篠田達明 にわか産婆・漱石 目 次 にわか産婆・漱石 大御所の献上品 本石町長崎屋 乃木将軍の義手 あ と が き [#改ページ]  にわか産婆・漱石    明治三十八年十二月十三日午後六時       ——胎児独語《たいじのつぶやき》—— ≪ずいぶん昔から、|西洋《あちら》でも東洋《こちら》でも、わたしたち胎児は、チンチンしている仔犬《こいぬ》みたいに頭を上へむけて母親の胎内におさまっているって信じられてきたわ。それで生まれる直前になると、突然、子宮の中で|でんぐり《ヽヽヽヽ》返しして逆立ちになってからこの世に産《う》まれてくるってことになってたの。  だけど、それはとんでもない間違いだって、はじめて喝破《かつぱ》したのは、うれしいことに日本人なのね。こないだパパの門人の寺田寅彦さんが、わが家のお座敷で得意そうに喋《しやべ》ってたわ。 「へえ、その言い出しっぺってのは誰だい?」って、パパが訊《き》くと、 「先生は江戸時代の医者で賀川玄悦《かがわげんえつ》という男のことを知っていますか?」  寺田さんが欠けた前歯をスースー音立てて逆に訊いてきた。 「さあ、知らんな」  パパが自慢の口髭《くちひげ》をこすりながら言うと、寺田さんは羽織の紐《ひも》をひねくる音をさせて、 「なんでもその医者は『産論』という産科の教科書を拵《こしら》えたらしいんですが、そこに胎児は倒立しているのが正常位だと書きつけたんですよ。オランダの医書でさえ、子宮の中で頭を上にした胎児の図が載っていた十八世紀に、もうこんなことをみつけていたんだから大したもんでしょう」って、ツヤのある声で言ってたわ。 「じゃあ、その医者はきっと関西者にちがいない」  パパが断定するみたいに言うから、 「へえ、さすがは先生、大した洞察力ですね。たしかに玄悦は京都の人ですよ」  寺田さんが感心したようにうなずくと、パパったら、 「なあに、型破りで突拍子もないことを思いつくのは、たいがい関西の人間と相場が決まってる。昔から江戸には独創性のある者は育たんよ」って、黒木綿の羽織の袖《そで》を引っぱりながら、ぶっきらぼうに言ってたわ。  でも、わたしにいわせたら、そんなこと位、昔の女だって、ちゃんと知っていたとおもうの。だって、わたしたち退屈するとママの子宮の壁を蹴とばして遊ぶじゃない。そんなとき、お腹の上からわたしたちの足の裏が膨《ふく》らんで見えるでしょ。足が上なら当然、頭は下になるって、妊婦ならだれだって気づくわ。ただ医書をあらわすほどの高邁《こうまい》な学問の持主たちにはそれが判らなかったのよ。  それにしてもママのお腹の中は、どうしてこんなにも居心地がいいのかしら。このごろつくづくおもうわ。外界《そと》は冬の寒さが厳しいというのに、ここは暑くもなければ寒くもない。ふわふわした絨毯《じゆうたん》みたいな胞衣《えな》に包まれて、逆立ちしたまま日がな一日、羊水《ようすい》の中でゆっくり過せる。  そりゃあ時には牛込のおタネさんがやってきて、わたしが思わず痛《いた》ッて叫ぶぐらい、ギュッとママのお腹の上からわたしをおさえつけて調べるときもあるわよ。でも、あとはたいてい、のんびり寝そべって、好きなときに眠ったり、外界の話をきいていられる。  だけど、わたしたちがじつは母体の外の音を聴いたり、母親の感情に反応したり、眼もおぼろげながらみえるってことは、案外、知られていないのね。だから胎教というのは、とても大切なことなんだけど、文明開化の時代になったら急に科学的根拠がないって、しりぞけられてしまったのは、とても残念だわ。  ああ、でも、このことを喋りだすと、すごく長くなるから、話柄《わへい》をおタネさんにもどすけど、ママにいわせると、おタネさんはこの広い東京でもめったにないお産婆さんだって、いつも自慢にしているのよ。  だから、わが夏目家の三人のこどもたち、つまり、わたしのお姉さんたちは、みんなおタネさんの手に掛っている。なにしろ、逆子《さかご》の直し方といい、陣痛にあわせて腹圧《いきみ》を誘う間合いといい、赤ん坊をとりあげる介助の手つきといい、どれをとってもまったくほれぼれするような腕のいいお産婆さんなんだから。それに産褥《さんじよく》のときの乳房の揉《も》み加減がまたとびきり上手ときている。  生まれつきの股《また》の脱臼《だつきゆう》で、右足がひどい跛行のせいか、ずうっと独身者《ひとりもの》を通してきたおタネさんが、がっちりした肩を左右にゆらして男みたいに太い声で、ごめん下さいって家《うち》の玄関の格子戸をチリンチリンとあけてはいってくると、朝っぱらからパパと|けんか《ヽヽヽ》して、眉間《みけん》にひとすじタテ皺《じわ》を刻んでけわしい顔つきをしていたママが、|すうっ《ヽヽヽ》とおだやかな表情になるのだから、不思議なくらい。  おタネさんのいる牛込若松町からこの本郷区駒込千駄木町五十七番地のわが家まで、人力車でたっぷり一時間はかかるっていうのに、うちじゃ近所のお産婆さんなんかには目もくれない。おかげで、おタネさんの手がママのからだに触れると、わたしまでなんだか安心してしまうの。  あ、いけない。もう、おしゃべりなんかしてはいられないんだった。いくらここが居心地がいいといったって、そして近頃パパが凝りだした座禅のように、『父母|未生《みしよう》以前のじぶんの顔とは何であるか』なんていう訳のわからない、むつかしい公案をひねくりまわすには、いちばんふさわしい場所だとしても、もう十カ月も長居していたんだから、そろそろおいとましなくっちゃあね。  さあ、名残りは尽きないけど、少しずつママの骨盤の下へ降りていこう……≫ 「あら、赤ん坊が少しさがったみたいですわ」  畳の上にべったり座った鏡子は、臨月《りんげつ》でせり出した腹を大儀そうにゆすって言った。 「いったい、いつ生まれるんだ」  金之助は|しじみ《ヽヽヽ》の汁をズルッと啜《すす》って鏡子に訊《き》く。まっ黒な口髭のピンとはねた先から汁滴が朝露のようにしたたり落ちた。主人の金之助の夕餉《ゆうげ》の膳は女中のおヨネが書斎まで運んでくる。ここで細君の鏡子の給仕をうけながら箸《はし》をとるのが夏目家の|ならわし《ヽヽヽヽ》である。 「いつって、はっきりしませんけど、まだ二、三日先だと思いますわ」  鏡子は金之助のさしだした大きな飯盛茶碗におかわりを盛って、 「それに、わたしはお産が重い方だから、おなかが痛くなっても、一日か二日かたたないと産まれませんしね」  ふむ、と金之助はロース肉をもぐもぐ噛《か》みくだしてうなずく。  だいたい金之助は生来の胃弱のくせに大めしを喰う。しかも夕膳にはロース肉の焼いたものが載っていないと機嫌がわるい。大学教師の給料と不定期の原稿料収入では家計は相当くるしいが、鏡子は主人の食事だけは切りつめぬよう気をくばっているのだ。 「もう何度も生んだんだから、こんどは楽に出てくるだろうが——」  金之助は他人事《ひとごと》のような口振《くちぶり》で細君に言う。鏡子は厚めの唇をとがらして、 「いいえ、お産のたびにいつも死にそうに苦しむんですよ」 「生む方も苦しかろうが、そいつをそばで聞かされるのも、つらいもんだ」と箸《はし》を使いながら金之助も渋面《じゆうめん》をつくる。 「じゃあ、そのあいだ、どこかへでかけていらしたら」  鏡子は火鉢の炭を火箸で並べなおして、 「どうせ生まれたって、ろくにこどもを抱いてくださらないんですもの」 「おれは学問をしなけりゃならんから、家の中のことはできんと最初から言ってあるだろう」  金之助の機嫌が少しずつ斜めに傾きだした。 「それにしても、あなたは構わなすぎます。あなたのこどもなんですから、すこし位、あやしてくださってもよろしいでしょうに」 「おまえがあんまり女ばかり生むんで、あきれはてているんだ」 「まあ、そんな無茶を仰《おつしや》って」 「あんなヘチャムクレばかり生産しおって、これからいったい、どうするつもりなんだ」 「ええ、ええ。みんなわたしに似て不器量な子ばかりでわるうございました。娘たちの婚期がおくれたら、みんなわたしのせいですから」  鏡子は湯呑に勢いよく茶をつぎ足して、 「どうせ、わたしはあなたの初恋の方や、大塚の楠緒子《なおこ》さんとは大ちがい。歯並びのわるいへチャムクレでございますよ」  とすっかり|ふくれっ面《ヽヽヽヽつら》である。  細君のいう初恋の人とは、金之助が帝大を出た年、眼病《トラホーム》を患って、駿河台の井上眼科に通院していたとき、待合室でみそめたという背のスラリとした細面の美しい少女である。  楠緒子さんとは友人の大塚の細君のことだ。金之助にいわせれば、あれがおれの理想の女だそうである。  金之助は不機嫌な顔で茶碗に半分ほど残った飯に湯呑の茶をぶちまけると、ズルズル啜《すす》りだした。 「あなた、胃に悪いですから、そんなに掻《か》きこまないでくださいまし」 「めしぐらい、おれの気ままに喰わせてくれ」 「そんなこと仰って。天児医師《あまこせんせい》から、よく噛んでたべるよう注意されているじゃありませんか」 「あんなヤブ医者のいうことなんぞ、おかしくってきけるものか」 「また胃の具合がうんとわるくなって、ぶつぶつ愚痴《ぐち》られるのはごめんですわ」 「おれはここの主人だ。女房なんぞにめしの喰い方まで指図をうけるつもりはない」  金之助は箸をおくと、鼻頭の|あばた《ヽヽヽ》をこすって鏡子をにらんだ。 「どうも、おまえはすぐおれにさからったり文句をつけるから気にくわん」 「いいえ、あなたの方こそ意地をはっていらっしゃるんですよ」 「ばかをいえ」金之助は十年来|着古《きふる》した結城紬《ゆうきつむぎ》の綿入れに廻した兵児帯《へこおび》をぐいと横にずらして、 「臍曲《へそまが》りのツムジ曲りはおまえの方だ」 「こないだも、あなたが留守の間に鈴木三重吉さんがきて仰《おつしや》ってましたよ。先生ほど負け惜しみのつよい人も滅多にゃ居まいって」 「あいつ、また、なにか言いおったか」 「あなたの雅号《がごう》の『漱石《そうせき》』のことですわ」 「ふん、なんて言ってた?」 「あなたの雅号は漢書の『蒙求《もうぎゆう》』にある『石に漱《くちすす》ぎ、流れに枕す』からお採りになったんですってね」 「それが負け惜しみとどういう関係がある?」 「ええ、『蒙求』っていうのは、その原典の『晋書《しんしよ》』にある『石に枕し、流れに漱《くちすす》ぐ』を写しちがえたんですって。だから、号にするなら『枕石』か『漱流』が正しいはずなのに、改めるのがくやしいからってそのまま放っておくのは、先生もよっぽど負け惜しみがつよいにちがいないって、三重吉さんがわらってらしたわ」 「うむ、そいつはうっかりしてたな。そうか、『蒙求』は『晋書』の写しちがいなのか——」  金之助の不機嫌な顔が憮然《ぶぜん》とした表情へと微妙にかわっている。 「まあ、あなたも知らなかったんですか?」  細君は大きな腹をつきだしたまま、目を丸くした。金之助は口に含んだ湯茶で歯ぐきを鳴らしてそれには答えない。 「それなら丁度いいわ。あなた、漱石の雅号が気にいらないと仰ってたから、このさい、おもいきってお改めになったら」 「ばかをいえ、まちがっていたからって、いまさら、おめおめと改号なんぞできるものか。そんなことはおれの誇りがゆるさん」 「そうれごらんなさい。やっぱり、あなたって、相当の意地っぱりじゃありませんか」  金之助は|ふん《ヽヽ》とよこをむいて膳の上においたタカジアスターゼのオブラート包みをぽいと口に放りこむ。 「その胃ぐすりも、このごろあまり効かなくなったようですね」  鏡子はよっこらしょ、と掛声をかけて立上り、 「もうそろそろおやめになって、別のおくすりになさっては——」  と言いながら書斎をでていく。 「ほれ、また主人に指図しおる。女房のくせになんて生意気な女だ。言うことがいちいち癪《しやく》にさわる」  金之助は爪《つま》ようじで歯ぐきをつつきながら舌打ちした。  家の外を木枯《こが》らしがヒューッと泣くような声をあげて吹きまくっている。    同年十二月十三日午後七時        ——産《しるし》 徴《あり》—— ≪ここはほんとうに窮屈なところね。いままでの居心地のよさがウソみたい。わたしの頭が骨盤の底にぴったり|嵌《はま》りこんで苦しいくらいだわ。でも外界へ無事とびだすからには、これくらい、あと、二、三日は我慢しなくちゃ。  ガマンといえば、パパはもう少し我儘《わがまま》をおさえてママにやさしくしてあげたらどうかとおもうわ。だってお産というのは女にとって、とても気の張る大仕事なんだもの。いつもやさしいいたわりが必要じゃない。なのにパパったら、お客様やお弟子には、別人のようないい顔をしておいて、ママにはいつだって口をへの字に曲げた|しかめっ面《ヽヽヽヽつら》。 「おまえのような子供を沢山生む女は下等きわまる」 「妻たる者は夫に従属すべきなのに、一事が万事、おれに楯《たて》つきおって」 「気に入らぬ女房をもったのは、このおれの一生の不作だ」  などと憎まれ口ばっかり叩いてママをいらだたせる。  これじゃママがヒステリイをおこして、廊下でも後架《こうか》でも、あたりかまわず白眼をむいてひっくり返ってしまうのは当りまえだわ。  だいたいパパは女というものを見くだしている。いや女ばかりじゃない。車夫、商人、下男、人足、馬子、大工、使丁、園丁、御用聞き、土方、三助、奉公人、といった世間を支えている人たちを、下郎《げろう》だの有象無象《うぞうむぞう》だのと決めつけて軽蔑《けいべつ》している。でも、世の中はみんなで支えあって生きているんだから、女子供や下層の人たちを馬鹿にしていると、いまにきっと泣きをみるにちがいないわ。おちこんだときに、真っ先に親身になって助けてくれるのは、こういう人たちなんだから。  いや、パパはもう泣きをみている。  パパが大学へ講義に行っている間にやってくるママの両親、つまりわたしの在所のおじいちゃんやおばあちゃん、それにパパのお姉さんの話から察すると、パパはこの二年あまり、ひどい神経衰弱《ノイローゼ》に陥って苦しんでいるみたい。 (それで、近頃はどうなの?)って、このあいだ久し振りにやってきたパパのお姉さんが訊《き》いていたわ。 (ええ、このところ少し調子はよさそうです)ってママ。 (そりゃよかったじゃない) (ことしのはじめから、『吾輩は猫である』や『倫敦塔《ロンドンとう》』を書きだして、急に文名が知られるようになったら、だいぶ落着いてきたみたいです) (調子のわるいころは、あなたにずいぶん、つらく当りましたからね) (英国留学から帰って、一年間ぐらいがいちばん悪うございました) (せんだっての中外新報にも、『ちかごろ書生や教師に一時的に気がおかしくなる神経衰弱症《ノイラステニー》の患者がふえているが、主な原因は、運動の不充分、過度の勉強、就眠時の遅刻である』って書いてあったから、一種の流行の病気なのかしら) (たしかに、ひどかった頃は夜中に急にとびおきて、なにかわめきながら庭にとびおりたり、書斎の火鉢や鉄瓶をひっくりかえしてしまったり、煙草がないといって、いきなりわたしの部屋にとびこんできて莨盆《たばこぼん》をぶっつけたり、時計がとまっているってどなりながら懐中時計を放りなげたりして、そりゃ、わたしを困らせたものでした) (ほんとにあなたもよく辛抱してくれましたよ) (あのころは、まるでなにかに脅《おびや》かされているみたいに頭が興奮していたようです。お向いの下宿屋の学生さんがおれの悪口をいってるとか、誰かがおれをつけてくるんだとか、おまえの親父はおれを気狂いだとおもって相手にしないんだろうとか、おれはおまえがどうも気にくわぬから、そのうちに追い出してやるなんてよく言ってましたから) (そういえば、あなたは金之助にむりやり二カ月も別居させられたりして、ひどく苦労したことがありましたね) (おかげで、いまでは調子がわるくなると、すぐわかるようになりました。そうなると、朝、四時か五時には目がさめてしまいますし、まるでお酒に酔ったみたいに顔が変にテラテラ赤くなってくるんですよ) (へえ、若い頃はそんなことはなかったのにね) (目つきも妙にするどくなって、ほんとに怖《こわ》い人相になってきますから、ああ、いまに癇癪《かんしやく》が爆発するなって、わかります。いくら前の晩に機嫌よくっても、顔が湯立ったようにか火照《ほて》ってきて、目がキラキラしだしたら、つぎの日はもうガラッと雲行きがかわるんですよ。このごろは、ずいぶんそんな発作も少なくなりましたけど……) (金之助は、ロンドンにいる間に勉強しすぎたのがたたって、神経が参ってしまったのね。気候もわるいところだというし) (自分でも、おれは神経症だ、なんていってますけど、不思議なことに、胃のほうがわるくなりだすと頭の方がおさまって、そのうちに頭の具合が落ちつくと、こんどは胃のほうが悪くなるっていうふうに、症状が移るみたいなんですよ)  こんなやりとりをきいていて、わたしはパパのお姉さんの言う通りだとおもった。パパはロンドンでのひとりぼっちの切りつめた下宿生活のあいだに、栄養不足や精神的なつよいストレスで神経をこわしたのね。まだ江戸の気風が色濃くのこっている旧い日本から、いきなり西洋文明の真っ只中に放りこまれて、じぶんの身をどこにおいていいのかわからない。じぶんの拠《よ》ってたつべき所在地をあがくように求めたんだけど、結局、その志がえられない。それで精神的に参ってしまって、帰国してからはまるで敗残兵のように意気消沈してしまった。外国生活がパパの神経に|とことん《ヽヽヽヽ》打撃を与えたのね。  帝大病院精神科の呉《くれ》秀三教授の診察をうけたら、追跡狂、つまりある種の偏執狂《パラノイア》だと診断されたというけど、パパはけっしてそんな精神病じゃない。わたしにいわせれば、長くつらい海外生活ですっかり自律神経をいためてしまったんだと思うのよ。  自律神経が乱れると、人によっては動悸《どうき》がはげしく感じられる心臓神経症《ヘルツノイローゼ》をおこしたり、胃がポチャポチャと鳴り、胸やけ、げっぷ、おくびが出て胃が膨満《ぼうまん》した感じや、いつも胃が気になる胃弱に陥ったり、頭重や頭内|朦朧《もうろう》感や、そのほかいろんな症状に苦しめられてイライラと怒りっぽくなる。  ほんとうに頭や胃がわるい訳じゃないのに、ささいな病状にとらわれて、我と我が身をだめにしてしまう。  そもそもパパは、小さい頃から、|むき《ヽヽ》で自儘《じまま》で神経質で完全主義だったそうだけど、えてして、こういう人が自律神経の変調をきたしやすいのね。  パパのように自分に忠実な人間は、よりよく生きようとする生存欲がつよくって、完全|癖《へき》もつよいから、なにごとも几帳面《きちようめん》に徹底的にやらないと気が済まない。それで、一寸《ちよつと》でもじぶんに不都合な観念や症状があると、それが自分がよりよく生きる障害になると直感して、そいつを追っぱらおうと大奮闘する。でも、そんなものを完全に追い出すなんて、できっこないから、『煩悩《ぼんのう》の犬、追えども去らず』ってな状態においこまれて苦しむのよ。  パパはロンドンにいたとき勉強しすぎて、ふと、少し頭の働きがわるい感じに陥った。その感じを追いはらおうとすると、よけいに頭に|くも《ヽヽ》の巣が張ったような具合になる。あげくに不眠症になり、不安感にとらわれてしまった。ロンドンからの手紙に、この分ではもうおれの頭は一生つかいものにならぬかもしれん、なんて書いてよこしたのは、このことよ。帰国してからも、不安感が昂《こう》じて、夜中にとびおきるほどにもなってしまったのね。  パパはそれが自律神経の乱調からおこったなんて気がつかないから、己れの修養がいたらぬせいだと思い込んで、じぶんを責めていた。この正体不明の苦しみからのがれるために、座禅を組んだり、南画を描いたり、俳句をひねったり、ヴァイオリンを弾いたりして気をまぎらわそうとしたんだわ。  というわけで、パパのは誰かが噂《うわさ》していたような内因性の鬱《うつ》病だとか分裂病《シゾフレニア》なんてものじゃない。ただの自律神経失調からおこった気分の沈みなのよ。顔が赤くなってテラテラしてくるのも、自律神経のうちの血管運動神経が不安定になった証拠だし、胃がわるくなると頭の不調が直るといった具合に症状がシフトするのも、この病気のはっきりした特徴だわ。  だから時節《とき》がくればパパの自律神経の嵐は必ずおさまる。そうわたしは信じている。とりわけパパがどん底まで落ちこんで、そこから這《は》いあがろうとしたとき、日ごろつまらぬ存在だとかろ軽《かろ》んじていた女たちや下層の人たちの平凡な偉大さに気づいたとき、立ちなおる|きっかけ《ヽヽヽヽ》があると思うの。それまでは、周囲の者が辛抱づよく見守ってあげる必要があるのね。パパは世間の人たちからみれば立派な人かもしれないけど、わたしたち家族の者にしてみれば勝手気儘に暮らしている欠点だらけの夫であり、父親にすぎないわ。ほら、西洋のことわざにあるでしょう。『どんな偉人も召使から見れば只《ただ》の人』って。  あっ、栄子姉ちゃんたら、そんな風にママにとびついてこないで。わたしがつぶされそうになるじゃない。おねがい。ママのお腹を押さないで!≫ 「わあっ、お母たまの|おすもう《ヽヽヽヽ》たんだァ」  夕食の給仕をおえた鏡子がこども部屋へはいっていくと、ことし二歳になる三女の栄子が、母親の腹めがけてとびついてきた。すぐあとから、この家に飼われている名無しの仔猫がじゃれつく。 「だめよ、栄ちゃん。お母さまにさわってはいけません。お腹の赤ちゃんがかわいそうでしょ」  長女の筆子が栄子のねまきの袖をひっぱってたしなめる。姉とはいえ筆子はまだ幼稚園の年長組だ。次女の恒子も同じ幼稚園の年少組である。こちらはこども部屋に三つ並べて敷いた掛ぶどんの上にぺたりとすわって、母親の手鏡をかざしながら白粉《おしろい》叩きを頬にぱたつかせている真っ最中だ。 「おヨネ、旦那さまのお膳を片づけてきておくれ」  鏡子は風呂上りの三人の娘たちの着物をたたんでいる若い女中に声をかけた。 「はい、奥様、ただいま参ります」  おヨネははちきれそうにふくれあがった丸くて紅《あか》い頬をランプの灯に光らせてうなずく。 「お母さま。あたしたちの赤ちゃんはいつでてくるの?」  筆子が敷ぶとんに人形を並べてねかせながらきいた。 「わあ、お母たま。坊《ぼう》ばの赤たん、いつ、出てくンの?」  栄子がふとんの上で|でんぐり《ヽヽヽヽ》返しをして言う。 「ええ、もうすぐ、ごあいさつに出てきますよ」  鏡子は大きな腹を撫《な》でてほほえみ、 「だからお姉ちゃんたちは、みんな温和《おとな》しく待っててちょうだいね」 「こんどは男の子がいいわ」  筆子がませた声でいう。 「あのね、坊ばもおとこがいい」 「わたしは女でいいわ。男の子は乱暴するからきらい」  恒子は手鏡をさまざまな角度にすえて、すまし顔でいう。その|しぐさ《ヽヽヽ》が母親にそっくりである。 「さあ、もうお母さまにおやすみなさいをしましょう」  膳を下げおえたおヨネがこども部屋にもどってきて言った。 「おヨネ、わたしは風呂を浴びておきますよ。お産がはじまると、当分はいれなくなりますからね」 「はい、奥様。お湯がぬるいようでしたら呼んでください。すぐマキをくべますから」  湯殿ではだかになった鏡子は、(おお寒む……)と両手で乳房をおさえて身をちぢめた。  身を切るような寒風が湯殿の窓のすきまから容赦《ようしや》なく吹きこんでくる。とりわけ今夜は冷えこみがきびしいようだ。 (あらっ)  そのとき鏡子は小さな声をたてた。  脱衣籠にぬいだ下着に、少量の血性の|おりもの《ヽヽヽヽ》が滲《にじ》んでいる。  (これは|しるし《ヽヽヽ》だわ——)  鏡子は目をしばたたいてつぶやいた。  いつも生まれる一日まえにみられる産徴《しるし》である。 (このぶんだと、あしたの朝か、お昼には陣痛がはじまる。朝になったら、さっそく牛込のおタネさんを呼んでもらわなければ……)    同年十二月十四日午前三時        ——陣痛開始《じんつうはじまる》—— ≪すこしまえ、茶の間の柱時計がボンボンボンと三つ鳴るのがきこえたから、いま夜中の三時すぎね。  いまパパはママのとなりの寝床でぐうぐういびきをかいてねむっている。  枕元にはいつものようにぶ厚い洋書を三冊ばかり持ちこんで、おまけにウェブスターの大字典まで積んでいるけど、いつものように半頁も読まないうちに、よだれをたらして寝入ってしまった。寝ていると、パパって腕白坊主みたいだわ。  ところで、さっきからママの子宮がわたしの小さなお尻をかるく締めつけている。まるでわたしを邪魔者あつかいにして、さあ、出ていけ、といわんばかりだ。いよいよ、ママの陣痛のはじまりか。とうとう、わたしも凍《こご》えそうな外界へ出ていかなくちゃいけないのね。  このまえ、おタネさんがママに説明してたけど、いざ生まれるっていう段になると、わたしたち胎児は、十五分か二十分くらいの間にママの狭《せま》っ苦しい産道を、ぐるぐる忙しげに体を回転させて、外に出ていくらしいの。  これはおタネさんの受売りだけど、その廻り加減をお産婆さんたちは第一|回旋《かいせん》から第四回旋まで、四つの段階にわけるんですって。  なぜそんなふうに分けるかといえば、その廻り具合で、お産がどこまで進行したかわかるからなのね。  わたしたち胎児の頭は、お座りなんかができるようになった赤ん坊と違って、前後に屈伸することはできても、まだ左右へまわすことはできない。首だけ廻そうとすれば、イモ虫みたいに体も一緒にまわってしまう。だから頭と体は、まるで一本のしなやかな茶筒みたいに一緒にくねりながら産道を通りぬけていく。  あら、わたしとしたことが、まるで教師みたいに得得《とくとく》として講釈をぶっている。われながら、一寸あつかましいわね。きっと、これもパパの血を受けついだからかもしれないわ。それとも、分娩《ぶんべん》をまえに少し興奮しているのかしら。  ま、とにかく、もうちょっと話をつづけると、まず第一の回旋というのは、ママの骨盤の上の方で背中をママの横腹にむけておさまっているわたしの首が前屈《ぜんくつ》すること。つまり、首をおじぎさせることね。  つづいて第二回旋というのは、わたしの頭がドアの把手《とつて》をまわすみたいにぐるりと九十度、時計逆まわりの方向に回転しながら骨盤の下の方へおりていくことなの。ママのおなかを前からみれば、わたしの背中とお尻がママのおへそにむかって逆立ちしていることになるわね。  それからがいよいよ第三回旋。わたしの頭はママの骨盤の出口を通りすぎる。いままでうつむいていたわたしの頭が、ママの恥骨《ちこつ》の真下を通りすぎたとたん、こんどは逆に首を反《そ》らした形になる。それで、はじめて見た人は、大てい、ぶったまげてしまうらしいわ。  だって、赤ちゃんのシワだらけの大きな顔が、羊水にまみれて、ママの陰門の真っ正面に、まるで怪物のようにブワッと現われるんだから。  頭の出たあとが第四回旋。わたしのからだは、こんどはクルリと時計の針の進む方向に廻りだす。いままでとは逆に回転するのよね。まず右肩が出て、それから左肩がでる。  両肩さえ出れば、あとはもう回転はおこらなくなって、自然に胴も足も出て、お産がおわる。と、こんなふうにわたしのばあいも順調にいけばうれしいんだけど、どうなるかしら。  でもまあ、三人もこどもを産んだことのあるママのことだし、腕利きのおタネさんもついているからには、たぶん万事うまくいくとおもうわ。だいいち、ママはまだ二十八歳で、パパより十も若いんだし、とても丈夫で元気なんだもの。よけいな心配は無用かもしれない。  あっ、また陣痛がやってきた。  こんどはだいぶ勁《つよ》いわ。  まるで袋の中にはいったものをムリヤり押しだそうとするみたい。  とはいっても、いまはまだ痛みもわずかだし、せいぜい十分間に十秒か二十秒ぐらいのしめつけがおこるだけ。でも、そのうちに合間もみじかくなり、収縮もつよくなる。  これから数時間後におこる修羅場《しゆらば》にそなえて、わたしもすこし眠っておこう……≫    同年十二月十四日午前四時        ——子宮口二横指開大《しきゆうこうふたゆびひらく》—— ≪ズシンとからだをゆさぶるような|勁《つよ》い陣痛で|まどろみ《ヽヽヽヽ》から目がさめた。わたしの頭がママの子宮の入口に|しっか《ヽヽヽ》と抑えつけられている。ママは肩で荒い息をついて、ぐっしょり汗をかいている。こりゃいけない。予定よりだいぶお産が早まったようだわ。このままでいくと、夜が明けぬまにわたしは生まれてしまうかもしれない。はやくパパにお産婆さんを呼んでもらわなくては——≫ 「あなた、おきてくださいな」  鏡子は産室の屏風《びようぶ》ごしに金之助に声をかけた。産室といっても、奥の間の夫婦の寝所に屏風をめぐらしただけのものだ。  屏風は鏡子の好みで、白地に雲母《うんも》で松竹梅と鶴亀の図を描いた縁起のいいものにしてある。  産室の柱には安産のおまじないに熊の手と犬の絵馬をぶらさげ、壁には近くの根津権現から受けた安産の御符《おふだ》が貼ってある。  鏡子は加持《かじ》、祈祷《きとう》、占い、家の方角、神信心のたぐいが大好きだ。だからこんなふうに産室に縁起物がゴタゴタと飾ってある。金之助はこれが大いに気に入らない。  ちかごろでは安産の祈祷をする中年女までたびたび家に引きこむから、金之助の神経は逆撫でされっぱなしである。 「あなた、済みませんけど、ちょっと起きてくださいな」  鏡子は手をのばして屏風をずらすと、こんもり盛り上がった隣のふとんの裾《すそ》をひっぱった。 「なんだ、騒ぞうしい」  金之助は夜具の掻巻《かいまき》を引きよせて低く唸《うな》る。  急におこされて、一瞬、自分がどこに居るのか判らぬ。なにか妙な夢をみていたような気もする。しんしんとした夜明けの寒さが首すじの辺《あた》りに沁《し》み込むようだ。 「さっきから、おなかが痛みだしたんですよ」  鏡子は弁解するように言った。 「陣痛でもはじまったのか」  金之助は細君に背をむけたまま不機嫌そうに訊《き》く。 「そうなんです」 「いま何時だ」 「四時を少しすぎたようですけど」  金之助は寝がえると暗闇の中で大きな眼を見ひらいて細君の顔をうかがった。 「生まれるのは二、三日さきだといっていたろう」 「ええ、ですけど、どうにも痛くって」 「こどもなんてものは、そうやすやすと生まれるもんじゃない。ひとしきり痛んだ挙句《あげく》にお産がはじまるんだ」 「でも、痛み具合がふつうじゃないんです」  鏡子はうめくように言う。 「あなたを起しては申し訳ないとおもって、ずっと我慢してたんですけど」 「その我慢がまだ足りんのじゃないか」 「それならいいんですけど、このままでは、もうじき赤ん坊が出てしまいそうに痛むんですよ」 「まさか、そんな」 「済みませんが牛込のおタネさんを呼んでもらえませんか」 「こんな時刻に人騒がせするもんでもなかろう」 「お産婆さんがいなければ、赤ん坊もわたしも死んでしまいます」 「おどかすんじゃないぞ」  と金之助はちょっとひるんで枕から頭をあげた。 「とにかく、おタネさんを呼んでくださいまし」 「呼ぶったって、どうするんだ。牛込までは遠いだろう」 「天児医師《あまこせんせい》のところで電話を借りてもらえませんか」 「こんな夜中に先方に迷惑だろうが」 「あなたがどうしても家に電話を引こうとなさらないから、こんな羽目になるんです」 「それとお産とは訳がちがう」 「いいえ、こういうときのためにこそ、電話が要るんです」 「おれはこの家に電話なんてものを絶対に引きはせんからな」 「電話のことはとにかく、おヨネをおこして天児さんまで走らせて下さい」 「おヨネはまだ十七だ。こんな寒い夜道をいくのはさぞ怖ろしかろう」 「あなたって人は、こんなときでさえ依怙地《いこじ》なんですから」 「なにをいう。おれはただ他人様に迷惑をかけたくないだけだ」 ≪パパとママ、いまは|喧嘩《けんか》しているときじゃないわ≫ 「いまは争っている場合じゃありません。おねがいします。おヨネをおこしてくださいまし。あっ、痛たたたた」  また陣痛がきたのか、鏡子は身をよじって顔をしかめた。 「仕方がない」  金之助は褞袍《どてら》に手をのばすと、しぶしぶと立ちあがる。 「可哀そうだが、おヨネをおこすとするか。それにしても、今朝はなんて冷えこむんだ」    同年十二月十四日午前五時        ——破《は》 水《すい》—— ≪大丈夫かしら。牛込までは遠いし、間にあうかしら。もう、ママの子宮口はすっかり開いてしまっている。わたしの頭は子宮口に吸いついたみたいにぴったりと押しつけられている。頭のてっぺんを覆っていた卵膜《らんまく》が、羊水《ようすい》を含んで、ママの腟《ちつ》のなかに丸い禿頭《はげあたま》みたいに膨《ふく》らんでいるんだわ。  いまに陣痛の勢いで、わたしの頭が子宮口にもっとつよく押される。そのうちに禿頭は耐えきれなくなって、パシンと破裂してしまう。すると、なかにあった羊水がタラタラと腟の中へ流れ出す。それがおタネさんのいう破水なのね。  破水がおこると、一時、陣痛はよわくなるけど、そのあとはかえって子宮が効率よく収縮するらしいの。  あっ、また勁《つよ》い陣痛の波がやってきた。  わたしのお尻をすごい力でおしまくる。  あっ、あっ、頭がおしつけられて、とても苦しいわ。苦しい……≫ 「あなた、いま、生ぬるい水がでたわ。なんだか破水したみたいです」  む、とおヨネを表に送り出して産室にもどった金之助はむずかしい顔をして褞袍《どてら》を肩にひきよせた。部屋の中も外と同じ位、冷えびえとしている。 「破水すると、どうなるんだ」  金之助は立ったまま褞袍《どてら》の懐《ふところ》から右手を出して、しきりに口髭の|はし《ヽヽ》をこすった。内心の動揺をおさえるときの|くせ《ヽヽ》である。 「もうじき、生まれる証拠ですわ」 「もうじきって、どのくらいだ」 「さあ、あと二十分か、三十分くらいかしら……」  鏡子は肩であえぐようにして言った。額に汗が吹き出している。 「えっ、そんなに早いのか?」  さすがの金之助もぎょっとした容子である。 「すみませんが、下着を出してもらえませんか。汗でぐしょぬれで気持がわるいんです」 「どこにある」 「そこの上段の奥ですわ」  鏡子は産室の戸棚に目をやった。また陣痛がおそってきたらしく、ひとしきり荒い息をついている。 「ついでにお産の仕度もはいっていますから、とってくださいまし」  金之助は自分の寝床を部屋のすみにおしやって場所を拵え、戸棚からひっぱり出した包みを置いた。 「それで痛みの方はどうなんだ?」  金之助は細君の下着を包みの中からとりだしながら横目で寝床の方をみやった。目つきがちょっと不安そうである。 「なんだか知りませんが、ますます痛くなる一方ですけど……」  いいながら鏡子は白い腕をのばして夫の手から下着を引き取る。それから蒲団《ふとん》の中にもぐるようにして、もそもそと下着をかえだした。金之助は落ち着かぬ素振りで立ったりしゃがんだりしながら、 「どうだ、少し背中でもさすってやろうか」  と蒲団の中へ向かって声をかける。 「それより、早くお産婆さんがきてくれないと——」  と中から籠った声が。 「そうだな。それがまず先決問題だ」  金之助は口髭の|はし《ヽヽ》をこすって、もっともらしくうなずいてから、しかし——、と自問するように、「もし、万がいち、産婆が間にあわなければどうする?」 「ええ、そのときは、あなたが……」  と細君はふとんから亀の子のように首をのばして答える。  金之助は沈黙した。  たしかに、いま産婆がこなければ、赤ん坊をとりあげるのは、このおれを除いて他に誰がいよう。  だが、男が分娩に立ち会うなんて、なんという醜態《ざま》だ。小宮や三重吉や寅彦がきいたら、目を丸くして驚くにちがいない。 「へえー、先生。明治の御世《みよ》ともなれば、男がお産に立ち会うんですか。こりゃ新方式だ」  なんて、おれをからかうだろう。  ましてや産婆役を勤めたと知ったら、きっと腹をかかえて笑いころげるにきまってる。だが、昼間とちがって口実を設けて逃げだす訳にもいかぬのが癪《しやく》にさわる。  えい、忌《いま》いましい。なんたる厄日《やくび》なんだ。今日という日は——。 「お母さまが、どうかしたの?」  ただならぬ気配を感じたのか、となりの子供部屋の襖《ふすま》をあけて、筆子と恒子が顔をのぞかせた。仔猫も一緒にのびあがって、こちらの容子をうかがっている。 「赤ん坊が生まれそうなんだ」  父親は怕《こわ》い目つきで娘たちに告げてから、 「だが、おまえたちはまだ寝ていろ!」  ぴしゃりと襖をしめて、むこうへ追いやる。  そこへ鉄砲玉みたいにおヨネが息をはずませて、とびこんできた。 「おう、どうだった。牛込の産婆に連絡がついたかい」 「はい、旦那さま。これから仕度をしてすぐ駆けつけてくださるそうです」  おヨネはしもやけで赤くふくれ上がった両手で丸い頬をこすりながら言った。 「おオ、そりゃよかった」  金之助はほっとして肩の力をぬく。 「でも、あなた、あそこからここまで、どんなにいそいでも五十分は掛かります」  言いながら鏡子は、あっ、痛たたた、とのけぞり、 「もう、おタネさんではまにあわないかもしれません、ああ、あなた……」  と苦悶《くもん》の呻《うめ》き声をたてる。 「よし、こうなったら、もう誰でも構わん」  金之助は兵児帯をつかむと、眦《まじなり》を決して言った。 「ご苦労だが、おヨネ。もういちど出かけていって、どこか、ちかくの産婆を当ってみてくれないか」 「はい、旦那さま。でも、見ず知らずの家へ急にきてくれますかね」 「とにかく、探してみてくれ」 「はい」  と答えて、ころころといまにも転がりそうに肥えた女中は、ふたたび勝手口から木枯《こが》らしの吹きつのる闇の中へ駆け出していった。    同年十二月十四日午前五時十分        ——児頭排臨《じとうはいりん》—— ≪ああ、なんてすごい力だろう。つい、いましがたやってきた、とてつもなく|勁《つよ》い陣痛の波と、ママの腹圧《いきみ》に押されて、逆立ちのまま横向きになっていたわたしの頭が、グイと前へ曲がってしまった。いま、わたしのアゴは、胸板にしっかりくっついている。つまり第一回旋がおわったところなのだわ。  とすると、あと、十五分か二十分もすれば、わたしは生まれてしまうことになる。  といっても、おタネさんはまだ来ないし、パパじゃまるで頼りにならない。こんなときには帝大卒の肩書きも、英国留学も、英文学も漢詞も俳句も南画も、なんの役にも立ちゃしないんだから。  ああ、それにしても、このままでは、ママもわたしもいったいどうなるのかしら。とても心細いわ。心細いわ……≫ 「えーと、デリバリ、デリバリ、デリバリはと……」  金之助はぎっしり詰まった書棚から|大 英 百科事典《エンサイクロペジアブリタニカ》を抜き出して、血走った目で活字を追っている。求めるのはデリバリ、つまりお産の項目だ。索引の巻からデリバリを引くと、バース(誕生)を見よ、とある。いそいでBの巻をひろげる。脳天が|かっか《ヽヽヽ》と熱い。細君はうなるし、産婆は容易にこない。このままでは産婆がまにあわぬうちに生まれてしまいそうだ。このおれが産婆の替りを勤めるべくもないが、せめてお産の心得なりと呑みこんでおかねば、と書斎にとびこんだのである。  ヒトの誕生の項をみて、金之助は舌打ちした。そこには赤ん坊の分娩の模様が細かな活字で二段ずつ三ページにわたってびっしり記されている。いままさに子宮から脱出せんとする胎児の精密な挿絵《さしえ》も載っている。さすがに世界第一等の大百科だ。が、ここにはお産の介助法については一行も書いていない。  仕方ない。じゃあ、産婆の項を引いてみようか。  さて、ところで産婆は英語でなんという。  えーと、なんだった……。  こりゃいかん。おれとしたことが度忘れしてでてこぬぞ。うーん、産婆、さんば、サンバ。……ええい。こんな大事なときになんという不始末だ。 『穏婆《おんば》』、『坐婆《ざば》』、『取揚婆《とりあげばば》』、『腰抱《こしかか》え』、『子取り婆』、『子安姥《こやすうば》』、『接生婆《せつしようば》』、『収生婆《しゆうせいば》』、『助産婆《じよさんば》』。和語や漢語ならいくらでも泛《うか》んでくるというのに、肝心《かんじん》の英語が思い出せぬ。どうしたことだ。これでも大学の英語教師か……。  あ、そうか。おもいだしたぞ。産婆はミッドワイフじゃないか。こんな単簡《ヽヽ》な英語を失念してしまうなんて、我ながらよっぽどどうかしている。落着け、おちつくんだ。 「うおーッ!」  そのとき、咆哮《ほうこう》にも似た細君の叫びが書斎まで響いてきた。  こりゃいかん。もうこんなところで悠長に助産の心得など調べてはおれぬ。  金之助はパタンと大事典をとじると、産室に馳せ帰る。 「あなた、なんだか吐《は》き気《け》がして」  鏡子が胸をかきむしる仕草で訴えた。身の置き所に困るのか、産枕をはずし、からだを右へ曲げたり、左へかたむけたりしている。 「よし、金盥《かなだらい》をもってきてやる」  金之助は大あわてで湯殿に走る。 「お産婆さんはまだなんですか」  鏡子は金盥から首を反らして言った。嘔気《おうけ》のみで、吐物《とぶつ》はない。 「早くなさらないと、もう間にあいませんよ」 「そんなことは、言われなくとも、判っておる」  ああ、産婆なら誰でもいい。早くきてくれ。産婆よ来い。  うおおおーん。鏡子はこんどは罠《わな》にかかった|けもの《ヽヽヽ》のような叫びを洩《も》らした。産所のまわりをウロウロしている金之助は、そのたびにギクッとなって立ちすくんでしまう。  もし異常な分娩だったら、どうしよう。逆子《さかご》だったら、どうやって引っ張りだすんだ。どうしても赤ん坊が出て来ぬそのときは?  ああ産婆よ。たのむから駆けつけてくれ。  おねがいだ。後生だ。なんとかしてくれ。 「あなた、なにか掴《つか》まるものをください」  鏡子はハァハァと犬のように呼吸《いき》をついて言った。 「子安縄《こやすなわ》はないのか」 「あいにく用意してなくて」 「そいつは困ったな」  金之助は産室をみまわして鳥居形の衣紋掛《えもんかけ》に目をとめた。 「これでどうだ」  金之助は衣紋掛を産婦の枕元に立てかける。鏡子は両手をあげて万歳《ばんざい》をし、衣紋掛の貫《ぬき》を|しっか《ヽヽヽ》とつかんだ。 「あなた、下へまわって赤ん坊の容子をみてもらえませんか」 「そんなもの、男子のみるべきものじゃない」 「そう仰《おつしや》っても、もう出てきそうな気配なんです」 「見たって、おれにはなにも判らん」 「とにかく、おねがいします」  金之助はしぶしぶ夜具の裾をめくりあげる。ふとんの中から熱気と女の体臭が|むっ《ヽヽ》と鼻をつく。膝を曲げて大きく開いた細君の内股《うちまた》をランプにかざして、金之助は「おっ」と目をむいた。  股間《こかん》には、羊水をしたたらせた赤ん坊の茶色の頭髪が見え隠れしている。産婦の会陰《えいん》は極度にひきのばされ、まるで薄紙のようだ。おまけにランプに照らされて、テラテラと光沢《こうたく》を放ってみえる。肛門は|※[#「口+多」]開《しやかい》し、直腸の粘膜さえ露出している。金之助は充血した眼をしばたたき、ブルッと身をふるわせた。 「こりゃ、いかん。頭が出たり引っこんだりしてるじゃないか」 「ああ、じゃあ、もう直きですわ」  鏡子は額に脂汗をにじませて、うめくように言った。  陣痛発作はいまや一分間やってきては一分間休むといった按配《あんばい》である。産婦の腹が腹帯《ふくたい》をおしのけるようにグワグワと盛り上がってみえ、空怖《そらおそ》ろしいほどだ。そのたびに排臨《はいりん》している児頭《じとう》が一寸出ては引っこみ、また出ては引込むといった具合に少しずつ前進してくる。 「旦那さまァ」  そのとき、おヨネが勝手口から一気に産室にとびこんできた。 「やぁ、待ってたぞ、おヨネ」 「それが旦那さま」  おヨネは耳の付根を真っ赤にしてハアハアと息をはずませている。 「やっと追分町で中畑さんというお産婆さんをみつけましたけど、いま別の家に呼ばれている最中だそうです。おわり次第、駆けつけてくれるはずですが——」 「ばかな。それじゃ、もう間にあわん。いま頭が出かかっているんだ」  うおーん、と産婦がうなった。顔色が赤紫に変っている。よほど痛みをこらえているのだろう。 「ひゃァ、だ、旦那さま。じゃァ、どうしましょう」  産婦の容子におヨネも胆《きも》をつぶした。 「どうしますったって、どうにもならん」 「このままじゃ奥さまが大変です」 「おヨネ、おまえ、お産をみたことがあるか」 「いえ、いちども」 「こういうとき、どうすればいいか、知ってるか」 「さあ、判りません。でも、産湯《うぶゆ》とか着換えとか木綿布《さらし》とか脱脂綿《だつしめん》なんかを用意するんじゃないですか」 「そんなことじゃない。いざ赤ん坊が出てきたときのことだ」 「あ、あなた!」 「えっ、なんだ。おどかすんじゃないぞ」 「戸棚から出した包みの中に、脱脂綿が……」  鏡子が声をふりしぼっていう。 「よし、わかった。おまえは落着いておれ」 「おちつけって、もう、苦しくって。あーっ」 「旦那さま。あの、わたしはお湯を沸《わ》かしてきます」 「うん、頼む。それから、あと二つばかりランプを持ってきてくれないか。これじゃ暗くてかなわん。そこら辺のものを踏みつけてしまいそうだ」  金之助は胴震いした。  もはや援軍は間にあわぬことがはっきりしてきた。ならば単身この難局に立ち向かうほかない。あとはただ天佑《てんゆう》を祈るのみだ。  ああ、それにつけても、なんたる不運が舞いこんだのだろう。女だの、お産だの、わが最も不得手とする領野に首を突っこまねばならぬ羽目とは。 「あなた、背中に座ぶとんを押しこんでくださいませんか」  鏡子が陣痛の合い間をぬうようにして頼んだ。 「どうしてだ」 「あおむけにねていては力がはいりにくいんです」 「うむ。だが、できるだけ生むのは我慢しておれよ」  金之助は鏡子の産枕の下に手を入れ、その背中に座ぶとんを二つ折りにして押しこむ。産婦は少し身を起こして足を投げ出した格好になった。 「それから、油紙をお尻の下に敷いてくださいな」 「あなた、また吐きそうですから、金盥をねがいます」 「脱脂綿とガーゼを股《また》にあててください」 「あなた、汚れ物は袋の中へ」  鏡子はあえぎながらも、つぎつぎに指示を与えてくる。  もはや金之助は、さながら召使か下僕《しもべ》のごとく、細君の命ずるままに動くほかない。    同年十二月十四日午前五時十八分        ——胎児娩出《たいじべんしゆつ》—— ≪ぐいぐいと|凄《すさ》まじい陣痛がわたしのお尻を押しまくっている。一分ぐらいそれが続いて、三十秒ほどの中休み。いま、わたしは横向きの体位からグルリと直角に回転させられ、丁度ママの尾骨のあたりに鼻をおしつけてうずくまっている。つまり第二回旋がおわったところだわ。ママも苦しいだろうけど、わたしの苦痛も並大抵じゃない。鼻はひしゃげ、耳はおしつぶされ、頭も顔もせまい産道の中で細長くなってしまった。こんど勁《つよ》い陣痛がおしよせたら、わたしはいよいよ外界へ生まれ出てしまうだろう。  さあ、もう覚悟して、あとはただ、|しゃにむ《ヽヽヽヽ》に突進するのみ。突進するのみ!≫ 「キェーッ」  産婦が怪鳥《けちよう》のような声をあげた。また強烈な陣痛発作が見舞ったらしい。 「あああ、痛たたたたっ。助けて、あなた。もう生まれそう……」  産婦は衣紋掛《えもんかけ》をがたつかせてわめきだした。 「がまんしろ、鏡子。がまんするのだ」 「だめよ、あなた。とてもだめだわ。がまんできない。もう出てしまいそう。あなた、助けて、助けて、助けて」 「そ、そう言われても、おれにはどうにもならん」 「奥さま、しっかりしてください」  おヨネが枕元でふるえながら産婦の額の汗を拭う。  金之助は狂ったように蒲団のまわりをとびまわっている。 「あー、はやく産婆がきてくれぬか」 「ああ、なんとかして頂戴。もう、とても駄目よ」 「奥さま、こらえて」 「鏡子、いきんじゃいかん!」 「あー、あなた。もういよいよ、がまんできません!」  産婦は大声で絶叫したかとおもうと、いきなりおヨネの腕にしがみついた。|うわッ《ヽヽヽ》とおヨネが赤い縞《しま》の綿入れを振り乱して尻餅をつく。 「いかん、やめろ、やめろ。まだ生んではならん!」 「奥さまァ、こらえてください」  だが、産婦は突然、沈黙した。そして渾身《こんしん》の力をこめて衣紋掛の貫《ぬき》をつかんだ。眼を|かっ《ヽヽ》と見開き、唇をゆがめている。首が反《そ》り、鼻孔がひろがる。くいしばった歯列がギシギシと鳴った。児頭を娩出せんとする戦慄《せんりつ》陣痛が走ったのだ。髪が逆立ち、額も頬も暗紫《あんし》色に腫《は》れあがっている。  金之助は細君がこのまま悶絶《もんぜつ》してしまうのではないかと息を呑んだ。  苦悶が頂点に達したとき、産婦はふうーっと長い吐息《といき》をついた。 「ありゃりゃ……」  そのとき金之助はのけぞらんばかりに仰天した。産婦の陰門に赤ん坊の頭が半分出かかっている。産道と同じ形をした長い頭だ。 「よし、こうなったら仕方がない。鏡子、いきめ! いきむんだ!」  股間にしゃがみこみ、ランプをふりかざして金之助は夢中でさけぶ。もはや生んでもらうほか道はあるまい。 「くおーっ」  こんどは細君がけものじみた声で吠えた。赤ん坊の頭がグイとのけぞる。いまや第三の回旋がおこったのだ。すぐに羊水でふやけた蒼白な顔が|ぬっ《ヽヽ》と露出する。 「わ、出た」  赤ん坊の頭と顔がおそろしい勢いでぐいぐい右にまわりながら飛び出してくる。第四の回旋である。 「ひゃァ、出てきたァ」  おヨネが鏡子の手をつかんだまま金切《かなき》り声をあげた。  陰門をぐんぐん赤ん坊の頭が出るにつれて会陰の皮膚がメリメリと裂ける。肛門《こうもん》はいまにも脱肛せんばかりに暗紫色を呈してブワッと盛り上がる。羊水が噴き出し、鮮血が飛び散った。  金之助は驚愕のあまり為《な》すすべもなく産婦の股間にへたりこむ。赤ん坊の体はさらにぐいぐい前進し、右の肩が出かかる。  だが、そこで赤ん坊はなにかに引っかかったように突進をとめた。 「くおーっ」  と産婦は歯をくいしばって全身の力をふりしぼる。だが、赤ん坊は出ぬ。  金之助は顔をひきつらせた。はやく赤ん坊を引っ張りださねば。 「旦那さま。赤ちゃんのくびに|へそ《ヽヽ》の緒《お》が」  おヨネが傍らから産婦の股間をのぞきこんで言った。 「ど、どうすればいい」 「はやく、へその緒をゆるめて」  金之助は夢中で|とぐろ《ヽヽヽ》のように巻きつけたへその緒をひっぱりだし、児頭を越えて取りのぞく。それでも赤ん坊はなにかにつかえたように出てこない。 「くえーっ」  と産婦がいきんだ。 「旦那さま。右の肩をひっぱってみたら」  金之助は赤ん坊のわずかにのぞいている右肩をつかもうとした。が、胎脂《たいし》でヌラヌラして少しもつかめぬ。  無我夢中で赤ん坊の首を下へ押しさげると、ふっと右肩が出た。つづいて右手がヌルッと抜け出る。だが、こんどは左肩がひっかかる。 「鏡子、もう少しだ。いきめ、いきめ」  金之助は赤ん坊の頭と右肩を引っぱり出すようにして怒鳴《どな》った。産婦は最後の力をふりしぼって努責《どせき》する。 「うおおォー」 「うわあァー」 ≪いくゥッ!≫ 「うむむむッ」  あらゆる声が一気に交錯《こうさく》し、赤ん坊の左肩がズルッと出た。すると急に抵抗がなくなり、赤ん坊の胴体がスルスルと出てきた。すぐに両足も現われる。同時に血を混《ま》ぜた生ぬるい羊水がどっとあふれ出し、ランプの光を浴びて湯気をたてた。 「生まれたァ!」  金之助は赤ん坊のからだをつかんだまま、歓喜の声をあげて叫んだ。 「生まれた、鏡子、生まれたぞ、生まれた、また女だ」  産婦は返事ができず、はァーっと肩で息をついている。  おヨネは安堵したのか、産婦の脇で腰がぬけたようにしゃがみこんだ。が、はっと気がついたように金之助に声をかける。 「あの、旦那さま。赤ちゃんが泣きませんよ」 「え、どうすればいい」 「逆さにして叩くんじゃないですか」 「む」  金之助はまだ産婦とへその緒でつながっている赤ん坊の足をつかむと逆吊りにして怖《こわ》ごわと持ちあげる。体中に卵膜の切れはしや胎脂がどろどろとくっついていて、うっかりすると、つるりと滑り落しかねない。 「おヨネ、背中を叩いてくれ」  若い女中は土気《つちけ》色の赤ん坊の背中をピシャピシャと叩く。赤ん坊は口から粘液《ねんえき》のようなものをプッと吐いて、|ふぎゃあ《ヽヽヽヽ》っと大声をたてた。 「やあ、泣いた、泣いた」 「うわーい、赤ちゃんが生まれたァ」  それまで襖を細目にあけて、こちらをのぞいた筆子と恒子が踊るようにして産室にとびこんできた。 「こらァ、おまえたち、まだはいってきちゃいかん」 「お嬢ちゃんたち、だめよ、だめよ」  父親と女中に怕《こわ》い顔でにらみつけられ、娘たちはすごすごとこども部屋に引きさがる。 「|へそ《ヽヽ》の緒を——」  と、ぐったりしていた産婦が掠《かす》れ声をだした。 「へその緒を切ってください」 「えっ、赤ん坊のへその緒を?」  金之助はまた不安そうな顔をして鏡子にきく。赤ん坊は母親の股間ではだかのまま、手足をちぢめ、唐紙《からかみ》をふるわせんばかりの大声で泣き叫んでいる。 「こんなヘビみたいにヒョロ長い代物《しろもの》なんぞ、うす気味わるくて、とても切れたもんじゃない」  金之助は愕然《がくぜん》として首をよこにふった。 「だいいち、おれの取上げ婆さんの役目はもう済んだんだ」 「でも、へその緒がつながったままでは赤ん坊がかわいそうです」  血を失って蒼い顔をした鏡子は眉をひそめて言う。 「そうですとも、旦那さま。でないと赤ちゃんを産湯《うぶゆ》にもつけられません」  と若い女中も同調する。  しばらくの間、暗紫色のへその緒を気味わるげにみつめていた金之助は、やっと決心したごとく顔をあげた。 「よし、おヨネ。台所へ行って肉切り庖丁《ぼうちよう》を取ってこい」    同年十二月十四日午前五時二十七分        ——後《のち》 産《ざん》—— (へえ、これがおれのとりあげた赤ん坊か——)  金之助はおヨネが台所へ行っている間に、赤ん坊を木綿布でくるみながらつぶやいた。  三人も子どもをつくりながら、これまで赤ん坊の顔などじっくり見たこともない。が、改めてドロドロとした羊水とうすい羊膜をくっつけたまま啼泣《ていきゆう》している嬰児《えいじ》を眺めると奇妙な感慨がわいてくる。 (なんて醜《みにく》い……だけど、なんて可愛い奴なんだ……) 「それで旦那さま。どうやってへその緒を切るんですか?」  主人に肉切り庖丁を持ってきたおヨネは小首《こくび》をかしげるようにした。 「さて、そこが問題だが……」  主人も庖丁をつかんだまま、へその緒をにらみつけている。 「やたら切ったんでは血がでやしませんか」 「さあ、血ぐらいはでるだろうな」 「でも切りっぱなしでは血が止まらないかもしれませんよ」 「あなた、糸でしばってから切るんじゃありませんか」  産婦が心配そうに口をはさむ。 「ふむ、そうだな。じゃあおヨネ、糸をかしてくれ」  金之助は絹糸をつかむと二尺あまりあるへその緒の真ん中あたりをぐるぐる巻きにしてしばった。 「あのゥ旦那さま。へその緒というのは、そんなに長く残して切ってもいいんですか。出べそにはなりませんでしょうね」  おヨネが黒目を寄せて念をおす。 「わからん。しかし、あんまり赤ん坊の腹の近くで切るのも、なんだか怖ろしかろう」 「そういえば、そうですね」 「じゃ、スッパリやるか」  金之助は荒縄でも切るような手つきで人差指ほどの太さのある索状物《さくじようぶつ》に庖丁をあてる。  へその緒はつけ根から七寸あまりをのこして|ぐにゃり《ヽヽヽヽ》と切れた。赤ん坊はいつのまにか泣きやんで両手をにぎったまま寝入っている。 「あなた、まだお産はおわっていませんよ」  その場をのがれるように厠《かわや》へ立とうとした金之助の背中に、鏡子の声が追いすがってきた。 「まだ後産があります」 「なに、のちざん?」  金之助は|ぎくり《ヽヽヽ》となって後をふりむく。 「まだ、なにか出てくるのか?」 「ええ、胞衣《えな》(胎盤)がでてきますのよ」  鏡子はおヨネにからだの汗をふいてもらいながらうなずいた。 「そいつが出るときは、さっきのように痛むのか」  金之助は目の下にできた|くま《ヽヽ》をひくつかせてきく。 「いいえ、ちっとも」  鏡子は|くすり《ヽヽヽ》とわらって首をふった。 「あなたって、いざとなると意気地がないんですね」 「ばかをいえ、さっきのような騒動はもうごめんだからだ」  そのとき鏡子は少し腰をうかして、|あっ《ヽヽ》と小さく叫んだ。 「なんだか、もう出てきそうです」  金之助はあわてて夜具の裾をめくり、産婦の股間をのぞきこんだ。 「ややっ、こりゃなんだ?」  産婦の陰戸から、ぺろりと姿を露《あら》わしたのは、灰色のうすい膜におおわれた暗赤色の海綿《かいめん》のおばけのような不気味なものだった。さしわたし五寸、厚さ六、七分はあろうか。円盤のような形をして|へそ《ヽヽ》の緒につながっている。表面は凸凹で裏はつるつる滑《なめ》らかである。あちこちに血のかたまりがべっとりとついていた。 「これが胞衣というものか……」  金之助はブヨブヨの胎盤を指先につまみあげると気味わるげに金盥に放り込んだ。つきたてのモチのようにやわらかく、ヌエのようにとらえどころがない。 「まだほかになんぞ出てくるのか」  金之助は産婦の顔を窺《うかが》った。 「いいえ、もうこれでおしまいです」  鏡子はまるで巨《おお》きな漬け物石を腹の中からとり出したようなサバサバとした表情である。これが先刻まで夜叉《やしや》か阿修羅《あしゆら》か般若《はんにや》をおもわせる形相でわめいていた同じ女であろうか。金之助はその変化のはなはだしさに呆気《あつけ》どられたように目をしばたたいた。 「夏目さーん」  そのときガラリと玄関の戸があいて、牛込の産婆の息せき切った声が響いた。 「へえ、もう生まれっちまいましたか」  産室にあたふたとかけこんできたおタネは綿入れ羽織を脱ぎながら太い声でいい、抱えていた風呂敷包みから白い前掛けをとりだして手早く身につける。 「奥さん、肝心のときに間にあわなくって、ほんとに申し訳ありません」  産婦の前で額を畳にこすりつけて平|ぐも《ヽヽ》になった産婆に、 「いいえ、おタネさんのせいじゃありませんよ」  鏡子はすっかり安心した顔でこたえる。  おタネは夜具をはねると、いそいで産婦の股間をしらべ、ていねいに脱脂綿をあてがった。それから長いへその緒の切れはしをぶらさげたまま寝入っている赤ん坊のからだを丹念に診《み》る。 「これじゃ、奥さんも赤ちゃんも|かぜ《ヽヽ》をひいちまいますよ」  おタネは怒り肩をそびやかすようにして屏風のわきにぼんやり突っ立っている金之助を見上げて言った。 「いま、おヨネが産湯を用意してるが——」  金之助は言訳でもするように洟《はな》を啜《すす》る。 「それに、この乱雑さはどうだね」  おタネは産婦の寝巻をはだけ、乾いた手拭を何枚も使って|きゅっきゅっ《ヽヽヽヽヽヽ》と身体を拭いながら周囲《まわり》をみまわした。 「御主人、よっぽどあわてなさったとみえるね」  たしかに蒲団や畳は血や羊水にまみれている。産婦の足元にはちぎれた脱脂綿が山のようだ。ガーゼやちり紙や新聞紙が部屋中にちらかっている。棚の引戸はあけっぱなしだし、シーツが何枚も引っぱり出されたままだ。衣紋掛の柱がゆがみ、屏風がかたむき、安産のお守りや熊の手や絵馬があちこちに放り出されている。まさに修羅の跡だ。 「御主人、手洗い場でからだの汚れを落してきなさったら」  本物の産婆は|にわか《ヽヽヽ》産婆に命じるように言った。そういえば、金之助の顔や手には羊水や返り血がこびりついて、うすぎたなく汚れている。  金之助は苦笑して湯殿《ゆどの》へ立った。  脱衣場の窓をあけて外を眺めると、すでに東の空が明るくなっていた。風が熄《や》んで、冬木立が息をひそめたように立ちつくしている。  しんしんとした底冷えで全身が固くなるほどだ。ヒヨドリの鳴く声がきこえる。寒いが、しかし、さわやかな夜明け——。微光に充ちた荘厳な夜明けだ。  金之助は大きなアクビをしながら、うーんと|のび《ヽヽ》をした。 「ごめんください。追分町の中畑ですが」  玄関にもうひとりの産婆の気取った声がした。おヨネが小走りに走り出て、さかんに詫《わ》びを入れている。  湯殿でからだの汚れを落すと、金之助は居間にすわりこんだ。かじかんだ手を長火鉢にかざしながら、固い小さな梅ぼしをひとつ口に含む。熱い茶を入れて喉をうるおすと、すっかり生き返った心地がする。  金之助は煙草に火をつけて、心ゆくまで烟《けむり》をくゆらせた。  疲れて眠いはずなのに目がさえる。そして胸の内で、なにかしきりにじぶんを目ざめさせようとするものがある。はっきりはしないが、なにか予期せぬ|ひらめき《ヽヽヽヽ》のようなものだ。チラッチラッと谷間をかすめる鳥のように、それが胸の内を横切っていく。いったい、なんだろう、これは……。 「ね、お父さま。赤ちゃんをみてきてもいい?」  いつのまにか筆子と恒子が居間にはいってきて口々に言った。 「坊ばも赤たん、みたいわ」  栄子も目をこすりながら長火鉢のまえに立つ。  三人の娘たちにひっぱられるようにして、金之助はふたたび産室にはいっていった。  鏡子は洗いたてのシーツをしいた蒲団の上におだやかな顔をして臥《ふせ》っていた。かたわらに新調の夜具にくるまれて、赤ん坊がスヤスヤと寝入っている。部屋の中はさっきまでの乱雑さがうそのようにすっかり片づいている。 「うわー、かわいい」  娘たちと仔猫が、金魚|すくい《ヽヽヽヽ》でものぞきこむように赤ん坊のまわりをとりまいた。 「おじょうちゃんたち、赤ちゃんにさわっちゃだめですよ。ただ見てるだけですよ」  おヨネが産婆に茶を入れながら、何度も声をかける。おタネは産婦の横にすわって火桶に片手をあぶらせながら、長いキセルをふかしていた。  金之助もあらためて珍しいものでもみるように娘たちの後に立つ。 「あたしも長いこと産婆をしてるけど」とおタネががらがら声で言った。 「子種《こだね》をまいておいて、その後始末《あとしまつ》までやってのけた男の人ってのをはじめてみたよ」 「さんざからかうがいいさ」  金之助は水《みず》っ洟《ぱな》をすすっておタネをにらんだ。 「いいえ、あたしは感心してるんだよ。よくもまあ、取上げ婆の大役《たいやく》を果《はた》しなさったもんだとね」 「いや、人間どたんばになれば、なんとかなるもんだ」  金之助はてれくさそうに口髭《くちひげ》をひねる。 「まったく天晴《あつぱ》れな亭主の鑑《かがみ》だよ、御主人は」  おタネは丸い鼻から|ぷわっ《ヽヽヽ》とけむりを吹き上げて言った。 「それでも、はじめて女のお産に立ち会って、気味がわるくなかったかね」 「そんなことは言っておれなんだ。なにしろ無我夢中だったからな」  たしかに、いつもの金之助だったら、渋面を拵えて目をそむけていたにちがいない。  陰戸からとびだすどろどろとした薄気味わるい胞衣。ぬらぬらした胎脂でべっとりと汚れたシワだらけのみにくい赤ん坊。苦痛にゆがんだ赤紫色の醜怪な女房の顔。いまにも破裂せんばかりに怒張した産婦のこめかみや頸《くび》すじの蛇行《だこう》した血管……。  この世の至上なるもの、最高の美をつねに求めてやまなかった金之助にとって、そんな醜悪なものはこれまでおよそ縁がなかったのだ。 「——なのに、なぜおれはあんなにも夢中になってしまったのか……」  金之助は目を宙に泳がせて独《ひと》り言《ごと》のように言った。そういえば、昼も夜も、目覚めているかぎり念頭をはなれなかった胃の症状が、産婆役を務《つと》めている間は、これっぽっちも気にならなかったのは不思議である。  人は真底、真剣になったとき、神経衰弱など吹っとんでしまうのだろうか。 「御主人はきっと奥さんの必死の姿に心を打たれたんだよ。女はみんなお産に自分の命を賭けるからね」  おタネは巨《おお》きな烟の輪をひとつ拵えて金之助に答えた。  そうかもしれない。たしかに、そこには我執もなければ煩悩もない。あるのはただ、太古以来、大自然の摂理にしたがって営営と生命のいとなみを果たさんと生きつづけてきた女の姿だけである。 「また、こんど生まれるときには、御主人にとりあげてもらいましょうかね」  おタネはキセルをふってカラカラとわらった。 「いやもうコリゴリだ。二度とこんな目にはあいたくない」 「でも、この次は、いちどにあんなに沢山、脱脂綿をつかってもらっちゃ困りますがね」 「でも旦那さまは、ほんとによくやってくださいましたよ」  おヨネが新しい炭を火桶につぎ足して言う。 「いや、おヨネこそ、よくやってくれた。おまえがいなけりゃ、いまごろおれは途方にくれてた所だ」  金之助は褞袍《どてら》の懐から手をのばして、脂《あぶら》の浮いた鼻頭をなでた。 「それにおまえもだ、鏡子。よくがんばったじゃないか」 「まあ、わたしったら、結婚してはじめて主人にほめられましたよ」  鏡子はびっくりしたように、ふとんの中からおタネの大きな顔をみて言った。 「まあ、ほんとかね」  女たちが一斉にどっと笑った。三人の娘たちがきょとんとして母親をふりかえる。  ふん、と金之助は口髭をさすって横をむいたが、その表情は決して不快そうではない。  じぶんの砦《とりで》である書斎にもどった金之助はいつもの平机のまえに頬づえをついて座った。  火鉢の中におヨネが入れておいてくれた炭火がパチパチと音を立てている。  金之助は朝の冷気を我慢しながら、ぼんやり庭の方をみつめた。硝子《がらす》戸の外側が凍って、ギザギザの結晶が模様のように貼りついている。 (おれは、はるか天をのぞみつつ、じつは地を希求していたのか……)  金之助はそのとき不意に先刻胸の内をよぎったものがなにかをはっきりと悟った。じぶんが人生になにを追い求めていたかを。 (おれはかねがね、至高なるもの、天なるものに思いをはせてきたが……)  金之助はひとりごちた。 (その天なるものこそ、実は生命の根源、母なる大地の中に存在していたのかもしれん——)  ドロドロと汚れた血まみれの胞衣の中から生まれる新しい生命。無限の発展の可能性を秘めた小さな|いのち《ヽヽヽ》。独《ひと》り地上より生まれ、やがてその個であることを乗り越えて、営営とかぎりなく天をめざす生命体。それはあの赤ん坊であると同時にこのおれ自身でもあるのだ。おれは天のイメージで、じつは地を求めていたのか——。天にして地。地にして己れを越える天。 (あゆみにくいエナから生命が飛翔《ひしよう》するのを眼《ま》の当りにして、はじめて足下の大地にこそ、天の存在することを悟らされたのだ、このおれは——)  金之助は机のまえで座りなおすと、猫背の背中をぐいとのばした。 「よし、いまこそ、地の底から這いあがって出直そう。流れに漱《くちすす》ぐのではなく、文字通り、地にはいつくばり、石に漱ぐところから始めるがいい。きょうから、新しい夏目漱石としてやりなおすんだ」  居間の柱時計が七時を打った。  こども部屋で娘たちがなにか笑いあっている。  家の前を小学生の一団が、下駄の歯でザグザグと道ばたの霜柱を踏みつけながら、大声をあげて登校していった。 [#改ページ]  大御所の献上品   前  門  上空を黄砂《こうさ》が舞っている。  夜半、ふんわり天空を漂い、王城の|まどろみ《ヽヽヽヽ》を鎮めて、あたり一帯を|かすみ《ヽヽヽ》のごとく包んでいた黄塵《こうじん》は、夜明けとともにほんのり輝きだした。  うすい刷毛《はけ》でぼかしたような黄色の|とばり《ヽヽヽ》は、日が昇るにつれて手練の手妻師《てじなし》にあやつられたごとく、山吹《やまぶき》とも|もえぎ《ヽヽヽ》ともつかぬふしぎな色を放ちつつ、突如、幾千とも知れぬ塔や寺院や楼閣《ろうかく》をくっきりうかびあがらせ、王城のいたるところに青い芽をふく柳、槐《えんじゆ》、楡《にれ》、合歓《ねむ》の大樹林をくまなく映しだし、おお、これぞ天下の北京《ペキン》城、と目をみはるまもなく、たちまち黄土《おうど》色の絨毯《じゆうたん》ですべてを覆いかくしてしまう。あるいはぼやけ、あるいは鮮《あざ》やぎ、まるで息づいているかのような黄塵の変化《へんげ》の妙に見とれるうち、轎《かご》は|ぎぎぎぎっ《ヽヽヽヽヽ》と車輪をきしませてとまる。玄三郎は轎夫《こしかき》にうながされて轎をおりた。 「ご存知だろうが、この北京城は高い城壁で内城と外城に仕切られている」  玄三郎のかたわらに立った張可法《ちようかほう》が、眼前に立ちはだかる壮大な城門を指さして言った。 「あれが内城と外城をつなぐ正門にあたる前門《ぜんもん》ですよ」 「へええ。遠くで眺めるより、ずいぶん高くみえますね」  玄三郎は天をあおぐ恰好でたじろいだ。 「十五丈はたっぷりありますぞ」  張可法は胸をそらして巨体をゆする。  |ねずみ《ヽヽヽ》色の大煉瓦《おおれんが》で固めた城門のうえに、穹天《そら》にうかんだ大船をおもわせる門楼を載せ、巨大な前門は行手をさえぎるごとく周囲を睥睨《へいげい》する。門のまえには、これも見上げるような楼閣を構えた箭楼《せんろう》(外門)が屹立《きつりつ》する。  箭楼は前門と半月形の城塞《じようさい》でつながれ、まるで力士の太鼓腹のように迫《せ》り出していた。その腹を東西に貫《つらぬ》き、ふたつの小門がある。玄三郎と従者の佐吉は、張可法とその部下たちに伴われ、衛士《えいし》のたむろする西の小門をくぐっていった。 「明日はいよいよこの邸《やしき》に許渾《きよこん》どのがやってくる」張可法は大皿に盛られた鶏肉を桴《ばち》のような指先でつまみながら言った。 「だが、日本《リーペン》客人よ、心するがよい。許渾どのはこの明国宮廷にお仕えする七万人の老公《ラオクン》(宦官《かんがん》)のなかでも、もっとも勢威ある秉筆随堂太監《へいひつずいどうたいかん》・王拱辰《おうきようしん》さまの秘書官をつとめるお方だ。けっして粗相があってはならぬし、かりにも閹人《えんじん》(去勢《きよせい》された男)などと侮ってはなりませぬぞ」  張可法はがぶりと肉片に喰いついて言った。玄三郎は身を固くしたまま、傍に立つ唐通詞《とうつうじ》の通訳にじっと耳を傾けた。朱や紺の衣の袖をひるがえして召使い女たちが酒を注いでまわる。心地よい香《こう》の|かおり《ヽヽヽ》が立ちこめ、どこからともなく胡弓《こきゆう》の妙なる調べが流れてくる。 「念のため申し添えるが、許渾どのをはじめ、老公たちのまえでは、『欠けた』『外《はず》れた』『無い』『切る』『斬る』『けずる』『剥《そ》ぐ』『落す』などと、性器の欠如をあらわすことばを一切用いてはなりませぬ。不用意に、『自分は大切なモノを失った』とか、『きのうまでそこにあったモノが、今日はみあたらない』などと喋ろうものなら、たいへんな侮辱をあたえたことになる。首を斬る。手足をもぐ。指をつめる。眼をつぶす。毛を抜く。眉をおとす。膿《うみ》をとる。疣《いぼ》をとる。身ぐるみ剥《は》ぐ。月が欠ける。財布をなくす。宝物を奪われる。こんな言いまわしもなるべく避けるがいい。老公たちは、こうした語句には考えられぬほど敏感です。あとでどんな仕返しをされるかわかりません。くれぐれも気をつけなさるよう」張可法はぐいと盃をあおって息をついた。 「禁句はほかにいくらもある。『欠陥』『欠落』『欠漏《けつろう》』『欠損』、『廃絶』『除去』『排除』、『中止』『中絶』『喪失』『停止』、『根絶』『痕跡《こんせき》』『滅亡』『廃墟』、『奇形』『劣弱』『不具』『畸形《きけい》』、『裁断』『截断《せつだん》』『切断』『切離』、『切開』『剔出《てきしゆつ》』『寸断』『削除』。こうしたたぐいの単語は一切口にせぬのが身のためです。むろん、『去勢』などとは口が裂けても言ってはなりません」  張可法はぶあつい唇をふるわせて言った。吏部員外郎《りぶいんがいろう》(内務省課長)という要職にある張可法だが、皇帝陛下の手足となって宮廷にはびこる宦官どもには、よほどの怖れをいだいているとみえる。  玄三郎を張可法にひきあわせてくれたのは、駿府《すんぷ》の大御所さまのもとにやってきた応天府《おうてんぷ》(南京《ナンキン》)の明商人|阮大鍼《げんたいしん》だった。大御所の親書をたずさえた矢野久右衛門どのに率《ひきい》られ、阮大鍼の知人|柳舜賓《りゆうしゆんぴん》の唐船に便乗し、玄三郎主従が北京に着いたのは江戸を出て七カ月のちのことである。  着いた|はな《ヽヽ》は、街中にいたるところ、目もあけておれぬくらいの砂|ぼこり《ヽヽヽ》が吹き荒れていた。巷《ちまた》を往く者はだれもかも覆面《ふくめん》のごとき顔覆いを巻きつけている。侍も従者もみなこれに倣《なら》った。倭人《わじん》とみればぞろぞろたかってくる明人どもをさけるには、覆面はすこぶる好都合なのだ。秀吉の朝鮮侵攻のさい、父を討たれたという明青年にしつこくつきまとわれた久右衛門どのなどは、かたときも顔の布をはなさなかったほどである。  外城にある宿所の玉同館《ぎよくどうかん》は、足利《あしかが》将軍のころ日本使節がつかっていたという代物《しろもの》で、窓も扉も|がたぴし《ヽヽヽヽ》だった。砂あらしは宿所のなかにも容赦なく吹き込む。一行は一夜にして肌はかさかさ、口中|じゃりじゃり《ヽヽヽヽヽヽ》、髪はばさばさのなさけない姿になっていた。  北京の都に着いて十日目。玄三郎主従は張可法の邸にまねかれたのである。 「饅頭《まんじゆう》や餃子《ぎようざ》、果物なんぞを半欠けのまま喰い残すことも、してはならぬことのひとつ。饅頭は|丸ごと《ヽヽヽ》のみこむにかぎる」張可法は太い首のなかに埋まった下顎《したあご》をゆすりながらつづける。 「把手《とつて》のとれた土瓶《どびん》に気づいても、知らんふりをするのがよろしい。うっかり茶碗を落しても、半欠けのままにしておいては、かえって老公の気を損《そこな》う。いっそのこと粉|ごな《ヽヽ》にくだいてしまうのがいいでしょう」 「よくわかりました」  玄三郎は長い通訳がおわると、うなずいて言った。「でも、わたしは口中《こうちゆう》医者(歯科医)です。仕事のうえで、歯が抜けたとか、抜歯するとか言わざるを得ませんが」 「そんなときには——」と張可法は歯のすきまにはさまった肉片を小指の爪でほじりながら答える。「生まれたての赤ン坊のような歯並びにする、とでも言いかえるがよいのです。ついでに言えば、尾のない犬は鹿の尾みたいな犬、びっこの馬は酔っぱらいのごとき馬、しっぽの切れた猫は兎の尻のような猫といったぐあいに言いかえるのがうまい手ですな」 「ああ、なるほど」  玄三郎はうなずくと、背後に立つ佐吉をふりかえった。佐吉はせまい額のうえの髷《まげ》をふるわせ、不安気な面持《おもも》ちである。 「それにしても……」と玄三郎は平べったい広い顔のまん中にぽつんと浮島のようにみえる張可法の丸い鼻先を眺めながら訊いた。 「どうして明国の宮廷では、そのように扱いのむずかしい宦官たちを大勢召しかかえておられるんで?」 「む?」張可法はうすい眉をひくりとあげると、いぶかしげにきいた。「すると倭国では、国王に仕える老公の員数はここよりずっと少なくて済むとでも申されるのか」 「少ないどころか」口中医は微笑をうかべた。「そのような者が居ようとは、将軍さまのお江戸でも、天子の住まう京の都でも、きいたことがございません」  うーん。張可法は小さな眼をまるくして唸《うな》った。「老公がひとりだに居らぬとは、とうてい信じられんことだ。この国では自ら志願して去勢の手術をうける者が後を絶たぬというのに」  ほォ、こんどは玄三郎がたまげる番だった。「なぜ貴国《おくに》では志願してまで、そのようなだいそれたことをなさるんで」  大切な陽物《ようぶつ》を自ら進んで削ぎ落してしまうとは、なんとも合点のいかぬことである。仮にも己がそんな羽目に陥ったら気も狂わんばかりになるだろう。生きている値打ちさえ怪しくなろうというものだ。それになによりも江戸にのこしてきた女房のおりくがなげき悲しむにちがいない。「むろん、ここの連中とて、なにも好きこのんで自宮《じきゆう》(志願による去勢)するわけではないが……」張可法は口のまわりの獣脂《あぶら》をぬぐいとり、眉根をよせて言った。「下|じも《ヽヽ》の暮しぶりをみれば、すぐ察しがつくはずです」  この国では大抵《たいてい》の者が喰べていけるかいけぬかの瀬戸|ぎわ《ヽヽ》にあえいでいる。ちょっとした飢饉《ききん》がおこっただけで、飢え死ぬ者はかぞえきれないほど。その日の糊口《ここう》をしのぐに精一杯の者が、どうして女体と交《まじわ》りをかわすなどという上等な企《くわだ》てに及ぼうや。よしんば花嫁を娶《めと》るとして、その仕度金をいったいどこからひねりだせばよいものやら。 「ま、つまるところ色欲を満すなどという贅沢《ぜいたく》は喰うやくわずの庶民にはまったく無縁のこと。こんな輩《やから》どもには陽物や|ふぐり《ヽヽヽ》など、まさに無用の長物ですわい」  きいているうち、玄三郎は杭州《こうしゆう》から漕舫《そうぼう》に乗り、大運河を北京まで遡航《そこう》するあいだに見た明人たちの酷《ひど》いくらしをおもいだした。  街は荒れはてていて、いたるところに乞食同然のボロをまとった浮浪者がうつろな目をしてたむろしている。路傍には生死さえさだかでない者が汚物にまみれたまま倒れている。野犬や鳥が死体を喰いちらしても、誰もふりむこうともしない。たしかにあの有様では色欲どころではあるまい。 「だが、ひとたび男根をえぐりとり、宦官をとりしきる礼部《れいぶ》に採用され、皇城に住まう許可を得てごらんなされ」張可法は長い竹箸をいきおいよく振って言った。きのうまで飢えにあえいでいた身が、この世ならぬ華麗な宮殿、巨億の財貨とおびただしい財宝、かぐわしい美女の|むれ《ヽヽ》にとりまかれ、山海の珍味に飽食して暮せるようになる。この世でいちばん難しい科挙《かきよ》の試験を突破した高官《やくにん》でさえ、おのが足下に跪拝《きはい》させることも夢ではない。卑賤《ひせん》の身から一足とびに栄達をはかるには、なんといっても男根を削《そ》ぎ落すにかぎる。さればこそ、この明国では自宮者があとをたたぬのだ。 「ちかごろでは志願者があまりに多いので、あらたにもう一カ所、手術場をふやしたほどですよ」張可法は撫肩《なでかた》をゆすり、唇をなめた。「なにしろ皇城に住む七万の老公のほかに、内城南苑には五千人をこす自宮者どもが宮廷入りの順番をまって待機しているくらいなのだから」  ヘヘェー。口中医は奇怪な話に吐息をついた。「とても信じられません」 「これほど勢威をふるっている老公たちだが、かれらにも泣き所はあります」張可法は目をひからせて言った。「なにしろ連中は帝寵《ていちよう》にすがるだけで後宮《こうきゆう》に侍《はべ》っているわけですから、皇帝ににらまれたらおしまいです。だから老公たちは皇帝の命にはどんなことにも絶対服従いたしますよ」  張可法は肉|饅頭《まんじゆう》を頬ばると、|ぐしゃッ《ヽヽヽヽ》とつぶして言った。「ところで、お望みとあらば、貴君らにもいちど陽根をえぐる手術場へ御案内してもよろしいが」 「へぇ、ぜひお願いします」玄三郎は好奇の目をかがやかせて言った。「わたしも医者の|はしくれ《ヽヽヽヽ》。江戸へかえったらいい土産《みやげ》話になります。後学のため、ぜひ拝見したいもので」   大 明 門  前門をぬけると、そのむこうは白い大理石の欄干《らんかん》が棋盤《ごばん》の目のように立ちならんだ石畳の広場になる、棋盤街とよばれるその一画から、内城の高い域壁に沿って東西にのびる大街《ターチエ》(大通り)は、行き交う明人たちで|ごった《ヽヽヽ》返していた。道端に|がらくた《ヽヽヽヽ》をならべて呼びかける物売り。荷車をひいてトボトボ行く驢馬《ろば》の行列。正装の官吏をのせた馬車。五彩の縫取りの幔《おおい》を垂れた貴人の乗物。街頭にたむろして声高に泡をとばす藍袍《らんぽう》をまとった生員《がくせい》たち。隊列を組んで駆け足で行く兵士の一隊。大仰《おおぎよう》な身ぶりで早口に喋りあいながら通りすぎる得体の知れぬ男ども。誰かれとなく手を差しだすおびただしい乞食の群れ。玄三郎主従と張可法は雑踏をかきわけるようにして北へむかった。時折つよい風とともに砂|ぼこり《ヽヽヽ》が舞いあがり、舞いおりる。  棋盤街《ごばんがい》の北側には、仁王のごとく立ちはだかる大明門が聳《そび》え立っていた。  箭楼、前門、大明門、そのむこうに望む皇城の正門|承天《しようてん》門(天安門)、そしてそのずっとさきの紫禁城《しきんじよう》(皇帝の宮殿)の正門、さらにその奥に幾重にも重なる荘重な門にいたるまで、だれがこのとほうもない配置を案出したのやら、どこまでも北へ真一文字にならんでいる。  張可法の先導でいかめしい大明門をくぐりぬける。衛士どもが|くわい《ヽヽヽ》頭に十徳《じつとく》姿の玄三郎と半纏《はんてん》に荷を背負った佐吉を怪しむ態《てい》でじろりと睨《ね》めつけた。  大明門より承天門までは千歩廊とよばれる通路が二条、まっすぐのびている。路《みち》の東は吏部、戸部(大蔵省)、礼部(文部省)、宗人府《そうじんふ》(宮内庁)、太医院《たいいいん》(厚生省)、欽天監《きんてんかん》(気象庁)など文官の衙門《がもん》が|いらか《ヽヽヽ》をつらね、西には前軍、中軍、後軍、左軍、右軍の軍都督府《ぐんととくふ》(軍司令部)が軒をよせあう。すべての官衙《やくしよ》がなんとかして皇城のお膝元《ひざもと》にへばりついておこうと犇《ひし》めきあう趣《おもむき》きだ。  長崎から寧波《ニンポー》まで、ひどい船酔いと大嵐になやまされ、三千里に及ぶ大運河を渡ってやっとのおもいで北京にたどりついた久右衛門どのの一行も、この官衙街《かんががい》には足繁く訪れていた。 「ええい、きょうも門前払いじゃった」  主人の供をして役所から戻った久右衛門どのの従者平蔵が、いまいましげに舌うちする姿を、玄三郎はなんども見かけていた。  ドラと太鼓が湾内に鳴りわたる。  甲板上ではふんぞり返っていた奉行所の検使たちが、へっぴり腰で縄|ばしご《ヽヽヽ》を伝って下船しだした。碇《いかり》が上り、本帆柱にするすると柳舜賓《りゆうしゆんびん》の船旗がのぼる。またドラと太鼓が鳴り、大波止にどよめきがおこった。幾隻もの曳船から投げられた挽綱《ひきづな》にひかれながら、三艘の唐船はゆるやかに長崎港の外へ出る。付船や|はしけ《ヽヽヽ》に見送られた唐船は、つぎつぎに孕《はら》み腹のように帆を脹《ふく》らませると、挽綱を放ち、船首をゆっくり北西にむけた。  玄三郎がはじめて平蔵と口を利いたのは、長崎港を出航してまもなくのことだ。 「おめえ、明国のおえら方の入れ歯づくりに、わざわざ北京の都まで参上するそうじゃねえか」  舵場《かじば》の櫓のわきに立ち、ひと波ごとに遠ざかる五島の島影を見送りながら、いまごろ江戸にのこしてきたおりくやおみよはどうしているんだろうと、ぼんやり思案をめぐらしていた玄三郎の背後に、平蔵は音もなくちかづいてきて言った。 「大道芸人風情がたいしたもんだ」  玄三郎はむっとしたが、こらえた。なにせ相手は大御所さまの親書をもって明国へわたる久右衛門どのの従者である。滅多なことでさからうわけにはいかない。 「おめえたちは、どなたの差し金で明国へ渡るなどという、だいそれた羽目になったんだ」ひきつった切り痕のある首すじをさすりながら、平蔵は訊いた。 「へえ、わたしの師匠倉持玄石さまのおとりはからいでして……」 「倉持玄石? 江戸じゃきかねえ名だな」 「いまは駿府にお住まいになっているからですよ。なにせ大御所さま駿府ご移城のさいは、町医者ながら奥御医師方のたってのおすすめで江戸からお供していかれたほどの腕のたつ口中医で」 「ふん、それほどの者なら、なぜその玄石とやらがこの船にのらねえんだ」 「そりゃ手前とて、師匠がご渡海なされたらと、どれほど願ったか知れやしません」  だが師匠はすでに七十路を超えている。いくら達者とはいえ、唐の国まで赴くには老齢《としより》すぎる。  その御老体から神田松枝町に歯|ぬき《ヽヽ》と入れ歯の看板をかかげる玄三郎のもとに、火急の用向きがあるゆえ、すぐ参れ、との知らせがはいったのは梅雨《つゆ》もなかば過ぎのことだった。降りつづく雨のなかを早駕籠をとばして駆けつけた玄三郎の顔をみるなり、玄石師匠はきぜわしく切りだした。 「おまえ、順天府まで出掛けてくれぬか」 「へ、ジュンテンプ?」玄三郎は面喰《めんく》らった。 「さよう、大明国の国都、北京のことじゃ」  なにごとか呑みこめず、ぽかんと口をひらいたままの玄三郎をみて、師匠は|すだれ《ヽヽヽ》のように地膚《じはだ》のすけてみえる白い毛髪を掻いた。 「いや、すまぬ。このたびのことには、わしも年甲斐もなくすっかり気が動転してしまってな」  師匠は骨ばった膝|坊主《ぼんさん》を揉《も》むようにして座りなおすと、改めて事の次第を語りだした。 「じつは先頃、この駿府城に明国の使者が滞在しておったのじゃが——」  その使者柳舜賓は福建省総督の信書をたずさえて長崎奉行所を訪れたという。長崎奉行からの報《しら》せをうけて、大御所はすぐさま使者を駿府によびよせた。  これまでにも大御所は、五島や長崎に入港した明商人たちを駿府にまねき丁重にもてなしたうえ、乞われるままに朱印状も与えている。 「それもこれもみな大御所さまの目の黒いうちに明国との交易をいまいちど果したいとのご所存からじゃ」師匠はまばらな顎|ひげ《ヽヽ》をさすると、|のど《ヽヽ》仏をひくつかせて茶を啜った。 「大御所さまはいままで何度か琉球王を介して和平通商をねがう親書を明国皇帝に送りとどけておられる。だが、むこうからは|なしのつぶて《ヽヽヽヽヽヽ》じゃ」  それもせんないこと。無謀な秀吉の朝鮮侵攻や倭寇《わこう》の跳梁《ちようりよう》によって、これまで手痛い目にあわされ通しの明国が、相手が家康公にかわったからといって、おいそれと勘合《かんごう》貿易の復活に応ずべくもない。そんな折の福建省使者の来訪である。大御所はいたくよろこんで柳舜賓を駿府城中にまねきよせたのだった。  ——沿海《えんかい》のあたりに跋扈《ばつこ》する倭寇の鎮圧に手をかして頂きたい。  明国使者は総監の意を伝えた。  ——及ばずながら、お力添えいたそうぞ。  大御所も上機嫌でこたえた。  ——ところでこの駿府には倉持玄石なる名医が居られるそうな。  歓迎の酒宴がひらかれると、柳舜賓はおもいがけぬことを口にした。  ——内府さまのお許しが得られるなら、その口中医者を順天府までお連れいたしたいのだが。  ほう、それはいかな訳じゃ。大御所の問いに柳舜賓は|どじょう《ヽヽヽヽ》髭をひねってこたえた。  ——じつは二年まえ、五島の奈留島《なるしま》にやってきた阮大鍼《げんたいしん》なる商人が駿府に招かれた折、たまたま玄石どのに入れ歯なるものを拵えていただいたことがござった。  その入れ歯がすこぶる具合よい。あきらめていた固型物《かたいもの》かがかめるようになり、味わいさえよみがえってきた。明人にとって食味の法悦こそ人生最高の快楽《けらく》である。阮大人《たいじん》のよろこびはひととおりでない。このことを応天府に巡察にきた京師《みやこ》の役人からきき知った宮中の宦官のひとりが、わしにもぜひ、と願うことしきりである。ついてはその総入れ歯を拵えた名医を燕京《みやこ》へお迎えしたいのだが、いかがなものであろうか。  ——首尾よくいけば、皇帝陛下のごくおそばちかくに仕える宦官でもあるゆえ、内府さま念願の日明交易のおとりもちを願えるかもしれませぬぞ。  大御所は一も二もなく承知なされた。 「だが、わしは見ての通りの老いぼれじゃ。とても大唐国までは身がもつまい。そこでわしのすべてを伝えたおまえに、なんとしても順天府に渡ってもらいたいのじゃ」  玄石師匠は語りおえると、|しみ《ヽヽ》の浮きでた額をむけて玄三郎をじっとみつめた。  庭のあじさいがかすかにゆれる。  雨が音もなく降りしきる。  池の端にたわわな花びらを垂らして咲きでた白と紫の花菖蒲《はなしようぶ》をみやりながら、玄三郎はとほうにくれた表情で顔をあげた。 「けれどお師匠。大明国の口中医術といえば、あたしどもの大先達《だいせんぱい》ではございませんか。きっと名手、国手がごろごろ控えているにちがいありませんよ」なにもわざわざ江戸くんだりから、とつぶやく玄三郎に、いやそれがのゥ、と師匠は首をふって言った。 「どうやら入れ歯の法のみは、ほかのどこにも見られぬ術とみえてな。唐国《からくに》にはかような腕をもつ口中医者はどこをたずねても見当らぬとのことじゃ」  し、しかしお師匠、と玄三郎はいそがしく逃げ口上を思いめぐらしながら言った。 「唐国まで参るには船旅だけでも命懸け。たとえ無事着いたとしても、あたくしごときには大役すぎて、どうにも背負いかねます……」  それにあたしが出掛けてしまえば、と言いかけて玄三郎は口ごもった。まさか女房のおりくや、まだ幼い娘のおみよ、息子の隆平のことが気懸りだとは言い難《にく》い。 「なァ玄三郎や」  師匠はまばらに伸びた自い眉毛をあげると落ちくぼんだ|まぶた《ヽヽヽ》をしょぼつかせ、はるか遠くをみる目つきで言った。 「わしがその昔、入れ歯の仕事に手を染めだした頃は、口中医者といえば香具師《やし》も同然じゃった。大道へ出て青大将を|うで《ヽヽ》にからませ、居合抜きをして人を集める。それからおもむろに虫歯抜きや入れ歯の御用をきいては、お鳥目《ちようもく》を頂いたものじゃ」 「ヘェ、そりゃもう耳ダコのできるほど聞いております。肝心のときにヘビが逃げだしたり、刀がさびついてぬくにぬけなかったことも。腕をみがくためには板に釘を打ち、指でひきぬく稽古さえなさった師匠のご苦労のほどはよく承知しているつもりですが」 「いや、まだおまえにはわかっておらぬようじゃ」師匠は曲った背すじを|しゃん《ヽヽヽ》とさせて言った。 「その苦労の甲斐あったればこそ、こうして大御所さまより名指しで大役を仰せつけられる身となったではないか。大御所の後楯《うしろだて》で、明国宮廷との橋渡しとなって入れ歯づくりにでかける。なんと名誉なことだ。これこそわしが長年、待ちのぞんでいた夢じゃ。わしたちを蔑《さげす》んでいた世間の目も、これですっかり改まろうぞ。このたびの件こそ、天がわれら口中医者にあたえたまたとない機会だとはおもわぬか」  玄石師匠は痩《や》せ身を|ぶるぶる《ヽヽヽヽ》からだをふるわせて言った。「なろうものなら、このわしが冥土《めいど》のみやげに大唐国まで馳せ参じたいのはやまやまじゃ。だが、渡海のさなかで倒れでもしたら、大御所さまになんと申しひらきがたとう。なァ、玄三郎や。この老いぼれの最後の願いをききとどけてやってはくれぬか」 「あれがジャガタラ船《せん》、あの光るのが厦門《アモイ》船」  長崎奉行所の係役人は港へむかう道をくだりながら、碇《いかり》をおろした大船のひとつひとつを指さして言った。  はじめてみる長崎港は青い海と小高い丘の緑にかこまれて別世界のようだった。南京《ナンキン》船に広東《カントン》船、寧波《ニンポー》船に占城《チヤンパ》船、東京《トンキン》、万丹《バンタム》、暹羅《シヤム》、|咬※[#「口+巴」]《カラバ》、柬埔寨《カンボジヤ》、阿蘭陀《オランダ》、葡萄牙《ポルトガル》……。  無数の和船、唐船、異国船が色とりどりの旗や吹きながしをひるがえし、その間をぬうようにかもめが舞う。  係役人は口中医主従を大波止に横づけされた唐船まで連れていった。船上に出迎えた薄絹の長衣に錦の帯をまとった唐人|ひげ《ヽヽ》の大人《たいじん》が柳舜賓だった。 「オゥ、アナタ、倉持玄石ドノアル」 「いえ、手前はその弟子の者です」 「ハァ、サヨカ」  柳舜賓はその下|ぶくれ《ヽヽヽ》の顔にちょっぴりがっかりした表情をうかべたが、すぐ笑顔にもどり、 「トコロデ、コノ船ニ、アナタ待ツ、オ侍イルヨ」 「はて、それはいったいどなたさまで?」 「長崎オ奉行、連レテキタオ侍アル」  柳舜賓は口中医を船内の上等部屋に案内した。そこには見知らぬ侍が三人、車座になって盃をくみかわしている。 「おう、その方が入れ歯師の杉山玄三郎か」  玄三郎が這いつくばると、頬のこけた茶色の顔のひょろりとやせた侍が声をかけた。鼻梁が|く《ヽ》の字に盛りあがり、ほそい目がたえずきょろきょろと落ち着きなくうごく。 「身共はこのたびの明国渡海を宰領《さいりよう》いたす矢野久右衛門じゃ」  侍は欠けた前歯から息がもれるような声で名乗った。かたわらの、両眼が牛のごとく離れた供侍が「塩木|典膳《てんぜん》」、冬瓜《とうがん》のように|のっぺり《ヽヽヽヽ》顔のもうひとりが、「権田七兵衛」と名乗りでる。 「身共は、本多|上野介《こうずけのすけ》さまよりお預りした大御所の書翰《しよかん》と献上の方物《ほうぶつ》、それに明人の捕虜十七人をひきつれ大明国に渡海いたす」  久右衛門どのは肩をそびやかして言った。 「ほう、それはさても大切なお役目で」  玄三郎はおもてをあげてうなずいた。 「ところでその方、明国貴人の所望《しよもう》により、入れ歯づくりに参上いたすそうな」  久右衛門どのは、うすわらいをうかべる。 「へぇ、おおそれながら」 「入れ歯の|うで《ヽヽ》ひとつで唐国まで渡るとは、その方もやりおるわな」 「いェ、これもみなわたしの師匠のおかげでございます」 「そこで玄三郎、おまえは万事久右衛門さまのお指図に従って順天府まで参るんだ」塩木典膳がかたわらより武張った声で口をはさんだ。玄三郎は這いつくばったまま、はて、といぶかった。それでは約束がちがう。このような侍たちの配下にはいるとはきかされていなかったことだ。師匠から聞き及んだ|いきさつ《ヽヽヽヽ》よりすれば、唐人に案内され、主賓として明国に渡るはずである。それがいつのまに主客転倒してしまったのだろう。 「兎《と》も角《かく》——」久右衛門どのはうすい唇をつきだして盃を啜った。「本多さまには遅くとも、再来年の夏船までには、駿府にもどり首尾を報ぜよとの仰せつけじゃ。その間、その方、身共のもとでせいぜい励むことじゃな」  目通りはそれでおしまいだった。権田七兵衛が、さあでていけ、といわんばかりにあごをしゃくった。 「ふん、それでおめえが明国渡海という果報にありついたんだな」  平蔵は船舷《ふなべり》すれすれにとぶ|かもめ《ヽヽヽ》を射落すように、ペッと唾を吐いた。 「いェ、とんでもない。いますぐ荷物をまとめて江戸へ帰りたい位ですよ」  白く泡立つ航跡《こうせき》をふり返って玄三郎は言った。 「その荷物のことだが」平蔵は肩をゆすった。「おめえたちのはたったいま、下のほうへ運ばせてもらったぜ」 「下のほう、と仰《おつしや》ると?」 「もちろん船底さ」 「そりゃまたどういう訳で?」 「大御所からお預りした大切な荷物を置くには、どうやらおめえたちの部屋がいちばんよさそうなんでな」 「でも、その荷はたしか、久右衛門どのの船室に据えられたはずですが」 「久右衛門さまは、すっかり手狭《てぜま》になったとひどく|おかんむり《ヽヽヽヽヽ》だ」 「じゃあ、手前どもはどこへ移るんですか」 「むろん船底の大部屋よ。ほかにどこがある」 「ひえっ、あそこは埃《ほこり》だらけの船荷や汗くさい明人捕虜でいっぱいじゃありませんか」 「そんなことはおれの知ったことじゃない」 「そりゃあんまりな。長崎を出るとき、柳舜賓どのが決められ、奉行所のお役人も承知なさった部屋|わり《ヽヽ》ではありませんか」 「久右衛門さまのお指図にしたがったまでのことよ」 「ちょっとまってください」玄三郎はむきなおっていった。「入れ歯の材料《もと》になる極上《ごくじよう》の黄楊《つげ》板を船底に放りこみ、ネズミに齧《かじ》られでもしたら、手前どものお役目がはたせなくなります」  平蔵は返事のかわりに甲板に唾をはいた。 「せめて、入れ歯の木床《もくしよう》を削るノミや彫刻刀だけは風通しのよい元の部屋へ置かせてもらえませんか。あれがさびついては仕事になりませんので」  だが平蔵はにべもない。「そりゃおめえたちが毎日手入れをすれば済むことよ」 「わかりました」玄三郎は背|すじ《ヽヽ》をのばした。「じゃあ、手前が久右衛門どのに|じか《ヽヽ》にかけあって参ります」 「ちょっとまて」平蔵はぐいと玄三郎の二の腕をとらまえた。「それほど言うなら仕方ない。おめえにひとつだけ教えておいてやる」  平蔵はむっとする口臭を吹きかけて言った。「おめえ、この唐船に乗船するとき、帛紗《ふくさ》に包んだ立派な荷物をみたろう」  そういえば大勢の人足にかつがれて、ものものしく運びこまれた小さな方物の包みがあった。 「あれが何か知ってるか」 「いえ」 「あれは≪抱花月《ほうかげつ》≫といってな、関白秀吉の秘蔵していた呂宋壺《ルソンつぼ》だ」 「ほう」 「大御所が明国皇帝に献上なさる逸品でな、なんでも銀二千貫はする代物《しろもの》さ」  へええー、銀二千貫。玄三郎はどぎもをぬかれて目がくらくらした。銀二千貫といえば三万五千両にもなる。極上の入れ歯を丹念に仕上げても、せいぜい一両がいいとこだ。なのにたかが壺一個が、生涯身を粉にして働いても手の届かぬところにあるとは。世の中の|でき《ヽヽ》具合が、どこかねじけてひんまがってはいまいか。 「どうして、そのような貴重な品を明国の天子にさしあげてしまうんです」  玄三郎は唇をねじまげて訊いた。平蔵は小鼻をうごめかしてこたえる。 「大御所は、あの茶壺を献上なさって、明国には他意のないところを示すおつもりさ」 「はあ」 「つまり、おのれは秀吉とちがって、大明国にさからう謀叛《むほん》気はまるでない。そのなによりの証《あかし》として、逆賊秀吉の愛用した品を皇帝に差しだそうというのが大御所の胸の内というわけだ」 「へええ、そのためはるばる明国まで運びこもうという算段ですか」 「そうさ」平蔵は胸をそらして、にやりとわらった。「わしの主人久右衛門さまのお役目はな、おめえたちのようないい加減な用向きとはわけがちがうんだぜ。あんな値のはる品を仕舞っておくには上等な部屋が要るんだ。つべこべいわずに船底へ移ったほうが、おめえたちの身のためだぜ」  で、でも、といいかける口中医を、さあこれ以上は問答無用だ、といわんばかりの目つきでおさえて、平蔵はくるりと背をむけた。  ——ええい、なんてこった。  玄三郎は唇をかんで、帆柱のうえにはためく朱色の風切《かざきり》をにらみつけた。  いまにみておれ。三万両の壺よりも、一両の入れ歯のほうが、ずっと|ねうち《ヽヽヽ》のあることを、きっとお侍どもにわからせてやる。  唐人の水手《かこ》どもが船尾に祭った媽姐《まそ》の船神にいのる奇妙な節|まわし《ヽヽヽ》が流れてくる。|とび《ヽヽ》魚のむれが銀色に光りながら波間をはねる。北西にむかう順風にのり、三艘の唐船は浙江《せつこう》州寧波港めざしてまっしぐらに白波をけたてていった。   承 天 門  皇城の正門承天門は、高い城墻《じようしよう》のうえに重層の門楼をのせ、泰山のごとくそびえ立っていた。門そのものがすでに大宮殿である。門前には五つの大門を連ねた牌楼《はいろう》(鳥居形の門)が建ち、その門上には『承天之門』と四文字を刻んだ額をかかげる。門の麓《ふもと》を金水河なる気取った呼び名のお濠《ほり》が流れ、そのうえを白大理石で造られた五座の金水橋が架かる。  門の両脇には一対の華表《かざりばしら》が立ち、獰猛《どうもう》な顔つきの四頭の石造りの唐獅子が、どうだ、おそれいったか、といわんばかりに通り道をにらみつける。まるで皇城の番犬のごときおもむきだ。 「おうここだ、杉山玄」  右端の出入口に待ちかまえた宦官の賈珍《かちん》が小さな躰《からだ》に似合わぬ大声で合図した。 「では、わたくしはこれにて」  張可法は賈珍にむかって一礼し、玄三郎にわかれを告げた。張可法の身分では、これより先、出入りがかなわぬのだ。 「日本《リーペン》客人よ」  張可法は小声で通詞に伝え、通詞が玄三郎にささやくようにとりついだ。 「もし貴君が高貴なお方にお会いできたら、それにはこの張可法もひと役かっていることを、くれぐれもお忘れなきよう」  玄三郎が賈珍を知ったのは、許渾が張可法の邸にやってきた折のことだ。  太鼓のうえに猿の乗った石刻のある門枕石《メンチエンシー》を置き、門前に房のついた儀仗《ぎじよう》を飾るいかめしい張可法の邸の塀ぎわで、猿|まわし《ヽヽヽ》が見物人にとりまかれていた。赤い着物をきた犬と猿が俚謡《ひなうた》にあわせて芸をする。ドラが鳴ると猿は木箱のなかから烏紗帽《うしやぼう》をとりだし、ちょこんとかぶって犬にまたがった。まるで衙門《やくしよ》にならんだ官吏そっくりだ。つぎのドラで猿は耕牛に見立てた犬を追いながら、百姓が田畑をたがやすように周囲《まわり》をぐるぐるまわってみせる。見物人からぱちぱちと拍手がわいた。こどものひとりが喰べていた豆を大道に投げると猿は芸そっちのけでひろいまわる。見物人がどっとわらった。 「こりゃおまえたち。これからここに宦者《えらい》さまがおいでになるンだ」邸の角門《くぐりもん》からとびだしてきた下僕がわめいた。「こんなところで邪魔だ。さっさと消え失せろ」 「なにを抜かしゃがる。宝無《たまな》しなんぞに尻尾《しつぽ》を振りおって」見物人どもは悪態《あくたい》をつきながら、ちりぢりに逃げていく。  宦官の一行は騒々しいドラと鉦《かね》の音とともに、シュロの木のある邸の中庭に姿をあらわした。 「これはこれは許渾さま」おおぜいの附人《つきびと》をしたがえた許渾を正房《おもや》にむかえると、張可法は象のような巨体を折ってぬかずいた。 「いやいや、張|大人《たいじん》」頬肉がこけ、顔中シワだらけで、まるで男の仮装をした老女のようにみえる許渾は、矮鶏《チやボ》の鳴き声そっくりの声をたてて言った。「ここは宮廷とちがう。めんどうな挨拶はぬきじゃ」  許渾のうしろにひかえた附人たちが、そろって|ききききっ《ヽヽヽヽヽ》とわらった。総勢十四、五人は居ようか。みな一様に茶色の丸い宦官帽をかぶり、長い灰色の袍子《パオツ》(上着)のうえに紺の褂子《クワツ》(上っぱり)をはおって黒い股引《ももひき》をはいている。その先頭に立った、採れたての茄子《なすび》のようなつるりとおどけた貌《かお》つきのほとんど小人といっていい小柄な宦官が許渾の片腕といわれる賈珍だった。  許渾が一歩まえにすすめば賈珍が小股でこれにつづく。あとから附人たちが躯幹《からだ》をいくぶん前かがみに一斉に前進する。幼少のころ去勢されたのか、声変りもせず長い手足の奇妙な老公もまじっていた。  許渾は張可法の巨体の後にかくれるように控えていた玄三郎をみつけだすと、愛人《アイレン》をさがし当てたように目尻をたれ、そばに近寄った。「わしの歯をつくってくれる倭人というのはこの男のことか」  張可法がふかぶかうなずくと、許渾は後手を組み、品定めでもするように口中医を窺《うかが》い見た。 「おまえ、名をなんという」 「へぇ、杉山玄三郎と申します」  通詞が紙片に名を記して差出すと、附人たちがそれをのぞきこみ、また|ききききっ《ヽヽヽヽヽ》とわらった。 「長い名じゃ。どこからどこまでが姓やら名やらわからんの」許渾は宦官帽をぬぐと、口中医にむかってたしかめるように訊いた。 「それで杉山玄よ。入れ歯なる療具を用いれば、もとどおり固いものがかめるようになるのかえ」 「むろんです」口中医は力をこめてうなずく。許渾は鶏の首をしめあげたようなおどろきの声をあげ、賈珍の方をふりむいて言った。 「はてさて、倭人どもとは|いくさ《ヽヽヽ》ばかりを好む野蛮人とおもっていたが、なかには器用な真似をいたす者もおるものよ。この世の中華たる大明国の燕京《みやこ》の、皇帝陛下の足下に侍《はべ》る口中医どもは、あまた居るというのに、入れ歯なる秘法があろうとは、だれひとり教えてはくれなんだのう」  許渾は玄三郎の手をとり、やさしい祖母をおもわせる|しぐさ《ヽヽヽ》でその甲をさすった。気味のわるいほど柔らかな手のひらだ。 「杉山玄。おまえがほんとうにもういちど、わしの口中に歯をよみがえらせてくれたなら、おまえののぞみはなんでもかなえてやる。いちどでいい。わしは心ゆくまで|※[#「火+考」]鴨《カオヤア》の皮を噛んでみたいのじゃ」  陰陽師《おんみようじ》の占術によれば、五日後が入れ歯の型取りの吉日だった。その日、玄三郎と佐吉は宿所にさしむけられた轎《かご》にのり、皇城西方にある許渾の別荘にむかった。いくつもの大街《ターチエ》や胡同《フートン》(横丁)を右へ左へとうねったあげく、掃除人夫が大勢で手入れをしている壮麗な花園のそばに轎はとまった。  はて、いかな貴族の邸宅やら、とおもえば、そこが許渾の別荘だった。庭園には穴だらけの怪石や、おどり狂ったかたちの奇石を重ねてきずいた仮山《チヤシヤン》(築山《つきやま》)がしつらえてある。「福」「寿」の目出たい文字を扉にあしらった二門《アルメン》(中庭の門)をはいると、そこは穿堂《チユアンタン》(通りぬけできる部屋)になっていた。両側には廻り廊下がはりめぐらされ、そこに吊された鳥籠の|おうむ《ヽヽヽ》が玄三郎をみると急に頭をそらしてグワッと羽ばたいた。  正面にある紫檀《したん》台の大理石の屏風をまわって前へすすむと、小部屋が三間あり、その奥の数寄《すき》をこらした正房の椅子にこしかけて、許渾は待っていた。  床にひれふし叩首《こうしゆ》の礼をしてから、玄三郎は、ではごめん、と声をかけて許渾のかたわらににじり寄る。佐吉が身をかがめ、許渾のとがった顎を両手で支える。  口中医は許渾に向って頼んだ。 「|あァ《ヽヽ》をしてくださいますよう」  |あァァ《ヽヽヽ》。許渾は大口をあけ、歯がぬけてフルフルになった歯|ぐき《ヽヽ》を大猿みたいにむきだす。まわりの附人たちが|あァ《ヽヽ》をして真似る。ニラとにんにくのにおいがぷうんと漂った。許渾の上|あご《ヽヽ》には犬歯が一本、小鼻の近くに埋れたまま残っている。これは入れ歯の邪魔になる。 「上|あご《ヽヽ》の糸切歯を抜いても、いェ、赤ン坊みたいな歯|ぐき《ヽヽ》にいたしてもよろしいでしょうか」玄三郎は許渾に訊いた。 「かまわん、存分にやってくれ」  痛み止めに大蓼《たいりよう》を煎《せん》じた汁を歯肉に塗ってマヒさせる。玄三郎は釘|ぬき《ヽヽ》の形をした抜歯器を手にすると|ぐい《ヽヽ》と犬歯をつかんだ。附人たちが危ぶんで、さかんに奇声をたてる。玄三郎が力をこめて抜こうとするたびに許渾は|アテテテ《ヽヽヽヽ》と尻を浮かしてしまう。佐吉が必死で患者の肩をおさえる。附人たちがまるで自分が抜かれるみたいに悲鳴をあげる。大騒ぎのすえ、ようやく犬歯はぬけた。 「歯の跡に肉がのり、歯|ぐき《ヽヽ》の腫《は》れが引くには、ひと月は掛ります」汗びっしょりのまま、口中医は言った。「それから型どりした方がよい入れ歯ができますが」 「うんにゃ」抜歯の痛みがまだ脳天にひびいているのか、許渾は眼球《めだま》をつりあげたまま首をふった。「そんなにはとても待ちきれん。なんとかいそいで拵えてくれ」  許渾のたっての申し出に、玄三郎は十日後あらためて型どりに参上することを約した。 「ところで杉山玄」  別荘を辞して轎《かご》へのりこもうとするところへ見送りに出た賈珍が、ふとたずねた。 「入れ歯の歯牙にはなにを用いるのだ」 「へぇ。前歯には蝋石《ろうせき》やクジラの骨、けものの骨や象牙などがよろしいようで」口中医はこたえる。「奥歯は|へり《ヽヽ》がはげしいんで、銅のビョウや鉄クギを打ちつけて咬合《かみあわ》せに用います。でも、なんといっても天然の歯が、つまり人歯にかなうものはありませんね」  うんそうか、賈珍はかるくうなずくと、ではまた頼む、と拱手《クンシヨウ》(簡単な礼)をした。  約束の日、玄三郎は江戸から持参した黄楊《つげ》板と道具箱を佐吉にもたせ、許渾の別荘を訪れた。入れ歯の床材には桜、梅、あんずの木などもつかうが、もっとも材質が強靱《きようじん》で口当りのいいのは黄楊である。黄楊は伊豆大島産をもって極上とする。長い航海のあいだ、船底に放りこまれていた黄楊板はさいわいネズミにかじられることもなく、よい肌ざわりをたもっていた。 「|あァ《ヽヽ》をねがいます」  許渾に開口を願い、その口内のおよその形をノミを用いて黄揚板に削り出す。佐吉がノミと彫刻刀を|ぞろり《ヽヽヽ》と取りだしたので、また賈珍と附人たちが奇声をあげて騒いだ。宦官どもはよほど刃物がきらいとみえる。だが、倭人主従がたくみにノミをあやつって、すばやく上|あご《ヽヽ》と下|あご《ヽヽ》の木床入れ歯を削りだすのをみて、その器用さにホウと感嘆の声をあげはじめた。 「|あァ《ヽヽ》をたのみます」  口中医は開口させた許渾の歯肉と口蓋《こうがい》に朱をたっぷり塗りつけ、そこに|あら作り《ヽヽヽヽ》の木床を圧《お》しつける。朱で着色した部位をさらに丸ノミでえぐる。この操作をくりかえして木床を口蓋にあわせるのだ。 「いかがでございましょうか」  玄三郎は上下の木床が口中に吸着する|ぐあい《ヽヽヽ》を念入りにあらためた。これが不出来では使用する者が不快でならない。 「もはや、あごがくたくたじゃ」  許渾がついに音《ね》をあげ、その日はおしまいになる。翌《あく》る朝早くから仕事がつづく。変形を防ぐため、ゆうべ釜で煮ておいた木床をとりだし、口中にはめて当り加減をきく。わずかな当りは木賊《とくさ》でみがく。許渾は辛抱づよく型合せに応じた。  やがて午《ひる》の刻を告げる鐘の音が鐘楼より響いてきた頃、「うん、これなら当っているかいないかわからぬほどの肌ざわりじゃ」許渾がうなずき、ついに木床ができあがった。これが上首尾ならば、入れ歯は九分通り仕上ったも同然である。あとは歯冠《しかん》をほどこせばよい。 「では許渾さま、例のものを」  賈珍は附人に小さな壺を運ばせると倭人のまえに置いた。 「中身を拝んでおくのじゃ」許渾は歯のない口をあけて、にやっとわらい、賈珍が壺を傾ける。ひえっ、佐吉がさけんで後ずさりした。壺のなかから落ちてきたのは白くひかる人間の歯だ。まだ採れたてとみえて歯肉や血痕がこびりついている。五人前は優にあろう。鋭い根の生えた人歯がカタカタと乾いた音をたてて卓子《つくえ》のうえにこぼれ落ちた。 「先刻、罪人の口中より抜きとらせたばかりの真新しい歯じゃ。どれも屈強の若者のものでな。このなかからおまえのよいとおもうものをえらんで満足のいくよう拵えてくれ」  許渾はこともなげに言った。 (なんてことをするんだ)玄三郎は怒りをおぼえた。(若者たちは明日からどうやってメシを噛むのだ)まさかとは思ったが張可法の言ったことは本当だったのだ。  ——東安門のそばにある東廠《とうしよう》(皇帝直属の秘密警察)では、あまたの獄囚が生きたまま目玉をくりぬかれ皮を剥《は》がれてうごめいている。アレが生えてくるとそそのかされ、囚人の脳髄《のうみそ》を喰いつづけた老公さえいるんですよ。  だが玄三郎はすぐ思いなおした。 (ここはなにもかも江戸とはちがう。こんなこと位で腹を立てていてはとんでもない羽目になるぞ。いまはただじっと我慢して、ひたすら入れ歯づくりにはげむにかぎる)  玄三郎は顔をこわばらせたまま、|ヘヘヘ《ヽヽヽ》とつくりわらいをしてみせた。  その夜から許渾の別荘に泊りこみ、人歯を木床に植えつける細工にとりかかる。まず木床の前面にミゾをほる。門歯、犬歯、小|臼歯《きゆうし》、大臼歯を上下おのおの十二本ずつ、このミゾに鳩の尾のように嵌入《かんにゆう》させて植えつける。植え込みだけでは、はげしい咬合《かみあわ》せに耐えぬので、おのおのの歯にキリで横孔をあけ、三味線の糸を通して|きりり《ヽヽヽ》と結ぶ。糸|はし《ヽヽ》は奥歯の口蓋の面にひっぱりだし、ここに小さなクサビを打ちこんで留める。上下奥歯の咀嚼《そしやく》の面には純銀のビョウをすきまなしに打ちこんで補強する。出張った歯は糠《ぬか》水で煮た鮫皮《さめがわ》で研磨して歯ならびをそろえるのである。 「佐吉、こりゃ閹人《えんじん》にはもったいないような代物《しろもの》ができたな」 「へぇ、こんな美事な入れ歯は江戸でもめったにゃお目に掛れませんよ」 「そりゃそうだ。なにせ歯型ぜんぶをとびきりの人歯にするなんて芸当は、たとえ将軍さまの入れ歯でもできることじゃない」 「それにしても歯をぬかれちまった者のことをおもえば、よろこんでばかりもおれませんねぇ」佐吉は眉をひそめて口|はし《ヽヽ》を曲げた。  このあと、前歯の根もとに歯肉と上唇小帯《じようしんしようたい》の彫刻を綿密にほどこす。口中にぴたりと吸いつくよう木床の粘膜の面には口蓋のシワを入念に彫り込む。さいごに湿気よけと生臭さをのぞくため、|うるし《ヽヽヽ》をぬって仕上げる。七日掛りで会心《かいしん》の作が出来あがった。 「いかがなものでございましょう」  椅子にすわった許渾のまえにかがむと、玄三郎は上下の総義歯をおそるおそる嵌《は》めこんで訊いた。 「うむ……」許渾は入れ歯がぐらつきはせぬかとさかんに|あご《ヽヽ》を左右にゆする。だが、それは口中に貼《は》りついたようにビクともしなかった。 「噛んでみてくだされ」口中医は咬合《こうごう》の具合をなんどもたしかめた。附人のひとりが、許渾さま、御覧なされ、と鏡をもってあらわれる。「おゥ、これがわしの顔か……」老婆のようにこけていた許渾の頬はいまや年増女のそれにかわってみえる。  さっそく試咬のための鴨料理がはこばれてきた。許渾は鼻をひくつかせ、|※[#「火+考」]鴨《カオヤア》のひと切れをつまんで|もぐもぐ《ヽヽヽヽ》口を動かす。賈珍をはじめ附人たちが喰い入るように主人の表情をうかがう。 「おうおうおうおう、おゥ、噛める、噛める」許渾は身をよじった。 「なんと|※[#「火+考」]鴨《カオヤア》が噛めるではないか」  ひと噛み味わうごとに許渾は鳥の啼声《なきごえ》のようなうめき声をたて、しまいには大粒の涙をぽろぽろこぼした。 「味がわかる。味がわかるぞえ」  許渾はついに叫び声をあげ、両手をたかくかかげて立ちあがった。|きォーっ《ヽヽヽヽ》と附人たちが声高《こわだか》に歓声をあげる。許渾は倭人口中医にちかづくと、その手を|しっか《ヽヽヽ》と掴んで言った。 「よくぞやった、杉山玄」   端  門  承天門を北へ直進すると、『端門』と額をかかげた大門がのっそり姿を現わす。門の両脇には東西に長い廡殿《ぶでん》(長屋式の宮殿)が通せんぼでもするように袖をひろげている。  上空にはあいかわらず砂ぼこりが舞っている。が、さいわい皇城内は高い城壁にさえぎられているうえ、石畳と煉瓦《れんが》敷きのおかげで土ぼこりはさしてひどくない。  賈珍と附人たちは|あひる《ヽヽヽ》の行列さながらに前へすすむ。玄三郎ほうしろをふりかえった。前門からここまで、ずいぶん歩いたものだ。佐吉は道具箱を背負い、胸には帛紗《ふくさ》の包みをかかえ、懸命についてくる、全身汗ぐっしょりだ。 「若先生、この先いったい、いくつの門をこえなけりゃならないんで」佐吉は背をゆすり、荷を背負い直すと息をついた。 「この大切な品をかかえているだけでも、気骨がおれてかないません」 「弱音をはくんじゃない。紫禁城はほんの目の前だよ。あと暫《しばら》くの辛抱じゃないか」  玄三郎の励ましに、佐吉はうなずいたが、それにしても唐人の脚はえらく達者《たつしや》なもんだ、とひとりつぶやいている。佐吉がしっかりとかかえている包みは、久右衛門どのから預ってきた太閤の茶壺≪抱花月≫である。  北京に着いて以来、久右衛門どののお役目は一向に|はか《ヽヽ》がいかなかった。明人捕虜引渡しの功により、北京滞在のみはゆるされたものの、肝心の、皇帝じきじきに謁見し、家康公の書翰を手渡すという|もくろみ《ヽヽヽヽ》は滅多なことでは容れられない。だが、勘合符を与えてもらうには、どうしても皇帝の裁可が要るのだ。 「この明国では皇帝をうごかしているのは大臣ではなく、陰の内閣ともいうべきひとにぎりの老公たちです」かつて張可法は玄三郎に語ってきかせたことがある。 「陛下は宮中奥ふかくで、彫物や細工づくりに熱中なされ、政務をかえりみる気などまったくありません。いや老公たちがそのように仕向けたというべきでしょうな。とにかく、陰の宰相たる司礼監太監《しれいかんたいかん》ほか、ほんのわずかの帝寵あつい太監どもが勝手に聖断をくだしている有様ですからね」  たとえ官僚の最高位である内閣大学士といえども、皇帝お気に入りの宦官のまえには、叩頭《こうとう》の礼を尽して平|ぐも《ヽヽ》にならねば、陛下に意を通じてもらうわけにはいかない。 「なにしろ、いかな高官といえども内廷へは一歩たりとも立入りが許されておりませんでな。陛下ご寵愛の太監の奏上がなければ、乾清《かんせい》宮の玉座にある陛下の耳元には一切が届かぬ仕組みになっておるのです」  すくなからぬ賄賂《まいない》を官衙《かんが》の諸方にふりまいたあげく、久右衛門どのもようやく宦官どもに|つて《ヽヽ》を求めるほかないことをさとったようである。本多上野介さまと約した来年の夏までに帰国するには、季節風を慮《おもんばか》ると年明けにはそろそろ北京を発ち、寧波へむかわねばならぬ。だが、うだるほど蒸し暑い夏がすぎ、路|ばた《ヽヽ》に歯ざわりのいい白梨やリンゴほどの大きさの白海棠《しろかいどう》がならび、肥えた栗の|さらりさらり炒《ヽヽヽヽヽヽい》る音のする心地よい秋を迎えても、一向に交渉のすすむ気配がない。  塩木典膳も権田七兵衛も勝手に宿所を出ることを禁じられ、ひまをもてあまして終日のんだくれている。 「香具師《やし》あがりになにができる」 「ふん、入れ歯師|やから《ヽヽヽ》が」  やっかみ半分、悪態をついていた供侍や従者どもだったが、許渾の入れ歯を仕上げてからというもの風向きがかわってきた。わしにも入れ歯を、と高位の宦官たちが陸続と玉同館の玄三郎のもとへ訪れだしたからである。いまや平蔵までが、玄三郎どの御精がでるのう、とお愛想をふりまき、それまでろくに口をきかなかった久右衛門どのさえ、ひとつ許渾どのとやらに口|きき《ヽヽ》してはもらえまいか、と足を運んでくる。いつまでたっても皇帝への目通りがかなわぬ久右衛門どのはいささかあせりの色をみせていたのだ。 「誰が口|きき《ヽヽ》なんぞしてやるものか」  ノミの手をやすめると玄三郎は佐吉に言った。「おれたちが北京へ着くまでに侍どもから受けた仕打ちをおもいだしてみるがいい。喰い物も|ふとん《ヽヽヽ》も水手《かこ》や捕虜と同じひどいものをあてがわれ、船底の大部屋で大汗かいて唸ってきたのは、いったい誰のせいだい」 「そりゃそのとおりですが」佐吉は小さな目をぱちぱちさせて言った。「でも若先生。いつまでもいい気味だとよろこんでるわけにはまいりませんよ。あのお侍たちに手をかさねば、あたし共まで帰れなくなるんですから」  たしかに佐吉のいうとおりだった。いくらお侍が憎くても、知らんふりしていれば帰国はのびるばかりだ。入れ歯仕事の合い間をみて、日本の侍を司礼監太監さまにおひきあわせ頂くわけには参らぬだろうか、とおそるおそる許渾に願いでた。なんなりと望むがよい、と言った許渾だったが、それだけは勘弁してくれ、と身をふるわせてことわる。 「わが宮廷ではな、倭国人、ときいただけでおぞましい顔をされるのよ。わけてもサムライなんぞをひきいれでもしたら、このわしの首があぶないのじゃ」  許渾はなぜか|おじけ《ヽヽヽ》をふるって答えたのだ。  だが、年が明けると、事態はおもわぬところからひらけだした。  二月初旬の、春とはいえ、凍えそうなその日の夕刻、張可法があわただしく玉同館に轎をのりつけた。 「日本客人、おどろきめさるな。おそれおおくも皇太后陛下が貴君の入れ歯を所望なされたとのことですぞ」張可法は壁の剥げおちた宿所の正庁にすわりこむと、佐吉のいれた熱い茶を口をすぼめて啜った。「司礼監太監さまより、皇太后の総入歯をつくって差上げるよう、じきじきの仰せですわい」 「ヘェー」玄三郎はおもわず腰をうかした。 「まさか御冗談ではないでしょうね」 「なにを仰《おつしや》る。さきほど許渾どのよりこのわしが許《もと》へ内内の報せがあったばかりですぞ」 「じゃあ、あたしどもは——」 「さよう、ちかいうちに御禁裏に参内することになりましょうな」 「ほう、そうですかい。すると、本当にあたしどもは宮廷にまかりでることができるんですね」  玄三郎はうわずった声で叫んだ。とても信じられぬ。まるで夢のような話だ。玄石師匠が知ったら、どんなにおよろこびなさるやら。 「それで、お侍たちも、宮中に伺候がかなうのですか」玄三郎は念のために訊いた。 「いいや、そのようなことはきいておりません」張可法は相すまぬといった顔つきで首をふった。 「許しがでたのは、貴君ら主従だけですよ」  例により、宮廷へ出る際の心得をこまごまと説いたあと、張大人は、おおそうだ、とつけくわえた。「いつかお約束した男根をそぎ落す手術場の件だが、賈珍どのがぜひ御案内いたそうといわれる。貴君さえよければ、あすにも迎えに参るとのことですよ」  翌る朝、玄三郎と佐吉は賈珍に連れられて、皇城の西門にあたる西安門のちかくにある去勢のための手術場へでかけた。  そこは赤い土壁に囲まれたみすぼらしい廠子《チヤンツ》(小舎)だった。門前には手術をうける者の親類縁者が声をひそめてたむろしている。内部《なか》にはいると、すでにひょろ長い若者が、素っ裸のまま、木製の手術台のうえに半臥《はんが》の姿勢ですわっていた。かたわらで揃いの青服を着た三人の助手が、若者の手足を手術台に括《くく》りつけている。若者は格別あらがう容子もない。 「あの男もわしたちと同じ自宮者じゃ」賈珍のことばを通詞が玄三郎に伝える。がらんとした広い部屋には、手術台と|※[#「火+亢」]《カン》(温床《オンドル》)と湯釜をわかした土竃《どべつつい》のほかになにもなかった。  やがて手術場に|くさ《ヽヽ》色の上衣をまとった「刀子匠《タオツチヤン》」とよばれる小柄な執刀人が現われた。青服の助手たちが恭《うやうや》しく礼をする。助手のひとりが剃刀《かみそり》でていねいに陰毛をそる。もうひとりが男根の切断をおこなうあたりを酒精《しゆせい》と熱い胡淑《こしよう》湯で念入りに洗った。若者の黒光りする陽物と|ふぐり《ヽヽヽ》はすっかり縮みあがっている。助手たちは草ウズの粉をどろどろにとかした麻痺《まひ》薬を陽根の周囲《まわり》にこすりつける。出血をくいとめるため、下腹に|さらし《ヽヽヽ》をまくごとく白い包帯をぐるぐる巻きつけ、さらに股の付け根を紐で固くくくる。  刀子匠は山羊《やぎ》|ひげ《ヽヽ》をしごくと、若者の耳元に口をちかづけ、ドスの利いた声でたずねた。 「後悔《ホウフイ》するか、不後悔《ブホウフイ》か」  若者は歯をくいしばり、目をぎゅっとつむったまま、「不後悔!」とみじかく言った。  刀子匠は大きくうなずいた。そして若者の股間に身をかがめると、陽物の根元を絹糸でキリリとしばる。刀子匠は鎌のように湾曲した小さな切断刀を手にとった。まるでさいごのわかれを惜しむように陽物を撫でさすってから、刀子匠は皮を冠った亀頭と|ふぐり《ヽヽヽ》をひっぱるようにつかんだ。そして陽物の根もとに刃をあてると、ジャリジャリ、という音をさせて陰嚢《いんのう》もろとも一気に切り落した。切り傷からピュッ、ピュッ、と細い血しぶきが吹きあげる。たちまち刀子匠の顔や胸が斑点《はんてん》状の血汐《ちしお》にそまる。若者は苦痛にからだをよじり、顔をゆがめた。助手がかけより、えぐられた跡に海綿をあてて血のりをぬぐう。助手のひとりが|かまど《ヽヽヽ》のなかの真っ赤に焼けただれた鉄ゴテをもって走ってきた。刀子匠はそれを傷口にジャッ、とおしあてる。若者は異様な声でわめいた。肉のやける臭気が部屋にたちこめ、出血はとまった。刀子匠は焼けこげてひくひくと肉がひきつっている傷口を注意ぶかく眺めまわした。陽根の根をしばった絹糸を切りほどくと、尿道の切り口とおぼしきあたりに白ロウの栓を|ぐい《ヽヽ》とさしこむ。また若者が|ぎゃっ《ヽヽヽ》と叫んで腰をよじった。  助手たちが冷水をひたした紙を傷口にあて、白布をふんどしのように腰に巻く。下腹と股のつけねの血どめの紐を解いて手術はおわった。刀子匠は、切断された陽根と|ふぐり《ヽヽヽ》をさもいとおしげに小箱におさめると、新《あら》たに誕生した閹人にむかって大声で、立てェ、とどなった。若者はふたりの助手に脇をかかえられて、ふらふらと立ちあがったが、まるで重心を失ったごとく不安定である。 「手術のあと、両三日は水をのんではならぬ」賈珍は言った。「三日たって尿道の栓をぬく。すると噴水のように尿が吹きでる。これで手術は成功だったとわかる。そこで盛大なお祝いがはじまるんだ」  玄三郎は目をみはったまま、声も出ない。佐吉は冷汗をたらして、まっさおだ。 「手術は上首尾じゃ」青服の助手にきかされて、門前で待っていた親類縁者が、|わっ《ヽヽ》と歓声をあげながら、手術場になだれこんできた。   午  門  賈珍の一行とともに、端門をぞろぞろ通りすぎると、正面に|どぎも《ヽヽヽ》をぬかんばかりの壮大な城門が出現した。それは門というよりも、一国の大城塞《だいじようさい》といってよい。  中央の門上には、黄色い瓦、朱塗りの柱、朱塗りの壁をもつ高さ十余丈の門楼を構え、左右に張りだした袖の上に鐘鼓楼をいだいて凹形をなし、あたかも巨大な鳳凰《ほうおう》が大いに|つばさ《ヽヽヽ》をひろげ、天空にむかっていままさに飛翔《とびたち》せんとする姿に似る。これが紫禁城の正門たる午門《ごもん》だった。  方形をした三つの門前には、唐獅子像がキバをむき、あまたの衛士が、ある者は直立してうごかず、あるものは四方にくまなく目配りして俳徊《はいかい》する。中央の門は、ただ皇帝のみの出入口だ。門前の広場には、幾百人もの正装した明人たちが、石畳にひれ伏したまま、うずくまっていた。 「この城門では、帝《みかど》の入城のお許しがあるまで、あのように土下座したまま、ひたすらじっと待つのだ」賈珍は声をひそめておしえる。午門の左方の出入口「左掖門《さえきもん》」には附人を従えた許渾が、倭人口中医を迎えでていた。 「きいたぞ、玄三郎。その方どもは宮中に招かれたそうだな」  玄三郎主従が西安門の手術場より戻るや、久右衛門どのが待ちかねたように玉同館の正庁に姿をあらわした。うしろに典膳と七兵衛がさえぬ顔をして立っている。正庁にはろくな家具もなく、|がらん《ヽヽヽ》として久右衛門どのの欠けた歯からもれる息だけが耳をついた。 「いえ、皇誠に参内いたすのは、も少し先のことだそうです」 「とにかく、めでたいわ。これで身共《みども》も安《やす》んじて国に帰ることができる」 「と、申しますと」玄三郎がふと不安をおぼえて訊いた。 「いや、その方どもが、われらにかわりて宮廷に伺候《しこう》いたすからじゃ」 「いえ、あたしどもは、ただ宮中へ入れ歯を拵えにあがるだけですよ」 「いや、このたびは格別じゃ。なにせ皇太后どのに拝謁いたすのだからな」久右衛門どのは目をしばたたいて言った。「知ってのとおり、身共はこれまで皇帝どのにじかに謁見して大御所の親書を手渡そうと、さんざ苦労してきた。だが明国の役人どもは終始押問答で相対し、お役目をはたすことができぬ」久右衛門どのは唇をとがらし、弁解《いいわけ》がましい口調で言った。「それにどうやらこの国はいま日本国と勘合をとりかわすどころではなさそうだ。北には女真族《じよしんぞく》の反乱がおこり、南では百姓どもの大がかりな一揆がはじまっている。身共はこのことをつぶさに大御所にお伝えしたいと思うのじゃ」  久右衛門どのは隙間風に身をすぼめると小鼻をこすった。「すでに駿府を出て一年半になる。大御所はさぞかし明国よりの報せを首をながくしてお待ちであろう。本多上野介さまとの約束の期日もせまっている。われらはそろそろ出立いたそうと思うのだが」 「すると、あたしどもは故国《くに》へかえるので」 「いや、その方どもはいましばらく宮廷にて仕事をいたさねばなるまい」 「へえ、そりゃそうですが……」  そのとき久右衛門どのは七兵衛に目くばせした。七兵衛は一礼すると平蔵に帛紗に包んだ木箱を抱えさせて戻る。平蔵は平身低頭して包みを久右衛門どののまえに置いた。 「中身をあらためてみよ」  久右衛門どのの命で、七兵衛は包みの上の黄色いほこりを|ぷゥ《ヽヽ》と吹き、箱の蓋をはらう。なかからおそるおそるとりだしたのは高さ一尺ほどの壺だった。赫《あか》みをおびた粗《あら》めの肌に紺と黄の釉薬《うわぐすり》をかけ、娘のおみよをおもわせる、ふっくらとした下ぶくれのあどけない葉茶壺だ。 「これは大御所が皇帝どのへ献上なさる秀吉の愛用した≪抱花月≫じゃ」  久右衛門どのはもったいぶって言った。 (ほう、これが例の三万五千両のツボか)  玄三郎は目をこらしたが、こんな茶壺のどこがいいのかさっぱりわからない。 「それに、この大御所の親書だが……」  典膳が恭《うやうや》しく差出す封書の包みを受けとると、久右衛門どのは言った。 「この御書状と壺とを、その方に預ける」  久右衛門どのは玄三郎におしつけるように二つの包みを渡した。「そこで、その方、身共になりかわって、この二つの品を皇太后どのに届けてほしいのじゃ」 「へ、皇太后さまに書状と壺を?」 「さよう、その方が御前に伺候いたした際、折をみて皇帝どのにお手渡し頂くよう、お願いもうしあげるのじゃ」 「そ、そんな、いくらなんでも、それはお約束できません」玄三郎はあわてて首をふった。「だいいち、そんなだいそれた……」 「いや、その方なら、お役目、無事済ますことができようぞ」久右衛門どのは独り言のようにつぶやく。「それに今更おめおめと持ちかえるわけにもいくまいて」 「こんな大切な物を、あたくしごときが……」 「その方なら、この使い、ゆるりと果せるはずじゃ。身共も危うく、なんら為すことなく帰国いたすところであったが、その方のおかげで、面目《めんぼく》もたとうというものだ」 「すると、あたしどもは皆の衆と御一緒できぬので」 「うむ。その方には相済まぬが、われらは一足さきに発つ。夏船に間に合わせるには、すでに一刻も猶予《ゆうよ》がならぬのだ」 「じゃあ、あたしどもはいつ江戸に帰る手筈で?」 「む。半年後には迎えの船を手配するよう、本多さまにお願いしておく。むろん、このたびのその方のはたらき、大御所にはもらさずお伝えいたすから安心いたせ」  それでは玄三郎、くれぐれも頼んだぞ。久右衛門どのはめっきりふえた白髪まじりの髷《まげ》をさすると、おし黙った典膳と浮かぬ顔の七兵衛をうながし、腰をあげた。  とうとうやったぞ。玄三郎は居室にもどると|こおどり《ヽヽヽヽ》するように言った。 「どうだい、佐吉。おれたちは入れ歯のうで一本で侍どもの鼻をあかすことができたじゃないか。あいつらは負け犬みたいに打ち萎《しお》れて明国を去る。なんていい気味だ」 「そんなことより若先生」佐吉は眉をよせて物悲しげに言った。「いち日もはやく江戸へかえりとうございます。ブタやヒツジの肉はもううんざりです。焼いたさんまに大根おろしを添えて、熱燗《あつかん》でキュッ、と一杯ひっかけるのが、いまのあたしのいちばんの願いなんですよ」  その夜、玄三郎はおりくの夢をみた。夢のなかのおりくは盥《たらい》のなかで立ち膝をして、行水をつかっていた。隆平とおみよが、キャッキャと声をたてておりくにまとわりついている。おりくは水盃をかわしたときより、いくぶん肥えてみえ、白い豊かな乳房をあらわにして桶の水を浴びていた。やわらかく、かぐわしいおりくのからだの|におい《ヽヽヽ》がした。 (おりく……)  玄三郎がよびかけると、おりくはちらっとこちらをみて、にっこりわらった。が、すぐこどもの身体《からだ》を洗いだす。 (おりくよ……)もういちど呼んでみたが、おりくは小さくうなずくだけで、こんどはふりむかなかった。 (どうしたんだ、おりく……)  だが、夢のなかでおりくとこどもの姿はみるみる遠のいていく。玄三郎はぐっしょり汗をかいて目ざめた。 「では玄三郎、達者でな」  ようやく春泥《しゆんでい》がとけて滑《なめ》らかになり、白い柳絮《りゆうじよ》(ヤナギの綿)がいっせいに舞いだした燕都《みやこ》から、久右衛門どの一行は足早やに去っていった。   皇 極 門  午門《ごもん》をくぐると紫禁城内である。  門を一歩入ったとたん、玄三郎はその別世界のごとき光景にわなないて、息をのんだ。この偉観をなににたとえたらよいであろう。眼前には、黄金の|るり《ヽヽ》瓦でふいた大屋根をいただき、白くかがやく三層基壇の大理石のうえに、朱《あか》、碧《あお》、緑、黄、とりどりの極彩色に塗られた、いく百とも数えきれない宮殿楼閣が、黄砂の舞うなか、やわらぎなごんだ春の陽《ひ》をうけ、輪奐《りんかん》の美をほこって蜿蜑《えんえん》と立ちならんでいる。  わけても午門よりまっすぐの、皇極門《こうぎよくもん》と皇極殿の黄瓦は、天にむかって気炎《きえん》を吐く金竜の像を載せ、黄砂の絨毯《じゆうたん》を引き裂いて湧きたつようにみえ、まさに世界の中心たるにふさわしい妖《あや》しいまでに壮麗な姿をあらわにしている。佐吉も肝をうばわれ、手足を蟹《かに》のごとく硬直させたまま立ちすくんでいる。 「ここは天と地がまじわり、風と雲と雨があつまり、四季がひとつとなり、陰と陽、虚と実、緩と急、静と動が調和をなす、聖所中の聖所じゃ」  畏怖《いふ》の念におののいているふたりの倭人の姿に満足した様子で許渾がおごそかに言った。その矮鶏《ちやぼ》のような口調さえ、ここではなにやら有難味をおびてきこえる。  一行は午門の北を蛇行する内金水河の橋をわたり、皇極門の右手にある宣治《せんち》門を通った。目のまえに、雲と竜を浮彫りにした皇帝専用の階段をもつ皇極殿が盛りあがるようにみえる。皇帝が群臣の拝賀をうけるという大広場をよこぎり、皇極殿右方の中右門をくぐりぬける。門のむこうに皇極殿と一文字にならんで屋根の先端に奇怪な動物の隊列をきざんだ中極殿、建極殿の巨大な|いらか《ヽヽヽ》の波が口中医主従を威圧せんばかりに迫っていた。  許渾は玄三郎と佐吉を建極殿の右手にある後右門につれていった。 「ここからは陛下のお住いになる内廷となる。この先、いかなる身分の閣臣といえども立入ることは許されぬ。ただ後宮の后妃《こうひ》と女官、それにわしたちはちがうがの」許渾は入れ歯をのぞかせ、|ひひひひ《ヽヽヽヽ》とわらった。  後右門をくぐると、外朝と内廷をわける紅殻《べんがら》色の高い牆壁《しようへき》にはさまれた狭い路地になる。路地をぬけると、建極殿のうしろの広場にでた。広場の北辺に、黄釉瓦《おうゆうが》をいただく朱紅色の乾清門《かんせいもん》がどっしりと根をおろしている。  乾清門のむこうには、一段高く白大理石をもりあげて|丹※[#「土+犀」]《たんち》(階上の庭)が築かれ、そのさきに皇帝の御所である乾清宮がそびえていた。そのうしろは宝璽《ほうじ》を安置する交泰殿《こうたいでん》、その奥は皇后の御座所《おましどころ》である坤寧《こんねい》宮となる。御所のまわりには、かぞえきれぬほどの宮殿や堂宇《どうう》や楼閣が、互いに身を寄せあうように建ちならび、その間をぬって無数の宦官や宮女たちが、蟻の鉢合わせのように往き交う。猫が走りまわり、猿が泣き、犬の|ほえ《ヽヽ》声がした。許渾は後右門の西にある隆宗《りゆうそう》門に足をむける。隆宗門と後右門との間には、協恭《きようきよう》堂と額をかかげた堂宇がある。許渾はその堂のなかへ倭人主従を招じ入れた。 「こちらが倭国より参った口中医杉山玄とその従者佐吉にございます」  許渾は堂の広間のおびただしい宦官たちにかしずかれた、役者のように色白の優男《やさおとこ》のまえにひれふして言った。よほど権勢のある者にちがいない。主従は丹砂で朱色に塗りこめた土間にはいつくばった。 「これ、おまえたち。このお方は内廷十二監の最高位に列せられたおひとりである秉筆随堂太監《へいひつずいどうたいかん》・王拱辰《おうきようしん》さまであらせられるぞ」  許渾は声を圧して口中医に告げた。  王拱辰は大机のうえに山ほど積まれた文書をうんざりした容子で眺めていたが、玄三郎をみとめると、褐色の絹の長衣をふんわりひるがえしてちかづいてきた。 「太監さまは、立ちあがってよいと仰《おつしや》っている」王拱辰の背後に立った、眼鏡をかけた唐通詞が、叩頭の礼をつづける倭人主従に声をかけた。 「そちが杉山玄か」  太監は倭人の顔をじっとみつめた。ねっとりからみついてくる異様な光を放つ目だ。 「そちは皇太后陛下の噛み歯を拵えてくれると承知したのだな」 「はい、おおそれながら」玄三郎はふかぶかとお辞儀をして言った。 「そちの|うで《ヽヽ》のほどは、この許渾めからきいた」太監は白い歯ならびをみせつけるようにしていった。「そちはとびきり上等の若返りの術を施すとみえる」 「いえ、とんでもありません。ただの入れ歯師でございます」 「いやいや、その入れ歯の法こそ、この王城でもついぞきいたことのない若返りの魔術だ。この老いぼれ許渾めさえ、物をかみしめ、味わいまで取戻したそうな。皇太后陛下はそちのくるのをいたく待ちわびておられるぞ」 「もったいないかぎりでございます」玄三郎はおそれいって|くわい《ヽヽヽ》頭を撫でた。 「皇太后陛下はこの二年ほどのあいだにすっかり歯がぬけおちて、好物の羊肉がお召しあがりになれぬ始末だ」太監は広間をゆっくりあるきながら言った。「宮廷の口中医どもめが手をこまねきおってな。そちのことをもっと早く知っていたら、なんとかしてあげることもできたろうに、まこと残念だった」  太監はかたわらの附人に申しつけた。 「この者たちに茶をふるまえ」 「そのまえに——」と附人のひとりがまえにすすみでた。「念のため、倭人どもの所持品をおしらべねがいます」 「おお、そうであった」王拱辰はうなずいて、さしだされた椅子にどっかとすわった。太監じきじきに閲《けみ》する習《なら》|わし《ヽヽ》とみえる。 「おまえたち、はだかになれ」  眼鏡の通詞が倭人主従に命じた。 「ええっ、こんなところで裸になるんで?」 「やむをえん。皇太后さまのまえに侍るにはこれがきまりだ」通詞は眼鏡をおしあげると、そっけなく言う。ふたりは前を抑えて素っ裸になった。老公たちは|ひョひョ《ヽヽヽヽ》と奇声をだし、うらやましげな目つきで、|ぶうらり《ヽヽヽヽ》さがったふたりの一物《いちもつ》をのぞきこむ。主従は顔をゆがめて歯をくいしばった。 「こんなものをかくし持っておりました」佐吉の道具箱からひと揃いのよく磨かれた鋭いノミと彫刻刀と木槌《きづち》をみつけだした附人のひとりが尖《とが》った声で言った。「太后陛下の御前では身に寸鉄をも帯びてはならぬのに」 「そ、それを召しあげられては——」玄三郎はふんどしをしめると手を合わせるようにして頼んだ。「皇太后さまに入れ歯をつくって差上げることができなくなります。その刃物はあたくしどもには命のつぎに大切なもので……」  許渾が太監にむかってなにやら説得しだした。決して危害をくわえるためのものではない、と説いているようだ。王拱辰はみじかくうなずいた。「うむ、その小刀は返してやれ」  もうひとりの附人が、呂宋壺をとりだして太監のまえにおく、そのあまりに無造作なあつかいに、ヒビ割れでもしまいかとひやひやした。 「この壺はなんのためだ」太監はけげんな顔できいた。「入れ歯づくりに用いるのか」 「いェ、その……」玄三郎はどぎまぎして口ごもった。こんなところで大切な壺を召しあげられてしまっては、肝心のお役目が果せぬ。 「さあ、杉山玄、もうしあげるんだ」倭人の妙な|そぶり《ヽヽヽ》をすばやく看てとった賈珍が脅《おど》すようにうしろからつつく。玄三郎は仕方なしに口をひらいた。 「へえ、この壺は日本国の将軍より明国皇帝陛下に献上するようお預りした、太閤秀吉の秘蔵の品でして……」  通訳をきくと、王拱辰の目つきがにわかにけわしくなった。 「なに、秀吉の用いた壺だと?」  そのとき、べつの附人が、こんな書状が、と大御所の封書をさしだす。王拱辰はまだ陛下がおよみになっておらぬというのに、勝手に封を切ってしまった。太監は眼鏡の通詞に、みなのまえで書状をよみあげるよう命ずる。通詞は朗朗たる明語《みんご》で手紙をよみだした。  よみすすむにつれ、太監はうんうんとうなずき、いやいやと首をふる。まわりの附人たちも太監の表情を窺いながら、首をタテにふったりヨコにふる。 (はて、なにがかいてあるんだろう)玄三郎はいぶかった。通詞のたすけがなければ、内容をのみこむにはむずかしすぎる。  よみおわると、王拱辰は荒あらしく立ちあがった。大御所の献上品のまえにつかつかとちかづく。そして、まったくおどろいたことには、壺の|ふち《ヽヽ》をつかむと、いきなり床めがけて、力まかせに叩きつけたのだ。  |がちやん《ヽヽヽヽ》。 ≪抱花月≫はみるも無残にくだけちった。  宦官たちが|うおッ《ヽヽヽ》、と喚声をあげた。 「|わわわわ《ヽヽヽヽ》、三万両の壺が……」  主従はわなないて悲鳴をあげ、その場に棒立ちとなった。「どうして、陛下にさしあげる、大切な壺を……」玄三郎はあえぐように太監に訊いた。 「わしの兄は、朝鮮国へ出兵して、秀吉の軍勢になぶり殺しの目に遭った——」  王拱辰は、はるかな地にむかって悼《いた》む目つきでつぶやいた。「その憎い倭人の頭目が用いた壺など、みるも汚らわしいわい」  起伏のはげしい気性《たち》なのか、つるりとした頬に涙をぽろぽろ伝わせる。 (サムライなどを宮廷にひきいれたら、わしの首が危い)許渾がおびえていたのは、このことだったのか。玄三郎はいまにしてようやく思いあたった。 「陛下も、逆賊秀吉の壺など、およろこびになるはずがない。家康の手紙によれば、ほかに献上品もあることだ。この茶壺は打ちこわしてよい。陛下にも、そう伝える」 「し、しかし、王拱辰様」口中医は恨めし気に見上げて言った。「その品は、日本国では銀二千貫もいたします。どうやって贖《あがな》えばよろしいものやら……」  太監はけろりとした顔に戻って言った。 「そちは心配せんでよい。あんな葉茶壺、市場へ行けば、捨値《すてね》でいくらも売っている」  そんなことより、と太監は倭人の顔をじっと見つめて言った。「そちは太后陛下のため、とびきりの噛み歯をつくることに精を出せばよいのだ」 「で、でも、家康公の御書状は? あれはいったい、どこへどうなるので……」 「そちもいささかくどいな。あの手紙の件は、司礼監太監|魏馮回《ぎふうかい》さまの御処置にまかせればよい」  これ以上、倭人のことなどかかずらわりとうない、といった顔つきを見せると、太監は附人たちに命じた。「この者どもを、皇太后陛下の御前につれて行く手筈をととのえよ」  さあ、おまえたち、これに着がえるのだ、と賈珍が言い、附人たちが衣裳を手にして倭人をとりまいた。玄三郎は袖に草模様の縫《ぬい》とりのある柔らかな絹の袷《あわせ》に|こげ《ヽヽ》茶の頭巾《ずきん》をかぶせられ、繻子《しゆす》の鞜《くつ》をはかされる。佐吉はすべて灰色ずくめの頭巾と|上っぱり《ヽヽヽヽ》と長靴《ちようか》をあたえられた。  主従は許渾に促されて協恭堂をでる。だが玄三郎は浮かぬ顔である。皇太后の御前に召出されるのはこのうえない栄誉だが、大御所の献上品を打ちくだかれてしまったのは、なんとしても無念だ。あの大事な書状も、陛下に|じか《ヽヽ》にお渡しできずにおわってしまった。国へかえって、なんといいわけすべきだろう……。 「おまえたちは運をつかんだ」  許渾はならんで歩きながら言った。「太后陛下のもとに侍ることができれば、莫大な財産、あまたの美女を手にいれたも同然じゃ」 「まさか、そんなだいそれた……」  口中医は力なく首をふった。 「いや、いまにわかる。とにかく、わしについてくるのじゃ」  許渾は賈珍や附人たちとともに、ふたりの倭人をとりかこむようにして隆宗門にむかっていそぎ足でいく。   西 華 門  総勢二十人あまりの許渾の一行は隆宗門を西へぬけた。ここであらたに十人の宦官が行列にくわわる。門のむこうに皇太后陛下の御座所である慈寧《じねい》宮のそり反った|るり《ヽヽ》瓦がみえた。だが許渾はそちらへむかわず、歩を南へすすめた。左手には先刻通った皇極、中極、建極の外朝三大殿をかこむ代赭《たいしや》の壁がおおいかぶさり、はるか前方には、皇極門の西に位置する武英殿《ぶえいでん》の大屋根がまばゆく光っている。玄三郎も佐吉も、もはや|くたくた《ヽヽヽヽ》だった。前門からここまで、どれほど歩いただろう。それにしても、宦官たちはじつによく歩く。許渾とて、かなりの年寄のはずだが、つかれた容子もない。それどころか、附人たちと歩調をそろえ、ホッホ、ヨッホ、ホッホ、ヨッホ、とふくろうの啼き声にも似た奇妙な掛声をあげ、早足であるく。  やがて、武英殿の東を蛇行する金水河に架かる断虹《だんこう》橋をこえ、紫禁域の西門にあたる西華門に到着した。許渾と賈珍が門前の衛士どもになにごとか声をかける。衛士の頭《かしら》がぺこぺことうなずき、部下をよんだ。  しばらくして西華門の前に二台の轎《かご》が用意される。賈珍が倭人主従に轎にのるよう手招きした。西華門まで同伴した眼鏡の通詞はいつのまにか見あたらず、玄三郎には唐人語しか耳に達せぬ。そういえば、許渾の姿も失せている。  二台の轎は西華門をでると西へむかった。轎のまわりには、宦官のほか屈強の衛士どもが附添っている。門の外は強風が吹きあれていて、ひどい土ぼこりがたっていた。陽はまだ高い。土ぼこりのあいだから、とぎれとぎれに中南海のうっそうとした樹林と湖岸に立つ小宮殿や楼閣がみえた。 (いったい、どこへいくつもりか……)  口中医はすこしばかり不安になった。轎はしばらく揺れていたかとおもうと、すぐとまった。宦官たちのホッホ、ヨッホの掛声もやんでいる。轎の外をのぞくと、そこは赤い土塀《どべい》をめぐらした小邸のまえだった。賈珍が手まねきで佐吉をよんでいる。佐吉は附人たちにひっぱり込まれるようにして、小邸のなかへはいっていった。玄三郎は轎のなかに待たされる格好になった。  どこか見おぼえのある邸——。玄三郎はおもった。そうだ、いつか西大門のそばでみた赤い土壁に囲まれた廠子《チヤンツ》そっくりの造りだ。するとここはもう一カ所あるという去勢のための手術場だろうか。ではまた誰かの宮刑《きゆうけい》を見物することになるのかしらん。もう、あんな手術をのぞくのはコリゴリだというのに——。 「ひえーっ」  突然、小邸のなかから悲痛な叫び声がきこえた。まさか、あの悲鳴は。玄三郎は|はっ《ヽヽ》、とした。 「若先生ェー、たすけてくだされェー」  まちがいなく佐吉の声だ。玄三郎は轎のなかで硬直した。そして一瞬のうちに、とほうもない羽目におちいったことをさとったのだ。(家康の手紙によれば、ほかに献上品もあることだ)王拱辰のことばが玄三郎の脳裏に|ちかちか《ヽヽヽヽ》とひらめいた。  明国との交易をはかるため、北京城におくりこまれた大御所のもうひとつの献上品。それがほかならぬこのおれたちだったのか。でなければ佐吉とふたり、こんな所で後悔《ホウフイ》不後悔《ブホウフイ》もたしかめられず、だしぬけに宮刑に処せられるはずがない。明国の貴人の入れ歯づくりに順天府まで渡海する、などというのは態のいい口実にすぎなかった。おれたちは江戸をでる|はな《ヽヽ》から、貢ぎ物となるべく定められていたにちがいない。師匠はそれと知らず、よろこんでおれたちを送りだした。だが、そのさきにこんな怖ろしい運命が待ちかまえていようとは。おれたちは江戸へかえるどころか、閹人に仕立てあげられ、皇帝や女官や宦官どもの噛み歯づくりに奉仕する奴隷《どれい》にされて、一生をこの魔窟《まくつ》のような紫禁城ですごさねばならぬ。  そんな目にあうのはまっぴらだ。死んでも去勢の手術など受けるものか。だが、このままでは佐吉のつぎにおれがやられちまう。  ああ、おりくよ、おまえはおれがここでこんなひどい目にあおうとは露知らず、ひたすら帰りをまっているだろう。 「ひえーっ」  ふたたび佐吉の絶叫がきこえた。  玄三郎はわれにかえった。轎のなかから外の容子を窺う。宦官と衛士どもは土ぼこりをさけるように轎の一方のわきに集っている。 (佐吉や、ゆるしておくれ)  玄三郎は小邸にむかって詫びを言った。 (おれはなんとしても江戸へもどる。おまえのことは生涯忘れはしないよ)  玄三郎は轎の幔《おおい》をはねあげると、いきなりとびだした。宦官どものあわてふためく声がした。玄三郎はあらんかぎりの力をふりしぼって韋駄天《いだてん》走りに疾駆する。心の臓があおり、肺の臓が黄塵《こうじん》を吸いこみ、目のまえがくらくらした。土ぼこりのむこうに寺院がみえ、大街《ターチエ》のざわめきがきこえた。だが、なんということだ。その手前に高いレンガの壁があるではないか。衛士どもが口口に叫びながら迫ってくる。「ちくしょうめ!」行き場を失って玄三郎は地団駄《じだんだ》をふんだ。おりくゥー、玄三郎はさけびながら、とうてい届かぬ高塀にむかって、爪をたててとびついていった。   乾 清 門 「さあ、殺せ、殺せ、殺せ、殺せ、コロセ」  両手を括《くく》られた玄三郎は、|あぐら《ヽヽヽ》をかくと自棄《やけ》っぱちになってどなった。  乾清門まえの広場は、捕えられた玄三郎を遠まきにして、黒山のような宦官と宮女たちで埋まっていた。 「さァ、賈珍さんよ。ひとおもいにバッサリやってくれ。この期《ご》におよんでじたばたなどしやしない。おれだって覚悟はできているんだ」 「まて、杉山玄よ。はやまるでない」眼鏡の通詞の通訳をきくと、賈珍は小さな身をかがめて、なだめすかすように言った。「なにもおまえをあやめようというのではない。ただ手術を受けさえすればよいのだ。それでとどこおりなく皇太后さまの御前に参上できるではないか」 「よせやい」玄三郎は|あぐら《ヽヽヽ》をかきなおした。「そんなマネをされるくらいなら、あの世へいくほうがずっとましなんだ。さァ、さっさと殺《や》ってくれ」  賈珍は首をひねった。「杉山玄よ、おまえはなにか思いちがいをしているのではないか。生涯、皇帝陛下のおそばちかくで安楽にくらせるという、明人にもめったにない光栄に浴するというのに、どうしておまえは宮刑を躊躇《ちゆうちよ》するのだ」 「てやんでエ、思いちがいはそっちの方だ。とにかくあたしは男の|もの《ヽヽ》をチョン切られるなんてまっぴらなんだ。おれの一物《いちもつ》をとりあげでもしてみろ、いますぐこの場で舌をかみ切って死んでやるから」  賈珍はぎょっとして後ずさりした。 「なんだ、賈珍。どうした。おれの素《そ》っ首をはねるのがそんなに怖いのか。おまえたちは歯をぬき、目玉をくりぬき、脳|みそ《ヽヽ》を喰《くら》うのがなにより好きだったろうが」  知らせをきいて許渾があたふたと駆けつけてきた。すぐ倭人のナワを解くよう賈珍に命ずる。附人たちがこわごわ結び目をほどいた。 「これ、杉山玄よ。どうしたというのじゃ。なぜ、よろこんで宮刑を承知し、さっそく皇太后さまの御座所に参内しようとせぬのじゃ」 「ええい、老いぼれ許渾め。おれに極上の総入れ歯を拵えてもらった恩も忘れて、よくもぬけぬけそんなことをぬかしゃがる。このおれにとって、去勢の術をうけるなど、まっぴら御免だということがなぜわからんのだ」 「わからぬ。どうしておまえは陛下のおそばに侍《はべ》るという無上のよろこびをお受けしようとしないのだ」 「このトンチキめ」口中医は立ちあがった。 「手術さえおこなわぬなら、どんな貴人のまえにも侍ってみせるというのがわからないのか」 「宮刑をうけねば、この内廷の宮殿へは一歩たりともはいることはまかりならぬ。明朝三百年のながい歴史のなかで、手術をうけずに後宮に暮した者はだれひとりおらぬのじゃ」 「わかった。じゃおれは宮殿へいくのはやめだ」 「では、皇太后の入れ歯の約束は?」 「もう、皇太后の噛み歯などつくるのはやめたよ」 「そんな得手《えて》勝手をいうものじゃない」 「勝手なのはおまえたちだ」 「賈珍や、王拱辰さまを呼んでおくれ」許渾はいらだって言った。「わしではとても手におえぬわい」 (さあ、誰をよぼうと、おれはもうこわくなんかないぞ。一物をとられるくらいなら、さっさとあの世へ行ってやる)玄三郎は腕まくりすると、腹を据え、またもその場にすわりこんだ。  王拱辰は長衣をひるがえしながら、あわてくさってやってきた。 「杉山玄。そちはどうしたのだ。なぜ、そのように意地をはって入れ歯をつくろうとせぬ。皇太后さまがお待ちであらせられるぞ」 「うるせえやい。おれはもう、入れ歯など、二度とつくりゃしないんだから」 「入れ歯をつくれとは、おそれおおくも、皇太后陛下の思召《おぼしめ》しだ。そちはそむくわけには参らぬぞ」 「ああ、いいとも。その|おぼしめし《ヽヽヽヽヽ》とやらにいくらでもそむいてやる。ただし、おれに手術をしないと約束すれば、話はべつだが」 「手術をせねばそちは生きてはおれぬぞ」 「ほゥ、のぞむところだ。いつでも殺《や》ってくれ」  いまや倭人口中医は一歩もあとにひかず、王太監にむかって言い放った。「煮るなと焼くなと、どうでもしてくれ。おれはもう、入れ歯なんかつくりはしないよ」  王拱辰の顔色が|すうっ《ヽヽヽ》と蒼くなり、脂汗が滲《にじ》みだした。王は許渾となにごとかささやきかわしている。すでに陽は西の空に傾いていた。 (どうして宦官どもは、あんなにも慌てふためいているのだ。おれが入れ歯をつくらぬと断言したからか。それとも宮刑を承知せぬからか……)  ——宦官どもの泣きどころは、陛下の命令には絶対服従せねばならぬことだ。  そのとき、ふと、いつかきいたことばがうかんだ。(そうだ。このおれが入れ歯をつくらねば、皇太后陛下の御意に従わなかった罪で、奴らは窮地に陥るにちがいない。さりとて、宮刑をうけぬこのおれを皇太后のもとに侍らすこともならぬ。それであんなにも慌てふためいているんだ。こりゃ面白い。おれはおれの入れ歯の|うで《ヽヽ》を武器に奴らをやっつけることができるかもしれぬぞ。ようし、こうなったら佐吉の仇をとってやる。奴らの鼻|づら《ヽヽ》をつかんでひきずりまわしてやる) 「太監どのはなにをさわいでおいでかえ」  騒ぎをききつけて管家婆《かんかば》(皇女の執事)の李金連《りきんれん》が広場にあらわれた。「こんな場所で罪人の詮議《せんぎ》は御法度《ごはつと》なのに」 「おう、これは李|老太《ラオタイ》(女官)どの」  王拱辰は老女官にすがるように訴えた。 「太后陛下の総義歯をつくるはずの倭人めが、どうしても宮刑をうけぬと言い張っています。強行すれば舌を噛み切るというので難渋いたしておるのですが」 「たかがそれほどのことに、どうして太監どのは手こずっておられる。宮をなさずに皇太后さまの御許に連れゆけばよいでしょうに」 「そ、そのような。宮刑なしで内廷に侍った者は明朝|開闢《かいびやく》以来ひとりだにおりませぬぞ」 「そうかい。じゃあ、いったい、だれが皇太后さまに入れ歯をつくって差上げるというの?」 「しかし、そのような先例が……」 「先例がなければ、いまつくるのです」 「そんな無茶な」 「では太監どの。太后陛下の御意にさからおうとでもいうのかえ」李金連は爪をとがらせた指で首をしめる真似をした。「陛下の思召しにさからえば、その罪が死に値《あた》いするのはよく御存知のはず」  いまや王拱辰は必死の形相だった。 「おねがいだ。杉山玄どの。あなたの願いはどんなことでもかなえて進ぜよう。どうか手術を承諾してくれ」 「なにをぬかす、このペテン野郎。ひとの許可《ゆるし》もえずに、チン切りなんぞやろうとしやがって」  太監はついに倭人の足下に跪拝《きはい》して言った。「いや、あれはあなたの国王家康どのが、あなた方をわが宮廷の献上品にさしだすむね、書状にかきそえて寄こしたゆえ……」 「なにをいやがる。この閹人の、タマ無しの、チョン切りの、チン欠けの、削ぎ落しの、去勢《きよせい》野郎め。佐吉のモノを旧《もと》どおりにして返しやがれ」口中医は大御所の仕打ちに|はらわた《ヽヽヽヽ》がにえくりかえるおもいがつのり、わめきたてた。「こうなったら東廠《とうしよう》の長官をよぶんだ。宮刑を執行せぬよう直訴してやる」 「いえ、そんな。陳全愚《ちんぜんぐ》長官をここへ呼びつけるなんて、そんな失礼な……」 「よし、ならばこの場で舌をかみ切ってやる。たとえ死にきれずとも、二度と入れ歯がつくれぬよう指を打ち砕いてみせてやる」 「いえ、とんでもない。そんなことをされては、わたしの首がとぶ」  王拱辰は仰天し、すぐさま東廠長官のもとに伝令をやった。陳全愚は右肩に小猿をのせ、大勢の附人にかこまれるようにしてあたふたとやってきた。陳長官の姿をみとめるや、倭人を遠まきにした宦官も女官も一斉にひれふす。王拱辰は崖っぷちに追いつめられたような形相で長官にしきりに訴える。小猿の背を撫でながら聞いていた北京原人のような陳長官の顔色がみるみるかわった。 「杉山玄どの」陳全愚は肩の小猿を放りだすと、倭人のまえに片膝をついて言った。 「頼みます。太后陛下の入れ歯をつくってさしあげてくれ。このことは太后陛下が司礼監太監さまにご所望なされ、聖なる帝《みかど》がお口添えなさったことなのだ。いわば帝の仰せでもある。帝のお言葉は�金口玉言《きんこうぎよくげん》�。誰も逆らうことはできぬ。あなたが入れ歯をつくらねば、われら一同、即刻、首を刎《は》ねられてしまう」陳全愚は突き出た|あご《ヽヽ》を|わなわな《ヽヽヽヽ》ふるわせて言った。小猿はふたたび主人の肩によじのぼり、キキッと|あご《ヽヽ》をふるわせる。 「おまえの首がはねられようと、おれの知ったことじゃない」玄三郎は立て膝をして|あぐら《ヽヽヽ》をかくと、長官をまっすぐ見て言った。 「おれは、おれの一物を刎《は》ねられるほうがもっと重大だ」 「さようなことを仰《おつしや》らずに、ぜひ入れ歯をつくってくだされ」 「じゃあ訊くが、おれの一物を決して奪わぬと約束するか」 「さあ、それは……」 「では入れ歯などつくらんよ」 「そんな、ご無体《むたい》な」 「無理をいっているのは、そっちの方だ」 「このままでは、われらはみな斬首になる。王拱辰よ。ここは司礼監太監さまのお指図《さしず》を仰ぐほかいたしかたあるまい」  陳長官は桃色の衣の袖で冷汗を拭った。  司礼監太監|魏馮回《ぎふうかい》は、かぞえきれぬほどの老公たちをひきつれ、急ぎ足でやってきた。玄三郎と陳全愚をのぞくすべての者がおそれ入ってその場にひれふす。司礼監太監は陳長官より委細を糺《ただ》すと、その石像のような顔を、日の沈みだした西の空にむけて長嘆息をついた。 「杉山玄どの。どうしても入れ歯をつくってはくださらぬと仰《おつしや》るか」 「宮刑を行わぬと、しかと誓《ちか》うなら、かんがえなおしてやってもいい」玄三郎は目をむいて司礼監太監に言った。 「そのような前例はこれまでにありませんのでな」 「それじゃ承知できねえ」 「はてさて、いかがいたしたものか」 「それはおまえさんの肚《はら》次第さ。さァ、皆のまえでこの倭人に去勢の手術は致さぬと天にちかってみせよ」 「さあ、それは——」 「さァ」 「さあ——」 「さァ」 「さあ」 「さァさァさァさァ」 「太監さま。皇太后さまより、倭国の入れ歯師はまだが、と御催促でございます」  慈寧宮からきた使いの女官が魏馮回のまえにひざまずいて言上《ごんじよう》する。 「む、む、む」魏太監は額の汗を手のひらでぬぐって言った。「おおそれながら、今しばらくお待ちのほどを、とお伝え申しあげてくれ」 「皇太后さまには、今日の目通りの約束を、いまかいまかとおまちのご容子で……」 「あー、わしはいったい、どうすればよいのじゃ」魏馮回は頭をかきむしり、頬をゆがめてへたりこんだ。「な、杉山玄どの。おねがいじゃ。宮の手術をうけてくだされ」  宦官最高位にある司礼監太監は、玄三郎のまえにはいつくばると、叩頭した。なみいるすべての宦官どもも、これにならって一斉にその場に叩頭し、太監に唱和した。 「杉山玄さま。われら一同のおねがいじゃ。どうか手術をお受けくださいますよう」  玄三郎はその願いを無視するかのように、すっくと立上ると、無数の宦官のひれふすなかを、皇太后|御附《おつき》の女官をしたがえ、慈寧宮にむかってゆっくりあるきだした。  慈寧宮のそりかえった大屋根の上に、いままさに沈まんとする落陽を覆いかくすように、黄砂の緞帳《どんちよう》が舞いおりはじめる。  〈参考資料〉三田村泰助『宦官』、繭山康彦『北京の史蹟』ほか [#改ページ]  本石町長崎屋   壱、芝口町迎翠堂  旗本だの、御家人だのと、いくらお侍が威張ってみせたとて、おれたちには通用せぬ。いったん、この樫の木造りの手術台に仰臥《ぎようが》すれば、真に胆っ玉のすわった勇者か、とんでもない腑抜《ふぬ》けかは、忽《たちま》ち露見せずにはおれぬからである。  このまえ来診した御先手《ごせんて》組の組下にしたところで、毛孔の大きい脂《あぶら》ぎった赫《あか》ら顔に、いかつい目玉をぎょろつかせ、胴間声で横柄な口をきく武張ったお侍だったが、 「この白内障《しろぞこひ》は手術せねば治りませぬぞ」  と、若先生に宣告されて、みるみる血の気を失い、手にした鉄扇をぽろりと落した。 「ど、どうかお手やわらかに」  手を合わせる奴さんを手術台に横たわらせ、金輪際動かぬよう二人掛りで頭を抑えつけ、若先生が赤柄の長鍼《ちようしん》を把持《はじ》して奴さんの目玉に迫ったとたん、 「うわっ!」  と叫んではね起きおった。  胆のすわった男なら、目玉を|くわっ《ヽヽヽ》と拡げたまま、観念してしまう潔《いさぎよ》さがある。女子衆《おなごし》でさえ、いざとなれば爼上《そじよう》の鯉さながら、いかなる男どもより動じたりはせぬ。  だが、この臆病御家人ときては、手術台にしがみついたまま、わなわな顫《ふる》えているばかりである。このような手合を扱うには、この眼科治療所〔迎翠《げいすい》堂〕に旧くから伝わる手順がある。  おれたち五人の医員見習は互いに目弾《めはじ》きを交わし、同時に御先手組にとびついた。毛むくじゃらな手足をつかみ、抑制帯をしごいて手術台上にぎりぎり結えあげる。それからおもむろに猿轡《さるぐつわ》を噛ませるのである。目病みは恐怖のあまり己《おの》が眼《まなこ》を見ひらく。そこをすかさず上眼瞼《うわまぶた》と下眼瞼のあいだに鉄製の開眼鉤を引掛ける。こうなればどんなに|※[#「足へん+宛」]《もが》こうと、いかんとも仕方ない。目玉は三色|出目《でめ》金のそれのごとく露出せざるを得ぬ羽目となるのである。  療治覚え帖によれば、この御先手組は向島に花見にでかけ、泥酔した揚句、仲間同士取っ組み合いの喧嘩となり、右目をしたたか撲《なぐ》られたという。 「その折の怪我がもとで、水晶体を包む|ふくろ《ヽヽヽ》が破れ、白内障《はくないしよう》が起ったのであろう」  というのが、大《おお》先生の嗣養子《あとつぎ》たる土生玄昌《はぶげんしよう》さま、つまり若先生の講釈である。 「放置すれば右眼のみならず、尋常なる左眼も失明するにいたろう」  これを治すには、濁って役だたずとなった水晶体を取りのぞくほかない。それには横鍼術《おうしんじゆつ》なる白内障手術を施すのである。  まず手術助手が患者の頭を|しっか《ヽヽヽ》と抑える。術者は長鍼を手にして目病みの枕頭に立つ。つづいて患側の眼瞼を飜転《ほんてん》し、眼球角膜縁側方より結膜に向い、|ぶすり《ヽヽヽ》と鍼を斜めに突き刺す。鍼の尖端が瞳孔《どうこう》の真ん中に及んだところで、鍼先を水晶体に引掛け、これを眼球の奥の方、つまりどろどろの硝子体《びいどろ》のなかへ一気に突き墜《おと》すのだ。かくして内障《そこひ》の外《と》れた目病みは、忽ち視力を取戻すことができるのである。おれたちが修業に励んでいる迎翠堂の塾師にして、将軍家眼科奥御医師であられる大《おお》先生こと土生玄碩《はぶげんせき》法眼が、かつて大坂御堂筋の眼科医三井|元孺《げんじゆ》先生のもとで修業中|会得《えとく》されたのが、この秘術である。  安芸国《あきのくに》の一介の田舎目医者にすぎなかった大先生が、芸州侯の侍医に召出され、あれよあれよというまに将軍家の奥御医師にまでのしあがってしまわれたのも、盲者を一瞬にして目明きにかえる、この術の腕を持ったればこそなのだ。  おれも一度だけ大先生がこの秘術を施すところを遠くから垣間見させてもらったことがある。褐色のシミの浮きでた剃髪、皺《しわ》で刻んだ黒い巨きなお顔、盛りあがった鼻に水牛の縁眼鏡《ふちめがね》をかけ、老人には無気味なくらい巨きな目を鋭く光らせ、麻の手術衣をひるがえし、患者の顔に覆いかぶさるようにして長鍼をひらめかせていった御姿は、いまだにおれの脳裏に焼きついて離れない。これこそ神技だ、と感じて、総身がぞくぞく震えたことを覚えている。  だが、この手術とて無欠というわけにはいかない。ときには水晶体が毛様体《もうようたい》に癒着《ゆちやく》したまま剥《はが》れず、硝子体《しようしたい》の底へ墜《お》ち切らぬこともあるのだ。 「開瞳《かいどう》の妙薬さえ見つかれば……」  白内障の講釈の最後に、若先生はきっとこうつけくわえる。 「白翳《そこひ》なんぞ、目玉の外へ放り出してやるんだが……」  たしかに水晶体を眼球からつまみ出すには瞳《ひとみ》の孔《あな》は狭すぎる。そんなわけで、この横鍼術とて、二年まえの文政七年、まだ二十代半ばの若さで西御丸の眼科掛奥御医師に登庸《とうよう》された若先生の腕をもってしても、十人のうち四、五人は不首尾を免れぬのである。 「だが、そのような奇薬を望むのは、唐国《からくに》に火鼠《かそ》の皮衣を求むる|たぐい《ヽヽヽ》じゃな」  浅黒い細面に苦笑をうかべながら、若先生はこういって講釈をしめくくるのである。 〈——|ひとみ《ヽヽヽ》をぱっと開く奇薬があったなら……〉という願いは、おれたち医員見習がたえず胸に抱きつづけてきたところでもあるのだ。  それというのも、土生流眼科の手術法——それには横鍼術をはじめ、直鍼術(白内障手術の別法)、小鋒鍼術(角膜を穿孔《せんこう》する法)、破鍼術(眼瞼|膿瘍《のうよう》の排膿法)、穿瞳《せんどう》術(虹彩《こうさい》に孔をうがち、仮の瞳孔を造る法)、挟胞術(|さかまつげ《ヽヽヽヽヽ》の根治法)、緊鋏《きんきよう》術(眼球異物の剔出《てきしゆつ》法)といった数かずの秘法があるのだが、これらを実地に稽古するには、その修錬に用いる実験《おためし》犬の瞳孔が開かぬことには、にっちもさっちもいかぬからである。  この迎翠《げいすい》堂の在る日本橋芝口町一丁目|界隈《かいわい》の野良犬は、おれたちに掴まるまでは、歯をむきだし、低く唸りながら瞳孔《ひとみ》を|らんらん《ヽヽヽヽ》と拡げるのは確かである。が、いざ捕えて修技にとりかかろうとすると、爪楊枝《つまようじ》の先ほどにも縮瞳《しゆくどう》させてしまい、おれたちを悩ませるのである。  生暖かい風の吹く春たけなわのタベ——。一日の仕事をおえて、おれたち医員見習は迎翠堂の大風呂につかっていた。この眼科医塾は六百坪の屋敷のなかに母屋と診療所、寄宿寮に薬草園を備えている。診療所は待合部屋、診立《みた》て部屋、療治部屋、薬部屋と手術所にわかれ、遅咲きの桜の花びらが舞込んでくるこの風呂舎は、手術所のつづきにある。  ところで、この塾ではおれたち見習医者は修業の為と称して古参者たちに|こき《ヽヽ》使われている。押寄せる目病み患者の玄関取次。通い療治の目洗いや包帯換え。療治日誌の整理に手術道具の血糊《ちのり》洗い。めまぐるしい雑用が一段落すれば薬部屋にせきたてられ、薬袋《やくたい》の仕分けをさせられる。汲炊《きゆうすい》掃除こそ下男がやってくれるが、残りの雑務はすべておれたちのお役目である。  わけても人使いの荒いのは、おれたちが古狸共と呼んでいる岩洞どの、梅軒どの、素庵どのといった最古参者たちである。連中は患者の未払い療治費の取立て役や、おのれの腕のせいで不首尾におわった手術患者のお詫び役までおしつけてくる。そのうえ近頃は、大先生が大公儀より浅草宗右衛門町に役宅を賜わり、芝口町へは滅多にお見えにならぬをいいことにして、塾頭どのに媚《こ》びへつらい、塾中を意のままに動かしている。若先生といえども、今のところ、連中には手が出せぬ。大先生には内証で渡りをつけた富裕な患家のもとへ、いそいそと往診にでかける古狸共を、おれたちが見て見ぬふりをしているのも、連中に楯つけば、本手術の助手の順番など決して廻ってこぬからである。  まい日、息つくまもなく仕事に追われ、俗謡、淫楽《いんらく》、賭事、外泊など一切を厳禁されているおれたち見習者にとって、羽根をのばせる唯一の場所がこの風呂舎なのだ。  その晩も、五人の見習医員が、|めりやす《ヽヽヽヽ》なんぞを唸りながら、とっぷり浴槽に身を沈めていると、 「おい、おまえたち、おどろいちゃいけないよ」  早耳のお仙と綽名《あだな》される兄弟子の仙安さんが、|ざぶん《ヽヽヽ》と湯舟にとびこんできた。 「うちの若先生が夢にまでみたという瞳孔散大の奇薬が、この大江戸のど真ン中に現われたとしたらどうする?」 「ご冗談でしょう。そんなものにお目にかかれたら、日本橋の欄干《らんかん》を裸で逆立ちして渡ってみせまさあ」 「吐《ぬ》かしたな、玄良。おまえには明日にも逆立ち芸をやって貰わにゃなるまいて」  玄良はおれと同室の見習者である。仙安さんは手拭に空気玉をおし包み、湯の中で|ごぼり《ヽヽヽ》と大きな泡音をたてて言った。 「断わっておくが、こいつはいつもの早|とちり《ヽヽヽ》とは大違いなんだぜ。なにせ異人宿に滞在しているオランダ医者がその目薬を携えてきたんだからな」 「へえー。すると今江戸で評判は、七代目団十郎《しちだいめ》かシーボルトか、と騒がれているあの和蘭《オランダ》医者がですかい?」 「図星だよ。しかも大先生はその妙薬をシーボルト殿から御裾分《おすそわけ》して貰ったらしい」 「へえー、じゃあ逆立ちは取り消し」 「こいつ!」  だが仙安さんの姿が見えなくなると、おれたちは小声で囁きあったものである。 「いくら|おらんだ《ヽヽヽヽ》渡りとはいえ、瞳孔を開く目薬があるとは、到底信じられんなあ」 「なあに、例によって仙安さんにかつがれたのさ」  早耳のお仙のいつもの法螺話《うそつぱち》、とふんだのは、しかし、とんだ見当ちがいだった。  翌《あ》くる晩、はやくも塾の大広間で、シーボルト殿よりわけて頂いたという開瞳の奇薬のお試《ため》しがおこなわれることになったのである。  |おらんだ《ヽヽヽヽ》渡りの散瞳薬のお試し役を真っ先に買って出たのは、珍奇なる品と聞けばすぐにも跳びつく古参者の大島《だいとう》さんだ。服紗十徳をお召しになった若先生が赤手箱を捧げ持つ玄庵塾頭とともに、二十余人の門下生の待つ大広間へお越しになる。  大島さんは額の上に恐怖《おそれ》とも喜悦《よろこび》ともつかぬ縦皺を寄せ、畳の上に人身御供《ひとみごくう》よろしく仰臥していた。若先生は大島さんの枕元に身を屈《かが》め、塾頭どのより赤手箱をうけとると、なかから|えび《ヽヽ》茶色の|ねり《ヽヽ》薬を詰めた貝の器をとりだした。若先生は塾頭どのの差出す眼捧《がんぼう》の両端にこの|ねり《ヽヽ》薬をすくい取り、うやうやしく一礼される。  やがて若先生は大島さんの両眼に|ねり《ヽヽ》薬をていねいに塗りこめた。塾中一同、固唾《かたず》をのんで注視する。しばらく目蓋《まぶた》をもぞもぞ動かしていた大島さんはむっくり起きあがると、|くわっ《ヽヽヽ》と両眼を見ひらいた。 「おおっ!」  大島さんを取巻いていたすべての者が、おもわずどよめいた。  その団栗眼《どんぐりまなこ》の|ひとみ《ヽヽヽ》は、張子|達磨《だるま》の目玉のごとく、黒ぐろとおしひらかれている。 「ややっ。瞳孔がひろがりっぱなしじゃ」 「まるで闇夜の黒猫の目のようではないか」  塾生たちが口ぐちに叫んだ。  大島さんはゆっくり立ちあがった。なにが憑物《つきもの》にでもつかれたようなおぼつかない足どりで二、三歩まえに進みでる。小柄な躰が船酔いしたようにゆらゆら揺れている。  と、こんどは両手をつきだし、虚空《こくう》をまさぐりはじめた。それも束の間、|ひゃっ《ヽヽヽ》という叫び声とともに畳の茶縁に蹴躓《けつまず》き、大きく|もんどり《ヽヽヽヽ》を打って敷居の角に頭をぶつけ、そのまま正気を失ってしまったのである。  後日、大島さんが得意満面で語るには、大広間の柱も障子も畳も人も、すべてが光り輝き、眩《まぶ》しくって堪らなかったそうである。近くの物は殆んど見えず、遠くのものは小さくぼやけ、おのれの足元ははるか遠くに隔たり、五尺の短躯《たんく》が七尺の長身に変じたごとき感を覚えたという。 「なんとしても、この希代《きだい》の妙薬の製法《こしらえよう》を、シーボルト殿から訊きださねばなるまいぞ!」  平素《ふだん》、めったに興奮した容子をみせぬ若先生だが、このときばかりは|こぶし《ヽヽヽ》を打ちふり、そう叫ばれたのである。   弐、本町住吉屋  常盤《ときわ》橋御門の東、本町一帯は薬屋の町である。  壱丁目から四丁目まで、鰻《うなぎ》の寝床のように細長い通りには薬屋が軒をつらねてひしめいている。  店頭に板戸をひろげ、抽出《ひきだし》に入れた薬種をならべて干している店があるかと思えば、店のまえに茶釜を据え、竹の柄杓《ひしやく》と金物の茶碗を備え、薬味湯《やくみとう》を煎《せん》じて道往く人に振舞う店がある。いずれの店も、麝香《じやこう》、白檀、伽羅《きやら》、沈香《じんこう》のかぐわしい香りを|ぷうん《ヽヽヽ》と漂わせ、客の心気《しんき》をいやがうえにも昂《たかぶ》らせる仕掛けである。  おれの目指す住吉屋は、|いわしや《ヽヽヽヽ》、伊勢屋といった老舗《しにせ》の大店《おおだな》の並ぶ本町三丁目にある。軒下に屋号を白く染めぬいた黒木綿の|のれん《ヽヽヽ》を吊し、店のまわりに幕|のれん《ヽヽヽ》を張りめぐらせた住吉屋の店先をくぐる。 「へ、いらっしゃいまし」  手代の掛声で帳場に座った番頭の長兵衛が、めざとくおれを見つけた。 「おや、研介《けんすけ》さまじゃございませんか。これはお久しぶりで」  住吉屋は唐物《からもの》を扱う薬種問屋だが、効き目のいい眼薬を調合するので、顧客には目医者が多い。それにはなんといっても、  〔御眼科奥医師土生玄碩様御用達〕  の看板と、番頭長兵衛の才覚がものを言っているのである。お玉ケ池で本道《ないか》を開業するおれの家にも、旧くから長兵衛が出入りしていて、 「御三男は目医者になされては」  と親父に口添えして呉れたのも、迎翠堂へ入門の橋渡しをしてくれたのも、おれを子供のころから知っている長兵衛のおかげである。同じ医者になるならば、辛気臭い本道よりは、いっそ気楽な目医者にと、おれは長兵衛に頼んだのだ。  ところで、塾頭どのよりやっとのことで外出許可証をもらい受け、この住吉屋へやってきたわけを話しておかねばなるまい。  ゆうべ、おれたち医員見習が、薬部屋で〈一切の眼病によろし〉と表書きしたひと袋四十文の薬袋のなかへ目洗薬の包みを入れ、さらに、 [#1字下げ] 此《この》くすり用いて験《しるし》なきときは、当人お出《いで》くだされたく候。治すと不治《なおらぬ》とを見わけ療治いたし候。内障《そこひ》二十四症のうち、十六症はたとえ年経《としへ》たる盲目にても速《すみや》かに治すこと受合《うけあい》なり。小児|胎毒眼《たいどくがん》。疳眼《かんがん》。疱瘡眼《ほうそうがん》。上衝眼《じようしようがん》。その他、誤治《ごち》をなして明《めい》を失い、生涯の廃人《すたれ》となる事なげかわしく、治《ち》する症に効なき者。我家に手術あり。眼を憂える者、早く来たるべし。 [#地付き]芝口壱丁目西側     [#地付き]御眼科迎翠堂 土生玄碩    と、版書した引札《ひきふだ》を薬袋におし込む仕分け作業《しごと》に精を出していると、兄弟子の幸魚《こうぎよ》さんが、戸口に|ぬっ《ヽヽ》と|のっぺり《ヽヽヽヽ》顔をのぞかせ、おれたちを女郎の品定めでもするように眺めまわしてから、 「研さん、ちょっと——」  と、おれを廊下へ呼びだした。なぜか知らぬが、おれという男はよほど物を頼みやすいとみえて、上から|しょっちゅう《ヽヽヽヽヽヽ》お声が掛る。 「相済まんが……」  幸魚さんは匂袋《においぶくろ》を入れた羽織の袂《たもと》から小冊子を取りだして言った。 「尚庵さんから頼まれたこの本を、三部ほど筆写して貰えないだろうか。あたしはこのところ、ちょいとばかり忙しいでね」  咄嵯《とつさ》に頭《あたま》ンなかで口実《いいわけ》を数えたてる。 〈へえ、お手伝いしたいのは山山ですが生憎《あいにく》、書痙《しよけい》を患ってますんで〉 〈弾撥指《ばねゆび》で文字が書けません〉 〈親指の|※[#やまいだれ+票]疽《ひようそ》があばれております〉  どうせ幸魚さんの忙しいのは悪所通いのせいなんだから。  だが待てよ。兄弟子の言付を断わったと古狸共に知れたらえらいことになる。忽ちあいつは生意気だと言われかねない。その返礼《おかえし》のほうがずっと怖いぞ。 「ほかならぬ幸魚さんのことです。よろこんでお引きうけしますよ」  腹の底とはまるっきり|あべこべ《ヽヽヽヽ》を言い、幸魚さんの女のように自い手から『薬品応手録』と表題のある薄い冊子を受けとる。 「ありがたい。おまえにゃいつも世話になるねえ」  幸魚さんは手をすりあわせるようにして言った。 「この本は、実は岩洞どのから頼まれたといって、尚庵さんがあたしの所へ持ちこんできたものなんだ。じゃあ、宜しく頼んだよ。いずれこの償いはさせて貰うからね」  おれは悉鳩烏答葉《ドルレケルツル》だの、接骨木花《フリールブルーム》だの、水楊梅《ナーヘルコロイト》だのと、わけのわからぬ西洋薬種が羅列してある和解《わげ》本の頁をぱらぱらめくり、 〈こいつはどうやら目医者にゃまるで縁のない薬ばかりだ。こんな七面倒臭い仕事は長兵衛に頼むにかぎる〉  と思いついたのである。  長兵衛はおれの差しだした『薬品応手録』をチラと眺めてから、目を|ぱちくり《ヽヽヽヽ》させて訊いた。 「この御本をどこで?」 「うん、塾の幸魚さんに頼まれたんだ」  長兵衛は羽織の袖に口をあて、上目づかいにおれを見あげると、|えへへえー《ヽヽヽヽヽ》、とわらった。 〈ちえっ、いまいましい番頭だ。おおかた研介さまはいまだに人を頼るクセがぬけませんねえ、と腹ン中でかんがえているにちがいない〉  だが長兵衛が笑ったわけは別にあった。 「いえね。この御本は先日、てまえどもが、浅草の大殿さまから玄庵塾頭さまにお渡しするようお預りいたしたものですよ」  長兵衛は大《おお》先生のことを旗本の御大身《ごたいしん》のように大殿さまと呼んでいる。 「ふうん。じゃあ長兵衛から塾頭どのへ。塾頭どのが岩洞どのへ。岩洞どのは尚庵さんへ。尚庵さんが幸魚さんへ。そして幸魚さんからこのあたしを通って、またおまえのところへぐるり逆戻りてえわけか」  おれは目をまるくして|ため《ヽヽ》息をついた。 「みんなやるもんだ」  長兵衛は神妙な面持ちでうなずき、小冊子を受けとる。 「宜しゅうございますとも。手代に命じて早速三部筆写して差上げましょう」 「頼む。いずれこの|つぐない《ヽヽヽヽ》はするからな」 「へい、へい。研介さまにはせいぜいてまえどもを御|贔屓《ひいき》に」  長兵衛はおどけて白い歯をみせた。  店内は立てこんでいて結構忙しい。薬の仕入れにくる医師の駕籠。精力剤を求めて立ち寄る青びょうたんのような僧侶。なにやら深刻な顔つきで手代に相談している母娘連れ。荷車で運びこまれる薬種の荷袋。それを手際よく捌《さば》いていく丁稚《でつち》ども。  店の奥は黒|のれん《ヽヽヽ》が張り巡らされ、その裏の格子の中が職人の作業場だ。おれは薬研《やげん》を用いて薬種を砕いたり、丸薬を拵えている職人たちの仕事ぶりを眺めながら番頭に訊いた。 「なあ、長兵衛。おまえは日頃、浅草の大先生のもとへ出入りしているから詳しかろうが、例の|おらんだ《ヽヽヽヽ》渡りの目薬の件、その後どうなっているんだい。大先生は首尾よくシーボルト殿より開瞳薬の処方を教えて貰えたのかい。塾に居ても、あたしたちのような見習者にはさっぱり成行きが判らなくてね」 「へえ、それがまたすこぶる難渋いたしておりまして。てまえどももなにかお役に立てればと、およばずながら大殿さまのお手伝いをさせて頂いてはおるのですが……」  長兵衛はいささか薄くなった頭を撫でながら、どうにも弱りましたといった顔つきで語りだした。  ——一昨昨日《さきおととい》は大殿さまに言付かり、大和田の鰻の蒲焼《かばや》きを、それもまだ蒸焼きしたてのホヤホヤにべっとりタレを浸し、平皿に山椒《さんしよう》を添えて長崎屋へ素っとんでいったが、和蘭《オランダ》医者にはさっぱり効き目なし。一昨日《おととい》は駅路の鈴に鼈甲鬢挿《べつこうびんざし》と弁財天のお守りをお届けしたが、これも駄目。ようしそれならと、昨夜は丁稚どもの失敬してきた三尺四方の大下駄で拵えた履物屋の看板をはじめ、美男|鬘《かずら》を束ねて載せた紅問屋の箱看板、さらには伽羅《きやら》屋に羅宇《らお》屋に両替《りようがえ》屋、油屋、薬種屋、貸本屋、皮足袋、小間物、書肆《しよし》、芝居、手当り次第|掠《かす》め取ってきた下げ看板、幟《のぼり》看板、絵看板に行燈《あんどん》看板、これにさる好事家《こうずか》を通じて手に入れた国貞描くところのとっておきの枕絵と、賤《しず》ケ嶽《たけ》関の化粧|まわし《ヽヽヽ》をおまけにくわえ、大風呂敷にまとめて蘭人亭へと運びこませたのだが、大殿さまは、 〈ああ、長崎屋はきょうもダメだった……〉  と、意気消沈してお帰りになったというのである。 「長兵衛、おまえはあの目薬を拝んだろう?」 「はい。大殿さまがてまえどもにお持ちになり、これは如何な薬種から調合されていようかの? とお尋ねになりました」 「ほう、それで——」 「どこかでこのような匂いを嗅いだ覚えがあるような気もいたしますが、さてそれは、と改めて訊かれますと皆目《かいもく》見当がつきかねます、とお答え申しあげましたんで」 「ふーむ」  おれは作業場に積まれた薬包紙の束を眺めながら、くびをひねった。 「シーボルトはなぜ薬方を教えてくれぬのだ?」 「さあ……」  長兵衛もくびをかしげる。 「なにかをひきかえに所望されているようにも見受けますが……」 「謝礼金?」 「いえ、お金ではなさそうです。それに異人に所持金を与えるのは御法度《ごはつと》でして」 「いったい、何を望んでおるんだろう?」 「それが判っておりますれば、このような苦労はいたしませぬ」  長兵衛は異人のやる仕草みたいに、くびをすくめてみせた。   参、尾張国熱田宮  開瞳の奇薬のお試しがおこなわれてから七日目の晩。 「塾生は直ちに大広間に集まれェ!」  泊《とまり》番がドラを打ち鳴らし、寄宿部屋を触れまわっている。|いそぎ《ヽヽヽ》の呼出しだ。いったい何事だろう。おれは玄良と顔を見あわせ、塾中では御法度の花札を慌てて座ぶとんの下に隠した。 「皆の者、よく聞け」  大広間に門人たちが揃ったのを確かめると、塾頭の玄庵どのが大声でどなった。 「シーボルト殿が、とうとう開瞳薬の秘法を喋ったぞ!」  うおっ、という|どよめき《ヽヽヽヽ》が大広間に沸きおこり、その|あおり《ヽヽヽ》で障子が|びりり《ヽヽヽ》と震えた。 「待て!」  塾頭どのは十徳の袖をたくしあげ、手掌《たなごころ》を突きだし、皆を制した。 「喜ぶのはまだ早い。肝心なことはこれから若先生がお話しくださる」  上座で浅黒い顔を上気させて座っておられた若先生は、うむ、とひとつ頷《うなず》いて、膝をのりだした。 「して、その開瞳剤の原料は?」  大《おお》先生はなぜか口数の少ないシーボルト医官の引きしまった口元を、ひとことも聞きもらすまいと見すえた。和蘭医官は金色の房のついた肩章のある軍服に身を固め、金の大握りのついた籐杖《とうづえ》を片手ににぎりしめ、背|もたれ《ヽヽヽ》に彫り物のある椅子に背|すじ《ヽヽ》をすっと伸ばして座っておられる。洋燈《ランプ》の明かりを受けて、胸にぶらさげた星型や十字型の飾物がぴかぴか光った。 「ドンナ」と、シーボルト殿はこたえた。 「どんな?」  はて? 聞き覚えのない薬である。 「そのくすりの成分は?」  大先生はもう一度、ゆっくり言ってくださらぬか、と傍《かたわら》の通詞《つうじ》殿をうながした。  シーボルト殿は、蘭国の医生時代、決闘で受けたという三十三カ所もの刀傷のある色白だが精悍な顔をあげ、いささか鬱陶《うつとう》しげに大先生の顔を眺め、それから赤い唇をうごかした。こんどはラドンといっているように聞こえる。あいかわらず、ききとりにくい発語である。 「らどん?」  ますます判らなくなった。それにしてもシーボルト殿はなぜもっと明瞭に喋ってくれぬ。こうして人目を忍び、毎晩かよいつめてくるというのに、なぜかこのわしを邪慳《じやけん》に扱うような気がしてならぬ。過日、江戸城にてわれら一同に、ブタを用いて眼の手術手技を供覧されたときには、こんなにもすげない素振りは見せなかったではないか……。 「その薬物は、わが国に産するや否や?」  大先生は|いらだち《ヽヽヽヽ》を抑えながら訊いた。通詞殿が早口で和蘭医官に伝える。 「産スル」  シーボルト殿はあいかわらず、ぶっきらぼうだ。 「それは何処《いずこ》に在りや?」  大光生は勢い込んで、椅子から腰を浮かした。シーボルト殿は金毛の生えた巨きな手を軍服の隠袋《かくし》に突っこみ、皮表紙の小さな帳面をひっぱりだした。それをぺらぺらめくってから、ひと言、 「ミイヤ」といった。 「みいや?」 「ミイヤ」  もう一度繰り返すと、襟まで垂れた麦色の髪をかきあげ、洋袴《ずぼん》の襞《ひだ》の崩れを直し、籐杖をトンと突いて、シーボルト殿は|すくっ《ヽヽヽ》と立ち上った。そして、ひっこんだ青い目にかすかな軽蔑の色をうかべ、獣脂《あぶら》と烟草《たばこ》のいりまじった紅毛人特有の匂いをその場にのこしたまま、慌てて従う通詞殿とともに、別室へ立ち去ってしまったのである。大先生はその雲突くような後姿を呆然と見送っていた……。 「——これがゆうべ蘭人宿長崎屋でのシーボルト医官と御養父《おちちうえ》との会見の顛末《てんまつ》である」  若先生は語り終えると、二十余人の門下生をひとわたり眺めまわした。 「……そこで皆の者に尋ねたい。誰かこのなかで、『ラドン』あるいは『ドンナ』なる薬物が、どんなものか心得たる者は居らぬか?」  大広間は|しいん《ヽヽヽ》としずまり返り、応《こた》える者はない。 「そうか。誰も知る者はおらぬというのだな」  若先生は無念そうに唇を曲げた。 「ではつぎに訊こう。シーボルト殿の言う『ミイヤ』とはどこのことであろうかの?」  こんどは門人たちが口々《くちぐち》に申したてる。 「ミイヤとは三井寺《みいでら》、つまり大津の園域寺《おんじようじ》」 「いやいや、それは都《みやこ》の略、京の御所じゃないですか」 「ミイヤでなく、ミワ。つまり大和国《やまとのくに》の大神《おおみわ》神社の略称でしょう」 「木乃伊《みいら》、別名、没薬《もつやく》のことでは?」 「ミイヤではなく、馬屋《まや》、すなわち、どこぞの宿場をさしているのかも」 「己嫌《みいや》、つまり、和語で、己《わし》は教えるのが嫌じゃと……」 「みんな違う。ちがいますっ!」  尾張藩出身の昇安さんが|すくっ《ヽヽヽ》と立ちあがって塾生たちをさえぎった。 「ミイヤではなく、ミヤです。ミヤは尾張の熱田神宮のこと。つまり、熱田の宮《みや》の略称ですよ。宮駅といえば、尾張本草学の大家、水谷助六先生が居を構えている所です。シーボルト殿は尾張宮駅を通る際、おそらく水谷先生の植物園に立ち寄られ、その『ラドン』なる植物が生えているのを確かめたにちがいありません」 「そうか、わかったぞ」  若先生は、|ぱしん《ヽヽヽ》と膝|坊主《ぼんさん》を叩いた。 「昇安の言う通りだ。シーボルト殿は江戸参府の途次、きっと水谷どのに面会いたし、その薬草を見せてもらったに相違ない」  若先生は踊りあがるように昇安さんの方へむきなおった。 「でかしたぞ。昇安。おまえは明朝、早駕籠とばして熱田の宮に向い、水谷助六どのにお会いして、その『ラドン』なる薬物は、はたして何かを訊きだして参るのだ」  その夜も更《ふ》けて——  おれは塾頭部屋で、玄庵どのの前にかしこまって座っていた。塾頭どのの傍には兄弟子の立眠《りゆうみん》さんが、なにか悪いことでもしでかしたように、丸まると肥えた身体をちぢこめて座っている。立眠さんの額には小粒の汗が吹き出していた。 「おまえを呼び出したのはほかでもない。内密の相談があってな」  塾頭どのは剃頭を撫で、周囲《あたり》をはばかる容子で言った。はて、なにごとぞ、とおれは目をしばたいた。まるでおれに応えたように、部屋の行燈《あんどん》がまたたいた。 「先刻の若先生の話のなかでは門人どもには伏せておいたのだが、実は困ったことがおきた……」  塾頭どのは行燈を引きよせ、灯心をかき立てながら言った。天井が|ぱあっ《ヽヽヽ》と明るくなり、塾頭どのの影が踊る。  おれのごとき見習医者が、塾頭どのより直じきに内密の相談にあずかるなんて、前代未聞のことだ。おれは身を固くして次のことばを待った。 「おとといの夜——」と切り出してから、生来鼻詰りの気のある塾頭どのは、そこで|きゅん《ヽヽヽ》と洟《はな》をかんだ。 「大先生は、なんとしてでも散瞳薬の秘方を手に入れんと、上様御拝領の御召御紋付|縮緬袷《ちりめんあわせ》羽織を一着、甲比丹《かぴたん》スチュレル殿に差上げてしまわれたのだ」 「ええっ、葵《あおい》の御紋服をカピタン殿に?」 「うむ。甲比丹殿よりシーボルト殿にお声掛りを頼めば、あるいは望みも叶うのでは、と思案されてな」  冗談じゃない。上様の御紋服といえば、紅毛人に手渡してはならぬ御禁制の筆頭の品だ。大先生ともあろうお方が、どうしてそのような大それたことを——。いやな予感がして、背筋が水灸をすえたように|ひやり《ヽヽヽ》とした。 「ところが、そのすぐあと、甲比丹殿とシーボルト殿は実は互いに反目しあっている仲と知り、大先生はあわてて御拝領の藍染の時服御紋付|御帷子《かたびら》を、昨夜シーボルト殿に……」 「ひえっ、そ、それじゃ、御紋服とひきかえにあの目薬の処方を?」 「うむ、だが、それだけではない」 「うへっ、まだあるんですか?」 「薬方を伝授頂いた御礼にと、着用していた御紋付小袖表をお脱ぎになり、これをシーボルト殿に差しあげてくれ、と長崎屋の主人源右衛門に渡してきてしまったのだ」  塾頭どのの肉厚の顔には困惑の態がありありと泛《うか》んでいる。 「まさか大先生は、御拝領品が御禁制であることを存ぜぬ筈はありますまい」 「うむ。若先生も頭をかかえっきりだわい。それにしても御禁制の御紋服を三着までも蘭人たちに与えてしまうとは、日頃に似合わぬ気前のいい所をおみせになったものよ」  塾頭どのは、うらめし気に|ため《ヽヽ》息をついた。 「万が一、このことが大公儀《おおこうぎ》にきこえたら、大先生は只では済むまい。うまくいって島流し。わるくすれば獄門送り。若先生とて同様の罪はまぬがれまい」  塾頭どのは太い鼻柱に皺をよせ、詰った洟を|ぐすり《ヽヽヽ》と啜った。だが、こんな大事をどうしておれたちのような下《した》っ端《ぱ》に? 頭の片隅をチラリと疑念がとおりすぎる。 「——となれば、われわれ門人はどうなる。大先生が捕えられれば、われらとて安閑としてはおれまい、大先生の身が危くなることは、すなわち、われら一同が危くなることにほかならぬからな」  塾頭どのは、口輪を|ひくひく《ヽヽヽヽ》ひきつらせて言った。 「そこでわれらの胆は決まった。なんとしてでも、蘭人たちの手元から、将軍家御拝領の品品を取り戻すのだ」  なるほど、と頷いてからおれは訊く。 「するとどなたかが蘭人たちの館《やかた》へ赴き、御紋服を返してくれ、と頼みこむんですね」 「左様——」と塾頭どのは傍の立眠さんを横目で見やりながら言った。 「さきほど、塾中の重だった者が寄り集ってな、その役はこちら立眠に決まったのだ」  顔もからだもころころ丸い立眠さんは、えらいことになり申した、といわんばかりにしきりと首筋の汗を拭っている。それにしても解せぬわい。立眠さんは生来|吃《ども》りの気がある。蘭語だってさっぱりだ。蘭人たちの所へ談判に往くにはけっして適役とは申せまい……。  塾頭どのは、おれの頭をじっと見つめながら言った。 「ところでこの仕事、立眠ひとりに任せてしまうのはなにかとまずい。そこで研介、おまえにもひと肌ぬいでもらいたいのだ」  そうれ、おいでなすった。先刻から妙なことだと思っていた通りだ。こんなことでもなければ、おれが玄庵どのに呼ばれる筈がない。 「そりゃ、塾頭どの。いくらなんでも無理というものです。あたしはオランダ人とはなんの面識もありませんし、だいいち、蘭人たちに御紋服を返してくれなどと掛けあう才など、これっぽっちもありゃしません」 「わしの言っているのは、そのようなことではない!」  塾頭どのは急に怕《こわ》い顔をして、おれをきっと睨《にら》んだ。「明日のうちにも、立眠とおまえは長崎屋へ忍びこみ、|ばあい《ヽヽヽ》によっては腰刀をふるってでも、御紋服のこらず奪い返してくるのだ!」 「ぐえっ」  脳天にズシンと|いかずち《ヽヽヽヽ》が落ちた気がして、おれはのけぞった。 「こ、このあたしが、忍びの役を?」  塾頭どのは、おれに巨きな鼻頭をちかづけて言った。 「よいか、研介。気を鎮めて聞くのだ。おまえはいま、この迎翠堂にとんでもない災難が降りかかろうとしていること位、判るだろうな」  おれは塾頭どのの坊主頭をぼんやり見つめながら、力なくうなずいた。 「もし、われら門下生一同が、大先生の所業をこのまま見て見ぬ|ふり《ヽヽ》をしていたと大公儀に知れたらどうなる。まず、塾中の重立ったる者は打首まちがいなし。おまえたち見習者とてお目|溢《こぼ》しはなるまい。数珠繋《じゆずつな》ぎとなって伝馬牢にぶち込まれ、揚句の果ては牢内で虫ケラのごとく|なぶり《ヽヽヽ》殺しの目に遭うのは決まっているわい」  塾頭どのは雨漏《あまもり》で汚点《しみ》だらけの天井をおごそかに仰ぎ見、それから気味のわるいくらい優しい口吻《くちぶり》でおれに言った。 「無論、ことによれば、おまえたちは蘭人宿で捕えられるかもしれぬ。だが、何もせずに手をこまねいていたとて、おまえたちの身の危さに変りはあるまい。同じ剣呑《けんのん》な目に遭うなら、ここはひとつ、迎翠堂のために力を貸してくれぬか」  おれは行燈の灯をうけて壁に映った塾頭どののいかつい影をぼんやりみつめた。これは頼みと聞ゆるが実は否応なし。猫|なで《ヽヽ》声だがまことは恫喝《どうかつ》である。ああ、だが、なろうことなら、そのような盗っ人役だけは御免蒙りたい。 「で、でも、どうしてこのあたしにお鉢がまわってくるので?」  ほかに適役はいくらでも居られるではありませんか、と異議を唱えたいのをぐっと怺《こら》えて、おれは訊く。塾頭どのは黄色い歯をむきだし、|にっ《ヽヽ》とわらった。 「塾中の重だったる者が口を揃えておまえを推挙したのだ。研介ならば身のこなしが敏捷《びんしよう》。手先も器用で頭《ち》の回転《めぐり》もはやい。長崎屋の辺りの地理にもくわしいし、このお役目には|うってつけ《ヽヽヽヽヽ》だとな」  ちがう。そりゃ違います。立眠さんとおれに白羽の矢が立ったのは、そんな理由《わけ》ではないぞ。  ——この塾の門下生の大半は藩医の子弟。士分格である彼らを長崎屋へ忍びこませ、もし捕縛《ほばく》されでもしたら、こりゃチト面倒なことになります。立眠に研介なら|しがない《ヽヽヽヽ》町医者の伜だし、幸い跡取りてえわけでもありません。たとえ捕まったところで、他に類を及ぼすわけじゃなし、蘭人宿へやるにはあの二人に限りますよ。  岩洞どのら古狸共は、きっと塾頭どのにそう進言したに違いないのだ。 「——それに研介。いまやわが塾の危急存亡のときである。このお役目、引き受けぬなどとは言わせんぞ」  あぐら膝の上に両手を蟹脚《かにあし》のようにのせ、塾頭どのはきっぱりと言い放った。おれの|こめかみ《ヽヽヽヽ》に脂汗がしたたった。 〈いま、ここで塾頭どのの御命令を断われば、どうなる?〉  ——むろん、破門まちがいなしさ。  おれは自問自答をはじめた。 〈すると、お玉ケ池のわが家へ戻るつもりかね?〉  ——それだけはまっぴらだい! また以前のように親父に怒鳴られ、長兄に叱りとばされ、次兄からは厄介者呼ばわりされて、本道《ないか》療治の下働きにコキ使われるなんてもうコリゴリだ。それが嫌さに目医者にでもなって独立《ひとりだち》しようと、塾《ここ》で三年も辛抱してきたんだ。退塾してしまったんではすべてが|もと《ヽヽ》の|もくあみ《ヽヽヽヽ》じゃないか。 〈じゃあ、いったい、どうすればいい〉  ——長崎屋へ忍び入るよりほかに方法《みち》はあるまい。それに万が一、首尾よく御紋服を取り返せたら、おまえだって若先生の|ひき《ヽヽ》で、御広敷か御目付の目医者ぐらいに推挙されぬとも限らんぞ。相棒が|でぶ《ヽヽ》で汗っかきで、おまけに吃りの立眠さんでは、いかにも心|許《もと》ないが、ええい、ここはひとつ、当って砕けろ。 「わ、わかりました」  おれは塾頭どのにむかい、跪伏《きふく》した。 「なんとかやってみます」 「そうか。やってくれるか」  塾頭どのは急に目尻をさげ、おれにすり寄るようにして言った。 「それでは早速、明朝、長崎屋へ行って貰おう。さいわい、明日、甲比丹一行は献上品を携えて柳営《りゆうえい》に伺候されるはずである。その蘭人共の留守の間に、おまえたち二人は御紋服を探し出してくるのだ」  それから、塾頭どのは怕い目付でつけくわえた。 「ただし、おまえたち、手ぶらで戻ったりしたら承知せぬ。御紋服三着とも、のこらず取り返すまで、塾の表門をくぐることはあいならん!」   四、本石町長崎屋  日本橋からまっすぐに来て、越後屋を通り過ぎ、十軒店を越えた本石町三丁目の角に、和蘭貢使《オランダこうし》の定宿、長崎屋が在る。  〔オランダ甲比丹宿〕  と読める関札が門前に立ち、濃い緑地に旅亭の定紋を白く染めぬいた垂れ幕が、表通り一杯に張りめぐらされている。  冠木門《かぶきもん》の両脇には大提灯がかかげられ、左脇には刺股《さすまた》、突棒《つくぼう》、袖搦《そでがらみ》と三ッ道具をものものしく飾った千鳥破風造りの番所がある。六尺棒を抱えた張番どもが、門前にむらがる野次馬を盛んに追いたてている。表門の両側は往来沿いに連子格子の出窓のついたお長屋だ。出窓の下半分は目隠し塀に覆われ、外構えはすべて黒塗りである。 「お、おい、研介、み、みろよ。さ、さすがは音に聞く、な、長崎屋だねえ。千鳥破風|霧除庇付《きりよけひさしづき》の玄関といい、か、駕籠が横付けできる式台といい、御本陣同様の、お、表構えじゃないか」  立眠さんは最前より、蘭人宿の表掛に大仰に感心しているばかりで、一向に動く気配がない。 「そんな呑気なことを言っていていいんですかい?」  おれは立眠さんの二重顎をみながら口をとがらした。「その玄関にも、六尺棒の張番たちがごろごろ控えていますぜ。あたしたちの忍びこむ隙間なんぞ、これっぽっちも見当りませんや」 「わ、わかっているよ」  立眠さんは|からり《ヽヽヽ》と晴れわたった江戸の空をみあげて、額の汗をふいた。  おれたちは、たったいま、沿道の人だかりに紛れて、|おらんだ《ヽヽヽヽ》行列の出立を見送ったところである。  濃紺の正衣に鋼鉄製の長剣を佩《は》き、栗色の駿馬に跨がった西洋帽の美丈夫が往く。おお、あれが噂の|しいぼると《ヽヽヽヽヽ》さまか。それにひきかえ、お駕籠の中の|かぴたん《ヽヽヽヽ》さまは礼装のわりにはお姿形《みなり》のさえないこと、などと沿道の男女の喧《かまびす》しく取沙汰するなかを、上様に御拝謁《おめみえ》するため、献上品折敷に方物の数かずを載せ、蘭人行列は長崎屋の門を出て、大通りの角を常盤《ときわ》橋御門に向って曲っていった。  だが、おれたちときては、|おらんだ《ヽヽヽヽ》行列にうっとりしている余裕《ゆとり》なんぞ、まるでなかった。なにせ、朝っぱらから蘭人部屋にもぐりこむ厄介な大仕事が控えているのだ。 「と、とにかく、に、逃げ道を、確かめておこう。ぬ、盗っ人は、まず退路《にげみち》を拵えてから、し、仕事にかかるというじゃないか」  そこで長崎屋の|ぐるり《ヽヽヽ》に探りを入れることにする。  この大旅亭は間口だけでも二十間はあるが、奥行きときてはおっそろしく深くて、六十間は優にある。その六十間ばかりを急足《はやあし》で通りすぎ、長崎屋の最奥、つまり旅亭の東側にあたる裏通りへ出る。  裏通りに面した二階建ての別棟が蘭人たちの泊る宿舎とみえて、こどもが大勢むらがっている。高窓にむかって盛んに跳びはねては、旅亭の内部《なか》を覗《のぞ》きこもうとするこども。天水桶のふちに足を載せ、窓格子にぶらさがっているこども。互いに肩車を交しあい、ひょろひょろよろけるようにして旅亭の内を物珍しげに窺うこどもたち。裏の小路は蜂の巣をつついたような賑いである。 「ねえ、おじちゃん」  風車《かざぐるま》を手にしたあどけない女の子が、立眠さんの羽織の袖をひっぱる。 「異人さんはヒトの生血を吸うって、ほんとなの?」 「ああ、ほ、ほんと、ほんと」  まるで、あたしがその被害者さ、といわんばかりに猪首《いくび》をふるわせて立眠さんが応えている。 「おい、坊やたち。オランダ人がそこに居残っていないかい?」  おれは頭上に目をやり、旅亭とは小路をへだてて向い側の家の塀によじのぼり、長崎屋の容子をうかがっている腕白小僧《わんぱくぼうず》どもの一団に声をかけた。 「ううん、誰もいないよ。だからおれたち紅毛人が帰ってくるまで、ここで待ってるんだ。おじさんも、この上で待ったらどうだい」  悪童どもは塀の上で|あし《ヽヽ》をぶらぶらさせ、|わっ《ヽヽ》と|はやし《ヽヽヽ》声を降らせた。  だれもいないときいてはぐずぐずしてはおれない。おれたちはいそいで裏通りをぬけ、通称|かねつき《ヽヽヽヽ》新道と呼ばれる長崎屋の北側の横丁へ出た。横丁をしばらく西へ戻ると、長崎屋の通用口へぶつかる。表口はあれほど警固厳重だったのに、通用口はなぜか張番さえみあたらない。 「こりゃうまい具合だ。ここから中へはいりましょうや」  おれは立眠さんの袖を引っぱった。 「ん。で、でも、おまえが、さ、先に入っておくれ」  立眠さんに押しやられるようにして通用口をくぐる。すぐ長屋の入口になる。入口の戸はなんなく開いた。そっとくびをのばし、なかを覗く。左手は台所へ通じ、右手は広い土間と上り框《かまち》である。そのむこうは板敷の広い部屋だ。あたりは|しん《ヽヽ》として人の気配はない。おれたちは草履《ぞうり》を脱いで懐に忍ばせ、上り框を乗りこえ、板の間に足を踏み入れた。  そのときである。  ひんやりと薄暗いその部屋に、|ぽっ《ヽヽ》と灯がゆらめき、「もし……」と、背後から低い男の声がきこえたのだ。  冷水を浴びせられたように|ぎくり《ヽヽヽ》として、おれたちはその場に立ちすくんだ。 〈南無三! もはや捕えられたか〉  おもわず眼を閉じ観念した。立眠さんの膝が|がくがく《ヽヽヽヽ》鳴っている。  だが、奇妙なことに、それっきり何事も起りはしなかった。どうやら声の主は、おれたちを捕えにきたとは違うようである。おれはそっと目をあけ、後をふりむいた。 「おまえさまがたは、もしや、土生法眼さまの御門人では?」  男の声のする灯は低い声で囁《ささや》く。 「……ど、どうしてそれを」  立眠さんは少しずつ後ずさりして言った。 「やはりそうでしたか」  男の声は安堵《あんど》の口調にかわった。 「申しおくれました。わたくしめは、この長崎屋の番頭伊平にございます。お騒がせしてまことに申し訳ございません」  番頭はおのれの顔を灯で照らし、ふかぶかと頭をさげた。 「実は、いまかいまかとお待ち申しあげておりました」 「へっ?」  おれたちは、狐につままれた心地がして目をまるくした。 「しばらくお待ちのほどを……」  番頭は|ふっ《ヽヽ》と灯を吹き消すと、そのまま部屋の奥に引っ込んでしまったのである。 「け、研介。逃げるなら、い、いまのうちだよ」  立眠さんは顎をふるわせて耳打ちする。  はて、どうしたものか、と思案する間もなく、|ぷうん《ヽヽヽ》と好い匂いがして、若いお女中が現われた。色白のすこぶる美形である。  お女中は灯をかざし、こちらへどうぞ、といわんばかりに手招きをした。その色香と褄外《つまはず》れのしとやかさに誘われて、おれたちはついふらふらと旅亭の奥へ連れこまれてしまったのだ。  お女中は先に立ち、足早やに歩く。一切無言である。くねくねと迷路のようにいりくんだ廊下を、右へ左へと引っぱりまわされ、階段を何度も昇ったり降りたりさせられたあげく、小さな庭園にでた。奇妙なことに、途中、誰にも出会わなかった。  十坪にみたぬ小庭には、一面|鞍馬苔《くらまごけ》を這わせ、大明竹《たいみんちく》の一叢《ひとむら》に手水鉢《ちようずばち》を添え、連翹《れんぎよう》の葉が垣を蔽《おお》っている。どこにも抜け道は見当らない。川石、海石を押しつめた小庭の飛び石を渡ると、二階建ての別棟になる。小庭に別棟の廊下が突き出し、檜木《ひのき》造りの湯殿と厠《かわや》がこれに連なっている。遠くでこどもの騒ぎ声がする。どうやら、この別棟が先刻裏通りから望んだ、蘭人の宿舎とみえる。  別棟の、上にも下にも引戸のある狭い梯子段を昇りつめると、壁をめぐらした広い廊下へ出る。透彫《すかしぼり》の欄間のある大部屋が並んでいるが、梯子段を通るほかに出口はない。踏込んだが最後、獄囚《ごくしゆう》のごとく閉じこめられてしまう仕掛だ。  お女中は最初の部屋のまえで膝をつき、おれたちを振り返ると、にっこり笑い、さあおはいりください、といわんばかりに、しなやかな手つきで襖をひらいた。  おそるおそる部屋のなかをのぞき見るに、甲比丹一行が運んできたとおもわれる葛籠《つづら》や長持や洋風の大箱やらが所せましと置いてある。あたりに人影はない。ふり向くと、女の姿は消えている。 「こ、これは、いったい、ど、ど、どういうことなんだ?」 「なんだか変ですねえ。蘭人の部屋に見張りの役人さえ居ないなんて」  おれたちは、くびをひねった。 「これじゃ、まるで、お目当ての品をどうぞお持ち帰りください、といわんばかりじゃないですかい」 「あ、あまり、う、うまくできすぎていて、な、なんだか気味がわるい」 「まってください、立眠さん」  おれは|はた《ヽヽ》と思い当って、戸惑い顔の立眠さんに言った。 「もしかしたら、こいつは判じ物ですぜ」 「な、なに。は、判じ物だと?」  立眠さんは怪訝《けげん》な目つきである。 「そう、きっとそうです」  おれは胸を叩いて請け合う。 「いいですかい。蘭人たちに御禁制の品が渡ってしまったことは、長崎屋の主人は無論のこと、きっと警固の役人たちにも知れちまったんですよ。なにせ大先生はやることが万事おおまかで構わないお方ですからねえ。しかし、蘭人たちの手に御禁制の品があっては、長崎屋はなにかと迷惑です」 「うん、そ、それで……」 「迎翠堂の門人たちが、きっと蒼くなって御紋服をとり返しにくるだろう。こう察した長崎屋の番頭が、あらかじめあたしたちを待ちうけて手引きしてくれたんですよ」 「な、なるほど。カピタン一行が留守の間にご、ご紋服を持っていけ、という、な、謎ときだ、というのだな」 「図星です。警固の役人たちにしたところで、御紋服が蘭人の手に渡ったとあっては、警備不行届きでいつお咎《とが》めを蒙《こうむ》るか判らない。だから、長崎屋と|ぐる《ヽヽ》になって、わざとあたしたちを捕えないんですよ」 「そ、そうと判ったら、こりゃあ、ぐ、愚図ぐずしちゃおれん。善はいそげだ。は、はやいとこ、し、仕事にとりかかろうじゃないか」  立眠さんは急にいきおいづいて、|たすき《ヽヽヽ》をからげ、蘭人の荷をかたっぱしからひろげだした。  それにしても、なんて奇妙な荷物ばかりなんだろう。おれは括《くく》り付けてある荷札を眺めた。蟹這い文字と和文字が並んでいる。  『六分儀』  『地平儀』  『時辰儀』  『玻璃《はり》管』  『測高計』  『晴雨計』  『湿度計』  『平流電気機』  『感伝電気機』  『|寒 暖 計《てるもめいとる》』  『|顕 微 鏡《みこらすこうびゆむ》』  なにに用いる器械やら、むずかしすぎてさっぱり判らん。  硝子《がらす》の酒注杯《けるきい》に長酒瓶《らん>がぼつとる》。油薬をいれた薬瓶《ふれすこ》。かぞえきれぬほどの植物と昆虫の標本箱。猟虎《らつこ》の皮。象牙の木槌《さいづち》。鏡付の豪勢な薬籠《やくろう》。外科に眼科に産科の手術道具。金箔の背文字を装幀《そうてい》したずっしり重い西洋本。  まだまだある。白い西洋布《かなきん》の風領《だす》。赤い笹縁を懸けた氈笠《うーと》。紺の天鵞絨張《びろうどばり》の履物《もいる》。わざと二毛《しらが》まじりにみせかけた古風な鬘《ぶろいく》。ちょいと触れただけで、ビョロロン、といとも妙なる音を奏《かな》でる西洋琴《ふおるとぴあの》……。  おれが珍奇なる品品にに夢中になっていると、 「し、しめた。あったぞい!」  ふいに立眠さんが素っ頓狂な声を張りあげた。みると、長柄《ながえ》の葛籠《つづら》の中から、畳紙《たとう》に包んだ葵の小袖を引っぱりだしている。これはうかうかしちゃおれぬ。御紋服はあと二着はある筈だ。おれは捜索に打ちこむことにした。そして、とうとう蒔絵|唐櫃《からびつ》の奥底に鎮座している葵の縮緬羽織をみつけだしたのである。 「ひゃあ、あった、あった、立眠さん。こちらにもありましたよ」  おれが雀躍《こおど》りしつつ、御羽織を|ずるずるっ《ヽヽヽヽヽ》と引きだしたそのときだ。 「待て!」  だしぬけに背後から大音声《だいおんじよう》が掛った。  おれの両手は御羽織をつかんだまま、子癇《しかん》発作に襲われた孕《はら》み女みたいに硬直してしまった。   五、欧州産多年草 「きさまら、そこでなにしくさる!」  おそるおそる振り向くと、部屋の戸口の所に、いやに背《せ》が高く、筋骨たくましい男がいまにもつかみかからんばかりの形相で突っ立っている。声も顔の造作も並はずれている。男のうしろには蘭人服をまとい、眼尻の釣昂《つりあ》がった痘痕面《じやんこづら》の若い男まで控えているのだ。おれたちの顔面から血の気がひいた。 〈こんなことだったか。そういえば初手からすこし話がうますぎるとはおもったが〉  おれは逃げ場をもとめて、すばやく周囲《あたり》を見まわした。 「きさまら、その御紋服をどうする魂胆《つもり》だ!」  男は猛《たけ》だけしく咆《ほ》え、おれたちを睨みつけた。おれは窓から跳びおりんと身構えたが、足がすくんでしまってどうしても動けない。|わき《ヽヽ》の下に|たらたらっ《ヽヽヽヽヽ》と冷汗が流れた。 「こ、こ、これを、と、とり返しにきたのだ」  いきなり眩《まぶ》しい陽光のもとに曝《さら》された土竜《もぐら》みたいに狼狽《ろうばい》していた立眠さんが、やっとの思いで声を出した。 「なに?」 「こ、この御紋服は、あ、あたしたちの、し、師匠のものだぞ」 「は、はあん。するときさまら、土生玄碩法眼の門人どもだな」 「こ、この御紋服を、こ、紅毛人たちに、も、もっていかれては、し、師匠のお命にか、か、かかわる」  立眠さんは葵の小袖をしかと胸にかき抱いたまま、ひどく吃った。口角をひっつらせて、ふるえおののいている。 「シーボルト先生のお言付で、蘭書を取りに舞い戻ったらこの有様だ。まったく江戸というところは油断も隙もならぬ」  男は|にゆっ《ヽヽヽ》と眉をしかめ、鼻翼の脂をこすった。 「あ、あんたは、こ、これが、御禁制の品だと、し、知らぬのか?」 「知らいでか」  男はドスの利いた声でせせら嗤《わら》った。 「ひとつ、御紋。ふたつ日本地図。三つ、絵入り源氏。四つ武具に武者絵。五つ、日本船の絵に模型。ほかに節用《せつちよう》集、やっこ喧嘩人形など、十二品目はオランダ国へ持ち出してはならぬ御停止品《ごちようじひん》であることぐらい、わしだって疾《と》うにわきまえておるわい」  男はやけにすらすら言ってのけた。年の頃は三十少しまえか。おれより、ちょっと長《た》けてみえる。 「だが、いったん、きさまらの師匠より、わが師シーボルト先生に頂戴したからには、その御紋服は先生のものじゃ」 「しかし、なにせ、国禁の品ではありませんか」  おれは|へっぴり《ヽヽヽヽ》腰のまま、口を挟んだ。男は|きっ《ヽヽ》となって、おれの眉間《みけん》に鋭い視線を抛《な》げつけた。 「ええい! きさまらも女々しい輩《やから》じゃ。いったん他人《ひと》に呉れてやったものを、今更返せとは、いったい、どういう料簡なんだ」 「蘭人の手に御禁制の品が渡ったとあっては、大《おお》先生ばかりか、あたしたち二十余人の門人の身も危いんだ」おれは男と蘭服の若者の顔をかわるがわる見て言った。 「後生だから、この御紋服をあたしたちに返しておくれ」 「そんなことわしが知るか」  男はあらあらしく首をふった。 「それほど大切なものなら、はじめから渡さねばよかろう。薬方知りたさに国禁の品をちらつかせ、あとでこっそり盗み返そうとは、天下の将軍家奥御医師一門も、とんだペテン師の集まりになり果てたものじゃ」 「それなら、当方《こちら》にも言わせてもらいましょうか」  及び腰ながら、おれは口唇を湿らせて言った。 「こんなことになったのも、もとはといえばあんたの御主人シーボルト殿が、開瞳薬の中身を教え渋ったからではありませんか。いくら日本国の珍品取集のためとはいえ、葵の御紋服を寄こさねば秘方を伝授してはやらぬ、なんて、あんたの御主人のやりかたは、すこし|あこぎ《ヽヽヽ》すぎはしませんかい。聞けば、蘭方では漢方とちがい、たしか秘伝を禁じている筈」 「はっはっはっは。その通りだ」  男はさもおかしくてたまらぬ、といった顔で八重歯をむき出した。蘭人服の若者は男の背後にかくれるようにして、おれたちの容子を窺っている。 「じゃあ、なぜ、あんたの御主人は、あたしたちの師匠に素直に教授されなかったんで?」 「疾《と》うの昔に教えてあるさ」 「ヘッ?」  男は悔蔑の眼差を投げてよこした。 「シーボルト先生は疾くに開瞳薬の処方を公けにされておるわい。先生は江戸へ着いた早々、本道をはじめ各科の奥御医師方へ使いを立て、心臓薬ジギタリスをはじめ、蘭方の秘薬の数かずを述べた小冊子を配られた筈だ。おまえたちの師匠の手にも、われわれの刷った『薬品応手録』なる和解《ほんやく》本が渡っておるじゃろうが」 「い、いかにも」  おれたちは、|はっ《ヽヽ》として顔をあげた。 「あの『薬品応手録』に、散瞳の薬効があるのは欧州中南部に産生する多年草ベラドンナなり、とはっきり書いてあるわい」  おれは驚愕のあまり、暫く口が利けぬくらいだった。 「ベラドンナ?」 「そうだ」 「すると、ラドンとか、ドンナとかいう薬の名はベラドンナというものなんで?」 「やはり、おまえたちは、あの和解《わげ》本を読んでおらぬか」  男は苦虫をつぶして溜息をついた。  そういえば大先生をはじめ塾中一同、シーボルトより直接《じか》に訊き出すことのみに気を奪われ、和解本のことなど、|はな《ヽヽ》から念頭になかった。こりゃ迂闊《うかつ》だったぞ。 「そ、そのベラドンナとは、いったい、どんな薬物ですかい?」  おれは恥も外聞もなく訊いた。なにせ『薬品応手録』の一頁たりと読んでないのだ。 「おまえら奥医師一門の不勉強ぶりには、あきれはてるが致しかたない。おなじ眼科を学ぶ者ゆえ、とくに教授してやる。和蘭国でいうベラドンナとは唐土《もろこし》に産する|莨※[#くさかんむり+宕]《ろうとう》のことだ。わが国でこれに相当するのは、|はしりどころ《ヽヽヽヽヽヽ》なる薬草ではないか」  男は誇らしげに言い放つ。 「なに、|はしりどころ《ヽヽヽヽヽヽ》?」  それならおれも知っている。山奥に自生する毒草の一種だ。これを知らずに食すれば、いっとき脳髄を侵され、気が狂う。花恥《はじら》う生娘でさえ、素っ裸になって往来へとびだしてしまうところから、|はしりどころ《ヽヽヽヽヽヽ》なる名がついているのだ。 「まさか、あの野草に開瞳の効験《ききめ》があろうとは!」  おれは天窓《あたま》がくらくらする思いだった。 「そ、それにしても、『薬品応手録』にベラドンナのことが、の、載っていたとは。そ、それならなにも、昇安が、尾州くんだりまで、は、早駕籠をとばすこともなかったろうに……」  立眠さんが歯ぎしりして肘《ひじ》を叩いた。男は一歩まえにすすみ出た。 「法印、法眼といえば、医者の位をきわめ、御登城の折には陸尺《ろくしやく》四人がかつぐ鋲《びよう》打ちの蝋色《ろいろ》の御駕籠に乗り、駕籠脇には侍二人、徒士二人、杖持一人、長柄の傘持一人、草履取一人、挟箱《はさみばこ》持一人、物持一人、合羽籠荷担《かつぱかごにない》一人をひきつれたご大層な行列だそうだが——」  男は蔑《さげす》むごとく|にやり《ヽヽヽ》と嗤《わら》った。 「中身ときてはとんだ見掛けだおしじゃ。われらが配った和解本なぞ、誰ひとり目を通そうともせぬ。奥医師の医塾とは、よほどたるみきったところとみえるな」 「あたしたちの塾の悪口はやめろ!」  おれは男の言い草に抗《あらが》ったが、我ながら少しばかり声が小さくなっているのが判った。 「おまえたちは、深い理由《わけ》もなく、ただひたすら御拝領の品を取り返したい一心で、ここに忍び入ったんじゃろうが、気を鎮め、とくと思案してみい。たかが御紋服を失ったからといって、どうしてそんなに大騒ぎするんだ。いいか、ここのところが肝心なんだぞ。なにゆえ、葵の御紋服を和蘭人に渡してはならんのだ。それが、なぜ、罪になるんだ?」  男はギョロリと目玉を虚空にむけ、張臂《はりひじ》して言った。 「脳天《てつぺん》を冷して、つらつら惟《おもんみ》るがいい。そもそも御停止品《ごちようじひん》とはいったいなんだ。遠い昔の、もはやカビの生えた、交易のうえの約束事《きまり》にすぎんではないか。しかも、その品ときては、どれをとってもみな取るに足らん物ばかり。武者人形しかり。大工の鑓鉈《やりなた》しかり。加賀絹、紬《つむぎ》、繰綿、真絹《まわた》。こんなものまで御停止品になっている。仮にもし、武者人形や船造の図絵が外国に渡ったとして、どんな不利を蒙るというんだ? その為、国人《わがくに》の操兵戦闘の術が知れ、和国の安寧秩序が脅かされようか。答は否だ。葵の御紋服にしてもそうだ。これが和蘭国に渡れば、大公儀の慮《おもんばか》るごとく、将軍家の御威光と尊厳を損うとでもいうのかい? そんなことはあるまい。だのに、保身|一途《いちず》のお役人衆は、いまだにそんな胆っ玉の小さい、バカバカしい限りの狭い料簡に囚われているんだ。長崎表へ出かけてみろ。あそこじゃ、お上の定めた御|ちょうじ《ヽヽヽヽ》品なんぞ、皆がベロを出して笑いくさしておるんじゃぞ。御停止品などという、疾《と》うのまに形骸化した旧い規約《きまり》を、今もって、なんの目的《めあて》も理念《かんがえ》もなく、ただひたすら後生大事に守り通そうなどとは、とても正気の沙汰とは思えんわい!」  おれの脳みそは奴の長広舌《ちようこうぜつ》に向って何事かを反駁《はんばく》しようとうごめくのだが、どっこい、舌根からはうまい文句がとび出して呉れぬ。目を白黒するうちに、男は顎をしゃくった。 「さあ、その御紋服を旧《もと》の容物《いれもの》へ戻して貰おうか。藤市《とういち》、おまえも迎翠堂の若先生方のお手伝いをするんじゃ」  藤市と呼ばれた蘭服の若者は、おずおずと前にすすみ出ると、いかにも済まないといった表情でおれたちの手にした御羽織と御小袖をとりあげた。 「待ってくれ」  おれは男に向って懇願した。 「頼む。こんどだけは見逃してくれ」 「ならぬ」 「せめて一着なりと」 「ならぬ」 「あたしたちの師匠の命に係《かかわ》るんだ」 「なんといわれようと、ならぬものはならぬ。奥医師だからといって、将軍《おかみ》の権勢に|あぐら《ヽヽヽ》をかき、虚飾に身をやつし、驕奢《おごり》たかぶり、学問を怠《おこた》れば、己が身を危くするのは致し方あるまい。いわば、自業自得というものだ」 「そ、そんな、せ、殺生な……」  立眠さんが怯えて身をふるわせた。 「帰ったら、おまえたちの師匠に伝えるがいい。シーボルト先生が、土生法眼に散瞳薬の処方の伝授をためらわれたのは、御紋服を所望せんとしたのみではない。『薬品応手録』を精読すれば、自《おの》ずと知れようものを、それを怠り、しゃにむに訊きだそうとする法眼の不遜《ふそん》な態度に、先生はあきれはて、不興を催されたとな」 「わ、わかり申した」  立眠さんは何度もうなずき、手を合わさんばかりにして言った。 「し、しかし、御紋服だけは、か、返してくれ。な、頼む」 「ええい! おまえたちもくどい連中じゃ。おまえらの師匠は、大坂の三井元孺先生のもとで、わしが伯父|高充国《こうじゆうこく》と兄弟弟子の間柄じゃったからこそ、こうしてベラドンナのことも講釈してやったんだ。これだけでも有難く思え!」  男は頸《くび》すじの血管を怒張させて言った。どうやら本気でおこりはじめたらしい。その剣幕に圧倒《けお》されて、おれは逃げ腰になって訊いた。 「あ、あんたの、お名前は?」 「おれの名は高良斎。シーボルト先生の御命令で、『薬品応手録』を和解《ほんやく》したのは、長崎|鳴滝《なるたき》塾の眼科医生たるこのおれだ」  良斎は大きな手をひろげ、おれたちを追いはらうように煽《あお》った。 「さあ、これだけ判ったら、シーボルト先生や、甲比丹どのがここに戻ってこぬうちに、とっとと消え去れ!」   六、鐘撞横丁  長崎屋の通用口をすごすご出ると、|かねつき《ヽヽヽヽ》横丁の向い側に〔時の鐘〕の櫓《やぐら》がみえた。陽はまだ高い。おれたちはしばし茫然と路上に立ち尽した。 「け、研介、こりゃあ、えらいことになったよなあ」  立眠さんは、すっかり打ちのめされた態である。 「わ、若先生や塾頭どのに、な、なんとお詫びすればよいのやら……」  おれは良斎に追い払われたときから、肚《はら》を決めていたので、真顔で言った。 「ねえ、立眠さん。あたしたちは、このままおめおめと塾に戻るわけには参りませんよ」 「う、うむ」 「このまま、手ぶらで帰ったりしたら、どうなると思います」 「そ、そりゃあ……」 「そうです。岩洞どのをはじめ、梅軒、素庵といった、おそろしい連中に半殺しの目にあわされかねませんぜ」 「じゃあ、ど、どうしろというんだ」 「もちろんです」 「う?」 「逃げるんですよ」 「な、なんだって?」 「このまま塾から脱走するんです」 「す、すると、わたしたちは、げ、迎翠堂を、だ、脱塾してしまうとでも?」 「その通りです」 「じょ、冗談じゃない。じゃあ、わたしは、ど、どこへ行けばいいのだ」 「さしずめ、立眠さんは、故郷の遠州へでも逃げ帰ることですな」 「そ、そんな、むちゃな」  立眠さんは目をむいた。 「とにかく、あたしは痛い目にあうのは、まっぴらですから、しばらく幼|なじみ《ヽヽヽ》のところへでも身をひそめますよ」 「け、研介。ま、まて。気を鎮めて、そ、そのような早まったかんがえを、おこさないでくれ。な、頼む。ここは、なんとか、ご、御紋服を取りかえす、ほかの手段《てだて》を、し、思案しようじゃないか」 「すると立眠さん。あたしたちは、もう一度、長崎屋へもぐりこみ、あの男と対決しようとでもいうんですかい?」 「と、どんでもない! そ、それだけは、ご、ごめんだ」 「そうれごらんなさい。だから……」 「そんげんこつは無用じゃけん」  すぐ背後で、甲《かん》高い男の声がした。おどろいて振り返ると、蘭服を着た、痘痕面《あばたづら》の若者が息を弾ませている。 「お、あんたは最前、高良斎と一緒に居た若い衆……」 「へえ。シーボルト先生部屋付の給仕ば務めとる藤市《とういち》といいますと」 「ふーん。で、おまえさん、いったい、あたしたちに何用が?」  おれは相手の心中をはかりかね、藤市の釣あがった目尻と、|のど《ヽヽ》仏の巨きな黒子《ほくろ》を見すえた。 「処分ばして差上げますけん」 「えっ?」 「あの御紋服のこつですばい」 「ちょっと待った、藤市さんとやら、こんな往来なかで立ち話てえのもまずいや」  おれは蘭服の細長い袖をとらまえ、早口で言った。 「どこかその辺で、一杯傾けながら、ゆっくりその話を聞かせて貰おうじゃないか」 「いいえ、そがん暇はなか」  藤市は、そっとおれの手をはずし、くびをふる。「それに、こげん場所《ところ》が、かえって怪しまれんとですよ」 「お、おまえは、い、いくら欲しいんだ」  立眠さんはずばり切りだす。藤市は手をふった。 「報酬《ほうしゆう》なんぞ、そんげんもん、要らんとです」 「じゃあ、いったい、どういう心算《つもり》なんだ?」  立眠さんは拍子《ひようし》ぬけして、藤市の尖った頤《あご》を|うろん《ヽヽヽ》気に見やった。 「もう一寸で、ああた方に御紋服ば持ち去って頂けるところじゃったけん、良斎先生が不意に宿に戻られたんで、手筈ば狂い、あげん成行きになってしまい、ほんなこつ惜しかこつでしたけんな」 「なにィ?」  おれたちは、豆鉄砲を喰ったみたいに、|きょとん《ヽヽヽヽ》とした。藤市は構わず喋りつづける。 「わたしども甲比丹さまの留守居役は、警固のお役人衆に長崎屋の者ば加え、皆でしめし合せ、ああた方のお出ば待ち受けとったとですよ。土生法眼さまの御門下の方が、きっとやってくると思っとりましたもんね」  おれたちは思わず身をのりだし、うんうんと頷く。 「それを良斎先生にあげんこつば邪魔され、まこと残念ですばい。なんせ、あの高良斎というお方は、シーボルト先生のいちばん忠実なお弟子じゃけん、先生が『右ば向け』と命ずれば右を、『あれが欲しか』と仰《おつしや》れば、なんとしてでも、それば手に入れんと骨折りなさる男《ひと》ですたい」 「道理で、あたしたちがいくら頼んでも、御紋服を返してくれぬわけだ」 「ばってん、わたしどもは違うとです。あの葵の御紋服が、シーボルト先生の手元に渡っとったと、そのこつば大公儀に知れでもしたら、真っ先に危くなるんは、このわたしども蘭人従者の頸っ玉ですたい。ばってん、良斎先生ときては、そげんこつ、お構いなかとですもん。あん方《ひと》は己れの弁じる筋道に酔いしれたるごたるけん、他人の迷惑なんぞ慮《おもんばか》らんと、居丈高《いたけだか》に説教ばなさる『正義の人』ですたい」 「ふうん。す、すると、なにかい。おまえさんは、わ、わしたちの為だけじゃなく、おまえさん方のためにも、ご、御紋服をとりかえしてみせよう、と、こういう心算《つもり》なんだね?」  立眠さんは、|びろうど《ヽヽヽヽ》の蘭服に鼻をすりよせるようにして念をおす。 「そうですたい」  藤市は大きく頷き、人差指を曲げて耳朶《みみたぶ》を掻いた。それにしても、まさか蘭人お膝許の給仕が御紋服の始末を請合ってくれようとは夢にも思わなんだ。窮すれば則ち変じ、変ずれば則ち通ずとは、まさにこのことだ。おれは百万の援軍を得た思いで、この異形《いぎよう》の若者をみつめた。 「それに……」  藤市は周囲《あたり》を憚《はばか》るごとく声をひそめる。 「御紋服の件に劣らん重大事《おおごと》ば起っとるとです。シーボルト先生は、国外持ち出し厳禁の日本地図や蝦夷《えぞ》図まで手に入れようと計略《はかりごと》ば巡らしとるとですよ」 「ええっ!」  おれたちはまさかと耳を疑った。それこそお国の一大事ではないか。国禁の日本地図まで蘭人の手に落ちたとあらば、大公儀は黙ってはおらぬぞ。 「だ、だれが、シーボルト殿に、に、日本地図を渡そうと?」  立眠さんが蒼くなって訊いた。 「天文台の高橋作左衛門さまですけん。困ったこつには、どんげんしたこつか、あんお方《ひと》も、重い罪ば犯すごたる気色なんぞ、まるでなかとですよ」 「い、いまに、た、たいへんな事に、な、なりはしまいか」 「そうですたい。ばってん、大船ば乗った気でいてくだっさい。わたしどもが、地図でん、御紋服でん、御|ちょうじ《ヽヽヽヽ》の品品は、きっと処分してみせますたい。わたしどもこそ、あれがあったとでは、枕ば高うして眠れんとですけん、なんとしてでも始末してみせますたい」  そして文政九年|卯月《しがつ》十二日——。  和蘭貢使の一行は長崎屋を出立し、出島への帰途についた。早耳の仙安さんによれば、シーボルトはさらに江戸に逗留《とうりゆう》したいと懇望していたのだが、大公儀の、これに根強く反対する一派の画策により、この願いは却下されたという。  それからさらに半年経って——。  迎翠堂の寄宿部屋に、おれたちがくびをながくして待ち望んでいた吉報がとびこんできた。それは、つぎのごとくしたためた一通の書状である。 [#2字下げ]例の御品、三着共、取逸《とりはぐ》る事なく、全て焼却|仕《つかまつ》り候。御安心下され度候。 [#地付き]藤の字   この報書を一瞥《いちべつ》するや、塾頭どのは、よっしゃ、と合点し、にんまりほくそ笑んで、立眠さんとおれに言った。 「おまえたち、でかしたぞ。これで塾中一門も、警固のお役人も、蘭人従者も、長崎屋の者も、だれもが怖れていた厄介事が、すっぱり消え失せおったのう」   七、長崎表大風雨  文政十一年の十一月なかば。  師走もちかづき、空っ風の吹きすさぶ、ある夕方のことである。 「研介ッ、おきるんだ!」  突然、息せききった声とともに、ゆさぶり起されて、おれは目をしばたいた。ゆうべは徹夜の泊り番で、朝からぐっすり眠りこけていたのである。目のまえに幸魚さんの|のっぺり《ヽヽヽヽ》顔があった。 「へ、どうしました?」 「さ、すぐ逃げるんだよ」  幸魚さんは、まっさおに蒼ざめている。おれには、なんのことやら、さっぱり判らない。 「外をみてごらん」  いわれるままに寄宿部屋の二階から表をみおろして仰天した。夕闇のなかに、迎翠堂の表門をとりまいて無数の御用提灯がゆれうごいている。門前には|あかあか《ヽヽヽヽ》と篝火《かがりび》が焚《た》かれ、白い鉢巻に襷《たすき》がけの捕吏の一団が、陣笠をかぶったお役人に指図されて、一台の駕籠を囲み、いましも屋敷をでていくところである。 「い、いったい、何事が起ったんで?」  おれは度胆《どぎも》をぬかれて、目をみはった。 「えらいこっちゃ。浅草の大《おお》先生が先刻、そしてたったいま、若先生がお奉行所へしょっぴかれていったんだ」 「ええっ、そりゃまたどういうわけで?」 「御禁制の葵の御紋服を蘭人どもに手渡したことが発覚してしまったんだよ」 「しかし、幸魚さん——」  我知らず、身が顫《ふる》え、歯の根が合わなくなるのをこらえながら、おれは言った。 「天文台の高橋作左衛門殿と違い、大先生も若先生も、証拠の品がないではありませんか」  長崎表一帯に暴風雨が荒れ狂い、コルネリウス=ハウトマン号なるオランダ船が渚《なぎさ》に打ちあげられ、動かなくなったのは今年の夏である。ところがその船の積荷から、あろうことか作左衛門殿がシーボルト殿に贈った国禁の日本地図が露《あら》われてしまったのだ。動かぬ証拠を抑えられ、青網をかぶせた駕籠へのせられて、作左衛門殿が御番所へ召捕られていったのは、つい十日まえのことだ。  この報せをきかされたとき、塾中総立ちとなったが、 〈うろたえるんじゃない! 大先生は大丈夫である〉  塾頭どのに一喝されて、皆が我にかえったのだ。そういえば、証拠の品は三着共、疾《と》うに焼きすてられている筈である——。 「なにを世迷い言をいっているんだい」  幸魚さんは、はげしく首を横にふった。 「若先生はたったいま、お奉行所のお役人に、シーボルトの積荷からあらわれた葵の御紋服をつきつけられて、グウの音もでずに連れていかれたんだから」 「な、なんですって?」  おれは動悸《どき》っとして、あとずさりした。 「そりゃ、なにかの間違いですよ。二年前シーボルトの給仕だった藤市という男が、御紋服はすべて焼きすてましたと言って寄越したことぐらい、幸魚さんも御存知じゃありませんか」 「そんなことを本気で信じ込むなんて、おまえも相当の馬鹿だね」  幸魚さんは、おれの腕を引っ張った。 「さ、いまはこんなところで、あれこれ言い合ってる暇はないんだよ。とにかく、おまえは逃げたほうがいい」 「どうして、あたしは逃げなけりゃいけないんで?」 「玄庵塾頭が目を釣りあげて怒り狂っているんだ。御紋服を焼きすてたなどという、どこの馬の骨とも判らぬ者の言い草を信じこみ、立眠も研介も取り返しのつかぬ失策《しくじり》をしてくれおったな、と喚《わめ》きたててね。立眠さんは、いま岩洞どのや素庵どのに取り囲まれて、危い目にあいそうなんだ。こんどはおまえの番だよ。さあ、半殺しの目にあうまえに、とっとと塾《ここ》を逃げだすんだ」 「うへっ!」おれの手がわななき、足がふるえおののいた。 「おまえには、いままで随分世話になったんでね。こんなときこそと思って、まっさきに知らせにきたのさ。さ、さ、はやく、裏口から逃げだすんだ」  そのあと、どこをどう走ったのか、まるっきり覚えがない。気がつくと、おれの脚足《あし》は本町の住吉屋に向って一目散に駆けていた。  ——研介さまは、そのシーボルトの給仕なる男に一杯喰わされましたなあ。  ——うーむ。あの蘭服|冠者《かじや》め。あたしたちを欺《あざむ》きおって、長崎野郎にコケにされたとあっちゃ江戸っ子の名折れだ。こんど奴を見付《めつ》けたら、肛門《しりあな》に大黄末《くだしぐすり》と浣腸を注《つ》ぎこみ、蛔虫《かいちゆう》を|うどん《ヽヽヽ》玉にして胃の腑に放り込んでくれようぞ!  住吉屋の|はなれ《ヽヽヽ》に身をひそめ、長兵衛を相手に歯ぎしりして口惜しがっている間にも、事態はわるくなるばかりだった。年の暮になると、大先生は閉門を申しつけられ、座敷牢に幽閉されてしまい、若先生もまた、西丸奥御医師の座を追放されたうえ治療差止めとなり、御拝領地も家財も、ことごとく没収されてしまったのである。  いちどきに大先生と若先生を失っては堪らない。迎翠堂は閑古《かんこ》鳥が囀《さえず》りはじめ、屋敷には雑草が生い茂り、まず古狸共がまっさきに、やがて塾頭どのをはじめ門人たちも、ちりぢりに去っていった。  おれも住吉屋を出たが、お玉ケ池の我が家へは戻る気がせぬ。幼なじみの平蔵が神田松枝町に漬物問屋を営むのをおもいおこし、その二階を借りて、居候《いそうろう》を兼ねた目医者をほそぼそとはじめたのである。   八、病囚浅草溜  浅草寺の境内をぬけて裏手へ出ると、眼前に広大な田圃《たんぼ》がひろがる。この田圃の真ン中に、柵を巡らした一風かわった建物が二棟、道を挟んで向い合っている。これが浅草|溜《だめ》と呼ばれるお長屋である。三間に七間の長屋は一の溜《ため》。三間に十間のは二の溜。ほかに女囚用の女溜が二間に四間しつらえてある。総板敷に畳を置き、竃《かまど》には四六時中、湯が沸いている。夜中には有明《ありあけ》もいくつか点《とも》される。伝馬町の牢屋敷とちがい、格子は一重《ひとえ》で日当りもすこぶるよい。吹き抜きなので、牢屋につきものの悪臭がない。湯茶、薬は無論のこと、烟草《たばこ》も随意に頂けるし、居《すえ》風呂だって日に何度でもはいれる。囲いこそあれ、庭を自在に徘徊《はいかい》でき、寒さの折には焚火さえ許されているのだ。病人の養生には申し分ない拵《こしら》えである。  伝馬町の牢舎へは、おれも二度ばかり目病みの往診を頼まれて足を踏み入れたこともあるが、全くもっておぞましい場所《ところ》だ。牢内は日も射さず、牢格子には汚物がへばりつき、床には虱《のみ》や蛆虫《うじむし》がうごめき、牢名主にキメ板でなぐられ、食に魚なく、病人が絶えぬ。本道医者が朝二人、夜一人、交代で詰切るが、牢内を嫌って、ろくに診察にもこない。やることといえば、日に四人と下らぬ牢死人の検屍《けんし》ぐらいのものである。伝馬牢《あちら》が地獄なら、浅草溜《こちら》は極楽である。それかあらぬか、非人頭車善七のとりしきる浅草溜には、溜預けの病囚がひきもきらぬ有様である。  おれが迎翠堂を逃げだしてから、早いもので七年になる。その間、おれは長兵衛の世話で浅草の伊丹宗庵という目医者の入婿《いりむこ》に迎えられ、通称《よびな》を伊丹研宗と名乗っている。「我が家に手術あり。目を憂える者、至急来るべし」などと、迎翠堂の版書に似せた引札《こうこく》を湯屋にくばるなどしているのだが、養父《そうあん》殿が中風のせいもあって、一向に患者が寄りつかん。やむなく、人を介して目病みの多い浅草溜へ行かせて貰っているのである。  残暑のきびしい日差しの照りつけるある昼下り——。  その日も眼科用の道具箱を、干物を思わせる老僕の忠平にかつがせ、浅草寺と田町二丁目の編笠茶屋の間の、向日葵《ひまわり》の揺れる田圃道を通って、溜の門をくぐった。  股引に法被《はつぴ》を着た非人頭の手下の者が、吹き出す汗をぬぐいながら、目を患った囚人共を一列に並ばせる。それを順ぐりに診ては、目を洗い、膏薬《こうやく》を貼りかえ、目蓋の腫れ物の切開をおこない、といった具合に療治をすすめる。溜の非人たちは囚人の張番などの御番所の公事《くじ》がお役目なのだが、煎薬を煮立てたり、包帯を巻きかえたりで、病囚の看護役にも結構役立っている。  一の溜の病人を診終《みお》え、二の溜で診察をはじめたとき、おれは「あっ」と声をあげた。順番を待つ目病みの列の中に、忘れもせぬ、あの長崎屋で出会った蘭人給仕の藤市が並んでいるではないか。奴はひどい結膜の爛《ただ》れと眼脂《めやに》で両眼とも腫《は》れ塞《ふたが》り、おれには気付かぬ容子だが、こちらは高良斎の面体《めんてい》とともに片時たりとも忘れたことはない。釣昂《つりあが》った目尻。痘瘡《もがさ》の瘢痕《あと》と尖った頤《あご》。そして|のど《ヽヽ》仏の巨きな黒子《ほくろ》。まさしく蘭服野郎だ!  念頭から病人の手当のことなど、どこかへ消しとんでしまい、おれは藤市にとびかかった。 「やい、藤市。おまえは、なんてひどい男だ!」おれは奴の胸倉をとらまえて言った。 「御紋服を始末したなんて、とんでもない嘘つき冠者め。汝《うぬ》はよくもまあ|ぬけぬけ《ヽヽヽヽ》と、証拠の品品はのこらず焼き捨てましたなどと、白白しい大嘘をならべて寄越したもんだ。おまえのおかげで大《おお》先生は揚《あが》り屋へぶち込まれ、若先生ともども改易《かいえき》を申しつけられ、おれたち迎翠堂一門はちりぢりばらばらの悲哀をかこつ羽目に陥ったんだぞ。この落前《おとしまえ》をいったい、どうつけてくれる心算《つもり》なんだ。このバチ当りの、駄法螺《だぼら》吹きの、礫野郎《はつつけ》の、頓痴気《とんちき》の、舞茸《まいたけ》食いの、闇穴《あんけつ》め! おまえなんざ、狗《いぬ》にくわれちまえ!」  おれは奴の頬桁《ほおげた》めがけて|がつん《ヽヽヽ》と一発、きついのをお見舞してやった。 「な、なにをなさる」  藤市は泡を喰って悲鳴をあげ、あっけなくその場にひっくりかえった。傍に居た非人の喜助が慌てて、おれを押しとどめた。 「待ってください、先生。はやまっちゃいけませんや。その目病みは藤市なんてぇ男じゃありませんよ。幡崎鼎《はんざきかなえ》という、|れっき《ヽヽヽ》とした水戸藩のお侍だった男ですぜ」 「いいや、こいつの面構えと|のど《ヽヽ》仏の大|ぼくろ《ヽヽヽ》をあたしが忘れて堪るかい。この男はたしかにシーボルトの給仕だった藤市にまちがいあるものか」  おれは喜助の手を振り払って言った。二の溜の病囚どもが、唖然《あぜん》としておれを見つめている。格子の外にも張番たちが、何事か、といわんばかりにたかってくる。幡崎鼎と呼ばれた男は身を起すと、見えぬ眼をおれに向け、窺うようにして言った。 「いかにも、わたくしめは、その昔、藤市と称しておったとですよ。ばってん、そんげんああたのその声は、たしか、迎翠堂の研介先生じゃなかとですか?」  藤市は一方の手で頬桁をさすり、他方の手で眼脂に塞った眼を紅絹《もみきれ》で拭いながら、懐しそうな声をだしおった。 「おう、そうとも。けっ、いやに落ちつきはらっていやがる」 「ばってん、ほんなこつ申しますけん、わたしは決して虚言《すらごと》なんぞ言った覚えはなかとですたい」 「とぼけるんじゃない。じゃあ、どうして、おまえが焼き捨てた筈の御紋服が、まるで手妻《てじな》みたいに、蘭人の船荷から顕われたのだ?」  おれは語気をつよめて、もういちど、奴に詰め寄った。藤市は、あとずさりするようにして言った。 「それには仔細があるとですけん。いまここで、大勢の病人衆がこんげん聞き耳をたてておったんでは、申しあげるこつばできんとですよ」 「よおし、判った。じゃあ、これから別室で、おまえの言訳《いいわけ》なるものをとっくり聞かせて貰おうじゃないか。ただし、その返答いかんでは、只じゃおかないからその心算でいろよ」  そのとき、傍の喜助が言い難くそうに、おれの十徳の袖をひっぱった。 「研宗先生。わるいがそのことはあと回しにして貰えませんかい。先刻から、二溜《ここ》の病人のほかに女溜にも目病み共が大勢待っているんでさあ」 「乱暴なすっちゃいけませんぜ、先生」  念をおす喜助を、わかっているよ、と廊下へ追いやり、おれは詰所の板の間に藤市と二人きりで対座した。もし奴がいい加減な返答で|しら《ヽヽ》を切るなら、当方《こちら》にも覚悟がある。この男はおれの半生を滅茶苦茶にしてくれた憎い野郎だ。この七年間、藤市と対決している場面を幾度夢みたか知れやしない。それが夢じゃなくて、まるで浅草の観音さまのお導きみたいに、奴の方からおれの眼前に転がりこんできおった。この願ってもない機会を逸してなるものか。積年の恨みをここに晴らしてやる。おれの脇の眼科道具箱には切れ味するどい手術尖刀が何本もはいっているんだ。 「いまさら隠立《かくしだ》てなどしとっても致しかたなか……」  幡崎鼎《はんざきかなえ》こと藤市は、哀れをもよおさせるような声でつぶやいた。 〈へん。水戸藩のお侍が聞いてあきれらあ。町人|ことば《ヽヽヽ》なんぞつかいおって。藩士の威厳なんぞ|かけら《ヽヽヽ》もありゃしない。今ごろになって憐みを乞おうったって、そうはさせないぞ〉  おれは藤市を睨みつけてやった。 「誓って申しますけん。難破した和蘭船から露れた葵の御紋服は、土生法眼さま御父子がシーボルト先生に差上げた品とは、ほんなこつ違っていたとですたい」 「なんだって!?」  思いもよらぬ藤市の言葉に、こんどはこちらがびっくり仰天する番だった。おれは頭ン中に|どじょう《ヽヽヽヽ》を放り込まれたみたいに訳がわからなくなった。 「す、すると、いったい、誰がその御紋服をシーボルトに?」 「申しあげるんも怖《おとろ》しか……」 「誰だ、言え、言ってくれ」 「決して口外はしまっせぬか」 「もちろんだとも」  藤市は、それでも暫くためらっていたが、やがて思いきったように顔をあげて低い声で言った。 「では申しますけん、きっと内密ば願います。じつは家斉《くぼう》様御台所の御父君であらせられる薩摩の島津|重豪《しげひで》さま、そしてその御世嗣《およつぎ》の島津|斉彬《なりあきら》さま。さらには中津侯奥平昌高さま。この御三方が揃って長崎屋へ御来訪《おでまし》なさり、蘭紙に包んで糸に結んだ御紋付黒|倫子《りんず》御|単物《ひとえ》を一着、シーボルト先生に……」 「なに、薩摩と中津のお殿様が?」 「そがんこつとは露知らず、わたしは三着の御紋服と|えぞ《ヽヽ》図と日本地図ば焼き棄つるごとのできましたけん、すっかり安心ばしとったとですよ」 「では、おまえは確かに大先生の御拝領品をすべて焼却しておったんだな」 「むろんですたい。ばってん、シーボルト先生は地図や御紋服がつぎつぎと失せることば不審におもわれとったけん、薩摩の殿様から頂戴した御単物は用心して秘匿しんなさっとですたい」 「|えぞ《ヽヽ》図と日本地図を焼いたのに、なぜ、天文台の作左衛門どのは召捕えられたんだ?」 「こいこそ国法の厳禁ですけん、シーボルト先生は地図の写しば何枚もとっとったんですよ」 「ふむ。では、なぜそのことを大公儀のまえで包み隠さず申し述べてくれなかったのだ。さすれば、大先生もあのような目に遭わずとも済んだだろうに」 「喋りましたとも。長崎奉行所のお白洲《しらす》のうえで、わたしの知っとった全てばね。ばってん、御三方ともとびきり高貴な御方ばかりですけん、ほんなこつ召捕るわけには参らんとですたい。そこで目をつけられたんが土生法眼御父子だったちゅう次第ですと。奥御医師とはいえ、法眼さまの御扶持わずか三十人扶持、御番料とて二百俵。七十七万石の薩摩の御殿様に較べれば、羽毛のごとき御身分ですたい。そんげんして大公儀はすべての罪ば土生御父子になすりつけ、御大身の殿様方が傷つかんよう防いどったとですに」 「うーん」おれはおもわず唸った。 「すると大先生も若先生も薩摩や中津の殿様方の身替りにさせられたというのだな」 「わたしが焼却しとった土生御父子の三着の品は、御小袖と縮緬《ちりめん》羽織と御|帷子《かたびら》じゃったけん、蘭船の積荷から顕れたんは黒|倫子《りんず》の御単物だったとですよ。玄碩さまも玄昌さまも、よおく確かめて見とんなされば、己れが贈与した衣服とはまるっきり違う物と判ったでしょうに、御奉行所のお役人衆に御紋服ば突きつけられたとたん、ただひたすら畏れいって仕舞うたごたるけん、こりゃもうどんげんしようもなか」  藤市は眼をしばたき、眼脂《めやに》をぬぐった。 「そいだけではありまっせんと。なにせ大公儀のお役人衆は切支丹と和蘭学がなによりもお嫌いですけんな。なかでも漢方の奥御医師方をはじめ、間宮林蔵どのら、蘭学ば隆盛となるんを忌み嫌う一派が、事あらば、作左衛門どのや玄碩さまを罠《わな》に掛けんと、手ぐすねばひいて待っちょりましたもん、ひとたまりもなか。シーボルト先生がも少し江戸に逗留したいとしきりに頼んどりましたばってん、はやばや長崎へ追い返されたそのこつも、あん連中《ひとたち》の強硬な反対があったからですたい。どうです、研介先生。いまさら、おおそれながらと訴え出ても、相手にされんこつば、これでよくお判りでっしょうが……」  おれの頭が|じんじん《ヽヽヽヽ》嗚っていた。どうやら長い間、おれはとんでもない思い違いをしてきたようだぞ。 「しかし藤市。いやさ幡崎どの。あんたは一体どうしてこんな溜《ところ》に迷いこんできたのだ。水戸藩のお侍ともあろうお人が……」 「まあ聞いてくだっさい」  藤市は語りだした。  長崎表にあの大暴風雨が襲い、シーボルト医官の違法の船荷が露見して以来、江戸参府に同道した蘭人の従者たちは次次と長崎奉行所に引っ立てられていった。お上の御詮議はまことに厳しく、入牢中、牢死者さえ現われたほどだった。藤市は町預かりの身であったが、文政十三年三月九日の夜、警固の手薄に乗じてまんまと牢を抜けだした。それからまっすぐ大坂へ——。  ここで幡崎鼎と名を変え、蘭学塾をひらいたが、その蘭語会話《ザーメンスプラーカ》の流暢《りゆうちよう》さが江戸にまできこえたのか、水戸藩の西学都講《さいがくとこう》に抜擢され、蘭学を教えることになる。  だが、人の運命なんて判らぬものだ。和蘭造船法の書を得るべく藩命にて長崎表へ参り、無事仕事を済ませてから、一夜、丸山の遊里へ登楼した折、 〈おう、誰かと思えばおぬし、今籠町の藤市ではなか。こりぁたまげた。牢ば抜けでたときいとったが、まだ生きとったか。ばってん、えろう羽振りのよか身形《みなり》じゃけんのう〉  楼上ですれちがった旧知《むかし》の者《なじみ》に声を掛けられたが運の尽き。忽ち奉行所に召し捕えられ、江戸へ護送されてきたというのだ。 「すまぬ」  藤市が一部始終を語りおえたとき、おれは|がば《ヽヽ》と身を伏して言った。 「知らぬこととはいえ、あたしは今日まで、あんたを大嘘つきの裏切り野郎めと恨んできたんだ。あまつさえ、先刻は殴りとばしたりしてわるかった。これ、この通り詐しておくれ」  おれは頸椎《くび》の骨も折れよ、とばかり板敷に額をこすりつけた。 「いいえ、研介先生。そんげん謝られては勿体《もつたい》なか。わたしが殴られとったんも当然ですたい」  藤市は、あわてておれを制した。 「わたしこそ間違っておったとですもん。もとはといえば、蘭人の御紋服ば渡るんを防ごうとしたんじゃけん、むしろお褒めに与《あずか》ってもよか。なのにお上の仕打ちは無法かぞ。高貴な御殿様ば救う辻褄《つじつま》合せで、俺《おる》を法眼とシーボルト先生の仲介人《なかだち》なんぞにでっちあげおって! 口惜しさが昂じ、夜陰にまぎれ、逐電《ちくてん》ばしとったそのこつが、そもそも心得違いだったとですよ。良斎先生らのごとく、も少し辛抱ばしとったら永尋ねの羽目に陥るこつもなく、こんげん情ない目に遭わずとも済んどったかもしれんとですけんね……」 ≪おれの名は高良斎。『薬品応手録』を|和解《やく》したのは、このおれだ!≫  あの男の朗朗たる音声《こえ》が、おれの耳に甦《よみがえ》ってきた。 「あのときの高良斎は、いまどうしている?」  おれは、奴の消息を訊かずにはおれなかった。 「おお、あの良斎先生こそ、逃げも隠れも致しとらんです」  藤市はなにかに打たれたかのように、身を|ぶるぶるっ《ヽヽヽヽヽ》と顫わせた。 「あんお方《ひと》は甲比丹一行に同道して捕えられたる者は全て無実なり、と終始節をまげるこつなく弁じたてられ、しまいにはお上にもそのこつば容れられたかしらん、長崎の牢舎の大方の者が微罪にて放免ばされとるとです」  泣き笑いのような歪《ゆが》みが藤市の頬を|ひくひく《ヽヽヽヽ》とかすめた。 「ばってん、このわたしは御停止品の仲介者也と烙印ば押されては到底助かるこつはなか、と早合点しちょりましたけん、俺《おる》だけは助かろうと脱出した挙句がこんげん|ざま《ヽヽ》ですばい。御停止品なんぞもはや時代おくれじゃ、これを贈答してなんの罪のあろうや、と怯《ひる》むこつなく堂堂と申し開きばなさった良斎先生は仲間の者とともに助かっとったばってん、小細工ば弄《ろう》して牢ば抜けだし、小賢しく立ち回ったわたしは、とどのつまり、こんげんして、牢に捕えられているとですよ……」  藤市は「う、うっ……」と、目玉をくりぬかれた迎翠堂の実験《おためし》犬のような呻《うめ》き声をたてた。  溜の門をでると、西日がおれの目を射た。風がすこし出始め、暑さはいくぶん和らいでいる。だが、汗ばんだ十徳はべっとり背中に張りついたままである。おれは畦道《あぜみち》の脇に一面に咲いた向日葵《ひまわり》の群生を眺めながら、ゆっくり歩いた。家僕の忠平が黙然と従う。 〈——藤市の奴、哀れだった。だが、あいつをあざ嗤うわけにはいくまい。おれだって、奴と似たり寄ったりで生きてきたんだ〉  おれはあるきながら、しきりと考えた。 〈——いつも運命と正面から向いあうことをさけ、逃げてきた。難事《こと》がおこれば、いつだって長兵衛の懐ン中へもぐりこんでしまう。迎翠堂もお玉ケ池の親父の家も、結局は煩わしさを避けて見捨ててきたようなものだ……〉  向日葵の咲き乱れるうえを、気の早い赤トンボの|むれ《ヽヽ》が舞っている。 〈——高良斎はこれまで|うしろ《ヽヽヽ》を見せたことなどなかろうし、これからもそんなことはあるまい。あの男はおのれの運命を真正面から発止《はつし》と受けとめ、返す腕《かいな》で、こいつをねじ伏せてしまったんだ。同じ目医者、同じ年|ばえ《ヽヽ》、同じ町医者でありながら、あの男とおれをくらべりゃ、月とスッポン、鯨とタドン、琵琶湖とトコロテンほども違っていやがる。どうして、やること、為すこと、思案すること、すべてあの男とおれではこうも段ちがいなんだ、ええい、くそっ!〉  突然、おれの|なにもかも《ヽヽヽヽヽ》に嫌気がさして、脳|みそ《ヽヽ》をすっからかんにしてしまいたい衝動に駆られ、 「うわぁー、うおーっ!」  天に向い、咆号《ほうごう》してしまったのだ。  忠平が仰天して走り寄ってきた。 「せ、先生。どうかなさいましたか?」 「いや、な、なんでもない」  おれは我に返ると、慌てて忠平に向い手を振った。極《きまり》悪いんで、向日葵の群生に見とれる|ふり《ヽヽ》を取り繕《つくろ》う。忠平は怪訝《けげん》な面持ちだ。  ……向日葵の中にひときわ美事な黄頭が一輪、他をぬきんでて昂然と突っ立つ。 〈——おまえはなんの目的《めあて》も理念《かんがえ》もなしに生きている……〉  その大輪咲きが良斎の声で、おれにそう囁いた。 「よせやい」  おれは黄頭を見かえした。 「たしかにあんたは立派さ」  おれは|すくっ《ヽヽヽ》と屹立《きつりつ》した大輪にむかって言ってやった。 「それどころか、立派すぎるわい」  大輪咲きは、ゆるやかにくびを横にふっている。 「考えてみりゃ、あんたの言う事はいちいち尤《もつとも》だ。だが、あんたはあまりに偉すぎる。偉すぎて、とてもついちゃいけないよ。己れの信ずるところを臆することなく弁じ立て、堂堂と申しひらきをするなんて、とてもおれたちにできる芸当じゃない。あんたは表構えだけの家で暮せるかもしれないが、おれたちはそうはいかない。裏口やら、垣根の|くぐり《ヽヽヽ》穴を拵えておかなけりゃ住めたもんじゃない。建前どおり生きるなんて到底できやしないんだ。おれたち小心者にできることといえば、たとえそれが理不尽なことだろうと、形骸化したものだろうと、世の中の掟《おきて》とあらば、せいぜいそれに逆らわぬよう生きていくよりほかないんだ」  おれはひと息ついて、黄頭をみすえた。 「だけど、これだけは言っておく。これからは逃げ腰で生きていくのはやめてやる。おれだって江戸っ子さ。いつまでも|へっぴり《ヽヽヽヽ》腰ばかりでいるてえ訳じゃないんだぜ」  おれの独《ひと》り言《ごと》におどろいたのか、赤トンボの|むれ《ヽヽ》が、ふいに方向《むき》をかえ、傾きだした夕陽めざして一斉に舞いあがっていく。 「赤トンボが群れているんで、明日は雨になるかもしれんな」  おれはそう言って、老僕の忠平に帰りを促した。さっきから、おれの振舞《ようす》を気遣《きづか》っていた忠平は、干魚みたいな顔にほっと安堵の色を浮べ、眼科用の道具箱を担ぎあげた。 〈参考文献〉日本学士院『明治前日本医学史』、呉秀三『シーボルト先生』その他 [#改ページ]  乃木将軍の義手     1  ファンファーレが高らかに鳴った。  ドレスデン王立大公園の澄みわたった上空を数百羽のハトが白い花吹雪のように舞いあがる。むせかえるような新緑におおわれた公園の森に数発の祝砲が轟《とどろき》きわたった。  大公園の中央広場には半円形の高い壇場が設けられ、その幔幕の下に、胸一杯の勲章をぶらさげた将軍や貴族、それに各国の来賓たちが起立していた。壇のわきには一段下がって仕切りが造られ、その一角に日本館の係員の席がある。角次郎は松木二等軍医の恰幅《かつぷく》のいい広い肩の後でひょろりとしたからだを折りまげるように身をちぢめて立っていた。  壇の後方の白い柱に大会旗と主催国であるザクセン王国の旗がスルスルと上がる。つづいて参加国の国旗がつぎつぎに掲揚されて風にはためいた。プロシア、ロシア、バイエルン、オランダ、オーストリア、イギリス、フランス、イタリア、スペイン、アメリカ。そして|へんぽん《ヽヽヽヽ》とひるがえる日章旗。  角次郎は胸が熱くなって、おもわず洟《はな》を啜《すす》った。 (みてくれ、スワ子。この盛大な開会式を——)  日頃、尊大な松木軍医でさえ、肉厚のまぶたをうるませ、じっと国旗をみつめてぶ厚い唇をふるわせているではないか。  ふたたび軍楽隊が蒼穹《そうきゆう》にむかってトランペットをひびかせる。と同時に右手の森から、麗々しく着かざった騎兵隊の一団が姿を現わした。高々と馬にのり、『歓迎! ドレスデン市、千九百十一年、万国衛生大博覧会』と気取ったドイツ文字でしるした中央広場の、花びらで飾られた巨大な入場門をつぎつぎと駆けくぐる。広場をうめつくした大観衆が盛大な拍手を送った。  軽騎兵、槍騎兵、竜騎兵、騎馬砲兵、騎馬猟兵。そしていちだんとめかしこんだ近衛騎兵隊。ザクセン王国がほこる騎馬軍団の華麗な隊列だ。行進ラッパが|りゅうりょう《ヽヽヽヽヽヽ》と鳴りひびき、軍楽隊が皮もやぶれよと小太鼓を乱打する。すべての騎兵が胸を反らし、壇上のおえら方のまえまでくると、一斉に顔を正面にむけ、挙手の敬礼をする。つづいて広場のまわりに軒をならべる意匠をこらした各国の展示館のまえをゆっくり行進してから、はるかむこうにみえる退場門へ消えていった。 「さあ、明朝からはおまえの出番になる」  松木軍医は角次郎にくびをむけると、外套の襟をなおしていった。広場では民族衣裳をつけたドレスデンの少女らの花輪の踊りがはじまっている。 「くり返し言うようだが、わが日本館の展示品の目玉は、なんといっても、おまえの操る乃木閣下の義手だ。そこで今日からは博覧会がおわるまで、おまえには万事、乃木式義手だけで用足しをしてもらう」  えっ、と角次郎は小さな叫び声をあげて軍医の|ぬめっ《ヽヽヽ》と脂光りした四角い顔をみた。 「すると、洋服の着換えも、食事も、洗たくも……」 「ああ、洗面、歯みがきから、大小便の後始末まで、すべてあの義手でやり通すんだ」 「そ、それは……」 「いままでは大目にみてきたが、今日からはそうはいかん。この開会式がおわったら、さっそく義手をつけてもらおう」  軍医はなかば命令口調で角次郎にいった。 (そんな、無理な……)と出かかったことばをあわてて呑みこむ。横浜港まで見送りにきたスワ子のちょっと舌たらずの甘い声がよみがえったのだ。 (それじゃ角次郎さん、くれぐれも気をつけてね。それから軍医さんの仰《おつしや》ることは、なんでもいう通りにするのよ)  松木軍医は使い古した歯ブラシの毛のような眉をあげて顔をちかづけた。「それもみな、閣下の考案された義手がいかに優れているかを外国の連中にはっきり判らせてやるためだ、わかっているな」  角次郎は歯肉《はぐき》の虫が大集会でもひらいているような軍医のひどい口臭をぐっとこらえて、やむをえん、スワ子のためにも、なんとかきばらなくては、と内心つぶやく。それから出発のときスワ子にもらった成田山の御守りを洋服の上から撫で、遠くにみえる天守閣《ツピンガー》宮殿と大聖堂の高い塔屋をみすえていった。 「はい、乃木閣下の御温情にむくいるために、できるかぎりがんばってみます」     2 「まだキズが痛むの?」  一週間ぶりに見舞いにきたスワ子は、ふっくらとした小さな白い手で角次郎の骨ばった腕の包帯をまきなおしながらきいた。このあいだは小紋|斜子《ななこ》の被布《ひふ》に|えび《ヽヽ》茶袴をはいてきたが、きょうは染絣《そめがすり》の着物に赤い帯をしめて、小ざっぱりした身なりである。 「いや、もうなんともないさ」角次郎はスワ子に腕をあずけたまま、てれくさそうにかぶりをふった。 「それならいいけど、キズにさわるから、こっそりお酒なんか飲まないでね」  包帯をまきおえると、スワ子はほどよくくびをかしげて、ふんわりふくらんだ束髪をなでた。おしろい気はなく、おちょぼ口に口紅だけをうっすらとひいている。その白玉団子のように丸くてキメのこまかい小ぢんまりととのった顔をみていると、おもわず頬ずりしたくなるほどだ。せめて、その手になにげなくふれてみたいのだが、あいにく同室の永田特務軍曹と、関山伍長が、ベッドの上にどっと腰をおろして将棋に夢中になっている。いや、夢中の|ふり《ヽヽ》で若い二人に耳をそばだてているのだ。永田は奉天の会戦で右|ふともも《ヽヽヽヽ》に、関山は鴨緑江《おうりよつこう》の戦いで左の|すね《ヽヽ》に貫通銃創をうけ、ともに脚の切断手術をうけていた。 「きょうは非番だったから、おはぎをこしらえてきたわ」スワ子は経木《きようぎ》の包みをひらいていった。 「さ、そちらさんもどうぞ召し上ってくださいな」スワ子は二人の同室者にも包みをすすめる。や、すまんですな、と軍曹と伍長はうれしそうに手をだした。  角次郎が入院している東京|衛戍《えいじゆ》病院(陸軍病院)は麹《こうじ》町区|隼《はやぶさ》町にある。昔の大名屋敷の跡で、やたらと広く、気味のわるいほど静かだ。いたるところに巨きな老樹がうっそうと生い茂り、整然とたちならぶ平屋建の長い病棟を見下ろしている。色づきだした落葉樹の梢の間から、午後のやわらかな日ざしがこぼれおちていた。病院の正門から半蔵門がみえ、大通りに面した垣根からは御濠をへだてて吹上禁苑の樹海が望める。だが、角次郎のいる|ほ《ヽ》号西病棟はあいにく病院のいちばん裏手で、みえるのは朽ちた板壁だけである。 「あの娘はおまえの許婚《いいなずけ》かね?」  スワ子が湯わかし場へ湯茶の用意に行っている間に、関山伍長が将棋盤からいかつい顔をあげてきいた。伍長は丈こそ低いが肩幅がひろく、がっちりした歴戦の勇士だ。 「いえ、そんなんじゃありません」  もし、そうと決まった仲なら、どんなにうれしいかも知れないのだが、ふたりはいまのところ、まだ親しい幼なじみにすぎない。 「包帯を巻く手つきが看護婦のようじゃないか」こんどは永田軍曹が話にわりこんできた。こちらはおそろしく胴長な体に山芋《やまいも》のような凸凹《でこぼこ》した長い顔をのっけている。 「ええ、まえに入院していた渋谷村の陸軍予備病院で何年ぶりに出会ったんです。スワ子はあそこで働いてましたから」 「なかなかの別|ぴん《ヽヽ》じゃな」伍長が九官鳥のようなしゃがれ声でいった。 「それにぷりぷりしたいい尻をしておる」 「からかわないでください」角次郎はどぎまぎして顔を赤くした。 「わたしとおなじ村出身のまじめな娘さんなんですから」 「さっき廊下を通った滝沢軍医もなかなかの美人だなってじっと見ていたぞ」伍長は窓の外を見やりながらいった。構内を五、六人の傷病兵がぶかっこうなドタ靴をはいて、ぶらぶらとうろついている。みんな角次郎たちと同様、おしきせの白衣をきせられ、巡礼のような饅頭《まんじゆう》笠をかぶせられていた。板壁のやぶれた隙間から小鳥がさえずるようにしゃべり歩く|えび《ヽヽ》茶袴の女学生たちの姿がみえた。どこからか幼い女生徒の唱歌がきこえてくる。 「おととい、乃木閣下がだしぬけにおれのところへ慰問にこられたんでたまげたよ」  スワ子が急須と湯呑をもって部屋にもどると角次郎はいった。 「まあ、乃木さまがここへ? あの日露戦争の英雄の?」  スワ子は一重まぶたの目を大きくみはって角次郎をみた。 「なあに、べつに珍しいことじゃない。あの大将はときどき思いついたように衛戍病院へ見舞にくるのさ」永田軍曹がその長い顎の長さを確かめるようにアゴ先に指を這わせていった。  角次郎が乃木|希典《まれすけ》将軍にはじめて出会ったのは衛戍病院に入院して十五日目のことである。将軍は角次郎の主治医の若い滝沢軍医と大女の田辺婦長に案内されて、ひとりでひょっこり病室にはいってきた。軍曹と伍長は歩行訓練のため中庭へ出ていて留守だった。 「さあ、起きなさい。乃木閣下のお見舞ですよ」  婦長の息をはずませた声に角次郎はおどろいてとびおきた。先日、見舞にきたスワ子が忘れていった花模様の刺繍《ししゆう》のついたハンカチを鼻先にあて、ベッドにねそべりながら、うっとりと甘い残り香をかいでいたのだ。あわててハンカチを枕の下にかくし、ベッドからおりようとした。 「いや、そのままでよい」将軍は低い声でいった。刈りあげられた白い頭髪、耳からアゴにかけての短く白いひげ。まるで顔全体が白い刷毛でふちどった額縁《がくぶち》のようにみえる。それに頬がこけ、目尻が少しさがって、憂いをたたえた泣きっ面だ。新聞の写真や縁日で売っている錦絵でみた通りの顔が目のまえにあった。おもったよりからだが大きい。脚はすこしガニ股である。 「名はなんという」将軍は深くサビを帯びた声できいた。 「はい、菱田《ひしだ》角次郎と申します」 「いくつになる」 「二十五です」  うむ、と将軍は威厳にみちた物腰でうなずいた。 「どこの軍にいた」 「はい、第一師団の第二糧食縦列であります」角次郎はしゃちほこばって答えた。それにしてもなんと名誉なことだろう。相手は従二位にして伯爵、陸軍大将、軍事参議官。しかも明治天皇じきじきのお声掛りにより学習院長を拝命した目もくらむような雲上人だ。こちらは輜重《しちよう》輸卒が兵ならば、蝶々トンボも鳥のうち、とあざけられた一介の輸送兵にすぎない。それをこうして直じきに顔までぐっとちかづけてきいてくださる。なんと忝《かたじけな》いことだろう。死んだ親父がこの場に居あわせたら、きっと土下座して感涙にむせんだにちがいない。 「郷里はどこじゃ?」将軍はつかれた馬のように両眼を悲しげにしばたたかせてきいた。 「板橋です」 「うむ、職業はなにか?」 「百姓です」 「両親はそろっておられるか?」 「いえ、母親だけです」 「じゃ田畑はだれがみている」 「兄です」 「ふむ、で、その両手はどうして失った?」 「はい、ロシア軍の砲弾にやられました」  脳裏に当時の情景がパノラマのようによみがえった。あれは明治三十八年一月二日の夕暮のことだ。角次郎の輸送支隊は清《しん》国盛京省|下坎子《カカンシ》のあたりで、うす暗くなった山道をぬいながら|ほろ《ヽヽ》車をはこびあげていた。そのとき突然、目のまえで白っぽく巨大な爆発がおこったのだ。前をゆく車両が道端に転がっていた不発弾に気づかず、あやまって乗りあげたのである。目くるめくような閃光《せんこう》と耳をつんざく大音響があたりを圧し、角次郎はコマのようにまわって暗黒の底へとめどもなく落ちていくのを感じた。目ざめてみると、そこは近くの山澗堡《サンカンホ》の野戦病院で、すでに両手に切断術が施されていて目をまわした。さらに七日後には蒋家屯《シヨウカトン》の野戦病院にまわされ、頭や胸にくいこんだ砲弾の破片をとる手術をうけた。ひと月後、船中の人となり、渋谷の日赤病院に設けられた陸軍の東京予備病院に送られる。その年の暮には除役退院となり、故郷の板橋へかえったのである。 「ところで退院して一年半ほどたつと、切断した肘の辺《あた》りから砲弾のカケラがでて膿《うみ》をもちました」  ゆで玉子のようにつるりとした顔の、小男の滝沢三等軍医がカルテをめくりながら将軍を見あげていった。まだ三十まえなのにその尖った頭の天辺《てつぺん》がすっかり禿げあがっている。 「その治療のため、今回ここへ入院してきたのであります」  うむ、と将軍は深い同情の色を目にうかべてうなずいた。 「ちょっと、おまえの腕をみせてくれんか」  将軍は面会者のための丸いイスをひきよせると、そっと腰をおろして角次郎のベッドに身をのりだした。田辺婦長がいそいでそばにより、むくんだような太い手をまわして包帯をとる。将軍は毛むくじゃらの腕をのばし、肘から先の断端が二寸ほど残った角次郎の両腕をつかんだ。それから接骨師《ほねつぎ》のように肩や肘の関節を曲げのばしする。女のようにやわらかく、厚い手のひらの感触が伝わってきた。|もと《ヽヽ》輸卒はおそれ多くて鼻の頭にびっしょり汗をかいている。 「じつは閣下はな」かたわらわら滝沢軍医がのこり少ない後頭部の頭髪を愛しむようになでていった。甲《かん》高い|きいきい《ヽヽヽヽ》声である。 「おまえたち戦争で手足を失った者のことを、日頃からずいぶん心配なさっておられたのだが、さきごろ、これまでにない義手をおもいつかれてな、その義手をつけるには、肘から先が残った者がよいと仰《おつしや》るのでおまえの所へお連れしだのだ」  軍医はカルテをぱしんととじると、少しやぶにらみの目で将軍をみていった。 「なにしろ、閣下には常人のとうてい考えおよばぬ発明の才がおありなのでな」     3 「ンまあ、じゃあ乃木さまがあんたに義手をつくってくださるの?」スワ子は番茶を湯呑に注ぎながら目をまるくしてきいた。 「いや、おれだけってわけじゃないさ。おれたち手無しのために特別の義手を考案してくださったのだ」 「へえ、あんなにえらいお方がねえ」スワ子は感心したように束髪をゆらせた。 「うん、さすがは仁徳の厚い閣下だよ。ありがたい思召しじゃないか。しかも、その義手の試作品というのが砲兵|工廠《こうしよう》の南部《なんぶ》少佐の手でほとんど出来上っていると仰《おつしや》るし」 「ほう、南部少佐がのう」  関山伍長がベッドの上で尻をまわしてこちらにむきなおっていった。将棋はもうとっくにやめて、こちらの話をきいている。とりわけ南部|麒次郎《かじろう》少佐といえば、スマートで性能のいい南部式ピストルを開発した人物として世間に知られている。陸軍兵士なら耳をそばだてずにはおれないだろう。 「ええ、それで近いうち、滝沢軍医どのと一緒に乃木閣下のお屋敷へ伺うことになっています」  できればこの件はまずスワ子にきかせたかったのだが、二人の同室者がくちばしを突込んでくるからには黙っているわけにはいかない。 「そりゃよかったわ」スワ子はにっこりして目を輝かせた。 「乃木さまのお邸で、あなたがその義手の出来具合をためすのね」 「いやいや、そりゃ、あんまり期待しないほうがよさそうだな」  永田軍曹が浪曲師のようによく通るダミ声でいった。荒地《あれち》のようにでこぼこした浅黒い頬に皮肉っぽいシワをうかべている。角次郎はきょとんとして軍曹のつりあがった細い目をうかがった。 「あの大将はときどき、とんでもないものを思いつくからさ。それでいて、じぶんは発明の才に長けていると信じこんでいるんだから始末がわるい」 「そういえば、あのジイさんの考えだした左右同じ軍靴というのも、ずいぶん評判がわるかったなァ」  関山伍長がガマ口のように割れた薄い唇にくっついた餡《あん》を手の甲でぬぐっていった。 「夜中の召集ラッパにあわてて左右の靴をはきちがえた兵をみておもいついたというんだが、あんなものをはかされて、わたしたちはよく泣かされたもんじゃ」 「関山さんたら、乃木さまのことをジイさんだなんて」スワ子は絣《かすり》の袂《たもと》をひいて、たしなめるようににらんだが、当人はせせらわらうように武骨な手をふった。 「なあに、あのジイさんが、こないだの戦《いくさ》でもう少しましな指揮をとっていたら、あんなに多勢の兵士が虫ケラみたいに殺《や》られることはなかったんだ。わしたちの手足もこんな具合にゃならなかったはずじゃ」  永田は関山の獅子鼻に相槌《あいづち》を打って茶をすすった。 「あの大将が熱心に見舞にくるのはいいが、ときにはこっちの迷惑も察してほしいもんだ」軍曹は細長いアゴにまばらに生えた無精ひげを引きぬいていった。 「このまえも、九州から送られてきたというコチコチの鏡もちを差し入れてくれたんだが、新入り患者が『もったいのうございます。おいしゅうございます』なんて手を合わせるもんだから、大将すっかりいい気になって、すぐまた山ほどのモチをもちこんできおった。おれたちは当分カビ臭いモチを毎日くわされて、えらい目にあったもんだ、なア。関山」 「ああ、そのまえはサツマ芋で、そのまたまえはたしかイワシの干物じゃった」  角次郎は愕然として奥歯をかんだ。将軍のご好意をこんなふうにうけとるなんて、なんと不遜な連中だろう。日露戦争の名将をなんと心得ているのだろうか。だが相手は歴戦の古強者《ふるつわもの》だし、入院二年の古狸だ。入院三週目の新参者としては、相手の気心が知れるまで、うかつなことは口走れまいぞ。 「大将は若い頃、ゾロリの着流しでさんざ芸者と遊んだくせに、ドイツ留学から帰ったとたん、|ころっ《ヽヽヽ》と変節して、≪軍人たる者、|鄙賤醜猥《ひせんしゆうわい》なる紅燈の|ちまた《ヽヽヽ》へ出入りするべからず≫とか、≪将校たる者は家中に居るときでも常に軍服を着用すべし≫などと独りよがりの意見を陸軍大臣におしつけるように具申し、そいつを自分だけが勝手に実行していい気になっている」しかも大将は夜ねるときでさえ軍服をつけたまま寝床にはいるんだ、と軍曹はてっぺんがへこんだ坊主頭を掻いて渋面をつくった。 「一事が万事こんなふうだから、ほかの軍人はみな大将を敬遠してだれも寄りつかない。まるで丸い桶の中に四角いマスを放りこんだように周囲と調和がとれないんだな」  軍曹はひと息つくと、白衣の袖先についたベッドの|わら《ヽヽ》屑を長い指先でピンとはじいた。  あんな変人でなけりゃ、と伍長が軍曹のことばをひきついでいった。 「とっくの昔に陸軍大臣か参謀総長といった、もっとずっと偉い武職につけたじゃろうが……」伍長はキセルに火をつけて、横につぶれた細い鼻孔から|きしめん《ヽヽヽヽ》のような二条の烟《けむり》を吹き上げた。 「ああも清廉潔白《せいれんけつぱく》、精励恪勤《せいれいかつきん》、無欲恬淡《むよくてんたん》じゃあ、閑職に追いやられるのも無理ないのう」  だからこそおれは将軍を尊敬するのだ、と角次郎は胸の内でいった。真摯《しんし》、端正、公平、無私。これこそ人間としてもっとも信頼に値する人格ではないか。それをなぜ軍曹も伍長も公然と閣下を揶揄《やゆ》するごとき物言いをするのだろう。どうも納得がいかん。 「だが、その清廉なんとやらは表向きの顔でな、あの大将にもちょっとマユツバのところがある」軍曹がベッド端においた古びた松葉杖をひきよせていった。 「もし、あの大将が真の武士の末裔《まつえい》ならば、あんな滅多やたらに己れの写真をとらせて方々に飾るようなことはしないはずだ」 「でもねえ、永田さん」角次郎は一寸下手にでるように目を伏せていった。 「将軍はわたしのような一介の輸卒にさえ、すっかり同情して、長時間そばに座りつづけて話をきいてくださいましたよ。こんなことが並の将官にできるでしょうか」  へっ、と関山がキセルの烟をせまい眉間《みけん》に滑らせて肩をすくめた。 「じいさんはひどいイボ痔《じ》をもっているんじゃ。だから長く立っているとこいつがとびだしてきて具合がわるい。それですぐイスにすわりこむクセがあるんじゃ」  しかも、そのイボ痔をおさえるために肩からフンドシで肛門をつりあげておるわい、と永田がつけくわえた。 「そこで大将は歩くときはいつもガニ股さ。そのうえ、痛みをこらえるんで、たださえ泣き顔が一層泣きっ面になる。なにも知らん世間の者は、それを悲劇的でいいお顔をしていらっしゃるなどとあがめたてまつるんだから、とんだお笑い草さ」 「でも、そのお顔をわたしのようなむさくるしい者にまで間近かにちかづけてお話をされましたよ」角次郎はすこし口をとがらせて抗議するようにいった。 「大将はひたかくしにしているが目がわるいんだ。ことに左目はほとんどみえない。それと中耳炎をわずらったせいで耳もひどく遠いんだ。だから話をするには顔をちかづけて」 「あんたたち、乃木さまの弱味ばっかりあげつらったりして!」スワ子が紅い唇をかんでたまりかねたように男共をさえぎった。 「それじゃ乃木さまがあんまりだわ。あのお方はご自分の息子さんを二人とも戦場で亡くしておられるのよ。その悲しみを耐え忍んでここへいらっしゃるお気持を察してあげなくては」 「ああ、しかし、おれたちの何万人という仲間がみんな死んじまったことも考えてくれ」  伍長がベッドの脚にくくりつけた空カンの中ヘキセルの灰を叩きおとしていった。 「あげくに日本がロシアからもらったものは一体なんじゃ?」ええっ、なんにもねえじゃねえか、と関山は病室の雨もり跡のある壁をにらみつけた。 「そ、それはまた話がちがいますけど」角次郎は伍長のつよい語調に気圧《けお》されて、ひょろりとした上半身を反らした。 「いいや、ちがやしねえ」伍長のしゃがれ声が、かたい、きしるような声音《こわね》にかわった。 「ジイさんをはじめおえら方が、みんな弱腰だったせいじゃねえか。ルーズベルトの調停にもチョロまかされちまってよ。これじゃ死んだ仲間たちはうかばれねえ。みんな犬死同然になってしまったんじゃ」 「まあまあ関山、いまさらそんな繰り言をいったって」  軍曹が伍長のあちこちを縫いつくろった白衣の袖をひいてたしなめた。 「ま、とにかくだな」永田軍曹は若いふたりに向きなおると松葉杖の脇当に両手を重ねていった。 「大将の義手とやらにはくれぐれも気をつけるんだな。でないと、おまえもどんな厄介な目にあわんともかぎらんぞ」  へえ、なぜです、といった目つきで角次郎は永田をみた。軍曹は手のひらで長い顔を上から下までこすっていった。 「ほれ、そういう奴が身のまわりにひとりやふたり必ずいるだろう。本人は真剣そのもの、大まじめなのだが、なぜかそいつのやることなすことすべて他人の迷惑になってしまうってのが。しかも当人はそのことにこれっぽっちも気づいていない。そういう人種だよ、大将って人は」  軍曹は|にたり《ヽヽヽ》とわらって、おそろしく汚い歯をむきだしにした。 「それで軍部内じゃ大将のことを厄病神だのデーモンだの善魔だのと称して、だれも相手にしないようにしているんだ。だからおまえも、将軍のところへ行ったら、ずいぶんと気をつけたほうが身のためだぜ」     4  乃木将軍の邸は赤坂区新坂町の坂の上にあった。家のつくりはある種の異質な雰囲気をただよわせている。将軍の設計になる家だが、まるで真っ四角な箱を|どすん《ヽヽヽ》と丘陵に埋めこんだような黒い洋館である。あたりはうっそうと樹木が茂り、人家もまばらである。日中でも陰森《いんしん》としてなんだか薄気味わるい。邸の前は道をへだてて深い谷になっており、そのむこうに歩兵第一連隊の兵舎のならびが見えかくれした。  角次郎は人力車をおりると、頭ひとつ小さい滝沢三等軍医のころころと小肥りのせなかについて門をはいる。門の右手に厩舎が立ち、馬どもが|まぐさ架《ヽヽヽかけ》を鳴らしていた。邸内の庭に梧桐《あおぎり》が五、六本、初秋の風にざわめいている。左手をいくと、数段の石段をあがって玄関となる。 「ごめんください」  滝沢軍医が甲《かん》高い声をかけると、まるで待っていたようにドアがひらいた。中から黒い|ちりめん《ヽヽヽヽ》羽織をきた束髪のやせて上品な顔立の婦人が姿をみせた。軍医が|はっ《ヽヽ》となって敬礼する。 「ああ、衛戍病院からお出《さい》じゃったもし」婦人は少女のような声でうたうようにいった。 「はっ、閣下は御在宅でしょうか」軍医はすこしたじろきながらきいた。 「へえ、乃木は先《せん》かい、待ちかねておりもす」婦人はにこやかな顔でうなずいた。 「どうぞお上《あが》いやったもし」  婦人はどうやら将軍の夫人らしい。それにしてもひどい薩摩訛《さつまなま》りである。しかも取次に書生や女中を介さず、いきなり夫人がでてくるのも変わっている。伯爵夫人たる貫録にも欠けるようだ。だが、角次郎はかえって妙な親近感をおぼえ、そのすこし寂しげな白い横顔とほっそりした首筋《うなじ》を盗みみた。  夫人の案内で玄関すぐわきの洋風の応接間に通される。そこにはすでに乃木将軍とむかいあって、二人の将校がすわっていた。噂通り将軍は自宅でも軍服を着ている。 「おゥ、よく来たナ」  将軍はにこやかに軍医と角次郎を迎え入れた。角次郎はすすめられた応接イスにおずおずと腰をおろした。やわらかくふくらんだイスがホワーッと長い|ため《ヽヽ》息をついた。猪の巣の中にはいりこんだモグラのような場ちがいな感じがしてイスの上でちぢこまった。  将軍は先客の将官にふたりを引き合わせた。色黒の精悍な顔が東京砲兵|工廠《こうしよう》の南部麒次郎《なんぶかじろう》少佐である。さすがにピストル造りだけあって目付が鋭い。もうひとりは少佐の部下の黒田技師だった。こちらは乱視眼鏡をかけ、半白の頭髪を中央でわけ左右にくしけずった実直そうな中年男である。 「皆様《おんたち》、ご苦労さまじゃい」  ふたたび乃木夫人がふわりと長裾をひいて応接間にあらわれた。手にカステラの皿をもち、うしろに紅茶の盆をもった若い女中を連れている。テーブルの上に五人分のカステラと紅茶を用意すると、さ、ゆっくりすや、と一座の男共をちょっといたずらっぽい目で見まわし部屋を去った。笑顔のなかに、なぜかおいてきぼりでも喰ったような翳《かげ》がうかんでいるのが角次郎の目の奥にのこった。 「では、そろそろ閣下ご考案の義手の出来ばえをみていただきましょうか」  一同が紅茶を啜りおえると、南部少佐は黒田技師に目くばせしていった。技師は眼鏡をずりあげるとかたわらの大きな革カバンをひらき、いささか珍奇な形をした鉄と革でできた器械をひっぱりだした。 「これが|うち《ヽヽ》で試作した義手ですが……」南部少佐がツヤのある声でいった。軍医と角次郎はテーブルに置かれた器械を目を丸くして凝視した。  まず、剣道の稽古のさいに用いる籠手《こて》のようなものがある。そのこて先からクギヌキの親玉みたいな長さ一尺五寸ほどの大きなヤットコの柄がとびだしている。ヤットコのもう一方の柄は、さしわたし三分、長さ二尺あまりの細長い鉄の腕《アーム》に連《つら》なっている。アームには三寸おきに四カ所の関節《ジョイント》が噛んでいて、パンタグラフ(四辺形の折曲げ式の腕)のごとく伸縮する仕掛である。アームの根元は幅広の革帯にジョイントでつながっていた。革帯には細いバンドもついている。角次郎はなんだか拷問の責め具のように思えて胴ぶるいした。 「いったい、どのように用いるんですか」  軍医も呆気《あつけ》にとられたような顔つきになって首をひねる。南部少佐は点頭すると、ひきしまった顔をまわして将軍にお伺いを立てるようにきいた。 「閣下、では実際に装着して試してもらいましょうか」 「よし、菱田、たのむぞ」  将軍は期待に燃える目つきで角次郎にいった。まるでこどもがみせるようなふしぎな輝きを放つ目の色である。角次郎はその目に催眠でもかけられたように立ち上がった。 「さあ、上半身裸になってください」黒田技師が女のようなオクターブ高い声でいった。  |もと《ヽヽ》輸卒がいささかとまどい顔で上衣をぬぐと、黒田は乃木式義手をガシャリと音を立てて持ち上げる。そして裸になった角次郎の胸に革帯をまきつけて、肩に細いバンドをかけた。 「ち、ちょっと革帯がきつくて胸苦しいであります」  角次郎は目を白黒させて、咳《せき》をした。技師はあわてて帯をゆるめる。それから義手の籠手《こて》を角次郎の右の肘に編上げ靴の要領で紐をかけてくくりつける。肩と腕に義手一式をはめられて、角次郎はやっとその仕組みが呑みこめた。  胸帯からカマキリの手のように伸びたアームの先のヤットコと、籠手の先からとびだしたもう一方のヤットコとが、肘を曲げのばしするたびに、互いにパクパクと開閉して物を|つかむ《ヽヽヽ》しくみになっている。さながら植木職人の使う植木バサミのようにヤットコを作動させるのだ。胸帯から伸びた長いアームには関節がついているから、ヤットコはあらゆる方向に蛇腹《じやばら》か折り曲げ定規のごとく伸び縮みするのである。 「なるほど、これはまた結構な趣向ですなあ」  滝沢軍医はむやみに感服した容子でしきりに禿頭をなでている。 (これを両腕にはめれば、さしずめ、ハサミをたてたエビか力ニそっくりだな)  角次郎はヤットコの先を眺めて内心つぶやいている。  将軍は満足そうだった。白い口ひげをしきりにさすりながら、じっと義手の青年をみつめている。そのうちに目の色が変わったように思えた。角次郎の姿をみているというよりも、かれを透かしてどこか遠くを眺めているようだった。それから立ち上がった。呆気にとられて突っ立っている角次郎のまわりをなめるように見てまわる。 「さあ、そこのカステラをつまんでくれないか」  南部少佐がうながすようにいった。角次郎はゼンマイ仕掛けのようにぎこちなく身をかがめると、カステラの皿にヤットコの先を近づけた。義手の関節がギシギシときしんだ。  やっとの思いでカステラをつかんだが、黄色の中身はヤットコの中でくしゃりとつぶれ、ばらばらになって床の上にこぼれおちた。 「や、とんだ粗相を……」角次郎はあわててスリッパの先でカステラの屑をかきあつめる。 「いや、構わん、かまわん。あとで女中に片づけさせよう」そういって将軍は手元にあった『万朝報《よろずちようほう》』をつまんでヒラヒラさせた。 「こんどはこの新聞を取ってみせい」  角次郎は将軍にちかづくとおそるおそる新聞をつかもうとした。しぜんに顔がゆがんでしまう。『万朝報』は一瞬、ヤットコの先にとどまったが、ヒラリと暖炉の前へ舞いおりた。 「なんとか用を足しそうではないか、のウ、南部」と、将軍は稚気あふれる笑顔で少佐をみた。 「はい、閣下。あとは本人の訓練次第でしょう」  少佐もひげ剃りの跡の青い頬をゆるめて相槌を打つ。 「ところで、おまえが使った感じはどうだ?」滝沢軍医がきいた。 「はあ、あのう……」と口ごもる角次郎。 「なんだ、遠慮なく閣下に申し上げよ」 「いえ、そのう……と、とても宜しいようでございます」  じつは、この程度の義手なら、足を使うほうが手前にはよほど楽です、といいたかったのだが、将軍のあまりに大まじめな顔を前にしては、到底《とうてい》口に出せるものではない。 「閣下のいつもながらのご厚情にはお礼の申しあげようもございません」軍医が改まった口調で礼を述べた。 「わしも愚案がこんなに役立ってうれしいぞ」  将軍はにんまりとこけた頬をほころばせた。 「閣下、そろそろ……」と南部少佐が将軍の顔をみていった。 「おお、そうじゃったナ」将軍はかるく腰をゆすって立ちあがると、暖炉の上の鉄鈴をとりあげて、リンリンと打ち鳴らす。ふたたび待っていたように乃木夫人があらわれた。 「階下《した》で写真師が待っておるじゃろう」  将軍はいそいそとした容子で手を揉んだ。 「すぐこちらへ呼び入れてくれ」     5 「それで、あたしに相談したいって、いったいどんなことなの?」  日当りのいい縁側に角次郎とならんで脚を垂らしたスワ子は、日なたぼっこをしていた三毛猫を膝の上に抱きよせていった。庭のモミジの葉が急に色づきはじめ、そのかたわらにツワブキの、菊のような黄色い花がつややかな濃い緑の葉に映えて咲きだしている。納屋の片すみで角次郎の母親がワラを叩いている音がきこえた。兄夫婦は近在の農家へ婚礼によばれて留守である。 「じつは、おれ、断わっちまおうとおもうんだが……」角次郎は紺ずくめの洋装姿のスワ子をまぶしそうに眺めていった。  角次郎の実家は板橋停車場から一里ほど西へ行った中丸村にある。板橋の駅は、江戸の昔から中仙道の頸根《くびね》っこに当たり、人馬の往来はいまもかなりのものだが、この辺りは、森や竹藪のあいだにまばらに人家のちらばる草深い里にすぎない。 「ことわるって、なにを?」スワ子はこんな辺鄙《へんぴ》な村には似つかわしくない白いレースの胸飾りを三毛猫になぶらせていった。 「あんたに仲人口でもあったのかしら」 「ばかいえ、おれみたいな廃疾者に聟口《むこぐち》なんか掛るものか」 「でも、あんたってなかなかの好男子だからね」 「よせやい、大人をからかうんじゃないぜ」  角次郎は照れくさそうに縁側に集まったニワトリに足指で餌をふりまいた。 「それより、こないだ、滝沢軍医どのが、わざわざこの家を探し当ててたずねてきたんだよ」 「ああ、あのムキ身のゆで卵みたいな若いお医者さんね」 「なんだ、おまえ軍医殿を知っているのか」 「だってあの軍医さんたら角次郎さんをお見舞いした帰りにあたしを食事にさそうんですもの」 「ほう、それでどうした」 「ついていくはずがないでしょう、あんな好色そうに禿げか|きいきい《ヽヽヽヽ》声の人なんか」  角次郎は一寸安心した顔つきになって、話のつづきに戻った。  滝沢三等軍医がここを訪れたのは、角次郎が衛戍病院を退院して十月《とつき》あまりたってからのことである。 「で、いま、どうやって暮している?」  奥の客間に通された軍医は、嫂《あによめ》のはこんできた茶を啜ると、やぶにらみの目で角次郎の陽焼けした道具立ての大きい顔をみた。 「はあ、別にすることもありませんのでぶらぶらしています。たまには畠の草取りなども手伝いますけど」 「そうか。それでどうだ、その後の閣下の義手の調子は?」  角次郎はギクリとした。あれはもうとっくの昔に長持の中へ放りこんだままになっている。というのも、乃木式義手は不便でならなかったからだ。あの義手では紐を結んだり、ボタンをはめたり、茶碗をもつ、箸をつかう、歯をみがく、ふんどしをしめる、ズボンの窓をひらいて小便をする、大便のあと尻穴を拭う、といった日常の用足しがまるでできない。それにあれはひとりでは着脱がむずかしい。人の助けを借りねば、籠手や胸のバンドがはめられない。取りやすいようお膳立てがしてあれば、タバコをとったり、急須の柄をもってお茶をそそぐ位はできる。が、タバコはつかめても、こんどはマッチの火が厄介だ。  結局、足指でマッチを擦《す》ることになる。その方がずっと早いし楽にやれる。いまでは足技にすっかり慣れ、長い柄のカミソりで|ひげ《ヽヽ》さえそれるくらいなのだ。それに義手をはめると腕の先がすぐムレて汗臭くなる。ときには湿疹もでき、痒《かゆ》くて堪らない。さらには使っているうちに次第に重くなり、腕もくたびれてくる。  角次郎はそれと気づいていないが、人の手の働きには、つまむ、にぎる、はなす、といった基本動作のほかに、ひねる、ねじる、はさむ、打つ、叩く、突く、振る、掻く、引っ掻く、つかむ、なでる、こする、まわす、こねる、つねる、さする、くすぐる、ほじくる、指切りゲンマンをする、おいでおいでをする、そのほか数えきれないほど変化自在の応用動作がある。その高度に分化した多彩な機能を、ただつかむだけの働きしかもたぬ乃木式の義手ですべてまかなおうと目論むのは、どだい無理な話なのだ。 「へえ、まあ、なんとかやっています」  角次郎は退院するとき滝沢軍医から(いつまた閣下よりお声が掛るかもしれん。田舎へ帰っても、十分練習をつんでおけよ)と念をおされたのをおもいだして、目を伏せたまま曖昧《あいまい》にこたえた。 「うん、それは結構だ」さいわい、軍医はそれ以上、義手の使い具合を深追いしようとはしなかったが、かわりに度胆をぬくような頼みをもちだしたのである。 「へ、なんですって? このわたしにドイツのザクセン国まで渡航しろと仰《おつしや》るんですか?」  |もと《ヽヽ》輸卒の太くて長い眉が、おどろきのあまり、上がったきり、おりてこない。 「ま、おちついてきいてくれ」軍医はちまちました手掌を挙げて角次郎を制すると、ひざをのりだして手短かに事情を話した。 「じつは、閣下の義手は、おそれおおくも皇后陛下のごらんになるところとなってな——」  いかにも便利なものとおぼしめされたことがあずかったのか、とうとうあの義手は来年五月、ザクセン国皇帝陛下の庇護《ひご》のもとに、ドレスデン市でひらかれる万国衛生大博覧会へ陳列物として出品されることが陸軍省内で決まったのである。  そこでは世界中から保健と衛生に関するあらゆる分野の展示物が集められる。わが陸軍軍医部からも、野戦病院のパノラマ、戦時の糧食品、陸軍病院の模型などを出品する手筈となっている。 「なかでも乃木式義手は日本館が誇りとする展示でな。旅順の名将として知られる乃木閣下のご発案だと判れば、きっと世界中の目がここに集まるにちがいない。となれば、これをただ会場に飾っておくだけでは何の取柄もなかろう。そこで陸軍上層部では、おまえの出番を要請しているのだ」  滝沢軍医はつるりと禿げた額の、汗粒のようにみえる脂《あぶら》を指先で、二、三度キュッキュとこすった。 「すると、このわたしが、博覧会の席上で、あの義手を実演してみせるんですか?」 「その通りだ」軍医はなんどもうなずいた。 「そりゃ困ります」角次郎は即座にかぶりをふった。 「それはどなたか他の者に申しつけ下さい」 「なぜだ。おまえにこんな吉報はまたとあるまい」 「いえ、とにかく、かんべんしてください」 「なにが都合のわるい理由でもあるのか」 「いえ、そうじゃありませんが、両手のない兵士はほかにまだいくらでもいるんじゃないかと思いまして」  そうはいかない、と滝沢軍医は冷えた茶をぐっとのみほして丸っこい鼻尖をこすった。 「あの義手をうごかすには、肘の関節がのこっている者でなければならん。大勢の両手を失った兵隊のうち、うまい具合に両肘とも残っているのは数えるほどだ。しかもその中で、ドイツまでいける体力をもつのはおまえくらいしかおらん。あとの連中は、たいがい目や耳をやられていたり、足をやられて歩けなかったりで条件にあう者がいないのだ」  軍医は角次郎を見つめたまま、甲走《かんばし》った声で畳みかけるようにいった。 「それに閣下はおまえをすっかり気に入られてな、おまえを直じきに名指《なざ》ししておられるんだ。なにしろ、おまえはあれを試用した最初の患者だからな」 「はい、閣下の御恩には深く感謝しています。でも、あの義手だけはかんべんしてください」  軍医は角次郎の言葉などきいていないようだった。 「陸軍の首脳も大乗気だし、皇后陛下のお声掛りもあるからには、いまさら引っこみはつかんぞ。あたらしい義手は予備も入れてすでに四本ともほかの展示品と一緒にドイツヘ発送ずみだしな」  出発は来年の一月。松木大造という二等軍医が角次郎につきそってドレスデンまで連れていく段取りまでととのっていると滝沢三等軍医は一方的に喋りまくったのである。 「そりゃあんた、ぜひともいくべきよ」  角次郎が語りおえるとスワ子は三毛猫をおしやって向きなおった。 「ドイツ国へいけるなんてめったにないチャンスじゃない。しかも乃木さまばかりか皇后さまさえ後楯になってらっしゃるなんて。わたしびっくりしたわ。あんたにも運がむいてきたのよ。帰国したら、あんたもきっと出世の|いとぐち《ヽヽヽヽ》がつかめるわ」  スワ子は頬を紅潮させ、すっかり夢をみるような目つきになっている。 「だけど、あの義手はどうも厄介な代物だからなあ……」角次郎は気乗りしない容子でニワトリに餌をふりまいた。スワ子は小鼻のわきに小さな汗玉をうかべて、ねえ、角次郎さん、いいこと、と膨んだ胸のまえで手を組んだ。 「あんたには二度とない幸運がいま舞いこんでいるのよ。あんたのような戦傷者がドイツ国まで洋行できるなんて破格の光栄だわ。こんな果報をみすみす見送るなんてバカよ。きっと後悔することになるんだから」  スワ子は座ぶとんを尻でひきずるようにして角次郎ににじり寄った。ニワトリが三羽、きょとんとしてスワ子を見上げている。 「それとも、あんた、せっかく目をかけてくださる乃木さまのご好意をないがしろにするつもりなの?」 「よせやい」角次郎はぶるっとかぶりをふった。 「おれは将軍を心底から崇拝しているんだ。ないがしろになどするわけがないだろう」 「だったら、閣下のためにも、ぜひドイツ国へ行くべきだわ」 「しかし、スワ子」角次郎はスワ子のはく甘酸っぱい吐息にうっとりなりそうなじぶんをおさえていった。 「とにかくあの義手は不便きわまりないんだよ」 「そんなこといっているばあいじゃないわ。手足を無くした廃兵たちが、どんなみじめな生活をしているか、あんたはよく知ってるじゃないの。まして、あんたは両手を失ったのよ。これから先、いい目をみるには、乃木さまのお力にすがるほかないわよ。しっかりしてちょうだい」 「あの義手が役立つものなら、おれだって喜んでみんなの前で操ってみせるんだが……」 「人生には、たとえそれがバカげたことでも目をつぶって演じなければならないことがあるわ」  スワ子は鼻先にかわいいシワをよせた。 「ドレスデンにぜひ行くべきよ。そして、あんたが洋行から帰ってきたら、あたしたち……」スワ子はそこで一寸口ごもって、うつむいた。 「あたしたちって……」  角次郎は胸のレース飾りをつまんでもじもじしているスワ子をみて訊き返した。 「ばかねえ、そんなこと、女のあたしから言えないじゃない」  スワ子はさすがに耳を赫くして横をむいている。角次郎は大きく首を振って合点した。それからスワ子のちんまりした顔をのぞきこむように首をねじむける。 「そうかい、スワ子。じゃあ、おまえ、おれと一緒になってもいいというんだな?」 「ええ、あんたさえ、そのつもりなら」  スワ子は束髪をなでつけると、顔をあげてにっこりほほえんだ。 「あんたがよければ、これからはあたしがあんたの両手のかわりになって、ずっとお世話してあげたいのよ」 「うわっ、ほ、ほんとかい?」  角次郎はおもわずうわずった叫び声をあげ、ニワトリの餌籠を縁先へ放りだした。ニワトリたちが声をたてて一斉にむらがってくる。 「じゃあ、こんな手無しの、能なしの、財産とてなにもない次男坊の冷飯《ひやめし》喰いのところへ、おまえは嫁にきてもいいというんだね?」 「ええ、あなたに添いとげる覚悟よ」 「まさか冗談じゃないだろうな」  いいえ、とスワ子はきっぱりいった。 「でもドイツ国へはいくって、いまここではっきり約束してちょうだい」  角次郎の目がスワ子にむかってパッと輝いた。 「ああ、いいとも。おれはドイツヘ行くよ。誰がなんといったってザクセン国へいくよ。おれが心から敬愛する乃木閣下のために、必ずドレスデンまで行ってくるぞ」 「ああ、角次郎さん、とても男らしくてりっぱだわ」 「うん、でも、じぶんじゃなんだか大間抜けと紙一重って気がしないでもないなあ」     6  カマボコのような外観の日本館の中は、多勢の見物客で|ごった《ヽヽヽ》返していた。日本の病院のパノラマをはじめ、上下水道のジオラマ、脚気病や花柳病の歴史絵図、和製の注射器や漢方薬、そのほか回虫、シラミ、ノミの標本などが所狭しと陣列され、外国人たちが物珍し気にのぞきまわっている。  その会場のまん中あたりに、陸軍軍医部の展示コーナーがあり、そこに尋常小学校の教壇をおもわせる細長い壇が置かれていた。壇の中央に白衣をはおった異人に負けぬ大兵《たいひよう》の松木二等軍医が立ち、唾をとばして演説をしている最中だった。かたわらに黒縁のめがねをかけたドイツ人通訳をしたがえている。そのすぐ脇に木製の一本足の丸いテーブルと小さな腰掛がひとつずつ。テーブルの上には水差しにコップ、果物鉢や菓子皿や紅茶カップ、それに葉巻の箱やマッチ箱、ナイフやスプーンなどが手妻師《てじなし》の小道具よろしく並べられていた。腰掛にちょこんと座っているのは、両腕に乃木式義手をはめた角次郎である。上半身裸の|もと《ヽヽ》輸卒は多勢の見物客にとりまかれて、かすかにふるえていた。 「さて、この両腕を失った兵士の肘先につけられた二組の義手は、かつての日露戦争の名将、乃木希典将軍の苦心になる独創的発明であります」  松木軍医は脂ぎった顔を紅潮させてまくしたてると、ひと息ついてドイツ人通訳をうながした。  通訳は大きな|のど《ヽヽ》仏をぎょろつかせてよどみなく喋る。前方につめかけた碧眼のこどもたちがキャンデーをなめながらじっと角次郎を見上げている。 「なるほど、これまでにも、その精巧なものは指の屈伸さえ可能な義手がありました」  軍医は太鼓腹をゆすって腕をふりたてた。 「しかし、たとえ、かような義手をもちいたとしても、パンをちぎりバターをぬるには片手切断者は健手を、両手切断者は他人の助けを借りねばなりません」  しかるに乃木式義手はまるでちがう、と軍医は声をはりあげた。 「乃木将軍の義手こそ、従来のそれとはまったく発想を異にしており、患者みずから操作しうる唯一の画期的な装具なのであります」  さあ、菱田、立つんだ、と軍医が半裸の角次郎をうながした。角次郎は緊張のあまり、ヘクショと大きな|くさめ《ヽヽヽ》を放った。見物人たちがその容子にどっとわらった。|もと《ヽヽ》輸卒はどぎまぎして顔をあからめている。おほん、と軍医は場内の嗤《わら》いを鎮めるように咳ばらいした。 「さて、ではどこが他の義手にまさるかといえば、その効能をここでいちいち講釈するよりも、百聞は一見にしかず、まずはこの腕なし兵士の実演をとくと御覧ください」 (さあ、両腕をあげてみせるんだ)軍医の耳打ちに、角次郎は両手の義手をおずおずとかかげる。さながら投降したカマキリのごとくである。軍医は角次郎の片腕をとらえると、セリにかけられた馬みたいに壇上を一周ぐるりと引き廻した。角次郎はなんだか|さらし《ヽヽヽ》者になったような気がして頭に|じわり《ヽヽヽ》と血がのぼってくるのを感じた。 「では、手初めにリンゴを掴んでみせます」  軍医の声に|もと《ヽヽ》輸卒はぎこちない動きをみせて一歩まえに出る。だが、しばらくは立ちすくんだまま身動きができない。つめかけた観衆を前にしてすっかり上《あが》ってしまっているのだ。 (どうした、はやくせんか)軍医にせきたてられて果物鉢に右の義手をさし入れた。腕がブルブルふるえてリンゴがうまくつかめない。そのうちにとなりのバナナが一本、義手の先に引っ掛ってきた。見物客の中で母親に抱かれた小さな女の子だけがパチパチとまばらに手を叩いた。リンゴのつもりがバナナになって角次郎のわきの下に冷汗が流れた。  軍医は眉をひそめたが、すぐ白い歯並をのぞかせ、つくりわらいをして、「では、つぎに紅茶カップをつまんでごらんにいれます」  角次郎は右の義手をカップにむけたが、ヤットコの先端がガチガチとカップに触れるのみで思うようにつかめない。あせって左の義手をくりだしたが、こちらの方が一層ふるえがひどい。 (落ち着け、菱田。おちつくんだ!)軍医の叱咤《しつた》の声に、ようやくカップの把手をつかんだ。とおもうまもなくカップはスルリと滑りおち、壇上でガチャンと大きな音を立てて二つに割れた。前列の腕白そうな男の子たちが待ちかまえていたように義手の日本青年をさしてキャッキャッとわらいころげた。青年の脳天にカァッと血がのぼった。額に汗つぶが吹き出し、目つきが追いつめられた弱い|けもの《ヽヽヽ》のようだ。壇上で|めまい《ヽヽヽ》をおこし、足元が危うい。  角次郎は無意識のうちによろけるのを防ごうとして、義手の先でテーブルの端をおさえた。が、そこにからだ全体の重みがかかったからたまらない。一本足のテーブルは雑多な小道具をのせたまま|ぐらり《ヽヽヽ》とかたむいた。|うわっ《ヽヽヽ》と声をあげて前の人垣が崩れる。|ひやーっ《ヽヽヽヽ》という悲鳴とともに、角次郎はさながら出初《でぞ》めのハシゴ技に失敗した火消しのように壇上から地面へ転がり落ちていった。テーブルの上の水差しやコップや菓子皿や果物鉢が粉ごなにくだけて飛び散った。乃木式義手が二本とも両肘からもぎとられたように地上にころがる。見物人たちが一斉に日本青年のまわりに駆けよった。背中と腰をしたたか打った角次郎は息が詰まってしばらくは起きあがることもできない。 「なんたるザマだ」軍医は壇上でまっ赤な顔をし、アゴをふるわせている。黄色いネッカチーフを襟にまいた会場係のドイツ娘が二人駆けよってきて角次郎を抱きおこしてくれた。 「わしの面目は丸つぶれだ」  軍医はおそろしい目つきで角次郎をにらんでいる。角次郎はヘチマのように両肩から垂れた義手をひきずりながら腰をさすった。見物人たちがぞろぞろ立ち去っていく。なかにはゲラゲラわらっている者もある。 「申し訳ありません……」角次郎は首うなだれて小声でわびを入れた。すりむいた膝頭がズキズキ痛む。 「とんでもない醜態を演じおって、このトンマ野郎」  軍医は頬をひきつらせてみにくくわらった。 「おまえのせいで、わが陸軍軍医部はとんだ恥をさらしたもんだ」  軍医のひたいに青すじがひくついている。 「すみません……」角次郎は頭をたれた。 「とにかくわしは本部へ報告にいってくる。ついでに今後の方策も決めてくるわい」  軍医は太い首の汗をぬぐって吐き出すようにいった。 「それまでここで謹慎しておれ、この役立たずめが!」  角次郎はますます深く頭をたれた。もはや居ても立ってもおれぬほどの恥かしさだ。軍医は怪我の容子をおもんぱかろうともせず、ただ、あらあらしい長靴の音をひびかせて通訳とともに会場をでていった。  角次郎はやりきれなかった。負け犬のようにみじめだった。背中や腰がまだ疼《うず》いている。 (やはり、閣下はおれにとっても厄病神だったのか——)角次郎は永田特務軍曹の忠告をおもいだした。が、今ごろ気づいてももはやおそすぎる。  むしょうにタバコが吸いたい。  角次郎はそっと身をかがめると、足元に散らばった葉巻とマッチ箱を肘の先でかきあつめた。それから壇の下に転がっていた腰掛をなおしてそこに座り、靴と靴下をぬいだ。だれも角次郎に注目する者はない。葉巻を足指の股にはさんですばやく口にくわえる。 「うわっ、すげえや」  足指で巧みにマッチに火をつける日本人をめざとく見つけた水兵服の男の子が、巨きな羽根飾りのついた帽子をかぶった母親の手を引っぱるようにして、近よってきた。 「ねえ、もういちど、いまのをやっておくれよ」  水兵服がねだるようにいった。ことばはさっぱり判らなかったが、仕草で呑み込めた。角次郎は合点すると、足指でふたたびマッチをする。新しい葉巻に火をつけ、心ゆくまで紫煙を吹きあげる。 「おお、ワンダフル!」  近くを通りかかったアメリカ青年が角次郎のまえで大仰に両手をひろげて立ちどまった。その声にさそわれるように見物人たちがぞろぞろたかってくる。|もと《ヽヽ》輸卒はかれらの求めに応じて、つぎつぎに足指で新しい葉巻に火をつけてみせた。まるで大道芸人になったような気分だ。 「おお、すごい芸だ」 「日本人はなんて器用なんだ」 「まるで神技じゃないか」  口々に賞賛がとびかい、割れるような拍手と歓声がわきおこった。 「素晴らしいの一言に尽きる!」  口髭をピンとはねあげた山高帽のドイツ紳士が、角次郎のわきに立って演説をはじめた。 「一日中、靴をはくしか能のない足にも、かくも偉大なる働きのあることを、この兵士は身をもって示してくれた。我々は彼に絶大な感謝をささげようではないか!」  おうおう、と応える見物人に、角次郎はすっかり調子にのって、次々に足指で見物人のパイプに火をつけてやったり、漢字やひらがなを書いたり、靴のヒモを結んでみせたりした。人垣はさらにふえ、新聞記者の焚く写真用のマグネシウムが何発も光った。 「絶妙の足技だ。あなたをドレスデン傷痍《しようい》軍人会へ招待したい」 「ベルリン体育大学の者です。ぜひ、あなたの至芸をわが校で公開して頂きたい」 「ロンドンの興行師協会の者です。すぐ貴兄と契約したい」  入れかわり立ちかわり訳の判らぬ会話を喋《しやべ》ってくる外人達にむかって、角次郎はわかりません、わかりませんと首をふるばかりだった。それにもはや葉巻の煙を吸いすぎて、酩酊《めいてい》したごとくフラフラだった。周囲《まわり》の西洋人たちの鼻をつく体臭にもすっかり参っていた。誰かが知らせたのか、人垣の間から松木軍医が巨体をゆらせてこちらへ足早やに突き進んでくるのがみえた。その傲然《ごうぜん》たる足取りを目にしたとき、とつぜん、丹田《たんでん》の辺《あた》りで巨きな拒絶の虫がむっくりと起き上がるのを感じた。角次郎は強い衝動に駆られて地面に転がっていた義手を足先に引っ掛けるようにして拾い上げた。そしてそれを見物人たちにつきつけながら思いっきり声をはりあげて叫んだ。唇から唾がとんだ。 「いいかい、おれの足はこんなに自由に使えるんだ。それをなんだい、こんな不便な義手をあてがったりして。おれはこんな難儀なもの、もうまっぴらだ。これ以上、将軍の義手にかかわるのはごめんだ。そうさ、こんなのは迷惑さ、迷惑|千万《せんばん》、大《だい》迷惑なんだ!」  あくる日から日本館では乃木式義手の実演はとりやめになった。会場には義手の実物と、これを装着した角次郎を満足気に見守る乃木将軍の写真が陳列されただけである。 [#地付き]〈了〉  〈参考資料〉武智秀夫『手足の不自由な人びとはどう歩んできたか』 [#改ページ]  あ と が き  少年時代の志《こころざし》やみがたく、中年になって、小説らしきものを書きだした。だが発表の舞台がない。そんなとき、フラリと立寄った喫茶店で手にとったのが、若者むけの週刊誌だった。その人生相談欄に、山口瞳氏のこんな回答が載《の》っていた。 「小説家になりたければ、懸賞小説に応募しなさい」  これだと思った。このアドバイスにそそのかされるように原稿を送ったのが、『小説サンデー毎日』の新人賞である。応募して二、三作目に時代小説部門の次席に入賞できた。それが「本石町長崎屋」である。しかし残念なことに、当時の毎日新聞社の屋台骨がグラリとかたむいたため、同誌は廃刊の憂き目にあい、折角の|とっかかり《ヽヽヽヽヽ》を失ってしまった。一時は落胆したものの、ウシ年のわたしは鈍重でもネバリが身上だ。つぎに挑戦したのは『オール讀物』の新人賞である。ここに送った「大御所の献上品」は入賞はしなかったが、編集部のすすめで書き直したところ、おもいがけず直木賞候補にのこった。新米《しんまい》作家は有頂天になった。その|のぼせ《ヽヽヽ》上がりをあざわらうかのように、天が鉄槌をくだしたのだ。わたしは強烈な自律神経失調の嵐に見舞われたのである。  それは厄年にさしかかった夏のタベ、突然いまにも心臓が止まりそうな感じの発作ではじまった。それからの数カ月間というもの、昼夜をわかたず、心臓の変調や目まいや肩こりや手のしびれ、下痢や不眠や食欲不振など、多彩な症状が入れ替り、立ちかわり襲ってくる。しかもつよい不安感を伴うのだ。病院で診てもらっても、どこも悪くない。ところが自覚的には、こんなみじめな状態では生きていても仕方がない、とおもえるほど苦しくて堪らない。あれこれと文献をあさったあげく、最後に森田療法の書物に行き当った。そして、じぶんは本当に心臓や頭や胃腸がわるい訳ではなく、只、ささいな症状にとらわれて我が身をダメにしているにすぎないと悟らされたのである。自律神経失調の原因は、わたしの身勝手さの中にひそんでいたのだ。わたしの妻が終始冷静な対処で事に臨《のぞ》んでくれたことも立直るきっかけになった。  そして三年あまりがすぎ、やっと人生の落し穴から這い上ることができたとき、わたしはふたたび筆をとった。じぶんの苦しかった日々を、おこがましくも、漱石先生の苦悩と重ねあわせるようにして綴ったのが、「歴史文学賞」をいただいた「にわか産婆・漱石」である。また、「乃木将軍の義手」は同賞の受賞第一作としてかいたものである。  このようにして、ここにおさめた四つの作品は、わたしにとって思い出ふかく、記念になるものばかりである。それがこのような立派な単行本にしていただく機会をえて、いま雲上に漂うような気分である。少年の頃の夢がかなえられたのだ。  歴史小説、時代小説のむつかしさは、何度とりくんでもかわらない。だが、一枚ずつ布を織るように手作りで創りあげていく楽しみも、また格別である。これからも牛の歩みのごとく、コツコツと励んでいきたいとおもう。  おわりに単行本上梓に際しては、『歴史読本』の田中満儀総編集長にひとかたならぬお世話になった。末筆ながら厚く御礼申しあげる。 昭和五十九年二月二十七日 [#地付き]篠 田 達 明  初出  にわか産婆・漱石  歴史読本/昭和五十九年三月  大御所の献上品   オール讀物/昭和五十六年三月  本石町長崎屋    日本医事新報/昭和五十四年第二八六七号〜第二八七二号  乃木将軍の義手   歴史読本/昭和五十九年五月  単行本 昭和五十九年五月新人物往来社刊 〈底 本〉文春文庫 平成一年十月十日刊