[#表紙(表紙.jpg)] 原子力船むつ消失事件 西村京太郎 目 次  第 一 章 出 航  第 二 章 捜 索  第 三 章 疑 惑  第 四 章 沈 黙  第 五 章 汚染海域  第 六 章 写 真  第 七 章 貨物船  第 八 章 イスラムの剣  第 九 章 アメリカ大使  第 十 章 タンカー  第十一章 決 断  第十二章 帰 国 [#改ページ]  第一章 出 航      1  佐世保《させぼ》は、山と海と造船の町である。  背後の展望台に登ると、眼下に、佐世保の町が広がる。  海岸には、びっしりと、ドックが並ぶ。一時の造船景気はないが、それでも、建造の火花が飛んでいる。  その一角に、他の船とは、少しばかり違う色彩の船が見える。  紫色の船側と、幅の広い、どう見てもスマートとはいえない、ずんぐりした船体をした原子力船「むつ」である。  他のドックには、出入り自由だが、「むつ」の修理が行われているドックだけは、二重の鉄網で、外部と遮断《しやだん》され、ガードマンが、絶えず、パトロールしている。  関係者は、一人ずつ、磁気を帯びたカードを持ち、それを、入口に設けられたボックスに差し込まなければならない。本物のカードなら、自動的に、入口の扉《とびら》が開く。  それほど、警戒が厳重なのは、原子力船そのものの秘密保持のためもあり、また、反対派の破壊工作に対処するためだった。 「むつ」は、昭和五十二年、試運転中に事故を起こし、原子炉の改修のために、青森県|下北《しもきた》半島から、九州の佐世保に回された。  それ以来、三年余り、「むつ」は、忘れられた存在だった。  新しい母港が、なかなか決らないということが新聞の隅《すみ》にのったり、改修費が高すぎるといった話が出たりもしたが、いずれも、マイナスの話題でしかなかった。  その「むつ」が、ようやく、改修工事をおえた。  新しい母港も、下北半島の関根浜《せきねはま》と決った。 「むつ」は、果して、蘇《よみがえ》ったのか、それとも、新たな重荷となるのか、誰《だれ》にもわからない。  佐世保出港は、十月十八日の日曜日。大安吉日と決った。  その前日の十七日、原子力船むつ開発事業団の藤木《ふじき》は、田辺《たなべ》理事長と佐世保に着いた。  田辺が、佐世保に来たときの宿は、S荘と決っている。そこへ、予約しておくのも、秘書室長の藤木の仕事だった。  S荘は、佐世保で、もっとも古い旅館で、この町が、旧海軍の軍港だった頃《ころ》、連合艦隊司令長官をはじめ、高級将校が、常宿としていたところだった。  今でも、歴代の司令官の名前が、ずらりと書き並べてあったり、額が飾ってあったりする。  夕方、S荘に着くと、藤木は、ひとりで、タクシーを拾い、「むつ」が繋留《けいりゆう》されている岸壁に行ってみた。  立入禁止で、ガードマンが立っている。  藤木が、身分証明書を示すと、ガードマンが、磁気カードで、扉を開けてくれた。  原子炉の改修を了《お》えた「むつ」は、船側も新しく塗り直し、特徴のある船体を、横たえていた。  八千二百十四トンの「むつ」は、さして大きい船とはいえない。何十万トンというマンモスタンカーから見れば、むしろ、小さい船といえそうである。  世界の原子力船の中でも、ソビエトの原子力砕氷船などは、二万トン、三万トンの大きさである。  それでも、船というのは、実際に、埠頭《ふとう》に立って見上げると、大きく見えるものだった。  紫色の船体が、そそり立っているように見える。  藤木は、タラップを昇って行った。  出港は、明日だが、万一に備えて、十人の乗務員が、乗船している。  船橋《ブリツジ》にいた一等航海士の浅井《あさい》が、藤木を迎えてくれた。  浅井は、運輸省から事業団に出向して来たのだが、藤木とは、同じ二十九歳なので、親しくしていた。二人とも酒が強く、麻雀《マージヤン》好きだという共通点もあった。  浅井は、藤木を、船橋《ブリツジ》の下にあるサロンに案内した。  会食などに使えるように、大きなテーブルと、三十脚近い椅子《いす》が置かれているが、日本初の原子力船のサロンにしては、華やかさに欠けている。壁に絵が画いてあるわけではない。天井に、シャンデリアが輝いているわけでもない。床に、靴先《くつさき》が沈むようなじゅうたんが敷きつめてあるわけでもない。  壁には、安物の絵が一つだけ。床はリノリウム。ただ一つの色どりといえば、部屋の隅に、博多《はかた》人形が一つ置いてあるだけだった。 「むつ」が、貨物船として建造されたためもあるだろうし、原子炉関係に、金を使い過ぎて、他の箇所が節約されたということがあるかも知れない。  若い女性が、コーヒーを運んで来てくれた。 「新谷紀子《あらやのりこ》君だ」  と、浅井が、紹介した。 「むつ」では、女性の乗組員を二人採用した。  原子力船が危険だという批判を、少しでも柔らげようという配慮のためもあるし、同時に、現地対策の意味もあった。 「むつ」の母港は、最初、青森県下北半島に決ったのだが、その時、少しでも、現地に恩恵がもたらされるようにということで、下北に住む女性一人を、採用したのである。その後佐世保で改修工事が始ってからは、佐世保で女性一人を採用した。  二人の名前は、藤木も書類の上で知っていたが、その一人に会うのは、初めてだった。  新谷紀子は、佐世保採用の女性である。  彼女が、ニッコリ笑って、サロンを出て行くと、 「ちょっと、きれい過ぎるね」  と、藤木は、いった。  年齢は二十三歳。大学を卒業したあと、一年間、博多の銀行で働いていて、「むつ」の乗組員として採用された女性である。  すらりとした長身で、細面《ほそおもて》のなかなかの美人だった。 「航海中も、気になって仕方がないんじゃないか? ああいう美人が、二人も乗っていたんじゃあ」  藤木が、笑いながらいうと、浅井は、手を振って、 「船を走らせている時は、それどころじゃないよ。それに、この船は、日本中の注目を集めて、航海に出ることになる。航海といっても、明日からのは、新たな母港に決った下北の関根浜まで回航するだけのことだがね。今度こそ、ミスは許されない。船内で、スキャンダルでも起きれば、それこそ、マスコミや、国民から袋叩きにあい、原子力船計画は、完全に駄目《だめ》になってしまうよ。そのくらいのことは、全員がわかっている筈《はず》だと思っているがね」  と、真顔《まがお》でいった。      2  コーヒーをご馳走《ちそう》になったあと、藤木は、浅井と一緒に、船内を見て回った。  明日の航海は、浅井がいうように、新たな母港と決った関根浜への回航である。従って、改修工事の終った原子炉は、使用できない。補助エンジンを使用して、ゆっくりと航海するわけだが、万一を考えて、船内の点検が必要だった。  甲板に出る。  船腹は紫、船橋《ブリツジ》は白だが、甲板は、緑《グリーン》に塗られている。  船の中央部に、問題の原子炉が据《す》えられている。  M重工で造られた小型の原子炉である。小型といっても、安全のために、炉の周囲を、厚さ十センチのコンクリートで蔽《おお》っているので、自然に、船の幅が大きくなる。そのため、この船は、長さの割りに幅の大きな、ずんぐりした型になった。 「おれの立場でいうと、あまり運転しやすい船とはいえないね。これは、ずんぐりした船型から来てるんだが」  甲板を歩きながら、浅井が、いった。 「あまり、心配させるなよ」 「何しろ、十年以上も前に建造された船だからね。当時としては、最新の機械を積んでいたが、今では、古くなってしまっている。レーダーも、もう旧式だよ。今は、気のきいた漁船でも、もっと、遠くまで見えるレーダーを積んでいる」 「原子炉の改修に、予算を食い過ぎたんでね」 「わかってる。このままでも、十分に動かせるさ。ただ、日本唯一の原子力船にしては、他の機器がお粗末だけどね」  浅井は、肩をすくめた。  そうしたアンバランスな船だということは、関係者の一人として、藤木も知っている。  サロンの造りも、その一つの例である。実験船の宿命かも知れない。  原子炉の横を通って、二人は、船の後部にある制御室に入った。  原子炉は、まだ稼動していないから、制御室も、眠っている。  それでも、二人の技師が、計器を見つめて、当直に当っていた。  この制御室は、通常の船にはないものである。  ずらりと並ぶ計器類、特に、異常事態発生の時にのみ押す赤いスイッチが、いやでも、この船が、原子力で動く船だということを教えてくれる。  正確にいえば、加圧軽水冷却型の原子炉である。  たとえ小型でも、日本各地にある原子力発電所と同じなのだ。  原子炉によって、高温の蒸気を発生させ、それによって、タービンを回す。その過程は、原子力発電と全く同じである。原子力発電では、そのタービンで電気を起こし、「むつ」では、船を推進させるだけの違いだった。  従って、最近の相次ぐ原子力発電所の事故は、「むつ」にとっても、マイナスだった。 「しかし、おれは、絶対に、この船を原子力で動かしてみせるよ」  と、浅井は、陽焼《ひや》けした顔でいった。 「一度も試運転せずに、廃船にしてしまったら、それこそ、今までに使った何百億という金が無駄《むだ》になる。試運転をして、そのデータが残れば、たとえ、『むつ』が廃船になっても、いつか、そのデータが生きるんだからね」 「田辺理事長も、同じことを考えていて、一刻も早く、『むつ』の試運転が出来る状況を作るといっておられたよ」 「早く、そうして貰《もら》いたいね。補助エンジンで航海するんじゃあ、何のために原子炉を積んでいるのかわからないからな」 「ああ、わかっているよ。そのために、今、各方面に働きかけているんだ」  と、藤木は、いった。      3  翌朝になると、ドックに通じるゲートは、表、裏とも、五百人を越す機動隊によって、ガードされた。 「むつ」の出港に合せて、反対派の住民や、過激派の学生が押しかけて来るという情報が入ったからだった。  午前十一時の出港が近づくと、式典に参加する人々が、「むつ」の繋《つな》がれている埠頭《ふとう》に集って来た。  藤木が、田辺理事長に同行して、到着したのは、午前十時半である。  反対運動の方は、ゲート近くに、赤旗を持った三十人ばかりの若者が集っているだけで、予想されたような妨害は生れていなかった。  だが、二人の乗った車が、ゲートの前で止まり、藤木が、守衛に、田辺理事長の名前を告げているうちに、若者たちの間から、突然、小石が飛んで来て、車の窓に命中した。  田辺の顔を、新聞で知った人々が、石を投げたのだろう。  ぴしッという音と共に、窓ガラスに亀裂《きれつ》が入ったが、割れはしなかった。  背後で、警備の機動隊と、反対派の若者たちの争う声を聞きながら、二人を乗せた車は、造船所の中に走り込んだ。 「彼等の気持がわからんね」  と、田辺は、むしろ、悲しげにいった。 「原子力船に反対する気持がですか?」 「そうだ。老人たちは、保守的だから、原子力をやみくもに怖がるのもわかる。しかし、若者には、未来を見て、賢明に考えて欲しいんだ。未来の海は、原子力船が走り回るに決っているんだからね」 「その未来に対する考え方が違うのかも知れません」 「彼等は、帆船ばかりの海を想像しているのかね」  午前十一時、かっきりに、式典が始った。  まず、科学技術庁長官の中田《なかた》が、いくらか、浪花節《なにわぶし》的な挨拶《あいさつ》をした。  何度も、彼は、大きな身体をゆすって、「男」を強調した。  原子力船「むつ」に対して、さまざまな方面から、批判が浴びせられ、現在の日本には不必要だという意見も出た。  それに対して、科学技術庁長官の私は、「身体を張って、『むつ』を守って来ました」と、彼は、いった。 「——今、私が守って来た可愛い息子が、怪我《けが》が治って、元気に、歩き出そうとしています。未来は、彼のものです。原子力船『むつ』の新たな船出を前にして、私は、これまでの苦労を考え、涙が、あふれ出るのを、どうしようもないのであります」  彼は、本当に、指先で、涙を拭《ふ》くようなポーズさえ見せた。  次に、挨拶した田辺の方は、もともと、技術畑の出身だけに、理性的な言葉を並べた。 「この『むつ』は、実験船として建造されました。その使命は、今も、変っていません。今回の航海は、新たな母港となった関根浜への回航ですが、一刻も早く、原子炉を使った試験航海をしたい。それが行われて、初めて、実験船としての『むつ』の使命が達成されるからです」  三人目に、「むつ」の改修を行ったS重工の社長が挨拶し、それで、式典が終った。  ブラスバンドが鳴り、紙テープが飛び交う中で、原子力船「むつ」は、ゆっくりと、岸壁を離れて行った。  当初は、式典もなく、静かに出港することになっていたのだが、科学技術庁長官が、原子力船「むつ」は、時代の要請によって造られたものである。何をこそこそ出港するのだ、堂々と出港せよといい、その鶴《つる》の一声で、ブラスバンド入りの賑《にぎ》やかな出港になったのである。  藤木は、じっと、遠離《とおざか》って行く船体を見つめていた。 (やっと、出港したな)  と、いう気持である。  三陸《さんりく》沖での試験航海で、原子炉の故障が発見されてから、四年間かかって、ようやく、原子炉の改修が終った。もし、また事故を起こしたら、その時こそ、「むつ」は、廃船に追いやられるだろう。 「むつ」の甲板には、乗組員たちが並んで、手を振っている。その中には、若い二人の女性の姿も見えた。  佐世保港を出ると、海上保安庁の巡視船が近づいて来て、先導する形をとった。  ゲートの外では、ひとかたまりの反対派の人たちが、盛んに、「原子力船出て行け!」のシュプレヒコールをあげていたが、「むつ」が入って来るのではなく、出て行くだけに、あまり、気勢はあがらない様子だった。  やがて、「むつ」の姿は、藤木たちの視界から消えた。  港外へ出たあと、ゆっくり、日本海を北上し、七日間をかけて、下北半島の外海に新しく母港にした関根浜に着くことになっている。 「むつ」の巡航速度は、十六・五ノットだが、これは、原子炉を稼動《かどう》した場合である。今度の回航には、原子力を使わず、補助機関だけで走ることになっている。そのため、速度は、七、八ノットしか出ないだろう。 「無事に、関根浜に着いてくれるといいがね」  車に戻《もど》りながら、田辺が、いった。  科学技術庁長官たちは、それぞれ、自分たちの車で、すでに、帰ってしまっていた。 「別に心配はいりませんよ。補助機関で走っている限り、普通の船と同じですから、妨害を受けることもないでしょうし、原子炉の事故もありませんから。それに、気象庁に問い合せたところ、ここ一週間、台風が近づくこともないそうです」  藤木がいうと、田辺は、 「そうだな。心配することはなかったんだな」  と、いくらか、あわてた調子でいい、痩《や》せた長身を折りたたむようにして、車に乗り込んだ。  田辺は、普段は、冷静な男である。それが、急にあわてたことに、藤木は、ふと、首をかしげたが、車が走り出すと、すぐ忘れてしまった。  車で長崎まで行き、ここからは、羽田《はねだ》行の飛行機に乗った。  長崎から東京の羽田まで一時間四十五分の空の旅である。  全日空六六四便で、羽田に着いたのが、午後四時三十分。船舶ビルの四階にある原子力船むつ開発事業団に、藤木が、田辺理事長と共に帰ったのは、六時少し前だった。 「むつ」から、最初の連絡が入ったのは、午後九時だった。 「むつ」には、無線電話と、通常の船舶電話の二つが設備されている。  事業団への連絡は、船舶電話を通じてのものだった。  理事長室の電話が鳴り、田辺が取ると、相手は、「むつ」の小田中《おだなか》船長からだった。 「只今《ただいま》、壱岐《いき》の沖を、時速八ノットで、北東に向って、航行中です。快晴、南東の風五メートル。絶好の航海|日和《びより》です」 「乗組員は、みなさん、元気ですか?」 「おかげさまで、全員元気です。命令書は、佐世保港を出たところで、開封して、眼を通しました」 「十分に気をつけて、航海して下さい」 「有難うございます」  と、小田中がいった。  小田中は、船員生活二十五年のベテランである。それだけに、潮がれした太い声が、田辺の耳には、頼もしく聞こえた。  藤木は、壁にかかった日本地図の壱岐の沖に、舟型に切った板を置き、「10・18 PM9・00」  と、書き込んだ。  この地図には、佐世保から関根浜への予定航路も、書き込まれている。海が荒れたり、「むつ」自身の事故がない限り、この予定どおりに進む筈だった。 「むつ」の原子炉は、佐世保のドックで、改修され、遮蔽《しやへい》するコンクリートは厚くなり、万全なものとなったが、使用するウラン燃料は、関根浜で、積み込むことになっていたから、今度の航海で、どこかの港に緊急避難することになったとしても、それが、拒否されることはあるまいと、藤木は、考えていた。 (問題は、関根浜に着いてからだ)  と、藤木は、思っていた。 「むつ」は、関根浜に着いて、それで、終りではない。  新しい母港に着いてから、ウラン燃料を積み込み、実験航海に出発しなければならないのだ。  それがなければ、原子力船「むつ」が、建造された意味がないからである。  関根浜で、「むつ」に、燃料棒が積み込まれる時に、また、一騒ぎが起きるだろう。特に、敦賀《つるが》の原子力発電所の事故以来、原子炉に対する恐怖感が広がってしまった。それが、関根浜でのウラン燃料積み込みに、どうひびくかが問題だと、藤木は、考えている。  関根浜自体は、小さな漁港だから、現地の反対は、あったとしても、規模は、小さいだろう。  心配なのは、阻止しようと集ってくる大きな勢力である。それが、どれほどの大きさか、今のところ、藤木には、推測できないのである。 (それは、「むつ」が、関根浜に着いてから、心配すればいいことだ)  と、藤木は、考えようと努めた。  今は、「むつ」が、無事に、関根浜へ着くことだけを考えればいい。  十八日の夜は、日本海も、静かだった。      4  十月十九日。  東京の朝は、小雨だった。  藤木は、事業団に出勤すると、まず、新聞各紙に眼を通した。  昨日、佐世保を出港した「むつ」について、新聞が、どう書いているかが、気になったからである。  敦賀原発の事故を、一斉に批判した手前もあるのか、「むつ」の新たな出発を、手放しで喜んでくれている新聞は、一紙もなかった。  冷ややかな報道といったところだろう。 〈今度の改修工事によって、原子炉の安全が確立したと事業団は発表しているが、果して、その声明をうのみにしていいものかどうかわからない〉 〈現在の時点で、果して、わが国に原子力船が必要かどうかの議論が、また、再燃するだろう〉 〈昨日出港した「むつ」には、若い女性が二人、乗り込んでいる。それによって、「むつ」の安全性を信じさせようとしているとしたら、それは、滑稽《こつけい》である。敦賀原発の後遺症は、まだ、国民の中に強く残っている〉 〈原子力船「むつ」が、第二の敦賀原発にならないという保証は、どこにもない〉  そんな言葉が、朝刊の各紙を、かざっている。  苦笑しながら、藤木が、新聞をたたんだとき、田辺に呼ばれた。  藤木は、ネクタイを、直してから、理事長室に行った。  田辺は、窓際に立って、降り続く小雨を眺《なが》めていた。 「今、『むつ』の小田中船長から、船舶電話を通じて、連絡が入ったよ」  と、田辺は、窓の外に眼をやったまま、藤木にいった。 「予定どおり、午前九時現在、山口県沖を、航行している。天候は、曇りだが、風はなく、乗組員は、全員元気だそうだ」 「いい知らせですね」 「よくない知らせもある」 「新聞のことですか?」 「新聞が、批判的なことは、毎度のことだからね」  と、田辺は、眼鏡の奥で笑い、窓際を離れて、自分の椅子《いす》に腰を下した。 「まあ、座りたまえ」  田辺は、藤木にも、椅子をすすめてから、 「関根浜に行っている新井《あらい》理事から電話が入ってね。今朝早く、『むつ』の母港反対を唱えるヘルメット姿の若者が、二十人ばかり、関根浜に現われたそうだ」 「『むつ』の入港が近づくと、もっと増えるかも知れませんね」 「だろうね」  田辺は、ちらりと、壁にかけた予定表に眼をやった。  十月十八日 佐世保出港  同二十五日 関根浜着  同 三十日 燃料棒搬入  十一月五日 関根浜出港  同 六日→十日 三陸沖にて原子力による試運転  この予定表は、新聞記者たちに渡されていたから、昨日の新聞にのっていた。 「今月の三十日のウラン燃料棒の搬入が、一つのヤマですね。恐らく、反対派も、これを阻止しようとするでしょうから」  藤木がいうと、田辺は、肯《うなず》いて、 「その時には、君も、関根浜に行って貰うよ。もちろん、私も行くがね」  と、いった。  田辺は、「私は、これからの余生を、原子力船『むつ』にかけるつもりでおります」と、理事長就任の時に話した。  世の中には、儀礼的な挨拶《あいさつ》が多いが、技術畑を歩いて来た田辺の場合は、本音なのだと、藤木は、受け取った。  それは、ある意味では、自分以外に、この難しい仕事を、やりとげる者はいないという自負にもつながっているだろう。  藤木に向っても、田辺は、この仕事が終ったら、もう、官職にはつかず、どこか静かなところで、妻と老後を送りたいと話すことがある。  浪花節的な言葉の嫌《きら》いな田辺は、冷静な物いいしかしないが、「むつ」の成功に、命を賭《か》けているのかも知れない。  関根浜で、騒ぎが起これば、きっと、田辺は、まっ先に飛んで行くだろう。 「もう一つ、悪い知らせが来ている」  田辺が、間を置いて、いった。 「どんなことですか?」 「さっき、気象庁からの連絡でね。グアム島沖の低気圧が、台風二十五号になったそうだ」 「まだ、はるかに離れています」 「しかし、秋の台風というのは、力が強いし、日本に近づいてから、急に、スピードを早めるからね」 「万一の時には、最寄《もよ》りの港に避難すればいいでしょう。そのために、日本海を、沿岸沿いに走っているわけですから。ウラン燃料棒を積んでいなければ、普通の貨物船と同じです。拒否する港はないと思いますね」 「それは、そうだがね」 「ご心配ですか?」 「『むつ』は、一度、事故を起こしている。だから、どんな小さな事故も、これからは、起こしたくないんだ」 「それは、私も願っていますが」  藤木は、予定表の横に貼《は》ってある日本地図に眼をやった。  あと六日で、「むつ」は、関根浜に着く。  台風二十五号の方は、まだ、発生したばかりである。日本を襲うまでに、「むつ」は、関根浜に着けるだろう。  藤木は、そう思った。いや、そう願ったといった方がいいかも知れない。  そんなことは、万一にもないだろうが、台風で沈んだとすると、世間は、そうは考えず、原子力船だから沈んだと考えるに違いないからである。      5  この日から、台風二十五号と、「むつ」の動きを睨《にら》み合せることになった。 「むつ」は、順調に、日本海を航海している。  台風二十五号は、十九日に発生してから、二十日、二十一日と、足ぶみをしていた。  いい傾向だと、藤木は思ったが、台風は、そうして、動かずにいる間に、勢力をたくわえるわけだから、安心ばかりもしていられなかった。  関根浜にやって来た反対派の若者たちは、今のところ、抗議行動も起こさず、人数も増えていないという。  恐らく、彼等は先遣隊なのだろう。「むつ」の到着が近づけば、人数は、急増するに違いない。そして、十月三十日のウラン燃料の搬入が、勝負になるだろう。  燃料棒は、東海《とうかい》村から、運び込まれることになっている。反対派の若者たちは、それを阻止する行動に出る筈だ。  公安警察からも、過激派学生の行動に注意するようにという警告が来ていた。  十月二十二日午前九時。 「むつ」からの船舶電話による報告によれば、能登《のと》半島沖を、八ノットで、まっすぐ、下北半島に向っている。  快晴、風速六メートル。全員元気。  全《すべ》て、順調だった。  一方、台風二十五号は、この日になって、急に、北上を始めた。時速二十キロだが、次第に、北上の速度は、早まるだろうと、予報官は、いった。  危惧《きぐ》されるのは、台風二十五号の強さだった。大きさといった方がいいかも知れない。半径三百キロ以内は、十五メートルの暴風雨が吹き荒れているという。  十月二十三日。午後三時。 「むつ」は、佐渡《さど》沖を、いぜんとして、時速八ノットで航行していると、報告されてきた。 「病人が二人出ましたが、いずれも、軽い腹痛ですから、すぐ治ると思います」  と、小田中船長は、田辺に報告してきた。 「命令書は、実行されていますか?」  田辺が、きいた。 「着実に、実行されていますから、ご安心下さい」  と、小田中は、落着いた声でいった。  台風二十五号も、予報どおり、次第に、スピードを早めて、北上して来ていた。  台風が近づくにつれ、八丈島《はちじようじま》あたりでも、海が荒れて来ているということだった。  同日の午後九時。  小田中船長の報告は、次の通りだった。 「現在、新潟沖百キロを、八ノットで、北上しています。腹痛を訴えていた二人の乗組員も、回復して、元気に勤務に就いています。天候は曇りで、波が少し高くなっていますが、本船の航行には、何の支障もありません。これで、午後九時の定時連絡を終ります。次は、明日の午前九時に、連絡いたします」  どこにも、危険を予感させるような言葉もなかったし、声でもなかった。  だが、それが、原子力船「むつ」からの最後の連絡になってしまったのである。      6  佐世保を出港してから、六日目の十月二十四日がきた。  藤木は、八時四十分に、事業団本部に出勤した。  午前九時には、いつものように、田辺理事長|宛《あて》に、船舶電話を通して、小田中船長からの報告が入るだろう。  午前九時十五分。  藤木は、田辺に呼ばれた。  理事長室に入ると、田辺の様子がおかしかった。藤木の顔を見るなり、 「すぐ、船舶電話で、『むつ』を呼び出してくれないか」  と、田辺がいった。 「しかし、午前九時に、小田中船長からの報告が入ったんじゃありませんか?」 「それが、連絡が来ないのだよ」 「本当ですか?」 「もう二十分過ぎた。几帳面《きちようめん》な小田中君が、定時報告をして来ないのは、おかしいじゃないか」 「ひょっとすると、向うの電話が故障したのかも知れません」 「それだったら、『むつ』には、船舶用電話の他に、もう一つ、無線電話の装置がついている。それを使って、知らせてくる筈じゃないかね」  と、田辺は、いった。  理事長のいう通りだった。  この事業団の建物には、「むつ」の無線電話を、直接、受信する設備はない。だから、小田中船長は、船舶電話局を通じて、理事長室の電話にかけて来たのだ。  もし、「むつ」の船舶用電話が故障したのなら、無線電話で、海上保安庁なり、関根浜に新しく作られた基地に知らせてくるだろう。  新しい母港には、数人の事業団の職員が、すでに、常駐していたし、「むつ」の無線を受信する装置もある。  藤木は、まず、船舶電話局を通して、「むつ」を呼び出して貰った。  しかし、北陸にある無線基地局を通して、いくら呼び出しても、「むつ」からの応答がないという返事が返ってきた。  次に、関根浜に電話して、「むつ」から、連絡が入っていないかをきいてみたが、その答えも、ノーであった。  最後に、海上保安庁に問い合せてみたが、「むつ」の無線連絡は、キャッチしてはいないという返事だった。  理由はわからない。だが、「むつ」は、突然、連絡を絶ってしまったのである。 「むつ」は、一日三回、定時連絡をしてくることになっていた。  午前九時  午後三時  午後九時  である。  その他、事故が起きれば、何時でも連絡してくることになっていた。 「君は、『むつ』から、なぜ、連絡が来なかったのかわかるかね?」  田辺は、冷静なこの男には珍しく、熊《くま》のように、室内を歩き廻りながら、藤木にきいた。 「『むつ』は、昨夜まで、順調に航海していましたし、あの周辺の海域は、平穏でした。気象庁に問い合せて確めました。南東の風六メートルで、あの海域で、遭難した漁船もありません。となると、『むつ』の遭難もあり得ません」 「それなら、なぜ、午前九時に、連絡して来なかったのかね? 小田中船長は、几帳面な男だし、彼が病気だとしても、他の者が、連絡してくる筈だ」 「一つ考えられるのは、無線室に火災でも発生して、すぐ消し止めたが、通信機器が全《すべ》て故障してしまったのではないかということです。今、必死になって、故障箇所を修理している。それで、午前九時の定時には、連絡できなかったわけです」 「無線室の火災かね」 「他には考えつきません。沈没するような事故なら、SOSを発信している筈です。無線室がやられても、救命ボートには、自動的にSOSを発信する機械が積み込んでありますから」 「船内で、大爆発でも起きたら、救命ボートも、使えんだろう? 違うかね?」  田辺は、蒼《あお》い顔でいった。  藤木は、手を振って、 「まだ、ウラン燃料は、積み込まれていませんし、従って、原子炉による運転はしていませんから、大爆発のようなものは、考えられません」 「それは、そうだが——」 「私は、今、申しあげたように、通信機械の故障と思いますが、万一ということがあります。海上保安庁に頼んで、調べて貰った方がいいと思います。無事に航行しているのが確認されれば、問題はないわけですから」 「そうした方がいいかね?」 「次の連絡時刻の午後三時まで待ちますか?」  藤木は、逆に、理事長にきいてみた。  決断の早い田辺には珍しく、しばらく考えていたが、 「これから三時まで、心配するのも嫌《いや》なものだ。海上保安庁に、頼んでみてくれ。ただし、藤木君」 「はい」 「マスコミには、まだ、内密にしておいた方がいいね。マスコミは、事あれかしと思っている。原子力船が成功することより、失敗することの方を期待しているんだ。単なる無線機械の故障なのに、原子力船の事故などと書き立てられたのでは、これからのことに支障が起こるからね」 「わかりました」  藤木は、すぐ、海上保安庁に、電話を入れた。  無線機械の故障らしく、「むつ」からの定時連絡がなかった。そのため、「むつ」の現在位置の確認ができない。至急、「むつ」が、どこを航行しているか、調べて欲しい。  この依頼をしたのは、十月二十四日の午前十時五十分であった。  台風二十五号は、八丈島の南百キロに近づき、本土の太平洋沿岸に打ちつける波は、高さを増してきていた。 [#改ページ]  第二章 捜 索      1  新潟にある海上保安庁の第九管区本部では、午前十一時に、緊急命令が出された。  本部長の太田《おおた》は、海図を前にして、部下と協議に入った。 「『むつ』が、事業団本部に、最後に連絡してきたのは、昨日の午後九時だ。その時の位置は、ここだよ」  太田は、海図に、×印をつけた。  新潟沖百キロの地点である。 「事業団では、その後、無線機械が故障したのではないかといっている。もし、故障を修理しながら航行しているとすると、今日十一時の推定位置は、時速八ノットとして、この辺りになる」  太田は、その海域を丸く囲み、斜線で塗り潰《つぶ》した。 「万一を考えて、事業団から、捜索依頼がきた。巡視船は、今、どこにいるね?」 「佐渡の東七十キロを、こちらに向って帰港中です」 「すぐ、この海域に急行させてくれ。何時間で到着するね?」 「三時間で、到着する筈です」 「明るい中に着けるな。あとは、ヘリだが、ヘリの航続距離は?」 「最大二百八十キロです」 「時速百四十キロで二時間か」  と、太田は、呟《つぶや》きながら、海図を見、コンパスで、新潟空港から、斜線を引いた海域までの距離を測った。 「ちょっと、ヘリでの捜索は無理だな」 「YSに来て貰ったらどうでしょう?」  と、部下の一人がいった。  海上保安庁は、YS11二機を持ち、その一機は東京、もう一機は九州に配属されている。  太田本部長は、ニッコリ笑って、 「それは、さっき頼んでおいたよ。もう東京を出発している筈だ」      2  巡視船「いそしぎ」は、急遽《きゆうきよ》、転身して、指示された海域に向った。  十七・五ノットのフルスピードにあげると、八百トンの船体が、ぎしぎしと、不気味な悲鳴をあげた。  船橋《ブリツジ》では、船長の柴田《しばた》が、じっと、前方を見つめていた。  船首で、激しく、波が砕け散っている。快晴だが、頭上を走る雲の足が早い。台風が近づいている証拠だろう。  命令は、指示海域に急行し、連絡を絶った原子力船「むつ」を捜せというものだった。 「むつ」が、どうして連絡を絶ったのか、その理由は知らされていない。 「二十キロ前方に船影。かなり大きな船です」  と、レーダー係が、報告した。 「どちらに向っている?」 「約八ノットで、北に向っています」 「『むつ』かも知れんから、眼を離すな」  と、柴田は、いった。 「むつ」は、補助機関を使用して、時速約八ノットで、関根浜に向っていると聞いていたからである。  三十分後に、問題の船が見えてきた。  柴田は、双眼鏡で、じっと、その船を見すえた。 (タンカーか)  と、柴田は、肩をすくめた。  七、八万トンクラスのタンカーである。九州の喜入《きいれ》基地から、石油を、青森か北海道へ運ぶのだろう。  巡視船「いそしぎ」は、タンカーに近づき、追い越した。やがて、タンカーは、後方に消えた。  二時間後、一等航海士の木下《きのした》が、コーヒーを持って来てくれた。  両手でカップを持って、飲む。それでも、ゆれが激しく床に、こぼしてしまった。 「大型台風が、本土に接近していますから、明日あたりから、海は荒れそうですね」  と、木下が、海図に眼をやりながらいった。 「いそしぎ」は、いぜんとして、十七・五ノットのフルスピードを出している。甲板にのりあげた波のしぶきが、船橋《ブリツジ》の窓ガラスにまで、降りかかってくる。 「それにしても、『むつ』が、連絡を絶ったというのは、どういうことなんですかね?」  と、木下が、首をかしげた。 「今日まで、この辺りの海は、別に荒れていたわけじゃありませんし、『むつ』は、九千トン級の船です。めったなことじゃあ、沈みませんよ」 「多分、通信機械が故障したんだろう。新しく母港に決った下北半島の関根浜までは、あと二日で着く。『むつ』の船長は、通信機械を修理するために、佐世保に引き返すより、関根浜へ向った方が早いと考えて、連絡を絶ったまま、航海しているんだろう。私が、『むつ』の船長だとしても、そうするだろうからね」 「それにしても——」  と、木下は、それが癖のいい方をしてから、 「人騒がせな船ですな」  柴田は、腕時計に眼をやった。 「間もなく、問題の海域に到着する。眼を大きく見開いて、レーダーを見ていろよ」  と、柴田は、レーダー係にいった。      3  海上保安庁のYS11は、午後一時二十六分、新潟空港に到着した。  機長の青木《あおき》以下、乗員十名。それに、新潟空港では、問題の海域にくわしい第九管区の細野《ほその》が乗り込み、燃料補給をしたあと、あわただしく飛び立った。  海上保安庁のYSは、旅客機用のYSに比べると、航続距離が長く、客席の代りに、海上の遭難者を救助するためのゴムボートや、救命具、発煙筒などを積み込んでいる。  機長の青木は、このYSに、すでに、十五年間、乗っていた。  十五年前には、ピカピカの新鋭機だったYSも、今では、相当、疲れている。時々、ヒスを起こしたように、片方のエンジンが、止まってしまったり、車輪が出にくくなったりするが、それでも、青木は、この飛行機が好きだった。  十五年も乗っていると、自分の身体の一部のような気がしてくるのだ。  青木より、ひとまわりも若い副操縦士の清水《しみず》は、よく、 「YSを操縦している時の青木さんは、本当に嬉《うれ》しそうな顔をしますね」  と、いう。  そうかも知れないと思う。恐らく、このYSが退役する時、自分も、退職するだろうと、ひそかに考えたりしていた。  高度千五百メートルで、しばらく飛行したあと、八百メートルまで、高度を下げた。  青い海が、ぐっと、迫ってくる。  やがて、前方に、巡視船「いそしぎ」が見えてきた。白い船体が、波をかぶりながら、全速航行をしている。  青木は、さっそく、「いそしぎ」の柴田船長と、連絡をとった。 「ご苦労さんです」  と、無線電話を通して、柴田の声が聞こえた。 「事業団からの新しい情報は入っていませんか?」  青木が、「いそしぎ」の上空を、ゆっくり旋回させながらきいた。 「何も入っていません」  と、柴田がいった。  いぜんとして、「むつ」からは、何の連絡もないということだろう。 「これから、捜索行動に入るぞ」  青木は、部下たちに呼びかけた。 「高度は、五百メートルまで下げる。問題の海域を、五つのブロックに分けて、一ブロックずつ捜索して行く。みんな、眼を大きく見開いて、何も見落すなよ」  飛行機は、更に三百メートル降下した。  高度五百メートル。  近くにいた漁船の、甲板にいる人間の姿も、はっきりと見える。双眼鏡をのぞけば、その表情までわかる低さである。一歩、操縦を誤れば、機首を海中へ突っ込んでしまう。  乗組員たちは、それぞれ、双眼鏡を手に、窓にへばりついた。 「原子力船『むつ』は、甲板の色はグリーン。ブリッジは白だ。ずんぐりした船体だから、見落すなよ」  と、青木は、操縦席で怒鳴った。  陽が射すと、青い海面にきらきら反射して、眼が痛い。といって、陽がかげると、海面が、急に暗くなって、見にくくなるのだ。  副操縦士の清水は、膝《ひざ》の上に、海図をのせ、捜索がすんだ部分を、赤エンピツで消していった。  赤い部分が、広がっていく。  しかし、「むつ」の船影は、いっこうに、視界に入って来なかった。      4  午後三時がきても、田辺理事長の机の上の電話は、鳴らなかった。  五分、六分と過ぎても、同じだった。静かな理事長室で、田辺の表情だけが、険《けわ》しくなっていた。 「藤木君。海上保安庁の捜索の状況は、どうなっているんだね?」  と、田辺は、とがった声を出した。 「十二、三分前に、第一回の知らせが入りました。問題の海域を、空と海から捜索中だが、まだ『むつ』は発見できないということでした」 「どの辺りを捜索しているのかね?」 「こちらで、『むつ』の予想航路を示し、それに従って、捜索してくれています」 「だがね、ひょっとすると、『むつ』は、予定航路を離れて航行しているかも知れんよ。通信機械が故障しているとすれば、レーダーや、コンパスの故障も考えられるからね」 「海上保安庁では、指示海域で見つからない場合は、捜索の範囲を広げていくそうです」 「それならいいがね。台風二十五号の、その後の状況はどうかね?」 「時速六十キロと、足を早めて、本土に近づいて来ています」  藤木は、喋《しやべ》りながら、窓に眼を走らせた。  急に陽がかげると、ざあッと、窓ガラスを雨足が叩《たた》いて通り過ぎていく。  大型台風の接近に伴って、本土近くに横たわっている前線が、刺激《しげき》されるのだろう。 「このまま進むと、明日の夕刻、東海地方に上陸するだろうということです」 「そうなると、明日は、日本海も荒れて、捜索は難しいね」  田辺は、沈痛にいってから、拳《こぶし》で、机を叩いた。 「『むつ』は、どこをうろついているんだ!」  午後五時。  日本海の上空で、捜索に当っていた海上保安庁のYSは、燃料切れを考えて、捜索を中止して、新潟空港に引き返した。  巡視船「いそしぎ」は、まだ、海上にとどまって、捜索を続けていた。  しかし、海上は、次第に、暗さが増し、視界が悪くなっていく。その上、波も高くなってきた。  これで、雨が降り出せば、最悪の状況になってしまう。  だが、五時を過ぎても、原子力船「むつ」は、見つからなかった。      5  二十五日の朝を、東京は、激しい雨の中で迎えた。  前日、事業団本部に泊り込んだ藤木は、堅い長椅子《ながいす》から起きあがると、窓ガラスを、滝のように流れ落ちていく雨滴を、不安な眼で眺めた。  トランジスタラジオのスイッチを入れて、朝七時の台風情報を聞く。  台風二十五号は、いぜんとして、強力で、東海地方への上陸は、更に早まって、午後三時頃になった。上陸したあとは、速度を早めて、中部地方を斜めに抜けて、日本海に出るだろうという。  いつもの藤木なら、台風が、日本海へ抜けると聞くと、ほっとしたものである。しかし、今度は、違っていた。 「むつ」のことが、心配だからである。  日本海方面も、すでに大荒れだという。これでは、今日の捜索は、中止だろう。  本来なら、今日二十五日の午後、「むつ」は、新しい母港である関根浜に到着する予定になっていた。 「むつ」は、予定どおり、関根浜に近づいているのだろうか? 通信機械が故障していても、関根浜に近づいているなら、問題はない。  だが、「むつ」が、事故を起こして、漂流でもしているのだとしたら、一刻も早く、見つけ出さなければならない。  雨の中を、理事長の田辺たちが、出勤して来た。  どの顔も、緊張して、蒼白《あおじろ》くなっていた。  この事業団は、「むつ」の開発のために作られた組織である。 「むつ」が、原子力船として成功すれば、事業団は脚光を浴び、次の原子力船の研究、建造に進める可能性もある。  しかし、「むつ」は、最初の試運転の段階で、放射能|洩《も》れを起こしてしまった。その上、改修に、多額の金を要した。原子炉の遮蔽《しやへい》工事だけで五十三億円、総点検に三十億円と、金食い虫と批判された。  その改修工事がやっと終って、新母港に回航する途中で沈没事故ということにでもなったら、次の原子力船の研究どころか、事業団の解散ということにもなりかねない。  田辺を長とした対策本部が設けられた。  藤木が、まず、今日午前九時の状況を説明する。 「新潟から秋田県にかけての日本海沖は、南東の風が二十メートル、豪雨で、視界は、ほとんどゼロということです。気象庁の予報では、今後、ますます、風雨が激しくなるとのことで、空と海からの捜索は、現在中止されています。漁船も、続々と、附近の港に避難しているようですが、『むつ』は、まだ、どこの港にも入って来ていません。第九管区海上保安本部では、風雨がおさまり次第、空海からの捜索を再開するといっていますが、台風二十五号が、東海地方に上陸しようとしている時ですから、今日一日は、無理と思われます」 「そういえば、空の便は、全部、欠航だそうだ」  理事の一人が、いった。 「理事長は、『むつ』が、どうなったとお考えですか?」  と、他の理事が、田辺にきいた。 「私も、それを知りたいんだ」  田辺は、重い口調でいった。いつもの白い顔が、一層、蒼白くなり、うすく、血管が浮き出て見えた。 「現在の時点で、事業団として考慮しなければならないことがいくつかある。それについて、諸君の意見をききたいのだ」  と、田辺はいい、藤木に、一つ一つ、黒板に書きとらせた。  一、科学技術庁との連絡  二、マスコミ対策  三、事業団としての今後の対策 「第一の点だが、昨夜、中田長官とお会いしたので、『むつ』からの連絡が切れてしまったことだけは、お話しておいた」  田辺は、黒板の字に、ちらりと眼をやってから、理事たちに、切り出した。 「その時、長官は、何といわれたんですか?」 「長官のご意見も、私と同じだった。『むつ』が遭難する筈がない。恐らく、通信機械が故障したのだろうとね。ただ、今後は、随時、科学技術庁と相談して動く必要がある。しかしこのことは、さして、問題じゃない。問題なのは、第二のマスコミ対策だ」 「マスコミは、『むつ』について、前から批判的ですからな。行方不明と知ったら、騒ぎ出しますよ」  理事の一人が、「参ったな」と、溜息《ためいき》をついた。 「まだ、今度のことは、マスコミには、全く知らせていないんだ。気付いた様子もないので安心しているのだが、新聞記者は、今日中に、『むつ』が、関根浜に到着することになっているのは、知っている。関根浜に姿を現わさないと、調べ始めるに決っている」 「台風二十五号のために、予定がおくれていると発表したらどうでしょうか?」 「私も、そうするつもりだが、納得《なつとく》させられるのは、せいぜい二日間だね。台風が通過しても、関根浜に、『むつ』が現われなければ、私たちは、質問攻めにあうだろう。そして、臆測《おくそく》記事が出る。私としては、どうしても、それを防ぎたいんだ」  田辺は、そこで、いったん、言葉を切ってから、 「そのためにも、事業団としての対策が必要になってくるんだがね。海上保安庁には、引き続き、捜索をお願いするとして、他に、何か、対策はないかね?」  と、理事たちを見廻した。 「誰《だれ》か、現地に行っている必要があると思いますが」 「そうだな。藤木君。君が、すぐ新潟に行ってくれ。向うで、海上保安庁と協力するんだ」 「わかりました」  と、藤木は、いった。      6  空の便は、全《すべ》て欠航しているので、藤木は、地下鉄で上野《うえの》に出て、上越《じようえつ》本線で、新潟に行くことにした。  上野に着いたのは、十一時少し過ぎである。  風雨は、ますます激しくなって、ホームは水浸しになっている。  藤木は、改札口を通ると、横なぐりの雨の中を駈《か》け出して、L特急「とき11号」に走り込んだ。 「とき11号」は、定刻より五分ほどおくれて、十一時五十四分に、上野を出た。  窓際の席に腰を下し、窓ガラスに、滝のように流れる雨滴に眼をやった。  列車が、スピードをあげるにつれて、その雨滴は、縦から横に流れるようになった。  藤木が出たあと、会議室では、対策について、あれこれ、話し合われたことだろう。  しかし、事業団としての独自の対策は、立てられまいと、藤木は、思っている。事業団には、捜索のための船も、飛行機もないからである。 「むつ」の捜索は、海上保安庁に委《まか》せるより仕方がない。  科学技術庁長官の中田は、派手好きで、「『むつ』は、私の命」といったりしていたから、いよいよとなると、海上自衛隊の出動も要請するかも知れない。 (それにしても、「むつ」は何処《どこ》にいるのだろうか?)  小田中船長は、経験の豊かな、信頼のおける海の男である。藤木の友人の浅井も、優秀な一等航海士である。  それに、「むつ」も、原子力船ということを考えて、一般の貨物船より頑丈《がんじよう》に造られている。船底も、二重構造である。  二千トンの「日昇丸《につしようまる》」は、アメリカの原子力潜水艦に当て逃げされて沈没したが、「むつ」は、沈没しまい。  と、考えてくると、「むつ」が、沈没したとは考えにくい。  通信機械が故障したので、連絡が途絶《とだ》えているとしか考えられないのだ。  そうだとして、他に故障箇所がなければ、小田中船長は、「むつ」を、関根浜に向って、走らせただろう。  予定より、多少おくれたとしても、今日は、津軽《つがる》海峡に入っていなければおかしい。  だが、昨日、空と海からの捜索では、予定航路上に、「むつ」は、発見でぎなかった。  ウラン燃料の積み込みは、関根浜に着いてからのことだから、原子炉の爆発ということは、考えられない。 (ひょっとすると——)  ふいに、藤木の胸に、どす黒い不安が、わきあがった。  原子力船や、母港に反対する勢力の中で、特に過激な連中が、ひそかに、「むつ」に、時限爆弾を仕掛けたのではないかという不安である。  佐世保のドックに入っていた「むつ」の警備が厳重だったことは、藤木も知っている。  磁気カードを持たない人間は、「むつ」の繋《つな》がれている埠頭《ふとう》に入れなかったし、昼夜の別なく、常に、五、六名の警備員が、警戒していた。  しかし、「むつ」に、時限爆弾を仕掛けることが、絶対に不可能だったとはいい切れない。  海から、アクアラングをつけて、潜って近づき、時限爆弾を、「むつ」の船底に取りつけることは、可能だったろう。  また、出港日には、華やかな式典があり、関係者や、マスコミが、大勢、押しかけて来た。犯人が、その中にまぎれ込んでいたら、時限爆弾を、仕掛けることは、可能だったのではないか。  その時限爆弾が、十月二十三日の午後九時の定時連絡のあとで、爆発したのだとしたら、どうだろうか?  無線室附近で、爆発したら、通信は途絶えるだろう。そして、沈没—— (しかし——)  沈没するような大爆発が起きたのなら、その海域に、船の破片や、ゴムボートなどが、浮かんでいなければおかしいのだ。だが、海上保安庁の飛行機も、巡視船も、何も発見していない。  また、「むつ」には、小田中船長以下、三十二名の乗組員がいる。  沈没したとしても、生存者が一人も見つかっていないというのも、おかしい。 (「むつ」は、沈没していないのだ)  と、藤木は考え、いくらか、ほっとして、眼を閉じた。  疲労が重なって、やたらに眠かった。      7 「とき11号」は、夕方、五時過ぎに、終点、新潟に着いた。  三十分の延着である。  新潟駅には、台風二十五号が、浜名湖《はまなこ》近くに上陸したため、国鉄に被害が出ていると、貼《は》り紙がしてあった。  新幹線も、止ったらしい。  上越本線の下り「とき13号」も、越後湯沢《えちごゆざわ》で立往生しているという。あと、一時間、事業団を出るのが遅かったら、藤木は、越後湯沢で、夜を過ごすことになった筈である。  電話で連絡してあったので、新潟駅に、第九管区海上保安本部の人が、車で、迎えに来てくれていた。  すぐ、新潟港の中央|埠頭《ふとう》にある海上保安本部に案内して貰《もら》った。  管区本部の建物も、激しい暴風雨にさらされていた。  だが、中にいる職員は、緊張していた。海上の遭難者の救出も、海上保安庁の任務だったからである。  本部長の太田が、藤木に、ねぎらいの言葉をかけてくれた。  簡単な食事も、出され、夕食をとりながらの打ち合せということになった。 「台風二十五号は、浜松附近に上陸したあと、速度を早めています。予報では、東京の北を通り、明朝、日本海に抜けるそうです。われわれは、天候が回復次第、直ちに、捜索活動に入ります」  と、太田が、食事をしながら、力強い声でいってくれた。 「有難うございます」  と、藤木は、礼をいってから、 「海の専門家におききしたいのですが、『むつ』が、消息を絶った理由を、どう考えられますか?」  と、太田にきいた。  太田は、箸《はし》を置いて、 「私も、一度、『むつ』を見学したことがありますが、優れて安定性がいい船とはいえないが、かといって、すぐ、引っくり返るような船でもない。従って、沈没したとは思っていません。SOSも受信していませんからね。恐らく、連絡が途絶えたのは、通信機械の故障でしょう」 「しかし、昨日一日、捜索して頂いたのに、見つからなかったというのは、どういうことでしょうか?」 「いろいろ考えられますが、この海図を見て下さい」  太田は、椅子《いす》から立ち上ると、壁に貼《は》られた海図の傍《そば》へ足を運んだ。 「この点線は、事業団から示された、『むつ』の予定航路です。昨日は、それに従って、捜索しました。捜索海域は、斜線で囲まれています。この海域にいなかったからといって、『むつ』が、沈没したと考えるのは、早計というものです。一昨日から昨日にかけては、この海域は、波もおだやかで、八千トンの船が、遭難することは、まずあり得ません」 「それなら、『むつ』は、何処《どこ》にいるんでしょうか?」 「一つのことが考えられます。通信機械の故障ということより、電気系統の故障で、レーダーも、使えなくなったのではないかということです。そうなると、夜間の航行は、危険になります。船足を遅くし、他船の航行の少い海域を走ったことは、十分に考えられます。つまり、点線で示した予定航路より、かなり沖合をです。だから、昨日の捜索では見つからなかったのではないかと、考えてみたのです」 「すると、この台風の中で、何処《どこ》にいるとお考えになりますか?」 「予想より船足が遅く、より沖合を航行していたとすると、台風を避けるために、本土の港に避難するよりも、佐渡の港へ避難しているのではないかと思いますね」 「佐渡ですか」 「佐渡には、両津《りようつ》という良港があります。台風を避けるために、そこに避難しているのではないかと思いますね」 「両津へ電話を入れて、確認して頂けませんか?」  藤木が頼むと、太田は、 「昨夜から、両津へ電話を入れて確めようとしているのですが、肝心の電話が通じないのですよ。台風二十五号のせいだとは思えないんですが」  と、残念そうにいった。  確認は出来なくても、太田の言葉は、藤木を勇気づけてくれた。  太田のいう通り、「むつ」が、佐渡の両津港に避難している可能性もあるのだ。小田中船長は、誰かを下船させ、事業団に電話連絡させようとしているのかも知れない。だが、本土との間の電話が不通になっていて、連絡がない状態になってしまっているのではないのか。  いずれにしろ、両津に入っているのであれば、問題はないと思った。  電話も、その中に通じるだろうし、台風が去れば、飛行機で飛んで、眼で確認できるのだ。  藤木は、食事のあと、電話を借りて、東京の田辺に連絡をとった。  太田本部長のいった佐渡両津港へ避難したのではないかという話をすると、電話の向うで、田辺が、 「佐渡へだって?」  と、大きな声を出した。  よほど、びっくりしたらしい。藤木は、あわてて、 「私も、佐渡というのは意外でしたが、本土の港に避難していないとすると、一番考えられるのは、佐渡なんです」  と、いった。 「佐渡の両津港というのは、確かなんだろうね?」 「ここの管区本部では、両津港に緊急避難しているのではないかと見ています。目下《もつか》、両津との間の電話が途絶しているので、確認は出来ませんが、台風が去り次第、飛行機を飛ばしてくれるというので、私自身も、飛んでみようと思っています」 「そうしてくれたまえ。ああ、それから、両津港で、『むつ』を発見しても、まず、私に連絡するんだ。間違えても、新聞記者連中に喋《しやべ》っては困るよ」  と、田辺は、くどく念を押した。  藤木が電話を切ると、太田が、同情するように、 「大変ですな」 「やっと、原子炉の改修が終り、新しい母港も決ったところでの再出発でしたから、みんな、ぴりぴりしているんですよ」 「わかりますね」  太田は煙草《たばこ》を取り出して、すすめてくれた。  藤木は、その一本を貰《もら》って火をつけてから、風雨を受けて、がたがた鳴っている窓ガラスに眼をやった。  時々、暗い空に稲妻が走る。薄暗くなった街や、遠くに見える海が一瞬、青白く映し出される。電線が悲鳴をあげている。道路に沿って植えられた並木が、今にも折れそうにしなっている。  時間がたつにつれて、風雨は、ますます激しくなった。  漁船は、全《すべ》て、最寄《もよ》りの港に避難した筈《はず》なのに、時々、SOSが、管区本部に飛び込んでくる。その度に、建物の中が、緊張に包まれ、同時に、重苦しくなる。海は、大時化《おおしけ》で、救助が不可能に近いからだ。  午後九時を過ぎて、ふいに、静寂《せいじやく》が来た。  雨が止《や》み、風もゆるくなった。  新潟地方が、台風の目に入ったのだ。  しかし、静寂も束《つか》の間《ま》で、再び、風雨が強くなってきた。  藤木は、長椅子の上で、毛布をかぶって眠った。  眼ざめた時、窓が明るくなっているのを見て、あわてて、長椅子から飛びおり、窓の外を見た。  風は、まだ鳴っているが、厚い雲の切れ間から、陽が射している。  腕時計を見ると、朝の五時四十分である。  藤木が、これなら、飛行機が飛べるなと思っているところへ、太田が、ニコニコ笑いながら入って来た。 「午前八時に、飛行機が飛びます。空港へは車でご案内しますが、その前に、朝食をすませて下さい」  朝食は、味噌汁《みそしる》、生卵、のりにお新香というありふれたものだったが、台風が過ぎ去ったのと、飛行機が飛べるという安心感があるせいか、藤木はおいしく食べることが出来た。 「目下、佐渡との電話回線の回復がはかられているようですが、それを待つより、飛行機で飛ばれた方が、ご自分の眼で確められますからね」  と、太田が、いった。  ひと休みしてから、藤木は、若い三浦《みうら》という海上保安官に、車で、空港へ送って貰《もら》った。  街へ出ると、台風二十五号の爪跡《つめあと》が、いたるところに転がっていた。倒れている電柱、切れた電線、ぽっきりと、根元から折れた街路樹、店の看板が、道路に叩《たた》きつけられているし、乗用車が引っくり返って、腹を見せているのもある。  新潟は、信濃川《しなのがわ》の河口にある。その信濃川は、水量を増し、茶褐色《ちやかつしよく》に変色して、ごうごうと音を立てていた。  三浦は、寡黙《かもく》な男で、ほとんど何もいわずに、空港まで、車を運転して行った。  国鉄が、全国で寸断され、回復の見込みがまだ立っていないせいか、空港には、便待ちの人があふれていた。  海上保安庁のYSは、滑走路の隅《すみ》に、すでに、燃料の積み込みを了《お》えて、待機していた。  滑走路に立つと、まだ、風が強く、両足を踏んばっていないと、吹き飛ばされそうになる。藤木は、突んのめるような恰好《かつこう》で、YSに向って、歩いて行った。  機長の青木には、三浦が紹介してくれた。 「まだ、気流が不安定ですから、揺れますよ」  と、青木は、いった。  機内に入ると、エンジンの始動が開始された。機体が、ぶるぶると震え出し、ターボプロップのエンジン音が、藤木の耳を聾《ろう》するばかりになった。  午前八時かっきりに、藤木を乗せたYSは、佐渡に向って出発した。  青木がいった通り、悪気流で、機体が、がたがたと揺れる。  もともと、飛行機の苦手な藤木だったが、「むつ」捜索という仕事があるせいか、気分が悪くはならずにすんだ。 「まず、両津港を調べてみましょう」  と、青木機長が、振り返って、藤木にいった。  高度千五百メートルで、海上を二十分ほど飛行すると、前方に、佐渡の島影が見えてきた。  ふたこぶらくだの背中のように、数百メートルの高さの山脈が、二つ並んでいる。山脈と山脈の間のくぼんだところに、両津の港があった。  海に向って、「く」の字型に伸びた堤防が見えた。  その堤防に抱え込まれている両津の港には、カーフェリーなどの大型船や、小型漁船が、ずらりと並んでいる。台風二十五号を避けて、両津港に避難した船だろう。  機長の青木は、速度を落し、機の高度を下げた。  海岸沿いに、細長く伸びた両津の町が見え、続いて、細い水路で海とつながっている加茂湖《かもこ》が見え、あっという間に、それらの景色が、後方に流れ去って行った。 「どうですか? 『むつ』が見えましたか?」  と、青木が、きいた。 「いや、見えません」  藤木が、暗い眼で答えた。      8 「もう一度、調べましょう」  青木は、いったん、高度をあげて、ゆっくりと旋回してから、今度は、高度を三百メートルまで下げて、両津港に近づいて行った。  藤木は、顔を窓ガラスに押しつけるようにして、眼をこらした。  だが、いくら見つめても、特徴のある「むつ」の船体は、見つからない。他の乗組員も、「むつ」を見つけることが出来なかった。 「もう一度」  と、青木は、いった。  高度は、ぎりぎりの二百メートルまで下げられた。  ビルの屋上で、手を振っている人間も、はっきりと見える。  船の船名も読める。  だが、両津港の中にも、港外にも、「むつ」の姿はなかった。  青木は、機を上昇させて行った。  見る見る中に、眼下の景色が小さく縮んで行く。 「他の港も探してみましょう」  と、青木は、機を大きく旋回させながら、藤木にいった。 「他に、『むつ』が、入港できるような場所がありますか?」  藤木がきく。  機内で、佐渡の地図が広げられ、第九管区海上保安本部の細野が、説明した。 「まず考えられるのは、南端の小木《おぎ》港です。直江津《なおえつ》との間を走る連絡船が、この港に入ります。両津の次に、ここでしょう。その他には、八千トンの船を接岸できるような大きな港はありませんが、ただ、台風を避けて、湾内に投錨《とうびよう》するだけなら、両津の反対側の真野《まの》湾でもいいと思います」  青木は、すぐ、決断した。 「それでは、最初に、小木港を調べ、そこにいなかったら、次は、佐渡の海岸をひと廻りしてみよう」  YSは、海に出て、島の南の海岸をなめるように南下して行った。  小木港が見えてきた。  伊豆《いず》の海岸に点在する漁港に似た小さな港湾である。  人口五千の町の両側に、小さな港が二つあった。  だが、すぐ、「むつ」の姿がないことがわかった。港の中には、五、六隻の漁船しか見えなかったからである。  藤木は、失望し、同時に、それは、大きな不安へと広がっていった。 (「むつ」は、何処《どこ》へ行ってしまったのだろうか?)  そんな藤木の不安を吹き飛ばしてやろうとでもいうように、青木機長が、 「次は、海岸線をひと回り、散歩するぞ」  と、大声でいった。  海岸線から二百メートルほどのところを、YSは、高度約二百五十メートルで、飛び続けた。  小木から南仙峡《なんせんきよう》を回って、真野湾に入る。ここは、丁度、両津の反対側で、海水浴場の多いところである。  山肌《やまはだ》が消えると、緑の平野が見えてくる。佐渡の中央に広がる国中《くになか》平野である。  円型の真野湾をぐるりと回ると、また、山肌が迫ってくる。昔、佐渡金山のあったところだ。  飛行機は、北に向って、山裾《やますそ》の迫った海岸線を飛び続ける。相川《あいかわ》の町が見えた。佐渡金山が盛んな江戸時代には、奉行所《ぶぎようしよ》のあったところで、当時の人口は十万人を越えていたといわれるが、今は、一万四千くらいである。  続いて、佐渡観光の名所といわれる尖閣湾《せんかくわん》が、見えた。陸中のリアス式海岸を小型にした感じで、深い入江が、いくつも切り込んでいて、見事である。  小型の船なら、その入江にかくれるだろうが、八千トンの「むつ」では、たちまち、座礁してしまうに違いない。  飛行機は、更に北上し、佐渡の北端にきた。  弾崎《はじきざき》の白い燈台が見え、そこから、機は、反対側の海岸線を南下した。  やがて、前に見た両津港が見えてきた。これで、佐渡の海岸線を一周したのである。  しかし、どこにも、原子力船「むつ」は、いなかった。  すでに、燃料ぎりぎりの飛行をしている。  青木機長は、新潟空港に帰投することに決めた。      9  午前十一時四十分。YSは、秋晴れの新潟空港に帰投した。  藤木は、空港から、東京の田辺理事長に電話を入れた。 「佐渡のどの港にも、『むつ』は、見えませんでした」  と、藤木は、報告した。 「じゃあ、『むつ』は、どこにいるんだね?」  電話の向うの田辺の声が、いらだっているのがよくわかった。 「わかりません。本土側のどこかの港に、避難していたとすれば、乗組員の一人が、上陸して、事業団に電話連絡してくると思いますが」 「まだ、『むつ』からは、何の連絡もないよ。関根浜からは、予定日を過ぎても、『むつ』が現われないが、どうしたのかと、さっき、電話で問い合せてきた。新聞記者たちも、怪しみ始めているよ。今日一日かかっても、『むつ』が発見されない場合は、マスコミに、『むつ』が行方不明になったと、発表せざるを得ないな」  田辺が、電話の傍で、小さな溜息《ためいき》をつくのが聞こえた。 「午後、もう一度、飛んでくれることになっています」  と、藤木は、いった。 「しかし、佐渡の港には、『むつ』は、いないことが確認されたんだろう?」 「そうです。どこを捜索したらいいか、昼食のあとで検討することになっています」  と、藤木はいった。  昼食後に、検討会が開かれたのは、管区本部の会議室だった。  本部長の太田と、事業団の藤木、YSの青木機長と、副操縦士の清水、それに、巡視船「いそしぎ」の柴田船長、木下一等航海士が、参加した。 「今日中に、『むつ』が見つからない場合は、マスコミに発表せざるを得まいと、理事長は、考えています」  と、藤木は、溜息まじりにいった。そうなった時の結果が、よく見えるからである。  マスコミは、乗組員の心配をするよりも先に、原子力船に対する批判の言葉を並べ立てるだろう。  そして、日本の原子力船計画は、挫折《ざせつ》する。 「まだ、陽が落ちるまでに、六時間ある」  と、強い声でいったのは、巡視船「いそしぎ」の柴田船長だった。  YSの青木機長も、それに続けて、 「何としてでも、われわれが、『むつ』を見つけ出しますよ。『むつ』が、沈没したとは思われない。無事なら、日本海のどこかにいる筈《はず》ですからね」  もう一度、海図が持ち出された。  点線で書き込まれた「むつ」の予定航路が、妙に空《むな》しい。  台風二十五号が来る前に捜索された海域は、斜線で消してある。 「念のために、もう一度、この予定航路に沿って、捜索する」  と、本部長の太田がいった。 「しかし、すでに、そこは、捜索しましたが」  柴田が口をはさんだ。 「それはわかっているが、『むつ』の船長の立場になって考えてみたんだよ。今までの推理では、通信機械の故障で、連絡を絶ったと思われる。そして、予定航路上に発見されなかったのは、恐らく、レーダーも故障して、予定航路を外《そ》れたのに気付かなかったのだろう。そこへ、台風二十五号が来た。台風のコースを避けている中に、ますます、予定航路を外れてしまった。台風が過ぎ去った今、それに気付いた船長は、恐らく、船を、予定航路に戻《もど》そうと、必死になっている筈だ。天候が回復すれば、レーダーが故障していても、航路は測定できるからね。それで、私は、もう一度、『むつ』の予定航路に沿って、捜索してみたいと考えたんだよ」  太田の推理は、人を納得《なつとく》させるものを持っていた。  藤木も、小田中船長が、台風の通過したあと、当然、「むつ」を、予定航路に戻そうとするだろうと思った。  巡視船の柴田船長と、YSの青木機長も、太田本部長の考えに賛成した。 「ご苦労だが、頼むよ」  と、太田が、いった。      10  藤木は、再び、YSに同乗して、捜索に飛び立った。  雲も消え、青空が、頭上一杯に広がっている。気流が安定したせいか、機体の揺れも無くなった。  太陽が眩《まぶ》しい。藤木は、機長の貸してくれたサングラスをかけた。  眼下の海面を、漁船の群が、北の漁場に向って、出航して行くのが見える。今まで、どこかの港に避難して、波の静まるのを待っていたのだろう。  漁船の群が見えなくなると、青い海が、広がっていく。  青木機長は、予定航路の上を、速度を落として、飛ばせた。  右手に、島影が見えた。粟島《あわしま》である。  その島影が見えなくなると、また、青一色の海の広がりになった。  船の姿が見えるたびに、機内に、さっと、緊張が走る。  しかし、その船影は、タンカーだったり、カーフェリーだったりした。  津軽海峡近くまで北上したあと、今度は、Uターンして、南下することにした。  時間が、容赦なく過ぎていった。機内に、焦りと、疲労が漂い始めた。冗談が飛ばなくなり、全員が、無口になってくる。  やたらに、眼が痛く、閉じると、涙が出た。  四時間近い飛行を了《お》えて、新潟空港に帰投したのが、五時過ぎである。「むつ」は見つからなかったし、「むつ」のボートも、救命ブイも見つからなかった。  巡視船「いそしぎ」は、太陽が沈む時刻になっても、捜索を続行した。  だが、「むつ」が見つからないことは、同じであった。 [#改ページ]  第三章 疑 惑      1  十月二十七日の朝、田辺が、事業団に出勤すると、廊下に、記者たちが集っていた。  それを見て、田辺は、覚悟を決めた。昨夜も、科学技術庁長官と電話連絡をしたのだが、その時、中田長官も、そろそろ、覚悟を決めなければならないだろうと、いっていたからである。  記者たちが、わッと、田辺を取り囲んだ。 「到着予定日を二日も過ぎても、関根浜に、『むつ』が現われないのは、どういうわけなんです?」 「『むつ』が、事故を起こしたという噂《うわさ》があるんだけど、真相は、どうなんですか?」 「『むつ』との連絡は、とれてるんですか?」 「放射能|洩《も》れを起こしたってことも聞いたんだけど、本当のことを話してくれませんか」  そんな質問が、矢つぎ早やに、田辺に襲いかかってきた。  田辺は、蒼白《あおじろ》い顔で、記者たちを見回し、無理に、微笑した。 「これから、記者会見をやるから、会議室に集って頂きたい」 「やっぱり、何かあったんだな」 「また事故じゃあ、『むつ』は、廃船だね」  記者たちは、そんな無責任な言葉を吐きながら、会議室に入って行った。  田辺は、いったん、理事長室に入り、顔を洗ってから、会議室の扉《とびら》を開けた。  記者たちの視線が、いっせいに、自分に向けられるのを意識しながら、田辺は、腰を下し、眼鏡をかけ直した。 「これから、原子力船『むつ』について、現在の状況を説明します」 「何があったんですか?」 「事故ですか?」 「それを、今から説明しますから、聞いて下さい。『むつ』は、十月十八日の午前十一時に、佐世保を出港し、新しい母港である下北半島の関根浜に向いました。航海は、順調で、二十三日の夜九時に連絡してきたときも、船体にも、乗組員にも、何の異常もないということでした。ところが、翌二十四日になって、突然、『むつ』からの連絡が切れて、しまったのです」 「事故が起きたんですか? 例えば、原子炉の爆発といったような」  若い記者が、噛《か》みつくような顔できく。  田辺は、苦笑した。 「皆さんも、ご存知と思いますが、『むつ』は、原子炉は積んでいますが、ウラン燃料は、関根浜に回送してから、積み込むことになっているのです。従って、佐世保から関根浜までは、通常の補助エンジンで、走っています。ウラン燃料を積んでいないのだから、原子炉の爆発などということは、あり得ませんよ」 「それなら、なぜ、『むつ』からの連絡が切れたんですか?」 「われわれは、恐らく、通信機械が故障したんだろうと思っています。その上、台風二十五号が、本土に上陸し、日本海も、大荒れに荒れました。台風が通過する間、『むつ』は、近くの港に避難していたと思うのですが、今、申しあげたように、通信機械が故障したらしく、連絡がないので、どこの港ということはわかりません。台風が過ぎ去った昨日、海上保安庁に捜索を依頼しました。これは、あくまでも、念のためです」 「それで、『むつ』は、見つかったんですか?」  記者の一人がきくと、その近くにいた記者が、 「見つかってれば、記者会見なんかしないさ」 「その通りです」と、田辺は、いった。 「昨日一日捜索しましたが、『むつ』は、見つからなかったと、報告がありました。それで、皆さんに、お知らせするわけです」 「一日捜索して見つからなかったということは、事故で、沈没したということじゃないんですか?」 「いや、そうは考えていません。『むつ』は、通常の船より頑丈《がんじよう》に造られています。また、事故のニュースも入っていません」 「それなら、なぜ、『むつ』が行方不明になっているんです。予定日を二日も過ぎているのに、なぜ、関根浜に到着しないんですか?」 「その理由は、われわれにもわからず、当惑しているのです。今日からは、全力をあげて捜索に当るつもりなので、間もなく、『むつ』の所在がわかるものと考えています」 「全力をあげてということは、海上保安庁だけでなく、海上自衛隊にも、捜索を依頼するということですか?」 「必要があれば、海上自衛隊にも頼むつもりです。そこで、皆さんにお願いがあります」  田辺は、言葉を切り、語調を改めて、 「第一は、軽々しく、事故とか、沈没とか書かないで頂きたいのです。そうしたことは、今のところ、全く考えられないからです。第二は、原子炉のことは、今回のこととは、全く関係ありませんから、それを、よくわかって頂きたい。さっきも申しあげたように、今回の回送に、ウラン燃料棒は、積み込んでいないのです。従って、原子炉事故は、全く考えられないからです。その点を強調して、書いておいて頂きたいのですよ」 「最後に連絡があったのは、どの地点ですか?」 「新潟沖です。その地図に、印をつけておきましたから、あとで、見て下さい」  田辺は、印のついた日本地図を広げ、それを壁にかけた。  記者たちは、ざわざわと、椅子《いす》から立ち上って、地図のところに集って来た。      2  中田科学技術庁長官は、この日の閣議で、「むつ」の行方不明を報告し、その捜索に協力して欲しいと、防衛庁長官に依頼した。 「今度は、身内の病気のために、飛行艇を飛ばしてくれというんじゃないから、安心して協力して下さいよ」  と、中田は冗談めかしていったが、笑う者は一人もなかった。  この日の閣議は、「むつ」の行方不明問題が議題になったとたんに、暗い、湿っぽいものになってしまったという。  もし、「むつ」が、事故を起こして沈没したとなれば、ことは、「むつ」の問題だけに止《とど》まらなくなるからである。  現内閣は、政策の一つとして原子力発電の推進を掲げていた。「むつ」が、事故で沈没ということになれば、原子力発電にも、ブレーキが、かかりかねない。 「防衛庁に、委《まか》せて頂きたい。全力をつくして、『むつ』を発見してお見せする」  防衛庁長官一人が、張り切って、閣議を了《お》えた。  舞鶴《まいづる》港には、秋田沖での米海軍との合同演習を了えたばかりの護衛艦三隻がいた。  閣議から一時間後に、三隻の護衛艦は、「むつ」の捜索のために、出港した。  更に、三十分後、対潜|哨戒《しようかい》機PJ—2三機が、この捜索に加わった。  これに、各新聞社の飛行機までが、参加した。  日本海沿い、特に、青森、秋田、山形、新潟各県の民間空港には、新聞社の飛行機が、飛来して、常駐するようになった。  これらの各県で、農薬散布に使われていたヘリコプターも、新聞社、テレビ局に傭《やと》われて、日本海沿岸の捜索を開始した。  獲物は、原子力船「むつ」である。ニュースバリューはある。各新聞社、テレビ局が、捜索に狂奔するのは、当然だったかも知れない。  あまりにも激しい取材合戦が、四日目の十月三十一日になって、事故を引き起こした。  取材中のN新聞のビーチクラフトが、秋田沖で、墜落し、三名の乗員中、一名が死亡し、他の二名は、近くにいた漁船に救助されたものの、重態ということになった。  原因は、燃料ぎれ直前まで飛び続けた結果だといわれた。      3  一見、マスコミ全体が、行方不明の「むつ」を追いかけているように見えたが、もちろん、新聞、雑誌、それにテレビも、「むつ」の記事だけで、出来ているわけではない。他の記事も必要である。 「週刊ジャパン」の記者|有島純子《ありしまじゆんこ》は、他の記者が、「むつ」の行方不明を追いかけているというのに、カメラマンの原研一《はらけんいち》と二人で、佐渡に、釣《つ》りの取材に来ていた。  最近の釣りブームで、週刊誌も、毎週、各地の釣り情報をのせるようになっていたからである。  女性記者の純子に、取材命令が出たのは、三回に一回の割合いで、「女性も楽しめる釣り紀行」という頁《ページ》があり、なかなか、それが好評だったからだった。  純子が、原カメラマンと、佐渡の両津に着いたのは、「むつ」の捜索が必死で行われている十月三十一日の午後である。  新潟からのカーフェリーの中で読んだ新聞の第一面も、「むつ」の記事だった。 「こんな時には、魚を追いかけるより、行方不明の『むつ』を追いかけたいですがね」  と、二十三歳の若い原カメラマンが、嘆いた。  彼より二歳年上の純子は、笑いながら、 「私との取材旅行は、退屈?」 「とんでもない。有島さんみたいな美人と一緒だと、わくわくしますが、やっぱり、魚よりは、原子力船の方が、魅力がありますからね」 「私だって、魚よりも、原子力船の方が、興味があるけど」  フェリーが、両津港に着くと、二人は、原の運転する車で、佐渡の土地に上陸した。  助手席で、純子が、佐渡の地図を広げた。 「そこを左に曲ると、国道350号線だわ。それをまっすぐ行けば、相川地区に出る筈だわ」  左手に、加茂湖が見えた。  昔は、「越《こし》の湖」と呼ばれて、淡水湖だったのが、漁船を繋留《けいりゆう》させるために、海との間に水路を作って、両津港とつなげてしまったために、海水が入って来て、今は、鹹水《かんすい》湖である。  湖面に、カキの養殖いかだが、点々と並んでいる。  道路は、完全舗装である。  湖が視界から消えると、両側は、広々とした田畑に変る。  国中平野である。  水田は、今は、米の刈り入れを終って、黄ばんで見える。  島にいることを忘れさせるような風景が、一時間あまり続いた。  相川の町に入った。  この町は、昔の佐渡金山の傍にあり、江戸時代、金山の最盛期には、人口は十万を数えたというが、現在は、一万四千人の人々が住んでいる。  それでも、相川には、新潟県佐渡支庁や、法務局佐渡支局などがあり、佐渡の行政の中心地である。  二人は、海辺の近くにある旅館にチェックインした。  明日は、朝食のあと、佐渡の名所の一つである尖閣湾を訪ね、そのあと、舟を出して貰《もら》って、沖釣りを楽しむ予定になっている。  部屋は二つとったが、夕食は、一緒にとってくれといわれた。 「こういう島の旅というのは、美味《うま》い魚料理を食べさせてくれるのが楽しみですよ」  と、丹前《たんぜん》姿で、テーブルの前に座った原が、ニコニコ笑いながらいった。 「私も、どちらかというと、肉料理より、魚料理の方が好き。沖で獲《と》れたばかりの魚を食べさせてくれるらしいわ」  純子も、そういったが、女中が運んで来た料理を見ると、驚いたことに、肉料理だった。  ひれかつに、ビーフシチュー、サラダ、そして、ワインがついている。  純子は、呆《あき》れて、 「電話で、魚料理をと、特に頼んでおいたつもりだけど」 「でも、東京の方には、こういう肉料理の方が、お口に合うと思ったものですから」  女中は、当惑した顔でいった。 「僕たちはね、東京の人間だからこそ、こういうところへ来た時には、海の幸《さち》を口にしたいんだよ。困るなあ。これじゃあ、東京にいるのと同じじゃないの」  と、原も、文句をいった。  だが、女中は、今晩は、他に料理を作っておりませんのでと、繰り返すだけだった。  仕方なしに、二人は、その肉料理で、夕食を了《お》えた。  そのあと、ひとりになって、純子が、明日の予定を、再確認していると、「有島さん」と、いいながら、原が入って来た。  風呂《ふろ》に入って来たらしく、丹前姿の顔が、てかてかと光り、手に濡《ぬ》れたタオルをぶら下げていた。 「何だか変ですよ」  と、原が、突っ立ったままいった。 「何が?」 「今、階下《した》の大きな風呂に入って来たんですが、他に、三人客がいたんですが、その人たちも、夕食の文句をいってるんですよ。美味い魚料理を楽しみにしてたのに、肉料理だったって」 「その人たちも、東京から来たのかしら?」 「それをきいてみたら、秋田の農協の人たちだっていっていました。それで、これは妙な具合だと思いましてね。そっと、料理場をのぞいてみたんですよ」 「それで?」 「魚料理をした様子は、全くありませんでしたね。今日は、九人のお客が泊っているそうですが、全員に、肉料理を食べさせたらしいですよ」 「ふーん」  と、純子は、考え込んでしまった。  魚料理の板前が、急病か何かで休んでしまったために、止《や》むを得ず、肉料理にしたのだろうか?  純子には、それぐらいの理由しか考えられなかった。 「原クンは、どう思う?」 「板前が急病というのは、考えられませんね。板前らしい人が、テレビを見てましたから」 「でも、他に考えられないでしょう?」 「それなら、なぜ、女中さんが、板前さんが病気だといわなかったんですかねえ」 「ちょっと待ってよ」  と、純子は、急に、考える眼になって、 「相川の町を、車で走っているときだけどね。今、どんな魚が獲《と》れるのかなと思って、魚屋の店を見ようと思ったんだけど、二軒とも、休みだったわ」 「魚屋が休みだから、今晩、この旅館で魚料理が出なかったというんですか?」 「そんなことはいってないわよ。ひょっとすると、この相川の町では、今日は、誰《だれ》も魚料理を食べなかったんじゃないだろうかって、ふと考えたのよ」 「魚なしデーですか?」 「そう」 「それもおかしいな。沖へ出れば、魚は獲れるんだから。台風二十五号は、とっくに消え去って、海はおだやかですよ」 「だから、妙なんじゃないの」  と、純子は、笑ってから、 「とにかく、明日になればわかるわ。ここの旅館が、善意で肉料理にしたのか、それとも、もっと大きな理由があって、魚料理が出なかったのかがね」      4  翌日の朝食にも、魚は出なかった。  もっとも、豆腐の味噌汁《みそしる》、生たまご、焼のり、漬物にご飯といった、標準的なものだったから、魚が出なかったといういい方が正しいかどうかわからない。  純子と原カメラマンは、午前九時に、旅館を出た。  秋晴れの爽《さわ》やかな朝だった。  高い青空が、頭上に広がっている。  原の運転で、尖閣湾に向って、車を走らせた。 「『むつ』は、まだ見つからないみたいね」  と助手席で、純子は、旅館で貰った新聞に眼を通しながらいった。 「四次元の世界に迷い込んじまったのかな」 「え?」 「よくいうじゃありませんか。地球のどこかに、空間の歪《ひず》みがあって、そこに入ると、別の次元の世界に入り込んでしまう——」 「SF小説?」 「かも知れないし、現実にあるのかも知れませんよ」 「原クンは、意外にロマンチストなのね」 「そうですかね」 「止《と》めて!」 「え?」  原は、あわててブレーキを踏んだ。 「どうしたんです?」 「あそこを見て」  純子が、道路に面した一軒の店を指さした。 「落合《おちあい》魚店」の看板はかかっているが、店は閉っていた。  板戸に、紙が貼《は》りつけてある。 〈当分の間、休業いたします〉  紙には、あまり上手《うま》くない字で、そう書いてあった。 「確か、昨日、見た魚屋さんにも、これと同じ貼紙がしてあったわ」 「魚屋のストライキですかね」 「それとも、魚がストライキしたのかもね」 「え?」 「魚が全く獲《と》れなくなってしまったのか、それとも、獲れた魚が、食べられなくなってしまったのか」 「でも、佐渡の海に公害が起きたなんて、聞いたことがないな。佐渡の金山は、もう動いていないし、公害を出すような工業もないように思うんですがね」 「それも、漁師さんに聞いてみればわかるわ」      5  純子は、尖閣湾の景色を楽しむより先に、船に乗せてくれることになっている漁師に会うことにした。  相川から、尖閣湾に行く途中に、小さな漁村がある。戸数百戸ぐらいで、車でおりて、浜に出てみると、なぜか、漁船は、陸に引き揚げてあった。  エンジン付きの二十トンぐらいの漁船である。その中に、「第八佐渡丸」という名前を探した。  四隻目に、第八佐渡丸の名前があった。その傍《そば》で、網を修理している中年の男に、純子が、声をかけた。 「週刊ジャパンの者ですけど、荒木《あらき》さんですか?」  男は、陽焼けした顔をあげて、二人の顔を見ていたが、 「ああ、東京の——」 「ええ。今日、船を出して頂くことになってるんですけど」 「知ってるよ。でも、悪いけど、駄目《だめ》になっちまったんだ」 「どうしてですの? 沖釣りが目的でお願いしたんですけど、魚がいなくなってしまったんですか? それとも、エンジンか何かの故障?」 「魚がとれないんだよ」 「どうしてです? 寒流とか暖流の影響ですの?」 「いや。外の人間には、あんまりいいたくないんだよ」 「喋《しやべ》るなといえば、喋りませんよ」と、原がいった。 「ただ、僕たちは、船を出して貰えるものとばかり思って、やって来たんですから、納得《なつとく》できる話を聞かないと——」 「実は、昨日の朝な、漁に出ると、沖合で、魚が一杯、浮んでいやがったんだよ。白い腹を見せてな」 「どうして、そんなことに?」 「わかるもんかね。水温が、急に下ったのかと思って、その附近の海水を持ち返って調べてみたが、そんなこともなかったしな」 「浮んでいた魚はどうしたんですの?」 「三匹ばかり持って来て、水産試験場で調べて貰《もら》うことにしたよ。薄気味悪いし、このままじゃあ、怖くて、漁に出られないからね」 「そこへ、連れて行ってくれません?」 「死んでる魚を見たって仕方があるまいに。病気で死んだのかも知れないから、食べられやしないよ」 「それはいいです。とにかく、どんな具合かこの眼で見たいんです。燃料代は、お支払いしますから、乗せて行ってくれません?」  純子は、荒木に頼んだ。 「物好きなんだねえ」  と、荒木は、笑ってから、 「しようがない。船を出そう。あんたがたとは、約束してたんだからな」      6  純子たちを乗せて、二十トンの漁船は、出発した。  エンジンの音が、タッタッタッと、乾いた音をひびかせる。 「東京へ帰ってから、佐渡の海で魚が沢山死んだなんていわんでくれよ。他でとれた魚まで、出荷できなくなるからね」  荒木が、エンジンの音に負けないように、怒鳴るようないい方をした。  海は、凪《な》いでいる。静かだった。  日本海では、まだ海と空からの大がかりな捜索が続けられているようだが、佐渡の周辺は、一度、調べたということか、PJ—2哨戒《しようかい》機の姿も、護衛艦や、巡視船の姿も見えなかった。  船は、尖閣湾の沖合に出た。  陸地が、ぼんやり見えるから、五、六十キロ沖だろうか。  荒木が、エンジンを止めた。急に、静かになった。 「あれだよ」  と、荒木が指さした。  コバルトブルーの海面に、白い点のようなものが、無数に浮んでいる。  船は、今までの惰性《だせい》で、ゆっくりと、近づいていく。  無数の白い点と見えたのは、近づくと、腹を上にして浮んでいる魚とわかった。何百匹、いや、何千匹という数だろう。  海がおだやかなせいで、じっと動かずに浮んでいる魚たちの死骸《しがい》は、不気味だった。  純子は、じっと、海面を見すえた。美しい海だし、透明度もある。こんなきれいな海が、どうして、沢山の魚を殺したのだろうか? 「海底火山の爆発でもあったのかな?」  と、原が、カメラを向けながら、自問するようにいった。 「違うわ。そんなことで死んだのなら、魚の身体が、ばらばらになってるわよ」 「じゃあ、水俣《みなまた》のように、水銀が流れ込んだんですかね? こんなきれいな海なのに」 「水俣の海も、驚くほどきれいだったわ」 「じゃあ、ここにも水銀が? でも、おかしいな。ここは、尖閣湾沖でしょう。水銀を使う工場なんか、一つもない筈《はず》ですよ。そうでしょう? 船頭さん」  と、原は、荒木を見た。 「そうだね。あの辺りに工場なんか一つもなかったね」  荒木は、ぶっきら棒にいった。  原は、盛んにカメラのシャッターを切っている。 「原因を、今、調べて貰ってるんでしょう?」  と、純子は、荒木にきいた。 「ああ、なぜ、こんなことになったかわからないと、これから先、漁ができないからね」 「その結果は、いつわかるんですの?」 「新潟まで、あの魚を送ったからね。明日の昼頃までかかるといってたね」 「この辺は、深いんですの?」 「かなり深いね」 「潜ってみたら、何かわかるかも知れないけどな——」  と、純子は呟《つぶや》いた。  彼女は、スキューバ・ダイブを習っていた。ここに道具があれば、潜ってみてもいいのだが。 「こういうことって、前にもあったんですか?」  写真を撮《と》り終った原が、荒木にきいた。 「とんでもない。生れて初めてだよ。こんなことが、何度もあってたまるものかね」  荒木は、怒ったような声でいった。  陽がかげると、コバルトブルーだった海が、急に黒ずんで見えた。白い腹を見せて浮ぶ魚の死骸は、一層、不気味に見えてきた。      7  純子は、相川の旅館に、もう一泊することに決めた。どうしても、死んだ魚の謎《なぞ》を解きたかったからである。  翌日、もう一度、荒木に会いに出かけた。  昼少し前に行ったのだが、水産試験場からの返事は、まだ、来ていないということだった。  近くの漁師たちは、きちんとした解決がつくまではと、漁に出ずにいる。そのため、浜は、重苦しい空気に包まれていた。原因がわからないだけに、余計に、いらだちを感じるのだろう。 「どうもおかしいわ」  純子は、浜に立って、沖を見ながら、原にいった。 「何がです? 魚が沢山浮び上ったことがですか?」 「そんな理由なんか、わからないわよ。私は、科学者じゃないんだから。おかしいっていってるのは、水産試験場の態度よ。荒木さんが、問題の魚を持って行ってから、丸二日以上たっているわ。なぜ、未だに、原因が判らないとなっているのか、それがおかしいじゃないの。魚を調べれば、水銀が体内に入っていれば、すぐ分析できる筈よ。日本では、水俣以来、そういう面の研究は、進んでいると思うのよ。漁民が心配しているんだから、なるべく早く結論を出したいだろうに、丸二日もかかって、まだ不明というのは、何かおかしいわ」 「でも、なぜおくれてるのか、わからないでしょう?」 「わからないから、変だと思ってるんじゃないの」  何だか、議論が堂々めぐりしている感じだが、純子の、何かあるという気持は、変らなかった。 「僕は、ちょっと、尖閣湾の北の方へ行って、写真を撮って来たいんですが」  原は、死んだ魚のことよりも、やはり、佐渡の風景写真の方に興味を感じるのだろう。 「いいわ。私は、旅館に戻ってるから」  と、純子は、いった。  相川町の旅館に戻った純子は、テレビのスイッチを入れてみた。  地元のテレビ局の映像なので、尖閣湾沖の魚のことを、何かやるかと思ったが、ニュースの時間になっても、画面に出てくるのは、原子力船「むつ」が、いぜんとして行方不明のことが主で、それに、のんびりした、来春のファッションショウなどが出て来たが、佐渡の死んだ魚のことは、とうとう、画面に現われなかった。  佐渡の漁師たちが、魚の売れなくなるのを恐れて、黙っているのはわかる。問題の海面以外で獲れた魚にも、疑惑の眼が向けられてはかなわないのだろう。  だが、問題の魚を持ち込まれた新潟の水産試験場までが、なぜ、口を閉ざしているのだろうか?  原因が、はっきり掴《つか》めるまでは、マスコミには、何も発表しないつもりなのだろうか?  それとも、原因は、もうつかめたのだが、それを発表してはまずい原因でもあるのだろうか?  純子は、テレビのスイッチを切ると、東京の編集長に、電話を入れた。  編集長の宮田《みやた》は、不機嫌《ふきげん》な声で、 「もう、東京に帰ってる筈じゃなかったのかね?」 「そうなんですけど、こっちで、事件にぶつかってしまったんです。その事件が、どうにも気になるんですよ。何かありますわ」 「事件? 何だい? そりゃあ」 「佐渡の尖閣湾の沖で、大量の魚が、白い腹を見せて、浮き上っていたんです。あれは、何かありますわ。それを取材したいんです」 「ねえ、純子クン。公害問題なんか、もう時代おくれなんだよ。そんな記事をのせたって、今は、誰も読みやせんよ。時代は、どんどん変って行くんだ。何を寝呆《ねぼ》けてるんだ。第一、釣り情報はどうしたんだ?」  宮田は、けんもほろろないい方をした。いつも、口の悪い宮田だが、今日は、それに輪をかけて、機嫌が悪い。 「釣り情報をとりに行ったら、魚がぷかぷか浮んでたんですよ。だから、来週の分は、他の人に、別の場所を取材させて下さいよ」 「何を寝ごといってるんだ!」  宮田が、怒鳴った。 「何を怒ってるんです?」 「例の『むつ』の行方不明で、こっちは、てんやわんやなんだ。週刊誌にとっては、必見記事のようなもんだよ。釣り情報に、人手を回せないんだ」 「お話ですけど」 「何だね?」 「公害問題は、永遠の問題だと思いますけど」 「子供っぽいことをいいなさんな。とにかく、佐渡の公害なんて、週刊誌ネタじゃないんだ。早く、釣り情報を送って欲しいね。佐渡が駄目《だめ》なら、新潟沖だっていいよ」 「でも気になるんです。あの死んだ魚たちが」 「馘《くび》になる覚悟があるんなら、死んだ魚と遊んでいろよ」  がちゃりと、宮田の方から、電話を切ってしまった。 「わからずや」  純子が、ひとりで文句をいったとき、電話が鳴った。  編集長が、折れて来たのかと、期待して、受話器を取ると、 「原です」  という、元気のない声が聞こえて来た。 「どこにいるの?」 「今、尖閣ホテルから電話しているんですが、すぐ、こっちへ来てくれませんか」 「何があったの?」 「警察に、僕の身分を証明して下さいよ」 「警察? 何なの? それ」 「死体を拾ったんで、警察に疑われちゃったんです」      8  事情がよく飲み込めなかったが、とにかく、純子は、尖閣ホテルに行ってみることにした。  レンタル車で、海岸沿いの道を飛ばした。尖閣湾観光のバスが走る道路である。  尖閣ホテルは、尖閣湾の北端にあった。  ホテルの前に、警察のジープがとまっていた。 (死体を拾ったなんていってたけど、何のことだろう?)  首をかしげながら、純子は、ホテルに入って行った。  土産物《みやげもの》を売っているロビーで、原が、頼りなげに、立っていたが、純子を見て、 「助かりましたよ」  と、声を出して、近寄って来た。 「いったい、何があったの?」 「電話でいった通りですよ」 「電話じゃ、何もわかんなかったわ。死体が、どうのこうのと、いってたみたいだけど」  純子がいったとき、制服姿の警官が、奥から出て来た。 「あんたは、この人の連れかね?」  と、四十二、三の警官は、純子にきいた。 「何があったんですか?」 「どうも、あの人のいうことが、あいまいでね。東京の雑誌社で働いているというが、身分証明書も持っておらん」 「私も同じ雑誌社の人間ですわ」  純子は、出版社名の入った名刺を、警官に渡し、身分証明書も見せた。 「なるほど。わかりました」と、警官は、肯《うなず》いた。 「佐渡へは、何の用で来られたんですか?」 「雑誌に、釣りのコーナーがあるんです。その取材で来たんですよ。そうしたら、尖閣湾の沖合で、魚が大量に浮き上っているのを見て、原因は、何だろうと考えていたんですけど」 「それに、今度は、人間の死骸ですよ」  と、原が、横からいった。 「君が見つけたの?」 「この先の小さな浜で写真を撮《と》ってたら、若い女の死体が浜に打ちあげられているのを見つけたんです。最初は、人形だと思ったんです。あんな景色のきれいなところに、死体なんて、不似合いですからね。でも、写真の題材としては面白いと思って、カメラを向けたら、本物の死体だったんですよ。それで、このホテルから警察に電話で知らせたんです。それなのに、僕を犯人扱いするなんて、ひどいじゃないですか」  のんびり屋の原が、珍しく、激昂《げつこう》している。  警官は、当惑した顔で、 「別に犯人扱いしたわけじゃありませんよ。第一、あの若い女性が、殺されたのか、自殺したのかも、まだ、わからんのですから」 「見せて頂いても構いません?」 「死体を見て、どうするんです?」 「私の同僚が犯人扱いされたんですもの。ちょっと見るぐらいかまわないでしょう?」  純子は、さっさと、ホテルの裏口へ出て、浜へ続く砂地の庭に、毛布をかぶせてある死体の傍へ歩いて行った。  もう一人の若い警官が、毛布をとって、死体を見せてくれた。  二十二、三歳に見える女だった。  長い髪が、海水に濡《ぬ》れて、白い顔にへばりついている。  顔がふやけて見えるのは、長い間、海水に浸っていたからだろう。  ワンピースの裾《すそ》が裂けているのは、波が裂いたのか、それとも、魚の鋭利な歯が、かみ切ったのか。  靴《くつ》は、脱げてしまったらしく、履《は》いていない。  無地のワンピースは、せいぜい、二万円くらいのものだろう。まあ、普通のドレスといっていい。 「どこの誰か、わかりませんの?」  と、純子は、きいてみた。 「まだ、わかりませんね」と、中年の警官がいった。 「しかし、相川の人間じゃないね。相川の人間なら、たいてい、顔を知っていますからね」 「死因は、何かしら? これといって外傷はないようだけど」  純子がいうと、警官は、素人《しろうと》が、何をいうかという顔で、 「解剖しなければ、何ともいえませんな」  と、いい、すぐ、毛布をかけてしまった。  死体は、ジープに積み込まれて、二人の警官が同乗して、運び去られてしまった。  純子と、原が取り残された形になった。 「魚の死骸の次は、若い女の死体なんて、この島は、いったい、どうなってるんだろう」  原が、ひとりごとのようにいうのへ、純子は、 「これは、何かあるわ」  と、確信をもっていった。 「魚の死んだことと、今の若い女性の死体と、関係があると思うんですか?」 「それは、わからないけど、これは、ただごとじゃないわ。考えてみてよ。今は、もう夏も終ってるのよ。海水浴の季節なら、水死者が出ても不思議はないけど、十月に、海水浴するバカもいないわ」 「というと、今の死体は?」 「殺された可能性が、強いと思うのよ」 「うーん」  と、原は、唸《うな》っている。 「死体が打ちあげられたという浜に連れて行ってくれない?」  純子がいい、原が、そこまで案内した。  狭い入江である。  砂浜も小さく、両側は、切り立った崖《がけ》になっている。  すぐ、深くなるらしく、青さの濃い入江である。人の気配はなく、入江全体が、ひっそりと静まり返っていた。 「沖から流れて来たのかしら?」 「そうかも知れませんね」 「この沖というと、魚の死骸が沢山浮んだ場所に近いわね」 「そうなんです」 「ただの偶然とは思えないような気がするんだけど——」  と、純子は、口の中でいっていたが、 「もう一度、あの魚の死骸を見たいから、どこかで、舟を借りて来てよ」 「また、見るんですか?」  原は、肩をすくめていたが、近くの漁村で、舟を一|艘《そう》、借りる手配をした。前の荒木の村とは別の漁村である。  若い漁師が、船を運転してくれた。一度、大阪へ出て、サラリーマンになったが、海がなつかしくて、Uターンして、漁師になったのだという。 「沖の方で、魚の死骸が沢山浮んだのを知っているでしょう?」  と、純子は、声をかけた。 「ああ。知ってるよ。それで、一時、漁が中止されているんだから」 「そこへ、行って貰《もら》いたいのよ」 「いいよ」  しばらく、エンジンの快適な音をひびかせて、純子たちを乗せた漁船は、沖に向って、走り続けた。  若い漁師は、エンジンを止めた。 「着いたよ」  その声で、純子は、船首近くに立って、周囲の海面を見回した。  だが、真っ青な海面が広がっているばかりで、あの魚の死骸は、一匹も見当らなかった。 「ここじゃないんじゃないの? 一匹も、死骸がないわよ」  純子が、文句をいった。  漁師は、操舵室《そうだしつ》から出て来て、同じように、海面を見回した。 「本当に、一匹もいないな」 「だから、ここじゃないんじゃないの?」 「いや、そんなことはないよ。ここで、何百匹、いや、何千匹という魚の死骸を見たんだから」  漁師は、若い顔を紅潮させて、主張した。  純子が、なおも疑っていると、遠くに見える岬《みさき》を指さして、その岬が、丁度、東北東に見える位置だから間違いないという。  嘘《うそ》をついているようには、見えなかった。 「でも、あんなに沢山浮んでいた死骸が、突然、消えてしまうなんて考えられないじゃないの」  と、純子は、眉《まゆ》を寄せた。  人間の溺死体《できしたい》は、最初、沈み、その後、浮んで来て、また沈むといわれている。  しかし、魚の場合は、浮き袋がついているから、死んで浮んだあとは、ずっと、水面に浮んでいるのではないか。  純子の家の近くに池があって、酸素が足りないのか、鯉《こい》や鮒《ふな》が浮きあがる時がある。そんな時、死骸は、いつまでも、水面に浮んでいる。 「それはそうだけどね」  若い漁師も、不審そうに、海面を見返していた。 「誰《だれ》かが、網でさらっていったんじゃありませんかね?」  と、原が、これも、青い海面を見回しながらいった。 「誰かって、誰のこと?」  と、純子がきく。 「この辺の漁師さんですよ。死骸が浮んでたんじゃ、魚が売れなくなる。そこで、夜の間に、ひそかに舟を出して、網ですくいあげて、持ち帰り、どこかの浜へ埋めてしまった。そんなところじゃありませんか」  原がいうと、二人のやりとりを聞いていた若い漁師は、色をなして、 「おれたちは、誰も、そんなことはしないよ。荒木さんが、県の水産試験場へ、死んだ魚を持って行ったことは、この辺の漁師なら、みんな知っている。その結果を待ってるんだ。原因がわかれば、当然、補償して貰《もら》うんだから、証拠となる魚を、埋めてしまうわけはないじゃないか」 「じゃあ、あの死んだ魚は、どこへ行っちゃったの?」 「わからないから、不思議でしょうがないんだ」  若い漁師は、首をひねりながら、じっと、海面を見つめていた。が、急に、裸になると、海に飛び込んだ。  純子と原が、あっけにとられていると、海面に顔を出した漁師は、大きく息を吸い込んでから、逆立ちするような恰好《かつこう》で、潜って行った。  真っ青な海に、漁師の胸幅の広い肉体が、ひらひらと、ゆれて潜って行き、やがて、見えなくなった。  一分たったが、漁師は、浮び上って来ない。  二分すぎて、やっと、漁師が海面に顔を出し、ひゅッと、音を立てて、息を吸った。 「何も見えないよ」  と、いい、はずみをつけるようにして、船にあがって来た。 「やっぱり、魚の死骸は、沈んでなかったでしょう?」 「ああ、十五、六メートル潜ってみたんだけど、魚は見えなかったね」  と、漁師は、いってから、急に、肩をふるわせて、 「寒くなっちまった」  陽が落ちると、寒さが肌《はだ》を刺した。東京に比べると、佐渡は、二、三度は低い。 「いつまで、ここにいるつもりですか?」  と、原が、純子にきいた。 「魚がなぜ死んだのか、わかるまでよ」 「しかし、編集長は、そんなことより、釣り情報を持って来いといってるんでしょう?」 「そうだけど、私だって、記者の一人よ。こんな奇妙な事件にぶつかって、結果もわからずに、引き退《さが》れると思うの? ひょっとすると、大変な特ダネかも知れないのに」 「公害は、もう、スクープではないんじゃないかな。第一、この辺りに、工場なんか一つもありませんよ。外海だから、赤潮が出る筈《はず》もないし——」 「だから、なおさら、興味があるのよ」 「こんなことは考えられませんか」 「どんなこと?」 「魚が獲《と》れ過ぎると、値崩れが起きる。それを防ぐために、獲った魚を、わざわざ、捨ててしまうことは、よく聞くじゃありませんか」 「つまり、あの死んだ魚は、値崩れを防ぐために、この辺の漁師が、わざわざ、獲ったものを海に捨てたものだというの?」 「そう考えれば、合点がいくんじゃありませんか?」 「でも、それなら、なぜ、死んだ魚を、県の水産試験場に持って行ったりするの? バカ気ているじゃないの?」 「芝居ですよ」 「え?」 「値崩れを防ぐために魚を大量に捨てたとなると、批判される。それを防ぐために、もっともらしく、その魚を、水産試験場に持って行ったりしたんじゃないかな。だから、何も出やしない。試験場じゃ、何も出ないものだから、かえって、わけがわからなくなったんじゃないですか? 何もないのに、なぜ、魚が死んで浮んだのかと考え込んでしまったんで、いまだに、結論を出せずにいるのと違いますかね。そうだとしたら、ここに残って、結果を待つなんて、バカらしいですよ」 「面白い考えだけど、何となく、納得《なつとく》できないなあ」  と、純子は、いった。  といって、彼女に、他の解決があるわけではない。ただ、何となく、原のいうような、簡単な事件ではないような気がするのである。  ともかく、純子は、編集長が怒り狂うのを覚悟で、佐渡の相川の町に、もう一泊することに決めた。これで、何もなかったら、馘《くび》にならないまでも、減給は、必至だろう。そのくらいの覚悟は出来ていた。  旅館での夕食のあと、純子は、原と、久しぶりに、深酒をした。  自分の部屋で、眠ったのは、午前一時過ぎである。  翌日、眼をさましたのは、原の大声でだった。 「起きて下さい!」  と、原が、襖《ふすま》の向うで、怒鳴っていた。 「どうしたのよ?」  純子は、二日酔いで痛い頭をおさえるようにしながら、きいた。 「何だか、様子が変なんです」      9  純子は、洗面所で顔を洗い、着がえをして、部屋を出た。  原は、片手にカメラをぶら下げて、廊下に立っていた。その顔が、紅潮し、息がはずんでいる。 「いったい、何を騒いでるの?」  と、純子は、不機嫌《ふきげん》な顔をした。時間は、もう、昼近かった。 「朝の尖閣湾の景色を撮《と》ろうと思って、車で出かけたんですよ。そしたら、様子がおかしいんです」 「お化《ば》けでも出たっていうの?」 「出たんじゃなくて、いなくなっちゃったんですよ」 「君の話は、よくわからないね。誰がいなくなったっていうの?」 「漁師たちですよ。僕たちを船に乗せて、死んだ魚の群を見せてくれた荒木という漁師がいたでしょう。彼もいないし、あの漁村は、誰もいなくなってしまってるんです。男がいないだけじゃない。女も子供も、消えてしまっているんですよ」 「村が総出で、どこかへ旅行に出かけたんじゃないの? 魚が死んで、漁に出られないから」 「学校のある子供まで、旅行に連れて行くというのは、おかしくありませんか?」 「そういえばそうね。私も、行ってみるわ」  純子は、原と一緒に、レンタカーで、問題の漁村に行ってみることにした。  村が近づいて来ても、外見には、これといった変化は見られない。  相変らず、静かな漁村だった。しかし、車をおりて、村へ入って行くと、原がいったように人の気配が全くなかった。  砂浜には、さんさんと、秋の陽が降りそそいでいる。  漁船が、浜に引き揚げられている。鳥が飛んでいる。  だが、人がいない。軒を並べている家に近づくと、どの家も、戸に錠がかかっていた。  明らかに、この漁村の人たちは、全員で、どこかへ出かけたのだ。  だが、どこへ出かけたのだろうか? それに、何をしに—— 「もう一つの漁村があったわね。若い漁師さんがいたところ。そこへ行ってみましょうよ」  と、純子は、いった。  あの漁師に聞けば、何かわかるかも知れない。  原の運転で、尖閣ホテルのある場所へ向った。  尖閣湾の北端である。しかし、そこにある漁村も同じことだった。  純子たちを乗せてくれた若い漁師の家も、戸に錠がおりていた。いやそれだけではない。昨日、警官とやり合ったホテルも、なぜか閉っている。  ホテルの入口は、堅く閉ざされ、「臨時休業」の札がかかっていた。 「どうなってるの? これは」  と、純子は、思わず、大声を出した。 「ホテルまで閉ってしまってるとは思いませんでしたね。まるで、ゴースト・タウンだ」  原は、そんなことをいいながら、「臨時休業」の札に向けて、カメラのシャッターを切っている。 「ホテルの従業員が、休暇をとるというのはわかるけど、泊り客は、どうしたのかしら?」 「あれを見てごらんなさい」  と、原が、ホテルの煙突を指さした。  その煙突から、煙が出ている。 「誰かいるのね」 「煙が、勢いよく出ているところをみると、かなりの人間が、いるみたいですよ。食事の支度をしているか、風呂《ふろ》をわかしているんだと思いますね」 「何かの団体の貸切りにしちゃったのかしら」  それにしても、臨時休業というのは、どういうつもりなのだろうか? 「誰《だれ》かいれば、何が起きたのか、聞くことが出来るんだけどな」  と、純子は、周囲を見回した。  だが、人の気配がないのは、同じだった。  相川の町から、尖閣湾観光のバスが出ている筈なのだが、今日は、そのバスが、一向にやって来ない。  観光客が一人もないので、バスの運行を中止してしまったのだろうか? たとえ、そうだとしても、この近くの漁村から、人間が消えてしまった理由はわからない。 「どうしますか?」と、原が、きいた。 「ここにいても、何もわかりませんよ。何かきくにしても、きく相手がいないんだから」 「原因は、死んで海面に浮んだ魚なのよ」  と、純子は、確信をもっていった。 「かも知れませんがね。漁師たちが消えてしまったことと、どう関係してくるのかわからないでしょう?」 「でも、知りたいわ。きっと、びっくりするような特ダネに違いないんだ」 「どうやって、調べます。第一、もう財布の中身が、頼りなくなって来たんじゃありませんか? われわれは、二日間の滞在費しか貰《もら》ってこなかったんですからね」 「泣きごとはいわないの。いざとなったら、この指輪を売るわ」  純子は、左手の薬指に光るダイヤの指輪を、原に見せた。 「それ、本物のダイヤなんですか?」 「亡くなった母の形見。本物で、一カラットはあるわ。もし、これを売っても足りなかったら、あんたのカメラを処分すればいいじゃないの」 「止《よ》して下さいよ。これは、僕の商売物ですよ。これが無くなったら、カメラマンじゃなくなっちまう」 「大丈夫よ。ちょっと、脅《おどか》しただけ。あと二日、佐渡にいるだけのお金はあるわよ。それより、もう一度、あの海面に行ってみたいわ」 「でも、船がありませんよ。漁師が、全員、消えちまったんだから。漁船はあったって、動かす人間がいないんだ」 「君は、動かせないの?」 「駄目《だめ》ですよ。モーターボートだって、動かせません」 「頼りない男ねえ」  と、純子は、からかい気味に笑った。  とにかく、純子は、もう一度、魚の死骸《しがい》の浮んでいた海面に行ってみたかった。この奇妙な出来事は、魚の死骸から始まったのだという確信があったからである。 「漁師以外に、船を借りるとしたら、どこかしら?」 「そうですねえ。個人所有のボートぐらいしか考えられませんが」 「じゃあ、それを探してみようじゃないの。相川の町へ戻《もど》れば、見つかるかも知れないわよ」  二人は、再び、車に乗り、相川に引き返した。  途中の海岸に、貸ボートの看板が見えたが、夏のシーズンを過ぎた今は、ボートは、もう、陸に引き揚げられてしまっていたし、手漕《てこ》ぎのボートで、沖へ出るのは大変だった。  相川の町に入ると、原は、ゆっくり、海沿いの道を走らせた。  この町は、いつもの通り、車が走り、人が歩いている。どこにも、変ったところは見えない。 「止《と》めて!」  と、純子がいった。  五、六メートル先の海辺に、大型のモーターボートが繋留《けいりゆう》されていて、Gパンにセーター姿の若者が、エンジンを調整していた。  二人は、車をおりて、近づき、純子が、声をかけた。 「ねえ。そのボート、動くの?」 「もちろん、動くさ」  若者は、怒ったような声で答えた。 「じゃあ、私たちを乗せてくれない? お金は払うわ」 「乗せろって、どこまでだい?」 「尖閣湾の沖へ行きたいのよ。五、六十キロ沖なんだ」 「でも、これ、おれのボートじゃないんだ。ホテルのなんだよ」  と、若者がいった。そういえば、ホテルの名前が入っている。 「アルバイトしなさいよ。私たちだって、乗せてくれたら、あんたのホテルへ泊るわよ」 「それならいいや」  と、若者がいった。  二人が乗り込むと、全長十一フィートのモーターボートは、けたたましいエンジンの音をひびかせて、滑り出した。 「尖閣湾附近の漁師さんたちが、みんないなくなってしまったんだけど、どこへ行ったか知らない?」  ボートのゆれに身を委《まか》せながら、純子が、操縦している若者にきいた。 「知らないな。どこかへ遊びに行ったんじゃないの?」  本当に、何も知らない顔付きだった。  沖へ出ると、ボートのピッチングが激しくなった。  それでも、若者は、スピードをゆるめない。水しぶきが、顔にかかってくる。  五十分ほど走った時だった。 「あれえ!」  と、突然、若者が、すっとんきょうな声をあげ、エンジンを止めた。  前方に、海上保安庁の巡視船が、白い船体を見せて、停泊していた。  巡視船は、一隻ではなかった。もう一隻が、百メートルほど離れて、停泊している。 (なぜ、二隻の巡視船が、こんなところに?)  という当然の疑問が、純子の胸に浮んできた。  エンジンを止めたが、モーターボートは、惰性《だせい》で、ゆっくり、前方の巡視船に近づいていく。  八百トンクラスの中型の巡視船で、「いそしぎ」という船名が読みとれた。  近づくと、こちらが、十一フィートのモーターボートのせいか、やたらに相手が、大きく見えた。  甲板にいた海上保安官が、メガホンを口に当てて、 「そのモーターボート。直ちに、引き返しなさい!」  と、怒鳴った。  甲板には、他にも、五、六人の保安官がいたが、いずれも、こちらを見つめている。 「何があったんですか?」  純子が、叫んだ。彼女の甲高《かんだか》い声は、よく海の上を通って行った。相手にも聞こえた筈だったが、 「直ちに、引き返しなさい!」  と、怒鳴り返してくるだけである。 「こいつは、まずいよ。早く、戻ろうよ」  若者が、急に、気弱な声を出した。  原は、二隻の巡視船に向って、しきりに、カメラのシャッターを切っている。 「ここは、みんなの海なのよ。怖がることはないじゃないの」  と、純子は、若者にいった。  間違いなく、ここは、魚の死骸《しがい》が浮いていた海域なのだ。  何千匹という死骸が、突然、消えたと思ったら、今度は、巡視船が、二隻もやってきた。 「帰った方がいいよ」  と、若者がいい、エンジンをかけた。ハンドルを回す。モーターボートは、円を描いて、Uターンした。 「なぜ、逃げるの?」 「面倒に巻き込まれるのは、ごめんなんだ」  若者は、吐き出すようにいい、スピードをあげた。巡視船の姿は、見る見る小さくなっていった。      10  相川町で、モーターボートをおりると、純子と原は、置きっ放しにしておいたレンタカーに、また乗った。 「だんだん、匂《にお》ってくるわ」  と、純子は、興奮した口調でいった。 「でも、何がです?」  原は、相変らず、さめた口調でいう。 「巡視船が二隻も、あんなところに来てるなんて、ただごとじゃないわ」 「それはわかりますが、それが、何なのかわからないんじゃ、どうしようもないじゃありませんか」 「わからないから調べるのよ。もう一度、尖閣湾へ行ってみようじゃないの」  今度は、純子が、ハンドルを握り、アクセルを踏んだ。  海沿いの道を、また、北上する。  しかし、尖閣湾の入口である「達者《たつしや》」の近くまで来たとき、道路が、閉鎖されているのが見えた。 「通行禁止」の柵《さく》が置かれ、そこに、機動隊員が二人、いかめしい顔で立っていた。  純子は、すれすれのところで、車を止め、窓から顔を突き出して、 「通れないんですか?」 「当分の間、通行禁止です」  と、一人の隊員が、無表情にいった。 「何があったんですか?」 「この先で、事故があったんだ。それで、しばらくの間、通行禁止だ」  もう一人の隊員が、面倒くさそうにいった。 「事故って、車のですか?」 「そうだ」 「この先にあるホテルへ用があるんですけど、どうしても通れません?」 「駄目《だめ》だ」  二人の機動隊員は、そっぽを向いてしまった。  自動車事故があったというのは、明らかに嘘《うそ》だと純子は、思った。事故のために、通行禁止なら、当然、交通係の警官が立っているべきだろう。それなのに、機動隊員がいるのは、他の理由だからだ。  しかし、この調子では、本当の理由は、答えてくれまい。いや、本当の理由を、この隊員は、知らされていないのかも知れないという気もした。  仕方なく、純子は、相川町へ引き返すことにした。 「巡視船に、機動隊員ですか」  と、原は、助手席で、溜息《ためいき》をついて、 「いったい、どうなってるんです?」 「何か、どえらい秘密を隠そうとしてるとしか考えられないわ」  と、純子はいった。      11  相川の旅館に、いったん帰ると、帳場の人が、 「さっき、東京の宮田さんという方から電話がありましたよ。すぐ、連絡するようにって」  と、いった。  編集長は、かんかんだろう。純子は、自分の部屋に入ってから、東京に、電話をかけた。 「そんなに、うちの社を辞《や》めたいのかね?」  と、宮田は、いきなり、怖いことをいった。  純子は、小さく息を吸ってから、 「ねえ。編集長。聞いて下さい。様子が変なんです。きっと、何かあるんです。それを調べさせて下さいよ」  と、いい、消えてしまった漁民たちのこと、尖閣湾沖にやって来た二隻の巡視船のこと、そして、交通|遮断《しやだん》した機動隊のことを話した。  また、怒鳴るかと思った編集長の宮田が、 「ちょっと待ってくれ」  と、低い声でいい、しばらく、何かやっているようだったが、 「今、いったことは、本当だろうね?」  と、真剣な声で、きいた。 「ええ。本当ですわ」 「今、君の傍《そば》に誰かいるか?」 「今は、私一人ですけど。原クンを呼んで来ますか?」 「いや、いい。黙って聞くんだ。いいかね。ひょっとすると、君は、どえらいものにぶつかったのかも知れん」 「何ですか?」 「行方不明の原子力船『むつ』だよ」 「え?」 「『むつ』は、佐渡が島近くで、姿を消したといわれている。政府は、絶対に沈没していないといっているが、ひょっとすると、君のいう尖閣湾沖に沈んだのかも知れん」 「すると——だから巡視船が——」 「そうだ。まだ、どこの新聞社も、雑誌社も、気付いていない。沈没していないと考えて海上を捜索しているんだ。だから、君と原クンも、さとられぬように、調べてみてくれ。金は、必要なだけ、そちらに送る」 「じゃあ、馘《くび》はなしですわね?」  純子は、意地悪く、念を押した。 「もちろんだ」 「もし、沈没している『むつ』を見つけたら、ボーナスが出ますわね?」 「ああ、スクープなら、出るさ」 「そう来なくっちゃあ」  純子は、ニッと笑って、電話を切った。 [#改ページ]  第四章 沈 黙      1  藤木は、突然、東京に呼び戻された。理事長の命令なので、急遽《きゆうきよ》、新潟から飛行機で帰京した。理事長室に入って行くと、理事長の田辺が、立ち上って、彼を迎え、 「ご苦労さん。連日の捜索で、さぞ、疲れたろう」  と、いたわりの言葉を口にした。 「さほど、疲れません。むしろ、飛行機に乗るのも慣れました。急用ということですが、どんなことでしょうか?」  藤木は、すすめられた椅子に腰を下して、田辺を見た。 「別に、特別の用件というわけじゃないんだが、君の身体が心配でね。少し休ませてあげようと思って、呼んだんだよ。『むつ』も、いっこうに見つかりそうもないし、二、三日、休んで、疲れをとりたまえ」  田辺は、微笑して、いった。 「ありがとうございますが、まだ、『むつ』も見つかっていませんし、疲労というほどのものもありません。それに、私の友人が、『むつ』に乗っています。一等航海士の浅井君です。自宅にいても、心配で、ゆっくり出来ないでしょう。それより、『むつ』の捜索に当っていた方が気楽です」 「その気持はわかるが、身体も大事だよ。とにかく、二、三日休みたまえ。また働いて貰《もら》いたい時には、連絡するよ」  田辺は、藤木の肩に手を置いて、いった。  温かみのあるいい方だった。  ふと、涙がこぼれそうになった。理事長が、自分の身体のことを心配してくれている。それも、「むつ」が行方不明になっている緊急時にである。  そう思うと、なおさら、この大事な時に、休みをとってなどいられなかった。 「いえ。理事長。私は、すぐ、新潟に引き返します。『むつ』は、まだ見つかっていません。そんな時に、休んでいるわけにはいきません」  と、藤木は、いった。  田辺は、その意気を買ってくれるものと思ったのだが、意外にも、眉《まゆ》をひそめて、 「私は、君に、休めといっているんだ。君に代る人物は、もう決めて、出発させた」 「誰《だれ》ですか?」 「そんなことはいいだろう。とにかく、君は休暇をとりたまえ。これは、理事長としての私の命令だ」 「しかし、私は、『むつ』が見つからない中は、安心できません」  と、なおも、藤木がいうと、田辺は、突然、怒り出した。  理事長のこんな険《けわ》しい顔を、藤木は、見たことがない。「むつ」が、行方不明になったときも、田辺は、険しい顔だったが、それでも、藤木たちを、怒鳴りつけはしなかった。 「私のいうことが聞けんのか!」  と、田辺は、怒鳴った。  藤木は、自分が、勘違いしていたのを、さとらざるを得なかった。  自分に向って、休みをとれというのは、田辺の恩情ではなかったのだ。  理由はわからないが、理事長は、藤木を、「むつ」の捜索から除外しようとしているのだ。身体を心配してのことではないのだ。  一応、三日間の休暇をとることを承知して理事長室を出たものの、藤木の胸に浮んだ疑問は消えなかったし、裏切られたという口惜《くや》しさは、どうすることも出来なかった。 (理事長は、いったい、何をかくそうとしているのだろうか?)  その疑問を解きたくて、藤木は、自分の金で、もう一度、新潟に向った。      2  科学技術庁と、原子力船むつ開発事業団は、共同記者会見を開き、いぜんとして、「むつ」の行方がわからないと発表した。  新聞も、それを、そのまま、報道している。  藤木は、その新聞記事を、新潟行の飛行機の中で読んだ。  自分が、事業団の責任者として、新潟へ来ていたときは、夢中だったから、ただ、ひたすら、日本海に、「むつ」を探していたが、任務を解かれて、第三者の立場に立たされると、いくらか冷静に、事態を見つめることが出来た。 「むつ」が、行方を絶ってから、すでに、一週間以上経過している。  九千トン近い原子力船が、消えてしまうことなどあるだろうか?  科学技術庁も、事業団も、「むつ」の沈没は、絶対に考えられないと発表している。  しかし、それなら、なぜ、「むつ」は、発見されないのだろうか?  そこが、いくら考えてもわからないのだ。  冷静に、身びいきなく見れば、十日間も捜索して見つからないのは、すでに、海上に存在しないとしか考えられない。 (しかし、どうして、あの大きな原子力船が沈没したのだろうか?)  台風二十五号にぶつかって、遭難してしまったのだろうか? だが、船長も冷静な男だし、一等航海士の浅井も優秀な男である。  それに、「むつ」は、新しい母港に向って、回航中だった。別に、急ぐ航海ではなかったのだ。台風が近づけば、最寄《もよ》りの港へ避難するようにいわれていた筈である。  他の船と衝突して沈没したということも、考えられない。なぜなら、「むつ」を沈めるほどの大きな船が、ここ十日の間に、事故を起こしたという報告は、なかったからである。  新潟空港に着いた藤木は、反射的に、海上保安庁の格納庫の方に眼をやった。  ここから、YS11に乗って、捜索に向ったのを思い出したからである。  今日も、当然、海上の捜索に当っているものと思ったのは、まだ、午後二時になったばかりだからである。  しかし、海上保安庁のYS11は、のんびりと、翼を休めていた。顔見知りになった機長の青木は、翼の下に腰を下して、他の隊員と談笑している。  藤木は、気になって、近づいて行った。 「やあ、藤木さん」  と、青木の方から、声をかけてきた。 「今日は飛ばないんですか?」  藤木がきくと、青木は、手を振って、 「佐渡の空港は小さ過ぎて、このYSは、降りられないんですよ。ヘリは、飛んで行ったけど、このYSは、今日中に、東京へ引き返すことになりそうです」 「佐渡って、佐渡で、『むつ』が発見されたんですか?」  思わず、藤木の声が、大きくなった。 「くわしいことはわかりませんが、ヘリが、飛んで行ったことは、事実です。それに、巡視船二隻が、佐渡に行っている筈です。藤木さんは、ご存知なかったんですか?」 「私は、一時、東京に帰っていたもので」  と、藤木は、あわてていった。  人のいい青木機長は、少しも疑わず、 「そうですか。尖閣湾沖で、何か見つかったようですよ」  と、教えてくれた。  藤木は、空港を出ると、近くで、佐渡の地図を買い、フェリーで、佐渡に向った。  理事長の田辺は、佐渡沖のことは、何も教えてくれなかった。 (なぜ、かくしているのだろうか?)  という疑問が、まず、藤木の胸にわいてきた。  もちろん、自分を、「むつ」の捜索から外《はず》した理由も知りたい。  フェリーは、佐渡の両津港に着いた。地図で見ると、問題の尖閣湾は、反対側である。  バスがあるが、出発の時間を待っているのが惜しくて、タクシーを拾い、尖閣湾へ行ってくれといった。  西陽の中を、タクシーが走り、相川の町を通り抜けて、尖閣湾に近づいたが、突然、止まってしまった。  通路に、通行止の柵《さく》が設けられ、機動隊員が立っている。 「これから先は、行けませんよ」  と、運転手がいった。 「他に、尖閣湾へ行く道は、ないのかね?」 「ありませんね。どうします? 両津へ引き返しますか?」 「いや。ここで降りる」  藤木は、料金を払って、タクシーを降りた。  夕方になって、海の方から吹いてくる風が、突き刺すように冷たい。 「どうしても、通っちゃいけませんか?」  と、藤木は、二人の機動隊員に向って、声をかけた。 「駄目《だめ》だね。危険だからね」 「しかし、車じゃなくて、歩いて行くならいいんじゃありませんか?」 「落石なんかもあるんで、誰も通すなといわれているんだよ」 「僕は、科学技術庁の外郭団体である原子力船むつ開発事業団の者なんだが、それでも、通っちゃいけないのかな? 用があって、尖閣湾へ行きたいんだが」  藤木は、少しく強く出てみた。 「科学技術庁?」  と、二人の機動隊員は、顔を見合せていたが、 「駄目なものは、駄目だね」  と、頑固《がんこ》にいった。  藤木は、舌打ちした。眼の前の警察までが、自分を疎外しようとしているように見えた。  仕方なく、今日は、相川の町で泊ることにして、引き返して、歩き始めたとき、一台の車が、近づいて来て、横で止まった。  ドアが開いて、二十五、六の女が、 「お乗りになりません?」  と、声をかけてきた。  藤木が、黙っていると、 「相川の町まで、歩いていらっしゃるのは大変ですよ」 「いいんですか?」 「どうぞ、私たちも、相川の町へ行くんです」 「それなら」  と、藤木は、その女の隣りに腰を下した。  運転しているのは、陽焼けした若い男だった。  車が動き出すと、女は、 「さっき、原子力船むつ開発事業団の人間だと、おっしゃってましたわね?」 「それがどうかしたんですか?」  藤木は、きき返した。 「じゃあ、やっぱり、『むつ』は、尖閣湾沖に沈んでいるのかしら」  女は、ずばりといった。  藤木は、驚いて、女を見つめた。 「どうして、そんなことを?」 「私は、週刊ジャパンの記者で、有島純子といいます。運転しているのは、カメラマンの原クン」 「それで?」 「お互の情報を交換しません?」 「それは、どういうことです?」 「名前を教えてくれません?」 「藤木です」 「それでは、藤木さん。私たちは、『むつ』が沈んだと思われる地点を知っているんです。あれが、『むつ』ならばですけど」  有島純子は、思わせぶりにいった。  藤木は、思わず、身体を、相手にねじ向けて、 「その場所を教えて下さい」 「でもおかしいな。原子力船むつ開発事業団の人なのに、なぜ、知らないのかしら? 本当に、事業団の人?」 「本当ですよ」  藤木は、上衣の内ポケットから、身分証明書を出して、純子に見せた。 「事業団では、まだ、『むつ』の行方がわからなくて、僕が、理事長の命令で、佐渡へ来てるんです。佐渡の尖閣湾沖に、ひょっとして、沈んだかも知れないという噂《うわさ》を聞いたもので」  と、藤木は、嘘《うそ》をついた。  相川の町に入り、車が、止った。  有島純子が、じっと、藤木を見た。 「さっきの私の提案は、どうかしら?」 「情報の交換ですか?」 「ええ」 「いいでしょう」  と、藤木は、肯《うなず》いた。今は、どんな情報でも欲しかった。 「四日前に、尖閣湾の沖で、大量の魚が、死んで、浮び上ったんですよ。それが、始まりなんです」  と、純子は、いった。 「それが、『むつ』と、関係があるんですか?」 「まあ、最後まで聞いて下さいね。あの辺の漁師が心配して、その魚を、水産試験場へ持って行ったんです。ところが、なかなか、原因の発表がない。その中に、奇妙なことが、次々に、起こりだしたんですよ。一夜にして、問題の海面から、死んだ魚が消えてしまったり、尖閣湾の周辺の漁村から人がいなくなったり、さっきみたいに、通行禁止になったり、その上、巡視船が二隻もやってきたり。ただ単に魚の死骸《しがい》が浮んだくらいで、巡視船が二隻もやって来るかしら?」 「たしかに、妙なことですね。しかし、それが、『むつ』の沈没と、どう結びつくんですか?」 「あそこに、『むつ』が沈んでいるとすれば、何もかも、ぴったりするんじゃありません? 『むつ』は、原子炉を積んでいるんでしょう。沈没したとき、その原子炉がこわれて、放射能が、洩《も》れ出した。そのために、あの辺りの海水が汚染された——」 「それで、魚が大量に死んで、浮び上って来たんですね」  と、カメラマンの原が、大きな声でいった。  純子は、ニッコリ笑った。 「その通りよ。何も知らない漁師が、その魚を、水産試験場に持ち込んだ。調べた職員が、びっくりして、科学技術庁へでも報告したんだと思うの。原子力船『むつ』が沈んだのは、尖閣湾沖ってことになったけど、原子炉がこわれて、放射能が洩れているとなったら、大変な騒ぎになるわ。敦賀の原子力発電所で事故があって、大騒ぎして、まだ、そんなに日がたっていないんですものね。それで、政府は、これを、秘密の中に処理することに決めたんじゃないかしら。近くの漁師を、全員どこかに移してしまい、機動隊が、道路を閉鎖《へいさ》。その上、巡視船を二隻急行させて、他の船が近づかないようにする。もちろん、証拠になる魚の死骸は、一匹残らず、さらって、どこかへ埋めてしまった——」 「それは、違うな」  と、藤木がいった。 「どう違うんですの?」      3 「『むつ』は、原子炉を積んでいるし、佐世保で修理もしました。しかし、佐世保で、燃料のウランは、積まなかったんですよ。新しい母港である下北の関根浜まで回航し、そこで、ウラン燃料を積み込む予定だったんです。  だから、そこまでは、蒸気タービンで、航海していたんです。従って、不幸にして沈んでも、放射能が洩《も》れることは、絶対にあり得ないんですよ」  と、藤木は、笑った。  純子は、鼻白んで、黙ってしまった。  しかし、カメラマンの原は、身体をねじ向けて、藤木を見つめた。 「本当に、『むつ』には、ウラン燃料が積み込まれていなかったんですか?」 「もちろんですよ。ウラン燃料は、関根浜へ行ってから積み込むという約束を、長崎県知事とも交わしてあるんです」 「しかし、そんな約束は、信じられませんね。核の問題だって、政府は、アメリカと、持ち込まない約束になっていると、いっていたじゃありませんか。それなのに、アメリカが持ち込んでいることは、今や、公然の秘密でしょう。だから、政府の約束とか、声明ぐらい信用できないものはないと思いますね」 「そんなことはないですよ。僕は、佐世保に行って、『むつ』が出航するのを見送ったんです。事業団の理事長と一緒に。だから、はっきりといえるんだが、ウラン燃料は、積んでいませんよ」 「本当に積んでいなかったんですか?」 「もちろん」  藤木は、怒ったような声でいった。  しかし、その顔が、ふいに、蒼《あお》ざめてしまった。  田辺理事長が、突然、藤木に休暇をとれといったことを思い出したからである。  その理由が、どうしてもわからなかったのだが、もし、「むつ」が、秘密の中に、ウラン燃料を積み込んで出航したのだとすると、納得《なつとく》がいくのだ。  科学技術庁も、原子力船むつ開発事業団も、焦《あせ》っていた。 「むつ」の相つぐ事故に対してである。  とにかく、一刻も早く、原子炉を使った実験航海をしたいと念じていた。  そのデータが集れば、たとえ、「むつ」が廃船になっても、次の原子力船の建造が、容易だからである。  何とかして、原子力による実験航海という声があったことは否定できない。  関根浜に回航したあと、スムーズに、ウラン燃料を積み込めるという保証はない。阻止行動が起こるのは、眼に見えている。  そこで、科学技術庁の上層部と、事業団の上の方で、ひそかに、協定破りが計画されたのではなかったのか?  佐世保では、絶対に、ウラン燃料は、積み込まないという協定があるので、反対派も安心していた。それを利用して、ひそかに、ウラン燃料を積み込む。  そして、船長にだけ、秘密の命令書を渡しておく。  日本海に出たら、原子力エンジンによる実験航海をせよという命令である。  ところが、事故で、「むつ」は、沈没してしまった。しかも、まずいことに、放射能が洩《も》れ出してしまった。  佐渡の尖閣湾沖で、放射能にやられた魚が大量に浮び上ったという知らせを受けて、田辺理事長は、がくぜんとした。  佐渡に、原発はないから、尖閣湾沖で、放射能となれば、「むつ」の沈没事故しか考えられない。しかも、それは、協定違反が、ばれるのだ。  そこで、田辺理事長は、科学技術庁の上層部、多分、長官と相談したのだろうが、極秘の中に、これを処理することに決めた。その一つが、藤木を、捜索から外すことだったのではあるまいか。  藤木は、佐世保でのウラン燃料の積み込みも知らされていなかったし、回航の途中で、原子炉エンジンによる実験運転も知らされていなかった。だから、「むつ」の沈没と、原子炉からの放射能洩れがわかった時点で、捜索陣から外されたのだ。      4  藤木の顔色が変ったのだろう。  純子は、素早く、それに気付いたらしく、彼の顔をのぞき込むようにしながら、 「藤木さんは、どうやら、何も知らされていなかったみたいね?」  と、きいた。  藤木は、黙って、唇《くちびる》を噛《か》んだ。その通りなのだ。  田辺理事長の秘書として、彼の信頼を受けていると思い込んでいたのである。  だが、肝心のことでは、まったく、信頼されていなかったのだ。  もちろん、肝心のことを知らされていなかったのは、藤木だけではない。事業団の職員の大部分は、佐世保でのウラン燃料の積み込みも、回航途中での原子炉の試運転も知らされていないし、これからだって、知らされないだろう。  事業団も、科学技術庁も、まだ、「むつ」が沈没したことを認めていない。  新聞は、いぜんとして、「むつ」の行方不明を伝えている。  しかし、遠からず、科学技術庁と事業団は、「むつ」の沈没は、認めざるを得ないだろうが、その時でも、絶対に、佐世保でのウラン燃料の積み込みと、原子炉の試運転は、認めまい。認めたら、野党やマスコミの一斉《いつせい》攻撃にさらされるのは、眼に見えているからである。  放射能で死んだ何千匹もの魚は、すでに、始末してしまった。  しかし、あの場所に、事故を起こした「むつ」が沈没している限り、こわれた原子炉から、放射能は、洩れ続けるだろう。また、魚の死骸《しがい》が、大量に浮びあがる危険があるのだ。  田辺理事長たちは、それを解決しようと、全力をあげるだろう。極秘裏にである。だから、まず、秘密を守るために、尖閣湾周辺の漁師たちを、どこかに移した。多分、口止料として、莫大《ばくだい》な金が支払われた筈だ。  そのあと、道路を遮断《しやだん》し、巡視船二隻を派遣して、海上からも、近づけないようにした。  そして、洩れる放射能を、どうにかしてから、尖閣湾沖での「むつ」の沈没を発表する気なのだ。  そこまで考えてきて、藤木は、口惜しさにかまけて、肝心のことを忘れてしまっていたことに気がついた。  三十二名の「むつ」の乗組員の生死だった。  原子炉から、放射能が洩れるような事故が起きて沈没したのなら、乗組員も、恐らく、生きてはいまい。 「この辺りで、死体が見つかったということはなかったですか?」  と、藤木は、純子にきいた。 「死体が、浜に打ちあげられたようなことは?」 「若い女の人の死体が、二日前に、尖閣湾の浜に打ちあげられましたよ」  と、原がいった。 「女? たった一人だけですか?」 「そうです。女性なんで、『むつ』とは、関係がないと思ってたんですが、『むつ』にも、女性が乗っていたんですか?」 「二十代の女性が、二人乗っていました」  藤木は、佐世保に繋留《けいりゆう》中の「むつ」の船内で会った、新谷紀子という女のことを思い出した。  サロンで、コーヒーを運んで来てくれたのだ。  原というカメラマンが見たという女の死体は、その新谷紀子だろうか? 「その死体は、どうなりました?」 「この町の警察に届けたので、どこかへ運んで行きましたよ。死因を調べるために、解剖するんだと思いますね」 「外傷は、なかったんですか?」 「さあ、死体を見つけて、びっくりしちゃったもんで、よく見なかったんです。でも、写真は、撮《と》りましたよ」 「その写真は、もう現像してありますか?」 「いや、僕は、東京に持って帰って、自分で現像、引伸しするんです」 「一刻も早く見たいんだが」 「原クン。すぐ、この町のDP屋に頼みなさいよ」  と、純子は、原にいった。  原は、車をおりて、五、六メートル先にあるDP店に歩いて行った。 「あと、どうしたらいいと思います?」  純子が、きいた。  藤木は、海に眼をやった。 「大量に浮いた魚の死因が、果して、放射能によるものかどうか、確めたいんですがね」 「問題の魚が、新潟県の水産試験場へ持ち込まれていますわ。その結果を、聞きに行ったら、どうかしら?」 「それは、駄目ですね。放射能が原因だとしても、かくすに違いありませんからね」 「じゃあ、どうやって?」 「その海域の海水が欲しいですね。海水が手に入れば、あとは、ガイガー・カウンターを使って、調べられます」 「でも、巡視船が二隻、厳しく警戒していますわ。私たち、ホテルのモーターボートで近づいたんですけど、たちまち、追い払われてしまったんです」 「エンジンの音を立てていたからでしょう。夜半に、そっと近づけば、相手は、気付かないんじゃないかな」 「でも、海水を汲《く》んで来ても、ガイガー・カウンターは、どこで手に入れるつもりですの?」 「どこにあるかな。もし、入手できなくても、これがありますよ」  藤木は、ポケットから、フィルムバッジを出して、純子に見せた。 「それ、何なんですの?」 「放射能が出ていると、この白いフィルムが赤くなるんです。『むつ』に乗るとき、つけるようにといわれて持たされたのを、持って来てしまったんですよ」 「じゃあ、問題の海水を手に入れられれば、放射能に汚染されているかどうかわかるんですわね?」 「わかります」 「私たちと、協力して下さるわけ?」 「いや、僕は、『むつ』に乗っている友だちの身が心配なだけですよ。全面的に協力する気はありません。それに、僕は、原子力船むつ開発事業団の人間です。立場が違いますからね」 「それは、構いませんわ。利害が一致しているところだけでも、協力して下されば」  純子は、あっさりといった。  DPを頼んだ原が、車に戻ってきた。 「プロの写真家としては、町のDP屋に頼むのは、嫌《いや》でしたがね」  と、原は、肩をすくめるようにしていった。 「あんたのプライドより、特ダネの方が大切よ」  と、純子は、事もなげにいった。  原は、藤木に向って、「これですからね」と、苦笑してから、 「これから、どうするんです?」 「どうしても、問題の海面の海水が欲しい」 「モーターボートじゃ近づけませんよ。といって、ここから、手こぎのボートじゃ、遠過ぎるし——」 「途中まで、エンジンを使って、巡視船に近づいたら、手で漕《こ》ぐより仕方がないな。この辺で、船外機をつけたゴムボートを借りられませんか?」 「夏は、海水浴客で賑《にぎ》わうところですからね。探せば、あると思いますよ」      5  四人乗りの大きなゴムボートに、五馬力の船外機のついたものを、原が借り出すことに成功した。  陽が落ちてから、三人は、そのゴムボートに乗り込んだ。万一に備えて、これも、借りた救命《ライフ》胴衣《ジヤケツト》を身につけての出発である。  五馬力のエンジンでは、せいぜい、五、六ノットのスピードしか出ない。  風は冷たいし、時々、身体にふりかかってくる水しぶきは、一層冷たかったが、藤木は、緊張のせいか、それを感じなかった。  海は凪《な》いでいるのだが、底の平らなゴムボートは、やたらに、飛びはねる。  必死になって、ロープにつかまりながら、藤木は、まだ、自分の気持を、整理できずにいた。  藤木は、事業団の職員である。サラリーマン根性が、身についてしまっている。だから、捜索活動から除外されてしまった今でも、「むつ」の秘密を守りたいという忠誠心が働いてしまう。  だが、その一方で、秘密が自分に知らされていなかったことに腹が立ったし、ここまで事態が進みながら、三十二名の乗組員の安否よりも、秘密を守ることに汲々《きゆうきゆう》としている上層部の態度にも腹が立っていた。  一等航海士の浅井は、どうなったのだろうか?  それを知りたい。何よりも、まず、それを知りたいのだ。そのためには、どうして、どこに、「むつ」が沈没しているのかを知らなければならない。  だから、この記者とカメラマンの妙な男女のコンビに協力している。ただ、どこまで協力できるか、藤木自身にもわかっていないのである。  月明りの向うに、黒い船体が二つ見えてきた。  巡視船が二隻。  藤木は、船外機のエンジンを止めた。あとは、オールで、漕いでいくより仕方がない。 「ゆっくり漕ぐんだ」  と、藤木は、小声でいった。自分にいい聞かせる調子でもあった。  藤木は、大学時代、テニスをやったことはあるが、ボートを漕いだのは、恋人を遊園地のボートに乗せた時ぐらいである。  ぱしゃッ、ぱしゃッと、どうしても、小さい音がしてしまう。そのたびに、藤木たちは、息を呑《の》んで、巡視船の方に眼をやった。  だが、巡視船は、静まり返っている。時々、サーチライトが、海面を照らすが、それは、藤木たちとは反対側の海面だった。その辺りに、「むつ」が沈んでいると、考えているのかも知れない。 「もう、この辺でいい」  藤木は、巡視船から、十五、六メートルのところで、オールを止めた。 「でも、藤木さん。魚の死骸《しがい》が浮んだのは、あの巡視船の向う側ですわよ」  と、純子が、いった。 「そこまで行ったら、見つかってしまいますよ」  原が、声をふるわせた。  巡視船は、大砲こそ積んでいないが、乗組員の海上保安官は、ピストルを携行している筈である。いきなり撃たれるかも知れないという恐怖があった。 「今日は、ここでいいと思います」  と、藤木は、いった。 「なぜ?」  純子が不審顔できく。 「この辺りの海流の関係ですよ。海水が、放射能に汚染されているとすれば、この辺りの海水も、汚染されている筈です。今夜は、放射能汚染が、事実かどうか調べるのが目的ですから、何も、巡視船の向う側まで行く必要はないですよ」 「じゃあ、この辺りの海水を採《と》ればいいんですわね」  純子は、確めるようにいってから、海面に向って、かがみ込み、用意してきたプラスチックの容器に、海水を汲み込んだ。  巡視船の甲板に、人影が動いた。  三人は、息を殺した。  静まり返った海面に、保安官たちの話し声が聞こえてきた。 「寒いな」 「いつまで、ここにいるのかね」 「目的がよくわからずに、ただ、ここに、他の船を近づけるなというのは、疲れるね」 「原子力船『むつ』の行方不明と関係があるという噂《うわさ》があるが、どうなのかな?」 「しかし、こんな場所に、『むつ』が沈没しているとは思えないがね」 「だが、明後日《あさつて》の朝、深海作業船が到着するということだよ。とすると、やっぱり、この辺りに、『むつ』が沈没してるんじゃないかな」 「それなら、なぜ、潜水して確めないんだ? 作業船が来るまで待ってるんだ? この船にだって、アクアラングの用意はあるのに」 「それについて、変な噂があるんだよ」  そこから、急に、声が小さくなって、聞こえなくなってしまった。  藤木は、自分の推測が当っていると思った。 「むつ」が沈没している疑いがあれば、すぐにでも、アクアラングをつけて、潜ってみるべきだろう。それをせずに、作業船が着くのを待っているのは、やはり、この辺りの海水が放射能汚染されている恐れがあるからに違いない。 「もう帰りましょう」  と、藤木は、いった。  ともすれば、急ぎがちになるのを、つとめて、ゆっくりと漕ぐようにして、三人は、現場から、離脱することにした。  二隻の巡視船の姿が見えなくなったところで、エンジンをかけた。  とたんに、ゴムボートは、はじかれたように、スピードをあげた。緊張が解けると同時に、すごい寒さを覚え、藤木は、かじかんだ手をこすり合せた。  相川の町の灯が見えてきた。 「早く、この海水を調べてみようじゃありませんか」  原が、待ち切れないという調子でいった。  純子も、早くという。  藤木は、近くの岸にゴムボートを着けた。  エンジンを止め、原が、懐中電灯を取り出して、スイッチを押した。  その明りの中に、海水の入った容器を置き、藤木が、フィルムバッジを、その海水で濡《ぬ》らしてみた。  たちまち、色が変っていく。  予期していたことながら、藤木の顔から、血の気が引いていった。  あの海域で、海水が放射能汚染されているということは、原子力船「むつ」の沈没の可能性が強くなることだからである。そして、それは、三十二名の乗組員の死も、暗示しているのだ。 「これで、あそこに、『むつ』が沈没していることが、はっきりしたわけでしょう?」  純子が、声をはずませて、藤木にきいた。 「多分」 「多分って?」  純子が、不満そうな顔をした。週刊誌記者の純子にしてみたら、早く断定して、記事を送りたいのだろう。  しかし、藤木は、慎重にならざるを得なかった。 「このフィルムバッジは、10レムまでしか測れないんですよ。だから、海水が、放射能に汚染されていることはわかりましたが、どの程度かがわからない。例えば、『むつ』が沈没し、その上、原子炉が破損して、放射能が洩《も》れているとしたら、10レムではきかない筈です。だから、正確に測る必要がありますね」 「どうすれば、いいのかしら?」 「ガイガー・カウンターで測れば、正確な数値がでますね」 「しかし、藤木さん」と、純子が、強い眼で、いった。 「『むつ』が、あそこに沈んでいる可能性は、出たわけでしょう?」 「可能性はね」 「それなら、記事に出来るわ。うちの雑誌は、明後日、発売だから、それまで、新聞やテレビが気がつかなければ、大変な特ダネよ」 「どうするんです?」  原が、純子にきいた。  純子は、ちょっと考えてから、 「今夜、原稿を書くから、明日、原クンは、その原稿と、この海水を持って、東京に飛んで帰ってよ。事情を話して、あとの判断は、編集長に委《まか》せたらいいわ」 「その原稿の中に、僕の名前は、出さないで下さい」  と、藤木は、釘《くぎ》をさした。 「やっぱり、内部告発者になるのは、嫌《いや》なんですか?」 「僕は、何といっても、原子力船むつ開発事業団の人間ですからね。もし、あの海域に、『むつ』が沈んでいて、しかも、原子炉がこわれて、放射能洩れがあったとすれば、僕の行動は、事業団の、というより、政府の非を鳴らすことになる。それが辛《つら》いんですよ」 「馘《くび》になるのが怖いんですか?」  純子が、いたずらっぽい眼で、藤木の顔をのぞき込んだ。 (この女は、いっぱしの女記者の顔を見せるかと思うと、急に、子供みたいな眼をしたりする。わからない女だ)  と、藤木は、思いながら、 「役人というのは、簡単には、馘にはなりませんよ。問題は、僕自身のことです」 「何となく、わかるような気がするんですけど——」 「とにかく、僕は、自分の泊る旅館を探しますよ」  藤木は、そういって、ゴムボートからおりると、相川の町の灯に向って、歩いて行った。      6  観光シーズンが終っているので、旅館は、簡単に見つけることができた。  遅い夕食を頼み、それを、部屋で食べながら、テレビのスイッチを入れた。  九時のニュースに、見入った。  当然「むつ」の行方不明が、取り上げられた。  不運で、見捨てられた感じの原子力船が、行方不明になったとたんに、世間の注目の的《まと》になってしまった。  事業団の田辺理事長が、沈痛な顔で、画面に現われ、記者の質問に答えていく。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ——誰もが知りたいのは、「むつ」が、どこへ消えたかということですが、まだ、手がかりはないですか? ——残念ながら、わかりません。海上保安庁だけでなく、海上自衛隊にも協力を求めて、日本海全域を調査しています ——しかし、いまだに見つからないということは、沈没した可能性もあることじゃありませんか? もし、沈没していないのなら、もう見つかっていなければならない筈でしょう? 第一、連絡してくると思うんですよ。まさか、三十二名を乗せて、ソビエトに亡命したわけでもないでしょう? ——その疑問を持たれるのは、当然です。私も、なぜ、連絡して来ないのか、わからないのです。しかし、「むつ」は、九千トン近い船で、現代の科学の粋《すい》を集めた船でもあります。めったなことで、沈没する筈はないのです。いろいろな条件を考えても、沈没は、考えられません ——台風二十五号に巻き込まれて、沈没したということは考えられませんか? 確か、あの台風が通過した前後から、通信が途絶したと聞いていますが ——通信途絶については、その通りです。しかし、船長も、一等航海士も、経験豊かな、沈着な人たちです。台風が近づけば、当然、それを避ける方法をとった筈です。従って、台風で沈没したとは、考えられませんね ——それでは、こういうことはどうですか? 原子炉事故によって、爆発が起き、一瞬の中に沈没したと考えると、「むつ」が、突然、消えてしまった理由に、説明がつくんじゃありませんか? 原子炉運転している中に、何かの原因で、臨界点を越えてしまい、爆発したのではないかということなんですが? ——それは、全くありません。誤解をまねくといけないので、この際、はっきりと申し上げておきたい。よく聞いて下さい。今回の「むつ」の佐世保出港は、あくまでも、新しい母港である関根浜までの回航が目的で、ウラン燃料は、積んでいません。これは、約束によって、積まれていないのです。従って、補助エンジンだけの航海だったわけです。ウラン燃料の積み込みは、関根浜へ着いたあとで行われることになっていたのです。従って、原子炉運転による事故ということは、全く考えられないのです [#ここで字下げ終わり]  田辺は、色をなして、強調した。  画面は、飛行機から映した日本海の景色に変った。  真っ青な美しい海である。点々と、漁船が浮んでいる。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ——原子力船「むつ」は、この美しい日本海のどこへ消えたのでしょうか? [#ここで字下げ終わり]  そんなアナウンサーの言葉で、「むつ」関係のニュースは終り、次のニュースに移っていった。  田辺理事長は、あくまで、「むつ」には、ウラン燃料は、積み込まれなかったということで押し通す気なのだ。そうするより、仕方がないと、考えているのだろう。それは、事業団の意志というより、政府の意志だろう。絶対に、変えることのない意志なのだ。  今日、尖閣湾沖の海が、放射能に汚染されていることがわかった。  日本海に、米ソの原潜が往来しているのは、よく知られている。現に、ソ連の原潜が事故を起こしたり、アメリカの原潜が、日本の船と、衝突したりしている。  しかし、尖閣湾沖までは、やって来ないだろう。  第一、米ソの原潜が事故を起こして沈没したのなら、いち早く、救援船が駈けつけて来ている筈である。  従って、あの海域の放射能汚染は、「むつ」の沈没のためと考えるのが、一番確かだ。  原子力船「むつ」が、協定を破って、原子炉運転をしていて、事故を起こし、尖閣湾沖で沈没したのだ。  SOSを発信しなかったのは、いろいろと理由が考えられる。  第一の理由は、通信機器の故障である。  今までは、そう考えられた。しかし、原子炉運転中の事故とすると、別の理由の方が、可能性があるだろう。  秘密裏に、原子炉運転をしていたので、救助を頼むことが出来なかったのではないかということである。それを知られてはまずいので、SOSを発信せず、沈没回避に全力をあげた。だが、そうしている間に、船は、沈没してしまった——  藤木は、つけっぱなしのテレビの前で、じっと、考え込んでしまった。  関根浜へ回航の途中、秘密裏に、原子炉による実験航海を実施することは、前もって、命令されていたに違いない。  藤木は、完全に、ツンボ桟敷《さじき》におかれていたのだ。 (一等航海士の浅井も、知っていたのだろうか?)  船長は、もちろん、知っていたろう。命令書が渡されていた筈である。  浅井が知っていたのなら、なぜ、出航前に会ったとき、話してくれなかったのだろうか? 藤木も、当然、知っていると思っていたのか?  それにしても、最大の気がかりは、浅井たちの安否である。  若い女性の死体が、一つだけ、打ちあげられたという。 「むつ」には、若い女性が二人乗っていたから、その一人だろうか? そうだとしても、他の三十一人の安否がわからない。  なぜ、沈没のとき、ボートで脱出しなかったのだろうか?  それとも、沈没が、あまりにも突然だったので、脱出する時間がなかったのだろうか?  わからないことが、多すぎるのだ。  もし、上層部の強引《ごういん》な実験運転強行の犠牲《ぎせい》になって、浅井たちが死亡したとしたら、藤木は、許すことが出来ない。  翌朝、藤木が、朝食をすませて、朝刊に眼を通しているところへ、純子が、訪ねてきた。 「よくここに泊っていると、わかりましたね?」  と、藤木がいうと、純子は、笑って、 「狭い町ですもの、電話で問い合せれば、すぐわかりますわ」  と、いってから、 「今、原クンを、両津まで、送って来たんです。今日中に、東京に着いて、あの海水の汚染度を知らせてくれますわ」 「あなたは、ここに残って、どうするんです?」 「もちろん、取材して回るんです。第一に、尖閣湾に打ちあげられた女性の死体が、その後、どうなったのか」 「まだ、身元がわからないんですか?」 「警察は、何も発表していませんわ。それと、気になることが、あるんです」 「何です?」 「私と原クンを、船に乗せて、問題の海域に連れて行ってくれた若い漁師さんがいるんです。巡視船が、来る前です」 「それが、どうして、気になるんですか?」 「魚の死骸《しがい》は消えてしまっていたので、その漁師さんが、どうなっているのか調べてくるといって、裸になって、飛び込んだんです。十五、六メートルもぐったといっていましたわ」 「あの放射能で汚染された海に?」  藤木も、顔色を変えた。 「ええ。そうなんです」 「それで、その若い漁師は、今、どこにいるんです?」 「わかりませんわ。あの辺の漁師さんは、みんな、姿を消してしまいましたもの」 「一種の強制疎開なんだ。しかし、その漁師さんは、至急、医師の診察を受ける必要がありますね」 「そういえば、尖閣湾の近くに、尖閣ホテルというのがあるんです。かなり大きなホテルなんですけど、突然、休業の札を出して、表を閉めてしまっていたんです。ところが、煙突から煙が出ていて、かなりの人が中にいるみたいでしたわ」 「そのホテルに、漁師たちを集めたのかも知れませんね。しかし、交通が遮断《しやだん》されているから、近づけないでしょう?」 「ええ」 「電話して、もし、そのホテルに、あなたのいう漁師がいたら、至急、医者にかかるようにいった方がいいな」 「それは、私がやりますわ」  純子は、すぐ、帳場の電話を借りて、ダイヤルを回した。  その間に、藤木は、外出の支度をした。 「どうでした?」  と、しばらくして、純子にきくと、彼女は、眉をひそめて、 「このホテルには、誰もいませんですって」 「それで?」 「こちらが、勝手に喋《しやべ》って、電話を切ってやったんです。こういう顔立ちの若い漁師さんが、被曝《ひばく》している可能性があるから、いたら、すぐ、医者に診《み》せなさいって。向うは、ちょっと、あわてていたようですけど」 「それでいいでしょう。すぐ、医者に診せると思いますよ」  と、藤木は、いった。  藤木が、警察へ行って、死んだ女性のことをきくつもりだというと、純子も、一緒に行くという。  二人は、揃《そろ》って、旅館を出ると、相川警察署まで歩いて行った。  警察署の前まで来ると、ジープが止まっている。 「あのジープで、死体を、運んで行ったんです」  と、純子が、藤木にいった。  二人は、中に入り、それぞれの名刺を示して、署長へ、面会を求めた。  週刊誌記者と、原子力船開発事業団の名刺が、効果があったらしく、すぐ、署長に会うことが出来た。  二階の署長室で、小柄な署長に会った。 「どんなご用ですか?」  と、署長は、二枚の名刺を見比べるようにして、きいた。 「先日、尖閣湾で見つかった若い女性の死体のことなんです」  と、純子が、いった。 「藤木さんも、同じことでいらっしゃったんですか?」 「そうです。僕の知っている女性ではないかと思いましてね。佐渡で、行方不明になっているもんですから」 「そうですか」 「見せて頂けませんか?」 「実は、今、新潟の大学病院へ行っているんです。司法解剖のためです」 「何か、原因に不審な点があるんですか?」 「まあ、そうです」 「それ、放射能の被曝ということじゃありませんの?」  純子が、勢い込んできいた。が、署長は、変な顔をして、 「それは、何のことですか?」 「とぼけないで下さいな。放射能で、死んだかも知れないので、死因の発表がおくれているんじゃないんですか?」 「どうも、何か誤解されているようだが、扼殺《やくさつ》された疑いがあったので、解剖のために、大学病院へ送ったんです。今日中に、その結果を知らせてくれる筈《はず》ですがねえ」 「扼殺?」 「そうです。のどに、扼殺と思われる痕《あと》があったんですよ」 「どうしても、死体を見たいんですが」  と、藤木がいった。 「新潟から送り返してくるのには、やはり、一両日はかかりますね。顔写真がとってありますから、それをご覧になりますか? 死んだ顔ですから、生前の顔とは、だいぶ違うかも知れませんが」 「ぜひ、見せて下さい」  と、藤木は、いった。  署長は、部下の刑事を呼んで、何枚もの写真を持って来させた。  若い女の死体を、いろいろな角度から撮《と》った写真だった。  藤木は、じっと、その写真を見つめた。  死者特有の生気のない顔が、写っている。  だが、その顔には、見覚えがあった。佐世保で、「むつ」に乗り、友人の浅井一等航海士に会ったとき、コーヒーを運んで来てくれた新谷紀子に間違いない。  すらりとした長身で、美人だった。死は、その顔から、生気だけでなく、美しさまで奪ってしまっていた。まるで、別人のように見える。  だが、あの女性だった。「むつ」が、現地採用した二人の女性の中の一人である。 「お知り合いの方ですか?」  と、署長がきいた。 「ええ。知っています。しかし、扼殺というのは、本当ですか? 溺死《できし》じゃないんですか?」 「尖閣湾に浮んでいたので、最初は、溺死と考えました。しかし、今も申しあげたように、のどに、強く圧迫した痕《あと》がありましてね。どう考えても、扼殺です」 「そんな筈はないんだが——」  と、藤木は、呟《つぶや》いた。 「むつ」が沈没し、その時、新谷紀子は、船外に投げ出され、溺死したのではないのか。投げ出されたとき、すでに死亡していたのでもいい。それなら、納得できるのだ。  それなのに、扼殺とは。 「名前をご存知ですか?」  と、署長がきいた。 「ええ。知っています。佐世保市の新谷紀子という女性です。佐世保に問い合せれば、わかりますよ。確か、年齢は二十三歳。大学を卒業したあと、しばらく、博多の銀行に勤めていたことがあります」 「よくご存知ですね」  署長は、びっくりした顔になった。 「前に会ったことがありますからね。とにかく、現地に照会してごらんなさい」  と、藤木は、いった。 「そうしましょう」  署長は、肯《うなず》くと、長崎県警に電話をかけた。 「すぐ、調べてくれるそうです」  と、署長は、いったん電話を切ってから、藤木にいった。 「結果を、お待ちになりますか?」 「よろしければ。僕も、確認したいんです」  四十分ほどして、長崎県警から電話がかかった。  署長は、肯きながら、メモをとっていたが、受話器を置くと、妙な顔をして、藤木を見た。 「確か、佐世保の新谷紀子といわれましたね?」 「そうです」 「確かに、佐世保には、新谷紀子という二十三歳の女性がいるそうです。大学を卒業したあと、福岡のN銀行に勤めました。しかし、彼女は、今も、元気で、間もなく、結婚するそうです」 「生きている?」 「そうです。つまり、仏さんは、別人だったんでしょう。それとも、新谷紀子という二十三歳の女性が、佐世保に二人いるのかだと思いますね」 「しかし、福岡の銀行に勤めたところまで同じというのは、偶然すぎますね」 「そうですな。とすると、この仏さんが、別人なんでしょう」 「いや」  と、藤木は、当惑した顔で、否定した。  死体の写真を、見違えたということはあり得る。  死顔というのは、かなり違って見えるものだからである。特に、この写真の主は、海に浸っていたし、その上、くびをしめられていたという。顔も、かなり、むくんでいた筈である。  だから、「むつ」で見た新谷紀子と見間違えたということは、考えられなくはないと、藤木も思う。  彼が、当惑したのは、長崎県警が知らせて来た新谷紀子が、今も元気で、近く結婚する予定でいるということなのだ。  新谷紀子は、「むつ」に乗っている筈である。その「むつ」が行方不明なのだから、彼女も、また、行方不明になっていなければ、おかしいではないか。  それなのに、新谷紀子は、今も、佐世保にいるというのは、どういうことなのだろうか? 「署長さん。その新谷紀子は、原子力船『むつ』に乗っているといっていませんでしたか?」 「『むつ』ですか? ああ、『むつ』が、佐世保の女性を一人、乗組員として採用するというので、応募したそうです」 「それで?」 「採用の通知が来て、喜んでいたら、その後、取消しの通知があったので、結婚する気になったそうです。女心というやつですかな」  署長は、微笑した。  しかし、藤木は、笑えなかった。 「むつ」の船内で会った女性は、新谷紀子といっていたし、略歴も聞いた。  第一、採用を決定しておいて、すぐ、取消しの通知をしたなんて、藤木は、聞いていない。  採用の決定は、原子力船むつ開発事業団がやる。藤木は、人事課の人間ではないから、佐世保での女子職員の採用が、どんな手順で行われたのかわからない。  しかし、何か変だと思う。 「むつ」の船内で、この死んだ女を、新谷紀子だと紹介され、彼女も、肯《うなず》いていたのである。  すると、新谷紀子という女性は、二人いたのだろうか。  佐世保の人口は、約十万といわれている。その中に、新谷紀子という女性が二人いてもおかしくはない。  だが、両方とも、「むつ」の乗組員募集に応募し、一人が受かって乗り組み、もう一人が、いったん採用されながら、すぐ、取消されるなどという偶然が、あり得るだろうか? 「どうされたんですか?」  と、署長が、不審げにきいた。 「どうも、わからないことがあって」 「どこがですか?」 「佐世保には、新谷紀子という女性が、もう一人いるとはいっていませんでしたか?」 「福岡の銀行に勤めていたという条件で、調べて貰ったところ、一人だけいるという返事でした」 「その女性は、現在、佐世保で、ぴんぴんしている?」 「そうです」 「じゃあ、死んだ女性は、何者なんです?」 「それを、私も、知りたいんですがね」 「どこから、流れついたと思っているわけですか?」 「佐渡の女性ではありません。それは確かです。また、観光客が、ボート遊びをして事故にあったわけでもありません。さっきもいったように、扼殺されていますし、彼女に、ボートを貸した人間もいないからです。となると、考えられるのは、沖を通る船で殺されて、突き落されたのではないかということです」 「どんな船ですか?」 「大型のカーフェリーが通ります。現在、各船会社に問い合せているんですが、行方不明者の照会は来ていません」 「お願いがあるんですが」 「どんなことです?」 「佐世保の新谷紀子という女性の顔写真が手に入りませんか?」 「どうしても、必要ですか?」 「ええ。必要です」  と、藤木がいうと、署長は、ちょっと考えていたが、 「いいでしょう。われわれも、ぜひ、被害者の身元を知りたいですからね。長崎県警から、電送写真で送って貰うことにしましょう。この警察には、電送装置がないので、新潟まで、取りに行かなければなりませんが」  と、いってくれた。 「もう一つ、お願いがあります」 「どんなことですか?」 「佐世保に、二十代で新谷紀子という女性が、他にもいるのかどうか、もう一度、調べて貰って下さい」 「それも、身元確認の役に立つわけですか?」 「と、思います」  と、藤木は、いった。  署長は、すぐ、また、電話を入れてくれた。  新谷紀子の顔写真の方は、明日にならなければということだったが、同一名の女性のことは、一時間近く待っている中に、長崎県警から、返事があった。 「二十代で、新谷紀子という名前の女性は、佐世保には、ひとりだけだそうです。さっきいった女性です」  と、署長が、電話のあと、藤木にいった。 「さっきのというのは、二十三歳で、間もなく結婚するという女性のことですか?」 「そうです」 「————」  藤木は、一層、わからなくなってしまった。 「むつ」の船内で会った女は、新谷紀子ではなかったのだ。同名異人ではなく、何者かが、新谷紀子と名乗って、「むつ」に乗っていたことになるではないか。  親友の浅井は、彼女を、「新谷紀子」と紹介した筈である。  別人を、新谷紀子と、紹介したのだ。あの浅井が、嘘《うそ》をつく筈がないと、藤木は、信じている。とすると、浅井は、別人の彼女を、新谷紀子という名前だと信じていたことになる。  藤木は、考え込んでしまった。  本物の新谷紀子は、いったん、「むつ」の乗組員に採用されながら、取消しの通知がいったために、あきらめた。そして、ニセモノが新谷紀子と名乗って、「むつ」に乗り込んだ。  そう考えなければ、辻褄《つじつま》が合わないのである。  しかし、その妙なことと、今度の事件と、何か関係があるのだろうか? (これは、ただ単に、原子力船「むつ」が、事故で沈没したというだけの事件とは違うのだろうか?)  藤木が、相川署を出て、泊っている旅館に向って歩いて行くと、純子が、こちらに歩いて来るのと、ぶつかった。  純子は、藤木に近づくなり、興奮した調子で、 「今、東京から、海水の検査結果を、電話して来たんです」 「それで、放射能の数値は?」 「あの海水の放射能は、二・五キュリーですって。私は放射能の単位は、よくわからないんですけど、二・五キュリーでも、大変な放射能だと、編集長は、いっていましたわ」 「確かに、大変な数字ですよ。自然界の放射能というのは、一キュリーの一兆分の一のピコ・キュリーで表わされるくらいしかないんだから」 「レムという単位もあるでしょう? 藤木さんの持っているフィルムバッジは、レムで示されていて、昨夜は、そのバッジの色が変って、確か、十レムを示したんでしたわね?」 「十レム以上ということです。あのバッジは、十レムまでしか測れませんから」 「私たちは、大丈夫なんですの? 昨夜、海水を汲むとき、少し手に触れたし、ボートを走らせている間、水しぶきを浴びましたけど」 「まあ、大丈夫だと思いますね。というのは、フィルムバッジが変色しなかったからですよ」 「でも、あの辺りでは、魚が大量に死んだんですよ」 「海面下より、深さを増すほど、放射能が強くなって、死んだ魚が、浮んだんだと思いますね。例えば、百メートルの深さで、放射能が洩《も》れているとすると、海面では、それが拡散されて、低い値になりますからね」 「どのくらいの放射能を浴びると、人間は、死ぬんですか?」 「一レムというのは、一キュリーの放射能を一時間浴びたとき、一レムの被曝《ひばく》というんです」 「何レムで、障害が出てくるのかしら?」 「一時的に、百レムの被曝があると、身体に障害が出るといわれています。四百レムで、被曝者の半分が死亡、八百レムになると、全員が死亡です。これは、講習会で、教えられた数字ですよ」 「広島の原爆だと、どのくらいの被曝量だったのかしら?」 「爆心から五百メートル以内で、三万レム。千メートルで二千レムといわれています」 「放射能には、いろいろな種類があるでしょう? ガンマー線とか、ベーター線とか。種類が違っていても、百レムで、障害が起きるのかしら?」 「種類の違う放射線でも、レムが同じなら、同じ障害を起こすんです」 「海中から、強い放射能が、出ているとすると、やはり、あの辺りに、『むつ』が沈没しているということかしら?」 「それを調べたいんですが、方法がない。裸でもぐれば、たちまち、被曝してしまうし、二隻の巡視船に見つかってしまいますからね」 「それで、巡視船の乗組員も、海中を調べようとしないんですわね?」 「そうでしょう。しかし、明日、深海作業船が、母船と一緒に到着すると、巡視船の乗組員がいっていましたからね。どう事件が進展していくのかわかりません」 「テレビも新聞も、まだ、『むつ』については、行方不明を伝えているだけですわ。海上保安庁も、原子力船開発事業団も、いい合せたように、まだ、『むつ』の行方はつかめていないと発表していますもの」 「箝口令《かんこうれい》が敷かれているんですよ。私だって、上から、佐渡のことは知らされていなかったですからね」 「明日まで、このままで行って欲しいわ。そうすれば、明日発行のうちの雑誌が、特ダネをスクープしたことになるんだから」 「尖閣湾沖に、『むつ』が沈没していると書くんですか?」 「ええ。もちろん」  と、いってから、純子は、変な顔をして、 「藤木さんだって、あそこに、『むつ』が沈んでいると思っているんでしょう?」 「海水が放射能を帯びる理由は、他に考えられませんからね。それに、巡視船が、二隻もいるのはおかしい。ただ——」 「ただ、何ですの?」 「一つ妙なことがありましてね」  と、だけ、藤木は、いった。  自分でも、答が見つかっていないのだ。  若い女の死体が、尖閣湾に流れついた。その女の顔は、どう見ても、「むつ」の船内で会った新谷紀子である。それなのに、彼女の名前は、新谷紀子ではないらしい。  何か、おかしいのだ。  つまり、別人が、新谷紀子になりすまして、「むつ」に乗り込んでいたことになる。  どうしても、「むつ」に乗りたいと思う若い女がいたとする。彼女が、その願いが嵩《こう》じて、新谷紀子と名乗って、「むつ」に乗っていたのだろうか?  いや、しかし、本物の新谷紀子には、採用取消しの通知が届いていたという。そんな通知まで、偽造して、「むつ」に乗るものだろうか。 「失礼して、旅館から、電話したいところがあるんですが」  と、藤木は、純子にいった。  どうしても、新谷紀子のことを、はっきりさせたかった。  純子と別れて、旅館に入ると、東京の開発事業団の人事課に電話をかけた。  人事課の沼田《ぬまた》とは、大学時代の友人である。 「休暇はどうだい?」  と、沼田は、呑気《のんき》なことをいった。 「快適だよ。ちょっと君にききたいことがあるんだ。『むつ』に乗せることになった、若い女性のことなんだが」 「君は、いい時に休暇をとったよ。『むつ』が行方不明になってから、新聞記者が、やたらに押しかけて来てねえ。人事課なんか、わかる筈がないのに、あれこれ、質問するんだ。これじゃあ、仕事にならんよ。ところで、何だい?」 「『むつ』に、佐世保の女性を乗せていたんだが」 「ああ、恐らく、彼女の家族も心配しているだろうと思うよ。われわれとしては、地元対策として、採用したんだが、こうなると、それが、裏目に出たかも知れないね」 「採用された女性の名前は、わかるかね?」 「佐世保地方事務所から報告して来ているからわかっているよ。ちょっと待ってくれ。ええと、名前は、新谷紀子。二十三歳だね。住所は、佐世保市——町だよ」 「彼女に、採用取消しの通知を出していないかね?」 「それは、佐世保地方事務所にきいてみないとわからないが、そんなことをしていれば、おれのところへ、報告が来ている筈だよ」 「ぜひ、そのことを調べて貰《もら》いたいんだよ」 「なぜだい? 新谷紀子という女の子と、何か関係があるのか?」 「まあ、少しね」 「わかった。五、六分かかると思うが」 「このまま、待っているよ」  と、藤木はいった。  沼田は、他の電話で、佐世保に問い合せてくれているらしかったが、しばらくして、 「わかったよ」  と、電話口に戻ってきて、藤木にいった。 「それで?」 「向うでは、そんな、取消しの通知は出していないそうだ。それに、『むつ』には、ちゃんと、新谷紀子が乗って行ったといっていたよ」 「それは、向うの所長がいっているのか?」 「ああ。採用通知は、一応、田辺理事長名になっているが、実際には、地方事務所長が、出しているんだ。文書も、面接で、新谷紀子を採用と決めてから、取消しは出していないそうだ」 「所長は、確か、北野《きたの》さんだったね」 「そうだよ。おれたちの一年先輩さ」 「今度の航行で、その新谷紀子が、『むつ』に乗って行ったと、所長は、確認しているんだろうか?」 「それはどうかな。所長の仕事は、船のことより地元との挨拶《あいさつ》だからね。船の中のことは、船長まかせだ」 「新谷紀子の面接のとき、所長の他に、誰が立ち会ったんだろう?」 「船で働いて貰うんだから、当然、船長も同席したんじゃないか」 「そうだろうね」 「何を考えているんだ? 新谷紀子という女性が、どうかしたのかね?」 「いや、何でもない。船長の経歴は、わかるかい?」 「休暇をとって、人事興信所でも始めたのかね?」  と、沼田が、皮肉をいった。 「ちょっと、知りたくなったんだ」 「『むつ』が行方不明になったことと、何か関係があるのかね?」 「或《ある》いはね」 「ちょっと待ってくれ。ええと。『むつ』の船長はと。名前は、小田中研一《おだなかけんいち》。五十四歳だ。戦時中は、海軍兵学校の生徒だった。戦後、高等商船に行き、N船舶KKに入社し、タンカーの船長として、十年間を過ごしたあと、『むつ』の船長に迎えられた。賞罰なし」 「家族関係はどうだね?」 「奥さんと、子供が二人いる。子供は、どちらも男で、大学生と高校生だ。いや、待ってくれよ。船長が、離婚したという話を、どこかで聞いたね」 「本当か?」 「ああ、去年の春|頃《ごろ》じゃなかったかな。船長の離婚が話題になったことがあるんだ。離婚したのなら、うちの課にある身上書を書き直すべきかどうかでね。その時は、まあ、そのままでいいだろうということになったんだ」 「どうもありがとう」 「おい。何か知ってるなら、おれに教えてくれよ」 「いや、僕にも、よくわからないんだ」  と、藤木は、いった。 [#改ページ]  第五章 汚染海域      1  十一月六日。早朝。  尖閣湾沖に、深海作業船の「しんかい」が母船「おやしお」と共に到着した。  それと同時に、大量のガイガー・カウンターも到着し、二隻の巡視船にも、配られた。  午前十時。現場に、海上保安庁の大型ヘリコプターで、二人の人物が到着した。  科学技術庁の政務次官、柳田誠一郎《やなぎだせいいちろう》と、田辺原子力船むつ開発事業団理事長の二人である。  ヘリコプターは、二千トンの大型巡視船の後甲板に着陸し、二人は、船長に迎えられた。 「船長の中村《なかむら》です」  と、船長は、潮焼けした顔で、二人にいった。 「準備は、出来ていますか?」  田辺理事長が、きいた。 「出来ています。『しんかい』は、いつでも、潜水できます」 「放射能は、どうですか?」  柳田政務次官が、きいた。  中村船長は、二隻の巡視船と、「おやしお」で囲んだ海面に眼をやった。 「ガイガー・カウンターは、ハイレベルの数値を示しています。人間が、潜水したら、危険ですね」 「やはりそうですか」  田辺は、沈痛な声を出した。 「ここに、『むつ』が沈んでいるというのは、本当ですか?」  船長がきいた。  田辺は、柳田と顔を見合せてから、 「その可能性があるので、われわれが、巡視船や、深海作業船の出動を要請したのです。ただし、これは、極秘の中に調査をすすめて頂きたいのです。社会に対する影響が強過ぎますからね」 「わかりました」 「新聞社の飛行機や、船が近づいたことはありませんか?」 「まだ、ありません」 「この状態が、しばらく続いて欲しいね」  田辺は、低い声でいった。 「むつ」は、どこにもいない。と、すれば、ここに沈んでいることは、まず、間違いなかった。  佐世保で、原子炉の修理を了《お》えた「むつ」は、新しい母港である青森県下北半島の関根浜に、回送されることになった。  表面上は、補助エンジンによるただの回航だった。  ウラン燃料は、関根浜に着いてから、積み込むことになっていた。  しかし、田辺は、焦《あせ》っていた。いや、田辺だけが焦っていたのではなく、科学技術庁の長官を始めとして、責任者のほとんどが、焦っていたのである。 「むつ」ほど、不運な船はなかった。 「むつ」が計画されたときは、すぐにも、原子力船時代が来るような雰囲気《ふんいき》だった。ところが、「むつ」が建造された時には、まだ、尚早《しようそう》という空気になっていた。  その上、初めての試運転での原子炉事故が重なった。  それ以来、「むつ」は、厄介《やつかい》者になってしまった。修理に莫大《ばくだい》な金がかかり、母港建設にも、また、地元への補償などでも、途方もなく金がかかり、金食い虫と呼ばれた。 「むつ」廃止論も、飛び出した。 「むつ」は、実用性の乏しい実験船である。  実験をせずに、廃止されてしまったら、これまでに注ぎ込まれた莫大な資金は、全く、無駄《むだ》になってしまうだろう。  原子炉による実験データさえ得られれば、たとえ、「むつ」が廃船になっても、次の原子力船を建造する時の役に立つ。  それに、新しい母港、関根浜で、ウラン燃料の積み込みをすると発表してから、それを阻止しようと、すでに、反対派の学生たちや労働組合員が、関根浜に集合しているという情報が入った。  関根浜で、また一騒動起きることは、眼に見えている。  そこで、秘密裏に、佐世保で、ウラン燃料を積み込むことが計画された。  幸い、注目は、新母港、関根浜に集っている。  出港三日前の深夜、ひそかに、ウラン燃料が、「むつ」に積み込まれた。  そして、船長には、秘密の命令書が渡された。  回航途中での原子炉を使っての実験航行である。  その場所は、佐渡が島沖だった。正確にいえば、佐渡の尖閣湾沖だった。 「本当に、この海面の底に、『むつ』が沈んでいると思いますか?」  甲板の手すりにつかまって、海面を見つめながら、柳田が、田辺にきいた。 「他には、考えられませんね。これほど、海水が放射能を帯びているのは、その証拠です」 「しかし、『むつ』が沈没しても、原子炉から放射能は洩《も》れないようになっている筈でしょう?」 「そうです。水圧がかかれば、原子炉の弁が内側に開いて、海水が入り、外と内の水圧を同じにするから、水圧によって、炉が壊れることはあり得ない」 「そうすると、試運転中の事故ということになりますね」 「他に考えられません」 「『むつ』がここに沈没しているとして、三十二名の乗組員は、どうなったと思われますか?」 「多分、絶望でしょうね。船内に閉じこめられているとしても、放射能が洩れていたら助かりません」 「絶望ですか——」 「乗組員のこともありますが、沈んだ『むつ』が見つかったとして、その後始末が、問題です」 「そうですね。沈没したことは、発表しなければならないでしょうが、原子炉がこわれて、放射能が洩れたことは、絶対に公けに出来ませんね。下手《へた》をすれば、今後の原子力行政の命とりになりかねない」 「政治的に解決するより仕方がありません」 「大臣には、話してあります。『むつ』は、台風二十五号によって沈没したことにし、乗組員の遺族には、納得《なつとく》できるだけの補償を支払う。それに、地元佐渡の漁民にもです。それで解決するより仕方がないでしょう」 「お話し中ですが」  と、中村船長が、口をはさんだ。 「何です? まだ、『しんかい』は、潜水できんのですか?」  柳田政務次官が、いらだたしげに、中村にきいた。 「一つ問題が起きました」 「どんなことですか?」 「海水の放射能のことです。海中に一時間入っていると、人体に危険な百レムの被曝《ひばく》を受ける恐れがあります」 「そんなことは、わかっている」  田辺が、怒ったように、声を荒らげた。 「だから、アクアラングによる潜水は危険と思い、わざわざ、深海作業船の『しんかい』を呼んだんだ。あの船なら、乗組員は、大丈夫の筈だよ。引き揚げたら、船体を洗滌《せんじよう》すればいい」 「その通りですが、『しんかい』は、自力で、母船から離脱できないんです。また、収容する場合も同様です。クレーンで、海面におろすわけですが、その時、ダイバーが海面におりて、ロープを外《はず》さなければなりません。収容する時も、同様です」 「その時、海水に浸らなければならなくなるわけだね?」 「そうです」 「切り離しと、収容の時、ロープを取りつけるのに要する時間は?」 「五、六分あれば、出来るそうです」 「そのくらいの時間なら、人体に影響はないんじゃないかな」 「それでも、向うは、不安がっています」  と、中村は、「おやしお」に眼をやった。      2  二千トンの母船「おやしお」の甲板では、船長の吉川《よしかわ》と、深海作業船「しんかい」に乗り組む二人の隊員、それに、作業を助ける三人のダイバーの間で、討議が続けられていた。 「このガイガー・カウンターの針を見たら、怖くて、作業は、出来ませんよ」  と、ダイバーの一人が、吐き捨てるようにいった。 「それに、海底に、船が沈んでいるかどうか確認するだけなら、音波探知機《ソナー》で十分でしょう? この辺りは、せいぜい、二百メートルから三百メートルの深さです。ソナーで、確認できますよ」  もう一人のダイバーも、眉《まゆ》をひそめていった。 「それが駄目《だめ》なんだよ」  吉川船長が、首を振った。 「どう駄目なんです?」 「この近くで、戦時中、輸送船が一隻沈没している。ソナーの反応だけだと、その輸送船かどうかわからない。沈んでいる船の写真も撮《と》って来て欲しいといわれているんだ」 「ここに沈んでいる船というのは、いったい、何という船なんです? わからなければ、探しようがありませんが」  と、「しんかい」に乗り組む隊員の一人、岸本《きしもと》が、船長にきいた。 「原子力船『むつ』だ」 「やっぱり、噂《うわさ》は、本当だったんですね」 「しかし、確認するまでは、誰にも話してはいかん」 「すると、この海水の放射能汚染は、『むつ』の原子炉が故障して、放射能が洩《も》れているということですか?」 「いや。原子炉は、絶対に、放射能洩れはしないということだよ」 「しかし、現実に、海水は、強い放射能で汚染されているじゃありませんか」 「だが、『むつ』の原子炉かどうかわからん。それを確めたいんだ。何とかならんかね?」 「ゴムボートをおろし、われわれが、それに乗って、作業をするより仕方がありませんね。時間はかかりますが、他に方法はありません」  と、ダイバーの一人がいった。 「問題は、もう一つあります」  と、「しんかい」乗組員の岸本が、船長を見た。 「何だね? 『しんかい』を収容する時のことかね?」 「それもありますが、海底附近では、どのくらいの放射能汚染か、見当もつきません。『しんかい』を収容したあと、どうやって、洗滌《せんじよう》しますか? ここの海水は、汚染されていますから、洗滌に使えません」 「もっと沖へ行って、洗滌するさ」  と、船長は、いった。      3  まず、海面に、大型のゴムボートがおろされた。  三人のダイバーは、そのゴムボートに乗り移った。  次は、甲板に置かれた深海作業船「しんかい」に、二人の隊員が乗り込んだ。  上部のハッチが閉められた。  二千メートルの深海に挑《いど》んだ時でも、笑顔を見せていた岸本と、鈴木《すずき》の二人の隊員の顔が、今日は、蒼《あお》ざめている。  大型クレーンが、「しんかい」を吊《つ》り上げ、ゆっくりと、青い海面に、おろしていく。  純白の船体が、着水し、海面が、白く泡立《あわだ》った。  ダイバーの乗ったゴムボートが、近づいて行く。  いつもなら、ダイバーたちは、勢いよく、海に飛び込んで、「しんかい」の切り離しをするのだが、今日は、それが出来ない。  海は、コバルトブルーの美しさを見せてはいるが、この美しい海が、放射能に汚染されているのだ。まるで、そのまま飲めそうなほど、美しいのに。  ゴムボートで、慎重に、「しんかい」に近づき、手を伸して、繋留《けいりゆう》されているロープを外《はず》しにかかった。  普通なら、五、六分で終る作業が、三十分近くかかってしまった。  母船から切り離された「しんかい」は、ゆっくり、潜水にかかった。  母船の司令室では、吉川船長と、「しんかい」の設計を担当した中西《なかにし》技師が、映し出されるテレビ画面を見ながら、無線で、交信していた。  五十メートルの深さで、「しんかい」に取りつけられた照明が点《つ》けられた。  百メートル。二百メートルと降下していく。  二百七十メートルで、海底に着いた。 「平らな砂地だ」  という岸本の声が、司令室に聞こえてきた。  司令室のテレビ画面に、海底の景色が映し出されている。確かに、平らな砂地である。 「大丈夫か?」  と、マイクに向って、中西がきいた。 「大丈夫だけど、外の海水が、どのくらいの放射能を帯びているのか知りたいね」  という岸本の声が、はね返ってきた。 「魚がいれば、放射能は弱いことになる」 「あいにく、魚の姿は見えないね。みんな、死んだんじゃないかな。少し、移動してみる」  岸本は、作業船を海底から離し、前進のレバーを押した。  スクリューが回転し、作業船は、時速二キロで、ゆっくり動き始めた。  丸窓に、見える海底の景色が、少しずつ、変っていく。 「本当に、魚が見えないな」  と、同僚の鈴木が、小さな溜息《ためいき》をついた。 「船も見えないよ」  と、岸本がいった。 「右に移動してみてくれ」  鈴木がいった。  探照灯の光芒《こうぼう》の中に、何か動くものが見えた。 「カニだ。カニが動いている!」  まるで、大発見でもしたように、岸本が、叫んだ。  海底の姿を、生物の全《すべ》て死に絶えた、SFの世界のように考えていたのが、動くカニの姿を見て、感動したのである。 「カニは、放射能に強いんだろう」 「海底は、意外に放射能が弱いのかも知れない」  そんな会話を交わしていたが、動くものが見えたのは、結局、そのカニ一匹だった。それも、たちまち視界から消えてしまった。  また、静寂《せいじやく》な死の世界である。 「『むつ』が、沈んでいるとしたら、乗組員は、どうなっているんだろう?」  岸本が、低い声できいた。きいたというよりも、自問の調子に近かった。答のわかっている質問だったからである。 「むつ」が、二百メートルの深さに沈没し、しかも、原子炉がこわれて、これだけの放射能が洩れていれば、全員、死亡しているに決っているのだ。  鈴木も、同じ答を見つけてしまったらしく、しばらく黙って、窓の外を見つめていた。 「むつ」が見つかれば、当然、そこには、死体もある筈だった。  岸本は、前に、この「しんかい」を使って、五百メートルの海底に沈んでいる戦時中の軍艦を調べたことがあったが、その時、るいるいたる白骨を見たショックは、まだ、よく覚えている。 「しんかい」の行動できる時間は、約二時間である。  その限度一杯、海底を捜索したが、とうとう、「むつ」らしき船体は発見されなかった。 「いったん、浮上する」  と、岸本は、母船に連絡し、タンクの排水を始めた。 「しんかい」は、徐々に、浮上を始め、二時間ぶりに、海面に浮び上った。      4 「『むつ』は、見つからなかったそうです」  巡視船の船長中村は、田辺と、柳田にいった。  田辺は、母船に収容される「しんかい」を見つめた。  母船の「おやしお」は、クレーンで、甲板に、「しんかい」を収容すると、まず、ガイガー・カウンターで、「しんかい」の表面の放射能を調べている。  その中に、エンジンを始動させ、ゆっくりと、沖に向って、動き出した。  田辺は、驚いて、中村船長を振り返った。 「どうしたんです? 『おやしお』は?」 「沖へ出て、『しんかい』を洗滌すると、連絡して来ています」 「洗滌する?」 「『しんかい』は、長時間潜水していたために、船体を洗滌する必要があるそうです。この附近の海水は汚染されているので、沖合へ移動し、そこで、海水による洗滌をすませてから戻ってくるということです」 「そんなことをしていたら、時間がかかって仕方がないな」  柳田次官が、舌打ちをした。  中村は、冷静に、 「しかし、『しんかい』の船体が、強い放射能で汚れている状況では、バッテリーへの充電などが出来ず、二回目の潜水は不可能だといっています」 「どのくらいで、二度目の潜水に入れるんですか?」 「あと、二時間は、必要だといっています」 「二時間もか」  田辺が、不満をむき出しにした顔で、いった。  そうしている間にも、「おやしお」は、沖に、姿を消してしまった。 「二時間というと、午後三時にならないと、『しんかい』による捜索は、再開されないんですか」  柳田は、腕時計を見ながら、溜息《ためいき》をついた。 「他に、『むつ』を捜索する方法はありませんか?」  田辺が、中村船長にきく。 「あとは、ソナーでの探査ですが、これでは沈没船を見つけられても、その船が、果して、『むつ』かどうかの判断はできません。特に、この附近の海底には、戦時中、軍の輸送船が沈んでいますから、それと間違える恐れがあります」 「どうしようもないんですか?」 「ありませんね。『しんかい』が、戻って来るのを待つより仕方がありません。昼食の用意が出来たといって来ていますから、食事を召しあがりませんか」  と、船長がいった。  田辺理事長と、柳田次官は、船長室で、昼食をとることにした。 「焦《あせ》っても仕方がありません。海中のことは、われわれには、どうしようもないんですから」  と、中村船長は、その場の空気を柔らげるように、微笑して見せた。  中村は、出来るだけ豪華な昼食にするように、命令しておいた。その方が、落着くと考えたからである。  肉料理に、ワインがついた。陸上では、さして、豪華なものではないが、海上では、ぜいたくである。 「『むつ』の沈没の原因は、どんなことが考えられますか?」  と、中村が、田辺にきいた。 「それが、全くわからんのです。これだけの放射能が洩《も》れたところをみると、どうしても、原子炉の故障としか考えられないんですが、技術者たちは、絶対に、沈没の原因になるほどの大きな原子炉の事故が、起きる筈がないといっていますがね」  田辺が、首をかしげるのへ、柳田次官は、唇《くちびる》をゆがめた。 「私は、技術者とか、科学者という連中を、あまり、信頼しとらんのです。彼等は、あまりにも、自分たちの技術や、知識を過信しすぎていますよ。そのくせ、いざ、原発なんかで事故を起こすと、その尻ぬぐいをするのは、われわれ、一般職ですからね」  と、いった。 「そういった点も、ありますが——」  田辺が、肯定とも、否定ともつかぬ調子でいった時、突然、爆音が聞こえた。 「何ですか?」  田辺が、眉《まゆ》をひそめて、中村にきいた。 「飛行機ですね」 「それは、わかっていますが、何の飛行機です?」 「見て来ましょう」  中村は、双眼鏡を持って、船長室を出て行った。  爆音は、ますます、近づいてくる。  田辺と、柳田は、窓の外に眼をやった。  双発のビーチクラフト機が見えた。相手は、頭上で旋回を始めた。  中村船長が、戻って来た。 「まずいですね。あれは、新聞社の飛行機です。翼に、——新聞のマークが入っていました」 「新聞社——?」 「そうです。一社の飛行機が来たとなると、必ず、他の新聞社の飛行機もやって来ますよ。飛行機だけでなく、船をチャーターして、押しかけてくるかも知れません」 「箝口令《かんこうれい》を敷いていたのに、どうして情報が洩れたんだろう?」  田辺が、蒼《あお》ざめた顔でいうと、柳田は、部屋のテレビのスイッチを入れて、 「下手《へた》をすると、テレビのニュースで、流れているかも知れない」  と、いった。  五、六分して、ニュースの画面になった。  柳田の危惧《きぐ》は、的中していた。 〈——行方不明を伝えられていた原子力船「むつ」は、どうやら、佐渡の尖閣湾沖に沈んでいることが、確実視されることになりました〉  と、アナウンサーが、いったからである。  画面には、「むつ」の写真が出た。それを見つめる三人の顔は、一様に、蒼ざめていた。 〈——この情報は、今日発売された「週刊ジャパン」の記事です。この記事によると、先週初め、尖閣湾沖に、大量の魚が死体となって浮び上りました。「週刊ジャパン」の記者と、カメラマンが、この原因を調べていく中、この海域の海水が、放射能汚染されていることが判明したのです。その後の調査について、「週刊ジャパン」の宮田編集長は、次のように話しています〉  画面には、「週刊ジャパン」を手にした中年の男が、現われた。 〈問題の海域から採取した海水を、われわれは、T大物理研究所で分析して貰ったところ、恐るべき高さの放射能汚染がわかりました。この海水中では、人間は、百レムから二百レムの被曝《ひばく》をするというのです。これは、人間の死を意味します。では、なぜ、尖閣湾沖の海水が、放射能に汚染されたのでしょうか? この辺りには、原発はありません。また、米ソの原潜が航行するところでもありません。  考えられることは、一つです。行方不明の原子力船「むつ」です。政府は、いぜんとして、「むつ」について、あいまいな発表を繰り返しています。  ところが、皆さん、われわれが調べたところ、尖閣湾沖には、二隻の巡視船が、集結し、近づく船を追い払っています。それだけではありません。尖閣湾の漁師たちは、強制的に、いずこかへ移動させられ、尖閣湾に通じる道路は、警察によって、交通が遮断《しやだん》されているのです。なぜ、こんなことが行われているのか? 理由は、一つしか考えられません。政府、科学技術庁と、原子力船むつ開発事業団が、協定を破って、佐世保で、ウラン燃料を積み込み、尖閣湾沖で、試験運転をした。その時、原子炉に重大な事故が発生し、沈没、放射能が、海水中に洩《も》れたということです。政府は、この事実を素直に認めて——〉  田辺が、手を伸して、テレビのスイッチを切った。      5  頭上を旋回する新聞社の飛行機は、二機になった。  この分では、中村船長のいうように、ますます、増えてくるだろう。 「週刊ジャパン」に出し抜かれた新聞社が、猛烈な巻き返しに出てくることは、眼に見えている。  彼等は、ただ単に、飛行機を飛ばして、様子を見ることで満足する筈がない。今頃、われ先にと、佐渡へやって来て、モーターボートや、漁船をチャーターしていることだろう。  やがて、この辺りの海面は、それらの船で、埋ってしまうに違いない。 「どうしたらいいでしょうか?」  と、田辺は、柳田次官の顔を見た。 「私にもわかりませんが——」  と、柳田は、言葉を濁してから、政治家独特の決断力で、 「一時、ここから待避しましょう」  と、いった。 「逃げるんですか?」 「そうです。逃げた方がいい。記者たちは、船でやって来て、海水を採取するでしょうが、彼等に出来ることは、せいぜい、それだけです。『しんかい』のような船がなければ、海にもぐって、『むつ』を見つけ出すことは出来ませんよ」 「しかし、海水が、放射能に汚染されていることが、一斉に、新聞に書き立てられてしまいますよ」 「いいじゃありませんか」  と、柳田は、開き直った顔でいった。 「しかし、われわれは、質問の矢面《やおもて》に立たされることになりますよ」 「そうでしょうね。しかし、あくまで、なぜ、突然、汚染されたのかわからないと、言い張ることです。今もいったように、彼等が、海底の『むつ』を発見することは、不可能です。見つけ出せない限り、われわれを、それ以上追及は出来ませんよ」  と、柳田は不敵に笑って、中村船長に、 「すぐ、出航して下さい。『おやしお』にも連絡して、この海域から離れるように」 「わかりました。よろしいですか?」  中村が、田辺にきいた。 「いいでしょう」  と、田辺も、いった。  じっと、静かに、うずくまっていた二隻の巡視船は、エンジンのひびきを立て、やがて、ゆっくりと動き出した。 [#改ページ]  第六章 写 真      1  藤木は、佐渡を離れて、九州の佐世保に飛んだ。  どうしても、新谷紀子のことを確めたかったからである。  一人の女性の問題は、「むつ」の沈没に比べれば、取るに足らぬことかも知れない。  だが、気になり出すと、それを確めなければ、気がすまないのが、藤木の性格だった。それに、尖閣湾沖のことは、「週刊ジャパン」が、バクロしたことで、藤木が、佐渡にいる理由がなくなってしまったといえる。これからは、マスコミと、政府との対決になって、藤木のような個人は、はじき飛ばされてしまうだろう。  藤木が、飛行機で長崎に飛び、長崎から、車を飛ばして、佐世保に入ったのは、十一月七日の午後である。  途中で眼を通した新聞は、どれも、尖閣湾沖のことで一杯だった。  新聞は、そこに、「むつ」が沈没しているに違いないと書き立て、開発事業団や、科学技術庁は、かたくなに、それを認めようとしない。海底で、「むつ」が発見されない限り、この睨《にら》み合いは続き、決着はつかないだろう。  佐世保にある事業団の事務所は、「むつ」が出港してしまって、開店休業の状態になっている筈だったが、藤木が行ってみると、事務所の周囲を、新聞社の社旗をかかげた車が、取り囲んでいた。 「むつ」が、佐世保で、ウラン燃料を積み込んだことを確認しようとして、新聞記者たちが押しかけて来ているのだと、藤木にも、想像がついた。  藤木は、外の公衆電話から、所長の北野に電話をかけた。 「藤木君か」  ほっとしたような北野の声が聞こえた。 「新聞社の車が、事務所を取り巻いていますね」 「その応対で、頭が痛くなるよ。君は、どうしている?」 「今、事務所の傍《そば》まで来てるんですが、夕食でもどうですか?」 「いいね。ここから逃げ出したくて、うずうずしていたんだ」  北野は、時刻と、場所を指定した。  藤木は、先に、その魚料理の店に行って、北野を待った。  北野は、約束の時間より、十二分ほどおくれてやって来た。寒いくらいの日なのに、ハンカチで、額の汗を拭《ふ》きながら、 「ああ、参った、参った」  と、いった。 「そんなに、新聞記者の攻勢は、激しいですか?」  奥の座敷に向い合って座ってから、藤木がきいた。 「とにかく、佐世保で、ウラン燃料を積み込んだことを認めろというのさ」 「認めたんですか?」 「そんなことが出来るわけがないだろう」と、北野は、手を振った。 「理事長が、佐世保では、ウラン燃料は積み込んでいないといってるんだ。それを、私が、本当は、積みましたと、いえる筈《はず》がないじゃないか」 「本当は、積んだんですか?」 「ああ。だが、佐世保で積み込むことに決めたのは、科学技術庁の長官と、うちの田辺理事長の二人だけの話し合いでね。私だって、事後に知らされただけさ。君はいい時に、休暇を取ったよ」 「かも知れませんね」  と、藤木は、笑った。  酒と料理が運ばれてきた。  北野は、酒が強い。藤木は、彼に、酌《しやく》をしてから、 「『むつ』に乗ることになった佐世保の女性のことですが」 「新谷紀子という女性のことだろう?」 「そうです。ここに来る前に、彼女に会って来ました。採用通知のあとで、すぐ、その取消しの通知が来たといっていました。その取消しの通知を借りて来ました。ちょっと見て下さい」  藤木は、ポケットから、封筒を取り出して、北野に見せた。  茶封筒には、「原子力船むつ開発事業団」の名前が印刷されている。 「うちの公用封筒じゃないか」  北野が、いった。 「そうです」 「中身も、うちの起案用紙だな」 「それに、事業団の佐世保事務所長である北野さんの名前で出されているんです」 「しかし、私は、こんな取消しの通知なんか知らんよ。最初に決めた女性でいいと思っていたからね」  北野は、わけがわからないというように、頭を振った。 「採用を決めたのは、履歴書と、面接ででしたね?」 「ああ、そうだ」 「その面接には、北野さんの他に、誰が立ち会ったんですか?」 「船内で働いて貰《もら》うので、船長にも、立ち会って貰うことにした」 「船長ですか」 「ところが、面接の日に、船長が、急用ができて立ち会えなくてね。代りに、一等航海士の浅井君が、立ち会ったよ」 「浅井が」 「そうか。君と浅井君は、友だちだったな」 「その時、新谷紀子に決ったんですね?」 「採用通知は、あとで出したんだが、浅井君も、彼女が気に入っていたんだよ。美人で、頭も切れるし、何より、意志の強そうなのが気に入ってね」 「そうですか」 「それなのに、誰が、こんなニセの文書を出したんだろう?」 「————」  藤木は、黙って、さっき会って来た新谷紀子の顔を思い出した。 「むつ」の船内で見た「新谷紀子」とは、顔の輪郭《りんかく》が違っていた。だから、似ているから間違えたということは、あり得ないのだ。  浅井は、あの女が、新谷紀子でないことを知っていたのに、藤木には新谷紀子だと紹介した。 (なぜ、そんなことをしたのだろうか?)  疑問は、他にもある。もし、浅井が、勝手に、自分の知っている女を、新谷紀子として乗船させたとして、そのことと、今度の「むつ」の事故とが、どう関係してくるのかもわからない。 「気分でも悪いのかね?」  心配して、北野がきいた。 「いや、ちょっと、疲れているのかも知れません」 「休暇をとって、疲れていたんじゃ仕方がないな」  と、北野は、笑ってから、 「『むつ』は、本当に、佐渡の尖閣湾沖に沈んでいるのかね? マスコミは、沈んでいると、決め込んで書き立てているが」 「あの附近の海水が、放射能に汚染されていることは事実です。しかし、誰も、沈んでいる『むつ』は、見ていない」 「三十二名の乗組員は、全員死亡かね? そのうちに、家族が騒ぎ出すんじゃないかな。上の方は、相変らず、『むつ』は行方不明だと、いい続けているが」 「『むつ』に乗せた女性のことですが、現地対策ということで、下北と佐世保で、一人ずつ、採用しましたね?」 「ああ。下北で採用した女性の名前は、ちょっと思い出せないんだが」 「彼女たちの船上での仕事は、何だったんですか?」 「正直にいえば、雑用かな。会議の時に、お茶を出したり、食事を作る手伝いをしたりだね。良くいえば、『むつ』のイメージアップのためのマスコット的存在かな。『むつ』が沈没したとすると、彼女も、死んでしまったわけか」 「そうですね」 「しかし、『むつ』の乗組員の死体が、一つも見つからんというのは、どういうことなのかね? それに、『むつ』の救命ブイとか、救命ボートの破片もだよ。特に、放射能が洩れるような大きな事故を起こして沈没したのなら、なおさら、乗組員の死体とか、船の破片が、海面に浮んでいなければならんと思うんだがね」 「沈没したあとに、台風二十五号が、海面に浮んでいる死体や、破片を、どこかへ運んでしまったのかも知れませんよ。それに——」  一人だけだが、死体が見つかっているといいかけて、藤木は、止《や》めてしまった。  あの女の死体は、新谷紀子のニセモノで、木当の身元はわからないし、藤木自身にも、なぜ、彼女が、「むつ」に乗り、そして、扼殺《やくさつ》されて、尖閣湾の浜辺に打ちあげられたのかわからなかったからである。      2  藤木は、北野と別れたあと、市内の旅館に泊ることにした。  布団《ふとん》に入ってから、腹這《はらば》いになって、夕刊に眼を通した。  国会は、「むつ」のことで、野党の追及が始まった。  国民との約束を破って、佐世保でウラン燃料を積み込み、秘密裏に、試運転をしたのではないか、そのために、原子炉が事故を起こし、「むつ」が沈没したのではないか? 尖閣湾沖の放射能洩れは、「むつ」が、沈没している証拠ではないか?  それに対する政府の答弁は、型にはまったものだった。  佐世保で、ウラン燃料を積み込んだことはない。従って、原子炉を使って試運転も命じてはいない。尖閣湾沖の海水から放射能が検出されたのは、事実だが、それが、「むつ」と結びつくとは思われない。 (いつまで、こんな嘘《うそ》が続けられるのか)  と、藤木は、腹立たしくなってきて、新聞から眼を離し、煙草《たばこ》に火をつけた。  野党は、深海作業船を使って、尖閣湾沖を調べろというだろう。  どこかの新聞社が、作業船をチャーターして、調べるかも知れない。  そして、沈没している「むつ」が見つかって、終るのだろうか?  また、新谷紀子のことが、藤木の頭の中で、引っかかってきた。  藤木は、しばらく考えてから、枕元《まくらもと》の受話器を取った。 「佐渡に電話をかけたいんだが」  と、藤木はいい、有島純子の泊っている旅館の名前と、電話番号をいった。  いったん、電話を切って待っていると、三十分ほどして、電話がつながった。  電話口に、純子の声が出た。 「そちらは、どうです?」  と、藤木は、きいた。 「新聞や、テレビが、大挙して押しかけて来て、島中、ごった返していますわ。朝から、新聞社のチャーターしたヘリが、飛び回って、うるさくて、やり切れないんです。中央新聞が、アメリカの深海作業船をチャーターして、ここへ運んでくるという噂《うわさ》もありますわ。政府が、探そうとしないので」 「尖閣湾で見つかった若い女性の死体があったでしょう?」 「ええ」 「あの身元は、わかったんですか?」 「まだのようですわ。でも、今は、『むつ』のことで、ごった返していて、女の死体の身元のことなんか、誰も気にしていませんわ。地元の警察も、同じみたいに見えますけど。彼女のことで、何か気になることでもあるんですの?」 「いや、別に。身元でもわかったらと思っただけです。他に、佐渡で、何か動きはありませんか?」 「どこかへ移動させられた漁師たちの行方を探しているんですけど、わからないんですよ。事件が片付くまで、当局は、かくし続けるつもりだと思いますわ。尖閣ホテルが、閉鎖されている筈なのに、沢山の人間がいる気配なんで、あのホテルに収容されているかも知れないと思うんですけど、警察がガードしていて、近づけないんですよ」 「漁師の一人が、あの海にもぐったことがあるといっていましたね?」 「ええ。あの若い漁師は、危険だから、すぐ診察する必要があると思うんです。そのことは、警察に伝えたんですけど、上手《うま》く、処置してくれたかどうかわかりませんわ。何しろ、今度の事件では、当局側は、徹底して、秘密主義ですからね」 「カメラマンの原君は、元気ですか?」 「彼、東京から帰って来ないんですよ。いったい、何をやってるのかしら」 「あんまり、彼を怒らない方がいいですね」  と、藤木は、笑いながらいって、電話を切った。  午前一時近くなっても、藤木は、なかなか眠れなかった。 「むつ」のことよりも、運命を共にしたかも知れない乗組員たちのこと、特に、友人の浅井一等航海士のことが、気になって仕方がないのだ。  尖閣湾の沖に沈んでいる「むつ」の船内に閉じ籠《こ》められ、死亡しているなら、一刻も早く、その遺体を収容してやりたい。  それを考えると、深海作業船「しんかい」での作業を中止してしまった政府のやり方に、無性《むしよう》に腹が立った。  面子《メンツ》を捨てて、事実を公表し、少しでも早く、「むつ」の引き揚げを図るべきではないだろうか?  だが、事業団の一職員でしかない藤木が、何をいっても、政府が取りあげることはないだろう。  朝が来て、ようやく、うとうとしかけたとき、新聞を、部屋に滑り込ませる音が聞こえた。 (「むつ」について、何か事態が進展しただろうか?)  その関心から、眠い眼をこすりながら、藤木は、起き上って、差し入れられた朝刊を広げてみた。 〈政府は、「むつ」について、事実を明らかにせよ!〉  そんな激しい見出しの文字が、眼に入った。しかし、それに対する政府の答は、載っていなかった。 〈わが社では、アメリカの深海作業船「ネプチューン」を呼ぶことにし、すでに、母船と共に、日本に向っている〉  という記事もある。佐渡の尖閣湾沖に、到着するのは、三日後だと書いてある。「ネプチューン」が、沈んでいる「むつ」を発見してしまったら、政府はどうする気なのだろう?  それこそ、恥の上塗りではないか。すみやかに、深海作業船「しんかい」による捜索を再開すべきではないのか?  藤木は、そんなことを考えながら、社会面に、眼を移した。  社会面も、「むつ」関係の記事が多い。長い間、見捨てられた存在だったこの原子力船は、行方不明になったとたんに、ニュースバリューを取り戻したのだ。  小田中船長の家族が、心配しているという記事もある。  そして、社会面の隅《すみ》に、忘れたような小ささで、次の記事が出ていた。 〈福岡市内で、カメラマン殺される  昨日の午後十一時二十分頃、福岡市内の中洲《なかす》の暗がりで、若い男の人が、血まみれで倒れているのを通行人が見つけて、直ちに、市内の病院に運ばれたが、出血多量で死亡した。  この人は、身分証明書から、「週刊ジャパン」で働くカメラマンの原|研一《けんいち》さん(二三)と判明した。原さんは、背中を、鋭利な刃物で刺されており、警察は、殺人事件とみて、捜査している〉      3  藤木は、すぐ佐渡に戻るのをやめて、福岡に、立ち寄ってみることにした。  たった二日間だが、佐渡で一緒だった男である。それに、一緒に、ゴムボートに乗って、問題の海面の海水を採取にも行った。  それに、「むつ」の取材に、当然、佐渡に戻っていなければならない原が、なぜ、福岡の歓楽街中洲で殺されていたのかという疑問もあった。  博多《はかた》に着いたのが、昼少し前である。  駅をおりると、タクシーを、中洲まで飛ばした。  夜になると、九州一の歓楽街になる中洲だが、昼間見ると、ネオンもなく、妙に埃《ほこり》っぽく見える。  川も、どす黒く汚れて、臭気を放っている。恐らく、東京の町を流れる隅田《すみだ》川より汚れているだろう。  なぜ、原は、こんなところで殺されたのか?  場所から考えて、事件を扱ったのは、中洲警察署であろう。そう考えて、藤木は、中洲警察署へ行ってみることにした。  ここでも、原子力船むつ開発事業団の名刺と身分証明書は、役に立った。警察も、一応、敬意を払ってくれたからである。  事件を担当する久保《くぼ》という警部が、藤木の質問に答えてくれた。 「最初、中洲の取材に来て、強盗に襲われたんじゃないかと考えました」 「なぜですか?」 「中洲は、よく、週刊誌に取りあげられますからね。中洲のスナックや、トルコなんかがですよ。それに、カメラも、財布もなくなっていましたからね」 「最初というと、途中で、変ったわけですか?」 「強盗の線は変りませんが、雑誌社へ問い合せたところ、博多へ取材には行っていない筈だということでしてね」 「私も、彼が、ここへ取材に来たとは思いませんね。彼は、行方不明の『むつ』を、記者と一緒に追いかけていた筈なんです」 「そうですか、ところで藤木さん」 「何です?」 「『むつ』は、どこにいるんですか? 佐渡の沖に沈んでいると書かれていますが」  久保警部が、声を落してきいた。  藤木は、苦笑して、 「私にもわかりません」 「本当ですか? 事業団で、必死になって、真相をかくそうとしていると、もっぱらの噂《うわさ》ですがね」  と、久保警部がいった。  藤木は、首を振って、 「そんなことは、ないと思いますよ。それより、原カメラマンを殺した犯人は、目星がつきそうですか?」 「二週間前にも、同じ手口の事件がありましてね。大阪から、博多へ遊びに来た商店主が、中洲で、刃物を持った若い男に、金を出せと、脅《おど》かされましてね。拒否したところ、胸を刺されました。幸い、この商店主は、命だけは取り止めましたが、今度の事件も、同一犯人の仕業ではないかと思っているのです」  と、久保がいったとき、若い刑事が、 「週刊ジャパンの記者が来ています」  と、いって来た。  現われたのは、有島純子だった。 「あれ!」  という顔で、純子は、藤木を見た。 「新聞で原君が死んだことを知って、事情を聞きに寄ったんですよ」  と、藤木は、いった。 「あなたが、週刊ジャパンの責任者ですか?」  久保警部が、若い純子を、じろじろ見ながらきいた。 「編集長は、おくれて来ますわ。飛行機|嫌《ぎら》いなんで、東京から、新幹線で来るんです。私は、飛行機で来たんです。原クンの遺体を確認させて下さい」  と、純子は、堅い声でいった。      4  藤木は、純子の遺体確認につき合った。  それが終ってから、二人で、お茶を飲んだ。 「なぜ、原クンが、博多なんかで殺されていたのか、私には、わからないんです」  純子は、暗い顔でいった。 「私にもわかりませんね。彼は、佐渡へ戻る筈だったんでしょう?」 「ええ。羽田から、飛行機で、新潟へ来て、新潟からまた、飛行機で佐渡へ来ることになっていたんです」 「それなのに、羽田から、飛行機で博多へ来てしまった——」 「こんな馬鹿なことをする人じゃないんです。真面目《まじめ》だし、私と彼で、『むつ』問題の火をつけたんで、すごく、張り切っていたんですよ」 「とすると、何か深い理由があって、博多へ来たことになりますね」 「ええ」 「全く、心当りがないんですか?」 「一つだけなんですけど」  純子は、ハンドバッグから、封筒を取り出して、藤木に見せた。  その封筒の真ん中が、ぽつんとふくらんでいる。  中身は、撮影済のフィルムが一本だけである。  宛名《あてな》は、有島純子様とあり、差出人は、 「羽田空港にて、原研一」とあった。 「佐渡から、自宅へ寄ってみたら、郵便受に、これが入っていたんですわ。時間がないので、現像せずに、持って来てしまったんですけど」  と、純子が、いった。 「あなたが頼んでおいた写真なんですか?」 「いいえ。佐渡に沈んでいる『むつ』の写真以外、撮《と》ってくれと頼んだ覚えはありませんもの」 「じゃあ、何が写っているんだろう?」 「それを早く見たいんですけど、すぐ、現像してくれるところが、この辺にあるかしら?」 「街のDP屋に頼んだら、少くとも、三、四日はかかってしまいますよ」 「それなら、東京へ戻って、社でやる方が早く出来ますわ」 「自分のところでDPをやっているカメラ屋に当ってみましょう。金を余分に出せば、すぐ、やってくれるかも知れません」  二人は、外へ出ると、カメラ屋を聞いて回った。  三軒目の大きなカメラ屋が、やってくれるといった。その代り、料金は、通常の二倍である。  現像と引伸しが出来る間、二人は、新しいカメラのカタログを見たりしながら待った。  一時間半ほどして、店の主人が、奥から出て来たが、変な顔をして、 「三十六枚どりのフィルムだけど、二|齣《こま》しか撮《と》ってないね」 「そんな——」 「まあ、見てごらんよ」  店の主人は、現像したネガを、二人に見せた。  なるほど、最初の二齣だけ、人物が写っていて、他は、全く、何も写っていない。 「その二枚を引き伸したのが、これだよ」  店の主人は、まだ表面が濡《ぬ》れて光っているように見える二枚の写真をテーブルに置いた。  羽田空港のロビーとわかる。  そのロビーに、二枚とも、同じ男が立っている。  三十歳前後で、サングラスをかけ、黒いコートの襟《えり》を立てている男だった。  瞬間、藤木の顔色が変った。 (浅井じゃないか——)      5 「この人は、確か、新聞に出てたわ」  と、純子は、ひとりごとのようにいって、考え込んでいたが、急に、声を張りあげて、 「『むつ』の乗組員の写真が出ていて、その中の一人にそっくりだわ。藤木さんも、事業団の職員なんだから、この人を知っていらっしゃるでしょう?」 「『むつ』の一等航海士に、よく似ていますが——」 「原クンも、羽田空港のロビーで、この男を見かけたとき、そう思ったんですよ。きっと。彼だって、『むつ』乗組員の顔写真が出た新聞を見ている筈ですものね」 「そのあと、原君は、写真の男を追って、博多へ来て、中洲で殺されたということになりますか?」 「ええ。社へ電話しても、誰も信じないと思って、証拠の写真を撮《と》ったんだと思いますわ」 「とにかく、ここを出ましょう」  藤木は、店の主人が聞き耳を立てているようなので、料金を払って、外へ出た。  近くのレストランに入り、軽い食事をとりながら、改めて、二枚の写真を見た。 「ねえ。藤木さん。この人、『むつ』の乗組員に間違いないんでしょう?」 「間違いないといったら、それを記事にするんですか?」 「ええ。それが、私の仕事だし、殺された原クンのためにも、彼が殺された理由を知りたいんです」 「私が、違うといったら、どうします?」 「違う筈がありませんわ。さっき、藤木さんは、この写真を見て、顔色をお変えになったもの」  純子に、指摘されて、藤木は、苦笑するより仕方がなかった。確かに、あの一瞬、顔から血の気が引いたのだ。 「正直にいいましょう。この写真の男は、『むつ』の一等航海士で、浅井という男です」 「やっぱり」 「記事にするのは、少しの間、待ってくれませんか?」 「なぜですの? 『むつ』と一緒に沈んだと思われていた一等航海士が、生きて、羽田空港ロビーにいたというのは、大変なニュースですわ」 「彼は、私の親友です。親友として、なぜ、こんなことになったのか、彼を見つけ出して、彼の口から聞いてみたいんです。三日間、待ってくれませんか。それなら、彼に聞いたことは、あなたに教えますよ」 「三日ならいいですわ。ぎりぎりで、次の号に間に合いますもの。ただ、藤木さんが、写真の人物を探すのなら、私も一緒に探させて下さい」 「尖閣湾の方は、いいんですか?」 「もう、私の代りに、ベテランの記者が、カメラマンを連れて、行っていますわ。それに、政府が、探すことを放棄してしまっている現在、明日の午後、中央新聞が頼んだアメリカの深海作業船『ネプチューン』が着くまでは、何の動きもないと思いますもの」  と、純子は、いった。  しかし、三日の間に、浅井を見つけ出せるだろうか?  それに、原が、浅井を追って、博多へ来たとすると、原を殺したのは、浅井かも知れないのだ。  藤木は、箸《はし》を止めて、窓の外に眼をやった。秋の陽は、短い。まだ、五時を回ったばかりだというのに、もう、夕闇《ゆうやみ》が立ちこめ、中洲には、ネオンがまたたき始めている。 「浅井は、ここに来たという前提を立てた方がいいと思います」  と、藤木は、いった。 「ええ。それは、私も、賛成ですわ」 「なぜ、ここに来たのかという疑問と、ここから、どこへ行ったのかという疑問があります」 「浅井さんは、本当に、『むつ』に乗ったんですの?」 「間違いなく乗りましたよ。私が、佐世保で見送ったとき、彼は、船の上にいましたからね」 「その『むつ』が、尖閣湾で沈んだというのに、なぜ、一等航海士が、羽田に現われて、飛行機で、福岡へ来たのかが、わからないんですけど」 「私にもわかりません。『むつ』が、沈没したとき、全員が、船に閉じこめられたまま、沈んでしまったのではなく、何人かは、海に投げ出されたのかも知れない。浅井もね」 「それなら、なぜ、すぐ、警察なり、事業団なりに、報告しなかったんでしょうか?」 「自分だけが助かったことに対する自責の念から、姿を消したのかも知れません。自分に厳しいところのある男ですからね」 「どうやって、浅井という人を探す気なんですの?」 「正直にいって、全く、どうしていいかわからないんですよ。浅井は、独身で、両親は千葉市内にいる筈で、福岡には、親戚《しんせき》も知人もいない筈なんですがね。姿を消したかったとしても、なぜ、福岡に来たのかがわからない」 「『むつ』が、佐世保で修理をしている間、浅井一等航海士は、どこにいらっしゃったんですか?」 「そうだ。『むつ』は、ドックに繋留《けいりゆう》されている間も、警備のために、交代で、乗組員が乗船していました。だから、浅井も、ほとんど、佐世保住まいだった。約三年間です。その間に、福岡にも、何度か遊びに行ったに違いありません。佐世保より、福岡の、博多の方が、楽しい場所がいくらでもありますからね。そこで、誰かと知り合った可能性は、大いにあります」 「それは、多分、女性だと思いますわ」  と、純子が、いった。  そうかも知れないという気が、藤木もする。浅井は、二十九歳で、独身だった。海の男らしく逞《たくま》しくもあった。三年も、九州にいれば、九州に、親しくする女が出来たとしても、別に不思議はない。  だが、そうだとしても、なぜ、原カメラマンを殺す必要があったのだろうか?  原子力船を沈没させ、しかも、自分が生き残ったことを恥じて、博多で知った女のところに身をかくそうとした。それを、原に見つかったので殺した——  わかるようで、どこか不自然なのだ。  それに、「むつ」が沈没したと思われる十月二十五、六日頃から、すでに、半月近くたっている。沈没の時、助かったのなら、浅井は今まで、どこをうろついていたのだろうか?  疑問は、他にも、いくらでもあった。  新谷紀子のニセモノは、なぜ、殺されたのだろうか? あれも、浅井の犯行なのだろうか?  浅井以外に、助かった者はいなかったのだろうか? もし、助かった者が、他にもいるとしたら、彼等は、どこで、どうしているのだろうか? 「原君は、ここまで、浅井を追いかけて来て殺されたと思われます」  と、藤木は、難しい顔でいった。 「わかっていますわ。私たちが、同じことをすれば、同じ危険が待ち受けているかも知れないということでしょう?」 「そうです。私には、浅井が、人殺しなんかする男とは思えませんが、彼の身に、どんなことが起きたのかわかりませんからね。或《ある》いは、彼に、平気で殺人を犯させるような大きな事件が起きたのかも知れません。『むつ』の沈没についての新事実が。だから、危険は覚悟してかからなければならない。それでも、やりますか?」 「ええ。もちろん」  純子は、蒼白《あおじろ》い顔で、大きく肯《うなず》いた。 「特ダネのためですか?」 「それもあるし、原クンが、なぜ殺されたのか、殺したのは誰なのか、知りたいんです」 「じゃあ、これから、佐世保へ行って、浅井が住んでいた家を見つけましょう」      6  佐世保に着いたのは、夜の十時に近かった。  まず、二人の泊る宿を確保しておいてから、藤木は、事務所長の北野に、もう一度電話して、浅井が、三年間、住んでいた住所をきいてみた。 「ドックから歩いて二十分ほどのところに、確か、協和《きようわ》コーポというマンションがあって、そこを借りていた筈だよ」  と、北野は、いった。 「協和コーポですね?」 「そうだ。そんなことを聞いて、どうするつもりなんだ? 浅井は、恐らく、『むつ』と運命を共にしている筈だよ」 「それは、わかっています」  と、藤木は、いった。  藤木と純子は、タクシーを拾って、問題のマンションへ行ってみた。  着いてみて、なぜ、こんな不便なところに住んだのかなと思った。  小高い山の中腹に建てられたマンションである。  景色はいいだろうが、近くに、商店も、娯楽設備もない。山の頂上が展望台になっていて、バスが、頂上まで行っているが、夕方の七時を過ぎると、そのバスもなくなってしまう。 「むつ」を修理していたドックまで、歩いて二十分の距離といっても、山を下る時はいいだろうが、登る時は、大変だろう。  車を持っていればいいが、このマンションには、駐車場がなかった。  藤木は、首をかしげながら、管理人に、名刺を示して、浅井が、住んでいた部屋を見せて欲しいと頼んだ。 「ああ、原子力船むつ開発事業団の方ですか」  と、その肩書きで、管理人は、すっかり信用した恰好《かつこう》で、藤木たちを、四階の部屋に案内してくれた。 「まだ、浅井さんの荷物が置いたままなんですよ」  と、階段をあがりながら、管理人がいった。 「なぜです?」 「十月の初めに今度、青森へ移ることになったが、引っ越しは、十月中にやるとおっしゃって、十月分までの部屋代をお払いになったんですが、あんなことになってしまいましてね。荷物は、どこへ送ったらいいのかわからなくて、困っているんですよ」 「両親が千葉にいます。あとで、その住所がわかったら知らせますよ」  と、藤木はいい、管理人のあけてくれた部屋に入った。  2DKの部屋である。  いかにも、独身の男の仮の住まいという感じで、真新しい家具は置いてあるのだが、生活の匂《にお》いは、あまり感じられない。  藤木は、窓を開けて、外を見た。  眼の下に、佐世保造船のドックが見える。  長い造船不況を、ようやく脱した証拠のように、ドックには、こうこうと灯がともっていた。  丁度、「むつ」が繋留《けいりゆう》されていたドックも見えた。  藤木には、浅井が、この部屋を借りた理由がわかったような気がした。浅井は、「むつ」が好きだったのだ。だから、乗船していない時でも、ここから、じっと、「むつ」を見つめていたのだろう。 「誰《だれ》か、浅井君を訪ねて来た人は、いませんでしたか?」  と、藤木は、入口のところに立っている管理人にきいてみた。 「そうですね。ときどき、若くて、きれいな女の人と、外国人の方が、来ていましたよ」 「若い女性と、外国人?」  藤木は、きき返した。若い女というのは、浅井が独身だったのだから、わかるが、外国人というのは、何だろう? 「ええ。きれいな人でしたよ。二十五、六じゃなかったですかね」 「外国人というのは?」 「背の高い、ひげをはやした男の人です。年齢は、よくわかりませんね。外国人というのは、若いのか、年とっているのか、見ただけじゃわかりませんから」 「アメリカ人かな?」 「さあ」 「そんな外国人のことは、浅井から聞いたことがなかったが——」  藤木が、ひとりごとのようにいったとき、それまで、黙って、部屋の中を見回していた純子が、 「その外国人、アラブの人かも知れませんわ」  と、いった。 「なぜ、わかります?」 「ここを見て」  純子は、壁に下っているカレンダーを持ち上げた。  大型のカレンダーの下に、太いマジックで、何か書かれてあった。  その奇妙な文字は、明らかに、アラビア語だった。      7  藤木にも、純子にも、それは、アラビア語とわかったが、何と書いてあるのか、意味はわからない。  藤木は、手帳を取り出して、そのアラビア語を書き写した。  浅井が、アラビア語を話したという記憶はない。とすると、この文字は、純子のいう通り、管理人のいう外国人が書いたに違いない。 「そんなところへ落書きをして、困りますねえ」  と、管理人が、渋面《じゆうめん》を作った。  藤木は、その言葉を無視して、部屋の中にある机や、書棚《しよだな》を調べてみた。何か、今度の事件を予測されるようなものがあればと思ったからである。  机の引出しには、何も入っていなかった。見事なほど、何も入っていない。 「手紙が一通もないわ」と、純子がいった。 「三年間も、住んでいたんでしょう? なぜ、手紙が一通もないのかしら?」 「処分したんですよ。他には、考えようがない」 「なぜかしら? 青森の新しい母港へ引っ越すから? でも、手紙なんかは、引っ越すからといって、処分したりはしないでしょう?」 「手紙もないし、写真も一枚もありませんね」 「まるで、何か事件を起こすことを予想して、証拠になるような手紙や写真を、処分してしまったみたいに見えますわ」 「そうですね」  藤木は、窓を開けて、ベランダを調べてみた。ひょっとして、手紙類が、ダンボールにでも入れて、置いてあるかも知れないと思ったからだが、そこにあったのは、一般家庭用の小さなゴミの焼却炉だった。バケツを二つ、タテに並べたぐらいの大きさである。中をのぞいてみると、黒く焦げた紙片がつまっていた。  明らかに、これで、手紙や、写真や、或《ある》いは、書類などを焼却したに違いない。 (なぜ、こんなことをする必要があったのだろうか?)  と、思い、藤木は、自分の知らなかった浅井の生活が、次々に現われてくることに、当惑していた。 「アラビア語の辞書がありますわ」  と、いう純子の声で、藤木は、ベランダから、居間に戻った。  純子が、手に持った本を差し出した。  確かに、アラビア語の辞書である。小さな本棚には、船の本や、原子力関係の本が並んでいたが、これは、原子力船「むつ」の一等航海士なのだから、当然であろう。そうなると、このアラビア語辞典だけが、異色のものだとわかる。  藤木は、辞書で、壁にかかれたアラビア語を、訳してみた。  簡単な文章なので、何とか、意味をつかむことが出来た。  壁に書かれた文字は、次のような意味だった。 〈イスラムの剣〉 [#改ページ]  第七章 貨物船      1  アメリカの深海作業船「ネプチューン」が、母船と共に、尖閣湾沖に到着した。  母船には、アメリカ国旗と共に、中央新聞の社旗がはためいている。  中央新聞と、中央テレビが、「ネプチューン」を招くのに使った金額は、三億円近かったという。  しかし、「むつ」の捜索の模様を、テレビで実況放送し、それが、視聴率を稼《かせ》げば、安いものだという考え方であろう。  母船の船内では、まず、慎重に、音波探知機《ソナー》による海底の調査が行われた。  母船には、中央テレビの放送班が乗り込んで、船内の様子を、実況放送した。  ソナーは、海底に、いくつかの凹凸《おうとつ》を記録した。  それが、果して、大きな岩礁であるのか、それとも、沈没した船であるのか、グラフを見ているだけではわからない。  母船の甲板には、放射能を洗い流す海水や、薬剤も用意された。  第一回の潜水は、午後一時に開始された。 「ネプチューン」は、日本の「しんかい」の二倍の大きさがあり、乗員も四人、潜水時間も、三時間である。  第一回目は、古い沈没船を見つけただけで、空振《からぶ》りに終った。  二回目は、五時から行われた。  すでに、海面には、夕闇《ゆうやみ》が漂い始めている。今日の潜水は、これで終るというので、母船内にも、今度こそという気迫があふれていた。  だが、大きな期待にも拘《かかわ》らず、二回目も無駄骨に終った。成功したのは、三日目の午後だった。  潜水して、およそ五十分たった頃、チーフパイロットの緊張した声が、水中電話から聞こえてきた。 「前方に、船らしきものが見える。かなり大きな船だ」  母船のテレビ画面に、探照灯の明りの中に浮びあがった船の一部が見えた。  古い沈船ではなかった。  かなり、新しいものである。 「ネプチューン」は、時速三キロのゆっくりした速度で、その沈没船の舷側にそって、なめるように、移動して行った。  テレビ画面には、大写しになった船体が、少しずつ動いていくのがわかる。  二百メートルを越す深度と、暗さのために、船体の色が、よくわからない。 「七、八千トンの船だねえ」  と、中央テレビで、アナウンサーと、解説に当っていた海洋評論家が、いった。 「『むつ』でしょうか?」 「部分だけしか見えないから、ちょっとわからんね。船首の方には、『むつ』と、船名が書いてある筈だが」 「船首の方へ、移動してくれ」  と、中央テレビのディレクターがいい、それが、英語に通訳されて、「ネプチューン」に伝えられた。 「ネプチューン」が、指示に従って移動するにつれて、母船のテレビ画面に、とがった船首の部分が、写ってきた。  みんなの眼が、テレビ画面を凝視《ぎようし》する。  最初に、「つ」という文字が見え、続いて「む」の字が見えた。 「『むつ』だ! 『むつ』を見つけたぞ!」  と、ディレクターは、大声で叫ぶと、近くにいたアメリカ人の大男に、いきなり抱きついた。      2  船体は、十五度ぐらい傾いて、海底に沈んでいた。 「ネプチューン」は、なおも、沈没船の周囲を動き回って、船体をテレビカメラに写してから、浮上した。 「ネプチューン」は、甲板に引き揚げられたあと、用意された「きれいな海水」で、船体を洗滌《せんじよう》されると、ハッチが開かれ、乗組員が、おりて来た。  とたんに、甲板に集っていた人々の間から拍手が起きた。  中央テレビのアナウンサーが、チーフパイロットに、船の様子をきいた。 「爆発したような形跡は、ありませんでしたか?」 「船底に穴があいているようだった。恐らくそこから、海水が浸入して、沈没したんだろう」 「遺体は見つかりましたか?」 「船窓から船内をのぞいてみたが、船内が暗いので、何も見えなかったね」 「『むつ』の沈没で、原子炉がこわれ、放射能が洩《も》れて、海水が汚染されていると思われるんですが、その点は、どうでしたか?」 「放射能測定の器具を積んでいないので、その点は、何ともいえないね。しかし、この『ネプチューン』の船体から、かなりの量の放射能が検出されたところをみると、その可能性は否定できないと思う」 「次の潜水は、明日になりますね?」 「明日の朝になる筈だ。その時には、あの沈没船をどうするのか、その指示を受けてから潜水するつもりだ」 「引き揚げは、可能だと思いますか?」 「サルベージ船を使用すれば、水深は二百九十メートルなので、技術的には可能だと思う。問題は、強い放射能だね。今のままでは、ダイバーが作業出来ないよ」 「|有難う《サンキユー》」  インタビューが終ると、チーフパイロットは、煙草《たばこ》をくわえ、美味《うま》そうに、一服した。 「むつ」が、二百九十メートルの海底で発見されたというニュースは、日本全国に、放映された。  もっとも強い衝撃を受けたのは、政府であり、中でも、科学技術庁と、原子力船むつ開発事業団だった。 「むつ」が、尖閣湾沖に沈没しているのではないかということは、もちろん、考えていた。「むつ」が、沈没しているのなら、それで構わない。問題は、放射能が洩れていることだった。引き揚げた「むつ」の原子炉がこわれていて、そのための放射能洩れだったら、ただ単に、原子力船の未来に、暗雲がたれるだけではない。協定を破ったということで、政府の命取りになりかねないし、原子力発電の将来にも、影響を与えるだろう。  だから、秘密裏に処理しようと思ったのだが、中央新聞と、中央テレビが、アメリカの深海作業船によって、沈没している「むつ」を発見してしまったのでは、秘密のうちに処理することは、不可能になった。 「むつ」の船首が、テレビ画面に写ったその日の夜おそく、科学技術庁の長官室に、中田長官と、原子力船むつ開発事業団の田辺理事長、それに、柳田政務次官の三人が急遽《きゆうきよ》、集って、今後の対策を協議した。  まず、部屋のテレビに、沈没している「むつ」が発見されたときの模様を、ビデオに撮《と》ったものが、写された。 「あまり鮮明じゃないね」  中田長官は、それが、唯一の救いみたいにいって、同意を求めるように、田辺を見、柳田を見た。 「そうですな」  と、柳田が肯《うなず》いた。が、田辺は、 「しかし、『むつ』と読めますし、大きさは、八千トンクラスで、『むつ』に似ています」 「そんなことはわかってる」  と、中田は、不機嫌《ふきげん》にいい、 「『むつ』が発見されたとして、どうするかだが、何か、上手《うま》い対処の方法があるかね。このままでは、『むつ』は、原子炉の事故で沈没したことになり、政府は、苦境に立たされてしまうからね」 「マスコミの攻撃は、きびしくなるでしょうね。ただ、不幸中の幸いは、『むつ』を引き揚げることが難しいということです。放射能のために、ダイバーが潜れませんから、まず、引き揚げは不可能でしょう」  と、柳田政務次官が、いった。 「それを見越して、これは、原子力船『むつ』ではないと主張するのかね?」 「それは無理です」  と、田辺理事長がいった。 「無理かね?」 「明日の新聞には、『むつ』の船名が書かれた船首の部分の写真が、のると思います」 「だろうね」 「そうなれば、日本国民全部が、『むつ』は、尖閣湾沖に沈没したと信じます。それだけならいいんですが、『むつ』の原子炉がこわれて、放射能が洩《も》れていることも、明らかになってしまいます」 「あの原子炉を設計した技術陣も、製造したM重工も、絶対に、放射能が外部に洩れることはないといっているんだが、どうして、こんなことになったのかね?」  中田は、首を振った。  田辺は、それには、答えようがない。彼だって、「むつ」の原子炉の安全は、確信していたのだ。  しかし、放射能が洩れている現実は、どうしようもなかった。 「『むつ』乗組員の家族からの問い合せも来ているんじゃないのかね?」  中田が、きいた。 「それで、困っています。毎日、家族から問い合せの電話が来ています。今は、まだ、不明ということで、何とか納得《なつとく》して貰《もら》っていますが、新聞に出てしまったら、どうしようもなくなります」 「変なデマが飛ばないうちに、先手をとって、『むつ』の沈没を、発表してしまうというのは、どうだろうか?」  柳田が、自分の考えをいった。 「それも、いいかも知れませんが——」  と、田辺がいったとき、部屋の電話が鳴った。受話器を取った中田長官が、 「私だ」  といってから、田辺に向って、 「君への電話らしい」 「私へですか」  田辺は、長官から、受話器を受け取った。 「田辺理事長ですか?」  男の声がした。 「私だが——」 「私は、尾藤真一郎《びとうしんいちろう》です」 「尾藤?」  と、おうむ返しにいったが、田辺は、とっさに、誰だったか、思い出せなかった。 「M造船にいた尾藤です」  と、いわれて、田辺は、「ああ」と、思い出した。  原子力船「むつ」の設計グループの一人で、今は、M造船を辞《や》めている筈《はず》だった。 「思い出したよ。私に、何の用だね?」 「今日のテレビを、ごらんになりましたか?」 「もちろん、見たが——」 「私も見ていましたが、気になったのは、『むつ』の船名のある船首部分の映像です」 「あれが、どうかしたのかね? あまり、鮮明ではないが、二百九十メートルの海底だから止《や》むを得んだろう」 「私には、どうも、自分の設計した『むつ』には見えないんです」 「それ、本当かね?」  思わず、田辺の声が、大きくなった。  何事だというように、長官と、柳田が、田辺を見た。 「私は、船首部分の設計を、主に手がけたんですが、テレビに写ったのは、どうしても、『むつ』には見えないんです。形状はよく似ていますが、船首の角度が、少し違う気がします」 「どう違うのかね?」 「テレビに写ったのは、角度が少しばかり深いんです。あれをビデオに撮《と》って、何回もかけ直し、角度を測ってみたんですから、間違いありません」 「しかし、船首の『むつ』という船名は、どうなるんだね?」 「わかりませんが、あれは、私たちが設計した『むつ』じゃありませんよ」 「いい加減なことをいってるんじゃあるまいね?」 「私も、技術者としての誇りは、持っていますよ」  と、尾藤は、きっぱりといった。  田辺は、相手の住所と電話番号を聞いてから、電話を切った。 「今のは、『むつ』を設計した技師の一人からですが、テレビに写った船は、『むつ』と違うというんです」  田辺は、長官と柳田次官にいった。  中田は、びっくりした顔で、柳田を見、それから、田辺を見た。 「どういうことだね? それは——」 「私にも、何が何だかわかりません。しかし、尾藤という男は、冗談をいうような男ではありませんし——」 「しかし、君、あの沈船が、『むつ』じゃないとしたら、いったい、何なんだね?」 「私にも、わかりません」 「その尾藤という技師を、至急、呼んでくれないか。とにかく、あれが、『むつ』ではないという理由を、くわしく聞いてみたいね」 「すぐ、呼びましょう」  田辺は、肯《うなず》いて、受話器を取った。  尾藤が、鎌倉《かまくら》から、車で駈けつけたのは、午前一時に近かった。  尾藤は、紅潮した顔で、長官室に入ってくると、中田の質問に対して、 「私も、最初は、あれが、『むつ』だと思いました。船首部分に、『むつ』の名前が、はっきりと出ていたし、独特な船首の形をしていましたから」 「それが、おかしいと思ったのは、なぜかね?」  中田がきき、柳田と、田辺はじっと、尾藤を見つめた。 「あのニュースは、興味があったので、ビデオにとっておきました。ストップモーションがきく機械なので、沈没船の船首の画面で、止めて、自分の持っている『むつ』の写真を取り出して、比べてみたのです」  尾藤は、茶封筒に入れて持参した数枚の「むつ」の写真を取り出した。  長官室でも、問題のニュースは、ビデオにとってあった。  それを回して、船首部分の写真になったとき、ストップボタンを押した。 「この船首部分をよく見て下さい」  と、尾藤は、テレビの画面を指さしながら、長官たちに向って、強調した。 「私が持ってきた写真と、比べて下さい。『むつ』という字は、全く同じように見えますが、厳密に見ると、『む』の字の位置が、少し違っていることに気付く筈《はず》です。もっとも違う点は、舳先《へさき》の角度です。私の写真の『むつ』の場合は、約六十度ですが、沈没した船の場合は、五十度で、舳先が、より、とがっているように見えます」 「そういわれてみると、多少違うような気がするが——」  三人は、まだ、半信半疑の表情だった。  尖閣湾沖に沈んでいるのは、「むつ」に違いないという気持は、尾藤の説明を聞いても、すぐには、修正がきかないのである。 「私のような専門家が見れば、この違いは、歴然としているんですがねえ」  と、尾藤は、じれったそうにいってから、 「もう一つ、『むつ』と違う点を指摘しておきましょう」  といい、ストップしていたビデオを、また、動かした。  深海作業船「ネプチューン」の写し出したフィルムが、映し出されて行く。  船首の「むつ」の文字から、カメラは、沈んでいる船体の全容をとらえようとして、下っていく。  投光器の光が弱いので、カメラが遠離《とおざか》ると、画面は、うす暗くなる。  しかし、沈没船のシルエットは、かなりはっきりとらえていた。  尾藤は、あるシーンでストップさせた。 「これが、『むつ』との違いを、はっきり見せている画面だと思います。煙突の形状に注意して頂きたい。一見すると、よく似ていますが、問題は、全体から見た太さです。私の写真を見て下さい。この『むつ』の煙突は、非常に細く小さい。理由は、よくご存知と思います。原子力推進の場合は、燃やすために、酸素の供給を必要としませんから、煙突は、不要なのです。従って、『むつ』の場合は、補助機関用でしかありません。細く、形式的なものでいいわけです。次は、沈没船の煙突です。同じように、細くスマートですが、マストの太さと比べて下さい。少くとも、マストの三倍の太さがあります。これは、重油で走航する船の煙突です。単なる飾りで取りつけられている煙突じゃありません」 「確かに、君のいう通り、煙突は、『むつ』のものより太いようだね」  と、田辺が、いった。  中田は、まだ、信じられないという顔で、 「もし、この沈没船が、本物の『むつ』ではないとすると、いったい、この船の正体は、何なんだろう? また、何のために、船首に、『むつ』の船名をつけていたのかね? まさか、この沈没船が、ブリキのオモチャというわけじゃないだろう?」 「オモチャじゃありませんね」と、尾藤は、笑った。 「総《そう》トン数《すう》は、恐らく、『むつ』と同じ九千トン前後の船ですね。貨物船で、最近、建造されたものだと思います」 「『むつ』と同じ名前の貨物船が、最近、建造されたなどということは、聞いたことがないがね」  と、柳田政務次官が、眉《まゆ》をひそめた。 「私も、知りません」  尾藤が、いった。 「じゃあ、この沈没船は、何なんだ? これが、『むつ』でないとしたら、本物の『むつ』は、どこにいるんだ?」  中田は、いらだたしげに、首を振った。  尾藤にも、長官たちにも、わからないことだった。  翌日、田辺たちは、念のために、造船関係者七人に、科学技術庁に来て貰《もら》った。  尾藤の話は、かなり、説得力はあったが、いぜんとして、半信半疑だったからである。  七人に、尾藤を加えた八人に、田辺たちは、ビデオを見せ、また、「むつ」の写真を見せた。 「なるほど。確かに、この沈没船は、『むつ』とは違いますね」  と、最初にいったのは、I造船の工藤《くどう》という六十歳の技師だった。  他の者も、「むつ」によく似ているが、微妙なところが、違っていると、いった。 「それでは、伺うが、この沈没船が、『むつ』でないとすると、いったい、何という船なんですか?」  と、田辺が、七人の顔を見回した。  七人とも、すぐには、返事をしなかった。  それぞれに、頭の中で、考えていたらしいが、工藤が、発言を求めて、 「ひょっとすると、『ラギタニア』号かも知れませんね」  と、いった。 「ラギ——?」 「『ラギタニア』です。名前から見て、中近東の船名ですね。確か、長崎のK造船で、『むつ』によく似た船を造っていると聞いたことがあります。それが、『ラギタニア』という船ですよ」 「間違いありませんか?」 「そんな話を聞いたのは確かです。なぜ、覚えているかというと、その時、妙な設計をするなと、不思議だったからです。よくご存知と思いますが、『むつ』は、原子炉の保護のために、船幅が必要以上に広くなっています。まあ、いってみれば、不恰好《ぶかつこう》な船です。『ラギタニア』の方は、別に原子力船でもないのに、『むつ』に似た船型というのに不審をもったんです。K造船長崎には、私の後輩の高井《たかい》君がいるので、電話で聞いてみたところ、向うの注文だったというんです」 「しかし、工藤さん。その船は、『むつ』ではなく、『ラギタニア』という船名なんでしょう?」 「そうです」 「この沈没船が、『ラギタニア』だとしたら、なぜ、『むつ』の船名がついているんですか?」 「私にも、わかりませんね」 「長崎のK造船の高井さんでしたね?」 「ええ。彼に聞けば、もっと、はっきりすると思いますね」  と、工藤は、いった。  田辺は、隣室に行き、電話を長崎のK造船にかけた。  こちらの名前を告げると、所長が、電話口に出た。 「そちらに、高井という技師さんがおいでの筈だが、呼んで頂けませんか」 「高井は、休んでおりますが」 「そうですか。実は、そちらで建造した『ラギタニア』という船のことなんですが」 「ああ、あの貨物船のことですか」 「貨物船ですか?」 「そうです。九千トンの貨物船です」 「どこの国籍ですか?」 「アラブ諸国の一つです」 「引き渡しは、いつ行われたんですか?」 「ええと、十月十八日です。向うから、受け取りのために、船長以下十七人でやって来たので、引き渡しました」 「十月十八日ですか」  田辺は、その月日が、気になった。原子力船「むつ」が、原子炉の修理を了《お》えて、佐世保を出港した日ではないか。  偶然の一致だろうか? 「それで、『ラギタニア』は、今、どうなっていますか?」 「どうなっているって——」と、相手は、電話の向うで、小さく笑った。 「現在、試運転をかねて、ゆっくり、アラビア海を西に向って、航行中の筈ですが」 「それは、間違いありませんか?」 「間違いありませんよ。途中で、事故を起こしているとすれば、当然、SOSを発している筈ですから」 「この『ラギタニア』号ですが、原子力船『むつ』に、船の形が似ているとは思いませんでしたか?」 「そのことなら知っていました」  と、所長は、あっさり認めて、 「向うから、一つの設計図を持って来て、この線でという注文だったんです。それを見たとき、『むつ』に似ていると思いましたよ」 「原子力船でもないのに、おかしいとは思いませんでしたか?」 「そうですねえ。抵抗の大きい、ずんぐりむっくりした船型ですからね。もっと、波の抵抗の小さい船型にした方が、省エネにもなると、一応、助言はしましたよ。しかし、向うさんは、これでいいというので、そのままにしたわけです」 「なるほど」 「最初は、もっと、『むつ』に酷似《こくじ》していたのです。ひょっとすると、『むつ』の写真を見て、これが、もっとも新しい型の貨物船と思って、あの型をいって来たのかも知れません。その通りに、改めて、こちらで、設計図を引きましたが、煙突なんかは、止《や》むを得ず、少し太くしましたが、他は、向うの希望どおりに致しました」 「十月十八日に引き渡しというのは、向うの希望ですか?」 「そうです。三か月前に、艤装《ぎそう》も終っていたんですが、向うが、急に、十月十八日といって来ましてね。引き渡しが、三か月おくれたわけです」 (三か月前といえば——)  田辺は、考えた。 「むつ」の修理は、最初、七月に終る筈だったのが、新たな故障箇所が見つかって、三か月のびたのである。  これも、偶然の一致なのだろうか? 「もう一つ、お聞きしたい。船体の塗装は、どうなっていましたか?」 「側面は、うす紫です」 「うす紫? それも、『むつ』と同じじゃありませんか?」 「そうですが、これも、向うの希望ですので。しかし、甲板は、白にしました。『むつ』は、グリーンでしょう?」 「そうですが——」 「他に、何かご質問がありますか?」 「いや、どうも、いろいろと、有難うございます」      3  田辺は、難しい顔で、長官室に戻ると、中田に耳打ちして、七人の技術者たちに、帰って貰った。  部屋に残ったのは、長官と、柳田政務次官、それに、田辺の三人だけになった。 「緊急な話というのは、何かね?」  と、中田は、田辺にきいた。  田辺は、ハンカチで、顔に浮きあがった脂汗《あぶらあせ》を拭《ふ》きとってから、 「難しい問題が発生しました」 「難しい問題なら、現に、発生しているじゃないか」 「『むつ』の沈没より、厄介《やつかい》な問題かも知れません」  田辺は、長崎のK造船と話した内容を、長官と、柳田に説明した。  中田は、黙って聞いていたが、 「それで、君は、いったい何をいいたいんだね?」 「途方もない推理かも知れませんが、『むつ』は、奪い取られたのではないかと思うのです」 「誰にだね?」 「リビアか、サウジアラビアか、とにかく、中東のどこかの国です」 「つまり、『ラギタニア』を注文した国ということだね?」 「そうですが、本当の資金がどこから出ているかわからないのです」 「最初から、『むつ』とすり替えるつもりで、船型の酷似した貨物船を、長崎のK造船に発注したと、君は、考えるんだね?」 「その通りです。彼等は、『むつ』の佐世保出港に合せて、『ラギタニア』号を受け取りに来ました。同じ日に出港です。同じ船型をし、側面の塗装も、同じうす紫です。甲板の色は違うといいますが、こんなのは、二、三時間で、航行中に、塗り替えられます。われわれは、佐渡の尖閣湾沖で、『むつ』の原子炉による実験航海を計画していました。その指令が、事前に洩《も》れていたと考えられます。『ラギタニア』も、尖閣湾沖に向い、そこですり替えられたわけです。『ラギタニア』の船名を『むつ』に変えて沈め、『むつ』を、『ラギタニア』にして、中東に向ったのです」 「船舶用の小型原子炉と、ウラン燃料を、船もろとも、盗まれたということか?」  中田が、顔を赤くした。  田辺は、肯いた。 「現在、『ラギタニア』は、アラビア海を、ゆっくり西に向っているそうです。試験航海だといいますが、公海上で、原子炉を運転しているのかも知れません。この『ラギタニア』が、『むつ』であることは、間違いないと思います」 「じゃあ、『むつ』の三十二人の乗組員は、どうなったと思うんです?」  と、柳田が、口をはさんだ。 「恐らく、向う側の捕虜《ほりよ》になって、同行していると思います。『むつ』には、原子炉関係の技術者が乗っていましたから、向う側には、彼等の知識が必要だったでしょうから」 「うーん」  と、長官は、唸《うな》り声をあげた。  もともと、血の気の多いことで、有名な大臣である。そのくらいだからこそ、世論を無視して、ひそかに、原子炉による実験航海を命令したりもしたのだが。 「その船を停船させて、奪い返せればいいんだが」 「しかし、長官。現在、アラビア海です」 「昔の日本だったら、すぐ、西太平洋で行動している航空母艦を、アラビア海に急行させて、『むつ』を奪い返せるのだがな。シー・レーンを守ることにさえ、がたがたしているようじゃあ、こんな時、どうすることも出来ん」  長官は、口惜《くや》しそうに、歯がみをした。 「米軍に頼んだらどうでしょう?」と、柳田が、いった。 「アメリカ海軍は、現在、インド洋から、アラビア海にかけて展開しています。アメリカと日本は、今や、同盟関係なんですから、問題の船を、臨検して貰ったらどうでしょうか?」 「それが出来れば、いいんですが」  田辺が、溜息《ためいき》をついた。 「田辺君は、出来ないと思うのかね?」  中田がきいた。 「アメリカは、中東に足場を築くことに必死です。特に、石油生産国との間に、問題を起こしたくないと考えている筈です。それに、問題の船は、公海上を走っています。わが国が頼んだからといって、中東の石油生産国の怒りを買うようなことをするとは思えません」 「しかし、君、みすみす、原子力船『むつ』を奪い取られ、それを、指をくわえているわけにはいかんじゃないか。そんなことをしていたら、わが国は、世界のあなどりを受ける。アメリカに頼めないのなら、相手国に抗議することにしようじゃないか。『むつ』の返却を要求するんだ。それなら、出来るだろう?」 「しかし、長官。相手方が否定したら、それで、終りです」 「君は、現在、アラビア海を走っているのは、『むつ』に間違いないといったじゃないか」 「そうです。しかし、証明は難しいと思います。まず、現在、尖閣湾沖に沈んでいる船が、『むつ』ではなく、『ラギタニア』号であることを証明しなければなりません」 「それなら、引き揚げて——」 「それが出来ればいいんですが、強い放射能が出ている状態では、引き揚げも難しいと思います。それに——」 「それに、何だね?」 「秘密裏に、ウラン燃料を積み込んだことを認めなければならなくなります」 「うーん」  と、また、中田は、唸《うな》り声をあげた。 「田辺理事長」  と、柳田が、田辺に声をかけて、 「尖閣湾沖の沈没船が、『むつ』でなく、『ラギタニア』号だとすると、なぜ、海中に放射能が洩《も》れているんでしょうね?」 「これも、推測でしかありませんが、あの船を引き揚げられては困る。『むつ』でないことがわかってしまう。そこで、ウラン燃料の破片を、沈没船の船内に入れておいたんではないでしょうか。放射能で汚染された海では、引き揚げ作業も難しいですから」 「そのウランは、どこから持って来たんだろうか?」 「われわれは、『むつ』に、東海村《とうかいむら》から運んできたウラン燃料を積み込みました。その一部だと思います」 「『むつ』を盗み取られたのが、わかっていながら、どうにもならんのかね?」  中田は、拳《こぶし》で、どんと、テーブルを叩いた。 「現状では、残念ながら、何にも出来ないと思います」 「しかし、何にも出来ないでは、困るな」  と、中田は、舌打ちしてから、 「とにかく、総理に相談してみよう」 「お願いします。こうなると、相手が、わが国とは、石油でかたく結ばれている国だけに、慎重の上にも、慎重である必要があると思います」 「田辺君は、『むつ』の乗組員は、捕虜《ほりよ》になっているだろうといったね?」 「他に考えようがありませんので」 「彼等は、どうなると思うかね?」 「全くわかりません」 「彼等が戻されたら、証言が得られる筈だ。その時には、厳重抗議ができるだろうし『むつ』の返却も要求できるんじゃないかね?」 「そうですね。そういけばいいんですが」 「君は、そういかないと思うのかね?」 「相手が、どう考えているかによると思いますが」  田辺は、あいまいにいってから、ふと、「むつ」の乗組員の中にも、相手方の誘いに応じて行動した者がいたのではあるまいかと思った。  そうでなければ、船の交換が、こんなに簡単に出来る筈がない。そのことも、問題になってくるのではないか。  政府としては、そうしたことを、全《すべ》て公表するか、それとも、全てに沈黙を守るかのどちらかしかないだろう。 「ラギタニア」号と、「むつ」とが、すりかえられたのではないかという推理は、事件の解決に役立つというよりも、解決を、ますます難しくするのかも知れなかった。 [#改ページ]  第八章 イスラムの剣      1  藤木と、純子は、まだ、博多にいた。  いぜんとして、浅井は、見つからなかった。  藤木は、「むつ」に関する最新のニュースを知りたくて、ホテルから、東京の事業団に電話を入れてみた。  電話口に出た同僚の片岡《かたおか》は、 「どうだい? 長期休暇の方は?」 「『むつ』のことがあるんで、落着けなくてね。そちらでは、尖閣湾沖に沈んだ『むつ』を、どうするつもりでいるんだ?」 「そのことだがね。今、内部で、妙な噂《うわさ》が流れているんだよ」 「どんな噂だい?」 「あの沈没船は、『むつ』じゃないという噂さ」 「おい、おい。今朝の新聞にも、『ネプチューン』の撮《と》った『むつ』の写真が出ているじゃないか。船首に、ちゃんと、『むつ』と書いてあるし、全体の型も、『むつ』だよ」 「そうなんだがね。理事長や、科学技術庁の長官が、今までは、『むつ』の沈没を認めていたんだが、急に、引き揚げてみるまでは、『むつ』かどうか、確認できないと、いい出したんだ。これは、何かあると、いろいろ、調べてみたんだ」 「それで、何かわかったのかね?」 「少しは、わかったよ。これは、黙っていて貰いたいんだが」 「いいさ。誰にも喋《しやべ》らないよ」  と、藤木は、いった。 「『むつ』が佐世保を出港した十月十八日と同じ日に、長崎の造船所から、引き取られていった貨物船がある。名前は、『ラギタニア』号だ」 「名前からみると、アラブ諸国に関係ありそうだな」 「その通りさ。この『ラギタニア』は、『むつ』と、外見がよく似ているんだ。つまり、尖閣湾沖で沈んだのは、『むつ』ではなくて、この『ラギタニア』じゃないかというんだよ。だが、今のところ、証拠はない。船は、三百メートル近い海底に沈んでしまっているし、海水は放射能で汚染されているんでね」 「それで、その『ラギタニア』号は、今、どこにいるんだ?」 「調べてみたら、アラビア海を、ゆうゆうと、西に向っているそうだ」      2  電話を切って、「ラギタニア」と、口の中で呟《つぶや》いているうちに、浅井のマンションで見たアラビア語の辞書のことを思い出した。  アラブ諸国のどこかが、「むつ」とよく似た船を注文してきた。  アラブ諸国は、イスラエルに対抗するうえで、原子炉や、ウランを欲しがっている。その両方が、一挙に手に入るのが、日本の原子力船「むつ」だったのではないか。 「むつ」の原子炉は、小型だが、大きな原発のものと、構造は同じである。それに、もっと小さくすれば、原子力潜水艦も動かすことが出来るのではないか。  藤木は、浅井のマンションにあった「イスラムの剣」というアラビア語を思い出した。  確か、リビアのカダフィ革命評議会議長は、原子力を「イスラムの剣」と呼んでいた筈である。  浅井は、アラビア語の辞書を持っていたし、色の浅黒い外国人が、訪ねて来ていたという。  その外国人は、アラブの人間だろう。  浅井は、その外国人に、金を貰い、協力を約束したのではないか。  浅井が、新谷紀子のニセモノを、新谷紀子として、「むつ」に乗せたのは、その第一歩だったのかも知れない。  そのために、本物の新谷紀子には、採用取消しの通知まで出すような小細工までしている。  なぜ、それほどまでにして、「むつ」に、ニセの新谷紀子を乗せたかったのか?  彼女は、原子力の専門家でもないし、航海の専門家でもない。そのどちらにも素人《しろうと》である。事業団が、地元対策として、一人だけ傭《やと》った女性に過ぎない。いわば、「むつ」の花みたいなものだろう。  その女性が、どんな大事な役割りを持っていたのだろうか?  新谷紀子の仕事は、花を生けたり、コーヒーを運んだりすることぐらいしかなかった。 (コーヒーか)  と、思った。 「むつ」を、アラブの人間に引き渡すためには、乗組員を眠らせておく必要がある。そこで、コーヒーなり、お茶なりを配るとき、睡眠薬を混入しておく。その役を、自然にやれるのは、新谷紀子だった。  だから、彼女のニセモノを、強引《ごういん》に、「むつ」に乗せる必要があったのではないか。  そして、それ故に、彼女の口を封じるために、殺してしまったのか?  推理をすすめていけばいくほど、藤木は、暗い気分になっていくのを感じた。友人の浅井が、そのリーダーに見えてくるからである。 (動機は、いったい、何だったのだろうか?)  金だけとは、考えたくなかった。  浅井が、そんな男には、思えないからである。  日本の「むつ」に対する扱い方に、不満があり、それが、今度の行動に走らせたのではなかったのか。  時代の先端を行く原子力船として、「むつ」は、華々しく誕生した。  それなのに、まるで、厄介《やつかい》者扱いされている。  母港一つ決めるにも、時間がかかるし、肝心の実験航海も、ままならない。そんな原子力行政に、反撥《はんぱつ》したのではないのか?  そんなことを考えているところへ、純子が姿を見せた。  藤木は、ホテルを出て、並んで歩きながら、「ラギタニア」号のことを、純子に話した。  純子は、最初、ぽかんとした顔で、聞いていたが、 「それじゃあ、尖閣湾沖の沈没船は、『むつ』じゃないんですか?」 「恐らくね。違うと考えた方が、辻褄《つじつま》が合ってくるんです」 「でも、私は、『むつ』が、沈没しているという原稿を送ってしまったんです」 「現在は、それでいいですよ。『ラギタニア』号だという証拠はないんだから」 「これから、どうしたらいいかしら?」 「真相を知りたければ、浅井を見つけ出すのが一番ですね。私も、彼に会って、何があったのか聞いてみたいと思っているんです」 「でも、浅井という人が、見つかるでしょうか? もし、見つかったら、私も、本当に、原クンを殺したかどうか、聞いてみたいんです」 「浅井を、羽田空港で撮《と》った写真ですが、今も、持っていますか?」 「ええ。引き伸して、何枚も、持っていますけど」 「それで、浅井を誘い出しましょう」 「そんなこと、出来ますか?」 「カメラマンの原さんは、その写真を撮ったことで、殺されたんじゃないかと思われるわけです」 「ええ」 「その写真を、われわれが持っていると知ったら、浅井の方から、何か行動を起こしてくるかも知れません」 「これを、ばらまくんですか?」 「いや、自然にやればいいでしょう。写真を持って、ホテルや旅館を回って歩くだけで十分だと思いますね。追われている者の眼や耳は、敏感になっていますから」  藤木は、自分のいったことを、実行した。  二人で、市内のホテルや旅館を回り、フロントや帳場で、浅井の写真を見せ、この人がいたら、教えて欲しいと頼み、自分の名前と、泊っているホテルをいった。  一日目は、何の反応もなかった。  二日目も同じである。  尖閣湾沖の沈没船の引き揚げは、やはり、放射能のせいで、難航していた。新聞は、「むつ」の沈没の原因について、あれこれ書き立て、政府は、海水が、放射能に汚染されたことに責任をとれと批判している。  それに対して、政府は、完全に沈黙を守っていた。  三日目の夜だった。  この日も、藤木は、純子と二人で、博多市内のホテルや、旅館、それに、人の集る喫茶店なども回って歩き、浅井の写真を見せ、こちらの名前と、泊っているホテルを告げた。  午後十時頃である。  ベッドに転がって、テレビのニュースを見ている時に、枕元《まくらもと》の電話が鳴った。 「藤木さまに、外からお電話です」  と、男の交換手がいった。 (来たな)  と、思い、受話器を耳に押しつけるようにして、藤木は、 「もし、もし」  と、呼んだ。 「藤木だな?」  という、なつかしい声が、耳を打った。  間違いなく、浅井の声だった。 「ああ、藤木だ。君が連絡してくるのを待っていたんだ」 「そうだと思っていたよ。だから、電話したんだ」 「君に会って、どうしても、話をしたい。何とかして、会ってくれないか」 「警察官立ち会いの下でかね?」 「いや、そんな真似《まね》はしない。僕は、事業団で、『むつ』の捜索チームから外《はず》されたんだ。だから、事業団に、何の恩義もない。友人として会いたい」 「それなら、明日長崎へ来てくれ。グラバー邸で、午後三時に会いたい。君一人で来てくれ。他の者を連れて来たら、君には会わない」 「長崎のグラバー邸に、午後三時だな?」 「五分でも、時間を違えたら、こちらは、君が裏切ったものと考える。そう思っていてくれ」  と、浅井は、いった。  彼が、ひどく神経質になっているのがわかる。これは、追われる者のナーバスさだろうか。  翌日、藤木は、純子にも告げずに、長崎行の列車に乗った。  長崎に着いたのは、午後一時半近くである。  駅前で、おそい昼食をとってから、タクシーを拾った。  大浦天主堂《おおうらてんしゆどう》の傍《そば》でタクシーをおり、石畳みの道を、グラバー園に向って歩いて行った。  グラバー園は、長崎市が、グラバー邸以外にも、市内にいくつかあった明治時代の建物を、ここに集めたもので、入園料五百円で、一般に公開しているものだった。グラバー邸の他に、レンガ造りのリンガー邸、オルト邸、旧|自由亭《じゆうてい》などがある。  藤木も、入園料を払って、中に入った。  まだ、約束した三時には、十二、三分の間があった。  四つ葉のクローバーの形をしたグラバー邸の庭に立って、長崎港に眼をやった。  大型タンカーが、ゆっくり出港して行くのが見えた。  浅井が、会う場所として、ここを指定した理由がわかったような気がした。港の景色が素晴しいのだ。  ウィークデーのせいか、他に人影はなかった。  藤木が、じっと、長崎港を眺《なが》めていると、彼の隣りに人影が近づいて来て、並んで、立った。 「久しぶりだな」  と、その人影がいった。  浅井の声だった。  藤木が、思わず、振り向こうとすると、浅井が、厳しい声で、 「海を見ながら話したいんだ」  と、いった。      3  おだやかな海面が、秋の陽差《ひざ》しを反射して、きらきら光って見える。  マンモスタンカーの姿は、いつの間にか、視界から消え、今度は、灰色の軍艦が、ゆっくり入港してくるのが見える。アメリカの軍艦らしい。 「『ラギタニア』号のことを聞いたよ」  と、藤木は、海を見つめた姿勢でいった。 「どんな風にだ?」 「尖閣湾沖に沈んでいるのは、『むつ』ではなくて、長崎のK造船で造られた『ラギタニア』号だという噂《うわさ》をね。そして『むつ』は、『ラギタニア』になって、中東へ向っている」 「証拠は?」 「そんなものはない。尖閣湾沖の沈没船を引き揚げれば証明できる。原子炉の有無でね。だが、幸か不幸か、海水が、放射能で汚染されていて、それが出来ない」 「では、当分、君の聞いた噂は、噂でしかないわけだな」 「だが、君がここにいることが、噂が本当だという証明に思えるがね」 「そうかな」 「君は、『むつ』に、新谷紀子のニセモノを乗せた。彼女の役目は、はっきりしている。他の乗組員への給仕が主な役目だから、それを利用したんだ。多分、コーヒーに睡眠薬でも入れて、全員に飲ませたんだろう。そうしておいて、『ラギタニア』号が近づき、『むつ』を占領した。あとは、『ラギタニア』号を、『むつ』にすることだ。もともと、船型が似ているのだから、わけはない。船首の船名を『むつ』に直してから、『むつ』に積まれていたウラン燃料棒の一つを、船倉に入れて、尖閣湾沖に沈めた。一方、本物の『むつ』は、『ラギタニア』号となって、インド洋に向う。誰も、それを疑わない」 「面白いな」 「ところが、新谷紀子のニセモノが、すっかり怯《おび》えて、騒ぎ出した。仕方なく、彼女の口をふさぎ、『むつ』が沈没したときに、溺死《できし》したように見せかける工作をした。その工作を、君が、引き受けたんだと思う。だから、君一人が、日本に残った」 「————」 「他の乗組員は、どうしているんだ? 『ラギタニア』号になった『むつ』で、中東に向っているのかね?」 「そんなことを聞いて、どうするんだ? 上司に報告して、ほめて貰《もら》う気なのか?」 「ただ、知りたいだけだよ」 「そんなことは、知らない方がいい。知ってどうなるんだ?」 「どうなるかは、わからないさ。だから、ただ知りたいだけだといっている。羽田で、君の写真を撮《と》ったカメラマンを殺したのも君か?」 「イエスといったら、君は、警察に電話するつもりか?」 「わからん」  と、藤木は、正直にいった。  視界の中の軍艦は、見えなくなってしまった。 「君は、この問題に、あまり深入りしない方がいいな」  浅井が、低い声でいった。 「君が、僕も殺さなきゃならないということかね?」 「いや。おれは、もう、君には会わないだろうと思っている」 「じゃあ、誰が、僕を殺すんだ?」 「船舶用の小型原子炉と、ウランを欲しがっている国がある」 「アラブのどこかの国だろう」 「それを、阻止しようとする国もある。その争いの中に、君が巻き込まれるのを、おれは、恐れるんだ。おれは、覚悟して飛び込んだんだからいいが」 「もう一度、きくが、新谷紀子の身代りの女性を殺したのは、君か? 原というカメラマンを殺したのは、君か?」 「どちらにも、答えたくないね。おれが、直接、手を下していなくても、責任は、とらざるを得ないからね」 「君は、自分のやったことがわかっているのか? 船舶用の小型原子炉は、あれを、改良していけば、軍艦にも積み込める。ウラン燃料だって、使いようでは、危険なものだ。中東に、小さくても、新たな緊張を呼び起こすものじゃないのか。君は、それを、金のために、やったのか?」  藤木の声は、自然に、咎《とが》めるような調子になった。  浅井は、黙っている。  藤木の言葉を、肯定しているようでもあり、否定しているようでもある。  浅井は、黙って、腕時計に眼をやった。 「そろそろ、お別れだな」  と、浅井が、いった。 「どこへ行くんだ?」 「それはいえないが、もう、君の前に現われないことだけは、約束しておくよ。警察に電話する気なら、すぐ、した方がいいな」  それだけいうと、浅井は、くるりと、藤木に背を向けて、歩き出した。  海の男らしく、背を、しゃんと伸ばし、大股《おおまた》で歩いて行く。 (こいつは、海が、船が好きなんだ)  と、藤木は、改めて思った。  恐らく、アラブのどこかの国が、原子力船を、自由に動かして欲しいと、浅井にいったのだろう。日本でのように、こそこそ動かさずにすむ。それがうれしくて、浅井は、今度の行動に出たのではないのか? 金のためとは、浅井のためにも、考えたくはなかった。 (もう一度、話を聞きたい——)  と、思い、藤木は、あわてて、浅井を追った。  グラバー園を出て、石畳みの道を、駈けおりて行った。  やっと、浅井の後姿を見つけた。と思ったとき、ブルー・メタリックの高級車が、滑るように近づいて来て、浅井を拾って、走り去ってしまった。  乗っていたのは、日本人ではなかった。しかも、プレートにあったのは、外交官ナンバーである。  その車が、視界から消え去るのを、藤木は、ぼうぜんとして、見送っていた。      4  藤木は、仕方なしに、大浦天主堂に向って歩き出した。 (警察に知らせた方が、よかったのだろうか?)  そんなことを考えていると、突然、背後《うしろ》から走って来た車が、彼の横で、急ブレーキをかけた。  黒塗りの大型車だった。  しかも、外交官ナンバーである。  さっきの車が戻って来たのかと思ったが、それにしては、色が違う。  ドアが開いて、口ひげを生やした大男がおりて来た。 「ミスター・浅井ですか?」  と、その大男が、日本語で、藤木にきいた。 「浅井を探しているんですか?」  と、藤木は、きき返した。 「イエス。あなたは?」 「私は、浅井の友人ですが」 「われわれは、三時三十分に、ここで、ミスター・浅井と落合うことになっていたのです。彼は、どこへ行きましたか?」 「二、三分前に車が来て、彼を乗せて行きましたよ」 「車が? どんな車でしたか?」 「ブルー・メタリックの大型車で、あなた方のと同じ外交官ナンバーをつけていましたよ」 「外交官ナンバーですか?」  男の顔色が変った。 「どうしたんです?」  と、藤木がきく。 「あなたは、本当に、ミスター・浅井の友人ですか?」 「そうです。グラバー邸で、彼と三時に会って、話をしていたんです」 「では、乗って下さい」  と、大男は、いった。  何が何だか、わからないままに、藤木は、大男と一緒に、車に乗り込んだ。  運転手も、大男だった。 「その車のナンバーを、覚えていますか?」  と、リア・シートに並んで座った男がきいた。きれいな日本語だった。 「ええ。覚えていますよ」 「では、これに書いてくれませんか」  男は、手帳を差し出した。  藤木は、ボールペンで、それへ、ナンバーを、書きつけた。  大男は、じっと、そのナンバーを見つめている。 「どこの車か、わかりますか?」  と、藤木は、きいた。 「もちろん、わかりますよ。想像した通りのナンバーですから」 「浅井は、安全なんですか?」 「いや。危険ですね。早く見つけ出して、保護しなければならない」 「なぜ、危険なんです?」 「ミスター・浅井を連れ去った連中は、われわれと対立する国の組織だからです」 「なるほど」  藤木は、肯《うなず》いた。少しずつだが、事態が呑《の》み込めてきた感じだった。  男は、運転手の肩を叩いた。車が、ゆっくりと、動き出した。 「一刻も早く、ミスター・浅井を助け出す必要があります」  隣りの大男が、いった。 「浅井を助け出して、どうするんです?」  と、藤木が、きいた。 「今日、三時三十分に会ってから、ミスター・浅井を、長崎港へ運び、午後四時に出港する『ユニバース』号というマンモスタンカーに乗せる筈《はず》でした」 「行先は、サウジアラビア?」 「中東であることは、間違いありません」  と、その男は、いった。 「それが、『むつ』を、あなた方に引き渡した代償ということですか?」  藤木がきくと、大男は微笑した。  外国人は、日本人の微笑が、よくわからなくて、気持が悪いというが、この大男の微笑だって、意味が、わからない。 「『むつ』の乗組員は、どうなるんですか?」  藤木が、なおも、質問を続けると、大男は、 「ここで、はっきりしておきたいことがあります」  と、厳しい表情になって、いった。 「何ですか」 「現在、中東のある港に向っている船は、『ラギタニア』号であって、『むつ』ではありません。これが一つ。もう一つは、日本の技術者たちが原子力船の設計や運転、原子炉の扱い方について、指導のために、中東に向っていますが、これは、別に、強制的に連行するわけではありません。すすんで、技術指導に来られるのであって、一年ないし、二年後には、しかるべき報酬が支払われて、日本に送り返されます」 「しかし、正式な出国手続きが取られずに出て行ったのに、それを、自ら進んで、技術援助にというのは、おかしくはありませんか? 理屈として、通りませんね」  藤木が、反論すると、大男は、手を振って、 「そんなことは、ありません」 「なぜです?」 「『ラギタニア』号は、長崎を出航したあと、日本海で、試運転をしていました。その時、近くを航海していた日本の原子力船『むつ』が、事故を起こして沈没するのを目撃したのです。すぐさま、救助に当り、そのほとんどを救助しました。不幸にも、救助できなかった方もいますが」 「若い女性が一人、溺死《できし》したというんでしょう?」 「くわしいことは、私は知りません」 「しかし、『むつ』の乗組員を救助したというのなら、なぜ、すぐ、日本政府に連絡して、彼等を、どこか近くの港に上陸させなかったんですか? わざわざ、中東まで連れて行くことはないでしょう?」 「そうしたかったんですが、救助したすぐあとで、台風二十五号に襲われたのですよ。遠く、沖合いに待避するより仕方がありませんでした。それに、一刻も早く、故国へ回航しなければなりませんでした。ただ、遊びに、『ラギタニア』号を建造したわけではありませんのでね。それで、仕方なく、中東へ向ったわけです。その航海の途中で、救助された日本の技術者たちが、われわれへの技術援助を申し出てくれたのです」  と、大男は、いってから、 「そんなことより、今は、ミスター・浅井の救出が先決です」 「連れて行かれた先の見当は、ついているんですか?」 「だいたいはね。違うかも知れませんが」 「違っていたら、どうなるんですか?」 「ミスター・浅井は、殺されるかも知れません。彼等の拷問《ごうもん》は、徹底していますからね」  大男は、そういうと、運転手の肩を叩《たた》いて、 「行ってくれ」  と、いった。  藤木の乗った車は、タイヤの音をきしませながら、石畳みの道を飛ばした。  市街を抜け、港に入っていく。  ようやく造船不況は脱したとはいえ、長崎には、錆《さ》びたまま放置されているドックや、工場が、ところどころにある。  車は、その一つに横付けになった。  船体や、スクリューを造っていた工場は、今は、窓ガラスは破れ、スレートの屋根には穴があき、がらんと、静まりかえっていた。  大男たちは、黙って、車を降り、猫《ねこ》のように静かに、工場の中に入って行った。  藤木も、そのあとに続いた。  工場の中は、うす暗かった。  錆びた機械が、そのまま、放置されている。巨大な旋盤や、カッターや、フライス盤が、まるで、墓のように並んでいた。  ふいに、前方の暗がりで、人の呻《うめ》き声が聞こえた。  一瞬、大男たちは、さッと、身をかくしたが、次には、呻き声のした方に、駈《か》け出した。  工場の隅《すみ》に、顔を血だらけにした浅井が倒れて、呻き声をあげていた。  大男が、抱き起こした。  顔をひどく殴られたらしく、左眼が、腫《は》れて、ふさがってしまっている。唇《くちびる》が切れて、血が、ふき出している。  浅井は、辛うじて見える右眼をあけて、大男を見た。 「おれは、何もいわなかったぞ」 「黙って、浅井サン」  と、大男はいい、軽々と抱いて、車のところへ、戻《もど》って行った。 「すぐ、病院へ連れて行くんでしょうね?」  藤木が、きくと、大男は、首を横に振った。 「これから、『ユニバース』号に乗せます。この船は、一時間だけ、出航を延ばして、待機してくれています」 「しかし、医者に診《み》せないと」 「『ユニバース』号にも、優秀な医者が乗っていますよ。それに、彼を、日本に残しておけば、また、襲われます。われわれが、駈けつけたので、彼等は、拷問を中止して、姿を消しましたが、次は、どうなるかわかりませんからね」  と、大男は、いった。  浅井を乗せたので、藤木の座る場所がなくなった。  藤木は、工場の前で、車を見送る恰好《かつこう》になった。  全《すべ》ての事態が、わかったようで、わかっていない感じもする。藤木に、新しい疑問と当惑を残して、浅井を乗せた車は、走り去って行った。 [#改ページ]  第九章 アメリカ大使      1  外務大臣の園井《そのい》は、突然、駐日アメリカ大使の訪問を受けた。  自動車問題は、通産相が、日本側の輸出自粛を約束したことで、一応の平静を見、防衛問題には懸案があるものの、これは、主として、防衛庁の問題であり、首相の決断の問題でもあった。  さし当って、アメリカとの間に、外交上の問題点は、ない筈だった。  長身のアメリカ大使は、通訳を交えずに話したいと、園井にいった。それだけ、秘密を要する問題なのだろうと思い、園井は、いいでしょうといった。  園井は、アメリカの大学を出ているので、英語には、自信があった。 「どんなご用か、話して頂けませんか」  と、園井は、アメリカ大使を見た。 「イスラエルの問題です」  アメリカ大使は、堅い表情でいった。  園井は、苦笑して、 「イスラエルが、また、イラクの原子炉を爆撃したというのであれば、日本としては、非難せざるを得ませんよ。アメリカが、いくら、イスラエルをかばおうとされても」 「いや。イラクの問題ではありません。私が得た情報によると、イスラエルのF15戦闘爆撃機の一小隊が、ここ二十四時間、戦闘態勢に入っているというのです」 「それが、おかしいのですか? イスラエルは、常に、非常時態勢にあるんじゃありませんか? それに、わが国と、どんな関係があるんですか?」  園井は、わからないというように、首を振った。 「このF15の小隊には、空中給油機二機も、同時に待機しているのですよ。明らかに、遠距離の目標を爆撃する目的です」 「それなら、また、イラクの原子炉じゃないんですか? ああいう暴挙は、アメリカ政府が、圧力をかけて、中止させるべきじゃありませんか。イスラエル自身のためにもならんのだから」  オフレコの気安さで、園井は、日頃《ひごろ》、いいたいと思っていたことを、口にした。  大使は、肩をすくめて、 「イラクの原子炉爆撃については、イスラエルにも、いい分があるのですが、それを、今、私は、代弁するつもりはありません。イスラエルのベギン首相は、レーガン大統領に対して、先の爆撃で、目的は完全に達成しており、ここしばらくは、再び、爆撃することはないと、約束しています。従って、目標は、イラクの原子炉ではないのです」 「イスラエルは、何といっているんです?」 「沈黙を守ったままです」 「それなら、どうしようもありませんね。第一、日本の介入する問題でもない」  園井は、そっけなくいったが、大使は、壁にかかっている世界地図に眼を向けて、 「今、アラビア海を、西に向って航行中の貨物船があります。船名は、『ラギタニア』号。九千トン。船籍は、リビアになっていますが、アラブ諸国が、資金を出し合って造ったともいわれています」 「その船が、どうかしたんですか?」 「F15の目標は、どうやら、この貨物船と思われるのです」 「なぜ、その船を? 公海上で、爆撃でもしたら、国際問題になりますよ」 「理由は、わかりません。われわれも、必死で、情報を集めているのですが、なぜ、イスラエルが、爆撃目標にしているのか、わからないのです。また、イスラエルも、F15を、待機させながら、爆撃に踏み切らないのは、この『ラギタニア』号に対して、何かの疑惑を抱きながら、確信を持てないからだと思われます」 「それで、私に、何の用なのですか?」 「イスラエル空軍が、なぜ、この貨物船を狙《ねら》っているのか、それを教えて欲しいのです。アメリカとしては、イスラエルを、これ以上、国際的に孤立させたくはありませんのでね」 「大使。優秀なアメリカの諜報《ちようほう》機関にわからぬものが、どうして、日本の外務省にわかるでしょうか?」 「しかし、この『ラギタニア』号は、日本の長崎の造船所で建造されたものですよ」      2  大使は、おもむろに、アタッシェケースの中から、何枚かの写真を取り出して、園井の前に置いた。  それは、一隻の貨物船が、長崎のK造船で建造され、進水し、完全に艤装《ぎそう》して引き渡されるまでの写真だった。 「これが、『ラギタニア』号です」 「そのようですな」  と、園井は、肯《うなず》くより仕方がない。  大使は、更に、タイプされた一通の書類を取り出した。 「これは、『ラギタニア』号の写真を、アメリカに電送して、造船工学の専門家に見せ、その意見をきいたことに対する返事です」 「なぜ、そんなことをなさったんですか? この船は、アメリカがK造船に発注したものじゃないのに」 「イスラエルが、なぜ、『ラギタニア』号に神経をとがらせているのか、それを知りたかったからですよ。一見したところ、平凡な貨物船でしかない。この建造中の写真を見ても、別に、特別な装置なり、仕掛けなりをほどこしてはいません。それなのに、イスラエルが、一小隊のF15を待機させ、この船を監視しているのが、わからなかったからです」 「それで、アメリカからの回答は?」 「こう書いてあります。この九千トンの貨物船は、その形態から見て、波切り性に劣り、設計プランに欠陥がみとめられる。中央部が、異常にふくらんでいるため、速力は、十七、八ノットが限界と思われ、高速貨物船時代には、おくれをとるだろう。この形は、海洋研究船に多くみられるもので、中央部のふくらみ部分に、実験室を設けられることが考えられるが、純粋な貨物船としては、マイナスである」 「なるほど。貨物船としては、あまり賞《ほ》められた設計ではないということですね」 「その通りです。私は、不思議でした。なぜ、注文主が、こんな時代おくれの貨物船を建造する気になったのか、また、こんな船に、なぜ、イスラエルが、神経をとがらせるのか。そこで、この船を建造したK造船に問い合せてみました」 「それで、どうなりました?」 「面白いことがわかりました。この設計は、注文主が、特に指定してきたというのです。日本の優秀な設計技術者は、この設計では、速力が出ないし、省エネ向きでないと忠告したところ、相手方は、これでいいのだと、主張したそうです。もう一つ、完成、引渡しの期日を、八月十日と、指定して来たというのです」 「期日を指定するのは、別に、おかしくはないでしょう? アメリカから注文された船舶も、たいてい、期日が指定されているものと思いますが」 「イエス。しかし、八月十日は、日本の原子力船『むつ』が、佐世保で修理がおわり、新母港に回送される日と一致するのです」 「しかし、大使、『むつ』が、実際に出発したのは、十月十八日になってからですよ」 「その通りです。そこが、一層、興味を引くのだが、この『ラギタニア』号は、八月十日に完成したにも拘《かかわ》らず、実際に引き取りに来たのは、十月十八日だったのです」 「それで、大使は、何をおっしゃりたいわけですか?」 「今、日本の新聞や、テレビでは、連日のように、原子力船『むつ』が、佐渡沖に沈んだのではないかと、書き立てたり放送したりしています」 「その通りです。大変、不幸なことですが、われわれとしては、尖閣湾《せんかくわん》沖に沈没したと考えざるを得なくなっています。引き揚げるまでは、まだ、何ともいえませんが」  と、園井は、顔をくもらせてから、眉《まゆ》を寄せて、大使の広い額《ひたい》を見つめて、 「しかし、大使、それと、今日、あなたが持ち込まれた事件と、どんな関係があるのですか?」 「この『ラギタニア』号は、実によく、『むつ』に似ています。総トン数も、ずんぐりした船形も、ブリッジその他の型状もです。それを考えると、イスラエルが、この船に神経をとがらせている理由も、おぼろげにわかって来たのです」 「私には、まだ、よく呑《の》み込めませんが」 「イスラエル政府は、こう考えているのではないかと、思うのです。佐渡沖で沈没したのは、本物の原子力船『むつ』ではなく、形のそっくりな『ラギタニア』号ではないのか。本物の『むつ』は、『ラギタニア』号に化《ば》けて、アラブ諸国に引き渡されるのではないか。しかも、ウラン燃料を積んでです」 「そんな馬鹿な——」  園井は、苦笑した。  しかし、大使は、ニコリともしないで、 「日本は、アラブから石油の供給を受けるためには、どんなことでもしかねないという不信感が、イスラエルにはあります。『むつ』は、平和な貨物実験船ですが、原子力船であるという点では、原子力潜水艦や、原子力空母と変りはありません。また、核燃料も、『むつ』には、積み込まれている。これは、直接、原子爆弾にはなりませんが、これから、原子爆弾を作ることは可能です。イスラエルは、日本が、石油を確保するために、原子力船『むつ』と核燃料を、『ラギタニア』号ということにして、アラブに引き渡したのではないかと考えているに違いありません」 「それは、とんでもない誤解です。わが国は、アラブ諸国に対して、原子力船『むつ』や、核燃料を、引き渡す約束などしたことはありません」 「しかし、大臣。イスラエルの諜報機関の能力は、アメリカのCIA以上のものを持っています。そのイスラエルが、F15で、『ラギタニア』号を爆撃しようとしているからには、何か、確証に近いものを、つかんでいるに違いありません。そして、今、ゴーサインが出るのを待っていると見ていいでしょう。もし、現在、公海上を航行中の『ラギタニア』号が、イスラエルによって爆撃されれば、大変な、国際問題に発展しかねません。イスラエルは、世界中の非難を浴び、ソ連は、それを利用して、アラブへの接近を図るでしょう。もし、『ラギタニア』号が、『むつ』でないのなら、その旨を、イスラエルに知らせる必要があります」 「ぜひ、そうして下さい」 「それなら、原子力船『むつ』は、佐渡沖に沈んでいるという証明が欲しいのですよ。イスラエルを、納得《なつとく》させられるようなです。それも、至急欲しいのです。今日中にも、イスラエルのF15が、『ラギタニア』号を爆撃するかも知れませんからね」  まるで、それが、日本の責任ででもあるかのようにいって、大使は、腰を上げた。      3  園井は、すぐ、秘書を呼んだ。 「すぐ、科学技術庁長官の中田君と、原子力船むつ開発事業団の田辺君に連絡してくれ。至急、話し合いたいことがあるというんだ」  一時間後に、外務省の大臣室に、中田と、田辺の二人が、やって来た。  二人とも、「むつ」の沈没事件以来、マスコミの追及にあって、疲れ切っていた。特に、中田の方は、元来、威勢がいい男だったから、余計に、元気のないのが、目立った。  園井は、アメリカ大使の話を、そのまま、二人に、伝えた。 「それで、お二人にきくんだが、尖閣湾沖に沈んでいるのが、『むつ』ではなく、『ラギタニア』号だという可能性もあるのかね?」 「それだがね——」  と、中田は、膝《ひざ》をのり出して、 「実は、アメリカの深海作業船が写した沈没船の写真を見た造船の専門家が、どうも、『むつ』と違うのではないかといってるんだ」 「『ラギタニア』号の話も出ているのかね?」 「出ています」  と、田辺が、いった。 「どんな風にだね?」 「専門家たちは、この沈没船は、『むつ』というよりも、『ラギタニア』号に似ているといっていました」 「すると、アメリカ大使のいったことが正しいのかも知れんのだね」  園井は、困惑した表情になった。 「しかし、大臣。尖閣湾沖の沈没船からは、放射能が洩《も》れているのです。『ラギタニア』号の筈《はず》がありません」  と、田辺がいった。 「すりかえたのが、大きな組織なら、そのくらいの工作はするだろう。下手《へた》をすると、これは、国際問題になりかねんのだ」 「『ラギタニア』号が、実は、『むつ』だとすると、どういうことになるんだね?」  中田長官が、ソファに、深々と身体をうずめて、園井にきいた。 「イスラエルの空軍が、爆撃して、沈めるだろうね」 「勝手に爆撃させたらどうだね。それが、本当は、『むつ』だとしても、表面上は、あくまでも、アラブ国籍の『ラギタニア』号なんだから」 「そう簡単にはいかんのだよ。当然、イスラエルは、非難されるだろうが、その時、イスラエルが、この『ラギタニア』号は、日本の原子力船『むつ』が仮装したもので、核燃料まで積んでいたので止《や》むを得ず、爆撃したと発表するかも知れない。そうなると、今度は、そんなことをした日本政府に非難が集ってくる」 「しかし、われわれは、全く関知しないことだよ。どこかの組織が、勝手にやったことなんだ」 「中田君、国際常識で、それが通ると思うかね? 『むつ』は、日本が、国家的事業として建造したものだし、その運航には、事業団が当っているんだよ。それが、盗まれたというのに、政府は、全く関知しないといったんでは、通用しないんじゃないかね。日本は、石油欲しさに、こんなことまでするのかという評判が立つに決っている。それだけじゃない。今、原発に使う核燃料は、アメリカから供給されているんじゃなかったかね?」 「その通りだよ。だから、アメリカから、監査官が来て、一本一本、チェックしている」 「その核燃料も、アラブへ渡ってしまったとなれば、アメリカに対しても、わが国の立場が悪くなるのは、まぬがれないよ。せっかく、核燃料を供給してやっているのにそれを、好ましくないアラブ諸国に、渡してしまうということでね」 「しかし、どれも、われわれの関知しないところで、行われたことなんだが」  中田が、駄々《だだ》っ子のように、首を振った。  汗っかきの長官は、興奮してくると、さほど暑くもないのに、もう、額《ひたい》に、ぶつぶつと汗が、ふき出していた。  園井は、肩を落として、 「それは、通らないんだよ。われわれ政府の責任になってくるんだ」 「どうしたらいいのかね?」  中田は、ハンカチで、しきりに汗を拭《ふ》きながら、園井にきいた。 「一刻も早く、解決しなければならない。明日にも、いや、一時間後にも、イスラエルのF15が、公海上の『ラギタニア』号、実は、『むつ』を爆撃するかも知れんのだ。そうなってからではおそいと、アメリカ大使は、忠告に来てくれたわけだよ」 「しかし、大臣、イスラエルとしても、今、中東に向って航行中の船が、『ラギタニア』号なのか、それとも、『むつ』なのか、判断は、できかねるんじゃありませんか?」  と、田辺がいった。  園井は、笑って、 「私も、同じことを、アメリカ大使にいってみたが、甘いといわれたよ。イスラエルの諜報機関は優秀だからというんだ。科学技術庁も、原子力船むつ開発事業団も、まだ、尖閣湾沖に沈んだのが、『むつ』だとは、認めていないんだろう?」 「正式には、認めておらん」  と、中田が、怒ったような声でいった。 「理由は、放射能かね?」 「『むつ』だと認めれば、核燃料を積んで、原子炉による実験航行をしていたことが、明らかになってしまうからね。これは、政府の命取りになりかねないんだ。しかも、そのために、原子炉が爆発して、沈没したのだということになれば、マスコミの非難が、政府に集中する。原子炉は、危険だということになり、われわれが建造しようとしている原発政策にも支障を来たす」 「確かにね」 「どうも、『むつ』とは違うらしいとなってきて、実は、ほっとしていたんだ。『むつ』は、日本赤軍のような凶悪な組織によって、乗っ取られ、彼等は、『むつ』が、尖閣湾沖に沈んだように見せかけるために、形の似た船を沈めた。あの放射能は、彼等が、犯行をかくすために、どこからか、例えば、東海村あたりから、ウラン燃料を盗み出して、沈めておいたものだと、発表しようとも、考えていたんだよ。そうすれば、われわれは、マスコミの非難を避けられる」 「昨日までなら、それも賢明なやり方だったかも知れないが、アメリカ大使の話があった今は、まずい方法ということになるよ。君が、そうマスコミに発表すれば、今、公海上にいる『ラギタニア』号が、『むつ』であることを、証明するようなものだからね。間違いなく、イスラエルのF15は、『ラギタニア』号を爆撃して、沈没させ、そして、それは、国際問題になる」 「あんたは、外務大臣だから、国際的な影響ばかり考えてるが、私は、日本の原子力行政のことを考えなきゃならないんだ。それに、マイナスになるようなことは出来ん。あんたのいうことに従えば、尖閣湾沖に沈んでいるのは、原子力船『むつ』だと、記者たちに発表しろというんだろう?」 「日本政府が、正式に発表すれば、イスラエルも、それを信じて、『ラギタニア』号に対する爆撃を中止する筈だ」 「しかし、洩れている放射能を、どう説明するんだ? 沈没したのは、原子力船『むつ』です。しかし、洩れている放射能のことは、何も知りません。そんな発表を、マスコミが、信じると思うかね?」 「そうだな」 「政府は、国民の声を無視して、秘密裏に、核燃料を積み込み、揚句《あげく》の果てに、原子炉が爆発して、沈没したと書き立てるよ。私一人が、辞職すればすむんなら、私は、いさぎよく、辞《や》めてやるさ。だが、それじゃあ、すまん。原子炉は危険なものだということになって、さっきもいったように、政府全体の責任になるし、原発行政も停滞してしまう。まずいことになるよ」 「それじゃあ、国際問題になって、わが国が、国際的非難を浴びてもいいのかね?」  園井は、眼鏡の奥の眼を光らせた。  中田は、黙ってしまった。  尖閣湾沖に沈んでいるのが、「むつ」に違いないと、連日のように、新聞が書き立てている。  中央テレビが、アメリカの深海作業船「ネプチューン」の撮《と》った写真を放送してから、その声は、大きくなった。  いぜんとして、沈没船を、「むつ」とみとめない政府に対しての批判は、強まるばかりである。 〈「むつ」には、核燃料は積み込まれていなかった。従って、放射能を出している尖閣湾沖の沈没船は、「むつ」とは考えられない〉  これが、政府の発表だった。今まで、これで、押し通してきている。  マスコミは、見えすいたいい逃れだとしていたが、沈没船が、「むつ」ではないという造船技術者たちの判断は、科学技術庁や、原子力船むつ開発事業団にとって、強力な味方だった。 〈原子力船「むつ」は、何者かの手によって、奪い取られた。犯人は、大きな組織と思われる。彼等は、その犯行を隠すために、「むつ」によく似た船を尖閣湾沖に沈め、その際、盗み出したと思われる核物質を船内に放置したものと思われる。政府は、目下《もつか》、全力をあげて、「むつ」の行方と、犯人たちの追及に当っている〉  これが、用意されていた次の声明文だった。証人は、造船の専門家たちである。  これによって、「むつ」に、核燃料を積み込んだという非難はかわせるし、何かといえば、政府を非難するマスコミの鼻を明かすことが出来ると、中田は、考えていたのである。 〈尖閣湾沖の沈没船は、「むつ」ではない〉  と、発表した時の記者たちの顔を見るのが楽しみだとも思っていたのだ。  それが、園井の言葉で、駄目《だめ》になってしまった。それどころか、一刻も早く、尖閣湾沖の沈没船が、「むつ」だと認めろという。それは、マスコミに対して、悪うございました、確かに、あれは「むつ」でしたと、平身低頭して謝《あやま》るようなものではないか。「むつ」だと認めることは、秘密裏に、核燃料を積み込んだことも、告白することになる。  その結果は、明らかだ。  新母港までの回航を利用して、念願の原子炉による実験航行を実施する計画を立てたのは、科学技術庁長官の中田である。東海村から、秘密裏に、核燃料を運び込ませたのも、中田である。  しかし、首相にも、それは、伝えてあった。  だが、こんなことで、内閣総辞職になっては困る。野党を喜ばせるだけだとなれば、中田が、ひとりで責任をとって、辞《や》めるより仕方がないだろう。 「どうも、割りが合わんな」  と、中田は、唸《うな》り声をあげた。  園井は、首を振った。 「しかし、アメリカを怒らせることも、得策じゃないね。しかも、『ラギタニア』号が爆撃されれば、アラブは、日本政府に怒りを向ける心配もある」 「なぜ、アラブが、日本に怒りを向けてくるんだね? 勝手に、『ラギタニア』号と『むつ』をすりかえて、原子力船と、核燃料を持ち去ろうとしているのに」 「イスラエルが、あの船を爆撃したのは、『むつ』だという情報を、日本が流したからだという疑惑を、アラブが持つに違いないからだよ」 「そんなことは、われわれの知ったことじゃない。アラブが、過激派の連中とでも手を結んで、『むつ』を奪い取っていったんだ。なぜ、その結果について、われわれが、責任を負わなきゃならんのだ?」 「そりゃあ、理屈だがね」 「理屈を通しちゃいけないのか?」 「数年前の石油パニックを思い出してくれ。オペックが、石油の対日輸出量を削減したとき、勝手に戦争をやっておきながらと、思ったものだよ。だがね、時の外務大臣が、オペック諸国を回って、頭を下げて歩いたんだ。それが、外交というものだ。それに、もう一つ考えておかなければならないことがある」 「何だね?」 「三十二人の『むつ』の乗組員だ」 「彼等は、どこにいるんだ?」 「わからんが、『ラギタニア』号が、『むつ』だとすれば、彼等も、この船に乗っていると思わざるを得ない。もし、イスラエルのF15が、『ラギタニア』号を沈めれば、彼等も死ぬことになる」 「彼等が、アラブに協力して、『むつ』をすりかえたのかも知れんじゃないか」  中田が、吐き捨てるようにいうと、田辺が、手を振って、 「そんな筈はありません。船長以下、全員、立派な人々です。船員たちも、原子炉関係の技術者たちもです。私は、今でも、彼等を信じています」  と、むきになっていった。  中田も、そういわれると、 「確かに、優秀な技術者たちばかりだが——」  と、語調が低くなった。 「何度もいうが、一刻も早く、この件を片付けなければならんのだ」  園井が、いった。  園井の脳裏には、撃沈される一隻の貨物船の姿が浮んでいた。戦時中、海軍にいた園井には、船が、空からの攻撃に、いかに無力であるか、よくわかっている。武装もない船なら、なおさらだ。  そして、その事件が作り出すだろう国際的な波紋の大きさを想像した。 「私の一存じゃ決められんよ」と、中田は、最後の抵抗を示すようにいった。 「明日の閣議で、総理に決めて貰《もら》おうじゃないか。私の進退が、かかっているんだからね」      4  藤木は、博多に戻《もど》った。  すでに、夜中に近い。浅井は、中東へ向うマンモスタンカー「ユニバース」号に乗ったのだろうか? 乗ったとすれば、今は、東シナ海あたりだろうか。  そんなことを考えながら、借りているホテルに入った。 (有島純子は、どうしているだろうか? 原カメラマンの死に関係していると思われる浅井が、マンモスタンカーに乗って、日本を離れたと知ったら、さぞ、がっかりするだろうな)  藤木は、ドアを開けて、部屋に入る。  スイッチを押した瞬間、藤木は、その場に立ちすくんだ。  男が二人、部屋の中にいたからである。  恐怖よりも、奇妙なことに、藤木は、こんな光景を、昔、映画で見たなと思った。それは、どんな映画だったろうか。  ベッドに腰を下している小柄な男は、どう見ても、日本人だった。  椅子《いす》に腰かけているのは、痩《や》せた、金髪《ブロンド》の白人だった。  二人とも、三十代に見える。 「驚かせて、申しわけありません」  と、日本人が、丁寧《ていねい》にいった。  白人の方は、黙って、藤木を見ている。  暴力的な雰囲気《ふんいき》は、なかった。  そのことに、少しばかり、藤木は、ほっとしながら、 「君たちは、何者なんだ?」 「あなたの友人です。少くとも、友人になりたいと思っている者です」 「友人が、他人《ひと》の部屋に、無断で入り込むのかね?」 「どうしても、あなたと、内密にお話ししたかったからです」  と、日本人は、あくまでも、物静かにいった。  藤木は、いつでも、ドアを開けて逃げられるように身構えながら、 「その話というのは?」 「あなたは、原子力船むつ開発事業団で、田辺理事長の秘書をされている。名前は、藤木|功《いさお》。年齢二十九歳」 「僕の履歴に興味があるわけじゃないんだろう?」 「あなたは、『むつ』が行方不明になってから、ずっと、探し続けて来られた。佐渡に行ったことも知っています」 「それで?」 「『むつ』は、今、どこです?」 「どこって、佐渡の沖に沈んでいるよ。テレビのニュースにだって、はっきりと、海底に沈んでいる『むつ』が、写しだされたじゃないか」 「それを信じておいでですか?」 「他に、どこに、『むつ』がいるというんだい? 放射能洩れがひどいのは、恐らく、原子炉による実験航行の時、炉がこわれたんだと思うね」 「しかし、それなら、なぜ、博多に来たり、長崎に行ったりされるんですか?」 「私は、有給休暇を、とってるんだ。九州へ遊びに来たって、いいじゃないか?」 「長崎では、『むつ』の浅井一等航海士と会っていますね。佐渡で沈んだ筈の人間にです」 「彼は、たまたま、『むつ』が沈没する時、助かって、岸に泳ぎついた、といっていたよ。浅井を、殴ったりしたのは、君たちか?」  藤木は、二人の男を見すえたが、日本人は、彼の質問には答えず、 「われわれが欲しいのは、正確な情報です。あなたが、それを提供してくれれば、お礼は十分に差し上げます」  と、いった。  それまで、黙っていた金髪の男が、脇《わき》に置いてあったアタッシェケースを持ち上げて、テーブルの上に置いた。  日本人が、ぱちんと音を立てて、ふたを開けた。  中には、ぎっしりと、一万円札の束が詰まっていた。 「全部で、二千万円あります。あなたが、われわれに話してくださる内容によっては、これを、そっくり差しあげます。何の条件もつけずにです」 「二千万円か——」 「悪い取引きではないと思いますがね」 「何をしゃべれというんだ?」 「原子力船『むつ』は、核燃料を積んで、いま、どこにいるかということです。われわれは、今、アラビア海を航行中の『ラギタニア』号が、『むつ』ではないかと考えています。逆に、佐渡に沈んでいるのは、『ラギタニア』号ではないのかとですよ」 「それで?」 「どうなんですか?」 「イエスといったら、この二千万円は、僕のものになるのか?」  と、藤木はきいた。  金は、のどから手が出るほど欲しかった。金さえあれば、何でも出来る世の中である。逆に、金がなかったら、何にも出来ない世の中でもある。 「イエスだけでは、困ります」  と、日本人は、微笑して、 「『ラギタニア』号が、『むつ』である証拠が欲しい。間違いないという保証です。それも、あと十二時間以内に欲しいのですよ。あなたなら、その証拠を持っている筈です」 「その『ラギタニア』号が、『むつ』だとしたら、どうする気なんだ? アラビア海を航行中だと、どうしようもないんじゃないか?」 「そのあとのことは、あなたの知らなくていいことです。あなたは、ただ、二千万円と引きかえに、情報を下さればいい。佐渡で沈んでいるのが本物の『むつ』なのか、それとも、アラビア海を航行中の『ラギタニア』号が、本物の『むつ』なのかという情報です」 「僕は、そんなことは知らないんだ」  と、藤木がいうと、日本人は、外人のように、肩をすくめて、 「あなたは、あまり、嘘《うそ》がお上手《じようず》じゃないようですね。あなたの行動そのものが、知っていると、いっているようなものです。今日まで、あなたが調べたことを、全《すべ》て話してくれませんか」 「僕はね——」  と、いいながら、藤木は、アタッシェケースの中の札束を見、二人の男を見た。 「何も知らないんだ。君たちに提供できる情報など、持ち合せていないよ」 「われわれは、そうは思っていないのです。私も、あなたと同じ日本人です」  と、小柄な男は、いった。  藤木は、黙って、彼を見つめた。 「同じ日本人として、お願いするのです。私たちは、どの国の人間にも増して、正義を愛する国民です。ここに、小さな国家があります。二千年の民族の放浪の末に、ようやく作りあげることの出来た安住の地です。その国は、凶暴な敵に囲まれています。彼等は、この小さな国を、滅亡させることだけを考えています。これは、われわれがいっているのではなく、彼等の指導者が明言しているのです。この地上から、われわれを追放するまで、戦いを止《や》めないとです。私たちの国は、絶えず、危機にさらされています。その危機を一つ一つ潰《つぶ》していかない限り、私たちの生存は、たちまちのうちに、否定されてしまいます」 「そのことと、私と、どんな関係があるんだ?」 「ここ一週間の間に、また、一つの危険な知らせが入りました。彼等が、小型原子炉と、核燃料を、入手しつつあるという知らせです。このことは、あなたも、よくご存知の筈です。小型の原子炉も、核燃料も、小型原子炉を積んだ船も、そのままでは、武器ではありません。しかし、強力な武器になる可能性はあります。もし、彼等の手の中で、そうなった時、私たちの国は、大きな脅威にさらされます。私たちは、そうなる前に、排除しなければなりません」 「そう思っているのなら、勝手にやったらいいじゃないか。なにも、僕に質問することはない」 「私たちが、暴力集団なら、そうするでしょう。しかし、私たちが、求めるものは、戦争ではなく、平和です。私たちに対する脅威は、どんな手段をとっても除去しますが、それ以外のものとは、仲良くしていきたいのです。今、アラビア海を航行中の一隻の船が、本当の貨物船であるなら、私たちは、何も葬る気はありません。乗っている船員たちも、傷つけたくはない。しかし、もし、この船が、実は、日本の原子力船『むつ』であり、核燃料も積んでいるとすれば、これを、撃沈せざるを得ない。あなたは、『ラギタニア』号の正体を知っている筈です。それを教えて頂きたい」 「なぜ、浅井にやったように、僕を拷問《ごうもん》しないんだ?」 「それには、二つの理由があります。一つは、あなたが、話のわかる理性的な方だと思うこと。もう一つは、あなたの地位です。原子力船むつ開発事業団の理事長秘書という地位のためです」 「その地位に、敬意を表してくれたわけかね?」 「そうです。そして、お願いがあります」 「どんなことだね?」 「それは、私がいおう」  と、今まで黙っていた金髪の男が、あざやかな日本語でいった。 「あなたは、理事長の秘書をしてこられた。それで、あなたから、ミスター・田辺に、進言して頂きたい」 「何をだね?」 「『ラギタニア』号が、もし、原子力船『むつ』だとすれば、アラブ諸国は、日本の『むつ』を、不法に、奪い取ったことになる。そうでしょう? 国家の権益が侵害されたのです。当然、アラブ諸国に対して、その返還を求め、非難声明を、世界に向けて発表すべきです。その旨を、あなたから、ミスター・田辺に進言して頂きたいのです。これも、至急やって頂きたい」 「その結果、どうなるんだね?」 「その結果、『むつ』が、日本に返還されれば、われわれとしては、脅威は消えるわけですから、何もせずにすみます。それでも、彼等が、言を左右にして、返還しない場合は、撃沈します。しかし、日本政府の非難声明があれば、世界の批判は、海賊行為を働いたアラブ諸国に集るに違いありません」 「————」 「ミスター・藤木。これは、日本にとっても、最良の道だと思います。われわれが、『ラギタニア』号を撃沈し、この船の正体は、原子力船『むつ』だと発表した場合、それを黙過したことで、日本政府は批判されますよ。核燃料を、黙って、原子力船ごと、アラブに渡したことについてもです。ここに、便箋《びんせん》と封筒があります」  と、相手は、藤木の前に、それを並べて、 「すぐ、理事長あてに、進言する手紙を書いて下さい。日本政府が、『ラギタニア』号が、『むつ』であると認め、アラブ諸国の海賊行為を非難してくれれば、われわれの爆撃は、正当化されます。予告したあとで、攻撃できるということです。もし、『ラギタニア』号の正体が、『むつ』ならば、『むつ』に乗っていた人々も、『ラギタニア』号内にいるでしょう。その人たちに、避難する余裕が与えられます。しかし、われわれが、奇襲攻撃せざるを得ない場合は、その日本人たちは、船と運命を共にせざるを得なくなります。あなたには、それを防ぐ義務がある筈ですよ」 「僕が、嫌《いや》だといったら、どうなる?」 「ノーとは、おっしゃれない筈です。それほど、事態は、切迫しているのです。『ラギタニア』号が、もっとも近いアラブの港に入港するまで、あと四十八時間です。それまでに、全《すべ》てを解決しなければなりません。われわれの国でも、軍部は、強硬派が握っています。このまま、不明のまま時間が過ぎていった場合、空軍が『ラギタニア』号を、奇襲して撃沈する可能性は強いのです。その時、間違いなく、日本人の乗組員は、全員、死ぬことになりますよ。それは、われわれの望むことではありませんが」      5  翌日の閣議は、最初から、重苦しい空気に包まれた。 「アメリカ大使の要望とあれば、考慮せざるを得ないがねえ。どうしたものか——」  首相は、いつものように、要領を得ないいい方をした。 「新聞記者を集めて、声明を出すのは簡単ですが、中田君のいうように、政府の責任問題になりますね。秘密裏に、核燃料を、『むつ』に積み込んだということで」  と、官房長官が、難しい顔でいった。  その中田は、赧《あか》い顔で、 「私一人が、辞職すればすむことだが、どうも、釈然とせん。あそこに沈んでいるのは、明らかに、『むつ』じゃないんだから」 「しかし、われわれが黙っていると、イスラエルは、アラブの『ラギタニア』号を、爆撃すると、大使は、いっているんだから」  外務大臣がいった。 「勝手に、爆撃させたらどうかね」  運輸大臣が、面倒くさそうにいった。 「そうもいかんだろう。だから、大使が、わざわざ忠告してくれたんだよ」  と、首相が、いった。  時間がたっても、なかなか、結論が出ない。  そこへ、原子力船むつ開発事業団の田辺理事長が、「おくれまして、申しわけありません」と、頭を下げながら、入って来た。事業団としての意見を聞くということで、特に呼ばれていたのである。 「実は、出がけに、このような手紙が、私あてに参りましたので」  田辺は、一通の手紙を、持ち出した。 「私の秘書に、藤木という男がいるのですが、その男からのものです。内容は、突拍子もないのですが、どこかに、真実性も感じられるので、ご披露《ひろう》したいと思います」 「『むつ』に関係のあることかね?」  首相が、遠くからきいた。 「『むつ』、イスラエル、アラブに関係のある内容になっています」 「それなら、読んでみなさい」  と、首相は、いった。  田辺は、やや、ふるえる声で、藤木からの手紙を読み出した。 〈私は、今、九州の博多で、イスラエルの諜報《ちようほう》機関に関係があると思われる人物に会っています。  その一人は、ユダヤ人、一人は、明らかに日本人です。彼等は、次のようなことを、私にいい、田辺理事長に伝えてくれるように頼みました。  イスラエルは、今、アラビア海を西に向って航行中の「ラギタニア」号に対して、重大な関心を抱いている。理由は、この船の正体が、日本の原子力船「むつ」と、見られるからである。「むつ」であるならば、原子炉を備え、しかも、核燃料が積まれている。かかる船が、アラブに渡ることは、イスラエルとしては、座視することが出来ない。  そこで、日本政府に次の行動をとって貰《もら》いたい。  原子力船「むつ」が、アラブによって、不当に奪い取られたことを発表し、直ちに、その返還を要求する。これは、四十八時間以内に行われなければならない。なぜならば、「ラギタニア」号は、四十八時間後には、アラブ諸国の領海内に達してしまうからである。  もし、この声明が、日本政府によって出された場合、イスラエルの「ラギタニア」号に対する爆撃は、予告したのちに行うことが可能で、船内の乗組員を、救助することが出来る。日本政府が、この声明を出さぬ場合も、イスラエルは、確実な情報が入れば、「ラギタニア」号を爆撃するが、この場合は、乗組員の救助は不可能である。  二人は、このようにいっています。私は、この二人が、でたらめをいっているとは思えません。  私も、個人的に調べた限り、「ラギタニア」号が、「むつ」であることは、確かです。とすると、「ラギタニア」号には、「むつ」の乗組員三十数名が、乗っていると見なければなりません。イスラエルが、奇襲して沈没した場合、彼等は、恐らく、助からないでしょう。  従って、私は、日本政府が、アラブに向って、「ラギタニア」号、即ち、「むつ」の返還を要求して頂きたいと思います〉 「そうだ。アラブに、『むつ』の返還を要求すればいいんだ!」  と、中田が、大声を出した。他の閣僚が黙っていると、中田は、ひとりで張り切って、 「『むつ』を、アラブが奪って行ったとすれば、その海賊行為に対して、その行為を非難し、返還を要求するのは、当然じゃないか」 「そうは、簡単にはいかんだろう」  外務大臣の園井が、たしなめるようないい方をした。  若い中田は、むっとした顔で、 「その理由は? 当然のことを要求するのに、何の遠慮がいるんだ?」 「返還を要求しても、向うが、『ラギタニア』号は、『むつ』ではないと主張したら、それを押して、確める方法はないよ」 「尖閣湾沖に沈んでいる『むつ』は、他の船だと専門家はいっているじゃないか」 「だからといって、それが直ちに、『ラギタニア』号が、『むつ』だという証明にはならんし、アラブが、認める筈《はず》がない。われわれが、アラブに、『むつ』が強奪されたと発表し、その結果、イスラエル空軍に、『ラギタニア』号が、撃沈されてみたまえ。どうなると思うね。アラブ諸国は、一致して、日本を敵視することになるのは、眼に見えているじゃないか。日本に、石油を売らないとなったら、どうするね? それより、むしろ、ここは、『むつ』は、尖閣湾沖に沈んだと発表し、アラブに恩を売った方がいい。アメリカだって、それを望んでいるんだから」 「しかし、なぜ、アメリカ大使は、イスラエルの希望することと、逆のことを、日本に希望したんだろう?」  首相が、わからないというように首をふると、園井が、眼鏡の奥の細い眼で、ニッと笑って、 「アメリカ政府だって、最近のイスラエルの乱暴なやり方には、困惑しているからでしょう。それに、アラブ諸国を敵に回したくもない。中東が、わが国の生命線であるように、アメリカにとっても、生命線でしょうからね」 「そうすると、アメリカにも、恩を売ることが出来るというわけだね」  首相の苦虫をかみつぶしたような顔が、初めて、少し、明るくなった。 「アメリカと、アラブの両方に、恩を売ることが出来れば、こんな上手《うま》い話はないじゃないか」  首相が、はしゃいだ調子でいうと、科学技術庁長官の中田が、顔を真っ赤にして、思いっきりテーブルを叩《たた》いた。  近くにあった灰皿《はいざら》が、床に転げ落ちるくらいの激しさだった。 「その代り、日本の原子力行政は、めちゃめちゃになりますよ。それでもいいんですか? 総理。尖閣湾沖に、『むつ』が沈んだことを認めるということは、二つのことを認めることなんです。政府は、国民を欺《だま》して、ひそかに、核燃料を『むつ』に積み込んだということ、それと、原子炉が爆発して沈んだということです。やっと、国民から、核アレルギーが消えかかっているというのに、これで、元のもくあみになってしまいますよ」 「原子炉爆発は、認める必要はないだろう? 沈没の原因は、わからないということにすればいい」 「そんなことが出来ると思いますか? 海に洩れた放射能を、どう証明するんですか? 現に、海水が、汚染されているんですから」 「じゃあ、中田君は、どうしたらいいというのかね?」  園井外務大臣が、小田原評定に、うんざりした顔で、きいた。 「私にも、わからん」  と、中田が、怒ったような声でいった。  首相は、また、決心がつきかねる顔になって、 「防衛庁長官。君が見て、イスラエルは、『ラギタニア』号を爆撃すると思うかね?」  と、きいた。  防衛庁長官の小野木《おのぎ》は、眼をしばたたいて、 「なにぶんにも、イスラエルの動きについての情報には乏しいものですから。アメリカ大使が、いうのなら、イスラエル空軍が、作戦準備に入っていると見ていいんじゃないでしょうか。イスラエルは、前にも、イラクの原子炉を突然、爆撃したことがありますから」 「われわれが、尖閣湾沖の沈没船が、『むつ』だと、発表しても、イスラエルは、『ラギタニア』号を爆撃するんじゃないでしょうか?」  と、恐る恐る、いったのは、田辺理事長だった。 「藤木の手紙を読むと、そんなニュアンスが感じられるのですが」 「そうだ。イスラエルは、われわれがどうしようと、『ラギタニア』号を、爆撃する気でいるんだよ。それなのに、何も、政府のマイナスになるような声明を出す必要はないよ」  と、中田が、勢いを得て、大声を出した。 「私は、そうは思わんね」  と、いったのは、園井だった。 「なぜだね?」 「アメリカの大使が、『むつ』が沈んだという政府声明を出してくれといったのは、それが出れば、イスラエルを説得して、『ラギタニア』号の爆撃を止めさせる自信があるからだと思う。それだけの確信がなければ、わざわざ、私に会いに来たりはしないよ」 「イスラエルは、アメリカ大使が、こういう申し入れをしたことを、すでに知っていると思うね」  と、官房長官がいった。 「私も、同感だ」  と、園井が、いった。 「だから、それを防ごうと、こんな手紙を、事業団の人間に書かせたんだと思う」 「とすると、やはり、日本政府としては、『むつ』は、沈没したと言明した方が、得策ということになるかね」  首相がいうと、中田は、猛然と、 「そんな想像だけで、政府の方針を決めて貰《もら》っては困るね」  と、反抗した。  首相は、その勢いに辟易《へきえき》した。 「まだ、時間がある。もう少し、考えてみよう」  と、逃げた。 [#改ページ]  第十章 タンカー      1  藤木は、田辺理事長あてに、意見書めいたものを書いたが、彼が心配なのは、浅井をはじめとする「むつ」の乗組員の安否だった。  日本人と白人の二人組は、藤木が、手紙を書いて投函《とうかん》するのを見届けると、どこかへ、消えてしまった。  代りに、ホテルに、訪ねて来たのは、有島純子だった。 「まだ、博多にいたんですか」  と、藤木がいうと、純子は、 「あなたのお友だちの浅井さんは?」  と、きいた。 「昨日の夕方、中東行きのマンモスタンカーに乗ってしまいましたよ。あなたにも、会わせたかったんですが」 「密出国ですわね?」 「そうですね。警察に知らせますか?」  藤木がきくと、純子は、笑って、 「知らせても、仕方がないでしょう。それより、昨日の夕方というのは、確かですの?」 「ええ。昨日の午後六時に、長崎を出港した『ユニバース』号です。しかし、それを聞いて、どうするんですか?」 「浅井一等航海士に会って、取材したいんです」 「取材するといったって——」  と、藤木は、肩をすくめて、 「彼は、もう、海の上ですよ。それに、タンカーは、客船のように、途中、寄港はしませんからね。どうやって、浅井をつかまえるんですか?」 「タンカーは、長崎港を出たあと、沖縄まで、列島沿いに、南下して行くんです。追いかけられないことはありませんわ。一緒に行きましょうよ」 「どこへ?」 「まず、福岡空港。無理には、おすすめしませんけど」  純子は、腰を上げた。  藤木は、ただ、あっけにとられていたが、急に、 「待って下さい」  と、声をかけた。  藤木も、もう一度、浅井に会いたかった。彼に聞きたいことの半分も、聞いていなかった。それに、イスラエルの動きも、教えてやりたい。 「どうやって、浅井をつかまえる気なんです?」 「とにかく、沖縄へ飛ぶつもりですわ」 「沖縄へ行ったら、彼がつかまるんですか?」 「それは、やってみなければわかりませんわ」  純子は、事もなげにいった。  藤木は、その逞《たくま》しさに、圧倒されるのを感じながら、 「私も一緒に行こう」  と、いった。  どうせ、原子力船むつ開発事業団は、辞《や》めなければならないだろう。それならば、やりたいようにやって、あとに、悔いを残さぬ方がいい。  二人は、タクシーを飛ばして、福岡空港に行き、一番早い、沖縄行の飛行機に乗った。  午前十一時二十五分発の全日空便である。  那覇《なは》空港に着いたのは、午後一時丁度だった。  九州も、すでに初冬の気配だったが、さすがに、沖縄には、まだ、夏が残っていた。ぎらぎらと、頭上から照りつけてくる太陽には、夏のなごりがある。 「これから、どうする積りですか?」  ロビーに出てから、藤木が、きいた。 「ヘリコプターを借りて、タンカーを追いかけるんです」 「ヘリで? どこに、そんなヘリがいるんです?」  藤木は、また、あっけにとられて、純子を見た。彼が、今まで働いていた役所の中には、絶対に見られないタイプの女であり、考え方だった。 「確か、この近くに、遊覧用のヘリコプターがあった筈《はず》ですけど」  純子は、忙しく空港周辺を歩き回り、たちまち、「那覇遊覧航空」を見つけ出した。  セスナ二機、ヘリコプター二機を持つ会社である。 「ヘリで、飛んで貰《もら》いたいの」  と、純子は、営業所長に、申し込んだ。藤木は、まるで、ボディガードみたいに、ただ、彼女の傍《そば》に立っているだけである。それが、別に、苦痛ではなかった。むしろ、楽しかった。 「どこまでだね? 中城《なかぐすく》あたりまでなら飛べるがね」  濃いひげを生やした営業所長が、沖縄の地図を見ながらいった。 「あの大きいほうのヘリの航続距離はどのくらいなの?」 「だいたい、六百キロだね。片道三百キロだが、安心して飛べるのは、二百キロかな。宝探しでもやるのかね?」 「まあ、そんなものね。海の上で、船を一隻見つけて貰いたいの」 「船だって? 沈没船を見つけたいんなら、ここより、サルベージ会社の方にかけ合った方がいいね」 「そうじゃないわ。現に動いている三十万トンのマンモスタンカーよ。今、沖縄の近くを、中東に向って、走っている筈だわ」 「それなら、船会社にきけば、簡単にわかるんじゃないかね? 別に、ヘリを飛ばして探す必要はないだろう?」 「船会社には、もう電話できいたわ。この近くの地図はない?」 「ここにあるよ」  営業所長が、机の引出しから、沖縄の地図を取り出すと、純子は、近くにあった赤鉛筆で、沖縄本島西の海に、ぐいと、線を引いた。 「これが、三十万トンのマンモスタンカー『ユニバース』号のだいたいの航路よ。この船を、空から見つけて貰いたいの」 「見つけて、どうするんだね?」 「写真に撮《と》りたいのよ」  純子は、肩から下げたカメラを、軽く、ゆすって見せた。そのカメラは、死んだ原カメラマンが愛用していたものだった。 「取材か何かかね?」 「そう。雑誌記者」  純子は、社名の入った名刺を、所長に見せた。 「なるほど」 「お金は、いくらでも払うわ。ひょっとすると、大スクープになるのよ。だから、手伝って欲しいわ」 「海へ出て行くのは、危険だが、それも、金次第だね」 「ここに、五万円あるわ」  純子は、一万円札を五枚、テーブルの上に並べた。 「これじゃあ、とても、とても。一時間十万円は貰わないとね」 「僕も出そう」  藤木が、財布から八万円抜き出して、テーブルにのせた。 「上手《うま》く、タンカーが見つかったら、うちの社からも、十万や二十万の謝礼は出るわ」  と、純子が、いい添えた。  陽焼《ひや》けした顔で、営業所長は、考えていたが、 「オーケイ。海の散歩に出かけよう」      2  ベル二〇六Aヘリコプターに、藤木たちは、乗り込んだ。  二枚の回転翼を持ったこのヘリコプターは、座席数五、最大速度二百二十九キロ、航続距離は、六百五十キロである。五千メートルの高度まで上昇することが可能だった。  操縦するのは、さっきの営業所長である。  ベルトをしめ終ると、ベル二〇六Aは、きらりと回転翼を光らせて、簡単に地面を離れた。  七百メートルの高度まで上昇すると、一路、東シナ海に出た。  眼下に見えていた沖縄本島の地面が、後方に消え去り、白く波の砕け散るリーフが見え、それも見えなくなると、あとは、コバルトブルーの海だけになった。 「すぐ見つかるかしら?」  と、純子が、背後から、所長にきいた。 「タンカーの航路は、決っているからね。それに、おれが改めて、海上保安庁に電話で確めてみたら、確かに、『ユニバース』号というタンカーは、今日の午後三時に沖縄沖にくるということだった。多分、すぐ見つかる筈だよ」  だが、目ざすタンカーは、なかなか見つからなかった。  ふいに、白い航跡が見えた。が、それは、南下するアメリカ海軍の巡洋艦だった。  その船影が視界から消えたところで、今度こそ、一眼で、大きなタンカーとわかる船が、見えてきた。  ヘリが近づいていく。  船影が、次第に、はっきりしてきて、「ユニバース」という船の名前も読めた。 「この船だね」  と、所長がいい、速度をしぼって、船と平行に飛ばせながら、 「どの角度で、写真を撮《と》りたいんだね?」 「あの船に、おりたいの」 「何だって?」 「後部甲板に、ヘリマークが描いてあるわ。あそこになら、ヘリがおりられると思うんだけど」 「おい。よしてくれよ!」  所長が、大声を出した。 「ねえ。おりられるんでしょう?」 「そりゃあ、おりられないことはないけど、おりて、どうしようというんだ?」 「あの船に乗ってる人にインタビューするのよ」 「そんな、バカなことには、つき合えないよ。すぐ、空港へ引き返す」 「それなら、飛びおりるわ」  純子は、右手を伸ばして、ドアを開けようとした。  藤木も、びっくりしたが、操縦している所長も、真っ青な顔をして、振り返った。 「飛びおりたら、死ぬぞ」 「もっと高度を下げてくれたら、下は、海だから、助かるかも知れないわ。それに、あの船だって、人間が海に落ちたとわかれば、停船して、助けあげてくれるかも知れないから」 「そんなの無茶だよ」 「私はね。この取材に、命を賭《か》けてるの」  純子は、必死の顔でいった。  操縦している所長は、当惑してしまって、藤木に、 「どうかしてくれないかね」 「僕には、どうしようもないよ。この人の上司というわけじゃないんだから」  と、藤木は、いった。 「しようがねえな」  所長は、小さく舌打ちをし、眼の下を南下して行くタンカーを見下した。 「無断で、着船して、文句をいわれるんじゃないかい?」 「大丈夫よ。まさか、殺されやしないわ」  純子は、元気な顔でいった。 (いざとなれば、女の方が、度胸がすわるんだな。それとも、彼女の記者根性というやつだろうか?)  と、藤木は、純子を見つめた。 「仕方がない」  と、所長は、あきらめ顔で、 「一丁《いつちよう》、やっつけるか。その代り、海に放り込まれても、おれは知らんぞ」      3  ヘリは、速度を調整しながら、慎重に、「ユニバース」号の後部甲板に接近して行った。  この頃《ころ》になると、ブリッジから、乗組員が顔を出して、しきりに手を振っている。もちろん、歓迎しているわけではなく、早く、離れろと、いっているのだ。  船と、ヘリのスピードが、ほとんど同じになったと見えた瞬間、がくんと、ひとゆれして、藤木たちの乗ったヘリは、後部甲板に着陸した。 「早くおりてくれ!」  と、所長が、大声で叫んだ。 「怒った乗組員に、このヘリを、ぶっこわされたんじゃたまらないからな」  回転翼は、まわり続けている。純子と藤木は、ベルトを外《はず》すと、頭を低く下げて、ヘリから、甲板に飛びおりた。  それを見届けるのも、もどかしく、ヘリは、再び、上昇して行った。  後部甲板に残った二人のまわりに、乗組員が、二人、三人と集ってきた。  アラブ系の顔が多い。  そのうちに、四十歳ぐらいの船長が姿を現わした。 「君たちは、何者で、何のために、こんな真似《まね》をしたんだ?」  と、船長が、くせのある英語できいた。  彼の横にいる一等航海士が、拳銃《けんじゆう》を握りしめている。 「取材ですわ」  純子が、英語でいった。さすがに、蒼《あお》い顔だが、ふるえてはいなかった。 「何の取材だね?」 「この船に、ミスター・アサイという日本人が乗っている筈です。その日本人に会って、話を聞きたいんです」 「そんな日本人は、乗っていないがね」 「私たちは、その人に、危害を加えようというのではありません。ピストルも、ナイフも持っていません。こちらは、その日本人の友だちです。それは、ミスター・アサイが、よく知っていますわ」  純子は、必死に、いった。  だが、相手は、黙っている。  藤木は、次第に、不安になってきた。浅井が、この船に乗っているのは確かだとしても、彼の立場がわからなかったからである。もし、軟禁状態だとしたら、こちらの立場も、当然、悪くなるだろう。  重苦しい沈黙が、後部甲板を、支配した。  ここは、公海上で、周囲に、他の船の姿はない。殺されて、海の中へ投げ込まれても、誰も気がつくまい。あのヘリの操縦士だって、後難を恐れて、黙っているだろう。 「————!」  ふいに、大きな声がした。  後部甲板に、男が一人飛び出して来て、アラビア語で、怒鳴ったのだ。 「浅井!」  と、思わず、藤木は、叫んでいた。  Tシャツ姿の浅井は、船長と、小声で何か話している。  船長が、大声で何かいうと、集っていた船員たちは、ブリッジの中へ消えていった。 「呆《あき》れた人たちだ」  と、浅井は、苦笑しながら、二人を手招きし、自分の船室に案内した。  ブリッジの下にある船員居住区は、まるで、高級マンションである。  エレベーターで、五階へあがると、そこに、浅井に与えられている船室があった。  ドアを閉めると、船の中ということを忘れてしまうほど、静かである。エアコンもよくきいている。  ベッドと、応接三点セットがついていた。  浅井は、二人に、椅子《いす》をすすめた。 「なんで、こんな馬鹿なことをしたんだ? 中東まで、連れて行かれてしまうよ」  と、浅井は、いった。 「それでも構いませんわ。あなたの告白が貰《もら》えればいいんです。大スクープになりますものね」  純子が、眼をきらきらさせていった。 「驚いた記者精神だな」  と、浅井は、笑ってから、藤木に眼を向けた。 「君は、なぜ、来たんだ? 彼女の手助けかい?」 「いや。君と別れたあと、奇妙な二人連れに会った。その男たちの言葉が気になってね」 「どんなことをいったんだ?」 「四十八時間以内に、日本政府は、アラブに対して、しかるべき措置をとれといったよ。田辺理事長を通じて、そう進言しろというんだ」 「なぜ、そんなことをしろといったんだ?」 「君には、わかっている筈だよ。尖閣湾沖で沈んだのは、原子力船『むつ』じゃなかった。『むつ』は、『ラギタニア』号に名を変えて、今、アラビア海を、西に向って航行中だ」 「それ、本当なんですか?」  純子が、大きな声を出した。 「証拠はありませんよ。ただ、そう考えて、神経をとがらしている国もあるということです」  と、藤木は、いった。 「『ラギタニア』号は、どこの船なんですか?」 「アラブ諸国のどこかが、金を出して、日本の造船所で造った船です」 「じゃあ、神経をとがらせているのは、イスラエル?」 「イスラエル空軍のF15が、待機しているといわれているんです」  と、藤木は、純子にいってから、浅井に向って、 「その二人がいうには、四十八時間以内に、日本政府は、『むつ』の返還を、アラブに要求しろといった。そうしなければ、イスラエルは、四十八時間後に、『ラギタニア』号を爆撃して、沈没させるといったよ」 「それで、君は、どうしたんだ?」 「田辺理事長に、手紙を書いた。『ラギタニア』号が、本当は『むつ』なら、爆撃されて、『むつ』の乗組員が死ぬのを見過ごせないからさ。しかし、僕の手紙が、日本の政府を動かせるかどうかわからないし、アラブが、返還する筈がない。とすれば、四十八時間後に、『ラギタニア』号は、イスラエル空軍に爆撃されるだろう。すでにそれから、十二時間がすぎてしまったから、あと三十六時間後だ」 「イスラエルが、『ラギタニア』号を爆撃するのか」 「原子力船の上に、核燃料を積んでいるんだからね。黙って、見過ごす筈がないよ。アラブの領海内に入る前に、爆撃するつもりだろう」 「————」 「その前に、君に、全《すべ》てを話して貰《もら》いたかったんだ。長崎では、肝心なことは、話して貰えなかったからね」 「私も、本当のことが知りたくて、こんな無茶なことをしたんです」  と、純子もいった。  浅井は、考え込み、丸い船窓から、外を見つめていた。 「一つだけ、約束して貰いたい」  と、浅井は、海を見つめたままいった。 「どんな約束だね?」 「『ラギタニア』号が沈没し、全員が死んでしまったら、これから話すことを、発表して貰っていい。それが、僕たちの遺言になるだろうからだ。しかし、『ラギタニア』号が爆撃されなかったら、僕が話したことは、忘れて欲しい。その約束を、守ってくれるかね?」 「僕はいいが——」  藤木は、ちらりと、純子に眼をやった。 「私も、それでいいですわ」  と、純子も、肯《うなず》いた。      4 「何から話したらいいかな」  浅井は、しばらく、考えていた。藤木を見て、 「君にいったことと、ダブってしまう点もある」 「とにかく、最初から話してくれ」  と、藤木は、いった。  浅井は、頭の中で、何を喋《しやべ》ったらいいか考えているようだったが、 「僕はね。最初、原子力船『むつ』の一等航海士であることを、誇りに思っていた。とにかく、未来を先取りする仕事だという気があったからね」  と、話し始めた。 「その気持は、わかるよ」と、藤木が、いった。 「僕だって、世間が何といおうと、原子力船の開発という仕事が、楽しかった。石油が枯渇すれば、船は、原子力で動かすより仕方がないわけだからね」 「その通りさ。ところが、『むつ』は、ご難続きで、その上、政争の具になってしまった。佐世保に修理で入ったまま、いっこうに、動き出す気配がない。政府さえ、もて余しているのが、僕たちにも、だんだん、わかってきたよ。石油の輸入が苦しくなったときは、また、見直されたが、石油が、だぶつき気味になると、もう、お荷物扱いだ。僕はね、自分よりも、『むつ』という不運な船が、可哀そうになったんだ。僕だけじゃない。『むつ』の乗組員の大部分が、同じ気持だった。こそこそと、動かすんじゃなく、堂々と、のびのびと、『むつ』を動かしてやりたかった」 「それは、僕も、同じだったよ」  と、藤木が、いった。 「ある日、僕は、一人のアラブ人の訪問を受けた。名前は、仮にA氏としておこう。日本語が上手《うま》かったね。そのA氏が、奇妙な話を持ち込んで来たんだ。自分たちは、原子力船と、核燃料が欲しい。しかし、日本は、売ってはくれない。そこで、一つの計画を立てたので、協力して欲しいというのだ」 「『ラギタニア』号と、『むつ』を、すりかえる計画だね?」 「そうだ。『むつ』と同じ型の貨物船を、日本の長崎のK造船に頼み、改修の終った『むつ』と同じ日に出港させ、日本海での試験航海ですりかえるという計画だった」 「それには、お金が動いたんですか?」  と、純子がきいた。  浅井は、笑って、 「もちろん、金は約束されたよ。A氏は、私に、もし、自分たちの計画に協力してくれたら、『むつ』の三十二人の乗員に対して、一人当り一千万円を支払うといった。三十二人で三億二千万円だが、原子力船と、核燃料が手に入れば、安いものだろう。しかし、僕が、金だけに魅力を感じて、この計画に参加したとは思わないでくれ。A氏は、『むつ』が手に入った場合は、連日、実験航行を重ね、それをもとにして、次々に、新しい原子力船を建造するつもりだといった。それを、僕に頼むといったんだ。他の乗組員の知識も、提供して貰いたいともいったよ。つまり、向うでは、何の制約も受けずに、原子力船を動かすことが出来る。研究することも出来る。それが魅力だったんだ」 「向うへ行った時のことを考えて、アラビア語を習っていたのかね?」 「まあ、そうだ。イスラムというものを知りたいこともあったよ」 「しかし、君一人では、『むつ』を乗っ取れないだろう?」  と、藤木がきいた。  浅井は、肯《うなず》いて、 「もちろん、僕一人では無理だ。そこで、僕は、仲間作りを始めた。何人かが、僕に同調してくれた。それが、何人だったか、誰と誰だったかということは、いえない。それは、君たちが、勝手に想像したらいい。三十二人の乗組員の半数だったかも知れないし、十人足らずだったかも知れない」 「ニセモノの新谷紀子を乗せたのは?」 「『むつ』の三十二人全部を、味方に出来ていたら、あんな必要はなかった。しかし、出港の日までに、それは不可能だった。そこで、というより、それを予想して、彼女を、新谷紀子として、乗船させておいたんだ。僕の女と思ってもいい。木当の名前は、村田知子《むらたともこ》だ。それより、問題は、核燃料だった。佐世保での修理を了《お》えて、新しい母港である関根浜への回航では、核燃料は、積み込まないことになっていたからね。しかし、僕は、この回航のときに、ひそかに、原子炉運転をするのではないかと考えていた。『むつ』の修理が、おくれにおくれて、事業団も、科学技術庁も、焦《あせ》っているのを知っていたからだ。そうしたら、案の定、出港三日前の夜、ひそかに、東海村から運ばれた核燃料が、積み込まれたのを知った」  浅井は、言葉を切って、ニヤッとした。  純子は、熱心に、メモをとっている。  藤木は、黙って、聞いていた。彼は、「むつ」の船内で、そんな計画が、着々と、実行に移されているのを、全く知らなかった。浅井の計画も知らなかったし、当局が、ひそかに、核燃料を積み込んだのにも、気がつかなかった。 「『むつ』は、十月十八日に、佐世保を出港した」  と、浅井は、いった。      5 「同じ日に、長崎から、『ラギタニア』号も、出港し、試運転のために、日本海に向った。すりかえるための航海だった」 「質問していいですか?」  純子が、ペンを止めて、浅井を見た。 「どうぞ」 「『むつ』と、『ラギタニア』号との間の連絡は、どうなっていたんですか? 『むつ』の通信士が、浅井さんの仲間だったんですか?」 「いや。通信士は、違う」 「それでは、困ったでしょう? 『ラギタニア』号は、『むつ』が、今、どこを走っているかわからないと、ある地点で、すりかわれないんじゃないですか? それとも、常に、両船が、視界の中に入る距離で走っていたんですの?」  純子がきくと、浅井は、笑って、 「そんなに近づいて航行していたら、怪しまれるよ。何しろ、よく似た船なんだから」 「じゃあ、君たちは、どうやって、『むつ』の現在位置を、『ラギタニア』号に知らせていたんだ?」  と、藤木がきいた。 「船舶電話を使ったんだ。『むつ』には、無線と船舶電話の二つの機械がついている。その中の船舶電話で、僕は、『むつ』の現在位置や、次の予定などを、事業団に報告した」 「船長からの報告も、船舶電話だったよ。それが、どうして、『ラギタニア』号につながるんだ?」 「船舶電話というのは、盗聴できるんだよ」 「本当か?」 「船舶電話は、無線中継されるわけだが、これに使われる超短波は、一五〇メガヘルツと二五〇メガヘルツの二種類だ。二五〇メガヘルツの方は、秘話装置がついていて、盗聴できないが、大部分の船舶電話は、秘話装置のない一五〇メガヘルツを使っている。この一五〇メガヘルツというのはね、アマチュア無線や、警察無線の使用周波数に近いんだ」 「なるほどね。今、アマチュア無線家の間で、無線機を改造して、警察無線を聞くのが流行しているが、同じようにして、船舶電話を盗聴できるということだね」 「その通り。A氏が、改造した無線機を車にのせて、日本海沿いに走りながら、盗聴し、それを、『ラギタニア』号に、知らせていたんだ。だから、『ラギタニア』号の方では、『むつ』の動きを、完全に掌握していたわけだよ」 「いつ、二つの船が、すりかわったんだ?」 「十月二十四日の朝だ」 「事業団に、船長から最後の報告があった翌朝か?」 「そうなるね。僕は、村田知子に、指示して、朝食の時のコーヒーに、睡眠薬を入れさせた。僕の仲間には、教えてあるから、そのコーヒーは、飲まない。一時間後には、僕たちは、完全に、『むつ』を支配した。丁度、佐渡の尖閣湾沖だった。僕は、停船させ、『ラギタニア』号が来るのを待った。四十分程して、『ラギタニア』号が、到着して、すりかえのための作業が開始されたが、これは、さして、難しくはなかった。時間は、かかったがね。甲板を塗りかえ、船名を変えるためで、積荷は、そのままでよかったからだよ。全《すべ》てが終ると、『ラギタニア』号の乗組員が、船底に爆薬を仕掛けてから、『むつ』に移ってきた。その時、僕は、『むつ』に積み込まれている核燃料棒の一本を、『ラギタニア』号にのせることを提案した。沈没する『ラギタニア』号を、より原子力船『むつ』らしく見せるためにだよ」 「海水が、放射能汚染されるからかね?」 「核燃料は、容器に入ったまま、『ラギタニア』号の船倉に置いた。しかし、沈没させるための時限爆弾が爆発すれば、容器も破損して、自然に、海水が、放射能で汚染されると、計算したんだ」 「その計算は、正しかったようだね」 「計算どおりになったよ。海水は、放射能で汚染され、大量の魚が死んだ。となれば、誰もが、そこに沈んでいるのは、原子力船『むつ』だと思う。『むつ』以外に、原子力船は、日本には、ないんだからね。その上、海水が、放射能で汚れていれば、その沈没船を引き揚げて、調べるわけにもいかないだろうとも、計算したんだ。引き揚げられたら、それが、『むつ』ではなく、『むつ』に見せかけた他の船とわかってしまうからね」 「次に、辛《つら》いことをききたいんだが」 「わかっている。女のことだろう」 「彼女を、どうして殺したんだね? 殺す必要があったのか?」 「あの女は、臆病《おくびよう》風に吹かれてしまったんだ。『ラギタニア』号に化《ば》けた『むつ』を、アラブへ運ぶまで、我慢しろと、いっておいた。もちろん、彼女に、分け前も払うことにしてあった。ところが、全てが上手《うま》くいったというのに、彼女は、金だけ貰《もら》って、すぐ、船からおろしてくれと、わめき始めた。そんなことをしたら、どうなる? お喋《しやべ》りな女の口から、全てがばれてしまう。それも、『ラギタニア』号が、まだ、日本の領海内にいる時だった。僕は、今度の計画を立てた責任者の一人として、彼女のことをどうにかしなければならなくなったんだ」 「それで、口をふさぐために、殺したのか?」 「説得しているうちに、夜になって、彼女は、ゴムボートで、船から脱走をはかったんだよ。僕は、飛び込んで、ゴムボートに泳ぎついた。そこで、連れ戻《もど》そうとする僕と、彼女とが争い、争っているうちに、つい、くびを絞めてしまった。殺したことについて、弁解しようとは思わない。確かに、僕が殺したんだ。殺したあと、彼女が溺死《できし》したように見せかけるために、海に投げ込んだ。ゴムボートは、ナイフで切り裂いて沈め、僕は、上陸して、身をかくしたんだ。ゴムボートを追いかけるとき、長崎から出港するこのタンカーに乗ることは話してあったから、佐渡から、九州に向った」 「そして、羽田で、うちの原カメラマンに写真を撮《と》られたんで、博多で、殺したんですか?」  純子が、きいた。  浅井は、新しい煙草《たばこ》に火をつけ、その立ち昇る煙を、眼で追った。 「あのカメラマンを殺したのは、僕じゃない」 「本当ですか?」 「前にもいった通り、僕じゃない。嘘《うそ》はついていないよ。一人の女を殺したことを認めたんだ。もう一人の殺人について、嘘をついたって、始まらないじゃないか」 「じゃあ、誰が、原カメラマンを殺したんですか? あなたは、何かの組織が、殺したようなことを、前に、おっしゃいましたけど」 「僕の周辺には、二つの組織の連中がいた。最初は、僕を、このタンカーに乗せるための組織だけだった。ところが、尖閣湾沖に、『むつ』が沈没しているという噂《うわさ》が流れ出した頃《ころ》から、もう一つの組織が、僕の周辺をうろつき始めたんだ。原カメラマンが、どちらの組織につかまったのか、僕にはわからない。反対派の組織が、『むつ』のことをきき出そうとして、原カメラマンを拷問《ごうもん》して、殺してしまったのかも知れない。僕には、わからないよ」      6 「もう一つ聞かせてくれ」と、藤木が、いった。 「『むつ』の乗組員は、今、『ラギタニア』号になった『むつ』に乗っているんだね?」 「そうだ。死んだのは、村田知子一人だし、彼女は、もともと、『むつ』の乗組員じゃなかった」 「彼等は、どうなるんだ?」 「別に、生命の心配はいらないよ。イスラエル空軍が、爆撃しなければの話だがね。乗組員の中には、君も知っているように、『むつ』を操縦する船員と、原子炉の専門家の二種類の人間がいる。無事、『ラギタニア』号が、目的地に着いたら、アラブ側から、協力を要請される筈《はず》だ。原子力船の建造や、運航についてと、原子炉と、核燃料のことでだ。向うに協力して、一年なり、二年なり滞在すれば、一千万円の他に、その技術にふさわしい給料が支払われる筈だよ」 「いやだといったら?」 「恐らく、いやだという人間は、一人もいないと、僕は、信じているんだ」 「どうも、ありがとう。話してくれたことに感謝するよ」  と、藤木は、いった。  純子は、メモを取っていたペンをテーブルに置いた。 「私も、お礼をいいますけど、もう一度、確認しておきたいんです。『ラギタニア』号が、爆撃されて、沈んでしまったら、あなたの話してくれたことを、記事にしていいんですね?」 「ああ、いいよ。『むつ』の乗組員が、どこで死んだかわからないというのでは、可哀そうだからね」 「あなたが、女を殺したことや、『むつ』の乗っ取りを計画して、実行したこともですわね?」 「もちろん、オーケイだ」  と、浅井は、きっぱりといった。  その横顔を見ていた藤木は、この男は、もう、日本に帰って来ないつもりだなと思った。 「腹がすいたろう。食事にしよう」  浅井は、船内電話で、夕食を頼んでくれた。  十七、八歳の給仕が、ワゴンで、食事を運んで来た。  藤木は、ナイフと、フォークを動かしながら、 「ところで、僕たちは、どうなるんだ?」  と、浅井にきいた。 「それは、船長の考え方次第だな。途中で、下船させるか、それとも、石油の積み出し港まで連れていくか、僕には、わからないよ」  と、浅井が、いった。 [#改ページ]  第十一章 決 断      1  イスラエルの南部にある空軍基地は、緊張に包まれていた。  すでに、空中給油機一機は、飛びあがっている。  F15三機に、新たに、F16二機が、追加された。  リビアのシドラ湾上空で、アメリカの空母機F14と、リビアの戦闘機SU22の空中戦のことを考えたからだった。  F16二機に、爆弾が積み込まれ、F15三機が、その護衛に当ることが決った。  この編隊を指揮するのは、先に、イラクの原子炉爆撃を成功させた歴戦の空軍中佐である。  午後一時二十分。  五機の編隊は、空軍基地を、次々に飛び立って行った。  隊長機には、原子力船「むつ」の写真が、積んである。カラー写真で、甲板は、絵具で、白に、塗りかえてある。爆撃目標の「ラギタニア」号も、甲板は、白の筈だからである。  地中海上空で、空中給油を受けた。  あとは、シナイ半島沿いに南下する。いかなる原子炉も、核燃料も、アラブ側には持たせないというイスラエルの強い意志の表われだった。  あと、四時間で、アラビア海に出る。そして、眼下に、爆撃目標である「ラギタニア」号が、見えてくるだろう。      2  首相官邸での閣議は、まだ、えんえんと続いていた。  首相をはじめ、園井外務大臣などが、尖閣湾沖に沈没したのは、「むつ」に間違いないと認めようではないかというのだが、担当大臣である中田は、それに対して、断乎《だんこ》として、反対した。  今や、「ラギタニア」号が、「むつ」であることは、ほぼ間違いない。従って、この際、アラブ諸国に対して、返還を要求せよという意見である。  この意見の方が、どうしても、威勢がよくて、説得力がある。  勇ましい方が、どうしても、勢いが出てくる。中田の大きな声に、同調する者も出てきた。 「これでは、時間がたつばかりですよ」  と、官房長官が、大臣たちを見回した。 「そうだ。四十八時間とすれば、あと、五時間しかない」  首相は、扁平な大きな顔に、強いいらだちを見せて、閣僚の顔を見回した。  アメリカ大使の忠告を無視するかどうかというように考えれば、首相には、無視は出来ない。 「どうだね? 中田君。原子力船『むつ』は、尖閣湾沖で沈没したということで、収束することに、賛成してくれないかね?」  と、首相は、中田を見た。 「総理のお言葉ですから、従ってもいいですが、その代り、日本政府は、事実をかくしたという汚名を、永久にかぶることを覚悟しなければなりませんよ」 「しかし、日本の国益ということを考えればだね。他に選択の余地は、ないんじゃないかね?」  外務大臣の園井が、口をはさんだ。 「それが、果して、日本の国益になるんですかね?」  中田が、大声でやり返した。  また、収束がつかなくなりかけた時、秘書官が入ってきて、首相に耳打ちした。  首相は、「ちょっと失礼する」と、席を外《はず》した。  アメリカ大使から、電話が入っていると伝えられたのだ。  アメリカ大使の電話は、直截《ちよくせつ》だった。 「五分前に、地中海にいる第六機動部隊から連絡が入りました。それをお知らせします。一時間前に、イスラエル空軍の五機編隊が、飛び立ち、地中海上空で、空中給油を受けるのを確認した。この編隊は、その後、アラビア海に向って、南下しており、明らかに、『ラギタニア』号の爆撃が目的と思われる——」  平静なアメリカ大使の喋《しやべ》り方に、かえって、首相は、顔色を変えた。  事態は動いており、今、手を打たなければ、一つの悲劇が生れ、それに、否応なしに、日本政府が巻き込まれると感じたからだった。 「『ラギタニア』号が、爆撃されるのは、あと、何時間後ですか?」  と、首相は、きいた。 「あと、二時間四十六分後に、イスラエル機は、『ラギタニア』号の上空に達します。爆撃が始まれば、『ラギタニア』号は、武装していませんから、一瞬のうちに沈没するでしょう」 「今からでも、爆撃は、止《と》められますか?」 「一時間以内に、日本政府が、『むつ』の沈没を確認して、新聞発表を行えば、アメリカ政府が、イスラエル政府を説得します。しかし、一時間以上たったときは、もう不可能になるでしょう」      3  十五分後、閣議の席に戻った首相は、すでに、一つの決心をしていた。 「諸君。今、秘書官に、記者会見の用意をしておくように指示してきた」  と、首相は、緊張した顔でいった。 「では、『むつ』が、尖閣湾沖で沈没したと発表するんですか?」  中田長官が、じろりと、首相を睨《にら》んだ。 「そうだ。中田君。事態は、切迫しているんだ。君が、どうしても嫌《いや》だというのなら、私が、やってもいい。イスラエル空軍の五機が、空中給油を受けて、アラビア海に向っている。あと、三時間足らずで、『ラギタニア』号は、爆撃され、沈没する。そうなった時のことを考えて欲しい。アラブ側は、非武装の貨物船を、無法にも爆撃したとして、イスラエルを非難するだろう。それはいい。問題は、イスラエルが、爆撃の正当性を主張するために、この『ラギタニア』号は、実は、日本の原子力船『むつ』であり、核燃料も積んでいたと発表するに違いないことだ。『むつ』は、日本政府の船だ。それが、アラブの貨物船に変ってしまったことに、政府が、全く関知していないなどという弁明が、通用するとは思えない。石油欲しさに、日本政府は、ひそかに、原子力船と、核燃料を、アラブに売り渡したと思われるに決っている。なぜなら、尖閣湾沖で、『むつ』が沈んだと思われるのに、政府は、言を左右にして、それを認めていないからだ。どうだね? 中田君。君が辛《つら》いのはわかるが、すぐに、記者会見してくれないかね? 君を、男と見て、頼むのだ。悪いようにはしないと、約束する」  首相は、中田の弱いところを突いた。 「男と見込んでといわれると、断り切れませんね」  と、中田は、いった。若いが、機を見るに敏な中田は、この辺りで折れて、首相に恩を売った方が得策だと、したたかに計算したのである。 「田辺君」  と、中田は、田辺理事長に、声をかけた。 「これから、君と記者会見をする。当然、記者たちから責任追及があるだろうが、君の進退は、私に一任して貰《もら》いたい」 「わかりました」  と、田辺は、いわざるを得なかった。  二十分後に、科学技術庁で、臨時の記者会見が開かれた。  科学技術庁長官の中田と、原子力船むつ開発事業団の田辺理事長が、この会見に出席した。 「種々、検討を加えた結果、原子力船『むつ』は、佐渡の尖閣湾沖に沈没したと確認いたしました」  と、中田が、急遽《きゆうきよ》、集められた記者たちに向っていった。  もちろん、それで、すむわけはなかった。  記者たちから、当然、核燃料のことや、沈没の原因、それに、責任問題が、追及された。  中田は、開き直って、答えた。  中田は、開き直ると、べらんめえ調になり、一層、威勢がよくなる。 「ああ、核燃料も積み込んで出港しましたよ。協定違反であることは知っていたよ。科学技術庁長官として、止《や》むに止まれず、決断を下したんだ。君たちにだって、僕の気持は、わかるだろう? 原子力船は、僕の夢だったんだ。命だよ。浪花節《なにわぶし》といわれるかも知れないが、僕は、命がけで、原子力船の開発を促進して来たんだ。それが、おくれにおくれていた。その一端の責任は、君たちマスコミにもあるんじゃないかねえ? 君たちは、何かというと、原子力船は、危険だ、危険だと書き立てる。数年前の三陸《さんりく》沖での実験航海の時なんか、ひどいもんだった。ほんのわずかの放射能洩れを、まるで、原子爆弾が爆発したような大騒ぎで、君たちは、書き立てたんだよ。あれで、世間の人々の眼が、どれだけ、間違ったものになってしまったか、わからんよ。原子力船は、危険なものだという誤解が生まれてしまったんだからね。だが、君たちもよく考えてくれたまえ。石油が無くなったら、われわれは、何を使って、船を動かすんだ? 石油が無くなるのは、そう遠くはない未来だよ。それは、君たちが、一番よく知っている筈《はず》だ。その時になって、あわてて、原子力船を造って、試運転なんて騒いだって、もうおそいんだ。政治というのはねえ、百年先を見て、やらなきゃならん。石油が枯渇するのは、三、四十年後といわれている。そう考えれば、原子力船の建造は、早いどころか、おそいくらいなんだ。それなのに、君たちは、時期|尚早《しようそう》などと書く。原子力船時代は、必ず来る。だがね。アメリカや、ソビエトは、原子力潜水艦を、じゃんじゃん造っているから、いつ原子力船時代に突入しても、全く困らないんだ。フランスやイギリスだって、同様だよ。それを考えたことがあるかね?」  中田は、いっきに、そこまでまくし立てると、コップの水を、ぐいと、飲んだ。  田辺理事長の方は、ひたすら、黙っている。 「君たちが、危険だ危険だと書き立てたものだから、反対勢力が、勢いを得て、『むつ』は、実験航海も、ままならなくなってしまった。核燃料の積み込みにだって、いちいち、文句をつけられ、やれ、地元との協定だとか、管理態勢がどうのとか、騒ぎ立てる。こんな中で、果して、十分な、データをとれると思うかね? 今回は、佐世保から、新しく母港に決った関根浜への回航だった。核燃料の積み込みは、関根浜でということになっていた。しかし、果して、関根浜へ行けば、核燃料が積み込めるのかどうか、わからなかった。反対派が、関根浜に集りつつあったし、君たちマスコミは、実験航海そのものに反対だったからね。そこで、僕の一存で、日本海で、回航の途中、実験航海に踏み切ることにしたんだ。僕のこの決断には、一片の私心もない。全《すべ》て、日本の未来を考えてのことだ。だから、今でも、後悔はしておらん。不幸にして、『むつ』は、佐渡の尖閣湾沖に沈没してしまった。乗組員の安否も気遣われる。もちろん、この責任は、僕にある。その責任を回避しようとは思わんさ。ただ、君たちにわかって貰《もら》いたいのは、どう挫折《ざせつ》しようと、原子力船時代は、否応なしにやって来るということなんだ。それに後《おく》れをとったら、もう、海運日本の看板は、下さなければならなくなるということだけは、はっきりしているんだよ」  中田は、拳《こぶし》を作り、それを、ぐいと突き出すようにして、いった。  しかし、記者たちの関心は、中田の遠大な原子力船時代への見通しなどにはなく、卑近な問題に集中していた。 「長官は、今度の『むつ』の沈没の責任をおとりになる覚悟は、あるんですか?」  と、記者たちが、質問した。 「男中田は、逃げもかくれもせん。責任をとるつもりだよ」 「辞表は、もう出されたんですか?」 「すでに、総理に対して、辞表を出している。だから、この記者会見が、長官として、最後のものになるかわからんね」 「原子力船むつ開発事業団の田辺理事長は、いかがですか? 理事長も、『むつ』沈没の責任をとって、辞《や》められるんですか?」  記者の質問が、田辺に向けられた。  田辺は、青ざめた顔で、 「私も、辞表をすでに出してあります」 「しかし、辞表を出すだけで、今度の事件は片付きますかね?」  記者が、意地悪く、中田を見た。      4 「『むつ』は、原子炉が爆発して沈没、そのために、放射能が洩れて、あの辺りの海水が、汚染されてしまった。その責任は、いったい、誰《だれ》が、とるんですか?」 「その件だがね」  と、中田は、挑戦《ちようせん》的な眼になって、質問した記者を睨《にら》んだ。 「確かに、海水は、放射能で、汚染された。しかし、『むつ』の沈没原因が、原子炉爆発だと決ったわけじゃないんだ。僕の見るところでは、これは、破壊工作があったんじゃないかと思っている」 「過激派のですか?」 「そうだよ。破壊工作でもない限り、『むつ』が沈没するなんてことは、考えられんからね」 「その証拠があるんですか?」 「『むつ』の沈没原因を調べていけば、自然に、わかってくると思っている。もっとも、僕も、もう辞表を出してしまっているから、原因調査は、次の長官の仕事になるがね」 「これで、原子力船計画は、どうなるんですか、当分、計画は中止ですかね?」 「馬鹿なことを、いいなさんな。今もいったとおり、原子力船時代は、好むと好まざるとに拘《かかわ》らず、間もなく、やって来るんだ。それにおくれをとって、日本を、二流の海運国にしたいのなら別だが、今のままの一流海運国でいたいのなら、直ちに、第二の『むつ』の建造にかかるべきだと思っているよ」  中田は、意気高くいった。責任をとって、辞める男の態度ではなかった。 「しかし、今度の事故で、原子力船に対する世間の眼は、相当、冷たくなってしまってるんじゃありませんか?」  記者が、また、意地悪く質問した。  中田は、じろりと、その記者を睨んでから、まるで、教師が、生徒に教えるような口調で、 「政治家というのはね。二通りある。凡庸《ぼんよう》な政治家は、世間の眼ばかり気にして、現状維持に、汲々《きゆうきゆう》とする。こんな政治家を持った国民は、不幸だね。世界の大勢におくれてしまうからだ。優れた政治家というのは、世間が何といおうと、国家の未来のために、断乎《だんこ》として、政策を立て、実行する。原子力船も同じことだよ。僕は、何度でもいうが、資源のない日本だからこそ、原子力船は、必要なんだ。次の長官も、このことは、よくわかってくれると思うね」 「科学技術庁長官を辞められるについて、何か一言、ありませんか?」 「いい残したいことは、たった一つだね。中田死すとも、原子力船は死なずだよ。あははは——。もういいだろう」  中田は、豪快に笑って、席を立った。が、記者たちの見えないところに来ると、田辺理事長と、顔を見合せて、「くそッ」と、舌打ちした。 「真相をぶちまけてやったら、あいつらが、どんなに、驚きやがるか——」 「これも、国家百年のためです」  田辺は、沈んだ声でいった。 「そうさ。そうでなければ、辞表なんか、出すものか」      5 〈原子力船「むつ」沈没の責任をとって、中田科学技術庁長官辞職。  原子力船むつ開発事業団の田辺理事長も、辞表を提出〉  号外が出た。  それは、アメリカ大使館にも、一部、政府の広報室から送られた。  大使館は、直ちに、それを、ワシントンに伝えた。時間は、ほとんどなかった。  イスラエル空軍による『ラギタニア』号爆撃の時間は、切迫している。  アラブ世界のうち、リビアは、アメリカと敵対関係にあって、ソビエトの影響下にある。  イランとの関係も、いぜんとして、ぎくしゃくしている。  ここで、『ラギタニア』号が、イスラエルによって撃沈されたら、他のアラブ諸国は、一層反イスラエル色を強くし、エジプトは苦境に立たされ、アメリカも、困惑する。アメリカに対して、イスラエルを制裁せよという圧力がかかってくるのは、眼に見えているからである。  国務長官のヘイグは、すぐ、イスラエルのベギン首相に、連絡を取った。 「日本政府は、正式に、原子力船が、日本近海で、沈没したことを発表し、責任者は、辞職しました。イスラエル空軍による『ラギタニア』号の爆撃は、直ちに中止された方が賢明だと考えます。『ラギタニア』号が、日本の原子力船だという証拠は、少くとも、政治的には、説得力がなくなりましたからね」  ヘイグは、時計を気にしながら、ベギンを説得した。  案の定、ベギン首相は、すぐには、イエスとは、いわなかった。  こうしている間も、イスラエル空軍のF16と、F15の五機編隊は、飛び続けている。フェイル・セイフ点(引き返すぎりぎりの地点)まで、あと、二十分で到着する。その二十分を、ベギンは、有効に使おうとしていた。 「あの船が、日本の原子力船であることは、はっきりしているのですよ。ヘイグ長官」と、ベギンは、いった。 「しかも、核燃料を積んでいる。イスラエルにとって、それだけ、脅威が増大するのです。それは、おわかり頂けると思います」 「あと、二十分しかありませんよ。首相」  ヘイグが、いらいらして、また、時計に眼をやった。  だが、老獪《ろうかい》なベギンは、電話からも感じられる相手のいらだちには、構わず、 「二十分あれば、いろいろなことが、話し合えるんじゃないかな」 「しかし、その前に、空軍を引き返させるのが先決ですよ」 「『ラギタニア』号は、原子力船ですよ。当然、小型の原子炉が積み込まれている。彼等は、それを発展させて、原子力潜水艦を造るかも知れない。原爆ぐらいは、簡単に造ってしまう」 「それほどの工業力はないでしょう」 「そんな甘い考えでいるから、アメリカの対アラブ政策は、いつも、その対応を誤るんじゃないですかな」  ベギンは、父親が、子供をさとすようないい方をした。  ヘイグは、いささか、むっとしながら、 「あと十八分しかありませんよ」 「私の横に、電話がある。受話器を取れば、編隊長と直接、話が出来ることになっています。安心なさい」 「なぜ、今、すぐ、中止の指令を出さんのですか?」 「私はね。イスラエルの首相として、どう決断を下したら、この国の利益が、もっとも損なわれずにすむか、それを考えているところです」 「私は、元軍人です。政治的な駈引きは、得意じゃない。何か、要求があるのなら、単刀直入にいって頂きたいですね」 「F14のわが国への供給が、アメリカ議会の反対で、大幅におくれている件」 「早急に、善処することを約束します」 「原爆と水爆に関する最新のノウ・ハウの提供」 「考慮中です」 「早期警戒機をサウジに提供する代りに、イスラエルは——」 「イスラエルにも、同じ機種の供給を考えています」 「次は——」 「まだ、あるんですか?」 「私は、あなたと、前々から、ゆっくり話し合いたいと考えていた。その機会が、やっと訪れたので、いろいろと、話し合いたいことがあるのですよ」 「あなたとの話し合いについては、今年中にも実現させるつもりで考えていたところです」 「それは、嬉《うれ》しいことだ」 「あと、七分ですよ。大丈夫ですか?」 「今、隣りの電話の受話器を取ったところですよ。すぐ、編隊長の声が聞こえてくる筈《はず》です。安心なさい」  ベギンは、満足した声で、ヘイグにいった。      6  ヘイグは、電話が切れたあと、また、あの老人にしてやられたと、苦《にが》い顔をした。いつも、向うのペースになってしまうのだ。それに、まだ、安心は出来ない。  中止命令が間に合わなくて、「ラギタニア」号を、撃沈してしまったよと、いいかねない老人なのだ。  地中海に展開する第六艦隊と、インド洋に移動中の第七艦隊に、指令が発せられた。  アラビア海に近づく、イスラエル空軍機に注意せよという命令だった。  午後五時二十六分。  アラビア海は、まだ明るかった。 「ラギタニア」号は、間もなく、サウジアラビアの領海内に入ろうとしていた。  陸地が、見えてきた。  その時、空の一角から、キーンという金属音と共に、二機のF16が、急降下してきた。  翼に、イスラエル空軍のマークが入っているのが、鮮やかに見えた。 「ラギタニア」号の船上では、乗組員たちが、不意を突かれて、茫然《ぼうぜん》と、空を見上げた。  二機のF16は、威嚇《いかく》するように、船の頭上を、二度、三度と、通過していった。ある時は、マストすれすれまで、急降下してきて、風防の中の飛行士の顔までが、見えるくらいだった。  船長は、回避運動をしなかった。そんなことをしても、F16のミサイル攻撃を受けたら、ひとたまりもないと知っていたからである。  しかし、ミサイルも、三十ミリ機関砲の弾丸も、飛来しないままに、時間が過ぎて行った。  その間も、「ラギタニア」号は、時速十七ノットで、ひたすら、領海に向って、走り続けている。  船長は、イスラエル空軍が、攻撃を禁止されているに違いないと判断した。そうでなければ、今頃、ミサイルが命中して、船は、火災に包まれているに違いなかったからである。  突然、二機のF16が、周囲の空気を引き裂いて、急上昇していった。  それは、たちまち、小さな点になり、消えてしまった。  再び、静寂《せいじやく》が、アラビア海を支配した。  三十キロ離れた海上一万五千フィートのところを飛行していたアメリカ第七艦隊の早期警戒機のレーダーから、五つの点が、急速に消えていった。  イスラエル空軍のF16二機と、上空支援に当っていた三機のF15が、飛び去ったことを意味していた。  そして、C2—Vのレーダーには、一つの点だけが残った。 「ラギタニア」号である。  この点が、動かなければ、F16の攻撃を受けて、火災を起こしたのかも知れないし、点が消えれば、「ラギタニア」号の沈没を意味している。  レーダー係は、じっと、レーダーを注意した。  問題の点は、ゆっくりとだが、陸地に近づいていく。イスラエル空軍の攻撃はなく、肝心の「ラギタニア」号は、沈没せずに、動いているのだ。 〈「ラギタニア」号は、沈没せず。港に向っている〉  と、第七艦隊から、ヘイグ長官に報告された。      7  藤木と純子を乗せたマンモスタンカーは、台湾沖を通過していた。  様子を聞きに行っていた浅井が、無線室から戻《もど》って来た。 「東京から、一つのニュースが入っていたよ。中田科学技術庁長官と、田辺原子力船むつ開発事業団理事長の二人が、『むつ』沈没の責任をとって、辞《や》めたよ」  と、浅井は、二人にいった。 「すると、尖閣湾沖に沈没した船を、『むつ』と認めたんだな?」  藤木が、きき返した。 「そうだね。だから、理事長と、長官が、辞めることになったんだろう」 「しかし、おかしいな。あそこに沈んだのが、『むつ』でないことは、理事長だって、わかっている筈だよ」 「違うとわかっていながら、沈没の責任をとって、偉い人が二人も辞めるなんて、どこか異常ですわね」  純子が、首をかしげた。 「しかし、これで、『ラギタニア』号は、イスラエルから攻撃される可能性が、小さくなったよ」  浅井が、ほっとした顔で、いった。  藤木もその点は、同感だった。彼が、二人のイスラエル側の人間から頼まれて、田辺|宛《あて》に書いた手紙は、これで、完全に無視されたのである。  恐らく、日本政府は、二つの方向のどちらを取るかで、悩んだことだろう。そして、藤木の手紙とは、正反対の選択をしたのだ。  その選択が、つまり、「むつ」の沈没を認めることであり、科学技術庁長官と、田辺理事長の辞任なのだろう。  それでも、よかったと、藤木は、思った。 「ラギタニア」号が、イスラエル空軍の攻撃を受けなくてすむなら、それが一番いい。何といっても、藤木がよく知っている「むつ」の乗組員たちが、そのまま、乗っているに違いないからである。 「『ラギタニア』号が、無事に、アラブの港へ入ったとなると、あなたには、気の毒なことになりますね」  浅井が、純子に、いった。  純子は、微笑して、首を振った。 「約束は、守りますわ。残念ですけど、あなたに聞いたことは、記事にしません。第一、私や、藤木さんは、どこまで連れて行かれるのか、わからないんでしょう? このまま、サウジアラビアの石油基地まで行って、そこで、石油を積み込んで、日本へ帰るとなると、三十日や、四十日は、かかってしまう。特ダネも、色あせてしまうし、他に、もっと大きな事件が起きているかも知れませんものね」 「君たちを、どこで降ろすかは、船長が、一等航海士たちと、相談しているよ。ただ、君たちは、不法出国した形になっているからね。途中で降ろして、うまく、日本へ帰れるのかな? 船長は、むしろ、そのことを心配しているんだ」 「結局、サウジまで、連れて行くことになるのかね?」  藤木は、のんびりした声でいった。  ヘリから、この船に乗り込む時は、緊張したが、こうなると、サウジまで行くのも悪くないと、腹を決めてしまっていた。  原子力船むつ開発事業団は、辞職する気になっていた。その気持は、変らないが、自分より先に、田辺理事長の方が、辞めてしまったのは、意外だったし、何か、妙な気持である。  翌日の午後、藤木と、純子は、急に、船長室に呼ばれた。  博多人形や、コケシが、ガラスケースに飾られている部屋で、眼の青い船長は、少し訛《なま》りのある英語で、二人に、椅子《いす》をすすめた。 「あなた方に、いいニュースです」 「どんなニュースですか?」  と、藤木が、きいた。 「午後三時に、日本の喜入基地に向う『東京丸』と、すれ違います」 「それで?」 「向うの船長と無線で話をしました。こちらに、二人の日本人を乗せているが、日本へ運んでくれないかとです。その結果、『東京丸』の船長が、こころよく承知してくれました」 「僕たちのことを、向うの船長には、何といったんですか? ヘリコプターで、無法に乗り込んで来たと?」 「いや、そうはいいませんよ」と、船長が笑った。 「日本近海で拾ったといいました」 「拾ったですか?」 「いけませんか?」 「いや、それで結構です」  と、藤木は、肯《うなず》いた。  午後三時を、五、六分過ぎた時、マンモスタンカー「ユニバース」号は、急に、減速した。  藤木が、純子と甲板に出てみると、三百メートルほど前方に、同じようなマンモスタンカーが、停船しているのが見えた。  三十万トンものマンモスタンカーは、エンジンをストップしても、すぐには停船できない。 「ユニバース」号は、ゆっくりと、「東京丸」に近づいて行った。 「東京丸」の甲板には、乗組員が出ていて、こちらを見つめている。  海は、凪《な》いでいた。 「ユニバース」号が、停船した。「東京丸」との間は、約百五十メートル。  石油を満載して、日本への帰路にある「東京丸」は、吃水《きつすい》が深く、こちらとは、甲板の高さが、まるで違う。ロープを張って、籠《バケツト》で、藤木たちを移すのは、難しかった。  ボートがおろされることになった。  浅井が、二人を送りに、甲板に出てきた。サングラスをかけているのは、「東京丸」の船員たちに見られるのを恐れたからだろう。 「これで、お別れだな」  と、浅井は、手を差しのべた。  藤木は、握手をした。 「どうも妙な気持だな。君を、どうしても、犯罪者と思えない。利用した女を、殺したと聞いてもね」 「多分、もう、二度と君には会わないだろう」  と、浅井は、いってから、今度は、純子に向って、 「まだ、約束は、覚えていますか?」 「ええ」 「東京に帰っても、真相は、記事にしないと約束してくれますか?」 「ええ。そう約束しましたもの」 「しかし、東京に帰れば、猛烈な取材合戦の世界に戻るわけだ。君は、特ダネを握っている。いつまで、それを、発表せずにいられるだろうか?」 「私を信じないんですか?」 「僕はね。あまり、人間を信じないんだ。ただ、君に、一つだけ覚えておいて欲しいことがある。僕を、どう書いても構わない。ただ、真相を書くと、今、『ラギタニア』号にいる『むつ』の乗組員たちも傷つくかも知れない。それを、覚えていて欲しいんだ」 「わかりました。覚えておきますわ」  と、純子は、微笑した。  藤木と純子、それに、船員の一人が、救命ボートに乗り込んだ。  ウインチが唸《うな》りをあげ、救命ボートは、ゆっくり、海面におろされて行った。マンモスタンカー、それも、空船の時の甲板から海面までは、六、七十メートルある。  まるで、絶壁をおりて行く感じだった。  やっと、救命ボートが、海面についた。ロープが外《はず》され、エンジンが、回転する。コバルトブルーの海面に、白い航跡を見せて、ボートは、「東京丸」に向って走った。 [#改ページ]  第十二章 帰 国      1  東京に帰った藤木は、事業団に、退職願を出した。  別に、自責の念から、辞《や》める気になったわけではない。田辺が、理事長を退いたからでもなかった。  原子力船むつ開発事業団が、どうなるかはわからない。事業団の責任追及の声は、いぜんとして大きいし、原子力船開発について、異常な執念を見せた科学技術庁長官の中田も、辞めてしまった。  その上、石油の供給が、だぶつき始めている。値下げをした産油国さえある。原子力船など研究する必要はないという空気が生れつつあった。  佐渡の尖閣湾沖の放射能による海水汚染は、いぜんとして、消え去る気配がない。専門家にいわせると、最低二年間は、この汚染は消えまいということだった。  政府は、「むつ」㈼世の建造を計画しているようだったが、尖閣湾沖の海水汚染が消えない限り、新たな原子力船の建造は、国民感情が許さないだろう。  事業団を辞めた藤木は、しばらくの間、退職金で生活しながら、今度の事件が、どう決着するのか、じっと見守りたいと思ったのである。  中でも、もっとも気になったのは、浅井をはじめとする、「むつ」の乗組員たちのことだった。 「むつ」の乗組員は、変身した「ラギタニア」号と共に、アラブに向ったことだけは、はっきりしている。  しかし、ある時期から、突然、消息が聞かれなくなった。 「ラギタニア」号が、イスラエル空軍によって、危うく、撃沈されそうになったことや、アメリカ大使の動き、日本を舞台にしたイスラエルとアラブの駈引きなども、ただの一行も新聞にはのらなかった。  新聞が報じたのは、原子力船「むつ」が、協定に違反して、核燃料を積んで、実験航行をしたために事故を起こして、佐渡沖に沈没し、その責任をとって、科学技術庁長官と、原子力船むつ開発事業団の理事長が辞職したことだけである。 「むつ」の乗組員の消息については、さまざまな噂《うわさ》が流れたが、どれも、当てにならなかった。  全員が、沈没した船と共に眠っているという説もあったし、何人かが、助かったが、放射能におかされて、現在、ある病院で、治療中だとまことしやかに伝える者もあった。その病院を、政府や、事業団がかくしているのは、マスコミや、家族に、これ以上の衝撃を与えることを恐れたからだともいわれた。  沈没している船を引き揚げれば、何もかも、はっきりするのだが、幸か不幸か、いぜんとして、海水の放射能が強いために、それが出来ない。  アラブからも、何一つ情報が伝わって来なかった。 「週刊ジャパン」の有島純子も、浅井との約束を守って、事件の真相を記事にしていない。  その間は、ある意味で、空白の時間だった。  そして、翌年の二月末、突然、「むつ」の乗組員全員の無事が、アラブ側から伝えられた。  いや、全員というのは、正確ではなかった。一等航海士のK・アサイと女性一人を除いた三十人が、無事ということだった。      2 〈去年十月二十四日、アラブの貨物船「ラギタニア」号は、日本近海で試運転中、一隻の日本船が、沈没するのを目撃した。この船は、のちに、日本の原子力船「むつ」と判明した。 「むつ」の乗組員は、漂流中に、「ラギタニア」号に救助された。その数は、三十二名である。三十二名の多くは、沈没の際に負傷していた。 「ラギタニア」号の船長は、一刻も早く、帰国すべき任務を負わされていたのと、翌日から、翌々日にかけて、台風のために海が荒れて、近くの港に寄ることが出来ず、止《や》むを得ず助けた日本人の手当てをしながら、帰国の途についた。 「ラギタニア」号は、十一月二十六日に、ラスタヌラ港に到着した。  三十二名の日本人のうち、K・アサイと一人の女性が、途中の船上にて死亡してしまった。  あとの三十名の日本人の多くは、原子力関係の技術者であって、友人たちが、病院に入院中、アラブ政府の要請に応じて、その技術を提供した。これに対しては、正当な報酬が支払われた。  今日、全《すべ》ての日本人の負傷が癒《い》えたため、帰国が許可された。次に、その氏名を発表する〉  この発表は、全ての新聞のトップを飾った。 〈奇蹟《きせき》の生還! 生きていた「むつ」の乗組員〉 〈歓喜する乗組員の家族たち。さっそく、アラブ諸国に対して、感謝決議の声〉  こんな言葉が、新聞を占領した。  藤木は、複雑な気持で、新聞を読んだ。  アラブが、どんな形で、「むつ」の乗組員を帰国させるつもりだろうかと思っていたのだが、考えてみれば、こういう形しかなかったのだ。  浅井が、死亡したというのは、もちろん、嘘《うそ》だろう。恐らく、浅井から望んで、死亡ということにして貰《もら》ったに違いない。  浅井は、一人の女を殺している。彼が殺したという証拠はないが、彼自身の精神の問題なのかも知れない。  新聞の記事で面白かったのは、田辺の談話だった。  元理事長として、「むつ」乗組員の無事を聞いて、どんな気持かと、記者たちにきかれて、 「私も、びっくりしています。てっきり、佐渡沖に沈没した『むつ』と、運命を共にしたと思っていましたからね」  と、語っていることだった。  田辺も、中田元長官も、真相を、知っている筈《はず》である。いわば、彼は、詰め腹を切らされたのだが、それを隠しての談話は、事情を知る藤木には、面白かった。  田辺は、その代償として、住宅公団総裁の椅子《いす》が与えられている。  科学技術庁長官を棒に振った中田にしても、次の内閣改造では、防衛庁長官に擬されている。前々から、中田が狙《ねら》っていた椅子である。  組織のトップは、いつでも、損はしないように出来ているのだ。  政府は、直ちに、日航の臨時便を、サウジへ飛ばして、三十名の乗組員を迎えると発表した。      3  三月五日。  藤木は、久しぶりに自宅を出て、成田国際空港へ出かけた。  陽差しは、すでに春の気配だが、風は、まだ、冷たかった。  この日の午後三時に、「むつ」の三十人が、日航特別機で、帰国すると決ったからである。  送迎デッキに出て、特別機の到着を待っていると、ふいに、背後《うしろ》から、肩を叩《たた》かれた。  振り向くと、カメラを肩から下げ、「報道」の腕章をつけた純子だった。 「やあ」  と、藤木はいった。 「三か月ぶりね」 「いや、四か月ぶりだよ。君は、相変らず、ばりばりやっているみたいだね」 「藤木さんは?」 「僕は、事業団を辞めて、目下、遊民みたいなものでね」 「今日は、やはり気になって、いらっしゃったの?」 「ほとんどの乗組員と、顔見知りだったからね。本当に、彼等が帰って来るのか、それを確認したくて来たんだ」 「帰国の記者会見が予定されているんだけど、誰《だれ》かの口から、真相が語られるかしら?」 「恐らく、無理だろうね。浅井と同じように、積極的に、『むつ』奪取計画に参加したものは、口をつぐんでいるだろうし、無理矢理、アラブまで連れて行かれた者は、真相を話せば殺されるかも知れないという恐怖から、沈黙しているだろうからね。真相が語られるとしても、十年、二十年とたってからじゃないかな」 「それなら、藤木さんが、書いたら?」 「え?」 「私が本当は書きたいんだけど、浅井さんとの約束があるから書けないわ。でも、藤木さんは、あの時、浅井さんと約束してなかったみたいだし、事業団を辞めたんなら、誰に遠慮することもないんじゃないかしら。書いて下されば、うちで、喜んで出版させて貰《もら》いますわ」 「それなら、書いてみるかな」  と、藤木は、いった。  藤木は、事業団を辞めたあと、何をするという考えもなく、事件の経過を見守ってきた。 (この際、事件の真相を書いておくのも悪くないかも知れない)  藤木が、そう思ったとき、日航特別機が、到着した。  タラップが接続されると、カメラのフラッシュを浴びながら、「むつ」の乗組員たちが、おりて来た。  どの顔も、陽焼けして、真っ黒だった。表面的には、ひどく健康そうに見える。  藤木の知っている顔が、次々に、出てくる。船長がいる。機関長の四角い顔がいる。原子炉の技術者たちがおりてくる。  彼等は、笑顔で、出迎えの人たちに、手を振った。  だが、どこか、ぎごちない。やはり、真実をかくさなければならないことからくるぎごちなさだろう。  空港の特別室で、記者会見が始まった。  藤木は、タクシー乗り場の方へ歩いて行った。  タクシーを並んで待っているところへ、純子が駈けてきた。 「さっき、大事なことを、いい忘れてしまって」  と、純子が息をはずませながらいった。 「記者会見の方は、いいの?」 「同僚が、ちゃんと聞いているわ。それに、藤木さんのいった通り、彼等は、真相を話す気はないらしいわ」 「やっぱりね。それで、大事なことって、何なの?」 「私の知ってるカメラマンが、アラブに一か月いて、一週間前に帰って来たんだけど、向うで、バボナールというアラブ人に会ったというの。それが、どう見ても、日本人だったといっているのよ」 「浅井——?」 「ええ。彼が話してくれた人相だと、どう考えても、あの浅井さんなのよ。何んでも、その人は、向うで大きな船の一等航海士をやっていたそうだわ」 「その大きな船というのは、『ラギタニア』号じゃないかな」 「これが、その人の写真なんだけど」  純子は、ハンドバッグから、二枚の写真を取り出して、藤木に渡した。  一枚は、一人の男の写真だった。  白いターバンを頭に巻き、アラブ風の服装をした男だった。  真っ黒に陽焼けし、ひげをはやしている。  だが、その眼は、間違いなく、浅井だった。  二枚目は、船の写真である。甲板の上から、同じ男が、手を振っていた。  船体の色は、違っていたが、そこに写っている船は、明らかに、「むつ」だった。向うに着いてから、紫色の船体を、純白に塗りかえたのだろう。  だが、「むつ」だ。 (おれは、この船を、誰にも気がねなく、堂々と、動かしてやりたいんだ。そうじゃないと、折角《せつかく》造りあげたこの船が可哀そうだよ)  と、いつも、浅井は、いっていた。  今、浅井は、何の気がねもなく、原子力船を、動かしているだろうか? 「一度、アラブへ行ってみませんか?」  と、藤木がいった。 「浅井さんに会うために?」 「それと、『むつ』にも会いたくなったんだ」  と、藤木は、いった。 この物語はフィクションであり、過去および現在の実在人物・団体などにはいっさい関係ありません。(作者・編集部) 角川文庫『原子力船むつ消失事件』昭和59年9月10日初版発行                 平成7年4月20日18版発行