[#表紙(表紙.jpg)] 篠田節子 死  神 目 次  しだれ梅の下  花  道  七 人 の 敵  選 手 交 替  失われた二本の指へ  緋 の 襦 袢  死  神  ファンタジア [#改ページ]    しだれ梅の下  稲荷《いなり》町は江戸の頃、新宿から一つ目の宿場町として栄えた所である。街道沿いに旅籠《はたご》が並び、その一本裏通りから北側の河川敷に至る一帯は、遊廓だったと言われる。  元子《もとこ》の少女時代、昭和の四十年頃までは、稲荷町の入り口には黒塗りの門があって、堀がめぐらせてあった。赤線廃止後のことで、さすがに遊女屋はなくなっていたが、堀の内側は怪しげな一杯飲み屋や旅館が軒を連ねていた。 「稲荷町の大門の中に入っちゃいけないよ」  この辺りの子供は親からそう言い聞かされていたものだ。もちろん、素直に聞くような子供ばかりでなかったし、元子もそういう子供の一人だった。  あるとき探険と称して友達数人と大門をくぐったことがある。期待したほどのものはなかった。時代劇に出てくる御殿そっくりの建物を発見したときには、少しばかり興奮したが、ちょんまげの侍やお姫様が住んでいる気配はなく、玄関をのぞきこむと、土埃《つちぼこり》の積もったたたきに、真っ黒に汚れた下駄が転がっているだけだった。  商店はどこも戸を閉ざし、町全体がしんと静まりかえっているのが、子供心には不思議にも不気味にも映ったものだ。夜にならないと活気づかない町があるなどということは想像もつかなかった。  そして四十に手が届きそうになった今、自分がその町で仕事していようとは、その頃は思いもよらなかった。  元子は重たいカバンを肩に担ぎ直すと、歩みを速める。  黒い大門も柳の葉が風に揺れる堀もすでにない。四方を住宅地に囲まれて、そこが稲荷町であることを示しているのは、一歩足を踏み入れたとたんに感じる圧倒的な貧しさだけだ。ここは、市内ではめずらしくなった木造のアパートが密集する一帯である。その中で、ひときわ目を引くのは、回り廊下の中央に広い中庭を配した旧|妓楼《ぎろう》である。少女時代の元子が御殿と間違えた建物だ。どういうものか、ここだけは戦災で焼け落ちなかった。  市内の繁華街が、街道筋から駅周辺に移ったここ二十年ほどの間に、稲荷町は急速に寂れた。アパートの住人は、大方は若い頃からここに住んでいる、元遊廓の牛太郎や遊女、芸者衆といった人々だ。かつての花街は、今では市内一、所得水準の低い、老人の街になった。  大場元子が福祉事務所のケースワーカーとしてこの街を担当してから、十五年あまりになる。この間に、老人達は次々に市営の老人ホームに移されていった。たった一人で死を迎えた者も数多くいて、老人達がいなくなったアパートは取り壊され、跡には高層マンションが建った。やがて一帯から老人の姿がなくなったとき、ここの花街としての歴史は幕を閉じるのだろう。  元子はまっすぐ旧妓楼に向かっていった。玄関の石畳は、磨《す》り減って、端の方には泥や埃《ほこり》が積もっている。飾り欄干のついた回り廊下は、所々穴があいていて、無雑作に踏み出すと足を取られる。中庭の池はとうに干上がり、住人のごみ捨て場になっていて、夏になると雑草が丈高く茂る。  この木造三階建ての建物は、現在、アパートとして使われている。  急な階段を上がり、腐りかけた廊下の板を踏みぬかないようにそっと歩いて、板戸の一つの前に立ち、元子は声をかけた。 「お姐《ねえ》さん、福祉事務所の大場です」  返事がない。ノックする。 「お姐さん」  不安が胸をしめつける。 「お姐さん、入りますよ」  大声で言って戸を開ける。  背筋をしゃんと伸ばし、家具もほとんどない四畳半の真ん中に遠藤稲菊は座っていた。元子の顔を見ると、人差し指を縦皺《たてじわ》の刻まれた唇に当てる。 「静かに」  うなずいて元子は部屋に入る。部屋の畳は擦《す》り切れ、埃が積もっている。躊躇《ちゆうちよ》せず腰を下ろす。汚いなどという感覚は、とうにない。この仕事は並の神経では務まらない。糞尿で汚れた部屋を訪問しなければならない場合もあれば、首吊り死体を抱きおろす事もある。 「今、太郎が悪さして、叱っていたんだよ」  稲菊は部屋の隅《すみ》に立てかけた三味線を指差す。 「あれに飛びついて倒してね。危なく棹《さお》を折られるところだ」 「そしたら太郎の皮で、作り直したらいいわ」 「ばかだね、猫ならわかるけど、犬の皮でシャミなんかできるかね」と稲菊は笑う。  こんな冗談が言いあえるようになったのか、と元子は自分でも少し驚く。 「本当にもう、悪い子だよ。貞《さだ》さんの犬でなきゃ、追い出しているところだ」  稲菊の手が空を切って、何かを丸く撫《な》でる。 「そんな顔してもだめだよ」  皺だらけの両手を上に向け、指をやわらかく曲げる。 「お手かい? まったく、怒られるとそうやって機嫌とりをするんだもの、変な犬だよ」  再び、稲菊の両手がゆっくりと空を切り、何かを抱き寄せる。  元子は、黙って見つめる。稲菊を担当してまもなく十年になる。こんな事にはすっかり慣れた。  初めてここを訪問したとき、稲菊が何もない空間に片手を振りおろし、「吠《ほ》えるんじゃないよ」と一喝するのを見て、さすがにびっくりした。思わず後ずさり、これは早急に治療が必要だと思った。しかし、今では気にしていない。幻の犬を飼っている以外、稲菊には何の問題もない。身の回りのことも一人でできるし、計算や読み書きもしっかりしている。身寄りのない老女には、ペットの一匹くらいいる方がいいのだ、と今では思っている。それに太郎は吠えたり、糞をしたりしないのだから、なおさらいい。 「やっと、この頃、大場さんの顔を見ても吠えなくなったね、この子も」  稲菊は、犬の喉《のど》を掻《か》いてやるように、右手を忙《せわ》しなく動かす。 「柴犬は、なつかないからさ、貞さんから預けられたばかりの頃なんか、餌《えさ》をやってもぜんぜん食べなくて、心配させられたもんだよ。あの人は半年たったら必ず迎えにくると言って、満州に渡ってそのままになっちまった。おまえ、捨てられたのかね」  捨てられたのは、稲菊の方だ、とこの町の老人の一人が語っていた。男の方も決して悪気はなかったのだろうが、戦争が始まって戻ってこられなくなったのだろう。 「ところで、お姐さん……」  元子は用件を切りだそうとすると、稲菊はぴしゃりと言葉をさえぎった。 「や、ですよ、あたしゃ。養老院なんて」  先を越されて、元子は黙る。  うなじを起こし、小豆《あずき》色のエプロンの膝に両手を組んで、稲菊はきっ、と元子の顔を見据えた。 「だってお姐さん、ちゃんとご飯食べてる? お風呂屋行くったって、近くにないでしょう。この頃じゃみんな廃業しちゃったから。お便所だって、いちいち階下《した》まで行くようだし。かぜひいて寝込んだりしたら、大変よ、ここでは」 「ご不浄が、遠くにあるのは、当たり前だろ。部屋ん中で用を足すのは、お女郎さんだけだよ。それに養老院に入ったら、これはどうなるんだい? 犬なんか飼わせちゃくれないって聞いたよ」 「大丈夫。老人ホームでも、太郎なら飼わせてくれるから」 「ごまかしたってだめだよ。家具も犬も持ってけないって話は、無学なあたしだって知ってるんだ」  元子はため息をついた。太郎のことをのぞいては、話がわかりすぎるから困る。  ──梅にうぐいす、ほうほけきょうと……  三味線を手にすると、稲菊は歌い始めた。りんとした張りのある高い声は、七十をとうに過ぎた今も、少しも衰えを見せていない。かつて稲荷町一の名妓と言われた頃の姿が、今にも崩れ落ちそうな楼閣の一室で、色のさめたエプロン姿で三味線をつまびく姿の内から、あでやかに浮かび上がる。  ──昔ゃ鳥の方からとまりに来、さえずったれど、    これま、今じゃ鳥がさかりが過ぎたと、    ええ愚痴を言う──  稲菊は、昔、関西の大店《おおだな》の若旦那に見初められたが、心に決めた男がいて、袖にしたという話を元子は、この町に住む元牛太郎の老人から聞いたことがある。 「貞さんと約束をしていたので断った」と稲菊は言う。 「あの頃、並の芸者じゃ、そんな話、断れなかったんだよ」と稲菊は誇らし気に語るが、いっそ身請《みう》けされた方が良かったのかもしれない。  稲荷町の外側に、植込の美しい小さな家々の建ち並ぶ一画がある。別名、妾横丁《めかけよこちよう》と呼ばれている界隈だが、そこの住人達は、少なくとも家と土地だけは、自分の物にできた。駅前の繁華街に店をかまえている老女たちも多い。  稲菊を担当したばかりの頃、元子は彼女を「遠藤さん」と名字で呼んだことがある。稲菊は、きょとんとしていた。そういう呼ばれ方に慣れていなかったらしい。何度呼んでも、ぴんと来ないようなので、元子は、他のケースの老人を呼ぶように、「おばあちゃん」と言った。とたんに、稲菊の顔色が変わった。 「孫もいないあたしが、なんでお婆ちゃんなんて呼ばれなきゃならないんだい」と、脂気の抜けた透き通るように白いこめかみに、青筋を立てて怒った。 「お姐さん」と呼ぶようになったのは、元子が担当している他の老人が、彼女を若い頃からの習慣で「稲菊姐さん」と呼んでいたからだ。今では、元子もこの呼び方に馴染んでしまっている。  ──梅が主なら、柳はわたし、    仲がよいのか、すねるのか、    ある夜ひそかに山の月    心ないぞえ、小夜嵐──  ばちをゆっくり離し、ちょっと首を傾《かし》げて、元子の方を見る。目の縁で小さく微笑《ほほえ》む。落ち窪み、白内障のせいで乳白色に膜のかかった目だが、その表情には、匂い立つような華がある。  ある夜、ひそかに山の月……か。  元子は、不意に揺らぎ立つような思いに捕らえられ、一人の男の顔を思い浮かべた。  昨年、福祉事務所に配属されてきた新井誠だ。六年間、財政の仕事をしていたエリートだが、辞令一枚で、いきなり福祉事務所に異動が決まり形ばかりの研修の後、アルコール中毒やヤクザの面倒を見させられる事になった。  慶応大学卒の二十代の独身男は、初めは戸惑い、訪問先の汚れはてた住居に上がれず逃げだし、麻薬が切れて痙攣《けいれん》している男を見て震え上がり、ヤクザに脅《おど》されて泣いた。そしてなぜ自分をそんな所に異動させたのか、と総務課長に食ってかかった後は、職場のだれにも相手にされなくなった。その彼の隣に座っていたのが元子だった。近くにいる以上、無視するわけにもいかず、気がついたときには、このやっかいな若者の面倒を一人で見るハメになっていた。  甘えた態度に腹を立て、どなるのにも疲れた頃、元子は小学生の子供を持ったつもりで指導しよう、と覚悟を決めた。  一年たった今、新井は確実に成長した。そして数日前、今どきの若者なら気にも留めないような、ごくささいな出来事があって、元子の心は微妙に揺らいでいる。ばかばかしい、と思いつつ、十も年下の男の笑顔が、不思議に甘い感傷を伴って、ずっと心の片隅にある。  はっと我に返って、元子は稲菊に話しかける。 「目はどう? 見える」と白内障の様子を心配すると稲菊は、柔らかくたるんだ頬を震わせて笑う。 「この歳になるとね、ほどほどに見えた方がいいんだよ。今さら鏡の中の皺や、畳の上のごみなんか、見たくない。でも極楽寺の梅の花だけは、見たいねえ」  窓を開け稲菊は、膜のかかった目をしばたたかせ、外を見渡す。 「気をつけてよ、窓の欄干ぼろぼろになってるでしょう」  慌てて、小柄な老女の体を支える。 「そろそろ、香りが漂ってきたよ。ほら、極楽寺のしだれ梅が見頃だ」 「そうね」  元子はうなずく。  極楽寺というのは、街の西側にある寺だ。稲荷町の遊廓が栄えていた頃、結核に冒された遊女たちが、息のあるうちに投げ込まれたというのは昔語りで、今では花の寺として知られている。  境内に曲がりくねった梅の老木がある。稲菊の言うしだれ梅だ。昔は春になると、甘ずっぱい香りを堀の内一帯に漂わせた、と伝えられるが、もう十年以上前から、樹精が衰え、花をつけなくなった。 「貞さんと逢引きするのは、あのしだれ梅の下だった。貞さんの田舎にはね、しだれはなかったそうだよ。家運が落ちるっていうんで、どこも植えなかったんだ。めずらしいって、喜んでいたよ。大工だったんだよ、あの人は。妓楼を建てられる大工って、あの頃はもう少なくなっていたね。それで満州に呼ばれていったんだ。おっと」  稲菊は、片手の甲で空を払った。 「太郎、窓に飛びついちゃ危ないじゃないか」  不思議なのは、その手の動きが、透明な犬の鼻面を正確に叩いていることだった。痩《や》せた指の先の空気の揺らぎは、確実に何か物質感を伴っている。大したパントマイマーだ、といつも感心させられる。  斑《まだら》に染められた白髪が数本抜け落ちている畳の上に、新聞が敷いてあって、その上の小さな皿に飯と魚の身のほぐしたものが載っている。稲菊は立っていって、皿を取り新聞を畳んだ。 「また残しちゃって、もったいないね」  そう言いながら、皿を小さな戸棚の中に入れる。これが、後で稲菊の夕飯になるのだ。  畳の上に何時間も置かれ、冷めきって埃が入った物を老女が一人で食べる姿を思い浮かべると、元子はやりきれない気分になる。それが犬の食べ残しと思えば、たとえ幻のペットとはいえ、胸が悪くなる。 「お姐さん」  元子は居住まいを正し、稲菊を見つめた。 「ホームに入ろう。ねっ、ちゃんとご飯を食べて、きれいな所に住もうよ」  稲菊は黙っている。 「太郎のことなら心配ない。あたしが、保証してあげる。いじめさせたりしないから」  そのホームには、老人専門のカウンセラーがいるし、スタッフもベテランぞろいだ。稲菊の幸福な妄想をむやみに取りのぞくような真似はしないはずだ。 「だって、どうするの。もう暗い所では、お姐さん、目が見えないんでしょう。夜なんか、どうやって階段下りてお便所行くの? ヘルパーさんが来てくれない日はどうするの?」  稲菊は、顎《あご》をあげて、焦点の合わない目で、元子を見つめた。 「あんた、結局、自分の責任になるのが、恐いんだろ。あたしが、階段から落ちて足折って、ワーカーは何してたって言われるのが、やなんだろ。役人はみんなそうさ」 「そりゃ、違うわよ」  元子は、稲菊の両肩に手を置く。 「わからないの? お姐さん。心配だから言ってるんでしょ。あたしだって、独り身なのよ。そして歳をとるの。今、元気で仕事してるけどね。お姐さんの身の上っていうのは、他人事だとは思ってないんだから。独身の女の行く末ってのは、同じなんだよ」  稲菊は白く膜のかかった目で元子を見つめ、かぶりを振った。 「女一人じゃ、いけないよ。あたしは、仕方なかったんだよ。でもあんたは……」 「私のことはいいのよ」 「ここから動けないんだよ、あたしは」  稲菊は、何度も瞬《まばた》きした。 「どうして? ここの住人はみんな引っ越したでしょう」 「だめなんだ。この町で、待ってるって、約束したから」  何をばかなこと言ってるの、という言葉を呑み込む。老人を相手にするときの禁句だ。 「貞さんが帰ってくる所がないじゃないか。あたしまでどっか行ったら。堀もなくなったし、大門もなくなっちまった。戦後に進駐軍が入ってきて、がらっと変わったと思ったら、あっという間に、映画館や連込み宿ばかりになった。かと思ったら、ここ二十年ばかりの間に、こんなに寂れてしまった」 「そうよ。変わったの。いつまでも、ここにいてもしかたないでしょう」  稲菊は首を振る。 「待ってるんだよ。あたしは、極楽寺の梅が咲いてるかぎりはね」 「でも、年寄りの一人暮らしじゃ……」 「一人じゃないよ。太郎がいるさね」  そう言って、稲菊はあたりを見回した。 「太郎」  腰を浮かした。 「ちょっと、太郎がいないよ」 「えっ」  元子も、首を回す。 「そう、いないみたいね。遊びにでも行ったんじゃないの」 「いや、そんなときは、様子でわかるよ」 「そんなものなの」 「なんだか、変だよ」  窓から身を乗りだして、稲菊は下を見る。 「気をつけて」  慌ててその体を支える。 「あんた、見えないかい?」 「見えないわ」 「ちょっと、手伝っておくれ。探しに行かなきゃ」  悲痛な表情で稲菊は言った。 「帰ってきますよ。首輪つけてるんでしょ」 「あんた見てるだろ。貞の字のついた銀の板をぶら下げてる」 「ええ」 「とにかく、早く」  稲菊は、廊下に出て、スリッパをつっかける。舌打ちして元子は、腕時計を見た。四時半を回っている。早く事務所に帰って、ケース記録をまとめ、病院から上がってくるレセプトに目を通し、保護費の算定をしなおさなければならない。彼女の持っているケースは稲菊一人ではない。これ以上、老女の妄想に付き合っている暇はない。 「早く、早く」  八十近くとは思えない身の軽さで、稲菊は回廊を走っていく。  階段を下りかけた小さな後ろ姿に向かい、元子は大声でどなる。 「気をつけてよ、足元」  元子の声など聞こえないかのように、稲菊はかけ下りていく。  元子が階段に足をかけたとたん、稲菊の体が、ふわりと崩れた。  小豆色のエプロンの後ろ姿が、まだ数段残している急な階段を飛ばして、落下していく。スローモーションビデオを見ているように、ゆっくりした動きだった。やがて玄関の腐りかけた床板にぶつかり、ゆっくりバウンドしてから、石畳の上に転がった。  元子の全身から血の気が引いた。しかし、どこか現実感がなかった。  階段を踏み外すときも、落下して床板に叩きつけられたときも、音がなかった。  小さすぎ、軽すぎる。家庭もなく、子もなく、すっかり様変わりした町にひっそりと棲《す》み続ける老女の体は、油分も水分もぬけてしまっているようだ。  元子は、階段を二段飛ばしにかけ下りる。  小さな体が、玄関のたたきにうずくまっていた。飛びついて、抱き起こす。  稲菊は顔を起こして、口を尖《とが》らせた。 「大丈夫?」 「平気だよ」  頭を打って痛みを感じなくなっているのだろうか。 「平気だって。ほら手を貸しておくれ。太郎を探しに行かなきゃ」 「それどころじゃないでしょ。まかり間違ったら、頭打ってあの世行きだったんだから」  あまりにけろりとした様子に半ば腹を立てて、元子は思わず声を荒らげた。 「階段が磨り減ってるからさ、すべったんだよ」  こんなとき、稲菊は決して「足を踏み外した」とは、言わない。 「とにかく、上がってよ。怪我がないか見てあげるから」 「大丈夫ったら大丈夫、それより太郎が」  稲菊は片足を引きずりながら立ち上がって、表に出ていく。慌てて追いかけていくと、元子の腕にしがみつくようにして体を支えた。  時計は四時四十分を指している。二月も末のことで、だいぶ日が延びてきている日没まで間があるはずなのに、外は黄昏《たそがれ》時のような暗さだ。 「部屋に戻ろう、お姐さん」 「あんた、太郎が……」  元子を見上げた顔は、今にも泣き出しそうだ。 「あれに何かあったら、貞さんに申し訳がたたないよ」 「わかった、わかった。一緒に探そう」  元子は、カバンを肩に担ぎ直した。  ぼけはだれにでもくる。ずれてしまった現実認識を正すことに意味はない。物をなくしたと言い出したら、一緒に探してやることだ。  元子は、稲菊の腕をしっかりつかんで、小さな体を支えながら歩き始める。  こうして本来の仕事以上のことばかりやってきた。ヒモと別れられないソープ嬢をかくまったり、アル中の息子を抱えた老夫婦の相談に乗ったり……。他人の不幸と向き合ううちに、自分の青い鳥を探すことなど、すっかり忘れてしまっていた。  それでも感謝されたことなど数えるほどしかない。結局は元子の忠告をしりぞけ、彼らは、その重荷を自分の身の上に引き受けてしまう。ヒモもアル中の息子も、彼女たちを悩ますと同時に、彼らの生きがいだったのだ。貞さんが、今の稲菊を支えているように。  また今日も残業か、と棒きれのように弾力のない稲菊の腕を握りしめ、元子はため息をつく。  アパートの前の道を横切り、稲菊は狭い路地に入っていく。  両脇は今時めずらしい板塀だ。塀の下から、野ほうずに伸びた万年青《おもと》の葉が飛び出している。この地区を受け持って十五年になるが、いつも国道から訪問先に直行するので、この路地を通ったことはない。  家並みに阻まれて視界がきかない。しもたやの向こうに、たなびく雲の縁をわずかに金に染めて、暮れていく空がある。  それにしても夕暮が早すぎる。  奇妙なことに気づいた。  稲荷町の西側は、最近、木賃アパートが取り壊されて、高層マンションができたはずだ。しかし、しもたやの屋根の向こうには、あの真っ白なリゾートホテルを思わせる外観の建物が見えない。  方向を間違えたのだろうか。 「ちょっと、お姐さん、ここどこ?」 「いつも太郎を散歩させてるとこだよ」  いずれにせよ稲荷町の中であることは間違いない。路地を抜ければ、見慣れた所に出るはずだ。  まもなく、大きな木造家屋につきあたり、路地はT字路になって東西に分かれる。稲菊は迷わず西に行く。真ん中に飛び石のある細い路地のじめついた土には、ところどころ苔《こけ》が生えている。  と、そのときかすかな腐臭が鼻を打った。風に乗って漂ってきたどぶの臭いは、遠い記憶を呼びおこした。土埃の向こうに見えるいかがわしい映画の看板、扉を閉ざした一杯飲み屋や、静まりかえった小さな旅館。そして、柳の枝を揺らす風……そう、堀の臭いだ。稲荷町を周りの住宅街から隔てていた、どんより濁った水の色が思い出された。  しかし堀はとうに埋め立てられ、今は柳の並木が残るばかりだ。 「また、春だねえ」  足を止めて稲菊は言う。 「貞さん、いつまでかかってるのかねえ。待ちくたびれて太郎まで飛び出しちまったじゃないか」 「ねえ、それっていつ頃の話? 貞さんが満州に行ったのは」  元子は尋ねた。 「ずいぶん昔、もう六十年も前のことさ」  稲菊の時間感覚が、すこぶるまともな事を確認して、元子はほっとする。 「あたしがまだあんた位の歳の頃の話だよ」 「私、三十九よ」  老女は、驚いたように反《そ》りかえって、元子を見る。紺のブレザー姿で化粧気のない元子は、それが魅力に結びつくかどうかは別として、歳よりはるかに若く見られる。 「もう四十なのかい……」  稲菊は、悲しそうに首を振ると、諭《さと》すように言った。 「だめだよ、女がそれじゃ。親からもらった体、そのままで死んでいっちゃ、あの世で神様に申し訳がたたないよ」 「別に未婚だからって、神様からもらった体のままとは、限らないじゃないの」 「見りゃわかるよ。あんたは、そのまんまだ。好きな男がいても、心も体も許せないでとうとうそこまで来ちまった」  元子は苦笑する。この街で生まれ育った稲菊に、ごまかしはきかない。  今までだって、恋も結婚話もないことはなかった。しかしもっと切実な問題が常に元子の前にあった。  暴力団に上前をはねられながら、異国で売春して家族を養うアジア系の女性や、妊娠中絶を繰り返し全身がぼろぼろになった少女、そして稲菊のような身寄りのない老人たち。彼らと関わり合ううちに、二十代は瞬《またた》く間に終わり、三十代もまもなく過ぎようとしている。  それでも仕事の合間に、数人の男が現われ、迷っているうちに去っていった。  ふと、昨夜の新井とのやりとりを思い出した。あの坊やも男の内に入るのだろうか。  数日前、新井は山に死体を拾いに行った。最近、市内に入ってきた浮浪者が首を吊ったのだ。腐りかけた死体を新井は担ぎ下ろし、一人で葬儀の手筈を整えた。  故郷に連絡を取り、親族を探したあげく、結局、引き取り手のない骨壺を抱えて事務所に戻ってきた彼は、ぽつりと言ったのだ。 「僕、大場さんのおかげで、人の悲しみや、人生の重みが少しはわかってきたような気がします」  元子は、黙ってうなずき、彼を見つめた。面倒を見た男が一人前になっていくのが、うれしかった。それだけだった。 「飲みに来る?」と誘ったときも、それ以上の気持ちはなかった。  その夜、彼女のアパートでしみじみ話しながら酒を飲んだ後、いきなり新井に抱き締められて、元子は動転した。  男を部屋に呼ぶのがどういうことか、わかっていなかったわけではない。しかし自分と新井に関しては、当てはまらない、と思い込んでいた。 「仕事のときだけでなくて、いつも一緒にいたい」という新井の言葉も信じられなかった。新井という男を信じられないのではない。男の熱い気持ちが、いつかは冷めることを元子は体験ではなく、仕事を通して知りつくしていた。不幸な女ばかり見すぎていた。  それに自分の歳を考えたとき、後々、十も若い男に「あのとき自分はちょっとおかしかったんだ」と言われるのは、耐えられないことだった。 「いつまでも甘えてるんじゃないわよ」と言って、元子は新井の手を振りほどいたのだ。  路地は、あちらこちらで折れ曲がりながら続いている。どうやら西に向かっているらしい。 「おかしいねえ」  稲菊が首を傾げる。 「いつも散歩に来るのは、このあたりなのに。どうも今朝から様子が変だったんだよ。吠えるし、はしゃぎ回るし、あげくの果てに、部屋の中でおしっこまで漏らすしさ」  稲菊の体が、ぐらりと揺れた。下駄を飛び石にひっかけたらしい。  倒れそうになった体を抱きとめ、元子は言った。 「もう、帰ろうよ。太郎だって一晩もしたら戻ってくるから。ガールフレンドでもめっけたんでしょうよ」  磨り減った下駄の鼻緒は切れていた。稲菊は衿に当てていた薄いタオルを取ると、引き裂いてきりきりとよじり、かがんで下駄の穴に通した。 「器用なものね」 「だめだよ。昔は、手ぬぐいがあったけど、今はないだろ。店屋でくれるのは、タオルだもの。すぐぼろぼろになっちまう」 「家に戻るまで保《も》てばいいわよ」  タオルをつけ終えて、稲菊は体を起こし、濁った瞳をしばたたかせた。 「いい香りだ」  たしかに、甘酸っぱい梅の香が漂っている。 「春は梅だよ。桜は匂わないからね」 「そうね」 「極楽寺のしだれが、満開なんだよ」 「そうね」  そんなはずないと、わかっていても否定はしない。大方近所の庭先にある花だろう。 「貞さんに初めて会ったのも、今頃だった。梅を見に行った帰りにさ、鼻緒が切れたんだ。こんなちびた下駄じゃないよ。高い塗り下駄さ。通りかかった貞さんが、すげ替えてくれたんだ。藍の匂いのぷんぷんする新しい手ぬぐいをピーッと裂いてね」 「時代劇みたい」 「新しい手ぬぐいはありがたかったけどさ、おかげで指のまたがすれちゃって」  稲菊はけらけらと笑った。  そのとき、元子のふくらはぎをかすめて、何かが走りぬけていった。  しかし何もいない。風のようなものだ。  稲菊が、あっ、と叫んだ。 「太郎だ。こらっ、太郎」  二、三歩かけ出し、元子を振り返る。 「あんた、ほら、何してるんだい。捕まえてきておくれよ」  元子は無意識に自分のふくらはぎを撫でる。 「早く、早く」 「わかったわよ」  奇妙な感じを抱いたまま、稲菊の後を追う。路地を折れると、大谷《おおや》石の塀があった。  極楽寺の塀だ。その塀の際に、たしかにいた。犬だ。小さく引き締まった茶色の体。ぴんと立った耳、切れ上がった目が薄闇の中で黒く澄んでいる。純粋な柴犬だ。  元子は何度も瞬きした。 「太郎、こら、心配させて」  稲菊が近寄ると、犬は尻尾を振りながら、さっと遠ざかる。 「まったくしょうがない子だよ」  稲菊がよたよたと後を追う。  路地を軽やかに走りながら、犬はちらりと振り返る。吊り上がった目が笑っているようだ。  おそらくどこかの家の飼い犬だ。面倒なことになったと思った。稲菊が連れて帰るなどと言い出したらどうしよう。  まもなく大谷石の塀に人がくぐれるほどの、穴があいている所に出た。極楽寺の裏口だ。境内の緑が見える。犬はその中に飛び込んでいった。  そのとき、元子は小さな叫び声を上げた。極楽寺の塀は、二年前の地震で倒壊し、消防署の指導で芯入りのブロック塀に替えられた。大谷石の塀など残ってはいない。  するとここはどこなのだろう……。  犬を追って稲菊が、中に入る。続いて元子もちょっと屈んで塀をくぐった。  黒土の上に、真っ赤な物がいくつも落ちている。椿の花だ。濡れたように艶やかな葉を茂らせた藪椿の大木の間を抜け、こぶしの木を回り込むと、その先は藤棚になっている。まぎれもない極楽寺の境内だ。  犬は、はしゃいで走り回っている。  振り返れば、椿の木あたりの夕闇が一段と濃い。丸く刈りこんだ木々の向こうに、ぽっかりと抜けたように明るい空間があった。  輝くばかりに白い花が、頭上遥かから、視野を覆い尽くして降っている。  細かな無数の枝が、いったん天に向かって、吹き上げられ、花の重みに耐えかねたように足元まで垂れ下がっている。  花の中に犬が無遠慮に飛び込んでいった。そして何かに飛びついた。  おぼろげな影だ。  花で明るんだ中に、小柄な人影が見えた。花びらの白さで霞《かすみ》がかかったように、ひどく不鮮明ではあったが、それが背筋をぴんと伸ばした、若い男の姿であることは直感的にわかった。  女が一人、すべるように近づいていく。  わずかに仰向いた喉のあたりの透き通るような白さ、黒く艶やかな娘島田、何か言いかけて震えた唇の鮮やかな朱が、夜目にもはっきり見えた。  梅の香に交じって、女の鬢《びん》付け油の匂いが濃く漂った。  元子は、凍りついたように立ちつくしていた。しだれ梅の花は、降りしきる雪のように、視野の中心にあるものを白い闇に沈めた。元子が瞬きした瞬間、二つの人影は消えていた。後には咲き乱れる白い花が視野一面に広がっているだけだった。  犬も、稲菊もいない。  どこをどう歩いたものだろう。気がつくと、しだれ梅の横を通りぬけ、木蓮の紫やれんぎょうの黄色の花が咲き乱れる本堂の脇を抜け、石畳の上にいた。  山門を見上げて、初めて我に返った。国道に面した門の向こうから、クラクションの音が聞こえてくる。  振り返ると、まっすぐ本堂に向かう石畳と花々の咲き乱れる庭園が見渡せる。しかし稲菊の姿はない。梅の古木は、枯れたような細い枝を無数に垂らしているばかりだ。  行ったらしい。稲菊はとうとう行った。自分が老人ホームに送るよりも早く、彼女は少女の姿になって、愛する男の元に去った。  体中の力が抜けた。どうしたものか、わからなかった。  時計は五時半をさしている。あたりはまだ明るい。  元子はのろのろと山門の石段を下りた。ここはもう稲荷町ではない。極楽寺は町の西の境になっており、一歩山門を出れば隣町だ。  と、そのとき、ぽんと肩を叩かれた。ひょろりと背の高い男が立っていた。新井だ。 「どこへ行ってたんですか。遠藤のおばあさんが大変ですよ」  遠藤のおばあさんと言われ、とっさに意味がわからなかった。稲菊のことだ。 「アパートの階段から落っこって、救急車で医療センターに運ばれたんです」  息を呑んで、新井のほっそりした顔を見つめた。 「死んだの……」 「まさか」と新井は笑った。 「命に別状はないです。捻挫《ねんざ》と脳震盪《のうしんとう》起こして気絶したって。一応検査入院してますけどね。一人暮らしも限界ですよ、早めにホームに入れた方がいいんじゃないですか」 「アパートって、そこにいたの?」 「ええ。一階の住人が音がしたんで、しばらくして出てみたら、うずくまってたそうです」 「嘘……」 「嘘って、何か?」 「いえ、いいの」  元子は目を閉じ、今しがた見た光景を瞼《まぶた》の裏によみがえらせた。何もかもがおぼろげだ。 「それで……遠藤さんは、生きてるのね」 「だから、捻挫と脳震盪だけだって言ってるじゃないですか」  元子は言葉もなくうなずいた。稲菊は六十年前から、少女の姿のまま、男を待ち続けた。太郎だけを友にして。彼女の内で時間は止まっていた。彼女はずっと歳をとれなかったのだ。  そして男は、裏切らなかった。何をしていたのか知らないけれど、ずいぶん長い旅をして戻ってきた……。  元子は、ちょっと微笑んで尋ねた。 「新井さん、なんでこんな所にいるの?」 「訪問に出たきり終業時を過ぎても戻らないから、探しにきたんじゃないですか。何か事故かもしれないし」 「ありがとう」  新井は照れたように笑った。 「これから医療センターへ行って、遠藤さんに会って、それから事務所に戻るわ。所長にはすぐに電話しとくから、心配しないで」  そこまで言ってから、ちょっとためらってつけ加えた。 「よかったら、先、帰って待ってて」 「帰るって?」  元子は、バッグから自分のアパートの鍵を出した。 「了解」と言うと新井は、拍子抜けするくらいあっさりそれを受け取り、バス停に向かって走っていく。  私は順調に歳をとっていけるだろうか?  新井の後ろ姿を見送りながら、元子はつぶやいた。  早春の空気が、冷たさを増していた。 [#改ページ]    花  道  その女が八つになる娘と公園で野宿していた、と福祉事務所に連れてこられたのは、五月の連休明けのことだった。  係長の赤倉政子《あかくらまさこ》が、部下の斉藤を伴って相談室に入ったとき、パイプ椅子に腰掛けた女は、うつむいたまま沈黙していた。その隣には眼鏡をかけた女が座っている。教育委員の武田だ。  赤倉が何か言う前に、武田が事情を事細かに説明し始めた。女が紺野綾という名であること、その娘が今、武田の家にいること、さらに親子が公園で野宿するようになった経緯……。  綾は、夫が生活費を家に入れなかったため、家賃を滞納し、住んでいたマンションを追い出されたのだった。母娘が公園で雨露をしのいで四日目、たまたま通りかかった、中学時代の同級生の武田に発見され、ここに連れてこられた。  去年、福祉大学を卒業したばかりの斉藤伸一は唾《つば》を飲み込みながら、綾のうつむいた顔を見つめ、目を潤《うる》ませている。 「紺野さん」  赤倉は、書類を片手に平静な声で呼び掛けた。しかし綾の反応はない。 「紺野さん、生年月日を教えて下さい」  すかさず武田が答えた。紺野綾は三十二歳、政子のちょうど十歳年下だ。当事者である紺野綾は無言のまま、目を伏せている。 「まず紺野さんから、ちゃんとお話をうかがいましょうね」  ますます冷静な調子で赤倉政子は言い、相談机の下で足を組み直した。 「だから、私が話したじゃありませんか」  武田が分厚いレンズ越しに赤倉を睨《にら》みつける。そのうえ、部下の斉藤までが非難がましい目を向けてくる。二つの視線をさり気なく外し、赤倉は紺野綾の様子をうかがう。精神異常はないようだ。知能も普通らしい。 「紺野さん」  赤倉はいくらか厳しい声で呼び掛ける。 「あなた自身の問題なんだから、しっかり答えてね」  そう前置きして、現在の夫との関係、離婚の意志、所持金などについて、事務的に質問をする。綾は黙って涙をこぼし始めた。白いうなじを見せて震え、首を左右に振りながら、ハンカチを握りしめた。その姿は、とても三十過ぎには見えない。 「無神経だわ」  いきなり武田が立ち上がった。 「役所って、人の気持ちを全然考えてないんですね。いいわ、うちに泊めますから」  そう捨て台詞《ぜりふ》を吐き、いきなり紺野綾の腕をつかみ立たせた。 「ちょっと待って」  と赤倉が言ったときには相談室のドアをたたきつけて、出て行ったところだった。一瞬の出来事だった。 「待ってください」と斉藤があわててその後を追う。  赤倉はちょっと肩をすくめて書類を片づける。まもなく斉藤が戻ってきて、赤倉に食ってかかった。 「係長、少しは思いやりってものがないんですか。いくら暖かくなったって、女の人が、家を追い出されて、公園で寝泊りしてたって言うんですよ。しかも小さい子を連れて」 「いいかげんにしてくれ、ってなもんだわね」  腕組みしたまま、赤倉はぼそりと答えた。  夫が家に金を入れないにしても、家賃を滞納してマンションを追い出されるまで、少なくとも半年はあるはずだ。その間、紺野綾は何をしていたのだろう。そしていよいよ追い出された後も、助けを求めるでもなく、ここに相談に来るわけでもなく、友人に発見されるまで公園に寝泊りしていたとは、どういうつもりなのだろう。  赤倉は憤然とした面持ちでつっ立っている斉藤を残して相談室を出た。いささか太めになった体を横にして、書架の間をすり抜け、ファイルをしまう。それと同時に終業ベルが鳴った。  これから赤倉政子にとって、戦争のような時間が始まる。昼休みに買ってロッカーに入れておいた野菜を取り出し、役所の裏口に置いてある自転車に飛び乗り、電車を乗り継ぎ、駅から自宅まで全力でつっ走る。  家に着くとバッグを放り出し、通勤着の上にエプロンをかけて夕飯の支度をする。ついでに小六の息子のサッカーの朝練のために、弁当を作る。風呂を沸かしながら、たまっている洗濯物を片づける。近所をはばかりながら、掃除機をかけ終えると、もう九時だ。駅前で小さな不動産屋をやっている夫が戻ってくるので、もう一度夕飯を温め直す。息子の連絡帳に目を通す。  十二時を過ぎて体をしまい湯に浮かべながら、とろとろまどろむのが、唯一、のんびりできる時間だ。  愚痴を言う気は、さらさらない。楽して食っていかれる人生なんてありはしないと思う。  湯煙の中で、ほっとため息をつく。だぶついた大きな乳房が、白く湯に浮いている。たっぷり脂肪が乗った体にお湯をかけると玉になって弾ける。子供を産んでから、どこもかしこも丸くなった。去年のスカートがもう入らない。目が回るほど忙しいのに、なぜ痩《や》せないのかつくづく不思議になる。  湯につかりながら目を閉じ、その日面接した人々のことを、頭の中で整理するのが赤倉の日課だ。しかし、整理できないこともある。たとえば今日の最後のケースだ。紺野綾。彼女はちょっと面倒だ、と長年の勘で、そう思う。  役所内にある教育委員会事務局の前で、赤倉が武田と顔を合わせたのは、それから一週間もしないうちだった。武田の夫は市内にある大学の助教授で、その関係で武田は教育委員をしているのだ。  赤倉が近づいていくと、武田はさり気なく視線を外そうとする。 「どうですか、紺野さんは?」  かまわず尋ねると、武田の眼鏡ごしの目がみるみる鋭くなって、眉間《みけん》に皺《しわ》が寄った。 「帰ってもらいました」  その言い方に、女友達との間の感情のもつれがうかがわれた。 「帰るって、まさか公園に?」 「いえ。ご主人に連絡して、引き取りにきてもらいました」  赤倉は驚いて、武田を見る。紺のテーラードスーツの衿についたブローチに、目がいった。巻きの厚い南洋真珠は本物らしい。しかも六つもついている。 「あのご主人の元に帰したんですか?」 「彼女だって、悪い面はありますから」  冷ややかにそう言って立ち去りかけた武田に、赤倉は追いすがる。武田に調停役を買って出た様子はない。追い出した気配だ。 「お宅で何かあったんですか?」  赤倉は尋ねた。  武田はくるりと振り返り、吐き捨てるように言った。 「あなたの知ったことじゃないわ」  武田は赤倉に背を向けると、逃げるように去っていった。他人を家に置けば、様々なトラブルが起きる。トイレの使い方がだらしなかったり食物の好き嫌いが多かったり、いくら友人とはいえ、たび重なればがまんならなくなる。善意だけでやっていかれないから、福祉六法などというものが存《あ》る。  紺野綾が再び、福祉事務所にやってきたのはその三日後だった。今度は女の子と中年の男が一緒だ。  奇妙なくらい大人びた目をした少女は、色白できゃしゃなところが、綾によく似ている。男の方は、子供の担任の教師だった。  教師の話によると、綾の娘が「給食費を払えない」と言うので、わけを尋ねてみたところ、家庭内が大変な状態であることがわかった。このままでは母子ともに生活の危機にさらされるので、保護してほしい、と言う。  今回も綾は黙りこくったまま、理路整然と事情を話す教師の口元をすがりつくような目で見上げているだけだ。  一通りの説明を終えると、教師は授業があるからと腰を上げた。子供は今夜、自宅で預かると言い残すと、教師は母の方を心配気にうかがっている教え子の手を引きながら、面接室を出ていった。  狭い部屋には、赤倉と綾の二人が残された。 「こんにちは」と赤倉はあらためて、挨拶した。綾は「どうも……」と聞こえるか聞こえないかという声で、挨拶を返す。  相談室に彼女が入ってきてから、言葉が発せられるのは、これが初めてだった。 「今度こそ、ちゃんと話してちょうだいね。あなた自身の問題なんだから」と赤倉は言う。綾はうつむいて、何かつぶやくように言った。ふっくらとした唇と長いうなじにはかない風情がある。 「え、ごめんなさい、聞こえないの」と赤倉は問い返す。  女は「すみません」と言って、言い直す。夫について何か言っているのだが、要領を得ない。秩序立てて話すことも、自分の意志を伝えることも苦手らしい。しかし知能が低いわけではなさそうだ。  話によれば夫は大手証券会社の調査部にいるかなりのエリートらしい。以前から多少の女性関係はあったが、ただの浮気で夫婦仲は特に悪くはなかった、と紺野綾は語った。 「ただの浮気?」  赤倉は目をむいた。 「ええ、私にも子供にも優しかったし、ちゃんとお金、入れてくれたし。男の人っていろいろ大変だから……」 「あんたねえ」と思わず説教しかけたが、やめて話を先に進める。  金を家に入れなくなったのは、ここ一年ほどのことだ。 「バブルが弾けた頃ね。仕事で失敗したの?」  綾は首を振った。夫は仕事の話は一切、妻にしないと言う。しかし以前の「浮気」とは違って、今度は本当に女ができたらしく、外泊が重なり何かというと妻を殴るようになった。  夫の暴力というのは、一昔前の話ではない。この商売をしていると、よく耳にする。赤倉が受け持った中には、殴られる恐怖から髪の毛がほとんど抜けた主婦が、保護を求めて福祉事務所に飛び込んできたケースさえある。アッシーだのミツグ君だのとマスコミで報道されるのは、男性優位社会の裏返しに過ぎず、実際のところ容色が衰え、家庭に囲いこまれた後の女の立場は強いものではない。  二カ月ばかり前から、綾の夫は、まったく家に帰ってこなくなったという。 「ご主人の勤め先に連絡したの? だれかに相談した?」  赤倉が尋ねると、綾は首を振った。 「どうしてまた……」 「相談できる人なんて、いないし……」  綾はわずかな貯金を下ろし、知り合いから金を借りて、夫の戻ってくるのをじっと待っていたと言う。 「お金がなくて、毎日、キャベツをお醤油で煮たのばかり食べてました。私はいいけど、子供がかわいそうで」  大粒の涙が、綾の白い頬を伝う。  二週間前、とうとう大家が来て、家財道具と綾たちを外に放り出し、内に入れないように鍵をかけてしまったと言う。  近くの公園で過ごした数日間の話になると、綾の言葉は嗚咽《おえつ》で途絶えた。そうするうちに武田に拾われ、ここに来た後、彼女の家に身を寄せた。 「で、どうして武田さんの家を」  追い出されたの、と危うく言いかけて止め、赤倉は「出たの?」と尋ねた。 「四日目の晩に……」  語尾が聞こえない。 「えっ」と聞き返す。 「前から、私に……武田さんは出かけていたんです……それでご主人が……」 「はぁ?」  綾はうつむいたまま、ようやく聞き取れるような小声で、四日目の晩に武田の夫に迫られ、関係を結んだことを伝えた。 「なんだって?」  綾は震えながら、うなずく。 「強姦されたの?」  市内でも名士で通っている大学助教授の紳士然とした顔を思い浮かべながら、赤倉は、鋭い声で尋ねた。  綾は、ためらうように首を左右に振った。 「うるさい盛りの子供と二人、お世話になって、ご迷惑かけていたから……ご主人には、ずっと申し訳ないという気持ちがあって……」 「あのねぇ……」  それきり言葉は続かず、赤倉は大きなため息を一つついた。  これでは武田に追い出されても文句は言えない。  綾と武田の夫とのただならぬ関係は、翌朝には武田に感付かれてしまった。  その日のうちに、武田は綾の夫の会社に電話をかけ、家賃を滞納してマンションを追い出された綾をあずかっていること、すぐに引き取ってほしいことなどを話した。  夕方には夫がやってきて、綾と娘は夫の車で武田の家を出た。  車中で夫は、恥をかかせたと綾を殴ったのだという。綾は腕をまくり上げ、腕を見せた。透き通るように白い肌の上に、内出血の跡が赤紫色に広がっている。  赤倉は唇を噛んで、綾を見つめる。薄幸な女の見本。綾にその気はないにしても、手厚い保護を勝ち取るには、この痣《あざ》は有効だ。夫の虐待から、体一つで逃れてきた女に、男の相談員は優しい。子供連れともなれば、なおさらだ。金を貸し付け、アパートを探してやり、すばやく保護の決定を行なう。  ちょっと待ってくれ、と赤倉は思う。今までそれで立ち直った女は、ほとんどいない。大抵、前よりもっとつまらない男にひっかかって、転落していく。 「で、ご主人の車でどこへ行ったの?」  赤倉は尋ねた。それまで綾たちの住んでいたマンションには戻れないはずだ。 「うちの人のところ……」と綾は答えた。 「ああ、別のところでアパートか何か借りていたのね」 「というか……」と綾は、ゆっくりと言葉を続けた。  夫は女のマンションに住んでいた。それから数日間、綾とその娘はその女のマンションで暮らしていたという。 「行くところがないし……それにお店、持ってる女性《ひと》だから、あんまりそこには帰ってこないみたいで」  あんたどういう神経してるんだ、という言葉を赤倉は呑み込む。 「お金ないし、子供もいるから」と綾は涙をこぼすばかりだ。  赤倉は、こつこつとテーブルを叩いた。  女はびくりと顔を起こした。意外に敏感そうな目をしている。やつれ果てているが、じっと見つめてくるまなざしには、女である赤倉もどきりとするような不思議な魅力がある。 「正式に別れる?」  できるだけ感情を込めずに赤倉は尋ねる。長い間をおいて、綾は答えた。 「うちの人、何も言ってないから……」 「うちの人じゃないんだよ、あんたなの。あんたの意志はどうだって、聞いてるのよ」  赤倉は言った。女は再び沈黙した。 「別れたいの? 別れたくないの? それによっちゃ、こっちの対処の仕方が変わってくるからね」 「もう、だめでしょうか」  だめかどうかなんて聞いていない、ともう一度、怒鳴りたいのを堪《こら》える。代わりに相談員にあるまじき言葉を赤倉は吐いていた。 「別れた方がいいよ」  低い声で、こう言った瞬間、赤倉は職務範囲を逸脱していた。  このまま、一定額の生活費を補助してもどうにもならない。前回は友人に連れられ、そして今度は子供の担任の教員に連れられて、綾はここに来た。困難に当たっても自分から行動を起こすことができないし、その気もない。だれかが助けてくれるのをぼんやり待っているだけだ。先の見通しがないまま、手を差し伸べたら、綾は一生それに頼って生きていくだろう。  やがて母子世帯の赤い保護カードが、単身老人世帯の黒のカードに変わるだけだ。しかしそれで済めばいい。大抵は、それよりもっとろくでもない事になる。そのうち亭主が現われる。綾のような女ははっきり拒絶することもできず、くっついたり別れたりして、男に保護費を巻き上げられる。そして挙げ句の果てに、警察から連絡が入るのだ。  売春容疑で挙げられるくらいならまだいい。子供ともども線路で轢《れき》死体になっていたりする。とにかくこの仕事について二十年、どうしようもないケースを見すぎてきた。もうたくさんだ。  赤倉の顔色を見てとったらしく、綾は蚊の鳴くような声で言った。 「別れたら、でもどうやって生きていったらいいか……。子供さえいなければ賄《まかな》いでもなんでもできるけど」 「あたしにだって子供くらいいるわよ。大丈夫、なんとかなる。だから、今みたいな言い訳するのは、これからはやめなさい」  綾は、怯《おび》えたように、赤倉の目を見つめた。吸い込まれそうな澄みきった大きな目だ。 「まず、これからその女のマンションに帰って、亭主にちゃんと離婚の話をすることね。裁判をするなら裁判をして財産分与を受けて慰謝料をきちんと取る。それと子供の養育費、こんなものはちゃんと払う男なんかほとんどいないんだから、最初にまとめてぶんどれるだけ、ぶんどるのよ」  綾は強《こわ》ばった表情で首を振った。 「そんな話したら、何されるかわかりません。それにもう顔も見たくないんです。早く忘れたい……」  またもや、赤倉は怒鳴りたくなるのをじっと堪える。 「どうするの、裸で出てくる? 旦那は新しい女と優雅に暮らして、あんたたち親子の面倒は行政が見るの?」  体を縮めたまま、綾はもう顔を上げなかった。 「とにかく、きちんとしないといけないわ」  綾はかすかにうなずいた。 「ただし……」  赤倉は綾の手を掴んだ。細く冷たい手首に、内出血の跡が広がっていた。 「別れるためには、準備がいるわよ。保険証は持ってる?」 「これでいいんですか」  綾は、ビニールのバッグからそれを出した。子供が喘息《ぜんそく》なので、いつも手放さないのだ、と言う。上出来だ。本人欄には夫の名前が印刷してある。裏返すと、診療記録欄に娘の名前がびっしりと書き込まれている。赤倉は胸をつかれて、言葉を失った。あの八歳になる娘の大人びた白い顔が、瞼に浮かぶ。  度胸が座った。  これからやるのは相談員の仕事ではない。それどころか犯罪だ。が、私がやらなきゃだれがやるのだ、と思った。  綾を連れて、赤倉は相談室を出た。手早く事務服を脱ぎ、役所の裏口から繁華街に向かう。  仕事帰りにときどき立ち寄るドーナツショップの前で、赤倉は足を止めた。脇にある薄汚れた階段を指差す。 「あの三階へ行きなさい」 「え」 「その保険証を見せて、百万ばかり借りてくるのよ」  サラ金の看板を認めて、綾は、ひっ、と声を詰まらせた。 「できません、そんなこと、できません」  かぶりを振りながら、後ずさった。 「じゃ、どうするの? 金は、天から降ってこないし、地からも湧いてくるわけじゃない」 「そんなことだけは、できません」 「きれいごと、言ってるんじゃないよ」  赤倉は怒鳴る。通行人がじろじろと見ていく。バレれば、赤倉の方こそ首が飛ぶ。見ず知らずの女のために、なぜここまでやっているの。どうせ税金、母子貸付でも生活扶助でもなんでもやってしまえば簡単なのに、とばかばかしい気分になりかけたとき、綾は決心したようにふらふらと階段を上り始めた。そしてちらりと赤倉の方を振り返った。赤倉はうなずいた。そう、一人で行け、と心の中で呼びかける。  金の問題ではないのだ。この先母子二人でなりふりかまわず生きていくための、通過儀礼だ。  綾はなかなか下りてこなかった。何度か三階の窓を見上げていると、ようやく階段を下りてくる形のいい足が見えた。片手に持った封筒をそっと掲げて、赤倉に見せ、青ざめた顔で微笑《ほほえ》んだ。 「よくやった」  赤倉は、綾の肩を叩いた。これでアパートの敷金、礼金と、当面の生活費が確保できた。次は、職安で仕事を見つける。様々な生活扶助の申請手続きはその後だ。赤倉が立ち去ろうとすると、綾は引き止めた。 「あの、アパートは自分で探すんですか」 「当たり前。駅前に不動産屋が並んでるわ」  赤倉は答える。綾は少し当惑したような顔をしたが、やがて不安そうな足取りで駅に向かって歩いていった。そのときになって、赤倉は少し後悔した。赤倉の夫も、駅前で不動産屋を営んでいる。もしも、綾がそこに行ったら、自分のところに客を紹介したようなかっこうになり、公務員としてはいささか気がとがめる。  それならそれでしかたないか、と腹をくくった。いずれにせよ世間にバレることはない。というのも亭主は鈴木という名字で、看板は鈴木不動産となっている。妻の赤倉政子の方は、仕事上、不都合が多いので職場ではずっと旧姓の「赤倉」で通しているのだ。  翌日、綾は福祉事務所に電話をしてきた。無事にアパートをみつけ、昨夜は娘と二人、その何もない部屋に泊まった、という。布団は、あのサラ金で借りた金で買えたとのことだ。  しかし「みどり荘」というその木造アパートは、赤倉が心配したとおり、鈴木不動産で仲介していた。しかも鈴木が直接管理している所だ。やれやれと思ったが、言わなければ、だれも気づかない。考えないことにした。  翌週、綾は一人で福祉事務所にやってきた。そして相談室に招き入れられて数分後、事務所中がざわめいた。長身の男が、足取りも軽くフロアに入ってきた。アルバイトの女や中年の女性ケースワーカーが、一斉にそちらに目をやり、あんぐりと口をあけて男の通り過ぎるのを視線で追った。  体にぴったりと合ったピンストライプのスーツ、糊の効いたワイシャツ、色白だが精悍《せいかん》に引き締まった顔立ち、何よりもその颯爽《さつそう》とした雰囲気に呑まれたようにだれもが一瞬仕事の手を止めて見入った。  男はカウンターにやってきて、礼儀正しく、はっきりした口調で挨拶をした。  紺野綾の夫だった。年齢は、四十を越えているはずだが、髪にも肌にも顔つきにもどこにも脂ぎったものが感じられない。綾は、硬い表情で相談室の壁に張りついていた。  この日、自分だけでは離婚の話を切り出せないと綾に泣きつかれ、赤倉たちは夫をこの場に呼んだのである。もちろん赤倉も、精悍で快活そのもののその男を惚れ惚れと見つめていた中年女の一人であった。  話は簡単だった。夫はにこやかに離婚に同意した。そして財産分与や慰謝料の話も簡単明瞭だった。  ゼロだ。紺野に不動産はない。貯金もない。りゅう、とした身なりをしていても、金はない。ないものは払えない、という言葉と、柑橘《かんきつ》系コロンの芳香を残して、男は立ち去っていった。 「ずいぶんいい男ね」  綾は微笑んだが、たちまちその目をうっすらと涙が覆った。 「あの頃が一番よかったんです。あの頃……十一年前にパーティーで知り合って、背が高くて、仕事ができて、スキーがうまくて」  赤倉は、ふと、額の禿《は》げ上がった自分の亭主の赤ら顔を思い浮かべた。結婚した十五年前からさほど変わっていない。仕事をしながら、不動産鑑定士の勉強をしている真面目さだけが取り柄の青年と、鉢巻をしめて、上司と怒鳴り合っていた労組の婦人部長とは似合いのカップルではあった。甘い夢も、恋の勝利感もなかった。しかしそれが賢い選択だったなどというのは、この際、傲慢《ごうまん》というものだろう……。 「夢だったんです、みんなに祝福されて会社を辞めるのが。その日のために買ったおしゃれな私服で、会社の中を挨拶まわりするんです。同期の人たちが、憧れと羨《うらや》ましさがいっぱいにつまった顔で見て、男の人たちは淋しそうで、会社をひとまわりして、席に戻ると、もう花束が抱え切れないくらいになるんです……結婚以外で退社した先輩は、青い制服のまま、こそこそ挨拶して、給湯室で後輩たちと泣いてたりして、なんだかとっても惨めでした。それで、最後の日は、フィアンセが車で迎えにくることになってるんです。カレは友達からフェラーリを借りて来てくれたんです。お花をいっぱい積んで、助手席から手を振ったとたん、幸せでぼうっとなって、気がついたら涙でみんなの顔が見えなかったこと、今でも覚えてるんです。あの頃は輝いてた……二十二歳の頃」  大きな瞳で遠くを見つめたまま、綾はため息をつく。  女の花道は結婚ってことか、と赤倉はつぶやいた。なるほど見事な幕引きだ。若いエネルギーは、この一点に向かい収束する。最後の盛り上がりの余韻を残し、女の舞台は華々しく終わる。だが、フェラーリに乗った王子様が迎えにくれば、メルヘンは終わりになるが、人生はその後も続いていく。悲劇は、そこから始まる。  まもなく綾の離婚は無事成立したが、やはり夫に金を支払わせることはできなかった。  あの日、福祉事務所にやってきた男の言葉は本当だった。色男に金と力がないのは事実で、彼は一文無しだった。自ら株を動かして大損し資産はすべて吐き出していた。その上、顧客から訴訟を起こされ、まもなく転勤させられる、という。  男には気の毒だが、やはりあのときサラ金から借金させておいてよかった、と赤倉は思った。今頃、請求書を見てたまげているだろうが、病弱な娘の養育費さえ払わない以上、この程度の責任は取ってもらって当然だ。役所が決して行なわない給料の差し押え、などという技をサラ金は易々とやってくれる。  しかし離婚から一カ月|経《た》った今、赤倉の心には、綾の夫がもらした一言が、妙にひっかかっている。 「妻はね、私に最初から愛情なんか持ってなかったんですよ。見栄と打算で結婚したんです。でもね、今の女は違うんですよ。自分で商売してて苦労を知ってるから、本当にわかり合えるんですよね」 「勝手なこと言ってるんじゃない」とそのとき、赤倉は思わず言った。それは夫婦仲のうまくいかなくなった夫が、相手をけなすときの決まり文句であったからだ。しかしなぜか今になってみると真をついているような気がしてくる。  この日、赤倉は斉藤を伴って、綾と面接した。  前回一応、保護の申請は受理したのだが、離婚したことによりいくつかの手続きが必要になったからだ。  綾のようなケースだと、医療費等の全額補助、子供の給食費の免除、家賃の最高四万七千円までの補助、さらに当面の生活に困窮した場合には母子貸付金制度による融資も受けられる。  これで母親が働けば、生活は十分に成り立っていくはずだが、現実的には、子供連れで三十過ぎの母親が携われるような仕事の給与水準は低く、十分な収入を得るのは、なかなかむずかしい。それを補うために生活費の補助も行なわれる。  しかし赤倉は綾の給与明細を見て、仰天した。月収三万弱だ。中途採用やパートタイマーの女性の給与が低いのは承知しているが、いくらなんでもこれは少なすぎる。 「何の仕事してるの?」  市内の手芸洋品店で編み物を教えていると綾は答えた。 「どのくらい働いてるの?」 「どのくらいって……」 「だから、週、何日、何時から何時まで働いてるのかってこと」  いらつきながら、赤倉は尋ねる。 「あの生徒さんが集まったときなので……毎日のこともあるけど、一週間くらい行かないこともあるし……」 「平均してみると、週に何日?」 「三日くらいかしら……」 「一回、何時間?」 「その日によるけど、だいたい午前の十一時から、お昼休みがあって……三時くらいまで」 「実働三時間、週に三日、時給は四百五十円。あんた、本当に一人で生きていく気、あるの?」  赤倉は思わず激しい口調になる。綾はびっくりしたように顔を上げた。 「資格も何もない女の身で、そんなにお金くれるところなんてないですもの……」 「週に、九時間しか働いてないって、どういうことなのよ」 「体があんまり、丈夫な方ではないので」  赤倉は頭に血が上った。 「体? だれだって持病の一つ二つ抱えてるわよ。それだって一日八時間、ちゃんと働いてるでしょ。とにかく月十五万は稼げるはずよ」 「ちょっと赤倉さん、この人、ちゃんと婦人病の診断書もあるし、それに子供も抱えてるんだから」と、斉藤が小声でたしなめる。 「あんたは、出ていってレセプトの計算でもやってなさい」とドアを指差す。むっとした顔で斉藤は席を立つ。 「お教室は、この時間以外ないものですから」 「編み物教室以外に、もっと給料のいい仕事はあるでしょ」  綾はびくっと体を震わせると、いつになくきつい眼差しで、赤倉を見つめた。 「私、水商売はいやなんです」 「だれがそんなことしろ、と言ったの。市内の電子部品工場では、フルタイムの女子従業員を募集してるわよ」 「女工さんですか……」 「ハローワークは行った?」 「ハローワ……」 「職安よ、職安。そういえばひよどり山カントリークラブで、キャディを募集してた。個室の寮完備だから、子供連れで入るにはちょうどいいわ。他の母子も、あそこでけっこうがんばってるのよ」 「重いものを担いで、たくさん歩くのは、私、体が弱いから無理だと思うんです」  赤倉は両手で、テーブルを叩いた。 「きれいで、楽して、金もらえる仕事なんて、どこにあるの」  綾は顔を歪《ゆが》めてうつむいた。 「しょせん、夫に捨てられるような女にできることなんて、ないんですよね。いいです。もう来ないです。ホステスに身を落として生きていくと思います」  赤倉はうなずいた。 「どうぞ。言っておくけどね、身を落としてできる仕事なんて何一つないってことを、覚えておきなさい。ホステスだって、やる気と根性のないやつは、一生ヘルプで、酔っ払いのゲロ掃除で終わるのよ」  綾は、泣きだしそうな顔で赤倉を見上げた。赤倉はちょっとうなずく。おどしはここまでだ。 「とにかく真面目に働く気になってよ。あんたはもう世帯主なのよ。うちの職員食堂でも、賄いさんを募集してるわ」  綾は、困惑したように眉を寄せた。その顔は、「食堂のおばさんなんかできません」と語っていた。 「食堂は十二階だから見にいってごらん。オヤジさんは実直な良い人よ。お給料だって、官庁食堂だから、そんなにばか安くはないし。真面目に働けば娘さんと二人で、人並み以上の暮らしはできるわよ」  綾は、長い間黙っていたが、やがて肩を落として相談室を出ていった。  やはりだめか、と赤倉は思った。働きたくないものを働かせることはできない。かと言って、子供を抱えた女性に対して、保護を切るという非情な処置が取られることは、まずない。考えようによっては、女性差別の土壌に立った男性差別の好例である。手厚い保護を受けながら、仕事を探すことも額に汗して働くことも知らぬ母親の元で、また母親同様に生活力のない子供が育っていく。  あの女の子だけは、そんなふうにならないで欲しいと、赤倉は痛切に思う。  自分の仕事への虚《むな》しさを感じながら、赤倉は地区ケースワーカーに面接の結果を報告する。綾の件は、保護が決定した時点で相談員の赤倉の手を離れて、地区ケースワーカーの手に移った。  しかし予想に反して翌日、綾から赤倉に、弾んだ声で電話がかかってきた。  職員食堂に昨日行ったところ、カウンターに「ウエイトレス募集」のはり紙があり、中にいたコックに尋ねると、それが食堂経営者で、その場で採用が決まってしまったと言う。 「社長は、赤倉さんの言うとおり、すごく優しくて、いい人でした。ぜひって言われて、今日からです」 「まあ、そう。よかった、よかった」  赤倉も、我知らず弾んだ声を出していた。  市内全域が見渡せる庁舎最上階にある食堂は、経営が民間委託されている。「職員食堂」と銘打ってはあるが、一般利用客の方が多く、官庁食堂とは思えない洗練された雰囲気のところだ。綾も一目見て気に入ったのかもしれない。  そしてそれ以上に、中学を卒業してから、定時制に通いながら調理師の免許を取り店を持つに至った苦労人の社長の方が、綾を一目見て気に入ったのだろう。働きづめの生活だったせいか、それとも二十代の後半に、すっかり抜けてしまった髪の毛のせいか、今年で四十になる社長は独身だった。  前回は、綾の夫の保険証を使って、サラ金で借金をさせるというヤクザまがいのことをしたが、今度は職安の代わりだ。どうも公務員の仕事の限界を知った数年前から、自分の行動ははみ出してばかりだ、と赤倉は少しばかり反省した。  さっそく食堂に行って、綾に励ましの言葉の一つもかけてやりたかったが、出すぎたことをするのもはばかられ、綾のことは担当地区のワーカーに任せて、そっと見守ることにした。  赤倉が職員食堂に顔を出したのは、それから二週間ほどした昼休みのことだ。同僚と昼の定食を食べていると、脇目もふらずトレイを運んでいる綾の姿があった。  綾は、決して怠け者ではなかった。夫に囲い込まれる生活と世間の常識の中で、自信を失っていただけのことだったのだ。  屈んで皿を取る後ろ姿の細い腰の上に、ピンク色のエプロンのリボンが揺れている様は、少女のように可憐だ。  そのとき綾はちらりとこちらを見た。かけ寄って来て頭を下げる。 「元気そうじゃない。安心したよ」 「ええ。社長さんが、とっても大事にしてくれるんです」  綾は上気した顔で息を弾ませる。 「がんばってね、しっかりね」  赤倉は、綾の手を握った。細い手首には、もう痣はなかった。  その日の夜、赤倉は久しぶりに食事の支度から解放された。亭主が、たまにはレストランで食事をしよう、と言い出したのだ。最近ベンツを買ったので、その埋め合わせに家庭サービスを思いついたらしい。もっともベンツとは言っても不況で持ちきれなくなった同業者から、わずか八十万円で譲られた代物《しろもの》だ。ガソリンばかり食う年代物だが、スタイルは上々で、運転席から下りてくると、だれでもいっぱしの社長に見える。  鈴木不動産の商売は、社宅の管理がほとんどだ。少し前まで、儲けの少ないつまらない仕事と見られていたが、このところまわりの不動産屋がバブル崩壊のあおりでつぎつぎに潰れていく中で、鈴木不動産だけは順調に業績を伸ばしている。まわりが沈んだ分だけ、羽振りの良さが目立ってくる。  最近、とかく親と行動を別にしたがる思春期の息子をむりやりそのベンツに乗せ、ファミリーレストランへと向かった。  途中、車はみどり荘の前を通過した。赤倉は、そこに住んでいる綾のことを思い出した。 「そういえばね……」  赤倉は、その話を始めた。相談員には、職務上知りえたことがらに関しての守秘義務があるが、家族にだけはつい口がすべってしまう。しかも今度のように良い方向に事態が向いていれば、よけいにだれかに話したくなる。紺野綾、今は旧姓に戻り、内田綾の名前が出たとたん、夫は急ブレーキを踏んだ。赤倉はがくりと前のめりになって座席から落ちそうになった。 「何やってるのよ」 「いや、猫をひきそうになって」と夫は答える。 「そんなのいなかったよ」と助手席の息子が、口を挟む。  父子は、確かにいたの、いないの、としばらく言い争っていた。 「そういえば、パパも彼女に会ってるかもしれないわね」と赤倉は、ぽつりと言う。 「ば、ばか、なんで俺が……」  ひどく慌てた調子で、亭主は言った。 「だって、アパート探しに鈴木不動産に行ったんだから、知ってるでしょうよ」 「いや、社員が応対してたから、俺は知らん。顔を知ってる程度だ」  しかし綾はそういつまでも、みどり荘にはいなかった。  職員食堂に正式に就職して一カ月もすると、この木造アパートを出て、市の中心部にある高級マンションに移った。  さらに学校から帰ってくる子供を一人にするのはかわいそうだという理由から、食堂の仕事も正社員から、昼時三時間だけのパートタイムに替わった。  不審に思ったケースワーカーが訪問してみると、綾は、ある人から生活費の援助を受けている、と正直に語ったという。  保護はあっさり打ち切られた。 「なんてことするの」  赤倉は、地区ケースワーカーに食ってかかった。 「いったいどこの男に囲われたの」  せっかく真面目に働く気になったと思ったら、また男だ。正式な結婚ではなさそうだし、子連れの女など飽きられたら捨てられるに決まっている。魅力的ではあるが綾はもう決して若くはない。そのときは、また一からやりなおしだ。 「どうしてちゃんと指導してくれないのよ。それじゃ、なんのためのケースワーカーかわかんないじゃないさ」  ヤクザに、覚醒剤中毒、不法滞在の外国人等々が集まった、「ハーレム」と呼ばれる市の東側地区を受け持っているベテランワーカーは、赤倉の剣幕に肩をすくめた。 「ケースの男関係まで見張れるかよ。行政の横暴だの、被保護者の人権だの、と新聞に書きたてられらあ。逆恨み買って、変な投書でもされたらかなわねえ」  それから赤倉に背を向け、付け加えた。 「それに、どうせ再婚するんだから、めでたしめでたしだろ」 「再婚? ちょっと本当」  赤倉は、ワーカーの肩に手をかけて、こちらを振り向かせる。 「ああ。近いうちに再婚するんだと。相手の名は言わなかった。聞けるわけないだろ。こっちはそんな立場じゃないんだから」  もしや、と赤倉には思い当たった顔がある。  職員食堂の経営者だ。「社長さんが大事にしてくれて」と、綾はうれしそうに言っていた。  社長というより、食堂のオヤジというのがふさわしい、その気さくな男から「だれか、いい人、いないですかね」と赤倉は何度か言われたことがある。  ずいぶん見合いもしたらしいが、頭を光らせて現われると大抵の女は逃げ腰になり、かつらを付けても、親しくなって「実は」と取ったとたん、だまされたとばかりに非難がましい目で見て、二度と会ってくれない、と、愚痴をこぼしていた。  一度結婚に失敗した綾が、今度こそ、本当の男の値打ちをわかったということは十分考えられる。しかも綾が引っ越したマンションの場所が、社長の自宅と目と鼻の先だ。  何より結婚が決まった綾が、食堂の仕事を辞めずに、昼の三時間だけでも手伝っているというのが、その証拠だ。  いい男と幸せな生活を送ってくれるなら、何も文句はない。  それがすこぶる能天気な思い込みだと知らされたのは、それからしばらくしてからだ。  公務の対象として、常に赤倉の生活の外にあったはずの家庭の危機が、ある日突然、彼女自身のものとなった。  そして綾が結婚する予定の相手を独身だと思い込んだのも、赤倉の単純にして時代遅れの倫理観によるものだった。  綾が結婚すると聞いてから、ちょうど一カ月後、旧盆も間近になり、赤倉の実家のある群馬に一家で帰省する準備に追われていたときのことだった。  この二週間ばかり、ずっと浮かない顔をしていて、口数の少なくなった亭主が、その晩、八畳の居間の真ん中に座り、両手をついて這《は》いつくばった。 「家も土地も証券も、みんなおまえの名義にする。だから別れてくれ」  亭主は言った。 「なに言ってんの、やぶからぼうに」  にわかには意味が飲み込めず、赤倉は言った。 「だから、俺と別れてくれ。このとおりだ」と再び、亭主は畳に頭をすりつける。 「俺が悪いんだ。全部、俺のせいだ」 「つまり、離婚したいって?」  赤倉は、ぼんやりとその薄くなった後頭部をながめていた。 「もしかして、女……」 「すまん」 「ちゃんと説明してよ、どういうことなんだか」  この期《ご》に及んで、仕事のときと変わらない自分の口調が悲しい。  亭主は、相手が自分の店に来た女であることを告白した。  突然あることに思い当たり、赤倉は声を上げた。 「もしかして、紺野、いえ内田綾」 「すまん」  たまたま賃貸契約書に不備があり、みどり荘に行ったとき、綾に電球が点《つ》かないので、見てほしいと、頼まれた。困っているから、と上がり込んだのが間違いの元だった、と亭主は首を振った。  引っ越してまもなくのことで、男手がなくてはテレビの配線一つもままならず、自分は何かと頼りにされ、綾からはそのたびに丁寧にもてなされたという。  そこまで聞けば、十分だった。事の展開は想像がつく。 「ずいぶん悩んだ結果だ。すまん。体一つで俺を追い出してくれ。おまえは一人でも生きていける女だが、あれは俺がついててやらんとだめなんだ」  亭主はさらに畳に額をこすりつけた。 「阿呆《あほ》」  赤倉はそれだけ言って、その場を立った。窓を開けると、生温《なまぬる》い風と藪蚊《やぶか》が入ってきた。四十坪の庭は、この辺りではぜいたくだが、忙しくて手入れが行き届かない。雑草が生い茂り、植えっぱなしの朝顔が物干しに這い上っている。  三年前に建て替えた五LDKの家も三人家族にはぜいたくだが、小学生の息子と二人ではさらにぜいたくだ。その空虚な広さを赤倉は想像できない。  先程の亭主の言葉も、何か夢の中のことのようだ。悔しさや怒りさえもない。相談窓口を訪れる多くの人々の心境を初めて知った気がする。  しかしこともあろうに、うちの亭主に手を出さなくたって、と思わないことはないが、考えてみれば、ベンツに乗った不動産屋と役所にいる相談員が夫婦とは、だれも思いはしないだろう。せめて名字だけでも一緒ならもしや、と考えることもできようが、それも別々なのだからしかたない。  何も起こらない結婚生活の方がおかしい、と考えられるのは職業柄だ。が、十数年続いた夫婦としての生活がこれで終わるという実感はない。家庭の危機がいざ我が身に降り掛かってきたとき、自分で自分に答えが出せない。  どうしたらいいかわからない分、かえって落ち着いている。亭主がいなくても食うには困らない。むしろ食事と洗濯の手間が半分に減るだけだ。  姓は、戸籍上「鈴木」だが、日常的には旧姓を名乗っているから関係ない。もうひとつの性は、もう何年も何もないから、ますます関係ない。つまり亭主ってなんだったのだろう?  翌朝、家族は赤倉のつくった卵焼きと野菜いためとトーストで食事をしていた。十年変わらぬメニューで十年変わらぬ朝食風景だ。  息子は何も知らない。感じやすい年ごろだから、何か感付いているのかもしれないが、何も尋ねない。  亭主は気まずい顔で、新聞に目を落としている。これまた十年変わらぬ夫婦喧嘩の翌朝の風景だ。  しかしそのとき、亭主の顔色が、突然真っ白になった。ぼろり、とトーストが床に落ちた。それを拾い上げ、口に運ぶのを赤倉が取り上げる。 「汚いね。新しいの焼いてやるわよ」 「いいよ、これで」と夫は気弱に首を振る。  新聞の見出しが目に入った。「三海電気倒産」とある。「三海電気」は鈴木不動産が社宅の管理を一手に引き受けている会社だ。少し前に管理料の払込みが遅れる、と通知があったばかりだった。まさかこういう事態になろうとは想像もしていなかった。そのうえ鈴木不動産は、銀行の融資を受けて三海電気と共同でビルを建てているところだ。創業以来の大きな仕事だった。  しかしその相手が、倒産した。  赤倉は、昨夜のやりとりを思い出した。 「家も土地も、証券も、おまえの物」  ということは、夫に残されるのは、屋台骨の崩れかけた店だけだ。家庭の機能を会社組織にたとえる理論が最近流行しているが、それにそって考えると、自分は絶妙のタイミングで赤字部門を切り離したことになる。 「どうすんの?」  新聞をのぞきこみ、赤倉は尋ねる。 「いや、あ、ちょっと店の方、行ってくる」と亭主は慌ただしく食卓を立ち、ベンツの重い排気音を響かせて出ていった。  その夜、亭主は遅くなって帰宅した。台所でレンジの油おとしをしていた赤倉の姿を見ると、こそこそと二階に上がった。  赤倉が手を洗ってから上がっていくと、亭主は闇の中で座っていた。 「何よ、猫みたいに」と、明かりをつける。 「追い出して……いいよ」  亭主は力無く言った。 「男が一度、口にしたことだから」とつけ加える。  今朝の一件が、結局にっちもさっちもいかなくなったのだ、と考えるより先に、ピンときたことがあった。 「金の切れ目が縁の切れ目だったんだろ」  赤倉は言った。 「違う」  亭主は、怒ったように首を振った。 「今日の昼すぎに電話をしてきて、一晩考えたが、やっぱり奥さんに悪くて、私にはそんなことできない、って……泣かれた」 「気ぃ、使ってくれなくてもいいんだけどね」 「いずれにしても、出ていく。借金背負った厄介者親父が、ここにいたら迷惑なだけだ」 「よしてよ」  赤倉は言った。 「あんたがどこでのたれ死のうが勝手だけど、人間、あっさりいなくなるわけじゃないからね。自分の亭主が相談室にのこのこやってきた日には、みっともなくて役所にいられないわ」 「しかし……」 「しかしも何もないんだよ。ばかばかしい」  吐き捨てるように言って、赤倉は一階に下りた。  翌朝、肩をすぼめて亭主はいつもどおりトーストをかじっていた。その翌朝も、テーブルの前に同じ席を占めていた。一週間経っても、そこにいた。いつか赤倉の前に這いつくばった事をすっかり忘れたように、そこに居続けている。  すでにベンツは無い。自宅は手放さずに済みそうだが、鈴木不動産は市内一の赤字企業に転落した。  金蔓《かねづる》を失った綾が、相談室に現われる日も近いだろう。マンションの部屋代が払えなくなって追い出され、またどこかでだれかに拾われればいいが、そうでないときには……。  今度はせめて、自分の足で、泣き付きにきてほしい、と赤倉は思う。  そして綾は来た。ちょうどそれから一カ月後、残暑は厳しいが、青さを増した空に秋の気配が漂い始めた頃だった。 「赤倉さん」  初めてここに来たときの様子からは想像もつかないような明るい声で、綾はカウンターごしに声をかけてきた。 「はい、はい」  冷房で足が冷えるので椅子に正座して医療券を整理していた赤倉は、ごそごそとサンダルをはき、カウンターに出ていく。  人なつこい笑みを浮かべた綾は、前に見たときより少し太って顔色もよくなっていた。  息を弾ませながら、「結婚することになりました」と、いきなり赤倉の手を握り締めてきた。  太い腕で殴られたようで、しばらく赤倉は口もきけなかった。 「赤倉さんのおかげです」と瞳の底から感謝を込めて見つめ、綾は結婚式の招待状を手渡した。  相手の名前に見覚えがある。職員食堂の経営者だ。 「なんだって……」 「赤倉さんが言ったとおりです。本当の男の人の価値が、いろいろなことがあってやっとわかったみたいな気がするんです」 「良かったね」と放心したように言い、赤倉は「あんたの捨てたあの鈴木って所帯持ちはね、あたしの亭主だったんだよ」という言葉が、喉元までこみあげて来るのを呑み込む。たしかに亭主に男の価値などないかもしれない……。  それから残った正気を掻き集め「娘さんは、どんな様子?」と相談員にふさわしい質問をした。 「ええ、なついてくれて。社長、とっても可愛がって下さるから」と綾は、微笑んだ。  足取りも軽く立ち去っていく綾の後ろ姿を見ながら、赤倉ははたして綾が鈴木不動産が傾きかけたことを知っていたのか、あるいは知らなかったのだろうか、と考えた。  亭主が綾に商売の話をするとは思えない。たとえしたとしても綾がそうした話に興味を示すとは思えない。  それからしばらくして職員食堂の経営者が交替するというニュースが庁内に流れた。前の社長、すなわち綾のフィアンセは、市内の一等地を手に入れ、大型大衆レストランを出すことになったのだ。あえて高級店にしないのは、企業の交際費が削られているこの時世に、客が入るとは思えないという理由からだ。彼の経営者としての見通しの確かさがうかがわれる。  はじめはエリート証券マン。それがバブルとともに弾けて落ちた後は、堅実な商売を営む不動産屋、それさえ不況風で吹っ飛んだ後は、どんなときにも強い食べ物屋。  どちらが仕掛けたものか、などと問うのは野暮の骨頂というものだろう。すべて綾の計画の内かもしれないが、そうではないかもしれない。仮にそうだとしても、綾が自分のもくろみを意識しているようには見えない。  いずれにしても綾は常に泣く側に回り、かつ賢い選択をしている。少なくとも、綾を更正させなければ、などと余計なことを考えた赤倉よりもはるかに。  優れた雄を選ぶのは、子育てをしなければならない雌の本能だという俗説を認める気は毛頭ない。しかし赤倉は、綾の邪気のない大きな澄みきった瞳を思い浮かべるにつけ、ある種の感慨を覚えるのだ。  赤倉は自宅の八畳に座って、電気スタンドを手元に寄せた。  眠い目をこすりながら、ベルベットのフォーマルスーツのダーツをほどいて縫い直す。  また太ってしまったのだ。  時計は夜中の十二時を回った。一日の仕事でくたくただが、今夜中にこれを仕上げ、髪を巻いてからでなければ、寝られない。  明日は綾の結婚式に出席しなければならない。 [#改ページ]    七 人 の 敵  大船朋子《おおふなともこ》は片手でこめかみを揉《も》みながら自席についた。小柄な大船が管理職用机の前に座ると、山積みの未決裁の書類に埋もれて姿が見えない、と若いケースワーカーたちは笑う。たしかに福祉事務所長の机も椅子も、自分にとっては大きすぎるような気がして大船は少し滅入《めい》った。 「大船所長、女の敵は女だということが、今、あなたと話してよくわかりました」  たった今、自分より十五も年下の相談員、山口みゆきに言われた言葉が、苦い後味を残して胸元に引っかかっている。  舌打ちしながら、昨日届いた手紙に目を通す。白い便箋に達筆な字で綴《つづ》られた内容は、次のようなものだった。  市内のバー「寿美」のママの元に、ケースワーカーが訪問と称して深夜に行った。そしてそこのママ、前田寿美子に不埒《ふらち》な行為をした。  大船朋子は寿美子の担当である安倍洋一の方を一瞥《いちべつ》した。あまりのばかばかしさに、手紙をそのままくず籠《かご》に突っ込んでやりたくなった。安倍は、二年前に地方の国立大学の大学院を出て、ここに入ってきた。青白い顔と前屈みのひょろ長い体が、いかにも偏差値秀才という印象を与える若者だ。事実、頭でっかちで融通はきかないが、仕事ぶりは真面目で人柄は誠実だ。ロマンティストでさえある。  そしてここにある「寿美」の女主人、前田寿美子は四十も半ばを過ぎている。何度か大船も面接をしたが、こんなママのいる店に行く男がよくいるものだ、というのが正直な印象だった。かさついた青白いこめかみには薄青く血管が透け、束ねた髪は真っ茶色に傷んで針金のように広がり、笑うと前歯が抜けているのが見える。内臓障害で思うように働けない、というのが保護を申請した理由だったが、病気のせいなのか眉の抜けた逆三角形の顔は蝋《ろう》細工のように生気がなく、体のあちらこちらに緩慢な死の影が張りついて、何とも凄絶な感じがした。そんな寿美子に、いい若者が手を出す理由などどこにもない。こんな手紙は事実無根であってわざわざ安倍に確認し、不愉快な思いをさせるほどのこともない、と大船は判断した。  自分を見つめている庶務係長の視線に気づき、思わず険しい顔になる。何か起きる度に、この定年間際の男に「さて、あんたに所長が務まるかな」という好奇と意地悪さを含んだ視線で見られるのにも、慣れてきた。  この春、大船朋子は福祉事務所長に任命された。お茶くみとコピー取りの仕事に飽き足らず、人事課に何度となく足を運び、ようやくケースワーカーの仕事を与えられてから、二十五年が経《た》っていた。同期の男と比べても、決して早い昇進ではない。  雑用はすべて女性の仕事とされていた時代、始業の一時間も前に出勤し机を拭き、お茶をいれ、郵便物の整理をし、それから本来の業務を始める毎日だった。  生活保護を不正受給しているヤクザに、訪問先で危うく暴行されかけ、こうもり傘一つで身を守ったこともある。首つり自殺した母子の死体のそばで一晩過ごしたこともある。そして激務の合間に結婚し、子供を生み育てた。  当時の庁内報の職員紹介には、大船朋子のことを「本市、初の女性ケースワーカー。家に帰れば、妻、嫁、母の三役をこなす」とあった。家庭人としても完璧でなければ、仕事を持った女は市民権を得られない時代に大船は気力体力の限界まで働き、今、都下市町村ではたった一人の女性福祉事務所長のポストを得た。  ところがそのとたん、同輩の男からは疎《うと》まれ、女からは煙たがられることになってしまった。生理休暇を取ってスキーに行った新卒の女を怒鳴ったのがきっかけだったのか、あるいは「私たちはもっと大変な時代にちゃんと仕事をしてきた」などと女性ワーカーに説教したのが悪かったのか、大船にはわからない。  先ほどの山口みゆきとの口論も、新人の女子職員に会議のお茶出しを命じたところ拒否され、説教しようとしたところに、中堅職員のみゆきが入ってきて始まった。男たちは周りで、にやにやと笑っているばかりだった。大きく変わってきている女の意識と、少しも変わらぬ男たちの行動の狭間《はざま》で、大船の立場は微妙だ。  昨日自分のところに来たのと同じ手紙が、庶務係長宛てに舞い込んだのを知ったのは、この日の朝になってからだ。ケースワーカーたちはこれを読んでいた。しかしそれは職員に朝から猥談《わいだん》の種を提供しはしたものの、その内容を真に受けるものはだれもいなかった。寿美子自らが、若い安倍の気を引くために書いたのかもしれない、と言う者もいたが、安倍個人というよりは、役所を中傷するために書いてきたものだろうというのが、大方の見方だった。 「おめえ、そんなに不自由してるのか」と、保護係長は安倍の華奢《きやしや》な肩を叩いて、大笑いした。 「訪問行って、お土産もらってくるなよな、おい」と年配のケースワーカーが脇腹を突いた。からかっているだけでだれも本気ではない。しかしこのときの安倍の反応が、なんとも大げさなものだった。もともと色白の顔からさっと血の気が引き、額に汗の粒を浮かべたと思ったら、ポケットからハンカチを出して口元を覆い、トイレに駆け込んでしまった。 「たしかにさ、前田寿美子じゃ噂立てられただけでもゲロ吐きそうだよね」と安倍と同期のケースワーカーが、肩をすくめた。  大船は席を立つと、つかつかと彼らに近付き、ワーカーの一人が持っていた手紙を引ったくり、「悪い冗談ね」と吐き捨てるように言った。  しかし、ことはそれだけでは収まらなかった。午後になって、今度は所長の大船と保護係長宛てに前に来たのと同じ文面の手紙とビデオテープが送られてきたのだ。あまりのしつこさに呆れて、大船はそっと安倍を呼んだ。 「前田寿美子のとこで、何かトラブったの?」  硬い表情で、安倍はかぶりを振った。唇を噛《か》み締めて机の上のビデオテープを睨みつけている。もしや、という思いを大船は打ち消す。最近の若い男は、好きでもない女と何かある、などと勘繰られるとヒステリックに反応する。本命の女に逃げられると困るというだけではなく、少なからず自尊心を傷つけられるらしい。ましてや安倍の場合、相手は四十六歳でしかも担当ケースである。穏やかな気分でいられるわけがない。  大船は前田寿美子のファイルを持ってこさせ、老眼鏡をかけるとケース記録に素早く目を通した。  寿美子は市の外れにある私鉄駅裏の飲み屋街の一角に、外装のモルタルも剥《は》がれかけたような店を構えている。二十年ほど前に、そこにあったバーがつぶれた後、居抜きで買いとり、店の二階で寝起きしながら一人で商売していた。  体を壊し、貯金も保険もないため、福祉事務所にやってきたのは一年前だ。  現在、生活費の一部を補助されながら、ほそぼそと商売を続けている。  病院から上がってくる診断書は「慢性|膵臓《すいぞう》炎」で、入院の必要はないが、通院し経過観察のこと、とある。  ケース記録には、「○月×日○時頃 訪問するが不在」という文章が続く。 「いつも留守なんです」と安倍は重い口調で言った後、つけ加えた。「昼の間は」と。 「飲み屋が昼間に店を開けてるはずはないんですが、二階の住まいの方にもいないようでした」  大船は、顔を上げた。 「じゃ、夜に行ったというのは」 「事実です」  舌打ちして大船は言った。 「保護費の支給日に呼べば済むことでしょうに」 「いえ、電話連絡もつきません。はがきを書いてもシカトされました。それで急ぎの用件があってやむなく」 「急ぎ?」 「ええ」  事情は察しがついた。 「不正受給ね。どこかで大きな収入を得ながら、保護費を受け取っていた。そういう通報を受けて、店の開店時間に調べに行ったってところなんでしょ」  大船は早口で言った。  ケースワーカー時代にこんな経験があった。  クラブ勤めで月に四十万以上の収入を得ながら、生活保護を受けていた極道の妻がいたのだ。当時の所長は報復を恐れて、ことの真偽を確かめようとはしなかった。結局担当の大船が年末に単身、女の部屋に乗り込み、家捜しをしたところ源泉徴収票が出てきた。シラを切る女の前で店に電話をかけた。そこでもシラを切られた大船は、店に対し「それではおたくを法人税法違反で訴える」と脅しをかけた。女は収入のあることを認め、保護は打ち切られた。ヤクザの保護を切ったのは、この年このケース一件だったが、別の訪問先で組員から危うく強姦されかけたのはその直後だった。  今回の投書もケースワーカーに不正受給を指摘されたため、相手が反撃に出たという可能性が高い。安倍はうなだれたように口を閉ざし、大船の言ったことを肯定も否定もしなかった。 「しょうがないわね、若い娘じゃあるまいし」  送りつけられたビデオを片手に、大船は安倍を連れて最上階にある市政資料室に向かった。ビデオ編集室に入り、中から鍵をかけるとビデオをデッキに押し込む。  いきなりモニター画面いっぱいに、揺れる男の裸の尻が映った。  大船はあんぐりと口を開けて、その映像に見入る。照明はひどく暗い。肉の塊が表面を白く光らせ運動している。吐き気のしそうな画面だ。  突然、安倍は呻《うめ》き声を上げ両手で顔を覆った。 「えっ」と大船は、驚いて安倍を見た。 「まさか……このお尻、安倍さんなの?」  荒い息を吐いて、安倍は顔を上げた。絶望の表情を浮かべた瞳は涙で濡れていた。  生々しいあえぎが聞こえる。ビデオの背景は「寿美」の店内らしい。デコラ張りのテーブルの上に男の尻があって、その下にさらに醜怪なものがあった。太ってはいないが、奇妙に形の歪んだ女の腰だ。あえぎとともに、女の長い髪が揺れる。男が身を起こす。一瞬映った不鮮明な横顔は安倍のようにも見える。  大船はスイッチを切ろうとした。しかし思い直してそのまま続けた。エロビデオ一本に動揺しているようでは、福祉事務所長など務まらない。  女は男を押し退《の》け、テーブルから下りるとカウンターに両手をつき、男はその背後に回りロングタイトのスカートの裾をまくり上げる。いくらか顎《あご》を突き出す癖のある安倍の後ろ姿が映った。シャツも靴もそのまま、ズボンだけを膝まで下げている。  商品としてのポルノビデオは、美しくはないが、少なくとも扇情的である。しかし単なる行為の記録は、ただただ汚らしいだけだ。  大船は眉間《みけん》に縦|皺《じわ》を寄せながらも、度胸を決め画面の中の安倍の姿にだけ眼を凝らしていた。まもなくビデオは終わった。  両手で頭を抱えたまま、安倍は椅子でうずくまっていた。 「ね、安倍さん」  大船は安倍の肩に手をかけた。 「とにかく何があったのか、説明してちょうだいよ」 「ご迷惑、かけました」  かすれた声で安倍はつぶやいた。 「迷惑はいいから」  安倍はぽつりぽつりと話し始めた。  二週間前、安倍は寿美子の家に行った。今年になってから五回目の訪問で、前四回はいずれも留守だった。安倍は外階段を上がり、ベニヤが湿気で浮きあがったドアを何度も叩いたが、あいかわらず返事はなかった。病状が急変し、中で死んでいるのでは、という不安が体をかけめぐった。場合によっては警察に連絡し、踏み込んだ方がいいかもしれない、と考え、階段を下りかけたとき、隣の一杯飲み屋の主人に呼ばれた。  その主人が安倍に語ったところによると、バー「寿美」はこのところずっと閉店していたが、この前、めずらしく深夜に店を開けていたのでのぞいてみた。すると内部の様子がおかしい。電気ではなく蝋燭《ろうそく》をともしていたのだ。何かの演出だろうとは思ったが、ここは隣の店と軒を接するどころか、壁がくっついているような一帯だ。万一、火事でも出されたら大変と、主人は怒鳴り込んだ。  寿美子は笑いながら謝り、「料金が払えなくて電気を止められた。少しの間、蝋燭で暮らすしかない」と語ったという。狭い店内で、客らしい中年男が一人、酒を飲んでいたが、どうも商売をしている感じではなかった。  寿美子はそのときは謝ったものの、その後もときおり店を開け、蝋燭をともしている様子だ。他人の商売に口出しする気はないが、もらい火だけは困る。役所さんからも、なんとか言ってくれ。主人はそう安倍に頼んだ。  とりあえず、寿美子が生きていること、そしてたまに店にいることだけはわかり、安倍は、ほっと胸を撫で下ろした。  それからさっそく電力会社に問い合わせたが、確かに料金は振込まれていなかった。生活保護費で、優雅な生活はできない。しかし公共料金を滞納しなければならないほど少なくはないはずだ。  何か問題が起きたに違いないと安倍は判断し、今度は寿美子の通院している病院に電話をかけたが、こちらには寿美子が三カ月間行っていないことがわかった。  気になって、その後も数回、寿美子の住居に足を運んだが、いくらノックしても返事はない。  そして四日前、その地域の別の家を訪問しての帰り、安倍は偶然、「寿美」の店のドアが開くのを見た。飲み屋の看板のひしめくじめついた路地を、男が一人「寿美」から出てきて安倍の方に歩いてきた。ベージュのセーターにゴルフズボンという服装は派手なものではなかったが、パーマ髪を角刈りにした独特の髪型からして、普通のサラリーマンでないことは一目瞭然だった。真っ昼間にこうした店を訪れるところからしても、おそらく客ではない。  男とすれ違った後、安倍は路地を走り、「寿美」のドアを叩いた。返事が聞こえドアが細目に開いた。隙間《すきま》からのぞいたのは寿美子の顔だった。が、相手は安倍の姿を認めたとたん、ドアを閉じた。錠が下ろされる音がした。 「開けて下さい。前田さん、電気を切られたんでしょう。金はどうしたんですか。男に巻き上げられたんですか。何があったんですか」  扉を叩いたが中で息を殺しているらしく、返事はない。 「今はだめでも、後で事務所まで来てください」  それからためらいながら付け加えた。「ちゃんと事情をお話ししていただけないと、保護を打ち切ることになりますよ」 「切っていいわ」  擦《かす》れた声がした。  ダニにたかられたのだ、と安倍は思った。  ソープ嬢のヒモほど華々しくはないが、町中にダニはいる。離婚した相手が引き取った息子、別れた亭主、昔世話になった男……とにかくそうしたダニが、老齢年金や生活保護費、母子貸付金などを狙って寄ってくる。それらを追い払い、自立した生活ができるように被保護者を導くのもケースワーカーの仕事だ。無責任に保護を切って終わり、というわけにはいかない。 「とにかくここを開けなさい」  安倍はドアを破るような勢いで叩いた。まもなくかちゃりと掛け金が外された。  中は闇だった。店内には、灯り一つない。一歩足を踏み入れたとたん、食べ物の腐臭と熟柿のにおいが鼻をついた。足元で何かが砕けた。ドアを大きく開け放つと路地から差し込むわずかばかりの外光に、店内の様子が見えた。  昼間見るこの手の酒場の汚らしさというのは、尋常ではない。ソファは垢《あか》じみて光り、床には、ゴキブリが這《は》い回っている。  足元にガラスの破片がある。さっき踏んだのはそれらしい。無意識に屈み拾い上げた。そのとたん寿美子は安倍の手をいきなり払った。破片は安倍の指を少し切って、奥の闇に吸い込まれていった。  寿美子は安倍がそれ以上店内に入るのを拒むように、胸をすりつけるようにして押し戻した。 「もう、役所のお金はいらないから来ないで」  寿美子は言った。 「他に金が入る予定でもあるんですか」  安倍は切った指を押さえながら尋ねた。寿美子の顔色が変わり、口を半開きにしたまま安倍を見上げる。剃《そ》ったのか抜け落ちたのか眉はない。半開きの目と抜けた前歯から見える口の中の空洞が不気味だったが、安倍は後ずさりながら、なおも尋ねる。 「今、ここを出ていった男はだれですか。何しにきたのか想像はつきますけど」  ダニたちの常套《じようとう》手段は、ケースワーカーならだれでも知っている。 「この商売さえうまくいけば、金などいくらでも入ってくる。必ずいい暮らしをさせてやる。だから少しばかり金を貸してくれ」と持ちかけてくるのだ。 「前田さん、事情を話してくれないなら、警察に問い合わせることもできますよ」  どうせ男は前科者だろう、と思い安倍は言った。  寿美子のカウンターについた手が、ぶるぶると震えた。そして少し間をおいてから、押し殺すように言った。 「わけを話すから後で来て、お願い」 「いつ?」 「今夜、九時」 「勤務時間内にして下さい」 「いえ、九時。いろいろ事情があるの。それからこのこと、だれにも言わないでね。安倍さんにだけなら話せるから」 「公務ですから、そうはいきませんよ」と四角四面に答えたとたん、目が合った。異様に潤んだ瞳に切実な色があった。濃厚な死の影が見えた。  店内が振動した。この店の裏はすぐ線路だ。私鉄の特急がスピードを緩めず通りすぎる。安倍は身震いした。あれに飛び込まれてはかなわない、と思った。 「だれにも言わないでね。わたし安倍さんだけを信用してるんだから」  寿美子は念を押した。  その夜、安倍は言われた通り店に行った。ドアを開けると、荒れ果てた店内を金色の光が照らしだしていた。カウンターの上のランプに火がともされている。  寿美子はグラスをすすめる。安倍は断った。 「私のとこのものは、汚くて飲めない?」  寿美子は尋ねた。いえ、と答え慌てて飲み干す。どんなに汚れた座敷にも平然と上がり、ぶっ欠け茶わんで出されたお茶に手をつける神経がなければ、ケースワーカーは務まらない。安倍は寿美子の話し出すのを待った。  寿美子は、カウンターの中で微笑《ほほえ》んだ。口元がきらりと光った。前歯が入っていた。中央にきらきらと光るものが埋め込んであるのはダイヤらしい。くっきりと弧を描いた眉が不思議な印象を与えた。何かに似ている、と思った。  軽いめまいがした。グラスの中身は薄い水割りだったから、そう簡単に酔うはずはない。しかし何やら落ち着かない、ひどく高揚した気分に襲われた。心臓が狂ったように打っている。  寿美子は髪を解《ほど》いた。長いが分量の少ない髪が首筋に沿ってまっすぐに垂れる。半眼で柔らかく微笑んだ。  はっ、とした。菩薩《ぼさつ》だ。 「お金もなくて、お皿もなくなったの」  寿美子は、ほとんど空になった食器棚から千代紙を取り出した。静脈の浮き出た痩《や》せた手が、それを折っていく。丹念に折り込み広げると、見事な縁のついた皿が出来上がった。魔法を見ているようだった。その上に寿美子は袋菓子をあけて、差し出した。安倍はぼんやりと寿美子を見上げた。仄《ほの》暗いランプの光が、喉《のど》元から顔にかけて微妙な陰影を刻み、奇怪なばかりに官能的だった。安倍は息を呑んだ。  寿美子はカウンターから出て、ライターで店内のランプに火をともしていく。腕を上げ下げするたびにベージュのブラウスの深い襟ぐりから、血管の浮いた胸元がのぞき、ランプを透かして乳首が淡く透けて見えた。すべてのランプに火がともったとき、店内は金色に輝いていた。視野が端から溶けだすような気がして、限りなく甘美な感覚が安倍の全身を駆けめぐった。  寿美子はテーブルに腰かけ、体をひねった。安倍はふらふらとカウンターの高い椅子を下り、そちらの方へ近づいていた。 「つまりやっちゃったって、わけなのね」  大船は、話し終えうなだれている安倍に念を押した。 「わかりませんが、たぶん……」安倍は唇を噛んでうなずいた。  実際はやったというより、騙《だま》して犯されたということだ。ついに男のケースワーカーが訪問先で犯される時代になったのか、と朋子は嘆息する。 「翌朝、目が覚めたとたん吐きました。物凄い汚い店の中に寝てたんですよ。彼女はもういなかったけど、後悔なんてもんじゃないです。ひどい二日酔いで」 「お酒、飲んだの?」 「それほど覚えはないけど、喉は渇くし水を飲めば吐くし。心理的なものもあったと思うけど」  ちょっと言葉を切って、大船を見上げる。 「これって、分限処分ですよね。それとも懲戒免職かもしれない。でもどうでもいいです。ぼく、こんなもの人に見られてまだ役所にいる度胸はないですよ」 「いえ」  大船は首を振った。それから顔を安倍に近づけると人差し指を安倍の鼻先に向けた。 「何もなかったのよ。あなたは何もしてないし、当然のことながら訪問になんか行ってない」 「だってビデオ……」  腰を浮かせた安倍の肩をつかんで座らせる。「いいから余計なことは言わないで。もし職員課からの問い合わせがあったら、絶対その日その時間には行ってない、と答えるの。わかった? それからビデオは絶対、あなたじゃない。どんなことがあっても否定するのよ」  ぽかんと口を開けたまま、安倍は大船の顔を見ている。それだけ言うと大船は部屋を出た。  福祉事務所のある一階まで下りる間、大船は考えていた。いったいだれが、何のためにこんなことをしたのか。  とにかく安倍は前田寿美子の窮状を知って訪問に行き、寿美子がだれかに保護費をかすめとられているのではないか、と疑い、事実を確かめようとしたのだ。その安倍が、なぜはめられなければならないのだろう。単なる嫌がらせにしてはしつこすぎるし、ビデオのことからして手が込みすぎている。  強請《ゆす》りの手段としてならわかる。しかし就職二年目の公務員など強請ったところで金づるにはならない。仮に福祉事務所長と保護係長を強請ったにしても公費で口止め料を支払うことなどできないのだから無意味だ。  とすれば脅迫か。ダニが保護費を巻き上げていることに関して、これ以上調べるな、というメッセージだとしたら、なおさらおかしい。  寿美子に支払われている生活保護費は月十一万足らずだ。そんな少額のことでここまでする必要があるだろうか。  やはり嫌がらせか? 一人ぼっちで病気の体をなだめながら、老朽ビルで細々と商売する女が、恨みの矛《ほこ》先を無関係の安倍に向けたというわけか。しかし店を出てきたヤクザ風の男の存在も気になるし、あのビデオ自体、どこに仕掛けられていたのだろう。とにかく前田寿美子から事情を聞くのが先決だと大船は判断した。  事務所に戻ると、山口みゆきを呼び簡単に事情を話し、前田寿美子の居場所を探すように命じた。  個人的には、この日の朝に「女の敵は女」などという言葉を吐いたみゆきの顔は見たくはない。しかし寿美子が初めてここを訪れたとき話を聞き、必要な書類をそろえて保護の決定をしたのはみゆきである。こんなことが起これば、もう一度みゆきに調査を任せる方がよさそうだ。  みゆきは、色黒の無愛想な顔で大船を見下ろし、「はい」と短く答えただけだった。素直すぎるのが、少しばかり気になった。無礼極まる女だが頭は切れる。余計なことまでやってくれなければいいが、と少し不安になる。しかし女性が訪問する限りは、少なくとも安倍のような問題は起こらない。  翌日の朝一番で、保護係長が所長席の大船を呼びにきた。昨夜庶務係長とともに自分宛てに送りつけられたビデオを見たという。大船は心の中で舌打ちをした。保護係長は、「いや、すごいもんだな」と言いながら、少し青ざめていた。  面接室に閉じこもって三人で相談をした。男二人の意見は、ともかく一刻も早くビデオの件も含めて部長に報告すること、そして安倍を異動させることの二つだった。大船は首を横に振った。単なるいたずらで人事が左右されるとしたら、ケースワーカー達の士気の低下を招く、と主張した。話は平行線を辿《たど》った。 「だいたい、あれは本当に安倍さんなんですか」と大船はとぼけて言った。  男二人は言葉につまった。 「本人は何と言っています?」 「肯定はしてませんよ。こっちも聞きにくいしね」と保護係長が言う。 「この前の職場旅行で温泉には入ったけど、男の裸なんかまじまじ見ないしな。正直言って、わからん」と庶務係長が頭を抱える。  この言葉こそ大船が待っていたものだった。 「像は不鮮明だし、顔はまともに映ってないし、お尻だけでしょう。どこに安倍さんだという証拠があるんですか」 「ただね」  庶務係長が、ちょっと唇を舐《な》めて言った。 「これが事実かどうか、というのは問題じゃない。問題は新聞ダネにでもなってからじゃ遅いってことなんだよ」 「なるほど……」  大船には投書をしてきた者の意図がうっすらと読めた。 「安倍を前田寿美子の担当から外せ。それだけでは足りない、他の部署に放り出せ」ということだ。  ビデオをいきなり新聞社に送りつけなかったことからすると、事を表ざたにせずに安倍を処分せよ、ということだろう。逆に言えば向こうにも弱みがあるということになる。それにしても安倍のような下っぱのケースワーカーがなぜ邪魔になったのかわからない。  この仕事をしていると、意志とは無関係にケースの秘密を知ってしまうことがあるが、安倍は寿美子の秘密を握ったのだろうか。しかしそんな様子はなかった。学業成績は優秀でも、性格はすこぶる単純な安倍のことだ。何か知っているのなら、昨日ビデオを見たときに大船にしゃべっていたはずだ。  話しあったものの、何の結論も出ないまま会議の時間が迫り、事の処理は明日まで持ち越しになった。  その日の三時過ぎに山口みゆきが事務所に戻ってきた。寿美子の店と住まいはいずれも留守だったという。  そこで安倍と話したという隣の飲み屋の主人を訪ねたが、たまたま仕込みの最中で忙しかったのか、それともみゆきの口のきき方が相手の機嫌を損ねたのか、「知らん、見とらん、何か聞きたければ男の職員をよこせ」と追い出されたらしい。  しかたなくバー「寿美」の三軒先にある、昔ながらの純喫茶に入って、マスターに「寿美」のことを尋ねた。  戦後まもなくからこの地域に住んでいるマスターは「寿美」の常連だった。  マスターの話によれば、このところいつ行っても「寿美」は閉店していたが、数日前、たまたま深夜に通りかかると、客が入っていくのが見えたので、彼もついて中に入った。ところが店内は、見慣れない顔触ればかりでなんとなく陰気臭く、一応、普通の服装はしているが、その筋の人間も交じっている気配で、慌てて外に逃げ出した。 「つまり『寿美』は、何らかの形で暴力団関係者とつながりを持ったということでしょう。もっとも飲食店の大半は、つながってますけどね」とみゆきは言う。 「生活保護費にたかるダニも、大半はそうよ」と大船はため息をつく。 「ご苦労様」と言って、会議のために席を立とうとすると、「ちょっと待ってください」とみゆきに引き止められた。 「テープ、見せてくれませんか」  大船が黙っていると、みゆきは言葉を続けた。 「前田寿美子の相談を受けて、書類を集めて審査した上で、保護を決定して安倍さんに回したのは、私ですよね。だから、それを見る権利はありますよね」 「決定するのは、あなたじゃなくて私よ。実務はあなたが担当したとしても」  大船が言うと、みゆきは憮然として黙った。 「それに、この件については権利とかそういう問題じゃないわ」 「中身は脅迫テープで、すごいポルノだって話ですが」  みゆきは正面から大船を見て言った。  どちらかの係長の口から漏れたのだと、大船は舌打ちした。 「問題にならないように、穏便にすまそうというんでしょう。けれど、もし事実だったらどうするんです。うちの市のケースワーカーが、社会的弱者に対し、保護受給の継続を盾に肉体関係を迫ったとしたら、公務員としてどうの、という以前に、人間の尊厳に関わる問題じゃありませんか」  そらきた、と大船は思った。若い職員の将来を考えながら、何とかいい解決法を見つけようと人が四苦八苦しているこのときに、正論を吐きながら何もかもぶち壊しにしようとするみゆきに、大船は腹を立てていた。 「軽率なことを言わないで」  語気も鋭く大船は言った。 「小耳に挟んだ者は、本気にするわ。本気にしなくたって噂が伝わるうちに、真実になってしまうのよ。言われる身になったらどうなの」 「でも、事実だったら、どうするんですか」  大船は唇を噛んだ。安倍ははめられたのだ。明らかに被害者だ。それをみゆきは「権限を笠に着て被保護者に関係を迫った卑劣漢」にして、安倍の処分と綱紀粛正を迫る気なのだ。  保身に汲々《きゆうきゆう》とする男性係長二人に、一人よがりの正義を振りかざす中堅女子職員、そして無責任な噂を垂れ流すその他大勢。  不器用な安倍の胸中を思いやると、大船はいてもたってもいられない気分になる。内も外も敵だらけだ。  終業ベルが鳴った後、保護係長が安倍を手招きするのが見えた。安倍の青白い頬が痙攣《けいれん》し、片方の唇の端がびくびくと持ち上がった。すれ違いざまに大船は安倍に耳打ちした。 「あなたは何もしてない。疑われたら怒りなさい。本気で怒るのよ。それから異動希望には応じてはだめ。事実を認めたことになるから」と念を押した。安倍は震えながらうなずいた。  大船はビデオを持って再び市政資料室へ向かう。もう一度しっかり見直せば、何か発見があるかもしれない。しかし物が物だけに家には持ち帰れない。高校生の息子はいるし、亭主にいろいろ尋ねられるのも鬱陶《うつとう》しい。七十五になる姑《しゆうとめ》が見て脳溢血でぶっ倒れられても困る。それにもう時間がほとんどない。両係長が女性所長の頭越しに部長に話を通してしまうか、みゆきが労組の女性部を通じて真相究明を迫ってくるか。しかし問題はそうした具体的な動きだけではない。無責任な人の口というのがある。こちらは広がったら最後、手の下しようがない。  資料室に人がいないことを確認して、中に入ろうとしたそのときだった。人の気配に振り向くと安倍が立っていた。 「どうしたの幽霊みたいに」と言いかけたのをさえぎるように、「これ以上、迷惑をかけるわけにもいきませんから」と安倍は言う。 「じゃ、どうするの」  同じフロアで残業している者にやりとりが聞こえないように、大船は声をひそめた。 「それなりの懲罰は受けます」  大船は安倍の腕をつかんで資料室に押し込み、自分も入ると内側から鍵をかけた。 「釈然としないのよ。なぜこんなことをされたのか」 「逆恨みですよ」と低い声で、安倍は言った。  大船は、器材を点検しビデオデッキのスイッチを入れた。安部は頬をひくつかせ、後ずさりした。 「ちゃんと見て、何かわかるかもしれないから」  再生ボタンを押しモニターに目を凝らす。まもなく暗い画面が現われた。  安倍は何度も額をハンカチで拭《ぬぐ》った。 「大丈夫?」 「ええ、普通の女の人と一緒だったら耐えられないと思いますが、大船所長だったら大丈夫です」  失礼な話ではある。しかしこの際、腹を立ててはいられない。性を越えて信頼されていると好意に解釈することにする。  すぐに奇妙なことに気づいた。大船はテープを止める。安倍は後ろ姿、そして女はこちらを向いている。二人の体を照らし出しているのは、テーブルにともったランプだけだった。上方からのカメラアングルは固定している。 「天井のカメラで撮られていたんだ」  安倍は悔しそうに言った。 「それだけじゃないと思うけど」と大船は口を挟む。 「カメラが天井近くに据え付けてあって、照明は天井にないのよ。ということは、客が天井を向いても、スピーカーか何かで隠してしまえば、カメラの存在には気づかれない。つまり電気代が払えない、というのは口実で、やってきた客をビデオで隠し撮りするために、室内灯を取り払ったとは言えないかしら」 「ちくしょう」と安倍は、うめいた。 「たぶん、安倍さんだけじゃないと思う。他にも隠し撮りされてる人がいるはずよ」  大船は腕組みして言った。ビデオカメラを買って、取り付けて、室内の照明も片づけて、こんな面倒なことを安倍一人を陥れるのを目的にするはずはない。今まで、安倍のことばかりに気を取られていたが、こうしてみるとビデオは「寿美」という店について何かを語っているような気がする。  ママの病気と電気代未払いを理由にした閉店。それでいて気まぐれのように深夜店を開ける。さらに客の顔触れが以前とは違っていた、という元常連客の言葉。  そんなことを大船が説明すると、安倍も怖じ気づいてばかりはいられない、と悟ったらしい。いつもの若々しい表情が戻ってきた。 「収益の上がらない飲み屋をたたんで、別の商売を始めたんですね、きっと。SMか女装か、あるいはデートクラブか、どっちにしても風俗ですよ。それもやばい方の。ビデオはそのための道具だ。自分たちの行為を撮って楽しんだのかもしれないし、隠し撮りして強請りをやっていた可能性もある」 「こんな汚い店の中で……」と片手でこめかみを押さえながら大船はテープを先に進めた。  途中から、男の体の動きに合わせるように、店全体が振動し始めた。店の裏を電車が通っているのだ。背後の棚でグラスが触れ合い、音を立てている。その下段は皿などを入れるためのスペースであることがわかった。しかしそこには一列、コーヒーカップが並んでいるだけだ。無駄な使い方だと主婦でもある大船は思った。  奇妙なことに気づいたのはその直後だ。上の部分のグラスが電車の振動に合わせて躍っているのに、カップが数個しか並んでいない下段は、あまり動いていない。テープを巻き戻してみる。間違いない。 「どうしたんですか」  黙って下段を指差す。 「あ、あれ」と安倍は首を傾《かし》げる。 「前田寿美子は、もう皿もない、と言って、千代紙を折って皿のかわりにした、とそう言ってたわね。でも金に困ったところで、いまどき皿など手放さないはず。由緒ある品ならともかく、中古の食器など売れないからね。それじゃ、なぜなかったのかしら」 「棚を空けるためだ」  安倍は叫んだ。その棚は数個のコーヒーカップしか載っていないのに、電車の振動にも動かない何か重りが入っているらしい。 「何かが隠してあるって、ことですか」  安倍が半信半疑で大船の顔を見る。  秘密クラブ、隠しビデオカメラ、収入がほとんどない、と見せかけておいて実は何か商売をしている。それにしても不自然に手が込みすぎてやしないだろうか。 「わかった」  不意に安倍は片手のこぶしで机を殴った。大船は顔を上げる。 「薬だ。たしかに『寿美』は、秘密クラブだった。しかし風俗じゃないんですよ。棚の中身は薬だ。寿美子は麻薬の密売をやってるんです」 「麻薬?」  大船は、にわかには信じられなかった。 「ビデオカメラを備えつけた理由はこれです。組織を通じて売るんじゃなくて、売りも買いも素人なので、慎重にやるんです。彼ら、話をもちかけて相手が乗ってきたとしても、一回目には約束の場所に行きません。警察の囮《おとり》かどうか、買い手をすっぽかしておいてカメラで様子を探るんです。じっくり様子を見て本物の客だと確信したら、二、三日後に再び呼び出し、そのときに初めて売る。『寿美』でビデオカメラを取り付けたのは、そういう理由です」  大船は唖然とした。たしかに最近福祉事務所にやってくる女性の相談者の中には覚醒剤中毒が多くなった。しかし中毒者はいても売人はいなかった。  慢性膵臓炎で思うように生活できない、と訴えてやってきた前田寿美子は、本当にどこから見ても人生に疲れた中年女そのものだった。男の影も、暴力団関係者とのつながりも見えなかった。調査した段階では。  女一人で生きてきて、四十も半ばを過ぎて病気に倒れ、思うように働けない、そう訴えた言葉が偽りだったとは思えない。病気さえ治れば、また元通り店を切り盛りできる、相談を受けたみゆきも、安倍も、そして寿美子自身も、あのときにはそう信じていたのではなかろうか。それがいつの間に、病気がちのママの心に、「多少危険だが、うまい話」の誘惑が入り込んだのだろう。あるいは脅迫だったのかもしれない。  ダニどころか、耐性黄色ブドウ球菌みたいなやつが、もともとバー「寿美」には、食らいついていたのだろう。店の経営状態もママの体も健康なうちは大した悪さをせず、ほんの少しのおしぼり代を受けとる代わりに、女一人の店を質《たち》の悪い客から守ってくれる。そんなささやかな共存関係を保っていた。ところが、ママの健康状態が悪化したとたん、暴れ出した……。  つぶれかけた飲み屋の病弱なママは、治療も怠り、新しく危険な商売を始めることになった。  それにしてもなおわからないのは、寿美子がなぜビデオを送ってきたか、ということである。 「安倍さん、本当に、この麻薬密売の事実を突き止めたりしてなかった? 寿美子に向かってこんな商売やめろとか警察を呼ぶとか言ったんじゃないの」  大船は、詰問するように言った。安倍はかぶりを振った。 「言うはずありませんよ。僕だって今、初めてわかったんですから」と言いかけ、小さな声で付け加えた。 「でも、クスリの売買といっても、すべて憶測ですよね。何も証拠がない」 「いえ、あるわ」  大船は指を突き出して、画面を示した。  鼻にかかった声とともに女のすねが、カメラに向かって伸びていた。不鮮明な画像だが、カメラに接近しているせいで肌に静脈が浮いているのが見える。そのすねには、数個のしみや虫刺されのようなものが見える。大船はテープを停止させる。ちょっと注意してみれば、虫刺され痕《あと》のようなものや薄黒いしみの配列には規則性があることがわかる。それらは静脈に沿っているのだ。  たしかに寿美子は体を壊して、保護の申請にやってきた。しかしこのところ通院していない。行かれるはずがない。彼女は薬中毒だ。電気を切られたまま、生活を続ける神経というのも、そこから説明できる。麻薬か、覚醒剤か、今のところ断定はできないが。  本当の売人は他にいて、寿美子はその客であるとともに、協力者なのだろう。  同時に安倍の不可解な性行為の理由が理解できた。彼が水割りだと思って飲まされたのは、何かの薬だったに違いない。それが薄汚い店のデコラ張りのテーブルを金色の光に満たされた褥《しとね》に変え、すさんだ生活でぼろぼろになった中年女を凄絶な官能を湛《たた》えた美女に見せた。ひどい二日酔いの原因は、アルコールでも自己嫌悪でもない。紛れもない薬の副作用だ。 「あなたは、昼間、『寿美』に行ったとき、出てきた男に会ったって言ってたわね」 「ええ」 「それで入れ代わりに、あなたが『寿美』の店内に入った」 「たぶんあいつは、ただのダニじゃなかったんだ。売人か何か」 「でも、そのときはそうは思わなかったわけね」 「僕が、あいつはだれだ、と尋ねても、前田寿美子は答えなかった。それで生活保護費などいらない、と言った」 「その前に何かなかった? 思い出してみて」  安倍はちょっと目を閉じた。 「店の中は暗かった。電気が切られていたからだ。入ったときに、ガラスの破片を踏んだ。拾い上げたとたん手を払われて、僕は指を切った。あっ」  安倍は、声を上げた。 「飲み屋でガラスの破片があれば、だれでもグラスだと思う。しかしそうとは限らない。注射器だ。薬を打った後の注射器は、病気が恐いので一回限りで捨てる。それも証拠が残らないように砕いてからだ。僕が拾ったのはそれだ。だからあの女慌てて手を払ったんだ」  そのときに安倍に知られた、と寿美子は思ったのだろう。  それから安倍は事情を説明しろ、と迫った。寿美子は答えに窮し、そんなことなら生活保護など断ると言う。その言葉に対し、安倍は「他に金が入る予定でもあるのか」と尋ねた。  安倍にしてみれば、「金が入る予定もないのに、そんなことを言うものではない」といさめるつもりだったのだろうが、相手はそうは受け取らなかった。自分の商売を嗅《か》ぎ付けられた、と判断したのだ。さらに、安倍は、店を出ていった男のことを尋ねた。そのとき安倍は男をただのダニだと思っていた。しかし女は麻薬密売の相棒を突き止められたと確信する。最後に駄目押しのように、安倍は言った。 「質問に答えないなら、警察に問い合わせる」と。 「つまり口封じだったのね」  大船は、テープを巻き戻しながら言った。 「僕を殺すつもりだったんでしょうか」  安倍は不安気に目をしばたたかせながら大船を見上げる。  いえ、と大船は首を振る。  知りすぎた男が消されてしまうのは、小説の中の話だ。現実の口封じはもっと穏やかだ。人を貝にするのは、すこぶるたやすい。堅い職業についていたり、まともな家庭を持っている者なら、信用失墜がすなわち命取りになる。逮捕されることも、裁判を起こされることもなく、単に噂が立つだけで信用は簡単に失墜する。  麻薬密売の件は安倍から上司に報告されている、と相手は判断したのだろう。そしてそのような場合、警察に連絡するのは所長だ。だからビデオテープの送り先は、係長であり、所長の大船だったのだ。  ビデオテープの男が本当に役所の職員かどうか、などということは一般の人々にとってはどうでもいい。そうしたテープと抗議の手紙が役所に送り付けられたというニュースがマスコミに流れたとき、市民の不信感は間違いなく高まる。役所にしてみれば、道路用地取得から水道料金徴収まで、すべての仕事にさしつかえるのだ。役所側はことを表ざたにはしないだろうし、かりになったにしても、こういうことを行なった職員が何を弁明しても、だれも耳を貸さない。  相手はそう判断したのだ。 「甘く見なさんなよ」  そうつぶやきながら、大船はゆっくりと受話器を取った。安倍はうろたえた。  警察の電話番号を回す。  私は、歴代の腰抜け所長とは違う、と自分に言い聞かせる。相手が出ると顔見知りの防犯課長に替わってもらった。大船は名前を告げ、一言一言慎重に言った。 「常盤町四の七にある『寿美』という店をすぐに調査してください。覚醒剤か麻薬の取引きが行なわれている疑いがあります。うちのケースワーカーが気づいて確認しようとしたところ、悪質ないやがらせを受けました」 「というと?」防犯課長は尋ねた。大船は部下のケースワーカーが、取引き現場を偶然見てしまったらしいということ、その後、そのケースワーカーを中傷する内容の手紙が福祉事務所に送り付けられていることなどを話した。 「わかりました」と相手は短く言って、すぐに電話を切った。 「寿美」の棚にあった薬は、すでにどこかに移されているかもしれない。しかし寿美子の肌についた注射の痕《あと》も、体内に残った薬もそう簡単に消えてはいまい。 「僕は、どうすればいいんですか」  椅子から腰を浮かせた安倍を片手で制して、大船は言った。 「あなたは昼間に訪問に行き、偶然、売人らしい男に出くわし、ピンときた。店内に入ったところ注射器の破片を見つけ、前田寿美子が麻薬をやっていると思い、注意した。やめないと警察に通報する、と言った。そこまでよ。あなたは『寿美』には、夜は行ってないわ。何があっても行ってないんだからね」  安倍は少し沈黙した後、絞り出すように言った。 「僕、ポーカーフェイス、できないんです」  大船は、歯ぎしりしそうになるのを堪《こら》えた。それから質問した。 「変なこと聞いて悪いけど、あなた盲腸か胃潰瘍でお腹切ったことある?」 「いえ」 「気がつかなかったの? ビデオの男の下腹に手術痕があったじゃないの」  ひっ、と息を呑む音がした。それっきり安倍は、一言も発しない。 「つまりあれはあなたじゃないのよ。いやね、自分で見ててわからないのね。脅すために、あなたと背格好の似ているヤクザの三下か何か使って撮ったものよ。あなたは映されてなんかいないのよ」 「はい」  安倍は、それだけ言って、小さな声で「ちくしょう」とつぶやいた。  翌朝、警察から電話があった。「寿美」の店内にある棚板の間から覚醒剤四キロとビデオ数十本が押収され売人の男と寿美子が逮捕されたという。警察に通報される、とは全く予想もしなかったのだろうか。そのまま覚醒剤を店内に置いておいた寿美子たちの図々しさに、大船は呆れた。  問題のビデオの内容については、何も尋ねられなかった。 「本当に、ビデオの男は安倍さんじゃなかったんですかね」  受話器を置いたとたん、みゆきのささやき声が耳に入った。大船はみゆきに鋭い視線を投げかけ、老眼鏡を外しながら答えた。 「これが女性ケースワーカーだったらどうなるの。就職二年目の若い女性の元に、こんなビデオが送られてきたら、あなたはそういう無神経なことを言える?」  みゆきは、初めて神妙な顔でうなずいた。 「で、もしも女性だったら、所長、あんなに一生懸命かばいますか?」  それだけ言うとさっさと自席に戻っていった。大船はため息をついてこめかみを揉んだ。安倍は何事もなかったかのように、熱心にケース記録を書いている。  これでよかった、と大船は思った。ビデオの中の男の下腹には、手術の痕などなかった。 [#改ページ]    選 手 交 替  みゆきは腕時計を見ると、書類を片づけ始めた。あと数分で昼休みだ。福祉事務所の相談窓口には、昼休みに限って現われる市民がいて、しばしば昼休みを削られるが、今日は大丈夫のようだ。  たまには職員食堂なんかではなく、隣の喫茶店でランチでも食べようか、などと考えていると、甲高い声が聞こえてきた。 「ママ、ママ、コワいおばさん、あそこ」  みゆきは、声のしたカウンターの方をちらりと見て舌打ちした。 「あのガキ……」  学生時代からの友達、イブが息子を連れてやってきた。  恐いと言われるのはしかたないが、「おばさん」という言い方は許せない。三十二歳の女をおねえさんと呼べ、というのは少し無理があろうが、自分は少なくとも「おばさん」ではない。髪は刈り上げ風のショートカットだし、真っ白な綿シャツにグレーのパンツをはき、足元はリーボックで決めている。柳腰というわけではないが、労組サークルの太極拳で鍛えた体には、弛《ゆる》みもたるみも出ていない。  おばさん、っていうのはね、と山口みゆきは生活相談のカウンターに両|肘《ひじ》をついているイブの息子、巧《たくみ》を見る。あんたのお母さんみたいのを言うのよ。 「ちょっとそこまで来たのよ。ねえ、お昼、一緒に食べない?」  笑窪《えくぼ》を見せてイブは微笑《ほほえ》んだ。唇の端に口紅が淡く滲《にじ》み、はみ出している。いい加減にピンクの口紅はよせばいいのに、と思いながらみゆきはカウンターに近づいていく。 「OK、だけどちょっとそっちで待っててよ。そこ、お客が来るから」と、後ろのベンチを指差す。  入れ違いに、客が来た。元暴走族の女だ。タイトなジーンズの腰は驚くほど細く、頬の痩《こ》けた血色の悪い顔に、青みがかったピンクの口紅ばかりが浮いている。十七でレディースから足を洗って結婚したのはいいが、同じ暴走族上がりの亭主は仕事についていない。本人は昔の根性焼きの腕の火傷《やけど》跡から皮膚ガンを起こし治療中だ。  みゆきはちょっとため息をついて、イブの方に視線を移す。パフスリーブのブラウスの襟にカットワーク、すっかり寸胴《ずんどう》になった腰を花柄のギャザースカートで包んだ完全なおばさんスタイルだ。 「ボディの弛みは、気の緩みよ、イブ。こんな忠告してあげるのは、私しかいないんだから」とみゆきは、これまで何度も言ったが、今、こうしてカウンターに来る客と見比べると、幸せ太りもいいのかもしれない、という気がしてくる。  元レディースを担当ケースワーカーに引き継いで、みゆきはイブたちと事務所を出た。  昼休みで職員がぞろぞろと建物から出てくる。いくつもの靴音に交じって、イブのサンダルのちょっと引きずり気味の音が目立つ。 「イブ、外出のときぐらい、靴を履いたら? そうやって腰を落として歩くからよけい贅肉《ぜいにく》がつくのよ」 「うん」とイブは、ちょっと微笑んだ。 「でも、これって軽くて歩きやすいんだ。ちょっとかわいいデザインで気に入ってるし。やっぱり、パンプスはみゆきみたいなキャリアウーマンじゃなくちゃ似合わないし、人それぞれ似合うものがあるじゃない」  そうかね、とみゆきはちょっと肩をすくめる。 「ボク、いくつになったの」と巧に尋ねると、ころころと太った息子は、ちょっと顔を強《こわ》ばらせて、黙って指を三本出して見せた。 「ああ、そうかい、三つ。よかったね」  半ば不貞腐《ふてくさ》れたようにみゆきが言うと、 「残念でした、三年生だよ」という答えが返ってきた。  かわいげのないガキだ、と思いながら、イブの方を振り向き、尋ねる。 「どう、亭主の会社は? 今、大変でしょう」 「ええ……」  イブは、首を傾《かし》げただけだ。イブの夫は大手ゼネコン会社で営業担当をしている。バブルの崩壊で受注が減った上、最近の贈収賄事件で公共工事から締め出されたところだからかなり経営は悪化しているのだろうが、イブはいっこうに関心がないらしい。  近くの喫茶店に入って、五百八十円のランチを頼む。二百円のコーヒーをつけるかつけないか、イブはしばらく迷っていたが、結局つけた。 「けっこう苦しいのよ」とイブはくったくなく笑った。家賃は値上がりし、夫の残業手当はなくなり、息子の塾や習い事もけっこう金がかかるらしい。それでもあまり深刻な口調ではない。  イブの旧姓は伊吹。大学のとき同じクラスだったが、みゆきが国家公務員試験を目指して猛勉強を始めた三年生の春に、退学した。高校時代のテニス部のコーチだった男と、二十歳になるのを待ちかねるように結婚したのである。  その後しばらくみゆきとは遠ざかっていたが、この市に、イブが夫の転勤で移り住んできた六年前から、再び行き来するようになった。  みゆきは未だに独身だが、イブはスイートテンもとうに過ぎ、ベテランの主婦になっている。  もともとみゆきが家族法だの憲法だのを持ち出し、日本の結婚制度の不備について熱弁を奮っていても、イブの頭の中は今日恋人から電話が来るか来ないかということだけでいっぱいだった。夫婦別姓について議論を吹っかけても、「ねえ、私が伊吹淳子じゃなくって、山本淳子になっても、イブって呼んでね」などと、ズレた受け答えをしていたくらいだ。  それでもイブと付き合っていたのは、イブを好きだったからだ。もっと自分を高めてくれるような、問題意識も熱意もあり、人生を積極的、前向きに捉《とら》えている尊敬できる友達もいるが、イブのふんわりした雰囲気は、一緒にいると他のだれよりも心地よい。多くの男どももきっと同じ気持ちなのだろうな、とみゆきは思う。  くたびれたときなど、つい長電話をしてしまう。「尊敬できる友達」の場合、「ごめんなさい、八時四十分になったら○○講座が始まるから、切らせてね」などと言うが、イブはそんなことはまちがっても言わない。 「うんうん、そうそう、そうなんだ。そういうのって、辛いよね」などと、いつまでも相手になっていてくれる。  みゆきが二十代の頃、イブはいろいろな男を連れてきた。別に悪気はなかったのだろうが、みゆきから見たらくだらない男ばかりだった。 「若いのにあんなにコンサバしてるなんて、許せない」とか、「女をモノとしか見てなくて、対人間として付き合えないから、いやだ」とか、みゆきは次々に断った。  イブは「ごめんね」と謝るだけだった。断ったつもりが、実は反対に断られていたことは、後から別ルートで情報が入ってきて知った。 「ちょっと、ああいう女《ひと》はオレ、いい」という控えめなものから、「あれだけは、ごめんだ」というのまで、いろいろだったらしい。  この日も、巧が「お父さんがね、おばさんのこと、ああいう女は趣味じゃない。うちへ連れてくるなだって」と口を滑らせたときの、イブの慌てぶりたるやなかった。 「あんたのお父さんの趣味だったら、かえってアブないんだよ」  憮然としてみゆきは答えた。  イブが男を紹介したように、みゆきもときおりイブに仕事を紹介した。初めは日本語教師、つぎは保育ママさんで、その後は忘れた。  金を稼ぐ手段とか、経済的自立というよりは、生きがいにつなげてもらうためだ。  やがて子供の手が離れたとき、イブが理想の主婦から空の巣症候群を経て、キッチンドリンカーに移行してしまうのが心配だったのだ。イブ同様、みゆきはみゆきで、友達の将来を案じているのだ。  しかしどの仕事もイブは断った。そしてこの日も、みゆきは「そろそろ子供も大きいんだし、何か仕事を始めたら」と勧めてみたのだが、 「低学年のうちは、帰ってきてお母さんがいないと、かわいそうだから」とイブは言う。仕事ならいつでもできるけど、子育ては一生のうち、今しかできない。淋しい思いだけはさせないで育てたい、とイブは意外なくらいしっかりした声で言った。 「お兄ちゃんになったら、離れていってしまうんだもの。今のうちにしっかり抱っこしてあげたいの、今だけだもの。お金では買えないものがあるじゃない。それに工夫しだいでダンナ様のお給料だけで、なんとかやっていけるし、そうしなきゃいけないと思うのよ」  理屈無用、反論の余地のない言葉である。みゆきは口の中でぶつぶつと言う。 「子育て終わったらどうするの。息子だって高学年になったら、家に居つかなくなっちゃうんだから。そのときまだ三十代なのよ。資格取るなりなんなり、今から人生設計はしといた方がいいよ」  イブは、少し悲しそうな顔をした。みゆきは続けた。 「それに結婚生活だって、安全確実なものだと思ったら大まちがい。ダンナが愛人作ってるのに、生活能力がないために、離婚もできない奥さんがいくらだっているんだから」 「愛人作ったご主人と別れてあげたら、喜ぶのは男の人だけじゃないの」とイブは驚いたように言った後、「うちの人、そんなことしないから。家の中をしっかり守ってくれれば、絶対無責任なことはしないって、約束してくれてるし」と付け加えた。 「信じる?」 「夫婦だもの」と、イブは小さな笑窪を作った。 「それに私が、今さら外に出て仕事なんてできると思う?」 「なんで?」 「ぼおっとした顔してるでしょう」  たしかにそうだ。笑うと小皺《こじわ》が寄るようになった目尻は優しげだが、なんとなく弛んでいた。小さな手はふっくらしているが、食べ終わった食器を手早く重ね、さり気なくティッシュでテーブルを拭く様は、ぱたぱたと家事を片付けていく手際良さをうかがわせる。しかしその手際良さと、外で決められた仕事を規格どおりにこなして金をもらう、ということとは違う。  事前にアポイントも取らずに、いきなり他人の職場に現われて食事に誘ったりするセンスは、確かにズレている。そのかわり、こちらが予告もなしに家を訪れても、ためらわずに上げてお茶とあり合わせの駄菓子で歓待してくれる。何時間いても、決して嫌な顔はしない。もしかすると、彼女だって出かけようとしていたかもしれないのに、何か予定があったかもしれないのに、おくびにも出さない。そんな気持ちのゆとりのようなものが、イブにはある。計画をぴっちり立てて、物事の優先順位を決めて、合理的に動いていくみゆきたちとは違った価値観の上に、イブは生きている。  しかし、「それにしても」と一言、言いたくなるのはしかたない。 「綿レースだの、パステルの花柄プリントだのって、もろに、おばさんするのだけは、やめてよ。専業主婦だって、ジーンズのスカートにワークシャツでカリフォルニアンみたいに決めるとかなんとかできるでしょ」  イブはちょっと首を傾げた。 「この子もうちの人も嫌がるのよ。私、顔がぼおっとしているから、かっちりしたのやラフなのは似合わないって」  そう言って、ギャザースカートの花柄を摘《つま》んで笑った。椅子にかけると下腹がぷっくり膨らんで、ギャザーが開き切っている。  女が外見だけで判断される風潮には反対だが、それでもあの愛らしく可憐《かれん》なイブが、そのうちトドのようになってしまうのは忍びない。 「私、頭悪いし才能もないし……でもいいの。子供に手作りのお弁当を持たせてあげられれば。ほら、母親ってやっぱり世界でたった一人じゃない」  そう言ってイブはにっこり笑った。ぼおっとした顔が輝いた。くしゃりと目尻に横皺が寄ったが、それがなんとも言えず優しげだった。イブの顔には横皺が寄るが、みゆきや福祉事務所の女連中の顔には、縦皺が寄る。  女性所長大船の、いつもあちらこちらに目配りしている顔の眉間《みけん》には、くっきり縦皺が刻まれている。ベテラン相談員の赤倉も、口元に笑みを浮かべて話を聞きながら、話の核心に近づくと、ぴくりぴくりと眉間に皺が寄る。優しいケースワーカーの大場元子も深刻なケースに突き当たり、きっ、と口元を引き締めると頬に深い縦皺が寄る。化粧では隠しきれない、働く女の勲章がこの縦皺というやつかもしれない。  昼休みが終わって事務所に戻ってくると、相談室から先程の暴走族上がりの女と担当ケースワーカーが出てきたところだった。  女は茶色の真っすぐな髪を片手でかき上げた。気丈で悲痛な目をして遠くを見ていた。蒼白の顔で、唇をきつく噛み締めている。 「何があったの?」  みゆきはケースワーカーに尋ねた。彼女が何度か補導された中学時代から面倒を見てきた初老のケースワーカーは、首を振った。 「亭主が逃げ出したんだ。皮膚ガンったって、ただの潰瘍じゃないから。昔のおイタの後から肉芽が盛り上がって、腕から指が三本生えたみたいになってるんだ。亭主は気味悪いから近寄るなと言ったそうだ。あいつはたしかにワルだったけど、十七のときに『これからは男につくす』って言って、すっぱり足を洗ったっていうのになあ」 「男につくす、か。ズベ公が」  みゆきは、ふうっと息を吐き出した。  ケースのほとんどは生活に困窮したためにここにやってくるのだが、この豊かな時代にいい若い者が明日の糧にも困るというのは、やはり尋常ではない。  彼らは育った家庭が複雑だとか、荒れた青春を送ったとか、様々な事情を抱えている。去っていく女の茶色の髪を見つめていると、イブの横皺の寄った顔が思い出され、その後ろ姿に重なる。一人の主婦の幸福で平和な家庭生活に自分が口をはさむ必要などないのかもしれないと思った。  弛んだ下腹も、ギャザーの寄った服もそのままに、少し顔を青ざめさせたイブが福祉事務所のカウンターを訪れたのは、それから四カ月後のことだった。今度は、あの生意気な息子は一緒ではない。  すがりつくような目の色に、みゆきはとっさに家庭不和の気配を感じ取った。 「別れるの?」  あいさつもなく、みゆきは小声でささやいた。イブはちょっと驚いたように、目を見開き、それから目を伏せ、小さくうなずいた。 「隣の喫茶店で待ってて。昼休みに行くから」  早口でみゆきが言うと、イブは後|退《ずさ》りするように去っていった。  ついに亭主が女を作ったのだ、とみゆきは思った。だから言わんこっちゃない、と舌打ちし、前屈みになっているせいかこの前よりいっそうおばさん臭くなったイブの背中を見送る。  みゆきが駆けつけると、イブは喫茶店のいちばん奥の席で、うつむいて座っていた。そしてランチに二百円のコーヒーはつけていなかった。 「いいって、おごるから」  みゆきは、彼女の分のコーヒーも勝手に頼んだ。  亭主が若い愛人の元に逃げたのか、それとも子供でも作ったのか。みゆきは無言で、イブが口を開くのを待つ。 「うちの人、病気になったの」  確かに一時の熱病だ、と言いかけ、何か様子が違うのではないかと気づき、みゆきは尋ねた。 「何の病気?」 「メニエール症候群」  予想外の病名だった。 「それから心臓神経症、過敏性大腸炎とそれから……」 「もしかして、みんなまとめて、ストレス症候群ってやつじゃないの」  頼りがいのある夫にすべてを任せて生きてきたイブのことだ。さぞかし心細かろうとみゆきは同情した。それから、 「ま、ゆっくり休んでもらって、会社人間脱皮をはかることだね」と、できるだけ明るく言った。  イブは何度か口を開きかけ、それから唾《つば》を飲み込むように顎《あご》を引くと、小さな声で言った。 「会社、辞めちゃったのよ、あの人」 「ほぉ?」 「何か会議で説明している最中、ひどいめまいを起こしてみんなの前で吐いて、大騒ぎになったんだって。お医者さんに耳の病気だと言われて、それから二、三日して今度は、会社の近くの交差点で、心臓が苦しいって倒れて救急車で運ばれたの。でもどこも悪くないの。ただのノイローゼ」 「ただのノイローゼって、心臓神経症って本人は本当に息もできなくなるのよ」 「あのね、子供に登校拒否ってあるでしょう。あれと一緒なの、うちの人」  イブは、涙ぐんだ。 「会社に行こうとするとお腹が痛くなって、トイレに行きたくなって、電車に乗れないの。何度も下車してトイレに入って、結局遅刻したし。しばらく治療してたんだけど、みっともないし、出社できないし、それで辞めたのよ。知り合いの世話で、子会社に移ったけど、やっぱり出勤しようとすると、心臓が苦しくなったり、めまいがしたりして、だめなの」 「家では?」 「どこも悪くなくて、ぴんぴんしてる」  憤慨するようにイブは言った。 「そんなもんなのよね、けっこう腰据えて治さないと。で、多少たくわえとかは、あるんでしょ?」  みゆきは事務的な口調で尋ねた。  イブは首を振った。 「毎月、積み立てていたけど、今度のことで全部使っちゃったの。保険のきかない鍼《はり》治療とか、心理療法とか、霊能者とか訪ねて」 「霊能者?」  みゆきは呆れてイブの顔を見た。 「で、当面の問題は生活費ってわけか」  イブは当惑したような顔を上げ、それからすぐにうつむいた。  みゆきは、福祉制度について説明した。生活費についてはどの程度認められるかわからないが、治療費の補助はあるし息子の給食費は免除になる。低金利の貸付金もある。それにしてもイブに対してこんな話をするはめになったことが、未だに信じられない。 「あの……」途中で、イブはさえぎった。 「あのね、みゆきちゃん……別れることになったの」  小さな声でイブは言った。みゆきは息を呑んで、イブの顔を見つめる。困惑と悲しみに彩られながらも、イブの顔はどこかぼんやりしていた。そう言えば、先程カウンターに来たときに、イブに「別れるの?」と尋ねたらうなずいた。別に生活相談に来たのではなく、別れることになったと報告しにきただけだったのだろうか。 「ちょっと、ひどい話じゃないの」  イブは黙っていた。 「病気になった夫を捨てるわけ?」 「だって」  いきなり涙をぽろぽろとこぼした。 「ほかにどうすればいいの?」  周りの客の視線が集まっているのに気づき、みゆきは小声で言った。 「だから説明してるでしょうが。公的な援助を受けられるって」 「別れたいって、うちの人が言ってるの。男として一生の責任を負うつもりで、世間の荒波から、守るつもりで私と一緒になったのに、こんなことになってしまったって。一人で離婚届を取り寄せて……」  みゆきはぽかんと口を開けたまま、イブの顔を見ていた。 「とにかくこういうときは病人と子供については、金を払わないでいいような制度があるんだから」 「うちの人が、みじめな暮らしをさせたくないって言っているの。あなたにはわからないでしょうけど、これはお金の問題じゃなくて、男の人のプライドの問題なの」 「プライドもクソもないだろが。互いに病気のときは、おしめを替え合うのが夫婦の関係なんだから」  みゆきは憤慨して言った。 「男の人におしめを替えてもらうなんて、わたし、やだ」とイブは首を振った。 「結婚してりゃいろんなことがあるんだし、しばらくのあいだあなたが働いてダンナにはゆっくりリハビリやってもらえばいいんじゃない」 「症状が消えたって、もとの会社に戻れないのよ。それに私にどうやって、主人の代わりができるの」  涙声になってイブは訴える。 「大学中退して、私、お嫁に来たのよ。一度も外に出たことがないんだから」 「それじゃダンナのことはいいから、イブはこれからどうするつもりなのよ」 「熊本へ、帰る……」  イブは淀《よど》みがちに答えた。  イブの家が大変な旧家だということをみゆきは思い出した。学生時代に一度遊びに行ったことがあるが、熊本駅まで祖父という人がメルセデスで迎えに来たときは、度肝を抜かれた。あの広大な屋敷なら、娘と孫の一人くらい引き取れるだろう。 「で、実家に世話になりながら、次の大黒柱を探すわけ? 子連れでもいい、という後妻口で、相手は資産家のヒヒジジイとか……」 「ひどいわ」  イブは、甲高い声を上げた。 「そのヒヒジジイが倒れたら、その次は……」 「やめて」 「だって現実問題として、いつまでも実家でブラブラしてるわけにはいかないでしょ。たしかお兄さんが跡取ってたよね。両親だっていつまでも生きてるわけじゃなし。親の方はなんとか後妻口か何かを探そうとするよ」 「もう、してるわ。でも、私、再婚なんかしない。巧を一人前に育てないと」  イブはそこまで言いかけ、声を震わせて両手で顔を覆った。 「私だって、別れたくないのよ。うちの人、たしかに好き勝手をさせてはくれなかったけど、でも大切にしてくれた。厳しいけど優しかった……。本当に守ってくれたのよ、この十二年間。でもこんなになってしまうなんて……」 「だからねえ、あんたがここでピンチヒッターを何年かやってやれば済むじゃない」  イブはかぶりを振った。 「お金じゃないのよ、気持ちの問題なの。まだ三十代の男盛りで、会社に行かれなくなって、女に食べさせてもらうなんて、あの人、死んでもいやなのよ、そういう人だから」 「死んでもいやなら、死んでもらうしかないね」  みゆきは冷ややかに言った。 「それに子供のこともあるわ。お父さんが家でぶらぶらしている姿を見て育ったら、巧はどうなるの? これからお金がかかる歳だし。無理に一緒にいて、慣れない暮らしをしても、お互いに苦しめ合うだけ。それはこの三カ月で十分わかったの」  みゆきは、時計を見て無言で席を立った。昼休みが終わりかけていた。 「みゆきちゃん……」  すがりつくような目で、イブが声をかけてきた。 「またね」と二人分の代金をレジで払い、さっさと店を出た。  職場に戻っても、あの薄ぼんやりしたイブの顔を思い出すと、なんとも後味悪く、いらだった。これで脳|梗塞《こうそく》か何かで倒れた亭主を放り出す、という話なら、真っ先にイブを非難できよう。イブが浪費家で浮気な悪妻なら、これまた彼女を悪者にすれば済む。しかしイブの夫はどうやら一見したところ、ただの仕事嫌いに見えるらしい。それにイブに生きていくための能力を身につけるチャンスも与えず、青田買いしたのは、当の夫なのだ。  隣の席の赤倉政子をそっとつついて、みゆきは尋ねた。 「赤倉さん、もしも夫が仕事のストレスから病気になって、仕事を辞めたらどうしますか?」 「うちの亭主が?」 「そう」 「放り出す」  そう答えると赤倉は大きな胸を揺すりながら豪快に笑った。 「病気になったら?」「放り出す」というのは、あくまで冗談の範疇《はんちゆう》なのだ、普通なら。  ところが現実には、そうしたことが冗談ではなく、本当に起きる。皮膚ガンに罹《かか》った妻を「気味が悪い」との理由で放り出す失業中の夫、そして重症を負って脱落した企業戦士の夫から、安逸な生活を捨てたくないために逃げ出す妻。  結局、独り身の方がよほど精神衛生上いい、とみゆきは自分の生活を振り返ってしみじみ思う。  イブはその後何も言ってこなかった。はたして熊本に戻ったのか、イブの夫がどうやって暮らしているのか、まったく様子はわからなかった。  取り乱した様子のイブから電話がかかってきたのは、それから一カ月もしてからだ。 「お願い、うちに様子を見に行って」と、イブは電話の向こうで叫んでいた。 「うちって?」 「だからうちの人のところ。今、熊本なの」  離婚して実家に戻っても、夫のいるマンションを「うち」と呼ぶ感覚が、みゆきにはよくわからない。 「巧がいないの。パパのところに行ったの」  そら見ろ、とみゆきは思った。子供はママほど薄情にはなれないのだ。 「青春十八きっぷってあるでしょ。鈍行列車でどこまでも行けるの。あれを欲しがったんで、おばあちゃんが買ってやったって言うの。パパのところに行くなんて、ひと言も言わなかったから……もしどこかで迷子になったり、ホームから落ちたりしたら、誘拐されたりしたら……」 「警察には?」 「さっきおばあちゃんが」 「ダンナには電話した?」 「いないのよ。あの人、いくら電話しても出ないの」 「出られないのかもしれないじゃないの」  みゆきは受話器を叩きつけるように置くと、イブの夫の住んでいるマンションの地区担当ケースワーカーである新井誠を呼びつけ、一緒に行ってもらうことにした。 「ひょっとすると、死体見るかもしれないから、覚悟しといてよ」と、言いながら自分の首に両手を当てて、首吊りの真似をした。  新井は、げっと言って後退りした。  どこへ何をしに行くのか、ちゃんと断ってから出かけろ、などと面倒なことを言っている大船所長を無視して、みゆきは公用車に乗り込む。  マンションに着いて駐車場を探すのももどかしく、歩道に乗り上げ駐車し、みゆきは新井を急き立てながらエレベーターに乗る。  イブの夫、山本の部屋は、内側から鍵がかかっていた。呼び鈴を押したが返事がない。新聞受けを見ると、前日の夕刊が入っている。いやな予感がする。  急いで一階に戻り、管理人を呼び出して部屋の住人について尋ねる。 「たしかに仕事はしておられないようでしたが、きちんとした身形《みなり》であいさつもされるし、別にどこといって変わったところはなかったようですよ」  壁の合鍵を取りながら管理人はそう言って、ちょっと眉間に皺を寄せた。 「あの、あらかじめ警察に連絡した方が、いいですかね」 「一応、私たちが確認しますから」とみゆきが言うと、後ろで新井が不安そうにうなずいた。  ドアを開けたとたん、異臭が漂ってきた。しかし死臭ではない。酒臭い。  靴を蹴散らすようにして、みゆきは上がり込んだ。  奥の八畳のリビングに男が寝ていた。ふう、ふう、と短く息を吐いて、蒼白な顔をしている。新井が棒立ちになった。  ガラステーブルの上の銀の盆には、カットグラスと半分ほど中身の残っているウイスキーのボトルがあった。  イブの夫は、昔、みゆきが何度か遊びにきたときに見た精悍な顔立ちもそのまま、不精髭ひとつなく白いポロシャツに紺のズボン姿でカーペットの上に横たわっている。 「山本さん、山本さん」と彼の姓を呼びながら、みゆきは彼の肩を揺するが反応はない。 「新井!」  みゆきは、茫然とした顔で倒れている男を見下ろしている後輩の方を振り向いた。 「新井、電話! 119に」  男のズボンのベルトを緩め、吐いたものを吸い込んだりしないように、頭を高くして顔を横に向ける。  新井が電話をしている間に、睡眠薬の壜《びん》でも落ちていないか、とあたりを見回す。しかしそんなものは見当らない。ソファの上にも、カーペットの上にも、壜どころか、塵一つない。カップラーメンの食べがらも、数日前の新聞も、紙屑も、一切ない。  雑誌はきちんと重ねられ、服はハンガーにかかり小物も整理されている。頭上の小物干しから、ブリーフとシャツが下がって揺れているだけだ。  仕事も家庭も失った男の、汚れ荒れ果てた住居を想像していたみゆきは意外な気がした。それにしてもイブの夫は几帳面な性分なのか、ハウスキーピングは完璧だ。会社を辞めたくらい何なのだ、とみゆきには思える。こんな程度のことで離婚に至る夫婦の絆《きずな》のもろさに呆れてもいた。  そのとき電話が鳴った。受話器を取ると警察からだ。名古屋駅で、巧が保護されたという。東京のパパのところに行く、と言うばかりで、熊本のことは一切話さなかったらしく、こちらに電話が入ったのだ。  みゆきは状況を説明し、熊本のイブの実家の電話番号を教えた。  それから新井を福祉事務所に戻し、山本と一緒に救急車に乗って病院まで行った。  みゆきが病院のケースワーカーに事情を話しているうちに、ベッドで点滴を打たれていたイブの夫、山本は意識を回復した。  みゆきが病室に入っていくと、山本は気まずい表情をして、「いや、何ともお恥ずかしい、大変なご迷惑をかけました」と律儀な調子で言った。 「いえ、いいんですが、どういうことだったんですか」とみゆきは尋ねる。 「それが飲んでるうちに寝てしまったというか、正体不明になってしまいまして。お恥ずかしいの一言です。本当に」  山本は自殺を計ったわけではなかった。  医師の説明によれば、山本は急性アルコール中毒に加え、栄養失調による強度の貧血を起こしていたということだ。  几帳面な性分で身の回りや住居はきれいに整えても、家族も仕事も将来も失ってしまっては、食欲もわかなかったのだろう。  一人になってから、ほとんど食事らしい食事をしていなかったと、山本は言う。 「酒は飲めるんですが、何か食べようという気は起こりませんでしたね。それに食べるとたちまち下痢するもので、怖くて外に出られなかったんですよ。会社にいた頃、朝、出勤途中に行きたくなるんで、途中下車してトイレに駆け込んだことが何度もあります。そのときに限って混んでるんですよ。脂汗を垂らして、待つんです。情けないものでした。あるとき清掃中になっていて、我慢できずに女便所に入った。そうしたら鏡の前にいた女に大声で怒鳴られまして。事情を説明しているうちに、どうにもならなくて、女を突き飛ばして便所に入ったのですが、もう遅くて。ズボンまで汚してましたね。用を足して出たところに、女と駅員が待ってまして……。結局、そのとき会社を辞めることを決意しました。女房は、そのことが今でも不満のようですが」 「そのできごとは、イブに、いえ奥さんに話したんですか?」  みゆきは尋ねた。 「話せませんよ。そんな……」 「だって、そのトイレに間に合わなかった日は、そのままおうちに帰ったんでしょう」 「まさか」  山本は、首を振った。 「下着とズボンを買って、サウナに行って、体洗って着替えてから帰りました」 「そんな……」  夫婦の間で、なぜそれほど無理しなければならないのか、みゆきにはわからない。 「余計な心配を妻にさせるようなら、男は失格です。結局、私は失格なわけですが」 「心配させていいんじゃありませんか」  みゆきはさえぎるように言った。 「だから夫婦なんでしょ。もっともあたし、独身だから、でかい顔できないですけど」  山本は寂しげに笑った。  その日の九時過ぎ、みゆきの自宅にイブから電話がかかってきた。途中で巧を引取り、二時間ほど前に東京に着いて、今病院にいると言う。夫は今夜一晩入院し、イブたち親子は、彼らが家族として少し前まで一緒に住んでいた夫のマンションに戻るとのことだ。どちらからともなく会おうということになり、一時間後に、駅前のファミリーレストランで待ち合わせした。  みゆきがそこに行くと、親子はもう来ていて、巧は鉄板に乗ったロブスターのはさみにかみついているところだった。  涙で化粧も崩れたイブが、みゆきの姿を見ると、また泣きだしそうな顔をして、「きょうは本当にありがとう」と礼を言った。 「そりゃいいけど」とみゆきは、口のまわりを油で光らせた巧に話しかけた。 「よく家出してきたね、おばさん誉めてやるよ」 「熊本の家、大嫌いなんだ」と巧は、頬を膨らませた。 「ファミコンもないんだよ。ごはんなんか超まずいしさ。魚なんか出てきて」 「ああ、そうかい」  みゆきは言った。 「それに柱も天井も真っ黒で、おばけが出そうだし。トイレは水洗じゃなくて臭いし、お湯も出ないんだ。信じらんないよ。おばあちゃんは巧、巧ってしつこいしさ」 「孫がかわいいからだよ、ばか」 「うん。悪いから僕も適当に気を使ったりしてるんだけど、疲れるんだよね。おじいちゃんの方は奥の部屋で寝てるんだけど、じーっと黙ってて、すっごく不気味なんだ。死体だよ、あれって」 「ああ、そうかい」とみゆきは、息子を一瞥して、母親に言った。 「いいしつけしてるじゃない」  イブは苦笑した。 「やっぱりパパと一緒に暮らした方がいいのかもしれない」 「そりゃそうだよ」 「実家の方に、しばらく送金してくれるように頼もうと思うの。三人で、なんとか切り詰めて、それでやってみる」 「で、イブはどうするの?」 「主人の看病してる」 「生活はどうするの?」 「だから実家で……」 「甘ったれるのも、いいかげんにしたら」  低い声で、みゆきは言った。 「どれだけ立派な実家か知らないけど、結婚して子供まで作った一人前の女が、親がかりで暮らそうっていうの。この物価の高い東京に、送金させて」 「だって……」 「あなたが大黒柱にならなきゃ、しょうがないでしょ」 「無理言わないでよ、そんな」 「お嬢さま」  吐き捨てるように、イブに言い、その夜は気まずい思いで別れた。  その二カ月後、イブは再び福祉事務所のカウンターに現われた。その頬に、うっすら縦皺が寄っているのを見て、みゆきは驚いた。 「やっぱりだめみたい……」  どうやら今度は、みゆきの仕事に直結しそうな気配だ。隣の席の赤倉に断り、面接室にイブを呼んだ。 「主人とうまくいかないの」  うなだれてイブは言う。 「ああいう病気だから、寝込んでるわけじゃないから、お医者さんから帰ってくると、一日中、テレビ見てるわけ。わたしの親からの送金で暮らしてるって、知ってるから肩身が狭いみたいなところがあるじゃない。窓の外を見れば、朝なんか、スーツ着た男の人たちが、たくさん駅に向かって歩いていくし……。狭いマンションで一日中、顔を突き合わしてるのって、やっぱり辛い。どこに行っても主人の姿が見えるし、むこうもそう。息が詰まってくるのよ。それにがんばってみたけど、やっぱり東京の物価って、高くて……。おばあちゃんは、いつでも帰ってきていいよって、昨日電話くれたけど」  あんたは恵まれてるんだ、という言葉が、みゆきの喉元まで込み上げてくる。普通なら、どこからも送金などされないし、戻る家などない。病気の亭主と別れるにせよ、一緒に暮らすにせよ、ここのカウンターにやってきて、保護を受けながら仕事を探すしかないのだ。しかしその恵まれている部分が、イブの場合はネックになっている。 「働けば外に出られるよ」  みゆきは言った。 「外に出た、わたし」とイブは答えた。 「え……」  夫の保険のことで、生命保険会社に行ったとき、外交の仕事をしないかと勧められて、始めたのだという。 「どうだった?」 「最初の二週間はよかったんだけど……」  初めて社会に出てから、五週間と四日で、イブは仕事を辞めた。友人親戚関係に当たり、いくつか契約を取った後は全く実績が上がらず、しかも勧誘した学生時代の友人との関係は、すっかり気まずいものになってしまったと言う。  二十歳で嫁ぎ十数年、社会の荒波を知らずに生きてきたイブが、生き馬の目を抜く保険外交の世界で生きていかれるはずはない。あれこそまさに、にっこり笑ったその顔の裏で、眉間に縦皺を寄せなければならない商売なのだ。 「知らない人と話すのって、辛いのよ。それに嘘もつかなくちゃいけないし。いらないって言われても、食いついていくバイタリティーとか、わたし、ない。わたし、やっぱり家の中で、こまごましたことやっているのが、向いてるみたい」  そうしてられない状況だってことは、わかってるだろ、と怒鳴りそうになって、みゆきは言葉を止めた。  イブの憔悴した顔にピンクの頬紅が浮いている。めずらしくパンプスをはいているが、その真新しいパンプスの踵《かかと》が、すり減っていることが五週間のイブの奮闘を物語っていた。  みゆきは、ふうっと息を吐き出した。  手元には、広報があった。庶務担当者が忘れていったものらしい。  そこに「福祉ヘルパー募集」とあった。  福祉事務所で、老人・身障世帯を訪問して家事や介護を行なうヘルパー二人が、二カ月前に退職したのだ。はっとひらめいた。  楽な仕事ではないが、保険の外交より、こちらの方がイブに向いているような気がする。十年を越える主婦の実績も、役に立つかもしれない。二週間の講習があるが、これをクリアすれば、イブでも使いものになりそうだ。そのうえ正職員だから、病気で倒れる前の夫には及ばないにせよ、大黒柱としては十分な給料が取れる。  みゆきはその記事をイブに見せた。 「だめ」  イブは即座にかぶりを振った。 「八時半から五時だなんて、家のことをできないし、巧が学校から帰っても私がいないんじゃかわいそうだもの」  ついにみゆきの頭に血が上った。 「だったら親子三人心中するなり、息子つれて実家に帰るなり、故郷のヒヒジジイと再婚するなり、勝手にしたら」  ぱたりとファイルを閉じて、相談室を出る。 「待って、みゆきちゃん」  悲鳴のような声を上げながら、イブは追ってきた。 「怒らないで。ねえ、やってみる、わたし。だから怒ったりしないで」 「私が怒るっていうより、おたくの問題でしょうが」  ぶつぶつ言いながら、人事担当者に連絡をとった。庁舎内の売店で履歴書用紙を買ってこさせ、その場で記入させる。その日のうちに採用は内定した。  半月後、研修を終えて初登庁したイブは、年配のヘルパーに連れられ、交通事故で下半身不随になった一人暮らしの男の家に行ってきた。障害をかかえた男が作業場に通い、帰宅して車椅子に乗ったまま台所仕事や洗濯をこなしていくのを見て、イブは驚いたらしい。イブたちヘルパーの仕事は、その補助に過ぎないのだ。 「男の人で、車椅子なのに、台所仕事を自分でしてるのよ」と、戻ってきたイブは、感心と同情の交じったような口調で語った。しかし一週間もすると、慣れてきたせいか、何も言わなくなった。 「この頃、家のこと、うちの人がみんなやってくれるの」と恥ずかしそうに語ったのは、しばらくしてからである。「本当は、そういうの好きじゃないんだけど」と言い訳するように付け加えた。  休日出勤や残業をイブは文句も言わずにこなし、大黒柱としてはまずまず合格といった収入を得るようになった。おそらくその額は、民間の自称キャリアウーマンをしのいでいるかもしれない。  しかしイブは相変わらず、イブである。  時間になっても、ヘルパーが来ないがどうしたのだろうか、という電話が、ときおり事務所にかかる。  一日に、何箇所も訪問しなければならないのに、つい話相手などをしていて、遅れるのだという。定められた時間内に仕事を切り上げて、事務所に戻って報告書を書く、という基本的なことが、イブにはなかなかできない。庶務担当者は渋い顔をしているが、老人達の間での評判はすこぶるいい。辛い思い出話をしたとき、一緒に泣いてくれた役所の人は、山本さんだけだ、と暮れに福祉事務所までみかんを届けにきた老女がいた。  服装のセンスは勤め始めても変わらない。さすがに足元は支給品のナースサンダルだが、ふわふわした刺繍《ししゆう》入りのセーターに、花柄プリントのスカートという格好は、専業主婦の頃のままだ。 「そのおばさんスタイルやめなさいよ」とみゆきが言っても、「だっておじいちゃんやおばあちゃんが、似合うって言ってくれるのよ」と、笑っている。  笑顔に横皺が寄る。去年の今頃は目尻にしかなかった皺は、今は頬の上や顎の下にまで広がっている。  しかし縦皺はない。微笑むのをやめると、相変わらず、ぼおっと抜けた顔になるが、縦皺だけは不思議と寄らない。  ナースサンダルの踵を引きずって、内股でやってくるイブの面影は、高給取りの夫に家庭内で守られていた頃か、それ以前、デートに着ていく服のことで二時間も迷っていた学生時代そのままだ。  優しいのか無責任なのか、情があるのかないのか、そのとらえどころのない、ふんわりした甘さは、今後、何があっても変わらないだろう、とみゆきは思う。 「あなたみたいなのは、民間じゃ絶対、勤まらないわよ」などと、憎まれ口を叩きながら、みゆきはストレスがたまると、仕事帰りにイブを誘う。  イブがビジネス手帳を見ながら、「ごめん、今日はエアロビクスの予定があるの」などと断ったりすることは、今でもない。  そろそろイブの夫の再就職口が、決まるかもしれない、という話を聞いた。病気の方は、かなり良くなっているらしい。元のような一流企業への再就職がかなわなかったにせよ、夫が働けるようになったとき、イブがいったいどうするのか、みゆきには想像がつかない。 [#改ページ]    失われた二本の指へ  相談係の山口みゆきが、カウンターの向こうで片手を上げた。鮫島隆一は書類を片づけて立ち上がる。 「お、姐《あね》さんと若頭《わかがしら》のお出かけか」と係長が公用軽自動車の鍵を投げてよこす。 「代行ってとこじゃないすか。若頭ってほど若くなしってね、鮫島さんは」と、新人のケースワーカーが、軽口を叩く。  鍵を受け取った鮫島は「うるせえ」とつぶやきながら、もう一度カバンを開け、手帳や身分証明書などを確認した。  事務服を羽織り、ボタンをかけようとしてやめた。蟹《かに》の甲羅のように四角く幅広い上半身と、盛り上がった筋肉のために、支給品の事務服ではサイズが合わない。 「今日みたいなときこそ、ダメ島君の出番ね」と、みゆきは台帳を引っつかみ、空いた方の手で鮫島の背中を力まかせに叩く。鮫島は痛みに息が詰まった。  福祉事務所の女たちは、鮫島のごつい容貌を見ただけで、彼は何を言われても傷つかないし、どんなに強くぶん殴られたところで、蠅《はえ》に止まられた程度にしかこたえないと思い込んでいる。  前にいた農林課ではこんな扱いは受けなかった。農林課に一人だけ配属されていた女性職員は、福祉事務所の女たちと違い、男性の補助的業務についていたが、いつも優しく思いやりがあった。事務員も作業員も彼女がいたから、真冬の森林作業や地主との交渉に飛び出して行かれたのである。その女性職員、叶幸子《かのうさちこ》も、妙な理由で退職し四年が経《た》つ。  スナックでヤクザに引っかかり、夫がいるにもかかわらず、無断欠勤して鳥取まで追いかけていってそれきり消息を絶った。いったいどうなったものやら気がかりだが、鮫島には何もできない。 「山口さん、言っておくが、訪問先でそのダメ島というのはやめろ」  駐車場まで行き、公用軽自動車のドアを三本の指で開けながら、鮫島はみゆきの方に向き直って言った。 「私が一般市民の前でダメ島なんて言ったことある?」とみゆきは謝る気配もない。  農林課時代、作業員について山に入ってばかりいた鮫島は、福祉事務所にケースワーカーとして配属された当時、なかなか福祉六法を使いこなせないうえに、保護費の計算を間違えたり、書類の記入ミスをしたりで、仕事のできないやつという烙印を押されてしまったのである。そして間違いなく書類を上げるようになった今でもダメ島というあだ名だけが残っている。  みゆきは鮫島の気分などにはかまわず、助手席で記録に目を通し始める。  昨日、生活に困窮した、と言って福祉事務所にやってきた女がいた。一年前に別れた夫が慰謝料はもちろん、約束した養育費も払わず、その上分けるべき財産もなかった、というのだ。みゆきは事情を聞くために、前夫に電話をして、事務所に来るように言ったが、相手は応じない。そこでこれからその男、松岡雄次の新しい所帯に行くところなのだ。  福祉事務所には母子を救ういくつかの手段があるが、子供を妻に押しつけて逃げた夫から養育費を取り立てる権限はない。それにはあくまで妻が裁判を起こすしかないのだ。しかし判決が出て、それでも払わぬ夫に強制執行がなされるまで、長い時間がかかり、その間にたいていの母子は気力も生活費もなくす。そして負けたときには、莫大な裁判費用が、その肩にのしかかってくる。だから、実際に裁判まで起こすことはめったにない。  権限もないまま、ケースワーカーは、一応、別れた夫と折衝《せつしよう》する。その方法は徹底して話し合い、説得するというものだ。たいていは徒労に終わる。そして夫は何の負担もペナルティーもなく、新たな生活を始め、生活力のない妻の方は、いくつかの公的扶助を受けつつ、最低生活を送ることになる。  松岡の前妻の話によれば、二人の間には、十歳になる長女とこの春小学校に上がる長男がいるが、松岡は結婚してからの十年間、次々に事業を興しては失敗し、借金の返済と生活費は前妻がホステスをして賄《まかな》ってきたとのことだった。男の興した事業というのも、裏ビデオ、大人のおもちゃ、婦人用の特殊下着などの通信販売といったところで、どうもまともなものではない。どこかの組織に属している、とは聞いていないし、傷害などの前科はないが、堅気ではなさそうだ。そんな事情もあって、みゆきが一人で訪問するのは危険だという大船所長の判断のもとに、ボディガード代わりに鮫島がつけられたのだ。  鮫島は片手でハンドルを握り、空いた手の三本の指で四角く張った顎《あご》をこする。髭の剃《そ》り残しが指に触れた。バックミラーにこぶのように突き出た額が映る。  たしかに恐れられこそすれ、からまれたりしない顔だ。そしてその右手、骨太の小指と薬指は第二関節から先がない。ごつい風貌に加えてその手だから、初対面の人間は大抵震え上がる。もちろん女にも縁がなく、四十を間近に控えた今も独身だ。  しかし鮫島の失った指は、気合い一発、すっぱり刃物で落としたわけではない。いわゆる落とし前という安っぽいものではないのだ。伐採現場で作業員の頭上に倒れてきた木を支えようとして、ロープと木の肌にこすられ、すり潰されたものだ。  訪問先は、福祉事務所から車で二十分ほどの市の外れにあった。家は古いが敷地は広い。手入れが悪く雑草の茂った庭の中央にプレハブの事務所が建っている。 「なによ、これは。いいとこに住んでるくせして、養育費は出せないってわけ?」  山口みゆきは、車を下りると荒々しくドアを閉めた。鮫島は黙って表札の方を顎でしゃくった。佐藤貞次郎とある。 「なんだ、自宅じゃないのか」とみゆきは舌打ちした。  母屋の方に行きかけて、鮫島はプレハブの中を見た。事務机に体を斜に向け、足を組んで座っている男の姿がある。ピンときた。みゆきの肩を叩き親指でそちらを指す。みゆきはうなずき、つかつかとプレハブに近づき、勢いよく引き戸を開けた。 「福祉事務所の山口です」  噛《か》みつくようないつもの口調だ。中年の男がゆっくりと立ち上がった。パンチパーマにベージュのへちま襟のセーターといったかっこうは、ヤクザというよりは、町の配管屋や建材屋の主人といった雰囲気だ。男はみゆきの顔を見て、鼻に皺《しわ》を寄せ薄く笑ったが、後からのそりと入っていった鮫島に気づくと、ぎょっとした表情になった。 「どうぞおかけください。今、ヨメに茶を持ってこさせますから」とその男、松岡雄次は内線電話のボタンを押す。  丁寧な言葉づかいとは裏腹に、上目遣いの視線が険しい。こけた頬が荒《すさ》んだ印象を与えるが、顔立ちは驚くほど彫りが深く、整っている。  みゆきは素早くファイルを開き、用件を切り出した。 「ちょっと待ってください。今さら前のヨメのことを持ち出されても」と男はさえぎった。 「前のヨメがどうこうじゃなくて、あなたの子供の養育費のことです」  みゆきは早くもけんか腰になっている。 「おたく、裁判所だっけ、警察だっけ」 「ここでの話し合いの結果によっては、そちらに回しますが」  鮫島は、指を無意識に隠して手を組み、無言で控えている。  そのとき背後で戸が開いた。甘いブーケの香りが漂ってきた。とたんに鮫島は胸が詰まった。唐突に湧き上がった切ない感情に戸惑っていた。  ディオリシモ。鮫島がシャネルNo.5以外に唯一知っている香水の名前だった。 「どうぞ、お茶を」といういくぶん掠《かす》れた声に聞き覚えがあった。空耳のような感じさえした。恐る恐るそちらを見た。  マスカラとブラウンのシャドウに囲まれた、濡れたような大きな目があった。低い鼻とふっくらと柔らかな唇。決して美人とはいえないが、限りなく優しくあふれるばかりの愛敬をたたえた叶幸子の顔がそこにあった。 「サメちゃん……」  茫然とした顔で、鮫島を見つめる幸子は変わっていない。もう四十になったはずだが、役所にいたころより、さらに華やいでいる。手を触れれば一瞬のうちに花びらを散らしてしまう満開の牡丹《ぼたん》の花のような、どこか妖しく危うい美しさだ。  鮫島は、うろたえながら立ち上がり、直立不動で「どうも、ごぶさたしています」と頭を下げた。鮫島が新卒で農林課に配属されたとき、高卒で役所に就職した二歳年上の幸子は、彼にとっては大ベテランだった。丁寧に仕事を教えてくれる一方で、新人という理由で鮫島がお茶くみなどさせられていると、そっと給湯室に来て代わってくれた。 「いいのよ。私、男の人がこんなことしているのって、好きじゃないから」  そう言って彼から急須を取り上げた左手の薬指には、プラチナの指輪が光っていた。  そして今、彼とみゆきにお茶を出した幸子の手に光っているのは、けばけばしい金のかまぼこ型リングだ。  茶わんをみゆきと鮫島の前に置くと、幸子は松岡のところに行き、取引先から電話が入ったことを告げた。 「あれって、農林課にいた彼女じゃない」  みゆきが耳打ちする。 「ダンナほっぽり出して、ヤクザ追っかけたっていうけど、松岡がそのヤー公だったんだ」 「よせ」  鮫島は低い声でとがめる。  松岡は幸子と言葉を交わすと、すぐに出ていった。取引先との約束があるのだと言う。 「ごめんなさい、うちの主人、いろいろ忙しくて」と、幸子は謝った。 「冗談じゃないわよ」  ファイルを引っつかみ、みゆきがはじかれたように立ち上がり、松岡の後を追う。鮫島が腰を上げかけると「来ないでいいわよ、役立たず」という怒鳴り声が返ってきた。  事務所に幸子と二人残され、鮫島はどんな態度をとったらいいのか迷った。失った指にうずきが戻ってくる。  六年前のあの日、独身寮の六畳一間に見舞いに現われた幸子の「痛い?」と尋ねた口調が、彼の顔を覗き込んだ潤んだ眼差しが、生々しく記憶に蘇《よみがえ》ってきた。  伐採作業中の事故で、山から病院に担ぎ込まれた鮫島は、そのとき潰れた指先を二本切断した。本来なら一日くらい入院するところだったが、あいにくベッドの空きがなく、しばらく病院のベッドに身を横たえていた後、タクシーで独身寮に戻ってきた。  麻酔が切れ、病院で渡された薬を飲んだとたん、多量の出血のせいもあり、めまいが襲ってきた。押入れから、ようやく片手で布団を引っ張り出して敷き、倒れこんだところに、幸子がやってきた。  起きようとした鮫島を制して、幸子はその枕元に体温計や水、薬などを盆に入れてそろえて、尋ねた。 「何か必要なものはない? ほしいものは?」と。 「本当にほしいものを言っていいか? 怒らないか?」と鮫島が言ったのは、強烈な鎮痛剤とそれでも消えない指先の痛みに、精神のどこかがマヒしていたからに違いない。 「何が……ほしいの?」  尋ねられ、鮫島は口ごもり、救いを求めるように無事な方の手を伸ばした。幸子は少しとまどったような表情を浮かべ、それからかすかにうなずいた。そして鮫島の手を取り、そっと唇に当てた。そしてブラウスのボタンを外すと静かに胸元に導いたのだ。そのまま数秒間、微動だにしなかった。めくるめくような時間だった。切った方の手から、痛みは完全に飛び、鮫島は幸子の暖かさと柔らかさに包まれていた。  幸子が帰った後、指先からひどく出血したが、痛みは感じなかった。  しかし翌日から、鮫島は職場で幸子と口をきくことも、視線を合わせることもできなくなった。そして同じ役所にいる幸子の夫の姿を見かける度に、さり気なく柱の陰や階段に身をひそめた。福祉事務所に異動したのは、その直後のことだ。 「ダンナは、鳥取から出てきたんですね」  他人行儀な口調で、鮫島は尋ねた。幸子は、淡い笑みを浮かべてかぶりを振った。昔よりいくぶんピンクの強くなった頬紅の下の皮膚に小皺《こじわ》が寄っていた。慌てて視線をそらそうとして、見てはならないものを見た。きっちり塗られたファウンデーションを透かして、薄く紫色の痣《あざ》があった。冷たい汗が鮫島の背筋を流れた。 「捨てられたの、鳥取まで行って。実家に帰ってみたら、母が病気で亡くなっていて、しばらくして父も半身不随になってしまって。それから父の面倒を見ていたんだけど、家にばかりいるのもいけないと思って、去年から働き始めて、うちの人とは、そこで知り合ったの」 「どこの店?」と思わず鮫島は尋ねた。昔より赤みを増した化粧と膝小僧の出るエメラルドグリーンのタイトスカートを目にして、水商売でも始めたのだ、と思ったのだ。 「自動車部品を作ってる小さな工場の事務所。誤解しないでね、サメちゃん、知り合ったとき、うちの人、もう奥さんと別れていたのよ。それで雇ってもらいに面接に行って、その日家に帰ったらすぐに電話があったの、一緒に食事しようって。すごく気に入ってくれて、私のこと。お互いもう若くはないし、ちゃんと結婚しようってことになったのよ」 「実家の親父さんは?」 「だから私が見ているの。知り合った翌日から、うちの人、ここに来て泊まっていって、なんとなくそのままになっちゃって。それで今年、独立することに決めて、事務所を建てたのよ。うちの人、ああ見えて顔が広いから……」 「つまり、ここは叶さんの実家なんですか?」  叶さん、と前夫の名字で呼んでしまった後、鮫島は慌てた。 「そう。だけど、私の実家だってことあまり言わないで。うちの人、プライド高いから」  鮫島の背筋を冷たい汗が流れた。最悪の事態が予想できた。すばやく幸子の足首から胸まで、視線を這《は》わせる。  幸子は痩《や》せていた。頬の膨らみが昔のままだから気づかなかったが、ミニスカートから出た膝はごつごつして、肌には血管が透けて見える。大きく開いたブラウスの襟刳《えりぐ》りから覗き込むと、鎖骨の浮いたあたりにはっきりと痣が見えた。 「親父さんは、何と言ってるんですか?」 「昔は、信用してなかったみたいだけど、すごくよくしてもらって、今はうちの人と仲良しなのよ。兄は結婚してからお義姉《ねえ》さんの家に入りびたりで知らん顔なのに、うちの人はベンツで毎週、温泉とか連れていってあげるし、朝なんかも真っ先にじいちゃんの寝てるところに挨拶に行くし。ところでサメちゃん……」  幸子は言葉を切って、鮫島を見つめた。 「今日は、どうして来たの? 前の奥さんが何か言ってきたの?」 「離婚した後、生活に困窮している。慰謝料や財産分与もなかった上に、約束した養育費も払われてないんだ」  鮫島は沈鬱な気分で答えた。 「うそ……」と幸子は言った。 「そんなのうそ。私、下の坊やが入学するっていうから、ランドセルでも買ってあげてって、あの人に、このお正月、ちゃんと包んで渡したし……。それに養育費だけでなくて、あの人ちゃんと前の奥さんに生活費を送ってるって言ってるわ。だいいち、私だってほとんどお金なんてもらってないし」 「立ち入ったこときいて悪いんですが、松岡は、いえ、ご主人はいくら生活費を入れてますか」  鮫島は尋ねた。 「月、八万くらいかしら……」 「八万?」 「ええ、月によっては、もっと少ないこともあるけど、ほら、前にいた工場はお給料少なかったし、今は事業始めたばかりで、いろいろかかりも多いから。あまりきかないの、お金の話って。うちの人、嫌がるから」 「八万ですか」  鮫島はもう一度、押し殺したような声でつぶやいた。  四十をとうに過ぎた男が、家に八万しか金を入れていないというのは、ふつうではない。幸子は、前妻と子供たちに送金していると信じているようだが、実際には、彼らのもとに金は一銭もいっていない。それはみゆきが調査しすでに確認していることだ。  松岡には、前の家族に対しても新しい妻に対しても、生活上の責任を負うつもりは一切ないのだ。それだけではない。幸子の痣は、何を物語るのか。  何から言っていいものか迷った。 「叶さん、じゃなかった、ええ……」 「マ・ツ・オ・カ」  ささやくように幸子は言った。 「松岡幸子さん、とにかく近いうちに、会えないか。いや、変な意味じゃなくて、言っておきたいことがある」 「悪いけど……。うちの人、私一人でだれかに会うのを嫌がるの」 「女友達にでも会う、と言えばいいじゃないか」  幸子は首を振った。 「女の子のときでも、うちの人と一緒に会うか、そうでないときはうちに遊びにきてもらうだけで、一人では外出できないの」  鮫島は唾《つば》を飲み込んだ。異常事態だ。幸子は、目を凝らせば痣の淡く透ける頬に、寂しい笑みを浮かべた。 「知ってるでしょう。あたし、どんな女か……。だからうちの人、信用できないのよ。前のこともあるし……」  たしかにそうかもしれない。幸子はいったい何人の男を知っているのだろう。あのときの鮫島との関係のようなものまで含めるとかなりの数になるのかもしれない。しかし尻が軽いというのとは違う。男運が悪いのだと鮫島は思った。優しすぎ、気立てが良すぎて、いつも利用され捨てられる。  いずれにせよ、放っておいたら、取返しのつかないことになりそうだ。二度と会えなくなるかもしれない。大切なものを永遠に失ってしまう、という恐怖を感じた。  そのとき背後で乱暴に戸が開いた。振り返ると、肩で息をしながらみゆきが口を一文字に引き結んで立っている。 「逃げられた。来週もう一度、来るわ。無責任にもほどがある」という言葉が、怒りに震えている。  そして、鮫島の方を見ると「帰るわよ」とちょっと首をかたむけ、かたわらの幸子にあいさつをすることもなく、外に出た。  鮫島は、躊躇《ちゆうちよ》しながら立ち上がり、幸子に一礼した。そのとき幸子が、ふっと体を寄せてきた。ディオリシモの香りに、胸底が熱くなった。柔らかな体をそのまま抱きしめたかった。 「電話していいか」  そうささやいて、振り返ると襟元から鎖骨の奥の痣が目に飛び込んできた。幸子は潤んだ丸い目で鮫島を見つめ、静かに首を左右に振った。 「役所は、天国みたいだった。みんないい人ばっかりで。私の前のダンナ、元気にしてる?」 「ああ……」 「叶さんは、優しかった……大事にしてくれた……男の人って、みんなあんな風に優しいと思っていたの」  幸子の目がきらきらと光り、下がった目尻に涙がたまった。鮫島は切り落とされた指先から全身に電流が走るような気がした。じっと幸子を見つめたまま動けなかった。 「何やってんのよ、早くしなさいよ」  みゆきの怒鳴り声が飛んできた。  車に戻ると、みゆきはファイルを後部シートに叩きつけた。 「亭主が亭主なら、後妻も後妻だわ。同じ元同僚でも、男にはべたべたして、女には知らん顔ってやつがいるのよね」 「あんな辞め方したから、気まずいんだろ」  半ばうわの空で鮫島は答えていた。  事務所に戻った後も鮫島は、ひどく落ちつかない不安な気分のまますごした。久しぶりに、計算まちがいをした。  ちょうどその日は給料日で、久しぶりに仕事が定時で引けた。同僚に酒に誘われたが、昼間のことが気にかかっていて、上司の悪口を言いながら酒を飲む気にもなれず、適当な理由をつけて断った。かといって定食屋でそそくさと食事を済ませてアパートに戻る気もしない。これといった目的もなく、電車で隣町に行った。  ケースワーカーたちは、よほどの事がない限り、地元の飲み屋には入らない。気分よく飲んで何気なくママの顔を見ると、無収入であるはずの保護世帯の女だったりすることがあるからだ。慌てて帰ろうとして伝票を見ると、ビール三本で百円となっている。押問答してむりやり適正な金額を払えればよい。そうでなければ一生を棒に振ることにもなる。  駅を下りてうらぶれた商店街を抜け、鮫島は馴染みの寿司屋に入った。店の主人はもとは、市役所の売店でテイクアウトの寿司を売っていたのだが、二年前に結婚してここに店を出した。 「あれ、ミキちゃんは?」  カウンターに座った鮫島は店主に尋ねた。  ミキちゃんというのは、店主の五つ年上の妻のことだ。 「二階で親父さんを看《み》てる。ここ二、三日、また具合が悪いらしい。まあ、大変だわな。独身が一番だよ、サメちゃん」  大変という言葉に様々な含みを感じて、鮫島は苦笑する。この土地も建物も彼の義父のものだ。結婚と同時に妻の実家を建て直し、一階に店を作ってもらったのだ。 「一生、売店でのり巻きといなり寿司の詰め合わせを売ってるか、それとも自分の店を持てるかっていう瀬戸際だったんだよ、サメちゃん。辛抱だよ、辛抱。向こうの親父さんだって、そんなに長くはないし」  少し前、大雪で他の客がだれもいなかったとき、主人はぼそりともらした。三十二歳になるすし職人は、こうして三十七歳の家付き娘と結婚したのである。  目の前に、鮪《まぐろ》の赤身が並んでいた。 「どうしたの、サメちゃん、食べなよ」  主人が声をかける。  ……辛抱だよ、辛抱。親父さんだって、長くない……。  鮫島は戦慄《せんりつ》した。あいつは、松岡は長くない将来、何をしようというのだろう。 「辛抱してるか? マスター」  唐突に鮫島は尋ねた。「えっ」と主人は寿司を握る手を止めた。 「いろいろね」  拍子抜けするくらい屈託のない笑顔が返ってきた。  何を言ったにせよ、このすし屋は真面目な男だ。仕事はちゃんとしているし、恩には恩で報いる古い男だ。しかしあいつは違う。  幸子が事務所に面接に行ったその日のうちに、松岡は誘いをかけてきたという。ふっくらとした頬、少し掠れた優しい声、脆《もろ》い砂糖菓子のような体、もちろん幸子には四十になった今でも、男心を引きつけてやまないものがある。しかしそれ以上にあの男の目を引いたものがあった。  履歴書に書かれた事実だ。資産、家族構成……家付きの出戻り娘。  老い先短そうな病気の父親が一人。兄がいるが、結婚して外に出たきり、満足に実家に顔も出さない。ろくでもないことをして世間を渡ってきた男にしてみれば、女はもちろん、体を悪くして心細くなっている老人一人をだますことなどたやすい。  温泉もベンツも、元はと言えば幸子の懐から出ているのだろう。だいいちいい歳をした男が、八万円しか家に入れていないのだ。そして幸子は、人のいないところで暴行を受けている。女友達との接触もままならない。  あの男は今、それでも辛抱しているのだ。幸子の父親が死んだらどうなるだろう? 幸子は丸裸で追いだされ、代わりに若い女があの土地、あの家に引っ張り込まれる。  いや、殺されるかもしれない。まず父親が。そしてその後、幸子が。  鮫島は立ち上がり、店の外に飛び出し電話ボックスに入った。昼間控えておいた番号を押すと幸子が出た。 「どうしたの」  うろたえている。 「早急に話がある。どこか……そう、役所まで来てくれないか。役所なら松岡も文句言わないだろう」 「だめなの、外に出るときは、必ずうちの人の車で行くんだから。言ったでしょ。電話もだめ。親子電話で聞けるんだから、男の人と話なんかしてたら、大変」 「すまない、悪かった。とにかく隙《すき》をみて、電話をくれ」  慌てて受話器を下ろす。いよいよとなれば警察だが、これも信用できない。民事不介入で何もしないくらいならまだいいが、前夫から逃げてきた母子世帯の住所を取引きの餌《えさ》に教えるくらいのことはするのが彼らだからだ。  力ずくでも……そうつぶやいて、鮫島は自分の右手を見た。短い二本の指。その先端は今はきれいに皮膚にくるまれ、つるりと滑らかだった。  俺はたった一人で木を支えたのだ、と鮫島は思った。  倒れかかる木を全身で支え、作業員を救った。  力ではだれにも負けない。スポーツなどという甘ったるいもので鍛えた体ではない。田舎では、大工の手伝い、木材の切り出しなどをしていた。二十歳を過ぎてから思い立って東京の大学に進学したが、四年間建設作業員のアルバイトで学費と生活費を賄った。  やればできる、力ずくで幸子をさらってくる。アルコールの回った頭で、鮫島は決意した。  幸子はその名と反対に不幸な女だ。優しいからこそ、思いやりがあるからこそ、いつも心のどこかが傷つき、その傷口を覆ってくれる男を求め続けてきた。そして四十を過ぎた今、もうやりなおしなどきかない、と人生をあきらめ、あの男にくっついてされるがままになっている。今、命さえ危ぶまれるところにきているのに気づかない。いや気づいているのかもしれないが、何もできない。救えるのは自分だけだ。  しかし、幸子からは、何の連絡もなかった。不安と焦躁感はつのったが、鮫島の方から電話することはできない。会話を聞かれたら、いや、男から電話があったというだけで、幸子がどんな目に合わされるかわからない。  ようやく幸子に連絡が取れたのは、それから一週間後だった。 「え、松岡さんは留守。だからいついらっしゃるか、と聞いてるんですよ。奥さんにもわからないって、そんなはずないでしょ。いるなら出してください」  鮫島が訪問から戻ってみると受話器に噛みつくようにして、みゆきが怒鳴っていた。どうやらこの前の件で電話をかけたが、らちが明かないらしい。 「ちょっと貸せ」  鮫島は、その手から受話器をもぎ取った。鮫島が出ると、幸子は驚いたように声を呑んだ。 「ダンナが留守だって、本当ですか」 「ええ、出かけているの」  鮫島は少し間を置き、言葉を続けた。 「これからすぐに、適当な理由をつけて、親父さんを入院させてください。そして、あなたはその家をなんとか抜け出して、タクシーか何かでここに乗り付けてください」  相手は沈黙した。その沈黙を承諾と受け取り、受話器を置こうとしたときだ。 「待って」と幸子は叫んだ。 「あの……来て、サメちゃんが。今夜、六時、うちに来て。話はそのとき」  鮫島は慌てて、時刻をメモ用紙に書きつける。確認しようとしたときには、電話は切られていた。 「六時、ね」  みゆきがメモを覗き込んだ。 「私用だ」と鮫島は答え、素早くメモをたたんで胸ポケットにしまった。  その日、鮫島は年代物の自分のシビックで、幸子の家に行った。  約束の時間よりもだいぶ早く着き、挨拶もなく事務所の戸を開けると、松岡が正面の机の前にいた。縞《しま》のスーツに開襟シャツという姿の松岡は、きょうはどこから見てもいっぱしのヤクザだ。 「どうぞ、おかまいもできないですが」と松岡は、わざとらしいくらい穏やかに言い、鮫島を事務所の奥の応接セットのところに案内した。ビニールレザーのソファにかけると飲み物を持って、幸子が現われた。刳《く》りの深いラメのセーターに、タイトのミニスカートという、こちらも姐さんのようなかっこうだ。 「失礼ですが、どういった事業をなさっているんですか?」  鮫島は無意識に指の欠けた右手をテーブルの下に隠して、尋ねた。 「通信機器の部品販売ですよ」 「は、どういった?」 「まあ、いろいろ」と松岡は薄笑いを浮かべる。 「サメちゃん、ビールでいい?」と幸子が尋ねる。 「いや、こっち」と焼酎の壜の隣にある、ウーロン茶を左手で差す。 「戻ってから、仕事があるんで」 「今、忙しいんだ」とうなずき、幸子は鮫島のグラスにそれを注ぐ。 「ところで、どうも、うちのヨメに用があったそうで、鮫島さんって言ったっけ、私もいろんな業界の人と知り合いになりたいと思っていたもので、ぜひ一度飲みたいと思っていたんですよ」  すでに酒が入っているのだろう。ですます調の松岡の言葉は、ところどころ巻き舌になっている。 「こいつ、どうでした? 私はねえ、鮫島さん、惚《ほ》れちゃったんですよ、こいつに。ふっとこう、うちの工場の事務所に入ってきたとたんに。ま、いろいろ悪いこともやってきましたけど、これが最後の女だって、ま、そんな気がしましてね」  鮫島は左手に持ったグラスを置いた。 「で、鮫島さんは、ヨメに何の用事があったんです? 前の女がまた、何か言ってきたんですか。あの女の言うことは、信用しない方がいいですよ。あれは幸子とは正反対、とんだしたたかもので」  幸子はテーブルの上のおつまみを小皿に取り分けると、箸を添えて鮫島の前に置く。割り箸を割って鮫島に持たせる。その手の親指の付け根が紫色をしていた。  鮫島は息を呑んだ。一瞬遅れて、怒りに全身が震えた。 「ちょっとききたいんだが」と鮫島は左手でその手首をつかみ、松岡の前に突き出した。 「これはなんだ?」  幸子はうろたえ、逃れようとするが、鮫島は離さない。 「惚れてる女にこれか? あんた、叶さんに何をした?」  とっさに、馴染んだ前夫の名字を呼んでしまうのはしかたない。 「サメちゃん、いやあね。ぶつけたのよ。あたし、そそっかしいでしょう」  笑いながら幸子が言うのを松岡は制した。 「惚れてるからだろが。どうでもいい女が何やったって、俺は何もしない。鮫島さんよ、惚れてるから、手も上げる。男っていうのは、そういうもんじゃないですか。こいつが、ほら、なんて言ったっけ、あの叶って男から逃げ出したのは、優しいだけで自分に本当に惚れてるってことを教えてやらなかったからじゃないかな。俺の言うことは間違っているか、なあ」 「叶さんのことは、もう言わないって、約束したのに……」  幸子は、あいまいな笑みを浮かべて松岡を見る。鮫島は、右手を握りしめたまま、左手でグラスを取り上げ、ウーロン茶をあおった。そして低い声で言った。 「松岡さん、叶さんを、いや幸子さんを解放してやってくれませんか?」  松岡は、薄い眉の片方をひょいと上げた。 「幸子さんを解放してやってくれ、と言ってるんですよ」 「よく聞こえねえな」  松岡は片手で耳をかいた。 「幸子さんをゆずってください」 「ちょっと待って、鮫島さん……」  幸子は後ずさった。 「独り言か? 他人のヨメがほしい。四十過ぎのババアを」  整った鼻筋に皺を寄せて、松岡は笑った。 「ババア……ですか」  鮫島は握りしめた右手でテーブルをこつこつと叩いた。 「親父さんが死んだら、あんた幸子はもういらないんだ。そうだろう。土地と家と財産を乗っ取った後、捨てようって魂胆が見えている。前の女房にあんたの事業とやらの尻ぬぐいをさせたあげく、放り出したようにな」 「幸子って、呼び方、気に入らねえな」  最後まで言い終える前に、松岡は立ち上がり、それと同時に、酒壜やら氷やらつまみやらの載ったテーブルを蹴り倒した。同時に背後でドアが閉まる鈍い音がした。  鮫島は振り返った。男が二人、坊主頭の若者とパンチパーマを振りたてたどす黒い顔の中年男が、事務所に入ってきたところだった。鮫島は体を硬くした。こぶのように出っ張った額や張り出した顎のために、顔こそ恐ろしげだが、鮫島はまっとうな世界しか知らない。  そして今、ようやく自分がはめられたと気づいた。幸子は、あの電話を松岡に聞かれ、脅されて、ここに来るように自分に言ったのに違いない。  相手はプロだ。そう思っただけで、怒りとともに恐怖が全身を貫いた。  来るな、近寄るな。口がきける状態なら、はっきりそう言っただろう。しかしこのとき恐怖のあまり喉《のど》はつまり、口から出たのは唸《うな》り声だけだった。ブルドッグのように鮫島は唸った。  パンチパーマが片手を上着の内ポケットに突っ込み、体を揺すって近づいてくる。  幸子が悲鳴を上げた。  鮫島は唸りながら、傍らに横倒しになったテーブルを持ち上げた。とっさにそれを盾にして、背後にいる幸子を守ろうとしていた。  パンチパーマはにやりと笑った。鮫島の背筋を戦慄が走った。それと同時に、手にしたものを死に物狂いで、男の方に投げていた。太い鉄の足のついた重たいテーブルは、砲丸のように飛んだ。  ガラスの割れる音がした。天井から蛍光灯のかけらが降ってきた。一瞬遅れて、テーブル本体が何かにぶつかる鈍い音がして悲鳴が上がった。テーブルが男を潰したのを確認するより先に、傍らの事務机に手をかけていた。  幸子に寄るな、どいつもこいつも指一本触れるな。そう声にならない声でわめきながら、今度も獰猛《どうもう》な唸りを上げ、鮫島はその机を振り上げた。何をしているのか、自分でもわからなかった。六年前、何もわからないままやみくもに倒木を支えたように、そのスチール製の机を力任せに持ち上げ、投げていた。引き出しが外れ、ファイルやら部品やらが、雪崩《なだれ》のように落ちてくる。  うめき声がどこからかした。ほこりのようなものが、もうもうと立ち上《のぼ》り、割れていない蛍光灯も不安定に明滅している。床はガラスのかけらと、横倒しになったテーブルや椅子で足の踏み場もない。  ぐにゃりと曲がったスチールの引き出しのそばで、男がパンチパーマの頭を抱えてうずくまっている。白いスーツが血だらけだ。 「この化け物……」  低い声が背後でした。振り向きざまに、鮫島は頭に鈍い衝撃を感じた。坊主頭の男が片手にビール壜をつかんで立っている。生温かいものが、首筋を流れてくる。かけらで切ったのだろう。痛みは感じない。ぎざぎざに割れた壜の先端をきらめかせ、男は敏捷な動作で鮫島の側面に回る。  鮫島は傍らに落ちていた二メートルはあろうかという棚板を拾い上げる。それで男の体をなぎ払った。男の体はふっ飛び、横倒しになったテーブルの足にぶつかり、不自然に体をねじ曲げたまま転がった。  一つだけまだ点灯している電灯の下に、松岡は肩で息をして立っていた。片手にきらりと光るものがある。刃物だ。  あれがドスと呼ばれるものなのか、それとも普通のナイフなのか、鮫島には判断がつかない。くっきりとした松岡の二重の目に、表情はない。じっと鮫島を見つめていたが、その視線が一瞬、棚板を握った鮫島の右手に行き、吸いついたように動かなくなった。驚愕の表情に固まった口元から、掠《かす》れた声が聞こえた。 「きたねえ……何が役所だと……何が福祉事務所だと……てめえ本当は何者なんだ」  鮫島はうろたえた。失われた指先に理由のない羞恥を覚えた。とたんに刃物を腰だめにした松岡が突進してきた。が、一瞬早く、棚板が唸って松岡の肩を捉《とら》えた。ラワン材の分厚い板が、鮫島にはせいぜい木刀程度の重さにしか感じられない。それが松岡の体を突き倒した。恐怖感が去り、怒りだけが残っていた。重たい棚板を松岡の丸めた背中に振り下ろす。 「やめて」  幸子の声がした。かまわず殴る。鈍い手応えがあった。幸子の丸く飛び出た目が涙に濡れて、鮫島の真下にあった。 「やめて、うちの人に手を出さないで」  幸子は泣いた。つぎつぎと涙の粒を膨らませる目は、傷ついたペキニーズそっくりだった。 「お願い、やめて」  幸子がしがみついてきて、鮫島の手から棚板をもぎ取る。  鮫島は我に返った。爆弾が破裂した後のような事務所の有様にあらためて驚き、男たちのうめき声を聞きながら、幸子の手首をつかんだ。 「すぐに、親父さんを連れて逃げろ。俺と一緒に、逃げてくれ」  幸子は大きな目を見開いて、震えるように首を振った。 「頼むから……」  黙ったまま、幸子は首を振り続ける。 「わかった。俺と一緒でなくてもいい。都の婦人保護センターがあるから、そこに行け」 「いや……」  幸子は、鮫島の手を離そうとした。 「なぜだ?」 「離して」  鋭く言って、幸子は鮫島の手から、自分の腕をもぎ離した。 「好きなのよ」 「何を言ってるんだ」 「好きなのよ、殴られたって、何されたって」 「こいつの正体、わかんないのか」  鮫島は叫んだ。幸子の顔が惚《ほう》けたような無表情になった。 「知ってる……サメちゃんに言われなくたって……でも、あしたのことなんかいいの。今、幸せなのよ。じいちゃんも幸せなの。知らん顔してお義姉さんの実家にばかり入り浸っているお兄ちゃんより、ずっといいって言ってる」 「生きてる間だけだ。財産を相続したらどうなる。いや、親父さんも殺されるかもしれない。目を覚ましてくれ、頼むから」 「いいの」  涙を手の甲でぬぐい、幸子はきつい目を上げた。 「この人のこと好きなの。叶さんほど優しくないけど、あの人より何倍も好きなの」 「もしかして、前に鳥取に追いかけていったヤクザって、こいつに似てるのか?」  幸子は、腹を押さえてぐったりしている松岡の方を見た。そして大きく目を見開いて、首を左右に振った。 「でも、ようするに、こういうやつなんだろ」  幸子は目を伏せる。 「なんでこういうくずにばかり引っかかるんだ?」  とたんに幸子は激しくかぶりを振った。 「どっか行って。お願い。いい夢を見させて。だまされてもいいの。あしたなんて知らないわ。幸せなのよ、今だけは」  幸子は松岡にかけより、その首に両手を回して、叫んでいた。  鮫島は口を開けたまま、動くこともできなかった。頭が混乱していた。ペキニーズが吠《ほ》えるように幸子はなおも何か叫び、やがて傍らの松岡の胸に顔を埋めて、号泣した。 「なんなのよ、これは」  そのとき背後で声がした。みゆきだ。 「やめなさい。やたら入ったら危険だわ、とにかく警察に電話を」  と中年女の声が続く。母子相談員の赤倉政子だ。この夜を逃したら、松岡をつかまえて折衝する機会はないと判断したのだろう。鮫島のメモを見て、勤務時間外だというのに担当二人が乗り込んできたのだ。鮫島は頭を抱えた。  ローファーの靴音をさせて奥まで入ってきたみゆきが、鮫島を見つけて叫び声を上げた。 「何やってるの、ダメ島さん。血だらけじゃないの」 「そのダメ島っていうのは、よせと言っただろ」  そのとき伸びていた松岡が、やにわに跳ね起きた。赤倉に近づき、手から受話器を引ったくる。 「勝手な真似するな。出てってくれ。おたくに関係ないんだ」 「用があるから来たのよ」  みゆきが怒鳴る。 「とにかく出ていけ、人の事務所にヤクザなんか送り込んできやがって。俺は金輪際、役所なんて信用しない。金なら後日払う。とにかく出てってくれ」  と松岡は、こめかみの血管を膨らませた。 「ヤクザ? どっちがよ」 「やめてくれ」  鮫島が、みゆきの肩をつかんで引き寄せる。 「警察ざたになったら、パクられるのは俺の方なんだ」 「どういうこと?」  とっさに事態を察したらしく、赤倉が間に入り、みゆきと鮫島に外に出るように促す。 「いったい何があったのよ」  事務所を出たとたん、みゆきが尋ねた。鮫島は一言も答えない。勤務時間を過ぎ、公用車を使えず、女二人はバスでここまで来たらしい。当然のように鮫島の車に乗り込んできた。 「もしかしてダメ島さん、松岡にヤキ入れたわけ?」  助手席でみゆきは尋ねた。鮫島が返事をしないでいると「理由は、前の奥さんじゃなくて、後妻の方?」と突っ込んでくる。  鮫島は唇を噛んでいた。  なぜ松岡のような男に惚れるのか──。女というものがつくづくわからなくなった。思い返してみれば、痣を作りひと回り痩せた幸子が、叶のような実直な亭主を持っていたときより、はるかに華やぎ、美しく見えたことも事実だ。苦い敗北感と男女の絆《きずな》の不条理さへの怒りが胸底に重く沈んでくる。 「ダメ島さんって、性格はいいけど、女の趣味は最悪ね」  みゆきは、笑いながら言った。 「うるせえ」  鮫島は乱暴にアクセルを踏んだ。タイヤがきしみ、後ろのシートで赤倉が悲鳴を上げた。 [#改ページ]    緋 の 襦 袢  いろいろな歳の取り方があるものだ、と大場元子はため息をついた。  大牟田《おおむた》マサは先ほどからうつむいたまま、ただでさえ細い肩をすぼめている。 「世間の風というのは、冷たいものでございますね。わたくしたちの若い頃、男はみんな戦争にとられたのですよ。苦しい時代を女一人で生きるのは、決して楽なものではございませんでした。けれどこうしてみなさん豊かになったときに、なぜわたくしのような者が、犬猫のように寒空に放り出されるんでございましょうね」  マサはそこまで言うと、布袋からハンカチを取り出し、鼻に当てた。  元子は複雑な思いでうなずいていた。  この仕事をしていて「自業自得」、ましてや「因果応報」などという言葉は絶対に口にしてはならない。それがケースワーカーの基本的心得なのだ。彼女たちは社会的弱者であり、彼女たちが人間らしい生活をできるように必要なサービスを提供するのが元子たちの仕事である。  大牟田マサの地肌の見えるような白髪頭は、あるときヘアピースを使ってふわりと結い上げられる。そして入念な化粧がほどこされると、落ち窪んだ目に狡猾《こうかつ》な光を湛《たた》えたマサの顔は、微笑《ほほえ》んだ目元の皺《しわ》さえ上品な老婦人に一変する。そのとき彼女は、某国務大臣の異母妹「神宮寺綾子」であったり、某私立大学学長の愛人「梅崎聡子」であったりするのだ。  そうして今、この福祉事務所のカウンターに現われた彼女は、穿《は》き古した化繊のスカートにグレーとも紫ともつかぬブラウス、毛玉だらけのアクリルのカーディガン、という姿で、戸籍上の「大牟田マサ」を名乗っている。  それにしても、若い頃から五十間際まで、結婚|詐欺《さぎ》を働いて奪った金はともかくとして、六十を過ぎてから罪もない人々から騙《だま》しとった金、裏口入学をさせてやるとか、息子の刑事起訴を取り消してやる、とかいう名目で手にした莫大な金は、いったいどこへ消えたのだろうか。  悪銭身につかず、とはよく言ったものだ。  服役して四年前に戻ってきたマサに年金はほとんどなく、生活保護を受けながら市内の木賃アパートで暮らしていた。しかしこの日、マサに言わせれば、すこぶる理不尽な方法で、その四畳半一間と台所だけのアパートから追い出されたのである。  買物から帰り家に入ろうとしたら、家財道具が全部放り出され、玄関のドアが釘づけにされていた、という。  元子はすでに大家に事実を確認し、次のアパートが見つかるまでの間だけでも、なんとか置いてくれるように頼んだのだが、はねつけられた。  マサが追い出されるだけの理由は十分にあった。家賃滞納だけではない。マサは同じ棟の一階にある大家の家に入りびたり、半ば惚《ぼ》けた大家の母親に向かい「亡くなった息子があの世で迷っている」などと言っては、その年金を掠《かす》め取っていたほか、同じアパートの住人への寸借詐欺を繰り返していた。  警察に突き出されないだけありがたいと思え、と大家は言った。  季節は、十一月だ。いくら札付きの詐欺師とはいえ、身寄りのない七十二歳の老女を寒空に放り出すわけにはいかない。まずは新しい住まいを確保しなければならない。  しかしそう簡単には見つからないだろうということは、元子にも察しがつく。  家探しなどというのは、本来、本人がやることでケースワーカーの仕事ではない。しかしマサは自分で家探しをする気は毛頭ない。どこかないでしょうか、と元子を頼ってくる。普通なら自分で家探しもできないくらいの高齢で弱っている場合、だれか身内に探してもらう。その身内もいないときに老人ホームを紹介するのが原則だ。しかしマサは「わたくし、まだ目も頭もしっかりしておりますでしょう、人様の間でわずらわしい思いはしないで暮らしたいのでございますよ」と言うのだから、しかたない。  元子はいくつか不動産屋を当たってみたが、案の定、大牟田マサの入れるような物件はどこにもない。  生活保護世帯の場合、借りられる家賃の上限は、この市では四万七千円である。しかしバブルの時代に、市内では古い木賃アパートがつぎつぎに取り壊され、マンションに建てかえられたため、安い賃貸住宅は現在ほとんど残っていないのだ。  それでも細かく当たれば何件かはあったが、借り手が一人住まいの老人となると大家は二の足を踏む。断らないにしても、保証人が必要で、その保証人に年齢や職業などについての厳しい条件がつく。身寄りがないうえ、大牟田マサのような人生を送ってきてしまうと、保証人を見つけることがまた難しい。  だから追い出されるような真似はしなければいいのだ、と元子は思わず愚痴《ぐち》りたくなるのを堪《こら》える。  物件がすぐに見つかりそうにはないので、マサにはとりあえず市内の女性専用の一時救護施設に入ってもらうことにした。そのことを告げたとたん、マサは不満そうな顔をした。 「都営住宅や市営住宅は空《あ》いてないの?」と、少し棘《とげ》のある口調になった。 「一杯です。それにあれは間取りの関係から単身世帯が入れないの」と答えると、「あたしたちのような、一人住まいの年寄りこそ、優先してもらっていいんじゃないの」と、先ほどのおっとりした口調が、なじるような調子に変わった。元子はいささかむっとしたが、「とにかく、今夜はそこに泊まって、明日になったら大牟田さんも自分で不動産屋さんを回ってね。目も頭もしっかりしてるんだったら」と答える。 「あたしなんか行ったって、貸してくれないんですもの。昨日から神経痛が痛み出して、こんな寒いときに出歩くと、またひどくなるんですよ。あたしのような者にとっては、大場さんだけが頼りなんだから」とマサは、今度は上目遣いで擦り寄ってくる。  彼女の担当になって二年、いつもこんな調子で元子は振り回されていた。  マサが荷物を抱えて、救護施設に送られていったその数時間後、家賃一万、敷金なし、というアパートが見つかったという電話がかかってきた。情報を寄せたのは、元子の受け持っている地域の民生委員だ。市のはずれ、私鉄駅から歩いてわずか四分のところにある物件だそうだ。  家賃の額から、倒壊寸前の木造アパートであろうと想像できた。しかしそれにしても敷金なし、とはどういうことだろう。 「もう、半年になりますよ、そのマンションに『空き部屋、家賃一万、敷金なし』って札がかかってから。扱っている不動産屋はわからないですけど。なんなら一度行ってみたらいかがです?」  民生委員は、道順を丹念に教えてくれた。マンションというのは冗談だろうが、たしかに足を運んでみる価値はある。  仕事が一区切りついた午後遅く、元子は言われたところに向かった。ちょうど同じ方向に用事のあった相談係の山口みゆきが、公用車を出してくれることになったのだ。  ハンドルを握ったみゆきは、「なんで大場さんが、年取った女詐欺師の代わりに、アパート探しをしなきゃならないんですか」と口を尖《とが》らせる。みゆきに言わせると、元子の仕事のやり方はなんでも自分で抱えこみすぎる。本来の仕事以外のことを親切心でやってやるのもいいが、公務のけじめがなくなるのは問題ではないか、と言う。 「でもねえ、相手は年寄りだし、彼女がいきなり行ったら門前払いされるのはわかってるしねえ」と元子は口ごもる。みゆきは呆《あき》れたように、助手席の元子を横目で一瞥《いちべつ》し、それきり何も言わなかった。  短い晩秋の日は暮れ始め、低く雲のたれ込めた空から、氷雨が降ってきた。公用車のヒーターの利きは悪く、シートからじわりと冷たさが腰に伝わってくる。 「戦争とか高度成長とか、変わっていく時代に薙《な》ぎ倒された人たちがいるのよ。私だってもうすぐ四十。独り者だし、やがて年を取ったときに、彼女と同じ立場になるかもしれない」  ぽつりと元子は言った。 「違いますよ」  みゆきは憤然として、片手でダッシュボードの上の雑巾をつかむと荒々しくフロントガラスを拭う。 「少なくとも、私たちは自分で働いて自分の生活をみてるじゃないですか。でも、大牟田さんが許せないのはね、オンナを売り物にして、生きてきたって点なんです」 「女を売り物かあ……」  元子は苦笑した。たしかにそうだった。その犯罪的行為の割には、マサの前科は少ない。それは女を売り物にしてきたからだ。結婚詐欺などという刑法上の犯罪はないし、そんなことを始める前、マサは三十代の半ばまで、あちらこちらの男たちをたらしこんでは、生活上の面倒をみさせてきた。そのことについては、たとえ彼らが破産しようと家庭が崩壊しようと、それは犯罪でも何でもない。  そしてマサが入学金詐欺やら金融詐欺やら、本当の犯罪に手を染めたのは、五十を過ぎ、女で勝負できなくなってきてからだ。それでもたいていは、自分よりも十、二十年上の男をターゲットにして、半ば色仕掛けで行なった犯罪だった。  五年前、拘置所に面会に行った元子の前任者に向かい、マサが「六十ババアったってね、あんた、帯をシュルシュルッと解《と》いて、赤|襦袢《じゆばん》姿になれば、言うこときかない男なんていないってことさね」とうそぶいたことは、福祉事務所で知らない者はない。  いよいよ赤襦袢の威力も落ちてきた最近では、マサは霊感詐欺とでもいうべきものを始めた。 「あなたの死んだ息子が成仏《じようぶつ》できずに苦しんでいる」「あなたが病気なのは、先妻の子供が祟《たた》っているからだ」などと言って、悩みをかかえた人々から金をせしめるのだ。巫女《みこ》のふりをしている、と見れば、これも形を変えて女を売り物にしていることになる。  私鉄の駅を越えたあたりから、厚い雲に閉ざされた空は、日暮れ前とは思えない暗さになった。 「あれだ」  みゆきがブレーキを踏んだ。  正面に緑色のネオンがぼんやりついている。雨に滲《にじ》んだ文字は「蘭」と読める。めざすアパートはそのスナックの向かいだ。しかしそんなアパートなど見あたらない。  車のスピードを落とし、ゆっくり進む。しかしアパートなどどこにもない。あの民生委員の記憶違いか、と次の角まで行き引き返す。そのときみゆきが、あっと声を上げた。  白っぽい壁の四階建ての鉄筋アパート、というよりはマンションがある。その壁に貼紙はあった。「入居者募集中。月一万。敷金なし」と。 「駐車場の話じゃないの?」 「別の物件かもよ」  車を下りて、そばまで行く。目を凝らしてもそれしか書いてない。  降りしきる氷雨を避けて、玄関の階段を上がる。高級マンションではないが、どう見ても月一万の家賃で入居できるところではない。 「これが本当なら、私、家を出て自分で入りたいな」  実家で両親と住んでいるみゆきが、エントランスの天井を見上げた。掃除が行き届いていないのか、どことなく荒れた感じがするが、建物自体はまだ十分新しい。  元子は管理人室のインターホンを鳴らした。二、三秒置いて「どなた?」と女の声がした。 「あの、表の入居者募集の貼紙を見たんですが」  元子が言うと、鎖をかけたドアの隙間《すきま》から中年女の顔が覗いた。元子は、一万円の内容について確認する。見たとおりだった。家賃月一万円、敷金なしの部屋が、この建物内にあるのだ。三階の西端の部屋だと言う。間取りは2LDK。ますますわからない。  中を見せてくれと言うと、女は夫が出かけているので案内できない、と答えた。ご主人の戻られるのは? と尋ねると、一時間後だ、と言う。時計を見る。まもなく四時半になる。そんなに遅くまではいられない。定刻までに職場に戻り、公用車を返さなければならないからだ。 「お話は後でお聞きするとして、部屋を見るだけ、なんとか今、お願いできませんか?」 「でも……主人がいないと」  ドアのチェーンが外された。「お願いします」と元子はもう一度頭を下げる。  眉根に皺《しわ》を寄せたまま、女はサンダルを履いて出てきた。手に鍵を持ち、先に立って案内する。 「ずいぶん家賃が安いようですが」と元子は尋ねる。 「そうですか」  女は無愛想な顔で、足を進めるだけだ。  エレベーターを下りて、開放式の廊下を歩いていく。みゆきは左右の扉に鋭い視線を投げかける。こういう場合、一番ありそうなケースは、同じ階に暴力団事務所があることだ。しかし見たところ、それらしい部屋はない。各家の扉近くにあるのは自転車や新聞束の類だけだ。もっともこの頃では、一目でそれとわかるような事務所は少なくなってきているが。  突き当たりまで来て鍵を開ける。管理人の妻はドアを押さえたまま、「それじゃあたしは、帰りますから」と中も見ずに言った。 「あ、待って」 「帰るときはそのままドアを閉めて、管理人室にもう一度来てください」  言い終わらぬうちに、もう小走りに戻っていく。  よほど手が離せない用事でもあるのか、と二人は顔を見合わせて中に入り、後ろ手にドアを閉める。 「悪くないじゃないですか」  玄関に入ったとたん、みゆきが言った。 「なんでこれが一万なのかしら」  元子は上がり込んで首を傾《かし》げる。  玄関を入るとすぐに廊下。左側が洗面所とバス、トイレ。右が洋間、その向こうがキッチン、突き当たりがリビング。脇が和室。電気は止めてあるので、内部はほの暗い。  鉛色の空がリビングの窓から見える。角部屋なので西側にも窓があり、ここからも暮れかけた淡い光が入って、がらんどうの内部を照らす。キッチンに西日が当たるという、住居としては決定的な欠点はあるが、それが家賃一万円というディスカウントの理由にはならない。  みゆきは玄関へ戻り、靴を持ってきてベランダに出た。手すりから身を乗り出し、四方を見る。元子も、裸足のまま爪先《つまさき》立ちで後に続く。  まわりには、昼間からカーテンを閉め切った怪しげな部屋などはない。  隣は子供が走り回っているし、下のベランダには三輪車が置いてある。剣呑《けんのん》な雰囲気は全くない。  ベランダから中に入ると、外気の明るさに目が慣れたせいか、室内は先ほどよりいっそう暗く感じられた。  そのとき洋間からだれかが出てきて、廊下をふっと横切り、洗面所に入っていくのが見えた。 「管理人さん……?」  元子は言った。 「見た?」 「たしかに」とみゆきがうなずく。  元子は廊下まで行って、洗面所を覗きこむ。ドアは開いている。先ほど閉めたつもりだったのだが……。暗い内部にある鏡に、廊下のおぼろげな光が反射しているばかりだ。  後ろに控えていた、みゆきの顔が強《こわ》ばった。 「あの……大場さん、もしかして……この一万円って」 「まさか」  元子はちょっと微笑んだ。みゆきの顔色は蒼白に変わっている。 「気のせいでしょう、でも事故住宅の可能性はあるわ」  再び、居間に戻る。インターホンの隣に電話機がある。 「前の住人が置いていっちゃったのね」と受話器を何気なく取り上げる。 「つながってるはずないですよ」とみゆきが言う。たしかに耳に当てても何の音もしない。 「それより早く出ましょうよ」  みゆきに急《せ》かされ、かちゃりと受話器を置いた次の瞬間、何か不思議な気配を背筋に感じた。二人同時に振り返った。何もない。おぼろげな影があるだけだ。形も色も感触も何もない。気配だ。目を凝らす。みゆきががたがたと震え始めた。 「やめて」と目をきつく閉じて、金切り声を上げて元子にしがみついてくる。 「だめなんです、こういうのだけは。だめなんです」  仄《ほの》暗い中に、何かひどく違和感のあるものがあった。その原因は、数秒後にわかった。壁のフックだ。前の住人が取り付け、そのままにして出ていったとおぼしき、プラスティックのフックが三つ、たしか先ほどは西側、キッチンの方にあった。しかし今、それはちょうど反対側の壁、東側に移動している。そして西側の壁には、何もない。跡すらない。  元子の呼吸が止まった。元子の腕にぶらさがったまま、みゆきはいつもの強気はどこへやら、震える鼻息を吹きかけ、小さな悲鳴を上げ続けていた。 「なんでもないわ、さあ、出ましょう」  自分自身を励ますように元子は言い、足をもつれさせたみゆきを引きずり、玄関に向かう。開いたままの洗面所の扉を、中を見ないようにして、右手で乱暴に閉じる。  玄関のドアに手をかけたとたん、足がすくんだ。電話が鳴っている。二度、三度。たしか通じていないはずではないのか?  そして四回目でぴたりと止まると、今度は人の声が流れだした。 「ただ今留守にしております。御用の方は……」  艶《つや》っぽく嗄《しやが》れた中年女性の声。  みゆきが両手で耳を押さえて雄叫《おたけ》びに似た声を上げ、その場に蹲《うずくま》った。元子は片手でみゆきの腕を引っつかみ、片手で玄関のドアを開ける。しかしみゆきの体が邪魔になって、ドアから出られない。 「お願い、立って。退《ど》いて」  元子が叫ぶとみゆきは震えながら立ち上がり、わずかに開いたドアの隙間から転がり出た。そのままエレベーターまでつっ走る。みゆきは裸足だ。靴はベランダに置きっぱなしになっている。もちろん取りに行く勇気などない。  一階に下り、助けを求めるように管理人室のインターホンを押した。 「先ほどの者ですが」と歯の根も合わないまま言うと、スピーカーから「はい、わかりました」と声が聞こえてきただけで、今度はドアも開けてくれなかった。  帰りは元子が運転を代わった。みゆきは助手席で鳥肌立った手首を見せて、自分の両腕を抱えている。 「恐いものなしの山口さんが……」と元子が言いかけると、「だれだって、一つくらい弱点はありますよ」とみゆきは涙で潤んだ目をてのひらでこすった。 「暴力団の事務所は、なかったわね」 「ヤクザなんか、へでもないです。でもあれ……あれだけは、私だめなんです」  みゆきは奥歯をかちかちと鳴らした。  事務所に戻ったときは、五時を回っていたが、冬期加算の算定の時期で、まだ半数ほどの職員が残っていた。 「どうだった?」  保護係長が、禿《はげ》頭をボールペンの軸で掻《か》きながら尋ねた。 「だめです、あれは」  バッグとファイルを机に投げ出し、硬い表情で元子は答えた。 「年寄りが住むには、便所が遠すぎるか」 「いえ」  何とも説明しづらい。正直に言ったところで、信じてもらえるはずはない。 「事故住宅……らしいです」 「いいだろ。気分の問題だけだし。どうせ相手は札付きの女詐欺師だ」 「あの」  遠慮がちに元子は注意する。 「服役して罪は贖《あがな》ったのですから、そうした言い方はどんなものでしょう……」  係長は苦笑して肩をすくめた。  相談係の方からみゆきの声がする。係長の赤倉政子を相手に、先ほどの体験を興奮した口調で語っている。 「……そしたら、冷たいものが首筋をサァーッて撫《な》でていって、玄関まで逃げたんですよ。ところが繋《つな》がっていないはずの電話が、トゥルルルルッ……」 「どこよ、それ?」  医療券にゴム印を押す手を止めて、赤倉政子は尋ねる。みゆきは詳しい場所を説明する。 「あら、そう」と赤倉は、受話器を取った。 「もしもし、あたし」  駅前で不動産屋を営んでいる夫にかけている。話がすんで受話器を置くと、赤倉は元子に向かって手招きした。そばに行くと、赤倉は声をひそめて言った。 「あんた、あれ、因縁つきの物件じゃないの」 「因縁……」 「入った部屋の世帯主が、半年|経《た》たないうちに死ぬって、あの町内じゃ有名なおばけマンションよ」  ひえっ、とみゆきが悲鳴を上げた。先ほどからやりとりを聞いていた同じ相談係の男が、書類から目を上げず鼻先で笑った。 「できたばかりの年に中年の女の人が入ったんですって」  赤倉はさらに一段、声をひそめた。 「家賃を払ってたのは、バッタ屋の社長。金はあっても家庭はなくて、あちこちに女の人を囲ってたらしいんだけど、七十過ぎて残ったのは、長年付き合ったその女だけ」 「じゃあ、あれは、その女の人の幽霊」  みゆきは青ざめた顔を上げる。赤倉政子はかぶりを振った。 「女にしてみれば、三十のときに五十の旦那を持つっていうのは、まだ我慢できるかもしれないけど、それが二十年経って相手が七十になってみれば、何から何まで年寄り臭くて嫌になっちゃったってわけよ。それで逃げ出したらしいわ。そのうち家賃を滞納されるし、何か臭いっていうんで最上階に住んでたオーナーが入ってみると……」 「逃げ出したはずの女が殺されてた?」  元子が尋ねたとたん、みゆきはぶるっと大きく胴ぶるい、自分のバッグを抱えて、事務所から飛び出していった。 「死んでたのはじいさんよ」 「自殺?」 「いえ、病死。死後、三週間。ま、栄養失調で痩《や》せてたっていうから、絶望死ってところかしら」  元子は、ため息をついた。 「淋しかったのでしょうね。いくらお金があったって……」 「ところがそれを見つけたオーナーがね、部屋でこんな死に方されたんじゃ、次の入居者が来ないっていうんで、その死体をシートに包んで、一階にある可燃ゴミのボックスにつっこんじゃったのよ。それを回収作業員が不審に思って開けたんでばれちゃって、オーナーは死体遺棄で逮捕されて、マンションは人手に渡ったというわけ。それ以来、あの部屋に入った人が次々に死ぬそうよ」 「可燃ゴミに出した、ですって」  元子は、マンションに現われた何やらわからぬ気配よりも、人間の死に対してそうした感覚しか持てない、生きている人間の心に、背筋の凍りつく思いがした。  いずれにせよ、そんなところに被保護者を入れるわけにはいかない。  安くて、住み心地のよさそうなマンションだが、諦めるしかなかった。  その後もアパート探しは続けたが結局、めぼしい物件は見つからず、大牟田マサはしばらくの間、市内の養護老人ホームで過ごすことに決まった。  しかしそれから四日後に苦情が来た。  マサが来てから、施設内のトラブルが絶えないという。男性の老人の間で、喧嘩が頻繁になり、二日後には、怪我《けが》人が出た。よくある恋の鞘当《さやあ》てである。  なにしろ木綿のパジャマは肌触りが悪いと、マサが寝巻にしているのは緋色の長襦袢だ。トイレも風呂場も共同の老人ホームで、夜になると薄化粧したマサが、そのスタイルで廊下を歩くのだからたまらない。  それぞれに青春を取り戻した男性たちをよそに、女性たちは三日目には、マサがここにいるなら自分たちはここを出る、と職員に談判にやってきた。  彼女たちにとって男たちの様子が不愉快なのは間違いないが、もう少し深刻な問題があった。  マサが入所者に「前世を見てやる」とか、「死んだ家族に会わせてやる」とか言っては、金をせびり取るのだという。  嫌だ、と言って払わない者がいると悪口雑言を浴びせかけ、その者は本当にその夜、うなされたり変なものを見たりする。単なる暗示の効果であろうが、マサがトラブルメーカーになっていて、もう一日たりとも、そこに置いておけない状態であることは間違いなかった。  元子は急いで、老人ホームに行きマサに会った。  ホームの応接室で、部屋に入ってきたその老女を最初に見たとき、元子はそれがとっさにだれなのかわからなかった。薄くなった白髪は金茶色に染められ、襟元に曙色を流した化繊のブラウスがよく映えて、顔色は明るい。ベージュ色のプリーツスカートの裾は花びらのように軽やかに波打って、足元はビーズ刺繍《ししゆう》の靴だ。老女なりに、見事なばかりに異性を意識したスタイルをしている。これなら赤襦袢でなくても、男の老人たちの間で喧嘩が頻発するわけである。それにマサのことであるから、おそらく数人にコナをかけたに違いない。  マサは、元子の顔を見ると、またハンカチを取り出し目に当てた。 「それにしても大場さん、ここの人たちはなんてみんな意地悪なんでしょう。家族に捨てられてこんなところに来ると、だれでもこんな風になってしまうんでしょうか。いっそわたくしみたいに天涯孤独な身の上なら、いくら淋しくても、他人様を恨んだりはしないものですけどね」  元子は白けた思いで聞き流す。 「でもね、大牟田さん、人が嫌がることを言ったりする、あなたも悪いのよ」  無意味とわかっていながら、元子は言った。 「たとえばね、戦争で死んだ息子が、ガダルカナルでまだ苦しんでいるとか、水子の霊がついているとか、旦那さんが成仏できずに悪さしてるとか、そういうことを言って人を苦しめるのだけはやめましょうよ。みんな気が弱くなっているし、それぞれ思い当たる心の傷があるから、そういうことを言われると、本当に辛《つら》いのよ」 「だから、あたしが話をつけてあげたんじゃないの」  がらりと口調を変えて、マサは言った。 「だったらそれでいいでしょう。恩に着せたり、お金がどうとか言っちゃだめ」 「なんだって?」  マサの目が吊り上がった。 「あたしが救ってやって、なんでちょっとしたお礼もしてもらっちゃいけないのさ、えっ」 「救ったって、何を救ったんですか」  元子も厳しい口調で応戦した。 「人を騙すのも、けっこうです。でも、ここの人たちを騙すのはやめてください。少なくとも、ここにいる以上は」  マサの口が大きく開いた。 「騙すだと!? いつ、だれが騙したんだい。そうさ、だれも信じやしないのさ。あたしにゃたしかに見えるんだ。でもこんなこと言ったって、他人は狂人扱いしやがるんだ。あんたの後ろにいるのだって見えるのさ。あんた独りだろ。結婚できないはずさ」 「まっ」 「兄貴が一人いるだろ」 「いますけど、大牟田さんに何の関係があるんですか」  たしかに元子は兄と二人兄妹だ。 「実は、その間に女の子がいるんだよ。残念ながら、あんたのおっか様は堕《お》ろしちまった。ちょうど亭主の仕事が無くなって、食えなかったからね。亭主にも黙ってそっと隣の産婦人科行ってさ、掻き出しちまったんだよ。嘘だと思うならおっか様に聞いてみな」  元子は顔に、かっと血が上るのを感じた。そんな話は一言だって、母親から聞いていない。しかし自分が生まれる少し前、父親の商売がうまくいかなくなって、ひどい貧乏暮らしをした、ということだけは聞かされている。  そして今、マサは「母が隣の産婦人科で堕胎した」と言ったが、たしかに元子の幼い頃、隣は産婦人科医院だった。  マサは笑い始めた。ピンク色に頬紅をぼかした顔をひくつかせて、げらげらと笑い続ける。もちろん、彼女の話が真実であろうはずはない。しかしもしも本当なら、母の苦しみはどれほどのものだっただろう。  元子は椅子を蹴って帰りたかったが、仕事なのでじっと耐える。 「あたしを嘘つきだと、言いやがったんだよ。だれもかれも。で、どうだい、図星だろう。それで大場さんには、その姉さんがついててな、それが今でも、嫁に行かせてくれないんだよ。どうだい、思い当たるだろ。顔に小皺がよって、白髪もちらほらしはじめたその歳になっても、その姉さんが邪魔して男を近づけないんだわ。そりゃそうだろ、たかが一、二年あとにおっか様の腹に入っただけで、そんな良い思いさせてたまるもんかね。あたしの言うこと、間違ってるかい?」  元子は茫然としてマサの唇を見つめていた。言葉と態度が変わっただけならまだわかる。しかし今、こうして悪態をついているマサは、その声質や顔立ちまで変わってしまったように思われた。実はこれが大牟田マサの本性で、必要とあらば哀れっぽくなったり、色っぽくなったり、穏やかになったり、上品になったりして、多くの人間を欺《あざむ》いて生きてきた、というわけだ。  みゆきは、ヤクザは恐くないが幽霊は恐いと言ったが、こうしてみるとやはり生きている人間の方がはるかに恐い。 「お淋しい人生を送られてきたんですね」  元子はそれだけ言うのが、精一杯だった。 「あんたもだよ。これから先も、女一人。あたしみたいになるんだよ、あと三十年もしたら。最近、男ができただろ。いい歳して若い男くわえこんだのはいいけど、いくらがんばってもあんたの姉さんが、そうはさせない。たちまち若い女を見つけて、後ろ足で砂かけて逃げてくよ」  全身から血の気が引いた。マサの言うとおり、十も若いケースワーカーと付き合い始めて、半年になる。 「とにかく、ここでみんなと暮らすのは、無理みたいですね」  元子は、唇を震わせてそう言うと、ファイルを閉じて立ち上がった。 「だから言ってるだろう。苦労して生きてきた年寄り一人、家賃を少し余計に出してやっても、ちゃんとしたところに住まわせてやろう、と考えるのが本筋じゃないのかい」 「ここであなたが暮らすのは、無理だと、わかりました」  元子はもう一度言った。 「住居はあります。前に大牟田さんが住んでいたところより、ずっときれいなところが。民間マンションの鉄筋の2LDK」  マサはちょっと驚いたように、目を見開いた。小さな目に放射状に皺が寄った。そして瞬時にとろけるような愛敬のある顔に戻った。 「それならそうと最初から言ってくれればいいのに、何をもったいつけていたんですよ」  早急に手続きを取るとだけ言い残し、元子は施設を後にした。  先日尋ねた管理人のところに電話をかけ、入居したい旨を伝え書類を揃えるまで、半日もかからなかった。 「いくら腹を立てたからって、大場さんがそういうことする人だとは、思わなかったですよ」  みゆきが非難がましい口調で言った。 「ケースワーカーだって人間よ」  元子は憮然《ぶぜん》として答え、せっせと手続きを進める。  その日の午後、施設の職員に連れられマンションに行ったマサは、部屋を一目見て気に入ったという。こんなところに住めるなんて、やはり長生きはするものだ、と語り、職員を呆れさせたらしい。  引っ越しをすることによって、担当ケースワーカーが代わり、マサは元子の前からケース記録ごと消えた。しかし元子の心の中では、苛立《いらだ》ちとなんとも言えない後味の悪さが残った。  一つは彼女に向かってマサが言った、生まれ出《い》づることのできなかった姉の話、そしてもう一つは、半ば報復的な意図を持って担当ケースを事故住宅に入れてしまった、という自分の行為に対してだった。  その日、元子は市内の少し離れたところで兄夫婦と暮らしている母に電話をかけて、生まれそこなった姉のことを尋ねた。母親はさほど慌てた様子もなく、たしかに元子の生まれる前に、子供を流したという話をした。大雪の降った朝、玄関先で転んで流産したのだ、という。結果的に隣の産婦人科医院の世話になったことも事実だった。  半分だけ当たっているから、始末が悪いのだ。残りの半分はいくらでも悪意ある解釈ができる。元子はマサの荒廃した心情を思った。いくぶんか同情の気持ちが戻ってきた。  あの施設のトラブルだって、起こしたくて起こしたわけではあるまい。まるで轍《わだち》ができてしまったように、何度も同じ過ちを繰り返してしまうことがあるのだ。その轍からなんとか引っ張り上げてやるのが自分の仕事ではないのか。  どうにも気になって、担当地区の定期訪問の帰りに、軽自動車でそのままマサのいるマンションへ向かったのは、マサが引っ越してから一週間目のことだった。  駅の踏み切りを渡ると、白い建物は目の前だった。日が短くなっているとはいえ、陽はまだ高く空はよく晴れ上がっている。  車から下りた元子は玄関前でちょっと足を止め、あの因縁付きの部屋を見上げた。ベランダが見える。目に飛び込んできたのは、水色の布団カバーだ。間違いない、マサは無事だ。あの部屋にいて、布団を干している。  本当に無事に暮らしているなら、何も告げずに帰ってくればいい。前の住人の件はいずれどこかから知れるだろうが、知らなければ知らないまま暮らしていけばいいことだ。  エレベーターで上がり、インターホンを押すと、ドアが細目に開き、マサが顔を出した。 「おや、まあ。上がってくださいよ」とマサは、やけに愛想よく言った。靴を揃えていると、背後で「おかげさまで、いいところに住めまして」という声が聞こえた。本心なのか、皮肉なのか、よくわからなかったが、次の言葉で後者だとわかった。 「2LDK、因縁付きとはね」  玄関マットの上に立ちすくんだ。 「管理人さんから、お聞きになりましたか」 「だれもそんなこたぁ、話してくれないさ」  やはり何か起きたらしい。びくつきながら奥のリビングに入る。とたんに壁の真っ赤なものが目に飛び込んできた。  長襦袢だ。今どき時代劇の中でしかお目にかかれないような緋色の長襦袢が、壁に吊してある。そのハンガーのかかっているフックを元子は食い入るように見つめ、次に触れてみた。何も異変はない。あのときと同じ西側にある。 「そこに水枕を吊してあったんだと」  何も尋ねないのに、マサは言った。 「じいさんが熱出してさ、だあれもいなくて、せめて水枕がほしいと思ったんだけど、寝ている方と反対側で手が届かない。それでそのまま死んじまった」 「どこから聞いた話ですか?」  マサはにやりとした。  元子が目の前の深紅の襦袢から目を逸《そ》らすように座ると、マサがお茶をいれてきた。 「本当に長生きはするもんだよ」  やけに声色が明るい。 「何も、起きませんか?」  さえぎるように元子は尋ねた。 「ああ、何もないね」  マサは微笑した。初めて見る、屈託のない自然な笑顔だった。 「こんないい部屋で、いやなジジババの面《つら》を見ないで暮らせる。ねえ、大場さん。恐いのは生きてる人間だねえ、つくづく」 「はあ……」 「死んじまった人間なんか、何が恐いもんかね。あたしゃ正月が来れば数えで七十三だよ。こんないい部屋であっさりいっちまえれば、願ったりかなったりってもんだね。一人でいくより、お迎えがあればありがたいくらいで」  大牟田マサは、そこまで言って笑った。その声にはこの前、施設で聞いたような陰惨な響きはなく、腹の底から愉快そうな高笑いだった。 「噂によると、廊下やエレベーターや、ご近所の道にも出るそうじゃないか。でも、もう大丈夫だよ。じいさんはもう、どこにも迷い出やしない。しょせん、スケベエは歳とっても、死んでもスケベエなのさ。ほれ」と壁の長襦袢を顎《あご》でしゃくる。 「あれを引っ張り出して着て寝たら、すっかり静かになっちまった。生きてる人間と違って、死人は何も悪さなぞしない。寝る前に、コップ一杯水を置いてやって、たまに酒を上げてやって、それで満足してるんだから、安上がりだよ」  元子は振り返った。茶だんすの上に、和紙が敷いてあって、そこにカップ酒と林檎《りんご》と線香が載っている。  元子は座り直し、合掌した。  それからマサの方に向き直り、「お優しいんですね」と口|籠《ご》もりながら言った。 「老人ホームだか、救護施設だか知らないが、生きてる人間と一緒に一部屋につっこまれるなんざ、金輪際、ごめんだ。でも死人は静かでいいよ。わがままは言わないし、ばあさんは汚いから嫌だ、とも言わない。ほれ、今だって、そのへんに座ってる」  マサは、ちょっと壁の上方を見上げる。  元子はマサが薄化粧をして、あの真っ赤な長襦袢を着て横座りした姿を思い浮かべた。往年の詐欺師の面目躍如というところか。  孤独なじいさんの霊を騙して、部屋を提供させることなど、海千山千の老女にとってはたやすい。マサは恵まれた住居と静かすぎる茶飲み友達を得たらしい。  肩の荷が下りた気分で元子は立ち上がり、マサに向かい「担当のケースワーカーが代わったんで、私はもう来ないけど、どうか体に気をつけてね」と告げた。  玄関先まで送ってきたマサは、靴を履いている元子に背後から声をかけた。 「あんたの背中にとりついてた姉さんね、あたしが話をつけといてやったよ」 「えっ」  振り返ると、マサは入れ歯の前歯を見せてにやりと笑った。 「もう悪さはしないとさ。安心して、年下の男と結婚しな」  大きなお世話だわ、と思いながら、元子は「ありがとう」と頭を下げた。 [#改ページ]    死  神  重松のとっくりを持つ手が震えている。熱燗《あつかん》の酒が杯からこぼれ、浴衣《ゆかた》の膝を濡らす。新井誠は見かねて重松の手からとっくりを取り、酌《しやく》をしてやった。重松はどす黒い顔を杯に近づけ、むさぼるように飲み干す。 「いい? 重松さんに飲ますんじゃないよ。出張先で飲み過ぎて死んだりされたら、ここの職員がみんなそんなもんだってことになるんだから」  朝、相談係長の赤倉政子が新井の腕をつかんでそうささやき、福祉事務所から送り出した。  市内に住む身寄りのない老人が、先頃病院を退院し、ここ八丈島にある特別養護老人ホームに入所することになったのである。そこでその老人を、新井と老人指導主事の重松の二人で、車と船を乗り継いでここまで送ってきた。老人ホームの収容手続きを済ませた後、つい先ほど港近くの安旅館に落ち着いたところだ。 「お客さん、ご飯、そろそろお付けしますか?」  仲居が入ってきて尋ねた。 「いや、ねえさん、もう一本」  重松がどんよりした目を仲居に向けるのをさえぎるように、「ごはんお願いします」と新井は大声で言った。 「まだいいじゃないか」 「だめです、係長」  重松寛治のことを若い者は、一応、係長と呼ぶ。しかし重松に係長としての権限はない。  彼は市職員組合の書記長を経て、東京都本部の副委員長までやった男だ。民間の御用組合の幹部ならエリートコースに乗るところだが、役所の労組の元書記長は、就任した時点で出世の芽をつまれてしまう。権謀術数にたけた者なら、革新政党の支持を得て市議会選挙に打って出るということもあるが、根が一本気な重松はそこからも追い落とされ、最大出世しても係長止まりという条件のもとに再び職場に戻ってきた。  そして十数年前には、その最大出世をして保護第一係長を務めたが、酒による病欠と職務怠慢によって、現在係長待遇職として事実上の降格処分を受け、事務所内の一番市民の目につかないところに机を置いている。  机は置いてあるが、仕事らしい仕事はない。また本人も仕事などする気はない。口の悪い福祉事務所の女たちは、ひそかに彼を「余剰人員」と呼んでいる。  しかし今回のような出張があるときは、老人担当の重松を行かさざるをえず、一人では何をしでかすかわからないので、二十代の新井が目付け役として同行させられたのである。 「まあまあ、係長、ご飯、いきましょう、ご飯」  と、新井は腕まくりして重松の茶わんに飯を盛り付ける。このままあやして、明日東京まで連れ帰れば、この仕事も終わりだ。そう自分を慰め笑顔を作る。もともと新井にしても人あしらいがうまい方ではない。しかし重松は同年輩の男が一緒だと、必ず手がつけられないほど荒れるから、彼の相手は新井のような若者か、そうでなければ赤倉たち、おばさんに限られているのだ。  先ほどまでけっこうご機嫌で飲んでいた重松は、急に沈んだ表情になった。かと思えば、茶わんを持ったまま、うつらうつら始める。 「係長、布団、敷きましょう」  新井は腰を浮かした。 「あ、いい、いい」  と手を振った重松の目が座っている。 「おまえ、まあ、座れ。ゆっくり今夜は話そうじゃないか」  冗談じゃない、と心の中でつぶやきながら、「はあ……」としぶしぶ座る。話そうと言われても、相手は酔っ払いである。何か言ってはいるが聞き取れない。聞く気も起こらない。 「なんだあ?」  重松の声が急に大きくなった。 「金盗まれただと? 本当は何に使いやがった。足が痛《い》てえの、腰が痛てえの、言ってて、競輪場だけは通えるのか?」 「係長、声が大きいです」  以前、カウンターにやってきたケースのことを思い出したらしい。  外に出て、ケースワーカーがケースの話をするのは、ご法度《はつと》だ。 「なんだぁ、俺と刺しっこするってのか、おし、やってみろってんだ」  襖《ふすま》が開いて、仲居が入ってきた。 「ごめんなさい、お客さん、うち、ぼろ旅館で壁が薄いんです。もうちょっと、静かに」  新井が平謝りに謝る。その後ろで、破《わ》れ鐘のような声が響いた。 「なに、人権だと? 生保に人権なんかあるか」 「やめてください」  新井は金切り声を上げて、重松に飛びついた。こんなご時勢だ。だれかに聞かれて、新聞にでも投書されたら大変だ。  新井を振り切って、重松はなおも吼《ほ》えた。 「死にてえのか、これほど言ってもまだやめないってのか。そんなに死にたきゃ勝手に死ね。一人で這《は》って医者に行きやがれ。その代わり二度とN市福祉事務所の敷居、またぐんじゃねえぞ」  新井は、「あーっ」と絶望の声を上げた。もう終わりだ。暴言に加えて、N市福祉事務所と名乗りを上げてしまった。 「係長、いいですか、ぼく、ホント怒りますよ。これ以上、騒ぐと殴るかもしれませんよ。もう我慢の限界ですから」  新井はじっとり汗ばんだ手で、重松の胸ぐらをつかんだ。重松は、ぴたりと静かになった。黄ばんだ白目で、新井を見つめている。その頬が痙攣《けいれん》したように、ひくひくと動いた。まもなくその痙攣は淡く、哀しみのこもった微笑に変わった。 「鳥一羽、テトラポッドに墜死する」  重松はぽつりと言った。 「何ですか、それ?」  それから重松の視線の方向に気づき、振り返った。  部屋の窓は駐車場に面していて、その向こうは海だ。暮れかけた港に、波消しブロックが見える。 「鳥があそこに落ちたんですか?」 「歌だよ。ある女流歌人の現代短歌だ。すごい歌だと思ったが、下の句が思いだせん」 「女流の現代短歌ですか……『サラダ記念日』みたいな?」  重松は沈黙していた。その沈黙の異様さに気づいたのは、それからしばらくしてからだった。 「ばかやろう」  重松が唸《うな》るように言った。 「てめえみたいながらんどうの頭、持ったやつに何がわかる」 「はあ?」 「失せろ。てめえの顔見てるだけで、こっちゃ、むかむかしてくる」  新井は立ち上がった。仕事がらアル中の相手は慣れている。しかしなぜこいつの面倒まで見なければならない? もう一部屋用意してくれ、と言いたいが、出張費は二部屋分も出ない。しかたなく手元のタオルを手に風呂場に行く。  長湯をしてのぼせる直前に大浴場から出た。ロビーをぶらついて頭を冷やし、一時間ほどしてから新井が戻ったとき、重松はもう寝ていた。病的に音の大きな、往復のいびきをかいていた。舌打ちをして新井は布団を部屋の端まで離す。  闇の中で目を開いたまま二時間近くが経過したとき、いびきが止《や》んだ。ほっとしたのも束《つか》の間、むくりと重松が起き上がる気配がした。  上半身を起こして、何かぶつぶつ言っている。独り言にしては、声が大きい。幻の相手と対話しているようだ。 「死にたいのか……だからさっきから言ってるだろ……二度と来るな……てめえの顔なんか見たくねえ」  死神だ……。新井は唾《つば》を飲み込み震えた。  闇の中に、酒のために四十代で総白髪になった重松の頭がぽっかり白く浮かび上がり、猫背の上半身が、何もない空間に向かって話しかけている。あまりの不気味さに新井は、掛け布団を顎《あご》まで引き上げ、固く目を閉じた。 「組織内の一割の者は、なんらかの不適応を起こしている。そしてその半数は、精神の健康を害《そこ》ねて治療を必要としている」  そう言った産業医がいた。しかし精神の健康を害ねた職員への対処のノウハウは、今のところ市役所にはない。行政の中枢からできるだけ離れた部署に異動させるだけだ。どこの課も、支所、出張所もそんな職員はいらないから、受け入れには難色を示す。それぞれの職場の長に人事課は頼み込み、半年だけなんとか預かってもらう。そして半年過ぎるとまた別のところに異動させる。こうして壊れかけた職員の精神は各課をたらい回しにされることによってさらに崩壊し、やがて退職に追い込まれていく。  しかし重松の場合、その半年さえいやだ、と他の課から引き取りを断られたのだ。  組合専従の短い期間を除いて、三十年近く重松が福祉事務所から動かないのは、初めの二十年はその専門性のためであり、後の十年はその飲酒癖のためだった。現在、重松はロッカーにウイスキーのポケット壜《びん》を隠し、日がな一日ふてくされたように古びたノートを玩《もてあそ》んで暮らしている。  その夜は結局、東の天が白むまで、重松は闇の中で何かをつぶやき続け、新井は一睡もできないまま夜を明かした。そして帰りの船で、重松は二日酔いと船酔いに苦しみ、吐きながらビールを飲み続け、帰ってから、その週いっぱい役所を休んだ。  どす黒い頬をいっそう痩《こ》けさせて重松が出勤したのは、朝からアスファルトが溶け出しそうな日差しの照りつける七月半ばの月曜日だった。  重松は、鉛を飲んだように重い胃とだるい身体を引きずるようにして事務所に入り、エアコンの吹き出し口で一息ついた。しかしほっとしたのも束の間、今度は関節と痔《じ》が痛み始めた。  胃が痛い、節々が痛い、痔が痛い……。  重松は呪文《じゆもん》のように繰り返した。若いケースワーカーが、所長が、アルバイトの女性たちまでもが、冷ややかな一瞥《いちべつ》を投げかけて通り過ぎていく。  相談員のみゆきが、鼻を押さえて向こうを向いた。きっと酒臭いのだろう。それともここ二日、風呂に入ってないせいだろうか。  妻や娘と顔を合わせないように、このところ飲んで遅く帰っては、自分の部屋に直行している。昨夜は深夜になって風呂に入ろうとしたら、お湯が落とされていた。  もらった保護費をその日のうちに酒に換え、手持ちの金がなくなると福祉事務所に現われ、現金をもらえないときは、どこかで倒れて病院に運ばれ保護される。そうした福祉ゴロと、自分が少しも変わらないということを重松は自覚していた。胃が痛い、節々が痛い……というのは、まさにそうした福祉ゴロが就労指導するケースワーカーに向かって言う言葉だった。 「何を甘えているんだ、中年過ぎてどこも痛いところのない人間なんているものか。みんなポンコツの身体をだましだまし、ちゃんと仕事して生きてるじゃないか」  重松も、かつてそんなことを口にした時代があった。しかし自立する気力などとうに失っている者にとって、叱咤《しつた》激励は通用しない。「あんた、鬼だよ」という押し殺したつぶやきが返ってくるだけだ。  かと思えば、ようやくよい就職先ができて生活が軌道に乗り始めた母子世帯の若い母親に男ができ、そいつが給料どころか支給したばかりの保護費までさらっていったこともあった。男とその若い母親を呼んで話をしているうちに、「福祉の世話になると、人を好きになることさえ禁止されるんですか」と女の方に反撃された。 「生活保護者に人権はないのか」と、そのヒモにからまれる。「てめえらみたいのに、人権なんてしゃれたもんはねえ」と思わず怒鳴ったのが、議員の耳に入り大問題になった。  腎臓病をおして細々と内職を続ける五十女の別れた子供からの仕送りを、わざと収入から落としていたら国の監査で指摘され、そのまま言い争いになり、その厚生省のキャリアを殴って、危うく分限処分になりかけた。  やればやるほど底のない仕事だった。熱意を持てば持つほど迷いばかりが深くなり、深夜に事務所を出た後は安酒場に足が向いた。二人の娘がそれぞれ小学校を卒業した日も、下の娘がいじめに遭って、三者面談をやって泣いて帰ってきた日も、上の娘が成人式を迎えた日も知らないで過ごした。その間に健康も職場における信用も失った。  重松には、若いケースワーカーたちの手際よさが理解できない。仕事の手際よさ、家庭生活の手際よさ、人間関係をさばく手際よさ……。  外線電話が鳴っていた。他の電話はすべて塞《ふさ》がっていて、空いているのは重松の目の前の電話機だけだった。はっとして受話器を取る。近所の老人からだった。 「川口橋の下の川原で、人が寝てるんだよ。酔っ払ってるみたいなんだけど、上も下も出しっぱなしでさ、この暑さだから放っておいたら死んじまうと思って」 「もう一度、場所、お願いします」と重松は確認した。川口橋あたりの地域を担当しているのは、新井だった。新井が電話を代わり、詳しい状況を聞いた。 「なんだ?」と、電話を終えて受話器を置いた新井に、重松は尋ねた。 「なんでもないですよ」と新井は肩をすくめた。「酔っ払いが、川原で寝てるだけです。最近うちの市に入ってきた浮浪者です」 「どうするんだ?」 「別に、どうもしないですよ。昼間から酔っ払って川原で昼寝してるってだけの話でしょう」と、机に戻っていこうとする。  扶養の照会やら収入金額の集計やらの雑務を、どのケースワーカーも山のように抱えている。たしかに重松の時代に比べると、ワーカーの事務量は飛躍的に増え、しかもコンピュータの導入は、人事当局に人減らしの口実を与えただけで、負担の軽減に少しも役立っていない。 「放っとくのか?」  それに答えず、新井は自席に戻っていく。その腕を重松はつかんだ。 「おい、上も下も出しっぱなしだと、言ってるんだ。この炎天下で嘔吐《おうと》と失禁をして伸びてるんだぞ」  振り返った新井は、嫌悪感をあらわにした。 「なら、救急車か警察でも呼んだらいいでしょう」 「てめえ」  重松は視野が一瞬、怒りに黄色く歪《ゆが》むのを感じた。こめかみが脈打つと同時に痛んだ。また何かが破裂すると思った。  左手で新井の襟首を捉《とら》えた。不思議とこのときばかりは、手が震えない。まわりの席の職員が、一斉に立ち上がった。保護係長が青くなって飛んでくる。 「ちょっとちょっと、重松さん、何やってんのよ」  そのとき後ろから赤倉政子に肩をつかまれた。 「ほら、いい歳して、まったくしょうがないね」  拍子抜けして、手を離す。 「おまえが行かないなら、俺が行く」  重松は言った。新井は「どうぞ」と口の中で言った。同年代の保護係長が、とりあえず重松のメンツを立てるように「お願いします」と頭を下げる。その目が「酔っ払い同士でちょうどいいだろ」と笑っているような気がする。  フレームが錆《さ》び、ハンドルの曲がった事務所の公用自転車に乗って、重松は川口橋付近の川原に向かう。  冷房のきいた室内から一歩外に出ると、アルコール臭い汗が、首筋から噴き出してきて、化繊のワイシャツの背中を濡らす。  だだっ広い川原の堤防の内側にサイクリングロードがあって、そこを走っていくと、酔っ払いの男の姿が認められた。橋の影から下半身を炎天にさらし、大の字になって伸びている。その脇のサイクリングロードを自転車や歩行者が行き交い、だれもがその姿にちらりと目を留め、眉をひそめて通り過ぎる。上の道は車が頻繁に通っているが、当然のことながら止まらない。  近寄っていって、重松は悪臭に顔を背《そむ》けた。しかしそのはだけた肩からちらりと見える青黒い曲線に見覚えがある。目をこらして息を呑んだ。  龍の髭《ひげ》……。汚れ、縫い目のほどけたシャツを脱がせてみれば、龍の本体と剣を振りかざした須佐之男命《すさのおのみこと》の図柄が、背中に広がっているはずだ。  その尖った顎と高い頬骨の目立つ顔は、苦渋の思いとともに重松の記憶の底から、くり返し立ち現われるものの一つだった。高木辰男。二十年以上前に、重松が担当したケースだ。  ごましおの不精髭に覆われたひび割れた唇と、落ち窪《くぼ》み焦茶色になった瞼《まぶた》は、七十過ぎの老人のように見えるが、実際のところは、確か五十そこそこで重松とさほど変わらない。  そしてこの異臭漂う死体のような男のそばに立っている重松自身も、雪のような白髪頭にどす黒い皮膚をした立派なアル中になっている。いったいいつの間に、こんな風に同じところに行き着いたものだろうかと、重松は妙な感慨にとらわれた。  男は小さく呻《うめ》いた。もう吐くものもない胃から、なお何か吐き出そうとするように、だらりと舌を出した。  このままでは死ぬ。舌が落ち込んで喉《のど》をふさぐか、吐瀉物《としやぶつ》吸引による窒息か、あるいは脱水症状を起こして心臓が止まるか。重松は気道を確保するために、彼の顔を横に向けると、近くの公衆電話に走って救急車を呼んだ。  自分が来なければ死んでいたかもしれないが、いったい助けてどうなるのだ、という疑問が心をよぎる。この男が望んで寿命を縮めてきたということを、重松は知っている。  二十数年前、けんかで腹を刺された一文無しの男が病院に運び込まれた。辛うじて一命は取り止めたが、保険証もなく治療費が払えない、との連絡を病院のケースワーカーから受け、たまたま男の住民票のある地区を担当していた重松が、そちらにかけつけた。そのときの患者が高木辰男だったのだが、病院のケースワーカーの話によれば、どうやらけんかというよりは、暴力団同士の小競り合いで腹を刺されたらしい。しかしそのあたりの経緯について高木は一切、口を閉ざした。  ケース記録を書くために何か尋ねると、「それがおまえに何の関係がある」とすごむ高木の枕元で、重松は「てめえの治療費、だれが払ったんだ」と怒鳴った。それに対して返ってきた「だれが助けてくれと頼んだ」という言葉の押し殺したような響きに、いつわりのない高木の心情が見えて、これはやっかいなケースを抱え込んだと感じた覚えがある。  何も答えぬ高木の経歴については、古いケース記録を辿ることによって、簡単に知ることができた。  昭和二十年代の生活保護法施行開始時に、すでに高木辰男の名前は記録にあった。高木の父は戦死しており、母と妹の三人暮らしだったが、母親は結核に冒されて働くことはできなかった。二年後に妹が赤痢で死亡し、高度成長の始まった昭和三十年に母の結核が悪化して入院、辰男は新潟の叔父のもとに引き取られていった。  しかしその二年後に傷害事件を起こして少年院送りになり、その後は新潟の暴力団に入った。どういういきさつがあったか不明だがまもなく高木は故郷の町に戻ってきて、地元の風俗営業店や飲食店では、それなりに怖《おそ》れられる存在になっていた。  腹を刺されることで、高木が男を上げたのか下げたのかわからない。しかしその後、刺し傷は回復したものの、頑固な内臓|癒着《ゆちやく》を起こしたために、高木は組織から捨てられ、その後数年にわたって重松と関わることになったのだ。  新潟でもこの町でも、いっぱしのヤクザ風を吹かせて、それなりに羽振りのよかった男は、少しでも走ると腹痛で動けなくなり、気温が下がれば、須佐之男を貼りつけた背中を丸め、すり足で歩くことしかできなくなった。  重松の担当中、高木は少なくとも二回の開腹手術を受け、生活保護を受けて暮らすことになった。本人にとってもこれ以上の試練はなかったかもしれない。払われた保護費をすべて酒に換え、重松に咎《とが》められると、腹痛を起こすので固形物を食べられないと言いわけし、なおも注意されれば、アパートの自室であろうと、福祉事務所のカウンターであろうとかまわず暴れた。 「てめえのように安楽に役人やってるやつに指図される理由はない。説教したければ、俺のいるところまで落ちてからにしろ」というのが、彼の口癖だった。  その気になれば、月一度の支給日に保護費を渡し、好きなように酒を飲ませ、死体となって発見されるまで放って置くこともできた。しかし重松は半ば意地になって高木を更生させようとしていた。今のように病院のケースワーカーや他の人々とネットワークを作っての自立プログラムなどというものはない時代だ。担当のケースワーカーの熱意だけが頼りだったし、若い重松には過剰な自負心と義務感があった。  脳天を真夏の太陽にあぶられながら、重松は目を細め、一点の雲もない青空を見上げていた。  遠くで救急車のサイレンの音がしてはっと我に返り、自分の息が酒臭いと感じた。自転車に乗ったのと、長時間立っていたのとで、痔が痛む。脈打つたびにずきずきとしてきて、重松は尻を押さえてその場にしゃがみ込んだ。 「もしもし、もしもし、歩けますか」  耳元で尋ねる者がいる。白衣の裾が目に入った。救急隊員だ。 「俺じゃねえ、あっちだ」  重松は酒臭い息を吹っかけながら、橋の下の日陰を指差し怒鳴った。  救急車に高木が運び込まれたのち、重松も病院で事務手続きをするために一緒に乗り込んだ。血走った目をした酒臭い重松を救急隊員は奇妙な目付きで見ていたが、何か事情があると思ったらしく、何も尋ねなかった。  入院手続きを終え、病院から戻った重松は新井に一部始終を報告した。今、重松はケースワーカーとしての仕事はしていないために、高木の件は新井に引き継がれた。新井は、手際よく必要な書類を揃えていく。 「病院に面会に行かないのか?」と重松は尋ねた。 「そのうちに」と新井は、医療券を封筒に入れながら忙しそうに答えた。 「女房と娘が、市内にいるかもしれない」 「二十年前に別れた家族に、扶養させろって言うんですか?」 「そうじゃない。肉親の絆《きずな》というものが……」 「今さらこんなやつに戻ってこられたら、どうなると思ってるんですか。新しい家庭持ってたら、トラブルの元ですよ」  重松は黙った。まさにそのとおりで、反論の余地はない。妻と娘にすれば、援助するどころか顔さえ見たくない相手だろう。  あれは高木が生活保護を受け始めて二年ほど経《た》った頃だった。  家庭訪問に行くと、女がいた。田舎から出てきたばかりという感じの、素朴な感じの女だったが、一重|瞼《まぶた》の瞳に不思議な意志の強さを滲《にじ》ませていた。  アル中とはいっても、須佐之男を背負った三十代前半の高木には、精悍《せいかん》な面影と繊細で危うい雰囲気が同居していて、それに心惹かれる女がいてもたしかに不思議はなかった。しかしそれだけならまだいい。アル中と内臓癒着でまともに動けなくても、子供だけは作れる。  単身世帯だった高木のケースは半年後には、三人家族になった。ところが高木の飲酒は止《や》まず、子供をかかえて内職しているはずの妻は、いつ訪問しても留守だった。そして室内には、当時としてはぜいたく品であるエアコンやビデオが揃っていく。  高木の妻が市内の特殊公衆浴場で働いているという話が伝わってきたのは、それからしばらくしてからだ。収入認定の問題もあり、その店を訪ね、高木の妻をつかまえた。 「働けないあの人と子供のために、私が少しでも働いて、いい暮らしをさせてあげるのが、なぜ悪いの」と彼女は、重松にくってかかった。濃い化粧の下に、高木と暮らし始めた当時の面影は残っていたが、眉がすっかり抜け、前歯が茶色に変色している様が、追い詰められた生活と心理状態をしのばせた。  保護費を受け取りに現われた高木に重松は、「子供まで作っておいて、かあちゃんをそんなところで働かせて恥ずかしいと思わんか」と言ったが、「自分の女房をどこで働かせようと勝手だ」と反論され、あとは売り言葉に買い言葉で、気がついたときには自分の立場を忘れて高木の胸ぐらをつかんでいた。  所長と係長に羽交い締めにされてことなきを得たが、高木は「女房のことに干渉されてまで、金なんかいらん」と言い捨てて帰っていった。  制度的には、それで問題はなかった。妻の特殊公衆浴場での収入は、この一家の保護基準をはるかに上回っていたから、保護を打ち切ったところでだれも困らない。しかしその事実を認めず、収入認定もしないでなお保護を継続し、行政側の考える「健康で文化的な最低生活」を強要しようとしたのは、これまた重松の熱意と自負心だった。  保護も干渉も金輪際いらんという高木のもとに、重松は頻繁に足を運んだ。酒壜の転がった、雑然とした室内に万年床が敷いてあり、そこで高木はたいていテレビを見ていた。膝に幼い娘を乗せていることもあった。 「安楽なご身分の役人が、俺に説教できるのか? 俺のところまで落ちたら少しは聞いてやったっていいが」と子供をあやしながら、高木は前と同じことを言った。どうやら子供にだけは優しい父親のようだった。  安楽どころか、この頃から重松の生活も破綻《はたん》に向かって落ちていきつつあった。仕事と組合活動に深入りすればするほど身動きが取れなくなり、酒量が増え、感情の起伏も激しくなっていったのだ。職場でも激高すると手がつけられなくなっていた。後に妻子からも上司からも愛想をつかされるようになる発端はここにあった。  ほどなく高木の一家の問題は、思わぬ方向から解決された。高木の妻が、この町の繁華街で客を取っていたところを売春容疑で捕まり、そのまま福祉事務所内の婦人相談員のもとに送られてきたのだ。ベテランの女性相談員の前で、高木の妻は初めて涙をこぼし、高木の暴力と怠惰、そして子供の将来への不安を語り、さらにそれでも断ち切れない高木への思いを吐露した。  相談員の説得のもとに彼女は母子寮に入って子供と二人で人生をやり直す決心をかため、当然のことながら、この母子の行方については、一切、高木に教えないということが担当者間で確認された。  それから高木は、毎日のように福祉事務所を訪れるようになった。妻と子供を返せというのだ。担当の婦人相談員に言い含められた職員は、全員シラを切る。酒壜を片手にした高木は、カウンターの文鎮を投げ、ガラスを割り、職員の机を蹴飛ばし、絶叫して泣きだし、放っておくと、割れたガラスの散乱するカウンターで、ぶつぶつと何かつぶやきながら、延々と涙を流し続けるのだった。その未練がましさに女性職員たちは失笑を漏らし、重松は胸の痛くなるような思いでその様を見つめていた。  担当地区を回っていた重松が、自転車の前輪にいきなり棒をつっこまれて、転倒したのは、それからしばらくしてからのことだった。  痛む膝をさすりながら立ち上がると、高木がいた。めずらしく酔っておらず、蒼白《そうはく》の顔で重松を見つめ、「ちょっと、来い」とアパートを指差した。  ためらわずに重松がついていくと、あれだけ乱雑だった部屋の中はきれいに片づいていた。  部屋の中央にあぐらをかき、 「女房の居場所を教えろ」と目を座らせて高木は言った。 「どうする気だ」と尋ねると、「死ぬ」と低い声で答えた。「殺す」と重松には聞こえた。「だめだ」と重松は首を振った。  すると高木は、脇の白い布を取った。短刀が二本あった。その一つを自分の前に置き、そしてもう一方を重松の前の破れ畳に突き刺した。それから自分のシャツを脱ぎ、上半身裸になった。  重松は、息を呑んだ。いったいあれから何度メスを入れて、くっつき合った腸と腸を剥《は》がしたものだろうか、高木のやせた腹には何本も傷跡がつき、みみずばれのようになり、引きつっていた。  高木は、それを取れというように重松の前の短刀を顎でしゃくった。  静かな目の色をしていた。短刀よりは、その目に重松は戦慄した。  青白くすらりと長い高木の指が、短刀にかかった。重松は呑まれたようにその切っ先をみつめた。  重松は、ゆっくりともう一つの短刀を手にした。恐怖と命を惜しむ気持ちが、不意に消えた。  まず娘二人の顔が、次に妻の顔が脳裏に浮かんだ。  ケースワークという仕事に比べ、限りなく軽く無価値だった妻子のことを、そのとき初めて重松は、重たい感慨を伴って受けとめることができた。  重松は、高木の視線を受けとめ、ゆっくりと立ち上がった。短刀を握りしめる手が汗でぬるぬるした。  高木の目は平静だった。人殺しの目ではない。重松が何度か見てきた自殺体の目だ。少し前に見た、藪の中で手首を切って絶命し、ぽっかりと青空を映していた行路死亡人の目に酷似していた。  その瞬間、重松は手の中の短刀を投げ出した。  高木の眉がぴくりと動いた。 「拾え」  低い声で高木が言った。重松は黙って紺の事務服を脱ぎその短刀の上に捨てた。続いてネクタイを緩めて、自分の左胸を指差した。 「やれよ」  高木は表情を動かさない。 「やるならやれよ。いいか、ここを正確に突くんだ」と重松は、心臓の上をこぶしで叩いた。 「ケース刺して、懲役食らって、免職だなんてやってられるか。ここでおまえに殺されりゃ、俺はめでたく殉職だ。年金、退職金、保険金、見舞い金、満額出らあ。初めてかあちゃん、娘に孝行できるんだよ」  高木の蒼白の頬に、ぱっと血が上った。手にした短刀を振り上げ投げた。飛んできた短刀は重松の足の数ミリ脇の畳に刺さった。  そのとき高木がどんな顔をしていたのかわからない。重松はくるりと高木に背を向け、ファイルと事務服を拾い上げ、そのままその日予定していた訪問先に向かったのだ。  殉職は、かなわなかった。  その後、高木はこの町から姿を消した。ケース記録には「失踪」と短く記入された。  いったい高木はどこでどうして暮らしていたのだろうか。おそらく住所不定のまま行く先々で倒れては病院に運ばれて保護費で入院し、治ると干渉を避けて他地区に逃げるということを繰り返してきたのだろう。そして二十年を経てここに戻ってきた。その理由に思い当たり、重松はぎくりとした。高木は死に場所を求めているのではないか?  キャビネットの中のファイルをひっぱり出して見た。高木の妻の名前がある。母子寮に入り、二カ月後に生活保護を辞退している。自立したのだ。  都から出向している母子相談員に事情を話し、彼らの行方を尋ねると、母親の方は市内の病院で賄《まかな》いの仕事をしながら子供を育て、母子貸付金も律儀に返済し、五年前にクモ膜下出血で死亡したことがわかった。娘は現在結婚し市内に住んでいる。  自席に戻った重松はぼんやりと事務所内を見渡した。保護費の数字を端末にインプットする者、扶養照会の宛名書きをする者、病院から上がってくる書類に目を通す者、担当地区の訪問に出かける前に終わらせねばならない仕事をだれもが山と抱えて興奮している。その中で重松の机の上にだけ書類がない。電卓もない。時間つぶしに読むための福祉六法と会報が二、三冊あるだけだ。  重松は自転車の鍵をつかんで立ち上がった。どこへ行くのかだれも尋ねなかった。わざと大きな音をさせて引き出しを閉めると、「売店ですか?」と赤倉政子が愛想できいた。「ああ、飴《あめ》が切れてな」と答えると、「そうそう、お酒を飲みたくなったら、キャラメル舐《な》めてなさいよ」と言って、再び医療券に視線を落とす。  役所の裏口に置いてある自転車にまたがった重松は高木の入院している病院に向かってペダルをこぎ出す。陽射しは強烈だが、オフィス内に淀んでいる冷気から解放されると心が軽くなった。  病院の玄関に自転車を置き大部屋に入ると、重松はいちばん奥のベッドで眠っている高木に近づいていった。そっと覗き込むと、気配を察したものか、高木はどんよりした目を開けた。ややおいて、焦点が重松の顔の上でぴたりと合った。いぶかしげに眉をひそめたかと思うと、信じられないというように、窪んだ目で瞬《まばた》きした。重松は我知らず微笑していた。 「どうだ、もう一度、刺しっこするか」  高木は、じっと重松の顔を見ていた。 「じじいになりやがって……」  擦《かす》れた声が、ひび割れた唇から漏れた。 「そうだよ。お互いさま。かあちゃんが死んだの、知ってたか?」  高木はうなずいた。重松は続けて言った。 「娘は結婚したが、この町に住んでいる」 「松木町の方にな」 「知ってたのか。それで会ったのか?」  高木はうっすらと笑った。 「どの面下げて会える?」  重松は、ポケットの中に隠し持っていた清酒の一合壜の中身を蓋《ふた》にあけた。手が震えて、白い布団カバーの上に、酒が数滴こぼれた。それを高木の口元に持っていった。 「飲めよ」  高木は不思議そうな顔で、重松を見上げてごくりと喉《のど》を鳴らして飲んだ。それから重松はもう一杯|注《つ》ぎ、自分で飲んだ。 「最後の酒だ。お互いにな。酒が切れてまともに働けるようになったら、最初の給料で線香買って女房の墓参りをするんだ。それから娘の顔を見に行くんだな」 「また、俺を指導するのか」 「いや、されるんだ」と重松は答えた。 「される?」 「ああ……」 「何しているんですか、おたくたち」  後方から、看護婦の怒鳴り声が聞こえたかと思うと次の瞬間、手にした一合壜をひったくられていた。重松はそそくさと、病室から逃げ出した。  その夜、重松は酒を飲まなかった。数年ぶりにしらふで布団に入ると、寝つけなかった。関節が、筋肉が、痔が、頭が、あらゆるところが痛む。嫌な夢を見た。  翌日、事務所に出てきたが仕事にならなかった。夏だというのに、全身が凍るように冷たく、肩のあたりが小刻みに震える。事務所のベージュ色の壁を見ていると、まるで映画のスクリーンのようにあるはずのない光景が見え始める。  そんな状態が数日続き、痙攣する身体と精神を抱えながら、重松は退院後の高木の住まいや就業について、新井に相談した。 「そう簡単にまともな生活に戻るとは思えませんけど。退院して監視の目がなくなったら、また飲んで入院しての繰り返しじゃないですか。だって二十年以上もアル中やってる人間が、治ると思いますか」 「じゃあ、どうするんだ?」 「他人に迷惑かけないで死んでくれるのを待つしかないですよね……」  目の前で鳴っている外線電話に手を伸ばしながら、新井は早口で答える。 「なんだ、その言い草は」  重松の頭に血が上った。 「はい。いつもお世話になっております」  新井が受話器に向かって言った。 「そういう心構えでこの仕事を……」 「あ、すいません、うるさくて。ええ、アル中のケースが、カウンターに来ているもので」  新井は電話の向こうの相手に向かい、ペコリと頭を下げた。  重松の断酒は、それから十日続いた。さすがにその頃には職員も重松の異変に気づき、驚いたような不思議そうな視線で彼を見るようになっていた。  しかしちょうどその十日目、ケースワーカー二人が異動することになり、歓送迎会が開かれた。 「係長、これ」と宴会が始まる前に、赤倉がノンアルコールビールを一箱、重松の脇に置いた。口は悪いが、面倒見はいい彼女らしい心配りだった。宴会の間中、彼はそれを飲んだ。一次会はそれですんだ。しかし二次会のスナックにノンアルコールビールはなかった。お目付け役の赤倉もいなかった。  ウーロン茶を飲んでいたつもりが、いつのまにか水割りに手を出していた。  気がついたとき、重松はシャッターの閉まった繁華街のアーケードの下に、汚物にまみれ、傷だらけで寝ていた。新井が泣きそうな顔で、「係長、しっかりしてください」と叫んでいた。  十日間の断酒は終わり、翌日からまた以前と同様の酒びたりの生活が戻ってきた。ときおり高木との約束が頭をかすめた。しょせんは、こんなものだと自嘲的な思いにとらえられると、さらにグラスに手が伸びる。しかし今度は、それほど長く続かなかった。  再びアル中状態にスリップして一週間目、朝の打ち合せのとき、急に吐き気がしてきた。手洗いに行こうとしても、身体中の力が抜けて立てない。しかたなくじっとうつむき、保護係長の報告を聞いていた。脂汗が額から顎に流れ、それがぽつぽつと机の上のレジュメに落ちた。それから強烈な吐き気が込み上げてきて、口を押さえた。墨のように真っ黒なものが、指の間からこぼれ、レジュメの上に広がった。  職員が一斉に席を立つ音がする。 「新井、救急車。赤倉さん、足の方を持ってくれ。おまえ、その座布団折って、ここにいれろ。よし、そうだ。顔を横に向けろ。そうそう、それでいい」  保護係長の落ち着いた指示と、女性所長のこれまた落ち着いた「色からすると、肺ではなくて、消化器系の出血だわね」という声が聞こえ、気が遠くなった。  何日経ったことだろう。目覚めたとき、重松は自分が生きていて、病院のベッドにいるのが信じられなかった。実際に、生きているのが奇跡だった。肝臓障害からくる静脈|瘤《りゆう》が重松の身体のあちらこちらにできていて、頑固な痔などもそのせいだったのだが、今回は食道にできたものが破裂したのだ。大出血と長時間に及ぶ手術には、アルコールで衰弱した身体はとうてい耐えられないと医者に言われ、一時、重松の妻は葬式の手配までしたらしい。しかし家族にとっても本人にとっても、幸か不幸か、重松は生きている。  ときおり妻がやってきて、無言で、枕カバーを直したり、体を拭いたりしてくれる。見舞い客が来るたびに「どうも大変なご迷惑をおかけして」と謝っているのが聞こえるが、喉に管をつっこまれて横たわっている重松に何か話しかけることはない。二十年も何も話すことがなかったのだから、今さらかける言葉もみつからないのだろう。 「それにしたって、俺の方が先か」と重松は高木の顔を思い浮かべてつぶやいた。  夏が終わり秋が来ても、体力はさほど回復しなかった。手術で細くなった食道に物は通らず、なにやらバリウムめいた流動食を飲み込んで、重松は過ごしていた。妻も病院に頻繁にはやってこなくなった。入院当初、数回顔を出した娘も来ない。たまに顔を出す同僚もいないことはないが、赤倉などは「これでやっと断酒できそうじゃないの」などと憎まれ口を叩いて帰っていく。  あるとき新井がやってきて、高木が退院してきて、今のところ酒を飲まずに生活していること、病院主催の断酒会に出席していることなどを報告した。 「むしろ問題は、完全に病院の手を離れてからですよね。一人になって社会生活を始めたとき……。世間って、アル中仲間や病院ケースワーカーの小さなあったかい世界と違うから。そのときにどうやって支援していくかが、僕たちの課題です」 「おめえも、少しは成長したな」  重松はにやりとした。 「係長に誉《ほ》められたってしょうがないですよ。それより、彼にも何か心の支えみたいなものがあると、いいんですがね」 「心配するな。あるよ」と重松は答えて、にやりとした。  ここ数カ月開いていない重松の手帳には、高木の娘の嫁ぎ先の住所と電話番号が控えてあった。いつか高木が、父親として恥ずかしくない姿になったとき、なるたけさり気ない形で、再会の機会を作ってやりたいと思っていた。  秋も深まってから退院した重松は、年の瀬に入ってようやく職場復帰したが、食道の通りが悪く食物が飲み込みにくい状態は、ずっと続いている。長年にわたる飲酒で痛めつけられた身体は、回復にかなり時間がかかるようだった。これといった仕事もないまま御用納めになり、忙しい年末を家庭でも疎《うと》まれながら過ごしていた大《おお》晦日《みそか》の深夜、突然自宅に警察から電話がかかった。  隣の県との境にある鉄道の無人駅で、被保護者らしい男が電車に飛び込んだので、身元の確認をしてほしいと言う。  各方面に緊急連絡先として配付されている名簿を見て、重松の自宅にかけてきたらしい。おそらく大船所長も他の係長も不在だったのだろう。 「仏様の名前はわかりますかね?」  重松は尋ねた。 「診察券を持ってまして、名前が高木辰男さんとなってるんですが」 「わかりました。すぐ行きます」と答えて、受話器を置いた。  驚きはさほどなかった。心のどこかで、こうした事態を予想していたような気がする。  担当の新井は、同じ係のケースワーカーとスキーに行っているし、直属の保護係長は福島に帰省中だ。御用納めの日に新井が冗談めかして、「今年の正月、何か起きたら、係長なんとかしてください」と言ったのが、年が明ける前に本当になってしまった。  家を出ようとしてふと、その死に場所に思い当たることがあって、慌てて手帳を見直す。松木町。高木の娘の嫁ぎ先の近くだ。  一時間に二本しかないディーゼル線の駅に重松が着いたのは、十一時過ぎのことだった。最終列車を下りると、駐在所の警察官が駆け寄ってきて、重松を線路際の吹き曝《さら》しの空き地に案内した。オレンジ色のシートが、水銀灯の下にあった。 「この仏さんですが」  警察官は、シートを外した。胴体のところでふたつに切断された遺体が現われた。 「はい、たしかに……間違いありません」  重松は答えた。たしかにあの高木だった。目を閉じていた。眠っているように見えた。死者のあのガラス玉のような目を見ないですんだことに、重松は少しばかりほっとした。  俺の代わりに逝《い》っちまったのか?  重松はその眠った顔に語りかけながら、手術の後の、回復室での苦しい日々に思いを重ねた。  目を閉じて合掌した後、警察官に尋ねた。 「この人、娘さんがいるんだけど、連絡した?」 「は?」 「いや、いいんだ。ちょっと失礼」と重松はその場を離れ、公衆電話まで走った。  五、六回呼び出し音が鳴った後、女性の声が出た。 「N市福祉事務所の重松と申します」と名乗ったとたん、相手の声が緊張した。確認すると、高木の娘本人だった。重松はできる限り事務的に高木の死を告げた。 「どうもご迷惑おかけしました」  言い終える前に、硬い声が返ってきた。 「今、仏様は新小宮駅です……お宅の近くです。まだしばらくここにおりますので」  重松が口ごもっていると、相手はすらすらと答えた。 「高木が戻ってきたのは、知っています」  高木と自分の父を呼ぶのを聞いて、重松はぎょっとした。 「二、三日前に、うちのまわりを歩いてましたので」 「何も言葉は交わさなかったのですか?」 「何を話せと言うんですか?」 「いえ、ですから、今、おたくの近くにいるわけですから……」 「行かれるようなら行きます」  さえぎるようにそれだけ答え、電話は切れた。重松は唇を噛んで立ち尽くしていた。高木に娘のことなどを持ち出したのが間違いだったのだろうか。抱いてはならない希望を抱かせ、死に追い込んだのだろうか。血のつながった親子だ。かわいがったこともある。何があっても最後は許して戻ってきてくれるというのは、男親の見果てぬ夢なのだろうか。  警察官が、重松を呼んだ。 「すみません、仏さんを監察医のところに運ばなければならないんですが、車が来るのが遅れてまして。ちょっと、用事が入っちゃったんですが、野良犬にいたずらされたりすると困るんで、少しの間、見ててくれませんかね」  そう言いながら警察官は、シートの四隅をきっちりと留め直した。 「いいですよ」と重松は返事した。  一人残されると、刺すばかりの寒さが、厚手のコートを通して染み入ってきた。重松は、背中を丸めてその場で足踏みする。 「行けたら行きます」という、高木の娘の言葉を心の中で反芻《はんすう》した。賭《か》けをしている気持ちだった。 「おい」  オレンジ色のシートの膨《ふく》らみに向かって、重松は語りかけた。 「来るよな、そうだろ? おまえは俺と違って、本当に酒やめたんだからな……おい」  重松は、灰色の路面に目を凝らした。いくら待っても、人がやってくる気配はなかった。  眉の上がひやりと冷たくなった。こすると指先が冷たく濡れた。雪だ。水銀灯の光の輪の中を大粒の雪が光りながら舞い下りてくる。  冷えきった大気を震わせて、どこからか鈍い鐘の音が聞こえてきた。  まもなく年が暮れる。もう一つ鳴った。さらにもう一つ。煩悩《ぼんのう》の数だけか、と重松はもう一度、シートの方を見た。その表面が明るんだ。ヘッドライトが近づいてくる。  遺体搬送のための警察の車か、それとも娘がやってきたのか。  急に、どうでもいい、と思えてきた。  高木は、もうそんなもののすべてから解放されたかったのかもしれない。  鐘の音が、また聞こえた。  ──鳥一羽 テトラポッドに墜死する──  不意に下の句を思い出した。  ──鳥一羽 テトラポッドに墜死する    潮満ちきたれ 潮にしたがえ──  重松は、シートに向かい、深々と頭を下げて合掌した。   〈挿入歌〉勝部祐子著『内乱』(沖積舎)より [#改ページ]    ファンタジア 「栄養失調」という文字を、富樫《とがし》由梨江《ゆりえ》は、何度も瞬《まばた》きしながら読み返した。  由梨江に回されてきた生活保護申請書の申請理由は「病気」、病名はたしかに「栄養失調」だった。  大学を卒業し、五年間の図書館勤務を経て、福祉事務所の保護係に来て丸一年。学生時代に抱いていた「社会福祉」のイメージと、現実の修羅場とのギャップに、そろそろ慣れてきたおりではあったが、平成のこの時代に、栄養失調で病院に担《かつ》ぎ込まれた人間がいるということに、由梨江は衝撃を受けた。しかも浮浪者や老人ではない。市内に住所のある三十六歳の女性である。 「たいていは精神障害があるんだよ」  保護係長が、由梨江の手元を覗《のぞ》き込んで言った。 「鬱《うつ》病を放置したか、何か事情があって緩慢な自殺を企てたか。一人暮らしの女に多い。人前でぶっ倒れたからよかったようなものの、家でだったら死後三カ月間発見されず、ってことになりかねない」  由梨江は神妙にうなずいた。  四日前の夕方、一人の女性が駅前商店街で倒れ、市内の救急病院に担ぎ込まれた。一見したところ痩《や》せてはおらず、美人とは言えないまでも華やかな雰囲気の女性だったが、検査の結果、栄養失調からひどい貧血を起こし、骨粗鬆症《こつそしようしよう》を併発していることがわかった。医師は極端なダイエットの結果であると診断したが、それがどうやら誤りだとわかったのは、医事課でその患者に入院保証金を請求したときである。  その女性、佐藤|妙子《たえこ》の住まいは、この町の住人ならだれでも知っている高級分譲マンションで、着ていたスーツはラインがいくぶん流行遅れではあったが、本物のダナ・キャランだった。しかしそのダナ・キャランを脱がしてみれば、ブラジャーのレースが擦《す》り切れ、服の上から豊かに見えた胸には肋骨《ろつこつ》が浮いている。  財布に現金はなく、国保にも加入していない。家にも口座にも金はない。  相談に乗った病院のケースワーカーが本人に聞いたところによると、佐藤妙子の父は輸入品販売会社を経営していたが十年前に他界し、その父の残してくれたマンションはすでに人手に渡っているという。  同居していた母は二年前に亡くなり、兄弟はいない。結婚もしていない。親類はいるが、ほとんど付き合いはない。天涯孤独の一文無しである。一カ月前から現金が底をつき、買い置きのスパゲッティや、もらい物のそうめん、缶詰の類で暮らしていたが、この十日間ほどはそれもなくなり、水を飲んで暮らしていた。このところ連日、マンションの部屋の新しい持ち主が、立退《たちの》きを要求しに訪れており、それを逃れて外に出ていたところ、気分が悪くなって倒れた。  病院のケースワーカーがこの日の午前中に福祉事務所を訪れ、相談係の赤倉にそうした事情を話し、本人に代わって保護の申請を行なった。申請は受理され、本来なら詳細な調査をした後に保護の要否が決定されるところを、佐藤妙子の場合、放置できないケースとして、経過的措置である職権による急迫的保護が行なわれることになった。  そして富樫由梨江がケースワーカーとして佐藤を担当することになったのである。 「カード破産でしょうか?」  由梨江は、相談係の赤倉政子に尋ねた。赤倉は首を横に振った。 「カードは作れなかったのよ。ちゃんとした仕事してないからね」  申請書によれば、佐藤妙子の職業は「作家」である。 「『自称』でしょ、どうせ。早い話が、親の財産、食い潰《つぶ》してぶらぶらしてきたのよ。中年過ぎてつけが一気に回ったのね。かわいそうと言えばかわいそうなんだけど」と赤倉はため息をついた。 「社長のお嬢様が、わがままいっぱい、好きなことしてこの歳まできちまったんだ。一人で生きてくったって難しいだろうよ」と係長は首を振り、「まったく、親も親だよ。なぜ一人娘をちゃんと片づけなかったんだか」とぼやく。 「いくらでも話はあったんだろうけど、婿《むこ》養子じゃなきゃだめだ、とかなんとか、いろいろ注文つけたんでしょうよ」と赤倉が答える。  資産や生活状態を正確に把握する必要もあり、由梨江はまず、入院中の佐藤妙子の面接に出かけた。  軽自動車を運転しながら、これから会う女性の顔を想像してみる。  社長令嬢、ダナ・キャランのスーツ、就職経験なし、自称作家。文学少女がそのまま大きくなった三十六歳──。  最近売り出した、けばけばしい化粧をしたイタリア帰りのエッセイストの顔が思い浮かぶ。  緊張感に口の中が渇いてきた。胃がしこったように痛み出す。未だに、面接の前はこうなる。  半年前に面接した浮浪者の夫婦は、幼児を連れて二カ月間も路上生活を続けていて保護された。彼らが連れてこられたとき、冬だというのに、面接室だけでなくフロア全部が臭くなった。なぜこんな人々が結婚し、子供まで作るのかと、いけないとわかっていながら嫌悪感がわいてきた。  ようやく二十になったばかりのフィリピン人ホステスが、全身|痣《あざ》だらけになってパブから逃げてきたときには、話を聞いているうちに一緒に泣いてしまって面接にならなかった。  その種のことにいちいち動じることなく話を聞き、適確な判断ができるようになって初めて一人前だと赤倉は言うが、由梨江には十年たってもそうなれる自信はない。  病院に着き、受付で佐藤妙子の入院している病室を教えてもらい、そちらに向かう。内科病棟の大部屋の前に、その名札はあった。  ドアを開けて室内を見渡す。並んだベッドのいくつかはカーテンが引かれている。ベッドについている名札を確認する前に、窓際の丸いすに腰掛けている女と目が合った。  不思議な感じがした。ひどくなつかしく、切ない思いが胸にわき上がってくる。この人とはどこかで会っていると思った。  大人になるにつれて、いつの間にか失った夢が心の内によみがえってくる。  由梨江は軽いめまいを覚えて、首を振った。  ──私の青春はこの人と一緒にあった。濃紺の空に輝く星。菫《すみれ》色の目と菫色の髪を持つ美形の神々。遠い星への旅。深い谷に流れる霧……。  秋元|碧《みどり》先生。  中学から高校にかけての五年間、由梨江の本棚の一角をしめていたのが、この人の本だった。パステルカラーの文庫本は、由梨江の宝物だった。ブルーの背表紙が陽に焼けないように、そこの棚にだけカーテンをつけた。  出版社の広告で見た秋元先生は、長い髪を後ろで一つにリボンでまとめ、微笑《ほほえ》んでいた。ほっそりした首に垂れたおくれ毛とパールのイヤリングが、優しくはかない感じで、秋元先生の本のカバー絵にある少女が、そのままお姉さんになった、という雰囲気だった。  思いがつのって一晩かかってファンレターを書いたのは、中学卒業間際だっただろうか。結局恥ずかしくなって投函しなかった。手紙はずいぶん長い間机の中に入っていたような気がするが、いつの間にか捨ててしまったのだろう。あのパステルカラーの本も気がついたときには、処分してしまっていた。  買ったときの胸はずむ思い、初めてページをめくるときの苦しくなるほどの期待感は、今でも思い出すことができるのに、捨てるか、人にやるかしたときの記憶がないのはなぜだろうと由梨江は思った。醒《さ》めてしまった恋人との別れにも似て、それはひどくそっけないものだったのかもしれない。  まっすぐな長い髪を肩に垂らし、化粧気のない白い頬をしたその人は、何か言いたげに由梨江の顔と、市のマークの入ったノートを交互に見ていた。 「どうも……」  相手は言った。ベッドについている名札を見る。やはり、という思いと驚きが、一緒になってこみ上げてくる。 「あの、佐藤妙子さん……ですね」 「ええ、福祉事務所の方でしょう」  その人は、昔見た広告写真そのままの笑顔で言った。  佐藤妙子、職業・作家。そしてペンネームは「秋元碧」。  彼女は、赤倉が言っていたような「自称」作家ではない。十二、三年前、本屋の棚一つをその作品で占領したくらいのティーンズ小説の大御所なのだ。  秋元先生でいらっしゃいますね……そうでしょう。  思わず、口をついて出そうになる言葉を、由梨江は呑み込む。  少女の時代は終わっていた。ファンタジーは、大人になった由梨江を取り巻く世界のどこにもない。今、由梨江が対峙《たいじ》しなければならないのは重たく散文的な現実だけだ。  生い立ち、現在の状況に至る経緯、財産、所得、そして扶養親族は本当にいないのか?  これから尋ねることは、秋元碧の描き出した世界と対極のものであり、同時にそれが由梨江の知っている秋元碧の現実でもある。 「歩けます?」  由梨江は尋ねた。 「ええ。もうすっかり。恥ずかしいお話ね、栄養失調なんて……」 「それでは面接室まで来ていただいていいですか?」  保護についての話は、他人が聞いていないところで行なうのが原則だ。  佐藤妙子は、パジャマの上にカーディガンを羽織って立ち上がった。そのベージュ色のカーディガンに、由梨江は目を留めた。古びてはいるが、シルクニットだ。  病院のケースワーカーが使う面接室で、由梨江は佐藤妙子と向き合った。  由梨江が何か尋ねる前に、妙子は口を開いた。 「私、小説を書く仕事をしているんです。ペンネームを言えば、たぶんご存じかもしれないけど」 「ええ」  あえて知っているとは言わなかった。  大人になるにつれて離れてはいったが、この人の作品はその後もずっと自分の精神に影響を及ぼしていたような気がする。大学ではSF研究会に入って、ファンタジー小説を読みあさるかたわら、アニメの自主上映会をしていた。  市役所の就職面接では「何の仕事をしたいですか?」という質問に、迷うことなく「図書館で児童奉仕の仕事をしたい」と答えた。少女時代に多くの夢を見せてくれた秋元碧への思いは、確実に生きていたように思う。 「実は私ね、親の残してくれた財産を全部なくしてしまったのよ。なくしただけじゃなくて、借金だらけ。愚かだったわ」  佐藤妙子は、目を伏せたまま話を続ける。由梨江も質問はひかえて、耳を傾けることにした。 「私、大学二年生のときに同人誌に載った作品が認められて、この世界に入ったの。出版社から人が来て、少女向けのファンタジーを書いてみないかって言われて書いたら、当たってしまった。一冊のつもりが、シリーズになって、年に四冊。翌年は五冊。学校行ってる暇がなくなったから中退して書いた。時間が後ろへ後ろへと流れていったわ。気がついたら、今のあなたくらいの歳になってた……」  淡い茶色の透き通った目で、佐藤妙子は由梨江を見つめた。由梨江の中で、それが秋元の作品の中の、菫《すみれ》色の目と髪を持ったヒロインの姿に重なる。 「人に会うのは、出版社の担当さんと母親だけ。行くのは担当さんが連れていってくれるお店や映画だけ。そうそうTDLには、よく行ったっけ。あれだけが息抜きだった。世間のことなんて、何も知らなかったのよ。けれどある日、素敵な人と出会ったの。そのときは本当に素敵な人に見えた。私のまわりの男の人って、彼の他は、出版社の担当さん一人で、それがデブデブに太ったお兄さんだったんですもの。彼と会ったとたんに恋に落ちて、次の日から一緒に暮らし始めたの。家には母と私しかいなかったから、男の人が来てくれて心強かった。でも、本当はひどい人だったの。私、一冊、本を書くと、信じられないくらいのお金が入ってくるのよ。でも税金とか貯金のことって私には全然わからない。そうしたら彼が、証券会社の人を連れてきたの。それだけじゃなくて、節税のために秋元碧事務所を作って会社組織にしましょうって言ってきて。私、そういうことはわからないし、彼のことを愛して信頼していたから、みんなお任せしてしまったわけ。ところが出版社は、そうやって彼が好きなようにするのを嫌がったの。出版社としては私を自分の会社の専属にしたかったから。それで担当さんとけんかしてしまって、そこの出版社とのお付き合いは切れてしまった。そうしたら彼は勝手にどこかの会社と契約してきて、私にそこの会社に書くように言うの。ところが彼は、大きな会社とお付き合いがなくて、二流・三流のところばかり。そのうちポルノ小説を書け、なんて言い始めて。彼、お金が欲しかったのよ。それである日、ふいっと姿を消してそれきり。きっと他に好きな人ができたのね。たぶん、その頃急に人気が出始めた作家だと思う。まだ二十そこそこの子だったけど。母は心痛から病気になって亡くなったわ。治療費が三千万近くかかって、借金をしたの。結局、マンションも取られてしまったし、今ではいくら書いても返済が追いつかなくて、結局、こんなことになってしまったけど……」  話の一部始終を息を詰めて由梨江は聞いていた。そんな事情が「秋元碧先生」にあったのかと思うと、やりきれない気持ちになった。しかし今、由梨江はファンではなくケースワーカーとして対処しなければならない。 「失礼ですが、その方は、つまり内縁の夫、ということですか?」 「内縁の夫……たしかにそうね。三年、一緒に暮らしたもの」と寂しげに佐藤妙子は答えた。 「いつからいつまで同棲《どうせい》、いえ、あの、一緒に暮らしてたんですか?」  妙子は、嫌がる風もなく、彼とは今から五年前に知り合い、母が亡くなる直前の二年前まで一緒に暮らしていたこと、そして彼は、現在、杉並にいるらしいということなどを話した。  いずれにしても、その男に秋元碧、すなわち佐藤妙子の扶養義務はないし、援助も期待できない。  次に親戚について尋ねる。千葉と茨城に母方の親類がいるが、せいぜい葬式に顔を合わせる程度のつきあいだ。また武蔵野市に母の妹がいて、こちらは五年くらい前までは頻繁に行き来があったが、特に理由もないまま次第に疎遠になってしまった。由梨江は彼らの住所を確認する。扶養の照会をしなければならないからだ。 「まず、借金を整理するのが最初ですね。額にもよるけど自己破産宣告をしてもらうという手もあると思いますし。それで身辺がきれいになれば、落ち着いて仕事できるでしょう」  ええ、と妙子はうなずいた。 「佐藤さんの場合、体力さえ回復すれば、普通の生活に戻れるわけですもの」  子供を抱えて離婚した専業主婦と違い、独身で、しかも作家としての実績のある佐藤妙子、すなわち「秋元碧」のようなケースには、ほとんど問題はない。ほんの一押しで元の軌道に戻れると由梨江は判断した。  当面の家賃と医療費、生活費は支給されるので、退院後はできるだけ早く新しいアパートを探してそちらに移り、仕事を再開するように、と言い残し、由梨江は病院をあとにした。  事務所に着いてすぐに、親類に扶養照会の書類を送った。  さらに由梨江が金を借りたという金融機関に連絡をして、負債額を調べる。  結果は意外なものだった。  佐藤妙子は、「いくら書いても返済が追いつかなくて」と言っていたはずだ。  たしかに彼女は動産、不動産を抵当に入れて銀行から多額の借金をしている。それが返済できず、中に入った保障会社が代位弁済をしたあと、その住まいが競売にかけられたわけだが、「返済が追いつかない」どころか、佐藤妙子は一銭も返していない。また、ノンバンクからの借金もあるが、こちらも同様だ。利子さえ支払っていないのだ。  妙子は無一文だった。たしかにシルクニットのカーディガンを羽織ってはいたが、いかにも古かった。「いくら書いても追いつかぬ」ほど、いったい彼女は何に金を使ったのだろうか。あるいは収入自体が少ないのかもしれない。佐藤妙子の退院を待って、早急に必要な書類を提出させ、収入認定をしなければならない。  昼休みに由梨江は役所の近くの本屋に行ってみた。十年ぶりのティーンズ小説の棚を見た。そこにある本の表紙のタッチは由梨江が読んでいた頃とは少し変わっていた。それ以上に背表紙の作家名が変わっている。あの頃、棚のほとんどを占めていた秋元碧の名前はなかった。『水色のバルカローレ』というごく初期の一冊だけが、残っていた。  佐藤妙子の親類に宛《あ》てた扶助の問い合わせについては、まもなく返事がきた。まず武蔵野市に住んでいる妙子の叔母から、怒ったような声で、「うちも子供が受験ですから、援助できるお金は一銭もありません」という電話がかかってきた。続いて他の親類からも、「できません」という極めて素っ気ない返事がきた。  予想どおりだ。実の息子、娘からさえ、「援助する」という答えはめったにもらえないご時勢である。親戚に期待するのは最初から無理がある。  ところが意外なことに、元内縁の夫が福祉事務所にやって来た。妙子の叔母から連絡が入ったのだと言う。  見舞いに行きたいので病院を教えてほしい、と元内縁の夫は応対に出た赤倉に頼んだ。もうしわけないが、本人の意志を確認してからでなければ教えられない、と赤倉は一旦《いつたん》断り、そのあとを引き継ぐ形で、由梨江が話を聞いた。  長谷川という名のその男は、年の頃は佐藤妙子と同じくらいだ。服装こそポロシャツにジーンズというくだけたものだったが、生真面目そうな目をした小柄な男で、妙子の話から由梨江が想像していた、狡猾《こうかつ》なヒモのイメージとは、かなり違う。 「こんなことになるんではないか、と心配してたんですよ」  開口一番、長谷川は言った。 「彼女が僕を追い出したとき、『あんたは世間知らずだから気をつけろ』と、あれだけ言ったんですが」 「追い出されたんですか? あなたから出ていったのではなくて」  驚いて由梨江は尋ねた。 「いろいろ気持ちの行き違いもありましたから」と長谷川は苦笑した。 「心配した、とさっきおっしゃいましたけど、どのようなことを?」  由梨江は尋ねた。  長谷川は、眉を寄せて首を振る。 「だから……その……金ですよ。仕事がどこからもこなくなって、生活に困窮することを何より心配しました」 「借金ではなく、仕事がなくなることですか?」 「秋元碧の全盛期は、八〇年代前半まででした」  由梨江は、「秋元碧」の名前が本屋の棚からほとんど消えていたことを思い出した。 「移り気な読者、なかでも特に移り気な思春期の少女たちが相手の商売ですから、浮き沈みの激しい世界ですよ」と長谷川は小さく息を吐いた。 「ええ」と由梨江は、いつの間にか自分の本棚から散逸してしまった、「秋元碧」の本の行方を思った。 「秋元碧は次第に歳を取り、少女たちも大人になっていく。そして若い作家が次々にデビューして、次世代の少女のために新しい作品を書く。そして流れが変わってしまいましてね。同じファンタジーでも、彼女の書くものは、傾向がずれて売れ行きが落ちていきました」 「なんとかならなかったんですか?」  由梨江は我知らず、悲痛な声を出していた。 「出版社側は、ファンの女の子たちの成長に合わせて、秋元碧を大人物《おとなもの》に転向させようとしたんですが、失敗しました。いや、出来は悪くなかったんです。ただ、秋元碧のティーンズ物のネームヴァリューはあまりに大きすぎました。秋元碧、といえばティーンズなのです。それ以外、考えられない。発行部数は二、三年のうちに放物線を描いて落ちていきました。そんな秋元碧に、僕は目をつけたんです。ちょうど僕は、ある弱小出版社を辞めて、フリーになったばかりでした。力はあるが売れない作家や、人気の落ちかけた作家に、今までと違うものを書かせて、出版社に持ち込むというやり方でいくつもの作品を世に出してきました。秋元碧はそんな僕の意図にぴったりでした。彼女のSF的、幻想的作風と、繊細な文体をもってすれば、大人物の世界で十分やっていける。そのためには、十分なインパクトを与えることが必要でした。出版社のように、大人になった昔のファンをそのまま戻そうなどという後向きの発想ではなく、秋元碧という新人を売り出す覚悟でした。  ところが会って驚いたんですが、秋元自身は、自分の人気が凋落《ちようらく》していることにまったく気づいていない。収入にも売れ行きにも、まったく関心のない人なんです。興味は自分の描く世界だけです。きれいなんですよ、考えようによっては。しかし彼女のまわりの人間は、決してきれいじゃない、僕を含めて。ただし話しているうちに、僕は彼女に惚れました。才能には始めから惚れてましたけど、まっすぐ前を見ている目の美しさに惚れちゃったんです。それでますます彼女をなんとかしたいと思ったんです。売れ行きが落ちたっていったって、二年前まで六十万部売ってたんですから、まだ金はあります。税金対策をうまくやって、収入をきちんと運用して、あくせくせずにいいものをゆっくり書いて、方向転換をはかりましょう、と言ったんですが、僕が目を離したすきに、株に手を出してしまったんですよ。僕はたしかに証券屋を紹介しました。しかし元本保証のないものには手を出させなかった。ところが彼女にはそれの区別がつかない。僕は、原稿料を公社債投信に入れているというのに、営業のおばさんに言われるままに、株だのワラント債だの、ドル建て債券だのを買い込んだんですよ。バブルが弾けて、おまけに空前の円高で、どうなったかわかりますよね……。それと彼女が書いていた出版社から完全に仕事が来なくなった時期は、ほぼ一致します。とりかえしがつかないことになった、と僕は思いました」 「あの、秋元先生、いえ、佐藤さんは、あなたがマネージャーと言うか、エージェントを始めたから、出版社との関係が悪くなったと言ってましたが」  長谷川は首を振った。 「その前に売れ行きが落ちたんで、版元は秋元碧を切り捨てにかかったんですよ。そうでなけりゃ、僕のような大出版社の看板を背負ってないフリーの人間が、秋元碧に接近できるわけがないじゃないですか」 「つまり秋元先生、いえ佐藤妙子さんは、仕事がなくなっていたってことなんですか?」  念を押すように由梨江は言った。 「少なくとも、僕が追い出された時点では、もうどこからも……」  つまり、病院で面接した日、佐藤妙子が言った「いくら書いても、借金の返済が追い付かず」というのは、偽《いつわ》りだったということだ。借金はあったが、単純に収入がなかった。佐藤妙子は、仕事をしていなかった。おそらくは積極的についた嘘ではあるまい。せめてもの見栄なのだろう。 「ええと話を戻しますと、長谷川さんが内縁関係に入ったのは、そのころからですか?」 「内縁って……それは」  長谷川は、困惑したように何度も瞬きする。 「一緒に住んでましたよね」 「は……たしかに6LDKのマンションですから、半分は仕事場で、一部屋は担当編集者の待機部屋になってました。もちろんそこで夜明しして、秋元さんのお母さんに食事を出してもらって、原稿が上がるのを待ったなんてことはあります」 「それじゃ事実上の夫婦ではなかったんですか?」  驚いて由梨江は声を上げた。 「そ、それは……」  長谷川は、目を白黒させた。 「そりゃ、まったく何もないとは……しかし、それはそれで……」 「五年前から一緒に住んでて、二年前に別れたそうですが」 「五年前から、あの家、というか仕事場に入りびたりました。あのままじゃ、干上がるからです。もう乗りかかった船というか、証券屋を紹介したことに責任を感じましたから。とにかく秋元碧の仕事が欲しかった。出版社を回って営業しました。とりあえず、大人向けのファンタジックな恋愛小説の仕事がいいと思いました。しかしそうした仕事は、少しばかりのラブシーンを要求される。そのことが、彼女にとってはポルノなんです。言うとおりに書いてはくれません。僕にとっても辛い日々でした。どこの会社ももう、秋元のものはいらないと言う。何かと難癖をつけて書き直しをさせる。それをそのまま彼女に言ったら傷つくから、僕からやんわりと伝える。それでも彼女は僕を恨む。そうするうちに、感情的な行き違いもでてくるわけで……」 「じゃあ、内縁の夫というのは……」  混乱してしまって、由梨江は調査には直接必要でもないのに、そのことを繰り返し尋ねていた。 「何をもって夫とするのか、役所の基準はわかりませんが、僕は仕事場に寝泊りしたことはあります。肉体関係は、一度ならず、その、あったかもしれませんが……ええ……」 「いえ、そうじゃなくて、生計を一《いつ》にしていたかどうかということで……」 「僕は出版社から外注の編集者として編集料をもらい、彼女は原稿料ないしは印税をやはり出版社から受け取っていました。僕は彼女の仕事場にいりびたっていましたが、住んでいるという意識はなかったので、食費も家賃も彼女に払わなかった。いや、本当に内縁でも夫のつもりなら払ったかもしれないんですが、彼女は基本的にはプライドの高い人ですから、そうは認めてくれなかったし、こちらも毛頭考えてなかったので」  仕事と私生活の区別のつかない商売というのが、由梨江には理解できない。しかし秋元碧、すなわち佐藤妙子が極貧から栄養失調に至った過程というのが、その心理も含めて、なんとなくわかったような気がする。 「では、佐藤さんの了承を取った時点で、入院先はお知らせしますので」と由梨江は言って、立ち上がった。  長谷川は、由梨江を見上げた。その目に真剣な光があった。 「たぶん、来ないでくれと言うかもしれませんが、そのときはこれを」と封筒を差し出した。「何かくだものでも買うようにと……」  くだものどころか、封筒はかなりの厚みがある。 「秋元碧のことは今でも応援しているんで、強く生きていってください、とそれだけ伝えてください」 「いえ、これは私に預けられると困るんです。ご自分で送るか何かしてください」と由梨江は慌てて返す。 「そうですか」と封筒を引っ込めると、長谷川は丁寧に挨拶《あいさつ》して、面接室を出ていった。その後ろ姿に、由梨江は「ちょっと待ってください」と声をかけた。  肝心なことがあった。「強く生きる」などという抽象的な言葉は、小説の中ならともかく、こちらの世界では通用しない。具体的な生活の手段を見つけなければ、強くも弱くも生きられない。 「長谷川さんは、彼女に仕事を紹介できないんですか? 小説でなくても、ほら、彼女にできるような文章を書く仕事で、ちゃんと収入に結びつくような」 「もうしわけないんですが」  長谷川は、ゆっくり首を振った。 「僕は更生したんですよ」 「更生?」 「そちらの世界からは足を洗いました。指圧師の資格を取りましてね、今、老人福祉センターと市内のラドン温泉で働いています。この冬に、鍼灸《しんきゆう》の資格も取れそうです」  ぽかんとして、由梨江は長谷川の顔を見つめる。 「まもなく四十になろうという男が、夢を食って生きてはいかれませんからね」  先ほどの「強く生きよ」という言葉が、今度は重く現実感を伴って胸に迫ってきた。  それにしても、十代の自分にあれほどの夢を与えてくれた秋元碧は、「更生」の対象なのだろうか。  その日佐藤妙子に電話をすると、やはり長谷川との面会を拒否してきた。妙子は「顔も見たくない」とは言わず、「こんな姿を見られたくない」という言い方をした。それが本音かどうか判断がつかないまま、由梨江は長谷川の言葉をそのまま伝えた。  妙子は「そうですか」と答えただけだ。  二日後、佐藤妙子からまもなく退院できるという電話がかかってきた。「おめでとうございます。よかったですね」と言った由梨江に妙子は沈んだ声で訴えた。「戻る家がないの」入院しているうちに、家財道具一切が運び出され、内装工事が始まったらしい。 「退院したらどこへ行ったらいいのか……。一人で家探しする体力はまだないし……」 「わかりました。とりあえず迎えに行きますから」と言いかけると、隣でやりとりを聞いていた先輩ワーカーの新井誠が、指でバツを作って止めた。 「なぜ?」  通話口を覆《おお》って、尋ねる。 「君、ケースは何世帯持ってるの?」 「五十二世帯」 「だろう。いちいちそこまでやってたら、時間がいくらあっても足りないよ」  ずいぶん冷たい人だ、と思ったが、たしかにこのところ事務は滞《とどこお》り、コンピュータに入力しなければならない書類も机の上に山積みになっている。しかし妙子には荷物もあるし、退院したその足で不動産屋回りをさせられるはずはない。迷っていると、大場元子が肩を叩いた。 「彼女自身の問題なんだから、彼女が、親類や知人に当たって頭を下げて協力してもらうべきなのよ。そういう行動を起こしてもらうのが、自立の第一歩だし、一番大切なのに。ケースワーカーが簡単に手を貸してはだめ」  はっとした。自分の仕事への甘い姿勢をまた教えられる。  由梨江は、受話器に向かって言った。 「もうしわけないんですが行かれないんで、お友達か、ご親戚か、どなたかに自分で当たって頼んでみてください」  受話器の向こうが、しんとした。自分の言葉の残酷さに、由梨江は気づいた。  親戚への扶養照会では、はがきに一行、「できません」と書かれていた。そして住居と仕事場を兼ねたマンションで、女王蜂のように動くこともできずに、夢の卵を生み続けた作家「秋元碧」に、友人知人などいるはずもない。そんな人がいるくらいなら、そもそも栄養失調で倒れたりしなかった。  退院を手伝ってもらったり、一緒に家を探してもらえるような人間関係を今すぐ作れ、というのが無理な話だ。そのとき思い出した顔があった。 「長谷川さんはどうですか?」  電話の向こうはまだ沈黙していた。 「彼なら力になってくれるんじゃないですか」 「あの人に、頼めと言うの?」 「佐藤さんのことを考えてくれています。ここに駆けつけてきたのは、彼だけなんですよ」 「………」 「それから扶助の対象になる家賃は、四万七千円までですので、それ以下の物件を探してください」 「はい」と気弱な返事が聞こえた。6LDKのマンションからいきなり四万七千円の住宅だ。もしかすると佐藤妙子は、このあたりで、四万七千円の家賃でどういう部屋が借りられるのか、わかっていないのかもしれない。気の毒ではあるがしかたない。  いずれにしても、退院したその日にアパートに引っ越せるというわけではないので、由梨江は市内にある、婦人のための一時保護施設を確保した。  二日後、そこの職員から佐藤妙子が知人の男性の運転する軽自動車で到着した、という連絡が入った。知人の男性というのは、どうやら長谷川のことらしい。生きていく上での協力者を佐藤が少なくとも一人は確保したことに由梨江は少しほっとした。そして保護施設に二泊した後、佐藤妙子は新しい住まいを見つけ、引っ越していった。  由梨江が係長に呼びつけられたのは、それから二カ月半ばかりたった十月の末のことで、順番からして、そろそろ妙子の家に訪問に行こうとしていた矢先だった。 「見てくれよ」  係長は、佐藤妙子のケース記録に記載された扶助額をボールペンで叩いた。 「あ……」と小さく由梨江は声を上げた。  病気は治ってるのに、稼働所得は相変わらずのゼロだ。幼い子供を抱えた母親でさえ、多少は働こうとするものだが、妙子の場合、ちょっとしたアルバイトをした形跡もない。  あの後、由梨江は一度だけ、訪問に行っていた。  古びてはいるが、小綺麗《こぎれい》な木造モルタルのアパートに妙子は入居していた。長谷川が探してくれたものだった。  失礼を承知で尋ねたところによると、長谷川はまだ独身で一人住まいだと言う。それなら一緒に住もうということにならないところが、この二人の関係の微妙さを示しているような気がした。  部屋は六畳一間とダイニングキッチンで、西側の和室の壁ぎわにいかにも使い込んだ感じのデスクトップワープロが一台、木製の机に載っていた。 「今、新しい分野に挑戦しているの」と妙子は、ワープロをなでながら微笑した。それが何の分野かわからなかったが、一日も早く「秋元碧」が再生してくれることを願う一方で、由梨江は「仕事を見つけてくださいね」と助言するのを忘れなかった。  妙子が、「はあ?」と目をしばたたいたので、「職業安定所に行って、ちゃんと生活できる仕事を探してください」と言いなおした。  新井の言うとおり、五十二世帯もあるケースのうちの一つだけにかかりきりになっていることはできないから、その後、気にはなりながら、しばらく佐藤妙子のことを忘れていた。 「この人、十年くらい前までは、売れっ子の作家だったんです。実績があるんですし、今は、準備期間のような気がします。こんな状態ですけど、少しの間、生活と精神を支えてあげられれば、たちまち自立できると思いますが……」  由梨江は自分のことのように言い訳していた。  係長は、途中で首を振り、由梨江の説明をさえぎった。 「生活保護制度の理念については、いまさら説明するまでもないな。本人と家族が資産と能力を活用し、扶養や他の法律によっても、なおかつ救えない場合に、行なわれるのが保護だ。佐藤妙子の場合、扶養と他法はともかくとして、本人は病気が治って、就労能力は十分あるじゃないか」 「ええ……単に働くということなら」と由梨江は口ごもった。 「芸術家志望、小説家志望の青年は、世の中にごまんといる。世間から忘れ去られた歌手や女優もいる。彼らを公的資金で養うべきなのか? そうしたら真面目に働いている者はどうする? 芸術でも文学でも、やりたきゃどうぞおやんなさい、しかし自分の生活の面倒は自分できちんと見て、その上で好きなことをやってください、というのが、筋じゃないのか」  妻と六人の子供がありながら、仕事もせずに三千枚の大河小説を同人誌に発表したと自慢する四十男。  八十歳間近の母親に身辺の世話をさせながら、その母の年金にたかり、四十数年間売れない絵を描き続けている画家。  妻に離婚され、ライトバンに幼い子供二人を乗せて、毎月、全国のレコード屋とスナックの営業に旅立つ演歌歌手志望の男。  数え上げればきりがない。自称アーティストは、昔からヤクザと並んで、福祉事務所にとっては困った客なのである。 「わかりました」  由梨江は、軽自動車の鍵を手にした。 「行ってくるか?」  係長は、目だけで微笑した。  うなずいて外に出る。風がすっかり冷たくなっていた。  佐藤妙子のアパートに着いて部屋のドアを開けると、心地よいムードミュージックが流れてきた。 「まあ、いらっしゃい」  妙子はうれしそうに、由梨江を迎え入れた。知り合いが少ないせいかもしれない。担当ケースワーカーの由梨江も、彼女にとっては大切な友達なのだろう。 「どうですか、このところ?」と、由梨江は硬い口調で尋ねた。 「貧しいけれど、貧しいなりに心豊かな暮らし方がわかったみたい」  紅茶の葉をティーポットに入れながら、妙子は答えた。 「布を買ってきて、カーテンを縫って、音楽をかければ、こんな狭い部屋の中でも、気持ちが落ち着くわ」 「いえ、そういうことではなくて、仕事はどうですか?」  妙子の眉《まゆ》が曇った。 「この間、プロット持っていったんだけど、向こうの意向と合わなくて。ほら、流行が変わるから、それに合わせたいみたいだけど、私はそういうものとは思わないのよ」 「具体的な収入は、あったんですか? 文筆業で。いえ、前月はなくても、今月は見込めますか?」 「わからないわ。支払いは二カ月くらいあとになるし、出版時期は営業の都合で決まるから」 「何か生活の手段というか、ちゃんとお金が入ってくるような仕事は探さなかったんですか」  たたみかけるように由梨江は尋ねた。 「漫画のノベライズをしたけれど、書いて持っていったら断られたわ。小説的すぎるって。もっと通俗的にわかりやすく書かないといけないのね、私にはできないと思った」 「そういうことじゃないんです。ちゃんとお金を稼げる仕事です。職安に行って探すように、と言ったじゃないですか。行かなかったんですか」  当惑したような顔で、妙子は由梨江を見つめた。  アールグレーの紅茶からベルガモットの香りが立つ。ラジカセからホイットニー・ヒューストンの歌声が流れている。貧しいながらも落ち着いて優雅な暮らしぶりだ。しかしそうした落ち着きが、どうやって保証されたものなのか、妙子は知っているのだろうか。  憎しみ、嫉妬《しつと》、策略、いずれにも縁のなさそうな妙子の瞳の色を見ていると、悲しく苛立《いらだ》った気持ちになってくる。 「職業安定所は、行ったわ」 「本当ですか?」 「なぜ、嘘なんかつくの?」 「求職票は? どういうところを紹介されたか教えてください」  妙子は首を振った。 「私に合った仕事はないのよ」 「たとえば?」 「お掃除《そうじ》、お運びさん、キャディ……」 「選《よ》り好みしていてどうするんですか」  由梨江は、こぶしでテーブルを叩いた。その拍子に紅茶がこぼれ、ソーサーにあふれた。  妙子は眉を寄せ、泣きそうな顔をして後ずさった。  由梨江は二十八歳。そして目の前の女は三十六歳。少女時代に、自分の師であり、神様でもあった「秋元碧」。しかし平成七年の現実の中で、この人は佐藤妙子という生活力のない、ただの甘ったれた女性になっていた。 「ちゃんと仕事して収入を得て、その上で書きたいものを書いてください」  妙子は首を振った。とたんに強い視線が由梨江を射竦《いすく》めた。 「あなたには、プロの仕事の厳しさがわかってないわ。なんと説明したらいいかしら。余技にできるようなことじゃないのよ。生命のすべてをかけて、自分の身を削って、一文字一文字書いていくの。鶴が自分の羽を抜いて機《はた》を織るみたいに、十枚書いたらくたくたになって何も残らないし、何もできない。また残すような書き方をしてはいけないのよ」  由梨江は、言葉を失った。まっすぐに見つめてくる妙子の瞳の透明な輝きに、あの頃自分の心を捕らえたヒロインの姿が重なる。あの光景は、あの登場人物たちは、そうして生み出された。だから少女たちの心をつかんで離さぬ魅力があった。  すべては一九八〇年から一九八五、六年頃までの栄光だった。あの頃の輝きはすでに去った。たとえ妙子の内部にあったとしても、その輝きを受けとめるものは、妙子の周辺にはすでにない。 「収入にならない仕事は、プロの仕事とは言いません」  由梨江は、厳しい口調で言った。 「佐藤さん、どうやって今、自分が暮らしているかわかりますよね。みんな真面目に働いているんです。その人たちの税金なんですよ」  そう言いながら由梨江は、この人は、こうして説教している自分が一生かかっても払えないほどの税金を十年前は納めていたのだろう、と思った。一冊四百円の本を年に五、六冊出していた。それが、六十万部ずつ売れたとして、収入は一億を越え、税法改正前であるから、六、七千万円は毎年、国庫に納めていた。そのくらいのことは、彼女だって知らないはずはない。それを敢えて口にして自分に反論しないところが、この人の品性の上等さなのかもしれないと思った。 「病気や障害があるとか、お年寄りで身寄りもないとか、本当に保護の必要な人は、たくさんいるんです。そういう人たちでも、働こうって意欲はあるんです。仕事を探して、ちゃんと働いて、それでも生活費として足りないところがあるなら、私たちは補助する用意はあります。でも、元気で、まだ十分若くて、手のかかる子供もいないあなたが、働かないし、働く意欲もないって、おかしなことだと思わないですか?」 「役所の人には、私のしてることは仕事と認めてもらえないのかしら?」  鋭い調子で妙子は反論した。 「役所だけじゃありません。たぶん……」  少し躊躇《ちゆうちよ》して、由梨江は続けた。 「たぶん、出版社も認めないでしょう」  妙子は顔を上げ、大きく瞳を開いた。そのまましばらくの間、由梨江を見つめていた。悲しみだけが、その瞳に見えた。 「同じことをおっしゃるのね、あなたも。長谷川さんと」 「長谷川さんが、そう言ったんですか」 「引っ越しを手伝ってくだすったときにね」  沈黙したまま、由梨江はボーンチャイナのカップをいじっていた。 「このまま、私が書いていたら、あなたはどうするの?」  妙子は尋ねた。 「保護を切ります」  由梨江は静かに答えた。 「切られるとどうなるの?」 「食べ物がなくなり、家賃が払えなくなり、あなたはここを追い出されます。そしてまたどこかで倒れて入院します。そうするとその病院のある地域の福祉事務所に連絡が行って、保護されます。退院しても働かないとまた切られます。再び体を壊して入院して、退院して保護され、切られ……死ぬまで続けるんです」 「どうして……」  両手で頭を抱え、妙子は細い声でうめいた。 「秋元碧先生」  由梨江は呼び掛けた。 「水色のバルカローレ、銀の森のアルテミス、月の扉……」  ぎょっとしたように妙子は顔を上げた。 「先生の本はほとんど読みました。あたしの青春のすべてなんです。でもいつか人間って、現実を突きつけられるし、大人にならなきゃいけないんです。昨日は、担当のおばあちゃんの家を訪問しました。木造のぼろぼろのアパートにいるんです。少し離れたところに、立派な一戸建てがあって、息子がいるんだけど、ローンがあるからって援助してくれません。おばあちゃんは、今でも働いているんです。飾り物の草履《ぞうり》を作ってお酉《とり》様の縁日で売るんだって。あの寒い露店で、テキヤのおじさんたちと競《せ》り合って売るんです。一人で生きていこうとしてるんです。この仕事に入って、いろんなものを見すぎちゃったけれど、それでも結局人間が信じられるっていうのは、あの頃先生の書いたものを読んで、人の心の美しさ、人を信じることの大切さを教えられたからじゃないかと、思ったりします。たしかに流行は去ったかもしれないけれど、私たち、あの頃夢中になった女の子の一人一人の心の中に、先生の描き出してくれた世界はみんな生きているんじゃないでしょうか」  妙子はぼんやりと机の上のワープロの画面に目をやっていた。 「終わったって、ことかしら」  ぽつりと言った。 「わかりません。人生には、いろんなことがありますから。ただ、本当のことを言うのって、勇気がいるんです。私と長谷川さんは、少なくとも秋元先生のことを本気で考えていると思います」  由梨江は立ち上がった。妙子はそのままの姿勢で、机に寄り掛かるようにして座っていた。「さよなら」と、由梨江に向かい、口の形だけで言った。 「仕事、探してください。お願いですから」  それだけ言い残し、由梨江は逃げるようにアパートの外に出た。苦い思いが込み上げてくる。言ったところでどうなるというのだろう。特殊な世界で、特殊な生き方しかできなくて、それでこそ輝く人がいるというのに。人間が輝きが失せたあとすぐに死んでしまう蛍《ほたる》のようなものなら、生きていくというのはどれほど楽ですてきなことだろう。  鉛を飲んだような気分のまま事務所に帰り、書類整理に追われるうちに、終業のベルが鳴った。しかし保護費の算定は終わらない。他のケースワーカーも半数近くが残って、ケース記録を書いたり、端末にデータを打ち込んだりしている。  そうするうちに出前の丼《どんぶり》物がきて、それをかっこんで再び仕事にかかる。  九時過ぎに係長が室内を見回し、「そろそろ女の子は帰れ」と言った。それを無視して、隣で大場元子が電卓を叩いている。そのとき外線電話が鳴った。新井が受話器を取り、由梨江に渡した。 「佐藤妙子さんだって」  心臓が大きくひとつ打った。不安が膨《ふく》れ上がる。あのときの自分の言葉が原因で、もしや……。  電話は本人からだった。まずは胸を撫《な》で下ろす。 「もしもし、どうしたんですか」 「あの、仕事が決まりました」  電話の向こうの声は、思いのほか落ち着いている。 「は……」  思わず問い返した。 「ラドン温泉の脱衣場係。化粧台の回りの整理整頓とか、お客さんの案内をする仕事。簡単な掃除もあるみたい。長谷川さんが紹介してくれたので」 「脱衣場係……」  かりに仕事をするとしても、事務系だろうと思っていたので、少し意外な気がした。 「夜の十一時から翌朝七時までの時間帯を選んだから、お給料がいいの。食事とお風呂もつくし、個室の寮もあるんですって」  本当にやるんですか、という言葉が口をついて出そうになるのをとどめ、「それはよかったですね。がんばってください」と月並みな励ましの言葉を送る。  佐藤妙子はゆったりした声で続けた。 「なんだか、長い夢を見ていたような気がするわ。きれいで苦しい夢……。どんどん苦しくなってくるのに、目覚めることができない夢。あなたと長谷川さんが起こしてくれたのかもしれない」 「いえ……そんな……もし何か困ったことがあったら相談してください」  それだけ言って、電話を切った。複雑な思いが込み上げる。 「どうしたの?」と、大場が尋ねた。由梨江は今の電話の内容を伝える。係長が眉間《みけん》に皺を寄せ、「続けば、万々歳なんだけどな」と言いながら煙草に火をつけた。  残業を終え、駅に向かう途中、シャッターを下ろした商店街の中で、一軒だけ煌々《こうこう》と明かりのついた店があった。古本屋だ。歩道に張り出したワゴンに、朱色の文字で「五冊100円」という札がついている。  通りすがりに覗き込み、急に胸苦しくなった。  ブルーがすっかり色|褪《あ》せ浅葱《あさぎ》色に変わった文庫本の背表紙に、「秋元碧」の名前があった。出版年、一九八二年。漫画のカバーのついた扉を開くと、秋元碧の顔写真がある。ゆるく編んだ長い髪、ほっそりした首筋、星を浮かべたような大きな瞳。カバーの少女の絵とよく似た作家の顔、三十六歳になった佐藤妙子の顔と、それはほとんど変わっていない。  由梨江は、レジにその本を持っていった。 「すいません、これ五冊で百円なんで」とレジのアルバイトの男の子が言う。 「一冊だけでいいんです」と百円玉を置いて、由梨江はその本をバッグにしまった。  電車に乗って、黄ばんだページを開く。  文字を追う由梨江の目前に、宇宙船の窓が現われる。その向こうにある深い藍《あい》色の空。瞬く星。心の底まで射抜くような菫色の瞳と微風に揺れる菫色の髪を持った少年。湾曲しながら上昇していく螺旋《らせん》状の廊下。人工の海に住むガラスの海月《くらげ》……。  秋元碧の世界が、そこにあった。十数年たっても少しも色褪せずに。今読み返すと、さらにその世界は光に包まれ、冴《さ》え渡っていた。  熱い思いが込み上げて、由梨江はその古びた本を抱き締めた。  自分はこの人を、この物語の作家を、脱衣場係として現実の世界に押し出してしまった。  秋元碧は、もういない。  涙があふれそうになる。目をきつく閉じ、本を抱き締めたまま、由梨江は電車の揺れに身を任せていた。  秋元碧は、本当にもういないのか?  不意に思った。  ラドン温泉の脱衣場で、鏡を磨き、ローションを揃《そろ》え、ゴミを拾い、毎日毎日、数百のロッカーと数百の男女の裸を見て、やがて秋元碧は戻ってくるのではないだろうか。十数年前より、ひと回り大きくなって。  夢を食っては生きていかれないが、夢を食うことによって現実に向かう勇気も生まれる。大きくなってしまった少女たちのために、いつか秋元碧がさらに大きな夢を与えてくれる日が必ず来る。そう信じて、応援しながら、待ち続けようと由梨江は思った。  単行本 一九九六年一月 実業之日本社刊 〈底 本〉文春文庫 平成十一年十月十日刊