[#表紙(表紙.jpg)] 危険な殺人者 西村京太郎 目 次  病める心  いかさま  危険な遊び  鍵穴《かぎあな》の中の殺人  目撃者  でっちあげ  硝子《ガラス》の遺書 [#改ページ]  病める心      1  田島が、その報告を受けたのは、締め切り間際の忙しい時間だった。つまらない自殺事件と考えて、彼は、簡単に、三行記事にして、社会面の片隅に押し込んでしまった。妙だなと考え始めたのは、新聞の第一版が刷り上がってからである。  刷り上がったばかりの、インクの匂《にお》いのプンプンする紙面に眼を通すときの気持は、記者生活既に十二年の田島にとっても、いつも、妙に興奮を感じる瞬間である。一通り眼を通してから、他社の紙面と比べてみる。抜かれた特ダネはなさそうだ。ほっとした気持になり、煙草を咥《くわ》えて、もう一度紙面に眼を通す。そのときになって、田島は、三行記事の中に妙な点を発見した。彼は、最初、それを、誤植に違いないと思った。活字を一つ間違えただけのことにすぎまい。そう考えることが、一番自然に思えた。校正の連中が、よく気付かなかったものだと考えたとき、彼は、その記事を電話で受けたのが、自分だったことを思い出した。そうなると、校正の連中を笑えなくなる。田島は、あわてて、昨日、電話を掛けてきた、警察廻《サツまわ》りの若い記者を呼んだ。今年、大学を卒《お》えて入社したばかりの、大柄な、のんびりした顔立ちの青年だった。 「この記事は、君が送ってきたものだったね?」  田島は、新聞を渡して訊《き》いた。青年は、眠そうな眼で、田島が赤鉛筆で印をつけた箇所を見ていたが、微笑を浮かべて、頷《うなず》いて見せた。田島は、 「どこか間違っていないかね?」 「いません。ずいぶん短くされちまいましたけど——」 「本当に間違っていないかね?」  田島は、もう一度念を押した。青年は、妙なことを訊くというように、ちょっと眉《まゆ》をしかめて、 「間違っていませんが——」 「しかし、この記事の中で、自殺した城戸清という人間の年齢が、七歳ということになっているけど、これでいいのかね?」 「それでいいんです。小学校の一年生ということでしたから、七歳で間違いないはずです」 「間違いないって、きみ——」  田島は、自分の声が、いくらか高くなるのを感じた。 「七歳の子供が自殺したと聞いて、別に不審に思わなかったのかね?」 「勿論《もちろん》、最初は妙な気がしました」  若い記者は、生真面目《きまじめ》な調子で言った。 「しかし、僕の訊《き》いた範囲では、間違いなく自殺です。警察でも自殺に間違いないと言っています」 「七歳の子供が自殺するものだろうか?」  田島は、眉《まゆ》をしかめた。相手に訊いたというよりも、自分自身に対する問いに近かった。彼にも、ちょうど、小学校にあがったばかりの子供がいる。女の子で、久子という名前だが、彼女が自殺するなどということは、田島には考えようがなかった。 「しませんか?」  若い記者が、訊き返した。田島は、黙ったまま、もう一度、新聞の活字に眼を落とした。文字どおり、三行に、短く切り詰められた活字から、その答えを見付け出すことは難しかった。田島は、自分で、この事件を調べてみようと思った。詮索好《せんさくず》きは彼の、もって生まれた性格であった。      2  その日の午後、田島は、この事件が扱われた警察署に、顔見知りの宮脇刑事を訪ねた。刑事生活二十年というベテランの宮脇刑事は、田島の顔を見るなり、柔和な顔に、やや皮肉めいた微笑を浮かべて、 「自殺した少年のことで来たのと違うかね?」  と、言った。 「判《わか》りますか?」  田島は、宮脇刑事の隣に腰を下ろして、相手に煙草をすすめた。 「判るよ。実は、君が、そろそろ来る頃だと思っていたんだ」 「ということは、警察でも、この事件に不審を持っているということですね」 「そう先走られると困るね」  宮脇刑事は、苦笑して煙草に火を点《つ》けた。 「我々が、最初、不審を持ったことは事実だ。しかし、調査したところでは、自殺に間違いなかった。というよりも、他殺の線は発見されなかったといったほうが正確かもしれない。君が、不審を抱いて、飛んできた気持は判るが、これは、君の喜びそうな事件にはならんよ」 「ともかく、城戸清という少年が自殺した事情を詳しく説明してくれませんか?」  田島は、メモ用紙を拡《ひろ》げた。宮脇刑事は、煙草の吸殻を灰皿に投げ棄ててから、ゆっくりした口調で、説明してくれた。 「少年の父親は三年前に病死して、母一人、子供一人の生活をしていた。母親は、日本橋にある、かなり大きな会社で、タイピストとして働いている。生活は楽とは言えなかったらしいがそれほど苦しいということでもなかったようだ。少年は、神経質で、どちらかというと、暗い性格だった。これは、母親も、学校の教師も、同じように証言している。父親が死んでから、一層暗い性格になったと母親は言っている。事件当日、母親は、会社から、六時に帰宅した。そして、死んでいる少年を発見した——」 「死因は——?」 「猫いらずの入った団子を食べて死んだんだ」 「すると、誤って、食べたということも考えられるわけですね?」 「勿論《もちろん》、そのことも考えてみたさ。しかし、少年は、その団子の中に、猫いらずが入っていたことを知っていたという証拠があるのだ。少年が学校から帰ってから、近所の友達が二人、少年の家に遊びに行っている。この二人の子供の話によると、少年は二人に、茶箪笥《ちやだんす》の奥にあった団子を見せて、この中には猫いらずが入っているから、食べると死ぬと言ったというのだ」 「その話は、確かなんでしょうね?」 「僕の調べた範囲では、その二人の子供の話は信用できそうに思える。母親も、猫いらずの入った団子のことは、少年に、注意しておいたと言っている。このことからも、少年の死が自殺だと考えられるわけだが、他にもう一つ、遺書があるんだ」 「遺書——?」  田島は眉《まゆ》をしかめた。その顔色を見て、宮脇刑事が、あわてて、説明を加えた。 「遺書といっても、勿論《もちろん》、七歳の子供の書いたものだから、遺書と呼べるかどうか、いろいろと疑問な点はある。しかし、死ぬ前に、少年が書いたものであることに間違いはないんだ」  宮脇刑事は、立ち上がると、机の引き出しから、一枚の画用紙を取り出して、田島の前に置いた。  画用紙には、一杯に飛行機の絵が描かれてあった。稚拙な絵だが、田島が、おやッと思ったのは、絵の明るさだった。宮脇刑事の話では、死んだ少年は、神経質な、暗い性格だったという。そんな少年が、こんな明るい絵を描くものだろうか? その疑問を、田島が口に出す前に、宮脇刑事が、 「裏を見給え」  と言った。田島が、画用紙を裏返すと、そこに、クレヨンの茶色で、『ママ、サヨナラ』とだけ書かれていた。やや右上がりの、いかにも、子供の書いたものらしい稚《おさな》い字だった。 「遺書にしては簡単すぎるが、遺書と言えないこともない」  宮脇刑事が、傍《そば》から言った。確かに、彼の言うとおり、遺書と言えないことはなかった。田島は、強い眼で、稚い文字を見詰めた。 「この絵が、少年の死ぬ直前に描かれたものだということは、確かなんですか?」 「それは確かだね」  宮脇刑事は、確信ありと言った、落ち着いた語調で言った。 「さっきの二人の子供が遊びに行ったとき、その絵が、途中まで、描かれてあったと言っている。それに、サヨナラという文字も間違いなく、死んだ少年の筆跡だよ」 「自殺の理由は?」 「一種の神経衰弱だろうね。気の弱い、神経質な子供には、ままあることだよ」 「神経衰弱——?」  田島は、その言葉を、口の中で呟《つぶや》いてみた。七歳の子供が神経衰弱から、自殺を選ぶ。そんなことがあるだろうか? 彼は、自分の七歳の頃を思い浮かべようとした。もう三十年も前のことだ。あの頃、自殺の衝動に駆《か》られたことが、あっただろうか? なかったような気がした。あの頃は、遊ぶことだけに夢中だったのだ。田島は、そう思った。 「納得がいかないようだね?」  宮脇刑事が、傍から言った。 「どうする積もりだ?」 「自分で調べてみる積もりです。自分で納得するまで」 「君なら、どうせ、そう言うと思った。しかし——」 「しかし、何ですか?」  田島は、強い眼で、宮脇刑事を見た。相手の言いたいことは、判《わか》っていた。宮脇刑事は、軽い苦笑を洩《も》らしながら、 「君は、またかと言うかもしれないが、どうも君のやり方を見ていると、いたずらに、相手を傷つけているような気がするときがある。それが僕には、心配なんだ。前の心中事件のときでも、君は——」 「あれは、真実を書いただけですよ」  田島は、簡単に言った。 「姉夫婦が、あの若い夫婦を死に追いやったのです。だから僕は、そのとおりを書いただけです」 「たしかに、そのとおりだ。しかし、あの姉夫婦だって、悪《あ》しかれと思って、やったことじゃない。問題は誤解だった。勿論《もちろん》、あれは、刑事事件じゃないのだから、僕が、どうこう言う筋合いのものじゃないが、君は、新聞記者として、むしろ、あの姉夫婦をかばってやるのが本筋じゃなかったのかね? しかし、君は、そうしなかった。君は、あの、姉夫婦を糾弾した。違うかね?」 「糾弾した形になったのは、結果として、そうなったということでしょう? 僕は、若い夫婦の死因を、追求しただけですよ。それだけです」 「君自身は、それだけだと割り切れるかもしれないが、君に追いつめられたほうは、そうは思わないだろう」 「宮脇さん。貴方《あなた》は、僕に何が言いたいんですか?」 「今度の事件のことさ」  宮脇刑事は、めっきり皺《しわ》の見えてきた顔を、ちょっと曇らせた。 「警察としては、この事件を自殺と断定して手を引いた。だから、君たち新聞記者が、この事件を、どんなに、いじくり廻《まわ》そうと、それを、とやかく言う権利はない。君の自由だ。ただね、死んだ、この少年の母親のことだが、なるべくなら、そっとしておいてやりたいのだ。すっかり参ってしまっている」 「そのくらいのことなら——」 「判《わか》っていると言いたいんだろうが、君の眼は判ってる眼じゃないよ。この前、あの姉夫婦を追いつめたように、君は、少年の母親を追いつめていくに決まっている」 「勿論、僕は、この少年の母親に会いますよ。いろいろ、訊《き》きたいからです。しかし、それを追いつめるなんて言葉で、言われるのは心外ですよ」 「そうだろうか?」  宮脇刑事は、苦笑した。 「君は、自殺と断定した我々の鼻を明かそうとしている。いや別に、それに文句をつけようと言うんじゃない。新聞記者としたら、当然の心構えだろう。しかし、今の君の様子を見ていると、何となく、七歳の少年が自殺するはずがないという固定観念のようなものに、取りつかれているような気がして、それが心配なんだ。他殺と考えれば、当然、母親が問題になる。そんな気持を持って、君が、母親に会うことが、僕には、心配な気がするんだ」 「忠告は、有難く、心に止めて置きます。しかし、宮脇さんは間違っていますよ。僕は、別に、妙な固定観念のとりこ[#「とりこ」に傍点]にはなっていませんよ。これだけは、釈明しておきます。誤解されるのは嫌ですからね」 「君の言うとおりで、あってほしいと思うが」  宮脇刑事は、仕方がないと言うように、首をすくめて見せた。田島は、もう一度、少年の描《か》いた絵に視線を落とした。彼は、既に、宮脇刑事の忠告の言葉を忘れていた。彼の気持の中にあるのは、何かを追いつめていくときに感じる、奇妙な快感だけだった。田島には、猫という綽名《あだな》が付けられていた。同僚たちは、彼の顔が、どことなく猫を思わせるものがあったために、何気なく付けたのだが、彼らは、知らず知らずの中に、田島の本質を言い当てていたのである。  田島の性格の中には、猫に似た執拗《しつよう》さと、彼自身気付いていなかったが、残忍さが、潜んでいたのである。残忍さと言って悪ければ、相手を追いつめる快感と言ってもよかった。その相手は、別に、人間とは限らない。抽象的な、悪でも、真実でもよかった。こうした性格は、新聞記者として、むしろ、必要なものであるかもしれない。  問題は、彼が自分の性格を、正確に把握しているかどうかということだった。 「これから、死んだ少年が通っていた学校に行き、それから、母親のところに廻《まわ》ろうと思っています」  田島は、飛行機の絵を見詰めながら、宮脇刑事に言った。 「この絵を、お借りしていって構いませんか?」  宮脇刑事は、ちょっと考えてから、 「君から、母親に返して貰《もら》おうか」      3  田島は、放課後の、がらんとした職員室で、死んだ少年の担任教師に会った。若い、二十二、三の女の教師だった。 「城戸さんのことは、私にとって、ひどいショックでした——」  西牧美佐子と名乗った若い女教師は、誠実そうな表情に、暗い影を見せて言った。 「私、二年間しか、まだ教員生活をしておりませんが、こんな恐ろしい事件にあったのは、初めての経験です。私の教育の仕方が悪かったのかと、ずいぶん悩みました。今でも、ときどき、あの子のことを考えますわ」 「貴女《あなた》も、城戸清が自殺したと、考えていらっしゃるのですか?」  田島は、低い声で訊《き》いた。職員室には、彼女の他に、二人ほど男の教師がいたが、彼らは、校庭で遊ぶ、数人の子供の姿を眼で追っていた。 「警察の方は、自殺だと、おっしゃっていましたわ」 「貴女自身は、どう思っているんです?」 「自殺だと——」 「本当に、そう思っているのですか?」  田島は、知らず知らずの中に、強い眼になって、女教師を見詰めていた。 「ええ」 「なぜです?」 「なぜって——」  美佐子は、驚いたように、眼をしばたたいた。 「あの子は自殺したんですわ。それ以外には考えられませんわ」 「僕には、それが判《わか》らない」  田島は、持参した、飛行機の絵を、机の上に載せた。 「貴女《あなた》も警察も、城戸清という子供が、自殺したのだと断定する。その根拠は、何でしょう? この、ママ、サヨナラと書かれた文字。それに、団子の中に、猫いらずの入っていることを子供が知っていたという、たった二つのことにしかすぎない。僕は、別に、その二つを否定はしない。しかし、まだ七歳になったばかりの子供が、完全に自分の意志で、自殺するとは、僕には考えられないのです。完全にというのは、形は、あくまでも自殺であっても、自意識のいまだに確立していない子供の場合には、他殺のことがあり得ると思うのです。つまり、子供に対して強い影響力を持つ人間が、死への暗示を、少年に与えたのではあるまいかと」 「恐ろしいことを、おっしゃいますのね——」  美佐子は、青ざめた顔で、田島を見た。 「あの子に、影響を与える立場にあった者といえば、母親と、教師の私だけですわ。貴方は、まさか、あの子の母親が——」 「貴女は、城戸清の母親をご存知ですか?」 「母親として、申し分のない方ですわ」 「なぜ、それが判ります?」 「お子さんを愛して、いらっしゃいましたもの」 「なるほど」  田島は、あっさり頷《うなず》いたが、その表情には疑惑の色が残っていた。 「城戸清君の描《か》いた絵か、作文があったら見せてほしいんですが」 「お見せしても構いませんが——」  美佐子は、立ち上がって、戸惑いしたような表情で、田島を見た。 「貴方の考えていらっしゃることが、何か恐ろしいような気がしますわ」 「何がです?」 「貴方は、誰かが、あの子を死に追いやったように考えて、いらっしゃいますもの」 「偏見に捕われていると言うのですか?」 「ええ」 「違いますね。僕は、ただ、貴女や警察のように、城戸清という少年が、自殺したのだと、勝手に断定していないだけのことです」 「私の考えが、勝手な断定と、おっしゃるのですか?」 「怒ったのですか?」 「いいえ」  美佐子は、暗い顔で頭を振り、背後の書棚から、五、六枚の画用紙と原稿用紙を取り出してきて、田島の前に置いた。 「城戸さんのお母様に、お渡しする積もりで、別にしておいたものですわ」 「拝見します」  田島は、最初に、原稿用紙を取り上げた。 「えんそく」と題された作文だった。田島は、稚拙な作文に眼を通すと、机の上に置いた。ありふれた、子供の作文だった。田島は、次に、クレヨンで描かれた五枚の絵を、手に取った。三枚が飛行機の絵で、他は、果物と、風景が描かれていた。 「飛行機を描くのが好きだったようですね?」 「ええ。題材を決めないで描かせると、必ず飛行機を描きました。亡くなった父親が、飛行機に関係していたせいだと思いますけど」 「ほう」  田島は、眼を輝かせた。 「すると、少年は、亡くなった父親を愛し続けていたということができそうですね。だから、好んで、飛行機を描いたと——」 「ええ。でも、それは、あの子が、亡くなった父親のことを思い過ぎて、それで自殺したということになりますね。貴方《あなた》の考えていらっしゃるような、誰かが、あの子を殺したのだということには——」 「それは、判《わか》っています。僕が、今、知りたいのは、死んだ少年に関する全《すべ》てのことです。ところで——」  田島は、あわてて、五枚の絵を、もう一度、一枚一枚見直した。 「訝《おか》しい」  と、彼は、声に出して言った。 「何がですの?」 「この五枚の絵は、ひどく寂しい」 「あの子の絵は、何時も、そうでしたわ。あの子の暗い性格がそのまま絵に現われていたんです。それで、少しでも、あの子の気持を、明るいものにしたいと、いろいろ努力してみたんですけど——」 「ところが、こちらをご覧なさい」  田島は、少年が、死の直前に描いた飛行機の絵を、美佐子に示した。 「この絵は、ひどく、明るい感じがするのですよ。僕は、それがなぜなのか、考えていたんです。飛行機は、同じ黒い色で描《か》かれている。描き方も同じだ。だから、これじゃない。問題は別なところです。こちらの三枚のほうには、飛行機だけが、ぽつんと描かれているのに、この遺書が裏に書かれた絵のほうには、真赤な太陽、それに、綺麗《きれい》な花まで描いてある。これが、この絵を明るい感じに見せているのです」 「ええ」  と、美佐子は頷《うなず》いた。 「でも、なぜ、死ぬときにだけ、太陽だとか、綺麗な花を描いたんでしょう?」 「僕は、こう考えます」  田島は、絵に視線を落としたまま言った。 「少年にとって、死が甘美なものだったということです。これはあるいは、こじつけかもしれませんが、この絵の、真赤な太陽や、綺麗な花は、少年にとっての天国を示しているのではないかと思うのです。彼は、天国に行けることを信じて、死んだのだと思います。これは、僕の考えが、正しかったことを、示しているように思えます」 「なぜですの?」 「七歳の少年にとって、死が甘美なものだというのは、自分で考えられることじゃありませんよ。大人の考えだ。僕に言わせれば、七歳の子供が、自殺するということすら訝《おか》しい。しかも、その子供にとって、死が甘美なものと考えられていたとなると、これは、いよいよ不思議なできごととしか思えなくなってくる」 「貴方《あなた》は、やはり、誰かが、あの子を、自殺に追いやったと——?」 「追いやったと言うよりも、暗示にかけたのだと思います。誰かが、少年に、死の甘美さを吹き込んだに違いありません。七歳くらいの子は、暗示にかかりやすいはずですよ。十七歳の少年さえ、暗示によって、殺人者に仕立て上げることができるのだから、七歳の子供に、暗示をかけることは、簡単なはずです」 「貴方は、それを、冗談でなく考えていらっしゃるんですの」 「こんなことは、冗談に言えませんよ。僕は、誰が、少年を自殺に追いやったか、自殺を暗示させたか、それを調べ上げる積もりです」 「貴方は、恐ろしいことを、おっしゃる方ですわ」 「何が恐ろしいのです?」  田島は笑った。 「真実を知ることが、恐ろしいのですか?」 「いいえ。貴方の信じていらっしゃることが、真実でないかもしれないからです。そして、そのために、誰かが傷つくかもしれないからですわ」 「僕は、自分の考えていることが、真実であることを証明して見せる積もりですよ」 「誰かを傷つけることで——?」 「もし、少年の死が他殺だったら、誰かが傷つくという貴女《あなた》の言葉は、的を外れていることになりますよ」  田島は、女教師に別れを告げると、死んだ少年の母親が住んでいるアパートに向かった。街には、既に、夜の気配が満ちていた。田島は、歩きながら煙草を咥《くわ》え、ゆっくりと煙を吐き出した。彼の足取りは、活気に満ちていた。西牧美佐子という教師は、田島の考え方を恐ろしいと言った。誰かを傷つけるに違いないとも言った。田島は、歩きながら、その言葉を思い出していた。宮脇刑事も、同じようなことを言った。しかし、それらの言葉は、田島の闘争心をかき立てこそすれ、少しもブレーキの役目を果たしはしなかった。田島が、一つの目的に向かって突進し始めると、必ず、誰かが、そんな忠告めいたことを言うものなのだ。愛だとか、道義だとかいう、もっともらしい言葉を使って。そんなものに、いちいち拘《こだわ》っていたら、新聞記者は勤まらないと田島は思っていた。事件を追いつめていけば、その事件が、シリヤスなものであればあるほど、誰かが傷つくことになるのだ。だからといって、真実が隠されたままにして置くのか? それこそ、新聞記者としての道義に反することではないのか?  田島は、アパートの前で、吸殻を捨て、二階の、『城戸』と書かれたドアをノックした。  ドアが開いた。緊張した彼の眼の前に、喪服に身を包んだ、ほの白い女の顔が覗《のぞ》いた。女の表情は、ひどく硬かった。ぎこちない、その表情を、田島は、ふと、美しいなと思った。 「城戸順子さんですね」  田島は、名刺を渡しながら言った。 「警察で、この絵を、貴女《あなた》に返してくれるようにと頼まれて、持参したのです」  田島は、二つ折りにした、飛行機の絵を取り出して、城戸順子に渡した。名刺を見たときに、彼女の顔に現われた警戒の色は、画用紙を受けとった途端に、薄らいだようだった。順子は、礼を言ってから、田島に座蒲団《ざぶとん》をすすめた。  田島は、六畳ほどの、狭い室内を見廻《みまわ》した。きちんと整頓されていたが、その事が、かえって、寂しさを深めているような感じだった。部屋の隅に、死んだ少年が使っていたらしい机があり、その上に、黒リボンで飾られた、少年の写真が載っていた。実を言うと、田島が、死んだ城戸清という少年の写真を見たのはこのときが初めてと言ってよかった。警察には、写真はなかったし、学校で見せて貰《もら》ったものは、遠足のときにでも写したものらしく、顔の表情の読み取れぬほど、小さいものだったからである。  神経質そうな少年の写真だった。そのくせ、眼の辺りにも、口元にも、あどけなさが、一杯に残っていた。 「さぞ驚かれたでしょうな?」  田島は、お悔みの言葉の後で、少年の写真を見ながら言った。 「あの子は、私が殺したような気がして——」  順子は、低い小さな声で言った。田島は、写真から、彼女に視線を移した。彼女は、俯《うつむ》いていた。 「なぜです?」  田島が訊《き》いた。 「あの子は、きっと苦しんでいたに違いありません。それを、見抜いてやることが、私にはできませんでした。私は、あの子の母親なのに——」 「それで、自分が死なせたようなものだと?」 「ええ」 「貴女《あなた》は、タイピストを、やっておられるそうですね?」 「ええ、大西鋼業という会社に勤めています。それが、どうかしたのでしょうか?」 「いや、別に。ただ女手一つで、せっかく育ててこられたのに——と思っただけです。亡くなられた、ご主人は、何か飛行機のほうの仕事をなさっていたとか聞きましたが?」 「飛行機の整備の仕事を——」 「死んだ息子さんは、亡くなられたご主人をとても、慕っていたようですね? 飛行機の絵を描《か》くのが好きだったところを見ますと」  田島は、自分の口調が、いつの間にか訊問《じんもん》の調子になっていることに気付いていなかった。彼は、いつの取材のときでも同じだった。一つの観念に捕われてくると、口調まで、硬く、荒々しくなってしまうのである。それが、相手を傷つけるかもしれないことに、田島は気付いていない。  順子は、黙って、頷《うなず》いただけだった。田島の言葉は、考えようによっては、亡くなった父親より、彼女が、少年に注ぐ愛情のほうが薄かったから、少年は死んだのではないかと、詰問しているようにとれないこともない。 「清君には、前にも、自殺するような徴候があったのですか?」 「いいえ。そんなことがありましたら、私は、もっと注意していましたわ」  順子は、顔を上げて、きっぱりした調子で言ってから、 「貴方《あなた》は、こんなことを訊《き》いて、どうなさるお積もりですの?」  と、田島に訊いた。警戒の色が、再び、彼女の表情に現われてきていた。田島は、「ただ、ちょっと、お訊きしたかっただけです」と言ってから、 「これから、どうなさる、お積もりですか?」  と訊いた。 「これから——」  順子は、低い声で、おうむ返しに言ってから、 「今は、ただ、あの子のことで、頭が一杯で、自分のことを考えられないのです。あの子だけが、私の生甲斐《いきがい》でしたから」  田島は、何も言わなかった。彼の眼は、一つのことを疑っていた。今、彼の眼の前にいるのは、一人息子を失って、嘆き悲しんでいる母親だ。彼女は、あの子だけが、生甲斐だったと言う。もし、その言葉に嘘《うそ》がないのなら、あの少年は、警察の考えたとおり、自殺したのだ。この母親を追いつめることは、間違っている。しかし、田島には、あの少年が、誰かに、自殺に追いやられたに違いないという確信があった。誰かが、少年の心に、甘美な死という幻影を植えつけたのだ。それができる人間は、母親しかいない。  この城戸順子しかいない。  田島は、探ぐるような眼で、順子を見詰めた。彼女は、まだ若く、美しい。黒い喪服がよく似合うのは、彼女の若さのせいだ。  田島は、城戸順子の、若さと、美しさの中に、男の影を、想像した。      4  大西鋼業の本社は、日本橋にあった。翌日、田島は、ビルの二階にある大西鋼業の庶務課を訪ねていた。城戸順子は、まだ出社していなかったが、田島には、そのほうが都合がよかった。  庶務課には、タイピストが、四人ばかり、机を並べていた。田島は、その一人を、十時の休憩時間に、ビルの屋上に誘い出した。新聞記者という名刺に、好奇心を掻《か》き立てられた顔付きで、従《つ》いてきた若いタイピストは、田島が、城戸順子の名を口にした途端に、警戒するような眼付きになった。 「この会社では、社員の私事にわたることは、外部の人に喋《しやべ》ってはいけないことになっているんです」  棒を呑《の》んだような言い方だった。田島は苦笑して、 「僕は、別に、城戸順子さんの男関係を探って、それを、記事にしようなんて考えていない」 「それなら、なぜ、お訊《き》きになるんです?」 「それはつまり、僕が、個人的に、城戸順子さんが好きだからさ」 「そんな嘘《うそ》は、新聞記者の常套《じようとう》手段じゃありませんの? 個人的にだなんて。とにかく、私、城戸さんのことは、何にも知らないんです」  女は、それだけ言うと、階段を駆《か》け降りていってしまった。田島は、ちょっと首をすくめただけだった。別に失敗したとは思っていないのである。城戸順子の同僚は、まだ、あと三人いる。  田島は、五時まで、社に戻って仕事をすると、再び、大西鋼業のビルに舞い戻った。ちょうど、退社時刻と見えて、ぞろぞろと社員が、ビルから吐き出されてくる。その中に、眼を付けていた女の姿を発見して、田島は近づいていった。タイピストの中では、一番|薹《とう》の立った、一見してオールド・ミスと判《わか》る女である。器量も良くない。こんな女なら、話し相手にも飢えているに違いない。それが、田島の計算だった。  女が都電に乗る。そのすぐ後から、田島も続いて乗り、急に顔を近づけた。 「先ほどは、どうも——」  と声を掛けると、女は、あらッというように、小さく口を開けた。 「新聞記者の方ね。今度は、私に、城戸さんのことを訊く積もり?」 「いや」  田島は、苦笑して見せた。 「あれから社に帰って、デスクに叱《しか》られましてね。人の私事をあばくようなことは止《や》めろと言われましたよ」 「当たり前ですわ」  女は笑った。警戒を解いた笑いだった。田島は、まずまずだなと思った。  田島は、その女を、食事に誘った。女は、しばらくためらってから、「城戸さんのことは喋《しやべ》りませんよ」と念を押してから承諾した。その念の押し方に、オールド・ミスの、微《かす》かなプライドの匂《にお》いを嗅《か》いだように思い、田島は苦笑した。  田島は、色男の役を演じるのは、あまり得意ではなかったが、この日は、かなり、事は上手《うま》く運んだ。食事の後が、酒になり女は、酔うと饒舌《おしやべり》になった。饒舌にはなったが、城戸順子のことは、なかなか喋ろうとしなかった。田島は、意を決して、女を、近くの旅館に連れ込んだ。田島にとっては、あまり気乗りのしない情事だったが、女のほうは、夢中になって、身体を押しつけてきた。女の喘《あえ》ぎが納まったとき、田島は、城戸順子のことを訊《き》いた。快楽に酔いしれた後の女の口は、締まりがなかった。女は、田島の訊くままに、べらべらと喋った。  会社の中で気付いている人は少ないが、城戸順子と、営業課長の、村越という男の間に関係があると、女は言った。 「いつだったか、二人が、温泉マークのついた旅館から出てくるのを見たわ」 「そうか。いいことを教えてくれた」  田島は、にやッと笑って、女の乳房を突ついた。女が、短い嬌声《きようせい》を上げたが、田島は、もう、聞いてはいなかった。      5  応接室に入ってきた男は、田島を見て、当惑したように、小さな咳払《せきばら》いをした。 「僕が、営業課長の村越ですが、どんな、ご用件でしょうか?」  田島は、黙って、相手を見た。色の白い、聡明《そうめい》そうな顔だった。四十には、まだ手が届いて、いないように見える。女に好かれそうなタイプだった。 「城戸順子さんをご存知ですね?」  田島は、単刀直入に言った。相手の顔色が変わったが、 「城戸さんというのは、確か、うちのタイピストだったと思いますが」 「僕の言うのは、個人的に知っていらっしゃるはずだと——」 「馬鹿な」 「否定なさるのですか?」 「勿論《もちろん》です」 「村越さん。僕は、貴方《あなた》の私事を、あばくために、お訪ねしたのではありません。ただ、あることのために、事実が知りたいのです。勿論、貴方のことを記事にするようなことは、絶対にしません。いかがですか?」 「しかし、僕は、城戸さんとは——」 「貴方と城戸順子さんが、二人で、温泉マークに入るのを見た人がいるのですよ。それに、僕の後には、何百万という読者を持つ新聞が控えているということを忘れないで下さい」 「君は、僕を脅迫するのですか?」 「脅迫とは違う。我々が全力を上げたら、貴方が隠そうとしていることなど、たちまち調べ上げてしまうということですよ。いかがですか、話して頂けませんか?」  村越の顔は、真青《まつさお》になっていた。下手をすると、課長の椅子《いす》を棒に振るかもしれないという恐怖が、この男を、急に卑屈にしてしまった。 「秘密を守って頂けるのでしょうね?」と、念を押してから、 「以前、彼女と関係があったことは認めます。しかし、今は何でもない。本当です」 「失礼ですが、貴方《あなた》は独身ですか?」 「ええ」 「城戸順子さんと、結婚の約束をなさったというようなことは、なかったのですか?」 「とんでもない」  村越は、あわてて、大仰《おおげさ》に、顔の前で、手を振って見せた。 「僕は、最初から受身だったのです。それに、考えてもみて下さい。あんな瘤付《こぶつ》きと一緒になろうなんて、考えると思うのですか?」 「瘤付き?」田島は、自分でも判《わか》らずに、大きな声を出した。 「今、言った言葉を、城戸順子さんに向かって、言ったことがありますか?」  彼の声は興奮していた。この事件の、一つの鍵《かぎ》を掴《つか》むことができたような気がしたからである。 「さあ」村越は、意味のない笑いを口元に浮かべた。 「言ったかもしれませんね。酒が入ったときなんかに——」 「貴方《あなた》は、その瘤の、城戸清という少年が死んだことを知っていますか?」  田島は、冷静な調子に戻って言った。彼は、もはや、村越という、この男に興味を失っていた。深い軽蔑《けいべつ》の念だけが、田島を捕えていた。 「死んだのは知っていますよ。自殺でしょう。陰気な子だったから、自殺しかねない」 「いや、自殺じゃない。誰かが、あの少年を殺したのです」 「誰が——?」 「それが誰であるにしろ、責任の一部は、村越さん、貴方にあるはずですよ」      6  田島は、自分が今、事件の核心に触れたのだと考えていた。  村越と、城戸順子の間には肉体関係があった。しかし、村越には、瘤付きの女と結婚する意志はなかったし、そのことを、口にしたこともあるらしい。もし、順子が、村越との愛に溺《おぼ》れていたとしたら、彼の愛を繋《つな》ぎ止めたい一心で、我が子を殺さないとも限らない。少なくとも、城戸順子が、殺害の動機を持っていたことだけは確かめられたと、田島は考えた。彼にとっては、それだけで充分だった。彼の頭の中で、幾つかの言葉が生々とした形で、繰り返し浮かんできた。 〈七歳の少年が、普通の意味で、自殺するはずがない〉 〈しかし、少年の死は自殺だ。誰かが、少年を、自殺に追いやったに違いない。しかも少年にとって、死は甘美なものだったらしい。七歳の少年が、死を甘美と感じる筈がない。誰かが、少年に暗示を与えたのだ〉 〈少年に、暗示を与え得る立場にいたのは、母親の城戸順子である〉 〈そして、城戸順子には、我が子を殺す動機があった〉  これらの言葉の中には、独断が含まれていたが、田島は、それを意に介していなかった。というよりも、自分の得た結論に夢中になっていたといってよかった。田島は、今、自分に必要なのは、後ろを振り返ることではなく、前進することだと考えていた。眼の前に獲物は、転がっている。それを捕えるだけだと田島は思った。獲物を、田島は、真実という言葉に置き換えて考えた。俺《おれ》は、今、真実を捕えかけている。新聞記者として、最も重要な真実を。城戸順子を追いつめて、彼女に、真実を語らせることができれば、田島は、何度目かの特ダネを手に入れることができる。田島は、そう考えた。真実だと考えていることが、真実の幻影であるかもしれないことを、田島は考えなかった。  田島は、再び、城戸順子を、アパートに訪ねた。前に訪ねたとき、彼は、一人の弔問客にしかすぎなかったが、今は違っていた。彼は、相手を裁く、傲慢《ごうまん》な眼になっていた。 「貴女《あなた》は、前に、あの子だけが生甲斐《いきがい》だと言いましたね?」  田島は鋭い眼で、順子の、青い顔を覗《のぞ》き込んだ。 「しかし、村越という男も、貴女にとって、生甲斐ではなかったのですか?」  彼女は、何か言おうとして、がくッと顔を伏せてしまった。微《かす》かに見える項《うなじ》の辺りも、すっかり血の気を失ってしまっていた。 「しかも、村越という男は、瘤付《こぶつ》きの女とは結婚できないと言った。貴女は、村越を失いたくなかった。子供さえいなければ、村越を失わずに済むと考えた。よくあるケースだ。貴女は、子供に、死は甘美なものだと言い聞かせた。亡くなった父親に会えると言ったのかもしれない。子供は、死んだ。貴女が殺したのだ——」 「違います」  順子は顔を上げ、血走ったような眼で、田島を見詰めた。 「私は、あの子を殺したりはしません。私は、あの子を愛していました」 「村越は、愛していなかったと言うのですか? 愛してもいないのに、二人で、温泉マークに入ったと言うのですか?」 「それは——」 「貴女《あなた》は、前に、僕に嘘《うそ》を吐《つ》いた。いや、僕だけにではない。世間の眼を欺いたのだ。子供の成長だけを楽しみに生きてきた賢母を気取ってだ。ところが、貴女は、賢母どころか、男との情痴に耽《ふけ》っていたのだ。その揚句、邪魔になった、子供を殺したのだ」 「違います。村越さんとのことは、貴方《あなた》のおっしゃるとおりです。私は、貴方のおっしゃるとおり、悪い母親でした。でも、あの子が邪魔になったから殺したなんて、あんまりです。私は、あの子を愛していました——」 「男との情痴に溺《おぼ》れながら、どうやって、子供を愛することができたと言うのですか? 貴女は自分の幸福だけを考えていたのだ。だから、あんな馬鹿な男と、子供を、放ったらかしにして、温泉マークに、シケ込むことができたのだ。だから、子供を殺すことだって平気でできたはずだ。反駁《はんぱく》ができますか?」 「反駁?」順子は、暗い、疲れたような眼を向けた。 「私にはできません。結局、あの子は、私が死なせたのかもしれませんから——」  言葉の途中で、順子は、小さな吐息を吐いた。 「貴方は、私と村越さんのことを、お書きになる積もりですのね?」 「事実を報道するのが、僕の仕事ですからね」  田島は冷たい声で言った。「全《すべ》てを記事にする積もりです」 「貴方の、おっしゃった全てが真実じゃありませんわ。私と村越さんのことは事実ですから、何を言われ、何と書かれても仕方がありません。でも、わたしが、あの子が邪魔になったから殺したなんて——」 「貴女に、反証をあげることが出来ると言うのですか?」  田島は、残酷な眼付きで、順子を見詰めた。その眼は、新聞記者の眼というよりも、猫の眼だった。      7  社に戻り、田島が、自分の調べたことを記事にまとめているとき電話が鳴った。面倒臭そうに取り上げた田島の耳に、宮脇刑事の声が飛び込んできた。彼の声は、別人のように、重く疲れていた。「城戸順子が自殺したよ。君に知らせておいたほうがいいと思って、電話したんだ」  田島は、手に持った受話器が、急に重くなったような気がした。「そうですか——」 「あまり驚かないね。彼女が自殺するかもしれないと考えていたのかね?」 「いや。ただ、或いはと考えてはいましたが」 「そのことで、君に話したいことがあるんだが、来るかね?」 「行きます」田島は、受話器を置いた。  田島は、城戸順子のアパートの近くで、宮脇刑事に会った。宮脇刑事が、その場所を指定したのである。田島は、宮脇刑事から、城戸順子の遺書を見せられた。文面は簡単だった。「私はあの子にとって、悪い母親だった。愛が足りなかった。しかしあの子を殺すようなことはしなかった」と書かれ、最後に、「あの子のために、新聞の記事には、しないで下さい」と、田島|宛《あて》に書いてあった。 「君は、城戸順子を追いつめたようだね?」  宮脇刑事が、ぼそッとした声で言った。 「彼女は、君に追いつめられて自殺した。君は、いい気持かね?」 「いい? なぜですか?」 「君が求めていた真実という奴《やつ》は、この事件では、誰かを傷つけることだったんだ。だから、城戸順子が、傷つき、自殺を選んだことは、逆に、君が真実という奴を、君が幻想していた真実を掴《つか》んだということだ。だからだよ」 「まるで、俺《おれ》が、城戸順子を殺したような言い方ですね?」 「違うかね?」宮脇刑事は、暗い空を見上げて言った。 「城戸順子には男があった。それが、君の追い求めていた真実だった。しかし、この真実は、彼女の問題であって、君が追求すべき問題ではなかったはずじゃないのかね。まして、君が、社会正義を振りかざして、糾弾すべきことではなかったはずだ。それに、君は、城戸順子が、少年を死に追いやったと考えた。しかし、これは、君の頭の中でだけ、真実の形をとっていたにすぎない。一つの推測にしかすぎない。しかし、それを、君が口にしたとき、城戸順子を死に追いやる鋭い武器になった。君は、それを考えたかね?」 「宮脇さん。貴方《あなた》は、僕を誤解している。僕はただ——」 「真実を求めただけ——か」  宮脇刑事は、小さく頭を振った。 「僕は疲れたよ」それだけ言うと、宮脇刑事は、田島を独り残して、暗闇《くらやみ》の中に消えていった。  田島は、独りで、取り残された。暗い、夜の静けさが、彼の身体を押し包んでいた。  田島は、ふいに、言いようのない恐怖に襲われた。彼は、かつて、自分が間違っているのではあるまいかと、考えたことはなかった。だから、不安も、恐怖も感じたことはなかった。  それが、今、ふいに恐怖に襲われた。もし、自分の追い求めていたものが、何の価値もないものだったとしたら? いや、価値がないだけでなく、人を傷つけるだけのことだったら? 一度《ひとたび》、不安に襲われると、田島は、蟻地獄に落ちた蟻のように、暗い疑惑の淵《ふち》から這《は》い上がることができなくなった。 [#改ページ]  いかさま      1  松崎は、小さな商事会社のサラリーマンである。年齢は二十七歳。まだ結婚していない。  酒は呑《の》まない。煙草は一日十本くらい。仕事も、ばりばりやるほうだ。サラリーマンとしたら模範生みたいなものだが、一つだけ、困った道楽があった。  麻雀《マージヤン》である。  もちろん、今時のサラリーマンが、麻雀がきらいといったら、かえって、おかしいということもできる。それほど、賭《か》け事というやつは、サラリーマンの間に流行しているが、松崎の場合は、いささか、病|膏肓《こうこう》なのである。  最初から、もちろん、そうだったわけではない。他人のやっているのを見ていて、面白そうだと思って習い始めたのである。  今の麻雀は、インフレルールで、運七分に技術三分といわれる。だから、ついていさえすれば、覚えたてでも勝つことができる。それが、いけなかったのかもしれなかった。最初に勝ったことが、松崎を、麻雀《マージヤン》のとりこにした。  だが、ここまでは、たいがいのサラリーマンのたどる道といえるだろう。そのうちに、勝ったり負けたりが始まり、麻雀も面白いが、ほどほどにしたほうがいいと考えるようになる。負け続けたりすれば、もう絶対に、手を出すまいと考えたりもする。それが普通なのだが、松崎の場合は、少し違っていた。  生まれつき、博才《ばくさい》があったのかもしれない。あるいは、そのほうの運が強く生まれついているというのかもしれない。とにかく、仲間の誰とやっても、負けることが、ほとんどなかった。  最初に勝ったことが、松崎を、麻雀に引きつけさせ、勝ち続けることが、彼に、自信と快感を与えた。まるで、人生にまで勝ち続けているような気持にさせるのだ。  一年もすると、社内に相手がいなくなった。何度やっても、負ける気がしないのだ。勿論《もちろん》、勝つことは楽しいし、いくらかは賭《か》けているから、金も入ってくる。が、もっと強い相手も欲しくなってくるのが、人情だった。  取り引きのある他社の社員とも、何度となくやった。どの社にも、一人か二人、腕自慢がいるものである。そんな連中とやっても、松崎は、負けなかった。勿論、まったく、つかないときもある。そんなときには、どうやっても上がれないものだが、松崎は絶対といっていいほど、相手に振り込まず、沈みを最小限に喰《く》いとめた、次に、大きく勝った。トータルすると、結局、彼が勝つのだ。  松崎が、町の麻雀屋に、時おり、麻雀だけで食べているプロがいるものだと知らされたのは、その頃《ころ》だった。そういう連中は、たいてい、二人か三人で組んでいて、カモがくるのを待っているものだという。それについての記事が週刊誌に載っているのを見つけて、松崎は、熱心に読み耽《ふけ》った。  だが、読んでも、そんな連中が怖いとは思わなかった。むしろ、プロといわれる連中と、一度、戦ってみたいと思った。      2  松崎は、都内の麻雀屋を、『彼等』を探して歩いた。自分では、昔の武士が武者修業しているような気持だった。だが、なかなか、プロらしい相手にぶつからなかった。  六月の終わりの日曜日だった。  昼頃、松崎は、新宿のAという麻雀屋に足を踏み入れた。  麻雀屋の客は、サラリーマンが多い。それだけに、会社の終わるウィークデイの六時以後か、土曜日の午後が混《こ》むが、日曜日は、他のレジャーと違って、空いているものである。  その麻雀屋も、がらんとしていた。  松崎が、扉を押して中に入ったときも、隅の卓で、一組が、パイを掻き廻していただけだった。  だが、もう一つの卓に、三人の男が腰を下ろして、所在なさそうにしている姿も、松崎の眼に入った。麻雀は、四人でやるものだから、一人欠けていることになる。  松崎は、何となく、その三人の様子を眺めた。どうみても、普通のサラリーマンには見えなかった。どこか、崩れた感じがするのだ。 (この連中が、いわゆるプロと呼ばれる人間だろうか?)  松崎は、何となく、ぞくぞくとした。武者ぶるいといっていいかもしれない。松崎は、三人に近づいて、 「遊ばせて貰《もら》えませんか?」と、声をかけた。  三人は、黙って、顔を見合わせた。 「あとから、一人来るんでね」  と、細面《ほそおもて》の男が、ぼそぼそした声で、いった。 「だから——」 「それまででいいですよ」  松崎は、さっさと、空いている椅子《いす》に腰を下ろした。 「お互いに、時間を持て余しているんだから、やろうじゃありませんか」 「だがね——」 「金は持ってますよ。レートは、いくらでも構いませんよ。千点百円でも、一点一円でも。やりましょうよ」  三人は、また、顔を見合わせた。今度は、一番年かさと思われる男が、「じゃあ、やろうかね」と、いった。  千点百円ということで、始められた。  二万七千点持ちの三万点返しだから、全然浮き沈みがなくても、三千点のマイナスということになる。が、このルールは、松崎がいつもやっているものと同じだった。  松崎は、息を殺すような気持で、最初の配《はい》パイに眼をやった。よい手であった。ピンフで簡単に上がれそうだった。そして、上がれた。松崎は、何となく、拍子抜けした気持だった。  週刊誌で読んだ『プロの手口』という記事には、次のようなことが書いてあったからである。  二人か三人が組んでいるから、カモにされる人間は、絶対に上がることができない。また、彼らの間には、あらかじめ暗号がしめし合せてあって、「今日はツイてねえや」といったら、万子《ワンズ》が欲しいという合図だったり、煙草をくわえたら、テンパイの合図だったりするのだという。  だが、いくら注意深く、松崎が三人を観察しても、お互いに合図をしあっているようには見えなかった。  そして、松崎は、ときどき、上がった。職場の同僚とやっているときのように、いくらでも勝つというわけにはいかなかったが、一荘《イーチヤン》が終わったときには、三千点ほど浮いていた。 「あ、来たな」  と、年輩の男が、入口のほうを見て、いった。背のひょろ高い男が入って来たところだった。 「あんたの来るのが遅いから、この人に、相手をして貰《もら》っていたのさ」と、年輩の男は、相手に、いった。男は、妙に乾いた眼で、松崎を見た。他の二人は、黙っていた。  松崎は、約束通り、三百円を貰って、その麻雀屋《マージヤンや》を出た。 (プロだと思ったが、そうじゃなかったらしい)  と、初夏の陽差《ひざ》しの中を歩きながら、松崎は、思った。下手ではないが、松崎と大して違わない腕前の連中のように見えた。サラリーマンではないが、カタギの連中なのだ。どこかの商店主か何かだろう。 (だが——)  今の麻雀を、ふり返りながら、考えているうちに、松崎は、だんだん、妙な気持になってくるのを覚えた。何かおかしかったと思う。今まで、やってきた麻雀と、どこか違うような気がするのだ。だが、どこが違うのかと考えてみると、わからなくなってしまう。  よい手が、何回か来た。ときどき、上がれた。相手に振り込みもした。いつもと、どこも違いはしない。 (だが、どこか、違っていたのだ)  松崎は、考え込んでしまった。家に帰って、夕食をとっているうちに、その何かに、松崎は気がついた。 (緑発《リユウハ》が、一度も、自分の手に来なかったのだ)      3  麻雀のパイは、百三十六枚ある。その中、緑発と呼ばれるパイは、四枚である。  百三十六枚中の四枚。三十四枚の中一枚は、緑発なのだ。そのパイが、一度も、彼の手に来なかったのだ。  松崎は、冷静に考え直してみた。が、今日の麻雀で、緑発を手にした記憶はなかった。 (偶然だったのだろうか?)  と考えてみた。  全然、考えられなくはない。一荘《イーチヤン》戦う間、一度も、緑発を持ってこないということも、理論的には、あり得るかもしれない。 (だが)  と、思う。あまりにもできすぎた偶然ではあるまいか。今までの麻雀を思い出してみても、一荘戦う間に、特定のパイが、一度も来なかったという記憶はなかった。 (緑発なしにやっていたのだろうか?)  とも考えた。  だが、それも違っている。麻雀を何年もやっていれば、パイを掻《か》きまぜただけで、何枚か少なければ判《わか》るものだ。  それに、年輩の男が、緑発と紅中《ホンチユン》をポンして、白《ハク》を頭《あたま》で小三元《しようさんげん》で上がったのを、松崎は憶《おぼ》えている。  緑発のパイは、あったのだ。だが、それが、一枚も、彼の手には入ってこなかった。  翌日、松崎は、会社に出ると、麻雀好きの友人に、きいてみた。 「一荘やって、一枚も緑発を持ってこないことがあり得ると思うかね?」 「理論的にはあり得るだろう」  と、友人は、笑いながら、いった。 「だが、実際には、どうかね。まあ、あり得ないだろうな。一枚ぐらいは、持ってくるよ。半荘《ハンチヤン》ゲームだって、八回やるわけだろう。連荘《レンチヤン》ということになれば、回数は多くなる。まあ、必ず持ってくるといってもいいだろうね」 「俺《おれ》も、そんな気がするんだが——」 「一体、何があったんだ?」 「昨日、新宿でやったんだが、一度も、緑発《リユウハ》を持ってこなかったんだ」 「配《はい》パイのときにかね?」 「配パイのときは勿論《もちろん》だが、あとのツモのときにもさ」 「本当かねえ」 「本当なんだ」 「妙な話だが、本当とすれば、ものすごい偶然というべきだろうな」 「ああ」  と、松崎はうなずいたが、気持は、すっきりしなかった。 (本当に、偶然だったのだろうか?)  それがわからず、気になってならなかった。 (三人が組んで、俺のところに、緑発が来ないようにしたのではないか)  そんな気もするのだ。だが、もしそうだとしたら、なぜ、そんな細工をしたのか、まったくわからない。  麻雀は、緑発がなければ勝てないというものではない。むしろ、一枚しかない緑発は、邪魔なだけである。  また、組んでインチキをするのなら、そんなつまらないことをせずに、松崎を絶対に上がらせないようにすべきではないか。だが、松崎は、何度も上がれたし、一荘《イーチヤン》が終わったときには、三千点勝っていたのだ。 (わからない)  それが結論だった。      4  だが、麻雀好《マージヤンず》きの松崎には、気になって仕方がなかった。  友人は、どうでもいいことじゃないかと笑うが、松崎にとっては、どうでもよいことではなかった。  次の日曜日に、松崎は、同じ麻雀屋に足を運んだ。どうしても、気になって仕方がなかったからである。もう一度、あの連中とやってみれば、本当の偶然かどうかがわかるだろう。  だが、あの三人は、来ていなかった。  次の日曜日にも、松崎は、同じ店に行った。こうなれば、意地であった。  扉を開けた途端に、あの三人の姿が眼に入った。  また、一人来ていないらしい。  松崎は、近づいて声をかけた。 「先日はどうも」  と、いうと、三人は、あの時と同じように、黙って、顔を見合わせた。年輩の男、細面の男、そして、ずんぐりと太った男。間違いなく、あのときの三人だった。 「あのときは、勝ち逃げしたみたいな形になっちゃって、悪いと思っていたんです」 「あんたが、ツイてただけさ」  年輩の男が、無表情に、いった。 「気にすることはないよ」 「そうでしょうか、気持が悪くて。どうですか。もう一度やりませんか」  松崎は、空いている椅子《いす》に腰を下ろした。どうしても、もう一度、やる気になっていた。その気持が、相手にも、わかったらしい。 「仕方がない」  と、年輩の男が、いった。 「一荘《イーチヤン》だけやるかね」  と、他の二人の顔を見た。  サイコロを振って、松崎が親荘《チーチヤー》になった。  パイを掻《か》きまぜるときに、注意深く見ていたが、緑発《リユウハ》は、ちゃんと入っていた。あとは持ってくるかどうかということである。今日も、一枚も手に来なかったら、偶然が信じられなくなるだろう。何かあるのだ。  親は、十四枚のパイを持って来て、まず、一枚、場に捨てる。  松崎は、自分の持ってきた十四枚のパイを、じっと眺めた。 (あるッ)  と、思った。  緑発が、ちゃんと、手の中にあるのだ。しかも、二枚も来ている。  松崎は、拍子抜けしてしまった。何かあると思ったのは思い違いだったのかもしれない。 「どうしたのかね?」  細面《ほそおもて》の男が、いった。 「あんたの番だよ」 「あっ」  と、松崎は、あわてて、パイを捨てた。 「あんまりいい手が来たもんだから、ぼんやりしちまったんです」 「じゃあ、今日も、ツイてるというわけだね」  と、年輩の男が笑った。 「警戒せんといかんかな」  本当は、あまり、ツイてはいなかった。親のとき、満貫《まんがん》に振り込んでしまったのだから。  半荘《ハンチヤン》が終わったとき、松崎は、一万点ほど沈んでいた。  だが、次の半荘で、松崎は、少しずつ、挽回《ばんかい》していった。軽い手がついて、続けて上がれるようになった。一万点沈んでいたのが、逆に、六千点ほど、浮いてしまった。 「なるほど、あんたは、今日も、ツイてるようだな」  と、年輩の男が、笑いながら、いった。 「ええ。まあ」  松崎は、にやっと、照れたように笑ったが、その笑いが、途中で消えてしまった。  あることに気がついたからである。もっと早く気がつくべきことだったのだが、緑発《リユウハ》が来るので、気がつかなかったのだ。 (紅中《ホンチユン》が来ない)  のである。  紅中のパイも、緑発と同じく、四枚である。そのパイが、一度も、一枚も、持ってこないのだ。  そのパイが抜けているわけではなかった。掻きまぜるときにはちゃんとあるのに、いざとなると、全然持ってこないのだ。 (偶然だろうか)  そうは思えなかった。あまりにも、妙なことが、重なりすぎるからだ。前のときには、一荘《イーチヤン》やる間に、一枚も、緑発を持ってこなかった。このときだけなら、偶然を信じられる。現に、今日、配パイのとき、緑発があるのを見て、この間は、偶然、ああだったのだと、思った。  だが、二つ重なると、偶然とは思えなくなる。 (何かある)  と、思ったが、わからなかった。わからぬ中に、一荘が終わってしまった。 「今日も、あんたは、ツイていたね」  と、年輩の男は、にこにこ笑っている。他の二人は、面白くなさそうに黙っていた。 「もう一荘やりませんか」  と、松崎は、いった。どうしても、紅中が来なかった理由を知りたかったからである。これが偶然でなく(二度も続けば、どう考えても、偶然とは思えない)、三人が、しめし合わせて細工をしたものなら、その理由を知りたかった。  恐らく、いかさまが、巧妙に行なわれたのだ。先日は、緑発《リユウハ》のパイが、松崎のところへ来ないように。そして、今日は紅中《ホンチユン》のパイが来ないように。  だが、なぜ、そんな面倒なことをしたのか、全然、松崎にはわからない。いかさまというのは、相手に勝たせないために行なわれるもののはずである。  だが、先日も今日も、松崎は、勝っている。いかさまの意味がないのだ。どう考えても、わけがわからないのだが、わからないだけに、余計に理由を知りたくなる。 「どうですか」  松崎は、熱心に、三人の顔を見廻《みまわ》した。 「もう一荘《イーチヤン》、やろうじゃありませんか?」 「もうじき、約束した奴《やつ》が来るんでね」  細面《ほそおもて》の男が、ぼそぼそした声でいう。 「その人が来るまででいいですよ。来たら止《や》めるということでどうですか?」 「止めときましょう」  年輩の男が、笑いながら、いった。 「あんたは、ツキ過ぎてるようだからね。もう一度やっても、カモられるだけだから」 (嘘《うそ》だ)  と、松崎は、思った。特定のパイを、絶対に、松崎に渡さないくらいの細工ができる男が、カモられることを心配するとは考えられなかった。 (どうもわからないな)  と、松崎が首をひねったとき、今まで、黙りこくっていた小太りの男が、 「来た」  と、いった。他の二人の男の顔に、ほっとした表情が現われるのを、松崎は見た。  松崎は、入口に眼をやった。  先日は、ひょろりと背の高い男だったが、今日は、和服を着た女だった。  三十歳くらいの女である。一見して、カタギの女には見えなかった。もっとも、こんな時間に、麻雀屋《マージヤンや》に出かけてくるカタギの女は、そう多くはないだろう。  松崎は、椅子《いす》を立たざるを得なかった。      5  次の日曜日にも、松崎は、Aというその麻雀屋に出かけた。どうしても、不思議でならなかったからである。彼には、納得できるまで、突きつめていくようなところが、昔からあった。  店の中は、がらんとしていて、あの三人は来ていなかった。  松崎は、店番をしていた中年の女に、声をかけた。 「前の日曜日に、隅の卓で麻雀をやっていた連中のことなんだがね」  と、彼は、いった。 「常連らしいが、どんな人たちなのか知らないかね?」 「お客さまのことは、あんまり知らないんですよ」  女は、あまり興味のなさそうな顔で、いった。 「しかし、常連だと思うんだがね」  松崎は、根気よくきいた。 「年輩の男と、細面《ほそおもて》の男、それに小柄で、ずんぐりした男の三人で、いつも誰かを待っている三人連れだよ。この間の日曜日には、この三人に、和服の女が入って、遊んでいたんだがね。憶《おぼ》えていないかねえ?」 「憶《おぼ》えていませんよ」  と、女は、相変わらず、興味のなさそうな顔で、いった。 (本当に、知らないのだろうか?)  松崎は、じっと、女の顔を見た。女は、顔を横に向けてしまった。どうも、様子が、おかしかった。女が、嘘《うそ》をついているとしか思えない。 「実はあの三人に、お金を借りているんでね」  と、松崎は、嘘をついた。 「どうしても、返したいんだ。だから、知っていたら、どこの誰か、教えてくれないかね?」 「————」  女の表情が、ちょっと変わった。が、すぐ元の無表情に戻ってしまった。  松崎は、一時間ほど、ねばっていたが、あの三人組は、とうとう姿を見せなかった。  次の日曜日にも、松崎は、その店に出かけていった。  だが、あの三人の男は、姿を見せなかった。  次の日曜日も同じである。  そして、あの事件が起きたのである。  八月の暑い日だった。火曜日だったことを憶えている。  会社が終わってから、後楽園でナイターを見た。酒を呑《の》まない松崎にとって、ナイターを見るのは、一つの避暑法でもあった。  終わったのが、十時半である。彼のひいきチームが接戦の末に勝ったので、愉快だった。いつもなら、電車で帰るのだが、その嬉《うれ》しさのせいで、タクシーを拾った。  アパートのある阿佐ヶ谷に着いたのが、十一時ちょっとすぎであった。  アパートの前の通りは、時間のせいもあって、人気がなかった。車が一台、明りを消して止まっているのを、ぼんやり見ながら、松崎は、アパートの入口を入ろうとした。  そのときである。  いきなり、左腕に殴られたような衝撃を受けた。それと、激しい銃声を聞いたのが、ほとんど同時である。  思わず、「あッ」と悲鳴を上げ、松崎は、地面に倒れた。  また、銃声がして、倒れた顔の上を、弾丸の走る音が聞こえた。  腕の激痛がひどく、松崎は、次第に、意識が、もうろうとしてくるのを感じた。その、ぼやけてくる意識の中で、彼は、自動車が走り去る音を聞いたような気がした。      6  気がついたとき、彼の周囲を、白い壁が取り巻いていた。壁も天井も白い。そこが、病院の一室とわかるのには、いくらかの時間が必要だった。  また、腕の痛みが戻ってきた。思わず、悲鳴をあげると、ドアが開いて、若い看護婦が、二人の男と一緒に入ってきた。 「もう大丈夫ですよ」  と、看護婦は、笑顔を見せて、いった。 「一週間もすれば、退院できますよ」  看護婦が、顔を引っこめると、代わりに、二人の男が、上から松崎の顔をのぞき込んた。  医者と思ったが、白衣を着ていない。二人とも刑事だった。 「大変でしたな」  と、痩《や》せたほうが、太い声で、いった。 「やられたときのことを、くわしく話してくれませんか?」  これが、事情聴取というやつだなと思った。緊張したせいか腕の痛みは、あまり感じなくなった。  松崎は、ナイターを見て帰ったこと、アパートに入ろうとして、撃たれたこと、気を失う寸前、自動車の走り去る音を聞いたような気がすることなどを、思い出しながら、話した。 「すると——」  と、刑事は、いった。 「あんたの勘では、その車から撃たれたに違いないというわけですね?」 「わかりません」  と、松崎は、正直に、いった。 「ただ、そんな気がするだけです」 「車に間違いないでしょう」  と、もう一人の刑事が、断定するように、いった。 「さっき、現場を、もう一度見てきたんですが、かくれるような物かげはありません。ですから、車から狙《ねら》ったものと考えて、いいと思います」  この言葉は、勿論《もちろん》、松崎にいったのではなく、刑事同士の言葉だった。 「その車ですが」  と、痩せた刑事が、松崎に視線を戻して、いった。 「どんな車だったか、憶《おぼ》えていますか?」 「いや、まさか撃たれると思っていなかったので、よく見なかったのです。それに、明りを消していましたから」 「型ぐらいは、憶えているでしょう? どうですか?」 「外車じゃなかったと思います。小型でした」 「それから?」 「それだけです」 「————」  刑事は、軽い失望を見せて、顔を見合わせた。 「では、大事なことをききますから、慎重に考えて、返事をして下さい」  刑事は、言葉を続けた。 「命を狙われるような、何か思い当たることがありますか?」 「命を?」 「そうです。犯人は、あなたを殺そうとして撃ったのです。単なる脅しだったら、一発ですましていたでしょう。二発撃ったのは、確実に、あなたを殺そうと考えたからです」 「しかし——」  と、寝たまま、松崎は、眉《まゆ》をしかめて見た。 「殺されるおぼえなんか、ぜんぜんありませんが——」 「本当にないのですか?」  刑事の顔が、歪《ゆが》んだ。動機がわからなければ、犯人の見当がつかないと考えたからだろう。 「ありませんよ」  と、松崎は、いった。 「殺されるような悪いことは、していませんからね。平凡なサラリーマンですよ。僕は」 「女性関係は?」 「別に」 「別に? あなたの若さで、好きな女性がいないということはないでしょう?」 「会社の女の子で、つき合っているのが一人いますが、命を狙《ねら》われるような深い関係じゃありませんよ。第一、その娘は、役人の一人娘で、ピストルで狙うような性格じゃありません」 「水商売の女と関係したことは? つまり、その女に、ヤクザのヒモがついていたようなことは、ありませんでしたか?」 「ありませんよ」  松崎は、ベッドの上で、笑った。 「僕は、そんなに、モテやしません。それに、酒が呑《の》めませんから、バーやキャバレーに行くことも、めったにありません」  また、刑事は、失望した顔になった。 「誰かと間違えられて撃たれたんじゃないでしょうか?」  と、松崎は、刑事の顔を見た。 「そんな気がして仕方がないんですが——」 「いや」  と、刑事は、首を横にふった。 「相手は、あなたと知って撃ったのです」 「なぜ、そうと断定できるんですか? 暗かったから、人違いされる可能性はあったはずですからね」 「違いますね」  刑事は、冷静にいった。 「今日の夜、あなたのアパートに、男の声で電話が掛かっているのです。管理人によると、しつっこく、あなたのことをきいていたそうです。勤務先、女関係、何時頃帰宅するかなどをね。だから、犯人は、あなたと知って撃ったのですよ。殺しそこねたとわかれば、もう一度狙う可能性がありますよ」 「本当ですか?」  松崎は、背筋に冷たいものが走るのを感じた。 「本当です」と、刑事は、冷酷にいった。 「だから、心当たりがあったら、ぜひ、話してほしいのですよ。犯人を捕らえるために。そして、あなたを守るためにもです」 「しかし、心当たりがないのですよ」 「いや、絶対に、何かあるはずです。なければおかしいのです。気がつかずに、人に恨まれることをしている場合もありますからね」 「————」 「女でないとすると、金か。賭《か》けごとは好きですか?」 「ええ、まあ」 「どんなことをしているんですか? 競馬? 競輪?」 「いや、麻雀《マージヤン》です」  その言葉を口にしたとき、奇妙な、麻雀屋《マージヤンや》でのできごとが、松崎の頭に、よみがえってきた。緑発《リユウハ》が、一枚も来なかったこと。紅中《ホンチユン》が一枚も、手に入ってこなかったこと。 「何か思い出されたようですね?」  と、刑事の一人が、彼の顔をのぞき込んだ。 「何があったんですか?」 「ちょっとしたことです」と、松崎はいい、Aという麻雀屋でのことを、刑事に話して聞かせた。刑事の眼が、大きくなった。      7 「面白い」  と、刑事は、いった。 「なかなか面白い話です」 「しかし、今度の事件とは、関係がありませんよ」  松崎は、笑って見せた。 「僕は、勝ちました。しかし、たかが、九百円です。百万も二百万も巻き上げて、それを恨んでというのならわかりますが、九百円で、殺そうとするなんて、考えられませんからね」 「問題は、金のことより、手に来なかったパイのことですよ」  と、刑事は、いった。 「そのことを、あなたは、どう思いました。偶然だと思いましたか?」 「いや」と、松崎は、いった。 「偶然が、二度も重なるなんてことは、常識では考えられません。だから、三人が組んで——」 「イカサマをやったと?」 「ええ。でも、正確に、イカサマと呼べるかどうかわかりませんね。イカサマというのは、カモになる人間がいて、それを負かして、金を巻き上げるために、やるものでしょう。だが、僕は、勝たせてもらったわけですから——」 「だから、余計に、面白いのですよ」  と、刑事は、いった。  刑事たちは、松崎から、麻雀屋《マージヤンや》の場所をきくと、病室を出て行った。あの店を調べてみる積もりらしい。  刑事たちは、翌日になって、また、病院に来た。 「麻雀屋は、消えてなくなっていましたよ」  と、痩《や》せた刑事が、松崎の顔を見るなり、いった。 「消えたって、どういうことですか?」 「店を閉めてしまったということです。行方はわかりません。それも、あなたを撃った直後にね」 「ということは、僕が狙《ねら》われたことと、何か関係が?」 「あると考えるほうが、自然でしょうね」 「しかし、僕には、何のことか、さっぱりわかりませんが」 「つまり、こういうことだと思うのです」  刑事は、ゆっくりと、いった。 「あなたは、知らないうちに、何か大変なことに、巻き込まれたのですよ。他には、考えられない。だから、犯人は、あなたを消そうとしたのだ」 「しかし、僕は、何も知りませんよ」 「犯人のほうでは、そうは思わなかったのでしょうね。あなたは何度も、Aという麻雀屋に行き、しかも、根掘り葉掘り、三人の男のことをきいた。あなたが、秘密を嗅《か》ぎつけた証拠と思ったのでしょう」 「秘密? 僕は、ただ、なぜ、緑発《リユウハ》が一枚も来なかったのか、なぜ、紅中《ホンチユン》が来なかったのか、その理由を知りたかっただけのことですよ」 「恐らく、それが、何か重大なことと、関係があったのですよ」 「あの変てこなイカサマがですか?」 「そうです。妙なイカサマだから、何か意味があるに違いないと思うのです。あなたが、やろうといったとき、三人の男は、喜んで仲間に入れましたか?」 「そういわれてみると、あまり歓迎されなかったようでした」 「そういうことは、麻雀屋の場合、普通ですか?」 「いや、むしろ、不自然でしょうね。メンバーが足りなくて困っているわけだから、歓迎されるほうが当然と思うのですが」 「なるほど。ということは、その三人が、あなたに知られたくないものを持っていたとも、考えられるわけですよ。そして、ゲームが始まると、最初のときには、緑発《リユウハ》のパイを、あなたの手に渡さないように、イカサマをした。つまり、そのパイに、何か秘密があったということも考えられる」 「麻雀のパイにですか?」 「そうです」  と、刑事は、いった。  二人の刑事には、何か思い当たることがあるようであった。だが、松崎には、何の説明もしてくれずに、その日は、帰っていった。  翌日、再び訪ねてきたとき、二人の刑事は、大きな風呂敷包《ふろしきづつ》みの中に、何枚も顔写真を詰め込んでいた。 「これは、前科者写真の一部です」  と、刑事は、写真を取り出しながら、松崎に説明した。 「この中に、あなたが会ったという三人の男がいるかもしれません。ですから、よく見て頂きたいのです」 「————」  松崎は、黙ってうなずいた。  何百枚もある写真を、一枚一枚見ていくのは、楽ではなかった。  それに、病室は、せまいのと風通しの悪さとで、むし風呂のような暑さになっていた。  松崎も、刑事たちも、すぐ、汗びっしょりになってしまった。 「少し休みましょうか?」  と、刑事がいったとき、松崎は、五十枚目くらいの写真を眺めていた。 「この男——」  と、松崎がいうと、刑事の眼が、きらりと光った。 「三人の中の一人ですか?」  と、きく。  松崎は、首を横にふった。 「違いますが、最初のとき、あとから来て、三人と麻雀《マージヤン》を始めた男のような気がするのです」 「確かですか?」 「ええ」  松崎が、うなずくと、二人の刑事は、顔を見合わせた。 「助かりましたよ」  と、痩《や》せた刑事が、いった。 「これで、あなたを狙《ねら》った犯人も、理由もわかりましたよ」 「僕には、さっぱりわかりませんが?」 「この男は——」  と、刑事は、顔写真に眼をやった。 「大野五郎という名前で、麻薬の密売で、前に逮捕されたことのある男なのです」 「————」 「彼が、その店に現われたということは、その店も、三人の男も、麻薬の売買に関係していたと考えて、いいと思います」 「麻雀屋《マージヤンや》がですか?」 「そうです。おそらく、こんなことだったと思うのです。薬《やく》を麻雀のパイの中に仕込んで、取り引きしていたに違いないと、私は思う。例えば、緑発《リユウハ》のパイとか、紅中《ホンチユン》のパイにね」 「それで?」 「そうです。ところが、何も知らないあなたが、ふいにやってきて、三人に、遊ばせてくれといった。あまり断ったのでは、妙に疑われてしまうと考えて、三人は、あなたを、いやいや仲間に入れて、麻雀を始めた。だが、緑発のパイには、薬が詰め込んである。あなたの手に渡ったら、感触で、わかってしまうかもしれぬ。三人は、それを恐れて、必死になって、緑発のパイが、あなたの手に行かないように、イカサマをやった。次にあなたが行ったときは、紅中のパイに、薬が詰めてあったに違いありません。だから、今度は、紅中のパイが、あなたの手に行かぬようにイカサマをやった」 「————」 「ところが、不審に思ったあなたは、彼らを追い廻《まわ》した——」 「僕は、麻薬のことなんか、全然、考えもしなかった」 「あなたにはそうでも、向こうでは、てっきり感づかれたと思ったに違いありません。だから、あなたを殺そうとしたのです」  刑事たちは、椅子《いす》から立ち上がった。 「連中は、すぐ逮捕しますよ」  と、約束するように、いった。  松崎が、退院する前日、あの男たちが、警察に逮捕されたというニュースが、新聞にのった。  自供によれば、刑事が、松崎に話してくれたことと、違いはなかった。  松崎は、退院して、会社に戻った。  麻雀は、相変わらずやっている。 [#改ページ]  危険な遊び      1  ボクたちは、日曜日の夕方、その計画を、実行に移すことにした。  ボクたちというのは、ボクと、魚屋の晋ちゃんのことだ。晋ちゃんは、ボクより腕力はあるが、頭のほうは、あまり強くない。それで、二人で、共同戦線を張ることにしたわけだ。つまり、助け合いってわけさ。  八幡《はちまん》さまの隣の家が、ボクたちの目標だった。  大きな家だ。庭に大きな柿の木があって、今年は、赤い実が、いくつも、なっている。  ボクたちは、それを頂戴《ちようだい》しようというわけだ。  計画は、慎重でなければならない。そのくらいのことは、小学六年生のボクにだって、判《わか》っている。テレビや映画の中でだって、ギャング団や、隠密たちは、長い時間かけて、計画を立てるものな。  ボクと晋ちゃんは、学校から、家へ帰るとき、わざと、遠廻《とおまわ》りして、その家の前を通ることにした。何気ないふりをして、家の様子を偵察するわけさ。  玄関の表札には、『前田義照』と書いてあった。前田という字は読めたが、義照のほうは、どう読むのか、ボクには、判《わか》らなかった。勿論《もちろん》、晋ちゃんにも、判らなかった。  しかし、こんなことは、ボクたちには、どうでもよいことだった。問題は、柿が上手《うま》く手に入るかどうかだからね。  柿の木のある庭は、低い板べいで囲んであった。低いけれど、ボクたちには、簡単には、飛びこせない。しかし、何日も、その前を通っている間に、板べいの一か所が、こわれているのを、ボクたちは発見した。  大人では、くぐり抜けられないかもしれないが、ボクや晋ちゃんなら、楽に、抜けて、庭へ入れるに違いない。勿論《もちろん》、逃げ出すときにも、その穴からにする。  その家の前で、ときどき、中年の女の人が、ホウキを動かしているのを見た。この家の奥さんらしい。顔の尖った、意地の悪そうな女の人だ。こんな人に、見つかったら、どんなことをされるか判らない。そのためにも、慎重にしなければならない。  しかし、あんまり、ゆっくりもしていられなかった。毎日、柿の木の傍《そば》を通るたびに、柿が赤さを増していくからだ。  それで、ボクと晋ちゃんは、『次の日曜日の晩』ということにしたのだ。  夕ごはんがすんで、暗くなってから、ボクと晋ちゃんは、八幡さまの境内で、おちあった。ちょっとばかり、忍者になったような気持だ。  ボクたちは、とった柿を入れる用意に、大きな布の袋を腰にぶら下げていた。欲ばって、あんまり多くとると、逃げにくくなるから、袋はちいさくしようと、約束したのに、晋ちゃんのやつは、大きなズダ袋だった。もっとも、ボクだって、小さいとはいえない袋だったけれど。  ボクたちは、テレビで見た忍者の姿を思い出しながら、足音を忍ばせて、板べいの傍へ近づいた。  家には、明りが点《つ》いていたが、人声は、聞こえなかった。テレビでも、見てるに違いない。  ボクたちは、へいの割れ目から、庭に入りこんだ。  庭には、誰もいない。まずは成功だった。  ボクたちが、これから、柿の木に、のぼろうとしたときだった。  急に、庭に面した硝子戸《ガラスど》が開いて、明りが庭に、射し込んだ。  ボクと、晋ちゃんは、あわてて、柿の木の根元に、身体をかくした。  着物を着た男の人が、出てきた。この家の、前田何とかという人らしい。  ボクは、心の中で、早く、部屋に引っ込んでくれと祈った。しかし、男の人は、反対に、下駄を突っかけて庭に下りてくると、庭のまん中で、焚火《たきび》を始めた。  ボクと、晋ちゃんは、顔を見合わせてしまった。これでは、柿はとれないし、逃げ出すことも、できやしない。 「チクショウメ!」  と、晋ちゃんが、小さい声で、いった。ボクだって、同じ気持だ。  男の人は、火が燃えあがると、今度は、いろいろな品物を持ち出してきて、それを、燃やしはじめた。  ボクの家でも、こわれた椅子《いす》や、いらなくなった玩具《おもちや》なんかを、燃やすことがある。あのおじさんも、それをしているんだなと、思って見ていたんだけど、ボクの眼には、どう見ても、まだまだ使えるような品物ばかり、燃やしているような気がしてきた。  がらくたなんかじゃないのだ。きれいな模様のついたカーテンや、女物のハンドバッグも、焚火《たきび》の中に、投げ込まれてしまった。 (あんな物を、燃やしちまうところをみると、この家は、ずいぶん、金持ちなんだな)  と、ボクは、思った。そうだとしたら、柿ぐらい盗んだって、たいして、怒りゃしないだろう。  男の人は、最後に、いくつかの品物を、焚火の中へ投げ込むと、そのまま、座敷へ上がって、戸を閉めてしまった。  今だと、ボクは、思った。  急いで、柿の木にのぼると、手当たりしだいに、もいでは、腰につけた袋に、投げ込んだ。  晋ちゃんも、同じことをするだろうと、思ったのに、晋ちゃんは、柿の木に、のぼるのをやめて、焚火に突進した。  晋ちゃんは、焚火の中から、何か、拾い上げて、もどってくると、 「おい。おりてこいよ」  と、いった。  ボクが、木からおりると、晋ちゃんは、息を、はずませながら、 「柿なんか、放っとけよ」  と、いった。  晋ちゃんは、片方の手に、四角い木の箱を持ち、もう一つの手に、女の靴を、ぶら下げていた。 「まだ、全然、燃えてないぜ」  と、晋ちゃんは、いった。 「こっちを、君にやるよ」  晋ちゃんは、木の箱を、ボクに、くれた。よく見ると、オルゴールだった。ボクの姉さんも、オルゴールを持っているが、それより、ずっと大きいし、立派だった。 「持ってってかまわないかな?」  ボクは、ちょっと心配になって、晋ちゃんにきいた。 「かまうもんか」  と、晋ちゃんが、いった。 「どうせ、焼けちゃうんだもの。いらないものをもらったんだから、泥棒になるはずがないよ」  それもそうだなと、ボクは、思った。  ボクたちは、オルゴールと、女の靴を持って、庭から抜け出した。      2  ボクのものになったオルゴールは、こわれていなかった。蓋《ふた》をあけると、『乙女の祈り』という曲がはじまる。ボクの好きな曲じゃなかったが、ひろったのだから、ぜいたくは、いえない。  次の日曜日のことだった。  ボクは、柿のことも、オルゴールのことも忘れてしまっていた。  だから、お巡りさんが来て、母さんと、何か、ひそひそと話していても、それが、ボクのことだとは、考えても、みなかった。  お巡りさんは、しばらくして、帰った。  そのあとが、大変だった。  ボクは、母さんに、呼ばれた。茶の間に入っていくと、母さんは、泣きそうな眼で、ボクを見た。  ボクは、いやな予感がした。母さんが、こんな顔をしているときには、ロクなことはない。 「お前は、大変なことをしてくれたね」  と、母さんは、いった。  ボクは、母さんが、何のことを、いっているのか、判《わか》らなかった。 「何のこと?」 「母さんは、お前を、泥棒をするような子には、育てなかった積もりなのに——」 「ドロボウ——?」  ああ、柿のことだなと、思った。しかし、なぜ、判ったんだろう? 晋ちゃんが、誰かに喋《しやべ》っちまったんだろうか。 「ごめんなさい」  と、ボクは、いった。 「見てると、食べたくて仕方がなかったんだ」 「食べたくて? なんのことを、いってるの?」 「柿のことだろ?」 「柿?」  母さんが、変な顔をした。 「柿のことじゃありません。お前は、前田さんという家から、オルゴールを盗んできたでしょう?」 「ああ、あのオルゴールか」  ボクは、やっと、納得が、いった。 「やっぱり、盗んだのね?」 「盗んだんじゃないよ」  と、ボクは、いった。 「拾ったんだ」  ボクは、あの日のことを、正直に、母さんに話した。  母さんは、だまって聞いていた。ボクが話し終わると、ボクにオルゴールを持ってくるように、いった。  次の日、ボクは、母さんと一緒に、警察へ行った。  警察の中へ入って行くと、晋ちゃんも、お父さんと一緒に来ていた。晋ちゃんも、泣きべそをかいていた。  警察にくるまで、オルゴールのことが、どうして、お巡りさんにわかってしまったのか、ふしぎでならなかったが、晋ちゃんに聞いて、やっと、わかった。  晋ちゃんは、あの靴が、ピカピカの新品だったものだから、靴屋に売って、そのお金で、プラモデルを、買うことにしたのだ。ところが、靴屋は、晋ちゃんが、大人の靴を持ってきたので、どこかで盗んできたと思って、警察へ知らせたのだ。  ボクと晋ちゃんは、お巡りさんの前に、並んで、すわらされた。 「悪いことをしたと、君たちにも、判《わか》っているね?」  と、髭《ひげ》を生やしたお巡りさんが、いった。  ボクは、「いいえ」と、いった。 「柿を盗んだのは悪かったけど、オルゴールは、盗んだんじゃありません」 「ボクの靴も同じです」  と、晋ちゃんも、いった。  ボクと、晋ちゃんは、お巡りさんに、焚火《たきび》のことや、オルゴールや靴が、拾いものであることを話した。  お巡りさんは、顔に、八の字をよせた。 「信じられんね」  と、お巡りさんは、いった。 「新品の靴や、こわれてもいないオルゴールを、燃してしまうなんてことは——」 「でも、本当なんです」  と、ボクは、いった。 「嘘《うそ》だと思うんなら、焚火をしたおじさんに、きいて下さい」 「勿論《もちろん》、訊《き》くことにするがね」  と、お巡りさんは、いった。  ボクたちは、一時間くらい、待たされた。  あの家のおじさんが、お巡りさんと一緒に、部屋に入ってきた。  今日は、着物でなく、洋服を着ていた。明るいところで見ると、色の青白い人だった。 「マエダ・ヨシテルさんですな?」  と、髭《ひげ》のお巡りさんが、いったので、あの『義照』という表札が、ヨシテルと判《わか》った。  前田さんは、お巡りさんの話を聞いてから、驚いたような顔で、ボクと、晋ちゃんを見た。 「それで、どうなのです? この子供たちのいっていることは、本当ですか?」  お巡りさんが、きいた。 「とんでもない」  と、前田さんは、いった。  ボクは驚いてしまった。 「とんでもありませんよ」  と、また、前田さんは、いった。 「妻が大事にしているものを、なぜ、私が、燃やしてしまわなければ、ならんのですか?」 「前の日曜日に、焚火《たきび》をなさったことは?」 「いえ。焚火など致しません。あんまり好きじゃありませんので」 「嘘だッ」  と、ボクは怒鳴ってやった。 「焚火をしたじゃないか」 「困りましたな」  前田ヨシテルは、笑った。 「焚火などしませんでしたよ。第一、どこの世界に、新品の靴や、こわれてもいないオルゴールを燃やしてしまう人間がおりますか」 「我々も、そう思っておりました」  と、お巡りさんも頷《うなず》いた。何てことだろう? 「訴えられますか?」  お巡りさんが、前田ヨシテルに、いった。 「いや」  前田ヨシテルは、笑いながらいった。 「きっと、もののはずみで、やってしまったことでしょうから。お二人とも、悪いお子さんのようには、見えません。訴えるなんて、考えられません。品物さえ戻ってくれば、何もいうことは、ありません」 「そういって頂くと、我々も助かります」  と、お巡りさんが、いった。  ボクの母さんも、晋ちゃんのお父さんも、前田ヨシテルに、バッタみたいに、何度も頭を下げては、 「すみません。すみません」  と、くり返していた。      3  ボクは、悲しかった。  誰も、ボクや晋ちゃんのいうことを、信じてくれないのだ。  柿を盗んだのは悪いかもしれない。しかし、オルゴールは、盗んだんじゃない。何度、そういっても、信じてくれないのだ。  姉さんも、同じだった。いつもは、姉さんぶっているくせに、こんなときには、ちっとも、味方になってくれないのだ。 「下手な嘘《うそ》は、つくものじゃないわよ」  と、姉さんは、いうのだ。 「焚火《たきび》をしてたなんて——」 「嘘じゃない。本当なんだ」 「証明できるの?」 「ショーメイ?」 「そうよ。証明できなきゃ、信じてあげられないわね。第一、あんたの話は、非論理的よ。聞いただけで、嘘と判《わか》っちまうわ」 「ヒロンリテキって、何のこと?」 「わけが判らないってことよ。どこの世界に、ピカピカの靴や、オルゴールを燃やしちまう人がいる?」  と、姉さんは、髭《ひげ》のお巡りさんや、前田ヨシテルと、同じことを、いった。 「そんなこと知らないや。だけど、本当なんだ」 「駄目ね。信じられないわね」 「ショーメイできないから?」 「そうよ」 「ショーメイって、どうしたら、できる?」 「そうねえ——」  姉さんは、ちょっと、腕をくんで、考えこんだ。 「例の靴やオルゴールに、焼けこげの痕《あと》でもあるとか」 「そんなのなかった。晋ちゃんが、すぐ、焚火《たきび》の中から、取り出しちゃったから」 「物的証拠は、なしってわけね。それじゃあ、話にならないわ」 「姉さんは、ボクが、盗んだと思う?」 「弟だから、信じたくはないけど」 「信じたくないけど、ボクが盗んだと、思ってるんだね?」 「思わざるを得ないもの。もし、あんたの話が本当なら、前田義照って人が、嘘をついてることになるじゃない」 「そうなんだ。あいつが、嘘つきなんだ」 「そう興奮しないで——」  姉さんは、いやに落ち着いて、いった。自分のことじゃないものだから、ゆうゆうとしているのだ。 「前田さんは、なぜ、嘘をつく必要があるの?」 「そんなこと、知るもんか」 「そこが、問題よ」  姉さんは、名探偵みたいに、いった。 「そこが、問題なのよ」  ボクにだって、どうして、前田ヨシテルが嘘をついたのか、判りゃしない。判っているのは、前田ヨシテルが、嘘つきだということだけだ。それなのに、大人たちは、誰も彼も、ボクたちが嘘をついているのだと、思っている。こんなことって、あるだろうか。      4  学校へ行っても、面白くなかった。  ボクも晋ちゃんも、頭へ来てしまったのだ。  休みの時間になると、ボクたちは、校庭の隅っこで、顔をつき合わせて、いろいろと、相談した。このままでは、ボクも晋ちゃんも、ガマンがならなかったからだ。 「あんチクショウ」  と、晋ちゃんは、真赧《まつか》な顔をして、いった。警察から帰ったあと、また、叱《しか》られたらしい。 「あんチクショウのおかげで、今月のこづかいだって、一銭も貰《もら》えなくなっちまったんだ」 「ボクだって、同じさ」  と、ボクは、いった。 「だけど、どうして、あいつは、ボクたちが盗んだなんて、嘘《うそ》をついたんだろう?」 「きっと、ボクたちを、憎んでるんだ」 「どうして?」 「ボクたちが、柿を盗《と》ったからさ」  晋ちゃんは、そうに決まっているといった顔で、いった。 「あいつは、ケチなんだ。ボクたちに、柿を盗られたって知って、きっと、頭にきちゃったんだ」 「だけど、ボクたちは、四つしか、柿は盗らなかったぜ」 「ケチな奴《やつ》は、四つだって、カンカンになるよ」  そうかもしれないと、ボクも思った。柿のこと以外、ボクたちには、前田ヨシテルに憎まれるわけが、考えられなかった。 「しゃくだな」  と、ボクがいうと、晋ちゃんも、うなずいた。しゃくだけど、まさか、あの家に、火をつけるわけにもいかない。  放課後、もう一度、前田ヨシテルの家の前を通ってみた。  相変わらず、柿は、いくつも、みのっていた。家の人が叩《たた》き落とした気配はない。このままでは、くさってしまうのに、四つ盗ったぐらいで、あんな嘘をつくなんて、なんて奴なんだろう。  ボクたちは、板べいの穴を探したが見つからなかった。ちゃんと、板を当てて、穴をふさいでしまってあった。 「こんチクショウ」  と、また晋ちゃんが、うなった。穴が、あいていたら、しゃくだから、何かいたずらしてやろうと、ボクたちは、考えていたのだ。 「どうする?」  と、ボクたちは、また考えてしまった。  ボクは、姉さんに、相談してみようと、思った。  姉さんは、ボクたちの味方かどうか判《わか》らない。昨日だって、ひどく冷たいことしか、いってくれなかったが、他に、相談できる人が考えつかなかったからだ。  ボクたちは、姉さんに、相談した。  姉さんは、昨日みたいに、名探偵きどりで、ボクと晋ちゃんの話を聞いていたが、 「それで、なぜ、前田義照が、嘘《うそ》をついたか、考えついたの?」  と、きいた。  ボクたちは、柿を盗ったせいだと、いった。  姉さんは、馬鹿にしたように、笑った。 「君たちの考えは、どうして、そう幼稚なの?」  と、姉さんは、いった。 「柿を四つ盗まれたぐらいで、大人が、子供を憎んだりしやしないわよ。第一、柿は、まだ、いくらでも、なっているんでしょう?」 「そりゃあ、そうだけどさ」 「ちょっとばかり、面白くなってきたわね」 「ボクたちは、ちっとも面白くないよ」 「いいから、黙って、聞きなさいよ」  姉さんは、大きな声を出した。 「君たちのいうことが本当だとしたら、前田義照は、嘘をいってることになる」 「あいつは、嘘つきだよ」 「黙って! いま、推理を進めてるんだから」  姉さんは、大きな眼をむいて、宙を睨《にら》んだ。 「中年の男が、庭で火を燃やして、ピカピカの靴や、高価なオルゴールを、火に投げ入れようとした。そして、二人の子供が、それを拾ったのを知ると、盗まれたのだと嘘をついて、取り上げてしまった。これは、何かあるわ。きっと、何かあるわよ。暗い犯罪の匂《にお》いがね」 「ハンザイ——?」 「君たちが、柿を、四つや五つ盗んだなんていう、ちっちゃな犯罪じゃない。もっと、大きな犯罪の匂いよ。判《わか》る?」 「判らない」 「そうでしょうね。君たちには、まだ無理ね。ここまで、考えるのは」 「ちえッ」  ボクは、舌打ちした。 「つまんないこといってないで、ボクたちを助けてくれよ」 「助けようと思って、こうして、頭を働かせているんじゃないの」 「ボクたちは、あいつを、やっつけてやりたいんだ」 「それなら、余計、あたしの言うことを聞かなきゃ駄目よ。君たちは、あたしのいうとおりにする?」  ボクたちは、顔を見合わせてから、 「いいよ」  といった。  女のいうなりに動くなんて、嫌なことだが、あいつを、やっつけるためには、仕方がない。 「それじゃ、これから、作戦開始よ。まず、敵を知ること。昔の偉い人も、いってるわ。敵ヲ知リ、己ヲ知レバ百戦危ウカラズって」 「どんなことをするの?」 「君たちは、学校の帰りに、あの家を毎日、偵察するのよ。敵に、気付かれないようにね」 「忍者みたいにだね?」 「まあ、そうよ。あたしは、近所の人たちから、前田ヨシテルが、どんな人間か、聞いてくるわ」 「リョウカイ」  晋ちゃんが、ちょっと元気になって、いった。      5  ボクたちは、次の日から、作戦を開始した。  ボクと、晋ちゃんは、学校が終わると、あの家を、見張るのだ。  板べいに、今までどおり穴があいていれば、中にもぐり込んで、様子を調べるのだが、穴がふさがれてしまっては、それもできない。  ボクたちは、考え込んでしまったが、晋ちゃんが、地上望遠鏡を持っていたので、それを活用することにした。  あの家より、高い場所に、望遠鏡をすえつけて、そこから、見張ろうというわけだ。  ボクたちは、八幡さまの裏手のヤブの中に、望遠鏡をすえつけた。そこからなら、前田ヨシテルの家が見えるし、相手からは、なかなか、発見されないからである。  みかんの空箱を持ってきて、それを椅子《いす》にした。  最初に、ボクが、望遠鏡を、覗《のぞ》いた。  あの、しゃくにさわる庭が見えた。柿の木には、相変わらず、真赤にうれた実がなっている。  ボクは、ゆっくり、望遠鏡を動かした。あいつが、どうしているか、見てやりたいと、思ったが、庭に面した戸は、全部閉まっていて、家の中の様子は、覗けなかった。  三十分して、ボクは、晋ちゃんと、交代した。  交代してすぐだった。 「あいつが、出かけるぞ」  と、晋ちゃんがいった。  ボクたちは、なるたけ、あとを追《つ》けてみようと、決めていた。ボクたちは、ささやぶの下に望遠鏡をかくすと、足音を忍ばせて、前田ヨシテルの後を追った。  敵は、下駄ばきで、ゆっくりと歩いていた。ボクたちは、後を追けながら、胸をドキドキさせていた。まるで、自分が、テレビの中の主人公になったような気がした。  しかし、結局、ボクたちは、がっかりさせられてしまった。わくわくしながら、後を追けたのに、前田ヨシテルは、電車通りのタバコ屋で、ピースを買うと、また、家に戻ってしまったからだ。  ボクたちは、がっかりして、家に戻った。  その日、姉さんが調べたことを、ボクたちに話してくれた。 「あたしの探偵ぶりも、なかなかのものよ」  と、姉さんは、自慢たらたらだった。姉さんの話というのは、いつも、前置きが長いから、嫌になってしまう。 「前田義照という人は、年齢四十二歳。職業は、商業デザイナーよ」 「ショーギョー・デザイナーって、何だ?」 「広告の絵を描《か》いたりする人よ。もっとも、あんまり有名じゃないらしいけどね」 「有名だったら、もっと立派な家に住んでるものね」 「まあ、そうね。それから、奥さんがいるわ。晋ちゃんが持ってきた靴の主《あるじ》よ。名前は、前田文子」 「知ってるよ」  と、ボクは、いった。 「おっかない顔をした、おばさんだよ。この頃、見かけないけど、前は、家の廻《まわ》りを掃除してるのをよく見たんだ」 「問題は、この奥さんよ」  姉さんは、大きな眼で、ボクと晋ちゃんを見た。 「君たちの話が本当なら、前田義照は、庭で、奥さんの靴を、焼き捨てようとしたわけよ。オルゴールだって、きっと、奥さんのものだわ。問題は、なぜ、前田義照が、そんなことをしたのかということね。君たちに判《わか》るかな?」 「きっと、あいつは、奥さんとけんかしたんだ」  と、ボクは、いった。ボクにも、憶《おぼ》えがあるからだ。二か月前、姉さんとけんかしたとき、ボクは、姉さんが大事にしていたコケシ人形を、風呂《ふろ》のカマの中に投げ込んでしまった。しかし、このことは、ボクだけの秘密だから、姉さんは、今でも、人形はどこかに、しまい忘れたと思っている。 「なかなか、いうじゃないの」  姉さんは、にやっと笑って、ボクを見た。 「あたしも、同じ考えよ。前田義照は、きっと奥さんと、けんかしたに違いないわ。それで、シャクに触るものだから、奥さんが大事にしている靴やオルゴールを、焚火《たきび》の中に放り込んだのよ。きっと、灰にしちまってから、知らん顔をしている積もりだったんだと思うわ。ところが、君たちが、それを拾ってしまった。焼こうとしたことが、奥さんに、バレてしまう。それが怖いもんだから、君たちに盗まれたんだなんて、嘘《うそ》をついたのよ」 「へえ」  と、ボクと、晋ちゃんは、顔を見合わせた。  そうかもしれないなと、思った。さすがに、高校一年だけあって、姉さんの推理も、なかなかのものだと、感心した。 「あいつは、奥さんが、怖いんだな」  と、いったのは、晋ちゃんだ。 「そんなところね」  と、姉さんが頷《うなず》く。 「近所の人の噂《うわさ》だと、奥さんのほうが、給料が多いらしいし、奥さんのほうが、えばっているらしいわ。奥さんに、頭が上がらない男なのよ。だから、けんかしたって、靴やオルゴールを焼くような、いじけたことしかできないのよ。君たちは、夫婦げんかのトバッチリを受けたみたいなもんね」  姉さんは、妙に大人っぽい、口調で、いった。      6  ボクたちは、仇討《かたきう》ちの方法を見つけたわけだ。  前田ヨシテルという男は、奥さんに頭が上がらないのだ。だから、奥さんに、 「あなたの靴やオルゴールを、焼こうとしたんですよ」  と、教えてやれば、いいわけだ。そうすればボクたちの代わりに、奥さんが、あいつを、やっつけてくれるだろう。  ボクには、とても、上手《うま》い方法に思えた。  晋ちゃんも、さんせいした。姉さんは、 「奥さんが、君たちみたいな子供の話を信用してくれるかなあ?」  と、いったが、そんなことは、上手く話せば、成功すると、ボクは思った。  ボクたちは、学校の帰りに、あの家の傍《そば》にかくれて、奥さんが出てくるのを待つことにした。  姉さんの話では、お手伝いさんは、いないということだから、夕食の仕度に、きっと、奥さんが買物に行くと、ボクたちは考えたのだ。  ボクたちは、暗くなるまで、見張りを、続けた。  しかし、奥さんは、出てこない。 「おかしいな」  と、ボクたちは、頭をひねった。 「そういえば、昨日、望遠鏡で見張りをしているときも、奥さんの姿は、見えなかったぜ」  と、晋ちゃんが、いった。晋ちゃんのいうとおりだ。昨日は、家の中にだって、奥さんのいる様子は、なかったのだ。 「家にいないのかもしれないな」 「病気で、どこかの病院に行ってるのかもしれないよ」 「そんなら、ここで見張ってたって、仕方がないじゃないか」  ボクたちは、あきらめて、家に帰ることにした。  夕食のあとで、ボクは、姉さんに、このことを話した。というより、姉さんのほうから、 「どうだった?」と、きいたのだ。  ボクは、奥さんは、いないらしいと、いった。 「ふーん」  と、姉さんは腕を組んで、考え込んでしまった。 「あたしが、もう一度、調べてあげるわ」  しばらく考えてから、姉さんが、いった。 「あの家の近くに、友達がいるのよ。明日の日曜に、その友達のところへ行って、いろいろと、きいてきてあげる」 「期待しないで、待ってるよ」 「こらッ」  姉さんは、げんこつを作ってボクの頭を、こつんと叩《たた》いた。  姉さんは、約束を守ってくれた。  次の日、夕方になって、家に帰ってくると、 「判《わか》ったわよ」  と、ボクに、いった。 「君たちのいうとおり、奥さんは、留守よ」 「病気で、病院に入院してるの?」 「そうじゃないらしいわ。実家に帰ってるらしいわ」 「ジッカって?」 「奥さんの家よ。何でも、静岡なんですって」 「へえ」 「前田義照が、近所の人に、そういったらしいわ。実家に帰ってますって。きっと、夫婦げんかしたんで、奥さんは、実家に帰ってしまったのよ」 「奥さんは、戻ってくるかな?」 「さあ。判らないわね」 「困るな。仇討《かたきう》ちができなくなっちまう」 「そんなこといったって、仕方がないわよ」 「手紙を書こうかな」 「手紙?」 「うん。静岡にいる奥さんに手紙を書くんだ」 「あんたの旦那《だんな》さまは、靴やオルゴールを焼こうとしましたって?」 「うん。駄目かな?」 「駄目ね」  姉さんは、冷たい声でいった。 「第一、奥さんの実家が、静岡のどこか判らないし、判ったところで、君たちの下手くそな手紙じゃ、相手が信用しやしないわよ。大人の手紙じゃなくちゃね」 「じゃあ、姉さんが書いてくれよ。姉さんは、いつも、あたしは、もう大人よって、いってるんだから」 「子供じゃないことは確かだけどさ」 「駄目?」 「静岡のどこか判らないもの」 「調べても判らない?」 「調べようがないのよ。まさか、前田義照に会って、奥さんの実家の所番地を教えて下さいなんて、いえやしないじゃないの」 「駄目かなあ」  ボクは、がっかりしてしまった。この調子では、仇討ちは、できそうもない。 「ちょっと待ってよ」  姉さんは、気を持たせるような、いい方をした。 「この間、お母さんと一緒に、区役所へ住民票を貰《もら》いに行ったんだけど、戸籍謄本は簡単に見せて貰えそうだわ」 「それを見れば、住所が判《わか》るの?」 「判るはずよ。明日、学校の帰りに区役所に寄ってみる」 「あの家の人みたいな顔をして、見せて貰うんだね?」 「そうよ。探偵というのは、ときには、そういうことをする必要もあるのよ」 「嘘《うそ》をつくこと?」 「嘘じゃなくて、演技よ」 「ふーん」  ボクは、頷《うなず》いたけれど、本当は、よく判らなかった。結局、嘘をつくことになるんじゃないだろうか。      7 「判ったわよ」  と、次の日、姉さんが、頓狂《とんきよう》な声を上げて、帰ってきた。  姉さんは、手帳を取り出すと、 「静岡県沼津市××町——」  と、大きな声で、いった。 「前田の奥さんは、ここに帰ってるのよ」 「手紙出す?」 「そうねえ」  姉さんは、首をかしげてから、ボクが食べていたお菓子を、口の中に、放り込んだ。 「君や晋ちゃんは、どうなのさ?」 「仇討《かたきう》ちがしたいんだ」 「それなら、手紙書いたほうが、いいかもしれないわね」 「姉さんが、書いてくれるんだろ?」 「いいわ。定規持ってきてよ」 「ジョーギ? 何するんだい?」 「筆跡をかくすには、定規を使うのが、一番なのよ。こんなことは、探偵のイロハよ」 「へえ。姉さんて、物知りなんだな」  ボクは、姉さんを、少なからず見直した。とにかく、ボクの知らないことを知っているんだから、物知りにきまっている。  姉さんは、定規をあてて、一字一字、ていねいに、書いた。 「できたわ」  一時間近くしてから、姉さんが、つかれたような声で、いった。見ていたボクのほうも、つかれてしまった。 「いい。読んでみるわよ。宛名《あてな》は、前田文子様。拝啓、奥さまに、ご忠告申し上げます。奥さまが、東京を留守にされている間に、ご主人の前田義照様は、奥さまの大事になさっている靴やオルゴールを、焼き捨てようとしています。早くお帰りになって、ご主人に注意なさるべきだと存じます。これは、決して嘘やでたらめではありません。ご存知の者より——どう?」 「ご存知の者って、どういうこと?」 「こういう手紙には、そう書くのが習慣なのよ。この間読んだ探偵小説にも、このとおり、書いてあったわ」 「これで、上手《うま》くいく?」 「いくわよ。きっと。君の話だと、ケチな奥さんだってことだから、驚いて、静岡から帰ってくるわ。そして、前田義照は、奥さんにとっちめられるわよ」 「仇討《かたきう》ちができるわけだね?」 「そうよ」  姉さんの書いた手紙を封筒に入れると、ボクが、ポストに出しにいった。  翌日、学校で晋ちゃんに、手紙のことを、話してやった。  晋ちゃんも、喜んだ。 「その手紙、いつ着くだろう?」 「沼津だから、二日あれば着くって、姉さんがいってた。そうすると、三日目には、奥さんが、飛んで帰ってくるわけさ」 「そして、あいつが、やっつけられるってわけだね」 「うん。それを、望遠鏡で見てやるんだ。面白いぞ」  ボクたちは、前田ヨシテルが、意地の悪そうな奥さんから、ホウキでぶたれて、逃げ廻《まわ》る姿を考えた。  三日目に、ボクたちは、例の場所で、望遠鏡を覗《のぞ》き込んだ。わくわくしながらだ。しかし、あの家は、ひっそりとしていて、夫婦げんかの気配なんか、少しもしなかった。  いくら、望遠鏡を覗いても、奥さんの姿は見えなかった。 「まだ、帰ってきていないんだ」  と、晋ちゃんが、いった。  ボクも、そう思った。  次の日も、ボクたちは、八幡さまの裏で、望遠鏡を覗いたが、奥さんの姿は、見えなかった。  次の日も同じだった。 「変だよ」  と、ボクは姉さんに、いった。 「あの手紙、着かなかったんじゃないのかな?」 「そんなこと、あるもんですか」  姉さんは、怒ったような声で、いった。 「ちゃんと、区役所で住所を調べたんだから間違いないはずよ」 「じゃあ、どうして、奥さんは、帰ってこないんだい?」 「あたしにも、判《わか》らないわ。あの手紙を読めば、すぐ帰ってくると、思ったんだけど」 「奥さんは、沼津で、病気になったのかもしれないぜ。だから、帰ってこないんじゃないかな」 「そんなことはないわよ。奥さんが病気なら、当然、通知が来てるはずだから、前田義照が、東京にいるのは、訝《おか》しいわ」 「そうかなあ」 「そうよ。夫婦だもの」  姉さんは、大人ぶった口調で、いった。ボクには、そこんところは、よく判らない。だが、何となく、姉さんの意見に賛成した。 「こうなったら、どうしても奥さんが、帰るようにしてやるわ」  姉さんが、いった。ボクが、どうするのだときいたら、電報を打つのだと、姉さんは、いった。 「前田義照の名前でね。大事件が起きたから、すぐ帰れって、電報を打つのよ。きっと、びっくりして、帰ってくるわ」  ボクと姉さんは、郵便局へ行くと、静岡へ電報を打った。 「これで、奥さんが帰ってきて、大騒ぎになるわ」  と、姉さんが、いった。  ボクと晋ちゃんは、また、毎日、望遠鏡であの家を見張った。      8  電報を打って、三日目のことだった。  ちょうど、ボクが、望遠鏡を覗《のぞ》いていた。三時頃だった。  タクシーが、あの家の玄関の前で止まった。 「来たぞ」  と、ボクは、晋ちゃんの肩を、突ついた。てっきり、その車に、奥さんが乗っていると思ったからだ。  しかし、車から降りてきたのは、奥さんではなかった。もっと、年とった女の人だった。だが、顔は似ている。奥さんの姉さんかもしれない。  ボクたちは、がっかりしたが、望遠鏡から眼を放さなかった。  女の人は、ひどく怒っているような顔をしていた。  座敷に上がると、前田ヨシテルに向かって、何か、いっている。ボクは、望遠鏡を覗いていて、「あれッ」と思った。女の人が、紙きれみたいなものを取り出して、前田ヨシテルの前に、突きつけたからだ。ボクと姉さんが書いた、あの手紙と電報らしかった。 (あの女の人は、きっと、静岡から来たんだ)  と、ボクは、思った。しかし、なぜ、奥さんが、来ないんだろう? 「あいつ、何だか、怒られてるみたいだぜ」  と、晋ちゃんが、いった。  ボクにも、そんなふうに見えた。声が聞こえないから、よく判《わか》らないが、女の人に怒られて、ぺこぺこあやまっているように見える。  ボクは、望遠鏡を覗《のぞ》いていて、だんだん、ゆかいになってきた。  家に帰ると、ボクは、姉さんに、そのことを話した。 「ふーん」  と、姉さんは、むずかしい顔をして、考え込んでしまった。 「その女の人は、君の考えるとおり、きっと静岡から来たのよ」  と、姉さんは、いった。 「だけど、どうして、奥さんが来なかったのかしら?」 「ボクにも、それが不思議なんだ」 「もしかすると、奥さんは、静岡に行ってないのかもしれないわ」 「どうしてさ。前田ヨシテルは、静岡にいるって、いってるんだろ?」 「近所の人には、そういってるらしいのよ。でも、嘘《うそ》かもしれないわ」 「嘘——?」 「そうよ。嘘かもしれない。もし、嘘だとすると——」  姉さんは、急に怖い顔になった。 「君たちは、明日から前田義照を見張るのよ。どこかへ出かけるようだったら、後を追《つ》けるのよ」 「何かわかったの?」 「まだ、はっきりしないけど、もしかすると、これは大事件かもしれないわよ。だから、前田義照を見張るのよ。そして、あたしに、毎日報告するの。判《わか》った?」 「いやに、えばってるんだな」 「つべこべいわずに、あたしの命令どおりに動きなさい」 「オーケイ」  と、ボクは、いった。ときどき、宿題を見てもらっているから、姉さんには、さからえない。      9  ボクたちは、また、学校が終わってから、望遠鏡で、あの家を見張ることにした。  女の人は、翌日、帰っていった。帰るときも、その人は、怒ったような顔をしていた。  前田ヨシテルは、女の人が帰ってから、急に、そわそわし始めた。まるで、ボクが、宿題を忘れてきたときみたいだ。  五時頃だった。  もう薄暗くなっていた。ボクたちは、望遠鏡の見張りを止《や》めようと思っていた。 「また明日だ」  と、晋ちゃんが、いったとき、前田ヨシテルが、玄関から出てきた。どこかに行くらしい。  ボクは、姉さんの言葉を思い出して、晋ちゃんと一緒に、あとを追《つ》けてみることにした。  あいつは、せかせかと、電車通りへ出ると、停留所のところで、立ち止まった。  都電に乗るつもりらしい。ボクは、ズボンのポケットに手を入れてみた。十円玉が一つあるっきりだ。これでは、帰りの電車に乗れなくなってしまう。  晋ちゃんも、十円しか持っていなかった。 「ボクだけ、あとを追けるよ」  と、ボクは、いった。晋ちゃんは、自分の十円玉を、ボクにくれてから、 「ひとりで、大丈夫かい?」  と、聞いた。 「大丈夫さ」  と、ボクはいった。しかし、何となく心細くもあった。  ボクは、もう一度、ポケットに手を入れた。学校で、陣取りに使うロウセキが、あった。 「これで、印をつけとくよ」  と、ボクは、いった。 「もし、ボクがなかなか帰らなかったら、その印を追っかけてきてくれないか」 「オーケイ」  晋ちゃんが、頷《うなず》いた。ボクたちは、印の形を打ち合わせた。印は、細長い三角にした。尖《とが》ったほうへ歩いていくという印だ。  電車が来て、あいつが乗った。  ボクも乗った。  終点近くまで、あいつは乗っていた、あいつが降りたのは、さびしいところだった。ボクは、電車から降りると、歩道に、大きな三角を書いた。こうしておけば、ボクが、ここで降りたことが判《わか》るはずだ。  前田ヨシテルは、どんどん歩いていく。ボクは、後を追《つ》けながら、分かれ道にくるたびに、三角を書いた。  小さな家の前で、あいつは、立ち止まった。  あいつがベルを押すと、玄関に明りがついて、女の人が顔を出した。  ボクは、奥さんかなと思ったが、そうではなかった。もっと若い女の人だ。甘ずっぱい匂《にお》いがした。おしろいの匂いだ。  女の人は、前田ヨシテルを中に入れると、玄関を閉めてしまった。  ボクは、傍《そば》に近寄ってみた。表札はなくて、その代わりに、小さな名刺が貼《は》りつけてあった。薄暗いので、何と書いてあるのか判《わか》らない。  ボクは、足音を忍ばせて、裏へ廻《まわ》ってみた。  窓の下まで、這《は》っていって、ゆっくり顔を上げた。  前田ヨシテルと、さっきの女の人が、向かい合って、話をしていた。ガラス戸が閉まっているので、声が聞こえない。  ボクは、指先で、ガラス戸を押すようにして、動かしてみた。ちょっと動いて、三センチばかりすき間ができた。  二人の声が、聞こえた。 「まずいことになった」  と、あいつが、いった。 「見つかったの?」  女の人が、きいた。何のことか、ボクには判らなかった。 「見つかりゃしない」  と、あいつが、いった。 「二メートル以上掘って、埋めたんだからね」 「じゃあ、何が、まずいことになったのよ?」 「近所の人間には、実家に帰ってると、いっておいたんだが、おせっかいな人間がいて、静岡へ、こんな電報を打ちやがった」  あいつは、ポケットから、白い紙きれを取り出して、女の人に見せている。ボクと姉さんが、沼津に打った電報に違いなかった。 「それで、文子の姉が、静岡から飛んできた」 「殺したことが判っちゃったの?」 「いや。何とか誤魔化して、静岡へ帰したよ。文子が死んでることは、知らないはずだ。だが問題は、この電報を打った奴《やつ》だ。そいつは、ひょっとすると、僕が、文子を殺したことに気付いているのかもしれん」 「警察かしら?」 「いや、違う。警察なら、こんな面倒なことはしないはずだ。僕を逮捕して、調べるだろう」 「じゃあ、誰が?」 「近所の誰かだと思う。探偵気取りの奴が、こんな電報で、僕を試すつもりなんだと思うんだが」 「どうする?」 「それを、一緒に考えて貰《もら》いたくて、来たんだ」  あいつは、急に低い声になっていった。      10  ボクは、仰天してしまった。ボクたちが探していた奥さんは、殺されてしまっていたのだ。二メートル以上掘って埋めたというのは、奥さんの死体のことに違いない。  あいつは、人殺しなんだ。 (こいつは、大変なことになったぞ)  と、思うと、身体が、がたがたふるえてきた。思わず、顔を、ガラスに、ぶつけてしまった。  ガチンという大きな音がした。あいつが、噛《か》みつきそうな顔で、ボクのほうを睨《にら》んだ。  ボクは、あわてて逃げようとした。しかし、がたがたふるえてしまって、足がいうことを、きいてくれない。ドブ板につまずいて、ボクは、転がってしまった。  家から飛び出してきたあいつは、ボクを捕らえた。助けてと、叫ぼうとすると、大きな手で、口をふさがれてしまった。  ボクは、家の中へ、連れこまれた。あいつは、ボクの眼の前に、大きなナイフを突きつけて、 「声を出したら、殺すぞ」  と、いった。  ボクは、ただ、ふるえていた。 「誰なの?」  と、女の人が、きいた。あいつは、だまって、ボクの顔を睨《にら》んでいたが、 「思い出した」  と、女の人に、いった。 「文子を埋めてから、あいつの持物を焼いたんだが、庭にもぐり込んできて、それを盗んでいったガキだ」 「あの、靴とオルゴールの一件ね」 「そうだ。これで何となく判《わか》ってきた。この電報を打ったのも、こいつかもしれん」 「こんな子供が、電報を打つかしら?」 「誰かが、智慧《ちえ》をつけたんだろう」  あいつは、ナイフを、ボクの頬《ほ》っぺたに、押しつけた。 「誰が、この電報を打ったんだ? いわないと、ひどい目にあわせるぞ」 「姉さんだよ」  と、ボクは、ふるえながらいった。 「姉さん? そいつは、どこにいるんだ?」 「うちにいるよ」 「一緒に、俺《おれ》の後を追《つ》けてきたんじゃないのか?」 「違うよ」 「信用できないな」  と、あいつは、いった。あいつは、女の人に、家の外を見てこいと、いった。女の人は、部屋から出ていったが、しばらくして戻ってきた。 「誰もいないようよ」  と、女の人がいうと、あいつは、 「そうか」と、安心したように、いった。 「こいつ一人なら、何とでもなる」 「どうするんだい?」 「俺たちの話を聞かれた。生かしては帰せないな」 「殺《や》るの?」 「ああ。だが、もう少ししてからだ。皆が寝静まる頃に始末する。それまで、暴れないようにしておく」  あいつは、女の人に縄を持ってこさせると、ボクを、がんじがらめに縛り上げた。厚いタオルで、猿ぐつわも、かまされてしまった。  そのまま、畳の上に転がされると、ひとりでは、起き上がれなかった。 (神さま——)  と、ボクは、頭の中で、叫んだ。 (神さま。ボクを助けて下さい)  あいつと、女の人は、ボクを殺す方法を、話していた。川に投げ込んで、溺《おぼ》れさせれば、あやまって、川に落ちたと思われるだろうなどと、話している。 (チクショウ!)  と、思うが、ボクには、どうすることも、できない。  ボクは、ロウセキで書いた、三角の印のことを考えた。遅くなっても、ボクが帰らなければ、晋ちゃんが、姉さんに知らせて、一緒に、ボクを探してくれるはずになっている。  あの三角の印を辿《たど》ってくれば、この家が判《わか》るはずだ。暗くても、懐中電燈かマッチの火で、印を辿ってこられる。そうすれば、ボクは助かるのだ。  しかし、姉さんや晋ちゃんが来る前に、ボクは殺されてしまうかもしれない。そうしたら、あの印も、何の役にも立ちゃしない。  それに、あの印を、誰かが、つまらない落書きだと思って、消してしまったかもしれない。もし、そうだったら、姉さんや、晋ちゃんには、絶対に、この家が判らなくなってしまう。  ボクは、どうか助かりますようにと、頭の中で、お祈りを続けた。      11  時間が、どんどんたっていった。が、姉さんも晋ちゃんも、現われない。  時計が十時を打ったとき、あいつが、ゆっくり立ち上がって、 「もう、いいだろう」  と、女の人に、いった。  あいつが近づいてくると、ボクは思わず、眼をつぶってしまった。 (もう駄目だ)  と、思った。これから、ボクは殺されるんだ。 「大きなトランクがあったな」  と、あいつは、落ち着いた声で、いった。 「あれに詰めて、川まで運ぼう」 「ちょっと、可哀《かわい》そうね」 「助けたら、俺たちが破滅するんだ」  あいつが、怒ったような声で、いった。 「文子を殺して手に入れた遺産も、使えなくなってしまうぞ」 「判ってるわよ」  と、女の人がいった。  女の人は、押し入れを開けると、茶色のトランクを引っぱり出した。  その中に、ボクを詰め込む積もりなんだ。  ボクは、そのトランクに眼をやり、怖くなって、眼をそらせた。  そのとき、ボクは、窓のところに、小さな人間の頭が覗《のぞ》いているのを見つけた。  キューピーみたいに尖《とが》った頭だった。 (晋ちゃんだ!)  と、思った。あの頭は、晋ちゃんだ。 「ちょっとばかり窮屈だが、すぐ、楽にしてやるからな」  あいつが、にやにや笑いながら、ボクにいったとき、ふいに、 「ドロボー」  という大きな叫び声が、家の外でした。晋ちゃんの声だ。 「火事よオー」  と、今度は、女の声がした。姉さんの声だった。  誰かが、玄関の戸を、どんどん叩《たた》いた。晋ちゃんか姉さんだ。二人で叩いているのかもしれない。  近くの人も飛び出してきたらしい。急に、がやがやと、さわがしくなった。  あいつの、あわて方といったらなかった。  顔を真っさおにして、窓の外に眼をやった。とたんに、がちゃんと、窓ガラスが割れて、大きな石が、飛び込んできた。きっと野球の上手《うま》い晋ちゃんが投げたのだろう。  あいつと女の人は、ボクをそのままにして、台所から逃げ出した。  姉さんと、晋ちゃんが、反対側から、部屋に飛び込んできた。  姉さんが、ボクの縄と猿ぐつわを、ほどいてくれた。 「あいつが殺したんだ」  と、ボクは、二人に、いった。 「あいつが、奥さんを殺したんだ」 「大丈夫よ」  と、姉さんが、いった。 「もう逃げられやしないわ」  姉さんがいったことは、本当だった。  あいつと、女の人は、一時は、逃げられたが、次の日、警察に捕まってしまったからだ。  ボクたちと姉さんは、警察から表彰された。  嬉《うれ》しかったが、気味の悪いこともあった。それは、奥さんの死体が、八幡さまの裏から、掘り出されたことだった。  ちょうど、ボクと晋ちゃんが、望遠鏡を持って、あいつを見張っていた場所に、死体が埋まっていたのだ。  ボクと晋ちゃんは、その話を聞いて、思わず顔を見合わせてしまった。 [#改ページ]  鍵穴《かぎあな》の中の殺人      1  相川健一が、そのハレンチな遊びを始めるようになったのは、貧乏のせいである。少なくとも、健一自身は、そう信じていたし、そう考えることで、彼は、自分の遊びを正当化していた。  健一の父は、彼が七歳のときに亡くなったが、父が生きていたとしても、貧乏に変わりはなかったであろう。何しろ、オヤジというのは、典型的な遊び人で、大酒のみの上に、バクチ好きだったからである。むしろ、父が生きていたら、もっと貧乏をしていたかもしれない。  とにかく、健一は、母と二人だけでこの世に残され、母は、彼のために働くことになった。  いわば、美談のはじまりである。母は、自分の楽しみを犠牲にして、一人息子のために働き、一人息子の健一のほうは、それほど熱心とはいかなかったが、勉強はした。第三者の眼には、いかにもけなげな母子に映ったであろうし、健一自身も、自分のけなげさに自己陶酔したこともあったのである。  このまま行けば、美談は美談で終わったかもしれない。健一は何とか大学を卒業し、苦労してきた母親に楽をさせることになる。美人ではないが、気持のやさしい妻をもらい、親子三人のダンランとなれば、めでたしめでたしになるのだが、それが途中で妙にねじれてしまった。  健一が十八歳のときである。  その頃、母の時枝は、町の靴工場で働いていたのだが、機械にはさまれて左手に怪我《けが》をしてしまった。ちっぽけな町工場だったから、ろくな保障はなかったが、そのとき、救いの手があらわれた。  だいたい、映画や小説でも、こんなときには、足長おじさん的な金持ちの篤志家があらわれるものだが、このとき、健一たちの前にあらわれたのは、都会議員のK氏という男だった。  K氏は、前々から、二人のけなげさに感心していたといい、健一たちに、五階建てのマンションの管理人という仕事を世話してくれた。  六畳に四畳半の二間つづきの部屋を無料で使える上に、毎月二万円ずつもらえるという有難い話だった。ちょうど、六畳一間の安アパートから追い立てをくっているところだったから、母の時枝は、ありがた涙にくれて、K先生のほうには足を向けては寝られませんよと、健一にいったくらいである。  もっとも、K氏は、おとぎ話の中の足長おじさんのように、単純な好意からこの仕事を世話したわけではなく、自分の善行を抜かりなく宣伝し、すぐに行なわれた選挙にも勝つことができたのだから足を向けて寝られなかったのは、K氏のほうかもしれないのである。  それはともかく、健一たちは、立派な部屋と、二万円の定収を得たわけである。これで、健一が一心不乱に勉強し、一流大学に入り恩返しということでK氏のために働くということにでもなったら、美談はいよいよ輝きを増したかもしれない。ホームドラマなら、たいてい、そうした通俗的で、ほほえましい経過をたどるのだが、現実は、そううまくは進行しなかった。  健一が、あの妙な遊びを覚えてしまったからである。      2  健一と母親の時枝が管理を頼まれたマンションは、二階までがある製薬会社の倉庫になっていて、三階から五階までが貸し部屋になっていた。  一応、鉄筋コンクリートのマンションだが、エレベーターも駐車場もないから、まあキリのほうであろう。それでも、部屋代は三万円だったから、普通のサラリーマンが住めるわけがなかった。  住人は、得体の知れない中年男や、ひと眼で水商売とわかる女が多かった。  普通のアパートなら、がやがやするはずの夕方が、ひっそりとしていて、夜の夜中の二時、三時になると、酔った足どりで帰ってきたり、夏など窓をあけていると、突然、女のうめき声が聞こえてきたりするのである。  健一は、その頃、浪人中だった。時枝は、四畳半を息子の勉強部屋にして、これで、来年は一流大学に入ってくれるだろうと期待していたが、健一は、個室を与えられたため、かえって、妄想をたくましくし、勉強が手につかないことになった。  管理人室は三階で、すぐ隣の住人は、新宿のバーに通っている女である。名前は、中西みどりとなっているが、本名かどうかわからない。背のすらッと高い美人で、ミニがよく似合うのだが、廊下で会っても健一に対しては、いつも、ツンとした顔をしているのが気にくわなかった。  いやな女だと思いながら、相手の美しさに圧倒されて、逆に、健一の方が眼を伏せてしまうのである。  それが、健一の気持の中で、鬱積《うつせき》した。  健一は、もともと、自分の身体や容貌《ようぼう》に自信がなかったし、貧乏というコンプレックスがある。そのくせ、現代の若者らしく欲望だけは強烈だったから、どろどろしたものが、胸の中に高まっていく条件は十分すぎるほどそろっていたのである。  最初、それは、幻想の中で、中西みどりを犯すということで発散しようとした。彼女の裸身を想像しながら、マスターベーションにふけったこともある。  だが、それは、健一の頭に一層、もやもやしたものを作りあげたにすぎなかった。想像の中の中西みどりの裸身は、いかにも頼りなかった。  バストがどのくらいなのかもわからず、身体のどこにホクロがあるのかもわからずに想像する女の肌は、まるで、一枚の絵のように立体感がなかった。  健一は、鍵穴《かぎあな》から、彼女の部屋をのぞいてみたい欲望にかられた。何度か逡《しゆん》 巡《じゆん》したあと、それを実行に移したけれど、小さな鍵穴からはほとんど何も見えなかったし、絶えず、廊下の人影を気にしていなければならなかった。  また、不満が高まった。 (どうにかして、このドアをあけて、彼女の部屋を見たい)  と、次の欲求が、彼にささやきかけたとき、アラジンの魔法のランプのように、健一の眼にふれたのが、管理人にあずけられているマスター・キーであった。  この鍵を使えば、中西みどりの部屋だけでなく、このマンションの全《すべ》ての部屋をあけて、そこに住んでいる人間の秘密をのぞき見できるのである。魔法の鍵だった。少なくとも、健一にはそう思えた。  そして、健一の冒険であり、遊びであり、同時に一種のマスターベーションである行為が始まったのである。      3  最初の日は、さすがにドキドキした。  母親の時枝が、夕方の買物に出かけた留守に、健一はマスター・キーを取り出して廊下に出た。  隣室の中西みどりは、十分ほど前に、香水の匂《にお》いをプンプンさせながら、店に出ていったのを知っていた。階段を、健一が掃除しているとき出かけていったのだが、例によって、彼には一瞥《いちべつ》も与えてくれなかった。あのとき、彼女が、ニッコリと微笑してくれていたら、彼女の部屋の前へ行っても、ドアをあけるのに、ためらいを感じたかもしれない。だが、彼女は、彼を無視した。今日だけではない。昨日も一昨日もだ。その前日も。 「いつも偉そうな顔をしやがって」  と、健一は、ぶつぶつ口の中で呟《つぶや》いた。 「自分が日本で一番美人だって顔をしてやがる」  もちろん、ほんとうは、そのこと自体に腹を立てているのではなかった。偉そうな顔をしていても、日本一の美人だと思っていてもいい。問題は、彼女が、彼を無視することなのだ。それが、十八歳という自尊心のかたまりみたいな健一には我慢がならないだけのことである。  怒りが、健一の心のどこかにあった自制心を、あっさり押し流してしまった。  健一は、マスター・キーを取り出し、鍵穴《かぎあな》に差し込んだ。  カチッと、乾いた音がしたとき、健一の胸を、強い興奮が刺し貫いた。中西みどりの裸身を想像するときよりも、もっと強い刺戟《しげき》だった。  鍵を回した。  ドアがあいた。  健一は、素早く、身体を部屋の中へ滑り込ませ、後ろ手にドアをしめた。いや、自分では、素早く、テレビ映画に出てくるアクションスターのようにカッコよく行動したつもりだったのだが、マスター・キーを抜くのにも、ガチャガチャやってしまい、指を危うくドアにはさまれそうになり、ドアのしまるときの馬鹿でかい音に、思わず飛び上がった。  健一は、しばらくの間、怯《おび》えた顔で、周囲の気配に耳をすませた。が、廊下は、静まり返ったままだった。  健一は、小さく吐息をついた。その途端に、甘い香水の匂いが、自分を柔らかく包むのを感じた。  女の匂いでもあった。それも、母親の時枝には、とっくに失われてしまっている若い女の体臭だった。それが、部屋一杯に立ちこめているのだ。  健一は、スリッパを脱いで、部屋に上がった。 (おれの部屋とは、たいした違いだな)  健一は、感激した。同じ四畳半と六畳の二間続きだが、何という違いだろう。  健一たちの部屋は、妙にわびしくガランとしているのに、この部屋は、ぜいたくで、暖かくて、豊かだった。  ソファがあり、カラーテレビがあり、電気冷蔵庫があり、電気洗濯機が並んでいる。そして、壁にも、襖《ふすま》にも、若い女の匂いがしみついている。  健一は、キョロキョロ室内を見回してから、奥の四畳半をあけた。そこは寝室に使っているらしく、ベッドが、でんと置かれていたが、そのベッドは乱れたままになっていた。  健一は、昨夜、この部屋から男の声が聞こえていたのを思い出した。むし暑い夜だったので、健一は、窓をあけていたのだが、午前三時頃になって、急に、隣から、男女の呻《うめ》き声が聞こえてきたのである。  それは、長く、しつこく続き、健一を悩ませた。 (これが、昨夜の戦いの跡か)  と、健一は、眉《まゆ》をしかめて呟《つぶや》いた。そう呟くと、急に、自分が大人っぽくなったような気がした。  健一は、ベッドの上に腰を下ろした。ベッドは、妙に生暖かかった。腰を下ろしたまま見回すと、枕元《まくらもと》のところに、黒いシュミーズが、脱ぎすてられたままになっているのが眼に入った。手をふれると、それは軽く、薄く、すけていた。  健一は、それを、手に持っている間に、急に欲しくなり、小さく丸めるとポケットに突っ込んだ。      4  その夜、健一は、じっと、隣室の気配をうかがった。  机の横には、盗んできた中西みどりのシュミーズが丸めて置かれてある。罪悪感は不思議になかった。彼自身に、そうした趣味があって盗んだためではないからだろうか。  時計が午前一時を回った。そろそろ、中西みどりが新宿のバーから帰ってくる時間である。  母親の時枝は、もう眠っている。彼女は、息子の健一が、こんな妄想にふけっているなどとは知らないだろう。 「しっかり勉強して、来年こそ、一流大学に入って頂戴《ちようだい》よ」  それが、時枝の口ぐせだった。  だが、机の上に置かれた参考書は、今日はまだ一ページも読まれていなかった。読む気が全然、おきてこないのだ。  廊下に、小きざみな足音が聞こえた。さあ、中西みどりのご帰還だ。  健一は、息を殺した。気配がよく聞こえるように、窓は、さっきから大きくあけてある。その四角い空間に、暗い夜がのぞいている。  鍵《かぎ》をあける音が、意外に大きく聞こえた。あんなに大きな音がするとなると、この次、マスター・キーを使うときには、もっと注意しなきゃいけないな。  ドアが、バタンとしまった。あの女は、いつも、乱暴にドアをしめやがる。きっと、今夜も酔っ払ってるんだろう。  ガラガラと音がした。彼女が、窓をあけたのだ。その後、急に音が絶えた。おそらく着替えをしているのだろう。健一は、ごろりと畳の上に寝ころんで、彼女が着替えをしている姿を想像した。最近の水商売の女は、ドレスの下に、ブラジャーもパンティもつけないと、男性週刊誌に書いてあったが、中西みどりも、そうだろうか。  急に水道の音が聞こえてきた。それが長く続く。どうやら彼女はバスに入るらしい。続いて、ゴオッというガス風呂《ぶろ》の音が聞こえた。  健一は、机の引き出しから煙草を取り出して火をつけた。この煙草も、母には内証なのだ。  四十分ほどたってから、彼女が湯を使う気配がした。やがて、中西みどりは、濡《ぬ》れた身体をふき、ネグリジェを着て、寝室に入るだろう。そして、この黒いシュミーズが消えてなくなっていることに気づく。彼女はどうするだろう? 泥棒だっと叫んで、廊下に飛び出して騒ぎ出すかもしれない。女というのは、ケチなものだからな。いつも、ツンツンしてる彼女が、どんな顔をしているか見ものだ。  健一は、待った。  バスから上がったらしく、湯を使う音が消えた。  さあ、彼女が寝室に入るぞ。健一は、息を殺した。  だが、何事もおきなかった。静まり返ったまま時間がすぎた。  中西みどりは、気がつかずに眠ってしまったらしい。  健一は、ほっとする代わりに、失望と、屈辱を感じた。あんなに胸をドキドキさせて盗み出したのに、何の反応もないというのは、どういうことなのだろう。翌日、健一は、廊下を掃除していて、中西みどりに会った。廊下や階段の掃除は、健一の仕事になっていた。健一は、いつものように眼を伏せず、じっと、彼女の顔を見てやったが相変わらず、完全に無視されてしまった。  彼女が、シュミーズが消えてなくなるという不思議なできごとにびっくりしていて、それを、何食わぬ顔でニヤニヤ眺めているのなら、優越感が感じられて楽しいのだが、相手が、何にも気がつかず、平然としていては、健一のほうが勝手に一人|角力《ずもう》をとっている感じだった。  そのぎくしゃくした感じは、健一には反省にはならず、逆に、中西みどりに対する憎しみを強くすることになった。 (今度こそ、びっくりさせてやるぞ)  健一は、彼女のヒップのあたりに眼をやって、自分にいい聞かせた。      5  夕方になると、健一は、またマスター・キーを持ち、廊下に忍び出し、中西みどりの部屋に入りこんだ。  昨日のように、ドキドキしたりはしなかった。二度目ということで落ち着いてもいたし、中西みどりに対する腹立たしさが、怯《おび》えをなくしていた。  部屋の様子は、昨日と変わっていなかった。  居間を抜けて、四畳半の寝室に入ってみた。昨夜は、男が来なかったせいか、ベッドはあまり乱れていない。ピンクのネグリジェが、脱ぎ捨てた恰好《かつこう》で置いてあった。 (今日は、これでも盗んでやろうか?)  と、考えてから、それだけではまた、彼女が、驚かないような気がした。ネグリジェを盗んだ上に、昨夜盗んだ黒のシュミーズを返しておけば、彼女は、びっくりするに違いない。  健一は、この考えに満足した。単に盗むのではなく、何やら義賊的な行為のような気がしたからである。論理的にはおかしいのだが、十八歳の健一にとっては、スカッとした考えのように思えたのだ。  健一は、自分の部屋に戻ると、黒のシュミーズを持ってきて、それを、眼につきやすい壁に引っかけた。こうしておけば、いやでも、寝室に入ったとたんに眼に入ることだろう。  健一は、かわりにピンクのネグリジェを手につかんだ。強く甘い女の体臭のようなものが、健一の身体を包んだ。彼は、ネグリジェをつかんだまま、ベッドに腰を下ろし、しばらくの間、ぼんやりと、その姿勢のままでいた。 (女が欲しい)  という強い衝動が、健一を襲った。彼は、じっとして、その衝動が静まるのを待ち、それから、ネグリジェを丸めて、彼女の部屋を出た。  健一は、自分の部屋に入ると、参考書を取り出し、勉強に打ち込もうとしたがだめだった。中西みどりの顔がちらついてしかたがないのだ。  しばらくして、夕方の買物から、母親の時枝が帰ってきた。健一は机の横にあった中西みどりのネグリジェを、あわてて、押し入れの中にかくした。  時枝が、遠慮勝ちに襖《ふすま》をあけて顔を出した。皿に、イチゴをのせたのを健一の前に置いて、 「勉強も大事だけど、あんまり根をつめないほうがいいよ」  と、いう。健一は、「ああ」と、生返事をして、机の上に広げた参考書を読むふりをした。  健一は、母を嫌いではない。だが、あまり話しかけられたくない気がしている。邪魔でしかたがないときもある。特に、あの遊びを始めてから、母親の視線がうるさくてしかたがなくなっていた。  時枝の顔に、戸惑いとも怯《おび》えともつかぬ、頼りなげな表情が浮かんだ。息子の気持がつかめなくて当惑している顔だ。 「そのイチゴおいしいよ」 「ああ」 「お茶持ってこようか? それとも、ミルクのほうがいいかい?」 「いらないよ」 「じゃあ、コーラでも持ってこようか? 昨日買ったのが、まだあるから」 「何もいらないんだ」  健一の声が少しずつ、苛立《いらだ》ってくる。ひとりで、自分だけの考えの中に沈みたいのだ。中西みどりのことを考えたい。それに、ネグリジェのことも考えたい。母親が傍《そば》にいられるのは邪魔でしかたがないのだ。  時枝の顔に浮かんでいた怯えの色が一層強くなり、おずおずと部屋を出ていった。  襖《ふすま》がしまると、健一は、ごろんと横になり、自分の思いの中に耽溺《たんでき》した。  夜半になった。  今夜は、二時近くなって、中西みどりの帰ってくる足音が聞こえた。いくぶん酔っているらしく、足音が少し乱れている。  ドアがあいた。  昨夜のように、すぐ窓をあける音が聞こえる。あとはだいたい同じだった。バスに水を入れてから、ガスに火をつける。このマンションでは、構造のせいか、ガスに火をつけると、ゴオッと大きな音がする。  そこまでは同じだった。が、なかなか、彼女の風呂《ふろ》に入る気配が聞こえてこない。その中に、急に、隣室のドアがあく音がした。スリッパのパタパタいう音が聞こえてくる。 (どうしたのかな?)  と、くびをかしげている中に、電話のダイヤルを回す音が聞こえた。電話は、各階の廊下の中ほどに一つずつ置いてある。  静まり返っている夜気の中で、彼女の声がはっきり聞こえた。 「もしもし。スズキさん?」  彼女がいう。おそらく、鈴木だろう。相手は男に違いないと思った。 「あんたのところに、ネグリジェ忘れて来なかったかしら? あんたが買ってくれたピンクのやつだけど」 「————」 「そお。もう一度探してみるけど、変なのよ。昨日、見えなくなったシュミーズが、今日になったら、壁にかかっていたりして——」 「————」 「ええ。気のせいかしら?」 「————」 「何だか気持が悪くって——」 「————」 「ええ。じゃあ、おやすみ」  電話は切れ、彼女は、部屋に戻った。健一の顔に、自然に笑いが広がっていった。  昨夜から、中西みどりは、黒いシュミーズの消え失《う》せたことに当惑していたのだ。 (何だか、気持が悪いっていってたな)  健一は、ニヤニヤした。あのツンツンしていた美しい顔が、今頃はゆがんでいるに違いない。快感が、彼を囚《とら》える。それは、ザマアミロといった感じとは少し違っていた。もう少し、セクシアルな感情だった。サデスチックな快感といってよかったかもしれない。  その夜、眠ってから、健一は、中西みどりの夢を見た。夢の中で、彼女の両腕に手錠がはめられ、その鍵《かぎ》を、健一が持っていた。彼女は手錠を外してくれと彼に哀願する。だが、彼は、彼女の眼の前に鍵をちらつかせるだけで、彼女の身もだえするのを楽しんでいた——  眼覚めたとき、健一は、夢精しているのに気がついた。      6  次の日の夕方にも、母が買物に行った留守に、中西みどりの部屋に忍び込んだ。  昨夜盗んだピンクのネグリジェを、また、すぐ気がつくように、壁にかけておいた。  これで、ますます彼女は、気味悪がり、びくつくことだろう。その後で、健一は、彼女のベッドの中で、短い時間を過ごした。なぜ、そんなことをしたのか、彼自身にもよくわからなかった。  その夜、中西みどりは、男と一緒に帰ってきた。男は、どうやら、電話をかけた鈴木という男のようだった。  健一は、壁に耳を押しつけるようにして、隣室の会話を聞こうとした。はっきりとはわからないが、中西みどりが何かを男に訴え、男のほうは、それに取り合わずに笑っている様子だった。 「ネグリジェ——」  という、甲高《かんだか》い彼女の声が耳に入った。思わず、健一はニヤリとした。彼女が、ピンクのネグリジェのことで、男に訴えているのに、男の方は、笑って取り合わないでいるらしい。男は、気のせいだとでもいっているのだろう。眉《まゆ》をしかめ、不機嫌になっている彼女の顔を想像して、健一は、快感を覚えたが、それは、しばらくして、暗い、じめじめした嫉妬《しつと》に変わっていった。  中西みどりの甘ったるい鼻声が聞こえ、それが次第に、高ぶった喘《あえ》ぎに変わってくるのがわかったからである。  彼の脳裏に、あのベッドで重なり合っている男女の姿が浮かんだ。それは、健一がいくら頭をふっても消えてくれなかった。彼は、鈴木というその男に、激しい怒りを覚えた。  次の日の五時頃、中西みどりが、中年の男と肩を並べて外出するのを、健一は見た。四十歳ぐらいの、でっぷり太った、いかにも金のありそうな男だった。  男は、廊下で健一に会うと、ジロリと鋭い眼で彼を見た。人の気持を見すかすような気味の悪い眼つきであり、同時に、健一を見下したような眼つきでもあった。  健一は、男に対する憎しみが一層強くなるのを感じた。  その日は、母親の時枝が風邪《かぜ》気味だといって夕方になっても外出せず、健一は中西みどりの部屋に入ることができなかった。終日、彼はいらいらし、時枝に文句をいった。いつの間にか、マスター・キーを使って、中西みどりの部屋をのぞくことが習慣になってしまい、それができないと、心がいらだつようになってしまっていたのだ。  次の日には、母親も風邪が治り、夕方には、いつものように買物に出かけた。健一は、待ちかねたように、マスター・キーを持ち出して中西みどりの部屋に忍び込んだ。  寝室に入ると、ベッドの上に、ライターが落ちていた。鈴木というあの男が忘れて行ったものに違いない。取り上げてみると、SUZUKIと名前が彫ってあった。健一は、今度こそ、最初から盗むつもりでその外国製のライターをポケットに放り込んだ。ささやかな男への復讐《ふくしゆう》のつもりであった。ライターが紛失したことで、中西みどりと男の間にごたごたが起きれば面白いと思った。  健一は、また、彼女のベッドに寝転んだ。が、あの男が、ここで彼女と寝たのかと思うと、背中のあたりがむずがゆくて、すぐベッドを離れてしまった。ライターを失敬したことでちょっと愉快になっていた気持が、またこわれて、男に対する嫉妬《しつと》に変わってきた。何か、男に対する厭《いや》がらせをしてやりたくなった。ここにいない人間に対して、そんなことのできる道理はないのだが、健一は、しばらく考えてから、ポケットの中に、サインペンが入っているのに気づき、寝室の壁に、落書きすることを思い立った。 〈鈴木ハ悪イ男ダ〉  わざと、下手くそな字で、そう書いてやった。子供っぽい、馬鹿げた行為だが、そう思わず、いたずら書きをすることで、男に対する嫉妬が薄らぐような気がした。  健一は、自分の部屋に戻った。何か、心の底に、重い澱《よど》みができてしまったようで、その不快感はなかなか消えてくれなかった。  だが、次の日も、夕方になると、健一は、マスター・キーを取り出して、中西みどりの部屋に忍び込んだ。昨日の彼の落書きの上には、テープが貼《は》られてあった。  健一は、そのテープを引きはがした。何か意地になっていた。のぞき見の楽しさは、いつの間にか消えてしまっていた。  それから二日目に、健一は、一通の手紙を受け取った。  差出人の名前のない片仮名ばかりの手紙だった。 〈ツマラヌコトハヤメロ。ヤメナイトヒドイメニアワセルゾ〉  読んだとたんに、あの鈴木という男だと思った。あいつは、中西みどりの話から、いたずらの主が健一だと考えて、こんな脅迫めいた手紙をよこしたに違いない。  健一は、その手紙を破りすてた。指先がふるえているのが、自分にもわかった。今、健一自身にも、はっきりとわかってきたのだ。彼は中西みどりを愛し、そのために、鈴木という男を嫉妬しているのだ。男としての嫉妬なのだ。 (よし。今度は、もっと大きな字で、鈴木は馬鹿だと壁に書きつけてやる)  健一は、そう決心した。  マスター・キーを持って、いつものように、中西みどりの部屋のドアをあけた。嗅《か》ぎなれた女の匂《にお》いがした。だが、他にも、何か変な匂いが鼻についた。  最初は、それが何なのかわからなかった。気持の悪い変な匂いだった。構わずに、寝室に入ったとき、健一は、ぎょッとして棒立ちになってしまった。  ベッドに、中西みどりが寝ていたからだ。あのピンクのネグリジェを着て、彼女は俯《うつぶ》せに眠っていた。  だが、逃げ出そうとした健一は、はだけたネグリジェの間から、何か赤いものが走っているのに気がついた。  血だった。  気持の悪い変な匂いは、血の匂いだったのだ。  血は、もう乾いていた。中西みどりは死んでいるのだ。殺されているのだ。  健一は、自分の足が、ガタガタふるえるのを感じた。顔から血の気がひいてしまっている。  健一は、逃げ出し、自分の部屋へ駆け込んだ。  台所に行って、コップ一杯の水を一息にのみほした。少し、落ち着いてくると、今度は、自分のことが心配になってきた。毎夜のようにあの部屋に忍び込んでいたのだから、彼の指紋がベタベタついているはずなのだ。すぐ疑われてしまうだろう。  幸い、母親の時枝は、まだ、夕方の買物から帰ってこない。  健一は、もう一度、タオルを持って、中西みどりの部屋に忍び込んだ。そして、自分の指紋がついていそうな場所を、夢中で拭《ふ》いて回った。  壁の字も、テープを引きはがしてから、サインペンで塗り消した。これで、筆跡から、自分が疑われることはないはずだ。そのあとで、気がついて、ポケットに入っていた例のライターを、死体のそばに捨てた。きっと、これで、警察は、鈴木というあの男に疑いの眼を向けるだろう。いい気味だ。  部屋を出たところで、いつものくせで、マスター・キーを使って鍵《かぎ》をかけようとしてから、そんなことをすれば、マスター・キーを使える自分が疑われると気がついてやめてしまった。  健一は、自分の部屋に戻ると、電気を消して、蒲団《ふとん》にもぐり込んでしまった。      7  中西みどりの死体は、彼女を迎えに来たバーの同僚によって発見された。  マンション中が大騒ぎになり、警察が駆けつけた。  健一も、母親の時枝も、管理人ということで、いろいろと刑事たちの質問を受けた。時枝は、殺された中西みどりは、部屋代の払いもよく、人に恨まれるようには見えなかったと、当たらずさわらずのことをいった。  健一は、刑事にきかれると、 「今は、大学の受験勉強で忙しくて、隣の部屋のことなんか知りませんでしたよ。関心がありませんでしたからね」  と、そっけなくいった。刑事は、彼の言葉を信じたかどうかわからなかったが、「なるほどね」とうなずいただけで、それ以上のことは質問してこなかった。  二、三日すると、警察は中西みどりと関係のあった鈴木というスーパーマーケットの経営者を逮捕したという噂《うわさ》が流れてきた。こんな噂はすぐ広がるものだ。 「やっぱり、あの男だったのねえ」  と、マンションに住む女たちは、心得顔に話し合った。いつもは顔を合わせても他人だという表情をしているのに、こんな事件のこととなると、廊下や、屋上の物干場に集まって、噂し合う。 「最初から、あの男だろうと見当をつけていたの」  というバー勤めの女もあった。 「廊下で一度しか会わないんだけど、変に暗い感じの男だと思ったもの」 「そういえば、眼が鋭かったわね。あれは、犯罪者の眼だったのねえ」  と身ぶるいして見せる女もいた。  そうした楽しそうな話が二、三日続いたあとで、事件のことも、殺された中西みどりのことも、少しずつマンションの住人から忘れられようとしてきたとき、突然、健一は、警察に出頭させられた。  警察には、まだ、「マンション殺人事件捜査本部」の看板が下がっていた。  鈴木が犯人として逮捕されたという噂《うわさ》だったのに、看板が下がっているところをみると、事件は、まだほんとうに解決はしていないのだろうか。  いつか、健一を訊問《じんもん》した背の高い刑事が現われて、 「まあ、坐《すわ》って」  と、健一に椅子《いす》をすすめた。  健一は、こわばった顔で、傍《そば》にあった椅子に腰を下ろした。一体、今ごろになって、なぜ、呼びつけたりしたのか、それがわからないのが不安だった。  刑事は、わざとのように、ゆっくりと煙草に火をつけた。 「例の事件のことで、もう一度、君に聞きたいことがあってね」 「でも、もう犯人がつかまったんじゃないんですか?」 「犯人が?」 「ええ、鈴木というスーパーマーケットの社長が捕まったって噂を聞きましたよ」 「ほう」  と、刑事は、笑った。 「おもしろい噂だ」 「でも、逮捕したのはほんとうなんでしょう? 違うんですか?」 「参考人として来てもらっただけのことだよ。今日の君のようにね」 「————」 「ところで、君に聞きたいんだが」 「僕は、殺された女のことは、何も知りませんよ。この前も話したように、大学の受験勉強中で、他の人のことなんかに気を配ってはいられませんでしたからね」 「わたしの聞きたいのは、そんなことじゃないんだ」 「じゃあ、どんなことなんです?」 「君のおふくろさんは、あのマンションの管理人だったね」 「ええ」 「君も、おふくろさんの手伝いぐらいはしてるんじゃないのかね?」 「廊下や階段の掃除ぐらいはしますよ。しかし、そんなことは、事件とは何の関係もないんじゃありませんか?」  健一は、食ってかかるような乱暴ないい方をした。警察に呼び出されたことへの不安から逃れようとすると、自然に、そんな口のきき方になってしまうのだ。  刑事は、小さく笑ってかち、天井に向かって煙草の煙を吐き出した。 「管理人というのは、マスター・キーというものを持っているものだ。そうじゃないかね」  刑事は、ゆっくりいってから、鋭い眼で、健一の顔をのぞき込んだ。      8  健一の顔は、自然に蒼《あお》ざめた。 「マスター・キーがどうかしたんですか?」  と、聞き返したが、声がふるえているのが自分にもわかった。  刑事は、落ち着き払っている。灰皿に、吸殻を押しつぶしてから、 「マスター・キーがあれば、どの部屋でも自由にあけて忍び込むことができる。中西みどりの部屋でもね」 「おふくろは、そんな真似《まね》はしませんよ。絶対に」 「わたしは、君のことをいっているんだ」 「僕のこと? 僕が何をしたっていうんですか?」 「君は、マスター・キーを使って、中西みどりの部屋にときどき忍び込んでいたんじゃないのかね?」 「そんなことはしませんよ」 「そうかね」 「僕が、そんなことをしたと思ってるんですか?」 「わたしは、おもしろい話を聞いたのだ。ある日、中西みどりがバーから帰ってみると、黒いシュミーズが消え失《う》せている。次の日には、それが壁にかかっているのが発見され、代わりにピンクのネグリジェが消え失せた」 「誰にそんなことを聞いたんですか?」 「中西みどりが、生きているときに、鈴木という男や、バーの同僚に話したんだよ」 「きっと、中西みどりの頭がどうかしてたんですよ」 「違うね」  刑事は、冷たくいった。 「彼女は、ほんとうのことをいっていたんだ。誰かが、彼女の留守に部屋に忍び込んで、そんないたずらをしていたんだよ」 「それが僕だというんですか?」 「そうだ」 「何故ですか?」 「あの部屋の鍵《かぎ》は一つしかなくて、それは、本人が持っていた。となれば、自由に出入りできるのは、マスター・キーを使える君だけだ。それに、いたずらの犯人は、盗んだものを、また返すような変な真似《まね》をしている。盗みが目的でなくて、彼女の気をひくことが目的だったのだ。つまり、中西みどりに対する愛情の表現だったと考えないわけにはいかないのだ」 「————」 「ぎこちない愛情の表現だよ。こんなぎこちないことをするのは、大人にならないハイティーンしか考えられない。つまり、君ということになる」 「————」 「どうだね? 君の仕業なんだろう?」 「そうですよ。僕がやったんですよ」  健一は、やけっぱちのように、大声を出した。 「マスター・キーを使って、彼女の部屋に忍び込んで、いろいろいたずらしたのは僕ですよ。でも、殺したのは僕じゃない」 「なぜ、そんないたずらをしたんだね?」 「おもしろかったからですよ。それに、受験勉強で、くさくさしていたし——」 「それだけじゃないだろう?」 「何だというんです?」 「君は、中西みどりが好きだった。だから、彼女の気をひこうとし、あんないたずらをしたんだ。そうじゃないのかね?」 「————」 「ところが、中西みどりのほうは、君には鼻もひっかけなかった。君はきっと、彼女のところに通ってくる鈴木に嫉妬《しつと》していたに違いない。寝室の壁に、鈴木ハ悪イ男ダと、サインペンで書いたのは君なんだろう? そのことも、彼女は、バーの同僚や鈴木に話していたんだ。それから、ライターのことがある。あのライターも、君が盗んでおいて彼女を殺してから、その罪を、鈴木になすりつけようとして、死体の傍《そば》に置いたんじゃないのかね?」      9  健一は、動顛《どうてん》した。中西みどりの部屋に、マスター・キーを使って忍び込んだことや、ライターのことをいい当てられたからではなかった。  刑事が、自分のことを、中西みどりを殺した犯人だと考えていることに気がついたからである。 「違いますよ」  と、健一は叫んだ。 「彼女を殺したのは、僕じゃありませんよ。僕じゃない」 「しかし、君は、マスター・キーを使って、彼女の部屋にときどき忍び込んだことを認めたはずだ」 「ええ。しかし——」 「寝室に落書きしたのも君なんだろう?」 「ええ。しかし——」 「ライターを盗んで、それを、彼女の死体の傍に置いたのも君なんだろう? そうじゃないのかね?」 「ええ、僕ですよ。でも、殺したのは僕じゃない」 「いや、君だ」 「違いますよ」 「君は、中西みどりが好きだった。鈴木という男に嫉妬《しつと》していた。違うかね?」 「そうですよ。そのとおりですよ」 「それで十分だろう。君は、動機を持っていた。殺すチャンスもあった」 「鈴木という男にだって、チャンスはあったはずですよ。バーの女なんだから、他にも男がいたはずです。なぜ、僕だけを犯人だと決めつけるんですか?」  蒼《あお》ざめていた健一の顔が、怒りのために赤く染まってきた。マスター・キーを使って、他人の部屋に忍び込んだのは悪かったかもしれない。だが、殺したのは自分ではないのだ。  だが、刑事の顔は、平静そのものだった。 「君以外に、中西みどりを殺すことはできなかったのだよ」 「そんな馬鹿な——」 「ところが、馬鹿なことじゃないのだな。彼女が殺されたのは、解剖から、午後二時ごろだとわかった。そのとき、あの部屋には鍵《かぎ》がかかっていたのだ。推理小説的にいえば、密室殺人だな。そして、彼女の鍵は、部屋の中にあった。となれば、犯人は、マスター・キーを使える君しかないのだ」 「そんなはずはない。ドアはあいてたじゃありませんか。死体を見つけた彼女の同僚だって、ドアがあいてたからこそ発見できたんじゃありませんか?」 「確かにそうだ。鍵はあいていた。それで実は、われわれも迷わされたんだがね。中西みどりが殺された直後に、あの部屋の鍵がかかっていたことを証明する人間が現われたんだよ」 「誰です?」 「新聞の勧誘員さ。彼は、四時ごろ、彼女の部屋のベルを押しているんだ。殺された二時間後だ。もちろん、返事はなかった。が、この男は熱心な人間だったから、ノブに手をかけて、ドアをあけようとした。ベルが聞こえなかったのかと思ってね。だが、鍵はかかっていてドアはあかなかったと証言しているんだ」 「————」 「君は、嫉妬《しつと》から彼女を殺したんだ。凶器は、彼女の台所にあった包丁だ。君は、殺したあと、罪を鈴木になすりつけるために、名前の彫ったライターを死体の傍《そば》に捨てた。そこまでは上出来だったが、その後、君は失敗したのだ。部屋を出たところで、君は、いつものくせを出して、マスター・キーを使って、鍵《かぎ》をかけてしまった。あとになって、密室にしておいては、まず一番に自分が疑われると気づいて、あわてて、中西みどりの部屋の鍵をあけたのだ。その前に、新聞の勧誘員が来ていなければ、君も助かったんだろうがね。運がなかったわけだな」 「————」  健一の顔が、また蒼ざめた。だが、今度は、自分が警察に犯人視されていることへの怯《おび》えではなかった。  真犯人が誰かわかったからだった。  確かに、中西みどりの部屋の鍵はかかっていた。  彼が、いつものように、マスター・キーを使ってドアをあけて中に入り、彼女の死体を発見したのだから間違いない。あの部屋は、密室だったのだ。  犯人は、マスター・キーを使える人間なのだ。  だが、彼ではない。と、すれば、残るのは一人しかいない。 (おふくろ——)  おふくろしかいない。健一の顔が歪《ゆが》んだ。  あの、片仮名ばかりの脅迫状は、おふくろが、俺の奇妙な遊びを止《や》めさせようとして書いたに違いない。  なぜ、あのとき、それに気がつかなかったのだろう。  おふくろは、俺に大きな期待をかけていた。その俺が、つまらないバーの女にひかれていきそうなのが、我慢できなかったのだろう。  だから、あんな脅迫状を作り、それでもだめだとわかると、中西みどりを殺してしまったのだ。  殺したあと、ドアの鍵をかけたのは、管理人の習性と、いうやつだろう。 「どうしたんだね。観念して、自供する気になったかね?」  と、刑事がいったとき、もう一人の刑事が部屋に入ってきて、小声で何かいった。  背の高い刑事は、健一をちらりと見やってから、部屋を出ていった。  彼は、なかなか、戻ってこなかった。  が、しばらくして、戻ってきたとき、ひどく暗い顔つきになっていた。 「犯人が、君じゃないことはわかったよ」  と、刑事は、椅子に腰を下ろすと、低い声でいった。 「今、君のおふくろさんが自首してきたよ」 「————」  健一は、黙っていた。  刑事は、小さく首をすくめてから、辛そうに健一を見つめた。 「君は知っていたんだな」 [#改ページ]  目撃者      1  無線タクシーの運転手、鈴木五郎は、無線の指示にしたがって、新橋のNホテルの近くで、中年の客を乗せた。無線で聞いたところでは、世田谷の家までということだった。  黒い鞄《かばん》を持った重役タイプの男だった。  車についている時計は、七時半を指し、周囲は、すでに暗かった。  客を乗せてから「上野毛《かみのげ》でしたね……」と確認してから、鈴木は、車をスタートさせた。  走りながら、バックミラーに眼をやると、客は、眼を閉じてうつらうつらしてしまったようだった。  上野毛の住宅地に着いたのは、九時近かった。さすがに、その辺は、静かである。 「着きましたよ」  と、鈴木は、ふり向いて客にいった。眠っていたらしい客は、「おう」というように眼を開けた。 「ここでいいですか?」 「ああ、結構だ。ご苦労さん」  客は、料金を払うと、車をおりて、反対方向に歩き出した。家は、少し離れたところらしいが、春の夜風に吹かれて、ぶらぶら歩いて帰る気でいるのだろう。  そんなことを考えながら、鈴木が、車を方向転換させようとしたとき、背後で、ふいに、悲鳴があがった。  はっとして、鈴木が、窓から首を突き出して、ふりむくと、今おろした客が、路上にうずくまり、黒い人影が、走り去るのが見えた。 「助けてくれえッ」  と、うずくまったまま、中年の客は、かすれた声で叫んでいる。  鈴木は、車から飛びおりて、客の傍《そば》へ走った。逃げた人影は、すでに闇《やみ》の中に消えてしまっている。 「泥棒だ。鞄を盗《と》られた」  と、客は、あえぐようにいった。 「けがは、ありませんか?」 「突き飛ばされただけだ。早く警察へ電話してくれ」 「引き受けました」  と、鈴木は一番近くにある家に向かって走り、そこから警察へ電話をかけた。      2  パトカーが駆《か》けつけ、吉川巡査は、鞄《かばん》を盗られた男と、タクシーの運転手から事情を聞いた。  男の名前は、井上勇太郎、四十五歳で、大和商事の幹部社員だった。 「盗られた鞄の中には、一体、何が入っていたんですか?」  吉川巡査がきくと、井上は、はじめて苦笑して、 「会社の書類の写しだけです。それは、あまり重要でない。泥棒にしたら、きっと、大金でも入っていると思って、強奪したんでしょうな」 「たとえ、鞄の中身が何であっても、強盗に変わりはありません。それで、あなたは、相手を見たんですか?」 「いや、暗がりから飛び出してきて、いきなり、突き飛ばされたんですから、相手を見るヒマなんかありませんよ」 「君は?」  と、吉川巡査は、視線を、タクシー運転手の鈴木に移した。 「君は、強盗の顔を見なかったかね?」 「このお客さんが、悲鳴をあげたんで、あわてて、車の窓から首を突き出して、うしろを見たんです。そしたら、お客さんが、道路の上に倒れていて、黒い人影が、逃げていくのが見えました。後ろ姿だから、顔は見えませんでしたよ」 「男かね?」 「そうです。男だったことは確かです。黒っぽい革のジャンパーを着ていたみたいだったな」 「他に覚えていることは?」 「そうですねえ、背の高さは、一七〇センチくらいだったかな。もっとも、背中を丸めるようにして走って行ったから、本当は、もっと大きかったかもしれません」 「帽子は?」 「かぶっていませんでした」 「他に覚えていることは? どんな小さなことでもいいんだ、唯一《ゆいいつ》の目撃者だからね」 「そういわれても困るんですが——」  鈴木運転手は、頭に手をやり、首をかしげていたが、なかなか、他のことは思い出せそうもない感じであった。 「じゃあ、何か思い出したら、すぐ、警察へ電話して下さい」  と、頼んで、吉川巡査は、運転手を解放した。 (黒いジャンパーを着た背の高い男)  目撃者がいないよりも、ましには違いないが、何とも頼りない証言だった。年齢もはっきりしないのだ。黒ジャンパーを着た背の高い男などいくらでもいるだろう。だが、今のところ、これだけの貧弱な材料で、手配しなければならない。  奪われた黒い鞄《かばん》は、翌朝、多摩川の河原で発見された。  中身の書類は、破られて、近くに散乱していた、鞄も、ナイフのようなもので、切り裂かれている。大金でも入っていると思い、奪った犯人の落胆ぶりと、怒りが、それに表現されている感じで、刑事たちを苦笑させた。 〈間抜けな強盗〉  と、新聞も書いた。その記事には、もちろん、被害者の名前も出たが、その他に、唯一《ゆいいつ》の目撃者であるタクシー運転手の名前ものった。慎重にSとした新聞もあるが、鈴木運転手と、はっきり書いた新聞もある。  だが、あの時点で、鈴木五郎が狙《ねら》われると考えた刑事はいなかった。もし、事件が殺人事件だったら、配慮したかもしれないが、事件が、強盗事件だったからである。しかも、実質的に奪われたものは何もなく、被害者の井上勇太郎も、全治一週間の軽いすり傷を負っただけだったからである。  だが、犯人のほうは、そうは考えなかったらしい。  五日後に、目撃者の鈴木運転手が、殺されたのである。      3  午前一時頃である。  英国大使館近くの千鳥ヶ淵《ふち》に、停車したままになっている無線タクシーを不審に思ったパトカーが、中をのぞいてみると、運転席に、若い運転手が、背中を刺されて、俯《うつぶ》せに死んでいたのである。  パトカーの警官は、最初、単なるタクシー強盗かと思った。が、一万円近い売り上げがそのままになっていることと、名前のカードに「鈴木五郎」と書かれてあるのを見て、五日前、上野毛でおきた強盗事件の目撃者だったことを思い出した。さらに、客席をよく調べると、上野毛の事件を報じた新聞の切れ端が見つかった。  こうして、上野毛の強盗事件にまで発展したのである。  世田谷区の上野毛で起きた事件と、千鳥ヶ淵で起きた事件の二つだが、同一犯人の犯行とみて、警視庁捜査一課に合同捜査本部が設けられ、敏腕をもって聞こえた吉牟田警部補が担当することになった。 「まず、事件の洗い直しだ」  と、吉牟田警部補は、自分にいい聞かせた。  吉牟田は、最初の被害者である井上勇太郎に会った。 「事件のときと同じ行動をとって貰《もら》いたいのです」  と、吉牟田は、頼んだ。 「あの日は、Nホテルで、新しく来た重役の歓迎会があったんですが、それも再現しなきゃいけませんか?」 「いや、それはいいです。タクシーで、上野毛に着いたのは、九時頃でしたね?」 「そうです」 「じゃあ、その時間に現場に行ってみましょう」  夜の九時の現場は、電灯はあっても、寂しく、暗かった。 「いつも、こんなに暗いんですか?」  吉牟田が、見回しながらきくと、井上は黙って肯《うなず》いた。 「相手は待ち伏せしていた感じですか?」 「そんな感じでしたが、私がこんな時間に帰るのを知っているはずがないから、流しの犯行でしょう。それに、間も抜けていますからね。きっと、この辺のチンピラか何かじゃありませんか?」 「あなたが襲われたとき、タクシーは、まだ近くにいたんですね?」 「ええ。だからすぐ、運転手が助け起こしてくれましたよ」 「どうも変ですな」 「何がです?」 「なぜ、犯人は、タクシーが走り去ってしまうまで待たなかったのかということです。そうすれば、後ろ姿も見られずにすんだでしょうに」 「私には、わかりませんな。気がせいていたんじゃありませんか。犯人も」 「かも知れませんが——」  と、吉牟田は、まだ、首をかしげながら、周囲の暗闇《くらやみ》を見回した。  吉牟田は、井上に礼をいって、上野毛で別れると、鈴木運転手が働いていた、「中央タクシー」を訪ねた。  時間は、深夜に近かったが、タクシー会社は、出ていく車、帰ってくる車であわただしい。そんな、ガヤガヤとやかましい事務室で、吉牟田は、人事管理担当の課長から、殺された鈴木運転手の話を聞いた。この事務室の窓から、運転手の詰所がよく見える。うどんを食べている運転手もいれば、ふとんにくるまって仮眠をとっている運転手の姿も見えた。 「あれは、まじめないい男でしたよ」  と、眼鏡をかけた人事課長は、眠そうな眼で、故人のことを吉牟田に話した。 「今年の秋には、結婚するはずになっていたのに、つまらない事件の目撃者になったおかげであんなことになっちまって」 「結婚をね?」 「ええ、うちの運転手がよく行く食堂があるんですが、そこの娘を射止めましてね。なかなか美人なんで、みんなに羨《うらや》ましがられていたんですがねえ」 「殺されたときですが、客を、どこで乗せ、どこまで送ることになっていたんですか?」 「それがわからないんですよ」 「しかし、ここの車は、全部無線タクシーで、いちいち、無線で報告することになっているんでしょう?」 「そうなんですけど、変なことに、あの時間だけ、報告が入っていないんです」 「それはなぜでしょうね? フリーの客が乗ったということですか?」 「いや、フリーの客を、拾っても、一応、無線で報告することになっているんです。そうでないと、配車計画が立ちませんからねえ」 「ところで、例の強盗事件のことで、鈴木運転手は、何かいっていませんでしたか? 犯人のことで、何か新しいことを思い出したとか」 「聞きませんでしたねえ。いや、誰かが、何か聞いたとかいってましたね。樋口君だったかな」 「ここの運転手ですか? それなら会ってみたいですね」 「今、帰っていると思いますから、呼びましょう。鈴木君の仲のいい友だちですよ」  と、人事課長は、気易くいってくれた。  樋口は、背の高い現代風な若者だった。吉牟田の質問に対して、 「ええ。殺される前日でしたかね。例の強盗事件の犯人のことで、何か思い出したといってましたよ。ええと、何だったけな。そうだ、こんなこといってました。犯人は、ジャンパーの下に、きちんとした背広を着ていた。だから案外、どこか大会社のサラリーマンじゃないかと」 「ほう。ということは、犯人は、被害者の井上勇太郎と、同じサラリーマンということかな」 「それは、僕にはわかりませんがね」  と、樋口は、いった。 「いや。ありがとう。それだけわかれば、犯人逮捕の糸口になるよ」  と、吉牟田は、礼をいい、中央タクシーを後にした。      4  二日後、慎重な捜査のあと、吉牟田警部補は、犯人逮捕に踏み切った。逮捕されたのは、被害者の同僚、樋口運転手だった。彼が、自供したあとで、吉牟田は、記者団に事件を、こう説明した。 「今度の事件は、最初から変でした。鈴木運転手は、本当の目撃者ではなく、いわば、作られた目撃者だったのです。作ったのは、もちろん、犯人の樋口です。動機は単純で、張り合っていた食堂の娘を、鈴木にとられたということでした。だが、ストレートに殺したら、すぐ、疑いが自分に向かってしまう。それで、悪知恵を働かせたわけです。無線タクシーというやつは、スイッチを入れておくと、各車と司令室の会話が全部聞こえるんです。それで、樋口は、あの夜、鈴木が上野毛へ客を送るのを知って、先回りして井上勇太郎を襲い、鈴木を目撃者に仕立てあげたのです。これは成功しました。しかし、本番で、鈴木を殺すときにやりすぎたのです。おそらく、犯人は、自分の車が故障したことにして、鈴木の車に乗せて貰《もら》ったのでしょう。だから、その時間、鈴木は、無線で何の報告もしなかったのです。仲間は客じゃありませんからね。そして、樋口は、千鳥ヶ淵で、鈴木を殺しました。そのあと、目撃者殺しと思わせようと、新聞の切れ端を落としたり、売上金に手をつけずにおいたりしたわけです。よく考えれば、もし本当に目撃者殺しだったら、それと逆のことをしたはずです。関係があるのを、極力、知られまいとするでしょうからね。その時点で、私は、これは作られた目撃者ではないかと考え始めたのです。そして、樋口に会って、自分の考えが正しいとわかりました。彼は、また、そこで、やりすぎてくれましたからね」 [#改ページ]  でっちあげ      1  捜査一課の高田刑事は、まだ二十六歳だが、T大の法学部を優秀な成績で卒業しており、将来の警察幹部を約束されていた。  いわば、桜田門の星である。  その高田が、一つの事件が終わったあと、銀座に飲みに行って、そこのホステスの広子とできてしまった。  広子のほうが惚《ほ》れたのである。高田は、背が高く、顔立ちも二枚目だったから、颯爽《さつそう》とした若手刑事ぶりだった。バーで、自慢顔に、刑事だと名乗ったりしたのに、広子が、惚れてしまったのだ。  同じ二十六だが、水商売をしているだけに、広子のほうが、はるかに大人で、当然、愛の駆け引きにもすぐれており、高田は、たちまち、広子のとりこになってしまった。  一年ぐらいは楽しかった。銀座のホステスを女にしているということが、高田には、何となく誇らしかったのだ。  広子も、別に結婚してくれとはいわなかったし、高田が、上司とその店に飲みに行くことがあったりすると、彼女は、知らない顔をしてくれた。  美人で、気がきいていて、遊びの相手としては、申しぶんのない女だった。  それが、彼が巡査部長に昇進する頃からおかしくなってきた。  高田に、新しい恋人ができたのである。  M重工の重役の娘で、名前は、三谷千津子。二十一歳で、N女子大出の才媛《さいえん》だった。  上司のすすめてくれた見合いだったが、高田は、すぐ、婚約した。  女は、こうしたことに敏感である。高田が打ち明けるより先に、広子は、彼に女ができたことを感じ取っていた。とたんに、ものわかりのいい女が、ヒステリックで、ものわかりの悪い女に変身してしまったのである。 「あたしは、絶対に別れませんからね」  と、広子は、高田に向かって宣言した。 「あたしより五歳も若い女に見変えられたというのが我慢がならないのよ」 「しかし、君と結婚を約束した覚えはないぞ」 「ええ。わかってるわ」 「じゃあ、僕が、他の女性と結婚したって構わんだろう?」 「あたしは、結婚してくれとはいわないわ。でも、他の女とも結婚して貰《もら》いたくないの」 「無茶だ」  と、高田は、広子を睨《にら》んだ。が、広子は平然とした顔で、 「無茶といわれても構わないわ。そのお嬢さんと結婚する気なら、あたしは、どこへでも乗り込んでいって、あたしとあなたの仲を喋《しやべ》ってやるわ」  警察官は、一般人に比べて、素行の正しさが要求される。ホステスとの関係が、一年も続いていたとわかったら、その広子が、喋りまくったら、下手をすれば、免職にもなりかねない。三谷千津子との婚約だって、取り消されてしまうだろう。 「わかったよ」と、高田は、広子に向かっていった。 「結婚はしないよ」      2  結婚はしないといったのは、もちろん、一時のいいのがれだった。  見合いの席で見た千津子に、高田は、参ってしまっていたからである。  千津子は、広子の持っていないものを、全《すべ》て備えているように、高田には見えた。  高貴な知性美といったものを、高田は感じたのだ。言葉の端々に、育ちの良さが現われているとも思った。  それまで、広子を魅力的な女だと思っていたのだが、千津子に比べたら、ただ、色気だけの女だと思った。将来、警察の幹部になったとき、千津子なら、妻にふさわしいが、広子では困るのだ。  高田は、千津子との婚約を解消したりはしなかったし、彼女の二十二回目の誕生日には、安月給の中から、月賦で、真珠のブローチを買い求め、プレゼントした。  十六万円はしたブローチだった。裏には、買った貴金属店で、 〈Chizuko・M〉  と、彼女の名前を彫って貰《もら》った。 「安物で悪いんだけど」  高田は、千津子の胸につけてやりながら、そういった。 「大事にします」  と、千津子は、ニッコリ笑って、いってくれた。  その日、高田は、彼女の広大な邸《やしき》で夕食に呼ばれ、来年の三月の挙式を、正式に決めてしまった。  問題は、広子をどうするかだった。絶対に、広子に、来年三月の挙式を邪魔させてはならない。  しかし、今の状態では、広子に邪魔されることは、眼に見えていた。 (いっそのこと、どこか山奥へでも連れ出して、殺してしまおうか)  とも考えたが、そんなことができないことは、高田自身が、一番よく知っていた。  悩んでいる中にも、年末が近づいてくる。すぐ、来年三月になってしまうだろう。  高田が、焦っているとき、高田にとって、都合のいい事件が発生した。  十月末のある日、原宿のマンションの一室で、三十歳の男が、何者かに殺されたのだ。  前田裕宏というテレビタレントである。さほど有名なタレントではなかったが、プレイボーイで有名だった。  3LDKのマンションのベッドの上で、裸で殺されているのを、朝、迎えに来たプロダクションの社員が発見したのである。  死因は、背中の刺傷だった。おそらく、裸のまま眠っているところを、背中から刺されたのだろうと考えられた。  背中から流れた血が、白いシーツを真赤に染めていた。  そのシーツがくしゃくしゃになっているところをみると、女が来ていて、ベッドの上で一合戦があったあと、その女が、前田の眠ったのを見すまして、殺したということが、十分に考えられた。  高田が、被害者前田裕宏のことを調べていくにつれて、女関係の激しさに、改めて驚かされた。名前がわかっているだけでも、四人や、五人ではないのだ。 「よく身体がもつものだな」  と、高田と組んで捜査に当たっていた井上刑事が、半ばうらやましげにいった。 「そうだな」  と、高田は、肯《うなず》いてから、 (こいつは、チャンスかもしれないぞ)  と、思った。  前田裕宏の乱れた女関係の中に、銀座のホステスがいたとしても、不思議はないではないか。  もし、広子が、前田裕宏殺しの犯人として逮捕されてしまえば、高田は、安心して、三谷千津子と結婚できるのだ。      3  広子を、プレイボーイ殺しの犯人に仕立てあげるには、どうしたらいいだろうか?  二人の間に、関係があったという証拠をでっちあげたところで、このマンションの寝室に、広子が来たという証拠がなければ、なんにもならない。  高田は、捜査中の現場を、そっと抜け出すと、タクシーで、広子のマンションに向かった。  広子は、まだ、ベッドの中だった。 「今頃、どうしたの?」  と、寝呆《ねぼ》け眼で見る広子に、高田は、軽くキッスした。 「この近くに捜査に来たんで、ちょっと寄ってみたんだ」 「あたし、起きるわ」  と、広子が、ベッドから起き上がろうとするのを、 「いいから、寝ていろよ。すぐ、出かけなきゃならないんだから」 「でも——」 「いいんだよ。煙草ないかな?」 「居間のテーブルの上に、のっていたと思うけど」 「ああ。あったよ」  高田は、テーブルの上にあったケントを一本口にくわえ、火をつけながら、素早く、居間を見廻《みまわ》した。  手を伸ばし、洋服ダンスの小引き出しをあけた。  買ったばかりの腕時計が入っていた。  一か月前に買った腕時計である。国産だが、十八金を、ベルトの留金にも使用してあり、二十七万円もしたと、広子が自慢していた腕時計だった。  この時計なら、ナンバーから、広子の名前が自然に割れてくるだろう。 「何してるの?」  広子が、寝室から、声をかけてきた。 「この部屋のカーテンは、買いかえたのかい?」  そんな意味のないことを喋《しやべ》りながら、高田は、腕時計を、ポケットに放り込んだ。  寝室に戻り、広子にもう一度キッスをしてから、部屋を出た。  廊下に出たとたんに、高田は駆《か》け出した。  マンションを飛び出すと、タクシーをつかまえ、原宿に引き返した。  殺人現場では、死体は運び出されていたが、捜査は、まだ続けられていた。 「どこへ行っていたんだい?」  同僚の井上刑事が、きいた。高田は、呼吸をととのえながら、 「ひょっとして、凶器が落ちているんじゃないかと思って、このマンションの周囲を歩いてみたんだ」 「それで、何か見つかったかい?」 「残念ながら、何も見つからなかったよ」  高田は、話しながら、ポケットから広子の腕時計を取り出し、そっと足元に落としてから、被害者が死んでいたベッドの下に、蹴込《けこ》んだ。 「このベッドの下は、まだ調べてなかったんじゃないか」  と、高田は、井上刑事にいった。  井上は、「そうだな」と肯き、床に膝《ひざ》をついて、大きなダブルベッドの下をのぞき込んだ。  高田は、わざと井上に委《まか》せた。彼が見つけてくれたほうが、自分が疑われずにすむからだ。 「おい! 何か光るものが落ちてるぞ」  はずんだ井上刑事の声が聞こえた。  高田が、ほくそ笑んだ。これで、あの小うるさい広子を刑務所へ送り込み、三谷千津子と結婚できる。 「こいつは、犯人の遺留品だな」と、井上刑事が、大きな声でいった。 「真珠のブローチだ。裏に、Chizuko・M とネームが入ってるぞ」 [#改ページ]  硝子《ガラス》の遺書      1  私を乗せた貨物船石洋丸が、桟橋に横付けになったとき、横浜の街には、小雨が降っていた。陰気な、じめじめする雨である。初秋という感じよりも、既に、冬の感じだった。  私は、船橋《ブリツジ》に立って、一年ぶりに見る港の景色を眺めながら、ジャンパーの襟を立てていた。寒く、雨空は重かった。が、今の私には、こうした暗い景色が、似合っているかもしれない。  私が、姉の死を知ったのは、船が、インド洋を、シンガポールに向けて、航行中のときである。発信人は、義兄《あに》であった。 「文子死ス、至急帰ラレタシ」  それだけの文面からは、姉の死の事情を推測することは、難しかった。これだけでは、事故死か、病死かさえ判《わか》らないのである。  私は、今、横浜に着いた。姉と、生まれ育った、横浜である。  船長と、同僚の船員たちは、姉のために、幾ばくかの香典を、贈ってくれた。 「三日間、ゆっくり泣いて、船に戻って来給え」  と船長は、私に言った。石洋丸は、三日間、横浜に停泊し、荷下ろしを済ませてから、再び、アフリカに向かうことになっていた。  私は、船を降りた。  一年ぶりに見る横浜は、少しも変わっていなかった。私には、姉の死がまだ信じられなかった。見馴《みな》れた町角から、色白な、姉の顔が、ひょいと覗《のぞ》くのではあるまいか。  しかし、それは私のはかない希望にしかすぎなかった。姉の死は、やはり事実であった。  伊勢崎町《いせざきちよう》の、見馴れた店の前に、「忌中」と書かれた、黒枠の紙片を見たとき、私は、姉は、やはり死んでしまったのだと感じた。  義兄《あに》と、同じ商店街の、桜井と言う、果物屋の主人が、私を迎えてくれた。  義兄は、蒼《あお》い顔で、私を見た。 「姉は、どうして死んだんですか?」  と、私は、義兄に訊《き》いた。姉は、一年前に、義兄と結婚したばかりだった。幸福に包まれているはずの姉だったのだ。 「それは、後で話します」  と、義兄が言った。 「それより、焼香を——」  私は、義兄の言葉に、何か、暗い影のようなものを感じながら仏前に進んだ。黒いリボンの掛かった姉の写真は、微笑していた。私は、不覚にも、涙が溢《あふ》れてくるのを感じた。  幼くして、両親を失った私は、姉の手一つで、育てられたと言ってよかった。姉は、女の細腕一つで、父の残していった、薬局を経営し、薬剤師の免状を取り、そして、我儘《わがまま》な私を育ててきたのである。  私は、姉の愛情に甘えて、育った。幼い頃の私は、姉の苦労も知らずに、我儘のしたい放題だった。今になって考えれば、姉に済まない気持で、一杯である。それでも、二十歳を過ぎる頃から、さすがの私も、姉のことを考えるようになった。姉は、私のために、婚期を逸してしまっていた。女の婚期が、何歳頃までか、私は、はっきりとは知らない。しかし、日本の場合、三十二歳という姉の年齢は、婚期を逸したということは、できるだろう。結婚する気はないと、姉は私に言ったが、内心では、姉も、平凡な結婚生活を望んでいることは、判《わか》っていた。それだけに、姉の前に、今の義兄が現われたとき、私は、二人が、結ばれることを願った。  二人の結婚が決まったとき、これで、姉も、人間として、女として、幸福を掴《つか》むことができると私は思った。私は、姉が、ハネムーンに出掛けている間に、船員を志願して、船に乗ってしまった。もう、独り立ちしていい年だと考えたこともあるし、姉に、自由な気持で、結婚生活を楽しんでほしかったからである。それが、私流の、姉への祝辞の積もりであった。  その姉が、死んでしまったのだ。  私は、焼香を終わると、義兄《あに》に、向き直った。 「姉は、病気で死んだんですか?」 「いや」  と、義兄は、眼を伏せたまま、首を横に振って見せた。 「文子は、自殺したのです」      2 「自殺——?」  一瞬、私は、自分が、聞き違えたのだと思った。姉が、自殺するはずがなかった。姉は、長い間、夢見ていた結婚生活に入ったばかりだったはずではないか。それに私という、我儘《わがまま》な、お荷物からも解放されたのだ。どこに、自殺する理由があるだろう? 「本当に、姉は、自殺したんですか?」 「本当です」  義兄が、低い声で言った。 「なぜ? なぜ、姉は、自殺なんか、したんです?」 「————」 「言って下さい」 「それは、私が、説明しましょう」  と、果物屋の主人が、言った。私は、この、桜井という人に、ずいぶん、可愛《かわい》がられたものだった。もっとも私の方では、「タヌキ」などと、綽名《あだな》をつけたりしていたが。 「藤堂さんには、辛いことでしょうからね」  桜井さんが言った。藤堂と言うのは、義兄の姓である。 「一か月前に、嫌な事件があったのです」 「事件?」 「賢一君も——」  と、桜井さんは、私の名を言ってから、 「金田の婆さんは、知っているでしょう?」 「知っています」  と、私は、頷《うなず》いて見せた。一人で、駄菓子屋をやっている老婆だった。嫌がらせの年齢という言葉が、ぴったりする老婆だった。人の困るのを見て喜ぶようなところもあった。彼女から悪口を言われなかった人は、この近くには、いなかったろうと思われる。誰からも、煙たがれ、嫌われていた。しかし、あの老婆と、姉の死が、一体、どこで、結びつくというのだろう? 「あの婆さんが、一か月前に、死んだんです」 「それで——?」 「最初は、単なる老衰だろうと思っていたんですがね。警察が調べてみると、砒素《ひそ》による中毒死だと判《わか》ったんです。しかも、婆さんが飲んだ栄養剤の中に、砒素が発見されたんです。それで、他殺ということになりました。栄養剤を、どこで、手に入れたかが、問題になり、調べてみると、この店で、買ったことが判ったんですよ」 「まさか——」 「しかも、そのとき、店番をしていたのは、文子さんだけだった。金田の婆さんは、文子さんから買った栄養剤を飲んで死んだということで、警察は、文子さんを、容疑者として、逮捕したんですよ」 「まさか、姉が——」 「そのとおりです。文子が、人を殺そうなんて、考えるはずがないんだ」  義兄《あに》が、顔を上げて、私に言った。その眼に、怒りの表情があった。 「しかし、警察は、文子が、まるで、犯人と決まったみたいな、取り扱い方をしたんです。新聞も、それに、歩調を合わせたような書き方でした。結局、文子は、証拠不十分ということで、釈放されたんですが、文子が受けた心の傷が消えるはずはありません」 「それで、姉は、自殺を?」 「ええ。事件以来、僕は、文子のことが心配で、会社を休んで、傍《そば》にいるようにしていたんですが、ある日、果物が食べたいと言うので、僕は、桜井さんの店へ行ったのです。そして、帰って来ると、文子は——」 「————」  私は、ぼんやりと、姉の写真に眼をやった。怒りは、ゆっくりと、私に襲い掛かって来た。義兄《あに》の話が本当なら、姉の死は、自殺ではない。警察が、姉を殺したのだ。警察が。  私は、姉の死の状況を訊《き》いた。遺書はなかったという。しかし、遺書がなくとも、姉が、何を言いたかったかは、私には判《わか》る気がした。姉は、死によって、身の潔白を証明しようとしたのだろう。 「文子の死顔は、静かでしたよ」  と、義兄は、言った。 「彼女の死体の傍《そば》に、硝子《ガラス》人形が、砕け散っていました。文子は、その破片をしっかり握りしめて死んでいました。それで、腕の動脈を切って、死んだんです」 「硝子人形?」 「貴方《あなた》が、僕と文子に贈ってくれた人形ですよ」  私は、思い出した。姉の結婚が決まったとき、何か贈物がしたくて、高さ二〇センチばかりの硝子人形を贈ったのだ。その硝子人形は、繊細で、美しいところが、姉に似ていた。どこか、もろい感じのところも。姉は、あの破片を、使って、腕の動脈を切って、死んだのだという。  私は、それが、いかにも、姉にふさわしい死に方のような気がした。しかし——      3  私は、警察に行き、事件の担当者に、会いたいと言った。受付の婦人警官は、私の名前を聞いてから、一度、奥に消えたが、出てくると、奥に通るようにと、言った。  壁の薄汚れた応接室で、私は、中年の警部補に会った。 「事件を担当した、矢部です」  と、相手は、言い、私の顔を、ゆっくりと眺めた。 「自殺した、藤堂文子さんの弟さんだそうですね?」 「ええ」  私は、硬い声で、頷《うなず》いて見せた。 「何の用で、警察に、いらっしゃったんですか?」 「姉は、自殺しました」 「知ってますよ」 「貴方《あなた》がたが、姉を自殺に追いやったんだ」 「なぜ、そう思うんですか?」 「なぜ?」  私は、相手を睨《にら》みつけた。が、矢部という警部補の顔色は、少しも、変わらなかった。 「姉は、人を殺すことのできる人間じゃない。その姉を、警察は犯人扱いにした。だから、姉は、自殺したんです。僕は、今日、当時の新聞を、読んできました。あれでは、まるで姉を、犯人と断定したのと同じ書き方だ。警察も、証拠は、不十分だが、姉が犯人であることに、間違いないような、談話を発表している。あんなことをしておいて、姉を自殺に追いやったのは、警察じゃないと言うんですか?」 「あの談話を発表するにはそれだけの理由があったのですよ」 「その理由と言うのは、一体、何です?」 「藤堂文子さんには、犯人としての状況証拠が、揃《そろ》い過ぎていたのです」 「どんな状況証拠ですか?」 「まず、動機です」 「動機? 姉に、あんな婆さんを殺す動機が、あるはずがない」 「いや、あった。被害者の金田フクは、藤堂文子さんのことで、いろいろと悪口を言っていた。たとえば、年下の男と結婚して、上手《うま》く行くはずがないとか、すぐ別れるに決まっているとかです。その他にも、文子さんに、昔、男がいたというようなことも、喋《しやべ》っていたらしい」 「あの婆さんは、昔から、他人の悪口を言って、喜んでいるんです。陰口を叩《たた》かれていたのは、姉だけじゃないはずです。それが動機と言うのなら、近所の人全部に、動機があることになる。あの婆さんに、悪口を言われない人は、一人もいないはずです」 「勿論《もちろん》、動機だけで、逮捕したわけじゃない」  矢部警部補は、相変わらず冷たい口調を変えようとしなかった。 「被害者は、藤堂薬局で、栄養剤を買い、それを飲んで死んだのです。栄養剤の中には、多量の砒素《ひそ》が、混入されていた。しかも、その栄養剤を、被害者に渡したのは、藤堂文子さんですからね」 「それだけで、姉が、栄養剤に、砒素を混入したという証拠になるんですか? 婆さんが、栄養剤を買って帰って、飲むまでの間に、誰かが、砒素を、投入したことも、考えられるじゃありませんか?」 「いや、それは考えられない。被害者は、栄養剤を買って帰ると、すぐ、飲んでいる。途中で、誰かが、砒素を投入できる時間はないのです」 「それなら、婆さんは、自殺したんです。そうに決まっている」 「貴方の、お姉さんのために、そう考えたいとも思うが、残念ながら、自殺の線は、どこからも出てこない。第一、自殺者が、砒素を、栄養剤に混ぜて飲むというような、面倒なことをするはずがありませんから。また、被害者が、砒素《ひそ》を入手した事実もない。それに反して、他殺と考えた場合、藤堂文子さんには、不利な証拠ばかりが揃《そろ》っている。薬剤師で、毒薬のことに詳しい。砒素も入手しやすい立場にあった。また、彼女だけが、栄養剤の中に砒素を混入できる立場にいたのです」 「しかし、栄養剤を製造している会社で、その製造過程の中で偶然、砒素が混入してしまうことも、考えられるじゃありませんか?」 「勿論《もちろん》、我々は、そのことも、調べましたよ。問題の栄養剤は、N製薬のものです。だから、その工場へ行って、充分に調べました。しかし、砒素が混入する余地は、どこにもないのです。従って、藤堂文子さんが、やる以外に、砒素が混入するはずがないのです」 「しかし——」  と、私は言った。警部補が、何と言おうと、私には、姉が、金田フクを、毒殺した犯人とは、信じられなかった。あの気の優しい姉が、人を殺すはずがないのだ。 「しかし、姉には、婆さんが、栄養剤を買いに来ることは、判《わか》っていなかったはずです。従って、前もって、栄養剤の中へ、砒素を混入しておくこともできないはずです。婆さんの姿を見て、咄嗟《とつさ》に、殺す気になったとしても、ウィンドウケースの中にある栄養剤に、細工をしていたら、相手に、不審に思われてしまうはずでしょう」 「そのことも、調べたのですよ」  矢部警部補は、ゆっくりと、言った。 「確かに、貴方《あなた》の言うとおり、ウィンドウケースの中にある栄養剤に、あわてて、砒素を混入していたら被害者に不審がられてしまうでしょう。しかし、被害者が買った栄養剤に限ってウィンドウケースの中からではなく、奥から出されたものだったのですよ。藤堂文子さんは、わざわざ店の奥から持ってきて、被害者に、渡したのです。その間に砒素を混入する時間もあったのです」 「なぜ、そんなことが判《わか》るんです? 栄養剤を買った、婆さんが死んでしまっているのに」 「証人がいるのです」 「証人?」 「高校一年の少女です。名前は、田畑美登里。事件の日、彼女は、藤堂薬局へ父親に頼まれて胃の薬を買いに行っている。彼女が行ったとき、被害者が、既に来ていた。少女は、待っている間、ぼんやりと、藤堂文子さんと、被害者の言葉を聞いていたのです。被害者が、まず、栄養剤の名前を言った。藤堂文子さんはしばらく考えていたが、ちょっと待って下さいと言って、奥に消え五分程して出てきて、栄養剤を、被害者に渡した。五分あれば砒素を混入することは、充分に可能だったはずですよ」  矢部警部補の話し方は、一歩一歩、追い詰めていくような、粘っこさと、意地の悪さが、あった。姉も、この調子で、訊問《じんもん》されたに違いない。 「これだけの、状況証拠があったからこそ、我々は、藤堂文子さんを逮捕したのです。残念ながら、検察庁は、起訴に充分な証拠はないということで、釈放しましたが、我々は、今でも、藤堂文子さんが、犯人だと、確信しています」 「その、独断が、姉を自殺に、追い込んだとは、考えないんですか?」 「考えませんね。それに、遺書がなかったというじゃありませんか。もし、死んで、潔白を証明したいという気持だったら、なぜ、遺書に、そう書かなかったのですかね。我々から見れば犯人だからこそ、自責の念にかられて、自殺したのだと思えます。死者に鞭打《むちう》つようで、貴方《あなた》には悪いが——」 「————」  私は、相手を睨《にら》みつけた。 「僕が、今、何を考えているか、刑事さんに判りますか?」 「判りませんね」 「貴方の顔を、思いっきり殴りつけてやりたいと思っている。死んだ姉に代わって——」 「それなら、なぜ、そうしないのです?」 「それは——」  私は、相手を睨みつけたまま言った。 「貴方を殴っても、姉は、生き返ってこないからだ」      4  街には、まだ雨が降っていた。しかし、私は、濡《ぬ》れて歩きながら、その冷たさを意識しなかった。怒りと、喧騒《けんそう》が私を、捕らえていたからだ。  歩きながら、私は、義兄《あに》に聞いたこと、警察で聞かされたことを、頭の中で整理した。  事件は、単純なのだ。ある日、金田フクが、姉の店に、栄養剤を買いに来た。姉は、栄養剤を渡した。そして、金田フクは、その栄養剤を飲んで死に、砒素《ひそ》が混入されていることが発見された。  事件は、それだけだ。警察は、姉と、金田フクだけが、栄養剤に、砒素を混入できたと考えた。金田フクの死は、自殺ではない。としたら、姉だけが残る。だから、姉が、逮捕された。簡単な、引き算で、疑問の余地は、ないように思える。  しかし、本当に、余地は、ないのか? 私は、姉が犯人とはどうしても、考えられない。どこかに、事件の真相が隠されているはずだ。  私は、警察を出ると、車を拾って、川崎にある、N製薬の工場を訪ねた。警察は、調査したと言ったが、見落としということも考えられたからである。  私は、守衛に名前を告げて、栄養剤の製造過程を見せてほしいと言った。守衛は、個人的な見学は、禁止されていると言った。私が、押し問答していると、四十歳ぐらいの男が来て、事情を訊いた。私は、海員手帳を見せて、死んだ姉のために、工場見学を許可してほしいと言った。男は、しばらく考えていたが、特別に許可しましょうと、言ってくれた。その男は、N製薬の労務課長であった。  しかし、結果は、矢部警部補の言葉を、確認したにすぎなかった。栄養剤の製造過程で、砒素《ひそ》を混入する可能性は、皆無であった。  私は、失望して、工場を出た。  私は、次に、金田フクのことを調べてみた。彼女の死を悲しんでいる者は、誰もいなかった。そのことだけでも、彼女が、どれほど街の人たちから、憎まれているかが、判《わか》る。  私は、金田フクの隣に住む、鈴木と言う貸本屋の主人に会った。 「あの日のことは、よく憶《おぼ》えてますよ」  と、鈴木は言った。 「わたしが店番をしていると、買物籠を提げた、婆さんが入ってきたんです。また、人の陰口を叩《たた》きに来たんだろうと思っていると、買物籠の中から、栄養剤を取り出して、今、これを買ってきたところだって、言うんですよ。何か、効能書を並べてましたが、帰ると、すぐ、飲んだらしいんです。そして、一巻の終わりですよ。死んだ婆さんには気の毒だが、わたしは、せいせいしましたよ。死んでくれて」 「自殺だとは思いませんか?」 「婆さんが、ですか?」  鈴木は、にやにや笑い出した。 「あの婆さんが、自殺なんて、殊勝な気を、起こすもんですか。第一、自殺する人間が、栄養剤なんか、買わんでしょう?」  私は、頷《うなず》くより仕方がなかった。金田フクの死を、自殺と考えることは、諦《あきら》めるより仕方がないようだった。とすれば、やはり誰かが、彼女を殺す目的で、砒素を混入したのだ。  私は、金田フクが、栄養剤を買って帰り、それを飲むまでの間に、誰かが、砒素を投入したのではあるまいかと考えた。しかし、貸本屋の主人の言葉では、買って帰って、すぐ飲んだらしい。とすれば、犯人が、砒素を混入できる時間はない。  警察が言うように、砒素が混入できたのは、姉だけなのか?  しかし、私は、姉を信じている。犯人が、姉であるはずがない。  喧騒《けんそう》の中で、一日が、空しく消えた。      5  翌日。雨は止《や》んでいた。  私は、金田フクが、栄養剤を買うのを見たという、高校生に会った。小柄な、色の白い少女だった。 「あたし、見てました」  と、少女は、言った。高い声だった。 「金田の、お婆さんが、栄養剤の名前を言って、店の人が、それを、奥から持ってきて、渡したんです」 「その間、五分位だったということだけど、それは、本当?」 「ええ、五分ぐらいです。もっと長かったかもしれません」 「その他に、気がついたことは?」 「さあ」 「どんなことでも、いいんだがね、警察に言い忘れたことは、何かなかったかね?」 「判《わか》りません」  少女は、首を横に振って見せた。私は、何か、思い出したら薬局のほうへ、電話してくれるように頼んで、少女と別れた。  私は、気が重くなるのを感じた。姉の無実を証明するようなものは、一つも見つからないのだ。不利な証拠ばかりが多い。このままでは、警察の断定や、新聞の報道を、ひっくり返すことはできそうもない。姉に対する信頼だけでは、どうしようもない壁であった。  私は、店へ戻った。ウィンドウケースの中に、問題の栄養剤が、詰まっていた。私は、その一つを持って、二階へ上がった。  栄養剤の名前は、「ビタホルン」と書いてある。白色の粉末である。これならば、砒素《ひそ》を混入しておいても、見ただけでは判《わか》らないだろうと思った。  缶入りである。蓋《ふた》には、封印がしてあるが、こんなものは、簡単に剥《は》がすことができる。砒素《ひそ》を混入してから、封印しなおしておけば、誰にも判らないだろう。  私は、缶を置くと、煙草に火を点《つ》けた。姉が、犯人でないのなら、事件のどこかに、辻褄《つじつま》の合わないところがあるはずである。  そんなところが、あるだろうか?  私は、最初から、考え直してみることにした。  金田フクが、栄養剤を、買いに来た。店番をしていたのは、姉だけだ。金田フクは、ビタホルンが欲しいと、姉に言った。姉は、奥へ入ると、五分ほどして、ビタホルンを持ってきて、金田フクに渡した。 (姉は、奥へ入って——)  訝《いぶか》しいのは、ここではあるまいか。  姉が、奥へ行って、栄養剤を持ってきたことは、田畑美登里という少女が証言している。利害関係のない少女が、嘘《うそ》の証言をするはずがない。姉が奥から、問題の栄養剤を持ってきて、金田フクに渡したことは、事実なのだ。  姉が、犯人でないなら、なぜ、そんなことをしたのだろうか? なぜ、ウィンドウケースの中にある栄養剤を、金田フクに渡さなかったのか?  矢部警部補は、それが、姉の犯人である証拠だと考えている。しかし、姉の無実を信じる以上、私には、他の解釈が、必要だった。それなら、どんな解釈が、可能だろうか?  私は、二本目の煙草に火を点《つ》けたが、一口吸っただけで、灰皿にもみ消すと、立ちあがった。一つだけ可能な解釈を思いついたのだ。それを、確かめて、みなければならない。      6  私は、少女に、もう一度、会った。 「まだ、何も思い出してないわよ」  と、少女は、私の顔を見るなり言った。私は、苦笑した。 「思い出してくれなくてもいいんだ。僕の知りたいのは、君がお父さんに頼まれて、胃の薬を買いに行った時間なんだ。八月十六日の、何時頃だったか、憶《おぼ》えていないかね?」 「それなら、憶えてるわ。確か、四時半頃だった。家に帰ってしばらくしてから、夕食になったんだから、確かよ」 「有難う」 「もう、何か思い出しても、電話しなくてもいいの?」 「いや、頼むよ」  私は、微笑して、言った。  私は、少女と別れると、近くの、公衆電話ボックスに入った。私は、そこから、「ベニヤ」という薬問屋へ、電話をかけた。姉は、昔から、そこから薬を取り寄せていた。私も、姉に頼まれて、何度か、電話を掛けたことがあった。  電話口には、男の声が出た。私が、藤堂薬局の名前を言うと、 「毎度、ありがとうございます」  と、言ってから、あわてた調子で、 「このたびは、どうも——」  と、言い添えた。 「八月の十六日前後に、うちから、N製薬のビタホルンを注文していないか、調べてほしいんだ」  と、私は、言った。 「ビタホルンで、ございますね。それでしたら、八月十六日にご注文を受けております」 「十六日の何時か、判《わか》りませんか?」 「ちょっとお待ち下さい」  電話が、一度切れ、女の声が、代わって、電話口に出た。 「私が、あの日、ご注文をお受けしたんですが、確か、五時頃だったと思います」 「そのとき、姉は、何か言っていませんでしたか? 急いで、持ってきてほしいといったようなことを——」 「はい。ビタホルンが、一つもなくなってしまったから、至急持ってきてほしいと、おっしゃっていました。それで、その日の内に、お届けしたんですが、それが何か?」 「いや。何でもありません」  私は、礼を言って、受話器を置いた。  一つの説明はついた。事件のとき、問題の栄養剤は、ウィンドウケースに、なくなっていたのだ。だから、姉は、そこから、薬を取り出さなかった。おそらく、品切れになっていたのだろう。しかし、一つだけ、奥に残っていたのを思い出して、それを取り出してきて、金田フクに、売った。その三十分後に、栄養剤を注文し、品切れだから、至急持ってきてくれるように言ったという、薬問屋の言葉が、その間の事情を説明してくれる。  姉が、なぜ、ウィンドウケースからではなく、奥から、栄養剤を取り出してきたかの説明は、ついた。しかし、私は、それを、喜ぶわけには、いかなかった。一応の解釈はついても、姉の無実を説明する助けには、とうてい、なりそうもなかったからである。  警察は、こう解釈するだろう。  金田フクが、ビタホルンを買いに来たとき、ウィンドウケースの中に、それはなかった。姉は、品切れだと言おうとして、奥に、一つだけ残っていたことを思い出す。金田フクを待たせておいて、奥に入る。そして、ビタホルンを持って、店に戻ろうとして、ふと、殺意を憶《おぼ》え、砒素《ひそ》を混入し、何喰《なにく》わぬ顔付きで、金田フクに渡した。  この推測は、充分成り立つ。ただ、姉の犯意が、計画的ではなく、突発的だったという変化しかない。私は、反論することができない。姉の無実を証明するためには、証拠が必要だし、金田フクを毒殺した、真犯人を、探し出さなければならない。それが、果たして、可能だろうか。  事件が、単純なだけに、私は、かえって、難しさを感じる。ビタホルンの製造過程で、砒素《ひそ》が混入するはずがないとすれば、砒素をいれることができるのは、薬を売った姉と、買った金田フクの二人だけになる。その二人の中、被害者の金田フクが除外されれば、残るのは、嫌でも姉だけということになる。  しかし、本当に、姉だけしか、砒素を混入できなかったのだろうか?  いや、他にもいたはずだ。薬問屋がある。それに、義兄《あに》にも、機会は、あったはずである。  薬問屋には、勿論《もちろん》、製造過程はない。しかし、問屋の係員が砒素を混入しようと考えれば、可能なはずだ。しかし、可能だからと言っても、係員が、そんな悪戯《いたずら》をするだろうか。殺意があったとしても、誰が飲むとも判《わか》っていない栄養剤に、砒素を混入することは、馬鹿げている。  義兄《あに》の場合にも、同じことが言える。義兄が、金田フクを、こころよく思っていなかったことは、容易に想像される。しかし、ビタホルンの一つに、砒素を混入しておいても、それが、金田フクに、買われるとは、限っていない。  確実に、金田フクを毒殺できる立場にいたのは、やはり、姉一人ということになる。姉だけが、金田フクを殺す目的で、砒素を混入できたのだ。  やはり、姉が、金田フクを、殺したのだろうか?  私は、そこまで考えて、深い疲労を感じた。      7  私は、桟橋に出た。霧が出ていた。  乳白色の霧が、私の身体を包んでいる。疲労は、更に深くなるような気がした。  私は、自分の無力を感じた。結局、姉のために、私は、何もしてやれなかったことになる。幼い頃、あれだけ、面倒をかけた姉のために、私のしてやれることは、何もない。悲しいというより、腹立たしかった。  姉が、無実だという確信は、まだ変わっていない。しかし、それを証明する力が、私にはない。  私は、薄倖だった姉のことを考えた。昔から、姉は、丈夫なほうではなかった。その姉が、私を育てるために、青春を犠牲にしたのだ。そして、やっと、彼女自身の幸福を掴《つか》みかけたとき、殺人犯の嫌疑をかけられて、自殺に追いこまれてしまった。これでは、あまりにも、姉が、不憫《ふびん》すぎる。 (なぜ、姉は死んでしまったのか) (なぜ、姉は、生き抜いて、誤解と、闘おうとしなかったのだろうか?)  私は、そんなことまで考えた。せめて、私が帰ってくるまで、姉に生きていてほしかった。そうしたら、何かが、判ったかもしれないのだ。  二日間が、空しく終わるのを、私は感じた。休暇は、あと一日しかない。明日の六時が来れば、私は、石洋丸に乗らなければならないのだ。残された時間は、あと、二十四時間しかない。その間に、姉の無実を証明することが、私にできるだろうか。  正直に言って、私は、自信がなかった。二日間、何の収穫もなかったのだ。あと、二十四時間の間に、姉の無実を証明する証拠が、掴《つか》める可能性は、ほとんどない。  しかし、私は、その二十四時間を、無為に過ごすことはできない。自信[#「自信」に傍点]はなくとも、もう一度、姉のために厚い壁に、ぶつかって見る必要がある。  私は、伊勢崎町に戻った。が、すぐには、店に戻る気にはなれず、近くの喫茶店に入った。義兄《あに》のいない、姉の写真のないところで、もう一度、ゆっくり、事件を考え直してみたいと思ったからである。  店は、空いていた。私は、奥の椅子《いす》に腰を下ろしてから、コーヒーを頼んだ。柔らかなムードミュージックが流れていたが、事件のことを考え始めると、音楽は、耳に入らなくなった。  私は、二つの点に疑問を残していた。一つは、姉が、遺書を残さずに、自殺したことである。誤解されたことに対する抗議の自殺だったはずだ。それなら、なぜ、姉は、抗議の言葉を残して、死ななかったのか。  二番目は、姉が、店の奥から、持ってきた、栄養剤のことである。なぜ、一つだけ、都合よく、奥に蔵《しま》ってあったのか、それが、私には判《わか》らなかった。一つだけ、店に出し忘れるというのも変な話だし、姉の、几帳面《きちようめん》な性格からも、考えられないことだった。姉が、生きていてくれたら、この疑問に、答えてくれただろうが、その姉は、死んでしまったのだ。  いろいろな、解釈が可能だった。しかし、姉の無実を証明するような、解釈となると、なかなか、思い浮かばなかった。  私は、考え疲れて、煙草に火を点《つ》けた。姉の無実は、証明できないのだろうか?      8  二本目の煙草に火を点けたとき、隣のテーブルで、話し声が生まれた。新しい客が入ってきて、腰を下ろしたのを、私は、気が付かなかったのだ。  二人とも、OLらしい、二十二、三の娘である。私は、彼女たちの話題が、姉のことらしいと気付いて、聞き耳を立てた。どんな小さな情報でも、私は欲しかったからだ。 「この間、自殺した女の人ね。あたし、あの店へ、何度か、薬を買いに行ったことがあるのよ」  と、一人が言った。 「新聞で読んだんだけど、結婚して、まだ一年しか、経《た》っていなかったんですってね」  と、もう一人が、調子を合わせている。 「そうよ。だから、余計、可哀《かわい》そう——」 「どんな旦那《だんな》様だったのかしら?」 「ちょっと、ハンサムな、感じのいい人よ。女の人も可哀そうだけど、旦那様も、可哀そうな気がするわ」 「夫婦仲は、どうだったのかしら?」 「とっても、よかったらしいわ。旦那様の方がね、奥さんが身体が弱いものだから、とても、それを、いたわってたようよ。栄養のあるものを食べるように言ったり、栄養剤を飲むようにすすめたりね。でも、その栄養剤のことで、あんなことになってしまったんだから、人生なんて、皮肉なものね」  私は、愕然《がくぜん》とした。コーヒー茶碗《ぢやわん》が、床に、落ちて、大きな音を立てたが、それに気付かなかった。受けたショックが、あまりにも、大きすぎたからである。  私の前に、立ち塞《ふさ》がっていた、厚い壁が、音を立てて崩れていくのを、感じた。私は、自分が、勝ったのを知った。が、それは、あまりにも、苦過ぎる勝利だった。  八月十六日の事件の日。姉が、奥から持ってきて、金田フクに渡した栄養剤は、蔵《しま》い忘れていたものではなかったのだ。姉が、自分で、飲む積もりで、別にしておいたものだったのだ。金田フクが買いに来たとき、姉は、ビタホルンの品切れに気付いた。しかし、自分が飲む積もりで、別にしておいた缶《かん》が、一つあったことを思い出して、それを、金田フクに渡したのだ。そう考えれば、姉が、奥から、栄養剤を出してきた理由が説明がつく。  金田フクが飲んだ栄養剤は、姉が、飲むはずのものだったのだ。こう考えれば、この事件は、全く別な面を持っていることに気付く。  砒素《ひそ》によって毒殺されたのは、金田フクという、嫌われ者の老婆だった。しかし、犯人が、本当に殺そうとしたのは、老婆ではない。姉だったのだ。もし、金田フクが、あの日、ビタホルンを買いに来なかったら、姉が、あの栄養剤を飲んでいたはずなのだ。  狙《ねら》われたのが、姉だったとすれば、犯人は一人しか考えられない。義兄《あに》だ——。  姉は、警察で訊問《じんもん》を受けているとき、全《すべ》てが判《わか》ったに違いない。だから、姉は、自殺したのだ。姉の死は、抗議の自殺ではなく絶望からの自殺だったのだ。だからこそ、姉は、遺書を残さなかったのだろう。  私は、警察に電話するために、立ち上がった。  受話器が、ひどく重かった。      9  私を乗せた石洋丸は、横浜を出航しようとしている。雨は降っていないが、暗い夜である。  義兄《あに》は、警察に逮捕された。矢部警部補の話では、自供は、時間の問題だという。  なぜ、義兄は、姉を殺そうとしたのか?  最初から、金銭だけが目的で、姉と結婚したとは、考えたくなかった。それでは、あまりにも、姉が可哀《かわい》そうだ。義兄の過去は、暗く、貧しいものだったと、私は聞いている。その暗い過去が、義兄の精神を歪《ゆが》めさせ、発作的に殺意を抱かせたに違いない。姉のためにも、私は、そう考えたかった。  姉は——姉は、最後まで、義兄を愛していたのだろうと思う。愛が残っていたからこそ、絶望も、また、大きかったのだと、私は思う。姉にとって、義兄との愛が最後のものだったのだ。  私は、姉が、硝子《ガラス》人形を砕き、その破片で、動脈を切って、命を絶ったことを思い出した。最初その話を聞いたとき姉らしい死に方だと、私は思った。姉の死体の周囲に、宝石を散りばめたように、硝子の破片が、ばら撒《ま》かれている。私は、そんな光景を想像する。姉にふさわしい光景だと思う。しかし、今になってみると、姉の死に方に、別な意味のあったことが、私には判《わか》るのだ。  姉は、遺書を書かずに死んだ。しかし、姉は、遺書を残して死んだのだ。立派な遺書をである。文字に書かれた遺書ではない。しかし、文字に書かれた以上に、訴える力を持った遺書である。  硝子の遺書——と、私は思う。  姉は、硝子人形を、打ち砕いたとき、それが、自分の残す遺書だと感じていたはずである。  美しく、繊細で、しかも、どこかに、もろさを持っている硝子細工。姉は、夫の裏切りに気付いたとき、硝子人形を思い出したのではないだろうか。愛し合い、固く信じ合っていたはずの夫婦の間が、硝子細工のように、もろくはかないものであることを。  姉に、硝子人形を贈った私は、すぐ、そのことに気付くべきだったのだ。硝子細工の美しさの中に、もろさと、はかなさを最初に感じたのは、私だったのだから。  ふと、分厚い手が、肩に置かれるのを感じて、私は、振り返った。船長の、潮焼けした顔が、微笑していた。 「充分に、泣いてきたかね?」  と、彼は、言った。私は、黙って、頷《うなず》いた。汽笛が鳴り、船は、ゆっくりと、桟橋を離れ始めた。私は、灯《あかり》の溢《あふ》れ始めた横浜の街に、眼をやった。私と姉が、生まれ育った街の灯である。その姉は、もういない。  私は、眼をそらすと、船橋《ブリツジ》に向かって、歩き出した。 本書は昭和三十七年から五十二年にかけて雑誌に発表された作品なので、現在の状況とは異なっている場合があります。 角川文庫『危険な殺人者』平成5年3月25日初版発行             平成9年4月30日10版発行