江戸小咄春夏秋冬 夏の一 興津 要 [#表紙(表紙-夏一.jpg、横180×縦240)] 表紙絵  広重作「名所江戸百景」より|日本橋えど橋《にほんばしえどばし》……日本橋の欄干越しに下流の江戸橋方向を見る。手前の右手に桶に入った鰹《かつお》が見え、これが四月末ごろからおこなわれた天秤棒をかついでの初鰹売りの桶であることがわかる。この界隈にはずらりと倉が立ち並び、各所に荷揚げをする河岸《かし》があって、大消費地江戸を支えていた。遠方からの物資運搬は当時、圧倒的に船にたよっていた。 [#改ページ]  はじめに  久保田万太郎に、「たけのこ煮 そらまめうでて さてそこで」という句がある。  これからシュンの味覚を満喫しようとする作者の胸のときめきが伝わって来る感じだ。  ところが、最近では人工栽培がさかんになったおかげで、たとえば、夏の野菜であるはずのキュウリやトマトが、真冬でも食べられたりするので、シュンの食べ物の楽しみもすくなくなった。  子どもたちも、正月の遊びであるはずのタコあげやコマまわしを真夏にやったりするし、季節ごとの行事も、物売りも、大道芸も、みんな忘れられつつある。  これでは、せっかく、四季の表情のあざやかな日本に住んでいる恩恵を、放棄したにひとしい。  季節のなかに息づいていた、人間らしい生活の原点ともいうべき江戸の四季の様相——それを小咄や川柳のなかに求め、「生きる」ということの証《あかし》をたしかめてみたい。(興津要) [#改ページ] 目 次  初鰹《はつがつお》  端午《たんご》の節句  柏餅《かしわもち》  五月雨《さみだれ》  蝿《はえ》  川開き  三社《さんじゃ》祭り  冷や水  涼み台  蚊  紙帳《しちょう》  麦湯《むぎゆ》  昼寝  金魚  西瓜《すいか》  茗荷《みょうが》  茄子《なすび》  豆|蒔《ま》く  蓮《はす》の花  百合 [#改ページ] 初鰹《はつがつお》  目には青葉《あおば》山ほととぎす初鰹  素堂  さわやかな新緑と、ほととぎすの初音とを背景にして、躍動感あふれる初鰹は、江戸市民の心意気にマッチして、大いに珍重された。  初物に寄せる江戸市民の関心は狂熱的なものがあり、江戸っ子の見栄《みえ》が、初物食いに拍車をかけたことは否定できない。  文化九年〔一八一二〕三月二十五日に魚河岸に入荷した初鰹の数は十七本で、六本は将軍家でお買いあげ、三本は料亭|八百善《やおぜん》が二両一分で買い、八本を魚屋が仕入れ、うち一本を中村歌右衛門が三両で買って、大部屋俳優にふるまったという例もあった。  当時の勤労階級で収入のよかった大工、左官などの日収が四百文から五百文〔一両は約四千文〕の間だったのだから、この値段がたいへんなものだったことは十分に想像できる。 ◆無益 「もし、柳枝《りゅうし》さん、初鰹も食えやせぬ。きょうは、三分二朱しやした」 「初鰹だから、そのくらいなことはありそうなものさ。それを食わねえというは、大の野暮《やぼ》。おいらは、それより高くとも食う気だ」  と、いううちに、鰹呼んで来る〔鰹売りが、「鰹、鰹」と売りに来た〕。 「鰹、いくらする」 「はい、三分でござります」 「そりゃあんまり安い。一両〔一両は四分〕で買う」 ……天明九年正月序『笑《わらい》の種蒔《たねまき》』  高い初鰹ゆえ虚々実々の駆け引きもあった。 ◆せんぼう〔隠語〕  浪人、鰹売りを呼び、 「その鰹、価《あたい》は何ほどじゃ」 「あい、そくがれんにしてあげましょう」 「なんのことじゃ。通辞《つうじ》〔通訳〕のいらぬように、鳥目《ちょうもく》〔銭〕でいえ」 「そんなら、百八十〔文〕にしてあげましょう」 「やれやれ、よくうそをいうやつじゃ。たったいま、百五十じゃというたではないか」 ……安永三年刊『茶のこもち』  いまは、鰹の刺し身は、おろしショウガで食べるが、江戸時代には、大根おろしや、からし酢、からし味噌などで食べていた。 ◆からし 「なんと、からしあえをして食おうではないか」 「オオよかろう。しかし、からしは、腹を立ってかかぬときかぬから、おぬし、むっとしてかきやれ」 「ばかなことをいう。そんなにやすやす腹が立たれるものか」  と、いうところへ、 「かつお、かつお」  と、呼んで来る。 「これ、かつおは、いくらする」 「あい、掛け値なしに一貫〔一千文〕さ」 「それは、とんだ高いから、片身《かたみ》買おう」 「そんなら五百だが、よしか」  と、半分にずっとおろす。 「いや、もういやになった。買うまい買うまい」 「なに、ばかばかしい。一貫のかつおを半分におろさせて、買おうの、買うまいのということがあるものか」  と、まっ黒になって腹を立てれば、 「おっと、からしをかいてくんねえ」 ……安永八年刊『鯛の味噌津』  作戦は大成功だった。  なお、鰹の語源は、堅魚、固魚〔カタウオ〕の意味であるという。 [#改ページ] 端午《たんご》の節句  端午とは、五月五日の節句で、五の字が重なるので重五《ちょうご》の名もあるが、五月|端《はじめ》の午《うま》の日だという説と、端の五の日だという説がある。  中国では、端午節、端陽節などといい、旧暦五月が疫病の流行する雨季なので、厄除けの意味から、この日に薬草を摘み、門に菖蒲《しょうぶ》をさし、ちまきを食べて、薬酒を飲む風習があったが、これが日本にも伝わり、日本でも、古くは薬草を摘んだ。  平安時代には、朝廷で節会《せちえ》を催し、宮中の軒さきには、約一メートル間隔で菖蒲や蓬《よもぎ》をさし、沈香《じんこう》や丁字《ちょうじ》などの香料を袋にいれて、菖蒲や五色の糸で彩った「薬玉《くすだま》」を柱にかけて邪気を払った。  朝廷における節会も、中世からはおこなわれなくなったが、武家の年中行事として重視されるようになり、民間にもひろまっていった。  それは、菖蒲の葉をきざんで入れた菖蒲酒を飲み、菖蒲の葉を浮かべた菖蒲湯に入り、粽《ちまき》を食べるというかたちになった。  また、この日には、平安末期以来、印地《いんじ》打ちと称し、男児の石合戦がおこなわれたが、江戸初期に禁止になり、菖蒲太刀による競技にかわった。  さらに、幟《のぼり》を立て、武者人形や鍾馗《しょうき》〔病や魔を除く神〕や兜《かぶと》を飾る習俗も普及した。 ◆赤鬼  赤鬼、ひとつ息になって〔息をきらせて〕、あるひとのうちへかけこみ、 「あとから生酔いがまいります。どうぞ、おかくまいなされてくださりませ」  という。 亭主「そのような、赤い、こわい顔をして、なぜ生酔いをこわがる」  といえば、 赤鬼「さめると、しょうきになります」 ……安永七年刊『落語花之家抄《おとしばなしはなしやしょう》』  酒がさめると、「正気になる」ということと鍾馗をかけた地口落ちだが、なかなか気がきいている。  なお、この日は、江戸中期からは男児の祝日として扱われているが、古くは、女児から大人までもあわせての祝日だった。 [#改ページ] 柏餅《かしわもち》  柏餅古葉をいずる白さかな  渡辺水巴  端午の節句に、粽《ちまき》とともに供える柏餅は、正保年間〔一六四四〜四八〕につくられたという。  いずれの季寄《きよせ》にも載せず。江戸にては、端午に製し祝す。畿内の粽に等し。粽はなきがごとし。……『歯がため』天明三年  といい、また、  五月五日、米の粉をこねてひらめ、中に餡《あん》を入れて、合すること編笠《あみがさ》の形のごとし。  槲《かしわ》の葉をもって包み蒸し、これを柏餅という。畿内には、さのみ用いぬことなり。……『栞草』嘉永四年  ともいうように、主として江戸でつくられたものであったらしい。  邪気を払う力があると言われた柏の葉に餅を包んだのだが、江戸時代には、小豆《あずき》の餡をいれた餅は、柏の葉の裏側で包み、みそ餡をいれた餅は、柏の葉の表側で包んで区別したという。  大小で配って歩く柏餅 〔柳8〕※  大名の世継ぎの若君の初節句には、りっぱな武士が柏餅を配って歩いたし、庶民の家庭でも、自家製の柏餅を子どもが配り、  柏餅くばって来ては一つ食い 〔柳18〕  という光景を展開していた。  なかには異色の柏餅もあった。  咽《のど》ばかりかわく伊勢屋の柏餅 〔柳34〕  江戸で、倹約家の代名詞とされた「伊勢屋」だけあって、同家の柏餅は、塩餡だったから、のどばかりかわいてたまらなかった。 ◆柏餅 「いつぞや、貴様へやった柏の木は、よく付きましたか」 「なるほど〔いかにも〕、付きは、よく付きまして、葉は随分出ますが、貴様の所のように、食うように実は出ませぬ」……安永六年刊『管巻《くだまき》』  居候《いそうろう》いつもせんべい柏餅 〔柳37〕  居候〔他家の寄食者〕は、いつも薄いせんべいぶとんか、ふたつに折った敷ぶとんにくるまって寝る「柏餅」スタイルだという句もあるように、「柏餅」には、一枚のふとんを折って、くるまって寝る意味もあった。 ◆柏餅 「とっさまは、うちにか」 「あい、とっさんは、いま、柏餅になって寝てさ」 「オオそんなりゃ、さすり起こしや」……安永二年三月序『聞上手』  柏の語源は、「堅葉〔カタシハ〕」の意、上古、食物を盛ったり、おおったりするのにもちいた葉を「炊葉〔カシキハ〕」といい、柏の葉を多くもちいたからともいう。 ※〔柳〕は江戸時代の有名な川柳集「俳風柳多留」の略です。 [#改ページ] 五月雨《さみだれ》  五月雨はただ降るものと覚えけり  鬼貫《おにつら》  来る日も来る日も、|しとしと《ヽヽヽヽ》と、ただ音もなく降りつづく雨——「さみだれは、五月雨《さつきあめ》クダルの略なり。さつき雨は、ながながとして、晴れやらぬものなり」〔『改正月令博物筌』〕という文章もある。  ただし、五月雨の語源に関しては、つぎの諸説もある。 「五月雨〔サミダル〕」の名詞形で、サは「五月《さつき》」のサ、ミダルは「水垂《みだる》」で、雨の降る意という説もあり、サは、田植えに関するわざを意味し、「佐苗〔サナエ〕」、「佐少女〔サオトメ〕」と同じであり、「乱〔ミダレ〕」は、久しく雨降る意という説もある。しかし、髪の毛の乱れているさまを「さ乱れ」といい、そのような雨の降りかたであることによるという説がよさそうに思う。 ◆時鳥《ほととぎす》  雨ふって淋しさに、二、三人寄り合い、趣向するところへ鰹《かつお》売りの声。 「これは、よいところへ初鰹。それ呼べ」  と、値段かまわず買いとり、 「さあ御亭主、包丁包丁」  と、いえば、 「これは、きじ焼き〔切り身を醤油につけて焼く〕にしよう」  と、魚串を取りいだす。 「これは、どうだ。初鰹を焼くとは、いかに下戸《げこ》じゃというて、心もない。刺し身につくり給え」  と、いうて、酒をあたため楽しむ折りから、空に一声、時鳥。 「あれ、聞き給え。初ほととぎす。どうもいえぬ」  と、座中、耳をそばだつれば、亭主聞いて、 「なに、時鳥とおっしゃるか。これこそ焼き鳥がよかろう」 ……安永三年正月序『富来話有智《ふくわうち》』 [#改ページ] 蝿《はえ》  やれ打つな蝿が手をすり足をする  一茶 「手をすり足をする」動作は、目や羽を掃除して、感覚器官についた|ごみ《ヽヽ》をとっているのだろうといわれる。  この両手を合わせるような動作をすることから、ハイ〔拝〕の意味で、蝿というようになったという語源説〔『和句解』〕もあるが、これは、こじつけのようだ。  羽を意味する「は」に、声《こえ》や笛《ふえ》などの「へ」と同じく、声や音を意味する「へ」がついたのかも知れないというのが、ほんとうのところだろう。 「やれ打つな」とはいっても、病菌を伝播《でんぱ》する害虫だから、 蝿を打つ音や隣りも昨日今日《きのうきょう》  太祇  という光景は、随所で展開される。 ◆狂言  狂言〔芝居〕好きの息子、庭の掃除にも、男どもに、釘貫《くぎぬき》の紋を付けたるはんてんを着せ、その身〔自分自身〕は、奥より、ぎょうぎょうしく見分《けんぶん》に出る。 「もし、旦那様、お顔に何か、とまっております」  という。  手をあげて、顔をぴっしゃり。見れば蝿なり。 「家来ども、死骸を片付けろ」 ……安永四年正月序『一のもり』  たしかに「死骸」にはちがいない……。 [#改ページ] 川開き  二か国の潤《うるお》いになるいい花火 〔柳28〕  両国の花火による繁栄を詠んだ句だが、二か国といったのは、本所の地が、もと下総《しもうさ》の国に属していたので、両国橋は、武蔵と下総とを結んだことの意味だった。  五月二十八日、浅草川川開き、今夜初めて両国橋の南辺において花火を上ぐるなり。  諸人見物の船多く、また陸にても群集す。今夜より川岸の茶店、夜半に至るまで、これあり。軒ごとに絹張り行燈《あんどん》に種々の絵をかきたるを釣り、茶店・食店等、小提灯を多く掛くる。茶店、平日は日暮《にちぼ》限りなり。今日より夜をゆるす。その他、観場および音曲あるいは講釈の寄せという席等も、今日より夜行をゆるす。今夜、大花火ありて後、納涼中両三面、また大花火あり。その費は、江戸中船宿および両国辺茶店・食店よりこれを募《つの》るなり。納涼は、もっぱら屋根舟に乗じ、浅草川を逍遙し、また、両国橋下につなぎ涼むを、「橋間に涼む」という。大花火なき夜は、遊客の需《もと》めに応じて、金一分以上これを焚《た》く〔花火をあげた〕。 ……『守貞漫稿』  花火で有名な両国の川開きの実態を如実につたえる要領を得た文章だが、古くは、川開きを彩る両国名物の花火は、打ちあげる日は一定していないで、大名や旗本が、隅田川に屋形船を浮かべて花火をあげていた。  そのうちに、武家にかわって庶民が納涼船を出し、まわりに集まる花火売りの船から買った花火を楽しむようになった。  享保十八年〔一七三三〕五月二十八日、花火師鍵屋が打ちあげた花火が、川開きの花火の発端だという。  それは、その前年、全国的凶作に見舞われたばかりでなく、江戸にコレラが流行して、多くの死者が出たところから、慰霊と悪疫退散を祈願するために、隅田川において水神祭りを催したさいの行事だったと伝えられる。  焔硝《えんしょう》を玉屋は面白くつかい 〔柳30〕  人橋をかけて玉屋はほめさせる 〔柳60〕  ——これほど有名な玉屋は、天保十四年〔一八四三〕四月十七日に自家火を出し江戸追放になってしまったのだが、それでもなお、花火のほめことばは、「玉屋ァ!」だったので、  まだ玉屋だとぬかすはと鍵屋いい 〔柳31〕  という句もつくられた。  なにしろ、鍵屋の開業は万治元年〔一六五八〕で、六代目のときに番頭に開店させたのが玉屋だというのだから、本家の鍵屋としては、おもしろくないことおびただしいものがあった。  おもしろくないついでに、もう一句……。  不出来なはみんな鍵屋へおっかぶせ  出来のいい花火は玉屋製で、不出来なのは鍵屋のせいにされたのではたまらない。 ◆花火  いなか者、江戸見物して国もとへ帰り、檀那寺へゆき、江戸おもてのめずらしきことを話し、そのうえにて、 「両国橋とやら、ずない〔大きくて、りっぱな〕橋のうえから花火を見ましたが、玉や、玉やと、みな同音に申したが、あんちゅうこと〔なんということ〕でございます」  和尚、これを聞いて、しかつべらしく〔もっともらしく〕考え、 「それは、花火のことではあるまい。橋番を呼ぶのじゃ」 ……安永五年刊『売言葉』  物知りぶる和尚の苦しまぎれのこじつけだが、猫ではあるまいし、「玉や」なんていう名の橋番がいるはずがない。  川開き以後は、納涼の季節でもあったので、つぎの光景が展開された。 ◆納涼《すずみ》  両国橋 納涼|避暑《へきしょ》の地、所々《しょしょ》にありといえども、この両国川をもって東都第一とす。川幅百三十間余、水清くして流れやすらかなり。〔中略〕橋の東西を元町〔現東京都墨田区両国一丁目辺〕、広小路〔現東京都中央区日本橋二丁目のうち〕と呼び、また、五月二十八日よりは、夜みせも殊《こと》ににぎわしくて、遊船もこれより次第に多くなれり。さて炎暑をしのがんとする輩は、この川上と川下に船をうかべ、あるいは橋の下に日をさけんため、船を繋《つな》ぎて、思い思いに遊興す。三味線、小唄は、いうもさらなり。楼船《やかたぶね》には踊りを催し、玉屋、鍵屋の花火は、空をこがすばかりにて、壮観いうべくもあらず。 ……『江戸名所花暦』 ——それは、  船で暑さを捨てに出る国境 〔柳39〕 という句もあるように、華やかな江戸の納涼の図だった。 [#改ページ] 三社《さんじゃ》祭り  さて光る魚と三人|初手《しょて》はいい 〔柳70〕  推古《すいこ》帝の三十六年〔六二八〕、宮戸川《みやとがわ》〔隅田川の別称〕で、土師臣真中知《はじのおみまつち》と、その家来の檜前浜成《ひのくまはまなり》、竹成《たけなり》兄弟の三人が、一寸八分の黄金の観音像を魚網で引きあげた。  この三人をまつったのが、浅草寺本堂の東方にある三社大権現社《さんじゃだいごんげん》で、同社の創建年代は不明だが、明治元年〔一八六八〕に三社明神社、同六年〔一八七三〕二月に浅草神社と改称した。  その祭礼は、隔年三月十八日だったが、現在は、五月十六、十七、十八日におこなわれ、「三社祭り」は、初夏の東京風物詩ともなっている。  祭礼には、神輿《みこし》渡御のほかに、舞台を設けて、古式による田楽《でんがく》舞いや獅子舞いを奉納する。  また、各町内からは、神輿や練《ね》り物〔山車《だし》や踊り屋台〕も出るし、芸妓の手古舞《てこま》い行列もあって華やかさをくわえている。  江戸時代には、近郷から蓑《みの》の商《あきな》いに来て、蓑市《みのいち》が立ったという。 ◆祭の祝 「祭も首尾よく済んだ。祝いに、池の端の料理茶屋で、振舞《ふるまい》をしようと思う」 「そりゃよかろう」  と、茶屋へ頼みに行く。 茶屋の亭主「かしこまりました。お膳は、喧嘩の前にしましょうか」 ……安永二年閏三月序『近目貫《きんめぬき》』  祭りと喧嘩はつきものだから、料理茶屋の亭主も、それを計算にいれての準備となった。 [#改ページ] 冷や水  水売りの砂糖何だか知れぬなり 〔明五・智〕  水売りの荷はひやっこい銭で出来 〔柳121〕  江戸後期には、夏の日に、庶民のための清涼飲料水として親しまれた「冷や水」があった。  夏日、清冷の泉を汲《く》み、白糖と|寒晒粉《かんざらしこ》(白玉粉)の団とを加え、一碗四文に売る。求めに応じて、八文、十二文にも売るは、糖を多く加う也。売り詞《ことば》「ひやっこい、ひやっこい」と云う。  京坂にては、この荷に似たるを路傍に居《すえ》て売る。一碗大概六文、粉団を用いず、白糖のみを加え、冷水売りと云わず、砂糖水売りと云う。 ……『守貞漫稿』  ——冷水に白砂糖と白玉のだんごを入れて、一碗四文で、「ひやっこい、ひやっこい」と売っていた。  水売りの一つか二つ錫《すず》茶碗 〔柳3〕  というように、冷味を感じさせるために、錫や真鍮《しんちゅう》の茶碗をもちいていた。しかし、氷や冷凍装置などのない時代だったから、  ぬるま湯を辻々で売る暑いこと 〔柳59〕  というのが実態だった。 ◆寒国 「これ、こなた〔おまえ〕は、国は、どこじゃ」 「あい、わしは、生まれた所は、北国でござる」 「はてな、いこう〔たいへんに〕寒い所ではないか」 「さようでござる。江戸などでは、土用のうち、冷や水を売りまするが、わしどもの国では、どこもかしこも雪だらけで、土用のうち、氷がはっている。辻々に、にない桶〔かつぎ歩く桶〕をすえて、水売りが呼びまするにも、『汲みおき、ぬるっこいのをあがれ』」 ……寛政九年刊『詞葉《ことば》の花』  これは、江戸市民の実感した「冷や水」の裏返し的表現でもあった。 [#改ページ] 涼み台  くらき夜に艶《えん》なる声や涼み台  随古  現代のように冷房器具のなかったころは、暑さを忘れるために、磯涼み、川涼みなどにも出かけたが、もっとも手軽なのは、庭や門口に涼み台を出しての夕涼みだった。  この句のように、涼み台におけるラブ・シーンも展開されることもあったが、「涼み台月に将棋の駒迎い」という句もあるように「涼み将棋」の光景も見られた。 ◆さすが浪人  寄り合いて将棋をさし居けるに、浪人者ひとり、朱鞘《しゅざや》の大だら〔幅の広い大刀〕をさし、こわらかして〔いかめしく身がまえて〕見ていて、毎度、助言をいうゆえに、 「はて、仰《おお》せられな〔横から口を出しなさるな〕」  と、いいさまに〔いいながら〕、扇《おうぎ》にて頭を一つたたきければ、かの浪人、ものをもいわず、座を立って帰りぬ。  それから一座がしらけて、 「さてさて、気の毒なことかな。もっとも、助言をいうは至極悪けれど、侍の頭を叩くとはあんまりなことじゃ。これは、尻の来ぬさきに〔とばっちりが来ぬ前に〕、こっちから謝るがよかろう」  と、評判とりどりのところへ、かの浪人、兜《かぶと》を着て、ずっと通る。 「南無三《なむさん》、大事じゃ〔しまった、大変だ〕」  と、さわぎければ、かのさむらい、座をしめて〔坐って〕、 「さあさあ、おさしなされ。なんぼたたかれても、これでは、たしかじゃ〔大丈夫だ〕」 ……天明三年正月序『夜明烏《よあけがらす》』  助言者も決死の覚悟だった。 [#改ページ] 蚊  蚊の声や昼はもたれし壁の隅  闌更  竹切りて蚊の声遠き夕べかな  白雄  夏、人間をもっとも悩ます昆虫の蚊の声は、とかく耳について離れないものだが、「か」の語源は、鳴き声によるという説がある。しかし、一方ではまた、  蚊や人を夜は食らえども昼見えず  調和  血を分けし身とは思わず蚊の憎さ  丈草  というように、人間に噛みつく意味の「かむ」の「む」を略したという説もある。 「かむ」蚊が、色っぽい場面に登場した。  忍ぶ夜の蚊はたたかれてそっと死に 〔拾2〕  秘めたる恋の相手の女性のもとへ忍んでゆくときには、蚊にさされても、音をたててたたくわけにはいかない。しずかにたたくので、蚊のほうも、そっと、しめやかに死んでゆくのだった。 ◆蚊遣《かやり》 「夏の月蚊をきずにして五百両トいう其角《きかく》の句があるが、ちげえねえ。いい月夜だから涼もうとすれば、蚊が、ぶんぶん食うし、蚊帳《かや》をつればうるさし。しかたがねえ」 「そんなに蚊がいるなら、来ねえようにすればいいのに」 「来ねえようにしてえといったって、こればかりは、しようがあるめえ」 「そう知恵がねえから、いかねえ。こうするだ。日の暮れがたから、どんどんどんと、いぶしをかけると、蚊が苦しがって、みんな二階へ逃げていくわさ。そらそこで、はしごをひきなせえ」 ……安政三年正月序『落噺笑種蒔《おとしばなしわらいのたねまき》』 [#改ページ] 紙帳《しちょう》  松風にゆるぐ紙帳や窓の下  丈草  京人は明るさしらじ紙の蚊屋  一茶  和紙を貼り合わせてつくった蚊帳で、ところどころに風窓を切り、薄い紗《しゃ》などをはってあった。  防寒用にもなったというから、寝冷えしない長所があったというが、蚊を避けることはできたにしても、風通しは悪く、蒸し暑いものだったろう。  紙帳の「帳」は、「とばり」で、室内に垂らし、区切りや隔《へだ》てにする布をいうが、「とばり」は「戸張り」、すなわち、戸を閉めるべきところに張るものの意味であろう。 ◆紙帳  殊《こと》のほか近くに火事あれば、亭主、紙帳をつり、ことごとく諸道具を、その紙帳のなかへ入れければ〔入れたので〕、女房気の毒がり〔当惑して〕、 「おまえ、その紙帳は、なんのためにつることぞ。この急な火事に」  と、いえば、 「やかまし。だまっていろ。火事に土蔵と見せるのだ」 ……安永八年刊『寿々葉羅井』  火事をだまして焼かせまいというのだが、ふしぎな発想の持ち主だった。 [#改ページ] 麦湯《むぎゆ》  麦湯は、古くから夏の飲み物として愛用されたが、幕末から明治初期にかけては、麦湯店で売られた。 ◆水  近年、あったかい大福餅は、八里半〔焼きいも〕に押され、ひやっこい氷水《こおりみず》は、一ぱい四文の麦湯に押されるゆえ、江戸中の掘り抜き井戸が集まって、水神《すいじん》さまへ訴え、 「麦湯どもをたたきつぶさん」  と、いえば、麦湯どもは、また、湯殿山《ゆどのさん》※へこの由《よし》を願いて、 「さてさて、冷や水どもがわたくしどもを、あまく見まして、真っ黒になって〔怒って〕さわぎたち、いろいろ胡椒《こしょう》〔故障、異議〕を申します」  と、いえば、 湯殿山「よいよい。冷や水どもが、真っ黒になってさわぎたつなら、手出しをせずと、じっとしておけ。ひとりでに、すむであろう」 ……天保十三年刊『新作|可楽即考《からくそっこう》』  ※ 山形県東田川郡羽黒町の湯殿山神社は、古来、社殿を設けずに、温泉がわき出る岩を神体としている。  落ちの「すむであろう」は、冷や水が相手だから、そっとしておけば、自然に「澄《す》む」という意味と、さわぎが終る意味の「済《す》む」とをかけている。  麦湯店については、  夏の夕より夜にかけて、大路の茶店にて、葛湯《くずゆ》・玉子湯を売り、あるいは、砂糖入り麦湯もあり。これも近年のことなり。 ……天保四年刊『世の姿』  という文章や、  夏の夕方より、町ごとに麦湯という行燈《あんどん》を出《い》だし、往来へ腰懸《こしかけ》の涼み台をならべ、茶店を出だすあり。これも近来のことにて、昔はなかりし。 ……天保年間『寛天見聞記』  という文章などによって輪郭は想像できるが、この種の店は、食べ物としては、枝豆と、ゆで玉子があるくらいで、看板娘の魅力にささえられていた。  明治十二年一月、毒婦高橋お伝が、市ヶ谷刑場の露と消えたが、同年五月には、新富座において、河竹黙阿弥書きおろしによる「綴合於伝仮名文《とじあわせおでんのかなぶみ》」と題する際物《きわもの》劇が上演され、五代目菊五郎のお伝が好評を博した。  この劇のなかに、「麦湯の女に引っかかって、トドの詰《つま》りが瘡《かさ》〔梅毒〕を背負い込み」という|せりふ《ヽヽヽ》があったが、麦湯店の女たちは、売春に活路を見いだしたらしく、その筋から禁令が出されるにいたった。  上野、浅草、両国を始め、麦湯のお化けは、一昨夜より厳《きび》しく差し留められました。……明治九年七月二十九日「郵便報知新聞」  近来、官家、令ヲ下シテ其ノ開場ヲ禁ズ。抑《ソモソ》モ麦湯ハ人ノ飲ム可カラザル物ニ非《アラ》ズ、医生イワク、麦湯ハ理水ノ効アリ、夏日、之ヲ用ウルハ、茶ヲ飲ムヨリ大ニ勝《マサ》レリト。然ルニ官ノ之ヲ禁ズル者ハ何ゾヤ、麦湯ノ鬻《ヒサ》グ可《ベカ》ラザルニ非ズ。之ヲ売ル白面女郎ノ醜行有ルヲ以テナリ。……明治九年七月二十九日「朝野新聞」  というように、店の女性たちの「醜行」ゆえの禁令だった。 「麦」の語源は、他の穀類にくらべて、幾度も皮をつき剥《む》くところから、「剥〔ムキ〕」の意味だという説もあるが、中国語の「ムク」という古い音からの転訛《てんか》だろうという説がよさそうに思う。 [#改ページ] 昼寝  昼寝して手の動きやむ団扇《うちわ》かな  杉風《さんぷう》  暑い夏には、夜、眠りにくいうえに、日中も体力の消耗がはなはだしいので、ついつい昼寝をすることが多くなる。  うちわを使っているうちに眠ってしまうことがよくあるので、川柳のほうでも同じ光景がえがかれている。  うたた寝のうちわ次第に虫のいき 〔明七・義〕  使っているうちわが、とまっては動き、とまっては動きしているうちに、しだいに動かなくなって来るさまを、「虫のいき」とは、いかにも川柳らしい、奇抜にしてユーモラスな表現だった。 ◆昼寝  客が来てみれば、亭主、高いびきにて昼寝の体《てい》。  起こすも気の毒と、待っているうち、とろとろ寝いれば、亭主、目をさまし、客の寝ているを見て、起こすも気の毒と、また寝いる。  客、目をさまし、 「まだ、亭主は寝ているそうな」  と、また、とろとろするうちに日が暮れた。 ……天明ごろ刊『うぐいす笛』  果てしなく美しき思いやり風景だった。 [#改ページ] 金魚  心ざし松藻《まつも》をまける金魚売り 〔柳122別〕  金魚売りは、夏の風物詩的存在として、江戸時代から親しまれている。  金魚は高価なる品に至りては限りなく、王公貴人の翫《もてあそ》び給う所は自《おのずか》ら別品なり。桶を荷ない、市中に売り歩き、縁日に出せる魚は、ただ児童の翫《もてあそ》びに止まるのみ。  この商人、年々夏の初めより秋の初めに及ぶ。売り声の「目だかァー、金魚ゥー」の節《ふし》、どこやら暑さを洗うよう聞えたり。 ……『絵本江戸風俗往来』  という文章にもあるように、「目だかァー、金魚ゥー」という売り声は、まさしく「夏の声」の感がある。 「お魚博士」の末広恭雄氏の説によれば、金魚の先祖はフナで、フナが、突然変異によってヒブナという赤いフナを生じ、それが和金になり、琉金になったという。  金魚は、千年ほど前に中国で作り出され、四百年前に日本に渡来し、日本で改良されて、現在では日本から外国にも輸出される。 「短夜の金魚短き命かな」(原抱琴)という句があるが、金魚の寿命の最長記録は二十五年という。 『西鶴置土産《さいかくおきみやげ》』巻二の二に、「黒門より池の端を歩むに、しんちゅう屋市右衛門とて隠れもなき、金魚、銀魚を売る者あり。庭には生舟《いけふね》七、八十も並べて、溜水《ためみず》清く、浮藻《うきも》を紅《くれない》くぐりて、三つ尾のはたらき詠《なが》めなり」とあるように、当時、すでに市民生活のなかに普及していたのだった。 ◆金魚  釣りに出たに、二尺ばかりの金魚を釣りあげた。 「これは、めずらしい」  と、大事に持って帰り、出して見たれば、鰒《ふぐ》さ。 「今日は、竜宮の恵比寿講《えびすこう》で、ああ、大きに下《くだ》された」 ……安永二年正月跋『口拍子《くちびょうし》』  酔った鰒《ふぐ》が赤くなっていたわけで、やはり海で金魚は釣れなかった。 [#改ページ] 西瓜《すいか》  西瓜《すいか》二切れで吉原見て帰り 〔天二・仁〕  吉原廓外の日本堤で、立ち売りの西瓜二切れを買った男が、それをかじりながら、登楼することもなく、遊廓のなかをひやかして歩く図を詠んだ句だが、この句からもわかるように、江戸時代には、西瓜は、品《ひん》のいい果物ではなかった。  むかしは西瓜は、歴々その外、小身ともに食うことなし。道辻番などにて切り売りにするを、下々《しもじも》、仲間《ちゅうげん》など食うばかりなり。町にて売りても食う人なし。女などはもちろんなり。 ……『昔々物語』  という文章を見ても、西瓜が低級視されていたことがわかる。  西鶴の『好色一代男』巻六の「寝覚《ねざ》めの菜《さい》好み」という章には、主人公の世之介が、遊女のなかで最高位にあり、美の象徴でもあった太夫に西瓜をふるまい、彼女が、我れを忘れてむさぼり食う姿を嘲笑する場面がある。  それは、外面だけは優雅に見せながら、その実は下劣な根性を持っている「似而非《えせ》淑女」の仮面をあばく目的で、西瓜を小道具に使った世之介のたくらみだった。 ◆どんぶり 「あったら〔惜しいことに〕西瓜を、井戸のなかへどんぶりと落した。はて、どうしたらよかろう」  と、井戸のなかをのぞいているに、 「これこれ、それが、のぞいたとて出るものか」 「そんなら、のぞかねけりゃ出るか」 ……天明ごろ刊『うぐいす笛』  奇妙な理屈もあるものだが、どこまで論争しても果てしがあるまい。落したところが井戸のなかなのだから、まさしく水かけ論ということで……。  ところで、このスイカは、中央アジアを原産地とするが、これが、中央アジアのペルシャあたりから中国へ渡ったさいに、「西瓜」の唐音「さいか」が変化した語といわれ、このことばが、果実とともに日本に渡来した。  この語源説は、はっきりしたもので、水かけ論にはなっていない。 [#改ページ] 茗荷《みょうが》  ショウガ科の多年草で、陰湿地に自生するが、栽培もする。  独特な香りを持ち、香辛料野菜としてもちいられる。  七月ごろに地下茎から花茎を出して花穂をつけるが、花の開かないうちに花芽と若芽を摘んで食用とする。 「みょうが」とは「めが〔芽香?〕」の変化した語といわれる。  わすれ草とは茗荷だと馬鹿な説 〔柳82〕  茗荷を鈍草ともいい、これを食べると物忘れをするという俗説がある。  それは、茗荷が、釈迦の弟子で、自分の名前を忘れる愚鈍な槃特《はんどく》の墓所に生えたためだった。 ◆茗荷  旅籠屋《はたごや》の女房、亭主に向かい、 「今夜泊った旅人の行李《こうり》〔柳や竹で編んだ長方形の物入れ〕は、よほどの物と見えます。どうぞ忘れていけばよい」  と、言えば、亭主、 「おお、よい工面《くめん》〔くふう〕がある。なんでも無性《むしょう》に〔むやみに〕茗荷を食わせてみよう」  と、汁も菜《さい》も、みな茗荷だくさんに入れて、ふるまいける。  翌朝、旅人は、発《た》って行く。  おおかた落していったろうと、あとを見れども、何もなし。 「さてさて、茗荷もきかなんだ」  と、言えば、 亭主「いやいや、きいたきいた」 「そりゃ、なにを」 「おおさ。旅籠〔宿泊代〕を忘れて、払わずに行《い》におった」 ……安永二年三月序『聞上手』二篇  まさに物忘れに効果絶大なるものがあった。この咄が拡大されて、落語「茗荷宿」になった。 [#改ページ] 茄子《なすび》  これやこの江戸紫の若なすび  宗因《そういん》  ナス科の一年生植物で、俳諧の季語としては夏だが、夏、秋に淡紫色の花が咲き、つぎつぎに、暗紫色の実がなる。 ◆むらさき  若い者、四、五人あつまり、はなしているところへ、また、ひとり、友だち来たり、 「これこれ、めずらしい木を見て来た」 「なんだ、どんな木だ」 「木もむらさき、葉もむらさき、花もむらさき、実もむらさきの木だ」 「ムム、そりゃめずらしい木だの。なんという木だ」 「なんとか名はいったっけ。わすれた。いって、聞いて来よう」  と、かけ出し、しばらくし、来り、 「聞いて来た、聞いて来た」 「なんという木だ」 「茄子《なすび》」 ……安永八年刊『寿々葉羅井《すすはらい》』  めずらしい木でもなんでもありゃあしない。「思わせぶり」とは、まさにこれ。 「なすび」の語源説は、いろいろとある。「中酸実〔ナカスミ〕」の「カ」を省略したもの、「生実〔ナスミ〕」の意味、「夏味〔ナツミ〕」の転などあって、あきらかでない。  月さすや嫁に食わさぬ大茄子  一茶  という句があるように、「秋茄子は嫁に食わすな」ということわざがある。  秋茄子は、ちいさくて、種がすくないうえに、皮もひきしまって美味なので、姑《しゅうとめ》が、憎い嫁には食べさせないと、一般的に解釈している。 ◆秋茄子  秋茄子で、匂《にお》いがあって、だいぶうまいとて、毎日毎日、煮て食う。 娘「かかさん、もう、茄子は、よしにしねい。あき果てた」 母「おのしゃ〔おまえは〕、秋茄子を食うのは、今年《ことし》ばかりだ。たんと食いやれ」 娘「なぜえ」 母「来年は、嫁になるからさ」 ……安永九年正月序『笑長者《わらいちょうじゃ》』  嫁に行けば、うまい秋茄子は食べさせてもらえないという発想による小咄だった。  ところが、嫁の身を安じて食べさせない意味だという説もある。 『安斎随筆』では、茄子は、からだが冷えて毒だから食べさせないとしていたし、『諺草』では、秋茄子は、種がすくないものなので、嫁に子種がなくなることを心配してということを理由にしていた。 「茄子」という隠語は、子宮脱出症の俗称で、性交不能の女性の性器を意味した。 ◆茄子  友達同士寄り合って、 「晩の日待ち〔前夜から潔斎して、寝ずに日の出を待って拝むこと〕の汁は、ごま煮の茄子にしよう」 「いや、茄子は悪い」 「いや、茄子がよい」  と、あらそうところへ、また、ひとり、ふっと来て、 「おらぁ、どうでも、たこがいいと思う」 ……天明八年正月序『百福物語』 「たこ」とは、吸盤的吸引力絶大な女性性器をいう。そこで、茄子よりも、「たこ」に軍配《ぐんばい》をあげることになった。 [#改ページ] 豆|蒔《ま》く  夏、種をまく豆類には、大豆《だいず》、小豆《あずき》、いんげんなどがあるが、種まきの時期の幅は広いという。 『和漢三才図会』には、「按《あん》ずるに大豆は、大抵夏至の十日以前に種をおろす。〔中略〕七月、花を開き、九月、莢《さや》を結び、十月これを収む。これを秋大豆という」とある。 ◆豆畠《まめはたけ》  殿様、用人どもに、 「内々《ないない》で申し付けることがあるが、屋敷では言われぬ。船に乗って、品川沖へ出よう」  と、仰《おお》せいだされ、さっそくその用意して品川の沖へ漕《こ》ぎ出せば、殿様おっしゃるには、 「下《しも》屋敷へ豆を蒔こうと思う」  用人衆あきれて、 「このくらいなことならば、お屋敷で仰せ付けられてもよさそうなものと存じます」  と、いえば、 「はて、ばかをいうな。鳩《はと》が聞くわ」 ……天明八年ごろ刊『独楽新話』  さすがに一国一城の主《あるじ》、すこぶる遠大な見通しだった。 [#改ページ] 蓮《はす》の花  筆洗うながれや蓮の花ひとつ  暁台  ひらき満ちて白蓮しばしさむげなり  大江丸  スイレン科の多年生水草で、日本へは、かなり古い時代に中国から渡来したといわれる。地下の根茎「レンコン」は、食用に供せられる。  夏になると、根茎から長い花茎が出て、多くの花弁を持った、大きくて美しい花「蓮華《れんげ》」が咲く。紅や白の花は、夜明けに開き、午前中にしぼむが、芳香を放つ。  極楽はさぞ蓮根が安かろう 〔柳86〕  という句もあるように、極楽では、空に鳳凰《ほうおう》が舞い遊び、池には蓮華が咲き乱れるといわれ、蓮華は、極楽を表徴するという。 ◆蓮華  陰間《かげま》〔男娼〕が、十死一生にわずらうところ〔危篤状態でいるところへ〕、馴染《なじみ》の和尚たずねて来る。  陰間よろこび、 「私は、おいとまごいでござります〔あの世へまいります〕。あなたの仏さまにおなりなされますを〔あなたがお亡くなりなされますのを〕、あの世で待っております」  と言えば、坊主あたまを振って、 「おれは、仏には、ならぬならぬ。おれは、来世《らいせ》には、蓮の花に生まれるつもりじゃ」 「それは、なぜでござります」 「はて、蓮華になって、おぬしが〔おまえの〕尻を抱いている気さ」 ……寛政八年刊『おとしばなし春の山』  仏の座と仮定されている蓮華となって、そこへ坐る陰間を抱こうとは、これこそ、しりあい〔尻合い〕の仲!  なお、「ハス」とは、蓮の実が蜂の巣に似ているところから、「ハチス」の「チ」を略したものという。 [#改ページ] 百合  星の夜も月夜も百合の姿かな  闌更  百合白く雨の裏山暮れにけり  泉鏡花  姫百合やちょろちょろ川の岸に咲く  凡兆  花をやれとかく浮世は車百合  宗因  鬼百合に添ういばら木の籬《まがき》かな  信徳  いろいろと種類の多い百合の花は、むかしから親しまれている花で、「百合」の字は、中国人が、その球根の形から考えた表記だという。  見事やと誰も五体をゆりの花  貞徳  ひだるさをうなずきあいぬ百合の花  支考  などという句があるが、「ゆり」の語源は、「ゆらぐ花」の「ゆら」から出たといわれる。ところが、この語源に疑義を申し立てる小咄があった。 ◆理屈者  なんでもむつかしく理屈をいう人、庭の花の風に動くを見て、 「あれは、なんという花でござります」 「あれは、ゆりの花さ」 「へえ、そうして、風の吹かぬ時は、なんと申します」 ……天明八年ごろ序『はつわらい』  風の吹かぬ時は、「ゆれず」とでも申しましょうか。 ◆江戸小咄春夏秋冬 夏の一 興津 要著