江戸小咄春夏秋冬 夏の二 興津 要 [#表紙(表紙-夏二.jpg、横180×縦240)] 表紙絵  広重作「名所江戸百景」より京橋竹河岸《きょうばしたけがし》……御幣《ごへい》をもった人に先導されて大山詣りからの帰りの人たちが橋の上をゆく。京橋は日本橋を基点とする東海道がわたる二つ目の橋で、擬宝殊《ぎぼし》で飾られた立派な橋だった。満月の昇るなか、竹細工を積んだ一艘の船が下流へとむかう。橋のむこう左手には竹問屋がならび、川面には竹の筏《いかだ》が繋ぎとめられていて、この一帯は竹河岸と呼ばれていた。 [#改ページ] 目 次  忍《しのぶ》  四万六千日《しまんろくせんにち》  汗《あせ》  行水《ぎょうずい》  洗い髪  水練《すいれん》  ビードロ  滝  蟹《かに》  土用《どよう》  夕立  雷《かみなり》  |井戸替え《いどがえ》  蛍狩り  |大山詣り《おおやままいり》  虫干し〔土用干し〕  土用鰻《どよううなぎ》  どじょう汁 [#改ページ] 忍《しのぶ》  あり侘《わび》て京へ出《いで》しな忍《しのぶ》売り  巣兆《そうちょう》  山地の岩の上や木の幹などにつくシダ類ウラボシ科の落葉多年草で、夏の鑑賞用として、根茎をからみ合わせて「しのぶ玉」をつくり、軒下などにつるす。  この行商人を忍売りと呼んでいた。 ◆忍売り 女房「もしもし、おひんなりませ〔お目ざめなさいまし〕」 亭主「ムムウ、なんだ。せっかく、うまいところを起こされた。夢に芝居を見て、いま、仲蔵《なかぞう》が忍売りの出端《では》〔登場するとき〕。あったら物を〔おしい場面を〕見のこした」  と、叱言《こごと》をいえば、女房、むっとして、 「そんなら、また寝いったがよい。まだ一幕《ひとまく》はすむまい」 ……安永五年刊『一の富』  とはいっても、夢のつづきは、なかなか見られない。 「しのぶ」は、「忍ぶ草」の略で、土がなくても耐え忍んで育つことによる名称をいうが、「滋伸〔シゲリノブル〕」の略。葉の裏に星のようなものが並んでいるので、「星並〔ホシナム〕」の略転などの語源説もある。 [#改ページ] 四万六千日《しまんろくせんにち》 ◆四万六千日  軽子《かるこ》〔荷を運ぶ人夫〕が連れ立って行きながら、 「棒組〔あいぼう〕、棒組、二百十日たぁ、まあ、なんのこったろう」 「てめえ、ありよう〔ほんとうの理由〕ひとつ知らねえか」 「このとしまで知らねえよ」 「まず、ありゃあ、こうと、あの節分《せつぶん》のあくる日よう立春というわ。よしか。それから二百十日めのことさ」 「はてな、そりゃあ、それでよし。だが、四万六千日たぁな〔どういうわけだ〕」 「はて、それもおんなしことさ」 ……安永六年正月序『喜美賀楽寿《よろこびがらす》』  一年が四万六千日以上もあるはずがない。奇妙な説明だが、なにかにつけて江戸市民の関心をひく日ではある。  この日は、江戸のむかしから現在にいたるまで、夏の風物詩的光景を展開していて楽しい。  七月十日、江戸浅草観世音四万六千日|詣《もうで》、昔は諸所観音に詣す。今は浅草にのみ大群詣す。観音欲日と号して、毎月一日これあり。あるいは百日にあたり、あるいは幾千日と、毎月同じからず。また、毎月十日にあらず。そのうち、今日のみ四万六千に当り、故に、今は、今日のみを知りて、他月を知る人まれなり。文化季以来、境内において、もっぱら赤玉の玉蜀黍《とうもろこし》を売る。〔中略〕世俗、これを買いて天井に挟《はさ》めば、雷を免《まぬか》るの呪《まじない》というは妄説なり。昔は、今日、境内において茶筌《ちゃせん》を売る。〔中略〕寛政に至り、おのずからこれを廃す。また、楊枝店《ようじみせ》に赤紙袋に|附子(ぶし=生薬)の粉をいれ、軒ばたに釣りて、これを売る。号《なづけ》て下げ嚢《ぶくろ》という。これまた、ようやくに廃《すたれ》て、文政の初め、わずかに一、二店のみこれを釣るなり。 ……『守貞漫稿』  この文章でもあきらかなように、七月十日は観音の縁日で、欲日といい、この日に参詣すると、京都の清水寺や大阪の天王寺のように、千日参り〔千日ぶんの功徳《くどく》のある参詣〕とか、浅草寺のように四万六千日ぶんの功徳があるとかいわれる。  むかしは、この日に、浅草寺境内で、とうもろこしとか、茶筅とかが売られたこともあったようだが、  夫婦らし酸漿市《ほおずきいち》の戻りらし  高浜虚子  という句もあるように、現在では、ほおずき市といって、青ほおずきを売る店が境内いっぱいに並び、これを買って帰り、煎《せん》じて飲むと、女性の癪《しゃく》や、子どもの虫封じにきくという俗信もある。  また、寺では、三角形の雷除けの守り札を授けている。 [#改ページ] 汗《あせ》  汗水《あせみず》は暑さよりわく湯玉かな  季吟《きぎん》  この古い句は、「熱水〔アシ〕」の転訛《てんか》とか、「熱湿〔アツシメリ〕」の意味とかいう語源説と一脈通じるものがあっておもしろい。  汗水は親父 湯水《ゆみず》は息子なり 〔柳130〕  父親が、汗水垂らして貯めた金も、道楽息子にかかっては、湯水のごとくに使われてしまうから、どうにもたまったものではない。 ◆大団扇《おおうちわ》 「ああ暑いぞ、暑いぞ。この暑気《しょき》にはたまらぬ。これ長松、その大団扇であおいでくれろ」 「はい」  と、いうて、団扇の柄《え》のひしげる〔つぶれる〕ほどにぎり詰め、さっさっとあおぎ立てる。 「やれやれ、涼しくなった。もうよいぞ。汗は、どこかへなくなった」 長松「はい、汗はみな、私へ参《さん》じました」 ……文化五年正月序『笑顔始《えがおはじめ》』  これこそ汗水ものであった。 [#改ページ] 行水《ぎょうずい》  行水の捨てどころなき虫の声  鬼貫《おにつら》  行水も日まぜになりぬ虫の声  来山《らいざん》  などという俳諧の分野ばかりでなく、川柳のほうにも、  行水のたらいにうつる松の月 〔柳118〕  行水のたらいの中に月がさし 〔柳130〕  などの句が見られる。  たらいの湯で手軽に湯浴《ゆあ》みをし、一日の汗を流すという、江戸時代の夏の庶民的な生活風景で、浮世絵でも絶好の画材となっていた。  しかし、元来は、宗教的意味を持つ潔斎《けっさい》の目的によるもので、神事や仏事の前に、清潔な水で身体を清めることだったから、垢離《こり》をとるのと同じ意味があった。 ◆夏座敷  さる所に、甲斐性《かいしょう》のない〔はたらきがなくて頼りない〕お内儀《ないぎ》が、二つばかりの子を抱き、店さきに坐るさまを、道通り〔通行人が〕見て、 「さても、この子は、東西南じゃ」  と、いう。  お内儀は、嬉《うれ》しげに内へはいり、 「のうのう、どこのひとやら、このぼん〔坊や〕を、東西南じゃてて、大ぶんほめてじゃあった」  亭主聞いて、 「行水でもさせて、つれて出よ。それは、北《きた》ないということじゃ」 ……元文五年刊『軽口福おかし』 [#改ページ] 洗い髪  妻と居て匂うは妻の洗い髪  山口誓子  洗い髪月に乾きしうなじかな  中村汀女  夏、汗臭くなる髪を洗うのはこころよいものだが、土地によっては、七夕《たなばた》の日に髪を洗うことが行事になっている例もある。  それは、七夕が水に縁のある日であるからで、この日に井戸替えをする例もある。  夏の夜、暗闇のなかに浮かびあがる洗い髪の女性の姿には、凄艶《せいえん》の気がみなぎる。 ◆洗い髪  客、小便《しょうよう》に起き、廊下を見れば、女郎、洗い髪を乱し、立って居る。  客、思うようには〔思うには〕、 「この女郎、自害でもする気か。ただし幽霊か。なんでも見届けてやろう」  と、こわごわそばまで行き、そっとのぞき見れば、女郎、ふところのうちで、はした銭の勘定。 ……安永二年閏三月序『近目貫《きんめぬき》』  現実暴露の悲哀ともいうべき光景だった。  なお、髪は、からだの上部にあるゆえに「上〔カミ〕」の意、「上の毛〔カミノケ〕」の略などといわれ、洗うは、新《あら》たにする意、「垢〔ア〕」を追いやる、払うなどの意ともいう。 [#改ページ] 水練《すいれん》  水練は、水泳の技術をいうが、これは、主として軍事目的から発達したもので、武芸十八般のなかに数えられた武芸でもあった。  江戸時代には、多くの流派が生まれ、隅田川に各派の伝習所ができて繁栄した。  江戸にて士人の水練する始めは近きことにて、宝暦五、六年〔一七五五、五六〕の頃、十人ばかりも出て、両国橋の下、元柳橋の処にて稽古したり。又、深川越中島橋際には、未熟の者出たり。……『嬉遊笑覧』  という文章が、その実情をつたえている。  明治維新以後は、武術としての水練という性格は失ったが、身分制度の廃止によって、かえって水泳人口は増加した。  永井荷風の随筆「夏の月」に、「自分が水泳を習い覚えたのは神伝流の稽古場である。神伝流の稽古場は毎年本所御舟蔵の岸に近い浮洲《うきす》の上に建てられる」とあるが、この神伝流は、最古のものといわれる。  ほかに、水府《すいふ》、向井、水府流太田派、観海、野島、小池、岩倉、水任《すいにん》、臼杵《うすき》、小堀、神統などの流派があるが、明治十年代に生まれた水府流太田派以外は、いずれも江戸時代に流派を形成していた。 ◆水練  水におぼれぬ秘伝という看板。 「これは重宝《ちょうほう》なこと」  と、大勢弟子入りして、 「御指南《ごしなん》受けたし」  と、いう。  師匠まかり出《いで》、 「いずれも御心がけ、ごもっともなり。明日四ツ時〔午前十時ごろ〕、おそろいなされ」  と、約束し、翌日に、弟子たち、より合い、待ちかけしに、しばらくありて、先生いでられ、硯箱《すずりばこ》取りいだし、 「さて、水におぼれぬ伝と申すは、いささかのことなれども、大秘事〔奥義〕にて候。おのおの、脛《すね》をまくられよ」  と、筆に墨をつけて、向う脛《ずね》の三里のあたり〔灸点《きゅうてん》のひとつ。膝がしらの下、外側のすこしくぼんだ箇所〕へ、横にすじを付け、 「これより深い所へ、はいらっしゃるな」 ……安永四年正月序『聞童子《きくどうじ》』  これならば確かに水におぼれることはあるまい……。 [#改ページ] ビードロ  硝子《びいどろ》の魚おどろきぬ今朝の秋  蕪村  ビードロは、ポルトガル語でガラスを意味するvidro《ビイドロ》から来たことばで、ガラス製の器具も意味した。この句などは、ガラス製の容器をいっている。  室町時代の末、長崎に来たオランダ人が製法を伝え、酒盃、鉢などが作られるようになり、のちに渡来した板状のものは、ガラスと呼んだ。 ◆硝子《びいどろ》 「さて、近々《きんきん》に金儲《かねもう》けの蔓《つる》に取りつくことができた」 「それは耳より。どうじゃどうじゃ〔どういうことだ〕」 「されば、先年から、川々に埋《うず》もれたる金銀おびただしくあるによって、見出す工夫《くふう》を付けたが、どうだどうだ」 「それは、おもしろい。おれも半分乗りたい」 「それならば、舟を借りたまえ」  とて、両人、舟に打ち乗り、両国の辺へ乗り出し、かねて用意の大硝子《おおびいどろ》を取り出し、 「この中へはいりたまえ」  と、入れて、よく口をしめ、綱を付けて水底へさげ、 「どうじゃ、あるか、あるか」 「あるともあるとも。銭金《ぜにかね》、わきざし、金物《かなもの》、おびただしい」 「早く取りやれ」 「手が出ない」……安永五年正月序『鳥の町』  ガラスなるがゆえに見えるが、ガラスあるがゆえに取れない。 [#改ページ] 滝  滝水の中やながるる蝉《せみ》の声  惟然《いねん》  滝壺の涼しき愁《うれ》い消えがたし  石原次郎  山の絶壁から垂直に落ちる滝は、四季ともに見られるが、俳句では夏の「滝見」を季語としている。 「たき」の語源は、水があふれ、はげしく流れる意味の「たぎつ」という動詞から来たものであろう。 ◆じじとばば  じいは、山へ柴刈りに、ばばは、うちで洗濯も何もせずにいたれば、ほどなく、じいが帰って来たを見たれば、二十四、五の男になって帰った。  ばば、胆《きも》をつぶし〔びっくりして〕、 「こなた〔あなた〕、どうして、そのように若くならしゃった」 「されば、ありがたいことじゃ。あれ、あの山越えて、この山越えて、あちらのあちらの滝の水をひと口呑むと、このように若やいだ。こなたも行《い》て、呑んでお来やれ」  ばばもよろこんで、へこへこして行かれたが、とほうもなくひま〔時間〕がいるから、じいが、あとから行《い》てみたれば、ばばは、欲としく呑んだそうで〔欲ばって呑んだらしく〕、滝つぼのはたで、 「おぎゃあおぎゃあ」……安永二年正月序『今歳咄』  過ぎたるは、およばざるがごとし [#改ページ] 蟹《かに》  蟹を見て気の付く岨《そば》の清水かな  桃隣《とうりん》  蟹の姿を見て、けわしい崖《がけ》の割れ目から清水がわき出しているのに気付いたというこの句の蟹は、淡水に住むサワガニだが、海岸のアカテガニ、深海のズワイガニなど種類も多く、日本に約千種、世界中には約四千五百種もいるという。夏の季語となっている。  美酒あふれ蟹は牡丹《ぼたん》のごとくなり  渡辺水巴  蟹赤し遠山あをし母|睡《ね》し間《ま》  石田波郷  などという句もあるように、「かに」の語源は、殻《から》が赤いところから、または煮ると殻が赤くなるところからなどの説がよさそうに思う。「か」は、「殻」を意味し、「に」は、「丹〔赤い色〕」の意味というのがそれ。 ◆生酔《なまよい》  若殿、御縁側《ごえんがわ》にて御庭を御覧あるに、池の端《はた》に蟹一疋、まっすぐに歩《あゆ》む。 「あれ、変った蟹じゃ。みな見ろ」  との御意《ぎょい》。  御近習《ごきんじゅ》〔おそばつきの家来〕大ぜい立ちかかり見れば、蟹、気の毒そうに〔てれくさそうに〕、 「ちと、たべ酔いました」……安永四年正月序『一のもり』 「蟹の生酔《なまよい》まっすぐによろよろ〔柳61〕」という句もあるように、横に歩くべき蟹が、酔ったためにまっすぐに歩いて、「|かに《ヽヽ》してください」という図。 [#改ページ] 土用《どよう》  人声や夜も両国の土用照り  一茶 「土用」は、俳諧の季語は夏だが、暦法では、年に四回ある。  すなわち、立夏、立秋、立冬、立春の前の、それぞれ十八日間をいうが、普通は、立秋の前の夏の土用をさす。  土用のころは、土気がさかんで、暑熱もはなはだしいうえに、地気も一変するので、土いじりを禁じている。  語源は、土王の意で、王の字を避けて用をもちいるとか、土旺〔ドオウ〕の訛《なまり》とかの説があるが、はっきりしない。 ◆対面  土用のうち、勘左衛門、類焼にあいしゆえ、妹、久しく打ち絶えしに〔長い間会っていなかったが〕、この節と、見舞い物などを持ち、ようようたずねきたり、 「兄《あに》さんか」 「妹か、なつかじがあった」……寛政七年正月序『わらい鯉』 「なつかしかった」と「夏火事があった」とをかけた地口落ちだが、徹底的なばかばかしさがおかしい。 [#改ページ] 夕立  夕立や洗い分けたる土の色  其角  盛夏の夕刻、にわかに暗くなったかと思うと、突如として、はげしい大粒の雨が、たたきつけるように落ちて来て、雷鳴がとどろく。  夕刻に雲が起こり、雨が降る意という語源説もある夕立は、日本の夏を彩る水の祭典ともいえようか。  夕立にひとり外みる女かな  其角  はげしく、水の幕のように降りしきる夕立を見る女性の目は、あまりの豪雨ゆえに、魂をうばわれたかのように|うつろ《ヽヽヽ》であり、その顔もまた、無表情で放心状態にある。それは、虚無的な美しさを秘めるひとときでもあった。 ◆登り龍  やんごとなき〔尊い身分の〕若君の、まだ八、九歳ばかりなるが、お手習いのあいだ、座敷のうちを、あちこちと、お伽《とぎ》の衆〔側近の家来〕をつれて、お遊びの折りから、夕立雲|出《いで》て、空一面に、まっ黒になりければ、若君、つかつかと縁先に出《い》で、空を見たまいて、 「誰が墨をこぼしたやら」 ……寛政九年刊『新話違《しんばなしちがい》なし』  この若君は、まさに幼い詩人だったが、大家《たいけ》の若君とちがって、夕立のなかの庶民は、すこぶる現実的に走り廻った。 ◆からかさ  傘を張りならい、七、八本張りあげしが、油引きてから一本もすぼまらず。  これはつまらぬと、むりに畳めば、バリバリと裂《さ》ける。 「どうしたものじゃ」  と、こまりしが、折りからの夕立。 「しゃ、よい思い付きがある」  と、傘をひらいたまま辻へ持っていで、 「それ安い。まけた、まけた」  と売りかけしに〔売りはじめたところが〕、なにが〔なにしろ〕俄雨《にわかあめ》のことなれば、大勢集まり、ばいあう〔うばいあう〕ように買ってゆく。 「こりゃうれしや」  と、うちへ走り帰り、 「思い付きをやって、傘を残らず売って来た」  と、いえば、隣りの人が、 「それはよかった。いくらに売ったぞ」 「南無三《なむさん》〔しまった〕。あまりいそいで、銭をば取らずにやった」 ……安永三年正月序『富来話有智《ふくわうち》』  |もの《ヽヽ》が傘だけあって、「骨折って」丸損《まるぞん》。 [#改ページ] 雷《かみなり》  雷に小家は焼《やか》れて瓜の花  蕪村  はげしい雷光と雷鳴、そして落雷——それは、「神鳴〔かみなり〕」という語源説を思わせる自然の猛威だ。 ◆雷ぎらい  雷嫌いが、金にあかして家を建て、 「どうぞ、雷の用心のよい工面《くめん》〔工夫〕を」  と、あるひとこれを聞いて、 「それは、天井《てんじょう》に鉄の網《あみ》をはり給え。何のぞうさもなくてよし。たとえ落ちても、細《こま》かになって落ちるさ」 ……安永三年正月序『富来話有智《ふくわうち》』  雷のこまぎれ製造法! ◆雷ぎらい  いたって雷ぎらいのきおい〔勇み肌《はだ》の男〕、ぶらぶらと涼みに出たれば、にわかに空かきくもり、稲光《いなびか》りすさまじく、ガラガラ、ピシャピシャピシャと、いまにも落ちかかるように鳴り渡れば、きおい、真っ青になり、逃げたいにも逃げられず、大道へあおのけにふんぞりかえり、天をにらめて、 「どうでもしゃあがれ、どうでもしゃあがれ」 ……安永八年刊『寿々葉羅井《すすはらい》』  しまらない|タンカ《ヽヽヽ》だった。  雷をまねて腹がけやっとさせ 〔柳1〕  雷は、臍《へそ》が好物なので臍を取るという俗説により、素裸ではね廻る男の子をつかまえて、雷のまねをして、ようやく腹がけをさせたというほほえましい光景だが、  雷の子をすばしりの臍で飼い 〔柳37〕  という句は、雷の子を俗にヘソという部分のある|すばしり《ヽヽヽヽ》〔ボラの幼魚〕で飼った意味で、雷と臍の縁は深い。 ◆雷の玉子  今は昔、雷の玉子をもらい、 「本《ほん》の物か〔本物か〕、どうぞ、孵《かえ》してもらいたい」  と、いうても、しようがない〔やり方がわからない〕。 「いや、私が、雷に孵《かえ》してお目にかけましょうが、これには、大ぶん物がいりますから、金子二十両ばかり、お出しなされませ」 「ムム、ずいぶん物にさえならば」  と、たのみ、それより十日ほど過ぎて、 「もし旦那、玉子が割れて、なかから、ちいさな雷が出ました。ゆうべも、コヨコヨコヨと鳴りました」 「はてな、どれ、早く見たい」 「それ、お目にかけましょう」  と、袂《たもと》をさがして、 「これ、道で落したか、とんだことだ」  と、大肌ぬいで、 「おお、あった、あった。これ御覧《ごろう》じませ。あらそわれぬものでござります」 「どうした」 「臍にひっついて」 ……寛政十年正月跋『無事志有意《ぶじしうい》』 「雷の子はごよごよと泣きならい 〔柳38〕」という句のとおりの鳴《な》り声あり、また、「栴檀《せんだん》は双葉より芳《かんば》し」とやらで、早くも臍に執着する子雷だった。 [#改ページ] |井戸替え《いどがえ》  井の底もすっぱりかわく月夜かな  一茶  井戸替の終りし井戸を覗《のぞ》きけり  日野草城  井戸のなかを、きれいにするために、なかの水を替え干して、底にたまったごみなどをさらう夏の作業で、江戸時代には、長屋の連中が総出で、水汲みをした。  六代目三遊亭円生の「妾馬《めかうま》」のなかに、井戸替えの場面があった。  昔は、年に一度は必ず、長屋総出で井戸さらいてえものをいたしました。  これは、年中行事のひとつでございまして、長屋総出で、 「ほうらほらほら、桶ァ巻ァいたァい〔と、節をつけて〕……おいおいおい、六さん六さん、おい、ずんずん前へ出なよ。なにをしてんだなぁ、おめえンとこァ、いつだって縄がたるんでるじゃねえかなあ。なにも怖《こえ》え物ァねえから、ずんずん前へ出たらいいじゃねえか。おめえが前へ出るなあ、井戸替えがすんで、奴豆腐《やっこどうふ》で酒飲むときばかりだ、前へ出て来るのァ。ずんずん出てくれよ、しょうがねえなぁ……ほら、桶ァ巻ァいたァ……い」 〔中略〕 「やもりなんぞァ出て来やしません。鮒《ふな》ッこは二ひき出て来ましたがねえ。それから櫛《くし》が二|枚《めえ》と、かんざしが一本と、それっきりでがす」  だいたい、以上のようなさわぎだった。 ◆井戸替え  長屋じゅう寄って、井戸替えをするに、相店《あいだな》の〔同じ長屋に住む〕浪人衆、 「出ずにもいられまい」  と、まかり出《い》でて、 「身どもも、お手つだい申そう」  と、いう。 「また御浪人様か。けっく〔かえって〕邪魔になろう」  と、迷惑ながら、 「もし、そんなら、おまえ様は、ここへおいでなさってくださりませい」  と、綱のさきをあてがい、 「それ引いたりょ」  と、声をかければ、浪人、四角になって〔かしこまって〕、 「しからば、おさきへ」 ……安永二年正月序『聞上手』  そんなにかしこまって引っぱることもあるまいに……。 なお、作業が終ると、井戸に神酒《みき》を供え、水神の祭りをして、慰労会を開いた。 「井」には、水の集まるところの意味があり、「井戸」は「井所」ということで、地下に集まった水を汲みとるところというのが語源。 [#改ページ] 蛍狩り  蛍よぶ声したい行く川辺かな  二柳  妖しい美しさに輝く蛍を求めて、「ほ、ほ、蛍来い」とたわむれたのも、江戸庶民たちの夏の楽しみだった。  その語源が、火照《ほて》る、または、火垂《ほた》るであろうといわれるのもうなずけるものがある。 ◆蛍 「おつなさん、おまえの髪に蛍がとまっているぞえ。それそれ、首筋へはいるわいな」 「おお、わしゃいや」  と、首筋へ手をやれば、蛍が指さきにひいやりとさわれば、 「おお、あつ」……寛政ごろ刊『絵本噺山科』  蛍は、ひやりとする感触であるのに、「あつそうに蛍をつかむ娘の子」〔宝暦十一・桜〕の句と同じく熱いと錯覚するのも妖しい光りゆえだった。  農薬のために、めっきりすくなくなった蛍も、むかしは、江戸近郊で多く見られた。 ◆ほたる 「この頃、大井に別荘を建てたが、日暮れ時分から、庭はもちろん、家の内まで蛍だらけで、こまり果てる」 「それは、さぞよかろう。あすの晩に、みんなで行ってみよう」  と、約束していったところが、なるほど違わず、一面に蛍ゆえ、 「どうもいえぬ。きついもんだ〔すばらしいものだ〕」  と、誉《ほ》めれば、 「いや、もう、毎晩のことで、あきはてた」  と、蚊帳《かや》を吊って中へはいれば、まわりは、一ぱい蛍が取り付いている。 「なぜ、蚊帳を吊りなさる」 「蛍がうるさくてならぬ。おめえがた、蚊帳へはいるなら、よくあおいで、はいんなせえ」  などと、殊《こと》のほか忌《いや》がるゆえ、友だち、縁がわへ出てみれば、蛍かごが釣るしてある。あれほど嫌いながら、この籠はふしぎと、のぞいてみれば、蚊が三びきいた。 ……亨和二年正月序『そこぬけ釜』  多すぎる蛍に悩むほどだったのも、大井村〔現東京都品川区〕という郊外ゆえのことだが、江戸の蛍狩りの名所としては、落合《おちあい》〔現東京都新宿区〕が有名だった。 『江戸名所図会』の「落合土橋」の項にも、  この地は蛍に名あり。形大いにして、光も他に優れたり。山城の宇治、近江の瀬田にも越えて、玉の如く、また、星の如くに乱れ飛んで、光景、最も奇とす。夏月|夕涼《せきりょう》多し。  とあり、また「落合蛍」というさし絵に添えた文章にも、  この地の蛍狩りは、茫種《ぼうしゅ》の後より夏至《げし》の頃までを盛りとす。草葉にすがるをば、こぼれぬ露かとうたがい、高く飛ぶをば、天《あま》つ星かとあやまつ。遊人、暮るるを待ちて、ここに逍遥し、壮観とす。夜涼しく、人定まり、風清く、月|朗《ほがらか》なるにおよびて、始めて帰路をうながさんことを思い出《いで》たるも、一興とやいわん。  とあって、この地の蛍狩りが、江戸名物であったことをつたえている。  三遊亭円朝の「怪談|乳房榎《ちぶさえのき》」でも、絵師菱川重信の妻おせきに横恋慕した浪人磯貝浪江が、重信を、落合の蛍見物に誘い出して殺害するが、蛍飛び交《か》う落合の夜は、凄惨な殺しの舞台としては絶好だった。 [#改ページ] |大山詣り《おおやままいり》  大山詣りとは、神奈川県伊勢原市に鎮座する阿夫利《あふり》神社に参拝することで、石尊《せきそん》詣りの称もある。  本社は、神仏分離以前は、雨降山大山寺《あふりざんだいせんじ》といった。  山上には、石尊大権現、不動明王、八大竜王、大天狗、小天狗が祀られている。  初山《はつやま》は六月二十七日で、七日堂〔七月一日〜七日〕、間《あい》の山〔七月八日〜十二日〕、盆山《ぼんやま》〔七月十三日〜十七日〕などの参拝期間があった。  江戸市民は、大山詣りの前に身心を清める意味で、大きな木製の納《おさ》め太刀をかついで、両国橋の東のたもとで川にはいり、千垢離《せんごり》といって、一日に千回の水垢離をとり、これを一週間つづけたので七千度と称した。  このことから、ここを垢離場《ごりば》と呼んだ。  このさい、「懺悔懺悔《さんげさんげ》、六根罪障《ろっこんざいしょう》、大峰八大《おしめにはつだい》、金剛童子、大山|大聖《だいしょう》不動明王、石尊大権現、大天狗小天狗」「懺悔懺悔、六根清浄《ろっこんしょうじょう》、大山大聖不動明王、大天狗小天狗」と唱《とな》えた。  出発のさいには、大願成就と書いた奉納の木太刀をかついで出かけたが、木太刀には、神田の住吉広と銘があった。  この木太刀は、前回に奉納した太刀と取りかえて持ち帰る風習があり、持参する太刀は、前年よりも大きくする習慣だった。  江戸から大山への道すじは、新宿から甲州街道、厚木街道を通って登山し、帰りには、伊勢原、田村を経て東海道へ抜けるのが普通だったが、参詣の翌日、藤沢に一泊し、江の島見物をし、鎌倉の鶴岡八幡に参拝するケースが多かった。  こわい者なしと藤沢へ出ると買い 〔柳14〕  藤沢泊りで宿場女郎を買うと、盆山《ぼんやま》のときは、ふだんの四百文から七百文に値上げだったというから大繁盛だったわけだ。  故六代目三遊亭円生も、落語「大山詣り」のマクラで、藤沢泊りを話題にしていた。 「おい、お前つきあえよ、今年……山へよ。え? おい」 「行かねえよ」 「どうして……?」 「どうしてッて……いやだよ」 「いいじゃねえか、つきあったって」 「いやだよ。おもしろくねえや、山なんぞ行ったって」 「へへ、行ってみろよ。帰《けえ》りに藤沢で|おつ《ヽヽ》な女郎を買ってな、三日居続けしちゃったあ。いい女がいるぜ。行ってみろよ」 「へえ、そうかい? そんなことァ知らねえからよ。早くいやぁいいんだな。いいよ、じゃ今年ァつきあおう」  ——信心よりも遊興気分が勝《まさ》っていた。  石尊は賭《かけ》から直ぐに思い立ち 〔柳5〕  この神社は、古くは雨乞いの神とされていたが、江戸中期から勝負事の神と錯覚され、ばくち打ちや職人の参拝者が多くなって、ばくちに負けてこの山へ逃げ出す者もいた。  所詮《しょせん》足りないと大山さして行き 〔柳17〕  父《とと》は山|嬶《かか》ァはうちで言訳け 〔柳18〕  七月十三日から十七日にかけての盆山の時期は、借金の清算期「盆の節季」でもあったので、大山詣りを口実にして出かける者が多かった。  さんげさんげ借金で参りました 〔柳24〕  さんげさんげ藤沢であそびました 〔柳19〕  山へのぼるさいには、山の中途にある大滝で身を清め、悪事を犯した者は懺悔をした。そうしないと、山が荒れたり、天狗にさらわれて八つ裂きにされたりするといわれた。  二の足で間男《まおとこ》の買う納め太刀 〔拾1〕  さんげさんげ間男をいたしました 〔末2〕  密通をした男は、納め太刀を買って出発するのもためらいがちだったし、懺悔をしても心は重かった。 ◆懺悔  先達《せんだつ》〔先導者〕「こうお山が荒れては、禅定《ぜんじょう》〔富士山や大山に登って修行すること〕がならぬ。このなかに罪の深い衆があるそうな。みなみな、さあ懺悔をしやれ」  ひとりひとり懺悔も済《す》んで、末のひとりが、 「私は、一生に何にても悪いことは致しませぬが、心がかりは、ただ一度|牝牛《めすうし》をしたことがござります。そればかりで、ほかに悪いことをした覚えはござりませぬ」  先達、同行、みなみな我《が》を折り〔あきれ果てて〕、 「なんと、その牝牛の味は、どのようなものでござる」 「ちょうど牝犬の味と同じでござる」……安永二年刊『さしまくら』  まったく選《え》り好みなしの男だった。 [#改ページ] 虫干し〔土用干し〕  亡き人の小袖も今や土用|干《ぼし》  芭蕉  故人の衣類を手にして、その追憶にふける土用干しもあった。  夏の土用には、衣類、書画、諸道具類を取り出して風を通し、陰干しにして、かびや虫害を防ぐが、これを、虫干し、土用干しなどと称する。 『日次紀事』〔貞亨二年・一六八五〕にも、  六月「この月土用中、諸神社、諸仏寺、霊宝虫ばらい。和俗、六月土用中、天日の晴るるを俟《ま》ちて、衣服ならびに書画薬物の類、これを曝《さら》す。これを涼を取るという。また土用乾しという。また、書画、衣服の虫を執り棄つ」  とある。  二年目の土用干しには雛ばかり 〔柳39〕  嫁に来た年の土用干しにはあった衣類や道具類が見えなくなり、二年目には、雛人形だけが干してあるのは、道楽者の亭主に売り飛ばされてしまった結果なのだろう。  衣類迄まめで居るかと母の文 〔柳1〕  衣類まで達者でいるかと案じるのも、嫁にやった娘に対する母の思いやりだった。  そこらじゅうたて切り親父土用干し 〔柳34〕  周囲を閉めきっての虫干しとは、秘蔵の春本、春画の類を取り出す「うしろめたさ」か。 ◆虫干し 「おぬしは、京へ上ったげなが〔行ったそうだが〕、さぞ有りがたいことどもも、見たり、拝んだりしやったであろ」 「オオサ、見た段じゃない〔見たどころじゃない〕。とんだものまで見たわい。小間物屋で虫干しのときであった。おびただしい張形《はりかた》どもを、ズラアリと立てかけたところが、ああ、およそ千本ばかり。ときに、さっと風来て、吹きこかされて〔吹き倒されて〕、その張形が、将棋《しょうぎ》倒しに、マラマラマラマラ」 ……安永二年正月序『今歳咄』  ものが男根の代用品「張形」だけに、マラマラマラマラとは、愛嬌のある擬音だった。 [#改ページ] 土用鰻《どよううなぎ》  土用丑《どよううし》のろのろされぬ蒲焼屋《かばやきや》 〔柳74〕  夏の土用の丑の日に鰻を食べると夏負けしないというので、この日に鰻の蒲焼を食べる習慣は、現在もつづいている。  近きころ、寒中丑の日に紅をはき、土用に入り、丑の日に鰻を食す。寒暑とも家ごとになす。安永・天明のころより始まる。……『明和誌』  というように、この習慣は、江戸中期にはじまったが、その起源については諸説がある。もっとも有名なのは、江戸時代を代表する科学者平賀源内が発案者という説だ。  ある鰻屋の主人が、源内宅を訪れ、商売繁昌の名案を求めた。  すると、源内が、「本日土用丑の日」と書き、これを表に貼《は》っておけと言ったので、鰻屋が指示に従うと千客万来だったという。  ただし、この説に関しては、信頼できる文献がないので確認はできない。  また、青木勝馬という者が、鰻屋をはじめたさい、子《ね》・丑・寅の各日に蒲焼を入れた瓶《かめ》を地中に埋め、一週間後に取り出してみると、丑の日のものが変りなかったともいう。  さらに、神田和泉橋の鰻屋、春木屋善兵衛が、土用の直前に大名家から大量注文を受け、「子の日」「丑の日」「寅の日」の三日間で蒲焼をつくったさい、丑の日の品が味もよく、いたみもすくなかったことから広まったともいわれている。 『万葉集』にも、「石麻呂《いわまろ》に吾《われ》物申す夏痩《なつやせ》によしと云う物ぞ鰻とり召せ 大伴家持《おおとものやかもち》」とあるように、古来、鰻は、脂肪分の多い栄養食として、とくに夏季に珍重されて来たのだから、土用鰻の習慣も、夏の栄養補給という点に意味があろう。 「うなぎ」の語源についての定説はない。  ただ、「魚長〔ウオナガキ〕」の意とか、ムは身をあらわす語で、ナギは長いものをあらわすという説もあるように、かたちに由来する名称と思われる。  蒲焼《かばやき》は、本来は、植物の蒲《がま》〔古名カマ〕の穂のように、鰻の口から尾までに竹串を刺し通して焼いたかたちによる名称だったが、のちに、裂いてから串に刺して焼くようになったため、蒲の穂のかたちとは縁遠くなってしまった。 ◆蒲焼  鰻、親子づれにて、大川筋をだんだん泳ぎ、駒形の前へ来ると、 子鰻「とっさんや、ぷんぷんと味《うま》いにおいがする。買ってくんねい」  と、ねだると、 親鰻「あれは、蒲焼といって、泣く子を醤油のつけ焼にするのだ。早くだまれ」  と、だましながら泳ぐうち、子鰻、子心に味《うま》いかしらんと、しっぽをぺろりとしゃぶってみて、たまらず、だんだん食い食いして、頭ばかりになり、 「とっさんや、ああ、いたい、いたい」  と、泣き出すと、 「それみやぁがれ。いっそ猫にでも食わしてしまえ」 ……寛政三年正月序『振鷺亭《しんろてい》噺日記』  江戸前の鰻だけあって、気前がいい。 [#改ページ] どじょう汁  くらくらと煮えかえりけり鰌汁《どじょうじる》  村上鬼城  とくに夏季、愛用される「どじょう汁」は、「昔は丸煮と云いて、全体のまま臓腑をも去らず、味噌汁にいれ、鰌汁と云う」〔『守貞漫稿』〕ということだったが、江戸後期には、臓腑や骨や首を取った「骨抜きどじょう」もはじまり、婦女の口にもはいりやすくなった。  鍋ぶたへ力を入れるどじょう汁 〔安七・義〕  念仏も四、五へん入れるどじょう汁 〔天三・松〕 「どじょう汁」や「どじょう鍋」は、専門の料理店ばかりでなく、一般家庭でもつくられたので、生きたどじょうが煮られるときにあばれるから大さわぎだった。 ◆どじょう  和尚、小僧に徳利をもたせ、どじょう買いにやり、 「かならず誰か聞いても、どじょうだというな」  と、くれぐれ言い付けやったところが、小僧、帰りに、道草を食い食い歩くゆえ、つい、酒屋のが、 「小僧どの、手にさげたは、なんだ」  と言えば、 「あててみろ。一匹やろう」……天明八年刊『評判の俵』  たしかに「どじょう」だとは言わなかったが……。 「どじょう」の語源については、泥のなかにいるから「泥津魚〔ドロツオ〕」とか、髭《ひげ》があるから「土尉」の意かなどをはじめ諸説あるが、あきらかでない。 ◆江戸小咄春夏秋冬 夏の二 興津 要著