[#表紙(表紙.jpg)] 十津川警部「裏切り」 西村京太郎 目 次  第一章 前 兆  第二章 誘拐事件  第三章 ストーカー  第四章 対 決  第五章 攻防の果てに [#改ページ]  第一章 前 兆      1  四月十日の深夜、三鷹《みたか》市内の道路上で、歌舞伎《かぶき》署の加倉井刑事四十三歳が、車にはねられて死亡した。  加倉井のマンションは、JR三鷹駅から歩いて約二十分の所にあった。  この日は、バスがもうなくなっていたし、タクシー乗り場は混雑していたので、歩いて帰ろうとしたらしい。彼は、かなり酔っていて、車道上にはみ出して歩いていたと思われる。  はねたのは、同じく三鷹市内に住む二十五歳の菊地亘というフリーターで、翌十一日の昼頃、三鷹署に出頭してきた。  菊地の話によると、四月十日の午後十一時五十分頃、自宅に向かって、日産スカイラインGTを、時速六十キロで走らせていたところ、突然、歩道から車道に飛び出してきた人影がいた。慌てて、急ブレーキをかけたが間に合わず、はねてしまい、そのあと怖くなって逃げた。  今日になって、その人間が死亡したと知り、出頭したというのである。  確かに、現場には、ブレーキの痕《あと》があり、加倉井は、車道に倒れていたので、菊地の証言は、間違いないものと思われた。  加倉井が、酔っていたことも事実で、酔って車道に出てしまい、それが原因の不注意による自動車事故として、解決した。  その十日後の四月二十日。警視庁捜査一課の十津川《とつがわ》警部が、本多捜査一課長に呼ばれた。  本多は、十津川の顔を見ると、 「コーヒーでも飲みに行こうか」  と、庁内の喫茶室に誘った。それは、用件が、多分に、私的な内容であることを示しているように、十津川には思えた。  コーヒーが運ばれてきたが、本多は、なかなか話を切り出そうとしない。  何か迷っている様子だったが、 「小早川一夫は、君と同期だったね?」  と、切り出した。 「そうです。同期の出世頭です。一年ほど前に新しく生まれた歌舞伎署の署長になりました」 「どんな男だね? 君から見て」 「頭脳|明晰《めいせき》、決断力もあり、仲間内では、将来、警察のトップになるだろうといわれています」  十津川は、笑顔で、いった。 「将来の警察のトップか」 「そう思っている同期生は、沢山います」 「君は、どう思うんだ?」 「そうですね。私も、そう思っています。彼には、何をやっても、適《かな》いませんでしたからね」 「つまり、自信満々ということかね?」 「自信にあふれていて当然だと思います。問題の多い新宿歌舞伎町ですが、彼なら、うまくやると思いますよ」  と、十津川は、いった。 「最近、会うことは、あるかね?」 「ここ一年、会っていませんが」 「そうか」  と、本多は、肯《うなず》いたが、急に、話題を変えて、 「四月十日に、刑事が、車にはねられて亡くなった」  と、いった。 「ええ。現職の刑事が、泥酔して車にはねられたと、マスコミは、こぞって、批判していますね」 「酔っていたことは、間違いないらしい。聞いたところでは、新宿で、かなり飲んだということだ」 「何か、鬱積《うつせき》していることがあったんでしょうか? 私は、加倉井という、その刑事のことは、よく知らないんですが」 「実は、ある理由で、私は、その刑事と面識があったんだよ」  と、本多は、いった。  十津川が黙っていると、本多は続けて、 「亡くなる前日に、話したいことがあるので、そのうちに、自宅の方に伺いますといっていたんだが、その前に亡くなってしまってね」 「その内容は、全く、わからずですか?」 「わからない。どうも、それが、気になってね」 「加倉井刑事は、歌舞伎署の刑事でしたね?」 「そうなんだ。ちょっと、調べて貰《もら》えないかな。個人的にだ」  と、本多は、遠慮がちに、いった。  正式に捜査はできないということなのだと思った。それは、当然かも知れなかった。亡くなったのが、現職の刑事だし、自動車事故として、結論が出ているからだろう。 「わかりました。帰り道に、三鷹署に寄ってみます」  と、十津川は、いってから、 「小早川にも、会って、話をして来ます。私自身、久しぶりに、彼に会ってみたいですから」 「頼むよ」  と、本多はいい、ほっとしたような表情になった。      2  三鷹署に寄ったのは、午後六時を過ぎていたが、電話してあったので、事故を調べた交通係の平井という刑事が、待っていてくれた。  平井は、本庁の刑事、それも、捜査一課の警部が来たことに、戸惑いの色を見せていた。  十津川は、相手を困惑させないように、 「実は、亡くなった加倉井さんとは、古くからの知り合いでね」  と、いい、個人的に、事情を聞きに寄ったのだと、いった。  平井は、納得した表情になって、 「調べまして、運転していた男の方には、大きな過失はないということになりました。強いていえば、前方不注意ということですが、加倉井刑事の方が、突然、車道に飛び出して来たので、避け切れなかったのは、無理もないとみています」 「それは、はねた運転手の証言だね?」 「そうですが、はねられた地点が、車道上なことは、間違いありませんし、急ブレーキの痕もあるので、運転手の証言は、信用できると思います」 「加倉井さんが、酔っていたことも、間違いないんだね?」 「それは、間違いありません」 「彼の家族は、来たかね?」 「ご存じと思いますが、加倉井刑事は、独身ですので、妹さん夫婦が見えて、遺体を引き取って行きました」  と、平井は、いい、その妹夫婦の名前と住所を、十津川に、伝えた。  十津川は、それを、手帳に書き留めてから、 「歌舞伎署から、誰か来たかね?」 「署長の小早川警視が見えました」 「ほう。小早川が、来たのか。彼は、何かいっていたかね?」 「部下を、こんなことで失って、残念だと、おっしゃっていましたが——」 「そうだろうね」 「優秀な刑事だったということも、おっしゃっていました」 「事故の目撃者は、いるのか?」 「何しろ、午後十一時五十分という時間で、霧雨が降っていましたから」 「いないのか?」 「いません。正確にいえば、まだ、見つかっていません」 「正確な場所を教えてくれないか」  と、十津川は、いった。  三鷹市の地図の上に丸印をつけて貰ってから、十津川は、それを貰って、三鷹署を出た。  自分の車に戻ると、十津川は、携帯電話で、小早川に連絡を取った。 「夕食の約束だが、少し遅れてしまったが、これから行く」 「ああ。新宿三丁目のRで、待っているよ」  と、小早川は、いった。  午後七時半になってしまったが、ビルの七階にある、指定された中華飯店に行くと、小早川が、先に来て、待っていてくれた。  一年ぶりに会うのだが、全く変わっていないように思えた。切れ長の眼も、素早い身のこなしも、前のままだ。変わったのは、署長になって、威厳がついたくらいだろうか。 「同期で集まって、君の署長就任祝いをやらなけりゃあな」  十津川がいうと、小早川は苦笑して、 「本庁にいた方が、楽だったよ。所轄は、忙しいだけだ」 「しかし、今、一番難しい歌舞伎町を委《まか》されたんだ。君に、上の方が信頼を寄せてるのさ」 「その点は実感している。事件の多い所だからね」  小早川は、窓の外に眼をやった。  そこには、新宿の盛り場のネオンが広がっている。日本一の歓楽街のネオンである。  食事が進み、ビールが廻《まわ》った頃を見はからって、 「歌舞伎署の加倉井という刑事が、自動車事故で亡くなったが、ショックだったろう?」  と、切り出した。 「もちろんだ。うちの署では、経験豊富な、頼りになる刑事だったからね。僕は、歌舞伎町のことに、あまり詳しくないんだが、彼は、高校時代から、ここで遊んでいたんだ。よく、私は歌舞伎町の良さも悪さも知っていますと、いっていた。大変な痛手だよ」  小早川は、手を止め、噛《か》みしめるように、ゆっくりと、いった。 「そうか」  と、十津川は、肯いてから、 「新しく、歌舞伎署ができたところだから、君の気持ちは、よくわかるよ。酒が好きな男だったのか?」 「まあ、それが、唯一の欠点だったかな。僕は、それも、彼のいい点だと考えていたんだがね」 「どういう性格だったんだ? 優秀なベテラン刑事だったというのは、想像がつくんだが」 「派手なところのない、それだけに、信用のできる刑事だったよ。歌舞伎町で、彼のことを悪くいう人間は、いないんじゃないかな。ちょっと、昔気質で、人情味もあったから」  と、小早川は、いった。 「四十三歳で、まだ、結婚してなかったようだね? 遺体を引き取りに来たのが、妹さん夫婦だと聞いたが」 「そうなんだ。独身だった理由は、何かあったんだろうが、僕は、聞かなかった。君だって、四十歳まで、結婚しなかったんだからな」  と、小早川は、笑った。  十津川は、ちょっと、照れ臭そうな顔になった。 「彼は、酔って、車道に飛び出して、車にはねられたと聞いたんだが、昔から、そんな癖があったのか?」 「酒が、彼の唯一の欠点だと、いったが、そんな癖まであったのかと、事件のあとで知って、びっくりしたんだ。僕も、二十歳頃は、酔っ払って、車道に寝てしまったこともあるが、彼は、四十三歳になっても、酔って、そんなことをするのだと思ったね。いい酒だと思ってたんだが、深酒は、やめろと、注意しておけば良かったと思ってね」 「あの夜は、ひとりで飲んだのか?」 「彼は、ひとりで飲むのが好きだったんだ。署員に、聞いて貰えばわかるがね。よく行く店は、歌舞伎町のスナックSと、だいたい決まっていた。あの日も、そこで飲んだと、聞いている」  小早川は、しんみりした口調で、喋《しやべ》っていたが、急に、十津川を、見すえるようにして、 「頼まれたのか?」 「何を?」 「加倉井刑事のことをさ。君に調べるようにいったのは、誰なんだ? 彼の家族の筈《はず》がないから、本多課長あたりか」 「いや、君のことが、心配になったんだ。大事な部下を失って、ショックを受けているんじゃないかとさ。歌舞伎署発足間もない事故だからね」 「それなら、大丈夫だよ。確かに、ショックだったが、加倉井刑事のためにも、歌舞伎町の浄化のために、全力をつくさなければと、思っている。歌舞伎町は、良くなるよ。日本一安全な盛り場にしてみせる」  小早川は、自信満々な表情で、いった。 (彼なら、やるだろう)  と、十津川は、思った。この男には、ためらいというものがない。  いつだったか、十津川は、小早川にいわれたことがあったのを、思い出した。 「君の最大の欠点は、肝心な時に、優しさが出て、決断が鈍ることだ」 「君は、どんな時でも、冷静に決断できるのか?」  十津川が反論すると、小早川は笑って、 「できる。冷静に、どんな決断が必要か計算して、それを実行できる自信がある」  と、いった。  その夜、十津川は、久しぶりに酔った。乗って来た車は、駐車場に預け、小早川と別れてから、新宿駅の方向に向かって、ぶらぶら歩いて行った。  十一時を過ぎていたが、まだ、車の通行も激しく、人の流れも多い。  十津川は、ふと、三鷹へ行ってみることにした。  四月十日の夜も、加倉井は、今頃、酔って、新宿から中央線に乗ったのだろうと、思ったからである。  三鷹駅で降りたのは、丁度、十一時五十分頃になっていた。  改札口を出ると、もう、バスはないので、タクシー乗り場には、行列ができていた。あの夜も、加倉井は、それを見て、自宅マンションまで歩いて行く気になったのだろう。  十津川も、歩き出した。まだ、酔いが残っていて、夜の冷気が心地良い。  歩きながら、煙草に火をつける。  その足が、ふと、止まった。  誰かに、尾行《つけ》られているような気がしたのだ。      3  自分を尾行ている足音が聞こえたわけではない。相手の息使いを感じたわけでもなかった。  だが、間違いなく、誰かに見張られているのだ。そいつは、素人ではない。一定の距離を保って、確実に、十津川を尾行している。  自然に、十津川の神経が磨《と》ぎすまされてくる。  長い刑事生活で、凶悪犯人を尾行したことは、数知れず経験している。が、尾行された記憶は、数えるほどしかない。いってみれば、獲物を追う猟犬が、獲物の立場に立たされたような感じだった。  ただ、十津川の場合は、普通の獲物ではない。いつ、猟犬になるかわからない獲物なのだ。  向こうも、それに気付いている筈である。だから、やたらに用心深い。  足音が聞こえる距離まで、近づこうとしないのだ。  ここに来る電車の中でも、そいつは、十津川を監視していたのだろうか?  それとも、十津川が、この三鷹駅に降りることを予期していて、先廻りしていたのだろうか?  わざと、立ち止まったまま、煙草をゆっくりと吸う。  少しずつ、皮膚に感じていた圧迫感が、消えてゆく。そして、ふいに自由な感じになった。  相手は、音もなく、夜の闇の中に、消えていったのだ。  十津川も、歩き出した。  加倉井のマンションに着き、エレベーターであがって行く。  彼の部屋の前に来て、預かってあるキーを取り出し、鍵穴《かぎあな》に差し込もうとして、再び、十津川の表情が、険しくなった。  部屋の中は暗いのに、鍵は開けられているのがわかったからである。  誰かが、中にいるのだ。  しかも、そいつは、明かりもつけずに、中にいる。  十津川は、内ポケットから、拳銃《けんじゆう》を取り出した。  そっとドアを開け、いきなり電灯のスイッチを入れた。  眼の前が、突然、明るくなる。  その明りの中に、大柄な女が、立ちすくんで、十津川を睨《にら》んでいるのが、見えた。  女は、ハイヒールをはいたまま、部屋にあがっている。 「びっくりするじゃないの」  と、女は、怒ったように、いった。 「君は、誰なんだ?」  十津川が、聞き返した。 「あんたは? 泥棒?」  その質問に、十津川は苦笑して、黙って警察手帳を相手に示した。 「ふーん」  と、女が、鼻を鳴らす。 「君は?」 「サチコ」  彼女は、ぶっきら棒に答える。 「ここで、何をしている?」 「あんたこそ、何しに来たの?」 「加倉井刑事のことを、調べている」 「信用できないわ。加倉井さんは、警察の人間は、信用するなって、いってたから」 「ちょっと待てよ」 「何よ?」 「加倉井刑事だって、警察の人間だ。それが、警察の人間は信用できないなんて、いう筈ないだろう?」 「そうかしらね」  女は、皮肉な眼つきをした。 「もう一つ。私は、彼の女性関係も調べてみたが、君のことは、浮かんで来ていない。本当は、彼とは、どんな関係なんだ?」 「それより、まあ、座りなさいよ」  女は、近くの椅子に腰を下ろして、長い脚を組んで、じっと、十津川を見上げた。  十津川は、立ったまま、煙草を口にくわえた。火をつけようとすると、女が、 「止めてくれない? 煙草アレルギーなの」 「そいつは、失礼した」  十津川は、あっさり、くわえた煙草を、箱に戻した。  女は、それを見て、ニッと笑って、 「あなたって、案外、紳士ね」 「まだ、返事を聞いていないよ。彼とは、どんな関係なんだ?」 「お友だちかな。私は、彼の恋人になりたかったんだけど、おれには、そんな趣味はないって、ふられちゃった」  と、女は、笑う。 (ああ、そうか)  と、十津川は、改めて、相手を見直して、 「君は、男か」 「もっと、優しい呼び方をしてくれない? レディとかね」 「それで、何しに、この部屋に来たんだ?」  と、十津川は、きいた。 「私、東京がやばくなったんで、大阪へ行ってたのよ。まあ、向こうで、営業してたんだけど、その間も、ずっと、加倉井さんのことを心配してたの」 「どうして、心配していたんだ?」 「そのくらいのこと、わかるでしょう? 同じ刑事なんだから」 「いや、わからないね」 「じゃあ、わからなくてもいいわよ。案の定、死んじゃってさ。慌てて帰って来たのよ。ここに遺骨でもあれば、お線香でもあげようと思ってたんだけど、遺骨はないし、拳銃片手に刑事が飛び込んで来るわで、めちゃめちゃだわね」 「ハイヒールをはいたまま、お線香をあげに来たというのか?」  十津川が、いうと、サチコは、笑って、 「これは、いつでも逃げられる用心よ」 「なんで逃げるんだ? 亡くなった加倉井刑事のお悔みに来たのなら、別に、逃げ隠れする必要はないだろう?」 「それが、いろいろあるのよ」 「大阪にいる間も、加倉井刑事が心配だったというが、その辺のところを詳しく話してくれないか」      4  サチコは、手に持っていた、マグライトを、思い出したように、ハンドバッグにしまった。 「十津川さんだっけ?」 「十津川だ。捜査一課の」 「あんたは、なぜ、加倉井さんのことを調べてるの? 交通事故なら、捜査一課が調べる必要はないんでしょうに」  サチコは、眼をとがらせた。 「彼は、当夜、泥酔していたといわれている。どうして、そんなに酔っていたのか、知りたくてね」 「刑事は、酔っ払っちゃいけないの? 泥酔したって、いいじゃないの」  サチコが、また、十津川を睨んだ。 「そりゃあ、人間だから、酔って構わないさ。君は、彼が酔っ払ってるのを、見たことがあるみたいだね?」 「何回もね。最近は、酒の量が増えたから、心配してたのよ。でも、彼、人のいうことを聞かないから」 「最近、酒の量が増えたというが、何か理由があったのかね?」 「そんなこと、いったかしら?」  サチコは、急に、十津川の質問を、はぐらかした。 「やっぱり、何か知っているんだな?」 「何も知らないわよ。それなら、署長さんに聞いたらどうなの? 歌舞伎署の署長さんに」  と、サチコは、いう。 「あの署長を知っているのか?」 「頭がいいんですってね。私は、頭のいい男って、信用しないことにしてるのよ」  どういう意味かわからないが、サチコは、そんないい方をした。 「署長は、酔っ払った加倉井刑事が、車道に出ていて、車にはねられた、残念だといっているよ」  と、十津川はいった。 「そんなことだと思ったわ」 「思わせぶりなことをいうね」 「そうかしら?」 「これから、どうするんだ?」 「加倉井さんのお墓ができたら、お墓参りをするわ。そのあとのことは、わからない」  ちょっと、投げやりないい方を、サチコはした。 「新宿歌舞伎町で働いてたのか?」 「あそこは好きよ」 「だが、しばらく大阪へ逃げてた?」 「営業に行ってたのよ」 「東京で、まずいことがあったといった筈《はず》だ。何があったんだ? それが、加倉井刑事と関係があるのか?」  十津川は、まっすぐ、サチコを見すえて、聞いた。  サチコは、負けずに、睨《にら》み返して、 「私ね、占いが好きなのよ。予言できる。してみせましょうか?」 「私のことか?」 「あなたの将来なんて、占ったって、仕方がないわよ。これからね、加倉井さんの悪口が、週刊誌なんかに、どんどん、出てくるわよ。見ていらっしゃい」  と、サチコは、いう。 「加倉井刑事は、交通事故で亡くなったんだ。それに、一介の平刑事で、別に、有名人でもない。どうして、週刊誌が、彼のことを、書くんだ?」 「そんなこと、私が知るもんですか。とにかく、私にはわかるのよ。加倉井さんが、ひどい目にあうのが」  と、サチコは、いった。 「私は、君のいうことが、信じられないが——」 「私、もう、帰るわ。家宅侵入容疑で、逮捕なんかしないでしょうね?」  サチコが、また睨んだ。  十津川は、手帳のページを破いて、そこに、自分の携帯電話の番号を書いて、サチコに渡した。 「何かあったら、電話して貰《もら》いたい。どんなことでもいい」 「電話することはないと思うけど、頂いとくわ」  と、サチコはいい、立ち上がった。 「送って下さらなくて、結構よ。こう見えても、S高校では、空手をやっていたんだから」  彼女は、捨てゼリフを残して、部屋を出て行った。  十津川は、煙草に火をつけてから、改めて部屋の中を見廻《みまわ》した。  一応、家具は置いてあるのだが、何も無い感じを受けるのは、なぜなのだろうか?  部屋の主が、もう、この世にいないからだろうか。それとも、加倉井が寝るためにしか、ここを使わなかったからだろうか?  ふいに、部屋の電話が、鳴った。  十津川は、腕を伸ばして、受話器を、つかむ。 「もし、もし」  だが、返事がない。 「もし、もし、誰なんだ?」  と、聞いた。が、相変わらず、返事はない。それでも、電話がつながっているのが、わかった。  十津川は、再び、三鷹駅を降りてから自分が、何者かに見張られているのを感じたことを思い出した。  この無言電話も、その続きなのか。  二、三分して、電話の切れる音がした。相手が、やっと、電話を切ったのだ。  十津川は、1LDKの部屋を、調べて廻った。これが、殺人事件なら、すでに、被害者の住居ということで、綿密に調べられているだろうが、交通事故であり、車を運転していた人間も出頭して来ているから、この部屋の調査は、やっていないだろう。  机の引き出しに、預金通帳が入っていた。残高は、百三万円。まあ、どうということのない数字である。  十津川は、引き出しを抜き出して、隅から、隅まで、調べてみた。  リモコンスイッチや、CDカード、ネクタイピンなどが雑然と、投げ込まれていた。  宝石ケースもあった。たいしたものは、入っていないだろうと思って、蓋《ふた》を開けてみた。  大きなダイヤモンドの指輪が、おさまっていた。が、別に驚かなかったのは、イミテーションと、思ったからである。  七、八カラットはある。本物なら、何千万円もするだろう。そんなことを思いながら、十津川は、そのダイヤに息を吹きかけた。いつだったか、テレビで、ダイヤモンドの本物とニセモノの簡単な見分け方というのを、見ていたからである。  本物は、息を吹きかけても曇らないが、ニセモノの、例えば、人工のものは、曇ってしまうというものだった。  十津川は、じっと、ダイヤの指輪を見つめて、何回も、息を吹きかけてみた。だが、曇らない。 (本物のダイヤなのか?)  まだ、信じられなかった。  本物なら、一介の刑事が、買えるようなものではなかったからである。  十津川は、それを、ケースごと、自分のポケットに入れた。  翌日、彼は、銀座の有名宝石店に持ち込んで、調べて貰うことにした。  三十分ほど、さまざまな分析方法が試されたあと、副支店長が、十津川に向かって、 「間違いなく、本物のダイヤで、七・五カラットです」  と、いった。 「いくらぐらいするものですか?」 「そうですね。うちで、お客様に、お売りするとしたら、五、六千万円と、いったところですかね。かなり、いいダイヤモンドですよ」  と、副支店長は、いった。 (加倉井は、このダイヤを、どうして持っていたのだろうか?)  十津川は、サチコのことといい、このダイヤのことといい、少しずつ、加倉井という刑事が、わからなくなってくるのを覚えた。      5  二日後、十津川は、朝刊に眼を通していて、眼をむいた。  週刊誌の広告に、驚くような見出しがあったからである。 「週刊タウン」の広告だった。 〈困った男たち・女たち〉  という特集で、十人の男女が槍玉《やりだま》にあがっているのだが、その三番目に、 〈悪徳警官の見本、歌舞伎署のK刑事の生前の行状〉  の文字が、躍っていた。  生前のK刑事といえば、歌舞伎署では、加倉井しか思い浮かばないではないか。  十津川は、出勤途中の駅で「週刊タウン」を買い求め、電車の中で眼を通した。 〈㈫悪徳警官の見本、歌舞伎署のK刑事の生前の行状〉 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   先日、自動車事故で死亡した歌舞伎署のK刑事について、悪口が噴出している。本誌が調べてみると、驚いたことに、出るわ出るわ。彼に痛めつけられたという話が続出しているのに、記者も呆《あき》れてしまった。これが、社会の治安を司《つかさど》る公僕の正体かと驚くばかりである。アメリカや南米あたりでは、悪徳警官がいて、それが、小説や映画にも取りあげられているが、どうやら、日本でも同じ事情が起きているのかも知れない。   例えば、歌舞伎町のホストクラブ「LOVE」は、日本で一、二を争うクラブだが、一年前からここでホスト一年生として働いているA君(二十三歳)は、実は、傷害の前科があるのだが、K刑事はそれを知ってA君を脅し、月給の一部を毎月、巻きあげていたという。新人のA君は、指名が殆《ほとん》どなく、月給も二十万円前後なのだが、その中から五万円を巻きあげられていたというのである。断わったら、歌舞伎町で働けなくしてやるといわれ、泣く泣く払っていたというのである。   また、同じ歌舞伎町内のスナック「舞」では、ママのB子さん(三十九歳)が、毎月、用心棒代として、二十万円を巻きあげられていたという。B子さんは、美人で、金の他に、一緒に寝ろと迫られたこともあり、その時は死にたかったと話している。こうした被害者は他にもいるようなのだが、口を閉ざしているのは、やはり、後難を怖れているのだろう。本誌は、この話を、小早川署長にぶつけてみた。署長は、全て為にするデマだと、否定したが、A君やB子さんの話をぶつけると、署長は苦渋に満ちた顔になり、黙ってしまった。   本誌は、更に、歌舞伎署の刑事何人かに会って、この話をぶつけてみたが、その中の一人の刑事は、吐き捨てるように、K刑事は、一匹狼で、日頃から統制に服さず、こんなことになるのではないかと心配していたと、いった。歌舞伎町は欲望の渦巻く町である。そこに、こんな悪徳警官がいたのでは、治安も何もあったものではないだろう。 [#ここで字下げ終わり]  警視庁に入ると、すぐ、本多一課長に呼ばれた。  課長室に行くと、本多は、いきなり、 「見たか?」  と、きいた。やっぱり、その話かと思いながら、 「『週刊タウン』の記事ですね」 「他にもある」  と、本多は、二冊の週刊誌を、十津川に見せた。  一冊は、「週刊タウン」で、もう一冊は「実話ジャパン」だった。 「実話ジャパン」の方は、噂だけで記事にするような雑誌で、よく、タレントなどから、告訴されているのを、十津川も、知っていた。  それだけに、広げてみると、こちらは、「加倉井刑事」と実名で書かれている。それも、この雑誌らしく、加倉井の女性関係に、重点がおかれていた。 〈脅しては肉体関係を強要するレイプ警官〉  と、いった書き方なのだ。  被害者の女性の告白も、載っている。 「君は、どう思うね?」  本多が、険しい表情で、きいた。 「実は、サチコという人物に会いました。ニューハーフなんですが、加倉井刑事のマンションで会ったんです。三日前ですが、その時、これから、加倉井刑事の悪口が、週刊誌に載るに違いないと、いってたんです。それが、本当になったので、驚いています」 「つまり、そのサチコは、こうなることを、知っていたというのか?」 「そう考えざるを得ないのです」 「どういう人間なんだ? なぜ、知っていたんだ?」 「今、いったように、歌舞伎町で働くニューハーフとしかわかりません。まずいことがあって、大阪へ逃げていたが、加倉井刑事が死んだのを知って、東京に戻ってきたといっていました」 「加倉井刑事は、関係があったということかね?」 「その点も、わかりません。とにかく、加倉井刑事のマンションで、いきなりハチ合わせをしただけですから」  と、十津川は、いった。 「週刊誌の記事の方は、どう思うね? 事実と思うかね?」 「今は、何もいえません。とにかく、事実かどうか、調べてみたいと思っています」 「頼むが、なるべく内密にやってくれ。警察が、記事を押さえに動いていると思われたら困るからな」  と、本多は、いった。      6  十津川は、まず、「週刊タウン」の編集部に当たってみることにした。  田島という編集長に、出版社近くの喫茶店まで来て貰《もら》い、この話になった。  十津川が、雑誌を見せると、田島は、 「警察としての抗議ですか?」  と、笑った。 「いや。そんなつもりは全くありません。事実なら、どんどん書いて下さい。警察としても、反省するのに、やぶさかではありませんから。ただ、事実かどうかを、知りたいわけです」 「全て、事実ですよ」 「週刊誌には、ホストクラブの若いホストと、スナックのママの話が載っていますが、これは向こうから、いってきたんですかね?」 「その前に、いっておきますが、加倉井刑事にまつわる話というのは、この二つだけじゃないんですよ。彼に、ひどい目にあった、金を巻きあげられたという話は、いくつもあるんです。ただ、みんな怖がって、話してくれないんです」 「加倉井刑事は、死んでしまっているのにですか?」  十津川がきくと、田島は苦笑して、 「警察が怖いんですよ。被害者は、加倉井刑事個人が怖いというより、彼の背後にある警察という大きな組織が怖いんです。その中で、どうにか話してくれたのが、ホストクラブのA君と、スナックのママB子さんということなんです」 「読みましたが、俄《にわ》かには信じられないんですがね」 「そりゃあ、十津川さんが、警察の人間だからでしょう。しかし、歌舞伎署の刑事の中には、同じ刑事として恥ずかしいと、告白している人もいるんです。それが、正直なところじゃありませんかねえ」 「小早川署長は、何といってるんです?」 「さすがに苦しんでいるときですね。部下の不始末だから、何ともいえないんだと思いますよ。何をいってもだんまりです」  と、田島は、いった。  十津川は、次に、「実話ジャパン」の編集長に会った。  こちらは、もっと、ざっくばらんに話してくれた。 「実は、前々から、歌舞伎署に悪徳警官がいるという噂は、入っていたんです。ただ、調べても、口が重くてねえ。何しろ、警察に睨《にら》まれたら、歌舞伎町で仕事がしにくくなりますからね。それが、加倉井刑事が事故で死んだんで、やっと、話がきけるようになったんですよ」 「載っている話は、全て、事実ですか?」  と、十津川は、きいた。  編集長の森口は、ニッコリして、 「自信はありますよ。ちゃんと、テープも録《と》ってあります」 「聞かせて貰えませんか」 「ちょっと、それはできません。他の人間、特に、警察には、聞かせないという条件で、話して貰っていますのでね。裁判になったら、テープは提供します」  と、森口は、いった。 「彼が、職権で脅して、クラブのホステスや、ファッションマッサージの女の子をレイプしていたというのは、信じられないんですがね」  と、十津川は、いった。 「わかりますよ、その気持ちはね。われわれだって、半信半疑で、取材して廻《まわ》ったんです。ところが、出てくる、出てくる。私もやられたという女が、何人も出て来たんですよ。ひどい話では、身体も、お金も奪われたというホステスもいましてね。これは、中国人のホステスです。ちょっとした国際問題じゃないですか。こりゃあ書かなきゃならないと、義務感に似たものを感じましてね」  と、森口は、力を籠《こ》めて、いった。 「参ったな」  と、十津川は,呟《つぶや》いた。が、まだ、半信半疑だった。  加倉井が、一風変わった男だということは、知っていた。だが、ここまでやる男だろうか。  とにかく、被害者に会ってみたいと、思った。  まず、ホストクラブ「LOVE」の新人ホストのA君という青年である。  本名は、青木誠で、十津川がクラブに行ってみると、彼は忙しく働いていた。  新人のホストというのは、指名がないので、ビールやシャンパンを運んだり、煙草を買いに走らされたりするものらしい。  店長の了解を貰って、十津川は、彼を、店の外に連れ出した。  身長一八〇センチ近い、痩《や》せた青年だった。 「『週刊タウン』の記事を読みましたよ」  と、十津川がいうと、青木は、一瞬、怯《おび》えたような表情になって、 「もう、思い出したくないんですよ」 「わかりますよ。このクラブで、人気のあるホストは、いくらぐらいの収入があるものなんですか?」  十津川は、丁寧な口調で、きいた。相手を怖がらせてはいけないと、思ったからである。 「百万から二百万。もっと多いかも知れません」  と、青木は、いう。 「それなら、加倉井刑事は、なぜ、その人気ホストをゆすらなかったんだろう? 君みたいな新人を脅しても、たいした金は巻きあげられないんじゃないかな?」  十津川がいうと、青木は、ちょっと考えてから、 「それは、僕たちみたいな新人の方が、脅しやすいからだと思います。人気ホストだと、店も大事にしていて、脅かされたりしたら弁護士に頼んで、逆に、相手を告訴します。その点、僕みたいな新人は、そんなに守ってくれませんから」  と、いった。 「君の他に、加倉井刑事にゆすられていたホストは、いるんですか?」 「僕と一緒に、店に入った橋本クンも、僕と同じように、加倉井刑事からゆすられていたと思います」 「彼は、今日、店に来ていますか?」 「いえ。もう、辞めてしまっています。脅かされるのに、嫌気がさしたんだと思います」 「辞めて、今、どうしているんだろう?」 「故郷へ帰ったと聞いています。名古屋だったと思います」  と、青木は、いった。  次に、十津川は、同じ歌舞伎町のスナック「舞」に行き、ママの平井みゆきに会った。  小柄で、男好きのする感じの女だった。 「何も話したくありません」  と、平井みゆきは、いきなり、十津川に向かって、いった。 「わかりますが、どうしても話して頂きたいのですよ。警察としても、ショックを受けていましてね。真相を知りたいと、思っているのです」  と、十津川は、いった。  みゆきは、眉《まゆ》をひそめて、 「警察は、どうせ、真相なんか、知りたくないんでしょう? そうに決まってるわ」 「そんなことはありません。加倉井刑事が本当に悪徳警官なら、正式に、謝罪するつもりでいるのです」 「じゃあ、謝って下さいな」  みゆきが、十津川を睨んだ。 「そのためには、いろいろと伺いたいことがあるんですよ。加倉井刑事が、あなたの前に現われた最初は、いつ頃だったのか。その時からあなたをゆすったのか。そうでないとすると、何がきっかけで、脅迫を始めたのか。そうした詳しいことを、聞かせて貰いたいのですよ」  十津川は、辛抱強く、きいた。 「いつからだって、そんなこと、いいでしょう? とにかく、私は、ずっと、あの刑事につきまとわれて、脅かされてきたんです。私だけじゃないわ。私と同じ目にあった女を、何人も知ってます」 「なぜ、彼を訴えなかったんですか?」  十津川が、きくと、みゆきは、ますます険しい表情になっていった。 「誰に、訴えたらいいんですか? 警察にですか? 警察は、みんな彼の味方じゃありませんか」 「弁護士でもいい」 「この辺の弁護士だって、悪徳弁護士ばかりよ」  と、みゆきは、いった。      7 「具体的な話が欲しいんですよ。ただ、脅されていたというだけでは、私としては、判断のしようがありませんのでね」  十津川は、みゆきに、いった。 「詳しい話をしたら、何かしてくれるんですか? 何か弁護してくれるんですか?」  と、みゆきは、切り口上で、いった。 「もし事実なら、警視庁として、正式に謝罪します」 「それだけ?」 「それだけ——?」 「あなたも、今、いったじゃないの。具体的な話を聞きたいって。私も、具体的な謝罪がほしいわ」 「つまり、金銭ですか?」 「他にどんな謝罪の方法があるの? 私の知り合いで、彼に、お金を脅し取られたのもいるのよ。彼女にとって、警視総監に頭を下げて貰《もら》ったって、何の足しにもならないじゃないの。脅し取られたお金を返して貰いたい筈《はず》だわ」 「あなたも、加倉井刑事に、お金を脅し取られたんですか?」  と、十津川は、聞いた。 「私は、額が少なかったけど」 「なぜ、加倉井刑事は、そんなに、お金が欲しかったんですかね?」 「お金が好きなのよ。何かあると、お金を要求してたから」 「しかし、彼の部屋を調べたが、お金は、ありませんでしたよ」  十津川は、嘘をついた。  だが、みゆきは、表情を動かさず、 「じゃあ、競馬で、すってたんじゃないの。バクチが好きで、飲むと、おれは国に奉仕してるんだっていってたから」 「加倉井刑事に、特定の女性は、いませんでしたかね? 惚《ほ》れていた女が——」  十津川は、加倉井の持っていたダイヤの輝きを思い出しながら、きいた。 「さあ、どうかな。彼は歌舞伎町で働く女は、みんな自分の女だと思ってたんじゃないの。歌舞伎町は、おれのハーレムだって、いってたから」 「おれのハーレム——ね」 「刑事だから、ご機嫌をとってただけなのにね」 「彼が死んだ時、どう思いました?」 「正直にいっていい?」 「どうぞ。正直な感想を聞きたいんですよ」 「ザマアミロと思ったわ。祝杯をあげた人たちが何人もいたんじゃないの。彼にゆすられた女の子なんか、ほっとしたと思うわ」 「ずっと、ゆすられ続けていたということですか?」 「毎月いくらって、まるで、外廻《そとまわ》りが集金するみたいに取られたっていうクラブの女性を知ってるわ」 「どんなことで、ゆすられたんだろう?」 「こういうところで働く女って、何か一つくらい傷を持ってるのよ。だから、刑事がゆすろうと思ったら、いくらでもできるでしょうよ」 「どうしても信じられないんですがねえ」  十津川は、溜息《ためいき》まじりに、いった。一匹狼で、扱いにくい刑事だったことは、知っている。そういう男は、何処《どこ》の部署でも、必ず一人はいるものである。  ただ、そういう刑事は、偏屈だが、潔癖なことが多いのだ。 「ここは、確か、K組のシマでしたね?」  十津川は、話を変えた。 「そうだけど——」 「K組と加倉井刑事の関係は、どうなんだろう? うまくいっていたんだろうか?」 「わかんないけど、裏で、手を組んでたんじゃないの」 「証拠は、あるのか?」 「写真があるわ」  と、みゆきはいい、二枚の写真を、十津川に見せた。  一枚は、ゴルフ場で、四人の男が、並んでいる写真。もう一枚は、宴会の写真だった。ゴルフ場の四人の、右から二人目は、間違いなく、加倉井刑事だった。  他の三人の中に、十津川の知っている顔もあった。  加倉井の隣の小太りの男は、K組の組長、工藤信次である。  他の二人は、多分、K組の幹部だろう。  もう一枚の、宴会の写真にも、加倉井刑事と工藤の顔が、写っていた。 「この写真を、どうして、持っているんですか?」  と、十津川は、みゆきに、きいた。 「うちのお客のカメラマンが、くれたのよ。隠し撮りしたんですって」  と、みゆきは、いう。 「カメラマンなら、スクープ写真だろう? なぜ、君に、くれたんだろう?」 「どこの週刊誌でも、怖がって買ってくれないって、ぼやいていたわ」 「おかしいな。誰を怖がっていたんだろう?」 「それで、私にくれたのよ。でも、死ぬ少し前に、どこかの週刊誌に売れたって喜んでいたけど」 「死ぬ少し前って、そのカメラマンは死んだんですか?」 「ええ。酔っ払ってケンカをして。だから結局、この写真は、どこにも載らなかったのよ」  と、みゆきは、いった。 「そのカメラマンの名前を教えてくれないか」 「足立さん。フリーのカメラマンだったわ。よく、うちに、飲みに来てくれていたんだけど」 「死んだのは、いつですか?」 「三月一日だったと思う」 「約二カ月前か。場所は?」 「この近くの路地でね。この写真が、週刊誌に売れたんで、一人で乾杯したんじゃないのかしら。これから、そっちへ行くからって、酔った声で、連絡してきたんだけど、いつまでたっても来なかったの。そしたら、途中の路地で、刺されていたのよ」 「そういえば、そんなことがあったな。犯人は、まだ捕まっていなかったんだね。確か——」 「ええ。私は、加倉井刑事がやったんじゃないかと、思ってるの。ごめんなさい」  と、みゆきが、いう。  十津川は、苦笑して、 「正直にいってくれた方がいいんだ。彼が犯人だというのは、この写真に、彼が写っているからですね?」 「ええ。現職の刑事が、ヤクザの組長と一緒に、ゴルフをやったり、飲んだりしていては、まずいでしょう。だから、口封じに殺したんじゃないかと思ったんですけどね」 「組の人間ということも、考えられるんじゃないかな」 「それはないと思うわ。ヤクザは、この写真が発表されたって、何の痛手にもならないもの。むしろ、警察に対する脅しに使えるわ」  と、みゆきは、いった。 「この写真を貸してくれませんかね?」  と、十津川は、いった。 「焼き捨てようというのね?」 「いや、そんなことはしない。この写真が撮られたいきさつを、調べたいんですよ」 「だから、それは、カメラマンの隠し撮りだわ」 「いや、いい方が悪かった。加倉井刑事が、K組の組長と、ゴルフをやったり、宴会に出るようになったいきさつなんだ」  と、十津川は、いい直した。 「それは、金よ。買収されたのよ。こんな風に、ヤクザと警察がつながっていたら、私たちがヤクザに脅されたとき、警察に助けてくれっていえないわ」 「確かに、その通りです」 「変に、素直なんですね。気味が悪いわ」 「とにかく、調べてみないとと思っているんです」 「じゃあ、コピーしてあげるわ。シロクロになってしまうけど」 「それで、構いませんよ」  と、十津川は、いった。  みゆきは、近くのコンビニへ行って、二枚の写真を、コピーして来てくれた。 「あなたは、その写真を、あまり他人《ひと》に見せない方がいいですよ」  十津川は忠告し、コピーを貰《もら》って、その店を出た。  今夜も、歌舞伎町は、ネオンが輝き、人があふれている。 「歌舞伎町は、おれのハーレムだ」  と、加倉井刑事は、いったという。本当に、そんなことを、いったのだろうか。  外に出たところで、十津川は、携帯電話で、小早川に連絡した。  向こうの指定する、歌舞伎署の七階にある署長室で会った。窓から、歌舞伎町のほとんどが、見渡すことができる。 「ここで、見下ろすのが、好きでね」  と、小早川は、いった。 「わかるよ」 「まだ、君は、加倉井刑事のことを調べてるのか? 彼は、私の部下だったんだから、委《まか》せておけばいいのに」  と、小早川は、いった。 「どうも気になってね。実は、今日は、こんな写真を手に入れた。コピーだが、顔ははっきりわかると、思ってね」  十津川は、コーヒーが運ばれてきたあとで、二枚の写真を、小早川に、見せた。 「誰が、この写真を持ってたんだ?」  と、小早川が、きく。 「それはいえないな。秘密を守るという約束で、コピーを貰ったんだから。そこに、加倉井刑事と、一緒に写っているのは、K組の組長の工藤だろう?」 「ああ、そうだ」 「加倉井刑事が、K組の工藤組長と親しかったことを、君は知っていたのか?」 「ああ、知っていた。だから、彼に忠告していたんだ。まずいことになるぞってね」 「それに対して、加倉井刑事は何といっていたんだ?」 「こういう時、いうことは誰も同じさ。必要があって、工藤とつき合っているんだと、いっていた」 「必要があるから——ね」 「暴力団の情報を取るためには、K組の幹部たちとも、つき合っておく必要があるというわけだよ。だから、私は、いったんだ。そういう接触の方法は、もう時代錯誤で、いたずらに誤解を招くだけだから、やめなさいといったんだよ」  と、小早川は、小さく、溜息《ためいき》をついた。 「それで、加倉井刑事は、つき合いをやめるといったのか?」 「私には、申し訳なかった。今後一切つき合いませんと、約束したが、実際にはずっと、つき合いは続けていたらしい」 「なぜ、彼は、ヤクザの組長なんかと、つき合っていたんだろう?」 「そりゃあ、楽しいからだろう。向こうは、金を払ってくれるし、現職の刑事なら、大事にしてくれるからな」 「この写真を撮った足立というフリーのカメラマンだが、三月一日の夜、この歌舞伎町で殺されているんだ」 「ああ。その事件なら、はっきり覚えているよ。まだ、犯人が捕まっていないからね」 「見当はあるのか?」 「二十代のサラリーマンらしいということは、わかってるんだ」 「目撃者がいるのか」 「三月一日の夜、『夜明けの匂い』というバーで、ケンカがあった。フリーのカメラマンの足立浩と、二十代のサラリーマン風の男とだ。ママの証言によると、その店に、さゆりという二十歳のホステスがいてね。サラリーマンが、その娘を抱きしめたり、キスしようとしたらしい。それを、足立が叱りつけたんだな。それでケンカになり、サラリーマンは、足立に殴られた。いったんサラリーマンは逃げ出したんだが、ナイフを用意して、外で待ち受けていて、刺殺したんじゃないかと、みている」 「その男は、まだ、見つかっていないということか」 「何しろ、ママの話では、初めて来た客で、名前もわからないんでね。サラリーマンというのも、ママの勘なんだ」  と、小早川は、いった。 「それじゃあ、難しいな」 「そいつは、二度と歌舞伎町に現われないだろうからね。一度、モンタージュも作ったんだが、それらしい男は、それから歌舞伎町に現われていない」 「偶然のケンカの果ての殺人か」 「君は、この写真が原因で、殺されたと思ったんだろう?」 「まあ、そうなんだが」 「われわれだって、その線も調べたよ。だが、よく考えてみると、この写真が公けになって、警察全体が批判されるだろうが、本当に困るのは、加倉井本人なんだ。まず、警察は辞めざるを得ないだろうからね」 「K組の方は困らないか?」 「困らないだろう。ただ、加倉井刑事が、困ったことになったと、K組に泣きついたとしたら、K組でも、写真が公けにならないようにしたと思うがね。加倉井刑事は泣きつくような男じゃないよ」 「私も、そう思うね」 「だから、一度、この線は調べたんだが、犯人はこの線にはいないと思っているんだ。あくまでも当夜、ケンカをした男が、犯人と考えている」 「なるほどね」 「何回もいうが、私としては、もう、加倉井刑事のことは忘れたいんだよ。不愉快になるだけだからね。うちの署員は、全員、同じ気持ちだと思っている」 「しかし、こういう写真が出てくると、そうもいっていられないだろう?」  と、十津川は、小早川の顔を見た。 「正直にいって、びくびくしているよ。彼のことで、また、何かまずいことが見つかって、私が署長として、マスコミに頭を下げなきゃならないんじゃないかと思ってね」  と、小早川は、いった。 「彼のことで、何か、いい話はないのか? 心温まるような話が」 「あればいいんだがね。今のところは、悪いニュースばかりでね」  と、小早川は、また、溜息をついた。  十津川は、ふと、サチコの話を思い出した。サチコだけは、加倉井刑事のことを、良くいっていた。あれは、サチコが、加倉井に惚《ほ》れていたせいなのだろうか? 「君に忠告していいか?」  と、小早川が、いった。 「もう、加倉井刑事のことを、調べるのは、やめろという話なら、もう、何回も聞いたよ」 「私がいいたいのは、君が傷つくだけだからということなんだ」 「それも、もう、聞いてるよ」  と、十津川は、いってから、 「私は、アマノジャクだから、悪い話ばかり聞かされると、逆に、考えてしまうんだ」      8 (少し異常だな)  と、十津川は、思った。  評判が悪い刑事がいたとしても、別に不思議はない。  刑事だからといって、全員が聖人君子とは限らない。箸《はし》にも棒にもかからない人間は、どの世界にもいるものだ。  賄賂《わいろ》を平気でとる政治家、万引きをする教師、恐喝で捕まる刑事。そんな者は、昔からいたのだ。  刑事に限っていえば、職権を利用して、ゆすりや、たかりをする刑事は、それこそ、江戸時代の与力《よりき》の頃から、いたわけである。  それは、日本一の盛り場といわれる歌舞伎町なら、誘惑も、さぞ多いことだろう。加倉井刑事が、その誘惑に負けたということだって、十分に考えられるのだ。  被害者が出ても、不思議はない。  だが、その数が多すぎる。  これでは、加倉井は、毎日、ゆすり、たかりを、やっていたみたいではないか。  歌舞伎町を歩き廻《まわ》って、四六時中、ゆすりを続けているようではないか。刑事の仕事だってしているだろうに。  その疑問を、十津川は、小早川にぶつけてみた。 「その疑問はもっともなんだ」  と、小早川も、肯《うなず》いた。 「私だって、苦情の多さに、首を傾げているよ。この際、何もかも、死んだ加倉井刑事のせいにしてしまおうと考えている奴がいるんじゃないかと思った。私は、署長になってから、歌舞伎町全体の環境浄化を徹底的にやっているからね。それを面白く思っていない連中、特に、暴力バーの経営者なんかは、警察だって、悪いことをやってるじゃないかといって、加倉井刑事の悪口をいっていることは、十分に考えられるからね」 「加倉井刑事を、自分たちの免罪符にしようというわけか?」 「その通りでね。事実、そういう店もあったんだ。癪《しやく》に触ったから、徹底的に、叩《たた》き潰《つぶ》してやった。その時は、溜飲《りゆういん》が下がったがね。多くの苦情は、事実だったんだよ。そうなると、いくら僕だって、かばい切れない。謝るより仕方がないんだ。口惜しいがね」  小早川は、唇をかんだ。  その時、部下の刑事が、署長室に顔を出して、 「今、派出所に、サラリーマンが二人、殴られたといって来たそうです。バー『さくら』で、料金に文句をいったら、殴られ、財布を奪われて、放り出されたといったそうです」  と、知らせた。  小早川は、険しい表情になって、 「いわくつきの店だろう?」 「そうです。K組と関係があるといわれている店です」 「わかった。今度は徹底的にやってやる。二度と店を出せないようにしてくれ。私の環境浄化に反対する奴は、許しておけん」  小早川が、激しい口調で、いった。 「勇ましいな」  と、十津川が、からかうと、小早川はニヤッと笑って、 「小さな暴力でも、見過ごすと、向こうは警察を甘く見るようになるんだよ。こっちが、強く出れば、向こうも自粛する。ゲームみたいなものでね。その代わり、警察に協力する店は、こちらも、大事にする。僕はね、この歌舞伎町を、日本一楽しくて、日本一安全な町にしたいんだ」 「だから、厳しくやるか」 「加倉井のおかげで、警察の威信が下がったあとだから、尚更《なおさら》だよ」  と、小早川は、いった。  十津川が、署長室を出たのは、夜の十一時近かった。  歌舞伎町をぶらぶら歩いていると、急に、背の高い女が近づいて来て、肩を並べた。 「今晩は」  と、小声で、いった。  サチコだった。 「君か」 「今、警察から出て来たでしょう?」 「私も、警察官だよ。当たり前じゃないか」 「誰に会って来たの?」 「あそこの署長と友だちでね」 「ふーん」  と、サチコが、鼻を鳴らした。 「そうだ。君に、聞きたいことがあるんだ。どこかで話したいんだが」  十津川が、いうと、サチコは、 「あたしの知ってる店があるから、そこへ行きましょう」  と、彼の腕をつかんだ。  サチコが連れて行ったのは九階建ての雑居ビルの最上階にある小さなバーだった。  その窓際に腰を下ろすと、 「ここから、夜の歌舞伎町を見るのが、一番好き」  と、サチコは、いった。  なるほど、色とりどりのネオンが輝く、夜の歌舞伎町は、やたらに華やかで美しい。 「彼と一緒に、ここで飲んだことがあるのか?」 「彼って?」 「加倉井刑事だよ。君だけは彼のファンだったみたいだからだ」 「ああ。彼のこと。何回か来たことがあるわよ」  と、サチコはいい、運ばれて来たビールで、 「乾杯」  と、いった。 「ビールが好きなのか」 「加倉井さんが、好きだったの。彼は、ビールしか飲まなかったから」  と、サチコは、いう。  十津川も、ビールを口に運んでから、 「君は、いつだったか『見ていてごらんなさい。マスコミが、加倉井刑事のバッシングを始めるから』といったねえ」 「その通りになったでしょう」 「どうして、知ってたんだ?」 「じっと、見ていれば、わかるわよ」  サチコは、怒ったように、いった。 「加倉井刑事の評判が、あまりにも悪かったからか?」 「名前、何ていうんだっけ?」 「十津川だ」 「十津川さんは、それを調べて廻ってるんでしょう?」 「ああ。真偽を確かめたくてね。私としては、嘘であってほしかったが、全て本当だった」 「ふーん」  と、また、サチコは、鼻を鳴らした。 「何だ? それは」 「鼻を鳴らすのは、あたしのクセ。バカらしくなると、自然にそうなるの」 「私の話は、バカらしいか?」 「ねえ。もう一度、あたしが予言してみようか」  と、サチコは、いった。 「どんなことだ?」 「これから、この歌舞伎町は、きれいな町になるわよ。子供も安心して遊びに来るようになる。日本一の健康安全都市かしらねえ」 「いいことじゃないか」 「その代わり、面白みの全くない町になるわよ。砂漠みたいにね」 「砂漠?」 「そう。砂漠ってきれいじゃない? 子供がいくらはね廻ったって、絶対にケガなんかしない。でも誰も砂漠で生活したいって思わないわよ」 「たとえ話じゃなくて、具体的に話してくれないかね」  と、十津川は、いった。 「たとえ話の方がいいの」 「どうして?」 「戦争中、みんな、具体的な話をするのが怖くて、たとえ話をしてたって聞いたことがあるわ」 「つまり、君も、具体的な話をするのが怖いということかね?」  十津川がきくと、サチコは急に笑って、 「さあ、どうかしらねえ」 「君は、今、何処《どこ》で、何をしてるんだ?」 「ここのクラブで、働いてるわよ」 「ニューハーフの店か?」 「他に、わたしが働いて稼げるところがある?」 「何という店だ?」 「『ラブ・ラブ』」 「『ラブ・ラブ』ねえ」  と、十津川が、肯いた時、彼の携帯電話が鳴った。      9 「新宿歌舞伎町で、殺人事件発生です」  亀井《かめい》刑事の声が、飛び込んできた。 「今、私は、その歌舞伎町にいるんだ」 「それでは、歌舞伎署に行って下さい。そこに捜査本部が設けられる筈《はず》です。私も、すぐ、行きます」 「わかった」  十津川は、電話を切ると、サチコに、 「殺人事件が起きた」 「聞こえたわ。活気があっていいじゃない」 「活気か」 「人殺しもあるし、泥棒もいるし、男と女がいて、ぐちゃぐちゃしている町が、あたしは好きなの」 「君みたいなニューハーフもいるか」 「そうよ。誰もが、楽しんで生きていく町がいいわ。砂漠は嫌い」  と、サチコは、妙に実感の籠《こ》もった声で、いった。  十津川は、雑居ビルを出て、歌舞伎署まで歩いて行った。  署内の空気は、さっきとは一変していた。  小早川が、十津川を迎えて、 「君が、この事件を担当するらしいな」 「そうなるらしい」 「殺されたのは、MKビルのオーナーの小柴《こしば》卓郎という四十五歳の男だ」 「MKビル? 何処かで聞いたような名前だな」 「『LOVE』というホストクラブが入っているビルだよ」 「ああ。その店に行ったからだ。あの店の入っていたビルだな」  と、十津川は、肯いた。  亀井刑事や西本刑事たちも、駆けつけてきた。  十津川は、初動捜査に当たった歌舞伎署の吉田刑事から、話を聞くことにした。 「午後十一時二十分頃、MKビルの地下駐車場の車の中で、オーナーの小柴卓郎が殺されているのが発見されたわけです。発見者は、同じ駐車場に車を入れていた『LOVE』のホストです。小柴は後頭部を殴られ、背中を刺されて、死んでいました」 「目撃者は?」 「今のところ、いません。小柴はひとりで、ベンツSLを運転しているんですが、この時も、その車に乗り込もうとした時、背後から殴られ、車の中に倒れ込んだところを背後から刺されたものと思われます」  と、吉田刑事は、いった。  死体は、司法解剖のため、東大病院に運ばれていった。  十津川は、部下の刑事たちに聞き込みを開始させた。  小柴卓郎の資料が集まってくる。  小柴卓郎。四十五歳。  東北の農家に生まれ、高校卒業後、上京。さまざまな仕事についたあと、金を貯め、四十二歳で、MKビルのオーナーになる。  住所は国立《くにたち》にあり、毎日、愛車のベンツでMKビルに通っていた。  ビルのオーナーになった四十二歳の時、クラブのママと結婚。まだ、子供はいない。 「小柴の評判は、あまり良くありませんね」  と、西本が、十津川に、報告した。 「どんな風に良くないんだ?」 「まず、ケチで有名です。社員に厳しい。バブルがはじけてからは、特に厳しかったようです。お前たちはおれのおかげで、この不景気の時に月給を貰《もら》えるんだというのが口癖で、気に入らない社員がいると、さっさとクビにしていたようです」 「なるほどね」 「もちろん、組合なんかありませんから、みんな泣き寝入りで、社員はオーナーの顔色を見て、いつも戦々恐々としていたようです」 「なるほどね」 「女にも手が早くて、今も二人、囲っている若い女がいるといわれています」  と、西本は、いった。 「他に、彼が恨みを買っているようなことはないのか?」  亀井が、西本とコンビを組む日下《くさか》刑事に、きいた。 「桜井という建設会社の社長がいたんですが、この会社がMKビルの改造を引き受けて、二年前、三千万で、大改造をやったんですが、小柴は、あれこれ難癖をつけて、半額の千五百万しか払わなかったんです。そのため、小さな建設会社は、倒産してしまい、社長の桜井は自殺してしまいました」  と、日下は、いった。 「それで?」 「息子の桜井功は、現在、二十五歳ですが、いつか小柴を殺してやると、父の葬儀の席で叫んでいたそうです」 「その桜井功は、今、何処にいるんだ?」 「行方不明ですが、何とかして捜し出すつもりです」 「見つけてくれ」  と、十津川は、いった。  小柴は、女にも、恨まれていたと、三田村と北条早苗の二人が、報告した。 「彼は、女を作ると、彼女に店をやらせているんですが、絶対に名義を女のものにしないんだそうです」  と、北条早苗がいった。 「いつでも、追い出せるようにか?」  十津川がきく。 「そうです。今までに、何人もの女と関係し、それぞれ店を委《まか》せるんですが、新しい女ができると、容赦なく、店から叩《たた》き出して、新しい女をママにすえるんだそうです」 「追い出された女は、当然、小柴を恨むというわけだな」 「そうです」 「今まで、小柴がよく生きて来られたなという感じだが」 「とうとう、今回、殺されてしまったというわけです」  と、三田村が、いった。  やたらに、容疑者がいる事件になりそうだった。  だが、署長の小早川は、十津川に向かって、 「これは、すぐ、解決するよ」  と、予言して見せた。      10  小早川の予言は、十二時間後に、的中した。  捜査本部に、 「Oビルの地下に、容疑者が潜伏しています」  という電話が、飛び込んできた。  十津川は、亀井たちと、すぐ、Oビルに駆けつけたが、着いてみると、すでに、歌舞伎署の二人の刑事が、若い男に、手錠をかけて、地下室から出てくるところだった。 「犯人の桜井功です」  と、大木刑事が、十津川に向かって、得意げにいった。 「自白したのか?」  十津川が、きく。 「ええ。きちんと、自供したので、逮捕しました」 「何処《どこ》に隠れてたんだ?」  亀井が、きく。 「地下のバー『プチモンド』です」 「そこは、調べたが、誰もいなかったぞ」 「隠し部屋があるのは、ご存じなかったでしょう。時々、そこで、花札|賭博《とばく》をやっていたんです。その部屋で、こいつは、息をひそめていたんですよ」  と、大木は、いった。  署まで連行し、十津川と亀井が、桜井を訊問《じんもん》した。 「小柴卓郎殺しを、認めるんだな?」  と、十津川が、きいた。 「ああ、認めるよ。自殺したおやじの仇《かたき》を討ったんだ」  桜井は、胸を張るようにして、いった。 「どうやって、小柴卓郎を、殺したんだ?」  亀井が、きく。 「ナイフを、二丁目の金物店で買って、チャンスを狙った。あの日、MKビルの地下駐車場に、あいつの車が駐《とま》っていたので、奴が来るまで、じっと待ってた。夜の十一時すぎになって、奴が一人で車の傍にやって来たので、背後《うしろ》から、殴ったんだ。そしたら車の運転席に倒れ込んだ。それで、背中を刺してやった」 「そのナイフは、どうしたんだ?」 「映画館の横のドブに捨てたよ」 「バー『プチモンド』とはどんな関係なんだ?」  と、十津川は、きいた。 「ママに迷惑がかかるから、何もいえない」 「いや、彼女の行為は不問にするから、正直にいってみたまえ」 「本当に、ママに、何もしないか?」 「ああ、約束する」 「あそこのママは、おれと同じように、小柴の奴にひどい目にあってるんだ。だから、おれをかくまってくれた」 「なるほどね。そういうことか」  十津川は、苦笑した。  凶器のナイフは、自供どおり、映画館横のドブから発見された。  事件は、解決してしまったのだ。  十津川は、小早川に向かって、正直に、 「負けたよ」 「地の利というやつさ」  と、小早川は、笑った。 「あのバーのことは、知っていたのか? ママが、小柴卓郎に、ひどい目にあっていたことや、隠し部屋があることをだ」  十津川は、きいてみた。 「まあ、僕は、この歌舞伎署の署長だからね」  と、小早川が、また、笑った。 (なぜ、そのことを、話してくれなかったんだ?)  と、思った。が、それは、口には出さなかった。  所詮《しよせん》は、負け惜しみでしかないと、思ったからである。  それに、警視庁全体で考えれば、早く事件が解決したのは、いいことなのだ。 「しかし、癪《しやく》ですね」  と、亀井は、桜田門に戻ってからも、十津川にいった。 「癪にさわっても、仕方がないさ。小早川のいう通り、地の利は向こうにあるんだ」 「それは、そうなんですが」  亀井は、まだ、いっていた。  歌舞伎町は、人の出入りが激しく、利権が動く。  それだけに、次の日の夜には、また、殺人事件が発生した。  今度は、韓国クラブのママが殺され、金庫にあった三百万円余りが、奪われたのである。  捜査一課から、芝田警部が、部下の刑事と共に、この事件の捜査に当たることになった。  歌舞伎署に捜査本部が置かれたが、翌日には事件が解決してしまった。  犯人を逮捕したのは、またも、歌舞伎署の刑事たちだった。  柳修二という二十三歳の大学生だった。  柳は、このクラブの韓国人ママ(三十歳)に、一度、秩父《ちちぶ》に連れて行って貰《もら》っただけで、惚《ほ》れてしまい、アルバイトをして金を貯めては、クラブに通っていた。  だが、その金が続かない。そこで、彼女のマンションに押しかけたが、手厳しくはねつけられてしまった。  そこで、事件の夜、クラブの前で、夜、ママが出てくるのを待ちかまえて、無言で刺し殺して、逃げたのである。  しかし、どうなったかを見たくて、歌舞伎町に舞い戻ったところを、歌舞伎署の吉田刑事たちに、逮捕されてしまったのである。  芝田警部は、桜田門に戻ってくると、十津川に向かって、 「やられたよ」 「仕方がないさ。向こうは、地の利があるんだから」  十津川がいうと、芝田は苦笑して、 「小早川署長にも、そういって慰められたよ」 「あまり、語彙《ごい》は豊かじゃないな。私も、同じことをいわれたんだ」  と、十津川は、いった。  四日後、今度は、歌舞伎町のSMクラブで、共同経営者の一人が、誘拐されるという事件が、発生した。  十津川が、部下と急行した。  小さなホテルを買収して、SMクラブを始めたのは、青木浩三と、行方《なめかた》謙という四十代の二人の男だった。  ここには、社長室、事務室の他に、八畳の大きさの部屋が十六あり、女の子を十六人置いていた。  客は、事務室にまず行って、料金を払い、教えられた番号の部屋で待つ。そこへ、女の子が、それぞれ鞭《むち》や手錠や、バイブといった道具を持って行くという運びになる。  この商売が、SMの流行とマッチして、儲《もう》かった。  共同経営者の片方、青木浩三が、誘拐されたのである。  犯人は、社長室の行方謙に、電話をかけてきて、身代金として、二千万円を要求したという。  十津川は、社長室の電話に、テープレコーダーを接続して、次の電話を待った。  小早川署長も、社長室に、やって来た。  午後三時に、犯人から電話が入った。低い男の声である。  社長の行方が応対した。 「こちら、クラブ『チェーン』だ」 ——金はできたか? 「何とか作った。どうすれば青木を返してくれる?」 ——万札の番号を控えたりしてないな? 「そんなことはしていない」 ——よし。まず、二千万円をショルダーバッグに入れるんだ。白いバッグの中央に、インクで赤い線を入れておけ 「そのあと、どうすればいい?」 ——まず、今いったことを実行しろ。二十分後にまた電話する  電話が切れた。  行方は、男性従業員が、白いショルダーバッグを買って来るや、その中央に、赤インクで線を引き、二千万円の札束を入れて、閉めた。  正確に、二十分後に、電話がかかった。 ——作業は、終わったか? 「終わった。どうしたら青木が解放されるのか教えてくれないか」 ——歌舞伎町のC劇場を知ってるな? 「もちろん、知っている」 ——今、C劇場では、花井かおりの歌と芝居の公演をやっている 「それも知っている」 ——六時からの公演に行き、二列目の2—D席に座れ 「その席が空いてなかったらどうするんだ?」 ——大丈夫だ。おたくのビル一階の郵便受に入場券を入れておいた 「それで、あとはどうする?」 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ] ——その2—D席に着いたら公演が終了したあと座席の下に、二千万円の入ったショルダーバッグを置いて、劇場を出て行け。振り向いたり、警察に張り込ませたりしたら、青木浩三は、死ぬぞ [#ここで字下げ終わり] 「わかった」 ——では、午後六時を過ぎたら、指示通りに行動しろ  刑事の一人がエレベーターで一階におりて行き、郵便受から、C劇場の夜六時からの公演の入場券を持ってきた。  間違いなく、2—D席の入場券だった。  社長の行方が、その入場券と、二千万円入りの白いショルダーバッグを持って、出発した。  十津川たちも、ばらばらにC劇場の中に入って行った。  行方は、指示された、前から二列目の2—D席に腰を下ろした。  歌と踊りの二部構成だが、行方は、ほとんど見ていなかった。歌も聞こえなかったのではないか。  全部が終わったのが、午後九時だった。  行方は、二千万円入りの白いショルダーバッグを座席の下に置いて、立ち上がった。  そのまま、まっすぐに、ドアから出て行った。  十津川たちが、柱の陰から、じっと、2—D席のあたりを見すえた。  だが、なかなかそれを取りに現われない。  そのうちに、ホウキを持った男たちが、三人、現われた。  彼らは、入口の方から掃除していく。 「まずいぞ。これじゃあ、犯人は、現われない」  十津川がいったとき、前から二列目を掃除していた男が、ふいに座席の下から、白いショルダーバッグをつかみあげた。 (まずいことしやがって!)  十津川は、舌打ちした。  これで、もう、犯人は、現われないだろう。  その間にも、白いショルダーバッグを抱えた掃除係は、どんどん外に出ていこうとする。 「捕まえろ!」  と、十津川は怒鳴った。  西本たちが、柱の陰から飛び出して行き、劇場の外に出た男を捕まえた。  四十二、三歳の男だった。まだ、片手に、ホウキを持っている。 「何ですか!」  と、男が、怒鳴る。  その眼の前に、十津川は警察手帳を突きつけた。 「座席の下から、その白いショルダーバッグを見つけたね?」 「そうですが」 「それを、どうするつもりなんですか?」 「もちろん、警察に届けるつもりですよ。この向こうに、交番がありますからね」 「その中身が何か知っているか?」  と、亀井が、きいた。 「そんなこと知るわけがないだろう。今、初めて見つけたんだから」  と、男は、いう。  十津川は、彼の手から、バッグを取りあげた。  チャックを開けて中身を確認したとたんに、十津川は、 「やられた!」  と、大声をあげた。  中に入っていたのは、古い週刊誌が何冊かだった。  犯人が指示した通りの白いショルダーバッグで、中央に赤インクで線が描かれている。が、微妙に、違っている。  十津川と亀井は、劇場の中に飛び込んで行った。  もう、掃除の男たちの姿は消えていた。 「探せ!」  と、十津川は、怒鳴った。  刑事たちは、消えてしまった二人の掃除係の男を必死になって探す一方、捕まえた掃除係を、署まで連行した。  取調室に入れて、十津川と亀井が訊問《じんもん》した。 「仲間は、何処《どこ》にいる?」  と、十津川はきいた。 「何のことか、わからないな」 「君の名前は?」 「松本哲次だよ。年齢は四十一歳」 「このショルダーバッグで、われわれを、劇場の外に連れ出したな?」 「さっきもいったろう。座席の下に、ショルダーバッグが落ちていたんで、お客の忘れ物だと思って、近くの交番に届けようとしたんだ。それなのに、どうして、おれが、こんな目にあわなきゃならないんだ?」  松本は、口をとがらせた。 「もう一つ、同じ白のショルダーバッグがあったんじゃないのか?」  と、十津川は、きいた。 「これ一つしか、気がつかなかったよ」 「他の二人の掃除係の名前と、住所を、これに書け」  と、十津川は、メモ用紙とボールペンを相手の前に押しやった。 「そんなことは劇場の責任者に聞いてくれ。おれは知らないよ」 「しかし、毎日、顔を合わせているんだろう?」 「でも、名前も、住所も、知らないんだ。本当だよ」  と、松本は、いった。 [#改ページ]  第二章 誘拐事件      1  小早川は、部屋に入ってくると、黙って、一枚のメモを、十津川の前に置いた。  松本哲次(四十一歳)    三鷹市|上連雀《かみれんじやく》四丁目××番地    妻恵子(三十八歳)    血液型A  戸川勇(二十九歳)    練馬区東大泉六丁目メゾン大泉206号    独身    血液型A  春木朝正(三十八歳)    杉並区久我山二丁目コーポ久我山405号    一年前、妻ゆり子と離婚    血液型B 「何だい?」 「あの劇場の掃除係三人の名前と、住所だ」  と、小早川が、いった。 「手廻《てまわ》しがいいな」 「どうせ、要るだろうと思ったからね」 「これも、地の利か?」 「まあ、そんなところだ」  小早川は、笑った。 「他にも、この三人について、いろいろと、知ってるんじゃないのか?」  十津川が、きくと、小早川は、 「知っていれば、君に教えるよ。それは、うちの大木刑事が、C劇場へ行って、調べてきたんだ。もっと詳しいことを知りたければ、調べさせるよ」 「それは、われわれがやる」  と、十津川は、いった。  十津川は、小早川に渡されたメモを持って、翌日、C劇場を訪れた。  支配人に会って、この三人について、話を聞いた。 「三人とも、真面目で、いい奴ですよ。彼らの中に、悪いことをする人間がいるとは、とても思えませんね。どんな悪いことをしたというんですか?」  支配人が、きく。  十津川は、誘拐の話をするわけにはいかないので、 「実は、この劇場に忘れ物をしたという女性がいましてね。それが、白のショルダーバッグだというんです。真ん中に、赤い線の入った。それを探していたら、突然、松本さんが、白いショルダーバッグを持って、劇場の外へ走り出したんですよ」 「その話なら、松本から聞きました。白いショルダーバッグがあったので、傍の交番に届けようとしたんだと、いっていましたがね」  と、支配人は、いう。 「忘れ物なら、まず支配人に話せばいいんじゃないの?」  亀井が、じろりと、支配人を、睨《にら》んだ。 「私も、そういってやりましたよ。そうしたら、とにかく、一刻も早く、警察に届けなきゃあと、そればかり考えていたそうです。それも、よくわかるんです」 「何が、わかるんですか?」 「実は、去年の暮れに、座席の下に、手製の爆弾が、仕掛けられたことがありましてね。小さなバッグに入っていたんです。松本は、それを、警察に届ける前に、支配人室に持って来ましてね。私は、映画の最終回が終わってからでいいだろうと、そのまま、机の上に置いておいたら、ドカーンですワ。火薬が、少なかったので、怪我人も出ませんでしたが、あとで、ここの署長さんに、こっぴどく叱られましたよ。中に何が入っているかわからないんだから、不審な物を見つけたら、とにかく、すぐ、警察に届けろと。そんなことがあったんで、松本も、慌てて交番に届けに走ったんだと思いますよ」  支配人は、いっきに喋《しやべ》った。 「なるほどね」  と、十津川は、肯《うなず》いた。  理屈には、あっているのだ。 「一人ずつ、具体的に、話して下さい」  と、十津川は頼んだ。 「松本は、今、いったように、ちょっと、おっちょこちょいなところがあります。酒好きですが、酒に呑《の》まれることもなく、ちゃんと、働いてくれていますよ。夫婦仲もいいんじゃないかな」 「前科は、ありますか?」 「ありません」 「荒っぽいことをしそうな人間ですか?」 「言葉使いは荒っぽいけど、優しい男ですよ」 「戸川勇は、どうです?」 「N大を出ているんです。それで、うちで掃除係をやってる珍しい男です。何でも、小説を書いているといっていましたね」 「作家志望ですか?」 「この新宿歌舞伎町を舞台にした小説を、書いているんだそうです。その資料集めには、うちの掃除係が一番いいと、いっていましたね」 「三人目の春木朝正は、どんな男ですか?」 「彼、自衛隊にいたことがあるんです」 「ほう」 「この歌舞伎町は、何でもありですからね。自衛隊あがりのニューハーフだって、いますからね」 「それで、春木朝正は、どんな男なんです?」  と、十津川は、きいた。 「ちょっと、偏屈なところがありますね。強情なんです。ただ、納得すれば、きちんと、与えられた仕事をやってくれますから、使い方次第ですよ。私は、三人の中では、一番、彼を信用しているんです。気は利かないけど、悪いことだけは、絶対にしませんからね」 「この三人が、最近、金に困っていたということは、ありませんか? 具体的にいうと、少し、まとまった金を貸してくれないかと、相談されたことは、ありませんか?」  と、十津川は、きいた。 「松本には五万円ばかり貸してあります。他の二人には、一円も貸していません」  と、支配人はいう。      2 「どうも、ぴったり来ませんね」  劇場を出たところで、亀井が、いった。  いつの間にか、小雨が、降っていた。道路が、濡《ぬ》れて、赤、青のネオンが、それに映っている。  濡れても、冷たくはない。  二人は、並んで、小雨の中を、歩いて行った。  今、午後八時を廻ったところである。十津川たちと同じように、雨の中を歩いているのが、何人もいる。 「雨は、いいな」  と、十津川は、歩きながら、いった。 「歌舞伎町が、落ち着いて見えます」  亀井が、いったとき、前方で、怒号が起きた。  五、六人の男が、ケンカを始めたのだ。二人が、駆け出そうとしたとき、歌舞伎署の警官が四人、駆け寄って来て、ケンカをしている男たちを、分けた。  何とか、ケンカはおさまったが、三人ばかり、顔から血を流していた。  野次馬が集まって来ると、また、男たちはケンカを始めた。  警官は、一人ずつ取りおさえて、近くの派出所へ連れて行った。 「雨が降っても、ケンカは起きますね」  と、亀井が、苦笑した。  捜査本部に戻ると、小早川が、部下の大木刑事たちを集めていた。  その小早川が、十津川を見ると、 「何か、わかったか?」 「全然。あの三人は、どうやら、今日の誘拐事件に関係がないらしい」  十津川が、憮然《ぶぜん》とした顔でいうと、小早川は笑って、 「僕も、そう思っていたよ。あの三人は、小悪党が、せいぜいで、大の男を誘拐するような、大きなことができるタマじゃない」 「君は、どうするんだ? 部下の刑事たちを集めて、何か、訓示していたようだが」  と、今度は、十津川が、きいた。 「今日の事件について、全員で、聞き込みをやろうと思ってね。聞き込みについての注意を与えていた」 「捜査本部としての捜査方針に、従ってくれよ」  と、十津川は、釘《くぎ》を刺した。 「それは、心得ているよ。聞き込みで、わかったことは、全て報告する。うちは、あくまでも、捜査一課のために、その手足として動く。それは、よく、わかっている」  小早川は、胸を叩《たた》くようにして、いった。  彼らが、署を出て行ったあとで、亀井が、 「どうも、また連中に出し抜かれそうな気がして、仕方がありません」  と、十津川に、いった。 「そういえば、小早川は、何やら、自信ありげだったな」 「連中は、この町の隅から隅まで、よく知ってるんです。われわれは、ハンデ戦を戦っているようなものですよ」 「それは、仕方がないさ。まあ、今のところ、われわれに、協力する形で、動いているから、別に文句をいうことはないんだが——」 「だが、あまり愉快じゃありませんよ」  と、亀井は、正直ないい方をした。  一時間ほどして、小早川から、電話が、入った。 「すぐ、鬼主神社に来てくれ」 「鬼主神社?」 「正確には、神社の横にある『タンタン』という中華料理屋だ」 「その店と、事件と、どんな関係があるんだ?」  と、十津川は、きいた。 「来てくれれば、わかる。危険だから、拳銃《けんじゆう》を持って来てくれ。とにかく、早く来てくれよ」  小早川は、それだけいうと、電話を切ってしまった。 (わけのわからん電話をして来やがって)  と、思ったが、拳銃を携行して来いというのは、ただごとではなかった。  十津川は、亀井たち五人の刑事に、拳銃を持たせて、歌舞伎町の端にある鬼主神社に向かった。  現場に着くと、小早川が、寄って来て、 「向こうに見える『タンタン』という中華料理屋だよ」 「店は、閉まってるな」  十津川は、二階建ての建物に、眼をやった。 「ここ三日間、店を閉めている」 「あの店に、青木浩三が、監禁されているのか?」 「僕は、そう見ている」  と、小早川は、自信満々でいった。 「理由は、何なんだ?」 「あの店の店長の名前は、近藤伍郎という男なんだが、前は、S組の組員だった奴で、乱暴な男だ」 「それだけじゃあ、誘拐と関係があるかどうか、わからないだろう?」 「SM趣味があって、青木浩三のやっている『チェーン』に、よく遊びに行っていた」 「それで?」 「中華そばの店が、うまくいかないので、青木に、SM店を一緒にやらせろと、いった。青木が断ると、殴る蹴《け》るの乱暴で重傷を負わせたことがある」 「それは、事件にならなかったのか?」  と、十津川は、きいた。 「青木が、訴えなかったので、事件にならなかった。どうも、その後も、近藤は、青木に向かって、共同経営者にしろと、しつこく迫っていたらしいのだ」 「行方謙という共同経営者が、ちゃんといるじゃないか」  と、十津川がいうと、小早川は、笑って、 「近藤は、そんなことを、気にする奴じゃないよ。どうしても、共同経営者にしないんで、青木を誘拐したと、見ている」 「そして、身代金を、要求したか」 「その二千万円で、自分で、SMの店を始める気なんじゃないかね。共同経営者を断られたんで」 「本当に、あの店にいるのか?」  十津川は、半信半疑で、きいた。 「間違いなく、犯人の近藤と人質の青木がいる。多分、二階だ。ただ、近藤は、拳銃を持っていると思われるので、いきなり飛び込んだら、怪我人が出る。それで、君を呼んだんだ」  と、小早川は、いった。  一階は、閉まっていて、明かりはついていないが、二階には明かりがついていた。 「何とかして、犯人と人質がいるのを確認したいが」  と、十津川は、いった。 「十分前に女が一人、入って行った」 「女が?」 「近藤の女で、加山アキというホステスだ。近藤に頼まれたものを持っていったと、思っている」 「その女は、出て来ないのか?」 「まだ、出て来ていない」 「じゃあ、一人、余計に、人質がいるんじゃないか」 「そうだ。彼女が、出て来てから、突撃するか?」  と、小早川が、きく。 「すぐ、出て来そうか?」 「わからん、ひょっとすると、女は、泊まり込む気かも知れない」 「あの店の間取りは?」 「これだ。あの店を、近藤に貸した不動産屋で、聞いてきた」  と、小早川は、メモを渡した。  一階の店と、二階の住居の間取りが、描かれている。  一階は、二十畳ほどの店で、二階は、六畳二間に、バス、キッチンつきの住居になっていた。  十津川は、九時三十分まで待ったが、女は出て来なかった。  十津川は、決断を下すことにした。  人質の青木浩三と、ホステスの加山アキを助けて、犯人の近藤を逮捕するという難しい決断である。      3  十津川は、更に三十分間待ち、十時を突入のタイムリミットに決めた。  狙撃《そげき》班も、到着した。  正面の店は、刻々、刑事や機動隊員に、包囲されて行く。  指揮を委《まか》された十津川は、十時突入を、全員に知らせていた。  五分前。  十津川は、もう一度、マイクで店の中にいる近藤に、呼びかけた。 「君が人質と立て籠《こ》もっている店は、完全に包囲されている。逃げ道はない。われわれとしては、一人でも犠牲者を出したくないんだ。君も助けたい。だから、諦《あきら》めて、降伏したまえ。正面のドアを開け、両手をあげて、出て来るんだ」  強力な投光器が、店の正面入口を照らし出す。  その瞬間だった。  誰かが投光器のスイッチを切り、前方の店が、闇に包まれた。  激しい銃声が、聞こえた。  一発、二発。  そして、静寂。 「早く明かりをつけろ!」  と、十津川は、怒鳴った。  投光器に、再びスイッチが入り、強烈な光が、前方の店の入口に、照射された。  真昼のような明るさ。  その明るさの中で、店のドアが内側から蹴破られる感じで、開いた。  刑事が、二人、三人と、人質になっていた青木浩三と、ホステスの加山アキを、連れて出て来た。  刑事は、全部で四人。いずれも、歌舞伎署の若い刑事たちだった。  その中の一人が、頭上で、マルを作って見せた。 「終わったよ!」  と、もう一人の刑事が、こちらに向かって、叫んだ。  亀井たちが店に向かって、駆け出して行った。西本刑事と、日下刑事の二人が、店の中に飛び込んだが、すぐ、顔を出すと、十津川に向かって、 「近藤は、死んでいます!」 「射殺されています!」  と、叫んだ。  十津川は、無性に腹が立って、近くにいた小早川を睨《にら》みつけた。 「どういうことなんだ? 説明しろ!」 「何をだ? 事件が解決したから、いいじゃないか」  小早川は、けろりとした顔で、いう。 「十時突入と、決めていたんだ。どうして君の部下が、それを破って、勝手に突入してしまったんだ?」 「あの時間が、最適と見たからだろう。若い刑事が多いので、その点は、大目に見てくれ」 「駄目だね。問題にする」  と、十津川はいった。  そのあと、彼は、正面の店に向かって、歩いて行った。  解放された青木浩三と、加山アキは、取りあえず、救急車で、病院に運ばれることになった。  亀井が、十津川を迎えて、店の中に案内した。  一階のコンクリートの床に、近藤伍郎が、血まみれで、仰向けに、倒れていた。 「数発、撃たれています」  と、亀井が、いう。 「死んでるのか?」 「即死だったんじゃないかと思いますね。胸部に三発、それに、眉間《みけん》に一発です。他にも、腹部を撃たれています」  死体の近くに、トカレフが転がっていた。近藤が持っていたものだろう。 「近藤は、撃ってるのか?」 「一発も、撃っていないようです。歌舞伎署の刑事たちの一斉射撃を受けたと思われますからね」 「連中は、何処《どこ》から飛び込んだんだ?」 「屋根からのようです」 「屋根?」 「そうです。他に、考えようがありません」  と、亀井が、いう。  十津川は二階にあがって行った。  なるほど、天井の板が外されている。 「図面では、屋根から侵入できるようにはなってなかったがね」 「しかし、屋根に登り、二階の天井を伝って、侵入しているんです」  と、亀井は、いった。 「十時突入と決めたのに、その五分前に、連中だけで、解決しようとした。そうとしか、考えられない」  十津川は、前より一層、腹を立てていた。 「偶然じゃありませんか? 突入の時期は?」 「そんな筈《はず》はない。連中が屋根から入ったとしても、十時まで待ってから、行動を起こせばよかったんだ。そうすれば、近藤を死なせずに解決できたかも知れないんだ」      4  その日、おそく、捜査会議で、十津川は、歌舞伎署の刑事たちの行動を、激しく批判した。 「全体の指揮は、私が取っていました。十時突入は、全員で決めたことなのです。全体が、一致して行動しなければ、失敗します。今回、たまたま成功しましたが、それは偶然でしかありません。いや、成功したといえるかどうか。何しろ、犯人の近藤を死なせてしまい、事件の完全な解明が、難しくなってしまいましたからね。歌舞伎署の小早川署長と署員たちを、規律違反で告発します。また、われわれに配られた、ラーメン店の図面は、不完全なもので、屋根——天井を伝わって、侵入する方法があることは、わかりませんでした。その点は、捜査に対して、非協力ということで、これも、告発したいと、思います」 「小早川署長。君の弁明を聞こうか。弁明があればだが」  と、三上本部長は、小早川に眼を向けた。 「まず、第二の点から、弁明させて下さい。確かに、ラーメン店の図面は、不完全なものでしたが、それは、われわれも、同じだったのです。たまたま、署員の四人が、店の裏手に廻《まわ》って、初めて、屋根から入れることがわかったといっています。時間がないので、すぐ、屋根を登り、天井を破り、ラーメン店の二階に侵入しています」 「しかし、その場で、なぜ、十時の突入の時間を待たなかったのかね? 君だって、統制を破ることが、どんなに全体を危険に導くかということは、よく、わかっている筈だよ」 「わかっています」 「それなら、なぜ、五分前に勝手に行動を起こし、近藤を射殺したのかね?」  三上が、咎《とが》める。  しかし、小早川は、平然として、 「部下の四人は、若い刑事ですが、よく訓練されています。当然、十時突入は、知っていました。それで、ラーメン店の二階に入り、じっと、突入の時刻を待っていたんです。ところが、その時、近藤が、急に、怒り出し、人質の青木浩三を、殴りつけ、射殺しようとしたんです。十時まで待っていたら、青木は、殺されてしまう。そこで、四人の刑事は、決断せざるを得なかったのです。規律違反を承知で二階から、一階の店に駆けおり、近藤を射殺したのです。これは、人質だった青木浩三と、そこにいた加山アキを訊問《じんもん》して下されば、わかる筈です」  と、話した。  三上本部長は、意外そうな表情になって、 「その話は、間違いないんだな?」  と、念を押した。 「間違いありません。結果的に、私の部下が規律違反をしたことは、お詫《わ》びしますが、止むを得ぬ行動だったことを、わかって頂きたいと思います」 「十津川君、青木浩三と加山アキに話を聞いて、真相を究明したまえ」  と、三上は、いった。  十津川と亀井は、すぐ、二人が入院したR病院に、急行した。  二人とも、半信半疑だった。とにかく、小早川の話を、確認しなければならない。  青木は、頭に包帯を巻かれ、病室のベッドで休んでいた。  十津川と亀井は、病室で、彼から話を聞くことにした。 「小早川署長のいう通りです。あと一分、遅かったら、私は、近藤に殺されていましたね」  と、青木は、声をふるわせた。 「なぜ、急に、近藤は、怒り出して、あなたを殺すといったんですか?」  亀井が、きいた。 「もともと、奴は、すぐ怒り出す男ですが、あのマイクの声ですよ」 「マイクの?」 「そうです。店の周囲は、包囲している。すぐ、降伏しろという放送があったじゃありませんか」 「あれは、私が、やったものだ」 「あれで、近藤は、カッとしたんだと思います。放送を聞いているうちに、彼の顔が、険しくなって、刑事が来る前に、お前を殺してやると、私にいったんです。拳銃《けんじゆう》の台尻《だいじり》で、頭を殴られましたよ。その上、銃口を向けられて、奴が、カウントを始めたんです。二階から、刑事が突入して来なかったら、私は、間違いなく、殺されていましたよ」 「二階から、刑事が四人、飛び込んで来たんですね?」 「人数は、覚えていませんが、どどっと、おりて来ましたよ」 「それから、どうなったんですか?」 「近藤が、ぎょっとして、刑事たちの方を見ましたよ。そのあとは、また、私に銃口を向けたんです。私は、眼をつむりました。そしたら、奴が、既に、刑事たちに撃たれていたんです。あの刑事たちは、命の恩人ですよ」  と、青木は、いった。  ホステスの加山アキからも、話を聞いた。 「本当に、近藤が、青木さんを殺すと思ったわ」  と、彼女も、いった。 「君は、何をしに、あの店に行ったんだ?」  亀井がきいた。 「高飛びしたいから、着がえを持って来てくれと、いわれたんです。それで、持って行った」  アキは、ぶっきら棒に答える。 「君は、近藤とできていたのか?」 「まあ、そうね」  アキは、面倒くさそうに肯《うなず》く。 「どうして、近藤は、青木浩三を、突然、射殺するみたいなことを、いい出したんだろう?」  と、十津川は、きいた。 「そりゃあ、あの放送のせいだわ」  と、青木と、同じことを、いう。 「どうして?」 「近藤って男は、誰かに命令されるのが嫌いなのよ。おまけに、うまく身代金を手に入れられなくて、かっかとしてたわ。そんなところへ、命令調で、降伏しろなんて、いわれたものだから、かっとして、自棄《やけ》になっちゃったのよ。すごい見幕で、お前を殺してやるって、青木さんにいったわ。あたしまで、殺されるかと思った」  と、アキはいう。 「刑事が、二階にいたことは、知っていたのか?」 「いいえ」 「二階から、刑事が突入して行かなかったら、青木浩三は、近藤に、殺されていたと思うかね?」  十津川は、きいてみた。 「そりゃあ、間違いなく、殺してたと思うわ。近藤って男は、平気で人を殺す人間だもの」 「彼は、トカレフを持っていたね」 「何という名前か知らないけど、拳銃は、持ってたわ」 「撃ったことは、あるのかね?」 「よく、奥多摩なんかへ行って、撃ってたって、いってたわ」 「あれで、人を殺したことは?」 「さあ、そこまでは、知らない」  と、アキが、いう。 「われわれの負けだな」  十津川は、病院からの帰りに、亀井に、いった。 「そうですね。小早川署長と、歌舞伎署の四人の刑事は、正しいことをしたことになります」 「告発どころか、表彰ものだ」  十津川は、憮然《ぶぜん》とした表情になっていった。 「表彰されなくても、マスコミが、英雄に祭りあげるかも知れませんよ」  亀井も、面白くなさそうに、いう。 「それに反して、私の、犯人への呼びかけは、犯人に、殺意を抱かせてしまったことになるのか」 「いえ。警部は規則通りに正しいことをやったんです。突入前には、犯人に対して、もう一度、降伏するように呼びかけるのは、当然の行動だと思いますが」  亀井が、励ますように、いった。が、十津川は、肩を落として、 「こうした事件では、臨機応変の行動が要求されるんだ。私は、それができなかったことになる」  と、いった。  十津川は、三上本部長に、正直に報告した。三上は、満足した表情で、 「そうか。小早川君の行動は、止むを得ないことがわかったか。良かったよ」 「彼と、彼の部下は、正しい行動を取ったことになります」  と、十津川は、いった。  翌日になると、この話が、どこから漏れたのか、マスコミが押しかけてきた。  警視庁にも、やって来たし、歌舞伎署の方にも、殺到した。  十津川の予想通りだった。  マスコミは、若いエリート署長の行動を、賞讃する方向に動いていった。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈若き署長の英断が人命を救う!〉 〈人質の青木氏「あの署長と部下の刑事は、命の恩人です」と、涙ぐむ〉 [#ここで字下げ終わり]  そんな文章が、新聞に躍り、テレビが流した。  さらに、十津川の指揮は、「規則一点張りで、融通性がない」として、批判された。  十津川は、こうなるのを予想して、覚悟していたから、さほど、驚かなかった。  続いて、歌舞伎町の町民代表が、この地区の治安をよく守ってくれたといって、小早川に、感謝状を出した。  これには、十津川は、苦笑せざるを得なかった。  歌舞伎町は、治安の難しいエリアである。  そのために、警察は、新しく、歌舞伎署を設け、若いエリートの小早川を署長にしたのである。  それが、成功したらしい。 「おめでたいことなんでしょうが、どうも、釈然としませんね」  と、亀井がいった。      5  犯人の近藤は射殺され、人質の青木浩三は解放されたが、事件は、終わったわけではなかった。  肝心の身代金が、見つからないのだ。  ラーメン店に突入したあと、十津川たちは、一階の店内と、二階の住居等を、徹底的に探したが、見つからなかった。  二千万円の現金の入ったショルダーバッグは、何処《どこ》に消えてしまったのか?  白のショルダーバッグは、C劇場の座席の下に置いて、犯人が取りに来るのを監視していたのだが、消えてしまった。  十津川は、C劇場の三人の掃除係の誰かが、それと関係していると、睨《にら》んでいる。  まず、松本哲次だ。  彼が、いきなり、真ん中に赤い線の入った白のショルダーバッグをつかんで、劇場を飛び出したので、十津川は、てっきり、彼が、誘拐犯の一人だと見て、追いかけた。  だが、松本は、ダミーだった。  残る二人、戸川勇と、春木朝正のどちらかが、その隙に、二千万円入りのショルダーバッグを手につかんで、逃げたに違いない。  その男は、主犯の近藤の共犯ということとなってくるだろう。  近藤が、二千万円を持っていなかったところをみると、共犯者は、彼に、二千万円を渡さなかったのか。  刑事たちは、戸川勇と、春木朝正の二人について、徹底的に、調べてみた。  家宅捜索の令状を取り、練馬区東大泉の戸川のマンション、杉並区久我山の春木のマンションを調べてみた。  が、どちらからも、二千万円の札束は、見つからなかった。  二人の預金状況も、当然、調べた。  二人とも、二百万円前後の預金しかなかった。彼らの家族、友人、恋人などにも、捜査の手を広げていった。  だが、二千万円が、見つからないのだ。  その金を出した行方謙は、十津川に向かって、 「友人の青木が、無事解放されたのは、嬉《うれ》しいですがね。できれば二千万円を、取り返して欲しかったですよ。おれと青木は、共同経営者で、今のSMクラブを、何とかうまくやっていこうと思ってるんですよ。最近は、競争が激しくてね。いい女の子を入れるには、金がかかるんです。それなのに、二千万も取られちゃって、大変な痛手ですよ。犯人を射殺するよりも、二千万円を取り返してくれた方が、嬉しかったんですがね」 「われわれも、全力をあげて、身代金を探しているんですが、見つからないんです」 「なぜ、見つからないんです? おかしいじゃありませんか。犯人は、持ってなかったんですか?」  行方は、まるで、警察が、二千万円を猫ババしたみたいな、疑いの眼を、十津川に向けた。 「二千万円の損失は、どうされるんですか?」  と、亀井が、きいた。 「警察が、取り返してくれなければ、借金をするより仕方がありませんよ。二千万だって、半分は、借金したんだから」  行方が、ぼやく。 「大丈夫です。われわれが、二千万円を取り戻して見せます」  と、小早川が、口を挟んだ。  行方は、ほっとした顔になって、 「本当ですか? 署長さんを、頼りにしてますよ」 「まあ、一週間以内には、二千万円を、持ち去った人間を、見つけ出して差し上げますよ」  小早川は、自信満々に、いった。  行方は、じろりと、十津川に眼をやって、 「捜査一課の刑事さんは、どうなんです? 自信ないみたいだけど」 「もちろん、われわれも、全力をつくしますよ」  と、十津川は、強面《こわもて》を作って、いった。 「うちとしては、誰が取り返してくれてもいいんですが、やっぱり、頼りになるのは、署長さんかね」  行方は、小早川に向かって、おもねるような、笑顔を作って見せた。      6 「どうもあの自信満々の顔を見ていると、むかついてきますね」  と、亀井が、十津川と、二人だけになったところで、小早川の悪口を、いった。 「私だって、むかつくが、われわれに力がないんだから、仕方がないよ。今のところ、全く、手掛かりがないんだ」  十津川は、憮然とした顔で、いった。 「二千万円は、誰が、手に入れたんですかね?」 「犯人の近藤の要求に従って、二千万円を、指示通りに、白いショルダーバッグに入れ、赤い線を描き、C劇場の指定された座席の下に置いたことは、間違いないんだ。二千万円も、確認されている」 「もう一度、あの日のことを、考え直してみましょうよ」  と、亀井はいう。  二人は、C劇場の見える喫茶店にいた。  雑居ビルの五階にある店で、今日も、歌舞伎町は、若者であふれている。  五、六人の若い男女が、ふらふらしている。踊っているのか、ラリッているのか、よくわからない。  間もなく、陽が落ちて、ネオンがまたたくと、そんな若者の姿が、増えてくる。  十津川は、C劇場のパンフレットを、ポケットから取り出して、テーブルの上に広げた。  座席の図面が、ついている。  その中に、○印がついたのは、二千万円入りのショルダーバッグを、座席の下に置いた場所である。 「われわれは、離れた場所から、監視していた」  と、十津川は、あの時のことを、思い出しながら、いった。 「まず、劇場の掃除係の松本が、座席の下の白のショルダーバッグを手に取って、劇場を、飛び出して行ったんでしたね。われわれは、てっきり、彼が犯人だと考えて追いかけて行き、取り押さえたんです」 「だが、別の、ダミーのショルダーバッグだった」 「彼は、爆弾だと思って、交番に、持って行くつもりだったと、いいましたね。警部は、あの話を信じましたか?」  と、亀井が、きいた。 「いや、信用していない。が、彼が、われわれを、劇場から、おびき出したのだという証拠もないんだ」 「そうなんですよ。われわれは、見事に、劇場の外に、おびき出されてしまい、その間に、残りの二人の掃除係のどちらかが、二千万円の入ったショルダーバッグを、まんまと、持ち去ってしまったんだと思います」 「戸川勇か、春木朝正のどちらかがか?」 「そうです。もう一度、この二人を、徹底的に、調べ直す必要があると、思います」 「しかしねえ。他の人間が、犯人だという可能性だってあるんだよ」  と、十津川は、いった。 「ありますか?」 「トイレの中で、犯人は、じっと様子を窺《うかが》っていたのかも知れない。われわれが、松本を追って、外へ出た隙に、そいつが、二千万円入りのショルダーバッグを持ち去ったということだって、考えられる」 「そうでしょうか」 「他に、C劇場の支配人だって、疑えば、疑えるんだ」  と、十津川は、いった。 「そこまで疑えば、切りがありませんが」 「問題は、赤い線の入った、白のショルダーバッグに、二千万円を入れて、座席の下に置けと、指示したのは、犯人の近藤なんだ」 「そうです」 「それを、何人の人間が、知っていたかということになってくる。知っている奴が、全く同じショルダーバッグを、同じ座席の下に置き、それを、松本に持ち出させたんだ」 「その通りです。ですから、私は、松本も、犯人の一人だと、思っています」 「では、もう一人、共犯がいたことになるね。そいつが、本物の二千万円入りの方を、持ち去ったわけだから」 「そうです」 「しかし、彼は、なぜ、主犯の近藤に、その二千万円を、持って行かなかったんだろう?」 「急に、その二千万円が、欲しくなったんじゃありませんか。それで、猫ババしてしまったということだと、思いますが」  と、亀井は、いう。 「戸川勇と、春木朝正の二人を調べたが、二千万円を、猫ババしたようには、見えないがね」 「しかし、一番疑わしいのは、C劇場の掃除係ですよ」  亀井は、頑固に、いう。 「あの時点で、まだ、近藤が、誘拐犯だとはわかっていなかったんだ」 「はい」 「それに、近藤は暴力団員で、乱暴者だ」 「そうです」 「そして、じっと、共犯者が、二千万円を、持ってくると、待っていた。もちろん、その共犯者の名前も知っていた。持って来なければ、二千万円を、取りに行くんじゃないかね?」 「そうするでしょうね」 「相手を殺してでも、二千万円を、手に入れるだろう。拳銃《けんじゆう》だって、持っていたんだ。だが、そうした形跡はない」 「ええ」 「なぜなんだ」 「私にも、わかりません」  亀井は、小さく、首を横に振る。 「それに、なぜ、小早川たちに、近藤が犯人で、あのラーメン店に人質の青木と一緒にいると、わかったんだろう?」 「それは、つまり、地の利というやつじゃありませんか? われわれより、この歌舞伎町について、よく知っているということでしょう」 「地の利ねえ」  十津川は、ふと、窓の外に眼をやった。  その眼が、急に、光って、 「カメさん。あの男を見ろよ!」  と、叫んだ。  C劇場の壁に寄りかかって、寝そべっている若い男が見えた。  家出をして、この歌舞伎町で、寝ている若者が多くなった。  多分、その一人だろう。  年齢は、二十五、六歳ではないか。 「あの男が、どうかしましたか?」 「男が、枕代わりに、頭に敷いているやつだよ。白いショルダーバッグじゃないか。二千万円入りのバッグと、同じものじゃないのか」 「そういえば——」  二人は、同時に、立ち上がっていた。  料金を払って、エレベーターで、一階までおりると、ビルの外に、飛び出した。  C劇場の壁に寄りかかって寝ている若い男の傍らに駆け寄ると、亀井が、男の頭の下から、白いショルダーバッグを、強引に、抜き取った。  寝ていた男は、眼をさまし、 「何をするんだ!」  と、怒鳴った。  亀井は、それを無視して、バッグを調べる。赤い線が、中央に走っている。赤インクで、描いた線だった。 「間違いありませんよ」  と、亀井は、十津川にいい、中身を、コンクリートの上にぶちまけた。  下着や、タオルや、ブラシが、散乱する。 「何するんだよォ!」  と、また、その若者が、怒鳴る。人々が、集まってきた。  十津川が、相手に、警察手帳を、突きつけた。 「この、ショルダーバッグを、どうしたんだ?」 「おれのだよ」  と、男が、いう。 「何処《どこ》で、拾ったんだ? それとも、誰かから、貰《もら》ったのか?」 「盗んだんじゃない」 「じゃあ、拾ったんだな?」 「ああ、拾ったんだよ」  と、男は、投げやりに、いう。 「何処で、拾ったんだ?」  亀井が、男を、睨《にら》みつけた。 「向こうだよ」 「向こうじゃわからない。そこへ、案内しろ」  亀井は、男の腕をつかんで、立ち上がらせた。  十津川と亀井は、男を、その場所に案内させた。  雑居ビルの裏手の路地の奥だった。 「ここだよ」  と、男は、その暗がりを、指さした。 「いつ、拾ったんだ?」 「今朝だよ。このビルの食堂の残り物を貰いに来たら、バッグが落ちてたんだ。本当だよ。拾ったものだから、構わないと思って、下着なんかを入れることにしたんだ」  と、男は、いう。 「本当なんだな?」 「ああ。本当に拾ったんだ」  男は、くどくど、いった。 「前日に、この路地も、調べましたが、その時はありませんでした」  と、亀井は、十津川に、いった。 「じゃあ、昨夜から今朝にかけて、誰かが捨てたんだ。君は、今朝の何時頃、拾ったんだ?」  十津川は、男に、きいた。 「午前八時頃だったと思う」 「このバッグを、しばらく預かる」 「どうして?」 「犯罪に、使われた可能性があるからだ」  と、亀井が、大声を出した。  念のために、男の名前を聞くと、メモし、二人は、バッグを科研に持ち込んだ。指紋などを調べて貰うことにした。 (犯人が、中身の二千万円を奪ったあと、このショルダーバッグを、捨てたのだろうか?)  十津川は、首をひねった。      7  身代金が、回収できなければ、事件は解決したことにならない。  だから、依然として、歌舞伎署に、捜査本部は置かれたままになっていた。  しかし、身代金回収のメドは、いっこうに立たなかった。  二千万円の身代金が、隠されていると思われる場所は、全て、当たってみた。  射殺された誘拐犯・近藤の家、彼の女だったと思われるホステス加山アキのマンション、それにC劇場の三人の掃除係の家も、全て調べたのだが、二千万円は、見つからない。  捜査が、壁にぶつかっている時、問題のショルダーバッグを持っていた若者が、見つかった。  その若者の名前は、小野田正。ホームレスなのに、なぜか、運転免許証を持っていた。本名であることが確認された。 「これは、大事なパスポートなんだ」  と、彼は、運転免許証のことを、いった。 「何のパスポートだ?」  亀井が、きくと、 「ホームレスから、社会に復帰するときのパスポートだよ。これさえあれば、いつだって、復帰できる」  と、小野田は、自慢気に、いった。自分は、他のホームレスとは、違うのだという気なのだろう。  彼が、二千万円を持っているとは、思えなかった。  気になるのは、彼が、今朝、C劇場の裏の路地で、問題のショルダーバッグを見つけたということだった。  前日に、この路地を調べた時は、見つからなかったのだ。とすれば、昨夜おそくから、今朝にかけて、誰かが、捨てたことになる。多分、二千万円を手にした犯人がである。 「しかし、なぜ、犯人は、ショルダーバッグを捨てたのだろう?」  十津川は、考え込んだ。 「それは、問題のバッグを持っていたのでは、危険だからじゃありませんか」  と、亀井が、いう。 「それなら、焼却すればいい。わざわざ、あの路地へ捨てなくてもいいだろう。万一、捨てるところを、人に見られたら、それこそ、命取りになる」 「焼き捨てる場所が、無かったんじゃありませんか? 焼却場というのは、盛り場には、あるようで、ありませんから」  と、亀井が、いった。 「確かに、そうかも知れないが——」 「警部は、何をお考えなんですか?」 「犯人が、中身の二千万円を手に入れ、ショルダーバッグを、捨てたとしよう。なぜ、あの路地かという疑問が、残るんだよ。排水溝でもいいし、公衆便所のトイレの中でもいいのにだ」 「C劇場の三人の掃除係に、疑いの目を向けさせようとしたんでしょうか? 劇場の裏の路地ですから」 「かも知れないが——」  十津川には、自信がなかった。  科研からの報告も届いた。バッグについていた指紋は、小野田という青年のものだけだったという報告だった。 「他の指紋は、全く無いんですか?」  と、十津川は、科研の中村技官に、きいた。 「無いよ」 「おかしいな」 「検出できないんだから、仕方がない。犯人は、多分、あのショルダーバッグを、洗ったんだよ。念入りにね。だから、赤い線が滲《にじ》んでいた」  と、中村は、いう。 「雨に濡《ぬ》れて、滲んだんじゃないんですか?」 「ここんところ、雨は降ってないよ」 「じゃあ、洗ったんだ」 「だから、そういってるじゃないか」  と、中村は、いった。  十津川は、また、考え込んでしまった。 「いやに、律儀な犯人だな。ショルダーバッグをきれいに洗って、乾かしてから、あの路地に捨てているんだ」 「犯人が、自分の指紋を消したかったんでしょう」  と、亀井が、簡単に、いう。 「指紋が気になるんなら、手袋をはめて、扱えばいいことだよ。なぜ、洗って、乾かし、その上、路地に捨てるという行為が、わからないんだよ」  と、十津川は、いった。 「犯人は、偏執狂なんじゃありませんか? それとも、極度の潔癖性か」  若い西本刑事がいった。 「潔癖性ねえ」  と、十津川が、苦笑する。  西本は、慌てて、 「冗談です。冗談です」  と、いった。  しかし、二千万円の身代金が、発見されないことに、変わりはなかった。      8  突然、SMクラブの経営者の行方謙を、小早川と部下の刑事が、逮捕した。  今回の誘拐劇の主犯としてである。  捜査会議の席で、小早川が説明した。 「今回の誘拐事件は、今から考えてみると、身代金が目的ではなかったのです。真の目的は殺人でした」  と、小早川は、自信にあふれた口ぶりで、行方謙逮捕の理由を説明した。 「SMクラブの共同経営者は、行方謙と、青木浩三の二人です。表面上、二人は仲良くクラブを経営しているように見えましたが、実際には犬猿の仲でした。そこで、行方は、何とかして、青木浩三を殺して、SMクラブを自分だけのものにしようと、考えたのです。しかし、青木浩三を殺せば、まっ先に、自分が疑われる。そこで、クラブの常連だった近藤に、金をやって青木を誘拐させたのです。表向きは、近藤が身代金を要求し、その受け渡しの攻防になりましたが、真の目的は、青木浩三を殺し、クラブを自分だけのものにしようという行方の野心だったわけです」  小早川は、落ち着いた口調で説明する。  十津川は、ただ、彼の説明を聞いているより仕方がなかった。 「型通りに、近藤が、身代金として二千万円を要求し、行方は、必死で金策し、二千万円を作りました。しかし、その受け渡しが、うまくいかず、怒った近藤は、人質の青木浩三を殺して、逃亡する。そのあと、落ち着いてから、行方が近藤に、何百万かの謝礼を払うことになっていたのです。ところが、われわれがいち早く近藤を犯人と断定し、あのラーメン店を包囲してしまったので、行方の計画は、失敗してしまいました」 「それで、身代金の二千万円は、今、何処《どこ》にあるのかね?」  と、三上本部長が、きいた。 「もちろん、行方のところに戻っています。これには共犯がいて、その共犯が、二千万円を奪い、行方のところに、持ち帰ったのだと思っています」 「自信満々だな」 「自信はあります。そこで、十津川警部に、行方を訊問《じんもん》して貰《もら》い、併せて、殺人容疑の逮捕令状を、請求して頂きたいと、思います」  と、小早川は、いった。  十津川と亀井が、行方謙の訊問をすることになった。 「どうも、小早川署長の後塵《こうじん》を拝するようで、楽しくありませんね」  亀井が、文句をいった。 「しかし、小早川の推理は相当なものだよ。とにかく、行方から、話を聞こうじゃないか」  と、十津川は、いった。  取調室で、行方と向かい合う。  十津川は、相手に、煙草をすすめてから、 「あなたは前に、犯人を逮捕してくれるより、二千万円を取り戻してくれた方が、嬉《うれ》しいと、私に、いいましたね」  と、いった。 「そんなこと、いいましたかね」 「今、私の部下が、あなたのSMクラブと、あなたの自宅マンションを、家宅捜索しています。多分、二千万円は見つかるんじゃありませんかね」 「二千万円があったって、札に印がついているわけじゃないからね」  と、行方は、挑戦的ないい方をする。 「あなたは、元暴力団員の近藤に頼んで、共同経営者の青木浩三を誘拐させ、身代金受け渡しのどさくさに、殺させるつもりだった。近藤は高飛びし、あなたはあとから、何百万かの謝礼を、近藤に送ることにしていた。そうじゃありませんか?」 「それは、あの小早川署長の勝手な推理でしょう。証拠は、何処にもないんだ」 「青木浩三さんとは、仲が悪かったと聞いているんですが、本当ですか?」 「そりゃあ、いつも、仲良くやってきたわけじゃありませんよ。クラブの経営について、意見が合わなかったこともありますよ。しかし、お互いを必要としてきたことも、事実なんです。その友人を殺すなんて、とんでもない」 「バーなんかで、あなたが、青木さんの悪口をいっているのを聞いたという人が、何人かいるんですがねえ」 「会社の同僚や、上役の悪口を、いわない人がいますか? だが、殺したりはしませんよ。それと同じです」 「死んだ近藤とは、どんな関係ですか?」 「うちのSMクラブに、よく遊びに来ていたお客というだけの関係です。それ以上でも、以下でもありません」 「しかし、あなたが近藤と一緒に飲んでいるのを見た人がいるんですがね」 「そりゃあ、狭い歌舞伎町で商売をやってるんだから、クラブやスナックで一緒になることはあるし、会えば、顔見知りだから、話ならしますよ。しかし、それだけです」 「近藤に頼んで、共同経営者の青木さんを誘拐させ、殺させようとしたことは、ないんですね?」 「ありません。神に誓って、そんなことはありません」  行方は、大きな声を出した。  訊問を終えて、取調室を出ると、小早川が、寄ってきて、 「どうだった?」  と、十津川に、きいた。 「完全否定だ。大丈夫なのか? 近藤と行方が、よく一緒に飲んでいたというぐらいじゃあ、あの男は自供しないぞ」 「大丈夫だよ。共犯がいるに違いないんだ」  小早川は、平然として、そういった。 「身代金の二千万円を、持ち去った人間のことか?」 「そうだ。そいつが見つかれば、行方の犯行を証明できる」 「その共犯者の目当ては、ついているのか?」  心配になった十津川が、きくと、小早川は、笑って、 「一応、ついているといっておくよ」  と、いった。  小早川の言葉は、嘘ではなかった。  翌日になって、小早川は、行方の共犯者として、二十五歳のサラリーマンを逮捕したのだ。  名前は、平木康一。  平木は、しばしば、行方の経営するSMクラブに遊びに来ていた。その結果、行方と、知り合ったのである。 「僕は、サドの方で、行方さんにそのことで脅かされて、仕方なく協力することになったんです」  と、平木は、訊問で、話した。 「僕は、気が小さくて、自分の性癖が会社に知られるのが、怖かったんです」 「会社にいうぞと、脅されたのか?」 「そうです。いつの間にか、写真も撮られていました」 「それで、何を手伝ったんだね?」  と、十津川は、きいた。 「あらかじめ、C劇場の2—D席の下に、ショルダーバッグを置くことと、トイレに隠れていて、客がいなくなったら、客席の下から白いショルダーバッグを持って逃げることですよ。ひと廻《まわ》り大きなバッグを用意しておいて、それに入れて逃げるんです」 「そのショルダーバッグの中に、二千万円入っていたのは、知っていたかね?」 「ちらっと、中を見ましたからね。二千万円という金額はわかりませんでしたが、札束が入っているのは、知っていました」 「ショルダーバッグを奪ったあと、どうしたんだ?」 「行方さんに渡しましたよ。そういう指示でしたから」 「行方本人に渡したんだな?」 「ええ、そうです」 「二千万円を引き出し、ショルダーバッグをよく洗って、C劇場の横の路地に捨てなかったかね?」  と、十津川は、きいた。 「なぜ、僕が、そんなことをしなきゃいけないんですか? 金を貰えないのに」 「君は、行方から、成功報酬みたいな金を貰わなかったのかね?」 「貰っていませんよ。それどころか、警察なんかに話したら、僕が裸の女を縛って喜んでいる写真を、ばら撒《ま》くぞって、脅かされましたよ」 「君は、本当にショルダーバッグを、捨てなかったのか?」  十津川は、しつこく、きいた。 「そんなことしませんよ。僕は、ショルダーバッグごと、行方さんに渡したんです」 「行方はその時、中身の札束を数えたかね?」 「ちらっと、中を見ただけでしたよ。一千万円の札束が二つだから、簡単に数えられたんじゃありませんか」  と、平木は、いった。 「今回の事件で、誘拐と殺人が、行われたことは知っているね?」 「知っています。新聞で読みましたから」 「行方が、全てを計画したのを、知っていたかね?」  と、最後に、十津川が、きいた。 「知りませんよ。僕は、ただ、C劇場の座席の下から、白いショルダーバッグを持って、逃げ出し、行方さんの所に持って行くことしか、いわれていませんでしたから」  と、平木は、いった。      9  誘拐事件は、解決した。  いや、十津川の気持ちでいえば、解決してしまったのである。  SMクラブ経営者の行方が、共同経営者の青木を殺そうと考え、元暴力団員の近藤に頼んで、誘拐劇を演じさせた。  それが失敗して、近藤が、刑事に射殺されてしまった。  それが、今回の誘拐事件の全てだった。  平木という共犯者が逮捕されて、行方は、たまらず、共同経営者の殺人を計画したと自供し、事件が解決してしまったのだ。  捜査本部は、解散した。 「また、やられましたね」  と、亀井は、憮然《ぶぜん》とした顔で、十津川に、いった。 「そうだな。まあ、警察全体のことを考えれば、めでたいと、いわなければならないんだろうね」  十津川も、何となく、自分の心にわだかまりが残った感じを、持て余していた。 (小早川に対する嫉妬《しつと》だろうか?)  そんな自問も起きてくる。  十津川にとっては、珍しいことだった。  小早川には、誘拐事件が、早期に解決したということで、総監賞が贈られることになった。  小早川は、それを断って、 「私個人の功績ではありません。署員全員の努力で、誘拐事件が解決したのですから、歌舞伎署への総監賞にして下さい」  と、いった。  それが、また、ニュースになって、マスコミが取りあげた。  小早川の意見が入れられて、総監賞は、小早川個人に対してでなく、歌舞伎署に与えられることになった。 「少し、やり過ぎじゃありませんかね」  と、亀井が、十津川に、いう。 「何が?」 「立派すぎますね。私は、ひねくれてるんですかね。立派すぎると、何処《どこ》か、インチキ臭く見えてしまうんです」 「しかし、私だって、私個人が表彰されたら断るよ。全員でやったことだと、いってね」  と、十津川は、いった。 「警部なら納得するんですが、あの署長さんには、どうも、素直に、見られないんですよ」  と、亀井は、いった。 「カメさんは、いったい、何にこだわっているんだ?」 「それが、よくわからなくて、困っているんです。やっぱり、やきもちですかね」 「しかし、今度の誘拐事件に限らず、歌舞伎署ができてから、歌舞伎町で起きる凶悪事件は、確実に、減ってるんだ。それは、何といっても、小早川をはじめとする署員の働きと、いっていいんだ」 「それは、確かに、認めざるを得ませんが——」  亀井も、曖昧《あいまい》ながら、認めないわけにはいかないという顔になった。 「カメさん。今夜、飲みに行かないか?」  と、十津川は、誘った。  亀井は、びっくりした顔になって、 「警部の方から誘うなんて、珍しいですね」 「私だって、時には、飲みたくなることだってあるよ」 「それで、何処へ行きます?」 「新宿歌舞伎町の『ラブ・ラブ』という店だよ」  と、十津川は、いった。 「警部の馴染《なじ》みの店ですか?」 「ああ、そうだ」  と、十津川は、いった。  二人は、その夜、歌舞伎町に出かけた。  クラブ『ラブ・ラブ』に入ると、十津川は、バーボンを注文してから、 「サチコという娘《こ》がいる筈《はず》なんだが、呼んでくれないか」  と、ボーイに、頼んだ。 「サチコさんは、もう、いませんが」  と、ボーイは、いう。 「いないって、辞めたの?」 「ええ、辞めました」 「辞めて、何処に移ったか、わからないかな?」 「私には、わかりませんが——」 「誰か、わかる人を、呼んで来てくれないかな。どうしても、彼女に会いたいんだよ」  十津川がねばると、ボーイはママを、呼んで来た。 「ああ。刑事さん」  と、十津川を見て、いい、 「サチコちゃんは、辞めたんですよ」 「それは、今、ボーイさんから聞いたんですが、どうしても、会いたいんですよ」 「あの娘が、刑事さんのいい人なんですか?」 「いや、ちょっと、ききたいことがあってね、何処にいるか、知りませんか?」  と、十津川は、きいた。 「あの娘は、わがままで、突然、辞めたりするんですよ。もう、そんなことは、二回もあったんです」 「行き先は?」 「知りません」 「ここで働いていた時、何処に住んでいたかは、わかりませんかね?」 「それも、聞いたことがなくて。誰か知らないかしら?」  ママは、ホステスやボーイに、きいたが、誰も、答える者は、いなかった。 「もし、彼女が連絡してきたら、住所を聞いておいて、私に教えて下さい」  十津川は、ママに、名刺を渡した。      10  サチコが、いなくては仕方がない。十津川は、バーボンを二杯飲んだだけで、亀井を促して、店を出た。 「サチコというのは、どんな女性なんですか?」 「まだ、カメさんには話してなかったかな?」 「聞いていませんよ」 「面白い女性でね。本当はニューハーフなんだが、彼女に、今回の誘拐事件について、聞いてみたかったんだよ」  と、十津川は、いった。 「誘拐に関係がある女なんですか?」 「いや、直接関係はないんだが、妙に、歌舞伎町に詳しくてね。彼女が、どう見ていたのか、知りたかったんだ」 「なかなかの女性みたいですね。いや、男というべきですかね」 「それに、加倉井刑事のことも、いろいろと知っていた」 「加倉井刑事と関係があった女性なんですか?」 「かも知れない。とにかく、歌舞伎町で、加倉井刑事のことを、よくいう人間はいないんだが、彼女だけは違っていた。なぜ違うのか、その理由を聞きたかったんだがね」  と、十津川は、いった。  そのサチコに、結局、十津川は会えなかった。  翌朝、彼女の死体が、言問橋《ことといばし》近くの隅田川に、浮かんでいたからである。  十津川が、亀井と、駆けつけた時、すでに死体は、橋の袂《たもと》に引き揚げられていた。 「これがサチコだ」  と、十津川は、亀井にいった。 「残念ですね。何も聞けなくなって」  亀井が、重い口調でいう。  検死官が、十津川に向かって、 「溺死《できし》だね」 「外傷は?」 「これといったものはない。だが、司法解剖をしないと、何ともいえないね。自殺、事故死、他殺、どの可能性だってある」  と、検死官はいった。  濡《ぬ》れた死体を、十津川は、屈《かが》み込んで調べた。靴は、脱げてしまっている。腕時計は、動いていた。 「殺されたような気がする」  と、十津川は、呟《つぶや》いた。  理由はなかった。ただ、そんな気がするのだ。  司法解剖の結果、胃の中から、アルコールと睡眠薬が、検出された。サチコが手術して、女性の身体になっていることもわかった。  十津川の他殺説は確信になった。  何者かが、彼女に、睡眠薬入りの酒を呑《の》ませてから、隅田川に突き落としたのだ。  浅草警察署に、捜査本部が置かれた。  捜査会議の席で、十津川は、サチコについて知っていることを、全て、話した。 「彼女は、ただ一人、加倉井刑事のことを、悪くいいませんでした。何かそのことと、今回の彼女の死が、関係があるような気がしてならないのです」  と、十津川は、いった。  三上本部長は、眉《まゆ》をひそめて、 「君のいっている意味がよくわからないんだがね。加倉井刑事は、歌舞伎署の刑事の中では、一番、評判が悪かったんだろう?」 「そうです。悪徳警官そのもののようないわれ方をしてました。賄賂《わいろ》は平気で取るし、ホストクラブの若いホストをゆすってもいたようです。ですから、彼の死を悲しむ声は、全く、聞かれませんでした。ただ、彼女だけが、悲しんでいたのです」 「だから、殺されたとでもいうのかね?」  と、三上が、きいた。 「だからかどうかはわかりませんが、加倉井刑事の死と、関係があるような気がして、仕方がないのです」  と、十津川が、いった。 「つまり、こういうことなのかね。加倉井刑事を恨んでいた人間が、彼のことをかばっていた彼女に腹を立て、彼女も殺してしまったということなのかね?」  三上が、きいた。 「かも知れません」 「そうなると、容疑者は、ゴマンといることになるんじゃないのかね? 加倉井刑事は悪徳警官の見本みたいな男で、彼を恨んでいた人間はいくらでもいるんだろう。その全員が、今度の事件の容疑者になるんだからね」 「そうなりますが——」 「もし、君のいう通りだと、犯人は、歌舞伎町の人間ということになってくるんだろう?」 「かも知れません」 「そうなると、また、歌舞伎署の助けを借りることになるだろう。小早川君に連絡を取ったのか?」  と、三上が、きいた。 「まだ、連絡はしていません」 「じゃあ、連絡したまえ」 「わかりました」  それで、第一回の捜査会議は、終わった。そのあとで、十津川は、電話で、小早川に連絡を取った。 「サチコ? 歌舞伎町『ラブ・ラブ』で、ホステスをやっていたニューハーフか?」  と、小早川が、きく。 「そうなんだ。三上本部長は、犯人は歌舞伎町にいるといっておられるのでね。ぜひ、君の力を借りたい」  と、十津川は、いった。 「わかった。こちらで聞き込みをやってみる」  と、小早川は、いった。  十津川の方は、現場周辺で、聞き込みをやってみることにした。  言問橋周辺の聞き込みである。  司法解剖の結果では、死亡推定時刻は、昨日、六月七日の午後十一時から十二時の間となっている。  その時間帯に、サチコを隅田川に投げ込むのを見た人間はいないかという聞き込みだった。あるいは、怪しい車を見た人間はいないかという聞き込みでもあった。  しかし、なかなか目撃者は見つからなかった。  その代わりのように、小早川の方から電話が入った。 「サチコに惚《ほ》れていた男がわかったよ。彼女に対して、ストーカーのようなことをしていた男だ」  と、小早川は、いった。 「どういう男なんだ」 「名前は横山信という若い男だ」 「その男は捕まえたのか?」 「いや。昨日から姿を消している。逃げたんだと思っている」 「ストーカー行為というのを聞きたいね」  と、十津川は、いった。 「彼女が住んでいたマンションがわかったんだ。そのマンションの周囲《まわり》をうろついているところも、見られている」 「横山というのは、何をしている男なんだ?」 「歌舞伎町で、水道工事の仕事をしていた男だ」 「水道工事?」 「ああ。河合工事という水道工事の会社があるんだ。その従業員でね。どうも、彼女にのぼせあがって、仕事も手につかなかったみたいなんだ」 「それでなぜ、横山はサチコを殺したんだ?」 「サチコにふられたらしい。それで殺したんじゃないかな」 「いやに短絡的な犯行だな」 「今はそんなのが多いんだよ。ストーカー行為に走り、それを拒否されると、簡単に殺してしまう。困ったものさ」  と、小早川は、いった。 「彼の住所は?」 「それが、彼女のマンションの近くに、最近、移っていたんだ。前は、河合工事の独身寮に住んでいたんだがね」 「写真が欲しいな」 「そちらに持って行かせるよ」  と、小早川は、いった。  二時間もすると、歌舞伎署の若い刑事が、横山信の顔写真を持ってきた。  写真の裏に、横山の簡単な経歴が書いてあった。 〈横山信(二十五歳)  青森県出身。  地元の高校を卒業後、上京。  二十歳から河合工事で働く。  独身。身長一七八センチ。体重七二キロ〉 (この男は、サチコがニューハーフと知っていて、惚れていたんだろうか?) [#改ページ]  第三章 ストーカー      1  十津川は、横山信の写真を、見つめた。  いかつい感じの顔である。女に信頼はされるだろうが、愛されることは、ちょっと、考えにくい感じだった。  十津川は、彼が働いていた河合工事に、亀井と一緒に出かけた。  その間に、他の刑事たちには、横山が住んでいたマンションの方を調べさせた。  河合工事は、三階建ての小さなビルに入っていた。一階と二階が仕事場で、三階が倉庫になっている。  表の看板には、次の通りに書かれている。  水道工事  電気工事  その他の工事  正確、迅速、廉価がモットーです (水道工事だけではないのか)  と思いながら、二人は店の中に入り、河合という社長に会った。  五十歳くらいで、陣頭指揮というのか、彼自身、ツナギの作業服を着ている。  二人は、二階の社長室に案内された。 「だいぶ繁盛しているようですね」  と、十津川は、いった。社長室にいても、一階に、工事依頼の電話が、頻繁にかかってきているのが、わかったからである。 「この歌舞伎町には、うち以外に、工事一般をやる店がありませんからね。せいぜいサービスさせて貰《もら》っています」  と、河合は、謙虚に、いった。 「実は、ここで働いている横山信という男のことなんですが」  と、十津川は、いった。 「署長さんに聞きました。大人しくて、仕事を一生懸命にやる男だったんですがねえ。殺しの容疑がかかっていると聞いて、びっくりしているんですよ」 「サチコというニューハーフとつき合っていることは、知っていましたか?」 「ちゃんと、つき合っては、いなかったんでしょう?」 「ええ。ストーカーまがいのことをしていたと聞いています」 「そうでしょうね。だから、私が、気がつかなかったんだ」 「サチコという名前を、口にしたのを聞いていませんか?」 「私は聞いていませんが、同僚の一人が聞いたそうです。サチコに惚《ほ》れているみたいなことをいったそうですよ」  と、河合は、いう。  その同僚を、十津川は、呼んで貰った。  柴田という三十二歳の男である。自衛隊あがりだと、いった。 「彼とは、よく話しましたよ」  と、柴田は、いった。 「サチコという名前を聞いたことがあるそうですね?」 「ええ。サチコが好きなんだといっていましたね」 「彼女がニューハーフだというのを知っていたんですかね?」 「そりゃあ、知っていましたよ。彼女が働いていた『ラブ・ラブ』に、何回か行っていますから。それでも好きだったということでしょうね。サチコの写真を見せられました」  柴田は、具体的に、いった。 「サチコの方は、どうだったんでしょうね?」  と、亀井が、きいた。 「片思いに近かったんじゃないかな。というより『ラブ・ラブ』なんかで働く女は、金目当てですからね。その金が、横山にはなかったから、ふられたんじゃありませんか」 「それで、殺したのかな?」 「同僚として、信じたくありませんがね。あいつは、純真な方だから」  と、柴田は、いう。 「彼は、水道工事しか、やらなかったんですか?」  と、十津川は、きいた。 「うちには、十五人の社員がいるんです。五人が水道工事、五人が電気工事、そして、残りの五人がその他の工事と、分かれています」 「給料は、いいですか?」 「まあ、いい方じゃありませんかね。僕は、他で働いたことがないから」  と、柴田は、笑った。 「横山さんが、サチコを殺したとしてですが、何処《どこ》に逃げたと思いますか?」  十津川が、きくと、 「郷里の青森ですかね。ただし、青森には、もう、家族はいないといっていましたがねえ」  と、柴田は、答えた。 「じゃあ、彼は、天涯孤独だったんですか?」 「うちの会社には、そんな境遇の奴が、多いんです。河合社長自身、そうなんですからね」  と、柴田は、いう。  青森にも、知り合いはいないというと、横山は、何処へ逃げるのだろうか?  普通なら、女の所だが、横山の場合、好きなサチコを殺してしまったのだ。  十津川と亀井は、捜査本部の歌舞伎署に戻った。  マンションの方を当たっていた西本たちが、帰ってきた。 「横山の評判は、良かったですよ。管理人や同じマンションの住人に聞いたんですが、会えば必ず挨拶《あいさつ》するし、大人しい。部屋代も、きちんと払っていたようです」  と、西本が、いう。 「それは、河合工事でも、聞いたよ」 「ただ、同じ階の住人の話なんですが、最近、他の仕事をしたいと、いっていたそうです」  と、日下が、いう。 「もっと、金になる仕事をやりたかったのかも知れないな」 「私も、そう思ったんですが、横山は、河合工事で、いい給料を貰っていたみたいですよ。毎月、四十万から五十万、貰っていたようですから」  と、日下は、いった。 「じゃあ、仕事そのものに、不満を持っていたのかな」 「そうだと思います」  と、西本が、いった。  その時、電話が、入った。 「横山の水死体が見つかりました。晴海|埠頭《ふとう》から海に落ちた軽自動車の中で、発見されたんです」  と、初動捜査班の刑事が、いった。      2  十津川たちは、晴海に、パトカーを走らせた。  軽自動車は、すでに引き揚げられ、開いたドアから、まだ、海水が少しずつ流れ出ている。  車の傍には、これも海水で濡《ぬ》れた、若い男の死体が、仰向けに横たえられていた。  横山信である。  十津川たちは、初動捜査班から、事件を引き継いだ。  横山の運転免許証と、ポケットに入っていたというサチコの写真を渡された。  ニッコリしているサチコの写真である。  車は、白のスズキの軽で、所有者は、横山だった。  自分の車で、海に突っ込んだのだ。 「無理心中ですかね?」  亀井が、死体に眼をやりながら、十津川に、いった。 「ストーカー行為の果てに、サチコを殺し、自分は、海にはまって死んだか」 「外傷らしいものはありません。覚悟の自殺じゃないですか」  と、亀井が、いう。  それでも、十津川は、念のために、横山の死体を、司法解剖に廻《まわ》すことにした。  その結果は、四時間後に、十津川に、報告された。  死因は溺死《できし》。  肺の中に、多量の海水が、入っていた。  死亡してから、十二時間経過している。つまり、昨夜の午後十時から、十二時の間に、死んでいるのだ。 「死因に不審な点はなしか」  十津川は、憮然《ぶぜん》とした顔で、いった。 「やはり、無理心中だったということでしょうね」  と、亀井も、いう。 「横山は、強引に、サチコを誘い出し、睡眠薬入りの酒を呑《の》ませ、そのあと、あの車で言問橋まで運んで、隅田川に投げ込んだ。そのあと、一日、何処かで過ごし、晴海の海に、車ごと突っ込んで死んだということになるのかな」 「そうでしょうね」 「何かおかしいな」  と、十津川が、呟《つぶや》いた。 「おかしいですか? 私は、別に、おかしいとは思いませんが」 「横山は、サチコを愛していたんだ」 「そうです。ニューハーフと知っていて、それでも、好きだったということでしょう」 「ストーカー行為まで働いた揚げ句、無理心中をした」 「ええ」 「カメさんだったら、どんな無理心中の仕方をするね?」  と、十津川は、きいた。 「私ですか——」  と、亀井は、考えてから、 「もっと簡単にやりますよ。彼女を車に乗せて、そのまま海に突っ込む。それで、心中は完成です」 「私もそう考えるんだがね」 「横山とサチコの場合は、少し違うのかも知れません。横山は、最初、サチコにふられて、愛が憎しみに変わったんじゃありませんか。それで、彼女を殺した。そのあとで、急に、自責の念にかられて、車ごと海に突っ込んだ。そういうことだと思うんですが」  と、亀井は、いった。 「それなら、まだ、納得できるんだがね」  十津川は、いった。  二人は、また、河合工事に、社長の河合を訪ねた。  河合は、すでに、横山が死んだことを知っていて、 「残念ですよ。こんなことで優秀な従業員を失うのは——」 「彼は、月に、四、五十万|貰《もら》っていたと聞きましたが」 「ええ。そのくらいは払っていました。他に、難しい仕事の時は、ボーナスも払っていました」  と、河合は、いう。 「難しい仕事というのは、どういう水道工事ですか?」 「古い雑居ビルなんかでは、水道管自体、古くなって、もろくなっていますからね。ある店の工事をする場合、他の店の水道管も、取り替える必要があるんです。その了解を取るのが、大変でしてね」 「どうするんです?」 「なるべく、安くします。それで了解を取るより仕方ありませんから」 「おもてに、歌舞伎署推薦の看板が出ていますが」 「インチキ業者を排除するために、警察が、ああいう看板を、作ってくれたんです」 「と、いうことは、小早川署長がということですか?」 「まあ、そうです」  と、河合は、いってから、 「亡くなった横山の葬式を、うちで出してやりたいんですが、構いませんか? 彼は、身寄りがいないので」 「それは、私の方から、お願いします」  と、十津川は、いった。  二日後に、河合工事が、横山の葬式を出した。  盛大ではないが、心の籠《こ》もった葬式だった。  ビルの一階でやったのだが、十津川が顔を出してみると、小早川の花輪も飾られていた。  そのことで、あとで、十津川は、小早川に電話した。 「気配りが大変だな」 「警察が、歌舞伎町の住人と、敵対関係になったら、何にもできないからね。とにかく、私としては、仲良くやっていきたいと思っている」  と、小早川は、いった。 「河合工事で、歌舞伎署推薦の看板を見たよ。あれも、その一環かね?」 「中には、いい加減な業者もいるからね。そういうのは、徹底的に取り締まるが、同時に、優良な業者は、推薦しなければならないと思ってね。あの河合工事は、本当に、評判がいいんだよ。ボラないし、作業が誠実だということでね」 「実は、歌舞伎町を歩いてみてわかったんだが、水道や電気工事をやるところというのは、河合工事だけみたいだな。他の店は潰《つぶ》れたのか?」  と、十津川は、きいた。 「やっていけなくなったということだよ。信頼を失ってね。それに、歌舞伎町という狭い地区に、いくつも、ああいう店は必要ないんだ」 「じゃあ、河合工事が、独占しているわけか?」  十津川が、きくと、小早川は、電話の向こうで、笑い声を立てた。 「そんな大げさなものじゃないんだ。それに、河合工事が、手抜き工事をやったり、料金を不当に吹っかけたりしたら、すぐさま、営業停止にするから、安心してくれ」      3  次の日曜日の午後五時過ぎに、十津川と亀井は、二人で、歌舞伎町を歩いてみた。 「歌舞伎町」のアーケードを通ったとたんに、周囲の空気が変わった感じを受ける。それは、いつものことなのだが、休日となると、殊更、その感じが強くなる。  渋谷もそうだが、歌舞伎町も、若者だらけである。  中年のおじさん、おばさんは、ここには入っていけないみたいに、見事に姿がない。何処《どこ》を見ても、若者ばかりだった。  コマ劇場の前は、演歌歌手が出ていれば、中年の男女の姿が、眼につくのだが、今日は、何のイベントもやっていないので、閑散としていた。  その代わり、劇場前の通りは、若者が、文字通り、ひしめいている。  時間が時間なので、吉野家は一杯だったが、他の店はどうなっているのだろう。  パチンコ店は、がんがん音楽を流しているが、それほど客は入っていない。風俗店も、派手なネオンをきらめかせ、誘っているが、客の姿はあまりない。  若者たちは、あふれているだけみたいに見えた。  映画館のオデオン近くの広場では、若者がギターを鳴らしたりして、思い思いに腰を下ろしている。 「連中は、いったい何を待っているんでしょうね?」  亀井が、不思議そうに、見廻《みまわ》した。 「みんな、何か面白いものがあるんじゃないかと、期待して、集まって来るんだろう。何かをしたいと思って、来てるんじゃないみたいだな」  だから、ただ、歩いているように見えたり、コンクリートの地面に腰を下ろしたり、寝そべっているように見える。 「わかりませんね。若者ざかりなのに、妙に、静かじゃありませんか。それで、私には、彼らがじっと何かを待っているような気がして、仕方がないんです」  と、亀井が、いう。 (だから、怖い)  と、いう気も、十津川は、する。  夕方から、夜になると、更に、賑《にぎ》やかになってくる。ネオンは、いっそう、派手になり、店の呼び込みの声も、やかましくなってきた。  ふいに、オデオン脇の広場で、ケンカが始まった。  一人の女が、三人の男に囲まれて、殴られているのだ。  若者が、周りを取り囲んでいるのだが、ヤジを飛ばすだけで、制止しようとする者はいない。  十津川と亀井が、割って入った。  亀井が、警察手帳を三人の男たちに突きつけると、彼らは、顔を見合わせてから、素早く、人混みの中に逃げ込んでしまった。  女は、ひどい顔をしていた。  殴られて、顔から血が流れている。ワンピースの肩のあたりが裂けていて、女はそこを手で押さえている。 「どうしたんだ?」  と、亀井が、きいた。 「何でもないわ」  と、女は、いう。 「なぜ、連中に殴られたのか、その理由を教えてくれないか」  十津川が、いった。 「理由なんかないわ」 「わけもなく、殴られたのか」 「そうよ。ここは、そんな所だもの」  女の顔には、明らかに、怯《おび》えの色があった。 「君の名前は?」  と、亀井が、きいた。 「なんで、名前をいわなきゃいけないの? あたしは、何も悪いことをしてないわ」 「君は、被害者だ。われわれは、今の犯人たちを逮捕したいんだよ」 「もう、いいの」 「何処かで、君を見たような気がするんだが」  と、十津川は、いった。 「あたしは、知らないわ」 「ああ、思い出した。『ラブ・ラブ』で見たんだ。サチコに会いに行ったとき、あの店に、君もいた」 「知らないわよ」 「いや、覚えている」  と、十津川は、いった。  とすると、この女も、サチコと同じニューハーフなのか。 「とにかく、話を聞きたいんだよ」  十津川が、いうと、相手は、 「ここじゃ困るわ」 「何処ならいい?」 「外に出たいわ」 「外にって、どういうことだ?」 「歌舞伎町の外に出たいの」  と、相手は、いった。 「いいよ。何処か、落ち着ける所へ行こう」  十津川たちは、歩き出した。  女が、しきりに、裂けた肩のあたりを気にしているので、十津川が、上着を脱いで、肩にかけた。  歌舞伎町の外に出ても、女が、落ち着いたように見えないので、十津川たちは、京王プラザホテルまで歩き、そこのティールームに入った。  コーヒーとケーキを注文する。  やっと、相手は、落ち着いてきたように見えた。 「まず、君の名前を教えてくれないか」  と、十津川は、いった。 「訊問《じんもん》なの?」  女は、じっと十津川たちを窺《うかが》うように見た。 「そんなものじゃないよ」 「歌舞伎署の刑事さんじゃないみたいね」 「ああ。桜田門で、いつもは仕事をしている」 「そう。よくわからないけど」 「とにかく、君の名前を教えてくれ」  と、十津川は、繰り返した。 「ユミ」  と、相手は、ぶっきら棒に、いった。 「失礼だが、サチコと同じ、ニューハーフか?」 「ええ」 「彼女のことを聞きたいんだよ」 「何も知らないわ」 「何を怖がってるんだ?」  と、亀井が、きいた。 「別に、何も怖がってなんかないわ」 「それなら、サチコについて、知っていることを、話して欲しいね」  と、十津川が、いった。      4  それでも、暫《しばら》く、ユミは、黙りこくって、コーヒーを飲んでいた。 「サチコは、横山信というストーカーに、殺されてしまった」  十津川は、ユミの顔色を見ながら、いった。 「————」  返事は、ない。 「君の感想を聞きたい」 「あたしの感想? そんなものは、ないわ」 「ストーカーに殺されたと思うかね?」 「さあ、どうかしら?」 「横山は『ラブ・ラブ』によく来ていたというんだが」 「覚えてないわ」 「いい加減に、協力してくれたらどうなんだ!」  亀井が、思わず、怒鳴った。  ユミは、一瞬、怯えた表情になったが、それでも、 「もう終わったことだわ。それを、まだ、何かやってるの? バカバカしい」 「私は、信じてないんだよ」  と、十津川は、辛抱強く、いった。 「何を信じてないの?」 「サチコが、ストーカーに殺されたってことをだよ」 「でも、警察は、そう思ってるんでしょう?」 「警察の中には、われわれのように、信じていない者もいるんだよ」 「じゃあ、どう考えてるの?」  初めて、ユミは関心を持った表情になった。 「加倉井という刑事がいた」 「知ってるわ」 「典型的な悪徳警官だといわれているんだが、サチコだけは、違うと、いっていた。君は、どう思う?」 「知らないわ」 「何を知らないんだ?」 「警察のことを、よく知らないの」 「だが、サチコは、同僚だからよく知っていたんだろう?」 「バカよ」  ユミは、吐き捨てるように、いった。 「何が、バカなんだ?」 「加倉井刑事が、札付きのワルだったことは、みんなが知ってるわ。サチコ一人が、いい人だっていったって、誰も信用しないわよ」 「君は、加倉井刑事から、何かされたことがあるのか?」  と、十津川は、きいた。 「あたしは、別に、何もされないけど、店のオーナーは、脅かされてたみたいだわ。お金をゆすられたっていってたから」  と、ユミは、いった。 「サチコが、ストーカーにつきまとわれていたと、思うかね? 正直にいって欲しいんだよ」 「あたしは、知らないわ」 「知らないってことは、ストーカーなんか、いなかったってことなのか?」 「知らないのは、知らないの」 「サチコが、君に、ストーカーのことで、何か、いったことがあるかね? 誰かに、つきまとわれているみたいなことを」 「何だか、監視されてるみたいだっていってたことは、あるわ」 「じゃあ、ストーカーがいたんじゃないか」  亀井が、いう。 「でも、ずっと前のことよ」 「サチコは、一時、大阪の方へ行ってたことがあったね。監視されてるみたいだといったのは、いつ頃のことなんだ?」  と、十津川は、きいた。 「大阪へ行く前。それで、怖くなって、逃げてたんだと思う」 「それなのに、なぜ、また、戻ってきたんだろう?」 「わからないわ。サチコは、変わってたから」  と、ユミは、いう。 「彼女は、何か、変わったことをいってなかったかね?」 「だから、加倉井刑事のことを誉めたりしてたわ」 「その他だよ」  と、十津川は、いった。 「さあ、わからないわ」  ユミは、また、わからないと、繰り返した。 「君は、歌舞伎町を、どう思う?」  十津川は、質問を変えた。 「好きよ」 「歌舞伎署ができて、治安がよくなったと聞いているんだが、君の眼から見て、どうなんだ?」 「そういうことは、考えないことにしているの」  ユミは、そんなことを、いった。 「どうして考えないんだ?」 「考えたって、どうしようもないことだもの。あたしには、関係ないわ」 「夜なんか、安心して歩けて、いいんじゃないのか?」 「だからって、住みいいとは、限らないわ」  と、ユミは、いった。 「清潔な町になると、君たちみたいな風俗が、さびれてしまうのを、心配しているのか?」  十津川が、きくと、ユミは、急に、険しい表情になって、 「違うわよ。絶対に、違う!」 「何が違うんだ?」 「ごちそうさま。店に戻るわ」  と、ユミは、立ち上がった。 「送っていこう」 「いらないわ。一人で帰りたいの」  ユミは、そういって、さっさとティールームを出ると、玄関の方へ、歩いていった。  二人は、また、腰を落ち着けてしまった。 「どうしたんですかね?」  と、亀井が、憮然《ぶぜん》とした顔で、十津川に、きく。 「妙な具合だぞ」 「そうですよ。何か、おかしいですよ。それとも、これが歌舞伎町では日常なんですかね?」 「加倉井刑事が死んだあとから、何か、おかしくなったような気がして仕方がない」  と、十津川は、いった。 「どんな点がですか?」 「歌舞伎町では、事件が、簡単に解決してしまう。誘拐事件も、すぐ、解決してしまった。今度のサチコが殺された事件でも、すぐ、犯人が見つかった」 「ええ。確かに、異常な早さで解決しています」  と、亀井も、肯《うなず》いた。 「それなのに、誤認逮捕でもなかった。誤認逮捕は、いけないことだよ。しかし、早い時期に犯人が挙がってしまうと、よく、誤認逮捕問題が、起きるんだ。ところが、それが全くない」 「小早川署長は、刑事が優秀で、地の利があるんだと、いっていましたね」 「確かに、それもあるがね。一方で、加倉井刑事は同じ署の人間なのに、悪徳刑事のように、いわれている」 「事実、ゆすりや暴行を働いていたという事実があるんでしょう?」 「証人は何人もいる。だがね、どうして、あんなに証人がいるんだ?」  と、十津川は、眉《まゆ》をひそめた。 「おかしいですか?」 「加倉井刑事は、ベテランの刑事なんだ。ゆすりだって、もっと、うまくやるんじゃないかね。それなのに、ボロボロ出てきてしまう」 「それは、彼が死んだんで、一斉に、噴き出してきたんだと思いますが」 「かも知れないが、私は、いかにも、証人が、多すぎる気がしてね」  と、十津川は、いった。 「ストーカーの件も、警部は、疑問に思っておられるんでしょうか?」 「そうなんだ。サチコは、私の知る限りでは、ストーカーなんかでびくつく奴じゃない」 「もし、犯人の横山が、ストーカーじゃなかったとすると、どういうことになりますか?」 「横山が、サチコを殺す理由がなくなってくる」  と、十津川は、いった。 「しかし、サチコは、殺されています」 「そうさ。だから、引っかかるんだよ」  と、十津川は、いった。 「別に犯人がいると、思っておられるんですか?」 「かも知れない。当然、動機も違ってくる。その動機を知りたいんだ」      5  十津川と亀井の議論は続く。 「警部は、事件の根は加倉井刑事にあると、お考えですか?」  と、亀井が、きく。 「そんな気がして仕方がないんだが、これといった、はっきりした理由があるわけじゃない。ただ、加倉井刑事が死んで、ただ一人、彼に同情的だったサチコが殺されてしまった。もし、二人の死の間に関係があるとすると、ストーカーに殺されたという線は、疑わしくなってくるんだよ」 「もし、警部のいわれることが、当たっているとすると、横山信という水道屋は、サチコの殺人犯人に、無理矢理、仕立てられたことになってきますね」  と、亀井は、いった。 「そうなんだ。たまたま何回か『ラブ・ラブ』に行ったために、サチコのストーカーに仕立てられたことになってくるんだよ」 「ユミの話ですが、サチコが、何か監視されているような気がすると、いっていたようですね」 「ああ、ユミは、そんなことをいっていた」 「もし、横山信が、ストーカーではなかったとすると、サチコを監視していたのは、別の人間ということになってきますね」 「そうなんだ。横山信は、サチコを殺すために、ストーカーにされ、揚げ句に殺人犯にされ、とどのつまり、自殺に見せかけて殺されてしまった」 「つまり、他の人間でも良かったわけですね。サチコと何らかの関係さえあれば、殺人犯にできるわけですからね」 「私は、そう考えているよ。この推理が正しいとすると、サチコが殺された理由が、問題になってくる」 「そうですね。サチコは、ニューハーフですが、それが殺された理由とは、考えにくいですが」  亀井が、首を傾《かし》げた。 「それで、加倉井刑事との関係が浮かび上がってくるんだよ」  と、十津川は、いった。 「加倉井刑事は、悪徳刑事の典型みたいにいわれていたのに、サチコだけが、彼を擁護するようなことを口にしていた。犯人には、それが我慢ならなかったということなんでしょうか?」 「それも考えられるね。加倉井刑事を憎んでいる人間にしてみれば、彼をサポートするサチコに、腹が立っただろうからね。ただ、だから殺すというのは、ちょっと、飛躍しすぎているような気もしないわけじゃないがね」  と、十津川は、いった。  だが、事態は、ストーカーの横山信が、サチコを殺したという方向で、終息しそうな感じだった。  それが、十津川には、腹立たしかった。  小早川署長から、電話が、十津川にかかったのは、そんな時だった。 「今回の事件のことで話したい」  と、小早川は、いうのだ。 「今回の事件って、何だ?」 「決まってる。ストーカーのニューハーフ殺しだよ」 「しかし、その事件は、もう解決したんじゃないのか?」  十津川は、わざと、いってみた。 「一応、そう見えるが、私は、違うんじゃないかと、考えているんだ。どうもおかしいとね」  小早川は、しっかりした口調で、いった。  それなら、会う価値があるだろうと、十津川は思った。  今回は、久しぶりに警視庁へ行きたいと、小早川がいうので、本庁ビルの中の喫茶ルームで会った。  十津川は、煙草をくわえて、ゆっくりとくゆらしながら、 「珍しいな。君が、事件の経過に、疑問を持つなんて」  と、小早川に、いった。 「どうして? 私だって、迷うことが、いくらでもあるよ」 「しかし、サチコがストーカーに狙われているとわかったのは、歌舞伎署の捜査の結果だった筈《はず》だぞ。その結果に、今、疑問を感じているのか?」  十津川は、意地悪く、きいた。 「『ラブ・ラブ』へ行って、聞き込みをやったところ、サチコが、誰かに監視されているみたいだと、同僚にいっていたことがわかったんだ」 「そのことは、私も聞いている。ユミという同僚の証言だろ?」 「そうだ。それで、私としては、ストーカーの存在を考えた。ニューハーフにだってストーカーがいて、おかしくないからね」 「そして、横山信という水道屋に行き着いたというわけか?」 「そうなんだ。近くのマンションに住んでいたし、何回か『ラブ・ラブ』に遊びに行き、サチコが気にいっていたようだからね」 「それで、ストーカー犯罪と決めつけた?」 「決めつけたというわけじゃないよ。ストーカー犯罪の可能性が大きいと思っただけだ。そんな中に横山が自殺して、やはり、彼がストーカーだったんだなと思った。それで事件は解決したと考えた」 「だが、今になって疑問を持った理由は、何なんだ?」  と、十津川は、きいた。 「今回の事件には、他の見方もあるんじゃないかと考えたんだよ。もし、ストーカー犯罪じゃなかったら、どうなるのかと考えた」 「それで、どうなったんだ?」  と、十津川は、きいた。 「そうなら、サチコ殺しは、横山信じゃないわけだよ。犯人は別にいる。男か女か不明だが、その犯人の目的は、サチコを殺すことにあったとしか考えられない。そうだろう?」  小早川は、じっと、十津川を、見つめた。 「それで?」  と、十津川は、先を促した。 「犯人は何か理由があって、サチコを殺したかった。今のところ、その理由はわからないが、犯人は、サチコを殺したあと、犯人を作ることを考えて、横山信という男を犯人に仕立て上げることにしたんじゃないか」 「なぜ、犯人は、横山に目をつけたのかな?」 「それは、こういうことだと見るね。サチコ殺しの犯人にするためには、その男はサチコと知り合いでなければならない。横山は、何回か『ラブ・ラブ』へ行ってサチコのことを知っていたし、好意を持っていたらしい。その上、自宅マンションが近い。独身で、サチコを好きになっていたと想像することも可能だ。横山のことを、サチコのストーカーに仕立て上げることができるのではないか。犯人は、そう考えたんだと、思うんだがね」  と、小早川は、いった。 「そこまでは、同感だよ」  と、十津川は、いった。      6  小早川は、ゆっくり、コーヒーを飲んでから、 「つまり、犯人は、別に、横山信という男でなくても、うまく、サチコ殺しの犯人に仕立て上げられる人間なら誰でも良かったわけだよ。恐ろしいと思うよ」 「その点も、同感だ」 「そうか、賛成してくれるか。ほっとしたよ」  と、小早川は、肯《うなず》いた。 「ほっとした? どうして?」 「警察の中では、サチコ殺しの犯人は横山信で、ストーカーだった彼が、思いつめて凶行に及んだ。その揚げ句に、自殺したということになっているからね。私が、それに異議を唱えたら、誰も賛成してくれないんじゃないかと思ったんだ」  小早川は、手を止めて、いった。  十津川は、苦笑して、 「ずいぶん、弱気なんだな。君らしくないじゃないか」 「いつだって、自分の考えは、間違っているんじゃないかと、不安で仕方がないよ」 「歌舞伎署の署長になってからの君は、そんな風には見えないがね」 「幸運に恵まれているからさ。だが、今回の件では、どうしても、ストーカー犯罪とは思えなくなってきたんだ」 「サチコを殺すのが目的の計画犯罪か?」  と、十津川は、きいた。 「その線だと、思っている」 「誰が、何のために、サチコを殺したがっているかということだな」 「それがわからなくて困っている。だから、君の力を借りたいんだよ」  と、小早川は、いった。 「私の力を借りたいなんて、珍しいな」 「私は、君を尊敬してるんだ。嘘じゃない。君は優秀な刑事だ。私が見落としているものを、しっかり見ているんじゃないか。そうなら、教えて欲しくてね」  小早川は、珍しく、謙虚に、いった。 「サチコのことは、調べたんだろう?」 「もちろん、調べた」 「それで、彼女を殺したい人間は、浮かんでこないのか?」  と、十津川は、きいた。 「サチコは、ニューハーフだ。しかし、だから殺されたとは、とても考えられない。他人《ひと》に憎まれていた形跡もない。借金もない。前科もない。ただ一つ、引っかかったのは、加倉井刑事と親しかったことなんだが」  と、小早川は、いう。 「それが、問題なんじゃないか」 「加倉井刑事と、親しかったということがか? どうして?」 「加倉井刑事は、みんなから憎まれていた。死んでからも、悪徳刑事といわれている」 「ああ。私としては、残念だがね」 「そんな中で、サチコだけが、加倉井刑事のことを、良くいっていた。誉めていた」 「そうらしいな」 「それが原因じゃないのか」  と、十津川は、いった。 「人を誉めることが、殺される理由になるなんて、あり得ないよ」  と、小早川は、いった。 「だが、加倉井刑事に、ひどい目にあった人間は、歌舞伎町に、たくさんいるわけだろう?」 「それは、たくさんいると思うが——」 「特に、ひどい目にあった人間は、加倉井刑事のことを誉めるサチコが、癪《しやく》にさわるんじゃないかね?」  と、十津川は、いった。 「そうか。それが高じてサチコを殺したということか?」 「ではないかと思ったんだが、違うかも知れない」  十津川は、慎重に、いった。 「いや、大いにあり得るよ。人間というのは、自分と直接関係なくても、テレビで、悪い男、悪い女だといわれると、ある人間を憎むようになる。そして、その人間を擁護する人間が出てくると、そいつを憎む。よくわかりもしないでさ。それが、自分は、直接関係がある場合は殊更だろう」  と、小早川は、いう。 「その心理は、よくわかるよ。人間は、自分に同調しない人間は憎むんだ」  十津川は、いった。  小早川は、急に、溜息《ためいき》をついて、 「でも、弱ったな。加倉井刑事に被害を受けた人間は、ゴマンといるからね。それが、全部、容疑者になってしまう」 「容疑者は、何人いても、歌舞伎町の中で生活しているんだ。君なら、犯人を見つけ出すのは、簡単なんじゃないか。とにかく、君は、歌舞伎署の署長なんだから」  十津川は、軽い皮肉と、軽い激励を籠《こ》めて、いった。 「やってみるよ。今日の君の話は、ありがたかったよ」  と、小早川は、いった。  彼が帰ったあと、十津川は、亀井と、改めてコーヒーを飲んだ。 「小早川が、珍しく弱気になって、私に相談しに来たよ。サチコ殺しについて、ストーカー犯罪ということには、疑問を持ったと、いってきた」  と、十津川は、亀井に、いった。 「いいじゃありませんか。あの署長も、われわれと同じ疑問にぶつかったんですよ。当然の帰結じゃないですか」  亀井は、満足そうに、いった。 「どうもわからないんだ」  と、十津川は、いった。 「何がですか?」 「今日の小早川は、いやに、従順だった。私の意見をもっともだと受け入れると、私を尊敬するようなことを、いっていた」 「それが、おかしいんですか?」 「小早川らしくないんだよ」 「今回の事件で、疑問が出てきて、弱気になったんじゃありませんか。刑事なら、よくあることですよ。私だって、自信満々になったかと思うと、次の瞬間には、これ以上ないくらい落ち込んでしまいますから」  と、亀井は、いった。 「まあ、そうなんだが、それにしても、薄気味が悪い」  十津川は、苦笑して見せた。 「それで、あの署長は、どう対処するといっているんですか? 今回の事件について」  と、亀井が、きく。 「サチコを殺したのは、加倉井刑事に痛めつけられた人間の一人だろうといっている」 「われわれと、同意見というわけですね」 「それで、加倉井刑事に痛めつけられた人間を、片っ端から洗い出して、真犯人を見つけ出すといっていた。彼なら簡単だろう」 「そうですね。何しろ、彼は、歌舞伎署の署長ですから」 「ああ。地の利が、彼にはある」  と、十津川は、いった。 「そうなると、結局、真犯人も、歌舞伎署に捕まってしまうわけですかね」  亀井が、口惜しそうに、いう。 「まあ、それでも、真犯人が捕まればいいじゃないか」  と、十津川は、微笑した。  とにかく、小早川も、十津川と同じように、サチコ殺しについて疑問を持ち、事件を再捜査して、真犯人を見つけようとしているのだ。  亀井のいうように、真犯人を見つけ出すのも、小早川の歌舞伎署ということになるだろう。  何しろ、地の利があるのだ。  もちろん、十津川は、個人としては残念だが、警視庁全体のことを考えれば、これで、誤認逮捕がなくなるとすれば、プラスであることは間違いないだろう。 [#改ページ]  第四章 対 決      1  十津川は、亀井たち刑事を使って、真犯人の洗い出しに全力をあげた。  サチコ殺しは、加倉井刑事に恨みを持つ者の犯行という線は、崩さなかった。その中の一人が、しきりに加倉井を誉めるサチコの態度に腹を立てて、彼女を殺したのではないか。  捜査を進めている最中に、十津川宛に、匿名の投書があった。 〈歌舞伎町のビジネスホテル「マイセルフ」の松原支配人が、サチコというニューハーフを殺したと、友人に漏らしているそうです。是非、調べて下さい〉  と、だけ書かれた便箋《びんせん》が、入っていた。  ワープロかパソコンを使って、書かれたものらしい。  ガセネタかも知れなかったが、十津川は、亀井と、このホテルを訪ねてみることにした。  歌舞伎町の裏には、小さなホテルが並ぶ一角がある。  ビジネスホテルということになっているが、実質的には、ラブホテルの場合が多かった。  そのある階全部を借り切って、SMクラブを経営したり、ファッションマッサージを経営したりしているケースもある。 「マイセルフ」も、そんなホテルの一つだった。  二階は、SMクラブになっていた。もちろん、看板は出ていないが、事務室があって、客は、そこに電話をかけることになっている。  一階に、小さなフロントがある。  十津川と亀井は、フロントで、警察手帳を示して、 「支配人の松原さんに会いたい」  と、告げた。 「七階に支配人室があります」  と、フロント係はいったが、案内する気配もない。  十津川と亀井は、最上階の七階へ、エレベーターで上がっていった。  そこに、支配人室があった。  ドアをノックすると、五十代半ばの感じの男が、顔を出した。  顔色が悪い。 「松原さん?」  と、きくと、 「そうです。松原明です」  と、いって、二人を部屋に招き入れた。八畳ほどの部屋で、壁に横山大観の富士の絵が掛かっているが、多分|贋物《にせもの》だろう。  松原は、空咳《からぜき》をしてから、 「何のご用ですか?」 「『ラブ・ラブ』で働いていたサチコさんを知っていますか?」 「ニューハーフの子でしょう。名前は知ってますよ。先日、殺されたと聞いてますが」  と、いい、松原は、また、咳をした。 「ご病気ですか?」 「たいしたことはありません」 「加倉井刑事はどうです?」  と、亀井が、きく。とたんに、松原は、険しい眼になって、 「彼のことは、話したくありません」 「ひどい目にあった?」 「話したくないと、いったでしょうが——」 「サチコが、加倉井刑事のことを、一人で誉めている。ひどい目にあったことのある人たちにとっては、面白くなかったこと、この上なかったんじゃありませんか。それで、かっとして、サチコを殺したんじゃないかと、われわれは見ているんですがね」 「そんなことは、ありませんよ。私は、全く、殺しとは、関係ありません」 「『ラブ・ラブ』に遊びに行ったことは、ありませんか?」 「ああいう店には、関心がありませんから」  と、松原がいったとき、机の上の電話が鳴った。  が、松原は、出ようとしない。 「電話ですよ」  と、亀井が、注意した。 「いいんですよ」 「出て下さい」  と、亀井が促し、松原は仕方ないという感じで受話器を取った。  二人の刑事が、じっと見守る。 「こちら、歌舞伎町の『マイセルフ』ですが」  と、松原が、受けている。  向こうが、何かいっている。松原は、黙って聞いていたが、急に黙ったまま、電話を切ってしまった。  すぐ、また、電話が鳴る。  松原は、それを無視して、机の中を片付けだした。  十津川は、手を伸ばして、受話器を取った。 「どうして、電話を切ったんだ?」  と、聞き覚えのある声が、怒鳴っている。 「もしもし」  と、十津川が、いった。 「松原じゃないね?」 「十津川だが、そちらは、小早川?」 「どうして、君が、そこにいるんだ?」  と、小早川が、電話の向こうで、きく。 「ここの松原支配人に、聞きたいことがあってね」 「丁度よかった。松原支配人を押さえてくれ。逃亡する」  と、小早川は、いった。 「逃げる?」 「サチコ殺しの容疑が、濃くなったんだ」  と、小早川がいったとき、松原が立ち上がって、引き出しの中から、何か、ポケットに突っ込んで、出ようとした。  亀井が、その腕をつかんだ。 「何処《どこ》へ行くんです?」 「急用を、思い出したんで——」  と、松原が、いった。 「とにかく、捕まえてくれ」  と、小早川が、いった。 「サチコ殺しの証拠は?」 「今、彼の自宅マンションにいるんだが、彼の部屋で、殺人の証拠が見つかった」  と、小早川が、いう。 「間違いないのか?」 「間違いない。そのことで、今、本人の確認を取ろうとして、電話したところなんだ」 「本人は、サチコなんか、会ったこともないと、いってるが」 「それは嘘だ。とにかく、押さえて、署に連れて来てくれ」  と、小早川は、いった。  十津川は、亀井が押さえつけている松原に向かって、 「とにかく、署まで連れて行きますよ」  と、いった。      2  二人で、松原明を、歌舞伎署まで連行した。松原は、その間、黙って、怯《おび》えた表情になっていた。  署長の小早川は、待ち構えていて、 「最初に、私が、訊問《じんもん》する。証拠を突きつけて、自供させてみせるよ。そのあと、君たちがやってくれ」  と、十津川に、いった。  小早川は、松原を、取調室に入れて、訊問を開始した。  ほとんど、声は聞こえてこない。怒鳴り声も聞こえなかった。  小早川のことだから、物静かに、粘っこく、訊問を続けているのだろうと、十津川は、思った。  二時間は、たっぷりかかった。  上気した顔で、小早川は、取調室を出てくると、十津川に向かって、 「交代しよう」 「君の訊問は、どうなったんだ?」  と、十津川は、きいた。 「自供したよ。かっとして殺したといっている。詳しいことをきいてくれ」  と、小早川は、いった。  十津川は、亀井と二人で、取調室に入った。  松原は、じっと俯《うつむ》いていたが、十津川が声をかけると、急に、顔を上げて、 「申し訳ありませんでした」  と、頭を下げた。 「サチコを殺したのか?」  亀井が、きいた。 「はい。殺しました」 「理由は? なぜ、サチコを殺したんだ?」 「私は、加倉井刑事から、ひどい目にあってきました。ああいう仕事をやっていると、どうしても、法律に触れることもあるんです。加倉井刑事は、それを調べていて、何かあると、私を痛めつけ、金を脅し取っていたんです。殺してやりたいと思ったことも、何度かありましたよ。加倉井刑事が死んだ今でも、彼から受けた恥辱は、忘れられないんです。『ラブ・ラブ』へ遊びに行ったとき、そんな話をしていたら、サチコが、猛反対するんですよ。あんないい人はいない。あなたは、おかしいとね。それで、口論になりましたよ。何回か『ラブ・ラブ』へ行きましたが、その度に、サチコと口論になりましたよ。だんだん腹が立ってきて、揚げ句に、かっとして、サチコを殺すことになってしまったんです」  松原は、一気に、呟《つぶや》いた。  それは、今まで、溜《た》まりに溜まっていたものを、思い切って吐き出したという感じだった。 「サチコを殺した犯人として、水道工事の男の名前があがったとき、どう思ったね?」  と、十津川が、きいた。 「あれ、おかしいなと、思いました。と、同時に、助かったと、思いましたね」 「どうして、自供する気になったんだ?」  と、亀井は、松原に、きいた。 「私の自宅マンションで、サチコの身につけていた宝石が見つかったと、聞かされたからです」 「宝石?」 「ええ。サチコを殺して、宝石を奪ったんですよ。ダイヤの指輪とかね」 「どうして、そんなことをしたんだ?」  と、十津川が、きいた。 「考えてみて下さいよ。私は、加倉井刑事に、ずいぶん、金を取られているんです。その金で、加倉井刑事は、サチコに、宝石やハンドバッグを買ってやってるんですよ。だから、少しでも、取り返してやりたかったんです。それで、足がつくなんて、やっぱり、悪いことはできないと思いますね」  松原は、小さく、溜息《ためいき》をついた。 「サチコを、どうやって殺したんだ?」 「睡眠薬入りのウイスキーを飲ませておいて、隅田川に投げ込んだんです。そうすれば、溺死《できし》して、事故死か、自殺と思われるんじゃないかと思ったんですが、駄目でした」 「なぜ、隅田川まで運んだんだ?」  と、亀井が、きいた。 「なるべく、新宿から離れた場所にしようと思ったんですよ。離れていれば、どこでもよかったんですが、前によく浅草に遊びに行ったことがあったので、何となく、言問橋近くにしてしまいました」 「睡眠薬入りのウイスキーは、どこで飲ませたのかね?」  と、十津川が、きいた。 「車の中です」 「サチコの宝石を盗んだのは、その後かね?」 「サチコを隅田川へ投げ込む前に、マンションの鍵《かぎ》を盗み、放り込んでから、引き返して、マンションから、宝石を盗み出したんです。理由は、前にいった通りです」 「今の警察というか、歌舞伎署の刑事たちをどう思っているね?」  十津川がきくと、 「そうですねえ」  と、松原は、考えていたが、 「前より、事件が早く解決するようになりましたよ。それから、安全になりましたよ。前は、危険な盛り場だったけど、安全な街になりましたね。ホームレスもいなくなって、いいことじゃありませんか。まあ、私は、捕まったから、有り難くはないけど」 「つまり、歌舞伎署の刑事たちが、優秀だということか」 「そうですよ。加倉井刑事は別だけど、他の刑事さんたちは、みんな使命感に燃えていて、優秀ですよ」  と、松原はいい、また、咳き込んだ。  それだけ聞いて、十津川と亀井は、訊問をやめ、取調室を出た。 「また、歌舞伎署の勝利ですね」  と、亀井が、憮然《ぶぜん》とした顔で、いった。 「どの署でも、警察の勝利ならいいさ」 「しかし、警部も、小さな疑問はお持ちなんでしょう?」  亀井が、見透かしたように、いう。 「ああ。疑問は湧いてきている。しかし、何の証拠もない。事件の解決が早いからといって、それに、文句をいう筋合いじゃないからね」  と、十津川は、自分にいい聞かせるようにいった。 「松原が自供したのは、事実です。彼が、嘘の自供をしたとは、とても思えません」 「カメさんは、何がいいたいんだ?」 「ひょっとすると、歌舞伎署が、犯人を作っているんじゃないか。そんな気がしたんです。あまりにも、簡単に犯人が捕まってしまいますからね。しかし、松原は、間違いなく、犯人です」 「歌舞伎署のでっち上げじゃなくて、ほっとしたということかね?」 「そうです。安心しました。しかし、それでも、まだ、どこかに、納得できないものが、残ってしまうんです」  と、亀井は、いった。 「じゃあ、どうするね?」  と、十津川は、きいた。 「わかりません。解決した事件にこだわるのは、よくありませんからね。でも、もう一度、調べ直してみたいんです。自分で、納得したいんです」 「じゃあ、松原という男のことを、詳しく、調べてみるかね?」 「構いませんか? 歌舞伎署への挑戦みたいに思われませんかね?」 「私が許可するよ」  と、十津川は、いってから、 「実は、私も、松原という男について、詳しく調べてみたいんだ」      3  十津川の指示で、秘かに、松原明について、亀井刑事たちが、調べ始めた。  歌舞伎署と小早川署長には、内緒である。  いや、それだけではない。三上本部長や本多捜査一課長にも、話していなかった。話せば、反対されるに決まっていたからである。  松原明は、サチコ殺しを自供し、すでに、起訴手続きも取られているからだった。  少しずつ、十津川の手元に、松原明についての資料が集まってきた。  彼の簡単な経歴は、歌舞伎署が調べてしまっている。  十津川が知りたいのは、その他のことだった。  松原には前科があった。  今、五十五歳の松原は、四十八歳の時に、妻を殺していた。  その時、妻の治子は二十五歳だった。二十歳以上も若い妻を迎えて、有頂天になっていたのだが、若い妻は、すぐ、若い愛人を作ってしまった。 「それで、松原は、かっとして、妻の治子の首を絞めて殺してしまい、七年間、刑務所に入っていました」  と、西本が、報告した。 「出所して、歌舞伎町のビジネスホテルの支配人か」 「その世話をしたのが、生まれたばかりの歌舞伎署の小早川署長だそうです」 「小早川がか」 「それで恩を売ったということですかね」  と、亀井が、いう。 「だからといって、殺してもいないのに、サチコを殺したとは、いわないだろう」  と、十津川は、いった。 「確かに、そうですが——」 「松原には、娘がいます」  と、報告したのは、北条早苗刑事だった。 「娘がいるのか」 「前妻の子供です。名前は晴美。二十九歳で夫と離婚し、現在、女手一つで、四歳と三歳の子供を育てています」 「松原と一緒には住んでいないのか?」 「横浜に住んでいます。近くのスーパーで働いているようですが、生活は苦しいようです」 「松原とは連絡が取れていたんだろうか?」 「彼も、月々、十五、六万円の金を送っていたそうです」 「それじゃあ、彼が逮捕されたので、娘さんは大変だろう?」 「と、思いますが」 「その娘を、もう少し調べてくれ」  と、十津川は、いった。  彼には、どうしても、松原がサチコを殺した犯人には見えないのだ。  二日後、十津川は、松原が歌舞伎署の留置場で自殺したと、知らされた。  どこで手に入れたのか、ガラスの破片で、手首を切ったのである。  すぐ救急車で病院に運ばれたが、その途中で死亡したという。死因は失血死だった。 「彼は、三千万円の生命保険に入っていたことがわかりました」  と、早苗が、報告した。 「受取人は、娘の晴美か?」 「そうです」 「妙に、理に落ちて来たな」  十津川は、考え込んだ。  松原の死が、あたかも予定されていたかのように思えたからである。  彼は、自分の死によって、三千万円の保険金が、実の娘の晴美に渡ることを期待していたのではないか。 「そのついでに、恩になった小早川にも、恩を返そうとしたんじゃないのかね?」  十津川は、亀井に、いった。 「では、警部は、松原の自供は嘘だと思われるわけですか?」  亀井が、怖いような眼で、十津川を見た。 「ああ、そうだ」 「しかし、松原は、まだ五十五歳です。いくら娘が可愛いからといって、三千万円の保険金を娘に贈るためとはいえ、自殺するものでしょうか?」 「松原は、若い後妻を貰《もら》うとき、実の娘を実質的に裏切ったんじゃないかね。その上、七年間も刑務所に入っていた。そんなことで、娘に対して申し訳ないという思いにかられたんじゃないかね。それに、松原は、生きていくことに疲れたんじゃないか。そんな思いが重なったのかも知れない」  と、十津川は、いった。 「しかし、松原は、サチコを殺していない」 「私はそう感じるんだよ」 「そうだとすると、松原は、小早川署長に頼まれて、サチコ殺しの犯人になることを承知したことになってきますが——」  亀井は、まだ、半信半疑の表情だった。  無理もなかった。十津川の言葉は、小早川署長が、殺人犯をでっち上げたことになるからである。 「大きな疑問があります」  と、亀井が、いった。 「どんなことだ?」 「小早川署長が、松原に恩を売って、彼をサチコ殺しの犯人にでっち上げたとします」 「ああ」 「しかし、なぜ、そんなことをしたんでしょうか? サチコ殺しは、水道工事の横山信が犯人ということで解決しているんですから」  と、亀井は、いった。 「それは、われわれが、サチコ殺しに疑問を持ち始めたからだろう。われわれは、横山信が犯人ではないのではないかと思った。小早川はそれに気付いて、慌てて新しい犯人を見つけ出すことにしたんだ。私は、そう考えるんだがね」  十津川は、考えながら、いった。 「しかし、われわれが、そう疑っていても、何の証拠もなかったんです。なぜ、小早川署長は、怯《おび》えて、慌てて、新しい犯人をでっち上げたんでしょうか?」  亀井が、なおも、きく。 「私にも、そこが、よくわからないんだがね」  と、十津川は、いった。      4  マスコミは、松原の自殺を、話題にした。 〈悲しい父性愛〉 〈せめてもの罪滅ぼし。留置場から、娘に贈る三千万円〉  そんな見出しが並んで、十津川を呆然《ぼうぜん》とさせた。  どうやら、小早川がマスコミと保険会社に強力に働きかけたらしい。  小早川は、記者会見で、こういった。 「まず、留置中の容疑者、松原明を死亡させてしまったことを、お詫《わ》び致します。ただ、今回ほど、その罪を憎んで、その人を憎まずという言葉を強く感じたことはありません。彼には、自分が捨てた妻の娘がいます。彼女は、今、女手一つで、二人の幼い子供を育てています。松原としては、何とかして彼女を助けたい。その思いで、自分を殺し、三千万円の生命保険を娘に渡したいと考えたんだと思っています」 「三千万円の生命保険は、松原さんの娘さんに、間違いなく渡るんですか?」  と、記者の一人が、きいた。 「私が、保険会社に掛けあって、間違いなく娘さんに渡すようにします。それは、お約束します」  と、小早川は、いった。 「松原が、自殺に使ったガラスの破片ですが、どうやって手に入れたんでしょうか?」 「調べているのですが、今のところ、全くわかりません。多分、彼は、必死の思いで持ち込んだんだと思っています」 「出所した松原を、ビジネスホテルの支配人に世話したのは、署長だそうですね?」  と、他の記者が、きいた。 「犯人を逮捕するばかりが、警察の仕事ではありませんから」  と、だけ、小早川は、いった。  そんな記者会見の雑談も、十津川は、聞いた。 「どうも、でき過ぎだな」  十津川は、眉《まゆ》をひそめて、亀井に、いった。 「悪くいえば、お涙|頂戴《ちようだい》が過ぎるような気がします」  と、亀井は、自分の考えを、口にした。 「三上本部長なんかは、小早川の行動に、感心しているらしい」 「そうでしょうね。表面的に見れば、美談ですから」  と、亀井は、いう。 「彼としては、これで、全て解決したということにしたいんだろうがね」 「警部は、どうしても、サチコ殺しは、横山信が犯人でもないし、松原明も違うと思っていらっしゃるんでしょう?」 「疑いを、持っている」  と、十津川は、いった。 「それでは、警部は、誰が犯人と思われるんですか?」 「わからないが、最初からおかしな事件だったと思い始めているんだよ」  十津川は、眉を寄せて、いった。 「最初からですか?」 「そうだ。それに、カメさんがいうように、なぜ小早川が慌ててサチコ殺しを見直したいといい、新しい犯人を見つけ出したかも、不思議なんだよ」 「そうです。今でも、私は、慌てる必要はなかったのにと、不思議でなりません」 「始めから考えてみよう」  と、十津川は、いった。 「始めからですか?」 「そうだよ。まず、悪徳刑事といわれた加倉井刑事が事故で死んだ。次は、ただ一人、彼を悪くいわなかったサチコが殺された」 「ええ」 「加倉井刑事の死は、歌舞伎町で悪いことばかりやってきて、自殺したということでも、納得できる。だが、サチコは、なぜ殺されたんだろう?」 「それは、加倉井の味方をしていたからでしょう。他に考えようがありません」 「次は、横山信だ。サチコに対するストーカーが高じて殺人に走ったといわれていた」 「そうです」 「そのあと、今度は、ビジネスホテルの支配人の松原が自殺した」 「ええ」 「問題は、動機だな」  と、十津川は、いう。 「それは、サチコ一人が加倉井刑事を誉めるので、腹を立てたということでしょう。横山信が死んだときも、松原が逮捕されたときも、悪徳刑事に味方するサチコに腹を立てたと、いっていますから」  と、亀井が、いった。 「それは、わからないことはないが、果たして、サチコはそんなに重要人物だったんだろうか?」 「どういうことでしょう?」 「サチコは、ニューハーフだった。加倉井刑事を誉めていた。それだけだろう。そんな人間を、何人もの人間が寄ってたかって、なぜ、殺したんだろう?」  と、十津川は、首を傾げる。 「ですから、加倉井刑事に痛めつけられていた人間が、彼のことを誉めるサチコに腹を立ててということなんじゃありませんか?」 「しかし、今、われわれは、犯人は横山信でも、松原明でもないと考えているんだよ。それでも、サチコが殺されたことは、事実なんだ」  と、十津川は、いった。 「別の理由で、サチコは殺されたということでしょうか?」  亀井が、きく。 「かも知れないな」 「どんな理由が考えられますか?」 「全く違う理由かも知れないな」  十津川は、自問する調子で、呟《つぶや》いた。 「全く違う理由——ですか?」 「ああ」 「しかし、サチコが嫌われ者の加倉井刑事を誉めていた。それ以上のことというと、いったい何があるんでしょう?」 「ニューハーフが、理由じゃないね。今どき、それがけしからんという人間はいないだろう」 「そうですよ。ニューハーフというだけで、殺されるなんてことは、考えられません」  と、亀井は、いった。 「他に何があるだろうか?」 「もう一度、サチコという人間を調べてみましょう」  と、亀井は、いった。  サチコは何者なのか。  その生い立ちから、家族のこと。ニューハーフになった理由。なぜ、加倉井刑事を誉めていたのか。  そういうことを、徹底的に調べることになった。  亀井たちは、聞き込みに、奔走した。  だが、新しい動機らしいものは、いっこうに出てこなかった。  誰かの秘密を握って、その相手を脅迫していた事実もないし、サチコが莫大《ばくだい》な遺産の受取人だという事実もなかった。 「出てきませんね」  亀井が、溜息《ためいき》をついた。 「加倉井刑事を支持していたという以外、殺される理由は、とうとう見つからずか」 「見つかりません」 「だが、サチコは殺された。そして、二人も犯人が出てきた」  と、十津川は、いった。 「もし、これが誰かの策謀だとしたら、よほど、サチコを殺したい理由があったということになってきますね」 「ああ」  と、十津川は、肯《うなず》いた。が、その眼は、宙を見すえていた。 「何かお考えですか?」  亀井が、きく。 「ひょっとして、逆なんじゃないのかな?」  と、十津川は、呟いた。      5 「逆というのは、どういうことでしょうか?」  亀井が、首を傾げる。 「サチコが殺される理由は、最初、ストーカーの横山に殺されたといわれていて、次に、加倉井刑事に痛めつけられていた松原が、その恨みをサチコに向けたのだということになった。そして、横山も、松原も、同じように、自ら命を絶っている。従って、この二人に会って、本当に、サチコを殺したのか、動機は何だったのか、聞くことができないんだよ」 「そうです。だから、疑惑が生まれてきています」 「もし、松原が真犯人なら、横山は、いったい、何だったのかということになってくる」 「ええ」 「横山が、誤認逮捕されて、無実を叫んでいて、捜査の結果、真犯人として、松原という男が見つかったというのなら納得できるのだが、今回はそうじゃない。松原は、勝手に自分がサチコを殺したといって、自殺してしまっている。もし、松原が犯人なら、なぜ、横山は、自殺してしまったのか?」 「私も、わけがわかりません」 「松原の場合は、北条刑事がいうように、娘に生命保険を残したいから自殺したということで説明がつく。が、横山の方は、全く、説明がつかない」 「ということは、横山が真犯人で、ストーカーが高じて、サチコを殺害したということになってきますか?」 「それでは、なぜ、松原が自供したかわからなくなってしまう。わざわざ殺人犯として自殺するのを、娘が喜ぶ筈《はず》がないからね」  と、十津川は、いった。 「わけがわからなくなってきますね」 「そうなんだよ。なぜ、わけがわからないのだろうか? そう考えてきて、理由は、われわれが事件を逆に見ているからではないかと思ったんだよ」  と、十津川は、いい、 「問題を、サチコ殺しとして、ストーカーの横山が浮かんで、彼が自殺したところに戻して考えてみようじゃないか」 「それを、逆に考えるというのは、どういうことですか?」  と、亀井が、きいた。 「文字通り、逆に考えるんだよ。われわれは、横山がサチコを殺したと考えた。それを、逆にするんだ」 「横山を殺して、サチコを犯人ということですか? しかし、現実は、そうなっていませんが」  亀井が、眉《まゆ》を寄せた。  十津川は、微笑して、 「そんなことをいってるんじゃないんだ。この事件は、企てられたものだと、私は、今、考えているんだよ」 「仕組まれた事件ということですか?」 「そうだ。そいつは、サチコがストーカーの横山に殺され、横山は、そのあと、自殺したと、世間にも、われわれにも、思わせたかったんだ。そして、成功した」 「ええ。ただ、われわれが、疑問を持ち始めたんでした」 「それで、今度は慌てて、松原という犯人を作り出したと、私は考える」 「その松原も、自殺させてしまいましたね」 「そうだ。それも、あくまでも、サチコが狙われたのだというストーリィにしてだよ」  と、十津川は、いった。 「そのストーリィが、逆ではないかということですね?」  亀井は、同じ言葉を繰り返した。その表情が、いらだっているのは、十津川が、なかなか核心に入っていかないからだろう。  十津川にも、それは、よくわかっていた。彼自身、自分の考えを、どう上手《うま》く説明したらいいか、わからなかったのだ。 「私は、狙われたのは、サチコではなかったのではないかと思い始めた。狙われたのは、横山の方ではないのかとね」 「しかし、サチコの方が、先に殺されています」 「当たり前さ。逆になったら、狙われたのは、横山とわかってしまう。だから、まず、サチコを殺した。次に、犯人として、横山を自殺に見せかけて殺す。これで事件は完結し、誰も事件は終わったと思う。犯人の思う通りになったわけだよ」 「しかし、われわれが、疑問を持ったんです」 「それで、犯人は、慌てた。なぜ、慌てたか、私は、それを、サチコ殺しの真犯人がいて、そいつが、自分の犯行が、バレたと思って、慌てたんだろうと考えた。しかし、そうじゃなかったんだよ。サチコが殺されたのは、横山殺しの目的を隠すためだった。それが、バレたと思って、慌てたのではないのか。そこで、慌てて、松原というサチコ殺しの犯人を仕立て上げて、反応を見たんだと、私は、思い始めたんだ」 「では、サチコ、横山、松原の三人は、一人の人間に殺されたことになってきますね」 「そうじゃないかと、思っている。そいつは、何とかして、われわれに、犯行の目的を、悟られまいとしているんだ。狙われたのは、サチコではなく、横山信だということだよ」  十津川は、喋《しやべ》っているうちに、次第に、確信を持ってきた。  犯人は、誰かわからないが、その人間は、何とかして、横山信を殺したかったのだ。だが、ただ殺したのでは、犯人の目的を探られることになる。だから、周到に計画を立てた。  まず、サチコを殺す。世間も、警察も、眼の前の現象に眼を奪われ、とにかく、サチコ殺しの犯人を捜す。  そこで、犯人は、横山を自殺に見せかけて殺し、彼が、サチコのストーカーだったという噂を流す。  ストーカーが、サチコを殺したというストーリィにしたのだ。うまいやり方だ。これで、犯人の真の目的は、隠されてしまった。 「しかし、警部。横山は、なぜ、殺されたんですか? 横山には、サチコ以上に、人に恨まれる理由がないように思えますが」  と、亀井は、いった。      6 「横山は、水道工事の職人です。何か、副業をやっていたという話も聞いていません」  と、亀井は、続けた。  十津川は、肯いて、 「その通りだ。主として、新宿歌舞伎町で、働いていたんだが、評判は悪くない。彼についての苦情も聞いたことがない」 「そうなんですよ。おまけに、最近、その仕事を辞めたがっていたというんです。なおさら、殺される理由はなくなっていたと、思いますが」  亀井が、わかりませんというように、小さく、首を振って見せた。 「ひょっとすると、彼が、辞めようとしていたことに、理由があったんじゃないのかね?」  と、十津川が、ふと、いった。 「それはないと思いますよ」 「どうして?」 「横山が会社とケンカしていたという話も聞いていませんし、彼が、仕事で何か事件を起こしたという話も聞いていません」 「独身だったな?」 「そうです」 「歌舞伎町で、何か事件を起こしていないかね? 女のことで」 「それも、ありません。だから、ニューハーフのサチコのストーカーではなかったのかと疑われたんですから」  と、亀井は、いった。 「何か、秘密を持っているようにも、見えなかったか?」 「彼のマンションを調べた限りでは、秘密めかしたものは、見つかりませんでした。どう考えても、ただの、腕のいい職人としか考えられません」 「会社では、いい給料を貰《もら》っていたんだったね?」 「確か、月給四、五十万円と聞きました」 「独身なら、十分だな。それでも、辞めたがっていたというのは、何故なんだろう?」 「今は、若者が、よく離職する時代です。上役がうるさいというだけでも、一、二年で、会社を辞める若者がいます」  と、亀井は、いった。 「参ったな」  と、十津川は、呟《つぶや》いた。  本当に狙われたのは、横山信だと考えた。その考えは、間違いないと思ったのだが、横山信が何故、殺されたかという動機になって、また、十津川は、自信がなくなってきた。 (サチコ以上に、横山には、殺される理由がないんじゃありませんか?)  と、亀井が、いう。  今の段階では、その通りなのだ。  腕のいい水道工事の職人。実は、大泥棒ということでもあれば、動機ありになるのだが、そんな気配もない。 「参ったな」  と、十津川は、もう一度、呟いた。  そのあとで、亀井に、 「もう一度、横山が、働いていた河合工事に行ってみよう」  と、声をかけた。  前に来た時も思ったのだが、会社としては、お世辞にも、いい環境とはいえないだろう。  隣はパチンコ屋で、昼間からうるさいし、向かいのビルは、いわゆる風俗ビルで、ランジェリーパブや、テレクラ、韓国パブなんかが、一階から五階まで、詰まっている。  水道工事  電気工事  その他の工事  正確、迅速、廉価がモットーです  と書かれた看板も、前の時と同じように、表にかかっていた。  二人は、あの時と同じように、まず、社長の河合に会った。 「いつぞやは、うちの社員のことで、いろいろとご迷惑をおかけしました」  と、河合が、小さく頭を下げた。  それに対して、十津川は、 「横山信の件で、先日は、嘘をつかれましたね」 「私がですか?」 「そうです。そのあと、われわれが調べたところ、横山は、この河合工事を辞めたがっていたということですが、前にお邪魔したときは、一言も、そんなことをいわれませんでしたね」 「それは初耳です。横山が辞めたがっていたなんて、全く知りませんでしたよ。誰かが出まかせをいっているんじゃありませんか?」  河合は、心外だという顔で、十津川に、いった。 「いや、彼をよく知る人が、そう証言しているんです」 「うちの社員は、誰も、そんな話をしていませんよ。仲間にもいわなかったというのは、どういうことなんですかね?」 「本当に、知らなかったんですか?」  十津川は、重ねて、きいた。  河合は、むっとした顔になって、 「私は、親の気持ちで従業員に接しています。古いかも知れませんが、親と子です。だから、不満があれば、親の私にいってくる筈《はず》なんですがねえ。彼は、なんにもいってこなかったし、死ぬ直前だって、しっかり働いていたんですよ。刑事さん、本当に、彼が辞めたがっていたんですか? 無責任なデマじゃありませんかねえ」 「彼は、自殺したことになっていますが——」 「違うんですか?」 「私は、殺されたと思っています」 「誰が、何のために殺すんですか? ニューハーフ殺しは、彼じゃないとわかったと聞いていますよ。無実の人間を、誰が殺すんですか?」 「社長は、今でも、自殺したと思っていらっしゃるんですか?」 「そうです」 「では、どうして自殺したと思うんですか? 無実なのにです」 「だから、自殺したんですよ」 「だから?」 「彼は、真面目な男です。それに、ニューハーフを殺してもいなかった。それなのに、犯人扱いされたので、かっとして、抗議の自殺をしたんです。それ以外は考えられないじゃありませんか」  と、河合は、腹立たしげに、いった。 「抗議の自殺ですか?」 「私はね、そのうちに弁護士を立てて、正式に警察を告訴しようと思っているんです。今もいったように、従業員は、子供と同じです。だから、子供の名誉のための告訴ですよ」  河合は、息巻いた。 「横山信ですが、誰かに、憎まれていたということは、ありませんか?」  と、亀井が、きいた。 「あんないい男を、憎んでいる人間がいる筈がありませんよ。刑事さんも、調べられたのなら、おわかりになったでしょう? 彼のことを悪くいう人間は一人もいないでしょう?」 「確かに、そうですがね。しかし、今もいったように、彼がこの仕事を辞めたがっていたという人は、何人かいるんですよ」 「だから、私としては、それが信じられないと、いっているんです」  河合は、力を籠《こ》めて、いった。 「ここを辞めた人は、どのくらいいるんですか?」  と、十津川が、きいた。 「いませんよ」 「いない?」 「ええ。居心地がいいとみえて、誰も辞めていかんのです。まあ、創業まだ十年ということがありますが」  と、河合は、笑った。 「本当に、辞めた人は、一人もいないんですか?」 「十年間、一人もおりません」  河合が、ニコリとする。それが、自慢なのかも知れない。 「若い人が、多いんですか?」 「平均年齢三十歳ぐらいですがね」 「先日は、横山は、四、五十万円の月給だったと、いわれましたね?」 「そうです。うちの平均です」 「ボーナスは?」 「営業成績が良ければ、思い切って出します。うちは、その主義ですから」  また、河合は、得意そうに、いった。      7  十津川は、河合の話を半分信じ、半分信じなかった。  辞める人間がいないというのは、多分、本当だろう。ただ、問題は、辞めない理由である。  ただ単に、居心地がいいだけというのが、信用できないのだ。昔なら、それだけで、一生、同じ会社で働くということもあり得るだろうが、今は違う。どんなに恵まれた会社でも、辞めていく社員がいる時代である。それなのに、一人も辞めた社員がいないというのは、立派というよりも、異常なのではないのか。  そして、横山信のことである。  最初、十津川は、彼が、ニューハーフのサチコのストーカーで、その揚げ句に殺してしまい、自分も命を絶ったと、考えていた。  しかし、今、十津川は、逆を考えている。  何者かが、横山を殺すために、一つのストーリィを作り、まず、サチコを殺したと、信じている。  問題は、横山が殺された理由だった。  サチコのストーカーでなかったとすると、彼の周辺をいくら調べても、他に、女の影はない。  愛情問題ではないのだ。  また、横山が、大きな借金に苦しんでいたという形跡もない。  唯一、残っているのは、横山が、今、勤めている工事会社を辞めたがっていたということなのだ。  しかし、それが、どうして殺される理由になるのか?  水道や電気の工事というのは表向きで、本当は、恐るべき秘密結社とでもいうのなら、殺される理由になる。  しかし、それらしい気配は見られない。現実に、評判のいい工事会社なのだ。  今、十津川が、社長の河合と話している間も、しきりに電話がかかってきて、社員が慌ただしく出かけていく。 「Mビル三階のクラブで、水漏れがあるというので、行ってきます」 「パチンコ店のラッキーで、蛍光灯が、三つ切れているので、行ってきます」  そんな風に、社長の河合に声をかけて、出かけて行くのだ。  その度に、河合は、 「ご苦労さん」  と、応じている。  何処《どこ》にも、怪しいところは見られない。  そのうちに、 「歌舞伎署からで、水道が濁って仕方がないというので、直してきます」  と、声をかけていく社員もあった。 「忙しそうですね」  十津川が、いうと、河合は、笑って、 「こういう盛り場は、特に、故障が多いんですよ。無理して使いますからね」  と、いった。 「もう一度、お聞きしますが、横山が、この会社を辞めたがっていたことはないと、いうんですね?」  十津川は、念を押した。 「そんなことは、全くありません。それは、為にする悪口だと思います」 「では、なぜ、そんなデマが流れたと、思いますか?」  と、十津川は、きいた。 「うちは、この歌舞伎町で、独占的に各種工事を請け負っています。それを、やっかんでのことだと思いますね」 「なぜ、あなたの会社が、歌舞伎町で、独占的に、水道などの工事をやっていけるんでしょう?」  と、十津川は、きいた。 「そうですねえ。こういう仕事で、何よりも大事なのは、信用です。特に、歌舞伎町のようなところでは、信用がなければ、仕事を頼む人なんか、いませんからね。それだと思いますね。うちが仕事を独占できるのは」 「そのために、努力しているということですか?」 「うちでは、修理して、すぐ、駄目になった時は、無料で、もう一度、修理させて頂くことにしています」  河合は、自慢げに、いい、 「おかげで、この賞状を頂いています」  と、背後の壁にかかった賞状を、眼で示した。  それは、歌舞伎署の署長名で、小早川が出している賞状だった。  地域社会に貢献していると、書いてある。 「なるほど。いい会社だというお墨付きみたいなものだ」  と、亀井が、軽い皮肉を籠めて、いった。  この賞状も、歌舞伎町での、仕事の独占に役立っているのだろうと、思ったからだった。 「私は辞退したんですが、小早川署長は、他の店の励みにもなるから、是非、貰《もら》って欲しいと、いわれましてね。事実、パチンコ店やクラブなんかでも、客の評判のいい店には、署長名で、賞状を出されているんです」 「小早川署長のことを、どう思います?」  と、十津川は、きいてみた。 「そうですねえ。頭の切れる優秀な署長さんだと思いますよ。歌舞伎町の犯罪が、少なくなったことは、紛れもない事実ですからね。ボッタクリバーも、殆《ほとん》どなくなったし、歌舞伎町が、安心して遊べる盛り場といわれるようになったのは、あの署長さんのおかげだと思っています」 「しかし、加倉井刑事のような、刑事もいましたが」  と、十津川が、いうと、河合は、苦笑して、 「何処にも、悪い奴はいるものですよ」  と、いった。      8  二人は、河合工事を出ると、近くの雑居ビルに入り、その五階にある喫茶店に腰を落ち着けた。  窓際に腰を下ろすと、河合工事が、眼の前に見える。 「どう思われました?」  亀井は、河合工事に眼をやりながら、きいた。  十津川は、コーヒーを前に置いて、煙草に火をつけた。煙草の本数が増えるのは、彼が、悩んでいる時だった。 「怪しいとは思うんだが、何処が怪しいのかが、わからないんだよ」  と、十津川は、いった。 「横山が、あの会社を辞めたがっていたのは、間違いないんです。河合は、明らかに、嘘をついていますよ」  亀井が、いう。 「ああ、そうだ。しかし、横山が、辞めたいと自分で思っていただけで、社長の河合には、いってなかったのかも知れない。少なくとも、河合は、そういうだろう」 「それは、そうですが——」 「それより、私は、別のことに、首を傾げたんだよ」 「どんなことにですか?」 「横山の死について、彼は、警察に対する抗議の自殺だといい、弁護士に頼んで、警察を告訴したいと、いっていた」 「そうでしたね」 「ところが、その一方で、小早川署長を誉め、おかげで、歌舞伎町では犯罪が少なくなり、安心して遊べる盛り場になったと、いっている」  と、十津川は、いった。 「確かに、おかしいといえば、おかしいですが」  亀井が、曖昧《あいまい》な返事をする。  十津川は、急に立ち上がって、カウンターに行くと、店のオーナーに、 「この前にある河合工事を、どう思いますか?」  と、きいた。  三十五、六歳のオーナーは、ちょっとびっくりした顔で、 「いい仕事をやってくれますよ」 「具体的に、どんなですか? ここで、工事を頼んだことがあるんですか?」 「うちは、ビルの最上階にあるんで、どうしても水道の出が悪くなるんですよ。古いビルですしね。それで、河合工事さんに電話することが多いんですが、どんな時でも、嫌な顔せずに、やってくれますよ」 「信用できるということですか?」 「ええ。一番、助かったのは、うちが休みの日にやってくれたことですね。工事で、仕事を休まなくてすみますからね」  と、店のオーナーは、いう。 「休みの日にね」 「うちは、月二回、第一水曜日と第三水曜日が、休みなんですが、その時に、工事をやって貰《もら》ったんです」 「しかし、何かなくなる心配は、ありませんでしたか?」  と、十津川は、きいた。 「そういう時は、金や大事なものは、店に置いておきませんよ。そうでしょう? それに、私は、河合工事さんを信用していますから」  と、オーナーは、いった。 「店が休みの日に工事を頼むというのは、多いんですかね?」 「そりゃあ多いでしょう。普通の日に工事をやられたら、損害ですからね。客商売の店は、たいてい、そうしているんじゃありませんか」 「そのことで、何かがなくなったという話は聞いていませんか?」 「聞きませんね。もし、そんな噂が立ったら、一番、不利益を被るのは、河合工事さんだから、注意しているんだと思いますよ」 「その河合工事ですが、社員が一人も辞めずにいるのが自慢だと、社長はいっていたんですがね」  十津川が、いうと、店のオーナーは、 「そういえば、河合工事さんは、いつも同じ社員ですねえ。よっぽど、居心地がいいんでしょうね」  と、微笑した。 「居心地がいいだけだと思いますか?」 「まあ、一番、給料がいいということでしょうがね」 「河合工事で、横山という社員が死んだんですが、知っていますか?」 「ええ。この間、社長の河合さんに会ったら、怒っていましたからね。あれは、警察に対する抗議の自殺だといって」  と、オーナーは、いった。  十津川は、自分のテーブルに戻ると、また、新しい煙草に火をつけた。 「この店のオーナーも、河合工事のことを誉めていたよ」  と、十津川は、亀井に、いった。 「疑惑はなしですか?」 「ただ、河合工事は、この店が休みの日に水道工事をやってくれるので、助かるともいっていた」 「休みの日ですか」 「パチンコ店なんかも、休みの日に、電気工事をやってくれるらしい」 「店としては、助かるでしょうね。ただ、心配なのは、貴重品や金を盗まれることだと思いますが」  と、亀井も、いう。 「そういう事故は、一回も起きていないといっていた。もっとも、事故が起きたら、一番、痛手を受けるのは、河合工事だろうがね」  と、十津川は、いった。 「河合工事の評判は、いいことばかりですか?」 「だから、余計に、横山の死が、不可解に思えてくるんだよ」 「横山には、殺される強い理由があったということになりますね。だが、それらしい理由が、どうしても、浮かび上がってこない」 「そうなんだよ」  十津川は、考え込んだ。  その日、十津川は、亀井と別れると、歌舞伎署へ、小早川に会いに行った。  署長室で、彼に会った。 「河合工事に行って、河合社長に会ってきた」  と、十津川は、いった。 「いい男だよ。評判がいい」 「そうらしい。君の贈った賞状が、壁にかかっていた」 「河合工事だけでなく、他のパチンコ店なんかにも、積極的に、賞状を出すことにしているんだ。取り締まるだけじゃいけないと思ってね」  と、小早川は、いった。 「その話も聞いた。ただ、何となく、おかしいんだよな」  と、十津川は、いった。  小早川は、小さく笑って、 「何が、おかしいんだ?」 「立派な工事屋がいて、歌舞伎町は、犯罪が少なくなって、安心できる盛り場になって——」 「悪いことじゃないだろう」 「もちろん、いいことさ」 「どこが、おかしいんだ?」  小早川が、同じことを、きく。 「それなのに、おかしな殺人事件が起きている」 「そりゃあ、全く殺人事件の起きない盛り場なんて、あり得ないよ」 「ああ、わかっている。ただ、おかしな事件ということなんだよ。ストーカーの殺人と思われたのが、そうじゃなくて、自殺と思われたのが、殺人ということになって——」 「そういうことも、よくあるじゃないか。自殺と思えたのが、殺人だということは」 「それも、わかってる。しかし、どうして、犯人が、すぐ、わかるのか? 最初、サチコが殺されて、犯人は河合工事の横山とわかって、彼が自殺したことで、事件は解決した。そう思ったら、今度は、殺されたのだとなった。そのとたんに、また、サチコ殺しの犯人として、松原が逮捕された。まるで、前もって、犯人が用意されていたみたいにだよ」  と、十津川は、いった。  さすがに、小早川の表情が、険しくなって、 「それは、いい過ぎじゃないか」  と、十津川を、睨《にら》んだ。      9 「何をそんなに興奮してるんだ?」  十津川は、小さく笑って、小早川を見た。 「君が、まるで、私が犯人を作っているようないい方をするからだ」  小早川は、不機嫌にいった。 「そうなのか?」 「バカなことをいうなよ。松原が自供したのは、君も聞いたろう」 「ああ、聞いた。ただ、その直後に自殺してしまっている。どうも、事件の関係者の自殺が、多過ぎるような気がしてね」 「自責の念にかられるのさ。とにかく、サチコ殺しは解決したんだ」 「そうだといいんだがね」 「何を疑っているんだ? 自分でいうのもおかしいが、今、歌舞伎町から、凶悪事件は、どんどん減っているんだ。数字がはっきりと出ている。歌舞伎署が設けられた理由は、日本一のこの盛り場を、誰でも楽しめる安全地帯にすることだった。その目的は果たしたと、自負しているんだ。例えば、バーやクラブといったものが、歌舞伎町に二千軒あるんだが、そのうち、七十軒は、いわゆる暴力バーだった。中には、客に睡眠薬入りの酒を呑《の》ませ、正体のなくなったところを、身ぐるみ剥《は》いで放り出すといった、悪質な店もあった。それが、なかなかなくならずに、歌舞伎町は怖いという評判を生んでいたんだ。歌舞伎署ができて、署員の努力によって、昨日、最後の暴力バーを叩《たた》き潰《つぶ》した。しばらくは、暴力バーは、出て来ない筈《はず》だ」 「なるほどね」 「だから、君も、つまらない噂は流さないで欲しいんだよ。署員の士気に関係してくるからね」 「わかった」  と、十津川は、肯《うなず》き、ここは引き退ることにした。  小早川と歌舞伎署に対して、十津川は、何かおかしいと感じていた。  ただ、何が、どうおかしいのか、はっきりと掴《つか》めていなかったし、何といっても、同じ刑事である。その同じ仲間を疑うということに、ためらいを感じてしまうのだ。  ひとまず、小早川と別れて、警視庁に戻ることにした。  警視庁の入口を入ろうとした時、十津川の携帯電話が鳴った。  立ち止まって、耳に当てる。 「十津川警部ですか?」  と、いう、押し殺した男の声が聞こえた。 「あなたは?」 「酒井といいます。歌舞伎署で働いています」  と、男は、いった。 「それで、何の用です?」 「うちの署長と、十津川警部が話しているのを聞きました」 「そうですか。それで、私に、抗議ですか?」 「いえ。十津川警部が、何となくおかしいと感じておられるのは、もっともだと思ったんです」 「それで?」 「今、歌舞伎署で、あることが進行しています。ある意味で、恐ろしいことなのです。十津川警部は、それを敏感に感じ取られたんだと思います」 「犯人を作り上げることですか?」 「いえ、違います」 「はっきり、いってくれませんか」 「電話でいっても、とても信じて頂けないと思います」  と、相手は、いう。 「それなら、会って、話を聞きますよ」 「そうですね」  と、男は、考えている気配がしてから、 「午前二時に、C劇場の前で、会ってくれませんか?」 「午前二時ですか?」 「その時間なら、証拠を、お見せできると思います」  と、相手は、いった。  電話が切れてから、十津川は、警視庁の中に入った。  亀井に会って、今の電話のことを話した。 「歌舞伎署の刑事でしょうか?」  と、亀井が、きく。 「私が、小早川と話しているのを聞いたといっているんだから、署員の一人だろうね」 「恐ろしいことが進行しているというのは、何のことですかね?」 「それを知りたいから、午前二時にC劇場の前へ行ってみるよ」  と、十津川は、いった。 「私も、同行させて下さい」 「それはいいが、会う時は、私一人にしてくれ。カメさんと二人で押しかけて、相手に、つまらない警戒心を起こさせてはまずいんでね」 「午前二時に、証拠を見せるというのは、どういうことなんでしょう? 何か持って来て、警部に見せるつもりなんでしょうか?」 「多分、そうだろうと思うんだが、とにかく、私としては、期待を持っているんだよ。彼としては、小早川署長や同僚を裏切るんだからね」  と、十津川は、いった。 「歌舞伎署で、何が進行しているんでしょう?」 「わからない。が、自分なりに、歌舞伎署ができてから、あの盛り場では何が変わったか、考えてみたんだよ」 「マスコミは、歌舞伎町の治安が良くなったと、誉めていますね」 「今日、小早川に会った時も、彼は、七十店あった暴力バーが一店もなくなった。当分、できないだろうと、自慢していたよ」 「一店もですか?」 「そうだ」 「ああいう暴力バーというのは、いくら取り締まっても、雨後の筍《たけのこ》みたいに出て来て、なくならないものなんですが、歌舞伎署はどうやったんですかね?」  亀井は、首を傾げた。 「魔法でも使ったのかな。電話の男が、私に話したいのは、このこととは思えない。暴力バーが消えたことは、怖ろしいこととは、反対だからね」 「歌舞伎町が、悪く変わった点は、ちょっと思い当たりませんね」 「だが、何か、悪く変わったことがあるんだ」  と、十津川は、いった。      10  午前一時四十分に、十津川は、亀井の運転する覆面パトカーで、歌舞伎町に向かった。  車を表通りに止め、二時五分前になるのを待って、十津川一人が降りて、C劇場の前に歩いて行った。  さすがに、この時間になると、人通りは少なくなるが、それでも、ホームレスのような若者が、歩いていたり、地面に寝ていたりする。  C劇場の前にも、若者が三人いて、ラジオをつけ、ディスコダンスを黙々と踊っていた。  十津川は、壁に背をもたれて、煙草に火をつけた。  十津川は、酒井という男の顔を知らない。が、向こうは知っていて、声をかけてくるだろう。  だが、なかなか現われない。  男女三人は、依然として、踊り続けている。  二十分たった。  突然、エンジン音を響かせて、若い男の乗ったバイクが、傍を走り抜けていった。  四十分が過ぎた。  心配して、亀井が、やって来た。 「まだ、来ないよ」  と、十津川は、いった。彼の足元に、何本もの煙草の吸い殻が、落ちていた。  十津川は、それを拾い集めてから、亀井に、 「向こうさんは、今日は来ないらしい」 「気が変わったんでしょうか?」 「かも知れないな」  更に、三十分待ってみたが、相手は現われなかった。  二人は、諦《あきら》めて、車のところまで戻った。  朝になってから、十津川と亀井は、酒井という若い刑事が死んだことを知った。  歌舞伎町から離れた中央公園の中だった。  ホームレスが、青いビニールのテントを張って、二百人近く住んでいる。  そのテント村の中で、酒井刑事は、背中を刺されて、死んでいたのである。  十津川は、歌舞伎署からの連絡で知り、亀井と、中央公園へ急行した。  死体は、すでに、司法解剖のために、運ばれてしまっていた。  小早川が、十津川を迎えた。 「なぜ、殺されたのか、帰宅したあとなので、わからないんだよ。なぜ、この中央公園で死んでいたかもだ」  と、小早川は、いった。 「歌舞伎署は、他に、酒井という刑事がいるかい?」  と、十津川は、きいた。 「いや。他に同姓の人間はいないが、なぜだ?」 「いや、何でもない」  と、十津川は、いってから、 「背中を刺されたと聞いたんだが」 「ああ。三カ所刺されていた」 「三カ所もか」 「そうだ」 「それにしては、血痕《けつこん》が見当たらないな。他の場所で殺されたんじゃないのかね」  と、十津川は、いった。  鑑識が、死体のあった場所の写真を撮り、血痕の採取に当たっていたが、確かに、草や地面に、血液の痕跡が見当たらない。 「そうらしいな」  と、小早川は、肯いてから、 「なぜ、そんなことをしたのかな?」 「本当の現場を知られると、困るからじゃないのか」 「かも知れないが」 「彼の住所は、何処《どこ》なんだ?」 「東中野のマンションだ。ああ、うちの署員が、もう調べに行ってるよ」 「独身だったのか?」 「二十八歳。独身。それに、帰宅後ということを考えると、女性関係が原因かも知れないな」  と、小早川は、いった。 「それらしい話があるのか?」 「何といっても、若くて独身なんだ。女性の一人や二人いても、おかしくはないよ」  と、小早川は、いった。 「仕事がらみの殺人ということは、考えられないのか?」  と、十津川は、きいた。 「ちょっとね。昨日は、午後七時に帰宅しているんだ。そのあと、殺されたんだから、仕事関係とは、考えにくいよ」 「司法解剖の結果がわかったら、教えてくれ」  と、十津川は、いった。  十津川は、亀井と、中央公園を出て、パトカーに戻った。 「昨日の電話のこと、小早川署長には、黙っておられましたね」  と、亀井が、いう。 「ひょっとすると、それが原因で、殺されたかも知れないのでね。しばらくは、私とカメさんの間だけにしておきたいんだ」 「小早川署長も、信用しておられないんですか?」 「酒井刑事は、何か、教えたいものを持っていた。それは間違いない」 「ええ」 「普通なら、上司の小早川署長に相談する筈《はず》じゃないか。ところが、彼は、私に電話してきた。と、いうことは、何か理由があって、小早川には話せなかったんだ。だから、私も、当分、小早川には内緒にしておきたい」  と、十津川は、いった。  亀井は、パトカーをスタートさせた。 「酒井は、同じ歌舞伎署の同僚にも相談できなかったのかも知れませんね。もし、それができたのなら、同僚に相談していたでしょうから」  と、亀井は、いう。 「そうだよ。つまり、酒井は、署の中で、完全に浮き上がった存在だったんだろう」 「辛《つら》いですよ、それは」  亀井が、いう。十津川は、じっと考えてから、 「もう一人、同じ立場だった男がいたんだ」 「もう一人——ですか?」 「加倉井刑事だよ」 「ああ、そうです。そして、彼は、死んだんでした」  亀井が、大きく肯《うなず》いた。 「偶然だと思うかね?」 「時間を置かず、同じ署内でひとりぼっちの刑事が、続けて二人も死ぬのは、異常ですよ」 「そうさ。異常なんだ。だから、酒井刑事のことを、いろいろ知りたいんだが」  と、十津川は、いった。 「歌舞伎署へ行って聞いても、正確な話は聞けない恐れがありますね。全員に嫌われていたとすると、悪口しか聞けないかも知れません」 「加倉井刑事と同じようにか」  と、十津川は、呟《つぶや》いてから、 「聞くのを忘れたんだが、今、車は何処へ向かっているんだ?」 「東中野です。そこのマンションに、彼は住んでいたわけでしょう。近所で聞けば、案外、正確な人物像が手に入るかも知れませんよ」  と、亀井は、いった。  東中野で、探して、酒井の住んでいたマンションに着くと、入口の所に、二人の刑事が立っていた。歌舞伎署の刑事だった。  自然に、十津川の顔に苦笑が浮かんだ。酒井刑事の情報をガードしているとしか思えなかったからである。  二人は、車を降りると、マンション近くのコンビニや喫茶店、ラーメン屋などを、聞いて廻《まわ》ることにした。  マンションから歩いて七、八分の場所にある小さな喫茶店では、オーナーの三十代の男が、酒井のことをよく知っていた。  非番の時は、時々来てくれていたという。 「最初は、眼つきが鋭いんで、ヤーさんかと思って、警戒していたんですが、刑事さんと知って、親しくなりました」  と、オーナーは、いう。  酒井が殺されたと知ると、青ざめた顔になって、 「刑事さんというのは、危険な仕事だから、用心して下さいよと、いってたんですがねえ」  と、いった。 「どんな人でした?」  と、十津川は、きいてみた。 「一言でいえば、刑事さんらしい刑事さんでしたよ」  相手は、そんないい方をした。 [#改ページ]  第五章 攻防の果てに      1  十津川と亀井は、夜の歌舞伎町を、猫のように歩き廻った。  酒井刑事は、中央公園で、死体で発見された。が、十津川は、そこが殺人現場とは、見ていなかった。  理由は二つある。一つは、三カ所も刺されたのに、現場に、殆《ほとん》ど血痕《けつこん》がなかったことである。  もう一つは、心理的なものである。酒井は、午前二時に、C劇場の前で、十津川に会いたいと、電話してきたのである。その時間なら、見せられるものがあるともいった。  それが、どんなものなのか、今のところ、十津川には見当がつかない。しかし、酒井は、怖ろしいことだといっていた。  C劇場の前で会いたいといったのは、その近くに見せたいものがあるということだろう。  少なくとも、歌舞伎町の中にあるということだろう。  それが、中央公園の近くにあるのなら、酒井は、中央公園で、午前二時に会いたいといった筈《はず》である。それが、心理的な理由である。  だから、酒井は別の場所で殺されたと、十津川は、確信しているのだ。  酒井は、多分、十津川に会う前に、「彼に見せたいもの」がある場所に行ったに違いない。十津川に、うまく見せられるかどうか、確認するためにである。 「そこで、酒井刑事は、殺されたんだと思うね」  と、十津川は、夜の歌舞伎町を歩きながら、亀井に、いった。 「何処《どこ》だと思いますか?」  亀井が、きく。 「カメさんは、何処だと思う?」  十津川が、きき返した。 「わかりませんが、歌舞伎町自体が、迷路の固まりみたいなものです。路地も、ビルも、人間関係まで、迷路ですよ。その何処に、われわれを案内しようとしたのか、私には見当がつきません」 「私も同じだが、一つだけ、考えている場所があるんだよ」  と、十津川は、いった。 「何処ですか?」  亀井が、眼を光らせた。 「その前に、歌舞伎町の外に出よう」  と、いって、十津川は、さっさと、靖国通りを出ると、通りを渡り、JR新宿駅の構内に入って行った。  駅ビルの最上階にある喫茶店Pに入った。  窓際に腰を下ろすと、新宿の夜景が、眼下に広がって見える。 「どうされたんですか?」  と、亀井は、テーブルに着いてから、きいた。  十津川は、コーヒーが運ばれてくるのを待ってから、 「さっきは尾行されていた」  と、小さく笑った。 「刑事を尾行する奴がいるんですか?」 「カメさんも、いったじゃないか。歌舞伎町は迷宮みたいなものだって。あそこでは、刑事も殺されるんだよ」 「それで、警部の考えられた場所というのは、何処ですか?」 「われわれが、歌舞伎町で、怪しいと考えていた場所が、一つだけあるじゃないか」  と、十津川は、いった。 「ああ」  と、亀井は、肯いて、 「河合工事?」 「そうだよ。あの会社で働いていた横山という社員が自殺したことに、われわれは、疑問を持った。それが、疑惑の核心みたいなものだよ」 「酒井刑事は、あの会社の何を見せようとしたんでしょうか?」 「それは、わからない。が、今の私には、他には考えられないんだ。横山が死んだ事件についての疑問は、小早川にも話している。酒井刑事は、それを聞いていて、何か私に話したかったんじゃないかと思うんだがね」  と、十津川は、いった。 「どうしたらいいと思いますか? 五、六人で押しかけて行って、有無をいわせず家宅捜索をしますか?」 「令状がおりないよ。そこで働いていた人間がたまたま自殺しただけで、形としては、事件は解決しているんだ」 「歌舞伎署の協力は、得られませんね」 「私は、小早川にも疑惑を感じているんだから、駄目だ」  と、十津川は、言下に、いった。 「じゃあ、どうしますか?」 「方法は一つしかない。忍び込むんだ」  と、十津川は、いった。 「ひょっとすると、酒井刑事も、それをやって殺されたんじゃありませんかね?」 「その可能性は、大いにある」 「しかし、刑事まで殺すというのは、どういう連中ですかね?」 「歌舞伎町を支配しているのは、K組だったな?」 「そうですが、歌舞伎署が生まれてから、すっかり大人しくなっていると聞いています。七十店といわれた暴力バーは、K組が支配していたといわれますが、それがなくなったのも、歌舞伎署ができたせいだといいますが」 「しかし、さっき、われわれを尾行していたのは、明らかに、その筋の人間だよ。刑事じゃない」 「K組の連中が、依然として、歌舞伎町を支配しているということですか?」 「ああ。そうだ」 「しかし、歌舞伎署が、K組を押さえ込んだんじゃないんでしょうか?」 「もっと、悪い状況なのかも知れない」  と、十津川は、いった。 「手を結んだということですか?」 「それを知りたいんだよ。小早川は、手柄を立てるために、悪魔と手を結んだのかも知れない」  と、十津川は、いった。 「じゃあ、それを確かめに、行きましょう」  亀井が、いった。  二人は、喫茶店Pを出ると、夜が更けるまで、歌舞伎町から離れた場所で過ごした。  午前三時になったところで、二人は、ゆっくりと、歌舞伎町に入って行った。  万一に備えて、拳銃は内ポケットに入っている。酒井は、刑事だが、殺された。それを考えると、刑事だからといって、安心はできない。  歌舞伎町も、さすがに疲れて眠っているように見える。  路上に、寝ている人間が、何人かいる。老人が少なくて、若者が多いのも、歌舞伎町の特徴だろう。  二人は、あくまでも落ち着いた早さで、河合工事の三階建てのビルに近づいて行った。  この時間では、店は閉まっている。  裏口に廻《まわ》る。  若い男が、一人、建物にもたれるようにして煙草を吸っている。  十津川が、正面から近づいて行って、男に、 「ちょっと聞きたいんだが」  と、声をかけた。 「何の用だ?」  男が、無表情に、きく。  その瞬間、背後から近づいた亀井が、拳銃《けんじゆう》の台尻《だいじり》で、男を殴りつけた。      2  男が、どっと倒れ、手に持っていた携帯電話が地面に落ちた。  十津川が、それを拾い上げる。  裏口のドアも、鍵《かぎ》がおりていた。  二人は、ちょっと考えてから、拳銃の銃口に、ハンカチを二重に巻きつけ、更に、その上から、亀井が、上着を巻いてから、ドアの鍵の部分に向かって、引き金をひいた。 「どすッ」  という鈍い音がして、鍵が壊れる。  重いドアを開け、十津川たちは、建物の中に滑り込んだ。  一階の事務所は、前に来たことがある。  十津川が、小型の懐中電灯をつけて、それで事務所の中を照らして見た。  何処《どこ》といって、おかしな点は、見当たらない。  そっと、二階にあがる。社長室がある。ここも、別におかしな点はない。  三階にあがる。  水道工事や、ガス、電気工事に必要な部品が、山積みされている。資材置場だ。 「何処といって、おかしなところは、ありませんね」  亀井が、険しい眼つきで、いった。 「他に部屋はないのかな?」 「このビルは三階建てですよ」 「いや、他にもある筈《はず》だ。地下室があるんじゃないのか?」 「しかし、一階には地下に通じる階段みたいなものは、ありませんでしたが」 「とにかく、一階へおりてみよう」  と、十津川は、いった。  その時、彼の持っている携帯が鳴った。  見張りの男から取り上げた携帯である。 「もしもし」  と、十津川が、応じた。 「三宅か?」  男の声が、きく。 「そうだ」  と、肯《うなず》いてから、十津川は、わざと咳《せ》き込んだ。 「大丈夫か? 異常はないか?」 「大丈夫だ」  十津川は、スイッチを切った。怪しまれただろう。急がなければならない。  一階におりて、もう一度、懐中電灯で床を照らして調べていく。  その眼が、急にとまった。床に敷かれたペルシャ絨毯《じゆうたん》に、黒いしみが、点々とついていたからだった。 「血痕みたいですね」  と、亀井が、いった。 「これが血痕なら、酒井刑事は、ここで殺された可能性がある」  二人は、絨毯の上にあるテーブルをどけて、絨毯を剥《は》がしてみた。  その下から、四角い鉄の蓋《ふた》が現われた。  二人で力を合わせて、その蓋を開けた。ぽっかりと開いた空間に、地下へおりる階段が見えた。  やっぱり、地下室があったのだ。  二人は、その階段をおりて行った。  広い部屋だった。  蛍光灯の青白い光の中に、テレビ画面が、ずらりと並んでいる。  反対側では、何十という録音機が、不気味にテープを回していた。 「何ですか? これは」  あっけにとられて、亀井が、声をあげた。  十津川は、テレビ画面の一つに、スイッチを入れた。とたんに、録画ビデオが、廻り始めた。  どこかのクラブが、画面に映し出された。がらんとした、蛍光灯だけがついている店内だ。 「これは『ラブ・ラブ』だよ」  と、十津川が、小さく叫んだ。  殺されたサチコが働いていたクラブだ。  亀井は、他のテレビ画面にもスイッチを入れてみた。  あるラブホテルの各部屋が、次々に映し出される画面もある。  一つの雑居ビルの場合は、一つのテレビ画面で、そこに入っている全部の店や事務所が、映し出されるのだ。  十津川は、反対側で、静かに廻っている録音テープに眼をやった。  それに接続しているヘッドホーンを耳に当ててみた。  いきなり、 「あいつを殺してやりたいんだ!」  という男の声が、耳に飛び込んできた。 「やめなさいよ。殺したって解決にならないわよ」  女の声が、いう。 「しかし、このままじゃあ、この店を、あいつに乗っ取られてしまうんだぞ!」 「じゃあ、組の人に頼んで、脅して貰《もら》ったらどうなの。五、六百万積めば、痛めつけてくれるわよ」  どうやら、何処かの事務所での会話らしい。 「何なんですか? これは」  と、また、亀井が、きいた。 「盗視カメラと盗聴装置だよ」 「こんなに沢山ですか?」 「歌舞伎町のあらゆる場所が、盗視され、盗聴されているんじゃないか。店や、事務所や、ラブホテルがだよ」  十津川の声が、かすかに震えた。 「誰が、こんな真似をしてるんですか?」  と、亀井が、きく。彼の表情も、青ざめて見える。 「考えたくないんだが、小早川が命じて、歌舞伎署がやっているんじゃないか」  と、十津川は、いった。 「何のためにです?」 「表向きは、歌舞伎町の治安を守るためだろう」  と、十津川は、いった。 「河合工事の社員が、水道工事、ガス工事、電気工事をするとき、その店や事務所に、超小型の盗視カメラや盗聴マイクを取り付けて廻《まわ》ったんですね」  と、亀井が、いった。 「そうだよ。警察の許可の下にやっていたんだろう。いや、歌舞伎署に頼まれてやっていたといった方がいいかも知れないな」 「K組も、これを了解していたんですかね?」 「警察だけじゃできないさ。必ず洩《も》れてしまう。だから、両者が手を結んだと、私は、思うね。K組は、これによって利益を受け、歌舞伎署は、この盛り場から犯罪を駆逐した。もちろん、表向きだがね」  と、十津川は、いった。 「河合工事の横山は、そんな仕事が嫌になって、抜け出そうとして、殺されたわけですね?」 「口を封じられたんだ。加倉井刑事と、酒井刑事も、同じだと思うよ」  と、十津川は、いった。  その瞬間、頭上の鉄の蓋が、音を立てて閉じられてしまった。      3  明かりが消えて、部屋の中は、突然、真っ暗になった。  電源を切ったらしい。  全てのテレビ画面も消え、盗聴電波も消えてしまった。  二人の刑事は、懐中電灯をつけた。  十津川は、携帯のナンバーを押してみたが、通じない。この地下室が、電波を遮断するようになっているのかも知れなかった。  外の音も聞こえてこない。  二人は、階段を上がって、背をかがめながら、鉄製の蓋を押し上げようとしたが、びくともしなかった。上から鍵をかけてしまったらしい。 「上は、どうなってるんでしょうね?」  と、亀井が、階段に腰を下ろして、十津川に、きいた。 「私たちを閉じこめたのは、歌舞伎署の人間じゃない。K組の人間だと思う。だから、今頃、どうしたらいいか、小早川に連絡して、指示を仰いでいるんじゃないかな」  と、十津川は、いった。  鉄の蓋をしたのは、同じ警察の人間だとは、考えたくなかった。小早川は、裏切った。が、彼の部下が、そこまでやるとは考えたくない。 「もし、警部のいわれる通りだとしたら、今頃、歌舞伎署は、当惑しているでしょうね。われわれを、どう始末していいかわからなくて」  亀井は、小さく笑った。  懐中電灯の一つを消しているので、亀井の笑い顔の半分が、陰になっている。それが、凄味《すごみ》になって見えた。 「小早川が、決断をすることになるだろうね」  と、十津川は、いった。  歌舞伎署の刑事や警官は、決断はできまい。警察の組織は、そういうものだ。決断できるのは、小早川だけだ。 「小早川署長のことは、よく知っておられるんでしょう。どうして、こんな盗聴装置やカメラで、監視するような真似をしたんですかね?」  亀井が、小さく首を振った。 「昔から頭が良かった。ただ、若い時は、それに正義感が伴っていたんだ。青年の純朴といってもいい。それが、頭の良さだけは、残っていて、正義感と潔癖さは、徐々に変質してしまったんだろうね」 「彼は、われわれを、どうする気ですかね?」 「さあね。どうする気かな」  十津川が、いったとき、テレビの画面の一つだけが、明るくなった。  その画面に、突然、小早川の顔が映った。  背景に壁が見える。応接セットがあり、小早川は、ソファに腰を下ろしているのだ。 「十津川、聞こえるか」  と、小早川が、いった。  十津川は、その画面を、凝視した。 「聞こえていると思う。君の声は、こちらからは、聞こえないんだ。だから、一方的に話すから、聞いてくれ」  と、小早川は、いった。 「君が、その地下室に入ってしまったのは、お互いに不運だったとしか、いいようがない。その部屋は、歌舞伎町の治安を守るために、必要欠くべからざるものなのだ。その監視装置が働くようになってから、歌舞伎町は、驚くほど治安が良くなった。それは、マスコミの調査が実証している。今や、歌舞伎町は、日本の盛り場の中で、もっとも安全な場所になっているんだ。それは、われわれが、常に歌舞伎町の隅から隅まで、監視し、人々の安全を守っているからだよ」 「バカバカしい」  と、亀井が、呟《つぶや》いた。  だが、小早川の声が、続く。 「君が、妙な正義感を振り廻して、邪魔しなければ、歌舞伎町は、今まで通り、平和で、人々は楽しめていたんだ。殺人があっても、すぐ、犯人は逮捕されて、秩序は保たれた。百パーセントの検挙率でだよ。それを、君は、ぶち壊してしまった」 (偽りの秩序だろう)  と、十津川は、呟いた。 「君は、こういうだろう。本当の事件の解決とは違うとね。君のは、青臭い正義だよ。事件が起きたとき、何よりも要求されるのは、解決のスピードだよ。方法なんかは問題じゃない。この歌舞伎町では、どの店も監視されている。だから、犯人は、すぐ検挙される。この街に潜伏している限りはね。それでいいんだ。秩序を保つということは、そういうことだよ。犯人検挙だけじゃない。どのクラブがどれだけ利益を上げ、支配人が何を考えているかも、私は把握できている。従って、犯罪の予防もできるんだ。こんな完璧《かんぺき》な警察活動はないだろう」 (恐怖の支配だ) 「君が、余計な介入をしてきてから、いくつかの不幸な事件があった。それは認めるが、全て解決したんだ。君は、まだ、解決していないと思っているだろうが、解決しているんだよ。今日も、歌舞伎町は平和だ。一つのクラブで、酔っぱらいが暴れたが、すぐ、うちの警官が行って、取り押さえている。その平和を、なぜ、君はぶち壊そうとするのかね? 君のつまらない、何の役にも立たない正義感でだ。君は、全く、成長していないね」  小早川は、画面で、小さく溜息《ためいき》をついて見せた。      4 「今、君と亀井刑事は、地下室に閉じこめられている。そこから自力で出る方法はないよ。そのまま閉じこめて、餓死させてもいいんだ。君の仲間が助けにくるという甘い考えは、捨てた方がいい。君の部下の西本という刑事から、君と亀井刑事から連絡がないので心配しているという電話が、かかった。連中は、その部屋のことは全く知らないようだからね。ただ、私は、君と同期で、同じ刑事だ。君と亀井刑事を、死なせたくはない。そこで、相談だが、私のやり方に賛成しないかね? 君に何かやってくれと頼んでいるわけじゃない。ただ、黙って、私のやり方や歌舞伎署のやり方を、見ていてくれればいいんだ。それから、今までの事件は、全て、解決したと考えてくれればいいんだよ。それで、全て、平穏にすんでしまうんだ」 (駄目だ) 「私はね、この歌舞伎町の治安に命をかけてるんだ。私が歌舞伎署の署長になってから、犯罪は半減している。そのことで、警視総監賞も受けている。私は、犯罪ゼロを目指している。そのためには、その部屋の監視装置が、是非、必要なんだ、だから、君と話し合いたいんだよ」 (そうか。この部屋の監視装置を、私に、破壊されるのが怖いんだ)  と、十津川は、思った。  これが壊されたら、歌舞伎署の検挙率は、また、元に戻ってしまうだろう。  エリートコースを歩く小早川は、歌舞伎署での成績を足がかりにして、警察のトップにまで昇りつめようという野心を持っている筈《はず》だ。  そのためには、彼自身がいうように、歌舞伎町の犯罪をゼロにしたいだろう。当然、そのためには、この監視装置が必要不可欠だ。 「二十分の猶予を与えるから、その間に、私に味方するかどうか、決めてくれ」  と、小早川は、いい、画面が消えた。  十津川は、消していた懐中電灯をつけた。 「買収ですか」  亀井が、吐き捨てるように、いった。 「小早川も、ここへ私たち二人を閉じこめたものの、困ってしまっているんだ。この監視装置を叩《たた》き壊されてしまったらと思ってね」  と、十津川は、いった。 「いざとなったら、拳銃《けんじゆう》を撃ちまくって、全部の機械をぶち壊してやりますよ」  亀井が、拳銃を取り出して、息巻いた。 「だから、私たちを閉じこめたのは、歌舞伎署の連中じゃなくて、K組の人間だということになる。署員なら、私たちを殺しても、監視装置を守ろうとするだろうからね」 「この金は、何処《どこ》から出ているんでしょうか?」 「多分、K組が出しているんだよ。K組は資金が豊かだからね。小早川は、K組の金と力を利用しているんだ」 「暴力団と協力して、治安維持ですか」 「その点で、利害が一致しているんだ」  と、十津川は、いった。  二十分たった。  また、テレビ画面の一つが明るくなった。前と同じ部屋だ。 「どうだ? 決心がついたか?」  と、小早川が、きく。 「君だって、四十歳で死にたくないだろう? 奥さんだっているんだ。だから、ここは、妥協しろ。君の肩書きに傷がつくわけじゃないんだ。もし、私に協力してくれるのなら、今、その部屋の明かりをつける」  ふいに、地下室全体が、明るくなった。  全てのテレビ画面が、生き生きと活動を再開した。  盗聴装置のテープも、ゆっくりと回転を始めた。 「いいか。盗聴装置の一番右端のテープを止め、それに君がマイクで声を吹き込むんだ。『ラブ・ラブ』のサチコ殺しについて、犯人を逮捕したいと焦るあまり、ビジネスホテルの支配人の松原を痛めつけて自供に追いつめ、自殺させてしまいました。これは事実であります。そう吹き込むんだ。それが、私にとって、保険になる。こちらから、そのテープを聞くことができるから、すぐ、吹き込むんだ。それが、完成したら、君たちを、その部屋から出してやる」  と、小早川は、いった。  十津川は、ずらりと並んだ盗聴装置の中から、一番右端へ行き、テープを止め、ついているマイクを握りしめた。 「警部。まさか、向こうのいう通りにするんじゃないでしょうね?」  亀井が、慌てて、きく。 「バカなことをいうなよ」  と、十津川は、笑ってから、マイクに向かって、 「君が、K組と組んで、この歌舞伎町を支配している実体がつかめて、面白かったよ。このままでいけば、君は、日本一の盛り場の治安を完璧に保ったということで有名になり、エリートコースをまっしぐらに突き進むことだろう。しかし、暴力団と手を組むことで達成した治安に、何の価値があるんだ。本当に歌舞伎町を支配しているのは、警察じゃなくて、闇の警察ということになるからだ。連中は、ますます強大になり、手に負えなくなってくる。警察が手を組んでいたことを逆手にとって、警察をゆすることだって、しかねない。そうなったら、どうするんだ? 歌舞伎町という小さな場所で、君が実績を作っても、警察全体を危機にさらしているんだぞ。もし、君が警視総監になったとき、K組に過去をバラされて、脅迫されたら、どうするんだ? それを考えたことがあるのか?」  十津川は、それだけ吹き込んで、マイクを置いてしまった。 「警部らしくて、ほっとしました」  と、亀井が、笑った。  テープが自動的に巻き戻され、次に、再生のスイッチが入った。  小早川が、テープを聞いているのだろう。  また、急に、部屋の明かりが消え、一つのテレビだけに明かりがついた。  小早川の顔が映った。  その顔が、ゆがんだ。 「君には、失望したよ。君は死にたいのか? 私は、君を死なせたくないんだよ。どうして、それをわかってくれないんだ?」 (わかる筈がないだろう) 「君に、もう一度、チャンスをやろう。これが最後だ。冷静に、自分の置かれた立場を考えてみたまえ。私に、意見や非難のいえる立場じゃないんだ。条件は同じだ。二十分、時間をやる」  と、小早川は、いった。 (無駄だよ)  十津川が、胸の中で、呟《つぶや》いたとき、目の前の画面に、突然、一人の男が現われた。  六十歳ぐらいの和服姿の男だった。  男は、小早川に向かって、 「無駄なことは、やめた方がいい」  と、低い声で、いった。  その男の顔に、十津川は、見覚えがあった。K組の組長の工藤信次だった。 「余計なことは、いわないでくれ」  と、小早川が、いい返す。 (ああ、この画面は、工藤の邸の中なのか)  と、十津川は、思った。  小早川は、手を組んだK組の組長も、監視していたのだ。  工藤は、多分、このカメラに気づかずに、小早川に向かって、喋《しやべ》っているのだろう。 「十津川という男は、あんたと違って、妥協ということを知らないんだろう。そういう頭の固い奴に向かって、いくら説得しても、時間の無駄だよ。すぐ、殺してしまった方がいい」 「私にも、簡単にいかない理由があるんだ」  小早川が、むっとした顔で、いう。 「あんたのは、いかにして出世するかだろう。私にとっては、そんなことはどうでもいい。いかにして、新宿を制覇するかが問題なんだよ。だから、その邪魔になるものは、全て排除する。十津川と、もう一人の刑事は、例の地下室に閉じこめたんだろう。それなら、爆弾でも放り込んで、殺してしまえばいい。顔もめちゃめちゃになって、何処《どこ》の誰だか、わからなくなる。そうしておいて、東京湾に放り込めばいいだろう」 「あの地下室も、めちゃめちゃになってしまうよ」 「あれを作ったのは、うちの組だ。また、作ってやるよ」 「そのために、何カ月もかかってしまう。その間、歌舞伎町の治安は、どうなるんだ? 犯罪率が元に戻ってしまったら、私の力が疑われてしまうじゃないか」 「相変わらず、あんたは自分のことしか考えないんだな」  工藤が、笑った。 「とにかく、十津川を味方につけたいんだ」 「無駄なことは、やめた方がいい。私が、うちの連中に指示して、爆弾を投げ込ませるさ」  工藤は、携帯を取り出した。 「止めろ!」  と、小早川が、大声を出した。 「こういうことは、私に委《まか》せておけばいい。あんたが、捕まるような真似はしないさ。明日になれば、二人の刑事が身元不明の死体となって、東京湾に浮かんでいる」 「止めろといってんだ!」  小早川は、また大声で叫び、それでも、工藤が手を止めずにいると、いきなり拳銃を取り出して、工藤に向かって引き金をひいた。  銃声が響き、和服姿の工藤の身体が、画面の中で、どっと倒れ込むのが見えた。      5  小早川は、ゆっくりと、倒れた工藤に近づき、屈《かが》んで、彼の喉《のど》に手を当てて、脈を診た。  そのあと、立ち上がると、小早川は、画面から、また、十津川に、呼びかけた。 「今のを見ただろう。私は、君を助けたんだ。K組の工藤組長を殺したんだ。別に、君に恩を売るつもりはないが、私は、君を助けた。工藤のいう通りにしていたら、君たちは、死んでいたんだよ。どうだ? 今度は、私の要求を入れてくれるんじゃないか。要求は同じだ。その部屋の右端の盗聴装置のテープに、マイクで、吹き込むんだ。文句は、さっきと同じだ。『ラブ・ラブ』のサチコ殺しについて、犯人を逮捕したいと焦るあまり、ホテルの支配人の松原を痛めつけて、自供に追いつめ、自殺させてしまいました。私、十津川警部は、申し訳ないことをしたと思い、ここに、告白いたします。警視庁捜査一課、十津川省三だ。二十分、猶予を与える。それでも、なお、迷っているのなら、可哀想だが、君も亀井君も、その部屋もろとも、消滅させたいと思っている」  と、小早川は、いった。  それから、腕時計に眼をやって、 「すぐ、始めるんだ。あと二十分しかないぞ。私はね、君が好きなんだ。だから、殺したくない。私の同志になって欲しいのだ」 「虫のいいことをいうな!」  と、十津川は、叫んだ。が、こちらの声は聞こえないのを思い出して、一人で苦笑した。 「私は、これからも、歌舞伎町の治安維持につとめる。その部屋は、完全に、私が支配する。K組は、組長の工藤が死んだので、今後、ジリ貧になっていく筈《はず》だ。K組は崩壊し、歌舞伎町は、われわれの完全な支配下におかれることになる」  小早川は、自信満々に、いった。 「自分を、歌舞伎町の帝王とでも思っているんですかね」  亀井が、肩をすくめる。 「その部屋は、歌舞伎町を支配する道具なんだ。だから、君たちの死体で汚したくない。誰もが、そのために、損することもないんだよ。日本一安全な盛り場になるんだ。しかも、その盛り場を、私と君とで、支配するんだ。今までは、心ならずも、K組の協力を得るために、甘い汁を吸わせたが、これからは、その必要はない。内部抗争で組長が殺されたので、これから、組の幹部連中を、全員逮捕するからだ。この歌舞伎町が、一日に、どれだけの利益をあげているか、わかるか? 億単位の金が動くんだ。君と私で、その一割、いや二割を、徴収する。どうだ? たちまち君も私も、億万長者だ」 (今度は金|儲《もう》けで釣ろうというのか?) 「さあ、あと二十分だ。大人の答えを聞きたいね。右端のテープだぞ」  小早川は、そういい、画面は、消滅した。  また、二人は、懐中電灯をつけた。 「たちまち、億万長者だそうですよ」  亀井が、いった。 「金と権力で釣るつもりだ」  と、十津川が、いった。 「どうします? ここは、小早川のいいなりに、向こうの提案を受け入れて、いう通りにテープに吹き込んだらどうでしょう? 外に出たら、彼を、工藤組長射殺容疑で逮捕する。嘘も方便ですよ」  と、亀井は、いった。  十津川は、苦笑して、 「小早川が、あんな甘い約束を守ると思うかね?」 「嘘ですか? 私は、警部や私を、自分の陣営に誘い込もうとしているんだと思ったんですが」  と、亀井は、いう。 「彼は、私とカメさんを殺す気さ。この盗聴、監視装置を見られてしまっているし、工藤組長を殺すところを、目撃されてしまっている。私たちが証言したら、彼は、間違いなく、刑務所行きだ。わざわざ、そんな危険を冒すとは、考えられないよ」  と、十津川は、いった。 「では、何のために、小早川は、そんな提案をしたんでしょうか?」  亀井が、きく。 「もし、私が、小早川のいうがままに、テープに吹き込んだら、彼は喜んで、私とカメさんを殺すだろう。そして、テープを発表する。そうなれば、私は、ラブホテルの支配人を自殺に追い込んだのを苦にして、自殺したことになる。カメさんは、その巻き添えを食ったことになる。この部屋ごと爆破してしまえば、私もカメさんも、バラバラになって、自殺か他殺か、わからなくなるからね」  と、十津川は、いった。 「では、テープに吹き込まなければ、どうなりますか?」  と、亀井が、きく。 「その時も、私たちを殺すだろうね。何しろ、工藤を射殺するのを、見られたんだから」 「どっちにしろ、殺されるわけですか」 「ただ、二十分間の余裕はある」  と、十津川は、いった。 「しかし、二十分で、この地下室から脱出するのは、不可能ですよ。天井の蓋《ふた》は、重くて、開かないし、他に入口はありません」  亀井が、口惜しがった。 「そうだな。絶望だな」 「西本たちが助けに来ることも、考えられません。第一、ここにいるのを知らないでしょう」 「わかってる」  と、十津川は、いった。  二十分が、あっという間にたってしまった。  また、一つのテレビ画面に、小早川が現われた。  工藤の死体は、すでに片付けられていた。 「十津川君、二十分たったよ。テープに吹き込んでくれたんだろうね」  小早川がいい、前と同じように、右端の盗聴テープが、自動的に巻き戻されていった。  そして、再生されていく。  それを、小早川は、聞いているのだろう。  次に、小早川の怒声が、聞こえた。 「君がそんなに死にたいとは、知らなかったよ。バカな男だ!」      6  十津川は、黙って拳銃《けんじゆう》を取り出すと、いきなり、地下室に並ぶテレビ画面に向かって、撃ち始めた。  テレビが、次々に、破壊されていく。 「カメさんも、撃ってみたまえ。発散できるぞ!」  と、十津川が、叫んだ。  亀井も、拳銃を取り出し、彼は、盗聴装置に向かって、引き金をひいた。  銃声が、地下室に響きわたり、機械は、次々に粉砕されていった。  ふいに、頭上の鉄の蓋が、ドンドンと叩《たた》かれた。 「何をしているんだ!」  と、男の声が、叫んだ。  十津川は、弾倉を交換すると、また、撃ち始めた。  亀井も、負けずに、撃ちまくった。  機械やテレビが、粉々になって、飛び散っていく。  我慢し切れなくなったみたいに、天井の蓋が開き、 「止めろ!」  と、男が、叫んだ。 「止めさせてみろ! 全部、叩き壊してやる!」  十津川は、また、一発、二発と撃った。  テレビが、一台、二台と、火を噴いた。 「止めろ!」  と、男は、叫び、いきなり、拳銃を撃ってきた。  その一発が、亀井の肩に命中して、彼の身体が、もんどり打った。  十津川は、狙いをつけて、上の男に向かって撃った。  悲鳴をあげて、男が、落下してきた。  その男の身体を蹴飛《けと》ばして、十津川は、階段を駆け上がった。  他の男が、慌てて鉄の蓋を閉めようとする。その男に向かっても、十津川は、拳銃を撃った。  一発。二発。  男も、悲鳴をあげて、くずれ倒れる。  十津川は、一階の床に飛び上がると、拳銃を構えたまま、周囲を見回した。  見張っていたのは、二人だけだったのか? 「カメさん! 大丈夫か!」  と、十津川は、地下室に向かって、叫んだ。 「大丈夫です!」  という答えがあって、亀井は、肩を押さえながら、上がって来た。 「すぐ、小早川が、部下を連れて飛んで来るぞ。その間に、西本たちに連絡してくれ」  と、十津川は、亀井にいった。  亀井が、電話している間、十津川は、拳銃を持って、周囲を警戒していた。  亀井は、連絡を終えると、彼も、拳銃を構えた。  一階、事務所のドアを蹴開けるようにして、小早川が、飛び込んできた。  その背後に、歌舞伎署の刑事が、四人、くっついて来ていた。 「何をしたんだ?」  と、小早川は、咎《とが》めるように、十津川を、睨《にら》んだ。  十津川は、ニヤッと笑って、 「君の大事にしていたオモチャを、壊しただけだよ」 「畜生!」  と、小早川は、叫んだ。 「一年かけて、やっと作ったんだぞ。何てことをしたんだ! これで歌舞伎町の治安が、また悪くなるじゃないか。日本一安全な盛り場という名誉を、君が、ぶち壊したんだぞ」 「それは、治安がいいとは、いわないんだよ」  と、十津川は、いった。 「バカな奴は、殺すより仕方がない。君たちは、K組の工藤組長を殺した。そして、逮捕に抵抗した」 「おやおや、私たちに、濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》を着せて、射殺するのか」 「五対二だ。諦《あきら》めろ」  と、小早川はいい、拳銃を取り出した。  四人の歌舞伎署の刑事も、一斉に、拳銃を手に取った。 「無駄なことは、止めた方がいい」  と、十津川は、彼らに向かって、いった。 「間もなく、捜査一課の連中が到着する。私を射殺しても、君たちは、殺人罪で逮捕されるぞ。それでもいいのか!」  十津川が怒鳴ると、四人の刑事は、急に尻込《しりご》みを始めた。  それを見て、小早川は、顔を真っ赤にして、 「俺の夢を壊しやがって!」  と、十津川に向かって怒鳴り、いきなり拳銃を発射した。  極度の興奮が、彼の手元を狂わせたのか、弾丸は、十津川の顔をかすめて飛び去った。 「もう諦めろ!」  十津川が、小早川に向かって叫んだ。  それでも、小早川は、拳銃を構えて、二発目を撃とうとする。  亀井が、彼に向かって撃った。  小早川の身体が、一瞬、跳ね上がり、次に、床に叩きつけられた。 「ぼうっとしてないで、救急車を呼べ!」  十津川は、四人の歌舞伎署の刑事に向かって、怒鳴った。  はじかれるように、一人が事務所の電話に飛びつき、一一九番した。  十津川は、倒れている小早川の傍に、屈《かが》み込んだ。  小早川は、眼を閉じて、呻《うめ》いている。  胸から、血が流れ出ていた。十津川は、自分のハンカチを、そこに押し当てた。 「しっかりしろ!」  と、十津川が呼びかけると、小早川は憎しみの眼を開け、 「俺の夢を壊しやがって——」 「夢はもう、終わったんだ」  と、十津川は、いった。  救急車のサイレンの音が聞こえ、救急隊員が、部屋に飛び込んできた。  その場に倒れている二人の人間を見て、あっという顔になった。 「地下室にも、一人、倒れている」  と、十津川は、いった。  小早川とK組の組員二人が、救急病院に運ばれて行った。 「カメさんも、病院で手当して貰《もら》えよ」  と、十津川は、亀井に、声をかけた。 「もう、血は止まっています」 「無理しなさんな」  十津川がいった時、西本たちが、どやどやと入って来た。  彼らに向かって、 「カメさんが負傷した。すぐ、病院に運んでくれ」  と、いった。  大丈夫だといい張る亀井を、西本たちが、強引にパトカーに乗せて、近くの病院へ運んで行った。  十津川は、ゆっくりと、外へ出た。 「ああ」  と、小さく伸びをして、 「もう、夜が明けるんだ」 「ええ。空が白んできました」  北条早苗刑事が、微笑した。 「君は、この歌舞伎町が好きか?」  と、十津川は、きいた。 「あんまり好きじゃありません。学生の頃は、ここで、よく遊びましたけど」 「私も同じだ」  と、いい、十津川は、歩き出した。 「向こうに、パトカーを停めてあります」  早苗は、並んで歩きながら、十津川にいった。  早朝の歌舞伎町は、妙に白茶けて見える。飲食店の出した生ゴミの袋に、カラスが群がって突ついている。  十津川は、ふと、真っ黒なカラスの群に向かって、拳銃を向けた。  もちろん、撃ちはせず、口で「ダーン」と、叫び、拳銃はしまってしまった。 「どうなさったんですか?」  早苗が、笑いながら、きく。 「どうしたのかな?」  と、十津川も、笑った。      7  十津川は、三上本部長に呼ばれた。 「ご苦労さん」  と、三上はいい、すぐ続けて、 「しばらく、ゆっくりしたまえ。あとは、私がやる」  と、いった。  上司の言葉である。それに、亀井の怪我のことも心配になったので、十津川は、 「よろしくお願いします」  と、頭を下げた。  十津川は、その足で、亀井が運ばれた救急病院へ急行した。  亀井は、丁度、緊急手術を終えて、ベッドに寝かされていた。  顔色が良いことに、まず、十津川は、ほっとした。 「肩の肉を少しばかり削られただけだと、医者は、いってました。何でも、十八グラムだそうです」 「カメさんは若いから、すぐ、肉が盛り上がってくるさ」 「私のことより、歌舞伎署の後始末は、どうなるんですか? 何しろ、警察が、暴力団と手を組み、盗聴と盗撮で、あの盛り場を支配していたんですから、ただではすみませんよ」 「三上刑事部長が、私に委《まか》せて欲しいというので、お願いしますと、いってきた」 「三上部長がですか?」 「心配かね?」 「三上部長は、典型的なキャリアで、何事も、政治的に解決しようとします」 「そうだな」 「今回も、同じ手法で、解決しようとしますよ。警察による不正行為は、何もなかった。K組と手を組んだ事実もない。歌舞伎署は、所定の目的を遂げたので、本日、解散した。署長の小早川警視は、歌舞伎町を支配していたK組の組長を射殺。その際、殉職した。そんな発表があるんじゃありませんか」 「カメさんは、よく、三上部長を見ているよ」 「警部は、そんな解決で、構わないと、お思いですか?」 「今は、三上部長がどうするつもりか、それを見守りたいと思っている。三上部長だって、今回に限って、政治的な解決だけではすまないことは、わかっている筈《はず》だからね」  と、十津川は、いった。  三上は、慎重な男だが、今回は、その対応が素早かった。  まず、河合工事のビルを、シートで囲い、問題の地下室には、速乾性のコンクリートを流し込んだ。  それがすむと、三上は、社長の河合を呼んだ。 「小早川署長に頼まれて、君たちが、何をやっていたかは、わかっている。その小早川署長は、死亡した。K組の工藤組長と撃ち合っての殉職だった」 「————」  河合の顔が、青ざめる。 「君たちを逮捕することもできる」 「私たちは、小早川署長の命令に従っただけですよ。やりたくてやった仕事じゃない」 「だから、逮捕しない。君たちは、K組から金を貰《もら》っていただろうが、それも不問にする。君たちは、通常の電気工事、水道工事をやってきただけだ」 「その通りです」 「ただ、店や事務所で、監視カメラや盗聴マイクが発見されたとき、どう弁明するかだよ」 「うちの会社とは関係ないと、いいますよ」 「それじゃあ、相手は、納得しないだろう」 「しかし、だからといって、うちがやったとは、いえません」 「死んだ横山が、勝手にやったということにする。あの男は、盗撮と盗聴が趣味だった」 「————」 「君たちは、聞かれたら、そう答えて欲しい。個人的な趣味でやったことだと」 「しかし、横山は——」 「彼が、そうした男だということは、私が、証明する。君が心配することはない」  と、三上は、いった。  次に、三上は、歌舞伎署に保管されていた、今までの盗撮テープと盗聴テープを、全て、横山のマンションに運ばせた。  最後は、K組の処置だった。  K組は、歌舞伎町周辺を支配する五百二十五人の組である。  このK組は、東日本に勢力を張るR組の下にはいっている。  三上は、保守党の柿沼代議士に会うことにした。柿沼は、元検事で、闇の組織にも顔が利くといわれ、今は、法務委員会の議長だった。  三上は、盗撮、盗聴のことはいわず、K組の工藤組長を、小早川警部が射殺し、自分も死亡したことを話し、 「K組が、この事件で、騒ぎを起こす恐れがあります。また、警察を誹謗《ひぼう》するようなデマを流すことも考えられます。全員を逮捕すればいいんですが、それでは、歌舞伎町周辺を戦場にしてしまい、一般市民に死傷者を出す恐れがあります。私としては、そんな事態にはしたくないのです。それで、先生のお力で、R組に話をつけて、K組を押さえていただきたいのです」 「何とか話してみる」  と、柿沼は、いった。  彼が、どう動いたのかわからないが、工藤組長と組員二人が死亡したにもかかわらず、K組は、何の動きも見せなかった。  三上は、これだけの根廻《ねまわ》しをしてから、記者会見を開いた。  三上は、小早川署長が歌舞伎町の治安を守るために殉職したこと、署長以下、署員の働きにより暴力バーが激減するなどの効果をあげたことなどを列挙し、ここに使命を果たしたので、歌舞伎町特別署を解散し、今後は、昔通り、新宿警察署の管轄とすると発表した。      8  その三上刑事部長に、十津川は、会った。 「私は、総監の許可を得て、全ての処置をとったんだ。サチコと横山、そして酒井刑事を殺した犯人も、死んだ二人のK組の組員だと、確信している。これでいいと思っているが、君は、何か不満があるのかね?」  と、三上は、きく。 「別に、ありません」 「それなら、なぜ、わざわざ、私に会いに来たのかね? 本多一課長の話では、私にいいたいことがあるんじゃないのかね?」 「加倉井刑事のことです」 「彼は事故死だ。もし、それに疑問を持っているのなら、それを文書にして、提出したまえ」 「その気はありません」 「じゃあ、何が、望みなのかね?」 「加倉井刑事の名誉の回復です」  と、十津川は、いった。 「名誉の回復?」 「加倉井刑事は、悪徳警官の典型のようにいわれ、書かれ、その悪名のまま亡くなりました。私は、彼が悪徳警官とは、信じられないのです。それで、個人的に、加倉井刑事のことを調べ直してみたいのです」 「個人的にだな?」  と、三上は、念を押した。 「そうです」 「それなら、まあ、いいだろう」  と、三上は、鷹揚《おうよう》に、肯《うなず》いた。  十津川は、それを、亀井に話した。亀井は、微笑して、 「私も、協力しますよ」 「わかれば、君は、処罰されるぞ」 「構いません」  と、亀井は、また、小さく笑った。  二人は、並んで警視庁を出ると、地下鉄で、新宿に向かった。  個人的に調べたいといってあるので、覆面パトカーは使えない。 「それにしても、三上部長が、簡単に許可してくれたものですね」  と、電車の中で、亀井が、いった。 「部長は、今、政治的な解決に走り廻《まわ》っている。一人の刑事の問題など、どうでもいいと思っているんだろう」 「一人の刑事の問題が、本当は、大きなことだということが、わかっていないんじゃありませんか?」 「部長は、キャリアで、現場の経験が皆無に近いからな」  と、十津川は、笑った。  新宿で地下鉄を降り、二人は、歌舞伎町に向かって歩いていった。  これから、しなければならないことは、簡単だった。加倉井刑事について、彼がいかに悪い刑事だったかを証言した人間たちに会い、もう一度、証言を求めることだった。  まず、ホストクラブ「LOVE」に行き、青木誠に会った。彼は、新人のホストだが、前科があり、それをネタに加倉井刑事に脅され、月給の一部を巻きあげられていたということだった。 「もう、何もいうことはありませんよ」  と、青木は、二人に向かっていったが、眼をそらせている。 「そうはいかないんだ。今回、歌舞伎署がなくなるのを機会に、もう一度、加倉井刑事のことを調べ直すことにした。小早川署長も亡くなったからね」 「歌舞伎署がなくなるんですか?」  青木の顔に、驚きの色が走った。 「明日で消える」 「それで、歌舞伎署の刑事さんたちは、どうなるんですか?」 「新宿以外の警察に、再配置になるだろうね」 「新宿以外ですか?」 「そうだ。新宿以外だ。それで、加倉井刑事のことだがね」 「申し訳ありません」  突然、青木は、床に手をつくと、声を震わせた。  十津川は、苦笑して、 「そんな真似はやめなさい。われわれが知りたいのは、真実なんだ。加倉井刑事に、本当に脅されていたのなら、そういってくれればいい。だが、嘘なら、真実をいって欲しい」 「加倉井刑事のことは、嘘なんです」  青木は、泣くような声を出した。 「悪徳刑事じゃないんだな?」 「前科について、ボクを脅したのは、加倉井さんじゃないんです。他の刑事で、それを知られたくなければ、死んだ加倉井さんに、毎月、給料をピンハネされていたといえといわれたんです。署長も承知しているといわれて、いうことを聞かないと、ひどい目に遭うと思ったんです」 「署長も承知か」 「そうなんです。ボクは大丈夫ですか?」 「正直にいってくれて、助かったよ」 「でも、これは、誰にも話しちゃいけないんでしょう?」  青木は、怯《おび》えた顔で、きく。十津川は、笑って、 「誰に話しても構わないよ。真実なんだからな」  と、いった。 「中央新聞の記者が、いますよ」  と、亀井が、小声でいった。 「わかってる」  と、十津川は、いった。  二人が青木から離れ、店を出ようとすると、中央新聞の記者が、素早く、彼に近寄るのが、見えた。  マスコミは、三上刑事部長の発表を、決して、そのまま、事実とは、思っていないだろう。だから、必死になって、真相を知ろうとしているのだ。  二人は、次に、スナック「舞」に行き、ママの平井みゆきに会った。毎月、用心棒代として、加倉井刑事に二十万円ずつ払っていたと証言したママである。  二人が店に入った直後に、若い男が、身体を滑り込ませるように入ってきた。  旭《あさひ》新聞の記者だった。  十津川は、内心、苦笑しながら、ママのみゆきに対して、青木に対してと同じ質問をしていった。  みゆきは、同じように、あれは嘘だったと頭を下げ、歌舞伎署の他の刑事に脅された、署長も承知しているといわれ、怖かったので、加倉井刑事に毎月二十万円を支払っていると、「週刊タウン」の記者に話したのだと、話した。 「やはり、署長が、音頭をとっていたのか」  十津川は、自然に、憮然《ぶぜん》とした顔になった。  加倉井刑事は、きっと、小早川のやり方に、反対したのだ。K組と手を組み、盗撮、盗聴による歌舞伎町の支配を計画し、実行したことに、反対していたに違いない。  だから、加倉井は、事故死に見せかけて殺され、悪徳警官に仕立て上げられたのだ。  あのダイヤも、署長の小細工だろう。  二人は、事実を話して下さいといって、「舞」を出た。旭新聞の記者は、店に残っていた。多分、これから、ママへの取材をするだろう。  十津川は、亀井と、加倉井刑事について、悪徳警官であることを証言した人々に、次々に、会っていた。  小早川署長が死亡し、歌舞伎署がなくなり、そこで働いていた刑事、警官は新宿以外に移されると話すと、誰もが、正直に話し始めるのだ。  二人は、その日のうちに、合計七人の男女に会った。  翌日の夕刊は、見ものだった。  一斉に、加倉井刑事について、書き立てたのだった。 〈悪徳警官は、真っ赤な嘘だった!〉 〈殉職した小早川署長こそ、悪の指揮者だった!〉 〈加倉井刑事の事故死にも疑惑?〉 〈警察の上層部は、真相を明らかにせよ!〉  そんな言葉が、新聞紙上に、躍っていた。  すぐ、十津川は、三上刑事部長に呼ばれ、 「どういうことなんだ? これは!」  と、怒鳴られた。  三上の机の上には、夕刊各紙が、ずらりと並べられていた。  十津川は、それを見て、苦笑した。 「私は、部長の許可を得て、加倉井刑事について、調べ直しているだけですが」      9  三上刑事部長の顔が、真っ赤になった。 「確かに、加倉井刑事のことを調べろとはいったが、それが、どうしてこんなことになるんだ? これじゃあ、警察の恥を、全国にさらすようなものじゃないか」  三上が、甲高い声でいった。なぜか、三上は興奮すると、甲高い女性的な声になってくる。 「私は、新聞記者に、何も話していません。彼らが、勝手に書いたものです」  と、十津川は、いった。 「だが、でたらめだ」  また、三上部長は、甲高い声を出した。 「それなら、正式に抗議されたらいかがですか。総監の名前でです。でたらめな報道は、私も不愉快です」 「君が、とめられなかったのか? 君の責任だ」  と、三上は、いう。 「今もいいましたように、私は、ただ、加倉井刑事のことを、調べ直しているだけです」 「しかし、君が、加倉井刑事のことを調べ始めてから、急に、こんな警察批判が出てきたんだ。つまり、君の責任ということだ」 「これは、正確にいえば、警察批判というよりも、歌舞伎署批判だと思います」 「歌舞伎署は、歌舞伎町の治安に、大きく貢献した。署長の小早川警視は、そのために殉職している。治安が劇的に良くなったことは、数字が証明しているんだ。それなのに、なぜ、批判されなければならんのだ?」 「私にも、わかりません。私は、歌舞伎署の人間ではありませんので」 「しかし、君は、亡くなった小早川君の友人だろう?」 「同期生ではあります」 「しかも、君は、彼の殉職に立ち会っている。その小早川警視が批判されて、口惜しくないのかね?」 「私の関心は、今は、加倉井刑事にしかありません」 「それで、これからも調査を続けるというのかね?」 「そのつもりです。本当は真面目で仕事熱心な一人の刑事が、なぜ、悪徳刑事の汚名を着せられて亡くなったのか。それを調べたいのです」 「調べて何がわかるのかね?」 「実は、今日、こんな手紙を貰《もら》いました。差出人の名前はありませんが、興味ある内容なので、これから調べたいと思っているのです」  十津川は、ポケットから一通の手紙を取り出して、三上に見せた。  速達の朱印が押してあり、差出人の名前はない。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〈 何としても真実をお知らせしたくて、ペンを取りました。   歌舞伎署が開かれて、鋭意、歌舞伎町の治安に当たったのですが、いっこうに成果があがりませんでした。それにしびれを切らした小早川署長が、ある計画を立てたのです。それは、歌舞伎町を力によって支配することでした。そのため、二つのことが計画されました。一つは、歌舞伎町の闇の部分を支配しているK組と手を結ぶことであり、もう一つは、歌舞伎町の主要部分に、監視カメラと盗聴装置をつけ、二十四時間、歌舞伎町の人間を監視することです。その工事は、河合工事に、独占的にやらせました。   K組の工藤組長と署長との秘密の会談が、いつ行われたのかは、わかりませんが、生臭い取り決めが行われたことは、間違いありません。   その結果、歌舞伎町は変わりました。警察とK組が、協力して支配し、また、監視カメラと盗聴装置の網が張り巡らされた町になってしまったのです。   ただ、署の中に、小早川署長のやり方に反対する者もいました。その一人が、加倉井刑事です。彼は、恐怖によって治安が保たれたとしても、それは、本当の平和じゃない。治安が難しくても、前の自由な町に戻すべきだと、何度となく、署長にかけあっていました。   その結果が、あんな形の死です。私は、同僚として、彼が酔って事故死するなどとは、とても、考えられないのです。署長と署の方針に反対したので、口を封じられたのだと、私は思います。   しかも、署長は、死者に鞭打《むちう》つように、加倉井刑事を、悪徳警官に仕立てていったのです。彼の部屋には高価なダイヤを置いておきました。彼が、ゆすり、たかりをしたという記事は、全て、恐怖心から出たものだと思っています。K組の暴力と、歌舞伎署の監視の下で働いている人間が、署長の命令に逆らえる筈《はず》がありません。   ともかく、歌舞伎署は廃止されました。K組との野合も消えた今、私は、一人の警官として、全てが明かされ、加倉井刑事の名誉が回復されることを祈っています。   私は、まだ、現職の警官であり、名前をいえない心情をお察し下さるようお願いいたします。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]元歌舞伎署の一警官〉  三上は、眼を上げると、十津川を睨《にら》んで、 「まさか、これを新聞記者に見せるんじゃあるまいな」  と、いった。 「そんなことはしません」 「それなら、焼却したまえ」 「それは、できません」  と、十津川は、いった。 「なぜ、できないんだ?」 「私は、加倉井刑事のことを調べたいと申し上げた筈です。この手紙には、加倉井刑事のことが、書かれています。小早川署長によって、悪徳警官にさせられたのです」 「そんなでたらめを、信じるのかね?」 「でたらめかどうかを、確かめたいと思っています」 「どうやってだ?」 「関係者に当たって、確認します」 「関係者というのは、どういうことだ?」 「加倉井刑事の証言者と称する人間の何人かと、すでに会いましたが、まだ、いるので、その人間に会います。それから、K組の組員にも当たってみるつもりです」 「そんなバカな真似は止めなさい!」 「なぜですか? 部長だって、可愛い部下の一人の汚名を晴らすことに、賛成だと思いますが」 「確かにそうだが、警察全体の名誉には、代えられんよ」  と、三上は、いう。 「それは、おかしいんじゃありませんか?」 「何がだ?」 「一人の刑事の名誉を回復することは、警察全体の名誉を守ることにもなると思いますが」 「それは、屁《へ》理屈だ!」 「時間がありませんので、失礼します」  と、十津川は、いった。      10  十津川は、亀井と一緒に、歌舞伎町の喫茶店で、K組の柳沼という幹部と会った。亀井を同行させたのは、万一の時の証人となって貰うためだった。  K組は、組長を殺されて、力を失っていた。が、柳沼が、それ以上に腹を立てたのは、警察の背信だった。 「うちの組長と歌舞伎署の小早川署長の間で、協定があったんだ。うちも、おかげで、利益が上がったが、警察だって、難しい歌舞伎町の治安維持に成功したんだからな。それなのに、今になって、警察だけ、いい顔してやがる。あの署長は、殉職で、二階級特進か」 「警視長になる」 「お笑い草だな」 「私は、加倉井刑事のことを調べている。彼が、本当は、悪徳警官ではない証拠をだ」  と、十津川がいうと、柳沼は笑って、 「あの刑事は、融通の利かないバカ正直なだけさ。だから、煙たがられて、殺されたんだ」 「殺したのは、K組の人間か?」 「名前はいえないな。しかし、あの刑事を現場に呼び出したのは、小早川署長だぜ。署長が、本当のワルだよ」 「信じられないね」 「どうしてだ?」 「証拠がない」 「証拠はあるさ。小早川と、うちの組長とが、取り決めを作ったときの記録だよ。手を組んだときの記録だ」 「そんなものがある筈《はず》がない。小早川は、頭の切れる男だから、そんな証拠を残すとは、とても思えないね」 「もちろん、お互いに、記録は残さない約束だったよ。ところが、うちの組長は、小早川署長を信用してなくてね。万一に備えて、秘《ひそ》かに録音しておいたのさ」  柳沼は、自慢げにいい、一本のテープを見せた。 「聞くかね?」  と、柳沼が、いう。 「いや、私が興味があるのは、加倉井刑事のことだけだ」  十津川がいうと、柳原は眉を寄せて、 「変な奴だな。もし、これが公表されたら、警察全体がひっくり返るぜ」 「カメさん」 「何です?」 「この男を見張っていてくれ」  と、十津川はいい、店の外に出た。  そこで、彼は、携帯で三上部長に連絡を取った。 「お願いがあります」 「何だ?」 「記者会見で、加倉井刑事は、真面目な刑事だった。本当の悪徳警官は、歌舞伎署の小早川だったと、発表して下さい」 「そんなことは、できる筈がないだろう?」  と、三上が、いう。 「なぜですか?」 「決まっているだろう。そんなことをしたら、警察全体が批判されてしまう。加倉井刑事のことは、忘れたまえ。個人の名誉と、全体の名誉と、どっちが大事なんだ?」 「どちらも大事です」 「そんな子供っぽいことをいうもんじゃない」 「どうしても、駄目ですか?」  と、十津川は、きいた。 「駄目だ」 「そうですか」 「何を考えてるんだ?」 「何も考えていません。何もしないようにしようと思います」  と、十津川は、いった。 「訳がわからんな。何のつもりだと聞いてるんだ。何を企んでいるんだ?」 「ですから、私は、何もしないことに決めたと、申し上げています」 「君。十津川君!」 「失礼します」  十津川は、電話を切り、店の中に引き返した。  彼は、柳沼の前に、腰を下ろすと、 「もういい」  と、いった。 「何が、もういいんだ?」 「好きなようにしたらいいと、いってるんだ」 「このテープを、もし、公けにしたら、大変なことになるぞ」 「わかってる」 「おれは、あんたに売ってやってもいいと思ってるんだ。安くはないがね」 「私も買う気だったが、要らないというんでね」 「誰がいうんだ」 「キャリアの偉い人だよ」  十津川がいうと、柳沼は、小さく肩をすくめて、 「警察のお偉いさんの考えることは、わからないね。おれは、これを買ってくれそうな所に持っていくよ。それで、いいんだな?」 「ああ、君の自由だ」 「大変なことになるぜ」 「仕方がないな」  十津川は、冷めた声で、いった。  柳沼が、店を出て行った。 「止めないんですか?」  と、亀井が、きいた。 「止めないよ」 「大変なことになりますよ」  と、亀井も、いった。  その通り、大変なことになった。  柳沼は、問題のテープを、週刊誌に持ち込んだのだ。  その記事が載ったとき、警察全体が批判にさらされることになった。  国会でも、歌舞伎署の存在が問題にされた。  警察庁長官が、調査を約束した。  小早川署長とK組の組長との取り決めや、監視カメラ、盗聴装置の存在が、明らかになっていった。  そのうちに、元・歌舞伎署に勤務していた木之内という巡査長が、警察を辞めて、証言した。十津川に匿名の手紙をくれた警官だった。  木之内は、警察庁の監察官に向かって、歌舞伎署の実態を証言した。  十津川が嬉《うれ》しかったのは、彼が、加倉井刑事の本当の姿について証言してくれたことだった。 「これで、少なくとも、加倉井刑事の名誉は回復されるな」  と、十津川は、いった。 「これから、どうなるんですかね? 今は、ただ、大騒ぎですが」 「どこまで、はっきりするかということだろう。歌舞伎署の実態を、上の方が、果たして、知っていたかどうかが問題だが、多分、上の方は、知らなかった、全て、功名心に燃えた小早川が、一人で勝手にやったことだということで、終わるだろうね」 「そうでしょうね」  と、亀井は、肯《うなず》いてから、 「われわれは、どうしたらいいんですか?」  と、きく。 「私は、しばらく、事態がどうなるか、見守るつもりだよ」  と、十津川は、いった。 「そうですね。われわれには、どうすることもできませんから」  亀井が、小さく、笑った。 「私は、今回のことで、一つだけ、はっきりしたことがあると、思っている」 「何ですか?」 「やはり、地道な捜査が大事だという平凡なことさ。一度に、社会を浄化しようなんてことを考えたら、小早川みたいな考えになってしまう」 「そうかも知れません」 「だから、これからもコツコツやっていくさ」  と、十津川は、いった。 [#地付き]〈了〉 本書は、平成十二年七月に小社よりカドカワエンタテインメントとして刊行されたものを文庫化したものです。 角川文庫『十津川警部「裏切り」』平成15年10月25日初版発行