安定させておかなければならないし、常に、魚群探知機を眺めていて、新しい魚群が現われたら、可哀《かわい》そうだが、また、みんなを叩《たた》き起こさなければならない。  それでも、つい、ウトウトしかける。その時、後甲板の方で、ドブンと、何かが、海に落ちる音を聞いた。  藤原は、はっとして、ブリッジを飛び出した。ベテランは、甲板で眠っていても、海に落ちることはないが、臨時の三人は、わからない。それに夜の海に落ちたら、もう探しようがないからである。  藤原は、まず、大島を叩き起こして、みんながいるかどうか、調べて廻《まわ》った。みんな無事に眠っていた。 「しかし、水音は、確かに聞いたんだ」  と、藤原はいってから、船倉に閉じこめてある高橋のことを思い出し、大島を連れて、おりて行った。 「あッ」  と、叫んだのは、ものの見事に消えていたからである。ロープだけが残っていた。仔細《しさい》に調べると、刃物で切った痕がある。 「身体検査したときには、ナイフは持ってなかったんだがな」 「前科二犯のしたたか者なんだろう。ナイフは持ってなくても、いざという時に備えて、カミソリの刃ぐらい、どこかにかくし持っていたかも知れんよ。きっと、それでロープを切って、逃げたんだ」  と、大島は、いった。確かに、カミソリの刃ぐらいかくしていたかも知れない。 「だが——」  と、急に、藤原は、首をひねった。 「だとすると、さっきの水音は、高橋が、海に飛び込んだことになる。逃げたい気持はわかるが、ここは、印度洋のまん中だよ。いくら泳ぎが上手《うま》くても助からん。前科二犯のしたたか者が、そんな無計画のことをやるかな?」 「じゃあ、船長は、あの高橋が、殺人犯の木下五郎じゃないというのかね?」 「他の奴が、彼を木下五郎に仕立てあげたのかも知れない」 「すると、残りの三人の中に、本物の木下五郎がいて、自分の疑いを、なくすために、金を持っている古沼を、高橋のジャックナイフで刺し、彼の袋《ザツク》に、三百万入れておいたというのか?」 「その可能性はあるじゃないか。さっきの水音だって、高橋が逃げたんじゃなく、高橋を突き落したのかも知れない。古沼を殺した犯人がね」 「じゃあ、そいつは、誰だって思うんだ?」 「ちょっと、ゆっくり考えさせてくれ」  と、いってから、船長の藤原は、じっと、考え込んでいたが、急に、眼を光らせると、 「犯人は、わかったよ。今度の事件は、最初から変だったんだ」  と、いった。  船長は、一体、誰を犯人と考えたのだろうか? [#改ページ] 〈解答編〉[#「〈解答編〉」はゴシック体]  船長の藤原は、大島にこういった。 「高橋が、古沼を殺した犯人で、前科二犯の兇悪犯木下五郎だとすると、その行動が、あまりにも馬鹿げている。第一は、さっきもいったように、夜、こんな印度洋のまん中で飛び込んで助かる筈《はず》がないからだ。マラッカ海峡にでも入ってからなら、どこかに泳ぎつけるかも知れないのにだ。もっとおかしいのは、木下が、この船にいるという本社からの電報を知っているのは、私と無線士の小川だけだ。当然、木下は自分のことがバレてないと信じていた筈だ。それなのに、わざわざバレるような殺人を犯す筈がない。  では、他の三人の中に木下五郎がいて、高橋を身代りにしたのだろうか。面白い考えだし、私たちも、木下五郎は自分で死んだようなものだと安心した。だがね。顔は整形しても、指紋は変らないんだ。前科二犯といえば当然、警察に指紋を登録されてしまっている。だから、私たちは欺《だま》せても、船が日本に着いたとたんに、誰が木下五郎かわかってしまうんだ。あとの三人の中に、木下がいたら、そんな馬鹿なことはしないだろう。  それで、私は最初から考え直してみたんだ。無線士の小川が、電報を持って来たとき、私は、船長の立場から、これは大変だという意識が働いて、電文のおかしさに気づかなかったんだ。しかし、よく考えてみると、うちの会社は、この第六太平丸の他にも何|艘《そう》も漁船があり、それぞれ、若い臨時|傭《やと》いを何人か乗せている。それなのに、木下五郎が、この船に乗っていると極めつけている。二十六歳という年齢しかわからないのにだよ。あの電報が全くインチキとは思わない。そんなことをすれば、日本へ帰ったとき、すぐバレるからね。だから、恐らく、本当の電文は、木下五郎が、漁船にもぐり込んだらしいという程度のものだったと思うのだ。それを小川は、勝手に変えて私に渡したのだ。目的は、勿論《もちろん》、木下の犯行に見せかけて、古沼を殺し、自分の借用証文を奪い取るためだよ。電文を知っていたのは、私と小川だけだった。私は古沼に借金していないから動機がないし、他の乗組員は電文を知らないから、古沼を殺しても、木下五郎のせいにする考えが起きない。それが出来るのは、無線士の小川だけだ。つまり、奴が、古沼と、高橋を殺したんだ。きっと、ずい分、古沼に借金していたんだろう」 [#改ページ]    死刑囚      一  刑事弁護士の田中|喜代三《きよみ》は、温厚な人物ということで、通っていた。  五十二歳である。特に雄弁というのではないが、冷静で緻密な弁護には、定評があった。若い頃の苦労が、物に動じない落着きと、温厚な性格を作り上げたのであろうと、雑誌に書かれたことがある。談話をとりに来た記者が、善意で書いたものだが、田中は、読んで苦笑した。自分には、よく判らないのだ。  しかし苦労したのは、本当である。  田中は、幼い頃に、両親を亡くし、苦学して、司法試験に合格した。その後も、長い下積生活があった。弁護士として、評判を得るようになったのは、五十歳近くなってからである。  従って、晩婚であった。三十九歳の時で、妻の冴子《さえこ》は、ひとまわり以上違う二十二歳であった。  冴子は、大柄な美人である。三十五歳になった現在でも、その美しさは変らなかった。  二人の間に、子供はない。田中の不満らしい不満といえば、そのくらいであった。  田中は、冴子に満足していた。彼女の方でも、自分との結婚生活に満足している筈《はず》だと、考えていた。妻の若さに対して、引け目を感じたことは、なかった。夫として、或《あるい》は、男として、妻を充分に満足させているという自負がある。身体《からだ》は頑健であったし、今は、名声にも恵まれている。夫としての資格に欠けているところは、ない筈だった。  その年の秋に、田中は、同じ弁護士会の渡辺と、ある事件の共同弁護を引き受けることになった。  殺人事件だが、冤罪《えんざい》の可能性があった。上手《うま》く持っていけば、証拠不十分で、無罪に出来そうだった。問題は、反証を固めることである。その打ち合わせのとき、渡辺が、妙なことを、いった。 「君の奥さんのことで、詰らない噂《うわさ》が立っているのを、知っているかね?」 「ほう——?」  田中は、一寸《ちよつと》、眼を動かした。 「初耳です」 「君のところにいる古賀《こが》という若い男と、あやしいという者がいる」 「馬鹿馬鹿しい」  田中は、苦笑して見せた。 「気にならんのか?」 「馬鹿げているからね。それより、僕には、公判の方が心配だよ」 「自信満々だな。僕なら、心配になるがね。君の奥さんは、若くて美人だ。それにだね——」 「今度の事件ではもう一度、現場検証の必要があるな」 「怒ったのかね?」 「怒る?」  田中は、苦笑した。 「怒るほどのことじゃないよ。僕は、噂話というやつには、興味がない。いけないかね?」 「そんなことはないが——」 「それなら、現場検証の打ち合わせをしようじゃないか」  田中は、地図を取り出して、机の上に拡げた。      二  打ち合わせを了《お》えて、田中が、事務所から家へ戻ったのは、八時を過ぎてからである。  冴子と、古賀が、迎えに出た。  古賀は、弁護士の資格を取ったばかりの青年である。妻の遠縁にあたるというので、自分の下で、働いて貰《もら》ったりしていた。二十九歳で、現代風に背の高い、怜悧《れいり》な眼を持った若者だった。  二人の顔を見たとき、田中の胸に、渡辺のいった言葉が、ふっと浮かんだが、日頃《ひごろ》の和やかな表情は、崩さなかった。 「夕食はすませてきたから、風呂《ふろ》に入りたいね」  田中は、妻だけを見て、いった。  冴子が、脱衣を手伝っている途中で、 「あれは?」  と、田中が訊《き》いた。冴子は、「え?」と、訊き返してから、それが奥から聞こえてくるピアノの音と判ると、 「あれは、古賀さんが、弾いているんですよ。いつも、聞いていらっしゃるくせに」 「そうだったかな」  田中は、小さく笑った。いつもは、気に止めたことがなかったのだ。それに、若い時は、生きることに精一杯で、趣味と呼べるものを持つ余裕がなかった。 「僕には、よく判らないが、古賀君は、上手いのかね?」 「ええ、とても——」 「君は、どうなんだ?」 「私なんか——」  冴子は、微笑した。 「子供の遊びみたいなもんですわ。時々、古賀さんに教えて貰っているんですけど、一向に上達しなくて——」 「————」  田中は、黙って、湯殿の硝子戸《がらすど》を開けた。湯舟に身体を沈めて、ゆっくり、手足を伸ばした。  ピアノの音は、まだ聞こえている。  田中は、湯の中で、ゆらめいてみえる自分の身体を眺めた。毛深い方である。小柄だが、筋肉質のがっしりした身体だ。腕を曲げると、若者のような力瘤《ちからこぶ》がでる。だが、仔細《しさい》に見ると、自分でも気付かぬうちに、肌から若さが失われているのだ。自分では、まだ若い積《つも》りだが、肉体は、残酷に、初老の年齢に入ったことを、告げている。 「お背中を、流しましょうか?」  冴子が、顔を覗《のぞ》かせて、いった。 「そうだな」  と、田中は答えてから、思いついたように、 「君も入りなさい」  と、いった。珍しいことであった。田中には、古風なところがあって、二人で風呂に入ることは、滅多になかった。  冴子は、一寸、戸惑った表情になった。 「私も——ですの?」 「入りなさい」  今度は、命令するような口調になっていた。冴子は、顔を覗かせたまま、 「古賀さんが、まだ、いらっしゃるのに」 「放っておけば帰るだろう」 「でも——」  一寸待って下さい、といって、冴子は、奥へ消えた。やがて、ピアノの音が止み、冴子が戻ってきた。 「古賀君を、帰したのか?」 「ええ」 「気になるのか?」 「当り前じゃありませんか」  冴子は、一寸怒ったような声でいってから、着物を、脱ぎ始めた。  色白な身体である。三十を過ぎてから、肩のあたりに丸みがつき、一層、豊満な感じになってきている。 「そのまま、一寸、立っていてくれないか」  と、田中は、いった。 「君の身体を、よく見たいんだ」 「何故ですの?」 「理由はない」 「今日は、変ですのね」  冴子は、小さく笑った。が、大人しく、タイルの上に、立っていた。青白い蛍光灯の光が、冴子の裸身に、豊かな陰影を作っていた。 「若いな」  と、田中が、いった。 「若いもんですか。もう三十五ですよ」  冴子は、姿勢を崩して、湯舟の傍に、しゃがんだ。 「もう、おばあちゃんですよ」 「若いさ」  と、田中は、同じ言葉を繰り返した。 「若過ぎるくらいだ」  語尾は、ひとりごとの調子になっていた。田中は、妻の身体から、眼をそらせた。その眼に、滅多に見せたことのない暗い影が、浮かんで消えた。      三  現場検証の場所は、那須温泉の近くだった。田中も、渡辺も、二、三日は、必要と考えていた。 「誰か、連れて行くかね?」  渡辺が、訊いた。田中は、考えてから、 「君と僕だけで、充分だろう」  と、いった。 「そうかね」 「連れて行きたい人間でもいるのか?」 「君のところの古賀とかいう男な。あれを連れて行ったら、何かと都合がいいんじゃないか? なかなか優秀な男だそうじゃないか」 「————」  田中は、黙って、渡辺の顔を見た。自然に、苦い笑い方になった。 「君がいいたいのは、古賀が、優秀な男だということじゃあるまい」  と、田中は、いった。 「妻と一緒にしておくと、危いといいたいのだろう?」 「怒ったのか?」 「いや、昨日もいったように、馬鹿馬鹿しいと思うだけだよ」 「僕が君だったら、古賀という青年を、今度の現場検証に連れて行くがね。妙な噂《うわさ》が広まらないためにもね」 「僕は、詰らない噂など、問題にしていない」 「君は、まさか、妙な意地から、古賀を連れて行かないんじゃあるまいな?」 「馬鹿な。僕は、私的な感情を仕事に持ち込むほど、馬鹿じゃない積りだ」  田中は、強い声でいってから、その語調の強さに、自分で照れた顔になった。手を伸ばして煙草《たばこ》を取り上げた。火をつけたが、一口吸っただけで、灰皿に捨ててしまった。  那須には、その日の午後着いた。生憎《あいにく》、二人が着いた頃から、雨になった。激しい雨足ではなかったが、晩秋に特有の、細い、じめじめした陰気な雨である。 「さい先が悪いな」  と、渡辺は、雨空を見上げて、渋面を作ったが、田中は、何もいわなかった。旅に出ると、口数の多くなるこの男にしては、珍しいことだった。  二人は、雨の中で、夕方まで、現場検証を行なった。或る時間内に、被告人が、自分の家から犯行現場まで往復できるかどうかが、今日の課題だったが、雨のせいで、はっきりした結論は、出せなかった。実際に犯行のあった日は、秋晴れだったからである。  二人は、ホテルに戻ってから、遅い夕食をとった。 「今度の事件は、難しいな」  渡辺は、疲れた表情を見せて、いった。最初から、渡辺には、この事件について、自信のなさのようなものがあった。 「弁護の方法を、もう一度、考え直す必要があるんじゃないかね」 「方法を考え直すというのは、どういうことだね?」 「彼が無実かどうか、自信が持てなくなってきたということだよ。彼が殺したのなら、弁護の方法も、変ってくるからね」 「彼は無実だよ」  田中は、箸《はし》を止めて、強い声で、いった。 「我々が、彼を無実にするんだよ」 「反証もなしにかね?」 「反証は掴《つか》むさ。掴める筈《はず》だ」 「自信たっぷりだな。僕は、だんだん自信がなくなってきたよ。年だろうかね」 「自信を失くした時、もう敗けているんだ。そう思わないかね。だから、僕は、どんな場合でも、自信を失うのが嫌なんだ」 「君が羨《うら》やましいな」 「皮肉かね?」 「いや、嫉妬《しつと》かも知れん。いつでも、強い人間でいられる君が、妬《ねた》ましいのかも知れないな。君には、アキレス腱《けん》がないみたいな気がするときがある」 「弱点のない人間なんて、いるものか」  田中は、苦笑した。 「問題は、それを、相手に悟らせない人間が、強者ということになるんだろう。鎧《よろい》を着るのなら、上手《うま》く着ろということだ。それには、自分に冷酷でなくちゃならない。人生は戦いの連続だなどと、悟ったようにいいながら、自分に甘えている人間がいるからね。強そうに見えて、弱い人間が多いんじゃないかね」 「耳が痛いね」 「君のことじゃない」  田中は、固い声でいい、窓の外の夜景に、眼をやった。雨は、相変らず、物憂《ものう》く降り続いていた。硝子窓に、田中の顔が、映っている。  硝子が歪《ゆが》んでいるのか、田中の顔は、醜く、年寄りじみて見えた。田中は、眼をそらせた。 「青臭い人生論は、もう止めにしようじゃないか」  田中は、怒ったような声で、いった。 「明日の打ち合わせをしよう。その方が大事だ」  十時過ぎに、田中は、自分の部屋に戻った。  ドアを閉め、ベッドに腰を下すと、渡辺の前では見せなかった疲労の色が、彼の顔に浮かんだ。  顔をこすってから、煙草を咥《くわ》えた。しかし、火はつけずに、そのままの恰好《かつこう》で、テーブルに載っている受話器を見つめた。  何度か、ためらってから、田中は、手を伸ばして、受話器を掴《つか》んだ。ふと、軽い自嘲《じちよう》の色が、田中の顔に走った。 「フロントですが——」  事務的な若い男の声が、聞こえた。田中は、小さな咳払《せきばら》いをした。 「東京を呼び出すのに、時間が、かかるかね?」 「今頃でしたら、三十分も、お待ち下されば、つながると思いますが」 「————」 「おつなぎ致しますか?」 「そうだな——」  田中は、受話器を持ったまま、何となく、室内を見廻《みまわ》した。 「いや、つながなくていい」  田中は、低い声でいい、電話を切った。迷いの表情は、まだ、その顔に残っていた。      四  田中は、眠ろうと努めた。明日は、また一日中歩き廻らなければならない。休んでおく必要がある。  だが、眠れなかった。考えまいとすると、余計に、詰らないことを考えてしまうのだ。  田中は、起き上がると、枕元《まくらもと》の明りをつけた。時計は、まだ十時半を廻ったばかりだった。  田中は、わざと乱暴に、受話器を掴んだ。 「東京に、電話したい」  と、彼は、いった。 「番号は、四二八局の——」  正確に、三十分待たされた。  電話がつながった。が、電話口に出たのは、妻の冴子ではなく、女中だった。彼女は、いかにも眠たげな声で、奥さまはいらっしゃいませんと、いった。  田中の眉《まゆ》が寄った。が、声は、平静だった。 「何処《どこ》へ出かけたのか、判らないのかね?」 「存じません。行先をおっしゃらずに、お出かけになりましたから、映画にでも、いらっしゃったんじゃありませんか」 「出かけたのは、何時頃かね?」 「夕食を召し上ってからです」 「古賀君は、今日、来たかね?」 「お昼頃お見えになりましたけど、五時頃、お帰りになりました」 「何しに来たのだ?」 「奥さまと、ピアノを弾いていらっしゃいましたけど、その他には——」 「ピアノか——」 「奥さまに、何か、おことづてでも?」 「いや、別にない」 「そうでございますか」 「僕が電話したことは、冴子には、内緒だ。判ったね」 「はい」 「それだけだ。君も、もう寝なさい」  田中は、それだけいって、受話器を置いた。何か、苦いものを呑《の》み込んだあとのような、いやなものが、田中の心に残ってしまった。それは、妻に対する疑いの芽が生れてしまった苦さであり、東京に電話をかけた自分の弱さに対する自嘲の苦さでもあった。  明りを消したが、眠れなかった。苦いかたまりは、彼の胸の中で、大きくなっていくようであった。  夜明け近くなって、やっと、うとうとすることが出来た。浅い眠りの中で、いやな夢を見た。  翌日は、昨夜の雨が嘘《うそ》のような秋晴れだった。和やかな陽射しだったが、寝足りない田中には、眩《まぶ》しかった。田中は、時折り、吐気がするのを押さえながら、渡辺と、歩き廻った。  時間の調査は、上手くいかなかった。その時間内に、現場へ往復できるのだ。それが駄目だとすると、アリバイの証明しかなかった。被告人は、犯行時刻には、夜の公園を歩いていたというが、彼を見たという証人は、一人も見つかっていなかった。今から、探し出すことができるだろうか。  その日の夜になっても、証人は、見つからなかった。 「もう一日、探してみよう」  と、田中は、朱《あか》く充血した眼を、渡辺に向けて、いった。 「それはいいが、見つかるだろうかね?」 「見つかるさ」  田中は、荒い声で、いった。 「見つけてみせるよ」 「身体《からだ》は大丈夫か?」 「身体?」 「今日は、何となく辛《つら》そうだったからさ。大丈夫か?」 「大丈夫だよ。何でもない」  田中は、素気ない、いい方をした。同情されると、苦さが二倍になるような気がしたからである。  三日目の午後になって、小さな収穫があった。犯行のあった時刻に、問題の公園を歩いていたというアベックが見つかったからである。このアベックが、被告人を見ていたら、アリバイが成立する。  田中と、渡辺は、男の方の家を訪ねた。が、その男は、既に病死していた。女の方は、男が死んだ後、青森に嫁いだという。 「青森へ行ってくる」  と、田中は、いった。 「僕一人で、大丈夫だ。君は、東京へ戻って、公判の準備をしてくれ」 「判った。君の妻君には、僕が伝えておく。他に、ことづてがあったら」 「別にない」  と、田中は、短くいった。 「そんなことより、公判の準備の方を、しっかり頼む」 「私事より、公事か」  渡辺は、笑った。 「君らしいよ」 「君らしい——?」  田中は、苦笑した。が、その、かすかに歪《ゆが》んだ口元は、なかなか、元に戻らなかった。      五  結果的に、田中の青森行が、事件に曙光《しよこう》をもたらすことになった。青森に嫁いだ女は、夫と一緒に、二日後に、ブラジルに渡ることになっていた。田中の青森行が遅れていたら、貴重な証人を失っていたかも知れなかった。  女は、あの日、公園で被告人を見たと、答えた。しかも、犯行時刻にである。アリバイは成立したのだ。  田中は、女の署名した書類を持って、東京に帰った。  冴子は、いつもの通りの笑顔で、田中を迎えた。田中が、青森で買い求めた津軽原石《つがるげんせき》のペンダントを渡すと、若い娘のように、はしゃいだ表情になった。 「留守中、変ったことは、なかったかね?」  田中は、穏やかな声で訊《き》いた。冴子は、ペンダントを首にかけて、鏡を覗《のぞ》いていたが、その姿勢のまま、 「何にも——」  と、いった。 「退屈で困りましたわ。することもなくて、毎日、テレビばかり——」 「古賀君に、来て貰《もら》えばよかったのに。彼なら、話相手になるだろう」  田中は、離れた場所から、鏡の中の妻の顔に向って、いった。 「古賀君は、来なかったのか?」 「古賀さんは、法律の勉強に忙しくて、お相手をして貰えませんでしたわ」 「じゃあ、ピアノも教えて貰えなかったわけだね?」 「ええ」 「————」  田中の眼に、ちらっと、影が走った。が、すぐ、元の穏やかな表情に戻っていた。 「温泉にでも、行っていれば、よかったのだ」  と、田中は、いった。 「今頃の温泉は、いいものだよ。特に、山の深い温泉はね」 「でも、ひとりでは、つまりませんわ」 「しかし、家で、テレビばかり見ているよりは、いいだろう」 「それは、そうですけど——」 「本当に、家に籠《こも》っていたのか?」 「ええ」  と、うなずきながら、冴子は、振り向いて、田中を見た。 「でも、何故、そんなことを、お訊きになるの?」  笑いながらの質問だったが、訊きかえされて、田中は、狼狽《ろうばい》した。 「何故と訊かれても困るが——」  田中は、努めて、冗談めかして、いった。 「五日も、家に閉じ籠っていたんじゃあ、君の綺麗《きれい》な身体に、カビが生えたんじゃあるまいかと、それが心配でね」 「それなら、カビが生えたかどうか、貴方に調べて、頂きたいわ」  冴子は、甘えた声で、いった。  彼女は、田中を寝室に誘《さそ》うと、立ったまま、ドレスを脱ぎ棄てた。止める間もない素早い手の動きだった。忽《たちま》ち、冴子の白い身体が、剥《む》き出しになった。  冴子の顔に、羞恥《しゆうち》の色はなかった。田中は、黙って、裸身の妻と向い合っていた。その顔は、何かに堪《た》えているように、固いものになっていた。しかし、冴子には、夫の顔に浮かんだ暗さが、欲望のあらわれに見えたかも知れない。 「どう? カビが生えていて?」  冴子は、誘うように、いった。 (冴子は、本当に、無邪気な女なのだろうか。それとも、この無邪気さは、作られたものだろうか)  今まで、田中は、妻としての冴子を理解している積《つも》りだった。その自信が、急に崩れて行くのを感じた。田中は、狼狽し、その狼狽を打ち消そうとして、荒々しく、妻の裸身を抱いた。  冴子が、低い声をあげた。      六  二カ月後、無罪の判決があった。弁護士としての田中は、また一つ、勲章を得たことになる。  その夜、渡辺に誘われて、田中は、銀座で祝杯をあげた。酔ってくると、「僕」が「俺《おれ》」になった。 「正直いって、俺は、君に冑《かぶと》を脱いだよ」  と、渡辺が、いった。 「君は、本当に強いな」 「何のことだ?」 「例の噂《うわさ》さ。あれで、君が参るんじゃないかと思った。参らないまでも、動揺して、今度の事件で、躓《つまず》くんじゃないかと思った」 「それで……」 「実をいうと、俺には、君が参るのを、ひそかに期待する気持もあったんだ。君もまた、弱い人間であることを、実証したかった。そのくせ、一方では、共同弁護人として、いつもの、自信に溢《あふ》れた君であって欲しい気持もあった。妙な気持だなあ」 「ご期待に添えなくて、悪かったな」  田中は、笑った。が、グラスを掴《つか》んだ指先は、固くこわばっていた。二カ月前、突然、田中を襲った苦渋は、まだ、そのまま彼の胸に残っている。  グラスを口に運んだ時、ウィスキーがこぼれて、服を濡《ぬ》らした。 「酔ったらしい」  と、田中は、渡辺に苦笑して見せた。渡辺は、意外そうな顔で、 「もう酔ったのか?」  と、田中を見た。いくら飲んでも乱れないのが、田中の酒だったから、渡辺が、妙に思うのも無理はなかった。 「年かも知れないな」  田中にしては珍しく、弱い、いい方をした。 「酒に弱くなったらしい」 「————」  渡辺は、黙って、田中を見ていた。その眼が、怖かった。  田中は、泥酔して、家に帰った。深夜に近かったが、迎えに出た冴子は、「お客さまですよ」と、いった。 「客?」 「事務所へ行ったら、貴方が見えないんで、こっちに来たと、おっしゃってますけど」 「明日にしてくれと、いってくれないか」 「何度も、そういったんですけど、どうしても、今日中に、会いたいと、おっしゃって」 「しょうがないな」  田中は、軽く舌打ちをしてから、ふらつく足で、洗面所へ入った。冷たい水を、頭から浴びているうちに、どうやら、酔いがさめてきた。本当に酔っていなかったのだろう。 「応接間だね?」  タオルで、頭を拭きながら、妻に訊《き》いた。 「ええ。もう、三時間近く、お待ちになっているのよ」  冴子の言葉を聞きながら、田中は、廊下を歩いて行った。応接間のドアを開ける時には、いつもの、自信に満ちた眼になっていた。  椅子《いす》に腰を下していた女が、顔を上げた。三十歳ぐらいの痩《や》せた女である。顔が蒼《あお》かった。 「主人を助けて下さい」  と、女は、いきなりいった。田中は、ゆっくりと、ソファに腰を下してから、 「いきなり助けて欲しいといわれても、返事に困りますね、最初から、順序だてて、話してくれませんか」 「すいません」 「ご主人が、どうかしたんですか?」 「主人は、三年前に、事件を起こして、今、拘置所に入っています」 「何をやったんです?」 「人を殺しました」 「殺人——ね」  田中は、口の中で呟《つぶや》いた。が、冷静な眼は、崩れなかった。刑事弁護士をしていれば、殺人事件は、珍しくはない。 「判決は?」 「死刑でした」 「死刑——?」  田中の眼が、一寸《ちよつと》動いた。 「ただの殺人では、なかったのですね?」 「判決には、強盗殺人と、なっていました」 「それなら、死刑の判決もあり得る。それで、貴方は、私に何をして欲しいというのですか? 冤罪《えんざい》だから、裁判のやり直しを請求して欲しいのですか?」 「いいえ、主人は、人を殺したことを、認めております」 「それなら、私の出る幕じゃない」 「主人は、毎日毎日、死に向いあって暮しています。明日になれば、主人は、もう、この世にいないかも知れないんです。それを考えると、私は、居ても立っても、いられません。主人を、助けて下さい。お願いします」 「刑を軽くして欲しいということですか?」 「死刑なんて、非道《ひど》すぎます。主人が死んでしまうなんて、私には、堪えられないんです。主人を助けて下さい」 「上告は?」 「します。だから、先生に、お願いに来たんです」 「私が引き受けたとしても、死刑が、無期になるだけかも知れませんよ」 「それでも、いいんです。主人さえ、生きていてくれれば——」 「————」  田中は、難しい顔になって、女を見つめた。女は、テーブルの下で、手を強く握りしめ、すがるような眼で、田中を見上げている。この女は、必死になっている——と、田中は思う。いつもなら、簡単に、引き受けたかも知れない。恐らく、引き受けただろう。だが、今日は、何となく、ためらわせるものがあった。 「ご主人を、愛しているのですね?」  田中は、別のことを訊いた。女は、うなずいた。 「勿論《もちろん》ですわ」 「三年間、刑務所にいるご主人を、愛し続けて来たのですね」 「ええ、それが、何か——?」 「いや、ただ、三年間といえば、長かったろうと、思っただけです」 「引き受けて頂けますか?」 「一応、事件を検討させて下さい」  田中は、そういった。      七  女が帰ったあとで、田中は、書斎に入って、判決文を拡げてみた。  事件のあらましは、次のようなものだった。  当時、金物のブローカーをやっていた荒井五郎(三十五歳)は、金銭に困り、知り合いで、金融業をやっている高月徳三《たかつきとくぞう》(五十歳)を殺して、金銭を強奪しようと計画した。荒井は、有利な取り引きがあると欺《いつわ》って、高月徳三を誘い出して殺し、三十万円を奪い取った。  死刑の判決を下した理由については、こう書かれてあった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈本件犯罪の特異性は、計画的、かつ巧妙、しかも、残虐な凶行であるといえる。すなわち、被告人荒井五郎は、犯跡を残さないように、十分な用意の下に、被害者をおびき出し、殺害したものである。殺害の方法は残忍を極め、惨鼻《さんび》の状《ありさま》、目を蔽《おお》わしむるものがあり、社会に与えた影響は、決して少くない。従って、本件は、何等《なんら》弁解の余地なきものである〉 [#ここで字下げ終わり]  田中は、判決文を机に置くと、手を伸ばして、煙草《たばこ》を取った。 (三年間か)  田中は、その長さを考えていた。三十六カ月、千九十五日だ。その間、肉体の接触もなく、愛が続くものだろうか。そんな強固な愛が、あり得るだろうか。 「愛——か」  田中は、小さく呟《つぶや》いてから、ふと、苦い顔になった。  翌日、事務所へ訪ねて来た荒井文子に、田中は、引き受けましょう、といった。 「ただ、うちにいる若い弁護士に、やらせたいのです。若いが、優秀な男です。勿論《もちろん》、私も、助ける積りでおります。いかがですか?」  荒井文子は、軽い失望を示したが、それでも、「よろしく、お願いします」と、頭を下げた。  田中は、電話で、古賀を呼びつけてから、やってみないかと、いった。否応のない、いい方だったが、古賀は、眼を輝やかせた。 「本当に、やらせて貰《もら》えるんですか?」 「本当だ。君も、そろそろ、実戦の経験を積んで、いい頃だからね。依頼者にも、君のことを、話しておいた」 「有難うございます」 「まず、依頼者に、会って来給え。荒井文子という女だ」 「行って来ます」  古賀は、弾かれたように、事務所を飛び出して行った。田中は、妙に冷たい眼で、それを見送った。  三時間ほどして、古賀が帰ってきた。彼の頬《ほお》は、あかく染っていた。 「感激しました」  古賀は、田中の顔を見るなり、早口で、いった。 「彼女は、立派ですね。この三年間、夫を死から救うために、全てを犠牲にしてきたようです。話を聞いていて、胸が熱くなりました」 「それは、私も聞いたよ」 「彼女のためにも、今度の事件は、しっかりやりたいと思います」 「荒井文子に、よほど、感銘を受けたらしいね?」 「ええ。素晴らしい女性だと、思います」 「素晴らしい?」  田中の眼に、皮肉な影が射した。 「君は、三年間も、純粋な愛情を、持ち続けられると、思うかね?」 「————」  古賀は、びっくりした顔で、田中を見た。予期しなかった質問だったのだろう。田中もまた、荒井文子の献身に感動したからこそ、今度の事件を引き受けたに違いないと、頭から、決めていたようである。  田中は、古賀の顔に浮かんだ当惑の色を、冷ややかに見て、 「君は、三年間も変らない愛情というものを、本当に信じられるかね? 女は、もっと不貞なものと、思わないかね?」 「それは——」  と、いいかけて、古賀は、後の言葉を呑《の》み込んでしまった。顔に浮かんだ当惑の色が、一層深くなったように見えた。田中の質問の真意をはかりかねているようだった。二人の間に、重苦しい沈黙が生れたが、田中の方から、それを破った。 「まあ、依頼者の感情を、あれこれ考えることもないかも知れん」  と、田中は、いった。ついさっきの質問とは、どうにもつながらない言葉だったが、古賀は、ほっとした表情になった。その感情の動揺を、田中は、意地悪く見つめていた。 「何処《どこ》から、かかる積りだね?」 「死刑の判決が、不当である証拠を、掴《つか》みたいと、思っています」 「掴めそうかね?」 「荒井文子の話を聞いていると、被告人の荒井五郎は、判決文にいうような、冷酷非道の人間とは、どうしても思えないのです。彼は、事件直後に逮捕されています。殺してから僅《わず》か五時間後です。判決文にある、計画的かつ巧妙な殺人とは、程遠い気がするんです」 「面白いが、感情論では、判決は、変えさせられん。弱いよ」 「それは、判っています。明日にでも、荒井五郎に会って来たいと思うのですが、先生も一緒に、行って頂けますか?」 「いいよ。私も、一緒に行こう。私も、荒井五郎という男に、興味があるからね」 「お願いします」  古賀は、頭を下げた。  田中は、家に帰ると、冴子に、古賀がやることになったよと、告げた。 「古賀君も、そろそろひとり立ちしていい頃だからね」 「上手《うま》く、やれるでしょうか?」 「心配かね?」  田中は、試すような眼で、妻を見たが、冴子は、表情を変えずに、「ええ」と、うなずいた。 「何といっても、古賀さんには、経験がありませんもの」 「若さは、万能ではないということか」 「え?」 「彼なら、上手くやりとげるだろうということだよ。ただ、古賀は、人間を信じ過ぎる」 「人を信じることが、いけないんですか?」 「どんな人間でも、信じ切れない面がある。人間は、仮面をかぶって、生きているからね。信じ合っているといったところで、所詮《しよせん》は、その仮面の表情を、信じているに過ぎない。そうは、思わないかね?」 「私には、難しいことは、判りませんわ」 「本当に、判らないかね?」 「ええ。私って、頭が悪い方ですから」 「いや、君は、聡明《そうめい》だ」  田中は、冗談とも真面目ともつかずに、いい、視線を、冴子から、奥へ走らせた。 「古賀君も、当分、ピアノは弾けなくなるな」      八  田中と古賀は、厚い壁に囲まれた拘置所の中で、死刑囚の荒井五郎に会った。決められた面会時間は、五分であった。  荒井は、小柄な、どちらかといえば、気の弱そうな男だった。長く、陽の当らない生活を送ってきたせいか、その顔は、蒼白《あおじろ》く、むくんでいるように見えた。しかし、態度は、かなり落着いていた。所長の話では、教誨師《きようかいし》も、荒井の落着いた日常には感心したという。 「奥さんが、私のところへ来た」  と、田中は、いった。 「それで、我々は、君に会いに来たのだ」 「家内には、すまないと思っています」  荒井は、低い声で、いった。 「僕には、過ぎた女です。もし、文子がいなかったら、僕は、今日まで、堪《た》えて来られなかったと思います。恐らく、発狂していたと思います。こんな自分を、まだ見捨てずに、愛し続けてくれている女がいる。その思いが、僕を支えてくれたんです」 「君も、勿論、奥さんを愛しているんだろうね?」 「当り前です」  荒井は、強い声で、いった。むきになっている気配が、感じられないでもなかった。田中は、敏感に、それを感じ取った。 「事件当日の模様を、話して欲しいんだが」  古賀が、生真面目な調子で、口を挟んだ。  荒井は、早口に喋《しやべ》った。何回も同じことを喋ったのだろう。どこか、文章を読んでいるようなところもあった。  古賀は、緊張した表情で聞いていた。時には、訊《き》き返したりもした。  田中は、黙って、二人のやりとりを見ていた。が、その顔には、時折り、別のことを考えているような、自失した表情が、浮かんだ。  五分の面会時間は、あっという間に過ぎた。荒井五郎は、鉄格子の奥に消え、田中と古賀は、拘置所を出た。  帰り道で、古賀は、興奮した口調で、喋り続けた。 「三年間、死刑囚の気持を支えていたのが、妻の愛情と、信頼だというのは、素晴らしいと、思いました」  と、古賀は、いった。 「それだけを考えても、荒井五郎が、根っからの悪党ではないことが、判ると思います」  田中は、黙って、古賀の若い声を聞いていた。  その日の夜、田中は、日記に、次のように書いた。シニカルな調子が強くなったのは、自己嫌悪のためであったかも知れない。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈——古賀の感情は、滑稽《こつけい》だ。死刑囚と妻との純粋な愛情と信頼。これも、滑稽な錯誤だ。三年間、肉体の触れ合いなしにどうして、妻が信じられるというのか。疑い、嫉妬《しつと》し、絶望するのが、自然ではないか。荒井は、妻が潔白だとは、信じていない筈《はず》だ。三年間、妻が男を近づけなかったと信じる夫があったら、それは、馬鹿か狂人だ。荒井も同じだ。ただ、死と同居して生き続けてきた荒井は、無理にでも、何かを信じなければ、恐怖に打ち勝って、生きて来られなかっただけのことだ。その何かが妻の愛情だったのだ。彼は、妻を疑わなかったのではない。疑えなかったのだ。心の支えを失うのが、恐しかっただけのことだ。   純粋な愛情。そんなものはナンセンスだ。誰も彼も、必要があって、愛を結びつけるだけだ〉 [#ここで字下げ終わり]      九  刑事訴訟法によると、控訴を提起する場合には、「裁判所の規則で定める控訴趣意書」を、控訴裁判所に提出しなければならない。  古賀は、控訴趣意書の作成に、没頭した。最初の仕事だけに、是が非でも、成功したいという意欲が、表情にも動作にもあらわれている。事件の関係者の間を歩き廻り、徹夜で、書類をまとめていた。  田中は、時おり、言葉で助言を与えるだけで、表面だって、動き廻ることはしなかった。彼の控えた行動は、他人《はた》から見れば、古賀を立てているようにも見えたし、考えることがあって、そうしているようにも見えたろう。  田中が、内密に動いたことが、一つある。それは、都内の私立探偵社を訪ねて、偽名で一つの調査を依頼したことだった。このことは、友人の渡辺にも、話さなかった。  控訴趣意書が出来あがって、田中は、眼を通した。 「いいね」  と、田中は、古賀にいった。 「これだけ書いてあれば、判決が覆える可能性がある」 「本当に、そう思って下さいますか?」  古賀は、眼を輝かせた。その眼は、連日の疲労で、朱《あか》く充血していた。田中は、うなずいた。 「ああ。よくやった」 「荒井夫婦の愛情の強さに、勇気づけられて、どうにか、ここまでやれました。これを作ったのは、僕ではなく、あの夫婦の愛情かも——」 「その話は、もういい」  田中は、古賀の言葉を、途中で、さえぎった。その顔に、皮肉な影があった。  控訴審が開かれたのは、十一月に入ってからだった。  裁判の開かれる前日、田中は、古賀には黙って、荒井文子をアパートに訪ねた。文子は、田中を部屋に上げ、今までの礼をいった。 「恐らく、死刑の判決は、変更されますよ」  と、田中は、いった。 「大丈夫で、ございましょうか?」 「大丈夫です」 「もし、主人が助かったら——」  文子は、顔をあかくして、いった。 「三年間の苦労が報われます」 「本当に、そう思うのですか?」  田中は、意地の悪い訊き方をした。 「貴女は、本当に、ご主人を、死刑から救いたいと、思っているんですか?」 「何故、そんなことを、お訊きになるんです」  文子は、当惑と、軽い怒りをこめて、田中を見た。 「妻として、当り前のことじゃありませんか」 「そうだろうか」  田中は、荒井文子の眼を見返した。 「貴女は、心の底では、ご主人が死ぬのを、望んでいるのではないのですか?」 「何故、そんな——」 「その方が、人間として、当り前の感情と思うんです」 「何をおっしゃってるのか、判りません。一体、何を、おっしゃりたいんです?」  咎《とが》めるような声になった。が、田中は、構わずに、言葉を続けた。 「三年間という長さを、私は考えただけです。ご主人が死ねば、貴女は、解放されて自由になる。そのことを、考えたことが、なかったというのですか? もし、ご主人の刑が、死刑から無期になったら、貴女は、いつまでも、貞淑で、愛情深い妻の仮面を、かぶり続けていかなければならない。十年、二十年、或《あるい》は三十年、荒井五郎が、刑務所の中で生きている限り、貴女は、自由になれない。仮面を外すことが出来ない。再婚もできず、肉体の喜びに浸ることも出来ない。本心から、貴女は、そんな生活を望んでいるのですか?」 「————」 「ご主人にしても、同じことだ。死刑囚である今は、死の恐怖に堪えるために、貴女の愛情を信じている。信じるものが、他にないからだ。しかし、死刑が無期になり、死の恐怖がなくなったら、どうなると思うのです? 今度は、逆に、毎日毎日、貴女の愛情を疑い続けるに決っている。男がいるのではないか、心変りするのではないかと、その不安に怯《おび》え続けるに決っている。それこそ、残酷だ」 「————」 「私は、貴女に男がいるのを知っている。調べさせましたからね。貴女が、ご主人の弁護に走り廻《まわ》ったのは、純粋な愛情のためではない筈《はず》だ。欲望を押さえ切れなかったことへの、後めたさの為だ。違うと、いい切れますか? 私は、別に、貴女を非難しているのじゃない。偽善が、いやなだけです。嘘《うそ》が、我慢ならないだけです」 「————」  荒井文子の顔は、蒼《あお》ざめていた。乾いた唇が動いて、何かいいかけたが、止めてしまった。 「それでも、貴女は、ご主人を助けて欲しいと、思うのですか?」 「ええ」  文子は、蒼ざめた顔のまま、小さく、うなずいた。 「主人を助けて下さい」  言葉の途中で、文子は、手で顔を蔽《おお》ってしまった。  田中が部屋を出るとき、微かな嗚咽《おえつ》が、聞こえたような気がした。      十  控訴審が開かれている間、薄暗い傍聴席の隅に、文子の姿が見られた。被告席の夫と顔が合うと、口元に微笑を浮かべて見せたが、その表情には、力がなかった。  判決は、翌年になった。  春先の寒い日だった。傍聴席には、かなりの人が腰を下していたが、その中に、荒井文子の姿はなかった。 「彼女、来ていませんね」  古賀は、それが気になるらしく、眉《まゆ》を寄せて、田中にいった。田中は、「風邪でも、ひいたんだろう」と、素気《すげ》なく、いった。  判決は、死刑から、有期刑の二十年への、刑の軽減であった。弁護士としては、大きな勝利といってよかった。古賀の顔が、判決を聞いているうちに、喜びで、紅潮してきた。被告席の荒井五郎も、眼を輝やかせた。死の恐怖から解放された顔が、そこにあった。  古賀は、廊下に出ると、改った口調で、 「有難うございました」  と、田中に、頭を下げた。 「無期が、せいぜいと思っていたのですが、有期刑に持っていけたのは、先生のおかげです」 「これは、君のやったことだ」  田中は、おだやかに、いった。この言葉は第三者には、彼の謙虚さと、映ったかも知れない。 「君が勝ったのだ。私は、何もしなかったよ。それより、荒井の妻君に、結果を知らせてやった方がいいんじゃないかね?」 「そうでした」  古賀は、笑顔で、いった。 「電話をかけるより、自分で行って来ます」  古賀は、法廷を飛び出して行った。が、夜になっても、彼は、帰って来なかった。  翌朝早く、まだ、ベッドにいた田中に、電話が掛った。受話器を取ると、「淀橋警察署」だという。 「古賀時彦という男を、ご存じですか?」  太い男の声が、いった。 「知っていますが」 「実は、昨夜おそく、近くのバーで、酔っ払って暴れたのです。グラスを叩《たた》き割った揚句、店のホステスを殴りつけて、怪我《けが》をさせたので、留置したのですが、今朝になって、貴方の名前をいうので——」 「すぐ伺います」  田中は、受話器を置くと、急いで外出の支度をした。電話の音で、眼をさましていた冴子が、 「何処《どこ》へ?」  と、訊《き》いた。 「警察だよ」  田中は、短かくいって、外へ出た。街は、まだ薄暗かった。淀橋署へ着く頃になって、やっと、陽が昇り始めた。  署長に会った。小太りの色の黒い署長は、難しい顔で、 「古賀という男は、酔うと、いつも、ああ暴れるのですか?」  と、訊いた。田中は、違うと、いった。 「酒も、あまり飲まない男なんですが」 「すると、昨夜は、例外だったということですな」 「ええ。二年ほど、つき合っていますが、あの男が、酔い潰《つぶ》れたのを、見たことがありません。ところで、相手の怪我は、どんな具合ですか」 「幸い、たいした傷じゃありません。告訴する気はないようですから、金で、片がつくと思いますが」 「金ですむのなら、私が払います。古賀を連れて帰って、よろしいですか?」 「結構です」  署長は、インターホンに向って、古賀を連れてくるようにいった。  重いドアが開いて、刑事に腕をとられた古賀が入って来た。昨日、勝利を噛《か》みしめていた、喜びに輝いていた顔は、そこにはなかった。何かに、打ちのめされた表情だった。眼の下には、黒いクマができていた。 「一体、どうしたんだ?」  田中は、警察署を出てから、訊いた。 「まるで、人生の敗残者みたいな顔をしてるじゃないか」 「その通りです。僕は敗けたんです」 「敗けた? 君は、勝った筈《はず》じゃないか?」 「荒井文子が自殺しました。それでも、僕は勝ったといえますか?」 「自殺——?」  田中は、訊き返した。だが、その声には、驚きのひびきがなかった。 「昨日、荒井文子のアパートに行ったら、彼女が、死んでいたんです」 「————」 「僕には、わけが判りません。荒井文子は、何が不服で、自殺したんでしょうか? これでは、まるで、彼女を自殺に追いやるために、法廷で闘って来たことになります」 「それで、酒を飲んだのか?」 「飲まずには、いられなかったんです。僕には、人間が信じられなくなりました。女は、化物です」 「バーの女を殴ったのは、その腹いせかね?」 「判りません。女が、豚みたいに見えたんです。だから、殴ったのかも知れません。はっきり憶えていないんです」 「それなら、何もかも、忘れてしまうことだ。荒井文子が、自殺したこともだ。君は、裁判に勝った。それで、いいじゃないか?」 「無理です」  古賀は、暗い声で、いった。 「粗末なベッドの上で、殉教者のように、眼を閉じて死んでいた荒井文子の顔は、忘れられません。まるで、僕が、殺したみたいな気がするんです」 「忘れるんだ」 「無理です」  古賀は、同じ言葉を繰り返した。 「僕には、人間が、信じられなくなりました。僕は、あの夫婦の愛情が、純粋なものだと信じていたんです。死刑囚の妻の献身、その美しさは、本物だと思ったんです。あれは、嘘《うそ》だったんでしょうか?」 「私にも、判らんさ」  田中は、首をすくめた。 「彼女自身にも、判らなかったのかも知れん」 「先生」  急に、改った口調になって、古賀が、田中の顔を見た。 「先生には、荒井文子が自殺すると、判っていたんじゃありませんか?」  強い語気に、田中は、狼狽《ろうばい》した顔になり、 「馬鹿なッ」  と、尖《とが》った声で、いった。 「私に判っていたら、君に、今度の事件を引き受けさせるものか。君が傷つくのは、判っているからね」 「————」 「私は、君に、いった筈だ。人間を余り信用するのは、危険だと」 「僕にも、人間が信じられなくなりました」  古賀は、疲れた声で、同じ言葉を、繰りかえした。      十一  翌日、古賀は、事務所に姿を見せなかった。  田中は、仕事を了《お》えてから、彼のアパートに廻《まわ》ってみた。部屋には、鍵《かぎ》がかかっていた。管理人に訊くと、「帰りましたよ」という返事だった。 「帰った?」 「ええ。故郷へ帰ると、おっしゃってました。あの方は、確か仙台でしたよ。そこで、家の商売でも手伝うんだと、おっしゃってました。ところで、貴方は?」 「田中というものです」 「田中さんなら、お渡しするものがあります」  管理人は、机の引出しから、封筒を取り出して、田中に渡した。  表に、古賀の筆跡で、「田中先生」と、書いてあった。  田中は、中を読んだ。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈今度の事件で、弁護士で身を立てる自信を失いました。人間の心が判らなくて、人の弁護が出来る筈がありません。仙台へ帰って、家業でも継ごうと思います。いろいろと、お教え頂いた先生には、申しわけありませんが、我ままを、お許し下さい。   先生は、本当に、荒井文子の自殺を、予期していらっしゃらなかったのですか?〉 [#ここで字下げ終わり]  最後の一行は、線で消してあったが、そのために、かえって鮮明に、その文字が、田中の眼に飛び込んできた。古賀が、書きたかったのは、この一行の言葉に違いなかった。  田中は、読み了えると、その手紙をポケットにしまった。微かな動揺の色があったが、家に帰った時には、それは、消えていた。  田中は、着物に着がえながら、何気ない調子で、 「古賀君が、仙台へ帰ったようだよ」  と、冴子に、いった。彼女の眼が、一寸《ちよつと》動いた。が、着がえを手伝っている手の動きは、変らなかった。 「事務所へ顔を見せないんで、アパートへ行ってみたら、いないのだ。管理人の話だと、仙台へ帰って、家業を手伝うらしい」 「私たちには、何も、いい残していかなかったんですか?」 「ああ。何も残していかなかった」 「おかしな人」 「寂しくなるな」 「そうでもありませんわ」 「そうかね?」 「そうですわ」 「君は、ピアノの先生が、いなくなったことになる」 「正直にいうと、もう、ピアノには、厭《あ》きていましたの」 「ほう」 「ピアノより、今度は、小さなスポーツ・カーを買って頂きたいわ。色は赤く塗って。運転免許を取ったら、貴方を乗せてあげます」  冴子は、はしゃいだ声で、いった。 「赤い、小さなスポーツ・カーか」  田中は、ソファに腰を下した。溜息《ためいき》が、自然に口から洩《も》れた。  冴子は、田中の脱いだ洋服をたたみながら、車の話を続けている。  ジャガーという英国のスポーツ・カーのこと、ポルシェという車に乗って死んだアメリカの若い俳優のこと。  田中は、妻のお喋《しやべ》りを聞きながら、次第に、暗い気持になっていった。 (冴子には、古賀も、小さくて、赤いスポーツ・カーにすぎなかったのだろうか)  そのために、ここ二、三カ月、自分のしたことは、何だったろうか。  望みどおり、古賀は、彼の前から姿を消した。が、一人の女を自殺に追いやってしまった—— 「え?」  と、冴子が、手を止めて、田中を見た。 「何か、おっしゃった?」 「いや」  と、田中は、首を横にふった。 「どうも、少し疲れたらしい。年かな」  弱々しい声でいい、田中は、眼を閉じた。 本書に収録された作品は、昭和四〇年前後に発表されたものです。現在の用語表現といたしましては、ふさわしくないと思われる部分がありますが、当時の時代背景を知るうえでも作品の雰囲気やリズムを損なわないよう、発表時の表現のまま掲載いたしました。 [#地付き](編集部) 角川文庫『失踪計画』平成10年3月25日初版発行