江戸小咄春夏秋冬 春 興津 要 [#表紙(表紙-春.jpg、横180×縦240)] 表紙絵  広重作「名所江戸百景」より「亀戸梅屋敷《かめいどうめやしき》」……亀戸は天神様でよく知られているが、梅屋敷はそこからそれほど遠くない場所にあり、梅の名所であった。かつてはそのなかに地上をのたくるように伸びた巨大な梅の老木があり、訪れた水戸光圀によって「臥竜梅《がりゅうばい》」と名づけられた。元は呉服商の別荘だったが、のちには茶屋や料亭もでき、鯰《なまず》や鯉《こい》の料理を食わせたという。 [#改ページ] 目 次  梅  鶯《うぐいす》  白魚《しらうお》  初午《はつうま》  猫の恋  蕗《ふき》の薹《とう》  雛《ひな》祭り  汐干狩り  赤貝  さざえ  蛤《はまぐり》  摘《つ》み草  柳  蛙  蛇、穴を出《い》ず  蜂  春の宵  桜鯛《さくらだい》  桜  春眠《しゅんみん》 [#改ページ] 梅  白梅に明くる夜ばかりとなりにけり 蕪村  艶麗な、浪漫的な美を追求しつづけた蕪村は、死の床においても、幽艶、典雅な白梅匂う夜明けの詩情を夢見ていた。 〈梅〉は、中国語の音〈メ〉の日本語化という語源説もあるように、中国の遠いむかしをしのばせる幻想的イメージがある。 ◆花さきおとこ 「むかしの花咲きじじいは、灰をまいて、花を咲かせたということ。それよりは、ぐっとめずらしい。屁《へ》をひって、花を咲かせる。それは見物ごとだ〔見る価値がある〕」  と、呼びよせたところが、かの男、庭の梅の木のもとへゆき、尻をまくって、ひると、室《むろ》咲きなどは思いもないこと〔温室咲きみたいなチビたものでなく〕、一面に花が咲いた。みなみな、 「これは、これは、奇妙なことだ」  と言えば、かの男、 「こればかりではない。この花のあとを、お目にかけよう」  と言えば、そばから、 「これこれ、実《み》は、ごめんだ」……天明八年刊『下司《げす》の知恵』 〈屁の実〉では、香りも高き〈黄金の実〉なのだから、誰でも敬遠するはず。  神秘的な美しさを持つ梅であってみれば、〈花盗人〉もあらわれた。 ◆梅枝  殿様ご秘蔵の梅を、隣り屋敷より、たびたび枝を折るゆえ、もってのほかのご立腹。  見つけしだい手討ちにするとの御意《ぎょい》。  御側衆《おそばしゅう》〔側近の家来〕、たって〔なんとか〕おなだめ申し、 「私儀〔わたしが〕、よろしく取りはからい申すべき」  とて、御|請《う》け申し、梅の枝へのぼり、狼藉《ろうぜき》あらばと待ち居しに、枝を折らんと差し出す手をとり見れば、十七、八なる美婦なり。 「どの枝が御《お》のぞみ」……安永四年正月序『一のもり』  花盗人が、〈梅の精〉を思わせる美女ともなれば、主命も忘れて、お好みの枝を進呈する気になるのも、フェミニストとしてはやむをえぬ。 [#改ページ] 鶯《うぐいす》 ◆元日 「あれ、聞きやれ。一夜明けたりゃ、もう、鶯が鳴く」  と、いえば、鶯聞いて、 「おれが、元日を知って鳴くものか」……安永七年正月序『福の神』  鶯は、春告鳥《はるつげどり》の名もあるように、春の小鳥の代表的存在で、梅の花の咲くころから鳴きはじめる。  ところが、室《むろ》咲きの梅を元旦の床の間に飾るのと同じように、とくに早く鳴かせるように育てて、元旦の床の間に置き、その鳴き声を、めでたさの象徴として聞く風習もある。  それは、人工的につくった鳴き声なのだから、「おれが、元旦を知って鳴くものか」と、鶯がタンカを切るのも当然だった。  鶯の語源は、はっきりしない。  鳴き声による名称という説が多いが、〈うく〉は〈奥〉、〈いす〉は〈出ず〉で、〈奥出ず〉の意、すなわち、春に幽谷《ゆうこく》を出て大木に移る意という説もあり、巣をつくるさまによるという説もある。  鶯の身をさかさまに初音《はつね》かな 其角  早春、梅のつぼみのほころびるころ、鶯の初音を聞くことができるが、それは、この句のように、身をさかさまに鳴く|せつなさ《ヽヽヽヽ》が秘められているの感がある。 ◆鶯 「これは、これは、ようこそおいでなされました。この間、紅毛《おらんだ》の鶯を、長崎|表《おもて》より求めました。お目にかけましょう。こなたへお通りなされまし」  と、奥へ通したところが、籠《かご》のなかに二羽いるゆえ、 客「これは珍物。格別《かくべつ》、鳥も美しゅうござる」  と、いううち、一羽の鶯、 「すっぺらぽう」  と、鳴く。 客「いかさま〔いかにも〕、おらんだの鶯は、また、啼《な》きようも面白うござる」  と、いううち、また、一羽の鶯、 「ホウほけきょう」  と、鳴く。 客「あれは、やはり和〔日本〕の鶯ではござらぬか」 亭主「はい、それは通辞《つうじ》〔通訳〕でござります」 ……享和二年正月序『そこぬけ釜』  おらんだと日本の鶯とでは、鳴き声も違うのか? [#改ページ] 白魚《しらうお》  白魚をふるい寄せたる四つ手かな 其角  黙阿弥《もくあみ》の『三人吉三廓初買《さんにんきちさくるわのはつかい》』のなかの「月も朧《おぼろ》に白魚の篝《かがり》も霞む春の空……」というお嬢吉三《じょうきちさ》のせりふは、佃島《つくだじま》の漁師たちが、早春の候、隅田川に多くの船をくり出し、かがり火をかかげて、四つ手網で白魚漁をおこなう光景だった。  とくに、佃島の漁師たちが、白魚を将軍に献上する習慣だったので、白魚は、江戸名物として珍重され、明治時代までは、隅田川名物になっていた。ただし、  このもの、諸国に産多し。しかれども、尾張名古屋より出ずるものを上品《じょうぼん》とす。東海にも昔はなかりしを、当将軍家に至りて、名古屋より魚苗を取りて、武州品川表の内海に入れさせたもうて、当代は江戸の海にも白魚産するといえり。……『滑稽雑談』  というように、名古屋から江戸へ移入された白魚が、江戸名物になったのだった。  古い都々逸《どどいつ》に、  佃育ちの白魚さえも花に浮かれて隅田川……  という文句があるが、〈花〉を背景にした白魚の小咄がある。 ◆魚  鮒《ふな》と白魚と、ぶらぶら連れ立って、下谷《したや》辺から上野の花を眺めて、 「白魚先生、酒でも飲もうじゃあねえか」 「それよりは、一分〔一分金〕あるによって、四六《しろく》〔夜四百文、昼六百文の〈四六見世〉〕へあがろう」 「おれは、いやいや」 「なぜ」 「つりがいる」……寛政九年刊『琉球人大帳』  一分金を持って〈四六見世〉へあがれば「つり」が来る。「釣り」は魚にとっては命取りだ。 [#改ページ] 初午《はつうま》  初午や畠の梅の散り残り 惟然《いねん》  二月最初の午《うま》《うま》の日を初午といい、早春のこの日は、全国の稲荷の祭日として知られる。それは、和銅四年〔七一一〕の二月初午の日に、京都伏見の稲荷神が、三ヶ峯に降臨した縁起に由来している。  初午の都をさして狐かな 北枝《ほくし》  狐が稲荷神の使者とされているので、赤飯をたき、狐の好物の油揚げがそなえられる。 ◆馬のふん  初午稲荷参り、にぎにぎしく、いろいろの商《あきな》い店。  なかにも餅屋《もちや》の思い付きにて、きらず玉〔|おから《ヽヽヽ》のかたまり〕を餅につきまぜ、外々のよりは大きに餡《あん》つけ、売りけるに、狐の子、稲荷の賽銭《さいせん》盗み、店に立ちかかり、 「おっさん、ありゃ、みな餅かえ」 「左様《さよう》左様、買いなされ。えろううまい」  狐の子、 「ムウウ」  と、いいながら、眉に唾《つば》つけた。……寛政七年正月序『軽口筆彦咄』  狐のほうが、化かされぬ|まじない《ヽヽヽヽ》に、眉に唾をつけたというのも、稲荷祭りのにぎわいに乗じた悪徳商法を警戒する予防策だった。  初午や物種子《ものだね》売りに日のあたる 蕪村  稲荷が農業の神と信じられていたので、農村では、春の農耕開始前の初午の日に、この神を祭る風習があった。  江戸では、とくに稲荷信仰がさかんで、下町の大きな商家では、庭に稲荷の祠《ほこら》を持っている家が多かった。  それは、田沼|意次《おきつぐ》の異例の出世は、屋敷内の稲荷の加護によるという説から、開運、福徳の神として、稲荷社が多数|勧請《かんじょう》されたことも一因だという。  江戸名物として多くの名称があげられるなかで、「……伊勢屋、稲荷に、犬のくそ」といわれるくらいに稲荷の社が多く、初午の日には、江戸の各所で太鼓の音が聞え、赤いのぼりが立てられ、稲荷燈籠、地口行燈《じぐちあんどん》が立て並べられて、おとなも子どもも祭りを楽しみ、赤飯と煮しめで祝った。  はつ午や煮しめてうまき焼き豆腐 久保田万太郎  この風習は、昭和初期まで濃厚に残っていた。  初代柳家小せん〔大正八年・一九一九没〕口演の落語「明烏《あけがらす》」の巻頭で、うぶな若旦那が、稲荷祭りから帰った場面は、往年の初午の日の実態を活写していた。 「ええ、今日は初午でございますから、横町のお稲荷様のお祭りで、只今、参詣をして参りました」 「ああ、そうですか。にぎやかだろうね」 「へい、地口行燈というものが掛《かか》っておりまして、いろいろ見て参りましたが、随分|風《ふう》の変っていたのがございました」 「そうかえ」 「いろいろありましたなかに、私にわからないのがありました。天狗様の鼻の上に烏が止まっております」 「地口の絵はおもしろいね。なんと書いてありました」 「はな高きが上に飛んだからすと書いてございました。あれは、おとっつぁん、私の考えますには、実語教にあります、山高きがゆえに貴《たっと》からずの間違いではなかろうかと存じますが……」 「これは恐れいったね。そこが地口なのだよ。間違いではない。わざと、そうしゃれてるんですよ」 「それから、お稲荷様へ参詣を致しましたが、善兵衛さんがいらっしゃいまして、若旦那、お赤飯を、ひとつ召しあがれと申しましたから、御馳走になって参りました」 「困りましたね、それは。地主のせがれが、地面中のお稲荷様へ行って、お赤飯を御馳走になっちゃいけませんね」 「それに、お煮染《にしめ》が、たいそうおいしくできておりましたから、おかわりを致しました」 ——それは、心浮き浮きとした一日だった。  明日から手習《てならい》だあとたたいている〔柳45〕  江戸時代には、七歳ぐらいで寺子屋へ通いはじめたが、初午の翌日からというのが例になっていたから、|わんぱく《ヽヽヽヽ》小僧は、最後の遊びだとばかりに盛大に太鼓をたたいていた。  はつ午の日から夫婦はちっと息《いき》〔宝十三・智〕  わんぱく坊主が、寺子屋へ通うために、半日ぐらいは家にいなくなるし、師匠の教育によって、すこしはおとなしくなるというので、両親も、ほっとひと息というところだった。 [#改ページ] 猫の恋  猫の恋|初手《しょて》から鳴きて哀れなり 野坡  声たてぬ時が別れぞ猫の恋 千代女  菜の花にまぶれて来たり猫の恋 一茶  猫の発情のもっとも多いのは、早春から初夏にかけてであり、メス猫は、鳴きながら歩き廻り、オス猫も赤ん坊のような声を出してメス猫に求愛する。  この時期の猫は、食事もとることなく、一週間、十日間と家を出たままで、すっかりやつれて戻って来る。  まさに〈恋やつれ〉の哀れさのなかに生きている。  世はさまざまで、猫の恋にあやかろうという人間もいた。 ◆夜ばい  家内ひっそり寝入った時分に、六介そっと起きいで、おさんどのの部屋をこころざして抜き足で行くに、上板《うわいた》〔台所の取りはずしできる板〕がギチギチ。 隠居「誰だ」 六介「ニャアン」 隠居「猫か」 六介「はい」……安永二年刊『今歳咄』  これではまずい。 ◆猫  子供の多いひとが、六十にあまりて〔六十歳すぎて〕、また、ひとりできる。  ねんごろなる者〔親しい者〕見舞いに来て、 「おめでとうございます」  と、いえば、 亭主「もうはや、できねえでもいいに、年よって〔年をとって〕、陰事《いんじ》〔性交〕なぞもつつしむけれど」  と、いえば、こたつの上の猫が、亭主の顔を見ておかしくなり、 「ニャアプウー」……寛政十年正月序『鶴の毛皮』  猫をあきれさせ、吹き出させるほどのスタミナじいさんには、〈恋やつれ〉の影もなかった。  ちなみに、〈猫〉の語源説は数が多い。  朝鮮からはいって来たから、古代朝鮮の一国〈高麗《こま》〔高句麗《こうくり》〕〉にかかわりのある〈寝高麗《ねこま》〉の略だという説、よく寝るから〈寝子《ねこ》〉だという説、ニャウ、ネウという鳴き声によるものだとの説などが主なものだが、〈寝子〉説が優勢のようだ。 [#改ページ] 蕗《ふき》の薹《とう》  山陰やいつから長き蕗の薹 凡兆《ぼんちょう》  蕗は、キク科の多年草で、山野に自生することが多いので、この句も詠まれた。  早春、新葉に先だって、大形の苞葉に包まれた花茎、すなわち〈蕗の薹〉を生じ、多くの細かい花を開く。 〈ふき〉とは、冬に黄色の花が咲くところから〈冬黄〔フユキ〕〉の〈ユ〉を略した語とも、〈フフキ〉〔ふきの古名〕の略称ともいう。 〈フフキ〉は、〈葉大草〔ハオオキ〕〉の意味との説がある。 ◆籏頭《はたがしら》 「熊谷直実《くまがいなおざね》〔鎌倉初期の武将。一の谷合戦で、平|敦盛《あつもり》を斬った〕は、士《し》之|党《とう》の籏頭〔ここは侍大将の意〕だというのだが、敦盛は、何のとうだ」 「あれは、最期まで青菜の笛を持たれたから、ふきのとうであろう」 ……安永三年刊『茶のこもち』  青菜の笛を吹いて討たれた平家の公達《きんだち》にふさわしく、吹きの党〔蕗の薹〕は、きれいな地口《じぐち》といえる。 [#改ページ] 雛《ひな》祭り  桃ありてますます白し雛の顔 太祇《たいぎ》  消えかかる燈《ひ》もなまめかし夜の雛 蓼太  平安時代には、貴族の幼女たちのあいだで、ふだんの日に雛遊びがあったようだが、三月三日に雛人形をかざり、桃の花や雛菓子をそなえて、白酒で祝う桃の節句のかたちは、江戸時代に、しだいにととのっていった。  江戸初期には、紙雛に菱餅《ひしもち》や白酒をそなえていたが、元禄〔一六八八〜一七〇四〕ごろになると、布製の内裏雛《だいりびな》も売り出され、これ以後、人形製作技術の進歩と商品化が進展したことによって、各種の人形や調度類が雛段に飾られるようになった。  雛段には、内裏雛以下、官女、大臣、五人ばやし、仕丁、諸調度を並べる形式も江戸後期には固定して、桃の節句には、女児に雛人形を送る習慣も普及した。 ◆びいどろ  となりの小僧が折檻《せっかん》にあうそうで、 「ギャンギャッ」  と、泣くを聞いて、 「どうした、どうした」  と、行《い》てみたれば、内儀《おかみ》が、 「まあ見ておくれなされ。大事の雛様の徳利の口へ、しょせんもない〔しようのない〕、指をいれて、それが抜けないから、火鉢へぶっつけ、徳利を打ちこわしました」 「そりゃ悪かった。もうもう堪忍《かんにん》してやりなさい。そんなことは、よくあるやつさ。おらも若い時、おやじの溲瓶《しびん》〔寝床の近くなどに置いて、小便のときに使う容器〕へ、何がヒョイとはいって、ハア、ちと用があった。また、晩に来て咄《はな》しやしょ」……安永二年閨三月序『御伽咄《おとぎばなし》』 〈おやじの溲瓶〉へはいったモノがモノだけに、晩に来ても、続きは話しにくかろう。  店へ出る雛《ひいな》に桃のつぼみかな 許六《きょろく》  江戸では、二月末から三月二日まで雛市が立ち、人形や器物を売った。  十軒店《じっけんだな》〔現中央区日本橋室町三丁目のうち〕が、もっともさかんだったが、本町《ほんちょう》〔現中央区日本橋本町一〜四丁目〕、尾張町《おわりちょう》〔現中央区銀座五、六丁目〕、芝神明前〔現港区|大門《だいもん》一丁目のうち〕をはじめ数か所でおこなわれた。  なお、地方によっては、三月の節句に、古雛を川へ流す風習があるが、これは、古代、形代《かたしろ》でからだを撫で、けがれを形代にうつして川へ流したという〈はらいの行事〉の名残りであろう。 〈ひな〉は、鳥の子が、〈ヒヒとナク〉ところから出たことばで、これが、女子などの玩具にするちいさい人形に転用されたのでもあろうか。 [#改ページ] 汐干狩り  三月の三日四日も汐干かな 許六  陰暦三月三日ごろは、春の彼岸の大潮で、一年のうちで、もっとも潮の干満が大きいので、海辺も遠くまで干《ひ》あがる。  そこで、アサリ、ハマグリなどを獲《と》りに行くひとたちが多かった。  ぱらりっと汐干は人をまいたよう〔柳27〕 「ぱらりっと……人をまいたよう」という表現が、いかにも川柳らしいが、それがまた、実景を巧みにえがいていた。 ◆たこ  大勢もよおして〔さそって〕、汐干に出たれば、大きな蛸《たこ》を手捕りまえにした。 「これは、とんだこと。大のきまり〔上首尾〕。まあ早く料理して食おう。酢《す》蛸がよかろう」 「いや、甘煮《うまに》にしたがよい」 「なに、煮汁にして食らう」  と、てんでに言うて、事がひぬ〔結着がつかない〕。  蛸、足を、とんと投げ出し、何かなしに、 「くじ取り〔くじびき〕くじ取り」……安永二年刊『今歳咄』二篇  浮き浮きした汐干狩り気分のなかで、蛸の飄逸《ひょういつ》な表情が見えるようだ。  品川に不二の影なき汐干狩〔柳66〕  江戸の汐干狩りの名所だった品川では、富士山が見えないほどに春霞がかかり、浮世絵を見るような美しさだった。 〈しお〉の語源は、〈うしお〉の略ということらしい。  なお、〈潮〉という漢字は、朝しお、〈汐〉は、夕しおを意味している。 [#改ページ] 赤貝  歳時記を開くと、赤貝は、春の部に位置している。  アカガイ科に属する二枚貝で、血液中に色素ヘモグロビンを含むために赤く、アカガイの名は、これに由来するらしい。  晩春の産卵期がシュンなので、春の季語となっているのだろうが、古来、めぼしい俳句は見られない。  むしろ女陰を意味する隠語としてもちいられるケースが圧倒的に多い。  松茸を食って赤貝へどを吐き〔柳37〕  交わりの結果〈つわり〉になったというこの句などは、その一例だった。 ◆赤貝  赤貝を買い、水を入れ置きたれば、さもこころよげに貝を開きたるを見て、亭主、何と思いけるにや、中指を、ぬっと入れたれば、赤貝腹立ち、指をしっかりはさみて、いかにすれども、一向《いっこう》はなさず。  見るうちに、指は、すさまじくはれ、痛さたえがたく、外科医者を呼び寄せ見せければ、医者、しかつべらしく〔もっともらしく〕、 「まだ、指でおしあわせ」……安永八年刊『寿々葉羅井《すすはらい》』  たしかに指で不幸中のさいわいだった。 ◆雷  ぐわらぐわらぐわら、ぴっしゃりと、雷落ちて、庭の榎《えのき》にはさまり、あとへも先へも行かず。  亭主、無分別者にて、真木《まき》割りを持って出《い》で、榎を二つに割りければ、雷、ようようからだを動かし、 「お礼は、明日いたそう」  と、言いすてて、天上しけり〔天へのぼった〕。  翌日、同じ刻限に、また、ぐわらぐわらと落ちけり。  何ごとならんと見れば、重箱二重あり。  上を一重あけたれば、すばしり〔ボラの稚魚〕の臍《へそ》を詰めたり。  さすが雷ほどあって、相応なつかいものと、臍の下の重箱を明けたれば、松茸と赤貝。……天明ごろ刊『うぐいす笛』 [#改ページ] さざえ  雛の節句のあくる晩、春で、朧《おぼろ》で、ご縁日、同じ栄螺《さざえ》と蛤を放して、巡査《おまわり》さんの帳面に、名を並べて、女房と名告《なの》って、一所に参る西河岸の、お地蔵様が縁結び……これで出来なきゃ、世界は暗《やみ》だわ。  新派名狂言、泉鏡花作『日本橋』一石橋の場における芸者お孝の名せりふだが、ここにも出て来るように、さざえは、春の季語とされている。  磯波にさざえが漁《と》れる遊び船 石塚友二  という句にも春の船遊び気分が横溢している。 ◆栄螺《さざえ》  栄螺五つありしを、壺《つぼ》焼きにして居るところへ、また、客一人ふえ、亭主ともに六つなければ足りず。  亭主、さそくを出し〔即座に気をきかし〕、 「おれには、壺の中へ焼き味噌でも入れて出しやれ」  と、言い付け、座へならぶ。  はや、壺焼きを座敷へ出す。  亭主、蓋《ふた》を取ってみれば、正真《しょうじん》の栄螺。  あわただしく座を立って、給仕人を叱る。 給仕「わたくしが、よいように致しましょう」  と、客の前へ行き、 「どなたへぞ、精進《しょうじん》のは参りませぬか」 ……安永二年正月序『坐笑産《ざしょうみやげ》』  焼味噌入りを〈精進の〉とは、みごとな表現だった。 〈さざえ〉の語源については、  どこ置いても栄螺の殻は安定す    加倉井秋を  という句もあるように、〈小家〔ササエ〕〉の意という説がよさそうに思う。 [#改ページ] 蛤《はまぐり》  尻ふりて蛤ふむや南風 涼菟《りょうと》  蛤も大口あくぞ鳴く雲雀《ひばり》 一茶  蛤は、冬は砂中深く潜入するが、汐干狩りのおこなわれる春には、しだいに砂の表面まで出て来る。  行商人は、「蛤やはまぐり」と呼んで来るが、江戸末期の売り値は、『守貞漫稿』によれば、江戸で、小蛤一升が二十文、京坂は、五、六十文から百文という。 ◆信濃者《しなのもの》 「これ八兵衛」 「はい」 「この蛤を、この鍋のままかけて、蓋《ふた》を取らずによく煮ろ。蓋を取るものではないぞ」 「はい、はい」  せっかく火をたいて居ると、蓋が、むくむくする。  これは、とんだことができたと思うて、蓋を取って見て、 「もし旦那様、大きに不調法《ぶちょうほう》を致しました〔たいへんな失敗を致しました〕」 「どうした、どうした」 「つい蓋を取りましたれば、みんな裂《さ》けました」……安永十年刊『民和新繁』  蛤の貝がらがひらいたのを、裂けたとは! 〈はまぐり〉の語源については、〈はま〉は浜で、〈くり〉は石の意味であり、石が地中にあるのに似ていることによるという説もあるが、浜にあって栗に似ているところから、〈浜栗〉の意味だという説が多くおこなわれている。 [#改ページ] 摘《つ》み草  摘み草やよそにも見ゆる母娘 太祇《たいぎ》  そこここで行楽に興ずる母娘——それは、すみれ、桜草、たんぽぽなどの美しい田園風景にふさわしい、心あたたまる姿だった。  摘み草もざるを持ったは近所なり〔柳12〕  同じ摘み草でも、ざるに入れるのは、よもぎ、つくし、芹《せり》などの食用野草で、近所のひとたちの食卓を飾ることにもなろう。 〈草〉の語源は、〈茎多〔ククフサ〕〉の略かとの説、年ごとに枯れて〈腐〔クサル〕〉ものであるからという説、〈種々〔クサグサ〕〉多い意味という説をはじめ諸説あって、あきらかでない。 ◆蛇  これも、いまはむかし、隅田川辺へ摘み草に行きしに、下女の股ぐらへ蛇がはいこみ、大らんを入る〔さわぎになった〕。  江戸へ医者を呼びにやろうというところへ武蔵屋〔向島の鯉料理屋〕の若い衆来かかり、 「気づかいなされますな。蛇は、いま出て行きます」  と、いううち、蛇は弱ったかたちで抜けて出る。ひとびと、 「こいつは奇妙。どうして、いま出るということを知っている」  と、いえば、若者、 「そこには、ちっと見所《みどころ》がござります」  と、いう。 「そんなら、それを伝授してくれろ」  と、旦那が、金|二分《にぶ》出して頼めば、 「大事のことだが、教えてあげましょう。女中の前《まえ》〔陰部〕へはいった蛇のじきに出ると申したは、あの女中の顔をご覧《ろう》じろ」 「顔が、どうした」 「頬が赤い」……寛政十年正月跋『無事志有意《ぶじしうい》』  頬が赤い女性は、あそこがくさいという俗説通りの結果だった。 [#改ページ] 柳  ぬれ色に春のうきたつ柳かな 許六  柳の種類は多いが、日本では、〈枝垂柳《しだれやなぎ》〉をいい、緑がもっとも美しい春の季語とされている。 ◆柳  旦那、柳を数十本、庭にさして、子供に抜かれぬ用心に、小僧にいいつけ、番をさせしが、日数たちて、旦那、小僧に問わるるは、 「子供らが来て、夜、柳を盗みはせなんだか」  と、いえば、 小僧「夜は、用心が悪いゆえ、抜いて、しまって置きました」……寛政三年刊『太郎花』  これならば、たしかに盗まれはしないが……。  この小咄は、中国の笑話本『笑府』にある話の翻案だが、柳も中国から渡来した植物であった。「花は紅、柳は緑」という蘇東坡《そとうば》の詩が有名なので、つぎの小咄もつくられた。 ◆柳  女郎屋の若い者、金持ち客と見て、なんでも花〔祝儀〕をせしめるつもりで、禿《かむろ》〔遊女の使う幼女〕に柳を折らせ、喜の字屋の台〔吉原の料理の仕出し屋の台の物〕に挿《さ》して座敷へ出せば、 客「どうもいえぬ〔なんともいえないほどよい〕」  と、ほめるばかりで、何の沙汰《さた》もなし〔祝儀をくれるようすもない〕。  若い者、是非せしめる気で、口《くち》あい〔しゃれ〕に、 「柳はみどり」  と、いえば、 客「花は|くれない《ヽヽヽヽ》」……天明五年刊『笑なんし』  春らしく、しゃれた応酬だった。 [#改ページ] 蛙  蛙なくや水玉うかぶ春の水 樗良《ちょりょう》  蛙|蹄《な》く田の水うごく月夜かな 闌更  冬眠からさめて鳴く蛙は、春の訪れを告げる使者でもあろうか。  翁《おきな》はとびこみ道風《とうふう》は飛びあがり〔柳102〕  翁は、「古池や蛙飛び込む水の音」の句で有名な芭蕉を意味し、道風は、蛙が柳の枝に飛びつこうと、何べんも繰り返す姿を見て、みずからも努力を重ねて書道の大家になった平安時代の小野道風《おののとうふう》のことだった。 ◆師匠  ある手習いの師匠、川のほとりを通りしに、柳の下に、蛙二、三|疋《びき》いたり。  師匠思うよう〔思うには〕、 「むかし、小野道風は、柳に飛びつく蛙を見て、筆道の妙を極《きわ》めよし、われも、この蛙にて、一度|能書《のうしょ》になるべし〔文字を巧く書く者になろう〕」  と、木かげに立ち寄り、眺めいる。  案のごとく〔思った通り〕、一疋の蛙、柳の枝に飛び付かんと、一寸飛び、二寸飛び、三寸飛び、下へ落ちて、 「もう、くたびれた」……安永二年四月序『芳野山』  春ののどけさに酔う蛙の身にも危険は迫る。 ◆蛙  池のふちに蛙がいたれば、蛇が呑まんとするを、蛙は逃げる、蛇は追う。  あっちこっちと駆け廻るうち、甲羅《こうら》を干《ほ》している亀の背なかを踏んだれば、むくむくと起きて、 「|こうら《ヽヽヽ》、また、なんのこった。池〔|いけ《ヽヽ》〕そうぞうしい」 ……安永二年五月ごろ刊『仕形噺』  |こうら《ヽヽヽ》、また、しゃれ好きの亀だった。  蛙の語源は、元の所へかならず|帰る《ヽヽ》から、よみ|がえる《ヽヽヽ》から、〈カヒルカヒル〉という蹄き声から、中国語のクヮクヮという蹄き声からとか諸説あって、はっきりしない。 [#改ページ] 蛇、穴を出《い》ず  けっこうな御世《みよ》とや蛇も穴を出る 一茶  冬の間、地中の穴のなかで冬眠していた蛇が、あたたかい春を迎えて日光浴を楽しむ——それは、春ののどけさの象徴でもある。  ……蛇の出ずるや春を以てし、出ずれば則ち物を食う。蛇は春夏を以て昼となし、秋冬を以て夜となす。その蟄《ちつ》するや冬を以てし、蟄すれば則ち土を含み、春に到りて吐き出す。……『滑稽雑談』  という。  蛇の大物〈うわばみ〉に登場してもらおう。 ◆うわばみ  添《そ》うに添われぬくされ縁、ふたり連れ立ち、心中と出かけしを、大いなるうわばみ出《い》でて、ただひと口にのんでしまいぬ。  ふたりは、呆然《ぼうぜん》と腹のなかにいたり、 「とても死ぬる身〔どうせ死ぬ身の上〕、何かは所きらうべき〔どうして死に場所をえらぶ必要があろうか〕」  と、一腰《ひとこし》〔刀〕を抜きはなし、女を刺し殺して、その身も野腹《ヽヽ》の露と消えた。  うわばみ、おどろき、 「さあさあ大ごとだ。これから検死〔人〕を飲みにゆかずばなるまい」 ……安永二年閏三月序『聞上手』三篇  法に忠実なうわばみだった。 〈へび〉の語源は、身を経て進み行く意の〈経身〔へみ〕〉のほか二、三あるが、はっきりしない。  うわばみの語源に関しては、つぎの咄がある。 ◆物知り 「なんと、うわばみという和訓《わくん》〔漢字のよみかた〕は、どうして付けたろう」  と、いえば、みなみな、 「これは、むつかしい」  と、小首《こくび》かたむけるに、物知り男、 「エヘン、エヘン」  と、せきばらいで、しかつめらしく、 「あれには故事がござる。昔、加賀の山中で、旅人が、松の木の下に昼寝をして居ると、醤油樽ほどの大蛇が、松の枝からねらいすまして、ひと呑みに呑みました。そこで、上からはみたるによって、うわばみというのさ」……天明八年ごろ刊『独楽新話《どくらくしんわ》』  わかったような、わからないような語源説だが、〈大蝮〔オオハミ〕〉の転訛した語とか、〈大蛇〔ウワヘミ〕〉の意など、むかしからの語源説もはっきりしない。 [#改ページ] 蜂  木ばさみの白刃に蜂のいかりかな 白雄《しらお》  蜂には、ミツバチ、アシナガバチ、スズメバチ、ジガバチなど種類も多いが、丈夫な膜質の羽があり、メスは、腹端に産卵管を持ち、多くは毒針となって、敵や獲物を刺す。  冬をのぞいて、一年じゅう見ることができるが、春から目につくようになることから、春の季題になったのだろう。 〈はち〉の〈は〉は、〈羽〉の意味で、〈ち〉は、〈刺す〉意味という語源説がよさそうだ。 ◆蜂  今日は、天気もよく、亭主、庭いじり。木鋏《きばさみ》など出して、若葉のしげりを刈りこんでいたところ、いずくともなく蜂が飛んで来て、小びんさきを、したたか刺して行く。  たちまち大きくはれあがり、おびただしい痛み。  折ふし傍輩《ほうばい》〔友だち〕来合わせ、 「それには、歯くそをつけるが薬だ」  と、うぬが〔自分の〕口から歯くそを取って付けてやれば、亭主よろこび、 「さて、よいおたしなみ〔用意、心がけ〕でござる」 ……安永六年序『譚嚢《たんのう》』  歯くそを〈よいおたしなみ〉とほめられて、よろこぶべきか? ◆角力《すもう》 亭主「わたくしかたの、八すけは、よほど相撲《すもう》が上手《じょうず》でござります。昨日、神明〔芝神明社〕の花相撲へつれてまいりましたが、飛び入りに出て、取りたがりますから、一番取らせましたが、つい一番負けました。さてさて腹の立つことと存じ、また一番取らせましたらば、今度は、もののみごとに、また投げられました」 客「それは、にがにがしいこと。ふだん、店の衆を相手にして取られるときは、なかなか手どりでござるが、また、場所ではちがいましょう」 亭主「いや、ずいぶん負けるやつではござらぬが、昨日のは、まことに取りくちが悪うござった」 客「立ち合いのあんばいもありましたろうが、どういう手で、八どのは投げられました」 亭王「はい、八《はち》は、褌《みつ》〔蜜《みつ》〕を取られてさ」 ……寛政十三年刊『桜川話帳綴《さくらがわはなしのちょうとじ》』  ハチは、ミツに弱かった。 [#改ページ] 春の宵  |公達《きんだち》に狐化けたり宵の春 蕪村  烏帽子《えぼし》、狩衣《かりぎぬ》姿の業平《なりひら》とか、光源氏《ひかるげんじ》とかいう平安時代の貴公子に狐が化けている。  それは、蘇東坡《そとうば》の「春宵一刻価千金」という詩句にもあるような、ロマンチックで、魅惑的な春の宵の情趣のなかから生まれた幻想でもあった。 ◆つづみ  春の夜の静かなるに、月の光さやけく、話の友もなければ、ひとり床柱《とこばしら》により、 「されどもこの人は」  と、中音《ちゅうおん》に謡《うた》いかくれば、しばしすると、障子越しに、ポンポンと、さしも得ならぬ〔まったく、なんともいえない〕鼓《つづみ》の音。  ふしぎには思いながら、絶えず謡えば、ますます鼓も図にのって打つ。  だんだん面白さに、田村〔謡曲の題名〕を高声《こうしょう》に謡い出し、せめにかかり〔鼓を急調に打ち、音を高くし、間をせばめること〕、 「雨やあられとふりかかって」 「ヤッハ、スポポンポンポン」  たがいに張り合うて余念なかりしが、いつの間にか、とんと鼓を打ちやんだから、ふしぎに思い、そっと障子をあけて見たれば、狸が腹を打ちやぶり、 「ヒイヒイ」……安永二年正月序『今歳咄』  春の宵の情趣に誘われた狸の悲喜劇だった。 〈宵〉の語源については、〈夜間〔ヨアイ〕〉の約とか、〈夜端〔ヨハシ〕〉の意味だとか、夜いまだに寝ずにいるときを意味する〈夜居〔ヨイ〕〉の意味とか、〈夜方〔ヨヘ〕〉の意味とかの諸説があるが、夜を三区分して、ヨイ、ヨナカ、アカトキとしたはじめの部分の日暮れからしばらくのあいだをいっている。 [#改ページ] 桜鯛《さくらだい》  大鯛小鯛桜寄せくる網引かな 惟中  桜鯛到来草の戸にあふれ 山口青邸  桜の花の咲くころ、産卵のために、外海から内海〔とくに瀬戸内海〕に入って来て漁獲されるマダイをいう。  この時期には、マダイは、ふだんよりも赤色を帯びるので、俗に〈桜鯛〉と呼ばれる。  祝い事には、かならずもちいられる鯛は、魚の王様という感じだが、語源に関しては定説はない。  恵比寿《えびす》が釣る|めでたい《ヽヽヽヽ》魚の意味だという説もあるが、〈平魚〔タイラウオ〕〉の意味だという説が圧倒的に多い。  異色の説として、朝鮮語トミの古い発音だという説もあるが……。 ◆鯛の焼きもの 「お朝|御膳《ごぜん》は、鯛でなくてはすまぬ。なにほどの時化《しけ》〔海荒れ〕でも、一枚はありそうなもの」 「ようよう一枚できました。もう千両出しても鯛はござりませぬ」 「まあまあ御膳あげろ」  殿様、きげんよく召しあがられ、 「焼き物、かわり持て」  御|近習《きんじゅ》〔おそばにつかえる家来〕、 「南無三《なむさん》〔しまった〕」  と、立ちかねているうち、殿様、あちら向かせられたうち、御近習、ちゃっと焼き物をひっくりかえして置いた。  殿様、また、 「焼き物のかわり持て」との御意《ぎょい》。  御近習、と胸ついて〔はっとして〕、ぐずぐずすれば、 殿様「また、あちら向こか」……安永二年正月跋『口拍子』 ——知ってて、それはない! ◆釣り 「おれは、釣りに出て、金を五十両釣って来た」  と、いう。 「そんなら、おれも出よう」  と、品川沖へ出、大きな鯛を釣りあげ、針を抜いて海へ投げ、 「いまいましい。うぬじゃあない」……安永三年刊『茶のこもち』  金欲の前では、魚の王様も形《かた》無しだった。 [#改ページ] 桜  花の雲鐘は上野か浅草か 芭蕉 『続虚栗《ぞくみなしぐり》』〔貞享四年・一六八七〕にある句だが、当時、深川の芭蕉庵からは、大川越しに浅草観音や上野寛永寺一帯が展望できた。  花盛りに遠く望めば、花の雲がたなびき、浅草から上野にかけて連なって見え、花の雲のなかから時を告げる鐘の音がぼんやりと聞えて来る。  その音が、ときには浅草寺の鐘かと思われ、ときには寛永寺の鐘かとも思われて来る。  まさに春昼一刻、夢見るような情緒だった。 〈桜〉は、桜の霊、木花開耶姫《このはなさくやひめ》の〈さくや〉の転訛した語とか、〈咲麗〔サキウラ〕〉の約だとか、諸説あって語源はあきらかでない。  一面の花は碁盤《ごばん》の上野山    黒門前にかかる白雲  四方赤良《よものあから》  桜に包まれた上野山は、黒門の前あたりは白雲がかかったように見えるというこの狂歌は、桜の咲き乱れる光景を、碁盤の上の黒白の石に見立てていた。  華麗な花の名所上野山だったが、完全に開放された花見の場とはいえなかった。  それは、寛永寺門主としての皇子が存在したばかりでなく、将軍家の御霊廟《ごれいびょう》もあったので、山同心《やまどうしん》のパトロールもあり、飲めや唄えはもちろん、花の枝を折ることも禁止され、入相《いりあい》〔暮れ六ツ〕になると山門を閉ざすというように、各種の制約があったためだった。  花の山|手毎《てごと》に折ってしばられる〔柳44〕  入相をおつもりにする花の山〔柳27〕  こんな制約はあったが、それでも、江戸でもっとも由緒ある桜の名所にちがいなかった。  上野山ほどのスケールや華麗さはなかったが、品川の御殿山《ごてんやま》も古い桜の名所だった。寛文年間〔一六六一〜七三〕に、吉野桜が植えられたところから名所になったという伝統の地で、丘というほどの高さだが、ここに登れば品川の海が見渡せて、「御殿山銀の扇に帆がうつり〔柳27〕」という独特の光景だったから、上野にない妙味があった。  花を見捨てて旅籠屋へ騒ぎ込み〔柳12〕  江戸の出入りぐちの宿場だった品川には、飯盛り女〔宿場女郎〕がいたので、花を見捨てて遊興する連中も多かった。  江戸中期、日暮里《にっぽり》〔荒川区〕は、〈日ぐらしの里〉と呼ばれた。  感応寺裏門のあたりより道灌山《どうかんやま》を界《さかい》とす。この辺、寺院の庭中、奇石を畳んで仮山《つきやま》を設け、四時草木の花絶えず。常に遊観に供《そな》う。就中《なかんずく》、二月《きさらぎ》の半ばよりは、酒亭《さかや》、茶店の床几《しょうぎ》所せく〔ぎっしり詰めて〕、貴賤袖をつどえて春の日の永きを覚えぬも、この里の名にしおえるものならん。……『江戸名所図会』  という散策に好適の地であり、  上野卜飛鳥トヲ兼ヌ。花ハ開ク日暮里、三絃、茶、弁当、多クハ幕ノ裏ニ有リ。……『寐惚先生文集』  というように、桜の名所でもあった。  西日暮里の南側に、広重の『江戸百景』に〈日暮里諏訪の台〉としてえがかれた諏訪神社があるが、その西側斜面に、北から青雲寺、修性院、妙隆寺が並び、この三寺は、花見寺と呼ばれた。ただし、妙隆寺は現存しない。 ◆花見  入れ歯に黒油《くろあぶら》〔黒油で白髪を染めた〕の祖父《じい》が、孫をつれて花見にゆくとて、 「これ坊や、花見に出たときは、おじいさんとは、いわぬものだ。おとっつぁん、おとっつぁんというものだよ」  と、よくよくのみこませ、さて、日ぐらしの茶店に寄りければ、美しき娘が会釈《えしゃく》して、茶をくんで来る。  そこで、孫をつつけば、 「おとっつぁん、おいらにも、お湯《ぶう》をくんな」 「ああ、せがれがいうことを聞かっしゃれ」  と、にこにこしているうち、 「うちへいったら、やっぱり、おじいさんというのかえ」……文化四年刊『瓢百集《ひょうひゃくしゅう》』 ◆浅草  江戸を一向《いっこう》〔まったく〕知らぬ者両人して、 「なんと、飛鳥山《あすかやま》は、さだめて最中であろう」  と言う。 「あの飛鳥山の花は、日本一じゃ」  と言う。 「浅草はどうであろう」  と言う。  この男、浅草を知らねば挨拶にこまり、 「浅草は死んだ」  と言う。 「はて、おしい角力《すもう》を殺した」……安永五年六月序『高笑い』  江戸をろくに知らない連中でも桜の名所ということは心得ていたくらいだから、飛鳥山の桜も有名だった。 「殊に、きさらぎ、やよいの頃は、桜花爛漫として尋常《よのつね》の観にあらず」〔『江戸名所図会』〕と書かれ、瀧亭鯉丈《りゅうていりじょう》の滑稽本『花暦八笑人《はなごよみはっしょうじん》』初篇〔文政三年・一八二〇〕でも、花見のさいの茶番の舞台にえらばれていた。  この山が庶民に歓迎されたのは、上野の山が制約が多いところから、江戸中期に、八代将軍吉宗が、この地に桜を植えて、開放された花見の場としたためだった。  飛鳥山ばたら三味線百で借り〔柳5〕  というように、安物の三味線を借りて来ての飲めや唄えの大さわぎも公然だったし、  土器《かわらけ》がそれて桜の花が散り〔柳44〕 「土器《かわらけ》投げ」といって、崖の上から酒盃の土器を投げ、風に舞う様子を楽しむ遊びまであった。 ◆わきざし 「今日の花見には、なんぞめずらしい趣向で行こう」  と、いろいろ案じ、十人ばかり、みんな、わきざしを右へさして、キンキン出《いで》たち〔身なりを飾り、得意になったかたち〕で、三囲《みめぐり》の茶屋へ寄って休んでいると、あとから、医者のような坊さま〔坊主あたまのひと〕が来て、同じく腰をかけ、よくよく見て、きもをつぶし〔びっくりして〕、右のかたへさしかえる。……寛政四年正月序『笑の初《はじま》り』  全員が反対側にさしていたのでは錯覚が生まれたのも当然だが、その錯覚も、向島の花見どきのにぎわいゆえだった。  向島の墨田堤の桜は、正保年間〔一六四四〜四八〕に常陸国《ひたちのくに》桜川から木母寺《もくぼじ》辺へ移植したのにはじまり、享保年間〔一七一六〜三六〕に、木母寺から南に、また、寺島から木母寺門前まで植えられるなど、桜の名所となった。  陸路から水路から花見客が集まって来たが、  桜から桜へこけるおもしろさ〔柳25〕  吉原の夜桜見物に足をのばすことになった。 [#改ページ] 春眠《しゅんみん》  春眠をむさぼりて悔《くい》なかりけり 久保田万太郎  春眠の覚《さ》めつつありて雨の音 星野立子  唐の孟浩然《もうこうねん》は、「春眠暁を覚《おぼ》えず、処処蹄鳥を聞く」という詩を残し、夏目漱石は、「春は眠くなる。猫は鼠を捕る事を忘れ、人間は借金のある事を忘れる。時には自分の魂の居所さえ忘れて正体なくなる……」〔『草枕』〕と書いたように、春の眠りはこころよい。  春は睡魔の季節なのだろうか。  朝、眠りから覚めたのちも、つい、うつらうつらとしてしまうし、昼も宵も、とかく睡魔に襲われやすい。 ◆玄伯《げんぱく》 「もしもし、おかみさん、あのお前さんのところへよく来なすった玄伯さまは、このあいだは〔このごろは〕、なぜ、お見えなさいませぬ」 「さればさ、お聞きなせえ、あれほどこころやすく来なすったものを、わっちが、せんど〔さきごろ〕あんまりよく居眠りをしなさるから、じょうだんに、火ばしを真っ赤に焼いて、眠っていなさるところを、鼻の穴へ、その焼け火ばしを、ぐうと突きこんでやったら、それから、さっぱり来なさいませぬ」……文化五年刊『江戸前噺鰻《えどまえはなしうなぎ》』  誰が二度と来るものか! ◆江戸小咄春夏秋冬 春 興津 要著