[#表紙(表紙.jpg)] 西村京太郎 十津川警部「友への挽歌」 目 次  第一章 銃声で始まった  第二章 もう一つの事件  第三章 洞 爺 湖  第四章 ボランティア  第五章 トワイライトエクスプレス  第六章 白い世界へ  第七章 ニ セ コ  第八章 雪 の 教 会  第九章 マ ニ ラ  第十章 友への挽歌 [#改ページ]  第一章 銃声で始まった      1  電話のベルで叩き起こされて、十津川は手を伸ばしながら、枕元の時計に眼をやった。  午前二時三十分。  刑事のさがで、 (事件か)  と、思いながら、 「十津川だ」  と、いった。 「おれだよ」  という男の声が聞こえた。 「おれ?」 「永田だよ、永田。覚えてないのか?」 「失礼ですが──」 「大学で一緒だったじゃないか。ラグビーをやってた永田だよ」  と、相手はいう。 「大学でラグビー?」  少しずつ、記憶が十津川の頭の中で、絵になっていく。十津川は大学時代は、ヨット部にいた。ラグビーは、応援に行ったのだが、FWに、大きな男がいた。そいつの名前が確か永田だった──。 「思い出したよ」 「お前は、刑事をやってるんだろう?」 「ああ」 「どうしても、そのお前に相談したいことがあるんだ。大事なことなんだ。おれの生死にかかわるんだ」  と、相手はいった。 「今、何処《どこ》だ?」  と、十津川はきいた。 「札幌だ。北海道の」 「東京へ来てくれれば、相談にのるよ。お役に立てるかどうかは、わからないが」 「こっちへ来られないか? こっちで見て貰《もら》いたいものがあるんだ」 「そういわれても、忙しくてね」 「何とか、時間を作ってくれないか。一刻も早く会って──」  そこまで相手がいった時、突然、十津川の耳に、激しい銃声が聞こえた。  続けて、もう一発。  受話器を持った十津川の表情は変った。 「もしもし。おい! 永田!」  と、十津川は怒鳴った。が、応答はなかった。  十津川は、受話器を強く耳に押し当てた。向うの気配を聞こうとした。物音でも、人の呻《うめ》き声でもと、思ったのだが、何も聞こえて来ない。  何秒かして、カチャッと、電話の切れる音がした。誰かが、向うで、電話を切ったのだ。  十津川は、しばらくの間、受話器を手に持ったまま、考え込んでいた。  いつの間にか、妻の直子が起き上って、心配そうにこちらを見ている。十津川は受話器を持ったままだったことに気付いた。苦笑しながらそれを、置いた。 「また、事件?」  と、直子がきく。 「それが、よくわからないんだよ」  十津川は、今の電話のことを話した。 「本当に、銃声でしたの?」  と、直子は半信半疑の顔で十津川を見ている。 「間違いなく、銃声だった。それも、最近、耳にしたことのある銃声なんだ」  と、十津川はいった。 「それ、どういうこと?」 「ロシア製のトカレフ拳銃を使った殺人事件が起きてね。その時、トカレフの威力を知ろうと、全員で、保管してあったトカレフを試射したことがあったんだ。その時に耳にした銃声と、同じなんだ」 「じゃあ、電話してきた永田という人が、射たれたの?」 「出勤したら、それを、調べてみるよ」  と、十津川はいった。  夜が明けて、いつものように桜田門の警視庁に出勤すると、十津川は、前に東京と北海道をつなぐ殺人事件で知り合った、道警の三浦という警部に、電話をかけた。  電話のことを、話してから、 「それで、札幌市内で、それらしい事件が起きてないかどうか、調べて欲しいんですよ」  と、十津川は頼んだ。 「トカレフを使った事件ですね」 「そうです」 「札幌市内の何処かわかれば、調べやすいんですが」 「それが、詳しい住所を聞く前に、切れてしまったのです」 「わかりました。銃を使った犯罪なら、今、市民の関心が強くなっていますから、警察に、知らせがあると思います。わかり次第、電話しますよ」  と、三浦はいってくれた。  十津川は次に、アドレス帳を取り出し、大学時代のクラスメイトの名前を探した。五人ばかり、名前と電話番号、住所がのっている。  その中から、同窓会の世話役などをやってくれる吉井宏に、電話をかけてみることにした。  勤務先が、K自動車企画部になっているので、そちらのダイヤルを回し、呼んで貰った。 「十津川か。珍しいじゃないか」  と、吉井は相変らず明るい調子でいった。 「大学時代、ラグビーをやっていた永田を、覚えているか?」  と、十津川はきいた。 「身体のバカでかかった奴だろう? 永田勇作だ。あいつが、どうしたんだ?」 「確か、札幌にいると思うんだが」 「ああ、向うで、旅行会社に勤めていた筈だ。札幌市内に、営業所があるんじゃないかな。彼が、どうかしたのか?」  と、吉井がきいた。 「ちょっと、連絡したいことがあってね。正確な住所か、電話番号が、わからないかな」 「急ぐのか?」 「ああ、早く知りたいんだが」 「永田のことを知っていそうな奴に、電話してみるよ。何かわかったら、知らせる」  と、吉井はいった。      2  昼近くになって、道警の三浦警部から、電話が入った。 「今までのところ、札幌市内で、銃を使った犯罪は、報告されていませんね。各警察署に、問い合せてみたんですが」  と、三浦はいった。 「北海道全体では、どうですか?」  と、十津川はきいた。 「それも、念のために、調べましたが、今までのところ、それらしい報告は、ありません」 「おかしいな」  と、十津川は呟《つぶや》いた。  最近、銃犯罪が増えているので、市民は、敏感になっている筈《はず》なのだ。三浦警部も、そういっていたではないか。  電話を通してだが、明らかに銃声が二回、聞こえたのだ。トカレフと思われる拳銃のである。  もし、あれを聞いた人間がいれば、警察に知らせている筈だ。それが、全くないというのは、どういうことなのだろう?  珍しく都内で事件が発生しない日だったので、十津川は、余計、電話の銃声に拘《こだわ》った。  二発の銃声は幻聴ではない。それも、あれは、トカレフの銃声だ。  それなのに、なぜ札幌で、いや、北海道で、報告がないのだろうか?  永田は、電話では、札幌にいるようにいっていたが、電話して来た場所は、別なのだろうか?  銃声と同時に、永田の声が聞こえなくなってしまった。あれは、何だったのだろう? 彼が射たれたのだろうか?  十津川は吉井からの返事を待っていられなくなって、こちらからもう一度、K自動車企画部に電話を入れた。 「永田のことだが、住所を調べてくれた?」  と、十津川がきくと、吉井は、なぜか不機嫌な口調で、 「本当に永田だったのか?」  と、聞き返してきた。 「なぜだい? 電話で、永田だといったんだよ」 「それは嘘だよ」 「なぜだ?」 「今、永田は、日本にいないんだ」  と、吉井はいう。 「日本にいないって、どういうことなんだ?」 「彼の旅行会社の電話番号がわかったんで、さっき、電話してみたんだよ。そしたら、彼は今、フィリピンにいて、帰って来るのは、三日後だというんだ。新しい旅行プランを作るために、現地取材に行ってるというんだ。だから彼は今、日本にいないんだよ」 「おかしいな。永田は札幌だといったんだよ」 「本当に、永田だったのか? 君は、彼の声を覚えているのか?」 「いや、覚えてないが──」 「じゃあ、誰かに、欺《だま》されたんじゃないの」 「永田の旅行会社の電話番号を、教えてくれ」  と、十津川はいった。  〇一一‐二二一‐××××と、十津川は、教えられた電話番号を、自分の手帳に書きとめた。      3  午後二時過ぎに、夕刊の早い版が、配られてきた。  十津川は、それを、隅から隅まで眼を通した。北海道でない所で、銃犯罪が起きているかも知れないと、思ったからである。  だが、日本の何処でも、銃犯罪は発生していなかった。少くとも、新聞の上ではである。  十津川は、札幌の中央旅行社に、電話をかけた。 「永田の友人ですが」  と、十津川がいうと、電話に出た男は、 「さっきもいいましたように、永田課長は、今フィリピンです。三日後の十二月九日に、帰国しますので、また電話して下さい」  と、丁寧にいった。さっきといったのは、吉井が電話したことを、いっているのだろう。 「彼は、新しい旅行プランのことで、フィリピンに、行っているそうですね?」 「ええ。セブ島では、日本円で四、五千万で、豪華な別荘が買えますからね。旅行プランの中に、別荘見学も入れてみたらどうかと、彼がいって、その取材に出かけているわけです。パンフレットが出来たら、お送りしますよ」  と、相手はいった。 「永田が今日、向うで泊るホテルが、わかりませんか? そこの電話番号がわかれば、かけたいんですが」  と、十津川はいった。 「それが、向うでは、いろいろな旅行コースを試してみるということで、今日、どのホテルにチェック・インするか、まだ、決っていないんですよ」  と、相手はいった。 「わかったら、教えて下さい」  と、十津川はいい、こちらの電話番号を知らせた。自宅の番号もである。それだけあの電話のことが、彼の胸に引っかかっているということだった。  札幌の中央旅行社からは、退庁時間になっても、連絡は、来なかった。  十津川が帰り支度をしていると、亀井刑事が、 「ちょっと、つき合いませんか」  と、声をかけてきた。 「カメさんが、誘ってくれるなんて、珍しいね」 「食事じゃなくて、お茶だけですが」 「いいよ」  と、十津川は、笑顔で、肯《うなず》いた。  新宿で、途中下車し、駅ビルの中にある喫茶店に入った。  亀井は、コーヒーを頼んでから、 「今日一日、警部は、浮かない顔でしたよ」  と、いった。 「それで、誘ってくれたのか?」 「これでも私は、意外に良い聞き手なんですよ」  と、亀井は笑った。 「ありがとう」 「お友だちのことみたいですが?」 「そうなんだ。妙な話でね」  十津川は、電話のことや、札幌の旅行社のことを、亀井に話した。 「どうしても気になるのは、あの二発の銃声なんだ。間違いなく、トカレフの銃声だった」 「でも、現実には銃犯罪は、起きてないんですね?」 「新聞には、のっていなかった。北海道に限れば、道警本部に、銃声を聞いたという市民からの知らせは、入っていない」 「いたずらということは、考えられませんか?」  と、亀井はコーヒーをゆっくりかき廻しながら、いった。 「いたずら?」 「ええ。銃声を録音しておいて、それを電話で聞かせた」 「私を、からかうために、そんなことをしたというわけか?」 「私も、同窓生に、からかわれたことが、あるんですよ。私が警察で働いていることを知っていて、からかったんです。夜中に電話して来て、突然、大変だ、今、泥棒が入って来た、すぐ助けに来てくれって、叫んだんですよ。危うく車で、その友人のところへ駆けつけようと、思いましたよ」 「しかし、その友人はすぐ謝ったんだろう?」 「ええ」 「私の方は、その後、何もいって来ないんだ」 「謝りそこねているんじゃありませんか?」 「なるほどね。私を、からかったものの、やり過ぎてしまったので、本当のことが、いいにくくなってしまったということか」 「私のは、ただの参考意見だと思って下さい」  と、亀井はいった。 「いや、聞いてくれて有難かったよ」  と、十津川はいった。  一時間ほど、亀井と話したあと、十津川は帰宅した。  妻の直子に、札幌の中央旅行社から電話がなかったか聞いてみたが、なかったという。  翌日になっても、なぜか、中央旅行社からの連絡は来なかった。  十津川の方から、もう一度、電話してみようかと思っているうちに、都内世田谷区成城で、殺人事件が発生し、十津川は、亀井刑事たちと、現場に急行した。  殺されたのは、三歳の幼女だった。そして、殺したと思われる母親は、行方不明になっている。母親の手配をする。多分、すぐ彼女は見つかって、解決するだろう。逃げる場所は、そう沢山はないからだ。  案の定、午後七時過ぎになって、多摩川近くを歩いている母親が発見され、訊問したところ、子供を殺したことを、自供した。母親も、死場所を探して、多摩川の近くを、歩いていたのだ。  事件が解決したので、夜の十時には、十津川は帰宅することが出来た。  出迎えた直子に、中央旅行社から、電話がなかったかきくと、 「電話はなかったけど、速達が来てるわ」 「速達? 旅行社から?」 「それが差出人の名前が書いてないのよ」  と、直子はいう。  なるほど、宛名は、十津川省三様になっていたが、差出人の名前はなかった。消印は、札幌中央である。  十津川は、封を切って、中身を、取り出した。  手紙は入ってなかった。その代りに、出て来たのは、航空券である。  東京→札幌(千歳)の航空券なのだ。  東京発一六時〇〇分のANA69便の航空券で、日付は、明日、十二月八日になっていた。 (まるで、札幌への招待状だな)  と、十津川は思った。  あの深夜の電話と、何か関係があるのだろうか? 十津川は、航空券を前に置いて、考え込んだ。      4  十津川は、招待状の航空券を使って、札幌へ行ってみたかった。  ひょっとすると、トカレフの銃声の謎が解けるかも知れないと、思ったからである。何やら危険な匂いが漂ってくる。それが刑事としての十津川の本能を刺戟《しげき》するのだ。  だが、北海道内で、何も起きていないということでは、十津川が動くわけにはいかなかった。  友人からの電話の最中にトカレフの銃声が聞こえた、というだけでは、上司は出張を許可しないだろう。それなら道警に調べて貰えばいいというに決っている。そして道警はそんな事件は起きていない、ともう回答して来ている。 (弱ったな)  と、十津川は思った。 (休暇をとって、行ってみようか?)  と、迷っているところへ、吉井から電話が入った。 「永田の件は、どうなった?」  と、彼も心配して聞いてきたのだ。  十津川が航空券が送られてきたことを話すと、吉井は笑って、 「やっぱり、悪戯《いたずら》なんだよ」 「どうして、悪戯だと思うんだ?」 「よく考えてみろよ。まず、もっともらしく電話をかけて、銃声を聞かせる。そして、次は誰からかわからない札幌行の航空券が送られてくる。しかも、おれみたいにいいかげんな男のところにではなく、本庁の捜査一課の現職の警部の君宛だ。おれなら、すぐ悪戯だと思うが、君はひょっとして事件じゃないかと思う。刑事だからな。だから君を選んだんだよ。君がおっとり刀で飛んで行ったら、ほら、引っ掛ったって笑おうというやつだ」  と、吉井はいう。 「誰がそんな悪戯をするんだ?」  と、十津川はきいた。 「いくらでもいるじゃないか。そうだな、例えば木山だ。奴には在学中に、アングラ劇団の彼女がいてさ。謹厳実直なフランス演劇史の畑という助教授の家庭を、ちょっと、もめさせてやろうと、その彼女に電話をかけさせたんだ。畑助教授の奥さんに電話して、私は先生と間違いを起こして、今、妊娠三カ月です。私は、先生の子供が産みたいんですけど、先生はすぐ、堕《お》ろせというんです。奥さん、ひどいと思いませんかといって、電話口で泣いてみせたんだ。おかげで、畑助教授の家庭は離婚寸前までいったんだ」 「そんなことが、あったかな」 「他にも、ワルはいたよ。そんな連中が、君をからかおうとしてるのさ」 「しかし、ひょっとすると、事件かも知れないんだ。いや、正確にいえば、事件の発端かも知れないという気がするんだよ」 「だが君は札幌へ飛んで行けないんだろ?」 「ああ、まだ事件が起きていないからね」 「じゃあ、どうしようもないじゃないか」 「だから余計、いらいらしているんだ」 「ちょっと待て」 「なんだ?」 「早瀬を知ってるだろう? 今、フリーのカメラマンをやってる早瀬卓だ」 「知ってるよ。前に、カンボジア内戦をレポートした本を贈って貰ったことがある」  と、十津川はいった。 「早瀬が今、日本に帰って来ているんだ。この間、会って一緒に飲んだんだが、その時、奴がいってたんだ。今まで海外の危険地帯を歩き廻って、写真を撮《と》ってきたが、これからは、日本国内のレポートをしたいってね。君の話なんか、面白がって飛びつくよ」 「しかし──」 「何を心配してるんだ?」 「トカレフの銃声のことがあるからな」  と、十津川はいった。 「早瀬はトカレフどころか、AK47や、バズーカの雨の中を、飛び廻って来たんだぜ、とにかく、早瀬を行かせろよ。何時の飛行機なんだ?」 「一六時〇〇分のANA69便だ」 「よし。おれに委せてくれ」 「しかし──」  と、いったが、もう吉井は、電話を切っていた。      5  翌八日の朝早く、その早瀬から、電話がかかった。 「吉井から聞いたよ。おれに行かせてくれ」  と、早瀬はいう。 「しかし、ひょっとすると危険かも知れないんだ」  と、十津川はいった。 「だからおれは行きたいんだよ。ただの北海道旅行なら、一千万貰ったって、願い下げだ」 「トカレフのことは聞いたか?」 「ああ、聞いたよ。おれはアフガンに行ったとき、ゲリラからロシア製のトカレフを借りて射ったことがあるんだ。あの銃声は覚えてるよ。君は、これから出勤だろう?」 「ああ、そうだ」 「それなら警視庁の前で会おう。その時、航空券を渡してくれ」  と、早瀬はいった。  彼はその言葉通り、警視庁の前で待っていた。  陽焼けした顔で、使いなれたライカを、ぶら下げている。十津川から、封筒に入った航空券を受け取ると、 「差出人がわからないところが、食欲をそそるね」  と、笑った。 「いっておきたいことがあるんだ」  と、十津川がいうと、早瀬は肯《うなず》いて、 「わかってるよ。必ず君と連絡をとるさ」 「それだけじゃない」 「まだ、何かあるのか?」 「危険なことがあったら、絶対に近づかない」 「それは約束できないな」 「それなら、航空券は、返して貰う」 「返してもいいが、おれは自分で航空券を買って、同じ便で札幌へ行くよ」  と、早瀬は、ニヤッと笑った。 「参ったな」 「安心しろよ。おれは刑事の君より、危険には馴れてるんだ」  と、早瀬はいい、「じゃあ」と、小さく手をあげて地下鉄の駅に向って、歩いて行った。  早瀬の姿が見えなくなると、十津川はまた、不安になってきた。  五時半になると、早瀬の乗った飛行機が、丁度、千歳に着いた頃だなと思い、何か起きているのではないかと、心配したりした。  帰宅してからも、夜のテレビのニュースを、丹念に見た。が、千歳空港や札幌で、何か事件が起きたという報道はなかった。 (それにしても、無事に着いたのなら、着いたと、電話してくればいいのに)  と、十津川は、腹が立った。  どこかで、やはり自分が行けば良かったのだという気があったからである。  午後九時近くなって、電話が鳴った。受話器を取った妻の直子が、 「あなたによ」  と、いった。 「誰から?」 「十津川ですって」 「十津川?」 「ええ。あなたの親戚の人じゃない? 男の人よ」  と、直子はいう。  十津川は、受話器を受け取って、 「誰なんだ?」 「おれだよ。早瀬だ」  と、相手がいった。  十津川は、ほっとしながら、 「無事だったのか? 今、何処だ?」 「今、定山渓《じようざんけい》温泉のK旅館にいる。十津川省三の名前で、入っている。温泉につかってきたところだ。のんびりしながら、雪景色を眺めるのもいいものだよ」  と、早瀬は、のんきにいった。 「なぜ、私の名前を使っている?」  と、十津川はきいた。 「それが面白いのさ」  早瀬が、楽しそうな声を出した。十津川は、少しばかり、腹を立てた。 「何が面白いんだ?」 「怒りなさんなよ。あの航空券は、君の名前で届いていたんだろう? 封筒は、十津川省三様と書いてあったからな。それで飛行機にも君の名前で乗った。千歳空港へ着いたら、十津川省三様と書いたプラカードを持った若い男が、迎えに来ていたよ。このK旅館の従業員でさ、お迎えにあがりましたというんだ。面白いじゃないか。旅館の車に乗ってここへ着いたというわけだよ。今日、札幌周辺に雪は降ってないんだが道路は積雪があってね。タクシーが、なかなか来ないから、助かったよ。おい。聞いてるのか?」 「ああ、聞いている」 「誰かが君の名前で旅館の予約もしておいてくれたんだ。いい部屋だ。和室が二つに、洋室もついている。この旅館では一番いい部屋らしい。夕食も豪勢だったよ。誰かわからないが、折角、君の名前で予約しておいてくれたんだから、おれは十津川省三と、宿泊カードに、書いておいた」 「しかし──」 「予約してくれたのは、航空券の送り主だな」 「それは、わからんな。問題は、そいつが誰で、何のために、そんなことを、やってるかだよ」  と、十津川はいった。 「永田じゃないのか?」  と、早瀬はいう。 「永田に聞いてみようと思って、中央旅行社に電話したんだが、彼に連絡が取れないといってるんだ」 「永田は明日、帰国する予定なんだろう?」 「中央旅行社では、そういっている」 「じゃあ、明日、おれがその会社へ行って、詳しい話を聞いてみる。そして、永田を迎えに、千歳空港へ行ってみよう。おれも、永田には、しばらく会ってないからな」 「中央旅行社の場所は、知ってるのか?」 「電話番号は、吉井に聞いてるから、大丈夫だよ。しかし、それだけじゃあ面白くも何ともないな。雪と、永田の顔を見に来ただけで終ってしまう」  と、早瀬はいった。 「そちらの新聞に、トカレフにまつわるような記事は、のってないか? 北海道版に」  と、十津川はきいた。 「ああ。のってるよ」 「やはり、トカレフを使った発砲事件があったのか?」 「いや、そんな記事はない。ただ、北海道は北方四島に近いせいもあって、ロシアの船員が外貨欲しさに、拳銃の密輸をやっていた。その拳銃が、トカレフだという記事は、出ていたよ」  と、早瀬はいった。 「まさか、君は、トカレフの密輸ルートを追いかけるみたいな真似はしないだろうな?」  と、十津川は、心配になって、きいた。 「そいつも、悪くないが、明日は、取りあえず、中央旅行社へ行って、永田のことを聞いてみるさ。じゃあ、明日、その結果を知らせるよ」  と、早瀬はいい、電話を切った。  十津川は、早瀬が、無事だったことに、ひとまず安心した。自分の代りに行かせた早瀬に、何かあったらと、心配だったのだ。その点は杞憂《きゆう》だったのだが、自分の名前で、定山渓の旅館を予約しておいた人間のことが引っかかって、布団に入っても、なかなか、眠れなかった。  十津川の耳にはまだ、トカレフの銃声が、消えずに、残っている。それは、決して、幻聴などではなかった。  それに、電話の男は、永田と名乗った。だが、永田は、会社の話では、フィリピンに行っている筈だという。とすると、電話の男は、永田ではなかったのだろうか? もし、永田でないのなら、誰が、何のために、永田の名前を使って、十津川に電話してきたのか。もし、永田本人だったのなら、会社に黙って、帰国していたことになる。何のために、そんなことをしたのか? そして、彼は、電話で何を十津川にいおうとしていたのか?  それを知りたいと思うのだが、明日になれば、何かわかるのだろうか?  何とか、夜明け近くになって、眠ることが出来て、眠い眼をこすりながらの登庁になったが、すぐ事件が起きた。  池袋の繁華街で起きた殺人事件だった。  今朝、清掃会社の人間が、雑居ビルの掃除に来て、地下のバー「やよい」のドアが開いているのに気付いて、中をのぞいたところ、床に、ママの下島やよい(三十五歳)が、胸を射たれて死んでいるのを発見したのである。  現場のバーは八坪ほどの店だった。地下のせいか、それともわざと暗くしてあるのか、明りを点《つ》けても、うす暗かった。  被害者は狭い床に仰向けに倒れていた。弾丸は胸と腹に一発ずつ命中し、血は、花模様のじゅうたんを赤黒く染めている。  血は多量に流れたらしく、乾いた今も血の匂いが立ち籠《こ》めていた。  弾丸は、一発が被害者やよいの身体を貫通して、カウンター裏の壁に、めり込んでいた。  もう一発は、死体の下の床に、食い込んでいるのが、発見された。  恐らく、犯人は、カウンターの前に立っている被害者を射ち、それは、胸部を貫通した。被害者が倒れると、犯人は、腹に向って二発目を射ち込んだのだろう。 「犯人は落ち着いて、止《とど》めを刺したという感じですね」  と、亀井刑事が十津川に向っていった。 「そうだな。口論の揚句《あげく》、カッとして、殺したという感じじゃないな」  と、十津川もいった。  死体は、司法解剖のために運び出された。  午前十時になると、雑居ビルの一階にあるラーメン店が店を開け、さっそく、西本と日下《くさか》の二人が聞き込みに行った。  ラーメン店の主人が話したところによると、バー「やよい」には、時々、東南アジア系の客が来ていたという。  最近はいなかったが、前には、フィリピンの若い女がホステスとして働いていたこともあるということだった。  バー「やよい」は、一応、午後十二時が看板だが、時たま、それを過ぎても、店を開けていたことがあるとも、ラーメン店の主人は証言した。  捜査本部が、池袋署に置かれ、十津川は、司法解剖の結果を待ったが、その間に、気になっていた電話を、札幌にかけた。  定山渓のK旅館にかけたが、早瀬は、午前九時三十分に、チェック・アウトしていた。  また、中央旅行社にも電話してみたが、なぜか誰も電話に出ない。  一時間ほどしてもう一度電話しようとしているところへ、被害者下島やよいの司法解剖の結果が報告されてきた。  死亡推定時刻は今朝の午前一時から二時の間。死因は弾丸が心臓に命中したためのショック死と、書かれてあった。  やはり犯人は止めを刺すために、二発目を射ったのだと、十津川は思った。      6  二発の弾丸は検査のために科研に送られた。また、店の席に落ちていた二発の空の薬莢《やつきよう》も同じく科研に運ばれた。  その結果が出るのを、十津川は待っていたのだが、翌日になって、十津川一人が、捜査本部長に、呼ばれた。  本部長室に行くと、本部長の三上刑事部長の他に、二人の男がいた。  一人は、十津川もよく知っている男である。科研の佐伯という技官である。もう一人の四十五、六歳の男の方は、初めて見る顔だった。  その男が、十津川に、名刺をくれた。 〈東京入国管理局成田空港支局長   井原 要〉  十津川が説明を求めて、三人の顔を見ると、科研の佐伯が、まず口を切って、 「例の二発の弾丸について、条痕検査をしたんだが、同じ条痕を持つ弾丸が前にも見つかっていることがわかった。約半月前の十一月二十五日の夜に、千葉県の旭市で柳沼勝平という男が自分の車の中で、射殺された。その時の弾丸と同じ条痕が見られるんだ」 「その事件なら覚えているが、自殺と、発表されていたんじゃないのか?」  と、十津川はいった。 「そうです。千葉県警にもお願いして、自殺と発表して貰いました」  と、井原がいった。 「そうか。確か死んだ人は、入国管理官でしたね」  十津川は井原を見ていった。 「その通りです。私の下で働いていた人間です」  と、井原はいう。 「なぜ自殺と?」 「彼が亡くなったと知らされた時、とっさに、自殺ではないかと思ったのは本当です。実は、彼をずっとマークしていたのです。彼が金を貰って、不法入国者を見逃しているという噂《うわさ》があったからです。しかし、肝心の拳銃が見つかりません」 「それでも自殺と発表したのは、なぜなんですか?」 「理由は二つあります。一つは、これから年末にかけて、海外へ出かける旅行者で成田はごった返します。もちろん、日本に入国して来る人間も多い。そんな時、柳沼入国管理官が拳銃で射殺され、しかも犯罪に関係しているなどということになると、他の管理官の士気に関係してきます。それで、あくまでも、個人的な悩みで自殺したことにしたのです。事実、最近の彼は金遣いが荒く、女性問題で奥さんとうまくいかなくなっていたのです」  と、井原はいった。 「もう一つの理由は、何ですか?」  と、十津川は、きいてみた。 「彼がひとりで、勝手に不法入国者に便宜を与えていたとは思ってないのです。不法入国を助ける組織があって、彼はその組織とつながっていたのではないか。それで警察とも相談し、われわれが何にも気がつかぬことにして、その組織をあげたいと思ったわけです」  と、井原はいった。 「使用された拳銃の種類はわかったんですか?」  と、十津川は、三上部長にきいた。 「科研では、トカレフだろうといっている」  と、三上が答え、それに付け加えるように、佐伯が、 「間違いなく、トカレフだと思っているよ」 「十一月二十五日の事件ですが、確か、自分の頭を射って自殺したということだったと思うのですが、本当はどうだったんですか?」  と、十津川は、井原にきいた。 「実際は胸を一発射たれ、続いて頭部を一発、射たれています。二発射たれていたわけです」  と、井原はいった。 「同じか──」  と、十津川は呟いた。 「そうだよ。十一月二十五日のケースでも、今回と同じく犯人は、きちんと止《とど》めを刺しているんだ」  と、三上はいった。 「律儀な犯人ですね」  と、十津川はいった。 「それで、今後の捜査方針だが」  と、三上は難しい顔でいい、井原に眼をやって、 「今、真相を発表するのは、まずいですか?」 「今もいいましたように、多忙な時期に、部下たちが、動揺するのは、避けたいと、思っています。それに、もし、柳沼管理官が殺されたとなれば、マスコミが殺到して、あることないこと、書き立てられ、テレビで報道されると思うのです。捜査にも、支障を来たすと、考えます」  と、井原はいった。 「それでは、あくまでも自殺ということで?」 「彼が、関係していたと思われる組織が、はっきりするまでは、自殺ということにしておきたいと、思います」 「しかし、そちらで何かわかった時は、連絡して頂けますね?」  と、十津川はきいた。 「もちろん、連絡します」  と、井原は約束した。 「千葉県警は、ひそかにこの事件を捜査しているわけですね?」  と、十津川は、三上にきいた。 「担当しているのは山崎という警部だ。彼からあとで君に、連絡して来る筈だよ」  と、三上はいった。      7  その山崎から電話が入ったのは、一時間ほどしてからだった。若い声だった。 「間違いなく、同一の犯人だと思います」  と、山崎は、元気のいい声を出した。 「そちらは、大変ですね。表向きは自殺となっている事件を捜査するのは」  十津川は、同情の口調で、いった。 「そうなんです。殺された柳沼の同僚に、いろいろと話を聞けませんからね」 「なるほど。それでどんな状況で、殺されていたんですか?」  と、十津川はきいた。 「現場は、旭市近くの九十九里の海岸です。そこに、彼の車がとまっていて、運転席で、射殺されていたわけです。殺されたのは、十一月二十五日の午後十時から十一時の間と、みています。翌朝、発見されました」 「銃声を聞いた人間は、いないんですか?」 「いませんね。夏なら、夜釣りに来ている人間がいて、銃声を聞いたかも知れませんが、十一月下旬ですからね。寒くて夜釣りに来る人間もいなかったと思います」 「被害者の自宅は?」 「旭市です。自宅から、約二キロ離れた海岸で、殺されたわけです」 「犯人の指紋も、なかったんでしょうね?」 「ありません。手袋をしていたと思われます」 「犯人も、車で現場に来たんですかね?」  と、十津川はきいた。 「近くに別の車のタイヤの痕《あと》は、ありませんでした。従って、犯人は、被害者の車に同乗して来たものと、思います」  と、山崎はいった。 「殺してから、歩いて逃げたということですか?」 「足跡は見つかっています。被害者の車から、国道126号線に向っています。そこに、前もって車をとめておいたのか、或いは、そこで仲間と落ち合ったのかでしょう。犯人の靴は恐らく革靴で、大きさは二六・五です」  と、山崎はいった。 「被害者は、何も奪《と》られていないんですか?」 「運転免許証、財布、身分証明書などは、盗られていません。しかし、何か大事なものがなくなっているのかも知れません。それは、今のところ見当がつきません。そちらの事件は、どうですか?」  と、今度は、山崎がきいた。 「これから、本格的な聞き込みを始めるので、まだ何もわかっていないのと同じですが、そちらと同一犯人の可能性は大きいですね。使用された拳銃はトカレフで同一拳銃。同じように、二発、射たれています。被害者の名前は下島やよい、三十五歳。バーのママで、フィリピンのホステスが一緒に働いていたようです」 「柳沼管理官が、その店に、遊びに行っていた可能性も、ありますね」  と、山崎はいった。 「その点を、もちろん調べてみるつもりです」  と、十津川はいった。  喋《しやべ》りながら十津川は、自然に、永田のこと、早瀬のことを、頭に思い浮べていた。  電話で聞こえたトカレフと思われる二発の銃声。二発目は、今回の事件と同じように、止めを刺すために射ったものではないのだろうか?  早瀬は今頃、何処にいるのか? 彼が定山渓温泉の旅館をチェック・アウトしたことは、わかっているが、その後がわからない。彼から連絡も入っていなかった。  札幌へ行きたいのだが、こちらで殺人事件が起きてはそれもままならない。  一応、新聞テレビを見る限りでは、札幌で、事件が起きていないようなので、ほっとはしているのだが──  十津川は、バー「やよい」について、聞き込みを続けさせた。  ママの下島やよいが殺された当時、ホステスは二人いたことはわかっていた。その一人、金子由美、二十八歳は見つかったが、もう一人はどうやらフィリピン女性で、居所がわからず、姿を消してしまったようだった。  十津川は亀井と、金子由美に彼女のマンションで会い、殺された下島やよいについて、いろいろと話を聞いた。 「ママは、時々、旅行をしてたわ。香港に行ったり、フィリピンに行ったりね。香港は、買物だといってたけど、フィリピンの方は、何の用で行ってたのか、わからないわ。何もいわなかったし、別に何か買ってくる感じでもなかったから」  と、由美はいう。 「ホステスとして、よく、フィリピンの女性が来てたようだけど」 「ええ。ママは斡旋する人を知ってたみたいね」 「どんな人間かな?」 「知らない。教えてもくれなかったわ」 「この人が、お客として来たことは、なかったかね?」  十津川は、柳沼勝平の顔写真を、相手に見せて、きいた。  由美は、じっとその写真を見ながら、 「どういう人なの?」 「見たことがあるみたいだね?」 「確か、何度か飲みに来てたけど──」 「入国管理官だ」  と、亀井が、横からいった。 「ああ、それでね」 「それ、どういう意味だね?」 「ママが、大切なお客だといってたし、フィリピン人のホステスと、英語で喋ってたから」  と、由美はいった。 「それだけかね? それぐらいのことなら、フィリピンへよく遊びに行く中小企業の社長だってするだろう?」  と、亀井がいった。 「普通のお客なら、ちゃんとお金を払って、飲んでいくわ」 「写真の男は、金を払わなかったのか?」 「ママは、今もいったように、大事なお客だからといって、お金を貰わなかったし、逆に、いつだったか、お誕生日おめでとうといって、高い腕時計を、あげてたわ」  と、由美はいった。 「彼は、店に来る時、ひとりで来てたの? それとも、連れがいたのかね?」  と、十津川がきいた。 「そうね。ひとりのこともあったし、男の人と一緒のこともあったわ」 「その男は、よく、君の知ってる人?」 「いえ。知らない人だったわ。そうね。四十歳くらいで、ほとんど喋らない人だったわね。黙って、笑ってたわ」 「笑ってた?」 「ええ。だから、ちょっと気味が悪かったのを覚えてるの」  と、由美はいった。 「ママは、その男のことを、よく知ってるみたいだったかね?」 「わからないわね。別に、ママに聞いてみたわけじゃないから」  由美は、興味のない表情で、いった。 「ママを殺した人間に、心当りはないかね?」 「ないわ」 「ママはその筋の人間と、親しくしていたんじゃないのか?」  と、亀井がきいた。 「どうかな。いろいろ噂は聞いてたけどね」  由美は、そんないい方をした。 「噂というと?」 「一時、S組の幹部の女だったとかね。でも全部噂よ」  と、由美は笑った。 「君と一緒に、お店で働いていたフィリピン女性のことだが」 「ああ、マリアのことね」 「マリアと、呼ばれてたのか?」 「ええ。明るく、いい娘《こ》だったわよ」 「今、行方不明なんだがね」 「警察に、あれこれ聞かれるのが嫌で、姿を隠したんじゃないのかな。あの娘《こ》は、あれだったみたいだから」 「あれって、不法入国者?」 「ええ」 「ママは、それを、知ってたのかな?」 「ママはね、前に、不法滞在者のフィリピンの女の子を使ってて、警察にあげられたことがあるのよ。そういう女の子の方がいうことをよく聞くからって、いってたわ」  と、由美はいった。 「ママは、事件の日遅くまで店に残ってたみたいだね?」 「ええ。誰かが、来るみたいな感じだったわ」 「誰が?」 「さあ。わからないわ」 「もう一度、聞くが、犯人に心当りはないかね?」 「ないわ」  由美は、相変らず、そっけなくいった。  彼女との話では、柳沼勝平が、店に来ていたことだけが確認されたが、それ以外に、収穫らしきものはなかった。  捜査本部に戻ると、西本刑事が、十津川に、 「早瀬という人から、警部に電話がありました」  と、いった。 「早瀬から?」 「はい。伝言だけ、聞いておきました」  と、西本はいい、メモを十津川の前に置いて、 「これだけは、伝えておいて欲しいといわれましたので。早瀬さんのいう通りに、書いておきました」  と、付け加えた。  メモ用紙には、西本の字で、次のように書いてあった。 〈面白い話になってきたので、おれが頂く。邪魔しないでくれよ〉 「早瀬は、この通りに、いったのか?」  と、十津川は、念を押した。 「そうです。それで警部はわかる筈だといわれました」 「何処から電話して来たのか、いってなかったかね?」 「聞いてみたんですが、おっしゃいませんでした」  と、西本はいった。 [#改ページ]  第二章 もう一つの事件      1  下島やよいの経歴が、わかってきた。  彼女は、三十五年前の夏、八月十六日、札幌市豊平区で生れている。  父親は現在五十六歳で、区役所に勤めて、母親も健在である。五歳年下の弟は、函館市内で妻子と生活しており、平凡なサラリーマンである。  やよい自身は地元の高校一年の頃からグレ始め、二年の時、退学処分を受けると家を飛び出して上京した。  その後、札幌の両親とも、函館の弟夫婦とも全く連絡を取らず、彼女が東京で何をしているのかわからなかったという。ようやく彼女が二十七歳の時、連絡が取れたが、それは警察からのものだった。売春斡旋容疑で、逮捕されたのである。  この時、やよいは赤羽のバーのママをしていて、未成年者をホステスとして雇い、彼女たちに客を取らせていたのである。  やよいは、その後も水商売を続け、三十二歳の時、暴力団の元組員と同棲を始めたが、この男は一年後に殺人未遂で逮捕され、現在、府中刑務所に服役中である。  彼は、菊地克郎という名前で、三十五歳。しばしば、東南アジア、特に、フィリピンに行っていた。彼女が自分の店にフィリピン女性をホステスとして、入れるようになったのは、この男と知り合いだからである。  彼と知り合ったことが、ひょっとして今回の事件の原因になっているのではないかと十津川も考え、亀井と急いで、府中刑務所に出かけた。  菊地は、頬骨のとがった、痩せた狐を思わせる男で、三十五歳という年齢より、四、五歳は老けて見えた。  下島やよいが殺されたことを告げると、菊地はニヤッとした。 「そうか、そのうち、碌《ろく》な死に方はしないだろうと思っていたんだ」 「しかし、一緒に暮したこともあった筈だ」  と、亀井がいった。 「あいつは、疫病神だ。おれも、あいつのおかげで、刑務所《ムシヨ》入りだ」 「お前が殺そうとしたのは、確か、店の客だったなあ」 「ああ。やよいの奴があんまりその客に色目を使いやがるんで、かっとしてね」  と、菊地はいった。 「それで懲役三年か」 「あと一カ月で出所だ。出たら、あいつを殺してやろうと思ってたんだが、その手間がはぶけたよ」  と、菊地はいい、笑った。 「彼女のことを殺そうと思っていた人間に、心当りはないか?」  と、十津川はきいた。 「男まさりの激しい気性の女だから、いくらでも殺したいと思ってた奴はいるさ」 「その線で、殺されたと思うのか?」 「他に考えようがあるってのか?」  と、菊地は逆に開き直った。 「君はよく、旅行してたな? 東南アジアにだ。特にフィリピンに」  と、十津川はいった。 「ああ。それが、どうかしたのか?」 「君が殺しかけた男も確か、中小企業のおやじでよく、東南アジアへ行ってたな」 「そうだったかな」 「そうだよ。毎月のように彼は出かけてた。自動車の修理工場をやっていたが、儲かっているようには見えなかった。それなのに、なぜそんなに旅行に行けたのか? しかも一回に二週間もだ」 「ちょっと待ってくれよ。その男のことを知りたいんなら、おれに聞くことはないだろうが。あいつに聞けばいいことじゃないか」 「ああ。そうしたいんだが、行方不明なんだよ」  と、亀井がいった。 「行方不明。ふーん」  と、菊地は鼻を鳴らして、 「おれが知ってる筈がないだろう? ご存じの通り、ずっと、おれは刑務所《ムシヨ》暮しなんだから」 「しかし、お前さんはS組の人間だ」  と、亀井がいった。 「元組員だよ。もう、組とは関係ないよ」 「本当に関係ないのか?」 「くどいね」 「下島やよいは、トカレフと思われる拳銃で、射殺された。何か思い当ることはないかね」  と、十津川はきいた。 「心当りがある筈がないだろう。おれは、拳銃を使ったことはないし、何度もいうが、やよいが殺された時、おれは刑務所《ムシヨ》に入ってたんだ」 「君がやったとは、いっていない。トカレフを使って、殺しをやる人間に心当りはないかと、聞いてるんだ」 「最近は素人でも、拳銃をぶっ放すからねえ」 「素人が必ず止めを刺すか?」  と、十津川がいった。 「止めを刺す?」 「ああ。必ず、頭部や心臓を射って止めを刺しているんだよ。そんな殺人に、何か心当りはないか?」 「ないね。そんな変な奴は」  と、菊地はいい、そのまま、黙ってしまった。      2 「菊地の顔色が、変っていましたね」  と、帰りの車の中で、亀井がいった。 「そうだな。ニヤニヤしてたのが、トカレフのことをいったとたんに、おかしくなっていたね」 「あれは、ただ、びっくりしたということじゃないと思いますよ」  と、亀井はいった。 (あの表情の急変は、いったい何だったのだろうか?)  と、十津川は考えた。  ただ単に、トカレフを使う殺人に心当りがあったためなのだろうか? しかし、それなら菊地には刑務所に入っていたという立派なアリバイがあるのだから、平気でいるのではないだろうか。  とすると、トカレフを使った殺しに強い恐怖を感じたからではなかったろうか。  何度も府中刑務所に通って、菊地を訊問してみたいが、今日の感じではその理由を喋りそうにない。  下島やよい殺しの捜査自体も、壁にぶつかってしまった。  容疑者が少いからではなくて、多過ぎるのだ。  菊地がいうように、殺された下島やよいは男関係が派手だったし、暴力団ともつき合いがあって、容疑者がいくらでも浮んでくるのだが、捜査を進めていくと、容疑者が次々に消えてしまうのである。  十二月十三日になって、捜査本部にいる十津川に妻の直子から電話が入った。  めったに職場に電話して来ない直子が、 「早く知らせた方がいいと思って」  と、いった。 「何があったんだ?」 「北海道に行ったお友だちのことを心配してらっしゃったでしょう?」 「早瀬から、連絡があったのか?」 「今、ハガキが届いたの。絵ハガキだから、FAXで送りましょうか?」 「そうしてくれ」  と、十津川は、こちらのFAX番号を教えた。  送られてきたのは、絵ハガキの表と裏だった。  表は、洞爺《とうや》湖の風景で、裏の方には、次のように、書いてあった。 〈変な恰好《かつこう》をしたあいつを見つけたよ。  面白くなってきた。  警察は、邪魔しないでくれ。 [#地付き]洞爺にて 早瀬〉  よくわからない手紙だった。 「あいつ」というのは、誰のことなのだろうか? 早瀬は永田に会いに札幌へ行ったわけだから、普通に考えれば彼を見つけたということだろうが、それならなぜ、「永田を見つけた」と、書いて来ないのだろうか?  それに「変な恰好」という意味も、よくわからない。  だが、北海道のことは今、十津川の捜査対象ではなかった。今、彼が捜査しているのは東京で起きた殺人事件である。その解決に全力をつくさなければならないのだ。  十津川は、五、六分、洞爺湖の写真と短い文面に眼をやってから、そのFAXを机の引出しにしまってしまった。  今日は捜査の行き詰まりを打開するため、ここ二年間に起きた拳銃を使った事件を洗い直してみることにした。  拳銃を使った事件は、ここへきて急増している。去年が三十七件、今年が今までに五十二件である。  もちろん、この全てが、殺人事件ではない。企業への脅迫に、銃弾が撃ち込まれるというものもあれば、コンビニ強盗が、「拳銃らしきもの」を、使用した事件も含まれている。  ただ、最近は、簡単に拳銃が手に入るせいか、ちょっとしたケンカにさえ、素人が拳銃をぶっ放すのである。  しかも、トカレフが使われるケースが多くなったのは、安く手に入るからだろう。一丁、十万円を切り、六万円で手に入れ、それを使ってサラ金強盗を働いて捕った男もいる。  下島やよい殺しの犯人は、どんなルートでトカレフを手に入れたのだろうか?  しかし、ロシア製、中国製のトカレフが大量に流入してくる現在、入手ルートから犯人に近づくのも難しかった。  捜査のメドがつかないままに、十津川は帰宅すると、早瀬から届いたホンモノの絵ハガキを見た。  FAXでは、消印の日付がはっきりしなかったのだが、実物の絵ハガキでは十二月十二日の午前八時になっている。投函されたのは、洞爺からである。 (早瀬の奴、洞爺で何をしているのだろうか? 何をしようとしているのだろうか?)  自然に、十津川は考え込んでしまう。 「お友だちのことが、心配みたいね」  と、直子が声をかけた。 「ああ。心配なんだ」 「それじゃあ、テレビのニュースは見ない方がいいかも知れないわ」  と、直子はいう。 「何かあったのか?」 「午後六時のニュースで、あなたが心配するようなことをいっていたから」  と、直子はいった。  十津川は、置時計に眼をやった。間もなく午後九時になる。  手を伸ばして、テレビをつけた。直子は心配そうに、十津川を見つめている。  二、三分して九時のニュースになった。 〈北海道の洞爺湖岸で、バラバラ殺人事件〉  の見出しの文字がいきなり画面に飛び出してきた。  十津川の表情が変った。  画面に洞爺湖が出る。絵ハガキと違っているのは、こちらが雪景色であることだけである。  アナウンサーの説明は、次のようなものだった。  今日十二月十三日の午後三時頃、洞爺湖岸の降り積った雪の中から、黒いビニール袋に入った男の左手と左足が発見された。左手は、手首のあたりで切断されており、左足は膝の部分で切断されている。どちらも、かなり大柄な成年男性のものと思われている。  発見者は、湖岸のみやげもの店の店主で、犬を遊ばせていて、その犬が雪の中から掘り出したのだということだった。  十津川が、とっさに考えたのは、早瀬のことだった。  だが、早瀬は、中肉中背で、大男とはいえないだろう。  大男ということで、思い浮ぶのはラグビーの巨漢FWだった永田である。 (まだ彼に決ったわけではないじゃないか)  と、十津川は、自分にいい聞かせた。もちろん、それで、安心できるわけがない。十津川は、午後十時、十一時のニュースも、注意して見るようにした。  その時点では、バラバラ死体の身元はわからないままだった。  翌朝、朝刊が届くのを待ち構えていた。三紙に、眼を通した。  だが、まだ、身元は不明のままだ。道警本部は、身体の他の部分を懸命に探している事だけ、報じていた。  この日、下島やよい殺しの捜査の方は、いっこうに進展しなかった。  午後になって、十津川は、夕刊に眼を通した。 〈バラバラ死体の身元判明!〉  と、大きな活字が、一面に躍っていた。 (顔の部分が見つかったのか?)  と思った。が、そうではなくて、指紋の照合の結果だった。 〈殺されたのは、札幌市内に住む永田勇作さん四十歳〉  その活字に、十津川は頭をがーんと殴られた気持だった。ひょっとしたらという不安はあったが、ショックであることに変りはない。  道警本部は、左手の指紋を、警察庁に照会し、その結果、身元が判明したということだった。つまり、永田には前科があったということである。  十津川は、そのことには別にショックは受けなかった。  大学を同期で卒業して、すでに二十年近いのだ。その間に、何があっても、おかしくはないからである。  むしろ、大学時代と同じであることの方が、不思議かも知れない。  同窓の友人である吉井も、夕刊を見て、びっくりしたらしく、電話をかけてきた。 「どうなってるんだ?」  と、吉井は、いきなり、きく。 「わからないよ」  と、十津川はいった。 「しかし、君は、刑事だろうが」 「だが、道警じゃないからな」 「心配なのは早瀬なんだ。おれの方には、ぜんぜん連絡がないんだ。今、何処にいるんだ?」  と、吉井はきいた。 「洞爺湖から、絵ハガキを貰ったよ」 「洞爺って、まさか早瀬が永田をバラバラにして、捨てたんじゃないだろうな?」  と、吉井がきいた。  十津川は、苦笑して、 「早瀬が友だちを殺したりはしないだろう」 「そうなんだが、洞爺湖という土地が一致しているのが、気になってね」 「その点は同感だ」  と、十津川もいった。      3  道警は、捜査員を増やして、死体の他の部分を探した。  特に顔と胴の部分である。犯人は洞爺湖の周辺か、或いは湖中に捨てたと思われるので、道警ではアクアラングをつけた潜水部隊まで動員した。  だが、なかなか見つからなかった。  洞爺湖は、周囲四十三キロと広いが、湖岸の道路が整備されているので、車で一周できる。積雪で車では走れなくなる時もあるが、ここ一週間は積雪もそう多くはなく、除雪も完全に行われているので、犯人は車で湖岸を走り廻り、好きなところでバラバラにした死体を捨てられるだろう。  いっこうに死体の他の部分が見つからないのも、それを考えれば無理もないという意見があったが、その一方でこれは少しおかしいのではないかという意見も、道警の中で出始めた。  それは、手首と片足が簡単に見つかりながら、他の部分がなぜ、見つからないのだろうかという疑問だった。  顔と胴体が見つからないのは、多分、身元がわかっては困るので、焼却してしまったか、重しをつけて、湖中深く沈めてしまったのではないか。  普通に考えれば、そんな答が出てくるのだが、それにしては、犯人が、指紋のわかる手首を、なぜ、足と一緒に、無造作に捨てたのだろうかという疑問になってくるのである。  現に、指紋照合の結果、殺されたのが永田勇作と判明している。 「犯人は身元がわかっても構わないと、思っていたんじゃないかね」  と、捜査本部長は部下の刑事たちにいった。 「そうだとすると、なぜバラバラにしたんですか?」  と、刑事の一人が質問した。  続けてもう一人の刑事が、 「指紋はわかってしまってもいいが、顔の部分と胴体は見つかっては困る。犯人にはそんな理由があったんでしょうか?」  と、きいた。  本部長もすぐには答が見つからずに考え込んでしまった。  その時、この捜査を担当している三浦という警部が、 「死因じゃないでしょうか」  と、本部長にいった。 「死因──というのは?」 「顔の部分や胴体が見つかってしまうと、被害者がどんな方法で殺されたかわかってしまう。犯人はそれが困るのでその部分は、焼却したか、湖に深く沈めてしまったのではないでしょうか」 「殺され方か」 「そうです。毒殺か、ナイフで腹を刺されたのか、銃で撃たれたのか、それがわかってしまうと、犯人は困るのかも知れません」 「しかし、なぜ、困るんだ? 殺したことに変りはないだろう」  と、本部長はいった。 「手首と足から、死亡推定時刻はわかったんでしょうか?」 「さっき、大学病院から電話があったが、十二月五日の夜から六日にかけてだろうということだったよ」 「やはり、そうですか」 「何か、思い当ることがあるのかね?」  と、本部長が三浦にきいた。 「六日に、警視庁の十津川という警部から、札幌市内で拳銃を使った犯罪は起きていないかという問い合せがありました」 「それなら私も覚えている。結局、そんな事件は起きてなかったんだろう?」 「そうです。しかし、十津川警部は、札幌から電話がかかっていて、その電話の中で銃声を聞いたといっていたんです。しかも、二発もです」 「それが、バラバラ殺人と関係があると思うのかね?」 「十津川警部に電話して、詳しく、その時の電話のことを聞いてみたいんですが」 「すぐ、電話したまえ」  と、本部長はいった。      4  十津川はその電話を、捜査本部の置かれた池袋署で受けた。  電話をかけてきた三浦警部は、 「十津川さんは拳銃を使った犯罪が起きてないかと、前に聞かれたことがありましたね?」  と、きく。 「ええ。六日にそちらに聞きました。友人のかけてきた電話の中で、トカレフの銃声が二回聞こえまして、その直後に切れてしまったからだったんです。やはり、その夜から六日にかけて、トカレフを使った犯罪があったんですか」  と、十津川はきいた。 「いや、それはまだわかっていないのですが、その時、十津川さんにかけて来たお友だちというのは、ひょっとして永田勇作という人じゃありませんか?」  と、三浦がきいた。 「なぜ、ご存じなんですか? あの時は、友人の名前はいいませんでしたが──」 「その永田勇作さんが、バラバラ死体で発見されましてね」 「それは、知っています。びっくりしています」 「永田さんは、どうやら五日の夜から六日にかけて死亡しているのです」  と、三浦はいった。 「すると、あの銃声が聞こえた時、永田は殺されたんですか? 六日の午前二時半過ぎでしたが」 「死亡時刻は合致します」 「トカレフで撃たれて殺された後、バラバラにされて洞爺湖に捨てられたんですか?」  と、十津川はきいた。 「それは、まだわかりません。というのは、肝心の顔の部分と胴体が、見つからないからなんです。洞爺湖の周辺や、湖の中まで捜索していますが、いっこうに見つからない。それで、犯人は指紋がわかってもいいが、顔や、胴体が見つかると困るので、その部分は焼却してしまったか、重しをつけて湖に沈めたのではないかということになりました。ただ、その理由がわかりません。ですが、一つ考えられるのは──」 「どうやって殺されたか、わかると困る?」 「そうなんです。もし、拳銃、それもトカレフで射殺されたとすれば、少しは納得できます」  と、三浦はいった。 「多分、あなたの推理は当っていますよ」  と、十津川はいった。 「そうですか?」 「十一月二十五日の夜、千葉県で、入国管理官が殺されているんですが、トカレフで射殺されたんです。しかも、二発撃たれてですよ。まず一発撃ち、次に止《とど》めの一発を撃っているんです」  と、十津川はいった。 「なるほど。永田勇作さんも、同じ犯人に、同じトカレフ拳銃で、殺された可能性があるわけですね」 「そうです。顔や、胴体に、トカレフの銃弾が二発撃ち込まれていたら、それがわかってしまう。だから指紋はわかってしまってもいいが、どんな方法で殺されたか、わかってしまうのは困るということじゃありませんか」 「それで、納得がいきました」  と、三浦は嬉しそうな声を出した。 「となると、やはり、あの時の銃声は──」  と、十津川はいいかけてから、 「困ったな。永田の働いていた中央旅行社に問い合せた時、彼は今、フィリピンにいて、三日後の九日にならなければ帰国しないといったんです」 「その旅行社の話は、間違いないんですか?」 「そうか。確かに何かおかしかったですねえ」  と、十津川はいった。永田がフィリピンにいるというのに、何というホテルに泊っているのかわからないと、相手はいったのである。  永田が、フィリピンに行ったのは本当だとしても、六日には帰国していたかも知れないのだ。  中央旅行社は、それを知っていたのではないだろうか?  十津川は、道警からの電話が切れると、改めて永田が電話してきた時のことを思い返した。  彼は電話で、「こっちへ来られないか? こっちへ来て見て貰いたいものがあるんだ」といった。十津川が返事を渋っていると、「何とか時間を作ってくれないか、一刻も早く会って──」と、彼がいいかけたとき、銃声が聞こえたのだ。  そして、東京→札幌(千歳)の航空券が送られてきた。もちろん、あれは永田が送ったものだろう。永田はその航空券を送っておいてから、電話してきたに違いない。定山渓温泉の旅館も十津川の名前で予約しておいてである。  それだけどうしても十津川に来て貰いたかったのだろう。  電話の中で、十津川が、「わかった。そちらへ行くよ」と、いっていたら、「実はもう、航空券を送った。定山渓の旅館の予約もしておいたから、必ず来てくれ」とでもいうつもりではなかったのか。  永田は誰かに脅されていて、殺されるかも知れないと怯えていて、それを刑事の十津川に相談したかったのではないか。  永田が洞爺湖でバラバラ死体で発見されてみると、そんな風に思えてならない。 (すぐにでも向うへ行きたい)  と、思う。  永田のことを調べてみたいと思う。  だが、今の段階では許可されないだろう。  下島やよいを殺したのと同じトカレフで永田も殺されたとなれば、当然、道警との合同捜査ということになるのだが、まだ十津川と、三浦警部の勝手な推理でしかないからである。  顔の部分や胴体が見つかって、同じトカレフから発射された弾丸が発見されれば、その推理の正しさが証明されるが、犯人がそれを嫌って、顔の部分や、胴体を焼却するか、洞爺湖に深く沈めてしまっていれば証明は難しい。 (何とかならないのか)  と、十津川が歯がみをした時、 「警部、電話です」  と、西本刑事が大声でいった。  十津川は、切りかえボタンを押して、眼の前の受話器を取った。 「十津川です」 「あたしよ。由美。金子由美」  と、相手はいった。 「ああ、君か。ママを殺した犯人に、何か心当りがあったのか?」  と、十津川はきいた。 「そうじゃないけど、新聞に、バラバラ死体のことが、出てたでしょう?」 「ああ」 「殺された人の写真が新聞にのってたわ。身元がわかったって」 「ああ。永田勇作という男だ」 「名前は、どうだったか覚えてないけど、あたしね、写真の男の人、前に見たことがあるのよ」  と、由美はいった。 「本当か?」  思わず、十津川の声が大きくなった。 「本当よ。あたしは物覚えのいい方なの」 「何処で見たんだ?」 「何とかいう入国管理官の写真を、あたしに見せたことがあったでしょう?」 「ああ。それで?」  と、十津川は先を促した。 「その人が、お店に男の人と一緒に来たことがあったと、いったでしょう?」 「確か、四十歳くらいで──」 「黙って、笑っているんで、ちょっと気味が悪かったわ」 「ああ、君は、そういってたな」 「その男の人なのよ」  と、由美はいう。 「バラバラ死体の男がか? 永田勇作がか?」 「そうよ」 「間違いないんだな?」 「ええ」 「大事なことだから念を押すんだが、永田勇作だったんだな?」  十津川がいうと、由美は不機嫌な声になって、 「くどいわね」 「他にその男にはどんな特徴があった?」 「大きな男だったわ。その上、がっちりしていて──」 「ラグビー選手みたいだったか?」 「あたしはラグビー選手とつき合ったことはないから、わからないけど、とにかく大きな男よ。それが黙ってニヤッと笑ったりするから、気持が悪かったの」  と、由美はいった。 「君に、お礼をいわなきゃならないな」  と、十津川はいった。 「そうよ。わざわざ電話してあげたんだから。今度、あたしがお店を始めたら必ず来てよ」  と、いって由美は電話を切った。  十津川はすぐ、そのことを三上本部長に報告した。  三上も驚いて、 「君の友人が、殺された入国管理官と知り合いだったのか」 「しかも彼は北海道でバラバラ死体にされ、トカレフで射殺された可能性があるんです」  と、十津川はいった。 「それは本当なのか?」 「トカレフのことは、あくまでも推測ですが、彼は札幌の旅行社に勤めていて、フィリピンにもよく行っていました」 「その点で、下島やよいとも結びついてくるのか」 「そうです」 「君の友人だが、名前は──」 「永田勇作です」 「その永田は、いったいどんな男なんだ? 君は大学の同窓なら、よく知っているんだろう?」  と、三上にきかれて、十津川は困惑した顔になり、 「それが卒業以来、ほとんどつき合いがなかったんです。彼が札幌の旅行社で働いていることも知りませんでした」  と、いった。 「何も知らないのか。友人なのに」  三上が、渋面《じゆうめん》を作った。 「北海道へ行かせてくれませんか。柳沼という入国管理官を殺し、下島やよいを殺したのと同じ犯人が、友人の永田勇作をも、殺したと思うのです」  と、十津川はいった。 「行けば、何かわかると思うのかね?」 「そう思います。それに、道警とは合同捜査ということになりますから」  と、十津川はいった。 「いいだろう。私からも道警本部長に電話しておく」  と、三上はいった。 「カメさんと、一緒に行って来ます」  と、十津川はいった。      5  翌朝、一番の飛行機で十津川と亀井は羽田から、千歳に向った。  空港では、千歳は吹雪で、向うの滑走路が使用不能の場合は、引き返すこともあるというアナウンスが行われていた。  それでも、二人の乗ったボーイング767が急上昇して雲の上に出ると、冬空が嘘のように太陽が降り注いでくる。  十津川は眩《まぶ》しくなって、窓のブラインドを下した。 「永田というのは、どういう人なんですか?」  と、亀井がきいた。 「昨日から、それをずっと考えていたんだ」 「三上部長には、よくわからないと、いわれたみたいですね」 「ああ。友人なのにわからないのかと、部長に叱られたよ。それで、考えていたんだが、少しずつ思い出してきた。大学時代の永田のことだがね」  と、十津川はいった。 「ラグビーの選手だったそうですね」 「ああ。今は、大男揃いだけど、私が大学の頃は、ラグビーの選手といっても、一七〇センチ台でね。その中で永田はひときわ大きくてね。身長もだが、体重も百キロを越えてたんじゃないかね。あいつが、一人、二人とひきずるようにしてトライするところは、なかなかの見ものだったよ」 「そうですか」 「三年の時だったかな。ラグビー部と、私がいたヨット部が対抗戦で同時優勝してね。大学の後援会の人が、一緒に神楽坂でご馳走してくれたんだ」 「神楽坂ですか」 「ああ。芸者が何人も来てさ。みんな、いい気分で飲んでたんだが、あいつだけが妙にかしこまってるんだ。それで、みんなで酔わせてやろうと思って、無理矢理飲ませた」 「それで、どうなったんですか?」 「顔を真っ赤にしてね。突然、立ち上ったかと思うと、襖《ふすま》に向って、うおッと叫びながら、突進したんだ。みんながあっけにとられて見ていると、襖を突き破って隣りの部屋に飛び込んだんだが、そのまま高いびきで眠ってしまった。いくら呼んでも起きやしない。仕方がないんで、あいつだけを置いて帰ってしまったんだが、あとで聞いたら、若い、きれいな芸者に介抱して貰って楽しい一夜を共にしたらしい」 「ほう」 「それで、みんなが羨ましがって、あいつはそれまで童貞だったんじゃないかとからかったら、いや、あいつは純情なふりをして、女心をくすぐったんだといったりしてね」 「警部は、どう思われたんですか?」 「私か? 私にはわからなかったが、この一件でこいつは、いい奴だなと思ったよ。だから永田のことを考えると、ラグビーボールを片手でわしづかみにして突進していく姿と、酔って襖を破いた姿が、まず、浮んでくるんだよ」  と、十津川はいった。 「大学を卒業してから、永田さんはどうされたんですか?」  と、亀井がきいた。 「ラグビーを続けたかったんだろうね。K工業に入って、二回ほど試合に出たのは知っているんだが、そのあとなぜか試合に出なくなってね。K工業も辞めたらしいという噂を聞いたんだが、それで、どうしたかわからなくなってね」  と、十津川はいった。 「札幌の旅行会社に勤めていることも、ご存知なかったんですか?」 「全く知らなかった。同窓会にも姿を見せなかったしね」  と、十津川はいいながら、ふと、金子由美の言葉を思い出した。 (黙って、ニヤッと笑ったりするから、気持が悪いのよ)  という由美の言葉だった。  十津川の思い出の中の永田は、そんな言葉からはもっとも遠い男だったのだ。図体の大きな永田の笑顔は、ひどく可愛く見えた。大きな力士が笑うと妙に子供っぽく見えるのと同じだった。  だが、由美が嘘をついているとも思えない。とすると、その笑顔が与える印象の違いが、十津川の知らなかった二十年近くの永田の生活と関係があるのかも知れない。 「永田は、肋骨を二本折っても試合に出たことがあってね」  と、十津川はいった。 「いろいろ、覚えていらっしゃるじゃありませんか」 「少しずつ思い出しているのさ。あの頑丈な永田が、死んだというのが信じられないんだ」 「拳銃には、敵《かな》いませんよ」 「トカレフか──」  重量八九〇グラム。弾倉を装填すると一キロ近い。ロシアの古い制式拳銃だが、弾頭に比べて火薬の量が多いので、アメリカのマグナムより貫通力がある。  確かに、永田がいくら大男でも、トカレフで射たれたら助からないだろう。それも二発も射たれたら。  千歳空港には粉雪が舞っていたが、それでも無事に着陸した。      6  飛行機から降りると、耳が痛くなる寒さだった。十津川は、思わず、両手を耳に当ててしまったが、東北生れの亀井は、平気な顔で、 「雪景色は、いいですねえ」  と、いった。 「カメさんは、先に洞爺湖へ行ってくれないか」  と、十津川は空港のロビーで、亀井にいった。 「警部は?」 「私は、洞爺へ行く前に、ちょっと寄りたいところがあるんだ」 「わかりました」  と、亀井はいった。深く聞かないところが、十津川は好きなのだ。  十津川は、千歳線で、札幌に向った。  札幌まで、ずっと、眩しいばかりの雪景色である。最初は美しかったが、太陽が顔を出すと眼が痛くなって、サングラスをかけた。  札幌に着く。  久しぶりの北海道であり、札幌だった。前に来たときは、確か、夏だった。北海道なら、少しは、東京より涼しいだろうと期待していたのに、あの時は、やたらに暑くて、だらだら汗を流しながら、時計台や、ポプラ並木や、クラーク像を見て廻ったものだった。  今日は、逆に、やたらに寒い。  日陰になっている歩道は、積った雪が凍って、アイスバーンのようになり、滑って歩きにくかった。自分でも、不恰好だと思いながら、自然に、屁放腰《へつぴりごし》になってしまう。その恰好で、中央旅行社がある雑居ビルまで、歩いて行った。  その三階が、中央旅行社の筈だった。だが入口のドアは閉っていて、看板も、見つからない。  おかしいなと思い、十津川は、二階に降り、そこで店を出しているラーメン店で、聞いてみることにした。  店に入ると、いきなり、十津川の耳に、 「本当に、中央旅行社は、潰《つぶ》れたんですか?」  と、きく若い女の声が、聞こえた。  おやっという感じで、十津川は、声の方に眼をやった。  カウンターのところで、黒のコートに、真っ赤なマフラーという恰好の若い女が店の主人に聞いているのだ。  十津川は、テーブルの方に腰を下し、ウエイトレスに、さっぽろラーメンを注文してから、聞き耳を立てた。 「潰れたというか、とにかく、突然、店を閉めてしまったんだよ」  と、店の主人が、答えている。 「社長さんは、何という名前でした?」 「確か、小野田という名前だったね」 「永田さんという課長さんも、いたと思いますけど」 「ああ。大きな男の人ね。課長ということだったけど、本当は小野田社長とは、共同経営者だと聞いたこともあるね」 「共同経営?」 「永田さんが、社長のことを、おい、小野田って、呼んでたことがあったよ」 「社長さんは、今、何処にいるか、わかりません?」 「さあねえ」 「どんな人でした?」 「小柄だけど、眼つきが鋭かったな。とにかく、変な旅行会社だったよ」  と、店の主人は、いっている。  十津川は、運ばれてきたラーメンを食べながら、若い女に眼をやった。その横顔を、何処かで見たような気がするのだが、何処で見たのか思い出せないうちに、彼女は店を出て行った。  十津川はもう、店の主人に、旅行社のことを聞く必要がなくなって、食べ終ると店を出た。  また、のろのろと、滑らないように駅前のバスターミナルまで歩き、定山渓《じようざんけい》行のバスに乗った。  バスで一時間で、札幌の奥座敷と呼ばれる定山渓温泉である。バスは、札幌市街を抜けると、豊平川に沿って走る。雪を蹴散らして走るという感じだった。スキーを担いだ若い男女が乗っているのは、定山渓温泉の周囲に札幌国際スキー場や、中山峠スキー場があるからだろう。  十津川が定山渓へ行くのは、もちろんスキーのためではない。早瀬のことがあったからである。  早瀬は、洞爺湖から絵ハガキを送ってきたあと、何も連絡して来なくなってしまった。永田が殺されたことを知っているのだろうか? 知っているとしたら、東京に帰ってしまったのか。それとも永田が殺された理由を探ろうと、北海道を、うろついているのか。 (早瀬の奴、あまり、心配かけるなよ)  と、呟いてから、突然、十津川は、 「あっ」  と、声を出した。  札幌のラーメン店で会った女のことだった。  彼女の横顔に、どこかで見たようなと思ったのだが、あれは、早瀬に似ていたのだ。 (ひょっとして、早瀬の妹かも知れない)  と、思ったが自信はない。早瀬に、妹がいたかどうかも、知らないのだ。  バスが、トンネルを抜ける。そこが豊平川沿いに開けた定山渓温泉だった。  問題のK旅館は、バス停の近くにあった。  十津川はフロントで、警察手帳を見せ、 「私の名前で、泊った男がいる筈なんだが」  と、いった。  フロント係は、顔を、こわばらせて、 「いらっしゃいましたが、あのお客様は、何かの事件の犯人か何かで?」 「いや、私の友人なんだ」  と、十津川が笑うと、フロント係はほっとした顔になって、 「それを聞いて、安心いたしました」 「その男だが、ここには一日だけ泊ったんだね?」 「はい」 「誰か、彼に会いに来た人はいたかな?」  と、十津川はきいた。 「いいえ。どなたも」 「じゃあ、外から、彼に、電話は?」 「一つだけありました。男の方の声で、十津川省三という客が泊っているだろうといわれたので、泊っていらっしゃいますと、いいました。おつなぎしましょうかといいましたところ、伝言をいうから、あとで伝えて欲しいといわれました」  と、フロント係はいう。 「どんな伝言?」 「ええと、確か、明日、洞爺湖へ行ってくれと」 「それだけ?」 「はい」 「電話の男は、自分の名前をいったのかね?」 「いえ、おっしゃいませんでした」 「妙な具合だな」 「──?」 「なぜ自分で、直接いわなかったんだろう?」 「私も変だなと思いました。その時、お相手の方は、ちゃんと部屋にいらっしゃいましたから。それでもう一度、おつなぎ致しましょうと申し上げたんですが、なぜか、あとで伝えてくれといわれて、電話を切ってしまわれたんです」  と、フロント係はいった。 (相手は早瀬に声を聞かれると、まずいと思ったのかな)  と、十津川が考えていると、フロント係は、急に小声になって、 「実は、ついさっき、同じようなことをお聞きになったお客様が、いらっしゃいます」  と、秘密めかしていった。 「そのお客というのは、ひょっとして、若い女性じゃないの?」  と、十津川はきいた。 「ご存知のお方なんですか?」 「いや。彼女は、ここに、泊ってるの?」 「はい」 「私も部屋があいていれば、泊りたいのだが」  と、十津川はいった。 「ございます」  と、フロント係はいった。  十津川は、差し出された宿泊カードに、名前を記入してから、 「彼女のも見せてくれないか」  と、いった。  フロント係が、見せてくれたカードには、 〈早瀬友美〉  と、記入してあった。 (やっぱりそうか)  と、十津川は、ひとりで肯《うなず》き、部屋のキーを受け取って、エレベーターに乗った。  六階の部屋に入って、窓の外に眼をやると、いつの間にか粉雪が舞い始めている。  仲居さんが運んでくれたお茶を一口飲んでから、十津川は煙草をくわえて、降りしきる雪にもう一度、眼をやった。 (早瀬の妹も、兄を探しに来たのだろうか?)  もし、そうだとすると、早瀬は、妹にも連絡を取らずにいるのだろうか?  しばらく、そんなことを考えていたが、十津川は立ち上り、浴衣《ゆかた》に着がえた。丹前を羽おり、手拭いを持って、部屋を出る。  大浴場は一階だった。  エレベーターに乗る。そのエレベーターが、五階に止って同じ丹前姿の若い女が乗って来た。  一瞬、見違えてしまったのだが、彼女だった。  十津川は、声をかけようとして、やめてしまった。彼女がひどく、物思いに沈んだ眼をしていたからだった。  一度、声をかけそびれてしまうと、話しかけにくい。  二人は一階で降り、十津川は声をかけないままに、「殿方」と書かれたのれんをくぐって、大浴場に入った。  裸になって湯舟につかる。湯があふれる音を聞きながら、 (彼女は、兄のことが、心配なのか)  と、思った。  彼女のことを考えることが妙に楽しい。そのことに十津川は、ふと狼狽《ろうばい》した。 [#改ページ]  第三章 洞 爺 湖      1  その夜、十津川は寝る前に、珍しく妻の直子に電話をかけた。捜査中は、よほどのことがなければ電話をしたことはない。 「私だ」  と、十津川がいうと直子は、 「どうしたの?」  と、きく。 「何となく君の声が聞きたくてね」  と、いいながら、おれも馬鹿なことをいうものだなと、十津川は自分で照れてしまっている。 「何だか変ね」 「何が?」 「そっちできれいな女《ひと》に会ったの?」 「馬鹿なことをいいなさんな。大学時代の友人が殺されて、ひどく気が滅入るんで、君の声を聞きたくなっただけだよ」 「そのことだけど」 「何?」 「だからといってあまり張り切らないでね。あなたはよく、やり過ぎるもの。それにあなたは、あくまでも──」 「わかってる。私は警視庁の刑事だ。ここは道警の所轄だ。もう切るよ。明日早く洞爺湖に行かなければいけないからね」 「もう切るの?」 「向うに、カメさんが待ってるんだ」 「あっ」 「何だ?」 「やっぱり、きれいな女《ひと》に会ったみたい」  と、直子はいったが、その声は笑っていた。  十津川は、電話を切って、寝床に横になったが、いつだったか、友人のいった言葉を思い出した。その友人は、恐妻家で評判なのだが、しみじみと、神様は男に理性を与えたが、女にはそれに対抗するために、直感力を与えたに違いないといったのである。それが妙に実感が籠《こも》っていて、笑ってしまったのだが、どうやら自分も笑えなくなりそうだと思った。  翌朝、起きてカーテンを開けると、窓が真っ白だった。外気と室温が違い過ぎるので、東京なら水蒸気で窓ガラスが曇るだけなのだが、ここでは、それが凍ってへばりついている。指でこすると、氷の破片がぱらぱらと落ちてくる。  窓の外には、何本も氷柱《つらら》が下っていた。  それでも朝食の時に仲居さんに聞くと、今年は暖かくて雪も少いのだという。 「ここから洞爺へ行くバスがあるけど、動いている?」  と、十津川はきいた。中山峠越えなので、雪のために不通になっているのではないかと思ったからだが、今年はまだ大丈夫だと教えられた。  支度をしてロビーに降りて行くと、冬の北海道らしく、バスの不通箇所が書き出して貼ってあった。例えばニセコ方面は、例年どおりバスが運休しているとある。  道北や道東では、バスの運休箇所が多いが、道南は、ニセコ峠や洞爺湖から登別へ向うオロフレ峠は積雪のためバスは止っているが、他は運行していると書かれていた。  館内放送で洞爺湖行のバスが着くことが知らされ、十津川は立ち上った。  旅館を出ると、晴れているのだが、そのためか、かえって空気が冷たく、 (札幌で、耳当てを買ってくるんだった)  と、思った。  東京の寒さと、一番の違いは耳や鼻が痛くなることである。耳当てを買おうと思ったのだが、札幌市内を歩いている地元の人たちがつけていないので、カッコ悪いと思って買わなかったのだ。  札幌発のバスが、タイヤに巻いたチェーンの音をきしませて到着した。  バスに乗り込んでから、 (早瀬友美は、このバスには乗らないのだろうか?)  と、十津川は車内を見廻した。定山渓《じようざんけい》から乗ったのは、七、八人だが、その中に彼女の姿はない。何だか、損をしたような気になったが、発車間際になって彼女が駆け寄ってくるのが見えた。  今朝は、銀色のコサック帽を頭にのせている。そのせいか可愛らしく見えた。  十津川が、わけもなくほっとしているうちに、バスは発車した。  バスは中山峠を越え、喜茂別《きもべつ》を通り、洞爺に向う。  時々、急に空が曇って粉雪が舞ったりしたが、途中止まることもなく、二時間近くかかって洞爺湖に着いた。  洞爺湖畔で一番|賑《にぎ》やかな温泉街のバスターミナルで降りると、亀井が迎えに来ていた。  亀井はゴム長をはき、耳当てをつけた完全武装である。 「あれ?」  と、十津川が声をあげると、亀井は、 「私も東京暮しが長くて、寒さに弱くなりました」  と、笑った。  ここで数人の乗客が降りたが、その中に友美もいた。十津川が、彼女を自然に眼で追っていると、亀井が、 「警部も、隅に置けませんねえ」 「いや、そんなんじゃないよ。定山渓で、偶然一緒になったんだ」 「奥さんには、いいませんよ」 「カメさん」 「冗談ですよ。何かわけありの女ですか?」 「友人の早瀬のことは、話したかな?」 「カメラマンで、警部の代りに北海道へ出かけたんですね」 「その早瀬の妹だ」 「その妹が何をしに?」 「早瀬がどうやら、行方不明になったので、妹が探しに来たらしいんだ」  と、十津川はホテル街の方に歩いて行く友美を、見送りながらいった。 「それは、大変ですね。警部のお友だちの一人がバラバラにされ、もう一人は行方不明ですか」 「早瀬は、まだ行方不明かどうかわからないんだ。やたらに危険地帯に飛び込んで行く男で、時々、行方がわからなくなるからね」  と、十津川はいった。 「寒いでしょう。ホテルに入りましょう」  と、亀井がいい、二人は湖岸に並ぶホテルに向って歩いて行った。      2  湖岸には、真新しい大きな豪華ホテルが並ぶ。  亀井がその一つに、二人用の部屋をとっておいてくれた。五階の部屋である。  部屋に入ってコートを脱ぎ、十津川は窓から湖面に眼をやった。 「湖は凍ってないんだね」 「ええ。きれいな湖ですよ。バラバラ殺人があったとは思えません」  と、亀井が傍《そば》に来ていった。  眼の下に桟橋があり、大きな遊覧船が繋《つな》がれている。二階建の甲板の上に、お伽《とぎ》の城のようなものがのっかっている。三角屋根がいくつも見え、その先端に旗がはためいている。  だが、桟橋には「運休中」と書かれていた。他に二人用のボートが何|隻《せき》も並んでいるのだが、この方はシートがかぶせてあった。 「夏には、あの遊覧船の甲板で花火大会があるそうです」  と、亀井がいった。 「事件の方は、何か進展があったのかい?」  と、十津川は湖面に眼をやったままきいた。 「頭部と胴体は、いぜんとして見つかっていません。何しろ、湖は広いし一番深いところは、一八〇メートル近くあるそうですから、沈められていたら、まず、見つかりませんよ」  と、亀井はいう。 「永田は最初、札幌で射たれたと思っていたんだが、或いは、この洞爺で殺されたのかも知れないな」 「ここで、十二月六日の午前二時三十分過ぎにですか?」 「その時刻に、トカレフの銃声を聞いているからね」 「或いは、札幌で殺したあと、バラバラにしてここまで運び、捨てたということも考えられますよ」  と、亀井がいった。 「わざわざ札幌から、洞爺湖まで運んで捨てたのかい?」 「何か理由があって、そうしたのかも知れません」 「理由があってねえ」  と、十津川は呟《つぶや》いた。が、その理由には見当がつかなかった。  ホテル内のレストランで昼食をとってから、十津川は亀井の案内で、バスターミナルの近くにある道警洞爺湖派出所に行き、三浦警部に、会った。 「洞爺湖周辺で、六日の午前二時半頃、銃声を聞いた者はいないか、聞き込みをやっているんですが、まだ見つかっていません」  と、三浦はいった。 「永田勇作のことですが、最近も、犯罪に関係していたと思われるのです」  と、十津川はいい、彼が、殺された下島やよいのやっていたクラブに、これも、殺された入国管理官柳沼と一緒に来ていたことも、話した。 「としますと、その犯罪というのは、東南アジアからの不法入国者に関係したことですか?」  と、三浦がきく。 「特に、フィリピン女性の件でしょう。それに或いは大麻や、覚醒剤にも関係していた可能性もあります。柳沼管理官と下島やよいが、トカレフで殺されたのは、そのためではないかと思います」 「その延長上で、永田さんも殺されたと?」 「ええ」 「トカレフを使う殺し屋が、東京、千葉、北海道を股にかけて、殺しをやっているということですか」 「犯人が誰かということと、その殺し屋を傭《やと》っている人間にも興味がありますね」  と、十津川はいった。 「永田さんが働いていた札幌の中央旅行社に、興味を持たれているんじゃありませんか?」 「実はここへ来る途中、札幌で中央旅行社へ寄ってみました」 「閉っていたでしょう?」 「ええ。同じビルのラーメン屋の主人は潰れたんじゃないかと、いってましたね」 「その旅行社は、以前から、うさん臭いところがあったんです。社長の小野田は、韓国から、覚醒剤を密輸して、逮捕されたこともありましてね」  と、三浦はいった。 「永田は、そこで働いていたというより、小野田とは、共同経営だったようです」  と、十津川はいった。少しずつ、十津川は、重い気分になっていく。事件のことを話していると、彼の記憶の中の永田の姿が、泥まみれになっていくような気がするからだった。  その気分を変えるように、十津川は、ポケットから、早瀬卓の写真を取り出して、三浦に見せた。 「私の大学時代の友人で、名前は、早瀬卓です。もちろん、永田の友人でもあります」 「その方が、今度の殺人事件に、何か関係があるんですか?」  と、三浦が写真を見ながらきく。 「事件とは直接関係はないと、思います。フリーのカメラマンで、事件があると飛んで行く男で、今度も、永田のことに興味を持って北海道へ来ているんですよ。この洞爺にも来ていますが、そのあと、消息が消えました。家族も心配しているので、会ったら、説得して東京に帰らせたいと、思っているんです。三浦さんも、もし出会ったら、そういってくれませんか」  と、十津川はたのんだ。大学時代の友人を、二人も失いたくなかった。 「わかりました。見つけたら、十津川さんに連絡しますよ」  と、三浦はいった。  彼に、今、泊っているホテルと、部屋番号を教えてから、十津川は亀井と派出所を出た。  その夜、午後九時頃、部屋に電話があった。  十津川が受話器を取ると、男の声が、 「おれだよ。早瀬だよ」  と、いった。 「今、何処にいる?」 「一階のバーだ」 「一階? このホテルのか?」 「ああ」 「すぐ行く!」  と、十津川は大声でいい、丹前を引っかけて、部屋を飛び出した。亀井が、びっくりした顔で、見送っている。  エレベーターで一階におり、ロビーを横切って「とうや」というバーをのぞいた。  がらんとしていて、隅の方で一人だけ、コート姿の男が酒を飲んでいる。  十津川は、退屈そうにしているバーテンに、バーボンを注文してから、隅にいる男の傍《そば》に歩いて行った。 「やぁ」  と、その男、早瀬がいった。  十津川は、彼の前に、腰を下した。  バーテンが運んできたバーボンを横において、 「君のことを心配して、妹さんが、この洞爺に来ているぞ」  と、十津川は早瀬にいった。 「余計な心配はするなと、妹にいっておいてくれ」 「これは殺人事件なんだ。それも連続殺人事件だ」 「トカレフを使っただろう?」 「ああ。妹さんが、心配するのも、当り前だ。君もバラバラにされないうちに、妹さんと東京に帰った方がいい」  と、十津川はいった。 「嫌だな。危険が大きいほど、おれは、そこに飛び込みたくなってくるんだ」 「トカレフで、射たれても、知らんぞ」  と、十津川がいうと早瀬はポケットから、いきなり拳銃を取り出して、テーブルの上に置いた。 「トカレフって、これだろう」 「なぜ、こんなものを持ってるんだ?」  十津川は、思わず、声を荒らげると、早瀬は急にニヤッとして、 「オモチャだよ。モデルガンだよ」  といい、それをポケットにしまってしまった。 「本当に、モデルガンなのか?」  十津川は、半信半疑できいた。 「当り前だろう。札幌のモデルガン・ショップで買って、持って来たんだよ」 「もう一度、見せてくれ」 「駄目だ。それより警察は、犯人の目星がついたのか?」  と、早瀬がきいた。 「いや、まだだ。君は絵ハガキに、ここであいつを見つけたと、書いているが、あいつって誰なんだ?」  と、十津川はきいた。早瀬はそれには答えず、 「おれがフィリピンに行ってた頃、マニラで日本の暴力団員が、射殺されたことがあった。幹部クラスの男で、死体がマニラ湾に浮んでいたんだ」 「それが、何か関係があるのか?」 「マニラ警察の発表によると、二発射たれていて、どうやら、使用された拳銃は、トカレフではないかということだった」 「───」 「そのうち、犯人は、日本人らしいという噂が流れてね」 「君は、その犯人に会ったのか?」      3 「見た。いや、正確にいえば、見たと思ったというべきかな。こんな男だという噂があった。その噂に似た男を、それも遠くから見ただけだった」  早瀬は思い出す表情で、十津川にいった。 「その噂というのを話してくれ」  と、十津川はいった。 「男のことはかなり評判になっていた。本当らしい話もあったし、いかにも作りものめいた話もあったね。噂話なんてそんなものだからな。日本人らしい。犯行の時は、いつもサングラスをかけている。殺す前には、冷静に黙ったまま、拳銃の引金をひく。止めを刺すのを忘れない。両手をぶらぶらさせながら歩く」 「他には?」 「日本人の母親とイギリスの貴族の父親との間に生れたという噂もあるが、これは嘘だと思ったね。その他、オリンピックで優勝した射撃の名手だとか、フィリピン女性の恋人がいて、その恋人を日本のヤクザに殺されたので、その復讐をしたのだといった噂話があるが、どれも信用できなかった。それで、おれはこの男のことを、調べてみる気になった。孤独な日本人の殺し屋。そんな文句がおれの頭に浮んでね」 「孤独な日本人の殺し屋か」 「ああ。マニラの盛り場を歩いて、この男について、聞いて廻ったよ。ヤクザの死体が浮んでいたあたりは、防潮堤があってね。そこには、不法建築のスラムがあったりするんだが、そこでも、彼について、何か知らないかと聞いてみた」 「それで?」 「マニラ警察にも、彼について聞いたが、どうもはっきりしない。殺されたのが日本人のヤクザで、殺したのも日本人らしいというので、マニラ警察も、それほど熱心じゃないんだよ。その中に、一つだけ興味のある話が聞けた。これだって噂なんだがね。フィリピンには、日本の男とフィリピンの女性の間に生れた子供が、一万人以上いるといわれている」 「知っているよ。ジャピーノと呼ばれているんだろ?」 「父親の日本人は、日本に帰ってしまって、会いにも来ない。送金する男は、ほとんどいない。多分、その内に国際問題になるだろう。その殺し屋だが、彼にも、フィリピン女性との間に子供がいて、母親の方は病気になって入院している。その母子に金を送るために、殺しを引き受けているという噂なんだ」 「泣けて来そうな話だな」 「確かに、嘘っぽくはあるんだが、本当かも知れないとおれは思った。それで、今度は、その妻子を探した」 「見つかったのか?」 「見つかる前に警告された」  と、早瀬がいった。 「警告って、その殺し屋からか?」 「ああ。おれが使っていたレンタカーの運転席に、ある日、紙片が投げ込まれていて、それに、『殺すぞ』と、英語で書いてあった」 「それで、逃げ帰ったのか?」  と、十津川がいうと、早瀬は笑って、 「おれは、カメラ片手に、戦場を駆け廻って来た人間だ。かえって、彼や彼の家族に近づいた証拠だと受け取ったよ。前より取材に励んだ。彼のことを知っている人間が、ミンダナオにいると聞けば飛んで行ったよ。結局、ガセネタだったがね。そして五日か六日目に、突然、彼に出会ったんだ。夜でね。突然、暗がりから声をかけられた」 「相手の顔を見たのか?」 「いや、暗くて見えなかった。そんな暗がりに身をひそめてじっと、おれを待っていたんだろうな。こっちは街灯で、向うには丸見えだった。ガチッという拳銃の安全装置を外す音が聞こえた。今、眼の前にいるのはあいつだと悟ったよ。殺されると思った。トカレフで二発射たれて死ぬんだと思ったよ」 「怖かったか?」 「ああ。戦場では、弾丸が耳元をかすめて隣りにいた奴が、突然血を噴いて倒れたりするが、敵は見えない。しかし、この時は五、六メートル先に、相手がいたんだ。さすがに、血の気が引いていくのがわかったよ」  と、早瀬はいった。 「よく、助かったな?」 「おれ自身、不思議だと思ったよ。多分、おれを殺しても、金にならないと考えたんじゃないかな。気がつくと、眼の前の暗がりから、人の気配が消えていたんだ。そのあと、彼が、帰国したらしいという噂が聞こえてきて、おれも日本に、帰ったんだ」 「それは、いつのことだ?」 「確か、二年前だったよ」  と、早瀬はいった。 「この洞爺湖で、その殺し屋に会ったというのは、本当なのか?」  十津川がきくと、早瀬は急に、あいまいな表情になって、 「何のことだ?」 「絵ハガキに、あいつに会ったと、ここから書いて来たじゃないか」 「そんなことを、書いたかな?」 「書いて来たよ」 「何かの間違いだよ」 「間違い?」 「ああ。それにおれは今もいったように『孤独な殺し屋の肖像』を、追いかけてきたし、これからも追いかけるつもりなんだ。警察に協力は出来ないな」 「じゃあ、なぜ、ここに会いに来たんだ?」  と、十津川はきいた。 「おれのことを探していると聞いたからだよ。警察にうろうろされて、仕事の邪魔をされたくないんだ。それを、いいに来ただけさ」  と、早瀬はいった。 「君を探すのは止めよう。ただ、二つだけ、答えて貰いたいことがある」 「なんのことだ?」 「一つは、トカレフを使う殺し屋のことだ。彼は、今もこの洞爺にいるのか?」  と、十津川はきいた。 「さあ、どうかね。フィリピンに逃げてしまったかも知れない。それがわかれば、おれもフィリピンに行く」 「妹さんのことはどうするつもりだ。会いに行かないのか?」 「駄目だ。だから、君に伝言を頼んだじゃないか。おれは、こうして、元気にしているから、東京に帰れとね」      4  早瀬が消えたあとも、十津川はしばらくそこから、動かなかった。  二十分ほどして、亀井が顔をのぞかせた。 「大丈夫だとは思いましたが、警部のことが心配になりまして」  と、亀井はいい、ビールを注文した。  十津川は、煙草に火をつけて、 「早瀬に、会っていたんだ」 「そんなことだろうと、思っていました。何か、聞けましたか?」 「二年前、マニラで、トカレフを持つ殺し屋に狙われたと、いっていたよ」 「よく、助かりましたね」  と、亀井はいい、ビールをうまそうに飲んだ。 「自分を殺しても、金にならないからだろうと、早瀬はいっていた」 「早瀬さんは、相手の顔を見たんですか?」 「向うが暗がりにいたので、顔はわからなかったというんだが、早瀬は、嘘をついているのかも知れない」 「つまり、殺し屋の顔を、知っているということですか?」 「そんな気がして、仕方がないんだ」 「なぜ、われわれに、協力しないんでしょうか?」 「早瀬は『孤独な殺し屋の肖像』と、いってたな」 「いい文句ですよ。なかなか、ロマンチックで」 「トカレフで射たれたら、ロマンチックだなんて、いっていられない筈なんだがね。早瀬は、ひとりで、殺し屋に会って、写真を撮って、本にでもする気なんだ。その本の題を、孤独な殺し屋の肖像とでもする気なんだろう」  十津川は、渋面を作って、いった。 「確かに、危険ですね」 「だが、民間人じゃあ、無理矢理、東京に追い返すわけにもいかない」  と、十津川はいった。  その時、酔った泊り客が五、六人、コンパニオンを連れて、どやどやと、入って来た。 「カメさん。部屋に戻ろうか」  と、十津川は、腰を上げた。  夜半から、雪が降り始めた。  十津川は、嫌な夢を見た。早瀬が、トカレフで、射たれる夢だった。殺される早瀬の顔が、消えて、いつの間にか、彼が、トカレフを持って、ニヤニヤ笑っているのだ。早瀬の妹が、その傍で、泣いている。十津川自身は、それを、何も出来ずに眺めている──  眼がさめた時、まだ、雪は、降り続いていた。  先に起きていた亀井が、 「こりゃあ、積りますよ」  と、十津川にいった。  午前八時に、朝食をとった。そのあと、十津川は、 「もう一度、早瀬に会いに行く。彼はどうも、殺し屋の顔を知っているような気がして仕方がないんだ」  と、亀井にいった。 「私も、一緒に行きますよ」  と、亀井もいった。  洞爺湖温泉のホテル、旅館に電話をかけて調べてみると、早瀬と見られる男が、十津川の名前で、Tホテルに泊っていることがわかった。  十津川は、ホテルでゴム長を借り、亀井とTホテルに行ってみた。  フロントで聞くと、 「今朝早く、お発《た》ちになりました」  と、相手はいった。 「発った?」 「はい。もし、自分の友人が聞いてきたら、東京に帰ったといってくれと、申されていましたが──」  と、フロント係はいった。 「警部の忠告を聞いて、帰京されたんじゃありませんか?」  亀井が、十津川にいう。 「いや、そうじゃないな。早瀬は殺し屋がもう、この洞爺にいないと知って出発したんだ」 「すると、相手も東京に帰ったということでしょうか?」 「かも知れない。早瀬は、諦《あきら》めない男だからね」  十津川は、早瀬が持っていたトカレフのことを、思い出していた。  あれは、本当に、モデルガンだったのだろうか? もし、ホンモノだったなら、ひょっとして早瀬が、問題のトカレフを使う殺し屋なのではないかという想像にまで、走ってしまう。  二人が、フロントを離れて、これから、どうすべきか、話していると、突然、 「あの刑事さんが?」  という若い女の声がした。  振り向くと、早瀬友美が、フロントのところで、十津川たちを睨むように見ている。フロント係が、こちらを指さして、何かいっていた。  友美は、まっすぐ十津川に向って歩いてくると、 「早瀬友美です。早瀬の妹の」  と、かたい声でいった。 「知っています。定山渓《じようざんけい》でお会いしています」  と、十津川は、微笑した。 「兄が、何をしようとしているのか、知っているのなら、教えて下さい」  友美は、相変らず、かたい表情でいう。 「私は警察へ行って、何かわかったことがないか聞いて来ます」  と、亀井が小声でいって、ホテルを出て行った。気を利かせたのかも知れない。  十津川は、友美を、取りあえず、ロビーの奥にある喫茶ルームに誘った。  二人分のコーヒーを頼んでから、 「私は、早瀬とは、大学の同窓でしてね。彼は、妹のあなたには、何も話さないんですか?」  と、きいた。 「何も話してくれませんし、連絡もくれません」  と、友美はいう。 「彼は、いつも、そうなんじゃありませんか?」 「いいえ」  友美は、強い調子で否定した。 「違うんですか?」 「兄は、戦場へ行ったときだって、出来る限り、電話をかけて来たんです。でも今度は、全く連絡してくれません。それで、心配になってしまって──」 「変ったということですか?」 「ええ」 「なぜかな?」 「私は、それが知りたいんです」 「他にも、変ったことはありましたか?」  と、十津川はきいた。  友美は、いおうか、いうまいか、考えているようだったが、 「兄が急に、お小遣いだといって、お金をくれました。それも、大金を」  と、いった。 「それは、妹のあなたが、可愛いからでしょう?」 「違いますわ。兄はお金があれば、それを使って、世界の何処かへ出かけてしまうんです。それなのに、二百万もくれたんです」 「いつですか?」 「先月の末です」 「二百万もね。写真集が出て、その印税が入ったんじゃないかな?」 「写真集が出たのは、今年の三月ですわ」  と、友美はいう。 「定山渓に来ていましたね。ということは、定山渓から、あなたに、連絡したということじゃないんですか?」 「いいえ。兄が何処へ行ったかわからなくて、私が、聞いて廻ったんです。兄の大学時代のお友だちに聞いて、やっと──」 「吉井に聞いたんですか?」 「ええ。吉井さんが、教えてくれました。兄は、何をやろうとしているんでしょうか? 行き先は教えてくれないし、突然、大金をくれたり。何か、恐しいことを、しようとしているんじゃないんでしょうか?」  友美は、真剣な眼で、十津川に、きいてくる。 「そんなことは、ありませんよ」  と、十津川はいった。が、自信はなかった。また、ひょっとして、早瀬がトカレフの持ち主ではないかという疑問が頭をもたげてきていたからである。 「彼は、射撃をしたことがありましたか?」  と、十津川はきいた。 「中国に取材に行ったとき、向うの軍隊で、お金を払って、毎日、銃を射っていたといっていましたけど」  と、友美はいう。  中国の軍隊なら、当然、トカレフもあったろう。いや、早瀬自身、アフガンで、ゲリラからトカレフを借りて射ったことがあると、いっていたのだ。 「東京へお帰りなさい。早瀬も、帰京したと思いますから」  と、十津川は友美にいった。      5  友美は、その日のうちにホテルをチェック・アウトした。十津川の説得がきいたというより、兄の早瀬が洞爺から姿を消したのがわかったからだろう。  十津川は東京にいる西本刑事に電話をかけた。  早瀬のことを話し、彼が東京に戻ったかどうか確認するようにいった。 「すぐ、調べます」  と、西本は答えてから、 「さっきから、初雪が降り出しています」 「東京も雪か」  と、十津川は受話器を持ったまま、窓の外に眼をやった。  天気予報で今年最強の寒気団が、シベリヤから南下し、日本上空に達しているといっていた。  そのために、洞爺湖周辺は朝から雪だが、東京も初雪だという。 「積っても、せいぜい二、三センチだろうということです。降るなら、もっと降ってくれるとありがたいんですが」  と、西本は呑気なことをいって、電話を切った。  二、三センチでも、一瞬、東京の街は白一色になるだろう。それがいいと十津川は思った。 「東京も雪だそうだよ」  と、十津川は亀井にいった。 「ここの人たちは、雪にはうんざりしているでしょうね。私の東北時代がそうでしたから」  と、亀井はいった。 「私たちも明日、東京に帰ろう。これ以上、この洞爺湖で事件の参考になることは見つからないみたいだからな」  と、十津川はいった。  早瀬がここで見たという「あいつ」が果して何者なのか。それとも、それは早瀬自身がトカレフを使う殺し屋で、そのことを隠すための嘘だったのか。それがわかるかも知れないと期待して、十津川は亀井と洞爺に残っているのだが、道警の協力があっても、いっこうに答は見つからなかった。  昼過ぎからは大雪になって、ホテルから出て聞き込みを行うことも出来なくなってしまった。  仕方なく、十津川と亀井はホテルに籠《こも》って、テレビのニュースを見たり、電話で道警と連絡をとったりするしかなかった。  道警もこの大雪で、動きがとれないようである。  夜のテレビのニュースが、十津川の注意を引くことを伝えた。  フィリピンに一万人以上いるといわれる、ジャピーノの子供たちを救おうという会があり、その理事長、内藤茂が今日、二十人の子供たちを日本に呼ぶことになったというニュースである。  今回の事件がなければ十津川は多分、注意を払わなかったろう。  女性アナウンサーの質問に内藤が答える形で、この会の趣旨や現在の活動が紹介されていく。  内藤は四十二、三歳で、理事長という肩書きにしては若い感じだった。アナウンサーが著名な政治家の甥と紹介していたから、そうした後楯《うしろだて》があって理事長になったのかも知れない。  会の名前は「日比愛の鎖」だという。ジャピーノの問題が大きくなってきた二年前に、この会が設立された。  内藤が熱弁をふるう。 「男と女のことだから、これは個人的《プライベート》な問題だという人がいます。しかし、日本人の父親が捨てた子供が、すでに一万人を越しているんですよ。こうなればもう、国の問題でしょう。しかし、国は動こうとしないのだから、私が何とかしなければと思って、この会を作ったんです。幸い、企業や個人から励ましの言葉や援助を頂いています。それによって何人かの罪のない子供たちを助けられたらと考えているのです。私も、先ほどフィリピンに行き、子供たちに会って来ました。母親は日本人の父親に裏切られ、送金もなく、貧しさの中で必死になって子供を育てています。子供たちは女の子なら、ミキとかエミとかね。男の子ならイサムといった日本名がついているんです。子供たちに聞くと、みんなパパに会いたいというんですよ。その声を彼等を捨てた日本人の父親は何と聞くんですかねえ。いや、同じ日本人として何と聞くのか。それを私は問題にしたいんですよ」 「今度その子供たちを二十人、日本に招待するそうですね?」 「そうです。今もいったように、彼等はみんな日本人のパパに会いたい。日本に行ってみたいというのです。多分、日本人のパパは会わないでしょうが、私は何とか日本を見せてあげたくて、皆さんが寄附して下さったお金で、二十人を呼ぶことにしたんです。日本でいえば小学生くらいの男女ということにしています」 「日本に着いてからの面倒は、どなたが見るんですか?」 「うちの会で働いてくれているボランティアが、面倒を見てくれることになっています」 「日本ではどういうところを案内しようと思っていらっしゃるんですか?」 「向うへ行って、日本で一番何を見たいかを聞いて来たんです。そうしたら第一は、やはりパパの家へ行ってみたいといいましてね。しかし残念ながらそれは無理です。父親の日本人に電話をしてみましたが、もう関係ないとか、会うのは勘弁して欲しいという返事ばかりでしたからね。二番目の希望は、雪を見たいということなので、それを真っ先に実行したいと思っているんです」 「具体的に、どういう方法でですか?」 「二十人のジャピーノは、明後日、関西空港に着きます。翌日、バスでJRの新大阪駅に行き、札幌行の寝台特急トワイライトに乗せることになっています。この列車は、なかなか切符が取れないのですが、JRのご厚意で、二十人分と付き添いのボランティアの切符を用意して頂きました。もちろん、私も同じ列車で北海道へ行きます」 「北海道ではどういうところに?」 「ニセコへね。それも、皆さんのご厚意なんですが、ホテルの持ち主の方が、部屋を無料で貸して下さるので、そこで彼等にスキーを楽しんで貰いたいと思っています」  内藤は微笑した。  このあと、内藤の経歴などが写真入りで紹介され、ところどころで内藤のコメントが入っていく。  内藤は国務大臣経験者の白石代議士の甥である。  生れは東京。国立大学を首席で卒業し、S省に入る。三十五歳で本省の課長になるが、退職して叔父である白石代議士の秘書になった。 「その頃、政治に興味を持っていましてね」  と、内藤がコメントをはさむ。  白石が大臣になった時も内藤は秘書を務めている。 「その頃、叔父のお供で世界各国を廻りました。各国の要人にも会いました。その時、強く感じたのは日本と世界の関わり方、いいかえれば日本人の世界との関わり方です。特にアジアとの関わり方です」 「ジャピーノのことも、その頃知られたんですね?」 「そうです。ショックでしたね。その頃会った子供はもう、二十歳になっています。彼等の中には、もう日本のパパには会いたくない、憎むという子もいるんです。当然ですよね。一万人以上のジャピーノが、みんなそんな気持になっては大変だと思って、今の会を作ることにしたんです」      6  電話が鳴った。  十津川はテレビを消して、受話器を取った。 「西本です」 「何かあったのか?」 「こちらで、トカレフを使った殺人が起きました」  と、西本がいった。 「殺されたのは誰だ?」  十津川は、強い声できいた。亀井があわてて傍に寄って来て、耳をすませる。 「持っていた運転免許証によると、札幌市内に住む小野田清という男です」 「札幌の小野田?」 「警部のご存知の方ですか?」  と、西本がきく。 「小柄な中年の男か?」 「そうです。免許証によれば四十五歳。パスポートも持っていました」 「それなら、知っている。会ったことはないが、殺された永田の働いていた旅行社の社長だよ」  と、十津川はいってから、 「何処で殺されたんだ?」 「西新宿のNホテルの十一階の部屋です。その部屋のバスルームのお湯が出しっ放しになっているので、ルームサービスが注意しに入ったところ、殺されている被害者を発見したわけです」 「トカレフで射殺されたことは、間違いないのか?」  と十津川はきいた。 「まだ弾丸の鑑定の最中なので、断定は出来ませんが、今までと同じように二発射たれているので、例の殺し屋の犯行ではないかと思われます」  と、西本はいう。 「二発か」 「背後から一発射ち、二発目は止めを刺す形で、正面から眉間《みけん》を射っています」 「銃声を聞いた者は?」 「それなんですが、雪で泊り客が少い上に、バスルームのお湯が出しっ放しになっていたりで、今のところ銃声を聞いたという泊り客は、見つかっていません」 「私とカメさんは、明日早く帰京する」  と、十津川はいった。  受話器を置くと、十津川は亀井に向って、 「やられたよ。早く東京に戻っているんだった」 「何人殺せば気がすむんですかね」  と、亀井が舌打ちした。 「小野田は、永田が働いていた旅行社の社長だ。旅行社が潰れて、社長の行方がわからないとなった時、彼の行方を追うべきだったよ。一歩、おくれを取ったんだ」  十津川は、悔むようにいった。 「中央旅行社というのは怪しげな会社だったそうですね。あッ、すいません」 「いいさ。そのために永田も殺されたと思っている」  と、十津川はいった。 「何をやっていたんですか?」 「表向きは旅行案内だが、どうやら密入国を手伝ったり、大麻や覚醒剤の密輸入も、やっていたらしい」 「それで社長の小野田も、殺されたということでしょうか?」 「だろうね。危くなって、あわてて逃げ出したんだと思うが、逃げ切れなかったということかな」  と、十津川はいった。  話しながら、十津川は早瀬の顔、彼の妹の友美の顔を思い浮べていた。まさかとは思っても、どうしても疑惑がわいてきてしまうのだ。 (どうしてあの時、早瀬の持っているトカレフがホンモノかどうか、確めなかったのだろう?)  それが後悔となって、十津川を苦しめるのだ。  夜半を過ぎて、ようやく雪の勢いが衰えてきた。これなら何とか明日、帰京できるだろう。  翌朝早く、ホテルの車でJRの洞爺駅まで送って貰い、列車で千歳空港まで戻って、飛行機に乗った。  羽田空港には、午後二時過ぎに着いた。  空港には、西本がパトカーで、迎えに来てくれていた。 「事件の経過を教えてくれ」  と、十津川は車に乗り込むなりきいた。 「使われた拳銃は、前の事件と同じトカレフとわかりました。前の事件との関係で、われわれが捜査することが正式に決りました」  と、西本がいった。 「やはり、同じ拳銃か」  と、十津川は呟《つぶや》く。 「他に、わかったことは?」  と、亀井がきいた。 「彼の泊っていた部屋から、マニラ行のJALの航空券が、見つかりました。今日の午前九時四五分の便です」  と、西本が答える。 「フィリピンに、逃げようとしていたのか」 「小野田は、田中広という偽名で、Nホテルに泊っていました。二日前からです。外から電話はかかって来なかったようですが、彼は、外へ何回か電話しています。ただ、部屋の電話は使わず、一階ロビーの公衆電話を使っているので、何処へかけたかは、不明です」 「しかし、なぜ、彼は犯人を部屋へ入れたんだろう?」  と、十津川はきいた。 「そこが疑問なんですが、わかりません。相手が顔見知りだったからじゃないかと、みんなで考えているんですが」  と、西本はいった。  死体は司法解剖のために、新宿の東京女子医大病院に運ばれている。  十津川はそこへまず行ってみた。司法解剖はすでに終っていて、死亡推定時刻は昨夜の午後八時から九時の間と、教えられた。  十津川は、縫合のすんだ死体と対面した。  眉間の真ん中に小さな穴があいている。  胸の穴は大きかった。背中から射たれ、胸から弾丸が、抜けたのだろう。  眉間の穴が犯人の冷酷さを示しているように思われた。  胸の弾痕は、心臓を外れているから、一発目では死ななかった筈である。苦痛で呻《うめ》き声をあげたろう。そんな被害者を犯人は、仰向けに押し倒し、冷静に銃口を眉間に押し当てるようにして、引金をひいたのではないのか。 (早瀬はそんなことが出来る男だったろうか?)  わからない。考えたくもない。  十津川は次に、パトカーで西新宿のNホテルに廻った。  問題の部屋の前には、警官が立ってガードしている。  十津川たちはドアを開けて中に入った。  ダブルベッドの置かれた部屋である。  床のじゅうたんは血で汚れていた。バスルームの外はあふれたお湯で、まだ、じめじめしている。 「所持品は捜査本部に運んであります」  と、西本がいった。 「どんなものが、あったんだ?」  と、十津川がきいた。 「中型のスーツケースがありまして、その中にパスポートや航空券、それに着がえとドルで五万ドルほど、入っていました」 「他には?」 「上衣のポケットに財布が入っていて、それには日本円で七万八千円です」 「五万ドルと七万八千円か」  それが多いのか、少いのか、十津川には判断がつかない。 「パスポートを見ますと、よく、フィリピンには行っていたようです。他に、タイや韓国、香港にもです」  と、西本が説明する。 「被害者は自分が狙われていることを知っていたのかな?」  と、十津川は呟いた。  その疑問にも今は答が見つからないのだ。  だが、彼を殺したい人間がいたことは間違いない。 [#改ページ]  第四章 ボランティア      1  十津川は、今までにトカレフで射殺された人間の名前を書き出していった。  柳沼 勝平  永田 勇作  下島 やよい  小野田 清  これ以前にも、フィリピンのマニラで日本人のヤクザが一人、トカレフで射殺されている。  永田がトカレフで射殺されたという確証はないが、十津川が電話中に聞いた銃声と、バラバラ死体の頭部と胴体の部分が見つからないことから、この被害者の中に入れてもいいだろう。  この四人を殺したのは、同じトカレフ拳銃を持つ同じ犯人に違いないと十津川は思っている。  この四人の共通項は、多分、フィリピンだろう。日本とフィリピンとの間にある暗いもの、それは不法入国かも知れないし、ジャピーノの問題かも知れないし、或いはクスリかも知れない。  この四人を殺した犯人は、何らかの主義主張があるのだろうか? それとも金さえ貰えば、平気で誰でも殺すのだろうか?  今のところ金を貰って誰でも、という殺し屋の線が強いと十津川も思っているし、道警もそう思っているように見える。  十津川が主義主張のない殺し屋と考えている理由の一つは、犯人が、常に同じ拳銃を使い、同じ殺し方をしていることである。 (あれは、犯人の手形なのだ)  と、十津川は思う。  金を貰い、自分が殺した証拠として、同じトカレフを使用しているのではないか。殺し方も同じということで、契約通りに実行したという証拠にしているに違いないと、十津川は見ている。  新聞も、「トカレフを悪用する殺し屋」といった書き方をしていた。  十津川が北海道から帰京した日に、捜査会議が開かれた。  会議では犯人像についての検討から始められた。  犯人が中年の男である点では、意見が一致した。年齢は多分、三十歳から四十歳ぐらい。あまり若くては、あれだけの冷静さは持てないだろうし、老人の体力では無理な犯行と考えられたからである。  犯人像について議論するのは、十津川にとって辛い作業だった。どうしても早瀬の顔がちらついてしまうからだった。 「フィリピンに関係のある人間であることは、間違いないな」  と、捜査本部長の三上刑事部長がいった。 「拳銃の射撃も、向うで覚えたんだと思いますね。日本では難しいですから」  と、亀井がいった。 「とにかく、一刻も早く、犯人を挙げなきゃならん。殺し屋みたいな、妙なものを、横行させてはならんのだ」  三上部長が厳しい顔でいった。 「わかっています」  と、十津川はいった。 「それにしても、依頼者はどうやって、彼とコンタクトを取るんでしょうか?」  西本刑事が首をかしげていった。 「多分、彼にはコードネームがあって、仕事を頼みたい人間は、それを使って呼びかけるんじゃないか」  と、いったのは亀井だった。 「それは新聞の広告欄みたいなものを使ってですか?」 「そんなところじゃないかな」 「一人のボスに使われている人間ということも、考えられますわ」  と、北条早苗刑事がいった。 「どういうことだ?」  と、三上がきく。 「殺された四人は、いずれもフィリピンに何らかの意味で関係していて、うさん臭いところがある人間です。うさん臭い仕事で金儲けをしてきた人間だということも出来ますわ。一方、日本とフィリピンを股にかけて動き廻り、利益を得てきたボスがいて、このボスが、邪魔になるこの四人を殺し屋に指示して、殺させたということも考えられると思うんです。邪魔になるというか、危険な存在になったということかも知れませんが」 「そのボスというのは、どんな人間だと君は思っているのかね?」  と、三上部長がきく。 「日本で働きたいフィリピン人を密入国させたり、不法就労させたりして、儲けている人間じゃないでしょうか。或いは大麻や覚醒剤に、手を出しているかも知れません。殺された四人は、もともとそのボスの下で働いていたということも考えられますわ。ところが、ボスを裏切ったか、或いは何か喋られたら困るということで、四人を次々に殺したのかも知れないと、思うんです」 「十津川君は北条刑事の考えを、どう思うね?」  と、三上がきいた。 「悪くありません。可能性はあります」 「だが、漠然としすぎているな」 「殺し屋が独立した人間なのか、ボスに使われている人間なのか、今のところ、どちらともいえないので、その両方の線を追ってみようと思います。差し当っては、何としても次の殺人を防ぎ、犯人を逮捕したいと考えています。犯人が逮捕できれば、自然と彼を使っている人間も、わかってきますから」  と、十津川はいった。 「君は、またトカレフを使った殺人は、起きると思っているのかね?」 「そう考えていた方がいいと思います」  と、十津川がいった時、若い警官が入って来て、三上に手紙を差し出した。      2 「十津川君。君宛の手紙だ」  と、三上はいった。  速達で、「トカレフ射殺事件捜査本部、十津川警部様」と、書かれている。差出人の名前はない。  十津川は封を切った。  中身は便箋が一枚。封筒の表と同じく、ワープロで打たれた文字が並んでいる。 〈次の標的は、内藤茂〉  と、だけ書かれていた。  それを十津川は、三上部長に見せた。 「内藤茂という男は、知っているのか?」  と、三上はきいた。 「多分、『日比愛の鎖』という会の理事長だと思います」  と、十津川はいった。 「ああ、テレビでやっていた男か」 「日本とフィリピンに関係している人間というと、他に思い浮びませんから」  と、十津川はいった。 「この手紙に、信用がおけると思うかね?」 「正直にいって、何ともいえません。だが、無視するわけにもいきません」  と、十津川は考えながらいった。  あいまいないい方をしたのは、内藤茂という男について、ほとんど何も知らなかったからである。 「さっそく、彼に会って話を聞いて来ます」  と、十津川は付け加えた。  彼は亀井と二人で、麹町にある「日比愛の鎖」の会事務所を訪ねた。  ビルの三階にある事務所に行くと、応接室には、五、六人の若者が集っていた。 「ボランティア受付」の札も見える。十津川と亀井は、そんな光景を横目に見ながら、理事長の内藤に面会を求めた。  五、六分待たされてから、二人は奥の理事長室に通された。  広い理事長室に入ると、大柄な内藤は、ワイシャツ姿でハンカチで汗を拭きながら、 「どうもお待たせして申しわけない。ボランティアの人たちに会っていたものでね」  と、二人にいった。 「何のボランティアですか?」  と、亀井がきいた。 「私のところでは、フィリピンのジャピーノのお世話をしていましてね」 「それはテレビで拝見しました」 「それは有難い。とにかく大変な仕事なんです。でも、日本として絶対やらなければならない仕事です。われわれ日本人全体の責任でもありますからね。それでテレビでもいったように、今回、二十人のジャピーノを招待することにしました。日本に一週間いて貰って、その間に、北海道の雪景色も味わって貰おうと思っているわけです。だが、何といっても、子供が二十人ですからね。彼等が日本にいる間、世話してくれるボランティアを、募集したんですよ。嬉しいことに昨日から、何人も若者が応募してくれましてね、その中から、五、六人、お願いしようと思っているところです」  と、内藤は嬉しそうにいった。 「テレビで拝見したんですが、フィリピンに関心を持たれたのは、叔父さんの白石代議士と、向うに行かれた時のことからだということですが」  十津川は内藤の顔を見ながら、話しかけた。  扁平な大きな顔だった。好人物そうにも見えるし、傲慢そうな感じでもある。 「その通りでね。あの子供たちを見て、正直、愕然としましたよ。あの子供たち、その母親たち、その親族たちが、どんなことを考えているか。特に、子供たちが成長した時、きっと、日本人というのはどんなに無責任な民族なのかと思うに違いない。それを思って、竦然《しようぜん》としましたね。何とかしなければならないと思って、『日比愛の鎖』という組織を作ったわけです。企業や個人から寄附を募り、それを向うに送ってきました。一万人以上といわれる子供や、その母親を救うにはとても足りませんが、それでも何もしないよりはいいのではないかと思いましてね」  と、内藤はいう。演説口調になるのは、政治家を志しているからかも知れない。  内藤は、この会の活動に頼る子供たちや、母親から来た感謝の手紙の束を十津川たちに見せた。 「そうしたこの会の仕事に対して、誰かが反撥《はんぱつ》しているということは、ありませんか?」  と、十津川はきいた。 「反撥ですか?」 「そうです」 「何を反撥するんですかねえ。私はいいことをしていると思っているんですが」 「人気取りではないかといった声は、ありませんか」 「そういうことですか」  と、内藤は笑った。 「ないことはありませんよ。しかし、そんなものは全く気にしていません。どんなことにだって、賛否はありますからね。しかし、これから、この仕事は大変なことになるんです。アジアの中で日本は生きていくんだといっている時に、反日感情をどんどん、作っているわけですからねえ。私はやりますよ。何といわれようと」 「内藤さんは、この会の他に、何か本業をやっておられるんですか?」  と、亀井がきいた。 「なぜですか?」 「この会以外のことで、内藤さんを恨んでいる人がいるのではないかと、思ったものですから」 「何か具体的に、私が狙われているということがあるんですか?」  と、内藤がきいた。  十津川は、ポケットから例の手紙を取り出して、内藤の前に置いた。  内藤は、それを手に取って見た。 「なるほど。私を殺すみたいなことが、書いてありますね」  と、いった。  不安気な表情は見せていない。 「何か、心当りがありますか?」  と、十津川がきいた。 「いや、全くありませんね」  と、内藤はいう。 「それで、この会の他にどんな仕事をやっておられるのか教えて下さい」  亀井が促した。 「私は、内藤交易という会社をやっております。小さな会社ですよ。東南アジアとの取引きが主な仕事です。向うから安い品物を輸入して、販売しています。今は品質も良くなっていますよ」 「儲かっていますか?」  亀井が無遠慮にきいた。内藤は笑って、 「何とかね。ただ、こちらの仕事を始めてから、社長の私がこっちに居続けているので、社員は不安がっているんじゃないかと思いますよ」  といった。  十津川は今までに、トカレフで殺された四人の名前を、手帳に書いて、内藤に示した。 「この四人をご存知ですか?」 「いや、知りませんね」 「写真も見て下さい」  十津川は、四人の顔写真を相手に渡した。 「見たことのない顔ばかりですねえ」  と、内藤はいう。 「そうですか」 「この人たちは、どういう人たちなんですか?」 「殺されています」 「なるほど。それで、次の標的が私というわけですか」 「そうでなければいいと思っているんですが」  とだけ、十津川はいった。  二人は内藤に礼をいって、理事長室を出た。  応接室を抜ける。まだ、ボランティア志願の若者たちがいたが、さっきいなかった新しい顔が見えた。  十津川は、その中に早瀬友美の顔を見つけて、思わず立ち止った。  彼女の方は、英字の雑誌を読んでいて、十津川たちを、見ようとしない。気がついてはいないのか、気がついていて、素知らぬ顔をしているのか判断がつかない。  十津川は声をかけようとして、止めて、亀井と外に出た。 「何か?」  と、亀井がきく。 「いや、何でもないんだ」  と、十津川はいった。彼女と話をすれば、どうしても兄の早瀬のことが、話題になってくる。それが辛かったのだ。  パトカーに戻ってから亀井は、 「どう思われましたか? 内藤茂という男を」  と、きいた。 「まだ何ともいえないな」 「私はああいう男は信用しないことにしているんです」  亀井がずばりという。 「ああいう連中って?」 「大威張りでいいことをする連中です」 「カメさんらしいね」 「いいことって、何となく恥かしいです。だから、恥かしそうにいいことをする人間は信用するんですが、こんな大演説をしながら、いいことをしようという人間は信用しないんです」 「だが、犯人が彼を狙えば、逮捕するチャンスが出てくるよ」  と、十津川はいった。      3  内藤茂が果して本当に狙われているのかについて、捜査本部の意見は必ずしも一致しなかった。  内藤茂の狙われる理由がはっきりしなかったからである。十津川と亀井が、彼に会って話を聞いたが、それでも何かわかったとはいえない。  ただ、内藤が狙われているとすれば、警察としては全力をあげて彼を守り、犯人を逮捕しなければならないのだ。 「内藤が本当に狙われているとしても、あの手紙は引っかかりますね」  と、亀井が十津川にいった。 「引っかかるというのは?」 「今まで、例の殺し屋は一度として予告して殺してはいません。下島やよいでも、今度の小野田清でも、警告なしに殺しています。プロの殺し屋なら、それが当然だと思うのです。依頼主から金を貰って仕事をするんですから、わざわざ警察に予告していたら失敗の確率が高くなってしまいますからね。プロのやることじゃありません」  と、亀井がいう。 「だが、あの手紙が単なる悪戯《いたずら》とも思えないがね」  と、十津川はいった。 「そうです。私も単なる悪戯とは思っていません。ただ、今もいいましたように、トカレフを使う殺し屋が寄越したとも思えないのです。私の勝手な印象では、彼はもっと冷静な人間で、警察に予告状を送りつけるような、ふざけた性格ではないような気がするのです。彼は黙って標的を狙い、正確にトカレフを二度発射して姿を消す。そんな男だと思います」 「カメさんのいう通りだとしたら、あの手紙は、誰が警察に送りつけてきたと思うんだ?」  と、十津川はきいた。 「内藤本人です」  と、亀井はいった。 「なるほどね。内藤本人か」 「恐らく、彼は自分が狙われているのを感じて、あんな方法で警察に守って貰おうと考えたんじゃないかと思います。あんな手紙を受け取れば、いやでも警察は内藤を守らざるを得ませんから」 「正直に自分が狙われていると警察に話さないのは、彼にどこか後ろ暗いところがあるからかな」 「そう思います。内藤自身がここにやって来て、次に殺されるのは自分だといえば、われわれとしては、なぜ狙われるのか、今までに殺された四人とはどんな関係なのかを聞くことになります。内藤はそれが嫌で、あんな姑息な手段を取ったんじゃないでしょうか」  と、亀井がいう。 「いいところを見ているよ。カメさん」  と、十津川はいった。  問題は二つあると、十津川は思った。一つは、なぜ、内藤が狙われるのかということと、相手が何処で彼を狙うか、ということである。  内藤は二十人のジャピーノをフィリピンから招待し、ブルートレイン「トワイライト」で、雪の北海道へ連れて行くと公表している。  犯人が狙うとすれば、その列車内か、北海道に着いてからではないか。 「私たちも同じ列車に乗る必要があるね」  と、十津川はいった。  十二月二十三日。  到着予定の一三時三〇分より、二十分おくれて、ジャピーノ二十人がフィリピン航空428便で関西空港に到着した。  十津川も、亀井と空港に足を運んだ。  内藤を守るためであり、トカレフを使う殺し屋を捕えるためでもある。  内藤は颯爽としていた。カメラマンが彼を取り囲み、盛んにフラッシュを焚き、記者たちが二十人の子供たちを迎える気持を聞く。  彼の傍には、秘書らしい三十五、六歳の男と、フィリピンの国旗をデザインした、明るいユニフォーム姿の若い男女が五人いた。彼等は内藤が募集したボランティアで、彼等にもカメラは向けられている。  男二人に女三人。いずれも学生のように見える若さだったが、その中に早瀬友美の姿を見つけた。十津川は複雑な気持になった。  彼女にもう一度、会いたいと思っていたのだが、同時に彼女が、殺人事件に巻き込まれることになるのではないかという不安も覚えたのである。 (彼女はなぜ、二十人のジャピーノを世話するボランティアに応募したのだろうか?)  ただの使命感からだろうか。それとも、何か事件が起きるのではないかという予感を感じ、またそれに兄が関係してくるのではないかと思ってのことだろうか。  十津川も今度のジャピーノの招待に、早瀬が姿を現わすだろうと、思っていた。それは期待であると同時に、不安にもなっている。  子供たちが姿を現わした。五歳くらいから十歳くらいまでの男の子と女の子たちで、胸に自分の名前をカタカナで書いた名札をつけている。  ミヨとか、ヒロシといった名前が、いかにも日比のハーフという感じで、そのつもりで見ると、どこか日本人の感じの顔なのだ。  彼等を引率して来たのは「日比愛の鎖」の会の人間で、その三十歳くらいの男は内藤と握手をして、 「みんな元気で、日本での一週間を楽しみにしています」  と、大きな声で報告していた。それに対して、内藤が大げさに彼の肩を叩き、 「ご苦労さん、ご苦労さん」  と、声をかけている。      4  関西空港側が、特別室を提供し、儀式が始まった。  外務省の課長が、これが日比友好の一助となれば幸いだといった、型にはまった、歓迎のあいさつをしたあと、今回の招待に協賛した大企業の社名が、次々に、代読される。どの企業も、フィリピンに進出しているか、日本のフィリピン援助で儲けている会社だった。 「この費用も、全て、ああいう企業からの援助でまかなわれているみたいですよ」  と、亀井が小声で、十津川にいった。  最後に、内藤が嬉しげに歓迎のあいさつをした。  肝心の子供たちは退屈そうだった。彼等が嬉しそうにしたのは、五人の男女のボランティアが紹介され、プレゼントを貰った時だった。  二十人の中には兄妹が一組いて、ケンジ、ミドリのこの兄妹に、カメラが集中した。兄のケンジは九歳、妹のミドリは六歳で、当り前だが顔がよく似ていて、一番、絵になるというので、カメラマンが、寄っていったのだろう。  テレビカメラを向けられた中で、兄妹に、記者たちが質問を浴びせかけ、兄が妹をかばうようにして答えた。英語と、タガログ語を混えた答を、同行した「日比愛の鎖」の会の男が、通訳している。  十津川は遠くから見ていたが、その兄の口から、 「ナガタ」  という名前が出て、はっとなった。  その気で見直せば、大柄な兄妹は、どことなく顔立ちが永田勇作に似ているのだ。  記者たちから、日本人のパパはどんな人と聞かれての返事だった。ナガタという名前を、九歳の兄はいい、妹はそのパパは時々沢山、贈り物をくれると、大きな声で答えている。彼女はパパと一緒に撮った写真を記者たちに見せた。  十津川は気になったので、記者たちの背後《うしろ》からのぞき込んだ。フィリピンで、ポラロイドで撮ったらしく、サングラスをしたTシャツ姿の大きな男が、三歳くらいの女の子と、六歳くらいの男の子を両腕で抱きかかえるようにしている。その男の顔は間違いなく、あの永田だった。今から三年ぐらい前に撮ったものだろう。  兄妹は記者たちに聞かれて、日本にいる間にパパに会えたら嬉しいと、答えている。多分、テレビのリポーターや新聞記者たちは、必死になって、兄妹の日本人パパを探し出し、一週間後の離日までに親子対面のシーンを作り出そうとするだろう。 (永田がすでに殺されていることがわかったら、どうなるのだろうか?)  十津川は彼等からそっと離れながら、暗い気分になっていた。 (内藤は永田が死んでいることを知っていて、あの兄妹を二十人の中に入れたのだろうか?)  そんなこともつい、考えてしまう。  儀式が終ったあと、二十人の子供たちは、五人のボランティアと一緒に大型バスに乗り、今日の宿泊先のRホテルに向った。  内藤と秘書は、リンカーンコンチネンタルのリムジンでその後に続く。十津川と亀井は覆面パトカーで、更にその後を走った。  Rホテルでも事件が起こる気配はなかった。  十津川と亀井も、今日はRホテルに泊ることにした。  明日二十四日は、十二時丁度大阪発のトワイライトエクスプレスで、子供たちは北海道に向って出発する。  夜になって、西本と北条早苗の二人の刑事が、明日のトワイライトの切符四枚を持って、Rホテルに到着した。 「様子はどうですか?」  と、西本は会うなり聞いた。 「今のところ、驚くほど静かだよ。子供たちも疲れたとみえて、もう眠ってしまったんじゃないかな」  と、十津川はいった。 「明日はクリスマス・イヴですわね」  早苗が、思い出したようにいった。 「ああ。子供たちは列車の中で、クリスマスを迎えるわけだ。内藤の秘書に聞いたら、列車の中で何かイベントをやって、子供たちを楽しませるんだといっていたよ」  と、亀井がいった。 「何か芝居じみていますねえ」  若い西本が、無遠慮ないい方をした。 「芝居じみている?」 「ええ。わざとクリスマスに合せて、子供たちを呼んだんじゃありませんかね。ただ招待するよりは、クリスマスに招待というほうが、ニュース価値はあがりますからね。内藤はそれを計算して、わざと子供たちをクリスマスに呼んだんじゃないですか」  と、西本はいった。 「まあ、それでもいいじゃないか」  と、十津川は笑った。今は宣伝の時代だ。それに内藤が慈善事業で、「日比愛の鎖」の会をやっているとも思えない。問題は、それが子供たちの幸福につながっているかどうかということなのだ。  その夜、十津川は永田の夢を見た。恐らくあの兄妹を見たせいだろう。永田は何もいわずに、のっそりと突っ立っていた。暗い中で永田は、何かを十津川に訴えかけているように見えた。それを十津川は、勝手に子供のことを頼むといっているのだと思い、 「お前の子供が今、日本に来ているぞ」  と、いいかけた時、眼がさめてしまった。  まだ、午前三時前だった。傍《かたわ》らのベッドでは、亀井が寝息を立てている。  十津川は彼を起こさないように、そっとベッドから起きあがり、二脚だけ置いてある椅子に腰を下して、煙草に火をつけた。  いつもの事件とはどうも勝手が違うと、十津川は思う。どんな難解な事件、凶悪な事件でも、十津川は犯人逮捕に向けて、冷静に勇気を持って突進してきた。これからも、そうするだろう。  だが、今度の事件だけは、引っかかることが多過ぎる。永田が殺され、今、十津川は、これも友人の早瀬を疑いかけている。それに、今度は永田の子供と思われる兄妹だ。  もう一人、早瀬の妹の友美がいる。なぜ、彼女がボランティアに志願したのか、それも引っかかってくるのだ。ひょっとして、彼女も、兄のことを疑っているのではないのか。  十津川は、背広の内ポケットから、万一の用心として持って来た自動拳銃を取り出してテーブルの上に置いた。  これまで、威嚇のために射ったことがあるが、相手を射殺したことはなかった。しかし、今回、トカレフを使う殺し屋が現われ、新たな殺人を実行しようとしたら、この自動拳銃を使って相手を射殺しなければならなくなるかも知れない。  今度の犯人は、ただの威嚇でひるむ犯人ではない。最初の一発で相手を倒し、冷酷に、二発目で止めを刺す男なのだ。  十津川は自動拳銃を手に取り、構えてみる。  犯人が早瀬とわかっても、果して射てるだろうか? (私は刑事だ。いざとなれば射てる)  と、十津川は思う一方で、 (一瞬のためらいが起きて、それが命取りになるかも知れない)  とも、思う。  早瀬はその時でも、多分、何のためらいも見せずに、引金をひくだろう。十津川は逮捕するのが仕事だが、向うは殺すのが仕事だからだ。 「警部」  と、声をかけられて、十津川は、拳銃をテーブルに置いた。知らず知らずの間に、力を籠《こ》めて、握りしめていたのだろう。かすかに、指先が、ふるえている。煙草をつまみあげて、口にくわえようとするのだが、指がふるえてうまくいかないのだ。 「大丈夫ですか?」  と、亀井が心配そうにきく。 「カメさんに頼みがあるんだが」  と、十津川はいった。 「何ですか?」 「私が眼の前で射たれても、私のことは気にかけずに、相手を射ってくれ」 「何のことですか?」 「カメさんの方が、私よりタフだ。万一の時には頼むよということさ」  と、十津川はいった。 「私は、いつでも警部を守りますよ」 「いや、万一の時は私のことより、犯人を射ってくれ。それが頼みだ。それを忘れないで欲しい。私を助けようなんて考えずにだ」  十津川は怖い眼で亀井を見た。 「警部を助けてはいけないんですか?」  不思議そうに、亀井がきく。 「とにかく、今の私の頼みを覚えておいて欲しいんだ。頼む」  と、十津川はいった。 「わかりました」 「わかってくれればいい」  といって、十津川は椅子から立ち上った。  彼は腕時計に眼をやった。 「明日のために寝た方がいいな」 「何かお話があれば、聞かせて下さい」 「ここまでくればもう、何も話すことはないよ」 「私はビールを一杯、引っかけてから寝ますが、警部はどうします?」  亀井は部屋の隅に置かれた冷蔵庫をのぞき込みながらきいた。 「そうだな。私も飲むかな」  と、十津川はいった。      5  夜が明けた。  早目に朝食を取りながら、十津川は亀井と、トワイライトエクスプレスについて書かれているパンフレットなどに眼を通した。  十津川は一度、この列車に乗ったことがあるのだが、隅々まで覚えているわけではなかった。  トワイライトエクスプレスは、九両編成である。  全室コンパートメントだから、犯人は、どの部屋にも隠れることが可能だった。  札幌方向への編成では、1号車が最後尾になる。  その1号車は、スイートと呼ばれるツインベッドの二人用個室一つと、ロイヤルと呼ばれる一人用個室四つという、ぜいたくな編成になっている。  この1号車のスイートは、最後尾についているため、前方と左右に、大きな窓があって視界が素晴らしい。景色を楽しみながら、旅行が出来るということで人気があり、予約をとるのが大変だと十津川は聞いていたが、問い合せたところ、このスイートには、今日、内藤が秘書と二人で入るということだった。その秘書もこの旅行では、若い女性だという噂だが、それは、事実かどうかわからない。  2号車も、1号車と同じく、スイート一つにロイヤル四つの構成だが、2号車のスイートは窓が横にしかないので、1号車のそれほど、人気はない。  3号車は食堂車だが、ここで出されるフランス料理のフルコースも、トワイライトエクスプレスの売り物の一つである。  4号車は、サロンカー、5号車と6号車は、シングルツインと、ツイン、7号車はツイン、8号車と9号車は、二段式のコンパートメントである。  ただ、8号車9号車の一室を、四人で使えば、四人用コンパートメントになる。  定員は全部で一三〇人と、書かれている。 「JRの話では、今日は、ほぼ満席だということだよ」  と、十津川は亀井に言った。 「一三〇人の中《うち》、ジャピーノが二十人、その世話をするボランティアが五人、内藤を始めとする『日比愛の鎖』の人間が四、五人、それにわれわれ警察の人間が四人ですが」 「他に、マスコミの連中も、乗ってくるよ。その人数は、十二、三人かな」  と、十津川はいった。 「それでも残りが、九十人はいますね。その中に、トカレフを持った男がまぎれ込んでいても、見つけるのは大変ですよ」  と、亀井はいった。 「その一人一人の所持品検査をするわけにはいかないね。まだ、車内で、内藤が狙われると、決ったわけじゃないからね」 「それに、大阪から札幌まで、二十一時間でしょう。長い時間です」 「そうなんだ。もう一つ、列車は、大阪から札幌まで、ノンストップじゃない。いくつかの駅に停車する。犯人は、その何処からでも、乗って来られるし、降りて逃げられる」  と、十津川はいい、一二時ジャストに大阪を発車したあと、停車する駅と、時間を書き並べていった。  新大阪 一二時〇六分  京都  一二時三五分  敦賀  一三時五一分  福井  一四時三〇分  金沢  一五時三三分  高岡  一六時〇五分  富山  一六時二〇分  直江津 一七時五六分  長岡  一八時五三分  新津  一九時三三分  洞爺   六時四七分  東室蘭  七時二〇分  登別   七時三四分  苫小牧  八時〇四分  南千歳  八時二四分  札幌   九時〇三分 「今頃はどの辺りで、日が暮れますかね?」  と、亀井がきいた。 「多分、富山あたりだろう」 「その辺りから、危険かも知れませんね」  と、亀井はいった。  朝食がすんで、七、八分して、ルーム係が、東京からFAXが送られて来ましたといって、持って来てくれた。 「何ですか?」  と、亀井がきく。 「日下刑事にトカレフの威力について、調べてくれるように頼んでおいたんだよ。科研でやった報告だ」  と、十津川はいった。  トカレフは世界でもっとも威力のある拳銃だといわれている。  犯人がもし、ホームに立っていて、車内にいる人間を狙撃した場合、鋼鉄製の外壁を貫通して、殺せるものかどうか、知りたかったのである。  科研の報告によれば、七、八メートルの距離から射った場合、十津川たちの持っているスミス&ウエスン拳銃では貫通できないが、トカレフは貫通して車内の人間を殺傷できるということだった。  当然、車内のコンパートメントのドアは楽に貫通してしまう。 「ホームから内藤が狙撃されるケースも、考えに入れておかなければ、いけなくなったよ」  と、十津川は険《けわ》しい顔でいった。  防弾チョッキの効果についても、報告されていた。  人形に通常の防弾チョッキを着せ、それも七、八メートルの距離から試射した結果である。  スミス&ウエスンで射った場合、弾丸は防弾チョッキの中に入っているセラミック板で、止まってしまい、人形には傷がつかなかったが、トカレフの場合、セラミック板を貫通し、人形は破壊されたという。 「怖いな」  と、十津川は真顔でいった。      6  大阪駅の一〇番線ホームから、トワイライトエクスプレスは発車する。  ホームには、駅長がわざわざ見送りに出て来た。二十人のジャピーノたちを前にして、小さな送迎の式が行われた。  十津川は、ここで犯人が内藤を狙撃する可能性もあると緊張したが、整列したジャピーノたちの背後に、内藤が立っているのを見て、少しほっとした。  ジャピーノたちが、内藤の盾《たて》になっていたからである。これでは犯人も簡単には内藤を射てないだろう。  時間が来て、人々が列車に乗り込んでいく。  十津川は亀井と最後尾のスイートに、素早く入ってみた。  ツインベッドが並び、その横に二つの椅子と、テーブルが置かれている。その前が三面のワイド窓である。ホームにいる人たちが、その窓越しに部屋をのぞき込んでいる。  ベッドの奥は、シャワールームとトイレになっている。  ドアが開いて、若い女の秘書と一緒に入って来た内藤が、十津川たちを見て、 「何だ? 君たちは」  と、きいた。  十津川は警察手帳を見せて、 「警視庁捜査一課の十津川です。昨日、お会いした──」 「顔は覚えているよ。ここで何をしているのか、聞いているんだ」  内藤は、怒ったような声を出した。 「この列車内であなたが狙われる危険があるので、一言、注意を申しあげに伺ったんです」 「まだ、そんなことをいっているのかね? 私が狙われてるなんてことを」  内藤は、若い女の手前だろうか、相変らず尊大に構えている。 (あんたが、あんな手紙を書いたんじゃないのか?)  と、十津川はいってやりたいのをじっと、おさえて、 「窓のカーテンは、下しておいて下さい」 「それじゃあ折角の景色が見られないじゃないか」 「駅に着いている時だけで結構です。ホームから狙われる危険がありますから」  と、十津川はいい、自分でさっさと部屋のカーテンを下し、亀井を促してスイートを出た。  列車が動き出した。  4号車のサロンカーに行くと、五、六人のジャピーノと一緒に、西本と北条早苗がいた。  十津川と亀井も、二人の傍に腰を下した。  列車がホームを離れて行く。景色も流れていく。  ジャピーノたちは、窓ガラスに顔を押しつけるようにして、歓声をあげている。移り変る日本の景色が面白いのか、この列車の乗り心地が楽しいのかわからない。  ボランティアが二人やって来て、ジャピーノたちに、これから行く雪国のことや、青函トンネルのことなどを説明し始めた。二人のボランティアの一人は、早瀬友美だった。  同じサロンカーに、十津川がいるのを承知していて、わざと無視している感じがした。それは多分、兄にとって十津川がマイナスな存在だという気がしているからだろう。  十津川たち四人は、6号車のツインの個室を二つ取ってあったが、札幌に着くまで恐らく、そこでゆっくり休めることはないだろうと、覚悟していた。  札幌までの二十一時間の間、いつ犯人が内藤を狙撃するかわからなかったからである。  テレビカメラの連中が、どやどやサロンカーに入って来て、ジャピーノたちと、ボランティアの二人を撮影し始めた。  その間に、列車は新大阪に着き、発車した。 「全車両を見て来てくれ。怪しい乗客がいれば、チェックだ」  と、十津川は西本と早苗の二人にいった。また、二人には早瀬の顔写真を渡し、その男が乗っていたら、報告してくれるようにとも頼んだ。  そのあと十津川は亀井と、列車に同乗している二人の車掌に会った。  二人はいずれも五十代で、山下、青木というベテランの車掌である。  最初、十津川は車掌に話したものかどうか迷っていた。この列車で、内藤が狙撃されるのではないかと思っているが、必ず狙われるという証拠はなかったからである。不必要な不安を与えてしまうという恐れもあったからである。  しかし、いざ車内で、事件が起きれば、もっとも頼りになるのは、車掌なのだと考えて、話しておくことにしたのだ。  十津川は努めて、押さえて話したのだが、山下と青木の二人の車掌は、顔色を変えた。 「あの内藤さんが殺されるかも知れないというんですか?」  と、山下が声をあげた。 「殺されると、決ったわけじゃありません。ただ、可能性があるということです。私たち四人は札幌まで乗って行きますから、何かおかしなことが起きたら、すぐ連絡して下さい。私たちのうち、一人はいつも、サロンカーにいるようにしておきます」  と、十津川はいった。 「内藤さん本人は、自分が狙われていることを、ご存知なんですか?」  青木車掌がきく。 「知っています」  と、十津川はいった。 「いつ、犯人は内藤さんを狙うんですか?」 「それはわかりません。犯人はトカレフ拳銃を使って、内藤さんを狙撃する筈ですから、とにかく私たち刑事に連絡して、あなた方だけで危険に立ち向わないで下さい」  と、十津川はいった。 「犯人がどんな人間か、少しはわかっているんですか?」  と、山下がきいた。 「中年の男性だということだけしか、わかっていません。トカレフを使って、冷静に人を殺す。話してわかる男じゃないと私は思っていますから、今いったように、あなた方がもし、犯人を見たら、私たちに連絡して欲しいのです。私たちが処理します」  と、十津川は念を押した。  十津川と亀井が、サロンカーに戻ったとき、全車両を見て廻った西本と早苗が報告した。 「これといって怪しい乗客は、見当りません。のんびりした雰囲気です。ただ、マスコミ関係者が乗っているので、少し、やかましいことはありますが」  と、西本がいった。 「写真の男は、乗っていたか?」  と、十津川は二人にきいた。 「全部のコンパートメントは見られませんでしたが、見当りませんでしたわ」  と、早苗が答えた。 (早瀬は乗って来ないのだろうか?)  と、十津川は首をかしげた。  内心、ほっとしながらも、そんな筈はないという気もしている。今、乗っていなくても、途中で乗って来るのではないか。  列車が京都駅に着く。  十津川はホームに降りて、これから乗ってくる乗客を確認しようとした。  その視界に、ちらりと早瀬らしい人物が入った。  乗ったのは先頭の9号車附近である。  十津川は、列車が動き出すと同時に、通路を走って先頭の9号車に向った。どの車両のコンパートメントも、ほとんど開いていて、乗客は廊下に出ていたが、中には閉っているコンパートメントもあった。  先頭の9号車に着くと、十津川は早瀬の姿を探した。  だが、通路には見つからない。 (8号車なのか?)  と、思って戻りかけたとき、 「十津川だろう?」  と、背後《うしろ》から声をかけられた。  振り向くと、カメラを片手に、早瀬が笑っていた。 「なぜ、この列車に乗って来たんだ?」  と、十津川はきいた。 「ジャピーノの日本滞在を、写真に撮りたいからだよ」 「北海道で見せてくれたトカレフをもう一度、見せてくれ」  と、十津川はいった。  早瀬は笑って、 「何を怒ってるんだ? あれはモデルガンだよ」 「とにかくもう一度、見たいんだ」 「家に置いて来たよ」 「なぜ、北海道には持って来たんだ?」 「あの時、いったろう。札幌のモデルガン・ショップで買ったんだって」 「所持品を調べさせてくれ」  と、十津川はいった。 「嫌だね」  と、早瀬は笑いを消していった。 「なぜ、嫌なんだ?」 「そんな権利は警察にはないんだろう? おれは別に、不審なことをしてるわけじゃない。切符を買って、ちゃんと乗ってるんだ。  それなのに所持品を調べられなきゃならない理由はない筈だ」  と、早瀬はいった。 [#改ページ]  第五章 トワイライトエクスプレス      1 「しかし、何か事件が起きたら、君を殴りつけてでも所持品を調べさせて貰うよ」  と、十津川は、早瀬にいった。  早瀬は、ニヤッとした。 「この列車の中で事件が起きると思って、警視庁のエースが乗り込んでいるわけだな」 「答える必要はない」 「友人だろう?」 「事件になれば、そんな考えはなくなるよ」  十津川は、そっけなくいった。が、早瀬は、構わずに、 「今度は、内藤茂が例のトカレフで狙われるのか?」  と、きく。 「なぜ、そう思うんだ?」  十津川は、逆襲した。 「あいつは、悪党だからな」  と、早瀬はいう。 「内藤のことを、よく知っているのか?」 「ああ、知ってるよ。前に、フィリピンにカメラを持って行った時、いろいろなものを見た。フィリピンの豊かさと貧しさ、そこにいる日本人のいい奴、悪い奴をね。内藤は、日本とフィリピンの双方を食い物にしている奴だよ」  早瀬は、十津川をまっすぐに見て、いった。 「しかし、ジャピーノを二十人も招待して、この列車で北海道の雪を見せに連れて行こうとしているじゃないか」  と、十津川がいうと、早瀬は、小さく笑って、 「慈善というやつだろう。悪人という奴は、たいてい、慈善の仮面をかぶるものさ」 「だが、内藤の悪口は、あまり聞こえて来ないがね」 「奴の本当の悪を知ってるのは、多分、彼の仲間だと思ってる。ただ、そういう奴は、消されてしまって、会って話が聞けないんだ」 「例えば、柳沼という入国管理官か?」 「知ってるんじゃないか。そういう奴は、自分にとって危険な存在になってくると、内藤は、消してしまう。トカレフを使う殺し屋に命じてね」 「あの殺し屋は、内藤が傭《やと》っているのか?」 「確認はとれないがね。だが、そうだと思って内藤を恐れている人間が、何人もいるんだ」  と、早瀬はいった。 「内藤は、裏で何をやってるんだ?」  と、十津川はきいた。 「一つだけ教えてやろうか。今、多数のフィリピン女性が、日本の盛り場で働いている。その三十パーセントに、内藤は、関係しているといわれているんだ」 「当然、暴力団も絡んでくるんだろう?」 「ああ。それに、観光ビザで入って来て働こうとする女性は、入管で押さえて送還することになってるんだが、入国管理官が内藤に金を貰って、見逃すことがある」 「それが柳沼か?」 「そうだ」 「その柳沼を、なぜ殺したんだ? 利用できる男を?」  と、十津川はきいた。 「多分、内藤を裏切ろうとしたんじゃないかな。正直にいって、本当の理由はおれは知らないんだ。だが、トカレフの殺し屋を使って柳沼を殺させたのは、内藤だと思っている」  と、早瀬はいった。 「なぜ、君がそんなことを知ってるんだ?」 「君は、ごく最近になって内藤を知ったんだろう? おれは、何年も前から内藤を知ってるんだ」 「それなら、なぜ警察に知らせないんだ?」 「知らせてどうなるんだ? 内藤が関係しているというのは、おれの直感だ。内藤という男をいろいろと知ってるから、直感で、あいつがやらせたなと思ったんだが、証拠は何もない。証拠がなければ、警察は動いたりしないんだろう?」 「その内藤が、今度、どうして殺されると君は思ってるんだ?」  と、十津川はきいた。 「最近、内藤は、政界への進出を狙っているといわれている」 「そんな野心を持ちそうな男ではあるがね──」 「政界に進出するについては、身辺を整理しておく必要があると思ったんじゃないかな。もちろん、金儲けのルートは必要だから保持しておくが、殺し屋を使っていたことは、彼にとって最大のアキレス腱だ。それで、今まで使っていたトカレフ愛用の殺し屋を、消してしまうことにしたらしいんだ」 「それも噂だろう?」 「ああ。噂だ。それで、怒った殺し屋が、今度は内藤を狙うだろうという噂が、今、おれの耳に聞こえてくるんだ」  と、早瀬はいった。 「君はどんな連中とつき合ってるんだ?」  と、十津川はきいた。 「いい連中だよ」 「君は、例の殺し屋の正体を知ってるんじゃないのか?」 「前にも、君はそんなことを聞いたね」 「何回でも、同じことを聞きたいね。知ってるのなら、教えて貰いたいからだ」  と、十津川はいった。 「知っていても、いえないな」 「なぜだ? 君自身が、その殺し屋じゃないのか?」  と、十津川がきくと、早瀬は、答える代りにニヤッと笑っただけだった。      2  十津川がサロンカーに戻ると、亀井が心配そうに、 「大丈夫ですか? 顔色が悪いですよ」  と、声をかけてきた。 「いや、何でもない」  と、十津川はいい、窓に向って亀井と並んで、腰を下した。  ひょっとして、早瀬がトカレフの男ではないかという疑念は、消えていない。いや、前よりも強くなったといっていい。  もし、早瀬がトカレフの男で、列車内で内藤を狙ったら、十津川は、早瀬を射たなければならない。今までに出会った犯人とは違う。相手はプロの殺し屋なのだ。威嚇射撃の余裕はないから、射殺するより仕方がないだろう。  亀井が、自動販売機でコーヒーを買って来て、十津川の前に置いた。 「少しは落ち着きますよ」 「私は興奮してるかね?」 「何しろ、この列車の中で殺人が行われるかも知れないんです。それに私たちは、それを防ぐために乗車しています。興奮するのは当然です」  亀井は、自分の手に持った缶コーヒーを口に運んだ。  離れた場所にいるジャピーノたちに、ボランティアの早瀬友美が、 「今見ているのは、日本で一番大きな湖で、びわ湖です」  と、英語で説明している。  列車は湖西線に入って、びわ湖の湖岸を走っていた。この辺りは高架になっているので、湖面がよく見える。  十津川も、気持を落ち着かせようとして、湖面に眼をやった。  冬のびわ湖は、静かで美しい。平和な景色だ。殺人事件を追い続けていると、こんな穏やかな景色が存在することを忘れてしまうことがある。いや、刑事には忘れた方がいい時もある。今はその時かも知れないと、十津川は、自分にいい聞かせた。  札幌に着くまで、あと二十時間だ。 「刑事さん」  と、呼ばれて振り返った。  早瀬友美が、傍に来ていた。 「何です?」 「北海道でお会いした刑事さんでしょう?」 「そうです。十津川です」 「この列車で何か起きるんですか?」  と、友美はきく。 「なぜですか?」 「刑事さんが乗ってるから」 「私も休暇でトワイライトでの旅行を楽しんでいるんです」 「そちらの刑事さんも?」  と、友美は、亀井を見た。 「もちろん、私もだ」  と、亀井はいった。 「本当のことを教えて下さい。何かあったら、二十人の子供たちを守らなければいけないんです」  友美は、真剣な眼つきでいった。 「何も起きませんよ」 「でも、刑事さんが乗ってるし、車掌さんも妙に緊張しているんです。だから、何かあるんじゃないかと、心配で」 「大丈夫です。車掌もジャピーノが二十人も乗っているんで、怪我でもしたら大変だと思って、緊張しているんですよ」  と、十津川はいった。  ジャピーノが、こちらに向って、 「トモミ──」  と、手をあげて彼女を呼んでいる。  友美が、そちらへ行きかけるのへ、 「兄さんが、今、何処《どこ》にいるか知っていますか?」  と、十津川がきいた。  友美が、足を止めて振り返った。 「兄に、何か用なんですか?」  急にこわばった顔になって、友美が、聞き返した。 「彼は、この列車に乗っていますよ」  と、十津川はいった。 「そうなんですか」  友美は、別に驚きも見せずにいった。 「お兄さんを探していたんじゃないんですか? 探しに、北海道まで行ったんでしょう? 何か、お兄さんのことで心配だったから、わざわざ雪の中を、洞爺湖まで出かけたんじゃないんですか?」 「あれから兄に会っていますわ。もう、兄のことは心配していません」  と、友美はいい、子供のところへ行ってしまった。 「どういう娘なんですかね? 警部が心配しているのに」  と、亀井が、小声でいった。 「美人だよ」  十津川は笑った。 「美人だからって、性格もいいとは限りませんよ。男はよく欺《だま》されますが」 「兄のことと、ジャピーノのことを心配しているだけだと思う」 「兄のことを心配しているんですかね。そんな風には見えませんでしたよ。警部がわざわざ知らせたのに、気のない返事をしてたじゃないですか」  亀井は、ちらりと友美の方に眼をやった。  びわ湖が視界から消えた。列車がびわ湖の北端を通り過ぎたのである。  間もなく、トワイライトエクスプレスは、日本海側の敦賀に着く。  一三時五一分。敦賀。  寝台特急なので、ほとんど乗客の乗り降りはない。  ここから、列車は日本海沿いに走り続ける。  急に空が曇《くも》り、敦賀を出てすぐ窓の外に粉雪が舞い始めた。冬の日本海側の天候は変りやすいというが、その通りの急変だった。  その代り、フィリピンから来た子供たちは大喜びでサロンカーに集って来て、十津川たちは追い出されてしまった。  十津川は、亀井と5号車のデッキのところに立って、ドアについた小さな窓から外に眼をやった。 「雪ですね」  と、亀井が呟《つぶや》く。 「サロンカーは賑やかだよ」  と、十津川はいった。  雪景色に、子供たちがはしゃいでいるのだ。  そのうち、クリスマスソングの合唱が聞こえてきた。きれいな声だった。 (そうだ。今夜はクリスマス・イヴなのだ)  と、十津川は、思った。  今夜は、何かクリスマス・イヴらしいことをやると、内藤はいっていたが、何をやるつもりなのだろうか?  子供たちを喜ばせることらしい。サロンカーを使って、クリスマスケーキのカットでもするのだろうか。  十津川にしてみれば、あまり派手なことはやって貰いたくなかった。そのさわぎに乗じて、犯罪が行われる危惧があったからである。  十津川は、携帯電話を使って、東京にいる日下に連絡をした。 「フリーのカメラマンの早瀬卓という男について、至急調べてくれ」  と、十津川はいった。 「何を調べますか?」 「彼は、フィリピンへ行っていたことがある。そこで、何をしていたかだ。それから、日本ではどんな人間とつき合っていたかを知りたい」 「何かわかったら、警部にどうやって連絡を取りますか?」  と、日下がきく。 「私の携帯電話にかけてくれ。それが通じない場合は、何とか工夫して連絡して欲しい」  と、十津川はいった。  列車がトンネルに入って、電話は聞こえなくなった。  雪は強くはならないが、それでも、なかなか止もうとしない。  福井、金沢と過ぎる。 「何も起きませんね」  と、亀井が呟いた。  金沢を過ぎたあたりから、変りやすい北国の空が今度はいい方に急変して、雲が切れ、陽が射してきた。  雪は止んで、日本海が姿を見せた。十津川は、ほっとしたが、子供たちは雪が見られなくなったのと、さわぎ疲れたのか、各自のコンパートメントに引き揚げていった。  彼等に占領されていたサロンカーには、フル・ムーンの感じの老夫婦や、女ばかりのグループなどが集ってきた。  十津川と亀井も、サロンカーに戻った。  一六時〇五分に高岡を出た頃から、陽が落ち始めた。  この列車の名前にふさわしい|夕暮れ《トワイライト》が近づいたのだ。 「危険な時間に入ってきましたね」  と、亀井が窓の外を見ながら、いった。  北条早苗刑事が、サロンカーに入ってきて、十津川の傍に来ると、 「今夜、どんな催しものがあるのか、わかりましたわ」  と、いった。 「内藤は、何をやる気なんだ?」 「サンタクロースですわ」 「サンタクロース?」 「サンタクロースに扮した人間が、子供たちにプレゼントを贈るんだそうです」 「誰がそれをやるんだ?」  と、十津川はきいた。 「そこまではわかりませんが、大勢のサンタクロースが、賑やかに繰り出すみたいです」 「全員が、サンタの扮装をして、大きな袋を持ってか?」 「はい」 「止めさせよう」  と、十津川は、眉をひそめていい、立ち上ると、食堂車、2号車を通って1号車のスイートへ行き、ドアをノックした。  ドアが小さく開き、女秘書が顔を出した。 「内藤さんに、至急、話したいことがある。十津川です」  と、いった。 「何の用だ?」  と、秘書の背後で内藤の声がした。  十津川は、秘書の身体を押すようにして中に入ると、ベッドに腰を下している内藤に、 「今夜、サンタクロースが何人も出て来て、子供たちにプレゼントをすることになっているそうですね?」 「素晴しい企画だろう? 刑事の皆さんも、サンタクロースになってくれれば嬉しいがね」  と、内藤は、笑顔でいう。 「この企画は、中止して頂きたい」 「なぜだ?」 「サンタの扮装をしたのでは、顔がわからなくなります。それに、袋の中に銃をかくせる。そんなサンタに何人も車内をうろうろされては、私たちは警護をしにくくなります。だから止めて頂きたいのです」  と、十津川は、内藤を見つめていった。      3 「それは、出来ないね」  と、内藤はいった。 「なぜ出来ないんです? 子供たちを喜ばせる方法は、他に、いくらでもあるでしょう?」  十津川は、強い調子で、いった。 「計画されていることだから、今更、変更できないよ。フィリピンは、キリスト教の国だ。二十四日から二十五日にかけて、子供たちが何よりも喜ぶのは、サンタクロースの訪問なんだよ。子供たちの期待を裏切れないよ」  と、内藤はいう。 「危険でも、構わないんですか?」  と、十津川はいった。 「みんな、信頼している人たちだ。危険はない」  決めつけるように、内藤がいった。 「あなたを殺そうとしている人間が、いるんですよ。しかも、その敵は、冷酷な殺し屋なんです。わかっていますか?」 「十津川さんと、いったね?」 「そうです」 「いつ、私が警察に、自分を守ってくれといったかね? 君たちが、勝手に、この列車に乗り込んで来て、勝手に、私が殺されるとか、殺し屋がどうとか叫んでいるだけじゃないのかね? そんな警察のいうことを、なぜ、私が聞かなきゃならんのだ?」  内藤は、傲然《ごうぜん》とした感じで、十津川にいった。  十津川よりも、一緒について来た亀井が、先に腹を立てて、 「われわれは、あんたが危険だというので、必死で守ろうとしているんだ。それなのに、肝心のあんたが、われわれの指示を無視したんでは、どうしようもないじゃないか」  と、大声を出した。  内藤は、露骨に眉をひそめて、 「この男は、何を興奮しているんだ? 今もいったように、私が、君たちに、何か頼んだわけじゃない。君たちが、勝手に押しかけてきて、私としては迷惑してるんだよ。それに、前にもいったが、私は、フィリピンと日本の間の架け橋になろうとして、日夜、努力している人間だよ。誰が、そんな私を殺そうとするのかね? 万一、私が、誰かに憎まれていたとしても、それは私の不徳の致すところだから、誰も恨みはしない。君たち警察に守って貰おうとも思わない。わかったかね?」  内藤は、見下すような口調で、いった。  十津川は、むっとしてくるのを、じっと押さえて、 「サンタクロースの遊びは、止めないということですね?」  と、念を押した。 「子供が、期待しているんだ。今更、止めるわけにはいかないんだよ」  と、内藤は、頑固に主張する。 「誰が、サンタクロースに扮するんですか?」 「それはいえないね。それが、わかってしまったら、何の面白みもないからだ」  と、内藤はいう。 「ボランティアの人たちが、サンタクロースになるんですか?」  と、十津川はきいた。早瀬友美の顔が、ふと、頭に浮んできた。  内藤は、首を小さく、横に振った。 「ボランティアの人たちには、きちんと、子供たちの世話をして貰うことにしている。余分な仕事は、させたくないんだよ」 「すると、サンタクロースに扮する人間は、この列車に別に乗っているということですか?」 「ノーコメント」 「なぜですか? なぜ、いえないんですか?」  と、十津川はきいた。 「十津川クン。私は、子供たちを楽しませたいんだよ。この列車の、何号車にいる乗客が、サンタクロースになるとわかっていたら、楽しさは半減してしまうじゃないか。思わぬところから、突然、どっとサンタクロースが出現するからこそ楽しいし、子供たちが、喜ぶんだよ」 「何人のサンタクロースが、出現することになっているんですか?」  と、十津川は、なおも辛抱強く、きいた。 「人数だけは、教えよう。十人だ」 「その十人は、すでに、この列車に乗っているわけですね? 車内で、サンタクロースに扮して、突然、現われるということですか?」 「そのことは、答えられないと、いった筈だよ」  と、内藤はいった。 「その十人は、内藤さんが、前に会ったことのある人たちですか?」  と、十津川がきくと、内藤は、一瞬、迷いの表情になって、考えていたが、 「全て、私の秘書が、計画したことだからね。私は、細かいことは、知らないんだ」 「秘書というのは、そこにいる女性のことですか?」 「いや、高良《こうら》君のことだ。彼は、飛行機で一足先に札幌へ行って、向うで、子供たちの泊るホテルや、遊ぶスキー場などの準備をしている」  と、内藤はいった。 「しかし、その人から、計画書は渡されておられるんでしょう?」 「十津川クン。君は、私に訊問するのかね?」  内藤は、睨むように、十津川を見た。      4  十津川と亀井は、追い出されるような恰好《かつこう》でスイートを出ると、サロンカーに戻った。  亀井は、怒りを押さえかねたように、 「どうして、あんな奴をわれわれが守らなければ、ならないんですか?」  と、眉を寄せて、十津川にきいた。 「それは、われわれが、刑事だからさ」  と、十津川はいった。 「しかし、あいつは、自分は立派な人間だから誰からも恨まれることはないと、いっているじゃありませんか。それならわれわれが、邪魔者扱いされながら、彼を守ってやる必要はないんじゃありませんか。万一、彼が殺されたって、自業自得というもんでしょう」  亀井が、怒りの口調で、いった。 「だが、投書があった。次に狙われるのは、内藤だという投書だよ。カメさんだって見てるじゃないか。しかも、トカレフを使った殺人事件は、何としてでも、解決しなければならないんだ。これを無視して、逃げるわけにはいかないんだよ」  と、十津川はいった。 「しかし、あの投書は、内藤が書いた疑いがあるわけでしょう?」  と、亀井がきく。 「その疑いはある。しかし、だからといってこの列車から、逃げ出すわけにはいかないんだ」  と、十津川はいった。 「それが、刑事の仕事だからですか?」 「そうだ」  と、十津川はいった。  亀井は、黙って窓の外に眼をやってしまった。  十津川は、亀井のことは心配していない。すぐ、怒りを顔に出すが、根っからの刑事という点では、自分以上だと思っているからだった。  十津川は、西本と、北条早苗の二人を呼び、 「この列車のどこかに、十人分のサンタクロースの衣裳が、のせられているかどうか、至急、調べて貰いたい。かなりの量になるから、目立つ筈だ。車掌に協力して貰え」  と、命じた。  そのあと、彼は黙って、亀井の横に腰を下し夕暮れの景色に、眼をやった。  急速に、陽が落ちていく。  夕陽に輝いていた日本海の海面は、暗くなっていき、小さな家の黄色い明りが、輝きを増していく。  富山を過ぎ、一七時五六分。直江津では、すっかり夜の気配になっていた。  蛍光灯に照らされた直江津駅のホームでは、ラッシュ・アワーが、始まろうとしている。  西本と、早苗が駈け足で、戻ってきた。 「見つかりません」  と、西本が、十津川にいう。 「見つからない?」 「そうです。この列車に、サンタクロースの衣裳が、十人分も積み込まれている様子はありませんね」  と、西本はいう。 「全部のコンパートメントを、調べたわけじゃないだろう?」  十津川は、二人の顔を見た。 「二人の車掌に、協力して貰い、ほとんどのコンパートメントは、調べましたわ。でも、十人分のサンタクロースの衣裳は、ありそうもありません」  と、早苗がいった。 「内藤の話は、でたらめなんじゃありませんか?」  亀井が、口を挟んだ。 「サンタクロースの話がかい?」  と、十津川が、聞き返す。 「そうです。あの男の話は、信用がおけません。今回のジャピーノの招待だって、あの男は、何かに利用しようとしているに違いありません」 「それは、考えられるがね」 「サンタクロースで、子供たちを喜ばせることは、計画したかも知れませんが、金がかかるので、中止してしまったんじゃないですか」  と、亀井はいった。 「いや、それはないよ」  と、十津川はいった。 「なぜですか?」 「確かに、内藤は油断の出来ない男だ。全てを、自分のために利用していると思う。だからこそ彼は、サンタクロースの計画を中止しないと思うんだよ。このジャピーノの招待は、彼が自分の力や優しさを証明しようとして、懸命になっている仕事なんだ。それをうまく成功させて、自分を社会に、信用させたいだろうからね。子供たちが、楽しみにしているサンタクロースを、やめてしまったら、彼は信用されなくなってしまう」  と、十津川は、自分の見方を亀井に話した。 「しかし、それならなぜ、肝心の衣裳がないんでしょうか?」  と、亀井がきく。  十津川は、トワイライトエクスプレスの時刻表を、取り出した。  それを見ながら、 「今、この列車に積み込んでないとすれば、これから停車する駅で、積み込む筈だよ。直江津のあとは、長岡、新津に停車し、そのあとは、明朝六時四七分の洞爺まで、停車しない。いや、青森で停車して、乗務員は交代するが、乗客の乗り降りはない。とすると、長岡か、新津だろうね」  と、十津川はいった。  長岡 一八時五三分  新津 一九時三三分  のどちらかだと、十津川は、亀井たちに、いった。 「食堂車で、夕食が始まっていますね」  と、西本がいった。  通常は、食堂車での夕食は二回だが、今回はジャピーノたちのために、もう一回追加されている。 「私が、内藤だったら、新津にするね」  と、十津川はいった。 「そのあと、翌朝まで、乗客の乗り降りがないからですか?」  と、西本がきく。 「そうだ」 「しかし、警部。大阪から遠い新津で、わざわざサンタクロースの衣裳をのせるんなら、なぜ、大阪で、のせなかったんですかね? その方が簡単でしょう?」  亀井が、不審そうな顔で、いった。 「多分、衣裳だけ積み込むのなら、大阪でやったと思うね」  と、十津川は考えながら、いった。 「というと、新津では、衣裳だけでなく、人間も一緒に乗ってくるということですか?」 「その可能性が強いような気がしてきたよ。新津に着いたら、十人のサンタクロースが、どっと乗り込んでくるんじゃないかな。その頃には、子供たちの夕食が終って、サロンカーに集っている。というより、集められている。そこへ、十人のサンタクロースが、どっと乗り込んでくる。子供たちは、大喜びだ。内藤は、そんな演出を、狙っているんじゃないかな」  と、十津川はいった。 「面白い演出ですよ」  西本がいう。 「だが、その十人の中に、われわれが探しているトカレフを使う殺し屋がいるかもしれないんだぞ」  亀井が、厳しい表情で、いった。 「でも、その人選などは、内藤がやったんじゃないんですか?」  と、早苗がきく。 「正確には、彼の秘書がやったらしい」  と、亀井がいった。 「その秘書が、内藤を裏切る可能性があると、カメさんは、思うんですか?」  西本がきいた。  十津川は、二人の間に入る感じで、 「想像で、あれこれ議論しても仕方がない。長岡、新津のどちらかで、サンタクロースが乗り込んで来た時点で、どう対処するか決めることにしよう。私の予想が外れてサンタクロースが乗って来ないことも、考えられるしね」  と、いった。  隣りの食堂車では、ジャピーノたちの夕食が、始まっている。  それが終ってから、通常の一回目の夕食になった。  十津川と亀井は、食堂車に、行った。  アンティックな装飾の食堂車で出されるフランス料理のフルコースも、このトワイライトエクスプレスの楽しみの一つである。  十津川は、亀井と、テーブルに向い合って腰を下し、次々に運ばれてくるフランス料理を口にした。  他の乗客たちは、窓の外の夜の景色に、時々、眼をやりながら、料理を楽しんでいるようだった。  二十人のジャピーノたちのことは、あらかじめ説明されていたので、乗客の誰も、不審に思わずにいる。  長岡を出たところで、一回目の夕食は終了し、次は、七時半からということになった。  丁度、新津に着く直前である。  一回目の夕食をすませた乗客は、自分のコンパートメントに帰り、二回目の組は食堂車に入っている。  サロンカーには、自然に乗客が少くなり、ジャピーノと、ボランティアが、占領する。  その時、列車は、今日二十四日最後の停車駅、新津に着く。どっと、乗り込んでくる十人のサンタクロース。  なかなか絵になる景色だと、十津川は、思い、サンタクロースが乗ってくるなら、やはり、新津駅と確信した。  彼の予想した通り、七時半になると、サロンカーに、また、二十人のジャピーノと、ボランティアが集って来た。  内藤の指示によるものだろう。  十津川たちは、追い出されて、隣りの5号車に移った。  間もなく、新津である。  十津川は、窓ガラスに顔を押しつけるようにして、近づいてくる新津駅のホームを見すえた。      5  列車が、スピードを落とした。  十津川の視界の中に、ホームに集っている赤と白の集団が、飛び込んできた。  サンタクロースの集団だった。  彼等が、ひとかたまりになって、ホームに立っている。 (いたな)  と、十津川は思った。  彼の傍で、亀井もじっと彼等を見つめている。  トワイライトエクスプレスが停車し、十人のサンタクロースたちが、5号車にどっと乗り込んで来た。  どのサンタも、大きかった。一八〇センチはあるだろう。  どのサンタも、見なれた白いつけひげをつけ、帽子をかぶり、衣裳をつけ、大きな袋を担いでいる。  顔は、ほとんど眼しか見えなかった。  彼等は、十津川とぶつかるようにして、サロンカーに入って行った。  子供たちが、サンタの集団を見て、歓声をあげる。  サロンカーは、子供たちと、十人のサンタと、五人のボランティアで、一杯になってしまった。  十津川と亀井は、入ることが出来ず、サロンカーのドアを開けて、のぞいていた。  反対側から、内藤と女秘書が入ってくるのが見えた。 「危いんじゃないですか?」  と、亀井が小声で十津川に囁《ささや》いた。 「大丈夫だ」 「しかし、あのサンタたちの中に、殺し屋がいたら、内藤は危いですよ」 「子供たちも、ボランティアもいるんだ。こんな場所で、拳銃を振り廻したりしないだろう。第一、今、この列車は新津を出た。次に、乗客が乗り降り出来るのは、北海道の洞爺で、明日の午前六時四七分だ。内藤を射殺しても、それまで車内から出られないんだよ」  と、十津川はいった。  二人の心配を他所《よそ》に、内藤は、上機嫌で、 「諸君、ご苦労さん。ご苦労さん。これから、明日この列車が終点の札幌に着くまで、子供たちと、仲良くして下さい」  と、サンタたちに声をかけている。  そのうちに、内藤の音頭で、子供たちが「きよし、この夜」を英語で歌い始めた。  きれいな声だった。  十津川は、ほっとして、亀井とデッキまで退き、煙草に火をつけた。その歌声が聞こえている間は、少くとも、殺人は行われないだろう。  腕時計は、午後八時少し前だった。  今から、夜中まで、サロンカーで、サンタと子供たちの交歓が続くのだろう。そして、朝を迎えた時、トワイライトエクスプレスは、雪の北海道を、走っていることになる。いや、なってくれなくては困ると、十津川は、思った。それが、銃声でこわされては困るのだ。 「サンタの連中ですが、一人一人、訊問できませんかね? 所持品検査も、したいと思いますが」  亀井がいう。 「拒否されたら、それで終りだよ。まだ、車内で何の事件も起きていないんだからね。内藤を狙うという投書はあったが、それが悪戯《いたずら》ではないという確証は、何もないんだ」  と、十津川はいった。  それも、内藤本人が、自分が狙われる理由を正直に話してくれれば、少しは役に立つのだが、全く非協力的である。  十人のサンタについても、経歴を話してくれない。 「それにしても、全員、大きな連中ですね」  と、若い西本刑事が、感心したようにいった。 「内藤が、好きなんだろう。男も、女も」  亀井が、皮肉ないい方をした。内藤が連れている女秘書を頭に入れての発言のようだった。 「連中は、ただ大きいだけでなく、柔道や、ラグビーなんかをやっているような印象を受けましたね」  と、西本がいった。 「まるで、屈強なボディガードの集団みたいね」  と、北条早苗がいう。 「それかも知れないな」  十津川が、急に、肯《うなず》くようにいった。 「ボディガードですか?」  と、亀井がきく。 「ああ。内藤は、自分が狙われていると知っていて、ボディガードをサンタに扮装させて、連れ込んだんじゃないのかという気がしてきたよ。どんなルートで集めたのかわからないが、身体がでかくて、柔道や空手の有段者をね」  と、十津川はいった。 「われわれを、信頼していないということですかね」  西本が、腹立たしげに、いった。 「それもあるだろうが、内藤は、後暗いところがあるんで、あれこれ詮索《せんさく》されるのが嫌なんじゃないか」  と、十津川がいった時、彼の持っている携帯電話が、鳴った。  十津川は、6号車のミニロビーに移動して、電話を聞くことにした。      6  ──日下です。聞こえますか?  日下刑事の声が、いった。 「聞こえるよ。早瀬のことが、何かわかったか?」  と、十津川はきいた。  ──「日本の声」という月刊誌があります。 「名前は、聞いたことがあるよ」 ──この雑誌に、早瀬はよく、写真や手記をのせているんですが、今年の十月に、ケンカをしています。 「理由は、何なんだ?」 ──出版社の方は、ノーコメントですが、早瀬の写真と手記が、突然、彼に何の相談もなく、差しかえられてしまったことが原因だったようです。 「どんな写真と手記だったんだ?」 ──内容はわかりませんが、「日比友好を叫びながら、金儲けに奔走するN氏の正体」というのが、予定されていた早瀬の写真と手記だったそうです。 「N氏というのは、内藤のことだな?」  ──そう思います。 「内容は、全く、わからないのか?」  と、十津川はきいた。 ──わかりませんが、早瀬と親しかった同じフリーのカメラマンに話を聞いたところ、早瀬は、その写真と手記に自信満々で、これで内藤の尻尾をつかまえてやったよと、いっていたそうです。それだけに、がっかりもしたし、怒りもしたんじゃないかといっています。 「没になったということは、出版社に、圧力がかかったのかな?」 ──小さな出版社ですし、ずっと赤字で、雑誌が続けられるかどうかというところだったようですから、金で買収されたんじゃないかという気がします。 「金か。それで、問題の写真と手記は今、何処《どこ》にあるんだ?」  と、十津川はきいた。 ──出版社の方では、早瀬に返したといっているんですが、そこのところが、はっきりしません。 「はっきりしないというのは、どういうことなんだ?」 ──これも、早瀬の友人がいっているんですが、彼は、その出版社を告訴することも考えているというのです。ただ、自分の写真と手記をのせなかったというだけで、告訴までするとは思えないので、出版社が、写真と手記を返さなかったんじゃないかとも考えられます。 「そうだな。出版社が、金に眼が眩《くら》んで、それをN氏に渡してしまったのかも知れないな。紛失したことにしてね」 ──早瀬の友人も、そういっていましたね。早瀬自身は、はっきりとはいわなかったようですが。 「わかった」  十津川は、電話を切った。  早瀬が、内藤のどんな秘密をつかんでいるのかはわからないが、二人の間の戦いは、少くとも、今年の十月からあったということはわかった。  もちろん、早瀬は、その前から、内藤について調べていた筈である。  その早瀬が、このトワイライトエクスプレスに乗っているということは、目的は、一つしか考えられない。  内藤である。  ただ、内藤をどうしようと思って、列車に乗って来たのかがわからなかった。  早瀬は、ずっと内藤を追いかけてきたのだろう。そのために、何度かフィリピンにも、カメラ片手に行っていたに違いない。  そして、十月に、雑誌に内藤を告発するような写真と手記を発表することになったが、それは内藤によって中止させられ、写真と手記は消えてしまった。  今日、同じ列車に乗り込んで来て、早瀬は何をしようとしているのだろうか?  十津川が不安なのは、そこだった。  内藤を、面と向って罵倒しようと思っているのか。それだけのことなら、別に心配はない。  早瀬はトカレフを持っているのではないかという疑いを、十津川は持っている。彼が、ちらりと見せたトカレフがホンモノかも知れないのだ。  早瀬が、もし内藤に対する怒りから、直接行動に出たりしたら、力を使ってでも、それを防ぎ、早瀬を逮捕しなければならない。  十津川が、重い気分になって亀井たちのところへ戻りかけた時、その早瀬が、カメラをぶら下げて、7号車の方から歩いて来たのにぶつかった。 「やあ」  と、早瀬の方から声をかけて来て、 「内藤みたいな悪党のガードをしてなきゃならないのは、お気の毒だな。同情するよ」 「何処へ行くんだ?」  と、十津川はきいた。 「サロンカーだよ。内藤が、サンタを乗せて、偽善のパーティをしてるんだろう。それを写真に撮《と》ってくるのさ」 「それだけか?」 「おれは、カメラマンだよ。カメラが武器なんだ。それ以上の武器なんか持ってないよ」 「悪いが、身体検査をさせて貰う」  十津川は、厳しい表情でいい、ミニロビーで、早瀬の身体を調べた。  早瀬は、笑いながら従っていたが、 「十人のサンタが、新津で乗ってきただろう。あの連中の検査はしないのか?」  と、きいた。 「彼等は、内藤が呼んだんだ。そのサンタたちが、内藤を狙う筈はない」  と、十津川はいった。 「おれは、狙うと思っているのか?」 「君は、内藤を憎んでいるんだろう?」 「ああ。あんな奴は、いなくなれば、どれだけ空気の流通がよくなるかわからないと、思っているよ」  と、早瀬はいった。 「だから、心配してるんだ。内藤のためじゃなく、君のためにだ」  と、十津川はいった。 「お礼をいっておくよ」  と、早瀬はいい、サロンカーの方へ歩いて行った。  十津川は、彼が、サロンカーの中で、内藤といざこざを起こすのを心配して、北条早苗に中に入ることを命じた。 「何かあったら、すぐ、私たちを呼べ」  と、十津川はいった。  サロンカーの中では、延々と、子供たちとサンタとのパーティが続いている。  JRが子供たちのために用意した、大きなクリスマスケーキが、サロンカーに運ばれ、それを囲んで、子供たちとサンタたち、それにボランティアが参加して、カラオケ合戦が始まったらしく、外にいる十津川たちの耳にも、唄声が聞こえてくる。  早瀬は、それをカメラにおさめているのだろうか?  彼の妹の友美もいる筈だが、早瀬は、知っているのか。  列車は、走り続け、時間がたっていく。  サロンカーに入った北条早苗が、トランシーバーで、中の様子を伝えてくる。 「これから、内藤氏がトリで唄うようです。そのあと、大きなクリスマスケーキのローソクに、火がつけられます」 「内藤は、何を唄うんだ?」  と、十津川はきいた。 「イエスタデイを、英語で唄うそうです」 「洒落《しやれ》たものを唄うんだな」 「子供たちのことを考えたんだと思いますね。政治家だと思います」  と、早苗はいった。 「早瀬は、どうしている?」 「ぱちぱち、写真を撮っていますわ」 「内藤とぶつかりそうな気配はないか?」 「今のところ、それらしい様子は見られません」  と、早苗はいった。  内藤の唄が終ったあと、子供たちがどっと歓声をあげたのは、クリスマスケーキのローソクに火がつけられたのだろう。  五、六分して、早瀬がカメラを持って、サロンカーから出て来た。  そこに十津川がいたのに、今度は、見向きもせずに通り過ぎた。  それが、逆に心配になって、十津川は追いかけて行き、背後《うしろ》から、声をかけた。  早瀬は、振り向いたが、 「ああ。君か」  と、気のない返事をした。 「サロンカーで、何があったんだ?」  と、十津川はきいた。 「サロンカーで? 何もないよ」  と、早瀬は、かたい表情でいう。 「心配事か?」  と、十津川はきいた。 「いや、何もない」 「君の妹が、ボランティアで、サロンカーにいたろう。彼女のことが、心配なのか?」 「友美のことか? あいつは、自分のやりたいことをやる奴だから、おれは何も心配してないよ」  と、早瀬はいい、かたい表情のまま、歩いて行ってしまった。  さっきの皮肉な眼つきは、消えている。サロンカーの中で、何かあったに違いないと思ったが、それが何かわからなかった。  サロンカーの中のパーティは終了し、子供たちは、それぞれ分れて、コンパートメントに消えて行った。  内藤と女秘書も、スイートに戻り、サロンカーには、サンタたちと五人のボランティアが、残った。  サンタたちは、まだ、扮装のままでいる。それが、何か異様だった。  その恰好のまま、のそのそと、動き廻っている。  時刻は、午前〇時を過ぎている。  突然、最後尾の方で、銃声が起きた。 [#改ページ]  第六章 白い世界へ      1  十津川は、1号車の方向に向って、走った。  亀井が、それに続く。  大男揃いのサンタたちも、どどっと足音をたてて、走った。  西本と北条早苗も、走る。  食堂車を走り抜け、2号車を走り抜け、1号車に飛び込んだ時、十津川は、硝煙の臭いを嗅《か》いだ。  通路の突き当りのスイートのドアに、二つの穴が開いているのに気がついた。  弾丸が射ち込まれた穴と知って、十津川は、 「内藤さん!」  と、中に向って、大声で呼んだ。  亀井たちやサンタたちも駈け寄り、サンタの一人が、ドアを激しく叩いて、 「大丈夫ですか? 先生!」  と、呼びかけた。  間を置いて、部屋の中から、 「私は、大丈夫だ」  と、内藤のかすれた声が聞こえた。  十津川は、ほっとした。  ドアが開いて、寝巻姿の内藤が顔を出した。が、その寝巻が血まみれだった。彼の手も、血で汚れている。 「どうしたんですか?」  と、十津川が驚いてきくと、内藤は、黙って床に倒れている女秘書を指さした。  彼女は仰向けに倒れて、寝巻の前が、はだけているのだが、その寝巻も、のぞいた胸のあたりも、血で真っ赤だった。  北条早苗が、駈け寄って、抱き起こした。が、秘書の身体は、ぐったりとしたままで、声も立てない。 「列車を止めて、彼女を病院へ運んでくれ!」  と、内藤が叫ぶようにいった。  早苗が、女秘書の身体を床にそっと横たえて、十津川の傍に来ると、小声で、 「もう、息がありません」  と、いった。彼女の胸の辺りにも血がついている。 「それでも、病院へ運ぶ」  と、十津川はいった。  急に、列車が減速した。青森駅で、運転停車のために、スピードを落したのだ。  ここでは、乗務員の交代はあるが、乗客の乗り降りはない。 (丁度いい。ここで、女秘書を病院へ運ばせよう)  と、十津川が思った時、前方の車両で、新しい銃声がしたような気がした。  亀井が十津川を見て、険《けわ》しい顔で、 「警部。今──」 「カメさんも、聞いたか?」 「はい」 「くそ!」  十津川は、舌打ちして、また通路を、今度は前方に向って、駈け出した。  列車は、青森駅のホームに滑り込む。人の気配のないホームが見えた。  十津川は、通路を走る。  2号車、食堂車、サロンカーと、走り抜ける。  列車が、停止した。  今度は前方で、女の悲鳴と、男の叫ぶ声が聞こえた。  5号車を通り抜け、6号車に入った時、ミニロビーで、寝巻姿の男女数人が騒いでいるのが、眼に入った。  十津川は、彼等を突き飛ばすようにして、床に倒れている人間に眼をやった。  サンタの恰好をした男だった。白い服装の胸のあたりから、血が噴き出している。  男は、苦しげに咳き込む。  十津川は、屈《かが》み込んで、男の帽子やつけひげを、剥ぎ取った。  現われたのは、早瀬の顔だった。 「どうなってるんだ!」  と、十津川は、思わず怒鳴っていた。  早瀬が、また苦しげに咳き込んだ。血は流れ続けている。 「誰に射たれたんだ?」  と、十津川はきいた。  早瀬は、答えない。いや、答えられないのか。  列車のドアが開く。普段なら開かないのだが、内藤が、車掌に開けさせたのだろう。 「カメさん。止血を頼む」  と、十津川は、亀井にいって、開いたドアからホームに飛び降りた。  がらんとした、寒々としたホームに、交代の乗務員だけが、ひとかたまりになっていた。  十津川は、彼等のところまで駈けて行って、 「救急車を呼んで下さい!」  と、大声でいった。  だが、血相を変えた十津川を見て、彼等はぽかんとしている。 「救急車を呼んでくれ! 乗客の中に、重傷者がいるんだ!」  と、十津川は、もう一度怒鳴った。  やっと、一人が、連絡のために走って行った。  十津川は、残っている乗務員に、 「誰か、降りませんでしたか?」 「さっき、サンタクロースが──」 「そいつは、どっちへ行きました?」 「向うです」  と、ホームの端の方を指さした。  十津川は、また、駈け出した。      2  白い息を吐きながら、十津川は、ホームを走る。  トワイライトエクスプレスの長く続く車両が途絶えて、線路が見えてきた。  十津川は、立ち止まり、息をはずませながら、線路に眼をやった。  何本も並ぶ線路の脇に、雪がかたまって残っている。  その線路の上を走って行く、白と赤のサンタクロースが見えた。 「あの野郎!」  と、十津川は呟《つぶや》き、自分も線路の上に飛び降りた。  逃げて行くサンタとの距離は、五、六十メートルぐらいだった。  十津川は、拳銃を取り出し、安全装置を外してサンタを追った。  相手は、線路を斜めに横切って、駅の構内から外に逃げ出して行く。  十津川は、必死に追った。  サンタは、道路に出ると、そこにとまっている車に、乗り込んだ。 (失敗《しま》った──)  と、十津川が、舌打ちした時、その車は走り出した。  見る見るうちに、車は小さくなり、十津川の視界から消えてしまった。  十津川は、道路に出て、車を探した。が、どこにも車はない。タクシーも来ない。  相手は、あらかじめ、ここに車を止《と》めておいたのか。  十津川は、しばらく、車の消えた方向を見すえていたが、諦めて列車に戻ることにした。疲れて気力もなくなり、走って戻ることが出来ず、ゆっくり歩いてホームに戻った。  ホームに、亀井が待っていて、 「早瀬さんは、今、救急隊員が担架で運んで行きました。妹さんが、付き添って行きました」  と、十津川に報告した。 「助かりそうか?」 「わかりません。西本刑事を一緒に行かせました。意識を取り戻したら、事情を聞くように、いっておきました」 「そうか」 「内藤は、ジャピーノを、何としても北海道へ連れて行きたいので、このまま乗って行くといっています」 「ここの警察は?」  と、十津川はきいた。 「青森県警から、刑事三人と鑑識二人が、もう列車に乗り込んでいます」 「車内で、捜査か」 「そうなりますね。犯人は、わかりましたか?」 「サンタの一人だ。車で逃げられたよ。前もって、駅の外に車を用意してあったらしい」 「犯人も、サンタですか」 「われわれも、列車の中で、内藤に話を聞くことにしようじゃないか」  と、十津川はいった。  列車は、十二分おくれて出発した。  十津川と亀井は、1号車に行ってみた。スイートのところでは、県警の鑑識がドアの貫通孔や、室内の床の血痕などを調べていた。  内藤は、サロンカーに移っていた。  十津川は、亀井と二人で、内藤から、射たれた時の詳しい事情を聞くことにした。 「私はさすがに疲れて、寝巻に着がえてベッドに横になっていたんだ。その時、誰かがドアをノックした。男の声で、急用が出来たというので、私が起きて行こうとしたら、秘書の小野君が出てくれた。彼女がドアのカギを外した時、いきなり、外からドア越しに射たれたんだよ。二発続けてね。彼女の身体がすっ飛んだと思った。私はあわてて、倒れている彼女を抱き起こしたんだが、もう血まみれになっていた。私はかっとして、自分が射たれてもいいと思って、ドアを開けた。犯人を殴りつけてやりたかったんだ。だが、もう、通路には、誰もいなかったよ」  内藤は、眉間《みけん》にしわを寄せて、十津川に話した。 「男の声で、急用だといったんですね?」 「そうだ」 「その声に聞き覚えはありませんでしたか?」 「いや、なかったね」 「今、ここに、サンタクロースに扮してくれた人たちがいますが、九人しかいませんね。もう一人はどうしたと思いますか?」 「そういえば、九人しかいないな」 「もう一人が、犯人だという可能性もあります」 「本当か」 「この人たちですが、どんな基準で選ばれたんですか?」  と、十津川はきいた。 「それは、秘書が全部やってくれたんだよ」 「秘書というのは、亡くなった女性の方ですか?」 「そうなんだ。実は、実際にサンタの手配をしてくれたのは、彼女だったんだよ。私は、子供たちを喜ばせたいので、十人ほどのサンタを揃えて、この列車に乗り込ませたいとだけいって、人選は彼女に委せておいたんだよ」  と、内藤はいった。  十津川は、サンタの帽子やつけひげを取った九人の男たちに、話を聞いた。  その中の一人が、Rという人材派遣会社の人間で、 「一週間前に、確かに小野さんという女の方から要請がありました。二十四日の夜、サンタの恰好で新津駅からトワイライトエクスプレスに乗り込んでくれということでした」  と、十津川にいった。 「その時の条件は?」 「人数は、全部で十人だが、三人はもう用意できたので、七人、揃えて欲しい。大きい方が子供たちに喜ばれるので、身長は一八〇センチ前後で、がっちりした身体つき、出来れば、英語が話せることということでした。交通費などは小野さんの方で払う、報酬は、二十四日、二十五日の二日間で十万円ということでした。私の会社では四人しか都合できなかったので、大学の体育部などに話して、あと三人を揃えました。その後、サンタの服装などが届けられ、それを着て二十四日の夜、新津駅に集合したわけです」 「そこで、小野さんの用意した三人とも会ったわけですね?」 「そうです」  と、相手が肯《うなず》く。  その三人のうち二人が、サロンカーにいた。  十津川は、二人の名前を聞いてから、話を聞いた。 「僕たち二人は、小野さんと同じマンションに住んでるんです。二人とも、W大の学生です。一週間ほど前だったと思いますが、小野さんにアルバイトをしないかといわれて、参加したんです。サンタの服装も与えられましたし、二日間で十万円の報酬も前払いして貰い、二十四日の夜、新津駅に行ったんです」 「もう一人のサンタがいましたね。彼のことは、どの程度、知っていますか?」  と、十津川はきいた。 「いや、新津駅のホームで、初めて会ったんです。小野さんが、他にも、アルバイトを傭《やと》ったんだなと思いました」 「その男と何か話をしましたか?」 「列車に乗ったあとは、とにかく、子供たちを楽しませなければいけないなと一所懸命でしたから、ほとんど話をしませんでしたね。札幌に着いてから、十人全員で一緒に飲みにでも行こうかなと考えていましたが」 「他に誰か、いなくなったサンタの男について知っている人は、いませんか?」  と、十津川は、サンタたちの顔を見廻した。が、口を開いてくれる者はいなかった。 「では、何か思い出したら、私たちに話して下さい」  といって、十津川は、亀井とサロンカーの外に出た。  逃げたサンタのことは、青森県警に十津川は伝えてあった。しかし、すでに、サンタの服などは、捨ててしまっているだろうし、彼が乗って逃げた車の車種もナンバーも、暗くてはっきりしていない。一番の問題は、彼の素顔を誰も見ていないことだった。  よく知っていると思われる女秘書は、射殺されてしまっている。  救急車で運ばれた早瀬について、西本から電話がかかった。  青森駅近くの救急病院で、現在、胸に命中した弾丸の摘出手術を受けているところだという。  早瀬が助かってくれれば、十津川は、彼に聞きたいことがいくつもあった。中でも一番聞きたいのは、彼を射った犯人のことである。それに、なぜ彼までがサンタの恰好をしていたかということも。  十津川が、そんなことを考えていると、亀井が、 「ちょっと、お見せしたいものがあります」  と、小声でいった。  亀井は、人の気配のない7号車のデッキまで十津川を引っ張って行き、ポケットから、ハンカチに包んだ拳銃を取り出して、彼に見せた。 「犯行に使われた凶器か?」  と、十津川が険しい表情できくと、 「違います。この拳銃からは、発射された形跡はありません」 「トカレフだね」 「そうです。私が、早瀬さんの止血をしているとき、サンタの服のポケットに入っているのを見つけました」 「モデルガン──?」 「いえ、ホンモノです」  と、亀井がいう。  十津川は、手袋をはめてその拳銃を手に持ち、弾倉を外して調べてみた。確かに、ホンモノだし、発射された形跡もなかった。 (あの時、早瀬が見せたトカレフは、ホンモノだったのか)  と、十津川は思い、一層、陰鬱な気分になってきた。  なぜ、ホンモノのトカレフを持っていたのかという疑問が生れてきたからである。それも、殺人事件の起きた列車内でである。  身を守るためだったのか、それとも誰かを射つためだったのか。 「このことは、県警の刑事たちには話していません」  と、亀井はいった。  列車は、轟音をひびかせて青函海底トンネルに入って行った。      3  青函トンネル通過中は、車掌が、乗客が希望すればサロンカーでこのトンネルについて説明することになっているのだが、血なまぐさい事件の直後なので、この催しは、中止された。  乗客の中には、銃声とそのあとに続いた騒ぎに、ベッドから飛び起きて通路に出て来た人たちもいたが、十津川たちや車掌が、犯人はすでに列車から逃げ去ったことを説明して、コンパートメントに戻って貰った。  一番心配したのは、二十人のジャピーノたちのことだったが、今日一日の歓迎行事で疲れて眠ってしまっていたのか、誰も起き出しては来なかった。  内藤が、子供たちには事件のことは知らせないで欲しいといい、十津川たちもそれを了承した。  青森県警の刑事と鑑識の連中は、1号車のスイートの前と6号車のミニロビーから、薬莢《やつきよう》を見つけた。  スイートの前の通路からは二つ、ミニロビーからは一つの薬莢である。  使われた拳銃は、恐らくトカレフというのが、薬莢などを調べた県警の見解だった。  十津川は、列車が青函トンネルを通過している間、じっと考え続けていた。  早瀬が、なぜサンタの真似をしていたのか、なぜトカレフを持っていたかということだった。  そして、もちろん、逃げた犯人のこともである。  列車が青函トンネルを出た。耳に痛かった通過中の音が消えた。 「北海道ですね」  と、亀井が窓に顔を押しつけるようにしていった。  暗い夜景の中で、白い雪片が舞っているのが見えた。  列車の窓明りが届く近さの中に、こんもりと雪をかぶった畠が見える。もちろん、明るくなれば、眼の届く全てが白一色の世界になっているだろう。 「犯人は、例のトカレフ魔でしょうか?」  と、亀井がきいた。 「多分ね」  十津川は、短くいった。 「内藤を射殺するつもりで、女秘書を殺してしまったんですかね?」 「誰もが、そう思うだろうな」 「警部は、違うと思われるんですか?」 「最初から、女秘書が標的だったということだって、全く考えられなくはない」 「しかし、内藤なら狙う理由もわかりますが、その下で働く女秘書では、狙う理由が、ちょっとわかりません」 「何か、隠れた理由があるかも知れんよ」  と、十津川はいった。 「犯人は、サンタの恰好のまま1号車のスイートに近づき、ドアをノックし、中からドアに近づいた相手に向って二発、射った。トカレフなら、楽にドアを貫通し、中の人間を殺すことが出来ます。そうしておいて、逃げ出した。これで合っていますか?」  と、亀井がいう。 「犯人は恐らく、銃声を聞いて、われわれが飛んでくるのを見越して、1号車か2号車のデッキに身を隠してやり過ごすか、或いは、一緒になってスイートに走ったんだろう。あの時、サンタたちも、われわれと一緒になって1号車の方向に走ったからね。それにまぎれ込んだのかも知れない。そのあと、犯人は、列車が青森駅に停車するのを見越して、先頭車両の方向に逃げた」 「その途中、6号車で早瀬さんにぶつかったということですかね?」  と、亀井がきく。 「多分ね。早瀬は犯人を止めようとして射たれたんだと思っている」  と、十津川はいった。 「犯人が、二発射って、止《とど》めを刺さなかったのは、逃げることに夢中だったからでしょうね。それに、サンタの扮装をしていて、早瀬さんに素顔は見られていないという安心感もあったと思いますね。早瀬さんの方も、いきなり犯人にぶつかったので、どうすることも出来なかったんじゃありませんか」  亀井は、早瀬の持っていた拳銃については、何もいわなかった。 「犯人は、この列車が、青森駅に運転停車することを知っていて、その時刻に列車から降りて、逃亡する計画を立てていたんだと思うね。何時に停車するかは、車掌に聞けば教えてくれるし、客車のドアは開かなくても、乗務員室のドアからホームに降りることは出来るからね」 「犯人が早瀬さんを射たなければ、1号車のスイートで射たれた女秘書のことに注意が集中していましたから、犯人が列車から逃げたことにも気付かなかったかも知れません」  と、亀井はいう。 「確かに、その通りだ」  と、十津川は肯《うなず》いた。が、頭の中では、少し違ったことを考えていた。  犯人は、最初から、列車が青森駅に運転停車する時刻を計算に入れて、1号車のスイートで狙撃し、人々の騒いでいる間に、ホームに逃げる計画を立てていたに違いない。  そして、その通りに犯人は実行し、1号車とは反対方向に通路を走り、先頭車両あたりから、ホームに逃げようとした。  問題は、6号車にいた早瀬だ。亀井は、犯人が逃げる途中で早瀬にぶつかり、とっさに彼を射って、ホームに降りたのだろうという。  だが、早瀬はなぜあの時、サンタの恰好をし、ホンモノのトカレフを持って、6号車のミニロビーにいたのだろうか? (早瀬は、犯人が青森駅に運転停車する寸前に、スイートで狙撃し、逃げるのを予期して6号車で待っていたのではあるまいか?)  だが、何のためか、十津川には想像がつかない。      4  青森に残った西本刑事から、電話連絡が入った。 「弾丸の摘出手術は成功して、早瀬さんは助かりそうです。ただ、しばらくは、絶対安静ということで、まだ事情聴取は出来ません」  と、西本はいった。 「よかった」  と、十津川は、呟《つぶや》いてから、 「青森駅から逃げた犯人については、どうだ?」 「五、六分前に、犯人が逃亡に使ったと思われる車が、青森港で発見されたという知らせがありました。車の中に、サンタの服やつけひげなどあったといいますから、間違いないと思います。私もこれから、港へ行ってみようと思っています。何かわかれば、またお知らせします」  と、西本はいって、電話を切った。  まだ、夜は明けていない。  サロンカーでは、内藤が、九人のサンタに向って、 「今夜の事件で驚いたことと思うが、ジャピーノたちを失望させたくない。君たちも、あと一日がんばって、子供たちを喜ばせて欲しい。臨時ボーナスも出すので、北海道でも、子供たちの相手をして貰いたいのだ」  と、演説口調で話していた。  それがすむと、内藤は次に、ボランティアの若者たちに向っても、同じ演説をした。あくまでも、日比親善につくすというポーズを、取り続けようとしているのだろう。  また、内藤は、今夜の事件で狙われたのは自分で、女秘書は、たまたまその犠牲になったのだという主張を取り続けた。 「犯人に心当りは?」  という、十津川や青森県警の刑事の質問に対しては、 「私には敵が多い。私はね、少しでも日本とフィリピンの親善の役に立てばと思って、走り廻っているのだが、そんな私が邪魔な人間もいるんだ。日本とフィリピンとの関係を、金儲けに利用しようとしている連中だよ。そんな連中にとって、私は邪魔な存在だ。だから、私が狙われたんだと思っている」  と、いった。 「具体的に、そんな動きがあったということですか?」 「いくらでもあるよ。相手の名前はいえないが、手を組んで金儲けをしようじゃないかと、露骨に持ちかけられたことがあるよ。これから発展するフィリピンは、彼等にとって、金の儲かる国でもあるんだ。もちろん、私は拒絶した。多分、そのことでも恨まれていると思っているよ」 「脅迫されたことは、ありますか?」 「そんなものは、いくらでもある。電話、手紙、いろいろな手段でね。だが、この列車の中で、実力行使に出るとは思っていなかった。わかっていれば、小野君を連れて来たりはしなかったよ」  と、内藤はいった。 「早瀬という男は知っていますか?」  と、十津川がきいた。 「いや、知らんね」 「射たれて、病院に運ばれた男です」  と、十津川がいうと、内藤は「ああ」と肯《うなず》いた。 「巻添えで、乗客が一人射たれたことは知っている。その人が早瀬か。本当にお気の毒なことをした」 「早瀬は、カメラマンです」 「そうか」 「私の友人でもあります」 「それは、知らなかった」 「彼は、雑誌であなたのことを批判したことがあります。それは覚えていらっしゃいますか?」 「いや。覚えていないね。今もいったように、私には敵が多いし、私を誤解する人間も多いんだ。断っておくが、私は言論の自由は尊重する主義だから、何をいおうと、私は放っておくよ」 「実は、その雑誌は圧力を受けて、その記事と写真をのせなかったんですが」 「その圧力をかけたのが、私だと、君はいいたいのかね?」  急に、内藤の表情が、険しくなった。 「ただ、そういう噂《うわさ》があったということです」 「君は、何をいいたいんだ?」 「それだけのことです」 「下らん」  内藤は、吐き捨てるように、いった。  亀井が、心配げに、十津川と二人だけになってから、 「どうされたんですか? 警部らしくありませんよ」 「わかってる。つい、口に出してしまったんだ。まずかったと思っている」  と、十津川はいった。 「正直にいいますと私も、内藤の、日比親善につくしているといういい方には、腹が立っていました」  と、亀井はフォローするように、いった。 「なぜ、外から射ったんだろう?」  十津川が、急に、いった。 「外からって、何のことですか?」 「ドアの外から射っている」 「ええ。顔を見られたくなかったんじゃありませんか」  と、亀井がいう。 「しかし、犯人は、サンタの恰好をしていたんだよ」 「そうでしたね。そうなんだ」 「それに、犯人は、例のトカレフ魔だったと思われている。彼はいつも冷静に標的を射ち、止めを刺す形で二発射っている。女秘書はドアを開けようとしていたんだから、犯人は、開けさせてから部屋に入り、内藤を射殺すればよかったんだ。最後尾のスイートでは、逃げようがないから、楽に殺せた筈だよ。それなのに、今度の犯人は、ドアの外からいきなり射っている。ドアを開けようとしているのが、内藤本人か、女秘書か、確めもせずにだ」 「おかしいといえば、おかしいですね」  と、亀井もいった。 「今までのトカレフ犯とは、違うんだよ。そんなところがね」 「確かに、そういえますね」 「もう一つ、おかしいところがある」 「どんなことですか?」 「サンタ姿の犯人が、1号車のスイートで、ドア越しに女秘書を射殺したあと逃げた、と私たちは考えた」 「そうです。犯人は逃げる途中、6号車で、ぶつかった早瀬さんを射ち、ホームに飛び降りて逃げたのだと、考えています」 「それで、犯人は、1号車か2号車のデッキで、われわれをやり過ごしたか、一緒に合流して1号車に向って走ったんじゃないかと、考えたんだがね。ひょっとすると、犯人はいなかったんじゃないかと、考えたりしているんだ」  と、十津川はいった。 「と、いいますと?」 「各車両のデッキに、身体の大きなサンタが隠れるような場所があっただろうかと、考えてしまってね。確かに、われわれは、スイートで銃声が聞こえたので、必死になって駈けつけたが、途中のデッキにサンタがいたら、気がついたんじゃないかね。そう考えてくると、サンタに扮した犯人が、スイートで、ドア越しに女秘書を射ったというのは、嘘じゃないかと思えてくるんだよ」 「もし、そうだとすると、女秘書を射ったのは誰なんですか? 内藤ですか?」 「内藤が射ったと考えれば、辻褄《つじつま》が合ってくるんだ」  と、十津川はいった。  十津川は、言葉を続けて、 「犯人が、ドアを開けたとなると、内藤と間違えて女秘書を射ったという話は、成立しなくなってくる。ドア越しに射ったということで、成立するんだ。内藤が、スイートの外に出て拳銃を構え、中の女秘書に、ドアのところに立ってみてくれといっておいて、射殺したんじゃないか。そうしておいて、中に入り、血だらけで倒れている彼女を抱きかかえて、われわれが駈けつけるのを待っている──」 「逃げたサンタは、どうなりますか?」  と、亀井がきいた。 「われわれが、スイートで騒いでいる間に、犯人役のサンタが、列車から逃げ出す手筈になっていたんじゃないだろうか」 「それが、6号車で早瀬さんにぶつかってしまったので、犯人役のサンタは、射って逃げたというわけですか?」 「そうなってくるね。犯人役のサンタにとって、早瀬とぶつかったのは、予定外だった。だから一発しか射たず、生死を確めずに列車から逃げたんじゃないかね」 「なるほど、辻褄は、合いますね」 「もし、この推理が当っていれば、内藤がなぜ小野という女秘書を射殺したか、それが重要になるね」 「それに、拳銃です」  と、亀井がいった。 「そうだな。内藤が射殺したのなら、彼は拳銃を持っていたことになる」 「そして、今も、拳銃を持っている筈です。あのスイートを調べれば、見つかるかも知れません。内藤は、青森で降りていませんから」 「しかし、あの部屋を調べる理由がない。今のところ、内藤は狙われた人間ということになっているからね。拒否されたら、それで終りだ」 「その点は、私に委せて下さい」  亀井は、ニヤッとした。 「どうするんだ?」 「この列車に、電話があって、内藤のいるスイートに時限爆弾が仕掛けられているという知らせが入ったことにします」  と、亀井はいった。 「カメさんに、委せるよ」  と、十津川はいった。      5  同乗している青森県警の刑事や車掌とも打ち合せたあと、1号車スイートに数人が出かけて行った。  部屋のドアに、二発の銃弾が貫通した穴が開いたままになっていて、それが不気味な感じだった。  刑事たちは、そこで内藤に会い、まず亀井が、 「今、総合指令室から、列車に連絡が入りました。匿名の電話がJRにあって、男の声で、トワイライトエクスプレスの1号車スイートに、時限爆弾が仕掛けられている。列車が札幌に着く前に、爆破することになっているというのです。明らかにあなたを殺す目的だと思われます。狙撃が失敗した時のことを考えてだと思います。それで、この部屋を調べさせて頂きたいのです」  と、内藤にいった。  内藤は、部屋の中を見廻してから、 「この室内に、時限爆弾かね?」 「もちろん、悪戯《いたずら》の可能性もありますが、万一、時限爆弾が仕掛けられていれば、あなただけでなく、この列車の何人もの乗客が死にます。いや、列車自体が、脱線転覆する恐れがあります。ですから──」  と、亀井がいいかけると、内藤は突然、 「わかった。遠慮なく調べてくれ。乗客の安全には代えられない。構わないよ、私は、サロンカーに行っていよう」  と、肯《うなず》き、さっさと部屋を出て行った。  二人のやり取りを見守っていた十津川にとっても、拍子抜けする動きだった。もう少し、内藤が渋るだろうと覚悟していたのである。 (ひょっとすると、この部屋に拳銃は無いのかも知れないな)  と、十津川は思いながらも、青森県警の刑事たちとスイートの室内の調べを始めた。二つ並んだベッド、隣りのシャワールーム、小さなクローゼット、調べるところは、そんなに多くはなかった。  四十分もすると、調べるところは全部調べてしまった。が、肝心の拳銃は出て来なかった。 「ありませんね」  亀井が、肩をすくめた。 「内藤が、持っているんじゃありませんか?」  と、青森県警の刑事の一人が、いう。 「それは、ないな」  と、十津川はいった。 「なぜ、持ってないといえるんですか?」 「もし、内藤が拳銃を持っていることがわかったら、彼が、女秘書を殺したことになる。そんな危険なことを、内藤がやる筈がないよ」  と、十津川はいった。 「では、凶器の拳銃は、何処にあるんですか?」 「多分、逃げたサンタの男が持っていると思う。ここで、女秘書が射たれて混乱している時、内藤が、サンタの男に拳銃を渡したんじゃないかと思うね」  と、十津川はいった。 「女秘書と早瀬さんが射たれた弾丸が、同じ銃から発射されたとわかれば、それが、証明されますね」  と、亀井がいう。 「青森県警本部が、今、必死でその作業をやっている筈だよ」  と、十津川はいった。  殺された女秘書と重傷の早瀬の身体から摘出した弾丸を、県警本部は比較しているだろう。そして、三つの弾丸が、連続しているトカレフ魔の拳銃から発射されたものかどうかも、調べているに違いなかった。  刑事たちは、サロンカーに行き、そこにいた内藤に、爆発物は見つからなかった旨を告げた。  内藤は、鷹揚《おうよう》に、 「それはよかった。これからも、どんどん遠慮なくいって下さい。警察に協力するにやぶさかではありませんからね」  と、いい、ゆっくり1号車のスイートに戻って行った。  その後姿を見送って、亀井が、 「狸め」  と、呟《つぶや》いた。  十津川は、苦笑して、 「彼は、時限爆弾の話なんか、頭から信用してなかったのかも知れないな」 「こちらが、拳銃を探しに来ると予期していたんでしょうか?」 「だろうね」 「それでは、何も出なかった筈ですね」  と、亀井が、いまいましげにいう。  十津川は、微笑した。 「収穫はあったよ」 「ありましたか?」 「シャワールームが、びしょびしょだった」 「しかし、それだけで、拳銃は見つかりませんでしたよ」 「わかってるさ、内藤は、事件のあと、必死になってシャワーを浴び、身体を洗ったんだと思う。多分、あの部屋のシャワーのタンクは、空《から》になっているんじゃないかな。彼は、手の硝煙反応を消すために、身体を洗い流したんだと思うね。手だけ洗ったのでは、不安だったんじゃないかね」  と、十津川はいった。 「十分にあり得ますね」 「ただ、身体を洗いたかったんだといわれてしまえば、反証は難しいがね」  と、十津川はいった。      6  トワイライトエクスプレスは、青森駅での事件のため、十二分おくれて洞爺《とうや》駅に着いた。  北海道に入って、最初の駅である。  窓の外はほの白いが、まだ夜は、完全に明け切ってはいない。  ホームを駅員が走って来て、十津川にFAXを渡した。  青森にいる西本刑事が、トワイライトエクスプレスの洞爺駅到着時刻に合せて、送っておいてくれたFAXだった。 [#ここから1字下げ] 〈まず早瀬氏ですが、いぜん、面会謝絶ですが、輸血を続行した結果、容態は回復に向いつつあるということです。  県警本部では、摘出した三発の弾丸について、その条痕を比較した結果、同一拳銃より発射したものであることが判明したといっています。  なお、トカレフ拳銃事件との関連についても、県警本部は調査中で、午前八時頃までには判明すると期待しています。 [#地付き]西本〉 [#ここで字下げ終わり]  やはり、三発の弾丸の条痕は、一致したのだ。 「恐らく、例のトカレフとも一致すると思うよ」  と、十津川は、FAXを亀井に渡してから、いった。 「これを見ると、この列車が終点の札幌に着くまでには、わかるようですね」  と、亀井はいった。  もし、例のトカレフと一致すれば、青森駅で逃げたサンタの男は、連続殺人の犯人と同一人ということになってくるだろう。  十津川は、早瀬が助かるようだということにほっとしながら、同時に、さまざまな疑問や不安やいらだちが、わきあがってくるのを覚えた。  トカレフの殺人魔は、内藤が呼んで、この列車に乗せたのだろうか?  それなら、誰を殺すために、内藤はトカレフ殺人魔を列車に乗せたのだろうか?  現実に、小野という女秘書が射殺されていることを考えれば、彼女を射殺するために呼び寄せたと考えるのが、自然である。  動機としては、彼女が内藤の悪事をいろいろ知っているので、口封じをしたということが考えられる。 (だが──)  と、十津川は、首をかしげる。  なぜ、このトワイライトエクスプレスの車内で殺させたのかという疑問があるからだ。当然、内藤に疑いがかかるし、十津川も亀井も、疑っている。  それなら、女秘書を、東京なり大阪に残しておいて、トカレフ魔に殺させた方が、内藤のアリバイが成立して有利の筈ではないか。なぜそうしなかったのだろうか?  他にも、疑問はある。  早瀬のことも、そうだ。なぜ、サンタの恰好《かつこう》をしてトカレフを持っていたのかという疑問は、いぜんとして、十津川の胸に残っている。  青森で逃げた犯人が、今、何処にいるのかも気になっていた。  西本からのFAXに、犯人が逮捕されたと書いてないから、まだ逃げ続けているのだろう。  犯人が乗って逃げたと思われる車が、青森の港近くで見つかったということも、十津川には不安だった。  青森から、ひょっとして高速艇に乗って、北海道へ来ているのではないのかと、十津川は考えてしまうのだ。  犯人は、青森でただ逃亡したのではなく、北海道へやって来て、また誰かを狙撃しようとしているのか?  トワイライトエクスプレスの朝食も、ジャピーノ二十人のために、回数が一回増えて、三回になった。  十津川と亀井は、三回目の朝食に、食堂車へ行った。  午前八時。間もなく、列車は苫小牧に着く。  窓の外は、文字通り白一色の世界である。しかし、天気は不安定で、さあっと陽が射したかと思うと、急に曇って粉雪が舞い出す。  二人は、和食の朝食を頼んであった。みそ汁、シャケ、ノリ、玉子焼といった、よくある朝食である。  反対側の席には、大きな男たちが集って、黙々と食事をしていた。アルバイトのサンタたちだった。 「みんな大きいな」  と、十津川は、感心したようにいった。 「一八〇センチの大きい男たちを集めたと、いっていましたからね」 「なぜ、そんな大男ばかり集めたんだろう?」 「それは、大男を揃えた方が、カッコがいいからじゃありませんか。それにジャピーノにも喜ばれると思って、大男を揃えたと聞いていますが──」 「そうかも知れないが」 「他にも、理由があると思われるんですか──?」 「今、急に思いついたんだが、今度の犯人も、サンタの恰好をして、十人の中にいた」 「ええ、そうです」 「ということは、犯人も一八〇センチの大男だったことになる」 「そうなりますね」 「カメさん。内藤が、その大男の殺し屋を傭《やと》って、この列車に乗せたとする。彼にサンタの恰好をさせ、十人のサンタの中にまぎれ込ませた」 「ええ」 「もし、他のサンタが小さかったら、犯人のサンタが目立ってしまう」 「それで、同じ一八〇センチクラスの大男を揃えたということですか?」 「ああ、そうだ。揃えた方がカッコがいいということじゃなくて、大男の殺し屋を、目立たなくさせるために、わざわざ一八〇センチクラスを集めて、サンタクロースにしたんじゃなかったのか」 「なるほど。十分に考えられますね」  と、亀井が肯《うなず》く。 「だから、一人のために、他の九人が──」  と、いいかけて、十津川は急に黙ってしまった。  列車は、苫小牧駅に着いた。  ホームの屋根のないあたりは、雪が積もっている。駅員が、一所懸命に除雪作業をしているのが見えた。  十津川は、それを見ている。だが、何も見ていない感じの眼になっていた。 (まさか──)  と、十津川は呟いた。  はっきりと声に出せなかったのは、自分の考えが、自分自身でも馬鹿げて見えたからだった。  しかし、その考えは、十津川の頭にこびりついて、なかなか離れてくれなかった。  急に黙りこくって箸《はし》も止めてしまった十津川を見て、亀井は心配そうに、 「どうかされましたか?」  と、きいた。 「いや、また事件が起きなければいいがと思ってね」  十津川は、あわてて、そんないい方をした。 「札幌に着いてから、また事件が起きるとお考えですか?」  と、亀井がきく。 「犯人が、青森で逃げたまま、まだ捕っていないのでね」 「そうですね。青森県警は、非常線を張って、犯人を追っていると思うんですが」  と、亀井はいった。  確かに、そうだろう。だが、今、十津川の頭にある疑惑は、別のことだった。  札幌駅に着いたのは、定刻を七分過ぎた午前九時一〇分である。  先乗りしていた秘書の高良《こうら》が、到着ホームにブラスバンドを用意し、列車が着き、二十人の子供たちが、内藤やボランティアと一緒に降りて来ると、フィリピン国歌を演奏した。  十津川と亀井が、少し離れた車両から降りると、駅員の一人が、 「警視庁の十津川さんですか?」  と、きき、十津川が肯くと、そこでも、西本からのFAXを渡してくれた。 [#ここから1字下げ] 〈例の三発の弾丸ですが、照合した結果、連続殺人に使われたトカレフから発射されたものと、判明しました。  青森県警本部も色めきたち、青森港で消えた犯人の捜索に全力をつくしています。  ただ、気になる情報として、青森港から高速ボートが一|隻《せき》、消えていることがあります。  この高速ボート《クルーザー》は、三十一フィート、九人乗りで、遠洋航海も可能だそうで、繋留《けいりゆう》してあった桟橋から、消えてしまっているということです。もし、犯人が盗んだとすれば、楽に北海道まで行けると、ボートの所有者は証言しています。県警では犯人が乗っていたと思われる車が近くに乗り捨てられていたことからみて、犯人がこのボートを盗んだことは、十分に考えられるといっています。 [#地付き]西本〉 [#ここで字下げ終わり]  やはり、犯人は北海道に向った可能性があるのだ。  ジャピーノ歓迎の儀式は、まだ続いている。  北海道は、まだ電化されていない区間が多く、札幌駅のホームにも、気動車が停車したり、出発したりしているので、そのエンジン音が、やかましく反響している。 「ここから、確か大型バスで、ニセコスキー場に行くんだったな?」  と、十津川は、ジャピーノたちに眼をやった。 「そうです。その予定の筈です」  と、亀井がいった。 「では、われわれも、ニセコに行く必要があるな」  と、十津川はいった。  ずらりと並ぶホームに、北海道らしく、スキー客の姿も集っている。  飛行機でも、東京や大阪などから、スキー客がやってくるだろう。  儀式は、いぜんとして続き、札幌市長や北海道出身の代議士が、しきりに、日比親善について演説している。  二十人の子供たちは、退屈しきっている様子だったが、内藤は、ひとりご満悦だった。自分の力で、市長や代議士が駈けつけたからだろう。  やっと歓迎の儀式が終り、ジャピーノたちは改札口に向い、ぞろぞろと歩き出した。 [#改ページ]  第七章 ニ セ コ      1  十津川と亀井は、駅の外に出るとすぐ、近くのレンタカーの営業所に行き、車を借りる手続きをとった。  ニセコには列車でも行けるが、子供たちは大型バスで行く。内藤と高良《こうら》という秘書も、車で向うという話だった。その途中で何が起きるかわからないので、十津川はレンタカーでバスと一緒に行くことに決めたのである。  その車で駅前に戻ると、子供たちや九人のサンタ、それにボランティアたちが、二台の大型バスに乗り込むところだった。  内藤と高良秘書には、ベンツのリムジンが用意されていた。  まず、リムジンが先に走り出し、続いて二台の大型バスが続く。  亀井の運転するレンタカーが、その後に続こうとした時、さっきFAXを渡してくれた駅員が飛んで来た。 「今、新しいFAXが入って、十津川さんに渡してくれということです」  と、その駅員は息を弾ませていい、一枚のFAXを十津川に渡した。 「ありがとう」  と、十津川は礼をいい、亀井が車をスタートさせた。  十津川は、助手席で、そのFAXを広げた。 [#ここから1字下げ] 〈早瀬氏が意識を取り戻し、十津川警部に伝言があるというので、私が聞きました。それをそのまま書きます。 『十津川に伝えてくれ。幼い兄妹を助けてやってくれ。内藤が、彼等を使って、何かする。あいつが死ぬ恐れが──』 これだけです。他にも、何かいいたかったのかも知れませんが、医者に止められてしまい、これ以上は聞けませんでした。早瀬氏自身も、これだけいうのが、精一杯だったと思います。それだけは、何としてでも警部に伝えたかったのだと思いますが、私には、この言葉で、何を伝えたかったのか、わかりません。警部にはおわかりになりますか? サンタ姿の犯人の行方については、まだわかっておりません。 なお、私と北条刑事も明日、そちらへ行こうと思っています [#地付き]西本〉 [#ここで字下げ終わり]  これが、FAXに書かれてあった全てだった。  十津川は、早瀬の言葉だけを二回、三回と読み返した。 「幼い兄妹」というのは恐らく、今、来日している二十人のジャピーノの中の兄妹のことだろう。永田が、フィリピンの女性との間にもうけた兄妹だ。  名前は、兄がケンジで九歳。妹はミドリ六歳の筈《はず》だった。  内藤が、この兄妹を使って何をするというのだろう? 自分の売名のために、利用するとでもいうのか? しかし、この兄妹を含めた二十人の子供たちを、内藤はすでに十分利用しているのではないのか? 「あいつが、死ぬ恐れが──」というのは、何のことだろうか?  早瀬が、意識を取り戻して、最初に十津川に知らせようとしたとすれば、ただの推測でいったりはしないだろう。  確信があるからこそ、十津川に伝えようとしたに違いないのだ。  だが、どうもはっきりと伝わって来ないもどかしさがある。  内藤は、何をもくろんでいるのか? それに、あいつが死ぬ恐れというのは、どういうことなのだろうか? 「何か問題のある知らせですか?」  と、亀井が運転しながら、十津川にきいた。  十津川は、FAXの紙をたたんで、ポケットにしまってから、 「逃げた犯人は、まだ見つからないらしい」  とだけ、いった。 「確か、青森港の傍に、車が乗り捨ててあったということでしたね?」 「ああ、そうだ」 「それに、大型のクルーザーが一隻、行方不明になっている──」 「ああ」 「とすると、犯人は、この北海道へ来ている可能性もありますね」  と、亀井がいう。 「あるね」 「もし、来ているとすると、何が目的なんですかね? ただ単に、北海道へ逃げたということなんでしょうか? それとも、今度は、まともに内藤を狙うんでしょうか?」 「面倒なことになるかも知れないな」  と、十津川はいった。 「しかし、われわれにとって、トカレフ魔を捕えるチャンスになるかも知れませんよ」  亀井は、明るい声でいった。      2  内藤の乗ったリムジンと、ジャピーノたちの乗った大型バスは、札樽自動車道を小樽に向い、そのあと積丹《しやこたん》半島の付け根のあたりを、国道5号線で、ニセコに向って走る。  海沿いに走っている時は晴れていたが、内陸部に入ると雪になった。 「こう雪ばかりだと、うんざりしてくるね」  と、十津川はいった。  やっとJRニセコ駅に着いた。小さくて、可愛らしい駅である。とんがり屋根が、いかにも、片仮名のニセコという名前に似合っている。  ここから、一行はニセコ高原に向って登って行く。  一三〇九メートルのニセコアンヌプリを始めとする山々が連なるニセコ高原は、冬の今、いたるところにスキー場があるといってよかった。  車の中からでも、斜面に、リフトが動いているのが見え、色とりどりのスキー客の姿が見えた。  ニセコ駅から、十五、六分で、ニセコアンヌプリスキー場に着いた。  一行は、そこのKホテルに入ることになった。  高良秘書が、手廻ししておいたとみえて、ホテルの入口には、日本とフィリピンの小さな国旗が飾られていた。  ロビーに入ると、ここにも歓迎の文字が見えた。  十津川と亀井は、何とかフロントに交渉して、一部屋確保して貰った。  内藤やジャピーノたちは、さっさとリザーブされている部屋に案内されて、消えてしまった。  十津川たちは、ロビー横のティールームで一服することにした。 「カメさんは、スキーはうまいんだろう?」  と、十津川は、コーヒーを注文してから、亀井にきいた。 「東北の生れですから、カッコは悪いですが、滑れます。警部は?」 「何とかね」 「スキーが必要になると思われますか?」  と、亀井がきいた。  コーヒーが運ばれてくる。十津川はスプーンでゆっくりかきまわしながら、 「子供たちは、スキーをやるためにここへ来ている。内藤だってやるだろう。何かあるとすれば、ゲレンデでかも知れないよ」 「じゃあ、スキーや靴が必要ですね」 「全部、どこかで借りよう」  と、十津川はいった。  ロビーに眼をやると、七、八人の若者が派手なスキーウエアで、ゴーグルをかけ、スキーを担いでゲレンデへ出かけるところだった。 「最近のスキーウエアはやたらにけばけばしていますねえ」  亀井が、感心したように、いった。  が、十津川は、別な見方をしていた。 「カメさん。あそこにいる連中だが、みんな同じように見えないか?」  と、十津川はいった。 「そうですね。全員が、原色をちりばめたスキーウエアですからね」 「そして、大きなゴーグルをつけ、その上、スキー帽をかぶったら、誰が誰かわからなくなってしまう。ゲレンデでは、見分けがつかないよ。サンタと同じなんだ」  と、十津川はいった。 「そうか。犯人が、あんなスキーウエアでゲレンデに現われたら、見分けがつかないかも知れませんね」  急に、亀井も表情をかたくした。トワイライトエクスプレスの車内での狙撃事件を思い出したからだろう。 「ここでも、犯人がスキー客にまぎれて、誰かを狙撃すると、警部は思われるわけですか?」  亀井が、きいた。 「その不安がある」  と、十津川はいった。 「しかし、警部。犯人は、内藤が呼び寄せて、彼の女秘書の口を封じたのではないかといわれたんじゃありませんか?」  と、亀井がきいた。 「狙ったのは内藤だが、犯人が誤って女秘書を射殺してしまったというストーリーは、信用できないからね。内藤は、われわれにそう思わせたがっているが、私は女秘書の口封じだったと思っているよ」  と、十津川はいった。 「もし、そうだとしたら、犯人は目的を果したわけですから、もう現われないんじゃありませんか? 内藤も呼ばないでしょう」 「私も、そう考えていたんだ。だが、青森で逃げた犯人は、どうやら海峡を渡って、この北海道へ来るようだし、こんなFAXも私は受け取った」  十津川は、札幌駅前で渡されたFAXをポケットから取り出して、亀井に見せた。  亀井はそれを読んでから、首をかしげて、 「意味が、よくわかりませんが」  と、十津川を見た。 「正直にいって、私にも、よくわからないんだ。ただ、早瀬が強い不安を持って、何かを私に伝えたがっていることだけはわかる。それに早瀬が、意味もなくこんな言葉を私に伝えたがったとは思われないんだよ」  と、十津川はいった。 「兄妹というのは、ここに来ている子供たちの中にいるわけですね?」 「ああ。ケンジ、ミドリの兄妹だ」 「なぜ、その兄妹を、早瀬さんが心配するんですか?」 「父親が、早瀬と私の友人でね」  と、十津川はいった。だが、その父親が永田ということは、いわなかった。 「なるほど。しかし、その兄妹を内藤が利用するみたいに書かれていますし、助けてくれというのは、どういうことでしょうか? まさか、内藤が幼い兄妹を殺したりするとは思えませんし、それに、ここにある『あいつ』というのは、誰のことでしょうか?」  と、亀井がきいた。 「考えているんだが、わからなくてね。それだけに、不安がある」  と、十津川はいった。  全く、わからないわけではなかった。一人だけ、頭に浮ぶ人間がいるのだが、その男だという自信がなかったのだ。  急に、ロビーが、騒がしくなった。  二十人の子供たちが、真新しいスキーウエアを着て、エレベーターから降りて来たのだ。ボランティアとサンタの男たちも、それぞれ新しいスキーウエアで降りて来た。  彼等は、やかましく喋り合いながら、ホテルを出て行った。子供たちは、生れて初めてのスキーに、はしゃいでいる。  内藤と秘書の高良は、出て来なかった。疲れて部屋に閉じ籠《こも》っているのか、それとも、何か企んでいるのだろうか。  十津川と亀井は、フロントでスキーウエアやスキーのレンタルについて頼んでおいてから、五階の自分たちの部屋に入った。内藤がホテルにいる限り、事件は起きないだろうと、考えたからだった。  部屋に入り、窓のカーテンを開ける。ベランダには、吹き込んだ雪が溶けずに、そのまま小さな山を作っている。  遠くに、スキー客があふれているゲレンデが見えた。ゲレンデの端から山腹に向って、リフトが動いている。  眼をこらしたが、ジャピーノたちは沢山のスキーヤーたちの中に紛れてしまって、見つからなかった。  十津川は、煙草に火をつけた。フロントには、内藤と秘書の高良が外出したら、すぐ知らせてくれと、いってある。  十津川が考えたのは、やはり、早瀬のことだった。  彼は、今回の一連の事件について、何かを知っているに違いないと思う。トワイライトエクスプレスの車内でサンタの恰好《かつこう》をしていたのが、ただ、ふざけていたのだとは思えない。何か、意味があったのだ。  それに、トカレフを持っていたこともである。  だが、その答が見つからない。  今すぐ青森に戻って、彼の収容されている病院に行き、直接聞いてみたい。だが、早瀬は恐らく、十津川の質問に答えてくれないだろうという気もするのだ。話す気があるのなら、今までに話してくれているだろうと思う。 (早瀬は、トカレフで、誰を射とうと考えていたのだろうか?)  いや、何を防ごうとしていたのか?  内藤を、犯人から守ろうと思っていたのだろうか? それとも、死んだ女秘書か? 或いは、自分自身だろうか?  夕食の時刻になって十津川は、青森にいる西本に電話をかけた。 「FAXは、受け取ったよ」  と、十津川がいうと、西本は、 「早瀬さんの言葉は、そのまま書きました。あれで、意味がわかりますか?」 「だいたいね。早瀬の容態はどうなんだ?」 「今、眠っているようです。医者は、もう大丈夫だといっています」 「それなら、安心だ」 「ニュースが一つあります。函館警察署から連絡がありまして、例のクルーザーが、函館近くの海岸で見つかったそうです」  と、西本はいった。 「やはりか」 「これで、トワイライトエクスプレスの狙撃犯が、北海道に渡ったことは、まず間違いないと思います」  と、西本はいった。  このあと、フロントから、子供たちが無事に戻ってきたと、知らせてきた。子供たちが狙われることはないだろうとは思っていたが、それでも、十津川はほっとして、運ばれてきた夕食に、亀井と一緒に箸をつけた。 「明日だな」  と、十津川はいった。 「何かあるとすれば、ですか」 「ああ。例の犯人も、明日あたりには、このニセコに到着するだろうからね」 「犯人の顔がわからなくては、道警でも、手配のしようがないでしょうね。まさか、サンタの恰好の手配書を作るわけにもいかないでしょうから」  と、亀井がいう。 「必ず、犯人は、ニセコに現われるよ」  と、十津川はいった。 「本当に来るでしょうか?」 「ああ。来るよ」  と、十津川は断定するように、いった。      3  昼前に、西本と北条早苗の二人が、ニセコに到着した。  だが、ホテルに空部屋がなかった。男の西本は、十津川と亀井が泊っているツインルームに簡易ベッドを置いて貰《もら》い、そこに寝ることにし、早苗の方はボランティアの女性の部屋に泊めて貰うことにした。  昼食は、ホテルの最上階にあるレストランでとった。 「警部はまだ、犯人がここへやって来ると思われますか?」  と、食事の最中に、亀井が十津川にきいた。 「ああ、来ると思っているよ」  と、十津川はいった。 「しかし、犯人は、何の用でやって来るんでしょうか?」  と、早苗がきく。 「犯人が本当に殺す標的が内藤の女秘書でなければ、今度は、本当の標的を殺しに来るだろうね」 「でも、警部は、内藤が女秘書の口封じのために犯人をトワイライトエクスプレスに呼んだと思われているんじゃありませんの?」  と、早苗が、更にきいた。 「確かに、私はそう考えたんだが、その推理では辻褄が合わないことが出て来てね。これはカメさんとも話したんだが、女秘書の口封じなら、何も列車の中で殺すことはないんじゃないかという疑問が、まずある。それに、犯人は青森駅で逃げたのに、なぜ、われわれの後を追うように海峡を渡って北海道へ来たのだろうかという疑問もある」  と、十津川はいった。 「女秘書の他に、内藤は、高良《こうら》という秘書も邪魔になって、彼も殺してくれと頼んでいるんじゃありませんか?」  と、いったのは西本だった。 「高良秘書か」 「秘書というのは、いろいろと表も裏も知っているものです。内藤が立派な人物なら、別に困ることはないでしょうが、彼は、いってみればワルです。だから、秘書に喋《しやべ》られると困る。そこで、二人とも口を封じてしまおうと考えたんじゃありませんかね。内藤が政治的野心を持っていれば、なおさら、自分の暗い面を知っている秘書の口を封じておきたいと思います」  と、西本はいった。 「なるほど、考えられないことじゃないな」  十津川は、そんないい方をして、窓の外に眼をやった。  ホテル最上階のここからは、ゲレンデも、リフトも、そこに群がっているスキーヤーたちの姿も、よく見える。  そのうちに粉雪が舞い始めて、かすんできた。 (まずいな)  と、十津川は呟《つぶや》いた。  犯人が、ゲレンデに現われても、これでは見つけ出すのは難しいだろう。  十津川は、もうこれ以上、犠牲者は出したくなかった。その犠牲者が内藤であってもである。  レストランのウエイトレスが近づいて来て、十津川に、 「フロントからです」  と、受話器を渡した。  フロントの電話は、午後一時半に、内藤と秘書の高良が、ゲレンデに出かけるらしいというものだった。  腕時計を見ると、午後一時を過ぎたところである。十津川は、亀井たち三人に向って、 「われわれもゲレンデに出るぞ。もう、人殺しはごめんだからだ。何としてでも、犯人を逮捕するんだ」  と、強い調子でいった。  すぐ、四人はレンタルしたスキーウエアで身を包み、これもレンタルしたスキーを担いでホテルを出た。  ホテルのマイクロバスでゲレンデに着くと、四人は分れて、粉雪の中を内藤を探すことにした。  犯人が内藤を狙うにしろ、内藤が呼び寄せるにしろ、彼の傍にいれば犯人を見つけられると考えたからだった。  ゲレンデは、スキーヤーで一杯だった。しかし、雪のために視界が五、六メートルしかきかない。  その上、同じように派手なスキーウエアのせいで、滑っているスキー客は、皆、同じように見える。  やっと、ジャピーノたちをゲレンデの一角で見つけた。  ボランティアたちも一緒だった。だが、そこに内藤と秘書の高良の姿はなかった。  子供たちは、昨日と今日の二日間しかまだ雪に接していないのだが、それでも結構うまく滑っている。大人と違って、身体が柔らかいということなのだろう。  十津川は、ボランティアの青年に近寄って、 「内藤さんを見なかったかな?」  と、きいてみた。  彼は、スキーウエアについた粉雪をはたき落しながら、 「まだ、会ってません」 「秘書の人には?」 「さっきここに来て、兄妹のジャピーノを連れて行きましたよ」 「兄妹? ケンジとミドリ?」 「ええ」 「何のために連れて行ったんだろう?」 「わかりません。ビザのことが、どうとかいってましたが」 「ビザが問題なら、他の子供たちだって問題じゃないのか?」 「そうかも知れないんですが──」 「兄妹を連れて、ホテルへ戻ったのかな?」 「いえ。リフトの方へ行ったのを見てました」 「リフト?」  十津川は、眼を向けた。粉雪は止み、視界が広がった。  十津川の頭に、早瀬の言葉が蘇《よみがえ》ってくる。あの兄妹のことが心配だ、守ってくれという言葉である。  まさか、子供を殺すことはあるまいと思いながらも、十津川の胸に、不安がわきあがってくる。  十津川は、リフトのところまで滑って行き、乗り込んだ。かなりの速さで、リフトは昇って行く。  十津川は、必死でゲレンデの周辺を見廻した。が、高良秘書と兄妹の姿は見つからなかった。  山の中腹まで昇って、十津川はリフトから降りた。他のスキーヤーたちは、すぐ斜面を滑り降りて行った。が、十津川はそこに残ってゲレンデをしばらく見下していた。  彼の頭には、早瀬の言葉が、残っていて離れない。早瀬は、いったい何をいいたかったのだろう?  ゲレンデに向って眼を凝《こ》らしたが、兄妹の姿も、高良秘書も、内藤も見つからない。  スキーウエアのポケットで、携帯電話が鳴った。十津川は取り出して耳に当てた。  ──亀井です。いくら探しても、内藤も秘書も見つかりませんね。  と、亀井がいう。 「今、何処《どこ》にいるんだ?」  と、十津川はきいた。  ──ゲレンデです。まわりは若者で一杯ですが。 「ストックを上にあげてみてくれ」  と、十津川はいった。  ゲレンデ一杯のスキーヤーの中から、ストックが一本、宙に伸ばされた。 「見えたよ。私は今、リフトの頂上にいる。本当に、ゲレンデに内藤も秘書もいないか?」  ──西本刑事と北条刑事もゲレンデを探していますが、見つからないみたいです。 「カメさんは、すぐホテルに戻ってくれ。連中は、ホテルに帰ったかも知れない」  ──了解しました。      4  ゲレンデにいないのなら、ホテルに戻ったか、別の場所に動いたのだろう。  十津川は、立札にツーリングコースと書かれてある方向に滑って行った。  白樺の林が広がり、その間をぬうようにシュプールがついている。ツアースキーを楽しむ人間もいるのだろう。  十津川は、ストックに力をこめて、そのシュプールに沿って滑って行った。  十五、六分も滑ったろうか。白樺の間に二人の人間が見えた。  シュプールから外れた場所だった。  二人とも派手なスキーウエアを着て、ゴーグルをかけているので、顔ははっきりしない。が、ゲレンデを占拠しているような若者の感じではなかった。  ふいに、その一人が、 「殺してやる!」  と、叫ぶのが聞こえた。  十津川は、近くの白樺の樹に身を隠して、二人を見すえた。  殺してやると叫んだのは、一八〇センチはある大男だった。  もう一人は、大男よりも背は低いが、がっちりした身体つきに見える。 「私を、殺すだって?」  と、その男は、落ち着き払った口調でいった。  その声に聞き覚えがあった。いや、殺してやると叫んだ男の声にも、十津川は聞き覚えがあるのだ。 「仕事もきちんと出来んくせに、よくそんなことがいえるな」  と、背の低い方が、軽蔑したようにいう。 「あんたは、嘘つきだ」  と、背の高い男がまた、叫ぶようにいった。 「金は払ったんだ。仕事は、きちんとやれ。文句をいうのなら、それからだ。奴はまだ生きてるぞ」 「標的が違っていた。殺す相手があいつだとは、いわなかったぞ。わかってれば引き受けなかったんだ」 「金さえ払えば、どんな相手でも殺《や》るのが、プロの筈だ」 「おれにも、殺せない相手はいる。それを知ってて、あんたはあいつを殺らせようとした。あいつが死んでいれば、何もいわずにあんたを殺している」  大男は、ストックを雪に突き刺し、ポケットから拳銃を取り出した。  だが、相手は怖がる様子もなく、 「私を殺れるのか?」 「ああ。あんたもそろそろ、年貢をおさめてもいい頃だ」 「そいつの引金をひく前に、お前に聞かせたいものがある」  といい、背の低い方が携帯電話を手に取って、ボタンを押してから、それを大男に手渡した。  大男は、片手で携帯電話を受け取り、耳に押し当てたが、急に表情が変って、 「貴様は──」  と、呻《うめ》くように、いった。 「お前が信用できないから、保険をかけてあるんだよ。私に拳銃を向けずに、さっさと約束どおりに、あいつを殺して来い。さもないと、お前の可愛い──」  と、片方はいいかけてから、急に十津川の方に顔を向けて、 「誰だ? そこにいるのは!」  と、叫んだ。  大男も、ぎょっとした感じで、拳銃を十津川に向けた。 「警察だ。二人ともそこを動くな!」  と、十津川は、大声で怒鳴った。  とたんに、大男の手にした拳銃が火を噴いた。  トカレフ特有の発射音。弾丸は、十津川のかくれている白樺の幹に命中して、木片が飛び散った。  十津川が、反射的に身を伏せる。だが、二発目が飛んでくる代りに、大男は逃げ出した。  新雪の中を、ストックも使わず、スキーを滑らせて逃げる。  十津川は、その後を追った。  十津川は、あまり、スキーには自信がない。その上、新雪で滑りが悪い。スキーの先が、雪にもぐる。  それでも、ストックを持たない相手に、十津川は追いついて行った。  大男は、急に止って振り向き、銃口を十津川に向けた。  荒い息を吐いている。右手だけで、トカレフを構えていた。  十津川も止って、相手を見つめた。 「片手で、私が狙えるのか?」  と、十津川はいった。 「おれはプロだ。だが、君は殺したくない」  と、大男はいった。 「友人は、殺せないか?」  十津川は、相手を見つめて、いった。 「おれのことが、わかっていたのか?」  男は、銃口を下に落して、聞き返した。  十津川が、小さく肯《うなず》いた。 「ひょっとするとと、考えはしたんだ。ただ、まさか自分の左手首を自分で切るとまでは、考えはしなかったよ。そうまでして、君は自分を死んだことにしたかったのか?」 「ああ、そうだ」  と、相手はいった。 「左手首と一緒にゴミ袋に入っていた、同じ血液型の左足はどうしたんだ?」 「おれの知り合いの医者が、札幌市内の病院で働いていた。その病院に、身元不明の交通事故死の死体が、運ばれたことがあった。おれと同じ血液型と聞いて、彼に金を渡し、左足だけを貰ったんだよ」 「そうまでして、君は自分が死んだことにしたのに、なぜ、その後もトカレフで二人も殺しをやったんだ?」  と、十津川はきいた。 「あいつが、おれを解放してくれなかった。おれは、何とか、あいつから解放されたくて、自分を死んだことにしたかった。そのために、刑事の君を利用した。君はきっと、おれがトカレフ魔に殺されたと考えてくれるだろうと思っていたんだ。そうなれば、おれが死に、同時に、おれがトカレフ魔ではなかったことに出来る。それが、おれの子供への贈り物になると、考えたんだ」  と、相手はいった。 「だが、内藤は君が死んでいないことを知って、殺し屋の仕事を続けさせていたわけだな?」  と、十津川はいった。  それに対して、相手は黙って肯《うなず》いただけだった。 「トワイライトエクスプレスでのことを聞きたい。君は、内藤に呼ばれて乗ったんだろう。トカレフを持って」  と、十津川はいった。 「トワイライトエクスプレスのことは、話したくない」  と、相手はいった。 「友人の早瀬を射ってしまったからか?」 「あれは、間違いなんだ」  相手は、苦しげに、いった。 「私は、刑事だ」  と、十津川はいった。 「わかっている」 「友人でも、殺人犯は、逮捕しなければならない」 「それもわかっているが、今は捕まるわけにはいかないんだ」  と、永田はいった。      5 「まだ、何かするつもりなのか? まだ、殺し足りないのか?」  十津川は、怒鳴るようにいう。その声が、雪と風に吹き消されそうになる。 「おれには、やらなければならないことがある」  と、永田は、いった。彼の声も風に飛ばされる。  そのまま、永田は雪の中を歩き出した。 「止まれ!」  と、十津川は、大声で叫んだ。  その瞬間、永田は振り向いて、いきなり射った。  十津川の頬を、トカレフの弾丸がかすめていった。 「次は、殺すぞ!」  と、永田は叫ぶようにいい、転がるように斜面を駈けおりて行く。雪が舞いあがる。  十津川は、追いかけようとして、やめてしまった。追えば今度こそ、永田は二発目を命中させるだろう。  十津川は、ポケットから拳銃を取り出して、永田が逃げて行く方向に銃口を向けてみた。白樺の林の中を、永田の姿が見えかくれしながら、小さくなっていく。  射ったとしても、永田に命中させる自信もないし、その気もなかった。  今、永田を狙撃してまで、逮捕する気にはなれなかったのだ。 (本当に悪いのは、内藤ではないのか?)  という気がしていた。  十津川は、拳銃をポケットにしまった。  そこへ、内藤が雪を蹴散らしながら、近づいてきた。 「あいつは、どうした?」  と、内藤が、周囲を見廻しながらきいた。 「あれは、事実ですか?」  と、十津川は、逆にきき返した。 「何のことだ?」 「あなたが、彼に金を渡して、殺人をやらせたということです」 「私が、そんなバカなことするわけがないだろう?」 「しかし私は彼が、トワイライトエクスプレスの車内で、あなたに頼まれて早瀬を射ったという言葉を聞きました。それに対してあなたが、まだ殺してないじゃないか、と文句をいうのもですよ」 「それは、君の聞き違いだ。あの男は、私を殺そうとしたんだ。それに、何人もの人間を殺している殺人鬼だ。そんな危険な男を君は逃がしたのか?」 「あの男は永田ですね?」 「それがどうしたんだ?」 「携帯電話で、あなたは彼に何を聞かせたんですか?」  と、十津川はきいた。 「何を、ごちゃごちゃいってるんだ? 君は、刑事だろうが。刑事なら、あの殺人鬼を捕えたまえ。射殺したまえ。そんなことも出来んのか?」  内藤が、わめくように、いった。 「携帯電話で、あなたは彼に、彼の子供の声を聞かせたんじゃないんですか?」  と、十津川はいった。 「子供の声というのは、何のことだ?」 「今、高良《こうら》秘書は、何処《どこ》にいます?」 「彼は今頃、私を探しているだろうと思うがね。ゲレンデで別れたんだ。私は、ひとりで滑りたくて、ここへやって来た。あの殺人鬼は、私を追いかけて、ここで私を射殺しようとしたんだ」 「私は、そうは思いませんね。あなたは、ここで永田と会う約束をしていた。万一を考え、高良秘書に永田の子供二人を、このスキー場の何処かに連れて行かせた。もし、永田が自分を脅すようなことをしたら、高良秘書に、お前の子供を殺させるぞと、逆に脅してやろうと考えていたんじゃありませんか? あの携帯電話は、高良秘書とつながっていた。それを、永田に聞かせたんじゃありませんか? 彼の子供二人を、いわば人質にとって、彼を思い通りに動かそうとしていると──」 「十津川君!」  と、内藤は、大声でさえぎった。 「君は警察官だろう? 君の役目は、殺人犯を逮捕することじゃないのかね?」 「そうです。しかし、殺人犯に命令した人間も逮捕しなければなりません」 「もう、君には頼まん!」  と、内藤は、吐き捨てるようにいい、携帯電話を取り出し、どこかに掛け、 「私だ。すぐ、道警本部長に連絡を取れ。トカレフを持った殺人鬼が歩き廻っていることを伝えて、全力をあげて逮捕しろというんだ。いや、非常に危険な男だから、見つけ次第射殺するように伝えるんだ。道警本部長に、私の名前をいえば、やってくれる筈だ!」  と、命じた。      6  十津川は、ゲレンデにおりて行き、亀井と合流した。 「ホテルの方で、パトカーのサイレンの音がやかましく聞こえていましたよ」  と、亀井がいった。 「内藤が、道警本部長に訴えて、非常線を張ろうとしているんだ」 「例のトカレフ魔のことでですか?」 「そうだ。内藤は、見つけ次第射殺してくれと、道警本部長にいう筈だ」  と、十津川はいった。  西本と北条早苗の二人にも連絡を取り、十津川は、ホテルに戻った。  ホテルの前には、五台のパトカーと装甲車がとまっていた。  ロビーに入って行くと、防弾チョッキをつけた大勢の警官が、緊張した顔で集っている。  彼等は永田の顔写真を配られ、指示を受けて、ロビーから飛び出して行った。  多分、このスキー場を囲む道路も、道警によって封鎖されているだろう。  十津川は、亀井をロビーの隅に連れて行った。  彼は、永田と内藤に白樺の林の中で出会ったことを、亀井に話した。 「永田は、明らかに内藤の命令で、今まで殺人を重ねてきた。トワイライトエクスプレスの中で早瀬を射ったのも、同じだ。ただ永田は、早瀬とは知らなかったと内藤に怒っていたから、内藤は、射つ相手を知らせてなかったんだと思う」 「そういえば、早瀬さんはサンタの恰好をしていましたね。だから、早瀬さんと知らずに射ったのかも知れません」 「射ってから、早瀬と気付いたんだと思う。だから、いつものようには、止《とど》めの二発目は射たなかったんだ」  と、十津川はいった。 「早瀬さんは、なぜ、サンタの恰好で6号車のミニロビーにいたんでしょうか?」 「わからないよ。ただ、内藤はそのことを知っていて、永田に殺させようとしたことは間違いないんだ」  と、十津川はいった。 「永田さんが生きていたことは、ご存知だったんですか?」  と、亀井がきく。 「途中から、ひょっとすると永田は生きているんじゃないかと、考えてはいたんだ。洞爺から、絵ハガキを早瀬が送って来たことがあったんだが、それに、変な恰好をしたあいつを見つけたと書いてあった。今から考えれば、早瀬は洞爺で永田を見かけたんだな。失った左手を義手にしていたので、おかしな恰好と書いたんだと思う。それに、トワイライトエクスプレスに十人のサンタを内藤は呼び寄せたんだが、全員が一八〇センチ前後の大男だった。あれは、大男の永田を、その中にもぐり込ませても、目立たないようにするためだった。そんなこともあって、ひょっとすると、永田は生きているのではないかと疑い始めてはいたんだ」 「内藤を、殺人を命令したということで逮捕できませんか?」  と、亀井がきいた。 「今は無理だよ。証拠がない。私は、内藤と永田の会話を聞いているが、内藤が否定してしまえば、証拠にはならなくなる」  と、十津川はいった。  西本と早苗が、駈け寄って来た。 「テレビをごらんになりましたか?」  と、西本が、こわばった顔できいた。 「いや」 「ニュースが、道警本部長の話を伝えていました。ニセコにトカレフ魔が現われたので、全力をあげて逮捕に当る。札幌からも続々、警察官がこのニセコに集ってくる模様です。射撃チームもです」 「そんなことになるだろうな」  と、十津川はいった。  また、パトカーのサイレンの音が、外で聞こえた。 「私たちは、どうしますか?」  と、早苗がきいた。 「ここは北海道だ。道警のやることに反対は出来ない」  と、十津川はいった。 「彼は、何をするつもりなんでしょうか?」 「永田か? 彼は私に、やらなければならないことがあるといっていた」 「何をやるというんでしょうか? 内藤を殺すことでしょうか?」  と、亀井がきいた。 「かも知れないし、違うかも知れない。それに、内藤が彼の子供二人を押さえている限り、内藤は、殺せないだろう」 「まさか、青森に戻って、殺しそこねた早瀬さんを、もう一度射つつもりじゃないでしょうね?」  と、亀井がきく。 「それは、しないだろう。彼には、友だちは射てないんだ」  と、十津川はいった。  警察が、命令を出したのだろう。スキー客が、次々にホテルに戻って来た。  道警の射撃チームも、ニセコに到着した。  十津川は、何とかしてもう一度、永田に会いたいと思い、ニセコ周辺に展開した道警の指揮を取る田原という刑事部長に、会いに行った。 「永田は、殺さないで欲しいのです」  と、十津川は、田原に頼んだ。 「努力はしますが、相手は、これまでに何人もの人間を殺している凶悪犯です。本部長からは、見つけ次第、射殺しても構わないという指示を受けています」  と、田原刑事部長は、緊張した顔でいった。 「それは、本部長の意見というより、内藤さんの考えだと思いますが」 「そういうことは、私はわかりません。とにかく、私が与えられた指示は、射殺しても構わないということです。十津川さんも、相手がトカレフを持ち、何人もの人間を射殺した凶悪犯であることは、ご存知の筈です」 「それは、わかっていますが──」  十津川は、引きさがるより仕方がなかった。  ホテルに戻ってしばらくすると、東京から十津川に電話が入った。三上刑事部長からで、 「今、道警本部長から連絡があってね。向うは、本庁の刑事から、あれこれ口を挟まれるのは困るといって来たよ」 「内藤が、道警に圧力をかけているんです」 「とにかく、そこは北海道なんだ。道警の仕事に口を挟んだり、批判したりするのは止めるんだ」  と、三上はいった。 「わかりました」  と、十津川は、いうより仕方がなかった。  陽が落ちて、暗くなった。  まだ、永田は捕らない。  テレビは、この事件を大きく伝えた。永田の顔写真を出し、彼がトカレフを使う殺し屋で、いかに凶悪な男であるかを報道した。  ニセコに集ってくる道警の警官の数が、多くなってくる。  狙撃銃を持った道警の射撃チームがニセコに到着した模様も、画面で伝えた。  夜になっても、スキー場には夜間照明がつき、スキー客のいなくなったゲレンデや山頂の周辺を、道警の警官たちが山狩りをしている模様も、ニュースにして映した。  十津川たち四人は、道警から共同捜査を拒否された形で、ホテルに閉じ籠《こも》っていた。 「内藤は、道警本部長に圧力をかけるような力があるんですかね?」  亀井が、腹立たしげに、いった。 「内藤は政界に顔がきくから、その方向から、道警本部長に圧力をかけたんだろう。彼は、何とかして永田を射殺したいんだ」  と、十津川はいった。  その永田は、なかなか見つからなかった。  ニセコ周辺は、道警の警官たちでかためられ、山狩りも行われているのだが、永田は、夜半になっても見つからなかった。  十津川は、亀井たちとニセコ周辺の地図を広げて、今、永田が何処にいるかを考えてみた。 「ニセコ周辺に非常線が張られる前に、その網の外に逃げてしまったんじゃありませんかね」  と、西本がいった。 「その可能性がないわけじゃない。だが道警は、ニセコから外に出る幹線道路も検問をしているから、そう遠いところまでは逃げられないと思っている。少くとも、北海道の外には出られない筈だ」  と、十津川はいった。  翌朝になると、道警はニセコの包囲網を広げていった。ニセコのスキー場の中には、もういないと考えたのだろう。  それでも、ニセコの警戒は解かない。それはどうやら、内藤の要請によるもののようだった。 「あいつは、私を殺すつもりだ。だから、ニセコにいる」  と、内藤は道警本部長にいったという話が伝わって来たからである。  快晴になって見晴しがよくなると、道警はもう一度、山狩りを行った。  それでも、永田は見つからなかった。  念のために、十津川は、青森県にも電話を入れてみた。  早瀬が入院している病院には、万一に備えて警官がガードに当っているのだが、永田と思われる人間は見かけていないという返事だった。  ニセコに来ている二十人のジャピーノたちは、ホテルに缶詰になっている。  その中には、永田の子供二人もいる。 (あの兄妹のことを考えると、永田は、彼等と会うために、ニセコの外に出ていても、また戻ってくるかも知れないな)  十津川は、そんなことも考えてみた。  もし、それをしたら、逮捕されるために戻ってくるようなものだとも思う。いや、射殺されるために戻ってくるようなものだろう。  夕方になっても、永田は見つからなかった。  道警の警官たちの間に、次第に、いらだちが広がっていくのが、十津川にもわかった。危険な兆候でもあった。  いらだちのうちに、永田がニセコに戻って来たら、有無をいわせずに射殺してしまう可能性が強いからだった。 [#改ページ]  第八章 雪 の 教 会      1  マスコミが事件を嗅ぎつけて、ニセコに集ってきた。  何しろ、連続殺人犯、それもトカレフを使った殺人鬼が、スキー客で賑《にぎ》わうニセコに現われたのだ。新聞やテレビが飛んで来たとしても、不思議はない。  天候が良くなると、マスコミのヘリコプターがスキー場の上を飛び始めた。  十津川たちの泊っているホテルにも、押しかけて来た。  彼等の狙いは内藤だった。トカレフ魔に狙われた男として、内藤が時の人になったのだ。  広いロビーにカメラの放列が敷かれ、その中心に内藤が立ち、自分がトカレフ魔に狙われた経過を喋った。 「ご承知の通り、私は、日本とフィリピンの間の親善に尽力して来ました。ジャピーノたち二十名をここに招待したのも、その一環であります。私のモットーは、正義と愛を基本にした日比親善です。ともすれば、自分の利益のために親善を口にする人間を、私は許すことが出来ない。それは、親善を口にしながら、結局、両国の親善を破壊してしまうからです。残念ながら、政界にも財界にも、こういう人間が多いのです。金儲けのためだけに日比親善を唱えている、こういう連中にとって、私の存在は邪魔で仕様がないと思う。そんな人間の一人が、トカレフ魔を使って、私を殺そうとしたのです。これは間違いありません。北海道に来るトワイライトエクスプレスの中でも、私を狙い、誤って私の秘書を射殺しました。そして、今度はニセコにやって来て、山の中でもう一度私を狙ったのです」  内藤は、いっきに喋りまくった。  集った記者たちからも、質問が飛ぶ。 「雪山の中で、一対一でトカレフ魔と会われたんですか?」 「そうです」 「よく助かりましたね?」 「運が良かっただけです。雪が降っていたし、それに相手は左手首を失っていて、上手《うま》く狙えなかったのではないかと思いますね」 「左手首のない殺人鬼ですか?」  と、記者がきき、そのことで取材陣に小さなどよめきが起きた。 「そうです。彼は自分が死んだことにしようとして、自分の左手首を切り落し、バラバラ殺人に見せかけたのですよ。狂暴なだけではなく、悪知恵も働く男です」  と、内藤はいった。 「名前は、永田ですね?」 「そうです」 「内藤さんは、永田と前からお知り合いですか?」 「実は、フィリピンで一度だけ会っています。フィリピンで、食い詰め、置き引きなんかを働いて、マニラ警察に逮捕されていたんです。それを私が身元保証人になって、釈放してやり、その時、小遣いも与えました。それだけで、忘れていたんですが、まさか、金を貰《もら》って人殺しをする人間になっているとは、思ってもいませんでした。ただ驚いています」 「すでに何人もの人間を殺しているという噂ですが、これは本当ですか?」 「本当です。非常に危険な男です」 「今、犯人は何処《どこ》にいると思われますか?」  と、記者の一人がきく。 「わかりませんが、必ず私を殺しに戻ってくる筈です」  と、内藤はいった。 「なぜ、必ず戻って来ると思われるんですか?」 「犯人は、金を貰って人を殺している男です。それにその男は人殺しが好きなんですよ。もし、このまま逃げてしまったら、金を出した人間なり、組織なりが許さないでしょう。それを考えれば、必ず戻って来て、もう一度私を殺そうとする筈です」 「永田という男は、どんな人間ですか? 彼の簡単な経歴が知りたいんですが」  と、記者の一人がきく。 「今もいったように、フィリピンで一度しか会っていませんでしたから、詳しいことはわからんのです。ただ、東京の大学を出ていることや、札幌の旅行会社で働いていたことだけは知っています。この旅行会社はかくれみので、東南アジアを旅行し、特にフィリピンにはよく行っていた。その間、何人もの人間をトカレフで射殺し、金を貰っていたみたいです。とにかく、トワイライトエクスプレスの車内から逃亡するとき、同じ大学を出た友人も情け容赦なく射っていますからね。冷酷な男で、危険なことははっきりしています。射たれた友人は、今、青森の病院で生死の境をさまよっていますよ」  と、内藤はいった。 「内藤さんについて、香《かんば》しくない噂もありますが、その辺はどうなんですか?」  と、きく記者もいた。  それに対して、内藤は笑った。 「どんな噂が流れているか、私も知っていますよ。それに、どんな人間、組織が、そうした噂を流しているかもわかっている。そういう連中が、私を殺させようとしたんです。卑劣な連中です」  と、いった。  同じホテルに泊っている十津川の耳には、内藤の声が、自然に伝わってきた。 (何を、でたらめを喋っているのか)  と、十津川は、腹が立った。  西本が、内藤の記者会見を伝えてから、 「どうやら、内藤がわざわざマスコミに連絡して、集めたみたいです」  と、十津川にいった。 「ニセコにトカレフ魔が現われたというので、マスコミが集ったんじゃないのか?」  と、亀井がきいた。 「もちろん、それもあると思いますが、それだけじゃなくて、内藤の方から新聞社やテレビ局に電話したようです」 「なぜ、わざわざそんなことをしたのかな?」 「宣伝のためじゃありませんか。自分がいかにフィリピンとの親善のために、尽力しているかという──」 「なるほどね。なんでも宣伝に利用する奴だな」  と、亀井が、ぶぜんとした顔になった。 「それだけじゃないな」  と、十津川はいった。 「何かありますか?」  亀井が、十津川を見た。 「警察に圧力をかけるためだよ。マスコミを集めてね」  と、十津川はいった。 「早く、トカレフ魔を逮捕しろという圧力ですか?」 「いや、違う。内藤はマスコミに、永田がいかに危険な男であるかを強調している。だから、射殺しても構わないという意識を持たせようとしているんだ」 「つまり、警察が見つけ次第、射殺してもいいと考えるようにですか?」  と、西本がきく。 「そうさ。永田にいろいろと喋られては、内藤は困るだろうからね。彼にとって都合がいいのは、永田が警察に射殺されてしまうことなんだ。だから、マスコミを集めて、永田の危険性を強調しているんだと思うよ」  と、十津川はいった。      2  テレビは、トカレフ魔、永田がいかに危険な男であるかということを報道している。  新聞には「殺人鬼」とか、「人殺し」といった刺戟《しげき》的な文字が躍る。  それに、防弾チョッキをつけ、拳銃を持った警官がニセコに集っている。中には、ライフルを持った狙撃班の警官の姿も眼につく。  ニセコ周辺が、パニックに襲われた感じだった。  子供たちは家から出ないようにいわれ、スキー客たちも、無鉄砲な若者を除いて、ホテル、ペンションに閉じ籠っている。  内藤の思惑どおりになったのだ。  ただ、問題の永田の行方は全くわからなかった。  テレビや新聞は、さまざまな噂を伝えた。小樽の旅館に、永田らしい男が現われたという噂。どこそこのスキー場で、スキー客が射たれたという噂。近くの温泉地で、若い女が襲われたという噂。そんなものが乱れ飛んだ。  噂はエスカレートしていく。山小屋にいた数人のグループが、突然現われた永田に、全員が情け容赦なく射殺されてしまったという話にまで、大きくなっていった。  この山小屋の悲劇の噂の時は、ライフルを持った狙撃班がヘリコプターで急行して、結局、悪質なデマとわかったのだが、恐怖だけは、どんどんエスカレートしていくのだ。 (困ったな)  と、十津川は、焦燥にかられた。このままでは、永田を見つけ次第、射殺してしまえという空気になっていくからだった。  永田は、何人もの人間をトカレフを使って殺している。逮捕されれば、死刑はまぬがれないだろう。  だが、十津川は、彼が射殺されずに捕って、知っていることを全て話して欲しかった。  誰に命じられて、何人もの人間を殺したのか、それを喋って欲しいのだ。それによって、内藤という男の本当の姿があぶり出されるのを期待しているといってもいい。  だから、何とかして道警よりも先に、永田を見つけたかった。  そんな時、北条早苗が一つの情報をつかんできた。 「永田と思われる男が、洞爺《とうや》湖畔の教会に現われたという噂がありますわ」  と、早苗は、十津川にいった。 「教会?」 「はい、小さな教会で、実在します」 「マスコミは?」 「まだ、この噂は知らないみたいですわ」  と、早苗はいった。 「なぜ、君がその噂を知ってるんだ?」  と、亀井がきいた。 「私は、カトリックに入信しているんです。それで、このニセコにいる信者の方が、教えてくれました」 「行ってみよう」  と、十津川はいった。  道警やマスコミには気付かれたくなかったので、十津川は、亀井と西本をホテルに残し、早苗だけを連れてバスで洞爺に向った。  洞爺湖周辺も雪に覆われていた。  問題の教会は、すぐわかった。湖岸の小さな教会だったが、雪の白さに教会の木の色が映えて、美しい。  十津川と早苗は、風見という小柄な神父に会った。六十歳くらいで、柔和だが、意志の強そうな顔立ちだった。  十津川が、単刀直入に、永田が訪ねて来たかどうかを聞くと、 「いちいち名前をお聞きしませんから、ここに訪ねて来られた方の中に、その名前の方がいらっしゃったかどうか、わかりません」  と、いう。頑固な感じだった。  十津川は、永田の写真を神父に見せて、 「この男なんですがね」  と、いったが、風見は、 「まあ、何人もの方がお見えになるんで、この方がいらっしゃったかどうか、わかりません」  と、いう。 「神父さん。この男は私の大学時代の友人で、今、非常に危険な状況に置かれているんです。ニセコの騒ぎは、ご存知でしょう? 明日にも、射殺されてしまうかも知れないのです。私としては、何とかして彼を助けたい。道警に見つかる前に見つけて、友人として話し合いたいのですよ。だからもし行き先をご存知なら、ぜひ教えて頂きたいのです」  と、十津川はいった。  早苗も、傍から、 「私は、カトリックの洗礼を受けています。ですから、警察官としてではなく、信者の一人としてお願いしますわ。ニセコの信者の方にお聞きしたんです。この教会に永田さんが来たんですね。話して頂けませんか?」  と、頼んだ。  風見神父は、困惑した顔になって、しばらく黙っていたが、 「昨日、ここに見えました」  と、やっと教えてくれた。 「それで、彼は、今、何処にいるんですか?」  と、十津川はきいた。 「わかりません」 「じゃあ、何の用で彼はここに来たんですか?」 「それは、お教え出来ません」 「しかし、永田は今、危いんです。私は助けたいんですよ。教えて頂けませんか」  と、十津川は懇願した。  それでも、神父は首を小さく横に振って、 「申しわけないが、何もお話しできません」 「彼は神父さんに、懺悔《ざんげ》しに来たんですか?」 「今も申しあげたように、何もお話しできないのです」 「私は、彼が心配なんですよ。彼を助けたいのですよ」 「それなら、彼のためにお祈りなさい」  と、神父は、いうだけだった。  十津川は、諦めて早苗と教会の外に出た。 「頑固な神父だな」  と、十津川が呟くと、早苗が、 「神父は、懺悔されたことを、絶対に他人《ひと》に喋らないのが掟ですから」 「それにしても、永田はなぜ、ここの教会に来たんだろう?」 「信者だということはないんですか?」 「信者が、トカレフを使って何人もの人間を殺すものか」  と、十津川はいった。 「自分が死ぬことになると思って、今までのことを懺悔しに行ったんじゃありませんか?」 「彼は私に、まだやらなければならないことがある、といったんだよ。その時は、内藤を殺す気だろうと考えたんだが──」 「調べて来ますわ」 「何をだ?」 「ニセコにもカトリックの教会があるんです。彼が、なぜニセコの教会に行かず、洞爺湖の教会に寄ったかの理由をですわ」 「向うは警官が近くにうようよしていたからだろう」 「他にも理由があると思います。ここで待っていて下さい」  と、早苗はいい、もう一度、教会の中に入って行った。  十津川が寒さにふるえながら待っていると、早苗は何か考えながら戻って来た。 「確か、永田さんには、フィリピンの女の人との間にお子さんがいましたわね?」  と、早苗は、十津川にきいた。 「ああ、幼い兄妹がいるよ」  と、十津川はいった。 「ジャピーノですね?」 「そうだ。今度の旅行に、他の子供たちと一緒に来ているよ」 「あそこの神父さんは、ジャピーノを救おうという運動をなすっているんです」 「あの神父が、そういったのか?」 「いいえ。教会に来ていた信者の方に、教えて貰ったんです。永田さんはそれを知っていて、この教会を訪ねたんじゃないでしょうか」  と、早苗はいった。      3 「今度は、私が行ってくる」  と、十津川はいい、早苗に、 「君は、寒いから、向うにある喫茶店で待っていてくれ」 「大丈夫ですか?」 「大丈夫だ。神父とケンカはしないよ」  十津川は笑って、教会に入って行った。  ひっそりと静まり返った教会の中は、冷え冷えと感じられる。  十津川は、もう一度、風見神父に会った。 「何度いわれても、ここに来られた方の秘密はお教え出来ませんよ」  と、神父は相変らず、頑固にいった。 「ここでは私も、懺悔は聞いて頂けるんでしょう?」  と、十津川はきいた。 「もちろん、結構ですよ」  神父は、笑顔になって、いった。  十津川は、奥の告解室に案内された。神父が隣りの部屋に入り、背中合せに腰を下す。 「私は、警視庁捜査一課で働いています」  と、十津川は眼を閉じて、話し始めた。 「昨日ここに来た永田は、私と同じ大学のクラスメイトです。大学時代の彼は、ラグビーの選手でした。卒業後、実業団チームに入って活躍していたのですが、急に、消息が聞こえなくなってしまいました。そして、二十年近くたった今、永田は、トカレフ拳銃を使う殺し屋として、私の前に現われたのです。友人とはいえ、私は刑事です。殺人犯の彼を見つけ次第、逮捕しないわけにはいきません。それに、何人もの人間を殺している彼は、極刑に処せられるでしょうし、彼もそれは覚悟している筈です。ただ、彼にもいい分はある筈です。私は、それを聞いてやりたい。人を殺した彼はもちろん悪いが、金の力で彼に何人もの人を殺させた人間を、私はもっと憎む。そのことを、彼の口から聞きたいのです。今、ニセコ周辺には、道警の刑事や警官が、ライフルや拳銃を持って集っています。彼等は、殺気だっています。そこに永田が現われれば、有無をいわせず射殺されてしまうでしょう。私は、永田にそんな死に方をさせたくない。私の手で捕えたい。そして、正式な裁判を受けさせたいのです。法廷で、彼のいい分を発表させたいのですよ。今もいいましたように、永田にも、いいたいことがいくらでもあると思うからです。彼の口から、本当の悪人の名前を聞きたいのです。そのためには、神父さんの協力が必要です。彼が何しにここへ来たのか、今、何処《どこ》にいるのか、何をしようとしているのか、それを教えて頂けませんか? お願いします」  十津川は、喋り終ってから、じっと神父の返事を待った。  だが、神父の口は開かない。押し黙ったままである。  十津川は、急に疲労を覚えた。 「聞いて下さって、ありがとう」  と、十津川は小さくいい、告解室を出た。  そのまま教会を出ようとした時、背後から神父に呼び止められた。  十津川は、期待して振り向いた。が、最初に神父の口から出たのは、 「私には、永田さんが今、何処にいるのか、何をしようとしているのか、お教えすることは出来ません」  という言葉だった。 「わかっています」  と、十津川が肯《うなず》き、帰ろうとすると、 「まあ、待ちなさい。永田さんがここへ何しに来たのか、それをお教えしますよ」  と、神父はいった。 「本当ですか?」 「これは、あなたを信頼するからお話しするわけです。それに、永田さんから頼まれたことは、あなたにも邪魔させません」 「邪魔する気など、全くありませんよ」  と、十津川はいった。 「私は、フィリピンのマニラにあるF教会と協力して、ジャピーノの救済活動をしています」 「知っています」 「永田さんは、それを聞いて、ここに来られたんでしょう。自分には、フィリピンの女性との間に作った子供がいるといわれました」 「兄妹です」 「ええ。自分は、わけがあって父親と名乗れない。そういっていました」 「そうでしょうね」 「ただ、父親としての責任は果したい。その兄妹の将来のためにといわれて、私に、今までに貯めたお金を預けていかれました。それが必ず兄妹の手に届くようにお預けしたいと、私に頼まれました」  と、神父はいった。 「多分、永田は今、日本とフィリピンの親善に尽くすと称している人間の大部分を信じられなくて、神父のあなたに頼んだのだと思います」  と、十津川はいった。 「私は必ず責任を持って、そのお金をケンジ、ミドリという兄妹のために役立てるようにすると、永田さんに約束しました」 「そうして下さい。お願いします」  と、十津川はいった。 「私が、あなたに話せるのは、これだけです」  と、神父はいった。 「正直にいって、私が今一番知りたいのは、永田が、今何処にいて、何をしようとしているのかということですが、それを神父さんにお聞きするのは、もう諦めました。彼が、子供たちのことを神父さんに頼んだことだけでも、教えて頂いて助かりました。ありがとうございました」  十津川は、丁寧に礼をいい、教会を出た。  早苗の待っている喫茶店に行き、 「終ったよ。すぐ、ニセコに戻るぞ」  と、声をかけた。  並んで、バス停まで歩き出した。 「あの神父は、全部話してくれたんですか?」  と、早苗がきく。午後三時を廻り、気温が下ってきている。喋るたびに、息が白くなる。 「少し、話してくれただけだ」  と、十津川はいい、永田が風見神父に何を頼んだかを、早苗に話した。 「トカレフを使う殺し屋も、子供のことが心配だったわけですか」 「そうだろうね。恐しい殺し屋も、人の親だったということだよ」 「でも、彼が今、何処にいて、何をしようとしているのかわからなければ、対処の方法がわかりませんわ」  と、早苗は眉を寄せた。  バスが来て、二人は乗り込んだ。ニセコ方面に行くバスなので、永田が現われるのを予想してか、制服の警官が二人、乗り込んでいた。 「永田は、必ずニセコに現われるよ」  と、十津川は、小声で早苗にいった。 「捕まるのを覚悟でですか?」 「いや、自分が殺されるのを覚悟してだといった方がいい」  と、十津川はいった。 「ニセコに現われる目的は、いったい何でしょうか?」  と、早苗はきいた。      4 「永田は、当り前だが、最初から人殺しだったわけじゃない。いつから、なぜ彼がトカレフを使う殺し屋になったのか、私にもわからない。ただ、自分がフィリピン人の女性に生ませた子供二人のために、金が欲しかったということもあったと思っている」  と、十津川は喋った。 「でも、子供は、自分の父親が人殺しだと知ったら、泣くと思いますわ」  早苗も、小声で、いった。 「そうだろうね。だから永田は、自分を殺そうと考えたんだ。しかも、自分が有名なトカレフ魔に殺されたことにしようと考えたのさ。そうすることで、永田という男はトカレフ魔でないことを、逆に証明したかったんだ」 「そうなれば、二人の子供は、自分の父親はトカレフ魔に殺されたんだと思うでしょうね」 「そうだよ。殺人犯の子供ではないことになる」 「でも結局、そのトリックは失敗してしまったんですね?」 「内藤に見破られてしまったんだろうね。永田はもう、人殺しは嫌になっていたと思う」 「でも、そのあと何人か殺していますわ。それはやはり、金のためだったんでしょうか?」 「というより、内藤に脅されたんだと思っている。内藤は、日比親善を唱え、利権を追っている男だが、今回のように、ジャピーノを二十人日本に呼んで、北海道の雪景色を見せたりしている」 「つまり、永田さんの二人の子供も、内藤の手の内にあったということになります?」 「だから永田は、内藤の命令に逆らえなかったと思う。自分の子供のために、もっと金が欲しかったこともあったとは思うがね」  と、十津川はいった。 「トワイライトエクスプレスの車内の殺人ですけど、警部は、本当の目的は内藤の女秘書を殺すことではなくて、早瀬さんを殺すことだったといわれましたね?」  と、早苗はいった。 「最初は、口封じに女秘書を殺したと考えていたんだよ。早瀬は、犯人が逃げる時、阻止しようとして射たれたんだと思った。状況はその感じだったからね。しかし、犯人が永田ではないかと疑い始めてから、見方が変って来たんだ」 「それまで警部は、永田さんが死んだと思っていらっしゃったんですか?」 「半々だったよ。もちろん最初は、永田が私との電話中にトカレフで射たれて、バラバラになって洞爺湖の湖岸に捨てられたと思っていた。だが、その後、早瀬の妙な絵ハガキが届いたり、サンタが全部一八〇センチ前後の大男ばかりだったりしたので、ひょっとして永田は生きているのではないか、早瀬を射ったのは永田ではないのか、内藤の本当の目的は、自分を攻撃し続けている早瀬を殺すことだったのではないかと、考えるようになったんだ」  と、十津川はいった。 「早瀬さんは、なぜサンタの恰好なんかしていたんでしょう?」  と、早苗がきく。 「それが今でも謎なんだが、想像はつく。内藤が、そんな恰好をさせたんじゃないかな」 「でも、二人は仇同士だったんでしょう?」 「そうだ。そこで内藤は、うるさい早瀬を殺そうと考え、彼をトワイライトエクスプレスに招待した。お互いに反目し合っていたが、本音で話し合いたいとでもいってね。早瀬はカメラマンで、内藤を追っかけていた人間だから、内藤の思惑をいろいろ考えても、この申し出には、応じたいと思っている。相手が嘘をつくとしても、それも内藤という男を研究する材料になるからね。二人は、例のトワイライトエクスプレスの車内で会うことに決まり、早瀬も乗り込んだ。内藤は、自分は車内でもジャピーノの面倒を見なければならないので、それが終ってからゆっくりと話し合いたいと、早瀬にその時刻を提案したんだと思う」 「それが、列車が、青森に着く直前ということですね?」 「そうさ。その上もう一つ、早瀬に提案する。自分は、君のことを、常に、ならず者みたいにいっているので、親しげに話しているところを見られるのは、まずい。威信にかかわる。それで、悪いが、サンタの恰好をして、6号車のミニロビーで待っていてくれないかとね。ジャピーノを喜ばせるために、サンタの恰好をしたアルバイトを呼んでいるので、それなら、誰も不審に思わないだろうとも、いったんじゃないかな。早瀬は、とにかく内藤の本音が聞ければいいと思い、内藤が、用意してくれていたサンタの服装をして、6号車のミニロビーで待っていた。ただ、万一を考えて、どこかで手に入れたトカレフをポケットに入れてだ」 「それで、早瀬さんがサンタの恰好で6号車のミニロビーにいた理由が、納得いきますわ」  と、早苗はいった。 「一方、内藤は永田に、自分は女秘書を射殺する。その混乱に紛れて、お前は6号車に行き、そこのミニロビーにいるサンタを射殺して逃げてくれと頼んだんだと思うね。永田は、その指示どおりに、列車が青森駅に着く直前、6号車に行き、そこにいたサンタをトカレフで射った。射ったあとで、彼は、そのサンタが友人の早瀬だと気付いたんだと思う。彼は狼狽し、いつもなら止《とど》めを刺すのに、二発目を射たずに逃げ出したんだ」  と、十津川はいった。 「永田さんは、その時、自分が狙う標的が早瀬さんと知らなかったんですね?」 「知っていれば、彼はこの依頼を断った筈だよ。彼は、自分の射ったサンタが友人の早瀬と知って、愕然としたんだと思う。驚き、同時に内藤に腹を立てた。そこで、永田は危険を承知で、北海道まで内藤を追いかけて来たんだ」  と、十津川はいった。 「内藤は、それを知っていたんでしょうか?」  と、早苗がきく。 「もちろん、知っていたさ。われわれ警察が、教えていたからね。そこで、内藤は高良《こうら》秘書に、いざという時は永田の二人の子供を押さえるように命じておいたんだ。ニセコの雪山の中で、永田が内藤をつかまえ、自分に友人を殺させようとしたことを難詰《なんきつ》しているのを、私は見た。その時、内藤は二人の子供のことを持ち出して、逆に、永田を脅したよ」  と、十津川はいった。 「それが証明できれば、内藤を逮捕できますわ。殺人を命令したことで」 「だが、聞いていたのは私一人だし、当然、内藤は否定するだろう。だから私は、永田を殺さずに捕えて、法廷で何もかも話して貰いたいと思っているんだよ」  と、十津川はいった。 「永田さんは、ニセコに内藤を殺しにやって来ると思われるんですか?」  と、早苗がきいた。 「他に目的はないと、私は思っている。永田は洞爺の教会に行き、風見神父に金を預け、二人の兄妹のことを頼んだ。これで一安心したろうが、問題は内藤だ。彼は日比親善を名目に、いろいろと悪どいことをして来たし、永田の二人の子供のことも、くわしく知っている。また、何かするかも知れない。永田は、内藤さえいなければ、兄妹は風見神父の助けで立派に成長してくれるだろうと、考えていると思う。だから、友人の早瀬を殺させようとしたという思いの他に、二人の子供のためにも、内藤を殺さなければならないと確信している筈だよ」  と、十津川はいった。 「だから、必ずニセコに戻ってくると思われるんですね?」 「そうだよ。内藤にだって、そのことはわかっているだろう。だから彼も、永田を殺さなければと思っている筈だ。それも、出来れば、警察の手によってね」  と、十津川はいった。  彼は、窓の外に眼をやった。  また、雪が降り出した。      5  ニセコに戻った時は、夜になっていた。ホテルに入って、亀井と西本にこちらの様子を聞いた。 「みんな殺気だっていますよ。困ったものです」  と、亀井は顔をしかめて、いった。 「しかし、まだ永田は現われないんだろう?」  と、十津川はいった。 「そうなんですが、いろいろと噂や情報が飛びかっていましてね」 「どんな?」 「犯人と思われる男が、この近くのペンションに現われて、主人夫婦と泊り客を皆殺しにして、金を奪って逃げたとか、タクシーの運転手が射殺されて、車を奪われたとかいう情報です」  と、西本がいった。 「小樽の小さな交番が襲われたという話もありましたね」  と、亀井が続ける。 「そんなデマが、信じられているのか?」  と、十津川はきいた。 「デマだと思っても、道警もマスコミも緊張していますからね。必死になって確認に走らざるを得ないんです。ペンションと交番の件はデマだとわかったんですが、タクシーの運転手が殺されて車を奪われたのは、事実でした。倶《くつ》知安《ちやん》の近くで、運転手は、拳銃で胸を射たれて死亡、車はまだ見つかっていません」 「それが永田の犯行だと?」 「わかりませんが、道警もマスコミも、そう思っていますよ。だから、みんな殺気だっているんです」  と、亀井はいった。 「どうも、不自然だな」  と、十津川はいった。 「そうですわ。こんな時、小樽の交番が襲われたとか、ペンションが襲われて皆殺しになったとか、ひどいデマが多過ぎますわ」  と、早苗もいった。 「多分、誰かがそんな噂を流しているのかも知れません。信ずべき情報という形でです」  と、亀井がいう。 「それなら、納得がいくよ。そうやって、緊張感を煽《あお》っておけば、永田が現われた瞬間、緊張と恐怖から、いきなり射殺するだろうからね」  と、十津川はいった。 「とすると、噂は、情報の出所は内藤ですか?」  亀井が逆に、十津川にきいた。 「多分、そうだろう。永田が今までトカレフで何人もの人間を殺して来たのが、内藤の命令だったとすれば、永田が捕って、証言されるのは、一番怖いだろうからね」  と、十津川はいってから、 「他に、何か変ったことはないか?」  と、亀井にきいた。 「見なれない男が二人、ニセコに来ています」 「どんな男たちなんだ?」 「二人とも、年齢は四十歳前後です。身長は一七五、六センチぐらいですね。ほとんど喋らないで、黙って歩き廻っています」  と、亀井がいい、西本が続けて、 「片方は、間違いなく防弾チョッキを着ていますよ」  と、いった。 「道警の刑事じゃないのか?」 「いや、聞いてみましたが、道警は、知らない連中だといっています」 「内藤のボディガードか?」 「そうじゃないかと思っているんですが、わざとのように、この二人は、内藤に近づきませんね」  と、亀井はいった。 「このホテルに泊っているのか?」 「そうです。このニセコは危険だということになって、客がどんどん他に移っていて、部屋は空いているんです」  と、西本はいった。 「内藤は、どうしている? 怖がっているようかね?」 「それが、妙に落ち着き払っています」  と、亀井はいった。 「警部は本当に、永田がこのニセコに現われると、考えていらっしゃるんですか?」  と、西本がきいた。 「ああ、必ず現われるさ。明日にでもね」  と、十津川はいった。  その時、心配なのは、二十人のジャピーノのこと、特に永田の子供の兄妹のことだった。  それを十津川がきくと、西本が、 「みんな無邪気に遊んでいますよ。内藤は、明日も子供たちをゲレンデで滑らせるといっています。道警は、危険だから中止してくれと、要望しているみたいですが」  と、答えた。 「エサか」  と、十津川は、呟《つぶや》いた。  内藤は子供たちを使って、永田をゲレンデにおびき寄せて、殺す気なのかも知れない。  永田が必死なら、内藤も必死なのだろう。永田は、自分の子供二人の将来のために内藤を殺そうと考え、内藤の方は、自分を守るために永田の口をふさごうとしているのだ。      6  朝になり、陽が昇ると、昨日の新雪に照り映えて眩しい。  午前十時を過ぎると、内藤はボランティアたちや高良《こうら》秘書と一緒に、二十人の子供たちを連れて、ゲレンデへ出て行った。  その周囲をマスコミが取り囲み、更にそれを遠巻きにして、道警の刑事や警官が、警戒する。  その異様な空気に恐れをなしたのか、一般のスキー客の姿は、少くなってしまっている。 (これでは、永田も現われにくいだろうな)  と、十津川は思った。  だが、それでも永田は、ここへやってくるだろう。内藤を殺しにである。永田は、自分の二人の子供のために、内藤を殺さなければならないと考えているに違いないからだ。  山の天気は変りやすい。  朝は快晴だったのに、また、粉雪が舞い始め、頭上を灰色の雲が蔽《おお》ってきた。  そのうちに、十津川の視界から、内藤の姿が消えてしまった。  十津川は、あわてて亀井たちに、内藤を探せと大声で指示した。  二十人の子供たちは、相変らずボランティアと一緒に遊んでいる。高良秘書の姿もある。  だが、内藤の姿が見つからない。  十津川は、内藤と永田が会っていた白樺の林のことを思い出した。  リフトで、十津川は山頂へ昇って行った。また同じ場所で、二人は会っているのではないか。そんな直感が働いたのだ。  リフトを降りる。  スキー客は、そこからゲレンデに向って滑りおりて行く。  十津川は、反対方向の白樺の林の中に入って行った。  粉雪は相変らず舞い散って、それがゴーグルに付着してくる。ゆっくり滑りながら、指先でそれを払い落とす。 (いた!)  と、思った。  内藤と永田が、向い合って、白樺の林の中にいた。  まるで、前に見た光景が、そっくりそのまま再現された感じだった。  だが、あの時と違っていたのは、五、六人の道警の警官たちが、内藤の近くに散開していることだった。  彼等は、ライフルを持っている。狙撃班の連中なのだ。  永田は、白樺の樹を盾《たて》にして、トカレフを構えている。 「内藤!」  と、永田が、大声で叫ぶ。 「二人だけで、ここで会う約束だったろう! 卑怯な真似は止めろ!」  その声が風に流されて、十津川の耳に切れ切れに聞こえてくる。 「何が卑怯だ! 私を殺す気になってるくせに!」  と、内藤が、怒鳴り返す。  狙撃班の警官たちが、ライフルを構え直す。銃口が永田に向けられている。 「殺すな!」  と、思わず十津川は大声で叫び、スキーを滑らせ、近づいて行く。  永田を殺してはならないのだ。生きていて、内藤との関係を喋って貰わなければいけない。 「永田! 銃を捨てろ! みんな、射つな!」  十津川は、必死になって叫んだ。  だが、その瞬間、銃声が鳴りひびいた。  一発。  二発。  粉雪が飛ぶ中で、誰が射ったのか、十津川にはわからなかった。  続いて、数発の銃声が周囲の空気をふるわせた。  今度は、誰が射ったのか、はっきりとわかった。  狙撃班の警官たちが、一斉に永田に向って射ったのだ。  白樺のかげにいた永田の大きな身体が、はねあがるようにして、雪の上に叩きつけられるのが見えた。  十津川は、スキーを引きずるようにして、駆け寄った。  倒れた永田の身体から血が流れ出して、新雪の白さを、みるみる赤く染めていく。  ライフルを持った警官たちと内藤が、雪を蹴散らしながら、駆け寄ってくる。  警官の一人が、十津川に血走った眼を向け、 「何者だ!」  と、甲高く叫ぶ。  十津川は、黙ってポケットから警察手帳を取り出して、相手に見せた。  ただ、その眼は永田に注がれたまま、動かなかった。  十津川は、雪の上に跪《ひざまず》き、 「おい。永田!」  と、声をかけた。  だが、相手は答えない。血だけが流れ続けている。 「救急車を呼んでくれ!」  と、十津川は、警官たちに向っていった。が、彼等の指揮官と思われる男は、 「もう死んでいる」  と、いった。 「それでも、救急車を呼んでくれ」  と、十津川はいった。 「救急車の手配」  と、指揮官がやっと部下に命じた。  十津川は、立ち上り、内藤に眼をやった。 「誰が、最初に射ったんですか?」  と、十津川は、内藤にきいた。  内藤は、両手を広げて、 「私じゃない。私は、銃は持っていない。そいつが、いきなり射ってきたんだ」  と、いい、雪の上に倒れている永田を、指さした。  血は、まだ流れ続けている。  十津川は、屈《かが》んで、永田の手にしているトカレフをつまみあげた。  弾倉を外して調べ、 「永田は、一発しか射っていない。最初に聞こえたのは、二発でしたよ」  と、内藤にいった。 「一発にしろ二発にしろ、とにかく、そいつが最初に射ってきたんだよ」  と、内藤が、いい返してくる。 「じゃあ、この一発は、誰に当ったんですかね? 永田は、何人もの人間を殺している。殺しのプロといってもいい。彼が最初に射ったのなら、誰かに命中している筈です。内藤さん。あなたに当りましたか? それとも、狙撃班の中の一人に、当りましたか?」 「十津川君。何をくどくど、いってるんだ。そいつが、私を殺しにやって来て、いきなり射ち、警官たちに射殺されたんだよ。それだけの話だ」 「なぜ、命中しなかったんですか?」 「それはだな。そいつは、自分が死んだことにしようと、自分の左手首を切断した男だよ。それでうまく狙えなくなっていたのさ。身体のバランスがとれなくなっていたんだ」 「彼は、左手首を切ったあとも、何人か人を殺しているんですよ。もし、彼が最初に射ったのなら、あなたの身体のどこかに、トカレフの弾丸がめり込んでいなければならない。それがないということは、先に射ったのは、永田じゃないことになる」  と、十津川はいった。  それに対しては、内藤は、小さく笑っただけだった。  突然、ヘリコプターが現われた。どこかのテレビ局がチャーターしたものらしく、白樺の樹をなぎ倒しかねない低空まで降りてくる。  そのヘリからの知らせを受けたのか、テレビ局のカメラクルーが、リフトで昇ってきた。  救急車が、ホテルのところまで来たという知らせを受け、永田の遺体をソリで下までおろすことになった。  ソリがゲレンデから運ばれてきて、遺体がのせられた。  それと入れ違いの形で、亀井たちがのぼってきた。 「永田が、殺《や》られたよ」  と、十津川は、亀井たちにいった。 「道警が射殺したんですか?」 「そうだ。道警の狙撃班が射殺した」 「道警には、出来る限り生きたまま逮捕するように、要望していたのにですか?」  亀井が、不思議そうにいった。 「先に、誰かが二発射っている。そのあと、道警の狙撃班が一斉射撃して、永田が死んでいる」 「誰かが、狙撃班を触発したわけですね。内藤ですか?」  と、西本がきいた。 「彼じゃない、彼は拳銃を持ってないからね」 「その弾丸が飛んできた方向は、わかっているんですか?」  と、亀井がきく。 「狙撃班の指揮官は、永田が射ってきたからと、いっている。つまり、彼のいた方向から射ってきたことは、間違いないらしい」  と、十津川はいった。  相変らず、雪は止んでいない。風が吹いてくると、粉雪が舞い散り、視界が悪くなる。  そんな状態で、永田のいる方向から弾丸が飛んでくれば、彼が射ったと思い込んでも仕方がないだろう。 「彼が射たなかったとすれば、誰かがそちらの方向に隠れていて、射ったということになりますね」  と、亀井がいった。 「例の二人でしょうか?」  と、西本がきく。 「かも知れないが──」  十津川は、慎重に、いった。  十津川たちは、血の痕《あと》のある雪の上に立ち、その後方に向って、白樺の林の中を調べていった。 「ここを見て下さい!」  と、急に北条早苗が声をあげ、七、八メートル後方の白樺の樹の根元を指した。  そこには、明らかに、雪の上に転んだとおぼしき形跡があり、その周囲には靴の跡があった。 「靴の大きさは、二十六といったところですね」  と、西本が屈み込んで、十津川にいう。  そして、そこから伸びているスキーのシュプール。  その靴跡も、スキーのシュプールも、降り続く雪で消えそうになっていく。 [#改ページ]  第九章 マ ニ ラ      1  十津川たちは、問題のシュプールを追って行ったが、隣りのスキー場のゲレンデに消えてしまった。  粉雪の舞っているゲレンデに立って、十津川は、深い溜息をついた。  亀井と西本が、十津川をなぐさめるように、 「問題の二人の顔は、しっかりと見ておきましたから、モンタージュを作りますよ」  と、こもごもいった。  もちろん、彼等が、今度の事件に関係があるという証拠はない。だが、このあと二人が内藤の周辺をうろついていれば、彼の仲間と決めつけて、今日の事件について問い詰めることが出来るだろう。  十津川たちが、諦《あきら》めてニセコのスキー場に戻り、ホテルに帰ると、ロビーでは道警本部長が記者会見を開いていた。  そこに同席しているのは、内藤と高良《こうら》秘書だった。  道警本部長は、それまで、事件の概要を説明していたらしく、 「──とにかく、一般のスキー客に一人も怪我人が出なくてすんだことに、ほっとしております。また、犯人、永田勇作を射殺したことについて、いろいろと批判があるだろうことも承知しています。しかし、考えてみて下さい。相手は、トカレフを使って、すでに何人もの人間を殺して来た凶悪犯なのです。もしあの時、われわれが引金をひくことを躊躇《ためら》っていたら、間違いなく、ここにおられる内藤氏は射殺されていたろうし、他に何人もの犠牲者が出たと思います。従って、あの瞬間、犯人を射ったことは、法的にも許されることだったと確信しています。そして、トカレフ魔による連続殺人事件は、犯人、永田勇作の死亡によって、解決したと考えています」  という言葉で、報告を終った。  続けて内藤が立ち、殊勝に、 「私としては、フィリピンから招待した子供たちに怪我人が出なかったことが、何よりも嬉しいと思っています」  と、いった。  わざと短くいったのは、下手なことをいって、記者たちから突っ込まれるのが怖かったからだろう。  内藤はそのあと、「疲れたので」といって、席を立ってしまった。  従って記者たちの質問は、道警本部長と刑事部長に集中した。 「これで、捜査本部は解散ですか?」  と、記者の一人がきいた。 「ニセコに置かれた捜査本部は、事件が解決したので解散します」  と、本部長が、明るく答える。 「しかし、トワイライトエクスプレスの車内で起きた殺人と殺人未遂事件は、どう解決するんですか?」  と、聞いた記者もいる。 「これから青森県警に、永田が死んだことを伝えます。トワイライトエクスプレスの車内で、内藤氏の女性秘書を射殺、写真家の早瀬氏を射ったのも、永田とわかっていますから、こちらの事件も、これで解決したことになると思っています」  と、刑事部長がいった。 「犯人の永田勇作ですが、道警の狙撃班に射殺されたわけですね?」 「そうです」 「何発の弾丸が命中したか、わかりますか?」 「それは、これから司法解剖を行ってから、正確なことをお答えできると思っています」 「即死だったんですか?」 「ほとんど即死だったと聞いています」  と、刑事部長が答える。  内藤が、部屋に引き揚げてしまったので、残った高良秘書にも質問は集った。 「永田勇作が内藤さんを狙った本当の理由は、何なんですか?」  と、記者の一人がまず聞いたのは、そのことに一番関心があったからだろう。 「それは前に理事長が話しましたように、理事長の存在を煙たいと思っている人間が、殺し屋の永田を金で傭《やと》ったのだと思っています」  と、高良はいう。 「煙たいと思っている人間というのは、具体的に、どんな種類の人間なんですか? もし、名前がわかっているのなら、教えて貰《もら》えませんか」  記者が、突っ込んでくる。  高良は、それに対して、 「証拠のないことですので、具体的な名前はいえませんが、多分、日本とフィリピンの間で、甘い汁を吸っている人間だろうと考えています。そういう人たちにとって、純粋に日本とフィリピンとの親善に働いている理事長は、煙たい存在に違いありませんから」 「内藤さんについて、いろいろと噂がありますが、それについては、どう思われますか?」 「理事長は、全く気にしていません。自分は正しいことをしているのだから、何をいわれようと、平気だといっています。今回、ジャピーノ二十人を招待して、理事長自ら、子供たちに日本の雪景色を見せてやりたいと奔走されたのを見て頂ければ、つまらない噂が為にするデマだということは、わかって頂けたと思います」  高良秘書は、胸を張るようにして、答えた。 「内藤さんの今後の予定を聞かせて貰えませんか」  と、女性記者がいった。 「フィリピン大統領から、理事長の活躍に対して、勲章が贈られることになりましたので、理事長は明日、ジャピーノと一緒にフィリピンに行くことになっています」  と、高良はいった。      2 「内藤に勲章か」  十津川は、ロビーを抜けて部屋に戻りながら、吐き捨てるように、いった。 「きっと、向うの大統領側近に、金をばらまいたんじゃありませんかね」  と、亀井はいった。 「道警は、これで事件は解決したといっているが、私は終ったと思っていないよ」  と、十津川はいった。 「しかし、三上部長はきっと、事件は終ったから、すぐ帰京しろと電話して来ますよ」  と、亀井がいった。  彼がいった通り、その日のうちに三上刑事部長から電話が掛り、十津川に、 「道警から連絡があった。殺人犯が射殺されて、連続殺人事件は解決したんだ。こちらの捜査本部も解散するから、全員すぐ帰って来たまえ」  と、いった。 「わかりました」  と、十津川は、電話では答えたが、翌日になると、亀井、西本、早苗の三人には、 「すぐ帰京して、三上部長に事件の経過を報告しておいてくれ。私は行くところがある」  と、いった。 「部長には、何といっておきましょう?」  と、亀井がきく。 「そうだな。カゼをひいて気分が悪く、今日はホテルで寝ているとでもいっておいてくれないか。明日中には帰京する」  と、十津川はいった。  亀井は、何処に寄るのか、別に聞きもせず、若い二人の刑事と札幌に出て、飛行機で帰京した。  十津川は、ひとりで函館に出ると、列車で青森に向った。  青森駅で降りてから、花束を買い、早瀬の入院している病院に向った。  病室には、まだ、「面会謝絶」の札がかかっていたが、医者に事情を話して、中に入れて貰った。  早瀬は意外に元気で、ベッドに起き上って、十津川を迎えた。  部屋には、彼の妹の友美がいて、十津川に黙礼した。十津川は、彼女に花束を渡してから、早瀬に、 「起き上って大丈夫なのか?」  と、きいた。  早瀬は、微笑して、 「マスコミがうるさいから、面会謝絶の札を出してるのさ」 「ニセコで永田が亡くなったことで、話をしたいんだが」  と、十津川がいうと、早瀬は妹の友美に、 「ちょっと、外へ出ていてくれ」  と、いった。  友美が外に出ると、早瀬は、 「永田が射殺されたのは、ニュースで知っている。永田が先に射って、警察がそれに応戦したというのは、本当なのか?」  と、十津川にきいた。 「本当のことをいえば、永田が先に射ったというのは、正確じゃないんだ。正確にいえば、永田のいた方角から、二発の弾丸が飛んで来たということだ。それに対して、道警の狙撃班が射ち返した。永田は、その時になって、トカレフを射った。それが、正確なところだよ」  と、十津川は答えた。 「永田のいた方角から射った人間は、わかっているのか?」  早瀬は、強い口調できく。 「それがわかっていれば、今頃、大さわぎになっているさ。ただ、ニセコに不審な二人の男がいたことだけは、わかっている。中年の男二人で、どうやら、内藤とつながりがあると思われるのだが、証拠はない」 「内藤は、怪我もせずか?」 「ああ。今日、ジャピーノ二十人と一緒に成田からフィリピンに行く。なんでも、日本とフィリピンの友好に尽力したことで、向うの大統領から勲章を貰うらしい」 「ワイロで手に入れた勲章だろう」  と、早瀬は、吐き捨てるように、いった。 「そういう噂もある」 「警察は、放っておくのか?」  早瀬は、咎《とが》めるような眼で、十津川を見た。 「内藤をか?」 「永田が、人間殺人機械になって、何人もの人間をトカレフで殺したのは、全て内藤の命令だよ。本当の悪人は、内藤だ。その内藤を自由にさせておいていいのか?」  と、早瀬はいう。 「残念だが、証拠はないよ」  と、十津川はいった。 「証拠か」 「ああ、警察は、証拠がなければ動けないんだよ」 「不自由なものだな」 「そうさ。警察の力なんて、たかが知れているよ。サラリーマンだし、法律に従って動くより仕方がないんだ」  と、十津川はいった。 「証拠があれば警察は動いて、内藤を、殺人を命令した容疑で逮捕してくれるんだな?」 「もちろん。証拠があれば、逮捕する」 「このままでいけば、内藤はまた、新しい利権を手に入れて、悪どい儲けをするぞ。彼の存在は、本当の日比親善にはマイナスなだけだ」 「私も、そう思うよ」  と、十津川はいった。 「だが、警察は何にも出来ないか?」  早瀬は、皮肉な眼つきで、十津川を見た。 「私だって、何とかしたいと思っているんだ。永田を殺したのだって、本当は内藤だと思っている」 「なら、何とかしろよ」 「そのことで、君とゆっくり話し合いたいんだ。今日は、青森に泊る。明日、もう一度訪ねてくるから、何時頃がいいか、教えてくれ」  と、十津川はいった。  早瀬は、枕元の置時計に眼をやって、 「午後がいいな。三時頃、来てくれ」  と、いった。  十津川は、青森市内のホテルに泊ることにした。夕食のあと、部屋でテレビをつけると、成田からフィリピンに帰る二十人のジャピーノの姿が映し出された。  例によって、内藤が日比親善について一席ぶってから、子供たちと一緒にジェット機に乗り込んで行った。  内藤は、永田が死んでしまったことで、安心しきっているように見えた。さまざまな企業の部長クラスが送りに来ているのは、内藤を通して、フィリピン政府とコネをつけたいからだろう。当然、それらの企業から内藤に、「日比親善のために」ということで、献金がなされているに違いない。内藤が、ご機嫌な表情をしている筈だった。  内藤の乗った旅客機が、テレビ画面の中で小さくなって行くのを、十津川は、刑事の眼で見つめていた。犯人が逃げて行くのを見る刑事の眼である。  翌日午後三時に、十津川は、病院にもう一度早瀬を訪ねた。  だが、三階のナースセンターで、面会に来たことを告げると、 「早瀬さんは、退院なさいましたよ」  という返事が、戻ってきた。 「退院?」 「ええ。あと四、五日は入院していらっしゃいとすすめたんですけどねえ。どうしても退院するといい張って。妹さんが一緒なので、先生も許可したんですけどねえ」  婦長は、腹立たしげに、いった。 「退院して、大丈夫なんですか?」  と、十津川はきいた。 「安静にしてれば大丈夫でしょうけどね。あの調子じゃ、何をするかわからないわね」 「あの調子って、どんな調子です?」 「妹さんと、飛行機に乗るとかいってたから」 「飛行機ね。何時頃退院したんですか?」  と、十津川はきいてみた。 「朝早く。八時頃だったかしら。それを、先生に聞いてみるといって、九時半まで待たせたのよ」 「あの野郎──」  と、十津川は、小さく呟《つぶや》いた。  早瀬は昨日、十津川には午後三時に来てくれといって、それまでに退院するつもりだったのだろう。  早瀬は恐らく、フィリピンに行くつもりなのだろう。  十津川が頼みにならないと思い、自分でフィリピンに行き、内藤と向うで対決するつもりなのだ。 「彼は、飛行機に乗って大丈夫なんですか?」  と、十津川は、婦長にきいた。 「何処まで?」 「マニラまで」 「海外旅行?」  と、婦長が、眼をむいた。 「そうです」 「私には、責任は持てませんよ。詳しいことは先生に聞いて下さい」  と、婦長はいった。  十津川は、礼をいって病院を出た。医者に聞いても、仕方がないと思った。早瀬は今頃、マニラ行の飛行機に乗っているだろう。医者の話を聞いても、もう間に合わない。早瀬の妹、友美が一緒だろうということが、唯一の救いだった。  十津川は、JR青森駅に行き、駅のコンコースの公衆電話で、東京にいる亀井に連絡を取った。 「急に、フィリピンに行かなければならなくなったよ」  と、十津川はいった。 「私は、どうしたらいいんですか?」  と、亀井はきく。 「明日までに、何とか私のビザを手に入れてくれ。理由は何でもいい」  と、十津川はいった。      3  翌朝、十津川は電話で打ち合せておいて、成田空港で亀井と会った。 「九時三〇分のフィリピン航空だったね?」  と、十津川は、確めるように亀井にきいた。 「そうです。往復の航空券を買っておきました」  と、亀井はいい、パスポートと一緒に十津川に渡した。 「往復?」 「はい。二十一日間の観光旅行なら、ビザは必要ないとのことでしたので、それにしたんですが、この場合は、帰りの航空券も必要だということで」 「ビザは時間がかかるか?」 「四日はかかるそうです」 「そうか。ありがとう」 「早瀬さんが、今、フィリピンの何処《どこ》にいるかわかりませんが、内藤がいるところは、わかりました。マニラのハイアット・リージェンシー・マニラという高級ホテルです。なんでも、向うではVIP待遇を受けているそうです」  と、亀井は、教えてくれた。 「それなら、早瀬もそこにいる筈《はず》だ」  と、十津川はいった。  亀井に送られて、十津川は、九時三〇分発のフィリピン航空431便に乗り込んだ。  日本人の客は、あまりいなかった。その代り、日本に働きに来ていて、新年をフィリピンで迎えに帰るフィリピン人が、沢山乗っている。若い女性が多いのは、風俗関係で働いていたのだろうか。  スペイン訛《なま》りの英語と、タガログ語の会話が機内に飛びかっていて、十津川にはどちらも理解できず、眼を閉じていた。  どうしても、死んだ永田のことや、早瀬兄妹のことが脳裏を占めてしまう。永田の場合は、死に方が異常だったし、早瀬は、これから異常なことをしそうな気がするからかも知れない。  十津川の仕事にとって、死は、日常的なことである。特に殺人事件の場合、まず死体が転がっているわけだから、いってみれば、死とか死体は、馴れっこになっているともいえる。だが今回だけは、ショックの度合が違っていた。多分、しばらくの間は、眼先にちらついて離れないだろうし、十津川なりの結着をつけなければ、納得できないと感じて、今、こうしてフィリピン行の飛行機に乗っている。  早瀬も恐らく、彼なりに今度の事件に結着をつけたくて、フィリピンに向ったのだろうが、早瀬なりの結着がどんなものか、予想がつかないので、不安が増してくるのである。  いつの間にか、十津川を乗せたボーイング747は、降下姿勢に入っていた。  マニラ国際空港は、雨だった。フィリピンの雨季は十一月で終ると聞いていたのだが、今年は、雨季がまだ居残っているのだろうか?  十津川は、タクシーで真っすぐハイアット・リージェンシーに向った。空港から近いホテルだった。  成田空港から予約しておいた。フロントで手続きをするや、同じホテル内で、必要と思われるだけの両替えをしてから、部屋に入った。  ベランダに出ると、夜のプールが眼下に見える。青々としたプールの水面にも、雨が降りしきっていて、泳いでいる人の姿はない。  早瀬兄妹が、果してここに泊っているかどうか、知りたかった。が、日本のように、警察手帳を見せて聞くわけにもいかなかった。  ひと休みしてから、十津川は、ロビーに降りて行った。そこでしばらく、ロビーに出入りする客を眺めていたが、なかなか早瀬兄妹は現われない。  十津川は、通りかかったボーイをつかまえて、ロビーの隅に引っ張って行った。五十ペソ紙幣を二枚つかませて、 「ミスター早瀬と妹が泊っていないか?」  と、英語できいてみた。 「ミスター・ハヤセ?」  と、ボーイは聞き返す。十津川が、早瀬兄妹の顔立ちや背恰好を説明すると、ボーイはニッコリして、七階の7018号室に泊っていると教えてくれた。  そのあと、部屋を訪ねてみようかと思っているところへ、内藤が秘書の高良《こうら》と一緒に、外から帰って来たのにぶつかった。  十津川は、エレベーターの方を見ていたので気がつかず、振り向いた時に、内藤と視線が合ってしまった。  どうやら、内藤は立ち止って、じっとこちらを見ていたらしい。  視線が合ったとたんに、内藤は微笑を浮べて、つかつかと近づいて来た。 「十津川さん。妙なところでお会いしますね」  と、内藤は、声をかけて来た。  十津川の方も、白ばくれて、 「私も、内藤さんにお会いして、びっくりしています。やはり、仕事で来られているんですか?」  と、切りかえした。  内藤は、十津川の顔をのぞき込むようにして、 「あなたのお友だちで、何といいましたかね。ああ、早瀬さん。彼も、妹さんと一緒にこのホテルに来ていますよ。これも偶然ですかね。もし偶然だとしたら、私にはそんな吸引力があるのかも知れませんな」 「早瀬が来ているんですか?」  十津川も、とぼけていった。  内藤は、ニヤッと笑って、 「まあ、偶然ということにしておきましょう。あとで、早瀬さん兄妹もご一緒で、夕食をどうですか? いい店にご招待しますよ」 「考えておきます」  と、十津川はいった。  内藤は、秘書の高良に眼をやって、 「六時に、あの高良をお迎えにやりましょう」  と、勝手にいい、エレベーターに向って歩いて行った。  十津川は、ぶぜんとした気分で、煙草に火をつけた。  しばらくして今度は、早瀬と妹の友美が、外から帰って来た。  早瀬は、杖をついている。  今度は、十津川の方から声をかけた。  早瀬は、ニコリともしないで、 「何しに来たんだ?」  と、きいた。日本の警察は頼りにならないという気持が、いぜんとして尾を引いているのだろう。 「君こそ、何をしにマニラに来てるんだ?」  と、十津川は、きき返した。 「君に説明したって、どうしようもないだろう」  と、早瀬は、突っけんどんにいう。妹の友美が、見かねたように、 「兄さん。十津川さんは、兄さんのことを心配して、来て下さったんだと思うわ」 「そうだ。君のことが心配で、来たんだ。何をするつもりなんだ? まだ、身体が完全じゃないのに」  と、十津川はきいた。 「おれのことを心配するより、死んだ永田のことを考えてやれよ。それに、彼の子供たちのことをだ」 「それも、考えているよ」 「しかし、日本の警察は、事件はもう終ったとばかり、何もしてないじゃないか」  と、早瀬はいう。 「警察は、組織としての動きしか出来ないんだ。だから、私は個人でマニラにやって来たんだ」 「個人で何が出来る? 内藤を捕えられるのか?」 「その内藤に、さっき会ったよ。彼は、私と君たち兄妹を、夕食に招待するといっていた」  と、十津川がいうと、早瀬は苦笑して、 「どうせ、自分が親しいフィリピンのお偉方を、おれたちに見せびらかす気だろう」 「じゃあ、私も断るよ」 「いや。受けてみよう」  と、早瀬は、急にいった。      4  早瀬と友美は、そのままエレベーターであがって行ったが、五、六分して、友美だけがロビーにおりて来た。  彼女は、眼で十津川を探して、傍へ来ると、 「兄のこと、許して下さい。気が立っているんです」  と、小さく頭を下げた。  十津川は、笑って、 「構いませんよ。早瀬が怒るのも、無理はないんだから」  といい、友美をロビー内のティールームに誘った。早瀬が、こちらへ来てから何をしたのか、それに、身体の具合も聞きたかったのだ。 「今日は、兄と一緒にダウンタウンに行って来ました」 「市場なんかあるところ?」 「ええ。帰国したあの子供たちが、どんな生活をしているか、特に永田さんの二人の子供のことが心配で、兄が行きたいといったんです」 「ダウンタウンにいる子が多いんですか?」 「ダウンタウンや、スラムといわれるトンド地区にね」 「なぜ、そういうところに集ってしまうんだろう?」  と、十津川はきいた。 「日本人の父親からの送金がないと、何とかして生きていかなければならないから、母親と子供は、マニラにやって来るんです。マニラに来れば、何とか生きていけると思って。でも、マニラは今、人口がどんどん増えて、仕事が見つからない人が沢山いるんです」 「それで、子供たちに会えましたか?」 「ええ。何人かには。若い母親は、子供を親戚とか祖母なんかに預けて、また日本に働きに出かけていましたわ。子供自身も、七、八歳になると、一所懸命働いています。新聞やタバコを売ったり、車の窓ガラスを拭いたり──」 「永田の子供二人には、会いましたか?」  と、十津川はきいた。 「ええ。あの兄妹には、突然大金が送られて来て、母親は、家を改造するとはり切っていましたわ。それが救いだと、兄もいっていました」 「永田が送ったんでしょう」 「ええ。兄もそういっていましたわ。でも、兄にいわせると、自分の死と引きかえのお金だから、悲しいともいっていますけど」  と、友美はいった。 「内藤のやっている『日比愛の鎖』の会は、あの子供たちについて、何かしているんですか?」  と、十津川はきいた。  友美は、首を小さく横に振って、 「兄にいわせれば、彼等は、自分たちの宣伝に子供たちを利用しただけで、もともと、子供たちを助ける気なんか、ぜんぜんなかったんだと。だから、それがすめばもう、内藤は、あの子供たちには何の関心もないんじゃないかって。だから、子供たちは、前と同じように放り出されて、自分たちで生きています。子供たちが得たものといえば、日本の思い出と、内藤の会から貰《もら》った新しい子供服だけですわ」 「内藤は、子供たちを利用して、宣伝に成功したんですかね?」 「フィリピン政府から勲章を貰ったし、日本の企業から献金を沢山貰ったんじゃありません?」  と、友美はいった。 「早瀬は、それに腹を立てているわけですね?」  と、十津川はきいた。 「ええ。だから、兄が何をやるのか、それが心配なんです」 「彼の身体の具合は、どうなんですか?」 「あまり良くありませんわ。今、一番必要なのは静養だと、お医者さんにはいわれているんですけど」  友美は、心配そうに、いった。 「しかし、彼は日本に帰る気はないんでしょう?」 「ええ」  と、友美は肯《うなず》いた。  六時になると、内藤の秘書の高良が、十津川と早瀬兄妹を迎えに来た。  用意された車は、二台のリムジンだった。  案内されたのは、ミッドタウンにあるフィリピン料理の高級店だった。  早瀬が予想したように、内藤は、フィリピン政府の高官も招待していた。  その中に、元マニラ警察の署長で、現在、大きな警備保障会社の社長という五十代の男が入っていた。  名前は、J・ロドリゲス。スペイン系の顔をしている。  内藤は、十津川たちにこの男のことを、 「私が、一番フィリピンで信頼している人物だよ」  と、日本語で紹介した。 「信頼というのは、どういう意味ですか?」  と、早瀬は、皮肉を籠《こ》めて、きいた。 「私の安全を守ってくれているということだよ。何しろ、フィリピンは、いろいろと不安でね。それも、現地のフィリピン人が怖いんじゃなくて、同じ日本人が怖い。それで、この人に、身辺の護衛を依頼した。彼の会社には、百二十人の社員がいるんだが、全員、射撃の名手で、激しい訓練を受けているんだよ。この国では、民間人でも、仕事の上で銃を持つことが可能だからね。もし、私に危害を加えようとする者がいれば、たちまち射殺されてしまう筈だ」  と、内藤は、得意気にいった。  ロドリゲスは、ニヤッと笑って、内藤の話に合せるように、ちらりと上衣を広げて見せた。上衣の下に拳銃を吊り下げているのが見えた。  その夕食からホテルに帰ると、早瀬は吐き捨てるように、 「内藤の奴、おれたちを脅すために、夕食に招待したんだ」  と、十津川にいった。 「ただの脅しじゃないだろう?」  と、十津川はいった。 「わかってるさ。永田が死ぬまでは、脅して、殺しを、彼にやらせていたんだ。その永田がいなくなったので、フィリピンでは、今日会ったロドリゲスたちに、やらせようとしているのさ」  と、早瀬はいった。 「無茶なことはするなよ」  と、十津川は、友美に聞こえないように、小声で早瀬にいった。 「おれは、永田の仇を討ってやりたいだけだ」  と、早瀬はいう。 「そんな身体で、出来やしない」 「じゃあ、刑事の君が内藤を逮捕して、刑務所へ放り込んでくれるのか? それも、殺人罪でだ」  と、早瀬はきいてきた。 「残念ながら、今の段階では証拠がないんだ」  と、十津川はいった。 「頼りないな」 「そうかも知れない。だからといって、君に、危険な真似はさせられないんだ。妹さんを悲しませるなよ」  と、十津川はいった。 「別に、危険なことをするとは、いってないよ」 「しかし、何かしようとして、マニラにやって来たんだろう?」 「日本の警察が何もしてくれないから、おれの力で、内藤を刑務所に送り込む証拠をつかもうと思っているだけだよ」  と、早瀬はいった。      5 「無茶なことはするなよ。永田に続いて、君まで死なせたくない。折角、君は助かったんだから、命は大事にしてくれよ」  と、十津川はいった。 「命は、大事にする時にはするし、死んでもいい時には、命なんかどうでもいい。おれの命だ」  と、早瀬は、怒ったようにいった。  十津川は、説得は諦《あきら》めて、 「これから、どうするつもりだ? 内藤に直接ぶつかっても、はね返されるだけだろう」 「明日、サントスという記者に会いに行ってくる」  と、早瀬はいう。 「どんな男なんだ?」 「独立系の小さな雑誌の記者だ。前に、ここに内藤のことを調べに来た時、彼にいろいろと協力して貰《もら》っている。彼は、内藤のことを専門に調べているわけじゃないんだ。フィリピン政府の汚職事件を追っている。その事件の中に、たまたま内藤という名前が出て来たということなんだ」 「危険はないのか?」  と、十津川はきいた。  早瀬は、小さく笑って、 「どこの国のジャーナリストだって、政府のダーティな部分を追いかければ危険だよ。ミスター・サントスは、毎日のように脅迫を受けているし、一カ月前には、夜、自宅近くで狙撃されて、左腕を負傷している」 「危険だな」 「ああ。そうだ」 「それに君は、身体が万全じゃない」 「だが、内藤の奴を今、追いつめてやりたいんだ。あの男は、フィリピンのためにも、日本のためにもならない男だからな。君は、何をしにマニラに来たんだ? おれの邪魔をしに来たのか?」  と、早瀬は、十津川にきいた。 「私は、死んだ永田の過去を調べたいと思ってね。私の記憶の中の永田は、ラグビーのボールを抱えて、突進している姿なんだ。それがなぜ、トカレフを使う殺し屋になってしまったのか。フィリピンに来れば、その理由がわかるんじゃないかと思ってね」  と、十津川はいった。 「わかったら、どうするんだ? 死んだ永田にお前は、本当はいい奴なんだといってやるのか?」 「いや。内藤とのつながりを明らかにしたい」  と、十津川はいった。 「それは難しいぞ。内藤が金で永田を傭《やと》い、何人もの人間を殺させたことは明らかだが、それを証明するのは、難しい」 「わかってるよ」 「一人、会った方がいい人物を教えてやろう。彼女は、永田のことをよく知っている」 「どんな人物だ?」 「名前は、古屋亜木子。フィリピンの実業家と結婚してアマンダ・アキコになった。ご主人は去年亡くなって、現在は未亡人だが、マニラ郊外の広大な屋敷に住んでいる」 「彼女は、永田のことをよく知っているのか?」  と、十津川はきいた。 「永田が、まだ純粋にフィリピンが好きで、日本から来ていた頃のことを、よく知っている女性だよ」  と、早瀬はいった。 「君は彼女に会って、永田のことをいろいろと聞いたんだろう?」 「ああ。だがおれが会ったのは、まだ彼女のご主人が生きていた時だ。だから、彼女も全てを話してくれたとは思われない。今なら、もっと詳しいことを話してくれるかも知れないよ」  と、早瀬はいった。  彼に紹介状を書いて貰って、アマンダ・アキコを、十津川は訪ねることにした。  メトロ・マニラのケソン地区にある広大な邸宅だった。メトロ・マニラに統合されるまで、ケソンは緑濃い文化都市として、政府の行政機関が集っていた場所である。  邸の入口には、拳銃を持ったガードマンが立っていた。  車庫には世界中の名車が並び、使用人の宿舎があり、日本式庭園の向うに、女主人の住む建物が見えた。  アマンダ・アキコは、その建物の玄関に、出迎えに出てくれていた。  年齢は五十歳くらいだろう。華やかな雰囲気を持った女性だった。にこやかに十津川を迎え、奥の居間に案内した。ヨーロッパ風の調度品の中に、日本の浮世絵が壁にかかっていたりする。 「日本の刑事さんにお会いするのは、初めてですよ」  と、アキコはいった。 「助けて頂きたいことがありまして」  と、十津川はいった。 「私が、刑事さんをお助けすることが出来るかしら?」 「私は、永田勇作の友人です。大学の同窓でした」 「ナガタさん? ああ、身体の大きな、勇ましい人ね」 「彼は、死にました。北海道で警官に射殺されました」  と、十津川がいうと、アキコは眉を寄せて、 「可哀そうに。あなたが射ったんですか?」 「いや、私じゃありません。しかし、彼は警察に追われていました。トカレフを使って、何人もの人間を殺した容疑でです」 「───」 「早瀬の話では、あなたは永田のことをよく知っているということで、あなたの知っている永田について、話して頂きたいのです」  と、十津川はいった。  アキコは、窓の外に眼をやっていた。日本庭園が、よく見える。 「どうでしょう?」  と、十津川が促すと、 「もう、亡くなった人なのに?」 「彼が、なぜあんな死に方をしなければならなかったのか、それをぜひ、知りたいんです」  と、十津川はいった。      6 「私が、初めて永田さんに会ったのは、十二、三年も前ですよ。日本からラグビーチームがやって来て、その時、この邸に泊って頂いたんです。その時の永田さんは補欠か何かで、大きい人だなという印象しか残っていません」  と、アキコはいった。 「その時、彼はどのくらいここにいたんですか?」 「チームの方がたに、十日間泊って頂きました。亡くなった夫が親日家で、日本の客人たちを泊めるのを、喜んでいましたわ」 「その後のことを話して下さい」 「チームの皆さんから、礼状を頂きました。その中に永田さんのもありましたけど、特別に永田さんの名前を意識したということは、ありませんでしたわ。そのあと、何年かたって、突然、永田さんから電話があったんですよ」 「日本から?」 「いいえ。今、マニラに来ている。どうしても助けて頂きたいことがあるといって来たんですよ。それで、とにかくここへいらっしゃいといいました。永田さんは、観光で来ているといって、なかなか用件をいい出さないんですよ。私の方から問いただして、やっと、いいました。マニラで、若いフィリピンの娘と会って、好きになってしまった。何とか一緒になりたいんだというのです」  と、アキコはいった。 「その時、永田は、もう三十歳にはなっていたんでしょう? いい大人が、なぜあなたに、助けを求めたんでしょう?」  と、十津川はきいた。  アキコは、肯《うなず》いて、 「私も、そういいましたわ。好きなら、自分でアタックしなさいって。でも、その一方で、なぜそれが出来ないのだろうと、人に調べさせたんですよ。彼女は十九歳で、確かにきれいな女の子でした。マニラのクラブで、働いていましたわ。ただ、彼女には、日本のヤクザがついていたんです。ヤクザがヒモになっていたんです。それで私は永田さんに、面倒なことになるから、彼女のことは諦めなさいといいました。それで、永田さんは諦めたと思っていたんですけど、次の日に、そのヤクザが殺されて、マニラ湾に浮んでいるというニュースが入って、私はびっくりしてしまいました」 「永田が殺したんですか?」  と、十津川はきいた。 「それはわかりません。でも、彼は容疑者ということになっていました。私は、何となく責任を感じて、主人に頼んだりして、マニラ警察に働きかけました」  と、アキコはいう。 「それで永田は、逮捕をまぬがれたんですか?」 「ええ。何とか、永田さんは逮捕されませんでした。彼は私に、お礼をいっていましたけど、会社を馘《くび》になったということでしたわ。そのあと、永田さんは、問題の女の子を連れて、日本に帰国したという噂《うわさ》を聞きました。それで、うまくやっていければいいなと思っていたんですけどね」  と、アキコはいう。 「違っていたんですか?」  と、十津川はきく。 「彼女はすぐ、フィリピンに帰って来てしまったんです。彼女には、養わなければならない両親と、きょうだいがいたからなんですよ。自分だけ、日本へ行って、幸福になるわけにはいかないと思ったみたい。永田さんがお金持で、彼女の家族に送金してやれればよかったんでしょうが、彼は、会社は、馘になっていましたものね」 「それで、永田はどうしたんでしょうか?」  と、十津川はきいた。 「それから、またしばらく音沙汰がありませんでしたわ。五、六年前、私が人を迎えにマニラ・ホテルへ出かけた時、そこで偶然、永田さんに会いました。彼は、名刺をくれました。日本の札幌で、旅行会社をやっているといいました。それで、これからたびたび、フィリピンにも来ることになりましたって。その旅行社を、共同経営の形でやっているという日本人にも紹介されましたわ」 「小野田という男でしょう?」 「ええ、その時、いやな予感がしましたわ」  と、アキコはいった。 「なぜですか?」 「その小野田という男は、前にも会ったことがあったからですわ。マニラには、何人も日本人が来ています。いい日本人もいれば、悪い日本人もいる。彼は、悪い日本人ということになっていましたから」 「どんな噂があったんですか?」 「ヤクザとつながっている人間とか、非合法な密輸をやっているとかね」 「永田に注意しましたか?」 「いいえ。私が注意しても、無理だと思ったし、何の証拠もありませんからね。それに永田さんも、ひょっとして、どっぷりと悪い酒に浸っているような気がしましたしね」  と、アキコはいう。 「それらしいことがあったんですか?」 「ええ。永田さんが好きだといった女の子ですけど、その後に調べてみたら、子供を生んでいるんです。どうやら、その父親が永田さんらしくて、その上、家族にもちゃんとお金を渡していることがわかったんですよ。小さな旅行社をやってるだけで、それだけのお金を彼女に送れるとは思えませんでしたものね」  と、アキコはいった。 「永田と内藤との関係は、何か知っていましたか?」  と、十津川はきいた。 「内藤さん?」 「ええ。『日比愛の鎖』の理事長ですよ」  と、十津川がいうと、アキコは、「ああ」と肯《うなず》いて、 「あの人は、私も主人も嫌いでした。信用がおけなくて」 「永田が、内藤とつき合っていたという話は聞いていませんか?」 「それは知りませんけど、小野田さんは、前から、内藤さんと親しかったのは、知っていますわ。最初は、内藤さんの走り使いみたいな仕事をやっていたんです」 「なるほど。それなら、小野田を通じて、永田が内藤とつながっていたことは、十分に考えられますね」 「ええ」 「永田が、トカレフを使って、人を殺していたことは知っていましたか?」  と、十津川はきいた。 「そういう恐しい人がいるという噂は聞いていましたけど、それが永田さんだということは、知りませんでしたわ」  と、アキコがいった時、部屋の電話が鳴った。  アキコは、受話器をとって、英語で二言、三言話してから、急に、 「そんな──」  と、絶句してしまった。 「どうしたんですか?」  と、十津川がきいた。  アキコは、電話を切ってから、 「たった今、フィリピンで人気のある記者さんが、部屋で殺されたと、友だちが知らせてくれたんです」  と、青い顔で、いった。 「ひょっとして、それはサントスという人じゃありませんか?」  と、十津川はきいた。 「ええ。そうですよ。なぜ、刑事さんは知っているんですか?」 「早瀬が、彼に会いに行くといっていたから、ひょっとして、と思ったんです」 「早瀬さんが?」 「ええ。そうです」 「まずいわ」  と、アキコは、急に狼狽《ろうばい》の色を見せて、呟《つぶや》いた。 「何が、まずいんですか?」  と、十津川はきいた。 「お友だちの電話では、ミスター・サントスを殺したのは日本人らしいと、警察は思っているんですって。だから、その日本人は早瀬さんじゃないかと──」 「彼は、人を殺したりはしませんよ」 「ええ。わかってますよ。早瀬さんのことは、私もよく知っています。でも、マニラの警察は、早瀬さんの人柄なんか知りませんよ」  と、アキコは、不安気にいった。 「ミスター・サントスは、何処で殺されたんですか?」 「一緒に行きましょう」  といって、アキコは立ち上った。  十津川は、彼女と一緒にベンツのリムジンに乗って、マニラの中心街に向った。  たちまち、ベンツはけたたましい街の喧噪《けんそう》に押し包まれる。  激しい交通渋滞だった。  それを何とかかきわけるようにして、十二階建のマンションの前に辿《たど》り着いた。  パトカーが、入口あたりに集り、銃を手にした警官が、緊張した顔で警戒に当っていた。  アキコは、リムジンから降りて、さっさと彼等に近づいて行くと、 「死んだ人は、私の知り合いなの」  と、いった。  マニラ警察にも、アキコは顔がきくと見えて、警官は、簡単に通してくれた。  二人は、エレベーターで上にあがって行った。 [#改ページ]  第十章 友への挽歌      1  署長が会ってくれた。  スペイン系の大男の署長は、明らかに、不機嫌な顔付きだった。  アキコが彼に、十津川を自分の友人でメトロ・トーキョウの刑事であることを告げると、署長は、ますます機嫌が悪くなった。アキコが、日本の刑事を連れて、自分に圧力をかけにきたと思ったのかも知れない。 「私は、あなたも日本人も好きだが、今回の事件については、全く同情の余地はない。犯人は、間違いなく日本人で、すでにモンタージュも作成されています」  と、署長は、厳しい表情でいった。  アキコが、そのモンタージュを見たいというと、署長は、今日中にマスコミに発表するといい、容疑者の顔のモンタージュを、見せてくれた。  間違いなく、早瀬の顔だった。 「名前もわかっています。日本人のカメラマンで、ハヤセという男です」  と、署長はいった。 「ミスター・ハヤセは、人殺しなんか出来る人間じゃありません。彼は、本当の意味のフィリピンと日本の友好を考えている人ですよ。ミスター・サントスとも、そのことを話し合うために、メトロ・マニラを訪れていたんです。その人が、尊敬するミスター・サントスを殺したりするもんですか」  アキコが、抗議する。  十津川は、刑事らしく、 「なぜ、犯人を早瀬と特定したか、教えてくれませんか」  と、署長にいった。 「ミスター・サントスは、今日、日本人のハヤセと会う約束をしていた。これは、彼の秘書も認めている。そして、今日の午後三時に、そのハヤセが、彼の部屋に入って行くのを見た人がいる。ステッキをついた日本人と思われる人物がね。約三十分後、その日本人は、あわただしく部屋を出て、逃げるようにエレベーターに乗り込んで、姿を消した。疑問に思った目撃者が、ミスター・サントスの部屋をのぞいてみると、彼がじゅうたんの上に血まみれで横たわっているのを発見して、すぐ警察に電話したというわけです。われわれが駆けつけた時、ミスター・サントスはすでに事切れていました。明らかに犯人は、固い棒のようなものでミスター・サントスの顔や頭をめった打ちにして、殺したのですよ。つまり、ステッキでね」  と、署長はいった。 「アポをとって話しに来たミスター・ハヤセが、なぜミスター・サントスを殺したりするんですか? おかしいじゃありませんか?」  と、アキコがきく。 「動機までは、まだわかっていませんがね。ミスター・サントスは、非常な正義漢です。不正を許せない。だから、日本人に向って、戦時中の日本兵の残虐行為について抗議したのではないか。相手はかっとして、持っていたステッキでミスター・サントスを殴りつけて、殺してしまった。そういうことではないかと、私は考えていますがね」 「ミスター・ハヤセが、部屋から逃げ出して行くのを見たというのは、どういう人なんですか?」  と、アキコはきいた。 「名前は、申し上げられない。犯人が目撃者を消そうということは、十分に考えられますのでね。ただ、同じ階に住む、立派な市民の一人だということは、申し上げられますよ。それに、目撃者はその一人だけではないのです。このマンションの一階でガードマンが、その時刻にステッキを持ったモンタージュの男が興奮した様子でおりて来たのを、目撃しているのです。つまり、このモンタージュは、二人の人間の証言によって、作成されたものなのです。われわれが調べたところ、このモンタージュの日本人は、今日、ミスター・サントスが会うことになっていたハヤセと、わかったわけです」 「早瀬は、ひとりで来たんですか? 足が不自由なので、妹が一緒だと思うんですが?」  と、十津川はきいてみた。  署長は、肯《うなず》いて、 「なるほど。妹ですか。ガードマンが、犯人の日本人が待たせてあったタクシーに逃げ込んだ時、車内に若い女がいたと証言しているのです。その女は、あなたのいわれた、犯人の妹だと思います」 「早瀬が何処へ行ったか、警察はつかんでいるんですか?」 「目下、全力をあげて行方を追っているところです」 「署長さん。ミスター・ハヤセは、犯人なんかじゃありませんよ。誤認逮捕になりますよ」  と、アキコは、抗議するようにいったが、署長は、強く首を横に振って、 「私は、この日本人が犯人だと、確信を持っていますよ。あなたが、同国人を犯人とは考えたくないお気持は、わかりますがね」  と、いった。      2  十津川は、ホテルに戻った。  ひょっとして、早瀬から連絡があるかも知れないと思ったからである。  夕方になって、マニラ警察が、サントスが殺されたこと、その犯人が日本人の早瀬であることを、モンタージュと一緒に発表した。  マニラ市民に絶対的な人気のあった記者の死である。  怒りも、悲しみも、すぐ行動に現わすフィリピン人は、続々と広場に集り、日本大使館に向って、抗議の行進を始めた。十津川は、その光景を部屋のテレビで見守った。  夜になっても、市民の抗議は続いた。人々は松明《たいまつ》を手にして、デモ行進を始めたのだ。その中の二、三人が、日の丸を焼く光景も映し出された。  突然、電話が鳴ったので、早瀬からかと思って、受話器に飛びついたが、アキコからだった。 「街は、大変なことになりそうだわ」  と、アキコがいう。 「テレビで見ています」  と、十津川は答えた。 「フィリピン政府も、無視できず、犯人逮捕に全力をつくすと発表するそうだし、下手をすると、外交問題にも発展しかねないわ」 「かも知れませんね」 「日本の商社員が、デモ隊に殴られたという噂も伝わって来ています。あなたも、注意した方がいいわ」 「事件のことで、何かわかったことはありませんか?」 「例の目撃者の名前がわかりましたよ。ホセ・ジュリアノ。三十代の男」 「どんな経歴の男なんですか?」 「詳しい経歴はわからないけど、現在はミスター・ロドリゲスの経営している警備会社で働いています」 「ミスター・ロドリゲスですか。それなら、内藤とつながりがあるかもしれません。ひょっとすると内藤が一枚噛んでいることも考えられますね」  十津川がいうと、アキコは、 「あなたの考えていることは、わかりますよ。亡くなったミスター・サントスは、政府のダーティな部分を容赦なくあばき立てて、市民の喝采を受けていた。内藤さんは、そのダーティなところに取り入って、甘い汁を吸おうとしていた。だから、この二つは、利害が対立していた。そこで、ミスター・サントスを殺し、早瀬さんをその犯人にしてしまえば両者にとって都合がいい。こういうことでしょうか」 「その通りです」 「でも証明は難しいわ」 「わかっています」 「それに、日本の政治組織もそうだけど、ダーティな部分というのは、強い力を持っているわ。ロドリゲスの警備会社は、それに傭《やと》われているようなものだし──」 「でも、これであなたのいったホセ・ジュリアノという男が、ミスター・サントスを殺して早瀬をその犯人に仕立てあげた可能性も出て来たんです。その計画を立てたのは、内藤とロドリゲスでしょうが」  と、十津川はいった。 「ここは、日本じゃないんですよ。あなたは日本では優秀な刑事さんかも知れないけど、ここでは何の力もないわ」 「もちろん、よくわかっていますが、早瀬と彼の妹のことを考えれば、黙っているわけにはいきませんよ」 「もし、電話があったら、私の所に来るようにいって下さい。何とか私がかくまってあげるから」  と、アキコはいった。  テレビによれば、抗議の市民の数は、ますます増えているようだった。  それだけ、殺されたサントスの人気があったということなのだろうし、この事件によって、いっきに市民の反日感情に火がついたということでもあるだろう。 「われらのサントスが、日本人に殺された!」  と、テレビの中で人々は叫んでいた。  テレビの音を小さくすると、ホテルの外で、群衆の叫び声が聞こえてくる。  夜になっても暑い。それも、人々のいらだちに拍車をかけているのかも知れなかった。  日本大使館は、マニラにいる日本人に対して、外出を控えるように呼びかけたというのが、十津川の耳にも、伝わってきた。  夜半を過ぎても、人々の数は増えこそすれ、減る気配はない。  夜が明けて、また暑い、強烈な太陽が照りつけてきた。  新しく、人々が集って来た。が、昨日の群衆とは、明らかに様子が違っていた。昨日の人々は、何とか統制がとれていたが、今朝になって新しく加わった人々の多くは、とにかく、騒ぐことを目的としているとしか思えなかった。  マニラ市内、特にトンド地区には、失業者があふれている。職のない若者たちは、不満のかたまりといっていい。その不満をぶつける対象が見つかれば、一斉に襲いかかってくる。  今、その対象が見つかったのだ。フィリピン国旗を持ち、松明を持つ人々の間に、石を持ち、棒切れを持つ彼等が入り込んで来た。  危険な徴候だった。  ふいに電話が鳴った。  十津川が、受話器を取る。 「僕だ」  と、早瀬の声が、いった。 「今、何処にいるんだ?」  と、十津川は声を荒らげて、きいた。なぜ、今まで連絡して来なかったのかという怒りが、十津川にはあった。 「今から、妹の友美がタクシーでそちらのホテルに行く。助けてやってくれ」  と、早瀬はいう。 「君も一緒に来るんだろうな?」 「いや、僕は行かん。とにかく、妹の力になってくれ」  とだけいって、早瀬は、電話を切ってしまった。  十津川は、服を着がえて、部屋を出ると、一階ロビーに降りて行った。  ロビーでは、日本人の泊り客が集って、これからどうしたらいいかを相談していた。空気が重い。というより、殺気立っている。  十津川は、玄関に出てみた。  何処かのビルから、煙が昇っているのが見えた。デモ隊の一部が、火をつけたのだろうか。  タクシーが横付けになって、車の中から、友美が、手をあげて見せた。  十津川は、走って、そのタクシーに乗り込んだ。 「早瀬は?」  と、十津川は、運転手に聞こえないように、友美にきいた。 「兄は、兄の考えで動いています。私を助けて下さい」 「どうするんですか?」 「マニラの警察へ行って、署長さんに会いたいんです」 「しかし、あの署長は、あなたの言葉に耳を傾けるとは、とても思えないんだが──」 「署長さんに渡したいものがあるんです。それを手伝って下さい」  と、友美はいった。 「何を、渡したいんです?」 「兄が、昨日ミスター・サントスと会って、話をした時のテープですわ」 「そんなものがあったんですか」 「これを聞いてくれれば、兄がミスター・サントスを殺してないことは、わかって貰えると思うんです」 「わかった。行きましょう」  と、十津川はいった。  タクシーは、動き出した。が、たちまちデモ隊の渦に、巻き込まれてしまった。  デモ隊の一部が警察署に向っていたからである。 「警察は、日本人に遠慮するな!」 「日本人に極刑を!」  そんな言葉を、連呼している。 (まずいな)  と、十津川が思った時、タクシーの窓ガラスが、棒で叩き割られた。  ガラスの小さな破片が、車内に飛び散った。運転手は怯《おび》えて車を止めると、ドアを開けて逃げ出した。  十津川は、運転席に身体を滑り込ませて、ハンドルをつかみ、アクセルを踏んだ。取り巻いた群衆をはじき飛ばすようにして、車が動き出した。  悲鳴と、怒号が飛び交う。タクシーは前よりも部厚い人の壁にさえぎられて、動かなくなってしまった。  急に車が大きく揺れ出した。無数の手が、車体を転倒させようとしているのだ。 「逃げろ!」  と、十津川は叫び、ドアを蹴飛ばした。 「何処へ?」  と、友美も叫ぶ。  十津川は、必死になって、周囲を見廻した。車の窓には、怒りをむき出しにした群衆の顔が、並んでいる。  その向うに小さく、マニラ警察のパトカーの姿が見えた。 「ドアを閉めろ!」  と、十津川は、今度は逆のことを友美にいい、もう一度、アクセルを踏み込んだ。  そうしておいて、いきなりハンドルを大きく、左に切った。右側から車を押し倒そうとしていた群衆が、なだれを打つ恰好で舗道に倒れていく。  十津川は、それでもなお、ハンドルを左に切り続け、アクセルを踏んでいった。  車は、歩道に乗りあげる。そこに並んでいた屋台を次々になぎ倒した。老人や子供たちのやっている貝細工のみやげものや、煙草のバラ売りや、宝くじの屋台である。子供たちが、甲高い声をあげる。  十津川は、構わずに車を走らせた。少しでもパトカーの近くまで行きたかったのだ。  群衆が、また車を取りかこむ。石が投げつけられ、木の棒や鉄棒が、窓ガラスを叩き割る。 「向うのパトカーまで走れ!」  と、十津川は叫び、友美を車から押し出した。  彼女に向って、人々の手が伸びてくる。十津川は、車から飛び出して、彼等を殴りつけ、蹴倒した。  だが、忽《たちま》ち、無数の手が歩道に彼を押し潰し、蹴られて、血が流れ出した。  意識が、うすれていく。 (死ぬのか?)  と、うすれていく意識の中で、十津川は思った。      3  死にはしなかった。  気がついた時、十津川は、ベッドの上にいた。  窓の外が暗くなっている。ずいぶん長い時間、気を失っていたのだろう。目ざめた時、激痛が彼を襲った。頭は包帯でぐるぐる巻きだった。手足も、胸も痛む。肋骨の一本ぐらいは、折れているだろう。  ドアが開いて、女が入ってきた。  友美かと思った。が、アキコだった。 「大丈夫そうで、安心しましたよ」  と、アキコはいった。 「あなたが、助け出してくれたんですか?」  と、十津川は、天井に眼を向けたまま、きいた。彼女を見ようとすると、首筋が痛い。 「私というより、お金で。どこの国にも、お金で動く人たちがいるでしょう。あの野次馬たちの中に私がお金で傭《やと》った男たちが何人もいて、あなたを助け出してくれたんですよ。あなたを蹴ったり、殴ったりする真似をしながら」  と、アキコは笑った。 「早瀬友美は、どうなりましたか?」 「いろいろ調べているんだけど、わかりません」 「そうですか」 「でも、若い女性が怪我をして病院に運ばれたとか、死体が見つかったとかいう噂は、聞こえてきません」 「外の様子は、どうなんですか? 暴動は続いているんですか?」  と、十津川はきいた。 「少しは下火になったみたい。でも、今夜も暑いし、警察はまだサントス殺しの犯人を逮捕できずにいるし、人々のいらだちは大きくなっているから、これからどうなるかわかりませんわね」 「早瀬はどうしているんだろう?」 「十津川さんも知らないんですか?」 「ええ」 「まだ、警察に捕ってないことは確かですよ」 「しかし、マニラ市警はモンタージュまで作ったんだから、必死になって早瀬を探している筈だ。なぜ、早瀬は見つからずにすんでいるんだろう?」 「それなんですけど──」  アキコは、急に声を低くした。 「何かあるんですか?」 「わかりませんけど、私のところに入った情報では、マニラ市警の中で、というより、フィリピン政府の中で、何か動きがあるみたい。それで、市警はミスター・ハヤセを追っかけるのに、全力をあげられなくなったみたいですよ」  と、アキコはいった。 「何が起きているんですか?」 「それが、私にもわからなくて──」 「あなたも、わからないんですか?」 「主人が亡くなってから、政治の情報はほとんど入って来ませんから」  と、アキコはいった。 「私はとにかく、早瀬兄妹を探したい」  と、十津川はいった。 「駄目ですよ。医者の話では、一週間の静養が必要ですわ。病院がお嫌なら、私の家で静養なさればいいわ」 「そんな余裕はないんです。早瀬が逮捕されてしまったら、もう助けられなくなります。その前に何とか見つけて、この国から脱出させたい」  と、十津川はいった。 「無理はしないで下さいよ」  と、アキコはいった。  それでも、彼女が帰ってしまうと、十津川は、ベッドから起き上ってみた。  胸の痛み、頭痛、手足も痛い。だが、何とか歩けそうだった。時間をかけ、ゆっくりと着がえて、十津川は、ひそかに病院を脱け出した。  街灯の中に、あのタクシーが横倒しになっているのが見えた。  群衆が使った棒切れや、鉄材が散乱し、焼けた日の丸が落ちていたりする。  しかし、車が往きかうだけで、デモ隊の姿は、見られなかった。  けばけばしい装飾をほどこしたジプニーが、サイレンを鳴らして通り過ぎていく。元のマニラ市内に戻ったような感じだが、アキコのいうように、次に何が起きるのか、見当がつかなかった。  十津川は、何か情報をつかみたくて、日本大使館へ行ってみることにした。  大使館の前には、臨時のバリケードが作られ、市警の警官が五、六人、警護に当っていたが、ここにも、デモ隊の姿はなかった。  十津川は、受付でパスポートを見せて、中に入れて貰《もら》った。  柴田という書記官が、会ってくれた。  十津川は、正直に早瀬の大学の同窓であることを告げ、 「彼と彼の妹について、何か情報が入っていませんか?」  と、きいた。柴田は、 「残念ながら、これといった情報は入っていません」 「デモ隊が来ていませんね」 「それで、ほっとしているところです。昨夜から今朝にかけては、大変でした。投石で窓ガラスは割られるし、火炎びんまで投げられましたからね」 「火炎びんもですか?」 「ええ。警察も止められなかったみたいでね」 「マニラ市警は、積極的に止めることはしなかったんじゃありませんか?」  と、十津川がきくと、柴田は苦笑して、 「私の口からは、何とも申し上げられませんが──」 「しかし、今、デモ隊が一人もいないところを見ると、急にマニラ市警が、規制を始めたということじゃありませんか?」 「───」 「何か情報があるんじゃありませんか?」  と、十津川はきいた。 「内密にして頂けますか?」 「もちろん、そのつもりで私はお聞きしています」 「今度の事件に対するマニラ市警の、というより、フィリピン政府の態度が、急に変ったという感触を持っています。私だけでなく、村越大使も同じ感触を持たれています。最初、フィリピン政府もマニラ市警も、ミスター・サントス殺しの犯人は日本人と決めつけて、デモ隊の行動を是認しているところがありましたね。大衆の不満の捌《は》け口を、反日感情の方向へ持って行こうとしたのではないか。ミスター・サントスは、大衆に人気のあった記者でしたから。ああ、これは、あくまで私の独り言だと思って下さい。正直にいって、この大使館に押しかけたデモ隊の規制も、強いものではなかったですよ。ただ、犯人が日本人というので、こちらも、フィリピン政府やマニラ市警に対して、抗議はしませんでした。警備を厳重にしてくれと、要請はしましたがね」 「その状況が、急変したということですか?」 「そうです。ただ、その理由がわからなくて、困惑しています。大使館としては、情報収集に全力をあげているんですがね」  と、柴田はいった。 「犯人が日本人でないことが、わかったんじゃありませんか?」  と、十津川はきいた。 「それも考えてみました。しかし、それだけなら、マニラ市警の態度が変っても、フィリピン政府の態度まで変ることはありません。殺人事件は、あくまでも警察の所管ですからね」 「では、何が起きたと思われるんですか?」 「今もいったように、それをわれわれも知りたいと思っているのですがね」  と、柴田はいった。      4  十津川は、早瀬友美がいっていたテープのことを思い出していた。  早瀬は、サントスに会い、話し合いをテープにとった。  それを聞けば、早瀬がサントス殺しの犯人ではないことがわかる筈だった。和気あいあいの話し合いが録音されていれば、早瀬が殺すことはあり得ないからである。  十津川はそう思い、友美がそのテープを警察に持って行くのを、必死で助けたのだが、ひょっとすると、そのテープにはもっと重大なことが入っていたのではないだろうか。  だからこそ、サントスは、早瀬が会った直後に殺され、犯人は早瀬を犯人に仕立てあげて、彼をも処分してしまおうとしたのではないのか。 (だが、早瀬はなぜ、姿を消してしまったのだろうか?)  それが、十津川にはわからないし、じれったいのだ。  サントスとの話し合いで、重大なことが明らかになったのなら、なぜ、それを自分でマニラ市警に通報しないのか。それに彼は、姿を消して何をしようとしているのだろうか? 「十津川さん。病院に行かなくて大丈夫ですか?」  と、柴田が、心配そうにきいた時、若い大使館員が、彼を呼びに来た。  何か、あわただしい感じがした。柴田を呼びに来た若い大使館員の表情が、ひどく緊張し、かたかったからである。  十津川は、外に出ると、アキコに電話をかけた。  十津川が、何かわかりましたかときくと、 「何か変ですよ。私ね、何とか早瀬さんを助けたいと思って、コネのある政治家や実業家に、片っ端から電話をしているんですけどね。主な政治家や実業家は、みんな留守なの」 「それは、どういうことなんですか?」 「私の勘ではね、政府が、緊急会議を開いているんじゃないかと思うんですよ。そんな空気が感じられるんです」 「何か事件が起きて、その対策のための緊急会議ということですか?」 「ええ。もちろん」 「そういえば、今、日本大使館にいたんですが、様子がおかしい。私と話していた書記官が、急に呼ばれて行きましたからね」  と、十津川はいった。  いぜんとして、通りにデモ隊の姿はない。昨日は、あれほど暴れ廻った群衆は、どこへ消えてしまったのだろうか? あのデモ隊も、警察がコントロールしていたのか。 「殺されたミスター・サントスが、何か重大なことをつかんでいたのかも知れませんわね」  と、アキコがいう。 「私も、そう思いますね」 「あの人は、政界にも財界にもアンテナを張っていて、特ダネをつかむことで有名な記者さんだったんです。だから、政界をゆるがすような情報をつかんだんじゃないかしら?」 「ただ、それをなぜ、早瀬に話したのかが、わからないんですよ」  と、十津川はいった。 「話したんですか?」 「そんな気がしているんです。だから、サントス殺しの犯人に、彼が仕立てあげられたと推理しているんですが」 「おかしいわ。フィリピン政界をゆるがすような情報を、ミスター・サントスがつかんだとして、それを彼が、日本人に話すとは思えませんけどね」 「その通りです」  と、十津川はいった。 (だが、早瀬との対談で、サントスが話したとすると──)  十津川は、受話器を持ったまま、考え込んだ。 「十津川さん。大丈夫ですか?」  と、アキコが、心配そうにきいた。  十津川は、まだ考えがまとまっていなかったが、 「もし、ミスター・サントスのつかんだ情報が、日本人がらみのことだったら、彼は、早瀬に話したかも知れませんね」 「ええ。その可能性はありますよ。でも、そんなことがあり得るかしら?」  と、アキコがきく。 「一つだけ、可能性はあるんですが──」 「どんなこと?」 「それを、これから確めに行って来ます」 「十津川さん」 「はい」 「危険なことは、なさらないで下さいよ」  と、アキコはいった。  十津川は電話を切ると、内藤が泊っているホテルに、足を向けた。  日本人がらみの事件ということで、まず十津川の頭に浮んだのは、内藤のことだったからである。  内藤は今回、日比親善に功績があったというので、勲章を貰うことになって、フィリピンに来ている。  内藤は、日本の政界、財界にもコネを持っている。それを利用して、日本とフィリピンの間で、利益をあげることを考えている男である。  その内藤のことを、早瀬は追及してきた。内藤のことや、永田のことをである。  サントスは、そのことを知っていたから、彼は早瀬に、自分の特ダネについて話し、意見を求めたのではあるまいか?  ホテルの前まで来た時、十津川は、そこに異様な空気を感じた。  警察ではなく、軍隊の装甲車がとまっていて、ホテルの周辺だけ、まるで戒厳令が布《し》かれているような雰囲気だったからである。  入口には銃を持った兵士が立ち、出入りする人間をチェックしていた。  十津川も、入ろうとすると、兵士に阻止されてしまった。  仕方なく、ホテルの中をのぞき込んでいると、兵士に両腕を抱えられるようにして、一人の日本人が出てきた。  内藤だった。  続いて、彼の秘書の高良《こうら》も、同じように兵士に押さえられ、引きずられるように連れ出されてくるのが、見えた。  内藤は、何かわめいている。が、兵士たちは、能面のような顔で答えず、二人を軍の車に押し込めた。  軍隊は、二人を車に収容すると、一斉にホテルの前から走り去った。  凍てついていた空気が、急に溶けた感じだった。  だが、代りにサイレンを鳴らして、警察のパトカーが、一台、二台と駈けつけた。  十津川は、構わずにホテルに入って行った。その横を、警官が足音荒く、走り抜けて行く。  十津川は、彼等の後を追う恰好で、階段をあがって行った。  上の方で、ホテルのマネージャーが、青い顔で警官たちを迎えた。  一つの部屋の前に、血まみれで男が倒れていた。血は、床にまで流れている。その血は、すでに乾いて、変色している。  十津川の表情が、変った。 「早瀬──」  と、十津川は、呟《つぶや》いた。      5  十津川は、思わず跪《ひざまず》いて、早瀬の身体を抱きあげた。  とたんに、 「お前は、誰だ?」  と、鋭い声が飛んできた。  眼をあげると、そこに、M16自動小銃を持った兵士が立っていた。他にも、兵士の姿が見える。 (まだ、兵士が残っていたのか)  と、十津川は思いながら、 「友人《フレンド》だ!」  と、叫ぶようにいった。 「彼は、もう死んでいる」  と、兵士はいった。 「わかってる。誰が、彼を殺したんだ?」  と、十津川はきいた。 「ナイトーを殺そうとして、彼のボディガードに射殺された。われわれも、彼等を二人殺した」  と、兵士はいった。  なるほど、部屋の奥に二人、倒れているのが見えた。 「何が、どうなってるんだ?」  と、十津川は、早瀬を抱いたまま、きいた。 「その質問には、答えられない」  と、兵士は、厳しい顔でいった。  警官二人が毛布を持って近寄って来て、十津川に、 「その遺体は、われわれが収容する」  と、いった。 「何処へ?」 「メトロ・マニラの市警察署だ。そこに妹がいると聞いている」  と、警官の一人がいった。  早瀬の妹の友美は、警察署へ辿《たど》り着くことに成功したらしい。 「私も一緒に行きたい。この男の妹とも知り合いだ」  と、十津川はいった。  二人の警官は、顔を見合せていたが、一人が、「いいだろう」と、いってくれた。  早瀬の遺体は毛布にくるまれ、ホテルを出ると、トラックの荷台にのせられた。十津川は、同じ荷台に乗った。  パトカーが先導して、走り出した。  街の様子は、また変ってしまっていた。さっきは、ホテルの周辺にだけ軍隊が集り、装甲車がとまっていたが、今は、街の角という角に、装甲車や戦車がとまり、銃を持った兵士がいた。  どうやら本物の戒厳令だと、十津川は思った。いったい、何があったのか?  マニラ警察署も、重苦しい空気に包まれていた。警官も、ぴりぴりしている。  十津川は、受付のところでしばらく待たされてから、友美のいる部屋に案内された。  彼女は、眼が朱《あか》かった。 「兄さんが──」  と、十津川がいうと、友美は、 「今、会って来ました」  と、かすれた声で、いう。 「街には軍隊があふれて、戒厳令が布《し》かれたみたいだが、友美さんは、その理由《わけ》を知っていますか?」  と、十津川はきいた。 「私にもわかりませんけど、私がここに、兄に頼まれたテープを持って来てから、様子がおかしくなったんです」 「じゃあ、ここにテープを持ち込めたんだ?」 「ええ。最初はなかなか相手にしてくれなかったんだけど、やっと聞いてくれたと思ったら、署長さんが顔色を変えてしまって。あとは、どうなっているのかわからないわ」 「友美さんは、テープの内容は知らないんですか?」 「ええ。ここの警察の人に聞いても、教えてくれないんです」  と、友美はいう。  十津川は電話を借りて、アキコに連絡を取った。  十津川が名前をいったとたん、アキコは、 「大変なことになりましたよ。マニラ全市に戒厳令が布かれたの」 「知っています」 「今、何処?」 「マニラ警察署です。早瀬の妹さんと一緒です」 「なぜ、警察に?」 「早瀬が死んで、遺体がここに運ばれたんですよ」 「ミスター・ハヤセが? まさか、戒厳令の兵士に射殺されたんじゃないでしょうね?」 「それなら、私も彼の妹も、今頃拘束されてしまっていますよ」 「それで安心しましたよ」 「戒厳令の原因は、何なんですか?」  と、十津川は、きいた。何よりも、それを知りたかったのだ。 「詳しいことはわからないんですけどね。フィリピンのある組織が、日本人の有力者から資金援助を受けて、今の政府の転覆を計画していたことが、発覚したらしいの。軍隊の一部にも、それに加わっている者がいるとかで、大さわぎらしいわ」  と、アキコはいった。 「日本人から、資金援助?」 「ええ」 「なるほどね」  と、十津川はいった。  少しばかり、謎が解けてきた感じがした。 「十津川さんは、何か知っているの?」 「見当がついた感じがするんです。フィリピンの組織というのは、ロドリゲスという男が社長をしている警備会社じゃないかと思いますよ。フィリピン最大の警備会社だという──」  と、十津川はいった。 「あの会社ね。あの社長さんは、元兵士をどんどん採用していたし、退役将校を幹部にしたりしていたから、軍隊の中にコネが出来ていたと思いますよ。きっと、そんなことで軍隊の不満分子とつながりが出来たのかも知れないわ」  と、アキコはいった。 「日本人から資金が出ていたとなると、大使館の対応が大変ですね」  と、十津川はいった。 「そうなの。大使館の知り合いに電話したら、今、声明文の草稿を必死になって作っているところだといっていましたよ」 「声明文ですか?」 「日本政府は、今回の事件に全く関係はないという声明文でしょうね。ねえ。十津川さん。資金援助をしていた日本人というのは、心当りがあるんですか?」  と、アキコがいう。 「内藤だと思います」 「あの内藤さんが──?」 「ええ。さっき、逮捕されるのを目撃しましたからね」 「フィリピン政府から、勲章が渡されることになっていたのに?」 「内藤が欲しいのは、勲章なんかじゃなくて、金ですよ。自分に都合のいい政府がフィリピンに生れれば、もっと儲かる。ロドリゲスは、自分たちの力で政府を転覆させ、自分が政権を取ろうとしていた。二人が親しくなり、話し合っているうちに、利害が一致しているとわかり、内藤は、資金援助をしていたんじゃありませんか」 「怖い人ね」  と、アキコは、電話の向うで溜息をついてから、 「それで、ミスター・ハヤセは、どうして死んだんですか?」 「多分──」  と、いいかけて、十津川は、 「わかりません。また電話します」  と、受話器を置いてしまった。      6  サントス記者は、フィリピンの政界のことを調べていた。その調査の中で、ロドリゲスたちの不穏な動きと、日本人が彼等に資金援助をしているらしいことに、気付いたのだろう。  一方、早瀬は、内藤の動きを必死になって追っていた。  その二人が、会って話し合っているうちに、ロドリゲスたちに資金援助をしている日本人というのは内藤で、彼の『日比愛の鎖』の会だということがわかってきたに違いない。  だからこそ、二人の話を録音したテープでマニラ市警が動き、フィリピン政府が狼狽し、戒厳令が布かれたのだろう。  ロドリゲスの部下は、二人が自分たちにとって危険な存在と気付いて、サントスを殺し、その犯人に早瀬を仕立てて、口を封じようとしたのだ。  だが、なぜ早瀬は、内藤を殺しに、あのホテルに行ったのだろうか?  日本人の内藤が、フィリピン政府の転覆を計画している人間に、資金援助をしていた。  そんな日本人内藤の行動に、同じ日本人として、結着をつけなければという義務感だったのだろうか?  それとも、友人の永田の仇を討とうとしたのだろうか?  早瀬が死んでしまった今となっては、そのどちらかわからない。  今になってみると、もう一つ思い当ることがあった。早瀬が、永田を追い廻していた理由である。永田は、内藤の殺し屋として働いていた。とすれば、内藤がロドリゲスたちに資金援助していることに、うすうす気付いていたのではないか。早瀬は、それを永田の口から聞きたくて、彼を追いかけていたのではないのか。それも、今となってはわからない。  十津川は、友美のところに戻ると、戒厳令の理由を教えた。  友美は、暗い顔で、 「私は、一刻も早く、兄の遺体を日本へ運んで、ダビに付したいんです。私たちも、しばらく拘束されてしまうんでしょうか?」  と、いう。 「そんなことはないでしょう。あなたは、今のフィリピン政府を救ったんだから」  と、十津川はいった。  十津川は、友美と一緒に、署長に掛け合うことにした。  署長は、当惑した顔で、 「目下戒厳令が布かれているので、何事も、許可が必要です」 「いつ、戒厳令が解除されるんですか?」 「それもわかりません」 「では、解除されたらすぐ、遺体を日本へ運ぶ許可を下さい」  と、十津川はいった。 「本来なら、ミスター・ハヤセは事件の当事者なので、難しいのですが、特別に許可しましょう。ただし、条件があります」  と、署長はいった。 「どんな条件ですか?」 「お二人とも、テープのことは絶対に口外しないと約束して下さること。それが、条件です」  と、署長はいった。 「わかりました」  と、十津川はいい、友美も肯《うなず》いた。  署長は、ほっとした表情になって、 「ミスター・ハヤセの遺体は、戒厳令が解除されるまで大切に保存し、柩もこちらで用意します」  と、いった。  二十四時間後、戒厳令が解除された。  政府から初めて、戒厳令の経緯が発表された。  政府転覆を計画した罪で、ロドリゲス社長以下八人の警備会社幹部が逮捕され、青年将校十二名も逮捕された。  また、彼等に資金援助をしていた日本人五人も、逮捕された。  内藤や高良《こうら》秘書の名前が出なかったのは、日本との外交関係を考慮してのことだろう。  また、日本大使館は、大使の名前で遺憾の意を表明し、日本政府は無関係であると発表した。  日本政府も、首相がフィリピン大統領に遺憾の旨をいい、両国の友情が傷つかないことを願うと伝えた。  マニラ市警は、約束を守って、立派な柩を用意してくれた。  また、それを飛行機で運ぶ手続きも取ってくれた。  日本では冬の季節だが、マニラ空港は、ぎらぎらする太陽が照りつけていた。  十津川と友美は、早瀬の柩が貨物機に積み込まれるのを見守ってから、同じ日のフィリピン航空の搭乗手続きをした。  十津川は乗る前に、ロビーで新聞をいくつか買った。  今度の事件のことを、フィリピンの新聞がどう伝えているか、知りたかったからである。  飛行機に乗り込んでから、十津川は、新聞を広げた。  フィリピン政府の発表を、そのまま何の論評も加えずに伝える新聞が多かった。  中には、「日本人が、金でフィリピンを支配しようと企んだ」と、感情的に書いた新聞もあった。  死んだサントスの友人で、同じ記者仲間が書いた一文をのせた新聞があった。 [#ここから1字下げ] 〈今回起きた政府転覆計画が、なぜ未然に防ぐことが出来たか。その理由について、政府も、軍も、警察も、一切発表していない。 私は、その理由について、一つのエピソードを紹介しよう。それを信じるも信じないも、自由である。政府は、恐らく否定するであろうから。 フィリピンを、真に愛するフィリピンの記者が、一人いた。 また、日本を真に愛する日本人のカメラマンがいた。 フィリピンの記者は、政界の不正を容赦なく告発してきたのだが、その調査の途中で、ひとにぎりの人間たちが軍の不満分子と結託して、政府転覆を計画していることを知った。 一方、日本人カメラマンは、自分の利益のためにフィリピンと日本の友好を口にしている日本人たちを、追及してきた。その過程で、一部の日本人が、犯人たちに資金援助をしていることを知った。 この記者とカメラマン二人によって、政府も転覆計画の存在を知り、素早く手を打つことが出来たのである。 私は、今の政府が最善とは思っていない。不満も多い。だが、もし犯人たちが政府転覆に成功していたら、必ずファッショの嵐が吹き荒れたことだけは、間違いない。その危険は、この二人によって防ぐことが出来たのである。 彼等はまた、このために尊い命を落した。 ここに、心から二人の冥福を祈らずにはいられない〉 [#ここで字下げ終わり]  十津川が、この署名記事を読み終ってすぐ、機内アナウンスがあって、飛行機は滑走を始めた。  スピードが次第にあがってゆき、十津川と友美を乗せたフィリピン航空のボーイング747は、急角度で上昇して行く。  十津川は、窓から下界に眼をやった。  空港が、どんどん小さくなって行く。  次に、マニラの街が小さくなって行き、やがて全てが見えなくなった。  初出誌 「週刊文春」平成七年一月五日号〜平成七年八月三日号  単行本 平成八年七月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十年十二月十日刊