[#表紙(表紙.jpg)] 篠田節子 カ ノ ン [#改ページ]   カ ノ ン      1  時を刻む秒針の音が、聞こえる。自分の弾いているピアノの音にかき消されていいはずなのに、小さなチッチッという音が執拗に鼓膜を叩き、追い詰められているような気分になる。  瑞穂《みずほ》は和音を奏でていた左手を止めた。  三十九の誕生日を迎えたこの春から、ときおり漠然とした焦燥感に見舞われるようになった。その正体にも原因にも、思い当たるものはない。  小学校の音楽専科教員の仕事は、研究会やら課外授業やらで忙し過ぎるきらいはあるが、民間のサラリーマンの比ではない。夫と一人息子、二十五年ローンを組んで手に入れた家。人並みの苦労は当然のこととして、それ以上に充実感はあるはずだ。  若い頃に比べて衰えていく容姿を気に病むような感覚は、瑞穂にはない。白髪も皺の一本も人の年輪である、と子供達に向かって語り続けているうちに、それは信念に似たものになっていた。  だからなぜいまさら自分がそんな焦りを感じているのか、わからない。無理に理由を探しても、四十を前に、人生の折り返し点を過ぎつつあることに気づいた、といった月並みで観念的なことがらしか思い浮かばない。四十という歳の何に焦らねばならないのか、と自分を叱咤《しつた》しながら、瑞穂は心の片隅に巣くった寒々しい空隙《くうげき》に戸惑う。  教職についてから飛ぶように過ぎていった十七年、そこにあるのは成長の跡であったはずではないのか。迷い、悩み、家族や子供達からひとつひとつ、学びとり、同時に何かを与えてきた道程ではなかったのか。  気を取り直し、左手で和音をつける。五線譜の上に音を書き込む。とたんに、ぎらついた違和感が鼓膜を撫でていった。  旋律を弾きながら、違う和音をつける。  何かが違う。響きではない。嚥下《えんか》できずに吐き戻すように、聴覚のどこかがその音楽を頑強にはねつけてくる。  更年期障害だろうか、とこめかみを中指でもみながら、苦笑する。早い者は、三十代の後半で微妙な身体機能の変化を受けて抑鬱状態に陥るという。自分も案外そうかもしれないと思う。  鍵盤から手を離し、片手で自分の肩を叩く。その拍子に傍らのテーブルに重なったままになっていた指導案が滑り落ちた。  部屋に入ってきた夫がそれを拾い、声をかける。 「九時だ」 「もう、そんな時間?」  一戸建とはいえ安普請の建て売りで、しかも隣の家と軒《のき》を接している。窓を締め切って、分厚いカーテンを引いても、音は容赦なく洩れる。  朝に夕に挨拶をかわす隣の家の主婦は、「多少ならかまいませんよ」と言ってはくれるが、そうそう甘えているわけにもいかない。  瑞穂はピアノの蓋を閉め、楽譜を抱えてキーボードの前に移る。ヘッドホンを耳に当て、今度はそちらの鍵盤に指を置く。  今夜中に器楽クラブの子供達のために、アニメの音楽をアレンジしなければならない。夕飯の後片付けを終えてからこんなことを始めると、あっという間に十二時を過ぎる。人生の年月を考える前に、ミクロな生活時間の方が容赦なく流れていく。  譜面は「風の谷のナウシカ」のテーマだ。音を低くして、臨時記号をできるだけ取る。  個人レッスンについていて玄人《くろうと》はだしのクラリネットを吹く六年生、譜読みは苦手だが、体の中に見事なリズム感覚を持って生まれてきた五年生、そしてリコーダーを吹くことさえおぼつかないのに、楽器に触れるだけで目を輝かせる四年生。小学校の器楽クラブには、様々なレベルの子供がいる。どの子も参加できて、一人一人に音楽の楽しさを知ってもらえるアレンジをしなければならない。 「すてきなものをすてきと感じる素直な心のアンテナを持った子供に育ってほしい。それが音楽教育の役割」  各種の研究会でも、父母に対しても、瑞穂はそう訴え続けてきた。コンクールでの優勝を目的とするようなクラブ指導はしたくない。もちろん瑞穂自身、地区の連合音楽会で他の学校の教員と腕を競い合う気もない。  大切なのは、子供の創造力をどのように伸ばすのかということ。音楽は喜びだ。高得点を取るためにしのぎを削るようなものではない。芸術の名のもとに地獄の淵を覗かせるものでもないし、健全な魂や生活と引き換えに得る病的な楽しみでもない。遠い昔、自分が陥りかけた、底知れぬ深淵を子供達には覗かせたくない。  キーに右手だけを乗せ、冒頭の旋律を弾く。子供達の器楽合奏では、クラリネットのソロによって演奏される部分だ。  哀調を帯びたテーマを二回繰り返したところで、瑞穂は何か異様な感じを覚えた。全身からさっと血が引いていくような感じがして、次に激しい動悸が襲ってきた。視野が揺らぎ、得体の知れない不穏な熱い思いが噴き上げてくる。きつく目を閉じ、ヘッドホンを外す。  聴覚が、ありえない音を拾っていた。  まさか、とつぶやきながら、動悸がおさまるまで、じっと両手で胸を押さえていた。  しばらくしてから鍵盤と自分の指を交互に見た。  今、押したのは確かにAの鍵盤だった。しかし聞こえてきたのは、キーボードの音ではない。  ヴァイオリンの音だった。E線で奏でられる高ポジションのAの、きらめくような音がヘッドホンを通して耳に流れ込んできたのだ。  気を取り直し再びヘッドホンを付け、同じ鍵盤を押さえる。からからと乾いた電子音が聞こえてくるばかりだ。  幻聴ではない。確かに自分はヴァイオリンの音を聞いた。  遠い昔、聞いた音色だった。並み外れて硬質な、冷たい輝きを放つ音。他のだれも出せない、脅迫的なほど澄み切った音。  大学卒業以来会っていない、かつて愛した男の弾く音だった。紛れもなく、彼の音だ。  ヘッドホンを外し、首を振る。疲れているのかもしれない。あるいは、昨日久しぶりに彼の名前を耳にしたせいで、心の片隅にそのことがひっかかっていたのかもしれない。  小田嶋美佐子から電話を受けたのは、昨夜、瑞穂がテストの丸つけに追われていたときだった。 「香西さん、夕方になってから、車でいきなりやってきたのよ」  甲高い声で、美佐子は訴えた。 「カサイさんって……」  とっさにだれのことかわからなかった。 「だから、あのあなたや主人の学生時代の友達の」 「ああ、あの彼か」  河西、葛西、笠井、そして香西……。教え子にも、同僚にも、カサイという名字の人々がいて、とっさにその面影を思い浮かべるには、彼、香西|康臣《やすおみ》と過ごした日々は、遠くなり過ぎていた。  一昨年の夏に香西自身が何を思ったか同人誌を送りつけてきたときも、いくぶんか懐かしさを覚えただけで、特別な感慨はなかった。  十九の夏の焼けつくような苦しい恋も、四十を間近にした今は、記憶そのものは消えていなくても、それに伴う感情はすっかり褪色《たいしよく》し、激情のかけらさえ見いだすことはできない。  遠い日のロマンを心の片隅に一生抱えて暮らす、などということは、生活に追われる実人生の中ではありえない。ありえないからこそ、物語にも神話にもなるのだろうと瑞穂は思う。 「それは、確かに香西さんは主人の二十年来、いえ高校からだから、二十五年来の友達よ。私だって大切にしてあげたいわ。でも主人はまだ帰ってないし、子供達は習いごとでいないし、私一人だったのよ。そこに平然と上がり込んでくるの」  美佐子は泣き出しそうな声で続けた。 「自宅に来たの、初めて?」 「ええ、ときどき東京に出てきて、主人を呼び出していたようだけど、なんだかこそこそして、変な人なの。主人に聞いたんだけど、松本の旧家の高等遊民なんですって? 仕事も結婚もしないで、詩だの音楽だので優雅に暮らしてるらしいわね」  まだ結婚していないというのは初耳だったが、それをむしろ当然のように瑞穂は受け取めた。二十歳の頃の康臣が、あのまま歳だけ取ってしまったのだとしたら、高等遊民という小田嶋|正寛《まさひろ》の言葉は、確かに当たっているだろう。親の有り余る財産を食いつぶして生きる人生の傍観者……。 「主人は仕事で遅くなりますって、私、何度も言ったのよ。それなのに上がり込んできて帰らないの。お義母《かあ》さまが入院しているからいいようなもの、元気な頃だったら何を言われたかわかったものじゃないわ。所詮、嫁は嫁なんだから。それでも、普通の男の人なら、いいのよ。でも、香西さんの相手してると、いいえ、そばにいられるだけで、神経がくたびれるの。人の迷惑にはすごく鈍感なくせに、自分のことになるとデリケートでプライドが高いでしょう。何か言ったとたん、だまりこくられてごらんなさいよ。ねえ、わかる? 無理よね。あなた同居じゃないものね。仕事持ってて外に出られるんだもの。私ねえ、十二年も、ずっとお義母さまと一緒だったのよ。新婚時代なんてないのと同じ。なにかというと主人の妹が一家引き連れてやって来たし。神経、めちゃくちゃになってるの。そこに、あんな暗くて得体の知れない主人の友達まで現われるのよ」  延々と繰り出される美佐子の愚痴に、涙の調子が混じり始めた。  時間は十時を回っていたが、まだ採点は半分も終わっていない。答案用紙を見やって瑞穂は小さくため息をついた。  美佐子の主婦としての悩みを聞くよりも、康臣の現在を詮索するよりも、今すぐ片付けねばならないことが山積みになっていた。 「他人のことなら、気楽に聞き流せるわよね」 「………」  瑞穂は、手にしていた赤ペンのキャップを閉める。丸つけが終わったら息子の遠足の弁当の用意をしなければならない。 「確かに困った人ね。でも香西君も別に悪気はないのよね。何か懐かしくなることでもあったんじゃないの」 「あんな生活しているから、友達がいないのよ、きっと」 「で、泊まっていったの」 「いいえ。当然泊まると思って用意していたのに、夜中の二時過ぎまで主人と話し込んで、松本に帰っていったわ」 「仲の良さは変わらないわね」  香西康臣と美佐子の夫、小田嶋正寛との間にかつてあった親密な空気を、瑞穂は鮮やかに思い出していた。その二人の間に、なぜ自分が入り込んだのか不思議な気もする。そして今、小田嶋正寛の妻とこんな長電話をしていることが、なおさら不思議でもあり、流れ過ぎていった月日を感じさせた。  あの夏、小田嶋正寛と瑞穂、そして香西康臣は、一つ屋根の下で約二十日間、共に過ごしたのだ。そのことを美佐子は知らない。  その二年後、正寛は大学院在学中に司法試験に合格した。さらにその一年半後、司法修習生のときに美佐子と婚約し、たまたま街で出会った瑞穂に、彼女を紹介した。 「こちら、旧姓、笹生《ささお》瑞穂さん。僕を振った人。悔しいから今の名字では呼ばない」  その直前に、瑞穂は同じ学校の障害児学級の教諭と結婚し、左手にプラチナの指輪をはめていた。  もちろん振ったなどというのは冗談で、フィアンセの前で、瑞穂をたくみに立てて見せただけのことだった。  あのとき美佐子のふっくらとした顔がかすかに曇ったのは、直感的に瑞穂と正寛の関係に、何かしら生々しい青春の残香を嗅ぎ取ったからかもしれない。 「美佐子はね、ゼミの先生に紹介してもらったんだ。結婚するなら、修習生のうちと思ってね。弁護士事務所に入ってからだと女の子とつきあってる暇はなくなるし、第一、披露宴やるったって、呼ぶ人間が増えてたいへんだろう。みんなそれぞれ地位があるときてるから、席次一つ決めるのにも、大騒ぎだ」  あっけらかんとした調子で、正寛は言った。感情に溺れることのない、どこまでもプラグマティックな男だった。だから若い瑞穂の心に痛切な思いを抱かせることもなかったし、その明晰さと情念から解き放たれた軽快さをもって康臣とつきあってこられたのではなかろうか、と瑞穂は思う。  新婚当時、瑞穂達夫婦が借りていたアパートと、小田嶋正寛の新居がごく近かったという事情があって、いつの頃からか美佐子と瑞穂は休日に一緒に買物に行ったり、子供を預け合ったりする間柄になっていた。初めて会ったとき美佐子に不安を覚えさせた瑞穂の中の女性的な情感は、月日とともに干上がり、十年以上経った今ではあとかたもなく消え去った。  自分の子供の他に、専科で担当する三百人からの小学生を相手にしているうちに、瑞穂のほっそりした両腕にはたくましく筋肉がつき、透き通るように白かった頬は陽に焼け、ささやくような細い声は、体育館全体に苦もなく響きわたる大きな地声に変わった。  それが女の加齢に伴う必然的な変化なのかどうかはわからない。瑞穂は自分を大地に根を張り、太い幹を立てて大きく分厚い葉を茂らせている一本の木のようなものだ、と思う。その大きな葉陰に歳老いた母親と喘息《ぜんそく》持ちの一人息子と、ときには夫まで、宿らせる。届かぬと知りつつ遥かな天空に手を伸ばしていた、憧れに満ちた若木の時代は、とうに終わっていた。  人生が、二十歳の頃に考えていたものとまったく異なるものであったことに、瑞穂はいまさらながら驚く。過ぎ去ったあの夏の日とその前後数ヵ月は、今、瑞穂にとって、これといって懐かしいものでもないかわりに、忘れたいという痛恨の思いも抱かせず、せいぜいが「そんなこともあったか」と苦笑してすませられるものでしかなくなっている。  美佐子は、四十分あまり話し続けて、ようやく電話を切った。数分後には、瑞穂は康臣のことなどすっかり忘れ、採点に没頭していた。  それがいったいなぜ、丸一日経ったこのとき、耳を覆ったヘッドホンの中から、彼の弾く幻のヴァイオリンの音など聞いたのか、それ以上に、その音に不審感を抱くよりさきに衝撃を受けたのがなぜなのか、瑞穂にはわからなかった。  一瞬耳をかすめただけで消えたあのヴァイオリンの音を心の内に反芻《はんすう》していると、痛みに似た感傷が、胸に込み上げてくる。それは長く忘れていたものだった。  康臣はなぜ正寛のもとを訪れたのか。美佐子の電話を受けたときには、気にもとめなかった疑問が、今、刺《とげ》のように心の片隅にひっかかってきた。  瑞穂は時計を見た。まもなく九時半だ。早くしないと今夜中に終わらない。片手でキーボードを操《あやつ》り、片手で譜面に指示を書き込みかけたそのとき、襖《ふすま》が開いた。  息子の巧《たくみ》が顔を覗かせた。血の気を失った白い頬をして、ヒューヒューと喉を鳴らしている。  写譜ペンを放り出して走り寄る。喘息の発作だ。 「苦しい?」  この半年で急に伸びた息子の体を抱き寄せ、背中をさする。 「お薬は、あまり使わない方がいいから、ちょっと様子を見よう」 「あ、いい、いい」と後ろから夫が抱き取った。 「お父さんが、やってやる」  この春、五年生になった息子は素直に父の方に行く。夫は手慣れた様子で息子の背をさすりながら、瑞穂に向かって顎をしゃくった。 「いいから、仕事、早く片付けろ。明日までだろう」 「ありがとう」  息子の容体を気にしながらも、再びキーボードに向かう。  音楽と障害児教育、分野は違っても同じ教員である夫とは、言葉を尽くして説明しなくても互いの立場がわかりあえる。こんなとき自分の恵まれている立場を痛感する。  何も焦ることなどない。不満な部分などどこにもないのだ、ともう一度、自分に言い聞かせる。  振り返ると父親の毛深い腕の中で、巧は普段の顔色を取り戻し、すっかり落ち着いた呼吸をしていた。  小田嶋正寛から電話がかかってきたのは、翌日の夕方のことだった。受話器を取ったとたん、「メッセージは伝わらなかったのか?」と、いくぶん怒ったような声が聞こえてきた。  その日の午後、勤め先の小学校に電話がかかっていたのだ。授業中のことで取次ぎはされず、至急、連絡をするように、というメモが職員室の机の上に置いてあった。  美佐子からならともかく、正寛が自分に何の用事があるのだろうと、そこに書いてある法律事務所の電話番号を見ながら首をひねっただけで、結局電話をしなかった。話が長引いて、次の授業に遅れても困ると思ったのだ。そしてそのまますっかり忘れていた。  謝る暇を与えず、正寛は言った。 「香西が死んだ」 「いつ……」  間の抜けた声で、瑞穂は問い返していた。  不思議なことに驚きはなかった。悲しみさえなかった。 「弟の有助君から電話があってね。昨日の明け方のことだそうだ」 「自殺?」  とっさにそう思った。 「らしいね。有助君が妙な言い方していたが、はっきりしないんだ。まさか根掘り葉掘り聞くわけにもいかないからね」  意外なほど軽い口調だ。悪気はない。どんな深刻な内容でも、いくぶんトーンが高い、明るく澄んだ声で話してしまうのは、正寛の特技のようなものだ。 「じゃ、この前、お宅に行ったっていうのは……」 「ああ、最後の挨拶のつもりだったのだろう」  ヘッドホンを通して聞こえてきたヴァイオリンの音が、記憶に生々しくよみがえってくる。 「女房が気を落としていてね」 「なんで?」 「それがわかっていれば、もっと優しくしてあげたのに、止めることができたかもしれなかったのにって」 「優しいわね」 「わかっていたにしても美佐子の手には負えないよ、あいつは。僕だって、何もできなかったと思う。しかしあのとき、あいつにそんなそぶりはなかった。かえって楽しそうにしてたくらいだ」 「あなたにも、わからなかったの?」  数秒の沈黙の後、正寛はつぶやくように言った。 「二十年も経ったからね……」  しかし彼らは二十年ぶりに会ったわけではない。康臣が小田嶋宅を訪れたのは今回が初めてだったが、つきあいは続いていた。それでも流れた年月は、二人の男の間にあった距離を限りなく広げていたらしい。 「で、葬式の日程だが、メモの用意はいい?」  正寛はてきぱきした口調に戻り、要領よく必要なことを伝えていく。  通夜は明日の晩、告別式はその次の日、友引を挟んでいるので、一日遅らせている。  瑞穂は日程表を確認する。 「あさっての告別式は授業があるから無理。行けるとしたらお通夜かしら。新宿発五時ちょっと前のあずさで間に合うから、それで行くわ。あ、待って、急げば四時のに乗れるかな」  明朝、校長と事務員に事情を話し、早退の手続きを取らなければならない。課外活動については、クラブの副担任に頼む。楽器は、子供達だけで出せるように、あらかじめ用意しておく。夕飯は夫と息子に作らせるとして、材料を解凍しておかなくてはならない。  通夜に出席する時間を捻出するための、様々な段取りが頭の中でぱたぱたと組み立てられていく。 「僕も明後日《みようごにち》は、出張が入るかもしれないんで……通夜に行くか。新宿駅南口で待ち合わせよう。時間は三時四十分」 「OK、なんとか間に合わせる」  まるで新築祝いに行くような湿り気のないやりとりだ。 「香典は?」 「五千円って、ところじゃないか。あまり多くても家族によけいな気を使わせるだろ」  友人どころか、恋人であったはずの男の死に相対し、感傷よりも先に山のような雑事と事務的用件に思いをめぐらせているのが奇妙といえば奇妙だ。しかし人生とは、大方こんなものかもしれない。  待ち合わせ時間と場所を手帳に記入してから、瑞穂はあらためて尋ねた。 「さっき言ってた、有助君が妙なことを言ったというのは?」 「いや、聞きなおしたりできなかったから、はっきりは言えないが……」  正寛はよどみがちに続けた。 「音楽のテープを聴きながら、逝《い》ったらしいんだ」  瑞穂は息を呑んだ。 「いったい何のテープ?」 「そこまで聞いてない。しかしあいつらしいよ」  どんな死に方をしたのかわからないが、看取る家族もなく、康臣は音楽に導かれてあの世に旅立ったらしい。死そのものより、その孤独に痛ましさを感じる。しかしそれは、いかにも康臣らしい死に様でもある。  青春の一時期、瑞穂と正寛、そして康臣を結びつけたのは、音楽だった。しかし現在、正寛にとっての音楽は彼の多彩な趣味の一つになった。そして瑞穂にとっては生活の手段である。生活の中心に音楽がありながら、いつの頃からか、自分と音楽の間の感情的距離は限りなく遠のいていったのに、瑞穂は気づいていた。  現実の生活に音楽が侵食されたのか、あるいはあの頃愛好した西洋古典音楽を意識的に心の内から排除して、より庶民的でより親しみやすい音楽に接近しようとした結果なのかわからない。いずれにしてもこの十年、子供の引率以外でコンサートに行ったことはないし、CDは持っていても教材研究以外では聴いたこともない。教員としての仕事の他に、学校行事に関係した雑務は年々増え、そのうえ家に帰れば、主婦としての仕事が待っている。趣味の音楽を続ける余裕はない。  康臣だけが二十年を経て、ますます音楽に親和感を深め、溺《おぼ》れ、食われていった。 「だれか死んだのか?」  受話器を置くと、夫が尋ねた。やりとりを聞いていたらしい。瑞穂は手短に事情を説明した。 「なんでまた、若いんだろ。家族は?」  夫は、顔も知らぬ妻の旧友の死に衝撃を受けた様子だ。 「独身だったのよ。家族がいれば、そんな気にならないんだろうけど」 「結婚したら自分一人の体じゃないからな、ばかなことはできないものだが……」  夫は独り言のようにつぶやいた。  七月になったばかりだというのに、ひどく蒸す。  洋服だんすから、二年前に着たきりの夏物の喪服を取り出し、袖を通す。ウエストがきつい。太ったらしい。  舌打ちして脱ぎ、裁縫箱を引き寄せる。Vネックの黒のブラウスに、下半身はスリップという無様な自分の姿が鏡に映る。  陽焼けした肌が汗ばんで、鼻の頭に脂が浮いている。唇の両端が引き上げられ、笑ったような顔は、こんなときさえ元に戻らない。 「はい、おはようございまーす……そう、きれいなハーモニー。いいわよ、その調子」  腹の底から出てくる声量たっぷりのソプラノで、何年間もこんな調子で呼びかけてきたのだからしかたない。  子供達とのふれあいは、授業の四十五分間に限られる。前の授業でたとえ先生に叱られても、友達とけんかをしても、音楽室に来て挨拶をした瞬間、子供の気分は楽しいものに変わる。子供達は、生きる喜びを音楽を通して感じとっていく。それは担任を持たない専科教員としての誇りだ。  母の病気が重かったときにも、生理がきつくて立っているのが辛いときにも、少しも変わらず明るく歌い、歌うように語りかけてきた。そんな生活が皮膚に張りついている。  少し太くなった首を、手で無意識に撫でた。少し前までは浮いて見えた鎖骨が、今はふっくらした脂肪の下に消えている。  香典袋に名前を書き、袱紗《ふくさ》に包む。数珠と、道中読むための本、現金……。一通りのものをバッグに放り込み、黒のパンプスを下駄箱の奥から取り出し、積もった埃《ほこり》をブラシで払う。  ふと、自分は彼の葬儀に行くほど近しい間柄なのだろうかと、手を止めた。  二十年という過ぎ去った時間は別にしても、康臣との距離は、初めから限りなく遠かった。恋人という呼び方は、かなり一方的なものであるような気がする。  それにしては、なぜ二年前、康臣はいきなり同人誌など送りつけてきたのだろう。  書籍小包で送られてきた本には、瑞穂宛てのメッセージも、挨拶状さえ同封されておらず、瑞穂の住所の書かれたワープロ印刷のシールが、茶封筒に貼り付けられていただけだった。  正寛とずっと交流があったのだから、彼からここの住所を聞くことはできただろうが、それ以来、四、五ヵ月に一度の割で新しい号が出るたびに送ってくる康臣の意図が、瑞穂にはまったく理解できず、ぱらぱらとめくってそれきり、ちり紙交換に出すのも気がひけてとってあった。  磨き終えた靴を袋に入れてバッグに収め、瑞穂は本棚の前に行って、その数冊の本の黒い背表紙をあらためて眺めた。  取り出して、ページを開いてみる。 「時代の諸理念とイデオロギーに過剰に結びついた芸術の自己賛美について、一般論として問うことに、私は意味を見いだすことはできない。むしろカテゴリー的固定化を排除することによって、バッハの神学的、哲学的、美学的、作曲学的諸問題を定式化することをこの考察のテーマとしていきたい」 「……二十五歳のときに、不完全性定理によって、人間の知識の限界を示してみせたゲーデルは一九七八年一月、貧困のさなかで餓死した。厳寒の季節、椅子にかけたまま、体を丸めて死んでいた。『ウィーンへ来い』というゲーデルの声を最初に自分が聞いたのは、その死の数年前、受験のために上京したおりだった。喫茶店でかかっていたバッハのインヴェンションを聴いていたときだと思う。その中に確かに自分は、ゲーデルの声を聞いた。こんなことは、その後数回あり、未解明ではあるが、しかし我々を取り巻く空間からも、時間の流れからも独立してある種の精神世界が存在しているのではないかという確信に自分を導くものだった。音楽もまた、定方向に流れる時間の上に成立する芸術であるが、その内部に深い精神世界を獲得したとき、日常的時間から独立し、滞留し、ときには身辺の日常的時間を巻き込みつつ遡行《そこう》する可能性があるのではなかろうか」  難解な言葉を並べたエッセイとも、評論とも、自叙伝ともつかない康臣の文章に、学生時代の自分の目にまばゆいばかりに映じた彼の才気の正体を知らされる思いがする。  あの頃と寸分変わらぬ言い回しは、一人の男の内部に滞留し続けた二十年という時を見せつけていた。羨望の思いとともに、一瞬にして自分の心を奪っていった彼のヴァイオリンが、この文章同様の幼い自意識の生成物であるとは、瑞穂は考えたくなかった。  香西康臣の容貌や、どのような言葉を交わしたのかということは、もはや記憶に定かではない。しかし彼の音に初めて出会ったときの衝撃だけは、今でも鮮やかに思い出すことができる。  春とはいえ底冷えのする榛名湖《はるなこ》の合宿所で、あのヴァイオリンは鳴った。闇を切り裂く稲光さながらに、冷えきった空気を震わせていた。  瑞穂が所属していた学生オーケストラの演奏会が、終わった夜のことだった。  新入生を迎えての初めての演奏会は、東京を離れ、高崎で行なわれた。出来上がったばかりの日本でも有数の音楽ホールで、地元のオーケストラの応援を得て行なわれた演奏会は、大失敗に終わった。緊張のあまり指揮を無視して走り出した各楽器は、楽章の終わりには総崩れになった。  このオーケストラに丸一年つきあった瑞穂にしてみれば、失敗でもなんでもなく、最初からこの程度の水準ではないか、と冷めた気分で客席の拍手を聞いたのだったが、昨年からこのサークルの指導をしてきた指揮者にしてみれば、おさまらなかったに違いない。  幕が下りたとたん、安堵とも照れ隠しともつかぬ自嘲的な笑いが団員の間に起こったことも、無能な割にプライドの高い素人指揮者の逆鱗《げきりん》に触れた。  演奏会が終わって、その夜宿泊する予定の寮に戻るまで押し黙っていた彼は、寮のレセプションの場に足を踏み入れるなり、薄汚れた長髪を振り乱し、甲高い声で怒鳴り始めたのだ。  曰く、真剣さにかけている、心を合わせて作り上げていく気がない、特に弦楽器、と彼は青ざめた顔を瑞穂達の方に向けた。  怒鳴り散らした挙げ句、その男は部屋を飛び出していき、四年生数人が慌てて後を追った。  女子学生の間からすすり泣きが洩れ、団員たちはぞろぞろとその部屋から出ていった。しかし瑞穂はその場を動かなかった。代わりに部屋の入り口に立てかけておいた自分のチェロを引き寄せ、椅子にかけた。  これから始まるのが、反省会と称する無意味な儀式だというのが、二年生の瑞穂にはわかっていた。  練習曲の楽譜を取り出し、それに視線を落とす。  音程も音質も無視して、根性と気合いで、とにかく大曲を弾いてしまおうとする素人集団のやり方にはうんざりしていた。繰り広げられる涙と激励の儀式の気色悪さに怖気《おぞけ》をふるったことも、一度や二度ではない。  そしてその二年生の春は、ちょうど瑞穂の中にある種の誇り、言い換えれば選別されたものとしてのプライドが芽生えかけていた時期でもあった。  音楽科、器楽教室に瑞穂は在籍していた。音大に入るほどの金がないので教員養成大学に入学したものの、教員になる気など毛頭なかった。演奏家になること以外は考えずに、一日八時間の練習をこなす毎日だった。  アルバイトをしてチェロの個人レッスンにつき、教育学の講義には一切出ず、楽理の通信教育を受けた。そして二ヵ月前、ある財団の主催する学生音楽コンクールで、第三位に入った。優勝者に与えられる海外渡航費用全額援助という特典は逃したが、個人レッスン先のチェロの教師はその成果に目を見張り、自分の恩師であるチェリストを紹介するので、彼の住んでいるサンフランシスコに行ったらどうかと勧めてくれた。  将来の保障もなく、一日弾かなければ腕は一週間分落ちる、といわれる厳しい世界に飛び込むことへの躊躇《ちゆうちよ》は多少あったし、ごく普通のサラリーマンである父も、平凡な結婚をした母も、海外に娘を送り出すことについては心配した。  しかし瑞穂の心は揺れながらも、一歩踏み出す方向で、半ば決まっていた。最終的な結論を出さなければならないのは半年ほど先のことだったが、音楽留学を射程に入れて、自分の将来を考え始めた時期でもあった。  それに引き換え学生オーケストラなどというものは、多くの学生にとっては、単なる青春の思い出づくりの場に過ぎない。青春の真っただ中にある学生自身が、「青春の思い出づくり」という言葉を使い、学年が上がったところで個人技術は向上せず、四年生になっても相変わらず、軋《きし》んだ寒々しい音を出している。  瑞穂には「輝かしいあの頃」の感激に満ちた思い出づくりのために、涙ぐましい努力をする気は毛頭なかった。所詮は遊びの学生オーケストラとは、東京に戻ったらすぐに訣別するのだなどと考えながら、チェロを膝に挟み個人レッスンのための練習曲を弾きかけたまさにそのとき、背後でヴァイオリンが鳴り渡った。  堅く、鋭利で、正確無比なタッチのバッハの無伴奏パルティータ。  戦慄が走った。一瞬のうちに両腕にびっしりと鳥肌が立った。瑞穂はチェロのネックを握りしめたまま、凍りついたようにその音に耳を傾けていた。  しばらくして恐る恐る振り返ると、ホールに残っていた数人の団員が棒立ちになっているその向こうで、男が一人ヴァイオリンを弾いていた。  青みが浮くほど白いワイシャツの背を少し丸め、長い背筋をほとんど揺らせることもなく、骨張った肩をなめらかに動かし弓を操《あやつ》っていく。  まくりあげた袖から、青白く血管の浮いた筋ばった腕が見えた。上下するその腕に、瑞穂は激しい動悸を覚えた。体の奥が熱くなった。はっきりと性欲と呼べるものを生まれて初めて、体の内部に感じた。それがヴァイオリンを弾くこの男に対するものだったのか、凍った炎のようなバッハの旋律に対するものだったのか、瑞穂には未だにわからない。 「音大のエキストラか?」  傍らに立っていた四年生が尋ねた。 「いえ」  コンサートマスターの三年生が答えた。 「一年生……数学科の」  数学科。エキストラの音大生ではない。そして音楽教育を専攻している者でもない。それがなぜ、こんなふうに弾くのだと、驚きを通り越し、怒りに似た感情が湧き上がってきた。 「香西」  コンサートマスターが、その背に向かって呼びかけた。バッハは続いていた。 「香西、反省会。部屋に戻って」  彼は弾き続けていた。 「すごい集中力だね」と四年生が言う。 「聞こえてて、無視してるんです」  もはや説得するほどの価値もないとでもいうように、コンサートマスターは首を振り、瑞穂の方を一瞥し、部屋に来るように促した。  瑞穂は顎をちょっと突き出すようにしてうなずいたきり、その場を動かなかった。  パルティータは二曲目に入った。  先程まで耳を覆っていたメンバーの薄汚れた音や外れた音程を洗い流してくれるように、その音色は心地良かった。  その姿を食い入るように見つめているうちに、瑞穂はそれがだれなのか、ようやく思い出した。  目だたない学生だった。新入生歓迎会で紹介された香西康臣は、白いワイシャツにサンドベージュのコットンパンツ姿の、痩せているという以外、何の印象もない男だった。さわやかな笑顔も、精悍な雰囲気も、彫刻的美貌も、熱っぽい目の輝きも、およそ魅力的なものの何一つない男だった。そのときのどんよりした印象が、ヴァイオリンを持たせたとたん一変していた。  ヴァイオリンの音は、半音階で下降していく部分で不意に途絶えた。  その先は暗譜していないのかもしれないし、あるいは飽きたのかもしれない。数秒の静寂の後、再び弓を弦上に置き、香西康臣が弾き始めたのは、バッハのカノンだった。  とっさに瑞穂は、自分のケースから楽譜を取り出した。この曲集のミニスコアを持っていたのである。  バッハの理論的で輪郭のはっきりした曲が、オーケストラの合同練習で乱れた音程や運弓を直すのによいということは確かにあった。しかしそれ以上に、この厳格な対位法に基づいて書かれた曲を、瑞穂は好きだった。作品の楽理上の解釈の難解さには辟易《へきえき》するが、それが言語に置き換えられることなく、いくつかの音の連なりとして耳と手に認知されるとき、自分の内側に壮大で完璧な、実体としての音楽が生成してくるのを感じる。  瑞穂の心を音楽に向かわせるものは、一つには秀でた能力であり、その能力に裏打ちされた野心ではあったが、それ以上に音楽それ自体に触れた瞬間の、噴き上げるばかりの歓喜だった。  彼が弾いていたのは、その曲集の中程にある一曲だった。低音部と高音部の二声部が、追いつ追われつ、絡み合い上昇していく。  瑞穂はミニスコアをめくり、急いでそのページを開いた。テーマが低音部に移るところを待って、そこから乗った。  いきなり入ってきたチェロに動揺する様子もなく、香西康臣のヴァイオリンは鳴り続けた。そしてその瞬間、絡み合うはずの二つの声部が、激しい緊張感を持って対峙するのを感じた。上手とはいえ、互いに素人だ。しかしぶつかり合った音の峰は、互いの技術的な水準をはるかに超えた高所に飛翔し、さらに鋭く尖った峰を形成していく。  相手がこちらの特性を見抜き、ぴたりと合わせる音楽的技術を身につけているのか、あるいは、何か響き合うものを互いの内面に持っているのか。 「頭のアクセントいらない」  ヴァイオリンの音の間から、いきなり声が飛んできた。瑞穂は、一瞬、弓を止める。音を短く響かせるために、無意識にリズムの頭を強調していた。 「そう、エネルギーをため込んで、上昇……」  音程の最上部で矯《た》めるように止まり、減衰させていく。自然な呼吸のチェロに戻ってくるに従い、二つの響きは焦点を結んだように重なり、音は完全な立体を作った。  彼は、少しの乱れもなく弾き続けていた。さほど長くない曲はまもなく終わり、彼はゆっくり弓を下ろして瑞穂の方を見た。  視線が合ったとたん、相手はうつむいた。楽器を肩から下ろした彼は、初めて会ったときの内気そうな、印象の薄い一年生に戻っていた。 「バッハ好き? 偶然だけど、ちょうどこの曲、私、練習してたところなの」  瑞穂は、康臣を正面から見て笑いかけた。透き通るような肌の白さ、まっすぐな鼻梁《びりよう》と尖った顎、大きな瞳。白人との混血と間違えられる自分の顔立ちが、周りの人々の注目を必要以上に集めることを瑞穂は知っていたし、少女から女に変わりつつあるこの年代特有の屹立《きつりつ》するような自意識もあった。 「偶然じゃないよ」  香西康臣は、うつむいたままぼそりと言った。 「君が、さっき見てたのを後ろから覗き込んだ」 「覗き込んだって……」  演奏会場を出て、合宿所へ向かうバスを待つ間、確かに瑞穂は、このミニスコアを見ていた。わずか、二、三分間のことだ。 「それだけで、暗譜したってわけ?」  康臣は微笑して、視線を上げた。飴色に近い薄い色の瞳が、すっと細くなって底光りした。瞳を通して脳の表面で激しくパルスの炸裂する様が見えるような気がする。あけすけでありながら計りがたい、一種異様な表情だった。 「この曲、完成させてみようか?」  瑞穂があっけに取られていると、康臣はひょいとミニスコアを取り上げ、ぱらぱらとめくった。 「これ、ベーレンライター版なんだ。バッハの手稿は違う。この曲にはいくつもの謎が仕掛けられているんだ。本来の配列もわからないし、何が基底のテーマかもわかっていない。そこに迫る一つの手段として、手稿に立ち戻って、僕なりに編成しなおしてみたい」 「そう……」  譜面は譜面だ。どう解釈し、弾くかだけが問題ではないか、と瑞穂は思いながらも、彼の瞳の力に気圧《けお》されるようにうなずいた。 「本気で完成させるとすれば、一生かかることかもしれないが」 「気の長い話ね」 「曲の配列と意図について、僕なりの解釈をしてみたいんだ。少し時間をくれる?」 「どのくらい?」 「一ヵ月か、半年か」  課題曲が決まれば、あとは練習あるのみ、と思っていた瑞穂は康臣の言葉に少し驚いた。これが他の学問の余技でやっているものと音楽科の人間の違いなのかもしれない。いずれにせよ、半年後などといったら、自分は渡米しているかもしれない。 「その前に、別の曲をやってみない? 簡単なピアノトリオか何か」  瑞穂は提案した。 「小規模アンサンブルは、オーケストラと違ってごまかしがきかないから、すごく力がつくの」  別にピアノトリオでなくてもよかった。この不思議な一年生と一緒に弾きたかったのだ。自分が求めているのが、彼のヴァイオリンなのか、その音楽性なのか、それとも技術や音楽性を含めた彼という人間なのか、よくわからなかった。わからないから、誘うことができたのかもしれない。 「いいよ」  康臣はうなずき、それから続けて言った。 「帰ろう」 「えっ?」  瑞穂は瞬《まばた》きした。アンサンブルをしようという話と、帰るという行動がとっさに結びつかなかった。 「駅に行く終バスが、五分後に出る」  康臣は、壁に貼ってある時刻表を指差した。アンサンブルを始める。オーケストラは辞める。だからこれ以上ここに居る必要はない。彼は音楽以外のことは、何もかも単純化させて考えるたちらしかった。他のメンバーや先輩への挨拶も言い訳も、退団届もなく、自分にとってそれらを無意味だと判断した今、この場を出ていくという行動だけが先行していた。  そして瑞穂はといえば、この瞬間、心のベクトルがまっすぐに康臣に向いたのである。用がないといえば、自分も彼以上にここには用がなかった。  瑞穂は部屋に戻って荷物を抱え、パートリーダーの上級生に、これから帰ることを伝えた。相手は驚いて引き止めたが、かまわず合宿所を出て、康臣と二人、バス停に通じる夜の坂道を走り下りていったのだった。  榛名湖の寮から逃げ出してきて一週間ばかり、奇妙に落ち着きを失った、心浮き立つような時期があった。  授業が終わると瑞穂は、まっすぐにピアノ室に行った。そこは一般学生が教員免許取得に必要なピアノ実技の練習をするために設けられた個室だった。  一階に二十ほども並んでいるその狭苦しい部屋のひとつに、たいてい康臣が先に来ていた。どうやら彼は大学には来ているものの、まともに講義に出ていない様子だった。康臣に言わせれば、聞くに値しない講義だからだ、ということになる。  この大学では聞き飽きた台詞の一つだった。希望校に落ちて失意のただ中で入学してきたもの、親に彫刻家になることを反対され美術の教師であれば許すといわれて在籍しているもの、そして瑞穂のように経済的理由から音大に行かれず教育学部音楽科にいるもの。瑞穂のいる教員養成大学に限らず、国立大学の教育学部などというのは、そうした不満分子の溜り場だった。  幼いプライドと苛立ちを抱えながら進級し、やがて実習で教育現場に放り込まれたとき、たいていの学生は自分の置かれた立場に気づき、人が変わったように教職に熱意を抱き、やがて教師として飛び立っていく。そうした意味でやはりそこは大学というよりは、能力的にも人格的にも教員というスペシャリストを育てあげるための養成所のようなところだった。  分厚い防音扉の内側で、康臣は傷だらけのアップライトピアノの鍵盤を叩き、アジビラの裏に、いくつもの楕円と数式を書きながら瑞穂に向かい飽きる様子もなく語り続けた。  音楽について、数学についての一方的な語りだった。特殊で鋭敏な美意識に基づいた独自の論理は、感じ取ることはできても、理解できなかった。しかしその不可解さが瑞穂には神秘的に映り、自分と彼との間に何か特殊な精神の交流があるかのような気分にさせられた。  普段の康臣は、極端なくらい無口な男だった。後から考えてみると、一種のコミュニケーション障害であったのかもしれない。普通の話題で話すこと、いわゆる世間話というのができなかったのである。  一般学生に混じっているときの康臣の、灰色の石のような頑《かたく》なな静けさは、音楽と数学の話をするときに一変し、その饒舌《じようぜつ》さが自分にだけ向けられることが、瑞穂に幸福感をもたらした。  恋の感情がいつ心に忍び込んできたのかは、はっきりとはわからない。初めてあのヴァイオリンの音を聴き、ヴァイオリンを弾く康臣の背中を見たときに、唐突に体の奥に湧き起こった律動は恋とはおそらく無縁なものだっただろう。純粋な性欲だった。  紡ぎ出された音楽に対して、めくるめくような生理的な欲望を感じた。そこに生身の康臣がどう介在していたものやら、瑞穂にはおぼろげなイメージしか抱くことができない。  そのまま時が過ぎていけば、康臣との関係は、レッスン室のこの奇妙で観念的な言葉の交換だけで終わったかもしれない。正寛さえ現われなかったなら。  榛名湖から戻って十日ほどしたころ、康臣は、瑞穂が提案した「ピアノトリオでも」という約束を律儀に守り、ピアノパートの人間を一人、連れてきた。  広大なキャンパスのそこここに植えられた花水木の花が、黄色く萎《しお》れて散り始め、梅雨のはしりの冷たい雨が、三日も降り続いていた日のことだった。  一人で康臣を待っていると、分厚い防音扉を開けて、長身の男が入ってきた。瞬時にむせかえるような匂いが狭いレッスン室いっぱいに立ちこめた。汗の匂いか、体臭か、あるいはヘアトニックの香りなのか、心を騒がせるような青草に似た臭気だった。康臣はその大きな体の後ろに、影のように寄り添って立っていた。  瑞穂は、挨拶も忘れ、その男をぽかんと眺めたまま、片手で窓を開け放っていた。 「小田嶋正寛です。よろしく」  男ははっきりした口調で言うと、ぺこりと頭を下げた。三分袖のテニスシャツが雨に濡れて肌に貼りつき、厚い胸板と極端なくらいに引き締まった腰がくっきりと透けて見えた。全身から発するなんとも陽性な性的魅力に瑞穂は圧倒された。 「女性のチェリストだってこいつから聞いていたけど、本当にクリスティーナ・ワレフスカみたいな人じゃない」  小田嶋と名乗った男は、瑞穂の顔を無遠慮に見つめた。美人チェリストに似ていると言われるのは、悪い気がしなかった。 「穂高寮の人間で……」  康臣はぼそりとした口調で紹介した。 「穂高寮?」  自分達二人は、松本にある有名な進学校の同級生で、現在、大久保にある長野県出身者のための寮に入っている、と小田嶋正寛は説明した。瑞穂にしてみれば初めて聞く話だった。一週間も康臣と二人で話をしたというのに、彼がどこの出身で、どこに住んでいるのかといったことは、まったく話題にも出ていなかったのだ。 「何科ですか?」  そう尋ねると、康臣が「彼はうちの学校ではなくて……法学部。東大の三年生」と答えた。 「じゃ、香西さんの先輩?」 「いや、同級生。僕、三浪したから……」  康臣は口ごもりながら言った。一年生の康臣は、瑞穂より二つ年上だった……。  それも意外だったが、決してレベルの高くないこの国立二期校に、日本でも有数の受験校出身の康臣が、なぜ三浪もして入ってきたのかがわからない。瑞穂はあらためて、その長身の法学部の学生を見た。 「ピアノ、好きなんですか?」  遠慮がちに、瑞穂は尋ねた。どうみても音楽に縁があるようには見えない男だったのだ。  彼は、返事をする代わりに筋肉の浮き出たたくましい手で、ひょいとピアノの蓋を開けた。 「ここのところ、朝、十時頃起きてラケット持って学校行って、めいっぱいテニスやって、それから雀荘になだれこんで夜中まで麻雀やって、っていう生活をしてたんだ。さすが、これはまずいんじゃないかって気がしていたんだよな」と、康臣の肩を片手で叩いた。 「そしたら、彼が学生オケをクビになったんで、自分達で勝手にアンサンブル始めるって言うからさ」 「別にクビになったわけじゃないよ」  ぼそりと康臣は言った。 「こうじめついた季節に勉強やる気はしないけど、音楽ならいいかなと思って、しかもチェリストが可愛いって聞いたから、頼まれもしないのに押しかけてきた」  正寛の大きな手が、鍵盤を叩いた。安物のアップライトピアノが悲鳴を上げた。調律が狂っていると正寛は大笑いして、わざと調子はずれのショパンを弾いてみせた。  この大柄で、秀才で、陽性な男と、ときおり閃光のように才知の片鱗を見せる自閉気味の康臣の間に、どういう接点があるのか、瑞穂には見当もつかなかった。にもかかわらず、狭いピアノ室で肩を接して立っている男二人の間には、他者の入る隙のなさそうな、並はずれて親密な空気があった。彼らに微笑みかけられながら、瑞穂は鼻先に衝立《ついたて》を立てられたような、いごこちの悪さを覚えた。疎外感というよりは、嫉妬に似ていた。  雑談を続けようとしている正寛を制して、康臣はすぐに曲目を何にしようかという本題に入った。  ピアノ三重奏曲の名がいくつか挙がった。そのたびに、正寛が「あ、無理無理」と首を横に振り、康臣はしかたないなというように、軽く眉をひそめた。古典派、ロマン派の曲はピアノに負担がかかりすぎ、素人ではなかなか指が回らないのだ。技術的に簡単な曲という条件なら、バロックのソナタもあったが、こちらはチェロパートが単純過ぎて、瑞穂にとっては退屈だ。しばらく議論した後で最終的に、バッハのフーガ集の中の一曲に決まった。  あの榛名湖の夜に弾いた二声のフーガではなく、別の曲集の中の三声部からなる曲だった。堅牢な構造と美しい旋律を持つチェンバロ独奏用のこの曲を、康臣はヴァイオリン、チェロ、ピアノ用に編曲すると約束した。 「編曲って、香西さんが自分でするの?」  瑞穂は驚いて尋ねた。 「一応……」と康臣は、小さくうなずいた。 「才能っていうのは、偏在するものらしい」と、正寛はすかさず言った。 「ある人間には、いくつも重なるし、ないところには、一つもなくて苦労するんだ。康臣はね、ヴァイオリン弾くだけじゃなくて、いくつもの才能があるんだ。たくさんありすぎて束ねそこなってるだけで」と言いながら、肘で康臣をつつく。いったいどういう意味なのかと首を傾げている瑞穂の前で、康臣は倦《う》んだような視線を正寛に返しただけだった。  正寛が現われた翌日から、康臣はピアノ室に来なくなった。前日の別れ際に何ひとつ瑞穂に言い残さないままに。  一日目は、どこか体の具合でも悪くしたのかと心配し、翌日は何か事情があって実家のある信州にでも戻っているのだろうかといぶかった。  あるいはこれ以上自分とは関わるまいと思っているのか、自分の言動の何かが気にいらなかったのか、ふいと姿を消されてみると、あれだけ言葉のやりとりがあったにもかかわらず、瑞穂は康臣の感情を自分が少しも掴んでいないことにあらためて気づかされた。手元には、裏面にアーベルの楕円の描かれた第四インターのアジビラが一枚残されているきりだった。  二十ほど並んだ個室のどこにも、康臣の姿を見いだせなくなったとき、自分でも意外なほどの心細さと虚しさに襲われた。情緒の中心に康臣がこれほど深く食い込んでいるとは、気づいていなかった。  くぐもった声で語られる言葉の一つ一つ、白く節高な長い指、ほっそりと鼻筋の通った横顔が、心の中で鮮やかさを増し、実技試験の間さえ頭を離れなかった。  音楽科と数学科の建物は、東京一広いと言われる大学構内の両端に位置していた。キャンパスを横断し数学科の建物まで行ってみることはできたが、彼の姿を求めてさまようのはみじめすぎた。なによりあれほど毎日会っていたというのに、康臣から「穂高寮」の電話番号さえ知らされていなかったことに、瑞穂の自尊心は十分に傷ついていた。  音楽科ホールの前で、正寛に会ったのはそれから二週間ほどしてからだ。 「やあ」と彼は、片手を上げた。 「ここの教育工学教室で、IBMのコンピューターいじらせてくれるっていうから来たんだ。なに、康臣のクラスに紛れ込んだからわかりゃしない」 「香西さんは、学校に来てたの?」  思わず尋ねた。 「ああ、どうして?」 「ずっと、姿を見てないから」 「周期的に自分の殻にこもる癖があるからね。心配はいらないよ。死んじゃいない」  正寛はこともなげに答えてから、「本当は、IBMより君の顔を見られるんじゃないかと思ってここに来たんだけど、会えてよかった。これで試験もうまくいきそうな気がするよ」と白く揃った前歯を見せて笑った。 「香西さんのクラスって、コンピューターなんかやってるんだ」  正門に向かって、正寛と肩を並べて歩きながら、瑞穂は尋ねた。 「数学だからね。本人は、あまり興味がないみたいだ。原理は好きなんだけど、プラグマティックな学問は嫌いなんだ。もっとも理解は早いよ。あいつ、こっちが地道に論理を組み立てているときに、一気に思考を飛ばすんだよ。僕なんかとうていかなわない。大学入試の模擬試験では、いつも全国でトップの成績を上げていたし、高校時代は創立以来の秀才と言われていたんだ」 「それなのに、なぜ、うちに入ってきたわけ? それも三浪して」 「よくわからないけど」  正寛は、言葉を濁した。 「本番に弱いのかな。現代国語の設問があまりにばかばかしいんで、解答欄に『愚問』と書いて零点取ったって噂があったけど、本人に聞いたわけじゃないからな。神経の出来が少し繊細過ぎるのかもしれない。それとも能力の突出ぶりが、一般社会の規格に合わないのか。ヴァイオリンだって中学に入ってから始めたのに、あの腕だろう? 遊びでギターを弾いたこともあったけど、あっという間に先生にコンクールで上位入賞間違いなしと折紙をつけられた」  そして正寛は、少し考え込むような顔をして付け加えた。 「日本の教育制度の下では、秀才は育っても天才は途中で芽をつまれてしまうんだろうな」  お茶でも、という誘いを断り、瑞穂はバス停の前で正寛と別れた。  音楽科専用のピアノ練習室にいた瑞穂の前に康臣がいきなり現われたのは、前期の試験期間を挟んで、それからさらに一ヵ月が過ぎた頃、夏休みが始まる直前のことだった。  梅雨も明けて、真夏の太陽が照りつける時期になっていたが、康臣は最後に会ったときと同じ、長袖の白いワイシャツ姿だった。  この六週間ほどの出口の無い熱い思いが胸に込み上げてきて、瑞穂は言葉もなくその顔を見つめていた。  以前と変わらない冷え冷えとした静かな表情で、康臣は楽譜を手渡して、尋ねた。 「合わせるのは四日後でいい?」  瑞穂はうなずいた。いったい彼はどのようにして六週間を過ごしたのか、少しも自分のことを思い出さなかったのか。会いたいとも思わなかったのか?  康臣の思考の枠組みはおぼろげながらわかるようになっていた。しかしその心情は掴めない。瑞穂にとっての最大の関心事は、彼の論理ではなく心情だった。あるいは心情でさえない、彼にとって自分は何なのか、自分をどう感じているのかという、すこぶる単純なことだった。  一般学生用のピアノ室に比べ、格段にきれいで設備の整ったこの部屋から、康臣は逃げるように出ていった。  瑞穂は弾きかけの譜面を置いたまま、康臣の後を追い、階段の踊り場で追いついた。 「試験で忙しかったの?」  息を弾ませて尋ねた。 「別に」  なぜ来てくれなかった、会いたくなかったの? という問いを康臣は瑞穂の言葉に感じ取ってはいなかったらしい。 「ずっと会ってなかったじゃない。何かあったのかと思って……」 「何もないよ」 「この曲のアレンジをしていたの?」 「バッハの作曲の基礎理念として、僕は二つのことを挙げられると思う。一つは閉じた系をなしていて、異なる楽種を同一作品の中に統合していこうとするもの。もう一つは無限開放系とでも呼べるものなのだけれど、一つのテーマからいくつもの音楽実体を引き出してくるもの。一連のカノンとフーガは、後者に属するわけで、これは絶望と可能性の両方を含んでいるんだ」  ぼそぼそと康臣は話し続けた。  私が聞きたいのはそんな話ではないのに、と瑞穂は心の中で叫びながら、口には出せずにじっと康臣の顔を見ているしかなかった。 「絶望というのは、僕がいくら努力しても、曲の根幹をなすテーマを理論的に掴みとることはできないということなんだけど、一方可能性としては、そこに隠されているテーマから、無限の音楽を引き出せるということがある」  康臣は、いくつかの記号を交えながら、語り続けた。これが、彼のアレンジの意図であり、すなわち瑞穂の問いの答えになっていると思い込んでいるようだった。  苛立ちながら瑞穂は一階まで下り、康臣と別れた。  四日後から正寛を混じえないまま弦楽器二台の練習が始まった。康臣は再びピアノ室にやってくるようになり、以前と変わらぬ観念的な言葉のやりとりが復活した。しかし瑞穂は、以前のような高揚した幸福な気分にはなれなかった。  康臣の意味不明な日本語によって感情が触れ合うことはもはやない。ただ二台の楽器の音が交錯する場面でのみ、激しい高揚感がある。恋の迷いを一瞬の内に突き抜け、深い歓喜に酔う。そのとき瑞穂は自分の遥か高みに、揺らぐことのない絶対の美が見えるような気がした。  康臣の音楽はすばらしいが、弾き手の康臣はつまらない男だ、と考えることはできた。しかし考えるのと感じるのは別だ。思考と感情と生理は別物であり、そのことが瑞穂を混乱させる。  正寛がやってきたのは七月の終わりのことだった。譜面を一目見て正寛は、「お手上げだ」と首を振った。 「これはかなり練習してからじゃないと、俺、無理」 「ピアノパートは、できる限り単純化したつもりなんだけどな」  康臣は腕組みをした。そのとき眉間に皺を寄せて、右手で鍵盤を叩くような動作をしていた正寛は、ぱっと快活な表情に戻った。 「合宿練習してみようか」 「合宿?」 「ほら、一人で勉強してるとだらけるけど、図書館の閲覧室にいくとけっこう一生懸命やるじゃないか」  ぽかんとしている瑞穂に、正寛は慌てて言いなおした。 「ウィーンだか、ベルリンだか忘れたけど、一年のうち三ヵ月、一緒に暮らしている弦楽四重奏団があっただろう。アンサンブルって、やっぱりスポーツにたとえれば、団体競技みたいなところがあるから、個人技術じゃなくて、基本は心を合わせることだと思うんだ」  康臣は苦笑してそのたとえを聞き、瑞穂は素直に同意した。  こうして瑞穂達の三重奏は、正寛のいうところの三位一体の合宿に滑り込んでいった。  やがていくつかの個人的事件とともにその夏が終わったとき、瑞穂の青春の季節も終わっていた。そのことを安直に「挫折」と呼ぶべきか、野心ばかり旺盛な少女が、観念的思考から解放されて大人になった成長の過程と考えるべきなのか、瑞穂自身にもわからない。  確かなのは、秋になってキャンパスに戻ってきた瑞穂が、機械的に大学の単位を拾い集め、表面的熱意を周囲に示しながら教育実習を終えて卒業し、何の期待も夢もなく教職についたということであり、そのとき康臣はまだ進級できず、将来の進路が決まらないまま、教養課程に留まっていたということだけだ。  そして大学院に進んだ正寛が、難関の司法試験を突破したその翌年、康臣は、別の大学に学士入学したいと、大学に籍を置いたまま再び受験勉強を始めた。しかし正寛が結婚したその二年後、康臣は六年という国立大学の在学許可年限を越え、退学処分となった。  瑞穂が知っているのは、そこまでだ。しかし実際に康臣の姿を見たのは、卒業式の日が最後になった。  親の望み通りの振り袖姿で卒業式にのぞんだ瑞穂は、その帰りにキャンパスの正門で康臣に呼び止められたのだ。二年生の夏の終わりとともに、言葉を交わすこともなくなった康臣は、無表情のまま、「あの約束は……」と言いかけ黙りこくった。  意味がわからなかった。何か約束をした覚えなどなかった。結婚の約束はおろか、恋人として愛することさえ拒否したのは、康臣の方だった。今さら何の用があるのだろうとあらぬ方向を見ていると、クラスメートの呼ぶ声が聞こえた。正門脇にタクシーが横付けされていた。  瑞穂は、さよならも言わず、重たく結んだ帯を揺らせてそちらの方に駆けていき、振り返ることもなく謝恩会会場に向かったのだった。      2  通夜の当日、授業を終えた瑞穂は教職員用のロッカールームに飛び込み、急いで喪服に着替えた。ボストンバッグを片手に、事務担当の女性の車に送られて新宿駅の南口に着いたのは、約束の時間の二十分も前だった。  改札口の前に、正寛はすでにいた。書類カバンを抱え、喪服ではなく銀を帯びたグレーのサマースーツを着ている。瑞穂は首をひねった。 「すまない。君、一人で行ってくれないか」  瑞穂に駆け寄ると正寛は早口で言った。 「用事?」 「ちょっとね」と、瑞穂を構内の喫茶店に連れていく。  テーブルの上に香典袋を取り出し、「小田嶋正寛」と自分の名前を書く。流れるような見事な草書体だ。学生時代の正寛はひどい金釘流だったが、いつの間にか練習したものだろう。必要とあればどんなことでも練習し、身につける男だった。努力家で迷うことのないプラス思考は、知り合った当時から少しも変わっていない。 「じゃ、お願いします」と正寛は礼儀正しく頭を下げ、香典とともに切符を瑞穂に渡した。乗車券と特急券、それにグリーン券が揃っている。 「だめよ」と切符を返そうとすると、 「いや、僕の代わりに行ってもらうんだから」と、こだわりのない様子で瑞穂の手を握り、切符を押しつけてきた。 「急用でもできたの?」  あずさ号の発車時間を気にしながら、瑞穂はあらためて尋ねる。 「水曜会といって、まあ、一種の異業種交流会があってね。今回は欠席するつもりだったけど、たまたま今やってる仕事に関連する話が聞けそうなんで、外したくないんだ。今後のこともあるしね」 「急用、じゃないのね」  無意識のうちに、詰問《きつもん》するような口調になっていた。 「まあ、香西には申し訳ないが、彼が生きているうちに、僕なりにきっちり対応はしたつもりだから」  瑞穂は、無言で正寛の顔を見つめていた。 「すまない。僕だけが忙しいわけじゃないことはわかっているんだ」  正寛は神妙な顔になると、もう一度頭を下げた。そして顔を上げたときには、快活な表情に戻っていた。襟につけたひまわりバッジが、店の照明を反射して鈍く光る。  ふと、あの夏に何度か見た彼ら二人の姿を思い出した。彫りの深い陽焼けした正寛の顔と、白く張りつめた康臣の顔。対照的な二つの顔だった。  正寛と言葉を交わすとき、康臣は頬を緩めてうっすらと微笑んだ。白い前歯となめらかな肌をした細面の顔を瑞穂は美しいと感じた。きつく引き結ばれた口元と、人と視線を合わすまいとするように不自然に一点を睨みつけたいつもの険しい表情は消え、落ち着いた清々しさが漂っていた。  それに良く似た顔を、その後、瑞穂は一度だけ見た。遠足で子供達を連れていった地方の博物館にあった「十六」という名の能面だ。十六の歳に須磨の浦であえない最期を遂げた敦盛《あつもり》の面影を写した公達《きんだち》面だった。その穏やかで底深い美しさは、康臣に驚くほど似ていたが、いくら切望しても、その表情が瑞穂に向けられたことは、ついになかった。  自分よりも優秀で、機知に富んでいて、多くの女性にとっても明らかに魅力的であろう男に対して、康臣が嫉《ねた》ましさや羨《うらや》ましさといった感情を抱いていなかったのは、未だに不思議だ。康臣は、最後まで正寛に対してだけは心を開いていたように見える。  男同士の不思議な親密さが、あの年の夏、どれほど羨ましく瑞穂を悩ませたことだろう。他の人間への頑ななまでの距離感、自分に向けられる冷え冷えとした視線に比べ、正寛に対する安らいだ笑顔……。あのとき、自分ははっきりと正寛に嫉妬していた。  手のなかのグリーン券を握りしめ、瑞穂は無言で正寛を見上げた。  確かに葬式に行かないことだけを取り上げて、一概に不義理と決めつけることはできない。自分は卒業以来、一度も康臣に会っていないが、正寛はその後もずっと彼につきあってきた。いい歳をしてぶらぶらしている男が東京に出てくるたびに、激務の合間をぬって、その相手をした。  フランクフルトへの出張の前日、康臣に呼び出されて新宿で飲んだ正寛が、深夜に戻ってきて徹夜で仕事を片付け、一睡もせずに空港に向かったという話を美佐子に聞かされたことがある。仕事のじゃまをされ、妻には不機嫌になられながらも、正寛は正寛なりの誠実さで、まったく違う世界の住人になった男に関わり続けた。 「それじゃ」と瑞穂は伝票を手に立ち上がった。 「あと十五分ある。楽勝だよ」と正寛は、さり気なく瑞穂の手から伝票を取り上げてレジに行く。  店を出て、人をかきわけて改札口に向かいながら瑞穂は尋ねた。 「香西君は、いったいなぜ死んだりしたのかしら?」 「直接的な原因は、わからないな」  気が急《せ》いた様子で、正寛は答えた。そして改札口まで来ると、「それじゃ、家族の方《かた》によろしく伝えてください。帰り、遅くなりそうだから、くれぐれも気をつけて」と笑顔で瑞穂を中に押し込み、くるりと背を向けて大股で去っていった。  新宿を四時に出たあずさ23号は、七時間際に松本に着いた。まだうっすらと明るみの残る駅前に出て瑞穂はタクシーを拾う。  ビルが立ち並び、商店街の四方に延びた町並みには、二十年前、急行列車で降り立った頃の、牧歌的でありながらどこか肩肘張った雰囲気はない。  駅前通りを北に折れ五分ほど走ると、夕闇の中に目にしみるように白い漆喰《しつくい》の塀が見えてきた。  不意に胸苦しく切ない気分に襲われた。  康臣の家だ。少しも変わっていない。あの夏の合宿の最初の日に、短い時間だったがそこに立ち寄った。外は焼けつくような陽射しなのに、植木に囲まれたその屋敷に一歩入ると、ひんやりと涼しかった。  それから三人で、香西家の別宅に向かったのだ。浅間温泉から林道を四キロほど上ったところにあるその家を、康臣の家族は「山の家」と呼んで、年寄りや子供達が夏を過ごすのに使っていたらしい。しかしその前年に祖母が亡くなってからはだれも行かなくなって空いたままだとのことだった。  八月初めの松本盆地は、焼けつくような暑さで、バス停から山の家までの五分ほどの急登《きゆうとう》は辛かった。瑞穂の肩には自分の背丈と大して変わらぬチェロのハードケースの紐が食い込み、気を抜くとケースの底の部分を地面にひきずりそうになる。はっと気づいて持ちなおす。  強い陽射しにめまいがした。前を行く康臣の手にしたヴァイオリンが、いかにも小さく軽そうで、自分がなぜこんな大きな楽器を選んでしまったのか、と少々うらめしい気分にもなった。 「持ってあげよう」とそのとき正寛が手を差し出した。 「ごめん、だめ」ととっさに断った。  チェロなどの弦楽器は、大きな図体に似合わずデリケートで、いくら重くても他人に担《かつ》がせるのは心配だった。 「恋人を他人に触らせてたまるかってか?」と正寛は肩をすくめる。 「そう」と流れる汗をポロシャツの袖で拭いながら、瑞穂は笑った。  恋人はチェロだけ、これから行なうのは音楽を作り上げるための合宿。彼らに対しても、自分の心に対しても、そうした大義名分があった。  康臣が振り返り、瑞穂のもう片方の手から黙ってボストンバッグを取り上げ、自分で担いだ。彼はときおり、こんなもの静かな優しさを示し、そのたびに瑞穂の心は小波《さざなみ》立ち、甘く苦しい気分になった。  甲高い声でひっきりなしにしゃべりながら、正寛は両手に楽譜や譜面台を抱えてついてくる。  山の家にはチェンバロが置いてあった。県内にある私立大学の学長であった康臣の祖父が、ドイツから職人を呼んで作らせたという、当時の日本には十数台しかない本格的なものだった。  バッハを弾くなら、ピアノではなくチェンバロで弾きたいと正寛は言い、それで合宿場所は香西家の山の家ということに決まったのだ。  夏休み後半を男二人と過ごすとは、瑞穂はさすがに親に言えず、学生オーケストラのメンバーで室内楽アンサンブルを結成したので自主合宿をする、とだけ伝えた。後ろめたさはなかった。事実、室内楽アンサンブルの自主合宿だったのだから。  長い塀を回り込み、車はやがて止まった。タクシーを降りた瑞穂は、石段を上り、香西家の門をくぐった。  あのとき、刈り込まれていたにしき木やつげなどの木々は、今は丈も枝も伸び放題で庭全体がうっそうとしていたが、母屋に続く飛び石の周りはさすがにきれいに掃き清められている。  三和土《たたき》に玉石を貼った広い玄関は開け放たれ、飾られた菊の花が夕闇の中でいっそう白く、香気を放っていた。  喪主は、伯父だった。両親がすでに他界していることは、正寛から聞いている。  大きな屋敷に不釣り合いな閑散とした葬式で、参列者は少ない。並ぶこともなく瑞穂は焼香した。手を合わせて一礼してから、あらためて祭壇を見れば、正面に飾られているのは、確かに記憶の中にいる香西康臣だった。二十年前の写真をそのまま使っているのではないかと思われるくらい変わっていない顔だった。額にかかるまっすぐの髪、緊張感の漂う頬と刻んだような整った口元、流線型の奥二重の目、四十年以上生きてきたはずなのに、わずかの疲れもたるみもない。繊細な彫塑《ちようそ》のような顔だ、と瑞穂は思い、正寛の面影と無意識に引き比べていた。  僕は昔と変わらないだろう、と自慢気に言う正寛は、事実、太りもたるみもしていない。いくぶんウェーブのかかった髪もそのままだ。しかし昔と変わらぬ軽みの中に、並々ならぬ自信がうかがえ、鼻につくばかりの男盛りの迫力を漂わせている正寛に対し、写真の中の康臣からは、そうした内面の変化を何一つ見いだすことができない。  この人は、実際に生きていく上で、何の試練も受けなかったのかもしれない、と瑞穂は磨きぬかれた廊下と、襖を取り外した三十畳はあるであろうだだっ広い座敷をあらためて見渡した。  恵まれ過ぎたものの悲劇を思った。金にも人間関係にも悩まされず、生活上の苦労は何一つなく、観念的思考と強すぎる自意識に心を苛まれて死んでいった男の一生を思うと、息苦しいような悲痛な気分になった。  焼香をすませて玄関を出ると、さるすべりが暑苦しいほどの紅の花をつけているのが目に入ってきた。何か場違いな賑々しさを感じ、うつむいて門に向かって歩いていると、追ってきた男がいた。 「失礼ですが、笹生さんではありませんか?」  久しぶりに笹生という旧姓で呼ばれて、すぐには自分のこととはわからなかった。 「有助です」  瑞穂はまばたきした。康臣の弟だ。  出会った二十年前は小学生だった。セルフレームの眼鏡をかけ、髪を七三に分けた今も、康臣によく似たほっそりした面影をそのまま留めている。 「確か、一度か二度しか、お目にかかってないですよね。よく覚えててくださいましたね」 「印象が強烈でした。雑誌のグラビアか西洋名画の中から出てきたような、きれいな人だったから」  照れる様子もなく、有助は答える。 「だいぶ変わったでしょう」と、瑞穂は苦笑した。 「いえ……実は先程から、いらっしゃるのではと思って探していましたので」 「探してた?」と尋ねると、有助は小さくうなずき、母屋の方を指差した。 「どうぞ、上がっていってください。酒の用意などしてありますから」  社交辞令とは思えない心のこもった口調だ。  いえ、と遠慮して、瑞穂は尋ねた。 「今、有助さん、どうしていらっしゃるの?」 「サラリーマンです。信用金庫に勤めています」 「まあ、堅実な」  少しばかりほっとしながら、瑞穂はその乱れのない清潔そうな顔を見た。 「今夜はどこかに泊まられるんでしょう。もう特急はありませんから。ゆっくりされていってください」  片手で座敷を指して、有助は言った。 「ごめんなさい。夜行急行で帰るんですよ」 「夜行で?」  有助は驚いたように瑞穂を見つめ、あらためて「忙しいところをありがとうございます」と深々と頭を下げた。それから「夜行が来るまで、四時間あります。それまでちょっと上がっていってください」と繰り返し、寂しげな笑いを浮かべた。 「兄は交際範囲も狭かったし、あんな死に方をしたもので、あまり別れをしのんでくれる人がいないんです」  あんな死に方が具体的にどういうものかわからないが、数時間前、新宿駅で去っていった正寛の後ろ姿を思い出し、この上自分までそそくさと焼香をすませて帰るのはしのびないような気がしてきて、瑞穂は家の方に引き返した。  座敷に上がると、鎌倉彫りの大きな座卓の上に、がんもどきや蕗の煮付けなどが並んでいた。白いエプロンをつけた女たちが、皿を運んだり料理をつついたりしているが、客の姿はほとんどない。  瑞穂はその端の方に、かしこまった。有助が隣にきてビールを注ぎ、それからおもむろに茶封筒を取り出して瑞穂の前に置いた。 「実はこれ、兄が残したものですので、どうぞお納めください」 「私に?」  有助が自分を探していた、というのは、これを渡すためだったのだと納得がいった。  定規で引いたように横線が水平な康臣の字で、封筒には「小牧瑞穂様」と書かれていた。受け取ってみると、厚みがあって硬い手触りだ。手紙ではない。  瑞穂はその場で封筒を開けた。  ケースに入ったカセットテープが一本出てきた。タイトルは何もない。オーディオ用の高級メタルテープだ。有助が神経質な仕草で眼鏡のフレームを直した。  ケースを開けてみる。説明書も手紙も何も入っていない。 「遺書らしいものは、ありませんでした、僕達宛てには。父と母も亡くなっていますし、最後の言葉を残したいと思うような人間がいなかったのだと思います」  テープの内容が、その遺書だ、ということなのだろう。それにしても二十年近く交流がなく、その後は同人誌を送りつけるという一方的な関係だけしかない女に宛てた、テープによる遺書とは、いったいどんなものなのだろう。  同人誌の中の康臣の文章を瑞穂は思い出した。 「……未解明ではあるが、しかし我々を取り巻く空間からも、時間の流れからも独立してある種の精神世界が存在しているのではないかという確信に自分を導くものだった。音楽もまた、定方向に流れる時間の上に成立する芸術であるが、その内部に深い精神世界を獲得したとき、日常的時間から独立し、滞留し、ときには身辺の日常的時間を巻き込みつつ遡行する可能性があるのではなかろうか」  四十男が書いたと思えば、こちらが気恥ずかしくなるような、青臭く、ひとりよがりな内容だった。死に際して、彼が自分に宛てて残したものもそれに類するものだということは想像がついた。しかしそれが香西康臣という一人の男の、最期に自分に向けて発したものであれば、敬虔な気持ちで受け止め冥福を祈らなければ、と思う。  渡されたテープを押し戴くように一礼し、バッグに丁寧にしまったとき、有助はぽつりと言った。 「服毒自殺です」 「睡眠薬か何か……」 「いえ」と相手は視線を逸《そ》らせた。何か言いたくない事情か、思い出したくないことがあるのだろう。  瑞穂は黙ってうなずいた。自殺というのは予想通りではあったが、はっきり知らされるとやはりやりきれない気持ちになる。 「僕が部屋に入ったときには、こと切れていました。目を開いていつもの顔をしていました。何か考えごとをしているのかと思ったくらいです。少し静かすぎるという感じがしましたが。音楽を聴きながら逝ったせいでしょう」  自殺の直接の原因を尋ねることははばかられ、瑞穂は少し身じろぎした。何も尋ねないにもかかわらず、有助は察したように答えた。 「ノイローゼですよ。兄は精神的に弱いところがありましたから」 「頭の良い方ほど、そうなんですよ」  慰めるでもなく瑞穂は言い、隣の部屋の棺の前に行き正座した。もう一度、線香を上げ、合掌した。どうかこの次生まれてくるときには、こんな淋しい人生は送らないでください、と写真の中の男に呼びかけながら。  香西の家を出たのは、夜も更けてからだった。タクシーで駅まで行くというのを、有助が無理に車で送ってきた。  ロータリーに入ったとき、切れ切れに構内放送が聞こえてきた。有助が耳をそばだて、車から降りる。瑞穂も降りて改札の方に行きかけると、大糸線で車両故障があって、瑞穂の乗ろうとした夜行急行が大幅に遅れているというアナウンスの内容が今度ははっきり聞こえてきた。 「だめだな、これは」  有助は、独り言のように言い、瑞穂に車に戻るように合図する。躊躇《ちゆうちよ》している瑞穂を、有助は機敏な動作で、押し込むように助手席に乗せると、再び来た道を引き返し始めた。このまま数時間待つくらいなら、市内のホテルで一泊して、朝一番のあずさ号を使った方がいいと言う。六時のあずさ号に乗れば、九時過ぎには新宿に着く。有助の言うとおりだった。それに翌日は一、二時間目に行事の練習があって、音楽の授業はつぶれている。  幸い現金は余計に持ってきているし、息子の巧も夫が見ていてくれる約束なので心配はない。  市街地の外れに、清潔なビジネスホテルがあるということで、有助はそちらに車を向ける。しかし着いてみると満室だった。次に有助の中学時代の友達がやっているという民宿風ビジネスホテルに連れて行かれたが、やはり空室はない。  三軒目で断られたとき、フロントマンに、翌日から市内のグラウンドでテニスの東日本大会が開かれることになっており、松本近辺のホテルはどこも満杯である、と告げられた。  途方にくれている瑞穂に有助は、「もし、いやでないなら、山の家を使ってください」と言った。 「山の家……」 「美鈴湖に行く途中の。覚えているでしょう。ずいぶん昔、来たこと、あったでしょう」 「ええ」  あのときのメンバーの一人が欠けた夜に、あの一夏を過ごした場所に戻っていく……。感慨とともに、奇妙な符丁のようなものを感じた。 「中はきれいになってますよ。伯母の一家が、週末を過ごすつもりだったので、掃除したばかりです」  有助は瑞穂の返事を聞く前に、ハンドルを切って、街道から続く急坂のカーブの道に入っていった。  車は、女鳥羽《めとば》川沿いの道を北上し、右に折れて浅間温泉の町中を突っ切り、森の中の登り坂にかかる。 「この林、実は松茸が取れるんですよ」  手慣れた様子でハンドルを左右に切りながら有助は言った。 「それは一財産ですね」  この山が香西家の持ち物だと昔聞いたことがあった。 「ええ、今は松茸だけが、香西の家の財産になってしまいましたよ。残念ながら僕達は山仕事をしたことがないもので、どこに生えるかわからないんですけどね」 「もったいない」と笑いながら、松茸だけが香西家の財産、とはどういう意味だろう、と瑞穂は首を傾げた。  赤松林の中を少し走ると林が切れ、濃密な闇の向こうに松本盆地の灯が、宝石をばらまいたようにきらめいているのが見えた。そこから道の両脇は急に開けた。街灯が増え、中層のアパートが建っている。しばらく走って車は止まった。有助に案内されて小さな家の前に立つまで、それがあの「山の家」であるとは、瑞穂は気づかなかった。  それはもう「山の家」ではなかった。ダケカンバの林は切り開かれて、建売住宅が建ち、麗人草やしもつけ草の咲いていた狭い草原はコンビニエンスストアや駐車場に変わっていた。  有助は、玄関の扉を開け、瑞穂を中に招き入れた。  木造の二階家は、あの頃と変わらず古ぼけていて、畳の匂いが鼻をついた。黒光りする廊下も、床にはめ込んだ瓢箪型の象眼も、あのときのままだ。  板敷の食堂に入り、冷蔵庫を指差して、有助は中のビールやジュースを適当に飲んでかまわないから、と言った。それから玄関脇の応接間に瑞穂を案内した。ソファの背を倒してベッドにし、別の部屋から枕とタオルケットを持ってきて手渡す。 「明朝の五時過ぎに迎えに来ますから、一眠りしてください」  それだけ言い残すと帰っていった。  玄関先で有助を見送り、瑞穂はしばらくそのまま立っていた。  赤っぽい白熱灯の光が、玉石を貼りつけた玄関のたたきを照らしている。  網戸の隙間から、小さな白い蛾が入ってきて、灯りの周りを飛び回っている。小さな羽音に、疼痛《とうつう》に似た懐かしさが込み上げ、あのときの光景の一つ一つが、脳裏を駆け抜けていく。  瑞穂は蛾の羽の動きを凝視していた。  はたはたと網戸に群れるいくつもの蛾の群れが瞼によみがえる。  銀、枯葉色、薄緑、不思議な色合のいくつもの羽。白く柔らかな胴体、繊細な脚。  瑞穂は横合いにある急な階段の上を見上げた。中程までは、玄関の灯りでうっすらと明るく、その先は闇に沈んでいた。闇の二、三段先に、六畳の和室があるはずだが、こうして見上げると、暗い階段が無限の高みにまで続いているような感じがする。  だれもいないのを幸い、スリップを身につけただけの姿で、応接間のソファに身を横たえ、タオルケットをかけて目を閉じる。時刻は一時を回っている。  疲れているはずなのに眠気はない。明朝帰ったら、そのまま教壇に立たねばならない。寝ておかなくては、と思うほどに寝つかれず、何度か寝返りを打っているうちに気になっていることに思い当たった。  テープだ。康臣が彼女に残したテープのことが、頭の片隅にひっかかっている。  瑞穂はソファベッドの上に起き上がった。頭が鈍く痛む。  ボストンバッグをかき回すと、小型テープレコーダーが出てきた。児童音楽コンクールの記録テープを、来る途中の電車の中で聴いていたのだ。有助から渡されたテープをそれにセットする。  イヤホンを耳に差し込み、再生ボタンを押した。  秋雨のような柔らかな走行音が聞こえる。  康臣のくぐもった声、息遣いを瑞穂は思い出し、身構え合掌して南無阿弥陀仏と唱えた。  十秒ほどしてイヤホンから音が流れてきた。人の声ではなかった。音楽だ。  ああそうか、と膝を打った。康臣はテープを聴きながら死んだ。しかもメタルテープ。内容が音楽であることくらい予想がついていいはずだった。それに思い当たらなかったことに、自分と康臣の感性が遠く離れてしまったことを痛感した。  それにしても奇妙な旋律だ。現代音楽風だがそうではない。リズムと音程の法則性は、どこか懐かしく耳に馴染んでいる。  バッハ?  しかしバッハの曲にしては、おかしい。バロックにも古典派にも、あるはずのない音形だ。  楽器は紛れもないヴァイオリン独奏だが、アクセントが不自然すぎる。音が後方で膨らみ、ぽつりと切れる。まるでビオラダモーレによる古楽演奏のようだ。  電子楽器かもしれない。シンセサイザーなら、こんな演奏ができる。しかし何のために、康臣はこんなものを残したのか? それも二十年前に、一夏を共に過ごしただけの女に。  天井の蛍光灯の光が揺らぎ、淡い白色のものがぼんやりと闇に漂っているように見えたのは、テープが回り始めてから、わずか数秒後のことだった。  頭の中に紗《しや》のカーテンが引かれた。焦点が合わず、周りの物の輪郭が流れるように失われていく。  眠気がさしてきたのだと瑞穂は思った。睡魔と戦いながら教材研究をしているときに、よくこんな感じに襲われる。仏様の残したものを聴きながら居眠りするのは、さすがに不謹慎に思え、瑞穂は耳からイヤホンを引き抜いた。テープを止めるボタンに触れて、瑞穂は驚愕《きようがく》した。  腰掛けた自分の膝の上に、耳から引き抜いたばかりのイヤホンがコードを絡ませて転がっている。二つとも確かに耳から抜いてある。  しかし音楽は鳴りやまない。イヤホンから流れる音は、いくらボリュームを上げてもこれほど鮮明には聞こえない。  二の腕が鳥肌立った。忙《せわ》しなく何度もストップボタンを押す。テープは止まった。しかし音はやまない。イジェクトボタンを押す。軽い金属音をさせて、蓋が跳ね上がりテープが飛び出してきた。  まだ鳴っている。  頭の芯で。いや、体の周りで鳴っている。音は、外部から来ている。この音は、ヴァイオリンだ。奇妙な音ではあるが。  瑞穂は震えた。怯えながら、吐き気を覚えるほどに感動していた。紛れもなくヴァイオリンの音、それも康臣の弾くヴァイオリンだった。  死にきれないのか? 生も死も中途半端なまま、康臣の魂はこの部屋をさまよっているのか?  南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏……  瑞穂は目を固く閉じて、手を合わせた。仏教への信仰心などないが、こんなときはこうすればいい、と母に教えられていた。  ヴァイオリンの音は執拗に鳴り続け、不意に途切れた。曲は終わってはいなかった。終わるはずのない半端な音で切れたのだ。  頬にかすかな風を感じた。恐る恐る振り向く。窓があった。今し方まで、壁しかなかったところに、窓があって網戸が貼ってある。そしてその薄青い網の向こうに無数の蛾が張りついていた。反射的に反対側を見た。  縦長の洋風の窓、丸形テーブル、サイドボード、リトグラフ、先程まであったものがすべて消えて、殺風景な狭い座敷があった。  まばたきして、視線を手元に落とす。長椅子に座っていた。自分がいたソファベッドではない。色褪せた長椅子のかさついた生地の手触りに覚えがある。二階の部屋だ。  夢を見ている。いつのまにか寝入ったに違いない。ごく近いところに、何かの気配があった。顔を上げて、瑞穂はやはりとつぶやいた。  康臣が立っていた。左脇にヴァイオリンを挟み、薄青い網戸を透かした蛾の姿を陶然として眺めている。  恐怖はなかった。代わりに、長い間絶えてなかった甘く苦しい高揚した気分が、胸に込み上げてくる。  青春の夢を見ていた。あの晩に戻っていた。たった三人で合宿を始めた最初の夜に。  瑞穂は、石像のように微動だにしない康臣の姿を凝視していた。それから自分の姿に気づいた。つい先程喪服を脱いで、ソファベッドにもぐりこんだそのままの姿だ。身じろぎすると、スリップの下で、あの頃とは打って変わって豊かになった乳房が重たく揺れた。太くなった二の腕に、陽焼けあとのしみが点々とついている。  二十歳の康臣と、その倍近い年齢の自分が相対している。得体の知れぬ羞恥《しゆうち》にめまいがした。  蛍光灯の下で目覚めたとき、テープは止まっていた。壁に身をもたせかけ、外したつもりのイヤホンは耳に差し込んだままになっている。瑞穂はイヤホンを外し、丸めて傍らに置いた。  目を固く閉じ、再び開く。しかし白いワイシャツ姿で、左脇にヴァイオリンを挟み、右手に弓を持って網戸に張りついた蛾を眺めている康臣の姿は、二度と現われなかった。  合掌する気分ではなくなっていた。夢の続きの甘い疼《うず》きが胸にある。感傷でも懐かしさでもない。  自分の人生から恋の感情など消え果てたつもりでいた。しかし今、みずみずしいというよりは渇きに似て苦しく、ほんの一歩踏み出せば泥色の情念の深みにはまりこんでいくようなあの若い日の執着の思いが、現実のものとして体の内によみがえっていた。  瑞穂はベッドに身を横たえ、タオルケットを胸元まで引き上げ目を閉じた。  二十年という時を飛び越え、鮮明な記憶が戻ってくる。  二階の六畳、ちょうどこの真上の部屋に、あの晩、瑞穂は康臣と二人でいた。  階下からは、正寛の弾くチェンバロの音が絶え間なく聞こえてきた。ひどく間延びしたテンポで繰り返す二小節。ひっかかり、止まり、また戻る、二小節だった。  この場にやってきていざ合わせてみると、正寛の鍵盤の腕は、想像した以上に拙《つたな》いものだった。楽譜に目を近づけて、一音一音、指で探るように弾くのが精一杯で、勢い込んで合宿など始めたものの、とうてい合奏できる水準ではなかった。 「これ、本来ならチェンバロ一台で弾ける曲なんだけどな」と康臣が呆れたように言い、憮然とした顔の正寛は、「わかった。二日間だけ時間をくれ、二日で必ずマスターしてみせる」と言い、二人を部屋から追い出して一人でチェンバロに向かった。  そこで瑞穂と康臣は二階に上がり、それぞれの練習を始めたのだ。三位一体で行なわれるはずの合宿は、こうして初日のうちに二手に分かれた。  軽やかで快活で、どちらかというといいかげんな男に見えた正寛は、何か始めると驚くほどの熱意と集中力を見せた。食事の時に瑞穂に楽器から引きはがされるまで、ぶっ続けに四時間弾き、食べ終わるとすぐにまた楽器の前に戻り、夜が更けてもいっこうにやめない。  康臣の方も、階下からチェンバロの音が聞こえている間は、自分の楽器を置こうとはしなかった。  瑞穂だけが、楽器の音に比べれば遥かに小さなはたはたという羽音が気になってしかたなく、突っ立ったまま窓を見つめていた。  無数の蛾が群れていた。灯りに惹かれてやってきて、網戸にびっしりと張りついたまま、中に入ろうともがいているのだった。  灯りに照らし出された蛾の白い腹と自分の横でヴァイオリンを弾き続ける康臣の姿を瑞穂は交互に見た。  何か話しかけようとしても、言葉がみつからない。出口を失った熱い思いを閉じ込めて、康臣の体温や息遣いを間近に感じているのは苦しかった。  康臣の飽くことのない音楽論と数学論は、そのころ正寛が入ることによって、多少は一般的な会話に変わっていた。しかし正寛が席を外したとたん、話の内容は観念的な独り語りのようなものに変わった。  正寛は康臣の難解で退屈な話にも根気よくつきあっている。そして傍らでぽかんとしている瑞穂に、すこぶる簡素な形に翻訳して説明してくれることがあった。そんなときの正寛の思考と言葉の明晰さは舌を巻くばかりだった。  本当の頭の良さというのは、このように難解な話を整理し、求められればごく普通の言葉に変換し語れることであるし、それが一般社会で認められ、受け入れられる知性であるということを今の瑞穂なら知っている。しかしあの頃は、そうした明晰さや健全さ、そして直線的な男らしさは、瑞穂の眼には通俗的で凡庸なものにしか映らなかった。  瑞穂の心を捕らえたのは、康臣の直感力と、彼の抱えた陰影と憂鬱だった。康臣の眼差しと言葉の一つ一つに、瑞穂の心は鋭敏に反応した。  しかしいくら一緒にいても、康臣という男を捕らえることができない。何を感じ、何を求めているのか、そしてなによりも、自分は彼にどう関わればいいのか、何一つわからなかった。  瑞穂に見えたのは冷たくきらびやかな幾何学的観念の中で孤立した魂だけだ。  手を差し伸べたかった。その手を康臣がしっかりと握り、抱き寄せてくれることを望んでいた。単純に、普通の恋をしたかったのだ。  康臣との間に、熱い心が触れ合うことがなかったかと言えばそうではない。  互いに楽器を構え、鋭い視線を交わした後、小さくうなずく。その瞬間、すべてを理解しあうのだ。鼻孔から短く息を吸い込み、最初の弓を弦上に下ろすとき、康臣の精神の根幹を捕らえた実感がある。  高低二つの楽器の音は、まさに失われた片割れを求めるように、追いつ追われつ、絡み合い、上りつめていく。楽器を通してのみ康臣の心の深部から湧き出るような叙情が感じられ、瑞穂は自分の音楽でそれに応える。  しかしその濃密な関係は、最後の音の余韻が消えた瞬間に終わる。音楽から離れたとき、康臣は内向的で得体の知れない男に変わる。  この合宿で、康臣と生活することによって、何かもう少し人間臭い密接なつながりが生まれるかもしれないという淡い期待を瑞穂は抱いていた。  かすかな音をさせて、水色の大きな蛾がまた一羽、網戸にぶつかり、そのまま貼りついた。  康臣は、ふと弾くのをやめ、片手の弓をだらりと垂らし、網戸に貼りついた蛾の群れに目をやった。 「きれいだね」  康臣は独り言のように言った。 「きれい?」  都会育ちの瑞穂にとって、おびただしい数の蛾の群れというのは薄気味悪いだけだった。  そのとき、水色の大きな蛾が部屋に入ってきた。羽を動かしているうちに、何かの拍子に網戸の隙間を通り抜けたものだろう。一直線に天井の灯りに飛んできて、小さな堅い音を立てて、電球にぶつかった。鱗粉《りんぷん》が銀色に輝いて舞い下りた。 「大水青。ヤママユガ科。ただしこの辺りにいるのはアリエナという亜種に属し……」  蛾はふらりと電灯から離れたが、再び突進してぶつかり、瑞穂の頭上を羽をばたつかせながら忙しなく飛び回る。  その無意味な生物学用語の羅列に瑞穂は苛立った。  ふわふわと降ってくる鱗粉から顔を背け、瑞穂はあとずさりした。とたんに康臣の堅く骨張った胸にぶつかった。  うろたえ、瑞穂は飛びのこうとした。汗ばんだ腕が体に回されたのは、そのときだった。瞬時に膝から大腿《だいたい》にかけてびっしりと鳥肌立った。歓喜か恐怖か、自分でもわからない。  康臣はようやく沈黙した。瑞穂の肩を掴み、自分の方に向かせた。いくぶん面長な整った顔に、黒く冷え冷えとした空洞のような目があった。  瑞穂は無言でその腕を振りほどこうとしていた。康臣は離さなかった。  愛情など微塵も感じられない視線と、自分の体をしっかり抱きしめた腕の熱さの間に、果てしない落差を感じ、瑞穂は震えていた。  しかし康臣の汗ばんだなめらかな頬が、額に押しあてられた瞬間、その震えは止まった。骨張った康臣の体の暖かさとその皮膚の感触が、泣きたいような切ない気分にさせた。  蛾のはばたきが視野から消えて、さらりと乾いた冷たい唇の感触があった。生温かい吐息が混ざり合い、前歯がぶつかってかちりと音を立てる。ひどく切羽詰まった様子で、康臣は舌を絡ませてきた。  閉じた瞼の裏に蛍光灯の残像が白く輝き、一瞬後に歪んだ円に変わった。何か見覚えのある形をしていた。康臣が何度となく紙に書いて示したアーベルの楕円だった。  小さな嫌悪感と、悲しいほどのいとおしさが一緒になって、噴き上げてくる。  そのとき階下で、チェンバロの短調の三連符が、鼓膜を破るような大きな音で鳴った。  ぎくりとして身を離そうとするのを康臣は抱きとめ、瑞穂のTシャツの裾を掴み、何かに急かされるようにジーンズから引き抜いた。弓を操るしなやかでたくましい節高な指が、自分のシャツに差し込まれるのを瑞穂はぼんやりと見ていた。  チェンバロの三連符はいったん止まり、元に戻って、再び無機質なフォルテシモで奏でられる。  康臣の手が、背中を忙しなく行き来し、それから弾けるような音を立てて、ブラジャーのホックが外れた。  一瞬、胸元に風が通い、すぐに熱い手のひらで包まれた。  予感、熱い心情を打ち明ける言葉、熱っぽい眼差し……。  瑞穂の考えていた「行為」はそうしたものの結果で、彼女が求めていたものは恋の情緒だった。しかし実際には予感も言葉も、眼差しさえない。  いくつもの論理、いくつもの音楽用語、いくつもの数学用語、そうした空虚な言葉の洪水の果てにあったのは、あまりにも直截的な行為だった。  康臣の片手が、ジーンズに触れボタンを外しかけたとき、瑞穂は無意識にその指先を捕らえ押しやった。  康臣は一言も発しないまま、瑞穂の小柄な体を抱くようにして、壁ぎわの長椅子に押しつけ、汗で皮膚に貼りついたジーンズに手をかけた。  ソファのスプリングが音を立てた。  とたんに階下の三連符が止まった。心臓が跳ねるような気がして、瑞穂は両手で康臣の体を押しやり、体を離す。  康臣は、目を上げて瑞穂の方を見た。  背筋が凍った。淡い色をした瞳に見えたのは、愛する女を見つめる潤いを帯びた輝きでも、いつか彼がバッハの譜面を見ていたときの憧れに満ちた悲痛な色合いでもない。  硬質な醒めた光、貫くような鋭角的な視線だけだった。 「いや」  かぶりを振って、捲れ上がった自分のシャツを素早く下ろす。  階下のチェンバロは次のフレーズに移り、途絶えがちの探るような動きに変わった。  康臣は何か言った。言葉は聞き取れなかった。瑞穂の手首を掴んで引き寄せ、片手で再びシャツをまくり上げると、瑞穂の薄い胸に顔を押しつけてきた。  康臣は何か小さな声でつぶやいていた。 「何? なんて言ったの?」  瑞穂は逃れるように体をねじり、尋ねた。湿った吐息とともに、くぐもった声が聞こえた。 「ごめん」 「え……」  いったい何を謝ったものか、わからない。哀しそうな声だった。かすかに涙ぐんでいるような、潤いを帯びた声だった。  瑞穂は言葉を失った。  堅い殻に覆われた康臣の生の感情が、小さな流れとなって染み出してきたような、怯えを含んだ心細げな声だった。切ない思いが込み上げ、瑞穂は康臣の肩に汗ばんだ額を押しつけ、両手をその背に回した。  出会ってから二ヵ月、互いの間を隔てていた観念的で抽象的な遮蔽物《しやへいぶつ》が払われたような気がした。  自分の手のひらに捕らえているのは紛れもない生身の康臣だった。  今し方の氷のかけらのような瞳の色も、康臣の精一杯の虚勢であるような感じがした。いや、彼は自分の感情を表現することを知らないのかもしれない。  瑞穂は自分の胸の上にある康臣の頭を抱きしめた。まっすぐな堅い髪が、顎をちくちくと刺した。淡いミントと青草の入り混じったような香りが、頭の地肌から康臣の体温とともに立ち上ってくる。  体の奥底に、何か熱い流れが起きた。いつか合宿所で初めて康臣のバッハを聴いたあのときの感覚、あのときよりも激しく、苦しく、生々しい、制御しがたい感覚が、全身を貫いた。  康臣はすばやく瑞穂のジーンズのジッパーを下ろした。乾いた即物的な動作だった。  階下のチェンバロが急に止まった。ぎくりとして、互いに顔を見合わせる。 「大丈夫だよ」  康臣はささやいた。 「練習中は、他のことは一切考えないやつだから」  その言葉に応えるように、再びチェンバロが鳴り出した。  蛾が電灯の笠にぶつかる音がして、仰向いた顔の真上を掠《かす》めて飛んだ。瑞穂は顔を背ける。康臣がかばうように、両手でその顔を覆い、体を重ねてきた。  下腹部の重苦しい異物感とともに、長椅子が寒々しい音を立てて軋んだ。  軋みに合わせて、同じフレーズを繰り返すチェンバロの砕くような金属音が、突き上げるように鼓膜を叩いていた。  目覚めたときは、陽が高く上っていた。羽の端がぼろぼろに擦り切れた蛾が、畳の上に落ちていた。まだ命はあるらしく、ときおり大きな羽を頼りなげに動かしている。  瑞穂は無意識に太陽から目を背けた。ほんの少し気まずい思いで、東京の家の両親のことを思い出した。  前夜、下のチェンバロの音が途絶えるのと同時に瑞穂を残し、康臣は一人で階下へ下りていった。男二人は下の和室で寝起きし、二階は瑞穂が使うことになっていたからだ。消灯以後は階段を上ってこない、というのが、この合宿を始めるに当たっての取り決めだった。  康臣のヴァイオリンと二声を受け持つ正寛のチェンバロ、チェンバロの左手部分とほぼ重なる瑞穂のチェロで構成される三声のフーガ、各楽器を担当する演奏者の三位一体とは、こうしたルールの上に成立するはずだったが、早くも初日にそのルール以前のものが破られていた。  狭い和室の隅々まで鮮明に照らし出す朝日の中で、目を閉じれば昨夜の康臣の動作の一つ一つを鮮やかに思い返せることに、瑞穂は羞恥と少しばかりの自己嫌悪を覚えた。  階下からは何の物音もしなかった。その代わり、ポーンポーンという軽やかな音が外から聞こえてきた。  窓の網戸を開け身を乗り出すと、空き地の向こうにあるテニスコートで球を打ち合う男二人の姿が見える。  的確なフットワークで位置につき、安定した振りで球を捕らえる正寛の大柄な体が正面にある。そしてラケットを持って左右に体を揺らせている康臣の後ろ姿を目にしたとたん、もはや他人ではないという息苦しくなるほど熱い思いが胸に込み上げた。  康臣は、明らかに球技には慣れていない様子だった。しかしその黄色のボールを追う敏捷な身のこなしは、中型の猫科の動物を思わせた。鋭い振りとともに、予想外の方向に飛んでいく球に、正寛は振り回されている。何か得意なような、うれしいような気分で、瑞穂は窓枠に肘をついたままその様を見つめていた。  着替えて階下に下りていくと、ちょうど彼らも、ラケットを手に戻ってきたところだった。  正寛の肩ごしに、瑞穂は康臣に笑いかけた。二人にしかわからぬ、親密な感情の流れがあると信じて疑わなかった。しかし康臣は、頬を強ばらせて視線を逸らした。瑞穂は驚き戸惑った。 「まったく冗談じゃないぜ」  いくぶん本気が混じった調子で、正寛は汗を拭きながら、康臣の肩を突いた。 「信じられる? 瑞穂ちゃん。インターハイ一歩手前まで行ったこの僕が、素人のこいつに勝てないんだよ」 「どうして?」  正寛は、遠慮するでもなく、瑞穂の前で汗で濡れたTシャツを脱いだ。眩しいほどに均整のとれた上半身が露《あらわ》になった。 「ちょっと……」 「ごめん、ごめん、男だらけの学校にいると、これだからいけない」  正寛は、シャツを僧帽筋の浮き出た肩に無造作にひっかけ、洗面所に行く。流しの前で、体を拭きながら、大声で言葉を続ける。 「勘が鋭いっていうか、人が狙ったところに必ず香西が行くんだよ。その上、変なドライブのかかった球を打ち返してくるんだから、たまらないよ」  康臣は苦笑して立っている。ちょっとシャツに手をかけたが、さすがに正寛のように瑞穂の前で裸になるようなことはせず、風呂場の脱衣室の方に行く。 「これ……」  瑞穂はタオルを差し出した。康臣の顔から笑いが消えた。 「自分の、使うからいい」  堅い口調でそれだけ言うと、足早に遠ざかった。不自然なよそよそしさだった。  正寛の手前があるからなのか、それとも照れなのか、もしや昨夜、何か康臣を失望させるようなことを自分がしたのか。  朝食は、瑞穂が作った。目玉焼きとトーストとサラダという、ごく当たり前の食事をしながら、康臣はこれからは三人がローテーションで食事を作ろうと提案した。 「僕は、料理なんか作れないよ。自慢じゃないが、僕にできるのはパンを焼くことだけだ」  正寛がそう異議を唱えた。続いて瑞穂も、食事は私が作る、と言った。以前なら康臣の提案に真っ先に賛成するはずの自分が、一人の男の気を引くためにこんなことを言っているのが我ながら情けなかったが、そんな建前よりも、康臣に自分の日常的な意味での女らしさを認めてもらいたいという思いの方が勝っていた。  康臣は、一つ屋根の下で寝起きするのは作品を完成させるためで、生活それ自体が目的ではない、と主張する。何をこだわってるんだ、と正寛は肩をすくめる。  最後に康臣は、「とにかく嫌なものは嫌なんだ」という言葉でしめくくり、正寛は「三日にいっぺんは、パンとインスタントコーヒーだけの日があるぞ」と吐き捨てるように言って、その問題は決着した。正寛はそれから瑞穂の方を向き直り、「男の作ったものなんかより、瑞穂ちゃんの手料理がいいよな」と白い歯を見せて笑った。  こんなことを言う男を瑞穂は嫌いだった。当然のことながら、正寛の言葉は不快だった。しかし同じ言葉をなぜ、康臣には言ってほしいと願うのか、つきつめて考えるのは憂鬱なことだった。  一日の大部分の時間を楽器を弾いて過ごしたということからすれば、あれは確実に音楽のための合宿だった。  一人でチェンバロに向かっていた正寛は、宣言した通り、二日後には弦楽器に合わせられるほどに上達した。もちろんタイプライターのようないささか無機質なタッチだったが、合わせにくいバッハの音楽のよこたてを少しのずれもなく処理してしまう手際よさには、音楽科の瑞穂も舌を巻いた。  わずか二日間でどうやってマスターしたのか、と瑞穂が尋ねると、正寛はくしゃくしゃになった楽譜のコピーを見せた。一ページに数箇所、ラインマーカーでぬりつぶした部分がある。 「間違えるところは、チェックを入れて、何度でも繰り返す。間違えなくなるまでやるんだ。大事なことは、やると決めたら、何があっても、何が起きても、やる。やってる間は集中すること。テニスも麻雀も、勝つためにはそれしかない」  合奏は、そうして正寛が自分のパートをマスターしたときから始まった。  練習中の康臣の正寛に対する態度は一変した。ひどく苛立ち、二小節ごとに何か注文をつける。  そこは数えてはいけない、呼吸を微妙にずらせ、エッジを立てる感覚が欲しいんだ。  正寛は、驚くほど従順に指示に従ったし、従おうとしていた。しかし結果はまったく変わらない。康臣の直観的な指示が、地道に論理を積み上げていく正寛のような人間に伝わろうはずはない。  正寛に対し、曲のよこたてをきっちり合わせることの他に、さらに微妙なニュアンスを要求すること自体が間違いなのだ。しかし康臣にはそれがわからなかった。  激しい口調で、いささか一方的に康臣はまくしたて、正寛は次第に押し黙っていく。しかしいったん楽器の前を離れると、二人の男は、驚くほどに屈託がなかった。今思えば、正寛の性格によるところが大きかったのだろうが。  練習の合間に、日用品や食料の買い出しのために一日一回は松本の町に出た。山の家から五分ほど山道を下りたところに、バス停があって、そこから松電バスに乗って松本に出る。  町に出た瑞穂が真っ先にすることは、駅ビルの水洗トイレで用を足すことだった。男達と暮らしてみると、山の家の、居間のすぐ隣にある手洗いに長居することに堪え難い羞恥を覚えたのだ。移動教室の下見で、男の教員に見張りをさせながら、藪の中で平然と用を足している今の自分の感覚からは想像もできない。  買い出しの帰りは、荷物が多くなるので、康臣か正寛のいずれかが一緒だった。  あの夜以降、康臣の思いがけないよそよそしさに出会った瑞穂は、康臣と二人きりになれるこの時間に期待した。正寛がいないのだから、だれに遠慮することもなく、笑い合い、肩を寄せ合って過ごせるかもしれない、と思った。  しかし康臣と家を出たとき、二人の間にあったのは重苦しい沈黙だった。あるいは重苦しいと感じていたのは、瑞穂の方だけだったかもしれない。  天気のことや友人のことなどを瑞穂が話し始めても、「そう」と空虚なあいづちを打つだけで、康臣はどこか遠くを見ていた。唯一、康臣が口を開くのは、音楽の話だけだった。あれほど情熱を込めて語り続けた数学の話題さえなくなった。  ときおり不自然なくらいのさり気なさで、康臣は対位法とはいかなるものか、通奏低音の数字の読み方について、従来の方法には間違いがある、などといったことをぽつりぽつりと口にした。しかし買物の間は沈黙し続けていたし、帰りのバスの中では、駅ビルの本屋で買った何やらわからない横文字と数式の並んだ本を読み耽っていた。  一心に文字を追う康臣の整った横顔を、右に左に揺れるバスの座席にかけたまま、瑞穂は唇を噛んで見つめていた。  いったいどういうつもりなの。あなたは、私を抱いたのよ。嫌いならなぜ、あんなことをしたの? 私とあなたの関係は、もう普通の友達ではないはずなのに……。  もしクラスメートの口から出たなら、大いに軽蔑したであろう問いを瑞穂は心の内で果てもなく繰り返していた。康臣が、遊びで女とつきあうような男とは思えないからこそ、答えは見つからず、康臣の心の内を手がかりもないまま探るしかなかった。  そして互いの楽器の旋律の絡み合うそのときだけ、康臣は、深い憂鬱と内面の激しさを湛《たた》えた音で、身震いするほど官能的に瑞穂に忍び寄り、瑞穂はそれを全身で受け止める。そのとき、直前まで心を悩ませていたすべての事柄が、瑣末《さまつ》で取るに足りないものに思えてくるのだった。  しかし共に弾く時間以外に、圧倒的に長い生活時間を一緒に過ごさなければならないのが、合宿の不都合さでもあった。  邪魔者に見えた正寛が、こうなってみると瑞穂にとって救いになった。彼がいるかぎり、康臣は普通の男であり、正寛のいささか芸の無い駄洒落の類に白い歯を見せて笑う。  三声のフーガで、正寛が受け持ったチェンバロパートは、まさにこの三人の関係を象徴していた。  康臣のヴァイオリンとモザイクのように組み合わさる正寛の右手、そして瑞穂のチェロと同じ動きをする左手。激しい緊張感を持ってぶつかり合い、絡み合う高低音二台の弦楽器の間を、正寛は拙いなりにつなぎ合わせていたのだ。  康臣の心を探るのに疲れ始めた頃から、瑞穂は正寛と松本に行くのが楽しみになった。  あれは合宿が始まって十日ほど経った頃だろうか。  正寛と町に下りたおり、瑞穂は松電ストアで白い木綿のワンピースを買った。シャツカラーのごく清楚なもので、小柄な瑞穂が着るとよく似合った。  着たきりすずめのポロシャツとジーンズからそれに着替えて、試着室のカーテンを開けると、ちょうど正寛がいた。 「いいな、すごく似合うよ」と彼は開口一番言った。 「そのまま着て帰れ。値札だけ取って」 「ええ?」  少し照れたが、その言葉に従った。来るときに着ていた服を袋に入れてもらって、その売場を離れたが、まっすぐは帰らなかった。書籍売場で時間をつぶし、それから最上階のゲームセンターへ行った。  ゲーム機の前にぴたりと身を寄せ合って座り、ピンボールをした。  正寛は玉が入るたびに歓声を上げ、瑞穂が入れたときは、肩を叩きながら、「すごいよ、君、才能あるよ」と言って笑い転げた。  百円玉を五、六個使ってから、正寛は瑞穂の手を取ってその場を離れた。エレベーターの方には行かず、手をつないだまま、非常階段を上って屋上に出た。  あのとき正寛が、瑞穂と康臣との間にあったことに気づいていなかったのか、それとも知っていてそ知らぬふりをしていたのかはわからない。  しかし正寛ととりとめのない話をしていると、心がほぐれてきた。その軽やかな語り口と、すでに大人になりかけている男の一歩引いた落ち着いた雰囲気が、迷い続ける心を包み込んでくれるようで心地良かった。  屋上の焼けたコンクリートの上に人影はまばらだった。自動販売機でアイスコーヒーを買って、給水塔脇の手摺りの傍らに立つと、屏風のような山々に囲まれた松本の町が見渡せる。風はそよりとも吹かず、盆地の淀んだような熱気が、体を包んだ。  つないだ手のひらが熱かった。紙コップをベンチに置いて、正寛はその手をたぐり寄せ、汗の浮かんだ瑞穂の額に軽くキスした。さほど驚きもせず正寛を見上げた瑞穂の視野の端に映じたのは、白く燃える太陽だったが、眩しさに目を細める暇もなく、その強烈な陽射しは正寛の長身の体に遮られた。唇が重ねられた。瑞穂は空いた片手を、正寛の背に回した。焼けつくような恋の思いはなく、代わりに大きなものに守られている心地良さばかりがあった。閉じた唇を割って正寛の柔らかな舌先が入ってきて前歯に触れた。甘いコーヒーの味がした。その甘さと温かさに、泣きたいほどに率直な好意を感じた。  まもなく正寛は瑞穂を離すと、まっすぐに瑞穂を見つめ、白く揃った前歯を見せて微笑んだ。瑞穂は笑みを返した。  手にしたカップに残っていたコーヒーを飲み干すと、正寛は眼下の町の一角を指差した。 「あれ、僕達の高校。グラウンド、広いだろう」  瑞穂は手摺りに手をかけて、その方向を見たが、眩しい陽射しの下に家並みが見えるきり、それがどこにあるのかわからなかった。 「今思うと、けっこう楽しかったよ。県立高校にしては運動施設が整ってたし、女子が少なかったことを除いては、不満はなかったな」 「女子なんていたの?」  受験校と聞いて、瑞穂はてっきり、そこが男子校だと誤解していたのだ。 「一応、文科系クラスには、二、三人ね。康臣が熱を上げた女の子もいたし」 「いったいどんな人?」 「君と似ていた」  こともなげに、正寛は答えた。 「私と?」 「君の背を十センチ高くしたような感じ。ナスターシャって、野郎共は呼んでいたんだ。すらっとしていて、抜けるように色が白くて、目が大きくて、なんていうのか吸い込まれそうなんだ。小さな声でささやくんだけど、それがけっこうきついこと言ってたりして、それがまたいいんだよ。うちの高校にくる女の子だから、頭はいいよ。頭のいい女はブスだっていうのは、うそだよね。もちろんブスは多いんだけど、特別に頭のいい女っていうのは、特別の美人なんだ。不思議なことだけど。特別っていうのは、いくつも重なるものらしい。康臣が、音楽と数学の両方にすさまじい才能を見せるのと同じように」 「きっと社会に出て活躍するんでしょうね。それで三十間近になって、突然、素敵な人と結婚して、海外に行ってしまう」  康臣の心は、今もその人のことで一杯なのかもしれない、と思った。自分の面影の中にそのナスターシャを求め、結局別物であることを確認し失望して離れていったのではないか、という気がした。 「案外、不幸になりそうな気がするな、そういう女って」  ぽつりと正寛は言った。 「不幸?」  どういう根拠でそんなことを言うのかは、わからない。才色兼備の女を引き合いに出して、康臣のことを言いたかったのかもしれない。 「で、その人と香西君で、どうなったの?」  尋ねると正寛は笑った。 「争ったよ。僕も入って」  その口調から、三角関係の生臭さは感じられなかった。 「というよりは、クラスの男のほとんどが争ったね。みんなそれぞれ自信家だったから。電話に手紙に、本を貸したり、テニスに誘ったり、必死の攻勢をかけるわけだ。康臣は何もできずに悶々としてた。それで高校三年の秋だったけど、あいつを山に連れて行ったんだ。槍から穂高へ縦走した。それで康臣が最後までついてきたら、彼女を譲って全面協力するって約束したわけだ」 「まるで決闘じゃない。肝心の彼女の気持ちは、どうだったの?」 「彼女は何も知らないさ。でも知ったら気持ち良かっただろうな。二人の男が命がけで自分のために争うなんて」 「そんなことないわ」  瑞穂は首を振った。 「負けようが、弱かろうが、好きな人は好きなんだもの」 「へえ? そんなものかな」と正寛は小さく首を傾げた。こんな当たり前のことが、彼らにはなぜわからないのだろうと、首を傾げたくなったのは瑞穂の方だった。 「叔父がね、奥穂高で山小屋をやっているんだ。僕とあまり違わない歳なのに、学生時代、うっかり子供作ってしまって、人生を棒に振った。司法試験を目指していたのに、それで所帯持って、結局一生小屋番だ。でもそれなりの迫力のある人物で、僕は好きなんだけどね。それで朝早く、康臣と上高地を出て梓川《あずさがわ》沿いに登ったんだけど、あいつは二時間くらいで息が上がってしまった。昼過ぎに槍沢の急登にかかったときには、顔は真っ青で食べたものはみんな吐いちまうし。典型的な短距離ランナーなんだ。これはヤバいと思いながら、引き返すところを探していた。ところが森林限界を越えて、尾根に出たあたりから康臣の目付きが変わってきた。ガレた岩道を平然とした顔で、登っていくんだ。槍の穂先に登るのなんか、僕より速かったんじゃないかな。その日は槍ヶ岳山荘で泊まって、翌日は予定通り北穂高に向かった。ひどくガスってて、しかも秋だったから、尾根道からは何も見えない。苦しい思いをして、登ってきたと思ったら、上は岩だけ。命がけで、大キレットを二百メートル下って、次のピークに直登。そこをあいつは、物凄い速さで歩くんだ。本格的な登山は初めてのあいつが。何かに憑かれてるみたいだった。ナイフエッジの尾根も、浮石だらけのガレ場も、飛ぶように歩いていく。A沢のコルから北穂高への三百メートルの急登もぜんぜんペースを落とさない。北穂高の小屋で一泊するつもりだったのが、こっちも意地であいつのペースについていって、そのまま通過してしまった。突っ走るようにして奥穂高に向かって、暗くなってから翌日泊まるはずだった、涸沢《からさわ》岳にある叔父の山小屋に着いたんだ。戸を開けたとたん、叔父にぶん殴られたね。おまえ、山をナメているのかって。小屋の土間で二発食らったら、そのまま立ち上がれなかったよ。なにせ、あのときの僕達の格好といったら、足だけはキャラバンを履いていたけど、上はワイシャツ、下はジャージ、ろくな食べ物も雨具も持ってなかった。それで二日間のコースを休みなしで一日で歩くって、むちゃくちゃの行程だったし」  正寛は愉快そうに笑って、顔を北の空に向け、夏空にうっすら見える山の稜線を眩し気に眺めた。 「それで、香西君が歩き通したんで譲ったの」 「ああ、くっつけたさ。約束だ」 「それじゃ、今でも……」  康臣の態度のひとつひとつを思い起こしながら、尋ねた。 「高校生の恋愛だからね。彼女は上智に推薦入学して、康臣は浪人生。それっきり。もしかすると卒業前にだめになってたのかもしれない」 「受験で、引き裂かれた?」  山を見つめていた正寛の顔に、倦んだような無感動な影がさした。 「そういうのの終わりって、理由なんかないんだよ」 「だって、香西君はそこまでして、小田嶋さんと争ったわけでしょ」  正寛は、笑って首を振った。 「そこまで彼女のことを好きなのか、と僕は感動した。そしたらあいつは尾根に出てからは、彼女のことなんか考えてなかったっていうんだ。じゃあ、何を考えてたんだ、と聞いたら、何も考えてなかったと。可愛げないよな。ただあの景色が好きなんだそうだ。あの赤茶けた岩の尖っているあの景色が。よくわからないけど」 「それじゃ、その彼女はどういう……」 「妄想なんだよ、瑞穂ちゃん、男の恋なんてものは」  正寛は言った。 「思いが受け入れられた瞬間が最高でね、つきあって半年も経つと埋めきれないくらいギャップができている。恋愛だか何だか知らないけど、愛情なんてものを本当に抱けるようになるのは、いいかげん女に失望してからの話じゃないかな」  大人びた口調で正寛は言った。瑞穂には理解できなかった。性的関係を持つこと、寝食を共にすることが、恋するものにとっては、喜びから倦怠を経て諦念に向かうプロセスに過ぎないことだと気づくには、瑞穂は幼すぎた。  山の家に戻った正寛は、康臣におかまいなく瑞穂の隣に来て、その肩に触れ親しげに話しかけた。あの炎天下のキスで、恋人同士であることを確認し、それを康臣にも宣言しようとしているように見えた。康臣の反応は、何もなかった。ポーズなのかそれとも本当に関心がないのか、わからなかった。そのとき少しでも不快な顔をしてくれれば、正寛とは、それ以上の関わりを持たなかったかもしれない。  瑞穂達三人が、松本駅から信濃大町行きの電車に乗ったのは二日後の早朝のことだ。その前日、康臣はあまり笑えないようなへたな冗談を言うかと思えば、いきなり黙りこくってみたり、はたからみても何か落ち着かない様子を見せていたが、夜遅くなってから、正寛が、明日、彼ら二人で糸魚川《いといがわ》の方に行くと告げたのだった。  とっさに連れて行ってくれ、とせがんだのは、康臣の同窓生へのあまりに心許した様子に、焦りとも羨望ともつかないものを感じたからだった。  正寛と康臣は困ったような様子で顔を見合わせ、それから「ま、いいや」と正寛は苦笑した。  二両編成の電車に一時間あまり乗ったところで、彼らは席を立った。糸魚川は、まだずっと先だ。 「どうしてここで降りるの?」 「あそこまで行ったって何もないからね」と正寛は言い、手動式のドアを開けてホームに降りた。無人駅を出ると、目の前は小さな湖だった。光はじける湖面に水草が繁り、こうほねの花の黄色が陽光に照り映え、一際艶やかだった。  釣り人が糸を垂れる湖畔の道を三人は歩いた。 「いい所ね」  緑したたる山々と、優しげな表情をした湖の織り成す光景に瑞穂は目を細める。 「ここがかい?」と正寛は康臣と顔を見合わせた。 「小さい頃から見慣れてるせいか、ただの田舎に見えちゃってね」と笑う。  湖の端まで来ると、その先は小さな流れになっていた。さらにたどっていくと、先程の湖とはまったく違う色合の湖面が見えた。水深がかなりあるのだろうか。黒みを帯びたように深い青。山肌を映した湖は小波立つこともなく、はりつめたような静けさの中に沈んでいた。 「青木湖だよ」と、康臣はつぶやくように言った。 「なんだか、恐いわ……」  瑞穂は言った。空気が急に冷たくなったように感じられた。  正寛が先頭になって、湖の奥に向かう。湖畔の道路は上りにかかり、二十分近く行ったところに、湖岸に長く張り出した岬があった。  突端に続く小道に踏み込むと、桜や杉が繁っていて木陰を渡る風が心地良い。 「ここ、青山がコケて落ちそうになった場所だろ」  正寛が言う。 「うん、たしか」と康臣が答えた。 「高校の同級生なんだよ。気の合う連中、五、六人でね、授業フケて来たことがあったんだよ」  正寛が、瑞穂に説明し、ふと首を傾げた。 「それにしても、十二月のあんな寒いときに、なんで俺達、ここに来たのかな」 「あれが……行こうって言い出して」  口ごもりながら康臣が言った。あれ、という言葉に、とっさに瑞穂は「ナスターシャ」という名を当てはめた。 「彼女か? 都会育ちだったからな」と正寛が答えた。  やはり瑞穂の想像した通りだ。  キャンプ場の辺りまで行って引き返し、駅の近くの小さな湖まで戻ってくると、もう昼時だった。駅前の食堂に入って、カレーを食べた。夏休みだというのに、客は瑞穂達だけだ。  食べ終わると同時に正寛は、「じゃあ、これから僕達はちょっと、糸魚川まで行って用足ししてくるから、君は先に帰っててくれ」と帰りの切符を差し出した。「簗場→松本」と書かれた切符を見つめ、瑞穂は沈黙した。正寛の言葉には有無を言わせぬ調子があった。 「それじゃ」と男二人は椅子を鳴らして立ち上がり、駅の改札に向かって大股で歩いていく。 「いったい、何の用なの?」と瑞穂が康臣に尋ねると、「知り合いに呼ばれてさ」と代わりに正寛が答えた。  数分後にホームに滑り込んできた松本行きの快速に瑞穂を押し込むように乗せると、彼らは手を振って反対側のホームに行ってしまった。自分がなぜ排除されたのかわからないまま、瑞穂は彼らの姿を目で追った。いったい、自分は彼らにとって何なのかわからない。ナスターシャの話にしても、当人の意志とは無関係のところで、思いを寄せる女を譲ったり譲られたりする彼らの関係は何なんだろう。  松本に引き返してきたものの、そのまま山の家に一人で戻る気にもなれず、駅ビルでレコードを探したり、コーヒーを飲んだりしながら、夕方近くになって帰った。  彼らが山の家に戻ってきたのは、夜の十時も過ぎてからだ。引き戸を開ける音に慌てて玄関に下りてみると、まず正寛が、その後ろから康臣が青ざめた額に汗の粒をびっしょり浮かべて現われた。 「何があったの?」  とっさに尋ねた。 「別に。なんでもない」  正寛が短く答えた。  その脇を擦り抜けるように中に入った康臣の体から、すれ違いざまにすえたようなにおいがした。シャツの前が吐瀉物で汚れていた。 「どうしたの?」 「ま、いい」と、正寛は洗面所に入って手を洗う。とりつくしまもない。洗面所から出てきた正寛はキッチンに入ると、戸棚からホワイトホースを取り出しコップに無造作に注ぐと、水で割ることもなく喉に流し込んだ。  風呂場からは、康臣がバスタブの中の冷めた湯を何度もかぶっている音が聞こえてくる。まもなく彼は瑞穂の背後を音もなく通り過ぎ、裏口からふらりと出ていった。  とっさに瑞穂は後を追った。いつもと違う雰囲気だった。いったい、何があったのか? 糸魚川で何か異常なことが起きたというのだけはわかった。  康臣は、家の裏手のダケカンバの林に入っていった。白いワイシャツの背が、闇に浮き上がっている。  下草を踏み分けて近づくと、康臣は獣のような俊敏な動作で振り返った。瑞穂の姿を認めると、その顔が今にも泣き出しそうに歪んだ。  言葉が喉の奥にひっかかったまま、消えた。  康臣は瑞穂の肩を両手で掴むと、砕けるほどの力で抱きしめた。木に押しつけられ、襟元を乱暴に開けられた。買ったばかりの白いワンピースのボタンが千切れて飛ぶ。  情熱であると信じたかった。何か異常な事があって、極度に興奮しているというのは察しがついたが、それでも単なる性欲でも衝動でもなく、情熱であると信じたかった。  犯されるようにして、夏草の上で何度も交わった。抱くとか、抱かれるとかいう表現が当てはまらない、即物的な排泄行為だというのが、瑞穂にもわかった。  互いの体が離れた瞬間、康臣は、憎しみにも近い無関心な視線を浴びせかけてきた。そして何も言わず、まっすぐに家に戻っていった。  瑞穂はしばらく、ダケカンバの幹に片手を置いたまま、立ち尽くしていた。腿や脇腹を藪蚊に刺され、白いワンピースは汚れ、ボタンが無くなり、裾に鉤裂《かぎざ》きができていた。頭上の絡み合った枝の間から、下弦の月が上るのが見えた。  何も考えられなかった。むしり取られたボタンの糸を無意識に指に巻き付けながら、ふらつく足で家に戻っていったのは、それから一時間もしてからだ。  ダイニングの隣の部屋の襖は閉ざされ、咳払い一つ聞こえてこなかった。瑞穂は二階に上がった。  後悔しようにも、何を悔いたらいいのかわからない。絶望と呼ぶには、胸の内にたぎる思いは生々しく醜悪な色合を帯びている。  死にたいと思った。悲しみでも絶望でもなく恨みでもなく、自分を含めて何もかもが吐き気を覚えるほどに、嫌だった。しかし衝動的に死ねる手段などなく、この期に及んでも自分の死に対して康臣がどんな態度をとるのかということが気になり、そんなことを想像する自分になおさら嫌悪感を覚えた。  瑞穂は汚れたワンピースを着替えることもせずに、チェロをケースから出し、すがりつくのはそれだけというように膝に挟んだ。C線に弓を当て、全体重を乗せるようにゆっくり弾く。  太い音が心を落ち着かせた。振動が膝と胸に伝わり、体の深部から生温かく不快な粘液が逆流し、内腿を汚していく。  かまわず弾き続けた。フォルテシモの重音が部屋を揺るがせるように鳴り、窓ガラスが振動する。  目を閉じバッハの無伴奏組曲五番のプレリュードの冒頭を弾く。  とたんに様々な思いが澱《おり》のように、沈んでいった。心の中を透明な風が通り抜けていく。いくつもの生命を身近に感じた。疑似ポリフォニー構造のこの曲の中に、いくつもの旋律が現われては消えてゆき、その一つ一つに生命が宿り、魂の深部に何かを語りかけてくるのを感じる。  山裾の深い森の中に迷い込んだ自分の目の前が不意に開け、遥か彼方に輝きに満ちた頂《いただき》が現われたような気がした。  弓と弦の接点から現われる、意外に貧しい自分の音を瑞穂は聴いていた。しかしその音が、深遠な美を湛えた遠い峰に連なっていく。すべてを失って悔いない至福のときが、その先にあるような気がする。自分の目指す方向は、その遥かな峰だと思った。瑞穂はフーガを模したアレグロ部分を弾き終えた。  弓を置いてみれば、網戸の向こうの闇、青白く眩しい蛍光灯の光、ボタンが飛び生地の裂けたワンピースという情景は数分前と変わらずそこにあった。しかし現実を現実として受け止める冷静さを、瑞穂は一時的にではあっても取り戻すことができた。  楽器についた松脂をいつになく丁寧に拭き取った後、階下の物音に耳をそばだてることもなく、瑞穂は夢も見ずに眠った。  翌日から、合宿は奇妙に緊張感に満ちたものになった。康臣だけでなく、正寛までが急に口数が少なくなり、ぴたりと康臣に寄り添うようになった。皮肉なことには、一番緊張しなければならないはずの合奏のときにだけ、そうした神経症的な緊張感から解き放たれ、三者三様に生き生きと伸びやかな表情になる。  その日の練習が終わった夕食時に、瑞穂はテレビのニュースをつけた。  経済事件の報道が終わり、ローカルニュースが始まろうとしたときだった。康臣がいきなりテレビを消した。憤然として、瑞穂はリモコンのスイッチでまたつける。そのとたん正寛が床を踏みならして近づいてきた。そして瑞穂の手からリモコンをひったくり、床に叩きつけたのだ。  何が起きたのかわからなかった。  正寛はすぐに背を向けて隣の部屋に行ってしまったので、その表情までは見えなかったし、瑞穂のささいな行為に、なぜ激高しなければならないのかもわからない。そして康臣もそっと立ち上がり、部屋に消えた。  テーブルの前に一人とり残された瑞穂の耳に、襖を隔てて男二人が何かぼそぼそと話している声が聞こえた。内容までは聞き取れないが、聞き耳を立てるのは抵抗があった。  男二人が、自分に対して、ぴたりと扉を閉ざした。何が悪かったのかはわからない。一昨日、一緒に連れていけとせがんだことか。それともこんな合宿を始めたこと自体が間違いだったのか。男同士の壁、そして松本という風土の壁が、よそ者である自分の前に、堅固に築かれていくのを感じた。  瑞穂は二階に上がり、自分の荷物をまとめた。泥で汚れ、ボタンのなくなった木綿のワンピースをしばらくの間、唇を噛んだまま見下ろしていたが、まもなくそれを丸めて袋に入れ、バッグに押し込んだ。  チェロのネック部分にタオルを巻き、ケースに収める。  もはやこれ以上、こんなことを続けるのは無理だと判断できたし、東京に帰るのはたやすかった。しかし帰り支度をしながらも、何かが自分を引き止めるのを感じた。  康臣への思いは、さらに痛みを増して胸にある。もはや恋とさえ呼べない。その一方で、ぎくしゃくした人間関係と反比例するように、康臣のヴァイオリンと瑞穂のチェロは一段と見事に絡み合うようになっていた。そのどちらが自分をここに留めようとしているのかわからない。  弓をケースに収めようとして、手を止めた。指先が松脂でねばついた。それをジーンズの腿にこすりつけ、瑞穂は一旦収めた楽器を再び出した。  弾くこと以外、何ができるのだろうと自問自答した。帰ることも留まることも、意味がないのではないか、と思った。  結局、その夜も瑞穂は山の家を出ていかなかった。  翌朝、だれもテレビをつけなかった。新聞受けに朝刊が入りっぱなしになっていた。康臣はともかくとして、何はさておいても朝刊にだけは一面から目を通す正寛が、まったく手を触れようともしないことは奇妙だった。午後になっても、それはそのまま新聞受けにあった。  楽譜をコピーしに駅前に出たいと瑞穂が言ったのは、その日の練習を終えた夕方近くのことだった。  帰りが遅くなるとここまで来るバスがなくなるから、と正寛は止めた。 「途中のバス停から歩いて上ってくるからいい」と、瑞穂は玄関に出て靴を履く。 「危ないんだよ、ここは東京じゃないんだ」  正寛の声を背後に聞きながら、戸を閉めバス停に向かって小走りに歩き出す。少し行くと正寛が走って追ってくるのが見えた。  何もかも瑞穂の計画のうちだった。 「言い出したらきかないんだから」と言いながら、正寛は追いついた。 「昨夜はごめん」  バスに乗ると真っ先に正寛は謝った。  なぜ、テレビくらいであんなに怒ったのか、瑞穂にはまだわからなかったし、正寛も説明しなかった。さしたる意味もなかったのかもしれない。  返事をする代わりに、正寛の手に触れた。五本の指がしっかりと絡んできた。瑞穂は目を閉じ、その手の快い暖かさを感じていた。二人の男の間に、ぴしりと亀裂の入る音が聞こえたような気がした。  松本の文房具屋で楽譜のコピーを終えた後も、二人はバス停には向かわなかった。正寛は瑞穂の手を引き、繁華街をまっすぐ東へ歩いていく。ナナカマドの並木を左に折れ、松本城の方向に向かう。天守閣が夕空に影のように浮いて見えたとき、再び左に折れた。土蔵や古い家並みが続く一帯を抜け、駅前に戻った。それから再び同じ道をたどる。正寛は押し黙ったまま、ときおり吐息を洩らした。正寛らしくない、重たく湿った吐息だった。  長い夏の一日が暮れようとしていた。今度は左に折れず、松本城まで行った。しかし敷地の中には入らず、繁華街の方に戻る。何度か一帯を回った後、正寛はぴたりと足を止めた。  目の前に、緑地に白で「旅荘・銀河」というネオンが見えた。  瑞穂の足は反射的にすくんだ。しかしその分厚いコンクリート塀の内側に正寛について入ること自体には、思いのほか抵抗感がなかった。  これが康臣に対する裏切りにも、当てつけにさえもならないことはわかっていた。無意味なことだった。しかし正寛といると心地良かった。彼が康臣と過剰な親密さで結びついているとき以外、正寛は瑞穂にとって心地良い男ではあった。その心地良さを愛情に読み違えてみる方が、何倍か幸福に生きていかれそうな気がした。  部屋に入った正寛は落ち着いていた。意外なことには、瑞穂の気持ちに関わりなく、正寛の行為には康臣に求めても決して得られなかった温かな、愛情めいた匂いがあった。  果てた後にも、正寛は長い間、瑞穂の体を抱いていた。瑞穂の汗ばみ乱れた前髪を、指先で撫で続けていた。 「好きだよ。女の子をこんなに好きになったのは初めてだ」  かすれた声でつぶやくように言った。それから枕元のスタンドを明るくすると、いつもどおりの明晰さで続けた。 「でも僕は今三年生なんだ。そろそろ真面目に例の試験のこと、考えなくてはならない。在学中に受かるように勉強一筋ってやつもいるけど、僕はそれがいやだった。今しかできないことをやってみたかったんだ。スポーツも音楽も、そして君を好きになったことも含めて。でもこの夏が終わったら、いよいよ始めなければならない。本腰入れて。もちろんすぐに受かるなら、このままずっと君とつきあっていたい。だけど確証はないんだよ。決意はあってもね。僕は官僚になる気はないし、サラリーマンや法律事務所の事務員や裁判所の書記官にはなおさらなる気はない。僕達の仲間には、四十過ぎてまだ独身のまま、試験を受け続けているやつもいる。そうはなりたくないが、可能性としてはあるんだ。待っててくれと言う気はない。互いに後戻りできなくなることはわかっているから」 「だから……」  枕元に肘をついて半身を起こし、自分でも驚くほど醒めた声で、瑞穂は尋ねた。 「もう会わないことにしよう。この合宿が終わったら。いや、この夏が終わったら。君も厳しいのを覚悟で演奏家への道を進むつもりだろう。互いに精一杯努力しよう。半端はだめだ。しかしこの夏は……」  正寛は、今まで見たこともないほど悲壮な顔をした。 「この夏だけは、僕の方だけを見て、僕のことだけを考えてくれ」そう言いながら、両手で瑞穂の体を息もできないくらいきつく抱いた。  身勝手で巧妙な論理と受け取れないことはなかった。しかしそこに悪意を見るには、正寛の表情は真剣過ぎたし、行為自体は熱く愛情に満ちていた。どこまでが欲望で、どこまでが愛情なのか、線を引けというのが無理な話だった。  フーガは、その四日後には一応の形を成した。町の音楽教室なら、生徒集めのデモンストレーションに十分使える水準だった。しかし当然のことながら康臣は、満足しなかった。  康臣のヴァイオリンは癖があったが、並の音大の学生でもとうていかなわぬほど霊感に満ちていて、底知れぬ響きを持っていた。そして瑞穂のチェロもまた教育学部音楽科の学生の水準はとうに超え、音大器楽科で十分通用するところまで来ていた。しかし正寛だけは、かろうじてよこたて合わせられるというレベルを脱していない。  康臣から厳しい調子で欠点を指摘されると、正寛は反発する代わりにやっきになって練習した。それは正寛の中にある、康臣の才能への無条件の敬意によるもののようにも、二人の間の何か特殊な信頼関係を示すもののようにも見えた。そして正寛の努力の成果は確実に実を結んだ。目をつぶっても間違えることはなく、弱くしろと言われたところは弱く、強くと要求されたところは、チェンバロという楽器の限界まで強く音を出すことができた。しかしそれは味覚のない人間に、計量器を使って調理させるのと似ていて、音楽的本質とはかけ離れたものだったのだ。正寛はこのとき、努力ではどうにもならぬことが人生にはある、という彼にしては稀有な経験をしたに違いない。最後の方では、とうとう康臣は、彼に対して何も要求しなくなってしまった。  そしてその二日後に、このバッハの三声フーガ、正確には「三声のリチェルカーレ」は、他の簡単なソナタとともに、観客もいない山の家の居間で演奏され、合宿は終わった。  最後の音を弾いた後、脱力感から立ち上がることもできず、チェロを抱いたまま椅子にもたれていた瑞穂に、康臣は近づいてきた。  そして何か別の楽譜を見せた。それが康臣のものだったのか、瑞穂のものだったのか、覚えていない。もちろん何の曲だったのか、そしてそのとき康臣が何を言ったのかも覚えていない。  とにかく楽譜を見せて語りかけるときだけ、何かを間違えたように親密になる康臣の態度は不可解で、それに対して瑞穂は目を背けることによって、拒絶の意志を示した。  東京に戻ってきてから、瑞穂は二度とあの薄汚い練習室に足を運ばなかった。広いキャンパスでは、その気になれば他の学科の学生と顔を合わせないで過ごすことができたし、康臣のことも合宿のことも、一日も早く忘れ、当面は渡米に向けての個人練習に没頭するつもりだった。  自分の将来を考える上でも、人生を決定するにあたっても、あの夏合宿で起きたことは取るに足りないことで夏の椿事《ちんじ》に過ぎないというのは、少し冷静になればわかることだった。  しかし康臣の名は、その後も否応なく、瑞穂の耳に入ってきた。  合宿を終えた一ヵ月後、瑞穂がクラスの友達数人と生協の食堂でコーヒーを飲んでいたとき、そこの一隅に置かれているテレビに、康臣の顔が大写しになったのである。  息を呑んだ瑞穂の隣で、「あ、この人」と級友の一人が画面を指差した。 「M新聞の音楽コンクールの作曲部門で、グランプリだって。音大の研究生を抜いて」 「グランプリ……」  そう言ったきり、瑞穂はぽかんとして、画面を眺めていた。  コンクールの結果を伝えるニュースに続き、画面では、受賞者へのインタビューが始まった。  スタジオにいる康臣はキャンパスの中を歩き回っている姿そのままの、白い長袖ワイシャツにコットンのズボンという出で立ちだった。そして、そこにあるテレビカメラなどまるで目に入らない様子で無関心な視線をときおりレポーターに投げかけるだけで、犯罪者か何かのように背を丸め、ぼそぼそと必要最小限の受け答えをしていた。  レポーターは、康臣が十六歳のときに、コンピューターを使わず直観で新しい素数を発見し、今でも大学の理科系の研究室でアブストラクトを当たれば、その論文を探すことができると伝え、その天才児ぶりを披露して見せた。 「こいつ電算の授業で方程式を作らされたとき、永遠に処理の終わらない式を与えて遊んでたってよ」 「だって、最近、竹村先生の学会発表、けっこう脚光を浴びたけど、あれって理論の基本アイディアは、彼のものらしいよ。レポートから無断借用したんじゃないかってゼミの連中が騒いでた」  隣のテーブルの学生達の会話が耳に入ってくる。  瑞穂の脇で菓子パンをかじっていた楽理の作曲専攻の男が、鼻に横じわを寄せて画面の中の康臣の顔を睨みつけていたが、やがて小さな声で「ばかやろう」とつぶやき席を立った。  数学科の学生が、音楽コンクールで一位入選してしまったという話は、音楽科の学生達には少なからぬ衝撃を与えていた。驚愕やら羨望やらが入り交じり、様々な噂の飛びかう騒然とした音楽科内で、薄れかけた生々しい思いが再び燃え上がるのを恐れるように、瑞穂は友人達の会話に耳をふさぎ、黙々とチェロを弾いた。  本郷にある楽譜屋の真ん前で、偶然正寛に出会ったのはちょうどその頃だった。  夏の頃よりも痩せて、下瞼を膨らませた正寛は、くしゃくしゃの半袖シャツにトレーニングパンツという姿で、うつむいて歩いていた。  しかし瑞穂の姿を認めた瞬間、屈託のない笑顔で駆け寄ってきた。そして膨らんだスポーツバッグを叩いて見せた。 「中身は、もう着替えやラケットじゃないからな、重いんだよ」  六法だというのは、言われなくてもわかる。それから、彼は学内にある司法試験受験ゼミの選考に受かったということを伝えた。 「麻雀やテニスとは、縁を切ったよ」 「音楽と恋は?」  正寛の彫りの深い顔が、照れたような笑顔に崩れた。 「当分の間、おあずけだ」  それから瑞穂の肩をぽん、と叩いた。 「まあ、無理したり苦労したりする必要はないが、努力はしよう。お互いにな。この次は成果を抱えて、腹の底から笑えるようになってから会おう」  それだけ言うと、赤門の方に大股で去っていった。  これが夏合宿の清算であるはずだった。何もかもがこれで終わるはずだった。  しかし三位一体の奇妙な同棲の落としものが、瑞穂にだけ残された。  体内に小さな生命が宿っていたのである。  どちらの子供かわからなかった。たとえわかっていたとして、何ができただろう。  押しつぶされるような不安を抱え、十月の初めに瑞穂は病院に行った。チェロの個人レッスンの月謝の、向こう半年分を手にして。  腕に点滴の針を刺され、合宿のことも体内で息づいている命のことも、意識の表面から滑り落ちていった瞬間、瑞穂の胸の内にあった、音楽への切ないほどの憧れと情熱も消えた。      3  有助は、約束通り翌朝の五時過ぎにやってきた。 「眠れましたか?」  そう尋ねながら助手席のドアを開けた有助は、瑞穂の顔に視線を止め、不思議そうに眉を寄せた。 「何か?」 「いいえ、昨夜と感じが変わっていたので」 「まあ、どんなふうに?」 「いえ」 「小皺が目立つ?」  睡眠不足の翌朝、自分がどんな顔になるかくらいは知っている。 「とんでもない。何か女性的な感じになって……」  照れも手伝って、瑞穂は天井を向き、大口を開いて笑った。それからこんなときに不謹慎だと気づき、笑顔を引っ込める。 「昨夜、香西さんの夢を見たの」  瑞穂は言った。ミラーの中で有助が、口元だけで微笑みうなずく。 「二階に立ってらした。学生時代の面影そのままで。それで私の気持ちも、少し青春を取り戻したのかもしれないわ。社会に出て、お金稼いで、まっとうに生活するってことは、逆に言えば、薄汚れるってことなのよね。香西さんは、そうして薄汚れる必要がなかったんじゃないかな。ご実家がしっかりしていたから、一途に自分の理想を追い続けることができたのかもしれない」 「そんなものだと思いますか」  いくぶん冷ややかな口調で、有助は遮った。 「すごく純粋で、観念的な真っ白な死に方だったかもしれないわ」  死者とその家族に対するいたわりの気持ちもあったが、半分は本音だった。  有助は、車を脇に寄せて止めた。 「電車が来るまで、かなり時間がありますから、少しお話ししましょうか」と、エンジンを切る。それから両手をハンドルに置いたまま、瑞穂の方を向いた。 「生きていくっていうのは、そんなに楽なはずはないですよ。兄貴が考えていたほどね」  その声に怒りの調子が含まれているのに気づいて、瑞穂は有助の顔を凝視した。有助は続けた。 「そのくらい、わかってるはずじゃないですか。兄は耳の病気になったんです。耳といっても、かなり奥の方で、めまいと耳鳴りがあったらしいですね。ヴァイオリンの上の方のどこかの音がそれと重なると、頭が割れるように痛むそうです。死んだ方がましなくらい苦痛だ、と僕に話したことがありますが、それならヴァイオリンなど弾かなければいいだけの話でしょう、そう思いませんか」 「ええ……」  確かにそんなものだ。趣味の一つを奪われるなどということは、仕事や肉親を失うのに比べれば、悲劇でも何でもない。たとえそれが音楽であったとしても。 「理屈で、人間は死にませんよ」  有助は尖った調子で続けた。 「兄は、現実に負けたんですよ。単に生きていくのが、想像していたより辛かったからというだけの話です」  神経質な仕草で時計を見ながら、有助は尋ねた。 「笹生さんは、いや、失礼……」 「小牧です」 「小牧さんは兄貴とはいつまでつきあっていたんですか?」 「さあ……短かったわ」  瑞穂は目を閉じ、ため息をついた。 「二十歳前のことだから、よく覚えてないけど」 「じゃあ、大学を中退してからどうなったか、ご存じないですか」 「ええ、何も」  正寛も、故意に避けているのか、それとも話題にする理由もないと判断したからか、瑞穂に康臣の話はしなかった。 「そういえば、二年くらい前から、同人誌を送ってくれるようになっていたのよ。難しいことを書かれてたから、よくわからなかったけど。食べていくのにあくせくしてるうちに、私達はもう、香西さんみたいに物事をつきつめて考えることを忘れているわ」 「兄が物事をつきつめて考えていたとは、僕は思いません。現実から逃げていただけです」  こちらだってわかっているんだからそれ以上言うな、と言うように、瑞穂は首を横に振った。かまわず、有助は兄のその後を語った。  六年間在籍した大学を退学させられた後、康臣は松本に帰り就職したという。県下で第一と言われる精密機械メーカーに、である。 「親父が、突っ込んだんですよ。あちらこちらに頭を下げてね」  地元の実力者である父の息子への思いを、プライドの高い康臣はどのように受け止めたのか、瑞穂は知る由もない。  そして案の定、康臣は長続きしなかった。就職当初、営業に配属された康臣は、半年で総務に異動し、ほどなく社内の資材部に回され、そこでコンピューターによる在庫管理のシステムを組む仕事をしていた。  就職して二年目、康臣は二ヵ月ほどヨーロッパに行きたいと申し出し、休暇取得をめぐって人事部と揉めた。有助によれば、そのとき康臣は仏、独、伊の三ヵ国語は完全にマスターしていたが、何の目的で行こうとしているのか、だれに尋ねられても頑なに沈黙して答えなかったという。  大げんかというより、父に一方的に怒鳴られた後、彼はヨーロッパに旅立っていった。  二ヵ月のはずのヨーロッパ滞在は半年に延びた。そして旅行から戻ってきたとき、康臣は大手精密機械メーカーの社員としての身分を失い、父親の面目も丸つぶれになっていた。  会社は辞めたが、康臣は音楽雑誌に原稿を書くという仕事を得た。その仕事のかたわら、ウィーンで大量に買ってきた楽譜を眺めたり、楽器を弾いたりしながら、暮らしていたという。  しかし音楽雑誌の仕事も、コンスタントにあるというわけではない。稼げるのはせいぜい小遣い銭程度で、資料代の方がはるかに高くつくという状態だったが、その頃、彼の実家は、定職のない息子の二、三人は十分に養える財力があった。  彼が日本に帰ってきて十ヵ月後、父が、くも膜下出血で急死したときから状況が変わった。遺言状を公開するつもりで弁護士立ち会いのもとに金庫を開けたとき、出てきたのは莫大な遺産をどう分けるかといった文書ではなかった。億単位の借金の証文だったのだ。  残された兄弟と年老いた母親は、借金を引き継ぐか、それとも借金とともに相続権も放棄するかという選択を迫られたが、合算してみると借金を全額返しても、相続した方が有利ということがわかった。  そこで一応財産を相続し、父の会社と家屋敷の半分は人手に渡り、相続税とともに、彼らは今まで住んでいた家の家賃と地代を支払わなければならなくなった。乏しい遺産は、それ以後体を壊した母親が死ぬまでの五年でさらに圧縮され、反対に借金が膨らんだ。  三十の半ばを過ぎた康臣は、新たに職探しをせざるを得なくなった。  当初は翻訳の仕事をしたい、ということで、就職先を探したらしい。しかし大学中退、しかも実績のない男に、そう都合の良い仕事がみつかるはずはない。  結局就職したのは、中堅の運送会社で、そこで彼はコンピューターによる搬送管理の仕事をしていた。しかし一年後に、その部門は他のコンピューターソフト会社に委託され、彼は営業に移って関西に転勤になる。そこで何があったのかわからないが、二年経って松本に戻ってきたときには、その運送会社から下請け企業に出向させられ、そこで事務をやっていた。零細な下請け会社では、事務職とはいっても名ばかりで、運転の助手や荷物の上げ卸し作業なども行なう。  学生時代の康臣は、細いが鍛え上げられたしなやかな体をしていた。しかし運動で鍛えた体と、力仕事のできる体は違う。二ヵ月ほどで椎間板ヘルニアをわずらい、仕事を休みがちになった。  有助によれば、頻繁に東京に出るようになり、同人誌の作製にのめり込んでいったのは、この時期だと言う。  六年前に母親が亡くなってからは、康臣は借金を重ねながら、宅配便の運転手や日雇い作業員や雑役などをしていたが、いずれも長くは続かず、最後は映画のエキストラのような仕事でしのいでいた。 「体は、辛かったと思いますよ、たぶん。ヘルニアから来る腰痛とちょっとした怪我が原因の内臓癒着があって、それに内耳の障害のトリプルダメージでしたから」 「怪我、なさったんですか?」 「ええ、まあ」と有助は言葉を濁した後、「しかしだれでも持病の一つ二つ持って生活してますからね」と突き放したように言い、ちらりと時計を見た。エンジンをかけ、ゆっくりとアクセルを踏み込む。そして息を一つ吸い込んでから、続けた。 「あと数日で、家屋敷を空け渡さなくてはならないんですよ」 「空け渡すって……」 「いずれ買い戻すつもりでいましたけれど、だめでしたね」  財産は松茸だけ、という昨日の有助の言葉はこのことだった。 「父や母や、幼い頃の思い出のしみついた家でした。兄は、自分で食いつぶしたあの家と心中するつもりだったのかもしれません」 「そんな言い方するものじゃないわ」  瑞穂は咎《とが》めるように言った。 「それで、有助さんのお住まいは?」 「大糸線の島内というところの団地を買いました」 「まあ……」  質問を封じるように、有助は続けた。 「財形やっていたんです。会社の住宅貸付で融資を受けて。狭いですけどね、自分と自分の子供のための住まいくらいは、確保しなければならないでしょう」 「お子さんはいるの?」 「ついこの五月に生まれたばかりです。それで女房は葬式には出てこられなかったんですが」  瑞穂にはこのまともすぎる弟の、兄に対する複雑な心境が見えるような気がしてきた。  それにしてもこうした康臣の状況を正寛は知らなかったのか、それとも知っていてだれにも言わなかったのだろうか。  案外、康臣は出世した友人にそうしたことを一言も語らず、相変わらず城下町の旧家の高等遊民を装って接していたのかもしれない。それが康臣の精一杯のプライドであったのだろう。それにしても、転がり落ちていくような一人の男の二十年を聞かされてみると、心は鉛を呑んだように重い。  早朝、松本を出発したあずさ号は、九時過ぎには新宿に着いた。瑞穂はそのまま、中野にある学校に行った。  ロッカールームにはジャージが置いてあったので、喪服からそれに着替え、その日の授業を行なった。  疲労を感じながらも六時間目を終え、瑞穂は音楽準備室で翌日の教材を点検していた。  そのとき机の上に置いておいたカバンが、何かの拍子に倒れ、小さな音を立ててカセットテープのケースがリノリウムの床に落ちた。  きちんとしまいこんだつもりだったけれど、といぶかりながら拾い上げ、このテープをまだ最後まで聴いていないことに気づいた。昨夜は聴きながら眠ってしまい奇怪な夢を見たのだった。  瑞穂は、楽器類のしまってある準備室の奥にあるカセットデッキの電源を入れた。  家に帰ったら、独りになれる場所はない。しかもカセットデッキは息子の巧の部屋にある。瑞穂がそれをいじっていれば、いろいろ聞かれるだろう。  昨日までの瑞穂なら、十一歳になる息子相手に、旧友の死について、生きるということについて、様々語り聞かせたことだろう。そんなことができるほど、康臣は瑞穂にとって、何のこだわりもない遠い存在になっていた。しかし今、家族の前で康臣の名が出ることが、なぜか疎《うと》ましく後ろめたい。  それだけではない。今、このテープを手にして息子や夫と顔を合わせたくない、と感じるのだ。できることなら生徒の顔も見たくない。  何か触れられたくないものを心の底に抱えてしまったのを感じた。それが昨日の生々しい夢のせいなのか、今朝がた有助と交わした会話のせいなのかわからないが、それによって否応なく、十代最後の頃の自分自身と向き合うことになってしまった。  怯えたような大きな目と、白く透き通るような頬をした十九歳の彼女自身。脆く、鋭く、熱く、高すぎる理想によって自分を追い込んでいった時代、執着と無知といくぶんいびつな自意識に苦しんだ時代が、昔あった。  アンプのスイッチを入れ、スピーカーの音量を絞り、テープをセットする。  縦長の小さな窓から、鉛色の雲が見えた。空は日暮のような暗さだ。夕立が来るのだろう。落雷を気にしながら、再生ボタンを押す。  短い沈黙の後に、あの奇妙なアクセントのヴァイオリンがごく小さな音で鳴り出した。バッハに似ているがバッハでない、現代音楽のような音形。不自然な響き。しかしそれは、確かにヴァイオリンの音であって電子楽器による合成音ではない。それも紛れもなく康臣の音だった。どこがと説明はできないが瑞穂の五感が記憶していた。  するとこれは、言葉によってではなく、音によって綴られた康臣の遺書か?  ドアがノックもなく開いたのは、そのときだ。  器楽クラブの六年生の男の子が一人駆け込んできた。そして瑞穂を見て、ぎょっとした顔をした。 「あれ、海老原。とうに下校時刻過ぎてるのにどうした?」  何か悪いことをしているのを見られたような気分になりながら、瑞穂は尋ねた。 「なんだ、先生か。クラリネット返しにきただけだよ」  海老原というその男子児童は、ほっとしたように笑った。 「なんだ、先生かって、ここにいるのは、私に決まってるじゃない」 「だって、女の人がいるように見えたんだもの」 「先生だって女よ」 「だからさあ、先生じゃなくて女の人だよ」  普段なら笑うところだが、今朝がた、有助にも似たようなことを言われたことを思い出し、何か妙な感じがした。 「ねえ、もしかすると色白で細くて若いお姉さんが、立ってるように見えた」 「違うよ、だから女の人だよ。よくわからないけど」  瑞穂は、自分のはいている白線の入ったジャージに目をやった。子供達にとって、母親も教師も女ではない。女の人というと何か感覚的に、特殊な意味があるのだ。 「あれ、なに、先生? テープ、ひっくり返しに聴いてるの」  海老原は、スピーカーから小さく聞こえる音に、丸い目をしばたたかせた。 「ひっくり返し?」 「うん。ほら、テープを反対に回して、曲の終わりから聴くやつ。テレビでやってるじゃん」 「そんなのあるの?」 「逆回し、デジタモ・ドンだよ。何の曲?」 「わからないのよ」  反対から回したテープ。もちろんこのテープ自体がそうして聴けるようにできている。自分の演奏を逆さに聴かせる。自分の死に際して、康臣はそんなしゃれをやってみたというのだろうか。  ばたばたと足音が聞こえて、今度は女の子二人が入ってきた。こちらは五年生だ。 「ほら、廊下を走らない」 「だって」  ひょろりと背の伸びた女子児童二人が、息を弾ませて言い訳した。二人の内一人は、樺沢美香といって、今年の四月にクラス替えがあるまで、執拗ないじめにあっていた。こんなとき、子供達のシェルターになるのが、図書室や保健室、あるいは学科の準備室であったりする。つまり級友や学級担任のいないところに子供達は逃げ場を求める。逃げてきた子供をしっかり受け止めてやるのが、担任を持たない者の役目だと瑞穂は心得ていた。話を聞き、気がすむまでそこに置いてやる。  そのシェルターがやがて子供にとっての緩衝《かんしよう》地帯になって、いったんはそこに逃げ込んだものが次第に勇気とプライドを取り戻してくれれば、しめたものだ。  この春のクラス替えでいじめからまぬがれた美香は、今でも仲のいい友達を誘っては、なにかにつけてここにやってきた。 「先生、今日、お菓子ないの」  美香は机の上を無遠慮に探す。 「いつもあるわけないでしょ」  最近、急に背が高くなった美香の背中を瑞穂は、ぽん、と叩く。  窓の外が淡い藤色に輝き、一瞬遅れて、何かが爆発し崩れるような激しい落雷の音が聞こえてきたのは、そのときだった。女の子二人が、コーラスするように大げさな悲鳴を上げた。 「うるせえな」と海老原が変声期のしゃがれ声で怒鳴り、部屋を出ていきかけた。  そのとき天井の灯りが消えた。停電だ。  縦長の窓から稲光が差し込み、机や子供達の顔を青白く浮かび上がらせ、次の瞬間部屋全体が闇に沈んだ。  数秒して再び、鋭角的な光が闇を切り裂くように差し込んできた。  そのとき押し殺すような声が聞こえた。樺沢美香だった。歯を食いしばったまま、異様なうなり声を上げている。稲光がその白目に浮き上がった血管までくっきり照らし出した。 「どうしたの、樺沢さん」  瑞穂は駆け寄って、その体を抱いた。さっきの悲鳴のようなふざけ半分のものではない。美香は奥の壁を指差した。一斉にそちらを見た。暗かった。そして二、三秒後に、室内は稲光に照らし出された。古いスピーカーに張られた布地が傷み、けば立っているのまでがはっきり見えた。が、それだけだ。他に何もない。  美香がうめき、瑞穂の腕の中でその骨張った体が硬直する。  直後にドラム缶の底を力任せに叩いたような音がした。  長い余韻を引いてそれが消えた後、屋根を叩く雨音に混じり、別の音が瑞穂の耳にはっきり聞こえた。ヴァイオリンだ。逆さ回しテープのアタックと余韻の反対になった、奇妙なヴァイオリンの音が聞こえた。  停電していた。天井の蛍光灯は消えている。アンプもデッキも、通電していることを示す緑のランプは消えている。しかしヴァイオリンの音は、いくぶん叙情性さえ帯びて、流れ続けていた。 「出よう」  瑞穂は短く言った。両腕に力を込めて、動けない美香を抱き上げた。 「海老原、戸を開けて」  両手を握りしめて、凍りついたように立っていた男の子は、その声にはっとしたように立ち上がり、引き戸を一杯に開けた。  廊下に飛び出し、美香を背負い直す。痩せてひょろ長い体から硬直は失せていたが、今度はぐったりと脱力し意識はほとんどない。水の袋を背負っているような重さが、両肩にかかる。 「あんた達、自分の教室に戻って待ってなさい。今、外に出ちゃだめよ。雷が遠くに行くまで待つのよ」  瑞穂は自分の後をついてくる子供達に早口で言った。  職員室に入り、スクリーンで隔てられた応接コーナーの長椅子に美香を下ろした。  目を閉じた美香の頬は白く、手足は冷たい。瑞穂は手のひらでそのひょろ長い腕をこすった。五時間近のことで、養護教諭は帰った後だったが、保健体育の男の教諭がまだ残っていて、美香の瞳孔や脈拍を見た。 「特に異常はないな。雷に怯えたんだろう。子供によっては、ひどい恐がり方するから」と言いながら彼は、うっすらと目を開けた美香に、温かな砂糖湯を飲ませる。 「自宅に電話をして迎えに来てもらった方がいいかしら」  瑞穂は尋ねた。 「そうするほどのこともないだろう。な、大丈夫だな」  彼は美香に微笑みかける。美香は返事をせずに、何度か瞬きをした。  瑞穂は美香の冷えきった手をこすりながら、大粒の雨が窓ガラスに当たって弾け、不定形の文様を描いて流れていく様を見つめていた。頭の芯で、あのアタックと残響の逆さになった不思議なヴァイオリンがまだ鳴っていた。  美香の湿った手が絡みついてきて痛いほどに握りしめた。唇が震えるように動いた。 「男の人がいた……」 「え」 「男の人が立っていた。あそこに」 「どこ?」  激しく心臓が打っている。 「先生の肩のところに顔が見えた」  無意識に左肩に手をやった。指先が霜をなぞったように冷たい。  落ち着かなければと思った。この子には関係のないことだ。しかし人一倍感受性の強い子供には、見えてしまった。すると自分が昨夜見たものもあれは、夢ではなかったのか……。  恐怖心はあった。しかし恐怖の底に、何かひどく生々しく哀切な思いがある。 「男の人が見えたのね。白いワイシャツを着た男の人ね」  瑞穂はできるだけ平静に言った。 「そう。白いワイシャツの、痩せた男の人がいた」 「うん、おばけよ。先生も見ることがあるから、大丈夫」  瑞穂は、美香の髪を撫で上げる。  気のせいだ、などと否定するのは禁物だ。自分だけに見えた、だれも信じてくれない、という気持ちが子供を追い込んでしまうからだ。 「音楽室にいるおばけなのよ。何も悪いことをしないから平気」  美香は、体を起こした。 「先生も見るの?」と大きな神経質そうな目を一杯に見開いて、瑞穂を見る。 「うん、初めは驚いたけど、もう平気」  美香は不思議そうな顔でうなずいた。  雨が止み、校内にようやく電灯がついた頃、心配して様子を見にきた級友とともに美香は帰っていった。  美香が目の前にいなくなったとたん、瑞穂の体は小刻みに震えはじめた。  音楽室にいるおばけ、何も悪いことはしないから平気、そんな言い回しの空々しさをなぎ払うように、切なさと恐怖が交互に込み上げてくる。  なぜだろう、と思った。  なぜ、康臣はあのテープを自分に残したのだろう。自分の一途な思いをあれほど頑なに跳ね返してよこしたあの康臣が、何のために?  瑞穂は職員室を出た。テープも荷物も、音楽準備室に置いたままだ。廊下の蛍光灯は消えている。暗い廊下を通り階段にたどり着き、手探りで灯りをつける。  汚れたリノリウムの階段を一気に駆け上がる。音楽室のある四階まで行くと息が切れた。階段のせいだけではなかった。その部屋に入ると考えただけで、心臓が掴まれるような圧迫感があった。鳥肌立っている両腕を手のひらでこする。  職員室に残っている教員の一人を連れてくることもできた。警備員もいた。しかしいい歳をした一人前の女が、幽霊が恐くて準備室に入れない、などと言えるわけがなかった。  それ以上に康臣のことは、だれにも知られたくなかった。秘めやかな、自分の失われた時間には、だれにも足を踏み入れられたくはない。  康臣が戻ってきた、と思うと恐怖と拮抗《きつこう》する不思議に甘い感傷が胸に込み上げた。  廊下に立つと耳鳴りのようにヴァイオリンの音が聞こえた。  全身が強ばってくる。  窓の外は淡い夕闇が覆っている。雨が晴れて先程よりも空が明るい。立ちすくんだまま、その空の色をじっと見つめていた。ふとあることに気づいて、生温かい汗が全身から噴き出してきた。その場に崩れそうになるのを耐える。  何のことはない。停電でいったん落ちた電源が再び入り、テープが再生されているだけなのだ。  大股で準備室の前まで歩いていった。戸は先程出たときのまま、開け放たれている。デッキの表示ランプは点灯し、康臣の残したテープは、ゆっくりと回っていた。駆け寄ってストップボタンを押すと、それきり静かになった。巻き戻すこともせずに、ケースにしまい、机の上の物をカバンに突っ込むと、瑞穂はジャージ姿のまま校門を出て家路についた。  日暮里にある自宅に戻ると、一足早く児童館から帰ってきた巧が一人で待っていた。瑞穂は頭の中から、今日あったことを追い出す。  着替える間もなく、夕食の準備に取りかかる。  共同購入会から届けられた段ボール箱からキャベツを取り出し、つっ立っている巧に放り投げる。 「洗って」  ひょいと受けて、巧は顔をしかめる。 「虫だらけ」 「虫も食わない野菜は、人も食べられないの。しっかり水をかけてこすり落としてちょうだい。寄生虫の卵がついているかもしれないからね」  鍋に水を張り、昆布を入れて火にかける。  夫は研究授業の反省会で遅い。こんな日は、息子と二人、近所のデニーズですませたいところだが、外食はなるべく避けなければならない。  喘息の息子には、できるかぎり添加物の少ない食事をさせたい。瑞穂は自然食品の信奉者ではないが、発作が起きて苦しげに息を吐き出す息子の様子を見ていると、それがほんの気休めであっても、何か体にいいことがあると聞けば、一応やってみないと気がすまない。 「終わったよ」と息子が言って、台所から出ていく。  あちらこちらに虫食いの穴が開いたキャベツの葉が、きれいに洗われざるに入っていた。昔はこんなものは、気色悪くて触れなかった。ピーマンの中から青虫が一匹這い出してきただけで、真っ青になっていた頃もあった。平気になったのは、喘息の息子のおかげだ。生きていくうちに、いろいろなことに出会い、平気なことが増えてくる。 「あ、お母さん、僕の……」  廊下で巧の声がする。 「え、なんだって?」 「勝手に持ってくんだもんな」  玉葱を炒める音に、息子の声がかき消される。 「なに?」 「もういいよ」  挽き肉に炒めた玉葱と人参を混ぜ、キャベツと交互に重ねて蒸し器に入れる。後は蒸し上がるのを待つだけだ。  巧はもう廊下にはいない。手伝いをまぬがれ、自分の部屋に逃げるのは、どこの家の子供も同じだ。 「タッ君」  瑞穂は呼んだ。返事はない。 「タッ君、ほら、ごはん」  舌打ちして、隣の部屋のドアを開ける。 「巧!」  足を踏み鳴らして座敷に入りかけ、瑞穂は足を止めた。あのヴァイオリンの音がした。  巧が、康臣の残したテープを自分のラジカセにセットして聴いている。 「なにやってるの、あんた」  瑞穂は我知らず、取り乱した声を出していた。 「そんなもの聴くんじゃないの」 「なんで?」  制止されればなおさらやりたくなる歳頃だ。巧は、机の前の回転椅子をくるりと回し、足を組んで瑞穂の正面を向き、口を尖らせた。 「なんでもなにもないのよ」  瑞穂はラジカセに近付き、音を消そうとした。 「なんでだよ」  巧が甲高い声で叫び、ラジカセを守るようにその前に立ちはだかる。 「だめ。こんな縁起でもないもの」  瑞穂は、ラジカセのボタンを押す。しかし音は消えない。横長の本体にプラスティックのボタンがびっしり並んでいて、どれがどれだかわからず、レコーダー以外のボタンばかりしゃにむに押していた。  縁起などというのは、どうでもいい。これは息子には聴かせたくないものだ。康臣の存在を知られたくはない。それ以上にあの時代の自分を知られるような気がして、耐えがたい羞恥を覚える。できることなら、自分の中の記憶からさえ消してしまいたいと思った。  そのとき息子の口元から、木枯らしに似た音が聞こえた。  瑞穂は、はっとしてラジカセから手を離し、息子の方を振り返る。  巧の体が、ゆっくり畳の上に崩れた。壁に尻を押しつけるようにして巧はうずくまり、肩で息をしている。 「タッ君、やだ、また……」  瑞穂が、その体の脇に膝をついたとき、巧はちょっと顔を上げ、母親を見た。その顔色があずき色に変わっている。木枯らしのような細く鋭い音が喉から洩れる。  瑞穂は息子の体を支えた。しかし彼は、するりと母親の腕を抜けると、よろよろと自分で立ち上がり、逃げるように部屋から出た。  慌てて瑞穂も後を追う。逆さ回しのテープは鳴り続けているが、その音は耳に入らない。巧は、床に両手をついて、甲虫のような姿で苦しげな呼吸をしていた。瑞穂は棚の上の薬を取った。息子の体を支えて起こし、口を開けさせ、喉にスプレーを吹きつける。  しかし木枯らしの音は続いており、顔色は鉛色に変わった。  今回は、素人の手におえないと瑞穂はとっさに判断した。背ばかりが高くなった息子を担ぐようにして台所口から出て、止めてあった軽自動車の助手席に押し込む。すぐに部屋にとって返して保険証をポケットに入れ、この日夜間診療を行なっている病院を確認して、そちらに向かった。  病院に乗りつけた瑞穂は、息子を背負い受付窓口を素通りし、いきなり診療室のドアを開けた。医師が驚いたようにこちらを見た。 「呼吸困難です、喘息発作で」  瑞穂は叫んだ。最後まで言い終える前に、看護婦二人が落ち着いた動作で息子を抱き取った。一目見た医師が、酸素吸入の準備をするように指示した。  マスクを当てられ、体を半ば起こして巧は肩で息をしていた。  呼吸が正常に戻り顔色が元に戻るまで、十分とかからなかった。 「ああ、よかった」と太った内科医が、白衣の袖で額の汗を拭った。 「さっきの顔色見たときには、死んじゃうんじゃないかと思ったよ。ときどき起こすの? こういうひどい発作は」 「いえ」  瑞穂は、首を横に振った。確か小学校に上がる前に、一回あったがそれきりだ。 「とにかくちょっと入院して、様子を見ようね」と医師は言った。 「大丈夫だよ、もう」  マスクを外された巧が、あっけらかんとした調子で言った。少し前の苦しげな様子は嘘のようだ。 「大丈夫じゃないでしょ」  瑞穂は片膝をつき、息子の頬に手をかけ覗き込む。 「治っちゃった」 「治ったって、あんたね」 「まあ、いいや、ボク。泊まっていけ。それともママと離れると淋しくて寝られないか?」  医師は笑いながら、巧の頭をつついた。 「寝れるよ。スキー合宿だって行ったもん」  医師を見上げて、巧は口を尖らした。もうどこも悪いようには見えない。あんな激しい発作も初めてなら、こんなに早く治ってしまったのも初めてだ。  もしや、と思った。ばかばかしいとは思うが、樺沢美香のこともある。  瑞穂は小さな声で尋ねた。 「なんでお母さんのテープなんか、聴いてたの?」 「だって山口君から借りたスレイヤーズだと思ったんだもの。同じテープだから」 「あんたお母さんのカバンをかき回したの?」  巧は、首を振った。 「落ちてたもん」 「落ちるわけないじゃないの。カバンの中に入れておいたのに」 「落ちてたもん」  ファスナーのついた旅行カバンの底に入れたものが、そう簡単に飛び出すわけがない。もし巧が嘘をついてないとするなら、テープが勝手に飛び出してきたのか。康臣のこの世への未練がそのテープに残っているようで、瑞穂は薄気味が悪くなった。 「でもあれ、変な音だよね」 「そう変な音よ」  沈鬱な声で、瑞穂は答えた。  後ろで看護婦が、病室の手配ができ次第呼ぶから待合室にいるように、と指示した。  しっかりした足取りの巧と連れ立って、瑞穂は混乱した気持ちで診療室を出る。  樺沢美香の次は、巧だ。康臣の意図がどのようなものかわからないが、あのテープはまるで関係のない子供達に危害を加えたように見える。  あれを家に持ち帰ったのは間違いだったかもしれないと瑞穂は思った。  いつまでも持っていない方がよさそうだ。康臣には悪いが、自分も正寛も、あの時代と康臣の感性から限りなく遠ざかってしまった。  入院の準備を整え、看護婦に挨拶してから帰宅したときには、すでに夜の十時半を回っていた。二年前に小学校から養護学校に移った夫は、卒業生の就職先を確保するために区内の印刷工場や福祉施設を回っていて、まだ帰宅していなかった。  瑞穂はラジカセからテープを取り出しケースに収め、封印するように透明なテープを貼り、和紙で幾重にも包んだ。包み終えたものをさらに袋に入れて外に出る。  ちょうど明朝が、不燃物の収集日に当たっていた。道路の向かい側のマンションの脇に、街灯に照らされてグリーンのボックスがあった。今まで、このマンションの住民用のボックスにゴミを出したことはなかったが、この夜だけは別だ。  道路を渡り、ボックスの蓋を開け、濃い闇の中に手にしたものを落とした。  鈍い音がした。  ボックスの蓋に手を置いたまま、瑞穂はその場にうずくまっていた。唐突に激しい悲しみが襲ってきた。何か整理のつかない思いが、心の中で渦巻いている。  奇怪な現象を起こしたテープへの怖れではない。古い友人の形見を無造作に捨てたことへの罪悪感とも違う。何か得体の知れない悲しみだった。疼痛に似た痛みが、胸底から噴き上げてくる。  逃れるように瑞穂は立ち上がり道路を渡り、家に駆け込んだ。      4  数日が、慌ただしく過ぎていった。瑞穂が教師になった十七年前に比べ、最近は格段に行事が立て込んできている。行事のためのあまり役にも立たない会議と、会議の前の根回しとミーティング、そして様々な準備作業。その合間に各種の研究会があり、わずかな時間ができてほっとしていると、教え子が繁華街でカツ上げをして補導される。そのことについてまた会議、といった具合で、夏休みを控えた学校にはどこか浮き足立った雰囲気が漂い、教員が私事について思いをめぐらしている余裕はない。  しかしそうした日々の中でも、あの捨ててしまったテープのことが、瑞穂の心の深部にどんよりと沈んでいて、憂鬱な苛ついた気分にさせる。  テープは、捨てた翌日、委託業者のトラックに乗せられ処分場に運ばれた。そして砕かれ、埋立地に捨てられた。そのはずだった。  しかたがない、と自分に言い聞かせる。自分があれを持っていたとしても何の意味もない。  巧は入院の翌日には精密検査を終えて退院してきた。どこにも異常はなく、あの大発作の原因は、身体的にも精神的にも見いだすことはできなかった。  得体の知れない不安定な感情を抱えたまま、あと二週間ほどで夏休みが始まろうとしている。  その日瑞穂は、一本の教材テープを研究会の視聴覚ライブラリーから借りてきた。  テープはここ五年くらいの児童音楽コンクールの入選作品が収録されたもので、秋の連合音楽会で、器楽クラブの子供達に演奏させるときの参考に、聴いておくつもりだった。  夕飯の片付けを手早く終え、瑞穂は自分の年代物の小型テープレコーダーにテープをセットし、イヤホンの代わりにヘッドホンをつける。ヘッドホンはかさばるので電車の中では使えないが、音質が多少良いので瑞穂は家ではこちらを使っていた。  最初に聞こえてくるのはソプラノアコーディオンのソロだ。続いて付点リズムの軽快なテンポで、メロディー楽器全体による「花」のテーマが始まる。一楽章、春だ。 「器楽合奏による日本の四季」と題された創作作品は、いくつかの文部省唱歌をモチーフに展開させ、四楽章仕立てにした小さなシンフォニーだ。初めて聴く曲ではないので、瑞穂には曲全体の構成がわかっている。 「春のうららの……」と始まるメロディーは、展開部に入る前に軽くリットがかかり、曲はいったん落ち着き、再び軽快なテンポに戻る。  終盤にかかりソプラノアコーディオンのソロがカデンツァ風にテーマを奏で、そこから雪崩《なだれ》を打つように、全部の楽器でフォルテシモの一楽章のラストに向かっていく。  その直前に曲想はいきなり暗転した。  瑞穂は小さく息を吸い込んだ。  仄暗いヴァイオリンの音が聞こえた。  まさかとつぶやいた。心臓が狂ったように打っている。  瑞穂は、むしり取るようにヘッドホンを外した。その拍子にジャックが外れ、スピーカーからあのヴァイオリンの音が流れ出した。  瑞穂は瞬きもせず、スピーカーを見つめていた。  あれを捨てたことを康臣は恨んでいるのか。どうあっても、あれを聴かせたいという念でも残ったのか。  幻聴かもしれない。とすればこれほど鮮明な幻聴があるほど、自分の神経は病んでいるのだろうか。額に冷たい汗が流れてくるのを、片手で拭いながらテープを止めようとしたとき、そっと襖が開いて夫が入ってきた。  本棚から教育雑誌を引き抜き、小脇に抱えて出ていこうとした夫のシャツを瑞穂は掴んだ。 「なんだい、いったい?」 「ちょっと、ここにいて。お願いだから」  夫は、片手で不精髭の伸びかけた顎をこすった。 「この曲、わかる?」 「俺に音楽のことなんか聞くなよ。ヴァイオリンみたいだけど、それにしちゃ、ちょっと変な音だな」 「ねえ、どんな風に聞こえる?」 「どんなって、どっかの酔っ払いが調子っぱずれなヴァイオリン弾いてるっていうか……わかったぞ、コンピューター使って、デジタル合成したやつだろ」 「本当にヴァイオリンに聞こえる?」 「どっちかっていうと、それだな」 「アコーディオンとか、リコーダーの音なんて、聞こえないわね」 「これがか? まさか。なんでまた」 「いえ、いいの」  幻聴ではない。確かに康臣の、逆行するヴァイオリン曲が、鳴っている。このテープに録音されている。  このテープは一年前に、研究会事務局が教材費で購入したものだ。そのまま他の鑑賞用教材と一緒にケースに保管されていた。瑞穂は、以前にもこれを聴いたことがあった。しかし康臣のテープが手元にあったときには、自宅に持ってきていない。誤ってダビングされた可能性はない。  いったいどうやって、康臣の残したテープの内容が、まるで関係のない音楽教材テープに入り込んだのか?  瑞穂はテープを止めて取り出し、その背を見た。再録音できないように、つめは最初からない。  あのメタルテープは捨てた。台所洗剤の空容器と同じように不燃ゴミに出してしまった。それでも音楽だけは戻ってきた。  康臣の中の死に切れぬ何かが、音という形で自分に訴えかけてきているのだろうか。  そもそもあのテープは、何のために、どうやって録音されたものなのだろう。  確かなのは、このテープが康臣自身の弾くヴァイオリンの音であり、それが逆さに録音されている、ということだけだ。  瑞穂はストップボタンを押した。ヴァイオリンの音は途切れた。  二人の子供に危害を加え、人に奇怪な幻覚を見せるテープ。いや、そうするのは、テープではなく、そこに録音された音楽そのものなのだろうか。  謎の一つは、その気になれば解ける。康臣の残したテープが何の音楽かということだ。逆さに録音されたテープを、再び元に戻せば曲名が判明する。  この前は、とにかくこの音から逃げたかった。あるいはいきなり生々しさをもって戻ってきた過去から逃れたかっただけかもしれない。しかし今、瑞穂はほんの少しばかり勇気を持った。 「ねえ」  瑞穂は、部屋を出ていきかけた夫に呼びかけた。 「テープを逆さ回しにするには、どうすればいいか知ってる?」 「えっ」と夫は怪訝な顔で振り返った。 「これ、逆さ回しテープなの。元に戻したいのよ」 「どうりで変な音楽だと思ったよ」と夫は笑って肩をすくめた。 「おまえ、昔、やらなかったか。テープレコーダーが出たての頃だよ。オープンリールで、テープの端を手で回転軸に巻き付けて操作するやつだっただろ。回転数を変えたり逆さに回したり、いろんなことやって遊んでは親に怒られたものだ」  康臣がそうした子供の遊びのようなことをしたとは思えない。 「じゃあ、オープンリールのテープレコーダーがないとだめなのね」 「ああ。だけど何やってんだ? 音楽を逆さに録音したり、元に戻したり」 「ゲーム……」  瑞穂は口ごもった。 「ほら、テレビでやってるじゃない。授業の導入部で、ちょっとこんなことをやって、子供の気持ちをこちらに向けてみるのよ……」 「ご苦労さん。それにしてもいまどき、オープンリールなんて、音楽スタジオかよっぽどのマニアしか持ってないだろ。学校の倉庫を探せば、奥の方から出てくるかもしれないが。それより、この逆さ回しテープを作った人間に元のテープを借りる方が早いんじゃないかな」 「その人が生きていれば、ね」  忙しそうに向こうの部屋に行こうとする夫を、瑞穂は再び呼び止める。 「なんだよ、いったい」 「なんともない?」 「何が?」 「体とか、変な感じ、しない?」  夫は怪訝な顔をした。 「いえ、いいの」と瑞穂は強ばった頬に無理に笑いを浮かべる。  夫の感性は、テープにも音楽にも接点を持っていない。あの音を「酔っ払いの弾く調子はずれのヴァイオリン」と形容し、何事もなく自分の部屋に戻っていく。  瑞穂はテープを取り出し、ケースに収めた。テープ本体を焼くことも、そ知らぬ顔をしてこれをライブラリーに戻すこともできる。しかしそれでは解決されない何かがある。  幽霊も霊魂も超能力も、瑞穂は信じない。しかし康臣が自分に何かメッセージを残していったのは確かだ。それを呪いの類とは考えたくなかった。読み解くことのできる何か、康臣が心に大切にしまっていた何かかもしれない。  テープの逆さ回しをできるオープンリールを持っているのは、音楽スタジオかマニアだと、夫は言った。  音楽スタジオに知り合いはいないが、マニアなら瑞穂の身辺にもいる。正寛だ。  あの夏合宿以後、彼はもうピアノに手を触れることはなかったが、代わりに熱心な聴き手になっていた。オーディオ機器はかなりの高級品を揃えているはずだ。  康臣の残したテープを共に読み解くとすれば、彼をおいていない。  ちょうど康臣の葬式で挨拶状とハンカチを預かってきていたこともあり、いずれ会わねばならなかったのだ。  瑞穂は居間に入り、正寛の家に電話をかけた。美佐子が出た。いつもなら世間話が始まるところだが、「小田嶋さん、いる?」という瑞穂の急いた口調にぴんと来たのだろう。すぐに正寛本人に代わった。 「ねえ、オープンリールのテープレコーダー、持ってない?」  正寛が葬式の様子などを聞いてくるのを遮り、挨拶もそこそこに瑞穂は切り出した。 「なんだい、いきなり。授業にでも使うのかい」 「いえ、弟の有助さんから、私宛てに香西君のテープを渡されたのよ」 「そうか、君に形見か……」 「形見っていうか、香西君が死ぬ前に私宛てに残したものなんだけど、それが聴いてみたら、回転が逆になってるの。どうしてそうなってるのかわからないけど、ちょっと元に戻して聴きたいわけ」 「どういうことだ? 間違えて逆さに入れるなんてことは、普通、ないよな」 「普通はね」 「なぜわざわざそんな手の込んだ真似をしたんだろう」  正寛は不思議そうに言った。瑞穂はそれにまつわる奇妙な現象について話そうとしたが思いとどまった。話したところで正寛が信じるはずはない。  瑞穂が口ごもっていると、正寛は快活な口調で言った。 「いずれにしろ、お安いご用だ。そういうことするのは、けっこう好きだから」  正寛の多忙ぶりからして、余計な用事を頼まれるのは迷惑に決まっているが、そんなことはおくびにも出さない男だ。しかし「けっこう好きだから」という言葉の明るく、好奇心に満ちた響きには、いささか抵抗があった。  その週の土曜日、学校は休みだった。瑞穂はテープと松本で渡された葬儀の挨拶状を持って、本郷にある正寛の家を訪れた。  結婚して二年目に、正寛はパティオのついた5LDKのマンションを買い、郷里の松本から両親を呼び寄せた。東京に出てきたにもかかわらず、自分が長男である以上、親と住まなければならない、と考えるのはいかにも正寛らしい。しかし東京暮らしが始まって、わずか二ヵ月で彼の父親は病死し、昨年の暮れに母親も倒れて入院した。脳梗塞がかなり進んでおり、おそらくもう退院は叶わないだろうと言う。  現在、広いマンションに住んでいるのは、小田嶋夫婦と子供達の四人だけである。  瑞穂は階段を上がり、木の分厚い扉を開けてエントランスに入る。郵便受けや宅配便ポスト、管理人室などの並んだスペースと廊下との間は、ガラス戸で仕切られている。  瑞穂は美佐子に教えられた暗証番号を押し、開いた扉から中に入る。  廊下の南側はガラス張りになっていて、外の緑が柔らかく陽射しを遮り、床に斑《まだら》の影を落としている。  建物の脇は、マンションの住民専用の公園になっていて、花水木や楓の茂みの間に、小川を模したごく浅いコンクリートの水路が作られている。数組の親子が水遊びをしているのを横目に、瑞穂はエレベーターホールへと向かう。  無意識に、今自分の住んでいる安普請の中古建売住宅と比べている。質素な暮らしをしながら貯めた一千万を頭金にして、夫と連名でローンを組んで買ったものだ。その家に格別不満はないし、小田嶋の暮らしへの羨望もない。しかしここを訪れるたびに、同じ人間に生まれながら、そこにある生活レベルの差をしみじみ実感する。  おそらく小田嶋という友人を持たなければ、こんなマンションがあることも知らずに過ごしていただろう。  世間などというものは、こうしたいくつもの差異の上に成り立っており、表面上、それを無視した人間の交流が生まれるのは学生時代だけなのかもしれない、と瑞穂はときおり思う。  四階でエレベーターを降り、中庭に臨む開放型の廊下を歩いて行くと、やがてプリムラやベゴニアなど、いくつもの鉢を並べた窓が見えてくる。小田嶋家の目印だ。色とりどりの花は、美佐子が丹精こめて育てたものだ。  小田嶋の家のインターホンを押すと返事もなくドアが開いた。  正寛が立っていた。いつもなら妻の美佐子が出迎えるはずだがと、首を傾げながら挨拶をする。  正寛はスリッパを手際よく揃え、「入って」と玄関脇にある自分の書斎の扉を開けた。 「美佐子さん達は?」  室内は、ひんやりと涼しかった。美佐子に招き入れられるのは、いつも廊下の突き当たりにある日当たりのいい居間で、北側の正寛の書斎に入るのは初めてだ。 「子供の水泳教室でね」 「え……」  瑞穂は身じろぎした。今さら、どうということもないが、まさか正寛と二人にされるとは思わなかった。 「夕方には帰ってくるから、そうしたら夕飯、食べていってくれと言ってた」  窓際に紫檀の机があって、それと並べてスチールデスクが置かれて、パソコンとモデムが乗っている。  反対側は天井まで本棚になっており、手前のソファは、革張りだ。右側の壁には、オーディオ装置が納まっていて、ソファに座るとテレビ画面と両脇のスピーカーが正面に来るようになっていた。  八畳一間に仕事と趣味の両方を詰め込んだ、コンパクトだが、ぜいたくな空間だ。 「とりあえず、先にテープを貸してもらおうかな」  正寛は大きな手のひらを瑞穂の前に伸ばした。  瑞穂は、この前の合奏コンクールのテープをバッグから取り出し、手渡した。 「さすがにオープンリールは持ってなくてね、ディレクターやってる知り合いから昨夜借りてきた」と、正寛は台の上の大型のテープレコーダーを指差した。 「ごめんなさい」と瑞穂が恐縮すると、「とんでもない、お安いご用だと言ったろ」と白い前歯を見せて笑った。  正寛はまず瑞穂から受け取ったテープをカセットデッキにセットする。オープンリールのテープにその内容をそのまま落とすのである。  その間に、瑞穂はデッキと反対側にある正寛の本棚に目をやった。専門書や判例集の並ぶ本棚とは別に、一般書や雑誌の書架がある。  黒い背表紙を瑞穂は探したが、ない。 「香西君の同人誌は?」 「なんだ、それ?」  つまみを調整しながら、正寛は振り返った。 「だから香西君が同人誌を出していたでしょう」 「知らないよ、そんな話はしなかったから。小説か何か書いてたのか、あいつ?」  瑞穂は首を振った。 「違う。何か随筆っぽいもの……。バッハとそれから何かわからないドイツ人の名前が出てきたけど、忘れた。ほら、学生時代話してた話題そのままって感じで、全然変わってないなと思った。なんだか悲しかったわ。あんな風に、歳取ってしまうのって……」 「まあ、色々な人間がいるからね」と正寛は、オーディオ機器のいくつかのメーターから目を離さず答えた。 「あなたとは、どんなことを話してたの? 香西君は」 「世間話だよ。音楽の話もしたけど。あとは人の噂話とかね……。男同士の話っていうのも、意外にくだらないもんだよ。こっちだって仕事離れてまで、頭使いたくないからね」 「香西君が、松本でどうしていたのか、なんていうのは?」 「向こうから積極的に話さないかぎり、尋ねないのが礼儀だろ」  ぴしゃりと言われて、瑞穂は黙った。  正寛は準備が整ったらしく、テープの走行スイッチを入れようとしたが、思い出したように「ああそうだ」と膝を打って部屋を出て行った。そしてお茶と菓子皿の載った盆を抱えて戻ってきた。 「これ、出してくれって、美佐子に頼まれていたんだ」  皿の上に牡丹餅《ぼたもち》が二つ並んでいる。 「君が来るっていうんで、今朝作ってた。留守にして申し訳ないってさ」 「まあ」  あずきは見るからにふっくらと艶やかに煮えている。あまり食欲はなかったが、美佐子の好意がうれしかった。 「遠慮なく」と手を伸ばす。  口に含むとあっさりとした甘さが舌に広がる。 「おいしい」 「おふくろが仕込んだからね」  いくぶん得意げに正寛が答える。 「ほんと、おいしい」  正寛一人のところに上がり込むのに、戸惑ったことが滑稽に思われる。自分にはもう、そんな生臭さは微塵も残ってはいない。男女関係を疑われる時期はとうに過ぎていた。  正寛はカセットデッキのプレイボタンを押す。 「ちょっと待って」  瑞穂は、口の中の物を慌てて飲み込んだ。 「それを聴く前に」と、預かってきた挨拶状とハンカチを渡す。 「すまなかったね。忙しいところを行かせちゃって。で、康臣のことは何かわかったかい」と尋ねた。 「服毒自殺だって。睡眠薬ではないみたいだけど、はっきり言わなかった。まさかパラコートとか……苦しんだのかしら」 「うん、あまり他人に言えない死に様ってあるからね」 「けっこう職業を転々としたみたい」 「知ってるよ」  正寛は答えた。ほとんど感情の揺れの感じられない声だった。 「会うたびに様子が変わっていたからね」  康臣の退学以後、死に至るまでの彷徨《ほうこう》と、あの夜に見た奇怪な夢を思い出し、瑞穂は小さくため息をついた。 「どんどん滑り落ちていったんだ。才能という点からしたら、あれほどの男はいなかったが。僕なんか逆立ちしても、勝てなかったよ」  正寛は言った。そうしたことを何のこだわりもなく言えるのは、その後の人生が彼の一人勝ちに終始したからだろう。  二十年前の夏の日、正寛は、わずか二日でバッハの難曲をマスターした。道を歩いているときも、食事の最中も、彼はくしゃくしゃになった楽譜のコピーを見続けた。ところどころラインマーカーでチェックを入れ、そこだけ繰り返して指を動かす。テーブルも畳も、指の下にあるものは何でも彼にとっての鍵盤になった。集中力と、不断の努力と、合理的精神、それで正寛は勝ち抜いてきた。  結果的に彼のピアノは最後まで音楽らしさに欠けていたが、それでもマスターしたことに変わりはないし、世間が称賛するのはおおかたそうしたことだ。  大学入試を含めた世間的な成功というものは、才能とは何の関係もない。芸術や文学においてでさえ、素朴に信じられているほど重要ではない。むしろそれが人に試練さえ与えるということを康臣の例を見て知らされる思いがする。 「なんだか、やりきれない……」  瑞穂は、ため息をついた。 「ま、しかたないさ」  正寛はデッキのつまみを調節する。 「見てると、死ぬべくして死ぬ人間っているからね」 「死ぬべくして死ぬって」  瑞穂は驚いて、正寛を見上げた。 「小さなつまずきから、どんどん負け込んで行く人間っているじゃないか」  鮮明で軽い口調だった。アルミニウムにも似たその感触が、瑞穂の神経を逆撫《さかな》でする。 「負け込むって、人生はゲームじゃないわ」  瑞穂は腰を浮かせた。 「つまり、なんというのか、ゲームというよりは、ある種闘争のようなもので、自分の優秀さを過信して、努力を怠ったり、あるいはもともとヤワな神経持ってたり、自分をコントロールできない人間は、淘汰されることもあるからね。気の毒だけどしかたない」  瑞穂は右手を振り上げ、正寛の頬を力まかせに叩いていた。  正寛は、驚いたように目を瞬かせた。 「なんなのよ、その言い方って」  手のひらが熱かった。あの頃彼らの間に流れていた、一種不可思議な暖かな空気を瑞穂は鮮やかに思い出すことができた。自分が決して踏み込めなかった、彼らだけの世界があった。正寛に対するときにだけ、感情を解き放たれたようにのびのびと振る舞った康臣。彼の信頼を正寛は、こういう形で冷ややかに見下ろしてきた、ということか。あれほどまでに羨まれた男同士の無限信頼的な絆というのは、所詮こんなものだったのだろうか。 「帰るわ。テープ返して」  瑞穂は片手を正寛の前に突き出した。正寛は真正面から瑞穂を見据えた。はっきりとした怒りの表情があった。しかしみるみるうちに正寛の瞳から、それは消えた。代わりに殊勝な表情が現われた。鮮やかなばかりの変化だった。 「すまない。確かに今のは不謹慎だった。悪気はなかった」  正寛は頭を下げた。瑞穂は戸惑った。あまりに素早い反応、あまりにそつのない謝り方に、どんな顔をしたらいいかわからない。  プライドの高い人間ほど、どうでもいいことにはためらいなく謝る。足を踏んだときには、すかさず「失礼」と言い、アタッシェケースをぶつけて怒鳴られたときには、「申し訳ありません」とまずは謝る。  自分の怒りと自分の行動が、急に愚かしく見えてくる。この人は、いつもこのように様々な事態に間違いのない対応をしてきたのだろう、と思った。彼の言うとおり悪意はないのだ。二十年前、本郷の楽譜屋近くの路上で、「がんばろう」と言い残して立ち去っていったあのときのように、彼の生活史に悪意はない。 「ごめんなさい」  瑞穂は、気まずい思いで自分の手のひらに視線を落とした。 「感情的になっていたわ」  正寛はうっすらと微笑し、何ごともなかったかのように、落ち着いた仕草でデッキのいくつものつまみを調整し、スタートボタンを押した。  数十秒おいて、スピーカーからソプラノアコーディオンの軽快な音が流れてきた。 「え……これ?」 「この後に入ってくるの」  迷いながら瑞穂は言葉を継いだ。 「実は、これは香西君が残したテープじゃないのよ。いろいろ気味の悪いことが起こるので、私、それを捨ててしまったの」 「ほう……」 「ところがダビングもしないのに、同じ内容が全然別の教材テープに、ひとりでに録音されてしまったってわけ」 「そりゃまた」  正寛はボリュームのつまみを調節する。信じるはずがない。正寛は徹底した合理主義だ。  アコーディオンのカデンツァが、突然ヴァイオリンの音に変わった。  ぴくりと正寛の眉が動いた。  何も起こらないでくれ、と瑞穂は、目を閉じた。同時に、何か起こるなら隣に正寛のいるときに起こってくれ、と正反対のことを願った。自分や子供達のところでだけ、気味の悪いこと、不吉なことが起こるのは耐えられない。何か起これば、正寛も信じざるを得ない。その並はずれた屈託のなさは腹立たしいが、正寛は頼りになる男だった。 「お……」  正寛の目が左右に忙しなく動いた。 「逆さ回しのバッハだな」 「すぐわかった?」 「ああ。数小節区切って、それからリズムと音程をそれほど正確でなくてもいいから頭の中で音符に置き換えて、後ろから読んでみる。そうするとバッハになる。あるいは違うかもしれないが、バッハ風だ」  正寛らしい聴き方だ。 「しかしこのまま聴くと、なんだか古楽スタイルの演奏と似ているな。それにしてもだれのレコードだろう」  えっ、と瑞穂は、正寛の顔を見た。 「レコードじゃないわ、香西君のヴァイオリンよ」  正寛は驚いたように瑞穂を見つめ、それから「そうか」とうなずいた。 「よく、わかったね」 「だって彼の音じゃないの、音色がそうよ」 「僕にわかるはずないだろう。しかし一発でわかるっていうのはさすがに……」  正寛は言葉を止めた。 「さすがに?」 「いや、さすがに音楽の先生だけあるよ」と笑いながら、ぎしりとスプリングを軋ませて、瑞穂の脇に座った。瑞穂は無意識に、体をずらせて正寛から少し離れた。  青草に似た体臭が鼻をついた。唐突にその胸の熱さと湿った感触が、肌の上によみがえってきた。生々しい感触に瑞穂は戸惑い、椅子から立ち上がって部屋から飛び出したくなるのを辛うじてこらえていた。  絡み合う二台の楽器の音色が、耳の底によみがえってくる。康臣の弾くきらめくようなヴァイオリンの音、そして自分自身の抱えたチェロの胴体を震わせて上ってくる、分厚く深い音色。  涙が溢れてきそうになって、瑞穂はうつむいた。唐突に湧き上がった感情が何なのかわからず、瑞穂は戸惑った。あえていうなら痛みだろうか。胸の中に得体の知れない空隙ができて、大きな傷口のように血を流し始めた。 「二十年が経つんだね」  正寛が言った。じわりとぬくもりを帯びた声だ。逆さ回しのバッハが異様なアクセントで、その言葉に重なる。  瑞穂ははっとして顔を上げ、正寛の方を見た。正寛は瑞穂の方を見ていた。  しかしその視線は瑞穂の体を突き抜け、どこか彼方で焦点を結んでいる。思い詰めているかのようにも見える哀切な色合が瞳の奥にある。  この人も自分と同じ状態にある、ととっさに瑞穂は感じ取った。 「幸せか? そうだろうな。あのとき……」 「どうしたっていうの、いったい」  瑞穂は強ばってくる頬に、むりやり笑みを浮かべた。 「考えたことはないか? 今、なぜ、僕達はここにいるのか……いや、僕は、と言うべきかもしれないが、あのとき」 「知らない……そんなの」  それ以上言うな、という思いを込めて、瑞穂は首を振った。  正寛は黙りこくった。正面を向きスピーカーを睨みつけている。  奇妙なアクセントのついたヴァイオリンの音が、仄暗く正寛と瑞穂の体を覆っていく。  小さな声で「あいつ」とつぶやくのが聞こえた。冷房が効いているというのに、正寛の額にはびっしり汗の粒が浮いている。小さな粒はみるみる盛り上がり、一筋、二筋、瞼から頬を伝わりまるで涙のように流れ落ちる。  瑞穂の膝頭が小刻みに震えてくる。遠い日に見舞われた情緒の嵐が、体をなぶっている。逆から鳴るヴァイオリンの奥で、底知れぬ響きのチェロが自分の中で共鳴している。  唇を噛んで、瑞穂は手で耳をふさいだ。しかし逆行するバッハは、そのままの音量で、そのままの情感を保ち鳴り続ける。 「やめて」  小さく叫んで、瑞穂は立ち上がった。装置に駆け寄り、ボリュームのつまみに手をかけた。 「触るな」  背後から声が飛んだ。正寛らしからぬ尖った声だ。瑞穂はびくりとして手を止めた。  正寛が、立ってきてすばやくストップボタンを押す。  ヴァイオリンの音はぷつりと途絶えた。 「テープの走行を直すのは、後でやっておく」  息をはずませて、正寛は片袖で額の汗を拭いた。電源を落としソファに戻るとぐったりした様子で、背もたれに体を投げ出した。 「何だったのかしら、今のは」 「さあ」  首を振ると正寛は無造作に、お茶と牡丹餅の入った皿を後ろの台の上に退《ど》かし、瑞穂の方を振り向いた。重たい視線が絡みついてくる。 「どうしたの、小田嶋さんらしくない……」  軽い口調で言うつもりが、言葉が喉にひっかかり語尾が消えた。 「白いワンピースだったね」  低い潤いを帯びた声で正寛は言った。瑞穂はあとずさりした。 「松本のデパートの屋上で……眩しかったよ」  正寛は両手を伸ばし、瑞穂の手首を掴んで引き寄せた。バランスを失い、瑞穂の体は正寛の胸に倒れ込んだ。焼けつくような痛みを胸底に感じた。感情だけが、駆け足で時を遡《さかのぼ》っていく。 「奪えなかった」  正寛の形のいい唇が動いた。 「とうとう奪えなかった……わかっているだろう」  ぼやけた視野の中に、正寛の瞳がある。その瞳を覗き込み、瑞穂は息を呑んだ。表面に自分の顔が映っている。一筋、二筋、白髪の混じった髪をヘアマニキュアで染め、中途半端なボブカットにしている自分の顔ではない。  長い髪を後ろ一つに結んだ脆く硬質な感じの少女が、大きな目に怯えとプライドの高さを滲ませ、こちらを睨みつけている。明らかに瑞穂自身の顔。しかしもはやスナップ写真の中にしか存在しない彼女自身の顔が、確かにそこにあった。  正寛の手のひらが、頬に押し当てられた。 「わかっていたんだよ。康臣しか目に入ってなかっただろ」  手のひらがゆっくりと、頬から首筋に下りる。淡く甘い苦痛に体が震える。 「僕の方だけ見てくれ、僕のことだけ考えてくれ、と言ったのに」  瑞穂はゆっくり瞬きした。この音楽のせいだ。康臣の弾く逆行するバッハは、聴いた者の情緒を過去に引き戻してしまう。 「そうしてくれていたら……こんな風に生きてはいない。たぶん」  目の前にいるのが、溢れかえるほどの青春の息吹と野心をほとばしらせたあの時代の正寛なのか、それとも友人の夫であり、有能な国際司法の弁護士である現在の正寛なのかわからなくなった。  あの夏、心の大部分を占めていたのは、康臣のことだった。心のどのページを開いてみても、康臣の姿だけがあった。その康臣と一対で正寛がいた。  自分は何なのだろう、と瑞穂は思った。自分はここで何をしているのか。狭い一戸建の中で、子供と夫と暮らし、教壇に立って声を張り上げている自分はだれなのか……。 「私」と信じていた心の核が砕け、断片となって闇の中に吸い込まれていくのを感じる。心の羅針盤が壊れた。狂っていく、と思った。激しい不安に体が震えた。 「何してるのよ」  瑞穂は叫び、自分の首筋から胸に下りてきた正寛の手首を掴んで体から引き離した。  そのとき音がした。間延びした電子音だ。二度、三度……。  正寛は、弾かれたように体を離し、慌ててソファから立ち上がる。  瑞穂は、自分の腕を抱いて震えた。手のひらに触れているのは自分自身の陽焼けした太い腕だ。ふっくらと膨らんだ下腹が目に入る。  青春の残像の手前にあるのは、紛れもない中年女の身体だ。その身体に二十歳の感情が一瞬であれ、入り込んできた。  玄関の鍵の外れる音がする。 「ただいま」  美佐子の声だ。そして子供の甲高い声。勢いよく、書斎のドアが開いた。 「ごめんなさいね、留守にしちゃって」  瑞穂が振り返ると同時に、その言葉が止まった。美佐子の顔が、奇妙な具合に歪んだ。驚きとも当惑とも、怒りともつかぬ不思議な表情が広がる。  瑞穂は、とっさに自分の髪とブラウスに手を触れた。乱れはどこにもない。  美佐子は視線を夫に移した。正寛の表情は、完璧なくらい平静だった。しかし美佐子の困惑したようにひそめた眉が、緊張していくのがわかった。 「パパ、きょうね、ユミちゃんがね」  カルキ臭い濡れた髪を肩にたらした女の子の顔が、美佐子の後ろから覗いた。二人いる小田嶋の娘のうち、妹の麻衣の方だ。 「あっち行ってなさい」  美佐子は振り返り高い声で叫んだ。まるで見てはならないものが、そこにあるかのようだった。子供はびくりと体を堅くして、やがておずおずと離れていった。  瑞穂と正寛の間を美佐子の視線が激しく行き来した。何か言いたいことがあるのに言葉にならないように、上唇の端がかすかに震えた。そしてそのままくるりと背を向けると部屋を出ていった。 「どうしたんだ?」  正寛が後を追う。  瑞穂は数秒間、その場に立ち尽くしていたが、バッグを掴み部屋を出た。向こうの部屋で正寛が冷静な調子で、妻に話しかけているが、美佐子は一言も発しない。  何を誤解されたのかはわかっていた。いや、誤解ではなく美佐子がすこぶる女性的な勘で何が起きたのか理解してしまったからよけいに始末が悪い。瑞穂は逃げるようにマンションの廊下に出てエレベーターに乗った。  家に戻ると、夫も子供もいなかった。留守番電話の緑色のランプだけが、だれもいない家の中で忙しなく点滅している。再生ボタンを押すと「十二件です」と声が流れてきた。どれも無言だ。  再生が終わらぬうちに、電話が鳴り出した。受話器を取る。相手は沈黙している。 「もしもし、もしもし」と何度か繰り返すと、ようやく耳馴染んだ声が聞こえた。 「主人と何があったの」  美佐子だった。周りが騒がしい。 「今、どこ?」  瑞穂は尋ねた。 「どこでもいいじゃない。何かあったのね、そうなんでしょう」 「あるわけないでしょう」  冷静に答えたつもりだったが、受話器を持つ手が震えた。何もなかったではないかと自分に言い聞かせる。  相手は一瞬、押し黙り、数秒後に、さらに激しい調子で叫んだ。 「嘘」 「何を根拠に……」 「あなたの顔よ」 「ばかなこと言わないで」  早口で言ったあと、ふと思い当たって愕然《がくぜん》とした。 「あなたを見ればわかるわ。自分では気がつかないでしょうけど、あなた普段の顔と違ったわ。どうしてそう豹変できたわけ? 主人とは、いつからそういう関係になっていたのよ? ねえ、昨日、あずきを煮ていたあたしって、結局なんだったの」  電話の向こうから小刻みな呼吸が聞こえてくる。食器棚のガラスに自分の顔が映っている。豹変というのが当たっているかどうかはわからない。しかし何かが確実に変わっていた。  十数年の年月は、瑞穂の内面からも容貌からも、女らしいある種の危うさ、鋭さを削り取っていった。気性のさっぱりした「いい人」と言われ、周りの人間は同性異性を問わず安心してつきあってくれる。  しかし今、時間とともに消滅していったはずのエロスが、急速に身体の中に戻ってきている。  通夜の翌朝、瑞穂の顔を見るなり有助が言った言葉、そして数時間後、音楽準備室に入ってきた教え子が言った「女の人のように見えた」という言葉は、冗談でもお世辞でもなく、この変化を彼らなりに捕らえた、率直な感想だったらしい。 「何もないわ、本当に。私も小田嶋さんもそれほど非常識じゃないわ」  嘘はついていない。現に何もなかった。結果的に何もなかっただけだ。あの瞬間の、魔を解き放ったような精神の昂ぶりは何だったのだろう。そして戻ってきた今も、心と体のそこかしこに渇きに似た思いが、残照のように残っている。  玄関のチャイムが鳴った。 「ごめん、お客さんみたい」  瑞穂がそう言うと、美佐子は無言で電話を切った。  玄関に入ってきたのは、客ではなく息子だった。  どこへ行っていた、と尋ねると、いくぶんうるさそうに、自転車で友達のところに、とだけ答えた。  喘息で苦しんでいるとき以外、巧はこの頃では母親にそれとなく距離を置く。  いくぶんかの淋しさを覚えながら、瑞穂は正面から息子の肩に手をかけた。 「ねえ、お母さん、この頃感じが変わった?」  息子は視線を逸らした。そして唇を尖らせて言った。 「気持ち悪いよ」 「何よ、その気持ち悪いっていうのは?」 「臭いんだもん」 「臭い?」 「香水臭い」 「なに、それ」  息子は瑞穂の手を振りほどき、自分の部屋に入ってしまった。  化粧品もヘアスプレーも変えていない。香水は、結婚間際に買った一本を使い切って以来持っていない。普段の母親らしからぬ気配に違和感を抱き、彼なりの戸惑いと非難を込めて発した言葉が「香水臭い」となったのだろう。  確かに何かが変わった。康臣の死をきっかけに、自分の中の何かが変質し始めた。  速達の分厚い封書が自宅に届いたのは、その二日後だった。差出人は小田嶋正寛となっている。中から出てきたのは、ビニールでしっかりと包装されたカセットテープが二本だった。一本は瑞穂が持ち込んだ物で、もう一本が約束通り走行を直した物だ。それにワープロ打ちの手紙が添えられている。 「前略  先日渡された逆回転テープを、すべて元に戻し録音しました。  初めに逆回転テープについて、説明しておきます。  まずテープの種類についてですが、(1)カセットテープについては、モノラル、ステレオのいずれも、同一面の上部がA面、下部がB面となっていて、走行の方向は逆になります。(2)オープンリールの4分の1インチ、オーソドックスタイプになると、これが上からAの左、Bの右、Aの右、Bの左となって、走行方法は、それぞれ逆になります。  この二つについては、逆回しにしても、単にB面がかかるだけです。  いわゆる逆回転ができるのは、(3)サンパチツートラと言われるもので、これは片面のみ使用可能で、走行は一方通行になります。香西君が使っていたのもこのタイプで、逆回転してカセットテープに落とし込んだものでしょう。  音というのは、普通、頭にアタックが来て自然に減衰し、最後に余韻がくるので、単純に逆回転した場合、余韻が頭に来て、次第に強まり、最後にアタックが来るという歪んだ音になります。瑞穂さんが持ち込んだ逆回転テープのヴァイオリンの音が、どことなく古楽演奏のような、奇妙な感じがしたのは、そのアタックと減衰の逆になった感じが、おそらく意図的に後半にアクセントを置く、ヴィオール系の楽器の奏法と似ていたからでしょう」  一言も、この前のできごとに触れていない。いったいあれから美佐子はどんな様子なのか。瑞穂はテープよりもまずそちらの方が気がかりだったが、何度読み返しても、それらしいことは書いてない。  気まずいからでも、何か抜き差しならぬ事態に陥ったからでもない。あれは単に夫婦間のことで、他人に報《しら》せる必要はないと彼は判断したのだ。  テープを再生する前に、瑞穂は正寛の事務所に電話をかけ、確かにそれを受け取ったということと、美佐子の誤解を招いてしまったことへの詫びを述べた。 「あ、いや、こちらこそ、不愉快な思いをさせて申し訳ありません」  平静そのものの口調で小田嶋は答えた。 「それで妙なことを聞いて悪いんだけど」  瑞穂は、慎重に言葉を選んで尋ねた。 「小田嶋さん、あのテープを操作しているとき、何か変なことに気づかなかった?」 「変なこと?」 「だから……」 「別に、何も気づかなかったけど」  書斎で瑞穂と並んでテープを聴いたとき、自分の心に尋常でない変化が起きていたことを十分意識しているであろうにもかかわらず、小田嶋はそう答えた。 「あのカセットをオープンリールに落としたり、回転を戻したりとか、そういう作業をしているとき、本当に何も起きなかった? たとえば人の気配がしたり、とか、その晩、妙な夢を見たとか」 「何もないよ」 「昔のことを思い出したりとかは」 「少しは、ね」  正寛は沈黙した。しかしすぐにふっ切るように明快な調子で答えた。 「何もないよ。君の身辺では何か変なことでもあったの?」 「ええ」  瑞穂は息を吸い込んでから、「今、話してもいいかしら?」と尋ねた。 「すまない。ちょっと今、依頼者を待たせているんだ。後でこちらから連絡する」  そう言った後、正寛は、早口で付け加えた。 「君が何か妙なものを見たり、聞いたりしたとしても、僕は一言のもとに否定する気はないよ。あれは彼の遺書のようなものだし、昔の仲間が死んだというのはショックだから、気持ちが動揺するのは無理もない。しかしいずれにしても、君がいつまでもあれを持っているのは、賛成できない」 「では、どうしろと言うの」 「寺に納めて、ちゃんと供養してもらうんだ。菩提寺はあるだろう」 「なるほど……」  まっとうな判断だ。なぜこんなことを今の今まで気づかなかったのだろう。およそ信仰心などなく、心霊や超自然現象などの非合理的思考は一切認めない正寛でも、こういうことはわきまえている。震えながらテープを捨ててしまった自分とはなんという違いだろう。 「早い方がいい、君自身のためにも」  そう言い残して、電話は切れた。  瑞穂は、送られてきたテープ二本をあらためて手に取った。そして正寛が順行に直してくれた方をセットした。  無意識に身構えた。奇怪な現象自体に対してではなく、自分の心境と情緒に起こる変化に警戒した。  回り始めたテープに目をやって、ふと気づいて一本しかついてなかった天井の蛍光灯を二本つけ、机の脇のスタンドや壁際の灯りなども全部点灯する。  六畳一間は、眩しいほどの人工的な光に溢れた。  二十秒ほど待っていると、やや重すぎるアクセントがついた八分音符二つに続いて、輝きを帯びた二分音符が流れてきた。  すうっと全身から血の気が引いた。瑞穂は息を止め、無意識に自分の両腕を抱いた。  それは初めに感じた通りバッハの曲だった。しかし何という曲なのかわからない。  これが彼の二十年だった。世間的には落ち続けた香西康臣が、掴み取った技術であり、表現であり、彼のすべてだった。  リズムと音程は、彼の生活や内面の不安定さと反比例するように正確で落ち着いており、どれほど耳を澄ませても、全体の構成にはわずかな乱れも揺らぎもない。音色は分厚く、底知れぬ深みを持っていた。  その響きはうねり、流れ、あたりの空気をゆっくり振動させた。光の粒子が、寄せては広がり、遥かな高みに昇っていくのが見えるような気がした。  室内は汗ばむほどむし暑かったが、瑞穂の両腕は震えていた。震えは、腕を抱いている両てのひらに伝わり、やがて全身に広がっていった。  もはや康臣の演奏であろうとなかろうと関係ない。個人的な事情を超えて、その演奏は、普遍的な感動を呼ぶ水準に達していた。  これほどの演奏をしながら、康臣は現実に負けた。  身体的不調と、生活力の無さ、様々な人間関係が、彼を死に追い込んでいった。  瑞穂は、数日前、恐喝事件を起こした子供について、教育相談所の相談員が語った言葉を思い出した。その子供の家庭について触れ、アルコール中毒で病院と施設を往復している子供の父親の話をした後、相談員は「普通に生きていくこと自体が、限りなく難しい人々が、世の中にはいるんです」と語ったのだった。まさに康臣がそうした人間だったのだと、瑞穂は痛ましい思いでその音に耳を澄ませる。  生活においての無能力ぶりと引き換えに、彼は突出した音楽的感性を与えられたのかもしれない。  曲は聴き覚えがある。一時耽溺して、レコードが擦り切れて熱を持つまで繰り返し聴いた曲のようだ。しかし今、その曲名は思い出せず、その記憶自体が定かではなかった。  それにしてもこれほどの演奏を残してくれて、それをなぜ逆回転になどしたのか不可解だ。  照れか? 確かに康臣はこれ見よがしに、自分の演奏を人に聞かせるような男ではなかった。それができるようなら、死ぬこともなかっただろう。  それとも……。ふと思い当たって、哀切な思いに襲われた。康臣は時を遡及したかったのではないか。中年期にさしかかったまま、停滞していた自分の人生を遡ろうとしたのではなかろうか。  やりなおそうなどと考えたわけではあるまい。彼を追い越して流れていく年月を遡り、みずみずしく輝きに満ちた日々をもう一度手にしたいと、死の間際に願ったのではないだろうか。  瑞穂は悄然《しようぜん》として、回り続けるテープを見つめた。淋しかったのだ。執拗に、自分にヴァイオリンの音を聞かせたのも、それによって自分と正寛の気持ちを動揺させたのも、一人だけ置いていかれた淋しさからだったのかもしれない。  自分を見限り、着々と人生の階段を上って行くかつての友と、やはり全く違う方向に人生の拠点を築いたかつての恋人。恋人と呼べるかどうかはわからないが。  彼はあの頃の心のままに、仲間に出会いたかったのではないだろうか。  流れる音に、康臣の味わった恐ろしいほどの孤独を思った。並はずれて優れた演奏だ。康臣のことも、彼の死についても、何も知らされず、一人の聴衆として客観的に聴いたとしても。  その週の終わりに、瑞穂は近所にある浄土宗の寺に行った。  本堂に通され、そこの尼僧にお布施とともにテープを手渡した。あらかじめ電話で用件を伝えてあったので、すぐに尼僧は本尊の阿弥陀如来に向かうと経を上げ始めた。りんとした読経の声を聴きながら、瑞穂は目を閉じ合掌していた。  あなたは、二十年かけて、ここにたどり着いた。すばらしい音楽をありがとう。どうか安らかに眠ってください。そう心の中で呼びかけていた。  やがて尼僧は、瑞穂の方を振り返り座り直すと、やんわりした口調で言った。 「何かあったらお経を読んであげるといいですね。法華経を唱えなさい。尊い教えですから」 「法華経?」 「はい」と初老の尼僧はゆっくりうなずいた。      5  音がする。瑞穂は寝返りを打った。カセットのヘッドの動く音が、壁を隔てて、はっきりと聞こえてきた。こんな時間にだれか起きているのか。  わずかの間隔を置いて、あの余韻から始まり、アタックに終わる不可思議な音色、長く裾を引くような弦楽器の響きが耳を打った。  夢を見ている、と瑞穂は思った。テープを寺に納めてから四日が経っていた。  あの日、寺の本堂を出た後、山門に向かって戻る途中、急に悲しみの発作のようなものに見舞われた。重たい喪失感が体を貫き、瑞穂は振り返り本堂の方を眺めた。唐突にやってきた感情が何に由来するものか、見当もつかなかった。  緑濃く葉の茂った銀杏の向こうに、青空を背景に本堂の高い屋根があるだけだった。  供養は終わり、康臣の魂も安らいであの世に行ったのだと、自分に言い聞かせ、逃げるような早足で山門を出たのだった。  逆回転のヴァイオリンは、鳴り続けている。  何も起きるはずはない。供養は十分にした。これは夢だ。夢の中で康臣が何か聴かせているのなら、それは別れを告げに来ているだけだ……。  遠い音はゆっくりと近づいてきた。音量が小さいのに驚くほど鮮やかな色合がある。艶やかで生々しい。弾き手の息遣いさえ聞こえてくる。  今、瑞穂の耳元でそれは鳴っている。  うっすらと目を開けた。  濃密な闇が、体を覆っていた。寝過ごしてしまうことを怖れ、寝室のカーテンは閉めていない。六畳の部屋には、だから表の駐車場の明かりや月明かりが射し込んでくるはずだ。しかし目を見開いても見えるのは闇だけだ。底に群青《ぐんじよう》を流した夜の闇ではない。墨汁のように不透明で分厚い黒い大気がある。  死の闇だと、直感的に瑞穂は思った。恐怖が全身を貫いた。  強ばってくる手を動かそうとした。動いた。肉体は眠っていない。いや、意識と肉体の両方が眠っているのか?  圧倒的な暗さの底を、逆行するヴァイオリンソロが這い寄ってくる。 「お父さん」と隣に寝ている夫に呼びかけ、腕を伸ばす。  馴染んだシーツの綿ブロードの感触が、はっきりと指先にある。そしてその先に夫の使っているタオルケットがあり、ゆっくり上下している。夫の胸があるはずだ。  しかしなかった。自分のシーツのなめらかな感触のその先は、何もなかった。瑞穂の手のひらは宙ぶらりんのまま闇に吸い込まれた。  体を半ば起こし、身を乗り出す。悲鳴を上げた。畳に布団を敷いて寝ているはずなのに、まるでいつのまにか寝台に乗せられたように、周りには何もない。  身体が闇の中に浮いている。頭を振った。あの通夜の晩と同様、夢を見ているに違いない。  視界がゆっくり開けてきた。  いつもの部屋の中の風景がある。月明かりが射し込んで、枕元の鏡台や、引き出しの真鍮《しんちゆう》の取っ手が鈍く光り、飾り棚の兎のぬいぐるみが淡い闇に、白く浮き上がっている。  団地サイズの六畳間に彼女は一人でいる。夫が寝ているはずのところに畳があった。青ざめた月光に畳の目がきれいに揃って見え、その上に定規で引いたように四角くくっきりした窓枠の影が、落ちている。  いぶかりながら、視線を正面の鏡台に移す。窓から入る月明かりを背に四角い鏡の面に暗い廊下が映っている。振り返る。廊下に通じる襖は閉じていた。  とっさに立ち上がった。  襖を開けたとたん、ヴァイオリンの音が流れ込んできた。転げるように廊下に出た。順行だ。頭から弾かれたバッハ。  廊下の突き当たりに人影がある。闇の中にぼんやりと白い。  白いワイシャツの背が揺れている。右手が風を切るように斜め下に伸びる。弓を操りながら、体は大きくたわむように揺れた。灯り一つない廊下の隅にいながら、シャツの皺までがくっきりと見えた。  紛れもない康臣の身体。触れてみれば、細くしなやかな中にも強靱さを秘めた身体の、皮膚のぬくもりさえ伝わってきそうな気がする。  長く、ビブラートのないAの音が聞こえていた。完璧な美しさだった。吸い寄せられるように、瑞穂は自分の体と心がそちらに近づいていくのを感じた。床の冷たい感触が、異様な現実感を持って足裏に伝わってくる。  白い背は、ぼんやりと微光を放つようにして目前にあった。  なぜ、何をしにここに来た?  恐怖はない。ただ、「なぜ?」という問いだけが浮かんでくる。  確かにテープは寺に納めた。それなのに、なぜまたここにやって来る?  最後の別れを告げに来た、と考えられないこともない。しかし瑞穂は、その揺れる背に、未だ迷い続ける康臣の心を見た。端正極まる音を奏でながら、痙攣《けいれん》するような悲しみと、すさまじいばかりの孤独の形相が感じられた。 「どうしたっていうの……なぜそこにいるの……だれかを恨んでいるの……」  瑞穂は語りかけた。語りかけながら、歯の根が合わなかった。目の前に現われた幻めいたものに恐怖を覚えたわけではない。それの背負い込んだ苦悩に思いを馳せたとき、心底怖くなったのだ。  夢だと思いたかった。よくある悪い夢……。数秒後に自分は布団の中にいて、隣には夫がいる。そうに違いない。 「お母さんか?」  夫の声がした。しかし瑞穂は布団の中にはいない。  背後にあるキッチンのドアが開く。眩しい蛍光灯の光が廊下のPタイルの床に延びる。  眩しさに片手で目を覆う。  夢ではないらしい。あるいは覚めない夢なのか。  不精髭の伸びかけた夫が怪訝な顔でこちらを見ている。 「何してるんだ?」 「いえ……」  耳には、ヴァイオリンの音の記憶が、生々しく残っている。 「それ」のいたあたりにおそるおそる目を凝らす。台所の明かりに照らされたそこには、夫が研究授業で使った資料が、段ボール箱に入れて積み重ねられている。人の立てる空間などもとよりない。 「勝手に行くから起きてこなくていいと、ゆうべ言っといただろ」  この日、移動教室の下見のために、夫は明け方に東京をたつ予定だったのだ。 「え……ええ」  動揺を隠すように、瑞穂は笑いを浮かべた。 「目が覚めちゃったの。変な夢を見て」 「変な夢?」 「ええ、寝ぼけたみたい」  瑞穂はキッチンに入り、後ろ手にドアを閉める。 「子供だな、まったく。移動教室じゃ、必ずいるんだ、そういうの。去年なんか自分の家にいるつもりで階段から落ちたのがいて、夜中に大騒ぎだ」  気のない相づちを打ち、瑞穂はまだ小刻みに震えている手でやかんを火にかける。 「いいよ、すぐ出るから」 「コーヒーくらい、いれてあげるわよ、どうせ明日の夜まで帰ってこないんでしょ」  ことさら明るい声で言いながら、カップを取り出す。その瞬間、分厚いマグカップを取り落としそうになった。小さな音を両耳が拾った。  夫がぴくりと眉を上げて、瑞穂の顔を見た。 「なんだ、あれ」  現実に鳴っている。  どこで? 自分の頭蓋の中ではない。その方向に思い当たり、顔から血の気が引いた。  奥の部屋、巧が寝ているところだ。  あえぐように巧の部屋に駆け込んだ。  手前のベッドで巧が眠っていた。呼吸は正常だ。発作は起こしていない。瑞穂は両目を閉じて息を吐き出した。それから大きく目を見開いた。  巧の眠っているベッドの向こうに、光が見える。巧の机の上の時計の緑に輝く文字盤と、もう一つ、ラジカセのランプだ。  アンテナを長く伸ばしたその長方形の中央で、テープがゆっくりと回り、左右のスピーカーから、紛れもない逆行するヴァイオリンの音が流れ出ていた。  何も考えられなかった。駆け寄り、震える指でやみくもにボタンを押す。スイッチを間違えたらしく、音は消えない。片端からボタンを押す。三つか四つ目でようやくテープは止まった。 「お母さん、何してるの」  巧がむくりと起き上がった。瑞穂は息を弾ませて、テープを抜き取ったところだった。その手元を見て、巧は悲鳴に似た声を上げた。 「なにやってんだよ。せっかくタイマー、セットしたのに」 「タイマー?」 「午前三時からのラジオ、今日は僕が録音する番だったのに」 「何を録音するの」 「お母さんなんか知らないやつだもん」と巧は膨れ面をしたが、すぐに母親のただならぬ様子に気づいたものらしい。二十六時間連続のチャリティー番組をこの日やっていて、アイドルグループのトークと演奏が午前三時からあるので、録音してクラスメートに貸す約束をしてある、と説明した。  瑞穂はとっさに時計を見た。午前三時二十分だ。あのヘッドの動く音がしたのは、ちょうど三時頃だった。確かにラジカセは、タイマーをかけた時間に作動したらしい。しかし録音されたのは、そのアイドルグループの演奏やトークではなかった。  瑞穂はテープを取り出すと、それを握りしめ部屋を出ていこうとした。 「テープ返してよ」  巧は甲高い声で叫んだ。 「だめ。番組は録音されてないの」 「なんでそんなことわかるんだよ」 「お母さんがだめと言ったら、だめなのよ」  語気は激しくなかったが、切羽詰まった心情が伝わったのだろう。巧はぴたりと口をつぐんだきり、それ以上何も尋ねなかった。  瑞穂は隣の部屋に入った。 「おい、コーヒーはどうしたんだ。お湯が沸いてるぞ」  髭を剃りながら、夫が洗面所から声をかける。 「わかった」と答え、キッチンに戻る。廊下にはもう何もいない。  ベッドでは、息子が録音できなかったことをどうやって友達に言い訳しようか、と思いをめぐらせていることだろう。  瑞穂はコーヒーの粉をフィルターの上に無造作にあけ、やかんの湯を注ぐ。 「ラジオでもつけてたのか、タクは? この真夜中に」  ミルクと砂糖をテーブルに出しながら、夫が尋ねる。 「タイマーで録音してたのよ」と瑞穂は答える。手が震え、やかんの湯がこぼれる。 「不器用だな、貸せ」と夫が、瑞穂からやかんを取り上げる。  まだ夜の明けやらぬ道を夫が車で走り去って行くのを見送り、瑞穂は自分の部屋に戻って法華経の経本を手にした。この前テープを納めた寺で買ったものだ。ルビをふったこの経本に読経テープがついて、六千円だった。それをたどたどしく読んでいき、途中でやめた。  形式的な「供養」で鎮まるようなものではないという気がする。  謎は依然、謎のままだ。そして康臣はこちらに戻ってくる。孤独と苦悩の影をまとってやってきて、ヴァイオリンを弾く。  経本を片付け、便箋を取り出し有助宛てに手紙を書いた。  康臣の残したテープが録音された経緯、そしてそれをどうやって康臣から預かったのか、もう少し詳しく教えてほしいといったことを書き、先程巧のラジカセで録音されてしまったテープとともに封筒に入れた。それをポストには入れず、近所のコンビニエンスストアに持っていき、宅配便で送った。  もしかすると同封したテープによって、異様な現象が有助の身辺で起きるかもしれない。気がとがめるが有助の実兄のことでもあり、勘弁してもらおうとそっと手を合わせた。  有助から電話がかかってきたのは、翌日の夜の八時過ぎのことだ。 「兄の遺志とはいえ、不愉快なものをお渡ししていたのでしたら、申し訳ありませんでした」  有助は礼儀正しい口調で謝った。 「いえ、とんでもありません。私の方こそ。それでお聴きになりました?」 「ええ。変な音楽テープですね。兄はなぜそんなものを小牧さんに残したのだろう」 「そちらでは、何か妙なことは起きてないですか?」  いちばん気になっていることを尋ねた。 「は?」 「何か、お子さんの具合が悪くなったり、うなされたりとかしていませんか?」 「別に」  不思議そうに有助は答える。 「何もないですよ、さっきから聴いてますが」  電話にあの音が入ってきた。 「ご家族は?」 「妻と赤ん坊がいますが、別に……」 「何もなければよかった」 「どうしたんです?」  深刻な口調で有助は尋ねた。 「息子が喘息の発作を起こしたりしたの」 「音楽が引き金になったんですか、そういう話はあまり聞いたことはありませんね」 「ええ、そうですね。もちろん……そんなばかなことが、あるはずないですよね」 「あのとき、はっきり言わなくて大変申し訳ありません」と有助は謝った。 「実は、あのテープは兄から直接預かったのではないんです。兄の友人から渡されたもので……。兄がその友人にあらかじめ頼んでおいたそうです。自分の身に何かあったら、あなたにそのテープを渡してくれるようにと」 「友人?」  正寛以外に、死に際して何かを託せる友人が康臣にいた、ということに、瑞穂は少しばかり救われる思いがした。 「友人というか……」  有助は、口ごもった。 「境遇というのか、考え方が兄と似ていましてね。はっきり言ってあまり尊敬できない人物です。兄が死んだら、オープンリールのデッキを譲り受けると約束していたそうです。亡くなったその日にやってきて、一式持っていきました。うちに置いてあってもしかたないものですから、渡しましたが、普通、そういうことをやりますか?」 「では、テープも全部、その方に?」  瑞穂は尋ねた。 「ええ、兄が抱いてたヴァイオリンも一緒にくれてやりました」 「ヴァイオリンを抱いてた?」 「つまり兄の遺品を一式……」  有助は、少し慌てた様子で言い直した。 「その翌日ですよ。自分が死んだら渡してほしい、と兄に託されているものがあったから、と言って、小牧さん宛てのテープを持ってきたのは」 「そのお友達の連絡先を教えてください」 「何をするんですか?」  鋭い声が返ってきた。 「テープのことを聞きたいんです。どうやってそのテープを香西さんがその方に預けたのか、私のことを香西さんはどう思っていたのか」  少しの間、有助は沈黙していた。 「確かに、いきなりこんなテープを渡されたら、動揺するかもしれませんが、しかしもう僕のところによこしてしまったことだし終わったことです。忘れた方がいいと思いますよ」 「いえ、何か気になって、気持ちが悪いんです」と瑞穂は答えた。 「確かに気持ちは悪いでしょう。すみません、僕がちゃんと中身を確認して渡せばよかったのかもしれない。しかしはっきり言って、あの人物については、深入りしない方がいいです。麻薬とか覚醒剤とかやっていますから」 「麻薬に覚醒剤……ですか?」  康臣はそういう人物と交際があったということか。あるいはそういう人物しか身辺に寄り付かなくなったのか。 「ぜひ、連絡を取りたいんです。いろいろ事情がありまして。お願いです」  瑞穂は言った。有助は少し待ってくれ、と言い残し電話を保留にした。電子音のグリーンスリーブスを数回聞かされた後、瑞穂はその素行不良の人物の姓名と住所を聞くことができた。  奥山|周《あまね》。住所は東京の中野で、瑞穂の勤務先の小学校からそう遠くないところだった。ただし転々と引っ越すので、今、そこにいるかどうかはわからないと言う。電話はない。年齢もわからない。名前もおそらく偽名だろう、と有助は言う。  瑞穂が「何やっている人ですか?」と尋ねると、「さあ。たぶん何もやってないんじゃないですか」と彼は冷ややかな調子で答えた。  翌日は、終業式だった。担任のクラスを持たない瑞穂は、朝礼で歌唱指導をしたのが、一学期最後の仕事になった。他の教師が、それぞれのクラスで児童に通知表を手渡しているときに、瑞穂は中野区の住宅地図で奥山の住所を確認し、午後からそちらへ向かった。  勤務先の小学校からバスを乗り継ぎ十五分あまり行き、もよりの停留所からは住居表示と地図を頼りに歩く。まもなくそれらしきところに出た。  バブルの時代の地上げ攻勢から辛うじて逃れたような、小さな木造住宅がひしめいている一帯に、空き地があった。荒地瓜の蔦が這い回る中に建築資材などが無造作に積まれ、その脇にペンキのはげかけたプレハブ小屋が立っている。  瑞穂は地番を確認した。間違いなくここだ。しかしプレハブに人が住んでいるようには見えない。荒れているというわけではないが、人が生活しているにおいのようなものがないのだ。  横手に回ると小さな窓があり、古びたクーラーが挟まって、水が滴り落ちていた。  気配はなくても、住人はいるらしい。それが康臣の友人なのだろうか。 「覚醒剤、麻薬」という言葉を急に思い出す。暴力団関係者かもしれないと身構えながら、ドアをノックする。  返事はない。もう一度ノックする。何回か叩いているうちに、眠たげな声で、「はい」と声が聞こえた。  ドアが開いた。男が顔を出した。歳の頃は三十四、五。若く見えるだけで、もう少しいっているかもしれない。襟の擦り切れたワークシャツに古びたジーンズ。自分で無造作に切ったように見えるショートボブの髪。身なりにかまわないように見えて、その身辺から立ち上る雰囲気は驚くほど、繊細で清潔だ。むしろその繊細さと清潔感が、男の年齢にそぐわない感じさえする。 「奥山さんですか」と尋ねると、それには答えずに「入ってください」とドアを開けた。 「小牧瑞穂さん、でしょう」  いきなり言われ、瑞穂は驚いて男を見つめた。 「写真でもごらんになりましたか?」 「いえ……しかしわかりますよ」  室内は青かった。カーテンもカーペットも、スチール机のガラス板も海の底を思わせる青緑色を帯びている。机の上のパソコンの画面では幾何学模様を浮かべたスクリーンセーバーが青く輝いている。  仕切りのない部屋の奥に、康臣のものとおぼしきオープンリールのテープレコーダーとシンセサイザーがあった。 「いずれ訪ねてこられると思いました。あのテープを渡したときから」  白い指を顎の下で絡ませ、もの静かな口調で奥山は言った。 「なぜそう思われたんですか?」  奥山は微笑して答えない。 「あのテープはどうやって録音されたものですか?」  今度は単刀直入に尋ねた。自分がここに来ることを予想したのなら、詳しい事情の説明は不要だ。  奥山は、壁際に立てかけてあったパイプ椅子を広げ、瑞穂に座るように促した。 「弟さんは、本当のことをおっしゃってなかったでしょう」 「本当とおっしゃると?」  奥山は微笑んだ。青白い頬が引き上げられ、小ぶりな歯が彫刻のように整った唇から覗く。危うい感じがするほど美しい顔。異性を意識させる生々しい匂い、生身の人間の臭みと脂っぽさが、まったく感じられない無機物のような男だ。 「約束でした。康臣が死んだらオーディオ器材は僕がもらい、代わりに彼からの頼まれごとを実行する。その頼まれごとというのが、彼の録音した最後の演奏記録、まさに自画像だと僕は思いますが、それを僕がカセットテープに落とし込み、あなたに渡すということです。彼の意志を告げられたとき、あなた宛ての封筒と未使用のカセットテープを受け取りました。本来僕からあなたに渡さなければならなかったのですが、あの松本という土地のエートスのようなものは、どうも堪え難くて、あの弟に預けて通夜が始まる前に、東京に逃げてきたというわけです」 「待ってください」  瑞穂は叫んだ。 「あなたは、そうすると香西さんが自殺するのを知っていたの」  奥山はうなずき、傍らの小さな食器棚からグラスを二つ出した。 「ジンは嫌いですか」 「友達が死ぬというのを止めもしなかったの?」  瑞穂は立ち上がり、グラスに酒を注いでいる奥山のそばに行った。奥山はポケットから何かを取り出した。飛び出しナイフだ。  瑞穂は息を呑んであとずさった。  彼はそれでスダチのような緑の実を二つに割ると、グラスに果汁を絞り入れ、瑞穂に手渡す。視線を正面から合わせ、うっすらと微笑んだ。瑞穂は片手にグラスを持ったまま、背筋に寒気を感じて身じろぎした。 「あなた、友達だったんでしょう。そんなことまで頼むってことは、香西さんにとっては親友だったのよね。あなたなら、死ぬのを思い留まらせることができたかもしれないのに」  奥山はグラスを口元に寄せ、透明な液体をすすった。唇がぬるりと光った。 「つまらない人ですね。康臣がなぜ、あなたみたいな感覚の持ち主にテープを渡せと言ったのか、理解に苦しむ」  昨日の有助がなぜあんなことを言ったのか瑞穂は理解した。人としての心を持っていないという点では、この男はやくざよりたちが悪い。 「私だって、なぜあのテープを渡されたのか理解に苦しみます」  瑞穂は憮然として答えた。かまわず奥山は続ける。 「康臣と出会ったのは、十年前のウィーンです。僕はピアノの勉強に行っていた。ちょうど、ピアノというよりはヨーロッパ古典音楽の限界をはっきり認識した頃、康臣がやってきた。不思議な人だった。僕は彼と同年代だったが、ああいう心を持った人がいるということに驚くと同時に、彼の才能に打ちのめされた。才能というより、霊感といった方がいいかもしれない。彼はゲーデルに導かれて、ウィーンにやってきたと言っていた」 「同人誌で書いてました。音楽を聴いている最中、幻聴があったとか……」 「読まれましたか、あれを。どのように感じましたか」 「難しい内容で……よくわかりませんでした」  瑞穂は答えた。奥山のジンで濡れた唇が小さく開き微笑を浮かべた。 「くだらない、と正直に言ったらどうですか?」  瑞穂は沈黙した。 「くだらない内容ですよ。私も携わってましたから。まあ、そんなことはどうでもいいですが。排泄行為ですよ、あんなものは」  奥山はそこで言葉を止めて笑い出した。瑞穂は無言のまま、目の前の男の陰鬱な笑顔を見ていた。やがて奥山は笑いを引っ込めた。 「しかしあれで、康臣は、命を永《なが》らえたような気がします。二年だけでもね。無意味ではあるんですが、自分以外の何かに語りかけずにはいられなくなるときが、彼にもあったようです。あの康臣にもね」 「香西さんとは、どうやってお知り合いに?」  息苦しい気分に耐えかね、奥山の言葉を遮るように、瑞穂は尋ねた。 「ウィーンに行かれたことは?」  瑞穂は首を横に振った。 「それは残念だ。音楽を志す方なら、一度見ておいていい都市ですよ」 「ええ」と返事をしかけて、瑞穂は尋ねた。 「私が音楽を志したということを、香西さんから聞いたのですか?」 「何も。しかしわかりますよ。独特の匂いがあるから」 「匂い?」  奥山は続けた。 「雨の夜でした。ウィーン中央駅は古くて、汚い駅ですよ。構内に数軒、食堂があるんですが、どこもまずい。その中でも一番安くて、とびきりまずいカフェテリアのカウンターで、康臣はシチューを食べていました。質の悪い肉を煮込んだ汁に、硬いパンをつけて、背中を丸めてかじっている姿は、鼠そっくりでしたよ。貧相な男がいるものだ、と目を止め、それからその顔を見て、僕は何かピンとくるものを感じたんです。なんというのか、我々は独特の勘があるんですよ。まさに匂いです。僕は声をかけた。これからどこへ行くのか、と。日本人などほとんどいない町で日本語を聞いたせいでしょう。彼は心を許してくれたようでした。はにかんだような笑顔で、『泊まるところがないので、これからチューリヒ行きの夜行列車に乗るつもりだ』と言いました。僕が、今夜はもう遅いし、僕のアパートに泊まって明日、出発したらどうだと申し出ると、彼はついてきた。  僕の直感の一つは当たり、一つは見事に外れた。当たったというのは、彼にはやはり光るものがあったということです。感性も頭脳も、霊感に溢れていて、それを彼は、彼自身の音楽の中に、見事に統合させていたのです。彼はあのときブルノから来た。そしてそのままウィーンに滞在し、二ヵ月後にライプツィッヒに去っていきました」 「ブルノ、ウィーン……。ライプツィッヒ?」 「ブルノはゲーデルの生まれた都市。そしてライプツィッヒはあなたも知っているとおり、バッハ終焉の地です。ギャランティな音楽を称賛する世間にとり残され、失明し、失意のうちに死んでいった。絶作は、あなたもご存じのとおり……。まさに対位法の時代が終わりを告げようという時期に、一つの主題から無限連鎖的に繰り出されるフーガの壮大な体系を構築したが、最終部の四声フーガは未完のままだ」  瑞穂は小さな声を上げた。 「フーガの技法……」  思い出した。康臣のヴァイオリンで最後に奏でられた曲、正寛が順行に直してくれた、あのテープの曲が、その「フーガの技法」という曲集の中の一曲だったということを思い出した。かつて瑞穂がもっとも愛した曲であり、いつのまにか、心の芯から抜け落ちていった曲でもあった。 「ライプツィッヒに行ってしまうまでの二ヵ月間、彼はウィーンの僕のアパートで過ごした。しかし僕は彼とは関係を持っていない」 「関係?」  一瞬、奥山が何を言っているのか理解できず、少し間をおいてその意味に思い当たった。  瑞穂は嫌悪感を抱いて、目の前の青年の彫像のように美しい鼻筋と、形の良い顎を見つめた。 「直感が外れたというのは、そちらの方です。僕達はいろいろな話をした。康臣と僕は共通の美意識を持っているというのが、その日のうちにわかった。だから二ヵ月も一緒にいたのです。しかしそうした関係は、どちらかが均衡を破ることによって、容易に崩れるものだ。結果的に、均衡は破られました。僕の精神は殺されたんです。二ヵ月かかって、じわじわと崖っぷちに追い詰められていって、やがて僕はピアノを捨てた」 「ピアノを捨てたというと」 「彼の音楽の前に膝を折った……」 「香西さんはそれほど上手だったのですか?」  瑞穂は尋ねた。彼の残したテープの演奏を聴けばわかることではあったが。  奥山の口元に、軽蔑とも哀れみともとれる淡い笑いが浮かんだ。 「上手、下手というものさしで、彼の音楽を語るわけですか?」 「優れた演奏だったことは確かなのでしょう。それならなぜ、彼はそちらの方向に進んでくれなかったんでしょうか。コンクールを勝ち抜くことだって可能だったでしょうに」 「それに何か意味がありますか?」 「演奏家としての人生を切り開いていかれたかもしれないじゃありませんか」  奥山の唇が、ジンの湿り気で白っぽく光っていた。 「コンクール自体が大衆社会を背景に成り立った無意味な儀式ですよ。凡庸さと完璧さの区別のつかない審査員に審査される屈辱を、彼が受け入れられると思いますか。彼は満足することのない男でした。いや、他人が評価し、絶賛することになど興味はなかったのです。彼が目指したのは神々の頂だけでした」 「その結果が、あんな風に転落していくことだったというの?」  瑞穂は我知らず苛立った口調になっていた。芸術と大衆性をめぐる論議は聞き飽きている。生産的なものとも思えない。 「それで経済的にも社会的にも行き詰まって死んでしまった。それをあなたは黙って見ていたんじゃありませんか」  それが的外れの怒りだというのは、自分でもわかっていたが、言わずにはいられなかった。  奥山はため息をついた。 「あなたも、あの康臣と同棲していた彼女と同じなのですか?」 「同棲していた彼女」 「聞いていませんか?」 「ええ、まったく」  あの康臣が、女と日常生活を共にしたということは、想像もつかない。 「ちょうど一年半前、でしょうか。彼は一時、家を出たことがあるんですよ。女と安アパートで、それも新聞屋の二階で一緒に暮らしていました。粋狂ですよ。ルドゥヴィッヒ二世が晩年、馬丁達相手にばか騒ぎに興じたようにね。それが女には理解できなかったのでしょう。愛だの恋だの、あるいはもっと所帯臭いものを期待したのかもしれません。康臣は二週間で戻ってきました。脇腹を刃物で刺され、瀕死の状態でした」  瑞穂は息を呑んだ。 「なぜ?」 「さあ、刺した女の心境に僕は興味はありません」  瑞穂は、遠い昔、自分の抱え込んだ狂おしいばかりの感情を思い出した。  押しても叩いても開かぬ、康臣の心の扉。つるりと冷たい硬質の手触りが、分厚い殻なのか、それとも彼の本質なのかわからなかった。刃物でその体が傷つき、暖かい血が流れるのを目にしたとき、その女性はむしろある種の安心感を覚えたのではなかろうか。 「康臣は命は助かったのですが、それがもとで内臓癒着を起こしました。そんな女を相手にしたというのは自業自得なのですが」 「その女の方は?」 「刑務所にいるか、執行猶予がついたか、そのあたりは知りません。まあ、トラブルは前にもあったらしいですからね。若い頃、女を殺したことがあると彼は言ってました」  殺した……。  ぼんやりしていれば聞き逃すような、すこぶるさり気ない口調だった。  瑞穂は腰を浮かせた。 「なぜ」 「愛していたからじゃないですか」  冷ややかに言って、奥山はグラスの液体をもう一度、舐めた。  言葉のあやだ、と瑞穂は判断した。日本は法治国家だ。殺人を犯したなら、それなりの償いをさせられているはずである。自殺に追い込んだか、あるいは事故でも起こしたかだろう。 「いずれにせよ、あなたに渡したテープは、彼の最後の演奏です。生きていても、二度とあのレベルの演奏はできなかったでしょう。彼は耳を患ったのですよ。正確に言うと耳でないかもしれないが……」 「弟さんから聞きました」 「内耳の疾患と自律神経の異常が重なりました。めまいや吐き気の強い難病で、彼の場合ある周波数の音に鋭敏に反応しそれが聞こえると頭が割れるように痛み、別の音はまったく聞こえなくなる、と言ってましたね。彼は記憶でカバーしながらあれを弾きました。しかし時間の問題で、それもできなくなります。耳からのフィードバックが無くなったとき、微妙な音程のずれの修正はできなくなり、それは次第に拡大していくからです」 「たかが、耳、難聴じゃありませんか。きちんと治療すれば、治るかもしれないし、もし治らないとしても、世の中にはもっと、もっと重い障害を持った方々が、一生懸命生きているんですよ。前に受け持った子供の中にも、ひどい難聴の上、両足がきかない子供がいました。けれどもその子は車椅子を見事に操って、バスケットボールまでするようになったんです。いつも明るくて……」  そこまで言いかけたとき、奥山は遮った。 「あなたがどんな信条を持っているのかということについて、僕は関心がありません。しかし音は、康臣の生命でした。彼にとってその他の知覚は無意味だったのでしょう。彼は時間軸とまったく平行な一本の線上、音というリニアな部分で、美しいバランスを保って生きていたのです。しかし思わぬ身体的な事情で、均衡を失ったとき、彼の生自体が無意味なものになりました。だから僕は、彼が自らの人生を彼の望む形で終結させるのに協力しました」 「協力ですって? あなた、もしや……」  自殺|幇助《ほうじよ》、いやそれよりもっと積極的に、康臣は殺されたのではないだろうか。康臣が自分の前に現われたり、執拗にテープに音楽を録音させたりしたのは、そのことを知らせようとしたからではないかと、瑞穂は思った。 「僕は具体的手段を教えました。いつ、どこで実行するかは、彼の自由です。病気とか貧困による自然死を待つという選択肢も彼にはあったが、それから半年後に彼は計画を実行に移しました。ヴァイオリンを弾きながら、彼は冥府の川を下っていった。彼が死ぬまでの数分間に演奏し、録音したテープはあなたの許に行った」 「うそよ。弾けるものじゃないわ。彼は服毒自殺をしたのよね。微量ならともかくとして、死ぬほどの毒物を体に入れて、苦しみながら弾けるはずないじゃないの」  奥山は微笑した。 「そのとき彼らの一人が走っていって、海綿を取り、それに酸《す》い葡萄酒を含ませて、葦の棒につけ、イエスに飲ませた」 「マタイ伝……ですか?」 「葡萄酒は、臨終の苦しみから逃れるための手段です。キリストは拒否しましたが、人は弱い。康臣にとっても葡萄酒は必要でした」 「酔って、あれを弾いたんですか」 「彼にとっての葡萄酒は……」  奥山は引き出しを開け、金属性の小さなケースを出した。中には白い包みがいくつかあった。そのいくつかを選びとり、奥山は手のひらの上で広げた。  純白の粉と、錠剤が、それぞれに入っていた。瑞穂は言葉を呑み込み、奥山の顔を見上げた。 「麻薬ですね……」 「死ぬほど麻薬をやったら、楽器など弾けませんよ。試してみますか?」 「けっこうです」  瑞穂は目の前に差し出された、奥山の手を押しやった。 「大丈夫、この程度では死ねませんよ。夢を見ることさえできない」 「つまりあなたは、彼に薬を渡して、自殺させたのね」 「死を選ぶというのも、主体的行動ではありませんか。人は生まれてくるのを選ぶことはできないが、終結の時期は自分で決定することができる」 「話にならないわ」 「こんな世界にいると、周りには様々な方法を試す連中が出てくる。列車に飛び込んだり、頸動脈を切ってみたり、その中には失敗する者もいれば、成功する者もいる。しかし方法さえ間違わなければ、一番確実なのはやはり薬です。この方法はウィーンにいたときに、同じ音楽学校にいたアルゼンチンから来た男がやって成功しました。カクテルですよ。中枢神経を興奮させる作用を持つものと、抑制させる作用を持つものをうまく組み合わせ、嘔吐しないように静脈から注射する。激しく発汗し、心臓は早くなったりゆっくりしたりを繰り返すが、最後まで意識は清明だ。強い意志があれば、死の数秒前まで弾き続けることができる。彼は僕の言ったとおりのことを几帳面に実行し、成功した」  背筋を戦慄が這い上り、それが奇妙な感動となって瑞穂の体を震えさせた。有助が言っていたヴァイオリンを抱いたまま死んだというのは、このことだった。正確には抱いて死んだのではなく、弾きながら死んでいった。  数日前の明け方、廊下の隅で見かけたのは、まさにそうして向こうの世界に行きかけている康臣の姿だったのだろうか。あの背中に現われた、孤独と苦痛と迷いは、彼の死に際の思いだったのだろうか。 「僕の手元には常に数種類の薬がありますし、使い方にも精通しています。創作する上で、酒は主に害をもたらしますが、薬はむしろインスピレーションを与えてくれます」 「薬で酩酊して行なったことを創作とは言いません」  瑞穂は低い声で言った。 「手厳しいご意見、気に入りました。とにかく僕が渡した薬によって、彼は意識を完全に失うまでヴァイオリンを弾き続けました。他ならぬあなたのために」 「なぜ、私に」 「愛していたのでしょう」  軋むような冷え冷えとした声で、奥山は言った。 「『反進行における拡大によるカノン』、これが彼が選んだ曲でした。大作『フーガの技法』の中でも、一連のカノンは謎です。曲集の中でも音楽的興味に欠けるとして、軽視されがちでしたし、遊びのような扱いを受けてきました。しかし彼は、このカノンを『フーガの技法』とは別の体系に属する『カノンの試み』とも言うべき大曲の成立を意図したものではないかと考えてたようです。すなわち、従来の多くの研究者が、『フーガの技法』のテーマの一展開とみなしたところが、このカノンの存在理由とテーマ自体を不鮮明にしているのではないだろうかと、言っていました。彼が、この謎を解明したのかどうかは、わかりません。とにかく康臣は、あの小さな曲、演奏時間にしてわずか五分足らずの曲を彼自身の生のしめくくりに選びました。だから薬が完全に彼の心臓を止めるまでの間に、弾き続けることが可能だったのでしょう。それをオープンリールで録音し、僕がカセットに落とし、康臣に言われたとおりあなたに渡しました」  膝が震えた。止めようとして両手を当てると肘から肩までが一緒に震えた。恐怖なのか感動なのかわからない。目を閉じるとヴァイオリンを弾き続ける康臣の白いワイシャツの背が幻影のように瞼の裏に現われた。  康臣はヴァイオリンを弾いた。それが彼の生から死への、一本の時間的変化の上にあるものだった。  しかし自分が受け取ったのは、逆行するテープだ。とすると、生から死ではなく、死から生へというありえない時間経過があのテープの上にはあったのか。  動悸を静めるように、瑞穂は両手を胸に当て、奥山に尋ねた。 「ひとつお聞きしたいのですが、なぜあんないたずらされたんですか。それならそのままカセットに落としてくれればよかったのに」  奥山は微笑した。 「なぜ、逆回転になんかしたのですか?」 「素直に言われたとおりにするほどのお人好しだと、康臣は僕のことを思ったのだろうか」  微笑したまま、奥山は独り言のように言った。 「どういうことですか」 「逆さ回しにしておけば、いずれあなたがここを訪ねてやってくるのではないかと思った。あなたに興味があった。音楽だけが彼のすべてでした。最後の生命を注ぎ込んだ演奏を、いったいどんな女性に彼が残したのか、好奇心が働いた」 「ばかな……」  瑞穂は、吐き捨てるように言った。 「ばかなことでしょうかね」  そう尋ねた奥山の顔から、笑みが消えている。はっとして瑞穂はその目を見た。 「本当のことを言いましょうか……」  奥山はうつむいて両手を髪につっこんだ。白く、節高な指がゆっくりと移動し、顔を覆った。 「彼の望みなどきいてやれるほど、僕はお人好しではなかった」 「あなたは友達だったんでしょう。友達でいながら、彼の自殺を止めもしないし、それどころか死に方のレクチャーまでやった。その上、彼の残したものに、ああいう細工をしたんですか」 「友達ね……」  奥山は小さく笑う。 「そうではなく、人と人との信頼というものが……」  そこまで言いかけ、正寛の康臣の死に際しての態度を思い出し、苦い思いで口をつぐんだ。奥山の指の間から淡い色の瞳が覗き、瑞穂を見上げていた。瑞穂が黙って、その指の間の瞳を見つめ返していると、やがて奥山はぽつりぽつりと語り始めた。 「僕の父は、名前を挙げればすぐにわかると思います。本業は医者ですが、著名な演奏家を数多く育てた指揮者で、母は国外でも活躍しているピアニスト。何も自慢するつもりで言ってるわけじゃありません。つまり……幼い頃から音楽的環境は整っていたんです。いえ、音楽以外の何も知らずに育てられたといった方がいい。当然のことながら、音感やリズム感といったいわゆる才能も、あったつもりです。そのうえ毎日、毎日がレッスンでした。  あの雨の夜、僕は彼を家に連れてきた。アパートの部屋に寝台は一つしかなく、僕は、寝入った康臣をそっと抱きしめた。しかし彼は眠っていなかった。いきなり僕を払った。肘がまともに鼻に当たって、僕は顔を押さえて仰《の》け反《ぞ》った。あたり一面、血が飛び散った。そのとき目が合ったのです。なんというのか、その気のない男なら、僕のような男に出会ったとき、怯え、嫌悪し、軽蔑する。しかし彼は違った。僕の血まみれの顔を静かに見ていた。冷酷な穏やかさをたたえた目で。貴族の顔だった……。なんともいえない気持ちになりましたね。どうしても彼を手に入れたいが、できない。僕は多くの男と寝たが、彼に触れることだけはできなかった。わかりますか?」  瑞穂はかぶりを振った。 「僕を拒否したにもかかわらず、翌朝になっても彼はアパートを出ていかなかった。平然としてダイニングに居座り、僕のいれたコーヒーを飲み、ウィーンの印象などを話していた。何を考えているのか、僕にはわからなかった。まるで白く端正なマスクの後ろに、頭蓋骨の代わりに、広大な闇が広がっているような男……とにかく彼は最後まで僕にとっては謎でした。神秘といっていい。そして僕はピアノの前に座り、彼のためにシューマンを弾いた。それからシャワーを浴びて部屋に戻ってみると、彼は、たまたま僕がピアノの上に置いておいたヴァイオリンを手なぐさみに、弾いていた。それを聴いたとたん、僕は震え上がった。当時僕が通っていた音楽院には、それ以上の演奏をする学生がいくらでもいた。しかし彼の音は何かが違う。音感、リズム感、技術、そんなものではない。狭い意味での解釈とも違う。音楽の本質を見極める知性なのかもしれない。素朴な人間には、それがわからない。しかし幼い頃から訓練を受けてきた僕にはわかる。残酷なことには、それが彼が持っていて、僕にはないものだ、ということまでわかってしまう。何かの間違いだ、と僕は考えようとした。たまたまのことだろう、と思い込もうとした。そのとき彼が弾いたシューマンが、彼のもっとも得意とする曲なのだろうと。しかしそれはとうとう訂正できなかった。二ヵ月かけて、彼は僕を完全に打ちのめした。彼がライプツィッヒに去った後、脱け殻のようになって僕は日本に戻ってきた。これ以上、ウィーンにいても無駄だと悟ったからだ。  しかし二度と会いたくないと思っている人間に限って縁があるものらしい。しばらくして、また会ったんですよ。前と同じ、駅の構内で。今度は松本でした。日本に戻ってきて、僕はあちらこちらの地方都市を回っていた。一応、音楽活動という名目でね。今度は僕が彼の家に行く番だった。彼は惨めな生活をしていた。炎天下の工事現場でヘルメットを被って、一日中車の誘導をしていたんですよ。痩せて、陽に焼けて青黒い顔をして、目ばかり光らせて。三日くらいやると、体調を崩して起き上がれなくなるんです。そしてクビになって、また次の仕事を探す。そんな暮らしをしているのに、楽器を持たせれば、こちらがくらくらするくらいの才気とインスピレーションを見せてくれる。しかし芸術だ、才能だと、持ち上げられたところで、そんなものは現実の一撃で潰される。体を壊して、金が無くて、しかも耳までいかれてしまえば、後はのたれ死ぬしかない。本音を言いましょうか? 彼は美意識に従って自殺の形態をとっただけで、あれはのたれ死にだ。僕はそう思っている。しかし彼はのたれ死にながら、彼の音楽の頂点ともいえるテープを残した。  激しい動悸にあえぎ、汗を垂らし、拡大した瞳孔に光が入らないように固く瞼を閉じ、苦痛の最中で、彼はすべての音楽的条件が揃っている僕が想像もつかないような音楽実体を引き出してみせた。こともあろうに僕の知らない、どこかの女のために。さぞや満足だっただろう、と僕は思った。勝ち逃げだと。僕に言わせれば、その生活が凡庸な大衆にとって、いかに悲惨に見えようと、彼は栄光に包まれて逝った。あなたなら、許すことができますか、安らかに眠らせてやろうなどと思いますか? 最後に残した演奏が、逆さまに録音される。いいじゃないですか。彼はあるとき、言いました。音楽というのは時間芸術だと言われるが、それは一つの見方で、反対に我々を取り巻く時間を従属させうる、とね。傲慢な人でしたよ。音楽が流れる速さと方向に従って、時間も流れているに過ぎないし、場合によっては、時間を逆走させることも可能だと」  あの同人誌の中で、書いていたことだ。 「それなら生き返ってみるがいい、と僕は思った。安らかに眠らせやしない。戻ってきて、あの世でもこの世でもない、宙ぶらりんのところで、いつまでも演奏していろと……」  奥山はかすれた声で笑った。  呪いだ、と瑞穂は思った。この男は死んだ友人に、呪いをかけたのだ。それを意図していたか否かにかかわらず。彼の中で、康臣は死ぬことはできなかった。奥山が生き続ける限り、康臣と彼の音の記憶は、奥山を苦しめるものだっただろう。だからというわけでもないのだろうが、奥山は音楽というカプセルに康臣を閉じ込めて、生と死の境の冥府の川に流してしまった。康臣の魂は彼の音楽とともに、永遠にその暗い川面を漂っているのだろうか。  ふと気がつくと、奥山の笑い声は嗚咽《おえつ》に変わっていた。  瑞穂は言葉もなく、両手で顔を覆って、異様な声を立てている男を見つめていた。  ひどく子供じみて、痛々しい姿だった。それなりに豊かな家庭とそれなりの才能を与えられ、恵まれた環境で育った男達。その彼らがなぜ大人になれず、大人になれない人々が逃げ込む場所は、なぜ「芸術」なのだろうかと、哀しい気分になった。 「あのテープを私は、捨てました」  瑞穂は言った。 「捨てた?」  ぽっかりと口を開いて、奥山は充血した目を上げた。 「ええ。あれを聴いた夜、香西さんの姿を見ました。翌日、学校で再生していてたまたまそばにいた児童が、香西さんとは何の関係もない子なのに、彼の姿を見てひきつけを起こしました。その後、帰ってから私のカバンからテープを勝手に取り出して聴いた息子が、喘息の大発作を起こしました。あまりに気味が悪くて捨ててしまいましたが、また戻ってきたんです。気がつくと別のテープに勝手に録音されているんです。一度だけではなく、その後も一度。寺に納めて供養してもらいましたが、変なことは続いています。彼の姿も見ました。苦しんでいます。あなたの行為が、彼を迷わせてしまったんだと思います。どうしたらいいかわかりませんが、あなた自身が、彼のために線香の一本も上げてあげること、せめて手を合わせてあげることが、迷っている彼を救うことになるかもしれないと思いますが」  うつむいて聞いていた奥山の肩が震えている。泣いているのかと思い、そっと覗き込んだ。頬を紅潮させ、小さな声を上げ、彼は笑っていた。 「なるほど。彼の演奏を聴いてあなたの頭の中に作り上げられたのは、そういった怪談ですか。傑作だ」 「怪談なんかじゃありません」  瑞穂は叫んだ。 「確かに生きている彼は、二度とピアノに触らせないほどに僕を打ちのめした。しかし死んだ後は静かなものです。そうでしょう。死んだ人間に何ができますか。それとも化けて出るなどという話を本気で聞けというのですか」  それだけ言うと、彼は部屋の隅にあるシンセサイザーのところに行き、ヘッドホンをつけた。 「帰ります」  瑞穂は言った。返事をせず、奥山は壁の方を向いて鍵盤を弾き始めた。 「おじゃましました」  大声で言い、瑞穂は振り返ることもなく玄関に向かった。  人工的な青緑色の空気から解放されて、蒸し暑い外気に触れるとほっとした。  確かに自分が考えたのは、つまらない怪談であり、因縁話の類だった。しかし他にどう解釈したらいいのだろう。幽霊を見ただけなら、それを自分の精神の有り様や知覚の異常に原因を求めることができよう。しかしテープは現実に録音され、その音は夫や有助も聴いた。  迷って不思議はないほど、康臣の死は不自然であり、凄惨な様相を帯びていた。しかし一方で瑞穂は、今、彼の後半生が悲惨であると同時に華やかなものであるような気がしてならない。  生活者としての敗北と音楽的開花、その山の高さと谷の深さ。少し前なら哀れみの対象でしかなかった康臣、その彼の極めた音楽的頂点に、痛切な憧れを感じる。  本来、自分が手渡されるテープはまさにその頂点のはずだった。  それを奥山が逆からカセットテープに落とし込んだときから、奇妙なことが始まった。 「……しかし我々を取り巻く空間からも、時間の流れからも独立してある種の精神世界が存在しているのではないかという確信に自分を導くものだった。音楽もまた、定方向に流れる時間の上に成立する芸術であるが、その内部に深い精神世界を獲得したとき、日常的時間から独立し、滞留し、ときには身辺の日常的時間を巻き込みつつ遡行する可能性があるのではなかろうか……」  康臣はそう、同人誌の中で書いた。そしてその内容が、奥山のささいな悪意によって実行に移されたとき、彼岸《ひがん》と此岸《しがん》の間にある深いクレバスに落ちたのではなかろうか。  機械的操作によって、音楽の中で時間は逆に流れ、康臣もまた彼自身の確信に従い、時間を逆行し、死から生への道を逆に辿りながら、そちらの世界にもこちらの世界にも行き着かずに永遠にヴァイオリンを弾き続ける。  一本のテープが、生と死をつなぐ時間の流れの中に小さなループを作った。閉じられた系の中で、康臣は何かを訴えてくる。その音に感応する者を彼が失った時間の中に引き戻しながら。  瑞穂はアスファルトの溶け出しそうな真夏の道を、ゆっくり駅に向かい歩いていった。  自分が自宅のある東京方面ではなく、下りの豊田行きに乗っていると気づいたのは、ずいぶん経ってからだった。  振り返って、懐かしいプラットホームの景色が目に飛び込んできたそのとき、瑞穂は自分がなぜそこにいるのかわからなかった。  記憶は中野駅構内に入ったところで途切れている。切符を買ってJRのオレンジ色の電車に乗った。決して気を失っていたわけではない。  何か考えごとをしていた。康臣のこと、夏休み明けの研究授業のこと、連合音楽会のこと、息子の喘息のこと……。しかし奥山と会い、あんなやりとりをした後に、そうしたことを考えていたこと自体が不自然でもある。  発車ベルが鳴る。瑞穂はバッグを掴むと慌てて、電車を降りた。  駅は学生時代と少しも変わっていない。バスを待つのももどかしく、ここからキャンパスまで二十分の距離を歩いたものだった。  授業への興味などなく、教員になるつもりはさらになく、やみくもな音楽への情熱に突き動かされるようにレッスン室に向かっていた日々。  そしてあの二年生の夏が来た。  都内から名曲喫茶が次々に消えていった時期だった。一年生のときに、オーケストラの先輩に連れていかれた名曲喫茶は同伴喫茶に変わり、サロンコンサートで弦楽四重奏を聴かせたライブハウスは、ニューミュージック系のシンガーソングライターに占領されつつあった。古典マニアも教養主義者もまとめて町から押し出され、行き場所を失っていた。  学生街の本屋にも、喫茶店にも、生協にも、流れているのは井上陽水と荒井由実の歌声ばかりだった。 「美しいだろう、信じがたいくらい美しい式だ」と渦巻き状の数列を見せながら、康臣は語った。すれ違った一夏だったが、それ以上に接点のなかった周りの人々との関係の中では、どこかしらに言葉を超えて力強く共鳴しあうものがあったような気もする。  瑞穂はホームの階段を上りきり、そのまま上りホームに下りずに出口に向かって歩いていった。  駅前のロータリーに出たとき、不意に肩を叩かれた。  振り返ると正寛が立っている。 「どうして……」 「俺に言われても、困るよ」  いつになくくだけた口調で、正寛は言った。 「むしょうに戻ってきたくなったんだよ。君こそ、どうしたんだい?」 「なんとなく……ふらふら」  説明したくてもできない。 「そう、こっちもふらふらと、だ。昔を懐かしむというか、この歳で後ろ向きになるのはごめんだが、この二、三日、足元をさらわれるように引き戻されてくる」 「本郷のキャンパスへ、ではなく?」  正寛はかぶりを振った。 「ここへ、だ。あるいは松本か」 「あのテープのせいよ。あのテープを聴いてから、不思議な心境になったんじゃない?」 「心境なんていうほどの高級なものじゃないよ」  正寛は雑踏の中を先に立って歩き始める。ふとジーンズショップの前で足を止めた。  カーペンターズの歌声が流れてくる。 「君は、ベルボトムのジーンズなんて、はいたことがあるかい?」 「さあ、一本くらいは持ってたかな……」  十代の終わりからの数年間、若者から中年の人々までの下半身を覆っていた、その裾広がりのシルエットに、瑞穂は格別な関心を抱いた覚えがない。はきごこちの悪そうなそのズボンの細い腿の部分に、むりやり足を突っ込んでいたクラスメートの姿を、いくぶんか冷ややかに眺めていた記憶がある。もちろんジーンズの品番にこだわる趣味もない。絞り染めのTシャツやチューリップハットには、初めから拒否感があったし、かと言って新保守でもなく、ボタンダウンのシャツやエンブレム付きのブレザーを着る気はしなかった。  何の変てつもないストレートのジーンズに綿のシャツ、あるいはあの日、松本で買った白いシャツカラーのワンピース……。流行を意識しないというよりは、多数派に入るのがいやで、ことさら意識しないふりをしていた。リーバイスのジーンズやアイビーという形の「制服」を拒否していたのだ。 「アバは聴いたことはなかったよな」 「積極的にはね」 「ビリー・ジョエルは?」 「興味がなかった」  正寛はうなずいて歩き始める。 「テニス、麻雀、受験、それから音楽……。僕もいろいろやったつもりだったけれど、結局、時代のうねりの外にいた。反時代性ってやつを精神の核にして突っ張ってたんだな。孤立するのが格好よかった。しかし康臣みたいに、傑出しているためにマイノリティーにならざるをえないというのとは、違っていたみたいだ。結局僕の場合、マイナーはポーズだった。僕は、君達とは違うんだ、と表明してみたかっただけかもしれない。今になってみると、あの時代の雰囲気を懐かしんでも、戻っていけるところがない。同世代として、共有できる文化を持ってないっていうのは、淋しいよ。県高の伝統を背負った教養主義者のなれの果てかな」 「あなたほどマイナーって言葉の似合わない人はいないわ。それに反省することもね」  正寛は何も答えない。人混みから瑞穂をかばうように片手を添え、まっすぐ歩いていく。 「どこへ行くの」  やはり答えない。ロータリーを出たところで、瑞穂は正寛の腕を掴んで引いた。振り返った正寛の顔に、淡い陰りのようなものがあって、瑞穂は胸をつかれるような気分になった。  正寛がどこに向かっているのか、わかりかけてきた。練習室だ。 「行っても、あそこは入れないわよ。取り壊されたのよ、とうに。うちの小学校に来た教育実習生が言ってたもの」  正寛はようやく足を止めた。 「そうか、いつまでもあると思うな、か。ま、いい。君に会えたから」 「やっぱりショックなんだ、お互い。香西君が死んだこと」 「そりゃな……」  正寛は、瑞穂の手を握った。反射的にあの夏の日、正寛と二人、デパートの屋上に行ったときの情景が記憶によみがえった。 「みっともないわ、いい歳したおじさんとおばさんが」  手を振りほどこうとした。照れがあった。人目も気になった。それ以上に正寛の行動に動揺している自分自身に戸惑っていた。 「自分で言うのは、やめないか。開き直ったように聞こえる」  手を離さず、きつく握りしめたまま、正寛はパチンコ屋の脇にある急な階段を下りていく。  地下にある喫茶店は、コーヒーの値段が倍になったことと絨毯が薄汚れてテーブルの塗りがはげたことを除いては、雰囲気も造りも昔と変わっていなかった。瑞穂達が学生の頃、時代の波に洗われながらも、模様替えせずに留まっていた、この近辺ではたった一つの名曲喫茶だった。それが二十年経ってもそのままあるのは、幻を見ているようだ。レジ脇の煤けた棚に、ブルノー・ワルターの写真のついたLPジャケットが飾ってある。  コーヒーをすすりながら交わされる恋人同士の甘いささやきなどかき消すように、モーツァルトの「怒りの日」が、頭上の木製スピーカーから大音響で流れてくる。正面のホワイトボードには、客のリクエスト曲が並んでいる。  マーラー「大地の歌」、ハイドン「十字架上の七つの言葉」、シューマン「子供の情景」……。  異臭の漂う狭い通路を抜け、二人は一番奥のテーブルにつく。 「ここで居眠りして目覚めてみると、私達、取り壊したビルの瓦礫《がれき》の山の上にいたりするんじゃないかしら」  瑞穂はがたつくテーブルを片手で叩きながら言った。 「けっこう、ドトールか何かになってて、隣のおっさんがノートパソコン叩きながら二百円のコーヒーをすすっていたりしてな」  正寛は紅茶を頼み、瑞穂はライトビールを注文した。  グラスにビールを注ぐ瑞穂の手元を見て、正寛は苦笑した。 「今日、終業式だったのよ」  言い訳するように、瑞穂は言った。 「打ち上げか。家でも飲むの?」 「当然。これ以上のものはないわ、夏の楽しみは。できれば生ビール。生きてて良かったと思う」  正寛は首を振った。 「考えられないな、二十年前では」 「おばさんになることを悪いとは思ってないの、私」  瑞穂は微笑して、グラスについた口紅を人差し指で拭う。  正寛はうなずいた。 「梨の花って見たことあるかい? 白っていったって、あれほど白い花はない。薄くて、可憐で。あんな感じだったよ、君は。君の三十代なんて考えられなかった。いや、二十五の歳さえ、想像できなかった。あのまま永遠に留まるか、あるいは梨の花みたいに風にひらひらと舞って、散ってほしいとさえ思った」 「残酷なことを考えるのね」 「いや。男の感覚からすれば、そういう夢があるというだけのことさ。もちろん今の僕はそんなこと思ってないよ。君は僕にちゃんとその後を見せてくれた。梨の花はすぐに散ってしまう。しかし散った後に子房が膨らみ、やがて大きな果実をつける。それが若い頃はわからなかった。果実が花よりも優れているということもね」 「口が、うまくなったじゃない。商売のせい?」  残っていたライトビールを一息で飲みほし、瑞穂はグラスを置いた。  花は散った。それは本郷の楽譜屋の前で正寛と別れた瞬間だったのか、それとも二人の男のどちらの子ともわからぬまま、一人で産婦人科の処置室に入ったあのときだったのか、よくわからない。しかし何もかもが過去の些細なできごとだ。問題は、それによって自分の人生を大きく転換させてしまったことだろう。  演奏家へ、という不確かで非現実的な夢を捨てた。単に無気力になって厳しい楽器の練習を放棄し、とりあえず授業の単位をとるだけの安逸な道を選んだのか、それとも狂おしいばかりの康臣への思いの果てに、彼と重なる我が身を変えることによって、康臣と訣別しようとしたのだろうか。今となってはわからないし、またどうでもいい。  他にできる仕事がない、という理由でついた教職は、あれこれ迷い悩む時間を奪ってくれた。生徒指導と教材研究に奔走しながら、当時障害児学級の担任であった今の夫と出会い、結ばれた。そのころには康臣とのことなど、まるで幼稚な恋愛ゲームとしてしか思い出すことができなくなっていた。若くて健康な身体は、一度の堕胎くらいでは何のダメージも受けず、結婚してまもなく子供にも恵まれた。  担当している児童の登校拒否、研究授業をめぐる教員同士のいさかい、指導方針についての管理側との対立、長男の喘息、母親の病気と看病。人生の実を結ばせたものは、結局そうしたもろもろのできごとだった。家庭と打ち込める仕事という大きな果実を瑞穂は手に入れた。人生は若い頃思っていたほど、観念的なものではない。あの時代の深刻さなど、所詮は学生のお遊びだったのだと瑞穂は思う。 「三十九だったね」  正寛は目を上げて、瑞穂を見た。 「正直な話、失望感はあったよ。人生のキャリアは認めても、男としてはね。殴られるのを覚悟で言うと、強いおばさんになってしまったというか……」  瑞穂は片手をひょいと上げて、殴る真似をした。軽くかわして、正寛は続けた。 「君が女房のところに来ていても、何の抵抗もなかったんだ。秘密めいた雰囲気なんか、何もなかっただろう、僕達の間には」  正寛は両手の指を組んで、息を吐き出した。 「何か変わったようだ。あのときから」  あのときがいつを指すのかは、もちろんわかっていた。瑞穂は身じろぎして、頬に落ちてくる髪を後ろに流した。 「僕が変わったのか、それとも君が変わったのかわからない」 「あのテープが、何かしているのよ。いえ、テープではなく、香西君が。彼の心はまだ残っているの」  瑞穂は小さく息を吐き出した。 「あれがダビングもしないのに、別の教材に録音されてしまったことは話したわね、小田嶋さん信じなかったけど」 「信じないとは言ってないよ。ただ、気づかないうちに録音ボタンを押したりすることもあるからね」 「あの音楽を聴いているとき、子供が喘息の発作を起こしたわ。教え子は、香西君の姿を見た」 「幽霊ってことかい?」 「それだけじゃなくて、私、小田嶋さんに言われた通り、テープをお寺に納めたのよ。ちゃんとお経を上げてもらって、お布施も包んだし。でもね、出たのよ、四日目に。ヴァイオリンの音が夜中にして、立ってた……本当よ。それでまたあの逆さ回しのヴァイオリンが録音されてしまったわけ。今度は息子がタイマーでセットしておいたテープに」 「へえ」  積極的に否定はしないが、本気にもしていないという様子で、正寛はうなずいた。 「信じないなら信じないでいい。でも、あなたの家で、彼の残した逆さ回しテープをかけたときのあれは、何だと考えればいい? なぜあなたはあんなことを言って、美佐子さんに変な誤解をされたの? それでなぜ、あなたと私は、今日ここに来たの?」 「康臣が僕を呼んだって、そう言わせたいのかい?」  醒めた声で、正寛は尋ねた。 「別に……そんな」 「僕は来たくなったから、来た。それだけだ」 「じゃあ、美佐子さん、あれからどうしたの?」  正寛は表情もなく首を振る。 「夫婦間のことだよ」 「その言い方ってないんじゃない。あなたはいつもそうやって肝心のところで相手を締め出すのよ」  途中まで言いかけて瑞穂は息を呑んだ。正寛が放心したように、あらぬ方を見ている。 「どうしたの?」  ゆっくりと瑞穂の左肩の後ろを指差す。  振り返った。店が見渡せる。いくつか並んだテーブル席の向こうにカウンターがある。その奥、中年の男の身体に半ば隠れて、白ワイシャツの男が座っていた。身体と首をカウンターではなく、こちらに向けているその男は、確かに康臣だった。  瑞穂は立ち上がった。その拍子にライトビールのびんが倒れ、わずかに残っていた液体がこぼれて泡立った。慌てて紙ナプキンで拭いている正寛をそのままにして、瑞穂は通路をまっすぐ、彼の方に歩いていった。  テーブルの脇を三つか四つ擦り抜けたところで、何とも言えない気まずさに全身が縮み上がった。  白ワイシャツの第一ボタンを外した男は、スツールに腰かけ足をぶらぶらさせていた。  高校生だ。緊張した形相で突進してくる中年女を怪訝《けげん》というよりは、恐怖の混じった顔で見上げていた。  ここまで来て歩みを止めることもできず、少年の真正面まで行った。  顔立ちは似ていなくもなかった。康臣よりも骨格が遥かに柔らかく女性的だったが、横に流したまっすぐな髪と、肉の薄い頬が驚くほど似ていた。 「ごめんね、甥っこにそっくりだったものだから」  そう言い繕うと、少年は顎を突き出して、うなずくとも会釈するともつかぬ仕草をした。  瑞穂は逃げるように、自分のテーブルに戻った。 「人違いだったようだね」  正寛は、抑揚のない調子で言った。 「どうやら何かの符丁のようだな。ここで君に会ったのも、赤の他人に、康臣の顔を見てしまったのも」 「さっきの言い方と矛盾するわ」 「だから言っただろう。君の言葉を信じないわけじゃないって」 「私はね、ここに来る気はなかったの。それが自分でもわからないうちにここに着いてしまったのよ」 「疲れているんだよ」と遮るように正寛は言った。「悪ガキの相手で大変なんだろ、小学校の先生も」 「そうじゃなくて」  反論しようとしたとき、正寛は独り言のように、語り始めた。 「本当のことを言おう。自分の生活がね、仕事はもちろん、家庭も、美佐子のことも含めて、何か現実感がないんだ。今度のこともそうだが、夫婦とか家族の関係っていうのは、無理して修復して維持するほどのものなのだろうか」 「疲れてるのよ」  正寛は口元を引き締め、瑞穂の顔を見た。 「あなただって、そう言われると、むっとくるでしょ」  瑞穂は、正寛の瞳の底を覗き込んだ。しかしそこには懊悩《おうのう》どころか感情の揺らぎも見えない。もともと精緻な論理を組み立てることには長《た》けていても、複雑な感情は持ち合わせていない男だったが。  正寛は、こぶしの上に顎を乗せ、薄汚れた壁に顔を向けた。しかしその視線は壁を突き抜け、どこか遠くで焦点を結んでいる。 「確かに疲れている。しかし康臣があの世から何かしていると考えるほど、疲れてはいない。純粋に、僕自身についての疑問だよ。僕はいったい何を望んできたのだろうか。動機づけされて、努力し、成果を手中にする。試験も、仕事も、家庭も、何もかもがこの繰り返しだ。結果的に何を得たんだろう。君と出会ったあの頃、僕は、未来に何を求めていただろう」 「司法試験に合格すること」  瑞穂は言った。  正寛は、視線を逸らせたまま微笑んだ。 「だから言ったでしょう。彼と彼の音楽が、私達の心に何かしかけてくる……。いえ、彼が悪意を持ってるんじゃなくて、香西君自身、自分の音楽に取り込まれたまま、死に切れずに苦しんでるような気がするの」  正寛は答えない。 「今日、あのテープがどうやって録音されたものなのか、聞いてきたのよ」 「どうやってって、康臣が自分で演奏して、君に残したというだけのことだろう」 「確かに彼が演奏したテープよ。死にながらね」 「死にながらって?」  瑞穂は正寛の方へ向き直った。そして今日、康臣の友人を訪ねたこと、そこで奥山が語ったことを詳しく話した。  正寛の表情が次第に緊張してきた。康臣の自殺の具体的方法に話が及んだとき、正寛は「できるのか、そんなこと」と遮《さえぎ》った。 「奥山さんは変な人よ、確かに。有助君の言うとおり、ろくな人物じゃなかった。でも嘘を言ってるようには見えない。香西君の演奏はオープンリールで録音されてて、奥山さんは彼が亡くなった後、すぐにやってきてテープとデッキを持っていって、カセットに落としたそうよ。ただ、彼は香西君に対して、すごく屈折した思いを抱いていて、彼の演奏をわざとひっくり返してカセットに入れてしまったわけ」 「屈折してた?」 「ええ、その人、ピアニストを目指していたそうなのよ。ウィーンまで留学したんだから、そうとう入れ込んでいたんでしょう」 「ヴァイオリニストを目指してるならともかく、ピアノじゃ康臣と会って屈折することないじゃないか。楽器は別々なんだから自分のことを一生懸命やればいいだけの話で」 「だからあなたは、二十何年も彼とつきあって来られたのよ」  瑞穂は、苦笑して言った。 「何を言いたいんだ」 「頭がいいくせに単純なんだから。いろいろ考えて悩むのは、やっぱり似合わないわ」 「そうかな……」  瑞穂は真顔に戻って続けた。 「でも、私、その香西君の友達を許せないと思うのは、テープを逆走させたことではないの。友達の自殺予告を聞いて止めもしなかったこと。それどころか反対に死ぬ方法を教えたなんて」 「止めることはできなかったと思うよ、だれにも」  醒めた声で正寛が言った。 「止めようというポーズをつけて自分が善人になることはできるけどね」 「違うわ。死を考える人は確かにいるけど、でも、死にたいって思うのと、自殺を決行することの間には、私達が想像してる以上に高い壁があるのよ。それをあえて飛び越えるには、すごいエネルギーがいるはず。こちらに引き戻してあげることはできると思うし、反対にちょっとしたできごとが、その壁を越えさせてしまうことがある。私、子供がいじめられて自殺したなんて話を聞くと、いつもその別れ道のことを思うの。彼を追い詰めていった大きな問題は確かにあるんだけど、直前の救いは必ずあるはずだし、反対にぎりぎりのところに立っていた彼の背中を押してしまう何かもあるはず。香西君の場合、それは何だったのだろうと、考えたことはない? 彼は確かに生活にも、病気にも追い詰められていったけど、でも本当に死んでしまったのは、その奥山さんに自殺をほのめかして、麻薬だか覚醒剤だかしらないけど、そんなものをもらった半年も後なのよ。いったい何があったのかしら。住み慣れた家をいよいよ出なければならなくなったとか、そんなことだけじゃないと思うのよ」 「そんなものなんだよ」  最後まで言い終えるのを待たずに、正寛が言った。まるで他の答えを封じようとしているようだった。 「直前に会った小田嶋さんは、香西君の様子に何か気づいたことはなかったの?」 「何も」と短い返事が戻ってくる。それきり正寛は黙りこくった。緊張した表情が、灰緑色の輪郭に縁取られたような憂鬱な顔つきに変わっていく。 「香西君、確かに死にきれないのかもしれない。未練があるのかもしれない。だから音楽を遡ってこちらにやってきてしまったと思う。何かが、おそらく彼の背中を死に向かって押したものが、未だに彼の心をあの世でもこの世でもないところに、ピンみたいに止め付けているのかもしれない……」  正寛は、大きく息を吐き出した。 「こっちの頭が混乱してるから、ありもしない康臣の姿を見るし、妙な気分になる。それだけじゃないか?」 「でもテープは……」 「何の関係もない人間にそれを聴かせたらどうだ? たぶん何も起きはしないと思うよ」 「その通り。テープをお寺に納めた後、また録音されてしまって、今度はそれを弟の有助さんに送ったけど、何もないって言ってた。香西君の友達も何も見てないそうよ」 「何か不思議なことが起きたり、変なものを見たりというのは、こちらにそういう素地があるから、つまりテープによる音楽という情報の受け手である僕達の精神状態に問題があるってことだよ」 「じゃあ香西君は、なぜ私にあれを託したのかしら。卒業してから二十年近く経っているし、在学中も私達、それほど親密ではなかったはずなのに」 「君のことを好きで、忘れられなかったからに決まっているじゃないか」  明快な調子で、正寛は答えた。 「振られたのよ、私」 「別れを告げた後で、長い間悩むこともあるさ」 「別れもなにもなかった。いきなり心を閉ざされたのよ。もっとも初めから心が触れ合うことなんかなかったのかもしれないけど」  正寛は、苦笑した。 「あの人とはどうだったの」 「あの人?」 「高校のときの香西君の彼女、あなたが昔、言ってた、あの才色兼備の彼女、ナスターシャ」  正寛の目が一瞬、鎌の刃のように細くなり、直後にすべての感情を消し去ったように、不自然な静まりを見せた。 「死んだ、と思う……」  くぐもった声で、正寛は言った。 「死んだ?」  瑞穂は、ふと先程の奥山の言葉を思い出した。「康臣が若い頃、女を殺した」と、彼は言った。 「いつ頃?」 「ずっと昔だ」 「昔って?」 「だからずいぶん前……」  正寛の話し方の癖は、具体的な数字を挙げてみせることだった。少し待って、とは言わない。五分待て、と言う。何度も練習したとは言わない。二十六回練習したと言う。そして前に、とは言わず、二年前の六月頃、ときっちり月まで定めるのが、通常の正寛の物の言い方なのだ。  意図的に隠しているのか、あるいは忘れたいできごとなのかもしれない。話題を変えようとしたとき、正寛はぽつりと言葉を継いだ。 「自殺した、と思う」 「どうやって?」 「よくわからない……」  つまり康臣は、彼女を自殺に追い詰めたということか?  瑞穂はあの夏の終わりの自分の姿を、見たこともないその人に重ね合わせた。何が引き金となったものかはわからないが、若い命を落としたことは痛ましかった。 「ご両親は、ずいぶん悲しんだでしょうね」  正寛は悲痛な顔で視線を逸らせた。 「生きていれば……一人前になってみれば、若い頃の死にたくなるほどの悩みなんて、取るに足りないことだった、と気づくものなのに。いつか自分にとって本当に大切な人と出会えたものを。見えないものなのよね。その頃には」 「確かにそうだね。理想と妄想を少しずつ捨て去って、潮時を見てこのあたりで手を打とうか、と決意するところまで、人は成長する」  少しも皮肉る口調でなく、正寛は言った。康臣は一人の女を自殺に追いやり、その後も、いい歳をして理想も妄想も捨てられず、手を打とうとしなかったために、もう一人の女に腹を刺されたのだろうか。 「帰りましょう」  瑞穂は伝票を手にして立ち上がった。テーブルの片隅を睨みつけたまま、瞬きもしなかった正寛は、はっとしたようにいつもの表情に戻り、瑞穂の手から素早く伝票を取り上げ、レジへ向かった。  自宅のある日暮里に着いたときには、夏の日が暮れかけていた。夕飯を作らなくてはと息せき切って戻ってきたものの、息子はまだ帰ってきていなかった。この日は終業式で学校は早く終わるはずなのに、と心配しながら外をうかがっていると、電話があった。クラスメートの母親からだ。今夜、彼を泊まらせたいがいいか、ということだ。 「かえって楽なのよ。タッ君が来てくれるとね、二人でお風呂沸かして、自分達でお布団敷いて何の世話もいらないのよ。お母さんあっち行っていいよ、ですって」  先方も一人息子である。兄弟代わりというところなのか、親の方も息子の友達が泊まるのをなによりも歓迎する。 「まあ、そう。うちでは、甘えっぱなしで、一人ではぜんぜんだめなのに」 「とんでもない。タッ君はしっかりしてるわよ、うちのに比べると。クラスでアフリカに衣類を送る運動なんかやってるそうで、タッ君、実行委員長で張り切ってるわよ。この前はNGOのおばさんたちのところに行ってきたんですってね」 「え、聞いてないですよ」 「今日は、うちにみんなを集めて会議だって。仕切ってたわよ」  NGOだの、衣類を送る運動だのという話は、一言も息子から聞いていない。病弱なので甘やかしたせいか、何でも母親に頼りきりの息子だった。しかしこの二、三年のうちに息子の中で、瑞穂の知らない世界が急速に広がっている。甘えてくる顔のその裏側で、息子は瑞穂の知らない大人びた表情を世間に向けているらしい。  今夜は夫と二人きりだと思うと、急に台所に立つ気力が失せた。ぼんやりしていると今度は夫から、卒業生から共同作業場のバザーの打ち上げに呼ばれているので遅くなる、という電話が来た。  瑞穂はため息をついて、食堂の椅子に座り込んだ。  無意識にテレビをつけ、ぼんやりとテーブルに頬杖をつく。  そうしていると、自分を取り巻く日常というものも、ごく脆い、小さな約束ごとの集積に過ぎないのかもしれないという気がしてくる。生活にしっかりと根を張ったつもりでいても、実はその生活自体、粘つく流体にも似て、案外頼りなく流れていくものかもしれない。  冷蔵庫の中に下ごしらえした鳥肉が入っているが、自分一人のために食事を作る気はしない。飲み残しのワインに手が伸びる。  あまりよくないな、と思いながら赤い液体をグラスに注いだ。一人にされると焦燥感がつのる。何に焦っているのかわからない。食事を作る気はもちろん、食べる気も失せていた。  焦燥感の中に、昼間の奥山とのやりとりや、正寛の淡い陰りを帯びた表情が頭によみがえる。瑞穂は何も食べずに部屋に入り押入れの戸を開けた。 「フーガの技法」のレコードがあったはずだ。康臣の残した曲、「反進行における拡大によるカノン」の入っている曲集だ。それを聴いてみたら何かがわかりそうな気がする。  押入れの下段には、古い楽譜やLPが分厚く埃を被っていた。瑞穂は窓を開けて、舞い上がった埃を外に出す。  先程からあのナスターシャのことが頭にひっかかっている。彼女もまた自殺したらしい。  康臣が死の間際に思いを馳せるとしたら、自分よりはあのナスターシャという人物の方であるような気がする。彼女こそ、康臣が思いを残した相手ではないだろうか。  しかし彼女は康臣より先に逝った。としたら康臣は、十数年か、あるいは二十年かの時を隔てて、彼女とめぐりあっているはずだろうに、あの世で探しあぐねて迷っているとでもいうのか。  それとも康臣は、きらめく才能を発揮したあの輝かしい時代に戻りたいと死の間際に願い、その念があのテープに残ってしまったのだろうか。  LPを一枚一枚引き出し、ジャケットの埃をぼろ布で拭き取り、脇に重ねていく。 「フーガの技法」はない。  ここ十何年聴いていないにしても、結婚したとき、実家から持ってきたからあるはずだ。このところ日常の雑事に追われて、ゆっくり音楽など楽しむ余裕はなかった。巧が生まれてからは、家の中が手狭になり、どこかにしまい込んでそれきりになってしまったのだろう。  出てくるのは器楽合奏の指導書や教材研究に使ったLPばかりだ。数年前の連合音楽会のおりに預かった折り畳み式譜面台を返し忘れて、二十本ほどまとめて放り込んであるのもみつけた。  いずれも分厚く埃を被っておりぼろ布では拭ききれないので、掃除機をかける。  クリーニングから戻ってきたまま、取り出し忘れていた衣類の箱が、下段の奥から出てきた。十年も前の洋服は、流行遅れとサイズが合わなくなったのとで、もう着られない。  瑞穂はため息をついて、それをゴミ袋に押し込んだ。  衣装箱に隠れるようにブリキの箱があった。重い。  これもLPの箱だ。両手に力を込めて引っ張り出す。蓋を開けた。  ハイドンの弦楽四重奏、ブラームスの交響曲、そしてボッケリーニのチェロ協奏曲……ようやく出てきた。  どれもこれも学生時代によく聴いた曲だった。ジャケットからは色が飛び、ビニールカバーは互いにくっついてはがれなくなっている。 「フーガの技法」は、その間に挟まっていた。二枚一組のそのレコードのジャケットを広げる。  乾いた音を立てて、ジャケットから解説の数ページが剥落した。そして糊の部分から、ダニとおぼしい小さな虫が、ざわざわと四方に散っていく。  慌てふためいて掃除機のスイッチを入れ、ジャケットに当てる。弱くなった解説のページが吸われて、無残に破れる。中身のレコードが手元でたわむ。  ジャケットの側面に掃除機をかけた拍子に滑り出てきたレコードの面が、白っぽく削れているのに、瑞穂は驚いた。ずいぶん針を落としたのだ。おそらく学生時代、スピーカーにかじりつくようにして、聴き込んだはずのレコードに違いなかった。今、その旋律を聴いても曲名が思い出せない。音楽を仕事にしていながら、そうした意味の音楽からあまりに離れてしまったことに、瑞穂は少しばかり衝撃をうけた。  カノンが入っているのは、二枚目のA面だった。そこは特に繰り返し聴いたらしく、減りが激しく、いくつか指紋がついて黴《かび》が生えていた。  自分のしていることの無意味さにあらためて気づいた。裏の物置にLPプレイヤーはあるが、針がついていない。しかも回転数が狂っている。レコードはあっても聴ける状態ではない。  CDを買って来ようか、と腰を上げたときだ。  押入れの上段の奥で、弦の音がした。ヴァイオリンではない。腹の底に響くような低く鈍い音が、はっきりと聞こえた。  ぎょっとして戸を反対側に寄せて目を凝らす。  キャンプ道具、暖房器具、巧のグローブ、そんなものが乱雑に詰め込まれた一番奥に、ハードケースに入ったチェロがあった。  結婚するとき持ってきたのは、そのうち子供が弾くかもしれないと思ったからだ。しかし巧は、音楽よりスポーツの方が好きな子だった。病弱なので、瑞穂もなるべく体を鍛えさせようとしていたから、よけいにこの楽器の出番はなかった。  もう一度、鈍い音で鳴った。ピッチカートだ。  振動か、湿度の変化か何かで糸巻きが緩み、勝手に弦が鳴ったのか。  背筋がすっと冷えた。  荷物をどかし、びくつきながらそのケースを手元に寄せる。長い間触れていないということからしたら、LPの比ではない。大学の卒業試験以来だ。  ケースの埃を払い、そっと蓋の止め金に手をかける。金属の爪は錆びつき、容易に開かない。指先に力を込めると、そのうちの一つが、付け根から千切れて取れた。  蓋を開けたとたん、黴臭いにおいが立ち上り、黒ずんだ肌が現われた。  弦は全部緩み、駒は倒れる寸前だ。すると先程の音は何だったのだろう。  康臣か? ヴァイオリンならわかるが、彼がなぜこんなものを鳴らしたのだろう。  瑞穂は、その胴体と竿を掴んで、ケースから起こした。軽く危うい肌触りだ。  そのとき奇妙な物が目に入ってきた。黒檀の張られた指板にうっすらと埃が積もっている。その上に四つ、跡がついていた。指を置いた痕跡だ。  四弦の澄んだ和音が、耳に聞こえてきそうな、正確な位置を押さえた指の跡。たった今弦を押さえたように、指の形に四つ、小さく、丸く、抜けている。  康臣は、またここにやってきた。そして自分の印を残していった。  瑞穂はその四つの痕跡を見つめていた。それから何かの偶然だ、と思い直した。手の脂か何かが残っていて、そこだけ埃がつきにくくなっていたのかもしれない。  それからチェロを蛍光灯の光にかざした。駒の脇のf字孔から中を覗く。無数の細かい木くずが見えた。虫に食われているらしい。  何かもやもやとした悲しみが、胸にせり上がってくる。  この低音弦楽器を弾いた時代は確かにあった。しかし自分は康臣と違って、楽器から離れ、別の人生を選んだ。過ぎた年月を取り戻すことはできない。時の残存物はこうして、錆び、腐食していくだけだ。  瑞穂はそれをケースに再び収め、蓋についた砕ける寸前の金属の爪を封印するように一つ一つかけていった。  押入れに入れようと両手でケースを持ち上げると、中でもう一度、弦が鳴った。今度はピッチカートではなかった。微風のように優しく、短く、弓で弾く音がした。  聞こえるはずのない音を感知しているのが、鼓膜なのか、脳の聴覚中枢か、それとも心という抽象的器官なのか、瑞穂にはわからない。      6  終業式の二日後、所属していた音楽教育研究会に出席するために、瑞穂は甲府に行った。この時期の研究会は、毎年、関東甲信越地区の幹事校のある地域で開催され、今年の会場は甲府だった。  研究会初日は、駅から二十分ほどのところにある多目的ホールで、全体会が行なわれていた。 「学校五日制のもとで、教科指導としての音楽が削られる危機にあるが、我々はどう対処すべきか」という問題を提起した代表校の教師の開会の挨拶から、すでに大会は熱を帯びていた。  最初の研究発表は、東京都内の小学校だった。女性教師が、会場のスクリーンに授業風景のビデオを流しながら報告を始める。  従来の技能、知識中心の指導ではなく、児童の創造性を引き出す音作りはどうあるべきか。それ以前に創造性とはどういうものか。自分の学校ではどのような指導をし、どのような成果を収めたか。  スクリーンの中で、その女性教師は子供にペットボトルを叩かせる。一本の木綿糸を弾かせる。やがてピアノの鍵盤の上に、子供を腰掛けさせる。不協和音が響いた。 「さあ、音がしました。どんな感じですか。それでは今度は、げんこつで叩いてみましょう。さあどうですか」  若い教師の張りのある声が響く。  スクリーンの上に繰り広げられる光景に抵抗を感じ、瑞穂は目を閉じた。子供の尻によって叩かれた鍵盤の不協和音が会場内に響き渡った瞬間、胸の痛みと吐き気で気が遠くなりそうになった。  創造性を引き出す指導とはいかなるものか、などという理屈の問題ではない。音楽以前の音と、濁った音に生理が反応したのだった。わずかの期間であれ、演奏家を目指した頃の感性が未だに体の中に息づいている。続いていくつかのケースが報告され、質疑応答が始まる。  しかし瑞穂の耳は、教員達の熱っぽいやりとりを、聞いてはいなかった。この一年あまり、この研究会への興味を急速に失っていた。しかし昨年から瑞穂は委員になっていて、途中で放り出すわけにはいかない。  何年も現場で同じ仕事をしていると、ついつい惰性に流れると思えば、研究会もそれなりに意味がある。それは認めるが、尻でピアノを弾かせる女性教諭の発表を聞くまでもなく、こうしていると何かが違うという気がするのだ。  堪え難く、憂鬱な気分だった。それはこの研究会に対するものだけではない。教師という仕事、そして家庭……。自分の人生そのものに、こんなはずではなかったという苦い悔恨を感じる。  更年期障害の鬱症状でも始まったのか、それとも単なる疲労かと頭を背もたれに預け、仰《の》け反《ぞ》るようにして天井に目をやる。  瞼を閉じると、きらきらと光る子供達の目が浮かぶ。  生意気盛りの二十歳の頃、子供などというものは天使ではない、と会う人ごとに言っていたものだが、何年も現場にいるとやはり子供は天使に見えてくる。  自分の子供ができて、育ててみればなおさらだ。マスコミが歪んだ子供達をもてはやし、小説やドラマが子供の残酷さや醒めた感性を拡大して見せ物にしようと、彼らの小さな魂は、やはりいつの時代も無垢で、柔らかく、素直な感受性に富んでいる。音楽の教師だからこそ見えることだった。  どの子も音楽が好き……音楽は人の心を開いてくれる……音楽は……。  嘘だ。何もかも。  不意に、にっこり笑っていた顔の筋肉がひきつれてくるような感覚に見舞われた。精一杯テンションを高め、ことさら元気に子供や家族と接している自分の姿が、薄い皮膚を隔てて剥離《はくり》していく。  淡い闇の中で、手足を折り畳み、とり残されたようにぼんやりしている自分の姿が見える。出口がない。情熱などありはしない。時だけが流れて、体は確実に老いに向かっていく。気力をかきあつめ、もっと明るく、もっと生き生きと、と自分自身を叱咤《しつた》しながら。  耳の奥でカノンが、低い音で鳴り始めた。瑞穂は耳を澄ませ、幻聴とも記憶ともつかぬその一音一音を聴く。旋律が心を揺さぶり、涙が滲んできた。康臣の姿も夏の日の光景も、何一つ心に浮かぶものはない。ただ、その音が涙をこぼれさせる。  一昨日あたりからだろうか。初めはごく小さな音だった。夕暮時の雑踏や高速道路下の商店街を歩いていると、トラックの排気音やクラクション、店員の呼び込みの声、雑貨屋の店先から流れてくる有線放送の演歌の歌声に混じって、小さく弦楽器の鳴っているのが聞こえた。注意を向けると反対に消えてしまうようなものだった。しかしそれは次第に雑多な音から浮かび上がり、一定の旋律と音程を形成し始めたのだ。  康臣のヴァイオリンで頭から弾かれたカノンだった。しばらく消えていたかと思うと唐突に鳴り出す。演奏時間にしてせいぜい五分のカノンの旋律がどこかでつながり、メビウスの帯のように、たわみ、ねじれて、終わることなく鳴り続ける。  この日の朝、夫を送り出した後、デイパックを足元に置いて台所のテーブルで電車の時間を確認していると、巧が言った。 「お母さん、何聴いてるの?」と。  驚いて時刻表から目を上げると、巧は「耳、ぴくぴくしているよ」と言う。 「耳、ぴくぴくはないでしょう。犬じゃあるまいし」と笑って見せたが、確かにあのとき、耳の奥でカノンが鳴っていたのだ。 「お母さん、家、出ていっちゃうの?」  瑞穂の顔をじっと見つめ、巧は突然尋ねた。 「何、言ってるの」  瑞穂は戸惑った。 「別に」とテーブルに両肘をついたまま、巧は視線を逸らせる。 「お父さんが何か言ってた?」  巧はかぶりを振る。 「変だもん」 「何が変。香水臭い?」 「なんとなく変。清水んとこのおばさんね、ちょっと変だったんだよ。僕達遊びに行ったらケーキ出してくれたり。それに急にパソコンとか買ってくれたんだって。そうしたら家出しちゃったんだ。塾では入院したことになってるんだけど、本当は千葉の方の男の人んとこに行ったんだって。だれにも言っちゃだめだよ。口止めされてるんだから」  最近母親が失踪した、塾の友達の話だ。 「お母さんは、タッ君にパソコンなんか買ってあげないわよ。安心しなさい」と時計を見た。出かける時間になっていた。 「でも変だもん」  巧はあらぬ方向を向いたまま、独り言のように言った。  耳がぴくぴくしている、何か変だ、香水臭い……。子供の勘の鋭さに驚かされ、巧の様子が気になりながら、瑞穂は家を出てきたのだった。  舞台上のスクリーンに、児童が映し出され、軽快なビブラホーンの音が聞こえてくる。現実の音が、幻のヴァイオリンの奏でるカノンに重なる。  こめかみのあたりが痛み出し、瑞穂は座席を立った。  洗面所で頭痛止めを飲んでいると、「気分が悪いんですか」と事務局の女性が声をかけてきた。 「どうも体調を崩してまして」と答えると、相手は少し待っているように言い、どこかに行った。まもなく戻ってくると、「午後の部は録音してテープを貸してあげますから、控室で休んでいたらどうですか?」と言う。  瑞穂は少しの間迷ったが、礼を言って辞退した。 「こっちの頭が混乱してるから、ありもしない康臣の姿を見るし、妙な気分になる……つまり何か不思議なことが起きたり、変なものを見たりというのは、こちらにそういう素地があるから……僕達の精神状態に問題があるってことだ」  正寛はそう言った。確かに康臣の死からか、あのテープを聴いてからか、心の羅針盤が、少しずつ狂ってきているような気がする。  しかし先程会場で味わった閉塞感は、この一年あまり続いていることで、康臣の死とは関係ない。  バッグの中の健康保険証を取り出す。医者にかかるとすれば耳鼻科ではなく神経科だろうか。  仮にすべての原因を自分の心の状態に求めたにせよ、謎は残る。  康臣はなぜ自分に、あれを残したのか。なぜ、あんな不自然な死に方をしたのか、そして彼の死の直接の動機は何だったのか。肝心のことは何一つ、わかっていない。  夜明け前の廊下で、ヴァイオリンを弾いていた康臣、その背に見えた身震いするほどの孤独感……。  彼は何かを伝えたいのではないのか、それを解明してやることによってしか、彼を彼岸に解き放ってやる方法はないのではないか、そんなことを思いながらデイパックを背負い直し、瑞穂は会場を出た。  日盛りの中を駅に向かう。夏の盆地の暑さは焼けた鍋底を思わせる。汗を拭きながら歩いていると、耳の奥のヴァイオリンは少しばかりディミヌエンドした。  駅について、有助のいる信用金庫に電話をした。康臣の遺品や昔の写真があれば見せてもらえないだろうか、と申し出ると、有助は、かまわないが何かあったのか、と心配気に尋ねた。何とも説明のしようがなく、瑞穂は言葉を濁した。  有助は、自分は今、ボーナス期で仕事が忙しく、家に帰るのが遅くなるので、妻の福美に見せてもらうように、と大糸線の島内にある自宅の住所を詳しく教えてくれた。  礼を言って電話を切り、デパート前の路上で売っていた桃を十二個買った。ずしりと重たい包みを両腕に抱えて再び駅に戻り、東京と反対方向の特急に乗る。  車内は空いていた。冷房が効きすぎて寒いくらいだ。車窓から流れていく風景を見ていると、いくぶん気分が良くなった。デイパックから折り畳み式ナイフを取り出し、先程買った桃の一つをむいて食べた。  甲府を出て、二時間ほどで松本に着いた。そこから信濃大町行きに乗り換え、二つ目が島内駅だった。  有助の家は、駅から歩いて五、六分のところにある真新しい団地だ。  チャイムを鳴らすと、相手を確かめるでもなくすぐにドアが開いた。化粧も薄くふっくらした頬の若い女が顔を出した。 「どうぞ、散らかってるんですが。主人から、話、聞いてますので」  有助の妻、福美だ。そばかすの浮いた頬で微笑み、彼女は瑞穂を部屋に上げる。甘酸っぱい乳の匂いが漂っている。  広々とした和室の真ん中のベビーベッドで、赤ん坊が眠っていた。 「三ヵ月くらい?」と起こさないように、声をひそめて尋ねると、福美は人なつこい笑みを瞳いっぱいに浮かべてうなずいた。  ベッドの上に頭を並べて覗き込んでいると、福美に初対面とは思えない親しみを感じた。赤ん坊一人で、なぜこれほど人間の気持ちは和むのだろう、といつも不思議な感慨を覚える。かつて巧にもこんな時代があった。二十年前の大過去に対し、それは小過去と呼ぶべきものだ。  人の一生は、過ぎ去った時間の総和だ。この湿った甘酸っぱい匂いのする家に有助が帰ってくる。自分の家庭もそして正寛のところも、こうした時期を経てきた。康臣だけが、時という潮から取り残された。瑞穂は潮の引いた浅瀬で、いつまでも背ビレを半分出して同じところを回り続ける魚の姿を思い浮かべ、何とも無残な気がした。  お茶をいれるという有助の妻を追って、瑞穂はダイニングに入り、調味料や食べ残しの佃煮が雑然と置かれたテーブルの上に、甲府で買ってきた抱えきれないほどの桃を置いた。 「え、まあ、いいんですか。おいしそう」  妻は、こちらが戸惑うほどの歓声を上げた。福美というのはめずらしい名前だが、彼女にはふさわしい。有助の年に似合わぬ安定感は、この人によってもたらされるものだろうか、と瑞穂は思う。  康臣の遺品は、ダイニングの隣にある洋間に用意されていた。段ボール箱に、封筒やらミニスコアやらが、乱雑に突っ込んである。 「ずっとバタバタしてて、私も中、見てないんです」  福美は言い訳するでもなく言った後、ちょっと顔を曇らせた。 「お義兄《にい》さんも若いのに、かわいそうでしたね。だれかいい人とめぐり合っていれば、ちゃんと働いてたかもしれないのに。奥さんや子供がいるから男の人って辛い仕事にも耐えられるんですものね」  瑞穂はうなずいた。 「あなたのような奥さんがそばにいたら、香西さんもああいう人生は送らなかったでしょうね」 「お義兄さん、理想が高かったから」と福美は首を振り、それから「何か、お友達同士でお義兄さんのことを偲んでくださるんですか?」と尋ねた。 「え……ええ」  瑞穂はちょっとうろたえた。もっともらしい理由を探していると、福美は言葉を続けた。 「他に本が四千冊もあったんですけど、主人が図書館に寄付しちゃったんです。多くの人が読んでくれた方が、お義兄さんも喜んでくれるだろうって。ちょっと私には難しすぎて、何が何だかわからない本ばっかりでしたけど」  福美は、箱の中からアルバムを取り出す。小学校から高校までの卒業アルバムだ。 「お義兄さん、自分の写真をみんな焼いちゃったんです。何か考えるところがあったんでしょうけど、残された家族にしてみると淋しいですよね。思い出をたどろうと思っても、何もないんですもの。お葬式のときにも、適当な写真がなくって、うちの人、苦労してたみたい。でもこれだけは、お義母さんが大事にとっておいたんで残ってたんですよ」と福美は、アルバムを瑞穂の前に揃えた。 「ごゆっくり」と福美は部屋を出ていき、瑞穂は遺品の一つ一つに目を通す。多くは本と同様処分されたらしく、これといってめずらしいものはない。使いかけの文具に汚れがほとんどないというのが、康臣らしい。  縁の擦り切れたミニスコアが一冊、底の方から出てきた。チャイコフスキーの「偉大な芸術家の思い出」だ。それの第二楽章の中程が、いきなり開いた。しおり代わりに写真が挟まっていたのだ。それを引き抜いたとたん、自分のこめかみの脈打つ音がはっきり聞こえた。  スナップ写真だった。ずいぶん古いものらしく、カラー写真の色が飛んでいる。どこかの屋上の手摺りにもたれて、八人の若者が写っている。中央にいる一人は、馴染んだ顔だ。他の人々より、頭一つ背が高く、彫りが深く、屈託のない明るい視線をファインダーに向けている。そして右から二番目にいるのは、おそらく懐かしい顔なのだろうが、その顔はなかった。  先の尖ったもの、コンパスの針か何かで、突きつぶされている。よほど執拗に突いたのだろう、けば立った面は穴があく寸前だ。すっかり黄ばんだ様子から、康臣が自分の顔をつぶしたのが、ずいぶん昔であったことがわかる。多感で過剰な自意識に悩む青春時代には、だれでも自己嫌悪にかられたりするものだが、そんなときには写真を捨てるか焼くかするものだ。  自分の机にこれを置き、スタンドの光の下で、飽きることもなくコンパスの針を上下させる若い康臣の姿を想像し、瑞穂は悪寒とともに痛ましさを覚えた。少しの間忘れていた、カノンの旋律を持った耳鳴りがまた始まった。  女の顔に気づいたのは、そのつぶされた顔への衝撃が少しおさまってからだった。  八人のうち、二人が女だ。男達は、ワイシャツにコットンパンツやジーンズをはいており、女二人も、やはり上はワイシャツ、下はミニスカートだ。学園紛争が一段落した後、公立高校から制服が消えた時期があったが、この写真はその当時のものだ。  場所は校舎の屋上だろう。  彼女達は、鍛え上げられた美しい足をしていた。少女から女への過渡期に独特の、力強く量感のある体つきだ。あの頃、ミニスカートはファッションでも何でもなく、子供から中年女性までがはく日常着だった。そうしてみるとその服装はかなり地味な部類に入る。いかにも地方の進学校の生徒という感じである。  にもかかわらず、そのうち一人は息を呑むほどに清冽な美貌を見せていた。日に輝く峻険な雪の峰を思わせる、近寄りがたい気品と気難しさをたたえた顔だった。周りの男達と変わらぬ背丈、広く秀でた額と思慮深げな目。真ん中で分けた髪は、柔らかに肩に垂れていたが、鋭利で硬質な雰囲気を少しもそこなっていない。  自分の写真を処分したという康臣が、この写真だけをとっておいた理由はおそらくこの彼女が写っているせいなのだろう。お気にいりの曲のミニスコアに忍ばせ、何度となく開いて見ていた青春時代の康臣の姿が見えるような気がした。  ナスターシャは、君と似ていた。君よりずっと背が高かったが。  昔、正寛はそう言った。自分の評価に関わる言葉というのは、長い時を隔てても記憶に留まるものだ。しかしこの写真の中の女子生徒は自分とは似ても似つかないと、瑞穂には感じられた。あるいは、二十年前の自分は、正寛の目にはこんな風に映ったのだろうか。  二十年前の瑞穂を正寛は梨の花に形容したが、この彼女には梨の可憐さの代わりに、百合のもつ直線的な香気がある。そういえば梨は甘い果実をつけるが、百合は花が散った後、形ばかりの実をつけるだけだ。  次に瑞穂は高校の卒業アルバムを広げた。  集合写真の中に、康臣がいた。理系、文系に学級分けされていたのか、彼のクラスは男だけだ。別のクラスに正寛とナスターシャの顔がある。ワイシャツの第一ボタンまでかけ、くっきり影を刻んだ彫りの深い顔をこちらに向けたナスターシャは、彫像のようなりりしさだ。  写真の上にかぶせた薄い和紙に印刷された名前を見る。ナスターシャの名は「岡宏子」とあった。媚びも、甘い響きも、際立った知性も、華やかさも、何も感じさせない、なんとも平凡な名前だった。にもかかわらず写真の彼女のイメージそのものだ。  瑞穂は手帳に、その名前を書き込んだ。昼に飲んだ鎮痛剤の効き目が切れてきたのだろう。うつむいていると、こみかみが脈打つたびに痛んだ。  片手で自分の頭を叩きながら、瑞穂は立ち上がった。ここまで来てわかったのは、ナスターシャの本名とその顔だけだ。彼女の死と康臣との関わりについては、あの一枚の写真に雰囲気として痕跡を残してはいても、事実関係はわからない。瑞穂は薄紙に印刷された、クラス担任の名前を書き取った。「小澤辰郎」とあった。  アルバム類を再びきっちりと段ボール箱に詰めた後、瑞穂はその部屋を出た。福美が「まもなく主人が帰ってきますから」と引き止めるのを丁重に断り、その家をあとにした。  松本駅で新宿行きの特急を待つ間に、康臣の出身高校の電話番号を調べ、電話をかける。しかし岡宏子のかつてのクラス担任、小澤の消息については、電話口に出た事務員は知らなかった。とうに異動しているし、今は夏休み中で、他の職員もいないのでわからない、という。  時計を見ると、五時少し前だ。すぐに長野県の教育委員会事務局に電話をした。しばらく待たされた後、小澤はあれ以降、県内の高校を四校回った後に定年退職し、現在塩尻市内にある郷土博物館の館長になっていることがわかった。  列車が出るまで五分ある。少し迷ってから、博物館に電話をすると、しわがれた男の声が出た。館長の小澤だった。瑞穂は、早口で自分の名前と、現在東京の小学校で教員をしていることを伝えた後、学生時代の友人が亡くなったので、そのことを友人の旧友に報せたいと話した。 「たまたま高校時代に親しくしていた方で、岡宏子さん、とおっしゃる方がいらっしゃったそうで、もしご存じでしたら、ご住所など教えていただければと思いまして」 「どちらの小学校か、もう一度お願いします」  相手は丁寧だが、いささか事務的な調子で尋ねた。瑞穂がもう一度、勤め先の学校名を言うと、今、手が離せないのでこちらから連絡する、と言って、一方的に電話を切ってしまった。  ちょうどあずさ号が、ホームに滑り込んできたところだった。  小澤からの電話が学校の事務室にかかってきたのは、翌日の午前中、夏休みのクラブ指導のために、瑞穂が出勤したときだった。  人の住所などというものは、問われたからといってやたらに他人に教えるべきものではない。彼は瑞穂の勤務先と身分に偽りがないかどうか、電話番号を調べて学校に確認してきたらしい。 「遅くなって申し訳ありません」と小澤はまず謝ってから、「実は、ご連絡なさりたいということなので、ちょっと当たってみたのですが、だれも知らないということでして」と言う。 「それはお手数をおかけしまして」と礼を述べてから、瑞穂は尋ねた。 「で、どんな方だったのでしょう。その……亡くなった友人がときおり話してくれたもので」 「岡さんのことは、よく覚えています。私が受け持った中でも、一番、印象深い生徒です」という言葉がすぐに返ってきた。 「印象深い、というと」 「並はずれて優秀で、何事にも熱心に取り組む生徒でした。しかし残念なことに、住所はわかりません。卒業して二年目までは年賀状や暑中見舞いなど節目節目に、連絡をくれたのですが、三年目あたりに、ふっつりと途絶えまして。彼女の父親は外務官僚なんです。そんなわけで、高校二年の終わり頃でしたか、岡さん一人を残して、一家でマレーシアに渡ったんですが。いや、何一つ、心配ない子でした。非行にはもとより無縁でしたし、身辺は一人ですべてできて、受験をすれば国立一期校は間違いなしでしたが、本人の希望で東京のカトリック系大学に推薦入学しました」 「三年目に、連絡が途絶えたんですか」  瑞穂は確認した。 「いえ、三年目かどうか、はっきりは覚えていませんが、あ、今年は年賀状が来ないな、と思ったことがありまして、それがその頃か、と……」 「あの……」  瑞穂は口ごもった。 「実は岡さんがずいぶん前に亡くなった、とおっしゃる方がいましてね」 「本当ですか」  しばらく絶句した後、小澤は「そう言えば……」と独り言のように言った。 「何か心当たりでも」 「いえ、あのもしかして、その亡くなったというのは、内ゲバか何かだったのですか?」 「内ゲバ?」  慎重に言葉を選んで、瑞穂は言った。 「自殺されたのではないか、と聞いています。ただ、はっきりした話ではないんで、もしご健在なら、大変、失礼な話ですので。で、その内ゲバというのは?」 「いえ、岡さんの前に卒業された子供達が、まだときおり同窓会などやってましてね。その中で岡さんと同じ大学に行った子がいまして、なんでも岡さんが、熱心な活動家になっているという話をしていたので。妙だなと思ったんで覚えているんですがね。高校時代の彼女は、そんな様子はまったくありませんでしたし、学園闘争は静まっていた時期でしたから。自殺したというのは、どなたから?」 「いえ、ただの噂というのか、ちょっと小耳に挟んだだけですので」 「確かに消息が知れないということで、話題になってましたので、もしや、という気はしますね」と小澤は少し考え込むように間をおいて続けた。 「卒業後、地元に残った子供達は、けっこう連絡を取り合ったりしているんですが、時が経つにつれて、結婚したり引っ越したりで、消息がわからなくなる人がいるんですね。名簿に記載されているのは名前だけ、なんてこともあって、担任として淋しい限りなんですが。それで岡さんの場合、なんというか男子生徒の多い田舎の高校ではマドンナだったわけですよ。それで同窓会のたびに話題に上ってました。それが大学に入って、活動家になってしまって、そのうち学内で見なくなった、ということでして。あれは、彼らが大学を卒業する年だったか、その前だったか……。だれかが岡宏子とこっち、つまり松本で会ったとか会わないとか言い出して、そうしたら二、三人、俺も会った、俺も会った、なんて話になりましてね。大学を中退したか何かして、戻って来てたんでしょうか。何か、高校時代と少しばかり様子が変わっていたとか。まあ、当然なんですがね。中学から二十歳過ぎまでが、人間、一番変わる時期ですから。でもそれからまた、ふっつり姿を消してしまったらしく、以来だれも岡さんを見てないんです。東京に出た連中に聞いても、だれも彼女の消息を知らないと言うし。噂はいろいろありましたよ。過激派に入って地下に潜ったとか、パレスチナに行って向こうの男と結婚したとか、アイルランド紛争のときに、爆弾で亡くなった日本女性がいて、それが岡さんだったとか」 「アイルランドですか?」 「いえ、何も根拠はないですよ」  確かにあの写真の中の岡宏子には、美貌の女性革命家といった雰囲気があった。そしてその美貌の革命家には常に悲劇のイメージがつきまとう。場所は中東かヨーロッパがふさわしい。アイルランドで爆死というのは、あの写真で見たかぎり、岡宏子のイメージにぴったり合っていた。 「実は、最近亡くなったというのは、やはり同窓生の方なんです。香西康臣さんという名前の」 「はあ……」  小澤は記憶をたどろうとしているらしく、少しばかりの沈黙があった。 「名前は覚えていますが、たぶん他のクラスなんでしょう。ちょっと顔までは思い出せないんで」 「先生のクラスにいた小田嶋正寛さんと親しくしていたようで」 「ああ、小田嶋君ですか。あれ、一浪して東大、入ったんですよ。在学中だか、卒業してすぐだか、とにかくすんなり司法試験を通って、今国際弁護士ですって? うちのクラスじゃ出世頭です」 「同窓会には、彼は始終顔を出しているんですか?」 「いや」と相手は答えた。 「けしからんことに、卒業して三年目あたりから、一度も来たことがないんです。年賀状一本よこさなくなりましたね。あ、これも岡さんといっしょか。どうも三年目っていうのは節目ですね。まあ、彼の場合、忙しいんでしょうから仕方ありませんね。うちのクラスでもけっこう人望があったんですが、実は、東京に行った連中とも、まったくつきあいがないって話なので、少し意外な気がしてたんですよ。偉くなったんで、我々とはつきあっていられないんだ、なんてみんなひがみ半分で言ってますが」  瑞穂も小澤同様、意外な気がしていた。何事にもそつのない正寛が、そうしたつきあいを一切絶っているのは不自然だ。彼の発想からすれば、かつての受験校の仲間は貴重な人脈であるはずだ。  そして岡宏子が消息を絶った時期と前後して、彼はかつてのクラスメートや担任の教師と縁を切っている。このことは何か相互に関連があるのか。あるいはかつての仲間と正寛との間で、なにかよほど気まずいことでもあったのか。それとも古い仲間とのつきあいは、三年が限度と正寛が考えているのか。  瑞穂は時間を取らせたことを詫びて、電話を切った。  とにかく康臣が過去に愛した人の消息を、高校時代の仲間はだれも知らないということだけはわかった。正寛の言うように、死んでいるのかもしれない。それもかなり昔に。ただし、高校卒業後、二、三年は生きていた。  彼女が、奥山の言う「康臣が殺した女」なのか。あるいは、自殺したのか。彼女の死と康臣の自殺は関係があるのか。釈然としない思いだけが残った。  その日、仕事を終えて家に帰ってきたとたん、電話が鳴った。受話器を取り上げようとして気づいた。留守電モードの緑のランプがせわしなく点滅している。外出の間に、何度も電話が入っていたのだ。  受話器を取ると、男の荒い息遣いが聞こえてきた。「ばか」と思わず洩らした。メッセージのいくつかは、これなのだろう。そのまま電話を切ろうとした瞬間「もしもし」という、かすれた男の声がした。  ひどく苦しげでろれつの回らない声だ。なにか助けを求めている。 「もしもし、もしもし、どうしたのですか、あなた、だれなんですか」 「……です」  何か聞こえた。 「オ・ダ・ジ・マ」  相手は繰り返した。 「どういうこと……」  とっさにだれだかわからないほど、正寛の高く、明るく、明晰な声の調子は、変わっていた。 「どうしたの、何かあったの?」  正寛は答えない。 「もしかすると、酔っているの?」  荒い息遣いだけが答えた。瑞穂は息を呑んだ。荒い息遣いの背後からごく小さく、低く、ヴァイオリンが鳴っているのが聞こえてきた。 「しっかりして」  震える声で瑞穂は言った。 「まず、そのテープを消して。いい、ただの気分なのよ。その音楽で起きる気分。冷静になって、いつもの小田嶋さんのように」 「テープのせいじゃないよ。たかが、音楽じゃないか……」  遮るように正寛が答えた。 「とにかく消して」 「消してどうにかなるものでもないだろ」  不自然なイントネーションだ。  何かが起きた。異変をまき起こしたのは、康臣か、それともあの彼女、ナスターシャか、あるいは正寛自身なのか?  何が起きても、正寛は家族にも他の人間にも助けを求めることができない。人に弱みを一切見せずに過ごしてきた男の悲しさだ。プライドと義務感ともろもろの無意味な信条が重たい鱗《うろこ》のように幾重にも心を覆い、身動きできなくなっている。合理的に説明できない現象におののき、相談できる相手もいないまま、正寛は自分で自分の神経を削っている。 「ね、会える?」  瑞穂は言った。 「ちょっと、会って話しましょう。お茶の水の聖橋《ひじりばし》はどう? おたくから近いでしょう」 「会ってどうするんだ」 「対策を立てるのよ、お互い。だから電話してきたんでしょ」  吐息が聞こえてきた。 「じゃあ、すぐに家を出るから。お茶の水の聖橋。わかった? お願いだから、あなたまで変なまねはしないで」  受話器を下ろすと瑞穂は、学校から戻ってきたそのままの格好でバッグをひっつかみ家を飛び出した。  巧は、サマーキャンプの説明会で当分帰ってこない。夫は、プール指導に出かけたままだ。  夕暮の迫った御茶ノ水駅で降りたのは、三十分後だった。指定した場所に行き、緑に淀んだ神田川の水面を覗き込んでいると、背後でクラクションが鳴った。  振り返ると白のローレルが止まっている。助手席のドアが開き、正寛の顔が覗いた。何も変わったところはない。瑞穂と視線を合わせたとたん、屈託のない笑みを見せた。  変わったところは何一つない。しかし、先程の電話から一転して、笑みを浮かべていること自体がおかしいのだ。屈託のない表情は、まさに彼の仮面かもしれない。意識して顔の表層に作り上げた仮面ではない。彼という人格がしっかりと被った仮面。  後ろの車がクラクションを鳴らした。瑞穂は滑り込むように助手席に入って腰掛け、乱暴にドアを閉めた。 「さっきはどうしたっていうの。飲んでたの?」  素早くシートベルトを締める。しかし正寛は少しも酒臭くなかった。 「会いたかった」  平静な顔で言った。「それでは契約書、拝見します」と言うときと変わりないような平坦な調子だ。 「なぜ?」 「理由が必要なのか?」  何と返事をしたらいいものか、正寛が正気なのかどうかさえ、わからない。沈黙を乗せたまま、車は本郷通りを南下し首都高速に乗る。 「どこへ行くの」 「わからない」 「らしくないわね」  まず目的地を定め、それから迷いなくそこを目指すのが、彼のやり方だったはずだ。正寛は表情を変えずに、ハンドルを握っている。 「何があったの?」 「仕事が一つ終わった。四時間ほど前に成田に着いた」 「海外の仕事だったの?」 「そう、オーランド」 「特許か何かの関係?」 「ダンピング。数年ぶりの大型提訴だ。アメリカの鉄鋼会社四社が、日本企業の作ってる特殊鋼についてダンピングの疑いあり、とやってくれた。今までのように、個々の企業の商戦に留まってればまだいいが、今回は、場合によっては産業構造の転換を迫られる。負けられなかった。何があっても」 「それで……」と瑞穂は正寛の横顔を眺めた。 「負けたのね」  級友の自殺に続いて、仕事の失敗。挫折を知らない男が初めて経験する試練のとき。 「勝ったよ」  沈んだ調子で、正寛が言った。 「え……」 「勝った」  今度ははっきり聞こえた。 「判決で勝っても、納得のいかない条件がついた、とか」 「いや、全面勝訴」 「じゃ、どうして?」  車は、オレンジ色のライトで照らされたトンネルを抜け、正寛の指がCDプレイヤーのボタンに触れた。  バッハが流れ出した。瑞穂は体を堅くした。 「これ、『フーガの技法』? 香西君の残したカノンの入っている」  正寛は微笑んだ。 「君は本当に何も覚えてないのか?」 「だれの演奏」 「ヴィンシャーマンの指揮で、『音楽の捧げ物』だよ。確かにプロの演奏だけに、僕達の弾いたのとは違う曲に聞こえるよな」 「僕達って?」 「『音楽の捧げ物』の中にある、三声のフーガだよ。あの合宿で演奏しただろう。僕がぜんぜん弾けなくて。君は何も覚えていないらしいが、僕は忘れてはいない」 「覚えているわ。ただ、曲名までは思い出せなかったのよ」 「今でも、少しくらいは弾いたりしてるんだろう、チェロは」  正寛は尋ねた。 「いえ、触ってもいない」 「嘘だろ。あんなにうまかったのに。康臣と同じくらいか、それ以上」  瑞穂は笑って首を振った。 「生活に追われてるとね」 「確かに、それどころじゃないだろうな。仕事してて子供がいれば」  車は中央高速に入った。 「ちょっと、待って」  瑞穂は正寛の左肩に手をかけた。 「松本へ行く気なの?」 「かもしれない」 「やめて。私、家に何も言ってこなかったんだから」  正寛は無言でアクセルを踏み込んだ。普段なら、どこかで渋滞するはずだが、この日に限ってスムーズに走る。 「ねえ、テープのことを調べに行くなら、別の日にして。前もって言ってくれればちゃんと一日、時間を空けるから。わかるでしょう。夏休みとはいっても仕事があるのよ」  車はスピードを上げる。  三鷹を越え、府中を過ぎ、八王子インターが見えても、車はなお走り続けていた。瑞穂はたまりかねて叫んだ。 「冗談はここまで。戻ってちょうだい。私、家族に何も言ってないのよ。夕飯を作らなきゃ」  正寛は、声を立てずに笑った。 「何か、植物みたいだな。春に花芽をつけ、初夏に開花し、夏の間中青い実を育み、秋に大きな実をつける。決して花の時期を懐かしんだりしない。流れ続ける時のその真上に、しっかりと座を占めてるというのは、立派だよ」  ようやく気づいた。  正寛は、テープについて調べに松本に向かっているわけではない。彼は二十年前の時と出会おうとしているのだ。  しかし逃げ出したくなるほど辛い現実が、彼の前にあるようには見えない。大きな仕事を成功させた、とたった今、語ったばかりなのだ。 「なぜ、戻ろうとするの。後ろ向きの発想は、嫌いなはずでしょう」  八王子インターの第一出口を通過した。そのまま市街地に出る第二出口も通過した。 「下りてって言ってるでしょう」 「無理だよ。高速道路はUターン禁止だ」 「わかった。次で必ず下りて」  車は小仏トンネルに入った。カーブした内部に、ナトリウム灯が規則正しく並んでいる。その光を浴びて、隣にいる正寛の頬は、乾いたコンクリートの色をしている。 「小学生の頃、タイムトンネルなんていう、テレビ番組があったのを覚えているかい? ちょうどこんなチューブだったね」 「私達は、ここを通り抜けても、平成七年の夏のままよ」  瑞穂は、ことさら平静な声色で答えた。それと裏腹に、心はナトリウム灯の光の向こうに引きつけられていた。  相模湖インターから湖畔の駐車場に下りたのは、二十分後だった。  スナックや土産物屋が、ぽつりぽつりと軒を並べる国道を、バイクがときおり爆音を立てて走り去っていく。  山々に取り囲まれた人造湖は、森閑として闇の底に横たわっている。 「似ているな」  車から降りて、湖縁のガードレールに手をかけて正寛はつぶやくように言った。 「何に?」 「青木湖」 「ぜんぜん違うじゃないの」  昼間見れば、遊覧船をいくつも浮かべたこの首都圏の水瓶と信州の湖とは、似ても似つかない。  二十年前、あの湖は不気味なほどに静まりかえり、瑠璃色の湖面は水ではなく何か硬質な物体を流し込んだかのように、わずかの揺らぎもなかった。透明な大気を通して降り注ぐ太陽の光は、すべてのものの影を真っ黒に塗りつぶしていた。記憶の中の情景は、その光に焼かれたように細かな部分が失われている。にもかかわらずその明るさと透明さの底に感じた漠然とした不安だけは思い出すことができた。  その場を訪れた後、二人の男がなにか秘密めいた視線のやりとりをして、瑞穂を切り離した。 「ね、お母さんの具合、最近、どうなの?」  遡っていく気持ちを現実に引き戻すように、瑞穂は今、小田嶋家が直面している問題を口にした。考えてみれば康臣が死ぬごく最近まで、互いの老いた親の事が話題の中心になっていたのだ。 「少し前に肺炎をやって、もうだめだと言われたけど、もったよ。いつ死んでも不思議はないそうだ。ぼけが進んで、僕の顔も妹の顔もわからない。辛うじて美佐子の顔だけがわかる。皮肉なものだよ」 「血はつながっていなくても、一番身近な人なんだもの。病院に行くのも彼女なんでしょ」 「仕事があるから、僕は始終は行っていられない。美佐子の手を握って、『ありがとうございます』と涙を流したかと思えば、『この鬼』と罵《ののし》って突き飛ばそうとしたりするそうだ」 「いろいろあるんでしょうよ、お姑さんとしては」 「見るたびに小さくなっていく。なんだか枯草みたいだ。人間の最後はああしたものかな」  瑞穂は暗い湖を見ている正寛の腕を無言で掴み、車に連れ帰った。  駐車場を出た車は、そのまま甲州街道を少し走り、南側に折れた。  近道でもあるのかと思っているうちに舗装道路は切れ、灯り一つない山道に変わった。  どこへ行くの、という問いを呑み込み、瑞穂はヘッドライトに照らされた荒れた路面を見つめる。  やがて辺りの林が途切れ、ぽっかりと開けた場所に出て道は行き止まりになった。  車止めの向こうの切り立った崖の下に、相模湖の湖面がある。黒い大気の向こうに、対岸の道路の灯りが滲んでいる。  両腕をハンドルに乗せたまま、正寛は目を閉じている。瑞穂はフロントガラスの外に広がる闇に目を凝らしていた。 「ねえ……」  言葉がつながらない。 「真実子ちゃんは……中学校は、公立にするの?」  老親の話の後は、正寛の子供のことに話題を移す。  正寛は答えない。  不安が、体を駆けぬける。二十年間かけて堆積した心の地層が削り取られて、未熟で無防備な感性が、四十を間近にした現実の肉体に戻ってくる。 「帰ろう……」  哀願するように正寛の腕に触れた。 「ねえ、お願いだから帰ろう」 「忘れてはいない」  正寛はくぐもった声で言った。 「何を言ってるの」 「君だって、そうだろう。忘れたつもりでいるだけだ」 「もう、やめて。そういうの」  正寛は顔を上げて、小さく吐息をついた。濃い闇に閉ざされた車内で、その輪郭はわからない。ただ十センチと離れていないところに、体温と重量感を伴って悲しみの気配があった。 「仕事が終わった……。勝訴して、依頼主である企業のトップと弁護団の他のメンバーと祝杯をあげて、その日のうちに成田への直航便に乗ったんだ。日本に戻ってすぐに会議の予定が入っていたから、少しでも眠っておこうと思った。しかし目を閉じたとたん、足元にぽっかり穴が開いたような気分になった。それで飛行機の窓からぼんやり外を眺めていたんだ。青かった。あんなに何もない青さを初めて見た。空無っていうのはあれのことだろう」 「エコノミー席からの眺めは、きっと違うわよ」  遮るように瑞穂は言った。 「会議には出なかった。成田から直行するはずだったが、連絡を入れて他の弁護士に任せた。家の方も、僕がいついなくなってもいいようにした」  瑞穂は、びくりと体を震わせた。 「今、なんて言ったの?」 「………」 「どういうつもり」  正寛は答えない。  隣にいる男の両腕を捕まえ、しっかり握りしめた。 「小田嶋さん、あなたおかしいわ」  おかしいのが正寛だけではないことくらいは、承知している。耳の奥で鳴り出した幻のヴァイオリンがカノンを繰り返している。 「香西君のせいね」 「関係ないよ」  驚くほど冷静な声がして、瑞穂の手を振りほどいた。 「康臣は、関係ない。これは僕自身の問題だ。立ち止まって我に返るときが、遅かれ早かれ必ずくるものだ」  正寛の呼吸が乱れてくる。生温かい息を首筋に感じた。 「僕にとっての過去は、今まで、単に克服すべきものだった。足がかりにして上るためのものが、過去だったんだ。僕は上ってきた。岩を蹴落とし、足元の草をふみにじって、一歩一歩上ってきた。康臣と違って僕は俊足ではない。大キレットに下る急峻な崖を、抜群のバランスとリズム感であいつは走っていった。マイナスの壁をさほど努力もせずに、はばたくように上がっていった。彼の人生はそうだった。羨ましかったよ。しかし憎しみを覚えるには、僕と彼との才能は、かけ離れ過ぎていた。その康臣がやがてつまずき、転がり落ちていくのを横目に見ながら、僕は岩に張りつくようにして登り続けたんだ。ようやくの思いでブッシュを抜け高みにたどり着いたが、展望もなければ、草木一本ない。剃刀《かみそり》の刃のように狭い岩の尾根が延びているだけだ」  正寛は言葉を止めて、湿った笑い声を立てた。瑞穂は耳を両手でふさいだ。正寛の心の内にある亀裂が見えるような気がした。真っ赤に濡れた傷口にも似て、生々しく痛ましかった。 「尾根のその先に、さらに険しい道が延びている。踏みしめるとばらばらとこぼれる岩のガレ場や草一本生えていない砂礫《されき》の斜面ばかりが続く。見えるのは、遥かな岩峰とガスに映る、自分の巨大な影だ。ふと、何か重大なものを置いてきたことに気がついたんだ。それが何かわからないが……その一つは少なくとも」  わずかに言い淀んだ。 「たぶん君だ」  瑞穂は唇を噛みしめ、風で乱れた髪を手さぐりで直す。  泣きたいような熱くやるせない思いが込み上げてくる。それを打ち消すように散文的な口調で瑞穂は言った。 「申し分のない人生じゃない。いい仕事をして、理想的な家庭を持って。お母さんにも、孫の顔を見せてあげられた。これ以上、何を望むの。単純に人生の成功ということを言っているんじゃないのよ。あなたには、あなたを必要としている依頼者と家族がいるのよ。一番の不幸は、人生が自分一人と自分の趣味だけのためにあるということよ」  三十九歳と四ヵ月、平成七年の現在の自分を取り戻そうとするように、瑞穂はつとめて平静に話していた。 「だれだって、こんな時期はあるわ。立ち止まって考える年齢にさしかかっているのよ。そこに香西君が亡くなって、あのテープが残された。私達、香西君が亡くなって、それほど驚いたり悲しんだりしなかったけど、心の奥底では、とってもショックだったんだと思うわ。だから香西君の心情があのカノンに乗って戻ってきたとき、私達の心がそれに共鳴してしまったんじゃないかしら。でもこのまま過去に引き戻されてはいけないわ。こういうときこそ、家族でじっくり話し合って、お互いの迷いを乗り越えていかなくちゃいけないと思うのよ」  その言葉を封じるように、闇の中で吐息が一つ答えた。くぐもった、陰鬱な笑い声が続く。 「君は本気でそう思っているのかい?」  瑞穂は黙りこくった。 「二十年前の美佐子を僕が知らないように、美佐子も二十年前に僕達の間で何があったか知らない」 「知ってて、許しているのかもしれないわ」 「僕はね、人は古い皮を脱ぎ捨て、大きくなっていくものだ、と信じていた。前向きに積極的に生きるというのは、そういうことだと思っていた。過去にとらわれ、怨念やら後悔やらを抱えて生きていくものは、結局は汚れた小さな殻を脱げないまま惨めに一生を終えると信じていた」 「岡宏子も、そうした小さな殻の一つだったの?」  オカヒロコという単語を発したのと同時に、息を呑む気配がした。短い沈黙があった。藪の中から聞こえてくる青松虫の甲高い響きに、耳の奥のヴァイオリンが突然重なった。それが頭蓋の中で共鳴し、割れそうな頭痛が襲ってきた。 「あれから調べたのよ、松本に行って。それであなた達の岡さんへの気持ちがなんとなくわかったわ。香西君が彼女に憧れた理由も」 「わかりはしないよ」  低い声で正寛は言った。 「康臣と岡さんのことは、君は何もわかってない。そうさ、古い皮を脱ぐようには、過去からは逃れられない。康臣はね、自殺する一週間前に、岡さんに出会っているんだ」 「会った?」  瑞穂は驚いて正寛の方へ向き直った。 「二十年も前に死んだ人間にね。僕のところに電話をしてきた。普通の声だった。まるでごく当たり前のことのように、『昨日、渋谷で岡さんに会った』と。病院に行け、と即座に僕は話の腰を折った。忙しかったんだ、本当に。君は前に言ったね、死にたいと思うのと、実行に移すということの間には、大きな壁があると。それを飛び越えさせたのが、岡さんの幻を見てしまったということなんだ。そして僕は知らないうちに、彼の背中を押した。康臣とは、半ば義務感でつきあっていた、この十数年。ドロップアウトした古い友人を見捨てるという、最低の評価を自分自身に下すのがいやだったからだ。評価だよ、客観主義、多次元無数の評価基準で、僕の人格はできあがっている。核なんか、ありはしない」 「そんなことはないわ」 「話したことあったっけ? 僕の叔父は恋人を妊娠させてしまい、大学を中退して二人で故郷に戻ってきた。しかし家でも村でも受け入れられなくて、山に登ってしまったんだよ。秋から春まで二人で麓の山小屋の管理をして、夏は叔父だけ高所の小屋にいて登山客の面倒をみたり、遭難者の救助を手伝ったりしていた。戻ってくるときは大臣か、などと言われて故郷を送り出された男が」  遠い昔聞いた話の輪郭を瑞穂はうっすらと思い出した。正寛と康臣が、ナスターシャを争って山に登ったときの、小屋番のことだ。 「一人の女のために、自分を取り巻く世間的評価のすべてをまとめて都会のゴミ籠に突っ込んで、三千メートルの彼方に隠遁《いんとん》したんだ。立派だったよ、叔父は。それが今になって少しずつわかってきた」 「確かに叔父さんのしたことは、人間として立派なことよ。でも、それはその叔父さんの生き方であって、あなたの生き方ではないわ。あなたを支えてくれたたくさんの人のおかげで、今のあなたがあるのよ。勝手に放棄して別の世界に逃げていくのは許されないじゃない?」 「いい先生だと言われるだろう、君は」  揶揄《やゆ》するでもなく、正寛は言った。 「岡さんに会ったと告げられたとき、僕は康臣に言った。『病院がいやなら、カウンセラーのところはどうだ。僕の知り合いで、有能な人間がいる。これから、彼の電話番号を言うから、すぐに相談してみろ』と。しかし僕は康臣の話なんかろくに聞いてなかったんだ。たわごとにつきあっているひまはなかった。電話を切って会議に出席して事務所に戻ってくると、すぐにそのカリフォルニア帰りのカウンセラーに連絡を取った。僕の古い友人が相談に行くかもしれないが、よろしく頼む、と。それで万全のつもりだった。そういう生き方しかしてこなかったし、こられなかったんだ」  身じろぎもせず、フロントガラスの向こうに広がる闇に瑞穂は目を凝らしていた。 「飛行機の窓から……見えた。青い空だった。青という色さえ存在しないような、すさまじく透明な青だった」  ハンドルに両手を置いて、顔を伏せたまま、正寛はくぐもった声で言った。  問題が起きる。筋道を立てて考える。いくつかの解決方法を提示する。それぞれの長所、短所を整理し、その中から一番適切な方法を選ぶ。正寛の人生を牽引するものは欲望でも情熱でもなく、一連の手法だったのかもしれない。その空虚さが、今、彼の五官をむしばんでいる。 「忘れるのよ。あなたのせいじゃないわ」  瑞穂はその肩に触れ、抱き寄せた。 「康臣は、結局僕の紹介したカウンセラーのところには行かなかった。彼が最後に僕の家まで来たとき、彼が話したのは、音楽のことだけだった。他の話題などなかった。だから彼が死んだ彼女との邂逅《かいこう》を、ああいう形で整理するとは思わなかった。いつもそうだよ。僕は、一番大切なものを置き忘れて、どうでもいいものを手に入れてきた」  正寛は顔を上げた。何か言いかけたのか、闇を透かして、前歯が白く見えた。 「忘れるのよ。一番大切なのは、今のあなた。現実のあなたは、ここにいて、みんなに信頼されて、家族に愛されている。あなたは一人じゃないんだから」  いじめられて音楽準備室に逃げてくる子供を抱きとめるように、瑞穂は正寛の頭を抱いて、汗ばんだ額に頬を寄せた。さわやかで上品な、モスの香りがした。コロンなのか、トニックなのかわからない。いつの頃からか、舶来生地のスーツを着るようになった正寛の身辺から立ち上るようになった香りだった。その香りの奥に、紛れもない、あの頃の青臭い体臭が感じとれた。  冷静さと歳相応の落ち着きを身につけた正寛、明るさと、殺気さえ感じさせるほどの気迫の微妙なバランスの上で揺れ動いていた二十を過ぎたばかりの正寛、そして今、だれにも見せたことのない心細げな表情でうなだれている正寛がいる。 「忘れられないこともある、と言っただろう。整理がつかないこともあるんだよ」 「だれだってそう……」  正寛は首を伸ばし、瑞穂の唇に軽く触れた。肩を抱いてくる力強い腕があった。コロンの香気は飛び去り、正寛という男の肌の匂いと湿った呼気が頬に感じられた。痛みに似た切ない思いが、唐突に戻ってくる。すでに自分には無縁で、枯渇した感情だと信じていたものだった。  瑞穂は正寛の背に腕を回した。シャツのエジプト綿の感触が手のひらの上で溶け、あの日、松本のデパートの屋上で触れた、太陽の光を一杯に吸い込んだTシャツの手ざわりに変わっていく。跳ね返すような正寛の肌が、汗に濡れて熱く脈打っている。  瑞穂はその炎の塊のようなものを抱え込んだ。疼痛に似た純粋な欲望を感じた。  時が遡行している。とうの昔に置き去りにしてきた精神と生理の昂ぶりが、現在という時を侵していく。  吐息が絡み合い、ここ数年何事もなく、平穏に枯れようとしていた器官と心を溶かす。  炎が自分の体を焦がしていく。ぬいぐるみのように燃えていく。焼け焦げながらなお、口元を引き上げ、精一杯生き生きとした声で何かしゃべりつづける彼女自身がいた。その中から、音楽への愛と野心をみなぎらせた自分自身が硬い芯のように姿を現わす。  瑞穂は不自然に体をひねったまま、正寛の熱くしなやかな背を抱きしめていた。  顔をうつむけたとき、頬に異様な感触があった。その質感に思い当たり、瑞穂は息を呑んだ。  冷たく、重い、髪が肌に触れた。自分の髪だった。長くまっすぐな髪がほつれ、頬に落ちてきた。数本混じり始めた白髪をヘアマニキュアで染めたボブカットの髪ではない。  長い髪だった、彼女自身の。柔らかく豊かな乳房と、太い二の腕、目尻に皺の寄るようになった顔。そうしたものが闇の中で溶け、別の何かが正寛を抱いている。  体が苦痛の声を上げた。一瞬後に苦痛の底が柔かく割れて、いとおしさが込み上げてくる。自分が受け入れたものが、正寛なのか、康臣なのか、それとも正寛に乗り移った康臣なのか、あるいは漆黒の闇そのものなのかわからない。こうして正寛の体を抱いている自分自身が、何者なのかも定かでない。  戸惑いながら、瑞穂は懐かしい香りをまつわりつけた、とうに失われたはずの時間と交わっていた。  正寛の腕時計の文字盤が、毒々しい緑色に発光している。光といえばそれだけだった。時刻は午後九時二十分を表示している。体の芯に火照《ほて》りが残っている。  鈍く痛む頭の片隅で、夫と息子のことを考えていた。夕食はどうしたのだろうか。一刻も早く連絡をしなくては心配するだろう。  手元に自動車電話があるが、ここからかける気には、とうていなれない。  闇の中で、身支度を整えている正寛のシャツの生地の擦れ合う乾いた音だけがする。  耳の中のヴァイオリンは、満たされたかのようにしんと黙りこくっていた。  この情景もまた、ヴァイオリンを弾く康臣の姿と同様、幻なのではなかろうか、と瑞穂はふと思った。とらえがたい自分の意識と反対に、下腹部の鈍い痛みだけが、確固たる現実感を持っている。 「どうかした?」  正寛はささやいた。久しぶりに聞く甘い響きがあった。 「なんでもない」と瑞穂は、首を振った。  正寛はイグニッションキーを差し込んだ。  ヘッドライトが緑の木々に反射して車内を照らし出した。淡い緑に浮かび上がっている横顔は静かだ。 「岡宏子とのこと、話そうか」  ぽつりと言った。 「時効だよ。康臣がいなくなった今、僕一人の胸に留めておくのは、少し辛い」 「時効って、もしかして……」  愛していたから、女を殺した、という奥山の言葉は、事実なのか。 「そう、時効。あの夏の事だ」  正寛は目を閉じた。  さほど熱くもないのに自分の額に汗の粒が浮かんでくるのがわかる。こめかみの血管が、脈打っている。 「あの夏……君を青木湖から一人で帰したあの日」  森と蛾と、白いワンピース、肌にまつわりつく湿気を含んだ暖かい夜気。そんなものが、いきなり生々しい感触となってよみがえった。 「あの日、君と別れてから、僕と康臣は下りの大糸線に乗り、糸魚川まで出て、駅から少し離れた浜辺で岡宏子と会った。あらかじめ、約束していたんだ。僕は康臣の行動に危惧を感じていた。だから二人で会うと約束していたところについていったんだ」 「なぜ? 何のために。なぜ、私に隠したの」 「あのとき康臣は追いつめられていた。その一ヵ月前、松本で康臣は彼女に偶然会っていた。試験の最中だったがね」  あのときだ。いきなり康臣が練習室に来なくなった、あの六週間のことだ。 「しかし彼女はもう、ナスターシャでも何でもなかった。高校時代、のぼせあがっていた康臣に指一本触れさせなかった彼女が、そのとき彼女から誘ってきたそうだ。町にある薄汚いホテルで一夜を明かした後、彼女は何と言ったと思う? 一緒に活動しないか、と、康臣を誘ったそうだ」 「活動って、過激派の女性リーダーになっていたのね」  瑞穂は小澤の言葉を思い出していた。  違う、と正寛は短く否定した。 「大地の牙、日本赤軍、中核、第四インター、何でもいい。幻の革命を旗印に、とりあえず目の前の現実を否定しようというものなら、康臣の感性に響くものがあったかもしれない。破壊的であると同時に破滅的なものなら、彼なりに共鳴したかもしれない。仮にナスターシャが、汚いゴムぞうりに破れたジーンズで彼の前に現われたにしても、高校時代とはまた違った恋が生まれたかもしれないが、最大の不幸は、彼女は、堅実で誠実極まる改良主義者になっていたことだ。当時流行の毛語録を片手に、実践論を説いた。暴力主義を批判し、連帯と理解というクサい言葉を連呼した。彼女にしてみればお嬢さんの社会勉強に終わらせるつもりはなかったのだ。大学を中退し、零細な印刷工場の工員になって、乏しい稼ぎのほとんどをセツルメントでの活動費に当てていた。現実的に社会を変えていくための一種の方便などという、どうでもいい言い訳をしながら、代々木に接近することさえしていた。いや主義主張はどうでもいい。ライフスタイルの問題、康臣にしてみれば純粋に生理的に受け入れられるか否か、つまり美意識の範疇《はんちゆう》のことだった。  彼女の匂いが変わってしまった。実はあの年の春、僕も彼女に会っていた。薄汚れて、獣のような目をした活動家になっていたわけではない。少し太って髪をおかっぱにして、男物のシャツにジーンズというこざっぱりした格好をしていた。しかしもう、高校の頃の彼女じゃなかった。にこにことピースマークの笑いを浮かべて、なれなれしく挨拶してきた。僕は康臣とは違うから、それはそれなりに好感を持った。しかし熱心に語りかける口調が、押しつけがましく、うるさかった。あの思い詰めたような、透徹した視線も、近寄りがたい高貴さも、なにもかもなくしていた。しかしそれも彼女の選択した生き方だ。千円ほどカンパして、僕は東京での住所も教えず別れた。まあ、せいぜい頑張ってくれ、というのが僕の感想だったが、失望、即、さよならといかないところが、あのときの康臣の切なさであるし、幼さだ。彼女の話になると、ひどく苛立った。ナスターシャは死んだ。あれは別人だから、関わりあいになるだけ時間とエネルギーの無駄だ、と僕は言ったが、康臣は黙りこくったまま、うんともすんとも言わない。たぶん過去のナスターシャへの思い入れがあまりにも強かったのだろう。イメージと現実に手に入れた彼女の肉体が、彼の中ではしばらくの間均衡を保っていたのかもしれない。  その後、彼女は康臣に手紙をよこした。彼女はあいつと暮らしたかったらしい。籍などいれない。式もしない。二人で働き、彼女のやっている実践、肢体不自由児施設でのボランティアだの、反基地闘争への支援だのをするつもりらしかった。彼女の言う生活が、僕には容易に想像できた。  知り合いにそういう男女がいたからだ。僕達の数世代上で、バリケードの中で愛し合い、学園紛争の沈静化と同時に、穏健で実践的な闘争に移行していったカップルだ。いわゆる公衆便所だったんだよ、相手の彼女は。失礼、しかしそういう言葉があった。バリケードの中で、だれの所有でもなく、だれに対しても体を解放させられた女闘士。僕ならごめんだ。たぶん心は許せても、生理がついていかないと思う。しかし彼は他の十数人分の男の責任をまとめて取った。  彼らの住みかに、僕は康臣を連れていった。彼らは大学を中退し、パチンコ屋の店員をしていた。洗面所もトイレも、台所さえ共有のアパートの四畳半一間に、洗濯物が干してあるんだよ。その下に仕事を終えた二人が、帰ってくる。女の方は、洗面器で洗濯していた。猫背で、眉毛が抜けて、まるで生活に疲れた中年女だ。男は得体の知れないごった煮を作っていた。あと半年で子供も生まれると言っていた。みじめで希望のない生活だった。それが激烈な競争をくぐって国立医大に入ってきた彼らのなれの果てだ。連帯と理解の実像だ。  僕の意図を康臣がどこまで理解していたかわからない。もしも理解していたなら、あんなことはしなかったと思う。いや、僕は論理で生きていたし、彼は直観と美意識で生きていた。そのことを僕が、もっと冷徹に把握していればよかった。  彼女、岡さんから連絡があったのは、あの夏合宿の初日のことだ。彼の実家に立ち寄ったときにちょうど電話がかかった。糸魚川に活動拠点を作ったので、来てくれということだった。僕は無視した。しかし康臣は行こうとした。止めたが、例によって、康臣は何も答えなかった。たぶん、岡さんがもはやナスターシャでないとわかっても、彼の中のイメージは生き続けていたのかもしれない。あるいは他の女の子と出会うたびにかつてのナスターシャを求めて失望し、その失望がさらにナスターシャその人への思いを強めていったのだろう」  瑞穂は、自分に対し、康臣が痛切に求めてきたかと思えば、極端に冷淡になったことを思い出した。あの頃、康臣の胸のうちでは迷いと期待と失望が交錯していたのだろうか。 「岡さんは、糸魚川の駅まで迎えに来た。僕達はそのコンミューンとやらに行った。海辺の過疎の村の廃屋を無断占拠しただけのところだった。明らかに精神遅滞らしい青年達数人を含めた男女が、暮らしていた。ユートピアだそうだ、彼女に言わせると。康臣は、そこに一歩入るなり、石像のように無表情になった。『ヴァイオリンを持ってくればよかったのに』と彼女は康臣に言ったんだ。『ここでみんなに聴かせてあげてほしかった。高校時代に弾いていた、なんだかわからない難しい曲でなく、ここにいるみんなの胸を打つような、そして生きていく力が湧いてくるような、そんな曲を弾いて』と。康臣は薄笑いを浮かべた。康臣が、あの笑い方をするときは危ないんだ。僕は岡さんの笑顔とその鈍感な言葉に、内心腹を立てていた。岡さんの、ジーンズがはち切れそうな太股や腰のあたりに、不潔感があった。僕でさえ、そう感じたくらいだから康臣が抱いた嫌悪感は計り知れない。とにかく十分とそこにはいられなかった。康臣は黙って立ち上がりそこを出て、僕も後に続いた。岡さんは追ってきた。僕達三人は、線路沿いの道を歩いた。僕は無意味な冗談を次々に飛ばし、それに疲れると高校時代の友達の噂話をした。その間中、康臣は黙って歩いていた。  そのうち岡さんは、あの場所をもっと充実させたいと言い出した。産業社会から弾き出された青年達が、一人の人間として働き、生活し、愛し合い、結婚し、子供を育てられる国を作りたい、と。それにはとにかく金がいる、と岡さんは言った。愛もあるし、情熱もあるが、当面の現金がない。『あなた達のお家は、あのあたりの地主さんだったでしょう』と僕達に言った。あのナスターシャが、だ。ぞっとした。自分のために使う金を無心するとき、人は卑屈になる、遠慮もする、恥ずかしいとも思う。しかしそれが正義と信じたこと、他人のため、特にいわゆる社会的弱者のためと信じたことだと、人は驚くほど図々しくなれる。康臣は相変わらず黙っていた。あの日、岡さんに出会ってからずっと、言葉らしいものは一言も発してなかった。すると岡さんは康臣に向かって言った。小声だったが、僕のいる前でだ。この前のことは、すばらしい思い出だった。愛情がなくてあんなことはできない。でもただの思い出に終わらせたくない。愛は育んでいくものだ。来週の月曜日にまた松本へ行く。集会があるからカンパをつのるつもりだが、十一時には終わるから、それから会えるかと、そんなことを言った」  正寛の高校時代の恩師小澤は、卒業させた生徒が集まったおりに、彼らの間で岡宏子が松本に戻ってきているらしいということが話題に上った、と話していた。「ちょっと様子が変わっていたらしい」と岡宏子について小澤は言った。しかしそれは極めて控えめな言い回しだったようだ。  岡宏子はおそらく、高校時代の友人数人に声をかけ、そして間違いなく彼らを失望させたのだろう。 「彼女の話を聞いて、康臣は立ち止まった。僕は彼らを置いてかまわず歩いた。つきあいきれない話だった。レールが鈍い音で鳴っていた。遠くから列車が近づいてきた。下り急行の頭が見えた。みるみる大きくなって、砂埃を含んだ風とともに、一瞬のうちにすれ違った。次の瞬間、僕は振り返った。なぜだかわからない。何か奇妙な予感がしたんだ。大きくカーブした先に豆粒のように岡さんの姿が見えた。線路ぎわの茂みから、弾かれたように飛び出し、あっという間に列車の陰に消えた。金属音がして、列車はスピードを落とし、大きな船が座礁したように、揺れて止まった。  僕は走った。息を切らして今来た道を戻っていった。列車は遥か先で止まっていた。康臣が蒼白の顔でつっ立っていた。僕は何も聞かなかった。あまりにも自明なことじゃないか。岡さんが、自分から飛び込むはずはない。康臣にしても、列車に向かい岡さんを突き飛ばすほどの理由もなかった。常識的には。『悪いが僕達は価値観が違い過ぎるようだ。これ以上つきあえない』と言えばすむものを、康臣にとって、彼の美意識にとっては、彼女を抹殺する以外なかったんだ。彼は、あの二十一歳の岡宏子の現実を葬ることによって、彼のナスターシャを守りたかったに違いない。  線路の向こう側に人が集まってきた。僕はとっさに康臣の腕を掴んだ。その場から引きはがすようにして離れ、走った。夏草の生い茂る中を通ったのは、人に見られると面倒だととっさに判断したからだろう。あたりには、血痕も何もなかった。そういえば、僕は彼女のはねられた姿までは見ていなかった。無事だったのか、と思った矢先、僕は毒々しい緑色をした葛の葉の中に、奇妙な形のものを見た。ひっくり返った蛙の腹みたいな白いもの。手のひらだった。人の手が、紛れもない女の手が、足元に落ちていた。康臣は向こうを向いて嘔吐した。僕は彼の腕を掴み、まだ喉から臭い液体を吐き続ける康臣を引きずるようにして、駅まで走った。それきりだ。犯人は現場に戻るなどというのは、嘘っぱちだ。僕も康臣も一度としてその話には触れなかったし、あの後しばらく、テレビのニュースも、新聞の三面記事も怖くて見られなかった。高校時代の友人達とも遠ざかった。岡宏子の名前を聞くのが怖かったからだ。あの夏の日は葬ったんだ。なかったことにした」  瑞穂は、言葉もなく聴いていた。  罪悪感が二十年かけて、康臣の精神をむしばみ、彼に殺した女の亡霊を見せ、死の崖に向かって追いつめていったのか。  正寛は、ゆっくり車をバックさせた。何度かハンドルを切り返し方向を変える。  しかし林道に向かってヘッドを向けた車は、前に走り出さなかった。じりじりと後ろに下がり始めた。 「ブレーキ」  正寛は答えない。小さく揺れて、車は止まった。  軽い衝撃があった。木の根か何かに乗り上げたのだろう。しかし車はそのまま下がり続ける。 「何するの?」  岩にでもぶつかったのか、先程より強い衝撃が来た。体が浮き上がり、天井に頭がぶつかりそうになった。 「やめて」  瑞穂は悲鳴を上げた。後輪が車止めを越えていた。車はなおも後退していく。後ろを振り返る。黒い闇を透かして、対岸の灯が見える。 「ばかな真似はやめて」  金切り声を上げた。そして正寛の脚を乗り越え、運転席に足を伸ばし、ブレーキを踏んだ。車体は大きく揺れた。ダッシュボードに片手を置いて体を支え、もう片方の手で正寛の頬を叩く。  二回、三回……連続して叩いた。湿った音が車内に響いた。 「目を覚まして」  あえぎながら、瑞穂は正寛の両肩を揺する。 「お願いよ、正気に戻って」  正寛は、瑞穂の手首を掴んで引き寄せた。 「正気だよ、僕はいつも。時というのはあらゆるできごとを乗せて、流れ去っていくと思っていた。しかしそうではない。一つ一つの事象は、情報として、細胞の一つ一つに蓄積されていく。無自覚の内にそうしてため込んだものの重さに押しつぶされることもある」  ずるりとタイヤが後方に滑った。  瑞穂は正寛の手を振りほどいた。 「何かを置き去りにしてきたって、あなた言ってたわね」  車体が揺れた。 「それなら……」  瑞穂は震える声で言った。 「それなら教えてあげるわ。あのとき私が置き去りにしたものを」  息を呑む気配がした。車が止まった。耳の奥のヴァイオリンも沈黙した。 「赤ん坊よ。あの夏の日が残した……」  沈黙の後、低い呻《うめ》きが正寛の歯の間から聞こえてきた。  車が傾いた。後ろに滑り出す。 「何してるの、車を戻して」  瑞穂は怒鳴った。  正寛の手がギアにかかった。何度か後輪が空回りした後、岩を掴んだ。  車は激しくバウンドしながら駐車場の平面に戻った。  家に戻ったときは、十一時を回っていた。玄関のドアを開けた夫は、黙って瑞穂が部屋に上がるのを見守る。不機嫌だが、不審がる様子はない。  相模湖インターに乗る前に、瑞穂は自宅に電話をして、急用ができて夕方から友人と会ったのだと言ってあった。  洗面所に入って、手と顔を冷たい水で洗う。 「おまえな」  鏡の中で肩ごしに夫の顔が覗いた。 「お夕飯、どうした?」  間髪を入れず瑞穂は尋ねた。 「デニーズに行った。久しぶりの外食なんで巧は喜んでいた。しかし出かけるのはかまわないが、所在だけははっきりさせとけ。いい歳してメモの一つもできないことはないだろう」 「ごめん」 「どこかでトラックにはねられたか、急病でぶっ倒れて病院に運ばれたのか、電話が来るまで心配したんだ、こっちは」 「ごめん、この埋め合わせは……」 「埋め合わせはいいから、連絡するならもっと早くしろ」  それだけ言うと、夫は寝室に消えた。  頭痛は静まっていた。ヴァイオリンの音もない。  夏草の中に落ちている、蛙の腹のような白いもののイメージばかりが、頭の中で生々しく像を結ぶ。奥山の言うとおり、康臣は女を殺していた。二十年前の夏の日の、彼らの不可解な行動と取り乱した態度には、こんな重大な事実が隠されていたのだ。あのときこのことを知っていたら、自分はどんな行動をとっていたか、想像もつかない。また康臣がそのことにどれほどの良心の呵責《かしやく》を感じていたのかもわからない。確かなのは彼は間違いなくその記憶を背負って、二十年を過ごしたということだ。そして渋谷の雑踏の中に過去に殺した女の幻を見て、死に追い込まれていった。  するとあのヴァイオリンには、贖罪《しよくざい》の意図があったのか。岡宏子を殺す直前、彼女に糸魚川で言われた言葉、「みんなの胸を打つような、生きていく力の湧いてくるような曲を弾いて」という言葉通り、ヴァイオリンを弾きながら逝ったのか……。  しかしその演奏を自分に宛てて残していったことが瑞穂には解《げ》せない。「君はナスターシャに似ていた」と、正寛は言った。彼の中で、瑞穂のイメージはナスターシャのイメージに重なり合っていたのか。  鏡の中の陽焼けした顔に瑞穂は見入った。栗色がかった髪が伸びかけて頬にかかり、上瞼に皺が横一本、刻まれている。有助の家で見たナスターシャの写真とは似ても似つかない中年になりかけた女の顔だ。しかしどこかしら以前と違う。若い頃に比べ窪んだ目が潤いを帯びている。  先程湖畔で正寛の背を抱いた瞬間、頬を撫でた長く冷たい髪の感触を思い出した。紛れもない、自分自身の髪……。二十年前、背中まであった髪の感触だった。  情緒と、ときには生々しさを伴った肉体的イメージが、時を越えて自分の中で交錯する。それが現実の容貌に微妙な変化を与えているのかもしれない。  担当する児童や有助や、実の息子までが指摘したその変化に、夫だけが気づかないことに瑞穂は感謝していた。妻とその古い男友達の間で起きたことなど想像だにせず、事故と急病だけを心配した夫に心の内で手を合わせる。  息子はぐっすり眠っているらしい。物音一つしない。今週は、ファミコンの前からむりやりはがして寝かせたことが何度かあるが、父親が家にいる日はそれほどゲームには夢中にならない。 「一人っ子のせいか、わがままでいかんな」と六人兄弟の真ん中で育った夫は、頭をかいて「もう一人作るか」と冗談めかしていうが、それ以上のことは何もない。夫婦の肉体的な交わりは、息子が生まれてからふっつり途絶えた。瑞穂にはそれが格別異常なこととは思われない。血のつながりに似た親密さだけが、年を追うごとに増していく。  自分の中で何かが起きていることは確かだが、若い日への悔恨も感傷も無意味だ。家族に心配をかけたり、今の生活を放棄しようと考えてはならない。瑞穂は自分にそう言い聞かせた。  台所に入ってマグカップにミルクを注ぎ、それを片手にピアノのある六畳間に入った。  灯りをつけようと手探りで壁を探る。手のひらには繊維壁のざらついた感触があるきり、スイッチには触れなかった。  舌打ちして、前後左右に手を動かす。ふと、妙な感じがあった。  目を上げる。教材や本を乱雑に積み上げたテーブルが、月明かりに黒くシルエットになって浮かび、ピアノの蓋の漆黒の表面に真珠色の月が楕円形に光っている。  その脇に、何かがあった。観葉植物のように微動だにせず何かが立っていた。 「香西君……」  瑞穂は言葉を呑んだ。  夢ではなさそうだった。いつの姿だろうか。学生時代か、あの演奏を残した死に際の姿か。歳を取らぬまま、それはそこにいた。 「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」  瑞穂は合掌し、念仏を唱える。信仰の気持ちなどどこにもない。幽霊に出会ったら、そうやって経を唱えるものだと母から教えられた。若い頃あれほど反発した母の迷信深さや通俗さを、十年前に母が倒れて看病したときから、素直に受け入れられるようになっていた。母もまた、思想信条ではなく、方便で生きた人だった。正寛よりよほど人間らしい方便だったが。  人影は消えない。成仏する気などもとよりないらしい。闇にそぐわぬワイシャツの白さ、ズボンのグレー、透けるように浮かび上がったベルトのバックルの細かな細工まで鮮明に浮かび上がらせ、うつむいたまま、その白い影のようなものは立っていた。瑞穂は、経を唱えるのをやめて、それを凝視した。 「どうしたの?」  自分でも驚くほど、平静な声で呼びかけていた。 「岡さんを探しあぐねているの? 大丈夫、彼女には届いているわ。あなたの心は彼女に届いている。だから安心して眠って。もういいのよ」  不意にその白い影のようなものが、視線を上げた。昔、正寛にだけ向けていた、あのもの静かな「十六」の面によく似た顔だった。淡く哀しげな微笑に、瑞穂は胸をつかれた。  月の光がゆっくり動き始める。天体がそんなに早く動くはずもないのに、確かに窓から差し込む白く濡れた光は忙しなく動き、そのほの白いものを照らし、生々しい実在感を与えた。同時に自分の肩先に体温を感じた。  それは瑞穂に数歩近づき、息がかかるほど近くに来ていた。反射的に瑞穂はあとずさった。あってはならないもの、今、ここにいてはならないものが、自分のそばにいる。  恨みごとを言うわけでもなく、何かを訴えるわけでもなく、恐ろしげな視線で見つめるでもなく、物体とも影とも区別のつかない姿で、空気よりも薄くはかなく、しかし確固たる存在感を持ってそれはそこにいる。 「なぜ?」  小さな声で、瑞穂はつぶやいた。  数秒後、その姿は月の光ごと、奈落に落とし込まれたように消えていた。  ぽたぽたと生ぬるいものが、甘ったるい匂いを放って足の指先に垂れていた。手にしたマグカップが傾《かし》いで、牛乳がこぼれている。茫然としたまま瑞穂はカップを口元に持っていって、残っている液体をすすり込んだ。  片手で壁際の電灯のスイッチを探る。今度はすぐに手に触れた。二、三度|瞬《またた》いてついた蛍光灯の明るさに目をしばたたかせて、ピアノの方を見る。何もいない。黒光りする蓋の上に、うっすらと埃が被っているだけだ。康臣は指紋一つ残していかなかった。  また一つ、押入れの中でチェロが鳴った。ほんの一瞬、確かにCの開放弦の音がした。  あのとき押入れから取り出したチェロの指板についた、四つの指跡を思い出す。  ふと気づいた。あの正確なポジションの跡は、ヴァイオリン奏者のものではない。ヴァイオリン奏者なら、中指と薬指の間隔が、どうしても狭くなるはずだ。あれは、と瑞穂は自分の手を見た。あれは自分でつけたものだ。いつ、どうやったものかわからないが、自分の指跡だった。  ありえないものを見、ありえない音を聴く。娘時代の自分のイメージが生々しくよみがえり、現実の肉体の上に知覚される。  自分に異様な幻を見せるものは、死に切れぬ康臣なのか、それとも瑞穂よりも数年先に二人の男の間で青春を過ごし、彼らによって葬られた岡宏子なのか?  あるいは病んでいる自分の心なのか?  瑞穂は本棚の前に屈み込み、下段にある夫の本の背表紙を見た。養護学校教諭である夫の専門は、心理学だ。日々の業務に追われる夫が、買ってきたきり一度も開いていない心理学の専門書が、そこに平積みになって詰め込まれていた。この本の中に、幻を知覚する自分の心のメカニズムを合理的に説明するものがあるかもしれない、と瑞穂は考えた。 『系統的減感法の理論』『吃音の研究と実験』『予備的質問と動機づけ』。  並んでいる書名は、こうしたものだった。素人の瑞穂が期待した、人間心理を解明するような心理学書はない。あきらめかけたとき、心臓が狂ったように一つ大きく打った。 「岡宏子」という文字が、目に飛び込んできたのだ。  本の背に、その名前があった。『人格の機能的自律性について』というタイトルだ。右の手で自分の胸を押さえ、恐る恐るそれを引き抜く。  それはアメリカ人の学者の書いた本で、訳者としてその名前があった。本自体はそれほど古くない。  まさか、と息を呑んだ。まさか生きているのか?  手に取り、奥付を開く。  訳者 岡宏子《おかひろこ》 S女子大学名誉教授 大正十二年生まれ。  体の力が抜け、額から生温かい汗が噴き出してきた。  日本中に、いったい何人の岡宏子がいるのだろう。大正十二年生まれの岡宏子はこの本の発行年である平成三年に、未だ健在で難解な心理学書の訳をしていたというのに、昭和二十八、九年生まれの岡宏子はなぜ、同じ昭和のうちに急行列車にはねられて死ななければならなかったのだろう。  瑞穂はその本を開いた。いくつかの図版と数字と専門用語が並んでいて、瑞穂の疑問に答えを与えてくれるような記述はどこにもなかった。  二日後の九時過ぎに美佐子から電話があった。この前、正寛との仲を誤解されて以来、一度も話をしていなかった。そしてこのときは、すでに誤解は誤解でなくなっていたから、瑞穂は気まずい思いで「あら、しばらく」と挨拶しなければならなかった。 「小田嶋の母が、亡くなったの」  美佐子は硬い声で言った。  ずいぶん前から、もうだめらしいという話ばかり聞かされていたから、瑞穂には、ようやくけりがついたのかという感じしかない。美佐子の実母ではないから、格別なぐさめの言葉を探す必要もなかった。 「いつだったの?」と尋ねると、たった今だと言う。  入院先の病院で、二週間以上前に危ない状態になった。いったん親戚の人々を集め葬儀の準備もしたが、肝心の本人の心臓がいっこう止まらず、そのまま解散したのだという。  ずっと付き添っているわけにはいかないので、正寛は仕事に戻り出張した。アムステルダムに行き戻ってきても、母はまだ生きていた。そして次の仕事でアメリカのオーランドに飛び、その間も老母は死なず、ぼけてはいても意識はあった。そして息子がアメリカでの仕事を成功させ、戻ってきたその二日後に、ようやくあの世に旅立ったのだ。 「それで、小田嶋は……どうしているか、知ってるなら教えて?」  美佐子は尋ねた。 「どうしてるかって」  瑞穂には意味がわからない。 「あなたは、会ってなかったの? お義母さまの亡くなったことを知らせないといけないから」  いらついたように美佐子は言う。  どうやら実母が亡くなったというのに、正寛はその場にいないらしい。 「家には戻ってないわけ?」  彼に会ったとも会わないとも答えず、瑞穂はそう尋ねた。 「今朝、いつも通り事務所に行くと言って出かけたから、病院からそちらに連絡したのに、いないのよ。アメリカから戻ってから一度も事務所には行ってないって……」 「わからない。どこにいるのか。本当に知らないのよ」  瑞穂は早口で答えた。  ほんの少し沈黙があった。瑞穂の言葉を信じていいものかどうか、迷っている様子だった。それから美佐子は、低い声で言った。 「私、今、一人なのよ。いえ、霊安室でお義母さまと二人。そこに、寝てる。まだ妹さん達も着いてないの」 「小田嶋さん、困ったわね、本当に……」  小さく息を吐き出す音が受話器から聞こえてきた。ため息か苦笑か、わからない。 「もう死んじゃったんだから、焦ってもしかたないんだけど。どうせ時間になれば、家に戻ってくるのよ。何食わぬ顔をして。一昨日も、昨日も、そうだったんだから。子供にはお父さんが帰ってきたら、ここに電話くれるように言ってあるんだけど」  無感動な倦《う》んだような声で美佐子は続けた。 「どこに行ってるのかしら……こんなところで、最後の最後までお義母さまと一緒だなんて」 「所詮嫁は嫁」という美佐子のいつかの言葉を瑞穂は思い出した。美佐子は、その人からあずきの煮方をはじめ、様々なことを仕込まれ、それでいて大きな心理的距離を埋められぬまま、その最期を看取った。今、その遺体と二人で霊安室にいる。  ぼけたとはいえ、正寛の母もどのような思いであの世に旅立っていったのだろう。そうした家族の中で、正寛はどのようにして立派な長男、夫、父を演じていたのだろうか。いくぶん薄ら寒い感じを覚えながら、瑞穂は電話を切った。  受話器を置くと同時に、ヴァイオリンの音が聞こえた。友人の家族の死を悼むような、静かな沈んだ調子で、耳の奥でカノンが鳴った。 「なんだ、頭痛か?」  先程から電話の近くにいた夫が声をかけた。無意識のうちに片耳を手のひらで押さえていたのだ。 「あなたには何も聞こえない」と問いかけて、「聞こえないわね」と苦笑した。 「何が?」 「耳鳴りよ」 「人の耳鳴りは聞こえないな、さすがに。で、のぼせはないか?」と夫は尋ねた。 「ない」と瑞穂は首を横に振る。 「更年期か、子供が少ないと早いというからな」  からかう様子もなく、夫は言った。  ヴァイオリン一つで奏でられる単旋律のカノンは、気がつくと消えている。二、三日、静かだったと思うと、頭蓋の中でいきなりフォルテシモで鳴り出す。何のきっかけもない。きまぐれに始まる。夏休みで授業がないのが幸いだ。  相模湖から帰ってきた日以来、異様なものは見ていないが、以前にも増して身の回りのそこかしこに強い違和感を覚える。自分を取り巻くあらゆるもの、自宅の六畳、学校、指導案、そして子供達と家族。そうしたものに取り囲まれている自分自身が、ガラスを隔てただれか別人のような気がするのだ。  康臣は関係ない、これは僕自身の問題だ、と正寛は言った。それはそのまま、今の瑞穂に当てはまる。  これでいいのか、という疑問を日常生活の中に封印して、二十年を過ごしてきたのかもしれない。それを康臣のテープが解いて、意識の表面に浮上させてみせたような気がする。  いったいあのテープの目的は何なのだろう。あれはなぜ自分に残されたのか。謎はそのままに、カノンだけが鳴る。      7  梅雨明けから始まった猛暑が一日も弛《ゆる》まないまま、八月も半ばにさしかかろうとしていた。  朝、起きて雨戸を開けたとたん、焼けつくような陽射しが入ってきて、このまま家から出たくなくなるが、瑞穂はウィークデーはほとんど毎日、クラブ指導のために登校していた。  器楽合奏は、新学期からの三ヵ月で、音楽性が乏しいながらもかろうじてリズムが合うところまできた。  汗を拭きながら出てくるのは一苦労だが、四階の廊下のつきあたりにある音楽室までやってくると、ほっとする。  楽器をいじっているどの顔も生き生きとしている。子供達の輝いている顔を目にしたとき、教師というのはやはり天職だったのかもしれない、と思う。  子供達の一人一人に言葉をかけ、それからタクトを振り始める。  二拍休みの後、クラリネットで奏でられる「風の谷のナウシカ」の数小節。ソロの管楽器に向けて小さくタクトを振る。  短調のメロディーに甘い悲しみの感情が込み上げてくる。拙いなりに真剣な児童の演奏には心を打たれる。  数年前、器楽クラブの子供達につきあって見に行った「ナウシカ」のいくつものシーンがよみがえる。美しい物語だった。あの世代の子供達はとうに卒業させた。それでもいいものは残る。今、演奏している子供達全員にその感動が伝わっているのがわかる。  クラリネットが終わり、鉄琴が小さく鳴る。そしてリコーダーやアコーディオンで次のフレーズが始まろうとしたそのとき、旋律の隙間から、きらめくような幾何学模様を描くバッハが流れ込んできた。  瑞穂のタクトが止まった。戦慄が体を走った。恐怖ではない。圧倒的な感動に、全身が凍りついた。  少し前の情緒が、意図的に作り出したものだということがわかった。子供達と見たあの映画の感動は、決して自分の心の内から発生したものではなかった。感動しようと意図した結果に過ぎない。いい教師に、いい社会人に、いい母親になろうとした二十年が、そこにある。  人は愛そうと努力して愛することもできるし、感動しようとして感動することもできる。人格も感情も意志によって作り上げることができるし、心の深部に何かを封印し、墓の中まで持っていくこともできる。  しかしそうして作り出した情緒は、一時的な気分に過ぎない。気を抜けばたちまち虚無の海に沈む。 「先生、リズム、変だよ」  ドラムスの少年が、叫んだ。はっとしてタクトを止めた。 「ごめんね。先生の耳ん中でね、だれかがヴァイオリン、弾いてるんだ。それで調子狂っちゃうの」 「耳鳴りだよね。うちのママは、耳ん中で蝉が千匹鳴いてるって言ってる。すごい機嫌悪いんだ。そういうとき」  リコーダーを吹いていた女の子の一人が、楽器にたまった唾液を出しながら言った。 「だから先生も機嫌悪いの」  くすくすと笑い声が上がった。蝉が鳴いているのは、確かに耳鳴りだ。しかし音色と音程を持ったものは、耳鳴りではなく幻聴だ。  幻聴に感動していては、いずれ自分の精神は壊れていくのではないだろうかなどと思いながら、子供達の管楽器に神経を集中させる。  そのとき天井のスピーカーから、事務員の声で瑞穂に来客があることが告げられた。子供達を待たせて階下に下りていったが、だれもいない。ドアを開けて、事務員に尋ねた。 「女の人でしたよ。どこへ行ったのかな?」と彼も首を傾げるばかりだ。  外に飛び出したとたん、人とぶつかりそうになった。  美佐子だ。眩しい夏の陽射しを背に立っている。 「どうしたの、いったい?」 「お願い、教えて。何があったの? いったい主人に何があったの。あなた知ってるんでしょ」  いきなり尋ねられて戸惑った。ファンデーションの厚い美佐子の顔が、いつもよりいっそう白い。白い肌の中で、黄ばんだ白目が熱を帯びて光っている。 「あの人がいなくなったの。出ていったのよ」 「出ていった?」  瑞穂から視線を外さず、美佐子はうなずいた。 「なぜ?」  正寛の実母の葬儀があったのが、つい十日前だ。焼香に訪れたとき、確かに正寛はその場にいた。出棺のときに淀みない挨拶をした彼と、隣で丁寧に一礼した喪服姿の美佐子との間に感じられたのは、十数年連れ添った夫婦にふさわしい親密な空気だけだった。 「いなくなったのはいつ?」 「三日前」 「捜索願は?」  唇をきつく結んだまま美佐子は首を振った。 「手紙がきたわ」  胸を押しつぶすような不安が襲ってきた。 「遺書?」 「違う。私、あなたが一緒だと思ったのよ。悪いけど学校まで来て、あなたのことを何度も尋ねたけど、あなたはずっとクラブ指導に来ていた。家にも帰ってるみたいで何も変わったことはなかった」 「私は、変わってない……たぶん」  自信はなかった。 「変わっちゃったのよ、あの人は」  美佐子の口元が痙攣するように震えた。 「いったいどうなったの。十四年になるのよ、結婚してから。私が知らない間に、共同事務所の看板から小田嶋の名前を削ってしまって。何度もアムステルダムと東京を往復して、ようやく解決のめどのついた仕事をあっさり放り出して、同じ事務所の若い弁護士に回したそうよ。あの人、なんでもない顔をしていたわ。なぜ事務所に行かなかったのか、なぜ出ていったのか、何も説明してくれない」  瑞穂は、黙って美佐子を見つめていた。正寛でさえうまく説明できなかったことを自分が答えられるはずはない。 「あのときから様子が変なの。ねえ、あのとき何があったの? あなたがうちに来た、あの日よ」  甲高い声で美佐子は叫んだ。瑞穂は短く「行こう」と促した。 「とにかく、どこか座れるところに行こう。そこでゆっくり話を聞くから」  美佐子はかぶりを振って、続けた。 「あの人の消えるちょっと前、どうしたらいいかわからなくて、上着のポケットをこっそり探っていたら、あの人が後ろに立っていた。怒るかと思ったけど、何も言わないの。ぞっとするほど無関心な目で、私を見たわ。あの人の顔を見ても何もわからない。食卓では笑っているし、子供の相手もしてくれていた。でも、何かが変わっていたの。本当は何を考えているのか、何をしてほしいのか、何もわからない。まるでどこも見てないみたい。いいえ、本当のあの人はどこかへ行ってしまって、何かがあの人の顔をした薄くてつるつるの仮面を被ってしまったみたい。ねえ、いったい何があったの? 教えてよ。私だけが、何も知らない。わかっているのは、私の知らない昔のあの人を知っているあなたの方」  瑞穂は息を吐いた。 「今までちゃんと、話し合ったことはないの?」  美佐子の顔が強ばった。 「だれと話すの? 話すのは私だけなのに。怒るのも、泣くのも私だけ。あの人わからないのよ。なぜ私が怒るのか、なぜ泣くのか。もともとそういう人だった」  美佐子の黄ばんだ白目に、みるみる涙が溢れた。  妻は妻なりに、正寛の本質を見抜いているのだ。 「とにかくその手紙には、何が書いてあったの?」  美佐子は、鋭角的な動作で顔を上げた。目の中に怒りがあった。 「何も書いてないわ、書いてあるけど、何一つ書いてないのと同じ。財産がどうの、仕事がどうの、家がどうの、子供の学校については、どうの。何もかもあの人が仕事で扱っている書類と同じよ。十四年連れ添ったのよ、私」  瑞穂は、言葉もなかった。 「女ができたのよ。お義母さまがいるうちは、心配させたくないから、夫婦のふりをしていただけ。お義母さまが亡くなってしまえば、私達なんかどうでもよくなったのよ。お金さえ残していけば、それで足りると思っているのよ」 「それは違うわ」  瑞穂はかぶりを振った。 「少なくとも、女なんかいない」 「なぜあなたにわかるの」 「彼はね、たかが女のために、地位や家庭まで捨てるような人じゃないわ」  美佐子は、はっとしたように瑞穂の手を掴んだ。 「何か知ってるの? 私にも話さないことを小田嶋はあなたにだけは話しているのね」 「いえ」 「そうなんでしょう」 「落ち着いて」と瑞穂は、美佐子の腕を掴み、校門の外に連れ出した。音楽室に残してきた子供達のことは気になるが、こんなやりとりを校内でしたくはない。  ハンカチを握りしめてうつむいている美佐子を連れて、喫茶店に入る。 「詳しく話してくれる? 小田嶋さんがどうしたのか」  奥のボックス席に腰掛け、瑞穂は尋ねた。 「詳しいことなんか、なにもわからないわ」  美佐子は指先で、涙を拭った。 「手紙は、遺書ではないのね」  瑞穂がもう一度確認すると、美佐子は黙ってバッグを探り、白い封筒を取り出し中身を見せた。横書きの几帳面な字で、「母を看取ってくれたことを大変感謝しています。しばらく東京を離れます。迷惑をかけたことは申し訳なく思います。結婚は、君が希望するときに解消できます」とあるきり、後に続くのは確かに、金銭や今後の妻子の身の振り方に関しての良心的だが極めて簡潔な事務文書のようなものに過ぎなかった。 「いい歳をして」  瑞穂は、舌打ちした。父として夫として、書き置く言葉はほかにあるだろうにと思い、嫌な予感がした。最悪の選択をしなければいいが……。 「捜索願を出した方がいいね。万一、自殺なんか考えてるとやっかいだから。松本へは問い合わせた?」 「向こうにはだれも残ってないわ。妹さんはご主人の転勤で福岡に行ったし、お義父さまもお義母さまも、実家引き払ってこっちへ出てきて亡くなったんですもの。親戚のところにまで、こんなこと尋ねるのはいや。いったい私が何をしたっていうの。十四年間、子供を育ててあの人の仕事を支えて……それが」  堰《せき》を切ったように、美佐子は泣き伏した。言葉もなく瑞穂はその様を見つめる。  そのとき封筒の消印に目がいった。 「栃尾」とある。東京ではない。そのこと自体は、不思議ではない。しかし松本でもなかった。  瑞穂はその「栃尾」という地名を紙ナプキンにメモした。  美佐子が濡れた目を上げてその様を見ていた。 「どこからこの手紙を出したのか、調べようと思うのよ」 「調べたってしかたないじゃない……あの人、裏切ったのよ。一緒に暮らしたあの人が、結局、私には何一つ本音で話してくれなかったんだわ。夫という演技をしただけ。私達そういう夫婦だったのよ」  瑞穂は、自分の知っている限りのことを伝えるべきかどうか迷った。旧友の死に際して正寛が直面した人生への迷いや、遠い昔、彼が関わったために起きた悲劇。しかし今の美佐子にそんなことを話しても混乱させるだけだという気がする。 「とにかく、落ち着いて。当面、生活は何一つ心配ないんでしょう。今後のことを考えなくちゃ。まだ、若いんだし」 「若いはずがないじゃないの」  美佐子は首を振った。 「もうすぐ四十よ。やりなおしのきかない歳だわ。女としてもとうに終わっているし」  うんざりした気分で、瑞穂はその姿を眺めていた。  今まで築き上げてきたものをすべて捨てて逃げていった正寛。彼にとっては自分を見つめなおす契機のつもりかもしれないが、実態として逃走であることに変わりない。そして彼よりさらに手の届かぬ遠くに逃げていった、康臣。  美佐子の放心したような顔を見ていると、彼らの身勝手さにつくづく腹が立った。  美佐子と別れ、学校に戻ったときには、クラブ活動の時間はほとんど残っていなかった。  子供達を帰した後、事務室に行き、地図を借りて正寛の手紙の消印にあった「栃尾」という地名を調べた。それは岐阜県|上宝《かみたから》村にあった。  彼が行くのは信州と思い込んでいたので少し不思議だった。彼はなぜそんなところでこの手紙を投函したのか。いったい何をしに、彼はそこへいったのだろう。  社会科用の日本地図を元に戻し、観光地図を広げる。 「栃尾」というのは、栃尾温泉の「栃尾」だ。現在の居場所から逃げ出した正寛が行った先は山間の温泉地とは、どういうことだろう。湯治で心を癒《いや》そうというわけではあるまい。まさか岡宏子や康臣の後を追う気なのか。  それにしても栃尾近辺に温泉が多い。栃尾温泉から奥にたどると、槍見温泉、新穂高温泉へと続く。新穂高温泉からは、西穂高までロープウェイが続いている。  はっとした。  弾かれたように事務室を飛び出し、職員室に戻った。山男の理科専科教員の机の上にある本立てを無断で探り、ガイドブックをひっぱり出した。  穂高岳近辺の地図を広げる。あった。観光客向けのロープウェイとは別に、涸沢、奥穂高に連なる登山道が、栃尾の先、奥穂高温泉から延びていた。  正寛の逃げ込んだ先がわかった。故郷の松本でもなければ外国でもない。ましてや自殺したわけではない。  彼が四十にして見た、草一つ生えない山の頂、ガレた岩尾根、その心象風景の中に、現実に行ってしまった。二十歳そこそこの生意気ざかりの正寛が、「人生を棒に振った」と断定した叔父の許に、彼は帰っていったのだ。そこはまた高校時代の彼が、康臣と一人の女生徒を争って登った山の頂でもある。  二十年前に聞いた正寛の言葉の記憶をたどりながら、ガイドブックを読む。  児童の移動教室の引率で北八ヶ岳に登ったというのがせいぜいの瑞穂には、書いてある山の険しさは実感できないが、なんとなく大変なところだ、というのは理解できた。  巻末に山小屋の一覧表があった。  小屋の名前、主人名、収容人数や開設期間、電話番号などが一覧表になっている。  槍、穂高の縦走コースには、山小屋は二百人も泊まれるロッジから、避難小屋まで含めて六つ。  その一つの主人名を見て、瑞穂は小さな声を洩らした。 「小田嶋行輝」とある。正寛と同じ姓だ。小屋の名は「穂高岳小屋」、収容人数四十人。開設期間は五月から十月。同じガイドブックの山岳地図と照らし合わせる。涸沢岳の北の尾根だ。正寛の叔父がいるという山小屋が、穂高連峰のどこかにあるのは確かだったが、あまりにも昔に聞いた話で、正確な位置は覚えていない。電話をして確認したいが、「穂高岳小屋」には電話が引かれていない。連絡先は、上宝村役場の商工観光課、となっていた。  瑞穂は、そこに電話をかけた。  電話に出た職員に、「失踪した知り合いがそこにいるかもしれないので、確認したい」と言った。 「こちらでは、宿泊客やアルバイトの名前までは、把握してないんですよ」と相手は困ったように答えた。 「もし行ったとすれば、入山届を出していると思うので、一応警察を通じて確認されたらどうですか?」  捜索願を出すのはいやだ、と言った美佐子のことを思い出しながら、瑞穂は生返事をした。 「わかりました」と答え、礼を言って電話を切ろうとして、思い出した。 「すみません、穂高岳小屋のご主人は、どんな方ですか?」  尋ねた後に、どんな方? と問われても答えようがないだろうと気がつき、言いなおそうとしたとき、相手は言った。 「穂高岳の名物男ですよ。あのあたりは小田嶋さんの庭のようなものなんで、遭難騒ぎのたびに世話になってます。出は、松本のけっこうな地主らしいですね」  瑞穂は受話器を握りしめた。 「昔は登山などというのは、今の乗馬のようなもので、金持ちのぼっちゃんの趣味でしたから。でも、あの人は、本当に山が好きだったんでしょう。東京の大学もやめて、早くに結婚して山小屋の主人になったそうです。その家出したお知り合いというのも、あの親父さんの人柄や生き方に共鳴されて、行かれたんじゃないですか」  まさにそうだろう。しかし正寛はともかく、美佐子はどうなるのだろう。小屋は秋には閉鎖され、半年間は無人になる。そうしたら正寛はどうする気なのだろう。そしてそこの主人は、普通の人間なら求めても得られぬほどの社会的地位と家族を惜し気もなく捨ててやってきた優秀な甥《おい》を、どのように迎え入れたのだろう。  いずれにしても、東京から地続きで、せいぜいが三百キロしか離れていないにもかかわらず、家族や知り合いには、もっとも手の届きにくいところに正寛は行った。  このことを美佐子に知らせようかと少し迷ったが、結局やめた。  傍からどれほど愚かに見えたにしても、正寛は一つの決断を下したのだ。康臣のテープは、きっかけに過ぎない。正寛は立ち止まり、大きな犠牲を払って人生の軌道修正をしたのかもしれない。  心細いかもしれないが、子供を二人抱えて生活してみるのも、美佐子にとっては試練であると同時に大きなチャンスだろう。その気があれば、彼女は今度こそ、夫婦として何でも話し合い、心の通じる相手と巡り合えるかもしれない。幸い、正寛は経済的には、まったく困窮しないですむような手配を整えて去っていった。  教職員労組の動員をかけられて、いっそう厳しくなった真夏の陽射しの中を反戦集会に出かけたのは、その二日後、八月の十五日のことだ。  右翼の宣伝カーや警察官に囲まれた会場の前で、大会の参加者に署名を求めるゼッケン、鉢巻き姿の女性の姿があった。  呼び止められ求められるまま 趣意書の隅々まで目を通すこともせず、単純な仲間意識から瑞穂は請願書らしきものに無造作にサインした。内容は、都内の身障児施設が縮小されることに反対するものだった。  陽射しに首筋を焼かれ、瑞穂は少しでも早く冷房の効いた会場内に入ろうと、急いでボールペンを返した。そのとき相手の女性が、体をひねるようにしてボールペンを受け取った動作が少し不自然で、瑞穂はその人の手を見た。コンクリートの照り返しの中で、その人は長袖を着ていた。左手にボールペンを持ち、右側の袖は風に乗って、リボンのように軽やかに後方に流れている。  この人、片方の腕がないのだ、と初めて気づいた。何気なく顔を上げた。  息が止まった。まさか、と何度も口の中でつぶやいた。  別の来場者にボールペンを渡し、「お願いします」と呼びかけているその人は、彫像のように整った鋭角的な横顔をしている。うつむいた拍子に緑色の鉢巻きで止めたまっすぐな長い髪が割れ、白く長い首筋が覗く。  まさにあの人だった。あの写真の中で、りんとした香気を放って立っていたあの女子高校生の姿があった。  他人の空似……。  自分が見たのは、古い写真で、実物には会っていない。それに女は十年も経てば、容貌は別人のように変わる。現に松本で正寛が出会ったナスターシャは、もうナスターシャではなくなっていたというではないか。  いや、ナスターシャ、岡宏子は死んだはずだ。しかし死んだという確証はない。彼らが見たのは、夏草の間に落ちていた手のひらだけだった。つまりこの署名運動をしている女性の失われた右手というのは……。 「小牧先生、入って、早く。始まるから」  役員をやっている同僚が、瑞穂の腕を掴んだ。混乱した思いで会場に入り、休憩時間に表に出てきたとき、署名運動をしていたその小グループは見えなくなっていた。  バッグを探ると先程渡されたビラが出てきた。取り出してみると、本文の末尾に、連絡場所として「社団法人 白百合会 つくしの家」とある。  瑞穂は同僚の養護教諭にそれを見せて「ここ、知ってる?」と尋ねる。「施設よ、精神遅滞児の。池尻大橋にあるじゃない。けっこうユニークな指導をしてるんで、子供達がのびのびと明るいのよ」 「池尻大橋?」  ぴんときた。 「そう、渋谷の」  渋谷……。康臣がその死の直前に「岡宏子と出会った」という渋谷だ。  あの写真の中のナスターシャと、その二、三年後に日本海に面した村でコンミューンを作った岡宏子と、精神遅滞児施設の規模縮小についての反対署名運動をしていた女の姿が重なり合った。 「渋谷で岡宏子に会った」という康臣の言葉に、正寛は過去に殺した女の影に怯える男の姿を見た。しかし女は影ではなかった。彼女は生きていて、自分の片腕を奪った男を追い詰めたのだろうか。署名を求めてきたあの彼女が、崖っぷちに立った康臣の背を死の闇に向かい、そっと押したのだろうか。  翌日、息子を塾の夏期講座に送り出した後、瑞穂は家を出た。  山手線で渋谷まで行き、そこから東急線に乗り換え池尻大橋で降りる。地図を頼りに、住宅地を渋谷方向に十分近く歩いたとき、低いフェンスに囲まれ、ぽっかりと開かれた緑地が見えてきた。「つくしの家」の庭だ。地図によれば正門は庭を回り込んだ反対側にある。フェンスに沿って歩いていくと、へちまの棚の涼しげな葉陰に大きな実が揺れているのが見えた。子供達と女が二人、屈《かが》んでなにか作業している。  瑞穂はその一人を凝視した。間違いない。昨日の女性だ。彼女はここの職員で、自分の職場の規模縮小についての反対運動をやっていたのだ。  夏の陽射しの下で、その人はやはり長袖の木綿のブラウスを着て、子供達と草むしりをしていた。  左手でリズミカルに草を引き抜いては、傍らのちり取りに入れる。ちり取りがいっぱいになると、ビニール袋を身体をひねって反対側にある左手で掴み、立ち上がった。  無防備な背中に、子供が飛びつく。笑って振り返り、片方だけの腕で抱き寄せる。  そのとき彼女はちらりとフェンス越しにこちらを見た。唇の両端が引き上げられ、小さな白い歯が覗いた。軽く会釈し、「何か?」と尋ねた。 「あの……」  言いかけたとたん、どうぞというように、左手で横を示した。小さな通用口が、フェンスの途中にあった。  微笑んだ目元に寄った細かな皺は、彼女がすでに四十を越えていることを示している。陽盛りの中に立った長身の姿は、優美で温かみを帯びている。  ふと、すべては自分の思い込みのような気がしてきた。この人が二十年を経て、康臣を追い詰めるようには見えず、岡宏子であるという確証もない。 「石川君のお母さまですよね」  相手はひょいと背を屈めて、通用口から出てきた。瑞穂を施設の児童の母親と間違えているらしい。 「いえ」  その美しさに瑞穂は気後れしながら尋ねた。 「失礼ですが、おたく、岡宏子さんで、いらっしゃいますか?」 「あ、はい」  相手は、怪訝な顔でうなずいた。  昔見た映画にこんなシーンがあったな、と瑞穂は思った。刑事が何年も逃げ回っている殺人犯を追い詰める話だった。今、自分は、遠い昔、殺されたはずの被害者をみつけた。 「小牧といいます。小田嶋正寛さんや香西康臣さんの古い友人なんですが」 「まあ」  驚いた様子もなく、にっこり笑った。化粧気のない頬に、淡くそばかすが浮いている。それはピースマークの笑顔で、康臣に殺意さえ抱かせた岡宏子ではなかった。そしてあの写真の中で、白い氷花のような峻厳な美貌を見せていたナスターシャでもない。 「実は、香西康臣さんが亡くなりまして」  そこまで言いかけると、「あの方が」と相手は、大きく目を見開いた。 「ご存じなかったですか?」 「ええ、高校時代の友人なもので、親交が絶えておりましたから。でも、いったいどうして?」 「自殺でした」  ナスターシャは眉を寄せた。  古い友人の死への驚きと、「気のどくに」という、すこぶるまっとうな人間らしい感情だけが見えた。それ以上の、愛や恨みといった生臭い情緒の揺れは感じられない。 「それでお葬式は?」 「実は、七月初めのことでしたので」 「わざわざ知らせに来てくださったんですか? どうぞ、お入りになって……」と、彼女は背後の建物を指差した。  瑞穂は丁寧に辞退した。  ナスターシャは生きていた。しかも康臣の死を知らず、康臣本人についても、いまさら何のこだわりも持ってはいなかった。それで十分だった。それ以上何か尋ねるのは、失礼にあたる。 「お急ぎなんですか」 「ええ……まあ」 「それじゃ、駅までお送りしましょう」と、岡宏子は先に立って歩き始めた。そして、少し口ごもりながら言った。 「実は、二十年ぶりくらいで、私、香西さんをお見かけしたんですよ、渋谷で。あれは梅雨の頃でしたかしら……」  瑞穂は足を止めた。康臣が「岡宏子に会った」と正寛に語ったあのことだ。 「何かお話をしましたか?」 「いえ。『まあ』って、思わず声をかけたら、くるっと向こうを向いて行ってしまいました。だれだかわからなかったのでしょう。すっかりおばさんになってしまいましたもの。ちょうど私の方も手を離せなかったんですよ。ここの子供を連れてましたので。ええ、ここから家出してしまって。以前、お母さんと二人で住んでいた青葉台のマンションまで行って、保護されましてね。それで引き取りにいった帰りだったんです」 「では、その子と二人で?」 「いえ、もう一人職員が一緒でしたけど」  康臣は確かに、岡宏子に会っていた。しかしそれは彼が殺した女の亡霊などではなかった。 「それで香西さんは、なぜ自殺など?」  岡宏子は尋ねた。瑞穂の方が聞きたいところだったが、とりあえず有助や奥山から聞いた事情をかいつまんで話し、「いろいろあったんでしょうが、結局、疲れたんでしょうね」と締め括った。  黙って聞いていたナスターシャは、交差点のところまで来て、ぴたりと足を止め、深いため息をついた。 「生きていれば辛いこともありますものね。私は手を失っただけで救われましたが、彼はそうはいかなかったのでしょう」  いきなり核心に触れてきた。こともあろうに、人通りの多い横断歩道の真前で。瑞穂は両手が、汗でぬるぬるしてくるのを感じた。 「心に負った傷の方が、人を長いあいだ苦しめるものかもしれません」とナスターシャは哀しげに首を振った。  瑞穂は風にひらひらとなびく彼女の右袖を凝視した。何度か迷った後、尋ねた。 「彼は……香西さんは、自分のしたことの重大さに、耐えかねたのだと、思いませんか」 「あ、これは別に」  岡宏子は慌てたように、自分の失われた片手の方に目をやった。 「香西さんが、どうお話しされたのかわかりませんが、私が自分でふらふらと列車に吸い込まれてしまったんです。若い頃のことですから、ちょっとしたことで感情が昂《たか》ぶっていたのでしょう」  いまさら真実を語る気はないのだろう。瑞穂は何とも答えようがなく黙っていた。 「支えてくれる人がいないと、人間はすごく脆くなるものなのですね」  淡々とした口調で、ナスターシャは続けた。 「香西さんは、深い絶望を抱え込んで生きていたような気がします」 「絶望?」  瑞穂は問い返した。ナスターシャの淡く透明な色をした瞳の中に、青空が映り込んでいる。二人の目の前で、信号が青に変わり人が流れ、再び赤になってせき止められた。 「あの……」  とっさに瑞穂は、交差点脇にある喫茶店を指した。 「お仕事中、申し訳ありません。もう少し、つきあってくださいませんか。お話ししたいことがありますので」  ナスターシャは左手首にある時計にちらりと視線を走らせ、「ごめんなさいね、あまり長い時間というわけにはいかないんですけど」と言う。 「十五分でいいです」と答え、瑞穂はその喫茶店に入った。  瑞穂はカウンターでアイスコーヒーを二つ買い、張り出し窓の前にあるテーブルに運ぶ。  ナスターシャは、礼を言いながら片手で器用にミルクの容器を開け、コーヒーに入れる。 「実は、彼が私にテープを残したんです。自殺を決行しながら弾いたヴァイオリンの演奏です」  瑞穂は話し始めた。今、ここにいる人が、何か鍵を握っているに違いないと確信していた。 「彼は弾きながら死んでいったのですが、それは直接私ではなく、彼の友達の手に渡り、ちょっとした間違いがあって、逆さまに録音されて私の許に来ました。岡さんはこういう話は嫌いかもしれませんが、それから部屋の中で変なものを見たり、何もないところでヴァイオリンの音がしたりするようになったんです。死の途上で弾いていたその曲を反対にかけられることによって、彼はこの世に遡ってきてしまったなんて……信じられませんよね」 「いえ」と少しも笑わず、ナスターシャは答えた。 「この世に、いくらでも不思議なことはありますもの」 「ありがとう。実は、私は彼にそんな遺書のようなテープを残されるほど親しくはなかったのです。二十年も前に一緒に合奏したというだけの関係でしたから。ただ、二年前から同人誌が送られてくるようになって、それも不思議だったんですが」 「信頼されていたのですよ、彼に。きっと、ご自分が思っている以上に」  瑞穂をじっと見つめ、ナスターシャは言った。 「でなければ、死の間際に自分の思いを託したりしませんわ」 「そうでしょうか……」  ナスターシャは信頼という言葉を使い、正寛は「好きで忘れられなかったから」と言った。しかし瑞穂は自分と康臣の間に、そうした死をも越えるほどの感情の流れがあったようには思えない。 「もし彼がテープを残したのなら、私ではなく、あなたに対してではなかったかと思えてしかたないんです。岡さんが生きていたということを彼は確認し驚いたでしょうし、それに岡さんは昔、彼に『みんなの胸を打つような曲を弾いてください』とおっしゃったとか。だから彼は、死ぬ間際に弾いたのではないか、と私は思ったのですが」 「よく覚えていませんけど……そんなことを言ったかもしれませんね」  ナスターシャは視線を上げて、どこか遠くを見ていた。 「申し訳ありません、身辺で不思議なことが続いたもので、香西さんの高校時代の写真を見たりしているうちに、あなたのことがわかって、失礼とは思いながら、恩師の先生や香西さんのお友達にあなたのことを尋ね回ったりしました、糸魚川の事故の話も含めて。香西さんもそのお友達も、岡さんが亡くなったと思い込んでいました」 「そうでしたか」  ナスターシャは、少しも嫌な顔をせず、自分のブラウスの袖に軽く触れた。 「そのお友達って、小田嶋さんのことでしょう。糸魚川のこともご存じなのね」 「ええ……」 「二年、かかりましたかしら、心のリハビリまで入れたら。その間に、たくさんの人に力づけられました。病棟の看護婦さんや難病の子供達……。それから鳥取にある福祉専門学校に入り直したんです。何かと相談にのって力づけて下さったケースワーカーの方が、そちらのご出身でしたので。卒業して県内の施設に勤めておりました。バスが一日二本しか通わないところでしたけれど、自然に恵まれたすてきなところでした。半年前に事情があって、こちらに移ってきたんですけど東京も変わりましたね。考えてみればこの仕事について十六年になります」 「ベテランですね」  瑞穂が言うと、いえ、と相手は首を振った。 「迷うことばかりで、いつも右往左往してます」 「糸魚川にいた頃の志をずっと持ち続けていられたのですね」  ナスターシャは、少し落ち窪んだ目の周りに細かい皺を寄せて微笑した。 「お恥ずかしい話です。まだ、人の心も世の中のこともわかっていなかった時代でした。何か、こう、高尚な理念というのか、理想のようなものがあって、それに沿って今まであることを全部壊して、何もないところに理想の社会を作らなくちゃいけない、そうすることで人はいっぺんに幸せになれるような、そんな幻想を抱いていたのですね。あの事故は必要な試練でした。病院にいた二年の間に、色々なものが見えてきたんです。そうしたら自分は何を焦っていたのだろうと気づきました。医療も福祉も、世の中全体のことが、一人一人の地道な活動によって支えられていくという、ごくあたり前のことを、体の一部を失うことでようやく理解できたのかもしれません。志なんて言えるほど立派なものはないんです。ただ、毎日を積み重ねていくだけですもの」  窓の外の炎天下を、人々が足早に行き来するのが見える。 「日々を駆け抜けることはできても、積み重ねていくのは難しいんですよ」  瑞穂はグラスに残ったコーヒーを飲み干して続けた。 「普通の人間にはなかなかできないんです。教え子なんか見ていてもそう。悲しいくらい簡単に、みんな投げ出してしまう。香西さんのように、並み外れた才能を持った人ほど、小さな障害を乗り越えられずに、あきらめてしまう。あんなふうに人生をあきらめてほしくなかったけれど……」 「自分の世界をとても大切にする方だったでしょう。守り続けたその世界の中で孤立してしまったような気がします。大変に不幸なことなんですけど、彼は、人への温かい共感が欠けていたところがあるかもしれません。だから代わりに、血の通わない無機的世界を自分の内側に構築しようとしたんじゃないかしら」 「そうかもしれません」  瑞穂はうなずいた。  ナスターシャは続けた。 「人は歳を取るものですし、歳を取ると、否応なく見えてきてしまうことがありますよね。彼は、自分の作り上げた世界そのものが張りぼてだと、あるとき自覚してしまったんではないかしら。そのときに、生きていられなくなったのでは、という気がします」 「張りぼて、ですか」 「悲しすぎて……何も言えません」  ナスターシャは小さく首を振った。  康臣が死に追い込まれていった道筋が、少しずつ理解されてくる。  渋谷の雑踏で、彼は過去に自分が殺したはずの女を見た。片腕を失い、一人淋しく歩いている不幸な過去を背負った女の姿は、そこにはない。  ハンディキャプトの子供を連れ、ベテランの指導員として岡宏子は康臣の前に現われた。おそらく康臣は、彼女が気づくまでかなり長い間、茫然としてそれを見ていたことだろう。そしてとうとう相手は気づいた。「まあ」と岡宏子は声をかけてきた。彼女は穏やかな微笑を向けていたに違いない。自分が急行列車に向かって突き飛ばした女の、二十年を隔てた微笑を見たときの康臣の動揺はどれほどのものだっただろう。想像するだけで、瑞穂は胸苦しくなった。 「出ましょうか」  相手のグラスが空になっているのを確認し、瑞穂は席を立った。 「それで、香西さんの残されたテープはどうなさいました?」  グラスを食器の下げ口に置きながら、ナスターシャは尋ねた。  不燃ゴミとして捨てた。  寺に納めた。  松本にいる弟の許に郵送した。  そのどれを答えようかと迷いながら口ごもっていると、ナスターシャはぽつりと言った。 「確かに、『人の胸を打つような演奏を聴かせてください』と、私、言ったかもしれません」  店を出ると、陽射しが眩しかった。 「香西さんは、本当にヴァイオリンが上手でしたね」  ええと答えながら、瑞穂は目を細めて青空を見上げた。 「でも、正直に言うと、私はあまり感動できなかった覚えがあります。それで『胸を打つような演奏を』なんてことを言ったのでしょう。自分で弾けもしないのに、恥ずかしいことですわね。でも、ほら、あるでしょう、高音のすすり泣くような音とか、低い音で包み込んでくれるような……そう、涙や体温を持って心に響いてくる音が……音楽は人への愛が込められたところに、胸を打つものになるんでしょうね。あの頃の香西さんの音楽には、そういうハートフルなものがなくて……。きれいなことはきれいでしたけれど」  高音のすすり泣きと低音部の包み込むような音。その言葉に何かひっかかるものを瑞穂は感じた。ナスターシャの言葉は続く。 「クラシックとかポピュラーとか、ジャンルの問題ではなくて、やはり音楽は心、ですもの。たぶん人間的な経験を積み重ねていくうちに、味わいって出てくるものなのでしょうね。香西さんの残された最後の演奏は、私が聴いたようなものではなかったと思います。きっと変わっていると、温かくて、心に訴えかけるものになっていると、私は信じたいんです」 「いいえ」  きっぱりと瑞穂は否定した。 「変わってませんよ。本質的には、何一つ。ただしそれで感動しないということはありません」 「はあ……」  岡宏子は、不思議そうな顔で、小さく瞬《まばた》きした。先程の岡宏子の言葉へのひっかかりは、瑞穂の中ではっきりとした違和感になり、苛立ちに変わっていた。 「ここまででけっこうです。どうぞ職場に戻ってください。お忙しいところ、本当にごめんなさい」と瑞穂は、立ち止まってお辞儀をした。 「いいえ、もう少し行きましょう」とナスターシャは隣を歩き、話し続けた。 「高校の頃、香西さんは作曲や編曲をしていたんですよ」 「どんな曲でした」  瑞穂が尋ねると、ナスターシャは眉を少し寄せて、困惑したように微笑んだ。 「難しくてわかりませんでした。私は編曲というのは、ピアノの鍵盤を叩きながらするものと思っていたのですが、彼の場合は、紙と鉛筆だけでするんです。不思議な人だと思いました。いえ、彼らしいというのかしら。計算をしながら音符を書いていくんです。傍から見ていると数学の命題を解いているみたいで。そう言えば、バッハの曲を編曲していると言ってましたっけ。最後の曲で、確か未完成のまま、終わっている曲だとか」 「フーガの技法」のことだ。その中の一つのカノンを弾きながら彼は死に、瑞穂にそのテープを残した。ということは、彼は高校のときから、いや、それ以前から始めて、ほぼ一生をあの曲とともに過ごしたのだろうか。  いったいあれの何が、それほど康臣をひきつけたのだろう。学生時代に一時心酔したものの、今ではすっかり遠ざかってしまった瑞穂には理解できない。  とにかく彼は高校時代から二十数年かかって、バッハの白鳥の歌となった曲を彼なりに解釈し、自分のヴァイオリンのために編曲し、それを弾きながら、死んでいった。なんという閉鎖的で、自己完結的な世界だろう。  次の交差点を渡ると、彼女は瑞穂の方を向き直り、「それでは私はここで失礼します。左の道をまっすぐ行かれると駅まで近いですよ」と細い路地を指差した。  瑞穂はナスターシャの顔を正面から見た。白い鼻筋、澄み切った大きな瞳、秀でた額。優美で、温かく、意志の強さを感じさせる顔だ。 「二十年前、私、小田嶋さんから、あなたに似ているって言われたことがあるんですよ」  瑞穂は言った。 「あら、うれしい」  ナスターシャはためらいのない調子で答え、目元に幾本もの浅い皺を刻んで微笑した。「とっても力強くて、包容力があって、家庭もあってキャリアも積まれた、すてきな方とお見受けしましたもの」  お世辞には聞こえなかった。卑屈になることも、勘繰ることもなく、物事をまっすぐ、明るく、謙虚に見つめて生きてきた年月が、彼女をこんな風に変えたのかもしれない。そしてそんな彼女の像が、一点の曇りもない鏡のように目の前に立てられたときの康臣の悲惨さを瑞穂は思った。  岡宏子が、その後どんな風に生きてきたかなどということをあえて説明されるまでもなく、彼がこの世から消したいと思うほどに嫌悪したものは、歳月に磨き抜かれて再び現われた。  眩《まぶ》しかったのだろう。時を隔てた岡宏子との出会いは、彼自身の空虚な生を、精神内部の張りぼての世界を、現実に追い込まれ疲弊した彼の眼前に映し出したのではなかろうか。それが彼の背中への最後の一押しになった。  彼には人生をやりなおすほどの力など残ってはいなかった。いささかいびつな美意識を捨て切れぬまま、彼は彼の閉ざされた世界と心中をした。遠い昔に、ほんの短期間、同じ世界を共有した女に、最後の情熱を叩き込んだテープを残して。そして悔いと迷いに終始した、生の実感のない一生を送ったからこそ、その後も彷徨《さまよ》い続けているのかもしれない。 「どうなさいました?」  ナスターシャの目が心配げに、瑞穂の顔を覗き込んだ。 「いえ……」  ふと気づいた。卑屈になることも、勘繰ることも知らないまっすぐで謙虚な視線は、しかし複雑極まる人の心の底にある真実に到達する鋭さは持っていない。そこに横たわる真の美を理解しうる聴覚もこの人は持ち合わせていない。  この人は、康臣に衝撃を与え、彼の心を揺さぶりはしたが、本質的に彼とは違う世界で、彼とは違う時間を生きていた。 「お時間を取らせて申し訳ありません」ともう一度お辞儀して歩き始めた瑞穂の背に、「また遊びにいらしてください。ゆっくりおしゃべりしましょうね」と声が追ってきた。  瑞穂は振り返って、軽く手を振った。彼女とは二度と会うことはないだろうと思う。  正寛の言ったとおり、人は古い皮を脱ぐように、過去を捨てて生きていくことはできない。ナスターシャは過去を克服し、康臣は過去に押しつぶされていった。  自分はどうだったのだろう、と瑞穂はこの二十年間に思いを馳せる。過去を捨てたりはしなかった。過去の上に、今の自分がいる。辛い思いを乗り越え、成長してきた……。とたんに頭の芯がずきりと痛んだ。 「嘘だ」と心の底で何かが叫んでいるような気がした。足元がぐらつくような、激しい不安を感じた。  新玉川線を降りて渋谷の雑踏を歩いていると、耳の中のヴァイオリンが小さな音で鳴り出した。  ふと気づくと、小さくハミングしている。そのヴァイオリンのメロディーをではない。別の旋律だった。ゆったりとリズムを刻み、流れていく低音だった。  ふらりとレコード店に入った。一番奥のクラシックのコーナーにまっすぐ足を運ぶ。しかしそこはビデオテープ売場に変わっている。あたりを見回したが、クラシックのCDは屈まないと見えないような場所にわずかに一列置いてあるだけだった。もちろん目指す「フーガの技法」はない。  瑞穂はそこを出て、ピアノ店を兼ねた別の店に行った。こちらには一枚あった。ヘルムート・ヴァルヒャのオルガン独奏で、管弦楽編ではなかったが買った。  そのCDをプレイヤーにセットしたのはその日の九時過ぎ、戸棚の中の客用のティーカップに茶しぶがついているのに気づき、二時間かけて全部磨いてようやく一息ついたときだった。  ヘッドホンをつけオルガンの音色に耳を澄ました。  冒頭の四重フーガが聞こえてきた。単純なテーマから、無数の音列が紡ぎ出され、その豊饒さに瑞穂は息を呑む。二十年前の感動が戻ってくる。恋の思い出よりもはるかに激しく、心の底を揺さぶる。渇きにも似た康臣への思いも、正寛に一瞬感じた愛情めいたものも、彼らに対する固有なものではなく、この大きな感情のうねりの中に包含されていたような気がする。  いくつかの情景が、オルガンの音の中によみがえってくる。  あれは康臣と出会ってまもなくのことだった。  ピアノ練習室で康臣が「僕はいくつまで生きられるのかな」とつぶやいたことがある。 「どうしてそんなことを考えるの?」と瑞穂は尋ねた。 「これを編曲した男がいたんだけど、そいつがすごい天才で、十八で編曲して、二十二で自殺した。同じ歳の僕は、まだその中の一曲も完成できずに生き永らえている」と答えた。確かその編曲というのが、この「フーガの技法」のことだった。  バッハの白鳥の歌。出版された時点ですでに時代遅れとみなされ、最後の四重フーガは未完成のまま、失意のうちにバッハは死ぬ。二百年後にバッハの音楽が復活した後も、演奏を前提としない抽象作品として、音楽教材に用いられるくらいで、長い間鑑賞の対象とはされていなかった。  一九二〇年代に入り、ウォルフガング・グレイザーが、観念的作品として理論書的扱いを受けていたこの曲に肉体を与えた。グレイザーによって管弦楽に編曲されて演奏された「フーガの技法」は極めてロマン派的響きを持つバッハだった……。  グレイザーはこのとき、十八歳。その四年後に自殺している。康臣が語った「天才」である。  グレイザーはこの作品に取り込まれ、二十二歳で、燃えつきた。すると康臣はかろうじて二十数年を持ちこたえたのか。  四声の単純フーガは終わり、転回主題に移る。  康臣の言葉の断片が、いくつか記憶の闇から浮かび上がってくる。 「バッハの音楽は基本的には、黄金率に基づく厳密な構成と、リズムと、手法により成り立っている」 「きらめくような色彩は調性によって与えられ、その構造は幾何学的な完全な美を作り上げる。演奏するためには、深いアプローチが必要だ。ラプソディー、ロマン、厳密さのバランスが重要だ。その黄金バランスをどうやって得ることができるのだろうか」  康臣の弾くカノンが耳の中で立ち上がり、スピーカーから流れ出るオルガンの音と重なった。瑞穂はプレイヤーのストップボタンを押した。  幻のヴァイオリンの音だけが残った。めまいがした。自分を取り巻くすべての現実が色褪せて見えるほどの強烈な光輝を感じた。 「上手でしたけれど、感動しないんです。ほら、あるでしょう、高音のすすり泣くような音とか、低い音で包み込んでくれるような……そう、涙や体温を持って心に響いてくる音が……音楽は人への愛が込められたところに、胸を打つものになるんでしょうね」  岡宏子はそう言った。  まさにその通り、康臣のヴァイオリンから欠落しているのが、そうしたパトス的部分だった。しかしそれをもって感動のない演奏と言えるだろうか。  彼が目指し、登りつめていった頂は、そうしたものとは正反対の領域なのだ。  岡宏子にはそれが理解できなかった。自分が理解できないこと自体を理解できない。康臣が彼女に感じた深い失望を思った。  康臣が、孤独な魂の内に構築した世界は、決して張りぼてではなかった。 「すすり泣く高音も包み込む低音」も、一時的な気分に過ぎない。優れた音楽のはらむ感情は個人的感傷を超えて、普遍的で雄大だ。  康臣の手によって奏でられるとき、音楽は終わってもなお空気の中にその色彩が残り、永遠のリズムを刻み続ける。彼のヴァイオリンはそうした力を内包していた。だからこそ、奥山に哀しみと激しい嫉妬の念を起こさせたし、それが逆から演奏されたとき、あたかも山稜から麓へと流れる水が、天に向かって遡るかのように、関わった人々の中の時が感情の変化を伴いながら逆流し始めたのだ。  愛とか信頼といった言葉でくくれない、深く共鳴しあうものが、交際を絶って二十年が過ぎても、自分と康臣との間にあるのを瑞穂は感じた。  だからこそ彼は現実に追い詰められるに従い、こちらに手を差し伸べてきたのかもしれない。最初があの同人誌、そして死の間際の演奏。  しかし過去に康臣との間で精妙に響き合った感性は今、深いところに封じ込められている。  康臣は、その封じ込められた瑞穂のもう一つの心に向かい、呼びかけ続けているのかもしれない。  自分にできることはいったい何なのだろうか、と瑞穂は、ぼんやりと考えていた。彼は何を望んでいるのか、いったいどうしろというのか……。  耳の中のカノンは止み、隣の部屋のファミコンゲームの音楽が薄い壁を隔てて聞こえてくる。  瑞穂はプレイヤーから「フーガの技法」のCDを取り出しケースにしまう。  すでに高校時代から、この曲の器楽用の編曲を試みていた康臣は、どのような楽器編成を想定し、どのような編曲をしたのだろう。その楽譜がどこかにあるとしたらどうだろう。彼と過ごした時間をもはや共有することはできないが、彼のライフワークらしきものを陽の当たる場所に出してやることはできないだろうか。そのことで彼岸と此岸の狭間でヴァイオリンを弾き続ける康臣を、無事向こう岸に渡してやることはできないだろうか。  彼の遺品は有助のもとに行った。楽譜があるとすればそこだが、この前行ったときに見かけなかったから、どこかに預けたか、寄贈したのかもしれない。  瑞穂は時計を見た。十時を回っている。この時間に電話をかけたら迷惑だろうかと思いながら居間に行き、受話器を取って、有助の家の電話番号を押した。  福美が出た。 「ごめんなさい、こんな遅く」と謝る。 「いえ、ぜんぜん」  この前の突然の訪問を詫びる瑞穂の言葉を遮って、「桃、ごちそうさま。とっても甘くって、ご近所にもあげて喜ばれちゃって」と、福美は言った。甘い声が耳をくすぐる。  少し雑談をした後、瑞穂は、康臣が何か手書きのスコアを残していなかったかどうか尋ねた。 「楽譜、ですか」  相手はちょっと間を置いてから「ヴァイオリンの楽譜は、しばらくとっておいたんですけど、だれも使わないので、うちの人が処分しちゃったばかりなんです。あとは手書きのものがずいぶんたくさんありましたけど。お義兄さん、作曲でもしてたらしくて」 「それです、それです、それ、どうしました?」  瑞穂は急き込むように尋ねた。 「お棺に一緒に入れてあげましたけど」 「お棺……」  言葉もなかった。  二十数年の彼の労作は、作り手の体とともに燃えてしまった。彼の内的世界は、近親者の思いやりによって完全に閉じられたのだ。  電話を切った後も、瑞穂はしばらく放心したように、ぼんやりとテーブルの前に座っていた。 「お母さん」  夫に呼ばれて、振り返る。 「何やってるんだよ。何度も呼んでるのに」と呆れたように夫は髭の伸びかけた顎を撫でながら、テーブルの上の新聞紙の包みを指差す。 「それ、うちの生徒が作ったやつ。さっき出すの忘れてた。今日、当番が来て一緒に収穫したんだ」  広げるといんげんが出てきた。大きさは不揃いだが、みずみずしい。虫食いの穴もある。 「おひたしにする?」  気を取り直して尋ねる。 「胡麻あえもいいな」 「そうね」  テーブルに広げ、筋を取り始める。  康臣は亡くなり、彼の労作は燃えてしまった。それがどれほどのものだったのだろうかという気がしてくる。  大バッハは天才であり、康臣は素人だった。いくら上手いと言っても、趣味人に過ぎなかった。その彼がどれほどの作品を仕上げたというのか?  筋を取ったいんげんの山が、目の前に築かれていく。  子供達の作ったいんげんは、今頃、彼らの家でも、こうして筋取りをされているだろう。そしてそれぞれに料理され、食卓に上り、人々を養う。しかし康臣の音楽は、だれも養わない。聴衆不在のまま、彼の精神の喜びのためにのみある。  夫がテレビのスポーツニュースをつけた。  瑞穂の視線は、テレビの画面から逸れる。筋を取ったいんげんを流しの洗いおけにあけて、水を張る。鞘の中にいた裸虫が浮かんできた。もがいているのを流しのステンレスに捨て、無造作に水で流す。排水口の周りをくるくると回って、やがて緑色の虫は穴に吸い込まれていった。  この生活の果てにあるのは何だろうと、瑞穂はふと思った。何もありはしない。何もないが、康臣の味わった悲惨も、とりあえずはない。同じ軌跡を描いて回り続けるだけだ。そして次の世代に譲って死んでいく。それを無意味だとだれが言えよう。  瑞穂は手際よくいんげんの水気を切って、ビニール袋につめて冷蔵庫に入れた。  寝る前に、息子の部屋を見る。  巧は寝たふりをして、ファミコンゲームをしていた。 「こらっ」とジョイスティックを取り上げる。 「うるせえな」 「それで朝ご飯食べられないなんて言ってると、承知しないからね」と息子のパジャマの尻を叩き、スイッチを切らせる。  和室に入ると、夫が先に布団に入っていた。 「まだファミコンやってたのよ、まったく。いくら夏休みだって、あんまり夜更かしのくせはつけたくないのよね」 「わがまま息子にかまいすぎの母親か」と夫は寝返りを打った。 「一人っ子は、いかんな。どれ、二人目を作るか」 「今なら、産休代理がいるから、ちょうどいいかもね」と答えながら、瑞穂は自分の布団にもぐり込む。数秒後には夫の寝息が聞こえてきた。いびきがうるさくなりそうな気配なので、瑞穂はいったん布団から出て敷布団を離してから眠りについた。      8  明け方に目覚めた。ぼんやりした頭で、康臣の焼かれた譜面のことをしばらく考えていた。  康臣は突然の事故死をしたわけではない。しかもラストコンサートのテープまで用意した。その周到さがあって、なぜもっとも大切な二十数年かけた労作の管理はしなかったのか。  焼かれたのは草稿か何かで、完成譜はどこか別のところに存在する可能性もある。彼が自殺の予告をして、テープを託した相手……。  奥山だ。  彼が持っているのではなかろうか。もしかすると、彼が託されたのはテープだけではなかったかもしれない。  とすれば、その編曲譜を彼はどうしたのだろう。康臣が奥山にどんな感情を持っていたのかはわからない。しかし奥山が康臣に抱いたのは、単純な好意や友情ではない。この前、他ならぬ奥山自身が告白したことだ。好意や友情なら正寛の方がよほど持っていただろう。彼が康臣に抱いたのは怖れであり、嫉妬だ。  瑞穂は傍らに寝ている夫のタオルケットを直すと、起き出した。  ピアノの置いてある和室に入った。微かな弦の音がしたような気がする。  またか、とつぶやき、押入れの戸を開け、ハードケースを取り出す。錆《さび》で床を汚さないように気をつけながら、腐りかけた止め金を注意深くはずす。  蓋を開けた。  この前と変わらぬ姿で、チェロが横たわっている。何も変わりはない。変わりなく汚れ、変わりなく虫が食っている。ネックを握りしめ、そっと起こし取り出した。  瑞穂は指を伸ばし、その大きな弦楽器の表板に触れた。不意に得体の知れない悲しみが込み上げてきた。喪失感なのか、虚無感なのか、鋭い痛みが胸をついた。  震える息を吐き出しながら、その胴体を抱きしめる。  そのとき、からのケースの底に、何か黄ばんだ紙が見えた。  拾い上げると五線紙だ。チェロの裏板に長い間押しつけられ、しわくちゃになったパート譜だった。  印刷された市販の楽譜だと思った。しかし目を凝らすと、それが丁寧にペンで書かれた手書きのものだとわかった。  瑞穂は手のひらでしわを伸ばした。きれいな写譜をする者は、音楽教員にはいくらでもいる。たいていそれは見事な筆記体だ。しかしこれは旗の長さや音符の丸の大きさの一つ一つが寸分の狂いもない、活字そっくりのものだった。  瑞穂が知る限り、こういう音符を書く者は一人だけだ。  曲名は書かれていない。  初めの二小節は休み、三小節目、A音の八分音符から始まる。「アダージョ」と速さの指示があるから、その八分音符は、普通の四分音符程度の長さで弾かれる。ゆったりした八分音符が、規則正しく並ぶ。通奏低音らしい。バロックのソナタか、と裏返してみると、通奏低音らしいものが、二十一小節目で一転して旋律に変わっていた。譜面を見てはっとした。  カノンだ。康臣が残した、そして瑞穂の耳の奥で鳴り続けたあのカノンの旋律だった。「反行と拡大による二声のカノン」だ。  高音部が奏でる旋律は出だしから二十小節、このパート譜にある後続声部が二十一小節目から、同じ旋律を追う。  突然思い出した。このパート譜を康臣に渡された日のことを。  あの夏合宿の最後の日のことだった。青木湖から戻ってきて以来、ほとんど話をすることもなくなった康臣が、これを渡しながら語ったのは、ごく短い言葉だった。 「これ、できたから……」と言ったのだ。  それが夏休み前の約束だった。彼が二声のカノンを高低音、二台の弦楽器のために編曲し、それを演奏するという……。  康臣にも、正寛にも失望した自分が、どんな返事をしたのか、まったく記憶にない。  しかしあの卒業式の日、タクシーに乗ろうとした振り袖姿の瑞穂を追いかけてきて、康臣が口にした「あの約束は……」という言葉はそのことだった。  五月に出会い、仕上げることを約束した二声のカノン。その楽譜を康臣はあの合宿最後の日に完成させ、瑞穂に渡したのだ。  約束とは、「あの曲を弾こう」という、つまりそれだけのことだった。そんなことをどうして真剣に受け止められようか。 「今週の土曜日にコート取ったから、一緒にテニスしよう」と言うのと、どれほどの違いがあるというのだろう。所詮は遊びの約束だった。  その言葉に込められた康臣にとっての真剣な思いになど、考えも及ばなかった。そして康臣にしても、瑞穂の体に起きた、それと比較にならないくらい深刻で重大な事象について、思いをめぐらすことはなかっただろう。  人生において何を重大事とし、何を瑣末なものとするかというのは、それぞれの生き方によって限りなくかけ離れてくる。  少なくとも彼は二十年間、その些細な約束を忘れなかった。そして死にあたり、その約束を彼なりに履行したのだ。生から死へ向かう極限状態を選び、その生命を映そうとするように、彼は弾き切った。  陽が上ると同時に、アスファルトも溶けるような暑さがやってきた。気温は上昇し続け、十一時を過ぎると、吹きすぎる風さえ溶鉱炉から吐き出されたような熱風になった。  その中を瑞穂は、中野の奥山の家に向かって歩いていた。  この前来たときに、空き地を這っていた荒地瓜の蔓は、あたり一面を埋め尽くし、放置された建築資材を覆い、毒々しいばかりの緑の葉が陽光を跳ね返していた。  瑞穂はプレハブ家屋の前に立ち、汗を拭いた。日射病になりかけたのか、頭痛がする。  インターホンを押しても、奥山は出てこなかった。留守かと思ったが、エアコンは作動している。首を傾げ何度か押すうちに、鍵の外れる音がした。  奥山の青白い顔が覗いた。瑞穂の顔を見てもさほど驚いた様子はなく、けだる気にドアを開けた。 「入ってください」  内部の冷えた空気が心地良かった。いつかの青い部屋に、奥山は瑞穂を招き入れる。  長椅子の上に枕と毛布があった。 「もしかして、起こしてしまいました?」 「ええ」と奥山は、大きく吐息を一つついて、その長椅子の毛布をどかして座り込み、「どうぞ」と隣のディレクターチェアを瑞穂にすすめた。 「すみません」と謝って、瑞穂は尋ねた。 「香西さんから預かったものは、あのテープだけですか」 「は?」  怪訝な顔をした。驚くか、それともとぼけるかもしれないと思っていたが、それは意外なくらい自然な反応だった。 「香西さんは、私のことを何と言っていましたか?」  瑞穂は質問の方向を変えた。 「何も」  奥山は首を横に振った。 「オープンリールのテープをカセットテープに落とし込み、小牧瑞穂さんという女性に渡してくれと、それだけです」 「本当に何も、言っていませんでしたか?」 「彼と女の話をしたことがないとはいいませんよ。ウィーンで買った娼婦の話、同棲した彼女の話、彼女達がどんな風によがり、どんな風にいったか、話の内容はせいぜいそんなことです。思いが深ければ、他人に語りはしないでしょうね」  目だけで微笑し、奥山は瑞穂を見つめた。 「過去に殺した女の人については?」 「何も聞いてません。あなたについても」  瑞穂は椅子をずらせて、奥山の正面に座った。 「彼が殺したとあなたに語った女性、というか、彼が殺したと思い込んでいた女性は実は生きていたのです」 「ほう」とたいくつそうに、奥山は相づちを打った。  瑞穂は、康臣がその死の直前に彼女と出会っていたこと、彼女本人と瑞穂が会ったことなどを話した。 「そうですか」  どうでもいいと言わんばかりの口調だ。 「それで、彼女から聞いて思い出したのですが、香西さんは『フーガの技法』の小規模編成の弦楽合奏への編曲をしていたんです」 「まさにそうですが」と奥山は唇の端で、微笑した。 「すこぶる厳密で論理的な方法でね。和音の響いている時間を計り、主和音と属和音の時間比率を出して、計算して、我々の想像も及ばない方法でアプローチしていましたね」 「その楽譜を探しているんです。彼の荷物の中にあった楽譜は、弟さんがお棺に入れてしまったそうですので」  奥山の顔は平静なままだった。そして表情を変えないまま、さほど悪意があるとも思えない低い笑い声を立てた。 「あの世まで抱えていったわけですか」 「確かに彼の生活はめちゃくちゃだったらしいですけど、そのめちゃくちゃな中でも、香西さんなりに、一生を賭けたものがあったわけですよね。そう考えたら、それを出版するとか、どこかの音楽団体に渡して演奏してもらうとか、なんとか形にしてあげられたらいいな、と思いまして。あなたは笑うかもしれませんが、それがせめてもの供養になればと……。実は昔、『フーガの技法』の中の小さな一曲を一緒に弾こうと言われて。もう二十年も前のことですよ。私はすっかり忘れてしまっていたのですが、今朝がた、彼がその一曲についてだけは楽譜を残していたのを発見しました。けれど、彼が亡くなった今、一緒に弾くことはできないし、何より私はもう、楽器は弾けないので」 「僕のところに楽譜がないか、ということなら、何も預かってないですよ。悪いけど」  瑞穂が最後まで言い終えぬうちに、奥山は言った。 「彼が手がけたのは、別にバッハだけじゃありません。あらゆる音楽について意欲を示し、創作と演奏の両方に才能を発揮しました。そうした膨大な量の楽譜がどこにあるか、と聞かれても、僕は知らない。彼が持っていけと僕に指示したのは、テープデッキとあなたに残したテープだけでしたから、それ以外の物には手をつけていない。それから弟さんが、僕にくれたものがありますが、お目にかけましょうか?」  奥山はベッドから立ち上がると、棚の上にあったヴァイオリンケースを取り、中身を取り出した。 「僕の気持ちを知ってて渡したのなら、すごい皮肉だが、まあそんなことはないでしょう。どうぞ」  奥山は、それを瑞穂の目の前に突き出した。 「名器とまではいいませんが、いちおう、ヴィジャッキーですよ。お弾きになってみますか」と奥山は弓を渡す。 「いえ」と断りながら、立ち上がって弓だけ持った。  奥山の視線が、吸い付くように瑞穂の右手に止まる。 「弦楽器、やってますね」 「いえ。音楽専科の教員をしてるので、多少の勘があるだけです」 「何の楽器をやっています?」  なおも奥山は尋ねる。 「何もやってません」  意固地になって答えた。 「素人はそういう持ち方はしませんよ」と弓を持っている瑞穂の右手に触れた。ひやりと冷たい手だった。 「小鳥の雛を掴むような関節の曲げ具合。柔らかく、微妙で、かつ力強い」 「チェロを少し」  できるだけそっけなく、瑞穂は答えた。 「少しではないはずだ」 「若い頃、習ったことがある、というだけのことです」と弓を奥山に返した。 「彼と一緒に弾いたんですね」 「二十年も前にね」 「永遠の女性というわけですか、彼にとって」 「永遠の女性なら他にいます。恋人と音楽上のパートナーが一致しないから、いろいろ面倒なことが起こるだけで」 「あなたは恋人というわけではなかった?」 「何もなかった、とは言いませんが。彼が私にテープを残したのは、そういうことではなく、あの曲の低音の声部を私が受け持って弾く約束をしていて、彼は死ぬ前に、それなりの約束を果たしていったのです。あのカノンの楽譜を弦楽器二本のために編曲して渡してくれたのを、私は放っておいたのです。二十年も。彼は死んでしまいましたが、彼の音は残っています。頭の中で、とてもはっきりと生々しく、響いてくることがあります。私の他、だれにも聞こえないんですが」  奥山はいきなり瑞穂の右の手首を掴んだ。そして毛布と枕の置いたままになっている長椅子のところに連れていき、放り出すように座らせた。 「何するんですか」  ぎしりとスプリングを軋らせ、奥山は体をぴたりと接してきた。  やめて、と悲鳴を上げるのがはばかられた。 「やめて、近寄らないで」というせりふが、自意識過剰に聞こえるような歳になっていた。情けない話だが事実だ。 「いい手をしてますよ」  振りほどこうともがく瑞穂を壁に押しつけ、奥山は右手を握りしめた。 「背はこんなに小さいのに、指は十分に長い。いかにもおっかさんって感じに太くて荒れているが、関節はしっかりしていてしなやかだ。手や体の作りも才能だというのを知ってますか」 「関係ありませんよ、今の私には」  瑞穂は奥山から逃れるように体をひねった。 「とげとげしいですね。いつもそうなんですか」 「手を放しなさい」 「欲求不満ですね。ご主人とは何年、寝てないんですか?」 「失礼な」 「あなたはありとあらゆるものに不満なんだ。そういう目をしてます、ここに来たときから。あなたは松明《たいまつ》のような人だ。激しく燃えながら、まっすぐにつき進んでいく性《さが》を持っている。しかし今は、ぶすぶすとくすぶっている。いや、何年も、何年も、煙ばかり吐き出してくすぶり続けてきた」 「あなたに言われる筋合いはないわ」 「他人をごまかしたって、自分はごまかせない」  瑞穂の手を掴んだまま、奥山は立ち上がり、そのまま引きずるようにキーボードのところに連れていって、乱暴にその前に座らせた。 「チェロでしたよね」と傍らの棚をかき回している。 「昔の話だと言ったでしょう」  奥山は楽譜を取り出して譜面立てに載せる。  バッハの無伴奏チェロ組曲だ。五番のプレリュードの中程、重厚なフランス風序曲に続く、アレグロモデラートの部分から奥山はキーボードで弾き始めた。ここでバッハは単旋律楽器であるチェロに、反復によってフーガの様相を与えている。  八分の三拍子のアウフタクトで始まる生き生きとした旋律は、終結を見ないまま、同じフレーズが十小節目で、五度高い音程で繰り返される。さらに二十二小節目で同様のパターンが一オクターブ低い音で始まる。  奥山はキーから指を離すと、「あなたならどう弾きます?」と尋ねた。  瑞穂は黙って譜面の角度を直すと、冒頭のラルゴの序曲から弾き始めた。最初のフレーズを弾いたとたん、体に震えが走った。何かが、まっすぐに魂の深部に食い入ってくる。あの時代、コンクールの課題曲の合間に弾いていた。遥か遠い地に屹立する白く輝く峰、アプローチは長く険しく、心をひきつけてやまないあらゆるチェロ曲の最高峰。  アレグロモデラートの三拍子に入り、十小節目で、五度上で始まるフレーズ。しかしこのとき瑞穂の左手は、譜面にある音を弾いている右手とは別に、ありえない旋律を弾いていた。  瑞穂は彼女の息遣いを聴き、彼女の体温を感じた。長く重たい髪と、大きな瞳で思いつめたように一点を見つめていた彼女。二十年前の、自分自身。封印したい過去でもなければ、古い時代の情念でもない。それは瑞穂が打ち捨てておいた感性であり、能力でもあった。  本来、第二声部として始まる五度上の旋律は左手で譜面どおり弾き、瑞穂の右手は中断された幻の第一声部の続きを奏でていた。もちろんバッハはその右手の部分を作曲していない。単旋律楽器のチェロで弾くときは、そのイメージを追いながら弾く。しかしピアノやキーボードの場合、その気になればいくつもの声部を同時に奏でることができる。  瑞穂は本能的にハーモニーを計算しながら、ありえない第一声部の続きを弾いていた。本来の右手と左手によって、そのイメージを実在の音として表現する。さらに第三の声部が始まる。第一、第二声部がやはりバッハが紙面上には創らなかったフレーズを奏でる。  仮象的フーガは、キーの上に複数の声部を与えられ、本物のフーガに変わり、交じり合い、響き合っていた。分厚い音のタピストリーは、際限なく広がり部屋を覆う。緊張感が頂点に達したとき、砕けるような音を立ててそれは終結した。  奥山は片手を傍らの棚にかけ、体を支えるようにして、今にも崩れそうな姿勢で立っていた。神経質な動作で汗を拭いている。 「傲慢な人だ……」  つぶやくように言った。 「あなたは、傲慢な人だ」 「知りません」 「あなたは今、バッハの曲を勝手に創った。勝手に創っていながら、バッハの世界から、逸脱していない。和声上の間違いもまったくない。間違いはなくて大胆で、しかも叙情がある」 「創った覚えはないわ。イメージよ。イメージが無ければ、どんな曲も弾けない」  瑞穂は手早く譜面を閉じた。 「彼がなぜあなたにテープを渡せといったのかわかりましたよ」  かすれた声で奥山は言った。 「私のことを自分の理解者だと思ったからでしょう」 「あなたは、言葉を操るのは苦手のようだ。あなたが口を開くと、今しがたの音楽的光輝が、あっという間に色褪せる。あなたにとっての言葉は音だ。あなたは音によって会話し、音によって精神を知る」 「フーガの技法」の分厚いスコアを、奥山は瑞穂の前に置いた。そして康臣の残した「反行と拡大による二声のカノン」のページを開いた。  瑞穂は弾き始める。幻聴はない。イメージがある。康臣の音だ。ニュアンスが、響きが、譜面から離れていく。高音声部の右手と低音声部の左手が、絡み合う。 「いいです、もうけっこうです」  奥山は言った。 「わかったでしょう、彼の残した楽譜など不必要だということが。彼はあなた自身がまったく自覚していないあなたの力を知っていた。正確な解釈に基づきイメージを喚起する力。彼が心を開き、伝えることのできる相手はあなただけだった。あなたは今、彼を取り込んだ。彼はあなたの中で息づき、あなたの中に入った。譜面など必要ありません。現実に記譜されていない声部をイメージの上で作り出したように、あなたは現実には鳴っていない彼の音を完全な形で自分の中で再現した。彼のテープの意図は単純ですよ。唾棄すべき現実に追い詰められて、まさにのたれ死にしようとする男が、最後まで握っていた宝石があった。死の間際にその宝石をあなたに渡したという、それだけのことだ。あなたのそのイメージする力が、彼が残したものに鋭敏に感応した。テープを逆行させたのは、確かに僕だった。しかし彼が戻ってきたとすれば、それは康臣の、音楽によって日常的時間を遡行させうるという信念が、あなたのイメージによって実体を得たということだろう」  瑞穂は無意識に自分の両手のひらを見つめていた。康臣が手渡そうとしたもの、そして自分が受け取ったもの……。それによって呼び覚まされた自分自身。  違うと思った。呼び覚まされたわけではない。ずいぶん長い間、もう一人の自分が現実という檻《おり》の中で生きていた。豊かで鈍重で、教師として、母として、妻として、一人の人間として、「力強くて、包容力があって、家庭もあってキャリアも積んだ」と、岡宏子が評した、小牧瑞穂という一人の女に押しつぶされながらも。  この春から続いた焦燥感の正体がようやくわかった。  自分もまた、正寛と同様、他人と世間の評価の中に生きてきてしまったのだ。そして外骨格のように築き上げられた自分自身の内面の空疎さに気づいたとき、封印された「彼女」が彷徨う康臣の心と激しく共鳴しあった。  音楽の教師として、口を開けば音楽のすばらしさを讃えながら、精神の柱から本当の意味での音楽は抜け落ちていた。子供達のためにという、口当たりのいい逃げ道をひた走ってきた。  執拗に康臣の姿を見せ、幻聴のヴァイオリンを鳴らし続けたのは、自分が封じ込めた自分自身だったのかもしれない。  奥山は瑞穂を退かし、自分がキーボードの前に座った。音色をパイプオルガン風に変え、いきなりリストを弾き始めた。これがキーボードなどではなく、本物のピアノかオルガンであれば、どれほどすばらしいだろうと思わせるほどの技術だ。 「僕は彼に負け、あなたは彼と互角だ。しかしあなたは本来、自分の持っている輝きを捨てて、それと引き換えに安逸な生活を得た」  弾きながら、奥山は言った。 「安逸な生活などと、他人には、言われたくないわね」  憮然として瑞穂は答えた。奥山は低い声を立てて笑った。 「僕は見送りません。帰るならご勝手に」  そう言いながら、奥山は演奏を続けていた。  その背中に「おじゃましました」と声をかけて、瑞穂は玄関まで行き、ドアを開いた。突然背後で、不協和音が響き、同時に悲鳴のような唸り声のようなものが上がった。振り返ると奥山が鍵盤の上に上半身を折って突っ伏し、小刻みに肩を震わせていた。  瑞穂は「どうも」と口の中で言い、逃げるように外に出た。  とたんに脳天に陽射しが照りつけ、めまいがした。  目を上げると眩しい正午の光の中に、白く輝く康臣の背が見えた。気のせいではなく、はっきりとその姿を見た。  空き地を埋めた荒地瓜の海の中に、陽炎のように立って、黒みを帯びるほどに青い空を見上げていた。      9  瑞穂はチェロをケースから取り出し、丁寧に埃を拭き取り駒を元通りに立てた。糸巻きに蝋を塗り付け、弛んだ弦を張る。それをそっと指で弾いてみる。低い音が夜の空気を震わせ、静寂の中に吸い込まれていく。  子供と夫はとうに寝た。  椅子に浅く腰掛け抱いてみると、大きく厚みのあるボディは、瑞穂の手に余った。金属性の消音器を駒にはめ、弦に弓を動かす。弾いたとたんに、ぐらりと本体が傾いた。足を開き直し膝に挟む。膝と胸から楽器が浮きバランスが取れない。楽器の抱き方も忘れてしまった。不安定な姿勢で弓で弾く。一応、音が出る。物体のこすれる音だ。楽器の音ではない。左指で弦を押さえる。音程が狂っている。関節が固まったように指と指が開かなくなっている。  二十年の時を隔て、康臣は約束を果たし、彼の残したテープによって封印を解かれたように、過去に置いてきた彼女自身が戻ってきた。しかし三十九歳の瑞穂が二十歳の彼女に戻れるわけではない。  キーボードを操ってチェロ組曲を弾き、奥山を驚かせもしたし、心の内に湧きいでるイメージも鮮やかだ。しかし現実の瑞穂の体からは、大きな楽器をしっかり支え奏でるための腕や指の筋肉も、二十分の一音のずれを確実に捕らえる聴覚も、微妙な揺れを自在に操る卓越したリズム感も、あらゆるものが失われている。  至高の音楽を目指したチェリスト志望の女の実体はもはやどこにもない。  イメージを音として奏でる実際的手段がない限り、イメージはイメージに留まり、何も表現しない。自明のことだ。  瑞穂の演奏技術が、あの夏の終わりの水準に戻るには、最低でも十年はかかるだろう。それも毎日六、七時間のレッスンをこなしての話だ。今の瑞穂にそんな暇はないし、また仕事と家庭の雑事に忙殺される毎日では、あの一音一音に神経を削るようなレッスンを受ける余裕も気力もない。  人生は「こうしたい」という希望だけで成り立っているわけではない。家庭、教師としての仕事、自分を支えてくれた多くの人間関係……。今の生活の充実感と安定と責任とを、青春の夢や情熱と比べてどうなるというのだろう。  もう一度左手で和音を押さえ、瑞穂は四弦を一度に叩くように弾いてみた。とたんに乾いた音がして何かが跳ね上がり、頬をしたたかに打った。  弦が切れたのだった。それも二本一緒に。G線とD線が切れてぶらさがっていた。  二十年も放っておかれて、金属がすっかり腐食していた。  切れた弦に自分自身を重ね合わせ、瑞穂は錆びた切断面をぼんやりながめていた。  そのとき電話の音が聞こえた。こんな時間にどこからだろうと首を傾げ、急いでチェロを床に寝かせて部屋を出る。  廊下に出ると、夫が起きてきたところだった。 「ちょっとごめん」  瑞穂がその脇をすりぬけ電話まで走ったのは、何か康臣に関することだと直感したからだ。  電話の声は、子供だった。 「もしもし、もしもし」  木立を叩く雨音にも似た雑音が交じる。 「はい、小牧です」 「もしもし」  震える息遣いが伝わってくる。 「あなただれ?」  教え子だと、とっさに思った。 「小田嶋ですけど」  女の子の声だ。 「えっ」 「小田嶋……」 「真実子ちゃん? 真実子ちゃんなの」  小田嶋の小学校六年生になる長女だ。胸をつぶすばかりの激しい不安が襲ってくる。 「どうしたの、今、家?」 「違う。自動車電話」  時計を見ると午前一時だ。こんな時間になぜ、車の中などから電話をかけてきたのだろう。 「ママが、みんなで夜のドライブをしようって。でも車止めて、眠っちゃった。ママも麻衣ちゃんも。真実子も寝なさいって」 「なんだって?」  全身の毛が逆立つ思いがした。とてつもない危険な事態が、話を最後まで聞く前に察せられる。 「真実ちゃん、すぐ、その電話から一一〇番しなさい」  叫んだ後に気づいた。自動車電話から逆探知しても、警察は正確な位置を把握することはできない。 「いいこと、すぐに車から出て。ドアを開けなさい。近くの公衆電話から警察に電話するの」 「出られない」と遮るように甲高い声が答えた。 「ママが目張りして、全部、ガムテープで止めたから」 「ばか」  思わず怒鳴った。電話の向こうの子供にでなく、その脆弱《ぜいじやく》な母親と身勝手な父親に対して大声で怒鳴っていた。 「早くはがしなさい。開けるのよ。それから車、どこにあるか教えて。見えるものは何かない?」 「伊豆。アルカディア川名。前にパパたちと泊まったホテルの下の道」  正寛が会員になっているリゾートホテルだ。瑞穂の家族も、小田嶋名義で二度ほど使わせてもらったことがある。美佐子は、家族仲良く暮らしていた時代に思いを馳せ、そこまで行って排ガスを引き込んで親子心中をもくろんだらしい。 「ドアを開けなさい。開かなかったら、そこらのもので、ガラスを割りなさい。フロントガラスはだめよ。割れないから。横か後ろ。いいわね」  それだけ言って、瑞穂は電話を切り、すぐに警察にかけなおした。伊豆のリゾートホテル、アルカディア川名の防砂林の中にある道に白いローレルが止まっている。中で親子心中をはかっているので、すぐに行ってくれるようにと告げた。それだけでは不安なので次に一一九番にかけ、同じことを言う。さらに番号案内で、アルカディア川名の番号を調べ、そちらのフロントにも電話をかけ、下の道を見てきてくれるように話す。フロント係は、疑わしそうな声で返事をした後、少々お待ちくださいと言い、宿泊者名簿には彼らの名前がないことを告げた。とにかく下の道のローレルを見てきてくださいと怒鳴って電話を切る。 「なんだ?」  電話の脇で、一部始終を聞いていた夫が尋ねた。 「心中よ、心中。親子心中、やらかしたのよ」 「だれが? どこで?」  瑞穂は手短に事情を話しながら、茶だんすの引き出しを開け、自分のアルトの鍵を出す。 「ちょっと行ってくるわ」 「なんだ、おまえの運転か?」と寝ぼけまなこをこすりながら、夫は椅子の背にかけてあったトレーニングウェアを羽織った。 「危ない、俺が乗せていく」 「大丈夫。あなたまで行ったら、向こうも気まずいわ」と瑞穂は、免許証をバッグに入れる。 「わかった。それならタクシー使え」  夫は言った。 「何キロあると思ってるんだ? 軽自動車なんかでトロトロ走ってたら、夜が明ける」  確かにその通りだ。電話をかけてタクシーを呼ぶ。  茶だんすの引き出しに入っていた生活費の袋から、一万円札数枚を出してさいふに入れ、十分ほどするとクラクションが聞こえた。夫に、「巧をお願い」と言い残し、玄関前に止まっているタクシーに乗り込んだ。  深夜の高速道路を疾走するタクシーの座席で、後ろに飛んでいく水銀灯の青白い光を見ていると、再び頭痛がしてきた。  白いワイシャツの第一ボタンを外し、左の顎にヴァイオリンを当てて、今にも弾き出そうする康臣の顔が窓ガラスの向こうの夜空に映ったような気がした。  背筋が凍った。膝が小刻みに震える。瑞穂は両手で頭を抱え、きつく目を閉じていた。  なぜ、やってきた?  頼むから私達の選んだ平和な生活に侵入しないで。  自分自身の心の有り様も、昼間奥山と話したことも、すべてはこじつけで、人生に敗北した挙げ句無念の死を遂げた男が、残った学生時代の仲間を不幸にするために、逆さ回しのカノンに乗って舞い戻ってきたような気がする。 「お客さん、お客さん」  ドライバーの声がした。 「お客さん、気分が悪いんですか?」 「いえ……」 「吐きそうなら、車、止めますから、言ってくださいよ」 「ごめんなさい。大丈夫。お酒飲んでないから」とルームミラーに向かい、ぎこちなく笑いかけた。  目を閉じると、風を切る車の音やエンジンの音に混じり、ヴァイオリンが小さく鳴っているのが聞こえる。  美しい音だった。祟《たた》りや呪いといったものの対極にある、怜悧に澄み切った音色だ。邪《よこしま》な意志など少しも感じられない。ほんの数秒前、身近で起きたことを康臣の怨念のせいにしたことが、愚かしく感じられた。  しかし康臣の死と彼の残した音楽が、瑞穂の封印された情念を解き放ったことは確かだ。それは正寛にとっても同様だった。あのヴァイオリンの音は、水底に汚泥を分厚く沈澱させたまま、表面の澄んだ水の中で暮らしているような、それぞれの生活を結果的にかき乱した。  現地に着いたときは、すでに親子は病院に運ばれた後で、現場には車が残されているだけだった。ホテルのフロントで収容先の病院を聞き出し、そちらに向かう。  伊東市内の病院に着くと、夏の夜が明けかけていた。  美佐子と次女の麻衣は昏睡状態だったが、命に別状はない。どこまで本気で死ぬつもりだったのかわからないが、美佐子達は致死量に満たない量の睡眠薬を飲んだだけで、車に目張りはしたものの、排ガスを引き入れるということまではしていなかった。電話をしてきた長女も、点滴を受けて眠っていた。  瑞穂は、美佐子のベッドに近づいた。腕に点滴の針を刺されたまま、美佐子はゆっくりした呼吸をしている。仰向いた顔は、透き通るように青白く、汗でぬめるように皮膚が湿っている様は、決して安らかな眠りについてはいないことを物語っている。  死に場所を求めて、夫の車に子供達を乗せ、幸せだった頃の思い出のしみついたホテルに行き着いた美佐子の胸の内を思うと、情けなさの一方で哀れさがつのる。  美佐子の持っていた手帳の走り書きから、警察は大津にある彼女の実家に連絡を取っており、まもなく両親が駆けつけるてはずになっていた。  時計を見た。四時半を回ったところだ。これ以上いても瑞穂にできることはなく、ひとまず始発電車で帰ることにした。  自宅に八時過ぎに着くと、夫と息子が、キッチンでトーストを食べていた。美佐子達が無事だったことを伝え、夫に正寛が失踪したことを話した。以前から会ったことはなくても正寛の名前だけは知っていた夫は、「無責任な親父だな」とうめくように言った。  瑞穂は夫の本棚から、山岳ガイドブックを取り出し、穂高岳小屋の連絡場所とされる上宝村役場の観光課に電話をした。しかし穂高岳小屋には、電話はもちろん、無線もなく緊急連絡の手段はない。 「なんとか直接、連絡することはできませんか?」  相手は少し考えこんでから、答えた。 「隣に穂高岳山荘という、大きな山小屋がありますからね、そこに電話をして、穂高岳小屋に取り次いでもらうという手はありますが。しかし山荘から小屋までは尾根道を登ったり下りたりして、四十分以上かかるんで、穂高岳山荘の方に迷惑がかかるんですよ。よほど緊急のときでもなければ……最近では、息子さんが登山したのを心配した母親が、用事もないのに電話して、スタッフを走らせるなんていうケースがあるんで」 「あの……」  瑞穂は口ごもった。 「一刻を争うんです。穂高岳小屋のスタッフの方の家族が、急病で……」 「わかりました」というと相手は、すぐに穂高岳山荘の電話番号を教えてくれた。  いったん電話を切って、穂高岳山荘にかけなおす。しかし今度は通じない。何の理由かまったくわからないが、何度電話をしても、受話器の向こうからはお話し中を知らせる音が聞こえてくるだけだ。  舌打ちして受話器を置く。さしたる決意もなく、時刻表を開いた。自宅から東京駅まで四十分。東京から名古屋までが二時間、そして名古屋から高山本線高山駅まで二時間二十分。そこから登山口の新穂高温泉まで一時間三十分。  先程病院で見た美佐子の、眉間に皺を寄せ汗でぬめった苦しげな顔が思い出された。  もしも美佐子と彼の子供達に何かあったら、正寛はもう二度とどこにも逃げることはできない。  耳の中のヴァイオリンの音は、いつのまにかかき消えている。  地図で山小屋の位置を確認した。距離からすると穂高岳山荘と穂高岳小屋はほとんど離れていない。いずれも三千メートル級の山々の尾根にあるが、そこからわずか三キロのところまで林道が通じている。林道の終点まで車で行けば、その先は歩けるだろう。  何より電話一本で正寛が下りてくるとは限らない。自分が行って、有無を言わさず下ろしてくるのがいちばん確実だ。 「ちょっと、お父さん」  瑞穂は出かけようとしている夫の背中に呼びかけた。夏休みとはいえ、教員が休めるわけではない。夫は、この夏も様々な研究会や部会、クラブ指導やプール指導に駆り出されていた。 「山に行ってくるわ。今夜と明日の夜、巧をお願い」 「なんだいきなり」  瑞穂は少しばかり躊躇《ちゆうちよ》してから言った。 「うちの学校の先生が、遭難したの。大丈夫、私達は麓で待機するだけだから」  嘘をついたことを心の中で謝る。しかしいくら事情が事情とはいえ、正寛に会いに行くとは、夫に言えなかった。 「昨日は、一家心中で、今日は遭難か。この夏はおまえの周りは災難続きだな」  夫は、肩をすくめた。 「で、場所はどこだ?」 「穂高岳」 「なんだと?」  夫はこちらを向き直った。 「だから、登りはしないわよ」 「本当だな。麓にいるんだな。どんなに頼まれても、不義理だと思っても、現場には絶対行くな。おまえには無理だ」 「わかった……」  瑞穂を見つめて小さくうなずくと夫は出かけていった。  後ろでやりとりを聞いていた巧は、「僕のことなら平気だよ」と言い、瑞穂がそちらに顔を向けると、くるりと反対を向いてしまった。  下駄箱の奥から軽登山靴をひっぱり出す。昨年の移動教室ではいて以来だ。あのときは蓼科《たてしな》山に子供達を連れていったのだが、途中で子供が一人、気分が悪くて歩けなくなった。先を歩いていた男の教員に連絡が取れないまま、瑞穂は途中までその子を背負って下りた。あの重さと苦しさを思えば、身一つで登り下りするくらいはどうということもない。しかも縦走するわけではなく、山小屋まで行き着けばいいのだから楽だ。  急いで支度をする。服装は、ジャージにポロシャツだ。デイパックに水筒とセーター、雨合羽などを入れる。登山の用意をしながら、電子レンジでジャガ芋と人参を蒸《ふ》かす。きゅうりを刻みポテトサラダを作る。まとめ買いしておいた挽き肉を手っ取り早くそぼろにする。 「あーあ、お父さんが作ったミートソースの方がおいしいのに」  巧が口をとがらす。 「明日の晩、作ってもらってちょうだい」  怒鳴りながらいくつもの家事をいっぺんにこなして家を出るのは、いつもの出勤と変わらない。 「じゃね、戸締まり忘れないで。クーラーを入れっぱなしにして、寝てはだめよ。保険証は戸棚の中にあるから、喘息とか具合が悪くなったら、それ持っていきなさい」  そこまで言って気づいた。巧が黙って、母親を見上げている。 「返事は?」 「お母さん、帰ってくるよね」  ぽつりと言った。 「なんだって?」 「帰ってくるよね」 「あたりまえでしょ」  笑って、息子の背中を平手で叩いた。息子は硬い表情を崩さずに、上目遣いに瑞穂をじっと見ている。 「なんでまた」 「別に……」  帰ってくるわよ、必ず、とつぶやきながら、瑞穂は早足で駅に向かって歩いていった。  昼前の新幹線に乗り、名古屋で高山本線に乗り換えて高山についたのが四時。山間のつづら折りの道をバスに揺られて、登山口のある新穂高温泉に着いたのは、その日の夕方だった。観光センターの公衆電話からもう一度、穂高岳山荘に電話をしたが、やはりいくら呼んでも出ない。  外に出て、高山駅前に比べ、また一段ひんやりとして湿り気を帯びた高原の空気を胸いっぱい吸い込む。  案内所で、今夜の宿泊所を探す。昨夜寝ていないので、ここで一泊し、明日の早朝にタクシーで林道の終点まで行き、そこから歩けばいい。  紹介してもらった民宿に落ち着き、瑞穂は家に電話をしたが留守だ。父子でどこかに行っているのだろう。  夕飯を食べに食堂に行くと、客は瑞穂の他に老夫婦とOLらしい四人組だけだった。 「奥さんは、どこから?」  民宿の主婦が、気さくに声をかけてくる。 「東京の日暮里」と答えると、嫁がせた娘が巣鴨にいるとのことで、話がはずんだ。  明日はどこを見るの、と尋ねられ、瑞穂は涸沢岳の穂高岳小屋まで行くと答えた。 「えっ」と主婦は、瑞穂の顔を見つめた。 「奥さん、山やるの?」 「やるってほどでは」 「けっこう、ありますよ」  半信半疑で瑞穂は地図を広げる。ここから穂高岳山荘までの道程の約半分は林道だから、タクシーを飛ばせば歩く距離はほんのわずかのはずだ。 「ほら、ここに車止めがあって」と主婦は、新穂高温泉から一キロ足らずの地点を指した。 「一般車は通行禁止になってるんですよ。歩くとここから二時間はかかるかしら」  しかたない、と瑞穂は思った。そのくらいなら歩ける。 「そこから登山道になって、男の人の足でも五時間はかかるわよ」 「そんなに?」と瑞穂は、地図上のごく短い道程に視線を落とした。 「本当に知らなかったの?」と相手は驚いたように言った。  実は、山小屋にいる友人に彼の妻の急病を報せに来たのだ、と瑞穂は言った。 「電話が通じないんですよ。上まで行っても大した距離じゃないから……」 「なぜ、一人で来たの」と言うと、主婦は立っていってどこかに電話をかけ始めた。それから受話器を押さえ、「奥さん、明日、営林署の人が行くっていうから、代わりに行ってもらったら」と言う。 「いえ……やはり私が行きたいんで。家出した人なんで、直接会って、説得して連れ戻さなければならないんです」  瑞穂は、躊躇しながら答えた。主婦はちょっと眉をひそめて電話を切り、瑞穂を呼んだ。 「明日、六時に営林署の人がここに来るから、車に乗せてもらって。白出小屋っていうところまで車で行けるから。だいぶ楽だと思うけど。くれぐれも無理しないでね」 「わかりました。ありがとうございました」  瑞穂は丁寧に頭を下げた。  夕食を終えて、再び穂高岳山荘に電話をした。今度は通じた。若い男が出た。小屋のスタッフらしい。  隣の穂高岳小屋にいる人間に急用があるので、電話をくれるように伝えてもらいたいと言うと、相手は、もう暗いので、これからそこまでは行かれないと断った。確かに三千メートル級の尾根だ。この時間に人が通れるはずはない。瑞穂は自分のうかつさに呆れた。それから穂高岳小屋のスタッフで、新しく入った小田嶋正寛という男を知らないか、と尋ねた。 「小屋番の行輝さんの息子さんですか」 「いえ、甥だと思いますが」 「あそこには、特にスタッフとかバイトはいないと思いますね。うちみたいに大きいところだと、バイトやスタッフが毎年入るんだけど。僕はバイトなので、親父さんに聞いてみましょうか」 「お願いします」と言うと、少したってから先程の若い男が再び電話に出て、特に新しい人が来た様子はない、と答えた。  失望して瑞穂は受話器を置いた。ここまで来たのは徒労だったのだろうか。それでは正寛はどこへ行ったのだろう。しかし正寛がいるのは、あの山の上のどこかだという確信はあった。  それから自宅に再度電話をかけた。巧が出た。夫はつい先程、出かけたと言う。 「お父さん、何しに行ったの?」 「寮母さんたちと相談ごとだって」 「しょうがないわね」と言って電話を切る。不慮の事故から職員同士のいさかいまで、学校や各種施設を含めた教育現場では様々なことが起きる。いくつかの委員や世話役を一手に引き受けている夫はそのたびに駆り出され、休みでも家でゆっくりしていたことはない。  人望があるといえば聞こえがいいが、面倒なことを押しつけられても拒めない性格なのだ。  翌朝の六時に、迎えの4WDが民宿の前に来た。玄関を出るとあたりには分厚く霧が巻いていて、十分も立っているとまつげに雫《しずく》がたまる。宿の主婦に作ってもらった朝と昼の二食分のおにぎりがデイパックの中で温かい。  営林署の職員は、四十がらみの男だった。挨拶もそこそこに、瑞穂の姿を上から下まで見て、「初心者の単独行は、絶対、すすめません。他にだれか一緒に行ってくれる人はいなかったんですか?」と尋ねた。 「すみません」  瑞穂は神妙な顔で助手席に乗り込む。途中、登山指導センターに寄り入山届を出す。ジープは曲がりくねった道をゆっくりと上っていく。ロープウェイ駅を過ぎたあたりで舗装が切れた。じゃりを跳ね飛ばしながら少し行くと、沢に出て橋の手前がゲートになっていた。ここからが一般車は通行禁止になるが、ジープはそのまま上っていく。先程まであたりを覆っていた霧が突然晴れ、杉のこずえからいきなり青空が覗き、正面に、朝日を浴びて金に輝く岩肌が迫ってきた。美しいというよりは、間近で見る岩稜の胸を圧するような重量感に、瑞穂は恐怖に似た感動を覚えた。 「いいですか、あれを登るわけですよ」と営林署の職員は屏風《びようぶ》のように連なる尾根のピークの一つを指差した。 「涸沢岳。あれの南の稜線上に穂高岳山荘、山頂を挟んで北に下ったところにあるのが穂高岳小屋です」  空をつくような峰を見上げていると、自分の足で登る自信は失われてきた。  途中までは、車で行かれるのだと考え直す。  まもなく樹林の間に小さな屋根が見えた。白出小屋という営林署の建物である。車はそこの正面に回って止まった。この先は登山道しかない。涸沢岳への道標が小屋の前にある。 「では、ここからは歩くんですが、ちょっと待っててください」と、営林署の職員は言って、瑞穂の荷物を後部座席から出して手渡す。そのとき小屋から若い男が一人出てきた。彼はその男を呼び止め、二言、三言話してから瑞穂の方に連れてきた。 「彼が、今、上の小屋まで調査に行きますから、ついていってください」と言う。  若い男は営林署の植物監視員で、三橋と名乗った。瑞穂を一瞥《いちべつ》するといともあっさりした顔で、「じゃ、行きましょう」と促《うなが》した。  瑞穂は、三橋の後をついてツガやシラビソの間の緑濃い山道を登り始めた。すべての音が分厚い樹林帯に吸い込まれたようで、聞こえるのは三橋の登山靴の岩を踏みしめる音ばかりだ。途中から瑞穂が先にたった。 「速い」  後ろを歩いていた三橋が、鋭い調子で言った。瑞穂は首を傾げた。決して速くはないはずだと思いながら、少しピッチを落とす。この方が歩きにくい。 「速いです」  もう一度、三橋が言った。さらに落とす。牛歩だ。  小刻みに休みをとりながら、二時間ほど歩き、小さな沢にかかる橋のところまできたときには、三橋がゆっくり歩かせようとした理由がわかった。息がはずみ、手がむくんでいる。心臓に負担がかかっているのだ。  プラチナの結婚指輪が食い込んでいるのに気づき、そっとはずしてポケットに入れる。左手の薬指のそこの部分だけ、白く色が抜けている。  橋を渡った後は、鎖場だ。疲れていなければ、多少のスリルを楽しむ余裕があるが、すでにふくらはぎが張っていて辛い。鎖にしがみつくようにして岩を登っていると、後ろから三橋の「鎖に頼らないで。体は岩から離し、鎖はあくまで手がかりです。三点支持を忘れないで」と声が飛ぶ。 「それなんですか?」と振り返り、息を弾ませながら尋ねると、三橋はぎょっとした顔をした。それから登山のその基本動作を説明した。しかし急に言われたところで、体は言うことをきかない。  鎖場が切れると、今度は白い浮き石だらけのガレた急斜面が現われた。大きく足を踏み出すと、ずるりと滑る。バランスを崩すと姿勢を立て直すのが辛い。息がはずむ。  自分がどんな景色の中を歩いているのか、まったくわからない。いつのまにか前を歩いている三橋の靴下の派手なオレンジ色に導かれていた。頭の中が空白になった。なぜこんな苦しい思いをして、自分が歩いているのかもわからない。  三橋のゆっくりした足運びと、オレンジ色だけが、瑞穂の五感の捕らえているもののすべてだ。やがてオレンジ色はぴたりと止まった。 「水場です。口を湿らせて、顔を洗うと気持ちいいですよ」と沢を指差す。白っぽい岩の間をサファイア色の水が流れていた。指先を入れると凍るように冷たい。  沢の水音、丈の短い草を揺らす風の音以外、何も聞こえてこない。あのヴァイオリンは退散していた。酷使された肉体が、瑞穂の歪《ひず》んだ聴覚を正常に戻したのか、それとも登ることに集中することによって、精神に食い込んでいた思いを振り落としたのか、わからない。  冷たい水は、目が覚めるように甘い味がした。 「頂上はもうすぐですか?」と三橋に尋ねる。三橋は陽焼けした頬を緩めて、首を振った。 「まだ半分も来ていませんよ」  気が遠くなった。そしてその先もまた、幻のヴァイオリンなど入り込む余地のない苦しい登りだった。  瑞穂は今まで、登山とは登山道を歩くものだと思っていた。山の頂上近くまで行っても、一筋、道はついているものだと思っていた。が、今、彼女の登っているところは違う。  岩だ。岩の転がっている斜面にペンキで矢印が描かれ、その方向に、両手両足を使ってはい上がるのだ。そしてその先は、小さなでっぱりに靴の爪先をひっかけただけで、岩の斜面を蟹のように貼りついて回り込む。  こんなはずではなかった、と思った。疲れ過ぎて思考が停止してしまったらしく、後悔さえ湧いてこない。前を行く三橋がたどった岩のでっぱりに自分の爪先を乗せ、ついていく。腕の力はとうに抜けている。両手の甲がさらにむくみ、指の関節にはえくぼができた。  途中の岩陰で昼食を取った。食欲はないが水で流し込むようにしておにぎりを頬張る。三十分休み、再び登る。  どれだけ歩いただろうか。 「ほら」と声がした。オレンジ色の靴下から目を上げる。  視界が開けた。尾根に出ている。  岩だ。どこもかしこも赤茶けた岩だった。咲き乱れる高山植物の花々も、ハイマツの緑もない。岩と空以外、何もない。  吹き荒《すさ》ぶ風が頬を打つ。藍を流したかと思われるほど深い色の空。その空を突き破るような勢いでそそり立つ岩峰。足元の尖った岩。  自然という優しい響きからかけ離れた、拒絶的な風景。岩と風の織りなす峻厳な美。  瑞穂は微動だにせず、立ち尽くしていた。  耳の奥でカノンが鳴った。震えが走った。  目の前の光景、それは穂高岳ではない。山でもない。その造形的ライン、その量感、その急峻な角度、そのリズム、その色彩、普遍的で抽象的な完璧な美があった。  長い間探していたものをそこに見た。 「ほら、奥穂です。北岳に次いで日本で三位の高峰」  三橋の声が、瑞穂の耳を素通りして風に紛れていった。代わりに心地良く響く、幻の音がある。ふわりと体が浮くような気がした。羽が生えたように足取りは軽くなった。爪先が、軽く岩肌を捕らえ、体は登っていった。 「速い」  三橋の鋭い声がかかる。どこか遠いところの風の音のようだ。 「速い!」  体の中にリズムがある。永遠に変わらぬリズムを刻んでいる。 「速いと言ってるだろう」  三橋の腕が肩を掴んだ。 「急がないで。あんたみたいのがいるから小屋の目前で転落事故が起こるんだ」  そう言って瑞穂の顔を見た三橋が、ぎょっとしたように目を見開いた。 「落ち着いて。座って」  瑞穂の腕を掴み、その場に腰を下ろさせる。 「大丈夫ですか? 自分がどこにいるか、わかりますね」と顔を覗き込む。疲労から意識障害を起こしたと思っているのだ。確かにそうかもしれない。 「少し休みましょう。あと五分で小屋です。もうテラスが見えるでしょう」  そう言いながら、ザックから水筒を取り出し、アルミのカップに中身を注いで手渡す。 「ありがとう」  生温かい水を飲み干し、瑞穂は目の前に広がる岩尾根を見ていた。  青春時代の康臣が、急峻な尾根道を飛ぶように走ったのは、決して正寛が思っていたように女への情熱からなどではなかった。案外ナスターシャという一人の女子高校生も、さほど彼の中で重要な位置は占めていなかったのかもしれない。  康臣が命を賭《と》して求めたものは、女でもなければ、奥山の身辺に漂う頽廃的美でもない。峻厳な法則上に立つ、堅牢で絶対的な美しさだった。  康臣に体力の限界を超えて走らせたのは、この光景だ。彼の愛した世界を具現するような、岩と空間だけで構成された景色だったのではないだろうか。  しかし正寛は、ここの草一本茂らぬ尖った岩峰や吹きつける風の冷たさに、登攀《とうはん》し続ける人生の苛酷さ、虚しさを見た。その正寛がこの光景の真っただ中にやってきたとすれば、いったい何を求めてのことだったのだろうか。それとも求めることを捨てにきたということなのだろうか。  少し休んで、歩き出して、まもなく尾根に出た。  穂高岳山荘は、想像以上に立派な建物だった。土産物屋とレストラン、さらに図書館まで揃ったちょっとしたホテルだ。  内部は登山客で賑わっている。特に電話の前などは、行列ができていた。下から、なかなか通じなかった理由がわかった。 「ヘリコプターで、トン単位で物資を運び上げるわけですからね、このあたりの山小屋は旅館と同じですよ」と三橋は笑う。 「ただし、偏屈親父の経営する小屋も、少しは残ってますよ。都会の煩わしさから逃げ出して、ちょっと生活は厳しいが自由に暮らしたいという人達ね。たとえば、あなたがこれから行く穂高岳小屋の名物親父などは、そちらのタイプです」  そう言いながら、三橋は山荘内部の広々とした食堂に瑞穂を招き入れ、コーヒーを買って、テーブルに運んできた。真っ白なカップに入ったわずかな量のレギュラーコーヒーは、渋谷あたりの喫茶店のものと味も値段も変わらない。  椅子に腰を下ろしコーヒーを飲んでいるうちに、手のむくみがとれてきた。瑞穂は化粧バッグの中に入れておいた指輪を取り出してはめる。蒲鉾《かまぼこ》型のプラチナが定められた位置にあるとなんとなく落ち着いた。  二時半を過ぎてから、尾根伝いに続々と客が入ってきた。  ここから三橋は、瑞穂が行く穂高岳小屋とは反対方向の奥穂高方面に向かう。  先程からラジオに耳を澄ませていた三橋が、小屋の入り口まで出て、急に口元をひきしめた。 「おたくは日程の余裕はあるんでしょう」 「は?」 「雷雨注意報が出ています。中に戻って、今夜はここに泊まってください」  空を見る。抜けるような青空だ。八月下旬の、すでに秋の気配を帯びた淡い光が辺りの岩に降り注いでいるきり、湿り気のかけらもない。 「今日はここから出ない方がいいです。初めての登山で疲れてますし、山の雷は避けようがありません」  それだけ言い残し、三橋は奥穂高に続く急な道を登っていった。  瑞穂は中に戻ると、デイパックから正寛の写真を取り出し、売店に行った。土産物を売っている、学生アルバイトらしい若い男にみせる。 「遭難ですか?」  彼は写真を凝視した。 「いえ、家出人です。この辺りの山小屋で働いているのではないか、と思いまして」 「家出して、山小屋」  男は、一緒に写っている妻子に視線を走らせた後、「待っててください」とそれを持って、奥に駆け込んだ。  まもなく中年の男が出てきて言った。 「いますよ。小田嶋さんの弟さんでしょ」 「どこに?」  弟でも、甥でも、この際、どうでもいい。 「奥穂の避難小屋にいるはずだけど」 「穂高岳小屋ではなくて?」 「いや、穂高岳小屋は涸沢岳寄りだけど、避難小屋は奥穂高岳の方」  ついさっき、三橋が出発した方向だ。 「去年までは無人だったんだけど、このところ登山者のマナーが悪くなってしまって、人がいないと荒らされ放題なんでね。ちょうど小屋で働きたいっていうから、親父さんがそっちをやらせたようだね」  地図で場所を確認する。穂高岳山荘からほど近い。 「男の足なら三十分だけど。ただ、岩登りがあるから、多少経験がないと危ない」 「大丈夫です」 「いや、大丈夫じゃないね」  男は腕組みをしたまま、首を左右に振った。 「明日、うちの若いのをやるから、あんたはここにいなさい。足がすくんで動けなくなってからでは遅い」 「はあ……」  瑞穂はうなずく。もう一度地図を確認する。等高線が曲がり、混んでいる。急登だ。  外に出て、空を見る。どこまでも澄んでいる。雷雲などかけらも見えない。  幸い疲労感はあまりない。男の足で三十分。自分が行くとしても、一時間でたどり着くだろう。日没までそれでも充分時間がある。  瑞穂は山荘を出て、歩き始めた。 「ちょっと、あんた」  先程の中年の男が、山荘の窓から叫んでいる。 「どこへ行くんだ?」 「まわりを見てくるだけです」  とっさにごまかし、心の中で謝った。 「気をつけて」と言って、彼は中に引っ込んだ。  小編成のパーティーが、同じ方向に向かって出発した。瑞穂はその後に続く。右手に険しい崖があるきり道はない。リーダーが岩の一つにとりついた。  まさかと身がすくんだ。鎖やハシゴが、岩壁にかかっているのが見える。次々とメンバーが登っていく。その最後尾に瑞穂はついた。  風が強い。崖は急だが、ハシゴや鎖があるのでかえって登りやすい。一気に数十メートルを登りきると、砂礫の道が続いていた。前にいたパーティーは、遥か遠くに行ってしまった。上の方から声だけが聞こえてくる。  瑞穂は汗を拭いながら岩の上に立って下を覗き込んだ。雲があった。高山では雲が頭上にではなく、眼下から湧いてくるということを忘れていた。谷間に黒雲が淀んでいる。それがゆっくりとせり上がってくる。霧が出てきた。  前を行くパーティーの声は、もう聞こえない。心細さが襲ってくる。空の色が変わった。白く明るいスクリーンのような色だ。  足元を見る。幸い岩場を抜けたが、浮き石だらけのガレ場だ。足を置くとずるりと滑る。捕まる木や草の根もない。しかも急な登りだ。  砂礫に雨のしみが一つついた。続いて二つ、三つ。横から雨が叩きつけてくる。慌ててデイパックを開く。ガイドブックや水筒、チョコレートなどの一番下に、きっちりと袋に包まれて合羽が入っている。雨具はいつでも取り出せる形で、ザックの一番上に入れるという常識が、瑞穂にはなかった。  取り出して羽織ったときには、すでにかなり体が濡れていた。空は鉛色になっている。宵闇の迫ったように辺りは暗い。その暗さを貫いて、淡紫色の光が走った。瑞穂は立ちすくんだ。爆発音に似た音が、鼓膜を震えさせる。  瑞穂はその場にしゃがみ込んだ。  再び、光が弾けた。金色の稲妻が走るのが見えた。悲鳴を上げる。  稲妻は空にはなかった。横に走っていた。岩から岩へと走り、雲を明るい藤色に輝かせた。雨が体を叩き、合羽の帽子から顔に流れ、開いた口へと流れる。  ふらふらと立ち上がった。数メートル先に大岩がある。せめてそこの陰に隠れようとした。そのとき、後ろから何かがなぎ払うように、瑞穂の体を倒した。重たいものが押さえつけてくる。懐かしい匂いがした。汗と腐敗臭の奥から、瑞穂はその匂いを吸い込んだ。  長身の体が瑞穂を押さえ込んでいた。 「伏せろ。地面に貼りつけ」  正寛が怒鳴っていた。そのままずるずると砂礫の道を落ちていく。  頭上で金色の光が炸裂し、ジグザグに伸びた稲妻の先は、先程瑞穂が体を寄せようとした大岩を直撃した。いや、直撃したというよりは、大岩から天に向かい、金色の矢が放たれたように見えた。  瑞穂はもう、悲鳴を上げてはいなかった。 「頭を上げるな。ザックを取って。金属はないか?」  とっさに左手を見た。稲光に、ぎらりと光るものがあった。右手の三本の指で掴む。むくんだ指に食い込み抜けない。爪を立てる。関節も外れんばかりにひっぱる。軋みながら抜けたそれを放りなげる。岩の上で一回バウンドしたそれが、すさまじい音とともに白く長い光の塊となって弾けた。  瑞穂は、震えながら自分の指を押さえていた。薬指に残されたのは、くっきりと白く湿った金属の痕跡だけだった。  光がわずかに弱くなった。雷鳴とのタイミングが微妙にずれた。息をつめて瑞穂は地面に伏せていた。体を叩く雨が、合羽の縫い目や襟首からしみ込んでくる。冷える。 「どうしてわかったの、私がここにいるって」  瑞穂は尋ねた。まだ恐怖で口が強ばっている。 「ちょうど、穂高岳山荘にいたんだ」  正寛の口調は、落ち着いていた。 「どうして?」 「ゴミ拾い」  光が頭上を掠《かす》めて走った。ひっと息を呑み、頬を岩に押しつける。 「テント場をゴミだらけにして帰る登山者がいるからな。それを拾って穂高岳山荘前まで運ぶんだ。山荘のゴミと一緒にヘリで下ろしてもらう」  瑞穂を後ろから引き倒したときの、あの悪臭は、テント場に捨てられたゴミのにおいだったのだ。  ゴミを集めてそれを背負って、この岩と砂礫の斜面を登り下りするのも小屋番の仕事らしい。世間のわずらわしさから逃れ、山にこもって人生と向き合うなどというロマンティックなものではないのだ。 「山荘の親父さんから、小一時間前に、僕を訪ねて女の人が来たと聞いたんだ。探したときは、もう山荘を出た後だった。雷雲が下から盛り上がってくるのが見えたんで、慌てて追ってきた」 「ごめんなさい」  瑞穂は一呼吸置いてから、言った。 「休暇は終わりよ。すぐ、東京に戻って」  そのとき稲光が目の前を走った。正寛は何か言った。あるいはうめいただけかもしれない。 「美佐子さんが、自殺しかけたわ。子供を道連れに。睡眠薬飲んで」  答えはない。正寛はぴくりとも動かない。雷鳴が轟いた。  正寛の深い呼吸の音が一つ聞こえる。 「ここを下りて、私と一緒に」 「子供達は無事だったのか?」  正寛は尋ねた。 「ここを下りて、自分で確かめに行きなさい」 「子供達は? 真実子は? 麻衣は?」 「自分で確かめろと言ってるでしょう」 「子供達は無事か、と聞いてるんだ」  正寛は怒鳴った。 「大丈夫。二人とも。お姉ちゃんが救ってくれたわ。なんともないって」 「よかった」  短く息を吐き出し、続けて尋ねた。 「美佐子は?」 「ここに来る前は、昏睡状態。でも命に別状なし。脳への障害もないって」  心配するのは、まず子供の安否、次に妻。自分の夫もこの順位に変わりないだろうと瑞穂は思う。どこまで逃げてきても正寛は、まっとうな家庭人であり社会人だった。 「車の中で睡眠薬飲んだのよ。場所はアルカディア川名の横の松林。家族旅行の思い出の場所よ、わかってるの? 世の中には、一人でなければ生きられない人と、一人では生きられない人がいるわ。自分の人生なんてない人よ、美佐子さんは。それのどこが悪いの」  正寛はじっと、岩の間を走る閃光を見ている。 「嘘をつくのよ」  瑞穂は、上半身を起こした。 「伏せてろ」  低い声で正寛は言った。瑞穂はかぶりを振った。 「無理して登ってきた人生なら、死ぬまで登り続けなさい。自分の心に嘘をついて生きてきたっていうなら、死ぬまで嘘をつき通しなさい。演技だってなんだっていいのよ。美佐子さんにも子供にも、有能な夫、思いやりのあるお父さんでい続けなさい」 「伏せてろ、ばか」  正寛が叫び、その肩を掴んで組み伏せた。  金色の光が走った。同時に爆発音。  正寛が、短い悲鳴を上げた。瑞穂の全身に殴られたような衝撃が走った。  砂礫の上を走った光が正寛と自分を包み、正寛の雨に濡れた髪が、燃えるように逆立った。絶望の悲鳴が、自分の唇からゆっくり洩れるのを瑞穂は他人のもののように聞いた。目をきつく閉じた。瞼の奥に光が弾けた。  感電によるものか、それとも単純に恐怖によるものか、心臓が押しつぶされるように痛み、次に激しく拍動した。 「小田嶋さん……」  瑞穂は傍らの小田嶋に呼びかけた。  大きな体が地面の上にうつぶせになっている。 「小田嶋さん、死んじゃったの……やだ、そんなの」  今まで感じたこともない、圧倒的な恐怖が体を包む。 「いやよ、こんなところで死なないで」  正寛の体はぴくりとも動かない。 「生きてるよ」  かすれた声が答えた。 「死ねない……子供がいるんだよ……。こんなところで死ねないんだ。今頃わかるなんて、まったく」  声が震え、小さくなっていく。  あたりが光り、背中に衝撃があった。痛みでも、熱さでもない。死神の振り上げた鋭い剣先に貫かれる感触ではない。巨大な鉄球が、力任せに体に叩きつけられたように、全身が軋み、岩の上から跳ね上がった。  お母さん、帰ってくるよね、と自分を見つめた巧の顔が思い浮かぶ。彼はあのとき、母親の顔の中に、来るべき運命を嗅ぎ取ったのだろうか。 「帰る、必ず」  そうつぶやいた。つぶやきながら、岩の上に転がっている以外、何もできなかった。  視野が闇に閉ざされていこうとしたとき、突然、辺りの岩が白く輝き、一瞬後に底無しの暗みに沈み、さらに明るく照らし出された。  小田嶋の指が動いた。彼はまだ、生きている。生きて動いているというよりは、体の中を走った電流に筋肉が反応したかのような、痙攣《けいれん》的な動きだ。 「下りないと……」  声がした。声と同時に再び腕がぴくりと動く。 「下りないと……。だめだな。やはり」  それきり静かになった。 「小田嶋さん、小田嶋さん、まだ死んでないよね、そうでしょ」  瑞穂は叫んだ。  白い光が小田嶋の体のすぐ脇で炸裂し、小石がふっ飛ぶのが見えた。 「悔しいよ」と弱々しい声が答えた。 「だめだ……悔しいよ」  しゃっくりとも嗚咽ともつかない音がした。 「せめて麓まで下りて……」  再び、光が走る。  下りるも何もない。自分も小田嶋もこれで終わるのだ、と思った。これきり、と覚悟した。何もない。無から生まれ、無に戻る。  突然、自分の体が無限の闇に吸い込まれ、ばらばらになっていくような感覚に襲われた。覚悟もあきらめもない。狂おしいばかりの虚無感に捕らえられ、瑞穂は上半身を起こし、獣のような叫び声をあげていた。  生でも死でもない、単純に無くなりつつある。いや、最初から何も無かった。  張りぼてだ、と思った。自分の生きている世界こそ、張りぼてだった。  自分の三十九年の生にどれだけの意味があったのか。  家族、音楽、教え子達、心を通わす多くのもの。それらにどれほどの実在感があったのか。心底の共感と情熱を持っていたのか。自分の抱え込んだ感情自体が、自分の外の世界につくった張りぼてだった。それを抱えて、歩いてきた。  くすぶったまま、消える火。雨に打たれた汚らしい燃え殻。自分はまさにそれだと思った。  これで終わる。不本意なまま、終わっていく。迫り来る虚無の黒い洞穴の前に、瑞穂は全身を痙攣させていた。  金色の光はますますまばゆく、雷鳴が山を揺るがす。  そのとき瑞穂は、自分の体がびくりと震えたのを感じた。何かが聞こえた。雷鳴でも風の音でもない。  和音が鳴った。ヴァイオリンの音ではない。何の楽器でもない。抽象的な音色だ。長く響き合う三つの音。  臨死の夢か? 極限の肉体的苦痛を和らげるために、人の脳に備えつけられた最終装置。 「なんだこれは?」  正寛がうめいた。  瑞穂はびくりと頭を起こした。 「聞こえるの?」 「雷鳴で耳が変になったのか……」 「香西君が鳴らしているのよ、たぶん」  調性はホ長調。黎明《れいめい》の明るさだった。 「なぜ? どういうつもりだ……」 「さあ」  正寛は長い吐息をついた。  和音は減衰し、雷鳴に消え入るかと思ったとき、今度ははっきりとしたヴァイオリンの音に変わった。限りなく内省的で、それでいて明るい音の連なり。 「聞こえるよ」  正寛はつぶやくように言って、ゆるゆると腕を伸ばし、両棲類の肌のように冷たく濡れた指で瑞穂の手を握りしめた。 「カノンじゃないか。きれいな音だ……」 「ええ」  とたんに光と爆発音が体を包んだ。瑞穂はとかげのように、岩にぴたりと貼りついた。  ヴァイオリンは続いている。  瑞穂は目を閉じ、その音を耳ではなく全身で感じ取った。  その輝く氷柱《つらら》のような一つ一つの音が、生死を越えて、暗い空を揺るがせる。  自分の手を握りしめている正寛の手が、脈打っているのを感じる。弱々しい鼓動が次第に、規則正しく力強いものに変わり、暖かみを帯びてくる。 「生き永らえるよ、たぶん」  うめくように正寛は言った。 「これが鳴っているかぎりは」  康臣の音楽は、冥界の川の船歌ではない。轟く雷鳴の中で、一筋の光となって、自分と正寛を生に向かって導いていく。  光と雷鳴の間隔が、微妙にずれてきた。ヴァイオリンの音はディミヌエンドし、やがてふっつりと途切れた。  正寛が顔を上げた。髪が焼け焦げ、片方の鼻孔から血が流れて、シャツの胸に広がっている。 「大丈夫か」と正寛は尋ねた。暖かく、優しい響きだった。  瑞穂はうなずき、彼の喉仏の目立つ長い首に両腕を回した。涙が溢れた。 「もう少し、伏せてろ。雷が鳴っている間は、動くな」  正寛は片手で瑞穂の体を押さえ込んだ。その腕の中で、瑞穂は瞼を閉じた。  無事にここから下りたとき、残りの二、三十年は、自分はこの人とまったく違う方向に進んでいくだろう、という予感がした。  築き上げた二十年を受け入れ踏み留まる決意と、それを崩し始める決意。  その前にこのまま、少しの間眠りたかった。  気がついたとき、あたりは静まり返っていた。風の音一つしない。夜空一面、うっすら白く見えるほど、おびただしい数の星がまたたいている。 「行くぞ」  正寛がヘッドランプを点け、足元を照らした。 「生きてたね」  瑞穂は立ち上がった。軋むように節々が痛む。 「私達、平均寿命のちょうどまん中で、死に損なって戻ってきたんだ」  正寛は無言で岩に目を凝らし、ルートを確認している。 「やりなおしは、きくのかしら?」 「今度は、君の番か?」 「やりなおしではなくて、自分に戻るのかもしれない」 「そういうのは、やりなおしでも、戻ることでもない。今まで築いたものを全部ご破算にして、ゼロから積み上げるってことだ。積み上げるのにも労力がいるが、今あるものを壊すのはもっと難しいよ」  正寛はそう言って苦笑すると、鎖場のところまで行き、自分の後をついてくるように促した。 「残された時間は四十年……。こんなはずではと言いながら生きるのには長すぎるわね」  片手で鎖を握り、もう一方の手を岩の出っ張りにかけた正寛が、その場所に足を置いて下りるように瑞穂に指示する。 「あとの四十年でどこへ行くのかしら、私達」 「四十年になるか、六十年になるか、それともあと三分で終わりになるか、そんなことはだれにもわかりはしない」  次の足場を探しながら、正寛は言った。 「三分で終わりにしたくなければ、これ以上、しゃべるのはやめて下りることに集中してくれ」 「わかった」  頭の中から様々なことがらを追い出し、瑞穂は濡れた鎖をしっかりと掴んだ。  山荘で一泊した翌朝、瑞穂は正寛と登山道を下りた。しかし林道まで下りると、正寛は瑞穂と別れて再び今来た道を登っていった。小屋の残務整理があるので、それを終えたらすぐに家に戻ると言う。  美佐子達の命に別状ないことを確認したので、また山に戻るのではないかと半信半疑のまま、瑞穂は一人で電車に乗った。  一週間後、美佐子から電話がきた。痛む足を庇《かば》い、瑞穂は椅子に座って受話器を握っていた。二日前に正寛が戻ってきたと言う。 「子供のために、あの人を許したの。父親って、やっぱり必要ですものね。片親にだけはしたくなかったの」  愚痴っぽい言葉と裏腹に、美佐子の口ぶりにはほっとした気分が漂っていた。 「連れ戻してくれてありがとう。何とお礼を言っていいのか……。少し落ち着いたら、お食事にでも来てくれるでしょう」 「ええ……そのうち」  少し間を置いてから、美佐子は尋ねた。 「山で、何を話したの? 主人と」 「何って?」 「あの人、変わったみたい……少しだけ本当の姿を見せてくれるようになったっていうのか。少しは夫婦らしくなれたっていうのか」 「そう」  これからゆっくり時間をかけて、彼らは夫婦関係を修復していき、そのかたわら正寛は登り続けるのだろう。体力が尽きるまで。天をつくような峻険な峰に向かって、登攀を始める。少しばかり痛々しいが、それが正寛のような男の宿命であるような気がする。  電話を切って、瑞穂は痛む足を引きずりながら自分の部屋に戻る。  あの日、高山本線から新幹線に乗り換えた頃から、踵《かかと》の上の痛みが激しくなった。自宅に帰りついて風呂に入ったのだが、上がったとたん一歩も歩けなくなった。医者に行くと、アキレス腱が疲労性の炎症を起こしていると告げられた。  薄い壁を通して、息子のコンピューターゲームの音が聞こえてくる。安っぽい電子音で奏でられるミニマルミュージックだ。  瑞穂は腕時計を見た。一日、四十分と決めたゲームタイム。夫は、今夜も研究集会の流れで遅くなるというから、息子をファミコンから引きはがすのが一苦労だ。  それにしてもよくも、あんなに夢中になれるものだ。我を忘れて没入できるのが、少年時代なのだろうか。そうとすればいったいいつを境に人は大人になるのだろうか。  そんなことを考えながら、瑞穂はカバンから一枚の用紙を取り出した。  退職届だ。  東京に戻ってきて最初に始めたのは、退職の準備だった。傍《はた》からどう見えようと、自分の内実に気づいてしまった以上、良い教師を演じ続けることはできないと思った。  辞表は自分でしたためるものだと思っていたが、印刷された様式があるということを初めて知った。それに必要事項を書き込むだけでいいのだ。住所、名前、退職月日、理由、その理由も「一身上の都合により」ですませ、余計なことは書かない方がいいとされる。しかし退職時期は、今すぐというわけにはいかない。年度の終わる来年三月までは待たねばならない。何を決意しようと、この世で生きている限り、社会の常識と折り合いをつけていかなくてはならない。  退職の意志を告げたとき、夫は驚いたように瞬きし、それから学校で何があったのか尋ねた。  やりたいことがある、と言っても信じず、いったい仕事の何がそんなに辛かったのか、と何度も尋ねてきた。 「チェロを再び始めたい」と言うと、「いくらでもやればいいじゃないか」という返事が戻ってきた。それと教職から離れることが、夫の中ではどうしても結びつかない。家庭と仕事の他に趣味を持つというごく普通のことが、妻にはなぜできないのか、不思議で仕方ないらしい。 「疲れたのなら、無理に勤めろとは言わないが」  最後にまだ納得のいかない顔をして、その話は終わりになった。  言葉を尽くして説明しても、わかりあえないことが家族の間にはある。  一緒に研究会の委員をやっていた音楽の教師は、「夫に生活費を依存して、カルチャーセンターに通う奥さん達と同じことよ。あなた、それに抵抗ないの?」と瑞穂に尋ねた。  もちろんそんなつもりはない。次にすべきは、夫に別れを告げ、この家を出ることだろう。人生をやりなおすとは、正寛の言うとおり、自分の築き上げてきたものを崩し、ゼロから積み上げることだ。しかしさすがにそれはできない。  失われた時間を取り戻し本来の自分に戻るために、仕事も家族も捨て、楽器一つを持って旅立っていく。それができるのはドラマのヒロインだけであり、四十年近い生活史を背負った生身の女にそのまねはできない。代わりに瑞穂がしたのは、残っている家のローンと退職金を計算することだった。  勤続十八年。少なくとも五年間なら退職金を崩しつつ、自分の口を自分で養える。その五年の間に、チェロ演奏の腕前は、どれほどの水準に達することができるだろうか。  学生時代に個人レッスンを受けたチェロの教師は、もうこの世にいない。オーケストラのトップを弾きながら、年に数回ソロ活動をしていた彼が他界したことは、二年前、新聞の小さな記事で知った。 「辞めます」という挨拶どころか、電話連絡さえせず、突然レッスンに行かなくなった自分の身勝手さと非礼を思うと、今さら謝罪のことばもない。自分の痛みにばかり気をとられ、他人のことなど目に入らない時代だったのだ。  幸い、兄弟子だった男が二年前に留学先から戻っており、レッスンを受けさせてくれることが決まった。挨拶に行った瑞穂に、彼は、「僕は原則としてアマチュアの指導はしないので、教えてもプロとして通用しない人だとわかった段階で辞めてもらう」と宣言した。 「こちらは背水の陣を敷いてますから」とだけ、瑞穂は答えた。  楽器の抱え方からのやりなおしだ。毎日八時間弾き続ける生活、神経を削るようにして一音一音作り上げていくあの作業が、また始まる。それは、家計の逼迫《ひつぱく》を伴って家族関係を破綻させるかもしれない。少なくとも、精神と生活の安定は確実に奪っていくだろう。  壁を通して聞こえてくるゲームのミニマルミュージックは、一瞬止まり短調に転調した。時刻は九時を回っている。ゲームタイム終了。やめさせなければ、と立ち上がったとき、音はぴたりとやんだ。  自分でやめたらしい。数日のうちに巧はまた少し大人になった。  複雑な思いで、瑞穂はチェロのケースを開けた。この日買ってきた新しい弦に付け替えるため、糸巻きを緩めようとしたそのとき、ケースの底にある「カノン」のパート譜に気づいた。康臣が編曲し、手渡した楽譜。しかしその面が揺らぎ、流れるように薄くなっていく。  瑞穂は驚いて凝視した。気のせいではない。康臣の手書きの楽譜は、みるみるインクの色が褪せ、黄ばんだうっすらした跡を残すだけになった。  夏合宿の最後の日のあの記憶が、不意に疑わしいものに感じられ始めた。今、楽譜は風化したように、端の方から砕け始めている。  康臣のヴァイオリンの第一声部が鳴った。冥府の川に船を浮かべ、彼はヴァイオリンを弾き続けている。  紡ぎ出されるカノンに瑞穂は耳を傾ける。  そこにはすすり泣くような高音も包み込むような暖かな低音もない。有機的で雑多なロマン派的情感はどこにもない。  岩尾根を渡る冷たい風、あるいは地を這い、天に登る稲光のまばゆい金。照らし出される大気の淡い紫。花も咲かず、鳥も飛ばぬ、氷の惑星を思わせる峻厳で精緻な、純粋に幾何学的美しさ。それがバッハ最晩年のこの作品の持つ特性なのか、康臣の演奏の特質なのかは、わからない。  ナスターシャの言ったように、康臣には、果たして人間に対する共感が欠けていたのだろうか。  違うと、瑞穂は断言できた。彼は音楽によってしか、人に語りかけることができなかった。音楽によってしか、自分の心の有り様を表現することができなかった。しかし彼の紡ぎ出す音楽は、表面的な愛情を越えて、人の心の深部に訴えかけてくる無限の感情の広がりを持っていた。そして自然の圧倒的な力から、旧友を守ることさえした。  康臣の構築した内なる世界は張りぼてではなかった。  今、瑞穂の心の中で鳴り響く康臣のヴァイオリンは、人を癒し苦悩から救う力さえ帯びている。  瑞穂の右手がゆっくりした八分音符を刻む。  左の四本の指が幻の指板の上を駆けて、幻の声部を弾く。二十年の時を隔てて、康臣の感性と記憶が、自分の中に流れ込んでくるのがはっきり感じられる。  いくつもの透明な光に彩られた世界が、屹立する岩峰の向こうに見える。  瑞穂は両手を伸ばした。  その手の先にだれかがいる。置き去りにしてきた自分自身だった。  白い首をすっくと立てて、大きな瞳に、脆《もろ》いプライドと音楽への燃えるような思いを秘め、棒切れのように細い足を踏ん張ってそこに立っていた。 「おいで」と呼びかけた。 「待たせてごめん」と抱きしめた。  それから瑞穂は足元に寝ているチェロを抱え、指板を押さえた。  命が尽きるまで弾くとして、あと四十年あまり。  捨てることができたのは、結局仕事だけだった。家族という現実はそのままだ。  張りぼての現実をかたつむりのように背負って、もう一度夢を追ってみることは可能なのだろうか。  留学、コンクール、プロデビューという、二十歳の頃の夢は遠退《とおの》いた。しかし今、到達する音楽そのものが夢だ。  五十か、六十になったとき、自分はどこで弾いているのだろうか。学校の体育館か、町の教会か、新宿の地下道か……。  その音楽は、人々に向かって何を語りかけているだろう。それは一人の女の野心や美意識を越えて、どこかで人を救うかもしれない。あの山上で、康臣の音楽が一条の光となって、正寛と自分を救ったように。  曲の中ほどで、テーマはヴァイオリンからチェロに移る。瑞穂の右手は幻の弓を大きく動かした。指板の上を左指が這う。  手の中で弦の切れたチェロが、死者のヴァイオリンを圧して、太い音でその胴体を震わせた。  単行本 一九九六年四月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十一年四月十日刊