江戸小咄春夏秋冬 新年 興津 要 [#表紙(表紙-新年.jpg、横180×縦240)] 表紙絵  広重作「名所江戸百景」より「日本橋雪晴《にほんばしゆきばれ》」……日本橋は家康の江戸建設の一環として慶長八年に日本橋川に架けられた。そのときすでに一帯には武家たちに生活必需品を供給する町屋が建ち並んでいたが、この橋ができたことで江戸商業の一大中心地に変貌した。両岸には蔵がならび、全国津々浦々から海路はこばれた産物がここに陸揚げされた。右下にみえるのは活況を呈する魚河岸である。江戸城と富士を遠景にした広重得意の雪景色だ。 [#改ページ] 目 次  元日  門松  扇《おうぎ》売り  若水《わかみず》  雑煮  福寿草  御慶《ぎょけい》  数の子  初湯〔若湯〕  初夢  七福神|詣《もうで》  姫はじめ  猿廻し  羽子板  万歳《まんざい》  手まり  凧《たこ》  七種《ななくさ》〔七草〕  鏡開《かがみびら》き  宝引《ほうび》き [#改ページ] 元日  元旦や晴れて雀のものがたり 嵐雪《らんせつ》  江戸時代の大晦日は、一年中の収支決算日で、借金を取ったり、取られたり、もっとも心を労する日だった。  したがって、一夜明けた元日は、ひとしお晴れやかな気分だったから、雀の鳴き声までも、このうえなく明るく聞えていた。  そんな晴れやかで、のどかな気分のなかで、  元日と思いのままの朝寝かな 闌更《らんこう》  というひとも多かった。  なかには、  元日にいけしゃあしゃあとよみがえり〔捨1〕  というように、大晦日には、急死したといううそで借金取りを逃れながら、元日になったとたんに、ずうずうしく生きかえる亭主もいたが、  元日はまだこわいから戸を明けず〔柳8〕  と、大晦日の恐怖感から解放されていない家も見られた。 ◆亀  元日、座敷の庭へ亀が一匹|這《は》い出るところを、亭主見つけ、女房を呼び、 「あれ見やれ。亀が、這うて出た。今年は、上々吉の仕合《しあわせ》と見える」  と、よろこべば、女房、気さくもの〔人柄が明るく、さっぱりしている者〕にて、 「これは、亀出とう存じます」 ……天明六年正月序『福茶釜』 「おめでとう」と「亀出《かめで》とう」とをかけた地口《じぐち》落ちだが、万年の寿命を持つ亀があらわれたことは、まさに、めでたい元日のひとときだった。  元日、元旦の〈元〉は、始め、〈旦〉は、朝を意味する。 [#改ページ] 門松  門松の雪のあたたかに降りにけり 涼菟《りょうと》  犬の子やかくれんぼする門の松 一茶  新年に、家の門口《かどぐち》に松を立てる風習は、平安末期から鎌倉時代にかけて普及したらしく、『徒然草』十九段にも、「かくて明けゆく空の気色〔中略〕大路のさま、松立てわたして、はなやかにうれしげなるこそ……」とある。  この松を立てることによって、歳神が、松をつたわって来臨したとも考えられたという。  門松を立てた由来は、内裏《だいり》〔皇居〕の門前に鉾《ほこ》を立てたのが変化したという説、中国唐時代の風習がはいって来たという説をはじめとする諸説があるが、あきらかではない。 ◆年礼  あら玉の春、門には松を飾り、家内〔家族の者〕雑煮食うているところヘ、 「大黒屋福右衛門、御慶申しいれます。まず御きげんよく御越年なされまして、めでとうござります」  と、いうところヘ、男が、金じゃくし投げ込み、 「これはこれは、御ねんぎょく〔お年玉〕かたじけのうござります」  と、いうて帰りける。 「さてさて、よい物をくれた。さいわいだ。おろしてつかえ」  と、給仕している下女にやれば、下女、持って勝手へ立ち、 「これ長助どの、江戸では、金じゃくしのことを、御ねんぎょくというか」 ……安永三年刊『稚獅子《おさなじし》』  食品を年賀に贈る農村出身の彼女にしてみれば、金じゃくしの年玉は思いもよらない。  松取りて頻《しき》りに寒き旦《あした》かな 月守  門松を取り払う〈松《まつ》納め〉は、七日のところが多いが、三日までを本正月のうちとして、四日に取るところもある。また、  京坂ともに、十五日に門松・注連縄《しめなわ》を取り除くなり。江戸も昔は今日なり。大阪は、門松・注連縄の類を諸所川岸等に集め積みて、十六日の暁《あかつき》前に、これを焚《た》きて、左義長《さぎちょう》〔この火で焼いた餅を食えば病よけになるという。どんど焼きともいう〕の義を表す。 ……『守貞漫稿』  という記事もあるように、古くは、十五日に取り払う風習もあった。 [#改ページ] 扇《おうぎ》売り  扇売り掛取りの気を弱くする〔柳11〕  江戸中期まで、元日の早朝から、年賀の年玉用の扇を、「おうぎおうぎ」と売り歩いた。  その声を聞いたとたんに、「さては新春か」と、大晦日の夜おそくまでねばっていた借金取りの攻勢が、にわかににぶるのだった。 ◆扇 「扇子《おうぎ》、扇子」  と、呼んで来る。  亭主は、例のめでた好き。  初買いに、末広がりの扇と呼び込み、 「持ち扇になりそうな、めでたい物を見せさっしゃい」 「はい、富士のになされませ」 「ああ、それもめでたいが、まだ、なんぞめでたいものは」 「ござります、ござります。千とせの松竹に鶴が二羽、万年の亀が三つ居るのが」 「おお、それそれ。それにしましょう。まず、亀が三つで三万。めでたい、めでたい。鶴が二羽、竹が二本で四千年。松が一本、二本、三本。や、小僧、そろばん持って来い」 ……天明六年正月序『扇子《おうぎ》売り』  正月にふさわしい、華やかな縁起かつぎの光景だった。  扇箱買おうは遠きはかりごと〔柳14〕  正月中旬ごろになると、「払《はら》い扇箱、払い扇箱」と、不用になった年玉用の扇箱を買い集めにまわる男がいた。  これは、安く買った扇箱を、来年もまた売ろうとするのだから、一年さきを|あて《ヽヽ》にする気の長い商売にちがいなかった。  なお、〈おうぎ〉は、動詞の〈あおぐ〉の連用形の名詞化だった。 [#改ページ] 若水《わかみず》  若水に皺影《しわかげ》笑うあしたかな 杉風《さんぷう》  ——元旦「今朝諸家、井水を汲《く》みて、これを若水と称す」〔『日次紀事』〕 というように、元旦の朝早く汲む水を若水という。  しかし、古くは立春の早朝、宮中で主水司《もいとりのつかさ》が、恵方〔えほう=吉方〕の井戸をえらんで水を汲み、朝餉《あさげ》のときに天皇にさしあげる習慣だったが、のちには、民間で、年男を決め、元旦の朝汲むことになった。  若水を大屋の女房先へ汲み〔柳61〕  長屋での権力者〈大屋の女房〉が若水を汲む図だが、西日本では女性が汲むこともある。 ◆若水  おやじ、若水を汲まんという。  下女「いえいえ、おあぶのうござります。若水だから、若い者が汲みましょう」 「そんなら、としよりは、なにを汲むものだ」 「冷や水を、お汲みなされまし」 ……天明九年刊『炉開咄口切《ろひらきはなしのくちきり》』  年寄りに〈冷や水〉を浴びせることばだった。 [#改ページ] 雑煮  飯はよい物と気のつく松の内〔拾1〕  三日食う雑煮で知れる飯の恩〔柳93〕  正月の雑煮は、新年を迎えるために、年越しの夜、神に供えた物をおろして煮て食べた名残りといわれる。  その様式は、関西は、みそ汁で丸餅、関東は、すまし汁で切り餅であり、関西では、餅は焼かずに煮るが、関東では焼いて、汁のなかに入れて三ガ日の間食べるケースが多い。  汁に入れる野菜類も土地によって違い、東京では、小松菜が多くもちいられるが、北陸や東北では、里いも、大根、人参、ごぼうなどがもちいられることが多い。 『滑稽雑談』〔正徳三年・一七一三〕にも、「多雑をまじえ煮るゆえに、雑煮と称するか」というように、多くの具《ぐ》をいれるための名称でもあろう。  雑煮が出来やしたと長持をあけ〔安五・松〕  掛取り〔借金取り〕が恐ろしくて、亭主が長持のなかに隠れているのも、大晦日から元旦にかけての光景だった。 ◆大晦日  大晦日、めでたく暮らすこまかい〔けちな〕旦那殿、飯たきに、 「なんと三介、よい年の暮れじゃ」 「さようでござります。おだやかな、よい年の暮れでござります。旦那様は、いつもいつも、お若うござります。まことは、おいくつにおなりなさりますえ」 「ちょうど四十歳じゃ」 「これは、はじめてうけたまわりました。さてさて、お若いこと。なんでも三十二、三にお見えなさります」 「それは、うれしい。三介、酒を、ちと買うて来い」 「はい、私へなら御無用になさりませ」 「いや、あした、雑煮へいれる」 ……寛政十二年刊『虎智《こち》のはたけ』  これだけ若いとほめられれば、たいてい一ぱい飲ませたくなるものだが……。 [#改ページ] 福寿草《ふくじゅそう》  福寿草一寸物の始なり 言水《ごんすい》  ひと雫《しずく》するや朝日の福寿草 そうきゅう  黄色の花が咲くキンポウゲ科の耐寒性多年草で、正月の祝花用として栽培される。  その名の由来も、このことにあろう。  歳旦に初めて黄花を開く。半開の菊花に似たり。人もって珍となし、盆に植えて元日草と称す……。『和漢三才図会』  正月の贈答用として珍重されたらしく、  福寿草を器に種《う》えて人の家に贈るは、その名の宜しければなり。よって新年の観《みもの》とす。……『栞草』  という文章も見られる。 ◆植木屋  武士「これ植木屋、この福寿草は、いくらだ」 「百五十でござります」 「八十文にまけぬか」 「丁度《ちょうど》におめしなされませ」 「丁度とは、なんじゃ」 「百のことでござります」 「百は、丁度というか」 「はい、さようでござります」 「そんなら、めでたく、それで買う。ときに植木屋、貴様はいくつじゃ」 「おあてなされまし」 「二十八、九であろう」 「丁度でござります」 「貴様、百歳になるか」  植木屋、指を三本出して、 「はて、丁度でござります」  と、言えば、武士、肝《きも》をつぶして〔びっくりして〕、 「三百歳には、若い男じゃ」 ……寛政十年正月序『鶴《つる》の毛皮《けごろも》』  福寿草を前にして、三百歳の長寿かと錯覚したのも、正月らしい晴れやかな光景だった。 [#改ページ] 御慶《ぎょけい》  新春の御慶はふるき言葉かな 宗因  親里の山へ向って御慶かな 一茶  年始のさいにかわす〈御慶〉〔慶は、よろこび、祝いの意〕という祝賀のことばは、ひびきもよく、字面《じづら》もよくて、年頭の挨拶にふさわしい。  華やかな新春カラーに彩られた落語「御慶」も、このうえなく明るい。  千両富に当った八五郎が、かねての望み通りに、かみしもをつけて年始廻りに出かけることになり、服装にふさわしい挨拶のことばを教えてくれと家主に頼む。  家主は、「おめでとう」の意味で「御慶」といい、「おあがりなさい」といわれたら、「永日《えいじつ》」といって帰れと教えてくれた。  よろこんだ八五郎は、ほうぼうで、「御慶」と「永日」をふり廻しては相手を煙に巻き、得意満面で歩いて来ると、恵方《えほう》詣りから帰って来た友だち連中と出会う。 「……おう、なんだ、なんだ。むこうから虎んべえの野郎が……なんだい、よっちゃんと留公《とめこう》と三人で、繭玉《まゆだま》をかついで、けえって来やがったな。……おーい」 「おう、八のやつだな。大当りがどうだい、りっぱな服装《なり》して……よう、八公、どうしたい」 「あはははは、おいおい、おめでとうって、やってくれ」 「よう、こりゃどうも……おめでとう」 「おめでとう」 「おめでとう」 「えへへへへ、ちくしょうめ、三人まとめてやっちまうからな……御慶、御慶、御慶!」 「おいおいおい、よせよ、この野郎……みっともねえ、なにがはじまりやがったんだい? にわっとりが、玉子をうむような声を出しゃあがって……」 「なにいってやんでえ、ちくしょうめ。わからねえやつらだな。御慶つったんでえ」 「ああ、恵方詣りにいったんだ」  落ちは、「御慶」と「どこヘ」とを聞きまちがえたトタン落ちで、いい落ちとはいえないが、元旦の晴れやかな江戸の街頭風景が、みごとだ。 ◆御慶  年始の礼に、元日の明け七ツ〔午前四時ごろ〕から出かけて、 「御慶、御慶」  と、いって歩けど、どこのうちでも起きず。  のちには、じれがきて、むりやりに戸をあけて、はいろうとすれば、うちでは肝《きも》をつぶし、うちから戸をおさえている。  外では、はいろうとするはずみに、戸が、ばったりはずれ、たがいに顔を見あわせて、 「あけまして、おめでとう」 ……寛政五年正月序『笑府衿裂米《おとしばなしえりたちこめ》』  まさしく|あけ《ヽヽ》の春の風景だった。 [#改ページ] 数の子  数の子や氷をいでて春に逢う 花朗  数の子は、カドの子のなまりで、カドは、アイヌ語でニシンをいう。  正月の食膳に欠かせぬものとなったのは、よいことが数々あるようにという縁起をかついでのこと。  掛《かか》り人《うど》数の子などはころし食い〔拾1〕  掛り人〔居候〕であっても、正月ともなれば数の子に箸《はし》を出すが、噛めば音がするので、音を殺して食べなければ大食いの非難を受けねばならなかった。  たいがいにしろと数の子ひったくり〔柳7〕 〈海のダイヤ〉と呼ばれるほどに高貴なものではなかったが、そこは居候の悲しさで、音を殺さずに食べた結果は、ただちに容器ごと片づけられるのだった。  正月のめでたい門付け芸人の万歳は、顔なじみの家では、酒をふるまうことも多かった。 ◆万歳  万歳は、朝から晩まで、家|毎《ごと》にて盃をいただくに、どこでも、数の子と金平《きんぴら》ごぼうばかり。  また、この家でも数の子をはさまれければ、小声に、 「ああ、ちっと粋《いき》なものをたべたい」  と言えば、手から数の子ころころところげ落ち、 「あい、いきなものをおたべ」 ……文政四年『初春仙人香の落噺《おとしばなし》』  どこの家でも、判でおしたように数の子を出されるのだから、万歳としては、|ぐち《ヽヽ》も出るはずだが、数の子のほうでは、おもしろくなかった。 [#改ページ] 初湯〔若湯〕  からからと初湯の桶をならしつつ 高浜虚子  江戸住みは我々しきも若湯かな 一茶  新年に、はじめて風呂をわかしてはいることをいうが、現在、街の銭湯では、大晦日には終夜|沸《わ》かし、元日は休んで、二日が初湯というケースが多い。 『絵本江戸風俗往来』の初風呂の項には、つぎの記述が見られる。  例年十二月大晦日は、終夜風呂を焚き、浴客絶えず出入りす。ただ、夜明け前に至り、少しく客の途絶えしころ、風呂の湯を落し、水を汲み替え、すぐに焚くより、元日未明、烏の鳴きわたるころより、客、また来る。今朝より七草までの間、湯屋にて福茶を客に参らす。客よりは湯屋へ年玉の銭、また奉公人へも身分相応の心づけあり。湯銭は寛永銭三つを白紙にひねりて、これを渡す。これを、おひねりという。湯屋は、番台へ三方盆《さんぽうぼん》を据え、このおひねりを盛りて、山のごとし。  ——〈おひねり〉は、十二銅〔文〕だった。 ◆湯番  正月の若湯から大晦日まで、一朝《ひとあさ》もかかさず、毎朝入り来る近所の人あり。  湯番も心安さ、芝居の評判、世の中の噂、とりどり〔いろいろと〕咄し、楽しむ。  この人、いかがしたりけん〔どうしたのだろうか〕、一朝|来《こ》ず。  湯番思うには、一朝もかかさぬ人じゃが、もし煩《わず》ろうてか、見舞うてやろうと、いってみれば、その人の這入《はい》り口に 「今日休み」 ……安永六年刊『管巻《くだまき》』  みずから〈休み〉の札を出すとは、一朝も休まぬ人物らしい律儀《りちぎ》さだった。 [#改ページ] 初夢  宝船|目出度《めでた》さ限りなかりけり 高浜虚子  大正時代までは、元日から二日にかけて、「お宝お宝、今夜の初夜の初夢」と、宝船売りが売り歩いた。  二日の夜、宝船の絵を枕の下に敷いて寝ると、よい夢を見るという縁起物で、この風習は、室町時代からおこなわれたらしい。古くは、船のなかに稲穂のある図、船に米俵を積んだ図などもあったが、江戸時代になって、七福神が宝船に乗る図になったらしい。  この絵には、「なかきよのとおのねふりのみなめさめなみのりふねのおとのよきかな」という、上下どちらから読んでも同音の回文歌が書かれている。  正月二日、今夜、宝船の絵を枕下に敷きて寝るなり。昔は節分の夜これを行わる。  ……『守貞漫稿』  というように、古くは節分の夜、立春の明けがたに見る夢を初夢といったが、正月の諸種の事始めが二日なので、初夢も二日とされたのであろう。  初夢に猫も不二見る寝様かな 一茶 ◆夢  あるむすこ、富士と鷹と茄子《なすび》を夢に見て、 「一富士、二鷹、三茄子というから、これほどよい夢はあるまい」  と、親父にはなせば、 「それは、よいひとが見れば至極よいが、われ〔おまえ〕が見ては悪い」  と、いう 「なぜでござる」 「はて、借金が富士の山ほどあるを、たかでなすことはならねえ〔どうせ返済はできねえ〕」 ……寛政二年正月序『落話花之家抄《おとしばなしはなしやしょう》』  むすこといっしょに素直によろこぼうよ。 [#改ページ] 七福神|詣《もうで》  元日から七日までの間に、七福神を巡拝して開運を祈る行事で、古くからおこなわれた。  近ごろ正月初出に、七福神参りということ始まりて、遊人多く参詣することとなれり。  その七福神は、不忍《しのばず》の弁才天《べんざいてん》、谷中《やなか》感応寺の毘沙門《びしゃもん》、同所長安寺の寿老人《じゅろうじん》、日暮《ひぐらし》の里《さと》青雲寺の恵比須《えびす》・大黒・布袋《ほてい》、田畑西行庵の福禄寿《ふくろくじゅ》等なり。……『享和雑記』  これ以外では、隅田川七福神巡りが名高い。  この構想は、百花園を開いた北野屋|菊塢《きくう》が首唱し、画家|谷文晁《たにぶんちょう》、儒学者で書家の亀田|鵬斎《ほうさい》などの協力を得て、文化・文政〔一八〇四〜三〇〕時代に定められた。  それは、三囲《みめぐり》神社の恵比寿・大黒、弘福寺の布袋、長命寺の弁財天、多聞寺の毘沙門天のほか、近所に福禄寿をまつる寺がないので、元旦から七日までの間を限って、百花園が福禄寿をまつり、また、白髭《しらひげ》大明神が寿老人を代用することになり、現在もおこなわれる。  七福神の素姓《すじょう》を述べるに当って、レディ・ファーストで、弁天さまから登場願おう。 【弁財天】の〈弁財〉は、サンスクリット Sarasvati の訳語で、インドの神の名であり、聖河の化身《けしん》という。  これが仏教にはいり、舌・財・福・知恵・延寿などを与え、厄難《やくなん》を除き、戦勝を得させる女性となり、その像は、琵琶を持つか、弓矢や刀や斧《おの》や杵《きね》や矛《ほこ》などを持っている。  日本では、吉祥天《きっしょうてん》と混同され、穀物の神の宇賀神とも同一視され、弁財天と書かれて福を与える神とされるようになり、七福神のなかで、琵琶をひく美しい女神として定着した。 ◆通夜《つや》  富貴《ふうき》を祈らんと〔金持ちで身分も高くなることを祈ろうと〕、時行《はやり》弁天へ七日七夜通夜をしたが、何の奇特《きどく》もなし〔霊験もない〕。  七夜目の暁方《あけがた》、弁天、内陣《ないじん》の戸張《とばり》をあけ、白紙一枚くわえて出《いで》給う。  ありがたく思い、 「これに居ます」  と、御裾《みすそ》をとらゆれば、弁天、 「いやらし。小便《しし》に行くのに」……安永二年刊『飛談語《とびだんご》』  つぎにおめでたく、大黒と恵比寿といこう。 【大黒】は、〈大黒天〉で、サンスクリット Mahakala の訳。インドの神で、毘盧遮那《びるしゃな》、または摩醯首羅天《まけいしゅらてん》の化身という。  中国では、この神を飲食をつかさどる神、台所の神として寺に祀《まつ》り、日本でも寺の庫裏《くり》に、神主《かんぬし》の形で袋を持つ像を安置するようになった。しかし、日本では、福徳や財宝を与える神〈大黒さま〉として親しまれている。  大黒天の〈大黒〉と、大国主命《おおくにぬしのみこと》の〈大国〉と音が通じ合うところから合体して、日本的な大黒さまになり、円《まる》くて平たい頭巾《ずきん》をかぶり、左肩に大きな袋を背負って、右手に打ち出の小槌を持ち、米俵の上にいる姿になった。 ◆大黒天  大黒天へ福を祈らんと参詣して、七日通夜しけるに、満ずる夜〔満願の夜〕に大黒あらわれ給い、袋をひろげて、底の方から金百両を出し、与え給う。  ありがたくちょうだいして、 「さて只今見ますれば、紫檀《したん》に惣唐草《そうからくさ》の高蒔絵《たかまきえ》、銀かな物打った小槌が、袋のなかに見えました。さて、あれは、結構なお小槌でございます」  と、申せば、 「あれは、おれが遊びにでも行く時に持って出る他所《よそ》行きの小槌だ」 「そのまた、お手にお持ちなされたのはえ」 「ムム、これは、内《うち》での小槌」……安永八年刊『気のくすり』  よそ行き用の小槌と、在宅用の〈内での〉小槌とを使いわけるとは豊かな神さまだった。 【恵比寿】は、太古、イザナギノミコトとイザナミノミコトの間に生まれた蛭子神《ひるこのかみ》とも、事代主命《ことしろぬしのみこと》ともいわれる。  風折《かざお》り烏帽子《えぼし》に狩衣《かりぎぬ》、指貫《さしぬき》を身につけ、鯛《たい》を釣りあげて抱えている。 ◆大黒の釣り竿  大黒、釣りに行きやした。  針をおろすと大鯛がかかり、ぴくぴくとひく。 「これ、よせよせ。おれだ」 【布袋】は、中国、後梁《ごりょう》の高僧で、九世紀から十世紀のひとという。  大きく肥《こ》えたからだで、巨大な腹をつき出し、杖を持ち、日用品入りの袋を担《にな》って街中を歩き、吉凶や天候を占ったというが、日本では、七福神のひとりとして親しまれている。 ◆和尚《おしょう》 小僧「もしえ、アノおせき様のことをば、門前の樒屋《しきみや》〔仏花を売る店〕で、弁天様のような大黒だと申しますよ」 和尚「また、おしつけ〔間もなく〕、あれが腹を布袋のようにしてみせよう」……文化ごろ刊『一雅話三笑《いちかわさんしょう》』 「弁天を大黒にし又《また》布袋にし〔柳106〕」という句そのままで、弁天のように美しい大黒〔僧侶の妻〕を、布袋のように大きな腹にするとの宣言は、自信満々のスタミナ和尚だった。  僧侶の妻を〈大黒〉というのは、大黒天が台所の神であるところから寺の飯炊《めした》き女をいい、さらに、妻や妾をもいうようになった。 【福禄寿】は、背が低く、長い頭で、長い髭をはやし、杖に経巻《きょうかん》を結び、鶴を連れている。  この神は、幸福、封禄、長寿の三徳を備《そな》えた像としてえがかれたといわれ、南極星の化身とも、中国、宋の道士天南星の化身ともいう。  日本で七福神のなかに数えられたのは室町時代以後で、〈福禄人《ふくろくじん》〉とも称した。 ◆福神の夜遊び  寒い晩に、福禄寿が、仲間衆へ〔なかまのところへ〕行きやす。  あまり寒さに、木綿《もめん》屋の戸をたたいて、 「手拭にするから、さらしを六尺ください」  うちから、 「もしえ、それは、下帯の間違いではござりませぬか」  と、くぐり戸をあける。  外から首をぐいと入れ、 「頬《ほお》かぶりにする」……安永六年刊『春袋』  六尺では、下帯《ふんどし》と思うのも無理はない。 【毘沙門天】は、サンスクリット Vaisravana〔あまねく聞く意〕の音訳。仏教用語としては四天王の一。十二天の一という。  怒りの相をあらわし、身に甲冑《かっちゅう》を着け、片手に宝塔、片手に宝棒、または鉾《ほこ》を持つ。  須弥山《しゅみせん》の中腹に住んで北方世界を守護し、多くの夜叉《やしゃ》、羅刹《らせつ》を統率するとともに仏法を守護し、福徳を授ける神で、多聞天《たもんてん》とも訳す。 【寿老人】は、中国、宋の元祐年中〔一〇八六〜九三〕のひとで、寿星の化身という。  長頭の老人で、杖を携《たずさ》え、杖の頭に巻物をつけ、うちわを持ち、鹿を連れていたという。  鹿は千五百歳を経ており、その肉を食うと二千歳の長寿を保つというので、後世につけくわえられたという。  長寿を授ける神とされる。 [#改ページ] 姫はじめ  姫はじめ恵方《えほう》へ向けと馬鹿亭主〔柳68〕  この句にいう〈姫はじめ〉とは、夫婦が、その年、はじめて情交する日を意味していた。 ◆ひめはじめ 「権兵衛殿、よい春でござる。ときに、貴公は、お好きじゃから、もう、おはじめなったろう」 「なにをなにを」 「はて、例のことを」 「例のこととは、なんでござる」 「これはしたり。ひめはじめのことでござる」 「ひめはじめとは、一円《いちえん》〔まったく〕わからぬ」 「これは、そらぞらしい。一夜明けましてからは、亥《い》の初春でござるから、また改めて、かのことを、おかみ様と」 「今年は、亥でござるかな」 「さようさよう」  権、感心した顔で、 「昨夜、鼻いきを荒く致した」……享和三年刊『軽口噺』  ——いのししの年にふさわしい猪突猛進の新春の一夜だった。 〈姫はじめ〉は、暦の正月二日に記されており、いろいろの事柄をはじめておこなう日とされるが、語源については、むかしから、いろいろと論議されて来ていた。  正月に、釜でやわらかく炊《た》いた〈ひめ飯《いい》〉をはじめて食べる日だとか、台所で炊事をはじめる〈火水《ひみ》始め〉の日だとか、女子が裁縫をはじめる〈姫始め〉の日だとか、馬にはじめて乗る〈飛馬始め〉の日だとか、太陽をはじめて拝する〈日見始め〉の日だとか、男女がはじめて情交する〈密事《ひめごと》はじめ〉の日だとか、諸説乱れ飛んで果てしない。  しかし、一般的には、情交の事はじめの日と信じられていた。  やかましやするにして置け姫始め〔柳45〕 「どのように論議をしようとも、|する《ヽヽ》ことにちがいないのだから、語源論争などはやめにしろ!」  ——こちらは不言実行の士であった。 [#改ページ] 猿廻し  舞猿《まいざる》や餅いただきて子にくれる 一茶  猿を背負ったり、曳《ひ》いたりして諸家をめぐり、太鼓を打って猿の芸や舞を見せる猿廻しは、正月の風物詩であった。  これは、万歳と同じように、訪れた家の繁栄を祝い、災難を去る〔さる〕という縁起も意味していた。  さらにまた、猿を馬の守り神とする信仰にもとづき、武家、あるいは農家の厩《うまや》におもむき、馬の健康を祈ることもあった。  舞扇《まいおうぎ》猿の泪《なみだ》のかかるかな 一茶  こんな情緒的光景の展開される場面では、美しい見物客の姿もあった。 ◆猿引き猿  さる大家《たいけ》へ猿廻し来り、 「嫁御の昼寝は、ころりとせい」  と、唄うところヘ、奥様、うちの暖簾《のれん》の合《あい》よりのぞかせられ、 「さても美しい猿ではある」  と、言われけるに、猿廻し、見とれて、きょろり。  猿、竹ひったくり、 「シイ」 ……安永五年刊『立春噺大集《りっしゅんはなしのおおよせ》』  奥様の美しさにうっとりした猿廻しを、猿が「シイ」と叱るとは、主客転倒の珍風景だった。 〈猿〉の語源は、獣《けもの》のなかで知恵が勝っているので、〈勝〔マサル〕〉の意という説、サは、サワグ、サワガシを意味する古語、ルは、語助という説、〈戯〔サルル〕〉ものであるからという説などをはじめ諸説があるが、決定的な説は見当らない。 [#改ページ] 羽子板  羽子板や唯《ただ》にめでたきうらおもて 嵐雪  つく羽を犬がくわえて参りけり 一茶  羽子《はね》つきは、江戸時代以降、正月を彩る華やかな女子の遊びになった。  それは、羽子板を手にして、ひとりで数え歌をうたいながら数多くつくことを競う〈揚げ羽子〉、ふたり以上で、ひとつの羽子をつき送る〈追い羽子〔遣り羽子〕〉などがあり、追い羽子では、落した者の顔に墨やおしろいなどを塗る罰もあって笑いを誘った。 ◆はねつき娘  つくばねや一《ひ》ィ二《ふ》ゥ三《み》ィ四《よ》ゥいつも春。 男「おや、おふくさんかえ。つく羽子《ばね》じゃな。道理で、顔が、ふじびたいで、や、えらい、えらい」 娘「いやだよ。なんでもよいわ」 男「なるほど、よっぽどよい子じゃ。五ツヨに六ツくり、うまそなお子じゃぞ。一《ひ》ィ二《ふ》ゥたべたい、三《み》ィれば見るほど、さてもよいよい、四ツよだれの出るようなおむす〔娘〕じゃ。あいたたた、これこれこれ、なぜ、このように、わしがおとがい〔あご〕を払うたのじゃ。ああ、いたや、いたや。はねをつかいで〔つかないで〕、おとがいをつくものが、どこの世界にあろうぞえ。これはほんの、あごいたじゃ」 ……天保十三年刊『百面相仕方ばなし』  羽子板《ヽヽヽヽ》と|あご痛《ヽヽヽ》とをかけた地口落ちにすぎない咄だが、正月の華やかな羽子つき気分は浮き彫りになっている。  羽子板を、古くは、胡鬼板《こぎいた》と呼んだようだ。  胡鬼は、植物ツクバネの異名で、胡鬼子という固くて黒い実ができるが、これをついて遊ぶのが胡鬼板で、胡鬼には魔|除《よ》けの力があるという俗信からの遊びだった。 [#改ページ] 万歳《まんざい》  万歳や鼓《つづみ》うちこむ角の家 闌更《らんこう》  正月の門《かど》付け芸人のうちで、歴史も古く、各階層のひとたちによろこばれたのは万歳だった。  訪れた家に対して、千年も万年も栄えませと祝言を述べ、舞いを舞って祝儀《しゅうぎ》をもらう芸能で、古くは、千秋《せんず》万歳とも言った。  平安時代に見られたというが、室町時代になると、千秋万歳法師と呼ばれる芸人が、毎年正月には宮廷や幕府に参入した。  江戸時代には、各地でさかんになり、大和《やまと》万歳、越前《えちぜん》万歳、三河《みかわ》万歳、伊予《いよ》万歳、秋田万歳など、本拠地の名を冠する万歳が生まれた。  三河万歳は、徳川氏が、以前に三河領主であったことから、毎年正月には江戸城へ参入し、諸大名の屋敷や町家もめぐって歩いた。  一方、大和万歳は、例年、京都御所や貴族邸、町家などにおいて、祝賀のわざを演じた。  万歳は、太夫《たゆう》と才蔵《さいぞう》のふたりによる芸能で、扇子を持ち、烏帽子《えぼし》に素袍《すおう》を着用した太夫が、大黒ずきんをかぶった才蔵の打つ鼓によって舞ったり、ふたりで歌ったり、祝言を述べたり、滑稽問答をかわしたりした。  江戸橋で道化を一人ずつ抱《かか》え〔柳26〕  各地の万歳は、春ごとに組をつくって出発したが、三河万歳だけは、太夫が、単身、江戸に来て、才蔵を雇う風習があった。  そのために、歳末には、江戸橋寄りの四日市〔現東京都中央区日本橋一丁目のうち〕において才蔵市が立ち、安房《あわ》、上総《かずさ》、下総《しもうさ》あたりから出て来た臨時雇いの才蔵に特訓がほどこされた。 ◆万歳 「大三十日《おおみそか》に、四日市で才蔵市というのがあって、万歳が寄り合い、よい才蔵を見立てて抱えるそうだ。気の合った才蔵を、国から連れて来てもよさそうなものを、大三十日に抱えて、はや元日から、千年も召し使うように連れて歩く。とんと座敷へあがっても離れず、歩くにも離れず、あのようにくっつき合って居るものはない」 友達「ふたりが、くっついているから万歳じゃ」 亭主「くっついて居れば、なぜ万歳じゃの」 友達「はて、合点の悪い〔理解するのがおそい〕。それで、にかわ万歳よ」 ……寛政十三年刊『滑稽好《こっけいこう》』  三河《ヽヽ》に、粘着剤の|にかわ《ヽヽヽ》をかけた地口落ちだが太夫と才蔵との名コンビぶりがうかがえる。  かみさまもお好き万歳名句なり〔天元・鶴〕  万歳は、「徳若《とくわか》〔常若《とこわか》〕に御万歳と御代も栄えまします……」などと、めでたい唄をうたいながら来るが、そのうちに、「殿さまもお好き、奥さまもお好き……」などと、しだいにワイセツなことばを並べるようになり、それにあわせて、才蔵が、鼓を打ちながら腰を使って見せたりして笑わせた。  そこで、嫁や娘たちは、むやみに笑ったりすると、つつしみがないと非難されることになった。  腰をかがめておどけると嫁は逃げ〔安五・仁〕  ——それは、色気に満ちた明るい正月風景だった。 [#改ページ] 手まり  猫の子の手まりに遊ぶ日向《ひなた》かな 其成  江戸時代には、正月の遊びとして年玉にも贈られ、手まりは欠かせないものだった。  鞠唄《まりうた》へちゃりを入れてる男の子〔柳134〕  手まりをつきながらの鞠唄に、滑稽な横口をはさむ男の子がいたという句のように、いろいろの鞠唄があった。 〈十二か月の鞠唄〉は、「ひとつとや、ひと夜明くればにぎやかで、にぎやかで、お飾り立てたる松飾り、松飾り」というがごとくであり、江戸で広くうたわれたのは、「本町二丁目の糸屋の娘、姉は二十一、妹は二十歳《はたち》、妹ほしさに宿願かけて、伊勢へ七度《ななたび》、熊野へ三度《みたび》、愛宕《あたご》様へは月まいり」という唄だった。  家庭でつくられる鞠もあったが、商品としても販売された。  |しん《ヽヽ》には、綿、いもがら、こんにゃく玉、山まゆ、かんなくずなどをいれて弾力性を持たせ、小鈴やハマグリの殻《から》などもいれて音の出る工夫《くふう》をして、これに巻きつけ、そのうえを五色の絹糸でかがった美しい鞠だった。 ◆手まり 「春は、とかく、子どもに青空を見せるが薬だ。それだから、ソレ、たこをあげさせるか、そして、女の子には、まず、羽《は》ごの子をつかせるか、なんと、いいつもりにしたものだろう」  と、一ぱいに〔大声で〕はなすを、そばから、 「そんなら、あのまりは、地ばかり見せるが、あれは、どうしたものだ」 「ムム、あれも全体、足で蹴あげて、空を見せるが、ほんのことだ」 ……天明九年刊『新米牽頭持《しんまいたいこもち》』  振袖姿の女の子の手まりは絵になるが、裾《すそ》を乱してのサッカーではどうも……。  ただし、女児の正月用の手まりとは別に、四人で蹴りあう蹴鞠《けまり》の競技もあった。 〈まり〉の語源は、〈円〉〈丸〉にもとづくもののようだ。 [#改ページ] 凧《たこ》  切れ凧や後徳大寺の棟の上 元夢  糸つける人と遊ぶやいかのぼり 嵐雪  立ちいでて都の空やいかのぼり 涼菟《りょうと》  凧〔いかのぼり〕には、正月らしい華やかさに彩られた動きがある。 ◆凧  むすこが、たこをあげるに、あがらず。  親父出て、 「どれどれ、おれが、あげ付けてやろう。向うの河岸へ持ってこい」  とて、小僧をつれゆき、一|駈《か》け走ると、よくあがる。  親父おもしろがり、引いたり、しゃくったり、余念なし。 「これ父《とっ》さん、もう、おれにくんねい、くんねい」  と、せつけば、 「ええ、やかましい。われをつれて来ねばよかったもの」 ……安永二年正月序『聞上下』  これはまた、「あげかける凧に我が子がじゃまになり〔宝八・鶴〕」という句そのままの世界であり、その正月らしい浮々した気分ゆえに、落語「初天神」の落ちにもなった。  凧の糸踏んで子供に叱られる〔天元・義〕  凧あげは、正月の男の子の遊びだから、男児は浮かれきっている。 ◆占い  両国の占見世《うらみせ》の前で、子供、たこをあげながら、 「ここのうらないは、あたらぬ。下手《へた》」  と、悪たいをいう。  占い者《しゃ》、腹を立て、 「こいつらは、毎日、見世さきで凧をあげるさえあるに〔凧をあげるだけでも迷惑なのに〕、にくいやつらだ。うぬらは、どこから来おる」 「あててみな」 ……安永五年正月序『鳥の町』  平安時代の辞書『倭名抄《わみょうしょう》』に、「紙老鴟《しろうし》または紙鳶《しえん》といい、紙をもって鴟《とび》の形をつくる」とあるが、当時は、〈たこあげ〉という遊びは、あまりおこなわれなかったらしい。  凧には、鳶《とんび》凧、奴《やっこ》凧のように形態のあるもののほか、字凧、絵凧もあって楽しい。 ◆元日  元日、子供は、朝から、はねをつき、たこをあげている。  鳶凧と、奴凧と、空へあがり、 鳶凧「なんと奴凧、一夜あけての空のけしき、どうもいいの」 奴凧「それそれ、門松に春風の音、どうもいえぬ春のけしき」  と、いいながら、くるくるくると廻る。 鳶凧「これこれ奴凧、なにをするのだ」  奴凧、ぬからぬ顔して、 「はて、若水を汲みます」 ……寛政十一年正月跋『腮《あご》の掛金《かけがね》』 「お供はつらいね」と唄われるような労働過多の武家の下僕〈奴〉だけあって、空で舞っている間でも、若水汲みの仕事の気分から解放されていなかった。  凧の語源は、長い尻尾《しっぽ》をつけたさまが蛸《たこ》に似ているゆえであり、〈いかのぼり〉は、〈烏賊《いか》〉にかたちが似ているゆえという。 [#改ページ] 七種《ななくさ》〔七草〕  正月七日に七草がゆを食べて祝う行事、または、そのかゆにいれる野草をもいうが、この日に七種類の若菜を、あつものにして禁中に奉《たてまつ》ることは、平安時代初期にはじまったらしい。  正月七日、今朝、三都ともに七種の粥《かゆ》を食す。七草の歌に曰《いわ》く、「芹《せり》、なずな、ごぎょう、はこべら、ほとけのざ、すずな、すずしろ、これぞ七種」以上を七草と云うなり。  然れども、今世、民間には、一、二種を加うのみ。三都ともに、六日に、困民、小農ら、市中に出て、これを売る。〔中略〕江戸にては、「なずな、なずな」と、呼び行くのみ。……『守貞漫稿』  というように、あまりぱっとしない売り手が、一文で売り歩いた。  七種の菜を調理するには、六日の夜、または七日の早朝に、野草を、まな板のうえに置き、薪、庖丁、火ばし、すりこ木、しゃくし、銅じゃくし、菜箸《さいばし》などの七具を添え、歳徳神のほうに向かって「七草なずな、唐土の鳥が、日本の土地へ、渡らぬさきに……」などとはやし、残りの七具をだんだんに取って、これをくりかえす。そして、これを、七度ずつ、七回はやしたのちに、かゆにいれて食べた。  この七草ばやしは、鳥を追う意味で、年頭に当り、作物の害敵の鳥を追って、豊年の予祝をおこなうことにあったという。  正月も七日になると、門松を取り払い、七草がゆを食べて、正月も一区切りということになる。 ◆万屋《よろずや》 「万屋万八、御慶《ぎょけい》申し入れます」  と、言えども、答えなし。  また、 「万屋万八、御慶申し入れます」  勝手のほうから、ねぼけた声で、 「はて、七種過ぎまで待ってくだされよ」 ……安永六年刊『管巻《くだまき》』  大晦日に支払うべき借金を、七草過ぎまでと頼むのも、七草までは、平穏な正月気分ゆえだった。 [#改ページ] 鏡開《かがみびら》き  開かでも割るる日数や鏡餅    似研  正月に床の間に飾った鏡餅をおろして食べることを〈鏡開き〉という。  元来は武家の行事で、正月十一日、男子は甲冑《かっちゅう》に、女子は鏡台にそなえた鏡餅を食べた。  はじめは、二十日に祝っていたが、三代将軍家光が、慶安四年〔一六五一〕四月二十日に亡くなったので、承応元年〔一六五二〕からは十一日に改めた。  十一日鏡開き 鏡餅今日割り食す。武家にては甲冑に供えたる餅を切ることを忌み、斧《おの》などをもって割る。……『守貞漫稿』  という文章もあるように、〈切る〉ということを不吉なこととして避けて〈開く〉といい、刃物で切らずに割って食べる。  商家では、十日の晩に割って、十一日に雑煮にして食べることが多かった。  現在では、東京の小石川の講道館における鏡開きが有名になっている。  講道館にちなんで柔道の小咄を紹介しよう。 ◆柔術《やわら》取り  朝湯へいそぐ柔術取り、板の間にてすべり、あおのけに転び、起きあがり、口のうちにて、 「いまの呼吸《いき》に投げるとよい」 ……安永五年刊『一の富』  変なところで武芸の極意《ごくい》を知ることもある……。 〈鏡〉の語源は、諸説あるが、影〔姿、かたち〕をうつして見る意味の〈影見〔カゲミ〕〉によるという説が無理がないように思われる。 [#改ページ] 宝引《ほうび》き  宝引きや炬燵《こたつ》にすねる妹ひとり 蓼太《りょうた》  みんなが宝引きにたわむれているのに、どういうわけか、すねた女の子が、ひとりぽつんと炬燵にはいっているという句だった。  宝引きとは、何本かの縄を束ねて、それを一本ずつ引かせ、縄のさきについている胴ふぐり〔木槌《きづち》やだいだいなど〕を引きあてた者が賞を得るという正月の遊びだった。  また、胴ふぐりをもちいずに、縄の端《はし》に金銭や物品が結びつけてある場合もあった。  この遊びは、古くは、宮中にもあったようだが、江戸時代には、大名屋敷でもおこなわれたらしく、『西鶴織留』巻三の一にえがかれている。  それによると、襖《ふすま》の内から数百本の長い縄を投げ出し、そのさきに、銭、杖、反物《たんもの》、脇差、長刀《なぎなた》、印籠《いんろう》などが付けてあったという。 ◆宝引き  四、五人寄り合いて、宝引きを引くなかに、ひとり勝って、大いに笑う。 「やれ、やかましい。そのように笑やるな」  と、いえば、彼奴《きやつ》むしょうに〔むやみに〕笑いしが、だんだん負けて来る。  笑いもだんだん止みて、後は、苦《に》が笑いになりしが、みんな負けてしまい、泣き声になりて、 「もう、しまおう」 ……安永三年刊『稚獅子《おさなじし》』  得意の絶頂から絶望へという表情が活写されているが、これは、庶民の間に流行した賭博風の宝引きだったろう。  あめ宝引きとて、辻々、橋際などに、初春、あめやどもが〔中略〕縄をいく筋も出して、だいだいをふんどん〔分銅〕にして、あめを宝引きにしたり。 ……『賤《しず》のをだ巻』  この子ども相手の〈あめ宝引き〉も正月風景のひとつだった。 ◆飴《あめ》宝引き 「さあ、ござい、ござい」  と、表へ飴宝引きが来る。  子ども、おやじにむかい、 「おれにも、銭をくんな」 「よせよせ。あれは損なものだ」 「なに、一文で二十四文がものを取るから、とくなものだ」 「どうして、取れるものだ」 「きっと取れる。もし、おれにあたらねえでも、だれかしら、あたりは、あたる」 ……天明九年刊『新米牽頭持《しんまいたいこもち》』  人生を達観した子どももいた。  一の富どこかの者が取りは取り〔柳15〕  ——富くじにはずれても、悠然《ゆうぜん》と構える人物に成長してゆくことだろう。 〈ほうびき〉の〈ほう〉は、〈福〉の中国・呉音〈ホク〉から来たとの説がある。 ◆江戸小咄春夏秋冬 新年 興津 要著