江戸小咄春夏秋冬 冬の一 興津 要 [#表紙(表紙-冬一.jpg、横180×縦240)] 表紙絵 広重作「名所江戸百景」より「びくにばし雪中《せっちゅう》」  びくに橋は京橋川にかかる。「びくに」とは尼のことだが、尼の恰好をした私娼のことをも指すようになり、橋の名の由来は近くに「びくに宿」があったためという。左手の「山くじら」の看板をだす店は、山くじら(イノシシ肉)をはじめとする肉鍋を食わせる店、右手の「○やき、十三里」の看板の店は焼き芋屋で、「九里(栗)より(四里)うまい十三里」という洒落だ。右手奥には江戸城の石垣、遠くには火の見|櫓《やぐら》がみえる。雪中を行くのはおでん屋だろうか。雪はおだやかに降っている。 [#改ページ] 目 次  顔見世《かおみせ》  こたつ  温石《おんじゃく》  恵比須講《えびすこう》  夜鷹《よたか》そば  |酉の市《とりのいち》  木枯《こがら》し  頭巾《ずきん》  人参  大根  ふくろう  寒し  氷  雪  雪見 [#改ページ] 顔見世《かおみせ》  顔見世や子々孫々も此の桟敷《さじき》  太祗  江戸時代、江戸や京坂の各劇場では、十一月の歌舞伎興行を〈顔見世〉と称して盛大におこなった。  江戸時代は、作家や俳優が、十一月から翌年十月まで一年間契約で、ひとつの劇場に所属したので、新規に契約した一座の俳優の顔ぶれを披露する意味だった。  この契約制度は、関西にはじまり、江戸でも万治年間〔一六五八〜六一〕におこなわれるようになって、幕末までつづいた。  各座ともに初日は十一月一日で、きまった儀式や方式があったが、明治以後、急激に消えていった。  顔見世の形式は、現在、わずかながら、京都の南座に残されている。  同座では、毎年十二月、東西の人気俳優を集めて興行するが、劇場の前に竹矢来《たけやらい》を組み、出演者の紋看板を掲げるというような古来の雰囲気をしめす。しかし、演《だ》し物などは普通興行と変りはない。  東京でも、このごろは、十一月の興行を顔見世と称しているが、単に人気俳優を数多く出演させるだけで、特別の催しは見られない。 ◆芝居のそそう  芝居の顔見世、ことのほか繁昌して、桟敷も上下つまりけるが、あるそそう者〔そそっかしい者〕、上桟敷より吸殻《すいがら》を落しければ、侍《さむらい》の頭の上に落ちける。  大きに腹を立て、しかりければ、肝《きも》をつぶし、 「これは、不調法《ぶちょうほう》〔申しわけないことをいたしました〕」  と、いうて、頭の上へつばきを吐きて吸殻を消しける。  ……明和五年刊『軽口《かるくち》春の山』 〈不調法〉のダブル・プレーとなった。 [#改ページ] こたつ  初雪にふりこめられて向島  ふたりがなかに置きごたつ  酒《ささ》のきげんの爪《つま》びきは  好いた同志のさしむかい  うそがうき世か  うき世が実か  まことくらべの胸と胸  という小唄もあるように、〈こたつ〉は、日本の冬の色模様には欠かせない道具だが、語源は、中国渡来の「火榻子《かとうし》」の唐宋音で、「火炉の床」の意味だった。  室町時代に禅家から広まり、古くは、やぐらそのものを〈こたつ〉と呼んだこともある。 ◆理屈  密夫《まおとこ》を捕え、金ずくで済ましては〔金で決着をつけては〕男が立たぬとて、御地頭へ持ち出しける〔領主へ訴え出た〕。  さて、殿様御|吟味《ぎんみ》の上、 「両人の首を切らん」  と、仰《おお》せければ、百姓、申しあげけるは、 「この者両人、火あぶりに御仰せ付けくださるべし」  と、願う。殿、 「それは、その方《ほう》心得ちがい」  と、仰せらるれば、百姓、 「もとをただしてみますれば、炬燵《こたつ》からおこったことでござります」  ……安永八年正月序『金財布《かねざいふ》』  とかく色事《いろごと》の場になりやすいこたつゆえの情事で、夫の怨念《おんねん》はすさまじいが、密通に火あぶりの刑は適用されなかった。  江戸時代の法律では、妻の密通する現場を発見すれば、訴え出ずに殺してもかまわなかった。  そのときは、両人ともに殺さなければ夫を死罪にする。しかし、殺さずに訴える場合は、殺すも殺さぬも夫の希望どおりにするということだった。  また、両人を殺すにしても、お上《かみ》へ引き渡すにしても、現場を確認した証人が必要とされた。  なかには、密夫が亭主に謝罪金を払って示談にする場合もあったが、享保〔一七一六〜三六〕ごろの額面十両の大判の相場が七両二分だったので、これが首代とされ、のちには五両に下落した。  つくづくともののはじまる火燵《こたつ》かな  鬼貫《おにつら》 [#改ページ] 温石《おんじゃく》  温石の飽《あ》かるる夜半《よわ》やはつ桜  露沾《ろせん》  温石は、腹部をあたためる用具で、カイロのような役割を果たした。  蛇紋石《じゃもんせき》、軽石《かるいし》、温石石《おんじゃくいし》〔現長野県上伊那郡高遠町辺の産〕などを火で焼き、布で包んで懐中したが、石のかわりに〈こんにゃく〉を使用することもあった。  この句のように初桜の候ともなれば、温石は、飽《あ》きられ、もてあまされることになった。 ◆狩場《かりば》の切手《きって》  曽我の兄弟、かたき工藤《くどう》を討たんと思えど、狩場の切手〔狩場への通行許可証〕なければ、忍びいることならず。  梶原の家老|番場《ばんば》の忠兵衛が所持して、色里にある由《よし》聞きいだし、何とぞ奪い取るべしと〔なんとかして奪いとろうと〕、兄弟、土手に待ち伏せして、難なく番場を斬り伏せて、懐中をさがし、ふくさ包みを引きいだして、 「大願成就《たいがんじょうじゅ》。これこそ」  と、悦び勇み、我が家に帰り、開き見れば、こはいかに、箱入り温石。  ……安永二年正月序『聞上手』  番場の忠兵衛は冷え症だった——曽我兄弟仇討ち秘話? [#改ページ] 恵比須講《えびすこう》  例の鯛《たい》も事あたらしや恵美酒講《えびすこう》  重頼  一般的には、十月二十日に、商売繁盛を祈願して恵比須神をまつり、祝宴を開くことで知られる。  十日戎《とおかえびす》所詮《しょせん》われらは食い倒れ  岡本圭岳  菓子買うや十日戎の風の中  桂信子  などという句もあるように、関西では、正月十日を十日戎と称し、とくに、大阪の今宮《いまみや》神社の祭礼は名高い。恵比須神は、中世から福の神として信仰されるようになり、漁村では、漁の神として、農村でも、大黒と並べて福を招く神として、また、都会では、商業守護神としてまつられるようになった。  十月二十日〔もと陰暦〕、京阪の商店では、誓文払《せいもんばら》いの安値大売り出しをおこなう。  誓文払いとは、この日に、京都の商人や遊女が、四条京極の官者殿〔冠者殿〕、通称〈誓文払いの神〉に参詣し、客を相手にしての駈けひきから偽《いつわ》りを述べて来た罪を神に謝し、お祓《はら》いをした行事だった。  今日、京坂に誓文払いといい、江戸にて恵比寿講という。京坂にては、ただ呉服、木綿、古着等大小売ども蛭子《えびす》神を祭り、家内もこれを祝し、また今宮等に参詣す。 ……『守貞漫稿』  という文章を見ても、江戸後期には、商売繁盛の神の匂いが強かった。  あきないや店へ酒出す夷講《えびすこう》  樗良《ちょら》  魚売りの棒のしわりや夷講  蝶夢 ——この日の祝宴は豪華なものがあった。 ◆大食  夷講に盛りつけられ〔十分にごちそうになり〕、伸《の》っつ、反《そ》っつ、腹をかかえて帰る。  みちにて、 「お助けなされてくださりませ。昨日から食べずにおります。どうも、ひもじくてなりませぬ」 「それは、うらやましい」  ……明和九年九月序『楽牽頭』  人生は、皮肉にできている。 [#改ページ] 夜鷹《よたか》そば  寒念仏ひそかに夜鷹そばを食い 〔安五・鶴〕  寒夜、「そばーぃ」と呼びながら担《かつ》ぎ売りをした〈夜鷹そば〉は、江戸の冬を彩る風物詩的存在ともなっていた。  適当な場所で荷をおろし、あたたかいそばを提供したから、寒行《かんぎょう》〔寒中の修行〕の苦しみも救われるのだった。 〈夜鷹そば〉の名称は、街娼の夜鷹を上得意にしたことによるというのが通説になっている。  花巻《はなまき》さんは二十四文でおっすわな 〔柳87〕  タネ物の花巻〔あぶって、こまかくもんだのりをかけたそば〕と、遊女の源氏名〈花巻〉とをかけた句だが、幕末に向かうにつれて、十六文の〈かけそば〉のほかに、天ぷら、しっぽく〔おかめそばの類〕などと種類もふえていった。 〈夜鷹そば〉は、だいたい元文〔一七三六〜四一〕ごろにはじまったらしいが、宝暦〔一七五一〜六四〕ごろになると、これも担ぎ売りの〈風鈴そば〉が登場した。  これは、屋台のまわりに風鈴をさげているので、その音で、そば屋が来たということがわかるアイデアで、はじめは、夜鷹そばと区別するために、容器もきれいなものを使っていたが、しだいに両者の区別がなくなり、近代になり、鍋焼きうどん屋、中華そば屋が流行するにおよんで消滅した。  夜の稼業なので、昼間とは異なる人生模様にめぐり逢った。 ◆立ち聞き  夜鷹そばきり、通り町〔現東京都中央区日本橋一〜三丁目〕の軒下《のきした》に休んでいる。  うちで、女房の声にて、ひそひそと話する音|好《この》ましく、耳をかたむけて聞けば、女房がいうよう〔いうには〕、 「お前、毛がなければないとてしなさらず、毛があればあるとてしなさらぬ」  とのいざこざ。  そばきり屋、こくうに気が悪くなり〔むやみに情欲をそそられて妙な気分になり〕、戸のすきまよりのぞいて見れば、筆屋。  ……安永四年刊『豆だらけ』  筆屋ならば、〈毛〉が問題になったのも当然だった。 [#改ページ] |酉の市《とりのいち》  人並に押されて来るや酉の市  高浜虚子 「正一位|鷲《おおとり》大明神社〔中略〕当社に毎年十一月酉の日祭りあり、世に酉のまちと云う。まちは祭りの略語なり」〔『江戸名所図会』〕  というように、毎月十一月の酉の日におこなわれる鷲《おおとり》神社の祭礼を〈酉の市〉という。  鷲神社は、大阪府堺市|鳳《おおとり》町の大鳥神社が本社といわれるが、東京付近では、この大鳥神社とは深い関係なしに〈お酉さま〉信仰が発達したらしい。  鷲神社は、花又村〔現東京都足立区花畑町〕にあり、もと武の神として武士の間で信仰されたが、のちには庶民の信仰も集めるようになり、芋がしらや熊手を売るようになった。  同社の縁起によれば、日本武尊《やまとたけるのみこと》が、東国征伐の帰途、社前に熊手を立てかけて参拝したが、その日が酉の日だったことからはじまった祭りだという。  祭りの日に売られる熊手も、はじめは、農民のための実用品だったが、いつの間にか、ものを|かきこむ《ヽヽヽヽ》という縁起から飾り物になった。  盆胡蓙《ぼんござ》へ木枯《こがら》しのする酉の町 〔柳9〕  ちっぽけな熊手買うほど負け残り 〔傍5〕  遠い花又村の酉の市が栄えたのは、バクチの開帳があったことに原因があったが、安永五年〔一七七六〕十一月に、花又村酉の市の賭博が禁止されたことから参詣人が減少してしまい、現千束三丁目の鷲神社が、吉原に近いこともあって繁盛していった。  このころには、同社は、開運の神として信仰を集め、お多福《たふく》の面や小判、入り船などを付けた縁起物の熊手や、人の頭《かしら》に立つという縁起による〈頭《とう》のいも=唐の芋=やつがしら〉などが売られるようになった。  三の酉まである年は火事が多いとか、吉原遊郭に異変があるなどの俗信も生まれた。 ◆十一月酉のまち  浅草|鳥越《とりごえ》明神の鳥居前に、鳥かい屋鳥右衛門という富豪のむすこに、鳥の介とて、古今の鳥好き。  今日はしも〔今日はちょうど〕、月の初めの酉の日ゆえ、鷲大明神へ参詣して帰り足に、吉原の仲の町つる屋の見世さき、門口から、 「どうだ、このごろは」 女房「これは、これは鳥さん、今日は初酉ゆえ、大かた、お立ち寄りがあろうと存じて、心待ちをしておりました。まあまあこちらへ。これ、とりや、とりや。お茶をおあげ申しな。もし旦那え、今日のわたくしがこしらえ〔身なり〕を御覧《ごろう》じてくださりませ」 「上着が、山ばとねずみのちりめん、紋が、かりがね、下着が、うぐいす茶、中がたのちりめん、帯が、からす羽しゅすとは、ありがてえ」 「あなたのお気にあう、鳥好きの太夫〔ここは、たいこもち〕が、きのうひろめ〔新しく勤めに出たことを披露すること〕をいたしました」 「それは妙だの〔おもしろいな〕。よんでくれねえな」 「これ、とり助や、とり好きの太夫さんを、そういいな。まあ、おさかずきのひとつ召しあがりまし。おさかなを、早くよ」  と、いううちに、おもてへ来たる黒出たち〔黒い服装〕の太夫芸者、 「へい、これは旦那さま、はじめてのお目見え、からすかん左衛門と申しまする。これから、細く長く御ひいきをお願い申しあげまする」 「おまえも鳥好きだね」 「さようにござります」 女房「おまえのひたいに、こぶができたが、とうぞおしかえ〔なにかあったのかい〕」 「おかみさんえ、お聞きなさいまし。いま、つる屋の裏を通ると、土蔵の修復《しゅふく》で、左官が、才|とり《ヽヽ》棒で、下から土を足していました。そのわきのほうを、日傭《ひよう》とり〔日やとい人夫〕が通りかかりまして、その左官の土が、日傭とりの顔へかかりますと、さあ了簡《りょうけん》しませぬ〔許しません〕。あらそいとなるところへ、わたくしが通りまして、才|とり《ヽヽ》、日傭|とり《ヽヽ》の中人〔仲裁者〕が、鳥好きのわたくし。とたんの拍子に、才とり棒があたって、こぶができました。あらあら、こぶの因縁、かくの通りでございます。鳥といえば、わたくしが近づきの人〔親しい人〕が雉子町《きじちょう》へ見世《みせ》を出しましたが、家内〔家族〕が、のこらず鳥好きさ。まず、売り物が、鶯菜《うぐいすな》めしも古いからと、ほととぎす菜めしというを出しました」 「ほととぎす菜めしはいいね」 「いいえ、てっぺんから、かけになりました〔テッペンカケタカというほととぎすの鳴き声と、はじめから掛け売りになった意をかける〕。そこで、こんどは、とんび麦めしというをはじめました」 「とんび麦めしとはえ」 「とろろ〔とんびの鳴き声ピーヒョロロにかける〕で食わせるというこころさ。肴《さかな》は、なすのしぎ焼き、はまぐりの千鳥焼き、かつおのきじ焼き〔醤油をつけた焼き物〕、みそさざい、酒は、本所一ツ目、溜屋のおおとり、女房が、三十二、三だが、ちとふけて、ちょっと見ると四十《しじゅう》から、母親が、とりあげ〔産婆〕で、おやじが、料理番の手間とりさ」 「それは本《ほん》〔ほんとう〕のことかえ」 勘「のこらず、うそ〔いつわりの意と小鳥うそとをかけた〕でござります」 ……天保七年刊『落噺年中行事』  とりとめのない鳥の話が|とりどり《ヽヽヽヽ》だった。  なお、花又村の鷲神社の本社は、埼玉県北葛飾郡鷲宮町の鷲明神だといわれる。 [#改ページ] 木枯《こがら》し  木枯しの地にも落さぬしぐれかな  去来《きょらい》  晩秋から初冬にかけて吹く強風の〈木枯し〉が、ぱらぱらと降って来た時雨を、横なぐりに吹き払ってしまい、雨あしは、地面にとどかぬうちに消えさってしまう。  〈木枯し〉とは、木を吹きからすという意味によることばだというが、一説には、〈木嵐〉が、〈こがらし〉に転訛したともいう。  木枯しや市《いち》に業《たつき》の琴《こと》をきく  白雄《しらお》  木枯しの吹きすさぶ巷《ちまた》で、街頭芸人のひくわびしい琴の音を聴いたという句だが、寒風のなかにひびく敗残の人生の曲は、絶望感、虚無感に満ちていることだった。 ◆真裸  友達、真裸になり、 「うちから、ひとが来れば悪い。二階へでも寝ていこう」  と二階へあがり、寝てみても寝られず。 「亭主や、下から風が来て、寒くてならぬよ」 「おっと、心得た」  と、はしごを引く。  ……明和九年九月序『楽牽頭』  バクチにでも負けたのか、冬に真っ裸では、木枯しも吹きこみ、耐えがたい寒さだったろう。  だからといって、ハシゴを取ってみたところで、風よけにはなるまいに……。 [#改ページ] 頭巾《ずきん》  袂《たもと》なる頭巾さがすや物わすれ  召波《しょうは》 かさばらない物だけに、よく見る光景で……。 ◆頭巾  そそうな〔そそっかしい〕隠居、何やら無性《むしょう》にさがす。 「もし、何をおたずねなされますえ」 「頭巾が見えませぬ」 「それは、お前様のおつむり〔頭〕にござります」 「おお、とんだところにござりやした」  ……安永二年閏三月序『近目貫』  あるべきところにあったのだ! 〈頭巾〉は、文字通りで、頭や顔を包む布製のかぶりもので、目だけ出して頭と顔をすべて包む婦人用の〈御高祖《おこそ》頭巾〉、大黒さまがかぶるような〈丸《まる》頭巾〉〈大黒頭巾〉、医者、俳諧師、老人などがかぶった角形の〈角《かく》頭巾〉をはじめとして種類も多い。 ◆頭巾  柳原|床店《とこみせ》〔万世橋から浅草橋に至る神田川南岸の柳原土手に出た露店〕につるしてある頭巾の値を聞いて、買わんとせしが〔買おうとしたが〕、 「すべて、この辺につるしてある頭巾は、女郎の脚布《ゆぐ》〔腰巻き〕の古いのを黒く染めて仕立てるというが、いよいよ左様《さよう》か〔ほんとうにそうなのか〕」  と、聞く。 「これは、もったいない。脇《わき》のは存ぜず〔よその店の品は、どうかわかりません〕。私などが売りまするは、呉服屋から黒ちりめんを買いまして仕立てまする。ゆめゆめ、さようなるむさいことは致しませぬ〔そんな不潔なことは致しません〕」 「そんなら買うまい」  ……安永二年刊『飛談話』  変態コレクターは、むかしからいたのだ。 [#改ページ] 人参  朝鮮の妻や引くらん葉人参《はにんじん》  其角  薬用として貴重な朝鮮人参は、茎は短く、掌状《しょうじょう》の葉をつけ、太い根を有する。 〈人参〉とは、根のかたちが人間に似ているための名称との説があるが、北鮮地方の深山に自生するものを採集するためには、雪中に、一か月以上も山を探し回るという。  大根やカブとともに主要な野菜として栽培される日本人参は、約三百年前に渡来したものが改良され、十一、十二月ごろに収穫する。 ◆人参  物堅き屋敷の奥家老|治部《じぶ》左衛門、酒のさかなに人参を食い、 「この人参というものが、至極《しごく》甘くて、よい物じゃ」  と、ほめながら、いくらもいくらも食えば、女中おかしがりて、 「おやおや、治部左衛門さまは、人参がお好きじゃとさ。けしからぬ。おやおや、どうしょうのう、アハハアハハアハハ」  と、一座みな、口へ袖をあてて笑うと、治部左衛門、 「これ女中たち、何が、そのようにおかしいぞ。御前《ごぜん》へげらげらと、たしなんだらよかろう。そしてまあ、それがしが人参を食えば、なぜ笑うのだ。その子細《しさい》〔わけ〕相ただし申そう」  と、しかつにきめると〔まじめくさって責めると〕、女中、 「治部左衛門様、人参がお好きだと助兵衛でござりますとさ」  治部左衛門、まじめで、 「さて、あらそわれぬものじゃ〔もっともなことじゃ〕」  ……享和二年正月序『一口饅頭《ひとくちまんじゅう》』  人参は精力を助長する効能があるというが、当人が好色を自認して感心するとは正直な! [#改ページ] 大根  大根に実の入る旅の寒さかな  園女  大根は、主として夏に種をまき、冬のはじめから収穫する。 『和漢三才図会』にも、「……大抵八月に種を下し、〔中略〕霜の夜、根肥大にて味もまた甘し……」とある。 ◆大根  大根、上下《かみしも》を着て、そば屋へ行けば、亭主立ち出《いで》て、 「お役味《やくみ》〔薬味と役目かける〕ご苦労」  ……弘化ごろ刊『しんさくおとしばなし』 ——薬味としての大根おろしも、冬は、とくにうまくなる。まさに「お薬味ご苦労」というところ。 ◆野狐  いまはむかし、田舎にて狐出て人を化かすということ。  武辺《ぶへん》〔武芸一般〕自慢の侍《さむらい》、退治せんと、かの所へ行きて待ちいたる。  十六、七の器量よき娘来り、 「私は、向こうの村まで参る者でござります。どうぞ、おつれなすってくださりませ」  と、いう。 「ふといやつ。うぬは、このあたりに住んで、人をたぶらかす狐であろう。おれが女好きだといって、そううまく化かされるものか。おきにしろ〔やめろ〕。出なおせ出なおせ」  と、言えば、忽《たちま》ち男に化け、 「私は、江戸の者。ひとり旅なれば、なにとぞ御同道《ごどうどう》〔どうか一緒につれていってください〕」  と、言う。 「うぬも、いまの狐だ。よしにしろ」  と、いえば、じじいになり、 「もし、お侍様」 「なんだ。また、じじいに化けたか。古い古い」  と、いえば、こんどは、ばばあになる。 「ばばあでも狐だ」  と、いわれて、しようがなさに狐になる。 「それみろ、狐め。おのれ生け捕りにするぞ」  と、追っかければ、狐は、かなわじと逃げ、追い詰められて藪のなかへはいる。  尻尾《しっぽ》を捕《とら》え、ひっぱる拍子に、 「コンコン、かいかい」  と、きつねはなきながら、尻尾が抜ける。 「さてこそ、みせしめに、これをみやげにする」  と、いううしろから、百姓が、 「なぜ、大根を抜いた」  ……寛政十年正月跋『無事志有為《ぶじしうい》』  こんな〈狐村〉には、もう来ん来ん〔こんこん〕。 〈大根〉は、根が大きい意味の〈おおね〉を音読したことばだった。 〈大根役者〉といえば、芸のまずい役者を軽蔑していうことばだが、大根の根が白いところから〈素人《しろうと》〉の〈しろ〉にかけたことばという説がよさそうに思われる。  このほか、大根は、どのように食べても〈あたらない〉ところから、あたらない役者を意味するようになったという説もある。 [#改ページ] ふくろう  梟《ふくろう》の来ぬ夜も長し猿の声  北枝《ほくし》  フクロウ科の鳥で、ミミズクと同じようだが、耳羽のあるほうをミミズクといっている。  顔は灰白色で円《まる》く、くちばしは短くて太く、背や腹は灰色の地に褐色の縦斑《たてまだら》がある。  昼は、森林の樹木の梢《こずえ》で眠り、夜活動して、ノネズミ、昆虫、小鳥などを捕食することでもわかるように、耳も発達し、目も暗夜ではたらくような特殊な構造を持っている。  木菟《みみずく》のごとく昼|伏《ふく》し、夜出で小鳥をとり食う。鳴く声、木菟に似て長し。〈ほいほい〉というがごとし。まさに晴れんとするや、〈のりすけおけ〉というがごとし。まさに雨ふらんとするや、〈のりとりおけ〉というがごとし。もって、雨晴を占う。初めは呼ぶがごとく、後は笑うがごとしというはこれなり。雌《めす》は、やや小さくして、まだらもまた荒く、その鳴き声、〈くいくい〉というがごとし。……『和漢三才図会』 ——鳴き声に関する叙述がほとんどだが、〈ふくろう〉の語源は、鳴き声によるとの説が圧倒的に多い。しかし、「梟のむくむく氷る支度《したく》かな 一茶」という句のように、毛のふくれた鳥であるがゆえの名称との説もある。 ◆鳥目《とりめ》〔夜の視力障害〕 「このごろは、鳥目でこまるが、なんと、夜、目の見える薬はあるまいか」  と、問えば、 「それは、ふくろうの目を黒焼きにして飲むとよい」  と、聞いて、早速こしらえて飲めば、昼のごとく、二、三町先まで見える。 「これはよし」  と、悦《よろこ》びしが、夜が明けると真《ま》っ暗《くら》。  ……安永ごろ刊『梅屋舗《うめやしき》』  ふくろうの効能は、やはり夜だけだった。 [#改ページ] 寒し  塩鯛《しおだい》の歯ぐきも寒し魚《うお》の店《たな》  芭蕉  魚屋の店も、すっかり冬枯れで、生きのいい魚は見られずに、置いてある塩鯛も、歯ぐきをしろじろとむき出して、まことに寒々とした光景だという句で、冬の日の寒さが如実《にょじつ》に伝わって来るの感がある。  有明《ありあけ》にふりむきがたき寒さかな  去来  人声の夜半を過ぐる寒さかな  野坡《やば》  暖房設備もないうえに、寒気をさえぎるような大きな建築物などなかった江戸時代には、とくに夜ともなれば、現代からは想像もできないほどの寒さだったろう。 ◆盗人  盗人ふたり、宵より樋合《ひあわい》〔家と家との間〕に忍んで居けるが、久しいうち、下冷《したび》えして、ひとりの盗人、屁《へ》をひとつひったり。  いまひとりの盗人、耳すこし遠かりけるが〔遠かったが〕、いかがしてか、いまの屁の音を聞きかじり、 「いまのは、なんだ」  と、小声に聞く。 「いまのは、屁だ」  と、小声に答う。  耳遠ければ、聞きつけずに、 「いまのは、なんだ」  と、聞く。 「はてさて、屁だというに」  という。  まだ聞き入れず、おし返して、 「いまのは、なんだよ」  と聞く。  面倒になり、我れをわすれ、大声にて、 「屁だというに」 ……安永六年序『譚嚢《たんのう》』  まさに屁のような話だったが、職業とはいいながら、冬の夜の寒さは、盗賊にとって難行苦行だったろう。  なお、〈寒し〉の語源は、〈冷〔サム〕〉、〈不楽〔サブシ〕〉、熱の〈冷〔サムル〕〉意などいう。 [#改ページ] 氷  油|凍《こお》りともし火細き寝覚《ねざめ》かな  芭蕉  江戸時代の冬の寒さは、言語に絶するものだったから、水が凝《こ》り固まったものであるという〈氷〉の語源説があるのも、もっとものことだった。 ◆氷 「親父さま、寒いはずでござります。このように、氷が厚く張りました」 「どれどれ、ほんに厚く張った。寒中の氷は薬だ。一口食おう」 「なかなかお歯には及びますまい」 「そんなら、焼いてくれろ」 ……安永六年刊『管巻《くだまき》』  清らかに冷えきった寒中の水は、身体を壮健にするということから、効果を信じて飲むひとも多く、氷もまた、同じ効能があると信じられた。 〈としよりの冷や水〉ならぬ氷は、噛めないから焼いてくれとは、たしかに良いアイデアだったのだが……。  田の水の有りたけ氷る朝かな  凡兆  氷るとて池水ふたたび光るなり  大江丸  などの句もあるように、屋外の氷となると、きびしさもひとしおだった。 ◆生酔い  樽次《たるつぐ》〔江戸初期の大酒豪〕というような底なし、例の通り、近所へ飲みに行き、待てども、待てども帰らず。 女房「これ八助や、旦那が、また例の行き倒れだろうも知れねえ。ちょっと、そこらを見て来てくりや」 「はい、かしこまりました」  と、そこらを見廻りければ、隣り屋敷のどぶのなかへはまり、大いびきなれば、八助、引き起こさんとするに、折りふし寒中のことにて氷はりつめ、なかなか引いても引いても動かず。  やがて、うちへ帰って、薪《まき》割りを持ってきて、無性《むしょう》に〔むやみと〕氷を叩きこわすと、生酔い、目をさまして、 「こいつらぁ、また、障子を破るか」 ……寛政十三年春序『はなし売』  どぶのなかで凍りついていたのでは、手におえなかったろう。  江戸市中でさえ、このきびしさだったから、これが北国になると、筆舌に尽くしがたいものがあった。 ◆寒国 「そこもとの〔あなたの〕御在所《ございしょ》〔故郷〕は、寒国とうけたまわる」 「さようでござります。寒中などは、箸《はし》を膳へ置きますると、替えまするうちに、箸が膳へ氷り付き、もう食べますことはなりませぬ。ちょっと咄をいたしましても、壁へ氷り付きまする。寒中の咄は、残らず壁に氷り付いておりまする」 「春は、さぞやかましゅうござりましょう」 ……安永二年正月序『坐笑産《ざしょうみやげ》』  落語「うそつき弥次郎」では、「おはよう」という挨拶が凍ってしまい、春になると解けて、「おはよう」「おはよう」と、うるさく聞えるという。 [#改ページ] 雪  馬をさえながむる雪のあしたかな  芭蕉 「旅人を見る」という前書きのある句で、白一色の街道に立った芭蕉が見いだした雪の風情だった。  雪中を行く旅人の姿に情趣が感じられるばかりでなくて、ふだんは見過してしまう馬の姿さえも、雪を背景にしたときは、新鮮な趣のうちに、つくづくと眺められるという気持が詠まれていた。  それは、白い魔術師〈雪〉の妖《あや》しい魅力でもあった。  それゆえに、  先ずふるは雪女もや北の方  重頼  という句もあるように、雪の夜には、雪女郎、雪女などと呼ばれる妖怪もあらわれるとの伝説もある。 ◆雪女  ひとり者、雪のふる夜、つくねんとして〔ひとりぼんやりして〕居るところへ、真っ白な着物を着て、三十近くな美しい女、ひとり者のむすこ六つばかりなるを、しきりにかわいがるゆえ、男もふしぎに思いながら、見れば見るほど美しいゆえ、つい、雪女を、その晩は泊めて、 「その子を抱いて寝やれ」  と、いえば、 「わたしゃ、この子を抱いて寝ることは、どうもなりませぬ」 「なぜ、抱いて寝られぬ」  と、いえば、 「どうも寝小便をしそうだ」  ……寛政十一年正月序『意戯常談《いけじょうだん》』  妖魔〈雪女〉も、〈黄金色の洪水〉の猛威の前には、むなしく解けて流れる弱みがあった。  清浄、神聖な〈雪〉ゆえに、潔斎《けっさい》〔身心を清潔な状態に置くの意で、斎潔《ゆきよし》という説、ユは斎、キは〈潔白《きよき》〉〕の意味だという説など、語源もまた、すがすがしい。  小便のかずもつもるや夜の雪  貞室  清浄な雪ではあっても、夜の冷えこみはすさまじい。 ◆小便  雪の夜なか、小便つまりて目さめ、起きて立ちいで、雨戸明けにかかったところ、凍《こお》りついて、いかなこと〔どうにも〕あかず。  しかたなければ、敷居へかがんで小便をたれかけ、さて、あけてみれば、氷とけて、がらりとあいたり。 「よし」  と、言いて出たところが、なにも用なし。  ……明和九年刊『鹿の子餅』  たしかに〈用〉は足したあとだった。 [#改ページ] 雪見  いざさらば雪見にころぶ所まで  芭蕉  花見や月見とともに、雪見は、古くからよろこばれて来た風流だが、江戸時代にはいると、庶民の間にも普及していった。 『四季名寄』〔天保七年・一八三六〕にも、その名所として、「上野雪景・日暮らし雪景・向ヶ岡雪景・三囲《みめぐり》雪景・長命寺雪景・隅田川雪景・王子雪景・飛鳥山雪景・目白不動尊雪景」などと記されているが、  風流な三つ物隅田の雪月花 〔柳79〕  という句もあるように、隅田川をのぞむ地帯の雪見は、江戸市民に、とくに愛好されていた。 ◆初雪  きいた風《ふう》〔半可通《はんかつう》、通人ぶる〕の男、初雪の降るを一人でよろこび、 「加賀|蓑《みの》を出しておけ。いまから向島へ雪見にゆくぞ。しかし、出しなに〔出がけに〕一杯のんでゆこう。きのうの鴨《かも》はあるか。菜《な》でも葱《ねぎ》でもあればよいが」  というところへ、五十ばかりなるおやじ、蓑笠に雪の降りかかりたるを、いとう気しきもなく〔苦にするようすもなく〕、 「小松菜の大把《おおたば》」  と、呼び来る。 「これ、菜を買おう。いくらだ」 「はい、二十〔文〕でござります」 「ちと高いが、買ってやろう」 「それは、ありがとうございます」 「これ、おやじどの、年寄りの、この大雪に歩くは、さぞ難儀であろうと思って、言い値に買ってやる」 「あい、旦那さまは、お慈悲深いお心。見れば、良い蓑に陣笠。ははあ、雪見においでかな」 「いや、貴様は、如才《じょさい》のない人だの」 「なにさ、おまえ。如才があるゆえ、このざまでござります。旦那さま、雪のお句は、何とおっしゃりました」 「ムム、初雪の発句《ほっく》か。たったいま考えた」 「して、そのお句は、なんと」 「あの、なにさ、初雪や犬の足跡梅の花」 「おもしろそうにござります。私も一句いたしました」 「それは、なんと」 「あの、初雪や人の足あと小判形《こばんなり》」 「人の足あとが小判形とは、つまらぬことをいう人だ」 「はい、私は、草鞋《わらじ》をはいて居ります」  ……文化十一年正月序『富久喜多留《ふくきたる》』 ——風流人同志の応酬だった。  子はこたつ親父はころぶ所まで 〔拾4〕  寒さに恐れをなして、こたつにかじりつくむすこに対して、「雪見にころぶ所まで」と、父親は、芭蕉気取りで出かけていった。 ◆雪見  ある雅人〔風流人〕、雪降りに、僕〔しもべ=下男〕一人連れて、隅田川と志《こころざ》し、蓑やりかたげて〔蓑を着て〕、すたすた、真崎《まつさき》〔現東京都荒川区南千住三丁目の真崎稲荷〕まで行き、茶屋に腰打ちかけ、一杯機嫌にて僕を見れば、なにか、もの案じ顔〔なにか、かんがえている顔〕なり。  雅人、さては、おれがうちに居るほどあって、発句を案ずるそうなと思い、茶店へ自慢顔にて、 「なんと六助、至極《しごく》よい景色であろう」 「はい、景色はようござりますが、この雪には、困ったものでござります」 ……安永十年刊『民和新繁《みんなしんぱん》』 ——これでは、俳句をひねり出しっこない。  雪見とはあまり利口《りこう》の沙汰でなし 〔柳1〕  この雪に馬鹿ものどもの足の跡 〔柳79〕 ——いずれも、この六助と同意見のひとたちだった。 ◆江戸小咄春夏秋冬 冬の一 興津 要著